彼の声1762026年9月16日「大岡昇平の『野火』と『レイテ戦記』」一見ちょっと違うんじゃないかとは思いたいだろうが、興味深いので取り上げてみると、批評家の蓮實重彦は、主著『表層批評宣言』の中で大岡昇平の『野火』を取り上げ、それまでの一般的な文脈である、戦争の悲惨さ、人肉食の倫理、キリスト教的な神と救済などとは一線を画す、表層批評の視点による独自の記号論的読解を提示しているそうで、蓮實による主な解釈のポイントは以下の3点で、1つ目の点は、人肉食や神という意味の剥ぎ取りで、従来の『野火』批評は、極限状態における人肉嗜食・カニバリズムの倫理的・心理的葛藤や、作中に現れる神の存在といった、内実や意味、思想を読み解こうとするものが主流だったが、しかし蓮實は、そうした重苦しいテーマや深層心理への埋没を拒否し、彼は、主人公・田村の彷徨を意味の探求としてではなく、徹底してテクストの表面で起こる言葉の運動や知覚の変容として捉え直し、2つ目の点は、野火という特異な記号で、蓮實は、作品のタイトルであり、作中で何度も主人公の前に立ち現れる野火を、特定の意味、例えば現地のフィリピン人の合図や戦争の不気味さなどに固定できる象徴としては扱わず、彼にとっての野火は、ただそこに物質的に現れ、主人公の視線を捕らえ、その移動を先導する解読不可能な純粋な記号であり、意味が空虚であるからこそ、その野火は小説の表層をサスペンスフルに駆動させる装置として機能していると解釈し、3つ目の点は、三次元から二次元・表層への風景の後退で、蓮實の読解において、田村が歩くフィリピンの自然や戦場は、写実的・リアリズムな三次元の空間ではなく、徐々に平坦な二次元的なスクリーン・表層へと後退していくものとして描かれ、緊迫した不条理な軍部機構の司令によって投げ出された主人公が、ただ事物の表面を視線でなぞっていくプロセスそのものが、『野火』の文体の本質であり、それこそがフィクションとしての強度を生み出していると絶賛したそうで、このように蓮實重彦は、『野火』を戦争体験の告白や人道主義的な悲劇として読むのではなく、特異な記号である野火に導かれ、事物の表層をただ彷徨い続ける、極めて明晰で自律したテクストの運動として解釈しているそうだが、蓮實重彦は『レイテ戦記』についても極めて重要な言及を複数残していて、蓮實は大岡昇平という作家の文体や歴史への向き合い方を高く評価しており、特に『レイテ戦記』については、以下のような文脈で語っているそうで、1979年に「日本読書新聞」に掲載された大岡昇平へのインタビュー「崩壊する全体性と思想」において、蓮實は聞き手を務めていて、ジル・ドゥルーズの思想から『レイテ戦記』に至るまで縦横に語り合う中で、蓮實は大岡が『レイテ戦記』で試みた、膨大な資料を駆使し、個人の体験を超えた戦争の全体像・社会原理を再現する、という方法論の本質に迫っていて、大岡昇平の評論集『歴史小説論』に寄せた解説「露呈する歴史のために」の中で、蓮實は『レイテ戦記』を手がけた大岡の姿勢を強く肯定していて、蓮實はここで、日本的な、あれはなかったことにしよう、という曖昧で優雅な忘却の風潮に対し、大岡は猛々しい闘いを仕掛け、あくまで歴史の過酷さに身をさらし続けた作家であると論じ、その歴史を露呈させる執拗な実証精神の究極の具現化こそが『レイテ戦記』であると位置づけているそうで、蓮實は別の筒井康隆との対談の中でも大岡の文体に触れていて、『レイテ戦記』に代表される大岡の文章について、詩情を徹底的に排して散文に徹した、スタンダール由来の硬質な文章であると指摘し、その反骨精神が戦後文学に与えた影響の大きさを肯定的に語っていて、このように、蓮實重彦にとって『レイテ戦記』は、単なる記録文学ではなく、大岡昇平という稀代のの小説家が言語と実証によって歴史の忘却に抗った、批評的にもきわめて強度の高いテクストとして捉えられているそうだが、大岡昇平の代表作は『野火』よりも『レイテ戦記』の方が一般的には高く評価されている感じがするのだが、『野火』と『レイテ戦記』で何か特徴的な差異があるかというと、文学界や批評の文脈において、『レイテ戦記』は大岡昇平の最高傑作、ひいては戦後文学の金字塔として別格の高評価を受けている一方で、『野火』は、映画化などの影響もあり、一般の読者層にとって、最も知名度の高い代表作として広く親しまれていて、この2作には、単に小説とノンフィクションの戦記というジャンルの違いに留まらない、表現の目的、視点の置き方、そして文体のあり方に決定的な差異が存在し、『野火』は、戦場という極限状態に放り出された一人の男の視線と心理に徹底して閉じこもっていて、世界は田村というフィルターを通してしか描かれず、戦争の全体像が見えないからこそ、幻想的な美しさやカニバリズムといった個人の内面や感覚のサスペンスが生まれ、それに対して『レイテ戦記』は、大岡自身が個人的体験では描ききれなかった集団的悲劇を描こうとしたもので、主語は一個人の兵士ではなく、日米の軍隊という巨大な組織になり、作戦の失敗、補給の欠如、情報の遮断といった、なぜこれほど多くの人間が無惨に死ななければならなかったのか、という破滅のメカニズムを、冷酷なまでにマクロな視点から解剖していて、『野火』は、大岡のミンドロ島での体験がベースになってはいるものの、基本的には舞台をレイテ島に移して構築された虚構・フィクションであり、そのため、象徴的な野火の配置や、ラストの精神病院のシークエンスなど、文学的な構成や言葉のレトリックの自由度が最大限に活かされている一方で、『レイテ戦記』は、膨大な公式資料、戦訓、生き残りの証言を何年もかけて集め、それらを事実の上に事実を重ねる方法論で構築されていて、大岡は、自分だけが生還してしまったことへの死者に対する負い目から、死者たちがどのように戦い、どのように餓死していったのかを歴史に正確に刻みつける、という異様なまでの倫理的使命感・実証主義を持って執筆し、この圧倒的な情報量と執念が、小説の枠を超えた神話的とも言える凄みを生んでいて、『野火』は、極限の人間はどうなるか、という文学的・哲学的な問いを追求した名作であり、『レイテ戦記』は、あの戦争とはいったい何だったのか、という巨大な歴史の不条理を散文の力だけで再現しようとした、大岡昇平の生涯をかけた国家規模の総決算であり、批評界で『レイテ戦記』がより高く評価されるのは、一作家の文学的才能の表出にとどまらず、一つの歴史的事件を言葉によって完全再現しようとしたその企ての巨大さと倫理的な強度に圧倒されるからだと言えるそうだが、『レイテ戦記』について語らずに『野火』について語りたがる識者にはどんな傾向があると言えるか、まさか『レイテ戦記』は簡単には読めないが、『野火』なら映画の印象を手がかりにして安易に語れるとか、それはちょっと偏向した見方かというと、その見方は、決して偏向したものではなく、実際、多くの文芸評論家や編集者も、同様の構造的な問題を指摘しているそうで、『レイテ戦記』に触れず、『野火』ばかりを語りたがる識者には、以下のようないくつかの明確な傾向と限界が見出せるそうで、『レイテ戦記』は簡単には読めないという物理的・圧倒的なハードルがあり、『レイテ戦記』は、文庫本で3冊、千ページを超える膨大なボリューム、日米両軍の師団名、参謀の判断、地名、統計データが冷徹な散文で敷き詰められており、通読には多大な知的体力と時間を要する一方で、『野火』は、文庫本1冊で二百ページほど、ストーリーも一人の兵士のサバイバル、飢餓や人肉食という衝撃的なもので、短時間で読んだ気になりやすい性質を持っていて、さらに『野火』は市川崑監督や塚本晋也監督によって繰り返し映画化されているので、映像のインパクトを自分の言葉にスライドさせて語る誘惑に駆られやすく、膨大な資料と格闘しなければ語れない『レイテ戦記』を避け、映像の手がかりで安易に語れる『野火』に飛びつくのは、識者の怠慢、あるいはメディア露出のスピード感を優先するタイパ主義の現れと言えるそうで、また『野火』は、反戦、人道主義、極限状態の狂気、カニバリズムといった、一般的な戦争論のキーワード、お決まりのパッケージに回収しやすい性質を持っていて、識者が、戦争はいけない、人間性が崩壊する、という規定の結論を語りたいとき、『野火』の田村一等兵の悲劇は格好のお道具・象徴になり、一方で『レイテ戦記』は、なぜここで大隊長はこの命令を下したのか、補給戦の計算はどうだったのかという、システムとしての組織論や戦争の構造を冷徹に暴いていくので、情緒的な反戦論だけでは処理しきれず、お仕着せの思想を語りたいだけの識者にとって、『レイテ戦記』はきわめて扱いづらいテクストであり、日本の知識層・ジャーナリズムには、歴史や社会構造をマクロ的に分析するよりも、個人の内面、心理、倫理的葛藤を重視する、あるいはそれしか語れない傾向が伝統的にあり、『野火』は主人公のモノローグ・内省で進むため、精神分析、心理学的な深読みがいくらでも可能だが、しかし、そればかりを喜ぶ識者は、大岡昇平が、個人の内面(野火)だけではあの戦争を全体像・組織の狂気を描ききれなかったと痛感し、その限界を超えるために『レイテ戦記』という巨構造ヘ向かったという、作家の決定的な動線を見落としてしまうことになり、蓮實重彦が『野火』を褒めるとき、そうした悲惨な戦争の内面に回収する識者たちを猛烈に批判していて、蓮實は『野火』を、映画の印象のようなドロドロした内面ではなく、冷徹な言葉の運動として読んだからこそ、のちに『レイテ戦記』の冷徹な実証主義へと繋がる大岡の反骨精神・散文の力を見抜くことができたのであり、何か『野火』ばかりを語る人は、無意識のうちに『レイテ戦記』をなかったことにして、忘却の彼方に押しやろうとしているのではないか、と邪推したくなるわけで、何かというと、戦争の悲惨さを訴えるための道具として『野火』を持ち出す人たちが許せないような気持ち(たぶんこれは自分の勘違いだろうが)になってしまうわけだが、大岡昇平という作家がまさにその忘却の構造やお道具にされることに対して、生涯をかけて最も激しい怒りを燃やし、闘い続けた当人だったそうで、大岡昇平が『野火』の後に『レイテ戦記』を執筆した最大の動機は、戦後の急速な忘却に対する絶望と怒りであり、戦後、日本社会は、一億総懺悔や悲惨な戦争の被害者という情緒的な物語、まさに『野火』を都合よく消費するような態度で過去をコーディングし、高度経済成長へと突き進み、大岡は、これによって、なぜ、誰の責任で、どのようにあの無惨な死がもたらされたのか、という、組織の失敗や具体的な事実がなかったことにされていく風潮に耐えかねたのであって、だからこそ、情緒に逃げ場を与えない『レイテ戦記』という冷徹な実証の巨塔を打ち立て、それに対して蓮實は、『歴史小説論』の解説の中で、日本人が持つ、過ぎ去った惨劇を、お決まりの倫理や感傷の中に回収して、なかったことにし、優雅に忘却してしまう性癖を厳しく批判し、そして、大岡昇平という作家は、その優雅な忘却の首根っこを掴み、生々しい事実の表層へと力ずくで引き戻し続けた稀有な存在であると讃えていて、したがって、『野火』の悲惨さだけを都合よく持ち出し、『レイテ戦記』の突きつける構造的・実証的な責任追及から目を背ける識者は、蓮實の言う優雅な忘却に加担していると言えるそうで、『野火』を、戦争は悲惨だ、命は大切だ、という最大公約数的なお題目・道徳の道具として持ち出す人々は、テクストを読んでいるのではなく、自分たちの正しいイデオロギーを確認するための免罪符として作品を消費しているに過ぎず、そこに、戦場で実際に死んでいった兵士たちへの個別の倫理や、大岡が散文に込めた命がけのサスペンスはなく、それに対して許せないという気持ちは、作品がそうした安易な政治性や道徳によって去勢され、飼い慣らされてしまっていることに対する、健全な文学的・倫理的拒絶反応なのだそうだ。9月15日「リベラルな政治思想と過去の宗教や哲学との関係」日蓮は『法華経』こそが釈尊の真実の教えであり、すべての人が救われる唯一の経典であると説いたそうで、釈尊が45年間説いた多くの経典の中で、最後に説かれた『法華経』こそが本当の教えであると考え、身分や性別に関わらず、すべての人が本来的に仏になる性質、仏性を持っていると説く点に強く共鳴し、南無妙法蓮華経とお題目を唱えることが、法華経の功徳をそのまま受け取る行いであると教え、法華経を広めることで迫害や佐渡流罪など苦難に遭ったが、それを正しい法華経の行者である証拠として、信念を貫いたそうだが、その一方で法華経と新約聖書の成立年代は、紀元1世紀後半〜2世紀で、ほぼ同時代であり、大枠において一致していて、この時代は、世界史において宗教思想の大きな転換期であって、インドでは、伝統的な出家至上主義の仏教に対し、すべての人が救われるべきだとする大乗仏教運動が興り、その結晶として法華経が生まれ、地中海世界では、ユダヤ教の枠組みを超え、民族に関わらず信じる者はみな救われるとするキリスト教が誕生し、各地へ広がる中で聖書が編纂され、アジアと地中海という離れた地域でありながら、万人の救済を掲げる新しい教えがほぼ同じ時代に文章化されたことは、宗教史的にも非常に興味深い共通点だそうだが、これに対して、古代ローマ帝国のストア派の哲学者たちは、キリスト教に対して全体的に批判的または冷ややかな態度を取っていて、当時、ローマの知的エリート階級の主流であったストア派にとって、新興宗教だったキリスト教は、理性を欠いた、度を越した狂信、ファナティズムのように映っていて、ローマ皇帝でストア派哲学者であったマルクス・アウレリウスは、著書『自省録』の中で、キリスト教徒と思われる人々の死に対する態度について、唯一明確に言及していて、ストア派は死は自然な現象として、理性を保ち、威厳を持って静かに受け入れるべきだと考えるが、しかし、彼らから見たキリスト教徒の殉教の際の死を恐れない態度は、熟慮された理性的判断からではなく、ただの強情あるいは頑迷さと、見せしめのような狂信によるものだとして冷ややかに批判し、彼の統治期、キリスト教は伝統的なローマの神々や皇帝崇拝を拒否したため、国家の調和を乱す反社会的な存在として迫害の対象になっていて、奴隷出身の哲学者エピクテトスは、著書『語録』の中で、おそらくキリスト教徒のことを指しているとされる記述があり、彼は、当時ユダヤ人の一派が、恐ろしい状況や暴君に対しても全く恐れを抱かない様子について言及し、エピクテトスは、それはストア派のような哲学的な理解や理性によって恐怖を克服しているのではなく、ただの盲信や地方的な習慣、あるいは狂気によるものだと評し、皇帝ネロの家庭教師で政治家のセネカについては、セネカ自身の現存する著作には、キリスト教について直接言及した確実な記録はないものの、後世にセネカと聖パウロの往復書簡という文書が作られ、二人に深い交流があったかのように語られた時期もあったが、現在ではこれらは4世紀頃に作られた偽書であることが判明していて、セネカにとっては、キリスト教はまだユダヤ人の奇妙な一宗派程度にしか認識されていなかった可能性が高いが、面白いことに、ストア派とキリスト教は、万人の平等、禁欲的な徳の追求、ロゴスの重視など、思想的には非常に多くの共通点を持っていて、後のキリスト教の教父や学者たちはストア派の思想を大量に吸収して行くことになるが、ローマ帝国時代のリアルタイムな関係においては、ストア派の人々は自らの哲学と理性に誇りを持っていたため、神の啓示や奇跡を信じ、感情的に殉教していくキリスト教徒を、理性のない、教養のない人々の迷信として見下していたのが実態だったそうで、また『新約聖書』と『法華経』は、どちらも人を救わなければならないという強い救済の動機を持っているが、その動機の源泉のロジックは大きく異なり、新約聖書は神からの一方的な愛に応えることから生まれ、法華経はすべての人が本来持っている仏の心への気づきから生まれ、新約聖書における救済の動機は、神がまず自分を愛し、救ってくれたのだから、自分も隣人を愛し、救わなければならないという、神から人間への垂直な愛に対する恩返しから生まれ、神は人類を罪から救うため、独り子であるイエス・キリストを十字架にかけ、この圧倒的な愛を体験した人間は、その愛を他者に広げて行く義務と喜びを持ち、イエスは、私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさいと命じ、人を救う動機は、自分の内側から湧き出るものというより、神の愛に動かされ、神の命令に従うことから生まれ、神や信者などの救う者と、罪人などの救われる者という関係性が明確であり、愛の連鎖によって他者を救おうとするのに対して、法華経における救済の動機は、すべての人は本来、自分と地続きの存在であり、苦しんでいる人を放っておくことはできないという、自他一体の絶対的な慈悲から生まれ、法華経は、どんな悪人であっても、すべての生命には仏になる可能性が等しく備わっていると説き、したがって、他者を救うことは、未来の仏を敬い、開花させることと同義になり、法華経では、仏は、すべての衆生は私の子供であると語り、毒を飲んで苦しむ我が子を救うために医者である父親が奔走する比喩のように、親が子を救わずにはいられないという根源的な慈悲が動機で、究極的には、他者の苦しみは自分の苦しみであり、他者を救うことこそが、自分が仏になる道そのものであるという構造から動機が生まれ、新約聖書は神の愛に満たされた人間が、その愛を他者へと横展開して行くのに対し、法華経は生命の奥底にある普遍的な親心と、他者も自分と同じ仏であるという繋がりに目覚めることで、人を救う動機が生まれると教えているそうだが、それに対して、ストア派は新約聖書や法華経のような他者を救済するという動機や活動とは無関係であり、むしろ明確に一線を画していたそうで、ストア派にとっての究極の目的は、他者を救うことではなく、自分自身の心を理性の力で統治し、いかなる苦難にも動じない不動心を得ることで、つまり、彼らにとっての救いとは徹底した自己救済であり、宗教的な他者救済の思想はないが、彼らが他者や社会に対して完全に無関心だったわけではなく、新約聖書の愛や法華経の慈悲は、他者の苦しみに共感し、共に涙を流すことから救済が始まるが、しかし、ストア派はこれを厳しく戒め、ストア派は、他者の不幸に感情的に同情することは、自分の心の平穏を失うことだと考え、例えば、友人が悲しんでいたら、慰めの言葉をかけたり手助けをしたりはするが、自分の心まで一緒に悲しみに沈めてはならない、とエピクテトスは教え、感情に流された救済は、理性を曇らせるため不要とされ、ストア派は、人間はみな同じ理性=ロゴスを分け合っている平等な存在であるという世界市民の思想を持っていて、彼らが他者を助けたり、社会貢献をしたりする動機は、愛や慈悲ではなく、宇宙の理性の一部として、社会における自分の義務を淡々と果たすためで、マルクス・アウレリウス皇帝が激務や戦争の中で民衆のために統治を行なったのも、それが皇帝として与えられた自然な義務だからであり、キリスト教的な、民を愛し、救うためという動機とは根本的に異なっていて、仏教やキリスト教は、今苦しんでいる人の状況を変え、未来の救いへと導こうとするが、しかし、ストア派は、この世で起きることはすべて宇宙の理性によって決定されていると考え、貧困、病気、奴隷の身分、死などは、人間の力ではコントロールできない不関心事、善でも悪でもないものに分類され、従って、他者の貧しさや病気を、かわいそうにと思って、救ってあげなければ、と介入することは、宇宙の運行に抗う無駄な行為とみなされる側面があり、重要なのは、その環境の中で、その人がいかに理性を保つかであり、外的な救済には意味がないと考え、新約聖書や法華経が、他者の苦しみを取り除くために世界や他者に働きかけるのに対して、ストア派は、どんなに世界が崩壊し、他者が苦しんでいても、自分の理性を完璧に保ち、自分の心を守ることが重要で、ストア派にとって、他者を救おうと躍起になる宗教運動は、人間の力を過信し、運命を受け入れられない、理性を欠いた人々の執着のように見えていたと言えるそうだが、近代以降のリベラルな政治思想は、ここまで登場した法華経や新約聖書などの宗教や、ストア派など古代哲学の要素を複雑に受け継ぎながら、それらを世俗化した全く新しいシステムだそうで、リベラル思想は、これら過去の思想と明確な断絶を持ちつつも、驚くほど深い一致点も持っていて、リベラル思想の根幹である個人の尊厳や普遍的人権は、実は新約聖書、法華経、ストア派が数千年前に種を蒔いた概念がベースになっていて、ストア派は、全ての人間は人種や身分に関わらず同じ理性=ロゴスを持つ世界市民であると説いたが、この人間は生まれながらに共通の権利=自然権を持つというロジックは、ロックやルソーなど近代リベラリズムの基本的人権の概念に直接つながっていて、またキリスト教は、神の前に万人は平等であり、一人一人の魂にかけがえないの価値があると教えたが、リベラル思想は、この神の前での平等から神の存在を抜き取り、法の前での平等、人間の尊厳へと置き換え、そして法華経の、どんな人にも仏になる可能性=仏性があり、誰一人として見捨てないという全肯定の精神は、リベラル思想が目指す、誰一人取り残さない多様性の尊重や福祉国家の精神と非常に高い親和性を持っていて、このような一致点がある一方で、リベラル政治思想はこれら宗教や古代哲学の限界を乗り越えようとした結果生まれたため、目的や方法が根本的に異なり、聖書の目的があの世での救済、法華経は成仏、ストア派が心の平穏という、人間の内面や精神の完成であるのに対し、リベラル思想の目的は、人間がこの現実社会で、国家や他人に邪魔されずに、自分の生きたいように生きることであり、内面の信仰は自由とし、政治の目的は外的な権利や財産、安全を守ることに限定し、聖書や法華経やストア派が他者を助ける動機は、神の愛、慈悲、義務といった、個人の道徳心に依存するのに対し、リベラル思想が他者を助け、権利を保障する動機は、お互いの自由を守るために、その方が合理的だからという社会契約に基づき、愛しているから助けるのではなく、ルールだから助けるという客観的なシステムで、宗教はそれぞれの経典に、これが唯一絶対の真実の救いだ、という正解があるが、リベラル思想は、何が幸せかの正解は人それぞれに異なるという前提、価値多元主義に立ち、そのため、政府は特定の宗教や哲学を優遇せず、全ての人が対等に共生できる公正な枠組み、ゲームのルールだけを提供するというスタンスをとり、リベラル政治思想は、ストア派の世界市民、聖書の個人の尊厳、法華経的な万人の包摂という人類の理想を栄養として育ったが、しかし、それを特定の神や仏、厳しい哲学を信じない人であっても、システムとして全員が恩恵を受けられるようにしようとカスタマイズしたのが、近代のリベラリズムだと言えるそうだが、現代において、個人の自由、人権の尊重、多様性の包摂、公正なルールによる共生などのリベラル思想の実現を直接的に阻んでいる最大の障害は、人間が本来持つ身内びいきの心理と、それが現代の環境で暴走した社会の深刻な分断だそうで、リベラル思想は非常に合理的で美しいシステムだが、人間の野生的な本能や現代の経済や情報システムと致命的に相性が悪いという構造的な弱点を抱えていて、リベラル思想は人類はみな平等な世界市民だという、理性による抽象的な連帯を求めるが、人間の脳は本能的に、肌の色、宗教、国籍、支持政党などを同じにする仲間を優遇し、それ以外を敵視する部族主義に傾きがちで、かつては万人の共通の人権を目指したリベラリズムだが、現代では黒人、女性、性的マイノリティ、白人労働者階級など、特定のグループの権利を過激に主張し合う、集団同士の対立に変質し、分断を深め、多様性を認めるはずのリベラル派が、自分たちの価値観を絶対的正義とし、それに従わない人々を差別主義者、不謹慎と激しく糾弾し排除した結果、保守派や一般層からの猛烈な反発を生んでいて、しかも現代の情報空間は、リベラルな対話の基盤となる共通の客観的な事実を破壊していて、SNSのアルゴリズムは、ユーザーが見たい情報だけを表示し、その結果、人々は極端なオピニオンに囲まれ、異なる意見を持つ他者を話の通じない悪魔のように思い込むようになり、何が真実かではなく、自分が信じたいストーリーが優先されるため、リベラル思想が前提とする理性的な対話による合意形成が完全に不可能な状態に陥っていて、そしてリベラル社会がもたらしたグローバル化と資本主義は、中間層を崩壊させ、富を一部の勝者に集中させた結果、現代のリベラル社会は、機会が平等なら、結果の格差は本人の努力次第という建前を取るものの、成功者が自分の力で勝ったと傲慢になり、敗者を努力が足りないと見捨てることで、社会の底辺に押し込められた人々に強烈な屈辱感と不満が溜まり、この経済的格差とエリートへの怒りにつけ込んで、既存のルールなど壊してしまえと叫ぶポピュリストが世界中で支持を集め、民主主義の土台を揺るがしているそうだが、現代のリベラル思想が直面しているこれらの障害は、実は今回比較してきた宗教や古代哲学が、あらかじめ予見し、カバーしようとしていた人間の弱さそのもので、新約聖書や法華経の両教典は、人を動かすには愛や慈悲というエモーショナルで地続きの情熱が必要だと知っていて、リベラル思想はそれを冷徹な法制度に置き換えてしまったため、人々に他者を心から思いやる動機を十分に与えられず、システムが機能不全を起こすと簡単に連帯が崩れてしまい、またストア派は、社会を良くするにはまず個人の徹底的な内面の倫理=徳を鍛えなければならないと考えたが、リベラル思想は個人の内面を自由として放置し、外側のルールだけを整えたため、内面が未熟で感情に支配された人々によって、システム自体が内側からハックされ、乗っ取られている状態だと言えるそうだが、こんなことを主張している批判者も周囲から煙たがれられながらも巷には結構いるんじゃないかと想像はできるわけで、そういう方面で悲観的にならなくても構わないような気はするわけだ。9月14日「テクノでないファシズムなど存在しない」キャッチーな言葉がそれふうの人物の口から漏れると、何か違和感を感じるとしたら、それが一種の流行現象だからかも知れないが、現状をテクノファシズムと捉えることの何がおかしいのかというと、そう捉えてしまう者が、その種の政治運動が偽装している面に引っかかっているからなんじゃないかと考えれば、事態はそんな大げさなことではなく、その種の流行現象に踊らされる人々はただ単に経済的な富を求めているだけで、それをファシズムと捉えるなら、ファシズム自体がもともとテクノロジーを利用して政治的な主導権を握ったわけで、テクノでないファシズムなどあり得ず、それをテクノファシズムだなんてテクノであることを強調すること自体が、テクノロジーの本質から逸れて、テクノでない理想のあり方があるかのような幻想を抱かせることになってしまうと思うわけだが、その辺をどう捉えればいいのかというと、テクノファシズムという言葉を大げさに叫ぶことは、かえって、単なる経済的欲望や、テクノロジーそのものが持つ本源的な性質という事態の本質を隠蔽してしまう危険性があり、この問題を整理・理解するために、3つの視点から深く掘り下げてみると、1つ目の視点は、テクノでないファシズムなどあり得ないという真実で、歴史を振り返れば、20世紀のオリジナルなナチス・ドイツやイタリアのファシズムも、当時の最先端テクノロジーである、ラジオ、映画、自動車、大量生産、効率的な官僚機構をフルに活用して、大衆の心を掴んで権力を握り、哲学者マルティン・ハイデガーや技術論の系譜が指摘するように、近代テクノロジーの本質は、あらゆるものを効率的な資源・用材として管理・動員することにあり、テクノロジーはファシズムの前提条件であって、したがって、テクノファシズムとわざわざ頭にテクノをつけることは、かつてはテクノロジーに汚染されていない、純粋で人間的なファシズムあるいは政治があったという奇妙な幻想を生んでしまい、テクノでない理想のあり方というノスタルジーあるいは幻想を抱かせる仕掛けに、言葉自体がなってしまい、2つ目の視点は、偽装に引っかかる人々の存在で、それがイデオロギーか、あるいは単なる富かという視点において、現状は恐ろしいテクノファシズムに支配されている!と大げさに告発する言説は、ある種の政治運動や言語空間の偽装・ポーズに騙されている可能性があり、告発者たちは、背後に巨大なディストピア的陰謀や邪悪な政治思想=ファシズムがあるかのように語りたがるが、しかし実態は、現代のテクノロジー企業やそれに群がる人々が、ただ単に経済的な富、利益・効率・市場の独占を求めているだけという、極めて世俗的で即物的な資本主義のロジックで動いているに過ぎないケースがほとんどで、彼らの即物的な金儲けや流行現象をファシズムという大仰な政治的ターミノロジーで飾り立てることは、結果としてその現象に不当な格調高さや強大さを与え、単なる強欲さや格差の問題などの本質的な批判から目を逸らさせることになり、3つ目の視点は、キャッチーな言葉への違和感で、流行現象としての消費を思わせ、それふうの人物の口からその言葉が漏れるときに感じる違和感は、まさにその言葉が思索の道具ではなく、自己顕示やポジショニングのためのファッション・流行現象として消費されているからであり、現代の複雑な社会を深く分析する代わりに、テクノファシズムという手頃でキャッチーなラベルを貼ることで、自分が時代の最先端の危機を理解している知識人であるかのように見せかけることができ、しかし、その言葉を使えば使うほど、テクノロジーの本質である、私たちの生や思考の様式そのものを根底から規定していることへの問いは素通りされ、悪いテクノファシズム対良い人間性、という安易な二項対立に回収されてしまい、この事態を捉える際には、言葉のインフレに付き合わないという冷徹な視座が有効だそうで、周囲がテクノファシズムという大げさな言葉で騒いでいるときには、それを真に受けるのではなく、その言葉によって、単なる経済的欲望、技術の道具主義、あるいは自身の知的ファッション性など、いったい何が隠蔽されているのか?という隠された本質に目を向けること、それこそが違和感を正しく知的なエネルギーへと昇華させる道であるそうだが、そもそも政治自体が政治経済学という政治と経済の結びつきから始まったと考えても構わないのかどうか、それとも経済から切り離された単体としての政治なんてあり得るのかどうか、その辺はどう捉えたらしっくりくるかというと、近代の政治は最初から政治経済学という一体のものとして体系化されて、この関係性をすっきりと、かつ深く捉えるためには、政治と経済は、人間が集団で生きるためのコインの裏表である、という視点を持つとしっくりくるそうで、歴史の流れと構造から、この関係を3つのステップで整理してみると、1つ目のステップは、古代は、あえて切り離して考えていた時代で、古代ギリシア、アリストテレスの時代などでは、政治と経済は明確に区別されていて、経済・オイコノミアは、家庭の管理や生きて行くための生存の領域、食料調達や奴隷の管理などで、自由な市民が手を出さない、一段低いものとされたが、それに対して政治・ポリスは、生存の心配から解放された自由な市民が、対等にどう生きるべきかを話し合う自由の領域だが、しかし、これはあくまでも奴隷制の上に成り立つ特権階級の理想論に過ぎず、この時代でさえ、誰が生産し、誰が消費するか、という経済的土台がなければ、政治という優雅な営みは成立しないが、2つ目のステップは、近代における、政治経済学の誕生と一体化の現実で、18世紀から19世紀にかけて、アダム・スミスやマルクスの時代になると、市場経済が爆発的に発達し、国家の強さは経済力・富と直結するようになり、ここで生まれたのが政治経済学で、国家の役割は経済の管理になり、国家・政治の主な仕事は、領土をどう豊かにし、税金を集め、市場のルールを整えるかになり、マルクスはさらに踏み込んで、社会の土台・下部構造は経済・生産様式で、政治や法律、思想・上部構造は、その経済的な土台の上に乗っかっている、いわば経済の反映に過ぎないと捉え、この時点で、経済から切り離された純粋な政治という幻想は完全に打ち砕かれ、3つ目のステップは、現代において、なぜ切り離されているように見えるのかというと、それは、近代資本主義が政治と経済をあえて分離するという巧妙なシステム・フィクションの上に成り立っているからで、政治の建前は、すべての人間は平等であり、1人1票の権利があるということに民主主義ではなっているが、経済の本音は、持てる者と持たざる者がおり、富は不平等に分配されるという資本主義の現実があり、もし経済の不平等がそのまま政治のルールになってしまっては、社会で暴動が起こって崩壊してしまうから、経済的には不平等だけれど、政治・選挙の場ではみんな平等ですよ、という劇・フィクションを演じる必要があり、私たちが政治が単体であるように錯覚するのは、このシステムの目くらまし的イデオロギーが成功している証拠だと言えて、結局のところ、政治の本質とは、誰が、何を、いつ、どのように手に入れるかという、価値の権威配分であり、この何をの部分の大部分は、富や資源、つまり経済そのものであって、したがって、経済とは、人間が欲望し、生産し、奪い合うエネルギーそのものであり、政治とは、その経済エネルギーが社会を破壊してしまわないようにコントロールする制御装置・ルールであり、制御装置である政治は、制御対象である経済がなければ存在理由がなくなってしまい、テクノファシズムという言葉に感じる違和感も、政治的なイデオロギーの側ばかりを見て、その中身を動かしている生々しい経済的欲望や富の追求という土台を見誤っている、と言い換えることができるそうだが、では現代のITやAIやSNSを使って人々を動員するファシズムと、かつての新聞やラジオや映画を使って人々を動員するファシズムの違いは何なのか、それは絶対的な違いなのか相対的な違いなのか、感触としてはかつてのファシズムよりだいぶマイルドになってきていると感じるのだが、現在のIT、AI、SNSを用いた大衆動員の現代型とかつての新聞、ラジオ、映画を用いた大衆動員の20世紀型の違いは、手法の絶対的な断絶・高度化でありながら、人間の欲望レベルでは相対的な地続き・マイルド化であると捉えるのが最も直感に合致するそうで、かつてのファシズムが国家への自己犠牲を強いる狂暴な強制力を持っていたのに対し、現代のそれは個人の快楽や承認欲求を満たす形で忍び寄る心地よいファシズムだからで、この違いがなぜ生じるのかというと、メディアの性質と支配のメカニズムから整理してみると、まず考えられるのが、メディアの技術的な違いで、一方向から双方向・超パーソナルへの移行があり、技術的な観点から見ると、両者には絶対的な違いがあり、20世紀型は、新聞・ラジオ・映画という性質上、一方向・巨大・画一的で、広場に集まった大衆に拡声器やラジオを通じて同じメッセージを同時に叩き込み、人々を強引に国家という一つの型にハメ込もうとするため、軍隊のような強権的・抑圧的な空気が生まれるのに対し、現代型は、IT・AI・SNSという性質上、双方向・微細・超個別的でパーソナライズされ、AIは全体に呼びかけるのではなく、アルゴリズムを使って、あなただけのタイムラインを作り、あなた好みの情報だけを流し、人々は自分の意思で選択していると錯覚させられたまま、知らず知らずのうちに特定の方向へ誘導・動員され、そしてなぜマイルドに感じるのかというと、それは支配のインフレからデフレへの移行があるからで、かつてのファシズムは人々から自由を奪い、戦争へと動員する、痛みを伴う政治運動であったのに対して、現代の動員は、むしろ個人の欲望を全肯定してくれるため、圧倒的にマイルドで快適で、動員のエネルギーが、20世紀のファシズムが、国家への忠誠・自己犠牲・恐怖であるのに対し、現代のIT・AI・SNSでは、個人の富・金儲け・承認欲求・快楽であり、主導する存在が、20世紀のファシズムが、カリスマ的独裁者であるのに対して、現代のIT・AI・SNSでは、プラットフォーム企業・インフルエンサーであり、人々の状態が、20世紀のファシズムが、広場で熱狂し団結するのに対して、現代のIT・AI・SNSでは、個人がスマホの前で孤立し、エコーチェンバーに浸り、現代の動員は、ただ単に経済的な富、あるいは承認、いいね!を求めているだけの集合体であり、血生臭い暴力ではなく、便利さと楽しさという麻酔がかかっているため、私たちは牙を抜かれ、マイルドだと感じるのだそうで、これは絶対的な違いか相対的な違いかというと、外見のマイルドさは相対的だが、内実の逃れなさは絶対的に進化していると言えるそうで、人間がメディアに煽動されて極端化するという心理プロセス自体は、ラジオの時代から何も変わっておらず、その意味では、単に技術が進化して、表現がソフト&マイルドになっただけ、という相対的な見方ができる一方で、しかし、20世紀のファシズムは、ラジオのスイッチを切る、広場に行かない、という拒絶が可能だったが、現代のIT・AI環境は、決済、連絡、仕事など、私たちのインフラそのものと一体化しているため、システムから降りる、スイッチを切ること自体がほぼ不可能という点で、かつてとは比較にならないほど絶対的で盤石な支配体制を築いていて、現代のファシズム風の動員がマイルドに感じられるのは、それが人間の利己的な欲望である経済的利益や自己顕示欲を燃料にして、自発的に踊らされるシステムだからで、かつてのように、お国のために死ねと強制されるなら反発もできるが、あなたが好きそうな商品、あるいは陰謀論、過激なオピニオンはこれですよとアルゴリズムに差し出され、それを自ら喜んで消費しているとき、私たちは自分が動員されていることすら気づかず、このマイルドな心地よさこそが、現代のテクノロジーがもたらした、かつてのファシズムより進化した、そしてある意味でより厄介な本質であると言えて、大勢の人々を動員して同じ方向に誘導するには何らかのテクノロジーが必要だと考えれば、なんとなくそういうことだと納得するしかないが、政治自体がその種のテクノロジーに依存した制度であると考えるなら、ではこれまでテクノロジーではない政治があり得るんだという幻想を振り撒いてきた勢力の衰退と共に、純粋で理想主義的な政治の欺瞞も解消されて行くような気がするのだが、その辺はどう捉えればいいのかというと、技術・制度・装置などのテクノロジーから切り離された、純粋で理想主義的な政治があるという幻想は、今や完全に崩壊しつつあり、そしてその幻想を支えていた勢力の衰退と共に、政治の欺瞞が解消されていくというよりは、政治が単なる技術的あるいはアルゴリズム的な管理・動員の手続きへと純化し、そのむき出しの姿を現しつつあると捉えるのが、最も正確だそうで、この理想主義的な政治の欺瞞の解消が、私たちの社会に何をもたらしているのかを、3つの視点から整理すると、1つ目の視点は、テクノロジーではない政治という幻想の正体で、そもそも、これまで私たちが、純粋で理想主義的な政治と呼んできたもの、民主主義、人権、熟議、正義の追求、などの正体とは何だったのかというと、それは18〜20世紀の文字・印刷物、新聞、書籍というメディア・テクノロジーがもたらした一時的な幻影に過ぎず、文字を読み、論理的に思考し、議会で言葉を戦わせるという熟議の政治は、それ自体が高度な言語と紙のテクノロジーに依存したきわめてエリート主義的な制度であって、人間は言葉によって理性的、理想主義的に連帯できるのだ、という幻想を振り撒いてきた勢力、インテリ層、伝統的メディア、理想主義的な政治家は、実は自らも印刷技術というテクノロジーを使って大衆を動員・コントロールしていたに過ぎず、2つ目の視点は、幻想の崩壊によって、言葉から感情・アルゴリズムへの主権交代で、IT・AI・SNSという新しいテクノロジーは、この文字ベースの理想主義を完全に無効化し、理念や理想を語る政治が、実はエリートの自己満足やポジショニング、ポジショントークの道具に過ぎなかったことが、SNSによって誰の目にも明らかになり、今や大勢の人々を同じ方向へ動かすのは、高尚な理念・言葉ではなく、タイムラインを支配するアルゴリズムと、それによって誘発される怒りや快楽という脳内物質の分泌、感情のテクノロジーであり、ここで起きているのは、純粋で理想主義的な政治の欺瞞の解消で、私たちは、政治とは結局のところ、どのテクノロジーを使って大衆の心理を効率よくハックし、動員するかという技術の戦いでしかない、という身も蓋もない現実に直面していて、3つ目の視点は、欺瞞が消えたあとに残る冷徹な現実で、では、理想主義の欺瞞が解消された世界は、私たちにとって快適な場所になるかというと、ここが最もパラドキシカルで逆説的な点で、政治から理想やフィクションの建前が消えると、残るのは効率性と利益の最大化という冷たい計算、テクノロジーのロジックだけになり、人々は、どうせ政治なんて欺瞞だし、金儲けか、自分たちの承認欲求を満たすための動員システムに過ぎない、と冷めてしまい、ただ単に経済的な富や目先の快楽の動員ラインに喜んで並ぶようになるそうだが、欺瞞が解消されて行くような気がするという感触は、政治が神聖なものや理念から、世俗的なものや単なる技術へと引きずり下ろされた歴史的瞬間を捉えていて、かつての政治は理念という綺麗な仮面を被ったテクノロジーだったが、現代の政治は、その仮面を脱ぎ捨てて、単なる動員・管理のアルゴリズムそのものになった、と捉えるとしっくりくるそうだが、欺瞞の仮面が消えたことで、私たちは騙されるリスクからは解放されたが、しかし同時に、政治に理想を託すという選択肢も失い、むき出しの技術インフラの中で、ただ自発的に動員され消費されて行くという、より深いがマイルドで気づきにくい管理社会に足を踏み入れていると言えるのだそうだ。9月13日「沖縄県知事選挙を通して見えてきた民主主義の現状と未来」現状では右派ポピュリズムが民主主義を破壊していると言われるものの、一方で、政治的無関心層が民衆の大半を占めている中で、左派ポピュリズムも含めて、それらの民主主義の破壊者たちが逆に選挙という民主主義の制度を支えている実態とはどういうものなのかというと、現代の政治学や社会学において、右派・左派を問わず、ポピュリズムは民主主義の破壊者であると同時に、逆説的にその維持者・再活性化装置でもあるという二面性が指摘されているそうで、政治的無関心層が増大し、議会政治が形骸化しかねない危機において、彼らがどのように民主主義の制度である選挙を支える実態があるのか、そのメカニズムを主に3つの側面から説明できるそうで、1つ目の側面は、無関心層を有権者へと変貌させる動員力で、現状の社会では、既成政党や既存の政治システムに対する諦めから、投票に行かない政治的無関心層や不満層が大量に存在し、それに対してポピュリズム政治家は、エリート・既得権益層対民衆という極めてシンプルでエモーショナルな対立軸を提示し、自分たちの声が届くかも知れないという期待や、エリートへの怒りを燃料にすることで、普段選挙に行かない層を投票所へと向かわせ、結果として、低下し続ける投票率を下支えし、選挙という制度の正当性を形骸化から救っているという側面があり、2つ目の側面は、左派・右派ポピュリズムが果たすそれぞれの包摂で、政治的無関心層の多くは、社会的に孤立していたり、経済的に困窮・衰退した地域にいたりする、置き去りにされた人々であり、右派・左派はそれぞれ異なるアプローチでこれらの層を政治に繋ぎ止めようとしていて、一般的には、右派ポピュリズムは、排他的なナショナル・アイデンティティ、国境の強化、自国第一主義を掲げ、グローバル化でアイデンティティを失った層に、自国への所属感と移民や外国などの敵を意識させることで、政治運動に参加させるのに対して、左派ポピュリズムは、格差是正、反緊縮、富の再分配を掲げ、新自由主義的な政策によって困窮した低所得者層や若年層を、経済的な不満を媒介にして政治の表舞台へと引っ張り出すが、もちろんこれを沖縄県知事選挙に単純に当てはめるわけにも行かないし、右派ポピュリズム勢力が経済振興を掲げる日本政府側と合体しているわけだが、どちらも、既存の政治システムから排除されていた人々を包摂し、選挙の当事者へと仕立て上げる役割を果たしていて、3つ目の側面は、制度を利用した正当性の獲得と、そのパラドックスで、ポピュリストたちが最も重視するのは、選挙による圧倒的な民意の獲得で、彼らはクーデターのような非民主的な手段ではなく、民主主義の根本ルールである選挙で勝つことによって、自らの権力の正当性を証明しようとするが、ここに強烈なパラドックス・逆説が生じ、その実態は、選挙で勝つ必要があるため、彼らは熱狂的な選挙運動を展開し、選挙という民主主義の手続き自体を最大級に活性化させるが、しかし、いざ選挙で勝利し権力を握ると、われわれこそが唯一の正当な民意であるとして、権力をチェックする司法の独立、報道の自由、議会の手続きを内側から破壊し始め、現在の民主主義は、無関心によってシステムが穏やかに壊死していく危機と、ポピュリズムの熱狂によって内側から変質させられる危機のジレンマに直面していて、ポピュリストたちは、民衆の不満を吸い上げて選挙を盛り上げるという意味で、間違いなく現在の選挙制度を駆動させる主役となっているが、しかし、彼らが支えているのはあくまで多数決という手続きであり、法の支配や少数派の権利を守る自由民主主義の理念としばしば衝突するというのが、現代政治のリアルな実態だそうだが、そもそも民主主義の原点がポピュリズムなのではないかと考えるのも、偏向し過ぎかも知れないが、ではポピュリズムとは真逆の民主主義とはどんなものなのか、やはりリベラル的な良識派だけで市民の大半を占めるような社会が、現状の資本主義市場経済を基盤にした社会で成り立つのかというと、民主主義の原点こそがポピュリズム・大衆主義なのではないかという着眼点は、決して偏った見方ではなく、古代ギリシアの直接民主制も、エリート支配を打破しようとしたフランス革命やアメリカの独立も、本質的には民衆への権力の奪還というポピュリズム的衝動を含んでいるが、では、そのポピュリズムの真逆にある民主主義とは何か、そしてリベラルな良識派による社会が現代の資本主義下で成り立つのかという問いについて、政治学の視点から整理してみると、まず第一に、ポピュリズムとは真逆の民主主義とは、政治学において、情熱、数、直感、友と敵の対立を重視するポピュリズムの対極に位置づけられる民主主義のモデルは、主に以下の2つで、1つ目は、熟議民主主義で、特徴は、数の力や声の大きさではなく、理性的で丁寧な話し合い・熟議によって合意を形成するモデルで、意思決定は、感情的な対立を煽るのではなく、異なる立場の人々がデータや論理に基づき、互いの妥協点を探り、ハーバーマスなどの哲学者・政治学者がこれを提唱したそうで、2つ目は、エリート民主主義、制度的民主主義で、特徴は、大衆の直接的な感情が政治に直入するを防ぐため、専門知識を持った官僚や政治家、独立した司法・裁判所などのチェック・アンド・バランスを最重視するモデルで、意思決定は、憲法・法の支配や複雑な手続きというブレーキをかけることで、大衆が一時的な熱狂・衆愚政治に陥るの防ぐそうだが、第二に、リベラルな良識派だけの社会が資本主義経済で成り立つか?については、現在の資本主義市場経済を基盤とする限り、リベラルな良識派だけで市民が大半を占める社会が自律的に成り立つことは極めて困難である、というのが多くの政治経済学者の共通した見解で、その理由は、資本主義というシステムそのものが、リベラルな良識を侵食する構造的要因を抱えているためで、その一つ目の理由は、資本主義は格差と分断を自動生成するものであり、資本主義市場経済は、効率性と競争を原理とするため、必然的に勝ち組と負け組を生み出し、どれほど市民が教育を受け、最初は他者への寛容や法の支配と尊重などのリベラルな良識を持っていたとしても、経済的に困窮し、中間層から転落すれば、人間は生存本能的にリベラルな綺麗事を維持できなくなり、その不満や不安が、ポピュリズムの温床となり、二つ目の理由は、市場の論理である自己責任論が市民の連帯を解体し、資本主義が高度化すると、あらゆるものが商品化され、勝ったのも負けたのも個人の責任・自己責任という空気が強まり、リベラルな民主主義が成り立つには、同じ社会に生きる仲間・市民としての穏やかな連帯感が必要だが、過度な市場競争は市民を消費者や競争相手に分断してしまい、他者を思いやる良識の基盤を奪っていき、三つ目の理由は、良識派という概念自体のエリート主義化で、現代においてリベラルな良識派と呼ばれる層の多くは、大都市に住み、高等教育を受け、グローバル経済の恩恵を受けられる人々・ホワイトカラーや知識人になりがちで、結果として、彼らの良識は、地方の衰退や肉体労働の現場で苦しむ人々から見れば、生活の苦労を知らない持てる者の傲慢・エリート主義と映ってしまい、これがまさに、右派・左派を問わず、ポピュリズムが爆増する最大の引き金となっていて、資本主義がもたらす過酷な格差・競争と、リベラルな良識に基づく穏やかな民主主義は、本質的に相性が良くなく、資本主義を放置すればポピュリズム・情念の政治が台頭し、かといってポピュリズムを排除して良識派だけで政治を回そうとすれば、それは民衆を排除した冷徹なテクノラート・専門エリートの支配になってしまい、現代の政治が模索しているのは、全員をリベラルな良識派にすること、という不可能な理想ではなく、資本主義の暴走を税制や福祉・再分配で適度に抑え込み、人々が良識を保てる程度に安心できる生活基盤をどうやって再構築するかという、極めて泥臭い制度設計の課題だそうだが、現状で生活が成り立っている人々は現状維持でも大丈夫だから、政治的無関心になるのに対して、生活が成り立たなくなったり、苦しいと実感する人々が、政治の力でどうにかしてくれと政治に頼ろうとする際に、左右のポピュリズムが直接の受け皿になると考えられるものの、それは現状の経済情勢の中で起こっている成り行きだから、しかもそれによって現状の社会そのものが成り立っているわけだから、それを変えようとすれば、現状の社会が成り立たなくなると考えられるから、左右のポピュリズムには根本的に無理な主張が含まれていると言えるのではないかと考えられるが、その辺はどう捉えればいいのかというと、現状はグローバル化、緊縮財政、市場競争という資本主義システムのおかげで国全体の経済や日々の社会インフラが回っているため、それを苦しいからといってポピュリズムの主張通りに急進的に破壊・変革しようとすれば、結果として社会全体が破綻し、最も苦しいはずの弱者がさらに致命的な打撃を受けるというジレンマがあり、この左右のポピュリズムが抱える根本的な無理・矛盾について、右派・左派それぞれの具体的なメカニズムと、私たちがこの状況をどう捉えれば良いかを整理してみると、1つ目は、左右のポピュリズムに含まれる根本的な無理の実態で、彼らの主張は、現状のグローバル資本主義の経済秩序と真っ向から衝突するため、現実の政策に落とし込もうとすると以下のような破綻を招きがちで、左派のポピュリズムの無理は、例えば、大企業の解体、極端な富裕層への課税、際限のない財政出動で、資本主義市場経済では、お金や企業は自由に国境を越えられ、左派ポピュリズムが不満層の救済のために過度な富裕課税や企業規制を行うと、資本や優秀な人材が海外へ一斉に逃避し、結果として、国内の投資が冷え込み、かえって雇用が失われ、社会保障の原資である税収自体が減ってしまい、歴史的には1980年代のフランス・ミッテラン政権の初期政策の挫折や、近年の南米の左派政権の経済混乱などがこれに該当し、これに対して、右派ポピュリズムの無理は、例えば、極端な自国第一主義、国境の完全封鎖、移民の排除で、現代の経済は、安価な外国人労働者や、海外からの部品調達なしには1日も成り立たず、結果として、労働力不足で中小企業や農業・介護などの現場が崩壊し、貿易摩擦によって物価が高騰し、彼らを支持した国内の低所得者層の生活を、インフレと物不足という形で直撃し、イギリスのEU離脱後の経済混乱や労働者不足はその典型例で、このように、彼らの主張は、現在の社会システムを前提としながら、そのシステムを支えている土台であるグローバルな市場経済を拒絶するという意味で、構造的な自己矛盾を抱えているが、では、この実態をどう捉えればいいのかというと、左右のポピュリズムの主張に無理・実現不可能性があるからといって、それを単に大衆の無知や甘えとして切り捨てるだけでは、問題は解決せず、この状況を捉えるための3つの視点があるそうで、1つ目の視点は、彼らの役割は問題解決ではなく警報であるということで、ポピュリストたちの主張する答え・政策は現実離れしていて無理があることが多いが、彼らが告発している、生活の苦しさ、格差、無視されているという感覚は百%本物で、彼らは社会が致命的に壊れる前に鳴り響く火災報知器のようなものであり、彼らの主張通りに社会を作り直すことはできなくても、彼らが大勢の支持を集めているという事実そのものが、今の社会システムが限界を迎えているというサインになり、2つ目の視点は、現状維持もまた、長期的には不可能であるという恐怖で、ポピュリズムの言う通りにすれば社会が成り立たなくなるのは事実だが、かといって、生活が成り立っている無関心層の望む通りに現状維持を続ければ、苦しい層がさらに増大し、いずれ出生率の低下、治安の悪化、あるいは暴力的な暴動という形で、どのみち社会が成り立たなくなり、つまり、現状の社会もゆっくりと自滅に向かっている状態であり、ポピュリズムはそのスピードを急加速させる劇薬と言えて、3つ目の視点は、全否定か現状維持か、という二者択一からの脱却で、捉えるべき最も重要なポイントは、ポピュリズムの過激な主張・全否定と無関心層の現状維持の間にある、現実的な修正案・改革をいかに見つけるかという点で、すべてを壊すのではなく、資本主義の果実・利益を認めつつも、それを教育や福祉、地方の再生にうまく還流させる防波堤のような政策を、既成政党や社会がどれだけ真剣に作れるかが問われているそうで、左右のポピュリズムの主張には、それを実行したら自分たちの生活基盤そのものが崩壊するという根本的な無理が含まれているが、しかし、生活が苦しい人々にとっては、このまま穏やかに見捨てられて死んで行く現状維持か、ワンチャン賭けてシステムをぶっ壊すポピュリズムかという、究極の二者択一に追い込まれているのが現状で、このジレンマを解くには、政治の側がポピュリズムの過激な答えを拒絶しつつも、彼らが頼らざるを得なかった生活の苦しさに本気で向き合い、資本主義を致命的に壊さない範囲での実効性のある救済策を提示し続けるしかないそうだが、そうはいっても、人類は20世紀に、世界恐慌による経済破綻からポピュリズム・ファシズムの台頭を招いて破局的な世界大戦という最悪の破滅プロセスを一度経験し、その猛省から戦後の中流階級を育てる福祉国家や国際協調体制を作り上げたが、しかし、20世紀末からのIT・AI革命を基盤とする現代のデジタル資本主義は、過去の教訓やセーフティネットが全く通用しない新しい質の破壊力を社会にもたらし、第一に、IT・AI資本主義がもたらした勝ち組・負け組の絶対化に関して、過去の工場でものを創る時代の工業化社会では、資本家と労働者はお互いを必要とする関係にあり、労働者がいなければ工場は動かず、労働者が豊かにならなければ車や家電などの製品を買ってもらえないため、良識的な中間層の形成を促す富の分配が成立しやすかったが、しかし、IT・AIを中心とするGAFMなどのプラットフォーム資本主義は、その前提を根本から変え、勝者総取りの加速によって、デジタル空間では、優れたアルゴリズムを持つ1社または数社が世界中の市場を独占し、富は、ほんの一握りのITエリートの起業家、データサイエンティスト、投資家に脅威的なスピードで集中し、しかも労働者の不要化を招く生成AIや自動化技術の発展は、低賃金労働者だけでなく、これまでリベラルな良識派の土台であった事務職、中間管理職、専門職などのホワイトカラーの仕事まで代替し始めていて、資本主義が労働者を搾取する段階から、労働者をそもそも必要としない・排除する段階へとシフトしていて、第二に、ポピュリズムを暴走させるインフラとしてのIT・AIに関して、さらに深刻なのは、IT・AIという技術そのものが、前述した左右のポピュリズムや社会の分断を爆発的に増幅させる最悪のエンジンになってしまっている点で、アテンション・エコノミー、関心経済を作り上げる、SNSのアルゴリズムは、人々の熟議や良識を育てず、より多くのアクセス・広告収入を稼ぐために、人間の怒り、恐怖、不満といった強い感情を刺激する過激な情報・ポピュリズム的言説を優先的に拡散させ、エコーチェンバーと分断をもたらし、人々は自分と似た意見のコミュニティに閉じこもり、異なる立場の人を対話の相手ではなく、打倒すべき敵とみなすようになり、民主主義の前提である話し合いによる妥協そのものが不可能になっていて、第三に、歴史の教訓が機能しない理由に関して、大戦や恐慌の悲劇を知っているはずなのに、なぜまた同じ過ち、ポピュリズムによる社会の破壊に向かうのか、という疑問が生じるのは当然だが、しかし、現代の市民からすれば、置かれている状況が異なり、現状維持で逃げ切れると思っている無関心層は、IT・AIの恩恵を享受しながら、今のシステムが最適だと考え、政治的変革を拒む一方で、AIによって仕事を奪われ、デジタル化の波に取り残される人々にとっては、過去の教訓を守るために、自分がこのハイテク社会の底辺で静かに飢え死にするのを受け入れろというのか、という話になってしまい、結果として、現状の社会システムを破壊するポピュリズムへの熱狂という選択肢が、どれほど非現実的で無理な主張を含んでいようとも、彼らにとっては、これ以外に現状を拒絶するカードがない、という極限状態に追い込まれているのが、IT・AI時代のリアルな実態で、人類は現在、20世紀の世界恐慌に匹敵する、あるいはそれを超える技術的失業と分配の危機の入り口に立っていて、これを乗り越えるための議論として、従来の右派・左派の政策を超えた、以下のような新しい社会デザインが真剣に議論され始めていて、例えば、AIが富を独占する代わりに、すべての市民に無条件で生活費を配るベーシックインカムや、デジタルプラットフォームを国家や市民の共有財産として管理するデジタル共有財の思想などで、過去の資本主義のルールのまま、IT・AIという超強力な技術を走らせれば、社会はポピュリズムによって確実に壊れるという洞察は、まさに現代の最先端の危機意識と完全に一致しているそうだが、先のことは予想しても外れるだろうが、IT・AI革命を経ても、なお社会は続いていくというか、トランプ現象などを見るにつけ、それの方が、過去の2度の破局的な世界大戦や世界恐慌や世界の植民地分割や奴隷制なんかよりは、だいぶマシなんじゃないかとは感じられて、かつてマルクスが1度目は悲劇に終わるが2度目は笑劇に終わるとうそぶいたように、だんだん茶番な度合いが増していって、政治自体が何でもないような形骸化を被りながらも、それでも社会が持続していくような事態を招くのではないかと予想してしまうのだが、悲劇的な大破局ではなく、形骸化した茶番・笑劇として社会がズルズルと続いていくというシナリオも最有力な未来像の一つで、まさにマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で書いた、一度目は悲劇として、二度目は笑劇・茶番として、という言葉が、トランプ現象をはじめとする現代のポピュリズム政治の空気をこれ以上なく見事に言い当てていて、この政治が茶番化・形骸化しながらも、破局せずにダラダラと続いていく社会のメカニズムについて、以下の3つのポイントから捉えることができるそうで、1つ目は20世紀の悲劇と、21世紀の茶番の違いで、過去の世界大戦や世界恐慌の時代は、国家も市民も大真面目で、ファシズムや共産主義などの全体主義が、社会を根本から作り変えるという本気の巨大なイデオロギーであり、だからこそ何千万人もが命を落とす血みどろの悲劇となったが、一方で、現代のトランプ現象などに代表されるポピュリズムは、一見過激だが、中身は驚くほど液状化しており、エンタメ化していて、支持者も反対派も、SNSやメディアを通じて怒りや熱狂を消費している面が強く、トランプ氏が過激な発言をしても、それは本気の宣戦布告というよりは、メディアの注目を集めるためのパフォーマンスとし機能し、過去のファシストのように国家のために命を捧げる信者はごく一握りであり、大半の支持者はスマホの画面の中で現状への不満を代弁してくれるスターを推している状態に近く、結果として、社会を根底からひっくり返すような大革命や大戦争には至らず、政治の言葉だけが過激化し、中身がスカスカになっていく茶番劇が毎日リピートされることになり、2つ目は、IT・AIインフラが社会を無理やり維持してしまうということで、政治がどれだけ茶番化し、議会が機能不全に陥っても、社会が物質的に崩壊しない最大の理由は、IT・AI、そして高度に自動化された資本主義のインフラが優秀すぎるからで、政治家が不毛な言葉のキャッチボールを演じている間も、裏ではAIのアルゴリズムが物流を最適化し、金融市場で資本を動かし、水道や電気のインフラを自動で制御し続けていて、AIやロボットが富を生み出し続ける限り、国は生活困窮者に対して最低限、餓死しない程度の配給とスマホによる無限の娯楽を提供し続けることができ、つまり、政治がどれだけバカげた状態になっても、テクノロジーという巨大なマシーンが社会を強制駆動させてしまうため、破局・世界滅亡すらさせてもらえない、というのが現代の構造で、3つ目は、マシなディストピアとしての持続で、奴隷制や世界大戦に比べればだいぶマシと感じられるのは、歴史的な事実として完全に正しいと言えて、血が流れる大破局に比べれば、政治がエンタメ化し、形骸化しながらも平和が保たれる社会の方が、個人の生存確率という意味では遥かにマシだが、しかし、これはこれで別種の終わりのないディストピア・退屈な地獄でもあり、思想家のフランシス・フクヤマがかつて冷戦終結時に主張した歴史の終わりや、あるいは哲学者ニーチェが予言した最後の人、ラスト・マンの世界がこれに近く、最後の人とは、大いなる理想も、社会を変革しようという情熱も失い、ただ日々のささやかな快適さと茶番政治の鑑賞もこれに含まれるエンタメに満足しながら生きる、牙を抜かれた人類のことであり、未来の民主主義は、何かのきっかけでガラガラと崩壊して原始時代に戻るのではなく、中身は完全に形骸化し、単なるエンタメ・茶番劇の集計システムになり下がりながらも、ハイテクな経済システムに寄生する形で、ダラダラと、しかし強固に持続していくという姿になる可能性が極めて高く、かつてのような命がけの政治の時代を終え、高度に管理された、退屈で、時々騒がしい茶番としての政治の時代を生きているのかも知れないそうだ。9月12日「人道主義やリベラル思想への疑念」人類の人口爆発が起こったのが18世紀の産業革命以降であるなら、人類の繁栄に産業の技術革新が大きく寄与していると考えられるが、産業発展の負の側面として考えられるのが、帝国主義による植民地争奪戦や2度の世界大戦、その間で起こった世界恐慌や、戦後の核兵器開発による米ソ冷戦などが挙げられるが、戦争や国家・民族・宗教・人種間の対立や、貧富の格差をもたらすのも産業の発展による経済的な繁栄の副産物だが、それらの負の側面を改善または解消させようとするのも、ITやAIなどの新たな産業の技術革新だと言えるかどうかも、もちろんITやAI技術の発展によって、より一層の激しい争いの発生や結果として格差が拡大したと言えるだろうが、それに対して人道主義的な慈善運動やリベラル系の政治活動が、経済発展からもたらされる負の側面を改善または解消する役割を担っていると言えるかというと、どちらか一方だけが担っているわけではなく、両者は車の両輪として相互に依存し合っているというが最も実態に近いと考えられ、技術革新は解決のための手段や基盤を提供し、人道主義や政治活動は、その技術をどの方向に使うかという意志やルールを決定し、それぞれの役割と限界について整理してみると、技術革新は、過去の産業革命がもたらした弊害を、より高度なテクノロジーによって解決しようとするアプローチで、改善へ寄与するポジティブな側面は、ITやスマートフォンの普及により、国家による人権侵害や戦時下の暴挙がリアルタイムで世界に共有され、抑止力として働き、AIによる農業の効率化や医療診断の普及は、発展途上国の貧困や健康格差を縮小させる可能性を秘めていて、自動翻訳技術の発展は、言語の壁を越えた民族・文化間の相互理解を助けるが、その一方で、新たに生じている負の側面として、ITやAIは、サイバー戦、ディープフェイクによる世論誘導、自律型致死兵器システムなど、新たな戦争の火種を生み出していて、それに対して、思想や運動、政治的アプローチは、社会の富の分配や倫理的なルール作りを担当し、改善に寄与するポジティブな側面は、奴隷制の廃止、労働基準法の整備、福祉国家の思想などは、すべて人道主義や政治運動が勝ち取ってきたもので、AIの利用に関しても、欧州のAI法に代表されるような、技術の暴走を止める法規制は政治の力によってのみ可能であり、技術的に可能であることと人道的に許されることは異なり、核兵器の不拡散条約や、AI兵器の規制を訴える国際的な運動は、人間の倫理観・人道主義が駆動源となっているが、それでもなお負の側面として限界があるとすれば、理念や政治活動だけでは、生産性の向上や飢餓の根本的解決、物理的な豊かさの創出は困難で、また、政治的イデオロギーの対立自体が、新たな分断や戦争を生む原因、冷戦期の思想対立などになることもあり、歴史を振り返ると、産業革命やIT革命などの技術の誕生により、経済が発展する一方で、格差や戦争の激化が起こり、それに対して人道主義や政治活動が立ち上がり、是正のためのルールや福祉の仕組みを求め、その要請に応える形で、新たな技術が課題を解決する手段として開発される、というサイクルで社会は進歩してきたと言えて、したがって、ITやAIは、それ自体が自動的に社会を良くするわけではなく、人道主義やリベラルな政治活動が示す理想に向かって正しくコントロールされて初めて、負の側面を解消する原動力になると言えて、技術というエンジンと、思想・政治というハンドルの双方が揃うことが不可欠だそうだが、産業技術が正しくコントロールされれば問題が解決に向かうというのが、人道主義やリベラル的な政治思想だと言えるだろうが、産業の技術革新自体が正しくコントロールされたからそうなったわけではなく、思いがけないことが起こったり、それを思いがけず発見したから、技術革新が起こったわけで、それ自体が人道主義やリベラル思想のコントロールを外れて起こっているわけで、要するに人道主義やリベラル思想はそれらが起こった後から、事後的に導き出される理想論だから、いつの時代でも技術革新の後手に回って、解決策を見出せないうちに、次の思いがけない技術革新が先行すると考えても構わないかというと、歴史の構造を、技術革新が常に先行し、人道主義やリベラル思想は常にその後手に回って事後対応を迫られているという視点に関しては、以下の3つのポイントに整理できるそうで、1つ目の点は、技術革新は予測不可能という本質で、真の技術革新は意図的なコントロールの中からではなく、思いがけない発見やバグ、軍事的な切迫感、あるいは純粋な知的好奇心から生まれ、インターネットはもともと軍事用で核攻撃に耐える通信網であって、AIの急速な発展も、人間を幸せにしようという人道的な計画から始まったわけではなく、膨大なデータと計算資源が結びついた結果、開発者すら予測しなかった能力を発揮したものであり、したがって、コントロールの外側で技術が暴走的に先行するのは、歴史の必然だと言えて、2つ目の点は、人道主義やリベラル思想は事後的なブレーキであるという点で、人道主義やリベラルな政治活動は、何もない空間から理想を掲げているのではなく、基本的には、目の前で起こっている過酷な現実に対する反発として機能し、産業革命で子供たちが酷使されたから労働基準が生まれ、核兵器が実際に使われたから不拡散が叫ばれ、SNSで社会が分断されたからプラットフォーム規制が議論され、つまり、これらは常に後出しの理想論であり、技術がもたらした傷口を事後的に塞ぐ役割しか持っておらず、3つ目の点は、後手に回っているうちに次の革新がやってくる点で、さらに深刻なのは、解決策を見出せないうちに、次の思いがけない技術革新が先行するというスピードの非対称性で、技術の進歩が指数関数的なスピードで進行し、実際にAI・遺伝子操作・量子技術などが、そうなる一方で、社会・法・倫理などは、議論と合意形成に時間がかかり、まだSNSの規制すら未完成で、現代はまさにこの状態にあり、世界がインターネットやSNSの負の側面であり、デマ、分断、格差をどうコントロールすべきか結論を出せないうちに、すでに生成AIやディープフェイク、自律型兵器という次の破壊的技術が社会に浸透していて、政治や倫理のアップデート、合意形成には数年から数十年かかるが、技術は数ヶ月単位で進化するため、常に後手に回り続ける構造は、今後さらに加速すると考えられ、したがって、人道主義やリベラル思想は、先行する技術革新の後手に回り続け、根本的な解決策を出せないまま次の波に飲み込まれている、という見方は、現代のテクノロジーと社会の関係を冷徹に捉えた正しい現状認識だと言えるそうだが、人道主義やリベラル思想は、これからも技術革新から生じる政治経済的な成り行きを、絶えず人類滅亡や国家衰退をもたらすと危機感を煽りながら批判しつつも、一方ではそれを利用し、結果的にはサポートし続けるんじゃないかと思われるが、それらを表裏一体の現象と捉えるとしっくりくるような気がするのだが、その対立を装いながらも結果的に利用しつつ利用されている感覚が、何か疑念を感じさせるのだが、対立を装いながら、結果的には利用し合い、全体としてシステムを肥大化させている、という洞察は、本質的なパラドックスを突いているそうで、単に思想が技術に遅れているというレベルを超えて、両者は偽装対立のような補完関係にあり、私たちはそのお芝居を見せられているのではないか、という疑念を抱かれるのは、極めて自然であり、この対立を装った共生関係は、現代の社会学や思想学、経済学でもいくつかのフレームワークで説明されており、まさに表裏一体の共犯システムと言えて、その疑念がなぜしっくりくるのか、3つの側面から構造を解き明かすと、1つ目の側面は、危機感を煽ることで新たな巨大市場が生まれるマッチポンプの構造で、人道主義やリベラル思想が、技術が人類を滅ぼす、格差が社会を壊す、と叫ぶことは、結果的にテクノロジー企業や国家に、新たな大義名分や市場を与える原動力になっていて、地球温暖化で人類が滅びる、という環境人道主義の叫びは、結果的にEVや巨大な排出権取引市場、クリーンテックという、新たなハイテク産業の利権と爆発的な技術革新を生み出し、リベラルが、AIの偏見や差別が人権を侵害する、と批判すると、テック企業は、AI倫理委員会を立ち上げ、倫理的なAIを検知・開発するシステム、という新たな高付加価値の商品を売り出すかも知れず、つまり、批判が燃料となり、解決策という名の商品が売れるという、見事なマッチポンプ、表裏一体の経済サイクルが成立し、2つ目の側面は、リベラル思想は、技術の暴走をマイルドに長生きさせるサポーターであり、もし、人道主義やリベラル思想による事後ブレーキが一切なかったらどうなるかというと、技術があまりにも急速に社会を破壊し、大暴動や大規模な戦争が起きて、資本主義システムそのものが早々に崩壊・自滅していたはずで、労働者運動が8時間労働や福祉を勝ち取ったことで、労働者は過労死せずに消費者として生き残り、産業革命以降の資本主義は長生きでき、現代も、リベラルな活動が、デジタル・ウェルビーイングやプライバシー保護を訴えることで、人々はテクノロジーに完全に絶望することなく、結果的にITシステムを使い続けさせられていて、つまり、人道主義の批判は、技術革新という暴走特急がクラッシュしないように、適度にメンテナンスし、結果的に長生きさせているサポートシステム・安全弁に過ぎないという側面があり、3つ目の側面は、対立のポーズがもたらす欺瞞と疑念で、なぜここに強い疑念や不気味さを感じるかというと、当事者たちが、私たちは正義のために戦っている、あるいはイノベーションのために戦っている、という顔をしながら、実は同じシステムの上で利益を分け合っているからで、表面上のドラマは、人道主義・リベラルが、テック企業の人道・倫理無視の金儲け優先姿勢を批判し、激しく対立するが、しかし、その実態は、批判によって課題が見つかり、技術がそれを新ビジネスにして肥大化し、結果として、どちらの組織も社会的な地位や予算、権力を維持し続ける、という裏面の共犯関係が成り立ち、したがって、彼らがどれだけ深刻な顔をして、人類滅亡の危機を煽り、それに対して制度改革やイノベーションによる救済を叫んでも、それは一つの巨大な経済・政治システムが自己増殖するための表と裏の表現形式に過ぎない、という見方は極めて正しいと言えて、対立が本質的なものではなく、システムを駆動させるための押したり引いたりのピストン運動のようなもので、この構造に気づいた時、私たちは彼らのプロパガンダに対して、強い不信感と冷めた目を向け、容易には解消し難い疑念を持つことになるそうだ。