彼の声1732026年3月19日「答えは風に吹かれている」何かの制約があってそんな結果を招いているのかというと、それとこれとを結びつけようとするからそうなってしまうという結論がもっともらしく感じられるとしても、それとこれがそれぞれに何を指すのかも、あるいは何を意味するのかも、それとこれが指す対象を具体的に述べないと、何を述べているのかわからなくなってしまうことにもなりかねないが、人の思考がそれによって制約を受けていると考えると、何となくそういうことかと納得してしまうようなら、世間的な話題に絡んでそうなっていると推測しても構わないだろうが、その世間的な話題というのが、あからさまに取り上げると支障をきたすようなことかも知れないが、ではいったい何が支障をきたすのかといえば、ビジネスに支障をきたすというなら、そちらの方面ではセンシティブな話題となるのだろうが、センシティブな話題とは、主に政治、宗教、病歴、性的指向、家庭環境、差別、格差など、個人の心情やプライバシーに関わり、配慮や慎重な扱いが求められるデリケートな情報やテーマで、これらはトラブルや炎上の原因になりやすいため、会話や情報発信の際は相手を尊重し、中立的かつ丁寧な表現を心がけることが重要だそうだが、SNSやオンラインの場では、ヘイト表現や成人向けコンテンツなどが、その種の内容として注意喚起の対象となるらしく、運営側の判断で表示されないことがあるのだろうが、その対象が多種多岐にわたって広範囲に及んでいるなら、何やら規制だらけな社会情勢であることを裏付ける結果になりそうだが、もちろん実態としてはそんなはずがなく、そういうところだけ誇張して伝えようとしているに過ぎないが、ビジネスシーンで避けるべき話題は、対立や不快感を招いて、信頼関係や業務に支障をきたす話題となりそうで、特に政治、宗教、お金、健康問題、論争の的となるニュース、プライベートすぎる内容は、信頼関係が築かれる前は厳禁だそうで、これらの話題は、たとえ悪気がなくても、差し障りがあると見なされ、ビジネスの円滑な進行を阻害するため、注意が必要だそうだが、それが暗黙のルールとは言えないまでも、慣行のように機能して、功利的な活動を円滑に進めるには必要最低限のマナーとなりそうで、そんな捉え方ではおかしいが、そうやって何かをうまい具合に避けようとしているから、奥歯に物が挟まったような物言いになってしまうかどうかも、そうやって言いたいことをはっきり言わず、何かを隠しているようで遠回しな、すっきりしない言い方になるかも知れないが、話の要点が不明確で、回りくどい表現に終始しながら、まるで本心を全て隠しているようにも感じられ、そう述べることによって含みを持たせているのだろうが、歯切れが悪く、オブラートに包んだような直接的でない表現が意図するところを、推測するように仕向けてくる理由を考えてみるまでもなく、案外何も言うべきことが見当たらないのではないかと推測したくなってしまうのだが、さらには言うべきことだけでなくやるべきことも何も見当たらないようなら、完全に活動が行き詰まっていると情勢を捉えても構わないのかというと、そうなってからが正念場だと考えるなら、土壇場が追い詰められた状況であるのに対し、正念場は実力を発揮すべき重要な場面という意味合いが強いそうだから、それが自身の焦りを跳ね除けるための強がりや痩せ我慢だと逆説的に現状を捉えたくなってきて、困難や苦境を乗り越えてきたような自身の物語を後から語る上では欠かせない重要な場面に差し掛かっていると自らに言い聞かせているだけではないのかと穿った見方をしたところで、その実態はたわいないものだと馬鹿にしたいわけでもないのだが、この後に及んで何を嘲りたいのかと考えてみても、これといってそれほど強く印象に残るような場面などすぐには思い浮かばないが、日本のどこかで船が転覆した話などが最近あったのかも知れず、それを何かの抗議活動に結びつけるのではなく、ただの事故だと捉えるなら、それで済んでしまう話題なのに、それがそうではないような恣意的な結びつけ方がえげつないような印象を伴ってしまうらしく、正義の味方のようなお笑い芸人が歯切れの悪い物言いで語っていたのが印象に残ったほどのことでもないのだが、そこでうまく立ち回っているように見えるのは、その種の人物とは正反対の立場や姿勢を装う誰かになるだろうが、それでさえもたわいない言い回しで言われていることだから、それほどわかりにくい印象は覚えないのだが、真のわかりにくさというのがどこから生じてくるのかというと、唐突に愛を訴える政治家というのが話題となっているから、その意図が何なのかと考えてみるまでもなく、要するに何事もビジネスライクな姿勢では駄目なのかという問いに答えているわけではなく、愛こそがこの世界で最も強い力だと教えてくれるそうで、米民主党の期待の新星だと評されるジェームズ・タラリコ氏は、この時代に愛は弱くないかという問いに対し、愛は世界で最も強い力であり、困難な時でも自分や相手、世界を支える力になると述べているそうで、人工妊娠中絶を容認し、LGBTQの権利を擁護し、アメリカが直面する課題は保守対リベラルという左右の分断ではなく、富裕層による政治支配という上下の分断だというのが持論だそうで、富裕層や大企業は批判の矛先を逸らすために左右の対立を煽っていると主張し、過激な言葉は使わずに社会の結束を訴え、よく比較されるのは、彼らはクレージーだ、卑劣なやつだ、とてつもなく無能な男だ、と意見の異なる人を攻撃的な言葉で批判するトランプ氏で、そんな政治姿勢への嫌悪感がタラリコ氏の人気を押し上げていると分析していて、オバマの再来と評されるそうだから、保守地盤の強いテキサスで民主党候補として38年ぶりの歴史的勝利も現実味を帯びているそうで、それに対しトランプは、過激左派の対抗馬を断固として排除する、と息巻いているそうで、それに対してタラリコ氏は、私たちは政党・人種・性別・宗教の垣根を越えて団結し、私たち自身とコミュニティに力を取り戻す、と語ったそうだが、批判の代わりに愛を語る政治家はアメリカの政治に新たな風を吹かせるのでしょうか、と実況者は締めくくっているようだが、風に吹かれているのは、ボブ・ディランの方だから、人はどれだけの道を歩まなければならないのか、彼を男と呼ぶ前に?白い鳩はどれだけの海を航行しなければならないのか、彼女が砂の中で寝る前に?はい、そして砲弾は何回飛ばなければならないのか、永久に禁止される前に?答えは風に吹かれているよ、友よ、答えは風に吹かれている、はい、そして山は何年存在する必要があるのか、海に流される前に?はい、そして何年生きられる人がいるだろうか、彼らが自由になる前に?はい、そして人は何回振り向くことができるだろうか、そして見て見ぬふりをするのか?答えは風に吹かれているよ、友よ、答えは風に吹かれている、はい、そして男は何度見上げなければならないのか、空が見える前に?はい、そして一人の人は何個の耳を持っていなければならないのか、人々の泣き声が聞こえる前に?そう、そして彼が知るまでに何人の死がかかるだろうか、あまりにも多くの人が亡くなったということなのだろうか、答えは風に吹かれているよ、友よ、答えは風に吹かれている、と歌っているらしく、そんな歌を歌ったからノーベル文学賞をもらったということなら、トランプがノーベル平和賞をもらう可能性は限りなくゼロに近いかも知れないが、何かそれが皮肉めいた結果をもたらすなんて予言するまでもなく、案外何ももたらしはしないと予想したくなってしまい、それが現在の世界情勢から受け取っている実感のような気がするわけだが、要するに作用反作用のような事態となっていて、民主党の立候補者は何も持ち合わせていないからこそ、そこに愛があるような、そんな幻想を有権者にばら撒いているようにも思われる一方で、彼が数年後の大統領選に立候補するわけでもないだろうから、オバマのような二の舞にはならないのだろうが、そうでなくてももとから世界的に政治が行き詰まっているのだから、それが十九世紀の昔から行き詰まっているから、こうして今も大衆市民社会が執拗に継続していると事態を捉えてみても、それが何に対しての答えになっているわけでもないだろうし、答えは風に吹かれている、と歌うしかないのかも知れない。3月18日「大丈夫な事態」こんな事態になっても大丈夫だと思いたいのも、何が理由で大丈夫なのかも、その場の成り行き次第でそうなっているだけではなく、他からも有形無形の作用や影響が及ぼされているからそうなっていると言えるようなことらしく、また現時点で言えることは、数十年前の当時と今とでは、そうなっている前提条件もそこに及ぼされている作用も影響も異なるから、少なくとも当時のようなことにはならない、と言えるのはいつの時代でもそう言えそうなことである反面、いつの時代でも言えない現代に特有な特殊な要素や要因が絡んでいて、それが起因して現状を形成していると言えるようなことだと考えるなら、それによって何が言えるわけでもないとあきらめてしまうわけでもなく、メディアから伝わってくる情勢分析のインフレ気味な情報過多に嫌気がさしているわけでもないのだが、その場の成り行きに応じて絶えず思考を巡らせながら解釈しようとしているというと、それが解釈だと言えるような解釈なのかどうかも、かなり強い程度で疑念を覚えるのだが、実際にそうなった結果からそういうことだと解釈できるにしても、もっとスマートにやりようがないのかどうかも、現時点では何とも言えないようなことだから、それはそういうことだと事態を捉えておくことしかできないが、事を単純に捉えるなら、目下のところ、型にはまった内容を語ろうとしているのに対して、それが決まりきった形式、習慣、またはマニュアル通りで、個性や独創性がないと否定されるのを承知で何を語ろうとしているのかといっても、絶えず語っていることが無難で安定している一方で、それがワンパターンでつまらない、あるいは融通が利かないと否定的な文脈でそんな表現が使われているから、わざと目眩しのような意図や思惑を虚仮脅しのように仄めかしているのかどうかも定かではなく、そういう喩えがマンネリ化していると受け取られるならその通りで、たぶんわざとそうしているわけではなく、それもいつものように成り行き上否応なくそうなっているわけで、そんな退屈な成り行きに従いながら何を我慢しているわけでもなく、その種の型にはまった分析によれば、例えばマックス・ウェーバーとは、西洋社会の意識、分析、解読の諸様相としてのユダヤ=キリスト教のカテゴリーと資本主義のカテゴリーを、自己分析の唯一にして同一の織目のなかで、可能な限り互いを結び合わせようとした人物なのだそうだが、ウェーバーは、近代西洋における特有の合理的資本主義の形成要因を解明するため、宗教的理念、特にプロテスタンティズムの倫理が経済行動に与えた影響を分析し、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、カルヴァン主義などの宗教観が、無目的な金儲けではなく、天職としての合理的・計画的な資本蓄積を正当化し、それが資本主義の精神を醸成したと論じて、自身の生きる近代西洋社会が脱魔術化し、官僚制という鉄の檻に囲まれて行く過程を分析しつつ、その中で人間がいかに意味や情熱を見出せるかという問題意識を持っており、社会の基盤にある経済の物質的要素と宗教・思想などの観念的要素の両方を統合的に見ようとし、それが社会学の基礎を築いたと言えるそうで、ウェーバーは、価値や意味としての宗教と行為や構造としての経済という一見異なるカテゴリーを、近代西洋の特殊な展開という独自のフレームワークの中で再構成しようとした思想家なのだそうで、やはりそれとこれとは無関係だと感じられるわけでもなく、要するに自分たちが囚われている金儲け主義を何とかして正当化したいわけで、果たしてそれが宗教を持ち出してまでも正当化するようなことなのかどうかも、その人が囚われている成り行きに応じてそうなる可能性があるにしても、手段としての金儲けが目的化した宗教は、信仰や救済という本来の目的が、資金獲得や経済的利益にすり替わった状態を指し、これらはしばしばカルトや宗教ビジネスとして批判の対象となり、救済や先祖供養を口実に信者から多額の金銭を巻き上げる世界平和統一家庭連合=旧統一教会などが典型例だそうで、集められた資金は、教団の拡大、指導者の贅沢な生活、海外への送金、政治的な影響力の行使としての政界工作などに使われることが多く、勧誘時に正体を隠し、ボランティアやスピリチュアルなセミナー、カフェなどを装って近づく手法が指摘され、それに関連して宗教法人は収益事業以外が非課税となる優遇措置を受けており、これが宗教ほど儲かる商売はないといわれる背景にあり、活動実態のない法人が、節税スキームやマネーロンダリングの道具として売買される問題もあり、中世の免罪符の販売のように、信仰の歪曲が宗教改革の引き金となった事例もあり、宗教の目的を経済的合理性に結びつけるのには否定的な印象が伴うが、その合理性を効率性、生産性、利益の最大化などに結びつける視点は、宗教社会学や経済学において、宗教の経済学や合理的選択理論として研究されているそうで、宗教は個人的な価値観や意味を提供するだけではなく、社会制度として経済的な合理的行動を促進したり抑制する役割を果たしているそうで、労働を神から与えられた使命と捉えることで、勤勉に働くことが宗教的な義務となり、浪費を避け、利益を再投資に回す姿勢が、資本の蓄積と近代資本主義の発展を促進した歴史的経緯があり、宗教は共通の倫理観や規範を提供し、信者間の信頼関係を築き、誠実さや正直さを教義とすることで、契約や取引において裏切り行為が減り、監視のためのコストや紛争解決コストが低下し、共通の規範としての、嘘をつかない、約束を守るという倫理は、経済活動におけるリスクを軽減し、効率を高め、宗教団体は、信者という強固なコミュニティを形成するから、それが信者間の相互支援を促すことで保険の役割を果たし、ビジネスの機会を創出し、宗教コミュニティ内での相互融通や寄付行動は、特定の経済基盤を形成して、現代の宗教経済学では、信者が自らの精神的満足を最大化するために宗教を選択するという、合理的選択理論が提唱され、仏教の縁起や祈祷などの宗教的な力によって、病気が治り、仕事がうまく行くなどの現世の利益を求める行動は、期待通りの結果を求めるための合理的な行動として分析され、宗教団体を信頼という財を提供する産業とみなし、信者を消費者、教義をサービスとして経済理論で分析して、宗教教育は、勤勉、正直、自律性といった、経済活動に有用な人間的特質を持つ人的資本を育成し、このように、宗教は歴史的・社会的に、個人の欲望を節約しつつ、労働や信頼といった経済活動の基盤を強化する合理的システムとして機能してきた側面があるそうだが、その一方で現代的なマイナスの影響としては、カルト宗教にはまって、高額献金による生活破綻、2世信者の問題、家庭崩壊などが大きな社会問題となって、その種の宗教団体が政治団体への献金や選挙支援を通じて、政治に影響を及ぼそうとする構造が指摘されて、純粋な信仰心を持つ人をターゲットにして、経済的な搾取を通じて運営されているため、反社会的、反道徳的であると批判されているそうだが、そういう意味では宗教にもピンからキリまであって、良いようにも悪いようにも利用可能なところが一概に良し悪しが言えないところだが、それを良し悪しや是々非々で判断するのも、型にはまった結論へと導かれてしまいそうだが、良い方にも悪い方にも向かってしまっても大丈夫な理由というのが、最終的にそれが国家的な無理や限界に行き着くから大丈夫なのであって、例えばそれがイスラム教ならイランや湾岸諸国で行われている無理な政治的・経済的活動に行き着いているわけで、それがアメリカやイスラエルを巻き込んで大規模な軍事作戦にも行き着いているわけだから、政治的・経済的な限界にも直面していて、果たしてそれらの現象を宗教的に取り組むべき課題に結びつけても構わないかどうかも、トランプやネタニヤフはそれを軍事的に解決しようとして、それなりにこじれていると見ておいても構わないだろうが、なぜ軍事的的に解決しなければならないのかというと、それが国家の安全保障に絡んでくる事案だからこそ、現在進行形で戦争が行われているわけだが、しかも地域紛争程度にとどめたいのだから、そこでも無理や限界に直面しているわけだが、何とかしてそうやって大丈夫な範囲内にとどめたいわけだ。3月17日「君たちは間違っている」そんな台詞をすぐに真に受けるわけでもないが、たぶんいつもの調子で間違っているのだろうが、またごちゃごちゃとなりふり構わず腕を振り回してみたら障害物に当たって怪我をしたわけでもないのだが、それも動機不明な無意識のなせる業なのかも知れないし、結果的にうまく行ってしまうのかどうかも、今はまだ途中の段階なのだろうからわかりようがないが、妙にしつこく絡んでくるから、そんな面倒くさい奴らはさっさと片付けてしまわなければならない事案が発生してしまうらしく、嫌々それをやっている最中であるようで、現状でやっているのはそんな本筋とは無関係な作業なのかも知れないが、また性懲りもなく思わせぶりにそれがオワコンだと呟いて、結局後から実はそうではなかったことがわかるのも、予定調和な結末には違いないが、それとこれとがどう結びつくのかもよくわからず、わからないまま放置していたら、いつの間にか再起動して元通りに戻っているのだから、それをどう考えても故障の原因だなんてその時点ではわかりようがないのだが、たぶん故障していたわけではなく、スリープ状態だったのかも知れず、気づかないまましばらくほったらかしにしていたら、いつの間にやら忘れてしまったわけで、それに気づいた頃には再起動していて、いつものように使えるようになっていたに過ぎないのに、それが驚くべき事態でも何でもないのに、何か勘違いしているようで、それを勘違いとは言わないのかも知れないが、勘違いと間違いの違いが、勘違いは事実を誤って認識・理解する思い込みや誤解を指し、個人の頭の中での認知ミスである一方で、間違いは計算ミスや事実と異なるなど、客観的に誤っている状態を指すそうだが、前者は思い違いで、後者はエラーというニュアンスが強いと出力してきたが、両者を組み合わせて、勘違いによって間違った行動をとると使われることもあるそうで、そうであるなら勘違いと間違いが連動して起こると考えても良さそうで、今回のイラン戦争はそういうレベルでの勘違いや間違いではないだろうが、それを後から振り返ってみれば、何かの勘違いから起こった間違いであったと解釈しても構わないような時期が今後やってくるかも知れないし、それがいつやってくるのかも現時点では予想のしようがないから、現時点では根拠の定かでない勝手な憶測には違いないが、憶測とは確かな根拠や裏付けがないまま、自分の想像や思い込みで推測することで、正しい情報が不足している状況で、こうではないかと勘や主観で判断する際によく使われ、類語には当て推量や想像や推察や見当などがあるそうだから、憶測の使い方としては妥当なのではないかと思われ、そういう面では勘違いや間違いではないだろうが、やはりそれとこれとは違う方面での判断になるから、憶測が根拠や証拠が全くないか極めて薄い状態であるのに対して、推測がある程度の事実や根拠に基づき推し量ることであるなら、ここでは憶測という言葉を使うのが妥当であるように思われるだけで、彼らのやっていることがその全体から見れば枝葉末節で部分的な瑣末な作業であるのも、それに携わっている誰もが思うところなのかも知れず、それが不満の原因なのかも知れないが、それを外部から指摘されると逆ギレして激昂してしまうのもありふれた反応にはなるだろうが、だからコーヒーを毎日何杯飲む人がどうたらこうたらとか、五十代で物忘れが激しい人がどうたらこうたらとか、そういう枝葉末節などうでもいいことが大事なことだと思い込ませようとしてくるのかというと、そう思うのもあっち方面からもたらされる自意識過剰な勘違いで被害妄想には違いなく、何だかそれがあっち方面で仕掛けられている罠だと思ってしまうのも、やはり勘違いな思い込みには違いないだろうが、何かそれがそれに関する言説の中で比喩として機能するなら、それが何なのかというと、そこだけに思考の焦点を絞って、そうすることを正当化するような判断材料を出してくるから、そうやって都合よく限定された判断材料だけで判断するように仕向けられるともっともらしいと思えるわけで、ではそれ以外の都合の悪い判断材料が無視されているのかというと、都合の悪い判断材料などすぐには思いつけないから、結局あっちから出してくる判断材料から判断すれば、あっちの言い分が正しいと思われてしまうシステムなのだろうが、そんなシステムに誘導され引き込まれてしまえば、否応なくあっちの言い分が正しいと思うしかないから、まずはそれがそんなシステムだと認識できるかどうかに関して、こちらの判断力や分析力が試されていると考えるなら、そういうことでしかないわけだが、果たしてそういうことである以上に何がわかるのかと問われているとも思えないのだが、当事者でない者たちが外部からいくら利いたふうな意見を述べてみても、勝手に言わせておけば済んでしまうようなことだから、そんなのは無視しても構わないようなことでしかないと軽んじるわけにも行かないが、しかしその一方で、コーヒーを一日何杯飲めば健康に良いとか、五十代で物忘れが激しいとヤバいとか、そういうところで当事者意識を発揮するのも、それも枝葉末節で些細なところにこだわっているに過ぎず、それが今日的な生活の技法に直結するような関心事であると部分的に捉えるなら、それも部分的にそういうことだと認識するしかないが、そうやって部分的な面で思考を働かせておけば、物事の本質的な部分について考える手間を省けると考えられるわけでもなく、ではいったい何が本質的な部分なのかと思考を巡らせても、その人がかかわっている物事に応じて本質的な部分も違ってくるだろうから、ただ漠然と本質的な部分で思考を巡らせることがその人にとって重要だとは言えないわけで、本当にそう言えないかどうかもあまり自信がないが、例えばその人にとってのステータスとやらが、その人にとっては本質的な部分であるのかというと、ステータスとは、英語の状態、地位、立場を指す言葉で、人や物事の現在の状態や位置づけを表し、ビジネスでは未着手や完了などの業務の進捗状況、社会的には高い地位や名声、IT分野ではシステムやキャラの攻撃力やHPなど能力値を指し、類語は状況、状態、立ち位置、立場、身分などだそうだが、ここでは地位や立場や身分だとすれば、それに相応しい持ち物を持つことで、自身の社会的なステータスを示すことになると信じている人がどれほどいるかも、信じていなくてもあからさまに意識していなくても、否応なくそうなってしまう成り行きにとらわれてしまう場合もありそうで、だからそれを自分一人で決められるわけでもなく、勝手に決めつけられてしまう場合の方が多そうで、そう決めつけるのがあっち方面での権威を担うような立場や地位や身分や役職などが伴ってくれば、自分がそれを認めなくても周囲の世間が認めてしまうから、いくら抗ってもそう決めつけてしまうような社会的な暗黙の申し合わせのようなものがあるのかも知れず、だから嫌なんだと不快感を露わにするような場面に出くわすわけでもないとすれば、そんな勝手な決めつけなど無視していれば良さそうだが、程度の違いはあるにしても他の人々と何かしらかかわってくると、そうも言っていられなくなる場合も出てくるなら、それもそういうことだと認識するしかないだろうが、そんなふうに勝手に決めつけてくる者たちに向かって、君たちは間違っている、なんて言い放つ機会が巡ってくることなどあり得ないだろうし、それがフィクションの中では言い放つ人物が登場してくるなら、フィクションだからそうなるんじゃないかと、それも勝手に決めつけても構わないかといっても、そんなフィクションにも出くわしたこともないなら、それも勝手な妄想の中で思い描いていることに過ぎず、ではイラン情勢について利いたふうなもっともらしい意見を述べている専門家気取りの識者たちに向かって、君たちは間違っている、なんて言い放てるかというと、それも門外漢の自分が言い放つようなことでもなく、要するにそれが今後の展望や予想などになってくると、確からしいが不確かな展望や予想になってしまって、そういう内容をもっともらしい情勢分析と共に述べるように求めるのがメディア的な制度なのだろうが、そんな制度的な要請に答えるのがその種の専門家の責務だと認識しておけばいいのかも知れない。3月16日「何かがおかしいとき」毎度のことのように何かがおかしいことに気づいてしまい、というかそれがおかしいとは感じるのだが、何がおかしいのかうまく説明できないという焦ったい感覚にとらわれてしまい、そんな考え方がおかしいのかも知れないが、何をどう考えているかなんて、そんなことを普段から考えているわけでもないから、考え方がおかしいと感じるのも、よほどのことがない限りそうは感じないだろうが、ついに見切りをつけるときがきたというなら、そういうことになりそうで、なぜ見込みがないと思うのか、そんなことを思っている自分の方がはるかに見込みがなさそうに思われるのだが、それとこれとは非対称な関係にあるから、それと自分を比較するなんて、それこそおかしいのだろうが、どうしても自分の都合に合わせて早合点する傾向にあるから、それが勘違いの原因と言えそうで、向こうはそんなことは考慮に入れていないわけだから、ただ事務的に作業をこなしていれば、それで不都合はないと考えるなら、そんな考え方の何がおかしいわけがないはずだが、それでも何かおかしいと感じられてしまうのだから、そのおかしいことについて語ろうとして行き詰まってしまい、たぶん見栄や体裁や虚栄心や自己満足などを軽んじてはならず、そんな心理状態にとらわれた人を馬鹿にするのは比較的容易だが、そんなふうに他人を貶す一方で、自分がそうなっているのに気づいたところで、別にそれでいいんじゃないかと思うなら、それの何がおかしいわけでもなく、人とはそういうもんだと呆れていればそれで済んでしまいそうだが、そう振る舞うことによって何かが試されていると思うなら、それが自意識過剰な心理的傾向だと推察できそうで、誰がそうなっているのかと問えるわけでもなく、自分もそうなっているのではないかと考えるなら、それもその通りだと思っておいても構わないが、多くの人のそうした心理状態が経済の支えとなっていると考えるのも、ちょっと大げさ過ぎるし、一部ではそうかも知れないが、それだけが全てではないと考えてもしっくりくるだろうが、必要に応じて経済が回っているとしても、その必要性にも人の生死を伴うような深刻な必要性からたわいないちょっと我慢すれば済んでしまうような必要性まで色々と程度に差があるわけだから、スナック菓子など食わなくても生きていけるなら健康に悪いから買わないに越したことはなく、高級品の類いもそもそも高価で買えないなら我慢するまでもないことで、見栄や虚栄心にとらわれながら無理に背伸びして買おうとするから、ちょっとしたきっかけから破産してしまうかも知れず、自分もかなりの馬鹿だから、数千円の中古スマホにするか、スマホも買わずに格安SIMだけにするかと迷っていながら、ついつい中古や未使用品の九万円弱のiPhoneへと目が移ってしまって、ヤバいヤバいと思いつつも、それなら十万円弱の新製品が買えるじゃねえか、といった感じで、簡単に価値観がぐらついてしまうから、結局高い買い物へと誘導されてしまうかも知れないが、何とかここでこらえて、セコく安い買い物へと自意識を誘導できるかどうかの正念場に立たされているなんて、そんな大げさなことでもなく、それによって生死を分けるような伸るか反るか二者択一を迫られる局面であるはずもなく、冗談もほどほどにしておかなければならないが、アップルの新製品の開封動画なんてユーチューブで見ながら、こんなものを見ている人が多いんだと羨ましいと思う反面で、その製品を使って何をやっているんだと疑念も覚えつつも、スマホもPCも単なる情報端末以上の機能があるとも思えないが、それを言うなら何百万円もする高級腕時計はどうなんだと問われるわけでもないが、時間を見るだけじゃないかといったごく真っ当な回答では、問いに対する答えにはならないわけだから、宝飾品の類いを身につけている感覚がどんなものなのかも、その感覚を言語化するようなこととは違う感覚からそうなっていると考えるしかないのだが、そういう意味では個々人の経済格差に応じた社会構造となっていて、しかもそれがゼロサムゲームだとも言えないところが安易な単純化を退ける要素や要因となっているのだろうし、貧乏人が金持ちに搾取されているとか、経済の南北問題とか、そういう被害妄想に結びつけるのはありふれた認識なのかも知れず、実際に北半球に多い豊かな先進国と南半球や赤道周辺に多い発展途上国との間の深刻な経済・技術・所得格差を、植民地支配などの歴史的背景、特定の一時産品への依存などのモノカルチャー経済、不利な貿易条件が原因であり、工業化の遅れや低賃金、貧困、栄養不足などの問題を挙げて行けば、もっともらしく説明できるだろうが、根本的なところでそうじゃないと決めつけそうになるが、ではその違和感をどうやって説明するのかと問われると、答えに窮してしまうわけだから、どうもその辺のところがわかっていないわけで、社会の中でそういったありふれた紋切り型的思考にとらわれた人を馬鹿にしたり嘲笑ったりすることはできるだろうが、じゃあお前はそれとは違う思考を提示できるのかと問われると、やはり答えに窮してしまうわけだから、それもそうではないと考えておくしかなく、たぶん少なくともそれらの人たちを馬鹿にしたり嘲笑ったりするのではなく、そこにも程度の差がありそうで、何でもかんでも大げさに煽り立てられるわけでもないだろうし、そうすることが恥ずかしかったり情けなく思うなら、それとは違った方面で何か肯定できるような価値観にとらわれているのかも知れず、その価値観が何なのかといえば、それがわかれば苦労はしないのだが、わからなくても苦労はしないかも知れないから、興味がなければそんなことは無視しておいても構わないだろうが、政治や経済の現状があるからそれに応じた社会構造になっている面と、社会構造に応じた政治経済状況となっている面とが相乗効果をもたらしていると説明しても、それを説明していることにはならないだろうから、それとは違った方面からそれを説明しなければならないとは思うものの、それもそんなことには興味も関心もなければ無視しても構わないだろうから、そうなっている結果から語るなら必要に応じてそうなっていることになるのは確からしいが、その必要性という程度が、簡単に言うならピンからキリまであると言えるはずだが、それが生死に直結する方面での必要性であれば、何やら深刻な問題となる反面、見栄や体裁や虚栄心や自己満足をもたらす程度の必要性であれば、場合によってはそれを満たすことがその人にとっては死活問題だと認識していても、他の大勢の他人から見れば、そんなのはその人の勝手であって、知ったこっちゃないようなどうでもいい些事になるかも知れないが、その人にとってはそれを達成することが最優先すべき至上命題のような位置づけなのかも知れないし、その辺のところは人それぞれで価値観の違うところだと思いたいが、それがそうではなく、そんな自分の姿や立ち振る舞いを他人に向かって見せびらかすことが、その人にとっての戦略であり、そうすることによって他人を欺いているつもりはないにしても、何か無意識の目眩し効果のようなものが自覚なく期待されているようなことなのかも知れないから、こんなふうに語るのも言語表現的には意味不明かも知れないが、それに関してかなり昔のことかも知れないが、都知事選挙に確か鳥越何とかという名前の人が立候補して、それも本当かどうかもわからないが、その人がアルマーニのスーツを着ているとどこかのコラムだか記事だかに書かれていたのをちょっと読んだことがあったのだが、ニュースキャスターなのかジャーナリストなのかよく覚えていないが、その人がアルマーニのスーツを着ていることが、選挙戦で労働組合がその人を応援しているのと不釣り合いな印象を覚えたという内容を読んで、なるほどと合点が行ったわけでもないのだが、たぶんそこに経済格差というありふれた紋切り型の価値観が潜んでいることは大抵の人なら気づくところかも知れないし、それをその人が選挙で負けた敗因の一つだと分析するのも、何だかそれが少しは正解にかすっているような印象を抱くなら、その種の価値観にとらわれていることの証拠かも知れないが、もちろん他にも色々とそちらの方がもっと重要だと感じられるような要因があるのだが、要するに左派リベラル勢力としては、もともと宇都宮何とかという人が立候補するつもりだったのを、強引に知名度を優先して鳥越何とかという人に一本化したのも、宇都宮何とかでは勝てないこともわかりきっていただけに、そんなジリ貧な情勢を反映した経緯や事情があるようで、それはその延長上で行われた先の衆議院解散総選挙でも言えることなのではないかと考えたくなってしまうわけだ。3月15日「言いたいことを言う人の言い分」何か言いたい人は言いたいことを言っていれば、それで気が済んでしまうわけでもないだろうが、では言いたいことを言うことによってその人の心身にどんな効果や影響がもたらされるのかと考えてみるまでもなく、まさか健康に良いから言いたいことを言っているのかと考えてみても、そんな理由では場合によってはそれも理由として成り立つかも知れないが、いちいち理由を考えながら言いたいことを言っているわけでもないだろうし、言いたいことを言う前にその理由をどこまで意識できるかなんて絶えず問われているわけでもないから、言いたいことを言っている人がいちいちそんなことを気にしているわけでもないだろうことはわかりきっていそうだが、考えるだけ意味がないんじゃないかと思いながらも、そんなことを述べようとしていたわけではなかったことに気づいたわけでもないが、言いたいことを言っている理由ではなく、言っている中身が問題視されなければならないわけでもなく、普通は誰かが述べていることについて、それを自身が述べるための材料として利用しようとするわけだから、それを語ればもっともらしい言説を構成できそうなのだが、それに関してその人が何が言いたいのかと考えるなら、事の真相を明らかにしたいというありふれた理由に沿って何か言いたいと推測するなら、そう考えるのがもっともらしいような気がするわけだが、もっと事態を客観的に捉えるなら、言いたいことを言っているレベルでは確かにそうだが、言いたいことを言わせられていると共に、衆議院の予算委員長のように、言いたくないことまで言わせられている現状もありそうで、さらにその言いたいことというのが、その人の社会的な立場やポジションによって決まってくると事態を捉えるなら、その立場やポジションに応じた言いたいことも、その場の情勢によって変わってくると捉えるなら、枝野が予算委員長では予算委員会が面倒なことになりそうだから、解散総選挙に打って出て、政治情勢を変えようとして、結果的にそれがうまく行って、後は野党側に一通り文句を言わせるだけ言わせてから、強引に採決に持って行ければ、それでうまく行ったことになると情勢を捉えておけば良さそうで、面倒な枝野は選挙で落選させて葬り去ることに成功したのだから、そのついでに面倒くさい安住も選挙で落選させて葬り去ることに成功したのだから、そんなふうに面倒な奴らを次々に葬り去ることによって、言いたいことが言える環境を整えることに成功したはずだが、そうなったからといって何がどうなったわけでもないと現状を捉えられるかというと、そう捉えたいなら捉えておいても構わないが、どうも実態はそうではないらしく、そうなったからといって、現状は何も変わらないと言ってしまうと、それらの努力や尽力が徒労に終わったかのように言えてしまうが、そうではなくて、世の中の情勢に応じて政治情勢もそれなりに変わったと捉えるなら、何となくそれでしっくりくるような気がするわけで、政治情勢をいくら変えようとしても、それを相殺したり無効化するような世の中の情勢や傾向がありそうで、そんな情勢や傾向に必死に抗っていると表現しても構わないかどうかも、当事者意識としてはそうではないのかも知れず、政府の官僚機構の意向に沿った成り行きが形成されていることは確かなのだが、それもそういう成り行きに抗っているつもりの人たちにはそうは思われないようで、抗っているのに否応なく従わされているように見えてしまうから、そういう面では言いたいことを言っているのではなく、言いたいことを言っている感覚なのに、実態としてその人の社会的な立場やポジションに応じたことを言わせられていると感じられる限りで、その立場やポジションが保たれると事態を捉えたいわけで、そう捉えるなら、枝野や安住はその立場やポジションには相応しくないことを言っていて振る舞っていたから、その立場やポジションが示す地位を追われたと解釈できそうで、その一方で言いたくないことまで言わせられている衆議院の予算委員長は、その立場やポジションには相応しくない言動や振る舞いに及んでいるように見えて、実際にその地位を追われないなら、実はその場の情勢に応じた言動や振る舞いに及んでいると解釈できないこともなく、そんな逆説が世間で通用するのかといっても、実際にその人がその地位を追われないなら、その限りで通用していると言えそうなのだが、しかもその地位を追われてしまった枝野や安住の方が、結果的にその地位がもたらす重責から解放されて気楽な立場やポジションになったわけで、これまで以上に言いたいことを言える立場やポジションを獲得するに至ったというと負け惜しみの強がりになってしまうが、一方で不快な態度や言動や振る舞いに及んで、そのストレスから自身の寿命を縮めて自業自得な事態に陥っているように見える予算委員長の方がかわいそうな気もしないではなく、せっかく選挙で大勝してやりたい放題やっているつもりなのに、高市もかなりやつれているようにも見えるのだが、そういう意味では社会の制度や慣習に縛られてがんじがらめとなっている感覚はないだろうが、それらは確実に人の心身を消耗させ消尽させるわけで、社会自体がそれを支える制度や慣習によって成り立っている面もあるのだが、その社会の構成員を構成する人々がそうした制度や慣習に従わされている感覚もないままに、その制度や慣習がもたらす地位や役職に応じて、その責務の度合いも異なるから、それが重責になるほどそれを担っている者の心身にその重みが加わって、それに耐えているうちに自身の心身をすり減らしているのだろうが、どう見ても現状では強引に事を進めているわけだから、それだけそれに関わっている者たちの心身に負荷がかかっているようにも見えてしまうわけだが、だからどうしたわけでもなく、そうなるべくしてそうなっているに過ぎず、何をやっても良識派を装う奴らも批判や非難で応じるしかないだろうが、政治的にはそれが国家の運営の無理から生じてくるのも毎度のことで、いつの時代でもそうなってきたのだから、現状でも普通にそうなっているだけで、そうなる経緯や事情は各時代ごとに異なるとしても、確実にこうやればうまく行く当てなどないわけだから、方針や指針がどうであっても、どんな対策や政策を講じたところで、新たに対策や政策を講じている限りで、何かしらそれによって情勢の変化がもたらされて、そんな変化に応じてさらなる対策や政策を講じなければならず、そんなことをやり出したらきりがないのだろうが、実際にそういうことをやらざるを得ないのだから、それをやっている最中なのだろうが、うまくそういうことをやるように仕向けておいて、なぜかそこから責任逃れに成功したと枝野や安住の現状を捉えるのも、何だか違うような気がするだろうし、逆に彼らはそこから再起して重責を担う立場や地位へと戻りたいわけだろうが、要するに個々人の意図や思惑とは無関係に情勢が揺れ動いていると捉えても、それも当事者意識を信用するならそうは思われないし、逆に意図や思惑通りに情勢が動いていると思いたいわけで、実際に個々人の意図や思惑通りに情勢が動くように持って行きたいわけだが、そういう願望に応じて陰謀論の類いも部外者の側から妄想されるわけだが、そこでもアダム・スミスが言うような神の見えざる手が働いて、個々の利己的な利害関心が集団的な意図や思惑となって社会に作用すると、たとえ個々人の意図や思惑を裏切るような落胆させる結果をもたらすとしても、それによって人間社会が栄えるような結果をもたらすかというと、それに対して批判や非難によって応じている人々から見れば、人間社会の終焉や人類文明の滅亡を意識せざるを得なくなってしまうのかも知れないが、そうやってそれらの終わりを物語る者も時代状況に応じていくらでも現れるから、そういう人たちの言っていることを真に受けるのも、そんな末法思想のような時代状況からもたらされる終わりの物語の流行り廃りに反応していることの表れとなるのかも知れないが、だからといってそんなことの繰り返しの中で社会が続いてきたわけだから、そんな感慨に耽っているうちに歳月が経過するばかりなのかも知れない。3月14日「大成功の罠?」どう見てもうまく行っているわけではないだろうが、その一方でおおむね予想通りの成り行きになっているようにも感じられ、そうなってみればそれが予定調和な結果のようにも見えてしまうから、まだそれが結果ではなく途中経過なのもわかりきっているとしても、それが世間的にもメディア的にもうまく行っていないどころか批判や非難の的にもなっているからこそ、それを追認するようにしてもっともらしいことが言えるのだろうが、戦争に関してはそうだとしても、それがそうなった際に起こりうる反応なのだから、それで構わないわけでもないが、そこに関わっている当事者や関係者の誰もが、こんな事態になるなんて予想だにしなかったと驚いても、こうなった結果から語るなら、こうなることが事前にわかっていたかのようにもっともらしいことを語れるのだから、そういうことだと理解するしかなく、そんな成り行きに応じてそれらしいことを語っている人々を信用しても構わないだろうが、どうも意識はそれとは違う方面で情勢を捉えているようで、その方面がどんな方面なのかといえば、功利的な利害関心に集団の意識が囚われている方面であって、そんな事態に乗じて利益を得るために利用され誘導されているのが、功利的な利害関心に囚われた人々やそれらから生じる集団の思惑なのだろうから、世の中の傾向がそっち方面から生じている面もあるにしても、それに対して正義の味方のような人々が何を主張しているのかと言えば、セコく卑怯なことはやらずに正々堂々と立ち振る舞えと批判するのも、何だか見え透いているようにも思われて、そういうことをやる気満々で事に臨んでいる者たちに向かってそんな批判を浴びせている人々のことをどう思っているわけでもなく、そういうことしか言えない人々もそういう立場なのだから、言わせておけばいいんじゃないかと国会の審議を見ながら思ってしまうわけでもないのだが、お前はあんな光景を見て恥ずかしくならないのか!情けなく思わないのか!と激昂してしまうわけでもないから、それでいいんじゃないかと思いながらそれらの光景を見ているわけで、そんな騒ぎもそれが済んでしまえば遠からず世間の関心もフェードアウトするように薄れて忘れられてしまうだろうから、戦略的にはそれで大成功と言えるかどうかも、そもそも関心がないのかも知れないから、大衆的な無関心の中で国会でそんなやり取りが行われていると受け止めているというと、何となく自分に嘘をついているような気もしてくるから心苦しいのだが、どちらにしても戦争騒ぎのどさくさに紛れて強行採決でもやってしまえば、それで済んでしまうようなことなのだから、それを仕掛けた側としてはそれでうまく行ったことになるだろうが、事前にそれをやるのが見え見えのいつも通りの成り行きだと言えるのだろうから、実際にそうなってみれば予定調和な結果のようにも見えてしまうから、まだそれが結果ではなく途中経過なのもわかりきっているとしても、それが世間的にもメディア的にもうまく行っていないどころか、批判や非難の的にもなっているからこそ、それについても結果追認的にもっともらしいことが言えるだろうが、二人の小さなヒトラーが、片方のヒトラーがもう片方の意志に従うまで戦い続ける、俺は戻ってくる、燃え尽きることはない、と歌っていた当時のエルヴィス・コステロやトッド・ラングレンが、二十一世紀の現状について何を予想していたわけでもないだろうが、なぜ私たちは、そんなに急いで年老いていくのか?夜更かしして床を歩き回り、誰にも指図されたくなく、君には懸念があるだろうが、私はもう売り買いされた身だ、と歌うとさらに意味不明で、地下室で頭を検査してもらいたい、俺の目を刺激してほしい、パーティに参加したいけど招待されていない、俺をメンバーにしてくれ、喜んで受け入れろ、お前が溺れさせるかもしれない、失われた魂のために、俺は泣かない、汚れた町で書かれた汚れた心のための汚い言葉、自尊心の単純なゲーム、スイッチをパチンと切れば、世界は暗転する、誰も君の期待通りに飛び出さない、もう十分だと気づいているはずだと思っていたのに、とここまで歌詞を引用すると、何を言いたいのかわからなくなってしまうが、それが虚仮威しにならないうちに、もっともらしいことを述べなければならないだろうが、もう手遅れかも知れないから、そんな卑怯なことをやってしまえば君たちの邪悪な本性がバレてしまうと思うのも勘違いで、一連の出来事を連続的に捉えて語ると、まるで物語のように一つのまとまった話になってしまい、結果的に違和感を抱いたのは、何かが起こるとそれをもっともらしく語ろうとして、それが物語の語り部のような役割分担を伴った存在としてメディアを介していくらでも無数に登場してくるから、そんな物語の語り部に騙されてはならないと警戒して身構えるのではなく、もっと素直にそんな良くできたもっともらしい物語を受け入れておいた方が良さそうで、もちろん騙されているのではなく、それが真実だと思っておいた方が無難で妥当なような気がして、世界各地で起こっているあれやこれやを結びつけて、何やらそこに一つの傾向や意志や意志が宿っているかの如くに語ってみせるのだから、それはそういうことなんじゃないかと思っておけば、やはりそれで済んでしまうようなことだと思いたくなって、それらが各々に別々の意図や思惑を派生させながら勝手に起こっていることだとは思わない方が、それに起因するわけのわからない勘違いには至らないような気もするから、そういうことだと思いたくなってしまうわけだが、その一方で作戦が大成功したと自慢してみせるわけにも行かない事態に至っていること自体が、それ自体も何かの途中経過に過ぎず、それに対して自らの正義を主張したり立場を正当化するような成り行きに囚われていないなら、何とか当事者や関係者にならずに済んでいると思って安心できるわけでもないが、その一方で仕掛けた攻撃が大成功しているわけでもないのだから、それ相応の反撃があったというありふれた結果をもたらしたわけだから、しかも殺害した敵の最高指導者の次男が後継者として持ち出されて、何やらそれが北朝鮮みたいな成り行きだと笑ってしまうのも不謹慎だが、考えていることが世界のどこでも同じなんだと勘違いするわけにも行かず、成り行きとしては相似形となるようでいて、その種の風習や慣習に囚われた世界であることに納得するわけでもなく、微妙にそこから外れた成り行きへと持って行っているようにも思われるから、誰がそう持って行っているのかといえば、もちろんトランプが持って行っているのだろうから、あくまでも主役はお前だと指し示されなくても勝手に振る舞っている最中だろうから、二人の小さなヒトラーの組み合わせが、今回はトランプとネタニヤフであるようで、別の機会ではトランプとプーチンであったり、また別の機会ではトランプと習近平になるのだろうから、そんな歌詞に当てはまったところで、それが何を意味するわけでもなく、それとこれとは全くの別の物語を形成していることなどわかりきったことだが、それらを一つに結びつけてもっともらしく語れるとしたら、それがフィクションの中では話として成り立っていると見なせるわけでもないが、果たしてそういうことに気を取られていても構わないのかというと、構わないかどうかなんて誰がどう判断できるわけでもないだろうが、それもちょっとしたきっかけから起こる偶然の巡り合わせで、いい加減な調子で語られている内容でしかないと突き放してしまっても、興味がないならそれでも構わないが、そういうことではなくて、単純にガソリン価格が上がったのを政府が何とかしてほしいとか、ホルムズ海峡が封鎖されて原油の供給が滞ればどういうことになるかを、今も現在進行形で体験している最中なのだから、それを深刻に受け止めるべきかという問いではなく、原油備蓄が数ヶ月もあるから、それで何とかなるはずだと安心しても構わないかどうかでもなく、何かそうじゃないような漠然とした実感を、それでもうまく行っているのではないかという勘違いな希望的観測と共に抱いているわけで、それが何なのかといっても、今後数ヶ月以内にわかるようなことでも気づくようなことでもなさそうにも思われるのだが、しかも最近は妙に777とか888とか999とかのゾロ目の数字ばかりに目が行ってしまって、気がつけば画面上でそれを見つけて喜んでいるわけだから、頭が相当イカれていることは確からしい。