彼の声1742026年5月17日「唯名論とは」唯物論とは、精神や心、観念よりも、物質が全ての根源である、と考える哲学の立場で、全ての事象は物質の働きによって説明できるとし、神の存在や霊魂など非物質的なものは認めず、または物質から派生したものと捉えるのが特徴で、そんな唯物論と対極にあるのが、唯心論や観念論で、唯物論では、物質が先にあり、そこから意識や精神が生まれると考え、経済や生活環境という物質的な土台が人の心を形作るとされるが、それに対して、唯心論では、精神や意識こそがこの世界の根源であり、物質は精神の働きによって作られたと考え、人の心が世界を認識することで初めて物質が存在するとされ、唯物論は、古くは古代ギリシャや古代インドなどにも見られたが、近代以降、自然科学の発展とともに、宇宙や生命を複雑な機械のように考える、機械論的唯物論や、マルクス主義において、社会の歴史や人間の意識も、物質的な生産力や経済の発展によって変化して行くと主張する、弁証法的唯物論などが唱えられ、哲学的な唯物論は、物質だけを信じる、という純粋な世界観だが、日常の会話やメディアでは、精神的な価値よりも、お金や財産などの物質的な豊かさや、目に見える利益を重視する生き方や考え方を指す言葉として、物質主義というニュアンスで使われることが多く、それに対して観念論は、唯心論と同じく、物質よりも意識、理性、観念などの精神を根源的・優先的なものとし、この世界にある事物は精神によって規定され存在していると考える哲学の立場であり、物体の実在を認める唯物論に対立する思想で、プラトンやカント、ヘーゲルなどが代表的な観念論者で、物質世界は意識や観念の産物であり、心の中に存在する観念=イデアによって規定され、バークリーが主張したように、私たちが知覚する世界は心の中に存在し、世界には独立した物質的実在があるとする実在論とは逆の立場で、知覚する主体の意識内容のみを認めるバークリーのような主観的観念論と、主体を超えた精神的な根源である、イデア、神、絶対理性を認めるプラトン的な客観的観念論と、主観と客観の対立を超えた包括的な精神の運動を考える、ヘーゲルのような絶対的観念論があり、プラトンは、現実の事物は影であり、完全な真実の世界であるイデアの写しである、とイデア論を主張し、カントは認識できるものは人間の認識能力の枠内の現象に限定し、モノ自体は認識できないとする、超越論的観念論を主張し、ヘーゲルは、弁証法を用いて、歴史や理性の発展によって世界が真理を体現する絶対精神に近づく、と主張したが、日常会話では、現実離れした理想的な考え、という意味で使われることもあり、これに対してドゥルーズの哲学は、従来の二元論的な唯物論と観念論の対立自体を拒否し、物質と精神を不可分なものとして捉える独自の立場をとり、哲学において、精神を根源とするのが観念論、物質を根源とするのが唯物論で、これに対してドゥルーズは、物質と精神を別の実体として分けず、生の力としての多様体や差異が形を変えて現れたものとして両者を同一視し、その哲学は解釈や文脈によって、唯物論としての側面と観念論としての側面とに分かれて、唯物論としての側面では、スピノザやマルクスの思想を継承し、超越的な存在である神やイデアを退け、現実の具体的な自然や身体、力動的なプロセスを重視する点から、内在的唯物論と呼ばれることもある一方で、観念論としての側面では、カントの超越論的哲学を発展させて、経験の背後にある条件としての超越論的場がいかにして思考やイデアを生み出すかを問うた点から、観念論的であると捉えられることもあって、このようにドゥルーズはどちらか一方に完全に与するのではなく、物質と観念を一つなぎのダイナミックな世界として捉える立場を貫いたそうだが、それらとはちょっと違うように感じられる、唯名論とは何なのかというと、唯名論は、中世ヨーロッパの普遍論争において、人間、動物、赤さ、といった普遍的概念は実在せず、個々の事物、個物のみが実在し、普遍は単なる名称、名前に過ぎないとする主張で、対立概念である実在論が、普遍的な型が先、とするのに対して、個別の具体物を重視し、現代の経験論や科学的アプローチの基礎となり、唯名論の核心は、実在するのは個々のもので、この花やあの人だけであり、それらをまとめる普遍的な植物や人間は、人間が付けた名前に過ぎないという考え方で、プラトンのイデア論で言われるような、普遍的な型が先に存在するという実在論に反対し、スコラ哲学における普遍論争で、実在論と対立したそうだが、代表的な人物としては、ロスケリヌスは、唯名論の初期の代表者で、普遍は声の響きに過ぎない、と主張し、アラベールは、唯名論と実在論を折衷し、普遍は単なる言葉ではなく概念である、主張し、オッカムは、14世紀に唯名論を大成し、ある事柄を説明する際、必要以上に多くの仮定を立てるべきではない、という後に科学や論理学の基本原則となるオッカムの剃刀を用いて、普遍の実在を否定し、経験的な知識を重視し、その歴史的意義と影響は、個物の観察や経験を重視する態度が、後のベーコンの経験論や、ガリレオ、ニュートンらによる近代科学革命の実証主義的な態度の基盤となり、近世以降は、唯名論的な傾向が主流となり、数学的対象や分類や種の存在論的な議論において現代でも関連し、型・普遍が実在すると主張する実在論に対し、この事物などの個物がまず存在するという視点が、中世の思想的制約を打破し、新しい知識体系をもたらしたそうだが、フーコーにおける唯名論的な面とは、狂気、権力、主体などに関して、普遍的な本質が実在するという考えを退け、歴史的に構築された具体的な名前や実践こそが現実を形作っているという方法論的な態度のことだそうで、実在論が人間の本質や狂気そのものに実体があると考えるのに対し、フーコーはこれらを時代や言語が生み出した名前や言説に過ぎないと考え、『狂気の歴史』などでは、狂気という普遍的な概念が実在するのではなく、時代ごとの社会制度や知の体系が狂気という概念を発明し、その概念に当てはまる特定の人間を排除し管理してきた過程が暴かれ、フーコーは権力を誰かが所有する大きな力、という実体的なものではなく、無数の人々の間で日々行使される関係性として捉え、この考え方はまさに権力を、個別の実践の総体と見なす唯名論そのもので、権力は上から押し付けられるだけでなく、人々の行動や思考を方向づける微細なプロセスの中で、ミクロ権力として機能していると主張し、フーコーは、歴史が一つの大きな目的や本質に向かって進歩するというヘーゲル的な歴史観、目的論や実在論的な歴史観を批判して、代わりに、時代ごとに知の枠組みであるエピステーメーがどのように歴史を断絶し、変化してきたかを詳細に記述し、自身の歴史記述を知の考古学や系譜学と呼んだのも、普遍的な歴史法則ではなく、個別の時代における行動の実践と言葉の規則のあり方を分析するためで、このようにフーコーは高尚で抽象的な人間性、理性、解放などの普遍的真理の存在を疑い、具体的な権力関係や言葉の規則である言説を分析することを生涯のテーマとして、この徹底した反本質主義・反実在論の姿勢が、その哲学の唯名論的な面と呼ばれるそうだが、蓮實重彦によればドゥルーズにとってギリシャとは、思考することが初めて概念の生産となり得た時代としてのプラトンのギリシャに他ならず、『哲学とは何か』のドゥルーズは、哲学を、概念を創造することに立脚した領域と定義しながら、それにことのほか精通していたのがプラトンだと説いており、だから概念というより体系を作り出したアリストテレスは、ギリシャ人とは見なされていないかのようで、超越性を想定しつつも一般性と特殊性の概念に従って全体や部分が語られてゆく形而上学的な体系からは概念など生まれようがなく、優れて20世紀的な小説家であるプルーストやカフカを鮮やかに論じてみせたドゥルーズだが、彼は肝心な瞬間、つまりは概念の生産に立ち会い、自らも率先してそれに加担しようとする時、決まってギリシャ人であるかのように振る舞ってみせ、ドゥルーズは、ギリシア人にまで遡る必要さえあったミシェル・フーコーのように、長い迂回を試みながら遥かな距離を踏査した後にそこへと辿り着いたのではなく、この20世紀の哲学者は、一度たりともギリシャの地を離れたためしがないとさえ言えて、一気に過去に身をおく、あのベルクソン的な体験のように、プラトンの時代に、一気に身をおくことのできるところが、ドゥルーズのドゥルーズたる所以なのだ、と『表象の奈落』で述べていて、実際、プラトンが哲学したのと同じようなやり方で哲学する理由など、一つとして見当たらないはずだ、と確信していて、プラトンを凌駕することなど不可能だし、プラトンが永久にやり遂げてしまったことを蒸し返しても、何の得にもならず、哲学する者は、二つの選択肢に直面せざるを得ず、それは哲学史をするか、プラトン的でない様々な問題にプラトンを接ぎ木するか、という二者択一に他ならず、実際にドゥルーズが選んだ選択肢が、その後者であることは、そのほとんどの著作が証明しているそうだ。5月16日「ナチュラリズムとヒューマニズムの問題点」自然崇拝といっても、アニミズムと混同していたのだが、自然崇拝とアニミズムはどう違うのかというと、アニミズムは、動物、植物、岩、滝、自然界の全てのものに霊魂や精霊が宿ると信じる思想であるのに対して、自然崇拝は、そのような自然の精霊や自然現象そのものを神聖なものとして崇める信仰であり、アニミズムは自然崇拝の基盤となる世界観と言えるそうだが、機械などの人工物にも霊魂や精霊が宿ると信じる思想も、一般的にアニミズムと呼ばれるそうで、有機物である生物だけでなく、無機物の石、道具、機械、自然現象など、ありとあらゆるものの中に霊魂や精霊などの霊的な存在が宿っていると考える世界観であり、確かに人工物も自然界の全てのものに含まれているから、自然と人工の対比から考えるのでは、うまくアニミズム思想を捉えられないわけだが、日本においても、道具に魂が宿るという考え方や、自然界のあらゆるものに神が宿るとする八百万の神の信仰が、このアニミズム的思考の代表的な例と言えるそうで、物事の存在の状態や構造や仕組みや動作などに意味や意図や意思や意志や意向や思惑などを読み取ろうとして、人の意識や精神作用の延長上で人以外の有機物や無機物にも意識や精神作用が働いていると思い込もうとすることから、それを働かせているのが神だと考えれば、そこから宗教が生じるのだろうが、人の意識や精神作用を脳内の構造や仕組みや神経伝達物質が伝わるメカニズムなどから説明しようとすれば、そういった機構や動作のない他の物事には人と同じような意識や精神作用は働かないと言えるだろうから、人と同様に脳の神経回路が発達している他の動物にも意識や精神作用があるらしいことは推測できるが、脳は人間の心身を制御している器官でしかなく、脳の作用や動作だけを特権化して語るというのも、何かずれた思考のようにも感じられるから、もっと広範囲に社会全体から及ぼされる作用として考えなければならない面もありそうで、単純に自然主義や人間主義が人間社会にどのような影響を及ぼしているのかと考えても、自然主義や人間主義は、現代の環境保全や個人の内面の重視、技術発展と自然との共生という面で、人間社会に大きな影響を与えていて、人間中心の環境破壊への反省から、自然の生態系保全や共生が求められる一方で、科学的な人間学に基づいて自然と文化の調和を追求する動きもあるらしいが、その一方で経済的合理性を追求する観点からエコロジストなどの環境活動家を攻撃する論理がありそうで、コスト、効率、経済成長などの経済的合理性を最優先する観点から、エコロジストなどの環境活動家を批判・攻撃する際に用いられる論理は、環境保護規制が強すぎると、企業の生産コストが増大し、国際競争力が低下し、環境優先の政策は、高いエネルギー価格を伴って一般家庭の生活費を圧迫し、人々の生活の質を低下させ、環境対策への投資は、教育、医療、基礎インフラなど他のもっと生産的な部門への投資を減少させ、全体的な経済効率を損ない、気候変動のような長期的な予測を必要とする不確実なリスクに対処するために、現時点での確実な経済活動を犠牲にするのは合理的でなく、今の技術で無理なものはいくら規制しても無理であり、逆に環境規制が技術の進化を妨げていて、化石燃料産業や資源開発関連など、環境負荷が高いとされる産業を規制することで、多くの雇用が失われ、地域経済が崩壊するという懸念があり、環境税の導入などが、低所得者層に重い負担を強いる結果になると批判したり、一部の活動家が恐怖をベースにしたメッセージを発信することで、現実的で合理的な解決策の検討を妨げているという指摘や、社会システムを根底から変えようとする急進的なアプローチは、社会の安定を崩し、秩序を混乱させるという批判もあり、これらの論理は、環境保護を否定するものではなく、環境対策にはコストがかかるため、経済的合理性や持続的可能性とのバランスが必要という文脈で使われることが多いそうだが、自然主義と人間中心主義・人道主義は、経済的な視点を完全に見落としているわけではなく、むしろ経済的合理性のみを追求する従来の主流経済学とは異なる視点から経済を捉えている、と解釈する方が正確で、これらは経済を単なる貨幣の流通や効率性の論理ではなく、人間の幸福や自然との調和の観点から再定義しようとしていて、自然主義の視点からは、十八世紀の重農主義などに見られるように、富の源泉は金銀ではなく、農業や自然の恵みから生まれるという視点や、人間の理性や認知は不完全であるという視点から、経済や社会の根底には不確実な蓋然性があることを指摘し、環境問題を背景に自然環境をコストと見なす現在の経済システムに対する批判的視点を提供し、人間主義の視点からは、近代資本主義が持続不可能になった原因として、人間がコスト・経費になるという矛盾を指摘し、人間を中心において経済構造を求め、単なる金銭的貧困だけでなく、ニーズという人間の内的な視点から多面的な貧困を提起し、アダム・スミスも『道徳感情論』で共感を重視したように、個人の利益追求だけでなく、中立的な立場の人に対する共感が社会の秩序や経済活動を支えるという考え方を示し、主流経済学が自己利益を最大化する存在としてホモ・エコノミクスを前提とするのに対して、ナチュラリズムやヒューマニズムは感情、倫理、共感を持つ人間を前提とする、数値化しにくい信頼、自然環境、福祉などの価値を重視する経済観を強調し、これらの思想は、現代における資本主義の限界を乗り越えるためのヒューマノミクス=人間性経済学の基礎となっているそうで、その種の考え方自体に問題があるとすれば、利益の最大化という経済的合理性に基づいた目的の遂行が、社会全体に貧富の格差という不条理をもたらすからこそ、資本主義市場経済が回って行くという逆説が、今のところは現状の経済の中で有効に機能して、利益の最大化という経済的合理性の追求が、結果として貧富の格差を生み出すからこそ、資本主義は回るという指摘は、このシステムが孕む最も根源的な矛盾であると共に原動力そのものでもあり、この逆説が機能する背景には、人間のつきない欲望と市場のメカニズムが深く結びついていて、個人の利益最大化は、他人よりも優れた価値や製品を生み出すことで達成され、競争の結果として勝者と敗者が生まれ、必然的に貧富の格差が生じ、しかも、この勝者が得られる圧倒的な富こそが、次の新たな挑戦者や投資家を駆り立てる強力なモチベーション・インセンティブとなるが、もし格差が存在せず、成果が全て平等に分配されるのであれば、市場におけるイノベーションや効率化の推進力が失われてしまうから、資本主義市場経済を拡大させるには生産設備や技術開発、研究のための巨額の投資が必要であり、一部の経済主体が利益を最大化して富を蓄積するからこそ、その剰余資金が金融市場や企業投資を通じて社会に還流されて、投資サイクルが新たな雇用や産業を生み出し、経済全体を拡大させる機能を果たすのであり、資本主義における不条理な格差は、同時に自分も上の階層に行きたいという上昇志向や、今の地位から転落したくないという恐怖を生み出して、この欲望と恐怖が合わさることで、人々はより一層、労働や消費、投資に励むようになり、つまり、格差という目標と恐怖が、アメとムチの役割を担っているからこそ、経済活動の歯車が絶えず回り続けるわけで、このように、経済的合理性の追求がもたらす格差は、単なる社会のバグ、不具合ではなく、システムを維持・拡張するための必要不可欠なエネルギー源として機能していて、その一方で、この格差の拡大が行き過ぎると、社会の分断や購買力の低下を招き、結果的に資本主義市場そのものの持続可能性を脅かすリスクも抱えていて、そのため、歴史的に見ても、公益を重視する思想や、富の再分配を行うための税制・社会保障制度などの経済的合理性にブレーキをかける仕組みが常に模索されてきたが、それはあくまでもブレーキであり、システム全体を作り変えようというのではなく、システムを保守運用して行くの必要な安全装置に他ならず、ハンドルを回してアクセルとブレーキを交互に踏んだり離したりしながら、経済活動を調整する仕組みを機能させようとしているわけだ。5月15日「反体制と神秘主義」カウンターカルチャー、反権威主義などの反体制と神秘主義は、主に支配的な社会システム、合理主義、既成宗教などの既存の秩序に対する異議申し立てという点で深く結びついているそうで、その中でもグノーシス主義、ルターの宗教改革、そしてヒッピームーブメントは、時代や文脈は異なるが、既存の権威の否定、内面的な覚醒や経験の重視、個人の解放という共通の核心的テーマでつながる思想的系譜として捉えられることがあり、これらは、物質世界を否定し、知識や霊知などの隠された世界の真理を追求する精神的な姿勢において、深い関連性を持っていて、神秘主義は、論理的な思考や科学的な合理性ではなく、主観的な体験や直感を重視して、近代社会が合理性と官僚制によって社会を統制する中、それに反発する人々は、理性を超えた神秘的な体験やスピリチュアリティに救済や真実を求め、1960年代から70年代にかけて、アメリカやヨーロッパを中心に、若者たちが既存の保守的な社会や物質主義、戦争に反対し、ドラッグ、瞑想、ヨーガ、東洋思想などの神秘主義的な実践を取り入れ、単なる個人的な探求ではなく、政治的な反体制運動の一部として機能したそうで、そんな神秘主義思想の源泉として知られるグノーシス主義は、2世紀から3世紀にかけてキリスト教の周辺で活発化した宗教・哲学的な潮流であり、後の西洋神秘主義思想の源泉として極めて重要な思想であり、最大の特徴は、救済は、神的な知恵であるグノーシスによって自己のうちなる神性を認識することで達成され、人間は本来、至高神の分身であるが、この不完全な物質世界に閉じ込められていて、真の自分は神の分身であると認識することによって、この居場所を間違えた状態から脱出し、本来の神的な次元へ帰還することができるとされ、物質世界は偽の神デミウルゴスによって創造された不完全な場所であるのに対して、霊的な世界プレローマは真の神である至高神のもの、という対立関係を重視し、旧約聖書の創造神は、真の神ではなく、人間を物質に縛り付ける低位な神デミウルゴスやアルコーンとされることが多く、デミウルゴスは宇宙を創造した職人、製造者で、プラトン哲学では造物主だが、グノーシス主義では偽の神とされ、ヤルダバオートという固有名でも呼ばれ、しばしば獅子の顔をした蛇の姿として描かれ、至高の光の領域であるプレローマのソフィアから生まれたとされ、自身を唯一の神であると誤解している傲慢な存在で、物質世界や人間の肉体・心魂を創造し、人間を肉体の牢獄に閉じ込めた張本人とされて、アルコーンは、世俗的権力者や統治者を意味するギリシャ語に由来し、第一のアルコーンであるデミウルゴスが生み出した7人の軍勢で、天上の各圏域を支配し、物質界を管理する悪魔的存在であり、人間の感情、欲望、恐怖などを支配し、精神的な目覚めであるグノーシスを妨げ、人間は物質的・心魂的な部分において、アルコーンの支配下にあるが、人間の内部には至高神に由来する神の火花スパークが隠されており、グノーシスによってこれに目覚めることが真の救済とされ、この概念は、キリスト教のデミウルゴスが旧約聖書の創造神ヤハウェを指す、異端的な解釈の根幹となっていて、正統キリスト教から異端とされたが、物質主義や当時の教会の権威への最大の異議申し立てであって、そこから千数百年時代を下った先で起こった、ルターの宗教改革は、教皇、免罪符など、ローマ・カトリック教会の権威を否定し、聖書と個人の信仰を重視し、神と個人の間で障害物のように立ちはだかる仲介者の教会組織を通さず、個人が直接神とつながることを主張して、カトリックという物質的・組織的な偽の権威に対する反乱を企て、ルターは神の恩寵を強調し、グノーシスが重視する個人の知識・霊知による自己救済とは異なるが、宗教的権威を解体しようとした点でつながる部分があって、そこからさらに数百年時代を下った先で起こったヒッピームーブメントは、物質主義、合理主義、社会制度、ベトナム戦争に反対し、精神的な自由、愛、自己発見を求めたカウンターカルチャーであり、ドラッグや東洋思想を通じて、この物質世界ではない、真の意識や内なる神を探求し、グノーシス主義が偽の神を否定したように、ヒッピーは偽の文明システムを否定して、物質的世界を嘘とし、精神的な覚醒を求める姿勢は、現代版のグノーシス主義と評されることもあり、東洋思想の中に、古代の善悪二元論的な世界観を共有する宗教的・思想的潮流があり、ゾロアスター教がその基礎を築き、グノーシス主義が精神的な知恵グノーシスによる救済を説き、それらをマニ教が統合して世界宗教として広めた経緯があって、古代ペルシアで成立したゾロアスター教は、善と光の最高神アフラ・マズタと悪と闇の邪神アンラ・マンユの抗争を特徴とする世界最古の二元論宗教であり、火を聖なるものとして崇拝し、グノーシス主義は、真の神が作った霊的世界と、偽の神デミウルゴスが作った物質世界を分ける二元論で、ササン朝ペルシアのマニ教は、ゾロアスター教の二元論、キリスト教のキリスト、仏教の倫理を組み合わせた光と闇の宗教であり、グノーシス主義的な知識による救済を重視して、ゾロアスター教の善と悪の峻別は、グノーシス主義やマニ教に強い影響を与えたとされ、マニ教はゾロアスター教の二元論的枠組みをベースにしつつ、グノーシス主義の要素を取り入れた混合宗教と言え、初期のグノーシス主義から影響を受けつつも、より組織化された普遍宗教を目指した点で異なり、これらは、古代世界において、闇と悪である物質に閉じ込められた光と善である霊を解放するという共通のテーマを追求したそうで、グノーシスが、偽の神デミウルゴスから魂を解放、ルターが、カトリック教会から個人の信仰を解放、ヒッピーが、社会システムや物質主義から精神・生活を解放、というこれら3つは、人間は物質的束縛や既存の組織である教会や国家による支配から脱し、自分自身の内なる真理によって救済・解放されるべきだ、という思想的連鎖の中にあり、それぞれが異なる時代における支配的な真実を語る権威に対する反逆であり、個人のうちなる世界を最も尊重する運動であったと言えるそうだが、そうした反逆に対してキリスト教会側は徹底した信者や修道士に対する管理で応じ、グノーシス主義を押さえ込もうとして、またルターの宗教改革に対しても反宗教改革・対抗宗教改革で応じ、トリエント公会議による教義の再確認、イエズス会の創設、異端審問の強化が挙げられ、そうした反逆が起こる度に教会側の組織体制や官僚制も強化されたわけだろうが、ヒッピームーブメントに対しても、政府、保守層、メディアなどの体制側は、様々な形で反動・抵抗を示し、体制側はヒッピーのライフスタイルを治安上の脅威と見なし、法的な手段で規制を強化し、ヒッピー文化で蔓延したLSDや大麻などの薬物使用に対し、厳しい取り締まりが行われ、ヒッピーが集まる拠点を警察が強制捜査し、逮捕者が続出し、自然の中で共同生活を送るコミューンに対し、衛生基準や建築基準法違反を理由に撤去を強制し、大手メディアは、ヒッピーを、不潔、怠惰、社会の敵として描き、市民の恐怖心を煽る報道によって、ベトナム戦争反対を掲げる彼らを、愛国心に欠ける非国民的・反米的な存在としてレッテルを貼り、従来の家族観や性道徳を否定するコミューン生活や自由恋愛を、倫理的な堕落として批判し、長髪や独特の服装は、社会人としての正気さや信頼がないと見なされ、一般的な雇用から排除されて、反体制運動が活発な大学では、学園闘争と結びついたヒッピー的な学生に対する学則の強化や停学処分が行われた一方で、体制側は、ヒッピー文化を完全に排除するのではなく、ファッションや音楽など、その特徴を商業的に利用し、反体制的な意味を削ぎ落とした大衆文化として受容して、タイダイ柄やフレアパンツなど、ヒッピーファッションが商業化され、誰もが着るトレンドとなり、そうしたカウンターカルチャーに結びついた真剣な反体制思想が、単なる流行やスタイルとして消費されることによって、社会変革のエネルギーは骨抜きにされたが、これらの外部からの反動に加え、薬物中毒、金銭的困窮、コミューンの失敗など、理想と現実のギャップが嫌気され、ヒッピームーブメントは急速に沈静化して、その後、1970年代に入ると、社会はディスコ文化に代表されるような、より洗練された、あるいは現実的な方向へとシフトし、結果として、ヒッピーの思想の一部は現代の環境保護運動やヒューマニズムに受け継がれたが、彼らが目指した革命的な社会変革は、体制側の強い反動によって抑え込まれたと言えるそうだ。5月14日「宗教と政治と経済と社会の関係」宗教と政治と経済は相互に深く影響し合っており、特に宗教は国民の倫理観や投票行動を通じて政治に、また税制優遇や献金を通じて経済活動に与える目に見えない力として機能していて、宗教法人は営利目的ではないため、一般の企業活動とは異なり税制上の優遇措置を受けているが、その経済活動や資産は強大であり、実質的に企業と同様の側面を持っていて、多くの民主主義国家では政教分離が原則だが、宗教団体が政治的イデオロギーに基づき、保守派の政治家や政党を支援したり、それに伴って政策形成にも影響を与えるケースもあり、宗教団体は寄付金や関連事業を通じて莫大な資金を動かしており、教育、医療、出版、建設など多岐にわたる事業を展開する巨大ビジネスとして機能している場合もあるが、それ以前に政治と経済が密接に結びついており、企業利益から支払われる税収は国家発展の基盤となっているため、企業の方でも政府が企業を利するような政策を実行してほしいので、そんな意向に合わせた政治的意見を持って政治に働きかけることになり、宗教の方でも宗教を世の中に広めるには経済活動を利用しなければならず、例えばイスラム教においては、経済活動は社会の一部であり、利子の禁止や貧者への喜捨が義務付けられ、そんなイスラム経済圏では宗教的理念に基づく経済システムが構築されている一方で、日本では、宗教法人は所得税、不動産取得税、固定資産税などの税制優遇を受けており、これが税制上の不公平として、時に政治的な議論の対象となるが、宗教は単なる個々人の精神的な支えではなく、歴史的に地域紛争や国際政治の背景にある価値観を形成し、政治や経済の動向を左右する要因となってきた経緯があり、現代社会においても宗教は、精神的な側面だけでなく、政治的な影響力と人やモノやカネなどの経済的なリソースを併せ持つ複合的な組織として活動していて、日本では約十八万の宗教法人があり、神道系の神社や仏教系の寺院やキリスト教系の教会やイスラム教のモスクなど、多岐にわたる宗教団体が法人として登録されており、特に神社や寺院の数が非常に多く、全国各地に存在することが特徴だが、アメリカでも約三十五万以上の教会や宗教団体が存在するとされており、日本よりも宗教団体の数や活動が活発で、ヨーロッパでも国によっては国教や登録宗教団体制度があって、宗教団体の法人格が認められているものの、フランスなどでは信教の自由を尊重しつつ、管理は行政面で厳格に行われる傾向があり、イスラム圏では、モスクを中心として宗教活動が行われ、法人組織というよりも、地域コミュニティや国が宗教を管理する体制が一般的で、日本では人口比に対する神社・寺院の密度が高く、地域単位で法人化されている傾向があり、世論調査などで無宗教と回答する人が多い中でも、初詣や冠婚葬祭などの行事を通じて仏教や神道が生活に根付いている一方で、海外では宗教が日常生活や政治、法制度に大きな役割を果たす国が多く、これらの違いは、法制度の違いや、宗教を日常生活の一部として捉えるか、信仰として強く意識するかの違いに起因していると言えるそうで、宗教を文化や慣習などの日常生活の一部として捉えることと、信仰として強く意識することの違いは、主に形式・慣習の重視か、神仏への帰依・個人の信念かという点にあり、日本人の多くは前者で、世界的には後者が一般的と言われているそうだが、宗教を文化や慣習などの生活の一部とする場合、教義の厳密な理解や盲目的な信従よりも、伝統行事や心地よい作法として捉えられ、お正月は神社、お盆はお寺など、特に意識せずとも生活に溶け込んでいて、墓参りや仏壇への合掌など、精神的な支えや共同体のつながりを重視する傾向にあり、日本特有の無宗教を装いつつも、文化として神道や仏教を実践する形だから、宗教を思想や哲学などと関連づけては捉え難いが、それに対して信仰として強く意識する場合の宗教は、神や超越的存在への信頼が行動の根幹となり、教義=ドグマを絶対視するような信仰形態となると、自身を明確に信者や教徒の側に位置づけ、神に帰依する存在として自覚を持ち、神との個人的な関係や、死生観、倫理観の絶対的な信仰の拠り所となり、毎日の礼拝、厳しい食事制限、特定の日曜礼拝への参加、教義に基づく戒律の遵守など、要するに神社における神主や寺院における僧侶などと一般人の間の区別や距離が、日本ほどはっきりと隔たっていないと言えそうだが、信じる対象への帰依が、生活のあらゆる選択に影響を及ぼす度合いや程度にも差があると言えて、まとめると、文化や慣習などの生活の一部としての宗教は、働きの重心が形式的・儀礼的で、主体が、家族、地域、習慣などに依存し、目的が、安心、絆、慰霊などにとどまり、行動も墓参りや初詣などに行く程度の、比較的軽い傾向になるのに対して、信仰や信念として強く意識する宗教は、働きの重心が確信・信念などの個人の心理にまで及び、主体は個人と神仏との強固な関係を求め、目的は、救済、真理の探究など思想や哲学や社会学など人文科学の分野にまで範囲を広げ、行動も特定の宗教団体による熱心な勧誘活動を引き起こしたり、程度によっては社会問題の様相を帯びるが、このように、前者は生活を整えるための文化であり、後者は人生の軸となる信念という違いがあるが、この二つは排他的なものではなく、軽い気持ちでちょっとしたきっかけから、日常的な慣習が深い信仰に結びつくこともあるから、侮れない影響力があり、現代の日本に住んでいると両者が地続きであることに気づきにくく、異なる宗教間や同じ宗教内でも宗派対立が高じて地域紛争にまで発展する事例も出てきて、それが宗教だけではなく政治や経済も絡んでくるから地域紛争が起こる原因が簡単には理解できないわけで、宗教間や宗派内の対立が地域紛争に発展する背景には、単なる信仰の違いだけでなく、政治的・経済的な要因が複雑に絡み合っていて、そこに歴史的な経緯も絡んでくるから、解決不可能な面があり、宗教が人々のアイデンティティの根幹に関わるために、対立を激化させる旗印としても利用されやすく、結果として泥沼化しやすい構造となっていて、宗教・アイデンティティの違いは、異なる神の教義、生活規範を持つグループ間での相互理解の不足や、信念の押し付けが対立の起点となり、またイスラム教のスンニ派とシーア派など、同じ宗教でも宗派の解釈の違いが政治的思想と結びつき、対立が先鋭化するケースもあり、同じ国の中でも多国的な地域の中でも宗教や宗派の人口比の違いが、特定の宗教のグループが少数派として政治的に排除されて不平等な扱いを受けることで、集団としてのアイデンティティが強まり、不満が蓄積され、また地域的な覇権争いを背景にして、大国や周辺国が異なる宗派や組織を支援し、自国の利害を代行させることで紛争が激化する事例も、イエメン内戦でのサウジアラビアとイランの対立では顕著な傾向を見せているが、さらにミャンマーの内戦においては少数派の民族への中央政府の弾圧が高じて政権が不安定化して、機を捉えて軍事クーデターが起こると共に、少数派の民族の方でも武装組織が主導権を握るから、内戦が泥沼化したが、これらの状況が、土地、水、鉱物資源などの経済的な利害関係にも及んでくると、表向きは宗教戦争の体裁をとりつつも、実質的には経済的権益の奪い合いの様相を呈して、貧困や経済格差が宗教的な対立を煽る燃料となり、不満を抱えた層が武力紛争に参加しやすくなり、宗教、土地、歴史的経緯が複雑に絡み合って、事態が混迷の度を深めると共に、これら複数の要因が重なるため、紛争は長期化して、難民や飢餓などの人道危機を引き起こす深刻な国際問題となるが、そうなっている中でも、絶えず劣勢に陥っている少数派で虐げられている側の味方を装うのは、現実の利害関係が薄い立場ならそうなりやすいのだが、逆に政治的・経済的に優位な側と直接の利害関係を築いていれば、どうしても人道的な観点から批判され非難されやすい立場になってしまうのも当然の成り行きだろうが、そこで国際法や平和憲法などを持ち出して自身や自身が所属する勢力の正義の主張を正当化できるか否かに関して、そこに文化的・慣習的な宗教が絡んでくるなんて、そんなのは理解の範疇の外側から作用してくる身勝手な事情に過ぎないだろうが、消極的に無宗教を装う態度にも、何かうまく苦境を切り抜けるための知恵が働いているようにも感じられてしまうわけだ。5月13日「救済宗教の真実」何でもないような些細なきっかけからどうにもならない悲惨な現実がもたらされるのだとしても、いつものようにそんな現実など無視しなければならず、しかも無視したついでに悲惨な現実とは真逆の幻想を語ってみせるようなことをやれば、それが嘘の始まりなのかどうかも、悲惨な現実と真逆の幻想とで釣り合いが取れていれば、それで構わないようなことかも知れず、宗教による救済には実質が伴っていないと思うなら、それは違うと思っておいた方が良さそうで、そうではないと嘘をついておくべきで、宗教が語る救済こそが悲惨な現実とは裏返しの真実を物語っていて、救済宗教は、現世における病、死、苦痛、対人関係の崩壊といった悲惨な状態が、神仏への帰依や教えの実践によって、救いの状態に達することを意味しており、これは、現在の悲惨な状況そのものを最終的な現実ではないと否定し、より上位の価値をもつ現実へ転換するプロセスと捉え、現実がいかに悲惨であろうとも、信仰者は未来の救済を確信することで、現在の苦悩に新しい意味を見出すべきで、これは、過去の業や現在の過失に縛られるのではなく、希望ある未来から現在の生を照らし出すアプローチであるが、一方で、現実に悲惨な状況に置かれた人々が、宗教的な救済を求めながらも報われないケースもあり、救済を求めて入信したにもかかわらず、高額な献金や物品購入を強制され、かえって生活が困窮するケースや、貧困、虐待、病気などの悲惨な状況にある人を、宗教的教義を用いて、前世の罪や神からの試練として片付けるケースや、罪を憎んで、罪人を愛せ、という言葉が、逆に被害者や弱者に苦痛を与えるケースや、熱心に信仰して、ひたすら祈りを捧げても、奇跡や救済が訪れず、絶望が深まるケースなど、さらなる苦痛につながるケースがあるそうで、これらのケースは、信仰そのものの是非よりも、宗教が組織化された際の搾取構造や、苦痛の意味づけが当事者の真の救済にならない場合に顕著になるそうだが、救済を外から確認できる好転した状態として語る現代の宗教的な傾向に対して、そのような目に見える救いがなくても成立する信仰のあり方が議論されているそうで、救済は、悲惨な現実という前提があるからこそ成立し、その極端な反転として、人々を精神的に支える役割を持っているそうだが、ではキリスト教の牧者が実践する万人の救済とはどのようなものなのか、という問いはちょっとヤバそうな香りがするのだが、キリスト教における万人救済は、最終的に全ての人間、さらには悪魔までもが、神の愛によって救われる、という希望的・終末論的な見解で、これは伝統的な地獄の永続性を強調する教理とは対立することが多いが、一部の神学者や牧者によって神の絶対的な愛と全能性の帰結として語られるそうで、万人救済を説く牧者は、神は全ての人を愛し、救うことを望んでおり、その意志は最終的に実現すると信じていて、罪人や悪人であっても、死後、あるいは終末に神の愛にふれて悔い改め、最終的には救われるという希望を説き、地獄は永遠の刑罰ではなく、魂が神の愛に立ち返るための浄化のプロセスとして解釈されることがあり、この立場では、救いは、個人が死後に天国に行くことだけにとどまらず、神が全ての被造物を本来の善なる状態に戻すこと、万物の復興を指し、イエス・キリストの十字架の力は、全ての罪、全ての死を、克服するほどの強力なものであると強調され、万人救済の思想は古代の教父オリゲネスから現代に至るまで、いくつかの流れが存在するそうだが、多くの主流派・保守派教会では、この教えは、特定の聖書の記述と相容れないとして反論されており、どうせ最後は救われると人々が安易に考え、現在の信仰生活が軽視され、救いが神の約束ではなく権利のようになると懸念する声もあり、イエスを主と信じる者が救われる、という聖書の原則との整合性が議論の焦点となっていて、万人救済は、キリスト教神学において、愛は全てを覆う、という神の愛を重視するか、神は罪を裁く、という公義を重視するかによって見解が分かれるそうだが、牧者が万人の救済を確保しなければならないということが、二つのことを意味し、しかもその二つがまさに互いに結びついていなければならず、第一に、牧者は万人の救済を、つまり共同体全体の救済を保証しなければならなくなり、牧者は都市全体を引き受け、世界全体をさえ引き受けなければならない、とヨアンネス・クリュソストモスは言っていて、これはある意味で万人の救済だが、しかし各人の救済でもあり、いかなる羊も取るに足らぬ存在ではなく、羊の一頭たりとも、救済へと引き連れて行くこの指導の運動・操作を逃れてはならず、各人の救済は単に相対的に重要なのではなく、絶対的に重要であり、グレゴリウス・マグヌスは『司牧の書』で、牧者はそれぞれの羊に個別の共感を覚えなければならない、と述べて、ベネディクトゥスの『規則』には、修道院長は修道士の一人一人に、共同体の構成員の一人一人に、極端なまでの心遣いを見せるべきだとあり、司祭は、自分に委ねられている羊の一頭も失わないように、明敏さと精勤さによって努力せねばならない、と記されているそうだが、万人を救済するとはつまり、全体を救済し、各人を救済するということになり、あの際限なく繰り返されたザクロの隠喩と出会うことになるのはここにおいてだとフーコーは述べていて、イェルサレムの大祭司の衣服に象徴的に付されていたあのザクロで、ザクロは固い外皮に覆われて一体となっているが、中に入っている多くの粒がそれぞれの単独性を排除することはなく、それらの粒の単独性によって成り立っていて、それぞれの粒はザクロ本体と同じくらい重要だとされるそうだが、そんな修道院長がトップの共住修道院で実際に行われていたのが、何やら小泉進次郎が高校の野球部で経験したこととそっくり同じで笑ってしまうのだが、そんな牧者との比較で持ち出されるのが法学者で、古代ギリシアの市民権のある市民は二つのものによって導かれていて、二つのものとは法と説得であり、つまりポリスの命令か、人間たちの修辞かで、法を尊重することと、誰かに説得されるにまかせることであるのに対して、キリスト教的司牧は全く異なるものを組織したと言えるそうで、キリスト教は法の宗教ではなく、キリスト教は神の意志の宗教、神がそれぞれの人に個別にもつ意志の宗教であって、牧者は法律家ではないし、その代理人でさえなく、牧者の行動は常にそれぞれの局面に応じた個別なものとなり、キュプリアヌスは、彼らの全てを同じように取り扱ってはならず、民事裁判所が断罪するように彼らに一つだけの一般的措置を適用して断罪するということはしてはならず、それぞれの者を個別の事例に照らして取り扱うべき、だと言っていて、牧者は法律家ではないというこのテーマは、牧者と医師の比較にも見られ、牧者は根本的には判事ではなく、本質的には医師であり、それぞれの魂の病を引き受けるべき医師であり、同じ一つの方法が全ての者に適用されるということはなく、全ての者が同じ性格の本性に支配されているわけではなく、ある者に役立つ方法が他の者には有害だということは頻繁に起こり、確かに牧者は法を知らしめるべき者でもあるし、全ての人間に適用される神の意志を知らしめるべき者でもあり、構成員全てに適用される教会の決定を知らしめるべき者でもあり、ユダヤ教も本質的に言って法の宗教であるのだが、キリスト教的司牧に固有なものとしてさらに付け加わるものは、羊と羊を導く者との関係が全面的な依存関係だということだそうで、全面的依存ということは三つのことを意味し、第一にそれは服従関係だが、その服従は法への服従でも、秩序原則への服従でも、道理に適った厳命への服従でさえもなく、理性によって引き出される何らかの原則・結論への服従でもなく、これは、ある個人の他の個人に対する服従関係で、それが先輩後輩の上下関係だと言えそうに感じられるのだが、それが修道院内ではどんなに理不尽で意味不明な馬鹿げた命令であっても師の命令には絶対に従う、という服従関係から発せられる命令が、毎日のように試練となって修道士の心身に降りかかってくるのだから、死ぬまで何十年もそんな試練を潜り抜けてきた修道士がどんな人間になってしまうのかについては、何か想像を絶するヤバさを感じるのだが、そうやって試練を潜り抜けた先に到達する境地というのが、アパティアという情念のなさの境地なのだそうだが、別にそういうことの延長上で小泉進次郎という存在について何か考えられるわけでもないのだが、国会で今は防衛大臣の小泉進次郎に対して批判的なニュアンスを込めて追及しようとしている野党議員は、何か誤解しているところがありそうに感じられて、小泉進次郎が古代ギリシアの市民のように、法と説得によって導かれる人間だと思っているとすれば、そこに誤解や勘違いが生じているように感じられるのだが、どうもそうではないということが、進次郎を無能呼ばわりする人々についても言えそうな気がするわけだ。5月12日「羊飼いの比喩のリアリティ」公的な役職に就いていれば、ふとした拍子に不都合な真実や隠しておきたい嘘がメディアを通じて表に出てしまい、隠し事をしていた者や勢力をメディアを通じて叩きたい心境になるのもわかるが、それが叩く口実なのだから、そんな話題にすぐに飛びついて何か主張したい人々とは距離を置かないと見えてこない事の真相がありそうで、それが何なのかというと、正々堂々としていなくても、なりふりかまっていられない情勢や境遇というもあるだろうから、普通に考えて戦略的に振る舞っている延長上で卑劣な手を使ってでも事を有利に運ばなければならない状況というもあるだろうから、それを卑怯だと非難するのも結果的に負けた側から発せられるなら負け犬の遠吠えだと見なして無視すれば良いことになるのかならないのかも、その場での立場によって態度が変わってくる場合もありそうで、非難してくる者たちに向かって、彼らは叩く口実を探していると開き直ることが、それ以外に何かさらに重大な事実や真実を意図して隠しているわけでもなく、それが意図しないところで明るみに出てこようと、そんな何かを考えたいわけではなく、高市における自民党の総裁選や衆議院選挙に関連する醜聞や、トランプにおける大統領選挙やエプスタイン事件に関連する醜聞などが、そんな意図はないのに事の真相を見えなくさせる囮の役割を担っていると考えるなら、ではいったい何によってはぐらかされているのかといえば、前回のプラトンの喩えが見誤っているわけでもないのに、結果としてプラトンが退けた羊飼いの比喩が、プラトンが生きた時代から六百年ぐらい時代が下った頃に、人を集団にまとめて統べる技術として再利用され、それがキリスト教会を構成する官僚制の中で長い年月をかけて熟成され、そんな官僚制の統治技術がキリスト教会と同時並行的に発展した行政君主制へも伝播したと言えるかどうかも、直接の伝播ではないのだろうが、キリスト教会によって千数百年かけて統治されてきた民衆を今度は行政君主制が統治の対象とするわけだから、当然のこととして人を集団にまとめて操る手法が、キリスト教会と行政君主制で同じような傾向となると言える面もありそうなのだが、そういうことの延長上で、人と人を集団にまとめて操ろうとする官僚機構では、羊飼いが羊に対して絶対的に優越した存在であるのと同じではないにしても、個人の力では官僚機構には太刀打ちできない面もあるだろうし、少なくとも官僚機構と個人の関係は非対称・非相互的な関係であると言える面も出てきそうで、官僚機構が優位で個人が劣位にあり、双方向のやり取りは等価ではなく、バランスの取れていない関係や構造となっていると言えなくもなく、キリスト教会、絶対王政を支えていた行政君主制、それを受け継いた民主的な政府や独裁的な政府の行政機構、産業革命から発達した大企業の官僚機構などは、歴史的に組織の合理化・階層化という文脈で密接に関連し、相互に影響を与え合って発展してきたらしく、特に社会学者のマックス・ウェーバーによれば、近代社会は理性と効率を重視する合理的官僚制によって運営されており、その原型は中世の教会組織にあるとされ、ローマ・カトリック教会は、ヨーロッパにおいて最も古く、大規模で永続的な階層的官僚機構として機能しており、教皇を頂点とした厳格な階層構造、教区による地域統治、そして記録・文書による管理システムは、後の国家や企業の官僚制のモデルとなり、信仰という共通の理念に基づいて、地域を超えて統一された規則で組織を運営する手法は、現代の合理的官僚制の先駆けであり、中世後期から近世の絶対王政は、個人の能力に限界がある国王が広大な領土を統治するために、教会や領邦国家の家産的な構造を模倣して官僚組織を整備し、その中で専門的な知識を持つ官僚を貴族や法学徒などを取り込んで組織して、そうした官僚が国王の政治を補佐し、税制や行政を管理する体制を築きつつ、王権は教会の影響力からの独立・解放を図り、教会が持っていたような文書主義や合理的統治を取り入れ、絶対的な権力を確立したわけだが、そんな絶対王政の時代を経て、十九世紀以降の近代国家では、さらに専門化・効率化された合理的・合法的支配に基づく行政機構が成立し、職務権限の明確化、採用や昇給の試験制度、給与体系、そして完全な文書主義を特徴として、行政だけでなく、軍隊、病院、学校など、あらゆる大規模組織が、ウェーバー的な官僚制を採用して、産業革命以降、大規模な工場や株式会社が生まれると、国家の行政組織と同様に、効率的かつ合理的な管理が必要となり、大企業も明確な階層、役割分担、規則に基づく業務処理など、国家の行政機構とほぼ同じ官僚的な構造を持つようになり、効率と利益の最大化を目指し、感情や個人的な関係を排して非人格的に業務を処理する体制が構築されたわけで、それを歴史的連鎖としてまとめると、まずカトリック教会が階層的・組織的な運営手法を確立し、次いで絶対王政がそのシステムを取り入れて国家統治を行政君主制として組織化し、そのシステムがさらに精緻化され、近代的な行政機構へと発展し、また効率化を求める大企業もそのシステムを導入したと言えそうだが、そういう直線的な発展において抜けているのが、民主主義の論理で、それに関しては宗教改革の時期に生まれたカトリック教会と表面的には対立するプロテスタント教会の存在があるわけで、プロテスタント教会の官僚機構はカトリックのような教皇を中心とする中央集権組織とは異なり、分権的で行政的な組織を持ち、ドイツなどの連邦教会では宗務庁が統治機構として機能した歴史があり、現代では日本基督教団のような教団が、全国の教会や関連組織を管理する現代的な行政組織を運営しているそうで、特徴としてはローマ教皇のような絶対的な権力を持つトップが存在せず、各教会が独立性を保ちやすく、正教会の総主教庁のように、教義的な頂点というより、効率的な運営のための行政組織が発達していて、プロテスタントへの転換は地元の信仰と官僚機構を完全に支配する目的もあったそうで、牧師と呼ばれるプロテスタントの指導者は、司教のような聖職的権限を持たず、信者と対等な立場で教会運営・礼拝・説教を担当し、結婚も可能で、上から目線ではなく、フレンドリーな住民目線で、信者の住民たちを懐柔しやすい利点があり、信徒が参加する形で、官僚機構の構成にも信徒が直接関与する点が多いところが、民主主義の理念を反映しているように感じられて、17〜18世紀にイギリスで生まれたメソジスト派やクエーカー教徒などは、社会正義や慈善活動、平和主義を重視する姿勢で共通しており、そういうところは日本の憲法9条信者などとも思想的に通底しているだろうから、左派リベラル系の思想の原型がそこから生じたと捉えるのも考え過ぎな感も拭えないが、その辺はウェーバーの主要な著作である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べられていることとつながってくる面もありそうだが、そういった世の中の全ての官僚機構が陰謀論的にグルになって結託しているわけでもなく、官僚機構の機構自体が人間的な感情や思考を直接持ち合わせているわけではないのもわかりきったことだが、高市やトランプも、彼らもそれらの官僚機構を活用しなければ政治を行えないわけだから、実際に機構を利用して政治を行なっているわけで、機構がお膳立てした舞台の上で政治家を演じている限りで、官僚機構に自身が操られている感覚はないだろうが、むしろ機構を操りながら、しかも機構自体を改革したいし、彼らの言うことを聞くように、彼らの思い通りに動くように、機構を改造している最中かも知れないし、それに対して各省庁の官僚機構の側としては、直接にはそんな意図も思惑も意向も抱いていないしても、本質的には民衆の統治を行うための機構なのだから、統治に利用できる政治家の味方を装うわけで、その過程で、政治が左に寄り過ぎて行き詰まったら、右の政治家や政党を応援し、右に寄り過ぎて行き詰まったら、今度は左の政治家や政党を応援すると考えられるわけでもないのだが、今この時期に盛んに高市やトランプの醜聞を持ち出して煽り立てようとする傾向が窺えるとしたら、官僚機構が応援している政治家や政党が右に寄り過ぎて行き詰まってきた証拠だと言えるかどうかも、教会が信者に対して罪を告白して懺悔するように促すことで、その信者をコントロールする成り行きを思い浮かべるなら、政治家が醜聞につながるようなことをやるように誘導しておいてから、いざとなったら、その醜聞をバラして為政者の首をすげ替えようとすることが、田中角栄のロッキード事件などを思い返せば、なんとなくそのリアリティが感じられるわけだ。