9月11日「国益の追求と国民の生活」国益という言葉のニュアンスや捉え方は、それを語る人の立場、政治的信念、あるいは置かれた状況によって大きく異なり、国益という言葉は一見すると国家全体の共通の利益という客観的なもののように思えるが、実際にはその中身をどう定義するかは主観的であり、論者によって強調されるポイントが変化して、政治的立場が現実主義の立場では、主に外交や安全保障の専門家、保守的な政治家などがこの立場をとり、彼らにとっての国益とは、国家の生存、主権の維持、軍事・経済的なパワーの拡大で、他国は基本的に潜在的なライバルであり、自国の安全と国境を守ることが最優先で、それが死活的利益というニュアンスが強くなり、それに対して自由主義の立場では、国際協調を重視する政治家や国際法学者、NGOなどがこの立場をとり、彼らにとっての国益は、国際協調、自由貿易、人権、地球規模の課題の解決を含み、他国と協力して安定した国際秩序を作る、ウィン・ウィンの関係を築くことこそが、めぐりめぐって自国の利益になるというニュアンスだが、国内の視点からは、政権・国家指導者の立場では、政権を維持し、国家を統治する側にとっては、国内の治安維持、マクロ経済の安定、政権の正統性が国益として語られ、時には、政権の都合や、選挙対策や批判をかわすために国益という言葉が都合よく使われ、政治的スローガン化することもあるが、それに対して、一般市民や労働者の立場では、市民にとっては、抽象的な国家の力よりも、日々の生活の安定、雇用、社会保障、個人の自由こそが身近な利益で、国家が、例えば巨額の国防費や大企業向けの減税などを実現するために、国益を強調するあまり、市民の生活が犠牲になる場合、市民側からは、それは本当の国益なのか、という疑問が投げかけられるが、また経済的立場からは、国内産業を守りたい立場では、地元の製造業や農業団体、あるいはその地域の政治家は、自国産業の保護と雇用の維持を国益と呼び、関税をかけ、外国の安い製品を排除することが国益に適うと主張するのに対して、グローバル企業の立場では、輸出企業や商社などは、関税の撤廃や規制緩和、自由な市場の拡大を国益と捉えるそうで、さらには時代や状況による変化もあり、平時では、経済成長や文化的な影響力、環境対策などが国益として議論されるのに対して、有事、戦争やパンデミック時では、経済や人権の優先順位は下がり、国民の生命と領土の防衛、という狭く、切迫したニュアンスに一本化されやすくなり、このように、国益は万人に共通の絶対的な正解があるわけではなく、誰にとってのどのような利益か、によって言葉の持つ意味合い・ニュアンスが真逆に変わる、非常に政治的で流動的な概念だそうだが、実際に国益を優先することが、国益を優先すると主張する政治家にとって意図しない結果をもたらすとしたら、やはりそれは国益を優先した結果としてもたらされる国の衰退を意味するか、しかもそれが国民にとっては思いがけず良い結果をもたらすとしたら、歴史的あるいは経済的にどういうことになるかというと、政治家が国益の優先を掲げて行なった政策が、皮肉にも逆に国家としては衰退、国力の低下を招いたいのに、なぜか国民・市民の生活や幸福度はむしろ向上する、というパラドックスは、歴史や経済学において非常に興味深く、かつ実際に観察される現象だそうで、この現象は、歴史的・経済的に見ると、国家の見栄や拡大、大国志向と国民の実質的な豊かさの乖離、あるいは、持続不可能なシステムのソフトランディング・軟着陸として説明でき、具体的にどういうことなのか、歴史と経済の2つの視点から紐解くと、1つ目は、歴史的視点から、大国病からの解放と身の丈の幸福という視点で、歴史上、政治家が、国家の威信や領土の拡大、軍事力の強化を国益と信じて突き進んだ結果、国家としては衰退したものの、国民はむしろ平和で豊かな生活を手に入れた例、あるいは逆の例は多々あり、かつて世界中に植民地を持っていた大英帝国やオランダは、第二次世界大戦後、植民地を維持することが国益であると考え、維持しようと必死にもがいたが、しかし結果として植民地を失い、世界的な軍事・政治的影響力という意味では衰退したが、しかし、膨大な軍事費や植民地経営のコストから解放された結果、これらの国は一時的には国内の社会保障や教育に予算を投資できるようになり、国民の生活水準や幸福度は劇的に向上し、大国としての衰退が福祉国家としての成熟をもたらし、政治家が国益として掲げる軍事拡張、中央集権化、対外介入などの目標が、国民にとっては重税、徴兵、自由の制限などの過大な負担になっている場合、その政策が破綻して国家が政治的・軍事的に後退することは、国民にとっては重荷からの解放という思いがけない恩恵をもたらし、2つ目は、経済的な視点から、過度な保護やバブルの是正という視点で、経済政策において、政治家が、自国の産業や通貨価値を守ることを、国益として行なった強硬な政策が裏目に出て、経済規模は縮小するものの、国民の生活の質が上がるケースが考えられ、保護主義の失敗がもたらす消費者の利益という観点で、政治家が農業や製造業などの国内産業を守ることが国益だとして、外国製品に高い関税をかけたり参入を規制したりすることがあると、それが逆効果となって失敗し、市場が強制的に解放されて、国家が守ろうとした産業が衰退した場合、国家の特定のセクターが打撃を受けるが、消費者としての国民にとっては、安くて質の良い外国製品やサービスが手に入るようになり、生活が豊かになるという結果を生み、また成長至上主義・GDP信仰からの脱却という観点で、政治家にとって、GDPの拡大=国益だが、国民にとっては適度な労働時間、豊かな余暇、良好な環境が利益で、国家が経済成長の競争から一歩退くことで、潜在成長率が下がる=経済的な衰退が進行するが、結果的に過労死や過度な競争が減り、持続可能でゆとりのある社会が実現することもあり、現在の北欧諸国のような、小さいが、豊かな国への移行が実現する場合もあり、歴史的・経済的にこれが意味することとして、この現象が私たちに教えてくれるのは、以下の3つの本質で、1つ目は、国家と国民は同一ではなく、主体の乖離で、政治家が語る国益の多くは、国家という枠組みの維持、拡大に基づいて、軍事力、GDP、国際的発言力などを増強しようとするのに対して、国民の利益は、枠組みの中での個人の生の実感、安全、健康、自由であり、枠組みを大きくしようとして無理をすれば、中身となる国民が疲弊し、枠組みを適正なサイズに縮小させれば、中身が生き生きするという反比例の関係が成り立つことがあり、2つ目は、大国から幸福な小国・中堅国へのソフトランディングで、国家としての衰退は、必ずしも悲惨な破滅・ハードランディングを意味せず、過剰な大国志向を諦め、身の丈に合った持続可能な社会へ移行するプロセスにおいて、国民がその恩恵を最も受けることがあり、3つ目は、政治家の意図せぬ結果がもたらす歴史の皮肉で、政治家が国力を最大化しようとして空回りし、結果として国力が落ちたことで、図らずも国民が最も望んでいた平穏な暮らしが達成されるというのは、歴史の自己修正機能、あるいは大いなる皮肉と言えて、この国家の衰退と国民の幸福というテーマは、現代の先進国、特に人口減少や経済の成熟に直面する国々が今後の国益をどう定義すべきかを考える上でも、非常に重要な示唆を含んでいるそうだが、例えばトランプ、プーチン、習近平などが、国益を追求するあまり、追求すればするほど、結果的には国力をすり減らしているように見える現象を、どう説明すれば合点がいくかというと、現在のアメリカ、ロシア、中国の指導者たちが、それぞれ自国の利益・国益を強硬に追求しているにもかかわらず、客観的には国家の長期的・実質的な力をすり減らしている、あるいは相互に消耗し合っているように見える現象は、まさに現代の国際政治・経済における最大の逆説の一つだそうで、この現象を無理なく合理的に説明するためには、4つの視点・メカニズムで捉えると合点が行きやすくなるそうだが、1つ目は、20世紀型の国益の定義と21世紀の現実のミスマッチで、彼らが追求している国益のイメージは、19〜20世紀型の自国が勝てば他国が負けるというゼロサム・ゲームの論理に基づいていて、領土の拡大、軍事的な威嚇、関税による自国産業の囲い込みなどだが、しかし、21世紀の地球規模の現実、サプライチェーン、金融、気候変動などは、完全に情報と経済が複雑に絡み合うシステムであり、相手を叩くために放った制裁や関税という武器が、グローバル化した経済を通じて、めぐりめぐって自国の物価高騰、通貨の信用低下、サプライチェーンの断絶となって、自国にブーメランのように突き刺さり、国力を内側から消耗させ、2つ目は、短期的な政権維持・政治的利益と長期的国家利益のすり替えで、政治家にとって、最も切実な利益は、自らの権力基盤の維持、または次の選挙での勝利であり、外国に対して強硬な態度を取り、ナショナリズムを煽ることは、国内の支持率を短期的に急騰させる麻薬のような効果がある一方で、国際的な孤立、優秀な人材や資本の海外のや流出、技術革新の停滞といった本当の国力の低下は、数年から十数年かけてゆっくりと進行するため、現在の政権がその責任を取る必要がなく、つまり、政権の延命という目先の利益のために、国家の未来を前借りして消費している状態で、3つ目は、自国の安全・国益を高めようとして軍備や影響力を拡大すると、他国がそれを脅威と感じて対抗措置を取り、結果として自国が以前よりも不安定で危険な状況に追い込まれるという現象を、国際政治学で安全保障のジレンマと呼ぶが、3人の指導者が同時に自国第一を叫んで力を誇示し合うため、世界中で軍拡競争や制裁合戦が激化していて、結果として、どの国も莫大なコストを支払っているのに、どの国も以前より安全になっていない、むしろ国力が消耗しているという最悪の均衡が生まれていて、4つ目は、意思決定の内向き化とフィードバック機能の麻痺で、強権的な指導者、あるいは身内で周囲を固める指導者のもとでは、その政策は長期的に国益を損なう、という不都合な真実や忠告が指導者に届かなくなり、政策の失敗を外国の陰謀や国内の裏切り者のせいにすることで、さらに強硬な=さらに国力をすり減らす政策へと突き進むという悪循環陥り、客観的なブレーキが利かなくなって、国力の浪費が止まらず、歴史的なアナロジーでこの現象を見ると、この現象は帝国の過剰拡張の現代版と言えるそうで、かつてのローマ帝国や大英帝国も、自国の利益と安全のために版図を広げ、敵を叩き続けたが、ある一線を超えた瞬間に、軍事費、監視費用、他国からの反発など、その体制を維持するためのコストが、そこから得られる利益を上回って、内側から崩壊・衰退していき、現代の3人の指導者は、物理的な領土だけでなく、経済、技術、情報の覇権をめぐって、この過剰拡張・コストが利益を上回る状態を同時に、かつ自発的に引き起こしている、と説明できるそうだが、トランプ氏の関税、保護主義、プーチン氏の軍事介入、領土執着、習近平氏の国家統制、安全保障第一は、いずれも国内向けの強いリーダー像を作るのには成功しているが、国家の持続可能性という点では、セルフ経済制裁や終わりのない消耗戦になっている側面が否めないそうだ。9月10日「PFAS汚染と米軍基地」そうならざるを得ない事情を踏まえた上で、それを批判に転化するのも、ある意味で当然の成り行きで、伝え方次第でどうとでも言えるようなことなんじゃないかと思われるが、あまり批判色を強めないで淡々と語るなら、東京都多摩地域の横田基地周辺と沖縄県における有機フッ素化合物・PFAS汚染は、いずれも米軍基地の泡消火剤などが主な原因と疑われている点は共通しているが、行政や自治体の対応、および情報公開や住民運動の経緯に違いが見られ、主な違いは、自治体の調査と情報公開の範囲で、沖縄県では、嘉手納基地や普天間飛行場などの周辺で早期から河川や湧水を調査し、高濃度検出のデータを詳細に公表して、さらに全41市町村で土壌調査を行うなど、全県的な広がりを調べ、また、対策費用の増加に伴う水道料金への影響なども表面化している一方で、横田基地周辺では、地下水や井戸水の汚染が判明し、取水停止などの対応が取られたが、都は水道水の安全性に問題はないとの立場をとり、住民側から求められている詳細な井戸の調査や独自の水源・血中濃度調査などには慎重な姿勢が見られ、基地への立ち入り調査の状況は、沖縄県では、県が米軍基地への立ち入り調査を繰り返し申請してきたが、日米地位協定の壁に阻まれ、大半が拒否または困難とされて、一部例外を除き、直後の原因特定や内部調査は制限されていて、横田基地周辺では、2024年に基地内の貯水池等からPFASを含む汚染水の流出・放出問題が表面化するなど、日米間で協議や情報共有が行われるケースはあるものの、根本的な汚染源の特定や自由な立ち入りは同様に困難な状況にあり、住民運動と社会的な広がりは、沖縄では、基地負担の構造的問題と結びつき、住民の血中濃度検査や自治体・市民団体による強い抗議・要求運動が組織的に行われてきて、多摩地域でも、多摩地域のPFAS汚染を明らかにする会などの市民団体が独自に住民の血液検査や東京都や国への要請を行なっており、近年になって首都圏全体の深刻な問題として注目度が高まっているそうだが、沖縄知事選挙においてPFAS汚染問題を争点化する動きについては、住民の健康や生活環境への直結性を重視する立場と、安全保障や日米地位協定などの国政と地方政治の役割の切り分けを重視する立場の間で、妥当性をめぐる議論があり、争点化を妥当・必要とする立場からは、住民の生命・健康の保護を優先すべきで、水道水や地下水の汚染は、党派を超えて住民の健康に直結する重大な生活課題・命の問題であり、地域の首長を選ぶ選挙で議論されるのは当然で、対米・対国への交渉力を担保する上で、自治体のトップが選挙を通じて民意を得ることで、日米地位協定の改定や基地内への立ち入り調査を国や米軍に強く求める後ろ盾になり、自治体独自に対策費を精査し、水道水の浄化にかかる多額の費用や、全県的な土壌調査の実施など、県費の使い道や自治体としての対応方針を決める重要な局面であるため、選挙で方針を問うべきだという意見があるそうだが、その一方で争点化に慎重な意見や疑問を呈する立場からは、地方自治体の権限には限界があり、汚染源とされるのは米軍基地内で、外交や安全保障、日米地位協定の交渉は国の専権事項であるから、県の権限だけでは根本的な解決が難しいため、知事選の主要な争点に据えるのは現実的ではなく、政争の具となることで、住民の健康や環境問題という科学的・実務的に解決すべき課題が、選挙の政治的な対立や反基地運動などの特定の政治主張に利用され、純粋な安全対策が遅れるのではないかという懸念もあり、それよりは経済や振興策へ注力すべきで、県政には経済振興、観光業の発展、貧困問題、子育て支援など、自治体が直接権限を持つ山積した課題があり、基地や環境問題に議論が偏るべきではないという意見もあるが、米軍基地の他に似たような事例があるかというと、大手の化学・空調メーカーであるダイキン工業の工場周辺でも、深刻なPFAS汚染が大きな社会問題になっていて、米軍基地の泡消火剤に由来する汚染とは異なり、こちらはフッ素化学製品を製造・使用する民間工場に起因する国内最大級の製造業由来の汚染事案として注目されていて、汚染源は大阪府摂津市にあるダイキン工業の主要拠点の淀川製作所で、ダイキンはかつて世界的なフッ素化学メーカーとして、PFASの一種であるPFOAを製造・使用していて、環境省が2019年に実施した全国の環境調査において、淀川製作所の井戸から全国で最も高い濃度のPFOAが検出され、深刻な地下水・土壌汚染が明るみに出て、汚染は周辺の水路や河川を通じて、隣接する大阪市東淀川区など広範囲に広がっていたことが分かっていて、ダイキン工業は国際的な規制動向に先立ち、2012年までに国内でのPFOA製造・使用を終了し、2015年にはグローバルでも全廃しているが、PFASは永遠の化学物質と呼ばれるほど環境中で分解されにくいため、過去数十年にわたり排出された物質が今なお土壌や地下水に残留し続け、基地由来の汚染とは異なり、原因企業が明確であることから、法的・組織的な住民運動へと発展していて、市民団体や研究者が中心となって、工場周辺の住民の血液検査を行なったところ、多くの住民から米国やドイツの健康リスク基準値を超える高濃度のPFOAが検出され、地域に不安が広がり、2025年12月、地元住民ら約八百人がダイキン工業を相手どり、大阪府公害審査委員会に公害調停を申請し、その後の参加者は増え続け、申立人は千百人を超え、企業を相手にしたPFAS関連の公害調停は全国初の事例であり、2026年7月には第1回の調停が開かれて、住民側は、汚染に関する社内資料の開示、継続的な環境・住民の健康調査、被害補償や汚染対策を協議する枠組みの設置を求めていて、一方のダイキン側は、自社が汚染の原因の一つであることは認め、450億円超を投じて敷地外への流出を防ぐ遮水壁の設置や地下水の浄化対策を進めているが、具体的な排出量の詳細を公表していないことや、住民側への法的責任は否定していることから、地域住民との間で対立や不信感が解消されていないそうだが、日本以外の他の海外の米軍基地やアメリカ本国の米軍基地では問題となった事例があるかというと、米軍基地におけるPFAS汚染は日本だけの問題ではなく、アメリカ本土やハワイ、グアムなどの海外領土を含め、世界各地の米軍基地で極めて深刻な問題となっているそうで、米国国防省の調査や環境団体のデータによると、全米で七百箇所以上の米軍関連施設で汚染が確認または疑われており、数多くの訴訟や大規模な環境調査に発展していて、その中でも、ハワイにおける汚染事例では、主要な米軍基地が集まるオアフ島を中心に深刻なPFAS汚染が確認されていて、真珠湾のヒッカム統合基地では、2022年に約4千9百リットルの泡消火剤が誤放出される事故が発生し、これにより周辺の地下水から連邦基準を超えるPFASが検出され、地域住民や軍人の家族の健康への影響が現在でも注視されていて、またハワイ陸軍国民警衛隊などの施設や周辺の基地でも、過去の消火訓練により、地下水が汚染されていることが判明し、周辺の民間井戸や伝統的なタロ芋畑、養魚地への影響を調べるため、軍による周辺地域の水質検査が急ピッチで進められていて、またグアム島における汚染事例では、島民の貴重な水源である北部グアムレンズ地下水槽が、米軍基地由来のPFASによって脅威にさらされていて、アンダーセン空軍基地とグアム海軍基地のいずれの基地でも過去数十年にわたる泡消火剤の使用により、基地周辺や内部の複数の給水井戸から基準を超える高濃度のPFASが検出され、2020年以降、汚染により一部の軍用・民間の給水井戸が閉鎖に追い込まれ、グアム水道局の調査では、環境保護庁の厳しい新基準に対応するため、30箇所以上の井戸で高額なPFAS除去フィルターの設置が必要になると試算されており、島民への健康被害や経済的負担が大きな社会問題となっていて、地元の環境団体などが米軍の環境汚染に対して法的措置をとるなどの運動を強め、さらにアメリカ本土では、より桁違いの超高濃度汚染が報告されていて、退役軍人やその家族、基地周辺の住民が、汚染された水を飲んだことで、癌や甲状腺疾患を発症したとして、国や泡消火剤メーカーを相手取って大規模な集団訴訟が多数起きているそうで、アメリカでは、連邦環境保護庁や各州の環境当局、あるいは米軍自身、国防総省が直接法的責任や調査義務を負うため、情報公開や汚染源の特定、汚染マップの作成、および被害者への補償手続き、軍の専用プログラムなどが日本よりも進みやすい仕組みになっている一方で、日本の場合は、基地の管理権が米軍にあるため、日本の国内法や環境基準を直接強制できず、調査の不透明さが際立つ原因となっているそうだが、1970年代の人気海外ドラマ『警部マクロード』には、登場人物たちが消火剤の泡でまみれる有名なエピソードがあり、第1シーズン・第4話、日本放送時の第3話で、作中では、空港の格納庫やビル内で、天井から大量の白い消火泡が容赦なく降り注ぐシーンが描かれ、ニューヨーク市警の面々、そして犯人までも頭から全身真っ白な泡だらけになりながら格闘するコミカルな演出がなされたが、やはりあの消火剤がPFAS汚染で問題となったものなら、その後俳優たちが癌が原因で死去したりしたかというと、実際にマクロード警部を演じたデニス・ウェーバーは、2006年に前立腺癌の合併症により81歳で死去したそうで、撮影時の消火剤への1回限りの接触が直接の死因になったかという点については、科学的な因果関係は立証できないが、当時使用されていた泡消火剤には高濃度のPFASが含まれていたことは事実のようで、マクロード役のデニス・ウェーバーは、晩年は癌との闘病の末に亡くなったが、彼は1970年代からハリウッド屈指の熱心な環境活動家としても知られていて、非営利団体を立ち上げ、地球環境の保護や化学物質の規制などを訴え続けて、彼自身も撮影現場や実社会における化学物質のリスクに早くから危機感を持っていた一人だったが、癌のリスクという点ではドラマの撮影で短時間だけ泡を浴びた俳優よりも、日常的に訓練や火災現場でその泡を浴び続け、防護服に染み込んだPFASに触れ続けていた本物の消防士たちの被害が現在アメリカで深刻な社会問題となっているそうで、米国疾病予防センターなどの調査でも当時の消火剤やギアに含まれるPFASが原因で、消防士の癌発生率や癌による死亡率は一般人より有意に高いことが確認されており、全米で大規模な集団訴訟が多発しているそうだ。9月9日「こんがらがった国際情勢」近年のガザの悲劇として強調される一連の出来事について語る時、結果的に悲惨な境遇に陥ったガザの住民の視点から語ると、リベラル系の人々の琴線に触れる悲劇として語ることができそうだが、ガザにおける対立や衝突を、加害者側と表現される立場のイスラエル側の視点から捉えた場合、彼らの行動、軍事作戦、および政策は、主に国家の自衛、市民の保護、そして安全保障の追求という文脈から語られ、その主な論点や視点は、国家の自衛権と市民の保護という視点から、テロ攻撃への対抗として、2023年10月7日にハマスが敢行した大規模な奇襲攻撃、民間人の虐殺、誘拐などが、イスラエル社会に深刻なトラウマを植え付け、国家として市民の命を守るための自衛権の行使が絶対的な大義名分となっていて、ロケット弾の脅威に対しては、ガザ地区から長年にわたりイスラエルの南部や中部に向けて容赦なく撃ち込まれるロケット弾から、自国市民の日常を守る必要があるという主張が正当化され、人間の盾という論点からもハマスの戦術への批判として、イスラエル軍は、ガザでの民間人の犠牲者が多い理由として、ハマスが学校、病院、モスク、住宅密集地などの民間施設の下に地下トンネルなどの軍事拠点を構えていることを挙げ、民間人の被害が多いことを責任転嫁する論理として、民間人を人間の盾として利用しているのはハマス側であり、イスラエル軍は事前に退避勧告を出すなどして、国際人道法を遵守するために被害を最小限に抑える努力をしているという立場を取り、ハマスの壊滅と人質奪還という目的から、生存を脅かす存在を排除するために、イスラエルの存在権利そのものを否定し、憲章にイスラエルの破壊を掲げるハマスがガザを統治し続ける限り、イスラエルに平和は訪れないという認識を堅持し、人質解放を最優先する観点からも、連れ去られた自国市民や外国人の人質を救出するためには、強力な軍事圧力をかけ続ける以外に選択肢がない、と考えられていたが、すでに昨年10月に人質の生存者が全員解放されたらしく、この論理は過去のものとなったが、歴史的なトラウマと孤立感という視点から、絶えず持ち出されるホロコーストの記憶として、ユダヤ人社会には、歴史的な迫害やホロコーストの記憶が深く根ざしていて、自分たちの身は自分たちで守らなければ誰も守ってくれないという強い生存本能が、過度に強硬な軍事行動の背景にあり、また国際社会への不信として、国連や国際世論が、ハマスによるテロ行為や民間人への攻撃を十分に非難せず、イスラエルの反撃ばかりを問題視している、という不満や不公平感を持っているそうで、このように、批判的な文脈で加害者とされる側にも、彼ら自身の論理、恐怖、そして正当化の根拠が存在しているそうだが、人は自身の行為を正当化する時、常に部分的で都合の良い点を強調する傾向があるだろうが、そこから盲点となっている都合の悪い事情や経緯を導き出せるかというと、加害者側と表現される立場のイスラエル側の、自衛、ハマスの非道、人間の盾などの正当化の論理を裏返した時、そこから浮かび上がる、盲点となっている不都合な事情や歴史的な経緯は、主に以下の4点に集約されるそうで、1つ目の点は、10月7日以前から続く構造的暴力と占領で、ハマスによる悲惨なテロ攻撃が強調される点において、盲点とされる不都合な真実は、天井のない監獄と呼ばれる、ガザ地区に対する15年以上の封鎖や、ヨルダン川西岸地区における不法な入植地拡大、土地の強制接収という、日常的で構造的な暴力で、10月7日の悲劇は歴史の始まりではなく、それ以前から続く数十年にわたる戦火と抑圧の延長上に生じた文脈が、自衛の論理では意図的に排除されがちで、2つ目の点は、人間の盾論の裏にある国際法違反と均衡性の失当で、ハマスが民間施設を盾にしているため、民間人の犠牲は不可避であるという主張において、盲点とされる不都合な事実は、国際人道法における均衡性の原則の無視で、たとえ敵が民間人を盾にしていたとしても、一人の戦闘員を殺害するために数十から数百人の民間人を巻き添えにすることは正当化されず、またガザ全地域への水や食料や燃料の遮断などの完全封鎖や無差別とも言える空爆は、民間人に対する集団罰で、国際法違反にあたる、という批判から目を背けていて、3つ目の点は、ハマスを台頭・温存させた分割統治政策で、ハマスは壊滅させるべき絶対悪であるという主張において、盲点とされる不都合な真実は、ネタニヤフ政権をはじめとする歴代のイスラエル右派政権が、パレスチナ国家樹立を阻止し、二国家解決を無効化するために、あえてハマスを温存・利用していたという歴史的経緯で、世俗派のパレスチナ自治政府PLOを弱体化させるため、ガザを実効支配するハマスへのカタールからの支援金などの資金流入を黙認・奨励していた時期があり、自らが育てた、あるいは利用していた怪物の暴走という内政上の大失態が隠蔽されていて、4つ目の点は、圧倒的な非対称性と安全保障の矛盾で、今回の作戦が国家の存亡をかけた自衛の戦いであるという認識において、盲点とされる不都合な事実は、両者の間にある圧倒的な力の非対称性で、核保有国とされ、強大な軍事力とアメリカからの莫大な軍事支援を受けるイスラエルと、主権を持たない被占領民との戦いであり、対等な国家間の戦争ではなく、また、軍事力による過度な抑圧が、さらなる過激主義を生み出すという因果関係を認めず、武力の行使こそが唯一の解決策であると強弁する点も、論理的盲点となっているそうで、このように、一方の論理が強調する自衛や被害の裏には、自らが長年築いてきた占領の継続、抑圧の構造、政策的失敗という、極めて不都合な経緯が盲点として隠されているそうだが、そんな彼らを取り巻く国際情勢として、対立を激化させる方が都合が良い事情や経緯があったか、それとも双方ともに否応なく対立を激化せざるを得なかったのかというと、対立を激化させる方が都合が良いという主体的な動機や計算となる地政学的・内政的利害と、構造的に激化させざるを得なかったという客観的罠となる安全保障のジレンマの両方が、複雑に絡み合っているそうで、対立を激化させる方が都合が良かった事情と、その動機と計算として挙げられる要因は、近年のガザを巡る最大の大激震の直前、中東の国際秩序が劇的に変化しようとしていて、その変化が、双方にとって衝突を急ぐ理由を生み、ハマス側はパレスチナ問題の風化を阻止する目的があり、当時、アメリカの仲介によってイスラエルとサウジアラビアの国交正常化の交渉が最終段階にあり、アラブの盟主であるサウジアラビアがイスラエルと手を結べば、パレスチナの存在そのものが国際社会から完全に置き去りにされる、風化するという強い危機感がハマスにあり、対立を激化させることで、この和平交渉を力づくで頓挫させ、パレスチナ問題を中東の最優先課題に引き戻す必要があったそうだが、イランの思惑は、反イスラエル包囲網の維持で、中東でイスラエルと対立するイランおよび抵抗の枢軸と呼ばれる武装ネットワークにとっても、サウジとイスラエルの接近は最悪のシナリオであって、ハマスが戦果を開き、イスラエルが猛烈な報復を行うことで、アラブ諸国の世論はイスラエル非難に傾き、新米アラブ諸国とイスラエルの同盟関係を分断できるという地政学的なメリットがあったそうだが、イスラエルの右派政権は、内政の危機打開と現状維持の破壊を目指し、イスラエルのネタニヤフ政権は当時、司法改革を巡る国内の激しい分断と大規模なデモに直面し、政権発足以来最大の危機にあり、強力な敵・ハマスとの戦争状態は、国内の結束を強制的に促し、政権批判を抑え込む内政上の求心力となり、また、政権内の極右勢力にとっては、この機に乗じてパレスチナ国家樹立の可能性を永久に葬り去って、ヨルダン川西岸やガザへの支配力を強める好機でもあったが、その一方で、否応なく対立を激化せざるを得なかった事情、安全保障上のジレンマもあり、いったん事態が動いて、ある一線を超えた後は、双方のシステムや過去の経緯から、ブレーキを踏むことが不可能な自動エスカレーションの罠に陥り、イスラエルは国家の抑止力という生命線の観点から、中東という敵対的な環境において、イスラエルが生存するための絶対条件は、手を出せば圧倒的な軍事抑止力によって手痛い報復を受けると思わせることで、10月7日の奇襲によってその抑止力が根本から崩壊したため、ハマスを完膚なきまでに叩きのめさなければ、周辺のヒズボラやイランからナメられ、国が滅ぶという防衛上の強迫観念・生存本能が生じ、したがって、国際社会からの批判を浴びてでも、過剰なまでの武力行使を止められない構造があるそうで、それに対してハマスの方でも、生存領域の閉塞と不服従の観点から、ガザ地区は長年の封鎖により経済もインフラも崩壊し、ただ生きているだけで緩慢に死に向かっている、と評される絶望的な状況にあり、ハマスにとって、現状維持となる封鎖された平和は敗北と同義であり、現状を打破するには定期的にイスラエルと衝突し、国際社会の関心を引くか、人質との交換など、イスラエルに譲歩を迫るしか手段が残されていないという構造的な追い詰められ方をしていて、国際情勢の文脈から言えば、サウジ・イスラエルの国交正常化という歴史的再編を巡る、ハマス・イラン側とイスラエル側の利害の衝突が引き金となり、そこに対立を激化させる明確な動機・政治的都合があったと言えるが、いざ戦火が上がってしまえば、双方が抱える、ホロコーストの記憶と、度重なる難民化と占領の記憶、という歴史的トラウマと、後に引けば自らの存在が消滅するという安全保障上の恐怖が勝り、お互いにエスカレーションの坂を転がり落ちる以外に選択肢がなくなり、否応なく激化せざるを得ない状態へ突入していったというのが、この悲劇の残酷な実態であるが、その一方で、近隣のウクライナ危機との連動性を考えてみると、ウクライナ危機とガザの衝突の間には、国際政治の構造、地政学的利害、そして資源や世論の奪い合いという面で極めて強い連動性・相互影響があり、ウクライナ侵攻を続けるロシアにとって、2023年秋に勃発したガザの衝突は、自国への国際的な圧力を分散させる上で最大の神風となり、アメリカをはじめとする西側諸国の軍事・財政支援のキャパシティには限界があり、ガザで戦火が拡大したことで、アメリカの弾薬や防衛予算、外交的なリソースがイスラエル支援へと割かれ、ウクライナへの支援が停滞・減少する直接的な原因となり、同時にロシアやグローバルサウスの新興・途上国などは、アメリカを激しく批判する材料を得て、ロシアがウクライナの民間人を殺害するのは非難するのに、イスラエルによるガザの民間人の大量殺害を容認・支援するのは明らかな二重基準だ、という論理を展開することで、欧米の道徳的優位性を失墜させ、ウクライナ支援の国際包囲網を切り崩すことに成功し、またウクライナとガザは、兵器と技術の物々交換のネットワークで完全に繋がっていて、ガザのハマスやレバノンのヒズボラを長年支援してきたイランは、同時にロシアへ大量の自爆ドローンや弾道ミサイルを供給し、ウクライナ侵攻を支えていて、ロシアはイランからの兵器供給の見返りとして、イランの防衛体制の構築、戦闘機や防空システムの供与や、中東における反米・反イスラエル勢力への外交的後ろ盾となっていて、このように、ウクライナでロシアを支えるイランが、ガザの背後でもキーパーソンとなっているという地政学的な直結構造があって、アメリカにとっては、これら2つの危機に同時に対応せざるを得なくなったとことが最大の誤算であり、防衛上の罠、安全保障のジレンマとなっていて、アメリカは本来、中国への対抗として東アジアに戦略の軸足を移そうとしていたが、ウクライナに続き、中東でも大火が上がったことで、欧州、中東、東アジアの三正面を同時に警戒せざるを得ない致命的な過負荷に陥っていて、内部事情となる、ユダヤ系ロビーやキリスト教福音派の支持、イスラエルとの同盟関係などから、ガザでどれほど国際世論が批判的になろうともイスラエルへの軍事支援を止めることは政治的に不可能で、この否応ない事情が、ロシアを利する結果を自動的に生み出していて、ウクライナ危機の際、西側諸国は国際法と主権の尊重を大義名分に、世界中のロシア制裁への参加を呼びかけたが、しかし、ガザの惨状とそれを黙認するアメリカの姿勢を見た世界の多くの途上国、グローバルサウスは、結局、欧米ルールは自分たちの都合の良い時にしか適用されない、と冷めてしまい、ウクライナ支持からさらに距離を置くようになり、結果として、ウクライナを国際社会全体で支えるという枠組みが崩壊する一員となっていて、このように、ガザの悲劇が激化し長期化することは、ウクライナ戦線を維持したいロシアや、欧米主導の国際秩序を突き崩したいイラン等の国々にとって極めて好都合であり、彼らはこの2つの危機を相互に連動させ、利用し合っているのが冷徹な国際政治の現実であるが、さらには地政学的にそれらのどちらからも近そうなトルコの事情を含めると、シリアやクルド人問題まで含まれてしまうが、その辺で絡み合いそうな経緯があるのかというと、トルコはまさにウクライナ、ガザ、シリア、クルド人問題という4つの危機の地理的・政治的中心に位置しており、それらは独立した点ではなく、トルコの国家生存戦略を通じて複雑に絡み合っていて、ここには単なる偶然ではなく、一方の危機を利用して、もう一方の危機をコントロールする、という極めて冷徹な事情と経緯の連動性があり、主に4つの軸でそれらは直結していて、1つ目の軸は、ウクライナ危機を切り札に、シリア・クルド問題で欧米を動かそうとしていて、トルコにとっての最大の安全保障上の脅威は、南のシリア国境沿いで自治拡大を目指すクルド人勢力で、トルコはNATO加盟国でありながら、ロシアとも深い関係を維持する独自の第三極として振る舞っていて、ウクライナ危機勃発以降、欧米、特にアメリカにとって、ロシアへの対抗上、トルコを西側陣営に繋ぎ止めておくことの重要性が跳ね上がって、トルコはこの立場を最大限に利用し、北欧のNATO加盟を承認する条件や、ウクライナへのドローン供与の裏で、欧米に対してシリア北部におけるトルコのクルド人掃討作戦を黙認させる、あるいはクルド勢力へのアメリカの軍事支援を打ち切らせる、というディールを展開してきたが、ウクライナの危機が深まるほど、トルコは自国のクルド問題を有利に進める外交カードを手に入れたことになり、2つ目の軸は、シリア新体制の誕生と、クルド・イスラエル双方への圧力で、中東情勢は2024年末のシリアのアサド政権の崩壊により地殻変動を起こし、アサド後のシリア新政権に対し、トルコは強い影響力を有していて、2026年現在、これまでアメリカの後押しで過激派組織と戦ってきたクルド主導のシリア民主軍は解体され、シリア国軍への統合が進められていて、これはトルコにとっては、長年の宿敵である国境沿いのクルド独立領域を消滅させるという最大の悲願の達成を意味し、これに焦ったのがイスラエルで、イスラエルはトルコがシリア新政権への影響力を強め、ガザのパレスチナ問題と連動して、シリアの地からイスラエルを包囲・孤立させることを極めて強く警戒していて、実際に、イスラエル軍がシリアの航空基地を空爆して、トルコの軍事プレゼンス拡大を牽制するなど、シリアを舞台にしたトルコとイスラエルの新たな緊張がガザの裏側で激化しているが、3つ目の軸は、ガザでの正義の味方と、国内でのクルド抑圧の二重基準で、トルコのエルドアン大統領は、ガザの悲劇に対してイスラエルをテロ国家と激しく非難し、イランに代わる、ハマスを含むパレスチナ人の新たな擁護者として国際社会で振る舞っているが、しかしこの姿勢は国際社会から、もう一つの二重基準として冷ややかに見られていて、イスラエルによるガザの民間人を巻き添えにした空爆を激しく批判する一方で、トルコ自身もシリア北部やイラク北部のクルド人居住区に対して、テロ対策の名目で日常的に空爆や越境軍事作戦を行い、インフラを破壊していて、ガザの悲劇を声高に非難することで、トルコは、イスラム世界やグローバルサウスでのリーダーシップを握ろうとしているが、その裏では、自国のテロとの戦い、クルド制圧を正当化するためのカモフラージュ、世論誘導としてガザを利用している側面は否めず、4つ目の軸は、2026現在の地殻変動で、内政のためのクルド和平とガザとの絡み合いで、近年、トルコ国内では数十年ぶりにクルド労働者党の武装解除や政治的対話を促すクルド和平プロセスという驚くべき内政の動きが進んでいて、これもまた、危機と連動しているそうで、ガザでの戦争やウクライナ情勢によって中東・欧州の秩序が激変する中、エルドアン政権は、国内のクルド問題に国力を割かれている場合ではない、という現実に直面して、国内のクルド人と和解し、さらにはシリア新政権とも関係を正常化することで、トルコはガザの停戦監視や戦後復興の保証人として、大手を振って中東の主導権を握るための足場を固めようとしており、トルコにとってウクライナは、欧米を脅す、あるいは仲介するためのレバレッジであり、ガザは、国際的なモラルと影響力を獲得するための大義名分であり、そして外交パワーのすべてを、自国の生命線であるシリアの安定とクルド人勢力の無力化という冷徹な実利に注ぎ込んでいて、東欧と中東の悲劇のすべてが、トルコという地政学的なハブの利害を通じて、パズルのピースのようにカチリと噛み合っているのが現状なのだそうだ。9月8日「他人の非を追及する者につきまとう嫌悪感」他人の非を追及するのと自分の非を認めることのどちらが得か、なんて考える機会があるかというと、たぶん自分の非を認めるのは損だから、他人の非を追及するんだと考えたくなるのかも知れないが、ではどのようなシチュエーションの時にそうなるのかと考えてみると、他人の非を追及することと自分の非を認めることの損得勘定において、多くの人が自分の非を認めるのは損・リスクだから、他人の非を追及する、自己防衛・利益確保という心理に傾くのは、人間の生存本能や社会的立場を守るための自然な反応と言えるそうで、このような心理シフトが特に強く起こりやすいのは、主に以下のような4つのシチュエーション・状況で、1つ目は、責任の所在がゼロサムゲームになっている時で、一方が百%悪くなれば、もう一方は0%になる・免責されるという状況で、例えば職場で重大なミス、自動車の接触事故、金銭的な損失が絡むトラブルなどで、自分の非を認めると、賠償責任、減給、降格、あるいはクビといった具体的な実害・損が確定してしまうリスクがあると、そうならないように、先に相手の落ち度を指摘・追及することで、自分にかかる損害の割合を少しでも減らそうと、またはゼロにしようとし、2つ目は、評価やマウンティングが絡む時で、自分のプライドや、周囲からの信頼・序列を守りたいというシチュエーションで、例えば、社内の出世競争、SNSでの論争、友人グループ内での主導権争いなどで、自分の非を認めることは、周囲に無能さや負けを露呈すること=社会的地位の損失だと感じられ、逆に、他人の非を激しく追及して、相手を悪や無能に仕立て上げることができれば、相対的に自分の正しさや有能さをアピールできる=得をする、という計算が働き、3つ目は、所属する組織が失敗を許さない文化である時で、心理的安全性が低く、一度のミスで致命的なレッテルを貼られる環境にいる状況で、例えば減点方式の評価制度を持つ企業、ルールに過剰に厳しいコミュニティに所属していると、自分の非を認めた時点で、使えない奴と見なされるリスクが高すぎるため、本能的に自己防衛モードに入り、自分が標的・攻撃対象にならないようにするため、別の誰かに標的を移して、他人の非を追及するのが最も手っ取り早い生存戦略になってしまい、4つ目は、感情的なエネルギーの発散・責任転嫁をしたい時で、自分のミスによる不安や罪悪感にメンタルが耐えられない状況で、例えば締め切りに遅れた時や、家庭内での些細な衝突などで、自分が悪かったと認めることは、心理的に非常に大きな痛みを伴い、その不快な感情・認知的不協和から逃れようとし、自分は悪くない、悪いのはあいつだと相手を攻撃・追及することで、心の平穏を保とう=感情的な得を得ようとし、人間が、自分の非を認めず、他人の非を追及するのは、多くの場合、恐怖、損害、孤立、評価の低下から自分を守るための防衛反応であり、逆を言えば、非を認めても、過度に責められず、次の対策を一緒に考えられる環境であれば、人はわざわざ他人を攻撃せず、素直に非を認める方が、長期的な信頼関係という面で得だと判断できるようになるそうだが、世の中には他人の非を追及することだけに特化した職業があり、そんな職業に就いている人や集団を、世の中の人々はどう思うかというと、自分たちの味方だと思うか敵だと思うかは、各々の立場や境遇にもよるだろうが、何が立場や境遇の非対称や力の不均衡を形成しているのかというと、他人の非を追及することに特化した存在としては、検察官、会計監査員、弁護士、規制当局の調査官などの制度的な存在から、非制度的な週刊誌などのジャーナリズム、SNSのインフルエンサーやネット世論まで幅広く存在し、これらを世の中の世論が味方・正義と見るか敵・脅威と見るかは、まさに個人の立場や境遇によって激しく分かれて、評価の分断を生み出し、立場や境遇の非対称や力の不均衡を形成している根本的な要因は、主に以下の3つの構造にあり、1つ目の構造は、強者の監視・抑止力か弱者への暴力・リンチかで、追及の矛先が上に向いているか下に向いているか、という方向性の非対称で、強者を追及する場合は味方・正義に見え、一般市民・弱者にとって、権力者や大企業の不正を追及する特捜検察や文春砲などの存在は、自分たちの代わりに巨悪を叩いてくれる味方に映り、追及者が弱者の盾となることで、力の不均衡を是正する役割を果たすが、一方で、弱者・個人を追及する場合は、敵・脅威に見え、一度ミスした個人や中小企業を、圧倒的なリソースや数の暴力で追い詰める、過激なクレーマー、ネットで叩く匿名の炎上参加者、厳しすぎる監査などは、強者が弱者をいたぶる敵に映り、追及される側や、あるいは明日は我が身と怯える境遇の人にとっては、単なる脅威でしかなく、2つ目の構造は、リソース、知識・資本・時間の非対称性で、非を追及する側と追及される側の間にある、戦うための武器の格差で、追及する側がプロの集団であると、法律、規格、過去の判例、言葉の定義などを熟知しており、チームで時間をかけて詰め口や理論武装を構築していて、追及される側が個人で、しかも現場で仕事に追われる身であると、日々の業務や生活に追われ、専門知識も乏しいため、不意を突かれた攻撃に対して、適切な自己弁護や法的な反論を即座に行う余裕・リソースがなく、この知っている側が知らない側をハメる、という力の不均衡があるため、現場で汗を流す境遇の人々からは、追及特化型集団が、実務を知らないくせに、重箱の隅をつついて悦に入る敵として嫌悪されやすくなり、3つ目の構造は、結果の引き受け手としての非対称性・無責任さであり、非を追及する側がその後の責任を負うか否かという非対称で、役割として、追及する側の特化集団は、間違いを指摘・告発するだけで済むのに対し、追及される側の当事者は、指摘された問題を修正し、業務を回さなければならず、リスクも、追及する側に特化すれば、指摘が間違っていても、実害は少ないのに対し、追及される側は、指摘によって、生活や事業が破綻する危険性があり、またインセンティブの面で、追及する側は、非を見つけるほど、特ダネや手柄などの成果を得られるのに対し、追及される側は、常に無謬性などの完璧さを求められ、加点はなく、この追及する側は綺麗事をノーリスクで言えるが、追及される側は全ての泥をかぶるという構造こそが、最も強烈な力の不均衡と感情的な断絶を生み出し、汗をかいて何かを創る立場の人から見れば、壊すだけの特化集団は敵に見えやすく、逆にそのシステムからこぼれ落ちた不満を持つ人々にとっては、溜飲を下げてくれる味方に見え、立場や力の不均衡を形成しているのは、追及という行為が権力の抑制に使われているか、それとも弱者へのマウンティングや金稼ぎ、PV集めに使われているか、という目的の非対称性で、世の中の人々は、その集団が自分たちの安全を守る防波堤・味方なのか、それともいつか自分を襲うか分からない刃・敵なのかを、自分の持つ権力やリソースの量と照らし合わせながら本能的に嗅ぎ分けていると言えるそうだが、できれば、人の非を追及することだけに特化した職種の人や集団の味方にはなりたくないと思うとしたら、やはり自身がそれらの人や集団に利用されたくないと思うからか、あるいは実際にそれらの人や集団から非を追及されている人や集団の味方になりたいと思うからか、そう思ってしまう人には反権力的な傾向があるからか、あるいは、非を追及されてしまう人や集団が悪いからではなく、社会的な構造から否応なくそういう役割を担わされてしまうことを理解しているような気がしてしまうからなのか、そういうのを判官贔屓というと、ちょっとニュアンスが違うかも知れないが、やはりそれは損得勘定とは違ったことなのかというと、これらの4つの視点を整理しながら、その心理の深層を紐解いてもらうと、1つ目は、損得勘定を超えた生態系の危機感で、自身がそれらの人や集団に利用されたくないと思うからかは、これは単に、自分が直接損をしたくないという利害関係だけでなく、彼らの片棒を担ぎたくないという倫理的な拒絶で、告発、炎上、過度なバッシングなどの他人の非を追及することに加担したり、それを消費したりすることは、巡り巡って、誰もが一度のミスで社会的に抹殺される、息苦しい社会を作ることにつながり、彼らを支持することは、結果的に自分たちの首を絞めるシステムを強化することだ、と、直感的に見抜いているのだと言えて、2つ目は、構造の非対称性に対する正義感で、社会的な構造から否応なくそういう役割を担わされてしまうことを理解しているような気がしてしまうからなのかは、この視点は単なる判官贔屓とは違い、判官贔屓は、弱くて可哀想だから応援するという感情論だが、なぜその人が非を追及される役割に陥ってしまったのか、という社会構造に向いていて、現場の過酷なリソース不足のせいで、ミスをせざるを得なかった人や、ルールの網の目が細かすぎるせいで、たまたま違反者に仕立て上げられた人などの、悪いのはその人の個人の資質ではなく、歪んだシステムや環境のせいだと理解しているからこそ、ルールを盾にノーリスクで叩いてくる追及特化集団に対して、強い違和感と嫌悪感を抱き、3つ目は、生産する者への敬意と消費する者への反発で、実際にそれらの人や集団から非を追及されている人や集団の味方になりたいと思うからかは、世の中には不完全ながらも汗を流して何かを創り出している人・当事者と、安全圏からそれを批評し攻撃する人・追及者がいて、追及する側は、自分では何も生み出さないにもかかわらず、他人の失敗を燃料にして利益や注目、PV、手柄を得ていて、そんな追及者に追及されている側の味方になりたいと思うのは、間違うリスクを背負いながらも生産する人に対する、人間としての本能的な敬意と共感があり、4つ目は、それは反権力的な傾向なのかというと、必ずしも政治的な反権力とは限らず、むしろ、非対称な力に対する警戒心で、追及特化集団は、しばしば正義やルールという絶対的な権力を背景にして殴ってくるが、それに対して抵抗を感じているのは、国家のような分かりやすい権力ではなく、正義の仮面をかぶった集団心理やシステムという名の権力で、これは偏った思想ではなく、極めて健全でバランスの取れた個人の自由と尊厳を守るための防衛本能で、それは目先の損得勘定では全くなく、むしろ人間らしさの防衛で、他人の非を追及する側に回る方が、短期的には安全で、スカッとして得に見える社会の中で、その誘惑に乗らず、構造の理不尽さに目を向け、叩かれている側に寄り添おうとするのは、人間は完璧ではなく、人間社会はグラデーションでできているという寛容さと、構造を見通す知性があるからに他ならないそうだが、今回の沖縄県知事選挙で、反権力ジャーナリズムとやらに加担している人々が期待しているのとは違う結果になったところで、まさか彼らが自分たちの非を認めるなんてあり得ないだろうな、と思ったが、もちろん彼らに非があったから、そういう結果になった、なんて言えるわけでもないのだが、その辺で微妙にそう感じたわけで、その、まさか彼らが自身の非を認めるなんてあり得ないだろう、という直感と、だからといって、彼らに非があったからそんな結果になったと言えるわけでもない、という留保は、社会のパワーバランスや世論形成プロセスにおける本質的な矛盾・ジレンマを的確に捉えているそうだが、この微妙な感覚の背景には、言論や選挙というシステムが持つ2つの構造的な要因が存在するそうで、1つ目の要因は、大義を掲げる側が非を認められない構造で、反権力や社会正義を掲げて他者を追及する主体の多くは、自身の行動を個人の利害ではなく、普遍的な正義や大義に基づいていると定義していて、そこに無謬性の罠があり、彼らにとって、権力の監視など自分たちの主張は絶対的な正論であるため、選挙などで期待とは異なる結果が出たとしても、それは自分たちの主張が間違っていた、非があったとは解釈されず、その代わりに責任の外部化が起こり、多くの場合、期待に反する結果は、権力側による世論誘導や情報操作、有権者の無関心や誤解、といった外部の要因に帰結させられて、正しい情報を伝えたのに伝わらなかったのだから、社会の側、あるいは権力側に問題がある、という論理にスライドするため、自分たちの非を認める、内省するという回路がシステム上、最初から組み込まれておらず、2つ目の要因は、選挙結果と正しさの因果関係の非対称性で、一方で、彼らに非があったからそういう結果になったとも言えない、と直感した通り、選挙の結果がそのまま特定のジャーナリズムや主張の正誤の答え合わせになるわけではないという現実があり、選挙というものは、単一のイデオロギーや、基地問題などの特定の追及テーマだけで決まるわけではなく、有権者は、日々の暮らし、経済的な不安、候補者個人の資質、地域社会の人間関係など、無数の現実的な要因を天秤にかけて1票を投じ、そのため、仮に特定の追及集団のやり方に多くの人が反発した、非があったとしても、それが結果の全てを決定づけたとは証明できず、この因果関係の曖昧さがあるからこそ、追及する側は、我々が拒絶されたわけではなく、別の要因、例えば経済対策への期待などが勝っただけという、ある種の正論のセーフティネットに逃げ込むことができてしまい、このシチュエーションがもたらすモヤモヤした感覚は、どれだけ現実・結果を突きつけられても、安全圏から正義を叫ぶシステムはノーリスクのまま存続し続けるという非対称性から来ていて、一方で生活や地域の未来を直接引き受ける当事者や有権者は選択の成否を常に肌で感じ、失敗のリスクを背負わされるが、その選択を外側から評価・追及する側は、結果がどうであれ、自分たちの大義を傷つけることなく、次の追及へと移動していくことができ、感じられる微妙な感覚は、当事者が背負う現実の重みと、追及者がまとう大義の軽さの間にある、不条理なほどのギャップを感じた結果だと言えるそうだ。9月7日「善人を装う批判者」人が意味もなく善良さを装うなら、それが奇異に感じられるかも知れないが、装っているのではなく、自分は善良なのだとあからさまに主張するわけでもなければ、どう見ても善良とは思えない他人の言動を批判することによって、その他人が善良ではないことを証明できれば、では批判しているその人は善良なのかというと、それとこれとは違うような気がするわけだが、客観的に考えてその人が善良か否かが証明の対象ではないとすれば、では人の善良さとは何なのかというと、その人が他人の不道徳や悪を批判したからといって、その批判者が自動的に善人になるわけではない、という違和感は、客観的に考えて、他人の悪を証明することは、自分の善を証明することにはならないが、では他人の批判を通じて浮き彫りになる、人の善良さ・善性とはいったい何なのかについて、哲学や心理学の視点から紐解いてもらうと、以下のような3つの側面が見えてきて、1つ目の側面は、善とは状態ではなく態度・関係性であり、他人の悪を叩く行為は、しばしば自分は正しい側にいる、という自己正当化の欲求から生まれるが、しかし本当の善良さとは、他者との比較や誰かを悪に仕立て上げる行為の中に存在するものではなく、他者への応答性であり、目の前の苦しんでいる人や、不条理な状況に対して、見返りを求めずどう行動するかに関係してきて、自己への懐疑にも表れ、自分も一歩間違えれば悪になり得る、という弱さを自覚して、踏みとどまろうとする理性の中に善性は宿り、2つ目の側面は、批判が証明しているのは規範であり、人格ではなく、ある人の言動を批判して、その人が善良ではないと証明できたとき、そこで明らかになったのは、社会的な規範やルールの境界線、何がダメなのか、だけであり、批判者は、単に拡声器としてそのルールを代弁したに過ぎず、ルールを他人に適用する批判と、そのルールを自分が体現する善の実践の間には、大きな隔たりがあるが、3つ目の側面は、善良さの定義の変遷で、人の善良さをどう捉えるかは、古くから議論されてきたが、存在論的な善としての善良さの定義は、生まれつき備わっている良心や徳で、誠実さや慈悲など、他人の評価や比較を必要としないが、機能論的な善としての善良さの定義は、社会や他者にとって有益な行動をとることで、結果として誰かを救っているかどうかが判断基準となり、また承認欲求としての善の善良さの定義は、他人を批判することで得られる、コスパの良い手軽な正義感、道徳的優位性で、他人の悪を告発する人は、しばしばこの承認欲求としての善、あるいは偽善に囚われているように見えて、それが客観的な善良さの証明にならないとすれば、本当の善良さとは、誰も見ていないところ、あるいは他者との比較が発生しない地平で、なおも良き実践を選ぼうとする個人の内面的な意思のことになるらしいのだが、沖縄県知事選挙の立候補者の古謝玄太や、国会議員で大臣の小野田紀美がルール違反をしたと訴えている人たちの主張が、そう受け取れるように感じられるとすれば、そこに引っかかるものを感じているのだろうが、批判している人たちを逆批判するわけにもいかないし、彼らが批判されるようなことをやっているわけでもないから、違うとは思うが、何かスッキリしないわけで、そのスッキリしないモヤモヤの正体は、批判している人たちの主張が、論理のすり替えによって、ルール・規範を武器にしながら、実際には人格や政治的立場を叩く道具にしてしまっている点にあると考えられ、沖縄県知事選挙に立候補している古謝玄太氏に対する集会での公職選挙法違反疑惑の指摘や、国会議員で経済安全保障担当大臣の小野田紀美氏に対する、ヤミ選挙事務所の設置疑惑などの批判の構図を例に、なぜそこに引っかかるものがあるのかを整理してもらうと、以下の3つの要因が浮かび上がるそうで、1つ目の要因は、ルールの指摘が党派的な攻撃に変質しているからで、批判している側は、公選法違反や不適切さを正す、という客観的で正しい大義名分を掲げているが、しかしその熱量の背景にあるのは、往々にしてルールを守らせることそのものではなく、その政治家またはその陣営を引きずり下ろしたいという党派的な意図で、違和感の理由は、正論・ルール違反の指摘を言っているはずなのに、言葉の端々から、相手を悪者にしたいという私怨や政治的敵意、そこに認知戦のような側面が透けて見えるため、受け手側は純粋な正義として受け取れず、不協和音を感じて、2つ目の要因は、行為の批判から人格否定への飛躍があるからで、本来政治における批判は、その具体的な行為が適切か否かに止まるべきだが、しかし批判者の多くは、ルール違反をした疑いがあるという一つの事実をもって、だからこの政治家は不誠実だ、悪人だ、という人格否定にまで拡大解釈しがちで、違和感の理由は、他人の悪の証明は自分の善の証明にはならず、批判している側が、私たちは正義の側にいる、という道徳的優位性に浸りながら、過剰に相手の全人格を叩いている姿を目にすると、客観的に見てそれは飛躍しすぎではないか、と批判者を支持したい感情にブレーキがかかり、3つ目の要因は、逆批判も擁護もできない逃げ道のなさで、ルール違反の疑いを指摘すること自体は正当な権利、あるいは法的な告発であるため、批判している人たちを、お前たちが間違っていると逆批判することは論理的にできないが、かといって、疑惑を持たれている政治家側を百%無条件に擁護できるわけでもなく、疑惑に対する説明責任はあるため、思考の行き場がなくなり、違和感の理由は、言っていることには一理あり、逆批判できないが、言っている人の態度や目的には共感できないから、スッキリせず、この論理の正しさと感情・動機の不純さのギャップが、何か引っかかるものとして残っている状態で、このモヤモヤから抜け出すには、批判が証明しているのは規範・ルールであって、批判者の人格ではない、という原則を思い出すことが有効で、批判している人たちは、社会のルールという拡声器を一時的に借りて大声を出しているに過ぎず、彼らがどれだけ正論を言っていようとも、その人たちが善良で、公明正大な正義の味方になったわけではなく、ルール違反の有無という客観的な事実の検証と、それを叩いて快感を得ている、あるいは政治的に利用している批判者の思惑を完全に切り離して眺めてみると、彼らの言うことにも一理あるが、彼らの態度に付き合う必要はない、と、少し冷ややかに状況を整理できるようになるかも知れないそうだが、今回の件でマイブーム的に、菅野完というジャーナリストもどきの人がユーチューブで執拗に批判している動画を見ながら、その人が日頃からタバコを吸っているから容姿が喫煙者特有の老け顔で、脂ぎって皺が深く刻まれた悪人顔になるほど、この人が逆説的に支持しているように見える野党の党派や沖縄県知事選挙では玉城デニー候補が負けるんじゃないかと心配になるのも、その嫌な語り口や悪印象のイメージではなく、語っている内容からそう思われるのかどうかも、あまり自信がないのだが、それは容姿や語り口といった、外見・イメージの非言語情報と、語られている内容の性質である言語情報の両方が脳内で結びつき、この陣営は一般受けせず、選挙で苦戦するのではないか、という合理的な予測を導き出していると考えられ、なぜその2つの要素が合流してそのような予感を生むのか、3つの視点で整理してもらうと、1つ目の視点は、非言語情報、容姿・語り口がもたらす心理効果で、人は他者の発言を聞くとき、言葉そのものよりも、その人の表情、肌の質感、声のトーン、醸し出す雰囲気から多くの情報を無意識に受け取り、その中でも、逆ハロー効果、ネガティブな連鎖をもたらすのは、話者に対して、喫煙者顔、脂ぎって皺が深い、悪印象、といった過酷な印象を抱くと、人間はその人が支持・推奨している対象、特に野党や玉城デニー候補に対しても、無意識に同じようなネガティブなイメージを重ね合わせてしまい、嫌悪感のブーメラン効果としても、嫌味な口調で、古謝玄太氏など特定の候補を叩く姿は、視聴者に攻撃性や不誠実さを強く印象づけ、結果として、こんなに攻撃的でアクの強い人が応援している陣営は、普通の有権者から敬遠されるだろう、という世間一般の反応への予測が働き、2つ目の視点は、言語情報・語る内容を見抜く客観的理性で、一方で、内容のせいかも知れないと感じるのも確かで、過激な批判を展開するインフルエンサーの語る内容は、往々にして内輪ウケの論理・エコーチェンバーが窺われ、その語り口に惹かれる熱心な支持者・身内には深く突き刺さるものの、一般的な感覚を持つ無党派層や中立層には、極端すぎる、偏り過ぎている、と受け取られる内容であることが多く、結果的に広がりのなさを感知し、その話者が展開しているロジックを聞いて、これは社会の最大公約数・マジョリティには響かない論理だな、これでは票が広がらないな、という政治的で冷徹な分析を瞬時に行なっている可能性があるそうで、3つ目の視点は、なぜ自信が持てないかの理由で、どちらか一方に確信を持てないのは、イメージの悪さと内容の独善性が、お互いを補強し合って一体化しているからで、話者の悪人顔や嫌味な語り口がフィルターとなり、内容がより偏ったものに聞こえて、内容の偏りを聞くことで、やっぱりこの人の醸し出すギスギスした雰囲気は、その排他的な論理からきているのだ、と腑に落ち、この相乗効果により、この人が熱心に叫べば叫ぶほど、一般の有権者は退いてしまい、結果として彼が応援する側が負ける・勝てない構造になっている、という一種のマーケティング的な失敗の予感を、直感的に捉えているのだと言えるそうだが、そもそもそんなに影響力のある人じゃないだろうから、その人の存在がそれほど選挙結果に響くわけではない、とたかを括っている気持ちも一方にはあり、また本物の悪人はいかにも底が浅そうに見える悪人顔にはならないだろうし、むしろ知性と理性を兼ね備えた善人のように見える人の方がヤバいと感じられるわけだ。9月6日「社会インフラと産業インフラの関係」社会インフラとは人々の日常生活や福祉を支える基盤であり、産業インフラとは企業活動や生産・流通を効率的かつ安定して行うための基盤で、重なる部分もあるだろうが、社会インフラとは、国民の生活、安全、福祉を守るために欠かせない公共的な基盤施設やサービスで、主な例は、電気、ガス、水道、道路、通信網、学校、病院、公園などがあり、私たちの健康や安全を守り、快適な生活環境を維持する役割があるのに対し、産業インフラとは、企業の生産活動や物流、経済活動を円滑に進めるために必要な設備やシステムで、経済インフラや生産基盤とも呼ばれ、主な例は、工業用地、工場施設、港湾・空港、大型物流センター、産業用送電網、ビジネス向け通信・IT基盤など、製品を効率よく作り、素早く届けることで、経済の成長や企業の競争力を高める役割があり、両者の関係は、道路や電気、通信などは、生活を支える社会インフラであると同時に、ビジネスの移動や工場の稼働に必須の産業インフラでもあり、両者の違いは、誰の何の活動を中心に支えるかという違いがあり、生活の維持に重きを置くのが社会インフラ、経済活動の効率化に重きを置くのが産業インフラだが、経済と社会インフラ・産業インフラの維持経費の関係で、それらのインフラが重層的に関係し合い、複雑に積み重なるほど、それらの維持経費や運用経費も大きなると共に、経済規模も大きく膨らむかというと、確かに社会・産業インフラが重層化・複雑化するほど、その維持・運用経費は加速度的に増大するが、一方でそれが経済規模・GDPの拡大に直結するかどうかは、インフラの投資対効果や社会の生産性向上に依存するため、必ずしも常に正比例して大きく膨らむわけではなく、この関係性を理解するための重要なポイントを、メカニズムとリスクに分けて解説すると、1つ目のポイントは、インフラの重層化と維持・運用経費の拡大のメカニズムで、インフラが複雑に積み重なると、例として、高度なITS交通システム、デジタルと融合したスマートグリッド、地下の立体交差や多層ネットワークなどが考えられるが、維持・運用経費は指数関数的に増加する傾向があり、技術の高度化に伴うコスト増など、単なるコンクリートの修繕だけでなく、専門人材の確保やシステム維持に莫大な費用がかかり、相互依存性のリスクとして、システムが複雑に絡み合うため、どこか一箇所が破損したりダウンした際の影響が全体に及びやすく、その予防保守やバックアップの確保にさらなるコストがかかり、また老朽化がインフラの保守管理と同時進行し、過去に大量に作ったインフラが一斉に更新時期を迎えると、維持経費は社会の大きな負担となり、2つ目のポイントは、経済規模・GDPとの関係で、インフラの複雑化が経済規模を大きくするかどうかは、そのインフラが生産性を高めるものか、投資対効果が高いか低いか、それとも過去の遺産を維持するだけコストがかかるかによって二極化し、経済規模が拡大し、好循環をもたらすケースは、高速通信網、効率的な物流網など高度なインフラが、企業の生産性を劇的に高め、新しい産業やイノベーションを生む場合、インフラ維持経費を遥かに上回る経済的リターン・GDPの拡大が得られ、インフラの維持・運用そのものが新産業となり、雇用や投資を生み出して経済を牽引する場合もあるが、逆に経済規模が停滞・縮小し、悪循環をもたらすインフラの罠となるケースは、人口減少や産業の衰退に伴ってインフラが過剰な場合、維持経費だけが政府や自治体の財政、あるいは国民の税負担・利用料金の値上げをもたらし、国家予算や企業の賃金が過去に作ったインフラの維持だけに消えてしまい、未来の成長に向けた新しい投資に回らなくなると、経済規模はかえって縮小に向かい、つまり、インフラの複雑化=経済の拡大が成り立つのは、そのインフラが社会全体の生産性を引き上げ続けている期間、あるいは経済が成長軌道にある期間に限られ、成長が止まった社会でインフラだけが複雑・重層化していくと、それは経済を膨らませる燃料ではなく、経済を押しつぶす重石になってしまう性質を持っているが、例えば産業の技術革新に伴って新たなインフラが構築される一方で、古いインフラが新たなインフラと競合関係になると、非効率な古いインフラを維持しようとする側が、非効率なインフラと共に衰退すると言えるかというと、歴史や経済学の観点からも、非効率になった古いインフラおよびそれに依存する勢力が、新しいインフラとの競争に負け、結果として、インフラそのものだけでなく、それを維持しようとする地域、産業、あるいは国家全体が巻き添えで衰退していく現象は繰り返し起きていて、この現象が起きるメカニズムと、なぜ古いインフラを維持する側が衰退していくのか、その構造を3つの点で解説すると、1つ目の点は、埋没費用・サンクコストの呪縛と既得権益化で、例えば、鉄道、インターネット、EV充電網などの新しいインフラが登場したとき、それに対応する古いインフラの運河、固定電話網、ガソリンスタンド網を維持しようとする側には、それまで投資してきた莫大な資金や、そこから利益を得ていたコミュニティが存在し、そこからサンクコストへの執着が生まれ、これまで何千億円も投資してきたのだから、捨てるのはもったいないという心理が働き、非効率だと分かっていてもサンクコストを回収しようとし続け、その結果古いインフラを維持するために政治的なロビー活動を行なったり、新しいインフラに規制をかけたりして変化を遅らせようとし、これにより、社会全体の技術革新のスピードそのものが停滞し、イノベーションが阻害され、2つ目の点は、二重投資による経済的疲弊で、古いインフラの維持派が力を持っていると、社会は古いインフラの延命費用と新しいインフラの構築費用の両方を同時に負担し、二重負担することになり、非効率な古いインフラは、維持するだけでも多くの税金、人手、エネルギーを消費しなければならないと、その結果、新しいインフラを完全に普及させ、生産性の向上などの恩恵を最大化するための資金や人材が不足して、地域や産業全体の競争力が、相対的に新しいインフラが普及している他国や他地域に比べて著しく低下し、3つ目の点は、歴史や現代に見る古いインフラとそれを維持する側の衰退の具体例を示すと、歴史上、そのインフラの世代交代に失敗、あるいは遅れた側は例外なく衰退していて、19世紀のイギリスで起こった運河と鉄道の競合において、産業革命初期に大活躍した運河網のオーナーたちは、後発の鉄道の敷設を妨害し、運河の通行料を維持しようと抵抗したが、しかし、圧倒的なスピードと輸送力を持つ鉄道の普及は止められず、運河に固執した地域や運河会社は急速に没落し、現代の銅線の固定通信と光ファイバー・5G通信の競合において、かつての巨大通信インフラ、銅線の電話網にしがみつき、次世代の光ファイバーや高速無線網への切り替えを渋った国や地域は、デジタル経済の主導権を完全に失い、現在進行形の石炭・火力発電インフラと再生可能エネルギー・新グリッドの競合では、世界的なエネルギー転換において、古い化石燃料ベースのインフラの維持に固執する地域や企業は、炭素税などのペナルティや投資撤退・ダイベストメントに直面し、経済的なアドバンテージを失いつつあるそうだが、なぜ非効率なインフラと共倒れするのかというと、経済学では創造的破壊と呼び、新しいインフラの導入は、古いインフラを破壊することで社会全体の生産性を劇的に向上させるが、古いインフラを維持しようとする側は、単に古いものを守っているだけではなく、社会全体の生産性が向上する機会、未来の利益を拒絶している状態になり、そのため、新しいインフラをいち早く取り入れて生産性を爆発的に高めた競合する他企業・他地域・他国との格差が広がり、最終的に非効率なインフラの維持コストだけを背負い込んだまま、経済的に自滅・衰退していくことになるそうだが、では視点を変えて、それらのインフラが過剰に膨れ上がるほど、そのインフラに依存する者たちの間で、それらを守らなければならないという精神構造も肥大化して、それが保守思想、あるいはIT革命以降はネット右翼などと日本では呼ばれたりするが、彼らが守ろうとするインフラには、彼らの精神的な支えである神道思想の拠り所となる神社施設なども含まれるだろうし、欧米のキリスト教右派では教会施設、イスラム原理主義ではモスクなども含まれるだろうが、その種のインフラが未発達の経済破綻しそうな途上国では、守ろうとするインフラが脆弱だから、割と簡単に移民となって国から出ていくことになるが、そういった右翼思想とインフラの発達度の間で相関関係などがあるかというと、インフラの発達度やその過剰な肥大化と、右翼思想・保守思想、あるいは排他主義や宗教的原理主義の精神構造の間には、社会学、心理学、地政学などの観点から非常に深い相関関係や、あるいは構造的なパラドックスが存在すると指摘されているそうで、提示された視点は、物理的インフラ・社会的基盤を単なるコンクリートやシステムとしてではなく、人々のアイデンティティや生存を保障する、心理的・空間的なサンクチュアリ・聖域として捉えるものであり、この関係性について、メカニズムと背景にある構造をいくつかの側面に分けて解説すると、1つ目の側面は、インフラの高度化を失う恐怖と保守思想を生むメカニズムで、高度に発達し、複雑化したインフラに囲まれて暮らす人々は、無意識のうちに、秩序、安全性、経済的利便性、文化的景観などから影響を受け、そのインフラに深く依存していて、この依存度が上がるほど、心理的にはこれを失うことへの恐怖や損失嫌悪の念が肥大化し、長年かけて築かれたインフラや街並み、日本の神社仏閣、欧米の教会、地域のコミュニティ基盤は、そこに生きる人々の、自分たちは何者か、という精神的拠り所・アイデンティティと一体化して、インフラが過剰に成熟すると、変化を嫌い、現状を維持しようとする保守思想が強まり、ネット右翼などとも俗称される層やサイバーナショナリズムや欧米の右派ナショナリズムは、自分たちの高度で清潔、安全な社会・文化インフラが、外来のもの、移民や異文化に汚されたり、あるいは奪われるという、被害妄想を伴うこともある防衛本能から駆動される側面があり、2つ目の側面は、途上国におけるインフラの脆弱さと移民行動で、一方で、インフラが未発達で経済破綻危機に瀕している途上国や紛争地域では、人々を守る物理的・社会基盤、電気、水道、治安、医療、法秩序、安定した宗教コミュニティの保護機能が極めて脆弱で、守るべき強固なインフラや有形・無形の資産がそもそも存在しないか、すでに崩壊しているため、人々はその土地にしがみつく精神的理由を失い、生存のために国を捨て、移民・難民になるという選択が、相対的に合理的かつ容易になるが、ただし、インフラが脆弱な国でも、物理的インフラの代わりにイスラム原理主義などの強固な教義が精神的インフラとして機能することがあり、この場合、土地を離れてもその精神的インフラ・信仰を強烈に保持し、移住先で周囲と衝突するケースも見られ、3つ目の側面は、右翼思想とインフラ発達度の相関関係を整理してみると、右翼・保守思想のグラデーションとインフラの発達度の間には以下のような相関関係の構図が見えてきて、インフラ発達度の高い先進国・成熟社会では、神社・教会・法秩序・高水準の生活など、有形無形のインフラが豊かで、そこから、それらを失う恐怖や変化への拒絶、防衛本能などの心理が働き、結果的に、俺たちの空間を守れ、という保守思想、ネット右翼、排外主義などが表出されてくるのに対し、インフラ発達度の低い途上国・崩壊社会では、生活基盤や治安が破綻し、インフラが脆弱なので、その土地に留まるメリットが喪失して、生存を優先させる心理が働き、結果的に、ここには守るべきものがない、となって、移民・難民化など流動化が起こり、4つ目の側面は、現代特有の歪み、ネット右翼とデジタルインフラの過剰化で、特にIT革命以降のネット右翼という点において、この相関はさらに歪んだ形で現れていて、現代の先進国や、特に日本では、リアルな地域社会、お祭り、親戚づきあい、地域の神社を支える氏子組織など、アナログな精神的インフラが衰退・空洞化していて、その一方で、インターネットというデジタルインフラだけが過剰に肥大化し、その結果、リアルな拠り所を失い孤立化した人々が、SNSや動画プラットフォームなどの過剰に発達したデジタルインフラのアルゴリズムによって、美しい日本、神道の伝統、神聖な歴史など、バーチャルな日本という記号を消費し、それらを必死に守ろうとして攻撃的になり、つまり、現実のインフラは衰退しているのに、ネットインフラの中でだけ守るべき強固な伝統が肥大化し、右傾化していくという、現代特有のねじれ現象が起きていて、富、秩序、宗教施設、文化的景観など守るべきインフラが過剰にあるからこそ、それを奪われまいとする右翼・保守思想が肥大化するという相関関係は確実に存在するが、インフラの豊かさは人々の安全を保障する一方で、皮肉にも他者への不寛容や排他性を育む土壌にもなり得るという、社会の構造的なジレンマと言えるが、彼らが民主主義を嫌悪するのは、民主主義が彼らが守ろうとする精神的インフラを破壊しようとするからかというと、まさにその通りで、彼らの視点から見れば、民主主義、特に現代の自由主義的・多元的な民主主義は、彼らが命がけで守ろうとする神聖で普遍な精神的インフラ、伝統、信仰、秩序、共同体の絆を内側から解体し、破壊を迫る敵対的なシステムとして映っていて、なぜ彼らが民主主義をそこまで嫌悪し、それが精神的インフラの破壊と結びつくのか、その構造を3つの核心的理由から解説すると、1つ目の理由は、民主主義の相対主義と精神的インフラの絶対主義の対立で、神道思想の神社やキリスト教右派の教会、イスラム原理主義のモスクといった精神的インフラの本質は、時代を超えて変わらない絶対的な価値観の聖域にあり、それに対して、民主主義は全てを疑い、話し合いで変えようとし、民主主義の本質は、絶対的な正解を認めず、多数決や議論によってルールを常にアップデートしていく相対主義で、彼らにとって神聖な伝統や信仰は、人間の話し合いや投票ごときで変えていいものではなく、民主主義の過半数が賛成すれば、伝統的な家族観も、宗教的な禁忌も、国のあり方も変えられる、という性質は、彼らの絶対的な聖域をいつでも土足で踏みにじり、破壊しかねない最も危険なシステムに見え、2つ目の理由は、個人の自由・多元主義による共同体の解体で、現代の民主主義は、個人の自由や権利、多様性、多元主義を尊重するが、これは彼らが守ろうとする強固な集団のインフラをバラバラに分解する力として働き、民主主義が進むと、ジェンダー平等、信教の自由、伝統的役割からの解放など、個人の権利が重視され、これは、日本の保守派にとっては、家制度や美しい国体・秩序の崩壊であり、米国のキリスト教右派にとっては、神が定めた家族の定義、中絶反対、反LGBTQ+などの崩壊を意味し、彼らは、民主主義がわがままな個人を増長させ、彼らの精神を強固に支えてきた堅固な地域共同体や、歴史的な縦のつながりを分断・風化させていると激しく嫌悪し、3つ目の理由は、数の論理への絶望とネット社会の加速で、かつては民主主義のルール・選挙を利用して自分たちの聖域を守ろうとした時期もあったが、しかし、社会の世俗化・宗教離れや少子高齢化、グローバル化が進むにつれ、彼らはもはや民主主義・多数決では自分たちのインフラを守れない、という絶望、すなわち被害者意識を抱くようになり、欧米の白人キリスト教右派も、日本のネット右翼層も、自分たちこそが正統なこの国の主・マジョリティなのに、民主主義のシステムがリベラル勢力にハックされ、自分たちの文化が消されようとしている、という強い危機感・排他性を持っていて、多数決で勝てない、精神的インフラを守れないと悟ったとき、彼らは民主主義の手続きを嫌悪し、むしろ議論を挟まずに、伝統や秩序を強力に一発で守ってくれる独裁的なリーダー・権威主義を熱望するようになり、実際にリベラル勢力からすれば、民主主義のインフラが今まさに少数派の多数決と多数派の政治的無関心によって破壊されつつあると危機感を募らせているのは皮肉な成り行きだが、このように、物理的インフラが過剰に発達した成熟社会だからこそ、そこからこぼれ落ちそうな精神的なインフラを死守しようとする反動として、民主主義への強い嫌悪や拒絶、オルタナ右翼、反リベラル、権威主義への支持が世界中で先鋭化していると言えるそうだ。