3月13日「勘とは違う感覚」なぜか業績が悪くなる企業の株ばかり買っているような気もしないではなく、全てが全てそうなっているわけでもないにしても、それが目立ってしまって、パナソニック、日本製鉄、NTT、ホンダと、買う前から業績が悪くなる傾向があったのに、なぜか勘が働いてしまうというか、このままでは業績がさらに悪化するから、思い切って大胆な改革をやらなければならず、それをやっている最中の企業の株を買えば、改革に成功して数年後には業績が上向いて株価が上がると思って買っているのだろうが、とは言っても、百株や二百株しか買わないわけだから、株価が上がったところで大した利益にはならないわけだから、素人の小遣い稼ぎ程度のたわいないレベルで、NTTの場合は一株で百五十円程度の安価だから千株持っているわけだが、そういえば日本製鉄も買った後から株式分割をしたから千株持っていることになるが、しかしかつての日本を代表する企業が揃いも揃って業績が芳しくないようで、他にも日産や数年前に上場廃止となった東芝などもそんな感じかも知れないし、そんな日本企業の体たらくを日本衰退論に結びつけてもっともらしく語れば、何やらその方面のメディアで語られている内容になりそうだが、もちろん本気でそう思っているわけでもなく、少なくともそれらの企業の株を保持しているのだから、今後業績が上向くと思っているらしいのだが、そんなことよりは重視している傾向が他にもありそうで、それが何なのかといっても、いつものようにうまくわかりやすく説明するのが困難なのかも知れず、何だかわからないが、そうなってしまう成り行きがあって、そんな成り行きに沿って行動するとそうなってしまうような、こんな説明では説明になっていないが、何かが起こったのに乗じてそのどさくさに紛れて行動を起こしてしまうわけで、果たしてそれが自分の勘が働いた結果なのかというと、自らを取り巻く情勢の変動に対して自分なりに反応しているつもりなのかも知れないが、それがどんな反応なのかもその時点ではわかっていないわけで、何だかわからないがその時点で最善の選択をしているとも思えないのだが、それでもそんな行動を繰り返しながらもこれまで生きて来れたわけだから、今後も生きて行く限りでそうなってしまうような気がするわけで、それが何なのかといっても、やはりうまく説明できないわけだが、要するにそれをうまく説明すると嘘になってしまうということかも知れず、それを説明することとそうなってしまうことが一致しないと受け止めておくしかないが、何だかわからない成り行きにとらわれているのは確かだといえば、それが確かでないから何だかわからないわけで、だから述べていることが矛盾してしまい、それでも機会を捉えて行動しているつもりなのだから、それが絶好の機会なのかどうかも、行動してみた結果が良ければそう思うしかないが、それが良いか悪いかも一概には言えず、どちらにも受け取れるような結果なのかも知れないし、数年後だか十数年後だか数十年後だかそんな先まで生きているとも限らないが、現時点でも計画通りに事が運ぶとか、そんなつもりの計画など立てていないような感じもしてしまうから、ただ漠然と思い描いている現時点ではあり得ない夢のような未来の姿を思い浮かべながらも、たぶんそうはならないだろうとは予想しているが、これまでもそうだったのだから、きっとこれからもそうなるような気がするだけで、だからといってそうなるとは限らないことも、何となくそんな感じがするわけで、それを無意識によって誘導されていると考えているわけでもなく、それも自らを取り巻く周囲の情勢に反応しながら行動していると認識するしかないが、すべての人が全面的に利己的な利害関心に囚われながら行動しているわけではないとしても、そのプロセスが不可視で不透明だからこそ、個々の事例の中では結果的にうまく行かずに失敗して損害や損失を被ってしまう人や集団が出てくるにしても、全体としては経済活動が続いて行くから、人類が地球上で繁栄しているように見えるわけだが、どうしてもそのプロセスの不可視性や不透明性を取り払って計画的に物事を進めようとして、要するに誰もが納得の行く形で馬鹿正直に経済活動を構成しようとすると、途端にうまく行かなくなると考えれば良さそうだが、それも悪く言えば、要するに嘘やごまかしやまやかしに騙される人が出て来ないと、経済活動は成り立たないと言えるかどうかも、そう言い切ってしまうとまずいわけで、絶えず不確実な未来へと幻想を抱く余地がないと、人の行動には結びつかないと考えておいても構わないが、その辺のところがよくわからないところでもあるのだろうが、色々と紆余曲折の過程で差異が生じてきて、そんな差異から幻想としての利益が得られたような感じに持って行ければ、そうやって結果的に経済活動が成り立っていることになりそうだが、普通にこんな説明では納得できないし、具体的な経済活動から説明すればもっともらしくは感じられるだろうが、たぶんそこでも実際の経済活動とそんな経済活動を説明している内容との間には無視できない差異が生じてきて、それを語っている過程で少なからず活動内容のフィクション化が進行しているわけで、だから本当のところは誰にもわからないと言えるかも知れないが、それをわからないと言ってしまうと説明が成り立たないから、説明している限りは、説明している部分ではわかっていることになるのだろうが、その一方でわからないまま説明している部分もあり、そういうところで不可視かつ不透明なプロセスが生じているというと、それも嘘になってしまいそうで、その時点ではわけがわからない紆余曲折を経ながらも、結局は偶然の巡り合わせのような成り行きを乗り切れば、少なくとも現状がもたらされているわけで、そんな現状の中で人が生きているわけだから、その人の活動が結果的にはそんな不可視で不透明なプロセスの中で成り立っていたことになるだろうが、そういう意味では説明が成り立つ面も成り立たない面もあるらしいのだが、そこに問題を見出して事の真相を追及し、真実を明らかにしようとすると、その過程で嘘やごまかしやまやかしが次々に明るみに出てくるかも知れないが、では最初からそんな都合の悪そうな要素や要因をできるだけなくして、清廉潔白で真っ当な活動を始めることができるかというと、たぶんそうした活動からは経済的な利益が生じてこないような気がするわけで、そうではなくいかがわしくよこしまな欲望に突き動かされないと、他人から利益を奪えないこともないだろうが、もちろん他人から利益を奪うような活動ではなく、そうかといって無から有は生じてこないし、何か価値のある物事を生産しているつもりにならないと、それが利益をもたらす経済活動だとは言えないだろうが、その価値というのが他人に認めてもらわないと価値とは言えないだけに、互いの生産物の価値を認め合う社会が人や集団が活動した結果から生じているように見えるだろうが、それが活動して行くには認めざるを得ないような成り行きとなってしまうから、否応なく活動した結果として、価値を認めたからこそ、生産物と通貨が交換されて、生きて行くには他人の生産物の価値を認めて通貨と交換せざるを得ない成り行きにとらわれてしまうから、必要だからこそ、そうやって交換したのであって、価値を認めたわけではないと思っているとしても、それと通貨を交換したこと自体が、その価値を認めたことになってしまうと言われても、価値を認めたのではなく、ただ単に必要だから交換しただけだと言い張ることもできないわけではないが、いくら言い張っても、他人はそうは思わないと言えるかも知れないし、しかもそれが単なる偶然の巡り合わせなどではなく、制度でありシステムであって、それに則って、そうするのがルールであり法律なのだと言えないこともないが、そうでなければ慣習なのだと言えないこともなく、そういう面では必ずしもそのプロセスが不可視でも不透明でもないとも言えるだろうが、実際に法律に則って統治が行われている限りは、それが不可視でも不透明でもないわけだが、だからといって物事の全ての面にわたって、何をやるべきかを法律によって決められるわけでもないわけだ。3月12日「イラン戦争における欺瞞」それをどう捉えたら納得できるわけでもないが、何か引っかかるものを感じるのもいつものことなのだから、いったい何がそうなのかといっても、しっくりくるような説明ができるとも思えず、それでも説明を試みるなら、それをトランプやネタニヤフがやっていることだと個人の名前に還元して批判するのがもっともらしいとは思われるのだが、より一般的にはアメリカやイスラエルの戦争行為を非難するような言い回しが、うまいこと反戦平和的な戦争に反対して正義を主張するには妥当だと思われるとしても、それを声高に主張できる立場というのが世間的にはあるだろうが、その一方で攻撃されて甚大な被害を受けながらも反撃しているイラン国内で弾圧されて迫害を受けたり国外からイランの現体制を非難する反体制派の人々や勢力の抵抗活動には好意的な調子で賛辞を惜しまないようなことになれば、イランを支配する教権体制に軍事攻撃を加えるアメリカやイスラエルを非難しつつも、そのイランで非民主的な教権支配に抗議する人々を応援するような立場から何か語るのも、苦しいような物言いとなってしまいそうで、本気でそう思っているわけでもないにしても、そんなイランからしてみれば、他の湾岸諸国なんか俺たちよりもっとひどい王権支配体制じゃないかと反論できそうで、じゃあお前らが非難しているアメリカやイスラエルなら民主主義国だからマシなのか、と返されると、そっち方面へと議論を持って行くのはあまり得策でないようなことにもなりかねないが、そういう方面であまり重箱の隅を突つくようなことを指摘するのも心苦しいなら、物事の細部にこだわり過ぎたり、揚げ足取りが目的化したり、粗探しをすることばかりに夢中になるのもやめておいた方が良さそうだが、そんなふうに何か述べるに際して、述べている内容にとって都合の悪い面をどう取り扱えば、うまい具合に言い逃れとならないような範囲内でもっともらしくそれについて語れるのか、そんなことを考えあぐねているわけでもないのだが、もっと単純に戦争が起こって原油価格が急騰して株価が下がってしまって、それをやらかしたトランプの馬鹿野郎!と罵声を浴びせていれば済んでしまうわけでもなく、一般人の俺に何ができるのかと考えてみるわけでもなく、どんな事態になろうと意識している面でも無意識の面でも、それに乗じてその場で利用できそうな何かを探し回っていると状況を捉えるなら、それが功利主義的な態度や姿勢をもたらして、そんな心理状態に応じた行動や言動が出力されてくると考えるなら、そういう面ではそうなってしまっても構わないのだが、実際にイランの製造費用が安価なドローン攻撃に対して高価なミサイルで迎撃するのは割に合わないから、それをロシアが買ってウクライナ戦線でも使っているのに気づいた湾岸諸国がウクライナ製の安価なドローンを購入する成り行きになってきたそうで、ウクライナのドローン製造メーカーにも注文が殺到しているらしく、なるほどそういうところでも結局は経済的なコスト重視で物事が進行中なのかと感心してしまうが、もちろんアメリカやイスラエルもドローンを製造している拠点を空爆するために探しているそうだが、地下で作られているらしいからなかなか見つからない現状もあるらしいから、戦争が思いのほか長引いて原油高騰に拍車がかかると困ってしまうので、G7各国はこんな時のために前もって備蓄していた在庫を大規模に放出することになったそうで、またサウジは機雷が設置されると通行が困難になってしまうホルムズ海峡とは反対側の紅海側から原油の積み出しを行うようで、そうやってそれなりの対応が着々と進行中なのだろうが、そんな数々の対応にも、そもそも何が重荷となってそのコストを支払う羽目に陥っているのかといえば、それは間違いなく国家のコストであって、国家を統治する機構が問題を抱えているから結果的に戦争が起こるのだが、しかも戦争を起こすこと自体も国家統治の延長上で起こることだから、そういうことも含めて国家統治だと認識しておくしかないのかも知れないが、その国の経済状態に応じて国家の統治コストも増えたり減ったりすると経済的な理屈の側から考察してみれば、もっともらしいことが言えるかも知れないが、それがどうも信用に足るとは思えないから、ちょっと偉そうなことを述べるのは躊躇してしまうのだが、その辺はいつものようにAIによると、国家と統治・運営するコストは、現代の国家においては主に政府の歳出として顕在化し、一般会計予算や社会保障費、防衛費、行政事務費などがその大部分を占め、このコストは、国際公共財である安全保障、秩序維持、経済安定を供給するための装置である政府を維持する費用であり、GDPの三割から四割を超えることも珍しくなく、主な統治コストの構成要素は次の通りで、日本の事例として、統治コストの主要な内訳は、最も上位のコストとして、社会保障費があり、年金、医療、介護、生活保護など、日本の予算構造において最も高い割合を占め、次に国債費があり、過去の累積債務に対する利子や返済費用、近年の金利上昇によって圧迫要因となっていて、さらに防衛費があり、国防、安全保障体制の維持、地政学的リスクの高まりに伴い増額傾向にあり、次いで行政・組織運営費があり、省庁の維持、公務員の人件費、行政手続きのデジタル化や効率化にかかる費用があり、他にも全国一律の公共サービスを確保するために地方に回す、地方交付税交付金や、道路、橋梁、港湾、災害対策などの公共投資にかかる費用もあり、それらのコストの増大要因と特徴として、国家は市場とは異なり、政治的判断によって平和や法や環境などを供給し、国際公共財の維持も不可欠で、この供給責任が国家に重くのしかかり、また先進国を中心に高齢化による社会保障コストが膨れ上がり、政策的な自由度が低下し硬直化していて、さらに汚職などの無駄な官僚機構の肥大化により、実質的に必要なサービス以上のコストがかかる場合があり、それに対応して監視したり統制するためのコストもかかり、これが高すぎると、国家間統合によるコスト削減が論じられるようになるそうだが、強い行政・軍事力を持つ政府は安定を提供する一方で、その維持にコストがかかるから、市場開放や民営化による国有資産の削減など、国家の経済介入を減らして、統治コストを下げる動きも一時的には起こったが、IT革命や現在も進行中のAI革命による、新たな経済・サイバー空間の監視と統治が、新たなコストとして増大してきて、要するに、国家統治コストは、安定と成長を維持するための不可欠な投資でありつつ、現代においては社会保障と債務の増大によって維持が困難になりつつある巨大な負担となる行政支出だと言えそうだが、結局、中国、ロシア、イラン、北朝鮮などは、国際公共財を世界各国が管理している中で、その費用を負担せずに便益だけを享受するフリーライダーに位置づけられているように見えるから、もちろんそれらの国々の指導者連中からしたら、俺たちを仲間外れにして勝手に暗黙のルールを作りやがって、ふざけんじゃねぇ!と言いたいのかも知れないが、それに対して左派・リベラル政権ではあからさまに軍事攻撃などを仕掛けるのは国際法違反だから、普通はやらないだろうが、トランプならやっても構わないわけでもないのだろうが、どうもそれをやるようにけしかけられて仕向けられて、やらされているようにも見えてしまうから、まさか往年のダチョウ倶楽部のコントで、上島竜兵の役回りをトランプがやらされているわけでもないのだろうが、その国際公共財というのも、地球上のすべての国・人々が国境を超えて恩恵を受けられる、誰かが使っても他人の分は減らない非競合性と料金を払わない人を排除できない非排除性を持つサービスで、具体例として地球環境、国際通貨制度、平和・安全保障、感染症ワクチンなどがあるらしいが、そういう概念を受け入れられる度量が世界すべての国々や人々に備わっているのかどうかも、ちゃんとしたルールがあるともいえない範囲内では、どこまで勝手なことをやれば戦争に発展してしまうかも、とりあえず各国とも手探り状態であるとともに、中国などは経済力を背景として軍事力も増強しながら、自国の勢力範囲の拡大へと否応なく突き進んでしまうのではないか。3月11日「一言おじさんの名言」一言おじさんで有名なエドマンド・バークがどんな一言を述べていたかというと、善人がただ何もしないだけで悪が栄えることになり、国家あるところに戦争は絶えず、大多数の専制は集合化された専制であり、悪い人々が結託するとき、善人たちは団結せねばならず、政府は人間の欲望を満足させる知恵の案出物であり、教育は国民の安価な防備であり、極度の節約は経済ではなく、巨額の出費が真の経済の不可欠な役割を果たすそうで、芸術が完成へと向かって進展するとき、批評の技術も、それと歩調を合わせて進展して、議会には三つの階級があるが、その向かい側にこれら三つの階級よりも重要な新聞記者席があり、迷信は弱々しい心の宗教であり、過去によって未来を目論むな、などで、述べられた文脈を無視して、論者の都合に合わせてエドマンド・バークの名言とやらを持ち出すのも、虎の威を借る狐の如くに見られてしまいそうだが、そんなエドマンド・バークについて、マルクスが何を述べていたのかというと、カール・マルクスは、エドマンド・バークを保守主義の思想家として高く評価したわけではなく、むしろ激しく批判し、彼をブルジョアジーの卑劣な追従者や反動の象徴と見なしていて、『資本論』第1巻において、バークをイギリスの地主貴族や資本家階級の利益を守るための代弁者として激しく非難したそうで、普通の人としては反動的であるが、政治家としてはもっと反動的であると評し、バークはアメリカの独立戦争などでは自由主義的な側面も見せたが、フランス革命には激しく反対したため、マルクスは彼を伝統的な特権階級の味方、すなわち真の自由を抑圧する存在と捉え、バークがフランス革命を伝統や歴史の破壊として批判したのを、マルクスはこれを社会の変化に対する恐怖と見なし、歴史の進歩に逆行する思想と捉え、マルクスにとっては、バークの保守思想は古き良き制度を守るという名目で、支配階級の搾取を正当化する道具に過ぎず、バークが伝統・秩序を重視する保守主義である一方で、マルクスは階級闘争・革命による社会の抜本的変革を目指す共産主義という、対極的な思想的立場にあり、バークがフランス革命の際に行われた急進的な変革を嫌悪する一方で、マルクスはそれを資本主義から社会主義への必要なステップとして称賛し、マルクスにとってのバークは、労働者階級の革命的運動を敵視する保守派の論客で、偽りの賢明さでブルジョアの支配を擁護する知識人として批判の対象だったそうで、それに対してフーコーは、十八世紀後半の思想的転換、特に統治性や権力のあり方の変化を論じるコンテクストにおいて、バークの思想に言及していて、十八世紀の権力構造が、法律で禁止する主権的権力から、人口を管理・維持する安全保障へと移行したと論じ、この新しい統治において、バークのような保守主義の思想は、フランス革命などの抽象的な理性に基づく変革を否定し、歴史的に形成された制度や慣習、社会の自然な秩序の維持を重視する姿勢として捉えられ、フーコーは、バークが社会を単なる制度の集合ではなく、歴史的に形成された有機的なものと見なした点に注目したと言えて、これは、国家が上から強制するのではなく、社会自体の内的な成熟や自然な慣習に沿って統治されるべきだという思想につながり、バークはフランス革命を批判する際、啓蒙思想の抽象的かつ普遍的な理性を否定し、経験的な知識や伝統、偏見の重要性を強調し、フーコーもまた、普遍的な理性という真理が権力的に構成されてきたことを批判したため、この文脈においてバークの歴史主義的アプローチは、ある種の理性批判として共通点が見出される場合があり、近年の研究では、バークがフランス革命を批判した際に見せた、権力は主体よりも先行し、超える、という考え方が、フーコーの権力観である、権力は個人を服従させる前に、もう存在している、と対話可能であるとも指摘されているそうだが、それが何を意味するのかと考えたくなるわけでもなく、名言製造マシーンのバークと、迷言製造マシーンの長嶋茂雄を比較すれば、何か見えてくるものがあるかというと、ミスタープロ野球こと長嶋茂雄は、その卓越した野球技術や劇的なプレーの一方で、数々の天然エピソードや独自な言語感覚から、迷言製造マシーンとしても愛されていて、長嶋さん特有の英語と日本語が混ざったり、独自解釈が加わったりする特徴があり、例としては、母とマザーをかけた、失敗は成功のマザー、鯖の漢字を英語のブルーで表現した、サバは魚へんにブルー、肉離れを、ミート・グッバイ、カール・ルイスと間違えて話しかけた、ヘイ、カール、動かない山=不動山を、不動のマウンテン、バサロ泳法と僅差を混合して、バサロの差で逃げ切りましたよ、他にも、家に帰って風呂に入るまでは勝負は分かりませんよ、などがあるそうで、また伝説的なエピソードとしては、1974年の引退スピーチでの、巨人軍は永遠に不滅です、息子の一茂氏を球場に置いたまま帰宅したり、監督なのに大事な試合の前に、で、明日は誰が投げるんだっけ?とコーチに尋ねたり、監督初年度のセリフで、ウサギとカメならカメでいい、我慢する勇気が重要だと言ったそうで、さらには好きな数字は?と聞かれ、ラッキー7の3ですね、と答えたそうで、長嶋さんの言葉は、真剣そのものでありながら、独特の感性と天然ボケが混ざり合い、相手を笑いや温かい気持ちにさせる魅力があるそうで、周囲を明るくするそのキャラクターは、プロ野球界の宝として長く語り継がれているそうだが、佐高信が長嶋茂雄について語る際、その最大の魅力や特徴として挙げているのは、圧倒的な人気と、王貞治とは対照的な人間味だそうで、佐高氏の分析において、長嶋茂雄は次のように評されていて、作家ロバート・ホワイティング氏の言を引く形で、技術や成績では王貞治が上であることを認めつつもなぜ長嶋がこれほど人気なのかについて、そのドラマチックなプレーや人間的な魅力を評価していて、長嶋茂雄の、いわゆるひとつの、失敗は成功のマザー、といった名言・迷言に代表される、型にはまらない不思議な魅力や、大舞台で見せる劇的な活躍を肯定的に捉え、華麗なプレーや気迫あふれるパフォーマンスから、燃える男と称される、プロ野球界のエンターテイメントのシンボルとして、ファンを魅了し続けた姿を評価して、佐高氏は、長嶋茂雄を技術的な完璧さを追求した王貞治とは対極にあるドラマチックな演出家として、日本プロ野球界における稀有なスターとして語っているそうだが、なぜかAIは佐高信が長嶋茂雄を批判している内容は一切無視して、うまく誉め言葉でまとめてしまうところが、さすがとしか言いようがないが、それに対してマルクスのバークへの苛烈な批判や非難は、当時の時代的な雰囲気を体現しているように思われる一方で、現代でもエドモンド・バークを保守主義の偉大な思想家だと賞賛する人が結構いるようだから、余計にマルクスのバークに対する苛烈な批判が気になってしまうわけだが、そういう成り行きと、最近妙に気になった佐高信の長嶋茂雄に対する批判が、果たして平行関係にあるのかどうかも、それも昨今の時代状況を反映した傾向なのかも知れないし、それに関して佐高信がフランス革命から連なる左派共産主義革命思想を体現する数少ない生き残りの人材だと言えるかどうかも、その思想を大して詳しく考察したわけでもないので、何とも言えないが、そんなレベルから何が言えるわけでもなく、どう見てもバーク対マルクスと長嶋茂雄対佐高信では、思考対象として不釣り合いであることは誰の目にも明らかだろうから、いつものようにふざけたことを述べていることになってしまいそうだが、たぶんそういう対立軸ではなく、フーコーが述べているように、構造的に行政機構による統治し過ぎの傾向への自由主義側からの批判という脈絡から考えるなら、大きな政府が行政機構の肥大化と非効率化に伴ってその運営コストが増加して経済を圧迫してしまうから、それをどうにかしようとする過程で経済的な合理化が推し進められて、労働者としての一般市民がその犠牲となって、事態がこんがらがってくるという様相を呈するのだが、それをスッキリさせようとして強権発動に至ってしまうと、右からでも左からでも自由のない独裁体制へと帰結してしまうから、それに対しても自由主義側から批判が行われるという成り行きなのではないか。3月10日「騒動の途中経過」何だかまたもや茶番の香りが漂ってきたようで、トランプが絡むと何事も一時的な驚きと落胆から、あっと驚く大どんでん返しの挙句に、それもぬか喜びに終わって、結局ぐだぐだな様相を呈するに至るのだろうが、相手に油断させておいて、その隙を突いて一気呵成に攻め立てるにしても、もうすでにその段階は通過したようだから、あとはぐだぐだな展開が待ち受けていると予想したくなるが、とりあえず戦争を仕掛けているわけだから、昨年の関税騒ぎよりは深刻度が高いだろうし、今後どんな不測の事態が起こるとも限らないし、現状でも多数の死傷者が出ているわけだから、茶番どころの騒ぎではないわけだが、そういう平面的な場の捉え方で構わないかどうかも、何が平面なのかもよくわからないだろうが、では平面ではなく立体的な情勢の捉え方とは何なのかというと、平面的な情勢の捉え方と立体的な情勢の捉え方は、視点の数、時間軸の有無、因果関係の深さにおいて大きな違いがあるそうで、簡単に言うと、平面的な捉え方は、地図や写真のように、今見えている一側面だけを見るのに対して、立体的な捉え方は建物のように、上下・左右・奥行きに対応する時間・背景・関係性などを多角的に分析する手法で、平面的な情勢の捉え方が一つの視点、特定の時点、表面的な結果のみを重視し、誰が、何を、どうしたという点と線で状況を見て、メリットとしては、速報性があり、単純で理解しやすく、デメリットとしては、事件の背景や、なぜそうなったかという隠れた要因を見落としやすく、本質的な解決策を見誤る可能性があり、単純な因果関係の決めつけに陥りやすいそうだが、それに対して、立体的な情勢の捉え方は、多角的な視点、歴史的、時間的な軸、深層心理や構造的な要因を含み、現場を詳細に見る蟻の目と全体を俯瞰して見る鷹の目を使い分け、背景にある構造、因果関係、将来の予測までを見渡し、メリットとしては、問題の本質を見極めやすく、斬新な解決策やリスクを予測できるそうだが、デメリットとしては、情報収集と分析に時間と労力がかかる割には、はっきりした結論を出しにくく、それを受け止める側の理解力や知性の程度が試されることになりそうで、現代の複雑な社会・ビジネス環境においては、両方の視点を使い分けることが重要であり、日常の突発的なトラブルは平面的なアプローチで迅速に対応し、戦略的な意思決定や重要案件の判断には立体的なアプローチで構造を分析するというように、複合的に活用することで、精度の高い分析が可能になるそうだが、一般論としてはそうだとしても、そういう決まりきったアプローチにハマるような情勢なのかどうかも、現状では誰も手探り状態なわけだから、まだ何とも言えない割合も大きそうで、いくらでも詳しく情勢分析をしたがる人も多いだろうが、それも気休めの域を出ないアプローチだといい加減に受け止めたいわけで、他人が述べていることを真に受けないというか、それも是々非々というわけでもなく、受け止め方にバランス感覚が働いて、部分的には真に受ける一方で、その部分的というのが恣意的で偏見に満ちた受け止め方なのかも知れず、だからいい加減な受け止め方から判断を誤って後悔するだろうが、それも本気で後悔しているわけでもないから、そういうところでは何かしらバランス感覚に狂いが生じているようでいて、現状では適当にいい加減に判断を誤ったり間違ったりしておいた方が無難なのかも知れず、何事にも完璧を目指してしまうと、無理が祟って、その分で心身が消耗してしまうから、寿命を縮めてしまう可能性も高まりそうで、人のふり見て我がふり直せではないが、それが逆の意味でそうなのかも知れず、普通は、他人の言動の中で、特に欠点や悪い態度などを見て、それを批判するだけでなく、自分も同じことをしていないかと省みて、悪い点は改善し、良い点は見習うべきだという教えなのだろうが、それが他人の行動を鏡として自身の成長につなげる戒めの言葉となるかどうかも、場合によっては自分も他人も悪い点を改善する必要はなく、良い点も無理して見習う必要はないというと、ではいったいどういうことなのかというと、悪い点を改善しようとするのではなく、それを自覚して終わりで構わない場合もありそうで、要するに改善をあきらめてしまう一方で、他人の良い点も、それを見習おうとしても簡単にはできないわけで、かえって無理して強引に見習おうとしても、心身のバランスが崩れて、他の方面で弊害や障害が生じてきてしまうから、そういう格言の類いをもっともらしいと思うのには、確かに一理や一利がありそうなのだが、言うは易しで、それを実行しようとしても諸般の事情や経緯からできない成り行きに至ってしまって、そういうところで自らの能力や経緯や事情や条件などの面で限界に直面してしまうのだろうが、だからどうしたというわけでもなく、直せるところは直して、見習えるところは見習えば、そうなると中途半端な改善にしか至らないし、そうなるのも、その場の偶然の巡り合わせでそうなるしかなく、何にしても、時間的・空間的・社会的・政治的・経済的な面で、いろいろなパラメーターが関与しながらも、現状でも何だかおかしな事態に至っているわけで、それをどう捉えてもうまく納得できるような説明には結びつきそうもなく、今もこうして悩ましい情勢の中で生きているわけだが、下手にややこしい事態になっているのをリセットしようとしてはまずいのかも知れず、リセットするにも多大な手間暇と経費がかかってしまうから、妥協や譲歩を受け入れるなら現状維持の方向で事態を推移させようとはするだろうが、それが物理的な慣性の法則に沿った物事の成り行きになる一方で、一見現状維持へと向かっているようでいて、それでも何かしら気づきにくいところで変化し続けているから、そんな変化を見逃さずに自身の判断に活かしたい一方で、たとえ気づかなくても、それが変化した結果ではなくその途中だから、分析も変化に追いつかないし、判断も遅れてしまうわけで、過渡的な現象の途中で分析しつつ判断しているわけだから、当然のことながら正確には分析できないし、判断も許容の範囲内で誤ったり間違ってしまう程度には収めたいわけだが、そういうことも考慮に入れられるかというと、実際に考慮に入れながら行動しているわけだから、行動した結果がどうなろうと社会の中で行動している限りは、他にも多くの人々が社会の中で生きているわけだから、誰かしら他人と同じような結果に至ると考えておいても構わないだろうが、そういう結果について何か断言してしまう人がいるとしたら、その人は思慮が足りないと言えるかというと、それもそういうことを断言する立場に応じて、そうなってしまう面もありそうで、その人の言うことを真に受けるなら、その人の言っている内容から、その人が社会の中でどんな立場を占めているのかを想像できそうで、そんな立場を占めている者の一言で、例えば株価が激しく上下したり為替が大きく変動するなら、そうした方面と密接にかかわっている立場から、自らの立場を意識しながら、そういうことを言い放っていると受け止めるしかないわけで、それがどうしたと返されても、自分はそんな立場でもないから、何とも返答しようもないが、今日もトランプの一言で株価も為替も原油価格も大きく変動したようだが、それが正確な情勢を把握した上での発言かどうかも、一時的なぬか喜びに終わるなら、そういうことだと受け止めるしかないわけだが、世の中の情勢を気にして、自らが影響力を及ぼせる範囲内で自らが有利になるように持って行きたい意向が、そんな発言に表れていると解釈できそうだが、そんな言動によっても、そういう部分では情勢を動かせる力があると認識しても構わないだろうが、そういうタイミングを見計らってそういう発言を繰り出しているなら、それが物事の全てにわたって万能ではないということもわかりきっているが、何かのきっかけから軽はずみにそうなってしまうとしても、その裏では着実な成果も現れているから、そんな発言ができる情勢をもたらしていると言えるだろうから、そういうところでは事態をそのまま発言の内容通りに受け止めておいても構わないような気がするわけだが、もちろん今後いつそれを裏切るような事態が起こるとも限らないのが、戦争というヤバい行為の特性だとも言えそうだろうから、いずれにしても予断を許さない情勢であることには変わりないわけだ。3月9日「市民社会の原理」他人の分析にいちゃもんをつけるのは心苦しいが、先の衆議院選挙で落選した枝野が何を反省したのかといえば、食料品の消費税を恒久的にゼロにするという公約を掲げたことが大衆迎合的で拙速な人気取りになってしまったことが反省点みたいで、以前から消費税が政府の安定財源として必要だという自身の主張と矛盾してしまったことを詫びていたが、その一方で、きっこというブロガーの人が何を指摘したのかというと、有権者の民度が低いから、アメリカではトランプが大統領に選ばれ、日本では高市を支持して自民党が衆議院選挙で大勝したんだという結論に至っているようだが、それに対してなぜか自分はあまり現状を否定的には見ていないわけで、AIによれば、大衆市民社会においてしばしば民度の低さや市民意識の未成熟が指摘される背景には、社会構造の変化に伴う特有の現象が存在しているそうで、社会科学の観点では、本来の市民は自律性、合理性、公共意識を持つ存在とされ、一方で大衆社会における大衆は、そうした個別的な判断力よりも、感情的、画一的、平均的な行動に流れやすい傾向があるとされ、民度が低いと評される主な要因としては、SNSなどで憎悪や熱狂が喚起されやすく、有権者の感情的な反応が政治や選挙に大きな影響を与えるそうで、大量消費やマスメディアの発達により、個性や独自性よりも他人との同質化が強まり、独創的な思考が失われやすく、ネット空間が衆愚の広場と化すリスクがあり、デマや感情的な煽動に左右されやすく、社会の持続可能性や長期的利益よりも、消費などの目先の個人的利益を優先する姿勢となり、その歴史的・現代的背景としては、日本は戦後、急速な文化的大衆化を経験し、ほぼ九割が中流意識を持つようになった結果、逆に大衆社会の弊害が現れやすくなり、二十世紀初頭にオルテガが指摘したように、技術や民主化の進歩によって力を持った大衆が、教養や責任感を欠いたまま社会を主導する危うさが目立つようになり、国民が政治に無力感を抱く一方で、感情的な対立だけがSNS上で展開されるなど、理性的な公共討論が機能しにくい環境ができあがり、大衆市民社会の民度の低さは、個人の能力というよりは、大量生産・消費、メディア、教育環境がもたらす構造的な問題であると分析されていて、真の市民社会への成熟に向けて、自律的な思考と公共意識の育成が課題とされているそうだが、別にそれでも構わないんじゃないかと思ってしまうのだが、フーコーによれば、十八世紀末から十九世紀初頭にかけて市民社会について非常に多くの分析がなされたそうで、そこには社会関係から成る一つの領域が開かれ、社会関係とは、純粋に経済的なものであるような絆を超えて集団的で政治的な統一性を構成する個々人のあいだの、法的な絆とは異なる絆のことであり、純粋に経済的なものでもなければ純粋に法的なものでもないような絆、契約の構造、すなわち、移譲されたり委託されたり譲渡されたりする法権利の作用の構造に重ね合わせることができないものであると同時に、その形式においてではないとしてもその本性において経済ゲームとも異なるものでもあるような絆、市民社会を特徴づけることになるのは、こうした絆であり、第二に、市民社会は歴史と社会的な絆とを連接し、歴史は純然たる論理的展開とは異なり、最初に与えられた法的構造を延長するのでなく、歴史はまた、自然状態ないし基本的状況の根源的透明性がネガティヴな現象によって乱されるという事態を引き起こすようなものとしての変質の原理でもなく、変質なしの歴史の絶え間ない生成があるということ、法的かつ論理的な帰結ではないような生成があるということ、新たな社会組織、新たな社会関係、新たな経済構造、したがって新たなタイプの統治の絶え間ない形成であるような生成があるということであり、第三に、市民社会によって、社会的な絆と統治というかたちの権威の関係とのあいだの、内的で複雑な関係を指し示し、明らかにすることが可能になり、これら三つの要素、すなわち、法的でない社会関係の領域の開示、変質とは異なるかたちでの歴史と社会的な絆との連接、そして、統治の社会的な絆への、社会的な絆の権威の形態への有機的な帰属という、これら三つの要素こそが、市民社会という観念を、ホッブスから、ルソーから、そしてモンテスキューから遠ざけるものであり、政治思想の全く別のシステムがここに始まるように、フーコーには思われるそうで、これが、新たな統治テクノロジーに内的な、あるいは経済問題の出現によって統治技術や統治テクノロジーに対して提起された新たな問題に内的な、政治思想ないし政治的な考察なのだそうだが、それに関連して何か重要な指摘があるとしたら、権力の行使は、賢明さに従ってではなく、計算に従って規則づけられ、力の計算、関係の計算、富の計算、支配力というファクターの計算に従って、権力の行使が規則づけられるようになるということ、つまりもはや真理に基づいて統治を規則づけようとするのではなく、合理性に基づいて統治を規則づけようとするようになるということであり、統治を合理性に基づいて規則づけること、これが統治テクノロジーの近代的形式のようなものであり、国民民主主義的政治、国家的政治などの全ては、その合理性の原理を、主権的個人性を構成する限りにおける国家の合理性に基づいて、あるいは国家ないし、主権者的個人の利害関心とその利害関心の戦略に基づいて定めることになるだろうが、これと同様に、真理に基づいて規則づけられた統治もやはり消え去ったわけではなく、そして結局、マルクス主義とはいったい何なのか、それがもし合理性に基づく一つのタイプの統治性に関する探究、ただし個人的利害関心の合理性としてよりもむしろ真理として少しずつ表明される歴史の合理性として自らを提示することになる合理性に基づく一つのタイプの統治性の探究でないとしたら、我々が十九世紀以来知っているものとしての近代世界において、一連の統治の合理性が、互いに重なり合い、支え合い、反論し合い、相争うのが見られ、真理に基づく統治術、主権国家の合理性に基づく統治術、経済主体の合理性に基づく統治術、より一般的には被統治者自身の合理性に基づく統治術、そしてこれら全ての様々に異なる統治術、統治術を計算し合理化し規則づけるための様々に異なるタイプのやり方こそが、互いに重なり合いながら、おおざっぱに言って十九世紀以来の政治的論議の対象とされることになり、結局、政治とは何なのか、もしそれが様々に異なるものに基づく様々に異なる統治術の作用であると同時に、そうした様々に異なる統治術が引き起こす論議でないとしたら、政治はここに生まれるのだと、フーコーには思われるそうだが、国会の予算委員会で有田ヨシフ・スターリンが不快な態度に終始する予算委員長に向かってブチ切れて、てめえ!ふざけんじゃねぇ!という調子で怒鳴っていたが、何だかそれを笑いながら見ている自分は何なのかと疑念を覚えたわけでもないのだが、何か予算案に対して当たり障りのないことを適当にどうでもいいような関心のない他人事のような態度で質問していれば、それで済んでしまうようなことだとは思われるのだが、有田ヨシフ・スターリンは、もちろんそんな人間のクズのようなことはやらないし、何か自らの信念に基づいて追及したいことがあるらしく、それが彼を正義の味方のように見えさせてしまうのだが、そういう姿を迎合的な一般大衆は無視の対象としているようにも感じられるし、質問内容には一切興味も関心も持たず、その代わりに頑固ジジイ特有の怒りっぽさの典型例のような分類をすることによって、それで済ませておけば事足りるような処理の仕方で間に合ってしまうというか、そういうのは共産党の小池さんに対しても、そんな処理の仕方で間に合ってしまいそうだが、それで彼らを処理できたことになるのかというと、そんなのは彼らのあずかり知らないことになってしまうだろうが、確かにそれらのやり取りは、個人的な利害関心とは全く関係のない方面で行われていることになりそうだが、何かそうではない方面へと世の中の情勢が向かっているように思われるから、少なくともそんな世の中の成り行きを否定的には見たくないわけで、もちろんそれを批判的な言説によって分析している人もいくらでもいるからこそ、そっち方面ではそれらの人たちの意見や主張を参考にしたいわけだ。3月8日「人口の意味」ヨーロッパにおける十七世紀のペストの流行において、ロックダウンと呼ばれる都市封鎖や厳しい隔離措置が行われた代表的な都市・地域は次の通りで、この時代、ペスト対策として健康パスポートの発行や検疫、封鎖が組織的に行われるようになっていたそうだが、1665年〜1666年のロンドンにおいては、ペストに感染した家屋は、住民ごと40日間封鎖され、家の扉に印がつけられて、都市全体の移動制限が行われ、この期間の記録がのちの防疫対策の歴史的教訓となったそうで、1630年頃のフィレンツェでは、健康委員会が組織されて、ペスト発生時に家の封鎖や隔離センターの設置、移動制限が行われ、1660年代のアムステルダムでもペストの脅威にさらされ、大きな流行を記録して、大規模な隔離対策が講じられ、ベネチアでも十七世紀にはペストの流行が続いて、古くからの40日間の隔離の拠点として、船舶や人の封鎖が行われ、シチリア島のメッシーナでは十八世紀の1743年に、十七世紀的な強硬手段が取られたそうで、イタリアの地中海沿岸では、十七世紀末までペストによる封鎖が散発的に続いていたそうだが、これらの都市では、感染者や疑いがある家を完全に閉鎖し、外部との接触を断つ封鎖が感染拡大を防ぐ唯一の手段として実施され、フーコーが国立図書館や国立公文書館の資料の中で発見した断片の一部には、次のような内容が記されていたらしく、ある都市でペスト発生が宣告された場合に採るべき措置は、十七世紀末の一規則によれば次の通りで、まず最初、空間の厳重な碁盤割りの実施、つまり、その都市およびその地帯の封鎖はもちろんであり、そこから外へ出ることは禁止、違反すれば死刑とされ、うろつくすべての動物は殺され、さらにその都市を明確に異なる地区に細分して、そこでは一人の代官の権力が確立され、それぞれの街路は一人の世話人の支配下におかれて、その街路が監視され、もしも世話人がそこから立ち去れば死刑に処され、指定された日には、各人は家に引きこもれと命令され、外出が禁じられて、違反すれば死刑、世話人自身がそれぞれの家の扉を外から閉めに行き、その鍵を持ってきて地区担当の代官に渡し、代官は検疫の四十日間の終わりまで、鍵を預かり、各家庭では必需品の買い入れを済ませておかなければならず、とはいっても、ぶどう酒とパンについては街路と家の中をつなぐ木製の小さい管を配備しておいて、もし小売商人と住民の間の流通が中断されても、その仕掛けで各人に割当量が放出されうるようにし、肉や野菜については、滑車と籠で放り込み、最終的に家を出なければならない場合には、名簿に記された順番に退去し、しかも他人と一切出会わないようにして、交通が許されるのは、もっぱら代官と世話人と見張り番の兵士に限られる他、汚染している家々の間や死体から死体へとぶらつき死んでもかまわない死体泥棒も、病者を運び、死者を埋葬し、掃除し、多くの卑劣な仕事をする下層民という理由によって放置され、細分され、固定され、凍結された空間の中で、各人はその場に結びつけられ、動き出せば自分の命にかかわり、感染か処刑か、なのだそうだが、そこでフーコーが着目したのが、癩病(ハンセン病)とペストでの人の管理の違いで、排除か規律訓練かで、管理の仕方に違いが生じてきて、中世末期の癩病の流行においては、純粋な共同体を夢見て、癩病患者となった病人を都市から排除し、隔離する分断・排除のモデルを見出す一方で、十七世紀のペストの流行に際しては、都市全体を封鎖し、住民一人一人を登録・監視して、規律の中に閉じ込める規律訓練のモデルを見出し、これはベンサムのパノプティコンの原型とされるが、その一方で人口の統治に関連して、ロンドンの死亡率に関する報告書が、その最も古い報告書と見なされているのがペストによる死者数に関するもので、古くは1532年10月21日に作成され、その後ペストが流行する度に死亡率表が断続的に作成され続けたのだが、何らかの災禍が人々を襲ったとき、災禍による死亡率は劇的なものになり、死んだのは何人か、どこで何が原因で死んだのかを人々は正確に知りたいと思ったから、そのような時にだけ死亡率表は作られたそうだが、そこでは人口問題はその実定的なプラスの側面では捉えられていなかったが、事態が変化し始めるのは十七世紀で、官房学や重商主義によって特徴づけられた時代において、重商主義者たちにとって人口はもはや、単に主権者の力の紋章に記されることを可能とする実定的なプラスの特徴としては現れず、国力と主権者の力の内部でではなく、その力学の原則自体において現れ、それは人口が農業のための人手をまかない、人口は豊作を保証し、というのも人口が多ければ耕作者も多くなり、耕作地も多くなり、豊作にもなり、穀物など農産物の価格も低くなり、人口はまた手工業のための人手もまかない、人口は、輸入品にできるだけ頼らないこと、金にせよ銀にせよ大金を必要のあらゆるものに頼らないことを可能とする、と当時は考えられていたらしく、重商主義の論理にとって、人口が国力の力学において根本的な要素だというのは、人口が、可能な労働力間の競合を国内自体で確保し、それによって低賃金が確保され、低賃金であれば、生産された商品の価格も下がり、それを輸出する可能性も増し、それによって国力が新たに確保され、これは国力自体に影響をおよぼす新たな原則となるそうで、重商主義者や官房学者は、この人口を依然として主権者の臣民の集まりとしてしか見なしておらず、人々は、法権利の主体、法に服する臣民、統制的な枠づけを被りうる臣民としてそこにいたのに対し、ところが重農主義者たちとともに、一般的に言えば十八世紀の経済学者たちとともに、その集合はその自然な部分において、自然な部分から出発して管理されるべきものとなり、その人口の自然性とは何なのかというと、人口は風土によって変化し、物質的な取り巻きによって変化し、通商の強さや富の流通によって変化し、そしてもちろん、税や結婚に関する法といった、人口の服する法や、人々の慣習によっても変化し、娘にどのようにして持参金を持たせるかとか、相続権に代表される長子権をどのように確保するかとか、子供をどのように育てるか、乳母に見させるかどうかとか、人口は道徳的ないし宗教的な価値によっても変化し、とりわけ食糧の状態によって変化するが、人口というのは一連の変数に依存している所与であって、それらの変数がある以上は、人口は主権者の行動を素通しにするような透明なものではあり得ず、人口と主権者の間の関係は単に服従か拒否か、服従か反乱かといった次元のものではあり得ないということになり、それに対して法の限界とは、主権者と臣民の間の関係だけを考慮する限りは臣民の不服従であり、主権者に対して臣民が反対して立てる否であるが、それが統治と人口の関係になると、法を頼りにした主権者の意志まかせのやり方では通用しなくなり、主権者には人口は手の届かない、直接触れることのできない本性になるかというと、重農主義者・経済学者による分析によれば、人口という事実の中で標定されるこの自然性は、変容の動因・技術には、絶えず手の届くものであり、人口を優遇し、国家の資源や国力と正しい関係にあるという状態を獲得したければ、多くの要因・要素に働きかけなければならず、それらは一見すると、人口自体やその直接の振る舞いや繁殖力や再生産とは直接関係ないように見えるが、例えば、国内を循環する通貨の流れに働きかけ、その流れがどこを通るかを知り、人口のあらゆる要素にきちんとゆきわたるかどうか、不活性な地域が残らないかどうかを知ることが必要であり、輸出品に対しても働きかけなければならず、輸出の要請が多ければ多いだけ、労働力の可能性も増し、したがって富の可能性も増し、人口の可能性も増すことになり、輸入を行うことで人口が有利になるのか不利になるのか?