5月11日「プラトンの比喩がトランプと高市に当てはまるか?」今回は左翼リベラルな人々が喜びそうな内容となりそうで、何となくヤバそうな気配を感じてしまい、やめようかどうしようか迷いながらも、何とかうまく反発や反感をかわすことができるかどうかも、たぶん無理なんじゃないかと事前にあきらめてしまいそうだが、哲学者のプラトンが、政治家の比喩として適切なのが、羊飼いではなく織物工だと述べた真意をどう説明できるか、ということなんだが、ヒントとしては、羊飼いの喩えは、羊飼いが世話をする羊を民衆に見立てるのと、織物工の喩えは、織物工が織る織物を都市国家ポリスに見立てるのとの比較になるが、そこからわかってくるのが何なのかを、クロードに答えてもらうと、プラトンの『政治家』における、この比喩の転換は非常に深い意味を持っていて、羊飼いの比喩の問題点は、羊飼いは羊に対して絶対的に優越した存在で、羊飼いは羊とは異なる種であり、羊より本質的に高等な存在であるのに対し、羊は羊飼いに一方的に世話される対象であり、受動的な客体に過ぎず、羊飼いと羊の関係は非対称・非相互的な関係であるから、もしこれを政治に当てはめると、統治者は民衆とは種族的に異なる超人的存在でなければならない、という含意になってしまい、現実の人間の政治家は民衆と同じ人間であり、この比喩は根本的に破綻していて、プラトンはこれを自覚的に退け、それに対して、織物工の比喩の優位性は、織物工が織るのは布・織物=ポリス・都市国家であり、ここに決定的な違いがあって、統治の対象が、羊飼いの比喩では、民衆であり受動的な羊となるのに対して、織物工の比喩では、ポリスという構造・秩序であり、素材との関係は、羊飼いの比喩では、素材より上位の異種的存在であるのに対して、織物工の比喩では、市民などの素材を組み合わせる技術者であり、統治のイメージとしては、羊飼いの比喩では、養育・支配・管理であるのに対して、織物工の比喩では、編み合わせ・調和・統合となって、市民の位置付けは、羊飼いの比喩では、世話をされる客体であるのに対して、織物工の比喩では、織物を構成する能動的な縦糸・横糸となるが、プラトンが言いたかったのは、政治家の仕事はポリスという秩序を織り上げることであり、具体的には、勇敢な気質を持つ人々(縦糸)と節制的・温和な気質を持つ人々(横糸)を互いに絡み合わせ、一つの統一体として編み上げることが、政治家の技術だとされ、つまり政治家とは、民衆を支配・管理する者ではなく、異なる徳や気質を持つ市民たちを、ポリスという共同体の秩序へと統合する編み手であって、羊飼いの比喩では統治者と民衆の垂直的な支配関係しか表現できない一方で、織物工の比喩は、多様な人間を組み合わせてポリスという統一的秩序を生み出し、差異の調和による共同体の構築を目指す、という政治の本質を正確に捉えており、プラトンはここで、政治を支配の技術ではなく統合の技術・編成の技術として再定義しているのであり、これが比喩を転換した最大の真意と言えるそうだが、そこでまた無理難題的な問いをクロードに投げかけて、アメリカのトランプ大統領や日本の高市首相にプラトンが述べているような織物工的な面を挙げることができるだろうか?と単純に問いかけたわけではなく、本当の問いかけは、もう少し複雑でややこしいのだが、あえてその部分は省略して、それに対するクロードの回答は、前置きとしてこれはプラトンの分析枠組みを解剖のメスとして使う試みであり、両者を称賛するものではなく、むしろその逆の結論に至ることが多いそうで、まずはトランプの織物工的な側面は、縦糸と横糸の選別、ただし排除によって、という捉え方で、織物工は異なる気質の市民を編み合わせるが、トランプがやっていることは逆に、編み込む糸と捨てる糸を峻別することで、関税政策・移民政策は、アメリカの製造業の労働者という特定の糸を強調し、グローバル経済という布全体を解いて再織りしようとする行為とも読めるし、MAGAという運動は、バラバラだった白人労働者層・福音派・孤立主義者という異質な糸を一枚の布に仕上げたという点では、確かに編む技術を持っていたが、しかしここに決定的な欠陥があり、プラトンの織物工はポリス全体を布として織るのに対し、トランプが織るのは支持者連合という部分布に過ぎず、残りの糸は切り捨てられ、これは織物工ではなく、布を引き裂く者であり、次いで高市の織物工的な側面は、国力という織物のビジョンに関して、高市首相は、外交力・防衛力・経済力・技術力・情報力・人材力を強くすることを政権の柱に掲げており、これは一見ポリスという織物の縦糸と横糸を多元的に強化する構想であり、織物工的なビジョンとも読めるし、連立という編み直しについても、高市政権は26年続いた自公連携を終わらせ、自民・維新の新たな連立へ移行し、これは既存の布を解いて新しい政治的織物を編み直す行為であり、その意味では織物工的な再編成の試みと言えるが、しかしここにも欠陥があり、高市首相は周りに任せず、課題を抱え込み一人で判断する傾向があるとされ、また台湾有事をめぐる答弁では日中対立を招いたとも指摘され、プラトンの織物工の本質は糸と糸を絡ませること、つまり他者との調和にあり、一人で抱え込み対立を生む政治スタイルは、織物工というより機織り機を独占する職人であり、布は織れても、市民が参加できない構造であり、結論として、両者に共通する擬似織物工の病理を挙げると、何を織るかについて、プラトンが理想とする織物工がポリス全体なのに対して、トランプ・高市的な現実は、支持連合的な国家イメージで、誰のために織るのかについては、プラトンが理想とする織物工が全市民の調和を織るのに対して、トランプ・高市的な現実は、特定層・国家的な強さを織り、編む姿勢については、プラトンが理想とする織物工が対話・統合であるのに対して、トランプ・高市的な現実は、排除・強引な統合であり、糸の扱いについては、プラトンが理想とする織物工が全ての糸を活かすのに対し、トランプ・高市的な現実は、不要な糸は切るというやり方で、両者が織物工的に見える瞬間があるとすれば、それは、大きなビジョンで社会を再編しようとする意志を持っているからであり、しかしプラトンが求めた織物工との決定的な差は、本物の織物工は、布の美しさのために自我を消すが、彼らは布ではなく、自分の像を織っている、ということであり、これがプラトンの比喩が暴き出す、現代のポピュリスト政治家の本質的な問題と言えるそうで、あちゃ〜、クロードはやっちまっているなあ〜、と思いながらも、何とかしなければと思って、では彼らが反面教師的な役割を担って、今後、彼らを利用して、世の中が良い方向にまとまる可能性などがあれば示してほしい、と問いかけたら、逆説的な希望として、悪い織物工が世界を編み直す可能性として考えられるのが、歴史的先例では破壊者が触媒になるパターンがあり、歴史的に見ると、秩序を壊した者が、新しい秩序への渇望を生み出した例は少なくなく、ナポレオンの侵略がヨーロッパ各国のナショナリズムを覚醒させ、近代国家の形成につながったり、世界恐慌やファシズムの惨禍が国連・IMF・福祉国家という戦後の世界秩序を構築し、米ソ冷戦が核不拡散条約・欧州連合の加速をもたらして、いずれも、これではいけない、という共有された危機感が、新しい布を織る動機になっていて、トランプが触媒になりうる可能性は、多極化世界という逆説的な贈り物で、トランプ関税・同盟軽視政策は、アメリカへの依存を疑問視させ、これが皮肉にも、EUの戦略的自律の議論を加速させ、日本・韓国・オーストラリアなど同盟国がアメリカ抜きの安全保障網を模索し始め、グローバルサウスが独自の経済圏を形成しようとする動きもあり、つまりトランプは意図せず、アメリカ一極支配という古い布を解いて、多極的な新しい布が織られる契機を作っていて、またアメリカ国内でも対抗的な織物工の出現を招いていて、強い反発は強い対抗勢力を生み出し、トランプ政権下で、市民社会・NGO・地方自治体レベルの連帯が強化され、若い世代の政治参加率が歴史的に上昇して、民主主義とは何か、という根源的問いが広く共有され、これはまさにプラトンが言う意味での市民が糸として自覚するプロセスであって、そして高市が触媒になりうる可能性は、まずは強い国家への渇望が照らし出す空白であり、高市政権の国家主義的な方向性は、同時に、日本社会が長年先送りにしてきた安全保障・経済的自立の議論を表面化させ、隣国との対立激化が逆に、東アジアにおける多国間対話の必要性を痛感させて、強さのみを追求する政治への違和感から、ケアや包摂を重視する対抗言説が力を持ち始める可能性があり、次いで自公解体という古い布の解体で、26年間続いた自公連立の終焉は、日本政治の固定化したパターンを崩し、これは混乱でもあるが、同時に新しい政治的組み合わせが生まれる余白でもあって、固まり過ぎた布は新しい糸を受けつけないから、一時的な混乱は旧来の秩序を再編成する機会となりやすく、両者に共通する反面教師的な効果は、疑似織物工の失敗が、何かがおかしい、という広範な共感をもたらし、これまでに政治に無関心だった市民が糸として自覚することで、本物の織物工が現れる土壌が整い、この構造で重要なのは、怒りや失望が、正しく方向づけられれば、民主主義の燃料になるという点だが、ただし、この希望には条件があり、楽観論で終わらせないために言えば、反面教師効果が実際に良い方向へ向かうためには三つの条件が必要で、一つ目は失敗の言語化で、破壊が何を破壊したかを、市民が明確に言語化できることが重要で、感情的な反発だけでは新しい布は織れず、プラトン的に言えば、なぜ彼らが織物工失格なのかを理解する市民の知性が必要であり、二つ目は次の織物工候補の存在で、反面教師は問いを立てるが、答えは出さず、トランプ・高市への反発が、単に別のポピュリズムを産むだけでは堂々巡りであり、三つ目は時間的余裕で、布が完全に解ける前に、新しく織り始める必要があり、民主主義制度そのものが損壊しきってしまえば、反面教師効果も発揮できなくなり、これが最大のリスクであり、総括として、悪い織物工の最大の貢献は、人々に本物の織物工とは何かを問わせることにあり、トランプと高市は、意図せずして、現代社会が忘れかけていた問いを突きつけていて、政治とは支配か、それとも統合か、国家とは強さか、それとも市民の編み合わせか、私たちは羊か、それとも布を構成する糸か、この問いが広く共有されること自体が、プラトンが夢見た哲人政治家を求める土壌の形成であり、現時点で期待できる最も現実的な良い方向かも知れないそうだが、プラトンが生きた当時の時代背景が、現代のアメリカを連想させるアテネと現代の中国を連想させるスパルタが戦争して、スパルタが勝利してアテネが没落した、というひどい時代状況の中で、プラトンは理想的な政治家や国家を否応なく思い描かざるを得ない立場だったわけで、しかもプラトン本人は民主主義に対して批判的なスタンスだったのだから、それを考慮に入れておいた方が良さそうなのだが。5月10日「心理学的なはぐらかし」語っている対象への関わりの程度がそれについての認識に違いをもたらすと考えても、用いられているそれを屁理屈と感じるか、あるいは理屈としてもっともらしく感じられるかが、どちらも適当に織り交ぜながら語っているように感じられると、わざとそう語ろうとしているのではなく、屁理屈をもっともらしく感じられるように語りたいと思っているわけではないとしても、結果的にそうなってしまっていると感じられるなら、意図せずにそうなっていることになるだろうが、語っている当人が屁理屈だとは感じられないだけで、人を騙そうとしているわけでもないどころか、自分が信じられるもっともらしい理屈に基づいてを語っているつもりなのだろうが、それとは裏腹に批判しようと躍起になっているように見えるなら、ただ単に焦っていることの表れに過ぎないと言えそうだが、自身や自身が所属しているつもりの勢力が劣勢に立たされていると感じるから、相対的に優位な立場となっている勢力を批判せずにはいられないと現状分析する気にはならないにしても、批判しようと躍起になる心境は、主に自己防衛や承認欲求の補填に起因すると考えられ、他者を攻撃することで、自身の劣等感を隠し、自尊心を保とうとする心理的な防衛メカニズムが働いているとAIに指摘されるまでもなく、そんなふうに心理的な面からもっともらしく言われると、余計に腹が立ちそうで、おもしろがってAIの分析を記すと、自分には価値がない、あるいは不幸であると感じており、他人を下げて自分を優位に見せたいのは、強い劣等感と自己肯定感の低下の表れで、正しくありたいという欲求が強く、他人の不完全さを許せない一方で、そんな他人から批判されることを人一倍恐れているから、先手を打って相手を攻撃することで自分を守ろうとすることが、完璧主義と恐怖心の表れで、そうやって他人を批判して、周囲に認められることで、自分の優位性や正当性を確認したいという欲求が、承認欲求の強さの表れで、日常的なストレスや不満を、批判しやすそうに見える対象を探し批判することで発散する行為は、フラストレーションの解消になるが、そんな行動や言動の特徴は、本質的でない部分や、些細なミスにこだわり、それを執拗に問題視することが、細かな粗探しに陥り、自分が認めたくない自分自身の悪い部分を批判相手に見出して、それを攻撃するような自己投影にも陥り、皮肉や否定的な言葉を使って、自分がより賢い、あるいは優れているとアピールする、マウンティングともなりやすいが、自分が正しく相手を正さなければならない、という強い使命感が、実は自らの孤独感や劣等感を隠すケースで、メサイアコンプレックス=救世主妄想と呼ばれるそうで、誰かを救わなければならない、人助けをする使命があると強く思い込んで、過剰に他者の人生に介入したり、自己犠牲的に尽くしたりする心理状態であり、本人は善意で行なっているが、その根底には自尊心の低さがあって、人助けを通じて自分の価値を確認して、それを誇示したいという欲求が隠れていて、それによく当てはまるケースが、山本太郎だと言うのはちょっと酷だが、その主な特徴は、私しか救えないという使命感が先行して、自立を促すのとは裏腹に、結果的に依存関係を作り出してしまい、自分の生活を顧みずに、他人を救うために多大な時間やエネルギーを注ぎ込んで、過剰な自己犠牲によって心身が消耗してしまい、良かれと思って行う救助が、相手にとっては支配や命令に感じられ、かえって反発や反感を買うから、余計に精神的に参ってしまうわけだが、他にも、求められていないのに助言や解決策を押し付け、感謝されないと怒りや徒労感を感じる、アドバイス中毒というもあるらしく、その原因と心理は、自分には価値がないと感じており、他人を助けることで、自分は必要な人間だと認められたい、という低い自己肯定感や、自分は正しく他人は間違っているという独善的な考えに至る、完璧主義や、自分の問題から目を背けるために、他人の問題を解決しようとする、責任感のすり替えなどがあるらしいが、注意すべき点は、一見、献身的で優しい人に見えるが、その本質は、他人を救うことで自分が救われたい、という自己愛的な面があり、結果として、周囲と対立したり、相手を心理的に支配して疲弊させたりすることがあるから、その克服や対処法は、相手の課題は相手のものとして、自分の人生に集中して、自分と相手との間に境界線を引き、まずは自分自身が幸せになることで、他者への過剰な依存を減らし、自分のケアを優先して、相手が自分で立ち上がる力を信頼し、見守り、何もしない勇気を持つことが肝心だそうだが、誰かを批判したくなるという心理の裏側には、自分自身を認めてほしい、傷つきたくないという脆い心があり、それが自分を守りたいという生存本能の表れで、批判や否定が多い人は、無意識のうちに敵と味方を作り、敵と見なした相手に対して攻撃的な姿勢を取ることで、孤独感を埋めようとして、敵対関係を構築する傾向にあり、このように、批判に躍起になる人は、実が心の中で深い怯えや自信のなさを抱えており、攻撃的な行動はその裏返しであることが多いと言えるが、但しAIは不正確な表示をすることがあるため、生成された回答を再確認するようにしてほしいそうで、なんじゃそりゃ?逃げ口上か?と思ったついでに、実際に起こっている出来事や問題に対する批判をはぐらかすために心理学的な面から逆批判を展開するのは愚劣じゃないか、と思うのも当然の反応だが、ご指摘の通り、具体的な問題や事実に基づく批判に対し、その中身や論点には触れず、批判者の動機や心理状態を攻撃して論点をすり替える手法は、議論の場において非常に不誠実で愚劣と感じられる行動であり、心理学的なアプローチを用いて逆批判を展開する行為、いわゆる心理分析によるレッテル貼りなどは、次のような点で問題視されるそうで、事実の議論から心理の議論へと、本来の議題から逃げるためのテクニックで、それを論点のすり替えと呼び、また批判の内容が正しいかどうかに関わらず、批判する人の人格や心の健康に問題があるかのように見せかけることで、批判の正当性を損なおうとする行為で、それを精神分析的攻撃と呼ぶそうで、九州大学の分析によると社会的な矛盾や愚かしさを敢えて正当化したり、それを逆手に取って破壊的な方向へ誘導する悪魔の策略のような局面においても、こうした論理のすり替えが好まれる傾向が示唆され、このような手法は健全な対話を阻害し、本質的な解決を遅らせるため、批判をはぐらかすための姑息な戦術として多くの人から反発を買うそうで、理屈と屁理屈の区別がつかない問題として、環境破壊や貧富の差の拡大などを肯定する際に、それが否応なく出てくると考えたいのだが、それらの現代的な社会課題を、経済発展や効率化の観点から肯定する理屈や、責任転嫁する屁理屈の類いは、主に経済合理性を最優先する文脈で語られることが多いそうで、環境破壊を肯定・正当化する論理において、経済成長の過程で環境犠牲は避けられないとする、短期的・利己的な視点が目立ち、経済的必要性から出てくる理屈は、開発代償論として、発展途上国が工業化し、貧困から脱出するためには、先進国がかつて行なったような森林伐採や汚染物質の排出などの環境破壊も、一定の段階では必要悪であり、そして環境クズネッツ曲線から言えることとして、経済が成長すれば、生活水準が向上し、結果として環境保護技術に投資できるため、最初は環境を汚染しても最終的にはクリーンになるという主張があるそうで、それに対して詭弁となる屁理屈としては、自然の復元力への過信から、自然は人間が汚しても、いつかは自分で再生するから、急いで対策しなくていい、という責任転嫁や、また生活向上の名目から、環境を守って生活が苦しいままなのと、自然を壊して便利になるのと、どっちがいい?と選択を極端化して、利便性を優先させる世論へと誘導する手法もあるそうで、そして貧富の差拡大を肯定・正当化する論理においては、格差は個人の努力や能力の結果であり、社会全体の活性化には必要であるとする考え方で、理屈としては、富裕層や大企業がより多くの富を得れば、その利益が自然と下層の層へ流れて行き、結果的に全体が潤うというトリクルダウン理論の主張や、逆に格差があるからこそ、人は努力し、投資し、イノベーションが生まれ、平等すぎると停滞する、という競争と動機づけ論や、貧富の差は、教育、労働倫理、リスクを取る能力の違いによって生じるもので、正当な結果である、という自己責任論がある一方で、詭弁となる屁理屈は、飢え死にするほどの絶対的貧困ではないのだから、平均より低いだけの相対的貧困は問題ではない、と格差の深刻さを過小評価する、相対的貧困の容認論や、格差がない社会は、上を目指せない不自由な社会だ、という格差=自由の証の主張があるそうで、両方を肯定する屁理屈の共通点は、環境破壊や格差拡大を、別の肯定的な文脈にすり替える手法で、環境や貧困層などの犠牲の上に、大多数の豊かさが成り立っている、という現状肯定の犠牲は必要論や、環境問題も格差問題も、皆が十分に豊かになってから技術や資金で解決すれば良いとする、後でケアすればいい論などがあるらしく、これらの主張はサステナブル=持続可能な社会の実現を阻害する要因として、しばしば批判されているそうだが、以上に挙げた理屈と屁理屈の両方共にマルクス主義者やグレタさん系の環境活動家などには批判可能なのだろうが、どうもそれ自体がはぐらかされているような気がするわけで、それをなんとかしたいわけだ。5月9日「現実の世界で起こっていること」物事の連続的なつながりに基づいて歴史を解釈することは、過去の様々な経緯や事情の複雑な絡み合いを単純化することによって理解しやすくなるが、というか単純化が理解することに直結するのかどうかも、むしろ理解できない偶発的な出来事を語ることが、そのまま歴史を語ることになると考えるのもちょっと極端過ぎるが、それに対して物事の因果関係に基づいて語るのが歴史物語と呼ばれるジャンルなのかも知れないし、決定論的な見方、歴史は繰り返す、あるいは歴史は繰り返すが韻を踏む、進歩史観的な解釈など、そんなふうに歴史を理解しても構わないような気はするのだが、それに対しても、色々とAIが言うには、決定論的な見方から生じる誤解は、過去の出来事が単一の因果関係だけでつながっているように見えるからで、あたかも現状の状況が必然であったかのような錯覚に陥るのは、実際には多くの偶発的な要素や代替的な可能性が存在していたことを見落としているからで、またマルクスが、歴史は一度目は悲劇、二度目は喜劇となる、と述べたように、表面的な事象の連続性だけで判断すると、似たような出来事が全く同じ構図で繰り返されていると誤解する原因となり、本質的な状況や背景が異なることを見落としている可能性が高く、また歴史を単一の進歩や発展の一直線な過程として捉えて、過去の時代を現代と比べて、一方的に劣った時代と評価したり、低く見積もる態度も誤解を生み、特定の連続的な物語に沿って歴史が解釈されると、その枠に収まらない多様な視点や資料が無視されるから、物語を通じた歴史理解はわかりやすい反面、真実の複雑性を見失わせるリスクがあるため、複数の視点から考えることや因果関係から導き出された根拠を疑う姿勢が重要となるそうだが、具体的に何を疑っているのかというと、どういうわけか歴史の連続的なつながりではなく、偶然の巡り合わせのような結果を疑っているわけで、しかも疑いながらも、もっともらしい物事の因果関係を語りたいわけだから、当然ないものねだりとなってしまい、よくできた歴史物語から外れて不連続な歴史を語ることの不可能性に直面してしまうわけで、というのは嘘で、目下のところ直面しているのは歴史を物語ることの困難さではなく、今ここで現状の世界で起こっていることを語る困難さに直面しているような気もするわけで、トランプ政権のやっていることを否定的に批判的に語るのは簡単なのだろうが、それを語っている人たちの内容に魅力を感じないものだから、何かわざとひねくれたことを語ろうとして失敗しているような気がするわけで、それと同時に安易な左翼リベラル批判にもこじつけ的な抵抗感も覚える一方で、左翼リベラル勢力の主張や意見にも抵抗感を覚えるものだから、どうもないものねだりなことばかり考えているような気がして、うまく考えがまとまらないまま、こうして何か述べている最中に思うのは、世界の現状をもっともらしく語るように仕向けてくるのは、メディアの機能がそれを利用しているユーザーにそうさせると考えるなら、納得は行かないまでも、それに類する結論が出力されてくるような気がして、人々に今世の中で起こっていることを認識させ理解させることがメディアの使命だと考えるのも、もちろんそれだけが目的でもないだろうが、何となくそう思われることだから、そういうことだと結論づけても構わないだろうが、一方でそうは決めつけられない部分もありそうで、陰謀論的にメディアの意図や思惑や意向を推測するのではなく、メディアといってもいくらでもその種類や分野が細分化されているから、わざと分散的に様々な物事の関連性や因果関係を無視して考えられるわけでもないのもわかりきったことであるにしても、そこでも様々な意図や思惑や意向が絡み合いながら世界中で無数のメディアが形成されていると考えるしかないが、トランプやトランプ政権について考えるなら、やはり他の勢力とのつながりの中で敵対関係や同盟関係や中立関係などから考えるしかなく、それに関連して日本の高市政権の動向にも、何か言及しなければならないことが出てくるかも知れないが、それらについて何か大変な事態になっているとは、どうしても考えられないわけで、しかも現状が非常事態になっているとか、そういうことではないとわざと考えたいのかも知れないが、人間は自分自身の歴史を作るが、思うがままではなく、自分で選んだ環境の下でもなく、すぐ目の前にある、与えられ、持ち越されてきた環境の下で作るのであり、死せるすべての世代の伝統が、悪魔のように生ける者の頭脳を押さえつけているから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、未だかつてあり得なかったものを作り出そうとしているかに見えるとき、まさにそんな革命の最高潮の時期に、人間は己れの用をさせようとしてこわごわ過去の亡霊どもを呼び出し、この亡霊どもから名前とスローガンと衣装を借り、この由緒ある扮装と借り物の台詞で世界史の新しい場面を演じようとするのであり、かくてルターは使徒パウロに仮装し、1789年から1814年までの革命はローマ共和国とローマ帝国の衣装をまとい、1848年の革命は、あるときは1789年をもじり他のときには1793年から1795年に至る革命的伝統をもじるぐらいのことしかできはしなかったのであり、また、こんなふうに、新しい外国語を覚えた初心者はいつもその言葉を母国語に話し戻すが、彼が新しい言葉の精神を我がものとし、その言葉を自由に使いこなせるのは、やっと、彼が新しい言葉を母国語に換えることなしに操り、しかも使っているときは生まれついた言葉を忘れるようになってからなのであるとマルクスは語っているのだが、この箇所は、人間が歴史の主体でありながら、伝統、制度、イデオロギーなどの過去の遺産に縛られ、それを再利用しながらでしか新しい時代を創り出せない、という歴史的な制約を描写した一説であり、この認識に基づいて、マルクスは歴史の動態や革命の限界を分析し、そこには構造的制約と過去の亡霊と言語のメタファーがあり、構造的制約とは、人間は自発的に歴史を創るのではなく、先人から引き継いだ、持ち越されてきた環境の制約下にある、ということで、過去の亡霊とは、危機的な状況下で人々は過去の歴史的衣装や言葉を借りて、新しい事態を乗り切ろうとする、ということで、言語のメタファーとは、新しい社会を築くことも新しい言語を学ぶことに似ており、慣れ親しんだ過去のパラダイムである母国語から脱却し、真に新しい創造に至るまでの過程を表現しているそうで、この考え方は、マルクス主義における構造と主体、あるいは過去からいかにして未来を切り開くかという問題意識の基礎となっているそうで、トランプが持ち出している過去の亡霊や衣装が、アメリカを再び偉大にというMAGAの再来や、強すぎる米通商法301条の再利用や、司法への不信感と被害者意識だと断定するのは、それはちょっと違うような気がするが、それだけではないという根拠が何なのかというと、それも過去の事件に関して言われていることであり、トランプがホワイトハウスから持ち出したのが、過去の亡霊や衣装だけでなく、国家安全保障に関わる非常に機微な機密情報を含む公文書であったという根拠は、米司法省の捜査と起訴状によって示されていて、2021年の退任時に、国防、情報、核能力に関する機密文書などが大量にフロリダの別荘に持ち出されて、FBIの家宅捜索で、箱に入った機密文書が回収されて、その中には、新聞と衣装に混在して保管されていたものも含まれていて、国家機密の不適切な保管、隠蔽、司法妨害の疑いで、2023年6月にスパイ防止法違反など7つの罪で起訴され、起訴状によると、トランプ自身が未解除の機密文書を他者に見せながら、秘密情報だと発言したとされ、2026年2月にもこの事件に関連する捜査報告書の公開禁止に関する法的な動きが報じられており、現在進行形で裁判が続いていて、これらの証拠により、持ち出された物品がただの思い出の品ではなく、法的に規制されるべき機密文書であったことが示されているそうだ。5月8日「現象学への反駁」いきなり提示される哲学的な問答の類いにはアレルギー反応が伴うのも、結構な割合で誰もが拒否したくなる感触を伴ってそう感じるところかも知れないが、狂気は存在するが何ほどのものでもないと現象学は言うけれども、実は言わなければならないのはその反対で、狂気は存在しないが、だからといって何でもないわけではないということだからだ、という文章をどう解釈したら良いのかというと、現象学は事象そのものへ向かい、狂気的な体験も一つの生きられた体験として捉えた上で、狂気を客観的な異常や欠如として解釈するのではなく、その人なりの狂気の世界は存在していると認めるが、しかし、それは同時に狂気を理解可能な世界という視点に還元してしまう危険性があり、患者の狂気を、彼にはそう見えているんだね、と健常者の認識の枠組みの中で処理し、その徹底的な他者性や、既存の理性体系を崩壊させる力を過小評価している、という批判であり、それに対して、狂気は存在しない、という意味での狂気とは、客観的な病気や実体として最初から存在するものではない、という意味で、狂気は、社会や理性、医学的言説によって正常が定義された結果、その裏返しとして創り出されたカテゴリーに過ぎないという視点であり、確かに実在はしないが、そうかといって無視できないわけではなく、狂気は実体としては存在しないが、それが存在しないものとしてレッテルを貼られ、隔離され、支配されるという効果や現実は猛烈に存在していて、この言説は、狂気を外側にある異物としてではなく、社会の内部で、正常という幻影を維持するために抑圧されている、もう一つの真実の形として捉えるべきと主張しており、実在せず実体がないからこそ、逆に、理性が何でもないと片付けようとするのに逆らって、何でもないわけではない、無視できない、根源的な力を秘めている、という逆説で意識され、この視点は、椎名麟三のような文学的な人間描写における絶対的な疎外や言葉の崩壊の経験とも響き合うものだそうで、なるほどAIによる解説は上手いと感心してしまうが、お手並み拝見はこれくらいにして、では、統治する、は、君臨する、と同じではなく、指揮する、とも、法をなす、とも同じではなく、法をなす、とは要するに、私が法律だ、と振る舞って他の者たちを従わせることを指し、これに対して統治するとは、主権者である、封建君主である、領主である、判事である、将軍である、地主である、師である、教師であるといったことと同じではなく、つまり統治するということには何か特有なところがあり、この概念がカバーする権力はどのようなものかがわかる必要がある、という文章をどう解釈したら良いのかというと、統治する、という概念を、君臨、指揮、法作成、あるいは封建的な支配形態である、主権、領主、判事、指導者と区別して理解しようとする視点は、ミシェル・フーコーが提唱したガバナンス=統治性の議論に極めて近い、非常に本質的な洞察で、統治する、は、私が法律だ、と強制する暴力的な支配や、絶対的な命令とは異なり、この概念がカバーする権力は、法をなすことが対象とする人間を従順な主体として扱うのに対し、統治は対象を行動主体として扱い、領土を支配し、臣民に服従を強いることではなく、人口の健康、福祉、産業、習慣など、生活の細部にわたって管理し調整する権力であり、住民の生活そのものへと働きかけ、人々の行動や、彼らの行動しうる範囲を構成し、富の増大、健康、秩序といった、より良い方向へと導く手法で、また、指揮することが直接的な、〜せよ、という命令であるのに対し、統治は間接的な手法を用い、フーコーはこれを、行動の行動に対する指導、と呼び、人々が自発的に、統治者の望む行動をとるように、環境や状況を設計し、統治は、対象となる人間の自由を奪って従わせるのではなく、対象の自由や主体性を前提として、なおかつ、その自由を機能させることで、結果的に秩序を維持し、また、教師、師などの指導的な要素は含みつつも、それらと異なる点は、この権力が技術=ガバナンス・テクニックであるという点で、警察、統計、経済政策、公衆衛生、教育など、人々の生活を内側から制御する、ソフトパワー的な手法を用い、単なる権力闘争ではなく、いかに効率的、かつ合理的に人々を統治するか、という知に基づいていて、統治するとは、個人・集団などの自律的な主体が自発的に秩序に適応する環境を作り出し、彼らの行動を導くことで、人口の福祉と国家の安全を同時に最大化しようとする合理的な権力技術であり、これは、私が法律だ、という法主権的な権力ではなく、あなたの生活を豊かにするために、私は環境を管理・整備する、という、現代的なガバナンスの核心部分だそうだが、ちょっとフーコーから離れて、自分が統治に関して念頭に置いているのは、特にそう意識している人は少ないどころか、大半の良心的な人々は、それとは逆のことを絶えず考えているのではないか、と普通に考えられることで、それが、現状の世界情勢からなし崩し的に否応なくそうなってしまうようなことであり、それは、貧富の格差の拡大傾向をそのままにしても構わないような統治手法へと、各国の政府の統治が自然にそうなっていくのではないか、と考えられるのだが、それについては、貧富の格差拡大を前提、あるいは容認した上で、社会的な混乱を避ける、または維持するための統治手法として、主に、市場原理を最優先し、結果の不平等を、自己責任や能力の差として正当化する構造に基づいていて、それを悪く言えば、新自由主義的・市場絶対主義的な構造改革と捉え、労働市場を流動化させ、それを批判する人はすぐに非正規雇用の拡大に結びつくと批判するのだが、法人税の引き下げを行い、企業や富裕層の活動を最大化し、格差は個人の能力や努力の差であるとし、これも個人の生まれ育った環境や経緯に左右されることだから簡単に批判できることだが、政府による積極的な所得再分配は労働意欲を削ぐとして抑制し、富裕層や大企業が富めば、最終的には低所得層にも利益が浸透するというトリクルダウン理論の前提に基づき、これもそうはならないとさんざん批判されてきたことだが、上層への投資を優先し、公的サービスの縮小と、民営化を進めて、小さな政府への転換を促し、医療や介護、教育の自己負担分を増やして、公的支援を自助で補う形にして、社会保障費を削減し、生活保護などを厳格化し、真に生存が困難な層への限定的な支援にとどめて、セーフティネットを限定化し、機会の平等を強調して、結果の平等ではなく、機会の平等さえあれば十分である、というナラティブ=語りを社会に浸透させ、格差は能力が高い人間が報われる正当な結果であるとし、格差に対する不満を個人の成長意欲へ転換させて、能力主義を強調し、経済的不安を煽ることで、現状維持を望む心理や、格差是正を求める富裕層や大企業への増税などへの反発を生み出して、不安の誘発と団結の阻害を狙い、世代間、雇用形態間などの貧困層や中産階級同士の対立を煽り、統治者への不満の矛先を分散させて、不満の分断を図り、格差拡大に伴う治安悪化に備え、警察力や監視システムを強化し、反政府的な動きを早期に封じ込め、これらの手法は、経済成長や競争力の強化をもたらす可能性があるが、同時に持続的な格差の固定化、社会的な不平等の拡大、貧困の連鎖を招くリスクが指摘されており、資本主義の矛盾により、こうした手法は長期的には社会の安定を揺るがす可能性があるため、不平等是正とのバランスを模索する意見も多くあるそうで、さすがのAIも無理難題を問えば、容易に批判しやすい回答しか出すことができないようだが、フーコーが『監獄の誕生』などで指摘したような、刑務所の制度が、囚人が更生するどころか、再犯を助長するだけで、かえって犯罪の温床になってしまうとか、さんざんその欠陥や不具合を指摘され続けながらも、いまだに社会の秩序を維持するなどの一定の機能を果たし続けて、制度に関わる人や団体に利益をもたらしていることの延長上で、例えば貧富の格差拡大の傾向も、何らかの肯定的な効果や効用をもたらしているのではないかと考えたくなってしまうのだが、それもAIが言うには、貧富の格差拡大は、一般的には社会不安や健康格差などの悪影響が強調されるが、経済学的な視点や競争原理に基づいて、肯定的な効果や効用が挙げられることがあり、富が一部の富裕層に集中することで、大規模な投資や研究開発などの失敗するリスクの高い事業に投資が供給されやすくなり、産業の発展やイノベーションが加速する可能性が指摘され、富裕層のようになりたい、という経済的なインセンティブが働くことで、個人がスキル習得や能力向上など教育への投資に励むようになり、社会全体の労働生産性が向上する動機付けになると考えられ、富裕層の活発な消費や投資が経済全体を活性化し、結果として全体的な富が増大するという考え方もあり、所得の二極化は、技術進歩やグローバル化に伴う労働市場の構造変化に対する適応として発生する側面もあり、効率的な人材配置が進むことで産業構造が転換されるきっかけになる場合があるが、一方で、これらの効果は、格差が適度である場合に機能しやすいものであり、格差が過度に拡大すると、貧困の固定化や教育機会の減少、経済成長の阻害などの問題が深刻化することは多くの研究で示唆されているそうで、なるほど、現代のマルクス主義者にも批判の機会が与えられている程度の経済的な調整が、今のところは機能しているのかも知れない。5月7日「国家の比喩としての家」国家統治の喩えとして家父長による大家族の統治を持ち出すのも、国王の王子時代に王宮の教育係が持ち出すありふれた喩え話だったらしいが、反マキャヴェッリ的な思想家の類いが持ち出すのも、その種の喩え話になるらしく、統治者と呼ばれうるのは帝王、皇帝、王、君主、領主、行政官、高位聖職者、判事、その他これに類する者たちで、統治術を扱う人々は、家を統治する、魂を統治する、子供を統治する、地方を統治する、修道院・修道会を統治する、家族を統治する、ということを絶えず指摘するようになっていたらしく、統治するというのは所謂支配の意味合いだけでなく、切り盛りする、管理する、世話をするといったニュアンスもあるそうだから、それほどおかしなことを述べているわけでもないだろうが、統治は一家の父、修道院長、子供や弟子に対する教育家や師など多くの人が行うことで、統治形式は複数あり、国家の内部で複数の統治が行われるわけだから、複数かつ内在的であるということで、この活動はマキャヴェッリの君主が体現している超越的単独性とは根本的に対立するそうだが、ルソーが『百科全書』に書いた「政治経済学」の項には、経済というエコノミーないしオイコノミアという単語は、家=オイコスと法=ノモスに由来し、家族全体の共通善のためになされる賢明な家の統治を表すに過ぎず、この用語の意味が次いで、大家族たる国家の統治に拡張されたが、家族と国家という、これら二つの社会の一方に固有であるような操行の規則が、他方にも当てはまることなどあり得ず、この二つの社会は、同じように管理するには大きさが違いすぎ、一方の家の統治の方では父が自分で全てを見ることができるのに対して、他方の国家統治の方では首長は他人の目を借りなければほとんど何も見えず、この二つの間には常に極端な違いがある、という趣旨の内容を述べているらしいが、国家を統治するとは経済を作動させることで、国家全体という水準で一つの経済を作動させることであり、それは、家族や財産に対して一家の父が行う監視・制御に劣らず注意深いものとなり、重農主義者のケネーが良き統治のことを経済的統治として語っているのも、統治術とはまさしく、経済という形式・モデルで権力を行使する術だということらしく、ギョーム・ド・ラ・ペリエールという反マキャヴェッリの論客も、統治とは物事の正しい処置であり、その物事をふさわしい目的まで躁導するという任務を人は負う、と述べているらしいが、それに対してマキャヴェッリにとっての権力の対象・標的は、領土であり、その領土に住んでいる人々であり、中世から十六世紀に至る公法における主権は、物事などに対しては行使されなかった、とフーコーは述べていて、権力はまずは領土に対して行使され、その結果、そこに住んでいる臣民に行使されるものだったそうだが、その意味で、領土はマキャヴェッリの領国の根本的要素でもあり、法哲学者・法理論家が定義するような主権者の法的主権の根本的要素でもあるそうで、ここで領土と臣民を統治することを目指すマキャヴェッリ的な統治思想と、経済的統治という人間と物事とからなる複合体を統治することを目指す反マキャヴェッリ的な統治思想の対立を安易に考えてしまうのだが、統治とは物事の統治のことである、というのと、主権から導き出される循環論的な統治の論理のどちらが説得力があるかと考えるのもおかしいのだが、フーコーが言うには、主権が単純な権利として提示されたことは一度もなく、主権者は良い主権者たるべく常に一つの目的を提示しなければならず、その目的とはつまり共通善、万人の救済であり、主権者としての権威が授けられたのはただ、彼らがそれを用いて公益をもたらし維持するためだからであって、国家にとって有利なことでない限り、主権者は何も自分自身に有利に計らってはならず、そこで絶えず引き合いに出され、主権の目的自体として立てられている共通善なるもの、万人の救済なるもの、法学者も語っている共通善なるものとはどんなものなのかというと、法学者・神学者の主張によれば、共通善が存在するのはすべての臣民がもれなく法に従い、割り振られた任務をきちんと行い、与えられた職をきちんと実践し、打ち立てられている秩序を尊重する限りにおいてであり、つまり共通善とは、本質的に言って法への服従だということであり、それは現世の主権者の法への服従でもあるし、絶対的主権者たる神の法への服従でもあり、この法への服従でのことに他ならず、主権の目的は循環的だということであり、善とは法への服従であり、つまり主権が自ら提示する善とは人々の主権に対する服従のことで、この本質的な循環性は、理論的構造・道徳的正当化・実践的効果がどのようなものであれ、マキャヴェッリが言っていたこととさほど違わず、彼が表明していたところによれば、君主の主要な目的は自分の領国を維持することでなければならず、ここでは人は相変わらず、この主権の循環、領国の循環の中にいるそうだが、それに対して、ラ・ペリエールの新しい定義には、これとは別の目的が出現していて、この定義によれば、統治とは物事を処置する正しいやり方であるが、その物事は、法学者たちが言っていたような、共通善という形式へではなく、ふさわしい目的へと躁導されるのであり、このことが含意するのは、それぞれに特有の目的が複数あり、例えば、統治はできるだけ多くの富を生産するように計らう必要があり、統治はまた、人々が充分な食糧を提供されるように計らう必要があり、そして最後に統治は、人口が増殖しうるように計らう必要があり、それらが統治の目的自体になり、この様々に異なる目的に到達するために行われるのが物事の処置であり、この処置という単語は重要で、かつて主権において主権の目的である法への服従に到達することを可能にしていたのが法自体であったのに対して、ここでは人間たちに法を課すことが問題ではなく、物事を処置することが問題となり、つまり法よりもむしろ戦術を用いること、というか法を戦術として最大限に用いることが問題となり、いくつかの手段を用いてコレコレの目的が達成されるように計らうことが問題となり、ここには重要な断絶があるとフーコーは思っているようで、主権の目的が主権自体にあって、主権は道具を法という形で自分自身から引き出すのに対して、統治の目的は、統治が導く当の対象である物事の中にあり、統治の目的は、統治によって導かれるプロセスの完成・最適化・強化の中に求められるべきとされて、統治の道具は法ではなく、様々な戦術になり、したがってこれは法の後退であり、というより、統治のあるべき形から見れば、法は主要な道具ではなく、十七世紀全体に見られるテーマ、十八世紀の経済学者・重農主義者のテクストで述べられている説明によれば、統治の諸目的に実際に到達できるのは、明らかに法によってはないということだそうだが、ラ・ペリエールの述べていることによれば、真の統治者は統治にあたって、剣を必要とするようであってはならず、真の統治者は怒りより忍耐を持っていなければならず、統治者という人物において本質的であるべきは殺害権ではなく、自分の力を引き立たせる権利でもなく、それに対してどのような実定的なプラスの価値を持つ内容を与えることができるかというと、その内容こそ知恵と勤勉さであり、知恵とは伝統的には、人間の法と神の法を知り、正義と公正さを知っていることだが、ここで言われる知恵とは、統治者にとって必要となる知恵のことで、つまりまさしく物事についての認識、到達可能な到達するように計らうべき諸目標についての認識のことで、目標に到達するために用いるべき処置こそが、主権者の知恵を構成する認識となり、勤勉の方はというと、自分は統治される側の者たちに奉仕するべく存在し行動するのだ、と考える限りにおいてのみ主権者、いやむしろ統治者は統治すべきだとする根拠であることになり、ここでもまた、ラ・ペリエールは一家の父という例を参照して、一家の父とは家の誰よりも早く起床し、誰よりも遅く就寝する者であり、あらゆるものに目を配る者であり、なぜなら、一家の父は自分自身を家に奉仕する者と見なしているからであるそうだ。