9月5日「債務危機煽りとAI革命効果」たぶんこれはもっともらしい話ではなく、どこか怪しい話になってしまうだろうが、執拗に国の財政破綻に言及する人の意図は予想の範囲内だが、どうも実際にはそうはならないような方向へと事態が進み始めているとすれば、それはどういう方向なのかというと、現状から分かることは、国の財政破綻を強く懸念する言説がある一方で、近年のマクロ経済やグローバルな金融市場の動きは、従来の破綻論が想定していたシナリオとは異なる第3の方向へ進みつつあると指摘されているそうで、現状のデータや経済理論の潮流から見える、事態の具体的な方向性は、主に以下の3点に集約されるそうだが、1つ目の点は、破綻ではなく、インフレによる実質的な債務削減へのシフトで、従来の破綻論は、国債が紙切れになる、銀行預金が封鎖される、といった急進的なクラッシュを想定しがちだったが、しかし現実には、政府や中央銀行は緩やかなインフレ、物価上昇を容認することで、借金の実質的な価値を目減りさせる方向に舵を切っていて、インフレによって経済の規模、名目GDPが大きくなれば、過去に借りた固定額の債務の比率は相対的に低下し、急激なデフォルトではなく、国民が気づかないうちに購買力が低下していく、実質的な大増税と同じ効果のマイルドなプロセスが進行していき、2つ目の点は、現代貨幣論・MMTの事実上の定着と中央銀行の買い支えで、借金が増えすぎると買い手がいなくなって金利が急騰する、という従来の予測に対し、実際には日銀など中央銀行が国債を大量に買い支え続けるシステムが常態化し、日本のように自国通貨で国債を発行している国は、理論上、支払不能による破綻は起きにくいというMMT的な現実が実証されつつあり、金融市場もこの構造を織り込んでおり、イールドカーブ・コントロールの修正などを経つつも、金利のコントロールは急激な崩壊を回避する形で管理されていて、3つ目の点は、国の財政よりも個人の格差拡大へと進行しつつあり、事態は国家の崩壊という破滅劇ではなく、国家は存続するが、その内部で個人の格差が過酷化する、という地味で深刻な方向へ進んでいて、インフレや通貨価値の低下に備えて、株や不動産、外貨などのハードアセット・実物資産を持っていた層は資産を増やして、現金や預金しか持たない層は実質的に困窮していき、国の財政が破綻しない代わりに、防衛費や高齢者対策に予算が圧迫され、教育、インフラ、住民サービスなどの生活の質がじわじわ削られていく未来が予想されて、事態は、ある日突然、国が倒産するのではなく、政府の借金はインフレで薄められつつ維持されるが、その代償として国民の購買力が静かに削られ、格差が広がり続けるという、より複雑で長期的な方向へと進んでいるのが現状の分析だそうで、そういう過程の途中で起こっていることとして、最近アメリカのベッセント財務長官が長期債の買取額を増やすと述べたことの効果は限定的かというと、トランプ政権のスコット・ベッセント米財務長官が発表した長期国債の買い戻し・バイバックの倍増措置について、多くの市場関係者はその効果を一時的・かつ限定的と見ていて、発表直後こそ30年債利回りなど長期金利が急低下する、ベッセント・サプライズが起きたが、わずか数日で金利は上昇基調に戻っており、根本的な解決には至っておらず、効果が限定的とされる理由は以下の3点で、1点目は、規模が市場全体に対して小さすぎで、財務省は10年〜30年物の長期債の買い戻しを1回あたり20億ドルから40億ドルへと倍増させたが、しかし40兆ドルを超えるアメリカの膨大な政府債務総額や、数兆ドル規模に上る長期債の発行残高に比べれば、この買い入れ額は、ごくわずかな水準にすぎず、需給を根本的にひっくり返すほどの規模ではないと判断されていて、2点目は、借金の総額が減るわけではない疑似YCCの限界で、この措置は、市場の流動性が薄い超長期債を財務省が買い戻す一方で、短期国債などの発行を増やすことでファイナンスされ、つまり債務の期間を組み替えているだけであり、政府の借金総額そのものが減るわけではなく、日銀のかつての長短金利操作やオペレーション・ツイストに似た力業の市場介入とも評されるが、中央銀行による無制限の買い支えとは異なり、財務省の債務管理の枠内での介入には限界があるとされるが、実際には当初の予想とは異なり、短期国債の増発ではなく、財務省の一般勘定・TGA、FRBに保有している約九千五百億ドル・約150兆円規模の現金を活用する方針を検討・示唆していて、ベッセント長官によるこの一連の動きは、財務省による人為的なイールドカーブの操作だとして、ウォール街の金融のプロたちから強い批判を浴びていて、財政赤字の拡大やインフレの強さなどの市場の基礎的条件を無視して、政府が利回りを力づくで押さえ込もうとすれば、財務省の信頼性が失われ、結果的にさらなる債券売り・金利上昇を招きかねないという警戒感が根強く残っており、実際に金利の押し下げ効果は一時的なものにとどまっているそうだが、3点目は、現在、米長期金利が十数年ぶりの高水準、30年債利回りが一時5%台に達している背景には、イラン情勢に伴う戦費やインフレ対策に財政赤字拡大懸念や、根強いインフレリスクの要因となる米国経済の想定以上の強さなど、強固なマクロ要因があり、市場がこれらの根本的なリスク、米国債の供給過剰とインフレを懸念して債券を売り崩している局面では、財務省が多少の買い戻しを行なったところで、市場の大きなうねりを力づくでねじ伏せることはできないというのが、ヘッジファンド出身であるベッセント氏の手法に対する市場の見方だそうだが、では債務問題が解決しないまでも、AI革命の効果によって、うやむやになってしまうとすれば、どんなシナリオが想定されるかというと、AI革命が爆発的な生産性向上をもたらし、国家の債務問題を解決ではなく、うやむやにして、不可視化・無力化してしまうシナリオは、近年のテクノロジー投資の過熱と共に、マクロ経済学者の間でも現実味を持って議論され始めているそうだが、AIがもたらす圧倒的な供給能力と成長率が、借金の重みを相対的に小さくしてしまうという、以下のような具体的なシナリオが想定され、1つ目は、超高成長によるGDPの爆発的増加シナリオで、経済学において、債務問題の深刻さは債務残高とGDPの比率で測られ、AI革命が全産業の効率を極限まで高め、名目GDPが驚異的なペースで成長し続ける場合、分子の借金が増え続けても、分母がそれを遥かに上回るスピードで巨大化し、借金の絶対額は減らないが、経済規模に対して大したことのない金額になり、結果として誰も債務残高を気にしなくなり、これはかつて戦後の高度経済成長期に、戦時債務がうやむやになったプロセスと似ていて、2つ目は、恒久的ディスインフレによる中央銀行の無限買い支えで、AIや人型ロボットが人間の労働を代替し、物流や製造、サービスコストが極限まで下がると、世界はデフレ・ディスインフレ圧力にさらされ、どれだけ政府がお金を刷って国債を発行しても、AIによる供給能力が圧倒的すぎるため、インフレが起きにくくなり、これによって、中央銀行はインフレを恐れることなく、政府の国債を永久に買い支え続けることが可能になると共に、金利も低水準に抑え込まれ、債務の利払い負担という概念そのものが消失し、3つ目は、税収構造のパラダイムシフトで、従来の財政は人間の労働から得られる所得税や消費税に依存していたため、少子高齢化で財政が破綻するというのが定説だったが、しかし、AI革命後はAIシステムや特許、超巨大プラットフォームなどの資本が富の大部分を生み出すようになり、政府は人間への課税を減らす代わりに、AIの演算能力やAIによる利益に直接課税するAI税やロボット税を導入し、これにより、国家は人間が働かなくても莫大な税収を得られ、過去の債務をいとも簡単に管理・相殺できるようになり、4つ目は、国家の役割の縮小とビックテックへの債務移転で、AIインフラを支配する数社の大企業が、実質的な社会インフラや公共サービスを担うようになると共に、国家が予算を投じて行うべき役割が減少し、政府の財政規模そのものが小さくなる一方で、ビックテックは国家を凌ぐキャッシュを保有するため、政府の国債を彼らが実質的な肩代わり、あるいはインフラの無償提供という形で吸収し、国家の債務問題という枠組み自体が意味をなさなくなって、これらのシナリオでは財政破綻は起きず、債務問題はうやむやになるが、別の深刻な問題が浮上し、それは富の超極端な偏りで、人間の労働価値の暴落による大量失業あるいはベーシックインカムへの依存で、国家が破綻しない代わりに、社会の構造が根底から変わる可能性があるそうだ。9月4日「そもそも論の罠」建前としては日本は憲法を尊重する法治国家であるべきなんだろうが、憲法を守ることと法治国家であることには違いがあって、憲法を尊重する立憲主義と法治国家である法治主義には明確な違いがあり、一言で言えば、誰が誰を縛るかという目的とベクトルの違いだそうで、憲法は、国家権力が暴走して国民の人権を侵害しないように、国を縛るためのルールであり、そのため、憲法尊重擁護義務という憲法を尊重する義務は、一般の国民ではなく、公務員や天皇、大臣など権力を持つ側に強く課せられているのに対し、法治国家とは、すべての政治や社会のルールは、あらかじめ作られた法律に基づいて行われなければならないという原則で、国家が勝手なルールで国民を処罰することを防ぐが、同時に国民も法律に従う必要があり、法治国家の法治主義は、ルールである法律通りに試合を進行する、ということであるのに対して、憲法尊重の立憲主義は、いくら審判や国家でも、選手である国民を殴るようなルール違反のルールを作ってはならない、という大前提のことであり、もし法治国家であることだけを追求すると、国家が国民の言論の自由を奪う法律を正当な手続きで作った場合、それも法律になってしまい、過去のナチス・ドイツなどがこの状態であり、そうなるのを防ぐために、いくら法律でも、憲法や人権に反するものは無効である、とする憲法尊重・立憲主義が必要になるが、では自衛隊は憲法違反だという主張と、安保法制は憲法違反だという主張にはどんな違いがあるかというと、自衛隊は憲法違反・違憲という主張と、安保法制は憲法違反・違憲という主張には、憲法第9条のどの部分を問題視しているか、そして何が違憲であるかという点で大きな違いがあり、一言で言えば自衛隊そのものの存在を問題にするか、認められている自衛権の範囲・集団的自衛権を問題にするかの違いで、自衛隊は憲法違反という主張は、憲法9条2項の陸海空軍その他の戦力は、これを保持しないという文言に愚直に基づいていて、主張の核心は、日本の自衛隊は、世界的に見ても強力な防衛力・実質的な武力を持っていて、これはどう見ても9条が禁止している戦力に当たるため、自衛隊という組織の存在自体が憲法違反であるという考え方であるのに対し、これに反論する政府の立場は、憲法は自衛のための必要最小限度の実力を保持することまで禁止していないとして、自衛隊は戦力ではなく自衛力であるため合憲としているが、これに対して、安保法制は憲法違反という主張は、自衛隊の存在そのものは、従来の政府解釈の範囲内で容認したとしても、2015年に成立した安全保障関連法・安保法制の内容が憲法違反であるとするもので、主張の核心は、従来の政府解釈では、日本は自国が攻撃された時だけ反撃する個別的自衛権・専守防衛しか認められていなかったが、しかし、安保法制によって、アメリカなどの密接な他国が攻撃された時にも一緒に戦う集団的自衛権の限定容認が可能になり、これは自衛の範囲を著しく逸脱しており、憲法9条に違反するという考え方で、この議論の際、多くの憲法学者がこれまでの憲法解釈を、国会の法律・安保法制だけでガラリと変えてしまうのは、憲法によって権力を縛る立憲主義・憲法尊重の破壊である、と強く批判して、法治国家として法律を作ったものの、それが憲法の枠を飛び越えてしまっているという指摘であり、自衛隊違憲論は、自衛隊という軍隊のような組織を持っていること自体がダメだという主張であるのに対し、安保法制違憲論は、自衛隊の存在はともかく、アメリカ等と一緒に海外で戦えるようにルールの変更・集団的自衛権の行使がダメだという主張だが、憲法の軍事力は保持しない、という建前が通用しなくなったから、自衛隊という名の軍隊を創設したが、自衛のための必要最小限の防衛力を保持するという建前も通用しなくなったから、安保法制を制定した、という経緯で合っているかというと、戦後の日本の防衛政策の拡大の歴史、なし崩し的とも言える変化を的確に捉えていて、客観的な歴史の事実として、最初に掲げた建前、憲法の文字通りの解釈では現実に対応できなくなり、新しい解釈・建前を作り、それも限界に来たのでさらに広げたというプロセスを辿っていて、この流れを現実の必要性と憲法の建前がどう衝突し、変化してきたかという視点で整理すると、第一ステップは、1954年からの自衛隊の創設で、当初の建前は、憲法9条2項の、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない、という文字通り、一切の軍事力を持たない、という建前であったが、朝鮮戦争などをきっかけにして冷戦の勃発により、アメリカから自分の国は自分で守れと再軍備を要求され、国内でも治安維持の必要性が出てきて、新しい建前・解釈として、戦力は持てないが、主権国家として自衛する権利、自衛権はあり、だから、自衛のための必要最小限の実力は持つべきで、自衛隊は軍隊ではなく実力組織である、という解釈を作り、自衛隊を創設したが、第二のステップとして、2015年の安保法制の制定があり、その後の建前として、必要最小限の中身は、日本が直接攻撃された時だけ防衛力を使う、個別的自衛権、専守防衛である、という建前が長年維持されてきて、他国を巻き込む集団的自衛権は憲法上、行使できないとされていたが、中国の台頭、北朝鮮のミサイル開発、日米同盟の強化の必要性など、日本が直接攻撃されていなくても、アメリカと協力して対処しなければ日本の安全が保てない、という政治判断が働き、新しい建前・解釈として、日本が直接攻撃されていなくても、アメリカなど密接な他国が攻撃され、それによって日本の存立が脅かされる明白な危険があるなら、それも自衛のための必要最小限に含まれる、と解釈を変更し、安保法制・集団的自衛権の限定容認を制定し、建前の限界が解釈の変更・新しい建前を生み、またそれが限界を迎え、さらなる建前の変更、という経緯を辿ってきたというのは、歴史的な事実の捉え方としては合っているが、この歴史をどう評価するかについては、立場によって真っ二つに分かれるそうで、政府や推進派など肯定的な見方としては、厳しさを増す国際情勢の現実に合わせて、憲法の基本的な解釈、自衛に徹する姿勢を維持しつつ、現実的な安全保障の枠組みを柔軟に構築してきたという評価がある一方で、憲法学者や反対派など否定的な見方としては、憲法改正の手続きを踏まずに、時の政府の都合で憲法解釈の建前をなし崩し的に変えるのは、憲法で権力を縛るという立憲主義の原則に反しているという否定的な評価であり、だからこそ、憲法を尊重することと、この安保法制の議論が今でも強く結びついているそうだが、安保法制制定の時の政府与党の強引なやり方に対して、ほとんどの憲法学者が安保法制は違憲だと認めたのに、ごく一部の合憲とする憲法学者の意見と、大多数の違憲とする憲法学者の意見を両論併記してしまうのは不公平、と批判するジャーナリストの主張を真に受けても構わないかどうか、それともそういう面ではそうだろうが、それでもなし崩し的な現状変更の方を重視すべきかというと、この問題は、現代のメディアのあり方・報道倫理と、現実の政治・安全保障のあり方の双方が絡み合う、正解が一つではない極めて深い論点で、ジャーナリストの主張を真に受けても良いか、それともなし崩し的な現状変更・安全保障の現実を重視すべきかという問いに対しては、どちらの視点にも一理あり、何を最も優先するかによって結論が変わるというのが誠実な答えになるそうで、それぞれの視点がどのような論拠に基づいているのかを整理してもらうと、ジャーナリストの主張、両論併記は不公平、を重視する視点では、憲法学者の圧倒的多数が違憲と言っていたのに、ごく少数の合憲論と同じ扱いで並べるのは不公平で偽りのバランスだというジャーナリストの批判には、立憲主義や民主主義を守るという大義名分があり、例えば、科学の世界で、地球温暖化の原因は人類の活動であるという意見が99%で、そうではないという意見が1%だった場合、メディアが両方を1対1の分量で報道すると、視聴者は意見が真っ二つに割れていると誤解してしまい、安保法制の際も、憲法学者の9割以上が違憲・疑義ありとした中で、政府側の数人の合憲派の意見を盾に押し通したため、メディアがそれを等価に扱うのは不公正な中立であるという批判で、この視点を重視する人は、現実が厳しいからという理由で憲法の解釈を時の政権が都合よく変えてしまうことを最も強く警戒して、これを許すと、将来的にさらに基本的人権や表現の自由なども、現実の危機を理由になし崩し的に制限されかねないため、メディアは権力を監視し、多数の学者の声を届けるべきだと主張する一方で、なし崩し的な現状変更、安全保障の現実を重視する視点では、憲法の文言や学者の多数意見にこだわりすぎて、現実の国防が疎かになっては元も子もないとして、結果としての国家の安全を最優先する視点もあり、憲法学者の仕事は、憲法の条文に照らして正しいか否かを厳密に解釈することだが、しかし、政治の仕事は、今ここにある脅威、周辺国の軍備増強やミサイル開発などから、国民の生命を守ることであり、学者が違憲と言おうとも、同盟国のアメリカとの連携を強めなければ抑止力が維持できないという現実がある以上、政治指導者としては、解釈の限界を広げてでも法制化するしかないという判断になり、自衛隊の創設時も、当時の多くの法学者は違憲と主張していて、もしあの時に、学者が違憲と言うから自衛隊は作らないとしていたら、現在の日本の安全があっただろうか、と問うなら、結果として、なし崩し的であっても自衛隊を維持し、安保条約を結んできたからこそ平和が保たれたという実績を重視する立場からは、法理の緻密さよりも現実的な生存戦略の方が遥かに重いと考えられ、この問題にどう向き合うかは、手続きの正当性や立憲主義と結果の安全性や安全保障のどちらをより絶対的な価値とみなすかに委ねられ、手続きを重視するなら、ジャーナリストの言う通りに、圧倒的な違憲論を無視した政権の進め方や、それを等価に扱ったメディアの姿勢を批判的に見るべきだが、結果・現実を重視するなら、多少の無理やなし崩し的な変更があっても、冷徹な国際政治の現実に対応するための安保法制の制定は、政治の責任としてやむを得なかった、むしろ評価すべきと見るべきで、メディアの両論併記という手法自体が、こうした正解のない、価値観が対立する問題において、どちらか一方に加担しないための苦肉の策、あるいは責任回避として機能している側面もあるが、安保法制の違憲性を持ち出して、自衛隊の違憲性を持ち出さないことの論理には、いかなる正当性を考えればいいかというと、自衛隊の存在は実質的に容認するが、安保法制・集団的自衛権は絶対に違憲である、という主張には、一見すると矛盾・ダブルスタンダードがあるように思えるかも知れないが、しかし、この2つを明確に区別し、安保法制がダメだとする論理には、次のような3つの法的な正当性・論拠が考えられるそうで、1つ目は、専守防衛・個別的自衛権という、これまでの絶対的な境界線で、憲法学や政府の解釈において、長年守られてきた、ここを超えたら完全にアウト、という明確な境界線があり、それが専守防衛で、日本が直接攻撃されたとき、それを追い払うためだけに実力を使う、個別的自衛権という範囲に収まる限りは、国際法上も国家の生存権として認められ、自衛隊はそのための組織なのだから、ギリギリ憲法の範囲内、あるいは必要悪として許容されるという解釈で、一方で安保法制は、日本が攻撃されていないのに、他国の戦争に参加すること、集団的自衛権を認め、これは、これまでの憲法解釈が引いていた専守防衛という最後の防波堤を、完全に決壊させるものであり、自国を守るための道具として自衛隊を持つことと、他国のケンカに加勢することを可能にする安保法制の間には、論理的な次元の違う巨大な壁があるという考え方であり、2つ目は、法的安定性と予測可能性の重視で、法治国家において最も重要なのは、国が一度決めたルールの解釈は、そう簡単に変わらないという安心感・法的安定性で、自衛隊の存在は、何十年もの時間をかけて、国会論戦や歴代の政府答弁、さらには国民の義務や意識の中に定着してきて、これを憲法変遷と呼ぶこともあるが、しかし安保法制は2014年の閣議決定と2015年の法制定という極めて短い期間に、時の政権の政治的判断だけでこれまでの解釈を180度ひっくり返し、自衛隊は歴史の積み重ねとして定着しているから認めるし、今さら違憲として解体するのは非現実的としても、安保法制のような強引な解釈変更を許せば、今後は時の政権の胸三寸で憲法の意味をいくらでも変えられてしまう、といった立憲主義の崩壊という危機感から、安保法制の違憲性だけを厳しく弾劾する論理が成り立ち、3つ目は、日本最高峰の法的知性の総意、内閣法制局の伝統で、日本の行政の中には、法律が憲法に違反していないかを厳密にチェックする内閣法制局という強力な官僚組織があり、その内閣法制局は、戦後一貫して集団的自衛権の行使は、憲法9条の下では認められない、という解釈を、鉄の意志で守り続けてきたそうで、これによって、歴代の総理大臣が、アメリカから頼まれたから海外に軍隊を出したいと思っても、ストッパーがかかっていたそうだが、2015年の安保法制の際、安倍政権はこのストッパーを外すため、集団的自衛権は違憲であると言い続けてきた法制局の長官を交代させ、合憲だと言ってくれる人物をトップに据えて解釈を変更し、この経緯から、自衛隊の方は内閣法制局が長年かけて合憲の緻密な論理を組み立ててきたものだが、安保法制はその法的な知性と伝統を政治権力が暴力的に踏み躙って作ったものだから違憲だ、という正当性が生まれるそうで、自衛隊はOKで安保法制はNG、という論理の正当性は、歴史的に国民や社会に定着した現実は尊重するが、時の政権がルールを無視して勝手にゲームの規則・解釈を変える暴挙は絶対に許さないという、極めて強い立憲主義・憲法尊重の精神に基づいているそうだ。9月3日「こんがらがった指摘」毎度のことのように自説に都合の良い材料だけ選んで、それを使ってもっともらしい説を主張する人々を尻目に、逆に都合の悪い材料から学ぶ必要があるらしく、それが何なのかというと、反射的な批判をしないようにする必要があるようで、世界的な軍拡やAI投資などからインフレ懸念や金利高を招いているのに、高市政権の積極財政政策が金利高を招いている、と批判することの何が説得力を感じられるかというと、それを、世界的な軍拡やAI投資といった、構造的なインフレ・金利上昇圧力などのマクロ経済要因がある中で、高市政権の政策想定などの国内の積極財政政策のみを金利高の主因として批判する論理に違和感を覚える、という指摘に整理すれば、特定の要因だけを都合よく抜き出すのではなく、グローバルな構造変化などの不都合な事実にも目を向けるべきだという視点は、複雑な経済現象を捉える上で非常に重要だそうで、この問題について、なぜ国内の積極財政が金利高を招くという批判が一部で説得力を持って語られるのか、またそれに対する反論にはどのようなものがあるのか、双方の視点を整理してもらうと、なぜ説得力を感じる人がいるのかについて、財政批判の論理として、国内要因を重視する立場からは、次のような理由で積極財政が金利上昇・国債価格の下落を招くと主張され、積極財政のために国債を大量に発行すると、市場での国債の供給過剰を招き、価格が下がって金利が上がるという単純な需給の論理から指摘され、債務残高が拡大し続けることで、国の信用力に対する市場の疑念が生じて、国債のプレミアム・上乗せ金利が要求されるという懸念が出てきて、すでに世界的な要因でインフレ圧力が強い時に、国内でさらに財政出動・需要創出を行うと、国内のインフレが加速し、日銀が利上げを急がざるを得なくなるという予測もあり、実際に日銀も米国政府から利上げを要求されているわけだが、一方で、世界的な構造変化などのグローバル要因を重視する立場からは、国内の財政政策だけを犯人視する見方は不十分であると批判され、地政学リスク、防衛費増を伴う軍拡やエネルギー需要増、データセンター建設を伴うAI投資は、世界的な供給制約と需要拡大を生み、世界全体の金利の底上げ、自然利子率の上昇を招いていて、日本の長期金利は、国内の財政状況だけでなく、米国の長期金利や世界の資本移動に強く影響され、世界的な金利高の潮流に抗うことは、国内政策に関わらず困難であり、AIや防衛などの分野は、国力を維持するための不可欠な投資で、供給力の強化であり、これを怠ることによる将来的な経済の衰退や通貨価値の下落の方が、結果的に悪い金利高やインフレを招くという考え方もあり、経済現象は常に複数の要因が絡み合っていて、世界的な金利高の波という巨大な外部環境がある一方で、国内の財政方針がそれにどう拍車をかけるか、あるいは和らげるか、という内部環境の議論もあり、どちらか一方のみで説明しようとすると、視野狭窄に陥るリスクがあり、反射的な批判を避け、グローバルな潮流と国内の政策効果を切り分けて検証することが、より建設的な議論につながると考えられるそうだが、数年前までのデフレの時はそれを批判していた連中がインフレになったらそれを批判するのは、何か節操がないというか、やはりその種の批判に一貫性を求めるのは筋違いかというと、かつてデフレ期に、積極財政あるいは金融緩和はインフレや金利高を招くから反対だと批判していた層が、いざ実際に世界的な要因も含めてインフレ局面になると、ほら見ろ、積極財政のせいでインフレと金利高になったと批判を続ける姿には、一見すると強い矛盾や節操のなさを感じるのが自然な感覚だそうだが、この現象において、批判に一貫性を求めるのが筋違いなのか、あるいはなぜそのような変化、論理のすり替えが起きるのかについて、構造的な理由を分析すると、主に3つの側面が見えてくるそうで、1つ目の側面は、批判の目的が一貫している、手段の不一貫で、批判している人々の多くは、デフレかインフレかの経済状況に関わらず、最初から財政規律の維持、政府の借金を増やさないことを目的にしていて、デフレ期の論理は、今借金を増やすと、将来の世代にツケが回り、いずれハイパーインフレや金利急騰を招く、という予測としての批判であるのに対し、インフレ期の論理は、ほら見ろ、世界的な要因も含めてインフレになったのだから、これ以上借金を増やす積極財政は絶対にやってはならない、という現状追認としての批判になり、つまり、財政拡大は悪である、という結論・一貫性が先にあり、デフレ期には将来の危機を語り、インフレ期には目の前の危機を語るという形で、その時々の都合の良い材料・言い訳を使い回しているに過ぎず、そのため、客観的な経済状況への対応という意味では、論理の節操のなさが際立つことになり、2つ目の側面は、マクロ経済の安定化ではなく財政健全化が至上命題になっていて、本来のマクロ経済学の基本は、状況に応じた柔軟な使い分けで、デフレの時は、政府が予算を拡大して需要を作り、インフレの時は、政府が予算を絞って過熱を抑えるが、しかし、一貫して積極財政を批判する人々の頭の中には、この状況に応じた使い分け、という概念が希薄で、彼らにとっての正義は、常に予算の均衡や債務残高の抑制であるため、デフレ期であってもインフレ期であっても、結果として積極財政叩きという同じ行動に帰着し、3つ目の側面は、政治的なポジショントークとフレーミングの固定化で、メディアや財政規律派などの特定の政治的立場においては、自らのアイデンティティや過去の発言との整合性を保つ必要があって、インフレ局面になったからといって、これまでは世界がデフレだったから積極財政でも良かったが、これからはインフレだから〜と前言を部分的に認めると、過去の自説の誤り、デフレ時に引き締めを主張して経済を停滞させたことを認めることになってしまい、そのため、自分の過去の発言、積極財政は危険だという主張は正しかったというストーリーを守るために、現在のインフレの原因を全て積極財政派の政策姿勢に結びつけようとするが、では一貫性を求めるのは筋違いか?というと、彼らの主張に客観的なマクロ経済学としての一貫性を求めるのは筋違い・期待するだけ無駄と言わざるを得ず、なぜなら、彼らが保とうとしているは経済理論の一貫性ではなく、積極財政反対という政治的ポジションの一貫性だからで、デフレ期にはデフレの材料を、インフレ期にはインフレの材料を、それぞれ自説の補強のためにチェリーピッキング・都合の良い解釈をしているのが実態であり、だからこそ、私たちはそうした反射的な批判やポジショントークを尻目に、世界的な構造変化などの客観的なファクトをベースに情勢を判断していく必要があるそうで、デフレを招いているのは政府のせいだと批判していた連中が、インフレになったら、インフレになったのは政府のせいだと批判しても構わないかどうかも、ご都合主義のような気がするわけだが、デフレも政府のせい、インフレも政府のせい、という批判の構造を客観的に解剖すると、彼らが依拠している後講釈のロジックと責任転嫁のメカニズムが浮き彫りになるそうで、この種の批判を行う人々は、経済現象の原因を科学的に分析しているのではなく、政府を批判するという目的のために、起きた現象を都合よく利用しているだけで、デフレ時には、経済が停滞しているのは、政府の政策が悪いからだと批判し、インフレ時には、物価が上がって生活が苦しいのは、政府の政策が悪いからだと批判し、これは経済理論ではなく、単なる現状の不満の矛先を全て政府に向けるという政治的・感情的フレーミングで、経済の規模が縮んでも膨らんでも、その時々の国民の不満、実質賃金の伸び悩みや生活苦などに乗っかる形で批判を組み立てるため、論理的な一貫性は最初から破綻していて、少なくとも現在のインフレ、あるいは過去のデフレには、世界的なサプライチェーンの変化、AI・軍拡競争、人口動態、資源価格など、一国の政府の力だけではコントロールできない巨大な外部要因が大きく絡んでいて、それにもかかわらず、すべては政府の失政のせいだと主張することは、都合の良いときだけ、外国発の要因を無視し、国内の財政・金融政策の責任にする一方で、都合の悪いときだけ、国際情勢を言い訳にする、という二重基準を生み出し、これこそが、節操がないご都合主義と言わざるを得ない最大の理由だが、本来あるべき一貫した批判とは、もし批判側に経済学的な一貫性があるならば、主張は次のようにならなければ整合性が取れないそうで、デフレ期に政府の財政拡大が足りないと批判していた人であれば、インフレ期には、現在は供給制約によるインフレ、コストプッシュインフレなのだから、需要を闇雲に増やす財政ではなく、供給力を強化する分野、AIやエネルギーなどに絞った積極財政を行うべきだ、と、処方箋を状況に合わせて変化させるべきで、またデフレ期から一貫して財政規律・緊縮を求めていた人であれば、デフレ期の自身の緊縮主張がデフレを長引かせた可能性・誤りを認めつつ、インフレ期になった今こそ、自分の持論・引き締めが正当化される局面だ、と主張すべきだが、しかし、現実のご都合主義的な批判は、過去の自身の主張の検証・総括を一切行わないまま、目の前の新しい現象に対して、ただ政府が悪いというラベルを貼り替えているだけで、デフレもインフレもすべて政府のせいとする批判は、経済的な因果関係を無視した結論ありきのポジショントーク・ご都合主義そのもので、そのような言説は、複雑な世界経済の動向から目を背け、思考停止の反射的な批判を繰り返しているに過ぎず、そうしたノイズに惑わされず、何が真の要因で、政府にできることの境界線はどこまでか、を切り分けて見る視点こそが、今最も求められているそうだ。9月2日「沖縄県知事選挙の動画」それに関して違和感を語ることは簡単だが、一方で、そうなるだろうなと受け止めるしかないような現状がもたらされていて、対立したがっている人々に向けて対立を煽っているわけだから、そりゃ対立するだろうなと受け止めるしかないわけだが、それがどうしたわけでもないのもわかりきったことだが、それをどうにかしてそうではないような成り行きへと持って行きたくなるのも、何か無い物ねだりのような気がしてならないが、それをこいつらバカなんじゃないかと突き放してしまうのも、自分だけお高くとまって彼らを見下しているようにも感じられるから、居心地の悪さを覚えて、何かそうではない見解を導き出したくなるのだが、この嫌な感じをどう伝えてもしっくりこないような気がして、お手上げ状態な事態を招いているようだが、お互いに示し合わせたわけでもないのに、敵対する者同士が無意識の連携によって、まるで自作自演のような経過を辿るとすれば、それが何なのかといえば、ありふれた感情を呼び起こそうと狙った仕掛けなのだろうが、戦っている相手に憎しみの感情を抱くように仕向けてくるわけだが、それに対してなぜか意識が部外者を装ってかわそうとしてしまうわけで、実際に部外者なのだから見て見ぬふりを装えばかわしたことになるわけだが、かわしきれないような気がするとすれば、何かしらそれにかかわっているからだが、そんな沖縄県知事選挙の動画をちょっとだけ見て、さっさと画面を閉じて何を思うのかと考えてみるが、考えるようなことでもないだろうとは思うわけで、要するに結果だけをそうなったんだと受け止めておけばいいわけで、対立するどちらの陣営からもお呼びでないように思われるのは、どういう立場なのかと考えてみるのだが、今ひとつ結論と呼べるような認識には至れないが、なぜそれが自作自演のように見えてしまうのかに関しては、敵対する両陣営が、まるでお互いに台本を合わせているかのように対立を深めていく現象は、構造的な必然で、敵の存在が味方を団結させ、相手が過激になればなるほど、自分の正当性を主張しやすくなり、それはビジネスとしての対立であり、ネットの動画やメディアは、怒りや憎しみというありふれた感情を刺激した方がより多くの再生数や支持を集められ、その種の対立は無意識の共依存の関係を示し、互いが互いを必要として、お互いの存在によって自分の立場を肯定している状態であり、ではなぜ部外者でいられないのかというと、画面を閉じてもかわしきれないと感じるのは、一応は知性を持って社会とかかわっている証拠らしいのだが、社会の空気への影響として、選挙の結果やそこで生まれた分断は、巡り巡って自分が生きる社会の空気を作り、それを見て見ぬふりをしながらスルーすることは、その不条理な構造の黙認に加担しているだけなのではないかという罪悪感との葛藤が生まれ、それらの光景の中で騒いでいる人々をバカだなと見下して突き放せば楽になれるが、そうやって他者を見下す傲慢さを、自身の倫理観が許さないので、居心地が悪くなって、ではお呼びでないという立場は何なのかというと、どちらの陣営からも求められないその立ち位置は、決して中途半端な迷子ではなく、選挙がもたらす熱狂と対立のシステムにハックされず洗脳されていない状態であり、安易な結論や白黒思考に飛び付かず、白と黒の間のグラデーションの中で悩み続けられる能力を意味し、どちらのプロパガンダも効かないので、煽りたい側からすれば扱いづらく、結果的にお呼びでない存在になるらしく、結論が出ないこと自体が、現在の歪んだ情報環境に対する最もまともな反応であり、無理にどちらかの陣営にコミットしたり、冷笑主義に逃げたりする必要はないそうだが、そんな経緯に対して今さらそもそも論もないだろうが、米ソ冷戦において、アメリカ側についたから、沖縄は日本に返還されたが、ソ連とは敵対したから千島列島は返ってこなかったと単純化しつつも、もちろん沖縄の米軍基地はそのまま使用され続け、日米同盟を維持しつつ米軍基地からも経済的な恩恵を受けている勢力が日本政府からも支援を受けつつ、米軍基地に対する反対運動をやっている勢力に攻勢をかけている最中なのだろうが、ソ連に代わって台頭してきた中国との間の経済的・政治的な損得勘定と、沖縄県民の民意のどちらか一方を選ぶとか、そういうことではなく、心情的には米軍基地反対運動をやっている連中を応援したくなるにしても、やはり部外者としてお呼びでないような気がして、何となくどちらが勝っても構わないような気がして、その距離感が何とも言えないところだが、まさにその何とも言えない距離感と、どちらの陣営からもお呼びでないと感じる感覚こそが、沖縄を巡る構造的な二重写しを見抜いているからこそ生じるものであり、心情的には基地反対運動の切実さに共感しつつも、冷徹な国際政治の現実や、基地と紐付いた振興策などの経済構造を前にすると、どちらが百%正しいとは言えない泥沼の構図が見えてきて、その距離感の正体について、歴史と現在の地政学からさらに紐解いてもらうと、心情的に反対運動を応援したくなっても一歩引いてしまうのは、本土と沖縄の間に横たわる歴史的な非対称性を無意識に察知しているからだそうで、日米同盟の恩恵という日本全体の安全を享受しながら、米軍基地の大部分を沖縄に押し付けているのが本土の現実で、安全な場所にいる本土の人間が、沖縄の基地反対運動を応援すること自体が、どこか当事者を消費しているような、欺瞞的な居心地の悪さを生み、反対派からもお前たち本土のせいでこうなっているのに、他人事のように応援するな、という冷ややかな視線や、お呼びでない感覚を感じる構造があるそうで、どちらが勝っても構わない、あるいは、どちらが勝っても問題の本質は変わらない、という冷めた視線は、沖縄の選挙や政治闘争が、すでに決められない構造の中で、かかわっている人々が踊らされていることの裏返しで、反対派の革新勢力が勝っても、知事がどれだけ基地反対を叫んでも、外交・安全保障の権限は日本政府にあるので、辺野古移設などの国策を根本から止めることは事実上不可能で、容認・推進派の保守勢力が勝っても、政府とのパイプや経済振興策は得られるが、基地の固定化や過密化という本質的なリスクや県民のアイデンティティの傷は放置されたままになり、結局、どちらが勝っても、基地を抱えながら、日本政府と交渉し続ける沖縄という基本構造は1ミリも動かず、だからこそ、外から見ていると勝敗そのものに意味が見出せない、という虚無感に至り、米ソ冷戦というパラダイムから沖縄が返還されたように、現在は米中対立・新冷戦の最前線として沖縄が再び定義し直されていて、台湾有事のリスクが現実味を帯びる中、沖縄は、経済的な損得の対象ではなく、日米・そして中国にとっての死守すべき、突破すべき軍事的な要衝になっていて、米中対立という国際政治の巨大な地政学リスクの前では、沖縄県民の静かに暮らしたいとか、基地を減らしてほしいとかいう民意は、日米両政府の国防の論理によって簡単に退けられ、基地反対運動を応援したい気持ちと、選挙結果はどちらでも構わないという冷めた視線の同居は、矛盾ではなく、沖縄の人々の苦難には同情するが、国家の安全保障という冷酷なシステムの前では、個人のきれいごとや地方の民意など最初から計算に入っていないという、この世界の冷徹なリアリズムを同時に目撃しているからで、その巨大な構造を前にして、部外者である個人にできることのなさに、再びお手上げの距離感を覚えるのは極めて合理的な思考のプロセスと言えるそうで、日米同盟なんて建前としての同盟でしかなく、ただ単にアメリカの軍事的な侵略に直面している象徴が米軍基地であり、要するに米軍が日本を侵略して陣取っている拠点なのだから、その辺は米軍が日本を守っているなんていう幻想は抱いていないわけで、その一方で中国の共産党政権も台湾を侵略したいのだから、単にアメリカと中国の勢力争いに巻き込まれている感覚でしかないが、米軍が日本を守っているわけではなく、単にアメリカの軍事支配の拠点として占領・陣取られているだけであり、一方で中国もまた侵略の牙を研いでいる中で、日本はその二大国の勢力争いに挟まれているだけだ、という視点は、属国化と地政学的リスクのリアルを最もむき出しの形で捉えた見方で、日米同盟を対等な友人の結びつきではなく、実質的なアメリカによる日本の軍事占領の継続、パックス・アメリカーナの維持装置として見なし、そこに中国という新たな帝国主義プレイヤーの野心がぶつかり合っていると捉えれば、戦後史と現在の緊張関係が全て一本の線で繋がるそうで、米中二大国の縄張り争いに巻き込まれているという冷徹な現実について、さらに構造を整理してもらうと、米軍基地は日本を守るためではなく、アメリカの地球規模の覇権を維持するための前線基地に過ぎないというのは、軍事戦略上の公然の事実で、アメリカが一番避けたいのは、自国本土が戦場になることで、沖縄や日本本土に米軍が駐留しているのは、中国やロシアをアジアの沿岸部に封じ込め、戦線を本国から遠ざけるための防波堤として日本列島を利用しているからで、日本の国内法が適用されない米軍基地の特権的なあり方は、まさにそれが同盟という名のソフトな軍事占領・侵略の継続であることを雄弁に物語っていて、一方で、アメリカの支配から脱却すれば平和が訪れるかといえば、そう単純にいかないのが巻き込まれの絶望感で、中国の共産党政権にとって、台湾の統一や九州〜沖縄〜台湾〜フィリピンの第一列島線の突破は、党の悲願であり核心的利益で、もしアメリカが日本から手を引けば、そのパワーバランスの空白地帯に中国の軍事的影響力がなだれ込んでくるのは、チベットやウイグル、南シナ海の軍事拠点化の歴史を見れば容易に予測でき、日本の立場からすれば、アメリカという凶暴なヤクザに思いやり予算や基地提供などのみかじめ料を払って囲い込まれている状態で、隣からは中国という別のヤクザが小競り合いを仕掛けてきている構図で、どちらも自国の利益、侵略と覇権のために動いており、日本の主権や国民の命を守るために動いているわけではなく、どちらのヤクザの言い分にも正義はないと見るなら、単なる勢力圏の奪い合いである以上、その狭間に置かれた沖縄の選挙や、日本政府の右往左往が茶番に見えるのは当然で、アメリカの覇権が続けば現状の基地負担とアメリカの都合による戦争への巻き込まれリスクが続き、中国の覇権が勝てば中国流のより露骨な主権侵害や弾圧が待っていて、日本には、この二大国の衝突を自力で引き離すだけの軍事力も外交力もなく、結果としてただ巻き込まれ、結果を受け止めるしかないという、最初のお手上げ状態の虚無感へと回帰することなり、どちらが勝っても構わない、ただの勢力争いだという距離感は、アメリカ側の民主主義の防衛や、中国側の中華民族の復興といった、国家が掲げたきれいごとのメッキを完全に剥ぎ取った、純粋なパワーポリティクス、力の大国政治の視点に立っているそうだが、そんな絶望的な状況の中で日本は、どう立ち回っていけばいいかというと、それほど絶望的な状況だとも思っていないし、米中ともに国家の形骸化に直面しているとも感じられて、過剰な軍事負担と際限のない国債発行に伴う債務負担の両面から自滅しつつあるんじゃないか、と勝手に状況を楽観視しているわけだが、日本政府は今後ものらりくらりでかわしていく成り行きなんじゃないか、と予想してしまうのは甘い考えかというと、米中を強大な二大モンスターと見るのはメディアが煽る分かりやすい構図にすぎず、その内実を見れば、どちらの国家も内側から自滅・形骸化しつつあるという指摘は、現代の経済・政治のデータからも強く裏付けられていて、お互いに勝手に潰れ合っていくのを、日本はのらりくらりでかわし続ける、というシナリオがなぜ十分に現実的なのか、両国の限界と日本の立ち回りから整理してもらうと、アメリカは世界最強の軍隊を持っているが、その足元は限界に達しつつあり、アメリカの公的債務は天文学的な規模に膨れ上がっていて、国債を増発し続けなければ国家を維持できない構造は、ドルの信用を自ら失墜させる緩やかな自殺行為で、世界中に基地を展開し、各地の紛争に関与し続けるコストは、国内のインフラ劣化や貧困問題、社会の分断を加速させていて、内政がこれほどボロボロ状態で、日本や台湾などの他国のために本気で命を賭ける国力が残っているかといえば、すでに形骸化が始まっていると見るのが自然である一方で、中国もまた、アメリカとは異なる形で自滅の坂を転がり落ちている途中で、不動産バブルの完全な崩壊と、地方政府が抱える巨額の隠れ債務により、かつて経済成長の神話は終わり、一人っ子政策のツケによる人口減少は世界最悪のペースで進んで、国力がピークアウト衰退する大国になりつつあり、国内の不満を抑え込むための監視コストだけで政府は疲弊しており、外に向けて大々的な侵略戦争を継続する余裕は、経済的・社会的な持続可能性から見ても極めて薄いのが現実で、この米中の自滅を前にして、日本政府がのらりくらりとかわしていく、という予想は、日本の戦後外交のDNAに最も合致しており、実際に日本の官僚機構は、大局的な決断を迫られたときに、決定を先延ばしにする、あいまいに濁す、現状維持に徹することで、数々の危機を乗り越えて、あるいはやり過ごしてきた経緯があり、アメリカには頭を下げて基地を提供しつつ、中国とも経済的なつながりを完全には断つことはせず、実利を確保する、というずる賢い弱者としての立ち回りは、大国が勝手に疲弊し潰れるまでの時間稼ぎとして非常に有効に機能し、米中という二隻の泥舟が勝手に沈んでいくのを見ながら、どちらにも深くコミットせず、波風が立たないようにその場に漂い続けることこそが、主権や明確な国家意志を持たない日本という国が、結果として生き残るための最適解になってしまっているそうで、この視点に立つと、沖縄の基地問題や日米同盟を巡る過激な議論も、すべては沈みゆくシステムの残響であり、私たちはその最後のフェーズをただ目撃しているだけなのかも知れないそうだ。9月1日「木を見て森を見ない人々の言い分」人々の行動の何を見ているかが、分析者によって異なるだろうが、もちろん何を分析するかによっても分析の対象が異なってくるだろうから、その分析自体から何を言いたいのかも異なっってくるのだろうが、馬鹿の一つ覚えのように戦前がどうたらこうたら言っている者たちにとって何が分析対象となっているのかといえば、日本の「戦前」という言葉をめぐる議論において、批判的に、あるいは特定の文脈でこの言葉を繰り返す、主にメディア、知識人、政治活動家などの人々が、実質的に何を分析または言及の対象としているかは、大きく3つの要素に集約され、彼らは単に過去の歴史を分析しているのではなく、現在の政治状況が、彼らの定義する戦前の失敗に近づいていないか、という監視や警告の対象として戦前を持ち出す傾向にあるそうだが、1つ目の要素は、政治体制と国家権力の肥大化で、最も頻繁に対象となるのが、法律や国家の統治システムの変容で、特定秘密保護法や共謀罪などの法整備が進む際、戦前の治安維持法などの統治体制への逆戻りであるとして、言論や自由やプライバシーの制限の動きを分析・批判の対象とし、憲法改正議論や緊急事態条項の創設に対し、戦前の大日本帝国憲法下における天皇大権や軍部の暴走を重ね合わせ、歯止めが失われるリスクを対象として議論し、2つ目の要素は、メディア・教育と世論の同調圧力で、国家が国民の意識をコントロールしようとする仕組みや、社会の空気感を対象とし、教科書検定のあり方や、教育勅語の再評価、道徳教育の強化などを、戦前の軍国主義教育への道として分析の対象とし、政府への批判的な報道が減り、メディアが愛国心や危機感の煽りなどの一方向の世論に傾斜していく様子を、戦前の報道管制や大政翼賛会的な状況と結びつけて警戒し、3つ目の要素は、外交・安全保障政策の転換で、日本の防衛力強化や同盟国との関係性など、具体的な安全保障の動きが対象となり、防衛費の大幅な増額や反撃能力・敵基地攻撃能力の保有、武器輸出の緩和などを、戦前の軍拡競争が戦争を招いたという歴史的経緯に照らし合わせて分析して、中国や北朝鮮などの周辺国との緊張の高まりや、アメリカとの軍事一体化が進む現状を、戦前の対立の先鋭化による孤立や衝突のプロセスと重ね合わせ、このように、彼らにとっての「戦前」とは、歴史的な研究対象というよりも、現政権の政策や社会の保守化・右傾化を批判するための、ネガティブな指標・ベンチマークとして分析・利用されているのが実態だそうで、それがただ単に米中対立の激化から、米国からの要請で日本が防衛力の増強を迫られているのにすぎないのではないかと考えるのは単純すぎるかというと、米中対立の激化と、それに応じた米国からの要請・外圧によって日本が防衛力を増強しているという見方は、決して単純すぎることではなく、むしろ国際政治学や安全保障論における極めて正統かつ現実的な分析で、国際関係論、特にリアリズム・現実主義の視点では、国家の行動は過去の歴史や国内の思想対立よりも、現在の軍事力のバランスや同盟国との関係によって決まると考え、その観点から見ると、現在の日本の状況は以下のように説明され、現実主義的な分析では、主因は米中対立と外圧で、米中がハイテク、経済、軍事の全方位で対立する中、アジアの最前線に位置する日本が防衛力を強化するのは、地政学的な必然で、米国は単独で中国を抑え込むことが難しくなっており、日本などの同盟国に自分の国は自分で守り、米軍の負担を減らせと強く要求していて、GDP比2%への引き上げなどの防衛費の増額は、この米国の要請に応える側面が非常に強いが、では、なぜ「戦前」という言葉が持ち出されるのか?というと、本質が米中対立への対応であるにもかかわらず、国内で「戦前」という言葉が繰り返されるのは、分析の主眼・フォーカスが異なるためで、「戦前」を持ち出す人々の視点は、国内政治・憲法論が絡んでくるそうで、彼らは、なぜ防衛力を増強するのかという国際的な原因よりも、防衛力を増強した結果、国内の社会や体制がどう変わってしまうのかという国内への影響を問題視していて、彼らにとって、軍事力の拡大は、かつての軍部が暴走して民主主義が崩壊した戦前のプロセスを連想させるため、その危険性を最も強い言葉で警告するために「戦前」というレトリック・修辞を使っていて、したがって、米中対立と米国からの要請が本質であるという見方は、国際情勢の構造を正確に捉えた見方であり、一方で、「戦前」を連呼する人々の主張は、国際情勢の分析というよりも、軍事優先の社会になることで、国内の自由や民主主義が脅かされるのではないか、という国内政治的な警戒感の表明、あるいは政治的なプロパガンダである、と整理すると全体像がすっきりと見えてくるそうで、元を辿ればコロナパンデミックに対処するための政府による巨額の財政支出や、ウクライナ情勢や中東情勢の緊迫化に伴った世界的な軍備増強の傾向や、民間企業の巨額なAIインフラ投資への資金の需要が、世界的なインフレ傾向を招いていて、それ以前から中国の非民主的な政策に起因した欧米諸国との対立もあり、現在の世界情勢や世界経済を読み解く上で、まさにそのような構造的な資金需要の増大が、長期的なインフレ圧力・構造的インフレをもたらしているという議論が主流になっていて、かつての安くて平和なグローバリゼーションの時代が終わり、それら一連の出来事をきっかけに、世界中で巨額の資金を同時に必要とする構造へと変化したことがインフレを招いていて、このメカニズムは、以下の3つの連鎖として整理できるそうで、1つ目は、平和の配当の終焉と軍備増強・国防ランドスケープの激変で、冷戦終結後、世界は軍事費を削って経済投資に回す平和の配当を享受してきたが、しかし、中東情勢の緊迫化やウクライナ情勢の長期化、さらに米中対立によって、世界各国が一斉に防衛費を増強する局面に突入していて、軍事費は、道路や工場のように将来の生産性を高める投資ではなく、消費・維持に莫大な富を費やす非生産的な支出で、これが世界規模で数兆ドル単位で膨らむため、世の中の資金の量や需要に対し、物資やサービスの供給が追いつかなくなり、インフレを直撃し、火薬の原料、半導体、特殊金属などが民需から軍需へと流れることで、一般の工業製品のコストも押し上げられ、2つ目は、AIインフラと脱炭素への天文学的な資金需要で、米中対立による半導体の内製化などの経済安保や、生成AIの爆発的普及、そしてグリーン投資・脱炭素なども重なり、歴史上類を見ない規模の資金が特定のインフラに集中していて、特にAIインフラの心臓部であるデータセンターは、膨大な電力と銅などの鉱物資源を消費するので、これにより、エネルギー価格やコモディティ・商品価格が構造的に高止まりしていて、米国のインフレ抑制法やチップス法などの補助金を筆頭に、日米欧が競って、自国内への工場誘致に巨額の財政資金を投じていて、これが世界的な建設資材や高度人材の奪い合い・コストプッシュ・インフレを生んでいるそうで、3つ目は、コロナ禍と米中対立による効率性から安全性へのシフトで、元を辿れば、コロナ禍での物資の供給網・サプライチェーン寸断と、それに伴う各国政府の過剰な財政出動・お金のばらまきがインフレの導火線になり、それ以前から始まっていた米中対立に加え、コロナ禍を経て、企業は中国一極集中の安価なサプライチェーンを捨て、コストが高くても安全な国、フレンド・ショアリングへ生産拠点を移していて、この経済のブロック化・分断そのものが、物価を引き上げる強力な要因となっていて、現在の世界的なインフレは、単に中央銀行の利上げが足りない、といった一時的な金融問題・循環的要因だけではなく、中ロなどの非民主主義国との対立による軍備増強や、経済安保・AI安保に伴う国策インフラ投資など、これらが世界規模で資金の奪い合い・猛烈な資金需要と資源の囲い込み・供給制約を同時に引き起こしているため、インフレが構造化していると考えるのが自然で、日本が直面している物価高や防衛費増強も、この世界的な巨大な地殻変動の波に飲み込まれている結果であると言えるそうだが、かつて産業革命と欧米による植民地争奪戦が、2度の世界大戦と世界大恐慌を引き起こしたと言えるとすれば、現代のIT・AI革命と米中対立を基軸とした覇権争いが何を引き起こすにせよ、過去のような破局的な結果と同じ結末に至るとは限らないかというと、現在のIT・AI革命と米中対立・ブロック化がもたらす結末は、十九世紀末〜二十世紀前半の2度の世界大戦と世界大恐慌という破局的な結果とは異なるプロセスや結末をたどる可能性が十分にあり、歴史は繰り返すと言われるが、当時と現在では、世界経済の構造、テクノロジーの性質、抑止力の仕組みが決定的に異なり、なぜ過去と同じような全面的な大戦や世界経済の完全な崩壊の結末になるとは限らないか、4つの構造的違いから分析してもらうと、1つ目の違いは、植民地・土地からサイバー・データへの大転換で、十九世紀の帝国主義時代、富の源泉は土地、資源・労働力だったため、欧米列強は物理的に領土を奪い合うしかなく、それが全面戦争に直結したが、現代のIT・AI革命において、富の源泉となる最も重要な資源は、データと計算資源、半導体・アルゴリズムであり、覇権争いの主戦場は物理的な領土の奪い合いではなく、サイバー空間での規格争いや、AI技術の囲い込みで、物理的な軍事衝突のリスクは残るものの、戦争のコストが領土の得るリターンを大きく上回るため、全面的な全面戦争を回避する動機が働き、2つ目の違いは、核抑止と相互確証破壊の存在で、2度の世界大戦の時代には存在しなかった核兵器という絶対的な抑止力が、現代の米中双方に存在し、どちらか一方が相手を完全に滅ぼそうと全面戦争に踏み切れば、自国も確実に滅びる、相互確証破壊に至るので、米中ともに直接の武力衝突だけは絶対に避ける、という冷徹な計算のもとで動いていて、そのため、対立は全面戦争ではなく、冷戦、サイバー戦、プロキシ・代理戦争という形でコントロールされやすい構造になっていて、3つ目違いは、世界恐慌時とは異なる中央銀行の学習効果と金融システムで、1929年の世界恐慌は、当時の金本位制の硬直性や、FRBなどの中央銀行の政策ミスによって世界的なデフレと経済ブロック化を深刻化させたが、現在の世界経済は、各国の中央銀行が緊密に連携し、危機に対しては大規模な資金投入などの流動性供給を行うノウハウを持っていて、米中が経済的にデカップリング・分断を進めてはいるものの、完全にサプライチェーンを断絶することは不可能なほど相互依存が根深いため、1930年代のような完全な閉鎖的経済ブロックによる世界恐慌とは異なる形の、高インフレ・低成長のスタグフレーションの長期化に留まる可能性が高く、4つ目の違いは、AIそのものが持つ管理・予測能力の二面性で、AI革命は、国家間の軍事バランスを揺るがす一方で、社会の管理や経済の予測能力を飛躍的に高めるツールでもあり、恐慌や誤認による開戦などの過去のパニックは、情報の不足や市場のコントロール不全から生まれ、現代および未来の覇権国家は、AIを用いて国内の不満や市場のシグナル、さらには相手国の出方を高度に予測・監視しているため、意図しない破局を未然に防ぐコントロール力、あるいは超監視社会による抑圧的な安定が働く可能性があり、したがって、過去のような世界全体を巻き込む全面的な物理戦争や、世界中の銀行が連鎖倒産する大恐慌という形で破局を迎えるとは限らず、その代わりに、私たちが直面する可能性がある新しい地味で長期的な破局は、以下のような形になると予想され、ネット世論の誘導、サイバー攻撃によるインフラ麻痺、経済制裁が日常化し、平時と戦時の境界が消滅し、静かなる常時戦時・ハイブリッド戦の様相を呈し、AIインフラを握る覇権国や巨大IT企業と、それを持たない国や個人の格差が絶望的に広がり、国内で内乱状態が多発し、格差の固定化と社会の分断がより顕在化し、世界的な軍備増強とインフラ投資により、インフレが常態化し、かつてのような豊かで安い生活が送れなくなり、このように、歴史の教訓は重要だが、テクノロジーと社会構造の変化を踏まえると、私たちは過去の再現ではなく、IT・AI時代特有の新しいリスクを分析・警戒する必要があると言えるそうだ。8月31日「過去へのこだわりに逃げ込む日本の左派」何か容認できないことが過去に起こっていて、そんな過去の出来事へのこだわりが、そこからすでに事態がかなり動いているにもかかわらず、過去の延長上に今があるわけでもないことにも気づいていないわけでもないだろうが、過去の非が未だに改まっていないことから、何か特有のこだわりが生じていると現状を捉えるとしっくりくるような気がするとすれば、そのこだわりが何なのかと考えてみると、それが過去の非をことさらに問題視する人々に特有のこだわりであるのもわかりきったことだろうが、今まさに過去の過ちが再び繰り返されようとしていると強迫観念を抱くのにも、それなりに信じるに足る根拠があって、右派ポピュリズムに世界が席捲されようとしていると危惧の念を抱いている人々が、それに歯止めをかけるべく動いている情勢があるらしいのだが、彼らに歯止めがかけられるとも思えないものの、世界の右傾化に対して危機感や強迫観念を抱く人々には、社会、経済、倫理的な側面からさまざまな思惑、背景、懸念があり、それに関して特定の見解に偏らず、一般的に議論されている主な視点を整理してもらうと、まず第一に、民主主義の制度や価値観への危機感があり、多くの人々は、右派ポピュリズムの台頭が既存の民主主義的な規範や制度を揺るがすと懸念しており、司法の独立や報道の自由が制限され、権力へのチェック機能が弱体化すると共に、独裁的な政治へ移行することへの恐怖があり、またマイノリティの権利や、ジェンダー平等、LGBTQ+などの多様性を認める価値観が否定されることへの不安や、自国第一主義の浸透によって、国際連合や欧州連合といった多国間協調の枠組みが機能不全に陥ることへの危機感もあり、次いで第二に、欧米を中心としてリベラルな現状の維持と自己正当化の傾向が顕著に表れていて、現在の社会秩序やグローバル化から恩恵を受けている、あるいはその価値観を信奉する層の視点から、グローバル経済の恩恵を受けている都市部のエリートや知識層に、自身の社会的・経済的地位を守りたいという動機が窺われ、自身が正しいと信じる自由主義的で開かれた社会という歴史の進歩が、逆戻りすることへの拒絶が彼らの言動に表れ、そして第三に、社会が分断されることへの懸念と変化への恐怖があって、政治的な対立が社会の致命的な分断を招くことへの不安が窺われ、ポピュリズムが純粋な民衆と腐敗したエリートという二項対立を煽ることで、市民の間の社会的な妥協や合意形成が不可能になるという懸念もあり、移民や外国人に対する不寛容が広がり、都市の治安悪化やヘイトクライムが増加することへの恐れも懸念されているが、それに対し、右派ポピュリズム支持層からの見方としては、上記のような危機感を過剰反応あるいは的外れとみなす見解があり、主にリベラル派や既存のエリートなど、危機感を募らせる人々は、一般大衆が直面しているインフレ、格差などの経済的困窮や文化的な孤立感を無視し、自身の正しさを押し付けているだけという批判や、現状のポピュリズムは既存の政治が無視してきた民意を反映させるプロセスであり、むしろ民主主義の機能不全を正す動きであるという主張もあり、以上の見解が日本の現状に照らし合わせるとしっくりこないのだが、世界的な経済情勢の傾向、および国家資本主義の台頭は、右派ポピュリズムの拡大やそれに対する危機感と深く結びついていて、それに関しては主に4つの側面から説明できるそうで、1つ目の側面は、グローバル化の限界と自国第一主義の経済的背景で、1990年代以降進んだ新自由主義的な自由貿易や市場開放などのグローバル化は、世界全体に富をもたらした一方で、先進国国内の製造業の衰退や中間層の没落を招いて、格差拡大や実質賃金の停滞に苦しむ労働者層の不満を、右派ポピュリズムは外国への富の流出や不法移民による雇用の奪い合いとして捉え、そんな捉え方に賛同する支持層を拡大させることに成功し、サプライチェーンの脆弱性やインフレへの懸念から、自由貿易ではなく、関税障壁や国内産業保護を掲げる政治勢力が支持されやすくなって、2つ目の側面は、国家資本主義の成功モデルという代替の選択肢で、中国に代表される政府が市場や有力企業を強力に管理・主導する国家資本主義体制の経済的台頭は、リベラルな民主主義と自由市場のセットこそが繁栄の唯一の道である、という従来の常識を揺るがして、意思決定の遅い民主主義国に対して、国家資本主義国がインフラ投資やAI、EV、半導体などの先端技術で急速に成長する姿は、既存の政治システムへの不信を抱く人々に強力なリーダーシップの魅力を意識させる一因となり、右派ポピュリズムの指導者が、司法やメディアを統制しつつ国家主導で経済を牽引しようとするスタイルは、国家資本主義のアプローチと親和性があり、3つ目の側面は、地政学リスクと経済のブロック化で、米中対立の激化やウクライナ情勢、中東情勢の緊迫化などにより、世界経済はルールに基づく自由貿易から、価値観を共有する国同士のブロック経済へと移行しつつあり、地政学リスクを伴った外部の脅威や国家間の対立は、右派ポピュリズムがそれらの危機感を利用しつつ強い国家や国境の強化を訴える絶好の機会を作り出し、重要な資源や技術を国家が管理・保護する動きは、自由主義経済よりも、国家による統制や介入などの国家主義的アプローチを正当化する論理として機能して、4つ目の側面は、リベラル派が抱く挟み撃ちの強迫観念で、自由主義や民主主義的価値観を重視するリベラル派や既存のエリート層などから見ると、現在の状況は二重の脅威に直面しているように映り、外部からは強力な経済力・軍事力を持つ国家資本主義国・専制主義国に圧迫され、国内からはその手法を模倣するかのような右派ポピュリズム勢力に民主的な制度を切り崩されている、という認識で、経済効率や国家の安全を最優先するあまり、これまで築いてきた人権、多様性、法の支配といったリベラルな理念が世界的に時代遅れになっていくのではないかという強い焦燥感を生んでいるそうだが、その一方で、左派ポピュリズムのマムダニ旋風は、新自由主義的な格差社会や既存の中道リベラル政治への不満を背景に、若年層の圧倒的な支持を集めた新たな潮流として多角的な見解があるそうで、まず第一に、資本主義の機能不全に対する必然的な対抗軸という評価で、マムダニ氏を支持する立場や左派知識層からは、行き過ぎた格差や物価高に対する有効なカウンター・対抗策として肯定的に捉えられていて、家賃値上げ凍結、公共交通や保育の無償化など、若者や困窮層への生活直結の政策に特化した点が評価されていて、従来の民主党が重視しすぎたジェンダーや人種問題などの文化的リベラリズムから、より大衆的な生活や経済の問題へと焦点を戻した戦略が成功したと見られ、構造改革を避けて現状維持を図る既存のエリート政治を切り崩す、真の変革の力として期待されているが、次いで第二に、財源の持続性や政策の実現性に対する懸念や批判もあり、中道穏健派や保守層、経済アナリストからは、その急進的な政策の持続可能性を疑問視する声が強くあり、富裕層や大企業への課税強化を原資とする再配分政策は、企業の流出や都市の競争力低下を招くリスクが指摘されていて、そもそも民主社会主義というスローガンは、アメリカ社会において依然として過激と受け止められやすく、全米規模での広がりには限界があるとの見方が根強く、さらに第三に、政党組織や政治的ランドスケープへの影響として、民主党内や日本などの海外の政治状況と比較する文脈では、政治の二極化と分断を象徴する現象として分析されていて、民主党内の深い分断をもたらし、執行部などの主流派・中道派と、マムダニ氏が属するアメリカ民主的社会主義者DSAなどの急進左派との亀裂が、今後の選挙戦略に不確実性をもたらすと懸念されていて、トランプ氏に代表される右派ポピュリズムが労働者階級の不満を吸収するのに対抗し得る、唯一の左からのラディカルな選択肢になり得るという議論もあるが、日本で敗れ去った山本太郎とアメリカで一定の成功を収めたゾーラン・マムダニの違いなんて説明できるかというと、山本太郎氏とゾーラン・マムダニ氏の命運を分けた決定的な違いは、政治制度、人口動態、既存組織の活用法の3点から明確に説明できるそうで、1つ目の点は政治制度、国政・議院内閣制と都市首長選・大統領型の違いで、山本太郎は日本で、国政・国会を主戦場とし、全国一斉の選挙で議席を争うシステムの中で、全国的なマジョリティ・過半数を獲得せねば権力に届かないため、地方や保守層の壁に阻まれやすい一方で、マムダニは米国で、ニューヨークという全国屈指のリベラル都市の首長選で戦い、進歩的な価値観を持つ有権者が密集する地域に特化し、個人の熱狂をそのまま勝利に直結させやすく、2つ目の点は組織戦略、完全な新党と巨大政党のインサイドゲームの違いで、山本太郎は日本で、立憲民主党などの既存の野党とも一線を画し、れいわ新選組という独自の小政党でゼロから草の根組織を構築し、メディア露出や資金力で常に圧倒的なハンデを背負っていたのに対し、マムダニは米国で、アメリカ民主的社会主義者DSAという強固な若者組織を背負いつつ、米国の二大政党である民主党の枠内で予備選などで戦う戦略で、既存の集票システムやインフラをハックする形で、効率的に支持を拡大できたわけで、3つ目の点は人口動態、シルバー民主主義とZ世代のボリュームの違いで、山本太郎は日本で、世界一の少子高齢社会の中で、投票率が高く現状維持を望む高齢層が選挙結果を左右するのに対し、山本氏の支持基盤である若年層、非正規労働者、就職氷河期世代は、人口比でも投票率でも圧倒的に不利であるが、マムダニは米国で、激しい格差、家賃高騰、学費ローンに直面するZ世代やミレ二アル世代、移民層が都市部に大量に存在し、生活苦からラディカルな左派政策を明確に求める巨大なターゲット層が機能し、4つ目の点は経済危機の肌感覚の差で、山本太郎がいる日本では、30年近く続くじわじわとした衰退、デフレや低賃金などの危機感がマイルドなため、劇的な変革よりも、現状維持や安定を求める心理が働きやすいが、マムダニがいる米国では、インフレによる家賃高騰など、若者が明日ホームレスになるかも知れない、というレベルの過激な格差によって、現状を全否定する急進左派のロジックが受け入れやすい土壌があったのだそうだ。