彼の声172

2026年

1月31日「社会変革と錯覚」

 人が社会の中で生きている限りは、社会を構成する制度や慣習を維持したいと意識してそうしようとしているわけではなく、制度や慣習に従って行動していれば自然にそうなってしまうから、そんなことをわざわざ意識しなくても済んでしまうわけだが、誰もが制度や慣習から恩恵を受けられるわけでもないから、恩恵を受けられないどころか不利益や損失を被っていれば、意識して制度や慣習には従わないどころか、そんな制度や慣習は変えなければならないと思って、中には社会を変革するために行動を起こす者も現れて、社会を変革するための活動を開始する場合もありそうだが、その際にはどんな制度や慣習を変えようとするかで、そのやり方も難易度も異なるだろうから、それが政治活動に結びつくかどうかも、そんな政治活動をやっている者や勢力の活動内容から窺い知れるだろうが、そうなるにしても、そうなるに至る成り行きがあって、しかもそんな成り行きの中ではあからさまに社会を変革する活動だとはわからない場合もありそうで、何かをやっているうちにそのつもりもないのに結果的に社会が変革されてしまうような成り行きもありそうで、それが何なのかは、それをやっている当事者にもよくわからないのかも知れないが、そんなことをわざわざ指摘するのも意味不明なような気もするが、昨日バイクで旅するユーチューブチャンネルを見ていたら、旅している人がバイクの燃料をガソリンスタンドで給油した際に、さなえちゃんのおかげでガソリン代が安くなった、としきりに感謝しているものだから、その人は高市がガソリンの暫定税率を廃止してくれたと思っているらしく、直接には高市政権がやったことになるだろうから、なるほどそんな感じなのかと納得してしまったが、AIによれば、昨年末のガソリンの暫定税率は、野党主導で廃止が決定されたそうで、昨年の8月に野党7党が共同でガソリン税の暫定税率廃止法案を提出して、年末の廃止を確定させ、その際には、立憲民主党が廃止法案を推進する野党の核となり、日本維新の会は廃止に賛成・協力し、また国民民主党は12月の幹事長会談で自民・公明に暫定税率廃止を確約させ、共産党などの他の野党は共同提出に加わり、それに対して自由民主党・公明党は、野党主導の動きや選挙結果を受けて、年末で廃止・補助金の段階的縮小へと方針転換したそうで、それが一応は制度変更に成功した実例であることは確かだが、昨年の一連の動向は、物価高騰と野党が勢力を拡大した選挙結果が政治を動かした面が大きいそうだが、それをバイクで旅するユーチューバーの人は、高市政権の功績だと受け取っているような印象で口にしているところが、何か皮肉な結果を招いていると言えるかどうかも、それを見ている人の受け止め方次第のような気もするが、世の中のある面がちょっと変わったとしても、人の意識がそれに気づいているわけではないことを如実に物語っていると言えるかどうかも、そんな大げさなことでもないとは思うが、人が気づかないうちに社会情勢が良い方向にも悪い方向にも変わって行けば、それによって何がどうなるわけでもないとは言えないだろうが、人の意識の中ではそう感じているのかも知れないし、それが鈍感力を発揮している証拠と言えるわけでもないが、意識していなくてもわかってしまうことがあって、自分が行動した後からそれがわかってしまうなら、それが行動する前からわかっていたわけでもないのに、行動した後から、なるほどこうなるからそれに合わせて行動したのかと納得できるわけでもないのだが、何かそれが不思議な感覚をもたらして、意識しなくても自然と社会の動向を捉えているようにも感じられて、だからそれほど危機感を募らせているわけでもないのだが、最近の貴金属の高騰でも、このまま価格の高騰が続いてしまうと、いずれどこかで大きな調整が起こると多くの人が指摘していたわけでもないのだが、案の定急落が起こってから、なるほどあの時に嫌な感じがしたのは、これを事前に予知していたからなのかと思ったわけでもなく、実際にそうなってから思ったわけで、過去に遡ってそれを予知していたような気がするわけだが、それがもうすでに起こっていたかのように思われるとすれば、社会の変革を意識する頃には、もうすでにそうなっているのかも知れず、そんな兆しも感じられないのにそうなっているとしたら、社会が今まさに変革されつつあるから、それに合わせて行動を開始する者たちがいて、自らの行動が変革に関わっていることを意識しないまま、それに気づかないまま変革の担い手になっている可能性もありそうで、案外さなえちゃんに感謝しながらバイクで旅するユーチューバーの人もそうなのかも知れないし、意外と誰もそうは思えないような人が変革の担い手であったりするのかも知れず、それが逆に誰にも気づかれないからこそ、社会の変革がスムーズに行われるような成り行きだとしたら、バイク系ユーチューバーの人に向かって、お前は勘違いしているなどと批判してはまずいのかも知れないし、その人はそれとは別の方面で社会を変革している最中かも知れないから、それが何なのかを探ろうとしては、せっかくの変革の萌芽を摘み取ってしまいかねないから、その人はその人でそんなことをやってもらえばいいわけで、過去にバイクで転倒して背骨を折って1ヶ月意識がなくて、気がついたら病院の集中治療室にいたそうだが、それでも未だにバイク系ユーチューバーとして活動しているわけだから、その活動が別に社会を変革する活動であるわけでもないだろうが、自分がそのユーチューブチャンネルを見始めた頃はチャンネル登録者数がまだ数千人だったのが、今では六万数千人なのだから、それなりに数多くの人々の関心を集めているのだろうが、その人が日本全国をバイクで旅して回って、時折海外にも遠征している中で、何か感じ取れることがあるらしく、それが何なのかといっても、うまく表現できないようなことなのかも知れないが、それと似たようなユーチューブチャンネルでオランダ人の女性が世界中を旅する動画も以前は見ていたのだが、そちらの方は三百万人を超えるチャンネル登録者数なのだから、はるかに規模が大きく、オランダ出身のソロ・女性ライダーが、様々な国の壮大な景色の中をバイクで走り、2018年にキャリアを捨てて、世界旅行を開始して、これまでに19万キロ以上を走破して、ドローンを使った映像や、現地の生活に溶け込むリアルな旅の記録が人気で、彼女の旅は、人生の危機をきっかけに始まり、現在はフルタイムの映像作家として活動していて、彼女は以前地質学の仕事をしており、現在は異なる国々をまたぐ長距離のバイクの旅を続けていて、彼女のチャンネルは世界中のバイク愛好家から高く評価されているそうだが、別にそれの真似をしている感覚はないのだろうが、その人も地理や地質学や歴史などにこだわりを持っているようで、バイクを運転しながらそれらの解説をするわけだが、人混みが苦手なようで、孤独でいるのを好んでいる傾向もあるから、そこから何が窺い知れるわけでもないのだが、普段は仕事をしながら週末や有給休暇などを利用して旅をしているふうもあるから、そういうところが堅実な印象を受けるし、完全にそちらへと没入していないところが、それが現代的な生き方であるとか、そういうことではないのだが、何かを避けている印象もあり、その避け方がある種の共感を得ているのかも知れず、他の旅系ユーチューバーが虚無的な方面へと踏み出して、旅が仕事と化しているのとは対照的な振る舞いに及んでいるから、その辺がギリギリのところで踏みとどまっている感じもしないではなく、だからというわけでもないが危険がいっぱいのアメリカの荒野などへは向かわないし、何でもないようなところで済ませているところが、冒険を避けていることをその人が意識しているわけでもないだろうが、そんなその人の活動の限界によって、その程度のところで妥協しても構わないような微妙な均衡を保っていられるから、まだ何とかなっているように感じられるのかも知れない。


1月30日「批判の仕方」

 経済の分野では、一方が他方を一方的に搾取したりされたりするゼロサム的な成り行きと、社会全体が経済的に発展する共存共栄的な成り行きの両方が同時に進行していると捉えるなら、それを批判に利用する際に、ゼロサム的な成り行きを持ち出して、搾取される側の味方を装いながら搾取する側を批判するというのが普通に考えられるが、低賃金労働者や災害被災者や身体障害者や被差別の人々やLGBTQなどマイノリティの社会的な弱者の味方を装いながら、社会の多数派や多数派から支持される政権や政党や政府や大企業などを批判するという論理が成り立つかというと、何とも言えない面もありそうで、そうしたマイノリティ系の人や団体を多数派から支持される政権や政党などが取り込んでいる事例もありそうだから、AIによれば、多数派・マジョリティの支持を基盤とする政権や政党が、選挙対策や社会の安定を目的として、少数派・マイノリティの団体や支持を取り込む事例が、ポピュリズムや包括政党の戦略として世界的に見られ、アメリカではヒスパニック系やアフリカ系へのアプローチが行われて、通常は民主党支持層とされる人種的マイノリティの一部を、保守派である共和党、特にトランプ政権が取り込んでいる事例があり、大統領選挙で、ヒスパニック系の男性や黒人層の支持を伸ばし、支持層を広げることに成功したが、その背景としては、経済的な不満や、移民政策における既存の民主党への反発を巧みに取り込んで、伝統的な人種問題=民主党という構図を崩すことに成功したが、ヨーロッパでも、移民系や宗教的マイノリティの支持を狙う動きがあり、オランダなどでは、特定のマイノリティ層に特化した党が勢力を伸ばして、既存の多数派政党が彼らと協力を模索する事例があり、オランダのDENKは、主にトルコ系やモロッコ系などの移民・イスラム教徒を支持基盤として結成されて、大都市圏の移民が多いエリアで高い投票率を誇り、都市部での政治影響力を無視できなくなった既存政党が、政策協力の枠組みに組み込む動きを見せ、日本では同性パートナーシップ制度の採用に関して、かつて性的マイノリティへの言及が少なかった自民党政権において、地方自治体レベルから徐々にマイノリティの声が取り込まれてきた過程で、各自治体における同性パートナーシップ制度の導入が検討され、当初は無視されがちであった性的マイノリティの団体による地道な要望や活動が、世論の大きな支持を得たことで、保守的な地方議会でも多様性の尊重という看板のもと、制度採用につながった事例もあり、さらにはポピュリズム的アプローチによる取り込みとして、既存政党が、反エリートや不満を持つ特定のマイノリティ層を、敵の敵は味方として取り込む構造があり、米国でのトランプ支持層の拡大が、反DEIである多様性・公平性・包括性への反対を掲げながらも、マイノリティ層の支持も獲得した事例もあって、その手法としては、マイノリティ団体を直接支持するのではなく、既存のリベラルなエリートが推進する少数派優遇政策への不満を持つ層を抱き込む、一種のクライム・ディール的な犯罪対策の強化などを名目に特定のグループの支持を獲得する戦略が見られ、これらの事例では、多数派政党がマイノリティを支援するというよりは、彼らの潜在的な不満を選挙の際の票として取り込み、多数派としての地位を強固にするというポピュリズム的・包括的な戦略として行われるケースが多いと言えるそうだが、それが共存共栄を目指す戦略だと言えないこともないが、戦略であるからには、そんな戦略に取り込まれたマイノリティ層が取り込んだマジョリティ層に騙されているのかというと、元々がリベラル・エリート層によるマイノリティ層の取り込み戦略がうまく行かなかったから、マイノリティ層の間で不満が高まって、そんな情勢を利用して、今度は保守層からマイノリティ層を取り込む動きが起こったと考えるなら、どちらにしても戦略的なアプローチであることには変わりないが、どうもそうではないような気がするわけで、経済的な成り行きにゼロサム的な面があることも確かだが、その一方で共存共栄的な面もあって、そういった面を過大に正当化するわけにも行かないが、先日れいわの選挙運動員から電話があって、比例はれいわに投票しろだのなんだのと言ってきた挙句に、ポスターを貼るだの何だの言っているから、一枚ぐらいなら自宅の外壁かどこかに貼ってもいいとか言ったら、ポスターを送るから自分で貼ってくれと言い出して、まあいいかと思って承諾したが、住所だとか郵便番号を伝えたわりには、一向に送ってこないようだから、なるほど嘘だったのかと思ったが、自分がれいわオーナーズで会費を年間数千円払っているから、電話をかけてきたんだろうが、要するに下っ端の運動員はこき使われて大変な思いをしているんだと、勝手に推測してしまったが、この前のれいわの代表の選挙でも、れいわオーナーズに入っていると投票権があるから、ネットで八幡愛に投票したら投票した理由を書き込めと聞いてくるわけで、なんじゃコイツらは?と一瞬たじろいでしまったが、自分の勘が間違っていなければ、何かヤバい連中だと感じられてしまって、そんなこと言ったらもっとヤバい連中が他の政党にもいくらでもいそうだが、人が寄り集まって組織を形成すると、そこで役割分担が行われて、組織の上層部になれば、それなりに下っ端の連中に指図して、偉そうな気分になれるかも知れないが、下っ端になってビラ配りとかポスター貼りとかやる立場になったら、それだけで心身が消耗してしまいそうで、中にはそういう役割を喜んで引き受けて、黙々と作業をこなしてくれる人もいるだろうから、そういう人はありがたがられるだろうが、自分はそうではないから、人と一緒になって作業するのが苦手な人間だと思っているし、そういうのはごめん被りたいわけで、だから彼らの役には立てそうもないらしく、申し訳ないのだが、そういう面でも政治的にどうこうしようとしてできるわけでもない成り行きがあって、だから今回の選挙でも自民党が国会の議席の過半数を獲得するならそれでも構わないわけで、裏金問題や統一教会との疑惑がどうのこうのといくらメディアで騒いでいる人がいてもそうなってしまうなら、そういうことだと認識しておくしかなく、そうなったところで現状が維持されるか、さらに高市政権としては政治がやりやすくなるだろうから、やろうとしている政策をやってもらうしかないわけだが、それでどうなるかといっても、現状の延長上でどうにかなるのだろうから、そういうことだと思っておけばいいわけだが、たぶんそれとこれとは違う方面でも、それとは次元の違うところで、世界で人類の共存共栄が成り立っていると考えられないこともなく、その証拠に百年前の世界の人口が二十億人程度だったのが、現在では八十億人もいるわけだから、一世紀で四倍にも急増したわけで、それを人類の共存共栄の結果だと言えなくもないが、その一方で、自然から搾取した結果として栄えているだけとも言えないこともないが、そういう水準ではゼロサム的に人類が物質を消費した分だけ、他のところで減っているわけで、とりあえずそれが経済的な繁栄なのだろうから、無理にこじつければ、新自由主義+グローバリズムの成果だと言えないわけでもなく、世界全体で経済的な繁栄を享受している面もあるらしいと考えられなくもないと述べていると、思いがけず速達でれいわの選挙ポスターが届いて、急いで自宅の外壁に貼ってはみたのだが、貼り方がわからなくて、とりあえず両面テープで貼ってはみたが、すぐに剥がれてしまうかもしれず、外壁を傷つけたくはないが、剥がれてしまったら、しょうがないから釘でも使うしかなく、選挙期間中は貼っておいてくれということで、貼ったところでれいわの候補者の当選にそれほど貢献するとも思えないし、やらないよりはやった方がマシな程度だと思うしなく、れいわのポスターを貼ったのだから、比例はれいわに投票しないとまずいような気はするわけだ。