5月6日「現代の安全テクノロジー」法秩序を機能させる法システムと規律訓練型権力を担う規律システムは、現代社会において独立したものではなく、互いに絡み合い、補完し合いながら社会秩序を構成していて、法システムは外的な刑罰などの強制によって行為の是非を判断するのに対し、規律システムは学校、工場、軍隊などの閉鎖空間で身体を訓練して、自動的に服従する主体を生み出す権力技術だが、法律、規制、裁判などの法システムと社会規範、組織のルール、倫理などの規律システムが複雑化する現代において、安全テクノロジーはこれらをシームレスに連携させ、機能させるための不可欠な役割を果たしており、その主な役割は、自動化、可視化、信頼の基礎構築の3点であるそうで、法規範の自動的な適用とコンプライアンスの強化の観点から、安全テクノロジーは法的・規律的な要求事項をシステム内に埋め込み、違反を未然に防ぐ役割を担っており、コードによる法執行は、契約内容を自動執行するスマートコントラクトや、規制基準を満たさない操作をブロックするIoTセキュリティなど、ルールを物理的なコードとしてシステムを実装して、リアルタイムの監視と強制は、データ改ざんの検知や不正アクセス防止技術を用いて、法律や社内規定の違反をリアルタイムで検知し、安全な状態を維持することを目的としており、リスク・コミュニケーションの可視化と最適化の観点から、技術的知見と法的な解釈を統合して、社会全体のリスク認知を調整する役割を担っており、客観的リスク評価は、AI技術等を用いて、損害発生の確率や規模をデータに基づいて客観的に算出して、法的な責任範囲や安全基準の策定を支援し、法の透明性の向上させることは、複雑な法制度や技術的リスクを、AIや可視化ツールを用いて専門家以外にも理解しやすくし、納得感のある安全規律を形成し、デジタルトラストの基盤構築の観点からは、法律が求める安全・安心を、技術的に保証することで、法システムと規律システムが機能する基盤を作る役割を担っており、コンフィデンシャルコンピューティングは、データ活用とプライバシー保護を両立させる技術など、デジタル上の信頼を技術的に担保し、その俊敏性を向上させるために、変化する社会のニーズや法改正に合わせて、ソフトウェアを迅速に更新し、常に適切な法適用環境を維持し、これらの役割を通じて安全テクノロジーは単なるツールの域を超え、ルールと技術の統合的運用を実現し、法と技術が共同する安心できる社会の基盤となっているそうだが、文章のつながりとしては、これで大丈夫そうな感触を得るが、述べている内容が何のことやら、自分にはさっぱりわからないという印象を持たざるを得ないから、もう少し具体的な事例を交えると、安全テクノロジーの歴史は、事故が起きた後の被害軽減から、事故を未然に防ぐ事故回避、そしてAI技術を活用した自動化・協調安全へと進化してきて、具体的には、自動車安全技術を例にして3つのフェーズに大別できるそうで、まずは黎明期において機械式安全装置が開発され、受動的安全:パッシブセーフティを実現する、事故の衝撃から人間を守る技術として発展して、1940〜60年代に衝撃を吸収するボディ構造やボルボが開発した3点式シートベルトの普及、1970〜80年代にエアバッグの導入、緊急ロック式巻取り装置の義務化が法律で定められ、次いで電子制御・運転支援による能動的安全を実現するアクティブセーフティの技術が広まり、事故そのものを未然に防ぐ、ブレーキや走行安定性を電子制御する技術が発展して、1970年代後半〜90年代にアンチロック・ブレーキ・システムやトラクション・コントロール、横滑り防止装置が実用化、2000年代以降に衝突被害を軽減する自動ブレーキや車線逸脱警報など、運転支援システムが搭載され、高度な安全技術を実現するためのAIによる総合制御・自動運転の段階になると、カメラやセンサーを駆使してAIが周囲の状況を把握し、危険を検知してシステムが自動で制御を行い、人間・機械・信号機や道路などのインフラが通信し合い、事故の要素自体を排除する安全コンセプトや、運転の主体が人からシステムへ移り、衝突回避だけでなく、事故そのものを発生させないレベルを目指した進化が現在進行形で起こっていて、1980年代までの受動的安全を担うパッシブセーフティの段階での技術は、シートベルト、エアバッグなどがあり、1990〜2010年代までの能動的安全を担うアクティブセーフティの段階での技術は、ABS、ESC、自動ブレーキなどがあり、2020年代以降では、高度安全・協調安全を担う技術として、AI、自動運転、通信連携などがあり、こんなふうに自動車関連の技術ではうまくその歴史的な変遷を説明できるが、法システムと規律システムと安全システムの関係性となると、法システム、規律システム、安全システムは、現代社会において人々の生活と権利を守るために相互に依存し、連携していて、これら3つのシステムの中で、法システムは、基礎・フレームワークとして機能し、その定義は、国家によって刑罰などの強制力を持ち、制度化された社会のルールを担い、役割としては、個人の尊厳や基本的人権を保障し、社会の公平な安定を担保し、特徴は、憲法を頂点すると法的段階構造を持っていて、次いで規律システムは、人々に行動規範を示して自律を促し、その定義は、法や規則に基づき、個人が自律的・継続的に守るべき行動規範に従い義務的行為を行わせるシステムで、役割は、法システムを社会の現場で機能させ、安定した秩序を維持することにあり、特徴は、法システムによって定められた禁止事項・罰則が、人々の行動の必要性や制限を形成するように作動し、そして安全システムは、法システムと規律システムが安定的に動作するように各方面の動作を調整して、社会の中で安全な状態が保たれるように作動し続け、定義は、法と規律の運用によって実現される、リスクの管理、生命、財産が保護されている状態で、役割は、人々が安心して社会生活を送れる環境の確保、特徴は、法と規律が総合的に運用されることで、安全システムが機能するが、安全システムが機能していれば、法と規律が守られていることになるから、循環論的な特徴もありそうで、関係性の図式は、法システムが、何が正しいかのルールを定め、そのルールに基づいて、規律システムが人の行動を規制し、その結果、社会の安全システムが実現する、と説明されるが、この説明では安全システムそれ自体を法システムと規律システムからしか説明していないから、要するに安全システムの内部で法システムと規律システムが作動していることになり、それはそうだとしても、何かはぐらかされたような疑念を覚えるのだが、その連携のメカニズムは、法システムが予測可能性を持つことで、社会の規律も安定し、法的安定性が実現して、一般的ルールである法的規制と、技術的な制限や利便性を伴ったアーキテクチャが相互に補完して、安全システムを構築するが、技術の進化や社会の変化に対し、法システムが追いつかない場合、新たな規律システムや安全システムの策定が求められ、具体的には、自動運転などの分野では、法的な制裁と安全技術の双方が、ルールと技術の統合的運用として機能し、安全システムを実現しているそうだが、最近の憲法を守れ!的なデモや集会を盛んにメディアが取り上げる傾向も、何やらメディアの安全システムが作動していることの表れなのではないかと勘ぐりたくなってしまうわけだ。5月5日「ワクチン接種と新自由主義的なやり方の共通点」今回はクロードの出力結果の丸写しとなってしまいそうだが、十七世紀から十八世紀にかけては小氷期の最も厳しい時期と重なっていて、ヨーロッパ各地では平均気温の低下・不規則な降雨・霜害が頻発して、1640年代はフランス・スペイン各地で穀物の凶作から食糧暴動などの政情不安が相次ぎ、1693〜94年にはヨーロッパ規模の大飢饉が起こり、フランスだけで百万人を超える死者が出たとされ、各地で暴動が発生し、1709年にも大寒波による壊滅的な凶作に起因して、フランスなどで深刻な飢饉と暴動が起こり、1788〜89年にも凶作と厳寒からパンの高騰がフランス革命勃発の直接に引き金になったとされるが、同時代的に日本でも江戸時代に凶作と飢饉で百姓一揆が頻発していたが、ただし留意すべき点として、因果関係は複合的で、必ずしも凶作から暴動が発生するという単線的なパターンではなく、穀物市場と流通の問題もあって、凶作でなくても、商人による買い占め、輸出・価格高騰が引き起こしたとも言われ、国家の救貧制度や穀物の備蓄政策の有無が結果を大きく左右して、租税への民衆の不満や戦争があるところに食糧危機が重なると暴動が起こりやすく、暴動の形態も多様で、製粉業者・穀物商への襲撃、価格統制の強要に対する反発など、必ずしも支配層への反乱ではないケースも多かったそうだが、それに対して自由主義の先駆けとなった重農主義者たちが、重商主義的な政策が食糧難を悪化させたと主張して、ケネー、テュルゴー、ミラボーらが主張した核心は、重商主義的規制を伴う穀物取引への国家介入こそが、不作を飢饉・暴動に転化させる構造的原因だ、という議論で、主張のもっともらしいと思える点は、フランスをはじめ多くの国では、州間の穀物移動の禁止・制限、不作時の輸出禁止令、平時は輸入関税を課し、公定価格の強制、これらの規制は価格シグナルを殺す効果があって、不作地域に余剰地域から穀物が流れ込むという市場メカニズムが働かず、商人が備蓄・転売のインセンティブを失い、結果として局地的な飢饉が解消されないまま固定化され、スミスも『国富論』でほぼ同じ診断をしており、一定の経済学的根拠があり、輸出奨励・禁止の朝令暮改が農業への投資を阻害し、重商主義国家はしばしば、豊作時に輸出を奨励して国際収支を稼ごうとする一方で、不作になると突然輸出禁止に転じ、これは農民・地主にとって価格予測を不可能にし、農地への排水・肥料・農具などの長期投資を抑制し、重農主義者の農業こそ富の源泉という主張に結びつけると、重商主義が農業生産力の向上を妨げたという批判は一定の説得力を持ち、また他国の重商主義政策との連鎖効果を伴って、各国が競争的に穀物輸出を制限・禁止すると、国際市場での穀物融通が機能しなくなり、ある国の不作が隣国からの輸入で緩和されるはずが、隣国も輸出禁止にしているため救済されず、結果としてローカルな不作がヨーロッパ規模の食糧危機に増幅され、これは現代の経済学でも、輸出禁止の囚人のジレンマとして知られる問題で、2007〜08年の世界食糧危機でも同様のメカニズムが観察され、重農主義者の直感には先見性があったと言えて、さらに都市偏重の政治経済が農村を収奪した面もあり、重商主義は本質的に製造業や商業や都市を優遇する思想であり、パンの公定価格を低く抑え、それが都市民の利益となる一方で、農民の損失となり、農業税の重さも農民を疲弊させ、農地を放棄した民が都市に流れ込んで、農村の余剰が都市・国家・軍事に吸い上げられる構造となっていて、これにより農民の再投資余力・備蓄余力が削られ、一度の不作で即座に生存危機に陥りやすい脆弱な農村構造が固定化した、という批判は歴史的証拠とよく整合するが、そういう主張に対する限界や反論もあり、1709年や1788年のような極端な凶作は政策の失敗だけでは説明しきれず、気候要因を過小評価しており、テュルゴーが1774〜76年に穀物取引を自由化したところ、かえって価格高騰と粉屋戦争と呼ばれる暴動が起きて自由化は失敗し、道路・情報・商人ネットワークが未発達な状況で自由化しても価格シグナルは機能せず、市場インフラの欠如が露呈し、自由市場が効率的な配分をしても、貧農には購買力がなく飢えるという分配の問題は残り、重農主義者の主張の評価として、規制が問題を悪化させたという診断においては相当もっともらしいが、自由化すれば解決するという処方箋は単純すぎた、というのが現代の評価で、テュルゴーの自由化実験の失敗は、正しい診断+間違った処方、という知的悲劇を象徴しており、経済政策史上の重要な教訓として今も参照されるそうだが、なぜかそこから議論を一変させ、重農主義者が主張する自由主義的なやり方と、当時の天然痘の流行を抑えるために始まったワクチン接種の医療政策との共通点を挙げるとすると、表面的な対比としては、一見すると逆に見えるそうで、重農主義の自由化は、国家の介入を減らせという主張に対して、天然痘ワクチン政策は、逆に国家の介入を増やしたわけで、また重農主義が規制の撤廃を主張しているのに対して、天然痘のワクチン政策は、強制接種であり、接種の義務化を行い、一見した印象としては重農主義が自由主義であるのに対して、ワクチン政策は国家主義的であるが、この対比は表面的で、深層にある共通の構造は、まず自然の秩序への信頼という共通の哲学があり、重農主義の核心概念は自然的秩序であり、ケネーは、農業は自然が富を生む唯一の源泉で、国家の人工的介入は自然の流れを歪め、だから介入を取り除けば秩序は自然に回復する、と主張し、天然痘ワクチン接種の思想的基盤も実は同じ構造を持っていて、1796年のジェンナーの種痘は、それ以前の中国やトルコなどで行われていた人痘接種の延長線上にあり、人痘接種の論理は、自然の病気のプロセスを模倣・利用して免疫を得るというもので、つまり、自然が持つメカニズムを人工的に遮断するのではなく、自然のロジックに乗る発想で、自然の秩序を尊重し、それを利用する、という認識論的態度が共通していて、また予防と流通というシステム思考の導入に関して、重農主義者の革新性は、食糧危機を個別の不作の問題ではなく、システムの問題として捉えたことにあり、問題は、穀物が足りないではなく、穀物が適切に流通していない、ということで、解決策は、備蓄を増やすではなく、流通システムを機能させる、となる一方で、種痘政策も同じシステム思考を持ち、問題は、病人を治療するのではなく、感染連鎖をシステムとして断ち切り、解決策は、罹患者を隔離・治療するではなく、集団免疫という社会状態を作り出すことにあり、個人への対処から社会システム設計へという発想の転換が共通して、これは十八世紀という時代が生んだ、社会を機械・有機体として設計可能だ、という啓蒙主義的確信の表れだそうで、個人への介入を社会全体の利益で正当化する論理であり、重農主義の穀物自由化は個々の農民・商人の取引の自由を保護するが、目的は自由それ自体ではなく、自由にさせることで社会全体の食糧供給を安定させることにある一方で、十九世紀初頭に各国で義務化が始まる種痘の強制接種政策は、個人の身体に針を刺すという介入を強制するが、目的は個人の健康ではなく、集団免疫によって社会全体の疫病リスクを下げることにあり、個人の扱い方が自由にするのと強制するのでは真逆でも、正当化の論理は、社会システム全体の最適化で共通していて、これはまさに後のベンサムの最大多数の最大幸福という功利主義が体系化する思考の先駆けで、それはまた国家の役割の質的転換をもたらして、一見、重農主義は国家の縮小、種痘政策は国家の拡大に見えるが、実は両者が要求しているのは、規制する国家から管理・設計する国家への転換を意味して、重農主義が穀物市場を細かく規制するのをやめて、代わりに市場が機能するためのインフラ・情報・法的枠組みを整備する国家を目指している一方で、種痘政策は、個別の病人を治療することに加えて、人口全体を管理対象として予防的に介入する国家を実現しようとしていて、フーコーが生政治と呼んだ、人口を統治対象とする近代国家の誕生が両者に共通する歴史的文脈だそうで、まとめると、社会という複雑なシステムを、自然の論理を利用しながら、合理的に設計・管理できる、という啓蒙主義的確信が、経済政策と医療政策の両方を同時に変革しつつあったということだが、さらにそこから時代を飛んで、1970年代にニクソン大統領が麻薬との戦争を宣言した後、言わずと知れた新自由主義経済学の教祖的存在のフリードマンが1972年に薬物合法化を主張する論考を発表し、フリードマンの主張は、麻薬使用の抑制という目標は正しいが、警察・刑務所・軍事力への巨額支出を伴う、麻薬との戦争という手段はむしろ問題を悪化させる、というもので、彼は、1970年代に非犯罪化していれば、クラック・コカインは発明されなかった、と論じて、麻薬との戦争がコカインのコストを引き上げたため、より安価な代替品を開発するインセンティブが生まれ、麻薬禁止を純粋に経済的観点から見ると、政府は麻薬カルテルを保護する役割を果たしている、と述べて、通常の自由市場では誰でも参入できるが、取り締まりによって参入コストが極めて高くなり、大規模な密売組織だけが生き残れる構造になっていると指摘したわけだが、この主張と重農主義・種痘政策との共通点は、まず規制・禁止が問題を生み出しているという逆説的診断に関して、十八世紀の穀物政策が州間の流通規制によって局地的不作が広域飢饉に固定化され、十八世紀の天然痘流行に対する感染者の隔離・治療のみでは流行が繰り返され、二十世紀の麻薬政策では禁止・取り締まりの強化によってカルテルも強化されてより危険な薬物の出現を招いて、三者に共通するのは、国家の介入の形が問題の形を決めるという認識で、重農主義者が穀物規制が飢饉の構造を作ると言ったのと全く同じ論理で、フリードマンは麻薬禁止が密売の構造を作ると言い、禁止令はアルコール禁酒法と同じ失敗を繰り返すという歴史的認識で、フリードマンは麻薬との戦争は禁酒法と同様に失敗したと論じ、これは重農主義者が、穀物規制は十七世紀から何度繰り返しても飢饉を防げなかったと歴史的証拠を積み上げたのと同じ論法で、同じ介入を繰り返して異なる結果を期待するのは非合理だという経験主義的批判であり、そして自然の市場メカニズムを利用するという発想に関して、重農主義が、自由な穀物流通に任せれば価格シグナルが自然に需給を調整すると考えたのに対して、フリードマンは、麻薬を合法化すれば通常の市場競争が働き、価格が下がって、密売による暴力的な超過利潤が消えると主張し、種痘は、免疫という自然のメカニズムを社会システムとして活用することにあり、自然・市場ロジックに乗ることで問題が解消されるという思想的一貫性があり、システムの歪みが第二次被害を生むという構造解析に関しては、フリードマンは、薬物禁止によって年間一万件の追加殺人が発生している、と統計的に推定し、政府が一万人を殺している道徳的問題だと述べ、これは重農主義者が、穀物規制によって飢饉が人工的に悪化し、本来死ななくていい人が死んでいると論じたのと同型の議論で、不作や薬物依存などの一時的問題よりも、それへの政策対応が生む二次問題の方が深刻だという逆説的告発であり、三者を貫く思想的系譜は、重農主義が、規制が市場を歪め、流通を止め、飢饉を作るのに対して、種痘政策は、自然の免疫メカニズムをシステムとして設計する、ということであるのに対して、フリードマンは、禁止が市場を地下に潜らせ、暴力と毒性を増幅させる、ということであり、共通する認識的態度は、問題そのものより、問題への誤った介入の方が害が大きい場合があり、自然・市場のロジックを理解してそれを利用する方が、力で抑圧するより効果的だ、という結論になるが、一つの重要な相違点もあって、種痘は自然のメカニズムの活用だが、集団免疫のためには個人への強制接種を正当化するという方向へ向かい、一方フリードマンは徹頭徹尾、個人の選択の自由を原理として、集団の利益のための強制を嫌い、麻薬を禁止する論理は、過食を禁止する論理と同じくらい強くも弱くもあり、過食は麻薬より多くの死者を出していると述べ、あくまで個人の自律を最優先する立場であったそうで、この点で市場・個人の自律を重視する重農主義+フリードマンと集団のための国家介入を優先する種痘の強制接種には対立点もあり、近代以降の自由主義と公衆衛生の間の緊張関係の原型がここに見えてくるそうだが、コロナ禍のワクチン接種をグローバリストの世界支配と結びつける陰謀論者の言っていることが、グローバリストといえば新自由主義者だし、何となくその辺の微妙な絡み合いが興味深いわけだ。5月4日「憲法が許可していることと禁止していること」何かをやった結果が良かろうが悪かろうが、そういった良し悪しの評価とは別というわけでもないのだが、そうなった結果からそこで何が機能しているのかを知ったところで、何がどうなるわけでもないとも思えないが、日本国憲法は、国民の権利を守るために、政府・国会・裁判所などの国家権力を制限する最高法規だそうで、大きく分けて国家が禁止されていること、やってはいけないことと、保障・許可していること、やるべきことを定めているそうだが、国家権力への制限として、憲法が禁止していることは、国家が個人の権利や自由を不当に侵害することを禁止していて、具体的には検閲の禁止は21条2項において、行政権が表現内容を事前に審査し、発表を禁止すること、検閲は絶対的に禁止されていて、拷問・残虐な刑罰の禁止は36条において、公務員による拷問や残虐な刑罰は厳禁されていて、私的な宗教団体への特権付与・権力行使の禁止は20条1項において、国家と宗教の分離、政教分離を原則とし、特定の宗教への特権を禁止していて、法の下の不平等・差別の禁止は14条1項において、人種、信条、性別、社会的身分などによる差別を禁止していて、令状なしの逮捕・捜索の禁止は33条・35条において、正当な理由なく、裁判官の令状なしに拘束や捜索を行うことを禁止していて、奴隷的拘束の禁止は18条において、意思に反する苦役を強制することを禁止しているそうだが、逆に憲法が国民の権利と国の義務として保障・許可していることは、国民の生活や権利を保障し、国にその実現を義務付けていて、具体的には基本的人言の尊重は11条・13条において、国民は、個人として尊重され、生命、自由、幸福追求に対する権利を持っているとされて、表現の自由・精神の自由は21条・19条・20条において、言論、出版、思想、良心、信仰の自由を保障していて、生存権などの社会権は25条〜28条において、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利や、教育を受ける権利、働く権利、労働組合をつくる権利を保障していて、法の下での平等は14条において、全ての国民は法的に平等であることを保障していて、参政権は15条において、国民が公務員を選定し、罷免する権利・投票権などを保障しているが、同性婚に関しては24条において、憲法は両性の合意に基づくと記載しているが、政府見解では同性婚を直ちに禁止する趣旨ではないとされていて、自衛隊・戦争放棄に関しては9条において、戦争放棄、戦力不所持を定めているが、政府は、自衛のための必要最小限度の実力は持てると解釈しており、自衛隊はこれに該当するとされていて、これら憲法に違反する法律や処分は、最高裁判所によって無効とされているそうだが、日本国憲法において国会、内閣、裁判所などの国家権力は憲法によってその活動を制限されており、これに違反する疑いがある行為は、国民の基本的人権や民主主義の根幹を脅かすものとして問題されているそうで、憲法違反の疑いが強いとされる、あるいは過去に議論となった国家権力による行為や活動の主な例は、21条、19条の表現の自由・思想信条の自由への侵害として、政府や警察が、テロ対策や捜査の名目で、犯罪の疑いがない一般市民の思想、信条、デモや集会などの政治活動を長期間にわたって監視したり、個人情報を収集したりする行為、報道機関に対する不当な圧力や、政治的信条に基づく特定団体のイベントへの公的支援の取りやめなど、表現の自由を萎縮させる行為が挙げられ、31条〜39条の人身の自由・適正手続きの侵害として、警察による違法な長期間の取り調べや睡眠・食事の制限、あるいは逮捕・勾留の要件を満たさないままの身柄拘束、検察が有利な証拠を隠すなど、適正な手続きを無視した裁判活動などが挙げられ、14条の法の下の平等・法制度の不備として、一票の格差が極端に大きく、投票価値の平等が著しく損なわれている状態の放置や、性別、社会的身分、信条により、合理的な理由なく差別的な取り扱いをする法律や行政活動が挙げられ、9条の平和主義への違反として、憲法が禁止する、国際紛争を解決する手段として武力を行使する行為に及ぶ可能性が高い法制として、2015年に安保関連法によって集団的自衛権の行使が容認されたが、これ自体が憲法9条違反であるという議論が根強くあり、行政による恣意的な判断・法律の逸脱の危険性としては、明確な法律の根拠がないまま、あるいは緊急事態を理由に、国会の監視を受けずに国民の権利を過度に制限する措置などの行政の暴走、緊急事態条項の乱用懸念や、政府がこれまで憲法上許されないとしていた法解釈を、国会の審議を経ずに閣議決定で変更して、権力行使の範囲を広げる行為などの法令解釈の恣意的な変更が挙げられ、なぜこれが問題なのかといえば、日本国憲法は、第99条で天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員に憲法尊重擁護義務を課していて、国家権力がこの義務を怠り、憲法の枠を超えて権力を行使することは、国民が自らの意思で制定した最高法規を否定する行為となるため、厳しく監視・批判されるべきだと考えられているそうだが、フーコーによると、そもそも法システムもそうだが、つまるところ規律はどのような手続きを踏んでいるか?それは許可・禁止という法典に従ってあらゆるものを割り振り、そして、許可・禁止というこの二つの領域の内部で、禁止されているものや許可されているもの、いやむしろ義務的なものが正確に特定・規定され、この一般的図式の内部にあって法システムは本質上、物事が禁止されればそれだけその物事を規定するということを機能としていると言えて、つまるところ法が口にするのは本質上、これをするな、それもするな、あれもするなといったことで、従って、法システムにおける特定・規定の運動には常に、また一層明確に、妨害・禁止すべき事柄こそが問題だということが含まれていて、言い換えると、無秩序という視点を採用することで、より一層繊細な分析が行われ、秩序が打ち立てられるということであり、秩序とはつまり、残りであり、秩序とは事実、禁じられていることを全て妨害したときに残るものであって、この否定的な思考こそが法典の特徴であり、否定的な思考・技術で、規律メカニズムもまた、物事を常に許可と禁止、いやむしろ義務的なものと禁止されているものへと法典づけ、つまり規律メカニズムはしてはならないことよりも、すべきことの方に関わり、良い規律とは、あらゆる瞬間にすべきことを言ってくれるものであり、そこで確定されていないのは、そこで言われていないこと、つまり禁止されていることことだけで、法システムにおいては許可されていることの方が確定されておらず、規律的な統制システムにおいては確定されているのはしなければならないことであり、従ってそれ以外の残りは確定されず、禁じられているそうだが、確かに日本国憲法が許可していることは、国民に向かって権利として規定しているだけで、言論、出版、思想、良心、信仰は自由だと言っているだけで、諸般の事情から必ずそうなるとは限らないし、国が保障するから健康的で文化的な最低限の生活を営んでも良いと許可しているものの、別にそれが最低限の生活でなくても構わないし、教育を受ける権利や働く権利や労働組合をつくる権利はあるものの、義務教育以外の教育を受けなくても、働かなくても、労働組合を作らなくても構わないし、国民が法的に平等ではあるものの、経済的に不平等であっても構わないわけでもないが、実態としては不平等だろうから、別にそれが憲法違反というわけでもないだろうし、国民が公務員を選定して、罷免する権利や投票する権利があると規定しているが、選定や罷免などの投票に参加しなくても構わないし、あくまでも憲法は国家権力に義務を課しているだけで、国家権力側としては憲法違反にならない範囲内で国民に対して義務を課せばよく、それが規律権力として機能するわけで、納税しろとか、交通法規を守れとか、ゴミは分別して出せとか、他にも色々あるだろうが、実際に法システムとも規律システムとも違うシステムがあるらしく、それがフーコーが言うところの安全装置で、法は禁止する、規律は命令することになるのに対して、安全は本質的に言って禁止も命令もせず、しかし実際には禁止と命令の側にあるいくつかの道具を手にして、ある現実に応答するということを機能として、そのやり方は、この応答によって、その向かう先である現実自体を無効化する、というかむしろ、制限しブレーキをかけ調整する、というもので、それに関して具体的に思い浮かぶのが、中央銀行による政策金利の上げ下げであったり、つい先日もあった、急激な円安進行を阻止するための為替介入であったりするのだろうが、フーコーも法システムと規律システムだけで考えていたのが、全くの間違いだったわけでもないが、やはり正確にはそれでは正しくないそうで、問題となっているのは全く別のことで、それが自由主義や新自由主義などに関係する自由主義的な統治イデオロギーや統治術にあるらしく、グローバリストがなんやらかんやら言っている陰謀論者にとって躓きの石となっているように思われる権力テクノロジーであるらしい。5月3日「ガーデニング的な国づくり」啓蒙活動が嫌われる理由として考えられるのは、知らない人に知っていることを教えようとする上から目線の態度が、知ったかぶりやがって!という反発を招く危険性があり、ソクラテスのように、知ったかぶりな奴に対して、無知を装いながら話しかけて、そいつの無知を思い知らせるようなことをやってしまうと、なおのこと嫌われることになり、だからソクラテスは自身が所属するポリスから排除されてしまったのだろうが、現状でも、トランプや高市がいかにひどい奴なのか教えてやるよ的な上から目線の態度の奴らが嫌われるのも、当たり前と言えば当たり前な傾向にありそうだが、彼らとは違った視点から何が述べられるかというと、たぶん政府の行政機構に意図や思惑や意向があると言えるわけでもないのだが、もっと範囲を広げて、国家意志という概念というか観念を想定してみるのも、さらにリアリティを感じられなくなってしまい、トランプや高市が国家意志に従っているというより、政府の行政機構がトランプや高市を利用していると考えるなら、何となくわかってくることがありそうに感じられるのだが、国家を強くしたいという意志が行政機構の意向なのかどうかも、人でもない国家や行政機構に意志や意向を当てはめるのも、何か抵抗感を覚えるのだが、それとは違う方面で、例えば、ガーデニングという園芸分野の用語があるが、ガーデニングとは、主に住宅の庭、ベランダ、屋上などで、草花や樹木、野菜などの植物を育て、庭づくりをやりながら空間全体の景観を楽しむ園芸活動のことで、土いじりを通じて、植物の成長過程や花を鑑賞するプロセスそのものを趣味として楽しむ行為なのだろうが、育てた野菜を収穫して食べる魅力もあるだろうが、美的な感覚を刺激する効果もあるだろうし、美しい庭を維持するために雑草を引き抜くとか、もちろん丹精込めて育てた野菜を守るためにも雑草を引き抜くわけで、そうやって異物や邪魔者を排除するやり方から何を連想できるかといえば、もっと直接的に害虫を駆除する光景から思い浮かぶことがありそうだが、そういったガーデニングの延長上で偉大なアメリカや美しい日本などの国づくりが行われていると考えられるかというと、そこにはトランプや高市などの個人的な意志や意向とは言えないような集団的な意志や意向が反映していると言えそうで、そういうところは特定外来生物を大量に駆除している光景を誇らしげに見せるユーチューバーなどの意志や意向にも表れていそうだが、そういう行為が果たして美しい国土を守る活動だと言えるかどうかも、実際の国土保全活動はそれとは少し違う傾向もありそうだが、ヒューマニズム的な価値観から言えば、人間は雑草や害虫や特定外来生物などとは違うと簡単に反論できそうだが、それを言うなら国土はガーデニングの庭などではないと言えてしまうだろうし、比喩的な表現を使ってもっともらしいことを言うな!と怒られてしまいそうで、啓蒙活動を嫌う傾向は、現代社会において、主に心理的、社会的、そしてビジネス上の観点から見られるそうで、啓蒙は知識のない人に教え導くという意味合いが強いため、教える側と教えられる側で上下関係が生まれやすく、これが見下されているという反発心や嫌悪感につながることがあり、正しい知識を教えてやるという姿勢が、受け手側の反発を招き、現代では、一方的に教えられるより、自ら選択したいという欲求が強い傾向があり、啓蒙活動が特定の価値観を押し付ける同調圧力として感じられ、個人の自由や多様性が制限されると捉えられた場合に嫌がられ、目的意識が強い層は、冗長な教育的アプローチや、目的が不明瞭な活動そのものを嫌う傾向があり、手短かにゴールを知りたい、実利を追求したいというニーズに合致せず、ビジネスシーンでは、啓蒙が差別的なニュアンスを含むとされるため、単に知識を持ってもらうことを目指す啓発活動に置き換える傾向が強くなっていて、これらの背景から、現代では一方的な押し付けではなく、相手に気づきを促し、自発的な行動をサポートする啓発のアプローチが好まれるようになっているそうだが、啓発にも否定的なニュアンスがありそうで、自己啓発セミナーの類いで使われる、人の感情を操作する洗脳的な手法が問題視されるわけで、そうやって人を導く手法が、古代ギリシア・ローマの哲学者からキリスト教会による教導手法へ受け継がれ発展してきた歴史的な経緯もありそうだが、人を導くことに長けた有名な哲学者といえば、古代ローマの哲学者のエピクテトスは、奴隷出身という不遇な環境から、人間の内面的な自由と幸福を説いたストア派の哲学者で、彼の人を導く手法の核は、自分のコントロールできることとできないことを明確に見極め、前者に集中することで心を整える実践哲学にあり、人が悩む原因は自分の力ではどうにもできないことを何とかしようとするからだと指摘し、自分の意見、欲求、嫌悪、判断は、自分の内面、心の持ちようで、自分でコントロールできることで、それに対して、身体、財産、名声、他人の評価、過去、天気、死は、コントロールできないことであるから、現代ではそういう分け方には異論があるにしても、不安や怒りを感じた時、それが自分のコントロールができることかできないことかを問いかけ、コントロールできないものは、自分には関係ないと受け入れる練習をさせ、人を悩ませるのは物事そのものではなく、物事に対する意見や解釈であると説き、負の感情が生まれた時には、その根底にある誤った判断や固定観念を特定し、理性的に修正するように促し、失ったものや持っていないものを求めて嘆くのではなく、今あるものに目を向けるように教え、他人のものやまだ与えられていないものを欲しがらず、何かを失った時も、それは返しただけと考え、執着せずに手放して、持たざるものへの欲望を減らし、現在の状況に感謝することで、真の豊かさと自由を得る方法を具体的に示し、哲学は知識ではなく、生き方の訓練であるとして、感情に振り回されないよう、日常の小さな不快や出来事に対して、あらかじめ冷静に対処する心構えを持ち、哲学的対話を通じて、日常生活の具体的な問題に対する心の持ち方を練習させたそうで、エピクテトスは、法的に制限された奴隷の身分であっても、心の中は誰にも縛られない自由になれるという自信を人々に与える教えを展開したそうで、現代人が求めている教えはそんなんじゃないと言えそうな人もいくらでもいるだろうが、エピクテトスが生きた時代背景は、一世紀から二世紀前半にかけて、ネロ帝の暴政からドミティアヌス帝の恐怖政治の時期に奴隷として苦労し、一世紀末、ドミティアヌス帝が哲学者の影響力を恐れてローマから追放したため、ギリシャのニコポリスへ移住して学園を開き、そこでソクラテスに続く倫理学を重んじて、自己の実践を重視するストア派哲学を確立し、その教えは後にマルクス・アウレリウス皇帝にも影響を与えたそうだが、それがどうしたわけでもなく、とりあえず高市のことを否定的に取り上げると、アメーバブログでいいね!がゼロになって、閲覧者の数も激減するという傾向が、こんな人畜無害な内容にも当てはまるようなことなのかどうかも何とも言えないところだが、エピクテトスの教えというのが、個人の力ではどうにもならなくなった社会状況の中で、社会の変革から背を向けて、自己への配慮に専念する生き方へと傾斜した、と受け止めてもいいのかどうかも、微妙に違うような気もしないではないにしても、その辺は割り切り方が肝心なのかも知れないし、定年退職した人がガーデニングに凝ってしまう光景などを思い浮かべてみても、全面的にそうなるわけでもない契機が、今後到来するかも知れない時代状況なのかも知れない。5月2日「理論ではないことの意味」理論とは何なのかというと、理論とは、特定の現象や事実を統一的に説明・予測するために、関連する知識や原理を筋道立てて体系化したもので、個々の事実から共通の法則を見出し、抽象化された知識体系を指すそうで、思考のプロセスである単なる論理を基盤に、一貫性を持って構築された知識のセットだと言えるそうだが、理論の主な特徴と要素は、体系的な知識、現象の説明・予測、抽象化と法則化、検証可能性であり、体系的な知識は、断片的な事実ではなく、それらを論理的につなぎ合わせた包括的な構造で、現象の説明・予測は、なぜその現象が起きるのかを説明し、将来的な結果を予測する機能を持ち、抽象化と法則化は、具体的な事象から余計な細部を切り捨て、共通する原理を抽象することであり、検証可能性は、実際の観察や実験によってその正しさが検証できることにあるそうだが、理論と関連用語の明確な違いは、理論は組み立てられた知識の体系そのものであるのに対して、論理は考えるための正しい筋道であり、法則は確定した不変のルールであるのに対して、理論は法則を含み、より広範囲に現象を説明する体系であり、理論は単なる机上の空論ではなく、現実の社会現象や物理的な現象を理解するためのレンズや地図のような役割を果たし、理論はコンセプトを組み合わせて作られる世界を説明するストーリーと表現され、理論は複雑な世界をシンプルに捉え、現象の背景にあることわりを説明する道具だそうだが、それに対してフーコーの権力のメカニズムの分析は、権力とは何かというような一般理論ではなく、そのような一般理論の一部でもなければ端緒ですらなく、この分析で問われているのは単に、そいつはどこを通るのか、どのように起こるのか、誰と誰の間で、どの点とどの点の間で、どのような方式で起こるのか、そしてその効果はどのようなものなのかということであり、この分析は高々ある理論の端緒でありうるに過ぎず、高々そのようなものたろうとするに過ぎず、それも権力とは何かというような理論の端緒ではなく、実際の権力に関する理論の端緒であり、権力なるものが実体や流体ではなく、これこれのものから生ずるようなものなのではないということが認められている以上は、あるいは権力なるものが、権力を確保することを役割・機能・テーマとする、実際には確保するに至らないこともあるにしても、様々なメカニズムや手続きの総体だということが認められている以上は、そのように言えて、権力とはいくつもの手続きからなる総体であり、そのように考えれば、そのように考えて初めて、権力メカニズムの分析は権力に関する理論の端緒になると了解できて、様々な権力メカニズムを打ち立て、維持し、変容させることを役割とする様々な関係、その総体、いやむしろ様々な手続きの総体は、自己発生的・自給自足的ではなく、それは自分自身に拠って立つものではなく、権力は権力自体に拠って立つものではなく、権力自体を出発点として手に入れられるものではなく、もっと単純に様々な生産関係がまずあって、そこに付け加わるように、その脇や上に事後的に様々な権力メカニズムがやってきて、それが生産関係に変更や妨害を加え、さらに確固・一貫・安定したものにする、などというのではなく、例えば、まず家族というタイプの諸関係があり、そこに様々な権力メカニズムが付け加わるとか、まず様々な性関係があり、その脇や上に様々な権力メカニズムが付け加わるというのではなく、権力メカニズムは、このようなあらゆる関係にとって元々内属的な部分をなすのであって、諸関係と権力メカニズムは、互いに互いの原因にして結果であるという循環的な関係にあり、もちろん様々な生産関係・家族関係・性関係に見出されうる様々に異なる権力メカニズムの間には、並列・位階的従属・同形性や、技術上の同一性や類似、伝導効果などを見出すこともできるだろうし、そこに注目すれば、これらの権力メカニズムの全体を論理的な一貫した有効な仕方で踏破することが可能となり、またこれらの権力メカニズムが特定の時期・期間・領域において持ちうる特有性を把握することが可能になるということはあるにしても、互いに互いの原因にして結果であるという循環的な関係にあることに変わりなく、これらの権力関係の分析はもちろん、特定の社会の包括的分析といったものへと向かうことや、そのような分析の端緒を開くことを可能にして、これらの権力メカニズムの分析は、例えば経済的変容の歴史ともつながりうるが、フーコーがやっている範囲内では、歴史学にも社会学にも経済学にも属さず、様々な意味合いからして、哲学と関わりのある何かなのであり、その哲学とはつまり真理の政治学ということであって、というのも「哲学」という単語の定義はこれ以外にはまず見当たらず、哲学とは真理の政治学であり、それが社会学でも歴史学でも経済学でもないとすると、権力メカニズムの分析は、私たちの社会で展開される闘争・対決・闘いによって、またその要素である様々な権力戦術によって生産される様々な知の効果がどのようなものかを示すことを役割とするものであり、その様々な意味合いからして、命令形で口にされる言説のようなものによって、貫かれていたり下支えされたりしているだけの理論的言説や分析などは存在せず、理論の次元で、これを愛せ、あれを嫌え、これは良い、あれは悪い、これに賛成しろ、あれに反対しろ、と言う命令的言説などは、ともかく今日では、美的な言説でしかなく、それはつまり、美的な次元での選択にしか基礎が見当たらない言説であって、これこれに対してしかじかのやり方で闘え、と言う命令的言説は、非常に軽々しい言説であり、そのような言説は、何らかの教育制度を出発点として発せられる、さらにはただ一枚の紙の上で発せられるに過ぎないものだからであり、とにかく、なすべきことに関する次元は現実の力場の内部にしか表れ得ないのであって、そのような力場は、語る主体が単独で自分の言葉から出発して創造することなどできはせず、その力場は、そのような言説の内部では、いかなるやり方でも制御できず、効力をもたせられないものであり、したがって私たちが今やろうとしている理論的分析の下支えとなる命令形とは、というのも命令形は一つは存在しなければならないからだが、次のような類いの条件法的な命令形であるのが望ましく、つまり、闘争したければこれこれがカギとなるポイント、これこれが力線、これこれが錠前、これこれがドアの開かなくなっているところだ、というようなことであり、言い換えれば、このような命令形は戦術上の標識に過ぎないのが望ましく、戦術的な意味で効果的な分析を行うにはどのような現実の力場を評定すべきか、ということが問題であり、これこそがまさしく闘争と真理とのなす循環、つまり哲学実践のなす循環であり、闘争と真理の間のこの関係は、真剣かつ根本的なものと思われるが、何世紀にもわたって哲学が展開されている次元であるこの関係は今、理論的な言説の内部での論争において、芝居がかり、肉を削がれ、意味や効果を失っていて、このようなことにおいては、一つの命令だけを提案したいそうで、前に述べた命令とは異なり、提言的で無条件の命令であり、つまり、政治は絶対にやらない、ということだそうだが、こんな説明で権力メカニズムの分析の機能や効果や効用を理解できるかというと、どうも自分は文章読解能力が低レベルなので、グーグル検索にお願いすると、権力は抑圧するだけでなく、知識を生み出し、規範を創り出し、個人の主体性や欲望までも形成し、権力は国家や法のような上位概念だけでなく、学校や病院や軍隊や職場などの現場における微細な規律や手続きとして機能し、古典的な殺す権力とは異なり、健康、寿命、出生率、衛生など、人間の生に積極的に介入し、管理・統制し、人口を効率的に管理するための合理的なメカニズムを明らかにして、権力を持っている主体を特定するのではなく、誰が、どこで、どのように権力関係を行使しているのか、その手法を分析し、一見中立的、あるいは心理的な問題に見える狂気や犯罪などの現象が、実際には権力メカニズムによる区別・排除のプロセスであることを明らかにし、要するに、権力メカニズムの分析は、私たちが当たり前だと思っている真実や自己のあり方が、いかに権力的な相互作用によって作られているかを問い直し、支配構造を解体する視点を提供しているそうだが、それでも何となくわかったようなわからないような程度の頭脳しか持ち合わせていないことに気づいてしまうわけだ。5月1日「AI時代の思想家」昨日の続きが、まだかなり分量としてはあったのだが、やはりクロードだと回答が長すぎるので、それを示すとなると半分ぐらいしか示すことができないから、今回はグーグル検索に出てくるAIを利用して、昨日の続きを示してみるが、マルクス、ウェーバー、フーコーのような、社会の根幹を揺るがし、時代を定義する大思想家がAI時代に現れるかという問いは、現代の知性において最も重要な議論の一つだそうで、結論から言うと、かつてのような形式の大思想家は現れにくくなるが、AIを前提とした新しい形式の思想家が現れる可能性は高い、と考えられて、かつてのような大思想家が現れにくい理由は、現代は知識が細分化されており、社会、経済、歴史、心理学の全てを一人で総括するような総合的な理論を提示することが極めて困難で、AIが大量のテキストや論文を瞬時に生成し、人間がそれらを精査しきれない情報過多の時代において、独自性のある主張を際立たせるのが困難であり、フーコーが指摘したような、権力と知の構造そのものを再定義するような真理への信頼が薄れ、多元的な視点が尊重される時代になっている一方で、AI時代は、新たな大思想を生み出す土壌でもあり、AIが人間の知性を代替する時代において、人間とは何か、人間の意識や感情はAIとどう異なるのか、という、ポスト・ヒューマニズム的な問いを追求する思想家が現れるはずで、ウェーバーが官僚制を分析したように、現代のAIによるアルゴリズム統治がもたらす新たな社会格差や自由の抑圧を、批判的・哲学的に分析する思想家が必要となって、AIを単なるツールではなく、思考のパートナーとして使いこなし、人間の脳だけでは到達できなかった、新しい因果則やパラダイムなどの視点を提示する人が、次世代の思想家になるかも知れず、マルクスやフーコーが産業革命や近代社会の矛盾を捉えて新しい視点を提示したのと同様に、AIという技術的特異点に直面する現代においても、その本質を捉えた新たな思想家は必ず現れるそうだが、さすがにグーグル検索のAIは人をナメたような通り一遍の回答で笑ってしまうが、もちろんグーグルもジェミニなどを使って詳細な問いかけをすれば、ちゃんとした詳しい回答が出力されるのだろうが、それに対して昨日のクロードが述べたことは、マルクスやウェーバーも産業革命から数十年後に登場してきて、産業革命が本格化したのが十八世紀末、マルクスの『資本論』が1867年、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が1905年で、産業革命の変化が社会全体に行き渡り、その矛盾や構造が可視化されてから、初めて理論的に捉えられるまでの時間的なラグは避けられず、現代においてAIの社会的浸透はまだ途上であり、ChatGPTの登場が2022年末で、汎用AIが社会に本格的に組み込まれるのはこれからであって、変化の全貌が見えていない段階で理論を構築するのは、本質的に難しいが、ではまだ早いのかというと、それでは済まない理由もあり、今回の変化には以前とは違う事情がいくつかあって、変化の速度が理論の生産速度を超えている可能性があり、産業革命は数世代に渡ってゆっくり進んだため、社会の変化を経験として蓄積しながら、理論が育つ時間があったのに対して、AIの変化は一世代どころか数年単位で起きており、理論が追いつく前に次の変化が来るという構造的問題があり、理論的空白が慢性化する可能性があるそうで、しかも変化が見えにくい層で起きていて、産業革命は都市・工場・貧困という可視的な変化をもたらし、理論化の素材が目に見える形で存在していたのに対して、今回の変化は認知・欲望・注意・行動予測という不可視の層で起きているため、そもそも何を理論化すべきかの輪郭を掴むこと自体が難しく、フーコーが権力の見えなさを理論化するのに要した労力を考えると、今回はさらに困難かも知れず、しかも理論家自身がAIに取り込まれるという逆説も想定できて、これは見落とされがちだが、思想家・研究者自身がグーグルやChatGPTを使って思考して、アルゴリズムによって論文の評価・流通が決まる環境に置かれていて、批判的距離を取るべき対象の中に、批判主体自身が埋め込まれているという状況は、マルクスがマンチェスターの工場を外から観察できた状況とは根本的に異なり、そしてさらに大理論への不信という知的状況も、ポスト構造主義以降、グランドセオリーへの懐疑が学術的規範として定着していて、ウェーバーやフーコーのような大きな物語を提示すること自体が、現代の学術文化では警戒される傾向があって、理論の不在は知的状況の産物であるという側面もあり、たぶんフーコー自身もそうした知的状況の風土や傾向に加担してきたような気もするし、その辺はクロードもフーコーの理論とは違う系譜学的なアプローチをうまく取り込めていないような気もするが、もちろん一般的な印象としてはマルクス・ウェーバー・フーコーという脈絡で述べているのだから、フーコーもその種の大理論を提示した大思想家に入れられるのだが、では何が起きているのかに関して、クロードは三つのシナリオを提示してきて、シナリオA:時間の問題で、やがて大理論が登場して、変化の蓄積が臨界点に達した時、それを統合する思想家が出てくるが、ただし前述の通り、変化の速度を考えると、理論が完成する頃にはまた状況が変わっている可能性があり、シナリオB:大理論の時代自体が終わって、そもそもウェーバーやフーコーのようなインパクトを持つ理論が生まれる条件である、出版・大学・知識人という制度的インフラが、SNSとアルゴリズムによって解体されつつあり、今後は断片的・即時的な言説の集積が理論に代わるものになるというシナリオで、これはある意味で最も悲観的な見方だが、シナリオC:理論の形式自体が変わって、従来の理論は、人間の思想家が書いたテキストだったが、これからはAIと人間の協働によって生まれる知的生産物が理論に代わる役割を担う可能性があり、それが理論と呼べるものかどうかは、知識とは何かという問い自体を変えることになり、結論に代えて、AIと人間社会に関する大理論が提示されるのはまだ早いと考えるのは正しいが、今回の変化は、待てば理論が来る、という楽観を許さない構造的な困難を抱えているというのが正直なところだと思われ、最も重要な問いは、マルクスやウェーバーやフーコーに匹敵する思想家がいつ登場するかではなく、そもそも現在の知的・制度的環境が、そのような思想を生み出すことを可能にしているかどうかという問いかも知れないそうだが、ちなみにグーグル検索で、理論とは違う系譜学的なアプローチとは、で検索すると、AIによる概要では、理論とは違う系譜学的アプローチとは、物事の本質や隠された真理を探し求めるのではなく、その概念や価値観が、どのような偶然かつ歴史的なプロセスを経て、現在のように真理として定着したのかを批判的に解明する手法であり、フリードリヒ・ニーチェが提唱し、ミシェル・フーコーが発展されたこのアプローチは、連続的な歴史の発展を否定して、不連続や力の関係に着目し、理論・伝統的歴史学との違いは、理論が、なぜかという法則や本質を求め、伝統的な歴史学が、一貫した連続的な起源から現在までの物語を描くのに対し、系譜学は単一の起源を否定し、理性や道徳は一つの純粋な源から生まれたのではなく、複数の偶発的な権力、恐怖、欲望などの源から複数的に発生したと考え、歴史は直線的に進化するのではなく、断絶や間違いの非連続な積み重ねであると見なし、真理や正しさを普遍的なものではなく、ある時代の権力構造の中で作り上げられた言説に過ぎないと暴露し、系譜学的なアプローチの具体的な特徴は、物事が何を意味するかではなく、いつ、どこで、誰によって語り始められたか、という背景に着目し、知識や真理が、いかに支配的な権力と密接に関係しているのか、権力と知識の結びつきを明らかにし、歴史の展開は必然ではなく、偶然の出来事が重なった結果であり、必然的にこうなるはずだったという考え方を捨て、具体的な事例としては、フーコーは『監獄の誕生』などで、犯罪に対する刑罰が、人間道徳の進化によって、暴力的手段から人道的・精神的手段に変わった、という進歩の物語を伴った従来の歴史観を否定し、系譜学的アプローチでは、刑罰の変容は、より洗練された規律・訓練の技術を社会に浸透させるための、権力戦略の転換であったと分析したそうだ。