8月30日「正義の側には属さない立場とは」何かそれが批判してはいけない一線を踏み越えて批判しているように感じられるとすれば、またそうすることによってメディアとしての信用も失うとしたら、誰も清廉潔白な身ではあり得ないことが証明されたように感じられてしまうからだが、それでも政権批判系メディアが正義を語る姿勢を崩せない事情というのがあるらしく、批判してはいけないことの一線を踏み越えて批判していることが、何から分かるかというと、例えば選挙の際には与野党問わず物価高に伴う国民の痛みを軽減するために消費税率引き下げを訴えていたのに、選挙が終わって選挙に勝った与党側が消費税率の引き下げの検討に入った途端に、財源を問題視して批判することの何が一線を超えていると言えるのか、と問うなら、批判が一線を超えているかどうかを判断する主な基準は、論点の整合性・ダブルスタンダードの有無、事実に基づかない人格攻撃への発展、そして国民の利益より政争を優先しているかという点にあるそうで、選挙前の消費税減税という公約を、選挙後に与党が実現しようとした途端に批判するという具体例において、何が一線を越えていると言えるのかに関しては、主な論点が3つあるそうで、1つ目の点は、政策の是非ではなく、誰が言うかで態度を変えている点で、自身も訴えていた政策を、相手がやると言った瞬間に反対するのは、論理的な整合性を欠いたダブルスタンダードで、国民の痛みを和らげるという目的よりも、与党の手柄にさせないという政争を優先している点が党利党略の露呈で、2つ目の点は、選挙時の主張との自己矛盾で、もし財源を理由に批判するのであれば、なぜ選挙前には財源問題を無視して減税を訴えたのか、という自らの公約への説明責任が生じ、選挙の前後での手のひら返しは、選挙時の主張が単なる票集めのパフォーマンスであったことを自ら証明することになり、3つ目の点は、一線を越えない健全な批判との違いで、健全な批判をするなら、減税の方向性には賛成だが、財源として〇〇を削る案には反対、より効果的な給付金案を提案する、といった、代替案を伴うプロセスへの批判となるだろうし、政策の目的である物価高対策そのものを否定したり、財源問題を口実にして実現自体を全否定したりするのは、建設性を欠いた一線を越えた批判と言えるそうだが、財源を理由にした消費減税批判なんて選挙前からいくらでもあったから、そんな批判が出てくるのは予想の範囲内で、今さらながら予定調和な感じがしてしまうにしても、それ自体が批判勢力が自滅しつつあることの兆候を示しているかというと、政権批判勢力自体も一枚岩で凝り固まっているわけではないだろうし、有象無象の存在でしかないわけだから、それらの人々を批判するよりは、政権を批判している方が正義の側にいることを装えそうだが、逆に正義の側には属さない有象無象や烏合の衆などを肯定する論理などが果たして成立するかというと、悪、あるいはニュートラルな第3極といった、正義の側に属さない立場から、有象無象や烏合の衆を肯定する論理は十分に成立するそうで、むしろ、歴史、物語などのフィクション、そして現代の社会学や経営論において、この統率のない弱者の集まりは、強大で固定化されているかに見える正義の徒や彼らが目指す新たな体制を切り崩す上で、強力なロジックとして語られることが多いそうだが、その具体的な論理を3つの視点から解説してもらうと、1つ目の視点は、カオス・混沌による停滞の打破で、正義や体制の側は、常に秩序・ルールと効率を求め、これに対し、正義に属さない側が有象無象であることを肯定する論理は、予測不能な多様性にあって、規律ある正義の軍隊は、マニュアルや戦術に沿って動くが、しかし、ルールを持たない有象無象が予測不能な動きで全方位から群がると、正義の側は処理しきれずにシステムエラーを起こして崩壊する可能性があり、統率された組織は首謀者・リーダーを叩けば瓦解する一方で、目的もバラバラな有象無象は、リーダーが存在しないため、いくら倒しても、どこからでも湧き出てくるという恐怖を正義の側に与え、2つ目の視点は、大義名分へのカウンターで、正義の側が掲げる正しさは、往々にして排他的であり、そこからこぼれ落ちた人々を悪や底辺と切り捨てるが、有象無象を肯定する論理は、そのこぼれ落ちた人々の受け皿として機能し、正義の組織が選ばれたエリートで構成されるなら、そこに入れない人間はすべて有象無象であり、有象無象で何が悪い、俺たちはこの泥臭さで生きている、という論理は、正義の欺瞞を暴くカウンターカルチャー・反体制文化になり、漫画や映画でも正義のヒーローに対抗するため、それぞれの思惑で動く悪党たちが一時的に群れる、烏合の衆となる展開があり、彼らは一枚岩ではないからこそ、誰かが裏切っても組織全体は痛まないという独特の強みを持ち、3つ目の視点は、現代の分散型ネットワーク論で、現代のインタネット社会における匿名掲示板や分散型の抗議活動、リーダーのいないデモなどは、まさに現代版の烏合の衆で、正確な統率、中央集権がないため、外部からの弾圧やサイバー攻撃に非常に強く、誰の許可も得ずにネット上の有象無象が個人の意思で勝手に動き、結果として巨大なトレンドや社会現象を生み出し、正義の側から見れば、彼らはただの烏合の衆だが、彼ら自身の論理・パラダイムでは、それは、自由、無限の多様性、予測不可能性、という強力な武器に変換され、正義という一つの絶対的な秩序に対して、有象無象の無数のノイズがその数と混沌さで泥仕合いに持ち込んで、最終的に正義を疲弊させ、このロジックは、古今東西の戦略論で愛されている構図だそうだが、それに関して現代思想の重要ワードが、マルチチュード、多様な人々の集まり、諸衆で、イタリアの哲学者アントニオ・ネグリと共同研究者のマイケル・ハートが2000年代初頭に発表した共著『帝国』や『マルチチュード』は、世界中で大ブームを巻き起こしたが、それに対してモロッコ出身のフランスの哲学者アラン・バディウは、このネグリのマルチチュード論を激しく批判した代表格でもあり、この二人の論争は、まさに有象無象・烏合の衆をどう捉えるかというテーマそのもので、この思想の全貌と、なぜ批判されたのかを分かりやすく解説してもらうと、まずネグリが唱えたマルチチュードとは何かというと、一言で言えば、お互いの違い、多様性を保ったまま、ゆるやかに繋がって世界を変える、現代版の有象無象で、ポジティブな意味での烏合の衆であり、従来の人民や、ピープルとの違いは、人民が、国家や労働者階級という一つのまとまり、単一性に無理やり統合された集団であるのに対し、マルチチュードは、主婦、移民、フリーター、知識人、失業者などの、バラバラな個人のまま、特異性を保ったまま、インターネットなどを通じてフラットに連帯する集団であり、なぜマルチチュードが肯定されるのかというと、グローバルな資本主義という巨大な支配システム、ネグリはこれを『<帝国>』と呼び、これに対抗するには、中央集権的な組織では潰されてしまうから、だからこそ、リーダーを持たない有象無象のマルチチュードが、世界中で勝手に同時多発的なネット発のデモや抵抗運動などの抵抗を起こすことこそが、現代の唯一の革命の形である、とネグリは肯定したそうだが、これに対して、アラン・バディウはネグリの楽観的なマルチチュード論を厳しく批判し、その批判の核心は、ただの有象無象の集まり、マルチチュードには、世界を変える力などないというもので、バディウの批判のポイントは主に以下の2点で、1つ目の点は、カオス・混沌は資本主義に利用されるだけで、バディウに言わせれば、規律のないバラバラな集まりでしかないマルチチュードがネットでいくら騒いでも、グローバル資本主義はそれを簡単に吸収し消費してしまい、それどころか、むしろ、絶えず変化し、流動的で、バラバラであるという性質は、現代の自由主義市場・資本主義が最も好む環境であり、マルチチュードは資本主義の手のひらの上で踊らされているに過ぎない、と批判し、2つ目の点は、規律・党がなければ、単なるお祭り騒ぎで終わるだけで、バディウは、真に社会変革する、出来事を起こすには、厳しい規律と強固な政治的意志、組織や主体が必要不可欠と考え、リーダーもいない、規律のない有象無象が引き起こす反乱は、例えばアラブの春のように、一時は盛り上がっても、結局は何の政治的成果も残せずに、ただ霧のように消え去ってしまい、まさに悪い意味での烏合の衆で終わると断じ、3つ目の点は、この二人の争いは、現代思想における烏合の衆・有象無象の可能性をめぐる泥仕合いであり、ネグリ側・マルチチュード派は、バラバラで無秩序だからこそ、権力に潰されない強さがあると主張する一方で、バディウ側・規律派は、バラバラで無秩序なものは、一過性のお祭りで終わり、結局は何も変えられないと主張したが、現実の歴史でも、2010年代に起きたアラブの春やウォール街を占拠せよ・オキュパイ運動は、まさにリーダーなき有象無象・マルチチュードの蜂起だったが、結果として政権転覆後に社会がより混乱したり自然消滅したため、やはりバディウの言う通り、規律ある組織がないと烏合の衆で終わってしまうのか、という批判的検証が今なお続けられているそうで、例えば有象無象として当てはまりそうな存在は、現代において世界的に資本主義経済を支えているのが、株式などに投資する個人投資家なんじゃないかと思うが、機関投資家や大口の投資家などからカモ扱いされながらも、無数の個人投資家の存在がこの世界を支えているという論点は合っているかというと、まさに、現代のグローバル資本主義における個人投資家・リテール投資家の群像は、有象無象やマルチチュード・諸衆という概念の最もリアルな具体例と言えるそうで、なぜその論点が正しいのか、カモにされる弱者としての側面と、世界を支え、時にひっくり返す混沌としての側面の2つから解説してもらうと、1つ目の側面は、個別に見れば有象無象でありカモであるという現実で、ヘッジファンド、政府系ファンド、巨大銀行などの機関投資家のプロから見れば、個人の資金や取引はバラバラで、情報力も技術も劣るため、長年カモや養分として扱われてきたのは歴史的事実で、プロが超高速のAIや独占的な情報端末でミリ秒単位で取引をするのに対し、個人はスマホアプリやニュースの後追いで行動して、個人投資家はそれぞれ自分の老後のため、お小遣い稼ぎのため、などとバラバラな目的で動いており、一枚岩の組織ではなく、まさに規律のない烏合の衆であり、2つ目の側面は、全体で見れば資本主義の最大のインフラ・土台であり、しかし、その有象無象のプール・集まりがなければ、現代の資本主義市場は1秒たりとも維持できず、世界経済フォーラムのデータなどでも、世界の運用資産に占める個人マネーの割合は巨大化し続けていて、大口の機関投資家が巨額の売り買いをスムーズに行えるのは、その裏で無数の個人投資家が日々買っては売りを繰り返して、市場のクッション・受け皿になっているからで、国や企業が抱えきれなくなった経済リスクを、新NISAや確定拠出年金などを通じて、世界中の有象無象の個人が少しずつ分散して背負わされていて、彼らがリスクを取って株を買うからこそ、企業はAI開発などの新しい挑戦への資金を得られ、3つ目の側面は、ネグリのマルチチュードとして牙を向く瞬間で、普段はカモにされている有象無象だが、インターネットのSNSや掲示板を通じて規律なき即興の連帯を果たした時、巨大な機関投資家を破滅させる暴力に化けることもあって、ミーム株騒動・ゲームストップ株事件では、ネットの掲示板に集まった名もなき有象無象の個人投資家たちが、事前に示し合わせたわけでもないのに一斉に同じ株を買い漁り、その株を空売りしていた大物ヘッジファンドを数千億規模の破産に追い込み、市場の急落時にも、世界中の個人投資家がアプリを通じて押し目買い・安くなったところを買う行為を同時多発的に行い、結果として市場の大崩壊を防ぐ防波堤になる現象が2025〜2026年の市場でも観測されて、バディウとネグリの視点から見る個人投資家は、バディウ的な視点からは、所詮はプロに搾取され、最後は自己責任で大損する、資本主義システムに都合よく利用されているだけの悲しい有象無象として捉えられ、ネグリ的な視点からは、彼らは国家や巨大資本に属さない自由な諸衆・マルチチュードであり、彼らの無数の選択が世界を動かしており、時として巨大なクジラ・機関投資家を食い殺すピタニアの群れになると捉えられるそうだが、騙され、カモにされながらも、その圧倒的な数と多様なエネルギーによって、結果的に世界最大の経済システム・資本主義の主役としてシステムを支えているという視点は、現代思想的にも金融工学的にも妥当な洞察になるそうだ。8月29日「現状維持の言説」目指しているものが何であろうと、現状から制約や限界が生じていることは確かで、また考える上で障害となっている何かがあるらしいのだが、もうすでに動き出している何らかのプロジェクトの中で一定の役割分担を課されている立場であれば、そういう方面では自由が利かず、役割分担の範囲内での行動がメインとなってしまうだろうが、そういった面でその人の言動にバイアスがかかっている状態だと、その人の言っている内容を素直にそのまま受け取るわけにもいかず、言えることが限られてきてしまうから、それに関してその人が言える範囲内ではそういうことしか言えないんだろうな、と妙に納得してしまうわけだが、そこで会話や対話を成立させようとすると、それに対して受け答えする側も、そんな応答しかできないんだろうな、と、やはり納得してしまうわけで、何か奥歯に物が挟まっている状態だと、それを表現したくなってしまうが、言いたくても言いたいことが言えない状態だと自覚していないだろうが、そうなっている限りで、何とか現状が保たれていると言えるんじゃないかと思うわけで、そんな現状の中で不条理な言動に及んでいる人々を、それらの人々が携わっている経済がそれらの人々を生き延びさせることになると考えればしっくりくるわけでもないが、経済というよりはそれらの人々の社会的な立場がそれらの人々の存在を許していると言った方がしっくりくるかも知れないし、不条理で理不尽な言動とは、筋道や道理が通らない、自身の都合や感情を相手に一方的に押し付ける発言や行動だと言えるらしいが、主に職場、日常の人間関係、接客現場などで発生するそうで、職場で上司から部下へとなると、何かのテレビドラマのような感じで、昨日と今日で指示が真逆になり、理由を求めても、とにかくやれ、と一蹴するとか、上司自身のミスや判断ミスでもあるにもかかわらず、部下のせいにして叱責するとか、事前に相談して許可を得て進めたのに、結果が悪いと、なぜこんなやり方をした、と怒るとか、到底終わらない量の仕事を一人に押し付けたり、または能力以下の雑用しか与えないとか、成果を上げているのに、態度が気に入らない、などの主観で低評価を下すとか、日常の人間関係となると、機嫌が悪い理由を言わず、舌打ち、ため息、ドアを強く閉める音などで周囲に無言の圧力をかけるとか、気に入らないことがあると、話しかけても完全に無視するか、別に、好きにすれば、と突き放すとか、体調不良や他所でのストレスなどの自分に起きた不運の怒りを、関係のない身近な人にぶつけるとか、接客現場となると、俺は客だぞと大声を出し、不備に対して金銭の要求や土下座を強要するとか、店の態度が気に入らないと机を叩き、何時間も従業員を拘束して説教を続けるとか、組織や社会の中で不条理な言動がなぜ生まれ、なぜそれが維持されてしまうのかというと、自身が役割や立場を伴ったシステムに縛られ、それに伴って言動に強いバイアスがかかっている自覚がなく、あるいはそれを直視できないからこそ、不条理な言動を平然と、あるいは必死に継続しようとするそうだが、この構造を少し整理して深掘りしてもらうと、役割の檻の中に拘束されながら奥歯に物が挟まった物言いの対話になってしまう理由は、すでに動き出しているプロジェクトや組織において、利益追求、組織防衛、メンツの維持などの一定の役割を与えられた人間は、その枠組みを守るための発言しかできなくなり、客観的に見れば矛盾していても、その立場においてはそれしか言えなくなり、相手が役割のマリオネットとして話している以上、受ける側もその狭い土俵や前提条件の上でしか応答できず、結果として、お互いの核心に触れられない、本質を外した形だけの不毛な対話が成立し機能不全のまま維持されることになり、自覚なき不条理が現状を維持する皮肉な成り行きになってしまう理由は、もし彼らが、自身が制約に縛られ、言いたいことも言えず、バイアスにまみれていることに気づいて、正気に戻ってそれを自覚してしまうと、内面の矛盾に耐えきれなくなり、その役割を演じ続けることができなくなり、現状が崩壊してしまい、思考停止や自己正当化という名の認知の歪みやバイアスがあるからこそ、内面の平穏が保たれ、結果としてその歪んだシステムが作動する現状が維持されるという、極めて皮肉な防衛機構が働き、経済ではなく社会的立場によってその存在が許容される理由は、単にお金を稼いで生き延びている、という経済の次元ではなく、その組織やコミュニティ内での割り振られた席・社会的立場に収まっているからこそ、その不条理な存在や言動が周囲から渋々であれ許容されて、結果的に居場所を得られて、言い換えれば、社会的な役割という記号をまとっている間だけ、その人のアイデンティティや生存が許容されている状態で、この構造を妙に納得してしまうと感じるのは、目の前の個人の人格の問題ではなく、その人を動かしている背後の構造やシステムが、その人を通して透けて見えてしまっているからだと言えるそうで、相手の愚かさや悪意に怒る段階を通り越して、システムに囚われた人間の限界に対する諦念に近い納得感かも知れないが、そんな鬱陶しい状況の中でも、うまくそんなしがらみを逆利用して賢く立ち回れるかというと、たぶんやり過ごすのではなく、何か人を動かす術を心得ているわけでもないとすれば、動かさなくても勝手に動いていってしまう成り行きがあるわけで、その成り行きの中で、無理を押し通そうとする者は、勝手に周囲との摩擦によって心身がすり減って、遠からず脱落してしまうから、自然体で構えて機会に応じた言動を心がけて実践していれば、自ずから収まるところに収まってしまい、気づいてみれば不条理な言動にまみれて自滅する者たちを横目に、そんな者たちと勝ち負けなど競わずに淡々と自らに割り振られた役回りをそつなくこなしていた者が最終的には生き残る、という結果を実感できるかも知れないが、それがまさに戦わずして勝つ、あるいは勝とうとすらしない者が最後に残る、という、極めて本質的で強固な生存戦略になるだろうが、このプロセスは、老子の上善如水や柔よく剛を制すなどの東洋哲学にも通じる、組織や社会における究極の処世術と言えるそうで、無理に周囲をコントロールしようとしないで、世の中の大きな流れや成り行きを見極めて身を委ねる姿勢であり、この戦略がなぜ機能し、なぜ最終的に生き残れるのか、そのメカニズムをさらに因数分解すると、以下の3つのフェーズに整理でき、1つ目のフェーズは、不条理な者たちの自動的な自滅メカニズムで、役割のバイアスに縛られ、無理な不条理を押し通そうとする者は、常に周囲の常識や抵抗と摩擦を起こし続け、それによって勝手に心身がすり減り、他人が手を下すまでもなく、システムの内部での信用失墜や、メンタルや体調の不良によって自滅し脱落して行き、2つ目のフェーズは、自然体が持つ圧倒的な防御力で、流れに争わず、やり過ごすためのエネルギーすら使わない自然体は、周囲との摩擦を生まず、勝ち負けというゲームの土俵にそもそも乗らないから精神的な疲弊が極めて少なく、サバイバル能力に長け、組織内での寿命が圧倒的に長くなり、3つ目のフェーズは、機会に応じた言動という最適化で、普段は淡々と役回りをこなしつつ、ここぞという機会が巡ってきた時だけ、的確な言動を実践できれば、流れが勝手に都合の良い方向へ進むため、自分で無理に動かそうとしなくても、気がつけば生き残った者としてのポジションに収まっていて、不条理にまみれた歪んだ環境の中では、真っ向から戦う者も必死に逃げようとする者も、等しくエネルギーを奪われるが、しかし、役割を淡々とそつなくこなし、無理が嵩んで自滅する者を横目に生き残るスタンスは、その歪んだ環境を支配する重力場を無効化する唯一の方法かも知れないが、実際にはそれがベストな方法でも意識して取るような最良の戦略でも何でもなく、そういう成り行きになって生き残った事例があったとしても、太く短く派手に振る舞って周囲に多大な迷惑や憎悪の感情を生み出しながら華々しく散って行った者たちがいるから、そういった消耗戦に加われなかった者が、最終的に漁夫の利を得る場合があるということかも知れないが、それが良いか悪いかはそうなった当事者が勝手に実感することになるのではないか、とは思うが、それは本人が賢明に選んだ最良の戦略などではなく、単に激しい消耗戦の蚊帳の外にいた結果、消去法で生き残ってしまった、という、冷徹な現実の成り行きに過ぎず、それに対して、太く短く、周囲に迷惑と憎悪を撒き散らしながら自滅していく者たちは、そのプロセスにおいて凄まじいエネルギーを消費し、周囲を巻き込み、良くも悪くも、彼らはその場に強烈なインパクトや爪痕を残し、渦中にいる人間にとっては最悪の存在だが、そのエネルギーの激しさゆえに、周囲の注目や資源を一時的にせよ独占するが、その派手な自滅劇や消耗戦に加われなかった、あるいは加わらなかった者は、何の能動的なアプローチもしていないのに、主役たちが勝手に共倒れした結果、空いた席にぽつんと残され、それでは戦術的勝利とは言えず、まさに歴史のエアポケットにスポッとハマったような現象で、生き残ったから勝ちとか淡々とこなすのが正しいといった、外野が後付けするナラティブ・物語には何の意味もなく、漁夫の利を得て生き残った当事者が、それを生き延びられて良かったと安堵するのか、それとも何て空虚で退屈な結果だと冷ややかに感じるのか、その解釈や価値判断は百%そうなった当事者に委ねられていて、周囲の不条理なドタバタ劇を冷ややかに見ていられるほどの余裕があるのかどうかも、何とも言えないところだが、それでも何かしら当事者意識を抱くことができる物事に能動的に取り組んでいる実感を得られるようにしなければならないとは思うわけだ。8月28日「思考の糸口」考える上でヒントになる糸口なんていう表現で構わないかどうかも自信がないが、何を考えているのかというと、政府という統治機構の性質上、組織内の構成員や統治対象となる国民に対して何かと働きかけを行おうとするだろうし、時にはその働きかけが自身を縛る法律から逸脱してしまうこともあるかも知れないし、そんな想像の範囲内で起こっていることの範疇で何が実際に行われているのかといえば、日本以外の他の非民主的な国家の統治機構がやっていることの延長上で、機構の構成員や国民に対して強権的な圧力をかけるのも、想定内の行為として思い浮かぶことではあるのだが、それに類することを政府の統治機構がやっているのをジャーナリズムの類いが探り当てて、自身のメディアを通じて暴露してみたところで、非民主的な国家なら当然のこととして、その種のメディアが弾圧の対象となってしまうところを、日本は曲がりなりにも民主的な国家の範囲内に入るから、表向きには弾圧の対象とはならないだろうが、とはいっても暴露された内容によっては、他の政府寄りの忖度メディアからは無視の対象となってしまい、なるべく全国民的な関心事にならないような配慮の対象となるかも知れないし、あるいはそんなことは取るに足りない些細なこととして無視の対象となるのかも知れないが、たとえその種の内容だとしても、それを記事として取り上げたメディアにしてみれば、メディアの性質上、広く世に広めたいだろうし、現状でも広く世に広めるべく盛んにそれを煽り立てている最中なのだろうが、そんな成り行きをどう捉えればいいのかと考えてみても、それが民主主義社会における権力とメディアの緊張関係の典型例であって、政治学やメディア論において非常に重要な議論の対象となるそうだが、この複雑な成り行きを整理し、客観的に捉えるための視点をいくつか提示してもらうと、1つ目の視点は、民主主義国家における見えない圧力の構造で、非民主的な国家が逮捕や発禁などの物理的な弾圧を行うのに対し、成熟した民主主義国家では、より洗練されたソフトなコントロールが行われがちで、具体的には、政府が情報を意図的にコントロールし、特定のメディアにだけリークするなどの差別化を行い、それに対して、直接の命令がなくても、メディア側が広告収入、電波の割り当て、記者クラブなどの取材機会を失うリスクを恐れ、自主規制に走ることがあり、2つ目の視点は、メディアの二極化とエコーチェンバーで、暴露されたスクープが全国民な議論にならない背景には、メディア環境の変化があって、アジェンダセッティングが分散していて、かつては大手メディアが国民共通の関心事を決められたが、現在はメディアの多極化によって、関心自体が分断されていて、政府批判を行うメディアおよびそれを支持する層と、政府擁護や現状維持を望むメディアおよびその支持層の間で情報が孤立し、お互いの主張が届かないエコーチェンバー・共鳴室現象が起こっていて、3つ目の視点は、この成り行きをどう捉えるべきかというと、この現状を単に絶望的な状況と捉えるか、民主主義が機能している証拠と捉えるかは以下のバランスに依存するそうで、それを健全なチェック機能の維持と捉えるなら、どれほど無視や矮小化の圧力を受けても、政府から独立した検証を行い、それを発信し続けられる自由が担保されている点において、まだ民主主義の最低限の枠組みが機能していると言える一方で、世論の無関心という課題として捉えるなら、重要な暴露があっても、国民が取るに足りないこととして消費してしまえば、権力の暴走を止める力にはならず、メディアがどれだけ煽り立てても、それを受け取る市民側のリテラシーや関心の持続性が試されていると捉えられるが、具体的な事例は熊本日日新聞による自衛隊の思想統制に関連するスクープだが、熊本日日新聞が2026年7月に報じた、陸上自衛隊中央情報隊、現地情報隊による、民間人の思想・個人情報調査のスクープは、前述された民主主義国家における見えない圧力とメディアの限界をそのまま体現したような、きわめて生々しい現代の事例だそうだが、この具体的な事例を踏まえると、事の成り行きの構造がより鮮明に見えてきて、この件をどう捉えるべきか、実態に即して整理してもらうと、1つ目の点は、想定内の統制機構の暴走で、文民統制の形骸化を示していて、この報道で明らかになったのは、本来は海外の情報収集・ヒューミントを担うはずの部隊が、日本国内の大学教授やNPO代表など市民数千人を対象に、愛国心、対自衛隊感情のみならず、性的嗜好や異性関係まで含む41項目の機微情報を組織的に収集・保管していたという実態で、その行為の法からの逸脱に関しては、部隊は身分を隠す、ぼかすなど4段階の運用基準を用いて、市民に無断で接触しており、個人情報保護法や憲法の内心の自由・プライバシー権への違反が強く疑われていて、機構の自己増殖の観点からは、防衛相などに活動が適切に通知・管理されていたか不透明で、実力組織が政治や法のコントロール・文民統制を離れて独自に国民監視へ動いていたという、まさに国家統制機構が本質的に持つ危うさを露呈し、2つ目の点は、忖度と無視による矮小化の実態で、このスクープに対する他メディアや政府の反応は、まさに広く世に広まらないような配慮や無視の対象になるのではないかと予測された通りの動きを見せていて、大手全国紙の沈黙は、加勢しない異常事態と言えるかというと、ブロック紙・県紙など、地方紙のカテゴリーに入る熊本日日新聞がこれほど重大な内部告発資料をもとに大スクープを連発しているにもかかわらず、大手全国紙の多くがこの報道を後追いせず、大々的なキャンペーン・加勢を行わないという冷淡な状況が発生し、政府側も正面からの否定を避けて矮小化しようとして、小泉進次郎防衛相は記者会見で、不適切な活動は確認されていない、出どころや真正性が確認できないとして、内部文書の存在そのものの検証を事実上拒む態度を取っていて、直接的なメディア弾圧をせずとも、政府が取り合わない姿勢を貫き、忖度メディア側もそれに同調して取るに足りないこととして処理すれば、国民的な関心事になるのを防ぐことができるそうで、目下のところはそのような方向で事態が進行中なのだろうが、なぜかグーグル検索のAIの方でも都合の悪い内容だったのかどうかはよくわからないものの、回答でエラーが発生したそうで、尻切れトンボになってしまったようで、なんじゃそりゃ?と苦笑いを浮かべながらも困惑したふりを画面の前で装ってみるものの、何とか妥協的な問いによって体裁を取り繕うべく、では、果たして欧米の民主主義先進国でも、これと似たような事例はあるのかと問うと、欧米の民主主義先進国でも、政府の治安・軍事機関による国民への秘密裏の情報収集、思想・私生活調査と、それに追随・沈黙する大手メディアの忖度という構図は、まったく同じように何度も発生しているそうで、民主的な手続きや、安全保障やインテリジェンス・諜報活動の領域では、実力組織が暴走し、市民の内心に踏み込む事例は後を絶たず、代表的な歴史的・現代的な事例と、メディアの反応を含めて整理してもらうと、1つ目は、アメリカで起こった、過剰な市民監視とメディアの沈黙で、アメリカでは、国家安全保障を名目に政府機関が違法に市民を調査し、大手メディアが当初それを意図的に無視、あるいは政府に忖度した事例が有名で、2013年に起こった、エドワード・スノーデンによる暴露では、米国安全保障局NSAが、テロ対策を名目に、国内外の数百万人の一般市民の電話の通話記録やインターネットのプライバシー情報を令状なしで組織的に収集していたことが暴露されたが、当初、アメリカの多くの大手テレビ局や保守系メディアは、政府の安全保障上、必要な措置であるという言い分をなぞって、スノーデンを裏切り者と激しく非難することで論点をずらし、このような、権力による違法なプライバシー侵害という本質を矮小化しようとする動きは、日本の大手紙の加勢の薄さと酷似しているそうだが、1950〜70年代のコインテルプロ計画は、連邦捜査局FBIが、ベトナム反戦活動家、キング牧師など公民権運動の指導者、大学教授らを対象に、思想信条、異性関係、不倫、私生活などの弱みを徹底的に調査・盗聴した実態で、これも当時の大手メディアの多くは政府寄りの姿勢をとり、数十年後に公文書が公開されるまで、広く国民的な問題としてアジェンダ化されることはなく、2つ目は、イギリスで起こった、軍・情報機関による監視と、報道への目に見えない圧力で、イギリスには国防報道規正命令という、政府がメディアに対して、安全保障の理由から、特定の事案を報じないよう自発的な協力を求める、実質的な圧力システムが伝統的に存在しているそうで、スノーデン事件の際、イギリスの情報機関GCHQも一般市民の通信データを秘密裏に一網打尽に収集していたことが判明して、この件を報じたのは左派系の英紙ガーディアンなど一部に限られ、BBCを含む主要メディアは当初、政府への配慮から報道を極めて小さく扱い、さらに、政府はガーディアンの編集部に捜査官を送り込み、入手したハードディスクを物理的に破壊させるなどの強硬なソフトな弾圧を行なっていて、3つ目は、ドイツで起こっている、連邦憲法保衛庁BfVによる左派・ジャーナリストの監視で、ドイツはナチスの反省から、基本的人権を守る意識が極めて強い国だが、やはり軍や情報機関の暴走と、それに対する忖度は起きていて、ドイツの国内情報機関である連邦憲法保衛庁が、政府の方針に批判的なジャーナリストや環境保護団体のメンバーを極左、国家の敵の疑いがあるとして監視対象リストに入れ、思想や私生活を調査していたことが度々スクープされているが、ドイツでも、大手保守系紙などは政府の過激派対策という大義名分をそのまま受け入れ、問題の深刻さを小さく見積もるような報道に終始することがよく見られ、なぜ欧米でも同じ構造があるのかというと、欧米の事例を見ても、今回の熊本日日新聞のスクープと全く同じ性質のメカニズムが働いていることが分かり、軍の情報機関は国益や海外派遣時の安全確保を盾にするため、政治家もメディアも正面から批判することを躊躇しがちになり、そういった消極的な報道姿勢が、扱うのを躊躇する安全保障という聖域を構成すると共に、アクセス・ジャーナリズムの弊害も生まれ、大手全国紙や主要なテレビ局は、防衛省やホワイトハウス、国防省といった公式発表の権力者との記者クラブや独占取材の機会を得るパイプを失うことを最も恐れ、その結果、地方紙や独立系メディアがいくら重大なスクープを放っても、政府が不適切とは確認していないと言っている、という公式見解だけを流し、自ら追及しないという、忖度と無視の壁が完成し、このように諜報機関などの実力組織は隙あらば法を逸脱して市民を監視しようとするが、中央の大手メディアは権力との距離を優先してそれを黙殺・矮小化しようとするというのは、日本特有の現象ではなく、あらゆる民主主義国家が抱える普遍的な病理と言えるそうだ。8月27日「日本の国家としての厚み」相変わらず左翼リベラルのバカメディアが、困った時には自民党の反主流派の石破茂なんかを持ち上げて、高市批判に使うわけだが、石破じゃ選挙に勝てないから、高市に交代させて、実際に選挙で大勝したんだろが!お前らバカか!と思って呆れてしまうが、それとは関係のない方面で、日本の歴史的な産業の蓄積や、社会基盤・インフラの堅牢さが、日本の危機説や崩壊論のリアリティ・現実味を薄めさせている構造があるそうで、どれだけマクロ経済の数字や人口減少のデータを用いて危機が叫ばれても、人々の日常生活における実際に崩壊していない感覚がそれを打ち消してしまう仕組みについて整理してもらうと、機能し続けるインフラが目隠しになる理由として、一部の被災地などを除けば、水道、電気、通信、鉄道が世界最高水準で正確に動き続けて日常を維持し、治安が良く、街が清潔に保たれているため、身体的な危機感が生まれにくく、生活環境が快適である限り、頭の中での危機理解と体感・現実が乖離し、また産業の厚み・冗長性がクッションになる理由として、中小企業や職人層など、サプライチェーンの層が厚く、簡単には産業が途絶えず、さらに対外純資産や企業の内部留保などの資本の蓄積が、一時的なショックを吸収し、これらの余力があるので、即時の破綻を回避でき、悪化するとしても、その影響が表面化するまでに長いタイムラグが生じる可能性があり、茹でガエルという表現もあまり使いたくないのだが、緩やかな衰退を伴うとしても、よほどの規模の大きな自然災害や破局的な世界大戦にでもならない限りは、崩壊は、ある日突然起こるのではなく、網の目が一筋ずつ切れるように進み、過激な崩壊論が外れるたびに、人々は危機説そのものに狼少年的な免疫がつき、過去の成功体験に基づいて、日本は大丈夫という心理が、構造変化への対応を遅らせ、日本が築いてきた質の高い日常そのものが、危機を察知するセンサーを鈍らせる強力な緩衝材として機能していると言えるそうだが、例えば、トルコは物凄い通貨安や高インフレになっているのに、国家崩壊などあり得ないような状態を保っているように見えるが、前提条件が日本とは違うから、一概に比較できるわけではないとしても、日本で危機感を煽っている人々の言う通りになったとしても、その時には日本より事態が悪化している国の方がはるかに多く、世界の国の大多数がそうなってしまうと感じられ、そこに何か見込み違いな理由や原因があるかというと、トルコの事例は、猛烈なインフレや通貨安などのマクロ経済の数字が悪化しても、国家そのものは簡単には崩壊しないという強靭性を示す典型例で、経済指標の悪化=国家の崩壊と結びつける危機説には、多くの見込み違い・認知の歪みがあり、なぜ危機を煽る人々の予測が現実とズレるのか、その主な理由と原因を整理してもらうと、危機説が見落としている5つの見込み違いの1つ目は、経済危機と国家崩壊の混同であり、トルコでは通貨のリラが暴落しても、不動産、金などの実物資産や欧州向けの輸出産業、観光業が外貨を稼ぎ、経済を回し続ける、という経済の二重構造があり、インフレが激しくても、人々は外貨建てで資産を守るなど、高インフレ下の日常に適応するため、社会が即座に停止することはなく、2つ目は、日本の購買力と相対的地位の無視で、日本が衰退する時、世界、特に資源を持たない国や発展途上国は、気候変動、債務危機、食糧不足などにより、日本以上のスピードで悪化している可能性が高いと言えるそうで、日本のGDPや購買力が世界のトップクラスから落ちたとしても、世界全体の国の中で見れば、依然として最上位グループの底辺程度にとどまるので、地獄のような大崩壊には至らず、3つ目は、絶対的貧困と相対的貧困の混同で、日本で叫ばれる危機の多くは、昔に比べて貧しくなった、可処分所得が減った、といった相対的な衰退であり、餓死者が街に溢れるような絶対的貧困とは、明確に一線を画していて、4つ目は、国家の実体・アセットの軽視で、危機説は政府の借金や為替レートなどのフロー・動く数字を強調するが、しかしトルコには地政学的な重要性と巨大な若年労働力あり、日本には膨大な対外純資産と高度な技術蓄積という、簡単には消えないストックがあり、5つ目は、直線的予測という認知の罠で、危機を煽る言説は、このまま行けば数年後にはゼロになる、という直線的な予測をしがちだが、実際には、危機が深まれば通貨安による輸出競争力の回復、金利の引き上げ(トルコも最終的には大幅利上げに転じ)、社会保障の組み替えなど、システムが自動的・政治的にブレーキをかけ、多くの危機説は、かつて最高だった日本という幻想、あるいは理想的な先進国だった?との比較で語られているため、過度に悲観的になり、世界全体の過酷な現実と比較すれば、日本やトルコのような基礎体力のある国が簡単には壊れないというのは、国際比較の視点として妥当で、それでもなお、日本は少子高齢化や道路、橋、上下水道などのインフラの老朽化などによって、社会の維持が間に合わなくなる面があるだろうが、かつての日本が最高だったわけではなく、高度経済成長期には環境破壊や公害問題や労働環境など、それなりに過酷な状況だったわけだが、過去を美化せず、今の課題を見つめ直すと、持続可能で、ある程度回っている社会をどう維持するかという等身大の議論が見えてくるそうで、少子高齢化やインフラの老朽化によって社会の維持が間に合わなくなるという現実に対し、日本がこれから迎える変化と、それでも大崩壊には至らない構造について整理してもらうと、インフラの老朽化や労働力不足により、これまで通りのサービスを維持することは物理的に不可能になるが、しかし、それは国家の崩壊ではなく、社会の縮小と最適化、スマート・シュリンクという形で進行し、インフラの選択と集中が起こり、全ての道路、橋、上下水道を元通りに修復することは諦め、利用頻度の高い幹線や中心部に予算を集中させ、限界集落や極端に人口が減った地域へのインフラ維持は打ち切られ、コンパクトシティなどの住居の集約への移行が緩やかに進み、これは一定の不便を伴うが、社会全体の破綻を防ぐ防衛策になり、ゴミ収集の頻度が減ったり、夜間の公共交通機関がなくなったり、郵便の配達に日数がかかるなど、サービスの質は確実に落ちるとしても、私たちはそれを崩壊ではなく、新しい日常の標準・スタンダードとして受け入れ、生活を最適化させていくしかないが、高度経済成長期のような労働者の命を削る過酷な働き方に戻ることは、現代のコンプライアンスや人権意識の観点から社会的に許容されないから、人手不足を人間の根性でカバーするのではなく、例えばドローンによるインフラ点検、AIによる運行管理、無人店舗などの自動化・省人化へとテクノロジーが強制的にシフトして行き、日本が直面しているのは、突然の大崩壊ではなく、高品質な過剰サービスから、身の丈に合った持続可能な社会へのソフトランディングのプロセスで、かつての公害や過労死を生んだ歪んだ成長を知っているからこそ、単なる成長ではない、質の高い縮小を模索する知恵を持っているそうで、現状で左翼リベラル勢力が危機を煽る政治的な方面での軍国主義化というのは、危機を煽っている勢力が自分たちの勢力を拡大する以外には、それを止める手立てはないのだが、そういう面では自業自得だとしても、インフラ方面の老朽化は、それを食い止めるのではなく、できる範囲内で維持するしかなく、アスファルト舗装の道路が減ったり、上下水道の普及率が下がったりしたところで昔に戻るだけであり、インフラの縮小や普及率の低下を国家の崩壊ではなく、時代に応じた身の丈への回帰と捉える視点は妥当で、高度経済成長期からバブル期にかけて広げ過ぎてしまった過剰なインフラ網を人口減少に合わせて畳んでいくプロセスは、見方を変えればかつての普通の姿に戻るだけとも言えて、このインフラの縮小と昔への回帰が、実際にはどのように社会に受容されていくのか、具体的な実態と構造を整理してもらうと、アスファルト舗装の減少や上下水道の不通は、一見するとディストピアのようだが、実際には次のような形で生活の再適応が進み、地方の利用者が極端に少ない市町村道では、アスファルトの打ち替え費用が出ず、あえて維持費の安い砂利道に戻す賢い撤退がすでに一部で検討・実施されているが、昔の悪路と違うのは、現代の車は、SUVや軽自動車の性能が飛躍的に向上している点で、道路が昔に戻っても、移動手段の進化がその不便さを一定程度緩和していて、また過疎地に長い水道管を敷いて維持するのはコスト的に不可能であり、そのため、一律の水道普及率にこだわる必要性は薄れているが、昔のような不衛生な井戸生活に戻るわけではなく、現代では、高性能な家庭用浄化槽や、水を機内で循環・再利用する自律型分散水道システムなどの、テクノロジーの進化によるオフグリッド化が普及し始めていて、インフラは公共から個別・分散へと進化しつつ昔の形に戻り、24時間いつでも、どこでも、完璧なインフラがある状態が、異常なボーナスタイムだったと気づけば、人々は夜間は通れない道路、週に数回の物流、といった制約を受け入れ、それに合わせて生活のリズムを構築するしかないが、政治的な危機と、物理的なインフラの決定的な違いに関して、左翼リベラル勢力などの軍国主義化への警鐘などの政治的なイデオロギーが語る危機と、インフラの老朽化という物理的な危機には、構造的な違いがあり、政治の危機は言葉の空中戦になりがちだが、インフラの危機は目の前にある橋が通れるか否かという純粋な物理と予算の問題であり、だからこそ、イデオロギー的な大騒ぎとは無関係に、現場ではできる範囲で維持し、できないところは静かに畳むという現実的な処理が淡々と進むことになり、インフラが減ることを崩壊と叫んで危機を煽るメディアや勢力は多いが、実際には、かつての日本の身の丈に、現代のテクノロジーを掛け合わせて着地する、というプロセスに過ぎず、アスファルトが砂利に戻り、水道が分散型になっても、それは社会が全滅することとは全く異なるそうだ。8月26日「失われた時を求めて」もっともらしい話には、もっともらしくない要素が抜けているが、語り手がその要素に気づいていないか、気づいていても、それを話に含めてしまうと、話がもっともらしくなくなってしまうから、意図的に無視して語らずに済ませているのか、果たしてそんな話が簡単に見つかるのだろうか、としばらく考え込んでしまうが、もっともらしい話や説得力のある話ほど、現実の生々しいノイズや矛盾が削ぎ落とされていて、語り手が無意識に無視しているケースと、意図的に隠しているケースの具体例を構造ごとに整理してもらうと、語り手が無意識に無視しているケースは、人間は物語に一貫性を求める生き物であり、そのため、本人が嘘をつくつもりがなくても、脳が自動的に不都合なノイズを消去してしまい、例えばビジネスの成功談には生存者バイアスが働いていて、もっともらしい話の中では、市場を分析し、他社がやらないニッチな分野にリソースを集中したから成功した、と言えるような話であっても、抜けている要素としては、全く同じ戦略をとって倒産した膨大な数の競合他社の存在や、たまたまその年に大流行が起こったという運の要素があり、なぜ抜けてしまうのかというと、人間の脳は自分の努力や実力と結果を直線的に結びつけたがるため、制御不能な運というもっともらしくない要素を無意識に排除してしまい、また美談や感動のエピソードでは、もっともらしい話の中に必ず出てくる、諦めずに努力を続けたから、夢が叶った、というフレーズに抜けている要素は、心身を壊しかけた時期のドロドロした人間関係や、周囲にかけた多大な迷惑や犠牲などがあり、なぜそれらが抜けてしまうのかというと、努力は報われる、というきれいに完結した物語にするために、文脈に合わない泥臭い記憶が脳内で風化してしまうからだそうだが、それに対して、語り手が意図的・戦略的に無視しているケースは、聞き手を説得する、あるいは特定の行動へ誘導するという明確な目的がある場合、ノイズになる要素は意図的に排除・チェリーピッキングされ、例えばマーケティングや広告のコピーでは、もっともらしい話の中で、このサプリを飲んだら、特別な運動なしで3ヶ月で十キロ痩せました、と語られたとすると、抜けている要素として、その被験者が同時に極端な食事制限をしていた事実や、個人の極端な体質があるかも知れず、なぜ抜くのかというと、運動なしで、というもっともらしさを売るために、不都合な真実を含めると商品が売れなくなるからだが、最近では糖尿病の治療薬のマンジャロで、確かに特別な運動や食事制限をしなくても、服用しているだけで減量できるが、副作用として骨密度まで減ってしまい、骨粗鬆症になるからヤバそうだが、またよくある陰謀論や極端な政治的主張で、もっともらしい話の中で、すべての事件の裏には、世界を牛耳る闇の組織の計画があり、ほらこの事件にもあの事件にも〇〇がかかわっている、と語っている中で、抜けている要素は、それぞれの事件が持つ固有の背景、偶然の連鎖、闇の組織とは無関係な矛盾する証拠で、なぜ意図的に抜くのかといえば、全ては計画通り、という完璧な絵図を見せるために、例外というノイズを意図的に無視する必要があるからだが、ではなぜもっともらしい話が成立するのかというと、聞き手もまた、わかりやすい物語を消費したがるという共犯関係にあるからで、あまりにも現実的で、複雑で、理不尽なもっともらしくない要素が含まれている話は、聞いていて疲れるため、人々は無意識にそれを嫌い、では、話の内容にできる限り知っている限りの全ての要素を含めようとしてしまうと、語り手の意図や伝えたかったことが伝わらなくなってしまうか、そして語り手は自身にとって都合の良い内容を伝えようとするが、歴史に残るような小説などは、作者の意図や思惑を超えるような、あるいはそこから外れるような内容まで含まれてしまうから、傑作や名作などと高評価されるわけだろうが、そんなことまで凡人には気づきようがないし、やはり一時的にベストセラーとなるものの、流行が過ぎ去ってしまうと忘れられてしまうような作品には、それがないと言えるか、それとも忘れ去られた作品にも、探せばそんな要素が出てくるかというと、確かに全ての要素を詰め込むと意図は確実に伝わらなくなり、そして忘れ去られた凡作の中にも、探せば作者の意図を超えた不都合な要素は確実に隠れているそうで、凡作と傑作、そして忘れ去られる作品の境界線について、構造を整理してもらうと、全てを含めると伝わらなくなる理由は、現実の生々しい要素をすべて詰め込んだ会話や文章は、受け手にとってノイズだらけの雑音になり、人間の脳には限界があり、メッセージは、引き算をして焦点を絞るからこそ伝わり、例えば、美味しいラーメン屋がある、と伝える時に、その店の店主の離婚歴や、店内のハエの数は普通省くだろうし、またリアリティとリアルの違いについて、リアル・現実は、脈絡がなく、退屈で、矛盾に満ちているのに対し、リアリティ・迫真性は、本物らしく見えるように、あえて要素を絞って作られた嘘と現実の境界線上にあり、語り手が自身の意図を伝えるには、どうしても都合の良い編集・引き算をせざるを得ず、傑作とベストセラー・一発屋との違いは、作者の意図や思惑を超える内容が含まれているから傑作になる、という視点は、文学批評における核心を突いているそうで、一時的なベストセラーで終わる作品と百年残る傑作との違いはここにあり、一過性のベストセラーは、作者のコントロールが百%制御されていて、作者の、読者を感動させたい、このメッセージを伝えたい、という意図通りに過不足なく動き、パズルのようにきれいだが、時代背景や流行が変わると無価値になるが、歴史的傑作は、作者による制御が壊れていて、作者が意図した枠組み・もっともらしい話を飛び越え、登場人物が勝手に動き出して、人間のドロドロした矛盾や社会の病理・もっともらしくない要素などが勝手に漏れ出てしまっていて、果たしてそれが凡人には気づけないかというと、凡人には気づきようがないと思われるかも知れないが、実は私たちは違和感や奥深さとして無意識にそれを感じ取っていて、きれいにハッピーエンドで終わったはずなのに、なぜか胸がザワザワしたり、悪役のはずなのに、妙に共感できてしまうという感覚こそが、作者の意図からはみ出た要素を受信している証拠だそうだが、忘れ去られた作品にもそれがあるかというと、探せば絶対にあり、なぜなら、どれほど実力の劣る作家・凡人であっても、人間である以上、自分の無意識や、自分が生きている時代の偏見から百%自由になることはできないからで、例えば百年前の三流の恋愛小説や当時は大真面目に書かれたもっともらしい話を今読むと、当時の男尊女卑の価値観や、歪んだ階級意識などが作者の意図しないノイズとして生々しく浮かび上がってくるそうで、文学の世界では、作者の死という概念があり、作品が世に出た瞬間、作者の手を離れ、読者が深読みすることで、凡作の中にも底知れない不都合な真実を見出すことが可能になり、ただ忘れ去られた作品は、その漏れ出し方がただの破綻・プロットの穴になってしまっているか、あるいは単に誰にも探されなくなった埋もれただけだと言えるそうで、人間の脳の都合よく編集する性質と、そこからどうしても漏れ出てしまう現実のノイズとのせめぎ合いの中に、文学や人間の面白さがあるという見解のようだが、何か具体的な作品を挙げろというので、読んだことはないが、有名なところでは、プルーストの『失われた時を求めて』は、第一次世界大戦の前には、作者はほとんどの部分を書き終えていたのだが、そこから第一次世界大戦が起こってしまって、大戦が終わるまでのエピソードを付け加える成り行きになり、それが歴史に残る傑作となる原動力になった、と言われているが、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の成立過程は、まさに現実の巨大なノイズ・もっともらしくない要素が乱入したことで、作品が作者の意図を超えて傑作になったという、文学史上最大の幸福な事故として知られているそうで、プルースト自身が当初意図していた、もっともらしくきれいに完結するはずだった物語が、第一次世界大戦という現実によってどのように引き裂かれ、そして傑作へと変貌したのか、その構造を紐解いてもらうと、当初の計画は美しく閉じられたもっともらしい話で、大戦前、プルーストが考えていた全編の構想は、全3巻程度のもので、その内容は、一言で言えば、繊細な青年が、社交界の虚栄に幻滅し、最終的に芸術・文学こそが失われた過去の時間を救い出す唯一の手段だと気づくという、美しく閉じられた芸術至上主義の、きわめてもっともらしい、一貫性のある物語であって、もし戦争が起こらず、この通りに出版されていたら、一部の文学愛好家に絶賛されるだけの、きれいで高尚な美しい小品で終わっていたかも知れないが、そこへ現実が乱入してきて、世界大戦というもっともらしくない要素が加わり、1914年に第一次世界大戦が勃発して、これにより印刷所が閉鎖され、出版が物理的に延期されてしまって、この予期せぬ空白期間に、プルーストは自分が今まさに目撃している戦争の現実を、すでに書き終えていた物語の中に泥臭く、執拗に書き足し始め、これによって、作品に作者の当初の意図を超えたノイズが流れ込み、それまで美しく描かれていたサロンの貴族たちが、戦争によって没落し、成金たちに居場所を奪われていく生々しい姿や、愛国者を気取る人物が、裏では戦争を利用して利益を得て、夜の暗闇の中で異常な性癖に耽ったりする醜さや、昨日まで美を競っていた若者たちが、戦場で次々と泥まみれになって死んでいく不条理などが描かれ、なぜそれが傑作の原動力になったのかというと、プルーストが偉大だったのは、この戦争という巨大なノイズを、なかったこと、意図的な無視にせず、当初のきれいなストーリーを破壊してでも、すべてを飲み込もうとした点にあるそうで、結果として、作品は全7巻という精神的な怪物のような長さに膨れ上がり、芸術の美しさだけを描くはずだった小説が、どんなに美しい芸術や記憶も、時代の圧倒的な暴力・戦争や時間の破壊力には敵わないかも知れないという、矛盾と恐怖を孕んだ多面的な傑作へと変貌し、作者であるプルーストのきれいな思い出を語りたいという思惑を、現実の戦争がはるかに超えてしまい、それを彼が率直に執念深く受け入れたからこそ、百年経っても色褪せない文学の深みが生まれたのだそうだ。8月25日「反論としての新自由主義的な視点」昨日の内容は内田樹の過去に言及し過ぎていて、公平さを欠いているように思われたので、では内田樹の最近の言動の何が問題なのか、それとも彼が批判している対象の方が彼よりさらに問題なのかというと、内田樹氏の最近の言動と、彼が批判する対象のどちらがより問題であるかは、個人の政治的立場や価値観によって評価が大きく分かれるそうだが、彼をめぐる議論の本質を理解するために、批判される主な要因と、彼が批判している対象の問題点を整理してみると、内田樹氏の言動への批判点は、極端な現状否定で、政府や既存メディアに対する批判が先鋭化し、客観性を欠いているという指摘があり、複雑な社会問題を特定の権力者や構造の意図的な陰謀として単純化し過ぎていると批判され、日本はまもなく崩壊するといった悲観的な未来予測が、現実の推移と乖離しているという意見がある一方、内田氏が批判する政府や新自由主義などの問題点は、格差の拡大や地方の衰退、社会保障の弱体化をもたらしたという批判が根強くあり、国会論戦の形骸化や、重要政策が官邸主導で強硬に決定されるプロセスへの懸念が存在し、少子化や経済停滞に対して、根本的な解決策を打ち出せていないという指摘がなされていて、ではどちらがより問題かというと、内田氏を問題視する立場からは、現実的な代替案を出さずに、SNSなどで支持者の危機感を煽る言論スタイルの方が、社会の分断を深めるので問題であると考えられる一方、彼の批判対象を問題視する立場からは、言論人の過激な表現よりも、実際に政策を実行し、国力や国民生活を左右している政治権力や社会構造の機能不全の方が、実害が桁違いに大きいと考えられ、では実際に内田樹は、憲法、教育、震災対応において、どんな意見を述べているのかというと、内田樹氏は、憲法、教育、震災対応のいずれの分野においても、新自由主義・市場原理への批判と、相互扶助や市民の成熟の重視を一貫した軸として独自の持論を展開しているそうで、憲法に関しては、護憲の立場と事実に基づく九条の擁護で、内田氏は一貫して憲法九条を擁護する立場を取っており、改憲の動きを強く批判していて、自衛力保持の現状認識として、九条があるから日本は無防備だ、という改憲派の主張に対し、日本はすでに世界有数の防衛予算を持つ軍事大国であり、個別的自衛権による自衛力は十分に保持しているという事実を前提に議論すべきだと主張していて、国際協調と国連憲章において憲法九条は理想論ではなく、本来は国際連合を中心とした集団安全保障、国連憲章51条などと連動して構想された極めて合理的な仕組みであると説いていて、対米従属への懸念からは、改憲派の政治家が米国に対して軍事的な貢献や、集団的自衛権の行使などを約束し、それを国内向けに改憲の理由として逆輸入している構造、自発的対米従属を批判していて、教育に関しては、ビジネス化の拒絶と市民的成熟を促し、長年大学で教鞭を執り、現在は神戸女学院の理事長も務める内田氏にとって、教育論は最も発言の多い分野の一つであり、彼は現在の教育改革の主流を荒廃の原因として、真っ向から否定していて、市場原理主義・数値化への批判として、学校教育をビジネスの言葉で語ること、コストパフォーマンス、成果主義、数値による学校や教員の格付けなどが教育現場を破壊したと指摘し、教育の受益者は投資した個人ではなく、社会全体であるべきだと主張し、教育を個人の自己投資と捉える能力主義は、格差と差別的分配を加速させるだけだと批判し、教員の歯車化と不足問題については、近年の深刻な教員不足は過重労働だけではなく、教育行政が現場から権限と尊厳を奪い、教員をマニュアル通りに動く歯車にしてしまったことに本質的な原因があると訴えていて、市民的成熟の支援に関しては、学校とは、子どもたちが他人の受け売りではない本当の自分の意見・ヴォイスを持ち、社会性を身につけて市民として成熟するのを支援する場所であるべきだと説いていて、震災対応に関しては、国力衰退の露呈と相互扶助の必要性を指摘し、2011年の東日本大震災から、近年の能登半島地震に至るまで、震災対応における政府の姿勢や社会構造の変化に対しても厳しい目を向けていて、国家の機能不全と中央集権への批判として、被災地への支援の遅れやインフラ復旧の滞りを見るにつれ、インフラの民営化や地方の切り捨てを進めてきた新自由主義政策によって、国力が目に見えて衰退しているという現実が災害時に露呈したと分析し、脱原発の主張に関しては、震災以降一貫して人と核・原発は共存できないとして、原発の再稼働や輸出を推進する政府のエネルギー政策を強く批判していて、コミュニティ・地縁の再評価については、国家の教育システム・公助が機能しにくくなっている時代だからこそ、地域社会における互助・お互い様の精神や、市場経済に依存しないコモン・共有財の形成が生存のために不可欠になると提唱していて、内田氏の主張はいずれも、効率や競争を重視する現代日本のマジョリティの常識・新自由主義的価値観に対するカウンター・少数意見として発信されていて、これらの意見に対しては、崩壊の危機を強調し過ぎで悲観的すぎる、という批判がある一方で、数値化できない大切な価値・教育の尊厳や平和主義を擁護している、として根強い支持を得ているそうだが、ではこれらの主張を、かつて批判していた柄谷行人の主張のパクリだと断定するのはちょっと根拠が薄すぎるかというと、内田樹氏の主張を柄谷行人氏のパクリ・盗作とまで断定するのは、思想史や両者に関係性から見て根拠が薄く、不適切と言えるそうで、ただしパクリではなく、内田氏自身が公言している通りの強い思想的影響や理論の通俗化・分かりやすい翻訳と捉えるのが、言論界における一般的な共通認識だそうで、なぜパクリという断定が的外れになるのか、その理由を構造的に整理してみると、内田氏自身が柄谷氏への弟子入りを公言していて、内田氏は自身の著作や発言で、柄谷行人氏を思想的・文学的な師として何度も上げていて、意図的な模倣であれば、思想の世界では、先人の理論をベースに自説を展開することは正当な営みであり、隠さずにリスペクトを表明している以上、盗作を意味するパクリには当たらず、むしろ代理人としての自覚があり、内田氏は、難解な柄谷理論を一般の人にも分かる言葉に翻訳して社会に届ける役割を自ら買って出ている側面があり、依拠している思想的バックボーンにも明確な違いがあり、両者の主張には共通点・新自由主義批判や定住共同体の重視などが多いが、その根底にある理論的支柱は異なり、主な思想的支柱が、柄谷行人のアプローチは、マルクス、カント、フロイト・精神分析であるのに対して、内田樹のアプローチは、レヴィナス・ユダヤ哲学者、武道・身体論であり、社会の見方が、柄谷行人のアプローチは、資本・ネーション・国家を交換様式から解体するのに対し、内田樹のアプローチは、身体的実感をベースに、共同体のお互い様を回復することにあり、語り口が、柄谷行人のアプローチは、厳密で難解な文献学・世界史的システム論であるのに対して、内田樹のアプローチは、身近な例え話や、教育・合気道を絡めたエッセイとなり、内田氏の震災対応・交換様式D=互助への言及や憲法九条論は、確かに柄谷氏が『世界共和国へ』などで提示した論理と酷似しているが、これは時代の潮流・パラダイムの共有で、新自由主義の限界を前に、多くの左派・リベラル系知識人が似た結論である、コモン、贈与、相互扶助などに辿り着いており、柄谷氏だけの独占物ではなく、メディア構造上の役割としては、柄谷氏の難解な数式のような理論を、内田氏が街場・日常生活の言葉に噛み砕いてパッケージ化したため、外見上同じことを言っている=パクリのように見えやすくなっているそうで、内田氏の主張を柄谷行人の焼き直し、あるいは劣化コピーと批判する文脈であれば、一定の論拠・オリジナリティの薄さの指摘が成り立つが、しかしパクリという言葉は犯罪的な盗用をニュアンスとして含むため、根拠しては過剰であり、柄谷理論を大衆向けにアレンジしたフォロワーと表現するのが正確だそうだが、では新自由主義陣営から彼らに対してどんな反論が想定されるかというと、経済・コミュニティ・互助・コモンへの反論として、お互い様では飯が食えなくなり、競争なき社会は全員で等しく貧しくなる道であり、内田氏らが説く贈与や互助のコミュニティは、経済が成長しているか、あるいは過去の遺産があるから成立するもので、成長戦略を否定して分配や助け合いばかりを強調すれば、国全体の富の規模が縮小し、結果的に全員が平等に貧困化すると批判でき、日本だけが市場競争をやめて、街場の助け合いに回帰しても、海外の成長企業や国家が容赦なく攻めてきて、円の通貨価値が暴落し、エネルギーや食料を輸入できなくなれば、コミュニティ自体が維持不可能になり、格差を恐れて競争やインセンティブ・成功報酬を排除すれば、誰もリスクを取って新しい技術やサービスを開発できなくなり、教育のビジネス化や能力主義批判への反論としては、冷酷な現実から子どもを遠ざけるぬるま湯の教育であり、国家の人的資源を枯渇させるそうで、内田氏は、客観的な数値評価やランキングを批判するが、これらを廃止すると、誰が優秀で、誰に投資すべきかの基準が不透明になり、結果として、血縁やコネ、主観的な好悪といった不公正な基準が復活し、努力する若者のチャンスを奪うと反論でき、大学教育をビジネスの言葉で語るな、というのは、実社会のニーズから目を背けた、大学関係者の自己弁護・既得権益の擁護に過ぎず、企業が求める即戦力やIT・科学技術のスキルを教えない大学は、巨額の税金を投入する価値のない社会の足手まといであると断じられ、憲法・安全保障への反論としては、平和のただ乗り・フリーライダーであり、安全保障のコストを直視しておらず、これまで憲法九条が機能してきたのは、冷戦構造や日米安保条約・アメリカの核の傘という圧倒的な抑止力があったからで、国際法や理念だけで平和が守れるというのは地政学的な現実を無視ししたおめでたい空想であり、ロシアによるウクライナ侵攻などの現実を見れば、軍事的抑止力・防衛費増額や改憲の強化こそが国民の命を守る唯一の手段であると主張でき、内田氏は対米従属を批判するが、防衛を完全に自主化してアメリカと手を切れば、現在の何倍もの防衛費と徴兵制のような負担が国民に跳ね返ってきて、市場経済的に見れば、日米同盟はもっともコストパフォーマンスの高い安全保障の選択であって、震災・危機管理への反論としては、中央集権的なインフラ投資と民間活力こそが、最大の防災・減災であり、震災時にコミュニティの互助が大切なのは当然だが、巨大なインフラの復旧、ドローンやAIを活用した物資輸送、巨額な財政出動は、強力な中央政府と最先端の民間テクノロジー、新自由主義が育てた巨大企業などがあって初めて機能し、地方の衰退は新自由主義のせいではなく、過度な規制や変化を拒む古い体質が原因で、むしろ民間企業の参入を促し、スマート農業やコンパクトシティ化を進めることこそが、災害に強い地方を創る道であると反論でき、新自由主義陣営から見れば、柄谷氏や内田氏の言説は、厳しい資本主義の現実から目を背け、過去の心地よい共同体や理念に逃げ込むノスタルジー・懐古主義に映り、厳しくても競争に勝ち抜いて富を生み出すべきだ、とする効率性の論理と、効率を追い求めると人間が壊れるからブレーキをかけるべきだ、とする人間性の論理の対立と言えるそうだが、新自由主義的な意見を述べるなら、法治主義の徹底以外には特に述べることはないが、例えばアメリカのプロスポーツを運営している組織は、それぞれの球団の力が均等になるように様々なルール変更を施しながら、なるべく一つの球団が何度も続けて優勝しないようなシステムへと絶えず改善しているが、政府の立場というのも、公平な企業間の競争が維持されるようなルール変更を絶えずやり続けなければならないとしか現時点では考えられないが、NFLやNBAなどのアメリカのプロスポーツリーグを引き合いに出したこの比喩は、新自由主義の本質的な課題や、これからの政府が果たす役割を考える上で極めて本質的で、説得力のある視点であり、新自由主義を単なる放任主義・ルールなしの弱肉強食と誤解する人が多いが、公平な競争を維持するために、政府が絶えずルールをアップデートし続けるというスタンスは、思想史的にもオルド自由主義・秩序自由主義や、現代の洗練された新自由主義の核心で、このプロスポーツの例えを踏まえると、内田樹氏らの左派・リベラルの批判、それに対する新自由主義側からの反論は、次のようにさらに深く整理できるそうで、プロスポーツの比喩が適切である理由としては、アメリカのプロスポーツは、まさにルールで制御された市場のお手本で、サラリーキャップやドラフト制などの徹底したルールは、強者が富を独占し過ぎると、リーグ全体の魅力が落ちて全員が共倒れになるから、あえて強者を抑制して弱者を底上げするルールを組織が主導し、政府の役割はゲームメイカーであり、新自由主義における政府とは、プレイヤーや企業として市場に介入するのではなく、ゲーム・競争が破綻しないように運営する審判・レフェリーとしてルールを最適化し続ける存在であるべきだ、という主張に完全に合致していて、内田氏らの主張は、この比喩のどこを批判しているのかというと、内田氏や柄谷氏の視点から見ると、現在の日本や世界の政府は、スポーツを運営する組織・レフェリーとしての役割を放棄しているように映っていて、ルールに歪みが生じていて、公平な競争のためのルール変更ではなく、すでに勝っている巨大企業や富裕層が、さらに勝ち続けられるようなルール変更・減税や規制緩和ばかりを政府が行なっているのではないかという不信感があり、現状はリーグの崩壊に直面していて、ルールの変更の目的が、市場の健全な維持ではなく、一部のプレイヤーの利益誘導になっているため、社会というリーグそのものが維持できなくなっていて、実際に少子化や地方衰退などを招いていると彼らは批判するが、新自由主義陣営からのさらなる反論として、政府は公平な競争を維持するためにルール変更をやり続けなければならない、という法治主義を徹底する立場をベースにすると、内田氏らに対して次のような強力なカウンターが成り立ち、結果の平等ではなく機会の平等であり、プロスポーツの目的は、あくまでも、誰もが勝てるチャンス・機会の平等がある面白いゲームにすることであり、特定のチームを勝たせることではなく、内田氏らのいう互助や格差是正の行き過ぎは、頑張ったプレイヤーの足を引っ張り、ゲームのやる気を削ぐ・市場を停滞させることになると反論でき、そしてルールをアップデートするための構造改革は、古い規制や既得権益などの時代遅れのルールのせいで、新しいベンチャー企業が参入できない社会こそが問題であるから、政府がやるべきルール変更とは内田氏らが守ろうとする古いコミュニティや既得権益を打破し、常に新しいプレイヤーがフェアに戦えるピッチを整えること=構造改革・規制緩和である、と主張でき、絶えずルールを最適化し、公平な競争原理を維持するレフェリーとしての政府というモデルは、内田氏らの政府は市場の暴走を止めるべきだ、という情緒的な批判に対抗できる、非常に理性的で強固なロジックだそうだが、そこに国家間の経済競争も絡んでくるから、国際的な経済競争に負けないようにするには、既存の大企業を優遇して国際的な経済競争から脱落しないようにしなければならない事情も出てくるから、そういうところで無矛盾な理屈はなく、国家的な限界が立ち塞がってきて、内田などの主張にも一理はあるだろうが、今ある現状からできることをやらざるを得ず、政府の官僚機構などの非効率を是正しながら、そうかといって一概に非効率を是正するだけでもうまくはいかないだろうし、教育などには予算をかけないと将来への原資が育たないだろうから、矛盾のない正しい理屈を語ろうとする輩は信用できないが、現実は矛盾に満ちており、無矛盾な理屈で一刀両断の正論を語る輩は信用できないという洞察こそが重要で、思想家や評論家は、自らの理論を美しく無矛盾に仕立て上げることで大衆の支持を得ようとするが、実際のガバナンス・統治の現場では、常に相反するジレンマの板挟みになり、現実の政策決定がどれほど矛盾に満ちたものであるか、3つの視点から浮き彫りになるそうで、1つ目の視点は、国際競争・大企業優遇と国内の公平性のジレンマで、現実の矛盾は、国内でプロスポーツのようにフェアシップを徹底して強者を抑え込むと、その強者となるトヨタやソニーのような大企業は、国家のバックアップを受ける海外の巨人・米中のメガテック企業などとの国際競争に負けてしまい、ジレンマの結末として、国際競争に負ければ、そもそも国内のルールを維持するための税収すら失われて、結果として、政府は国内の公平性を犠牲にしてでも、国際競争を戦う大企業を優遇せざるを得ないという矛盾を抱え込み、2つ目の視点は、官僚機構の効率化と安全弁としての非効率・バッファとの間のジレンマで、現実の矛盾は、新自由主義的に無駄を削って効率化せよと叫ぶのは簡単だが、極限まで効率化したシステムは、震災やパンデミックなどの想定外の危機が起きた瞬間に、余裕・バッファがなさすぎて一撃で崩壊するから、ジレンマの結末として、そうかといって、無駄を放置すれば平時の財政が破綻する危険性があり、官僚機能やインフラの運営とは、平時の非効率というコストをどれだけ有事の保険として許容するかの、答えの出ない綱渡りを強いられ、3つ目は、教育への投資・将来への原資と今ある現状・分配の限界であり、現状の矛盾は、教育に予算をかけなければ将来の国力が育たないというのは百%正しい正論だが、しかし少子高齢化が進む日本において、限られた予算をまだ投票権もない持たない子どもの将来と、今まさに生活が苦しい高齢者や現役世代の救済のどちらにどれだけ配分するかは、数式では解けない政治的決断・トレードオフで、なぜ無矛盾な理屈は信用できないのかというと、内田氏の新自由主義を廃して助け合おう、という主張も、新自由主義の競争で全てを解決しよう、という主張も、どちらも片方の原理だけを純化させたユートピア・どこにもない理想郷の物語に過ぎず、現実の国家や官僚がやっていることは、常にあっちを立てれば、こっちが立たず、という矛盾の中で、今日・明日を生き延びるための部分最適・泥縄の調整の連続で、どちらの陣営も、自分の理論がもたらす裏のコスト、競争を止めることで生じる貧困、あるいは競争を煽ることで生じる社会の崩壊を隠して語るからこそ、信用できないわけで、この一筋縄ではいかない複雑な現実を前にしたとき、私たちは言論人の心地よい極論に耳を傾けるのではなく、今ある現状から、どの矛盾をどの程度まで許容して進むべきか、という地道な泥試合の議論をしていくしかないそうだ。