1月29日「新自由主義とグローバリズム」

 トランプの強引なやり方に対する反作用として、インドとEUが自由貿易協定を結んで、世界の人口の四分の一をカバーする自由貿易圏が誕生したと報じられていたが、これが自国第一主義に対する新自由主義とグローバリズム側からの反撃となるかというと、たぶんそういうことではなく、これによって保護貿易化とは違う流れが生じてきて、世界がブロック経済化するのを阻むような成り行きになるわけでもなく、絶えず保護貿易的な面と自由貿易的な面が混在するような状況が続いて行くのではないかと予想したくなるが、自国の産業が弱い面では輸入関税を高くして保護したい一方で、自国の産業が強い面では関税を低く設定して自由貿易をやりたいわけだから、その辺がご都合主義的なやり方にはなるだろうが、根本的なところで、関税を上げたり下げたりしても改善しない傾向があり、それが何なのかというと、国家的な面で限界があると言えそうで、具体的には地理的・地政学的な限界となるだろうから、そんな範囲内で政府がやりくりして行くしかないだろうし、そんな限界を突破するためのイデオロギーとして、新自由主義とグローバリズムが提唱されたのかどうかも、受け止め方によって何とでも言えそうなところで、AIによれば、新自由主義とグローバリズムは密接に関連し、新自由主義が市場の自由競争で経済を効率化すべきという思想に基づいて、政府介入の抑制や民営化を推進する一方で、グローバリズムは地球全体を一つの共同体とし、資本や商品、情報が国境を越えて自由に移動する、グローバル化を目指す思想・現象を指し、新自由主義の経済原則である自由貿易、規制緩和などを世界規模で適用・推進する形で結びついて、グローバリズムは新自由主義的な世界秩序を理想とし、資本の移動や貿易の拡大を促すが、一方で貧富の格差拡大や金融不安定化などの負の側面も指摘されていて、そういった負の側面を批判材料に利用して、ポピュリズム勢力が台頭してきて、政治的な主導権を握って、排外主義や国粋主義や少数派への差別意識などを煽るわけだが、それが新自由主義+グローバリズムが反映された資本主義市場経済の中で主導権を握るための戦略でもあるわけだから、新自由主義+グローバリズム勢力とそれを批判するポピュリズム勢力とは表裏一体の関係を構成していて、ポピュリズム勢力が活動できる環境を新自由主義+グローバリズム勢力が提供していると言えそうで、表面的には世界が新自由主義とグローバリズムに覆われるほど、そんな状況に対するアンチとしてポピュリズム勢力が跋扈するという悪循環に陥っていると情勢を捉えておけば、何となくそれが正しい情勢認識のような気がしてしまうが、それに関して現代の国際情勢は、パワーバランスの変化、保護主義の台頭、力による一方的な現状変更の試みにより、安全保障環境が極めて厳しく不確実になっていて、自由で開かれた国際秩序が揺らぐ一方で、気候変動やサイバーセキュリティなどの地球規模の課題が増大して、G7や同志国との連携の重要性が高まっていると、何やらこれもAIが利いたふうな回答を出してくるが、主要な情勢ポイントとしては、安全保障の厳格化と国際秩序の揺らぎが起こっていて、特定の国家による急速な軍事力の強化と一方的な現状変更の試みが進行中で、既存の自由、民主主義、法の支配に基づく国際秩序が挑戦を受けている最中であって、それに伴ってパワーバランスの変化と国際協調の低下と共に、グローバル・サウスと呼ばれる新興・開発途上国の存在感が高まって、国連の機能低下も指摘され、対立と競争、協力が入り混じる遠心力が強い状況にあり、安全保障も複合化していて、軍事だけでなく、半導体やレアアースなどのサプライチェーン、重要・新興技術、サイバーセキュリティ、偽情報対策が安全保障の要素となってきて、そんな状況を踏まえて、同盟・同志国連携が重視され、G7や日米豪印、日米韓、日米比などの連携が不可欠となっているのは、ちょっと昔の状況で、それをトランプ政権が積極的に壊しにきているわけで、また日本を取り巻く環境は、中国、ロシア、北朝鮮を含むアジア太平洋地域において、軍事的緊張が高まるリスクが存在しており、日米同盟の強化と、インド太平洋地域における平和と安定を目的とした多角的な外交が求められているそうで、日本国内の課題としては、少子高齢化、災害の激甚化に備えた防災対策の強化、都市への一極集中、情報リテラシーの格差、低迷する生産性なども喫緊の課題となっているそうで、果たしてそれに対して新自由主義とグローバリズムが有効な策を打ち出せるかというと、それに対するアンチとなるポピュリズム勢力を勢いづかせるには有効なのかも知れず、新自由主義の核心となる内容は、政府による経済への介入を批判し、市場原理と自由競争が最も効率的だと考える思想であり、政策として、規制緩和、民営化、小さな政府、政府の役割を縮小、財政再建を重視し、経済の効率化と発展、個人の自由の最大化を目指す一方で、グローバリズムの核心は、地球全体を一つの共同体とみなし、経済活動や文化交流を世界規模で一体化させようとするグローバリゼーションの思想や働きであり、特徴は、国境を越えた資本・技術・人・情報の自由な移動を促進し、多国籍企業の活動を活発化させ、新自由主義的な市場原理を地球規模で適用・推進するイデオロギーとして、グローバル化現象を加速させる役割を担い、新自由主義は、自由貿易や資本の移動の自由化を掲げ、グローバリズムを経済的に後押しした結果として、投資や貿易の拡大、情報伝達の高速化といった恩恵をもたらした一方で、先進国での失業者増、貧富の格差拡大、金融市場の不安定化などの問題を引き起こして、それに対して、規制なき自由競争が企業に低賃金労働者を求めさせ、自国産業の衰退や失業を招くなど、新自由主義的グローバリズムは多くの批判を受けたそうだが、簡単に言えば、新自由主義という考え方が、グローバリズムという世界的な動きの背景にあるイデオロギーとして、その推進力となってきたと言えるそうで、だから何かと批判されやすいとも言えそうだが、実際にそれに対するポピュリズム勢力からの批判が有効に機能しているかというと、結果的にはより一層のグローバリゼーションを推進する方向で有効に機能していて、それらと表裏一体化しているから、ある意味ではポピュリズム勢力も批判の標的となっているわけで、対立を煽るから、対立している勢力から批判されるのは当然だろうし、対立しているどちらもがグローバリゼーションに抗っているわけで、しかも抗えば抗うほど分断も顕著に進行するから、グローバリゼーションに抗っている姿勢を見せることが、ポピュリズム勢力が世の中で活動している中身そのものなのだから、グローバリゼーションに抗うことがポピュリズム勢力の活動であると共に、分断を煽っているのもポピュリズム勢力の活動そのものでもあるわけだから、グローバリゼーションが進行すればするほど、それに抗いつつ分断を煽る活動も活発化するわけで、要するにグローバリゼーションが進行しないとポピュリズム勢力の活動が成り立たないと受け止めても構わないかどうかも、実際にそうなってみてから判断するしかないが、だからグローバリゼーションの進行によって社会の分断が加速していると現状認識するなら、それに伴ってポピュリズム勢力の活動も活発化していると状況を捉えておいても構わないような気がするわけだが、そういう意味ではグローバリゼーションの進行とポピュリズム勢力の活動が相乗効果をもたらしていると考えても良さそうで、それによって資本主義市場経済もより一層活発化すると考えてもいいのかどうかも、実際にそういう実感が伴ってくれば、そう思うしかなさそうだが、その一方で社会主義者やマルクス主義者などが資本主義の限界を指摘し続けていて、それも彼らがそんな指摘をすればするほど、資本主義市場経済がより一層活発化していることを窺わせる兆候なのかどうかも、実際に資本主義の問題点や限界を指摘しているわけだから、執拗に続いていることの証しとなっているような気もするわけで、執拗に続いているからこそ、その問題点や限界を執拗に指摘しているわけだ。


1月28日「利他的な行動」

 人が利害関心に従って利己的に動いているのを否定するわけには行かないが、時として利他的な行動が伴ってしまう場合もあるにはあって、自分の利益や時間、労力を犠牲にして、他者や社会のために利益や幸福をもたらす行為のことを、利他的な行動というのだろうが、政治家が選挙宣伝の一環で、自身が世のため社会のため国家のために働いて、利他的な行動をとっているのをアピールすることもあるにはあるが、それは自身が選挙に当選したいという利己的な下心があることと表裏一体となっていると解釈するなら、それが見え透いたアピールのようにも感じられるが、寄付やボランティア、困っている人を助けるといった行動がそれに当たり、人間社会における協調性や共感、社会全体の調和を促進する上で重要な役割を果たすそうだが、利他的な行動の具体例としては、震災時の義援金、ボランティア活動、募金、献血などの、社会的な支援や、見ず知らずの他人に席を譲ったり、道案内をしたり、重い荷物を持ってあげたり、相談に乗るなどの、日常の親切や、自分の時間や資産を他人のために使う、自己犠牲的な行動や、サステナブルな素材の購入、プラスチック削減などの、環境への配慮などがあり、利他行動の背景にある心理・メカニズムとしては、他人の痛みや苦しみを自分のことのように感じて、助けたいと思う共感の感情や、将来的に自分も返報を受けることを期待して、現時点で他者を助ける、互恵的利他主義の行動であったり、他人から良い人だと思われたいという、社会的報酬の意識が利他行動を促したりするのだが、生物学的な視点から考えるなら、利他行動は自己のコストを払って他者に利益を与える行動と定義され、特に血縁関係にある個体を守る、親が子の世話をする場合に進化的に有利になるとされるが、注意点として、利他的な行動はポジティブなものだが、自己犠牲が過ぎて自身の生活や心身に支障をきたす共感疲労にならないようバランスが大切だそうだが、利己的な行動であっても利他的な行動であっても、利害関心が絡んでいることは確かで、どう行動すれば自己の利益に結びつくかとか、あるいは他人にとって利益になるかとか、絶えずそう考えながら行動している自覚はないだろうが、短期的な目先の損得勘定を意識する一方で、反省的な方面では、長い目で見て、今は骨折り損のくたびれもうけのような苦労を強いられるにしても、この苦難の経験が将来のどこかで必ず何かの役に立つと確信できれば、喜んで損な役回りを引き受けるような立ち回りにもなるから、そういう意味ではあまり素直に他人の親切をありがたがったりしていると、その他人が利害関心に囚われながら動いていることに気づいていないことになり、今度はその他人に恩返ししなければならないとか思って、そんな親切心を他人に逆利用されていることにも気づけなくなってしまいそうだが、一方で理由も魂胆もわからないままに、標語的な文句をしきりに押し付けてくる輩には注意しないと、例えば他人に対する感謝の気持ちを忘れずに、とか、会う人会う人にあいさつを強要してくるような人にも警戒してしまうが、そこから変なふうにねじ曲げて、他人に対する感謝の気持ちが、いつの間にか国家に対する感謝の気持ちを忘れないようにしようとか、そんなふうに言い変えてくると、ヤバい人だと感じられるのだが、それが何のためらいもなく地続きでそうなってしまうと、勘違い気味に特有のイデオロギーの類いが関与しているのではないかと穿った見方をしたくなるのだが、自分にとっての有用性ではなく、自分がどう行動すれば国家にとって有用なのかを考えるとか、他人の役に立ちたいという利他的な利害関心ではなく、国家の役に立ちたいという利害関心が、果たして利他的な利害関心だと言えるかどうかも、また多くの国民がそう思い込んでしまうことによって、いったい誰が得をするのかと考えるまでもなく、そういう意味でも自身が絶えず利害関心に囚われていることを自覚せずにはいられないが、それが自分にとっての利害関心だと言えるかどうかも、直接にはそうであるにしても、それが回り回って、社会にとっての利害関心になってしまうと、果たしてそこに国家にとっての利害関心が入り込む余地が生まれてくるのかどうかも、それとこれとは次元の違うことだとしても、何か引っかかるような単純な標語を何のためらいもなく口にする人の感覚にヤバさを感じてしまい、特にそこに利害が絡んでくると、しかも利害が絡んでいることに、ちょっと考えてみないと気づかないことだから、そんな標語を口にしている人も、おそらく気づいていないんじゃないかと思われて、金銭的な利害とかが目に見える形で示されないと普通に気づけないわけだが、そういうわかりやすい利害だけではないところが、世の中の様々な方面で様々な利害が複雑に絡み合っているのだろうが、そんな実態のよくわからない利害まで考慮に入れられないから、利害と言えば普通に金銭的な利害関係だけから考えがちになるにしても、自分の利害など眼中にないかのような自己犠牲的な振る舞いに献身的に及んでしまう人には用心しないと、そんな振る舞いをこれ見よがしに見せられてしまう場面に遭遇するのかといっても、出くわすことなど滅多にないはずだが、メディアなどからそれが伝わってきて、それによって頭の中で警戒警報が鳴り止まなくなってしまうわけでもないが、自己犠牲的な行為が世間的に称賛を浴びるような成り行き自体には何の違和感も覚えないし、それが何かの宣伝に使われると、それを宣伝に使っている勢力に何らかの利益がもたらされることを期待して宣伝に使っていると考えておけば、それで済んでしまうことではあるのだが、自己犠牲的な行為が宣伝・美化される背景には、文化的、社会的、心理的な要因が複雑に絡み合っていて、他人や組織のために自分を犠牲にする姿勢が美徳として称賛される一方で、支配構造や組織の都合を維持するためのプロパガンダとして機能している側面もあり、滅私奉公の精神の美徳化となって、日本には長らく自己犠牲や我慢を美徳とする文化的土壌があると、AIも得意になって解説したがり、弱音を吐かずに辛い状況でも耐える姿勢が、かっこいいとか崇高とされる傾向があるそうで、組織優先の価値観として、会社や家族などの利益を個人の利益より優先させることが忠誠心や責任感の強さとして強調され、周りの空気に同調して、誰かのために犠牲になることが正しいこととして周囲から期待され、その期待に応えることが円滑な人間関係を保つ手段となり、他人のために尽くすことで、自分が必要とされているという実感を得て、自分の存在価値を確認しようとする心理が働いて、進んで自己犠牲を払うことで、自分だけが利己的であるという罪悪感を逃れ、そんな大衆の感情操作を狙ったストーリー化を手がけるメディアが提供する物語の内容には、自己犠牲を伴ったドラマチックな物語を好む傾向があり、実際に主人公が苦難を乗り越える姿は大衆の感動を呼んで、世間的な称賛を得やすく、そうしたメディア的なプロパガンダの利用に関して言えることは、自己犠牲を積極的に喧伝することで、労働者や構成員から文句を言わずに働く動作を引き出す、称賛と支配の構造があり、また英雄的な自己犠牲の話は、その行為が正しいという強いメッセージとなり、個人が犠牲を受け入れることを標準化する、英雄化による標準化作用があり、組織や国が危機にある時、構成員や国民の団結力を高めるため、個人の犠牲を美化し、それを愛国心や使命感と結びつけるような、危機的状況での団結が挙げられるが、その一方で、企業などのリーダーシップにおける文脈からは、リーダーが自己犠牲的な姿を見せることによって、メンバーのコミットメントやエンゲージメントを高め、組織目標の達成を促進しようとする思惑もあり、それに関する注意点として、自己犠牲が美化される一方で、自分を削って与えることでもあるから、行き過ぎた自己犠牲は、ストレスや不満の蓄積、さらには組織による個人の搾取につながる危険性も指摘され、現代ではそんな風潮自体への批判も高まっているそうだ。


1月27日「自然の狡知と理性の狡知」

 自然の狡知といえば、自然が人間の自己中心的な欲望や絶えず争いを誘発する非社交性を利用して、意図せずして社会の秩序や文明の進歩をもたらすという自然の目論みを指すのに対し、理性の狡知といえば、理性が自らの目的達成のために他者を道具として利用することを指すそうだが、一見すると悪や禍に感じられる人間の利己的な行為が、最終的には平和や法秩序を創り出すように自然や理性が誘導しているという見方であり、トランプも高市も、まさに新世界秩序(ニュー・ワールド・オーダー)を創り出すために、自然の狡知と理性の狡知に操られながら絶え間なく非社交的な争いを誘発している最中なのかも知れないが、自然の狡知がカント的な概念だとすれば、理性の狡知が主にヘーゲル哲学に登場する概念で、人間の理性や歴史の運動が、個々の人間の意図や感情や情念とは無関係に、より高次の目的である絶対精神の発展などを達成するために、無意識に、あるいは狡猾に作用する仕組みを指し、具体的には、人々が情熱や欲望に従って自己利益を得ようと行動した結果が、意図せぬ形で歴史の進歩や世界精神の実現に貢献してしまうという、裏技のような働きを言うそうだが、そこから目的と手段の乖離が生じてきて、個々の人間は自己の目的である富や名声や権力を得るために行動するが、その行動が歴史の最終的な心理や目的である世界精神を実現するという、大いなる計画の手段として利用され、人間の情熱や欲望、感情といった情念は、本来は非理性的・刹那的なものだが、理性の狡知によって、歴史という大きな舞台で道具として利用されて、人間の意図を超えて、歴史は進んで行き、その裏で、理性あるいは世界精神がずる賢く、巧みに、狡猾に働いているように見えることから、狡知と表現されて、ヘーゲルにとっての同時代的に理性の狡知が働いたと考えられる有名な例として挙げられるのが、ナポレオンがヨーロッパを席巻した際、彼自身は自らの野心から行動したが、その行動がフランス革命の理念である自由と平等の精神をヨーロッパ全土に広め、世界精神の発展を促した、と解釈したそうで、これは理性の狡知が働いた一例とされるが、ではそこから百数十年が経過した後に、ヒトラーがヨーロッパを席巻した際には、どんな精神をヨーロッパに広めたのか、あるいは今まさにトランプが現代のヨーロッパを担うEUと対立を装いつつも交渉している際には、どんな精神がヨーロッパ全土に広まりつつあるのかといっても、そんなことまではわかりようがないが、とりあえずAIのまとめによると、理性の狡知とは世界史のダイナミズムや進歩を説明するヘーゲル哲学の概念で、個人の欲望や情念が、高次の理性的な目的を担う世界精神によって巧みに利用され、結果的に歴史を前進させる仕組みを指す言葉だそうで、欧米のインテリたちは学生時代にヘーゲル哲学なんて学んだ範疇だろうし、ナポレオン=ヒトラー=トランプなんていう図式など容易に思い浮かべられるだろうから、もちろんそれぞれに時代が違うし、キャラも流儀も異なることは承知で、そんな奴らが歴史の節目ごとに登場してくるお騒がせキャラ程度には受け止めているんじゃないかと推測したくなるが、だからなんだというわけでもないが、絶えず争いを誘発させようとする非社交性という点では、トランプなんて事ある度ごとにそればかり仕掛けてくるから、ここまで執拗に毎度のことのようにやられると、その行動や言動がワンパターンのような気がしないでもないが、それに対して結果的には〇〇の狡知が発動するわけだから、トランプやプーチンや習近平なんかが嫌がっていることが実現すると考えても構わないのかどうかも、実際に今後数十年単位でわかるかどうかも、現時点では何とも言えないし、ヘーゲルにしても歴史をそうなった結果から都合の良いように解釈しているわけだから、数十年後に過去を振り返って、自身の学説に適うように歴史を都合の良いように解釈する歴史学者や哲学者が現れるかどうかも、やはり現時点では何とも言えないところだが、彼らが何を嫌がっているのかといっても、それが新自由主義+グローバリズム的な世界秩序が実現するのかと考えても、そうなることを彼らが嫌がっているとも思えないが、少なくとも現状でわかっているのは、市場の成り行きには逆らえないということになりそうで、その市場というのが資本主義市場経済であることは、現状ではそうとしか把握できないような状態なのだが、それに伴って世の中で流通している言説というのが、市場の成り行きを肯定したり、正当化する言説となっているだろうから、それが市場の真理を説明する言説だと言えそうで、例えば貴金属の金の価格が高騰していれば、金価格高騰の理由をもっともらしく説明して、それを正当化する言説が世に広まって、あわよくば金価格の高騰を利用して利益を得よと促されているような気がする一方で、そんな言説が市場の成り行きには逆らうなという暗黙の警告を発しているようにも思われる一方で、そんな成り行きに逆らうようなことをやってしまう者たちには損失がもたらされると説かれているのかといっても、あからさまにそうは説かれていないだろうが、何となく警戒心と抵抗感を覚えるわけで、要するにヤバそうな感じがして、勘がそれはちょっと違うんじゃないかと盛んに警報を鳴らしているようにも感じられるから、なぜか金価格の高騰には乗り遅れしまって、今から参入する気にはなれないわけだが、たぶん自分の勘違いだったのだろうが、それを金価格の高騰が証明していて、数ヶ月前に金と金鉱株のETFをいったんは買ったのだが、なかなかそこから上がらずに、しびれを切らして自分が売った後から急騰して、その時にはしまった!と思ったのだが、それでもあの時売っていなければと後悔することなどいくらでもあって、日常茶飯事だから今でも売ってしまったのを悔やんでいることは確かだが、大した金額を投資しているわけでもないから、今のところは本気になって投資にのめり込むような成り行きにはなっていないわけで、そんな個人でやるみみっちい少額投資なんかとは次元が違う方面でトランプも活動しているわけだから、先週のグリーンランド取得に反発するEU諸国に高関税を課すと脅したら、市場がネガティブに反応したから、さっさと翌日には妥協してまうのも、変わり身が早すぎて笑ってしまったが、そうやってトランプもナポレオンやヒトラーのように、自然や理性の狡知の犠牲者にならないように、危ない駆け引きの真っ最中なのかも知れないし、それを当人が自覚しているかどうかも、外から見てもわからないが、高市の方はといえば、前例のトラス・ショックがあるから、しかもあえて解散総選挙に打って出て、伸るか反るかの大勝負だと言えるかどうかも、なぜかそうなるのが必然的な成り行きのように感じられてしまう限りで、結果が見えているような気がしないでもなく、それが予想通りの結果なのか、あるいは思いがけない結果なのかも、結果が出てから、そら見たことかと得意になって嘲りたい奴らが大勢湧いて出れば、そんな結果だったのかと思ってひと安心してしまうのだが、何か意外とそうではない結果が出てしまうことを密かに期待しているかというと、もうすでに結果が明らかになってしまって、やる前からそうなるんじゃないかと思っている予想もあるらしいのだが、今もそうなるための地ならしが関係各方面で行われていることを窺わせるような兆候もあちらこちらで見受けられていて、それが何を意味するのかどうかも、実際にそうなってみないことにはわからないのだが、何か良からぬ陰謀の類いが張り巡らされているというわけでもないところが、わりと安心して情勢を見ていられるような感じもしないではなく、結局はご苦労さんな結果がもたらされて、ああそういうことだったのかと合点が行って、心配していた大勢の人たちがほっと胸を撫で下ろすような結果になってしまえば、ちょっとがっかりしてしまうかも知れないが、その辺は社会的な立場によっても主義主張的な方面でも受け止め方が異なるだろうから、まだ結果がどうなるかわからないことにしておきたいような気がするわけだ。