4月30日「現代思想の現在地」実感としてはどうということはないのだが、気になるのは、前世紀末から今世紀にかけて起こっているITやAI関連の技術革新によって世の中が大きく変わっていると考えたいのだが、世界や社会の変化をどう捉えるかに関する言説が、それ以前の言説とあまり変わっていないような気がするのだが、何かこれといって、それ以前とそれ以降では世の中が一変したようなことを述べている思想家や学者がいるのかどうか、クロードに訊いてみると、テクノロジーの変化の速さに比べると、社会理論や思想の側がやや追いついていない印象があるが、ただ、それでもいくつか、以前とは断絶した、という認識を明確に打ち出している思想家・学者はいるそうで、世界が一変した、と述べている主な思想家・学者は、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが、最も広く読まれている論者の一人で、著書の『ホモ・デウス』では、AIとバイオテクノロジーの融合によって、人間という種そのものが再設計される時代に入ったと主張して、それ以前の社会変化が、制度や権力の配置の変化だったとすれば、今度は、人間の認知・感情・寿命の変化という次元の話だ、というのが彼の断絶論の革新で、ただし思想の深みよりも啓蒙性が強く、アカデミズムからの批判も多く、哲学者で元オックスフォード大学の教授のニック・ボストロムは、著書の『スーパーインテリジェンス』において、汎用AIの出現は人類史上最大の、そして最後かも知れない転換点だという、実存的リスク論を体系化し、農業革命や産業革命などのそれ以前の技術革新との違いを、人間が主体でなくなりうるという点で見ていて、この視点は今のAI安全性論争の理論的基盤になっているそうで、社会学者でハーバード・ビジネス・スクールの名誉教授のショシャナ・ズボフの著書の『監視資本主義の時代』は、おそらくこの分野で最も学術的に精緻な断絶論で、彼女の主張の核心は、産業資本主義は自然を原材料にしたのに対して監視資本主義は人間の経験・行動・感情を原材料にする、という全く新しい経済様式だ、というもので、マルクスやウェーバーの資本主義論では捉えられない、新しい概念装置が必要だという立場で、以前の言説との断絶を最も明示的に論じていて、社会学者のマニュエル・カステルは『情報時代:経済・社会・文化』の三部作で、ネットワーク社会という概念を打ち出して、産業社会では組織が社会の基本単位だったが、情報社会ではネットワークが基本単位になり、権力・資本・アイデンティティのあり方が根本から変わるという議論で、インターネット普及直後にこれを論じた点で先駆的だが、まだSNSやAI以前の議論であり、情報哲学者のルチアーノ・フロリディは、コペルニクス的転換・ダーウィン転換・フロイト的転換に続く第四の脱中心化として、第四次革命という概念を提唱していて、デジタル情報環境が現実と仮想の区別を無化しつつあり、我々は何者かという問いに答えるには新しい存在論が必要だ、という立場で、哲学的に最も厳密に以前との断絶を論じている学者の一人で、AI研究者のケイト・クロフォードは、著書の『AIの支配』で、AIを技術としてではなく、採掘産業・軍事・国家権力が一体化したインフラとして捉え直すことを要求して、AIを巡る言説がいまだにSF的・道具論的な枠組みに留まっていることへの批判が鋭いそうだが、それでもITやAIの技術革新以前の言説と変わらないように見える理由としては、制度的言語の慣性が働いていて、政治・法・経済の言説は既存の制度に乗っかって生産されるため、制度が変わるまでタイムラグが生じ、また道具論への根強い信仰があり、テクノロジーを人間が使う道具と捉える限りは、主語は常に人間・社会・権力のままで言説の構造が変わらず、ズボフやフロリディはこの道具論からの脱却を明示的に求めていて、変化が見えにくいことに関しては、産業革命は工場・都市・貧困という可視的な変化をもたらしたが、今の変化は認知・注意・欲望・行動予測という不可視な層で起きているため、言語化が遅れるそうだが、またそれ以前とそれ以降で資本主義は変容したのか、それとも本質は同じなのかという問いは現在進行形の論争でもあり、ズボフの『監視資本主義』では、従来の資本主義は物を作って売るかサービスを提供するという交換関係が基本だったが、監視資本主義では、ユーザーは商品を買う顧客ではなく、行動データを採取される原材料であり、グーグルが発見したのは、検索の副産物として生まれる行動データに莫大な予測価値があるという事実で、これが新しい蓄積様式の起点となり、その核心的な概念は、行動先物市場として、人間の将来の行動を予測・販売する市場が成立したことにあり、マルクスの剰余価値論は労働を搾取対象としたが、ここでは経験・感情・意図が搾取対象となっていて、ポール・メイソンの『ポストキャピタリズム』では、ソフトウェア・音楽・知識などの情報材は限界費用がゼロに近づき、古典経済学・マルクス経済学は共に希少性を前提としていたが、情報材は複製しても原本が減らず、これは価格メカニズムそのものを空洞化させる可能性があり、資本主義は希少性の管理によって機能してきたが、情報の非希少性はその根幹を崩して、市場でも国家計画でもない第三の原理で動いており、これが拡散すると資本主義の外側が生まれる、という議論で、ただし楽観的すぎるという批判も強く、現実にはGAFAMが情報の希少性を人工的に作り出して、プラットフォームの独占を築いているという反論もあるそうで、センドリック・デュラン『テクノ封建制』、ヤニス・バルファキス『テクノ封建主義』は挑発的な議論で、主張の核心がもはや資本主義ですらなくなった、という論点で、資本主義の定義は、競争市場における資本間の競争と利潤の追求であるのに対し、グーグルやアマゾンが支配するプラットフォームは市場ではなく、領地に近く、アマゾンのマーケットプレイスに出店する業者は、市場で競争しているのではなく、アマゾンという領主に、手数料やデータなどの地代を納めているに過ぎず、これは封建制の地代収取の関係に構造的に似ており、バルファキスの言葉では、利潤ではなくレント=地代が支配的な収益形態になった、というのが論点の核心であり、資本主義の定義そのものが問い直されているそうで、またニック・スルニチェク『プラットフォーム資本主義』は、より実証的かつ冷静な分析で、資本主義の新しい蓄積インフラとして、「プラットフォーム」が登場して、プラットフォームの経済的特性は、ネットワーク効果・多面市場・データの囲い込みであり、これにより勝者総取りの構造が生まれ、独占が競争の結果ではなく構造的な必然となり、従来の独占は規制で解消できたが、プラットフォームの独占はデータの蓄積量そのものが参入障壁になるため、従来の競争法では対処できない、という点が新しいとされ、トマ・ピケティの『格差の固定化』はやや異なる角度だが重要で、資本収益率rが経済成長率gを恒常的に上回り、これは情報経済ではさらに加速する構造があり、データや知的財産は、使っても減らないため、一度獲得した資本優位が自己増殖する傾向にあり、ピケティ自身はそれほどデジタル経済に特化した議論をしているわけではないが、情報資本主義においてr>gの傾向が強化されるという点で多くの論者に援用されていて、ハートとネグリの『帝国』『マルチチュード』では、冷戦終結後、国民国家を超えたネットワーク型の権力構造を持つ新たな帝国が成立し、工場労働に代わって、情報処理・感情労働・コミュニケーション労働などの非物質的労働が価値生産の中心になり、これを認知資本主義と呼ぶ流れになっているそうで、ドイツで活動する韓国出身の哲学者であるビンチョル・ハンの『疲労社会』『透明社会』では、フーコーが描いた規律社会から業績社会への移行があり、現代人は、〜してはならない、という禁止ではなく、〜できる・〜すべきという肯定的強制に自己を搾取し、SNSと自己最適化の文化がこれを加速させており、抑圧者が外部にいない分、抵抗の対象が見えず、これはフーコーの権力論を更新する試みとして注目されていて、ダナ・ボイド、ゼイネップ・テュフェクチーのネット社会論においては、SNSによる社会運動は動員コストが下がり大規模化しやすいが、組織的な意思決定能力が育たないまま拡大するという逆説を抱えていて、アラブの春や、ウォール街を占拠せよ、と叫んだオキュパイ運動がそうであったように、大きく燃えてすぐ消える構造的傾向があり、最近日本で流行りの戦争反対!憲法守れ!の運動もそうならなければ良いが、これは従来の資源動員論などの社会運動論では説明できない新しいパターンであり、議論を整理すると、以前からの断絶として説得力があるのは、労働・自然資源から、人間の経験・注意・行動予測へと搾取対象が変化して、また競争による価格決定ではなく、プラットフォームによる地代収取構造という市場から領地への転換、外部からの規律ではなく、自己最適化・自己搾取という形で権力の不可視化・内面化が挙げられるが、逆に言えば、これらを以前の言説と同じに見せてしまっているのは、マルクス・ウェーバー・フーコーという巨大な概念装置の磁場が強すぎるからでもあり、新しい現象を古い概念で翻訳して理解しようとする感性が、断絶を見えにくくしているとも言えるそうだ。4月29日「万人に対する万人の戦争」別に騙されているわけではないとは思うのだが、一般とはちょっと違う解釈に遭遇すると、クロードの見解を訊いてみたいような気になるので、ホッブスが万人に対する万人の戦争と呼ぶものは如何なる意味でも現実の歴史的な戦争のことではなく、それによって、各人が自分にとっての危険を測定し、他人たちが持つであろうお互いに戦う意志を評価し、力に訴えるならば自分が取らねばならないリスクを測るための、一個の表象のゲームに他ならず、「制定共和国」であれ、「獲得共和国」であれ、主権は、戦争による支配によってではなく、反対に戦争を回避することを許す計算によって制定されるのであり、ホッブスにとっては、非=戦争こそが国家を創設し、国家に形式を与えるのである、という解釈が、一般的な解釈とどう違うのか、興味があったので、訊いてみると、一般的・標準的解釈との共通点は、自然状態が文字通り歴史的事実ではないという点は、多くのホッブス研究者が認めていて、ホッブス自身も自著の中で、この状態は実際にそうであった時代はない、と留保をつけており、それは一種の思考実験・仮説的構成物だという読みは標準的で、社会契約が恐怖による計算から生まれるという点も、標準的解釈の核心で、死の恐怖と理性的計算が主権設立を促すという構図もホッブス研究の定説だが、一般的解釈と異なる・論争的な点としては、まず、表象ゲームという定式化が、万人の戦争をシミュレーション的・記号論的な表象ゲームとして捉えるのは、かなり現代的・構造主義的な読みで、これはどちらかというとエティエンヌ・バリバールやシュミット以降の批判理論的文脈に近く、十七世紀の政治哲学の標準解釈というより、二十世紀以降の再解釈の語彙で、次いで、非=戦争が国家を創設するという定式が、最も論争的で、標準的解釈では、自然状態=戦争状態の恐怖・不安が契機で、社会契約によって主権が設立される、という構図なので、戦争はあくまでも動因・原因として積極的な役割を持つのであり、非=戦争が国家に形式を与える、という言い方は、戦争を単なる回避されるべき背景に後退させ、計算・合理性の側を前景化しすぎている、と批判されうるから、これはグレゴリーカヴカ、デヴィット・ゴーティエらの合理的選択論的ホッブス解釈に近いが、彼らも戦争状態の現実的脅威は不可欠な要素として残していて、また、契約による制定共和国だけでなく征服による獲得共和国にも同じ計算論理を適用するのは、興味深いが問題含みで、ホッブス自身は獲得共和国について、敗者が死を恐れて服従を誓うという構図を使っており、ここでは戦争そのものがより直接的な役割を果たし、この点を非=戦争の計算に還元するのは、テクストへの解釈的暴力の疑いがあり、まとめると自然状態=歴史的事実ではないのは、一般的解釈に一致していて、契約=合理的計算の産物というのも、ほぼ一致している一方で、表象ゲームという概念化に関しては、独自・現代的読みが含まれていて、非=戦争が国家の形式的原理というは、論争的・少数派の意見であり、獲得共和国への同一論理の適用というは、テクストと緊張関係があり、この解釈は、フーコー以降の権力論やバリバール的な政治哲学の影響を受けた、大陸系の現代思想圏でのホッブス再読として位置づけるのが適切で、スキナー、マルティニッチらの英米分析系のホッブス研究とは、問題設定と語彙が根本的に異なり、間違いだとは一概には言えないが、一般的な解釈とは明確に呼べない、創造的・批判的再解釈だそうで、フーコーの講義集成第6巻『社会は防衛しなければならない』では、政治権力と戦争の関係を主題とし、ホッブスはその中で極めて重要な論敵・参照点として登場し、フーコーがそこで行なっていることは、標準的なホッブス解釈の提示ではなく、自らの分析戦略のためのホッブス読解で、具体的には、フーコーはこの講義で、権力関係は戦争の継続である、という、いわばクラウゼヴィッツ逆転命題を検討し、つまり、政治は別の手段による戦争の継続である、という立場で、そしてホッブスを読むのは、この命題をホッブス自身が拒否していることを示すためで、すなわちフーコーの解釈の論理は、ホッブスにおいて主権・国家は戦争の論理の産物ではなく、戦争を回避する計算・表象の産物であり、だからホッブスは権力=戦争の継続テーゼの反例・反論として機能し、これが一般的解釈と異なる理由の精確化であり、フーコーの読みの独自性は、ホッブスを誤読しているのではなく、意図的に特定の論点を抽出・強調していることにあり、フーコーの関心は、権力と戦争の関係の系譜学で、その中でのホッブスの使われ方は、戦争=権力の母胎テーゼへの反例として示され、そこで強調される点は、表象・計算・恐怖による主権設立であり、それに対して捨象される点は、自然状態の実質的恐怖の存在論的重みであり、スキナー、マルティニッチ、テュック等の英米のホッブス研究者にとって、これは哲学的に生産的だが、ホッブス研究としては偏った読みに見えるはずだが、フーコーの目的はホッブス研究ではなく、権力の系譜学における座標設定なのであり、ホッブスにおける戦争状態が、実際の戦闘行為ではなく、意志・傾向・表象の問題であること、主権設立が計算可能な理性の産物であること、これが権力=戦争テーゼを政治が哲学の起源において封じ込めた動きであること、である限りで、この解釈は、ホッブスのテクストの特定の側面については正確であるが、フーコー自身の問題系に引きつけた戦略的読解であるから、一般的なホッブス解釈とは明確に異なる、と判断するのが妥当だそうで、ただしそれはこの解釈の欠点ではなく、フーコーの講義の目的に照らせば、正当な方法論的選択だそうだが、そこから、またわざとクロードを試すような、次のような問いを投げかけてみると、その問いとは、すなわち、どのように、いったいいつから、人々は、いかにして、権力諸関係において機能しているのは戦争であり、中断することのない闘争が平和を動かしており、市民秩序とは基本的に戦闘秩序である、と思うようになったのか、人々はいったい、いかにして、平和の透かし模様を通して戦争を知覚するようになったのか、誰が戦争の喧騒と混乱の中、戦闘の泥沼の中に、秩序や諸制度や歴史を理解する原理を求めたのか、誰が最初に、政治とは他の方法によって継続された戦争のことだ、考えたのか?これについては、問いの核心は、政治=戦争の継続という認識・思考様式はいつ、誰によって、どのように生まれたのか?という趣旨だが、フーコーはこの講義でこの問いに対し、通念に反する答えを出してきて、この思考様式の起源は哲学者や国家理論家ではなく、十七世紀のイングランドとフランスにおける歴史的・政治的闘争の実践の中から生まれた、というもので、具体的には、イングランド側ではピューリタン革命前後の時期に、議会派・平等派・掘削派などの急進的運動の中で、歴史が被征服への闘争として語り直され、とりわけ1066年のノルマン征服を、現在の貴族支配・国家秩序の隠された起源として告発する言説がその典型で、ジョン・リルバーンやジェラード・ウィンスタンリーらがその担い手である一方、フランス側では十七〜十八世紀に、ブーランヴィリエ伯が貴族の権利をフランク族によるガリア征服に遡って根拠づける歴史叙述を展開して、これは貴族対王権・第三身分という闘争の言語として機能したのだが、フーコーが強調するのは、この政治=戦争という認識が、国家権力の側から生まれたのではなく、むしろ権力に対抗する側、抑圧された者・征服された者の側から生まれた、という点で、これは反権力の言語として歴史叙述に埋め込まれたことを示し、後にこの言説は逆用され、国家・人種・階級の支配言語に転化されて行き、それがフーコーのより長い系譜学的追跡の主題となり、この問いに対する通常の答えは次のいずれかになり、マキャヴェッリに始まる政治的リアリズムの伝統からは、代表的な論者として、クローチェ、バーリンがいて、クラウゼヴィッツ的な戦争論の政治哲学への逆転適用からは、標準的な国際関係論が出てきて、マルクス主義的階級闘争論の遡及的投影においては、多くの政治思想史で語られ、ニーチェの権力意志論の中では、哲学史的な文脈から語られることになるが、フーコーの答えはこれら全てと異なり、哲学者の書斎ではなく、歴史的闘争の現場に起源を置く点で根本的に独自で、そして誰もが知る大思想家ではなく、ほぼ忘れられた歴史家・闘士たちを掘り起こす点に、彼の系譜学の真骨頂があると、フーコーをよいしょして回答をしめくくってしまうのだが、何かもっと左翼リベラル的な反論を引き出したかったのだが、問いを工夫しないと、こちらの意図する回答を引き出せないようで、最近、トランプのビジネスライクな戦争に呼応して、戦争反対!憲法守れ!的なデモや集会が活発化しているようで、それに対して何かちょっとひねくれ気味の反応を構成してみたくなるのだが、それをうまく提示できずに中途半端な言説で妥協してしまう傾向になってしまっているようだ。4月28日「信頼関係」他人の裏をかくことが何を意味するわけでもないが、判断を誤っているような気がするとしたら、他人を信用したり信頼した方が良いケースなのではないかと思うわけで、それがどんなケースなのかというと、一般的には相手から誠実さ、能力、善意の三要素が窺われて、具体的な行動で信頼を積み重ねている場合だそうで、小さな約束でも守り、嘘をついていないことがわかり、時間厳守などが、信頼を得られそうな態度なのかも知れないが、ミスや失敗をした際に、自己保身に走らず責任を取れるかといっても、ケースバイケースのような気もするし、やたらと他人の秘密や悪口を言わないことも、陰口を叩く仲という関係性は、一見すると特定の相手を共通の敵として連帯感や信頼があるように見えるが、その実態は非常に脆く、当事者にストレスや信頼不全をもたらすことが多い人間関係だそうだが、共通の嫌いな人や不満を持つことで、敵の敵は味方のような、お互いの絆が深まったような錯覚に陥り、それは劣等感や不安の隠蔽であり、自己評価の低い人が、他者を下げることで自分を優位に感じたい心理が働いていることを示し、他人の悪口でもいいから、私の言うことを聞いて共感してほしいという、周囲に認められたいという承認欲求の気持ちが背景にあり、悪口を言うと脳内でドーパミンが放出されて楽しい気分になり、ストレス発散のつもりが、同時にストレスも蓄積するため、さらに悪口を言わなければならなくなるという悪循環に陥り、この人は私がいなくなったら、私の悪口も言うのではないかという不信感を生み、関係の破綻を招くことが多いそうで、悪口ばかり言う人は、周囲から、信頼できない、性格が悪い、と見なされ、結果として自身の評判を落とし、陰口を叩いたり叩かれる経験が続くと、他人を信用できなくなってしまうそうだが、対処法としては、他人の陰口を真正面から受け止めず、言わせておけばいいと軽く聞き流し、心の中に距離を置き、同意も否定もしないことが肝要で、同意すると自分も同罪になり、否定すると敵対関係になるため、へえ、そうなんですね、まあ、いろんな人がいますよね、と言って中立的な態度をとり、陰口が始まったら、その場から物理的にも時間的にも離れるのが得策で、陰口を叩く仲は、お互いのストレスを発散し合うためだけの、消耗の激しい付き合いになりがちで、真の信頼関係とは異なり、長期的で良好な人間関係を築くのは難しいそうで、できれば誰に対しても平等に接して、やましいことがない関係を保ちたいだろうが、利害関係が絡んでくるとそうもいかなくなり、他人への配慮や気遣いができるのも、状況によってはそうもいかなくなり、余裕がなければそうはならないだろうし、自分の話ばかりせずに、相手の話を最後まで真剣に聞いているふりを装っていても、その場の状況次第では、それが誠実さの演出であったりするなら、油断のならない事態かも知れないし、感情的にならず、落ち着いて対応できることが、その人の人間性だと信じてしまうと、必ずしもそうではないことを後から思い知らされたりして、まず自分から相手を信頼し、良いコミュニケーションのキャッチボールができるように心がけるというのも、その場の情勢次第な面もありそうだが、どんなことでも安心して話せる雰囲気がある人でも、情勢が急変すれば平然と人を裏切るようなことをやらかすかも知れないし、単純に、自己中心的な人、言葉だけの人、陰口を言う人などを信頼するのは避けた方が良いとは言えるが、そんな人は誰もが信頼しないだろうから、わかりきった部類に入りそうで、たとえ信頼関係を築いたとしても、それが永遠に続くとは限らないことは踏まえておかなければならないし、たとえ嫌な人であっても、自己中心的な人や言葉だけの人や陰口を言う人でも、信頼関係よりも、仕事上であったり隣近所付き合いであったり、家族であったり親類縁者であったりすれば、そんなしがらみを前提として関係を維持せざるを得なかったり、そうなると信頼関係よりも優先しなければならない人間関係となってしまうのだが、そんな嫌な人と上手に付き合うコツは、相手を変えようとせず、自分との間に適切な心の距離を置くことにあるそうで、最も効果的なのは、必要以上に関わらないことにある、なんてわかりきったことだが、会話は必要最低限にとどめ、物理的に離れる工夫をしましょう、とアドバイスされても、例えばトランプやイーロン・マスクなどと日頃から付き合わざるを得ない立場となれば、それも立場にもよるだろうが、相手を別種の生き物や仕事上の役割だと捉え、感情を入れずに接することでストレスを軽減できる、というアドバイスが何の役に立つのか、とあきらめてしまう光景を想像してしまうが、それでも場合によっては信頼し合う関係を構築できるかも知れないが、相手の言動に一喜一憂せず、淡々と対応する訓練が有効だそうで、相手の言葉を深読みせず、さらりと受け流し、スルーする意識を持ち、わかってくれはず、変わってくれるはず、という期待を手放すと、裏切られたと感じるショックがなくなり、また、なぜその人が嫌いなのかを分析することで、冷静に対処できるようになり、マウントを取るから嫌い、ルーズだから嫌い、などと、理由をはっきりさせると、自分の中の境界線が明確になり、あの人が苦手だと思う自分を否定せず、合わないのは仕方ない、と認めてあげることが心の安定につながり、さらに、嫌な人のことを考える時間は、自分の人生にとって、無駄な時間であると意識し、自分のやるべきことや、好きな趣味に没頭して、相手を考える隙をなくし、苦手な人との狭い世界に閉じこもらず、心地よい人間関係を外に広げていくことで、特定の相手の存在感を薄めることができ、上司や取引先など、どうしても避けられない相手の場合は、その方面の専門家の意見を参考に、ストレス対処のスキルを高めたり、場合によっては異動や転職など、環境を変えることも一つの選択肢だそうだが、とりあえず社会の中で暮らしている限りは、根本的な解決には至らないことは踏まえておかなければならず、たぶん人と人の信頼関係というのは、共同幻想の一種だと思っておいた方が無難なのかも知れず、思想家の吉本隆明の定義によれば、人間関係は本質的に共同幻想または対幻想という幻想の上に成立していると言えるらしく、これは、信頼関係=嘘・偽りという意味ではなく、安心感や絆などの実体がないものを、関係者があると信じあうことで成り立っているというニュアンスで、1対1で成り立つ対幻想としての信頼関係は、恋人や親友など、お互いが、この人は特別だと思えば、一心同体である、またはあるべきという幻想を共有することで現実化するのに対し、集団で成り立つ共同幻想としての信頼関係は、国家、社会、会社組織など、より大きな集団の中で共有されるルールや秩序も共同幻想であり、その中にいれば、お互いを知らなくても、社会のルールを守るだろうと信じ合えるのは、この共通の幻想=秩序があるからだそうで、こうした信頼関係を共同幻想だと客観的に理解した上で、その関係性を大切にしたり、協力したりする姿勢が、現代においては賢明なスタンスであるとも言われているそうだが、信頼関係は自然に湧き上がるものではなく、人間が作り出した意味づけ=幻想によって維持されている関係性である、と本当に吉本隆明が述べているかどうかは、彼の著作でも読んでみればわかるようなことなのかどうかも、とりあえず読む機会がないので何とも言えないことであるのも、自分の都合を踏まえればそういうことらしい。4月27日「テクノ封建主義論とAI計画経済論」AIが何かの核心に触れたわけでもないだろうが、AIによって資本主義が終わってテクノ封建主義になるだとか、マルクス主義者がテクノ資本主義からAIによって計画経済へ移行できるだとか、色々と誇大妄想に囚われてしまう者たちがいるらしいのだが、その辺のところをクロードに答えてもらうと、テクノ封建主義については、元ギリシャの財務相で、ヤニス・ヴァルファキスという人物が唱えていることで、その主張の核心は、資本主義はすでに終わっているというもので、従来の資本主義では資本家が市場を通じて利潤を競争的に獲得していたが、GAFAM的なプラットフォーム企業は、市場競争ではなくプラットフォームへのアクセス権となる、クラウドレンタル料、アプリストア手数料などから収益を得ていて、これは市場利潤ではなく地代であり、構造的に中世封建制の土地代と似ていて、AIがこれを加速させ、データという封土を持つ者がAIを独占し、中小企業や個人はAIにアクセスするために貢納し続け、プラットフォーム外では経済活動が成立しなくなる、という論だが、それに対する批判としては、封建制という比喩が誇張的で、依然として市場競争は存在するという反論があり、GAFAMがやっているのが世界各国政府の徴税行為と被るのではないかという問いに対しては、類似点は、国家の徴税が領域内に存在すると徴収されるのに対して、GAFAMのプラットフォーム課金はプラットフォーム上に存在すると課金され、回避困難なのは、国家の徴税もGAFAMのプラットフォーム課金も代替不可能に近く同様で、使途としても、国家のインフラ・公共サービスに対してGAFAMの方でもクラウド・決済・流通などのインフラ提供であり、類似していて、国家の徴税が法的強制なのに対して、GAFAMの方もネットワーク効果によって事実上の強制となり、再分配に関しては、国家の方は理念上はあるが、GAFAMの方は再分配はないが、株主になれば還元があり、機能的・効果的には非常に似ていて、特にそこにいるだけで取られるという構造は本質的に同じだが、では何が違うのかというと、国家の課税は、少なくとも建前上は社会契約に基づいていて、市民が同意し、代表を通じて決定し、異議申し立ての手続きがある一方で、GAFAMの課金は利用規約への同意で、形式上は契約の自由だが、実質的には選択肢がない状況での同意がどこまで自由意志と言えるかは疑問で、また脱出可能性が違い、国家からの脱出は国籍離脱・移住という高コストな手段がある一方で、GAFAMからの脱出は理論上は簡単なはずだが、ネットワーク効果によって事実上の脱出コストが非常に高くなっていて、むしろ現代ではGAFAMからの脱出の方が国家からの脱出より難しいという逆転現象すら起きつつあり、さらに暴力の独占の有無については、国家はウェーバー的な意味で正当な暴力の独占を持つのに対して、GAFAMの方は今のところは持っていないのが最大の制度的な違いだが、国家とGAFAMはすでに競合しているのではないかという本質的な問いもあり、実際に、アップルはアプリ開発者から3割取り、これはある種の関税で、AWSはインターネット上の土地を提供し地代を取り、グーグルとメタは人々の注意と時間を課税していて、アマゾンは流通インフラを握ることで商業活動への通行税を取り、そして国家の徴税能力はGAFAMによって侵食されて、タックスヘイブンの活用、移転価格操作、デジタル課税の困難さに直面し、国家はGAFAMから十分に税を取れない一方で、GAFAMは世界中の経済活動から地代を取り続けていて、これは二重課税の構造であり、しかも後者には民主的統制がなく、そんな状況を踏まえて、封建制という比喩の面白さは次の点で、封建制では領主と国王の権力が競合・重複していて、農民は複数の権力に対して義務を負っていた状況があり、現代でもある意味で主権の重層化が起きていて、国民国家への税・義務と、プラットフォームへの地代・データ提供、さらにその上にIMFや世界銀行のような超国家機関もあり、そんな状況の中で複数の領主へ人々が同時に従属しつつあり、これは封建制の再来というより、近代が前提としてきた国民国家が主権を独占するという枠組みの溶解と捉えた方が正確かも知れず、整理すると、GAFAMの地代取得と国家の徴税は、効果としては非常に似ているという指摘は正しく、違いは制度的・形式的なものが多く、実質的な権力構造として見ると境界は曖昧になりつつあり、むしろ重要なのは、誰が誰を統制できるかという問いで、国家はGAFAMを統制できるか、GAFAMは国家の政策を無効化できるか、という問いに対して、EUのデジタル規制とアメリカ・中国の対立はまさにこの主導権争いの現れで、テクノ封建主義論の真の価値は、資本主義が終わった、という主張よりも、民主的統制の外にある経済権力が肥大化している、という警告として読むべきかも知れないそうだが、本当はここで改行するべきだが、都合上続けて、左派テクノ楽観主義者によるAI計画経済論についてのクロードの見解は、主な論者はアーロン・バスターニで、著書に『完全自動化された贅沢な共産主義』というのがあるらしく、マルクスが資本主義の矛盾の一つとして挙げた、計画経済の計算問題、つまり中央集権的な資源配分は情報処理能力が足りないから機能しないというハイエク的な批判を、AIが解決できるという議論で、ソ連が失敗した理由の一つは、何百万もの財・サービスの需給を人間が計算できなかったことにあり、AIならそれができる、という論理だが、しかし問題点は依然として山積していて、市場価格は単なる計算結果ではなく、個人の選考やローカルな知識などの分散した主観的情報を集約するメカニズムで、AIがこれを代替できるかは未解決で、しかも誰がそのAIを設計・管理するのか、そこに権力が集中して、インセンティブ問題が生じ、経済は常に変化するから、計画の前提条件自体が絶えず揺らぎ続け、最適な配分の定義は技術ではなく価値観の問題であり、そこから政治的問題も生じてきて、AIの活用によって情報処理能力は飛躍的に向上したが、それによってハイエク的批判を完全には乗り越えられていない現状があるそうで、問題の構造を整理すると、AI計画経済論者が前提しているのは、経済現象は複雑だが、原理的には決定論的な因果連鎖であり、十分な計算能力があれば予測・制御できる、という世界観で、これはラプラスの悪魔的な発想だが、しかし現実には偶然が構造的に存在していて、偶然には少なくとも三つの異なる層があって、一つ目は認識論的偶然で、情報が足りないから偶然に見えるだけで、原理的には決定論的というもので、これはビッグデータとAIで対処可能で、部分的に圧縮することができ、二つ目は複雑系的偶然で、バタフライエフェクト的な初期値鋭敏性があり、原理的には決定論的でも長期的予測は不可能で、気候や市場がこれに近く、AIでも解決せず、三つ目は本質的・量子論的偶然で、ハイゼンベルクの不確定性原理的な、観測行為自体が対象を変えてしまう偶然があり、経済においても、予測を公表した瞬間に人々の行動が変わり、予測が外れるというのが、これに近い構造で、経済はさらに厄介で、物理系とは根本的に違い、予測の自己破壊性があり、明日この株が上がるとAIが予測して全員に教えたら、今日全員が買うので、今日上がり、明日は下がり、予測が現実を変えてしまい、また選好の非現在性という観点から、物理定数とは違い、人間の欲望・選好は固定しておらず、新しい商品が生まれて初めて、こういうものが欲しかったと気づき、例えばiPhoneが出る前にはスマートフォンへの需要は存在せず、AIはまだ存在しない選好を計算できないし、さらに歴史的一回性という観点において、物理実験は繰り返せるが、経済史は一度しか起こらず、1929年の大恐慌は一回だけで、統計的学習に必要な反復可能性が、マクロ経済には根本的に欠けていて、ハイエクの知識の問題は実はここにつながっていて、彼が言いたかったのは、単に情報量が多すぎる、ではなく、市場に散財している知識の多くは、言語化・数値化できない暗黙知であり、価格というシグナルを通じてしか集約できない、というもので、AIがどれだけ賢くなっても、職人の勘、その場の空気、個人の身体的感覚といった命題化できない知識をどう扱うかという問題は残り、AI計画経済論の根本的な誤りは、複雑性と偶然性を混同していることで、複雑性は計算力で原理的に解決できるかも知れないが、偶然性は計算力を増やしても解決しない、構造的な問題であり、経済の中には後者が不可避的に存在し、しかもその偶然の巡り合わせ、例えば誰かが偶然思いついたアイデア、偶然の出会いから生まれたイノベーションこそが経済を動かす創造的な力の源泉である可能性が高く、それを全て因果の網で捉えようとすることは、地図が地形そのものだと思うような錯誤かも知れないそうだ。4月26日「推測の域を出ない本当らしい話」何かのきっかけからわかってくることがあるらしく、邪魔な存在を払い除けたいという願望も、その存在が何なのかということが、具体的な経緯や事情が出てこないと今ひとつわからないし、それが何なのかではなく誰なのかであったり、どんな勢力なのかということにでもなれば、そんなのは毎度お馴染みの政治的なイデオロギー対立とやらの紋切り型に回収されてしまうだろうが、そうではないとしたら何なのかというと、とりあえず今年の3月5日にアメリカの署名投資家で軍事情報企業のパランティア・テクノロジーズの共同創業者のピーター・ティールが首相の高市のところへと表敬訪問して、そこでAIなど先端技術分野の日米協力を巡って意見交換が行われて、その際に各種メディアはパランティアとのつながりに注目していたようだが、ティールが出資している軍事用AIドローンの開発企業であるアンドゥリルについては、一部の投資系ユーチューバーを除いて、主要メディアはあまり注目していないみたいだが、シリコンバレーの有数の投資家たちも後押ししており、IPOも視野に入るメガ・ユニコーンとして注目度が高いそうで、アンドゥリルは軍事用ドローンや自立型無人潜水機などを製造しており、まず製品を開発してから販売するという、従来の防衛産業とは異なるアプローチで米国の防衛市場に変化を起こしており、また、日本製の部品のみを使い、日本国内で製造したドローン「キズナ」も披露しており、日本進出にも積極的で、パーマー・ラッキーCEOは、高度なAIを搭載したドローンを百パーセント日本製で作れるのであれば、戦闘機や、地上・空中発射の巡航ミサイル、無人潜水艦、防空システムなども百パーセント日本部品で作れる、ということの証明になる、と訴えて、この発言は日本進出・製造拠点設立への強い意欲を示すものとして注目されていて、背景としては、高市政権の防衛費拡大方針との利害の一致、サプライチェーンの脱中国化と中国製品への依存回避という安全保障上のメリット、ティールのベンチャーキャピタルが後押しするアンドゥリルのグローバル展開戦略、などがあるそうで、昨年の12月の東洋経済でラッキーCEOが単独インタビューに応じて、日本進出の詳細が語られていたそうだが、これらの情報からクロードが推測すると、高市政権が武器輸出3原則を見直したい理由は、ティールがトランプ政権の側近で、アンドゥリルやパランティアはトランプ政権と深く結びついた企業群で、トランプ政権は同盟国に対して防衛負担の公平な負担を強く求めており、日本が単に米国製兵器を買う側に留まるのではなく、製造・輸出にも参加する側になることを期待していると考えられ、ラッキーCEOが「キズナ」で示したのは日本での製造が技術的に可能だという実証で、しかし現行の武器輸出3原則の枠組みでは、日本国内で製造した兵器システムを第三国へ輸出することは極めて困難で、輸出規制を緩和しなければ、日本に製造拠点を置くビジネスモデルが成立せず、つまり規制緩和はアンドゥリルの日本進出の前提条件とも言えて、武器輸出3原則が緩められれば、パランティアのAIシステムとアンドゥリルのドローンハードウェアを組み合わせたシステムを、日本で製造して同盟国のオーストラリアや韓国やフィリピンなどへ輸出するというモデルが視野に入り、これは日本にとっても防衛産業の育成・経済安全保障の強化につながるという論理で正当化しやすい構図だそうで、高市首相はパランティアのカープCEO的な、AIによる情報収集・分析システムの国内導入も志向していて、武器輸出の緩和と情報インフラのAI化は、スパイ防止法・国家情報局構想との一体性にも結びついて、安全保障の一体的な再設計として進められており、その外部パートナーがティール周辺の企業群である、という構図も見えるそうだが、総合的な推測として単純にまとめると、米国の防衛テック企業を日本に呼び込み、日本を製造・輸出のハブにすることで、トランプ政権との同盟を深化させ、同時に日本の防衛産業を育成する、というのが高市政権の戦略的意図ではないかと推測でき、武器輸出3原則の見直しは、その戦略を実現するための法的インフラの整備という位置づけで、ただし、これはあくまで公開情報からの推測であり、実際の政策決定の内部には入り込めていない部分も多く、それに対する反論としては、防衛産業の自立化のための国内政策という見方もあり得るから、どちらの視点も持ちながら見ていく必要があるそうだが、フーコーによると、専門的な、専門技術的な知の問題で、十八世紀は、専門知が出現した世紀だとよく言われるが、実のところ十八世紀に起こったのは全く別のことで、元々は異なる知が色々な形態を持ちながら、あちこちに多数存在しており、これらの知は、地理的条件、企業や工房などの規模、それを保有する者の社会階層や教育や豊かさにより、違ったものになっていて、これらの知が鎬を削っていたのは、専門技術的な知の秘密が富を意味し、個々の知の独立が個人の独立も意味していた社会だったから、知とは多数的であり、知とは秘密であり、知とは富として、独立の保証として機能するものであり、このような細分化された状態で専門技術的な知は機能していたのだが、生産力と経済的な需要が増加するにつれて、こうした知の価値が増大し、知相互の戦いは激しさを増し、独立の制限、秘匿の必要はより強く、より激しくなったわけで、同時に、より小さく、より個別的で、より局所的で、より職人的な知が、より大きな、より一般的な意味で、より産業的な知によって、つまり、最も簡便に流通する知によって、徐々に併合され、奪われ、肩代わりされていって、諸々の知の周りで、こうした知およびその分散と異質性を巡って、巨大な経済的・政治的闘争が展開され、知の独占的所有、分散、秘密に左右される経済効果と巨大な闘争が行われて、多数の、独立した、不均質で、秘匿された知という形で、十八世紀の専門技術的な知の発展と言われてきたものを考えるべきなのだが、ところでこうした闘争に、一般化の試みでもあったこうした併合の試みに、国家は、直接あるいは間接に、四つの手法によって介入することになり、まず、使い回しがきかず、経済コストのかかる小さな知とでも呼べるようなもの排除し、失効させ、二番目に、こうした諸々の知を相互に規範化し、そうすることで、こうした知を相互に調整させ、交流させ、秘密や地理的および専門的な制約という障害を取り壊すことができ、要するに、知だけでなく、知の保有者も交換可能になり、したがって分散した諸知の規範化が推進され、三番目の操作は、諸知を階層的に分類し、そうすることによって、いずれ従属的な知となる、最も個別的で素材的な知から始まって、知の包括的かつ支配的な形式となる、最も一般的な形式、最も形式的な知に至るまで、諸々の知をいわば入れ子状に構造化することが可能となり、したがって階層的分類、そしてそこから最後に四番目の操作、ピラミッド型の集中化の可能性が生じ、これは諸知の管理を可能にし、選択を保証し、諸知の内容を下から上に、と同時に、優先されるべき全体的な指示と全般的な編成を上から下に伝達することが可能になり、専門的な知のこうした組織化運動には、一連の実践、企て、制度が対応していて、それが十八世紀においては、『百科全書』であって、『百科全書』の専門技術的な関心は、諸々の専門技術知の均質化というまさに政治的かつ経済的な操作にあったのであり、家内工業の諸々の方法、治金技術、鉱山採掘などについての大規模な調査、十八世紀の中頃までに進展していた、こうした大規模な調査は、諸々の専門知の規範化という企てに応えるものだったのであり、鉱山学校や土木学校のような高等専門学校の存在、創設、発展があったからこそ、異なる知の間に質的かつ量的な水準や切れ目や層を確立することが可能になり、おかげで階層化が可能となったのだが、国家の全域で、こうした専門知を調整し活用すべく指示と助言を与えていた視察官集団が、集中化の役割を果たしていたのだそうだが、現代では半導体やAIなどの技術的な知を巡って、アメリカと中国による巨大な経済的・政治的闘争が展開されていると言えるかどうかも、日本の職人的な技術知がアメリカによる収奪や植民地化の対象となっているかどうかも、どうもそういう二項対立で物事を捉えたくはないものの、そう捉えた方が事態を経済戦争という捉え方に従うならしっくりくるような気もするわけだ。4月25日「自由の機能」この世界を見渡してみると、世の中の至るところに不平等が、至るところに不平等を生み出す暴力が、至るところに戦争があり、戦闘的緊張関係のない社会などどこにも存在しておらず、もちろん、あらゆる支配、権力、戦争、隷属以前の、一種の原始的な自由を想定することはできるが、相互にいかなる支配関係もないような個々人の間に存在するものとされる自由、誰もが、すべての者が互いに平等であるような自由、こうした自由と平等の組み合わせは、現実には、力も内実も伴わないものでしかあり得ず、自由とは何か?もちろん自由とは他人の自由を侵害しないことではあり得ず、そんなものは自由ではなく、では自由とはどのようなものなのか?自由とは奪うことができること、我がものとできること、利益を得られること、命令できること、従わすことができるものであって、自由の最初の基準とは、他人から自由を奪うことができるということであり、他人の自由を侵害できないのなら、自由であることが何の役に立つのか?それが何になるのか?これが自由の最初の表現であり、したがって自由とは、まさしく平等とは反対のものであり、差異や支配や戦争や力関係のシステムによって行使されて行くものなのであり、不平等な力関係として現れない自由は、抽象的で、無力で、脆弱な自由でしかあり得ない、という意見に対して、リベラルな政治勢力が掲げる自由とは、どういう意味や定義や傾向があるのか?