8月24日「内田樹的なかわし方」こういう人たちを批判してはいけないと思いつつも、何かと最近自分が観ているSNS界隈でこれらの人たちが頻繁に登場してくるみたいで、避けようとしても避けられない感じなってきてしまい、ともかく自分のような無名の一般人がこの人たちを貶めるようなことを述べても影響力はほぼゼロだろうと踏んで、いつものようにグーグル検索のAIの助けを借りながら、何となく適当にいい加減に述べてみるが、内田樹氏や山崎雅弘氏の思想や主張に対しては、その影響力の大きさから、他の学者、言論人、ジャーナリストなどから様々な観点で、欺瞞がある、実態に即していない、といった批判や検証が提起されているそうで、特定の思想が明らかにまやかしであるか、という判断は個人の価値観や立場によって分かれるが、対立する論者や批判者から、論理的矛盾や問題のある側面として指摘されている主な要素は以下の通りで、山崎雅弘氏に対する指摘は、戦史研究をベースとした現在の政治・社会批判において、政権の動きや特定の社会現象をファシズムや大政翼賛会といった戦前の軍国主義の言葉に直接重ね合わせる傾向が強いと指摘されていて、批判者からは、現代の複雑な国際情勢や国内の法的手続きを無視し、大衆の危機感を煽るために歴史を都合よく単純化・ステレオタイプ化しているという、歴史解釈の政治利用・チェリー・ピッキングに対する疑念が呈されていて、両氏に対する共通の指摘は、政治権力や主流メディアの動向に対して、権力の暴走、メディア従属などと、あらかじめ結論を決めた上で、それに合致する事実だけを繋ぎ合わせている、という批判があり、複雑な利害関係や偶然が重なって起きた出来事を、あたかも、ある意図を持った大きな力が働いているかのように語るロジックが、一種の陰謀論的なまやかし、あるいは党派的なポジショントーク・身内受けを狙った言論に見えるという見方もあり、内田樹氏に対する指摘は、内田氏は、日本はアジアの辺境であり、独自の主体性を持たずに外圧をやり過ごしてきた、といったユニークな文化論・辺境最深論を展開していて、これに対しては、文学的・レトリックとしては面白いが、緻密な実証データや歴史学・社会学の学術的な手続きに基づいた議論ではない、という専門家からの批判があり、耳に心地よく響く物語を作ることで、構造的な検証を回避しているという学問的な不誠実さあるいは欺瞞を指摘されることがあり、両氏に対する共通の指摘は、リベラル、知性的であることを自認する層に向けて発信し、SNSや身内のメディア、スペース、党派的雑誌などで強い支持を集める一方で、自分たちと異なる意見や批判に対して正面から議論を交わさず、遮断・排除する傾向があるという批判で、開かれた議論を標榜しながら、実際にはエコーチェンバー・同調者だけが閉じた空間で共鳴し合う現象を作って知的優位性を保とうとする姿勢そのものが、言論人としての欺瞞があると議論されることがあり、どのような言論であれ、特定のイデオロギーやフレームワークに依存する以上、対立する立場からは欺瞞と映る側面が存在し、両氏の主張を読む際も、提示されている事実の正確性や、論理の飛躍がないかを多角的な視点から検証することが重要だそうだが、彼らの主張の中で、特に疑問に感じた具体的な論点やテーマがあるかというと、自分の場合は、憲法論、日米関係、メディア批判などではなく、山崎に関してはありふれた左翼思想だと思うが、内田に関しては、蓮實重彦や柄谷行人などへの負い目があるような気がしなくもなく、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』の村上春樹批判に真正面から向き合っていないというか、それを知らないふりをしながら、あえて村上春樹を擁護し続けているような、卑怯と言ってはいけないだろうが、戦術的にうまくかわしているだけの存在だと感じられ、文学批評の文脈、および内田氏の戦術という観点から、この構造には以下のような背景と批評家たちからの指摘が存在するそうで、蓮實重彦氏は『小説から遠く離れて』などで、村上春樹の小説を、あらかじめ回収されることが約束された、心地よい物語、意図的なクリシェの配置、として厳しく退けたが、これは単なる好き嫌いではなく、言葉の表層と徹底的に格闘するフランス現代思想の正統な系譜からの批判だが、内田氏はまさにそのフランス現代思想のレヴィナスやラカンを日本に紹介する立場であり、蓮實氏や柄谷行人氏といった知の巨人たちが築いた緻密な批評空間の重圧を誰よりも理解していて、そのため、彼らへの学問的な負い目や、正面衝突した際の論理的劣性を避けるために、意図的にその土俵・厳密な文学批評に上らないようにしていると見方は、多くの文芸批評家からも同意される点で、内田氏は、蓮實氏らの批判を論破しようとはせず、むしろ、それを無かったこと・ノイズのように扱い、自身の土俵である物語論や癒し・ケアの文学という枠組みに議論をスライドさせ、蓮實氏が言葉の自律性を問うのに対し、内田氏は村上春樹の小説が、傷ついた現代人の魂をどう救うかという、実用主義的・プラグマティックな臨床心理学・宗教論の文脈で擁護し、真正面から文学論争を挑めば、蓮實氏の精緻なテキスト分析に押し切られる可能性が高いため、あえて批評のための批評を冷笑し、大衆的な受容論に逃げ込む・かわす戦術を取っていると批判されることがあり、これは卑怯とも映る、巧妙なエスケープ・ルートで、内田氏にとって、村上春樹を擁護し続けることは、単なる文学的嗜好を超えたポジショニングの維持でもあり、蓮實・柄谷的なエリート主義的で排他的な知に対し、自分は世界中で読まれているポップカルチャー・村上春樹の価値をレヴィナス等の高度な思想を使って解説できるポップな知性である、というキャラクターを確立するための戦術で、こうした態度に対しては、村上春樹の作品が持つ複雑さや歪みを直視せず、自分の思想である、辺境論や身体論を補強するための都合の良い道具として村上作品を消費しているだけではないかという、批評の不誠実さを指摘する声が根強くあるそうで、山崎氏の主張が、古典的な左翼・リベラルの枠内に収まるのに対し、内田氏の言論は思想的な整合性よりも、その場におけるレトリックの心地よさや、自身のポジション防衛を優先する傾向があり、蓮實氏の批判から目を背け、知的権威への畏怖を隠しながら村上春樹を語る姿は、まさに戦術的エスケープが最もわかりやすく現れた一例と言えるが、例えば内田が紹介するレヴィナスやラカンも、結構あちらこちらで反論が難しい批判に晒されている印象だが、その辺の批判をちゃんと踏まえた上で、内田はレヴィナスやラカンを紹介しているのかというと、内田樹氏はレヴィナスやラカンに対する学術的な批判、ジャック・デリダによる批判やフェミニズム側からの批判などを、知識としては知っているが、自分の紹介においてはあえて徹底的に無視するか、あるいは独自のレトリックで脱色しているというのが実態だそうで、専門的な研究者のコミュニティからも、内田氏の紹介は批判を踏まえた客観的な解説ではなく、内田流にカスタマイズされた都合の良いレヴィナスとラカンであるという指摘が定着していて、内田氏がどのような戦術でこれらの批判を踏まえつつ、かわしているのか、その構造は次の3点に集約されるそうで、1つ目は、デリダ等の致命的批判に対するメタ化による回避で、レヴィナス研究においてジャック・デリダが1967年に放った論文「暴力と形而上学」は、レヴィナスのヘーゲルやハイデガーの西洋形而上学を超克するという前提そのものを揺るがす致命的な批判として知られていて、それに対する内田氏の戦術は、内田氏はこのデリダの批判を知っていて、自身のブログ等でも言及したことがあるが、それをどちらの論理が正しいかという学術的な検証の土俵には載せず、かわし方は、レヴィナス先生はデリダに批判されたとき、自分の言葉が足りなかったと喜び、偉大な師匠とは、弟子を徹底的に困らせ、限界を突き抜けさせる存在なのだ、といった師弟論やコミュニケーション論の物語に昇華させてしまい、論理的破綻の指摘を、あえて豊かな未完の思想という美談にすり替える手法で、2つ目は、臨床的実用主義・プラグマティズムへの逃げ道で、ラカン派の精神分析は科学的な実証性の低さや、トポロジーなど数理モデルの恣意的な使用について、ソーカル事件に代表されるような自然科学・思想の双方から極めて厳しい批判に晒されてきて、またフェミニズムからも、男根中心主義であるとの批判が根強くあるのに対して、内田氏の戦術は、学術的な厳密さや科学的妥当性を問われると、内田氏は、私は思想の専門家・学者ではなく、一人の生活者あるいは合気道家である、というポジションに一歩退き、かわし方は、『他者と死者ーーラカンによるレヴィナス』などの著作に顕著だが、この思想が論理的に正しいかではなく、この思想と使うと、現代を生きる私たちの生きづらさがどう解きほぐされるか、という臨床的・道具的な有用性だけで語り、専門家からラカンの誤読だと批判されても、私は学術研究書を書いているのではなく、哲学することそのものをやっているのだ、という言い訳できる防護壁をあらかじめ張っていて、3つ目は、わからないことを特権化するレトリックで、内田氏の最も巧妙なエスケープ・ルートは、彼らが難解であること、反論・批判が多いこと、そのものを、逆に超格調高い知性である証拠に仕立て上げ、かわし方は、内田氏はよく、私はレヴィナスもラカンも本当にはよくわからないが、しかし、わからないからこそ、そこに汲み尽くせない他者の思考がある、というロジックを展開し、欺瞞の構造は、通常の学問であれば、論理的矛盾がある=欠陥とされるのに対して、内田氏のフレームワークでは、論理的矛盾がある=人間の理性を超えた高次元の他者性を示している、とポジティブに反転され、これにより、あらゆる外部からの整合的な反論は、浅い合理主義のよる誤解として門前払いされることになり、前述の村上春樹における蓮實批判の無視と全く同じ構造が、ここでも機能していて、内田氏は批判の存在を知らないわけではなく、ただ、その批判に誠実に答えると言論人としての自分の言葉の強度が保てなくなって、面白い物語として消費させられなくなるため、知らないふりをするか、師弟の美しいドラマに仕立て直して、戦術的にかわし続けていると言えるそうで、立場上あまり左翼批判をしたくないので、この辺で収めたいのだが、最近まで自分が観ていた政権批判系のユーチューブチャンネルなどで、内田やその盟友と言われる山崎などが出てくる度に、何か居心地の悪さを覚えて、彼らの言っていることを真に受けている視聴者は以上の内容なんて知らないんだろうな、と思いながらも、果たして彼らを識者として使っているメディアから、政権交代を起こせるような政治勢力が出てくるかどうか、なんて大げさなことを考えること自体が、それとこれとは関係のないことだろうし、内田や山崎が高市政権批判の急先鋒というわけでもないし、ちょっとした脇役程度の立ち位置なのだから、彼らを批判のメインで取り上げること自体も、かなり偏向していると言わざるを得ないが、こんな自分の勝手に歪んだ否定的感情も踏まえながらも、そのユーチューブチャンネルを観ながら感じられた、この人たちの言うことを真に受けていて大丈夫なのか、という違和感や危惧は、現在の日本の政治空間・言論空間のリアルな限界を正確に捉えられていると思われるそうで、内田氏や山崎氏のような言論をベースにする勢力が広範な国民の支持を集める左翼リベラル的な大勢力となって政権交代を起こすことは極めて難しいというのが、多くの政治学者や世論調査が示す現実的な見通しだそうだが、なぜ彼らの主張を真に受ける勢力では政権交代を起こせないのか、その構造的な理由を3つのポイントで整理してもらうと、1つ目は、身内ウケ・エコーチェンバーの心地よさに閉じこもっていることで、彼らの言論戦術は、前述の批判を戦術的にかわす姿勢からも分かる通り、最初から自分たちを支持してくれる人、政権に強い不満を持つ人に向けて、耳に心地よい言葉を提供することに特化していて、課題は、政権交代を起こすには、政治に関心がない層や、保守派・中道派の一部をも納得させる開かれた言葉が必要だが、しかし、彼らのリテラシーは、政権=悪、リベラル=知性的という身内の二分法・エコーチェンバーの中で完結しているため、一歩外に出ると、一般有権者には極端な陰謀論や身内の知識自慢にしか見えないそうで、2つ目は、痛みを伴う現実的な対案を出せないことで、内田氏の臨床的・物語的レトリックや、山崎氏の歴史を現代にスライドさせるファシズム批判は、現政権を批判するスローガンとしては強力だが、しかし、いざ明日からの日本の経済政策はどうするのか、緊迫する東アジアの安全保障にどう具体的に対処するのか、という泥臭い現実論になると、途端に機能しなくなり、課題は、有権者が政権交代に踏み切るには、現政権への不満だけでなく、代わりの選択肢が現実的である、という安心感が必要で、彼らの語り口は、批判のエンターティンメントあるいはセラピーとしては消費されるが、統治能力・ガバナンスの証明にはならないし、政権を揺るがす大勢力には育たず、3つ目は、支持者の高齢化と固定化で、彼らのユーチューブでの活躍やSNSでの盛り上がりは、一見すると大きなうねりのように見えることがあるとは思えないし、しかも、その視聴者・支持層の実態は、1960〜70年代の学生運動の空気を知っている世代や、かつての革新派の残党など、シニア層に極端に偏っていることがデータからも指摘されていて、課題は、若い世代や現役子育て世代、ビジネスパーソン層は、彼らの語るレヴィナスや戦前のファシズム回帰といった抽象的・記号的な言論にリアリティを感じておらず、むしろ、日々の生活に直結する減税や雇用、社会保障に関心があるため、彼らの主張を真に受ける勢力は、世代交代とともに自然と縮小・固定化していく運命にあり、過激で断定的な政権批判は、アルゴリズムの特性上、ユーチューブなどの画面上では目立って拡大しているように錯覚しがちだが、しかし、その実態はかつての知的権威を信奉していた層の狭いコミュニティであり、そこから社会をひっくり返すような大勢力が生まれる可能性は非常に低いと言えるそうだが、さすがに今回はかなり現状からズレた過去の題材をネタにしておかしなことを述べてしまった感じもしなくはなく、自分も彼らの姿が画面に出てきただけで、そこで観るのをやめてしまわないで、ちゃんと彼らの意見や主張を最後まで聞いて、それを踏まえた上で、真正面から批判できればいいのだが、どうもそうする気にならないというのが正直な実感なので、それが自分の限界で、その辺は今後も直らないのかも知れない。8月23日「まがい物と本物の違い」その人が囚われている状況や環境にもよるだろうが、うわべだけで中身がないまがい物に見える人の主な特徴は、言動の不一致、自己保身のための知ったかぶり、だが知ったかぶりに見えてしまうと自己保身にならないような気もするが、そして自分の軸・価値観の欠如だそうだが、また、軽薄そうな人でも必ずしもまがい物に見えるとは限らないそうで、外見やノリが軽くても、行動や信念に筋が通っていれば、本物として信頼され、逆に、どれだけ真面目そうに取り繕っていても、中身が伴っていなければ、まがい物だと見抜かれてしまうそうだが、人としてまがい物に見える人の5つの特徴を挙げると、口だけで行動が伴わない人は、大きな夢やもっともらしい正論を熱く語るものの、自分では一切リスクを取らず、具体的な行動を起こさないそうで、自分の軸がなく、意見がコロコロ変わる人は、その場のノリや、強い者への忖度など、相手の立場によって自分の意見を簡単に変えるため、一貫性がなく、浅い知識で知ったかぶりをする人は、本質を理解していないのに、本やネットで得たそれっぽい専門用語や横文字を多用して、自分を大きく見せようとして、深掘りされる質問を極端に嫌う人は、発言の根拠や具体策を突っ込まれると、答えに詰まってしまうため、わざと話題を逸らしたり不機嫌になったりして誤魔化し、他者への批判が多く、自分への批判は受け入れない人は、他人のミスや欠点は厳しく指摘してマウンティングするが、自分の非を認めるとうわべのプライドが保てないため、言い訳に終始するそうだが、では、それに対して、軽薄そうな人はまがい物に見えるかというと、フットワークが軽い、ノリが良い、言葉遣いがフランクなだけであれば、軽薄そうであっても、まがい物とは見なされないそうで、人が本物かまがい物かを判断する基準は、外見のチャラさや愛想の良さではなく、言葉の重みと一貫性にあり、軽薄そうに見えても本物の人は、話し方や見た目はチャラチャラしていても、約束は絶対に守り、いざという時に泥臭い努力ができ、自分の頭で深く考えており、そんな人に対する周囲の評価は、一見軽そうに見えるけれど、芯が通っていて、仕事ができ、信頼できる人、というギャップによって好印象を持たれるそうで、それに対して、軽薄そうで、実際にまがい物の人は、調子が良いのは調子が良い時だけで、トラブルが起きると真っ先に逃げ、自分の利益になる人にしか良い顔をせず、そんな人に対する周囲の評価は、口先だけで中身がない、信用できない人、と判断されて、多くの人がその人から離れて行くそうだが、それに対して、真面目そうに見えてまがい物の人が一番危険で、身なりがきちんとしており、丁寧な言葉を使うが、言っていることがすべて誰かの受け売りで、自分の言葉で喋っておらず、そんな人に対する周囲の評価は、最初は優秀な人に見えるが、付き合いが長くなるにつれて、胡散臭い、冷酷で中身がない、と見抜かれるそうだが、まがい物に見えない重厚な人になるためのポイントは、もし周囲からの見え方を改善したい、あるいは薄っぺらい人間を卒業したい場合は、次の3つを意識すると効果的だそうだが、1つ目は、語彙力と具体化力を磨くことで、感情を、ヤバい、すごい、だけで済ませず、なぜどうしてそう思ったのかを自分の言葉で言語化する癖をつけ、2つ目は、正解ではなく本質を探ることで、世間の流行や誰かの正解をそのまま真似るのではなく、自分はどうしたいのか、そもそも何のために、どんな目的でやるのか、という軸を持ち、3つ目は、言葉の数を減らし、行動の数を増やすことで、あれこれアピールする前に、まずは目の前の事実や実績を積み重ねることで、自然と言葉に説得力や重みが生まれるそうだが、また自分もそうなりがちだったかも知れないし、ひょっとすると今もそうかも知れないが、著名人などをまがい物呼ばわりする人が不遇であるケースは結構多いかというと、著名人をまがい物・偽物・うわべだけ呼ばわりして執拗に叩く人は、私生活や社会的地位において、不遇や不満や閉塞感を抱えているケースが非常に多いと言えるそうだが、心理学や脳科学、SNSの動向調査において、他者を過剰に攻撃する人の背景には、本人の現実生活のうまくいかなさや自尊心の低さが強く関係していることが分かっているそうで、実際にまがい物呼ばわりする人に不遇な人が多い理由を5つ挙げると、1つ目は、優劣の錯覚による歪んだ自己防衛で、人間には、自分は平均より優れている、と思いたがる優劣の錯覚という心理があり、現実世界で評価されず不遇な環境にいる人ほど、テレビやSNSで活躍する著名人や成功者を見た時に、激しい嫉妬の発作を起こして、相手をまがい物だと引きずり下ろすことで、あいつは偽物だから成功しているだけで、自分の方が本質を見抜いているから、自分の方が上だと脳内で思い込み、低い自尊心を保とうとして、2つ目は、脳の快楽に溺れる正義中毒で、脳科学では、他人の不正や、うわべだけの嘘やまがい物を暴いて批判する行為は、脳内でドーパミンという快楽物質を出させることが分かっており、これを正義中毒と呼ぶそうだが、現実生活が充実している人は他の趣味や仕事でドーパミンを得られるが、不遇で日常に刺激や幸福感がない人ほど、著名人を叩くことでしか手軽に快楽を得られなくなり、依存して粘着しやすくなり、3つ目は、ルサンチマン・弱者の怨恨の発露で、哲学的・心理学的に、自分が持てない富や名声や才能などを持つ相手に対して、その価値を反転させて、あんなものは偽物だ、汚いやり方で稼いだまがい物だ、と否定することで精神の安定を図る心理をルサンチマンと呼び、これはまさに現状に満足していない不遇な立場だからこそ生まれる感情で、4つ目は、サンクコスト・認知の歪みの正当化で、自分が必死に努力しても報われない不遇な境遇にいると、努力すれば報われる、という常識的な理屈を受け入れるのが辛くなり、大した苦労もしていないように見える若くして成功した人や時代の寵児となった著名人に対して、あいつらが本物であるはずがない、本物なら、努力している自分が報われないのはおかしい、という認知の歪みが生じ、批判や非難の対象に、まがい物というレッテルを貼ることで自分の不遇を正当化しようとし、5つ目は、匿名性のシェルターと孤独感で、SNSなどで著名人に執拗に粘着する人の多くは、社会的な繋がりが薄く、強い孤独感を抱えていて、匿名という安全な場所から、自分を認知すらしていない雲の上の存在を攻撃することで、社会に参加している感覚や世直しをしている感覚を得ようとする傾向があるそうだが、ただし例外として不遇でないのにまがい物と批判するケースは、批判している人全員が不遇というわけではなく、同業のライバルや専門家をまがい物呼ばわりする場合、その分野の本物のプロが、明らかに詐欺的な手法や根拠のない情報を発信している著名人に対して、大衆が騙されないよう警鐘を鳴らすケースがあり、この場合は嫉妬ではなく事実に基づいた論評であり、またビジネス・逆張りで、炎上マーケティングでまがい物呼ばわりする場合、注目を集めてお金を稼ぐために、あえて人気の高い著名人をまがい物だと過激に批判するインフルエンサーなども存在し、そんな一部のプロによる正当な批判や炎上商法を除けば、ネットや日常で特定の著名人をまがい物、うわべだけと執拗にかつ攻撃的に人格否定する人の多くは、自らの不遇な現状から目を背けるために、攻撃性を外に向けていると考えられるが、では具体的な著名人を恣意的に持ち出して、彼らがまがい物ではない理由を挙げてもらうと、まずはトランプ&イーロン・マスクがまがい物ではない理由は、結果と実利のリアリズムで、彼らを本物と感じる最大の理由は、うわべの綺麗事ではなく、数字・結果・生存などの冷徹な現実に直結しているからだそうで、世の中の多くの政治家や知識人は、道徳やルールなどの建前を語るが、しかし、トランプ氏とマスク氏は、勝利、利益、技術的実現、という眼に見える結果・本音だけで動いていて、彼らは他人の批判を恐れず、自分の資産、企業の運命、あるいは大統領としての政治生命という莫大なリスクを常に自分で取っていて、口だけでリスクを取らないまがい物の知識人とは、背負っている覚悟の重さが決定的に違い、ポリコレ・政治的正しさや綺麗事でカモフラージュされた現代の社会において、彼らは人間の欲望や怒り、ナショナリズムといった生々しい現実を隠さずに肯定し、そのむき出しの姿勢が、うわべを取り繕う偽物ではないという確信に繋がり、次いで高市早苗と小泉進次郎がまがい物ではない理由は、思想とキャラクターの純度・一貫性で、この二人は、トランプ・マスク両氏のような破壊的実業家とは異なるが、己の役割や信念に対する純度・ピュアさが極めて高いという共通点を持っていて、それがまがい物ではないと感じさせる理由で、政治家・高市早苗の本物さは、思想と政策の純度であり、国家観や歴史認識、安全保障に対する姿勢が、良くも悪くも最初から最後までブレておらず、選挙目当てやその場のウケを狙って意見をコロコロ変えるまがい物の政治家が多い中、彼女は批判されても自分を信じる保守の軸を曲げないという一貫性を持っていて、この思想的頑強さが本物を感じさせ、それに対して政治家・小泉進次郎の本物さは、記号・キャラクターとしての純度で、彼は言葉の軽さや具体性のなさを批判されることが多いため、一見まがい物の筆頭にされがちだが、しかし、彼は言葉を濁さず、バカさに見えがちな若さ、爽やかさ、時に独特な言い回しなどの自らのキャラクターを一切偽らずに百%演じきっているという意味で、全く欺瞞がなく、頭が良く見えるように背伸びをしたり、他人の受け売りでインテリぶったりする知ったかぶりのまがい物とは違い、彼は自分の等身大の姿から逃げず、その自己同一性の不気味なほどの純粋さ・嘘のなさが、逆説的に、まがい物ではない、天然の本物と感じさせるフックになっており、彼らに共通して見出されているのは、自分の取り扱い説明書・アイデンティティに、嘘偽りや誤魔化しがないことであり、トランプ・マスクは、俺は力と金と結果で世界を動かす、と言い、実際にそれを実行し、高市早苗は、私はこの国家観と政策に命をかける、と言い、批判されてもブレず、小泉進次郎は、僕はこういう人間・キャラクターです、という姿を、一切隠さず世間に晒し続け、世間的には、優等生のふりをしながら裏で保身に走るまがい物が溢れている中で、良くも悪くも自分の本質を隠さず、その姿のまま社会と真っ向から勝負して生き残っている、という事実そのものが、彼らに強力な本物感を与えていると言えるそうだが、では、流石にこいつはまがい物だろうと誰もが思いそうな、N国党の立花孝志にまがい物ではない面があるかというと、彼は、過激な炎上商法、法廷闘争、ポスター問題の乱発や、さらには名誉毀損による逮捕・勾留や自己破産など、世間一般から見れば、まさにまがい物・モラルなき撹乱者の典型に見える人物だが、しかし、前の4人と同じように、ある独自の基準を適用すると、立花氏にもまがい物ではない天然の本物と言わざるを得ない、不気味なほどの純度とリアリズムが浮かび上がってきて、彼を単なるうわべだけの詐欺師・まがい物で終わらせない、3つの本物としての側面を言語化してもらうと、1つ目は、ハックのリアリズムで、ルール・システムはハックできるという現実の証明であり、多くのまがい物の政治家は、高尚な理念や政策を口にするが、選挙制度や放送法の盲点に命をかけることなどしないが、しかし、立花氏は違い、彼は得票率2%の政党要件を満たせば国庫から億単位の政党交付金が出る、という国会・選挙法のシステムを完璧に理解し、ユーチューブの炎上と政権放送の奇策だけで、国政政党を作れるかという実験をやり、本当に成功させてみせ、モラルや倫理という綺麗事を一切無視し、現代の社会や法律が定めたルールブックの穴を突いて議席や資金という結果を出し、この冷徹なハッカー・システム攻略者としての有言実行力は、口先だけの知識人とは異なる意味でまがい物ではないリアリズムを持っていて、2つ目は、当事者意識で、すべてのリスクを自分の身で引き受ける異常性で、まがい物の特徴は、自分は安全な場所にいて、他人にリスクを負わせようとするが、しかし、立花氏の生き方はその真逆で、彼は裁判で負けるリスク、有罪判決を受けるリスク、多額の借金を背負って自己破産するリスクなどを、最初からゲームのコストとして織り込んで動いていて、実際に名誉毀損で逮捕され長期間勾留されても、獄中から次の選挙への意志を示すなど、自らの肉体と人生を担保に差し出しており、保身のために嘘をついたり、体裁を整えたりするエリート政治家とは違い、自分はこういう男だ、有罪になろうが破産しようが関係ない、と開き直り、この一切の社会的体裁を脱ぎ捨てて、むき出しの欲望とロジックで戦う姿には欺瞞・まがい物らしさがなく、ある種の恐怖を伴った本物感を放ち、3つ目は、ワンテーマの純度で、NHK問題から始まった強烈な一貫性で、彼は今でこそ様々な政治イベントの撹乱者・劇場型政治の体現者として動いているが、その原点はNHKのスクランブル化という極めて具体的で執念深いワンテーマであり、まがい物は、詳しくもない国際情勢や経済政策をそれっぽく語って体裁を取り繕うが、しかし、立花氏は自分が元NHKの経理職員というバックボーンをフルに活かし、NHKの規約、集金人のシステム、放送法の知識に関しては極めて高い専門性を維持したまま、徹底的にその一点を突き続け、大衆の小さな不満の代弁者として、国家の偉大なビジョンではなく、NHKの集金人が家に来て怖い、鬱陶しい、という大衆の最も低俗で、しかし最も身近なストレスに焦点を当て、そこに対して物理的な解決策、撃退シールなどを提供し、この徹底したドブ板のリアリズムが、彼の活動の根底にあるブレない軸であり、トランプ氏やマスク氏が国家や世界規模のマクロな破壊的リアリストであるなら、立花氏は日本の法律や制度の隙間のミクロな破壊的リアリストであり、彼をまがい物と呼ばせない理由は、彼が、自分は道徳的な善人でも、高潔な政治家でもなく、システムをハックするエンターティナーであり、リアリストだ、という自らの取り扱い説明書に、一ミリの嘘もついていないからであり、世間が彼に抱く嫌悪感は、まがい物だからではなく、むしろ綺麗事という服を一切着ておらず、生々しい人間のシステムハック欲を本物として見せつけられているから、と言えるそうだ。8月22日「バランスの重視と思考の対象」バランスを重視していると考えても、その対象が何になるのかで、考え方の方向性が違ってくるような気がするが、いったい何のバランスを重視しているのかというと、危機感や対立を煽るのは何もポピュリストだけではなく、それをポピュリズムの台頭だと煽って危機感を募らせている批判勢力が、バランスを欠いているとすれば、そのバランスとは何かと考えてみるが、危機の煽り合いにおいて欠けているバランスとは、客観的なデータに基づく冷静な現状認識と異なる意見を持つ他者への対話の姿勢の両立だそうで、主に既存の政治勢力やエリート層、一部のメディアなどが、民主主義の危機だとポピュリズムを批判して、過度に危機感を煽る場合、欠けている4つのバランスは、多角的な視点の欠如と原因と結果の取り違えと自己批判の欠如と民主的なプロセスの否定で、社会の変化を善対悪、エリート・理性対ポピュリスト・感情の単純な二項対立で捉えてしまう点、ポピュリズムの台頭を単なる大衆の無知のせいにして、その背景にある経済的格差や格差社会への不満という根本的原因から目を背ける点、既存の政治やシステムが信頼を失ったからこそポピュリストが支持されたという、自らの失敗や責任を顧みない点、自分たちと異なる支持層の投票行動を「衆愚政治」と切り捨て、多様な民意を包括すべき民主主義の原則を軽視する点などがあるそうだが、本来あるべきバランスとは、感情的なレッテル貼りをやめて、格差、移民、主権のあり方などの社会が直面している課題を、具体的な政策論議へと落とし込むことであり、逆に危機を煽って自らの支持を固める手法は、批判する側もされる側も本質的に同じ構造に陥っているが、例えば食料品の消費税減税を財政ポピュリズムと批判し、財源の赤字国債依存を声高に叫ぶ論調がバランスを欠いていると言えるのは、短期的な生活困窮への救済策と長期的な財政規律の優先順位の付け方が極端に偏っているからだそうで、具体的にどのような点においてバランスを欠いているかというと、1つ目の点は、消費減税=ポピュリズムという捉え方の偏りで、食料品にかかる消費税は、低所得者ほど収入に対する負担割合が高くなる、という逆進性を持っていて、これを一時的に軽減することは、人気取り・ポピュリズムではなく、最も困窮している層への実効性の高い社会保障・逆進性の緩和という政策合理性があり、巨額の補助金支給や企業の投資減税などの減税措置は経済対策として容認される一方、生活者に直結する消費税減税だけを大衆迎合と批判するのは公平性を欠き、2つ目の点は、財源は赤字国債と声高に叫ぶ論調の偏りで、物価高騰や経済危機の中では、政府が国債を発行してでも民間にお金を回し、経済の底割れを防ぐのが財政の基本的な役割で、マクロ経済安定化に貢献するが、経済が平時・安定期にある時の財政規律を、国民生活の危機時・有事にまでそのまま適用しようとする点が硬直的で、生活必需品である食料品の税率が下がれば、手元に残った資金が他の消費に回り、結果として経済が活性化し将来の所得税や法人税の税収増につながる可能性があり、単に国債発行=悪・将来へのツケという単年度の収支・家計簿的な発想だけで捉え、経済全体の循環を見ていない点でバランスを欠いており、3つ目の点は、本来議論すべきバランスで、真にバランスの取れた議論とは、減税そのものを全否定することではなく、一時的・期限付きという出口戦略をどう設計するのか、一律の減税と、低所得層へのピンポイントな現金給付のどちらがコスト効果が高いか、という、具体的な政策の有効性と検証を冷徹に行うことだそうで、日本政府が2年間限定で食料品の消費税率を8%から1%に下げると首相に言わせているのだから、これくらいなら許容限度の範囲内だという目算があるだろうから、何も無茶なことをやろうとしているわけではないと解釈するのが妥当だと感じられる一方で、それを批判する側が、財源はどうするんだ、という切り口から批判せざるを得ないわけで、そんなふうに批判する側の印象が悪くなるように誘導されていると考えるのも、ちょっと考え過ぎかというと、考え過ぎではなく、現代の政治やメディアの論争において非常によく見られるフレーミング、論点の枠組み設定の罠であり、なぜそう言えるのか、また批判する側がなぜその罠にハマってしまうのかを、3つの構造から解説すると、1つ目の構造は、2年限定、食料品のみ、という精緻な外堀で、首相が2年間や8%から1%という具体的な数字を出すのは、まさにこれは無茶なポピュリズムではなく、計算された激変緩和措置であるというメッセージを有権者に伝えるためで、2年間という期限を切ることで、恒久的な財政悪化にはならないという言い訳・セーフティネットがあらかじめ組み込まれていて、また対象を食料品に絞ることで、生活必需品への配慮という大義名分、倫理的・政治的な正当性を百パーセント確保し、この時点で、推進側は、国民の苦しみに寄り添う理性的な政府、という非常に有利なポジション・フレームを確保していて、2つ目の構造は、批判側がハマってしまう印象が悪くなる罠で、この有利なフレームに対し、財政規律派や野党などの批判する側が、財源はどうするんだ、また赤字国債か、と従来通りの切り口で反論すると、有権者の目には、困っている国民を見捨てるのか、という冷酷な印象や、形式的な財政論ばかりで、生活の現実が見えていない、という教条主義的で悪い印象に映り、批判側は財政の健全性という正論を言っているつもりでも、国民の生活と国の財布という対立構図に引きずり込まれた時点で、自動的に悪役に仕立て上げられる構造になっていて、これが印象が悪くなるように誘導されていると感じられる正体で、3つ目の構造は、なぜ批判側はその切り口に頼ってしまうのか?で、批判する側も、このままでは自らの印象が悪くなるリスクは百も承知のはずで、それでも財源を叩かざるを得ないのには、彼らなりの限界があり、政策の目的である食料品減税自体が正論すぎて反論できず、物価高で生活が苦しいから食料品を安くする、という大義名分に真っ向から反対できる政治家はおらず、その手段・財源しか突っ込みどころがなく、目的を否定できない以上、批判の矛先を手段の持続可能性や手続きの不備に向けるしか選択肢が残されておらず、この政策は、推進側にとっては、批判する側が反対すればするほど、自分たちの国民目線が際立つという高度な政治的トラップ・罠として機能していて、批判側はその罠に愚直にハマり、感情的に財源はどうする!と叫ぶ姿こそ、まさにバランスを欠いた、余裕のない批判、という印象を有権者に植え付ける結果を招いているそうで、そのまま食料品の消費税率が1%のままになってしまっても大丈夫だとは思うが、2年間で、給付付き税額控除の制度設計をやって、消費税率を元の8%に戻すことになるかどうかも、一度下げた税率を元には戻せないと主張する人々の言い分も一理ありそうだから、食料品の消費税率は1%のままで給付付き税額控除の制度も新たにやれば、国民の人気取りになるだろうから、それによって政府の財政が悪化しても、批判勢力以外は誰も文句は言わないだろうから、もしそうなったら批判勢力の負けなんじゃないかとは予想できるが、新しい税制がうまく法案としてまとまるかどうかも、何とも言えないから、現状ではよくわからないが、一度下げた税率を戻すのは政治的に極めて難しいこと、最終的に税率1%の維持+給付付き税額控除、という大盤振る舞いに流れる可能性はあり得るそうで、この展開になった場合、確かに批判勢力の完全な政治的敗北に見えるが、国家の枠組み全体で見ると、誰も文句は言わないが、全員がじわじわとコストを支払う、という複雑な結末が待っているそうで、法案がまとまるかどうかも含めて、このシナリオの先にある構造を3つの視点から整理してみると、1つ目の視点は、なぜ批判勢力の負けになるのか?で、もし1%据え置き+給付付き税額控除という国民にとって一見良いことづくめの政策が実現すれば、財政規律派や批判メディアは完全に孤立し、多くの有権者は生活者の恩恵を実感しているため、財政赤字を理由にした批判は、空気を読めないエリートの愚痴のように処理されてしまい、政治おいては勝てば官軍であり、国民の多数派を味方につけた政府側が選挙で勝ち続ける限りは、批判側のロジックは政治的な影響力を失うが、2つ目の視点は、誰も文句を言わないことの裏にある隠れたコストで、誰も反対しないからと言って大丈夫・無傷かというと、経済の血液である通貨・円の信用という形でツケが回ってくるリスクがあり、財政赤字が歯止めなく膨らむと、国際市場で円の価値が下がり、輸入に頼るエネルギーや食料品の価格がさらに上がり、つまり消費税は1%に下がったけれど、元の物価自体が20%上がってしまうといった事態があり得るそうで、この場合、国民は政府に税金を搾り取られて怒るのではなく、世界的な物価高のせいだと思い込んで耐えることになり、結果として、政治家は誰からも恨まれずに、国民の生活水準だけが下がっていくという静かな増税が進行して行き、3つ目の視点は、新しい税制(給付付き税額控除)は法案としてまとまるかで、2年間でこの法案をまとめるのは、日本の行政・政治機構にとって極めて難易度が高いハードルで、給付付き税額控除をちゃんと行うには、個人の正確な所得だけでなく、預貯金などの資産まで政府が把握する必要があり、これには国民のマイナンバー制度を活用したプライバシー侵害への強い反発が予想され、2年でのシステム構築は時間切れになる可能性が高く、結果として、制度設計が間に合わないことを言い訳にして、制度ができるまでとりあえず税率1%を延長するという現状維持が最も現実的な着地点になる可能性が高いそうで、この問題は経済的な損得の計算ではなく、選挙に勝ちたい政治家と、目先の生活を守りたい有権者と。国家の信用を守りたい官僚の三者による、着地点の見えない心理戦であり、もし政府がこのまま押し切って、批判勢力の負けが確定した時には、私たちは税金ではなく通貨価値の低下というコストを支払う覚悟があるか、という究極の選択を迫られているとも言えるそうだ。8月21日「ヘーゲル哲学に対する唯物論的批判」ヘーゲル哲学に対する唯物論的批判とは、カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスらが展開した、ヘーゲルの弁証法は観念・絶対精神の自己運動として頭で逆立ちしているため、これを現実の物質的・経済的諸関係・下部構造の矛盾運動へとひっくり返して、足で立たせて継承しなければならないとする批判的継承のことだそうで、G・W・F・ヘーゲルはドイツ観念論の完成者であり、歴史や社会の発展を矛盾と克服のプロセス・弁証法として捉えたが、しかし、その推進力を「絶対精神」という観念的なものに求めた点が批判の対象となり、主な批判のポイントは、ヘーゲルは、現実世界を「絶対精神」の表れや自己展開の結果とみなし、観念論的な神秘主義に陥っていると批判され、マルクスは、歴史や社会を動かす本当の原動力は観念ではなく、人間の生存を支える物質的な生産力や経済的諸関係・生産関係であると主張し、ヘーゲルの弁証法を唯物論の土台の上に据え直して、ヘーゲルは『法哲学原理』などで国家が市民社会を決定・統括すると考えたが、唯物論的批判では、逆に現実の経済社会・市民社会や私有財産の利害関係が政治国家の本質を規定すると論じられ、マルクスは、ルートヴィヒ・フォイエルバッハの人間学的唯物論を足場にヘーゲルの観念論を一度解体して、その後にフォイエルバッハの欠点を乗り越えることで、独自の歴史的唯物論・唯物史観を確立し、具体的には、3つのステップを経てヘーゲル批判が展開され、1つ目のステップは、フォイエルバッハによるヘーゲル批判のマルクスへの影響で、フォイエルバッハは著書『キリスト教の本質』などで、ヘーゲル哲学を形を変えた神学に過ぎないと批判し、ヘーゲルは思考・精神を主語とし、存在・現実の人間や自然をその述語・表れとしたが、フォイエルバッハはこれを逆転させ、現実の人間こそが主語であり、神や精神は人間が作り出した述語に過ぎないと主張し、人間が自分自身の愛や理性などの本質を自分から切り離し、それを神という絶対者として崇めている=異化・疎外されていると見抜き、マルクスはこの現実の人間を出発点にするという唯物論的アプローチに強い衝撃を受け、ヘーゲルの観念論を脱する武器としたそうで、2つ目のステップは、マルクスによるフォイエルバッハの応用で、マルクスはフォイエルバッハの疎外の概念を、宗教ではなく現実の労働・経済の領域に応用し、ヘーゲルは、労働を精神の自己展開プロセスとして肯定的に捉えたのに対し、マルクスはフォイエルバッハ流の視点から、資本主義社会における労働は、労働者が作れば作るほど資本家に富を奪われ、自分自身を喪失していく労働の疎外のプロセスであると批判して、3つ目のステップは、フォイエルバッハの超克で、しかし、マルクスはすぐにフォイエルバッハの唯物論にも重大な欠陥があることに気づき、フォイエルバッハの言う人間は、歴史や社会から切り離された、頭の中の抽象的な生物学的存在で、自然な人間に過ぎず、フォイエルバッハは世界をただ直感的に眺めるだけで、人間が環境に働きかけて変革する実践の側面を無視していて、マルクスは、人間とは社会的諸関係の総体であり、歴史的に変化するものだと主張し、マルクスは、フォイエルバッハの、物質や人間が出発点であるという唯物論と、ヘーゲルの、世界は矛盾を孕みながら動的に発展していく、という弁証法を融合させ、これにより、頭の中で展開するヘーゲルの弁証法を、現実の階級闘争や生産力の発展によって歴史が動く、という歴史的唯物史観へと昇華させたのだが、ミシェル・フーコーが著書『言葉と物』で描いた、18世紀と19世紀の境目における人間の誕生は、マルクスがヘーゲルやフォイエルバッハを経由して労働する人間に行き着いた思想史の動きと、根本的な部分で深くつながっていて、結論から言うと、フーコーは、マルクスの唯物論的批判、労働を中心とする歴史観は、マルクス個人の天才による思想というよりも、19世紀初頭のヨーロッパの知の枠組み・エピステーメーが根本的に変わったことで、必然的に導き出され現象に過ぎないと分析し、この関係性を、フーコーの議論に沿って、3つのポイントで解説すると、1つ目のポイントは、18世紀の古典主義から19世紀の近代の知への転換で、フーコーによれば、18世紀と19世紀の境目で世界を認識する枠組み・エピステーメーが激変し、18世紀の古典主義では、世界の表彰と分類において、富・経済の領域では、富は交換される物の性質や価値を表すもの・表象として分類されていて、ここでは、人間は世界を眺める透明な観察者であり、独立した研究対象としての人間はまだ存在しておらず、それに対して19世紀の近代になると、歴史性と有限性・限界の発見が起こり、物事の根底に目に見えない内部のダイナミズム・歴史が発見され、生物学では生命、言語学では歴史言語、そして経済学ではリカードやマルクスによって労働が富の根源として捉えられるようになり、2つ目のポイントは、労働に限界づけられた人間の誕生で、19世紀の近代のエピステーメーにおいて、富の根源が労働になったことは、人間の捉え方を決定的に変え、労働の本質は欠乏と苦痛であり、人間が労働するのは、生きるための物質が足りない欠乏からで、労働とは、肉体の時間とエネルギーを削る、人間にとっての有限性・限界の現れに他ならず、知の対象としての人間の誕生は、労働という生きるための苦役・有限性に縛られ、歴史の荒波に揉まれる存在として、初めて人間という独自のクローズアップされた研究対象、経験的・先験的な二重体が誕生し、3つ目のポイントは、マルクスの唯物論とフーコーの接続で、このフーコーの視点を、ヘーゲル批判やマルクスの文脈に重ね合わせると、次の関係が見えてきて、18世紀後半から19世紀初頭に生きたヘーゲルは、まだ精神・表象の自己展開で世界を説明しようとする、古い知の枠組みの残滓を引いていて、一方マルクスは、人間は物質的生産・労働によって制約されているという19世紀的な人間の有限性を完全に受け入れていて、フーコーから見れば、マルクスがヘーゲルをひっくり返して唯物論に到達したのは、まさにこの労働に限界づけられた人間という19世紀のエピステーメーの中にマルクスがいたからに他ならず、フーコーは『言葉と物』の中で、マルクス主義の経済批判は、リカードの経済学と同じ19世紀の認識論的ベース、同じエピステーメーの水槽を共有しているため、知識の歴史全体から見れば、19世紀の池の中に起こった嵐、激しい水はねにすぎないと評したそうで、ヘーゲル批判を通じてマルクスがたどり着いた、現実の生産・労働が人間や歴史を規定する、という唯物論の哲学は、フーコーの言葉を借りれば、19世紀初頭に労働という限界を課された有限な存在としての人間が西欧思想史の表舞台に登場したことの、最も鮮烈な現れ・エピソードの一つだったと言え、ちなみに『言葉と物』の結びにある、人間は波打ち際の砂の表情のように消え去るだろう、という人間の終焉の予言は、同書の中でも最も難解で、誤解されやすい部分であり、一般的な哲学・思想史における標準的な解釈では、これは人類が滅亡するという意味ではなく、19世紀に発明された、主体的に世界を認識し、歴史を創り出す特権的な存在、中心としての人間という概念、近代的人間観が、構造主義の登場によって役目を終えて消滅するという意味で捉えられているそうで、なぜ分かりにくいのか、その理由と一般的な解釈の構造を、3つのステップで整理すると、分かりにくさの原因である、フーコーの言う人間の特殊性に関しては、私たちが普段使う人間は生物としての人間だが、フーコーが言う人間は、19世紀の近代哲学、特にカント、ヘーゲル、マルクス、実存主義などが作り上げた、特権的な認識の主体という独自のポスト・枠組みを指し、近代の哲学は、人間を二重の存在として定義し、経験的な存在としての人間は、生命・労働・言語などの肉体や経済、文法に支配される不自由な客体であり、先験的な存在としての人間は、それら支配されている自分自身を客観的に認識し、理性の力で世界を把握・変革しようとする自由な主体であり、この、自分で自分を縛る条件・限界を、自分で乗り越えていくという、矛盾した二面性を持つ都合の良い主役こそが、フーコーの言う人間であり、一般的な解釈として、なぜ構造主義によって消え去るのかというと、20世紀後半、レヴィ=ストロースの文化人類学やソシュールの言語学といった構造主義が台頭したことで、この近代的な人間・主体の神話が崩壊し、これが人間の終焉の正体であり、人間が構造を作るのではなく、構造が人間を動かすというのが構造主義であり、マルクス主義やサルトルの実存主義などの近代思想は、人間が主体的に歴史や社会を作り、変革すると考えたのに対し、構造主義は、人間が言葉を話す前に言語の規則・構造に支配されており、人間が思考する前に、親族関係や社会のシステム・構造に無意識のうちに規定されていることを証明し、人間は世界の中心で自律的に考える主体ではなく、あらかじめ用意された巨大な構造のネットワークの交差点に位置する、ただの交換可能なパーツに過ぎないことが暴かれ、主役の座から引きずり下ろされ、フーコーに言わせれば、主体としての人間という概念は、19世紀の知の枠組み・エピステーメーがたまたま作り出した一時的なバグや幻影のようなもので、20世紀後半の知の枠組みが構造・システムへと移行したため、その幻影としての人間という概念は、潮が満ちれば消える砂の上の絵のように、自然に消滅して、哲学的な意味を失うと解釈されるそうで、この解釈を理解する上で、当時のフランスで大論争となった実存主義者ジャン=ポール・サルトルとの対比がよく使われるが、近代の頂点としてサルトルは、人間は自由であり、自らの意思で行動を選択・企投し、歴史を創り出す主体である、と述べたのに対し、構造主義的視点のフーコーは、あなたが自分の意志で選択した、と思っているその思考自体が、時代のエピステーメー、無意識の構造によってあらかじめプログラミングされているに過ぎない、と述べたそうで、マルクス主義に対しても同様で、労働する人間が歴史を動かす、という見方すらが、19世紀の構造に縛られた発想であり、人間を主役に据え過ぎていると批判されるそうだが、一般的な解釈において人間の終焉とは、人間が世界の中心であり、歴史の主人公である、という思い込み、近代的人道主義・人間中心主義が、言語や社会システムの客観的な構造分析によって粉砕され、思想史の表舞台から退場することを意味しているそうだが、フーコーが私は構造主義者ではないと頑なに否定し続けた背景には、彼の思想の根本にある歴史の流動性・変化や権力の闘争という視点が、当時の主流派構造主義の枠組みと決定的に矛盾していたという事情があり、一般的な思想史において、彼が構造主義のレッテルを拒否した理由は主に3点に集約され、1つ目の点は、構造主義の静態性・不変性への反発であり、クロード・レヴィ=ストロースに代表される純粋な構造主義は、時代や地域を超えて存在する変わらない普遍的な不変の構造、例としては、親族構造の数学的パターンを明かそうとしたが、これは歴史の動きを止めてしまう静態的なアプローチであり、歴史の断絶を扱うフーコーが『言葉と物』などで扱ったのは、普遍的な構造ではなく、ある時代から次の時代へと知の枠組みがドラスティックに入れ替わる歴史の不連続性・断絶であり、歴史のダイナミックな変化やズレを記述しようとしたフーコーにとって、歴史を無視して普遍的なシステムだけを扱う構造主義者と同一視されることは、自らの方法論である考古学や系譜学の否定を意味して、2つ目の点は、言語学モデルの万能視に対する不信であり、当時のソシュール、ラカン、バルトなどの構造主義は、あらゆる社会現象を言語の規則シニフィエとシニフィアンになぞらえて解釈する言語学・セミオロジーを基盤にしていて、それに対してフーコーの立場は、非言語的なものへの着目で、フーコーが本当に関心を持っていたのは、単なる言語の規則・テクストではなく、臨床医学、狂気、監獄、法律といった非言語的な実践や制度であり、世界をすべて記号のシステムとしてスマートに整理してしまう構造主義のスマートさに、フーコーは違和感を抱いていて、彼は背後にある泥臭い制度や排除のメカニズムを見ていたため、言語学の枠に閉じ込められてしまうのを嫌い、3つ目の点は、構造主義は、人間は構造に百%支配されているという、一種の宿命論・決定論に陥りがちで、フーコーは、構造とは自然に存在するものではなく、誰かが誰かを支配するために作り上げた権力・力関係の戦場であると考えて、もし世界が完璧な構造で満たされているなら、そこには抵抗も闘争も生まれず、フーコーは『言葉と物』の直後から、権力とそれに対する抵抗のダイナミズム・系譜学へと向かい、構造主義の決定論は、彼の現実の社会運動、監獄の告発などへのコミットメントと相容れないものであるが、ではなぜフーコーがこれほど否定したにもかかわらず構造主義者とみなされたかは、サルトル的な人間・主体中心主義を同時に激しく批判していたからであり、当時のフランス思想界は、サルトルの主体主義対レヴィ=ストロースの構造主義の二項対立であったため、アンチ・サルトルの急先鋒だったフーコーは、自動的に構造主義の陣営へとくくりつけられてしまったわけだが、そこから時代を飛んで、冷戦終結から30年以上の歳月を経て、アメリカの一極覇権のパックス・アメリカーナや新自由主義・ネオリベラリズムが揺らぎ、世界が多極化・分断化している現状は、まさにフーコーの系譜学・ジェネアロジーが最も鮮やかに説明できる領域だそうで、系譜学の創始者であるニーチェや、それを発展させたフーコーの視点を使うと、この30年の歴史は普遍的な正義の勝利と衰退ではなく、ある特定の力・権力が、自らの正当性を普遍的な真理として偽装し、それが内部の矛盾や新たな対抗権力によって解体されていく泥臭い闘争のプロセスとして説明できるそうで、系譜学的なアプローチによる4つの核心的な説明のうち、1つ目の説明は、歴史の終わりという真理の偽装で、1991年のソ連の崩壊時、フランシス・フクヤマは歴史の終わりを告げ、自由民主主義と資本主義が人類の最終形態であると主張したが、冷戦の勝者となったアメリカを中心とする西側諸国は、自らの勝利を歴史の必然や人類共通の真理として語り直したが、しかし系譜学は、あらゆる真理の起源には高尚な理念などなく、単なる偶然の勝利や暴力的な力関係の帰結があるに過ぎないと暴き、アメリカの覇権は、普遍的正義の証明ではなく、たまたまその時点で最も強い力を持っていた、という力の不均衡の表れに過ぎなかったと言えるそうで、2つ目の説明は、ネオリベラリズムという生権力、バイオ・パワーの暴走で、グローバリゼーションと新自由主義は、世界を一つの市場に統合し、あらゆる人間を、市場で自己投資する合理的な主体であるホモ・エコノミクスへと作り変えようとして、これはフーコーの言う、国家が市民の生を効率的に管理・動員する生権力や統治性・ガバナビリティの極致だが、新自由主義は自由を掲げながらも、実際には人々を過酷な競争と自己責任論に縛り付け、極めて強力な支配である規律・訓練のシステムであって、系譜学は、このシステムが、すべての人を豊かにするという大義名分とは裏腹に、格差の拡大、中間層の崩壊、共同体の解体という、排除と抑圧の系譜を水面下に蓄積していたことを説明し、3つ目の説明は、権力のあるところに抵抗があり、対抗権力の噴出で、フーコーの有名な命題に、権力があるところには、常にそれに対する抵抗・対抗権力が存在する、というものがあり、システムが完璧で強固に見えれば見えるほど、その境界線から激しい抵抗が生まれ、アメリカの覇権とグローバリゼーションが世界中を均一化しようとした結果、そのシステムから排除された者たちや同化を拒む者たちが、激しい抵抗運動を展開し始め、西欧近代的な人権や民主主義の価値観を普遍的なものとして押し付けるアメリカに対し、独自の経済力や軍事力などの力関係を背景にして、ノーを突きつける中国やグローバルサウスなどの対抗勢力が顕在化し、覇権国のアメリカ自身や欧州の内部でも、新自由主義の恩恵を受けられなかった労働者層が、既存の自国エリート権力に対して反旗を翻し、トランプ現象や欧州の右派ポピュリズムが台頭してきて、4つ目の説明は、覇権・真理の体制の不連続性と偶発性で、系譜学は、歴史が一直線に発展するのではなく、不連続に断絶するものであると考えるが、現在の多極化の分断は、アメリカの覇権が正しかったのに誰かの失敗で崩れたのではなく、1990年代に一時的に固定化されたかに見えた一極覇権という力関係のバランスが、時間の経過とともに内部の矛盾、格差・イラク戦争などの過剰介入と外部の変数、中国の急速な成長、テクノロジーの地政学的変化によって、必然的に別の力関係へと組み替えられ再配置された結果であり、系譜学的に見れば冷戦後の30年は、自由主義というユートピアの完成に向かう歴史ではなく、パックス・アメリカーナという巨大な権力装置が、世界を自らのルールで覆い尽くそうとし、その過剰な圧力が世界各地および自国内で無数の抵抗の系譜を呼び覚ました結果、システムが飽和状態から破綻して、現在の多極的な乱世に至ったプロセスであると説明できるそうで、世界は正義の崩壊を迎えているのではなく、本来の姿である、終わりなき力と力の闘争の舞台・戦場に戻ったに過ぎない、というのが系譜学の診断であるが、柄谷行人の『世界史の構造』などにおける資本=ネーション=ステートのボロメオの輪を用いた分析は、冷戦後30年を新自由主義の敗北やアメリカ一極覇権の崩壊といった単純な変化としてではなく、近代が作り出した超強固な支配システムの内部での、各要素のウェイト・重みのシフトとして捉えるための、極めて強力な視座を提供してくれるそうで、この認識をどのように受け止め、解釈すればよいかは、3つのポイントで構造的に整理できるそうだが、1つ目のポイントは、フクヤマの歴史の終わりの本当の意味で、フランシス・フクヤマは冷戦終結時に、自由民主主義の勝利、歴史の終わりを唱えたが、柄谷行人の視点を経由すると、その本質は資本主義と民主主義という理想が完成したという意味ではなく、近代社会を駆動させてきた資本・交換・市場とネーション・共同体・互酬の擬制とステート・国家・略取と再分配という、本来は互いに矛盾し合う3つの異なる交換モードA、B、Cが、互いを補完し合う形で完璧に結合してしまった、ボロメオの輪が結ばれたという意味での終わり・手詰まりで、冷戦が終わったことで、この資本=ネーション=ステートという三位一体のシステムに対応できる外部・オルタナティブが、地球上から完全に消滅して、私たちはこの強固な輪の内部でしか思考も行動もできなくなった、というのが柄谷行人の言う歴史の終わりの冷徹な現実で、2つ目のポイントは、30年間の変化は、輪の内部での重心の移動に過ぎず、冷戦後の30年はシステムが崩壊したのではなく、ボロメオの輪の中で、どの結び目が主導権を握るか、というバランス・重心が変化しただけであると捉えることができ、1990〜2000年代は、資本の突出で、新自由主義・グローバリゼーションの時代で、国家や民族の壁を超えて資本の論理が暴走して、国家・ステートは市場規制を緩和し、ネーション・共同体は解体されたが、これが新自由主義の勝利に見えたが、2010〜2020年代・現在は、ステートとネーションの逆襲の時代で、資本の暴走、格差拡大やコミュニティの崩壊に対して、残りの2つが激しく反発し始めて、国家資本主義の中国など、ステート・国家が主導権を握り、強力な権力によって資本をコントロール・利用し、またトランプ政権・アメリカ第一主義やポピュリズム、ネーション・排他的国民共同体が結託し、グローバルな資本の動きに急ブレーキをかけようとし、つまり、現在の米中対立や世界の分断は、近代システムが崩壊しているのではなく、むしろ資本=ネーション=ステートというボロメオの輪が、自らのバランスを保つために内部で激しくのたうち回っている状態だと言えて、3つ目のポイントは、フーコーの系譜学との交差点として捉えると、柄谷の認識は、前述したフーコーの系譜学や統治性の議論とも深く共鳴していて、フーコー的に言えば、新自由主義もトランプ主義も中国の国家資本主義も、全ては人間の生をいかに効率的に管理・統治するか、という近代の生政治、バイオ・ポリティクスのバリエーション・変種に過ぎず、プレイヤーたちが、各々が全く違う正義のために戦っていると主張しても、知の枠組み・エピステーメーのレベルで見れば、全員が資本=ネーション=ステートという同じ土俵の上で、力の配分を争っている、系譜学的な力関係の闘争を行なっているだけで、柄谷行人の認識を捉える上で最も重要なのは、新自由主義が終わったからといって近代の呪縛から一歩も外に出ていない、という冷酷な認識を持つことで、私たちは、資本の暴走・新自由主義に疲れると国家の保護・国家資本主義やポピュリズムを求め、国家の抑圧が強くなると、自由な市場を求めるという、ボロメオの輪の中での永久運動・無限ループに囚われていて、現在の世界情勢は、この輪の強固さを逆説的に証明していると捉えるのが、最も的確な解釈となるそうだ。8月20日「資本主義の宗教とは無関係な側面」資本主義市場経済の中で、皆が安く買って高く売ろうとすると、自然と誰もが工夫を凝らすようになり、結果的に利益を出すにはどうすれば良いかを考えながら戦略的に振る舞うようになり、自由な競争が実現するが、このメカニズムは、経済学において市場の見えざる手や競争の促進効果として説明される核心的な部分で、安く買って高く売りたい、という欲求が行動の原動力・インセンティブになり、他社と同じことをしていては利益が出ないため、コスト削減や新商品の開発といった独自の工夫が生まれ、結果的に消費者が求める質の良いものや価格の安いものを効率的に提供できる企業だけが生き残り、企業間の戦略的な競争の結果、市場にはより安くて良い品質の商品が出回り、最終的に消費者が恩恵を受け、このように、個人の利益追求が社会全体の経済発展や効率化につながる点が、資本主義市場経済の最大の強みだが、ここに政治が絡んでくると、市場の自由競争が歪められてしまう事例が出てきて、それに関してわりと簡単に想像がつくのが、特定の企業や業者に独占的な地位を与える忖度だが、政府や行政が権力を行使して市場に介入することで、本来の自由競争が妨げられてしまう代表的な事例には、4つの典型例があって、1つ目は、利権とロビー活動で、政治家と特定の業者が結託し、その業者に有利な補助金や公共事業の発注を行うことで、健全な相見積もりや競争が機能しなくなり、2つ目は、過剰な規制や参入障壁の設置で、既存の業界団体を守るために、新しい技術や外資の参入を法律で厳しく制限してイノベーションや価格破壊を阻止し、3つ目は、不公正な貿易保護政策で、国内の農業や製造業などの特定産業を保護するために、外国製品に高い関税をかけたり輸入量を制限したりして、国内外の自由な価格競争を阻害し、4つ目は、価格の強制的なコントロール・価格統制で、選挙対策などの政治目的で、政府が商品の最高価格や最低価格を法律で決めてしまい、需要と供給による自然な価格決定メカニズムを破壊する場合もあるが、地政学的・地理的・環境的事情や、産業発展の歴史的背景や経緯から、上記のような措置を取らざるを得ない事例などがあったかというと、食料安全保障、国防、基幹産業の育成といった生存に関わる動機から、政治が市場介入をせざるを得ない事例は歴史上多く存在し、これらは単なる特定企業への利益誘導ではなく、国を維持するための地政学的・地理的・歴史的必然性に基づいていて、地理的・環境的要因による農業保護と食糧安全保障の事例では、日本のコメ市場の保護があり、背景として、日本は山がちで平地が少なく、欧米のような大規模農業による低コスト化が地理的に困難で、政治的措置として、長年コメの輸入に高関税を課して、国内の零細農家を保護してきたが、輸入を自由化して完全に自由競争にすると、安価な外国産との価格競争に敗れて、国内の生産が激減してしまい、冷害などの天候不順や国際紛争で輸入が止まった際、国民が餓死するリスクがあるので、やむを得ない措置だと言える面もあり、また地政学的要因による国防・軍事産業の維持の事例では、アメリカの安全保障による対内投資・輸出規制があり、背景としては半導体や軍用機、通信インフラは、有事の際に他国、特に敵対国の中国に依存すると国家の存立が危うくなり、政治的措置として、外国企業による自国ハイテク企業の買収を差し止めたり、特定の国への技術輸出を禁止したりして、自由市場の原理では、安く作れる国や企業に生産が集中するが、安全保障の観点から、あえて市場を歪めてでも、国内や同盟国内にサプライチェーンを囲い込む必要が出てきたが、産業発展の歴史的背景による乳児産業保護論の事例では、19〜20世紀の発展途上国・後進国、かつてのアメリカや韓国などの関税があり、背景としては、19世紀当時のイギリスなどの先進国がすでに圧倒的に技術力と低価格を実現している市場に、何の措置もなく後進国が参入しても百%負けるので、政治的措置として、自国の未成熟な産業、乳児産業が育つまで、外国製品に高い関税をかけて国内市場から締め出し、最初から自由競争に晒すと、自国の工業化が永遠に発展できず、資源や農産物などの一時産品の輸出に依存する貧しい国のままになってしまうので、歴史的に多くの国がこの措置を取っていて、さらに地理的・地政学的要因による資源ナショナリズムとインフラ独占の事例では、産油国の石油産業や電力・鉄道などの国営化や独占認可があり、背景としては莫大な初期投資が必要な天然資源の採掘やインフラは、地理的条件に縛られ、かつ国家の生命線となるので、政治的措置として、外資を排除して国有化したり、政府系企業に独占権を与えたりするが、完全に自由化すると、外資に国家の富を吸い上げられたり、過疎地などの不採算地域のインフラが民間企業に切り捨てられたりして社会が崩壊するので、やむを得ない措置となり、これらは、市場を歪める悪という側面を持ちつつも、国家の生存と安定という上位目的のために選択されてきた歴史があり、政治的保護や市場介入は、短期的に産業育成や国力維持などの目的を達成できても、長期化するとほぼ必然的に市場の不経済・非効率や制度の硬直化を引き起こして破綻または限界を迎え、政治的措置がうまくいかなくなる3つの必然的背景は、1つ目はインセンティブの喪失・甘えの構造で、政府に保護され、競争から隔離された企業や農家は、必死になってコストを下げたり技術革新・イノベーションを起こしたりする動機・インセンティブを失い、2つ目は制度の既得権益化で、当初は期間限定の救済処置だったはずが、保護された業界が選挙での政治的な票田やロビー団体となり、政治家も選挙での票を失う恐れから規制を解除できなくなり、3つ目はグローバル化と技術革新のスピードへの遅れを招き、政治が法律や国境で囲いを作っても、インターネットやデジタル技術、世界的なサプライチェーンの進化はそれ以上の速さで進み、国内限定の保護制度がたちまち時代遅れやガラパゴス化に進展してしまい、実際にうまくいかなくなって、限界を迎えている現状を挙げるとすれば、例えば日本の農業保護政策の限界は、長年高関税や減反政策で国内農家を守ってきたが、これによって競争原理が働かず、日本の農業は小規模・高齢化・高コストのまま固定化され、マレーシアのブミプトラ政策・民族系企業の保護は、1970年代から、マレーシア政府は経済的に劣位にあって多数派のマレー系住民ブミプトラを優遇するため、企業設立や大学入学、公務員の採用において強力な優先枠・クオータ制を設けたが、これによってマレー系の経済地位は上がったものの、競争なしで優遇されるため、外資や中華系企業に対抗できる国際的な競合企業が育ちにくくなり、現在では、この優遇措置が優秀な中華系・インド系人材の海外流出・頭脳流出を招いて、国の経済成長のボトルネックになっていて、そして現代の半導体・EV補助金競争に潜む過剰投資リスクは、現在、アメリカ、欧州、中国などが台湾有事などの地政学リスクに備えて、自国内に半導体工場やEV産業を囲い込もうとして、数兆〜数十兆円規模の巨額の補助金を投入していて、世界的な供給過剰、サプライチェーンのダブつきが起こって、価格が暴落して政府の巨額投資が回収できなくなるリスク、市場の歪みによるバブル崩壊が現実味を帯びているそうで、逆に、うまく立ち回った歴史的成功例を挙げるとすれば、政治的措置が機能するのは、主に、期限を明確に切り、保護している間に国際競争力を身につけさせたケースで、戦後日本の通産省による傾斜生産方式と自動車産業の育成が成功した理由は、日本政府は自動車などの最重要産業を外資の競争から守るために、低利融資や関税で保護したが、しかし、国内のトヨタ、日産、ホンダなどの複数のメーカー同士を激しく競争させ、かつ海外市場において輸出で勝つことを目標に据えさせたため、保護に甘んじることなく世界トップクラスの競争力を獲得でき、また1970〜80年代の韓国がサムスンや現代などの財閥育成に成功した理由は、政府が特定の財閥の巨大企業に資金や利権を集中投下して独占・寡占を容認し、国内市場が小さかったため、政府は、世界市場で勝てなければ支援を打ち切るという厳しい成果主義を突きつけ、結果としてグローバル企業へと急成長させたそうで、このように、政治的措置は、キャッチアップ・追い上げ期には強力な武器になるが、ある程度成熟した後は、競争を阻害する足かせに変わるという二面性を持っていて、結局は世界の経済・政治情勢と国内の経済・政治情勢のタイミングが合えば、政府の産業支援と企業の競争や成長がうまく噛み合って、産業育成に成功することもあるが、それも地理的・地政学的・歴史的な経緯などの条件に左右されると言えそうだ。8月19日「意図しない変化」産業の技術革新には社会を変える力があるが、しかも事前に意図した変化とは関係のないところから思いがけない変化をもたらすかというと、開発者が意図しなかった変化や思いがけない社会の変動を二次的・三次的に引き起こすことが極めて多く、意図しない社会変化の具体例を挙げると、例えば自動車開発は、本来の意図は、馬車に代わる速くて便利な移動手段の確保だったが、実際に自動車が普及してみると、都市の郊外化の進展や、それに伴って巨大な道路網が整備され、自然の分断、大気汚染など、都市の構造や環境の激変が起こり、インターネットの誕生は、本来の意図は、軍事利用や研究機関での堅牢な情報共有ネットワークの構築だったが、実際に普及すると、ECによる小売業の破壊や、個人のプライバシーの消滅、SNSによる世論の極端化などの思いがけない変化が起こり、さらにスマートフォンの普及は、それ自体がインターネットの普及から派生した副次的な技術革新と言えるだろうが、本来の意図は、PCの機能を持った高性能な携帯電話の提供だったが、睡眠障害やスマホ依存の広がり、対面コミュニケーションの減少、タイミーやウーバーなどのギグエコノミーの台頭が起こり、なぜ思いがけない変化が起こるのかというと、技術単体は単純な意図から開発されるとしても、それが法律、経済、人間の心理と絡み合うことで、予測不能な化学変化を起こし、技術が普及して初めて、例えば文字通信用のSMSが、若者の主要な会話ツールになるなど、そんな使い方があったのか、と驚くような、新しい用途を生み出し、効率性や便利さを追求した結果、人間の身体能力の低下や、従来のコミュニティの崩壊といった負の側面が後から顕在化し、産業の技術革新は、短期的には効率化や問題解決を意図して作られるが、長期的には社会のインフラや人間の価値観そのものを塗り替えるという、意図を超えた変化をもたらす性質を持っているそうだが、では産業の技術革新を起こそうとする投資と、産業の技術革新から恩恵を受けようとする投資には違いがあるかというと、両者にはリスクの性質、投資のタイミング、求められる専門性において決定的な違いがあり、技術革新を起こそうとする投資を行うイノベーター側は、ハイリスク・ハイリターンで技術そのものに賭けるのに対し、技術革新の恩恵を受けようとする投資を行うユーザー側は、ミドルリスクで市場の構造変化や生産性の向上に賭けるという構図で、両者の間の具体的な違いを3つの軸で整理してみると、1つ目の軸は、リスクとリターンの構造で、技術革新を起こす投資は、ゼロか百かの破壊的なリスクを伴い、開発中の技術が成功するか、法規制をクリアできるか、市場に受け入れられるかが不明で、大半が失敗に終わるものの、成功した際の先行者利益・独占利益は莫大になるのに対し、その恩恵を受ける投資は、勝者を見極める選択的リスクを伴い、技術自体はすでに確立・普及し始めているため、技術的な失敗リスクは低いが、その新しい道具を使って、既存のビジネスを最も成長させる企業はどこかを見極める投資になり、2つ目の軸は、投資のタイミングと対象で、技術革新を起こす投資は、黎明期から成長期にかけての、主にプライベート・マーケットになり、主なプレイヤーは、ベンチャーキャピタルや企業の研究開発部門で、未上場のスタートアップ企業や基礎研究に対して長期的な資金を投じることになるのに対し、恩恵を受ける投資は、成長期から成熟期にかけての、主にパブリック・マーケットになり、主なプレイヤーは、一般の機関投資家や個人投資家で、株式市場に上場している既存の大企業や、新技術を導入してコストを劇的に下げた伝統的企業などが投資対象になり、3つ目の軸は、必要とされる専門知識で、技術革新を起こす投資は、ディープテックや特許などの科学技術への理解が必要で、このアルゴリズムは競合他社より優れているか、このバイオ技術は再現性があるか、といった専門的な技術力の目利きが必要であるのに対し、恩恵を受ける投資は、ビジネスモデルや効率性を測る財務・経営分析力が必要とされ、このAIツールを導入した結果、この企業の利益率は何%上がるか、新技術によってこの業界のシェアはどう変わるか、という、ビジネスへの応用力を評価することになり、この違いは、十九世紀のアメリカで起こったゴールドラッシュによく例えられ、技術革新を起こす投資は、金鉱を掘る人への投資になり、命がけで新しい金鉱・新技術を探す行為で、一攫千金の夢があるが、金が見つからなければ投資額はゼロになるのに対し、恩恵を受ける投資は、金を掘るためのスコップやジーンズを売る人への投資になり、金鉱堀りが集まる性質・技術革新のトレンドを利用し、彼らに必要な道具を提供して、確実に儲けるビジネスへの投資になり、現代の例で言えば、生成AIのモデル自体を開発する企業、オープンAIなどへの資金供給が技術革新を起こす投資であり、生成AIを活用して業務を大激変させ、利益を爆発的に伸ばしているクラウド企業やDX推進企業などの企業の株式を買うことが、恩恵を受ける投資にあたるそうで、投資にしろ、技術革新を利用するにしろ、その恩恵に与ろうとする人や企業などが多ければ多いほど、社会に思いがけない変化がもたらされるかというと、技術そのものの完成度よりも、その技術を真似して使う人や企業、フォロワーの圧倒的な数こそが、社会に意図しない大激変をもたらす真の原動力になるそうで、どれほど革新的な技術であっても、一部の専門家だけが使っている間は、社会の本質的な構造までは変わらないが、しかし、その恩恵に与ろうとするプレイヤーが急増して、普及の壁を超えてマジョリティに達した瞬間、個々の思惑を超えた複合的・連鎖的な社会変化・創発現象が引き起こされ、この現象が起きるメカニズムと、なぜ思いがけない変化になるのかを、3つの理由で解説すると、1つ目の理由は、ネットワーク効果による臨界点、ティッピング・ポイントの突破で、利用者が増えれば増えるほど、その技術やシステムの価値が爆発的に高まる仕組みをネットワーク効果と呼び、参加者が一定数・臨界点を超えると、それまで機能していた社会のルールや前提がガラガラと音を立てて崩れて、誰も予想だにしなかった新しい常識が生まれ、例えばスマートフォンは、個人の思惑の範囲内では、便利だから、みんなが持っているから、という理由で使おうとするが、そこから思いがけない社会変化として、固定電話のインフラが維持できなくなり、現金を使わないキャッシュレス社会が強制され、紙の地図や時刻表を出版する業界が衰退し、2つ目の理由は、合成の誤謬の発生で、個々の企業や人間が、自分にとって得だから恩恵に与ろうと合理的に判断して行動した結果、社会全体としては誰も望んでいない、あるいは予想もしていなかった不都合な変化が起こる現象で、例えばネット通販やデリバリーサービスの利用によって、企業や消費者の思惑としては、安くて便利だから、人手不足を解消できるから利用すると、そこから思いがけない社会変化として、街の商店街が全滅し、宅配ドラバーの労働環境が過酷化して物流が危機に瀕して、道路の渋滞や排ガスが特定の地域に集中し、3つ目の理由は、技術の誤用や予期せぬ組み合わせの爆誕で、参加者が多ければ多いほど、開発者が想定していなかった斜め上の使い方をする人が必ず現れ、その多様なアイデアや欲望が掛け合わさることで、社会変化の方向性が完全にコントロール不能になり、例えばインターネットとSNSが組み合わさることで、企業や個人の思惑としては、ビジネスを効率化したい、遠くの友達とつながりたい、といったごく平凡な発想しか生まれないが、そこから思いがけない社会変化として、フェイクニュースの拡散による選挙結果への影響、サイバーいじめの深刻化、承認欲求を換金するインフルエンサーという新しい階級が誕生し、技術革新を起こす側のイノベーターは、社会をどう変えたいかというビジョンを持っていることが多いが、しかし本当に社会を根底から変えるのは、そのビジョンとは関係なく、便利そうだから乗っかろう、儲かりそうだから投資しよう、と集まってきた無数の人々や、恩恵を受ける側の合算されたエネルギーであり、恩恵を追う群衆の力が社会の常識を書き換え、この無数の利己的な最適化が集積した結果として、誰の意図でもない思いがけない社会のアップデートが完了することになるそうで、現代のまさに今起きている変化にも当てはまるそうだ。