1月26日「判断力批判」

 相変わらず何を言いたいのかAIがわかっているはずもないから、その辺は自分の判断に委ねられているようで、自分が何をどう判断すればいいのかもわかっていない段階で、カントは判断について教えることはできず、それは特殊な才能に由来するそうで、判断力は知っていることにおいてではなく、それを用いることにおいて発揮される能力であり、豊富な知識のある医者や政治家が規則の適用にあたって、容易に誤りを犯すことにあるそうだが、正しいルールを当てはめる規定的判断力とは異なり、ルールがない中で、例えばこれは美しいと感じる反省的判断力の普遍的妥当性を追求しているらしく、美しいものは科学的な真理などの概念を伴わないにもかかわらず、万人の賛同を要求するという普遍的妥当性を持っていて、美的経験において、人間の理性は自然の中に秩序や目的を見出そうとするから、美は道徳的に善いものの象徴であり、感性的な喜びを理性的な道徳性へと高める役割を果たし、美の判断は、単なる心地良いものや欲望とは区別され、料理や趣味のような直接的な満足感とは異なり、美的判断は所有欲などの対象が存在するかどうかには関心を持たず、欲望に縛られない自由な精神状態である、想像力と悟性の自由な遊戯において、心は純化され、美的判断は、感性的な快の感覚を保持しつつも、それが個人的な欲求に留まらず、理性的・普遍的な合意可能性へと昇華される場所であり、欲望を追求する感性を純化させ、理性が求める普遍的な形式と一致させるという、二面的な役割を果たすそうで、美しいという個人的な感覚が、なぜ他者にも共有されることを期待するのかに関して、美しい対象は何かの役に立つという目的はないのに、見事に調和しているかのように見えて、自然界を目的があるかのように解釈させて、自然の秩序を理解する力をもたらすから、自然の論理としての因果関係と、単なる因果関係を超えた、自由が道徳法則の存在根拠であるという、自由であるからこそ義務の意識に駆られて、自然の因果関係に縛られずに、社会の道徳法則に従ってしまうという、逆転・相互関係が生じていることの二つを繋ぎ合わせる架け橋になるわけで、ここで言われる批判とは、非難ではなく、自然や社会から生じてくる能力の限界や仕組みを正しく精査・チェックすることにあるそうで、美しいという気持ちは、頭の中のルールではなく、心や感情で感じていながら、誰にとっても普遍的であってほしいと願う感覚から生じてきて、論理だけでは割り切れない美しさや目的を、人間がどのように認識しているかを明らかにしたそうだが、以上の説明から理解できる内容も限られてくるだろうが、カントの思想をカント主義として単純化するのには抵抗感を覚えるが、AIはやってしまうわけで、何かと左翼・リベラルのみなさんからは評判の悪い功利主義と左翼・リベラルのみなさんの間では評判の良さそうな義務論としてのカント主義を単純に比較してもらうと、功利主義とカント主義は、倫理的判断の基準が根本的に異なり、功利主義は最大多数の最大幸福を目指し、行為の結果・効用によって善悪を判断する帰結主義・目的論である一方、カント主義は、結果に関わらず行為の動機や義務・普遍的な道徳法則に従うことを重視する考え方であり、功利主義は結果が良ければ良いと考えるのに対し、カント主義は嘘をつくこと自体が悪いと考える、対照的な倫理体系であり、功利主義の基本原則が、行為がもたらす幸福や効用の総量を最大化することにあるのに対して、カント主義の基本原則は、理性によって導かれる道徳法則や義務に従うことにあり、功利主義の判断基準が、行為の結果や帰結が、より多くの人に、より大きな幸福をもたらす行為が道徳的に正しいとされるのに対して、カント主義の判断基準は、行為の動機と、行為自体が道徳法則に合致するかどうかであって、結果は二の次で、功利主義の特徴が、目的論的、帰結主義的であるのに対して、カント主義の特徴は、義務論的、非帰結主義的で、動機説という、倫理学において行為の道徳的価値や正当性を、結果ではなく、どのような意図や動機で行われたかによって判断する考え方になり、功利主義の例として、嘘をつくことで、結果的に多くの人を不幸にしないなら、その嘘は許容される場合があるのに対して、カント主義の例としては、嘘をつくことは、それが普遍的な法則・格率になり得ないため、いかなる結果であっても道徳的に許されないとなり、対比のポイントとしては、評価対象が、功利主義が結果であるのに対して、カント主義は動機や義務となり、根本的対立を形成しているのが、功利主義が幸福のためなら手段を選ばない、結果が良ければ良いのに対して、カント主義は義務や理性に基づいて行為していれば、結果は問わないという点で、根本的に対立して、関連する概念としては、カントの定言命法が義務論の核となり、功利主義の最大多数の最大幸福がその代表的な標語となるそうだが、学校の試験の攻略を目指す程度であれば、この程度の単純化で納得できるだろうが、どうしてもマルクスの思想を単純化したマルクス主義がそうであるように、カントの思想を単純化したカント主義のわかりやすさが罠となっているように思われて、じゃあ何でカントの著作があんなに難解で読解が困難なのかが、カント主義のわかりやすさからは説明が困難だろうし、単純に翻訳の問題でもないような気がするのだが、実際にカントはアダム・スミスなど啓蒙思想家の著作を精読して、自らの哲学を確立したわけだから、もちろん学校の教科書的にはそれらを批判したことになるわけだが、アダム・スミスといえば資本主義の擁護者であり、功利主義的な価値観でもあるわけだから、カントもそれに影響を受けて、商業の発展によって世界が統一に向かうような展望を示したわけで、まさにそれが現代であれば、新自由主義+グローバリズム的な価値観なのだから、それが左翼・リベラル的な価値観からすると真逆とまでは言えないが、著書の『永遠平和のために』などにおいて、商業の発展が国際的な結びつきを強め、最終的に世界が世界共和国または世界連邦となって統一に向かうという平和の展望・平和論を示したそうで、国家間の争いは戦争をもたらすが、貿易などの商業活動は人間の自然な欲望に基づいており、戦争ではなく平和によって保障され、商業の発展により、諸国家は相互依存的になり、経済的利益のために平和な関係を維持しようとする動機である商業の精神が生まれると分析して、人間が世界市民としてどの外国でも自由に移動して、交流できるように、世界市民的な普遍的ホスピタリティを提唱し、商業の発展は、人間が自己の利益を追求する中で、結果的に自然の隠された計画として、争いのない完全な市民的統一である世界国家へと人類を誘導する役割を果たすと洞察して、商業が単なる経済活動にとどまらず、人類を永久平和という共通の目的に向かって統合する原動力になり得ると展望したそうだが、どう考えても功利主義的な帰結としてそうなると予言しているわけだから、ここでカントの思想とカント主義の矛盾が明らかになってしまうわけで、これと同じようにしてマルクスの思想とマルクス主義の矛盾も明らかになるかどうかも、マルクスもアダム・スミスを激しく批判しながらも、資本主義的な経済の仕組みの解明を目指して『資本論』を著そうと悪戦苦闘しながら、完成できずにその生涯を終えてしまったわけで、どうしても学校の試験に出てくるようなわかりやすく対立的な物事の捉え方に思考が馴染んでしまうと、しかもそういう試験で好成績を上げた者たちが政府の官僚になったり、また官僚をやめて政治家を目指してしまうわけだから、何かそういうところがヤバいような感じがしてしまうのだが、要するに最低限の押さえておくべき知識としてそういう対立的な物事の捉え方があって、それに加えてそれとは矛盾するような応用問題として、複雑怪奇に絡み合って、互いに矛盾する込み入った事情や経緯を伴った物事の関係性が浮かび上がってくると捉えておくしかないが、だからどうしても単純に対立する論理を強調し過ぎる主張には抵抗感を覚えるわけだ。


1月25日「無関心な選挙」

 何かそれらしい兆候を事前に察知していたわけでもないが、こうなってみるとそれが誤った先入観だったのか固定観念だったのかは、どちらも似たような意味だろうが、それが邪魔して判断が遅れたと考えられなくもないが、何の判断が遅れたのかといっても、一つの判断で決まるようなことではないだろうから、複合的に様々な判断が絡み合っている中で、何かこれといって決定的に重大な決断ができるとも思えないから、それとは別の方面へと絶えず世間の関心を向けさせようとしていると考えればしっくりくるかも知れないし、本当にそんな単純な意図や思惑に基づいてやっていることなのかどうかも、その言動からはそんな傾向など窺い知れないし、そうではないような傾向をそれらの言動が意味していると仮定してみても、なぜそんな仮定が成り立つのか、理由がよくわからず、そう仮定すること自体に何の根拠もないかも知れないが、しかし何をどう仮定したいのかも、メディアでまことしやかに囁かれている予想が大外れとなるような結果が待ち受けていると予想したいわけでもないが、山本太郎がそんな兆候をいち早く察知して病気を理由に議員辞職したと考えたいわけでもなく、それらが単なる偶然の巡り合わせに過ぎないのに、それに関して何かもっともらしく信じられる理由をこじつけて勝手に推測してみても、それこそ見当違いなことを考えていることにもなりかねないから、それに関してはあまり執拗に詮索したくないが、真意がどこにあるかなんて推測できるわけでもなく、真意でさえも一つではなく複数ありそうで、しかもそれらの真意が矛盾していたり二律背反する別の目的に絡んでいるなんて、そんなところまで考えが及ぶわけでもなく、勝手に見当違いな空想を膨らませているに過ぎないことだが、かつてヒトラーと競っていたドイツ共産党のテールマンなんて、党のスターリン化を推し進めて独裁体制を完成した人物として知られるだけで、ヒトラーと同様の危険人物であったわけだろうが、そんなことを言うなら日本共産党でも宮本顕治がその種の独裁者として知られているが、たぶんそういう方向ではなく、時代が違うと言えなくもないどころか、今も昔もそういう歴史的な経緯から世の中が動いているわけではないことを痛感させられるわけでもなく、それを痛感とは言わずに何というのかと言えば、何かのついでに軽く思いつくようなことかも知れないが、それでも社民党や共産党が日本で少数勢力として存在していること自体が、何かそれらしい兆候を感じさせられるわけで、それに関しては意図していることとは違う方面へと誘導されてしまうから、無理して抗わないと真意でさえも明らかにできないような圧力を感じられるわけだから、それが偶然の巡り合わせなどでは絶対になく、どう考えても必然的な成り行きだからこそ、それに対して圧力が加えられていると事態を解釈したくなってしまうわけで、結局は断固として抗わないと、それに関しては何も述べられなくされてしまうと勝手に思い込んでいるわけだが、これほどあからさまに衆人環視のもとで行われているわけだから、無関心な選挙であるはずもないのだが、その理由づけがいかにもとってつけたような理由だからこそ、無関心にならざるを得ないわけで、それもわざとそうやって世間の関心をそれとは無関係な方向へとねじ曲げたいのだろうから、誰がそうしたいわけではなくても自然にそうなってしまうと考えても、そんなのはあり得ないわけだが、まさにここにきて、打つてなしの状況へと追い込まれようとしているのが誰であってどんな勢力なのかも、それが自業自得だとは思えない範囲内で起こっていることだとは到底思えないわけで、しかもまだ余裕があるからそうなってしまうわけだが、その余裕がこれから命取りになろうとは誰も気づいていないだろうから、うまく事が運んでいると考えても構わないが、誰がそう考えているのかといっても、察しの良い人ならわかりそうなものだが、直感力に優れていれば、気を利かせて先回りして対応してくれる類いの行動ができて、実際にそれが言動となって出力しているわけだから、そういうことだと思っておいて差し支えないわけだが、だからといって選挙結果が今後の日本の行く末を左右するとか、そういうことではないと思っておいても差し支えなさそうだから、どんな結果が出ても、それを軽く受け止めておく程度でも構わないだろうが、それがどういう意味で言われていることなのかと考えているわけでもなく、考えるまでもわかってしまうことだからこそ、それが偶然の巡り合わせなどではなく必然的にそうなってしまうことだからこそ、そんなことには無関心でいても構わないようなことかも知れず、無関心でいられるからこそ今の現状があるわけで、現状を変えてほしいなら無関心でいられるはずもなく、しかも政治よって現状が変えられるとか他力本願な夢など見ている場合ではなく、現状を変えるのが政治ではないとするなら、何が現状を変えるのかというと、何がではなく、世の中の動向が日々変わり続けている中でも、今年の日本に限らず世界的に、少子高齢化・人口減少に伴う深刻な労働力不足と、AIやデジタル化の急速な進展による社会変革の真っ只中にあるとAIが勘違い気味に知らせてくるのだが、環境問題、物価高、災害の激甚化が不安を増幅させる一方、高齢者市場や技術革新が新たな経済チャンスを生み出している一方で、政治的な面ではチャンスはないのかというと、そんなことはAIには無視されて、人口動態と社会構造の急変に伴って、若年層の減少により、あらゆる業種で人手不足が深刻化している中で、深刻な労働力不足に対応するには、AIやロボットの導入が必須となっているそうだが、また超高齢化社会の進展に伴って、医療・介護・健康食品などの高齢者向けの市場が拡大しているそうで、それに伴って現役世代の負担増が課題となっているからこそ、国民民主の玉木が働く世代の手取りを増やして、社会負担の軽減を図るべきだと訴えているらしいが、その一方で経済と技術の潮流として挙げられるのが、デジタルトランスフォーメーションの加速であり、データの流通、自動化技術が業務プロセスを刷新し、生産性向上の鍵となっている一方で、エネルギーや食料価格の高騰が家計に大きな影響を与えており、物価高への対処と生活防衛のために、消費者の節約志向や価格への敏感度が高まっていて、それと共に共稼ぎ世帯が主流となっている中でも、長時間労働の是正やワークライフバランスの改善が重視されているそうだが、それに対して環境と安全保障の面では、持続可能性という意味でのサステナビリティに関して、地球温暖化に伴う大雪や猛暑などの災害の激甚化や、SDGsに対応した環境配慮型の企業経営が不可欠だそうで、地政学リスクに関しては、サプライチェーンの見直しや安定した資源確保が世界的な課題となっていると、通り一遍な言及にとどまっているようで、日本社会はこれらの縮小と変革が同時に進む局面に立っていると言えるらしいが、果たしてそれに対応する上で、政治に出る幕があるのかどうかも、現状ではよくわからないし、政治というよりは行政的な対応になるしかなさそうだが、たぶん政治に出る幕があるのは、現状の後始末をやる上で、政治的な判断が必要となってきて、その判断を選挙の際に民衆がしなければならないと言えるかというと、要するにこれまでは判断しない人が多過ぎたから現状が現状のままにもたらされていると考えるなら、政治的な判断をしない大多数の人々のおかげで、現状が現状として成り立っていると言えるだろうから、今回の選挙でも判断しないように、マスメディアが総出で世論誘導している最中だと言えそうだが、では民衆が政治的な判断をしてしまうとどうなるのかというと、行政的な構造は大して変わらないだろうから、見た目の変化は感じ取れないかも知れないが、それでも目立たないところで何かしら変わって行く方向性を確認できるかも知れないし、そうなる可能性に賭けるなら、メディアの世論誘導に逆らって多くの民衆が政治的な決断を下した方がいいんじゃないかと思われるわけだ。