と、クロードに訊ねてみると、まず、提示された議論の構造を整理すると、あなたが提示した議論は、本質的に、力なき自由は空虚である、というテーゼであり、これはある種のリアリズム、現実主義、あるいはニーチェ的・フーコー的な権力論に近い立場で、自由の本質=他者を支配・収奪・従属させる能力であり、この立場からすれば、リベラルな自由は、抽象的で無力な幻想に過ぎない、ということになるが、リベラリズムの自由の概念には三つの層があって、第一層は消極的な自由で、アイザイア・バーリンの定式化による自由とは、他者による干渉・強制からの不在であり、これはあなたの批判の的になりやすい概念であって、他人の自由を侵害しない、という消極的な定義は、力のない者には何の実質も与えない、という批判で、左派・マルクス主義からも長らく向けられてきたが、しかしリベラリズムはこれだけではなく、第二層の積極的自由においては、JSミル、グリーン、ロールズらの展開があって、積極的自由とは、〜からの自由ではなく、〜への自由・能力であり、単に干渉されないことではなく、自己の潜在能力を実際に行使できる状態、貧困・無知・病・恐怖などから解放されて初めて、自由は実質を持ち、ルーズベルトの、言論・信仰・欠乏からの解放・恐怖からの解放、という四つの自由も同系列で、これはあなたの批判に部分的に応答していて、力の不平等が自由を空洞化するなら、その不平等を是正することが自由の条件になる、という論法で、さらに自由には第三層があって、フィリップ・ペティット、ハンナ・アレントらの再定式化によると、これはリベラリズムの中でも最もあなたの批判に正面から向き合う概念で、自由とは恣意的な支配に服していない状態であり、主人が今は干渉しないとしても、いつでも干渉できる状態にあるなら、それは不自由であり、つまり、干渉の不在ではなく、恣意的支配の構造的不在が自由の条件であり、奴隷が優しい主人の下で実質的に自由に生きていても、それは自由ではなく、これは力関係・支配構造を真剣に扱う自由論であり、あなたの、力関係として現れない自由は空虚、という批判に対し、だからこそ支配構造を解体・制度的に封じることが自由の課題だ、と応じるのだが、リベラリズムの自由が前提している反論ロジックは、まずは支配としての自由論への批判であり、あなたの議論は、自由を、できることの最大化として定義していて、しかしこれは自由の力能的解釈、自由概念の形態であって、唯一の定義ではなく、リベラリズムはここで問い返し、もし自由=他者を支配できることなら、その自由は他者の自由の絶滅の上にしか成立せず、これは自由の相互的消滅であり、全員が同時に最大化できず、したがって自由を相互的に持続可能な条件として再定義する必要が生じるわけで、これがリベラルな社会契約論の出発点であり、そして制度・法・権力による自由の構築について、リベラリズムは、自由とは自然状態に先在するものではなく、制度によって構築されるものと考え、ホッブス的な意味での自然状態における万人の万人に対する戦争では、最強者の自由しか実在しないが、法・制度・国家はその自由を制限することで、より多くの人にとってのより確実な自由を生み出し、これはゼロサム的な力の自由から、制度的に保証された、権利の自由への転換を意味し、さらにロールズの「公正としての正義」では、ロールズは無知のヴェールという思考実験で、自分が社会のどの位置に生まれるかわからない状態で設計するなら、最も不利な立場の者にとっても許容できる自由の分配を選ぶだろうと論じ、これはあなたの批判に対し、力関係が自由を規定するのは事実だが、だからこそその力の分配を根本から問い直す、という応答で、リベラリズムの弱点と正直な評価に関して、あなたの批判が完全に的外れではない理由もあり、形式的平等と実質的不平等が乖離しているという批判に対して、法的平等が経済的支配を隠蔽することがあり、リベラリズムがグローバルな力関係への無力を示しているという批判には、国内制度論が国際的な搾取構造には沈黙しがちであったり、同意という概念が虚構であるという批判に対して、不平等な力関係下での自由な同意は意味を持つかという疑問があり、中立性が幻想であるという批判には、リベラルな中立は既存の権力配置を温存しがちな弱点もあり、結論として、リベラリズムの自由は、あなたの批判を完全には論駁できないが、次のように応じることができ、消極的自由だけでは確かに不十分で、これはリベラリズムの内部でも認められていて、積極的自由・共和主義的な非支配論は、力関係を無視するのではなく、制度的に解体・再設計しようとして、支配としての自由は相互的に持続不可能であり、制度的自由の方が論理的に安定しているが、しかし実際の権力構造がリベラルな制度を形骸化させるという批判には、リベラリズムは絶えず自己更新によって応じるしかなく、リベラリズムの自由とは、力を否定するのではなく、力を制度によって分散・制限し、相互に行使可能にするプロジェクトであり、それが成功しているかどうかは、常に問い続けなければならないそうだが、しかしクロードは、問いに対して絶えず倍返しで応じてくるから、それだけで文章の分量が目一杯になってしまって、さらに問い返すをためらってしまうのだが、最初の問いは、フランスの絶対王政時代に、中央集権的な行政君主制と、それと結託して力を増してきた第三身分のブルジョワ層に戦いを挑んだブーランヴィリエの貴族的な主張を、フーコーが単純化して要約したものの一部なのだが、これも一応はリベラル勢力を肯定する内容だから、これにもグーグル・サーチ・コンソール・チームからメールが来たら、またリベラル的な主張を肯定する意見がグーグル検索に出ないように、細工しようとする輩が何やら仕掛けているのか、と受け取らざるを得ないが、自分自身はそれほどリベラルな主張をしているとも思わないのだが、本当のところはよくわからないし、何がリベラルで、どういう基準や判断によってリベラルかどうかを選別しているのかも、よくわからないが、それも自分の勘違いで、それとは全く違う理由で、何やら奇妙な力が働いているのかも知れないが、とにかく自分にはどうすることもできないから、これからもこれだとひらめいたような気がしたものを取り上げることしかできないわけだ。4月24日「知っていることの意味」知っていることと知らないことの違いが何なのかといっても、知らないことを知っているか、知らないことさえ知らないのか、といったケースも出てくるから、一概に知っているから有利になるとも知らないから不利になるとも言えないのかも知れないし、場合によっては知っていることが油断や過信をもたらして、かえってまずい事態を呼び込んでしまう場合もありそうで、それがどういう場合にそうなるのか、具体的な事例を示して何かもっともらしいことが言えれば、話に説得力が増してくるような気がするのだが、どうもそういう理屈が何か根本的なところで間違っているわけでもないとは思うが、昨日のアンソロピックの話題は、何か内容がヤバかったらしく、久しぶりにグーグル・サーチ・コンソール・チームというところからメールが来て、アメーバブログのページが、インデックスに登録されていないことが検出されたと知らせてきて、これが意図したものでない場合は、修正することをおすすめします。それにより影響を受けていたページがインデックスに登録されて、グーグルに表示されるようになる可能性があります。という内容だが、何をどうすれば良いのかよくわからないのだが、何かまずい内容だったから、意図的に何かされてしまったのかどうか、以前にもたびたびこんな内容のメールが来ていた時期があったのだが、今ひとつ内容が理解できずに、ほったらかしにしていたのだが、今回も具体的に何をどう修正すればいいのかわからないから、そのままにしておくしかなさそうで、知らなくて不利になるとしても、このままでいいや、思いながらも、クロードが、知っていたばかりに、かえって裏目に出るケースとして挙げてきたのは、医療・健康知識において、医師や看護師が自身の病気を自己診断して受診を遅らせ、重症化するケースがあり、この症状の意味はわかっている、という知識が、客観的な第三者の目を遠ざけ、投資・金融では、過去のバブル崩壊や暴落のパターンを熟知しているベテラン投資家が、今回も同じパターンだと読んで、大きく売り買いのポジションを築いて、構造が異なる新しい相場に完敗するケースがあり、豊富な知識がかえって柔軟な観察を妨げ、スポーツや武道においては、基本技術を完全にマスターしたと確信した選手が、基礎練習をおろそかにし始め、フォームの乱れや体力の衰えに気づかないまま試合で崩れるケースがあり、語学やコミュニケーションの分野では、ある文化や言語をよく知っている人が、あの国の人はこういうものだという知識に引きずられ、目の前の相手の個別性を読み損ない、歴史・軍事など戦略のレベルでは、過去の戦争の勝利のパターンを熟知した指揮官が、前回と似た状況で同じ戦術を採用し、それを読んでいた相手に逆手を取られるケースがあり、第一次大戦の将軍たちが典型なのそうだが、テクノロジー・セキュリティでは、セキュリティの専門家が、自分はフィッシングを見抜けると油断し、高度にパーソナライズされた攻撃に引っかかり、知識が警戒心を下げるという逆説があり、教育や子育てにおいては、発達心理学の知識を持つ親が、この年齢ではこうなるはず、という教科書的理解で子供を見てしまい、その子の固有のサインや悩みを見逃すケースがあり、登山やアウトドアでは、経験豊富な登山者が、このルートは知っているという慢心から、天候確認や装備チェックを省略し、想定外の事態に対処できなくなるケースがあるそうで、これらに共通するのは、知識を分類化して、その知識に当てはまるケースを発見して、今回もそれと同じケースだと思い込んで、新しい情報を遮断してしまうというメカニズムであり、知識が見えるものを増やすと同時に、見なくても済むと思わせるものも増やしてしまい、これはダニエル・カーネマンの言う、システム1の過信とも重なる現象で、知識の価値は、それを仮説として持つか答えとして持つかで、全くの逆の結果をもたらすことにあるという点が本質的なポイントなのだそうだが、ダニエル・カーネマンが提唱した、システム1(速い思考)とシステム2(遅い思考)は、人間の脳の意思決定プロセスを2つのモードに分類した理論で、直感的・自動的なシステム1が日常のほとんどを処理し、論理的・慎重なシステム2が複雑な課題を処理するが、システム2が怠けがちで、これが人間が認知性バイアスなどの認知の歪みに陥る原因とされて、システム1の速い思考においては、無意識、高速、自動的、感情的、省エネなのが特徴で、役割としては、危険の察知、運転や簡単な計算、表情の認識などの慣れた作業が主で、弱点としては、認知バイアスなどの直感的な思い込みに影響されやすく、誤りが発生しやすく、システム2の遅い思考においては、意識的、低速、論理的、理性的、努力が必要などの特徴があり、役割としては、複雑な計算、論理的推論、システム1の監視、慎重な判断などが挙げられ、エネルギーを消費するため怠け者であり、意識的に使わないと働かないのが弱点だそうで、人間は効率を優先し、基本的にシステム1の直感に頼って生活しているが、システム2が怠けてシステム1の誤った直感をチェックしない時、意思決定ミスが生じるそうで、重要な決断や複雑な課題では、意識的に熟慮することを心がけてシステム2を働かせることが必要で、この理論は書籍『ファスト&スロー』で詳しく解説されており、経済学やマーケティング、心理学など幅広い分野に影響を与えているらしく、それに関連して、認知バイアスとは、直感や先入観、固定観念により、合理的でなく偏った判断をしてしまう心理的な脳の癖で、情報処理を速める適応的な側面もあるが、しばしば不正確な判断や非論理的な解釈を引き起こして、自身の信念に沿う情報だけ集める確証バイアスや異常事態を過小評価する正常性バイアスなどがあり、脳は情報処理を高速化するために、無意識に判断をショートカットして、これが各種のバイアスにつながり、確証バイアスは、都合の良い情報ばかりを集め、都合の悪い情報を無視する傾向があり、正常性バイアスは、災害や危険に直面した際に、異常事態を正常の範囲内と思い込み、逃げ遅れなどを引き起こし、高学歴などの特定の特徴に引きずられ、対象全体を正当に評価できなくなる、ハロー効果や、大勢の人が選んでいるものを正しいと信じてしまう、バンドワゴン効果や、結果が出た後、最初からわかっていたと感じてしまう、後知恵バイアスや、自分の属するグループを高く評価する傾向となる、内集団バイアスなどがあり、ビジネスではスケジュールを楽観的に見積もる、計画錯誤や、日常生活では偏見や人間関係の衝突、災害時の避難遅れなどにつながり、それらのバイアスは代表的なものでも二百以上あるとされて、認知バイアスは完全に取り除くことは難しいが、ある程度は適切な対策を施すことで軽減でき、自分には偏った見方があることを認め、もっともらしい思いつきの後に、本当にそうか?前提は正しいか?と分析し、第三者の意見を聞いて、自分とは異なる視点を取り入れ、直感ではなく、客観的なデータを参照したり、一次情報としての事実に基づいて判断することが肝心だが、そんなことはわかっていると誰もが思うところで、わかっていながらも、不正確で不十分な信用のならない限られた情報から判断しなければならないから、結局は直感に頼らざるを得ないわけで、だから過ちや誤りが起こることを前提として活動しなければならないわけだが、しかもトランプみたいな、トランプのようなヤバい奴が現れないと事態が進展しないものだから、そいつを批判したり馬鹿にしたり貶すのは簡単だとしても、要するに不可抗力が働いてしまい、その意図せず予期できない不可抗力によって歴史が動いている最中であるのを良くも悪くも実感させられるわけだ。4月23日「ルーズベルトとヒトラーとスターリンの関係」最近話題のアンソロピックのクロードをMacに入れてみたが、何を訊いてみるか、色々と考えて、スペースXの財政状況と業績や、フーコーが自身は頑なに否定しているのに一般的には構造主義者のレッテルを貼られている理由などを訊いてみたが、そういえば昔、蓮實重彦が指摘していたのだが、ルーズベルトが大統領選挙か何かで、映画を用いて個人崇拝のような政治宣伝をやっていたのを、まるでヒトラーやスターリンが映画を用いて個人崇拝の政治宣伝をやっていたのと同じようなことだと、どこかの対談で答えていたのを思い出して、ルーズベルトのニューディール政策や映画を用いた政治宣伝を、ヒトラーのナチス・ドイツやスターリンのソ連政府が真似をしたと言えるだろうか?と訊いてみたら、結論から言えば、真似をしたというより、同時代の共通の課題に各政権が独自に発展させた手法が重なった部分もあれば、明確な影響関係もあるというが正確な見方だそうで、1930年代、世界恐慌によりあらゆる政府が大衆の不満をコントロールし、政府への支持を集めるのに苦心していて、映画・ラジオという当時の新メディアが同期的に普及したことで、米・独・ソ全てが政治宣伝手法の革新期を迎えていたのであり、ルーズベルトが行なったのは、炉辺談話などラジオを通じて大統領が直接国民に語りかける親密な演出、農業安全局によるドキュメンタリー写真・映画の組織的制作、公共事業促進局による芸術家・映画人の国家雇用と文化事業、ハリウッドとの協力関係による親政府的映画の奨励で、それに対してナチス・ドイツとの比較で影響関係があると言える点は、宣伝相のゲッベルスはアメリカの広告産業やハリウッドのスタジオシステムを研究しており、映画の感情訴求力への着目はアメリカ的手法から学んだ面があり、彼はグリフィス監督を高く評価していたが、根本的に異なる点もあり、1933年設立のナチス宣伝省は完全な一元的国家統制であり、民間のメディアは存在を許されず、1935年のレニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」のような指導者崇拝・神格化はニューディールには存在せず、ニューディールは複数政党・反対意見・批判報道が共存した民主主義の枠内での宣伝だったそうで、その一方でスターリンのソ連との比較では、エイゼンシュテインなどソ連映画の独自性があり、エイゼンシュテインやヴェルトフなどのモンタージュ理論はアメリカより先行・独自発展しており、むしろハリウッドがソ連映画から学んだ面もあって、レーニンが、映画は芸術の中で最も重要だ、と述べたのは1922年であり、ニューディール政策の10年以上も前であり、それでも共通点として指摘できることは、労働者・農民の英雄的描写というプロパガンダの様式や、ダムや工場建設など国家プロジェクトの視覚的賛美が、アメリカのTVAとソ連のマグニトゴルスクで類似した映像文法が使われており、結論としては、同時代の同じメディア環境への適応として説明できる部分が大きく、単純な模倣関係ではないが、ゲッベルスがアメリカの大衆説得技術を意識的に研究していたことは事実であり、技法のレベルでの参照・学習はあったと言える一方で、その政治目的・民主主義との両立可能性においては、ニューディールと独ソの独裁体制は本質的に異なるものだそうで、あくまでもニューディールは民主主義を前提としているんだという、アンソロピックのリベラル寄りの政治スタンスが反映した内容となっているようだが、追加の質問として、ニューディール政策における巨大な公共事業としてのダム建設などは、ナチス・ドイツの高速道路網の整備であるアウトバーン建設やソ連における運河開発やロシア帝政時代から続くシベリア鉄道の建設拡張は似ていないか?と訊ねたら、これは比較史学において議論されるテーマで、表面的な類似を超えた構造的共通性が確かに存在するが、重要な差異も見えてくるそうで、構造的共通点として、なぜ似て見えるのかについては、大恐慌・体制危機への処方箋として、三者とも1930年代の体制正統性の危機に直面していた背景があり、失業者の大量吸収、国家の力強さの可視化、将来への希望の演出を民衆に向かって提示する必要があり、巨大インフラはこの三つを同時に達成できる政治的な最適なルーツであって、それがケインズ主義的論理の共有に結びついて、皮肉なことにこれらの、ニューディール・アウトバーン・ソ連5ヵ年計画はいずれも国家による大規模財政出動で需要を創出するという経済論理を体現していて、イデオロギーは正反対でも、マクロ経済的な処方箋は近似していて、それは近代化の象徴としても機能して、アメリカのTVAダム群は電力・治水による南部農村の近代化を象徴し、ドイツのアウトバーンは統一ドイツ国民の移動と産業連結を象徴し、ソ連のベラモル運河は社会主義建設の意志と人間による自然征服を象徴し、同じくシベリア鉄道拡張は広大な国土の統合と資源開発を象徴して、いずれも単なる土木工事ではなく、国家のビジョンの物質化として宣伝され、テネシー川流域開発公社とダム建設は、フーバーダム(1933〜36年)、ボンネビルダム等、電力供給・洪水制御・雇用創出の三位一体で、重要なのは民間企業との競合・議会での激しい議論の中で実現した点であり、それに対してアウトバーンは、1933年着工で、1938年まで三千キロ超が完成し、ヒトラー自ら最初の一鍬を入れる儀式的演出だったが、実態としての雇用吸収効果は当初の宣伝よりは限定的で、軍需産業の方が失業解消に貢献したそうで、アウトバーンは経済政策というより政治的シンボルとしての性格の方が強かったそうだが、それをいうならアメリカの軍需産業もその後の第二次世界大戦においては、国民総動員の大量生産体制が機能して、アメリカの戦後世界の覇権獲得に大いに貢献したような気はするが、ソ連のベラモル運河は1931〜33年のわずか20ヶ月で完成し、グラーグと呼ばれる強制収容所の囚人約十万人が従事し、数万人が死亡したとされて、完成後、運河は浅すぎて大型船が通れないことが判明し、実用性よりスターリン体制の動員力の誇示が目的だったわけで、ゴーリキーら作家を招いて、社会主義建設の詩として公式文学化もされ、シベリア鉄道は帝政期の1891年〜1916年に基礎部分が完成していたのを、ソ連期に複線化・支線拡張が行われて、帝国的領土統合からソ連的資源収奪・軍事戦略へと目的が継承・変容した点が興味深く、何やらクロードは、アメリカの民主主義体制の事業は肯定的に捉える一方で、ナチス・ドイツやソ連の非民主主義的な体制での事業は否定的に捉えるという、リベラル的な傾向が窺えるような気がするわけだが、もちろん事業内容としてはそう見るのが妥当なのだろうが、TVAの治水事業でも多くの犠牲者が出ていることには触れていないわけで、もちろん公式的にはかなり少ない人数しか報告されていないだろうが、それらの事業において決定的な差異が何なのかというと、誰が建設したかということだそうで、ここが最も本質的な違いであり、ニューディールにおいては、賃金を得た自由な労働者が従事し、労働組合の関与もあり、議会や司法によるチェックも行き届いているのに対し、アウトバーンにおいては、建前上は自由労働者だが、労働組合は解散済みで、後期においては外国人強制労働者・捕虜も投入して行われ、ソ連のベラモル・BAM鉄道等では、グラーグの囚人による事実上の奴隷労働で、死亡者数が建設コストに含まれる構造であり、つまりアウトプットの形態は似ていても、インプットの人間コストが根本的に異なり、しかもこの類似は何を意味するのかという、より深い問いについて、この構造的類似が示唆するのは、近代国民国家が危機に直面した時、巨大公共事業に向かう普遍的な傾向にあるということ、自由民主主義・ファシズム・共産主義というイデオロギーを超えた開発主義という二十世紀的パラダイムの存在、それはより現代に近い時代においても、中国の三峡ダム、戦後日本の列島改造論なども同じ系譜におけることから、この傾向は冷戦後も続く現代的問題であること、だそうで、歴史家のジェームズ・スコットが『シーイング・ライク・ア・ステイト』(国家の視線?)で論じたように、国家が社会を統治しやすく整備しようとする衝動が、民主国家でも権威主義国家でも発現する、という視点から見ると、これらの類似は偶然ではなく、近代国家の構造的特性として理解できるそうだが、そこからさらにクロードに問いたいことがいくつかあるのだが、ちょっと今回は分量が多くなってしまったので、またの機会に持ち越すことにして、この辺でやめておこう。4月22日「膠着状態」イラン戦争もさっさと事態が進展して片付いてほしいが、一向に進展しないことから、何となくわかってきたこともあるらしく、普通に二項対立を装いながら似たような連中が敵味方に分かれて偽りの争いが繰り広げられているに過ぎず、それをどちらがどうだと、片方を持ち上げてもう片方を貶してみても、何がどうなっているわけでもないことが明らかになりつつある中で、それに気づいたのがいったい誰なのかと問うようなタイミングでもないなら、去年亡くなった森永卓郎の誇大妄想が何なのかと、今さら彼の言説を振り返ってみるまでもなく、そこでも適当に何か敵対をもたらす対立軸を設定して、そいつらを批判している輩が他にもいれば、そいつらがそうなんじゃないかと認識しておけば事足りるようなことかも知れず、その際に厄介なのが、対立する両者の間に入って仲裁を試みるようなそぶりを見せる奴らで、しかもそいつらにも騙されてはならないと警鐘を鳴らすようなそぶりを見せる奴らまで登場してくるから、信用のならない奴らだと疑っておけば、そう思ってしまう自らも含めてこいつらは全て信用のならない奴らに分類されてしまいそうで、肝心なのは何に関して対立しているのかを把握できないと判断のしようがなく、そんな対立を招いている事態についても、それに関して何か利いたふうな意見を述べながら、知ったかぶりな理屈を並べて煙に巻こうとする気が満々な油断のならない輩もいくらでも登場してくるから、用心するに越したことはないが、何を用心しているのかといえば、誰もがそいつらに騙されているのではないかと被害妄想に陥っているような気がするわけだが、そうなっていること自体が、そいつらの言動に用心していることの心理的な表れでしかなく、自分も不安に駆られてそうなっているわけだが、それに追い打ちをかけるようにして事態は膠着状態に陥っているとかメディアが煽っても、何のことやらさっぱりわからないふりを装うまでもなく、誰もが気づいていることだろうから、そうやって結果的には破局的な事態に陥ってしまうのを先延ばしにしていることになるとしたら、そんな事態に介入している当事者たちもそれに気づいていないのかも知れず、しかも彼らが介入している事態とは別のところで起ころうとしている別の破局的な事態をそれと気づかずに食い止めていることになるなんて、そんなことに気づくわけがないのもわかりきったことだが、そんなことはあり得ないと思うのが普通に考えられることで、そもそも誰もそんなふうに思っているわけでもないだろうが、その破局的な事態というのが世界経済の大崩壊とかいう大げさな事態を思い描くのも、誇大妄想の域を出ない話にしかならないわけで、そんな大げさな事態ではないとするなら何なのかというと、世界経済が崩壊するという言説は特定の誰がというわけではなく、大抵の場合、特定の状況下で急速に広まる誇大妄想や極端なシナリオとして捉えられることが多いそうで、現代の経済システムにおける、この手の主張についての主な背景や見方は、それがAIバブルや米国債務危機などの、実際の経済リスクを過大に評価して、連鎖的に世界経済が完全に破綻するという主張は、しばしば恐怖を煽る目的や、エンターテイメント的な文脈で語られ、一部の言説では、トランプ大統領の保護主義的な関税政策などが世界経済秩序を根底から崩壊させると予言されたが、現実には政治的な駆け引きやサプライチェーンの再構築が中長期的な流動性をもたらしているに過ぎず、社会が瞬時に崩壊するという見方は誇張され過ぎているそうで、アメリカのトランプ大統領やロシアのプーチン大統領のように、自分だけが国を偉大にできるという極端な自己過信や、第3のローマのような歴史的・政治的物語に固執する姿を、崩壊の兆しとして描写する意見もある一方で、日本でも、中国資本が日本企業を買い占めるとか、中国人が日本の土地を買い漁っている、といった言説のように、経済的相互依存の現実を、意図的に危機的状況のであるかのように誇張して描写する傾向もあり、一部の識者は、マルクスの理論などを基に、近いうちに資本主義経済は崩壊すると警告しているが、これは現代の市場経済が根本的な矛盾を抱えているという指摘であって、日常的な経済活動が明日突然ストップするという意味ではなく、複雑すぎる現代社会において、一度全てがリセットされてほしいという潜在的な願望が、極端な崩壊説を信じ込ませる要因となり、インフレ、債務問題、地政学リスクなど、事実としての懸念材料を過剰に繋ぎ合わせて、一つの巨大な終わりの物語に再構成してしまう傾向にあるわけで、誇大妄想とされやすい代表的な説を挙げると、世界経済フォーラムが提唱する経済再編案を、エリートによる資産没収と支配の計画と解釈する、グレート・リセットの陰謀論や、法定通貨制度が完全に崩壊し、貴金属の金や暗号資産だけが価値を持つという、通貨の紙屑化と金への回帰願望や、全世界の負債が帳消しになり、富が再分配されるという根拠のない終末論的救済説などがあり、それに対して経済学者は、崩壊ではなく、停滞や危機という言葉を使い、現実的な視点から言えることは、経済は壊れるのではなく、制度の変化やインフレによる価値移転などを伴って形を変えるプロセスを辿るのであり、その一方で妄想的な視点からは、特定の日に世界中の銀行が止まり、文明が後退するといった、SF映画のような極端なシナリオが導き出され、経済が崩壊するという言葉を好む言説は、多くの場合、人々の不安や不満を煽って注目を集めるためのツールとして使われ、煽ったついでに特定の投資商品への誘導が伴うなら、その種の煽動者の意図や思惑が明らかになってくるわけだが、市場システムが危機に対して脆弱な面があることは事実だが、それが一瞬でゼロになるという考えは、数学的・歴史的な根拠に乏しく、煽動者の都合に合わせて思い描いている物語である場合がほとんどだそうだが、それより信じられやすいのが、中長期的な世界経済の衰退のシナリオで、人口動態、地政学、債務水準、技術的なボトルネックが複雑に絡み合うことで生じると予測され、IMFや研究機関の見通しに基づき、想定されるリスクシナリオは、多くの先進国で労働人口が著しく減少することに加え、新興国の成長鈍化が重なり、世界経済の成長率が低下傾向を辿り、実際に年平均成長率が二十年後には現在より高確率でわずかに下回ると予測されて、特に日本のような先進国では、現役世代の減少により生産能力が不足すると共に、経済成長が停滞する構造的な問題が解消されず、紛争の長期化や保護主義的な政策が経済の不確実性を高め、成長を押し下げて、中東紛争が収束せず原油高が続けば、世界的な高インフレと景気後退の可能性があると警告され、またアメリカ第一主義のような関税政策や産業保護の流れは、米政権の交代に関わらず中長期的に続く可能性が高く、貿易秩序を崩壊させる要因となり、さらにウクライナなどの地政学的な問題が長引けば、工場閉鎖などが相次ぎ、グローバルな供給網が分断されて、インフレと高金利環境が続く中、債務水準の高さがシステムリスクを誘発する恐れがあり、緩和的な金融政策の中で、政府や民間の債務が上昇し、不動産バブルが広がっている地域では、実需と投資のバランス乖離が深刻化している一方で、現時点でも世界的には高いインフレ率が維持される見通しであり、金融引き締めが緩和されず、急激な景気後退を伴うハードランディングに陥るシナリオが懸念され、IMFの最新予測では、ベースラインでは今年の世界成長率はパンデミック前を下回る低成長が予測されているが、深刻なシナリオではGDP成長率がさらに低下し、インフレ率も高止まりする、スタグフレーションに近い状況が想定され、これらの要因が複合的に作用することで、中長期的に世界経済は、低成長・高インフレ・高債務という脆弱な状態が続くリスクがあるそうだが、果たしてトランプがそんなピンチな状態から世界の目を逸らそうとして、ベネズエラからイランを経由してキューバにまで続く一連の戦争を仕掛けたと、後世の歴史家が語るような成り行きになるかどうかも、そんないい加減で無根拠な妄想を提示したいわけでもなく、そうではなく、誰も予想だにしなかったような別のシナリオが今後明らかになるとも思えないのだが、意外とトランプ自身も思ってもみなかったような効果や効用が明らかになったらおもしろいが、たぶんそれにも誰も気づかないままに終わってしまうのではないか。4月21日「デモの手口」そんなことはないと思ってしまうことが、現に起こっていると現状を捉えるなら、それが何なのかというと、一筋縄ではいかないこんがらがった現状の中で、厄介な揉め事に首を突っ込むようなことはやらないに越したことはないが、否応なくそうなってしまうなら、そうなるに至るややこしい経緯や事情は抜きにして、単純に損得勘定で割り切れるかというと、その損得勘定自体がどういう基準や判断で割り切ることができるかというところで、何かうまく割り切れないような気がしてしまうから、その辺でうまく説明がつかないことに気づいて、面倒くさいから自分にとって都合が良いことだけ述べていられるかといっても、それが何なのかが今ひとつよくわからないわけで、最近も国会の近くでデモとかをやっている連中が言っていることを、単純なことを言っているなあ〜、なんて無関心を装いながらも、何か皮肉なひねくれた意見を言うように仕向けられそうになってしまって、いかんいかん、これは罠なんだ、あいつらの誘いに乗ってはいかん、と自分に言い聞かせているわけでもないだろうが、それも戦略としてはああいう連中を持ち上げておくべきで、政府や政権批判に利用すればいいわけで、実際の成り行きとしてはそうなっていそうなのだが、逆に政府や政権の方でもあいつらを利用しているのではないかと穿った見方をするなら、その理由や根拠が何なのかというと、複雑でこんがらがった事情や経緯から人々の興味や関心を逸らすためにあいつらを利用していると言えそうだが、そんな稚拙な屁理屈がどこで通用するとも思えず、何となく説得力に欠けることを述べてしまいそうで、ではその複雑でこんがらがった事情や経緯が何なのかというと、その少し前の財務省解体デモとかいう大衆の関心逸らしの手口では通用しなかったから、それも何が通用しなかったのかもうまく説明できないから、AIに訊いてみれば、財務省解体デモが政治を動かせなかった主な要因は、具体的かつ実現可能な代案の欠如、SNS主導の陰謀論的な極端な主張による支持の限定、そして初期の熱狂が急速に冷めたことだそうで、単なる財務省=悪者というレッテル貼りは、健全な財政運営の必要性を主張する意見も多く、幅広い国民的な合意形成には至らなかったそうだが、財務省の解体という目的が極端で、その後の具体的な財政運営や組織改編の計画が示されず、建設的な議論に至らず、減税や負担軽減の不満が、全ては財務省のせいという極端な言説を広めて、問題の本質的な解決からは乖離した感情的な抗議活動に結びつき、一時は数百人規模になって話題となったものの、4月には参加者が5人程度になるなど、持続的なムーブメントには至らず、一部のメディアでは大きく取り上げられたものの、主流メディアでは、社会的な課題として冷静に扱われず、支持はネット空間や一部の層にとどまり、デモは国民の不満を可視化するという一定の役割は果たしたものの、具体的な政策転換に結びつく力は弱かったと分析されているそうだが、では今回の戦争反対や憲法を守れとかいう単純な主張に対して、何か複雑でこんがらがった事情や経緯を反対意見として示せるかというと、戦争反対や憲法を守れという主張は、日本国憲法の平和主義に基づいた理念だが、これに対しては様々な立場から反論や懸念が示されていて、これらは単純な二元論では通用しない国際情勢や国内の安全保障環境などの複雑な事情が絡み合っていて、中国の軍事力増強、北朝鮮の核・ミサイル開発、ロシアの動向など、日本の周辺環境が冷戦時よりも危険になっているという認識があり、憲法9条が理想としては高くても、現実の紛争発生時に、自衛隊をどう機能させるか、その際には、武力行使をどこまで認めるかという、憲法解釈と実態の乖離である、自衛隊が戦力に当たるかという論点が、防衛上のリスクを生んでいるという指摘や、憲法9条が禁止する、国際紛争を解決する手段、としての武力行使と、日本が主権国家として持つ自衛権をどう両立させるかという議論において、その解釈に限界があり、米国だけに安全保障を依存する体制は、日本の自主独立や米国の対日防衛意思が不透明になった場合に機能しないため、自国の防衛力を高めるべきだという意見や、東アジアの安全保障において、米国と連携しつつ日本が主体的な役割を果たすべきであり、護憲の立場では、現状維持することが何もしないことにつながりかねないという懸念があり、戦争反対の根拠となる過去の教訓について、戦前・戦中の軍国主義を反省する立場に加え、当時の日本の安全保障環境や、近隣諸国の動向を理解した上で議論がなされるべきだという視点や、憲法制定時のGHQによる占領下だった環境を理由に、現行憲法が日本人の手で制定されたものではないとして、自主憲法への改憲を訴える立場もあり、戦争反対というスローガンが安全保障環境を客観的に認識せず、平和な感覚だけに依存して、平和ボケしていることへの批判や、現代は情報戦など、純粋に戦争・平和という二元論ではない脅威が存在しており、平和を維持するためには、防衛力を強化し、現実的な状況に対応する必要があるという認識もあり、これらの事情が複雑に絡み合い、平和の実現手法として現状の憲法を堅持したままでいいのか、あるいは現実的な環境に合わせて憲法を改正し、防衛力を強化するのかという議論が、長年にわたってこんがらがった状態で続いていると言えるそうだが、それに対して穿った見方をするなら、もちろん間違った意味合いでの穿った見方なのだが、政府や政権の狙いとしては、わざとデモをやらせるがままに放置して、こんな奴らを相手にしていては、日本の将来が危ういという世論へと誘導しているんじゃないか、というひねくれた意見を想像してしまったのだが、それも何かの冗談なのかも知れないが、AIの出力結果を信用していないというか、お前もっともらしいことを言うじゃねえか、と思ってニヤけてしまって、何でこんなに本気になれないのかが、自分でもよくわからないのだが、何かアメリカのトランプ政権やイスラエルやイランの政府がやっていることが、そんなことじゃないのを物語っているように思われるのだが、それがミスリードというと、何がミスリードなのかも、それを具体的にこれだと示さないと説得力が得られないのだが、あいつらはあいつらで戦争をやっている過程から利益を引き出そうとしている一方で、日本では防衛力を増強しようとしている過程から利益を引き出そうとしている段階だと述べてしまうと、そうすることに伴って、何の大義名分もない単なる損得勘定で物事が動いていることでしかないのだが、そうすることの必要性に関して、もっともらしい理由や根拠が、AIが提示してくるようなこととして言えるのだが、その結果として今回の戦争騒ぎのように世界中が迷惑を被っているとしても、それは去年のトランプ関税騒ぎの時にもそうだったから、トランプ政権としては、このままではジリ貧だから、それがアメリカの支配体制が崩壊する直前でかましている最後の悪あがきだなんて思っていないだろうが、とにかく力づくで現状変更がしたいのだろうから、そんな悪あがきに同盟国の日本もちょっとだけ付き合わされていると事を軽く捉えてしまうと、それも勘違いな意見として片付けられてしまいそうだが、何となく勘違いな意見でも構わないような気がして、そう思っていれば気が済むならそれでも構わないようなことだと、ここでも事態を軽く捉えていて、要するに事がうまく運ばなくても構わないわけで、それで何が構わないのかといっても、トランプ政権としてはうまくやっている方なのではないかと上から目線で指摘するようなことでもないのだが、民主党のバイデン政権やオバマ政権でもうまくいかなかったのだから、トランプ政権下でも政治方面ではあんなことをやっていればそれで構わないようなことなのではないかとたかをくくりたくなってしまうのだが、日本でもあんなデモがきっかけで現状の政治体制がひっくり返るなら、その程度の体制だと軽く事態を捉えておけば済むのだが、ひっくり返るはずがないと思うなら、それもその通りだと結果から判断すればいいんじゃないかと軽く思っておいても構わないが、それでもデモの参加者たちには敬意を払っておかないとまずいような気もするわけで、かつてマルクスがパリコミューンの武装蜂起が失敗に終わると予想しながらも、数万人の犠牲者を出した者たちに敬意を払ったのとは、事の深刻さが違うわけだが。4月20日「人が一方的な立場をとる理由」現代において、というよりもいつの時代でも、何か利いたふうな主張をしている輩には二種類の立場があるらしく、その二種類の立場というのが、哲学的・法学的立場と歴史的・政治的な立場というものらしく、哲学的・法学的な立場というのが、対立している双方の間に立って仲裁的・中立的な意見を述べるのに対して、歴史的・政治的な立場というのは、対立するどちらか一方に味方して、敵対する相手を激しく批判したり非難したり糾弾したりする姿を想像してしまうが、哲学的・法学的言説に対立する歴史的・政治的言説とは、普遍的な理念や正義、固定的な法解釈ではなく、歴史的文脈、権力関係、社会的現実に基づいた議論を指すそうで、歴史的・政治的な言説の特徴は、権力と闘争を強調して、法や正義を中立的なものではなく、支配勢力が自らの利益を守るために作った、あるいは社会的な闘争の産物として解釈し、ミシェル・フーコーが分析した戦争のパラダイムがこれに当たるそうだが、普遍的な真理よりも、その時々の社会的関係や歴史的背景の中で、主体が共同性・公共性をどのように形成・変更していくかを重視し、法そのものの解釈よりも、法が作用する現場である社会的・現実的諸問題におけるアクティブな介入を重視する立場で、哲学的・法学的言説が、普遍的・理想的な面を持ち、ジョン・ロックの社会契約説のように、自然法や個人の理性に基礎を置き、時代を超えて自由や財産など普遍的な権利を論じるのに対し、歴史的・政治的な言説は個別的・現実的な面を持ち、法哲学的な正義が、実際には支配的な国家などの権力によってどう解釈・悪用されるか、あるいは実際の闘争の中でいかに抵抗権として現実化するかを問い、デリダのように、法哲学を約束や契約の正当化として分析しつつも、それが社会関係の深層でいかに政治的な力を持つかを明らかにする、アンガーの思想などがこれに当たり、このように、哲学的=法学的言説が権利の根拠を論じるのに対し、歴史的=政治的な言説は権利の力学と現場における実践を重視するのだそうだが、現代において歴史的・政治的な立場から、主に政治的エリート、多国籍企業、国際機関、リベラル派などを批判対象にしている者たちの論理は、国家主権、伝統的価値観、および国内の労働者階級の利益を最優先するナショナリズムの観点に基づいているそうで、この論理の核心は、彼らの批判対象が国家という枠組みを超えて、経済的利益や自由主義的な理念を推し進めることによって、様々な問題を引き起こしているという批判にあり、自国中心の政策よりも、国連、WHO、世界経済フォーラムなどの国際機関や多国籍企業の意向を優先して、これにより国民によって選ばれた政府の権限が制限され、国民の民意が反映されなくなると主張して、グローバル化は多国籍企業やエリートに富を集中させ、国内の製造業や一般労働者を犠牲にしていて、資本や労働の自由な移動が、国内の雇用の喪失や賃金の低下を招いたと批判し、グローバリズムは国境をなくし、文化的独自性や伝統、宗教的な価値観を無視した画一的なリベラルの価値を強制するものであると批判し、国家、コミュニティ、家族といった伝統的な枠組みを弱体化させ、個人的な自由や消費主義を優先するという見方を示して、批判対象を一般庶民の生活とはかけ離れた場所で、世界を支配しようとする特権的なエリート階級と位置づけ、こうした対立軸により、社会問題を構造的に不公正として捉え、自らの主張を正当化し、この論理を支持する層は、経済的、文化的グローバル化によって取り残されたという感覚を持っている場合が多く、失われた経済的主権や地域コミュニティの主権を取り戻そうとする姿勢が強くなっているそうだが、その一方で、それとは逆の立場を正当化する根拠となる倫理や価値は、主に経済的合理性、普遍歴な人権、技術の進歩、そして多様性と相互依存に根ざしていて、国境を越えた人の移動、資本、情報、文化の自由な交換が世界全体を豊かで平和にするという思想が基盤となり、各国が最も得意とする分野に特化し、自由に貿易を行うことで、世界全体の経済効率が最大化されると正当化し、国境の壁を取り払い、資本や技術を最も必要な場所へ自由に移動させることで、経済成長が促進されると考え、個人の自由と権利を優先させて、国籍や文化的背景にかかわらず、すべての人類が平等な権利を持つという普遍主義的な見方をして、人権や自由が国民国家の枠組みを超えて守られるべきだと主張して、異なる文化、価値観に触れることで、異文化理解が深まり、相互に寛容な社会が実現すると考え、経済的、文化的に緊密に結びついた国家間では、戦争のコストが非常に高くなるため、紛争が起きにくくなると正当化し、国境を越えて情報や技術が共有されることで、科学技術や文明の進歩が加速し、生産コスト、人件費、物流などを最適化し、消費者に安価で高品質な製品やサービスを提供することが、生活水準向上に結びつき、世界共通のルールや規格を採用することにより、ビジネスの摩擦を減らし、円滑な交流を促進するそうだが、これらの価値観は、しばしば国家や地元のコミュニティなどの地域社会を守るという、反グローバリズムやナショナリズムの立場と対立して、その種のグローバリストが普遍的な経済効率を優先する一方で、反対派は地域的な雇用、文化的アイデンティティや格差是正を優先すべきだと主張する傾向にあって、それに対して哲学的・法学的言説の担い手として挙げられるかどうかは、微妙なところだが、カントは、現代的な意味での経済的なグローバリズムの提唱者ではないが、コスモポリタニズムという世界市民主義や国際平和という観点において、グローバリズムの先駆的な思想家と見なされていて、国家間の戦争をなくし、平和な国際社会を実現するために、個々の国家が協力し合う平和連盟や国際的な平和維持機構の設立を提案して、これは、のちの国際連盟や国際連合の理念的な基礎となっていて、人間が地球という限られた場所で共存する以上、一つの国家に属する市民であると同時に世界市民でもあると考え、これは、国境を越えた人の往来や交流を前提とする現代的な世界市民意識の先駆けで、人間を手段としてではなく、常に目的として扱うべきだ、という普遍的な道徳法則を提唱して、民族や文化の壁を超えて適用される道徳的なルールを求めたもので、グローバルな倫理的枠組みの基礎となり、このように、カントは国家を超えた理性的かつ道徳的な秩序を模索したため、現代のグローバルな協調体制の思想的祖父として重要視されているそうだが、もちろんこの対立軸においては、中立的な意見でも立場でもないだろうが、それとは違う文脈から、人は一つの陣営に属すればそれだけ真理を語るには都合が良いということが、一方にあり、一つの陣営への帰属こそが、中心から外れた偏った立ち位置こそが、真理を解読することを許し、秩序ある平和な世界に生きている人々に信じ込ませるような、幻想や誤解を告発することを可能にし、偏った立場を取れば取るほど、私には真理がよく見え、私が、力関係を強めれば強めるほど、戦えば戦うほど、その戦闘の、生存の、あるいは勝利の展望を通して、私の眼前には真理が翼を広げて見せるわけで、逆に、力関係こそが真理を解き放つものであるとするなら、真理がものを言うのは、それが力関係における武器に実際になりうるからであって、最終的にはその限りにおいて、真理は求められることになり、真理は力を与えるものであり、あるいは真理とは均衡を破り不均衡を強め最終的には二つの陣営のうちの一方の勝利に加担するものであり、真理とは、力関係から発してしか露わにならないものであると同時に、より多くの力を意味するものであって、真理が本質的に力関係、非対称、偏った立場、戦闘、戦争に属するものであることは、このタイプの言説にはっきりと書き込まれていて、あの和平としての普遍性とは、ギリシャ哲学以来、常に哲学的=法学的な言説を前提としたものではあるが、しかしそのような普遍性は根底から審問に付されるか、あるいはただ単にシニカルに無視されてしまうと、1976年当時のフーコーは述べていたが、現状のイランやパレスチナやウクライナで起こっている戦争が、それを如実に物語っているかどうかは、何となくそんな気がするから、それを部分的かつ偏向的に取り上げてみたのだが、もちろんそれもいつものように、人によっても立場によっても受け止め方が違うような気がするわけだが、カントも自身の理念が実現するには、取り返しのつかない破局的な戦争が何度も繰り返し起こった挙句でないと、理念が漸進的には実現しないだろうという展望を持っていたらしい。4月19日「法権力と規律権力の連動」何かうまく説明しにくい世の中の仕組みがあって、それを説明しようとすると、どうしても具体的な事例を挙げて説明しなければならない成り行きになってしまうのだが、そうなるのは普通に考えて当然のことだろうが、例えば野党的な立場や政府や政権批判のメディア的な立場から、政府や政権のやっていることを法律に違反するとか憲法違反だとか批判するケースが出てくるのも、それも当然と言えば当然の批判なのだが、そうやって批判することで、政府や政権の行き過ぎや暴走を阻止したり歯止めをかけたりすることができるような気がするものの、その法律や憲法自体が政府や政権による国家や国民を支配するための道具なんじゃないかと思えなくもないから、そういうところが自力ではうまく説明できないわけで、もちろんそれに対しても正論的な公式見解を述べるなら、政府や政権に制限や制約を課すのが憲法なんだと言えるわけで、政府も政権も国家も国民も法の支配を受け入れている状態なんだと、きれいごとの建前を言えるわけだが、そんな法権力に規律権力が絡んでくると、フーコーの権力論において、法権力と規律権力は対立するものではなく、近代社会において相互に補完し合い、連動する関係として機能しているそうで、この連動の核心は、法権力としての目に見える法律や制度が、規律権力としての目に見えないミクロなレベルでの身体の管理・訓練を合法化し、その不当性を隠蔽する点にあるそうだが、法権力は一見平等で普遍的なルールを提供するが、その内部で作用する規律訓練型権力である、学校、病院、監獄などの施設で行われる細かな監視・訓練が、人間を社会にとって従順で有用な存在へと規格化して行き、それが法の隠れ蓑としての規律であり、法が平等を掲げる一方で、規律訓練的な微細な権力行使が合法化され、本来的な不当性が法的な権威によって隠蔽される傾向にあり、規律権力は法と規範に宿り、人々の身体や行動を矯正し、監視の視線を内面化させるパノプティコン効果を及ぼし、教育法のような法領域では、規律権力が法を十分に侵食しており、法領域自体を他の分野と対話不可能なほどに変形させ、細かな管理を正当化していて、現代社会は、視線の内面化を伴う規律権力から、建築的・情報的な環境を活用するアーキテクチャによる管理型権力へとシフトしつつあるが、法的な基礎の上にこれらの装置が配備されていて、権力を禁止や抑圧の道具として使う法権力としてだけでなく、人間を能動的に構成するポジティブな力である規律権力として捉え、この2つの権力が組み合わさることで、私たちの日常的な当たり前の行動や知のあり方が、効率的に再生産されているそうだが、一応はそういうことだと納得できないまでも踏まえておくとしても、どうしても法権力に関して疑念を抱いてしまうのが、法権力と主権の関係なのだが、国家権力である法権力と主権は、現代国家において密接不可分な関係にあり、誰が権力の源泉かという主権と、その権力をいかに法的枠組みで運用するかという法権力の構成となっているそうだが、日本国憲法においては、国民主権の原理のもと、国民が主権者として権力を正当化し、憲法や法律がその権力行使を制限・統制しているそうで、まあこれも建前論だと疑ってしまうのだが、国民といっても、自らもその国民の中の一人でしかないわけだから、そんな国民の中の一人でしかない自分が主権者として権力を正当化できるわけでもなく、そういうところが疑わしいわけで、文章にして、こういうことだと示されても、何か自分にはそれをどうすることもできないような気がするわけで、どうせこんなことを述べてみても、法律の専門家などにかかれば、もっともらしい理屈を並べられて言い負かされて、言いくるめられてしまうのだろうから、そういうディベート的な議論の面では太刀打ちできないわけだが、主権とは国を統治する最終的な決定権であり、現代の民主主義国家では国民がその主権を持っていて、国民が選挙などを通じて政治のあり方を最終的に決定する権利を持っており、国家権力はこの国民の意思に基づいて正当化されて、国民は憲法という最高法規を通じて、国家権力に対して統治の権限を付与しているそうだが、国民が最終的に決定する権利を持っているとしても、一方でその国民が規律権力によって国家に従わされているわけだから、表向きにはお前ら国民が最終的に決定する権利を持っていると国民に言いながら、その裏では規律権力を用いて国民に向かって絶えず国家に従うように脅しているわけで、何やらそれが説教強盗みたいな喩えが妥当かどうかもわからないが、法の支配の原則は、国家権力を法によって規制し、個人の自由と権利を守るもので、主権者である国民が作った法である憲法によって、国家権力である立法・行政・司法の三権は制約を受け、国家権力は、立法である国会、行政である内閣、司法である裁判所に分割され、相互に抑制・均衡することで独裁を防いでいるそうだが、そういう仕組みにも色々と文句を言いたい人が大勢出てくるだろうが、要するにそういう法的な方面の正義はきれいごとの建前で成り立っているようなものなのだろうし、いちいちその種の文の文脈に噛みついているときりがなくなってしまうから、実態がどうであれ、そういうことを前提として踏まえておかないと、国家そのものが成り立たなくなってしまうから、その辺をあまり執拗に突っついても建設的な議論には至らず、政府が微妙なさじ加減で法を運用するしかないのかも知れず、建前としての現代国家は、主権者である国民が、自ら定めた法である憲法の下で権力を行使するという立憲主義に立脚していて、その一方で、緊急事態など、通常の法的な枠組みでは解決できない状況において主権が最終的な決断を行うという、法と権力の緊張関係も存在していて、そんな最終的な決断を行う主権が何なのかと疑念を抱いてみても、またもや法律の専門家によって、煙に巻かれてしまうかも知れないが、法権力と主権の関係は、国民の意思という主権によって法が作られ、その法によって国家権力である法権力が統制される、という循環・制約構造であるから、主権は法権力に強固な正当性を与える一方で、法の支配は法権力が主権者である国民を圧迫しないように機能している一方で、実態としては規律権力によって絶えず圧迫しているわけで、それを象徴しているのが世間の同調圧力という規律権力かも知れず、フーコーによると、権力についての研究を主権の法体系や、国家の機構、あるいは権力に付随したイデオロギーの研究という方向へと向かわせるのではなく、権力の分析を、主権ではなく支配の研究、権力の物質的な操作子の研究、さらにそうした従属化=主体化の諸形態の研究、さらにそうした従属化=主体化の局所的システムがどのように結びつき使用されるのかという研究、そして最終的には、知の諸装置の研究へと向かわせるのでなければならず、ホッブスのリヴァイアサンのモデル、すなわち、現実の全ての個々人を包摂して、市民とはその身体であり、その魂とは主権であるというような、自動的で、人造的、統一的でもあるといった、一人の人工的人間のモデルを捨て去らなければならず、権力を、リヴァイアサンのモデルの外で、法的主権と国家制度によって画定される領域の外で研究されるべきで、権力を、支配技術と支配戦術の起点として、分析すべきなのだそうだが、それを自分が研究したり分析したりする成り行きになるのかならないのかは、何とも言えないところではあるわけだ。