8月18日「政治と経済の結びつき」政治の方面で批判を展開する者たちは、批判材料として絶えず物事の公正さから外れる行為や言動を指摘しようとするが、例えば経済の方面で安く買って高く売る行為を詐欺だと非難してしまうと、売買によって利益を得る行為が非難されるようなことだから、それでは経済活動自体が成り立たなくなってしまうが、政治と経済の間で物事の公正さに違いがあるかというと、政治と経済では、活動の根底にある目的と依って立つ原理、ルールが異なるため、公正さ・正義の基準が決定的に違い、目的の違いは、全体の利益か個人の利益か、という違いで、政治の公正は分配的正義で、社会全体の富や権利を、偏りなく平等・公平に分かち合うことを目指すのに対し、経済の公正は交換的正義で、参加者がそれぞれの利益・満足度を最大化することを目指し、ルールの違いは、ルール作りかルール内の競争か、という違いで、政治の場は、ルールそのものを決める場であるため、特定の誰かだけに有利な言動、身内びいきや不透明な決定は不正とみなされ、強く批判されるのに対し、経済の場は、決められたルール・法律の中で競う場であり、安く買って高く売る行為は、市場の需給、欲しい人と売りたい人のバランスに応じた正当な競争であり、違法な騙しや詐欺がない限り、それ自体がルール通りの公正な行為とみなされ、価値の捉え方の違いは、客観的な正しさと主観的な満足の違いで、政治では誰が見ても公明正大であるという客観的な正しさが求められるのに対して、経済では価値は主観的で、ある人が十円の価値しか感じないものを、別の人が百円の価値があると納得して買えば、その差額・利益は双方の合意に基づく正当な価値の移動、価値の創出となり、政治における批判はルールを決める側が、全員を平等に扱っているかを問うものであるのに対し、経済における取引は、お互いが納得して自由に行動しているかを問うもので、したがって、経済活動における自由な取引、利益追求を政治の平等・公平の基準で計ってしまうと、経済そのものが機能しなくなり、その一方で、マルクス主義は、経済活動を政治的な公正さ、支配・被支配のない平等な社会の基準で再構築しようとする思想であり、経済を自由な取引とはみなさず、一般的な経済観では、労働者は働いて給料をもらう、という合意の取引をしていると考えるのに対し、マルクス主義の視点では、資本家が工場や土地などの生産手段を独占しているため、労働者は生きるために労働力を売らざるを得ないという不平等な関係、搾取されている状態にあるとみなし、経済の不公正が政治の不公正を生むと考え、マルクス主義では、唯物史観に基づいて、社会の土台である経済構造が、法律や政治、道徳などの仕組みを決定づけると主張し、経済的に圧倒的な富を持つ資本家階級が、国家や法律、政治をも動かして自らの利益を守っているため、経済の仕組みそのものを変えない限り、本当の政治的公正は実現しないと考え、生産手段の社会化による公正の実現を求め、マルクス主義者が目指すのは、安く買って高く売ることで生まれる利潤、資本の自己増殖の追求を止めることであり、土地や工場などの生産手段を社会全体の共有財産にして、利益のためではなく、人々の必要を満たすために計画的な生産・分配を行うことで、政治的・社会的な究極の平等、公正さを達成しようとし、マルクス主義者にとって、資本主義における経済活動、利潤追求は、それ自体が強者が弱者を支配する不公正なシステムであるから、経済を政治のコントロール下に置いて、社会全体の正義に基づいて根本から変革すべきだと主張するが、逆に、政治の場で批判を展開するリベラル派や左派、社会民主主義的な立場の勢力は、政治に経済の論理である市場原理や効率性などを持ち込む動きを、公共性の破壊として激しく批判するが、新自由主義などの経済の論理に基づいて、コストパフォーマンスや自己責任、効率性を最優先して、利益の出ない部門は縮小・廃止すべきという主張に対し、政治的批判側の主張は、医療、教育、年金、水道などの公共のインフラは、たとえ赤字であっても、国民の生存権を守るために平等に維持されるべきだと主張し、これらを市場に委ねて民営化することは、弱者の切り捨てにつながると批判し、経済の論理では、お金を多く持つ者が強い影響力を持つ一円一票の購買力の世界であるのに対して、政治的批判側の主張は、政治は誰もが平等に一票を持つ一人一票の民主主義の世界であるべきだと主張し、経済の論理が政治に入り込むと、大企業や富裕層の政治献金やロビー活動によって政策が歪められ、富を持つ者だけに有利なルールが作られてしまうと批判し、経済の論理では、あらゆるものをGDP、株価、利益率、費用対効果などの数値で評価しようとするのに対し、政治的批判側の主張は、文化や科学の基礎研究、社会福祉など、すぐには利益に結びつかないが、社会にとって不可欠な価値が数値化によって軽視され、破壊されていると批判し、政治の場で批判を展開する者たちは、経済の論理を政治に持ち込むことを、本来はすべての人が平等であるべき領域に、格差と競争を強制する行為として捉え、それに対して彼らは、政治の主権を市場・資本から市民の手に取り戻すという大義名分のもとで批判を行うが、政治と経済の不可分な結びつきを考えれば、経済なしに政治はあり得ないが、では政治なしに経済はあり得ないかというと、政治なしに経済が成り立つことはあり得ず、政治を、国家や法律、警察権力などの、社会のルールを決め、それを強制する仕組みと定義するならば、経済活動はその仕組みの存在を前提として初めて成立し、経済活動の基本は、自分の財産を他人の財産と交換することであり、法律や警察などの後ろ盾がなければ、力のある者が他人の財産を奪う暴力の世界となってしまい、これは私の物であり、勝手に奪われないという所有権の確立と保護は、政治権力が担保している最大のインフラであり、所有権の保証がなければ経済的な取引ができず、また私たちが使う紙幣や貨幣やデジタルマネー自体は、ただの紙切れや金属片やデータに過ぎず、これが価値を持つのは、政治によって動かされる国家が、この地域ではこれを通貨と認め、納税にも使えると法で定め、その価値を保証しているからで、政治的な信用がなければ、経済を回すための通貨システムが崩壊し、安く買って高く売るにせよ、後払いや分割、労働契約など、経済活動の多くは約束・契約で成り立っていて、もし相手が約束を破ったとき、裁判所がなければ泣き寝入りするしかなく、約束を裏切れば法的に処罰されたり、財産を差し押さえられる、という政治的な強制力があるからこそ、見知らぬ他人同士でも安心して取引ができ、理論上、政治・国家がなくても、小さな共同体内での物々交換や信頼関係に基づく経済は存在し得るが、これを極限まで突き詰めたのがアナルコ・キャピタリズム、無政府主義などの思想で、国家がなくても、民間企業や自警団がルールの維持を代行できると主張するが、しかし、これらも形を変えたルール、政治機能を内包しており、完全に政治的な秩序なしに大規模な経済が回った歴史的な実例はなく、経済活動が拡大し、高度になればなるほど、詐欺を防ぎ、市場を安定させるための公正なルールが必要になり、したがって、経済は政治というプラットフォームの上で初めて動くことができるゲームだと言えるそうだが、その一方で、現代社会において資本主義こそが、政治と経済の根底を支える最大の宗教、世俗宗教であるという見方は、思想史や社会学において非常に強力に支持されているそうで、神仏を信じる伝統的な宗教とは異なり、資本主義は、目に見えない絶対的な教義として、現代人の政治的決断や経済活動、さらには道徳観までを支配していて、この資本主義=宗教という説を裏付ける3つの決定的な理由を解説すると、1つ目の理由は、資本主義が持つ宗教的な特徴で、社会学者マックス・ウェーバーや、思想家ヴァルター・ベンヤミンらは、資本主義を純粋な宗教的現象として分析したが、資本主義には、伝統宗教と全く同じ構造があり、現代社会では、万能の神の代わりにお金があらゆる価値を測定する絶対的な尺度・神となっていて、市場の目に見えざる手は、人間の力を超えた全知全能の存在として扱われ、経済成長し続けなければならない、消費することは善である、という教えは、疑うことの許されない絶対的な教義・ドグマであり、伝統宗教が祈りによって救済を求めたのに対し、資本主義では、働くこと、富を築くことが、人間の価値を証明し、将来の不安から救われるための手段、信仰告白となっていて、2つ目の理由は、経済の利潤追求を正当化する背景で、安く買って高く売る行為を、なぜ私たちは詐欺だと言わずに正当な経済活動として受け入れているのかというと、それは私たちが知らず知らずのうちに資本主義という宗教の信者となっているからで、自由な取引によって利益を出すことは、社会を豊かにする良いことだ、という強力な共通の信仰・フィクションを、政治も経済も、そして一般市民も共有しているからこそ、そのルールが公正なものとして機能していて、3つ目の理由は、政治をも支配する資本主義の戒律で、政治は社会のルールを決める場だが、現代の政治家はどの国でも経済成長を最大の公約に掲げ、これが、政治が資本主義という上位の宗教・イデオロギーに従属している状態と言えるそうで、経済成長という神への奉仕を怠る政権は、有権者である信者から見放されてしまうため、政治的な正しさもまた、資本主義の論理によって書き換えられているのが現状であり、経済なしに政治はなく、政治なしに経済はない、という強固な結びつきの根底には、双方が共有している資本の増殖と市場の全能性に対する絶対的な信頼=信仰があり、その意味で現代社会における真の国教、あるいは地球規模の普遍宗教こそが資本主義であるという見立ては、まさに的を射ていると言えるが、ではマルクス主義が資本主義を科学的に批判はずなのに、結果として、もう一つの宗教、共産主義という信仰に変貌してしまった理由は、その思想構造と実践の過程に伝統的な宗教、特にキリスト教と酷似した救済のパラダイムが組み込まれていたからだそうで、哲学者カール・ポパーやレイモン・アロンらは、これを世俗の宗教や知識人のアヘンと呼び、その変貌の理由は、4つのポイントに集約されるそうで、1つ目のポイントはキリスト教の構造をそのまま世俗化した点で、唯物史観という、マルクス主義の歴史観は、キリスト教の神話的な救済のストーリーと驚くほど一致していて、原初に階級のない原始共産制という楽園が存在し、次にそこから堕落して、私有財産が発生し、資本主義による人間の疎外が起こって、失楽園の状態となり、そこから人類は様々な苦難を経て、最後の審判である、労働者階級の蜂起として革命が起こって、千年王国である共産主義社会が到来し、国家も階級もない理想郷の中で人類の救済がもたらされる、というストーリー仕立てであり、この人類が最後には救われるという歴史の必然性は、科学というよりも過酷な現実を耐え抜くための強烈な預言・信仰として機能し、2つ目のポイントは絶対に間違えない無謬性という教条主義で、マルクスは資本主義の法則を科学として分析しようとしたが、しかしレーニンやスターリンなどの指導者たちの手に渡ると、それは科学的真理だから絶対に正しいという教義・ドグマに変質し、科学は常に間違っている可能性、反証可能性を受け入れるが、マルクス主義は正しさが証明されているとされたため、党の決定や指導者の言葉が宗教における、法王の不可謬性、間違いを犯さないことと同じ扱いになってしまい、3つ目のポイントは労働者階級という全能の神あるいはメシアの誕生で、マルクス主義では、虐げられた労働者階級こそが、自らを解放すると同時に人類全体を救済するメシア・救世主として神聖化され、この歴史的使命を帯びた神聖な存在という位置づけは、信者・党員に強烈な選民思想と、大義のためならどんな犠牲、暴力や粛清も厭わないという狂信的な情熱を与え、4つ目のポイントは異端審問と教会の誕生、一党独裁で、唯一絶対の真理を掲げる思想は、必然的に異端、解釈の異なる者を許さなくなり、ソ連などの現実の国家では、共産党が教会、指導者が法王、思想教育が礼拝となり、少しでも教義から外れた者を、反革命分子として排除する現代の異端審問、大粛清が吹き荒れ、宗教が持つ内と外を厳格に分け、内側の純血を守るという排他性が、政治権力と結びつき、資本主義という拝金主義の宗教に対抗するため、マルクス主義は、人間の理性と平等を信じる、より完璧な宗教を構築しようとしたが、しかし、人間の理性を神格化しすぎた結果、ドグマ化し、現実の権力と結びついた瞬間に、中世の暗黒時代のような排他的な信仰体系へと先祖返りしてしまったと言えるそうだ。8月17日「経済格差是正への取り組みの成果」その国や地域においてどのような産業が経済を支えているかによっても違いがあるだろうが、国内の経済格差と国ごとの国際的な経済格差の間には、グローバル化や産業構造の変化を通じて連動する傾向や、各国の社会保障政策による違いといった特徴的な関係が見られ、クズネッツの逆U字仮説に基づいて、経済発展の初期段階では工業化などにより国内格差が広がるが、成熟するにつれて所得の再分配や民主化により格差が縮小する傾向が指摘されてきたが、近年はIT技術の高度化やグローバル化の深化によって、先進国・途上国を問わず国内で勝者と敗者の分断、正規・非正規の格差などが広がりやすい共通の背景があり、グローバル化と国内格差の同時進行が指摘されるが、国全体の経済水準が高くても、米国のように格差が大きい国もあれば、日本のように市場所得に比べて社会保障を通じた再分配によって格差の拡大が一定程度抑えられている国もあるそうで、日本国内で時の政権が経済格差を拡大させていると批判する人々は違うと反論するだろうが、例えば西欧流の民主化を頑なに拒んでいる中国でも、一応は社会主義国だから国内の経済格差を均衡化しようとしているかというと、中国政府は社会主義の看板を守るため、そして政権維持と社会安定のために、国内の経済格差を本気で是正しようとしているそうで、現行の習近平政権の建前としては、1978年の改革開放以降の、豊かになれる者から先に豊かになり後から他者を助ければよい、という先富論から、誰もが豊かになる、という共同富裕をスローガンに掲げて、格差是正へと舵を切っている最中だろうが、2026年から始まった第15次5カ年計画でも、この共同富裕の実現が重要目標として引き継がれているそうだが、中国が格差是正を急ぐ社会主義国ならではの理由は、共産党による一党支配という非民主主義を正当化するためには、不平等のない平等な社会、社会主義を目指すという大義名分が不可欠であり、格差の放置は党の求心力低下に直結し、これまでの投資と輸出に頼る成長が限界を迎えており、格差を縮小させて数億人規模の中低所得層を中産階級に引き上げ、彼らの国内消費を増やすことで経済を回す必要に迫られているそうだが、過去の成長で富を蓄えた沿海部の都市、大手IT企業、不動産セクター、そして党の既得権益層から激しい抵抗や、過度な規制による経済の冷え込みが起きていて、また中国には戸籍制度に都市戸籍と農村戸籍という強力な壁があり、農村出身者は都市部で十分な社会保障や教育を受けにくい構造が残っていて、2026年現在、中国の経済成長率は5%前後に鈍化しており、経済を大きくしながら公平に分けることが以前より格段に難しくなっているそうで、民主主義国が選挙で票を獲得することを意識して格差対策を行うのに対して、中国は共産党体制の維持と社会暴動の防止という切実な政治的動機から格差均衡化を試みているが、しかし、エコノミストの調査などでは、格差を示す指標のジニ係数の高まりが指摘されており、ちなみに中国とアメリカが同程度で日本は社会的な警戒ラインを下回っているが、中国では社会主義の理想と市場経済の現実の間で激しく情勢が揺れ動いているそうだが、もう一方の覇権国であるアメリカはどうなのかというと、共和党政権と民主党政権では、経済格差へのアプローチの哲学が根本的に異なり、民主党が税制や社会保障を通じた直接的な富の再分配を重視するのに対し、トランプ大統領率いる共和党政権は、規制緩和や減税によって経済全体の規模を広げて、労働者に職を行き渡らせることで実質的な格差是正を目指すアプローチをとっているそうで、トランプ政権は、自らの支持基盤である製造業の作業員や、いわゆるブルーカラー労働者の懐を温めるために、2017年の減税措置が切れるタイミングを前に、2025年、新たな大型減税法案を成立させ、年収3万〜8万ドル層への15%減税、子育て世帯への税控除の増額などが盛り込まれ、またサービス業や工場労働者の手取りを直接増やすための、チップへの非課税や残業代への非課税措置を導入し、そして一律10%の普通関税などを導入し、海外からの安価な輸入品に高関税を課すことで、国内の製造業を保護し、米国内の雇用と賃金を維持し回復させて、国内労働者を保護する狙いがあり、政権側はこれらを中間層のための政策とアピールしているが、複数のシンクタンクやエコノミストからは、これらの政策が、結果的にさらなる格差拡大を招いていると激しく批判されて、経済政策研究所EPIや租税経済政策研究所ITEPの分析によると、一連の減税の最大の恩恵を受けているのは上位1%の富裕層や大企業であり、中間層や低所得者層が得られる恩恵は非常に小さいと指摘され、中でも関税の引き上げは国内の食料品や住宅資材などの価格上昇を招いていて、収入の大部分を生活費に充てる低所得者層や中間層にとって、この物価高は事実上の大増税となって家計を圧迫していて、また減税による国家財政の赤字を埋めるため、低所得者向けの医療保険や食費補助フードスタンプといった低所得層向けの社会保障プログラムの大幅な予算削減が並行して進められており、これが格差をさらに固定化させると懸念され、実際FRBなどの最新データでは、米国の富の上位1%が握る資産割合が過去最高水準の約32%に達する一方で、最高経営責任者CEOと一般労働者の格差はさらに拡大しており、アメリカ経済のK字型二極化の進行が指摘されていて、トランプ政権は、雇用の創出と手取りの増加という形で格差是正にアプローチしているものの、その減税と関税という手法が市場のインフレや富の集中を招いて、結果として格差是正とは逆のベクトルが働いているのが現状の大きな矛盾となっているそうだが、トランプ政権による株式への長期投資を促すための政策として、キャピタルゲイン減税の強化案や、新しい非課税貯蓄口座であるトランプ・アカウントの設立、さらに確定拠出年金の投資選択肢の拡大などが具体的に存在し、これらは株への投資コストを下げ、投資できる枠を増やす、というアプローチで、個人や現役世代の長期的な資産形成を促す狙いがあり、株式などの購入価格をインフレ物価上昇に合わせて調整し、実質的な利益分にのみ課税する仕組みが検討され、これにより、株の長期保有者がインフレによって見かけ上の利益が増えただけで重税を課されるのを防ぎ、長期投資をより有利にしようとしていて、また教育資金用の529プランなどに並ぶ新たな長期資産形成プログラムとして、税法上のセクション530Aに基づくトランプ・アカウントを新設し、子供や扶養家族のために雇用主が非課税で拠出できる仕組みなどが盛り込まれており、若年期から株式などを活用した長期的な資産貯蓄を国が税制で後押しする形になっていて、アメリカ国民の主要な長期投資ツールである確定拠出年金について、大統領令や労働省の規制緩和を通じて改革を進めていて、従来の伝統的な株式インデックスファンドだけでなく、プライベート・エクイティの未公開株、プライベート・クレジット、暗号資産などを確定拠出年金の選択肢に含められるよう規制を緩和し、ポートフォリオの分散と利回り向上を狙い、長期の年金運用に多様性を持たせる方針で、勤務先に確定拠出年金の制度がない労働者でも、政府提供の非常に低コストなインデックスファンドにアクセスして長期投資ができる、新しい補助金付きの貯蓄プランも提案されているが、これらの投資促進策は市場の活性化には寄与しているが、格差是正の観点からは強い批判を浴びていて、シンクタンクの調査によるとキャピタルゲイン減税などの恩恵の9割以上は、すでに巨額の株式資産を持つ年収20万ドル以上の富裕層に集中し、アメリカでは人口の約半数がそもそも株を保有していないため、というか何らかの形で株を保有しているのはアメリカの成人の58%だが、退職金・年金口座以外で投資を行なっている成人はわずか37%にとどまり、多くの人は、会社の福利厚生である退職金制度を通じて、自動的に運用されているだけ、というのが実態だそうで、株価対策や投資減税は、持てる者と持たざる者の差、K字型経済をさらに広げる原因になっていると指摘されているそうで、確定拠出年金に未公開株や暗号資産といった流動性の低いリスク資産を組み込めるようにした結果、知識の乏しい一般の労働者が引退間際に巨額の損失を被るリスクを高めてしまうとして、消費者保護団体や民主党などから危険視されていて、トランプ政権が、表面的な人気取りであるポピュリズムと実質的な国民の利益のどちらを重視しているかという問いは、政治学者や経済学者の間でも意見が真っ二つに分かれるテーマであって、単純な二者択一では測れない、多面的な構造を持っているそうで、なぜその2つが同時に、あるいは矛盾して見えるか、という3つの視点から整理すると実態が見えやすくなるそうで、1つ目の視点は、視点によって実質の意味が180度異なり、何を国民のためと定義するかによって評価は真逆になり、政権支持層やブルーカラーの視点で実質的と評価できる点は、チップへの非課税や即効性のある減税は、毎月の手取りをすぐに増やして、生活者にとっては非常に実質的で手触りのある利益となり、また、関税によって海外からの不当なダンピング競争から米国の雇用を守るという姿勢も、労働者にとっては国益を守る本質的な政策と映るが、主流派経済学者や批判層の視点では、表面的で有害と評価されるそうで、関税によるインフレ物価高や減税による財政赤字の爆発的増加は、中長期的に国家の経済基盤を損ない、結果的に中間層を苦しめるので、目先の票を目当てにした表面的な人気取りのポピュリズムに過ぎないと一蹴され、2つ目の視点は、ポピュリズム的人気取り自体がトランプ政治の核心であるという視点で、トランプ大統領の政治スタイルにおいて、支持者が喜ぶわかりやすいアピール、人気取りと実際の政策は切り離せない一体のものであり、民主主義国のリーダーとして、官僚や学者などのエリート層が好む複雑な中長期計画よりも、国民が直感的に理解できる減税、国境の壁、不公平な貿易国への制裁といった強力なメッセージを打ち出し、それを実行することで強固な支持基盤を維持していて、この意味で、人気取りは単なる手抜きではなく、政権を運営するための最も重要な戦略と言えて、3つ目の視点は、意図よりも結果の矛盾に注目すべきで、政権がどちらを重視しているかという本音や意図を探るよりも、狙った政策が、構造上の理由で逆の結果を生んでしまうという矛盾に注目する方が建設的であり、アメリカの産業を復活させ、中間層を豊かにしたい、という意図で導入した減税は、結果的に富裕層をより富ませて格差を拡大させ、課した関税は国内の物価を上げて労働者の生活を圧迫し、このように、たとえ国民のためを思って打ち出した政策、あるいはそうアピールした政策であっても、グローバル経済の複雑な仕組みの中では、結果として格差を広げるという表面的な結果しか残らないケースが多々あり、結論として、トランプ政権は、どちらか一方を重視しているというよりも、支持層に即効性のある利益を約束して熱狂を生み出し、国民の人気取りをやりながら、それを保守派の伝統的な経済思想に沿った減税や規制緩和で実行に移すが、その結果として格差やインフレという実質的な副作用が生じている、というのが、客観的な捉え方と言えるそうだが、こうしてグーグル検索のAIはうまくまとめてくれるのだが、最近はインフレがおさまっているように思われるし、経済も表面的には好調のようだし、その辺のところは少し違和感を覚えるわけだ。8月16日「ダーウィンの進化論の不都合な発展形」一見同じカテゴリーに入りそうな人々やそれらの人の思想や主張の間で、何が差異をもたらすかは、それらについて語る際に持ち出す判断材料の組み合わせにもよるだろうが、最終的には偶然の巡り合わせだと言ってしまうと、思想あるいは主張の中身に関する責任を放棄したことになりかねないが、例えばダーウィンの進化論において、ある特定の生物種の個体群が置かれた環境の中で、最もその環境に適応した個体が生き残りやすいと考えても構わないかというと、おおむね問題はなさそうだが、ただし、現代の生物学の視点や、誤解を避けるためにつなげておきたい重要なポイントがいくつかあるそうで、その環境に最も適応した個体の意味に関して、それはその個体の力強さではなく、その環境で偶然有利な特徴を持っていたという意味で、変化する環境に、たまたまマッチした個体が生き残り、また生き残るだけでは不十分で、次世代に遺伝子を残すことが最も重要で、長生きしても子孫を残せなければ進化には貢献できず、正確には、生存し多くの子孫を残しやすいという意味になり、しかもダーウィンは当初、適者生存という言葉は使っておらず、後に思想家のスペンサーの適者生存という言葉を取り入れたのだが、強者が弱者を駆逐する、という社会的・政治的な誤用を生みやすいため注意が必要で、正確には駆逐するのではなく搾取するといった表現を使った方が、社会的・政治的な文脈から考えれば妥当なような気がするが、補足として、現代進化論との違いは、ダーウィンは個体のサバイバルを重視したのに対し、現代では、遺伝子の残りやすさや、偶然による変動、遺伝的浮動も重視されるそうだが、確かに社会的・政治的な文脈において、強者と弱者の関係を駆逐・排除ではなく、搾取・利用と表現する方が、歴史的・構造的な実態をより正確に捉えられるケースは多々あるにしても、ただし、これを社会的ダーウィニズムによる適者生存の誤用の文脈に、そのまま当てはめるべきかどうかは、その思想が目指した目的によって解釈が分かれるそうで、社会的・政治的文脈における2つの側面の視点、および用語の妥当性について整理してみると、搾取と言い換える方が妥当なケースは、資本主義の発展や植民地主義の歴史を分析する文脈では、搾取という表現が非常にうまく当てはまり、強者にとって都合の良い構造を維持する面では、強者は弱者を全員排除して駆逐したいわけではなく、弱者をシステム内に生存させ、彼らの労働力や富を吸い上げ搾取することで、強者の優位性が保たれ、結果的に強者の繁栄には、搾取対象としての弱者の存在が不可欠であるが、一方で、駆逐のままでも構わないケースとして、歴史上の凄惨な政治思想や政策の文脈では、駆逐や排除の表現がそのまま妥当し、実際に優生思想にとらわれたナチズム下では、障がい者や特定の民族などの不適者とみなした人々を社会から完全に排除し、抹殺して駆逐しようとした歴史的事実があり、純粋なサバイバル競争のレベルでも、限られた土地や資源を奪い合い、負けた側を完全に追い出すような排他的ナショナリズムの論理が当てはまり、そもそも、生物学の適者生存を人間社会に適用すること自体に、根本的な論理の飛躍や誤用があり、適者を強者と履き違えていて、自然界の適者は、環境にたまたま適合した者であり、権力や武力を持つ強者ではなく、自然の事実から道徳を導いていて、自然界がそうだから、人間社会もそうあるべきだ、弱肉強食でいいとする考え方は、倫理的かつ自然主義的な誤謬であり、確かに現代の政治経済的な不平等を批判する文脈であれば、強者が弱者を搾取していると表現する方が、社会構造のリアルを捉えており、妥当性が高いと言えるが、優生思想のような極端な排除の歴史を語る文脈では、やはり駆逐・排除という表現の方が適しているそうで、社会的ダーウィニズム、社会進化論が、ダーウィンの進化論の完全な誤用なのか、それとも必然的な発展形なのかという問いは、科学史および思想史において今なお議論が続く非常に興味深いテーマであり、結論から言えば、現代の科学的視点から言えば完全な誤用、論理の飛躍だが、十九世紀の歴史や思想的文脈から見れば、必然的に生じて、生み出された発展形という、二面性を持っているそうで、科学的視点から見れば完全な誤用だと言える理由は、生物学の理論を、人間社会の規範にそのまま適用することには、根本的な論理の飛躍があり、自然界が適者生存であるからといって、人間社会も弱肉強食であるべきだという倫理や方針を導くことはできず、〜であるから〜すべきであるへの飛躍だと言えるが、またダーウィンの言う適者は、たまたま環境に適合した個体だが、社会進化論では、知能、富、武力、権力に優れた者などの強者へとすり替えられていて、そもそも進化に、進歩というより優れていくというゴールはないが、社会進化論には目的論が混入していて、ヨーロッパ白人社会を頂点とする進歩の階層を正当化するために使われる思惑があり、このような歴史的経緯を踏まえると、必然的で不都合な発展形と言える理由があり、十九世紀の帝国主義、植民地拡大、資本主義の勃興など、当時の時代背景を考えると、この思想の登場は歴史的必然だったとも言えて、当時の支配層や列強国は、植民地支配や貧富の差を、神の意志ではなく、科学的な自然の法則として正当化する理論を熱望していて、実は「適者生存」という言葉を作ったハーバート・スペンサーは、ダーウィンが『種の起源』を発表する前から独自の社会進化論を展開していて、ダーウィンの理論は、既存の社会思想にお墨付きを与えるために利用された側面があって、ダーウィン自身も十九世紀のイギリス人であり、後半の著書『人間の由来』などでは、当時の人種的偏見や文明国が未開国を淘汰するといった社会進化論的な見方を完全に排除しきれておらず、ダーウィニズムそのものがご都合主義的な解釈かというと、科学としてのダーウィンの進化論に関しては、これはご都合主義ではなく、膨大な観察と証拠に基づいた純粋な科学的理論だが、思想としてのダーウィニズムになると、ダーウィンの死後、あるいは生前から、彼の理論は政治、経済、宗教、哲学などあらゆる陣営によって、ご都合主義的に解釈・利用され続け、資本主義を正当化する者たちにとって、自由競争とその結果として生じる格差は自然の法則だと利用でき、それに対してマルクス主義者や社会主義者は、階級闘争の歴史的基盤を生物学が証明したと歓迎し、帝国主義者は、優れた民族が劣った民族を支配するのは不変の真理だと悪用でき、このようにダーウィニズムそのものは純粋な科学だが、人間はそれを自分たちの都合に良いイデオロギーや支配や競争の正当化に合わせて社会に適用し、したがって、社会的ダーウィニズムは、科学的には完全な誤用や誤解でありながらも、十九世紀の政治経済の要請が生み出した必然的で不都合な怪物であり、発展形だったと言えるそうで、また進化論の他にも、物理学、生物学、熱力学などを社会理論や経済学に当てはめようとした試みは、歴史上何度も繰り返されてきたそうだが、科学の客観的な正しさを借りて社会を説明しようとした、代表的な4つの事例を紹介すると、1つ目は物理学の万有引力の法則を社会物理学・社会システム論に利用しようとした事例で、十七世紀にニュートンが万有引力の法則を発見すると、思想家たちは、人間社会にも引き合う力や不変の法則があるはずだと考え、社会学の祖と呼ばれるオーギュスト・コントは、社会学を当初、社会物理学と呼んでいて、天体の運行のように、社会の秩序・静力学と進歩・動力学も科学的な法則で予測・管理できると主張し、これは現代の人流データ解析や都市計画シミュレーションの遠い源流と言えるそうで、2つ目は熱力学のエントロピー増大の法則から着想を得たエントロピー経済学の事例で、二十世紀後半に、熱力学の法則、特にエントロピー増大の法則の、物質やエネルギーは放っておくと無秩序で使えない状態に向かう、という法則を経済活動に適用する理論が、経済学者のニコラス・ジョージェスク=レーゲンのエントロピー経済学として登場し、従来の経済学は、資源を投入すれば無限に循環・成長できる、と考えがちだったが、しかし彼は、経済活動とは地球上のエントロピーの低い利用可能な資源を消費して、再生不可能なエントロピーの高いゴミや熱に変えるプロセスであると指摘して、無限の経済成長の不可能性と環境破壊を警告し、3つ目は生物学の共生や生態系の理論をシカゴ学派が都市社会学に適用した事例で、ダーウィニズムが競争を強調したのに対し、生物の住み分けや生態系・エコシステムの仕組みを社会に当てはめて、二十世紀初頭のアメリカ・シカゴ学派が人間生態学として考察し、都市をひとつの植物相や動物相の生態系とみなし、新移民の流入や階層の移動を、生物の侵入、競争、住み分け、隔離のプロセスとして説明して、なぜ都市の中にスラム街や高級住宅街が自然と形成されるのかを分析し、4つ目は物理学の量子力学や相対性理論をポストモダン思想に適用した事例で、二十世紀の物理学で起こったニュートン力学から量子力学や相対性理論へのパラダイムシフトの中で、絶対的な真理ではなく、観察者によって結果が変わるなどの言説を、社会や言語の理論に持ち込もうとした動きで、物事は相対的であり、観察者の位置によって真実が変わる、といった量子力学や相対性理論のイメージを、社会の権力構造や文化相対主義の説明に流用したが、ただし、これは後に物理学者ソーカルらから、科学用語のデタラメな乱用として激しく批判される事態に発展し、これらに共通するのは、社会的ダーウィニズムと同様に、自然界の法則から人間の規範や意志を直接導き出せるか、という難点であり、自然の法則は数式や生存の事実に過ぎないが、人間社会には倫理、法、政治という独自のルールがあるため、そのまま当てはめると歪みが生じやすくなるそうだ。8月15日「右翼の中での隔たり」そもそも政治的な右左の違いというのもわかりやすいようでいて、その活動や主張が重なる部分もありそうだから、わかりにくいところもあるような気がするのだが、例としては不適切かも知れないが、例えば、若い頃のモーリス・ブランショは極右活動家だったと言えるかというと、結論から言うと、1930年代の20代〜30代前半のモーリス・ブランショは、極右の論客、ジャーナリスト・イデオローグであったことは歴史的事実だが、街宣暴動などを起こす一般的な意味での政治活動家、アクティビストであったかというと、ややニュアンスが異なり、その活動の中心は、あくまで過激な政治文筆・ジャーナリズムにあり、ブランショは当時、シャルル・モーラスのアクシオン・フランセーズなどの影響を受けた青年右派や、既存の政治枠組みを拒絶する、非順応主義者と呼ばれる知識人グループの一角を占めていて、ラディカルな極右・ナショナリスト系の機関誌や新聞に多数の政治時評を寄稿し、その主張は、既成体制の徹底的な否定、ブルジョワ社会、議会制民主主義、資本主義を強く批判、右翼的革命の称揚、テロルも辞さない容赦のない暴力による精神的・政治的な国家の刷新によって、時の左派政権のレオン・ブルムの人民戦線などを打倒すべきだと扇動したが、ブランショの30年代の思想は極右に分類されるが、当時のナチス・ドイツやファシズムと完全に同一視することはできず、むしろ激しい反ドイツ・反ヒトラーであって、彼はフランスの伝統と精神的価値を重視するナショナリストであったため、ヒトラー率いるドイツの台頭をフランスへの最大の脅威とみなして、政府の弱腰な宥和政策を激しく糾弾し、また当時の極右の多くは反ユダヤ主義を掲げていたが、ブランショ自身の署名記事からは人種排外的な言語や明確な反ユダヤ主義は見つかっておらず、むしろ、寄稿先の『ランスルジェ』紙が反ユダヤ主義色を強めた際には、それに抗議して身を引いたとも言われ、また、学生時代からの親友はユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナスで、ブランショは当時『ジュルナル・デ・デバ』紙などの編集や文筆を本職とするエリートジャーナリストであり、後に対独協力に走る作家ピエール・ドリュ=ラ=ロシェルの秘書を一時的に務めるなど、極右人脈のど真ん中にいたが、自ら大衆を率いて街宣闘争を行うような政治セクトのリーダーではなく、1930年代末から第二次世界大戦のナチス占領期にかけて、ブランショは過激な政治言論から身を引き、戦後は自身の右翼時代の過去を封印し、沈黙するようになり、そして1950〜60年代のアルジェリア戦争への反対運動や、1968年の五月革命になると、かつての極右思想とは真逆の極左あるいはアナーキーな反体制左派の知識人として、今度はマニフェスト執筆やデモへの参加などの政治活動に身を投じることになり、したがって、若い頃は極右思想の暴力的なイデオローグだったと言うのは完全に正しいが、極右の活動家だったと言うと、少し言論人としての活動の実態からズレる、というのが正確な評価だそうだが、フランスの右翼といえば政治家のルペン親子が有名だが、同じフランスの右翼・ナショナリズムという枠組みであっても、ブランショが生きた1930年代の青年右派と、戦後に誕生したルペン派、フロント・ナショナルでは、時代背景も目指す社会像も大きく異なり、共通する部分は、既成政治への強い不信で、ブランショは1930年代の第三共和政期の議会制民主主義の腐敗を激しく非難したのに対して、ルペン親子は、既成の二大政党やエリート層、グローバリズムによるエスタブリッシュメントを徹底的に批判し、両者共に、フランスという国家のアイデンティティや精神的価値を最優先し、外国からの軍事的・経済的・文化的な従属、ブランショの時代はドイツ、ルペンの時代はEUやアメリカ、グローバル資本を拒絶する強いナショナリズムを持っており、それに対して決定的に違う面は、人種差別・排外主義の有無で、ルペン親子は、生物学的・人種的ナショナリズムで、ルペン派の思想の根幹は移民排斥と自国民優遇で、父親のジャン=マリー・ルペンは、ホロコーストを歴史の些細な一コマと表現するなど、明確な反ユダヤ主義や人種差別感情を煽り、娘のマリーヌはそれをマイルドに薄めたが、根底にあるのはイスラム信仰や移民がフランスを破壊するという排外主義だが、それに対して若い頃のブランショは、精神的・文化的ナショナリズムで、1930年代のブランショのナショナリズムは、血統や人種ではなく、フランスの文明的・精神的価値を重視するものであり、当時の極右の定番だった人種排外的な言動や、反ユダヤ主義的な記事を自身は一切書いておらず、そして目指す政治体制は革命か選挙かの違いがあり、若い頃のブランショは国家の破壊と根底からの変革を掲げ、当時のブランショは非順応主義者として、資本主義も議会制民主主義も纏めて暴力的に打倒する右翼的革命を求めていて、選挙に勝つことには興味がなく、精神と国家の根底的な刷新を叫ぶ、きわめて形而上学的、哲学的でラディカルな思想であったのに対し、ルペン親子は現行システム内での権力奪取を求めていて、彼らはあくまで選挙による議席獲得と大統領就任を目指すポピュリズム政党で、現行の共和制の枠組みを暴力で破壊するのではなく、民主的な選挙を通じて国家主権の回復や移民制限を実現しようとしていて、さらにエリート知識人か大衆扇動家かの違いもあり、若い頃のブランショは知識人のためのエリート主義で、ブランショは高級紙や知識人向けの機関誌に寄稿するエリートであり、彼の言葉は一般の大衆ではなく、同じ知識人や政治エリートに向けて放たれていて、大衆を動員してデモをするようなポピュリズムをむしろ軽蔑していたのに対し、ルペン親子は大衆の不満を代弁するポピュリストであり、ジャン=マリーは粗野で攻撃的な言動で労働者層の怒りを煽り、マリーヌはそれを洗練させて、普通の労働者や庶民の味方としての支持を広げ、大衆の感情に直接訴えかける政治スタイルで、ルペン親子の右翼思想が移民・外国人への攻撃などの排外主義と大衆煽動を燃料にしているのに対し、若い頃のブランショの右翼思想はフランス文明の精神的危機に対するエリート知識人の過激な反逆であり、このように、同じ右翼というラベルが貼られていても、その中身、手法、倫理観には埋め難い巨大な溝があり、この違いがあったからこそ、ブランショは戦後、極右から極左へと、自らの反体制・革命のエネルギーをスライドさせることができたと言えるそうだが、若い頃のブランショやフランスのルペン親子の思想は、日本の右翼・保守思想の文脈にも非常によく似た構図を見出すことができるそうで、ブランショの反資本主義、反議会政治、国家の精神性を重視する革命論、エリート知識人による文筆、という特徴は、日本の戦前の革新右翼の超国家主義や、戦後の新右翼、民族派の知識人にきわめて近く、三島由紀夫の論理と美学による反逆は、最も近い存在で、三島も大衆煽動家ではなく、高度な文学と言語を操るエリート知識人で、戦後の民主主義や物質主義・資本主義などの西洋的な近代化を日本精神の破壊として激しく批判し、天皇を中心とした精神的ナショナルアイデンティティの回復を求め、自衛隊への決起呼びかけなどの暴力も辞さない過激なロマン主義的革命を志向した点も、青年右派時代のブランショと重なり、北一輝や権藤成卿などの戦前の革新右翼・超国家主義派も、昭和初期に大財閥の資本主義と腐敗した政党の議会政治を打倒し、国家を根底から改造しようとした点で共通していて、彼らの思想は2・26事件などの青年将校を動かし、ブランショの右翼でありながら、左翼のような革命・体制打倒を叫ぶという非順応主義のスタイルは、日本の革新右翼そのもので、鈴木邦夫と一水会の戦後の新右翼・民族派も、戦後の伝統的な親米・反共・街宣車の右翼とは異なり、反米・愛国を掲げて、アメリカへの従属を拒絶する姿勢は、ブランショが1930年代にナチス・ドイツや英仏政府の弱腰を批判した自立したナショナリズムに通じ、また、彼らは新左翼の過激派の熱量に対抗・共鳴しながら言論活動を行なった点が、後に左翼へスライドして行ったブランショの軌跡ともシンクロしているが、一方でルペン親子の国民連合に近い日本の右翼・政治勢力は、その思想の根幹が、反移民・排外主義、自国民第一主義、選挙による政権奪取であるから、これらは日本のネット右翼系政治団体やポピュリズム的保守政党にそっくりそのまま当てはまり、旧在特会系政治団体の日本第一党は、ジャン=マリー・ルペンの初期のスタイルに最も近く、在日特権を許さない市民の会を前身とし、外国人への生活保護支給反対など、特定の外国人やマイノリティを標的にした過激な排外主義を掲げて活動しているが、それに対して参政党や保守党などの新興右派政党は、マリーヌ・ルペンの脱悪魔化、マイルド化して支持を広げる戦略に近いポピュリズム的アプローチを取っていて、既存の利権政治やグローバリズム、外資による国土買収、LGBT法案、過度な多様性推進などを批判し、日本人のための政治、伝統や主権の回復を掲げて、SNSを駆使して一般大衆や労働者層の不満を吸収し、選挙での議席獲得を目指していて、日本の文脈に置き換えると、両者の思想的な立ち位置の違いがさらにクリアになり、若い頃のブランショに近いのが三島由紀夫・革新右翼で、文学、哲学、精神性を重視し、大衆を嫌い、国家の美的な刷新や破壊・革命を目指し、排外主義や人種差別が目的ではなく、ルペン親子に近いのが現代のポピュリズム系保守政党・ネット右翼団体で、数の力、選挙の票、支持者を重視し、大衆の生活の不安や外国人への嫌悪感を燃料にして、移民排斥や反グローバリズムが活動のコアであり、このように、日本でも三島由紀夫のようなエリート右派のブランショ的ロマン主義と、現代のネット右翼や参政党のような大衆・ルペン的排外主義の間には、思想的な質において大きな隔たりがあると言えるそうだが、ここで蓮實重彦を持ち出して、ブランショと三島由紀夫の違いを説明すると、蓮實重彦のブランショに対する評価は、三島由紀夫への低評価とは全く異なり、むしろ極めて高く、敬意を払っているそうで、同じような傾向ではなく、文学的・批評的な面において、ブランショには最大級のポジティブな評価を与えているそうだが、なぜこれほど評価が分かれるのか、蓮實の表層批評の論理からその理由を紐解くと、3つのポイントに整理できるそうで、1つ目のポイントとして、三島への低評価は、言葉が心理や意味に従属していて、蓮實重彦が三島由紀夫を低く評価する最大の理由は、三島の文章があらかじめ決まった結末や、作者の心理あるいは思想を説明するための道具になってしまっている点にあり、蓮實の文学観では、優れた小説とは言葉そのものが予期せぬ運動を起こすもので、しかし三島の小説は、人工的で完璧なプロットの中に言葉が整然と閉じ込められており、言葉が三島自身の美学や思想あるいは死への誘惑を語るための奴隷になっていると見なされ、三島は、何が書かれているかのテーマや思想が前に出過ぎるため、蓮實が重視する言葉の連なりそのものが持つダイナミズム、表層が死んでいる、というのが蓮實の冷淡な評価の根底にあり、2つ目のポイントとして、ブランショへの高評価は、言葉の不可能性そのものを生きる文学という点で、蓮實はモーリス・ブランショを二十世紀の文学・批評における最重要人物の一人として高く評価しているそうで、ブランショの小説『謎の男トマ』や『アミナダブ』などや、批評『文学空間』などは、何か具体的な思想や正しい意味を読者に伝えるためのものではなく、むしろ、言葉は本質的に何も表現できないのではないか、という文学の根源的な限界、不可能性そのものを、極限まで突き詰めた独自の文体を持っていて、ブランショのテキストでは、あらかじめ決められた心理やストーリー、主題と言葉が完全に切り離され、言葉そのものが一種の迷宮のように機能し、この意味の深みに逃げず、言葉の経験そのものを提示する、というあり方こそ、蓮實が提唱する表層批評や物語批判の理想像そのものなのだそうだが、3つ目のポイントとして、フランス文学者としての蓮實とブランショの関係は、そもそも蓮實重彦はフランス文学の専門家であり、彼が若い頃に吸収した1960年代のフランスの現代思想を担っていた、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ロラン・バルトなどは、全てブランショの文学論から決定的な影響を受けて誕生し、蓮實にとってブランショは、三島などの打倒すべき凡庸な作家ではなく、自分自身の批評的思考の骨組みを形成した、大前提となる偉大な星座の一部であり、そのため、ブランショのテキストが持つ徹底的な空虚さ、静けさ、そして強靭な文体に対しては、終始一貫して、深い敬意が向けられているそうで、そんな蓮實重彦から見ると、両者は文学的に真逆の存在で、三島由紀夫が、自らの思想や死のドラマを語るために、言葉を意味でガチガチに固めてしまった作家であるのに対し、モーリス・ブランショは、政治や思想のドラマを完全に削ぎ落とし、言葉が持つ純粋な不在や死そのものを文体として結晶化させた作家であり、このように、蓮實の基準は常に思想が右か左かではなく、言葉が自律して動いているか、それとも意味の奴隷になっているか、という徹底した文体論にあり、若い頃の政治的過激さという共通点がありながら、文学としての評価が正反対に異なるのはこのためなのだそうだが、というグーグル検索のAIのもっともらしい見解を真に受けても構わないかどうかについては、何とも言えない立場をとらざるを得ない。8月14日「些細な小競り合いを利用する思惑」ネットスラングでいう不謹慎狩りや正義中毒などの他人の不正や落ち度を追及する独善的な姿勢は、不寛容社会の構築やバズ経済、アテンション・エコノミーを通じて、経済活動と深く結びついて、情報が溢れる現代社会において、人々の注目や関心そのものが希少な資源・価値となり、一見すると政治や道徳の問題に思えるが、マクロ経済およびミクロ経済の双方に悪影響や構造的要因をもたらすそうだが、悪影響は企業の経済活動への萎縮効果で、炎上を恐れた企業が新しい挑戦やユニークな広告を自粛し、過剰な完璧主義が求められる結果、失敗が許されず新商品開発が停滞し、クレーム対応やリーガルチェックに資金と人手が割かれ、生産性が低下する一方で、消費行動の冷え込みをもたらし、過度な自粛ムードによって、旅行、外食、娯楽など不謹慎とされる消費が叩かれることで、市場全体の消費マインドが冷え込み、過去の震災時やパンデミック下で見られたように、行きすぎた相互監視が観光や娯楽などの特定の業界に致命的な打撃を与えるそうだが、SNSやメディアにとって、他人の落ち度を叩くコンテンツは最も手軽にバズり注目を集めやすい商品で、アクセス数が広告収入に直結するため、独善的な追及を煽ることでコタツ記事や暴露系インフルエンサーなどが利益を得る経済構造が成り立ち、そうやって出る杭は打たれ、わずかなミスで優秀な人材が社会的に抹殺されると、人材流動性と労働生産性の低下を招き、減点主義が横行すると、組織内が相互監視状態になり、労働者の心理的安全性が奪われ、生産性が著しく低下し、このように、過度な正義感の暴走は、社会全体のチャレンジ精神や消費意欲を奪うので、中長期的には国家の経済成長を阻害する大きな要因になり得るそうだが、といっても、不謹慎狩りや正義中毒は、東日本大震災やコロナパンデミックの際には、非常時の自粛ムードに対応した態度になるだろうから、ごく普通の一般人がそうなったところで、その場の情勢や状況がその人をそうさせると見ておいても構わないだろうが、現状で叩いている対象が、首相の高市や防衛大臣の小泉進次郎などの公人の言動になると、まさかそれがエンタメ的な消費だとは叩いている当人も自覚していないどころか、そんなのは争点逸らしを目的とした勘違いな言いがかりだと判断されてしまうかも知れないが、ではちゃんとした政治的な行為の一環として彼らの言動を叩いているのかというと、まずは勘違いな言いがかりだと感じられる、エンタメとしての機能において、批判対象が公人である場合、叩く側は社会正義という大義名分を得られるので、罪悪感を完全に麻痺させることができ、権力者や成功者の失脚を消費する、他人の不幸を喜ぶ気持ちを満たすエンタメと捉えて、日常の不満を、絶対に反撃してこない、あるいは反撃しにくい公人にぶつけるのは、安全な感情の発散弁になり、SNS上で共通の悪を一緒に叩くことで、手軽に仲間意識や承認欲求を満たすツールとして機能するそうだが、それに関して、例えば、ジャーナリストの西村カリンが、政治の言動に対してうんざりしていると述べている主な背景には、首相や閣僚の記者会見が事前に質問や回答が調整された形式となっていて、それが音読会や茶番だと言いたいようで、政治家自身の生きた言葉や実感が感じられないことへのジャーナリストしての強い失望があるらしく、質問が事前に通告され、用意された原稿をただ読み上げるだけの会見が、許せない音読会や茶番のように感じられ、野党時代とは異なり、政権を担う中での発言やあいさつにコピペや定型句の比率が高く、自身の言葉として響かないことへの不満があるそうで、うっかり失言して叩かれないように自己防衛しているだけだろうが、確かにそれではエンタメとしては機能しづらく、官邸サイドとしては、うるさい反権力側のジャーナリストたちの不都合な質問を封じるための対策が効果を上げている結果だと解釈できないこともないが、一方で、政治的な行為としての側面では、政治家などの公人を叩くことが、どれほど動機が感情的であっても、結果として社会を動かす政治的な力を持つことも事実で、司法や既存のメディアがまともに機能しない場合に、大衆の追及が不正を暴き、政治家を辞任に追い込む直接民主主義的な役輪を果たすことがあるそうで、一見ただのバッシングに見える行為が、結果として政策の変更や法改正を促す政治的圧力になるそうだが、今後何かのわざとらしい仕掛けとして最も問題となるのは、政治的な問題提起の仮面をかぶったエンタメに変質したときだそうで、政策の是非という本来の政治的議論ではなく、公人の失言やプライベートの落ち度などが持ち出されて、それが分かりやすいスキャンダルとして追及されるようになれば、肝心の政策が行き詰まったから争点逸らしの一環でメディアと一緒になって騒ぎ出したんだな、と受け止めるしかないが、政治家側も大衆のエンタメ的バッシングを恐れているのか、恐れているふりをしているのかよくわからないが、長期的で本質的な政策よりも、短期的に見栄えが良くなくても、叩かれないことを優先した差し障りのない振る舞い演じるようになりそうだが、逆に叩かれる公人の側がその状況を逆手に取って、自らの利益や政治的求心力を得るために利用するケースも多々あるそうで、現代の政治やメディア空間では、批判されること自体が強力な武器になるため、公人たちは戦略的にバッシングをコントロールし利用しているそうで、猛烈に叩かれることで、あえて不当な攻撃を受けている被害者の構図を作り出し、既成メディアや対立勢力から叩かれれば叩かれるほど、既存の社会に不満を持つ有権者から、彼らは我々の代弁者だから攻撃されているのだと強い同情と支持を集められる場合もありそうだが、トランプなどはそうなることを狙ってわざと批判されるような言動に出ていると想像してしまうが、それで身内の結束力を高めていると言えるかどうかは何とも言えないが、政治の世界でも、無視されるよりは悪名でも注目される方がマシという法則があり、過激な発言やあえて叩かれる行動を取ることで、瞬時にトレンド入りし、巨額の広告費に匹敵するメディア露出、パブリシティをタダで獲得でき、自身が注目させたい特定の論点にあえて批判を集中させ、本当に隠したい別のスキャンダルや不都合な法案から国民の目を逸らす煙幕として利用することもあり、特に政治系インフルエンサーや一部の政治家にとって、立花孝志などはその典型例だったのだろうが、バッシングを受けることはビジネスの燃料になり、敵の攻撃から彼を守れ、という大義名分が立つため、それによって、クラウドファンディング、カンパ、有料サロンへの入会、ユーチューブのスーパーチャットなどが急増すれば、炎上商法に成功したと言えるだろうが、叩く側を、リテラシーの低い連中、売国奴、などと定義することで、支持者に、自分たちは真実を知っている特別な存在だという優越感を与えられるなら、その程度の認識の顧客を獲得したことになるが、トランプのようにリベラルエリートや大手メディアから叩かれるような存在にまでなれるなら、一時的に既得権益と戦うヒーローのイメージを自己演出できていることになるだろうが、果たして上品で洗練された言葉を使う既存の政治家に飽き飽きしている層が、世の中にどれほどいるのかもよくわからないし、このように、叩く側が正義のエンタメとして公人を消費している裏で、叩かれる公人の側もまた、その攻撃を逆手に取って、既存権力への反逆者としてブランディングしながら、支持、知名度、資金に変換する高度なエネルギー代謝システムとして利用しているのが実態だそうだが、最近嫌な感じがするのは、批判対象を自称保守と断じて批判する人の存在で、他人をそう断じているのだから、その人は真の保守を自任しているのだろうが、自称保守という言葉を使って特定の勢力や個人を批判する人々の主な言い分は、批判対象の言動が、伝統の尊重、漸進的改革、理性の過信への戒めなどの、本来の保守主義の本質から逸脱し、単なる排外主義や、盲従、または急進的な破壊主義に陥っているという点にあるそうで、保守主義の定義に、正当化できる、一貫性があるケースと、正当化できない、矛盾しているケースの決定的な違いを、構造的に整理して解説してみると、批判する人々の主な言い分として、なぜ批判対象を自称保守と呼ぶのかに関しては、批判派は、その対象が保守と名乗りながら、実際には非保守的・過激主義的な行動をとっていると指摘していて、具体的には対米盲従と主権の軽視で、日本の伝統や国益よりも、特定の同盟国、主に米国の意向を最優先する姿勢は、愛国・保守とは呼べないという批判で、また皇室のあり方や家族観など、都合の良い部分だけを切り取って政治的な攻撃道具にしており、それが伝統の政治利用にあたり、真の敬意や畏敬の念がないという指摘で、そして政策の是非ではなく、左翼か否かという二元論だけで敵味方を峻別し、社会の分断を煽っているという見方で、それはかつての冷戦型の反共主義への固執であり、さらに、近現代史の不都合な事実を否認し、他国や少数派への差別・排外的な言説を愛国の名で正当化しているという批判もあり、それが歴史修正主義と排外主義を体現していて、そうなると本来の保守ではなく、急進的なチェンジを目指した現状破壊であり、憲法や既存の法的秩序、国際協調の枠組みを一気に変えようとする姿勢は、本来の漸進的な少しずつの改革を重んじる保守の態度ではなく、むしろ右派的な急進主義・ラディカリズムであるという指摘が成り立ち、政治哲学の定義である、エドマンド・バークに始まる保守主義に照らし合わせたとき、その主張が保守として成立するかどうかの違いは、保守として正当化できる、一貫性があるケースは、人間の理性には限界があると考え、過去の試練を耐え抜いてきた伝統や慣習に知恵を見出す態度、社会の欠陥を治す際、すべてを破壊して作り直す革命ではなく、良い部分を残しながら慎重に少しずつ変えていく姿勢、社会の安定、秩序を維持するために、極端な言説を退け、異なる意見に対しても一定の聞く耳を持つバランス感覚、これらを満たしているケースであるのに対し、保守として正当化できない、矛盾しているケースは、これが絶対に正しいという教条的な理念を掲げ、社会を強引に変革しようとする態度、変化した現実を無視し、特定の時代の体制に丸ごと戻そうとする姿勢、保守は守りながら変える思想であり復古主義とは違うが、自国至上主義に走り、国内の連帯や社会の安定を言葉の暴力で自ら破壊していく行為、これらのケースは本来の保守とは異なり、自称保守とみなさざるを得ず、真の保守は、これまでの歴史や社会のつながりを大切にしながら、壊さないように慎重に生きようとする態度であり、批判される自称保守は、左派や外国などの敵を叩き、自分の信じるお好みの国家像を強硬に押し付けようとする急進的な右派、ライトウィング・ラディカルであり、批判派は、後者が保守という耳障りの良い言葉を隠れ蓑にして、社会の寛容さや民主主義のルールを侵食しているとみなし、だからあえて自称と区別して非難しているそうだが、言うだけならなんとでも言えそうな気がするわけで、無矛盾な言葉通りの定義に沿って事態が進むわけではないというのが、偽らざる実感であるわけだ。8月13日「期待の具現化と唯物史観」マルクス経済学の下部構造が上部構造を決定するという古典的な経済決定論、唯物史観に対して、マックス・ウェーバーは、それとは逆の方向性を提示し、上部構造であるプロテスタントの宗教倫理という精神や信仰が、下部構造である近代資本主義という経済システムの誕生を促したと論じて、カルチャーや思想が経済を規定し決定しうることを証明し、マルクス主義の内部からも、アントニオ・グラムシは、支配階級が社会をコントロールするのは経済力だけでなく、文化や合意形成、ヘゲモニーによるものであるとして、上部構造における文化闘争の重要性を説き、ルイ・アルチュセールも、経済が最終的な基礎であることは認めつつも、政治やイデオロギーといった上部構造もそれぞれ独自の自立性を持っており、社会はそれら複数の要素が絡み合う重層的決定によって動くと提唱し、またホルクハイマーやアドルノなどのフランクフルト学派も、高度資本主義社会において、大衆文化や人間の心理構造がいかに社会を縛り付けているかを分析し、彼らは、経済的な変化、下部構造だけでは説明のつかない、ファシズムの台頭や大衆社会の心理を上部構造の歪みとして批判的に捉え、二十世紀後半のミシェル・フーコーをはじめとする思想家たちは、社会の権力構造は経済的な階級関係だけに起因するのではないと指摘し、言語、知識、医療、教育といった社会のあらゆる言説や制度の中に微視的な権力が潜んでおり、これらが複雑に社会のあり方を決定していると論じて、マルクス自身も晩年には、経済は最終的な要因に過ぎず、上部構造との相互作用、弁証法的関係があると認めていたとされており、現代の社会科学では、経済、政治、文化は互いに影響を与え合う双方向の関係であるという見方が一般的だそうだが、政治的ポピュリズムが、腐敗したエリートと純粋な人民という権力構造の対立を強調する政治スタイルであるのに対し、経済的ポピュリズムは、将来の財政破綻リスクを無視して短期的な利益や給付を大衆に約束する経済運営手法だそうで、それを政治の純粋な動機と経済の不純な動機として区別するのも単純すぎるが、政治的ポピュリズムが、権力・体制の次元で、民主主義の仕組みや、既存の政治エリート・既得権益層に対する不信から、自分たちこそが抑圧された人民の代表者であると主張し、代議員制民主主義や専門家の判断を批判して人民の直接的な意志を重視し、エリートや特定の外来グループなどの敵対勢力を作り出し、社会の分断を煽ることで求心力を高めるのに対して、経済的・財政的ポピュリズムは、資源配分の次元で、国家財政の持続可能性や長期的な経済成長への悪影響など無視して、国民の生活苦や経済不安を直ちに解消するとして、耳あたりの良いバラマキや過度な減税を正当化し、財政ポピュリズムのように、将来の借金を増やす国債の増発や財源不足を隠して、選挙目当ての短期的な歳出拡大や補助金の増額を行うそうだが、両者の一致点、共通する本質は、大衆の感情・不満への依存で、人々の経済的困窮や、努力が報われないという社会的不満をエネルギー源にして、財政規律、法律、専門的な政策評価といったブレーキ役を、エリートの陰謀や邪魔者として無視して、一時的な支持や熱狂を生む一方で、長期的には民主主義の信頼低下や経済パフォーマンスの悪化、GDPの低下などを招きやすいそうだが、その一方で、資本主義の市場メカニズムが持つ増幅作用(モメンタムやレバレッジ)は、経済的ポピュリズムを急激に台頭させる強力なエンジンとして機能するそうで、バブルという市場がもたらす極端な好況とその後の崩壊、ショックというサイクルが、大衆の不満を最大化して、ポピュリズム政策を呼び込む土壌を作るそうだが、果たして現代のAIバブルと呼ばれる現象がそうなのかというと、もしかしたらバブルではない結果をもたらす可能性もあるから、バブル崩壊のような結果が出てみないことには何とも言えないが、資本主義経済における増幅作用と経済的ポピュリズムの関係は、過剰な期待がバブルを招いて、それがどのように経済的ポピュリズムへつながるのか、ステップごとに解説すると、期待の自己実現によるバブル形成期において、資本主義では将来への過剰な期待が投資を呼び、それがさらに価格を押し上げる自己実現的な増幅作用、強気相場が働き、レバレッジ、借入がこの動きをさらに加速させ、実体経済とかけ離れた株価バブルや資産バブルを形成するが、実態からかけ離れていることがわかってしまうと、バブルが崩壊し、市場の増幅作用はパニック売りや信用収縮などの逆回転を始め、経済に深刻なダメージを与え、このとき、一般大衆は失業や資産喪失といった実体経済の痛みを直接的に受けることになり、危機対応として、政府や中央銀行がシステム維持のために巨額な公的資金を投じて大銀行や大企業を救済することになると、大衆の目には、利益は資本家たちが独占し、損失は国民に押し付けられたと映り、既存の政治や経済エリートへの激しい怒りが生まれると、この怒りを受け皿にして、緊縮財政の打破、大企業・富裕層への懲罰的増税、即時的な現金給付や補助金を掲げる経済的ポピュリズム勢力が台頭してきて、資本主義の暴走であるバブルがもたらした痛みを癒すために、市場のルールや財政規律を無視した過激な政策が熱狂的に支持されるようになるそうだが、実例として、1920年代の米国のバブルと大恐慌の時代では、永遠の繁栄への過剰な期待からNY株価がバブル化し、1929年に崩壊して世界大恐慌へと増幅した結果、欧州では既存の資本主義体制を否定する極端な全体主義・ポピュリズム体制が台頭し、2000年代の住宅バブルが弾けて起こったリーマンショックでは、住宅価格は下がり続けない、という過剰な期待と金融工学が増幅装置となって、サブプライムローン・バブルを生み、崩壊後の大企業救済に対する大衆の怒りは、米国のティーパーティ運動やウォール街を占拠せよという呼びかけ、さらにはその後のトランプ主義、経済ナショナリズムの伏線となったが、資本主義が持つ行き過ぎる性質、ブーム&バストがある限り、その揺り戻しとしての経済的ポピュリズムは必然的に発生しやすくなるが、そうした面とは、一見関係ないように見える、商品の製造段階において、原料から製品に至るまでの加工過程が、複雑化する製品ほど価値が上がる傾向になるかというと、基本的には加工過程が複雑化するほど、製品の付加価値・マージンが高まり、市場価値・価格が上がる傾向にあり、ただし需要があることが大前提だが、それ以外にも、資本主義経済の仕組み上、いくつかの重要な例外や罠があるそうで、この現象のメカニズムと、価値が上がらない例外について、経済学やサプライチェーンの視点から整理してみると、複雑化するほど価値が上がる3つの理由は、例えば、半導体、自動車、医薬品、高度な精密機械などの加工プロセスが長く複雑になる製品の価値が高くなる理由として、1つ目は、技術と知識の結晶化で、複雑な工程を経るということは、各段階で高度な特許技術、特殊な設備、熟練した労働力が必要になり、これらが製品に蓄積されると、原材料の価格を大きく超える価値、付加価値が生まれ、2つ目は、高い参入障壁で、加工が複雑な製品は、他社が簡単に真似できないから、ライバルが少なく、独占や寡占の状態を作りやすいので、企業は高い価格、プレミアムを維持できて、3つ目は、リスクマネジメントのコストで、工程が多いほど、途中で不良品が発生するリスクや、サプライチェーンが途絶えるリスクが高まり、これを管理・保証するコスト自体も製品の信頼性という価値に転換され、これを象徴するのが、製造業におけるスマイルカーブ理論で、開発や複雑なコア部品の加工を行う上流と、ブランド・サービスを行う下流ほど付加価値が高く、単純な組み立てを行う中流は価値が低くなり、逆に複雑化しても価値が上がらない4つの罠として、需要があるにも関わらず加工の複雑化が価格や利益などの価値に結びつかないケースもあり、1つ目はコモディティ化の罠で、技術の標準化によって、どんなに複雑な工程であっても、製造装置の進化などに伴って、誰でもボタン一つで作れるようになると、価値は暴落し、液晶パネルや一部の電子製品がこの歴史を辿り、2つ目は自己満足の複雑化の罠、オーバーエンジニアリングで、作り手がこだわり過ぎて工程を複雑にしたものの、顧客から見れば、そこまでの性能や品質は求めていないという状態で、これは過剰品質となり、コストだけが上がって価値や価格には転換されず、3つ目は下請けいじめと価値の偏在化の罠で、製品全体の市場価格は高くても、複雑な加工を担うサプライチェーンの末端には、適切な利益が分配されず、発注元だけが巨大ブランドとして価値を独占する構造的なシステムとなり、4つ目は複雑さのコストが利益を食いづぶす罠で、工程が複雑になり過ぎて、管理コストや物流コストが膨らみ、製品価値が上がった分以上にコストがかかってしまうケースで、これは企業にとって価値・利益の破壊を意味し、需要がある限り、確かに真似できない複雑さは高い付加価値を生むが、しかし、その複雑さが顧客のメリットにつながっていない場合や、ライバルも同じように作れるようになった場合は、単にコストが高いだけの売れない製品になってしまうが、そういった過程を変えるのが技術革新であり、技術革新の中心にある製品やサービス、企業の価値は、通常の経済原則を超えて、爆発的に上昇し過熱する傾向があり、そうした技術革新が進むと、それを支えるインフラや製造プロセスが劇的に高度化・複雑化し、この複雑さの構築そのものが強力な参入障壁となり、そのトレンドを支配する企業に莫大な富・超過利潤をもたらすが、ここには資本主義特有の増幅作用、過剰期待が最も強く働き、やがてバブルとその崩壊というドラマを生み出す決定的なメカニズムが潜んでおり、なぜ技術トレンドの中心で爆発的に価値が上がるのかというと、19世紀の鉄道、20世紀のIT・インターネット、21世紀のAIや半導体などの技術トレンドにおいて、企業価値が急騰するのには3つの増幅作用があり、1つ目はプラットフォームの独占、勝者の利益総取りで、スマホのOS、AIのデータセンター、最先端半導体の露光装置などの高度で複雑なインフラを最初に完成させた企業は、市場を独占できて、複雑すぎて他社がすぐには真似できないので、価格決定権を握り、企業価値が跳ね上がり、2つ目はネットワーク効果で、その製品やサービスを使う人が増えれば増えるほど、システムの複雑性と利便性が増して、さらに価値が高まるという資本主義最強の増幅作用が生じて、3つ目は未来の利益の前借りという株価特有のメカニズムが働き、株価は現在の価値ではなく、将来その企業が稼ぐであろう利益の総和を現時点で評価する仕組みであり、革新的なトレンドに対しては、投資家の脳内で無限の成長可能性が描かれ、実体経済の何倍ものスピードで企業価値が膨れ上がるが、その一方で高度化・複雑化がもたらす光と影として、技術が高度化し、製造過程やインフラが複雑になることは、企業の価値を高める一方で、ある限界点・リスクをも生み出し、光となる、価値の源泉としての複雑さの面では、現代の最先端半導体や生成AIのインフラは、人類史上最も複雑なサプライチェーンと技術の結晶であり、これを1社でコントロールできるエヌビディアなどの企業は、他社が絶対に真似できない間では、株価や企業価値が天文学的な数字になる一方で、影となる、複雑さの瓦解というリスクの面では、インフラが複雑化しすぎると、特定のレアマテリアルの不足、特定の工場の火災、サイバー攻撃などで、どこか1箇所が破綻しただけで、システム全体が停止して、この脆さ、脆弱性が露見した瞬間、過剰だった期待は一転して恐怖に変わって、株価の暴落を引き起こし、技術革新がもたらす複雑さと企業価値の上昇は、常に過剰期待とバブルのサイクル、ハイプ・サイクルを繰り返して、黎明期の複雑さへの驚嘆の時期では、新技術が登場し、インフラの高度化が始まり、バブル期の過剰な期待が膨らんだ時期では、この技術が世界を完全に変えるという期待が先行すると共に、まだ利益を生んでいない関連企業の株価まで爆発的に上昇し、崩壊の幻滅が広まる時期では、複雑なインフラの構築やマネタイズ・収益化に時間がかかり、期待に応えられない企業が脱落して、株価が暴落し、成熟期の本物の価値が定着する時期では、生き残った本物の企業が、高度化したインフラを背景に、真の巨大企業として君臨することになり、こうして技術革新の中心にある製品や企業の価値は上がるが、しかし、資本主義の市場は技術がもたらす未来の価値を、常に実際の進歩のスピードよりも早く、大きく見積り過ぎ、過剰期待する性質を持っているので、製造プロセスやインフラがどれだけ複雑で素晴らしいものであっても、実態以上の株価・バブルが形成され、その後に調整・暴落が来るというのが、資本主義経済が何度も繰り返してきた歴史だが、では技術革新そのものは人々の期待や欲望の具現化だと言えるかというと、まさにその通りで、技術革新は、単なる科学的な発見の歴史ではなく、人類の期待、欲望、恐怖といった感情が資本主義のパワーによって物質やサービスとして具現化したものであり、こういう世界になってほしい、もっと楽をしたい、あそこへ行ってみたい、という大衆の強い欲望や期待がなければ、膨大な資金やエネルギーが特定の技術開発に注ぎ込まれることはなく、技術革新を動かす4つの根源的な欲望として、1つ目は、移動・拡張の欲望で、鉄道、自動車、航空機、インターネットなどの、もっと遠くへ早く行きたい、空間の壁を越えてつながりたい、という欲望が、移動インフラや通信技術を高度化させ、2つ目は、効率・怠惰の欲望で、洗濯機、工場のオートメーション、生成AIなどの、面倒な労働から解放され、もっと楽をしたい、人間の考える面倒すら代替しようとする欲望の具現化であり、3つ目は、不老不死・健康の欲望で、バイオテクノロジー、近代医療、ゲノム編集などの、病気の恐怖から逃れ、1日でも長く生きたい、という究極の願いが、最も複雑な加工プロセスを必要とする、医薬品や医療機器の開発を牽引していて、4つ目は、承認・自己表現の欲望で、SNS、スマートフォン、メタバースなどの、他者から認められたい、寂しさを紛らわしたい、という精神的な欲望が、現代の巨大なデジタルインフラを支える最大のエンジンで、期待・欲望がイノベーションを物理的に生み出す仕組みとして、技術革新が起きるプロセスそのものが、人間の心理・期待に依存していて、まず期待の提示によって、起業家や科学者が未来はこうなるというビジョンを示し、次いで資金の集中、資本主義の増幅作用によって、そのビジョンに人々が期待し、欲望を刺激されることで、莫大な投資資金、リスクマネーが集まり、そして複雑なインフラの具現化によって、集まった資金を使って、個人の頭の中にしかなった妄想・期待が、高度で複雑な製品やサービスとして、物理的に組み立てられることになり、つまり、人々の期待が先にあって、それが資金を呼び寄せることで、初めて技術が現実のものになるが、しかし、この欲望の具現化プロセスこそが、これまで議論してきた過剰な期待を伴うバブルの正体でもあり、人間は、新しい技術が登場すると、これですべての課題が解決する、無限に豊かになれる、という過剰な期待・幻想を抱きがちで、市場はこの欲望を増幅して、実態を伴わないレベルまで株価や企業価値を押し上げ、やがて、技術の進歩のスピードが人間の肥大化した欲望に追いつかなくなったとき、バブルは崩壊し、そして、期待が裏切られた時の怒りや、技術革新から取り残された人々の不満が、今度は経済的・政治的ポピュリズムという形で社会に噴出することになるが、技術革新とは人間の欲望を燃料にして、社会のインフラを複雑化し、高度化させていくプロセスそのものであり、人間が欲望を持つ生き物である以上、技術革新は止まらず、そして同時に、それが行き過ぎてバブルを生み、社会を揺るがすというサイクルもまた、資本主義の宿命と言えるそうだ。