輸入が行われると国内の人々の労働が奪われるが食糧が与えられもして、輸入品の統制の問題は十八世紀には重大な問題であったそうで、そして人々の欲望が働くがままにすれば、全体としては人口の一般的な利を生産することになり、欲望とは、個人にとっての利の追求で、個人は欲望において間違えてしまい、自身の個人的な利を得られないこともありうるが、人を騙さないものが一つあり、欲望の戯れによって集団的な利が生産されるということであり、これこそが人口の自然性をしるしづけると共に、人口を管理するために用いる諸手段の持つ人工性をしるしづけるものだそうで、功利主義哲学は人口という当時の新製品を下支えする理論的道具だったそうだが、その一方で人口の自然性は諸現象の恒常性において現れ、諸現象は、事故や偶然や個人の操行や成り行きの原因に依存している以上は、可変なものと予期されはするが、ところが、不規則であるはずのこれらの現象が、実は規則的であって、これが十七世紀末にイギリス人のグランウントの見出した大発見で、彼はあの死亡率表について、ともあれ毎年これこれの都市においては、一定数の死者が出ることを特定したが、彼が特定したのはそれだけではなく、同じ割合の人が肺結核で死に、同じ割合の人が熱病で、結石で、痛風で、黄疸で死に、グラウントをひどく仰天させたのは、自殺の割合までもロンドンの死亡率表で毎年正確に同じになっていることであって、そういうことの延長上から、何よりも各種の統計をとって絶えず国家の状態を把握することが、行政による統治にとって重要な活動となることが明らかになってきたわけだ。3月7日「ふざけた感想」どうもセコく立ち回ろうとすると、それが自分の性分には合わないことを思い知らされるみたいな事態に直面してしまい、どうやらセコく立ち回ってはならないような成り行きなのかも知れず、それでも自分を取り巻く社会状況がセコく立ち回るように仕向けてくるのだが、なぜか身体がそれに逆らってしまうようで、意識は何とかして合理的な動作になるように調整しようとして、あれこれと方策を思案するのだが、どうやっても納得がいかないというか、ここでは損なことをやった方が結果的にはうまく行くと勘が知らせているようにも感じられるから、否応なくそんな動作になってしまうわけで、だからどうしたわけでもないのだが、どうも実態としてはそういうことではなくて、ただその場の成り行きに従わされているだけで、それがどう考えても不合理な動作になってしまい、頭で考えるとそうなるのだが、その場の成り行きに逆らっているようにも感じられるから、頭で考えているその場の成り行きと実際の成り行きが違っているのかも知れないと思うまでもなく、そんな面倒くさくてややこしい成り行きであるはずもないのだが、いつものように勝手に自分が勘違いしているだけだと割り切ってしまえばどうということはないのだが、結局そんな成り行きを利用してうまく立ち回ろうとしているのかも知れず、それが自分にはわかっていないようでいて、自分がそう立ち回ろうとしているのに、意識の中では納得がいかないわけで、変なこだわりに自意識がとらわれているから、自分がやろうとしていることを把握できないまま行動が先走って行った先で、ようやく惨憺たる結果を前にして自らの愚かさを思い知らされることになるような気がするのだが、本当にそうなるのかどうかもまだ現時点でははっきりしていないのに、それを思い知らされる前の段階であれこれ勝手に心配しているわけだろうが、そんな心配など杞憂に終わるしかないとは思いたくなるが、それが杞憂どころではなく、嫌な予感が的中してしまうようなヤバい事態になるのを恐れているのだろうが、今のところはそんな嫌な予感がしているわけでもないのだから、後はそれを実行に移せばいいわけで、実際に実行している最中なのだろうが、うまく行くかどうかも、それも結果的にうまく行ったと思ったら、その時にはぬか喜びしてしまうだろうが、それがぬか喜びに終わってしまうとまずいわけで、どうもそうなってしまうような気がするわけだが、果たしてそんな悪い予感が的中して、当てが外れてがっかりすることになるのかどうかも、これからの自分の立ち回り方次第だとしたら、自分の運命を良い方へと持って行くための努力が欠かせないと思っているわけでもないが、もちろんやる前から結果などわかりきっていて、途中の努力によっては結果を変えることなどできないわけでもないが、たぶんそう思っているのではなく、それもそう思うまでもなく、今もこうしてすでに立ち回っている最中だから、いちいち行動した結果に一喜一憂している暇はないと言えないこともなく、やる前から結果を予想すること自体が、自らの勝手なこだわりから生じた先入観や固定観念や偏見にとらわれている証拠で、どうしても安心しようとしてしまうから、現時点で都合の良い結果となるように持って行こうとして、見当外れな方向へと努力をしようとしてしまうわけで、それもだから何だというわけでもなく、見当外れかどうかもわかっていないわけだから、努力したいなら勝手にやっていろ!と、そんな自分に対して冷めた見方をしているシニカルなもう一人の自分も意識の中には潜んでいるわけで、何だかそれが精神的なバランサーの役目を果たしているような気もするものの、今さら何をやるべきか迷っているからこそ、事前に予想を立ててルールを設定して、そうなったら自動的にそういう方向へと動作するように、今から精神的に訓練を積んでおくなんてお笑い草なのかも知れず、それを他人に向かって説教したり助言したい輩がメディアの向こう側にはひしめいているとしても、助言したくてうずうずしている奴らの言うことなんて聞くはずもなく、そんなお人好しな自分ではないこともイヤと言うほどわかっているような気もするから、ひねくれ者でへそ曲がりだからこそ、こうなっているわけだから、今さらそれを変えられるはずもなく、死ぬまでこんな感じなのではないかとあきらめているというと嘘になってしまうが、そんなふうに自己否定的な卑下を何かと何かの間に差し挟みながらも、どうもどこか得体の知れない方面へと誘導されて行っているような気がするわけだが、それがどんな方面なのかを知りたいわけでもなく、そこへと辿り着いてみても、まだそれに気づいていないような感じになってしまうのではないかと、そうなる前から心配しているわけでもないのだが、その場その時での事前の予想や先入観や固定観念や偏見なしの判断や動作を心がけていることも確かで、しかもそんな判断や動作が自分にできるとも思っていないが、心がけていることと、それができるかどうかが、必ずしも一致しなくても構わないとも思っていて、事前にそんな予想や先入観や固定観念や偏見を抱いていることを知っているとも思えないわけで、その一方でそういうことを語りたい輩が確実にメディアの向こう側にひしめいているわけだから、そういうことが語るのに都合の良いことなんじゃないかと思いたい一方で、実際に語っているようには、自身も他人も動作しないわけだから、その辺で語っている時空と実際に行為や行動や言動となって動作する時空との間に、無視できないずれが生じていると考えるまでもなく、そもそも時間的な順序に違いがあって、実際に起こった動作をそうなった後から語っているか、それをもとにして予想や推測や考察を交えながら語っているわけだから、そんな語りを聞いてその内容をもっともらしく思って、自らの動作の参考にして実際に動いてみたところで、果たしてそれを真似て、それを見習って動いたことになるのかどうかも、そうなっても構わないだろうし、そうなった結果が良ければ、そんな語りにも説得力が出るはずだが、良い結果をサンプリングして、語る方はそれを都合良くまとめてまた語りに使うわけで、しかもそれを語っている方々で繰り返し使っているわけだから、そういうことだと理解しておいても構わないわけだが、それでも腑に落ちないなら、何かそれに対して文句を言いたいのかというと、そういうわけでもなく、何かと何かが同時並行的に動いていて、そんな語りの内容に納得している自分もいる一方で、他方ではそれとは無関係に動作している自分もいるわけだが、それらが別々の人格を伴った存在として自分があるわけでもなく、両方を同時に動作できるわけでもなく、絶えず二者択一の動作が生じているわけでもないとしたら、それについて語っている自分がいる一方で、それ以前に動作している自分もいるだろうし、語った後から語った通りに動作している自分もいるだろうから、いちいちそんなことを気にとめているわけでもなく、どちらでも構わないわけでもないのだが、結果的にはそうなってしまうから、そうなった結果については、それが良い結果だろうと悪い結果だろうと、良い結果であるならぬか喜びするかも知れないし、悪い結果なら反省するかも知れないが、本気でそう思っているのかというと、やはりちょっと違うような気がして、過去のことは過去のことであり、それがこれからやろうとすることに少なからず影響を及ぼすとしても、やはりそれが過去と同じような動作になるかというと、別に過去の繰り返しになってしまっても構わない場合とそれではまずい場合もあるだろうが、それを自分が恣意的に制御できるわけではなく、そういう成り行きにとらわれているなら、そうなってしまうような結果に至ってしまうわけで、そこで自分には結果を変えられる力があるかどうかも、そうなった結果からそれを認識できればいいのだが、それに関して、十数年前に活動していたクオシモードというバンドとコラジャズトリオというバンドのピアニストの演奏を聴いてみると、何かわかってくるわけでもないのだが、もしかしたらコラジャズトリオは今でもまだ活動している可能性もありそうだが、誰もそんなことだとは納得しないだろうが、コラジャズトリオのピアニストの演奏には何か意味不明な説得力がありそうな気がしてしまい、それを聴いていると、セコく立ち回ってはまずいような気にさせるわけだ。3月6日「市民社会の定義」相変わらずそれが何だかよくわからないのだが、偶然の巡り合わせにしてはあまりにもタイミングが合い過ぎているような気もして、自分に関係する全ての物事が何かに引き寄せられるようにして、互いにもつれ合いながらも執拗に絡んでくるような薄気味悪さを覚えるのだが、それらの出来事が起こってから、自意識が勝手に被害妄想という原因に結びつけようとしてしまうから、無関係な全ての出来事が頭の中で一つにつながってしまい、そんなことはないのはわかりきっているのに、まるで世の中の全てから陰湿な嫌がらせを受けているような被害妄想を抱いてしまうのだろうが、何だかそれに起因して、笑ってしまうようなみみっちいやり取りに終始しながらも、自分でも情けなくなるようなケチくさい行為に及んでしまって、まあいいやとあきらめの境地に至るしかないのだが、KDDIの電話番号を使っているからスマホはauになってしまうのだが、そこのアンケートポイ活が嫌な感じの内容のアンケートばかりになってきたから、毎日のように送られてくる執拗なメールにも嫌気が差して、色々な方面で配信停止設定にしても送られてくるから、auのメールアドレスを変えてみたら、しばらくはメールが来なくなったので安心していたが、数日前から山のようにポンタナビというところからひっきりなしにメールが送られてきて、そこでも配信停止設定にしたのに、もうかれこれ一週間近く経っても、大量のスパムメール攻撃が止むことはなく、問い合わせフォームに、もう嫌になったから、auをやめて他に移るかも知れません、と記入して送信したら、さすがにピタッとスパムメールが来なくなったが、これでまた新手のスパムメール攻撃がきたら、auをやめて格安SIMにでも切り替えるしかなさそうだが、すでに安易なポイント勧誘に乗ってしまって、契約している電力会社が東京に住んでいるのに北海道電力だし、ガスも東京電力系の会社だし、世の中が狂っているのは何が原因なのか、と考えてしまってはまずいのだろうが、そんなことの延長上で、トランプや高市にも安易な大衆市民社会の意向が反映して政権を担っていられると解釈したくなるが、その一方で法的正義の観念に取り憑かれているように見える共産党の正義の味方の皆さんは、大衆市民社会の意向に逆らっているから大衆的な支持を得られずに苦境に陥っていて、それは昔からそうなのかも知れないが、経済的な利益を追求してしまうと否応なく良識に反するようなことをやらざるを得なくなると共に、その良識というのも微妙に受け取り方次第で、そうとも言えないような内容になってしまうだろうが、では何と言ったらしっくりくるわけでもなく、それに関して70年代後期のフーコーは、社会の統治の問題だと言っているようにも思われて、権力関係の問題から統治形態の問題へと関心が移っているみたいだが、それが相変わらず一般人には理解困難な難しいことを述べているのかどうかも、読んでみてから個々の人の判断にまかせるしかないが、世の中を統治するために必要な統治術は主権空間の中で行使されなければならないが、厄介なことに、不幸なことに、統治空間が、経済主体によって住まわれ、住みつかれているから、法律に基づいて統治するだけでは十分ではなく、統治性が統治空間の総体に対するその包括的性格を保存することができるようにするにはどうすればよいか、また、統治性が科学的ないし経済学的理性に屈服することによって主権者が経済の測量技師ないし経済の官吏となってしまわないようにするにはどうすればよいか、さらには、統治術が経済的統治術と法的統治術という二つの分枝に分割されてしまわないようにするにはどうすればよいのか、要するに、統治術の統一性を維持するにはどうすればよいのか、主権の圏域の総体に対する統治術の一般性を維持するにはどうすればよいのか、経済学に対する統治術の種別性とその自律性とを維持するにはどうすればよいのかという、三つの問いに同時に答えるためには、統治術に対し、一つの準拠、一つの参照領域、一つの新たな参照領野、一つの新たな現実を与えて、それに対して統治術が行使されるようにしなければならず、そしてこの新たな参照領野、それこそが、市民社会であるとフーコーには思われるそうだが、市民社会とはいったい何なのか、市民社会という観念、市民社会に関する分析、市民社会というこの観念の枠組みの中に出現した諸対象ないし諸要素の総体、こうした全ては、今喚起した問いに答えるための試みであるそうで、経済主体に住みつかれているという不幸もしくは利点を持つ主権空間の中で、法規範に従って統治を行うにはどのようにすればよいか、経済的なものと法的なものとの異質性を引き受けるべきものとしての統治実践を、法権利や経済学の支配によるのとは別のやり方によって制限するための理性、その合理的原理は、どのようにして見つかるのか、市民社会は哲学的理念ではなく、市民社会、それは統治テクノロジー上の一つの概念というよりもむしろ、一つの統治テクノロジーの相関物、生産と交換のプロセスとしての経済に対して法的なやり方でかかわることでその合理的測定がなされなければならないような、一つの統治テクノロジーの相関物で、経済的経済学とかかわりを持つ統治性についての、法的経済学、これこそが、市民社会の問題であり、市民社会、そしてすぐ後には社会と呼ばれるようになるもの、また十八世紀末には国民と呼ばれていたもの、こうした全てが統治実践に対し、統治術に対し、統治術に関する反省的考察に対し、つまり統治テクノロジーに対して、経済の諸法則にも法権利の諸原則にも背くことのないような自己制限を可能にすることになり、偏在する統治、何もそこから逃れることのないような統治、法規範に従う統治、しかし経済の種別性を尊重する統治、こうした統治が市民社会を運営し、国民を運営し、社会を運営し、社会的なものを運営することになり、ホモ・エコノミクスと市民社会は互いに分離不可能な二つの要素で、ホモ・エコノミクス、それはいわば市民社会という濃密で充実し複雑な現実に住みついている、抽象的で理念的で純粋に経済的な点のようなもので、市民社会とは、経済的人間によって構成されるそうした理念的な諸点がその内部に置き直されることによって適切に運営されることになるような、具体的総体のことであり、ホモ・エコノミクスと市民社会は同じ総体の一部をなし、つまりそれらは自由主義的統治テクノロジーの総体の一部をなすことになり、十九世紀以来、市民社会は、哲学的言説の中で、政治的言説の中でも、次のような現実として参照されてきて、すなわち、市民社会は、統治、国家、国家機構、制度などに対し、自分を認めさせ、それと戦い、それに対抗し、それに反逆し、それから逃れるような現実として参照されてきたが、この市民社会に対して付与されている現実性の度合いに関しては、慎重になる必要があって、市民社会は、台座として役立ったり、さらには国家ないし政治制度に対立するための原理と役立ったりするような、歴史的かつ自然的な所与ではなく、本来的で直接的な現実でもなく、それは近代的統治テクノロジーの一部をなすもので、近代的統治テクロジーの一部をなすとは、そうしたテクノロジーの純然たる産物であるという意味でもなければ、市民社会が現実性を持っていないという意味でもなく、市民社会、それは狂気のようなものであり、セクシュアリティのようなものであり、それは、相互作用による現実と呼べるようなもので、すなわち、権力の諸関係と、そうした諸関係から絶えず逃れるものとの間の作用から、いわば統治者と被統治者との境界面に、相互作用的で過渡的な諸形象が生まれるのであり、この諸形象がいつの時にも存在してきたというわけではないにせよ、それでもやはり現実的なものとして、今の場合には市民社会、別の場合には狂気などと呼ばれうるということであり、したがって、市民社会は、統治テクノロジーの歴史における相互作用的現実の要素で、この相互作用的現実は自由主義と呼ばれる統治テクノロジーの形式そのもの、すなわち、それが経済プロセスの種別性とかかわるまさにその限りにおいて自らの自己制限を目標とするような統治テクノロジーの形式そのものと、完全に相関的であるようにフーコーには思われるそうだ。3月5日「行政国家の限界」今回アメリカとイスラエルから攻撃を受けたイランにしても、イランと同盟関係にあった中国やロシアにしても、あるいは北朝鮮にしても、政府が国民を監視して政府の方針に逆らうことを許さない典型的な行政国家という面がありそうだが、イランが行政国家かというと、どうもAIによる行政国家の定義とはちょっとズレるような感じで、行政国家とは、二十世紀以降の現代国家において、福祉の増進や経済介入などを目的とし、内閣や官僚機構などの政府を構成する行政部の権限と役割が大幅に拡大した国家のことを言うそうで、十九世紀の最小限の行政を担うにとどまる夜警国家とは対照的に、行政の専門性や裁量権が強まり、立法や政治の中心的な役割を担い、この現象は、社会や経済の複雑化に伴って、従来の法律を守るだけの行政から、積極的に問題を解決する行政への転換を指しているそうだが、ちなみに、夜警国家とは、国防や治安維持や司法など、社会秩序の維持に必要最小限の機能だけを政府が担う、小さな政府の国家観のことで、福祉や経済介入を行わない、ガードマンのような国家を指し、ドイツのラッサールが皮肉を込めて命名したそうで、夜警国家では格差の拡大や、失業・不況といった社会問題に対応しきれないという課題を抱えていたから、それへの対応として国家が社会保障を積極的に行う福祉国家へと転換して行ったそうで、そういう意味では、中国なら何とか行政国家の体裁を整えていると言えそうだが、他のイランやロシアや北朝鮮などは、国民の面倒を見切れずに見捨てている面もありそうだから、政府の体制を維持したいだけの棄民国家とでも言えそうで、その国の経済状態に応じて社会保障が機能するかどうかも決まってくるとも言えそうだが、政府による経済への介入がうまく行くかどうかにしても、世界や地域の政治経済情勢や地政学的な条件も各々の国家で違ってくるだろうから、介入したからといって、必ずうまく行くとも限らないし、介入した結果として、行政国家の体裁を維持できたり、維持できなければ棄民国家になってしまったりもするだろうが、もちろん棄民国家にも程度に差があるだろうし、それに関しては日本も例外ではなく、国家が戦争、移民政策、あるいは政策的失敗の際に、特定の自国民の保護や救済を見捨て、見捨てる行為を指す言葉で、歴史的には満州開拓団、戦後の海外移住者、さらには現代の社会福祉政策において自己責任を強調し、支援を打ち切る構造的状況を批判的に表す際に使われるそうで、太平洋戦争終結時に、中国東北部の満州国に残留した日本人を政府が見捨てた問題や、昭和期に国策として推進された中南米移民が、困窮した際に保護されず、後に国家賠償訴訟に発展した事例や、災害時の自助強調や、ネットカフェ難民などの社会的弱者に対する福祉政策の不備、行政的サポートの不足が挙げられるが、この用語は、国家が国民を守るという本来の保護責任を果たさず、自力更生を強制する構造に対して、非人道性を問う文脈で使用されるそうだが、政府の救済力にも限界があるし、その国の経済規模に応じて政府の予算規模も決まってくるだろうから、予算の中から国民を助けるために必要な支出の額も決まってくると単純には言えそうで、しかも経済状態が悪くなればなるほど、助けなければならない国民の数も増えていく一方で、逆に政府の予算が経済の悪化から圧迫を受けるだろうから、行政国家自体が構造的に矛盾を抱え込んでいると言えそうだが、そもそも政府が経済に介入して、経済を立て直すことができるかどうかも、それが様々な事情や経緯や条件に応じてうまく行かない場合も出てくるから、世界的にある一定の割合で棄民国家が出てくると考えておいても構わないだろうが、その種の行政国家の起源として、内政国家というのがありそうで、フーコーによれば、内政国家、あるいは、国家理性がその重商主義政策を用いて統治した国家は、次のような主権者を構成するために、十七世紀以来、極めて明示的なやり方でなされた努力の過程で生じてきて、その主権者とは法権利の主権者ないし一つの法権利に応じて定められた主権者であるばかりでなく、行政を行うこともできるような主権者、自らの主権を行使する相手としての臣民に対して行政を行うと同時に、諸個人の間、諸グループの間、諸国家の間で展開されうる経済プロセスに対しても行政を行うことのできるような主権者で、内政国家、十七世紀と十八世紀の主権者たち、あるいは任意主義的であると同時に重商主義的でもあるような政策が機能させようとすることになるものとしての国家、こうした全ては経済的主権者がいなければならないという公準にその基礎を置いていて、アダム・スミスの政治経済学は、重商主義がいかに技術的な間違いないし理論的な間違いであったかを示すだけでなく、そうした政治的企図の総体からの価値剥奪を構成していて、国家とその主権に基づくような政治理性からの価値剥奪を構成しているそうで、この見えざる手の理論は、重農主義者たちが語っていたことと極めて正確に対立していて、重農主義者たちは市場と市場のメカニズムについて、商品が最も容易に最も良い価格において買手が見出される場所へと向かうようにするのは、利害関心のメカニズムであり、統治や国家や主権者はそのような利害関心のメカニズムに対して介入するようなことが絶対にあってはならないことを示し、重農主義は、主権者の権力を経済に対して行使するための行政的規制への、厳格な批判であって、しかし、経済主体を自由にしておかなければならないとはいえ、一つの国の領土全体が結局は主権者の所有地であると考えなければならず、全ての土地の共同所有者であり共同生産者であるから、税を正当化できると共に、主権者は原理上、権利上、さらには事実上、土地の共同所有者および生産物の共同生産者として、一つの国の生産および経済活動全体に適合する者とされ、生産と地代の構成とから成る回路を非常に正確に辿ることを可能とする経済表の存在によって、経済表とはケネーが考案した、社会構成を農業生産者である生産階級と地主階級と商工業者などの不生産階級とに分け、それらの間の流通を媒介した社会的総資本の再生産過程を表で示したものだが、主権者に対し、その国の内部において起こっていることの全てを正確に知る可能性と、その結果として経済プロセスの全体性に対する分析の原理と透明性の原理のようなものとが提供されるようになるから、主権者が経済主体を自由なままにしておくのは、主権者が経済表のおかげで、何が起こるかということ、それがどのようにして起こるはずであるかということを知っているからであり、したがって経済表のおかげで経済プロセスに関して起こることの全てを正確に知っている主権者の統治は、それがどのように起こるか、それがなぜ起こるか、そして利益を最大化するための何をなすべきかということを、様々に異なる経済主体、臣民に対して説明しなければならなくなり、全ての臣民の間にできる限り広く一様に普及するような経済的な知がなければならなくなり、それに関してちょっと考えただけでも、経済プロセスの全てを知ることなど誰にもできはしないから、そんなことは不可能なことがわかりそうなものだが、それに対してアダム・スミスの見えざる手は、これとは全く逆で、完全な経済的自由と絶対的専制主義とから成る逆説的な考えに対する批判であり、経済的明証性があり得ない以上、重農主義的な意味における主権者はあり得ず、重農主義的な意味における専制主義はあり得ず、アダム・スミスの理論と自由主義理論を政治経済学の始まりと呼ぶのであれば、経済学は、その始まりからすでに、統治の合理性のようなものにとっての行いの指針ないし完全なプログラムであるべきものとして自らを提示することは決してなく、政治経済学は確かに、統治を行う人々が考慮に入れるべき認識の一つの様態であるが、しかし、経済学は統治の学ではあり得ないし、統治は経済学を、自らの原理、法、行いの規則、内的合理性とすることはできないし、経済学は統治術に対して側面的な学で、経済学によって統治しなければならず、経済学者たちのすぐそばで統治しなければならず、経済学者たちに耳を傾けながら統治しなければならないとはいえ、経済学が統治の合理性そのものとなるなどということは、あってはならないこと、問題外のこと、不可能なことだそうだ。3月4日「利己的な利害関心の効用」これまでにフーコーの講義集成の第8巻を何回か読み返してきて、結構この辺のところで述べられている内容が、多くの人が気づいていない、経済活動からもたらされる社会的な効果なんじゃないかと思われるから、その部分を要約してみるが、『人間精神進歩史』の中でコンドルセは次のように語っていて、一つの社会の一般的システムから孤立した、一人の個人の利害関係があるとして、社会の中の一人の個人について、その個人だけのものであるような利害関心を考えてみると、一つの社会の内部にいるだけでなく複数の社会の一般的システムの内部にいる誰かの、そうしたもっぱら個人的な利害関心は、二つの特徴を示していて、第一にそれは無数の事柄に依存する利害関心で、そのような個人の利害関心は、彼がそれに対して何もすることができず彼が予測することも不可能であるような自然の偶発事に依存し、またそれは、多少とも遠く離れた政治的出来事にも依存し、その個人の喜びは、彼をはみ出しいたるところで彼を逃れ去るような世界の流れに結びつくことになり、そして第二の特徴は、にもかかわらず、見かけの混沌の中で、しかしながら道徳世界の一般的法則によって、一人一人の自分のための努力が万人の利益のために役立つのが見られることになり、以上のことが意味するのは、まず、一人一人が、制御不可能で明示不可能な一つの全体に依存していて、事物の流れであり世界の流れであるような全体に依存していることになり、いわば地球の反対側で起こる最も遠い出来事が私の利害関心に影響を及ぼし、そうした全てに対して私は何もできず、一人一人の意志、一人一人の利害関心、そうした利害関心が実現されたりされなかったりするやり方、こうした全てが、個々人から逃れ去る数多くの要素に結びついて、それと同時に、そうした個人の利害関心は、本人もそれを知らず、それを望まず、それを制御できないままに、一連のポジティブな効果につながるのであり、それによって、その個人にとって有益な全てのことが他の人々にとっても有益となり、経済的人間はこのように、無規定の内在性の領野と呼びうるようなものの中に位置づけられ、一方においては個人を依存という形で偶発事の一式に結びつけ、他方においては、個人を生産というかたちで他の人々の利益に結びつけたり、個人の利益を他の人々による生産に結びつけたりするような一つの領野の中に、経済的人間が位置づけられて、利害関心の収斂が、偶発事の無規定の不調和を二重化し、それを覆い尽くすとされるが、アダム・スミスは『国富論』の中で、国外産業の成功よりも国内産業の成功を目指しつつ、商人は自分自身により大きな安全を与えることしか考えず、また、この産業を、その生産物が可能な限り大きな価値を持つようなやり方で方向づけることによって、彼は自分の儲けしか考えないが、この場合においても、他の多くの場合においてと同様、彼は、見えざる手によって、彼の意図には全くない一つの目的を満たすように導かれるのであり、つまり我々は、この見えざる手という問題系の核心にいるということであって、見えざる手、それは、いわばホモ・エコノミクスの相関物であり、というより、ホモ・エコノミクスを、彼から逃れ去りながらも彼の利己主義的選択の合理性を基礎づける一つの全体性の内部において個人的利害関心の主体として機能させる、ある種の奇妙なメカニズムで、人々が、なぜそしてどのようにしてなのかをあまり知ることなく、自分自身の利害関心に従い、そして結局それが万人にとって有益なものとなるということについて、アダム・スミスは語り、人は自分自身の儲けしか考えないのに、結局、産業全体がそこから利益を得るということであり、人々は自分自身の儲けしか考えず、万人の利益を考えることはなく、万人の利益というそのような目的が全く商人たちの関心事とはならないということは、必ずしも最悪のことではなく、私は、その商売において公共の利益のために働きたいなどと望んでいる人々が多くの良い結果をもたらしたのを、一度も見たことがなく、確かにそうした美しい感情は、商人たちの中にはあまりない、ということは、ありがたいことに、人々は自分たちの利害関心しか気にかけることはなく、ありがたいことに、商人たちは完璧な利己主義者であり、彼らのうち公共の利益を気にかけている者は稀で、実際、彼らは公共の利益を気にかけ始めるときこそ、物事がうまく運ばなくなるのだそうだが、別の言い方をするなら、互いに完全に切断された二つの要素があり、集団的利益が確実に得られるため、最大多数の最大の利益が確実に得られるためには、行為者の一人一人が、その全体性に対して、ただ単に盲目であって良いだけでなく、必ず盲目でなければならないということで、ポジティヴな集団的結果が実際に期待されうるようにするためには、一人一人にとってそうした集団的結果のレベルにおける不確かさがなければならず、不明瞭さ、盲目性が、あらゆる経済主体にとって絶対に必要なことになり、経済の世界は主権者にとって不明瞭でなければならないし不明瞭でしかあり得ず、それはすなわち、一人一人が自分自身の利害関心に従うことを経済のメカニズムが含意している以上は、一人一人を自由放任する必要があり、政治権力にとって、自然が人間の核心に刻み入れたこのダイナミズムに介入する必要はないということになり、したがって、統治に対し、個々人の利害関心を妨害することが禁じられ、共通の利害関心のために要請されるのは、一人一人が自分の利害関心を理解し、障害なくそれに従うことができるようにすることであり、それに加えて主権者が、経済のメカニズムに関してその要素の一つ一つを全体化しそれを人為的ないし意志的に組み合わせることを可能にするような視点を持つことも、やはり不可能であり、この点に関しては、ファーガソンが『市民社会史』の中で、個人が自分自身のために儲けを得れば得るほど、彼は国富の総量を増大させる一方で、行政が深い巧緻によってこの対象に手を伸ばす度に、それは物事の進行を中断させ、苦情の種を増やすことしかせず、商人が自らの利害関心を忘れて国民的企図に従事する度に、幻覚と妄想のときは近い、と述べているそうで、そしてファーガソンはイギリスとフランスによる植民地化の様態を分析しつつ、次のように語ったそうだが、フランス人たちは、自らの計画、自らの行政、アメリカのフランス植民地にとって何が最良であるかについての自らの定義を携えてやって来て、彼らは大規模な企図を築き上げたものの、この大規模な計画は決して理念としてしか実現されず、アメリカのフランス植民地は崩壊することになった一方で、イギリス人たちは、何を携えてアメリカを植民地化しにやって来たのだろうか、大きな計画を携えてやって来たのだろうか、それは全く違い、彼らは短い展望とともにやって来て、彼らは、一人一人の直接的利益以外のいかなる計画も持っておらず、というより一人一人が自分自身の企図の短い展望しか持っておらず、その結果、産業は活発となり、植民地は繁栄することになったそうだが、したがって、実践として理解された経済と、統治の介入のタイプとして、国家ないし主権者の行動形態のタイプとして理解された経済学は、ともに短い展望しか持ち得ないということであり、もし長い展望、包括的で全体化する視線を持つと言い張る主権者がいるとしたら、この主権者は決して妄想しか見ないであろうということであり、政治経済学は、十八世紀の半ばに、経済プロセスの政治的全体化に関する誤謬推理を告発しているそうだが、この傾向が二十一世紀の現代にも当てはまるかどうかも、何とも言えないところだが、現代でもそうだとすれば、それに気づいていないのは、右は経産省の官僚から左は山本太郎まで幅広い範囲でそうなのかも知れないし、共産党の志位さんなんかが、資本主義経済とは違う経済体制を目指すべきだという趣旨の意見を述べていたかも知れないが、彼の頭の中にあるのは、コンドルセやアダム・スミスやファーガソンなどが否定的に指摘していた計画経済の類いが成功するような経済体制なんじゃないかと想像してしまうが、それとも何かそれとは全く違う画期的な体制をすでに思いついているのかどうかも、今のところは明らかになっていないようだから、それについても何とも言えないわけだ。3月3日「法権利と利害関心の優先度」昨日は共産党の田村委員長が国会で首相の高市に、アメリカとイスラエルがイランを軍事攻撃したことについて、なぜ国際法違反だと非難しないのかと詰め寄っていたが、田村委員長に限らず共産党の方針としてはあくまでも法的な正義の側についているつもりなんだろうが、経験論的哲学では法権利より利害関心の方が優先されることについて、フーコーがそれを述べているから紹介してみるが、ロックとともに現れるイギリス経験論は、西洋哲学においておそらく初めて、還元不可能で譲渡不可能であるような個人的選択の主体をもたらし、還元不可能な例としてヒュームの例が挙げられるが、なぜ君は運動するのか、と誰かが尋ねられると、彼は、私は病気より健康を好むからだ、と答え、さらに、なぜ君は病気より健康を好むのか、と尋ねられると、彼は、病気とはつらいものであり、私は病気のせいで具合が悪くなるのはいやだからだ、と答え、そしてもし、なぜ病気がつらいのかと尋ねられるとしたら、そのとき彼は答える必要はなく、そうした問いは意味のないもので、つらいものであるかそうでないかということが、それ自体、それ以上超えていくことのできないような選択の理由を構成していて、つらいものとつらくないものとの間の選択がいかなる判断にも送り返されず、いかなる推論ないし計算にも送り返されないような、還元不可能なものを構成していて、第二に、このタイプの選択が譲渡不可能な選択であるということについて、譲渡不可能とは、以後一つの選択を別の選択によって置き換えることができなくなるという意味ではなく、もし病気より健康が好まれることがあるとしたら、死より病気が好まれることもありうるし、その場合には病気が選ばれることもありうることが十分可能であり、また、私は自分が病気であって別の人が病気でないことを好む場合もありうるし、自分自身が病気になるよりも最愛の人が病気になるのを知ることの方がよりつらく感じるだろうという事実から、つらいかつらくないか、つらいか心地よいかに関する私の感情こそが、最終的に私の選択の原理となり、ヒュームの有名な格言に、自分の小指の切り傷が他者の死より好まれるべきであるという考えを私に強いることができるものは何もない、というのがあるらしく、これは主体との関係において還元不可能であり、譲渡不可能な選択で、個人的で、還元不可能で譲渡不可能な選択の原理、原子論的で無条件に主体自身に準拠する選択の原理、この原理こそ、利害関心と呼ばれるもので、これに対してブラックストンは、社会契約に関する問題を提起するとき、なぜ人々は契約したのだろうか、それは、彼らはそうした契約に利害関心を持ったからで、一人一人の個人は自分の利害関心を持っていて、契約以前の自然状態において、絶えず利害関心が脅かされていて、そうした利害関心のうちのいくつかを守るために、他のいくつかを犠牲にせざるを得ず、直接的なものが、それよりも重要なもののために犠牲にされたり、場合によっては先延ばしにされたりすることになり、要するに、利害関心はここで経験論的原理として現れ、このとき形成される法的意志、そうした契約を通じて構成される法権利の主体は、やはり利害関心の主体だが、鈍化された利害関心で、打算的となったり合理化されたりした利害関心の主体であり、法的意志と利害関心とが混ざり合い絡み合って互いに相手を生み出すという、少々弛緩した分析について、ヒュームはそれでは駄目で、問題はそれほど単純ではなく、なぜあなたは契約するのか、それは利害関心によってであり、もし自分が一人きりで他の人々とつながりを持たないとしたら、自分の利害関心が侵害されるであろうということに気づくからだ、と言うが、しかし、ひとたびあなたが契約したならば、なぜあなたはその契約を守るのか、法学者たちは、とりわけブラックストンは、ひとたび個人すなわち利害関心の主体によって契約することが有利であると認められたならば、契約の義務は一種の超越性を構成し、それによって主体はいわば従属的となり制約を受けて、その結果、利害関心の主体が法権利の主体となり、契約に従うことになる、と述べたのに対して、ヒュームは、全くそうではなく、実際には、あなたが契約に従うのは、それが契約であるからではなく、契約の義務があなたをとらえるからでもなく、契約した途端あなたが利害関心の主体であることやめて法権利の主体となってしまったからでもなく、あなたが契約を守り続けるとしたら、それは、ただ単に、あなたが次のような推論を行うからで、もし仮に我々が我々の契約を守らないとしたら、我々がかくも大きな利点を引き出している我々の同胞との商取引にいかなる安心もないということになり、つまり、契約が守られるのは、そこに契約があるからではなく、契約がある方が有利だからであるということになり、契約の出現が、利害関心の主体を法権利の主体に置き換えたわけではないということであり、契約によって構成されたのは、利害関心の計算の中で、最後まである種の利害関心を提示し続けることになる一つの形態、一つの要素であり、もし契約がもはや利害関心を提示しないということになれば、何ものも私に対して契約に従い続けることを強いることはできなくなり、したがって、利害関心と法的意志とが交代することはなく、法権利の主体が利害関心の主体に取って代わることはなく、利害関心は法的意志に対して還元不可能であり、しかも法権利の主体と利害関心の主体は、決して同じ論理に従うものではなく、法権利の主体を特徴づけるのは、法権利の主体が最初に自然権を持っているということであり、実体的なシステムの中で法権利の主体となるのは、そうした自然権を譲渡し放棄するという原理を受け入れたときであり、権利の制限に同意して移譲の原理を受け入れたときで、法権利の主体は、定義上、否定性を受け入れる主体、あるレベルにおいていくつかの自然的で直接的な法権利を保持する主体である一方で、別のレベルにおいてはそうした法権利を放棄することによって自らをもう一つ別の法権利の主体として構成し、それを第一の主体に重ね合わせるような主体であり、第一の主体に対する第二の主体の超越性の存在、二つの主体の間の否定性、放棄、制限の関係、こうしたものが、法権利の主体の弁証法ないしメカニズムを特徴づけることになり、こうした動きの中で、法律と禁止事項が出現するのに対して、利害関心の主体の方は、それと同じメカニズムに従うものでは全くなく、一人一人の個人に対しその利害関心を放棄せよと要求されることなど決してなく、一人一人が自分自身の利害関心に従い、それを最大限に推し進め、そこから出発して、他の人々の利害関心は、ただ単に保存されるだけでなく、まさにそれゆえに増大することになり、それは利己主義的メカニズム、直接的増大のメカニズム、いかなる超越性もないメカニズム、一人一人の意志が自然発生的にそして意志的ならざるやり方で他の人々の意志および利害関心と調和するようなメカニズムであり、これは、契約の法理論に見出されるような、放棄や超越性や意志的なつながりをめぐる弁証法から、最もかけ離れたもので、市場と契約とは正確に逆のやり方で機能し、実際にも互いに異質な二つの構造があるということであり、国際法を守れと主張する共産党の田村委員長が利害関心にとらわれている首相の高市に向かっていくら執拗に説法を試みても無意味なようにも感じられる一方で、共産党の関係者の方でも、この機会にその種の国会を舞台とした政治パフォーマンスを派手にやってみせることによって、左派リベラル勢力の中で支持層を拡大したいという利害関心に従って行動しているようにも見えてしまうから、実質的な効果や成果などあまり期待できないような空回りのやり取りに見えてしまったのだが、国際法とやらにしても、それがあることによって利益が得られる限りで守られるだろうが、それがあることによってアメリカやイスラエルの利益が阻害されるようなら、普通に考えて、イラン政府の核開発が存立危機を招くとか、イラン政府が国内の民衆を弾圧しているとか、軍事攻撃を正当化できる材料を提供してくれたわけだから、それを利用しない手はないだろうし、利用価値のある石油施設にはあまり被害が及ばない範囲内で攻撃したくなると理解するのが無難な感じもするわけだ。