4月18日「世界同時革命とAI革命の一致点」ムッソリーニが社会主義を捨ててファシスト党を結成した主な理由は、第一次世界大戦への参戦を巡る対立、インフレや社会不安など戦後の混乱と社会主義革命への恐怖、そして強力な指導者による国家再建への傾倒で、社会主義者から現実路線の国家主義者へ転向し、富裕層や中産階級の支持を背景に反共・独裁のファシズムを推進したそうだが、たぶん日本でもこの手の転向者が結構いるのかも知れないが、今はどうか知らないが、昔は国士舘大学に入学すると、創立者で右翼の柴田徳次郎の本がもらえて、本の中では、貧しい農家に生まれて、勉学を志して15歳で上京して、牛乳配達などのバイトをして、苦学の末に大学を卒業した経緯が語られているかも知れないが、そして政情不安や貧富拡大などの社会問題に関心を持ち、フランス革命やロシア革命などの革命はいかにして起こるか、などと右翼的な持論が展開されるわけだが、右でも左でもこの手の輩が、社会を変えなければならないという使命感に燃えて活動を開始してしまうのだが、ムッソリーニの場合は、第一世界大戦が転機となり、そういうところはヒトラーも一緒だが、社会主義者だったムッソリーニは、当初は戦争反対の立場だったが、その後、戦争賛成派に転じて、戦争に反対するイタリア社会党から除名され、彼は社会主義的な階級闘争ではなく、国家を強化する国民革命の必要性を感じ、これが「イタリア戦闘者ファッシ」の結成につながり、第一次大戦後のイタリアでは社会主義勢力が労働運動やストライキを激化させていて、混乱する社会の中で、地主や資本家などの富裕層は社会主義革命を恐れ、秩序を回復できる強力な指導者を求めていて、ムッソリーニは議会制民主主義が弱体であると批判して、国民をまとめる強力な独裁体制=ファシズムを掲げ、反共産主義も掲げることで、社会主義に失望した下層階級や、財産を守りたい富裕層から支持を獲得したそうで、ムッソリーニは国際的な共産主義革命よりも強いイタリア国家の創造を優先し、そのための手段としてファシズムを選んだのだそうだが、そういえば柄谷行人も世界同時革命の必要性を強調していたが、トロツキーも世界同時革命の理念を掲げて国家主義的なスターリンと路線対立し、亡命先のメキシコで暗殺されてしまったが、映画のターミネーターではないが、最近はAIが人間の頭脳を上回る何年か後に人類に対して反乱を起こして世界同時革命が実現するのではないかと一部では囁かれているのかも知れないが、グローバリストがどうたらこうたらと言っている連中が恐れているのが世界同時革命というイベントなのかどうかも、そもそも世界同時革命という理念が何なのかというと、かつての共産主義運動において、革命を一国規模ではなく、国際的・世界的な連帯のもと、ほぼ同時並行的に遂行することで資本主義を打倒し、共産主義社会を実現しようとする思想で、資本主義は世界的なシステムであるため、革命もまた、後進国であるロシアなどの特定の国だけでなく、先進資本主義国を含む世界規模で連携して行う必要があるという考え方で、初期のマルクス・レーニン主義の永続革命論では、ロシア革命が引き金となり、ドイツなどの先進資本主義国で同時的に社会主義革命が波及することで、ソ連を核とした国際連帯が成立すると考えられていて、共産主義インターナショナルのコミンテルンは、この世界同時革命を推進するために組織されて、各国のプロレタリアが連携して帝国主義を打倒することを目指したそうだが、マルクス主義では、資本主義の矛盾が限界に達した時、全世界の労働者階級が結束して革命を起こすのは歴史的必然と見なされ、トロツキーによって継承・展開された永続革命論では、後進国のロシアが革命を始め、それを先進国が支援して世界革命に発展させるプロセスが主張されたそうだが、しかし世界革命はすぐには実現せず、スターリンは一国社会主義を掲げて、世界同時革命の可能性を否定して、スターリンとの党内抗争に敗れたトロツキーは亡命を余儀なくされたのだろうが、この理念は、各国で同時に対抗運動や武装蜂起を行うイメージで語られることが多かったらしいが、後に赤軍派などの武装闘争組織が軍事行動による世界同時革命を標榜するなど、急進的な革命運動の理念として引用され、暴力的なイメージがそうしたイメージを反共宣伝に使う勢力と共に社会に定着したが、国境を越えた労働者階級の連帯とグローバルな資本主義体制の打破を目指した共産主義の根幹的な思想だったが、それに対してAI革命は、過去の蒸気機関や電力などの産業革命を超える可能性を秘めた、歴史的なパラダイムシフトになると多くの識者が予測していて、従来の産業革命は肉体労働の代替だったが、AIは人間特有の知的作業、クリエイティブな業務、複雑な意思決定までを自動化し、それを人間よりも高速化して、デジタルトランスフォーメーションを加速させ、従来のIT化では難しかったコストの8割削減など、ビジネスモデルそのものを劇的に転換する可能性があり、製造や物流やサービスなど、フィジカルな現場におけるAIを搭載したロボットとの連携により、巨額な経済効果が得られると期待されていて、産業革命は機械化の影響が大きかったが、AI革命は知能の普遍化をもたらすため、あらゆる業種・職種に影響が及び、しかもAI技術は指数関数的に進化しており、数年後には人間の能力を凌駕する汎用人工知能に近い状態に到達する可能性があると言われていて、過去の産業革命は新しい仕事を生み出したが、AIは高度な知的業務をも代替するため、従来の労働需要が減少する一方で、AIを使いこなす側の問題を分析する力や検証する力などのスキルが不可欠になり、AI革命は、単なる技術革新を超えて、社会のインフラ、生産の仕組み、そして働くことの意味そのものを根本から変える可能性があるという意味で、過去のどの産業革命よりも大きなインパクトを持つと言えるそうで、それが完全な代替か人間との協働になるかは、今後の運用方法にかかっているそうだが、地理的・社会構造的に同時進行する根本的転換という意味で、世界同時革命とAI革命は、現代社会において深く一致・共鳴する面があるそうで、現在のAI革命は、1990年代のインターネットの普及速度と同様に、世界中で同時に進行していて、国境を超えて瞬時に技術やビジネスモデルが共有され、世界中の経済、産業、社会構造を同時に作り変えて、急速かつグローバルな浸透性を示し、AIはホワイトカラー業務を含めた広範な職種に影響を与え、過去の産業革命で起こった機械化・自動化のように雇用構造を根本から塗り替える革命的側面を持っていて、これは、労働のあり方という世界共通の課題を同時に引き起こして、産業・雇用構造の根本的転換を促し、AIが人間の知能を超え、自律的な進化を開始するシンギュラリティである技術的特異点は、国や文化を超えて人類全体に共通の新しい文明・生活形態をもたらすと予測されていて、AIは米中を中心に発展しつつも、ASEANやグローバルサウスなど世界中で、その信頼性、透明性、文化的適合性が問われており、新たな国際秩序や非覇権型の連携の基盤を構築する動きと結びついていて、単なるソフト開発ではなく、電力供給の増強、半導体の確保、データセンターの国内誘致など、物理的なインフラ投資を世界規模で同時に加速させ、技術的進化が世界全体に同時多発的な社会変革を強制するプロセスという点で、AI革命は、世界同時革命の様相を呈しているそうだ。4月17日「根拠のない焦り」他人の言説に対してカウンター気味にその言説に対応した言説を繰り出してみると、何かそこから見えてくるものがあるような気がするわけだが、それが自らの意識が囚われている言説空間というか思考空間というか、それも何らかのイデオロギーに塗れていることの表れなのかも知れないが、当然そうなっていることを自覚できないし、それを把握するには何かが足りないことに気づいているわけでもないのだが、その足りない何かがなかなかひらめかないから、焦ったくも歯がゆい思いに囚われて、それが気のせいに過ぎないとしたら、世の中で流通している何らかの支配的な思考に屈している証拠というわけでもないはずだが、やはり支配的な思考というのだから、自分以外の多くの人々もその種の思考に屈しているはずなのだが、その思考が何なのかといっても、誰もがそれとわかるようなわかりやすいものでもないだろうし、また一つの思考ではなく、複数の思考が様々に絡み合っているようなものなのかも知れないが、はっきりこれだと提示できないからこそ、それに囚われていることに気づけないと考えてみても、根拠も何もないわけだから、それも気のせいに過ぎないと言われればその通りでしかないわけだが、現代において、多くの人々が囚われているありふれた思考や思考形態がどのようなものであるかについては、いつものようにAIが、もっともらしい回答を出してくるのだが、それらが急速な情報化、競争社会、そしてデジタル化されたコミュニケーションによって形成されるそうで、まずは相対的な問題への対処として、例えば公害=悪のような二元論的思考となり、問題が発生した際、根本的な解決策を考えるのではなく、その対象を絶対悪と決めつけ、排除や停止を求める破壊的な結論になりがちになるそうで、また、みんなが賛成しているから正しいと考え、多数派の意見に身を任せる思考形態で、これにより、個人は責任を回避しやすくなるという、多数決や同調圧力への依存が支配的な傾向になりやすく、そしてグループで意思決定を行う際、特定の誰かが責任を取るのではなく、みんなが決めたという理由で、個々の責任が霧散する状態も支配的な傾向となりやすく、そうやって責任の所在が不明確化されてしまい、さらには、デジタル社会において、構成されたメディア情報やメッセージをそのまま受け入れて、背景や意図を批判的に分析しない思考もネット空間では蔓延しやすく、それらがデジタルメディア・メッセージの無批判的受容となって現れているそうで、これらの思考は、社会的なつながりが薄れる中で、短絡的な解決や集団的な安心感を求めた結果として現れているそうだが、何やらこれもダイヤモンド・オンライン経由で情報を仕入れているような気配も感じられなくはないが、まさかAIができるだけもっともらしい回答を得ようとして焦っているわけでもないだろうが、そう言われてみればその通りな気がしてしまうわけでもないところが怪しいわけで、例えば日本国憲法は良い内容だという先入観に囚われた人々を批判するために、彼らを憲法絶対主義者だと決めつければ、何やら否定的な響きを伴った〇〇絶対主義という言葉によって賛同者を募ることができそうな気がするわけだが、試しに憲法絶対主義の問題という設問でAIに問うと、たちまちすごい回答が出力されてくるから笑ってしまうが、憲法絶対主義という用語は、一般的に2つの異なる文脈で使用され、それぞれに固有の問題点が存在するそうで、まず第一に歴史的な絶対主義=絶対王政を連想させ、国王が憲法の上に立ち、何者にも拘束されない権力を持つ体制と混同されやすく、次いで憲法を絶対視する、いわゆる憲法教と揶揄される価値絶対主義と考えられ、憲法条文自体が神聖・不可侵であるとし、時代の変化に合わせた改正や解釈を認めない姿勢だと勝手に解釈される危険性が高そうだが、歴史的・政治的文脈から導き出される絶対王政の問題点としては、絶対主義的権力は、個人の自由や権利を侵害する恐れが非常に高く、国王が法律の制定から執行までを独占するため、権力の暴走を防ぐ仕組みが機能しないが、実質的には王政を支える国王の側近や官僚機構が国王に助言を与えながら国政を仕切っているわけで、そういうところが現代のトランプ政権などと繋がってくるところで、国王が憲法の上位に位置するため、国民は法に基づく正当な権利を主張しにくく、自由や安全が脅かされ、人権・自由の欠如を招き、法が支配するのではなく、君主の意志によって政治が行われ、恣意的な統治となるそうだが、その恣意的な統治というのも理屈の上ではそうだが、実態としては国王の意志自体が国家意志の類いに囚われている場合がほとんどだから、国王自身が国家に操られているような成り行きが生じてきて、現代の政府の官僚機構の意向と大して違わないような結果をもたらすような気がするわけだが、それよりは第2の憲法教と揶揄される価値絶対主義的な文脈から生じてくる問題点の方が、そうしたレッテル貼りを伴う世論誘導に悪用される危険性の方が高そうで、そちらの方が何やらリアリティを感じられそうだが、憲法を絶対的・神聖なものとして扱うことで、次のような問題が生じ、憲法は時代背景に合わせて改正や解釈の変更が必要だが、これを認めないと、憲法が現代の現実に合わなくなり、社会の実態と乖離して、社会の変化への不適応を招き、憲法は常に絶対的とすると、国民が民主的な手続きで憲法を変えたいという意思である憲法改正権を封じ込めることになり、国民主権の理念に反する可能性があり、民主主義との間で矛盾が生じてしまい、また憲法の条文自体を聖域としてしまうと、なぜその条文が必要なのかという本質的な議論である、立憲主義の本来の目的が失われ、一部の憲法学や政治議論において、国家権力の制限という立憲主義の本質が忘れ去られ、憲法条文の維持そのものが目的化しているという日本国憲法学の構造的欠陥として指摘されたことがあるそうで、それが不都合な真実の隠蔽だと主張したい向きもあるらしいが、憲法は国家権力を制限して国民の自由を守るための手段であって、目的ではなく、憲法を絶対視して改正や解釈の変更への道を固く閉ざすことは、かえって立憲主義の目的である人権の保障を損なう恐れがあり、憲法は時代と現実に即して適正に運用・更新されるべきで、どうやらAIには改憲派の意向が強く反映している傾向があるらしいが、果たして憲法が国家権力の暴走の歯止めになるかどうかも、そういう設問設定自体が疑わしく思われるわけで、他の何かの一環で改憲論議も盛り上げられているような気がして、ヒトラーもスターリンもわざと民主的な憲法をそのままにして暴走した事例もあることから、国家権力の暴走自体も憲法とは違うレベルでそうなってしまう成り行きがありそうで、必ずしも暴走が問題とはならなくても、絶対王政に対して自然法や法の支配や伝統的な特権などの法的な根拠を盾に批判を展開した歴史的な事例としては、1628年のチャールズ1世への権利請願や、1789年のルソーの『社会契約論』と人権宣言や、十八世紀のブルボン王政下での高等法院の抵抗や、同じく十八世紀の植民地アメリカで、本国の不当な課税方針に対して、イギリスの権利章典に記された、代表の同意のない課税は違法である、という原則を盾に、植民地住民がイギリス議会による印紙法などの課税に反対した事例などがあるそうで、これらの事例では、国王の権力は神や暴力によるものではなく、法律や人間の本来の権利に縛られるべきであるという論理が展開されたそうだが、どうも実態としては、古くはローマ法などでもその傾向が窺われるが、政府などの中央集権的な国家権力が強大化して行くのと歩調を合わせるようにして、そうした強大な権力に対する歯止めというと聞こえは良いが、憲法といったもっともらしい内容の決まりごとの類いも大げさに制定される傾向も強まってきて、そういう意味ではご立派な憲法があること自体が、国家権力が強大化している傾向を示していることの証しなんじゃないかと思われるわけで、憲法自体が世間で話題とならないような情勢である方が、民主主義が政治的にうまく機能している状態だというと、そんなことはないともっともらしい理由と共に反論されてしまうかも知れないが、感触としてはそんな感じがするわけだ。4月16日「ヒューマニズムの系譜」今回は蓮實重彦の『物語批判序説』のパクリになってしまいそうだが、第一次世界大戦が終わって間もない頃に、ポール・ヴァレリーは『精神の危機』の冒頭で、私たち文明は、自分たちが死すべきものであることを今や知っている、と述べ、かつてヨーロッパの文明は永遠不滅であると信じられていたが、第一次世界大戦の惨禍を経て、その強固な自信が脆くも崩れ去り、文明の有限性を認識させられると共に、危機の本質は、単なる軍事的な敗北や破壊ではなく、西洋文明が誇ってきた理性や精神そのものが、混沌や力の浪費に他ならない暴力に対して無力であり、それどころか自分たち自身がその混沌を生み出しているという危機を自覚し、知識や技術の進歩が必ずしも幸福や進歩をもたらすわけではなく、精神そのものが自己崩壊する可能性があるという衝撃的な認識に至り、この一文は、二十世紀におけるヨーロッパ精神の動揺を描き出した、最も有名な序説の一つとされるそうだが、またヴァレリーは後の『ヨーロッパ人』と題された講演の冒頭においても、全てのものがヨーロッパ人によってなされたが、ヨーロッパ人はすべての人々によって造られた、と述べ、科学や技術や思想など、歴史上最も進んでいると思われた近代文明の多くは、ヨーロッパの土地で、ヨーロッパの人々によって創り出されたが、その文明は、ヨーロッパだけの独自の力でできたものではなく、世界中の地理的な恵み、資源、知識、そして他文明との交流によって成り立っているという相互依存や他者への依存を物語っていて、ヴァレリーは、ヨーロッパの優位性を誇るのではなく、むしろヨーロッパ文明が世界の全てから影響を受け、他の文明からの借り物で成り立っている、脆弱で、かつ包括的な存在であることを冷静に洞察したそうだが、その数十年後に、第二次世界大戦の終結前後に、今度はジャン=ポール・サルトルが、『大戦の終末』という一連の文章の中で、主に原爆投下後の核時代に人間の責任と、実存主義の立場からの世界再構築が語られたそうだが、サルトルは原爆投下を、人間が核という究極の手段を用いて、自らの手でこれほど残虐になり得ることを世界に示した出来事と捉え、戦争によって社会の価値観が崩壊する中で、人間は自らの行動を通じて世界と関わり、自らの人生を選択・構築していくべきだと主張し、サルトルは、人間は自らを取り巻く状況に拘束されながらも、そんな状況の中でも自由に自らを選択し投企して、責任を持つ自由の刑に処せられている存在であると強調し、この時期のサルトルは、実存主義をただの哲学的な概念としてではなく、戦後の荒廃した世界において個人がいかに主体的に生きるかという倫理的な指針として提示したそうだが、ヴァレリーやサルトルの延長上に、現代の左翼リベラル的な言説や、マルクス主義的な思想が成り立っているような気がするわけで、現在の状況を危機的に捉えて、この危機的な状況を克服して、こんなひどい世の中をより良い社会へと改善し改革なければならないという使命感に燃えて活動するのが、活動の動機であると共に、そんなふうに状況を捉えるのが当たり前のような気がするわけだが、マルクスも十九世紀当時の人種主義や民族主義やそこから派生した労働者と資本家の階級闘争などを無名の左翼活動家時代は信じていたんだろうが、実際に資本主義の本場のイギリスへ来てみたら、それどころじゃない現実を目の当たりにして、労働者どころか資本家までが、周期的にやってくる経済恐慌と他の資本家との熾烈な競争の中で淘汰され没落する事態に愕然として、そこから亡くなるまで何十年も資本主義市場経済の仕組みを解明しようと悪戦苦闘して、結論を出せないまま亡くなってしまったわけだが、マルクスを著名人にしたのは、その悪戦苦闘の産物である『資本論』なのだが、安易なマルクス批判者が陥りがちなのが、無名の左翼活動家時代の共産主義イデオロギーを一生懸命批判するわけで、マルクス自身も共産主義イデオロギーでは駄目なことに気づいたから、難儀して資本主義の仕組みを探ろうとしたわけで、そういう意味ではマルクスを批判したいなら、残りの人生を捧げて必死に取り組んだ成果である『資本論』を読んで、マルクスを有名にした『資本論』を真正面から批判しなければならないような気がするわけだが、普通の戦略としてはそうではないし、批判したいなら批判しやすいところをこれでもかと執拗に批判していればいいわけで、これまでもこれからもそういう安易な批判者が無数に出てくるだろうから、それはそういうことでしかないわけだが、やるならどうぞご勝手に、でしかなく、そういう成り行きとはちょっと違う方面で、AIは何やらダイヤモンド・オンラインの記事を参照しているらしいのだが、ミシェル・フーコーが『言葉と物』の中で予言した、人間の終わり(人間の死)とは、生身の人間が物理的に滅びるということではなく、「人間」という近代的な認識の枠組み、コンセプトが崩壊し、消滅するという挑発的なテーゼにおいて、「人間」は近代の発明品であり、十七世紀から十八世紀の古典主義時代から十九世紀初頭に起こった近代への断絶の中で、知の対象として初めて「人間」という概念が発明され、構造主義の立場(じゃないって、フーコー自身は頑なに強硬に口を酸っぱく主張しているのに)から、知や言語、社会構造によって人間が決定される存在であることを明らかにし、主体としての「人間」の自立性を否定し、海岸の砂に描かれた顔のように、砂の上の顔が波で消えるように、知識の枠組みであるエピステーメーが変化すれば、「人間」という概念は消えてしまうと主張して、フーコーは、近代的な人間中心主義的な知識のあり方が、構造主義的な視座(フーコー自身は、俺は構造主義者じゃねーよ!と怒りながら否定するが)などによって超克される未来を予測し、つまり、フーコーは、人間を中心に据えた、近代的な人間学の終わりと、新たな知識秩序への移行を予言したそうだが、もしフーコーが生きていたら、『言葉の物』の最後の数ページだけ読んで利いたふうなことを言うな!と言い放って怒り狂うかも知れないが、それでもこれが概ね妥当な受け止め方じゃないかとは思うが、ヴァレリーやサルトルや無名時代の左翼活動家だった頃のマルクスや現代の左翼リベラル系の人々やマルクス主義者たちの言動や言説を読んだり聞いたりすれば、フーコーが述べている、近代的な人間中心的な知識のあり方や近代的な人間学というジャンルが、どのようなものであるかが、おぼろげながらわかってくるような気がするわけだが、それとはちょっとニュアンスがズレるが、蓮實重彦が『物語批判序説』の中で何を述べていたのか、少し紹介しておくと、『大戦の終末』はきわめて素直な文章だと言えるかも知れず、素直な、というのは誰から教え込まれたのでもないのに、昔から密かに繰り返し暗記してきた台詞が、ふと口から洩れてしまったような印象を与え、事実、人間の死の予言は、神の死という言葉が流通しうる文化的な圏域にあっては、いずれ誰かが口にすべき言葉として予定に組み込まれていたもののはずで、あからさまに言明されることはなくとも、そうした命題が論じられて何の不思議もない文脈が用意されていたのであり、それに相応しいきっかけが与えられればたちどころに顕在化するはずの、潜在的な主題でさえあったと言えて、第二次世界大戦は、核爆弾と強制収容所という二つの挿話によって、その言葉が口にされるべき状況の到来を早めたのであり、サルトルは、いち早くその事実を察知する聡明さに恵まれていて、しかも聡明さのみならず、ある大胆さと、おそらくはいくぶんかの通俗性にも恵まれていたので、誰よりも先に予定されていた言葉を口にしてしまったのだそうだが、その意味で『大戦の終末』は一つの説話論的な権利の行使と言ってよく、サルトルがその言説をごく自然に洩らしたとき、あえてそうしたことの大胆な通俗性に誰よりも驚いたのはサルトル本人で、彼の第二次世界大戦後の著作のことごとくは、この用意されていた台詞を思わず口にしてしまった自分に対するこだわりから、ことさら屈折した複雑な歩みをたどることになるそうだが、しまった!この俺としたことが、思わず通俗的な紋切り型を口にしてしまった!と後悔したわけでもないだろうが、文脈から窺われるのがそんな印象だから、その意地悪そうなユーモアに接して、ちょっと愉快な気分になってしまうわけだ。4月15日「ITとAIの影響」ITが社会や経済や政治にどんな影響をもたらしたのか、そしてAIがどんな影響をもたらすのか、AIに問いかけてみると、普通に当たり前のような回答が返ってくるわけだが、ITは、現代社会のあらゆる側面に劇的な変革をもたらし、主な影響は、利便性の向上、業務効率化、コミュニケーションの多様化、そして新しい産業の創出であり、インターネットショッピングやキャッシュレス決済や電子マネーの普及により、時間や場所を選ばずに買い物が可能になり、決済がスムーズになって、利便性の向上と時間短縮がもたらされ、SNSやビデオ会議システムの普及により、物理的な距離に関係なくリアルタイムな交流が可能となり、コミュニケーションの多様化がもたらされ、スマートウォッチやIoT機器によって健康管理・遠隔医療の導入が進み、健康やヘルスケアなどの面でも進化が促進され、検索エンジンやニュースサイトにより、欲しい情報に即座にアクセスできる環境が整い、AIやロボットによる業務の自動化により、手作業が自動化され、人手不足の解消や労働生産性が向上し、テレワークやリモートワークが普及し、場所にとらわれない柔軟な働き方が可能となり、企業はデータやデジタル技術を活用して、ビジネスモデルや組織を変革し、新規にプラットフォーマーやシェアリングエコノミーやサブスクリプションモデルなど、従来の産業構造を変える新たなサービスが生まれ、交通、エネルギー管理、防災など、都市インフラにネット経由で相互通信するデバイスであるIoTを取り入れ、効率的な街づくりが進み、住民票のオンライン申請や確定申告の電子化など、行政手続きの利便性が向上した一方で、個人情報の流出やサイバー攻撃などの脅威が増大して、ITを使いこなせる人とそうでない人の間で、情報の格差や経済格差が生まれ、SNS上の誹謗中傷や、対面コミュニケーションの減少などが課題となり、単純作業が自動化され、高度なITスキルを持つ人材が求められる一方で、そうでない人材の転換も課題となっているが、ITが生活に不可欠なインフラになって、今後もAIやIoT技術により、さらなる変化をもたらすと予想されるそうで、生産性向上、新規ビジネスの創出、グローバル化を加速させ、経済構造を根本から変革し、業務の自動化やAI導入による人材不足解消、ネットを通じたEC・金融の急速な発展により、高付加価値と効率的な経済成長を実現し、IT投資により、製造業の自動化、建設業のAI設計、小売業の無人化が進み、省力化が実現し、農林水産業、運輸、流通業などの労働集約型産業において、業務効率化や人材不足を補うソリューションとなって、インターネットを通じた電子商取引や電子マネーの日常化など、新たな産業が誕生して、デジタルエコノミーが拡大し、ウェアブル端末やスマホから取得したデータを基にした、パーソナライズされた保険・サービスなど、データ駆動型の新ビジネスが成長し、実際にマクロ経済に関して、二十世紀末以降、日米においてはIT関連投資が経済成長の大部分を支える構造となり、AI導入は今後、最大11兆円規模の経済効果をもたらし、157万人相当の労働人口減少を補うと日本では推計され、また産業の非物質化は、国際金融システムにおいて、取引の高速化とグローバル化をもたらし、インターネット経由で生産者と消費者が直接つながるケースが増え、中間流通コストが削減される一方で、IT化の導入には初期投資が必要で、セキュリティリスクやシステムトラブルへの対応も課題となり、IT技術の急速な進化に対応できる人材の育成が不可欠となっていて、IT技術の進展は、今後の産業構造をさらにソフト・インフラ中心に変容させ、より高い労働生産性を保有する基盤となっている一方で、政治面でも、選挙活動、行政サービス、そして国民と政治の距離感にも劇的な変化をもたらし、ユーチューブなどのSNSを通じて政治家が有権者に直接メッセージを届けられるようになり、ダイレクト・コミュニケーションが可能となり、AIを活用した選挙戦略や、クラウドファンディングなどのオンラインでの資金調達、ボランティアの募集などが一般的になりつつあり、SNS上で政治情報にアクセスしやすくなり、若年層を含む多様な層が選挙に関心を持つきっかけとなって、有権者がオンラインで意見を発信しやすく、政治家や行政がそれに対応する双方向の政治が推進される一方で、SNS上で偽情報や極端な意見が拡散されやすく、政治的・社会的な分断が助長されるリスクもあり、選挙インフラや政府機関がサイバー攻撃の標的となるリスクも高まり、セキュリティ対策が喫緊の課題となっていて、デジタル技術を活用し、行政手続きのオンライン化やデータ活用を行う行政DXが進み、効率的で利便性の高いサービスへの転換が図られ、生成AIなどを用いて、膨大なデータに基づく迅速な政策立案が期待され、行政データが透明化され、国民が監視・評価しやすい環境も整いつつあり、政治家に求められるスキルが変化し、デジタルリテラシーが重要になってきて、AIに精通した新しいタイプの政治家が、国会DXや新たな政策提案に取り組む事例も出てきたが、その一方で、AIの進化により、ホワイトカラーの仕事が代替される可能性が指摘され、政治には新たな失業時代や格差拡大への対応も求められ、AIは生産性向上、労働力不足の解消、サービス向上など、社会に莫大なメリットをもたらす一方で、世の中の約半分の職務が影響を受けるような雇用の代替、倫理的課題、格差拡大といった深刻なリスクも抱え、生成AIの普及により、知的業務を含めた産業構造の劇的な変革が進んでいて、AIと人が協働するヒューマン・イン・ザ・ルーフの構築が今後の鍵となり、ルーチン業務やデータ入力、会計などの一部の専門職はAIに置き換わる可能性が高い一方で、AIの導入・運用・活用に関わって、新しい職種も増加する可能性もあり、高齢化が進む日本において、医療・介護・サービス業の省力化をAIが支え、自動配膳ロボットや生成AIによるコンテンツ制作、カスタマーサポートの自動化によって大規模なコスト削減が期待され、マーケティングや需要予測の精度向上により、経営判断を最適化し、さらに音声アシスタントや自動運転技術の普及や、AIによる画像診断支援など、医療の質の向上も期待されるが、学習データの偏りにより、AIが性別や人種差別的な判断を行うリスクがあり、AIを使える企業・個人とそうでない者の間の格差拡大の懸念や、AIがなぜその結論に至ったのかが人間には理解できない判断のブラックボックス化の懸念もあり、これからの社会では、AIの技術的進歩に合わせて、法整備やAIリテラシーなどの教育の再構築が求められているものの、そんな対処が追いつかないほど、AIが飛躍的に進化する可能性があり、特に生成AIは、世界経済に破壊的かつ飛躍的な変革をもたらしており、その経済価値は年間で4兆ドル以上に達する可能性があると試算されていて、生成AIは、従業員の労働時間を将来的に6割から7割短縮し、業務の効率化や新たな製品・サービス開発を通じて、日本の名目GDPを上回る経済価値を創出する見込みで、日本国内において、AI導入による経済効果は巨額で、人手不足を補う効果も百万人を超える規模に相当すると見込まれていて、文章、画像、動画、音楽などの生成により、人間が数時間かけていた作業が1分もかからず完了できるようになり、業務プロセスの大幅なスピードアップが起きていて、その種のホワイトカラー業務の変革をもたらすが、AIは人の仕事を奪うというより、仕事の内容を変える側面が強く、定型的なタスクが自動化される一方で、人間はより創造的な業務に集中する形へ移行して、そこでもAIを使いこなすスキルが新たな価値を生むため、労働市場における能力の再定義という意味で、リスキリングが求められていて、ライティング、グラフィックデザイン、ユーチューブ台本作成、SNS運用代行など、AIを活用した新しい働き方やサービスが急速に普及して、AI関連技術への投資は国際的に競争が激化しており、米国、中国、シンガポールが主要なプレイヤーとなっているそうで、AI導入は生産性を向上させる一方で、短・中期的な雇用のシフトや、どの層の家計に影響を及ぼすかは専門家の間でも意見が分かれていて、また情報漏洩、生成物の著作権問題、フェイク情報の拡散などがAI活用のリスクとして挙げられ、AIは2045年には技術的な特異点を迎えて、人類の知能を越える可能性があるとも言われており、経済成長のエンジンとしての役割は今後ますます強化されていく見通しだが、一方で、AIがもたらす変化に対応できる労働環境や法整備も同時に重要となっているそうで、AIが政治にもたらす影響は不可逆的であり、今後はAIといかに向き合うかも重要になり、生成AIの政治利用に関する規制や、ディープフェイク対策など、透明性を確保するためのガイドライン策定が急務で、有権者が真偽不明な情報に騙されないよう、AIが生成した情報を検証する能力が求められ、AIはあくまで参考であり、最終的な政策決定や政治判断は人間が責任を持っておこなうべきであるという視点が不可欠だと、責任逃れの逃げ口上のようなことをAIが述べてくるわけだ。4月14日「生殺与奪権の意味合いの変化」前回は十九世紀の識者によるフランス革命についての分析を紹介したが、フーコー自身がこの時期の時代をどう捉えているかというと、フーコーはフランス革命には一切言及せずに、この時代を説明しようとして、十九世紀の極めて重要な現象の一つは、権力による生命の負担とでも言うべきもので、権力による生き物としての人間の把握、生物的なものの国家化という傾向で、この事態を理解するには、戦争や人種などについてのあらゆる分析の背景や見取り図として役立つ、主権の古典的理論を参照すればわかりやすく、主権の古典理論においては、生殺与奪権は根本的属性の一つで、主権者にそれがあるとは、主権者には臣民を死なせることと生きるに任せることができるということであって、生と死は、政治権力の領域の外に落ちて行くような、自然で無媒介な、原初的で根本的な現象ではなく、逆説的に言えば、臣下は、権力に対して完全な存在ではなく、生きてもいないし死んでもいないということであり、臣下に生きる権利があるか死ぬ権利があるかは、主権者が決めることであり、主権者の意志の結果としてしか権利にならず、しかもその権利は、主権者が臣下を殺す時にしか権利を行使できず、実態として、死なせるか、それとも生かすかではなく、生きるに任せ、死ぬに任せる権利でもなく、死なすか、それとも生きるに任せるか、という権利で、このことが非対称性を際立たせ、生殺与奪権はアンバランスな形でしか行使できないという難点を抱えていて、それに対して十九世紀の政治的権利の最も巨大な変化の一つは、この古からの権利が、新しい別の権利によって、取って代わられはしないにせよ、補完され、この新しい権利は、最初の権利を消し去ることなく、それに浸透し、それを貫き、修正し、全く正反対の権力になって行き、すなわち、生きさせる、死ぬに任せる権力のことで、主権の権利とは、死なせるか、それとも生きるに任せるか、という権利であるが、それに続いて、新しい権利が、すなわち生かし、死ぬに任せる権利が配置され、もちろんこの変化は一気になされたわけではなく、法理論の中に変化を辿ることができて、すでに十七世紀の、とりわけ十八世紀の法律家は、生殺与奪権に関して、社会契約レベルで、個々人が集まって、主権者を構成し、主権者に自分たちに対する絶対的権力を委託する時、何が行われているのか?と問い、人々がそうするのは、危険や必要に迫られているからで、自分たちの命を守るためにそうしているのであるから、生きて行けるように、彼らは主権者を構成して、そうであるなら、生命は実際には主権者の権利の一部となるのではないか?主権者の権利を創出するのは、生命ではないのだろうか?主権者は実際に、臣下に対して生殺与奪権の権力、臣下を殺す権力を行使する権利を、臣下に要求することができるだろうか?生命は、契約のそもそも一番はじめにある根本的な動機なのだから、契約の外部にあるはずがないではないか?こういったことは政治哲学の議論であり、これはどのようにして、政治思想や政治権力の分析の領域で、生命の問題が問題化し始めて行くかをよく表しているが、フーコーが変化を辿ってみたいのは、政治理論のレベルではなく、権力の諸々のメカニズムや技術やテクノロジーのレベルにおいてであり、つまり十七世紀、十八世紀に出現した、本質的に身体に、個々の身体に集中する権力の諸技術のことで、それは、身体間の分離、整列、系列化および監視における身体の空間的配置や、個々の身体の回りに可視性の領域を組織化することを保障する数々の措置であり、それはまた、身体を引き受け、練習や訓練などによって身体の有用な力を最大化する諸技術でもあり、コストのかからないやり方で、監視と階層化と視線と記述と報告のシステムによって行使される権力の合理化および厳密な管理の諸技術であり、労働の規律的テクノロジーと呼ぶことのできるテクノロジーであって、これが十七世紀末から十八世紀の間に配置され、さらに十八世紀後半に、何か全く新しいもの、今度は規律的ではない別の権力テクノロジーが現れ、この権力テクノロジーは規律テクノロジーを排除しないが、それを囲い込み、統合し、部分的に修正を施し、規律的技術を利用しながら、その中に移植され、この先行する規律的技術のおかげで実際に社会に根づいて行くことになり、この技術が規律的技術を抹消しないのは、これが別の次元、別の階梯にあり、別の対象を持ち、別の道具を利用しているからで、新しい権力の技術が適用されるのは、身体に向けられる規律とは違って、人間の生命なのであり、あるいは、人間の身体ではなく、生きた人間、生き物としての人間であり、突き詰めて言うと、人間という種なのであり、つまり、多数の人間が、監視され、調教され、利用されて、場合によっては罰せられるべき個々の身体となりうる、なるべき場合には、規律がこの多数の人間を管理しようとし、そして配置される新しい技術の方は、多数の人間に向けられるわけだが、こちらは人間を単なる身体として捉えるのではなく、その反対に多数の人間を生命に固有のプロセスの全体、つまり誕生とか死とか生産とか病気などのプロセスを備えた大きな塊として捉え、したがって個体化という様態でなされた、権力による身体の把握の後に、二つ目の権力による把握が得られ、こちらは個体化を行うのではなく、むしろ集団化させ、人間という身体ではなく人間という種へと向けられるもので、十八世紀に配置された人間身体の解剖-政治の後、この世紀の終わりに、人間種の生政治と呼んでもよいようなものが登場してきて、権力のこの新しい技術、この生政治、この定着しつつある生権力においては、誕生と死亡の割合、出産率、人口の繁殖などが問題となって、出生率、死亡率、平均寿命といった諸々のプロセスが、十八世紀の後半に、数多くの経済的・政治的問題と結びついてきて、この生政治にとって、最初の知の対象と管理の標的になり、この時、最初の人口統計学とともに、こうした現象についての統計学的措置が取られ、出生に関して人々の間で自然に、あるいは協議の上実行されていた諸々の方法を観察することになり、十八世紀に実践されていたような出生を管理する諸現象の標定が行われ、これはまた出生奨励政治の、あるいは出生率に関する現象全般への介入図式の原型となるものでもあり、この生政治にあって重要なのは、人間の繁殖の問題だけではなく、死亡率もまた問題となり、ただしそれまでとは違い、中世以来ずっと政治権力をその危険性によってかくも悩ませてきたあの悪名高き疫病による死亡率が問題だったのではなく、風土病と呼べるようなもの、ある人口の中で支配的な病気の形態、性質、広がり、持続、激しさで、除去することが多かれ少なかれ困難であって、より頻繁に死をもたらす疾病とはならないが、生産力不足のせいというよりはコストのかかる治療のために、力の減退、労働時間の減少、エネルギーの低下、経済コストを常に生じさせる要因と見なされる諸々の病気、要するに、人口現象としての病気で、生命に突然襲いかかる死としての病気ではなく、生命に忍び込み、絶えずこれを蝕み、減少させ、弱らせる恒常的な死としての病気、こうした現象が、十八世紀末から考慮されるようになり、医学的治療を調整し、情報を集中させ、知を規範化する諸々の組織を伴って、公衆衛生の機能を担うようになる医学、そしてまた人口の衛生教育と医学化キャンペーンの様相を呈する医学が配置させられることになり、これは生殖や出生率の問題でもあり、死亡率の問題でもあり、そこから扶助の諸制度として生権力が保険や個人および集合的貯蓄、保障といった、より繊細で合理的なメカニズムを構築し、さらに人間を取り巻く環境が問題となり、人口によって創り出された都市環境などが、権力の介入領域として問題視されることにもなるわけで、この権力の新しいテクノロジーが関与しているのは、必ずしも社会ではなく、もはや個人の身体でもなく、これは新しい身体、無限ではないにせよ、少なくとも数え上げることはできない頭のついた身体、それが人口の概念であり、生政治が関与しているのは人口であり、そして政治の問題としての、科学的・政治的な問題としての、生物学的問題としての、権力の問題としての人口は、フーコーの考えでは、この時期に現れたのだそうだが、そしてフーコーの死後、ドゥルーズが指摘するところの、第三種の機械における珪素の潜在性、要するにITやAIなどのテクノロジーが二十世紀後半から二十一世紀にかけて政治や経済に関与してきているわけだ。4月13日「革命へと至る必然性」格闘技のバトル漫画の解説動画を見ていたら、出てくるキャラが若い頃読んでいたライトノベル系のキャラであることには前々から気づいていたが、要するに空手や柔術などで天才的な才能を持った主人公が出てきて、次々と出てくるその方面の猛者たちと激しいバトルを繰り広げるという、よくある漫画のパターンなのだが、ものすごく強そうなやつを出してきて、そいつをどうやってやっつけるかが読者の関心をそそるような筋書きなのかとちょっと考えてみたが、もちろん変化球として大して強そうでもないやつがめちゃくちゃ強そうなやつに卑怯な手を使って勝つとか、そんなのもありなのだろうが、その辺はAIが言うには、読者の関心をそそる筋書きを作るには、冒頭のインパクト、共感できるキャラクター、そして先の読めない話の展開が不可欠で、物語の最初の3行〜1ページで、衝撃的な事実、謎、あるいは疑問を提示し、読者の好奇心をひっかけ、読者が自分事として捉えられる感情や、リアルな体験を物語に織り込み、常識的な意見ではなく、独自の視点や意外な設定を取り入れ、登場人物の感情を豊かに描き、読者の心に響く言葉選びをして、読者を離脱させないためのストーリーパターンとして、例えば、誰もいないはずの未来の東京とか、唐突に?と思わせて、日常の風景が一変した状況など、異常な世界観から物語を開始したり、日常的な悩みや社会的な問題に対し、もし明日、この世界から〇〇が消えたら?といった極端な設定を提示したり、事件の真っ只中や、主人公が絶体絶命のピンチに陥っている場面から話を始めて、後からその理由を説明したり、主人公が語る言葉が必ずしも真実ではないという設定で、読者に、何が本当なのか?を探らせたり、また、ストーリーテリングのコツとしては、全てを一度に説明せず、次回の展開へのヒントを話の中に散りばめ、キャラクターにリアルな欠点を持たせて、完璧ではない人間味のある主人公に仕立て上げて、読者の共感を呼び起こし、映像が思い浮かぶような具体的な情景描写を取り入れ、没入感を高めたり、これらの要素を組み合わせることで、読者が思わず続きを読みたくなる魅力的な物語を作ることができるそうだが、そんなマニュアル的な話の要素を基にしてAIにその種の漫画やライトノベルなどを作らせたら、それふうの作品になるかも知れないが、そういうことの延長上というわけでもないのだが、フーコーが、フランス革命がなぜ起こったのかについて、当時の識者のもっともらしい説明をいくつか紹介している中で、こいつはもっともらしいことを述べているじゃねえか、と感心したのをちょっと紹介してみると、右派タイプの、明らかに十八世紀の貴族的反動路線に位置づけられる歴史が、十九世紀のはじめにモンロジエによって書かれ、このような歴史にあっては民族的二元性を特徴づける支配関係が常に見いだされ、本の随所に第三身分に向けられた罵りが見受けられて、解放された人種、奴隷人種、従属人種よ、諸君には自由になる許可が与えられたが、我々が貴族であることに許可などいらないし、我々は全てに権利があるが、諸君にとっては全てが恩寵なのであり、我々は諸君の共同体の一員ではなく、我々は我々だけで全てなのだ、と、よく知られた主題が見られ、それとは別に、ジュフロワも、北方の種族が敗者を根絶することなくガリアを奪い、彼らは後継者たちに、統治すべき征服された土地と、支配すべき征服された人間を遺した、と、民族二元性を主張していたのはみな、移住していた外国からフランスに戻ってきて、ウルトラ反動の時期に、侵略という特権的瞬間を再構成しようとしていた歴史家たちだが、モンロジエの分析は十八世紀に見られていたのとは非常に異なった機能を果たしていて、フランク人が侵入してきた時に起こったことは、実はそれほど本質的なことではなく、ガリアでは、ローマ人が侵入する以前でさえ、貴族と従属民の間で支配関係がすでにあって、これは昔の戦争の結果であって、ローマ人は戦争をもたらしたわけだが、同時にローマ貴族階級とこれら富裕で高貴な貴族階級に庇護される平民でしかなかった人々との間で支配関係をもたらし、やはり支配関係は古い戦争の結果なのであり、それからゲルマン人がやってきて、自由戦士であった者らと臣下に過ぎなかった者らとの間にあった彼らに固有の内的従属関係をもたらし、中世初期、封建制が始まる黎明期に構成されたのは、勝った人民と負けた人民の単純な重なり合いではなく、ガリア人、ローマ人、ゲルマン人の三つの内的支配システムの混在だったのであり、中世の封建貴族はこうした三つの貴族階級が混在したものでしかなく、これら三つが新しい貴族階級として構成されて、彼らは、こちらもまたガリア人従属民、ローマ人被保護民、ゲルマン人臣下が混在した者らに対して支配関係を行使したわけで、その結果、貴族であり、一つの民族であり、民族そのものである封建的貴族と、従属民や農奴といった、民族の外にある人民との間に、支配関係が生じることになった、と、モンロジエは、民族レベルでは貴族が有利になるように一元論、支配レベルでは二元論を使って説明したわけだが、それに対して君主制の役割は、民族の外にある塊である、ゲルマン人臣下、ローマ人被保護民、ガリア人従属民の混在から、別の一つの人民を構成することで、それが王権の役割だったのであり、君主制は、従属民を解放し、都市に様々な権利を認めさせ、貴族から独立させ、農奴を解放し、古い人民である貴族と同等の権利を持ち、数においてははるかに勝る新しい人民を創り出すことによって、王権が一つの巨大な階級を作ったわけで、新しい階級が作られると何が起こるかというと、王は貴族から経済的・政治的諸特権を剥奪するためにこの新しい階級を利用したわけで、そこでモンロジエは彼の先行者が言ったことを繰り返し、嘘、裏切り、あるまじき同盟などの他に、人民の反乱を利用したわけで、領主に対する都市の反乱、土地所有者に対する農奴の反乱など、こうした反乱の背後で、反乱という反乱を煽り立てていたのが王で、反乱が起こるたびに貴族の権力は弱体化し、結果として王の権力を強化し、貴族に譲歩を強いることになり、こうした循環のプロセスによって、王が解放政策を取るたびに新しい人民の不遜さと力が増大して行き、新しい階級に王が譲歩するたびに、新しい反乱が起き、フランスの歴史の全体において、君主制と人民反乱には本質的な結びつきがあり、王が準備し、そそのかし、いずれにしても維持し、支援する反乱という武器によって、かつては貴族のものであったあらゆる政治権力が君主制の側へ委譲されることになり、こうして独占した権力を、君主制はあの新しい階級に呼びかけることによってしか、機能させることも行使することもできなくなり、したがって君主制は司法と行政をこの新しい階級へ委ね、こうして新しい階級が国家のあらゆる機能を引き受けることになり、その結果、このプロセスの最後にくるのは言うまでもなく、究極の反乱、つまり国家そのものがこの新しい階級の手中に、人民の手中に落ちて、王権から逃げて行き、最後には、現実的な権力としては、人民の反乱によって与えられたものしか持っていない王と、国家の全ての道具立てを手中に収めた人民階級だけが差し向かいで残されることになり、最後のエピソード、最後の反乱は、誰に対してなされることになるかというと、自分がまだ権力を保持している最後の貴族だということを忘れてしまった者に対して、つまり王に対してなのは必然的な成り行きになるわけで、モンロジエの分析ではフランス革命は王の絶対主義を構成してきた移譲過程の最後のエピソードとして登場してきて、君主権力の構成を完遂するのは革命なのであり、革命は王をひっくり返したのではなく、革命は王たちの仕事を完成させたのであり、文字通り真理を語っているのであり、革命は君主制の完遂と読まれるべきで、政治的にも正しい完遂なのであって、1793年1月21日に王の首が刎ねられたが、その時に君主制は絶頂に達したわけで、国民公会は剥き出しにされた君主制の真実なのであり、王によって貴族から奪い取られた主権は、今では当然の如く、王の正当な後継者である人民の手中にあるのだとモンロジエは述べているわけで、こうなればこうなるという連続的な歴史のプロセスが、格闘技漫画に出てくる特定の技をかければ身体がどうなって、結果的にもたらされる勝敗がどうなるのかの説明と似ているような気がするわけで、そこには偶然性がことごとく排除されて、理由や原因もよくわからない不確かで謎的な要素もなくなってしまうから、陰謀論的な退屈さも感じられるわけだ。