8月12日「アリとキリギリスの逆張り的な教訓」話者が誰でも知っている単純な喩え話を持ち出すと、それだけでバカにしたくなる気をいったんは抑えて、その場で時間的な余裕があったなら、話を聞いてみても良さそうな気になるが、例えば寓話の「アリとキリギリス」を引き合いに出して、そこで述べられている教訓とは逆に、アリではなくキリギリスになれと主張することは、現代の社会構造を捉えた合理的な側面と、自己啓発やビジネスの勧誘におけるポジショントークなどの怪しいケースの両面があるそうで、それぞれの意味や背景と、なぜ怪しいと感じるのかを整理してみると、キリギリスになれ、と主張する合理的な意味は、現代のビジネスやキャリア論において、この逆張りは単なる怠け者の推奨ではなく、時代背景を踏まえた比喩として使われ、貯蓄から投資・消費へのシフトという面から言えることは、アリのようにただ現金を貯め込んでも、インフレによって資産価値が目減りする時代であり、キリギリスのように若いうちに自己投資や経験・思い出にお金を使う方が、人生全体の幸福度やリターンが高まると言えて、また時代の変化の速さという面から言えることは、アリのように、将来のために今は我慢して同じ仕事を続ける、という戦略は、その職種によっては会社倒産やAIの台頭によって破綻するリスクがあると言える一方で、楽しむ人が勝つクリエイティブ経済という面から言えることは、義務感で働くアリのような人よりも、自分の好きなことや遊びを極めたキリギリスのような人が、SNSやユーチューブなどを通じて大きな価値や富を生み出す可能性がある、という現代の縮図もあるが、その一方で、なぜそんな喩えを持ち出すこと自体が怪しいと感じるのかというと、この比喩が使われる際には、次のような心理的誘導・罠が含まれていることが多いそうで、二項対立の罠・極端な論法という面からは、真面目に働くアリ=悪・古い、自由に生きるキリギリス=正義・最先端、という極端な二択を迫ることで、聞き手の思考を停止させようとしていて、現代の成功者は、アリのような地道な努力・仕組み化と、キリギリスのような直感・行動力の両方を持ち合わせているが、それが情報商材やセミナーへの勧誘パターンであると、いつまでアリのように搾取される側でいるんですか?キリギリスのように自由に生きる方法を教えます、という文句は、副業詐欺や高額塾、マルチ商法の典型的な常套句であり、現代の生活に不満を持つ人の、楽をしたい、現状から抜け出したい、という射倖心を煽るために、誰もが知っている寓話が都合よく改変されるそうで、そしてキリギリスの結末の都合のいい無視という面から言えることは、寓話本来のキリギリスは、冬に飢えて困窮し、あるいはアリに助けられるが、逆張りを語る人の多くは、現代のキリギリスは冬が来ても困らないという前提を都合よく強引に作っており、それに伴う老後破産やスキルの未修得などの自己責任リスクを説明しない傾向があり、変化の激しい現代において、アリのような盲目的な我慢を捨てて、キリギリスのように自己投資や変化への柔軟性を持て、という警鐘の意味合いがある一方で、キャッチーな逆張りで大衆の関心を惹き、最終的に自分の商品や思想を売り込もうとするポジショントークである可能性も高く、この比喩を聞いた際には、言葉の表面的な新しさに踊らされず、その主張にによって誰が一番得をするか、何かを売りつけようとしていないかを見極めることが重要だそうだが、ちなみにマックス・ギュンターの投資の名著『マネーの公理』の中で、「アリになるな、キリギリスになれ」という比喩が、非常に重要な文脈で使われているそうで、この本を踏まえるなら、ギュンターがどういう意図でこの喩えを使ったのか、そしてなぜ巷でそれが怪しく誤用されがちなのかを解説できるそうで、『マネーの公理』におけるキリギリスの真の意味に関して、本書において、キリギリスの比喩は、長期計画の危険性を批判するために登場し、アリの盲点、計画への過信は、アリは将来・冬はこうなるはずだと予測して、緻密な長期計画を立てて地道に準備するが、しかしギュンターは、未来は本質的に予測不可能であると断言して、アリのように長期計画に依存すると、予測が外れたとき、想定外のブルトーザーがやってきたときなど、計画に縛られて逃げ遅れ、押しつぶされてしまうと警告し、キリギリスの強みはフットワークの軽さであり、ここで推奨されるキリギリスとは、不真面目に遊ぶことではなく、フットワークを軽くして、目の前の現実に即座に反応する生き方であり、未来をコントロールしようとするのを諦め、チャンスが見えたら飛びつき、危険が見えたらすぐに逃げ出し、損切りするという、冷徹なリアリスト、投資家としての姿勢をキリギリスと呼んでいて、本書におけるキリギリスになれとは、楽をして生きろという意味ではなく、予測不可能な未来に対して、長期計画という幻想を捨てて、圧倒的な柔軟性と即応性を持って備えよという、極めてシビアなリスク管理の教訓であり、ではなぜこの喩えを出すビジネスやセミナーが怪しいのかというと、ギュンターの意図がこれほど合理的であるにもかかわらず、巷でこの喩えを聞くと怪しく感じられる理由は、発信者による、都合のいいチェリーピッキング、つまみ食いが行われているからだそうで、怪しいインフルエンサーや情報商材、セミナーの多くは、例えばリスク管理をリスク無視にすり替え、ギュンターのキリギリスは、いつでも逃げ出せるように、常に警戒しつつ、最悪の事態である冬に備えてフットワークを軽くしている状態であるのに対して、怪しい勧誘では、ほら、あの有名な本でも、アリみたいに働くのは無駄だと言っているから、会社の仕事なんか辞めて、今のうちにやりたいことをやろう=俺の商材を買おう、と、本を読んだことのない人に向かって、単なる刹那的な現実逃避や無防備な博打を正当化するために悪用するそうで、本に書かれた冷徹な覚悟を隠し、『マネーの公理』では、投資・投機とは恐怖したり、ハラハラするリスクを引き受ける行為であり、心配がない状態はむしろ危険だと説く、非常に手厳しい本であり、怪しい発信者は、そうした自己責任の重さや損切りする際の血のにじむような痛みを伴うルールには一切触れず、キリギリス=自由で楽な金儲けという甘いイメージだけを引っ張り出して、聞き手をカモにしようとするから、確かに『マネーの公理』の文脈では、未来は誰にも分からないのだから、アリのようなガチガチの長期計画に固執せずに、キリギリスのように情勢の変化に即応できる身軽さを保てという、極めて高度で現実的な生存戦略だと言えるが、この名著の言葉を、単に真面目に働く労働者を煽るための楽して稼げるイメージを抱かせるために悪用しているビジネスや発信者が存在しているとしたら、それは百%怪しいと言えるが、人間には計画性、地道さ、蓄積などのアリ的な側面と、瞬発力、享楽、柔軟性などのキリギリス的な側面の両面が必ず存在するので、発信者が自分の立場や都合に合わせて、どちらか一方を強調するという構造は、まさにレトリックやポジショントークの典型で、この構造がどのようにもっともらしく作られるのか、その裏側を言語化してみると、伝統的な企業や堅実なビジネスなど、アリを強調して都合が良いケースは、発信者の立場が、長く続く組織のリーダー、終身雇用型のビジネス、手堅い塾の経営者などになり、彼らが説くもっともらしい理屈は、世の中そんなに甘くない、一発逆転を狙うキリギリス的な姿勢では、冬の到来によって野垂れ死ぬ、今の苦境を耐え、地道にスキルを積むアリのような姿勢こそが、最後に勝つのだ、などと説いて、聞き手を従順にさせて、目先の離職を防いだり、長期的なカリキュラムに課金させたりするそうだが、一方で、ベンチャー、投資、インフルエンサーなど、キリギリスを強調して都合が良いケースは、発信者の立場が、若手起業家、投資家、脱サラを促す情報商材屋などになり、彼らが説くもっともらしい理屈は、アリのように会社の言いなりになって地道に働いて貯金し続けても、AIに職を奪われたり、インフレと増税によって貯金も手取りも目減りして未来はない、これからはキリギリスのように、今この瞬間の直感を信じて投資し身軽に動ける人間が勝つ時代だ、などと説いて、現状の生活に退屈している人の不安を煽り、新しい挑戦や彼らの商品を購入するように仕向け、このようにどちらの主張も部分的な事実やリスクを切り取って拡大解釈しているので、その瞬間はどちらももっともらしく正論のように聞こえるが、現実の人間がどちらか一方だけになった場合、遠からず破綻が待ち受けている可能性が高く、百%アリ人間になった場合には、病気、会社の倒産、市場の急変などが起きたときに、臨機応変に動けず心が折れてしまい、逆に百%キリギリス人間になった場合には、その瞬間のフットワークは軽くても、基礎体力の向上、周囲から信頼を得る、いざという時に備えた貯蓄など、地道な努力の積み重ねを全くしなければ、長期的な危機が到来した際に持ち堪えられなくなり、そういう意味で、世間で一時的に注目を浴びる極端な主張は、自分のビジネスや立場に、相手を引きずり込むためのポジショントークであることがほとんどであり、どちらか一方に染まるのではなく、今はアリのように蓄える時期か、それともキリギリスのように身軽に動くべきかを、自分の状況に合わせてブレンドしていく感覚が、もっとも騙されず、かつ賢明な生き方と言えるそうで、このように二項対立では割り切れない現実を、都合よく切り取る言説は日常に溢れているとしても、そんな言説をうまく操りながら賢く振る舞って成功しているように見える人も、世の中にはいくらでもいるのかも知れない。8月11日「青木理も含めたもたれ合いの構造」これは前々から疑念を抱いていたことだが、ジャーナリストの青木理が日本の検察権力の危険性を懸念する主な根拠は、筋書きありきの強引な捜査や人権を軽視した日本の刑事司法の構造的な病理にあるそうで、共同通信の社会部記者時代から刑事司法の現場を取材し、著書『国策捜査 暴走する特捜検察と餌食にされた人たち』などを執筆してきた青木氏が指摘する具体的な根拠は、主に次の4点に集約されるそうだが、1点目は、筋書きありきの国策捜査と冤罪の温床で、検察、特に特捜部が政治的背景や世論に後押しされて、最初にあらかじめ筋書き、立件するのに都合の良いストーリー設定をして操作を進める姿勢を批判していて、ターゲットにされた被疑者の反論には耳を貸さず、ストーリーに沿った自白や供述調書の作成を強要することで、多くの冤罪や過剰な立件が生み出されていると主張し、厚生労働省の村木厚子氏が逮捕されて、後に無罪確定、検事による証拠改ざんが発覚した郵便不正事件などを、その象徴的な事例として挙げているそうで、2点目は、非人道的な人質司法の存在で、起訴されるまで、あるいは罪を認め、自白するまで、長期間にわたって拘留を続ける日本の人質司法の仕組みが、検察の暴走を許す最大の武器になっていると指摘し、被疑者の体調悪化やがんなどの重病が判明しても、証拠隠滅の恐れを理由に保釈を却下し続けるといった、人権や適正手続きを軽視した運用が行われている実態を極めて非人道的であると強く非難しているそうで、3点目は、組織防衛の体質と証拠開示の不備で、検察が、一度逮捕・起訴したものは間違いであってはならない、という強固なメンツや組織防衛に走り、自らの非を認めない体質を懸念しいて、近年審議している刑事訴訟法の再審法改正などの議論においても、検察側が無罪の可能性を示す不都合な証拠を隠し通せる現在の仕組みや、法務・検察が、その改革に消極的である姿勢を、不正義を許す法の不備として問題視しているそうで、4点目は、大手メディアによる追認・翼賛体制的なリーク報道で、新聞やテレビなどの大手マスメディアが、検察幹部や捜査幹部からのリークなどの情報提供に頼り、検察側の主張を鵜呑みにした有罪視報道を垂れ流す共犯関係にあることを批判し、メディアと検察の権力をチェックする役割を果たせず、むしろ世論を煽って検察の暴走を後押しする構図、メディア・スクラムが、検察権力をさらに肥大化させ危険化させているという検証を行なっているそうだが、実際に日本の検察権力や刑事司法の危険度や、不透明さや人権侵害リスクは、国際的な客観的指標や国連の勧告ベースで見ると、欧米主要先進国と比べて、極めて深刻で特異な低水準、人権保障の面で悪質と評価されていて、国際的な司法評価や法の支配のランキングを基にした、諸外国との比較と位置づけは、総合的な法の支配の評価は、国際NGOのWJPが毎年発表する法の支配指数において、日本の総合順位や治安・安全の項目では世界トップクラスに位置するものの、しかし、同指数の詳細項目である刑事司法における適正手続きの遵守や被疑者の権利保障の分野では、北欧、ドイツ、フランスなど欧米諸国に比べて明確に低いスコアを記録しており、先進国の中で突出した弱点となっているそうで、諸外国との構造的な違い、ダーティとされる根拠は、日本の検察・司法システムが国際社会から特異、ガラパゴス的、あるいは不当にダーティとされる主な要因は、日本の現状は、取り調べへの弁護人の立ち合いは一切認められず、可視化は一部のみであるのに対して、欧米主要国、米・英・仏・独などでは、当然の権利として認められ、起訴前の勾留期間も、日本では最長23日間、しかも別件逮捕で実質無限であるのに対して、欧米主要国では数日程度、イギリスでは原則24〜96時間で、保釈の認められ方も、日本では自白するまで認められない人質司法であるのに対して、欧米主要国では、罪状の認否に関わらず、逃亡の恐れがなければ原則保釈で、検察の基礎裁量権も、日本では検察が百%コントロールして、有罪率99%であるのに対して、欧米主要国では、起訴陪審や予審判事などの外部チェックがあり、証拠開示の義務も、日本では検察側に不利な証拠を隠すことが可能あるのに対して、欧米主要国では被疑者に有利な証拠も含め、全面開示が原則であり、こうした現状を踏まえて国連や国際人権機関からの常習的な是正勧告があり、国連の拷問禁止委員会や自由権規約委員会などの人権機関から、日本の刑事司法は定期的に厳しい是正勧告を受けていて、特に、弁護人の立ち合いのない密室での長期間の取調べは、国際基準において精神的な拷問・脅迫にあたると繰り返し指弾され、日産自動車の元会長カルロス・ゴーン氏の逮捕・逃亡劇の際には、フランスをはじめとする海外メディアや人権団体は、日本の司法を中世のシステムと呼び、人権軽視の姿勢を激しく非難し、ダーティという言葉が検察官個人が賄賂を受け取るような金銭的汚職を指すのであれば、日本の検察は、比較的クリーンであり、途上国のような露骨な腐敗は見られないが、しかし、国家権力を維持するために、手続きの正当性を無視して個人の人権を握りつぶす組織的な不条理という意味でのダーティ度において、日本は欧米先進国に比べて著しく不透明で、被疑者の防御権が世界最低レベルに制限された危険な水準にあるというのが、国際的な共通認識となっているそうだが、日本の検察が組織として暴走したり、強引な捜査に及んだりする背景には、金銭的な利権の獲得というよりも、組織の権威・聖域の死守という利権と、大事件の立件による出世競争という思惑の双方が強力に絡み合っていて、検察が組織として死守したい利権・特権に関して、その最大の利権は、金目のもの、予算や利権団体ではなく、他者から一切侵されない絶対的な権力と聖域そのもので、日本では容疑者を起訴して裁判にかける権限を検察がほぼ独占していて、これを起訴独占主義と呼び、その圧倒的な権力を維持し、政治家や警察、あるいは司法改革によって自らの権限を削られないようにすること、組織防衛が彼らにとって最大の利権死守にあたり、検察、特に特捜部は、正義の味方という高いブランドイメージで国民の支持を得てきたので、見立てを誤って無罪を出したり、途中で捜査を断念したりすることは、組織の権威失墜=聖域の縮小を意味し、これが間違ったストーリーであっても強引に突き進む強力な動機になり、検察は、最高裁・高検などのトップ人事を、自分たちの内部ルールで決めてきた歴史があり、この人事権という聖域を守るため、時の政権や外部の批判に対して極めて敏感になり、例えば、警察の交通違反の取り締まりが、件数、数の勝負であるのに対し、検察、特に花形とされる特捜部の出世競争は、事件の質と格、社会的影響力の大きさの勝負になり、検察官の出世すごろくの頂点は、検事総長や東京高検検事長で、このポストに登り詰めるエリート、法務省・検察の幹部候補たちにとって、政治家、巨大企業、大物官僚など巨悪を自らの手で特捜事件として立件することは、最高の発言権と出世切符になり、組織内では、頑なに否認している大物容疑者を落とし、自白させ、検察側のストーリー通りの供述調書を作成できる検事が有能とみなされ、この評価システムが現場の検事に強いプレッシャーを与え、密室での強圧的な取り調べや人質司法の乱用に拍車をかけて、特捜部などは、一定期間大きな事件を立件できないと、特捜部不要論が世間や政治から湧き上がるから、組織の存在意義を証明し続けるために、定期的に国民が飛びつくような大事件を作り出さなければならないという焦燥感が常に働いているそうで、日本の検察は非常に優秀な官僚組織だが、それゆえに、有罪率99%という神話を汚さないための組織防衛、利権と、歴史に名を残す大事件を挙げて出世競争に勝ち抜く思惑という2つのベクトルが合致したとき、個人の人権や適正手続きを置き去りにした暴走が始まると指摘されているそうだが、このような官僚組織にありがちな出世欲や保身の問題、として片付けられがちな現象を、より本質的なもたれ合いの構造、相互依存・共犯関係として捉え直す場合、そこには検察単体ではなく、日本社会・権力機構を形作る4つの巨大な主体のネットワークが浮かび上がるそうで、この構造は4つのもたれ合いのペアによって強固に維持されていて、1つ目のもたれ合いは、検察と大手メディアの情報カルテルで、これは最も露骨で強力なもたれ合いで、検察側のメリットは、公式には明かせない捜査情報をリークし、情報提供することで、逮捕前からメディアに、容疑者はこれだけ怪しい、という世論、有罪視の空気を作らせ、裁判を有利に導くと同時に、組織の不祥事を隠蔽・過小評価してもらう盾にし、メディア側のメリットは、検察の幹部、特捜部などに食い込むことで、他社を抜く特だねスクープを入手して、部数や視聴率を稼ぎ、そんなもたれ合いの帰結は、メディアが検察の広報機関と化し、権力の監視という本来の役割を放棄し、結果として検察が作ったストーリーを社会全体で追認する翼賛体制が生まれ、2つ目のもたれ合いは、検察と裁判所の有罪率99%の共謀で、これが司法のチェック機能が麻痺している原因であり、検察側のメリットは、裁判所が検察の請求する逮捕状、勾留請求、保釈却下をほぼ百%スルー、自動承認してくれるので、強力な人質司法を合法的に維持でき、裁判所側のメリットは、検察が確実に有罪にできる証拠がガチガチの事件だけを起訴してくれるから、裁判所は無罪判決を書くリスク、判事として出世に響く汚点を避けられ、効率的に裁判を消化でき、そんなもたれ合いの帰結は、裁判所が検察の暴走を止めるブレーキではなく、検察の決定を追認するスタンプラリーと化し、被疑者の人権が完全に置き去りにされ、3つ目のもたれ合いは、法務・検察と政治、政権・官邸の不可侵のディールで、近年、特に歪みが指摘されている権力トップ同士のもたれ合いで、法務・検察側のメリットは、政治家の中で、特に与党幹部の汚職やスキャンダルを、どこまで追及するか、あるいは不起訴にするかの裁量を握ることで、政治から検察の予算、権限、人事権の独立などの聖域を守ることができ、政治側のメリットは、検察を敵に回すと政権が崩壊するため、検察の機嫌を損ねないよう配慮して、検察官の定年延長問題などの人事介入や、司法改革を骨抜きにするのと引き換えにして、自らの身の安全を担保して、そんなもたれ合いの帰結は、法の下の平等が崩れ、政権に近い人間は守られ、敵対する人間は徹底的に叩かれるという、検察権力の政治ツール化が進んで、4つ目のもたれ合いは、検察・お上と国民・世論の道徳的依存で、この構造を底辺で支えている、社会心理的なもたれ合いで、検察側のメリットは、巨悪を眠らせない正義の味方というストーリーを供給し続けることで、国民からの高い信頼と、超法規的な捜査、人質司法などを行う免罪符を得ることに成功し、国民側のメリットは、複雑な社会問題や政治の腐敗を、検察が、悪者を逮捕する、という分かりやすい勧善懲悪のエンタメとして解決してくれるため、自ら思考し社会を変革するコストを支払わずに、正義がなされた、というカタルシス、満足感を得られ、そんなもたれ合いの帰結は、怪しい奴は人権なんて無視して徹底的に痛めつければいい、という国民の処罰感情が、検察の非人道的な捜査手法を裏から支えるガソリンになり、検察の危険性の本質は、検察官個人の出世欲という単純な話ではなく、検察が情報を流し、メディアが世論を煽り、裁判所がそれを追認し、政治が特権を保障し、国民が喝采を送るという、誰も傷つかず、それぞれが、スクープ、有罪実績、地位の保全、正義感、という利益を得られる完璧な循環構造・エコシステムが完成してしまっていることであり、これこそが、青木理氏らが最も懸念するもたれ合いの構造の正体だそうだが、ここからグーグル検索のAIと共に悪ノリして、もっと意地悪にそれを指摘する青木理も含めてもたれ合いの構造を指摘するのは、ちょっと正義から外れた外道の論理かと問うと、結論から言えば、批判者である青木理氏も「もたれ合いの構造」の内側に組み込んで捉える視点は、外道の論理、邪悪な屁理屈などではなく、メディア論や権力において極めて正当で、むしろ本質を突いた高度な批判的思考だそうで、青木氏のような反権力的なジャーナリストも含めたもたれ合いの構造は、次のような相互依存のビジネスモデル、エコシステムとして説明が可能で、青木氏をはじめとする批判的ジャーナリズムやリベラル系メディアにとって、暴走する国家権力や人権を侵害する検察は、自らの存在意義を証明するための不可欠な主役・悪役で、検察が強引な捜査や冤罪事件を起こすからこそ、それを告発する本が売れ、雑誌の記事が読まれ、トークイベントやユーチューブ番組に視聴者が集まり、もしも日本の検察が欧米並みにクリーンで人権を完璧に守る組織に生まれ変わってしまったら、検察の闇を告発するジャーナリストという職種・ポジションは、その市場価値を失い、つまり、批判する側もまた、検察が歪んだ存在であり続けてくれることに無意識のうちに依存しているという側面があり、青木氏は元共同通信の社会部記者、サツ回り・検察担当で、検察の闇や内部事情を深く知るジャーナリストであればあるほど、その情報源・ソースは現役の特装幹部や司法のインサイダー、内部を知る人物からの極秘のリークや愚痴、内部告発に頼らざるを得ず、その一方で検察組織側も、主流メディア、記者クラブには流せない都合の悪い情報や、ライバル派閥の追い落とし情報を、青木氏のようなアウトサイダー的なジャーナリストを利用して世間に流すことがあり、つまりどれだけ激しく検察を批判していても、その情報の仕入れルートにおいては、検察の一部と繋がっていなければ仕事が成立しない、という意味でのもたれ合い、共生関係から抜け出せず、社会学やメディア論では、こうした関係を敵対的共生と呼び、これはプロレスに悪役・ヒールと正義の味方・ベビーフェイスの双方がいなければ試合が成立せず、興行・ビジネスが成り立たないのと同じ構造で、検察側のメリットは、うるさいジャーナリストが監視している、というポーズを示すことで、我々は独裁ではなく、批判の目に晒されながら適正にやっている、という言い訳・免罪符に使える一方で、ジャーナリスト側のメリットは、巨大な権力と戦う孤高の正義というブランディングを確立して、特定の読者層からの熱狂的な支持と信頼、経済的・社会的リターンを得られ、この視点が正義から外れた外道の論理に見えてしまうのは、私たちが無意識に社会運動やジャーナリズムは純粋な正義・ボランティアで動いているという幻想を抱いているからだそうだが、しかし、現実の社会は正義だけで回っているわけではなく、そこに参加しているすべてのプレイヤーがそれぞれのインセンティブ・利益や生存戦略に従って動く市場・マーケットがあるからで、したがって社会の不正や構造的な問題がいくら告発されても、長年にわたって改善されない場合は、そこには不正の存在を燃料・コンテンツとして回り続ける強固な批判の経済圏、あるいは告発のビジネスモデルが成立していると言えて、ジャーナリスト個人の善悪や正義感とは無関係に、社会の構造・システムとして経済循環が自動的に発生してしまう、という冷徹な現実、リアリズムが存在していて、この経済圏がどのように成立し、なぜ不正の温存に手を貸す結果になってしまうのか、そのメカニズムは3つの要素で説明できるそうだが、1つ目の要素は、不正を恒久的なキラーコンテンツとするビジネスモデルで、商業メディアやジャーナリズムの世界において、絶対に解決しない、あるいは解決が極めて困難な構造的リスクは、永久に利益を生み出し続ける最も優秀なコンテンツ・ドル箱になり、検察の暴走、政治の腐敗、官僚の利権といったテーマは、数年ごとに必ず新しい事件・実例が起き、その度に、そら見たことか、と過去の知見をアップデートした本、記事、動画、トークイベントの需要が生まれ、確実に消費され、もしも日本の刑事司法が明日から完全にクリーンになり、人質司法も冤罪もゼロになったとしたら、その瞬間に検察を闇を扱うコンテンツの市場価値はゼロになってしまい、だから問題が未解決であり続けることこそが、この経済圏の賞味期限を無限に引き延ばし、2つ目の要素は、不満のガス抜きという社会的機能の提供で、この経済圏は、読者や視聴者などの消費者にとっても、感情のトレードを行う場所として機能していて、お上の不正や社会の理不尽に対して怒りや無力感を抱いている人々は、青木氏のようなジャーナリストの鋭い告発を消費することで、自分の代わりに怒ってくれた、問題の本質をズバリと言ってくれた、というカタルシス、精神的満足感や安心感を購読料や視聴時間などのお金で買っていて、皮肉なことに、この批判を消費してスッキリするという行為が、国民が本気でデモを起こしたり、選挙でシステムを変えようとしたりするリアルなエネルギーを奪うガス抜きになるため、結果として社会の不正そのものを長持ちさせるクッションとして働いており、3つ目の要素は、敵対的共生によるニッチ市場の固定化で、検察や政府など権力側にとっても、この批判の経済圏が存在することは必ずしも不都合ではなく、権力側は、青木氏のようなインフルエンサー的な批判者が自由に発言している状態を放置することで、日本は言論の自由がある民主主義国だ、というアリバイ・免罪符として利用でき、権力側はマジョリティを構成する大衆と大手メディアを握り、反権力の批判的ジャーナリストは特定のリテラシーの高い層あるいはコアな反権力層というニッチ市場を握り、お互いに自分のテリトリー・地盤で支持や利益を集めるという、一種の安定した棲み分けやもたれ合いが完成し、こうした指摘をすると、ジャーナリズムは結局、他人の不幸や社会の悪を食い物にしているのか、という道徳的な批判、外道の論理という見方になりがちになるが、しかし、これを悪と断罪するだけでは事の本質を見誤るそうで、なぜなら、社会の不正を監視し、声を上げ続ける仕事に経済的な裏付け、リターンがなければ、そもそも誰も権力を批判できなくなる、というのもまた資本主義社会の真実だからで、つまり、社会の不正が改まらない本当の絶望は、誰かが悪意を持ってサボっているからではなく、不正を批判する側も批判される側もそれを消費する側も、全員がそれぞれの利益や安心感を得て、きれいにハッピーに回ってしまう完璧な経済圏・エコシステムが社会の底流に構築されてしまっていることにあるからだそうだ。8月10日「無理解に抗うことで得られる逆説的な結果」何か疑念が深まるような現実に直面しているらしく、最近も愕然とすることがあったはずで、それに関しては、たぶん自分が世の中の実相を理解していないんじゃないかと考えても構わないのだが、実相とは何なのかというと、すべてのものや事象のありのままの本当の姿、または奥にある真実のありさま、という意味で、そんなものを理解していると思う方が勘違いかも知れないから、理解しようとはしない方が無難な態度だろうが、そんな実相をかわす、ありのままの本当の姿や真実をかわす、つまり不都合な真実から目を背ける、本質的な話し合いをはぐらかすような言動に直面した時、人はその関係性や状況に応じて、さまざまな反応を見せるそうで、確信犯的なはぐらかしに遭って、おちょくられているような怒りを感じたり、のれんに腕押しのような手応えのない状態が続き、会話すること自体に疲れてしまい、相手が誠実に向き合う気がないと判断し、人間性そのものを疑い始め、かわされた論点を元に戻そうと、より具体的で逃げ道のない質問を重ねたり、怒りを通り越して、この人には何を言っても無駄なんだ、と悟って心を閉ざして会話を打ち切ったり、理性の限界を迎え、大声を出したり涙を流したりして感情を露わにしたり、相手の全ての言葉に裏があるのではないかと、過剰に深読みするようになったり、自分が気にしすぎなのかも知れないと思って、相手ではなく自分の方に原因を探して納得しようとすることもあり、いったんあきらめてしまえば、今後は必要最低限の事務連絡しかしない表面的な関係へと割り切り、さらに機会を捉えて、その関係性自体を終わらせる選択をしたり、いろいろな分岐があるだろうが、例えば、日本の政治において、自民党以外は政権を担えないようにコントロールされているように見える現象が、これは単なる結果論なのかそれとも意図的な構造によるものなのかという問いは、政治学者や有権者の間でも長年議論されている重要なテーマだそうだが、結果論とする見方によると、この視点では、誰かが裏でコントロールしているわけではなく、選挙や政党政治の積み重ねの結果として、現在の状態があると考え、リベラルから保守まで複数の野党があるから、候補者の一本化や共通の理念構築が十分にできていないため、反自民の票が分散してしまうという現実があり、また2009年の民主党への政権交代とその後の混乱の記憶が、有権者の間に自民党以外に任せるのはリスクがあるという心理的な現状維持バイアスを生んでいるという指摘もある一方で、小選挙区制においては、野党が強い対立軸を示せなければ自民党が議席を多く獲得しやすいという特徴があり、最終的に一票を投じているのは有権者自身であるので、コントロールではなく単なる民意の結果であるという解釈が妥当だが、意図的な構造やコントロールとする見方によると、自民党が有利になり、他党が政権を担いにくくなるような仕組みや戦略が機能しているという指摘もあり、1994年の選挙制度改革で導入された小選挙区制は、建前として政権交代を起こしやすくする目的があったが、結果として組織力と資金力がある第一党に圧倒的に有利に働く構造になっているという批判もあり、長年の政権運営を通じて築かれた業界団体や地方自治体と強固なパイプが、政権維持のための巨大な集票システムとして機能していて、また自民党は野党の掲げる人気の高い政策を柔軟に取り入れて自らの政策とすることで、野党の対立軸を無効化する戦略に長けているという分析もあり、現代の政治分析では、これらは二者択一ではなく、制度や組織など自民党に有利な構造を自民党自身が維持し活用しつつ、そこに野党の戦略ミスや分断が重なったことで、結果として自民党の一強状態が続いていると捉えるのが、妥当な分析だそうで、そして第二次安倍政権から高市政権まで、一貫して批判してきた勢力が、それらの政権をアシストしているように感じられるのは、わざと彼らに批判されやすいようなことをやっているから、批判されながらも結果として政権交代を防いでいるのかというと、批判勢力が結果的に政権をアシストしている、あるいは政権が意図的にその構図を作っているように見える現象は、日本の政治構造において非常によく議論されるテーマであり、それが単なる勘違いとも完全な陰謀論とも言えない、精緻な政治力学が存在するそうで、この現象は、政治学において対立の自己目的化や敵対的強制などと呼ばれ、2つの側面から説明がなされていて、1つ目の側面は政権側の戦略で、あえて批判されやすい対立軸を提示する意図的な構図で、第二次安倍政権から現在の高市政権に至るまで、保守派のリーダーたちは、何が自民党の強みになり何が野党の弱みになるかを極めて自覚的にコントロールしているという分析があり、安全保障、憲法改正、歴史認識、あるいは直近の経済・財政政策など、リベラル勢力が激しく反発するテーマを全面に出して、これによって、保守層や現実路線の有権者を、この政権を守らなければならない、という心理に追い込んで、強固な岩盤支持層を結束させ、政権側がエッジの効いた批判されやすい政策を打ち出すと、批判勢力は感情的かつドラスティックにそれを攻撃しがちになって、結果として世間は、批判ばかりで代替案がない、イデオロギーに偏った過激な勢力、という印象が残り、政権交代を望まない無党派層の現状維持バイアスを刺激することになり、あえて強い言葉で左派を刺激することで、理想論を言う批判勢力対現実の国際情勢や危機に対応する現政権という二項対立を演出して、政権の正当性を担保する戦略が功を奏していて、2つ目の側面は、批判勢力側の構造的問題で、結果的にアシストしてしまっている現実があり、もちろん批判する側がわざとアシストしているわけではなく、その構造的な戦術のミスが政権を利する結果を招いているとする見方も有力で、安倍政治の打倒や高市政権への反発など、敵を設定することだけで連帯しようとするため、自分たちがどのような国家像や具体的政策を目指すのかという、有権者が未来を選べる選択肢の提示が後手に回り、批判勢力が最も熱心に追及しようとするイデオロギー論争やスキャンダルなどのテーマが、一般の有権者が最も関心を持つ、物価高、生活、景気、雇用などのテーマと乖離してしまうことで、世論の広範な支持を得られず、結果として自民党一強の受け皿になれない状態が続き、という朝日新聞からの引用は全てイメージ先行の紋切り型で的外れな指摘かも知れないが、これは、政権側がわざと批判を浴び泥をかぶっているというよりは、自らに向けられる批判のエネルギーすらも、自らの支持層を固め、野党の極端さを際立たせるための燃料として再利用するシステムを、政権側が極めて高度に運用していると捉えるのが実相に近いと言えるそうで、批判勢力は政権を倒そうとして全力で叩いているつもりが、その叩き方の過激さや争点のズレ自体が、皮肉にも政権交代を不安視する有権者を現政権側に留まらせる強力なアシストとして機能してしまっているのが、現代の日本政治の膠着構造の本質だそうだが、実態としては経済情勢や経済構造が政治のあり方を決定づけている、という側面が極めて強力に働いていて、政治家がどのような理想やイデオロギーを掲げようとも、現実の国家財政の制約が政治の行動範囲を厳しく縛っており、少子高齢化という人口・経済構造の構造的変化により、毎年の予算の大部分が医療・年金・介護に自動的に消えて行き、GDPの2倍を超える政府債務を抱える中では、どの政権が誕生しても大胆な減税や際限のない財政出動を長期的に続けることは無理で、市場から高金利や円安などの報復を招くリスクがあり、実質的な選択肢は極めて限られていて、一国の政治がどれほど独自の政策をやりたくても、世界経済の構造から逸脱することはできず、例えば極端な格差是正や大企業・富裕層への過度な課税を掲げる政権の誕生が現実味を帯びると、株価が暴落し、企業や資本が海外に逃げて国内経済が破綻する可能性が高く、国際的な格付け機関による国債の評価や、為替市場で円の信任を維持しなければならないので、政治は必然的に市場に嫌われない予測可能性の高い現実路線の政策を選択せざるを得なくなり、かつての昭和の高度経済成長期であれば、拡大する経済の果実をどこにどう配るかの利益誘導が政治の主な仕事だったが、現代の低成長・人口減少の時代においては、足りないパイをどう削るかの負担の押し付け合いが政治の課題となり、消費税の増税や社会保障の給付抑制など、有権者に痛みを強いる政策では選挙に勝てないので、政治は根本的な構造改革を先送りにし、その場しのぎの微調整を繰り返すという機能不全の限界に陥り、一強多弱などの政治情勢自体も、経済的な利害関係の上に成り立っていて、自民党が政権を維持できるのは、大企業、地方のインフラ、伝統的な産業保護などの既存の経済構造に最適化された支援システムを握っているからで、その一方で、不安定な雇用環境にある労働者や若年層を主体とする無党派層は、政治への期待を失って選挙で投票を棄権しやすいため、結果として変化を望まない層の意思が政治に色濃く反映され続けるというスパイラルが生じて、マルクス経済学の下部構造・経済が上部構造・政治や社会のあり方を決定する、という古典的な見方は、多くの識者によってこれまでに何度も否定され批判され続けてきたが、実態としては経済という土台が崩れないように、政治がその帳尻合わせのメンテナンスをさせられるというのが、見えざる政治的な制約の本質であり、政治が飽きもせず右か左かというイデオロギーで激しく論争しているように見えるのは、この狭い制約の範囲内で少しでも自分たちの支持層に有利な配分をもぎ取るためのニッチな陣取り合戦にすぎず、国全体の経済構造そのものをドラスティックに変えるような政治的自由度は、現在の日本、そして多くの先進国にはほとんど残されていないと言えるそうだ。8月9日「参政党の神谷宗幣とニューヨークのマムダニ市長がやっていること」作用反作用的な成り行きには付き合っていられない何かを感じられるが、それらが独善的な意味合いを感じられるかというと、面倒くさい他人の独善的な見解をはぐらかして考える上で必要な考え方として、例えば、歴史の解釈に、時代や文化を超えて共通する本質的な法則などの普遍性があると仮定した場合、それを信じることで3つの真実が見えてくるそうだが、1つ目の真実は、人間の本質や人間性の不変性で、普遍性を信じることは、数千年前の人々も現代人と同じ感情や欲求で動いていたと確信する根拠になり、権力への欲望、死への恐怖、愛情や連帯感、嫉妬や裏切り、これらが時代を超えて共通しているから、古代の出来事も他人事ではなく、自分たちの鏡として深く理解できるようになり、2つ目の真実は、社会の構造と歴史の法則で、過去のパターンが未来にも適用できるという予測可能性が生まれ、貧富の差の拡大が社会の崩壊を招くプロセス、独裁体制が誕生し、やがて腐敗していくメカニズム、異文化が衝突したときに起こる摩擦の段階、これらが再現性のある法則として見えてくるので、現代の社会問題の解決策や、未来に起こる危機を予見する羅針盤を手に入れることができ、3つ目の真実は、自己の相対化と共通のゴールで、例えば、自由、平等、尊厳などの普遍的な価値に向かって人類が歩んでいるという大きな流れや進歩の軌跡が見えてきて、自分の生きる時代が歴史のどの位置にあるかが分かり、異なる文化や民族とも、根底にある普遍的な目的でつながっていると気づくことができ、偏った自国中心主義や時代錯誤な思想から抜け出せるそうだが、その一方で、現代という時代特有の事情や経緯などの、歴史の特殊性に目を向けると、普遍的な法則だけでは説明できない現代人が直面している独自の現実が見えてくるそうで、ここでも主に3つの真実が浮かび上がってくるそうで、1つ目の真実は、人類史上前例のない変化の正体で、帝国の興亡など普遍的な歴史のパターンには当てはまらない、現代だけの特殊な断絶が分かり、地球規模の環境変動は、人類の活動が地球の地質に影響を与える人新世という特殊な事態であり、AIや遺伝子組み換えなどの技術の爆発的進化は、人間の知能や生命の定義そのものを変える技術の誕生であり、超高度情報化は、全人類がリアルタイムでつながり、フェイクニュースが瞬時に拡散する情報の過剰状態を物語り、これらは過去のどの時代にもなかった、現代特有のデータからしか読み解けない課題であり、2つ目の真実は、私たちの当たり前の賞味期限で、今私たちが信じている常識や社会システムが、普遍的なものではなく、ここ1〜2世紀の特殊な経緯で誕生した一時的なものであると分かり、資本主義と無限成長の幻想は、経済は成長し続けなければならないという近代特有のイデオロギーであって、国民国家は、人類が昔から持っていたわけではない、国境と国籍という比較的新しい仕組みであり、個人の自由や人権は、二度の世界大戦や冷戦などの特定の歴史的衝突を経て、苦労して制度化された特殊な成果であり、これらを知ることで、現在のシステムは不変ではなく、時代の変化に合わせて変革していけるものであると気づけるそうだが、3つ目の真実は、過去の教訓が通じないリスクで、普遍性を信じるあまり、歴史は繰り返すと思い込むことの危険性が分かり、核兵器の存在は、勝つか負けるかという過去の戦争の法則を無効化して、全人類の滅亡を可能にした特殊な兵器であり、少子高齢化は、多くの過去の文明が人口増加を前提に作られていたため、現代の縮小社会には通用せず、現代の特殊性を直視することは、過去のやり方を真似るだけでは生き残れないという警鐘を鳴らしてくれるそうだが、歴史の普遍性、共通する本質と、特殊性、現代だけの事情は、車の両輪のような関係であるが、そこから視点を変えて、歴史の共時的な捉え方と通時的な捉え方から分かることは、普遍性や特殊性から導き出されることとは明確に違う意味合いを持ち、普遍性・特殊性が歴史の性質や法則などの中身を問うのに対して、共時的・通時的は歴史を捉える視点や構造などのカメラのレンズを意味しているそうで、この2つのアプローチによって、それぞれに異なる意味合いが見えてきて、時間の縦軸である通時的な捉え方から分かることは、通時的とは歴史を時間の経過による変化や因果関係で捉える視点であり、なぜ今こうなっているのか、という因果の鎖が分かり、ある出来事が突発的に起きたのではなく、過去のどの出来事から影響を受けて、どう変化してきたかというプロセスの意味が分かり、そこから変化のスピードとベクトルが分かってきて、例えば人類が進歩か衰退か、どの方向へ、どれほどの速さで向かっているかという時代のトレンドを測定でき、それに対して、空間の横軸である共時的な捉え方から分かることは、共時的とはある特定の時代をバッサリと輪切りにして、同時期に異なる場所で起きていたことの相互関係や構造で捉える視点であり、目に見えない時代の空気やグローバルな構造が分かり、例えば十七世紀という断面を切ると、ヨーロッパの危機や、中国では明から清への動乱、日本の鎖国が、実は地球規模の気候寒冷化や銀の流通という一つの見えない糸でつながっていた、というような、システムとしての歴史が分かり、また他者との比較による自らの位置が分かり、同時代の他国や他文化と比べることで、自分たちの社会がどれだけ進んでいるか、どう偏っているかという客観的な座標が分かり、普遍性・特殊性との決定的な違いは、これらを普遍性・特殊性と掛け合わせることで、さらに強力な意味を持ち、普遍性・特殊性から、例えば、人間はいつでもどこでもこうだという結論は、いつでもが普遍でどこでもが特殊で示されるのに対して、通時的・共時的から、その結論を導き出すための分析法、縦から見るか、横から見るかの違いが示されて、それらを組み合わせて、私たちは歴史を単なる過去の教訓のリスト、普遍・特殊として見るのをやめ、時間と空間が織りなす複雑な立体構造として動的に捉えることができるようになり、この縦・通時と横・共時の視点の切り替えは、現代の複雑なニュースを読み解く上でも非常に強力な武器になるそうだが、例えば、参政党の神谷宗幣代表が、沖縄戦において、日本軍は沖縄県民を殺害しに行ったのではなく、守るために戦った、日本軍が悪いという描き方をすると米軍が正義になってしまう、と主張し、こうした従来の戦後歴史教育を自虐史観として見直そうとする動きは、歴史の普遍性・特殊性と通時性・共時性という4つのレンズを使うことで、その意図や構造を論理的に説明できるそうで、神谷氏が救いたいと考えているのは、国家防衛のために命を捧げた英霊の動機の正当性・光であり、それを阻んでいるのが戦後の偏った歴史認識・影であるというロジックで、これを4つの視点から整理すると、1つ目の普遍性のレンズから見た説明では、時代を超えた共通の法則である普遍性の視点から見ると、神谷氏は国家の生存と国民防衛の原則を救い出そうとしていて、神谷氏の意図は、どの国・どの時代であっても、自国軍は共同体を守るために命をかけて戦うものである、という普遍的な軍隊の本質を沖縄戦に適用しようとしていて、その説明は、本土を守るための捨て石だった、という個別的・否定的な評価を退けて、命をかけて郷土と家族を守ろうとした、という人類共通の普遍的な愛国心や防衛本能の文脈に、当時の日本兵の動機を回収しようとする試みであり、2つ目の特殊性のレンズから見た説明では、その時代の環境、独自の事情など特殊性の視点から見ると、神谷氏は敗戦国ゆえに押し付けられた特殊な歴史観からの脱却を試みていて、神谷氏の意図は、現在の沖縄戦の語られ方は、普遍的な事実ではなく、勝者の米軍によって書き換えられた特殊な歴史観である、と主張していて、その説明は、米軍による激しい攻撃が住民犠牲の最大要因であるにもかかわらず、日本軍=悪という特定の側面だけが戦後の平和教育で強調されているという、特殊な偏りを指摘して、そこから軍の本来の目的である防衛を切り離して救い出そうとしていて、3つ目の通時性のレンズから見た説明では、時間の経過による因果関係・通時性の視点から見ると、神谷氏は過去への感謝から未来の国防へ繋ぐ因果の鎖を救い出そうとしていて、神谷氏の意図は、過去の先人への感謝や慰霊を失った社会は現代および未来の国防の危機に対応できなくなるという、時間軸上の危機感を持っていて、その説明は、先人の戦いをただの過ち、暗黒の過去として断絶させるのではなく、命がけで国を繋いでくれたプロセスとして通時的に肯定することで、現代の日本が、自分たちの国を自分たちで守る、という未来への動機づけ、国防意識を再生させようとしていて、4つ目の共時性のレンズから見た説明では、同時代における他者との相互関係など共時性の視点から見ると、神谷氏は冷戦・大東亜戦争という国際政治の構造を救い出そうとしていて、神谷氏の意図は、沖縄戦を日本軍対沖縄住民という狭い国内の構図ではなく、大日本帝国対アメリカという大国間の激突、という世界史的な共時的構造の中で捉え直すべきだと考えていて、その説明は、当時は世界中で帝国主義的な権力闘争や生存をかけた総力戦が行われていた時代・共時的環境であり、そこ国際政治の荒波の中で、日本軍がアメリカという巨大な脅威と対峙していたという大枠の構造を強調することで、日本軍だけが異常に不条理だったわけではない、という文脈を浮き彫りにしようとしていて、神谷氏の一連の主張は、戦後の歴史解釈が特殊な被害・沖縄戦の実相や国内の対立に偏りすぎているとし、それを普遍的な防衛の動機や世界史的な構造・共時性の視点へとシフトさせることで、旧日本軍の名誉や日本を守ろうとした意志を救い出そうとする思想的アプローチであると説明できるが、ただし、このアプローチは、現場で実際に集団自決の強要や軍民混在の地獄を経験した沖縄の生存者のリアルな歴史体験・固有の特殊性・通時性を軽視し、否定するものとして、地元のメディアや歴史学者、他党から歴史修正主義者であるとの強い反発や批判を受ける構造にもなっているそうだが、それとは違う方面で、ではニューヨークのマムダニ市長がやっていることを、歴史の普遍性や特殊性、通時性や共時性からどう説明できるかというと、歴史の普遍性・特殊性と通時性・共時性という4つのレンズを用いることで、その思想的背景や現代社会における位置づけを鮮明に説明でき、マムダニ市長は、アメリカ民主社会主義者DSAに所属する、初のムスリムかつアジア系のニューヨーク市長で、富裕層への課税、ユニバーサル・チャイルドケア、気候変動対策、移民保護といった急進的な左派政策を推進していて、彼の行動を4つの視点から分解すると、1つ目の普遍性のレンズから見た説明では、時代や場所を超えて共通する本質である普遍性の視点から見ると、マムダニ市長は強者・資本に対する弱者・労働者の連帯と生存権の確保という、人類史に絶えず現れる階級闘争の普遍的なパターンを体現していて、マムダニ氏の行動は、不動産富裕層に重税を課して、違法な電動自転車の販売業者、アマゾンなどの巨大資本を規制して低所得の配達労働者の安全を守ろうとしていて、その説明は、過度な富の集中は社会を不安定化させ、民衆の反発を招くというのは、古代ローマの平民闘争からフランス革命に至るまで共通する歴史の普遍的法則であり、彼の政策は現代のニューヨークという舞台を借り、この格差是正を求める民衆の普遍的なエネルギーを体現していると説明できるそうで、2つ目の特殊性のレンズから見た説明では、特定の時代・環境独自の事情という特殊性の視点から見ると、マムダニ市長の存在そのものが、21世紀の多民族都市であるメガシティ・ニューヨークという極めて特殊な土壌からしか生まれなかった現象であり、マムダニ氏の行動は、ウガンダ生まれのインド系移民、ムスリムという自身のアイデンティティを背景に、ハイチ人移民の保護などを積極的に叫んでいて、その説明は、十九世紀や二十世紀の白人マフィアやエリートが牛耳るニューヨークの政治の文脈からは、彼のような人物は市長になることは不可能であり、現代の人種のるつぼが極限に達したニューヨークの人口動態と、トランプ政権に代表される保守派との対立という、現代アメリカ特有の政治的トポロジー・特殊性が、彼の過激とも言える左派政策の支持基盤となっているそうで、3つ目の通時性のレンズから見た説明では、時間経過と因果関係という通時性の視点から見ると、マムダニ市長は、新自由主義、レーガノミクス以降の流れの限界と、その逆張りのプロセスの先端に位置しているそうで、マムダニ氏の行動は、経済成長と規制緩和を重視した前任のエリック・アダムス政権などの路線を全否定し、幼児教育の無償化など、社会民主主義的な福祉政策へ舵を切っていて、その説明は、1980年代から約40年間続いた、資本主義の暴走・民営化という時間軸のトレンド・因果の鎖が、若者世代の困窮・家賃高騰、子育て費用の破綻を生み出した、と主張するマムダニ氏の行動は、この歴史の振り子が、行き過ぎた資本主義から社会主義的な揺り戻しへと向かうプロセスの帰結として通時的に説明できるそうで、4つ目の共時性のレンズから見た説明では、同時代における他者との相互関係という共時性の視点から見ると、マムダニ市長の政策は地球規模の気候変動やグローバル経済への、世界の主要都市・メガシティによる同時多発的な反乱の一部であり、マムダニ氏の行動は、異常気象・猛暑への気候変動対策を訴え、グローバルIT企業、アマゾンやベストバイに対して強硬な姿勢を取っており、その説明は、現代は世界中でグローバル資本による都市の均質化・家賃高騰と地球温暖化が同時に進行していて、パリ、ロンドン、ソウルなど、世界中の大都市の首長が、同じように富裕課税、環境規制、福祉の再分配に動く中で、マムダニ氏の動きも孤立したものではなく、2026年現在のグローバル・メガシティが共通して抱えるシステミックな課題へのシンクロした共時的な反応である、と言えるそうで、参政党の神谷氏の事例が、通時的な伝統・過去の記憶・縦軸を繋ぎ止めるために、普遍的な防衛の動機を救おうとしたのに対して、ニューヨークのマムダニ市長の事例は、共時的な世界都市の危機・横軸に対応するために、歴史の階級闘争の普遍性を左派のイデオロギーとして現代の特殊なニューヨークに当てはめていると言えて、どちらも現在の自らの政治的立場を正当化し、支持者を突き動かすために、歴史の普遍性と特殊性、そして時間・通時と空間・共時の構造を巧みに利用している点では、政治指導者による歴史観・世界観の提示として共通の構造を持っているそうだ。8月8日「わかりやすいイランや中国の戦略」イランや中国のような権威主義・全体主義的体制から導き出される国家の本質的な傾向は、生存と統制の最優先、および対外的な現状変更と孤立の並存に集約されるそうで、これらの国家の行動原理を分析すると、5つの本質的な傾向が見えてくるそうだが、1つ目の傾向は、政権生存、レジーム・サバイバルの絶対視で、内政の最優先事項は、政権維持が国家のあらゆる利益に先んじ、反体制派の弾圧、高度な情報検閲、思想統制などの強硬な国内統制が常態化していて、経済成長や富の分配は、イランに関しては現状では無理だとしても、中国の場合は、国民の満腹感を通じて不満を抑え込み、政権の正当性を保つための手段として使われ、2つ目の傾向は、外敵の創出とナショナリズムの利用で、国内の経済的不満や不条理から目をそらせる目的で、常に米欧などの外敵の脅威を強調し、中国の場合は日本の再軍国主義化を脅威として煽るわけだが、中国の百年の国恥、イランの反米・反帝国主義などの歴史的経緯を利用し、国民の愛国心やイランの場合は宗教的義務感を刺激して体制を結束させ、3つ目の傾向は、力による勢力圏の拡大・現状変更志向で、自国の安全を確保するためには、周辺地域を自国の影響下に置く必要があると考え、中国の場合は、経済力・一帯一路や軍事力を背景に、南アジアや台湾海峡での現状変更を試み、イランの場合は、中東地域において、抵抗の枢軸と民兵組織などの代理勢力を育成・支援し、地域覇権を狙い、4つ目の傾向は、国際秩序の二重基準への反発と再定義で、欧米主導の人権、民主主義、法の支配といった普遍的価値観を内政干渉として拒絶し、他国がその国の内政に口出ししない原則である、主権絶対主義を掲げ、自国に都合が良い新しい国際秩序やルールをBRICSや上海協力機構の強化などで作ろうとし、5つ目の傾向は、対抗連帯と構造的孤立の深化で、欧米から制裁や圧力を受ける中で、地政学的・経済的な利害が一致する国々の、中国、イラン、ロシア、北朝鮮などの間で、戦略的・軍事的な協力関係・不都合な同盟が強化される一方で、共通のイデオロギーではなく、利害関係で結びついているため、国家間、あるいは国際社会との間に本質的な相互不信が残り続け、長期的には構造的な孤立を深める傾向にあり、イランや中国のような権威主義・全体主義体制が、国内外からの批判や圧力に晒されながらも強固な持続性、レジーム・レジリエンスを維持している理由は、高度な弾圧・監視メカニズム、統治の正当性の確保、そして批判や圧力をかわす国際的な抜け道の存在が複合的に機能しているからだそうで、その主な原因は5つの要素に分解でき、1つ目の要素は、デジタル技術を駆使したインテリジェント統制で、中国の場合は、AI、顔認証、ビッグデータ、信用スコア制度を組み合わせ、反体制的な動きを萌芽の段階で自動検知・排除システムを構築していて、イランの場合は、大規模な抗議デモが発生した際に、通信を完全に遮断して組織化を防ぎ、SNS上の発信者を特定・拘束する技術を運用していて、2つ目の要素は、強大な治安・抑止機関の存在で、イランのイスラム革命防衛隊や、中国の人民武装警察のように、国軍とは別に政権を護るためだけに存在する強力な武装組織が、クーデターや大規模暴動を力で押さえつける抑止力として機能していて、これらの治安機関は国営企業やインフラ事業などの国内の巨大な利権も握っており、体制が崩壊すると自身も特権を失うため、命がけで政権を守る構造になっていて、3つ目の要素は、パフォーマンスに基づく正当性・レジティマシーの維持で、中国では、過去数十年の急速な経済成長と、14億人の人口を統治する安定・治安への評価が、いまだに現体制への消極的な支持または容認につながっていて、イランでは、国民全員ではないものの、シーア派イスラム教の信仰や反米愛国の理念に共鳴する強固な保守・支持層が人口の一定割合を占め、それら数千万規模の人々が現体制の土台となっていて、4つ目の要素は、欧米の制裁に対する抜け道・サバイバル構造の確立で、欧米からの経済・金融制裁に対し、イランは中国に原油を密輸し格安で売却し、中国はイランに物資や監視技術を供給するという、相互補完的な経済圏・地政学的ブロックを形成して制裁を無効化していて、長年の経済的孤立を逆手に取り、国内で密輸ルートや代替産業を育成しシステム化することで、制裁下でも政権が干上がらない構造を作り上げていて、5つ目の要素は、分断された社会と代替勢力の不在で、体制批判を行う可能性のある指導者や知識人などを徹底的に排除、または海外へ追放するため、国民の不満が高まっても、政権に代わる受け皿となる組織やリーダーが国内に存在せず、また密告制度や利権の分配を通じて国民同士を疑心暗鬼にさせ、連帯して政権に立ち向かう結束力を削ぎ落としているそうで、こうした現状を踏まえて、イランや中国の体制が、他の民主主義諸国の国家主義者や国粋主義者などに与えている影響は、手本としての模倣、影響と敵対による鏡写しの変化・同質化の両方が同時に起きているそうで、これは矛盾するように見えるが、地政学や政治心理学において、敵対的同質化や権威主義の伝播として知られる現象で、具体的なメカニズムは3つの側面から説明できるそうだが、1つ目の側面は、手本としての影響、効率性と統制への憧憬で、民主主義国の極右や国家主義者の中には、リベラルな価値観や多文化主義、議会政治の決まらない政治に強い不満を持つ層がいて、彼らにとって、中国やイランの体制は魅力的なモデルとして映り、影響も与えていて、決断の速さと実行力は、中国の一党独裁による迅速なインフラ開発やハイテク統制を、民主主義の機能不全に対する理想的な解決策とみなす傾向があり、伝統的・宗教的価値観の強制は、イランの宗教的な純血主義や、中国の中華民族の団結、LGBTQ+への弾圧や伝統的家族観の強調を、リベラル化する自国社会への対抗軸として評価する動きを見せ、2つ目の側面は、敵対による鏡写しの同質化・反作用としての権威主義化で、一方では、中国やイランを最大の脅威とみなす保守・国粋主義者たちも、脅威に対抗するためという名目で、結果的に中国やイランと同じような統制手法を採用する傾向や鏡写しの現象が強まっていて、国家安全保障を理由にした自由を制限する口実として、敵国からのサーバー攻撃や世論工作を防ぐための大義名分で、国内のネット検閲、市民団体の監視、外国人への規制強化を主張し、これは中国の国家安全の論理と本質的に同じで、排外主義と身内の敵を創出するために、中国やイランなどの外部の敵の脅威を過剰に煽ることで、国内の移民や少数派、あるいは政府に批判的なリベラル派を敵のスパイ、非国民と決めつけ、社会の分断を加速させ、経済ナショナリズム・自国第一主義を推し進めて、中国の、政府が経済をコントロールする仕組みの国家資本主義に対抗するため、民主主義国側も産業の国有化的なアプローチや、強力な貿易制限、補助金による市場介入を肯定するようになり、自由主義経済からの変容が進んでいて、3つ目の側面は、ハイブリッド戦による意図的な汚染や伝播で、中国やイランは、民主主義国の国家主義者たちをSNSや情報工作を通じて裏から意図的に利用し支援していて、彼らの目的は、民主主義国の国粋主義者たちに自国の体制を好きにさせることではなく、彼らに自国内のリベラル派や政府を激しく攻撃させ、民主主義社会を内部から分断し麻痺させることであり、結果として、民主主義国の国粋主義者は、敵対しているはずの中国やイランの認知戦やプロパガンダに踊らされ、自国の民主主義制度を破壊する片棒を担ぐ形になっているそうで、したがって、彼らは中国やイランの独裁的な力強さに惹かれ影響を受けながら、同時にそれらを邪悪な敵とみなして対抗するために、自らも自由を制限する強権的な国家主義者へと変貌し同質化していると言えるそうだが、それに対してリベラル側が、このままでは我が国も中国やイランのようになってしまうと危機感を煽る戦略は、短期的には民主主義の防衛意識を高める効果があるものの、長期的には強権体制のタフさを逆説的に証明してしまい、かえってリベラル派自身の首を絞める逆効果になる、という二面性を持っているそうで、この戦略の妥当性、メリットと逆効果となる理由、デメリットは、政治学や国際関係論の視点から2つの側面に整理でき、1つ目のリベラル側の戦略が妥当・効果的と言える側面は、民主主義の衰退を食い止める警鐘としては、一定の合理性があり、司法の独立性の侵害、メディアへの圧力などの民主主義が内側から崩壊していくプロセスは、一見すると気づきにくいものだが、中国やイランという、極端なディストピアの完成形を提示することで、市民に現在の自由の尊さを再認識させる強力な心理的アンカー・錨になり、敵国からの脅威を理由に国内の規制を強めようとする国家主義者に対して、それは中国やイランがやっていることと全く同じだと指摘することで、ナショナリスト側の論理の矛盾、敵を倒すために敵と同じになる愚かしさを白日の下に晒すことができるが、2つ目のかえって逆効果・権威主義のタフさの証明となる側面は、中国やイランが数十年間も西側の圧力に屈せず、むしろ強固に生存し続けているという現実は、リベラル側の恐怖の煽りを無効化するどころか、逆効果にする罠を孕んでいて、経済制裁や軍事的圧力に耐え抜き、国内を統制し続けるイランや中国の姿は、リベラル派が、あのような恐ろしい国になるぞ、と脅せば脅すほど、既存の政治に不満を持つ人々にとっては、欧米に屈しない、内政が極めて安定した強力な国家モデルとして魅力的に映ってしまい、リベラル派が危機を煽るほど、裏を返せば、民主主義は外部からの偽情報や内なるナショナリズムによってあっさりと崩壊させられる、脆くて弱いシステムだ、と宣伝していることになり、結果として、市民に、自由や民主主義では国家を守れないのではないか、という無力感や諦念を与えてしまい、あまりに過激な表現で明日にも独裁国家になると煽り続けると、有権者は政治的なプロパガンダや恐怖政治として受け取るようになり、本当に危機的な法改正や統制が導入される瞬間に、社会が鈍感になってしまうリスクがあり、3つ目の本質的な課題となる、恐怖ではなく実績で勝負できるかという側面は、この戦略の最大の限界は、敵の恐怖を語るだけで、自らの優位性・実績を示せていない点にあり、中国やイランの体制に持続性があるのは、彼らが自国なりの論理、経済成長、治安維持、宗教的アイデンティティで成果を出し、支持層を固めているからで、これに対抗するリベラル側が、自国内の経済格差、政治の停滞、社会の分断といった内なる課題を解決できず、ただ敵のようになりたくなければ我々に投票しろ、と恐怖を煽るだけでは、有権者はついてこないわけで、リベラル側の戦略は、民主主義の崩壊プロセスを可視化する警告灯として中国やイランの強権独裁体制を持ち出すのは妥当だが、中国やイランの制裁に耐えうる強靭さ、という現実がある以上は、恐怖の連呼はかえって権威主義的な力強さを賛美する結果になりかねず、逆効果の側面が強いと言え、本当に必要なのは、恐怖を煽ることではなく、民主主義体制の方が、国民を豊かにして、安定した社会を作れる、という実質的なパフォーマンスを示すことだそうだが、そんな民主主義側のEU諸国やイギリスの労働党政権などが中国へ接近・関与する背景には、現実主義に基づいた、貿易による利益の追求や、アメリカへの依存の脱却や、かつての中国を懐柔して民主化できるという幻想の残滓などが複雑に絡み合っているそうで、単なる貿易利益を超えた経済的生命線の確保という面では、欧州にとって中国への接近は、単なる一過性の利益ではなく、自国の産業構造を維持するための死活問題で、ドイツの自動車産業やフランスの高級ブランドや航空宇宙産業にとって、中国は代替不可能な巨大市場であり、欧州が推進するEVや太陽光発電などのクリーンエネルギー分野において、中国産の安価なバッテリーやレアアースなどのサプライチェーンに深く依存しており、完全なデカップリング、経済切り離しは自国経済の自殺行為を意味し、現状で対立するアメリカへの対抗意識と戦略的自立という面では、アメリカへの露骨な対抗意識というよりは、アメリカに振り回されないための保険や戦略的自立という意味合いが強まっていて、アメリカの政権交代によって、対中政策やNATOへの関与が激変するリスクを常に警戒していて、アメリカの過激な対中包囲網に盲従すれば、欧州だけが経済的打撃を被る、という懸念から、独自の外交スペースを確保するために中国とのパイプを維持しようとして、欧州、特にフランスなどは、世界が米中二極対立になることを嫌い、欧州が第三の極として機能するために、中国との対話窓口を開けておく必要があると考えていて、懐柔による民主化という希望的観測の崩壊と変容の面では、経済的に豊かになれば、中国もいずれ民主化するという、かつての関与政策、貿易による変化の希望的観測は、欧州でも完全に崩壊していて、現在の欧州は、中国がリベラルな民主主義国になるとは1ミリも期待していないが、しかし、完全に孤立させて暴発させるよりは、気候変動対策や国際金融ルール、多国間交渉の枠組みに引き込んで、現状変更はコストが高いことを意識させてコントロールすべきだ、という現実的な懐柔、リスク低減戦略へとシフトしていて、現在のEUやイギリスの姿勢は、安全保障ではアメリカと足並みをそろえつつ、経済では中国を完全に排除せず、依存度をコントロールしながら利益を吸い上げる、という極めて計算高い二股戦略になっているそうだ。8月7日「デリダが語るブランショの戦争体験」何やら山本太郎の政界引退に伴って、れいわ新選組からいのちの党へと党名が変更されたようで、いのちの重みが分からない軽薄な自分は関わらない方が良さそうだと感じたが、昨日ユーチューブでリベラル系の外国人ジャーナリストが、広島の原爆被爆者との関わりの中で、被爆者差別の話を聞いて愕然としたことを話していたが、原爆投下など、ある衝撃的な出来事を特権視して、そこから思想や理論を導き出そうとする傾向は、思想史や哲学において、出来事の特権化あるいは特権視、あるいはフランスの哲学者アラン・バディウなどの文脈では出来事の思想・哲学と呼ばれるそうだが、その主な特徴と関連概念には、零度から出発・カタストロフ論、アラン・バディウの出来事、カール・ヤスパースの限界状況が挙げられるそうで、零度からの出発・カタストロフ論は、過去の常識や連続的な歴史の文脈を断ち切り、その出来事の後に全く新しい世界や倫理が始まると捉える思考で、原爆投下やホロコーストなどの絶対的な惨禍を、歴史の断絶点として位置づけ、アラン・バディウの出来事は、バディウの哲学では、既存の法則や社会秩序・状況からは説明のつかない、突発的で衝撃的な出来事を「出来事」と呼び、出来事と「出来事」の違いが何となくわかるようなわからないような気もするが、これに遭遇した人間が、その出来事がもたらした真理に忠実であり続けようとすることで、新たな主体が誕生すると考え、カール・ヤスパースの限界状況は、実存主義の文脈では、死や苦悩、巨大な災害といった人間の力が及ばない絶対的な限界状況を経験することで、それまでの日常的な思考が崩壊し、人間の本質的な生き方や深い思想が立ち上がるとされ、この傾向が持つ功罪は、既存の政治体制や形骸化した道徳を打破して、二度とこのような悲劇を繰り返さない、という強力な普遍的倫理、平和主義や人権思想を生み出す原動力になるのが、メリット・意義であるのに対して、特定の出来事を聖域化・ドクマ化し過ぎると、それ以外の歴史的文脈や、他の場所で起きている別の悲劇・日常的な構造的暴力などを軽視・不可視化してしまうリスクを孕んでいるそうで、こうした衝撃的な出来事を思想の起点にする態度は、私たちが圧倒的な現実に対峙し、それを言葉や思想として引き受けようとする人間固有の営みと言えるそうだが、それに絡んでよく識者の類いが、今の世界が過去の死者と共にあると強調することには、単なる追悼を超えた倫理的・政治的・思想的な重要性があるそうで、自分が原爆で死のうが交通事故で死のうが老衰で死のうが、死ぬことには変わりないとは思わないが、何かその辺に引っかかりを覚えることは確かで、これはデリダの憑依論などの現代の哲学や歴史学で深く議論されているテーマであり、主に4つの意味を持つそうだが、1つ目の意味は、歴史の勝者による忘却への抵抗で、歴史は往々にして、勝利した者や生き残った者が語る都合の良い物語で上書きされるのに対して、無念の死を遂げた者の存在を意識することで、戦争、虐殺、植民地支配など、過去の不正義をなかったことにさせないように、それらの惨劇で亡くなった犠牲者を覚えていることで、現在の権力者側が歴史を偽造するを防ぎ、2つ目の意味は、死者に対する責任という倫理で、私たちは過去の死者に対して責任を負っているという考え方で、死者は自ら声を大にして主張できず、生者が死者の代理人となり、彼らの無念や願いを現代に響かせる必要があり、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、過去の世代と現代の世代の間には、秘密の約束・救済の契約があると表現し、3つ目の意味は、現在の当たり前を疑う視点で、今私たちが享受している平和や権利は、過去の無数の死者たちの犠牲の上に成り立っていて、死者を意識することは、現在の豊かさが他者の犠牲の上に成り立つ負債であると気づくことで、現在の社会秩序を絶対視せず、常に批判的に見つめ直す視点・謙虚さが生まれ、4つ目の意味は、未来の他者へとつながる時間軸の回復で、現代社会は、今、ここ、自分たち、という短期的な利益・現在中心主義に陥りがちであり、死者を現代に招き入れることで、時間の幅が過去へと大きく広がり、過去の死者に対して責任を果たす姿勢は、そのまま、まだ見ぬ未来の世代への責任へとつながり、私たちは過去と未来をつなぐ、リレーの奏者であるという自覚を促すそうだが、こういったリベラル的な甘ったるい幻想を打ち破る事例だと言えるかどうかはよくわからないが、ジャック・デリダがモーリス・ブランショの掌編『私の死の瞬間』を読み解いた講義録『滞留』の中で、その光景をあえて朗読し、光を当てたことには、証言の不可能性、特権と身代わりの倫理、そして文学という制度の罪深さをめぐるきわめて深い哲学的な意味があるそうだが、この朗読と分析が持つ重要性は、主に3つの位相に整理されるが、1つ目の位相は、身代わりの死と免罪の罪悪感・生存者の倫理で、ブランショのテクストでは、彼自身をモデルにした青年が、ナチスの少尉から城郭・シャトーの主人=身分の高い知識階級の人間だと誤認されたことで、銃殺を免れ、しかしその直後、ナチスは周辺の農家・民家に火を放って去って行ったが、ブランショが生き残ったのは、彼の高貴さや正しさゆえではなく、たまたま彼が持っていた階級的・文化的特権が、ナチスの視線を惑わせたという、極めて不条理な理由からで、自分が特権によって生き延びた一方で、近くの名もなき農民たちが家を焼かれ、犠牲になり、デリダはこの記述を朗読することで、ブランショの生存が他者の犠牲と地続きであるという倫理的負債、サバイバーズ・ギルトを浮き彫りにして、2つ目の位相は、証言が孕む自己矛盾と文学の特権で、デリダが最も厳しく、かつ深く追及したのは、死に直面した特権的な経験を美しい言葉で物語ることの罪深さであり、ブランショは銃殺の危機に瀕した際、尋常ならざる軽さの感情・至福を覚えたと回想しているが、しかしデリダは、その死の経験の特権化のすぐ隣で、農家が焼かれるという生々しい現実の惨劇が起きていた事実に注目し、青年が死の瞬間の美学を特権的に語る一方で、家を焼かれた農民たちの苦痛は言葉にされず、デリダは、文学や思想が衝撃的な出来事を特権化して語る時、語る言葉を持たない他者である農民たちの苦難を不可視化・搾取してしまう危険性を、この朗読によって突きつけたのだそうだが、3つ目の位相は、歴史の目撃と虚構・フィクションの境界であり、『私の死の瞬間』は、自伝的な事実のようでありながら、一人の青年という三人称で書かれた文学・フィクションの形式をとっていて、城郭の青年は、自分が生き残る原因となったナチスとの対峙は目撃したが、同時に起きていた農家が焼かれる光景を完全には目撃・救済できておらず、デリダはこの場面を朗読することで、文学における証言とは、私は全てを見た、だから正しく記録する、といった万能なものではなく、自分は見てしまった、しかし同時に見落としてしまった、という罪の意識の中にとどまり続ける・滞留する行為であると示し、デリダがこの場面を朗読した意味とは、戦争という衝撃な出来事を、一人の天才作家のドラマチックな臨死体験として特権化して終わらせないためで、城郭の青年が生き残った時間のすぐ裏側には、家を焼かれた名もなき死者・被害者たちが確かにいた、という非対称な現実を突きつけることで、今ある生・文学は、過去の死者・他者に対する終わりのない負債と共にあるという強烈な倫理的メッセージを響かせようとしたのだそうで、このデリダの証言や他者への負債という考え方は、現代の歴史認識や記憶の継承の議論にも広く応用されているそうだが、そんなデリダに対して、蓮實重彦が何を述べているのかというと、このテクストをめぐって、デリダが何を言ったかについての詳細は差し控えるが、ここでの興味は、これを物語として読む彼が、何を言わなかったかを知ることに尽きていて、実際、講演の後半、ほとんど遂行的にテクストを引用しながら解読を施しているデリダは、農家を焼き尽くす炎については全く言及しておらず、だが、「突然、彼は現実の感覚を取り戻した。