1月24日「レートチェックとは?」

 何だか一段と面倒くさい事態になってきたようだが、何がそうなのかといっても、日銀がレートチェックしただの、米財務省もやっただの、レートチェックとは為替介入の準備段階で、主要な銀行等の金融機関に為替取引の相場水準を照会することだそうで、照会とは問い合わせだそうで、何やらメディア報道が急に普段聞き慣れない専門用語を使い始めて、何じゃそりゃ?と戸惑ってしまったが、とりあえずそんな報道が出てから、為替が急激に円高方向へと推移したわけで、だから何だというわけでもないのだが、昨日は用事で東京と群馬の間を往復して、モデル3のロングレンジが8割の充電でも十分に往復できることを確認してしまったが、冬の寒い時期には事前にタイヤの空気圧を確認しておかないとヤバいらしく、走り出してすぐに空気圧が足りないことを示す警告表示が出てしまって焦ったが、だいぶ走ってタイヤがあったまってくると警告表示が消えてしまったので、大丈夫なのかと思ったが、日銀と米財務省が為替のレートチェックするのと、自動車のタイヤの空気圧チェックは何の関係もないことだが、何をチェックしたからといって、それがすぐに行為や行動などの動作に結びつくとは限らないが、実際に急激に円高に振れたのだから、チェックしたと報道されたこと自体が効果があったことになるだろうし、日本の財務大臣やアメリカの財務長官の口先介入でも一時的には効果があったのと比較しても、結果が出れば勝手にそう思い込んでしまうのだから、はっきりそうだとは言えないにしても、アメリカのFRBのパウエル議長の言動でもその内容によっては短期的に株価が大きく上下に変動するのだから、その種のイベントに乗じて投機筋が売買を仕掛けてきているにしても、人の言動を材料視しているわけだから、それも単なるマネーゲームの範囲内で行われていることには違いないのだが、ある程度は経済情勢も反映した動向なのだろうから、人の言動やメディアの報道が世界情勢に無視できない影響を及ぼしていると思い込んでしまうのも、何らかの情勢の変動を受けてその種の言動や報道が出てくるわけだから、それだけがそうだとは言えないものの、複合的にその種の現象や出来事が起こると認識しておけば済むようなことなのだろうが、今もひっきりなしにスマホから通知音が鳴って、ポイ活だとかに誘い込んできて、気が散って作業がはかどらないようにするために、絶え間なく邪魔や妨害を仕掛けてきていると思い込んでしまいそうになるが、そんな勝手な思い込みが勘違いであることもわかっているはずだが、それを承知でそう思い込みながらも、他の方面から別の何かが舞い降りてくる機会を待ち続けているのかも知れず、それをひらめきというのかどうかもよくはわからないが、唐突に貴金属の金に投資することの何が間違っているかといっても、金価格が上がり続けている間は、間違っているはずもなさそうで、単純に需要と供給の関係から、需要が多ければ価格が上がり、少なければ価格が下がり、必要以上に供給が多ければ価格が下がる一方で、供給が追いつかないほど需要があれば、品薄となって価格が上がり続けると単純に解釈しても、それなりには正しそうな解釈とはなりそうだが、もっと他にも国際情勢とか政治や経済について詳しく語って、それと連動した金価格の推移などを結びつけて語るなら、何となく信用できそうなことを述べているつもりにはなれそうだが、たぶんそれもそれらの動向を分析しながらもっともらしいことを述べるのではなく、金投資のデメリットやリスクなど調べればいくらでも出てくるにしても、どうも知りたいのはそういうことなのではなく、また何か功利的な面で知りたいことがあるのでも、あえて知りたいことがあるわけでもなければ、そんなことなどあえて知らなくても構わないわけで、バランス感覚の問題だと考えているわけでもなく、投資しても報われないことが、前もってわかっているはずもないが、マルクスは金鉱山で働く労働者の仕事量が金価格に反映すると述べていたかどうかも、そういう単純な理屈では金価格の高騰を説明できないことも確かだが、それでも人件費として金価格の一部を構成していることは確からしいが、もちろん金を精製する過程でも精製された金を輸送する過程でも販売する過程でも労働者が関わってくるだろうから、そうやって適正な金価格が割り出せるかといっても、それを適正価格とは言わずに、必要経費や費用全般の中で一定の割合を占めているに過ぎないから、それ以上に売買そのものによって金価格が吊り上がっていると言えそうだが、要するに金の売買に絡んだマネーゲームが金価格を押し上げていて、投機的な値上がりには違いないのだが、それを投機とは言わせないようにさせる事情が国際政治情勢や経済情勢から生じていると、それもそうは言われたくないのかも知れないが、では金がさらに高騰するぞと煽られる言動に費やされた経費も値上がり分の一部を構成しているかというと、そんなことを述べて行くとだんだん怪しい感じになってくるのだが、インフルエンサーの類いが金が上がるぞと煽って、それを真に受けた個人投資家が金を購入する分なんて微々たるもので、世界各国の中央銀行や機関投資家などが買う割合の方が桁違いに大きいから、その種の煽動に費やされた経費などが金価格の値上がり分の一部を構成しているなんて嘘八百には違いないわけだが、それでも金の生産・流通・販売経費と売買される金価格の差が著しく大きくなれば、それが単純に需要と供給の関係から求まるにしても、人の集団心理が金価格を押し上げているようにも思われるし、そんな集団心理が瓦解してしまうような何らかの一撃が加えられるなら、金価格もたちまち暴落すると予想できるかというと、例えば現状の地政学的な緊張関係が何かのきっかけから緩和するようなら、金価格低下の一因となるかも知れないし、それを逆に考えるなら、世界各国の軍事費の増加が金価格の高騰を招いているとも言えないこともなく、そこから国家間の軍事的な緊張関係と金価格の推移が比例関係となっていそうだが、そうなると金価格には各国の軍事費が増加した分も含まれてくると考えても良さそうで、では地政学的な緊張関係が緩和して、各国の軍事費も縮小すれば、金価格も低下すると考えられるかというと、それだけではなくドルの信用力が下がった分だけ、それに反比例して金価格が上がったと言える面もありそうで、そうなるとアメリカの財政赤字が増えた分だけ、金価格も上昇したと言えそうだが、さらにそれらを恣意的にもっともらしく結びつければ、何がアメリカの財政赤字の原因となっているかというと、軍事費の増加も一因となっているから、トランプが財政赤字を減らすために同盟国の軍事負担を増やそうと画策していると言えるかも知れないし、もちろん中国との競合関係が軍事費を増やす要因となっているし、さらにここ数年ではロシアのウクライナ侵攻に伴って、ウクライナに対する軍事支援の費用も半端でないから、強引にでも和平に持ち込んで費用を削減したいわけだろうから、そうした費用を減らして財政赤字を削減できればドルに対する信頼も回復するかというと、中国との経済競争の面でも勝利すれば、アメリカの企業業績がさらに上向くと共に、好景気になって、金よりも米国企業の株に投資した方が魅力的に感じられるなら、その分だけ金への投資も減って、金価格の低下をもたらすことになると考えられなくもないが、結局は経済面でも政治面でも軍事面でも覇権を争っている中国に打ち勝つには、財政赤字を減らさなければならないと考えられるかどうかも、減らそうとしても減らないかも知れないし、その辺が政治的な面での限界となりそうだが、要するにアメリカと中国のどちらが先に経済的に破綻するかが争点になっているわけではないと考えられるかというと、普通は競争相手を打ち負かそうとしているのだろうから、相手国を経済的な面でも軍事的な面でも政治的な面でも破綻に追い込めば、自国の勝ちとなるはずで、実際に直接戦争を行えば、これまでの経緯からすれば、そうなるのが当然のような気はするのだが、ではそうはならないような結果や結末を想像できるかというと、そうなれば誰も想像だにしなかったような、思いがけない結果や結末をもたらすことになるだろうが、そもそもはっきりとわかるような結果や結末には至らないままとなってしまうかも知れないし、その辺も従来からまことしやかに信じられてきた覇権国争いという論理が通用しなくなる未来がやってくるのかも知れない。


1月23日「正当性と不当性と妥当性」

 やっていることが正当であるか不当であるかと、やっていることが成功するか失敗するかは、それとこれとは違うことで、正当なことをやっても失敗するかも知れないし、不当なことをやっても成功するかも知れないが、そうなる可能性はあるだろうが、何をやって成功したり失敗するのかということに関しては、正当なことをやって成功するのは良いことだと思いたいし、逆に不当なことをやって成功するのは納得が行かないはずだが、ではそもそも正当性と不当性とはどういうことなのかと考えてみる前に調べてみれば、いつものようにAIの回答として、正当性と不当性は、ある行為や判断が道理、法律、あるいは社会的なルールに適っているか、あるいは欠けているかを示す対義語であり、正当性があるとは、ある行為、決定、理由が、道理に適っており、正しく、適法、あるいは社会的に容認される状態にあり、意味として正しくて納得できる根拠があることで、具体例として、例えば正当な理由による解雇であれば、就業規則に基づき、適正な手続きを経て行われる人員削減であれば、正当性があり、また暴力沙汰を起こしてしまっても、正当防衛であれば、自身を守るためにやむを得ず行なった行為であれば、刑法上の適法性があり、また正当な手続きに関して、例えば会議で過半数の同意を得て決定された事項であれば、そんな規則になっている限りで、正当性があることになる一方で、不当性というのは、ある行為や結果が社会通念や公平性の観点から、ちょうどいいという意味での妥当、適当とは言えない状態を指し、必ずしも違法とは限らないが、納得できない、公平ではないものを指すことが多いが、意味としては、道理に反している、公平性がない、妥当性を欠くことを指し、具体例として、不当解雇という場合、合理的な理由や適切な手続きがない一方的な解雇であり、不当な要求となると、公序良俗に反する、あるいは法を悪用した取引の強制であれば、そんな行為には不当性があることになるだろうし、さらに優越的地位の濫用という、優位な立場を利用して、取引相手に一方的な条件を押し付けるやり方もあり、正当性・不当性の判断基準としては、適法か違法かになると、法律の定めに従っているか、違反しているかに基づいて判断されるが、正当か不当かになると、たとえ法律に違反していなくても、公平でなければ不当だと見なされることもあり、その例としては、違法でないが、適法だとしても、相手にとって非常に不利であるケースについては、不当だと見なされる場合があり、団体などの組織管理において、権力の正当性に関して、例えばなぜその支配が正しいかが問われ、また判断の正当性に関しては、例えばなぜそのリストラが妥当かなどが問われるため、ビジネスシーンでは特に正当性の確保が求められるそうだが、それに加えて妥当性まで比較に入れると、正当性、不当性、妥当性は、主に判断や行為の評価に使われる類似した概念だが、それぞれに焦点が異なり、正当性は、法や倫理、手続に適っているか正しいかに関わり、不当性は、道理に合わない、不公平、あるいは適法・適正ではないという基準で判断され、それに対して妥当性は、目的や状況に対して、相応しいか的確かに関わってきて、正当性の意味が、法的根拠、倫理観、手続きの正しさに基づいて、その行動や決定が正しいと認められることを指して、焦点としては、正しいルール・理由に基づいているか否かで判断され、例としては、選挙で選ばれた政権には正当性があるとか、正当防衛は、法律に基づいて行為が正当とされる一方で、不当性の意味となると、違法という意味で、法に違反しているか、あるいは法律違反とまでは言えないが、社会通念上道理に合わず不公平であれば、不当とされて、焦点としては、ルールや公平さを欠いていることが挙げられ、例として、不当解雇や違法な解雇、不当要求や道理に合わない要求が挙げられる一方で、妥当性の意味としては、目的や状況に適していること、論理や結論がその目的にとって的確で、結果が信頼できることが挙げられ、焦点となると、目的と手段が適合しているか、相応しいかで判断され、例としては、例えば試験の内容が、本来測定したい能力を測れているかを判断する指標となっていれば妥当であり、この方針は現時点では妥当だ、適切だと判断されたりするが、要するに正当・不当は、その基準に従っているか否かというイエス・ノーで判断されることが多いのに対して、妥当性は、より良い方法は何か、この状況で相応しいかという、程度の問題も含まれ、例えばある企業の調査において、その正当性に関して、法律や会社の規定に基づいて行われたかで判断され、不当性に関しては、特定の企業だけを不当に厳しく調査していないかとか、逆にエコ贔屓していないかとかで判断され、妥当性に関しては、調査方法が企業の問題点を把握するために適切であったか、相応しいかで判断されるそうだが、AIならそうは判断しないかも知れないが、現状の世界でまかり通っていることが理不尽なのは、違法な行為なのに妥当であるとか、不当な行為なのに妥当であるとか、そういうことが世界的にまかり通っているから、それに対して批判勢力が、違法だ!不当だ!と騒いでいるわけで、もちろん批判勢力にとっては、それらの行為が妥当であるはずもないわけだが、それをやっている勢力からすれば、そうすることが妥当だと判断されるからやっていると判断しても構わないかどうかも、それを違法だから妥当ではないとか、不当だから妥当ではないとは言えそうだが、それがまかり通っていることがやっていることの妥当性を証し立てているとしたら、違法性や不当性より妥当性の方が勝っていると言えそうで、しかもそれをまかり通らせることによって、それをやることの正当性までが主張され誇示されるわけだから、いくらその違法性や不当性が叫ばれても、そんなのは無視される事態にでもなれば、それこそがやったもん勝ちな成り行きになっているわけだが、普通はやれないことをやるわけだから、強権的なやり方で強引に行われることもあるだろうが、慣習的な面でも功利的な利害の面でも後押しがあるから、そういうことが行われているわけで、もちろんやるからには正当性も合理性も主張されるだろうから、慣習的な方面から賛同を得られたり、利害に絡んだ方面からも支持を得られたりすれば、それをやることの正当性や合理性も担保されるわけだが、それでもその違法性や不当性を指摘され続けるなら、全面的な正当性とも合理性ともならないだろうから、それを批判したり非難する側にも一理あることにはなるだろうが、社会的な立場に応じて正当性も合理性も違ってくるとは思えないだろうが、そこに功利性も絡んでくるとそうでもなくなって、不合理な慣習というも援用するなら、そんな様々な判断材料を自身や自身が所属する勢力にとって都合が良くなるように優先度や重要度などに照らして判断するなら、適法性や不当性を優先させたり、重要だと判断するよりは、功利性や妥当性の方が優先度や重要度が増してくることにもなる限りで、判断基準がそちらの方へ振れてくると共に、どうやればやっていることを成功させられるかという判断にも関わってきて、成功といっても短期的な成功で構わないかどうかも、あるいは今はそれほどでもないとしても中長期的にじわじわとやっていることの成功が明らかになってくるように持って行くにはどうすれば良いかといった判断まで絡んでくるから、そんなところでも判断が変わってくるかも知れないが、そういうことまで考慮に入れるなら、普通の価値判断として思いつくのは、短期的な成功を目指して、適法性や不当性を軽んじて、功利性や妥当性を優先させれば、その場ではそれで成功できたとしても、長い目で見れば、じわじわとやっていることの違法性や不当性を叫んで批判する側の粘り強く絶え間ない抗議活動や反対運動の類いに悩まされることになりそうだが、それでも現状が良ければそれで良いと判断するなら、そういう短期的な成功を目指すやり方が妥当だと思われるのではないか。


1月22日「目的の変更」

 特定の目的に特化した物事の考え方が、その目的に限界づけられているのは当然だが、その目的が何なのかをそれについて考えている者が自覚していない場合もあるらしく、また考えている途中から目的がわからなくなる場合も想定できそうだが、特定の目的といっても、複数の目的が同時並行的かつ重層的に折り重なって駆動していると考えれば、目的がこれだと特定できなくなりそうだが、それについて例えばIT革命の目的を情報の生産と流通と消費の効率化だったと総合的に考えるなら、そうなった後からそう考えられるだけで、少なくともIT革命を担った個々の企業の目的は資本主義の論理から言えば、利益の最大化だと考えられるにしても、IT技術がもたらした最大の効果として考えられるのが、膨大な量の情報を短時間で素早く処理できる技術の革新がそれを促したのだろうが、また世界中に張り巡らされたインターネット網が情報の流通量を飛躍的に増加させた点も、その効果として挙げられるだろうが、果たしてそれが当初の目的だったかというと、結果的にそうなっただけで、インターネットの世界的な普及が当初の目的だったわけではなく、そうなる過程の途中からインターネット技術が脚光を浴びて、それと共にインターネットが世界的な規模で普及したから、そんな成り行きをIT革命と呼ぶようになったわけで、最初から革命を起こそうとしてそうなったわけではなく、それが自体が当初の目的ではなかったところが、革命を起こすこと自体を目的として活動しているつもりの革命家と呼ばれる者たちにはわかっていないわけではないだろうが、実際に暴力革命だと後から言われる事件や出来事であっても、偶発的に起こった民衆の暴動などが国家全体に広がってしまって、事態の収拾がつかなくなってから、そんな混乱に乗じてクーデターを起こして政権転覆を図ろうとする動きが起こるわけだから、それがその場の成り行きに乗じた集団の立ち回りになる限りで、その目的が運動や行動の最初から決まっているとは言い難いし、それが起こった後からそれを言説的に語るのに都合が良くなるように話の辻褄合わせが行われるわけで、そういう意味では何もないところから、ゼロから革命運動を起こすような試みは、大抵は途中の段階で行き詰まってしまうのだろうが、そんなIT革命の延長上で現在進行形で起こっているとされるAI革命も、エヌビディアの画像処理用のGPUがAIの学習に使えることがわかって、そこからAIを学習させるためのデータセンター需要が世界的に高まって始まったのだろうから、最初はそれが革命だとは認識されなかったのだろうが、そこから何が言えるのかと考えてみると、単純に革命が目的ではないとは言えそうだが、単純にそう考えてはまずいわけでもないが、何がまずいのかと考えているわけでもなく、目的ではない何かよって突き動かされている成り行きがあって、それが個々の成り行きによって違ってくるかどうかも、何とも言えないが、とりあえずそんな成り行きを利用したりそれに乗じて何か仕掛けようとしてくる者や勢力には、それ相応の目的がありそうなのだが、それがその場の成り行きに結びついた目的だから、それも強引に結びつけようとしている場合もありそうだが、成り行きにうまく目的をフィットさせようとする過程で、成り行き自体を目的に適合する方面へと誘導しようとしたり、逆に成り行きに合わせて目的を修正するようなこともやりそうだが、成り行きと目的が合わなければ利用しようとはしないだろうから、何かしら成り行きと目的を結びつけられそうな感触を得ているから、そんなことをやろうとしてしまうのだろうが、たぶんそれが見当違いなのか判断を誤っているのか、それとも結果的にうまく行くこともあるのかどうかも、結果的にうまくいった事例がエヌビディアの画像処理用GPUをAIの学習に活用した事例になるだろうが、画像処理用からAIの学習に目的を変更したことがAI革命に結びついたと考えるなら、インターネットも軍事用から民間活用に目的を変更したことがIT革命に結びついたと言えるだろうし、目的を別の目的へと変更することが革命に結びつくと言えるかどうかも、石炭採掘の際に炭坑に溜まる水を汲み出すポンプを駆動させる目的で使われていた蒸気機関を、輸送用に目的を変更したところから産業革命が始まって、それが紡績機の駆動にも使われ始めたから、イギリスの紡績業が一時的には世界の覇権を握るまでに成長したのだろうが、そんな産業にまつわる経済の革命ではなく、政治的な革命でも言えるようなことかどうかも、フランス革命においてその発端となった民衆の暴動の目的なんだったのかといえば、王制の打倒というよりは国王の軍隊から身を守る為に武装を余儀なくされたところで、国王軍が国民議会を弾圧してパリを攻撃するという噂が広まって、大量の火薬が保管されていると噂されていたバスティーユ牢獄を襲ったわけで、そんな成り行きの中で、王政を打倒して共和国政府の樹立という結果に結びついてしまったのだろうが、それも途中で目的が変更された例としては成り立つにしても、そんな革命を目の当たりにした周辺の王国の民衆や民衆の煽動家たちが、勝手に王制を打倒して民主的な政府を樹立するという目的を抱いて活動し始めたから、そんなふうにまずは目的ありきの活動や行動がうまく行かないのも、途中で目的を変更することができないから、しかもその目的を達成させるための手段が暴動であったり革命なのだから、国王軍の攻撃から身を守るために武装して、しかもそれには火薬が必要だから、大量の火薬が保管されていると噂されていたバスティーユ牢獄を襲ったに過ぎないことが革命へと発展した挙句に、あれよあれよという間に共和国政府を樹立して王政を打倒してしまったのとは、だいぶその経緯が違うと考えておかないと、革命家などという役割や職種が成り立つようなことではないと考えられるが、それはロシア革命においても、フランス革命とはだいぶ違う成り行きが生じていることからも、単に目的を設定してそれを達成するために活動するのはそれで構わないにしても、それだけでは革命は起こらないことも確かで、しかも革命を起こそうとして革命を起こすことが目的と化していたり、その途中で目的を達成するための手段が目的と化してしまっていることに気づかないだけであったりして、それが誤りや過ちの原因と言えるかどうかも怪しいが、要するに本来の目的とは違う目的を達成することが革命だと言えそうなのだが、果たしてそんな成り行きに意識して持って行けるかどうかも怪しいし、当初に意識していたこととは違う結果をもたらしたと言えるだろうから、それこそが誤りであり過ちなのではないかと疑われてしまいそうだが、だから真面目になって、当初の目的を遂行するために、目標を達成するために、ひたすら努力するのでは、革命をもたらせないとは言えそうだが、言うだけならそういうことであって、言うのとやるのとは違うから、それに関してどうしてもそうなった結果から、革命に至ってしまうのを防がなければならないとか、そういう目的意識にしても、革命に至った経緯から考えるなら、何かの途中で目的が変更されて革命に至ってしまうのだから、防ぎようのない成り行きだと理解するしかなく、しかも何かの加減で結果的に防がれてしまえば、それが革命だとは認識されないわけで、革命が起こってからそれを防いだのではなく、未然に革命が起こるのを防いだとも思われないかも知れないし、そんな結果に至ったのを後からそれを革命だと呼ぶような成り行きが革命の意味だと理解するなら、それが革命という意味を伴った出来事の経緯や成り行きに対する妥当な解釈となるかも知れないが、そういう意味から考えるなら、俺が革命を起こしてやると意気込んで事にあたるのは、漫画か何かのフィクションでならそうなって当然の話の成り行きになるにしても、現実の世界で起こっている成り行きから考えるなら、何かのきっかけから途中で目的が変更されたところから革命が起こるかも知れないと考えておけばいいような気もするわけだ。