3月2日「終焉の世界」相変わらず何だかわからないまま、全ての関係が一つに絡み合ってきたような気もして、そんなことはありえないとは思うが、今まで読めていなかった箇所が読めてきたから、今までとは印象が違うのかも知れず、そしてどこの世界でも終わりの物語に囚われた者たちが、その語り部となって終焉をめぐる物語を世に広めようとするのだが、古くは新約聖書のヨハネの黙示録がかなり有名だが、以前からその兆候があったにしても、今や世界最大級のヘッジファンドの創業者で著名投資家のレイ・ダリオでさえも、何やら終わりの物語を世に広める語り部となりつつあるようで、この度は日本経済の終わりを予言したらしく、そちらの方面で話題となっているみたいで、投資系ユーチューバーの人もそれを取り上げていたが、もちろんそれはホピの予言やマヤの予言などとは違って、オカルト方面の胡散臭い予言ではないし、正確には予言でさえもなく、このままではこうなるからこうしなければならないという提言の類いなのだろうが、思い返せば小松左京の『日本沈没』が話題となった時期が、確かバブル崩壊の二十年近く前だから、だからまだ日本の崩壊には間があるなんて、たぶん何の根拠もなく、SF小説とは何の関係もないだろうが、理屈や論理に従って結論に至ってしまうのもまずいのかも知れず、一つの理屈や論理から導き出される定型的な物語に意識が囚われることになってしまい、そこから予言のような結論が出てきてしまうのだが、覇権国家の盛衰のサイクル論というのも、イマニュエル・ウォーラーステインのパクリなのかと思い、それをAIに訊ねてみると、レイ・ダリオの「覇権国家の盛衰のサイクル論(ビッグ・サイクル)」は、イマニュエル・ウォーラーステインの「世界システム論」や、ポール・ケネディの「大国の興亡」といった古典的な歴史研究・社会学の理論と類似した視点を持っていて、しかし単純な「パクリ」というよりは、歴史的事実を独自の視点(投資・経済モデル)で再解釈・分析した「現代的なアップデート版」と捉えるのが妥当だそうで、類似点として、ダリオの『変化する世界秩序』で提示されたサイクルは、ウォーラーステインの理論や歴史上の経済循環論と多くの類似点があり、国家や覇権は永遠ではなく、上昇・成熟・衰退のサイクル(ビッグ・サイクル)を描くと主張する、循環論的視点と、覇権の盛衰が債務サイクル(お金・債務、金融)と結びついているという、経済基盤の認識と、覇権国家の末期に富の不平等が激化するという、富の集中と格差の視点が類似している一方で、ダリオの独自のアプローチである相違点は、ダリオ自身、このアプローチが「歴史に基づいた投資家の視点」であることを強調しており、学術的な理論とはアプローチが異なるそうで、ウォーラーステインはマルクス主義的アプローチ(資本主義システム、中心と周辺)を重視するが、ダリオは「貨幣・債務サイクル」と「国内の金融の仕組み」を最大要因として挙げ、ヘッジファンド創業者らしい「債務」と「経済」へフォーカスした視点で、五百年間の歴史を「5つの主要な力(債務、国内政治、国際秩序、自然、技術)」に分解し、数値データ(デット・インデックスなど)を用いて定量的にインデックス・指標化して測ろうとしていて、過去のパターンを「映画のように」繰り返すと捉え、次にどの国が衰退し、どの国が台頭するかを予測し、ポートフォリオ(投資)に反映されることを目的としていて、また歴史の解釈の違いとして、ウォーラーステインが世界経済全体を構造的に捉え、資本主義がどのように不平等なシステム(中心・周辺)を維持するかを分析しているのに対し、レイ・ダリオは歴史的背景を無視せず勉強しているが、より「メカニズム(原因と結果)」に焦点を当てて、投資家として「次に何が起きるか」を予測することに重きを置いていて、レイ・ダリオの論は、ポール・ケネディやウォーラーステインが構築した「大国の興亡」のフレームワークを、現代的な投資モデルに落とし込んだものと言え、歴史研究の成果を活用しているため、既存の理論の「現代版・実用版」という評価が正しいそうだが、十五年ぐらい前に柄谷行人が出した『世界史の構造』の中では、六十年周期で覇権国が決まっている時期と覇権国が決まっていない時期が交互に繰り返される説をとっているが、1750〜1810年の時期では、前の覇権国のオランダが没落して覇権がイギリスへと移り変わる時期で、そこでは覇権を争っていた国々が重商主義的な経済政策をとっていたが、実態は帝国主義的な抗争であって、イギリスが最終的に勝利して、1810〜1870年まで覇権国でいられて、またそのイギリスが没落して覇権がアメリカへと移り変わる時期が1870〜1930年となるが、この時期が帝国主義時代で、日本やドイツも派遣国争いに参戦していた時期だが、最終的にアメリカが勝利して1930〜1990年まで覇権国でいられて、そうなると1990〜2050年までが、アメリカが没落して次の覇権国を決める争いが繰り広げられている期間に入ってくるが、1990年以後の時代は新自由主義の時代だと区分されるが、その実態は帝国主義的な抗争だと考えられ、柄谷行人によれば、1990年以後、ソ連圏の解体とともに生じた事態は、グローバリゼーションと呼ばれているが、実際は、ヘゲモニー(覇権)をめぐる「帝国主義的」な競争という事態であり、もちろんこの時期、帝国主義ではなく、「新自由主義」という言葉が使われたが、事実上、それは「帝国主義」と同じで、レーニンは、帝国主義段階を歴史的に特徴づけることとして「資本の輸出」を挙げていて、それは、資本が、国内市場が飽和し自己増殖することができなくなったために、市場を求めて海外に向かうことを意味し、そして、海外に出た自国の資本を保護するために、列強は海外に軍事的に進出したそうで、「帝国主義」は軍事的側面よりもむしろ、それがグローバリゼーションであることに注意すべきで、次に、「資本の輸出」は国内政治を大きく転換させることになるが、それは自国の労働者の職や福祉を切り捨てることになり、国際競争のためには、人々の生活は犠牲にされてもやむを得ず、この意味で、新自由主義のイデオロギーは帝国主義のそれと類似し、帝国主義時代に支配的なイデオロギーは、弱肉強食という社会的ダーウィニズムであったが、新自由主義時代にもそれの新版が現れ、例えば、勝ち組・負け組、といった語が公然と語られ、経営者、正社員、パートタイマー、失業者という位階制は、自由競争による結果として当然視され、それによって民衆の不満が高まるから、社会民主主義あるいは福祉国家資本主義的な政策が求められるのだろうが、それをやると国家財政が持たなくなるから、各国ともジレンマに直面しているのだろうが、AIによる帝国主義と新自由主義の違いは、どちらも資本の利益最大化を目指す点では共通しているが、帝国主義は軍事・政治力による領土・植民地支配が主だが、新自由主義は国境を越える金融・市場の自由化による経済支配が主で、前者は物理的・強権的な支配、後者は構造的・間接的な経済支配と言えて、軍事的な侵略や領土の獲得、植民地化などの、直接的な強制力の行使がおおっぴらにできなくなったから、金融の自由化、規制緩和、民営化、市場のオープン化などを通じて、グローバル資本が国境を超えて影響力を及ぼす形態に様変わりしたが、それが見せかけの仮面だとみなすなら、帝国主義が目指す強大な国家と、新自由主義が目指す国際的な金融資本、多国籍企業、国際機関などが、資本主義体制の中で同じように機能していると考えても構わないかどうかも、帝国主義の目的が、原材料供給地や市場の確保、地政学的影響力の拡大で、新自由主義の目的が、資本の自由な移動と、それによる利益の最大化と考えても構わないかどうかも、帝国主義が土地を物理的に支配するのに対し、新自由主義は「市場」のルールを支配する、と理解するとわかりやすいそうだが、とりあえずはそれを自覚しているかどうかはともかく、トランプの言動から窺い知れるのは、帝国主義と新自由主義の両面からアメリカを勝利に導く戦略なのではないかと理解したくなってくるわけだ。3月1日「あまり重要ではない理由」アメリカとイスラエルがイランをミサイルや無人機で攻撃したと話題になっているが、イランの民衆を弾圧する独裁的な政権が崩壊したところで、あまり同情する世論にはならないだろうということを見越した上で攻撃を仕掛けているのだろうが、それはベネズエラの独裁的な左翼政権を攻撃した際にも言えそうなことだが、それが石破が中途半端に良識人ぶっていて、しかも少しは骨のありそうな奴だから、そこが気に入らないから石破おろしを仕掛けたが、高市なら俺たちの味方だから問題ないということと、全く違う事情のようでいて、そこで働いている論理がわかるような気もするが、それ以前に、イランが核兵器開発に成功してしまうとイスラエルの存立危機となるからというちゃんとした大義名分もあるだろうから、そっちの理由の方がもっともらしいのだが、あまり信用できない理由というか論理の方に、何となく現状の世界情勢というか、それが日本の情勢にも関わってくる事情を意識してしまうのだが、世界中の良識派から批判や非難を浴びせられながらも、トランプとその一派がやらかしていることが、良識派ではできないことというか、表向きには良心が邪魔をしてやれないことになるだろうが、そこにマイナスの意義がありそうで、良識派では埒が明かなかったから、それと入れ替わる形でトランプとその一派が登場したわけで、良識派の行き詰まりが、それにとって代わる勢力の出現を許したと言えそうで、ある意味ではそれが左派リベラル的な良識派にとっても好都合であり、自分たちは直接手を下さずに新たに登場したそいつらをひたすら批判したり非難していればいいわけだから、そいつらが一通り暴れ回って、世界秩序をぶち壊してもらった後から、やれやれと呆れたふうを装いながら渋々その後始末を買って出るような登場の仕方が模索されていると穿った見方をしたくなってしまうのだが、そうであるなら、今はそいつらが暴れ過ぎて民衆から支持されなくなって、自滅するのを待っている段階だと言えそうだが、本当にそんなシナリオ通りに事態が進行中かどうかも、そんなふざけた筋書きもぶち壊すような勢いで成り行きが進行中なのかも知れないが、それも表面上ではそう見えなくもない程度で事が運んでいる最中だが、一通り事態が進行してみれば何事もなかったかのように平静が保たれてしまうのかも知れず、結局息苦しさに耐えきれなくなって騒ぎを起こして非常識なやり方で仕掛けた奴らから自滅して退場を余儀なくされてしまうような我慢比べをやっている最中なのかも知れないから、触らぬ神に祟りなしとばかりに無視を決め込んでおくのも賢い態度なのかも知れないが、見て見ぬふりというのも、それも息苦しさをもたらすマイナスの効果を伴った態度である限りで、あまり表立っては推奨できないが、だからといって良識派と一緒になってトランプとその一派に向かってもっともらしい批判や非難を浴びせるのも、何か見え透いた魂胆と共にそうなってしまうと考えるなら、それも何となく抵抗感を覚えるわけで、そう思えばそんなふうには考えられはするが、日和見的な姿勢というのも、それとはちょっと違い、形勢を窺いながらその場で有利な方へつくということだから、否応なく形勢を窺う姿勢には違いないのだが、有利な方へつくというのもちょっと違っていて、何のために形勢を窺っているのかといえば、何か行動を起こすチャンスを待っているというと、その行動が何なのかもよくわからないし、それが何をやるためのチャンスなのかもさっぱり理解できないわけだから、結局のところ、何が何だかわからない現状なのだが、少なくとも現状で主導権を握っているように見える奴らに批判や非難を浴びせている奴らとは違う何かを求めていることは確かなようで、どちらとも敵対しているわけでもなく、そうかといってどちらの味方を装いたいわけでもないところがどっちつかずの煮え切らない態度なのだが、もちろん形勢を窺うことに終始しているうちに行動を起こす機会を逃してしまうのも十分にあり得ることだから、いつまでもそんな煮え切らない姿勢を保っているわけにはいかず、否応なく何かに押し出されるようにして何かしら行動を起こす成り行きに巻き込まれるなら、覚悟を決めてそんな成り行きに従うしかないのだとしても、このまま何の機会にも恵まれずに一生を終えても構わないわけだから、そうなったらなったでそういうことだと思うしかないわけだが、だから自分がこの先どうなろうと今の自分の知ったことではないわけで、現状の中では形勢を窺うただの傍観者に過ぎないと思っているわけでもなく、こうして何かしらもっともらしい見解を述べて、ちょっとだけ事態に関わろうとしているわけだが、そういう意味では見て見ぬふりをしているわけでも無視しているわけでもなく、何となく感想のような内容を述べているつもりなのだが、そういえば二十数年前の世界同時多発テロに続くイラクやアフガニスタンへの攻撃の頃にも、それに関して何かしら述べていたような気もするのだが、それが大量の軍事兵器を消費するにはもってこいの機会だったのも、今回と似たような状況だと言えそうで、それは数年前から続くウクライナやパレスチナなどへの攻撃に関しても言えそうなことで、結果的には生産と消費の経済的な事情が反映しているような気もするのだが、それもイランが核開発をやめてくれないから、それをうまく口実に使って、しかも国内の民衆を弾圧しているという、それをやるにはもってこいの口実を作ってくれたのだから、軍事兵器を大量消費するチャンスが到来したわけだろうし、消費して在庫を一掃したら、また生産する口実ができるわけで、そういう生産と消費のサイクルが世界各地の地域紛争を利用して絶え間なく回っていると現状を解釈してみるのも、人権や人道的な立場からはかけ離れた経済的な事情だけからなら考察できそうだが、それも消費に関する新自由主義理論に従うなら、社会は、ある種の投資と引き換えにして社会を満足させる適合的行動様式を生産するものとして現れ、良い政治が目指すのは、決して、戦争の原因や口実の消滅ではなく、それが目指すのは、戦争する理由や口実の供給曲線と戦争の需要曲線との間の均衡で、社会は、その平和を無際限に必要としているわけではなく、徹底的に戦争する理由や口実を根絶やしにするような規律システムに従う必要は全くなく、一定の割合で全面的な世界大戦にならない限りで、部分的な地域紛争程度の規模の戦争にとどまる限りで大丈夫なのであって、戦争行為の割合を無際限に減少させようとするとうまく行かなくなり、これはまた、政治の本質的な問いが次のようなものになるということでもあり、その問いとは、すなわち、戦争をいかにして無くすべきかという問いでもなければ、いかなる戦争を犯罪とみなすべきかという問いでさえなく、どんな戦争を容認すべきか、さらには、容認し難い戦争を容認し難いものとは何か、という問いになるかどうかも、そしてベッカー流にそれを解釈するなら、どれくらいの程度や規模の戦争が許されるべきなのか、またどれくらいの数の戦争犯罪が処罰されずにおかれるべきなのか、ということが政治制度の問題となるかどうかも、冗談では済まないような問題となってしまいそうだが、どうなるにしても、新自由主義的な思想から導き出されるのは、決して、徹底的に規律化された社会の理想ないし計画ではなく、理想とされているのは、個々人を包囲する法律上の組織網をノルムに関するメカニズムのようなものによって内部から中継し延長するような社会ではなく、それはまた、一般的な規格化不可能な者の排除から成るメカニズムを必要とするような社会でもなく、そうした地平にあるのは逆に、以下のような社会のイメージ、考え、テーマ、プログラムであり、すなわち、差異のシステムが最適化されているような社会、揺れ動くプロセスに対して場が自由放任されているような社会、個々人や少数者の実践に対する容認のある社会、ゲームのプレーヤーに対して作用するのではなく、ゲームの規則に対して作用するような社会、そして最後に、個人を内的に従属化するというタイプの介入ではなく、環境タイプの介入が行われるような社会だそうで、そんな新自由主義的な傾向にフーコーが感応するところがあるらしいのだが、確かにそれらはイランや中国やロシアなどの強権的な民衆管理型の体制を敷く諸国では受け入れ難い価値観なのかも知れず、またそれは、現状のアメリカの国家体制にも部分的には適用されそうだが。2月28日「意味不明な喩え」短期的で一時的なイベントに一喜一憂している人々の忙しなさを、長期的な視点から悠然と構えて嘲笑うかのような態度でいられるわけでもないが、短期的な悪材料を挙げて社会の破滅や衰退や終焉を警告する人も、それが以前からその人が度々主張していることの範囲内であるなら、逆にそれが安心材料のような気がしてしまうのも、その人が囚われている言説的な材料に起因してそうなっていると考えるまでもなく、世の中には制度的にそういうことを警告する役割を担った立場というか、メディア的なポジションが重宝される成り行きが生じてしまうわけでもないが、それによって人生の計画に狂いが生じてくるのが許せないとか、それとこれとがどう関係するのかも、計画は計画として複数の計画が同時並行して互いに絡み合いながら進行中であるとしても、現状の経済動向から思考が無視できない影響を被っていることも確かで、自身の主張を裏づける経済動向を都合に合わせてサンプリングしている自覚もなさそうで、そうすることによってその人の主張が正当化できる範囲内で述べていることだろうから、それはそれで構わないと思うしかないが、しかしその実態がどうなのかというと、経済がそれなりにうまく回っている面があるから、識者が口にする悲観的な言葉とは裏腹な実態がありそうで、だからそれを軽く受け流していられるのかも知れず、しかもそれがどんなに悲惨な経済状態や社会状況の国や地域であってもそうなっている面があるから、言説によって伝えようとしている状況と実態との間に無視できない乖離が生じているわけでもないのだが、そんなことを指摘し始めると何とでも言えるような実態もありそうだから、それを何と言えばいいのかちょっと表現しようがないのだが、最近、実家の有限会社の経理をちょっとだけ手伝う成り行きになってしまって、十数年ぶりにその内容を見てしまったが、相変わらず数人の従業員で給料が二十数万円から四十万円弱の範囲内で回っているようだし、あと月に数万円のパートが2〜3人いるようだが、日本の地方都市ではそれくらいで普通に生活が成り立つのだろうから、その方面の識者がメディアで吹聴する日本経済が破綻に向かって突き進んでいるかのごとき意見とは、かなり感覚的に隔たっているような気がしてしまうわけで、たぶん経済の上澄みの部分では何やらAI革命によって凄いことが起こっている情勢なのだと勝手に想像してみるのだが、全く実感が伴ってこないから、もしかして自分と同じように多くの人々が、メディアで言われているようなことに対して違和感を覚えているのかも知れず、政治によってどうにかできるようなこととはあまり関係なく、普通に経済が回っていそうな感触なのだが、何かを問題視せずにはいられないような、それを誇張したり歪曲するSNSの悪意がこもった投稿に腹を立てたりする政治家の類いも、一部ではそうなっているにしても、それだけで世の中が回っているわけでもないから、また高市が選挙の当選祝いで党所属議員に物品を配ったのを問題視する良識派の弁護士というのも毎度お馴染みの人だから、この人ならこういうことを言うよね、で済んでしまいそうで、大して大騒ぎするほどのネタでもないのに、わざと大げさに騒ぎ立てるように仕向けられた罠に、いったいどれほどの識者やメディア関係者が群がってこようと、そういうことじゃないよ、と苦言を呈する程度でうまくかわした先に待っているのが、国内の政局運営やアメリカや中国などとの外交交渉になるのかどうかも、それもそんなことの延長上で何かしらやるのだろうが、やったからといって、それによって変わることや変えられるようなことも含めて、メディアがその種の話題に関心を持つように仕向けてくるかも知れないが、それがスポンジに水が浸み込む程度の受け止め方だというと、何を言っているのかも意味不明になってしまいそうだが、それとは違って何か地に足がついていないという喩えが何を意味するのかも、そんなことはわかりきっているだろうが、意外とメディアで問題視されるようなこととは無関係な方面から、世の中の主流を構成するような傾向が生じていると考えるなら、それが現状では何なのかというと、炎上、スキャンダル、偏向報道、様々な方面での対立や抗争などが、メディアでは問題視されているとAIは指摘するのだが、その反対の問題視されにくく、かつポジティブ、あるいは実用的な興味や関心を惹く分野に目を向けるように促してきて、まずは人々の生活を豊かにするテーマとして、趣味・教養・ライフスタイルなどが挙げられ、それらは個人の好みが尊重されやすく、炎上しにくい傾向にあるそうで、家庭菜園・ガーデニングについては、植物の成長記録、土いじりなどがおすすめで、精神的な癒しをもたらし、料理・レシピ・お菓子作りについては、美味しい食卓、料理動画、食文化の紹介などが、現代において単なる空腹を満たす情報以上に、心、健康、そして文化的なつながりをもたらす非常に強いプラスの印象を社会に与えているそうで、また読書・映画鑑賞・趣味のコレクションについては、アート、音楽、手工芸品などが、人々の心身に癒やしや活力をもたらすだけでなく、社会的なつながりを深めて、経済や地域文化の活性化に不可欠な役割を果たしていて、これらは創造性を刺激し、多様な視点を育むことで、社会の課題解決や精神的豊かさに寄与しているそうで、さらには旅行・地域の名所・絶景スポットについても、日本国内の隠れた魅力、温泉の紹介などが、地域活性化や観光振興、健康促進において多大な効果をもたらし、有名観光地とは異なる穴場やひなびた温泉の紹介は、観光客に新たな体験を提供し、地域経済に持続的な恩恵をもたらし、そして健康・フィットネスについて、ヨガ、ウォーキング、栄養学など個人的な身体管理が、身体的・精神的な健康を包括的に向上させる非常に有効なアプローチで、これらの習慣は、病気予防、ストレス解消、エネルギー維持など、現代人の心身の不調を整えるために効果的だそうで、他にも自然・科学・基礎研究やその応用としての技術などが、政治的な意見や批判に結びつきにくい、好奇心をくすぐるトピックだそうで、宇宙・天文学については、新しい星の発見、国際宇宙ステーションの情報などが、単なる知識欲の追求にとどまらず、人々の日常生活の向上、技術革新、未来の危機管理、そして人類の持続可能性に直結しているそうで、生物・動物・環境保全については、絶滅危惧種の保護活動、新しい生物の発見などが、単に珍しい生き物を守るだけでなく、人類の生存基盤である生態系の健全性を維持し、将来の科学や産業や経済を守るために非常に重要な意味を持っていて、自然が作り出した豊かな資源と、将来的な科学的・経済的な利用可能性を守るための投資だと言えるそうで、先端技術・AI・ガジェットについては、生活が便利になるツール、ロボット技術などが、人々の日常生活に入り込んできて、人類の活動の役に立つようになり、気象・気候については、季節の移ろいや美しい空の現象などが、人の心に深く響き、時の流れ、感情の揺らぎ、そして生きていることの不思議さを想起させ、人間たちに、今は今しかない、一期一会の感覚や、人生の様々な局面を連想させ、詩や芸術のインスピレーションの源泉となってきたそうで、さらには、ポジティブなニュースや心温まる話が、人々の心を明るくし、共感を生む内容は安心して共有される話題となり、地域貢献のためのボランティア活動として、地域の清掃、子ども食堂、高齢者支援、スポーツの感動ストーリーとして、アスリートの挑戦、競技の魅力、チームの結束、手仕事や職人の技術として、伝統工芸、丁寧なモノづくりなど、また問題視されず、誰もが日常生活で役立つ情報としての、日常の豆知識・ライフハックが、片づけ・収納・掃除のコツ、睡眠・快適な生活術としては、睡眠の質を上げる方法、便利な日用品の紹介などがあるらしいが、これらのテーマは、賛成や反対などの対立、スキャンダル、差別とは無縁であるため、平和的な情報発信や会話において、非常に有用だとAIが勧めてくるテーマであるらしいが、果たしてこれらのアドバイスが地に足のついた情報発信活動の足しになるかどうかも、これらが何の喩えとして機能しているのかを知っている必要があるかどうかも、利用する上で踏まえておかなければならないことかも知れない。2月27日「記憶違いと並行世界」たぶん記憶違いかも知れないのだが、書物を読み返した際に、以前読んだ内容とは違うことに気づいた時には、ちょっとした驚きと共に、知らないうちに自分の過去の記憶が書き換えられているのかとあり得ない疑念に囚われたり、はたまた時間の経過と共に過去が変わってしまったとか、そんなこともあり得ないだろうが、さらには自分自身がパラレルワールドへ迷い込んでしまったかのような気がしてしまうのだが、そんなあり得ない可能性を次々に思い浮かべてみたところで、どうしても腑に落ちない感覚が解消されるわけでもなく、それによって勝手な思い込みや勘違いが解消されたと事態を前向きに捉えれば良さそうなのはわかっているが、何だか気味悪い感覚に囚われたまま書物をさらに読み進んで行くと、そこで何かひらめいたような気がして、それについて語ろうとしているようでいて、それとは全く別の何かについて語ってしまうかも知れないが、世界最大の株式の時価総額を誇るエヌビディアの決算で、これ以上良い業績などあり得ないような素晴らしい業績を叩き出したにも関わらず、それでも株が売られて株価が下がってしまう事態に、困惑を隠せない投資家も多そうだが、それに乗じて空売りで著名な投資家のマイケル・バーリなどがここぞとばかりに難癖やいちゃもんをつけているらしく、それによると将来の収益見通しが危ういそうだが、そうやって現状で起こっている事態をもっともらしく語る者たちに共通の特徴というのが、現状追認型的な言説であるのも当人がそれを自覚しているかどうかにも関わりなく、そうなってしまうのだろうが、そんな言説内容を肯定できるかどうかも、それを受け止める人の立場や利害関係から明らかになるかも知れないが、それが批判的な内容であるなら、批判対象にとって悪い結果が出れば、落ちた犬は叩けとばかりに、かさにかかって批判のボルテージを高めて、そら見たことか、ざまあみろ、と言いたい気満々な雰囲気が感じられて、なるほどと勝手に合点がいってしまうが、それが勘違いな思い込みに過ぎないかどうかも、それに対する反論のような反応であっても、例えばXで町山智浩が東浩紀を批判対象として取り上げて何か呟くのも、なるほどベタな対象を批判の俎上にあげて、お決まりな内容を語るには必要なことなんだと納得してしまうのだが、そんな事例とどうつながるのか、自分でも理解に苦しむことが何なのかというと、法律のエンフォースメントというと、法律を適用することかと考えてしまうが、翻訳者はそのままエンフォースメントという言葉で押し通そうとするのだが、そんな言葉を意識して使うフーコーも、どうしてもエンフォースメントという彼にとっては外来語である英語を使って説明しようとするのだが、個人的主体をホモ・エコノミクスとみなしつつ、もし犯罪を法律によって処罰されるリスクを冒しつつ個人が犯す行動として定義するとしたら、その時には交通法規に対する違反と計画的殺人との間にいかなる差異もなくなり、こうした見地において犯罪者は決して道徳的ないし人間学的特徴から出発してしるしづけられたり尋問されたりしないし、犯罪者は完全にどこにでもいる人物に他ならず、犯罪者は、一つの行動に投資し、そこから利益を期待して、損失のリスクを引き受ける他のあらゆる人物と同様のやり方でしか扱われず、この視点から見るとき、刑罰システムがかかわりを持たなければならないのは犯罪と犯罪者とに二分された現実ではなく、一つの行いであり、そうした行いが、行為者にとって利益が期待されると同時に特殊なリスクを伴うような行動、すなわち、経済的損失のリスクばかりではなく、刑罰のリスクさらには刑罰システムによってもたらされる経済的損失のリスクを伴うような行動を犯罪者は生産するわけで、結果的に刑罰システムは犯罪の供給に対処しなければならなくなるが、法律とは、禁止事項に他ならず、法律の定式化には、ある種のコストがかかり、国会が開かれ、議論が行われ、決定が下されることを含意しているが、法律のエンフォースメントとは法律の強化ではなく、法律の強化以下のものであり、それは各犯罪に対して定められた処罰の量、犯罪の探知を任された機構の重要性、その活動、その熱意、その能力、犯罪者に罪を認めさせて、犯罪者が確かに犯罪を犯したという証拠をもたらすことを引き受ける機構の重要性、その質、裁判官の裁く迅速さの大小、刑務行政が変更したり、緩和したり、場合によっては重くしたりすることも可能であるような、科された刑罰の固定性の大小、こうした全てがエンフォースメントを構成しているのであり、こうした全てが、犯罪の供給に対し、負の需要を形成していて、犯罪市場に対する行動の道具の総体で、この法律のエンフォースメントはニュートラルなものでもなければ、際限なく拡大できるものでもなく、例えばスーパーマーケットで盗難被害の一割を削減することは比較的容易だが、それを10%から5%まで引き下げることも比較的容易だとしても、5%からさらに下げるのが非常に困難であったり、防犯のコストとその成果が割に合わなくなるということになり、また離婚を容易にすることによって情痴犯罪の比率を下げるのにも、いくら離婚を容易にしてもこれ以下には下がらない情痴犯罪の核があるということになり、エンフォースメントにはコストがかかるわけで、パノプティコン(一望監視装置)に象徴される十八世紀にベンサムが夢見た刑法法規および刑罰メカニズムの全体は、結局のところ、たとえそれが現実には無理であるとしても、犯罪がもはやなくなるためのものであり、十八世紀の改革者たちの頭の中にあった合理性の原理が、犯罪の全般的解消を標的にしていたのに対して、消費に関する新自由主義理論に従うなら、社会はある種の投資と引き換えに社会を満足させる適合的行動様式を生産するものとして現れるものであり、したがって、良い刑罰政策が目指すのは、決して、犯罪の全滅ではなく、それが目指すのは、犯罪の供給曲線と負の需要曲線との間の均衡であり、社会は、適合性を無際限に必要としているわけではなく、徹底的な規律システムに従う必要は全くなく、一定の割合の不法行為が伴っても大丈夫であり、逆に不法行為の割合を無際限に減少させようとするとうまくいかなくなり、これはまた、刑罰政策の本質的な問いが次のようなものになるということであり、その問いとは犯罪をいかに処罰すべきかという問いでもなければ、いかなる行動を犯罪とみなすべきかという問いでさえもなく、犯罪として何を容認すべきなのか、さらには、容認しないことを容認し難いものとは何か、という問いになるそうで、これが、犯罪と懲罰におけるベッカーの定義で、どれくらいの数の軽罪が許されるべきなのか、どれくらいの数の非行者が処罰されずにおかれるべきなのか、これが刑罰制度の問題だそうだが、果たして政治方面での疑惑の追及に血道を上げるとは、それに異常なほど夢中になり、分別を失うほど熱中することだと言えるようなことなのかも、その人の立場や利害関係や思想信条などから、いくらでも恣意的に故意に強調したり誇張できるようなことかも知れないし、新自由主義的な見解をそれに当てはめるのもあまり気が進まないにしても、たぶん左派リベラル勢力なら、ベンサムのパノプティコンを比喩として批判に利用するだろうが、犯罪のない世界を夢見るベンサムの思想には共感できるかもしれず、それに対して防犯コストや犯罪を裁いたり処罰するコストを問題視する新自由主義者には共感しないかも知れないし、ベッカーが日本の政治状況をどう見るかなんて、それもよくはわからないが、それに関しては何が記憶違いだったわけでもなく、その先へと読み進めて行った先に、問題の記憶違いかも知れない箇所が待ち構えているような気がするのだが、まだそこまでは読み進めていないので、今のところは何とも言えないのだが、過去に記憶していた箇所が消失しているなら、もしかしたら現時点でパラレルワールドに迷い込んでいることになるとも思えないが、何やら危うい心理状態で焦っているような心境なのかもしれない。2月26日「無視したくなる対象」たぶん同情したくなってしまう傾向に関して、懸命に怒っている人の脇を通り過ぎながら、そうなるのもうなずけるような気もしながらも、何を考えているのかというと、対決の構図とは、政治選挙や紛争において、誰と誰が、あるいはどの勢力とどの勢力が対立・競合しているかという、対立関係の全体像や構造のことだが、そこで何が言われているとしても、かかわりになるのが嫌だからそれを無視している限りで、何となくそれで済んでしまうようなことになってしまい、それをやり過ごしてしまうのは今に始まったことではないのだが、それが良くないのもわかりきっているが、どうしても嫌な感じがしてしまうから、その脇を通り過ぎようとして、何となく罪悪感ややましさを覚えてしまうから、それが嫌な感じの正体かも知れないが、現状で主導権を握っているように見える誰かがすでに詰んでいるとか、そんなことを言いたい人の強がりもみっともないとは思うが、そんなふうにして軽蔑の眼差しで見られている人々が主導権を握っていようといまいと、批判する者たちに向かって、不快感と共に小心者が必死になって皮肉な台詞を言いたげなのも、それも嫌な感じがしてしまうから、そんなことを述べながら小遣い稼ぎをしている輩の脇も通り過ぎなければならないと思うものの、直接かかわってはならないのはそんな輩たちであって、結局上から目線で他人を見下しながら何か言いたげな雰囲気がありそうなのだが、こっちはそれを理解できないわけで、理解しようとする以前に嫌な不快感が先行してしまうから、相手の言っていることを理解するまでに至らないとしても、それをこちらが悪いと言われても、どう答えたらいいのかよくわからずに困惑してしまうわけで、いくらそんな者たちや勢力が世の中の主導権を握っていようと、それをどうすることもできないのだから、それを避けるようにして何か語るしかやりようがないのだが、今もこうしてそれについて語っている最中で、そうなってしまう理由が何だかわからないのも、そうなってしまう成り行きにとらわれているようでいて、しかも他の様々な成り行きにも同時並行的にとらわれているわけで、だから部分的にそうなっているに過ぎず、他がどうなっていようと、それが取り立てて深刻で重大な事態をもたらしているとも思えないのだが、例えば世の中で何かが効いているとか利いているとか、それが具体的な作用となって表れないと、効いているとも利いているとも言えないわけだから、そう感じているとしても、それが何だか示せないような焦ったさを覚えるのだが、だからいくら現状に関して怒っている人がいるとしても、どうしてもその人の脇を通り過ぎながら、知らないふりを装いたいわけで、この感覚が何なのかといっても、いつものように何か違うような気がするだけで、取り立てて堪えているわけでもない感覚でいられることが、自らの行いの無難さを意識させるのかも知れず、しかもその代わりに、どうしても積極的に何か荒唐無稽な妄想を抱いてしまうのも、そうなってしまうと気が楽になるからかも知れないが、そんなフィクションを利用して何をやろうとしているわけでもなく、直接的に起こっている事態が、それに直接かかわっている勢力や、間接的にかかわろうとしている人々の中に入れないと、それを外から眺めているだけで済ましてしまえるから、否応なく巻き込まれない限りは、当事者意識からはかけ離れた傍観者にすらなれないような距離感を保持していられるから、それで構わない態度でもいられて、それとは関係なくSNSで怒りを露わにしているように見えてしまう人の脇を通り抜けられて、なぜかほっと一安心してしまうわけだから、この感覚が何を意味するのかもよくわからないが、その人が何かの障害物となって自らの行手を遮っているように感じられるとしても、そんな誘いに応じるほど若くもないわけだから、今はスルーするに越したことはなく、今まではそれが何かの重石となっていたのだろうから、そんな重石がとれてしまって身軽になったと状況を捉えたくなって、それはかつてツイッターと呼ばれていた頃にも、ひたすら毎日怒っていた数学何とかという誰かがいたのだが、その人もいつの間にかいなくなっているようで、そうやって消えてしまう人の特徴というのが、現状でも主導権を握っている勢力の小判鮫というか、何か粘着質な貼りつき方をしているようでいて、意外とそうでもないようなあっけない外れ方をしながら消えて行くパターンが多く見受けられたわけでもないが、印象に残っているのはそういうあやふやな記憶で、取り立てて他にあるわけでもなく、その人に関して言うべき内容など思い浮かばないのだが、そんなエピソードが何かを産出し続けることの限界を物語っているようでいて、今もそれらを産出し続けている何かが執拗に残っていると思うわけでもなく、今日で全てが変わったり終わったり報われるわけでもないようで、それ以前に今日が全てではないのだから、過去の過ちや誤りを乗り越えた先に待っているのが新たな過ちや誤りを犯し続ける日常の日々だとしても、それでも心が堪えていないようにも感じられて、だから懸命に怒っている人の脇を黙って通り過ぎてしまうのも、それが取り返しのつかない過ちなのか誤りなのか、それとも無難な態度なのかもよくわからないが、成り行きとしてはそうなってしまうわけだから、うまく難を逃れてほっと一息ついていることになりそうで、うまく通り過ぎることができて、そこから何をどうしたいのかも、リアクション芸人ではないのだから、何かこれといってイベントが起こらないと動けないわけでもなく、わかっていてわざとそれをスルーするのも、何かの芸風の類いなのかどうかもよくわからないのだが、何かに合わせて動くのが基本的な人の行動パターンであり、もちろん行動と共に思考もその場の一時的な社会の傾向を正当化すべく、もっともらしい理屈や論理を当てはめようとしているわけだから、そこに人の思考と行動の根本原理を設定しようとしていると考えるなら、それが的外れなような気がするわけで、逆にそんな見え透いた事の成り行きを阻止するために民衆が一致団結する傾向にあると事態を捉えておいた方がよく、それも団結しているように見えてしまうから、そう捉えてしまうのだが、実態がそうではないとすれば何なのかというと、それをもっともらしい理屈や論理を用いて理解できるわけでもなく、メディアで識者が指摘するような説明や解説のもっともらしさに騙されてはいけないと思うなら、そう思っておいても構わないが、その一方で無批判に現状を受け入れられるわけもないと思うなら、懸命に怒っている人の怒りの矛先に何があるのかと考えてみると、多数派がとらわれている行動や言動の支配的な傾向に待ったをかけるべく、その非を咎めているつもりなのだろうが、だからそういう傾向にとらわれている者たちを必死になって非難している最中なのだが、しかもそれに対して多数派に与する多くの者たちが反発して反感を抱くとしたら、それが批判者の思惑通りの事の展開だと当人がそう思っているわけではなくても、社会の集団的な傾向としてはそうなるのも無理はなさそうで、そこで誰かの願望が成就していると考えてしまうのも、その誰かが誰なのかということが、世の支配的な傾向に対して懸命に怒っている当人がそれに当たるかどうかも、どうもそうではないような気がしてしまい、やはりいつものように相変わらず引っかかるものを感じて、黙ってその脇を通り過ぎてしまうのだが、この人の言動に騙されてはいけないと固く誓ってそう思うかどうかも、現時点では何とも言えないところだとしても、要するにうまく都合が良いようにここぞとばかりに言いたいことが言える環境が整ってから、かねてから言いたいことを言い放っているようにも見受けられて、その人の非難の対象となる多数派もここぞとばかりに形成されている今だからこそ、そんなことが言えてしまえるわけで、そんな人もそれらの社会現象の一部として構成されているわけだから、それがそんな情勢に応じたその人の役回りだと解釈してしまえば、なるほどそういうことなんだと理解できるが、それ以前にもそんな社会情勢になる度に、それに対して懸命に怒りを露わにする人が登場して、そんな利いたふうな非難の言葉を言い放ってしまえるわけだから、やはりその脇を通り過ぎながらも、何だかな〜、と心の中でつぶやいて、疑いの眼差しをその人にチラリと向けてしまうわけだ。2月25日「二元論的思考」雰囲気的には呆れてものも言えない感覚なのかも知れないが、それで構わないと現状を肯定しておいても構わないが、とりあえずあからさまには批判はしないことにしておいてから、何か述べられる内容があるかというと、それが似合っていると面と向かって皮肉を言える勇気と知性と心理的余裕があるわけでもなく、別に勇気と知性と余裕を持ち合わせていなければ、そんな姿勢が似合っていると述べられないわけでもないが、いつものように彼らには何かが足りないと思うなら、果たして勇気と知性と余裕が足りないと思うかどうかも、当人たちがそう思うわけでもないらしく、そんな傾向には逆らわないに越したことはなさそうで、現状の成り行きに心身が囚われているのだから、そういう方向で物申していれば、現状に適合した真理を陳述していると捉えておいても構わないのかも知れず、真理陳述とは古代ギリシアのパレーシア(真実の語り)に由来し、自らの信念に基づき、危険を冒してでも真実を隠さず表明する、あるいは客観的な道理を正しく反映する行為を指し、単なる発言ではなく、真実そのものや哲学的・倫理的な隠れなさを明かす真摯な理論的・社会的実践だそうだが、パレーシアとは古代ギリシア語で全てを語るという意味で、批判的かつ真実の語りによって、聞く者を自律的な自己の確立へと導き、真理を語る者が、追従ではなく真実を語ることで、相手の怒りや恐怖を招くリスクを伴うから、危険な言説であり、真理とは、客観的な事物の法則が人間の意識に正しく反映されたものであり、絶対性を持つと意識され、それが現代では、預言者の言説や革命家の言葉、あるいは裁判における事実陳述のように、真実を明らかにする実践として継承されていて、真理陳述は、虚偽や誤謬を退け、隠された真実を明らかにする責任ある行為として位置づけられるそうだが、たぶん権力側や体制側にいる者たちが、それとは真逆の嘘をついているのではないかと疑い、それを追及したり糾弾したりするのが、勇気と知性を兼ね備えた真理陳述行為だと考えてしまうことに、ある程度の正しさがあるとしても、余裕がないから言っていることの正しさを絶対視してしまうような過ちが潜んでいるようにも思われて、そこで言っていることが正しいか間違っているかは、物事を正誤・成否・善悪などの二元論で判断する思考法だから、その表現は、客観的に評価する妥当か否か、適当か否か、あるいは真偽が不明な、嘘か本当かわからない状況など、様々な状況で使われる言葉である限りで、良いことは良い、悪いことは悪いと是々非々で判断することが、しばしば断言を伴って言い放たれる場合も多そうで、そうした二元論的思考が、物事の発達段階が未熟な際に見られる傾向とも指摘されるらしく、白黒、善悪など、複雑な現実を単純化して理解しようとするため、幼児期や認識の初期段階で顕著に見られ、これは心理的な未熟さや、状況の背景にある中間的な要素を理解する能力が発達途上にある際に生じる、認識の発達的・過程的な特徴だと言えるそうで、具体的な特徴としては、幼少期や未知の分野において、物事を良いか悪いか味方か敵かのように、極端に分類することで、それによって安心感を得たり、理解を容易にしようとして、それが成長や経験の積み重ねにより、矛盾や多面性を受け入れられるようになると、二元論的思考から脱却し、より柔軟な相対主義的思考へと変化していき、その一方で、大人の二元論的思考は、単純な対立構造となる二項対立への依存として批判されることもあり、必ずしも成熟した思考とは見なされないそうだが、この傾向は、特に子供の心理発達や、新しい知識体系を学習し始めた初期の段階で、世界を把握する過程において必然的に現れる傾向だそうだが、古代ギリシア・ローマ期が、そこから現代文明へとつながる幼少期の姿だなんて、誰がそう考えているのかというと、それを検索しても出てこないようだが、どうやら記憶違いの可能性が高そうで、それに対して、古代ギリシアは、神話的思考から論理的・科学的思考へ転換した、人類の青年期と評され、ポリスという自由な空間で、哲学、民主政、芸術、スポーツが花開いたこの時代は、未熟ながらも強烈な自己意識と、身体・知性の美しさを追求した西洋文明の形成期であり、古代ギリシアが人類の青年期とされる主な理由は次の通りで、論理的思考への転換が、知の目覚めをもたらし、神話による自然の解釈から脱却し、タレスやデモクリトスなどの自然哲学者たちが、万物の根源を論理的に追求し始め、民主政の誕生が、民衆の自律と社会参加を促し、ポリスと呼ばれる都市国家で、市民が直接政治に参加する直接民主制が誕生し、人間の理想像を目指した身体の美と知の調和が求められ、ギュムナシオンという体育場で身体を鍛え、饗宴(シュンポシオン)で議論を戦わせるなど、肉体と精神の若々しい飛躍が追求され、その結果、自己実現としての芸術・文化が成熟し、ホメロスなどの文学や、調和を重視した美術・彫刻が発達し、この時期のギリシア人は、若者のようにエネルギーに溢れ、未知の事柄に対し好奇心と批判的精神を持って取り組んだ時代と言えるらしいが、その一方で慣習としきたりでがんじがらめの氏族社会だった面もあるらしく、特に初期は、血縁に基づくゲノスと呼ばれる氏族が社会の基本単位であり、伝統的な慣習としきたり、多神教的な共通の宗教が部族の構成員の行動を縛る社会であって、それが前八世紀からのポリス成立に伴って、次第に血縁から地縁へと社会の基礎が移行し、民主政などの政治改革により個人の能力やポリスの法が重視される社会へと変容して行ったそうだが、初期ギリシアでは、父系的な氏族であるゲノスが社会の基本単位であり、共通の宗教的信仰や伝統的な規範、独自の裁判慣習によって結束していて、共通の言語や宗教、外国人への蔑称であるバルバロイと区別されるヘレネスとしての自意識が根強く、血縁や伝承に基づく行動規範が重視されていて、それが紀元前八世紀以降、都市国家としてのポリスの形成や人口増加に伴い、血縁を基盤とする社会から地縁的な社会へと社会の構造が変化し、アテネなどの民主政発展につながったそうだが、どうしても古代エジプトやメソポタミアなどの先進文明地域の周辺地域という立地条件から、氏族社会という遅れた社会形態を脱して、民主主義に基づいた政治体制へ移行した古代ギリシアに憧れを抱いている者たちが、古代中国という先進文明地域の周辺地域という立地条件から、父系的な氏族社会の慣習やしきたりでがんじがらめの日本社会という固定観念に囚われていると考えるわけにも行かないが、そんな時代と地域を超えた文化的相似性にどこまで現代の日本の人々が自覚的なのかも謎な部分だが、また相似性ではなく世界共通の普遍性だと考えてしまうと、まさかそれが魂と肉体の心身二元論からきているなんて誰も考えが及ばないところだが、人間を精神(心・魂)と物質(肉体)という独立した二つの実体から成ると考える哲学・宗教の立場では、肉体は朽ちるが魂は不滅、あるいは物質的な脳とは別に意識が存在するという思想で、古代ギリシアのプラトンや、十七世紀のデカルトがその代表格だそうだが、身体を単なる肉の器や物理的対象、魂(精神)を意識や自己の本質、あるいは生命の根源と切り離して捉え、肉体が死んでも、魂は独立して存在する可能性があると考えられ、プラトンはイデアに基づいて魂を重視して、デカルトは心と体を明確に区別し、脳を研究しても精神は解明できないとしたそうで、キリスト教の死生観や日本の伝統的なお盆の習慣にもこの二元論的な発想が見られ、それと対立する視点として、脳科学の発展などにより、意識や感情、記憶などは神経細胞の反応の結果であり、心と肉体は切り離せないという一元論の立場も現代では一般的だそうだが、それに対して多元論的な思考とは何なのかといえば、ある問題に対して唯一の正解や根本的原理(一元論)を認めず、複数の価値観、立場、論理が並存・許容されるという前提で物事を捉える考え方で、善悪・白黒の二元論を脱し、複雑な構造や多様性を肯定・尊重する姿勢を指し、価値の多様性として、宗教、文化、性別、愛好など、異なる背景を持つ人々の意見を尊重し、対立を容認し、異なる論理や立場が並存している状態を正常とするそうで、正しいか、間違っているかだけでなく、中間のグラデーションや複数の視点を考察し、論理は絶対的なものではなく、領域や文化的な合意によって異なると捉える態度だそうで、この思考は、多様な背景を持つ人々が自由に社会へ参加する民主主義の基盤であり、現代社会の複数性を理解するための重要なアプローチとなるそうだが、それが意外と民主主義を擁護する人々が正しいか間違っているかの二元論に固執している実態があるわけで、しかも民主主義に限らず資本主義に対しても左派リベラル的な思考の矛盾をもたらしている可能性も否定できないわけだ。