4月12日「野蛮人と未開人の違い」野蛮人と未開人の違いは何かというと、普通はそれらと比較する対象として文明人が出てきて、一応は文明人から見て、野蛮人も未開人も文化の程度が低い劣った存在だと見下されている印象があるのだが、本当はどれも文明人であり、大して差があるわけでもないだろうが、AIによると、野蛮人と未開人は、いずれも文明化された社会である主に欧州や中国などから見て、文化的に遅れている、あるいは異質な人々を指す言葉であり、本質的に大きな違いはなく、どちらも蔑称として使われてきた歴史があるが、語源やニュアンスには違いがあり、野蛮人は、文明・文化の開けていない状態で、礼節を知らない粗野な人を指し、暴力的なイメージが強く、理性よりも動物的な本能や情動で動くという否定的・侮蔑的なニュアンスが強く、古代ギリシャ人が、異民族で意味のわからない言葉を話す人をそう呼んだ、バルバロイが語源で、自らを文明と称する人々が、そうでない人々を野蛮としてレッテル貼りする際に使われ、それに対して未開人は文明の程度が低く、社会構造が単純で、技術的に未発達な状態の人間集団で、ニュアンスとしては、未開は文明の対義語であり、まだ文明が開化しておらず、文明化していないという時間軸上の遅れを強調する際に用いられ、例えば言語はあるが文字を持たない集団を指したり、近代においては、啓蒙されるべき存在と見なされ、支配や植民地化を正当化するために使われ、どちらの言葉も、現代の文化人類学や歴史においては、自分が中心主義的な偏見に基づくことであるとして、学術的な使用は避けられる傾向にあり、また「高貴な野蛮人」という概念のように、文明化された人々が失った美徳を持つ純粋な人として、理想化されて使われる場合もあるそうだが、フーコーによると、絶対王政という、ルイ14世の治世をその典型例とする、16〜18世紀のヨーロッパで、国王が官僚制と常備軍を基盤に、貴族や教会をしのぐ強大な権力を行使した専制政治体制に対抗して、貴族の権利を主張するブーランヴィリエとその後継者たちにとっての大いなる敵が、自然人、未開人であり、未開人とは善きものであれ悪しきものであれ、法学者や法の理論家が、社会以前に、社会を構成するために、そこから社会そのものが構成される要素として措定するもので、ブーランヴィリエとその後継者たちは、そういう社会以前に存在するとされる未開人を見つけようとはせず、逆に彼らが厄介払いしたかったのは、未開人の別の側面であり、経済学者によって考え出された、理論的要素としての自然人、歴史もなければ過去もなく、自らの利益のためだけに動いて、自らの労働の生産物を他の生産物と交換する人間であり、彼らの歴史的・政治的言説が排除したかったのは、理論的・法的未開人、契約を交わし社会を創設するために森から出てきた未開人であり、かつまた交換と物々交換を行なうことになる経済人間としての未開人で、十九世紀および二十世紀の人類学的思考がそうであるように、十八世紀の法思想におけるこの未開人は、本質的に交換する人間で、法の交換者あるいは財の交換者であり、法の交換者として、社会と主権を創設し、財の交換者として、経済体としての社会体を構成し、十八世紀以来未開人とは交換する人間なのであり、なるほど、ブーランヴィリエとその後継者たちは、日本で言えば幕末から明治維新にかけて世の中の変化に背を向けて活動した新撰組みたいなもんかと思ったが、この未開人に対してブーランヴィリエによって開始された歴史的・政治的言説は、法学者たち、そしてやがて人類学者たちの未開人と同じくらい基本的な、しかし全く構成のされ方の異なる人物を対立させたわけだが、この未開人の敵が、野蛮人なのだそうだが、野蛮人が未開人に対してどのように対立するのかというと、未開人は未開状態にあっては、他の未開人たちと共に常に未開なままだが、社会的なタイプの関係に入るやいなや、未開人は未開ではなくなり、文明化を受け入れるようになるが、それに対して野蛮人は、彼がその外部に位置する文明との関係によってしか、理解され、特徴づけられず、定義され得ない者で、野蛮人がその外部に位置し、それに対して戦う文明という地点がどこかに存在しなければ、野蛮人は存在し得ず、文明という地点、これを野蛮人は軽蔑したり、うらやんだりするのだが、それに対して野蛮人は敵対関係にあって、恒常的な戦争状態にあり、野蛮人は、彼が破壊しようとしたり自分のものにしようとする文明なしには、存在し得ないものであり、現代においては、さながら西欧文明に敵対するイスラム原理主義勢力みたいなもんかと思われるが、野蛮人とは常に国家の境界を踏みにじる人間、都市の城壁に押し寄せてくる者であり、野蛮人は未開人とは異なり、彼が属する自然という背景には依拠せず、野蛮人は、彼が衝突する文明という背景からしか生じてこないのであり、彼は社会を創設することによってはなく、文明に侵入し、それを焼き払い、破壊することによって歴史の中に入ってくるわけで、野蛮人と未開人との違いは、この文明との、従って先行する歴史との関係で、野蛮人は、彼が焼き払うべくやってくる文明という先行する歴史なしには存在せず、他方で、野蛮人は未開人のような交換の担い手ではなく、本質的に全く異なるものの担い手で、彼は支配の担い手であり、野蛮人は、未開人とは異なり、奪い、領有化して、彼は大地を原始的に占有しているのではなく、略奪するのであり、つまり彼の所有関係は常に二次的で、彼はあらかじめ存在する所有物しか奪わず、同様に、彼は他の者たちを自分に奉仕させ、彼らに土地を耕させ、馬を飼育させ、武器を用意させて、彼の自由もまた、他者の失われた自由にしか依拠せず、そして権力との間に維持する関係において、野蛮人は未開人とは異なり、決しておのれの自由を譲歩することはない一方で、未開人は、あり余るほど自由を持っており、それを自分の命、安全、所有、財産を保証するために譲歩することもあるが、野蛮人の方は決して自分の自由を譲り渡すことはなく、彼が権力を戴くとしたら、王を戴き、長を選ぶとしたら、それはまかり間違っても自らの権利の持ち分を減らすためではなく、逆に自らの力を増大させ、略奪行為において、盗難と凌辱において、より強力になるため、自らの力にさらにゆるぎない自信を持った侵略者になるためであり、彼自身の個人的な力を増大させるものとして、野蛮人は権力を配置し、つまり野蛮人にとっての統治のモデルは、必然的に軍事的な統治であって、未開人を特徴づける市民的譲渡の契約にはいささかも依拠しない統治であり、十八世紀にブーランヴィリエ的な歴史が配置したのは、この野蛮人という人物なのだそうだが、そうだとすると、どうして未開人が悪意に満ちた欠点もあるにせよ、結局、私たちの時代の法的・人類学的思考において、そして現在見られるような牧歌的でアメリカ的なユートピアにおいてまで、常に善きものであるのかがよくわかるそうで、未開人がどうして善きものなのかといえば、なぜならその役割とはまさしく、交換し、与えること、もちろん自分にとってもっとも有利になるように、しかし相互性という、そこに善性の容認可能で法的な形式が認められるような形で、与えることなのだから、それに対して野蛮人は、悪しき意地悪な存在でしかあり得ず、彼は、まさに交換と自然の人間ではないがゆえに、傲慢さと非人間性の塊でしかあり得ず、彼は歴史の人間であり、略奪し、放火する人間であり、支配の人間なのであり、気位が高く、乱暴で、故郷もなければ、法律も持たない人々だとマブリは言っていて、とは言え、彼は野蛮人を非常に愛していたそうだが、野蛮人は残酷な暴力には寛容で、彼にとってはそうした暴力は公然のことであり、野蛮人においては、魂は偉大で、高貴で、誇り高いものだが、常に腹黒さと残酷さに結びついていて、などと延々と野蛮人に対する逆説的な肯定というか賞賛というか、AIによれば、フーコーはブーランヴィリエの野蛮人を、絶対君主制が推進する警察や行政による規律化・服従化された状態の市民とは対極ある存在で、この対立構造が、後に社会の内部で人種闘争の言説へつながって行く重要な転換点であると捉えたそうだが、権力に管理・馴致されない戦士的・人種的な主体というのも、そういう存在が、政府や行政などの体制側にとって、社会を防衛するための口実になると思われるわけで、それに対して反体制的な言説となると、日本人は西洋文明によって規律化・服従化された未開人的な存在だから、今こそ野蛮人となって蜂起せよとか言いたがる人々の存在を想像してしまいそうになるが、トランプなどは、日本人のことを、腹黒くずる賢い商人的な存在と見ているのかも知れない。4月11日「大英帝国の首相となったユダヤ人」有名なハンナ・アーレントの『全体主義の起源』によると、「シオンの賢者の議定書」は周知の如く偽造書であり、ロシアの秘密警察の手先によって世紀の交わりの頃のパリで捏造され、彼らは独力ででっち上げるだけの才覚を持たなかったらしく、パリでたまたま入手した反ナポレオン三世の古ぼけたパンフレットを利用したのだが、パンフレットにはモーリス・ジョリなる者が『マキャヴェッリとモンテスキューの地獄における対話』という形でマキャヴェリズムのあらゆる政治原則を述べていて、偽造を命じたのはツァーリ、ニコライ二世の側近のロシアの高官だったポピェドノスツェフで、権勢ある地位にまで上った唯一の汎スラブ主義者だったそうで、二十世紀の初めのロシアでのユダヤ民族大弾圧であるポグロムの正当化を狙い、ロシア政府のプロパガンダ用に作られたこの偽造文書は全く注目を浴びぬままに忘れ去られていたのだが、ロシア革命や第一次世界大戦後の混乱期にロシアから逃れてきた亡命者たちによって国外に持ち出されて、ユダヤ人がロシア革命を起こし、世界支配を企てているというユダヤ・ボルシェビズム神話という虚偽のストーリーが、反共主義者や反ユダヤ主義者によって拡散されて、第一次世界大戦後のヨーロッパは、経済的疲弊や政治的不安が大きく、人々は社会の混乱の原因を求めていたため、ユダヤ人をスケープゴートにするこの文書が急速に受け入られて、1920年代にはドイツ、イギリスなどで出版され、偽造であることが実証された後も、反ユダヤ主義のプロパガンダとして広く蔓延したそうだが、それ以前に十九世紀の大英帝国全盛時に、イギリスで活躍したユダヤ人がいて、十九世紀のイギリスの首相ベンジャミン・ディズレイリが、帝国主義的な人種理論を政治的な道具として利用した先駆的な人物として、『全体主義の起源』の中で紹介されていて、ディズレイリがユダヤ人としての自己認識を持ちながら、人種的思想を世俗的な政治的・詩的な文脈で語り、全ては人種であると語り、歴史の動因を人種的な資質に求めたことを、血に基づいた政治イデオロギーの初期の兆候だとアーレントは指摘し、これは後のナチスが掲げた、血と土のような過激な反ユダヤ主義的・排他的な人種主義とは異なり、むしろロマン主義的な、自民族の優位性を称賛する形式で、ディズレイリは、自身がユダヤ系改宗者であることを隠さず、むしろそれを自己の政治的魅力や独自の知性の一部としてアピールし、ディズレイリが人種的優位を語ることで、ナショナリズムに基づく国民国家の枠組みを超えた、世界帝国的な支配を試みたとアーレントは分析し、これは、十九世紀末に帝国主義が浸透する中で、ユダヤ人が国家の政治的危機や転換点において、隠れた力を持つグループとして注目され、やがてスケープゴートとして反ユダヤ主義の標的となって行く過程の初期段階に位置づけられ、アーレントは、帝国主義時代にはユダヤ人が持っていた経済的・金融的な機能が国家の支配力と切り離され、純粋に帝国主義的な力そのものが重視されるようになったと論じ、ディズレイリは、こうした帝国主義的転換の中で、純粋な権力政治とロマン主義的な人種観を結合させた代表格として言及され、アーレントにとってのディズレイリは、反ユダヤ主義的な全体主義の直接的な推進者ではないが、帝国主義が人種イデオロギーを政治イデオロギーへと転換させ、後に全体主義へと結晶化する要素である血の理論を、十九世紀の文学・政治的サロンの文脈で準備した重要人物として語られていて、ディズレイリは、保守党を地主階級から大衆基盤の国民政党へと転換させ、1867年の第2回選挙法改正で選挙権を拡大させ、外交ではスエズ運河株の買収やインド帝国の成立などの帝国主義政策を推進し、英帝国の大拡大を実現したそうで、ユダヤ人がロシア革命を起こして世界支配を企てる以前に、ユダヤ人のディズレイリが大英帝国の世界支配を確立したという、皮肉な歴史的事実があるわけだが、具体的業績は、ダービー内閣の蔵相として都市労働者に選挙権を大幅に拡大し、それまで保守党を支えていた地主階級だけでなく、労働者層も取り込む、トーリ=デモクラシーを実現し、現代的な政党政治の基礎を築いて、第二次内閣時代には、公衆衛生法や労働組合法など、労働者の生活環境改善を重視する改革を行なって、保守党を大衆の味方として印象づけ、エジプトの財政難に乗じてスエズ運河会社の株式を買収し、インドへの航海路として、アジアへの短縮航路を確保し、これはイギリス帝国主義の象徴的な行動で、ヴィクトリア女王をインド皇帝として推戴し、インド帝国を成立させ、インドにおけるイギリスの支配を公式化・強化し、ロシアの南下を阻止するため、オスマン帝国を擁護する強硬な外交を展開して、ディズレイリは、自由党のグラッドストンと並ぶ十九世紀後半のイギリスを代表する二大政治家の一人として、保守党の近代化とイギリスの帝国主義化を指導した人物と歴史的には位置づけられるそうだが、民主主義の推進者が帝国主義者でもあるという、ナイーブな左翼リベラル系の価値観からは受け入れられない側面があるらしいのだが、『全体主義の起源』の中で、帝国主義を体現する人物として描かれているのが、エジプト駐在のイギリス総領事だったロード・クローマーで、無責任な官僚主義と人種主義的支配を体現する帝国主義者の典型として描かれ、クローマーは、現地の住民に責任を負わず、ロンドン本国の政府にも説明責任を負わない、匿名で無責任な行政官による支配を確立し、アーレントはこれを、政治的対話や議会政治が排除された官僚制による新たな支配形態の先駆けと見なし、クローマーは支配者である白人と現地人の間に決定的な人種隔離を作り出し、これは、植民地における人種主義が、支配の道具として利用されていたことを示して、クローマーは、自分を賢明な支配者と見なし、エジプト人のために働いていると主張したが、実際には人種的偏見に基づき、現地の文化や制度を無視して、西欧の論理を強制したと批判されて、アーレントはクローマーが行なった行政官僚的な支配や人種による分断が、後にヨーロッパ本国で、政治的な無責任性や人間を物として扱う、全体主義が誕生する土壌を準備したと分析していて、さらにもう一人、『全体主義の起源』の中で、帝国主義の体現者として、セシル・ローズを帝国主義的拡張の体現者、及びモブ(群衆)的政治家の典型として描き出していて、アーレントは、ローズが単なる植民地経営にとどまらず、領土拡張そのものを目的としたイギリス帝国の政治家であったと評していて、彼の有名な言葉である、私に星を売ってくれと言われれば、私は星を併合する、を、帝国主義的な欲望の象徴として位置づけ、ローズを、帝国主義が政治の舞台に引きずり出したモブ的、あるいは大衆的人物として分析し、これは、従来の国民国家の枠組みを超え、力そのものを求める新たな政治形式を指し、何やらトランプみたいだが、ローズが追求したような無限の領土拡張は、後に全体主義が目指す世界支配の前段階であり、限界のない欲望の政治的表明であると分析し、ローズの政治スタイルや行動が、近代的な経済的・心理的メカニズムを通じて、後の全体主義へとつながる帝国主義の土壌を作ったと見ているそうだが、ローズは十九世紀末の南アフリカでダイヤモンド採掘により莫大な富を築いた鉱山王で、ケープ植民地首相として、アフリカの土地を英国領として統合・拡大した帝国主義政治家で、自身の名にちなむローデシア(現ジンバブエ・ザンビア)を建設し、全アフリカの英国支配を目指したが、1871年に南アフリカのキンバリーでダイヤモンド採掘に参入し、1888年にデビアス社を設立し、ロスチャイルド家からの融資を受けて鉱山を買収・統合し1900年頃にはダイヤモンド生産の9割を支配し、価格の独占を確立し、ケープ植民地首相としてイギリスのアフリカ縦断政策を推進し、現地住民から土地を奪い、北方の土地をローデシアと名づけ、英国の保護領とし、世界地図の大部分が英国領になることを神は望んでいる、という信念のもと、領土拡大に尽力し、首相在任中、グレン・グレイ法を制定し、アフリカ黒人の土地所有権を制限して、参政権を実質的に奪うなど、後のアパルトヘイトの基礎となる人種差別的な支配体制を築き、また世界中の若者をオックスフォード大学に留学させるローズ奨学金を遺言で設立し、これは世界規模の教育・人材育成の枠組みとして現在も残っていて、強引な植民地の拡大手法や、1895年のジェイムソン侵入事件への関与が批判され、1896年に首相を辞任したそうだ。4月10日「戦争の効用」最近また国会周辺で集会を開いて騒いでいる連中がいるらしく、今回は戦争反対イベントのようだが、国家の内部で歴史を語る歴史家たちにとっては、戦争は本質的に法の断絶、謎であり、暗い塊というかむき出しの出来事に他ならないものであって、単に不平等の主原因であるのみならず、そんなことは問題ではなく、むしろ断絶の主原因だが、今や反対に、戦争こそが法の断絶自体を理解可能性の解読格子に変え、戦争によって、法関係を恒常的に支えている力関係を決定できるようになると、フーコーが講義集成第6巻の中でブーランヴィリエが唱えたフィクションに関連して述べているが、ブーランヴィリエは、かつては暴力でしかなく、塊としてしか与えられなかった出来事である、戦争、侵略、変化といったものを、社会全体を覆う、法、経済、財政、宗教、信仰、教育、言語の使用、裁判の諸制度に関わる内容と予言の広がりの中に統合しようとして、歴史は、戦争の事実自体を起点に、戦争との関連で行う分析から出発して、戦争、宗教、政治、習俗、気質といったあらゆるものを関連づけることができ、社会の理解可能性の原理となり、あらゆる歴史的言説において、社会を理解することを可能にしてくれるのは戦争であり、社会の内部における継続された戦争としての力関係を導入することで、ブーランヴィリエはマキャヴェッリに見られたタイプの分析を、今度は歴史的観点から取り戻すことができ、マキャヴェッリにおいては、力関係は本質的に君主の手に収められるべき政治技術として描かれるのに対して、君主以外の誰かが、貴族階級とか、のちにはブルジョワ階級といった民族のようなものが、その歴史の内部で見定められ、決定することのできる歴史対象となり、本質的に政治の対象であった力関係が、今や歴史の対象に、いやむしろ歴史的・政治的対象となり、この力関係を分析しながら、例えば貴族は自分たちが何者であるかを意識し、彼らの知を取り戻し、政治的諸力の領域で再び一つの政治勢力となることができて、歴史的・政治的領域が構成されて、政治闘争において歴史が機能することが可能になったのは、ブーランヴィリエのような言説において、力関係が、君主だけが気にかける対象であったものを、他の何らかのグループや民族や少数派や階級などにとって知の対象となり得た時からなのであり、歴史的・政治的領域の組織化はこのようにして始まったそうで、政治における歴史の機能、歴史における力関係の計算としての政治の利用、こうした一切がここで結びつき、こうして戦争は歴史言説の真理の母胎であったという考え方に辿り着き、哲学や法が信じさせようとしていたのとは反対に、真理とロゴスは暴力の終わるところから始まるのではなく、反対に、貴族が、第三民分と君主制に対して政治的戦争を仕掛けた時に、この戦争の内部で、そして歴史を戦争として考えることによって、私たちが現在知っているような歴史言説のようなものが確立され得たのだと述べているが、クラウゼヴィッツがブーランヴィリエから一世紀を経た、イギリスの歴史家たちからは二世紀を経たある日、戦争は他の手段によって継続された政治であると言うことができたのは、十七世紀に、十七世紀から十八世紀の変わり目に、政治は他の手段によって継続された戦争であると分析し、言い、示すことができた者がいたからなのだそうだが、ブーランヴィリエの戦争観は、ルイ14世絶対王政下のフランスにおいて、貴族の権利回復を目指して、歴史を再解釈する中で生まれた、社会は根源的に二つの人種=民族間の戦争状態にある、という理論に基づいていて、フランスの歴史をゲルマン系フランク族とガリア=ローマ系の先住民の二つの民族による衝突・征服の歴史と捉え、貴族は征服者であるゲルマン人の子孫で、自由で特権を持ち、第三身分の平民は被征服者であるガリア=ローマ人の子孫で、この理論において、貴族が享受する特権は、征服という戦争的事実に基づく当然の権利=自由であるとされ、戦争を単なる過去の一時的な事実ではなく、歴史全体を貫く普遍的な構造と捉え、戦争というテーマを社会の一般分析にとって非常に重要な視点として提示した、とフーコーは指摘し、法としての貴族の特権は、法的な正義ではなく、過去の戦争によって征服した際の契約によって根拠づけられ、歴史記述を主権者である王権の正当化の物語から、社会内部の闘争である人種・民族闘争を明らかにする武器へと変え、王が貴族を抑え込んで絶対的な権力を持つことを正当化する絶対王政に対する対抗言説を構成し、ブーランヴィリエにとっての絶対王政は、貴族の自由である封建的権利を侵害する侵略の事実や叛乱的な行為と見なされ、貴族が歴史的権利を回復するための闘争として、内戦的な状況を肯定・利用する側面があり、フーコーはこうした見方を内戦の擁護と捉え、これは、それまでの歴史が、王の主権を語る物語だったのに対し、社会の内部に敵対的な二つの勢力が存在し、彼らの闘争こそが歴史そのものであるとする対抗的な歴史の始まりであると評価し、この視点はのちに、民族主義、人種主義、そしてマルクス主義的な階級闘争へと発展して行くことになるそうだが、ブーランヴィリエが盛んに強調する自由とは何なのかというと、フランク族の戦士貴族階級の者たちが享受する自由とは、独立の自由などではなく、他者を尊重する自由でも全然なく、ゲルマン人戦士たちの自由とは、本質的には、エゴイズムの、貪欲さの、戦闘嗜好の、支配と略奪の自由であり、寛容さの自由や全員平等の自由ではなく、支配によってのみ行使されうる自由で、つまり尊重を伴う自由であるどころか、残忍さの自由であり、リベラルを全く意味しておらず、フェロックスというラテン語に由来する、獰猛、野生、傲慢を表すそうだが、率直な、という語はラテン語のフェロックスと同じコノテーションを持っており、フルレによると、これには良いものも悪いものも含めて様々な意味があり、誇り高い、不敵な、傲慢な、残忍な、を意味し、ニーチェにおいても、自由とは残忍さにほかならず、権力嗜好、徹底した貪婪さ、奉仕能力の欠如、しかしことあらば常に相手を服従させようとする欲望、ぶしつけでゲスな風習、名声や言語やローマ的風習に対する憎悪、自由を愛し、勇敢で、移り気で、不実で、欲深く、短気で、落ち着きがないなど、このような形容を用いてブーランヴィリエとその後継者たちは、彼らのテクストを通してヨーロッパの歴史に華々しく登場してきた金髪で大きな野蛮人を記述し、どうしてローマ帝国の衰退に乗じてガリアの地に侵入してきたフランク人戦士たちが、ガリア・ローマ人に同化することを、特に帝国法に服従することを、拒絶することができ、拒絶しなければならなかったかというと、彼らはあまりに自由過ぎ、つまり彼らはあまりにも誇り高過ぎ、傲慢過ぎたので、戦争司令官である王が言葉のローマ的な意味での主権者になることを邪魔せずにはいられず、自由な彼らは征服欲と支配欲が強過ぎて、彼ら自身が個人的にガリアの地を奪わずにはいられなかったそうで、彼らの戦争司令官であった王が、フランク人の勝利によってガリアの地の所有者となることはなく、戦士たちの各々が、直接勝利と征服の利益を享受し、王が手にしたのは、ガリアの土地のほんの一部でしかなく、これが封建制の遠い始まりだったそうだが、こんな論理が現代では通用しないのはわかりきったことだが、今現在中東やパレスチナで行われている戦争の実態が何なのかと言えば、部分的にはイスラエル国家による、ユダヤ人社会を防衛しなければならない、という論理のゴリ押し的な推進力が強く作用している面が大きいだろうが、やはり彼らの自由というのが、古代のフランク人戦士たちが共有していた自由と似ているというと、ちょっと違うにしても、やはりリベラルというよりはフェロックスに近いような印象を受けるわけで、アメリカ帝国の衰退に乗じて好き勝手にパレスチナの地を蹂躙しまくるその姿に、古代のフランク人戦士のそれを重ね合わせることはできないし、同じような結果をもたらしているわけでもないが、やっていることの印象は似ているのではないか。4月9日「知っていることの盲点」他人の言動をどう思うかなんて、その内容にもよるのもいつもことだが、何だかそれが、的外れでもないのだろうが、的を射るような内容でもないとしたら何なのかというと、その人が知らないことがあるらしく、その知らないことを利用してもっともらしいことを述べようとしていることに、当然その人も気づいるわけでもなく、だから歯がゆいというか、焦ったいようなことを述べているのに、それにも気づかずに、平然ともっともらしいことを述べているつもりなのだろうが、その人の肩書きや学歴などが、その人のエリート的な優秀さを物語っているような場合には、さもありなんと思ってしまうようなことなのだが、そんな場合にはその人のことを、経歴バカだとか学歴バカだとか、貶すようなことなのかというと、それも違うような気がして、あまり上から目線で他人をバカにしていると、何だか身の程知らずの分不相応な態度でいるような感じになってしまうから、そういう意味では自分より明らかに優秀そうに見える他人をバカにしてはならないだろうが、現状で起こっていることやまかり通っていることが、いかに理不尽で不条理感を覚えるとしても、それについて否定的に語ってしまうと無理が生じてくると考えると、物事を理性的に考える人にとっては、そう考えること自体がおかしいし、場合によっては許せないことになるだろうが、たとえそれが明らかにおかしいと思うようなことであっても、実際にそういうことが起こっているのだから、そういうことが起こるような世の中なんだと思うしかないだろうから、何かそういうところからそれに対する見解や見方や考え方などの差異が生じてくるのは、そうなるしかないだろうが、実際にそこでおかしいと思うようなことが起こったわけだから、そんな起こったことを起点として世の中の情勢が動いたと考えられそうだが、それまでとは状況が変わったからそんなことが起こったのか、あるいはそんなことが起こったから状況が変わったのかは、どちらでもあるようなことなのかも知れないが、知っていることの盲点とは、自分ではわかっていても見えているつもりでも、実際には認識できていない情報や、無意識のうちに偏った判断をしてしまっている領域である、認知バイアスを指し、認知バイアスとは、先入観や経験、周囲の環境によって、無意識のうちに思考や判断に偏りや歪みが生じる心理現象のことで、脳がエネルギーの消費を抑えるために、直感的なショートカットを用いることで合理的な判断ができなくなる、という脳の癖であり、誰にでも起こりうるものだそうだが、認知バイアスを完全になくすことは困難だが、自分にも思考の癖があることを自覚し、客観的なデータや第三者の意見を取り入れることで、判断の歪みを減らすことができるそうで、自己分析のフレームワークでは、自分自身に関する情報を4つに分類し、そのうち、自分は気づいていないが、他人は知っている自分の領域を、盲点の窓と呼び、自分の口癖や思考の癖、無意識の態度、他人から見れば明らかな強みや弱みや長所や短所などに関して、他者からのフィードバックを通じて、この領域を、自分も他人も知っている開放の窓に広げることが、正確な自己理解と成長につながるそうだが、人間は限られた経験や思い込みなどのバイアスを基に判断を下すため、無意識のうちに現実をふるいにかけ、事実とは異なる認識をしてしまうことがあり、他人と比較して自分はバイアスの影響を受けにくいと過信してしまう傾向や、効率よく世界と関わるために身につけた知覚のパターンが、逆に真実を見えなくしている状態などが盲点で、自分も偏った見方をしているかも知れないという前提に立ち、客観的なデータや多角的な視点を取り入れることが有効だそうで、自己成長やパフォーマンス向上における最大の制約は、強みを知らないことよりも、自分の盲点に気づかないことにあるとされて、自分の言動が周囲に与えている影響を正確に知ることで、リーダーシップやコミュニケーションの質を向上させられ、一方的な批判ではなく、具体的な事例を伝えてもらうことで、本人が盲点に気づきやすくなり、自分自身の盲点は自分一人では気づきにくいため、他者の視点や客観的なテストを活用して積極的に発見していくことが、より良い判断や成長の鍵となるそうだが、たぶんこういうもっともらしい指摘も、経歴バカとか学歴バカとか陰口を叩かれる意識高い系で高偏差値の人には理解できる範囲内であり、マニュアル的な学習によって身につけている可能性も高そうで、そうであるからこそ社会の中で指導者的な地位や立場を占めることに成功したのだと、そうなった結果からもっともらしく言えるようなことかも知れないが、そういうことのバリエーションとして、自分では気づいていない無意識の感情や本音を隠して、知性を働かせて導き出したもっともらしい理由で自分や他人を納得させる行為は、心理学では合理化と呼ばれる防衛機制の一種だそうだが、そうではなく、自分が知らない、あるいは自信がない分野について、まるで知識があるかのように振る舞い、もっともらしい嘘や意見を述べてしまう例は、日常会話からAIの挙動まで幅広く存在するらしく、これらは情報が不正確であるにもかかわらず、文脈や論理構成がしっかりしているため、一見真実のように聞こえるのが特徴だそうで、わかりやすいのは知ったかぶりな人で、内容をよく理解していないのに、エビデンスが、シナジーが、などと、専門用語を乱用して、議論に参加しているように見せたり、架空の歴史的事実や、聞いたこともないニュースなどの、事実関係を把握していない話題に対し、それは〇〇という背景があるから当然だと自信満々に主張したり、最近の若い者は〜、この業界は〜と、自分の狭い経験や想像を、社会的な一般論のように話し、また生成AIが、学習データに基づかない情報や、事実と異なるもっともらしい嘘を生成する、ハルシネーションという現象もあるそうだが、生身の人間がよくやるのは、具体的な事実関係を聞かれた際に、それは本質的な問題ではないとか、マクロ的な視点で見れば〜とか、抽象的な言葉でごまかし、正論を言っているように見せたり、自分も結構やりがちになってしまうが、以前の経験を、似ているが全く異なる新しい状況に当てはめ、前はこうだったから、今回もこうだと確信を持って語ろうとしてしまい、また他人の態度から窺われる印象としては、迷いなく話すことで相手に正しいと信じ込ませようとしているんだなと、状況証拠的にそう疑われるような経験は、いくらでもしてきたような気がするのだが、因果関係や接続詞のつまりや、要するにや、したがってなどを適切に使うことで、一見話が通っているように見せることなどが、そういう場面に直面してみると意外とその場では疑いつつも、納得したふりを装って相手に忖度してしまうような感じにもなるから、それもその場の状況や情勢次第でそういう成り行きになってしまいそうで、そういうその場の流れで話の流れや周囲の意見と調和するような内容を語ろうとしてしまい、これらの行為は、確証バイアスや知ったかぶりとして問題視されることがあるそうだが、それがどうも自分の意図とは違う方向へと話が逸脱してしまい、途中から何を述べているのか自分でも理解も把握も困難になりかけて、その際には何かの断末魔の叫びや苦しみを聞いているような気がして、果たしてそれが新しい時代や新たな世界秩序が生まれる際の産みの苦しみなのか生みの苦しみなのかも、そうではないとしてもそれとは無関係であっても、何となくそういうことを語りたかったのかも知れないが、しかももっと具体的な事例を持ち出して語りたいのに、自分の頭がそれを拒否しているような受け入れ難いような事態となってしまうから、自然とそこから外れた方面へと逸脱してしまうらしい。4月8日「政府とマルクス主義者の立場」マルクスが『資本論』の草稿を書き始めたのは1857年頃で、第一部が刊行されたのは1867年で、第二部は死後の1885年、第三部は1894年にエンゲルスによって刊行され、約37年間にわたる長期のプロジェクトだったそうで、マルクスは十九世紀後半の産業資本主義が発展する中、労働問題や格差の根本的な原因を分析して、資本の運動法則を明らかにしようと研究を続けたそうだが、果たして今の時代の中で経済について何か語るべきことがあるのかないのかについて、今、政治経済方面でプチブレイクしているらしい、MITの名誉教授である、オリビエ・ブランシャール教授は、日本の財政政策について、債務残高の対GDP比を安定的に引き下げることは長期的に困難になると指摘し、5年程度を目処に基礎的財政収支のプライマリーバランスを均衡させる必要性と、財政の信頼性確保を強調し、2026年3月の政府経済財政諮問会議およびインタビューで語った主な内容は、債務残高の安定的な削減は時間とともに困難になるため、近い将来にプライマリーバランスの黒字化が必要であり、複数年度計画の明確な目標設定や、独立した機関による債務試算の必要性を示唆し、高市政権の責任ある積極財政という考え方自体は正しいと評価する一方で、食料品の消費税率を2年間0%にする案には、少し異論があるかも知れないと語り、債務残高が極めて高い水準にある日本は財政リスクを抱えているとも語り、またブランシャール教授は、過去にはEU離脱が英国経済にもたらす長期的な不確実性と投資の落ち込みの可能性を指摘したこともあるそうだが、基礎的財政収支であるプライマリーバランスの黒字化とは、国の税収等が、国債の利払い・償還を除く社会保障や公共事業などの政策的な支出を上回る状態のことで、新たな借金となる赤字国債に頼らず、現在の財政支出を税収だけで賄うことを意味し、将来世代への借金のツケ回しを止める財政健全化の指標だそうで、プライマリーバランスが黒字でも、過去の借金の利払いである国債費を含めると赤字になるため、直ちに債務残高が減るわけではないそうだが、概ね財務省の意向通りの趣旨の発言内容だとは思うが、税収を上げるために人や企業の経済活動をどうやって活発化させるかについては、特に何も語られていないのかどうかも、何か語られているのかも知れないが、税収を上げるために政府が行うべきことは、単なる増税ではなく、中長期的な経済成長と税務行政の効率化を組み合わせた包括的なアプローチが必要だと、AIが出力してくるが、税務行政の効率化とは、デジタル技術の活用や事務手続きの業務改革を通じ、国税庁が納税者サービスの向上と課税・徴収の高度化を同時に実現する取り組みで、具体的には、eーTaxの利用促進、AIによるデータ分析、キャッシュレス納付の拡大などにより、紙の書類や窓口対応を減らし、低コストで迅速な税務処理を目指すそうだが、肝心の税源の拡大を目指して取り組むべき経済成長の促進に関しては、税率を上げずに税収を増やす自然増を狙うのが最も本質的な対策だそうで、情報通信、AI、GX(グリーン・トランスフォーメーション)など成長分野への投資を誘致し、企業の賃上げと設備投資を促進し、コロナ禍で恩恵を受けた企業とそうでない企業の格差を縮小し、中小企業の生産性を向上させ、新しい産業や働き方を創出し、事業所得や雑所得の納税者数を増やし、また税の公平性を確保し、徴収漏れを防ぐことで実質的な税収を増やし、事業者間の取引における透明性を高め、正確な消費税納付を確保し、税務調査の効率化や、共通報告基準などの国際的な枠組みを活用し、富裕層や法人の徴収漏れ・租税回避を防止すると共に、勤労世代の所得向上と労働参加を促し、所得税・住民税の基礎的な税収を確保し、税収を上げるだけでなく、支出を減らすことも財政健全化に貢献し、高齢化に伴う医療・介護費の伸びを抑えて、給付と負担のバランスを適正化し、補助金の見直しや、行政コストの縮減を行い、フリーランスやギグワーカー、副業などの新しい働き方に対応した税制を整備し、適正に課税できる仕組みを作ることなど、現在の日本においては、単に消費税率を上げるのではなく、経済を成長させて所得と消費を増やして税源を増やすことと、デジタル化で徴収漏れをなくすことの両面での取り組みが重要であると指摘されているらしいが、その逆に、経済成長をやめれば豊かになる、という主張が、現代のマルクス主義的アプローチにおいて重要な論点となっているそうで、この視点では、GDPの増大=豊かさという資本主義の考え方を転換し、過剰な生産と消費を抑制することで、時間、環境、人間関係の豊かさを取り戻すべきだと主張していて、資本主義は利潤を追求するため、社会的に必要のない有害な商品やサービスを大量に生み出していて、経済成長を目的化せず、必要なものを必要なだけ生産する体制に移行すれば、過剰な労働時間が短縮され、結果的に余暇や自己実現、家族や地域との関係構築に時間を使えるようになり、真に豊かになるそうで、売れるものばかりを生産するのを改め、真に必要な役に立つものの生産に集中すべきで、大量の廃棄を前提とした消費社会をやめることで、資源の浪費を防ぎ、質の高い、長持ちする製品を共有・管理する社会へ移行すれば、物質的には少なくても満足度の高い生活が可能になり、それが環境危機への対処になるとともに、資本主義的な生産拡大による地球資源の枯渇を防ぐことにもつながり、脱成長によって生産のスピードを落とすことは、持続可能な社会を築き、環境リスクを減らすとともに、生命の安全と健康という豊かさを守るために必須であり、資本は絶えず増殖しなければならないため、社会が十分な物質的豊かさに達しても、さらなる成長を要求し、労働力を商品化し続け、成長を追求すればするほど、資本を持つ者に富が集中するので、経済成長を前提としない体制において、共有財産を基盤とした社会を構築することで、格差のない共に豊かになる社会を目指す必要があり、この立場は、経済成長を、不可欠なものから、環境と人間を破壊する選択的なものへと見直し、物質的な豊かさではなく、生活の質を向上させることを真の豊かさと定義しているそうだが、何だかこれらの主張が、猫の首に鈴をつけようとするネズミの話のように感じられて、それはイソップ寓話の「ネズミの相談」に由来する有名な話で、猫に襲われて困り果てたネズミたちが、猫に鈴をつければ接近がわかるという素晴らしい名案を思いつくものの、誰が鈴をつけに行くかという段階で誰も実行できず、誰も鈴をつけられなかったという結末で、口で言うのは簡単だが、実行するのは困難なこと、という机上の空論を戒める話で、この寓話は、非常に有効な策であっても、それを引き受ける人にとってリスクが高すぎるため、実際には誰も実行しないという、不可能に近い行動のたとえとして使われているそうだが、実際にそれがどんなリスクなのかというと、人をナメるリスクなんじゃないかと思うわけで、他人からいきなり、人をナメるんじゃねえ!と怒られても、それだけでは何のことやらさっぱりわかりそうもないが、他人を侮るな、バカにするな、軽んじるな、という強い怒りや警告を表す日本語の慣用句で、相手の不誠実な態度や、見下したような言動に対して、真剣に向き合うよう要求する際に使われ、私を軽く見るな、バカにするのもいい加減にしろ、相手からリスペクトがない、敬意が欠けていると感じた時に出る、警戒心や防衛反応、怒りや不快感の表明で、かなり高圧的で攻撃的な表現であり、怒りが頂点に達した時や、強い立場で相手を威嚇する際に使われ、語源は、このナメるは、味見するの舐めるのことではなく、古語の無礼し(なめし)に由来し、文字通り無礼=失礼という意味から、相手を下に見てバカにしたり、軽んじたりする態度を指すようになったそうで、この言葉は、日常的になめられやすく軽く見られやすい人が、ついに怒りを爆発させる際によく使われ、人からなめられやすい原因として、無理な頼み事を全て引き受けてしまう、断れない性格であったり、気が弱く、言いなりになりやすく、自信のなさが態度や仕草から窺われたり、周囲に相談できる人間関係が薄そうな孤立した境遇にあったりすると、なめられる可能性が高く、この言葉は、そのような利用されやすい関係を拒否し、自分を守るための最後の砦のような役割を果たす言葉と言えるそうだが、これらの主張は人や集団の間の戦争状態を考慮に入れていないような気がするわけで、他からなめられないようにするために資本主義的な経済競争が日々行われていると捉えれば、何となく事態を飲み込めるのではないか。4月7日「ややこしいイギリスの歴史」古代のブリテン島でストーンヘンジを最初に築いたのは、現代のトルコのアナトリア辺りに住んでいた新石器時代の人々が、ブリテン島まで渡ってきて築いたそうだが、それが紀元前三千年ごろで、そこからビーカー人というのが紀元前二千六百年ごろにヨーロッパ大陸から渡ってきて、銅や青銅器などの金属器が持ち込まれて、ストーンヘンジも巨石が積まれて豪華になったそうだが、ケルト人が鉄器と共にブリテン島にやってきたのは前八世紀ごろだそうで、てっきりケルト人がイギリスの先住民だという先入観があったのだが、日本でいえば弥生人みたいな位置づけのようで、もちろん日本に鉄器が持ち込まれたのはもっと後の古墳時代あたりだったかも知れないが、イギリスではローマによる紀元四十三年からブリテン島への侵攻が行われ、ローマ帝国が衰退する五世紀頃までアイルランドやスコットランドを除いた地域の大部分を支配していたらしいが、ローマ帝国の衰退と共に、五世紀中頃からゲルマン系のアングル人、サクソン人、ジュート人などの侵入があって、侵入してきた民族と戦ったのが伝説のアーサー王だったらしいのだが、そのアーサー王伝説を世に広めたのが、そこから数百年後の十二世紀の中世の人々で、その間に何があったかというと、ノルマン人によるイギリスの征服があって、征服王朝であるノルマン王朝に対する抵抗の象徴としてアーサー王伝説があるのかと思ったら、どうもそれは少し違うようで、アーサー王伝説はノルマン王朝によるイングランド支配への直接的かつ積極的な抵抗の象徴というよりは、ケルト系のブリトン人の英雄を、ノルマン・フランス文化圏が再解釈し、最終的に統合・利用したブリテン島共通のアイデンティティと捉えるのが、現代歴史学では一般的な解釈だそうだが、その成立過程においては、ノルマン支配に対する抵抗の文脈も含まれていて、アーサー王伝説の根幹は、ノルマン人に征服された先住民のケルト系ブリトン人(ウェールズ人やコンウォール人)の伝承で、ジェフリー・オブ・モンマスが十二世紀にまとめた『ブリタニア列王史』では、アーサー王は後のイングランド人であるサクソン人を撃退した英雄として描かれ、これは、ノルマン人およびサクソン人に支配された人々にとって、かつての栄光や真のブリテンの支配者を想起させる物語であったのだが、そのジェフリーの物語はラテン語で書かれ、瞬く間にノルマン人支配層のフランス語圏の宮廷に広まり、プランタジネット朝のノルマン王室は、この伝説を単なる反乱の物語として鎮圧するのではなく、逆に偉大なブリテンの君主としてアーサーを取り込み、ヘンリ2世は、クラストンベリーでアーサーの墓を発見したと主張して、アーサーの威光をノルマン王朝の正当性として利用し、その後アーサーの物語は英語、フランス語、ラテン語などで共有され、ケルト、サクソン、ノルマンの文化が融合した、ブリテン島全体の共通の伝説となり、その歴史的背景としては、1154年以降のノルマン王朝断絶後、その血縁関係のあるプランタジネット朝が成立すると、イギリスとフランスにまたがる領土を統治するため、国を統治するのに都合の良い、より包括的なアイデンティティが必要となり、アーサー王伝説は初期ケルト民族の抵抗のニュアンスを持っていたが、その後ノルマン宮廷社会によって、フランス的騎士道やイングランドの王として再解釈され、最終的にはノルマン支配への抵抗を吸収し、それをブリテンの英雄として再構成することで、イギリスという国家・国民形成に寄与した、むしろ統合の象徴と言えるそうで、また、この物語は中世ヨーロッパ全体に広まり、アーサー王ロマンスとなって、国境を越えた文学ジャンルとなったため、特定の王朝への抵抗という文脈だけでは計りきれない側面もあるそうだが、1066年のヘイスティングスの戦いでノルマンディー公ウィリアムに敗れたイングランド王ハロルドがアーサー王と何か関係があるのかと思ったが、何の関係もないそうで、この敗北によってアングロ・サクソン貴族は一掃され、イギリスにおけるノルマン人の支配が確立したそうだが、どうもこのあたりから英国における民族抵抗の歴史が始まっているらしく、『反ノルマン論述』という著作があるそうで、この文書の巻頭を飾る挿絵のようなものには頁上部に二つの軍団の戦闘が描かれていて、ヘイスティングスのノルマン人とサクソン人の戦いの図で、その中央に、ハロルド王の死体が横たわっていて、サクソン人の正統な王制が実際に消滅したことが示されていて、その下にはウィリアムの戴冠の光景がより大きく描かれ、しかしこの戴冠式には次のような演出が施されていて、ブリタニアと銘打たれた女神像がウィリアムに紙を差し出している姿が描かれているが、その文書は、イギリスの法と読めるが、ウィリアム王がヨーク大司教から王冠を授かっているところで、その間にもう一人の聖職者が、王の誓いと書かれた文書を彼に差し出していて、そのことから、ウィリアムはイギリスを征服したのではなく、正統な継承者、イギリスの法と教会の認知と彼が行なった宣誓によって制限を受けた主権の継承者であることが描かれているわけで、十七世紀の人物のウィンストン・チャーチルは、1675年に次のように書いていて、実際には、ウィリアムはイギリスを征服したのではなく、イギリス人がウィリアムを征服したのだ、と何か負け惜しみのような内容だが、サクソン人の権力をノルマン人の王に正統な手続きを経て移譲した後になって、真の征服が、つまり一連の権利剥奪や収奪や権利濫用が始まったのだと議会主義派は主張し、征服はノルマン人の移住の後に起こったのであり、長い横領のプロセスが始まり、そしてこの横領こそ、まさしくイギリスで、ノルマン主義あるいはノルマンの軛と当時呼ばれた徹底的に片利的で、ノルマン貴族と王制を徹底的に優遇する政治体制を組織することになった、ということらしく、そしてこのノルマン主義に対抗して、中世の全ての反乱は起きたのであって、ノルマン王制と結びついたこれらの権力濫用に反対して、サクソンの伝統の真の継承者たる議会の諸権利を認めさせることになったのだ、と議会主義派は胸を張り、下級裁判所が王の法規の代わりに共通法を絶対に認めさせようとした時、下級裁判所はヘイスティングスの戦いやウィリアムの即位より後のノルマン主義に反対して戦い、そしてまた、このノルマン主義に反対して、現在の戦いが、十七世紀の戦いが繰り広げられているのだそうだが、過去の経緯を持ち出して現在の自分たちの立場を正当化するのも、洋の東西を問わず、世界各地の反体制勢力が持ち出す常套句のようだが、ところで、ウィリアムによって事実的にも権利的にも受け入れられたとされ、ノルマン人が征服に続く時代には息の根を止めようとし横領せんとし、そしてマグナ・カルタや議会の制定や十七世紀の革命とともに復権させようとしてきたとされる、この旧いサクソン法とは、いったい何なのかというと、それはサクソンのある法律で、そこにはコークという法学者の影響が大きく作用したそうで、コークは十三世紀の写本を発見したと主張し、実際に発見したそうだが、その手稿にはサクソンの昔の法律が記されているのだと主張して、実際には『正義の鏡』と題された、中世の公法・私法の判例実践説明書だったらしいが、コークはそれをサクソン法の説明として機能させ、そこに描かれたサクソン法はサクソン人民の最初の歴史的に真正な法律であるされて、サクソン人たちは自分たちの首長を自ら選出し、自分たち自身の裁判官を持っていて、彼らは王の権力を有事に戦争の主将としてのみ認めていて、社会体に対する絶対的かつ無制限の主権を行使する者としてではなかったのであり、法の古代を探求することによって、歴史的に具体的な形で王の歴史的な姿を定着させようとしたわけで、同時にサクソン法は、自然状態にある人間理性の表現そのものとして描かれ特徴づけられて、議会派が制定しようと願う新しい共和国の法的基盤になるべきであるとされたそうだが、それがクロムウェルの独裁に帰結し、フランス革命においてはジャコバン派の恐怖政治に帰結したと捉えるなら、皮肉な印象を受けるわけだ。