1月21日「激動の年?」

 何のタイミングが合っているのかは今のところは定かではないが、どうやら何かのタイミングが合っていそうで、それと関係があるのか関連しているのかもよくわからないが、なぜか高市とトランプが勝手におかしくなって、二人とも先手を打ったつもりなのだろうが、それが思わぬ誤算が生じているのか想定内なのかどうかもよくはわからないが、どうもそれも誤算とも想定内とも言えないような気がするのだが、そうなるべくしてそうなってしまう成り行きの最中なのだと受け止めたいのだが、今が右往左往の初期段階で、右往している最中だと受け止めるなら、今後左往するターンが巡ってくるから、その機会が巡ってくるのを待っていれば済むような受け止め方で構わないのかも知れず、だからまだ動かないで待っていた方が良さそうな気もするが、何を待っているのかもよくわかっていないわけで、二人とも勝手にこけてしまったことになるのかどうかも現状ではまだよくわからないし、こけてしまったのを確認してから動いても遅くはないようにも思われるから、現時点ではまだ様子見の段階なのではないかと踏んでいるのだが、何がそうなのかもよくわからない段階でこんなことを述べているのだから、普通に考えて何のことやらさっぱりわからなくて当然だろうが、今年も激動の年となるかどうかも、今後数週間で決まってしまうようなことなのかどうかも含めて、数週間が経ってからわかるかどうかもはっきりとはわからないが、それが途中まではうまく行っていたが、最後の詰めで誤ってしまった程度のことだとは到底思えないし、あるいは最初から無謀な賭けだったとも思えないが、では何なのかといっても、高市もトランプも判断材料や選択肢をはっきり提示してくれるのはありがたいが、果たしてそれに対して民衆が何をどう判断して何を選ぶのかが事前に確定しているわけでもないから、選ぶまでの紆余曲折や右往左往がこれから始まると予想したくなるが、すでに決着がついている面もありそうだから、それがこれから民意となって示されても、誰もそれが民意だとは気づかない可能性もありそうで、トランプ特有の交渉術というのも空回りに終わっているのか効果を上げているのかも、またそれに対する債券自警団による国債の売り浴びせや、投機筋によるドルや円の売り浴びせに関しても、本当にそんなことが実際に行われているのかどうかも、素人目線の勝手な憶測となってしまい、結果的に日米で株・国債・通貨のトリプル安となっているとメディアが騒ぎ立てたところで、まだまだこんなもんじゃないと思っている人も多そうで、これからもっとすごい事態になると期待しているのかも知れず、だから喜ぶのはまだ早いようでいて、そんな期待も当てが外れてしまう可能性もなきにしもあらずだから、やはりまだ現時点では様子見姿勢を崩さないことが賢明のようだが、そうなってしまったきっかけが何だったのかも、それに乗じて何を仕掛けているのかも、様々な思惑から各々が勝手に仕掛けているとも思えないし、何か変化の方向性とかその傾向を感知して、そんな方向性や傾向を考慮に入れながら仕掛けているから、ここが仕掛け時だという、その仕掛けのタイミングと頃合いが同期して一致してしまうから、いっせいにそんな仕掛けに及んでしまうのだろうが、トランプの仕掛けに呼応して高市が仕掛けに及んでしまったタイミングも同期して一致してしまったのかも知れないし、果たしてそれが願ってもない千載一遇の絶好のチャンスだったのかどうかも、それに関わってくる者や勢力による今後の活躍次第で情勢も変わってくると理解したくなるが、それが制度的に時宜をわきまえた納得できる仕掛けなどではなく、どちらかと言えば掟破りの不意打ちの仕掛けなのだろうから、負けるリスクもそれなりに確率が高そうで、その辺がこいつら意外と素人なんじゃないかという疑念も生じさせるのだろうが、果たしてそこから仕掛けられた者たちや勢力の間で油断を生むかというと、そんなこともなさそうで、もう充分に、ふざけるんじゃねえ!という反発や反感も生じさせているだろうから、それも頃合いを見計らって別の何かが仕掛けられるタイミングも生んでいるのかも知れず、しかも何だかわからないようなことだから、不確実性に支配された事の成り行きになりそうでいて、実際にはすでに結果が決まってしまっている可能性もなきにしもあらずだから、今からジタバタしても、もう遅いと言えそうな末期的な状況なのかも知れないが、今が末期だからといって、何の末期なのかも、まだわからないと見え透いた嘘をつきそうになってくるわけでもなく、それに関して資本主義経済が限界に達しているとか、国家の時代が終わりに近づいているとか、そんな言い草と共にいい加減な戯言を言い放とうとする輩も、いくらでも湧いてくる時代状況なのは、今も昔も変わらないわけだから、ドヤ顔で何か言いたげな者たちの存在などは無視していれば済んでしまうとしても、そんな世の中の傾向だからそれをメディアが意図的に作っている傾向だとして、そんな傾向を踏まえた上で思考を巡らさなければならないかのような思い込みも、メディアが意図せずに仕掛けている世論誘導の類いに引っかかっている証拠かも知れず、だから何だというわけでもないが、その一方で安心できそうな仕掛けというのが、時宜をわきまえた制度的に誰もが納得できる予定調和な仕掛けである限りで、それでは間に合わないと判断しているからこそ、意表を突いた不意打ちの仕掛けが横行していると考えるなら、時代の転換点を意識せざるを得なくなるが、果たして今がそうなのかどうかも、仕掛けている側の演出の可能性も捨てきれないと感じるなら、まだまだ十九世紀からの延長上で世界が回っていると安心できるわけでもなく、トランプの意識の中では十九世紀的な国土拡張政策で競合する中国やEUなどと共に国力増強競争の真っ只中にいる感覚なのかも知れないが、それが時代錯誤なのではないと感じられる限りで、自らの主張や政策の正しさを確信しているのかどうかも、それもそんな役回りを演じているに過ぎないように見えてしまうわけだが、その辺が単純に帝国と帝国主義の違いを理解していないような感じもしないではないが、帝国が皇帝が支配する広大な領域を持つ国家そのものを指すのに対して、帝国主義は帝国が自国の利益のために、軍事力や経済力で他国を侵略・支配・拡張しようとする思想や政策を指し、両者には対象が帝国であり、行為と思想が帝国主義という違いがあるとしても、帝国主義が十九世紀後半の欧米列強による植民地獲得競争で顕著になった行動様式であるとしても、その地域の全てを一つの国家に統一しようとするのが帝国である一方で、他国との競合関係を維持しつつも、互いに競い合う中で生じてくる思想や政策などが帝国主義を駆動させる点が、相互依存や補完関係を前提としているだけに、しかもその帝国主義の進化形態として、現代の世界情勢があるわけだから、十九世紀後半の欧米列強による帝国主義的な政策が二度の世界大戦を経て破綻した後の世界情勢が、また十九世紀後半の世界情勢へと逆戻りすることはないとは思うが、帝国的な国家統治が破綻した後から、帝国主義的な思想や政策が台頭してきて、さらにそれも二度の世界大戦を経て破綻した後から、そこからもかなりの年月が経過した後に、今まさに現代の世界秩序が壊れようとしていると認識しても構わないかどうかも、今がまさに資本主義市場経済によって国家という統治形態が形骸化しつつある時期だからこそ、それに対する国家側からの反発や反撃の反作用として、ロシアや中国やアメリカなどの大国が自己主張を強めている最中だと言えないこともないが、それに対して資本主義市場経済側から刺客が送り込まれて、実際に債券自警団や投機筋などが国家に対して攻撃を開始している最中なのだろうが、果たしてそんな世界の捉え方で正しいかどうかも、あまり自信はないが、現状で動いている世界情勢を言説の都合に合わせて適当に解説するなら、そんな感じの内容になってしまう程度の現状認識なのかも知れない。


1月20日「法律と経済の対比」

 法律と経済のどちらがどうだとか、そんな対比が成り立つとも思えず、対比ではなく相乗効果のようなことを言おうとしているのではないかと考えてみるが、何と何を対比させて言説的な効果を高めようとしているわけでもないとは思うが、政治に制限や制約を課すのが法律と経済には違いなく、法律が政治の外から課すのとは対照的に、経済が政治の内から課すのだと言えるかどうかも、ちょっとニュアンスが違うような気もしないではなく、そう語ると何かこじつけのような感じもしないではないが、政治が絶えず法律に逆らいながら、都合の悪い法律を破ったり変えようとしたり政治にとって都合の良い法律に変えようとを画策している一方で、経済をコントロールしようとして失敗してきた経緯もあり、経済動向に政治が左右され翻弄されてきた歴史もありそうだから、そんな試行錯誤の中で経済にとって都合の良い法律にしようと画策する傾向もあるだろうから、政治が法律と経済の相乗効果によって何をもたらそうとしているのかと考えてみると、まずは政治にとって都合の悪い法律が何なのかと問うまでもなく、AIに問い合わせると予想通りのありふれた回答が返ってきて、政治にとって、それもわざわざ特に現職の政治家や与党にとって都合の悪い法律とは、という但し書きまでつけてくる念の入れようで、一般的に透明性を高めるもの、金銭の流れを制限するもの、活動を厳しく規制するもの、または権力を監視・抑制するものを指し、さらにダメ押し的に、日本における主な例は以下の通りだそうで、政治資金規正法およびその改正法が、政治家にとって最も都合が悪いとされる代表的な法律であり、それがザル法といわれる理由は、抜け穴が多く、裏金という不透明な資金の温床になりやすく、規制が厳しくなると活動資金の確保が難しくなるため、政治家は規制の強化を嫌がり、連座制が導入されると、秘書や関係者が選挙違反をした場合に、政治家本人も公民権の停止などの責任を問われてしまうから、政治家にとって大きなリスク要因で、パーティー券の公開基準が改正されて、購入者名簿の公開基準が二十万円から五万円に引き下げられたことは資金源の透明化につながるため、政治家側にとっては管理コストが増えて、支援者との関係が露見しやすくなる都合の悪い改正だと言えて、また選挙のルールを定めた公職選挙法は、非常に厳しく、禁止事項の集まりと呼ばれて、日本では買収を防ぐために有権者の家を個別に回る活動が原則禁止されていて、選挙期間前の活動制限、ポスターやチラシの枚数制限など新人が知名度を上げるのを難しくする一方、現職にとっては既存の地盤を守りやすい面もあるが、活動全体を縛るために、利便性の面で都合が悪いとされて、さらに行政機関が持っている情報を記した文書を国民に開示させる法律である、情報公開法に関しては、政府や政治家にとっては、都合の悪い決定プロセスや、官僚との不適切な関係、天下り問題などが明るみに出るリスクがあるため、情報隠蔽の誘因になることが多く、さらには放送事業者に対する行政の介入を規定する法律である放送法に至っては、報道に対する権力行使や報道の抑制に利用され、政府や政治家にとっては、自分たちを批判するメディアの活動を電波停止などの権限で制限できる法改正が都合の良い法律となる一方で、逆に、放送倫理・番組向上機構であるBPOのような第三者機関が自主的な監視機能を強めることは、介入を許さないため都合が悪いと言えるが、さらにまた、労働基準法・公務員法については、行政改革の一環として、天下りの禁止や公務員の政治活動制限が強化されると、政治家が官僚と癒着したり、引退後の官僚のポジションを確保したりすることが難しくなるため、都合が悪くなるが、結論として、政治家にとっての都合の悪い法律は、国民にとっては政治の透明性や公正性を担保する必要な法律であることが多いと言えるそうだが、ではそれと対偶の関係を考える上で、経済にとって都合の良い法律は何かと問うなら、それもAIによれば、企業の成長や投資の活性化や取引の円滑化など、経済にとってビジネスを促進し、円滑にするのに都合の良い法律は、主に競争を促すルールや、事業運営を支援する特例法などになり、具体的には、次のような法律が挙げられ、競争の促進・公平な取引によって自由なビジネス環境を守るため、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律として独占禁止法があり、これは公正かつ自由な競争を促進し、事業者が自主的な判断で自由に活動できるようにするための経済の憲法であり、また親事業者の優越的な地位の濫用を防ぎ、下請け企業との公正な取引を確保するための、下請代金支払遅延防止法があり、また経済成長や投資の促進のための特例支援として、地域経済牽引事業の促進による地域の成長発展の基盤強化に関する法律として地域未来投資促進法があり、地域の特性を活かして高い付加価値を創出する事業者に対し、税制優遇や許認可の特例などの支援を行い、産業競争力強化法では、企業の事業再編や新事業開発を促進するため、規制のサンドボックス制度である実証実験での規制緩和や、税制・金融支援を行い、中小企業促進法では、中小企業による事業承継をスムーズに行うための経営革新を支援するそうで、AIや安全保障などの最新の経済環境に対応するためには、AIなどの先端技術の研究開発を国が支援する一方、基幹インフラや特許の管理を強化し、サプライチェーンの強靭化を図る経済安全保障推進法や、脱炭素に向けた投資を促進し、経済構造の転換を後押しする、GX推進法などの脱炭素成長型経済構造への円滑な移行の推進に関する法律もあり、さらに私法となる基礎的な取引ルールに関して、民法では、特に契約・債権関係の面で、契約自由の原則により、個人や法人が自由に取引内容を決定し、権利を保護される基盤が整えられていて、これらの法律は、自由な競争原理を整える規制である独占禁止法などと、企業の活動を後押しする支援となる促進法などの両面から、現代の日本経済を支えているそうだが、以上から何が言えるかというと、政治が法律によって活動を規制されながらも、絶えず経済を活性化させようとしていることは窺えるが、それが政治の目的なのかというと、主な目的の一つとして経済の活性化もあるが、経済が活性化すれば国力が増強するから、国力を増強させるには経済を活性化しなければならないとは言えるのだが、逆に言えば経済が政治を規制しているとも言えるかどうかも、それが法律による規制とは違う傾向を伴っていることは確かだし、普通はそういうのを規制とは言わないだろうが、要するに法律がそうであるように政治に対して禁止を伴った規制ではなく、逆に経済を促進するように絶えず強いられているとも言えるから、規制ではなく促進だと言えそうで、人や企業が自由な経済活動を行えるように適切に法整備しろと促されていると捉えておけば良さそうだが、そんな経済の促進がうまく行かずに経済活動が滞れば、国力が減退してしまうから、政治にとってはまずい事態だと言えるだろうし、そういう意味では確かに政治が経済を活性化するように強制されている面がありそうな反面、経済が活性化したところで、貧富の格差が拡大して民衆が不満を鬱積させるようなことになれば、民衆からの支持を失って政治が立ち行かなくなるだろうから、民衆からの支持を得るにはどうすれば良いかという問いに直面するかというと、それも微妙なところで、違法行為や不正行為などがバレるのと、経済が停滞するのと、民衆からの支持を失うのと、果たしてうまく立ち回ってそれら全てを退けることができるかというと、たぶんそれらのうちで何かをうまくやろうとすれば、別の何かがうまく行かなくなる事態に直面するような歴史的な経緯がありそうで、それに対して政治を批判する側はそれら全てがうまく行っていないと批判するだろうが、逆に絶えず必ずうまく行かなくなるから、そのうまく行かないことへの対処や対応として、政治活動が行われている実態がありそうにも感じられて、そういう意味で政治批判と政治活動が表裏一体の効果を構成しているとも言えるのではないか。