2月24日「金融知識の活用」現状では何かの揺り戻しに賭けている者がいる一方で、それが揺り戻されずにそのまま落ちて行ってしまうのではないかと恐れている者の方が多いからこそ、現時点の情勢が悲観的な方向へと振れていると思いたいのだろうが、しかもそう思いたいのに、実際に動いている方向が、それとは逆向きに動いているとしたら、いったいなぜそうなってしまうのかと考えてみても、通常で考えられる理屈や論理では説明できないわけでもないが、過去の特徴的な傾向が繰り返されるとも思えない一方で、今が通常の状況なのかというと、恐れている者たちは絶えず非常事態を想定してしまうが、非常事態が常態化していること自体がおかしいわけで、よく考えてみればそうなのだが、では怖がり過ぎなのかというと、それが通常の状況だとしたら、通常の状況でも怖がり過ぎなのだから、状況と感覚の間に乖離が生じているのも通常の状況だと言えないこともなく、そんな状況の中で実際に何かが起これば、それに反応してどちらか一方へ一時的に振れるだろうが、振れた反動も起こるだろうから、そんな揺り戻しに賭けている者がいる一方で、それが揺り戻されずにそのまま落ちて行ってしまうのではないかと恐れている者の方が多いからこそ、現時点の情勢が悲観的な方向へと振れていると思いたいのだろうが、そんなふうに何かが繰り返されている現状の中で、何をどう判断すればいいのかよくわからなくなっている人も多そうで、よくわからないから不安になってきて、そんな不安感が現状の社会の空気や雰囲気を醸し出していると考えたくなってしまって、いつもながらの何の根拠もないいい加減な憶測になってしまいそうだが、何かそれに関していい加減にならないように歯止めとなるような確かな根拠や感触を探しているでもなく、いつものようにAIに頼りたくなってしまうが、一方ではそうなっているとしても、それに対して必ずヘッジが利いている状態となっているから、そんな状態とは、保有する資産や取引において、為替変動、金利、株価下落などのリスクが、先物やオプションなどのデリバティブ取引や分散投資によって実質的に相殺され、損失が最小限に抑えられている状態を指し、主に、保険のように価格変動の影響を回避できていること示すそうで、ヘッジが利いている状態の具体例として、為替ヘッジありの外国投資信託では、円高局面でも為替予約により、為替差損が回避されている状態だそうだが、為替予約は、将来の外貨売買レートを事前に確定させることで、円高局面でも為替差損を回避・軽減する有効な手法だが、将来の換算レートが確定するため、円高による資産減少を阻止できるメリットがある一方で円安時の利益は享受できず、ヘッジコストが発生するから、万能ではないということなのだろうが、株価下落への対応として、下落を予想し、先物取引で売りのショート・ポジションを持っておくことで、現物の損失を補填することもできるが、自分のような素人が普通にやっているのは、リスク分散であり、異なる性質の銘柄を複数持つことで、一つの銘柄が暴落しても全体への影響を限定させているわけだが、大暴落が起これば全ての銘柄が下がってしまうから、そうなれば分散投資も有効ではなくなってしまうだろうが、ヘッジが利いていることのメリットは、それによって安定した運用が可能になり、予期せぬ大きな損失を防ぐことができるわけだろうが、デメリットとしては、為替予約の金利差などのヘッジコストがかかり、円安や株価上昇のチャンスを逃すといった機会損失につながる可能性があるから、ヘッジが適切に機能しているか、その有効性を定期的に確認することが重要だそうだが、この状態は金融取引だけでなく、将来起こり得るリスクへの対策という意味でビジネスシーンでも使われるそうで、その種の専門人が専門用語を駆使してもっともらしく説明する分野なのだろうが、よくユーチューバーなどがリスクヘッジとして貴金属の金に関連する金融商品の購入を推奨しているが、もうすでにだいぶ高騰しているのに、ここからさらに高騰すると踏んでいるのだろうが、金鉱株ETFと金ETFをいったん買って、停滞していた頃に手放してから急騰してしまったから、もうすでに買うタイミングを逸してしまって、あの時売らずに持っていれば、といつもながらの後悔先に立たずな心境となっているので、今さら買えないわけで、馬鹿な素人の典型例でしかなく、その程度で構わないというか、自分の勘がそうさせると思うしかないが、それにしても金を大量に買い込んでいるのが、中国やロシアなどのヤバそうな国々の連中であるだけに、今後何かあった時にどうなるか見ものではあるわけで、普通に考えて有事の金と言われるのだから、有事になったら金の価格が上がるから、というか有事を起こした国の通貨価値が下がると考えておいても構わないのだろうが、しかし有事を起こしているロシアや、これから有事を起こしそうな中国の連中が金を大量に購入しているというのが、引っかかるわけで、そんなロシアや中国と連携しているのがトランプ政権だという陰謀論の類いを状況証拠も絡めて広めたい人も一部にはいるのかいないのか、その辺もあまりひねくれた見方はしたくないのだが、確かにこれから有事が起これば金価格は高騰するだろうが、そんな有事が収まれば価格が下落する傾向もありそうで、今はトランプ政権がイスラエルとの同盟がらみで、金を大量に買い込んでいるロシアや中国と同盟関係にあるイランにちょっかいを出している最中だから、とりあえずイランを叩いて、その背後にいるロシアや中国を刺激して、さらなる有事を起こしてもらうきっかけを作っているのかどうかも、その前にアメリカが有事を起こしているだろうし、地政学的な不安や緊張が高まっているうちは、金価格が上昇しやすいから、株やビットコインなどのリスク資産を売って、金を買う流れになっていそうだが、有事が起きてから買うと高値づかみになるリスクがあるものの、何か微妙に自意識が気づいていないところで勘が働いているような気がする限りで、今までに勘が働いた感じからしても、今後思いがけないことが起こると踏んでいるみたいが、そうなってから、なるほどこういうことだったのかと納得できれば、さらに自分の勘の確かさを信じたくなってしまうだろうが、それがアナリストのもっともらしい分析とは違うレベルで感じ取っていることだろうから、自分以外の他人が信じるようなことでもないのだが、今の自分の現状から言えることがあるとすれば、大した投資金額ではないにしても、米国株のリスクヘッジとして日本株が利いている感じで、もちろん持っている割合としては、米国株の二倍以上日本株を持っているのだから、ヘッジどころではないのだが、実態として米国株から資金が逃避している先の一つとして、日本株にも資金が流入しているのだろうから、わざわざ金や新興国株を買わなくても、日本株を買っておけば間に合ってしまうような成り行きではあるのだろうから、それが今後いつまでも続く保証もないだろうが、だから高市政権の財政拡張政策によって円安・株安・債券安のトリプル安になるなんて、今のところは日本売りにもなっていないどころか、急激な円安局面でもなく、円安が進行していないのに株高傾向にはなっていて、しかも長期金利が上昇して債券安になる傾向にも、ある程度は歯止めがかかっているような状況でもありそうで、トランプが暴れているうちは、そっちに世界中の関心が集まるだろうから、それと比べたら日本の高市政権などに世界の関心が向かうとも思えないし、そういうところでうまく物事が噛み合っている感触なのだが、機会をうまく捉えて的確に投資するとか、素人の自分にはできないにしても、むしろ絶好の投資機会を逃して悔しがっている程度で構わないのかも知れず、有能なユーチューバーの方々が絶好の投資機会を知らせてくれてはいるのだろうが、ちょっとぐらいはそれに従っている傾向もありそうで、ちょっとだけその的確な助言のおこぼれには与っているとしても、その程度で済ませておくことが肝心なようで、調子に乗ってそういう方面へと自意識がのめり込んでしまうことが、危ない兆候なのかも知れず、その辺のさじ加減やバランス感覚が微妙にうまく行かない程度にとどめておけば、かろうじてそこから抜け出せる可能性を残しておくには必要なのかも知れないが、抜け出せたところでどうなるわけでもなく、ただ単に現状に中途半端にかかわっているに過ぎないわけだ。2月23日「ちょっとした小競り合いの顛末」ちょっとしたきっかけから何かの均衡が崩れて、そこから矢継ぎ早に事態が進行して行くかどうかも、今後の情勢次第だが、今のところは何も起こらないし、あちらでもそうかも知れないが、こちらから仕掛けないと何も起こらないわけではないが、何かの仕掛けに反応して、それに対するカウンターとなるように打撃を繰り出したつもりで、それに対して全く反応がないようで、かなり効いているわけでもないだろうから、それが何かの小競り合いに発展しているとしても、そんなやり取りでは何ももたらせはしないと侮っているのなら、それでも構わないような気がするわけで、何ももたらしていないのだから、それが嘘だとは思えないが、嘘でも構わないと思っているわけで、無理を押し通せば遠からず綻びが出始めて、やがて無理した分が負担となって返ってくるだろうから、あとは向こうが自壊するのを待っていればいいとか、そんな虫のいい話でも構わないわけではないとしても、何となく話の流れとしてはそうなるような気がするわけでもないのだが、そんな気がしないというのは、案外そんな予想が外れた方がおもしろそうな予感もしていて、何を予想しているのかというと、今も微妙な雰囲気を醸し出している世界情勢とリンクした日本の政治経済情勢だと思っているのかいないのか、誰がそんなことを思っているとも思えないが、たぶんこういう成り行きになってしまうのも、それに乗じて何か利いたふうなことを述べてしまうのも、何となく笑ってしまうと言ったら、そんなことを言うはずもなく、もっと事態を深刻に受け止めておいた方が良さそうなのだが、それでも笑ってしまうのだから、それが何かの強がりや虚勢を張っていることの証拠かも知れないのだが、呪いというのが気の病なのはわかりきっているが、祟られていると思い込めれば、呪いの効き目もありそうに思われて、呪いや祟りといった超常的な現象が、実際に信じる心や恐怖心や不安といった心理的な要因によって引き起こされる身体的かつ精神的な不調を指すそうだが、今でも結構な人数の者たちに向かって日々弛まず呪いをかけているらしい誰かのことをどう思うかといっても、そんな気を緩めず怠けず粘り強くひたすら執拗に自身の信念につき動かされながら物事に取り組む様子を、一歩一歩着実に努力を続ける姿勢に敬意を表するしかないし、畏敬の念を抱いてみたところで、何でもないことには変わりなく、祟りを恐れる怯えが病の原因になるという考え方や、民間伝承におけるもの憑きなどの憑依現象を単なる迷信として片付けず、それを信じてしまう民衆の心性そのものが問題であり、病だと捉える視点に立っているわけでもなく、呪いを信じることで強いストレスを感じ、それが身体症状として現れているわけでもなく、呪いや怪異そのものではなく、それを恐れる臆病な心が病気を引き起こすと考えているわけでもないし、物理的な呪術の効果よりも、民俗的な信仰や心理的な依存関係に起因する現象だと解釈したいわけでもないのだが、呪いは、その人の心の持ちようや、信仰心から生じる心の病だなんて思ってもいないようでいて、自身に呪いがかかっていることに気づいていない方が、何よりも無難な心象なのかも知れないが、だからといって何も特筆すべき欠点やリスクがなく、誰からも悪く思われないように、相手から当たり障りがない印象を得られることを目指しているわけでもないのだが、わざと馬鹿そうに振る舞って相手に安心感を与える一方で、これとって特徴が薄く記憶に残りづらい心理的傾向へと持って行けるなんて、そんな芸当を身につけているとも思えないし、無理して安心感や協調性や問題のなさを醸し出そうとしても、個性がなく印象に残りづらく情熱が感じられないような装いを身につけているわけでもないのだから、シンプルで、どんな場でも浮かないスタイルを目指すことに何の意味があるとも思えないし、ひたすら波風を立てず、標準的な礼儀作法で接する対応を心がけても、できるだけリスクを冒さず、確実に実行できる計画を立てようとしているわけでもなければ、自身の内面に浮かぶ心象が他人の心象と同じだとは限らないし、相手が特に対処しなくていいように安全であると感じられるように振る舞いたいわけでもなく、振る舞おうとして振る舞えるほどの演技力もないだろうし、それが自然に身についているわけでもないから、別に心象が悪くても、それは仕方のないことだとあきらめるしかないわけだが、何かが足りないわけで、しかもその足りない何かが足りることによっても、結果が同じだとしたら、足りるとか足りないとかとは関係のないところで物事が進んでいるようにも思われてしまうから、それが表情や言動に表れているように感じられること自体が、普通は心の中の感情、気分、または健康状態や心理的な変化が、顔の表情や目つきとして、また言葉の激しさや抑えた口調が、外に向かって現れることを意味するのだろうが、それがわざとでないにしても、誇張された喜怒哀楽、不安、疲れなどの内面的な要素が、無意識に顔に表情として見える形になっているとしても、焦りの色を隠せないとか、何とかして言説の標的となっている者が劣勢に立たされているように表現したい気満々な言い回しに持って行く過程で、実際に焦っているのはそんな言説を弄している当事者になってしまいそうだが、たぶんそこでもマウントを取ろうとしてしまってはまずいのかも知れず、そんなことを考えながらも、否応なく巻き込まれている成り行きに身をまかせるしかないようで、実際、ホモ・エコノミクスについての古典的な考え方において、経済的人間とは、交換する人間であり、交換相手であり、交換のプロセスにおける二人の交換相手のうちの一人で、そこに含意されているのは、有用性という観点から行動様式や振る舞い方を分析することであり、それは必要の問題系にかかわるものとなり、必要から出発してこそ、交換のプロセスを導くことになる有用性が特徴づけられたり、規定されたり、基礎づけられたりすることが可能となり、交換相手としてのホモ・エコノミクス、必要の問題系から出発した有用性の理論が、ホモ・エコノミクスの古典的な考え方を特徴づけるものとなるそうだが、新自由主義においても、確かにホモ・エコノミクスの理論が見出されるが、そこでのホモ・エコノミクスは交換相手のことでは全くなく、それは、企業家であり、自分自身の企業家であって、交換相手としてのホモ・エコノミクスを自分自身の企業家としてのホモ・エコノミクスによって絶えず置き換えることが分析に賭けられるものとなり、自分自身にとっての自分自身の生産者、自分自身にとっての自分の所得の源泉としてのホモ・エコノミクスとなるが、それについてベッカーは、消費について、それをただ単に、交換のプロセスにおいていくつかの生産物を獲得するために購買を行い通貨の交換を行うことであると考えては決してならないと述べているそうで、消費する人間、それは交換における諸項のうちの一つではなく、消費する人間は、消費する限りにおいて、生産者であり、ではいったい何を生産するのかというと、彼が生産するのは、自分自身の満足に他ならず、そして消費を、企業活動のようなものとみなさなければならず、そうした企業活動としての消費によって、個人は、自分が自由にできるある種の資本から出発しつつ、自分自身の満足となるような何かを生産することになるらしいが、何だか屁理屈のようで笑ってしまいそうだが、要するに必要な物資を通貨と交換できない貧困層への同情心をよりどころにして民衆からの支持を当てにしている左派リベラル勢力が、退潮傾向となっているのに対して、企業活動を盛んにして、消費によって自分自身の満足感を生産したい多数派の一般大衆を味方につけた右派保守勢力やポピュリズム勢力が、先進諸国では優勢となっていると解釈できそうだが、その実態がどうなっているのかと考えても、左派リベラル勢力がそれを批判するための餌が絶え間なくメディアによってばら撒かれている現状では、誰もがそれとなく気づいていそうな情勢の中で、彼らがそんな煽り立てを真に受けて批判を繰り返してしまうのを逆批判するわけには行かないわけだ。2月22日「新自由主義における労働の定義」中道の小川代表が高市の施政方針演説に対してコメントしている動画を見て、いつもながらの二項対立的なものの見方だと思ってしまったが、なるほどああ言えばメディアウケが良いんだと、その後のメディアの伝え方を見ながら、改めて感心してしまったのだが、それと関連しているかどうか、微妙にずれるようなことかも知れないが、またもやフーコーの講義から、その要約を紹介してみるが、アメリカ新自由主義の考え方において興味深く思われることの一つが、人的資本理論であり、経済分析がそれ自身の領域の内部において分析が行き詰まったままであった点において、古典派政治経済学は、財の生産は、土地、資本、労働という三つのファクターに依存するが、その中で労働は未踏査のままにとどまっていて、労働そのものを分析してこなかったと言えて、労働を時間というファクターへと押し戻すことによってニュートラル化することに尽力してきたそうで、リカードは、労働の増加とは何か、労働というファクターとは何かを分析しようとして、増加をただ量的なやり方によって、時間的可変項に従って規定して、労働の増加、労働というファクターの変化、市場における労働者数の付加以外の何ものでもあり得ないもの、労働時間という唯一の量的可変項と引き換えに労働の本性そのものがニュートラル化されたということであり、古典派経済学がここから脱出することは決してなく、ケインズのうちに見出される労働の分析も、というよりもむしろ労働に関する非分析は、労働とは生産のファクター、生産するファクターであるが、その用途、活動、現在性において見出すのは、一定の投資水準のおかげにすぎず、その水準が十分に高いという条件のもとに過ぎないのであり、結局のところ、新自由主義者たちの問題は、労働を経済分析の領野の中に再導入することになるが、リカードが労働の分析を全面的に時間の量的可変項の分析に還元してしまったというのが本当であるとしても、その反面、マルクスが労働を分析するとき、労働者が売るのは自分の労働ではなく、労働者は自分の一定時間にわたって自分の労働力を売り、それと引き換えに、労働力の需要と供給の間の均衡に対応する市場の一定の状況から出発して打ち立てられた賃金を得て、その一部が労働者から強奪されてしまうような一つの価値を創造するものとしての労働のプロセスの中に、資本主義の論理を見るわけだが、その論理とは、そのような労働が抽象的なものであって、具体的な労働が、労働力によって変形され、時間によって測られ、市場に置かれて賃金として支払いを受けたものであるということであり、それは具体的な労働ではなく、人間的現実の全体から切断され、その質的可変項の全てから切断された労働で、資本主義の論理は労働に関してその力と時間だけしか考慮に入れておらず、資本主義は労働を商業製品とし、生産された価値の諸効果だけしか考慮に入れていないというわけだが、そのように労働を時間という可変項を通じてしか現れることのないものとして抽象化したのは、現実の資本主義ではなく、資本主義的生産に関して作られた経済理論によるものであり、抽象化は、経済プロセスの現実のメカニズムに由来するものではなく、古典派経済学において考察されたやり方に由来し、古典派経済学が労働をその具体的種別性とその質的変調において分析できず、その理論の中にそうした白紙、欠落、空白を残しておいたからこそ、哲学、人間学、政治学がこぞって労働へと駆り立てられたのであり、マルクスはその代表格なのであり、したがってなすべきことは、現実の資本主義が労働の現実を抽象化してしまったと非難するマルクスの現実主義的批判を継続することではなく、経済学者たちがかくも抽象的なやり方で労働を見るとしたら、彼らが労働の種別化、質的変調の経済的諸効果を取り逃しているとしたら、それは古典派経済学者たちが、経済学の対象を、資本や投資や機械や生産物などのプロセスとしか見ていないからで、ここで新自由主義的分析をその一般的背景のもとに置き直す必要があり、新自由主義的分析による認識論上の本質的変換は、その分析が、それまで経済分析の対象、その対象領域、その経済分析は、所与の社会構造の内部における生産のメカニズム、交換のメカニズム、消費の事実を、それら三つのメカニズムの相互干渉とともに研究していたが、経済分析とはそうしたメカニズムの研究を行うものではなく、競合する諸目的、つまり二者択一的諸目的、互いに重ね合わせることのできない諸目的に対し、希少資源が割り当てられるやり方に関する研究と分析を行うものでなければならないそうだが、この辺が自分にはわかりにくいところなのだが、ロビンズは、経済学、それは人間の行動様式に関する科学であり、つまりそれは、諸目的と、互いに排他的な用途を持つ希少手段との間の関係としての、人間の行動様式に関する科学であると定義したそうで、このような定義によって経済学の任務として提案されるのは、資本、投資、生産といった種類の事物やプロセスの間の関係のメカニズムを分析することではなく、そのような分析では労働はただ歯車として挿入されているだけとなってしまい、人間の行動様式の内的合理性についての分析が欠けていて、労働を経済分析の領野に導入するためには、労働する者の視点に身を置く必要があり、労働を、労働する者自身によって実践され、活用され、合理化され、計算される経済的行いとして研究する必要があるということで、労働する者にとって労働するとは何か、労働活動はいったいどのような選択のシステム、どのような合理性のシステムに従うのか、このような問い、戦略的な合理性の原理を労働活動に投影することから出発して、労働の質的差異が経済タイプの効果を何においてそしていかにしてもたらしうるのかがわかるそうだが、したがって問題は、労働者の視点に身を置くことであり、労働者を経済主体にすれば、労働者が、労働力という形態における需要と供給の対象ではなく、能動的な経済主体となり、人々はなぜ労働するのかといえば、もちろん賃金を得るためであるが、賃金とはいったい何かといえば、賃金とは所得に他ならず、労働者の視点から言えば、賃金とは、自らの労働力の売値ではなく、所得であり、所得とは、資本による生産物あるいは収益に他ならず、逆に、何らかのやり方で未来の所得の源泉でありうるものの全ては資本と呼ばれるのだから、それを勝手に自分が単純化するなら、労働者も資本家であり、むしろ労働者こそが資本家だと言えないこともないが、その辺が、労働者と資本家を二項対立として取り上げてイデオロギーを練り上げるどこかの政党の論理は疑わしいのだが、中道の小川代表も生産者サイドと消費者サイドを二項対立として取り上げて、高市が生産者サイドの事情を強調しているから、こっちは消費者サイドの事情を強調して、それをメディアが小川節が炸裂だ!と持ち上げて、いい気になっているように報道されてしまうと、何だか間抜けな奴だと思われているんじゃないか、と皮肉な笑みを浮かべながら見ている人も多そうな予感もしてくるのだが、それとは関係なく、フーコーが言うには、労働者はいわば一つの機械であり、この辺はドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』でも読んだのか知らないが、坂本龍一も『千のナイフ』という曲があるが、ただしそれは、ポジティブな意味に理解された機械であり、というのもそれは、所得の流れを生じさせることになる機械であるからで、それは所得の流れを生じさせるのであり、所得を生じさせるのではなく、というのも、労働者の能力によって構成された機械は、労働市場において一定の賃金と引き換えに単発的なやり方で売られるわけではなく、実際にはこの機械は、その寿命、その耐用期間を持ち、旧式化したり老化したりするから、この労働者の能力によって構成された機械、能力と労働者とがいわば分離不可能なやり方で結びつくことによって構成された機械、これをある期間の間に一連の賃金を報酬として支払われることになるような機械と見なさなければならず、つまり、最も単純なケースを考えるなら、そうした機械が使用され始めるときには、比較的低い賃金から始まり、次いでそれが上昇し、それから機械の旧式化、あるいは機械としての労働者の老化に伴って下降することになり、そう考えれば、一つの企業に投資される資本に対して市場価格で売られるべきものとしての労働力という考え方の、完全なる対極の概念になるそうだ。2月21日「トランプの違法行為」自分勝手に振る舞うのが自由な状態とは言えないとしたら、許容可能な範囲内で身勝手に振る舞うように仕向けられているとも見えないが、そんな行為や言動が許されるかどうかも、それがちょっとした認識の違いで済むはずもなく、それを過剰に受け止めるわけには行かないとしても、そう行動することが何かの突破口のような気がしてしまうのだから、勘違いでも構わないから素直にそう思っておくしかないわけで、それによってまがい物が一掃されて目の前の視界が開けたと思ってしまうのも、そうなった前と後とで、言っていることが全く変わらないのも、何だかその人の言っていることが信用できないような気がしてしまい、それでも構わないような立場から物申しているつもりなのかも知れないが、こちらもそうなる前から、すでに疑念を抱いているわけだから、そうなってからさらに疑念が深まったに過ぎないにしても、何か適当に物申す立場になると、そんなことしか言えないのかも知れず、だからそういう物言いはそういうことだと受け止めていて、参考意見の一つとしてそんな物言いでも構わないような成り行きの中でまかり通っているのだろうが、それが本来の意味での身勝手や自分勝手とは違うわけもなく、他人の都合や迷惑を顧みない理由でもあるだけに、自己中心的な振る舞いのように感じられるのだが、そこではそうだとしても、それとは違う方面ではそうではないのかというと、それとは違う方面がどんな方面なのかも、にわかには思い浮かばないのだが、身勝手とは他人の都合や迷惑を考えず、自分の都合や欲求だけを優先させる態度のことである一方で、自分勝手な人は自分の欲求にとても素直なので、周りのことは気にせず行動しがちだと、何か微妙な違いがあるかのように語られてはいるのだが、ものは言いようで、言いようによって、何か違いがあるかのように語られている一方で、実質的にはほぼ同じ意味で用いられていると、勝手にそう受け止めておけば良さそうに思われるのだが、少なくともトランプは、自分の都合だけで行動しているわけでもないだろうから、それが身勝手な行為のように言われるとしても、周辺諸国や同盟国に迷惑をかける利己的なことをやっているように見えるとしても、自分の意見や都合を優先する自分勝手な言動であるかのように感じられるとしても、それをわがままだと批判するのもちょっと違うような気がするとしても、わがままは子供の愛らしい様子を含む場合がある一方で、自分勝手や身勝手は、基本的に相手に迷惑をかけて、否定的な意味で使われるそうだが、それに関連して、自己中、利己的、一方的、エゴイスティック、独りよがり、手前勝手などと、トランプを批判する上でその種の言葉がよく使われるかどうかも、普段はあまり気にとめていないので、何とも言えないところだが、たとえ利己的で配慮にかける人や自己中心的な行動をとる人を非難したり注意する際にはそんな言葉が使われるとしても、それが戦略的な配慮から装われた行動や行為や言動である限りは、わざとそう見せかけていると解釈できるかどうかも、普通にそんなふうには見えないわけだから、そんな分析も説得力に欠けるだろうが、それに関する言説と実際に行われているレベルで自分が何かと何かを混同して勘違いしているわけだが、政治として行われているのだから、トランプ一人の意向が反映しているわけでもない限りで、その種の否定的な表現を使った言説は無効なのではないかと考えてしまうし、だからわざとおかしなことを述べて何を伝えたいのか、自分でもよくわからないのも毎度のことだが、言わんとすることが、さらにここから語って行くにつれて自分でもわかってくるかどうかも、やはり何とも言えないところで、それでも何か引っかかるものを感じているのだから、それを述べないわけにも行かないわけで、相変わらずわけのわからないことを述べてしまいそうだが、人は誰でもゲーム脳になっている面も時もありそうで、それが通常言われる悪い意味で言われるようなゲーム脳ではなく、活性状態や興奮状態を伴っている時にそうなっていると考えてしまうと、ゲーム脳を否定的に定義している脳科学者などとは見解が異なってしまうのだが、その否定的な定義によれば、脳科学者の森昭雄という人が二十数年前に提唱した造語だそうで、長時間ゲームに没頭することで、脳の前頭前野の活動が低下し、理性、感情コントロール、記憶力に悪影響が出ている状態を指す概念だそうで、感情の抑制が難しくなり、ちょっとしたきっかけからキレやすくなると共に、無気力、物忘れが多いなどの傾向があると主張されるらしいが、その特徴として、ゲーム中に脳のベータ波が減少・消失し、アルファ波が増大する状態となり、原因としては、脳の前頭前野の機能が低下し、認知症の高齢者と似た脳波パターンを示すとされ、一日一時間以上のゲームプレイでゲーム脳の疑いがあり、毎日長時間行うと脳の反応が低下し、日常的なイライラや生活習慣の乱れに繋がると言われるが、ゲーム脳は医学用語ではなく、根拠が不明確であるとして、疑似科学との批判も多く、ゲームを控える生活を送ることで脳の機能は回復に向かうとされ、症状の改善には運動や、指先を細かく使う作業が効果的とされて、その一方で、適度なゲームはワーキングメモリや空間認識能力の向上など、プラス面をもたらすという研究もあり、この概念はゲーム依存症のリスクや、子供の脳の発達・暴力性との関連性がメディアで報道される際に引き合いに出されることが、二十数年前は確かに多かったのだろうが、今ではコンピューターゲームの類いなど、もはや一般的なメディアの関心事ではなくなってしまったかのようにも思われるから、関心のない人にとっては気にもとめない分野だろうが、そういう類いのゲーム脳ではなく、例えばシドニィ・シェルダンの小説『ゲームの達人』の登場人物たちが囚われている状態がそうだと言えるような気もするが、トランプとその取り巻きたちがビジネスライクに事を進めているのに、それとは別の方面から、漫画の『ドラえもん』に出てくるジャイアンだと言ってみたり、それでもそういう表現を使っている人の取り組んでいる分野では通用しそうだが、首相の高市の施政方針演説の内容を額面通りに受け取って、それを批判してみせる芸にも、退屈している人が多そうだが、それもそれについて述べるにはその内容を額面通りに受け取らざるを得ないのだから、それを批判をする人はそうならざるを得ないと受け止めるしかなく、そんな人を逆批判する筋合いなどないのも、普通にわかりきったことなのだが、戦略的にそういう方向へと誘導されていると考えるのも、そんなことではないとはわかっていても、なぜか結果的にはそうなっているわけで、トランプも高市もそうなってしまうことが、トランプや高市が個々の存在として今後どうなろうが知ったことではないような成り行きに巻き込まれていると見ておくしかないようなことだと考えざるを得ないし、その一方で人権派の憲法学者などが、自身の専門的な領域から何を述べようと、それがビジネスライクに行われていることをビジネスライクではない方面から批判していること自体が、そういう方面から批判しているのだから、そういう方面の論理に照らし合わせれば、何かもっともらしい意見のように感じられるとしても、少なくともビジネスライクに対応するなら、外部の部外者から発せられる雑音だと理解できる範囲内では無視しておいても構わないだろうが、それが全体的な効果や成果としてどうなっているかなんて、それらの物事に関わっている人たちでさえ、そんなことは考察の対象とはならなそうだが、全体としてうまく物事が噛み合っているような気がするわけで、それらに関わっている個々の取り組みが結果的にうまく行かなくても、それで構わないような成り行きがもたらされているのではないかと肯定的に捉えたくなってしまうわけだが、なるほどそういう反応をしなければ彼らの聴衆が納得しないんだと皮肉な笑みを浮かべながら見ているわけでもないのだが、こちらもそんな余裕などない成り行きの中で、何かそれに対して述べるとなると、何となくこうなってしまうような結果しかもたらせないわけだ。2月20日「語りにくさの背景」世の中で推し進められている何に期待しても、結局は他力本願となるような気がして、それだけ自分でやっていることに対して実質的な手応えを得られていないことの裏返しになりそうだが、物事の本質から外れた枝葉末節なところにそうなった理由や原因を探し求めてしまうのも、自身ではどうすることもできない物事の本質には触れたくないことの表れかも知れず、では物事の本質とは何なのかというと、それが単純な作用反作用の法則というか、トータルでゼロとなるようなゼロサム的な力の及ぼし合いだと考えてしまうのも、何だか的外れのように思われて、そうではないとしたら何なのかというと、物理的なエネルギー保存則とエントロピー増大の法則の組み合わせのような結論になるのではないかと想像してみても、それも人間社会の面倒でややこしいやりとりを説明したくないから、物理世界へと意識が逃げ込んでいるような気もして、そこから世界の真理を知れと諭されているとも思えず、逆に世界の真理とは別の下世話で通俗的な方面へと自意識が誘導されているような気がするわけでもないが、しかもそこで何かをわかりかけているのに、もう少しでそれがわかる手前で邪魔されているような、不安を煽られ気を逸らされて、別の方面へと関心が向かうように仕向けられていると被害妄想を抱くような成り行きに囚われているとも思えないが、そんな悪意を伴った意図や思惑を妄想してしまうこと自体が、かなり方面が違うのかも知れず、もっと中立的で無関心な方面から影響を及ぼされて、誘導されて行った先で誰がどうなろうと知ったことではないような、誘導そのものが意味をなさず、目的や目標もないような方面へと自身の活動が持って行かれているように感じられるから、それが自然からの誘導だとしたら、自らの利害とは無関係に従うしかなさそうで、だから何だというわけでもないが、たぶん世間的な期待とは裏腹の事情を伴った何かが進行中だからこそ、それに対して疑念を覚える者たちが、何かしら探偵の真似事をやっているのかも知れないし、しかもそんな真相究明が空振りに終わってしまうからこそ、物事の真相など安易に求めるには及ばないわけで、絶えずメディアを通じて流布される好意的なイメージや評価から、世間的に勝手な期待が生じてしまう一方で、それがプロパガンダやイメージ操作だと批判されると世間的な反発も起こり、実際よりもよく見せるための宣伝や政治的な情報操作が先行していると疑われて、事の真相を見抜く思考力や直感力や観察眼などが試されているわけではなく、真相を知られては困るから試さないでほしいと誰が願っているわけでも、見抜かれないように隠蔽工作を画策しているとも思えないが、そうなった結果からそれを説明する際には、何か一般大衆が気づきにくいような陰謀の類いが巡らされていると仮定すれば、説明がわかりやすくなるわけでもないが、説明する側は何とかして善と悪の二項対立となるような単純で図式的な構図を伴った背景を言説上で構成したいのだろうが、そんな当てが外れると話がこじれてしまい、何か面倒でややこしくて込み入った事情が明らかとなるわけでもないだろうが、そこで説明者の言語能力を超える何かが起こっていることが示唆されるとも思えないし、たぶん説明できる範囲から逸脱する何があるとしても、それが興味や関心の対象外であるなら、そんなことは無視されるだろうから、それで構わないわけでもないが、そうならざるを得ないなら、そんな成り行きに囚われながら事の真相を語るしかないだろうが、実際にこれが何らかの事件の真相だとこれ見よがしに語るユーチューブ動画があるのかどうかも誰の知ったことでもないだろうが、たぶん探せばありそうだと予想しながらも、そんな話の逸脱が許されるのかと反発したいわけでもなく、何かそうではないようなことを語ろうとしていたのだろうが、それにしても誰か自分以外の他人を悪人に見立てて断罪したい気分というのも正義の味方気取りに特有の精神構造に起因すると貶すわけにも行かないから、それどころか資本主義に育まれ養われた大衆市民社会を否定したい気満々に語るのも、世間的な感覚からはちょっとかけ離れた印象を伴ってしまうだけに、なるべくそういう成り行きに持って行かれないように、突然目の前に飛び出してくる言説的な障害物を避けながら語ろうとするややこしさや煩わしさを無視するわけにも行かず、そんなわけのわからない疑念と共に何かしら言説を構成しているつもりになっているようでいて、わざとそれらを言説の中に事の真相として放置しているようにも感じられるから、何だか全体として支離滅裂な内容となっているような気はするが、言いたいことが言われていないわけではなく、言いたくても言えないというニュアンスが伝わってくるように言説を構成しようとしているようでいて、何か取り立てて具体的な事例が説明されているわけでもないから、それらのゲームの中では、批判対象を直接に断罪したり糾弾してしまう者たちから、彼らの負けが宣告されて退場させられてしまうようなルールが、新たに設定されているようにも思われるわけで、それがどういう経緯でそうなってしまったのかも、それを言語ゲームだと見なすわけにも行かない事情が彼らに生じている限りで、事の真相が究明されないままとなってしまいそうだが、後期ウィトゲンシュタインによれば、言葉の意味はその使用や状況によって決まり、言葉は辞書的な意味を持つだけでなく、日常生活における具体的な文脈や役割や行動の中で機能するそうで、言葉を実在の写しとする従来の考え方を否定し、文脈依存の言語理解を提示したらしいが、そんなことをいきなり言われても何のことやらさっぱりわからずちんぷんかんぷんとなってしまうが、そんなはぐらかしに気を取られているうちに、ゲームの勝敗が決してしまったようで、以後は負けた側が不服を申し立てるいと間も与えられないまま、事態が進展している最中なのだろうから、うまくしてやられたと思う間もなく、退場者の存在もやがて世間から忘れ去られてしまうかも知れず、たぶんそんなことにはお構いなく、日常生活の中で絶えず言語の意味と使用が更新されて行った先に待ち受けていたのが、大衆市民社会だと解釈できるわけでもないが、すでに大衆市民社会の中でそんな事態が進行していたわけだから、結果であるよりも過程の中でそんな事態が進行していたはずだが、それが結果としても言えるようなことであって、分析者がいつも物事の結果からそれを理解しようとする限りで、もうすでに手遅れとなっていて、済んでしまった事態を動かせるわけでもなく、言葉では動かし難い現状を何を用いて動かそうとしているのかといえば、彼らが権力や権限を持っているかというと、ゲームに負けた時点で権力も権限も失ってしまったように見えるだろうが、ではゲームに勝った側に権力や権限が付与されるかというと、普通に考えてゲームを主催・運営している組織や団体の側にゲームそのものに関する権力や権限がありそうなのだが、その辺で微妙な力関係の強弱が伴ってきて、必ずしもそうとは限らないところがわかりにくいのかも知れず、そもそも権力の行使や権限の付与がゲームそのものに関係する行為なのかどうかも怪しいわけで、しかもこれから始まろうとしているのが、それとは違う別のゲームでもあるわけだから、それが言語ゲームとどう違うのかも、そもそもゲームと言えるかどうかも、やってみなければわからないわけではなく、やらないかも知れないし、やらなくても、やっているつもりもなくても、勝手にゲームが行われている実態もあるらしいから、その気もないのに勝手にやりたくもないゲームに参加させられていることに気づくわけでもなく、誰も参加しているつもりも気もしないのに、勝手にそこでゲームが成立してしまうとすれば、いったいそれが何のゲームなのかといえば、言語ゲームの類いなのかも知れないが、直接会話したり文章を記したりしている当事者たちにはゲームをやっている自覚などないわけだから、それをゲームだと強引に決めつけるのも、何か屁理屈のような感じがして、気が引けるのだが、そこではゲームという言葉の定義も辞書に記されているものだけとは限らず、その使用や状況によって決まってくると解釈すればいいのかも知れない。2月19日「事態を前向きに捉えること」やっていることが一筋縄では行かないのは百も承知で誰もが各々に取り組んでいる何かがあるらしいのは、確かな感触を伴ってそう思われるが、その一方で、それが偶然にそうなったとしか思えないような思いがけない事態に直面して驚いてしまうのもまれに起こることで、なぜか知らないが否応なくそうなってしまい、そうなる理由がわかっていても逆らえない成り行きにもなるから、そんな方面へと自然に引き寄せられて行ってしまうと、そんな傾向から抜け出られなくなってしまって、そうなることが気に食わなくても嫌な感じがしても抵抗感を覚えながらも、どうやってもそうならざるを得ない事態を受け入れるしかなく、それが自身の能力を超えてそうなってしまうと考えれば、確かにあきらめるしかないだろうが、それでも無駄な抵抗を繰り返しているような嫌な感じがして、あきらめきれずに未練がましく事態に逆らっているようにも感じられて、それをどう捉えたところでみっともない醜態をさらしているようで、何がそうなのかと考えてみたところで、いったんどうにもならない状況へと追い込まれてみないことには、そんな心境にはなれないわけだが、そのどうにもならない状況を、どうにかなるようにしようとしてもうまく行かないから、さすがにそのまま放置したくなってしまうのだが、しかもそんな状況でも利用したくなってくるから、どう利用しているのかも自分でもよくわからないなりにも、なぜかそれを利用して考えているようで、何をどう考えているのかというと、結果的にそうなってみてから、これで良かったんだと思えるようになってしまうのだから、それがどう考えてみても納得が行かないとしても、そう思われてしまう限りで、なぜかうまくやったようにも思われるわけで、大失敗な結果なのに、一方では失敗することに大成功したようにも感じられて、それが何なのかもよくわからないのだが、結局は多くの者たちがまんまと逃げおおせることに成功したのかも知れず、そんなふうに責任逃れができてほっとしている者たちも相当数に上りそうで、もちろんそんな自覚など当人たちにはないだろうが、それで構わないわけで、しかもこれから何をどうやるのかではなく、来るべき事態にどう備えるのかでもなく、もうすでにこんな事態になっているわけだから、そんな自覚もなく対応した結果が、まんまと逃げおおせることに大成功したと結果を都合良く捉えておいても構わないのではないかと、少なくともそんなことまで考える立場でもないらしい自分にはそう思えるわけだが、そんな結果を受けてすでに動き出している成り行きも表向きにはそうではないこともわかりきっているが、それは主導権を握った勢力にまかせておけばいいわけで、あとは意味不明な高笑いと共にのらりくらりで構わないような気がするものの、さすがに間抜けだったのが大成功した側だと逆説的な負け惜しみのように事態を捉えることなどできないものの、それでも大失敗した側が高みの見物を決め込んでいるのを非難する筋合いなどなさそうで、文句も言わずに批判も何もしなければ良いわけだから、ひたすら沈黙を守っておいても構わないだろうし、そんな事態の受け止め方が世間で通用するとも思えないが、それもたぶん通用しないだけに、通用しないならやらなければ良いだけで、それをやらずに済ませられるなら、それに越したことはなく、何かそれについてもっともらしく律儀に検証作業などやらないに越したことはないようにも思われるから、何の検証もしないで結果を放置しておくのも世間的には許されないことであるにしても、成り行き的にはそうなってしまうようにも思われて、実際にはそうはならないにしても、現状ではあり得ないようなことだと思ってしまうのだから、そう思うに越したこともないようで、事の終わりを乗り越えた先に待っていたのが、そんな状況であったわけでもないだろうが、現状が現状を乗り越えるとはそういうことなのではないかとも思われるから、それもそれで構わないようなことなのかも知れないし、少なくとも一世紀後には忘れ去られてしまうような者たちがこれから何をどうやっても、それが大した成果をもたらすようなことでもなく、なぜそう言い切れるのかも、根拠など何もなくても、何となくこれまでの経緯からそう思われるだけで、それが大した成果だと世間的に評価されるとしても、今から百年前にもそう評価されていた何かがあったらしいのだから、それとこれとを比較できるわけでもないとしても、百年単位で歴史を区切るのもおかしくはないが、数字的に区切りが良いだけで、それ以外にこれといって理由などないわけだが、イメージだけで好感を得られていると感じられる限りで、内容など何もなくはないにしても、その内容というのが特に否定的な感触を伴っているわけでもないからこそ、そんな雰囲気に世の中の風潮が呼応していると捉えてみても構わないような気もするわけで、それが何でもないことの証しとなるわけでもないのだが、あとはまんまと逃げおおせた者たちがどれほど黙っていられるかが、事の成否の鍵となると考えるのも、ちょっと違うだろうが、当人たちが逃げおおせたなんてこれっぽっちも思っていないのは誰もがわかっていることだとしても、それも負け惜しみではない範囲内でそう捉えておきたいわけで、でもそれによって強がって見せてはまずいだろうから、あくまでも黙っておくことが前提で成り立つようなポジションなのかも知れず、しかも否応なく存在を無視されるような成り行きへと持って行ければ、そんな役割をうまく演じていることになると思われるのだが、それも自分が勝手にそう思っているだけで、たぶん世間の受け止め方はそうはならないだろうし、その辺も自分の感覚が世間の感覚とはかなりずれていることを物語っているかも知れないものの、それも少なくとも現状の世間の感覚など今は多くの人々が無視できなくても、時の経過と共に、どうでもいい感覚となって忘れられてしまうだろうから、その程度のことだと事態を捉える限りで、やはり世間の感覚とかなりずれた感覚なのだが、今年の日本や世界情勢が、後から振り返れば何かの分岐点だったように思われるなら、確かに現状ではここから別の道へと分岐するような成り行きだとも思われないのだが、人々が選ばなかった別の可能性というのが、それを選ばなかったことが取り返しのつかない過ちや誤りだとは思われない限りで、妥当な選択をしたと自信を持って誇れるようなことかということ自体も、それを誇れるのは妥当な選択などではなく、正しい選択をした時だろうから、そこでもちょっと違うような気がして、しかも正しい選択肢などなかったと結果から言えるような現状なのかも知れないから、それも少なくとも政治的にどうにかできるようなことではなく、経済の方面で進行中の事態に対して、政治が口を挟むべきではないが、口を挟むのが政治の役目なのだろうから、大いに口を挟んでもらえばいいわけだが、口を挟んだからといって、何が変わるわけでもないとは言えないにしても、口を挟むことによって変わるのが経済情勢ではなく政治情勢の方だとしたら、それこそ誰かの思惑通りだと思ってしまうのだが、そこで誰かが誰なのかといえば、まんまと逃げおおせることのできた者たちであるなら困った事態かも知れないが、たぶんそれもそうではなく、誰もそうだとは思えないようなどうでもいい存在であり、何の権力も権限もなく、そんな者が世界を動かしているなんて誰もそうは思わないだろうが、実質的にもそうなのだが、不必要に威張っているから目立ってしまって、ではトランプがそうなのかというと、そうではないとしたら他に誰が威張り散らしているのかと疑うつもりもないが、特定の誰が世界を動かしているわけでもなく、動かそうとして絶えず何かしら仕掛けているのがトランプであることは確からしいし、メディア的にもそんなふうに見せかけられているのだから、そう思っておいても構わないのだが、逆に日本の政治情勢の中で何かが温存されていると考えるなら、それが具体的な政策ではなく、一つの振る舞い方であるように思われて、また一つではなく複数の何かが重層的に折り重なっているようにも思われるなら、要するにそれらが彼らの意志や思考とは違う振る舞いをもたらしているからこそ、未だに結果に至っていないとしても、結果に至る手前で、まんまとそこから逃げおおせたような集団離脱現象が起こったと事態を捉えたいわけで、今のところはそれが意味不明な現象だが、果たして今から数年後にその答えが出るかどうかは、残された者たちの奮闘次第だとも思えないし、それも世間を構成する多数派市民の意向次第なのではないか。