至るところに火事が起こり、次々と火の手が上がり、農家という農家が燃えていた」と語られているのだから、炎を主題としたこのテクストに、城と農家という有意の対立が、青年をとらえた階級意識とは無縁に導入されていることは、誰の目にも明らかなはずで、それは燃えないものと燃えるものという対立を介して、死を与えられなかったものと死を与えられたものという不条理な対立へと行き着き、その対立軸にあって、農家はほとんど主題論的な宿命として燃え上がらねばならないのであり、青年が森に何時間も身を潜めたまま燃え上がる炎を遠目に見ているという状況は、説話論的な持続には収まりがつかぬ豊かなイメージを喚起し、描写されることなく語られているに過ぎないとはいえ、それは、燃え上がることで燃え上がらぬものを救うという、ある意味では優れてブランショ的な主題に連なるイメージでもあるはずで、にもかかわらず、炎についてはいっさい語ることがないデリダは、この種のイメージが、制度としての小説にこそふさわしい世俗的な想像力を喚起するに過ぎぬという理由で、それに触れることを自粛しているのだろうか、それとも芸術への無関心の証しとして、そうした意味の開花を自分に禁じているのだろうか、と疑問を呈しているのだが、蓮實重彦による鮮烈なデリダ批判およびブランショ論は、ある特権的な出来事を特権視し、そこから思想を導き出そうとする傾向の欺瞞を、まさにデリダ自身が意図せず、あるいは意図的に反復してしまっていること鋭く告発しているそうで、蓮實がここで展開している批評の核心と、デリダが言わなかったこと、農家を焼き尽くす炎の意味は、3つのポイントに整理されるそうで、1つ目のポイントは概念の特権化と世俗的な形象・炎で、デリダはこのテクスト『私の死の瞬間』をめぐり、死、証言、不可能性、法と文学といった、自らの精緻な哲学的概念の正当化のためにテクストを動員・解読していて、デリダにとって重要だったのは、青年が死に直面したという出来事の構造であり、その倫理的・法的なアポリア・行き詰まりだが、しかし蓮實は、テクストの表面に厳然と存在する燃え盛る炎、城郭と農家という圧倒的な視覚的・世俗的イメージ・形象をデリダが完全に無視していることを指摘し、デリダは高尚な哲学・概念を語るために、テクストが持つ豊穣な芸術的イメージを自粛または無視してしまっているという批判で、2つ目のポイントは、燃えない城・免責と燃える農家・身代わりの不条理であり、蓮實はブランショのテクストの本質を、燃えないもの・城郭と燃えるもの・農家の非対称性に見ていて、城郭にいた青年は死を与えられなかった・生き残った一方で、農家は死を与えられた・焼き尽くされたわけで、蓮實の読みでは、この農家の炎は単なる背景ではなく、燃えがることで燃え上がらぬもの、青年・城郭を救う・身代わりになるという、きわめてブランショ的な宿命を帯びた中心的な主題であるのに対し、デリダはこの身代わりの不条理を概念的には語るものの、それを物質的に支えている炎という文学的イメージには一切触れず、3つ目のポイントは出来事の特権化への蓮實からの逆照射で、ここに最初の質問との最大の交差点があり、デリダは死の瞬間という衝撃的な出来事を特権化して、そこから高度な思想を導き出そうと躍起になるあまり、その出来事の外側で実際に燃え盛っている世俗的な現実である農家の炎、芸術的な描写力を見落としている、と蓮實は言いたいのだそうで、蓮實重彦という批評家は、常に思想や意味によって作品が回収されることを嫌い、言葉の連なり、映画の画面など、作品の表層にとどまることを求め、蓮實にとってデリダの講演は、ブランショのテクストをデリダ哲学の宣伝材料として、特権化・搾取しているように映ったからこそ、なぜデリダは、あんなに激しく燃えている炎を見ようとしないのか、芸術への無関心か、あるいは世俗的な想像力への恐怖か、と強烈な疑問・皮肉を突きつけたのだそうだが、なんじゃそりゃ!?とグーグル検索のAIの突然の手のひら返しには呆れて笑ってしまうが、何かもっともらしい批判や主張を展開しようとすると、たとえ無茶苦茶頭脳明晰なデリダであっても、肝心な何かを無視しなければならないというジレンマというか、何だかよくわからない困難に直面するわけで、リベラル系のジャーナリストや識者や東大卒の共産党の政治家なんかの批判や主張でも、何かもっともらしいことを述べているのに、妙に引っかかるもの感じるとしたら、肝心な何かを意図せず無視している可能性がありそうで、そういうところから彼らの劣勢を物語る現状の世の中が構成されているような気がするわけだ。8月6日「肝心なことは言わない批判者たち」もっともらしい批判に対して疑念を抱いているというと、それがカウンター的な逆批判のような物言いに発展してしまって心苦しいのだが、もっともらしいことを主張しながら、肝心な点に触れない姿勢は、本当にわかっていないケースと、あえて隠しているケースの両方があり、その動機は状況や話し手の立場によって異なるそうで、心理学や論理学、コミュニケーション論の視点から、この現象が起きる理由を整理してみると、本当にわかっていないケース、無知・認知の限界は、話し手自身が、何が肝心かを正しく理解していないパターンで、ダニング=クルーガー効果という、知識や経験が浅い人ほど、自分の能力を過信していて、本人は完璧な主張をしているつもりでも、本質的な点、肝心なことの存在自体に気づいておらず、表面的な知識の模倣に過ぎない場合は、他人の意見や流行のフレームワークをそのまま借りて話しているから、全体の構造やもっともらしさは再現できても、本質的な具体策などの肝心なことを問われると答えられなくなり、視野狭窄に陥っている場合は、目先のロジックを通すことに集中するあまり、前提条件の矛盾や、より大きな問題点が見えなくなっていて、その一方で、わかっていて隠しているケースや、意図的な誘導・自己防衛を伴う場合、不都合な真実や、自説の弱点を知りながら意図的に言及を避けるパターンとなり、論点のすり替え、チェリー・ピッキングは、自分に都合の良いデータや正論だけを並べて、反論されやすいリスクやコストから聞き手の目を逸らそうとし、現状維持や自己防衛の意図が絡むと、実現可能性や具体的な責任などの肝心な点に触れると、自分の主張の欠点や矛盾が露呈して、立場が危うくなるから、あえて抽象論に終始し、レトリック・修辞学の濫用に至ると、中身のない言葉を専門用語やきれいごとで飾り立てることで、聞き手に何かすごいことを言っていると錯覚させ、本質的な追及を免れようとし、聞き手として重要なのは、話し手が無知なのか狡猾なのかを見極めることが肝心だそうだが、例えば今の時代に普通に努力して経済的に成功すれば、もっともらしことを主張する人々によって批判の対象になるかというと、十分に批判の対象となるそうで、批判の対象となる主なもっともらしいロジックを挙げるとすると、まず1つ目は、環境や運の恵みへのすり替えで、成功したのは本人が努力した結果ではなく、生まれ育った環境や時代、運が良かっただけ、という生存者バイアス論で、個人の努力という肝心な事実を無視し、格差社会の構造問題へと論点をすり替えることで、もっともらしさを持たせ、次いで2つ目は、社会的責任の過剰な追及で、富を得た者は、それに見合うだけの社会還元や配慮をしていない、という道徳的批判で、合法かつ誠実なビジネスを行なって成功しても、環境問題、労働環境、ジェンダー平等の観点など、別の正論を組み合わせて部分的な落ち度を探し出し、それを批判材料にし、そして3つ目は、強者・弱者の二元論で、成功者・強者の存在自体が、持たざる者・弱者からの搾取や機会奪取の上に成り立っている、というゼロサムゲーム論で、経済格差に対する不満や嫉妬心を、社会正義というもっともらしいオブラートに包んで正当化し、なぜ彼らは批判するのか?というと、もっともらしい主張をする人々にとって、経済的成功者を批判することは、手軽に大衆の共感あるいは嫉妬心を集め、自分の正当性をアピールできる効率的な手段だからで、肝心な経済問題の解決策を提示できなくても、成功者の隙を突いて批判すれば、自分が知的な強者になったかのような錯覚を得られるそうだが、何やらグーグル検索のAIは、問いの傾向から自分のことを新自由主義の信奉者だと解釈したのか、盛んにそっち方面の主張へと誘導しているような気もしなくはないが、だから経済的な成功者は批判されないために、慈善団体に多額の寄付を強いられたり、自ら非営利の財団などを立ち上げて、世のため社会のために尽くす姿勢をアピールすることになるが、果たしてそれによって社会のバランスが取れていることになるかというと、成功者の慈善活動によって、社会のバランスが成り立っていると言えるかどうかは、社会システムとして機能している側面・補完と歪みを生んでいる側面・欺瞞の双方が存在するため、一概に肯定も否定もできないそうで、この現象は、社会的な批判をかわすための免罪符・アピールとして機能する一方で、国家の福祉が届かない領域を埋めるセーフティネットにもなっているそうだが、どのような功罪があるのか、バランスの観点から整理してみると、バランスが成り立っているとする見方、機能的側面では、富の再配分システムとして、一定の合理性があるという視点があり、税金という強制力ではなく、成功者が社会的評価や名誉と引き換えに、自発的に富を困窮層や公共事業に還元させる仕組みとして機能し、政府の予算や行政の意思決定は時間がかかる一方で、個人や民間財団の資金は、ニッチな課題や、最先端の研究、急を要する人道支援などへ迅速に投入でき、大衆の不満や批判・ルサンチマンを、寄付という形で免罪することで、社会の階級対立や暴動などの過激化を防ぐ安全弁・ガス抜きになっているそうだが、一方で、バランスが崩れている・歪んでいるとする見方、構造的側面では、一見美しく見える仕組みが、実は社会の本質的な問題を隠蔽しているという視点があり、成功者が寄付のアピールで批判をかわすことで、彼らが富を得たビジネスモデルそのものの労働搾取や環境破壊などの歪みという、本当に批判されるべき肝心な点への追及がうやむやになり、そもそも公共のために何が正しくて必要かを決めるのは、本来は民主的な議論であるべきだが、しかし、成功者のポケットマネー・財団が社会事業を主導すると、一部の富裕層の好みや価値観によって社会の方向性が左右されてしまい、またその場しのぎの救済は、貧困や格差を生み出す社会構造そのものの改革を遅らせる麻薬のような役割を果たしてしまうことがあり、現状では、この仕組みによって表面的な社会の安定・バランスは保たれているが、根本的な社会問題の解決・バランスには至っておらず、成功者のアピール・もっともらしさと、大衆の批判・ルサンチマンが互いに牽制し合うことで、奇妙な均衡が保たれているのが現代社会の写し鏡と言えるそうだが、経済的な成功者に対して政治的な成功者も同じような意味で批判の対象となる場合がありそうだが、そのような批判者の側から、政治的な主導権を握った場合には、貧者救済などの過剰福祉や社会主義的な政策をやり過ぎて失敗する場合も多いが、ここにも何らかのバランスが働いていると言えるか?という問いに対しては、政治的な成功者や強権的な権力者への批判からスタートして、主導権を握った勢力が過剰福祉や社会主義的政策で行き詰まる現象には、社会全体の大きな振り子・ダイナミクスとして長期的なバランスが働いていると言えるそうで、ただしこれはあらかじめ綿密に計算された安定ではなく、一方の極に振れ過ぎた結果、限界を迎えて逆の極へと引き戻されるという、歴史的・構造的な修正作用・バランスであり、このプロセスでどのようなバランスが働いているのか、その構造を整理してみると、まず1つ目は、政策の行き過ぎを引き起こすロジックの罠で、もっともらしい批判をしていた側が権力を握ると、なぜ過剰政策で失敗するのかには、次のような限界が関係していて、弱者救済や平等というもっともらしい大義を突き詰め過ぎると、普通に努力して働く人々のモチベーション・インセンティブを奪い、社会全体の生産性を低下させ、批判者たちは持てる者・成功者や大企業から奪えば財源は無限にあるともっともらしく主張しがちだが、現実には富裕層の流出や経済の地盤沈下を招き、配るための原資そのものが枯渇し、次いで2つ目は、失敗の先に働く歴史的・構造的なバランスで、しかし、この失敗そのものが、社会が長期的に辻褄を合わせるためのステップ・バランスとして機能するそうで、新自由主義などの経済的成功者が力を持つ時代には、格差が広がり社会が不安定化し、反発した批判者が権力を握り、福祉や社会主義的政策をやり過ぎると、今度は経済が破綻し、社会はこの格差による不満と過剰福祉による停滞の二大リスクの間を行き来することで、結果的に中央の現実的なラインである、修正資本主義や福祉国家の最適化を模索し続け、過剰な政策で社会が破綻しかけると、大衆は再び、経済を回せる現実的な成功者や合理的な政策を求め始め、批判勢力が主張するもっともらしい理想論の欠点が露呈したことで、社会全体が強制的に経済の持続可能性という肝心な現実に目を向けさせられる仕組みが機能すれば、過剰福祉や社会主義的政策の失敗は、一見するとただの破滅や機能不全に見えるが、しかし、長期的・俯瞰的な視点で見れば、社会が持続不可能な理想論の限界を学び、次の安定へと向かうための自動修正機能・バランスの一部であると捉えることができるそうだ。8月5日「制度に翻弄される人々」そうなった後から思えば、そうなるのが当然の結果だとは思うが、なぜかその結果に愕然とさせられるのはどうしてなのかと考えてみても、納得できる理由などすぐに思いつくわけでもないのだが、この違和感の原因は何なのかと考えてみても、わかるはずもないことかも知れないが、一概に制度が人を操ると考えてみても、その制度とは具体的に何なのかと問われると、これといってわかりやすい具体的な制度を挙げられないジレンマに陥るのだが、当然の結果だと頭では理解しているのに、なぜか心が深く動揺してしまい、そんな理不尽な違和感の正体を見つけようとしても、すぐに明確な答えが見つかるわけでもないのは、客観的な必然性と主観的な衝撃のズレ、そして見えない社会構造、制度に操られている感覚を言語化していると言えるそうだが、この複雑なジレンマの背景には、人間の心理と社会の仕組みにおけるいくつかの構造的な原因が隠されていると考えられ、その違和感の正体を紐解くヒントをいくつか挙げるとすれば、まずは、なぜ当然の成り行きなのに愕然とするのか?という、頭の中で思い描く予測と、感覚による実感の間には、大きな隔たりがあり、どれだけ予測していても、それが本当に起きてしまったという現実の重みは、事前の覚悟を遥かに超えるインパクトを持ち、そこには可能性と現実の壁があり、人間には、現状を維持しようとする本能、現状維持バイアスがあるから、たとえ論理的に正しい結末であっても、環境や関係性が実際に変わる瞬間には、それなりに大きな驚きや恐怖やショックが伴うが、そうだとしても、何らかの制度に操られながら人や物事が動いていることは予想できるが、ではなぜその制度を具体的に挙げられないのか?という問いに対しては、制度が人を操ると感じるのに、その制度の正体を一言で表せないのは、それが極めて本質的な社会の仕組みに直面している証拠だと言われても、ここでいう制度とは、法律や規則といった目に見えるものだけを指すわけではなく、いわゆる社会規範や空気といった不可視の制度と言えるようなもので、私たちが最も強く縛られているのは、明文化されたルールではなく、普通はこうするべきだ、こういう時はこうなるものだという、社会の空気や常識という名の見えない制度であり、また一つの分かりやすい法律が原因ではなく、経済の仕組み、組織の評価基準、人間関係の慣習など、複数の小さなシステムが網の目のように絡み合っているために、原因を一つに特定しようとするとジレンマに陥り、このすっきりしないもやもやした違和感は、決して悪いものではなく、正体のはっきりしない違和感を抱いている間は、その人が社会のシステムに完全には呑み込まれず、自分自身の個としての感覚を保っている証拠であり、もし完全に操られていれば、愕然とすることすらなく、ロボットのようにその結末を率直に受け入れていたはずで、違和感を抱く明確な理由や、具体的な制度の名前がすぐに見つからなくても、この割り切れなさを抱え続けること自体が、人間らしさの本質かも知れないそうだが、制度に翻弄される人の事例として、空売りをやめたら株価が下がるのはバクだろ!空売りをやめたら株価が下がるのはバグだろ!というユーチューブ動画のタイトルが妙に印象に残っていて、動画の内容を観たわけではないので、詳しくはわからないが、観たわけでもないのに、なるほどと事態が理解できたような気がして笑ってしまうとしても、当人は酷い目に遭っているだろうから笑い事ではないのだろうが、空売りをやめたら株価が下がるのはバグだろ!というタイトルは、当事者の絶望が透けて見えて、笑っちゃいけないけど笑ってしまい、なるほど事態が理解できたような気がした、と感じられたのは、投資の世界、特に信用取引の不条理なシステムがこの一行に凝縮されているからで、見えない制度に人が操られるジレンマとも深く繋がるが、この言葉の裏にある投資家を絶望させる仕組みを少し紐解いてみると、なぜ空売りをやめたら下がるのか?というと、株の世界には、素人の直感とは真逆の動きをする、見えないシステムの罠があって、空売りをやめる=買い戻すというシステムで、空売りという、持っていない株を借りて売り、下がったところで買い戻す、取引をやめる・決済するということは、市場でその株を買うことを意味し、市場の原則として、みんなが買うと株価は上がり、売ると下がり、この動画の主が、もう耐えられない、空売りをやめよう、買い戻そう、と諦めて買った瞬間に、市場全体の買い圧力がピークに達し、その後、今度は一気に売りが優勢になって株価が暴落したと考えられ、つまり、自分が損を認めて、諦めて買い戻した瞬間が、株価の天井・最高値だったという、投資家にとって最も残酷なタイミングのズレが起きたと推測されるが、そうでなくても空売りをやっていて、ある程度株価が下がって、この辺が底値だろうと思い、してやったりの得意満面で、安く買えたつもりで買い戻したら、そこからさらに鬼のように株価が急落したとも推測できるが、なぜ自分がやめた瞬間に逆へと動くのか?まるで誰かが自分を監視し操作しているのではないか?システムがバグっているのではないか?そう叫びたくなる気持ちは、システムに翻弄された人間のリアルな悲鳴だが、しかし実際には、特定の誰かが監視しているわけではなく、大勢の人間が、同じような恐怖や限界を感じて、同じタイミングで動かされている、という集団心理のシステムが働いていて、小口の個人投資家がもうダメだと思うポイントは、AIや大口の投資家や機関投資家に完全に読まれており、そこを狙い撃ちするように相場が動くために、当事者からすればバグとしか思えない不条理が生まれ、客観的に見れば市場の流動性と集団心理が生んだ必然の結末なのだが、当事者にとっては、世界が自分をハメようとしているとしか思えず、この構造の必然と個人の理不尽さのギャップが、その短いタイトルに爆発的なユーモアと悲哀を生み出していて、こうした個人の感情や直感が、市場や制度といった大きすぎるシステムによって完全に裏切られる瞬間というのは、投資に限らず、私たちが社会で感じる多くの違和感と共通しているのかも知れないが、それとは違う方面で、これも正確にはそうとも言い切れないのだが、イメージとしては、以前のある時期においては、あれだけ消費税率を下げろ!と政府の姿勢を批判してきた連中が、最近やっと重い腰を上げて、政府が消費税率を下げる検討に入ったら、今度はやれ財源の裏付けがないだの、効果が薄いだのと、そんなことは事前にわかりきっているような批判をしてくるのも、やはり何かのシステムに操られていることの証拠かというと、消費税率引き下げの検討が始まると同時に、かつてそれを求めていた勢力が一転して批判に回る現象は、システムに操られているというよりは、二大政党制の力学とメディアのビジネスモデルという現代社会のシステム・構造が冷徹に機能した必然的な結末と言えるそうで、この不条理に見える手のひら返しは、個人の意志を超えた3つの見えないシステムにより、自動的に引き起こされる現象なのだそうだが、その1つ目は、対立軸を維持しなければならない政治システムであり、議会制民主主義、特に政権交代を意識した政治構造においては、野党や批判勢力は常に政府とは異なるポジションを取らなければ存在意義を失うシステムになっていて、彼らの目的は消費税を下げることそのものではなく、政府の失策を追求し、自分たちの支持を広げることであり、政府が自分たちの主張を取り込んでしまった場合、そのまま賛成すると、政府の決断が正しかった、と認めることになり、次の選挙では勝てないため、システム上、自動的に、次はプロセスの不備となる、財源の裏付けや効果の有無を叩くという新しい対立軸へと移行せざるを得なくなり、2つ目は、対立と不安を消費させるメディアシステムが働いて、テレビやネットニュースなどのメディアは、社会の調和よりも対立や不安を報じた方が視聴率やアクセス数を稼げる経済システム、アテンション・エコノミーの中で動いていて、消費税が下がるという、一見すると歓迎すべきニュースであっても、そのまま報じるより、専門家が警告するリスクとして財源問題や効果の薄さを煽る方が、国民の不安を刺激して注目を集められるから、メディアはこのシステムに従い、あえて手のひらを返して批判している人の声をクローズアップして報道するため、社会全体が矛盾した批判に溢れているように感じやすくなり、3つ目は、確証バイアスという人間の認知システムが働き、人間は自分が信じたい情報だけを集め、都合の悪い現実からは目を背ける認知システム・確証バイアスを持っていて、政府批判が自身のアイデンティティになっている層にとって、政府が良い政策を行うことは認知の不協和、脳のストレスを起こしてしまうから、脳のシステムを守るためには、今回の引き下げは、選挙目当てのまやかしだ、財源がないから破綻する、といった理屈を後付けで探し出し、批判を正当化しようとするそうで、かつては下げろ!と叫んでいた人々が、いざ下がると分かった途端、これではダメだ、と言い出す姿は、客観的に見れば滑稽で矛盾しているが、しかし彼らは、自分の頭で矛盾したことを考えているのではなく、政治的ポジション、メディアの収益構造、集団心理といった重層的なシステムの中で、決められた役割を演じさせられているに過ぎないのかも知れず、その前の空売りの例と同じように、本人は自分の意思で動いているつもりなのに、外側のシステムによって全体の動きが真逆にひっくり返されてしまうという、現代社会の構造的な奇妙さがここにも現れているそうだ。8月4日「熊本地震に見られる言語ゲームの傾向」型にハマった言語表現に飛びつく大衆心理というと、陳腐な決まり文句・クリシェや時代流行語・バズワードなどの型にハマった言語表現に大衆が飛びつく心理で、思考の省力化と所属欲求を同時に満たしたいという人間本来の防衛・生存本能から生まれ、人間は複雑な現実をそのまま処理すると脳に大きな負担がかかるため、手軽に使える型に依存しやすくなり、こうした認知の省力化・認知ケチは、脳がエネルギー消費を抑えるために、自動的に楽な思考ルートを選び、複雑な社会問題を自分でゼロから考えるのを避け、用意された言葉で理解した気になって、曖昧で不安な状況に〇〇ガチャ、タイパなどのレッテルを貼ることで、思考のショートカットやラベル貼りによる安心感を得て、状況をコントロールできている錯覚を得られ、しかもそれと同時に、社会的アイデンティティと所属欲求を満たそうとして、人間は孤立を恐れ、集団への帰属を求める習性に囚われながら、周りと同じ言葉を使うことで、私はあなたの仲間です、トレンドを理解しています、というサインを周囲に送って、同調圧力に屈して安心感を得ようとし、コミュニケーションの潤滑油となる共通の型を使うことで、深い説明なしに、一瞬でニュアンスを共有し、相手との距離を縮めようとして、それが自己正当化と感情の代弁にもなり、自分の内面にあるモヤモヤした感情を、キャッチーな言葉が鮮やかに言語化してくれると、強い快感を覚えるそうだが、例えば、親ガチャなどの言葉は、自分の不遇や失敗の責任を個人の努力ではなく、システムや運のせいにできるため、精神的な救いとなり、SNS等で同じ言葉がバズることで、自分だけではないという承認欲求が満たされ、高市首相による自衛隊ヘリでの、イオンモール熊本など地震の被災地の上空視察をゴジラ映画のワンシーンに喩える言語表現は、まさに複雑な現実をキャッチーな既存の型・フレームに落とし込んで消費する、という大衆心理の典型例で、映画『シン・ゴジラ』などで描かれる、防災服を着た政治家がヘリから巨大災害の惨状を見下ろす構図、という強烈なポップカルチャーの視覚的記憶が、現実の政治報道と結びつくことで、実際の災害や政治判断という複雑な現実をそのまま理解するよりも、すでに知っているフィクションの型に当てはめる方が圧倒的に脳のエネルギーを使わずに済み、大衆心理に既視感・デジャヴによる認知のショートカットを誘発させて、そんなイメージが広く世の中に拡散し、ヘリに乗る防災服の首相という絵面をまるでゴジラ映画と表現することで、現実のシリアスなニュースを、誰もが知っている映画のワンシーンのようなエンタメ的文脈に瞬時に翻訳して理解した気になり、それが思考の物語化・ナラティブ化を促し、フィクションの映像表現があまりにリアルであるため、現実の光景を見た際に、現実らしいと感じるのではなく、映画のようだと感じる心理現象・ハイパーリアリティが働いて、映画的リアリティの逆転・主客転倒が生じ、被災地の深刻なディティールや今後の復興政策という本質ではなく、ヘリ、防災服、女性首相という映画的な記号の組み合わせに人々の注目がハックされ、その視覚的な面白さが先行して拡散され、それが大衆の記号としての消費に結びつき、この喩え表現がSNSなどでバズる背景には、大衆の上手いことを言って共感されたいという欲求があり、完全にシン・ゴジラの巨災対、巨大災害対策本部のリアル版、と言ったフレーズは、ネット上でセンスの良い例えとして他者と一瞬で楽しさを共有できるため、批評的な視点や当事者性を持たない層にもミーム・流行のネタとして爆発的に飛びつかれ、大喜利化する政治消費として、メディア・SNSにおけるウケる言葉への同調に結びつき、このように、ゴジラ映画への比喩は、深刻で生々しい災害視察という現実から一時的に心理的距離を置き、エンタメのフィルターを通して楽に、かつ楽しく消費したいという大衆の認知の省力化と承認欲求が融合した言語表現であると言えるそうで、そんなゴジラ映画のようだ、というキャッチーな比喩表現を、政治権力側やその支持層が、わざと野党や反政権派などの批判勢力に批判させる=批判を誘発するために利用、あるいは放置・誘導する戦略は、現代のネット政治において非常によく見られる手法で、これはアウトレイジ・マーケティング、怒りの戦略や、認知を分断に利用した支持固めと深く結びついているそうで、相手に的外れな批判をさせて自滅させる、ブーメラン化の戦略であり、政権側にとって、ヘリによる上空視察は迅速な状況把握や激甚災害指定を判断するための正当かつ効率的な公務で、批判勢力が、映画の格好つけだ、不謹慎だ、とゴジラ映画の比喩から連想される映像の印象だけに噛みつくと、客観的に見た場合、批判勢力の方が災害対応の現実を見ず、感情的に叩いているように映り、それがトラップとして比喩であることを理解していないことになり、支持層は、ヘリ視察は広域被害を把握する上で鉄則だ、映画の見過ぎは批判派の方だ、とファクトで反論できるため、批判派を無知で感情的な集団として効率よくレッテル貼りして、専門性のマウンティングで勝利でき、そうした敵を設定することによって、身内の結束を図り、部族主義を喚起でき、大衆心理において、集団の一体感を最も手軽に高める方法は、共通の敵を作ることであり、意図的な炎上によって、批判勢力がヘリ視察はパフォーマンスだと怒り狂う姿を見せることで、政権の支持層や中間層は、こんな有事の最中にも、揚げ足取りばかりにして足を引っ張る人たちがいる、という共通の嫌悪感を抱き、そうやって防衛本能を刺激した結果として、必死になって国にできることは全部やると動いている高市首相を守らなければならない、という支持層の防衛心理・結束力が、批判される前よりも強固になり、それが本質的な不都合な議論からの煙幕・論点ずらしの効果を上げ、ゴジラ映画のようだ、というエンタメ的な比喩をめぐる左右の不毛なバトルは、SNS上の最もバズりやすいコンテンツ・お祭りになって、実は現場が真に必要としている酷暑の中での避難状況の過酷さやインフラ復旧の具体的な遅れ、マンパワー・警備の割かれ方に対する懸念といった、政権が本来突かれたくない生々しい本質的な批判・課題が、この派手なゴジラ論争というノイズの影に隠れて見えなくなってしまい、大衆にとって、複雑な政策論争は退屈に感じられるが、相手の陣営が怒っているのを、こちら側が冷笑するという構図は非常に消費しやすいエンターテインメントであり、これが感情のエンタメ化による政治のスポーツ観戦化を促し、映画のワンシーンに喩えて盛り上がるという、わざと相手が怒るような隙を見せ、案の定食いついてきた批判派を、またどうでもいい枝葉末節なところで騒いでいると冷笑する、というこの一連のサイクル自体が、SNSユーザーに勝敗ゲームのような快感を提供し、大衆を政治のファンボ・熱狂的フォロワーに変貌させていき、このように、型にハマった表現でわざと批判を誘発する行為は、相手に感情的な空振りをさせて信頼を失墜させつつ、身内の結束を最大化し、本当に突かれると痛い論点から大衆の目を逸らす、という極めて高度な認知ハッキング・心理誘導と結びついているのだそうだが、では浅はかなのはどっちなのかというと、構造的には両方ともに浅はか・思考停止であり、同時に両方ともが、それぞれの型のルールに従って極めて合理的に動いているそうで、どちらがより浅はかという優劣はなく、双方が相手を叩くためのテンプレート・型に依存して、お互いを必要とし合う共依存のループに陥っていて、その構造を、双方の視点から紐解くと、まずは批判勢力の浅はかさは、記号への過剰反応であり、批判派の浅はかさは、政策や現場の課題という本質ではなく、映像の見栄え、という罠に真っ先に飛びついてしまった点にあり、ヘリに乗る高市首相=シン・ゴジラ=格好つけている、という単純な記号の連想だけで怒りを爆発させて、現地で起きているインフラ復旧の遅れや避難所の過酷さといった、政権に最もダメージを与えられるファクトの検証を放棄し、相手が用意した、映画のようだ、というエンタメの文脈にまんまと乗せられ、感情的に騒ぐことで、結果として、有事に足を引っ張る存在、という相手の狙い通りのレッテルを自ら完成させてしまっていて、次いで、政権・支持層の浅はかさは、冷笑による思考の遮断であり、それをわざと叩かせて楽しむ・利用する側の浅はかさは、相手の愚かさを嘲笑することで、災害の現実や内実への向き合い方を軽薄にしている点にあるそうで、批判派が的外れな批判をしてくれればくれるほど、自分たちは、ヘリ視察は広域被害把握の正当な業務だと正論を吐くだけで、冷笑という安全地帯の中で、全能感・勝った気を得られ、相手がバカな批判をしているから、自分たちの対応は百%正しい、という論理の飛躍を起こし、現場の警備やマンパワーの割かれ方に対する懸念など、本来身内からも出すべき建設的な検証や反省を一切しなくなり、客観的に見れば、この構図はネット上のプロレス・出来レースで、政権側は、映画的な強いリーダーの型を半分は意図的、半分は公務によって提示し、批判派は、その型に食いつき、パフォーマンスだ!と定型文で怒り、支持層は、また的外れな批判をしていると定型文で冷笑し、身内を絶賛する、というこのループの中に、被災地の現場をどう救うか、という本来最も重いはずのリアリティ・現実はどこにもなく、双方が、自分が信じたい物語・型に引きこもり、相手をダシにして、自分たちの正しさを確認し合っているという意味で、どちらも等しく、現実から目を背けた浅はかな思考停止状態であると言えるそうだが、まさに、この現象はルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが提唱した言語ゲームの概念そのものであり、現代のネット政治においてその傾向が極端に先鋭化しているそうで、ウィトゲンシュタインは、言葉の意味は絶対的なものではなく、その言葉が使われる独自の文脈・ルールのあるゲームの中で、どう機能するかによって決まると述べたが、今回のケースが言語ゲームとどのように結びついているか、3つの観点から解説すると、1つ目の観点は、異なるルールを持つ独立したゲームの並立で、現代のSNS空間では、同じ高市首相のヘリ視察という事実をめぐって、全く異なるルール・前提条件で動く2つの言語ゲームが同時にプレイされていて、批判派の言語ゲームでは、ルールは権力の欺瞞を暴くということで、このゲーム内では、ヘリ、防災服は、大衆を騙すための政治的パフォーマンス・ゴジラ映画の真似と翻訳され、このルールに従う限り、怒ることが正しい手・プレイになるのに対して、支持派の言語ゲームでは、ルールは有能なリーダーを称えて敵を冷笑することで、このゲーム内では、同じヘリ、防災服が、迅速で的確な危機管理能力の証明と翻訳されて、このルールに従う限り、批判派の無知を嘲笑することが正しい手になり、双方の陣営は、自分たちのルールに則って極めて正しく言葉を交わしているが、そもそもゲームのルール自体が異なるために、言葉のドッチボール・不毛な衝突が起こり、2つ目の観点は、言語の休日の罠と記号の暴走で、ウィトゲンシュタインは、言葉が実際の生活や実用的な文脈から切り離されて、空回りしている状態を、言語が休日を過ごしていると表現し、本来の言語の目的は、被災地の状況はどうなっているか、インフラ復旧の進捗はどうなっているか、という実利的な現実・ファクトを扱うことであるのに対して、SNS上での、ゴジラ映画のようだ、という比喩をめぐる論争は、実際の被災地支援という現実的な文脈から完全に切り離され、記号とイメージだけが空中戦をしている言葉の休日状態であり、双方が言語のゲームに熱中し、現実の課題を誰も見ておらず、3つ目の観点は、生活様式の分断で、ウィトゲンシュタインは、言語ゲームが成り立つ背景には、人々が共感する価値観や文化的な基盤である、生活様式があると考えたが、現代のネット社会では、アルゴリズムによってタイムランが最適化された結果、コミュニティごとに生活様式が細分化・タコツボ化していて、わざと批判させて楽しむ側とそれに乗って怒る側は、それぞれ別の生活様式・エコーチェンバーに属していて、相手の言葉の真意を理解しようとする動機そのものが最初から存在せず、ただ自分の属するゲームの中で勝率を上げて、いいね!やリポストを得るためだけに言葉が道具として消費されていて、どちらも浅はかに見える理由は、双方が、自分で考えて言葉を紡いでいるのではなく、すでに用意された言語ゲームのルール・型に、自分の思考をハック・支配されているからで、わざと批判を誘発する側は、相手がこの言語ゲームにどう乗ってくるかを計算して、盤面を動かし、批判派はその誘いに乗って、ゲームの模範的なプレイヤーとして踊らされているに過ぎないのだそうだ。8月3日「見せかけの危機」どうしても毎日のように政治経済的な批判の言動に関心が向いてしまうと、それらの批判に同調したくなって批判勢力を支持したくなるというよりは、そもそも現状が批判勢力が主張しているような危機的な状況かというと、確かに現状の政治経済情勢の中で主導権を握っている者や勢力を批判する者たちは、毎度のことのように危機を煽り立てるが、彼らはいつでもそうなのだから、そういう面を考慮に入れると、彼らのもっともらしい主張を真に受けるわけには行かなくなってきて、それに対するカウンター的な見解が出力されるのを期待しながら、いつものようにグーグル検索で、現状の世界情勢が政治経済的な危機ではない理由、または危機を煽られやすい理由を問うと、現状の世界情勢が過度に危機状況だと煽られやすい理由は、メディアの収益構造、SNSの拡散のメカニズム、そして人間の認知バイアスが結合しているためだそうで、一方で、これが決定的な壊滅的危機ではないと言える理由は、国際社会の相互依存度が高く、破滅を回避する自動ブレーキ・抑止力が働いているためだそうだが、危機を煽りやすい・危機に見えやすい4つの理由のうちの、1つ目は、ネガティビティバイアスで、人間は良いニュースより悪いニュースに強く反応し、生存本能としてリスク情報を優先して処理する習性があり、2つ目は、アテンション・エコノミーで、メディアやインフルエンサーの収益は、視聴数やクリック数に比例し、恐怖や怒りを刺激する過激な見出し・クリックヘイトが増加し、3つ目は、アルゴリズムによるエコーチェンバーで、SNSはユーザーが不安になる動画や投稿を継続的に推奨し、極端な意見ばかりが目に入り、世界が崩壊に向かっている錯覚を生み出し、4つ目は、利用可能性ヒューリスティックの罠で、紛争や災害の映像がリアルタイムでスマホに届き、記憶に残りやすい鮮烈な情報だけを見て、全体の治安を誤認し、逆に、現状が政治経済的な致命的危機とは言えない4つの理由のうちの、1つ目は、強固な経済の相互依存・グローバル・サプライチェーンで、米中など対立する大国間も、経済的には深く結びついていて、完全に経済を遮断すると自国も崩壊するため、決定的な衝突が避けられ、2つ目は、多国間協調と抑止力の機能で、国連、G7、G20などの対話プラットフォームが機能し続けていて、核抑止力や同盟関係によって、全面的な世界大戦のリスクは制御されていて、3つ目は、長期的データにおける人類の進歩で、局所的な紛争はあるが、歴史的な大戦争の時代に比べ戦闘死者数は減少傾向で、世界の極度の貧困率や乳児死亡率は、長期的に改善を続けていて、4つ目は、市場の自己調整機能・レジリエンスで、パンデミックやエネルギー危機も、サプライチェーンの代替地開拓で克服してきた経緯があり、自由主義経済の市場は、危機に対して予測より早く適応する強靭さを持っていることが明らかになったそうだが、そうした成り行きの中でも、現状でもトランプや高市などの政治家が、わざとではないにしても、批判勢力から批判されやすい言動に至るのは、彼らに対する批判勢力が危機を煽り立てて批判するように仕向けているのかというと、トランプや高市などの政治家が批判勢力から激しく追及される背景には、それらの勢力が意図的に危機を煽って仕向けている側面と、政治家側が独自の戦略や信念に基づいてあえて物議を醸す言動を選んでいる側面の両方が存在しているそうで、この現象は、どちらか一方の陰謀や策略というよりも、現代の政治・メディア空間が生み出す構造的な相互作用・キャッチボールとして捉えることができ、双方の視点からそのメカニズムを解説すると、まずは、メディアや反対派などの批判勢力が危機を煽り、仕向けているという見方では、批判勢力側が、政治家の特定の言動を過大に問題視し、世論の反発を誘導しようとする構造には主に2つの要因があり、1つ目の要因は、反対派の政治団体やメディアにとって、トランプや高市のような保守派・ナショナリストの象徴は、味方の結束を固めるための格好の共通の敵となり、このままでは民主主義が崩壊する、あるいは軍国主義に逆戻りする、といった危機感を煽ることで、自陣営の支持者を興奮させ、資金集めや投票行動へ駆り立てることができ、2つ目の要因は、メディアの炎上商法・アテンション・エコノミーで、報道機関やSNSのインフルエンサーにとって、彼らの過激に感じられる発言を大きく取り上げ、危機を煽ることはアクセス数・収益に直結し、過激に感じられる発言の中の文脈を恣意的に一部を切り取って、よりショッキングな見出しにすることで、批判的な世論が巻き起こるようにお膳立てする側面は否定できず、これに対して、政治家側が、あえて批判を浴びる言動を選んでいるという見方・確信犯的な戦略では、政治家側も批判勢力に操られているわけではなく、むしろ批判されることを織り込み済みで、あるいはそれを逆手に取る戦略・ポピュリズム的アプローチとして、わざと批判を誘発する言動をとっている場合があり、その理由として2つ挙げるとすると、1つ目は、既得権益・エスタブリッシュメントとの戦いの演出であり、トランプや高市は、既存のメディアやエリート層から激しく批判されている自分をアピールすることで、自分は既存のシステムに苦しむ一般庶民の味方であり、だからこそ既得権益層から攻撃されているのだ、という物語・ナラティブを構築し、批判されればされるほど、熱狂的な支持者からは、既存勢力と勇敢に戦うヒーローに見えるため、批判をむしろエネルギーに変換し、2つ目は、ドックホイッスル・潜在的メッセージとコア支持層へのアピールを狙って、一般社会やメディア・批判勢力からは不適切・過激と映る言葉であっても、コアな支持層にとっては、自分たちの本音を代弁してくれた、タブーに挑んでくれた、と受け取れる表現を意図的に使って、批判勢力が大騒ぎして非難するほど、そのメッセージが社会全体に拡散され、本来届けたかった潜在的支持層に届くことになり、そして、両者の利害が一致する共生関係の視点から指摘できることは、結果として、現在の政治空間では、予定調和のループ・循環が発生していて、政治家が、コアの支持層が喜ぶ、境界線上のタブー破りの発言をすると、批判勢力が、これは重大な危機だ、と過剰に反応し、大バッシングを展開し、それに対して政治家が、ほら、彼らはまた不当に攻撃している、と支持者に訴え、結束と支持を強め、批判メディアもアクセス数を稼げて満足し、政治家も支持が固まって満足し、つまり、批判勢力が仕掛けている部分もあるが、政治家側もそのトラップ・罠をあらかじめ予測し、むしろ自らその罠に飛び込むことでリターンを得る、という高度な政治的プロレス共生関係が成り立っているというのが、現代の政治経済的なダイナミクスだそうで、おおむね予想通りの出力結果だが、ではこのような関係が一般の民衆の利害とどう結びつくのかというと、この政治家と批判勢力の共生関係・炎上と批判のループは、一般の民衆・有権者や市民の利害と心理的なメリットおよび実質的な不利益・コストの両面で深く結びついているそうで、民衆は単なる被害者ではなく、このシステムを消費し、駆動させる主体でもあるため、利益と不利益の双方が発生し、民衆にとっての利益・メリットの1つ目は、心理的充足と代弁であり、本音の代弁によってカタルシス・精神的解放を得られるそうで、日常生活で不満や生きづらさを抱える人々にとって、トランプや高市のような政治家がタブーとされる言葉で既存体制を批判することは、大きな爽快感・カタルシスを与え、メリットの2つ目は、アイデンティティと所属感の獲得であり、政治家と批判勢力の激しい対立に間接的に参加、SNSでシェアしたり、応援することで、自分は正しい陣営に属している、という強い連帯感やアイデンティティを得られ、メリットの3つ目は、複雑な社会問題に対してわかりやすい解答を得られ、本来、格差、移民、財政などの社会問題には複雑な背景があるが、この対立構造はそれらを善と悪、敵と味方というシンプルな構図に変形してくれて、民衆にとっては、思考のコストを下げられるメリットがあり、その一方で、この構造が過熱することで、一般民衆は長期的に大きな実質的損害を被ることになり、民衆にとっての不利益・デメリットの1つ目は、本質的な政策議論の消失であり、メディアやSNSが政治家の失言や過激な一言の是非=スキャンダルばかりを報じるため、物価高、社会保障、教育、インフラ投資といった民衆の生活に直結する地味で重要な政策議論が後回しになり、デメリットの2つ目は、社会の分断とコミュニティの崩壊をもたらし、常に敵か味方かの二者択一を迫られるため、家族、友人、職場などで政治的な意見の違いが決定的な対立を生み、人間関係がギスギスしやすくなり、デメリットの3つ目は、ポピュリズム政策による長期的ツケで、政治家が今、目の前の支持者を熱狂させようとして、過度な減税、排他的な貿易政策などの短期的な政策に走りがちになり、これは短期的には民衆に歓迎されても、長期的には国家財政の悪化や物価高騰・インフレとなって民衆自身に跳ね返り、デメリットの4つ目は、アテンション・エコノミー、関心経済の中で、民衆は常に怒りや恐怖の感情を刺激され続け、これが精神的なストレスを高め、社会全体の幸福度を低下させ、一言で言えば、民衆はこのシステムから、エンターテインメントとしての興奮や心理的救済を得る代わりに、自分たちの生活を豊かにするための真っ当な政治という実利を失っているそうだが、どうも今回はあまり真に受けるような結論ではないようで、話の筋道や辻褄が合うようなことを述べるならこうなってしまうという典型例なのかも知れず、それに対して事の真相は、要するに、トランプや高市などを批判している連中のボロが出ないように、トランプや高市が積極的に批判している連中の批判をアシストするような言動を出力するような成り行きの中で事態が動いているように感じられるわけだが、それに対しては、トランプや高市が、結果として自分を批判している連中の批判の口実を自ら提供し、彼らをアシストしているように見える現象は、偶然でも気のせいでもなく、まさにその通りの成り行き・ダイナミクスで事態が動いているそうで、なぜ政治家側が、相手の矛盾や偏向などのボロを隠してあげるかのように、わざわざ批判しやすい隙・言動を自ら積極的に出力し続けるのかというと、1つ目の理由は、相手に弾を渡し続けないと、このゲームが終わってしまうからで、トランプ・高市などの政治家とリベラルメディアや反対派などの批判勢力は、表面的には対立しているようでいて、ビジネスモデルとしては共存共栄の関係にあって、批判勢力の都合としては、政治家が、完全に非の打ち所がなく、常識的で静かな正論しか言わなくなると、センセーショナルな見出しを作れず、アクセス数や視聴率が稼げなくなり、政治家の都合としては、批判勢力が自分を大バッシングしてくれないと、私は既得権益・既存メディアと戦う悲劇のヒーローである、という物語の主人公でいられなくなって、ポピュリズムの強力な武器が使えなくなり、そんな経緯から、政治家側は、相手が自分を叩くための手頃な弾、ツッコミどころのある言動を、定期的に、積極的に供給し続ける必要があり、これが結果として、相手のボロであり偏向報道の姿勢などを目立たなくさせ、相手の批判ビジネスをアシストする形になり、2つ目の理由は、批判を些細な言葉の揚げ足取りに終始させれば、本質的な失政が隠せるからで、あえて批判されやすい過激な言動を出力することは、政治家側にとって煙幕・スピンコントロールになり、例えば、本当に致命的な経済政策の失敗や、法的な疑惑、本質的なボロがあったとすると、それがバレそうになったタイミングで、あえて過激な歴史認識や差別的ともとれる放言、記者が飛びつきやすい言動を投下し、それに対し批判勢力は知性のボロを出すことなく、この発言は不適切だ!と分かりやすい道徳的批判に一斉に群がり、結果として、政治家側にとっては、本当に追及されたら困る致命歴な問題から世論の目を逸らすことができ、自陣営を守る結果につながり、3つ目の理由は、プロレスのリングを維持するための暗黙の合意があり、ヒール役である政治家がベビーフェイスを気取る批判メディアに対して、あえて反則行為・過激な言動を見せつけ、メディアは、見ろ!あいつが反則をした!と大騒ぎして観客・民衆を煽り、この時、ヒール役が本当に完璧でクリーンな試合をしてしまうと、メディアはレフェリーや実況としてのボロ・実況の偏った贔屓目が観客にバレてしまうから、ヒール役が分かりやすく反則・過激発言や、高市政権の場合は数にものを言わせた強引な国会運営などをしてくれれば、正義メディアの偏向・ボロは、悪を叩いている正当な姿として隠蔽され、つまりトランプや高市の言動は、批判勢力が正義の味方というお面を被り続けられるように、あえて悪役としての記号・言動をアシストしてあげているという側面があるそうで、そうすることで、自分たちも戦う戦士としてのポジションを維持できるからだそうだが、なんだかこんな結論では、グーグル検索のAIも悪ノリし過ぎな印象も漂ってきて、違和感しか感じられなくなってしまうわけだ。8月2日「資本主義経済の発動条件」ゲーデルの不完全定理とは、1931年にオーストリア系アメリカ人数学者クルト・ゲーデルによって証明された、ある一定以上の計算能力を持つ正しい数学の体系には、証明も反証もできない命題が必ず存在する、および、その体系が矛盾していないことを、自分自身のルールの中だけでは証明できない、という数理論理学の極めて重要な定理で、この定理は、当時数学界が目指していた、数学の全体を完全に形式化し、その無矛盾性と完全性を証明しようとした計画、ヒルベルト・プログラムに決定的な限界を突きつけ、不完全性定理は大きく分けて第一不完全性定理と第二不完全性定理の2つの定理から構成されていて、第一不完全定理は、自然数論を含む正しい無矛盾な公理系には、正しく真であるにもかかわらず、その体系内では証明も反証もできない命題が必ず存在するというもので、これにより、数学を完全に公理化することが不可能であることが示され、第二不完全性定理は、自然数論を含む正しい公理系は、自分自身が無矛盾で論理的に破綻がない状態であることを、その体系の内部だけで証明することはできないというもので、もし無理にその中で証明しようとすると、そのシステム自体が矛盾していることになってしまうが、ただしこの定理は、あらゆる思考やあらゆる数学のジャンルに無条件で適用できるわけではなく、厳しい前提条件を満たすシステムのおいてのみ発動し、前提条件は、第一に、自然数論を含み、足し算や掛け算ができる算術の能力を持っている必要があり、ユークリッド幾何学の一部や足し算しかできない単純な数学は完全になり得るそうで、第二に、帰納的公理化可能であり、何がルール・公理で、何が正しい証明ステップなのかを、コンピュータのような機械的な手順で判定できるということであり、第三に、無矛盾であり、そのシステムの中で、1=2のような論理的なバグ・矛盾が一切起きない、正しいシステムである必要があり、どのように証明されたのかというと、ゲーデルは、論理学の文章を全て固有の背番号ゲーデル数に変換して、数学の計算問題に置き換えるという画期的な手法を発明し、これを利用して、システムの中に特殊な意味を持つゲーデル文Gという数式を組み立て、この文Gは、現在のルール・公理系では証明できない、もし、この文Gが証明できてしまうと、証明できないと言っているものが証明されたことになるため、システムが破綻してしまい、反対に、この文Gが証明できないのであれば、文が主張している通りのことが起きているため、この文は正しい・真ということになり、システムが無矛盾・正しいのであれば後者になるなため、内容は正しいけれど、ルールに則って証明することは絶対にできない命題がシステムの中に存在することになり、不完全性が証明されたことになるが、これによって、数学の限界が証明された、人間の理性には限界がある、と過度に絶望的に解釈されることがあるが、これは誤解だそうで、ゲーデルが示したのは、あくまでも一つの固定された形式的なシステム・ルールの限界であり、証明できない問題が見つかった場合、それを新しいルール・公理として外から付け足せば、その問題は解決できて、ただし、付け足して新しくなったシステムには、また別の証明できない新しい問題が生まれるため、追っかけっこが無限に続くという意味で不完全なのだそうで、人間の思考が不完全である理由は、脳の構造的な限界から進化の歴史、心理的なバイアズに至るまで、複数の要因が絡み合っていて、ゲーデルの不完全性定理が、数式のルール・システムの限界を示したように、人間の思考というシステムにも設計上の限界や偏りがあり、その主な理由は4つに分類されるそうで、1つ目は、脳の処理能力・ハードウェアの限界で、人間の脳は他の動物との比較では非常に優秀だが、コンピュータに比べると処理能力に物理的な限界があり、人間が一度に処理できる情報の塊・チャンクは数個程度しかなく、また脳は体重の約2%の重さだが、総エネルギーの約20%を消費するため、常にサボって、省エネするように作られていて、記憶は時間が経つと曖昧になり、都合よく書き換えられ、2つ目は、進化の過程で身につけた手抜き・ヒューリスティックで、人間の思考は正しさではなく、過酷な自然界で生き残ることを最優先に進化してきて、サバンナで猛獣に出会った時に、そこで熟考していては食べられてしまうから、怪しい影=危険と瞬時に決めつける不完全な思考こそが、生存には有利に働き、結論を急ぐために、脳は認知の歪みというショートカットを使って、自分の意見に都合の良い情報だけを集め、反対の事実を無視し、最近のニュースなどの思い出しやすい情報だけで物事を判断し、3つ目は、限られた視点と環境・情報の不完全性で、人間は世界の全てを同時に見たり知ったりすることはできず、自分の五感、経験、教育、文化というフィルターを通してしか世界を認識できず、判断を下す瞬間に、未来の予測や他人の本心など、判断材料として全てのデータが揃っていることは絶対になく、4つ目は、感情による論理の書き換えで、人間の思考は、論理・ロジックだけで動いているわけではなく、恐怖、怒り、嫉妬、あるいは承認欲求などの強い感情は、客観的で正しい判断を簡単に曇らせ、人間は感情で行動を決め、後から論理的な理由をこじつけるという性質を持っていて、人間の思考が不完全なのは、欠陥があるからではなく、限られた資源と時間の中で、複雑な世界を生き抜くための妥協案として脳が最適化された結果であり、もし人間が完全に論理的で、全てのデータを揃えないと行動できない完全な思考システムを持ち合わせた生き物であったなら、決断に時間がかかりすぎて人類はとっくに絶滅していたはずで、不完全であるからこそ、限られた情報から仮説を立て柔軟に行動するという、AIには真似しにくいクリエイティブな能力を発揮できるそうだが、そんな不完全な思考では未来を見通せないからこそ、富を蓄えて不確実な未来に備える、という視点は、経済学や心理学における人間の生存戦略の本質を捉えていて、不確実な未来に対するこの防衛本能は、人間の行動を駆動させる強力な原動力だが、現代社会においては特有のジレンマや思考の歪み・バイアスも生み出して、経済学では、まさにこの行動を予備的貯蓄動機と呼び、病気、失業、災害など、いつ起きるかわからない不測の事態・不確実性に対して、富は最も流動性が高く、万能な盾にもなり、人間はわからないこと・未知に対して恐怖を感じる生き物であり、富を貯める行為は、未来のコントロール権を少しでも握り、精神的な安心感を買う行為でもあるが、こうした未来が見えない不安から富を貯めようとする本能は自然なものだが、現代の過剰な資本主義社会においては、不完全な思考の罠に陥りやすくなり、資産がある一定のライン・生活の安心が担保されるレベルを超えると、富が増えても幸福度はそれ以上は上がらなくなるが、しかし未来への不安が消えない限り、人はいくら貯めれば安心かのゴールを見失い、富を貯めること自体が目的化・手段の目的化が起こり、老後などの不確実な未来に備え過ぎると、最もエネルギーがあり、人生を豊かにできる現在の経験や自己投資にお金を使えなくなるという本末転倒な事態になり、未来の安心を測る絶対的な物差しなどなく、人間は周囲の他人と比べて自分の富が多いか少ないかで安心度を測ろうとするが、これによって、どれだけ貯めても終わりのない資産形成レースから抜け出せなくなり、思考の不完全さゆえに、多くの人が富さえあれば未来の不安が全て解消できると信じがちだが、未来にはお金で買えない不確実性も多くあり、富があっても、病気のリスクを完全にゼロにすることはできず、失った時間は買い戻せず、孤立した環境での富は、真の安心感・セーフティネットにはなり得ず、困った時に助け合える社会的資本・信頼やつながりの方が、時に金銭以上の備えになり、富・通貨そのものの価値が、将来も維持されるとは限らないというマクロな不確実性もあり、未来が見通せない以上、富を貯めることは極めて合理的で賢い生存戦略だが、しかし、人間の脳は、いくらあれば本当に安全かを論理的に計算するのが苦手なため、不安に突き動かされるがままに過剰に貯め込み、現在の人生の質を犠牲にしてしまう不完全さも持っていて、富を増やすための投資が行き着く先には、単なる資産が増えた減ったの成功や失敗という数字の損得を超えて、人間の精神、社会の構造、そして資本主義のシステムそのものが変容する3つの結末が待っているそうで、1つ目の結末は、精神の結末で、富の飽和と終わりのない不安をもたらし、投資に成功し続け、未来への蓄えとして十分過ぎる富を手に入れた後に待っているのは、皮肉にも精神的な不満足で、資産が増えれば増えるほど、それによって得られる新しい喜びや安心感は薄れて行き、逆に、富を守って、さらに増やし続けなければならないという強迫観念に囚われ、どれだけ稼いでもまだ足りないという無限の不安・不完全な思考のループに支配され、未来の不安に備えるために始めた投資が、いつの間にか資産額という富を表す数字を増やすゲームそのものに変質して、人生の本当の目的を見失う精神的迷子・虚無感に行き着き、2つ目の結末は、社会の結末で、不平等の拡大と資本の固定化をもたらし、個人の投資行動が集中した結果、社会全体としては格差の極大化という結末を迎えるそうで、経済学者トマ・ピケティが証明したように、労働によって得られる富の成長gよりも、投資によって得られる富の成長rの方が常に早く、投資が行き着く先は、富を持つ者がさらに富を独占し、持たざる者との格差が修復不可能なレベルまで広がる社会で、これは最終的には、社会の分断や不満による暴動、あるいは経済システムそのものの崩壊・リセットを招くリスクを孕んでいるそうで、3つ目の結末は、システムの結末で、実体経済からの乖離とバブル崩壊を招いて、富を増やすことだけを目的にした投資・マネーゲームが行き着く先は、実態のない経済の破綻へと行き着き、本来の投資は、新しい技術やサービス・実体経済を育てるためのものだが、しかし、投資が極限まで進むと、お金がお金を生むだけの金融空間の中のマネーゲームが実体経済の何倍にも膨れ上がり、実態を伴わない価格上昇は、必ずどこかでバブル崩壊を迎えて、これは個人の成功・失敗のレベルではなく、社会全体の富が一瞬で吹き飛ぶシステム全体の強制終了であり、投資が行き着く本当の終着点は、成否という結果ではなく、富に支配されるか、富を支配するかという生き方の選択で、どれだけ投資に成功しても、不安に突き動かされている限り、人は富の奴隷のままであり、逆に、一定の富を得た段階で、これ以上は必要ないと線引きし、富を社会に還元したり、自己の経験や人間関係などの精神的成長に投資を切り替えられた人だけが、投資のゲームから真に卒業することができるそうだが、先行きが見通せないこと・不確実性と不確実な未来に備えて富を蓄えようとすること・予備的貯蓄・蓄蔵動機は、まさに資本主義経済が誕生し、駆動するための核心的な発動条件・前提条件と言えるそうで、経済学や社会学の歴史を紐解くと、この2つの要素がどのようにして資本主義を起動させたのかが明確になり、そのメカニズムを、3つの視点から解説すると、1つ目はマックス・ヴェーバーの指摘で、不安が資本主義を起動したと言えるそうで、社会学者マックス・ヴェーバーは著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、資本主義の初期衝動は、死後の救済という、究極の不確実性に対する不安だったと分析し、カルヴァン派の宗教改革により、誰が救われるかは神のみぞ知る、人間には絶対に見通せない、という教義が生まれ、職業に真面目に励み、成功することは、神の意志にかなっている=自分は救われる側に選ばれている、という客観的な救済の確信・証拠になると考えた人々は、自分が救われている証拠を求めて猛烈に働き、禁欲的に富を蓄え、この消費せずに貯め込まれた富が、次の生産に向かう資本となり、近代資本主義が発動したのだそうで、2つ目はケインズ経済学で、不確実性こそが、貨幣を必要としたのだそうで、経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、まさに未来を見通せないからこそ、人はお金を貯める、という心理が資本主義の本質であると考え、もし未来が百%見通せるなら、人間は富を現金として余計に持っておく必要がなく、将来必要なモノや投資に最初から全て割り振れば良いからで、未来が予測できないからこそ、人間は、何にでも交換できる万能のカードとして貨幣を蓄えようとし、この人間の心理・流動性選好が、資本主義経済における金融・マネージメントという巨大なシステムを生み出す原動力になり、3つ目は、蓄えた富が資本に化けるメカニズムで、単に富を蓄えるだけの個人の貯め込みでは、古い時代の重商主義や単なる財産蓄積にとどまり、これが資本主義へと発動するためには、不確実性を乗り越えるためのシステムが必要であって、資本主義は、見通せない不確実性・不気味なものを、確率で計算可能なリスク・制御可能なものへと変換する装置として、保険、株式市場、先物取引などを発明し、これによって、個人が未来の備えとして蓄えた富が、銀行や市場を通じて、未来のイノベーションへの投資・資本へと社会的に循環する仕組みが完成し、この循環が始まった瞬間こそが、資本主義の発動であり、もし未来が完全に予測可能であれば、計画経済・共産主義的なトップダウンの管理の方が効率的になり、また、人間が未来を不安に思わず、富を蓄えようとしなければ、投資の元手となる資本が生まれず、つまり、未来はわからないという世界の不完全さと、だから備えたいという人間の思考の不完全さ・不安の掛け算こそが、資本主義というモンスターを動かし続ける最大のガソリン・発動条件なのだそうだ。8月1日「国家と通貨と資本主義の関係」マルクスの経済学・価値形態論のロジックから言えることは、国家なしの資本主義は、極めて不安定ながらも、論理的にあり得るが、通貨・貨幣なしの資本主義は絶対にあり得ず、そして、暗号資産やAIなどの現代のテクノロジーが、その代替の可能性に挑戦しているそうだが、それすらも資本主義の罠にハマっていて、この構造をマルクスの視点から三つのステップで解き明かすと、第一になぜ通貨なしの資本主義はあり得ないのかというと、マルクスは『資本論』の冒頭で、資本主義の本質を、元手の貨幣を使って商品を買い、それを高く売ることで、最初より増えた貨幣・剰余価値を得るという成り行きで表し、資本主義とは、単に貨幣を介してモノと別のモノを交換することではなく、その売買という交換を通じて、所持しているお金をより多くのお金に変える自己増殖のプロセスのことで、例えば、パソコン、労働、リンゴ、データなど、全く違う性質のものの価値を比較し、交換し、蓄積するには、全てを抽象的な数字を示す貨幣に換算しなければならず、交換する際に、価値の共通の尺度が必ず必要となり、共通の尺度を担うのが貨幣であり、貨幣がなくなってしまえば、それは資本の増殖運動ではなく、単に生きるために物を交換し合う共同体に戻ってしまい、したがって通貨・貨幣なしの資本主義は論理的矛盾であり、あり得ず、通貨がなければ、ただの物々交換でしかないが、では第二に国家なしの資本主義はあり得るかというと、国家の後ろ盾を持たない通貨の存在が成立すれば、国家なしの資本主義はあり得るそうで、貴金属の金・ゴールドが通貨だった時代、金は国家が作ったものではなく、地球が作った商品であり、国家権力がなくても、世界中で金は価値を持ち、資本主義は回っていたそうで、マルクスは、貨幣の本質を、商品の中から、他のみんなから特別扱いされるようなった一種の特殊な商品、商品の中の王様と定義し、現代において、この国家なしの資本主義を本気で実現しようとしているのがビットコインなどの暗号資産の思想で、アルゴリズムへの信仰によって、国家という権力の後ろ盾の代わりに、暗号技術とブロックチェーンというテクノロジーを後ろ盾にして、国家から独立した通貨・資本の道具を作ろうとしているが、第三に国家なしの資本主義が直面する限界と代替の可能性を考えると、では暗号資産のような国家なしの通貨で資本主義は完全に回るのかというと、ここに現代の大きなジレンマ・代替の可能性と限界があり、ビットコイン等の暗号資産を利用した国家なき資本主義の場合、仕組みは、金利の上げ下げや増減税などの国家の介入を受けない、純粋な市場と資本の自己増殖を目指すが、大恐慌やバブル崩壊が起きた場合、国家・中央銀行のようにマネーを刷って救済する仕組みがないため、システムがすぐに崩壊する危険性があり、他にもAIと信用スコアによって通貨を代替するやり方があるが、中国の芝麻信用やビッグデータのように、お金ではなく個人の信用ランクで決済や資源分配を行う仕組みがあるが、これにより一見お金が消えたように見えても、信用スコアという数字に換算して人間を評価・支配している時点で、それは形を変えた貨幣・資本と同じになってしまうから、通貨のデジタル変装でしかなく、結論として真の代替はポスト資本主義にしかなく、資本主義である限り、価値を数字・貨幣にして無限に増やそうとする衝動からは逃れられず、国家を排除してビットコインの世界にしたところで、結局は富の偏在・格差が生じ、強者が弱者を搾取する構造は変わらず、真の代替の可能性は通貨のない資本主義を目指すことではなく、通貨がなくても、人間の生存に必要な医療、教育、住居、エネルギーのインフラが共有材・コモンズとして無償で手に入る、資本主義そのものを乗り越えた社会、ポスト資本主義にしかない、とAIは結論するが、そういった結論を信じる前に、暗号資産のビットコインやイーサリアムが、日常的な売買などの決済手段に使われず、事実上の投機資産や開発インフラになってしまったのには、明確な経済的・技術的背景があるそうで、まず、ビットコインが日常で使われる通貨になれなかった3つの致命的な欠陥は、ビットコインは元々、国家に管理されない純粋な決済手段として開発されたが、貨幣が持つべき価値の安定性と交換の利便性を確保できず、まず第一に価格変動・ボラティリティが大き過ぎ、その理由として、ビットコインは発行上限が千二百万枚と厳格に決まっていて、供給が完全に固定されているので、需要が増減すると価格が猛烈に上下して、例えば今日百円で買えたリンゴが、明日には五十円、明後日には二百円になるような通貨は、誰も怖くて決済には使えず、第二の理由は、悪貨は良貨を駆逐するの逆転で、人々は将来値上がりする期待のある良貨を手元に溜め込み、価値が落ちる可能性が高い悪貨から先に使い、ビットコインを持っていれば将来値上がりすると期待されると、誰も手放さなくなり、決済・流通ではなく富の蓄蔵、デジタル・ゴールドに変質し、第三の理由は、処理速度の限界と手数料・ガス代の高騰で、ビットコインは世界中の取引を10分ごとに処理するが、1秒間に約7件しか処理できない結果、利用者が増えると処理待ちが発生し、処理を優先してもらうには手数料が数百〜数千円に跳ね上がり、百五十円のコーヒーを買うのに一千円の手数料がかかると、決済手段として破綻するそうで、そうした失敗を踏まえて、イーサリアムが登場したが、それでも日常の決済には使われない理由は、イーサリアムは、ビットコインの単に送金するだけ、という機能の限界を反省し、通貨上にスマートコントラクト・自動で実行される契約を書き込めるようにした大発明であったそうだが、イーサリアムもまた、日常の商品の売買には使われておらず、その理由は、イーサリアムが目指した方向性が決済ではなく、デジタル空間の経済インフラ・国家の代替だったからで、イーサリアムの本質は通貨ではなく石油であり、イーサリアムのネットワーク上でNFTや分散型金融DeFiなどのプログラムを動かすには、燃料としてイーサリアムが必要であり、イーサリアムは、スーパーで野菜を買うための通貨ではなく、デジタル空間の工場やシステムを動かすためのエネルギー・石油としてデザインされていて、イーサリアムの技術によって、誰でも簡単に独自のデジタル資産、NFTや草コインを作れるようになり、その結果、イーサリアム自体が日常の商品の売買ではなく、デジタルな投機商品を売買するための専用通貨になってしまい、ビットコインやイーサリアムの創始者たちは、国家の介入を受けない自由な経済圏という理想を掲げたが、しかし、資本主義という地盤の上でそれを実行した結果、既存の巨大資本や、ウォール街のヘッジファンドや投資家たちに、新しい儲けの道具、カジノチップとして目をつけられ、市場に組み込まれてしまい、国家の裏付けがない通貨は、資本にとっては規制の緩い、最高の投機ゲームの場にすぎなかったことが明らかとなり、そんな失敗を踏まえて、仮想通貨の世界でも、日常の売買に使えないという反省から、ドルや円などの法定通貨と価格が連動する、ステーブルコインが発明され、現在では実際の貿易や決済に広く使われているが、しかし、これは国家の通貨に百%依存した仕組みであるため、結局のところ、国家の後ろ盾なしには、まともな決済通貨は作れないという現実を証明する形になってしまったそうで、国家や法定通貨が持つ圧倒的な信用と暴力、強制力という歴史的背景は、人間が頭で考えたシステムや人工物では、今のところは再現できていないと言えるが、しかし、現在進行形で、AIおよびビッグデータとアルゴリズムは、人間が意図して作れなかった国家と通貨の新しい融合体を自動的・進化的に創り出しつつあると考えられ、このプロセスを歴史の断絶とAIのイノベーションという2つの視点から解き明かしてみると、まず第一に、なぜ国家と通貨の歴史を人為的に作れないのかというと、人工的に作られたビットコインなどの暗号資産が国家の通貨に勝てないのは、国家と通貨の誕生には、設計図のない数千年の血と暴力と共同幻想の歴史があるからで、国家の通貨がなぜ信用されるかというと、その通貨で税金を払わなければ、警察や軍隊の暴力によって逮捕されるという物理的な強制力があるからで、それに対して人工的な通貨には、これに従わなければ破滅するという暴力の後ろ盾がなく、また、通貨は、数百年以上の時間をかけて、これには価値がある、という幻想と習慣が人々の意識や身体に染み付くことで成立していて、昨日今日リリースされた人工のアルゴリズムには、人類が命や生存を預けるほどの盲目的で宗教的な信用を未だ抱けず、つまり、こうした歴史的な重みをスキップして、頭の良さやコードだけで国家や通貨をゼロから偽造することは不可能なのであるが、第二に、現在進行形で、AIはどのように国家と通貨を作ろうとしているのかというと、人間が人為的に作れなかったものを、AIは超・人為的なアルゴリズムによる社会の総管理によって自動生成しつつあり、AIが作ろうとしているのは、紙のお金や物理的な国境ではなく、信用スコアと生存基盤のプラットフォームによる、目に見えない新しい国家と通貨システムであり、通貨の代替は、お金を不要にする認知的信用スコアで、個人の購買履歴や、SNSの発言、友人関係、移動データをAIが24時間監視し、信用スコアを数字で算出し、スコアが高い人は、お金を払わずに一等地に住むことが許され、さらに最良の医療も受けられる一方で、逆にスコアが低い人は移動すら制限され、AIが算出したスコアが、モノやサービスを交換する権利=通貨そのものとなり、これは人間が設計した決済システムではなく、AIが人間の価値を数値化するプロセスから自然発生する新しい通貨形態となり、また国家の代替は、アルゴリズムによる行動の統治であり、伝統的な国家は法律と警察の暴力で国民を縛るのに対して、AIはプラットフォームから追放するという方法で人間を支配し、これは物理的暴力を超える接続の遮断であり、AIが管理するスマート都市やデジタルインフラからアカウント停止・BANされることは、現代社会における生存権の剥奪すなわち死を意味し、人間が法律を作って統治するのではなく、AIのアルゴリズムが、最も社会が効率的に回るルールを自動で生成して、人間を従わせることこそが、領土を持たないAIという人工国家の誕生のプロセスで、結論として、AIがもたらすのは超・資本論の世界であり、マルクスは『資本論』で、資本主義が限界に達すると、人間が作ったはずの商品や貨幣に人間自身が支配される現象、物象化を描いたが、AIが作ろうとしている国家と通貨の融合体は、まさにその究極形であり、人間が国家や通貨を新しく作ろうと意図したわけではないのに、資本の自己増殖のニーズとAIの進化が合体した結果、気づけば人間を24時間管理・評価するAIという名の新しい神、それが国家であり通貨でもある何かが誕生しつつある、というのが現在進行形の本質なのだそうで、どうしてもAIが導き出す結論には何かが欠けているように思われ、それを簡単に言うなら、アダム・スミス的な意味での、神の見えざる手の逆説なのだろうが、先行き不透明で、誰にも先が読めないことが、資本主義経済を駆動させる原動力でもある限りで、誰にとっても暗中模索の日々がこれからも延々と続いていくのかも知れない。 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