1月19日「形式主義と現実」

 言説の中で何かと何かを使い分けて、それらの良し悪しに差をつけて、現状に照らしてうまく納得できるような内容を構成できるとしても、それを意識しなくても自然にそうなってしまいそうだが、その使い分けている概念というか物事が何と何なのかといえば、現状で主流となっている考え方とかつて行われていたことだとすると、それだけではなく、可能性としてできることをやろうとしていると解釈すれば都合が良さそうだが、そう考えてみても今ひとつ納得が行かないのかも知れず、現状ではおかしいと思うことが、かつては普通に行われていたからといって、それを現状に至るまでの経緯を無視して強引にやってしまうと、やはりそれがおかしいと思うしかないだろうが、それだけ追い込まれた情勢となっていると解釈できないこともないが、なぜ追い込まれているのかといえば、経済的に追い込まれているから、やれそうなことは片っ端から試そうとしていると解釈できないこともないにしても、そのきっかけが事後的な経緯からすればコロナ禍であったとしても、実態としてそれ以前から行われてきたことの延長上でそうなっていることなのだから、そこだけを強調して取り上げても、それを説明する言説としては不自然な印象を受けるのだが、それが言説としてだけではなく、実際に行われていることのどこがおかしいどころではなく、完全に狂ったようなことが行われていると考えるのが真っ当な捉え方になってきて、それを狂っているとか強い表現を使ってしまうこと自体が、実際に政治経済的な方面でも軍事的な方面でも行われていることなのだから、どうもそういう表現ではしっくりこないわけだが、狂気に囚われているのではなく国家理性に囚われていると表現した方がしっくりくるだろうが、それも時代錯誤な思考に囚われている証拠だと言えないこともなく、やっている側からすれば実際にそうやっているのだからそれが合理的なやり方だとしても、そんなやり方がおかしいと感じられてしまう側からすれば、それが狂気に囚われた行為だと感じられてしまうとすれば、狂気だと感じられる面と合理的だと感じられる面の両面があると共に、立場によって感じられる程度に差が生じてきて、当事者意識として合理的に感じられる側にとってはそれが肯定的に受け取られる一方で、それが狂気だと感じられる側にとっては否定的に受け取られるから、そういうところで良し悪しの差が生じていると言えそうで、それを実際にやっている側からすれば、世界秩序の再編成といった成り行きに沿って行われていることの一環なのだろうから、そうなって当然の成り行きだと受け止めたいわけだろうが、今までの世界秩序を当然視している側からすれば、それが狂気に囚われた行為だと思われても致し方のないところだろうが、そこでどちらの見方がどうだというわけでも、どちらが良くてどちらが悪いということでもないと考えるなら、ではどういう捉え方ならしっくりくるのかといえば、どう捉えてみてもしっくりくるわけでもなく、経済的な事情から行われていることであると共に、政治的な事情も考慮に入れないと、しかもそれが狂気だと感じられる面からではなく、合理的なやり方だと感じられる面から考えてみないことには、やっていることの論理的な正しさが見えてこないことにもなりかねないから、当事者意識を考慮に入れるなら、やはり国家経営という面から導き出される合理性が、民主主義的な政治制度とは必ずしも一致しない面があるから、そういうところで利害も議論も噛み合わないのだろうが、国家経営の合理性からすれば民主主義の理念が合理的でないと言えそうな一方で、民主主義の理念を信じている側からすれば、国家経営の合理性自体が狂気に囚われているように感じられてしまい、果たして両者の間で妥協や譲歩が成り立つのかといっても、それ以前に戦っているわけだから、勝ち負けの決着をつける方向で戦いが長引いていると言えそうなのだが、もちろん全ての面で戦っているわけでもないし、どこで誰がどんな勢力が戦っているとも言えない面もあるのかも知れず、他にもいろいろな方面で戦いが繰り広げられている中でそんな戦いも部分的に行われている程度のことなのだが、そんな戦いが本質的な面でそうなっているとも言えないから、かえってそうではない方面で行われていることの方が本質的な問題を形成していそうな気配も感じるというと、そんな見え透いた嘘をついて何が言いたいわけでもなく、国家経営の合理性から派生してきたのが民主主義の理念だと考えられるわけでもないのだが、そんな国家経営の合理性が市民社会と折り合いをつけられなくなっていると情勢を捉えてみても、何のことやらさっぱりわからなくなってしまいそうだが、またいつものように国家経営の合理性に関してAIの見解を紹介しておくと、国家経営の合理性とは、国や政府が意思決定を行う際に、限られた資源である予算や人材や時間を最も効率的・効果的に活用し、設定した国家目的である国民の福利向上、経済成長、安全保障など達成するための体系的かつ論理的なアプローチを指し、従来の非合理的な慣習、政治的しがらみ、惰性を排除し、コストとベネフィットを測定・比較して最適な選択肢を選ぶ経営の視点を国家運営に導入する概念であり、国家経営の合理性における主な柱として、目的合理的な意思決定に関して言えることは、明確な目的を定めて、それを最小のコストや手間をかけて投入して、最大の効果を産出できるように、一連の行為を組織化・システム化することであり、またデータに基づく政策に関しては、イデオロギーや感情ではなく、客観的な事実や数値データに基づいて方針を決定して、経営的な視点では、投資対効果やコスト・ベネフィット的な分析が重視されて、そして限定合理性の認識としては、人間や組織の知識、時間、認識能力には限りがあるために、サイモンが提唱した限定合理性に基づいて、完璧な最適解ではなく、満足できる水準の解を迅速に求めることが重要で、さらに制度・組織の最適化に関しては、過去の成功体験に固執せず、変化の激しい時代に合わせてルール、制度、組織構造を柔軟に修正・改善する必要があり、合理的アプローチの具体的な要素として提案されることとして、評価・分析手法の導入が推奨されて、計画予算プログラミングシステム、経営手法としてはシステム分析、M&A的な事業再編などの導入や、行政の効率化に関しては、官僚的な逆機能である形式主義などを排除して、組織を機動的にして、人材の最適配置を実現すべく、心理的な安全性を確保しながらも、変革に対して心理的な柔軟性を持つ人的資本を最大限に活用するそうだが、そんな合理性の限界と批判に関しては、合理化の罠として、手段の効率化ばかりを追求するあまり、本来の目的を見失ったり、組織が硬直化する官僚制の逆機能が発生したり、政治との矛盾としては、国家は利益最大化を目指す企業とは異なり、多種多様な国民の合意形成が必要であるため、論理的な正解が必ずしも政治的な正解とは一致せずに、国民からの支持を得られない可能性があり、また不測の事態としては、予測不可能な大きな変化や非線形な変化には対応できないリスクもあり、真の国家経営の合理性は、経済的な合理性である効率性と、人間性や国民の満足度を尊重した自律の原理とのバランスを追求することにあるそうだが、果たして現状の政治家や官僚にそれらのことを実行できる能力が備わっているのかというと、それも全体として備わっているわけではなく、部分的な方面で取り組んでいることに過ぎないから、各々が専門とする方面や分野では、もっともらしい取り組みが行われているのだろうが、それらをまとめた全体として人の意識では把握しきれないわけで、だからうまく整合性もバランスもとれないから、やっていることの食い違いがシステムの方々で生じてくる限りで、言っていることとは違うことが行われているように感じられる一方で、そこにつけ入る隙が生じているようにも見えるから、そんな隙につけ込んで当事者の間で利己的なやり方も蔓延する事態ともなるのだろうが、それが構造的な不具合となって表面化してくると、国家経営の合理性ではなく不合理性の方も目立ってくるし、それに輪をかけて民主主義的な合意形成自体も無駄で非効率の極みのような印象も伴ってくるから、否応なく強権的な独裁体制が官僚機構を中心として目指される傾向になるのではないか。


1月18日「予想通りの結末」

 現状で気づいていないことが、今後何かのきっかけから明らかになって、当てにならない予想がまれに当たったところで、調子に乗って自身の予想が当たったと吹聴する者が現れたところで、それによって何がどうなるわけでもないと軽んじておけば済んでしまうようなら、そうなった後から今後どんな予想が当たる可能性があるかなんて、これからそれを予想するのも馬鹿げているだろうが、当てにならない予想なんか無視したくなるとしても、それがもっともらしい分析つきの予想になれば、信用できそうな予想であればあるほど、あえてそれを無視したくなるのかも知れず、多くの人がそんなまことしやかな予想を信じてしまうからこそ、そんな予想が世に広まると共に、それに対する反作用のような出来事や事件が起こったり、予想を覆すような社会現象や経済現象や政治現象などが生じてくると予想したくなるのだが、そんなわけで予想した後からまるで後出しじゃんけんのようにして新たに何かが起こるわけで、だからもっともらしくて信じられるような予想が世の中に広まってしまうと、すでにそんな予想は賞味期限切れになっている可能性が高く、そんな予想を覆すべく、また予想を裏切るようなことを起こすべく、そんな意図や思惑が世の中で生じてくるわけでもないにしても、そういうことが起こりやすくなっている情勢だと捉えておいた方が良さそうだが、だから自身の予想を世に広めようと画策する者がいるとしたら、それはその予想が裏切られるように仕向けていることになるわけで、そんな予想がまれに当たることがあったなら、それが世に広まらなかったから、かえって当たる可能性が高まったことを意味するのかも知れず、だから大げさな何かが起こって、それが起こることを予想したと吹聴する者が現れるのは、その予想が事前に世に広まらなかったから、当たったのだと結論できるかどうかも、そんなのも偶然の巡り合わせで片がつくようなことかも知れないが、いずれにしても自らのもっともらしくて信じられそうな予想を、それが起こる前に世に広めようと画策する行為が報われることはないと結論づけておいた方が良さそうで、せいぜいのところ、それが起こってから予想が当たったと吹聴しまくるのが関の山だろうが、そんな予想屋の言うことを信じられるかというと、それも予想の内容にもよるだろうが、何かを予想しておもしろがっているふうな予想屋の類いが何を狙って予想しているのかといえば、それもせいぜいが自らの予想が当たったことを自慢したい程度のことだと軽んじておけば済むようなことだとすれば、逆に予想屋の予想が外れてざまあみろが言いたいだけのようにも思われてしまうから、それも自信満々で言い放った予想が外れるのをおもしろがって見ているのだとしたら、どちらにしてもたわいないことだと突き放しておけば済むようなことなのだが、そうではなく、否応なくそれを予想するように仕向けられているとしたら、仕向けられてしまう成り行きにハマっている人というのが、分析せざるを得ない境遇にも囚われていると考えてみても、では何のために分析しているのかといえば、予想するために分析しているとしたら、分析と予想とが自然に結びついてしまうわけで、欲を出さなければ分析だけにとどめておいた方が、詳細に分析すればするほど、述べている内容に説得力が増すかも知れないが、他人に認められたいという自意識過剰が予想や予測にまで手を出させ、結果的にこれ見よがしな結論を言い放ちたくなるような成り行きにもなりそうで、意識高い系の人ほど、もっともらしくてまことしやかな断言を言い放ちたくなって、これはこういうことだとか、こうなるはずだとか、メディアから伝わってくる内容として、そんな断言や言い放ちに遭遇したら、意識高い系の人がそんな断言や言い放ちにこだわっていたり囚われていると思っておけば良さそうだが、だからといってそんな人を馬鹿にしてはいけないと思っておくのも、それが自身の謙虚な態度に結びつくかどうかも、たぶんそんな他人や自身の振る舞いばかりに気を取られていては、まともな判断ができなくなってしまうから、なるべく他人の振る舞いではなく、他人の言っていることや述べている内容そのものに注意力を集中しなければならないとは言えそうで、そこから世の中の傾向や方向性を読み取らなければならないとは考えられるのだが、ではなぜそんな傾向や方向性を読み取ろうとするのかといえば、結局それも分析に役立てたいという意識の表れとなってしまうから、そんなところで思考が循環しているのだろうが、しかし分析してどうするのかと問われると、やはりすぐに予想や予測に役立てるために分析しているという安易な結論に結びついてしまうと、そんなところでも思考が陥りやすい罠にハマっているのかも知れず、要するに分析しているだけでは意味がないように感じられるわけで、分析を役立てたいという思いから、分析して結論に至りたくなって、そんな結論の一種として、こうなるだろうとか、こうなるはずだとかいう予想が導き出されてくるわけで、それがこうなればこうなるはずだという論理への信仰へも結びついてくるわけだが、もちろんそれを信仰とは考えないわけで、こうなるのについては確かな根拠や証拠があると主張したいわけだから、あやふやで不確かな信仰などではなく、論理的な確からしさに基づいて断言したり言い放ったりするわけだが、やはりそんな主張を信じたり信じなかったりする次元で何をどう述べてみても、それも循環論になってしまうから、その辺で結論など無理に求めないでやめておいた方が良さそうだが、その種の確かな根拠や証拠というのも、その時点で明らかになっている根拠や証拠なのだから、そこから時間経過と共に、それに反するような新たな根拠や証拠が出てくるとも限らず、そうなると確からしさの面で疑念を覚える成り行きにもなってきて、そんなことまで予想した上でそんなことを主張しているのかというと、当然そうではないわけで、だからこうなるとは断言しない方が身のためというか、それでは結論を出すことから逃げていることになってしまうから、そんな結論のない不確かな主張は信じられないと言われてしまうだろうし、だから無理にもこうなるんだとかこうならざるを得ないとかの断言を強いられてしまうかというと、それも主張している内容にも、そんな主張を真に受ける側の知性の程度にもよるだろうが、ほれみい、俺の言った通りじゃないか、と真顔で言ってしまう人の程度も知れているかも知れないが、そんな絵に描いたような漫画チックなキャラクターが現実の世界に存在しているかというと、それと自覚せずにそんなキャラクターを演じている人物はユーチューブ動画などでよく見かけられるのだが、だからといってそんな人物を見下して馬鹿しても構わないのかというと、どうもそれも見下して馬鹿にするように仕向けられているような感じもしてきてしまって、ひょっとしてそれもメディアが仕掛ける罠なんじゃないかと穿った見方をしたところで、自分の勝手な見当違いな思い込みに過ぎないにしても、それを投資系の解説者の人に言わせれば、当てにならないズバリ予想の人だと否定的に言われてしまうわけだが、そんな人に知識のない素人が引っかかりやすいが、プロの目は騙せないわけではなく、そういうことをやって素人を引っかけるのがプロの手口だと言っているわけでもないが、投資系の分野ではそうだとしても、政治批判系の分野でも、そんな成り行きの延長上で何かもっともらしいことを断言している人も見かけるから、そういう人がメディアで重宝されている面もあるらしく、だから何だというわけでもないのだが、もうすでにここまで述べてきてそれはないだろうとも思えないにしても、どうしても結論めいた断言や言い放ちの類いからは逃れたいわけで、だからそれでは駄目だとは言えないが、それだけではないとも言えないものの、何となくその辺はあいまいなまま結論に至るのを保留しておいて、さらに現状を分析し続けようとしているのかも知れない。


1月17日「ネット事情と世界情勢」

 相変わらずネットの向こう側から嫌なことを仕掛けてくるから、それが試練となるかどうかもよくわからないままに、たとえ後から試練だったと感じられるようなことになろうとも、現状ではそうは思えないとしたら、他から勝手に試練を課すようなことを仕掛けられると、面倒くさいからそれを受け流すような成り行きになってしまうから、そんなのはやめてしまえばよくなってしまい、どうでもいいようなそれをやめてしまったのだが、そんなことの繰り返しから何がわかるわけでもなく、ただ延々とそんなことをやっているだけの低レベルにとどまるだけで、それが何になるわけでもないことを思い知らされるのも毎度のことで、こちらからさっさとやめてしまえば、だからどうしたわけでもないことになるようで、そんなことをやっている者たちが仕掛けてくる罠にわざとではないにしてもハマりに行ってしまうのも愚かさの極みなのだが、こちらもそれを承知で性懲りもなく引き込まれるようにしてそうなってしまうような気もして、それがどうでもいいような結果しかもたらさないのもわかりきっているのに、そんなにムキになって対処するほどのことでもないところが意味不明なのだが、結局は迷惑電話に続いて迷惑メールもブロックすれば良いことに気づいただけなのだが、しかもその迷惑メールというのがポイ活勧誘アンケートメールというのも、GMOもわざわざ嫌がらせのようなアンケートを仕掛けてくるわけで、どうせそれをやっている奴らは毎度お馴染みのネトウヨ系の連中なんだろうが、その辺はアメーバブログでやってくる奴らと大して違わない種類の連中だと勝手に推測してしまうが、そんなのを経験したところで、まあがんばってくれやと思うしかなく、こっちはどうでもいいようなただの一般人なんだから、そんなのに嫌がらせを仕掛けても大した利益も得られないとは思うが、それとは別の方面では、何やら立憲と公明が組んで選挙に臨むらしいから、それも結果がどうなるのか今のところはよくわからないが、創価学会や労働組合の組織票がどの程度なのかも、まあ何とも言えないし、普通に考えて無党派層からの支持の獲得を狙っているのだろうから、それふうの政治宣伝を仕掛けてくるのだろうが、それも宣伝の中で述べている内容が現実の世界にどのような作用や影響を及ぼすのかと考えてみるまでもなく、経済的な効果が期待されるとも思えず、その種の政治宣伝など空振りに終わった方がマシなような気もして、それよりはわざとではないにしてもそれほど的外れなことを述べているとも思えないジャーナリストや識者の方が社会的な影響力が大きそうにも感じられるから、そちらの方でも、まあがんばってくれやと励ましの言葉でも投げかけたくなってしまうのだが、ものすごい勢いで高市や高市政権のやり方を批判しているとも受け取っておらず、何となく何が良くて何が悪いかなんてわかりきっている上で、慎重に言葉を選んで無難な範囲内で当たり障りのない言動に終始していた方がマシなのかも知れないが、いつものようにこのままでは大変なことになるとまくし立てるのにも、それもいつもの調子だから、どうせ大変なことにはならないだろうと軽く受け流したくなるが、政治情勢としても経済情勢としても今後数年で取り立ててどうなることもないと予想しておくのが無難な感じがするものの、それが何の政治情勢なのかも経済情勢なのかも、自分にはよくわからないのかも知れず、本当にテスラのロボタクシーが収益を上げるようになるかどうかも、実際にそうなってからわかるようなことなのかも知れないが、それに関して今ここで安易に予想してみても、ただ単に素人の予想が外れるだけなのかも知れないから、その気になって利いたふうなことは述べたくないのだが、それと日本の政治情勢や経済情勢が関係があるかどうかも何とも言えないところで、それよりはスペースXの衛星からインターネットにつなぐサービスが日本でも普及しそうな気配もしているから、既存の通信業者が顧客を食われると、ますますデジタル赤字が膨らんでしまうかどうかも、初期投資としての機材の価格や、月々の料金次第なのかも知れないが、スマホもそっち方面でつながるようになれば、日本の通信業者の不快な料金縛りからも解放されて、少しは気分が晴れ晴れするような予感もするのだが、そんなすっきりしそうなことの延長上で政治や経済について何をどう考えているのかと述べてみたところで、結局無駄で無意味な紆余曲折がなくなることを願っていることの表れに過ぎず、そんな紆余曲折の中で日本の政治や経済が現状で右往左往しているとしても、それがなくなってしまえば政治も経済もすっきりできるかというと、すっきりしてしまっては現状で政治や経済に関わっている者たちもリストラされてしまうようなことにでもなるのかと考えてみても、それはないんじゃないかとは思いたいが、案外そういう成り行きが世界的に徐々に進行中なのではないかと現状を好意的に受け止めたくもなるのだから、それがこのままでは大変なことになるといういつも予言とは真逆な予感なのかも知れず、それに関して例えば、台湾有事の際には日本の自衛隊や在日米軍基地が攻撃されると危機感を露わにするのとは違う方面では、どうやら着々とそれに対する対策や対応が進んでいるようで、直接戦闘に参加する人員が死傷したりするのとは違う事態が予想されているそうで、メタのザッカーバーグから首を切られて、ペイパルの創業者から出資を受けたスタートアップの軍事企業のCEOが言うには、安価でAI搭載の小型ドローンを大量に台湾へ配備中で、来年には配備が終わるから、中国軍が攻めてきたらその自爆ドローンを大量に飛ばして、中国軍が台湾に到達する前に戦闘不能に陥らせることができると豪語しているふうな動画を最近見て、へえ〜、そんなもんなのかと完全に納得したわけでもないのだが、それに関連して日本で小型ドローンを作っている企業の株価も短期的に急騰したこともあったが、そいつは日本でも製造拠点を確保したいようなことも語っていて、なるほどそれに関連して高市政権が軍事製品の輸出が可能なように法整備を検討しているのかどうかも、それほど詳しくはわからないが、エヌビディアのCEOも日本のロボット産業に目をつけているから、そんな方面では日本経済の前途も明るいと考えても構わないかどうかも、そう言えばイーロン・マスクもアメリカの士官学校か何かで講演して、これからの軍事作戦は小型ドローンとロボットが直接の戦闘を担い、なるべく人員が死傷しないシステムが構築されるだろうと語っていたのが思い出されるが、またそれとは違う方面でも、例えば日本を代表するメガバンクの昨年基準の海外収益比率が、MUFGとSMFGとみずほが共に7割に達するそうだが、それと日本に暮らしている一般人の生活実態がどうなのかを比べるわけにも行かないのだが、経済そのものも貧乏人には知ったことではないようなところで活況を呈している可能性も否定できないから、それは政治にも言えそうなところで、仮に高市政権が今後も数年続いて行ったところで、何がどうなるわけでもないのかも知れず、もちろん何やら立憲と公明が合体した政党が選挙で躍進して政権交代が起こったところで、それでも何がどうなるわけでもないと思いたいのだが、そういうこととは違う方面で世界情勢が動いていると述べてみたところで、単なる素人の自分が語っているわけだから、それも何がどうなるわけでもないと思いたいし、仮にそんないい加減な予想が外れて、この先大変なことが起こったところで、それでも何がどうなるわけでもないと思っていそうで、そう思ってしまう自分が馬鹿なんだから仕方がないのだが、そんな鈍感力が発揮されている限りは、自分の身の回りも安泰であってほしいのだが、そんな希望的観測も簡単に打ち破られてしまい、今日もちょっとした感情の行き違いから不快感を露わにしながら、こんなどうでもいいことを述べている現状があるわけだ。