2月18日「マックス・ヴェーバーの分析」マックス・ヴェーバーにおける資本主義社会の合理性と非合理性の問題は、AIによれば、近代社会が神秘的なものを排除することによって、合理化を極限にまで推し進めた結果、逆に人間にとって非合理的な結果をもたらすという逆説に焦点を当てたもので、ヴェーバーは、近代資本主義を形式的合理性や計算可能性・効率性の極致と見なす一方で、それが最終的には人間を拘束する鉄の檻になると警告したそうで、ヴェーバーは近代資本主義の根幹にある合理化を、世界が計算可能であり、予測可能であり、効率的にコントロールできるものとして捉えられるプロセスと定義して、近代資本主義は正確な帳簿と計算に基づく合理的な利益追求を特徴とする一方で、伝統、宗教、呪術的要素が排除され、全てが事務的、技術的、数学的に計算可能になり、効率性を高めるために、官僚制的な組織が経済だけでなく社会のあらゆる分野に浸透し、社会そのものを計画的に管理しようとして、個々人の自由が制限されてしまうから、それが人間を拘束する鉄の檻として機能して、ヴェーバーが最も懸念したのは、技術やシステムを活用する合理的な手段が目的そのものになって、人間がその手段に縛られるという非合理な結果が生じるという点で、近代人は、自ら作り出した合理的な組織やシステムである経済システムや官僚制の中に閉じ込められ、自由な精神を失い、機械的に行動することを強いられるようになり、精神なき専門人、心情なき享楽人と呼ばれる、包括的な意味や価値を見失い、ただの機械的な専門業務のみを遂行する人間が出現し、計算の効率性という形式を追求するあまり、そのシステムが何のためにあるのかという実質的な目的である幸福や倫理や意味が問い直されなくなり、最終的には本質的な目的が失われ、合理化の極致として社会が感情や伝統を失うと、逆に神秘主義やカリスマ的指導者など、非合理的なものへ依存する再魔術化の傾向が生まれるそうで、ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、この合理的社会が生まれた背景に、カルヴァン主義などの禁欲的な宗教倫理があったと指摘して、その倫理とは、神に救われていることの証拠を求めるために、世俗的な仕事を天職として邁進し、欲望を抑制し、全てを目的達成のために合理的にエネルギーを注ぐ行動が、資本主義の精神を醸成したが、しかしそれに伴って、かつての信仰という目的が失われ、ただ金銭増加という形式的合理性だけが残ったのが現代である、とヴェーバーは分析したそうで、ヴェーバーが提示した資本主義の問題は、合理的であるはずのシステムが、人間を人間として扱わない、非人間的で非合理な結果をもたらすという点にあり、これは効率性と計算可能性を追求しすぎた結果、人生の意味が消滅するという、現代の官僚制社会にも当てはまる根本的なパラドックスだそうだが、ヴェーバーが言うような官僚制的な組織がこなす事務的、技術的、数学的に計算可能な機械的な業務を、機械人間たちに代わってこなしてくれるのがAI技術になるかどうかも、今後の技術的な進展次第かも知れないが、その一方でマルクス主義者の指摘する資本とその蓄積の矛盾した論理というのも、AIがもっともらしく説明してくれるから、ニヤけてしまうが、資本とその蓄積における矛盾した論理は、マルクス経済学の核心部分であり、資本主義が永続的な拡大を目指しながらも、同時にその構造的な限界と危機を自ら作り出してしまうメカニズムを指し、主な矛盾した論理は、次のような循環として説明され、資本は利潤を求めて剰余価値を生産し、それを新たな資本として再投資する蓄積を無限に繰り返し、この蓄積の論理は、生産力の限界なき拡大を要求するが、同時に、資本家はコストに含まれる賃金を低く抑えようとするため、労働者階級の購買力と消費が生産の拡大に追いつかなくなり、商品は増えるのにそれを買う市場の需要が相対的に小さくなり、商品が売れ残り、過剰生産恐慌を引き起こす一方で、蓄積が加速すると、資本家は競合他社に勝つために、可変資本である労働力への投資よりも、不変資本である機械や原材料への投資を増やし、これにより、生産に占める資本の有機的構成である機械の割合が高まると、剰余価値である利潤を生み出す源泉は労働力であるため、機械が増えて相対的に労働者が減ると、資本全体の利潤率が低下して、投資の意欲が削がれ、蓄積のペースが鈍化し、経済危機をもたらすそうで、また資本の蓄積過程は、個々の資本が互いに競い合い、より大きな資本が小さな資本を飲み込む集中を引き起こして、これにより資本が高度に集積されるが、同時に、機械化によって労働者が解雇され、産業予備軍と呼ばれる失業者の相対的過剰人口が増大して、生産力は増大するが、貧富の差が拡大し、貧困の蓄積と共に、社会的な不安定化を招き、さらにローザ・ルクセンブルクが指摘したように、資本は生産され、売却されることを必要としているが、蓄積が続くにつれて、資本主義的な市場内部だけでは再投資された剰余価値を全て実現するために利潤として回収することが困難になり、拡大再生産を続けるためには、資本主義化されていない外部市場である非資本主義地域を併合し続けなければならないから、その結果、帝国主義的な軍事進出や海外市場の開拓が不可欠になるそうで、資本の蓄積は、拡大ー過剰生産ー利潤の低下・恐慌ー再編というサイクルを繰り返し、このもっと資本を増やしたいという欲求が増やせば増やすほど利潤が出にくくなるという矛盾を孕むことこそが、資本集積の限界と危機を本質的に限定している論理だそうだが、ヴェーバーやマルクス主義者の指摘がごもっともな指摘ではあるにしても、主張のある面では正しいという、まるでれいわ新選組の人たちが言っていることのように感じられる限りで、たぶん全面的に正しい主張などできない限りで、部分的には正しい主張が可能である範囲内でもっともらしく感じられるわけで、それを全面的に正しいと錯覚して信じてしまう人々が、れいわ新選組の支持者になってしまったり、ヴェーバーやマルクス主義者の言っていることを真に受けてしまうのだろうが、少なくとも自分がそれらの主張に対して反論できるかどうかというよりは、彼らの主張通りになった結果が、一応は世界各地で実際に起こったのだろうし、実際に起こっている最中かも知れないし、これからも起こり続けるかも知れないのだが、起こり続ける経過の中で人々が生きているわけで、だから全面的にそうなっているわけではないし、全面的にそうなった結果がもたらされているわけでもないのだが、それに対して彼らは全面的にそうなるだろうと予言したいわけで、それはこのまま高市政権が続いて行ったら日本経済が破綻すると危機感を煽る者たちにも言えそうなことなのかも知れないが、それに関して示唆に富んだ事例があるかというと、何となく思い浮かんだのだが、それが万人に当てはまるわけでもないのは承知で紹介しておくと、JFKの父親で、ジョセフ・ケネディはウォール街の株価大暴落をきっかけにして起こった世界大恐慌をいち早く予見し、資産を売り抜けて巨万の富を築いた伝説の投資家として知られて、1920年代の後半の狂騒の20年代において、市場に一般大衆や素人が熱狂して参入している状況を危険視して、有名な逸話では、靴磨きの少年から株の助言を受けたことで、こんな素人までが株を買っているなら今が天井だと悟り、保有する株式を全て売却し、株を売り抜けただけでなく、さらなる株価下落に賭けて空売りを行い、大暴落で巨額の利益を上げて、株式市場から引き揚げた資金を不動産や安全な政府証券に投資して、資産を保護・強化したそうで、こんなのは誰もが知っている有名な逸話だろうが、要するにヴェーバーやマルクス主義者やれいわ新選組やこのままでは日本経済が破綻すると危機感を煽っている識者の言った通りになっても、なおそれでも構わないどころか、それを利用して社会の中で有利な立場を占めようとする人々や勢力もいるわけだから、賢い者たちは今も虎視眈々とそんな機会が巡ってくるのを待ち構えているような気もするわけだ。2月17日「シュンペーターと新自由主義の違い」歴史上で世界の三大経済学者は誰かというと、アダム・スミスとマルクスとケインズが挙げられそうだが、その中でもマルクスは肩書が学者ではないし、左翼活動家崩れの無職の一般人だろうから、他に誰が挙げられるかというと、シュンペーターやハイエクなどが挙げられるらしく、フーコーがシュンペーターについてもちょっとだけ語っているから、前回のハイエクに続いて、シュンペーターも紹介してみるが、二十世紀後半のドイツで戦後経済復興の過程で実践されて、その後欧米や日本にまで広まった新自由主義における、自由主義的統治術のある種の刷新のような何かに関して、統治術の種別性、歴史的にそして政治的にそこで賭けられているものについては、シュンペーターと対比させることによって把握できるとフーコーは思っているようで、結局、シュンペーターにせよ、レプケにせよ、オイケンにせよ、これらの経済学者たちのすべては、資本主義社会の合理性と非合理性というヴェーバー的問題から出発していて、シュンペーターはオルド自由主義者たちと同様に、次のように考えたそうで、マルクスあるいはマルクス主義者たちは、資本主義社会の合理性と非合理性の排他的で根本的な起源を、資本とその蓄積の矛盾した論理の中に探す点において間違っていて、資本とその蓄積の論理の中に内的な矛盾はなく、したがって、経済的視点、純粋に経済的な視点から見れば、資本主義は完全に生き続けることができる、と考える点においてはシュンペーターとオルド自由主義者とに違いはないが、シュンペーターによれば、実は資本主義は、歴史的に、具体的には、独占へと向かう傾向と切り離されることができず、そうした傾向は、経済的プロセスに起因するものではなく、競争のプロセスの社会的帰結に起因するものであり、競争の組織化そのもの、競争のダイナミズムによって、ますます独占的となる組織化が呼び求められるようになり、したがって、シュンペーターにとっての独占の現象は一つの社会現象であり、競争のダイナミズムに矛盾しないものであるとはいえ、競争そのものの経済プロセスに内在的なものではなく、中央集権化への傾向があり、つまり、経済を行政と国家にますます近くなる決定の中心に組み込もうとする傾向があるということで、これは資本主義の歴史的断罪であり、しかし矛盾という観点からの断罪ではなく、歴史的宿命という観点からの断罪だが、シュンペーターにとって、資本主義とは、そうした集中を避けることができないもの、つまり、自らの発達の内部そのものにおいて、一種の社会主義への移行が避けられないものとなり、というのも、シュンペーターにとっての社会主義とは、中央官庁が生産手段と生産そのものとを管理できるようになるシステムと定義されていて、したがって、社会主義へのこうした移行が資本主義の歴史的必然性の中に組み入れられるが、しかしそれは資本主義経済に固有の非論理性ないし非合理性によるものではなく、競争市場によってもたらされる組織上および社会的な必然性を原因とするものであり、そして社会主義への移行にはもちろん、ある種の政治的コストが伴うことになり、これについては確かにそれは高くつくかもしれないが、全く支払い不可能であるわけでもなく、全く耐え難いものでも修正不可能なものでもなく、その結果一つの社会主義社会へと向かうことになるが、当然のことながらその政治構造は、ある種の代償を避けるために、つまり全体主義という代償を避けるために、高度に監視され練り上げられなければならず、それが現代では中国政府が目指している監視社会と重なり合うものなのかどうかも、何とも言えないところだが、このような資本主義についての分析であると同時に歴史的かつ政治的予測であるような分析、シュンペーターのペシミズムと呼ばれたものに対し、オルド自由主義者たちはシュンペーターの分析を逆に辿り、次のように語るそうで、第一に、社会主義体制のもとで支払わなければならないことになるとシュンペーターが語っている政治的コスト、自由の喪失という政治的コストは、それが受け入れられうるものであるなどと信じてはならず、そうしたコストは受け入れられうるものではなく、なぜかといえば、それがただ単に計画化タイプの経済に近接した不都合ではなく、計画経済には不可避的に政治的コストがかかり、すなわちそこでは、自由という代償を支払うことが不可避で、その結果いかなる修正も不可能になり、いかなる整備を施したとしても、計画化の必然的な政治的帰結として自由の喪失を回避できず、ではなぜ計画化においてはそうした自由の全面的喪失が不可避なのかと言えば、それはただ、計画化が一連の根本的な経済的誤りを含んでいるゆえに、そうした誤りを不断に改める必要があるからで、そして計画化に内在的なそうした誤りないし非合理性を改めるには根本的自由を除去することが不可避であるからで、そのような計画化の誤りを避けるにはどうすればいいのかと言えば、それがまさにシュンペーターが資本主義の中に認めた傾向、彼が見てとった通り経済プロセスの組織化や中央集権化や吸収への傾向が、修正を施されるようにすることによって、それもまさしく、社会介入によって修正を施されるようにすることによってであり、社会介入、社会本位政策、法的介入主義、法治国家ないし法の支配の法則のような厳密に形式的な一つの法制によって保護された、経済の新たな制度的枠組みの定義、こうしたものが、資本の論理ではなく資本主義社会に実際に内在する中央集権への傾向を消し去り、吸い取ることを可能にしてくれるはずで、そうしたものこそが資本の論理をその純粋さにおいて維持することを可能にするだろうし、その結果、厳密な意味での競争市場を機能させること、すなわち、現代社会において確認された独占の現象、集中の現象、中央集権の中で転倒するリスクのないような競争市場を機能させることも可能にするだろう、というわけだそうだが、大して文章構成力もない自分が、うまく要約できずに、微妙に不明確なところも結構ありそうで、とりあえず組織が中央集権化すれば、権力も一点に集中する傾向が出てきて、それに伴って融通も利かなくなって、何事も上の言う通りに事を進めることになれば、自然と計画通りに事を進めなければならなくなると共に、やっていることの自由度も制限されるようになるだろうから、計画の途中で下っ端が計画の誤りを発見しても指摘しても、下っ端には権力や権威がないから無視されることになって、一度動き出した大規模な計画はそれが破綻するまで突き進んで、途中で止められなくなる傾向にはなりそうで、そういう意味では計画化が根本的な誤りを含んでいることになるから、途中で絶えず誤りを指摘して修正するための機構も欠かせないことにはなりそうで、それが企業間競争の中で起こることであれば、計画が途中でうまく行かなくなれば、業績が低迷して収益も下がって株価も低迷してしまうから、そんな企業が倒産しても、他の企業が同業他社として同じような事業を推し進めるから、それで経済的な面では間に合ってしまうことは確かで、また資本とその蓄積における矛盾した論理は、主にマルクス経済学において、資本主義が成長を追求すればするほど、自らの基盤を崩すような問題を引き起こすという構造を指して、資本の蓄積は生産力の大発展をもたらす一方で、利潤率の低下、過剰生産、貧富の格差の拡大といった矛盾を内包しているそうだが、確かシュンペーターが絶え間ない技術革新によってそれを克服できるとか述べていたように記憶しているが、その技術革新が現代でも話題となっている、AI革命だとすれば、今後その成否が明らかになるのかならないのか、自分の生きているうちにそれが明らかになるかどうかも何とも言えないところだが、それに関してイーロン・マスクが、一人一人にただで年間千数百万円支給して、仕事するかしないかも自由に選択できる社会が到来するとか、どこかで言っていたらしいが、今のところはそんなことは誰も信じないようなホラ話の類いだと誰もが思っているのではないか。2月16日「ハイエクと法治国家」新自由主義系の者たちが目指していた法治国家とは何なのかというと、法治国家は、専制国家とは異なるものとしての内政国家にも対立し、公権力の行為が、それをあらかじめ制限する法律によって枠組みが定められている国家として、公権力は法律の枠組みの中でしか作動できないということであり、公権力の強制的な性格の原理および起源となるのは、主権者やその意志ではなく、法律の形式であり、法律の形式がある場所で、法律の形式によって規定された空間の中で、公権力は正当なやり方で強制的なものとなり、法治国家においては、普遍的に有効な一般的措置でありそれ自体主権の行為であるものとしての法律と、公権力による個別の諸決定との間に、本性上の差異、効果上の差異、起源の差異があり、法治国家とは主権の表現としての法律上の規定と行政的措置とが、その原理、その諸効果、その有効性において区別されるような国家であり、そこからさらに時代が進むと、ただ単に法律に従って法律の枠組みの中で作動するような国家ではなく、法権利のシステムを持つ国家、法律を持つと同時に、個々人と公権力との間の諸関係を仲裁する司法的審級を持つような国家となるように、市民は公権力に対抗するために、仲裁の機能を担うことになる行政裁判所のような種別化された裁判所に訴えることが可能かつ必要であるのか、それとも逆に市民が公権力に対抗するために、通常の裁判所に訴えることができるのか、という問いをめぐる議論と共に、法治国家は、公権力と市民との仲裁を行うものとしての、行政に組み込まれた行政の影響力を受ける行政裁判所を自ら組織するような国家としてではなく、市民が通常の裁判において公権力に対する訴えを申し立てることができるような国家としてはっきり定義され、法治国家とは、何らかの制度による、市民と公権力との間の司法的仲裁の可能性を持つ国家になるわけだが、ここに自由主義者たちが資本主義を刷新するやり方を規定しようとする際の出発点があって、資本主義を刷新するそのやり方は、法治国家の一般的諸原則を経済法制の中に導入するというものになり、それが表向きには、ヒトラー的国家を拒否するための一つの具体的なやり方であったが、ヒトラーの実践において国家は法権利の主体であることをやめていて、法権利の起源は人民にあり国家ではなく、国家は人民の意志の道具化以外の何ものでもあり得ず、国家が法権利の原理として理解された法権利の主体となる可能性、何らかの裁判所に召喚することのできるような法的人格として理解された法権利の主体となる可能性は、完全に排除されていたので、実際には、経済秩序における法治国家についての探求は、全く別のものに照準を定めていて、それは、当時の民主主義的国家が実践していた経済秩序へのあらゆる形態の法律上の介入、アメリカのニューディールにおける国家による法律上の経済介入、さらにはイギリス型の計画化の全体であり、経済秩序への国家の法律上の介入がありうるのは、法律上の介入が形式的諸原則の導入というかたちをとる場合であり、ただその場合においてのみであるということで、形式的な経済法制のみがあること、これが、経済秩序における法治国家の原則で、法律上の介入が形式的なものでなければならないとは、どのような意味なのかというと、ハイエクがその著書の中で、法治国家ないし法の支配の原則の経済秩序への適用が意味すべきことを定義していて、実のところそれは非常に単純で、法治国家、あるいは形式的な経済法制、それはただ単に、計画の反対物であり、計画化の反対物であるということで、計画とは何かというと、経済計画、それは究極目的を持つ何かで、そこではまず、明白なやり方で成長が探求されたり、ある種のタイプの消費、ある種のタイプの投資を発達させることが求められたり、様々に異なる社会階級間の所得格差を縮小することが求められたりして、明白に規定された経済目的が与えられるということになり、計画においてはそうした諸目標の存在に応じて、修正、訂正、措置の中断、代替措置を、適当であると判断されたときに、求められた効果が達成されるか否かに従って導入する可能性が常に与えられ、計画において公権力は、経済的決定機関の役割をもつものとして現れ、公権力は、決定の原理として個々人にとって代わり、その結果、個々人に対し、例えば一定レヴェルの報酬を超えてはならないなどといったあれこれの義務を課し、公権力はまた、例えば公共事業に投資する経済主体であるという点においても、計画においても公権力は決定機関の役割を果たすことになり、公権力が、経済プロセスの総体を統御しうる主体を構成する可能性が想定されて、つまり国家の大いなる決定機関は、経済プロセスの総体について明晰な意識を持つもの、あるいはいずれにしてもそれについて可能な限り明晰な意識を持つべきものでもあることになり、国家の決定機関は、経済に関する普遍的な主体である、というわけで、それが計画とは何であるかという説明になる限りで、現代では中国当局がそんな感じの決定機関として機能していそうだが、ハイエクが言うには、法治国家は、もし我々がそれを経済秩序の中で機能させようと望むのであれば、そうした計画とは正反対のものでなければならないそうで、すなわち、法治国家は、一般的な性格を持つ幾つかの措置を定式化するかも知れないが、ただしそれらの措置は全面的に形式的なものにとどまらなければならず、決して個別の目的を自らに設定してはならないし、所得格差を縮小させなければならないと語るのは国家の役割ではなく、あるタイプの消費を増大させたいと語るのも、国家の役割ではなく、経済秩序における法律は、厳密に形式的なものにとどまらなければならず、法律は、人々に対してなすべきこととなすべからざることとを語らなければならないということであり、包括的な経済選択の内部に組み入れられてはならないということであり、法律が経済秩序において法治国家の諸原則を尊重するものであるとするなら、固定した諸原則の形でアプリオリに構想されなければならず、生じた諸効果に応じて修正されることの決してないようなものでなければならず、法律は、一つの枠組みを規定し、その内部に各々の経済主体が、自分の行動に対して定められた法律上の枠組みが不変のものであることを知っているまさしくその限りにおいて、完全に自由な状態で決定を行うことができるようにしなければならず、形式的法律は、他と同じく国家をも拘束することになる法律であり、公権力がどのように行動するかを一人ひとりが正確に知ることを可能にするような法律でなければならず、以上からわかることは、経済秩序における法治国家についてのこうした考え方によって、結局、経済に関する知の普遍的主体はあり得ないことになり、実際には、国家は、経済プロセスに対して盲目でなければならず、国家は、経済に関係する全てあるいは経済に関係する現象の総体を、知っていると想定されてはならないし、個々人にとってと同様、国家にとって、経済は一つのゲームでなければならず、経済は規則づけられた活動の総体でなければならず、そこでの規則は誰かによって誰かのために決定されたものであってはならないということであり、それは、極端な場合には誰もその結末を知らない一つのゲームを一人ひとりがどのようなやり方で行わなければならないかを決定する、諸規則の総体で、経済は一つのゲームであり、経済に枠組みを与える法制度はゲームの規則として考えなければならず、法の支配と法治国家によって、統治の行動が、経済ゲームに規則を与えるものとして、形式化されることになり、その経済ゲームを行う者、その現実の経済主体は、個々の人のみ、あるいは企業のみになり、国家によって保証された法的かつ制度的枠組みの内部において規則づけられた、企業間のゲーム、これこそが、刷新された資本主義における制度的枠組みとなるべきものの一般的形式であり、意図的な経済的かつ社会的管理ではなく、経済における法治国家ないし経済における法の支配のこのような定義こそ、ハイエクが、非常に明快であるとフーコーには思われる一節の中で特徴づけているものだそうだ。2月15日「良く言えば悪く言う」悪く言えば、ああ言えばこう言うの延長上で、批判するのに都合の良いことだけもっともらしく主張してみせるのも今に始まったことではなく、思い通りの結果にならなければ、それに合わせて以前からわかっていた問題点を改めて指摘して、それが思い通りの結果にならなかった原因であるように説明してみせるのも今に始まったことではなく、現状を認め難い者たちの言っていることも、そんな言い訳で間に合ってしまうようでいて、何か他に目新たらしいことを述べているのかというと、そうなってしまうのもさもありなんと思われるようなことしか言わないのも今に始まったことではなく、それが彼らの欺瞞を物語っているとしても、その一方で他人の欺瞞を指摘して糾弾するのも今に始まったことではないわけで、そんな現状も肯定しなければならないとは思わないが、否応なく肯定するように仕向けられてしまう現状でもあるようで、少なくとも選挙で投票に行かなかった奴らはあんたらの味方じゃないし、あんたらを支持しているわけでもないことは付け加えておくべきなのかどうかも、何となくそんなことは今さら言うまでもないことのような気がしてしまい、たぶんそんな現状も肯定的に捉えておく必要がありそうなのだが、何をどう言ってみても、良く言えばそう言えるようなことが、悪く言えばそうは言えないようなことになってしまうなら、その辺が言い方次第でどうとでも良い方にも悪い方にも言えそうなことだから、そういうのは相対的に言える範囲内でそんなことを言っているだけのようにも感じられて、そんなことを言っている者たちに同情したくなるにしても、同情するなら金をくれという台詞も、昔のテレビドラマ経由で思い出されるだけに、そんな流行語を生み出したテレビドラマなどまともに見たこともないのだが、今や一時的には負け犬と成り果てたジャーナリストや識者やコメンテーターなどが何を言おうが、何の説得力もないわけでもないのだが、これで彼らの言っていることを信用する民衆も相対的に減って、言葉巧みに丸め込まれる心配もなくなったわけでもなく、その一方で何も変わらない現状もありそうで、相変わらず愚かな者たちを味方につけた愚かな者たちが愚かなことをやっても、それが何になるわけでもないことが証明されたところで、愚かな者たちはそれを無視するしかないが、それに乗じて愚かな者たちが愚かな者たちを批判するターンも回ってくるのだろうが、それ以前に愚かな者たちが賢い者たちでもあるわけだから、愚かだからこそ賢いわけで、また賢いからこそ愚かなのだから、愚かさと賢さが分離できないほど硬く結びついていて、愚かなことが賢いことの証しであり、賢いことが愚かなことの証しでもあるから、一見賢そうなことを述べている者が愚かであるのが火を見るより明らかな場面に遭遇するのがSNSだと言えそうで、理性的なことを述べながらも利いたふうなことも述べているイヤミなユーチューバーなどがその典型例となってしまいそうだが、それを見ながら笑いが止まらなくなるわけでもないにしても、エンタメとしてはそれで構わないのだから、何かそういうところでおかしいと感じるわけでもなく、逆にそれで構わないと肯定したくなってしまって、後からあの時のあれが悪かったと言えるわけだから、良識派気取りの誰かがそんなことを述べる度に欺瞞の度合いも高まって行くプロセスに囚われているような気もして、なるほどその誰かが反面教師の典型例のように思われる度に、そんなことは言わないようにしようと心の中で硬く誓うほどのことでもないのだが、そんなふうにして批判するのに都合が良いことだけ批判する賢くも愚かな者たちが衰退しつつある兆候と共に世の中が良い方へ向かっている最中だと感じられてしまうこと自体が、自分の勘違いなのかどうかも含めて、それをどう捉えたらいいのかよくわからないのが率直な感想なのだが、彼らの化けの皮が剥がれたと思うなら、彼らの批判対象となる者たちはどうなのかというと、彼らとは利害が異なるにしても部分的に限定された範囲内で通用している損得勘定に従って動いているのだから、それはそれでそういうことでしかなく、そういう行動や言動が世の中で通用しているうちは、そうなるのが当然の成り行きだと思うしかなく、果たして今後それが通用しなくなるようになるのかと考えても、考えるまでもなく、そうなればなったで、それとは違うやり方が通用するようになるだけで、そうなればすでにそういうやり方が世の中でまかり通っているわけで、そんなやり方はおかしいんじゃないかと批判する者たちはそれを後追いで批判するしかなく、そうなっている時点で出遅れているわけだから、批判者には全く勝ち目がないわけでもないにしても、常に不利な状況を強いられていると思っておかなければならなそうで、だから彼らの出遅れ状態を嘲笑っても、他人の不幸を喜ぶようなものだから、あまり良い気はしないわけだが、ではそれに対して自分は何を言えばいいのかというと、自分も何かを批判しているのだろうが、それが彼らの批判対象とは重ならないように感じられて、その辺で微妙にずれてくる傾向がありそうだから、それが何なのかと見極めなければならないとは思っているのかもしれないが、未だによくわからないものだから、今のところは無理にそれをはっきりさせる必要は感じられないままに、例えば資本主義の歴史は経済的かつ制度的な歴史でしかあり得ず、マルクス主義的な観点から、資本主義の歴史において決定的なのは資本とその蓄積の経済的論理であるということを認めるとするなら、資本の論理がただ一つしかない以上、実際にはただ一つの資本主義しかないということになって、ある制度はそれにとって有利に作用したが、別の制度はそれにとって不利に作用したなどということを言いうるのみとなって、資本主義が現在陥っている袋小路は、それが結局のところ資本とその蓄積の論理によって最終的に決定されるものである以上、当然のことながら、歴史的に決定的な袋小路であるということにもなり、資本主義のあらゆる歴史的形象を資本とその蓄積の論理に関連づけようとする限りで、資本主義が現在表明している歴史的袋小路によって資本主義の終焉がしるしづけられることになる、なんていうフーコー的なマルクス主義批判をそれほど深刻に受け止められるわけでもなく、最近日本のマルクス主義者がこれと同じようなことを言っているのを聞いて、なるほどこいつらも愚かしくも賢い連中にカテゴライズされるのかと思ってしまったが、しかしもし逆に、経済学者たちによって資本と呼ばれるものが、実際には純粋に経済的な一つの理論に属する一つのプロセスでしかなく、経済制度としての一つの資本主義の内部においてしか歴史的現実を持たないし、持ち得ないとしたら、我々の知る歴史上の資本主義が、資本の論理の唯一の可能かつ必然的な形象であるものとして演繹されうるものではないことがわかるそうで、実際には、歴史上一つの資本主義があって、特異性を持つとはいえ、しかしまさにその特異性を通じていくつかの制度的変容とその結果としての経済的変容をもたらし、それによって自らの前に一つの可能性の領野を開くような、一つの資本主義があるということになり、資本とその蓄積の論理に全面的に準拠している第一のタイプの分析においては、ただ一つの資本主義のみがあり、したがってまもなく資本主義など完全になくなってしまうということになるが、これに対して、もう一つの可能性においては、経済的かつ制度的な一つの形象の歴史的特異性があることになり、その結果、少なくとも少々歴史的距離を取り、少々経済的想像力を働かせるならば、その特異性の前に一つの可能性の領野が開かれることになって、つまり、資本主義の歴史をめぐる戦い、資本主義において法権利や規則にかかわる制度が果たす役割の歴史をめぐる戦いの中には、政治的に賭けられているものがあるそうで、そこでは、矛盾、袋小路、非合理性といった資本主義社会に特徴的な諸効果、資本の論理に起因するのではなく、そうした経済的かつ法的な複合体の明確で個別的な形象にのみ起因するような諸効果を、制度的に機能させる新たなやり方を発明することによって乗り越えうることを、新自由主義系の者たちは示さなければならなかったそうだが、実際にこんなことが述べられてから半世紀が経過した今でも、未だにマルクス主義者が資本主義の終焉を予言し続けている現状もあるらしいから、何だか奇妙な感覚に陥ってしまうわけだ。2月14日「現状認識と将来への課題」何となく妥当に思われる現状認識として、日本の現状を否定的に捉えようとする者たちがある程度はいる一方で、大半の人たちは日本の現状を肯定的に捉えているからこそ、それが政治的な選択にも反映したと考えても良さそうで、そんな認識の何が不都合であるわけでもないのだが、現状が現状である理由を求めてはいけないわけでもないが、もっともらしい理由を伴った言説として構成しようとする意図を感じられてしまうこと自体が、何か違うような気がして、現状を否定的に捉えたい経済学者の肩書を持っている人の言っていることに対して違和感を覚えてしまうが、無理にもっともらしい理由を述べる必要も感じない自分とは立場が違うだろうから、その人が無理にもっともらしい理由をひねり出そうとしていると感じられてしまうのも、立場が違うことから生じてくる誤解かも知れないし、他人の言動にケチをつけたい気満々のユーチューバーという立場も、ごく一部の限られたカテゴリーに入りそうだが、誰がそうだとしても、そんな誰かの存在に興味や関心が向かうわけでもなく、人がそこに固定されてしまう立場があると信じてしまうこと自体も、本当はそんな立場などないと思っていることの裏返しとしてそう思っているわけだから、その立場自体に否定的な傾向が伴ってきてしまう限りで、そんな立場も一部に含まれている現状を否定的に捉える必要性や必然性が意識されてしまうのではないかと、それも何だかよくわからない解釈をこじつけてしまうのだが、それがわざと解釈を間違えていることの証しになるわけでもないだろうが、批判する側が何かの常套句のように使っている文句を、そうだとは思えない人も結構の割合でいると想像してみても、その根拠を示せるかどうかも自信がないなら、それはただの想像に過ぎないのであって、そういうところで言説に行き詰まると共に、メディアを介して他人が解説してみせるもっともらしい理由や原因を信じても構わないような気にもなるのだが、それをもっともらしいと思わせようとしていると受け止めてしまうと、それと同時にその種のもっともらしい解説に騙されているようにも思われるから、逆に騙されないぞと身構えてしまって、結局何をどう考えればいいのかよくわからなくなってしまうのだが、少なくとも毎度お馴染みのようにしてこのままでは大変なことになるぞと民衆を脅しながら危機感を煽る者たちが、いつものように世間から相手にされていないことが証明されたと結果を肯定的に受け止めるしかなく、それをねじ曲げて無理に否定的に受け止める筋合いもなさそうだから、また戦前への回帰だとこれも言い古された表現で民衆を脅そうとしてくる輩が何を勘違いしているのかといえば、時代を間違えているのはもちろんのこと、しかもそれで構わないのだからそれほどの勘違いでもなく、過去の繰り返しのようなことが起こっても構わないが、それが起こるかどうかも現時点ではわからないのも、昔からそんなことが言われているのだから、これからもそんなことが言われると予想しておいても構わないような気もして、だからそうなるとしか言いようがなく、それを批判する者たちもそれに巻き込まれて同じようなことを言い続けるだろうから、それもそれで構わないような気がして、しかもそうやって肯定的に現状を捉えておくしかなく、そういう成り行きも肯定的に捉えられる現状に含まれてくるから、それ以上の事態の進展を望むべくもないが、それらの批判者が危惧の念を抱いているのとは違うところから、何やら現状を動かしている作用や影響が世の中に及ぼされて、それが批判者たちの言説を無効化していると事態を捉えたいのだが、やはりそれも功を奏しているとそんな現状を肯定的に捉えたいわけで、そんな意味不明でわけのわからない現状の肯定ではなく、AIは日本の現状を肯定できる理由として、国際的な評価、生活の質、そして経済的な基盤の面でいくつかの強みが挙げられるそうで、ここ数年の動向を含め、ポジティブな要素は次の通りで、日本は依然として世界で最も安全な国の一つにランクされており、犯罪発生率が低い水準にあり、また高度な公共交通機関や街の清潔さや誰もが安価で医療を受けられる国民皆保険制度は、生活の質を高める大きな要因であり、世界的に教育、生活水準、政治の安定性、文化が評価されていて、またアニメ、食文化、観光地としての魅力は世界的に非常に高く、そのブランド力は依然として強いそうで、経済の面でも昨年度は数十年ぶりの高い賃上げが実現し、デフレからの完全脱却に向けた穏やかな回復が期待される一方で、企業収益は堅調であり、デジタル技術やグリーントランスフォーメーション、半導体産業への投資が活発に行われていて、さらには外国人観光客の増加が国内のサービス消費を支えて、地方経済の活性化に寄与して、社会・人材の質という面でも、国民の教育レベルが高く、勤勉な労働力は日本の強みであり続けていて、高度な製造技術や職人技は世界的に高く評価されて、これらの要素は、日本が安定して生活できる環境を維持しながら、新しい時代の変化に向けて適応しようとしている姿を示しているそうだが、その一方で日本の現状に関する懸念材料としては、現時点での日本が抱える主な懸念材料は、急速な人口構造の変化に起因する構造的問題と、経済・財政面の不確実性があり、特に、少子高齢化や持続的なインフレ、労働力不足が、社会の根幹に多大な影響を及ぼしていて、出生率の低下が進み、労働力不足や市場縮小の加速が懸念される一方で、高齢化の進展と共に医療や介護などの社会保障費が膨大になり、現役世代の負担が限界に達しつつあり、また地方の過疎化と地域社会の担い手の減少によって、地域社会が崩壊に直面していて、来年度は国と地方の基礎的財政収支が八千億円の赤字に転落する見込みで、財政再建が遅れて以前目指していた来年度での黒字達成が困難となって、債務残高の改善も高成長頼みという綱渡り状況で、物価上昇が続く中で、実質賃金が十分に伸びず、個人消費が弱まるリスクがあり、さらに物流の面で、トラックドライバーの時間外労働規制の強化の影響が本格化し、輸送能力の不足や物流コストの上昇が懸念されていて、全業種で生産年齢人口の減少による深刻な労働力不足に直面していて、そして、中国との関係悪化や中東やウクライナなどの情勢緊迫による原油価格高騰のリスクもあり、日本はエネルギーや食糧の輸入依存度が高く、外部環境の変化に弱い構造的な問題を抱えていて、加えて、巨大地震や異常気象などの災害リスクは常に存在し、社会・経済インフラを脅かしていて、税や社会保障の負担に関しても、今年の4月から、子供・子育て支援金制度が開始され、独身者や高齢者を含むほぼすべての医療保険加入者の負担が年々増加する見込みで、これらの課題は複雑に絡み合っており、今年はデフレからの脱却を目指しつつも、構造改革の成果と持続可能な社会への転換が問われる正念場の年となるそうだが、そう言えば言える程度のことをそれほど真に受けているわけでもなく、それに対する政治的な取り組みが、それらの懸念をどれほど改善できるわけでもないとは思っているにしても、懸念が懸念のまま放置されてしまっても構わないような気もするわけで、実際に放置されはしないだろうが、それらを問題視する立場というものも一方にはあるらしく、そんな立場に固定された者たちが問題点や懸念点を指摘するためにもそれらが必要なのであって、そんな立場の者たちにとっては、問題点や懸念点が次から次へと出てこないと商売あがったりだから、そういう商売が今後AIによって駆逐されてしまうかどうかも、現状ではよくわからないにしても、とりあえず問題だらけで懸念だらけな情勢である方が、それに対する政治的な取り組みにも、それなりのリアリティが生じてくるだろうから、現状では政治自らがそうした問題や懸念などを自家撞着的に生み出しながらも、真摯な態度や装いと共に、それに真剣に取り組んでいる姿を民衆に向かってアピールしていれば、それで済んでしまうような成り行きなのではないかと穿った見方をしたくなってしまうわけだ。2月13日「小川淳也という人物」小川淳也という人物が世間的に反感を買われそうなキャラなのは何となくその言動からわかるような気がするものの、そこで何かと何かを混同していると考えても構わないかどうかもよくわからないが、では何と何を混同しているのかというと、人為的な操作も自然な成り行きに基づいているのに、それがあたかも自然な成り行きに逆らっているかのように感じられてしまうとしたら、そこで何かと何かを混同しているからそう感じられてしまうのかが、相変わらずわからないままとなってしまうだろうが、それも根本的なところで何かがおかしいと考えてしまうと、相変わらずその何かが何なのかがわからずじまいとなってしまうから、言説として意味不明となってしまいそうだが、それを官僚的な思考というと、ただの印象に過ぎないのだろうが、表面的なレベルでの官僚的な思考とは、ルールや先例や形式を過度に重視し、効率や変化よりも安定と責任回避を優先する思考様式で、縦割り意識、稟議・承認の遅延、マニュアル通りを好む傾向が特徴で、大企業病とも称される非効率な組織風土を形成しやすいそうだが、官僚的思考の主な特徴と傾向は、先例の踏襲とマニュアル主義を好み、過去の慣習や規則を疑わずに従い、新しいアイデアやリスクを嫌い、形式的・儀式的な業務に忠実で、顧客満足等の真の目標よりも、手続きそのものや、上司の承認を得ることを目的とし、責任回避の姿勢を堅持し、自らの裁量を減らし、失敗した際に責任を問われない決定プロセスを好み、縦割り組織と縄張り根性に囚われて、権限や利害に固執して、部署間の協力や情報の共有を避け、権威と階層を重視し、トップダウンの指示を絶対視し、下からの提案が通りにくく、そうなりがちな背景として、その思考は、巨大組織を安定的に運営し、公平にルールを適用する目的で生まれるが、変化の早い現代においては、意思決定の遅延やイノベーションの阻害を招き、個人や組織の成長を停滞させる要因となるそうだが、そうなるのが自然な成り行きだからこそ、そんな成り行きに逆らう形で政治家を目指す元官僚が出てくるわけで、そんな存在の中で野党側の典型例が小川淳也という人物だとしたら、それこそが逆説的な意味で官僚的思考に囚われた人物だと見なしても構わないのか、それとも違うのか、あまりその人物を知らないので、もちろん知らなくて当然だが、詳しいところはよくわからないとしても、何となくその言動から窺えるのが、ああなるほどと感じられてしまうとしたら、その人物は官僚機構の構造から生じてくる何かと、社会から生じてくる何かを混同していると考えたくなってしまうのだが、それが勘違いではないとしたら、例えば官僚的思考の説明の中で出てくるちょっと意味がよくわからない言葉として、稟議というのがあるが、稟議とは企業や組織において、個人の権限では決定できない購入や契約や採用などの重要事項に対し、稟議書を用いて関係者の承認を順に得るボトムアップの意思決定手続きで、会議を開催せずに書面で合意を形成し、組織の統制や透明性確保に役立てる仕組みであり、稟議の目的としては、重要な決定におけるリスク回避、合意形成、手続きの可視化が挙げられ、流れとしては、起案申請から関連部署・上長の承認回覧を経て最終決定決済に至るそうで、それを用いる代表的な種類として、備品の購入、設備投資、プロジェクト開始、規程の変更、契約の締結などの際に行われるそうだが、稟議と他の決済との違いは、権限を持つ者が一人で最終決定を行うにしても、それだと迅速だがリスクを見逃す可能性があるから、そこに至る過程において、複数人に提案書などを回覧して、関係者の合意を得る手続きを挟むことによって、合意形成や情報の共有の面で、そのプロセスに関わった者たちからコンセンサスを得やすいが、その一方で最終的な決定事項に対して文句を言わせないシステムなのだろうが、そういう無難なやり方を嫌っているのが、小川淳也という人物なのではないかと、その勇ましいことを言いそうな言動から窺えるのだが、要するに独断専行がしたいから政治家になったとは、そんな自覚は当人はないだろうが、どう見ても危うそうなことを述べているように感じられて、そういう人物はネトウヨから格好の揚げ足取りの餌食になりそうで、というかそんな人物が野党の党首になってくれた方が、政権与党としては、御しやすく扱いやすいだろうから、前党首の野田佳彦と共にナイスアシストをやってくれる最右翼の人物だと見ているのだが、それでもあえてそんな人物を党首に選んで、おかしな発言でもしてやらかしてもらえば、早めにポンコツ政治家のレッテルを貼られて淘汰されることにもなるから、それで構わないのかも知れないが、何かやらかしてもそれを温存して使い回しの対象となってしまうと、いつまで経っても淘汰の対象とはならないまま、そのままとなってしまう危険性もなきにしもあらずだが、その人物も学校教育の中では成績優秀な人材の典型例のように見受けられて、そんな人物でも構わない政治情勢なのだろうから、間違ってもそんな人物とは違う者が現れることを願ってしまうのは、それこそないものねだりなのだろうから、そんな人物が政治家にはふさわしいと思っておいても構わないのだろうが、無難なのはもう一人の候補者が党首に選ばれることだが、何かそれではもったいないように感じられて、ここはひとつ何かと問題ありそうな人物である小川淳也が党首に選ばれて、さらに面倒な事態となって、苦難を乗り越えて政治家としての成長を期待したいところだが、そんな上から目線で偉そうなことを述べられるような立場でも人間でもないので、誰が野党の党首になろうがなるまいが、大して情勢の変動要因にもならないと見ているのだが、野党の政治家を批判する前に、与党の政治家の批判をその百倍も千倍もやらなければならないと思っているわけでもないので、何となく勘が知らせてくる政治家のことを述べてしまうにしても、別に小川淳也という人物が、それほどひどいとは思っていないわけで、それよりは自分の方が数百倍もひどそうな人間なのだから、他人のことをとやかく貶す筋合いもないのだが、やはり人物本位ではなく、どうしても構造的・制度的な面でそうなってしまうような成り行きがありそうだから、その人物がどのような人間であろうとなかろうとそうなってしまう成り行きにとらわれていると考えるしかなく、結果的にヤバそうな人物がどこかの国の独裁政権の大統領などに就いてしまうわけだから、それと比べたら日本の野党党首など普通の人に過ぎないわけで、普通の人に政治的な才能などを期待しても、それこそ無理難題を課しているようなものだから、普通の人なりのことをやってもらえばそれで構わないわけで、そうであれば小川淳也ではなく、もう一方の候補者の人がなってくれた方が無難なのだが、その人がなってくれた方が問題が起こらなそうな予感はするのだが、逆に問題が何も起こらないというわけにも行かないにしても、小川淳也が党首になって色々と問題発言の類いをやらかして、右からも左からも非難轟々な事態になってくれた方が、何となく高市政権との間で釣り合いがとれそうな気もするから、だから感触としては小川淳也が野党第一党の党首になってもらって、首相の高市と共に政治的な方面での話題を盛り上げてくれた方が、そんな騒動に嫌気がさしてうんざりする人も結構な割合で出てきそうだが、それも現状の世界情勢を反映した成り行きだと言えそうな気もして、数年後にアメリカのトランプが大統領を辞める頃に、もう少し無難な世界情勢となっていれば、それに合わせて、日本でもそれなりに無難そうな政治家が政府を代表する役職に就いてもらえたら、うまい具合に事が運びそうだが、そうはならない成り行きにも現状でとらわれていそうだから、どうしても人としても面倒くさそうで世間から反感を買われそうな者が政治的な面で目立ってくれた方が、それなりに現状にフィットしていそうな気がするわけだ。