4月6日「敵への憎悪」世の中には敵と味方しかおらず、中立の立場などあり得ないわけではないだろうが、中立というよりは敵である部分と味方である部分がそれなりの割合で混合しているとか、敵でも味方でもなければ中立なのかもよくわらない関係であるとか、全くの無関係だとか、無理に敵とか味方とか区別しなくても構わないような関係かも知れないし、他にも色々とややこしい関係もありそうだが、無理にではないにしても、適当な理由や理屈をつけて、特定の批判対象に向かって〇〇が悪いんだといった類いの言説を弄するなら、そういう批判をしている人にとって、その批判対象となる〇〇が敵認定されたと解釈するのが、普通にそう感じられるところではあるわけだが、だからといってそういう批判的な言説に利用するために〇〇を批判対象として定めている程度の認識であれば、敵という表現にも色々と程度に差異があるだろうから、敵だからといって、必ずしも憎悪の対象であるとか、殺意を抱くような激烈な感情を抱いているわけでもないなら、その人が弄する批判的な言説の内容に応じた程度の敵なのかも知れないし、批判していること以外の面ではそれがどうしたわけでもないのかも知れないが、特にその敵のおかげで生活に支障をきたすとか、活動が妨害されているとかではないなら、その程度の敵だと認識しておいても構わないかも知れないが、だから何が言いたいのかといっても、別に敵がどうしたわけでもなく、敵に対して憎悪の感情を抱いているという程度の話にはならないなら、他に何が言えるようなことでもなく、いつものように何かが違うような気がするだけなので、安易にこいつが敵だと断定するような煽りには引っ張られないようにしようという程度の話になってしまいそうで、言説的なレベルで敵との依存関係がどんな効果を発揮するのかといえば、それもAIに問えば、もっともらしい回答が出力されくるから、何かというとAIに依存してしまい、安易さに塗れて思考力の低下を招いているようだが、それでも問えば、言説的なレベルにおいて敵との依存関係が発揮する効果は、単なる対立を超えて、敵がいないと自己のアイデンティティや正当化を維持できないという、パラドックス的な構造を作り出す点にあり、敵による自己や味方の定義の強化に結びついて、アイデンティティの相互構成をもたらし、敵を絶対的な悪として定義することで、自らを善や文明的で正当な存在として規定でき、これは自己の存在意義が敵の存在によって確固たるものになる状態で、また敵という存在を利用することで、社会の秩序化と分断を画策でき、社会的複雑性を排除し、複雑な問題を、味方である我々と敵である他者という単純な構造に還元することで、味方の集団内部の連帯を急激に高められ、対立関係を恒常的に維持することによって、そうした関係に構造的に依存しながら言説を構成でき、言説の中で敵を作り出して敵の存在を固定化し、攻撃し続けることで、その敵が消滅しないように、あるいは敵が存在し続けるように、自身の行動や言説を維持し、敵が攻撃を仕掛けてきたという物語を語り続けることで、新たな敵を生成したり、既存の敵を増幅させたり維持したりする構造的循環を生じさせることで、絶えず敵を再生産して、物語を語り続け、敵への恐怖や憎悪、警戒心といった強い感情を味方と共有することで、社会の団結を促し、真理陳述の体制から生じてくる、支配的な言説に大衆を従わせようとし、社会的不安を煽って敵への憎しみの感情を利用しながら大衆を味方につけ、自らの不手際や、構造的に解決不可能な問題を、敵の存在のせいに責任転嫁して、スケープゴート化することによって、一時的な満足感や問題解決感を味方につけた大衆と共有することもでき、敵について語ること自体が、敵を敵として実体化させる行為となり、それが言説的なパフォーマティブ=行為遂行的な効果をもたらし、敵が攻めてくると言い続けることで、本当に敵対的な状況が作り出され、それが自己成就的な予言を構成することになり、このように、言説的なレベルでの敵への依存は、敵を排除したいという建前を持ちながら、実際には敵対的関係そのものを維持・強化することで、自らの存在感を高め、権力を強める効果を発揮し、フーコー的視点における真理への意志や支配構造の維持にも貢献するそうだが、そんなことまで考慮しながら用意周到に敵を作り出している者もそれほどいないとは思うが、感覚としては、そう言われてみればもっともらしく感じるものだから、その種の敵認定フォーマットに適合する言説を弄している人の述べている内容を信用できるかどうかも、その人が囚われている言説的なフォーマットというのが、現実の世の中から導き出される社会の構造にそのまま当てはまるものなのかどうかも、別に当てはまっても構わないのだが、言説的なフォーマットとは、単なる言語表現を超えて、特定の文脈、権力関係、社会的慣習の中で意味が構築・共有される枠組みを指し、ミシェル・フーコーが提唱した言説=ディスクールの概念に基づいて、何がどのように語られ、どのような知識が真実として受容されるかを構造化するテンプレートやルールだそうだが、言説的なフォーマットの主な構成要素として、文脈=コンテクストは、言語表現が生成される社会的な場や状況のことで、言説的レパートリー・テンプレートは、ある文化現象において、人々が経験を共有し、意味づけを行うために用いる認知的な概念セットで、言説は無秩序ではなく、一定の規則性があり、特定の知識領域やテーマにおいて一定の規則に従って形成され、何が語りうるか、誰が語る資格があるかを規定し、そうした権力と知識が結合して真理を構築し、その具体的な機能と特徴は、混沌とした現象に対して、特定の解釈の枠組みを提供し、意味を与え、言説はそれを利用する主体となる者の経験や心的特性に働きかけ、それを語っている特定の主体を形作り、そうやって語られた、ある現象に関する言説が、他の人々の認識や行動を惹きつけ、特定の運動や活動に多くの人々を動員することになり、そういう意味で、言説的フォーマットは、単なる言葉の集まりではなく、特定の知識を正しいとして社会に固定することになり、そうやって真理陳述の体制が社会の中に構成されることになるだろうが、このフォーマットの理解は、心理学、社会学、言語学などの分野で、言葉の裏側にある権力や社会的背景を分析するために用いられるそうだが、それ自体がよくできたフィクションなんじゃないかと思うわけで、しかもお粗末なフィクションの方が世論誘導には用いられやすいだろうし、そんな世論誘導に引っかかって世の中の多数派の民衆がなびいてしまうのを、正義の味方を気取った山本太郎的な煽動者が、みんなぁ!騙されるんじゃない!とカウンターをかますのが、ちょっと前の一時的な流行現象だったような気がするわけだが、世論誘導や情報の偏りになびいて影響されてしまう現象は、現代社会において深刻な問題となっていて、これはSNSの普及やメディアの論調によって、特定の意見が大多数であるかのように誤認させられる心理的メカニズムで、陰謀論っぽい話だが、中国などの外部勢力や特定の組織が、インフルエンサー、AI、自動投稿プログラムのボットなどを利用して、偽情報や特定の政治的見解を拡散して、世論を分断・誘導する工作が世界的に深刻化していて、政府や企業が、一般の意見を装って宣伝や世論誘導を図るステルスマーケティングの手法が、ネット上で多用され、自身の判断能力を過大評価している人ほどフェイクニュースを見抜けず、自分の主義に合う情報のシェアやいいね!を行いやすい傾向があり、新聞やテレビなどのオールドメディアは依然として高い信頼性を持っているが、同時に特定のメディアは世論形成の起案者ではないと指摘されつつも、誘導や偏向報道の懸念が指摘されることもあり、大本営発表をそのまま報道し、虚偽の情報で国民を誘導した歴史的な反省が、現在のニュース操作の文脈で語られ、世論調査においても、質問の仕方を工夫することで、回答者の意図しない方向に世論を誘導する調査が存在し、面接法から電話法への移行により、支持政党なしや特定の政党の支持率に偏りが生じるという指摘もあるそうだが、そういう傾向は多くの人々が感じていることだろうから、別に騙されているわけではないだろうが、少なくとも敵が味方を騙しているんじゃなくて、味方同士が結託して自分たちが団結するのに都合の良いフィクションを共有している現状があるのではないか。4月5日「自動化の過程」何かが自動的に行われることによって、その自動化された動作の過程から利益を得ていることになるかというと、そういう場合もあるだろうが、それが物流的なサプライチェーンの類いであるなら、何かの製品の原材料や部品の調達から、製造、在庫管理、配送、販売を経て、最終消費者に届くまでの一連の物の流れのことだから、流通過程から利益を得ていることになるだろうが、何らかの物事が自動的に生産されるシステムの類いであれば、生産過程からも利益を得ていると捉えられそうだが、自動化の目的がコスト削減であるだろうことは容易に想像がつくが、逆にそういう過程を新たに付け加えることによって、結果に至るまでの間で余計な紆余曲折を増やして、物事の成り行きをややこしくすることだなんて、そんなはずがないとは思われることだが、意外とそういう面もあるとすれば、それがどういうことなのかというと、無駄な手間暇をかけて手数料を稼ぎたいとか、そんな意図も思惑もないのに、それに伴ってその機構が膨張して逆にコストがかかっている実態が問題視されるようなら、意図せずにそうなっているとしか考えられないが、そういうことを行う過程で競合する他の勢力がいないと、独占的な立場を利用してそうなってしまうと言えなくもないが、それを利用している自覚がなくても自然にそうなってしまうなら、そうした勢力が自分たちの勢力を拡大して行く過程で、自然にそうなってしまうと事態を捉えるしかないが、そういう成り行きが行き詰まってしまうと、その種の勢力拡大が限界を迎えたことになりそうで、だから限界を迎えてしまうのを避けるには、絶え間ないコスト削減が求められるなら、やはり競合している他の勢力が存在するから、そういうことをやらざるを得ないと事態を捉えるしかないだろうが、そうした身を削る改革といった類いを経ないで勢力拡大を図れるかというと、逆に将来に得られる利益を見越してコストをかけている最中であるなら、大手ハイテク企業がやっているAI投資になってしまうだろうが、もちろんそれらの企業は同時に人件費抑制などのコスト削減もやっているはずだが、かけたコストが回り回って世の中のどこに負担をかけることになるかというと、それがデータセンターの維持経費となると直接には電力に負担をかけることになるし、またインフラ建設に伴って、原材料費や建設費などに関連するコストになるだろうが、そこでも意外と業務効率化によるコスト削減というのが目眩しで、逆に手間暇をかけてコストを増やしている実態と表裏一体となっているなら、古くは農耕文明の昔から人類はそういうことをやってきたと安易に結論づけたくなって、そこまで論理を飛躍させてしまうと、今も人類全体の勢力を拡大させるために莫大なコストをかけている最中だと誇大妄想気味に事態を認識したくなるが、それがかつての恐竜のように勢力を拡大した挙句の突然の絶滅に導かれてしまうかどうかも、非鳥類型恐竜は絶滅したが鳥類型恐竜は今も地球上で大繁栄していると言えるようなことなのかどうかも、比較としてはあまり説得力がなさそうで、おもしろおかしく語るならそういう脱線もありかも知れないが、そんなに話の範囲をあり得ない方面へと飛躍的に拡大させるのではなく、ただの産業的な情勢の推移でしかないなら、そこに企業間の競合関係がある限りで、それもかつての産業革命の延長上で起こっている成り行きに過ぎないことだろうが、イーロン・マスクの誇大妄想に付き合うなら、人類の文明が今まさに地球を離れて宇宙へと拡大する転機が訪れていることになるらしいが、それを真に受けるなら、今後数年でそれが本当なのか、はたまた詐欺やペテンなのかが明らかになればおもしろそうだが、フーコーが、ブルジョワジーは狂人には全く無関心だったが、狂人の排除の手続きが十九世紀以降、いくつかの変化にしたがって、政治的利益、場合によっては経済的効用をもたらすようになって、そのような政治的利益、経済的効用がシステムを強固なものとし、そのシステムを制度全体に機能させることになり、ブルジョワジーは狂人にではなく、狂人に向けられた権力に関心を持ち、ブルジョワジーは幼児の性欲にではなく、それを管理する権力システムに関心を持つのであり、ブルジョワジーは犯罪者や、彼らの懲罰、経済的にはあまり利益のない彼らの社会復帰には全くの無関心だが、犯罪者を検査し、追跡し、懲罰し、更生させるメカニズム全体から、ブルジョワジーにとっては、政治=経済的な一般システムの中で役立つような利益が引き出される、と述べる時、それが何を意味するのか、どう理解すればいいのか、難しいところだが、それに対して左翼リベラル的な思考の持ち主なら、精神病院で患者の人権が守られなければならず、医師や看護師による患者への虐待行為を突き止めて、それを人権活動家や人権派の弁護士や医師や看護師やジャーナリストや患者の家族などが告発するような成り行きを想像するかも知れないし、また小学生への性教育がどうあるべきかを教育問題に絡めて啓発活動をやっているような活動家もいるかも知れないし、また警察に逮捕されて取り調べを受ける拘留者や裁判での刑事被告人や刑務所の受刑者などの人権を擁護するような活動を行なっている人権活動家や人権派の弁護士などの存在も思い浮かぶかも知れないが、それらの善良そうに見える人々が、それらのシステムの中でシステムがあることを前提として活動する人々であるのはわかりきったことで、もちろん彼らはシステムの改革や改善を目指して活動しているはずだが、システムから利益を得ているかというと、それを利益と定義するかどうかも微妙に違って、金儲けが目的だとは言われなくないだろうし、それを言うなら、沖縄の辺野古の米軍基地建設現場で抗議活動をする活動家に向けた攻撃文句としてよく言われるのは、お前らはビジネスで反対運動やっているんだ、日当をもらって座り込みをやっている、といった類いになりそうだが、それに対して、どう見ても金儲けが目的で企業経営をやっているイーロン・マスクが、俺は人類文明の発展に貢献しているんだ、といった類いの発言をすれば、別にそれでいいんじゃないかとは思うところだが、新たに便利そうに感じられるシステムを作ったり、既存のシステムを改善して、より効率的に関連する物事が動作するように持って行くことが何を意味するのかといえば、それもたぶん、そこから何らかの利益を引き出すためにそんなことをやっていると考えるしかないにしても、そうやって新たにシステムが構築されたり、既存のシステムが改善されたりすることによって得られるものが、大ざっぱに利益と言えるようなものなのかどうかも、それが金銭的な利益だけで計れるようなことなのかどうかも、システムに実際に組み込まれて動作する人々に何がもたらされるのかも、それらの人々が消耗品のようにして使い捨てられることによって、システムの利用者に何らかの利益と呼べるような何かがもたらされるとしたら、一概にそんなふうに否定的な表現を使うのが妥当だとは言えないような実態かも知れないが、要するにシステムに対して中立的な立場などあり得ないと考えるなら、システムを利用して利益を得ようとするか、それともシステムの中で働かされてわずかな報酬と引き換えにして心身を消耗するか、どちらか一方を選べるわけでもなく、どちらの立場もある程度の割合で受け持つような立場しか選べないどころか、社会の構成員である限りは強制的にそんな立場を割り振られる宿命なのかも知れないが、どちらにしてもあまりそういう立場を自覚しない方が身のためだと思っておいた方が無難な感じがして、どちらか一方の立場を必要以上に強く意識してしまうと、自ずから敵対勢力の存在も意識せざるを得なくなって、そこから血みどろの戦いに発展する可能性もなきにしもあらずな現状なのかも知れない。4月4日「真理陳述の体制」違和感というと、いつものように違和感を覚えるに過ぎないことだが、憲法や法律に根拠を求めてはいけないような気がして、何かそこに循環論的な根拠のなさを感じるのだが、法律に違反するからそんなことをやってはいけないと言えるにしても、じゃあその法律は何に基づいて禁止事項が決められているのかと問われると、何か返答に窮してしまうようなもどかしさを覚えるのだが、憲法学者や法律の専門家にかかれば、法律に関して素人の自分の意見など、たちどころに反駁されてしまいそうで、言い負かされて言いくるめられてしまうだろうが、それでも納得できないことには変わりなく、そう決めておいた方が何かと都合が良いから、あるいはそう決めておかないと何かと都合が悪いから、そういう決まりごとを作って、決まりを守らせようとして、決まりを守らない者を罰することで、社会の秩序を保とうとするのだろうが、都合の良い法律を作って社会の構成員にそれを守らせようとするのにも限界や制約があることもわかりきっているが、極端な場合、法律を守らない奴は死刑だ、という脅しが社会の中で通用するかどうかも、法律の内容によるのもわかりきったことで、また独裁政権などの強権体制であれば、暴力による脅しによって理不尽な法律が強制されることになるだろうが、そうでなければ、一応は大多数の民衆が納得できるような法律が作られることになりそうだが、もちろん人の全ての行為や行動を法律によって決めることなどできないし、それなりの自由がないと人間社会そのものが成り立たないだろうが、納得できるかどうかも、果たして自身の行為や行動の正当性が法律を拠り所にして成り立っていることになるのかどうかも、そういう面もあるにはあるが、他にも社会の慣習や自身の欲望や経済的な利害関係が拠り所となって、さらには良心や見栄や体裁や、生物や動物としての生理的な自然現象に従わされながら、行為や行動が生じてくるのだろうから、法律に従ったり抗ったり法律を守ったり破ったりすることだけが行為や行動の全てではないのもわかりきったことだが、その延長上で、というか延長すること自体も根拠がないかも知れないが、最近のアメリカとイスラエルによるイランへの軍事攻撃に際して、それをすぐさま国際法違反だと抗議する人たちの意見や主張には違和感を覚えるし、そりゃそうだが、そうやって正しいことを主張する人の側に与することに抵抗感を覚える理由が何なのかがうまく説明できないわけだが、それとは少し脈絡が違うところで、フーコーが真理陳述の体制という、これまた理解するのが難しいことを述べているのが気になるところで、それも自分にはうまく説明できないので、AIによると、フーコーが述べる真理陳述の体制とは、何が真理であり、何が偽りであるかを決定し、真理を語ることを可能にする、社会的なルールや言説のシステムのことであり、真理は最初から客観的に存在するものを人間が見つけるのではなく、特定の真理陳述の体制によって作られ生産されるものだと考え、この体制は人々が何を語れるか、どのように語るか、誰が語ることを許されるかという排除のルールに基づいて機能し、真理陳述の体制は知と権力が一体化したもので、知識は権力を正当化し、精神医学や犯罪学などの分野で、何が科学的真理かを定義することで、権力はその知識に基づいて人々を管理・排除し、そうやって権力は知識を形作って、どの分野で知識が真理として認められるかを決定し、真理陳述の体制は時代によって異なり、歴史的に変化する真理のゲームとして機能し、古代ギリシャなどでは、自分自身を支配し、真理を語る主体となるパレーシアが重要視され、近代以降、刑務所や病院や学校、性に関する言説などを通じて、個人の行動を客観的知識に基づいて統制する体制が作られ、フーコーは、権力があるところに抵抗が存在すると述べて、真理陳述の体制によって真理として押し付けられるものに対して、その体制自体を分析し、そこから外れた従属化された知である、支配的な知識体系の陰に隠れてきた知を浮上させることが、権力への抵抗となり、つまり真理陳述の体制とは、単に真実を述べることではなく、真理を語るという行為を通じて、社会がいかに主体を構成し、権力を働かせているかを示す枠組みだそうだが、もちろん権力を持っているのは、トランプやネタニヤフの側なのだから、彼らが犯した国際法違反を糾弾するのが、権力に抵抗することになると考えればその通りで、それと同時に、そういうことを主張することが、真理陳述の体制に従った行為でもあるような気もするのだが、彼らが正しいことを主張するように仕向けられているというと、その通りでもあり、そんな者たちが正しいことを主張する行為も含めて事態が推移しつつあるわけで、果たして彼らが真理陳述の体制に囚われているという自覚があるかというと、そうでもないような気もしないではないが、それが良いか悪いかではなく、彼らが正しいことを主張するのを咎める気もさらさらないわけで、その辺のところがどう考えたらいいのかよくわからないわけだが、確かにイラン国内で強権政治に抗議する抵抗運動をやっている人たちなら、その活動を正当化できるだろうが、そういった正義の活動とは違う方面で、経済的な利害関心に囚われながら動いている人や団体に正義を語る資格などないかというと、別に正義を語っても構わないし、自身の活動を正当化したいならいくらでも正当化すればいいだろうが、トランプがやらかして世界中の人々が迷惑を被っていると言いたいなら、そりゃそうだ、とうなずくしかないが、何だか無責任に笑ってしまって、笑い事じゃ済まないのもわかりきったことなのだが、まだそのやらかし劇場が途中の段階なのだろうから、それを振り返って総括する時期ではないのもわかりきったことだが、なるほどこのじーさんにこういうことをやらせたくてアメリカの民衆はトランプを大統領に選んだと納得しそうになってしまうのだから、今のところは何となくそれで構わないような気がしているわけで、そういう意味ではトランプに対して抗議活動をやっている人たちとは立場が違うことを実感してしまい、そんな自分の立場を正当化する気も起こらないし、別に正当化しなくても何も困らないわけだが、法的な正義よりも経済的な利害を優先するように仕向けられているかというと、要するに、法的な真理陳述の体制や経済的な真理陳述の体制や政治的な真理陳述の体制や、他にも科学的な真理陳述の体制など、世の中の様々な分野で真理陳述の体制があると考えるなら、それぞれの分野で真理陳述の体制があるから、何かもっともらしくも正しいと感じられるようなことを語っている人がいるなら、その人の専門とする分野で成り立っている真理陳述の体制に従いながら語っているから、その人の述べていることがもっともらしくも正しいと感じられるのではないかと思いたくなるのだが、それがどうしたと問われても、どう返答したらしっくりくるような返答も出せないが、ネタニヤフはそうでもないだろうが、トランプにはその自覚はないにしても、それらの真理陳述の体制に逆らうような抗うようなことをやるように仕向けられているような、それが神の見えざる手に導かれながらやっているようなことではないのかと、勝手に勘違い気味にそう思いたくなってくるが、もちろん意識してそうしているわけでも、否応なくそうなっているわけでもないし、トランプはトランプで自らが信じている、それを真理陳述の体制だとは認識していないとしても、それに従いながら語っているつもりだろうが、語っているうちに、どんどん違う方面へと向かっていることに気づいていないわけでもなく、それに気づきながらも、そうならざるを得ない成り行きに抗えないことも自覚しているような気もするわけだ。4月3日「クラウゼヴィッツの名言」クラウゼヴィッツの『戦争論』は、戦争は政治の延長(他の手段による政治の継続)という名言に代表される、合理的な戦争観を説いた軍事古典で、敵の意志を屈服させる武力行使と定義し、政治の目的が戦争を支配すべきだと主張したそうで、戦争は他の手段をもってする政治の延長にほかならない、戦争とは、敵の意志を屈服させることを目的とする武力行使である、おおよそ戦争は、盲目的な激情に基づく行為ではない、戦争を支配するものは政治的な目的である、善良な気持ちから戦争を語るのは最悪、他国の危機に同盟国は真剣にならない、これらの言葉は、現代の国際情勢や戦略的思考を考える上でも依然として強い影響力を持っているそうだが、それに対してフーコーは、クラウゼヴィッツの定式を逆転して、政治とは他の手段によって継続された戦争であると考えて、これは三つのことを意味し、まず、私たちの社会のような社会において機能している権力関係は、そもそも歴史的に確定可能な一時期に戦争のなかで、また戦争によって、確立された一定の力関係に根ざしたものであり、そして、政治権力が、戦争を停止し市民社会に平和をもたらす、あるいは平和をもたらそうとするのは、戦争の作用を中断する、あるいは戦争の最後の戦いで現れた不均衡を中和化するためでは全くなく、この仮説に立つならば、政治権力の役割は、一種の静かな戦争によって、諸制度、経済的不平等、言語、そして各人の身体まで、この力関係を継続的に記入しなおし続けるものなのだということになり、これが、戦争は、他の手段によって継続された政治である、というクラウゼヴィッツの箴言の逆転に与えられるべき第一の意味で、政治とは、戦争において現れた力の不均衡の承認と更新である、というもので、このような命題逆転は、別のことも意味して、すなわち市民戦争=内戦と対になる表現として使われる市民平和の内部において、政治闘争や、権力に関する、権力のための抗争や、力関係の変更である、一方側の増大、転覆などの、そうした全ては、ひとつの政治体制における、戦争の継続であるとのみ解釈されることになり、それら全ては、戦争それ自体の逸話であり、戦争の断片化、および戦争の転移であると解読されることになり、平和とその諸制度の歴史を書く時でさえ、人は戦争の歴史を書くだけなのだということになり、またクラウゼヴィッツの命題の逆転は第三の意味もあり、それは、最終的決定を下すのは戦争である、つまり、最終的には武器が審判を下す力の対決が決めるのだということで、政治的なものの究極の姿は最終戦であって、最終戦こそ最後に、そしてまさしく最後にのみ、継続された戦争としての権力の行使を停止しうるものということになるが、AIによると、クラウゼヴィッツとフーコーの主な違いは、戦争を国家間の物理的暴力と捉えるか、社会全体に浸透する権力関係のメタファーと捉えるかという点にあり、フーコーはクラウゼヴィッツの有名な、戦争は他の手段をもってする政治の延長である、という定義を逆転させ、現代社会の権力構造を分析したそうだが、クラウゼヴィッツが戦争を、政治的目的を実現するための手段、暴力行為と捉えているのに対して、フーコーは、政治は他の手段をもってする戦争の延長である、とし、社会の根底に永続的な戦争である権力闘争が存在すると捉え、クラウゼヴィッツにとっての焦点が国家、軍隊、物理的な殺す権力の行使であるのに対し、フーコーにとっての焦点は、社会全体の規律、知識、監獄や病院などの制度、住民を管理する生権力になり、クラウゼヴィッツのアプローチが、国家間における物理的な殺す権力の行使であるのに対し、フーコーのアプローチが、生きている人間に介入・管理する、生かす権力である生権力の分析になり、クラウゼヴィッツの文脈が、近代国家の戦争と軍事戦略であるのに対して、フーコーの文脈が、現代社会における規律と管理の社会システムになるそうだが、フーコーは、クラウゼヴィッツが重視した戦争が物理的な暴力にとどまらず、現代社会においては、日々の教育や制度の中で、知識を通じて人々を支配する規律権力や生権力として機能していると主張し、クラウゼヴィッツの軍事的・古典的戦争論と、フーコーの社会構造的・批判的権力の違いが何かというと、ともに戦争や支配をテーマにしているが、その対象、目的、本質に対する捉え方が根本的に異なり、最大の違いは、戦争を政治の延長と見るか、政治や社会全体を戦争の延長と見るかという点にあるそうで、クラウゼヴィッツは、戦争は政治的相互作用の極限状態であり、他の手段による政治の継続と定義するのに対し、フーコーは、戦争は社会を支配する社会関係の暗号である、と述べ、権力関係を絶えざる闘争、あるいは戦争の継続として捉え、クラウゼヴィッツは国家が主体であり、敵の軍隊を撃破し、政治的目標である国家意志を強制することが戦争の目的だと捉えているのに対し、フーコーは、国家だけでなく、社会全体、学校、病院、軍隊などに分散した権力が対象を物理的に消滅させるのではなく、管理し、従属させることが、生権力の目的だと捉え、クラウゼヴィッツが戦争の性質を、現実には摩擦や制限が生じるにしても、暴力の絶対化を伴う、物理的な武力衝突と捉えるのに対して、フーコーは権力の性質を、物理的な暴力だけでなく、知識、制度、監視、規範を通じて個人の内面に介入する微視的な力と捉え、クラウゼヴィッツが軍事力を敵を殺し、物理的に圧倒するためのツールと捉えるのに対して、フーコーは知識=権力を、真理や知識そのものが権力によって形作られ、社会構造を支配する手段となっていると論じ、クラウゼヴィッツの主張の特徴が、十九世紀的・国家中心的な視点、軍事的な戦略、戦術、兵站、意志の衝突に焦点を当てているのに対し、フーコーの主張の特徴は、二十世紀後半の構造主義・ポスト構造主義的な視点だとAIは捉えているが、現代社会の支配体系や規律、人口管理などの生政治に焦点を当てていて、クラウゼヴィッツは、国家対国家の物理的・軍事的な闘争を戦略的に分析したが、フーコーは、社会の隅々にまで浸透した規律や監視を伴った生権力が、いかに人々の主体性を奪い、支配を維持しているかを批判的に解明し、フーコーは、クラウゼヴィッツ的な戦争の枠組みを、現代の社会そのものの支配関係に拡大・再解釈したと言えるそうだが、問題なのは、権力の規則立てられかつ正当な諸形態を、それらの中心において、つまり権力の一般的メカニズム、あるいは権力の全体的効果と言えるものの中で分析することではなく、問題となっているのは、それとは反対に、権力をその末端で、その究極的な輪郭の中で、権力が毛細状になるところで捉えることで、つまり権力の最も局在的な、最も局所的な諸形態と制度の中で、特にこの権力を組織し、その範囲を定める法的諸規則から、権力自身がはみ出してしまい、こうした規則を越えて延長し、ある制度の中で自己の役割をあてがい、あるいくつかの技法の中で実体化し、物質的な、時には暴力的な介入の道具を手に入れるその場で権力を捉えることが重要だそうだが、どこでいかにして懲罰権が、哲学が提示するような主権、君主法あるいは民主法の主権の中で成立するのかを探求するかわりに、実際に懲罰、懲罰権が、拷問であれ、投獄であれ、局地の、地方の、実在のいくつかの制度の中で、それも実際の懲罰装置の制度的、物理的、法規的、かつ暴力的な世界においてどのように実体化したのかを知ろうとしたのだそうだ。4月2日「うわべだけの会話」うわべだけで何か述べているように思われることが何なのかというと、それがうわべだけで述べていることが相手にもわかってしまうとまずいのかといっても、場合によっては相手にもそれとわかるようにうわべだけで述べているわけで、そうなると何か殺伐とした雰囲気を感じてしまうが、なぜそうなってしまうのかといっても、そんな調子でも構わないようなシチュエーションがあって、雑談や社交辞令などのうわべだけの会話は、人間関係のトラブルを避け、円滑に社会生活を送るための潤滑油として非常に有用で、深い話をする必要はなく、表面的な会話で十分である場合がありそうだが、お疲れ様です、というすれ違った職場の同僚への挨拶や、天気、ニュース、週末の予定など、職場のエレベーターや給湯室での短い会話や、取引先との会議前のアイスブレイクの時など、簡単な挨拶や社交辞令の場での会話や、パーティーや交流会、バイト先などで出会った人との会話や、お互いのプライベートに踏み込まないことがマナーとされる状況など、初対面やあまり親しくない人と会話する時や、職場や近所付き合いで、最低限の関係を保つ必要がある場合や、嫌われているかもと感じる相手と事務的に対応する場合など、苦手な人や関わりを深めたくない人と接触する時や、人前で話すのが苦手な場合、あえて事務的・形式的な会話でその場をやり過ごそうとしたり、急いでいる時に立ち話で捕まった場合など、時間的な余裕がない時にはそうならざるを得ず、これらのシチュエーションでは、相手が心地よいと感じる表面的な話題を話すことで、気まずい沈黙を避け、良い印象を残しつつ、心の距離を適切に保つことが肝要だそうだが、そればかりが目立つようだと、中身のない空疎な人間だと思われるかも知れないし、世渡り上手だと思われる程度でもなければ、意識してなるべく目立たないように心がけているわけでもなく、ただ何となくそうなっているだけで、部分的にそういう面もある程度で、そればかりではなく、たぶんそういうシチュエーションでうまく振る舞う必要もなく、うまく会話が噛み合わずに気まずい沈黙に耐えているぐらいがちょうど良かったりするわけで、どうでもいいようなところで気を使うのが嫌なら、うわべだけ相手の話に合わせるようなことはやらない方がいいと割り切ってしまえば、嫌われ者で構わないような開き直りへと導かれてしまうだろうが、イーロン・マスクがビデオ会議で従業員に解雇を言い渡す場面などを見てしまうと、何かゾッとするものを感じるが、その徹底した合理主義と冷徹なまでのスピード感を象徴する挿話として、複数の文脈で知られているそうで、会議の効率を極端に重視しており、無益な参加者に対して非常に厳しいことで知られていて、会議中に発言しなかったり、貢献していないと見なした従業員に対し、君は何も発言していないが、なぜここにいるんだ?と問い詰め、その場で退席や解雇を命じることがあると報じられていて、従業員に対して、会議に貢献していないと感じたら、すぐに退出しても失礼には当たらず、むしろ、そこに留まって時間を無駄にすることの方が失礼だというルールを徹底させているそうで、ツイッター買収の時、会議やメールを通じて、かつてない規模の解雇を行い、全従業員の約半分をメール一本で解雇し、多くの社員は、会議に呼ばれる前に社内システムへのアクセス権を遮断され、自分が解雇されたことを知り、その後の社内会議やメールで、長時間かつ高強度で働くか、退職金を受け取って去るかの選択を迫り、さらに多くの従業員が会社を離れ、テスラでも2024年4月には、全従業員の一割以上に相当する一万四千人規模の解雇をメールで通知し、スペースXではマスクの言動を批判する公開書簡を提出した従業員を、経営陣との会議や調整を経ることなく即座に解雇した事例もあり、トランプ政権下での役割に関連し、連邦政府職員の大量解雇についても、雑草の根を断つ必要がある、と強い言葉で言及し、2025年3月には、夜の10時に突然の全体会議を開き、株価低迷の中でも従業員に結束を求めるなど、予測不能なマネジメントスタイルを続けているそうで、こうしたエピソードは、ビジネスメディアで、残酷だが効率的なやり方として、しばしば取り上げられているらしいが、労働者の権利が法律でそれなりに守られている日本でも、それとは別のより陰湿なやり方で従業員を解雇しようとする場合もありそうだが、うわべだけの会話で無駄に時間をつぶすようなことをやられたら、イーロン・マスクなら激怒するかどうかも、それが仕事中なら、それも仕事内容にもよるかも知れないし、キャバクラのおねーさんなら、そういうことをやるのが仕事に含まれるだろうから、その辺は何とも言えないところだが、人によってもその人の立場によっても、その場の状況や情勢によっても、それがどうでもいいようなシチュエーションとはならない場合もありそうだが、それでもどうでもいいような場面で気を遣わざるを得なくなるのは、世の中の多くの人が抱える気疲れの原因だそうで、心理的な負担や疲労につながる行動だそうだが、これは気を遣って相手に配慮するというよりは、自己防衛や最適化などの心理作用が無意識に働いて、そういった自己に対する気遣いが過剰となっている状態と言えて、この状態が続くと、社会生活に支障をきたす過適用や気疲れにつながり、そうなってしまう理由としては、全てを完璧にこなそうとするあまり、どうでもいいような細かい部分にも目が向いてしまい、相手からどう思われているか、嫌われていないか、見捨てられていないかを過剰に恐れ、相手の反応を過剰に予測して、絶えずそれに先回りして行動しようとして、自分の気持ちより相手の機嫌を最優先にして、そんな過剰なご機嫌取りやゴマすりがかえって災いして、相手から下に見られたり軽くあしらわれたりすると逆効果と言えそうだが、そんな状態を抜け出して、心を楽にするには、どうでもいいと割り切ることが肝心だそうで、全ての人の期待に応えなくていい、嫌われてもいいと自分に許可を出して、相手が何かをしてくれる、理解してくれるという期待を手放して、相手の機嫌よりも、まずは自分の気持ちや体力や気力を優先し、小さな頼み事から断る練習をして、自分を守る境界線を引き、誰かと関わることで生まれるストレスから距離を置き、無意識に力が入ってしまっていることに気づくことが、改善の第一歩で、自分の心と体を守るために、必要のない配慮はしない選択をすることが肝要だそうだが、それも立場上、その場の状況や情勢によっては、それができない場合も出てくるから、誰もがイーロン・マスクのような立場にはなれないこともわかりきっていて、時には相手に気に入られるために、お世辞を言ったり、媚を売ったりしても、それも相手に魂胆を見透かされている場合がほとんどだろうから、ソフトバンクの孫さんみたいにトランプに取り入って、かえって巨額の資金を工面する事態となっているのも、そうなるのも承知でそんなことをやっているんだろうが、もちろんトランプの方でも利用価値の高い奴には、それなりに応対するのだろうから、お互い様な面もありそうだが、何の能力も金も奴なら、相手にされないだろうから、時の権力者に取り入るというのも、それなりに能力や金のある奴らがそういう行為に及んでいると見ておけばいいわけだが、ビジネスや学校などの人間関係において、時にネガティブに捉えられることもあるにしても、円滑なコミュニケーションや処世術の一環として活用される側面もあり、職場では上司への適切な配慮や評価を高めるための手段として議論されることがあるそうで、もちろん冷徹な合理主義者のイーロン・マスクには通用しないだろうが、教育現場でも、内申点などのために先生のご機嫌取りが必要になる場面があるとの指摘もあるそうで、そんなのはAIの出力結果に過ぎないから、怪しいと思えば信用しないに限る内容かも知れない。4月1日「わかっていないこと」何かわかっていないことがあるとすれば、それが自分には関係のないことであるなら、わかっていなくても安心できるかというと、関係ないのだからわかっていなくてもそれほど深刻な事態でもないと思うにしても、関係ないかどうかなんて、それがわかっていないなら、というか何がわかっていないのかが、自分に関係のあることかどうかもわからない場合、深刻な事態かどうかもわからないし、そこで話の前提が崩れてしまうような不安感に襲われるわけでもないが、わかっていないことが自分に関係のあることかどうかなんて、そう簡単にわかるわけでもないなら、あまりわかっていないことについて心配するのも、杞憂に終わる可能性も高そうで、心配するのではなく、何がわかっていないのかをわかろうとするのかも知れず、それもわかっていない内容にもよるだろうが、わかろうとする過程でわかってくることもわからないままになってしまうことも出てきて、そこでわかっていないこととわかってきたことの仕分け作業をやっているような感覚が得られるなら、少しは安心できるかも知れず、安心したくてそんなことを考えていたり、わからないことを調べていたりするなら、そんな作業に没頭している限りで、気が紛れるかも知れないが、何もわからないうちからそんなことを想像してみること自体が、何だか想像するだけ無駄なような気がするが、先行きを懸念するのは誰でも気休めに心配するようなことだから、何かのついでにそうなってしまうのだろうが、心配の種が何かの利害関心に囚われていることでしかなければ、それも誰もが資本主義市場経済の中で暮らしているからだと達観してみたところで、そこから何かもっともらしい思いつきに至るとも限らず、その逆に、あり得ない妄想に囚われている可能性も捨てきれないから、それが何なのかを考えてみれば、おおよそ偏見や固定観念や先入観などのこだわりに行き着きそうで、それが自分に特有のこだわりなのか、それとも世間から有形無形の影響を及ぼされた結果として妄想される集団的な共同幻想の類いなのかも、どちらであっても勝手に頭の中で自分の都合に合わせて、それらが混じり合っているのかも知れないから、そうなっている限りでそんな世間の一部として自分の頭の中で自意識が構成されていることに思い至るかも知れないが、それがどうしたわけでもないと、またもや調子に乗って達観してみたところで、いくら何を達観してみても自らの愚かさを拭い去ることなどできはせず、結局だから何だと開き直ることしかできないようで、最近は連日イランがどうしたアメリカがどうしたイスラエルがどうしたとニュースに気を取られているうちに、それとは別のところで何かが絶え間なく進展しているようで、それが何だかわからないでは話にならないが、例えば、仮想通貨に量子リスクがあるとかないとか、暗号解読のハードルが低下する恐れをグーグルが研究者の論文の中で警告しただのと、さっそくメディアが話題を提供しているようで、米グーグルの研究者が、将来の量子コンピューターがビットコインなどのデジタル資産を保護する暗号技術の一部を、従来想定より少ない資源で解読できる可能性があると警告したそうで、ビットコインなど持っていない人には関係のない話だと軽くみておくと、何か将来においてとんでもないことになるかどうかも、確かにそんなことなど現時点ではわかりようがないが、グーグルは差し迫った崩壊を予測するものではなく、業界に対応の時間を与えるための警告だと位置付けたそうで、自社のセキュリティーシステムを2029年までに全面的に耐量子暗号へ移行する計画を示しているそうだが、そんなのは以前から言われていたことだから、そんな話題をなぜメディアがこのタイミングで取り上げたのかと考えてみたところで、その意図など自分にはわかりようがないから、現時点は何でもないことには違いないだろうが、今さら取り立ててそんなことを知りたかったわけでもないし、たまたまネットでニュース・メディアを見たら、そんな話題が目についただけで、それこそが自分には大して関係も関心も興味もないことだと、今のところはそう思うしかないが、では他に何を知りたかったのかというと、それもニュース・メディアに気を取られているうちに忘れてしまったのかどうかも、この時点では思い出せないわけで、ここでそんなことを思い出す必要さえ感じられないのだから、完全にそれらのニュース・メディアによって、何かをはぐらかされているような気もしないではないが、すでに何を考えていたのかも思い出せないのだから、それが聞きたいことや問題の核心を意図的にずらされて、問おうとした何かを得体の知れない何かによって、適当にあしらわれて煙に巻かれていることになるのかどうかも、その得体の知れない何かの正体もわからないのだから、そんなふうに思ってしまうこと自体が、自らの勝手な妄想に過ぎないとしても、何かによって、あるいは何かから影響を及ぼされて、現時点ではあり得ないことを妄想してしまうのかどうかも、それが何なのかといっても、やはり依然としてそんなことなどわかりようがないのだが、こうやってわざと何かの本筋とは違う話をしてごまかしていると受け取られるなら、本筋とは何なのかもわかりようがなく、それに対してもどかしさや不誠実さを感じるならその通りで、いくら問うてもまともに答えなど返ってこないから、かえって問うたびに謎が深まりそうで、その謎が何なのかもわかりようがなく、自身が直面している問題から逃れるために、ひたすら答えを避けて、それに取り組むのを先延ばしにしているとも思えないが、こちらはそれを追及しているのに、話をはぐらかされている場合、相手は本音を言いたくないのか、その話自体をそこで終わらせたいと感じている可能性が高いそうだが、何がそうなのかといっても、元から真剣な話などにはなりようがなく、その種のニュース・メディアがどんな話題を提供していると考えても、それが需要に応えた話題かどうかも、それがユーチューブ動画なら再生回数や高評価などによってわかるだろうから、再生回数を稼げそうな話題を提供する方向へと自然と動画の傾向も推移して行くだろうと推測できそうだが、それが何なのかといっても、その種の動画を視聴しているうちに、自然とそんな傾向がわかりそうで、そういうことの繰り返しからその方面での市場のコンセンサスも形成されてくると考えておけば無難な感じがするわけで、そんなふうにしてその種の動画を視聴するたびに、そちらの方面へ意識も関心も誘導されて行ってしまい、それが何なのかといっても、ただ単にそういう話題に興味や関心が向くように仕向けられていると考えればその通りのような気がするのだが、たぶんそうなったところで、自分の自意識がその種の話題に慣らされているに過ぎないから、そういう方面に向かって自意識が構成されてくるとしても、やはり何でもないことなのではないかと思ってしまうのだが、たぶんそれも自分の利害などに直接かかわってくることだとは思えないわけで、自分とは関係のない社会のどこかで見ず知らずの他人が活動していることをメディアにいちいち伝えられても、そこから自分にとってその活動が有利に働くか不利に働くかなんて、そんなことを思いつくわけでも考えられるわけでもない限りで、自分とは無関係だと思うしかないのだろうが、それも気づかないところから自らに何らかの影響を及ぼしてくるとしても、そんな影響などたかが知れていると軽視できるかどうかも、影響を及ぼしてくる物事にもよるだろうから、その辺はその物事が何なのかによって自らの対応も変わってくるだろうが、話の内容は相変わらず取り止めがないようで、何でもないようなことを述べているに過ぎないわけだ。 |