1月16日「判断の意味」

 功利主義的なやり方の何がまずいのかといっても、何がまずくても否応なくそうなってしまうとしたら、それの何がまずいとか、そういうことではなく、何がまずくても否応なくそんなやり方でやらざるを得なくなるとしたら、そんな問いではまずいのかも知れないから、それとは違う方面から何が言えるのかというと、例えば合理的に考えて正しいやり方の何がまずいのかというと、正しいと判断できる材料が、その時点ではまだ全て出揃っていない場合があって、その時点での判断材料の他に、後から出てくる判断材料もあることも考慮に入れると、新たにそんな材料が出てくる度に改めて判断しなければならなくなるから、それが過去の時点での判断とは違ってくると考えられる限りで、現時点ではそれが正しいと判断できても、その後からさらに新たな材料が出てくると、正しい判断であるとは限らなくなるかも知れず、だから現時点での判断の正しさを信じきってしまうと、将来判断を変えなければならない機会が巡ってきた時に、現時点での判断の正しさが固定観念となって邪魔をしてしまい、現時点での判断を変更するにはかなりの抵抗感が伴ってくるから、そうなってしまうのはまずいだろうが、そうであれば現時点での判断は暫定的に正しいと考えておいてから、この先のどこかの時点で、その判断を変えなければならない新たな材料が出てくることを想定しておかなければならないが、それがいつ出てくるのかも、現時点では何とも言えないから、現時点ではどう考えてもそれが正しい判断だと思われても、その正しい判断を過信してはならないとは言えそうだが、逆にそんな判断で構わないのかと疑念を抱くようなことにでもなれば、逆に勘が働いてそれで構わないと告げてきそうで、たぶん判断が重要なのではなく、何かこれといって納得できるような判断などいらないような成り行きになってしまうと、黙ってそんな成り行きにまかせてやって行くしかなく、今がそんな成り行きに囚われている最中だから、判断の正しさなど信じるまでもなく、勝手にそうなってしまうのだから、それが正しい判断かどうかではなく、この時点では判断が間違っていても、そんな自身の判断など無視して事態が勝手に進展してしまうから、後からその時点でどう判断しても何でもなかったような結果がもたらされて、何かそこで唖然とさせられるかも知れないが、そんなことは現時点でわかるはずもなく、それにも増して避けなければならないのは、功利主義的なやり方が正しいと判断してしまうことであって、それが正しいのではなく、否応なくそうなってしまうのであり、その辺を考慮に入れておかないと普通に判断を間違ってしまうわけだが、しかも判断を間違うと共に損失も被ってしまうなら、まさに泣きっ面に蜂のような目も当てられない結果がもたらされるのかも知れないが、何がそうなのかといっても、一般的にいって功利主義的なやり方とは、最大多数の最大幸福を目指し、行為の結果として最も多くの人々の快楽や満足などからもたらされる幸福感を最大化し、苦痛を最小化するような選択や行動をとることで、それが自分一人の幸福だけなく、関係者全員の幸福を平等に考慮し、その総量で善悪を判断するのが特徴で、結果として社会全体に役立つことや、多くの人が喜ぶことを重視することになりそうで、その主な特徴としては、結果主義であって、行為の道徳性は、その行為がもたらす結果によって決まり、意図ではなく結果が重要であり、また幸福や効用を最大化することに関しては、幸福や快楽を増やし、不幸や苦痛を減らすことを目指し、最大多数の最大幸福については、特定の誰かではなく、関係する全ての人々の幸福の相和が最大になる選択をし、平等な考慮というと、誰か特定の人の幸福だけを優先せず、全ての人の幸福を平等に数えるらしく、その具体例としては、例えば家族旅行では、家族全員が楽しめる場所や活動を選び、最も多くの人が満足する選択をして、また社会政策においては、多くの市民が恩恵を受ける公共事業や福祉制度を優先し、経済活動においては、資本主義と結びつき、経済発展や富の増大が幸福の増大となるように、利益を追求する面もあり、功利主義的な視点での判断としては、自分だけが幸せになっても意味がなく、多くの人が幸せになるなら、自分は少し我慢してもいいという考えで、何が最も多くの人を幸せにするか?という問いに基づいて判断するそうだが、その際の注意点としては、最大の意味というのは、全員を完璧に幸せにすることは不可能なので、可能な選択肢の中でできるだけ最大にという意味で、また人間にはただ価値があるという考えで、功利主義は役に立つか幸福に貢献するかで価値を判断しがちになるが、人間にはそれ自体に尊厳があり、ただ価値があるという考え方もあるから、これを超えて考えることも重要視されるそうだが、果たしてこんな八方美人的な政治主張の類いを信じられるかというと、これ自体が物事の全体から考慮しているのではなく、功利的な面から物事を肯定的に捉えているわけで、それ以外の面を無視しているというと語弊がありそうだが、たぶん議論の判断材料としてわざと功利主義的なやり方を提示して、それに対する批判を誘発させようとする魂胆なのかも知れないし、現実の世界では功利主義的なやり方に対して弊害がいくらでも出ているから、それについて議論したいのかも知れないし、議論したところで大して納得の行く結論などまとまりそうもないだろうが、それでも政治的な主張の中には大抵は功利主義的なやり方が含まれてくるわけで、政治制度に意識が囚われていれば、否応なくそういうやり方を主張してしまうわけだから、その時点で意識が功利主義的なやり方に支配されていると言えなくもないが、そこに内在している巧妙な仕掛けに気づくなら、それを実現するというよりは、そうなることを目指すと主張することに引っかかりを感じるかも知れないし、最大多数の最大幸福を実現すると言ってしまうと、そんなのできっこないと考えられるが、最大多数の最大幸福を目指すと主張するなら、目指すなら勝手に目指せばいいだろうし、主張するならどうぞご勝手に、という逃げ道が用意できるから都合が良さそうで、それを主張している者たちが果たしてそんなことまで考慮に入れているのかというと、それに関して浅はかな人は最大多数の最大幸福を実現すると受け取ってしまうだろうが、果たしてそれが巧妙な仕掛けなのかどうかも、また目指すのを実現すると受け取ってしまうことが勘違いなのかどうかも、そんなのは言葉のあやだろうと思われるが、それ自体が政治宣伝に基づいているというと、何か宣伝するのに都合の良いことばかり主張するという悪い意味に受け取ってしまいがちになれるが、そうではないとしたら本気でそれを目指していると受け取っても構わないのかどうかも、本気であるなら、なおのことヤバそうな感じもしないわけでもなく、お前本気でそんな理想論みたいなきれいごとを主張しているのかと、頭がどうかしているようなニュアンスで問いただしたくなるわけでもないが、それだけ功利主義が世の中に登場してからどれほど悲惨な侵略戦争や植民地支配や経済恐慌が繰り返されてきたのか、そんな歴史の裏面を偉そうに解説したくなってくるわけでもないにしても、そんなわけで功利主義的なやり方の何がまずいのかなんて、そんなのはわかりきっていると言えそうだことだが、今も世界のどこかで弛みなく働いている作用として、功利主義的なやり方に基づいた行為や行動や言動が仕掛けられている現状もありそうで、その裏でこっそり人知れず行われている不正行為や違法行為や倫理的に許し難い行為などが明るみに出る度に、それに対する批判や非難などは左翼のたわごとだと一蹴したくなるわけでもないが、それの何がまずいとしても、否応なくそうなってしまうのだから、大義がどちらにあるのかと問うなら、最大多数の最大幸福を目指す側に大義があると言いたくなるわけでもなく、何となくそういう良し悪しの判断は避けたくなってしまうわけで、できればうまく立ち回ってそういう問いを回避したいわけだ。


1月15日「きな臭さ」

 何かが燃える臭いがすることを、きな臭いというのだろうが、比喩表現としてどうなのかと思うわけでもなく、何か物騒なことが起こりそうな気配がする時に使う表現らしいが、実際に起こりそうかどうかも、もうすでに起こっているんじゃないかと思うしかないが、それも多くの人が思っているのとは違った傾向が水面下で生じてきていると考えるなら、意表を突いてそうなっていると思われるのだが、水面下というのも、文字通りの意味ではなく、これも比喩的な意味としては、表面化していないこととして、人目に触れない部分で何かが起きている状態を指し、陰で密かに交渉が進められて、根回しが行われている状況を指すのだろうが、そういうありふれた成り行きではなく、成り行きの表層で行われていることが、そのまま事態を物語っている場合もありそうで、成り行きの全てが表面化しているからこそ、かえって驚くしかないようなことなのかも知れないが、そんな認識で先走り過ぎると、実態がついてこないようなずれも起こってくるのかも知れず、現実にそれが起こっているのは確かなのだが、急激に起こってしまうと、皮相上滑りな起こり方になって、それに対して揺り戻しが起こる場合も多く、ちょうど今の社会状況がそういう情勢なのかも知れないが、それが今後どうなるかはまだ現時点では何とも言えない様相を呈しているからこそ、ここからもう少し時間が経ってみないことには、なるほどと納得するような情勢にはならなそうで、現時点ではまだどうなるかもわからないからこそ、ここからまた情勢が二転三転する場合も想定できそうで、とりあえずは予断を許さない情勢だと言えそうだが、何がそうなのかといっても世の中の色々な方面でそうなっている中でも、例えば貴金属の金や銀やプラチナなどの価格が上がりそうな気配にいち早く気づいて、それに関連するETFなどに投資した人がいれば、現時点でそれらが急騰しているからその恩恵に与っているはずだが、確かにそんな気配にいち早く気づいて抜け目なく金のETFなどに投資していた人は有能だと言えるが、日頃から社会情勢に気を配っていれば、金の価格が高騰する主な理由として、地域紛争や政情不安などから地政学リスクが高まって、それに起因して世界経済の不安定化が増している中でも、覇権国のアメリカの財政赤字の増大やインフレ傾向などから、基軸通貨のドルへの信頼が低下してきたから、世界各国の中央銀行による金の買い増し圧力が強まり、それによって金の需要が高まって金価格が値上がりして、またそんな情勢に乗じて、投機的な資金が銀やプラチナなどの他の貴金属の市場にも流入して、それらがつれ高になっているらしいことがわかるだろうが、だからといって資金に余裕のある奴はみんな金に投資すべきだと煽るわけにも行かないところが、何か引っかかるものを感じるわけで、そこで大して資金もない人が、なけなしの小金を金投資に全振りしてしまうと、遠からずその人には破滅が待ち受けているような感じなのかも知れず、その人が生存できる条件や、その生存状態が依存している要素や要因などの複数のパラメータが複雑に絡み合って、その人に作用を及ぼしているから、何か一つのことに力を全振りするようなことをやってしまうと、何かの均衡の上に成り立っているその人の生存バランスが崩れてしまい、そうなることによって、身の破滅を引き寄せてしまうことにもなりかねないから、なるべくなら身の程知らずなことはやらない方が身のためなのだろうが、身の程をわきまえている人も世の中にそんなにいるわけでもないだろうから、無謀な賭けに出て思いがけず大成功して有頂天になってしまう人も中にはいるにしても、そんな投資は自己責任でやるしかないだろうし、誰がどうなるかはその場その時の情勢次第な面もあるだろうが、意外とそれが学校などで学業が優秀だった人に限って、その辺の加減がわかっていない人も多そうで、しかも社会に出てそれなりに実践経験が豊富であっても、肝心な時に判断を誤って、思いっきりやらかしてしまったり、それもよくありがちな傾向といえば、そんな感じもしないではないが、そんな人であるから、信頼されてそれなりに大きな仕事をまかされてしまう傾向にもなるから、そこから勘違いな思い上がりや油断も生じてくるのだろうが、それが企業や政府などの制度的な成り行きにも相まって、うまく行かないことの根本的な原因とまでは行かないにしても、大抵はそれが組織などの統治に関係する分野で言われるようなことなのかも知れず、それに関してフーコーに言わせれば、あらゆる統治は戦略的・プログラム的なものでしかあり得ず、それは決してうまく行かないものだが、それが決してうまく行かないと言うことができるのは、何らかのプログラムに対してであるそうだが、要するに計画通りには物事が進まないのはわかりきっているが、事前に計画を立てた段階ではわからなかったことが後から出てきて、それが計画全体を狂わせて、場合によっては計画そのものを破棄しなければならなくなるから、そうなった時点で計画の責任者が責任を取らされて使い捨てにされてしまう場合も出てくると、計画の責任者に抜擢された有能な人材も浮かばれなくなってしまうのだが、そうした人材は大抵は正しいことをやりたがるわけで、客観的に信じられる真理に基づいて行動しようとするから、周囲から煙たがれるだろうし、しかもそういう理不尽な扱いをされてしまうと、今度は今まで信じてきた正しい行いとは真逆のやり方が正しい行いなんだと誤解してしまうほど愚かでもないのだろうが、実際にやっていることがそんな傾向になってしまうと、なぜそうなってしまうのか理解できないだろうし、口で言っている内容がその場の情勢の中で客観的に信じられる真理に基づいて言われている内容であっても、実際に行われている内容がそれとは違っていると、こいつは嘘つきなのかと疑ってしまうだろうが、それで構わないと割り切って行動しているわけでもないだろうが、実際にそうなってしまうと、それと利害を異にする人には疑わしく感じられるとしても、利害が一致している者たちの間ではそれで構わないどころか、むしろ意識して積極的にそんな感じで行動してもらわないと、そいつの利用価値がなくなってしまうから、結果的にそいつらの仲間内でいられるには、そんなふうに振る舞わなければならないわけで、そういう言っていることとやっていることが違う類いの行動が不正行為や違法行為の温床となるのだろうが、それが構造的な問題だろうから、そういう行為がバレると罰せられることにもなるだろうが、そういうことをやっている奴らが悪いと言えるにしても、そいつらにしてみればそういうことをやらないとうまく行かないのだから、どうして俺たちが悪いことになるんだと逆ギレするかも知れないし、納得が行かないわけだが、じゃあ制度的にうまく行かないのだから、制度自体を変えればいいのかというと、そいつらの利害関係の中ではそれで構わないどころか、かえってそうなった方が好都合なのだろうが、それとは利害を異にするその他大勢の者たちにとっては、そんなことをやってもらっては困るだろうし、お前らの勝手にはさせはしないと反発するだろうから、それが集団の統治の限界なのだろうが、集団内で利害を一致させることは比較的容易なのだとしても、その集団が利害の一致からまとまる集団だということが、普通に考えてその集団の利害とは一致しない人々が集団の外には大勢いるということになるわけで、制度としてはそんな利害の一致しない大勢の人々が納得できるかどうかに、それが公共の制度として広く世間に認められるかどうかにもかかってくるから、広く世間に認められて多くの人が納得できる制度ではうまく行かないと言えるかどうかも、うまく行かないからこそ安心できるとは誰も思っていないにしても、客観的には誰もが信じられるような合理的なやり方が正しいとは思うのだが、それを実際にやってみると、思わぬところからそんなやり方ではうまく行かないことを思い知らされるような結果になってしまうから、そんな合理的なやり方を信じて疑わない有能な人材がそこで挫折してしまうのだろうが、そこから這い上がってくると、平気で嘘をつくような悪どい人間に様変わりしているように見えてしまうのかも知れない。