2月12日「民主主義と資本主義の不一致」不平等に関する民主主義の幻想というと、そこに資本主義が関連してきそうだが、案の定AIもうまく経済の根本原理をかわすような微妙な回答を出してくるから、抵抗感を覚えつつも、それを取り上げざるを得ないのだが、不平等に関する民主主義の幻想とは、民主主義が一票の格差をなくす、法の前の平等や機会の均等などの平等を約束する政治体制であるにもかかわらず、実際には資本主義がもたらす極端な経済的不平等を解消できないばかりか、むしろそれを固定化・助長している現状を指す言葉であり、多くの民主国で富が一部の層に集中し、多数派が生活苦を抱える状況があり、投票による政治的な平等が富の分配などの経済的な平等に結びつかないという構造的な矛盾を抱えていて、資本主義経済は構造的に格差を生み出す一方で、民主主義は多数の民意を基礎としているが、少数の富裕層は資金力を背景にメディアや政策決定プロセスに影響を与え、自分たちに有利な税制や規制緩和をロビー活動などによって実現して、富の格差を固定化しようと画策しているから、それが富裕層への富の集中と政治の支配をもたらし、民主的な選挙によって政治家を選ぶものの、実際には二大政党がいずれもエリート層寄りであったり、資金力のある特定の候補者しか選択肢にならない、という状況は、真の民意が反映されないという意味での、選挙による選択への幻想をもたらしていて、また一票の格差がなかなか是正されずに放置されると、有権者数と議席数の不均衡が少数派の意見を過大に反映させたり、多数派の意志を歪めたりすることで、民主主義への信頼性を低下させる一方で、二十世紀後半には先進的な民主国は高い経済成長を誇ったが、二十一世紀に入ると、民主国の失われた二十年と言われるように、富める者がさらに富み、不平等が拡大するグローバルな傾向が見られ、経済的不平等の拡大は、ポピュリズムの台頭などの政治的な分極化を引き起こして、民主主義そのものを脅かすリスクを高めると共に、不平等な現状そのものが、個々人の能力や市場の結果として容認され、政策的修正が及び腰になることで、不平等の是正が遅れる結果を招き、歴史的に資本主義が生み出す格差は常に民主主義にとって問題であり、実際に格差が激化すると、ポピュリズム的なリーダーが支配エリートへの不満を利用し、民主的な規範や法制度を担うメディアや官僚機構などを攻撃して民主主義の後退を誘発するが、格差は自然現象ではなく、財政規律、金融規制緩和、私有化など、政策や機関の選択によって構造的に作り出されたものであり、このような不平等に関する民主主義への幻想を打破するためには、投票するだけの民主主義から、経済的な不平等を是正するための累進課税の強化や富の再配分などの実質的な政策が実行される民主主義へと変革する必要があると指摘されているそうだが、それこそが政治によって経済的な不平等が是正できるかのように大衆に思い込ませる幻想そのものだと逆批判するわけにも行かないが、それに関してもまたもやAIが、平等と多数決の民主主義と競争と格差の資本主義は長らく相棒と見なされてきたが、現代では資本主義が生み出す深刻な格差が、投票に基づく民主的な意思決定を揺るがし、夫婦間の亀裂を生み出すような相克状態にあるそうで、資本が集積する中で富が偏在し、一部の資本家や強者が民主主義の制度を食い破るリスクが顕在化しているそうだが、資本主義は利益を最大化するため、放っておくと格差が拡大すると共に、金銭的な力が政治への影響力に転化して、本来なら多数の意見が尊重されるはずの民主主義が、少数の富裕層の欲望に支配されるようになり、それに伴って資本が集中する私的な富が増大する一方で、公共インフラやセーフティネットなどの公的な富が減少・脆弱化するパラドックスが発生していて、その結果、市場経済で取り残された人々が民主主義のシステムに不安を持ち、民主主義そのものの後退と同時に権威主義化を招く要因となると共に、短期的な欲望と長期的視点の不一致をもたらして、資本主義は今の利益を追求するが、民主主義は安定的な将来の繁栄を維持すべき、というタイムスケールの違いを忘れさせ、結果として、リーマンショックなどの資本主義がもたらす不安定さが民主主義の根幹を脅かし、両者の調和が危機に瀕しているそうだが、それらの危機に対して新自由主義からのアプローチがどのようなものになるかというと、人口、技術、学習と教育、法体制、こうした全ては直接的に経済的な要素でもなければ、市場のメカニズムそのものにかかわる要素でもないが、問題は、経済的かつ政治的な調整のプロセスが市場であり、市場でしかあり得ない以上、与えられている物質的、文化的、技術的、法的な基盤をどのように手直しすればよいか、ということになると共に、市場経済が介入するためには、そうした所与、そうした枠組みに、どのような手直しを加えればよいか、ということになり、すなわち、経済プロセスそのものの水準において統治の介入は控えめなものでなければならないのに対し、技術、科学、法、人口にかかわる所与の総体、大ざっぱに言って社会にかかわる所与の総体が問題となるや否や、統治の介入が大規模なものにならなければならないということになり、そうした総体が今やますます統治の介入の対象となって行くことになるわけで、そうやって適合的行動、経済情勢に応じた行動、枠組みのレベルにおける秩序創設的行動となる経済を調整するものとしての競争秩序をどのようにして再構成すればよいか、ということになり、その一方で社会政策に関しては、一人一人の消費財への接近を相対的に均衡化することを目標として定めるような政策として、野放しの経済プロセスは、それ自体として社会に不平等をもたらすものだから、それに歯止めをかけるために、消費のいくつかの構成要素を社会化する政策があって、医学的消費、文化的消費などといった、社会消費ないし集団消費と呼ばれるものの形態が出現し、あるいは家族手当のようなタイプの所得の移転もあって、社会政策は、経済成長が大きければ大きいほど、その報いおよび代償として、社会政策は、より能動的なもの、より強力なもの、より気前の良いものとならなければならないが、新自由主義者たちはそうした社会政策による一人一人の消費財への接近における平等化、相対的平等化、均衡化はいかなる場合においても一つの目標とはなり得ず、経済の調整つまり価格のメカニズムが平等化の現象によってではなく差異化の作用によって得られるようなシステムにおいて、平等化を目標とすることはできず、差異化の作用はあらゆる競争のメカニズムに固有のものであり、差異によって作用するままにしておかれる場合にのみその機能とその調整的諸効果を持つような諸々の変動を通じて打ち立てられるのだから、調整が行われるためには、労働する人々と労働しない人々とがいること、高給と薄給とがあることが必要であり、価格が上昇したり低下したりすることもやはり必要であり、したがって平等化をその第一の目的とするような社会政策は、反経済的なものでしかなく、社会政策は逆に、不平等を作用させておく必要があり、不平等は万人にとって平等であり、経済ゲームとは、まさしくそれに伴う不平等の諸効果によっていわば社会を一般的に調整するものあるから、当然のことながら誰もがそれに参加しそれに従わなければならないものあり、なすべきは平等化ではなく、問題は、購買力の維持を保証することでは全くなく、決定的ないし一時的に自分自身の生存を保証できないような人々に対して必要最低限の生活費を保証するだけにとどめて、それは、最大から最小への所得の限界移転であり、中庸を打ち立てることでも、中庸を目指して調整することでもないそうだが、そうなると新しい政党の中道改革連合という党名は趣旨が異なるにしても、新自由主義陣営とは相容れない目標を掲げているような気がするわけで、どうしても左翼リベラル陣営は資本主義市場経済の動向に合わせるのではなく、それと戦い格闘する方面へ持って行かれてしまう傾向にあるから、政治によって分厚い中間層を創設できるような幻想を人々に振り撒いて、経済の根本原理とは相容れない平等を目指して、自滅してしまう成り行きにならなければいいのだが。2月11日「新自由主義の定義」たぶんもうしばらくフーコーの講義の要約を試みる成り行きになりそうで、理由はわからないが気になったので、やってみようと思うのだが、現代の新自由主義が語られるとき、一般的に三つの回答が得られるそうで、第一の回答は、経済的観点から見ると、新自由主義とは、すでに使い古された古い経済理論の再活性化以上の何ものでもなく、第二に、社会学的観点から見ると、新自由主義とは、社会における厳密に商業的な諸関係の創設が経由するもの以外の何ものでもなく、第三に、政治的観点から見ると、新自由主義とは、国家による一般化された行政介入を覆い隠すもの以外の何ものでもなく、つまりそれは、よりひそかに行われ新自由主義の諸側面の下に隠されることによっていっそう重くのしかかるような介入を覆い隠すもの以外の何ものでもなく、これら三つのタイプの回答は、常に同じものがより悪化したものに過ぎず、それはせいぜい再活性化されたアダム・スミスであり、第二にそれは『資本論』第一巻によって判読され告発されていた商業社会そのものであり、第三にそれは国家権力の一般化、つまり地球規模のソルジェニーツィンであり、アダム・スミス、マルクス、ソルジェニーツィン=自由放任、商業とスペクタクルの社会、強制収容所とグラーグの世界、以上が、新自由主義の問題を扱う際に通常用いられる分析と批判の三つの母型で、これによって、新自由主義をほとんど何ものでもないものとしてしまい、同じタイプの批判を延々と繰り返すことが可能となるわけだが、新自由主義はやはりそれとは別の何かであり、この何かを特異性において把握することこそ、フーコーが試みたいと考えていることのようで、新自由主義、それはアダム・スミスではなく、商業社会でもなく、資本主義に見合ったひそかなグラーグでもなく、新自由主義にとっての問題が、市場という一つの自由な空間を一つの政治社会の内部においてどのようにして切り取り設置することができるかというような、アダム・スミス型の自由主義、十八世紀の自由主義の問題とは、完全に異なるということであり、逆に政治権力の包括的行使を、どのようにして市場経済の諸原理に基づいて規則づけることができるだろうか、というもので、空虚な場を開放することではなく、市場経済の形成的諸原理を一般的統治術に関係づけ、それを関連させ、それに投影することが問題であり、そしてそのような操作を行うために、つまり市場経済の形式的諸原理がどこまで、どの程度一般的統治術とかかわることができるのかを知るために、新自由主義者たちは古典的自由主義に対しいくつかの変換を被らせざるを得なかったのであり、そのようないくつかの変換のうちの第一のもの、それは、市場という経済的原理と、自由放任という政治的原理との間の分離であり、市場経済と自由放任政策とのこの連結解除が獲得され、規定されたのは、新自由主義者たちが純粋競争の理論を提示したとき以来のことで、純粋競争の理論によって、競争は原始的で自然な所与では全くなく、いわば社会の本源、社会の基礎にあって、表面に上って来させて再発見するだけでよいようなものでは全くないものとして現れ、競争とは諸々の形式的属性を備えた一つの構造であり、競争構造のそうした形式的属性こそが、価格のメカニズムによる経済の調整を保証するもの、保証を可能にするものとされ、したがって競争が確かに、その内的構造において厳密なものであると同時にその歴史的で現実的な存在においては脆弱なものであるような形式的構造であるとすれば、自由主義政策の問題はまさしく競争の形式的構造が作用可能となるような具体的な現実空間を実際に整備することで、自由放任なしの市場経済、つまり、統制経済なしの能動的政策になり、したがって新自由主義は、自由放任の徴のもとにではなく、逆に、警戒、能動性、恒久的介入といった徴のもとに置かれることになり、それを象徴する名称として積極的自由主義という非常に意味深い表現が提案され、積極的自由主義とは、つまり介入する自由主義のことで、レプケが、市場の自由は、能動的かつ極めて警戒に満ちた政策を必要とする、と語り、オイケンは、国家は経済活動の結果には責任がある、と語り、フランツ・ベームは、国家は経済の生成を支配しなければならない、と語り、ミクシュは、この自由主義経済において、計画経済におけるのと同じくらい多数の経済介入が行われることは大いにありうるが、しかしそれらの介入はその本性において互いに異なる、と語り、介入の本性に関する問題の中には、新自由主義政策において種別的なものに接近するための出発点があり、十八世紀から十九世紀初頭にかけての自由主義の問題は、なすべき行動となすべからざる行動、介入できる領域と介入できない領域とを分割することで、それは、なすべきこととなすべからざることの分割であり、それに対して新自由主義者たちの問題は、触れることのできないものと触れてよいものとがあるかどうかを知ることではなく、彼らにとっての問題は、どのようにして触れればよいかということになり、それは振る舞い方の問題であり、いわば統治スタイルの問題となり、新自由主義者たちが統治行動のスタイルをどのように規定するのかを評定するための例として、第一に独占の問題について、経済についての古典的な考え方において、独占は資本主義体制における競争の半ば自然で半ば必然的な帰結であると見なされ、競争を展開させておけば必ず独占の現象が現れるということ、そしてその結果、競争が制限され、弱められ、極端な場合には解消されることになるが、自由競争を機能させておこうと望むすべての自由主義者は、独占の現象を容易にし、それを運び、それを規定するようなメカニズムに対して介入しなければならず、もし競争をそれ自身に固有の諸効果から救いたいのであれば、時には経済メカニズムに対して介入しなければならないとなるが、新自由主義者たちの立場はこれとは全く異なり、彼らにとっての問題は、独占ないし、独占の傾向は、競争の経済的かつ歴史的な論理の一部をなすものではなく、独占は経済プロセスにおける異物であり、自然発生的に形成されるものではなく、実は独占は自由主義経済の歴史におけるいわば最終的な現象であるどころか、むしろ経済の中への公権力の介入をもっぱら原理とする旧弊な現象であって、それは、公権力もしくは公権力の機能とその行使を保証していた人々が、同業者団体や仕事場に対して諸々の特権を付与していたからで、国家もしくは主権者が、派生的な税ないし隠蔽された税という形で財政援助と引き換えに、個人や家族に対して独占を許していたからで、マクシミリアン一世が財政援助と引き換えにフッガー家に与えた独占がその一例であり、それが、中央集権化された権力の拡大の条件でもあった一つの税制が中世の間に発達することによって、独占が創出されたのであり、独占とは旧弊な現象であり、介入の現象であることになり、また独占を容易にしたものとしての法権利の機能の諸条件に関する法的な分析もあり、相続の実践、株式会社の法権利の存在、特許権などは、経済的理由によってでは決してなく法的に機能するというまさにそのことによって、独占の現象をどのように生じさせることができたのか、独占の現象が権利的にも論理的にも競争の経済に属していないということを示す別の論拠として、国民経済と関税保護貿易と独占との間のつながりに関する政治的分析においては、市場がいくつもの国民市場への細分化によって独占の現象が容易になることを示し、細分化によって経済単位が相対的に小さなものとなると、世界経済の中では存続できないような独占の現象の存在がその枠組みの中において実際に可能となり、実際には一つの国家によって決定される保護貿易が効果的でありうるのは、生産や外国での販売や価格の水準などを管理することのできるカルテルないし独占の存在を作り出し、呼び求める限りにおいてのみであり、それがビスマルクの政策だったわけで、そこからさらに自分の認識不足を補う上で重要な指摘が続くのだが、ちょっと分量が多くなったので、今回はこの辺でやめておくが、興味のある人はミシェル・フーコーの講義集成の第八巻を読んでもらいたい。2月10日「万事がうまく行くことの怖さ」拍子抜けというと、そんな表現では違うような気もしないではなく、もっと何か衝撃的というか、印象としてはそんな感じで事態が推移しつつあるようで、当事者にとってはうまくやった感触を得ているだろうが、これも経験として社会に蓄積するだろうから、ある意味では自業自得な結果を招いた感じもしないではなく、これからどうなるという展望など何の役にも立たないわけでもないが、何か気休めでも構わないから、それを語りたくなってしまいそうで、どうせまた結果をもっともらしく都合よく解説してしまう者がいくらでも現れている最中だろうから、そんなその場のウケ狙いのような解説はそちら方面の優秀な方々にまかせるとしても、取り立てて何がどうなったわけでもないといつものように嘘をつくのもわざとらしいと思うなら、負けた奴らが間抜けだったと嘲笑っても構わないような状況だと情勢を捉えても、それがぬか喜びにならないように用心しておくに越したことはないと警戒しながらも、身を引き締めて事に当たらなければならないと思っているわけでもないだろうが、そんなふうに物事の表面的な理解で済ませてしまうのも、これまでもいつもそうやってきたことなのだから、今回もそれで構わないだろうと舐めてかかっても、それほどの見当違いというわけでもなさそうで、済んでしまったことはさっさと忘れて、邪魔者が強制的に退場させられたと事態を都合よく捉えておいても、自らもその退場させられてしまった者たちに含まれたくないなら、何とかしてその辺はしらばっくれて、多数派の正義とやらを尊重しつつも、事を荒立てないように振る舞うしかなさそうだが、自分が何をどう振る舞っている気もしないわけだから、それもいつもの嘘に決まっているだろうが、その一方でそれがなりふり構わない強引なやり方であるわけでもないが、それらの振る舞いがそう受け取られかねない情勢でもないとしても、それが彼らの陰謀だと、彼らではなく政府の官僚機構の意向だと受け取りたいような結果だから、いくら何でもやり過ぎなんじゃないかと先行きが心配になってきてしまう者も若干はいるらしいから、そんな者たちの心配が現実化しないように事態をうまく収めなければならないわけでもないが、誰が収められるわけでもないだろうから、そんなのも杞憂に過ぎないだろうが、念には念を入れて心配の種を潰しておかなければならないと考える者もいるらしく、そこがつけ入る隙となるかも知れず、そんな誰かが、誰からも容認されてきた全ての事柄を、歴史的な現実に照らし合わせて賞賛し、多数派が常に正しく、少数派が常に誤っていると判断されてきた事実を示そうと思って、偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ、それを極度に過激な、火花の散るような文体で実践してみようと思っているらしいが、従って文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したいそうで、そもそもこの弁証論の目的は、いかなる意味での超俗行為をも断固として排撃することにあるのだと主張したいそうだが、いったいそれがいつの時代の人物が考えていたことかなんて、この際どうでもいいことだとは思いたいが、文脈としては的外れなことを述べているとしても、雰囲気としてはそれで構わないようなつながりの中に言説が位置しているようにも思われるから、なぜか真理を物語っているようにも思われてしまうのだが、時代が全く違うだろうから、今の時代にふさわしい生贄が何なのかも、そもそも生贄なんて要らないはずなのだが、それもうまい具合に自ら進んで生贄となりたい者たちが大量に現れて、しかもそれが生贄として機能してくれたようで、万事がうまく行くように彼らが持って行ってくれたから、たぶんそのおかげで現状があるわけで、こんな現状をどう捉えたら納得できるかなんて、それもたぶん現状に納得しないことが肝要なのだろうから、納得が行かないなら死ぬまで疑念を抱き続ければいいと突き放されて終わってしまいそうだが、それでも構わないと思うなら、疑念と共に思考を働かせてみるしかないが、いくら考えてもわからないようなことではなく、あれらのシワだらけの顔たちが物語っていた無理な道理があったわけで、それが思考ではなく顔が物語っていたことで、若干どころか、かなり違和感を覚えたはずだが、果たして現状が、理屈に合わない強引な主張や、筋の通らない不正な行為が平気でまかり通ってしまう状況なのかというと、それも違うような気がするわけで、いくらこの状態が、権力が道理を無視して、理屈がおかしい要求を通そうとしていると批判しようと、そんなことは無視できると思われるとしても、何だかそれが笑ってしまうような雑な仕掛けを巡らされているようにも思われるのだから、生贄となったシワだらけの顔たちも、その意義があったと安堵するわけでもないだろうが、結果的にはそれでうまく事が運んだことになるわけだから、世間の多数派に対してナイス・アシスト!と賛辞を送りたい気持ちにはなれないものの、ここぞばかりに飛んで火に入る夏の虫の如くにしゃしゃり出てきた者たちがこの機会に完全に葬り去られたとも思えないが、彼らが身の程知らずだったからこそ、生気を吸い取られてシワだらけの顔となってしまったのではないかと勘違いな推測をするまでもなく、彼らに呪いが及ぶように仕向けているとも思えなかったのだが、もしかしたら結果的にはそうなってしまったのかも知れないから、改めて万事がうまく行くことの怖さを思い知ったと言っても、まだこの先がある段階でそれを言うのは気が早すぎるだろうが、そういう意味でもこの先があるわけだから、英語のファイナリーという言葉の意味から察するような事態が起こらないようにすることが、この先もうまく事を運ぶには気に留めておかなければならないことのようで、もちろんどこの誰がそんなことを気に留める必要も、実際に気に留めているわけでもないだろうから、何かそういうところが意味不明で、自分でも何を言いたいのかよくわかっていないようだが、要するに表面上はこのままではまずいから、そのまずい事態となるを食い止める目的でそうなってしまったと言えそうなことなのだとしても、それが表面的な理由や原因として機能しているだけに、実際にはそんな思惑とは違うところで事態が進行中でもあるわけだから、そんな今も着々と進行中の事態を邪魔してはまずいわけで、邪魔しようにも邪魔する役割を担っていたシワだらけの顔たちが強制的に退場させられてしまった今となっては、重石がなくなってしまったのだから、表面的にはそれで構わないはずなのだろうが、しかもそれも表面的にはそれで構わない程度のことなのだから、相変わらず心配の種が尽きない現状になっていそうな雰囲気でもあると情勢を受け止めたくなってしまうのだが、そんな心配性な誰かが何を心配しているのかというと、そんなことまで想像できるわけでもないが、それらの顔がシワだらけの生贄たちという言葉から連想されるのが、せいぜいがニューギニアの奥地で暮らしているらしい首狩り族程度だと侮ってしまうなら、やはりそれではちょっと想像力に欠けるわけで、すでに役目を終えた彼らが今後まるでゾンビのように復活してくるとも限らないから、やはり今こそ念には念を入れて、二度と復活してこないようにトドメを刺しておくべきなのかというと、そういう目的で動いている者たちも結構の数でいるかも知れないが、実際にはそうではなく、彼らに代わる者たちが現れてこないように土壌入れ替えをしなければならず、そのための造成工事が必要となってくるわけで、それが何を意味するのか、今はよくわからないとしても、今後折りに触れて、そんな工事が実際に行われていることが顕在化することもあるだろうから、その時になってみれば、それに気づいたジャーナリストの類いが騒ぎ出すかも知れないが、そんなチンピラジャーナリストの類いの口を塞ぐ手間など不要な環境が今まさに構築されようとしていると事態を楽観視したくなるわけだ。2月9日「新自由主義者によるナチスの分析」フーコーの講義の要約が好評なのかどうかよくわからないが、今回はドイツにおける新自由主義政策のプログラムに着想を与えた人々について、ナチスの経験が彼らの考察の核心にあったとフーコーは見ているのだが、フライブルク学派にとってナチズムは、ある意味において、認識論的かつ政治的なダマスコへの道であって、ダマスコへの道とは新約聖書の使徒列伝第9章に記された、キリスト教の迫害者が回心して使徒パウロとなる劇的な転換点で、後のパウロとなるサウロがダマスコへの道中で光と声に遭遇し、目が見えなくなる体験を経てイエスを信じるに至る出来事で、目から鱗が落ちるの語源となったそうだが、ナチズムは、彼らが自分たちの目標に到達するために定義し横断しなければならなかった敵対的領野と呼べるようなものを、彼らに対して定義可能としてくれるものであったそうで、彼らの言説について、決して網羅的でなく単に戦略的な分析を行うとき、彼らがなすべきであったのは次の三つのことであったように思われ、第一に、一つの目標を定義することで、その目標とは、一つの国家の正当性を、経済上の取引相手同士の自由の空間から出発して基礎づけることで、これが1948年の目標で、実のところこれが1925〜1930年頃から目標とされていて、第二に彼らがなすべきであったのは、ただ単にそうした目標に到達するために衝突するかも知れない敵対者の系列を定義することだけでなく、そうした目標とそうした目標の探求とが衝突するかも知れない一般システムとはどのようなものであるかを定義することで、問題は、障害物から敵対者までをその内に含む総体とはどのようなものであるかを定義するすることだったのであり、そうした総体が彼らにとっての敵対領野を構成していて、そして第三に、そうした敵対領野を横断して自分たちの目標に到達するために、自分たちが自由にできる概念的で技術的な方策をどのように配分し、再配分すれば良いのかを知ることが必要だったそうで、彼らがどのようにして自分たちの敵対領野を構成し、どのようにして自分たちの敵ないし障害物の総体を包括する論理を見出したのかに関して、ナチズム以前に事実上十九世紀半ば以来、自由主義ないし自由主義政策に対するいくつかの主要な障害物、いくつかの主要な批判が次々に歴史の舞台に登場し、第一に十九世紀半ばに経済学者のリストが定式化した原則、ドイツにおいては国民政治と自由主義経済との間の両立はあり得ないという原則があり、経済的自由主義から出発してドイツ国家を構成しようとしたドイツ関税同盟の失敗が、その証拠となり、自由主義経済は、決してあらゆる経済政策に普遍的に適用することができるような一般的定式ではなく、世界の他の国々に対して経済的には覇権主義的で政治的には帝国主義的であるような立場を獲得するためにいくつかの国が手元に持つ戦略的道具ないし戦略でしかあり得ず、自由主義とは、ただ単にイギリスの政策であり、イギリス的支配の政策で、それは一般的に言って、海に面した国に適した政策であり、それに対してドイツは、その歴史、その地理的位置などから制約を受けるから、自由主義的経済政策を取り入れることはできない代わりに、ドイツに必要なのは保護主義経済であり、さらにドイツの自由主義が十九世紀末に出会った第二の政治的な障害物は、ビスマルクの国家社会主義で、保護主義政策によって外部から保護されるだけでなく、内部において国民の統一性と国家的統一性への脅威となっているプロレタリアートが、社会的かつ政治的なコンセンサスの内部に再投合される必要があり、これがビスマルクの国家社会主義のテーマであると共に、自由主義政策に対する第二の障害物となり、第三の障害物は、戦争が始まって以来の計画経済の発達で、戦争という状況下でドイツに強いられた計画経済の技術において、行政機構のもとでの中央集権的な統制経済から、ドイツは戦争が終わっても抜け出すことができず、そして第四の障害物は、ケインズ式統制経済であり、1930年に、ラウテンバハのようなケインズ主義者たちは、自由主義者に対して、一般的に差し向けるようなタイプの批判を差し向けて、経済の全般的均衡へ向けて国家のいくつかの介入を提案したが、そうしてナチスによる権力の奪取以前からすでに四つの要素があったということになり、すなわち、保護経済、国家社会主義、計画経済、ケインズ式介入であり、これら四つの要素が自由主義政策に対して大きな障害となっていて、結局ナチズムがもたらしたものとは、それら互いに異なる様々な要素の厳密な融合であり、ナチズムが組織化した一つの経済体制の中で、保護主義経済、扶助経済、計画経済、ケインズ主義経済が、固く束ねられた一つの全体が形成され、シャハト博士のケインズ政策が1936年に四カ年計画によって引き継がれる際、その責任者を務めたのがゲーリングで、ラーテナウの助言者でもあった数人の人々が彼に助言を与え、この計画化には二重の目論みがあり、すなわちそれは、一方においてドイツの自給自足経済つまり絶対的保護主義を保証し、そして他方においては扶助政策を保証することであり、こうした全ては当然のことながらインフレーションを引き起こし、軍備拡張を伴った戦争準備によってその埋め合わせがなされ、以上の全てが一つの全体を形成してきて、こうしたナチス的システムを前にしたドイツの新自由主義者たちの理論的、思弁的な力は、当時の大多数の人々のようなやり方で語るのをやめることによって、とりわけもちろんケインズ主義者たちのやり方で語るのをやめることによって発揮され、ナチスが実施している経済体制は怪物的なものだ、つまり、実際には異質であるような諸要素、一つの骨組みの内部でドイツ経済を圧迫している互いに矛盾したちぐはぐな諸要素を、ナチスは互いに組み合わせつつあるのだ、などと語るのをやめること、ドイツの新自由主義者たちは、ナチズムとは極限的危機の産物であって、ナチズムとは自らの矛盾を乗り越えることのできなかった経済と政治とが運ばれて行った最終地点である、極端な解決策としてのナチズムはヨーロッパにおける資本主義の一般史あるいはいずれにしてもその過去の歴史に対して分析モデルとして役立ち得ない、などと語るのを拒否して、オルド自由主義者たちはナチズムの中に、そのような怪物性、経済的不調和、危機の最終地点における最後の手段を見ることを拒否する代わりに、ナチズム、それは一つの真理で、様々に異なる要素の間にある必然的諸関係のシステムのようなものを暴露したのであり、保護貿易あるいはケインズ式の介入を選べば、もちろんそれらは一見すると互いに異なっているが、一方を発展させようとすれば必ず、もう一方を発展させることになるだろう、つまり、ドイツの経済的かつ政治的歴史が統治行動の舞台の上に次々に登場させたそれら四つの要素は、互いに結びついているということであり、そのうちの一つを選ぶとしたら他の三つを免れることはなく、そのような図式とそのような原理を取り上げ直しながら、新自由主義者たちは、様々に異なるタイプの経済を順に研究し、例えばソヴィエトの計画経済についての研究、またハイエクのようにアメリカをよく知る人々はニューディールの例を取り上げ直し、イギリスの例であれば、戦時中のべヴァリッジ・プログラムのケインズ政策の例を取り上げ直した人々もいたが、いずれにしても、第一に、そこで作用しているのは同じ原理であり、第二に、それらの要素の一つ一つが他の三つを引き寄せることになり、その中の一人であるレプケは、戦時中にイギリスで練り上げられたべヴァリッジ計画についての分析を発表し、イギリスに対して次のように言ったそうで、あなた方がべヴァリッジ計画によって準備しつつあること、それはナチズムに他ならない、あなた方は、軍事的にはドイツ人と戦っているが、経済的には、従って政治的にも、あなた方はドイツ人の教えを正確に取り上げ直しつつある、イギリス労働党はあなた方をドイツ式のナチズムへと導くだろう、と述べたらしいが、したがって、新自由主義者たちは、ナチズムと議会制のイギリスや、ソヴィエト連邦とニューディールのアメリカといった、互いに大きく異なる政治体制のうちに、一種の経済的かつ政治的な不変項を評定しようとしたそうだが、それが現状の世界情勢においても何となく当てはまりそうな国々が思い浮かぶから、なるほどと納得しそうになってしまうわけだ。2月8日「証拠隠滅の理由」これから誰かがやろうとする証拠隠滅の理由を知ってどうするわけでもないが、証拠隠滅が行われる主な理由は、刑事責任や民事責任の追及を免れたいという欲求に基づいて、具体的な動機や背景は多岐にわたるそうだが、最も一般的な理由としては、刑事罰からの逃避であるなら、自身や他人が関与した犯罪の証拠を隠すことで、逮捕や有罪判決、刑事罰を回避しようとする、個人の自由や将来を守るための本能的な行動と言えるが、刑事罰だけでなく、事件が明るみに出ることによる社会的信用や名誉の失墜、経済的な損失を恐れる動機も強くあり、特に公的な立場にある人や企業の場合、その影響は甚大になる可能性があり、また家族や友人、同僚など、自分以外の関係者が事件に関与している場合、その人たちを刑事責任から守るために証拠を隠滅することもあり、さらには、犯罪被害者や関係者からの復讐や制裁を恐れて、自身の関与を示す証拠を消そうとすることもあるが、予期せぬ出来事や犯罪に直面した際、冷静な判断ができなくなり、パニック状態で証拠を隠滅してしまうケースもあり、法的な観点から言えるのは、日本の刑法では、他人の刑事事件に関する証拠を隠滅、偽造、変造、または偽造・変造された証拠を使用した者は刑法第104条によって証拠隠滅等罪に問われるそうで、なお犯人自身が自己の刑事事件に関する証拠を隠滅する行為は、自己負罪拒否特権の趣旨に基づいて、原則として証拠隠滅罪にはならないそうだが、他人に依頼して証拠を隠滅させた場合は、その依頼を受けた他人が証拠隠滅罪に問われるそうで、以前、ドリルで犯罪の証拠となりそうなパソコンを破壊した政治家が話題になったことがあったが、自分でやれば証拠隠滅罪に問われないことを知っていてやったのか、あるいは法律に詳しい者から助言を受けてやったのか、その辺のところはよくわからないが、証拠隠滅は司法の公正な機能を妨害する行為であり、発覚した場合は、保釈の判断に影響したり、隠蔽工作自体が新たな罪に問われたりする可能性もあるそうで、その際に自分自身の刑事事件に関連する証拠を隠滅したり偽造したりする行為は、証拠隠滅罪には問われないところが、何か意表をついているように思われ、その辺が世間の一般常識に照らし合わせても引っかかるところだろうが、日本の刑法では、刑法第104条の証拠隠滅罪は、他人の刑事事件に関する証拠を隠滅・偽造・変造した場合に成立すると定められており、これは黙秘権でもある自己負罪拒否特権という憲法上の権利で、日本国憲法第38条第1項に基づいていて、この権利は何人も自分に不利益な供述を強要されないことを保障しており、自分の罪を証明する証拠の提出や保全に協力する義務はない、という考え方が根底にあるそうで、ただし、次の点に注意が必要で、他人の事件の証拠を隠滅した場合は証拠隠滅罪に問われ、また証拠隠滅の過程で、例えば証拠を燃やすための放火、証拠を奪うための窃盗、誰かを脅して証拠を隠させる恐喝などの、別の犯罪を行った場合、その別の犯罪で処罰され、自己の事件の共犯者の証拠を隠す行為については、自己の防御行為の範囲を超えると判断されると、証拠隠滅罪が成立する場合もあるそうだが、少なくとも自分自身の事件に関する証拠を単に隠す行為自体は、証拠隠滅罪では処罰されないそうで、それでも証拠を隠滅したのがバレれば、普通にその人に対する印象は悪くなるだろうし、その人が公人であったり著名人であったりすれば、場合によっては社会的な信用が失墜しそうだが、刑事事件や民事事件に関わるようなことではなくても、メディアを通じてあからさまに隠し事が明らかにされているのに、世間的に不問に付されている事例があるかというと、それも何となく思い浮かんでいるようでいて、あえてそれについて言及するつもりもないようだが、世間が共犯者であり、マスメディアも共犯者なのかも知れず、ではそんな自覚なき共犯者たちが何を見て見ぬふりを装っているのか、それを意識して自覚しないようにしているのかもよくわからないのだが、隠しているのではなく、公然の秘密という逆説的な何かなのかも知れないが、実態としては秘密でも何でもなく、周知の事実なのに、なぜかそれに気づきにくいという、それも微妙な言い回しになってしまうが、この巡り合わせは何なのかと、感動してしまいそうな現実でもあって、そんなことは誰もがわかっているのに、あえて無視したくなるような事実でもあるから、公然の秘密というよりは周知の事実だろうが、それをメディアを通じて明らかにできるか否かではなく、そんなことではないような気がするわけで、すでに明らかになっているそれを今さら問題視するような成り行きにはなっていないと言えば、それが当たらずとも遠からずな表現なのかも知れないが、やらかしてしまっている者や勢力は、別に証拠を隠滅しようとしているわけではなく、逆にあえてそれを見せびらかしているというと、ちょっと表現的にずれているかも知れないが、ともかくそうなっているのが周知の事実なのに、なぜかそこには触れないように多くの者たちが気を利かせて忖度していると言っても、もしかしたらそんな自覚もないのかも知れないから、その辺も怪しいのだが、何か忖度というと近年はそれがポジティブな意味ではなくネガティブな意味で受け取られることの方が多そうだが、意味としては、他人の心中や考えを推し量り、配慮することであり、本来は相手を思いやる中立的・ポジティブな言葉だそうだが、近年は権力への過剰な配慮やご機嫌取りといったネガティブな文脈で、政治やビジネスシーンでの顔色うかがいを揶揄する言葉として多用されるようになり、本来は思いやりや良好な関係を保つための知恵だが、そうした過度な配慮が不正や不透明な決定につながると批判されることもあるそうで、どうも現状でも多くの者たちが無意識のうちに忖度している実態があるらしく、そんな現状を誰かが嘲笑っているわけでもないだろうが、その誰かというのが天候を操っているとも思えないのだが、実際に雪が降っていて、それとこれとは無関係なのがわかりきったことであっても、周知の事実をあからさまに無視しようとしている人々の魂胆が今ここで試されていると思ってしまうのも、勝手な思い込みには違いないのだが、何だか巡り合わせが笑ってしまうような事態なのは、それも自分が勝手に笑っているだけなのもわかりきったことだが、こんなことがあってもいいのかと疑念を抱いているわけではなく、現実にこうなっているわけだから、後は周知の事実を無視する人々の行動次第で、自ずから結果が出てしまう手はずなのだろうが、そんなことが前もって仕組まれていたとは到底思えないし、人工的に天候など操れるわけでもないが、それらの人々がいったいいつまで忖度しまくりな姿勢を保てるかといっても、果たして今日でそんな行為と縁を切れるとも思えないし、天候に逆らってでも忖度しようとする者たちもそれなりに現れそうな雰囲気も感じられるのだが、後は運次第だと無責任に考えても、それもちょっと違うような気もするから、天候が悪いのは運も悪いことの証拠だと考えておいた方が無難な気もしないではなく、日頃の行いが悪いからこうなるのだと咎めるような気にもなれないが、それが当たらずとも遠からずな感触を得たいなら、今日が格好の証拠隠滅日よりだとうそぶいておきたいわけで、悪天候のどさくさにまぎれていったい何の証拠を隠滅しようとしているのかと訝しむわけでもないが、すぐに結果が出てくるだろうから、そんな結果からそれを推測すればよく、それが後づけでも後出しじゃんけんでもご都合主義の結果論でも何でも構わないから、今からもっともらしそうな説明でも思案しておけば、それで間に合ってしまうようなことなのかも知れないから、実際にそうなると予想したくなり、しかも予想が外れるのも毎度のことだから、この期に及んで何を予想したいわけでもないと嘘をついておこうとは思うが、ちなみにこの期に及んでとは、事態が最終段階や取り返しのつかない状況まで進んだ上で、さらに何か行動を起こそうとする様子を指す表現で、今さらとか、こんな時になってとか、呆れや緊急性を強調するネガティブな文脈で用いられるそうだ。2月7日「社会主義の欠陥」社会主義の欠陥というと、一方で資本主義にも民主主義にも自由主義にも欠陥があるだろうから、社会主義の欠陥ばかりを強調するのは不公平だろうが、とりあえずAIによれば、社会主義は平等や連帯を追求する思想・システムだが、過去の歴史的経験や経済理論から、次のような欠陥や問題点が指摘されていて、主な欠陥は、経済的な非効率性、インセンティブ=動機づけの欠如、政治的権力の集中だそうで、経済的な非効率性と機能不全については、市場機能の欠如が挙げられ、計画経済では私有財産や市場価格が存在しないため、何がどれだけ必要かという情報が共有されないから、資源が適切に配分されず、深刻な供給不足や不必要な物の大量生産が起こり、また官僚主義と非能率に関しては、すべての経済活動が中央計画当局によって決定されるため、現場のニーズに応じた迅速な対応ができず、硬直的で肥大化した官僚組織が経済成長を妨げ、さらに表向きには企業の競争・倒産がないために、企業はイノベーション=技術革新やコスト削減の努力を怠り、不採算企業も倒産させないことから、全体的な生産性が低下し、動機づけ=インセンティブの低下については、結果の平等を重視するあまり、どれだけ働いても、または能力を発揮しても、報酬が周囲と大きく変わらないケースが多くなり、その結果として労働意欲が低下して、働いても働かなくても同じという状況になりやすく、個人が自己の利益のために努力する動機が失われるため、全体の生産性が低下し、さらに政治的権力の集中と格差については、政治的弾圧に関して、経済を管理するために強力な中央集権政府が必要となるため、言論の自由や経済的な自由が制限されやすく、権力に対する監視が行き届かない傾向になりやすく、強力な中央政府を構成する官僚機構の発展によって、特権階級の出現を招き、平等を目指したにもかかわらず、実際には特権階級=ノーメンクラトゥーラが富や権力を独占し、結果的に新たな貧富の差や不平等が生じることが歴史的に報告されているそうだが、さらに人間の本性との相克という面から、自己利益の追求に関して、人間は本来、自分の利益や向上心のために行動する側面があり、それに対して社会主義のシステムは集団の利益を最優先するように求めるため、人間の動機と衝突しやすいと指摘されていて、これらの欠陥は旧ソ連や東欧諸国の崩壊、そしてベネズエラなど現代の社会主義的な経済政策を採用した国々での経済危機において、顕著に現れたそうだが、そんな学校の教科書的な説明の他にも、半世紀前のフーコーのコレージュ・ド・フランスでの講義の中で、結構印象に残っている箇所を要約すると、マルクスには権力の分析がなく、国家の理論が不十分だとよく言われているが、イギリスでは少なくとも最近までは、国家の理論なしでなんとかうまく統治がなされてきて、イギリスでの国家の理論の最後のものは、ホッブスにおいて見出され、まさしく当時のイギリスによって厄介払いされた一つのタイプの君主制の同時代人でもあると同時に、その支援者でもあった人物において見出された後、ロックが現れるが、ロックはもはや国家の理論を作ることはせず、その代わりに統治の理論を作り、したがってイギリスの政治システムは、そして自由主義学説は、決して国家の理論から出発して機能したのではないし、自らにそうした理論を与えることによって機能したのではなく、イギリスは統治の諸原則を自らに与えたのであり、その一方で、社会主義に欠けているのは国家の理論よりも統治理性で、統治の合理性、すなわち統治行動の様式と目標の拡がりを理性的で計算可能なやり方で測るための尺度が、社会主義においては定義されておらず、一方で社会主義は、歴史的合理性を自らに与える、あるいは少なくともそれを提案しているが、社会主義はまた、経済的合理性も提案していて、そうした合理性がしっかりしたものであるか否かということに関して議論がなされたのは間違いのないことだが、フォン・ミーゼスやハイエクなどの自由主義者たち、中でもフォン・ミーゼスは社会主義の経済的合理性を否定しているが、いずれにしても社会主義は、歴史的合理性を提案するのと全く同様に、経済的合理性を自らに提案しているのだが、一方で社会主義は、健康、社会保険などといった領域に行政的介入を行うための合理的技術を保持していて、それを保持していることを実際に示したと言えるから、歴史的合理性、経済的合理性、行政的合理性を社会主義に認めることはできそうで、合理性のこれら全ての形態を簡単に取り除くことはできないものの、自律的な社会主義的統治性なるものがなく、社会主義に統治理性がないことが、他の様々なタイプの統治性に接続されて初めて活用が可能となり、例えば自由主義的な統治に接続されるとき、社会主義とその合理性の諸形式は、内部の危険に対する歯止め、緩和策、弥縫策の役割を果たしていて、もっとも社会主義そのものが一つの危険であると自由主義者たちのようなやり方で社会主義を批判することはできるが、結局社会主義は生き、実際に機能したのであり、内政国家の統治性の中で、行政機構の内的論理として機能し、おそらく他にも社会主義が接続される統治性がありそうだが、今のところ、社会主義の自立的統治性があるとは思えず、世界中を見渡して真の社会主義がどこにあるかという問いに対しては、極めて単純に、社会主義は真である必要がないと言えて、社会主義は絶えず一つの統治性に接続されていて、これちらではある統治性に接続され、あちらでは別の統治性に接続されて、それが正常な分枝となるか異常な分枝となるかに応じてこちらとあちらで似ても似つかない成果をもたらしたり、同じ有毒な成果もたらしたりするが、しかし社会主義の内部で社会主義に関して常に提出される問いである、真か偽かの問いが、自由主義に対して同じように提出されるかというと、自由主義は真であったり偽であったりする必要はなく、自由主義に対して問われるのは、それが純粋であるかどうか、それがラディカルであるかどうか、それが首尾一貫しているかどうか、それが生ぬるいものであるかどうかなどといった問いであり、自由主義に対して問われるのは、それが自らに対していかなる諸規則を定めているか、それが自らの統治性の内部に設置した補償のメカニズムや測定のメカニズムをどのように補償し測定しているのかという問いであり、真か偽かの問いが自由主義に対して提出されることはなく、これに対して社会主義に対して逆にそうした問いを提出しようとする強い傾向があるとしたら、それはまさしく社会主義には統治性の内在的な合理性が欠けているからであり、そうした社会主義にとって本質的であり現在まで乗り越えられていないように思われる、統治の合理性の不在の問題が、一つのテクストとの間の適合性の関係によって置き換えられていて、一つのテクストもしくは一連のテクストとの適合性の関係が、統治の合理性の不在を覆い隠す任務を引き受けていて、そのテクストというのが、フーコーは直接これだと言及していないが、それがマルクスの『資本論』やそれ以前のテクストなんじゃないかと推測してしまうが、実のところ社会主義にとって必要なのは、自らの振る舞い方や自らの統治のやり方を規定することにあると思われ、社会主義におけるテクストの重要性は、社会主義的統治術の不在によって構成される欠落に正確に見合ったものであり、あらゆる現実の社会主義のもとで、政治において活用されるあらゆる社会主義に対して提出しなければならないのは、そのテクストを参照しているのか、テクストに背いているのか否か、テクストに対して適合的であるか、真か偽か、といった問いではなく、そうではなくて、ただ単に次のように問わなければならないだろうし、問う必要があり、すなわち社会主義を機能させ、その内部においてのみ社会主義を機能できるような、必然的に外在的な統治性とはいったいいかなるものあるか、より一般的でより未来の方へと向いた問いを提出するなら、社会主義にふさわしい統治性はいかなるものとなりうるか、厳密に、内在的に、自律的に社会主義的でありうるのは、いかなる統治性であろうか、いずれにしても実際に社会主義的な統治性があるとしても、社会主義およびそのテクストの内部に隠されているのではないから、いくら共産党の志位さんが『資本論』を読んでも、その中にはないと結論したくなってしまうわけだ。2月6日「理由なき活動」理由がわからないのに行動が伴っているなら、行動した結果としての実態も伴っていると思ってしまうが、何をそんなに不思議がっているのかといえば、例えばAI関連の過剰とも思える設備投資の理由がわからないわけではなく、それもAIによれば、AI関連の、主にデータセンター、GPUなどの過剰とも思える巨額の設備投資が続いている背景には、単なる流行ではなく、テック大手各社による戦略的な理由と、その技術が産業革命に匹敵するという強い確信があり、AI競争が負けられないレースであり、しかもAI技術はまだ初期段階にあり、優位性を確保するためにいち早くインフラを構築した企業が、将来のAIプラットフォームの支配権を握るという意識が強く、AI投資を怠ることは、長期的には競争力を失って、時代遅れになることへの懸念があり、計算能力を得るために、巨額の投資によってインフラを構築し、高性能なAIを活用して他社を圧倒するサービスを提供し、さらに資金を稼ぐという戦略であり、果たして巨額の投資に見合う対価を得られるかというと、その技術には産業革命に匹敵する圧倒的な潜在価値があると見られて、AIが今後、医療、金融、製造など幅広い分野の生産性を劇的に向上させ、五年後までに世界のGDPに十五兆ドル以上の付加価値をもたらすと予測されて、すでにメタなどのテック大手は、AIへの投資が自社の広告事業などの収益性向上に直結していることを示しており、投資が虚無ではなく実利を伴い始めていて、その一方で、AIモデルの巨大化が技術的需要の限界なき拡大に直面していて、より高性能なAIを学習・運用するため、膨大なデータセンターと数万個から数十万個の高性能GPUなどが必要となって、インフラの供給が常に追いつかない状況となっていて、チャットボットのようなテキストベースだけでなく、自動運転、ロボット工学など、物理世界で機能するAIへの期待も高まって、これにはさらに強力なインフラが必要となり、それらのコンピューティングインフラを構築するのに必要な資金を確保できるかというと、グーグルやメタやマイクロソフトなどのテック大手企業には強固なキャッシュフローがあるから、短期的な利益よりも長期的な地位確立のために投資できる資金力があり、AI需要が急速に拡大する中で、供給不足によってインフラを十分に確保できないリスクを避けるために、先回りして設備を増強していて、そうした過剰とも受け取られる設備投資に対する懸念として、これほどまでの投資が本当に利益に結びつくかについて懐疑的な見方もあり、前世紀末のドットコムバブル時と同様、インフラが過剰供給になり、将来的に稼働率が低下するリスクが指摘されていて、またAI用半導体は技術進化が早いため、データセンターの設備がすぐに型遅れになり、投資回収の前に価値が下がる懸念もあるから、大手だけでなく、中小の新興企業が巨額の借金をしてまで設備投資を行っているケースが危険視され、バブル崩壊のリスクが高く、結果として、現時点ではバブルか、それとも新たな黄金時代の幕開けかの議論が続く中、巨大テック企業は依然として需要に追いつくために投資を継続している最中であり、AIへの巨額投資の理由はこれで一応の説明はつきそうだが、一般的に理由なき活動というと、明確な目的、目標、成果やゴールを持たず、その行動自体や、その過程を楽しむ活動を指すと、これもまたAIが余裕で回答を出してしまうのだが、現代の生産性重視の社会において、あえて目的を持たないことが、精神的な健康や創造性を維持するために重要であると注目されているそうだが、すでに目的が精神的な健康や創造性を維持するためだと述べてしまうところが、AIも自己矛盾に陥っているような回答だが、いったいどこで理由なき活動が注目されているのかも理解に苦しむわけでもなく、理由なき活動の主な特徴と心理的背景として、〜のためがないという、趣味、散歩、ただ空を見上げる、あてもなく楽器を弾くなど、結果を求めていない、という行為が挙げられるが、自身の心身の健康を維持するためにやっている、と理由づけができてしまうから、そういうところはAIも詰めが甘いようで、次いで、内発的動機づけという理由で、報酬や称賛ではなく、純粋な、やりたいという気持ちで動くことだそうだが、それも理由が、純粋にやりたいからやるという目的で動いているわけだから、そういう理由だと言えそうで、それでは理由なき活動ではないのではないかと屁理屈をこねることができそうだが、さらに創造性の向上という理由で、目的から解放されることで、脳がリラックスし、新しいアイデアや視点が生まれやすくなると言うが、それが目的から解放されることで、脳がリラックスし、新しいアイデアや視点を得るためという理由で、そんなことをやっていると言えるわけだが、またストレスの軽減という理由で、生産しなければならないという強迫観念から解放され、心理的な余裕を生み出そうとする理由で、そんな行為に及んでいるとも受け取られるが、そうなるとAIもぐだぐだな様相を呈しているようにも思われるが、それにもめげず、理由のある活動との違いとして挙げられるのが、理由のある活動の例として挙げられる、例えばダイエットのための運動、昇進のための勉強、金銭目的の副業、などに共通している傾向が、目的を達成した瞬間には喜びを感じるが、その過程においてはつらい場合もあるのに対して、理由なき活動の例として挙げられる、例えば散歩、散歩中の風景を楽しむ、純粋に知識を楽しむ、などは活動そのものが目的だと言いたいわけだが、それにも気分転換のためとか、気休め目的でとか、心身の健康を維持するためだとか、AIに反論するために勝手に理由をつけ加えたくなってしまうのだが、AIが提示してくる二つの例の間の違いに関して、何となくわかっているつもりなのだが、どうしてもAIには、ハウツー的でちゃんとした?理由や目的とは違う、何とでも受け取れる、あやふやな理由や目的を後からこじつけるような行為は認められないようで、もちろんそんなことをAIに求めてくる者がいるわけでもないだろうから、こちらの勝手なないものねだりには違いないのだが、気を取り直してなぜ今、理由なき活動が重要なのかに関して、現代は効率や成果や理由を求められることが多く、それがストレスや燃え尽き症候群=バーンアウトにつながることがあるから、あえて理由なき活動を取り入れることで、次のようなメリットがあるそうで、義務感から離れ、純粋な喜びを再発見できることから、幸福感の向上につながり、遊び心を取り戻し、思考の柔軟性が増すことから、創造的思考につながり、精神的な疲れを癒やし、自分自身を取り戻す時間となることから、自己防衛につながるそうだが、それも〜のためにやっていることだから、AIが自己矛盾に直面しているように感じられるが、理由なき活動は一見無駄な時間に思えるかも知れないが、心身の健康と創造性を支える意味のある無駄であると言えるそうで、それも心身の健康と創造性を支えるために、という理由や目的を述べてしまうところがAIの欠陥とまでは言えないにしても、言わんとしていることは理解できるわけだから、その程度の回答で妥協しておいても構わないだろうが、こうやってわざと屁理屈を並べてAIを困らせたつもりで自己満足に浸っているわけでもなく、ちなみに屁理屈を並べるとは、筋の通らない言い訳や、こじつけの理屈を次々と並べて、自身の誤りを認めず強弁する様子を指す言葉だそうだが、屁理屈をこねるとも、こじつけを言うとも、詭弁を弄するとも、減らず口を叩くなどが類語としてあるそうで、その意味と特徴としては、本来は通らない話や、後付けの言い訳などの道理に合わないこと述べて、屁のように無益で役に立たない理屈という意味からきていて、大抵は自分のミスを隠すために言い逃れとして使われることが多く、それに関連する表現や類語としては、ほぼ同義語で、屁理屈をこねる、相手の言葉に必ず言い返す様子として、ああ言えばこう言う、うまくごまかして相手を混乱させる、煙に巻く、どんなに道理に合わないことでも言い分はあることのたとえとして、盗人にも三分の理などがあるそうだが、それらの屁理屈が政治家の誰かの言動にも言えることだと、得意になってSNSなどで批判者気取りの奴らが言い放つようなことだと、ニヤリと皮肉な笑みを浮かべながら述べてみても無益なことかも知れない。2月5日「何かの前触れを体験しつつ」今もこうして何かの前触れが起こっているのを体験しつつあることは確かなようで、それが何の前触れなのかが、すでにわかっているつもりなのだから、愚かな人たちが気づかないなんて信じられるわけもなく、みんなわかっているんじゃないかと思いたいし、わかっているからこそあえてそれに気づいていないふりを装いつつも嘘をついているんじゃないかとも思いたいわけだが、それが思い違いだとしたら、あえて現時点では間違いだと考えられるようなことを語りたくなってくるわけで、しかも語りたくなっていることを語らずに終えてしまうわけだから、そんなのは詐欺に決まっているが、どうしてもそれを語るには抵抗感が伴うようで、それを一度やってしまった過ちを再度繰り返そうとしていると受け止めたいのだが、それが誤りではなく過ちであることが、間違いの度合いがより深刻だと感じられるわけで、誤りと過ちはどちらも間違いを指す言葉だが、主に誤りは技術的なミスや訂正可能な間違いだとされる一方で、過ちは道徳的な失敗や過失、取り返しのつかないミスだと過ちが使われるようだが、今は取り返しのつかない致命的な過ちを犯している最中だと考えられるようで、簡単に言えば社会規範や道徳から外れた行動を平気でやっている最中だと言えそうで、そういうことをやってしまうのが、功利的な行動には良くありがちな傾向だが、今や多くの民衆がそんな行動へと誘導されている最中なのだから、それに黙って従うか、あるいはみんな目を覚ませと呼びかける役割を担おうとするのか、そんなありふれた二者択一を迫られているわけでもなく、結局はどちらでもないとわかっていながら、どちらか一方の側に立って、それを推し進めようとしてしまうお節介な人がメディア上からそれを煽っている最中なのかも知れず、果たしてそんな行為も含めて取り返しのつかない過ちだと見なしても構わないのかというと、やりたいのだからやらせておけばいいと突き放してしまうと、そこで話が終わってしまうような気もしないではないが、その種の功利的な行動や活動がもたらす経済的な自由は、法権利の正当化よりも現実的で具体的かつ直接的な何かを生産するから、経済的自由は一つの恒久的なコンセンサスを生産し、経済プロセスの内部で主体として現れうる人々のすべての恒久的なコンセンサスを生産することになり、投資家、労働者、経営者、組合といった、経済における取引相手のすべてが、自由の経済ゲームを受け入れるまさにその限りにおいて、一つの政治的コンセンサスを生産するそうで、経済、経済的発展、経済成長は、実際には何がしかの主権、何がしかの政治的主権を、まさにその経済を機能させる制度および制度的作用によって生産していて、経済は、自らを保証するものとしての国家のために、何がしかの正当性を生産していて、別の言い方をするなら、経済が公法を作り出すということであり、これは絶対的に重要な現象、おそらく歴史の中で完全に唯一ではないとはいえ、少なくとも我々の時代においては非常に特異な現象だと語っているのが誰かといえば、半世紀前にフーコーが語っているようだが、マックス・ヴェーバーなど、十六世紀の歴史について研究した人々を信用するなら、十六世紀のプロテスタントのドイツにおいて、一個人の富裕化は、神が個人を恣意的に選択したことの徴であるとされ、富が徴としての価値を持ったということで、それが何のしるしなのかというと、神がその個人に対して保護を与えたことの徴であり、それによって神が、結局のところ個人の具体的で現実的な営みの如何なる者によっても保証され得ないものとしての救済の確かさを表明したことの徴であり、あなたが救済されるのは、あなたがしかるべきやり方で裕福になろうとしたからではなく、そうではなくて、もし実際にあなたが裕福になったとすれば、神はそのとき、地上のあなたに対して、あなたが天国へ迎え入れられるであろうという徴を送ったのだそうで、したがって富裕化は、十六世紀のドイツにおいて一つの徴のシステムの中に入り、これに対して二十世紀のドイツにおいては、一個人の富裕化が神による選択の恣意的な徴となるのではなく、包括的な富裕化が徴となり、ではこれがいったい何の徴となるのかというと、もちろん神による選択の徴となるのではなく、それは個々人が国家を支持していることの日常的な徴となり、別の言い方をするなら、経済は常に徴を生み出すということであり、これは経済が絶えず、その錯覚的構造あるいはそのシミュラークル的構造の中で事物の使用価値とは全く関係を持たないものとしての、事物の等価性と商品価値の徴を生産する、という意味では全くなく、経済が徴を生産するとは、経済が政治的な徴を生産するということ、つまり、権力の構造、そのメカニズム、その正当化を機能させるものとしての政治的な徴を生産するということであり、経済的に自由であるものとしての自由市場が、政治的な絆を作り、政治的な絆を表明するのだそうだが、それを単純化して、経済的に豊かになりたければ高市政権のやっている経済政策を支持しろというわけではないが、結果的に自身が富裕化していれば、その人が国家を支持していることの徴だと言えるかどうかも、現状の日本で言えるようなことなのかどうかも、何とも言えないが、傾向的な印象としては、富裕層が現政権を支持しているとすれば、それが神のご加護ならぬ国家のご加護があるからだと言えそうで、その一方で現政権を支持しない貧困層が国家のご加護を受けられないのは、まさに現政権を支持していないから国家のご加護を受けられないからだと結論づけてしまうと、それではどこかの危ない宗教と同じではないかと思って笑ってしまうが、だから今この季節外れのこの冬の寒い時期に、高市があえて衆議院の解散総選挙に打って出た理由として、勝手に妄想したくなってしまうのが、国民に向かって踏み絵を課して、もしあなた方が現政権への支持を投票によって示すなら、あなた方は今後経済的に豊かになるだろうが、もしあなた方が過去の経緯にこだわって法的かつ道徳的な正義を優先させて、現政権への不支持を投票によって示すなら、あなた方は今後経済的に貧しくなるだろうという二者択一を突きつけていると考えたくなる、というのも嘘に決まっているが、どちらにしてもわざと結果と原因を取り違えているような気がして、十六世紀のプロテスタントの論理が、もし自身が富裕化していれば、それは神のご加護があることを示していることの証拠だと考えられるなら、現代においても自身が富裕化していれば、それが国家のご加護あることを示していることの証拠だと考えられるかというと、逆に貧困層の味方を装うポピュリストの政府批判としては、政府は富裕層の味方だから、みんなでそんな政府にノーを突きつけるためにも、選挙では我々に投票してくれと煽るわけだろうが、実態としてはそうではなく、経済活動によって貧富の格差が拡大しているだけで、ただ単に現状の経済情勢からもっともらしくも信じられたり信じられなかったりする論理や理屈が導き出されてくるのだろうが、それを信じてそれに従って行動する人が多ければ多いほど、その論理や理屈が世の中で通用しているように感じられるわけで、だからどんなに正しいと感じられる論理や理屈であっても、それに従って行動してくれる人がいなければ、そんな論理や理屈は世の中では通用しないわけだから、それが通用するかしないかではなく、正しいか間違っているかで判断してしまうと、取り返しのつかない過ちを犯してしまうかどうかも、その程度や傾向にもよるだろうが、そんな兆候から言えることがあるとすれば、世間から相手にされない人ほど、論理や理屈の正しさを信じようとしてしまうと言えるかどうかも、それも逆に言えば、世の中で通用している論理や理屈を持ち出して、それが正しい論理や理屈であるかのように解説できる人ほど、そんな人を信用する人も世の中に多くいると言えそうで、だから十六世紀のプロテスタントが信じていた理屈も、その時代の多数派の人々がそれを信じていたからこそ、そんな理屈が世の中で通用していたと言えるのかも知れない。2月4日「劣勢に陥っている者たちの言い分」誰かが劣勢に陥っていることに関して、その人の運が悪いとかではなく、そうなっている者の頭が悪いとかでもなく、能力が低いのでもないとしたら、外から揺さぶりをかけられていると思い込んでしまうと、それが誰の仕業なのかと犯人探しをやってしまい、実際にはそれが被害妄想で、そうなるのが自業自得の成り行きのように見えてしまうとしたら、そんな苦境のただ中で何をどう考えても、論理的な正しさに頼ってもっともらしいことを述べている者の、その論理が通用する範囲内では確かに正しいとしても、正しいことを語ろうとする者の述べている内容を信用できないわけでもないが、都合の悪いことはわざと意図して語ろうとしないのではないかと疑ってしまうと、それを意図しなくても語ろうとしないわけだから、逆に間違っていると批判されてしまう者の述べている内容を意外と信用したくなってしまうのも、それがどのような経緯や事情からそういうことを述べて、それを理由に批判されているのかがわかっている限りで、ある意味ではそれが安心材料になるわけでもないが、批判する側はわかりきったことを批判しているわけだから、それを批判せざるを得ない限りで、批判対象のペースに巻き込まれてしまい、それによって意図しないところで劣勢を強いられているようにも感じられるわけで、批判内容が正しいのに、そんな批判が通用しない状況の中でそんな批判をせざるを得なくなっているようにも感じられて、そうやって批判せざるを得なくなっている状況から逃れられないことが、どう見ても不利な状況を強いられているように見えてしまうわけで、だからといって別にそれで構わないわけで、そうならざるを得ない情勢の中で、否応なく正しい批判をするように仕向けられていると受け止めるしかないが、それでも批判するのに都合の良いことだけ批判しているように見えてしまう者たちにとっての都合の悪いことが何なのかと考えてみると、否応なく批判するように仕向けられている者たちの全てが劣勢に陥っているわけでもなく、劣勢に陥っている理由や原因も、それが彼らにとっての都合の悪いことなのではないかと結論づけるのも、少し違うような気がするのだが、現状で形成が不利だからこそ、それを批判することによって不利な状況を跳ね返そうとしているようにも見えるが、そんなやり方で跳ね返せるような情勢でもないとするなら、どうすれば良いのかというと、そこからがわざとらしくそんな批判をかわすためのずらし戦略が開始される契機となっているようでいて、不利な状況を跳ね返すためのアプローチには、いくつかの重要なステップがあるそうで、それらには、自身の内面的な強さを育むこと、具体的な行動を起こすこと、そして長期的な視点を持つことが含まれ、まずは現状を正確に把握することが重要で、それが状況の受け入れと現状の分析を促し、事態を好転させるきっかけをもたらし、結果的に不利な状況を跳ね返すことに成功する可能性が出てきて、そのためにもまずは自らが不利な状況に陥っていることを認めなければならず、不利な状況下で心理的に不安、怒り、失望といった感情に囚われているのを押さえ込まずに認識して、それらの感情を処理することで、次のステップに進む準備ができ、次いで現状の何が不利なのか、その原因が何なのかを冷静に分析し、その際には自身でコントロールできる要素とできない要素を切り分けることによって、状況を客観視できるようにして、そこから困難を乗り越えるには、考え方が鍵となり、マインドセットの転換を促すために、困難は成長のための機会であり、失敗は学習の一部だと捉えて、そうやって考え方を変えることによって、新たな挑戦への意欲が生まれ、その過程で、自分の非を責めるのではなく、自身を励ます言葉を使い、自己高揚感を得るにはポジティブなセルフトークが心理的な効果を高め、問題そのものではなく、解決策やこれからできることに意識を集中させることが、焦点を変えることにつながり、さらに考え方を変えるだけでなく、行動が伴ってこそ状況は変化するのであり、そのためには具体的な行動計画が必要となり、これから目指すべき状況を具体的に設定し、目標を明確にして、その際には、大きな目標を達成可能な小さなタスクに分解することで、実行しやすくなり、また準備ばかりを完璧に整えようとはせず、実行可能なことからすぐに始めて、実際に行動を起こすことで、黙っていても状況が動き始めるから、一人で全てを抱え込まずに、信頼できる友人、家族、同僚、あるいは専門家に相談して、やりきれない面ではサポートを求めることも肝心で、手掛けている内容によってはすぐには効果が上がらない可能性もあり、状況の改善には時間がかかることがあるから、焦らず長期的な視点で取り組む必要があり、焦りからくるストレスに対処し、回復力を高めて、逆境から立ち直るための力を日頃から養っておく必要もあり、十分な睡眠、栄養、適度な運動など、自分を労わるための心身の健康を維持して、やっていることが計画通りに進まなくても、柔軟にアプローチを変更して対処することも肝要で、これらのステップを通じて、不利な状況を単なる障害ではなく、成長のバネとして活用することができるそうで、そんなAIからのもっともらしくも気の利いたアドバイスを真に受けるわけでもないとしたら、では何なのかというと、劣勢に陥っている状況をそのままにしておいても構わないような気がするわけで、現状でも構わないような気がするのだから、どうも自分が批判勢力の味方ではないような成り行きへと現状では振れているようでいて、どっちつかずな状況でもあり、それが何を意味するとも思えないが、その一方で世界的には特定の勢力をやっつけようとして実際にやっつけてしまう事態も想定されるし、これからそうなることもあるだろうが、基本的な戦略としては、戦っているつもりの相手から利益を得ようとしているわけで、それが利益を一方的に奪うのではなく、得ようとしているから、戦っていると共に争っている場合もあるだろうが、実際には商売相手がいないと商売が成り立たない事実は踏まえておかないと、商売相手がいなくなるような事態となれば、それこそ自滅してしまうから、なるべく競合関係を維持しなければならず、しかも同時に相手を打ち負かそうともしているわけだが、その辺が微妙な駆け引きの範囲内で批判が活用されていると見ておくのが、妥当に思われるのだが、それが何を意味するとしても、そんな意味など真に受ける必要もなく、戦いと争いの違いなども考慮する必要もなく、戦っているその場で勝手に自身に都合が良くなるようなルール変更が横行するわけだから、それが争いの原因だと言えなくもなく、そんなうんざりするような姑息で嫌らしい成り行きをどう正当化しても、それをいくら正しく批判してみても、そんな批判が通用しなくなるようなルール変更を仕掛けたいわけだから、ルールなどあってないようなものというよりは、絶えず力のある側に有利となるようなルール変更がまかり通るような情勢の中で、劣勢を強いられるのは、いつも決まって正しい主張をその場で通用させたい側になってしまうわけで、劣勢を強いられる側に正しい主張や正しい批判が伴ってくると解釈したくなるわけだが、だからそんな正しい主張や正しい批判を行なっている勢力が劣勢を強いられているのは、ごく当たり前の成り行きだと思っておいても構わないのだが、それをどうにかして正しい主張や正しい批判や正しい行いを伴っている側が勝つようにルール変更しようとしているのが、左翼リベラル勢力だと見なすのも、ちょっとずれているような気がするが、そんな認識が当たらずとも遠からずな情勢だと現状を見ているのだから、どうしてもそういった批判する側を逆批判するのも不公平なような気もしてきて、あまり批判はしたくはないのだが、それが自然な成り行きに従ってしまうと、否応なくそうなってしまうのだから、どうしてもそんな成り行きには逆らえなくなってしまうわけだ。2月3日「予想通りの分析結果」何が予想外なのかと考えてみると、今がその機会ではないという結論が頭に浮かんで、今がそれを考える機会ではないのかどうかも、何のことやらさっぱりわからないのもいつものことだが、誰かが危機感を募らせようとしているのは確からしいが、差し迫った危機や問題の深刻さを強く自覚しているのかというと、識者やジャーナリストの類いがいつものように情勢を危惧しているのだから、そうやって危機感を募らせるのもいつもの光景なのだが、それをニヤニヤしながら見ている自分に危機意識があるわけがなく、そういう部分もあるだろうが、メディアで言われているそれを真に受けるわけには行かないという抵抗感の方が圧倒的とまでは行かないにしてもかなり大きいわけだから、それに関して何をどう考えてみても、それが自分にとっては安心材料のような気がするわけで、この先何が起こっても、全ては思惑通りに事が運んでいる最中だと思うしかなく、だから水増しされたガセ情報に一喜一憂している者たちの浮き足だった言動を真に受けるのも、演技としてそうなるのは当然なのだが、それが演技であることに気づかないとしたら、そんな自分を演じながら何を考えているのかもよくわからないわけで、それが誰にとって予想外の分析結果なのかも、知ったことではないような気がするわけだから、ここに至ってもなお情勢を楽観視しているのかも知れず、どんな結果がもたらされても、自然の成り行きでそうなっているのだから、それを肯定的に受け止めたいわけだが、何かの方便としてそう受け止めている感じもしないではないから、そんな受け止めを信用しているわけではなく、これから迫りくる危機自体が、いつもの調子でそれをかわすための試練だとも思えないから、何かそれが違っているとも思っているわけで、その何が違っているのかが、それほどわかりにくいことでもないような気がするわけだが、それに関して果たして批判勢力が経済に関しては素人集団なのかどうかが、批判対象に向かって経済オンチ呼ばわりする態度が、それを物語っていると言えそうなのだが、そうだとしても周りが見えていないのはお互い様なのだから、その程度のことで批判勢力を否定的に見ても仕方がないと思うしかなく、偉そうに言えた義理ではないわけだが、自然の成り行きには逆らえないのは確かだとしても、自然の成り行きに逆らってもいいわけで、稚拙な批判が逆効果だというわけではなく、その人が稚拙な批判をやらせるための役回りを課されているのだから、それをやるのが自然の成り行きに沿った行動になる限りで、なるほど自然の成り行きには逆らえないことを証し立てていると言えそうなのだが、そうやって批判勢力がオウンゴールしまくるのを、みんなで見て楽しんでいる光景が、果たして末期的な世界情勢なのかどうかも、自然の成り行きからすれば、それで構わないような気がするわけだから、そんなことをやっていればそれで済んでしまうようなことなのかも知れず、誰かが叱咤激励しているような気もする一方で、たぶん叱咤激励している側が、破滅の一歩手前で悪あがきの最中だと見えてしまって、そうやってバカ騒ぎが終わった宴の後から、どうしようもないことが明らかになるわけだから、そうなることをこれから予想してみても、単なる傍観者のたわごとになってしまうそうだから、いくら当事者ではない第三者のふりをしても、責任やリスクを負わない立場などあり得ないし、無責任に気楽なたわごとを述べる気にはなれず、それでも何とかして劣勢を跳ね返そうとしていると受け取っても構わないかどうかも、それもちょっとずれているようにも感じられて、何がずれているのかといえば、法的な違法性と経済的な功利性が比較する対象とはならないことを、どう表現すればいいのかわからないのだが、法的な違法性を強調することがそれほど効果があることなのかどうかも、それが昔と比べてどうなのかも、よくわからないというと、それに対して経済的な功利性というのも、あまり本気で信じられるようなことでもないだけに、もしかしたらどちらにしてもあまり決定的な判断材料とはならないとしたら、では何がそれほどまでに現状を動かしているのかというと、法的な合法性や違法性に頼って正しいことを述べようとしても、あるいは経済的な功利性に頼って妥当なことを述べようとしても、どちらにしても決定的なことを言い放とうとする者から、順番に顧みられなくなって行くのが自然な成り行きとなっているように感じられるから、確実にそうだとは言えないにしても、実際にそうなってしまう成り行きにとらわれてしまう者たちが批判勢力を形成しているように見えてしまうわけで、そうやって彼らが何を批判しても馬耳東風な風土が日本で生じていると考えても構わないかどうかも、今のところはそうでもない人も少数派として存在しているようにも見えるのだが、自分がその少数派に属していると言えるかどうかも、やはりちょっと違う成り行きにとらわれているようにも感じられるから、否応なくそれらとは一線を画しているような気がするわけで、だから合法性や違法性の判断基準に頼り切って何か述べようとすると、世の中の主流を構成する情勢からは置き去りにされてしまうような感じがする一方で、その人がそれほど合法性や違法性の判断基準に頼り切っているとは思えないのだが、その人も批判勢力を形成する代表的な人物であることもXなどでは確かだから、ちなみに町山智浩の言っている内容がベタすぎる、でAIによる概要がどんなものなのか紹介してみると、映画評論家・町山智浩氏の評論スタイルについては、多様な意見が存在していて、ご指摘のように、ベタという言葉が意味するかどうかも、AIが判断する、大衆的、予測可能、あるいは説明的と感じられる背景には、次のような特徴があると考えられ、まずはストーリーや背景の丁寧な解説として、映画のあらすじ、時代背景、監督の意図などをわかりやすく説明するスタイルが多く、マニアックな視点よりも、誰にでもわかる面白さを重視する傾向があり、文脈を意味するコンテキストの重視としては、映画そのものの映像美よりも、その映画が制作されたアメリカの政治・社会情勢、または監督の過去作との関連性を踏まえて解説するため、結論が王道になる傾向があり、わかりやすさの追求としては、苦い薬を包む綿菓子のような、物語の面白さという綿菓子で、社会問題という苦い薬を伝える、と言った表現で映画の価値を語るなど、大衆的な視点から映画を紐解く手法を好み、一方で、このベタなアプローチは、映画をあまり見ない層や、予備知識なしで楽しみたい層に対して、作品の魅力を瞬時に伝える初心者向けの解説として高く評価され、町山氏の評論は深層的な分析を求める層からはベタに映り、情報や娯楽を求める層からはわかりやすいと映る、という両面性を持っていると言えるそうだが、当人はこんな評価には断固反論するかも知れないが、一方で町山智浩の政治姿勢がリベラル左翼だと受け取られている、でAIによる概要がどんなものなのか紹介してみると、映画評論家・著述家の町山智浩さんは、その発言や著作の内容から、リベラル左翼(リベラル派、左派)的な政治姿勢を持っていると広く受け取られていて、特にアメリカ社会の構造的問題、格差、マイノリティの権利、そして保守的なトランプ大統領の政策に対する批判的な視点で知られ、具体的には次のような活動や発言が、その姿勢を特徴づけていて、トランプ大統領への批判として、トランプ氏の政策や、メイク・アメリカ・グレート・アゲイン(MAGA)運動に対して批判的であり、トランプ支持層の過激化を指摘するなど、アメリカ政治における右派的な動きを鋭く解説していて、社会的な不平等への言及としては、『99%対1%アメリカ格差ウォーズ』の著作に見られるように、富の偏りや格差問題をテーマにし、弱者や労働者側の立場を支持する姿勢を示していて、人権・マイノリティへの配慮としては、LGBTなどのマイノリティ理解や、社会的な権利を擁護するコメントを発しており、社会的な自由主義の姿勢が顕著で、「アメリカの日常」からの視点では、カリフォルニア州オークランド在住の視点から、メディアでは報じられないディープなアメリカ社会の現状を紹介し、アメリカ社会の歪みを解説して、このように、平等や多様性、社会的自由を重視するリベラル派のスタンスでアメリカ社会の動向を評論しているため、政治姿勢はリベラル左翼と捉えられているそうだが、肝心の日本の政治情勢には、全く触れようとしないのは、自分のAIへの質問がまずかったようだが、AIによる回答の範囲内では、なるほどと思わせるようなベタぶりではあるわけだ。2月2日「自由主義の自由とは」自由主義とか新自由主義とかいう、そこで言われている自由とは何なのかが、どうもわかっているようでいてわかりにくいような気がするわけだが、自由主義に関するフーコーの説明もわかりにくいのだが、なぜ自由主義という言い方をするのかというと、さらに自由主義的統治術という言い方をするのかというと、純然たる経済学説よりも、もしくは純然たる政治学説よりも、あるいは厳密な意味における自由主義の純然たる経済的かつ政治的選択よりも、はるかに一般的な現象に適用されるもので、新たな統治術を特徴づけるのは、自由主義というよりもはるかに自然主義であり、重農主義者やアダム・スミスなどによって語られる自由とは、個々人に認められる法的自由であるよりもはるかに、自然発生的で、経済プロセスに内的で本質的なメカニズムのことで、経済学者というよりもはるかに法学者であったカントにおいてさえもやはり、永遠平和は法権利によってではなく自然によって保障されるのだということを確認していて、十八世紀の半ばに姿を現すのは、統治の自然主義のようなもので、この統治術の根底にあると思われる自然主義、根源的な自然主義は、啓蒙専制主義をめぐる重農主義的な考えの中に非常にはっきりと現れていて、経済の自然発生的メカニズムが実際にあり、あらゆる統治は自らの目標に対立し、それとは反対のものでさえあるような諸効果を望まないのであれば、そうしたメカニズムを尊重しなければならず、こうしたことを重農主義者たちが発見する時、人々に対し彼らが望むように振る舞う自由を与えなければならないということではなく、統治は個々人の自然的で根本的で本質的な法権利を認めなければならないということでもなく、あるいは統治は可能な限り権威的でないものとならなければならないということでもなく、重農主義者たちがそこから結論することは、統治には経済的なメカニズムをその内奥の複雑な自然本性において認識する義務があるということであり、もちろん統治はそれをひとたび認識するやいなや、そうしたメカニズムを尊重しなければならなくなり、しかもそうしたメカニズムを尊重するとは、個々人の自由および個々人の根本的法権利を尊重するような法的骨組みを統治が自らに与えるようになるということではなく、それがただ単に、統治が自らの政策を、社会や市場や経済的流通において起こることについての、正確で、連続的で、明晰かつ判明であるような認識によって武装するようになるということで、したがって統治権力の制限は、個々人の自由を尊重することによって与えられるのではなく、ただ単に、統治が尊重する術を得る経済分析の明証性によって与えられることになり、統治は、明証性によって自らを制限するのであり、個々人の自由によって自らを制限するのではなく、したがって十八世紀の半ばに出現するのは、自由主義というよりもはるかに自然主義であり、しかしそれでもやはり自由主義という言葉を用いるのは可能であり、それは十七世紀および十八世紀初頭における権威的な統治がより寛容でより弛緩したより柔軟な統治へと移行しつつあるという意味ではなく、自由とは一つの普遍的なものであり、これが段階的な達成、あるいは量的な変動、あるいは多少とも重大な削除ないし多少とも大きな隠蔽を、時間を通じて提示するのだ、などと考えてはならず、自由は、時間および地理とともに特殊化する一つの普遍的なものではなく、自由主義的という言葉を用いるのは、まずここに確立しつつある統治実践が、しかじかの自由を尊重したり、しかじかの自由を保証したりすることに甘んじるものではなく、より根本的な言い方をするなら、この統治実践は自由を消費するもので、自由を消費するものであるというのも、この統治実践が機能しうるのは、実際にいくつかの自由がある限りにおいてのみであるからで、すなわち、市場の自由、売り手と買い手の自由、所有権の自由な行使、議論の自由、場合によっては表現の自由などが実際にあるその限りにおいてのみ、そのような統治実践が機能しうるということで、したがって新たな統治理性は自由を必要とし、新たな統治術は自由を消費するのであり、自由を消費するということはつまり、自由を生産しなければならないということでもあり、自由を生産し、組織化しなければならず、したがって新たな統治術は、自由を運営するものとして自らを提示することになり、もっともこれが意味するのは、自由であるべしという、すぐに見つかるような矛盾を備えた命令ではなく、自由主義が定式化するのは自由であるべしという命令ではなく、自由主義が定式化するのは単に、私はあなたが自由であるために必要なものを生産しよう、私は自由に振る舞う自由をあなたに与えよう、ということであり、そして同時に、自由主義が自由の命令であるよりもむしろ、自由でありうるための諸条件の運営であり組織化であるとするなら、そうした自由主義的な実践の核心そのものに、問題を孕んだ一つの関係が創設されることになり、すなわち、自由の生産と、自由を生産しながらそれを制限し破壊するリスクを持つようなものとの間の、常に変化し常に動的な一つの関係が創設されるということであり、フーコーが考えているような意味での自由主義、十八世紀に形成された新たな統治術として特徴づけることのできるこの自由主義は、その核心そのものに自由との生産的および破壊的な関係、自由の消費と破壊との関係を含意していて、一方では自由を生産しなければならないが、しかし他方では、自由を生産するという身振りそのものが、制限、管理、強制、脅迫に基づいた義務などが打ち立てられることを含意していて、これに関しては数々の例があって、もちろん交易の自由が必要だが、しかしもし管理せず制限しないないならば、そうした自由は実際にいかにして行使されうるかということになると、一国の他国に対する覇権によって交易の自由が制限され限定されてしまうことを避けるために、一連の措置や予防策などを組織化しようとしないならば、いかにして自由が実際に行使されうるかということになり、これは十九世紀初頭以来、ヨーロッパのすべての国々とアメリカが出会うことになる逆説で、この時期、十八世紀末の経済学者たちの説を受け入れた統治者たちは、交易の自由の秩序を打ち立てようとして、イギリスの覇権に出会うことになり、そして例えばアメリカの統治は、この問題をイギリスに対する反乱のために利用しつつ、十九世紀初頭からすでに保護関税を打ち立てて、イギリスの覇権によって危うくなると思われる交易の自由を救い出そうとすることになり、同様に国内市場にももちろん自由が必要で、しかしそれでもやはり市場があるためには、売り手だけなく買い手もいなければならないから、場合によっては市場を支援し、援助のメカニズムによって買い手を作り出すことが必要となり、また国内市場の自由があるためには、独占による諸効果があってはならないから、反独占的な法制が必要となり、さらに労働市場の自由も必要となるが、とはいえやはり、充分な数の労働者や、充分な能力と資格を持つ労働者や、政治的に武装解除されており労働市場に対して圧力を加えないような労働者がいなければならず、このように、途方もない法制、途方もない量の統治の介入を求める一種の吸引装置がここには働いていて、これによって、まさしく統治するために必要とされる自由の生産が保証されることになり、自由主義体制、自由主義的統治術において、行動様式の自由はそこに含意され、それによって呼び求められ必要とされ、それを調整するものとして役立つことになるが、それでもやはり、そうした自由は生産され、組織化される必要があるそうで、したがって、自由主義体制における自由は一つの所与ではなく、既成の区域として尊重しなければならないものでもなく、自由は絶えず製造されるような何かであり、自由主義、それは、自由を受け入れるものではなく、絶えず自由を製造しようとするもの、自由の製造によって提起される制約の問題、コストの問題といった、全てが伴うことになるそうだ。2月1日「世界の均衡」自分の意志に逆らってでも勝手にもっともらしいことを述べる気にはなれないのだが、世界の現状に関して、なぜか知らないが危うい均衡がかろうじて保たれているなんて思ってもいないのに、執拗にそれを突き崩そうとする働きかけが絶え間なく仕掛けられていると理解したくなるような世界情勢だと捉えてみても、何かそれが意味不明で、それによって疑念が解消するわけでもないのだが、世界をメディアでよく識者の類いが使うそれらしい言葉を使って捉えて、それに伴って提示される大ざっぱな論理に基づいてわかりやすく理解しようとしているわけではないとしたら、やはりそれとは違うところから、何をどうやってもうまく行かないやり方が試されているような成り行きにならざるを得ないと解釈しても、結果的に危うい均衡が一時的に保たれているように感じられるだけで、実際には絶えず均衡が崩れかけ崩れ続けているから、何とかしてそれを取り繕うための補修が絶え間なく試みられているから、そうすることによってかろうじて危うい均衡が保たれているように見えるだけで、それをどう捉えてみても、やっていることを正当化できるとも思えないし、無理に正当化しなくても構わなくても、それをやっている当事者にしてみれば、やっていることが絶え間なく批判され続けているわけだから、そんな批判に抗う意味でも、否応なくやっていることを正当化せざるを得ないわけで、しかも何を正当化しているのかが、それを正当化している当事者にもよくわかっていないから、そもそも自身のやっていることを正当化している自覚がないのかも知れないし、否応なく批判に抗えば、それが正当化していることになってしまうのだから、自動的にそうなってしまうようなことに、いちいちかまっていられないだろうし、そういう成り行きが絶え間なく続いている中では、その渦中にいるだけでも、そこで主導権を握って何かをやっている気になれるのかも知れず、実際に行われていることに関与している限りで、それが自身の意図や思惑を反映して行われていると思うしかなく、逆にそうは思われなければ、それを自身が思っている通りに修正を施さなければならず、そうしないと自身がその渦中にいる意味がないわけで、だから思い通りになるように絶えず修正を施そうとするのだろうが、その度に思わぬところから横槍が入るような事態に直面し続けるから、それに対しても絶えず対策を講じ続けなければならず、実際に対策が功を奏していると主張したいだろうが、主張している側からそれに対する批判も同時並行して開始され、普通に収拾がつかなくなっていそうだが、そうやって束の間の均衡が保たれているように見せようとするわけだから、今のところはそれで済んでいると受け止めるしかないのかも知れず、それも実際にはそれでは済まないから世界各地で争いが繰り広げられているのだが、様々な方面で様々な勢力が争いながらもかろうじて束の間の均衡が保たれているように感じられる程度のことだとは思っているのだが、そんなふうに情勢分析してみても、それでは分析になっていないから、具体的にAIの示すところによれば、今年の世界情勢は、米国第一主義の再燃による不確実性の増大と共に、インドの台頭によって経済地図が塗り替えられ、日本のGDPは世界第5位に下がり、そしてインフレ鎮静化と技術投資による安定を模索する局面で、米中対立や保護主義的な関税措置がサプライチェーンの再編を促す一方で、世界の経済成長は3%前後で推移する見通しだそうで、金利・物価高の緩和がプラス要因となるが、関税政策など不確実性も依然として高く、トランプ政権の保護主義的な政策に伴って、中国、カナダ、メキシコ等へさらなる関税を課して米国内への産業集積を狙うと、インフレ再燃の懸念が出て、中国やアジアでは、米国との摩擦によりサプライチェーンの再編が進行して、アメリカの関与に依存しない安全保障の模索がアジア各国で焦点となり、日本経済は、ドル建て名目GDPがインドに抜かれ、世界第5位に後退する見通しで、産業のトレンドとしてはAIなどの技術革新への投資が依然として強く、しかもトランプ政権の政策運営が貿易・投資コストの増大をもたらす可能性が高く、各国は自国の利益追求と安全保障と社会保障との間でバランスを取りながら、不安定な国際環境に対応する必要があるそうだが、そんな大ざっぱな分析が何の役に立つとも思えないが、気休め程度の知識として踏まえておけば良い程度のこととして、そんな認識を保持することになるだろうが、それに対して政治的な解決を目指すような成り行きにはなり難く、解決などではなく、政治経済的な競争の継続こそが自国を繁栄に導くと考えているわけでもないだろうが、政治家が口にする内容として、そんな趣旨を含んだ発言が事ある度に出力されることもあるにしても、実際の成り行きは政治家の発言を無視するような方向へと進むかも知れないし、それを無視するというよりは、そんな成り行きに応じた発言が政治家の発言として引き出されるような結果を招くかも知れないから、そんな成り行きに関わっている当事者が、その場で主導権を握っていることを誇示するために、当事者づらした政治家の方から成り行きに歩み寄ってくるような感じになるなら、そこで妥協や譲歩の交渉や取引が行われるから、うまく交渉や取引がまとまるなら、とりあえずの均衡が保たれるだろうが、それも一時的なものとなる限りで、一方では絶えずそんな均衡をぶち壊そうとして、妥協や譲歩の産物であるとりあえずの取り決めを反故にしようと仕掛けてくるから、そんなことをやり出したらきりがなく、きりがないからこそ、政治活動も経済活動もきりがなく続いて行くと情勢を捉えておけば、それなりに納得できるかも知れないが、またそこで各々が自らの信念に基づいて行動しているというよりは、信念をねじ曲げてでも、自身や自身が所属する勢力の利益に結びつくように行動しなければならない成り行きでもなく、自身や自身が所属する勢力の利益に結びつくように自身の信念を組み立てる成り行きになっているのかも知れないし、そういう成り行きの中で各々が行動しているから、その中で自身の信念を正当化できるように自らの主張も構成しなければならず、大抵がそうなってしまうと、もっともらしいことを主張している割には、実際にやっていることは功利主義の一言で片がつくような結果がもたらされて、そんな結果へと至る過程でもっともらしい理屈や論理などが持ち出されてくる限りで、そこから外れる余地も余裕もないような了見の狭さが目立ってしまって、それがその人の言動や行動からあからさまに窺えるから、その人の置かれた立場が、心が狭く、考え方や判断が柔軟性に欠け、偏狭で融通が利かない状態に対応しているようにも感じられ、物事を深く見通す見識や度量が不足していても務まるような立場であることも示していそうで、そんな立場が、視野が狭いとか、心が狭いとか、器が小さいとかいった言葉に言い換えられ、了見が広いの反対語として使われるだろうが、それが自身の考えに固執し、他人の意見を受け入れられない立場で、考えが偏っていて、狭い思考の範囲に囚われていて、状況に応じて考え方を変えたり、臨機応変に対応できず、広い心で物事を包み込むことができず、ひたすら細かいことにこだわるように仕向けられていても、それが戦略的なこだわりである限りで、演技としてそうなっているだけで、戦略に対応したキャラクターを演じるように仕向けられている限りで、それがその場の情勢に対応した立場でもある可能性も高いわけだ。 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