1月14日「勘の鋭さ」

 何か嫌な感じがするのはいつものことだが、それが勘違いなのかどうかも含めて、その時点ではよくわからないから、というか判断材料がすぐには出てこないような気がするわけで、だから何となく苛立たしいとしても、何もなければ自分の都合を優先させたいとは思うものの、それが自分にはわかっていないような気もするのだから、結果的に優先させているのが自分の都合ではなく、自分を取り巻いている世間の都合なのではないかという疑いを覚えるのだが、そんな世間に自分も含まれているのだから、それが回り回って自分の都合だと言えないこともなく、そんな都合が何なのかというと、なるべく事を穏便に済ませたいなら、世の中の成り行きを黙って静観していろということなのか、誰からそう言われているとも思えないが、その方が都合が良いのかどうかも、都合とは関係ないんじゃないかとも感じられるが、自分に何か波風を立てられるだけの力があるとも思えないし、自分が何をどう述べても何の影響力も及ぼせはしないのだから、その件について黙ろうが黙るまいが自分の勝手だと考えられるわけでもなく、それが勝手にはならないのだとしたら、世間から及ぼされる何らかの同調圧力に従わされていることになるらしいのだが、いったい何に従わされているのかは、それなりに自覚しているわけで、だからいくらそれを批判している対象と批判されている対象がグルになっているとか、ありふれた告発の類いをやらせようと仕向けられても、何となくそれは無視しておいた方がいいんじゃないかと思われてしまうのだから、実際にそれを無視してスルーするつもりなのに、死者の類いが追いすがってくるような、まるでゾンビに追いかけられているようなと表現すると、それとはちょっと違ってくるのだろうが、たぶんこれも勝手な印象なのだろうが、肺がんで死ぬ人の特徴というのが、自分にはわかっていると思い込んでいるのかも知れず、もちろん客観的に考えて、医者でもないのだからそれはないのだが、ああこの人は肺がんで死ぬと気づいてしまうのだから、そんなのは嘘に決まっているとは思うのだが、中にはタバコを吸っているのに肺がんで死なない人もいて、俺は死なないぞ!と大声で叫びながら追いかけてくる人は、たぶんすでに死神にも追いかけられていて、死ぬのも時間の問題なのだが、果たしてタバコを吸っているのに肺がんで死なない人は、死神を振り切れるほどの脚力があるのかどうかも、脚力の問題ではないとは思うが、昔テレビのニュース番組の司会者でジャーナリストでもあった筑紫哲也という人物がいたはずだが、その人はやはりというか案の定というか、俺は死なないぞ!と大声で叫びながら追いかけてくるような印象だったのだが、確かその人は肺がんで死んだはずだったが、果たして今回の件が、それと似ているのかどうかもよくわからないし、昨日からユーチューブ動画が盛んに自分に見せようとする映像を振り切りたいのだが、なぜか今回も、俺は死なないぞ!と大声で叫びながら追いかけてくるような印象を覚えて、背筋がぞくっとするような感じなのだが、しかもそれについて語っている人物も、ああなるほどこの人も肺がんで死ぬのかと気づいてしまうような見た目をしているから、何かヤバいなと思われて、なるほどこんなところにまで誰かの呪いが及んでいるのかと思ってしまったわけでもないのだが、ただの気のせいに過ぎないにしても、そんな比喩表現が何を意味するとも思えないし、社会の中で何らかの制度に囚われながら生きて行くには、誰にとってもストレスがかかる状態であると共に、そうやって生かされているのも確かなところだから、制度自体が悪いとか言うのも、誰もそんなことは言わないとも思えないが、タバコを吸うのも制度的な行為には違いないとは、普通はそれをそうは言わないはずだが、お笑い芸人の寒いギャグがすべるのもタバコのせいではないはずで、果たして肺がんで死んだ人がお笑い芸人の類いだったのかというと、それもたぶん肺がんで死んだお笑い芸人もいくらでもいるだろうが、それにしても、俺は死なないぞ!と大声で叫びながら追いかけてくる人というのも、それが何の比喩表現なのかも謎のままに、それに関する動画がひっきりなしに表示されるのも不気味だが、いったい何を訴えかけたいのかも、自分に向かって訴えかけたいのでもないだろうから、無関係な自分がそれを無視してもスルーしても何の問題もないはずだが、何かそこに意味を見出すように仕向けられているとも思えないから、今のところは無視するしかないのだが、少なくとも大声で何か叫びながら追いかけてくるということは、その人も何かに追いかけられていて、それが助けてくれ!と叫んでいるのなら、最近地方で流行りの熊にでも追いかけられているのではないのかと想像できるが、たぶんそれらの人が異様なところが、助けてくれ!ではないのが異様なのかというと、それも印象としてはそうではないところが異様だと感じるしかないのだが、少なくとも何かに追い詰められている印象なのだが、やはり死神に追いかけられているのを自覚しているようなそぶりなのを感じられるところが、自分の勝手な印象なのだが、だから今にも死にそうなのに、俺は死なないぞ!と大声で叫びながら追いかけてくるのだろうが、いったい何を追いかけているのかというと、ただ単に死神から逃げているだけで、それを真正面から見ると、こちらへと向かってくるように見えてしまうから、追いかけてくるように見えるだけなのかも知れないが、その人物を追悼するようなそぶりを見せている人々もやがてそうなってしまうのかも知れないし、その種の呪いが伝染するように見えてしまうなら、それを見ないように装うことが、呪いにかからないためには有効なのかどうかもよくわからないが、少なくとも自分はそれをなるべく見ないように身構えているわけで、そういう意味では勘が働いて、事なきを得たような気がするわけだから、それはそういうことだと思っておくしかないわけだが、それによって何でもないような話題を大げさに煽り立てるようなメディアの慣習から逃れたような気はするだろうが、それでも日々絶えず追いかけてくる何かの存在には気づいていて、それを振り切ろうとすればするほど、執拗にじわじわと距離を詰めてくるから、恐怖から思わず叫んでしまいたくなるのかも知れないが、しかしそれが、俺は死なないぞ!では意味不明な気もするのだが、イメージとしてはそれがピッタリと収まりそうだから、なるほどそんなふうに大声で叫びながら、死神から逃げているのかどうかも、自分の勝手な推測には違いないのだが、背負っているものが違うというか、取り憑いているのが何なのかというと、果たしてその重みで押し潰されてしまうような何かになるなら、うまいこと立ち回ってそれを他の誰かに背負わせたくもなるだろうから、それを誰かに背負わせようとして追いかけてくるのかも知れないし、そう見えてしまうだけなのかも知れないが、ともかくそこから早く逃げないと追いつかれてしまいそうな恐怖と共に目覚めたわけでもなく、冬だから汗もかいてはいないことを確認して、至って平常心を装いながらも、何か釈然としないものを感じるのだが、その死者が生前に何か言いたげだったのかも知れないが、ついに言えずに死んでしまったらしく、それをざまあみろとあざけるわけにもいかないから、そのままにしておいても構わないと思うしかないとしても、それとは関係のない方面で何かが日々起こっているわけで、むしろ死者のことなど差し置いて、そちらの方に関心を向けろとせっつかれている現状なのかも知れないが、どちらにこだわるにしても、とりあえず蚊帳の外に置かれているらしいから、どちらからの催促も無視するしかなく、お前らが勝手にやっていることなのだから、お前らが勝手に騒いでいればそれで済むようなことだとは思えないが、案外お前らも蚊帳の外から騒ぎ立てていることでしかないとしたら、何やらそれがご愁傷様な雰囲気も感じられてくるのだが、今や世の中もそんな扱いで済んでしまうご時世なのかも知れない。


1月13日「支配と利害調整」

 あまりひねくれて物事を斜め後ろから見ない方が良さそうで、しかもそれを見るとか見ないとかではなく、見ることが比喩表現になってしまうと、見てもいないのに見ているような錯覚を覚えることになってしまうかどうかも、そんな感覚にはなれないかも知れないから、ある程度は単純化して物事を捉えないと、それに関する言説としては意味不明になってしまいそうで、言葉で表現するにも限界や制約がありそうで、だから何だというわけでもないのだが、だいたい物事の成り行きを言葉で説明しようとすれば、ある程度は単純化して捉えないと説明できないわけだから、物事を単純化した説明をあまりにも否定的に批判するのもおかしいと思うなら、言葉で説明する限りは単純化を免れない程度に考えておいた方が良さそうだが、では何がそうなのかというと、短期的な現状分析が大して意味がないのかというと、長期的には意味がないかも知れないが、短期的に活動するなら意味があるというか参考になりそうだが、短期的な活動の積み重ねが中長期的な活動の持続に結びつくかというと、たぶんそう考えざるを得ないのだが、それも活動内容にもよるだろうし、例えば大して資金もないのに短期的に株の売買をやり続けてしまうと、たちまち資金が底をついてしまい、さらにムキになって信用取引などにのめり込んでしまうと、自己破産が目に見えているようなことにもなりかねないだろうが、それでも中には成功する人もいるだろうから、何とも言えないところだが、少なくとも自分は幸か不幸か大成功する才などなかったし、ノウハウや知識もなかったから、中途半端なところで右往左往しただけで今に至っていて、その加減が身の程をわきまえた活動になっているとは思うが、それ以前にそれを目指していたわけでもなく、たまたまコロナ禍で株価が下がっているのに気づいて、当時は自由になる資金が二百万円しかなかったから、その範囲内で証券口座を開いて株式投資すること自体が、なぜそんな気になったのかも、今から思えばよくわからないが、果たして今がさらに成功する途上にいるのか、あるいは今後株価大暴落に巻き込まれてしまうのかどうかも、現時点では何とも言えないところだが、とりあえずそれ以前と以降では、多少なりとも金融関係の知識を得られたことになるだろうし、当時の山本太郎などが盛んに煽っていた、積極財政と緊縮財政に関する政治宣伝の盛り上がりなどにも対処できたようにも思われて、少額ではあるが株式投資をやってみたおかげで、それ自体からではなく、それを通して得られた知識によって、そういう二項対立のどちらが正しくてどちらが間違っているかとは違った成り行きで事態が推移していることを実感させられたわけで、それだけでも勇気を出してやってみた甲斐があったわけだが、現時点でわかっているのは、経済情勢が許す限りで、ある時期には積極財政と呼べるような財政政策が行われる場合もあるが、またそれとは異なる経済状態の時期には、緊縮財政と呼ばれる政策が目立つ場合もあるから、しかもそういう政策を批判する者たちがそれをそう呼んでいるのだから、どちらも否定的な意味を込めてそう呼ばれる場合もある限りで、理屈の上では積極財政を掲げる政治勢力が否定的な意味合いを込めて批判する対象となるのが、緊縮財政政策になるわけだから、そのどちらか良くてどちらかが悪いかなんて、そんな批判が横行している時点でわかりきったことだが、それを受け止める側が素直にそれをそう受け止められるのかというと、やはり実際には自分のようにひねくれて事態を捉えてしまうわけで、どうしても山本太郎やその参謀役の長谷川ういこさんなんかが、積極財政推しをやればやるほど、こいつらは素人だからヤバいと思ってしまうわけで、それをヤバいと思っている自分も素人なんだから、ヤバいと感じる大した根拠も説得力もないわけだが、山本太郎はともかく長谷川ういこさんなんかは首相の高市と同じで、学生時代はさぞや学業の成績が優秀だったんだろうなと見受けられるわけで、その手の人の思考形態が日本の明治時代以降連綿と受け継がれてきた教育制度が目指す鋳型に合致する傾向が窺えるというと、それも大した根拠もない言説的な印象操作になってしまうにしても、例えば首相の高市と長谷川ういこさんと共産党の田村委員長を並べてみれば、三人共に日本の教育制度の成功例だと思われてしまうのだが、勝手に自分がそう思っているだけだが、だから長期的には日本の教育制度はかなりの程度で成功し続けているだろうし、今もそうなんじゃないかと考えられるわけで、それも自分が勝手にそう思っているに過ぎないが、教育制度から出力された成功例というのが、ああいう人たちであることは、それなりに真っ当な結果として肯定しなければならないし、そこからねじれてないものねだりなんかしてはならないだろうし、制度からはああいう人材しか出てこないと否定的に捉えるのもちょっと違うと思うわけで、それに加えて国民民主の玉木や自民党のコバホークなんかも並べてみれば、なるほどと思うかどうかも、自分だけがそう思っている可能性もなきにしもあらずだが、制度から出力された優秀な人材を社会の様々なところで活用する方針というか、国家的な指針というか、そうなるのが当然の成り行きなのだろうが、それで国家的には構わないとしても、そういうことを実行してきたから日本の現状があるわけで、それはそれで肯定的に受け止めなければならないだろうが、その一方で批判勢力としては、どうしてもないものねだりをしてしまうというか、実際に日本の現状を否定的に捉えて批判を繰り返しているわけだから、それが自分にはないものねだりだと感じられてしまうわけだが、国家制度はそうであっても、それと重なるようにして存在している市民社会はそうなっているわけではないと言えるわけでもないのだが、少なくとも制度からはみ出る部分もありそうで、そんな部分を国家制度によって統制しようとはするだろうが、そんな作用に対しても、それに抵抗するような力が働くこともあるにしても、実際に全体主義的な国家体制にとっては制度からはみ出る部分があってはならないし、絶えず市民社会全体を支配しようとするのだろうが、そんな国家制度によって完全には支配できない部分というのが、経済的な成り行きであって、通貨を発行している主体が国家制度側なのに、支配するのではなく調整することしかできないから、トランプなんかも現状では思い通りに制御できずに苛立っているのかも知れないが、国家が完全に制御しようとすると経済破綻に至るのかどうかも、実際にそうなった事例からそれをもっともらしく単純化して捉えればそう言えそうなことでしかないだろうが、そういう意味では市民社会が必ずしも絶えず国家と対立してきたわけでもないが、市民社会が何から成り立っているのかというと、それも普通に考えて経済活動から成り立っているのだろうが、そうなると物や情報やサービスの売買や貸借が市民社会を支えていると言えるかどうかも、逆に市民社会がそれらの経済活動を支えているとも言えそうだが、国家が市民社会を支配しようとするから、その過程で経済活動も支配しようとするのだろうが、完全には支配できないどころか、支配しようとするから市民社会からの反発を招いて、国家経済が低迷することになり、国家そのものが衰退すると説明できるかどうかも、そんな単純なことではないと言えそうだが、だからトランプ政権としては減税して市民社会のご機嫌取りをやるしかない一方で、政府の行政機構の効率化を図らなければならないが、そういうことやろうとすると今度は政府の官僚機構からの反発を招いて、そういうところで市民社会と政府の官僚機構の間で利害調整を迫られることになりそうで、官僚機構というのが政府だけに巣食っているわけではなく、企業にも他の各種団体にも巣食っているから、それらの官僚機構も市民社会に浸透しているわけで、組織的・集団的な成り行きとしてはそれらが市民社会の支配を目論んでいるとしても、他にも競合する組織や団体がひしめいているから、絶えずそれらの組織や団体などとの間で利害調整を強いられているから、結果的には支配に至らないのかも知れない。


1月12日「理屈抜きの衝動」

 批判するのに都合の良いことだけ示して、もっともらしい話の内容を構成しようとしているわけでもないのだろうが、後からよく考えてみると、そうなるのも致し方ないような感じがするから、批判の対象となっている人を悪く言う気にはなれない一方で、それ以前に批判している人を悪く言う気にもなれないわけだが、バーニー・サンダースはアメリカの上院議員で、公式には無所属の政治家で、上院では民主党の会派に所属していて、民主党と行動を共にしているそうで、長年にわたって無所属議員として活動していて、米議会史上最も長く無所属を務めている人物で、大統領選挙に出馬する際には、民主党の予備選挙に参加するために、一時的に民主党に所属することもあるらしいが、それがどうしたわけでもなく、それとこれとは関係のない話だが、そんなサンダースが、民主党が一昨年の大統領選挙で敗れた際には、民主党について労働者階級を見捨てたなどと激しく批判して、各方面に波紋を呼んだそうだが、そんなふうに政治の話をしては駄目というわけでもないらしく、何か述べている内容がもっともらしく思われるように、誰もが納得できそうな理屈を示せということらしいから、それについて考えているのだろうが、実態としては理屈に先行して発動する情念があって、そんな情念に基づいた行動や言動を正当化するためにも、話の内容がもっともらしく感じられるような理屈が求められていると考えるなら、その辺の話の内容がややこしくもこんがらがっていそうだが、情念が発動すること自体が、理屈抜きの嫌悪感に囚われていることの証拠だと考えたくなるわけで、それ以前に理屈抜きに世界のどこかで圧政に抵抗している虐げられた人々に対して連帯感を伴った共感を寄せてしまうこと自体が、何だか現地で表面化している直接の利害関係を無視した情念に囚われた言動だと思われて、そんなロマンあふれる政治的な言動に対してリアリティを感じられないとしたら、それが政治宣伝の一環として行われていることに気づいているのかも知れず、もちろんそれで構わないわけで、別にそれが政治宣伝だとしても好意的に受け止めておいても構わないわけで、がんばれ!と励ましの声援でも送ってやればそれで済んでしまうことだろうから、それを軽く受け流していることになってしまうとしても、嫌悪感に囚われるようなことでもないはずだが、それが一過性の宣伝や政治パフォーマンスでないことを示そうとしているわけでもないにしても、二年前に能登半島で起こった地震の被災地で、今も地元選出の国会議員が地道に支援活動に取り組んでいる姿に心打たれるとしても、それはそれであり、これはこれだと割り切れるだろうから、それもだから何だというわけでもないのだが、また生活困窮者の支援に取り組むボランティア活動の一環として、横浜市寿町地区で行われている年末年始の炊き出しに山本太郎が毎年のように参加していようと、それもそれであり、これはこれだと割り切って考えられるなら、それでも構わないだろうから、そんな活動に文句を言う筋合いでもなさそうだが、それに対してではなく、バーニー・サンダースが言うところの、労働者階級という階級があるという認識に対して疑念を抱いているわけで、もしかしてそんな階級などすでにないんじゃないかと思うわけで、工場労働が問題視されていた十九世紀から二十世紀にかけての古い労働認識に囚われているから、何かそこから誤解が生じているような気がしてしまうのだが、それが階級などではないとしたら何なのかというと、世の中で虐げられて搾取されているように見える人を探し出して、そういうカテゴリーに入れてもっともらしく感じられるような理屈と共にそれらの人々の実態を説明しようとしているのだろうが、それに関してAIによれば、労働者階級は現代の日本社会にも明確に存在しているものの、その定義や構造は変化していて、特にアンダークラスと呼ばれる下層階級が拡大し、階級構造の主要な要素として定着していると指摘されて、昔の真面目に働けば貧困から抜け出せるという希望があった労働者階級とは異なり、現代の労働者階級の一部を構成する、アンダークラスに入ってしまうと、低賃金や不安定な雇用に固定されて、貧困から脱出する見込みが持ちにくい状況に置かれている点が大きな特徴だそうだが、現代の階級構造の例として、社会学研究では、日本社会を次のような階級に分類する見方があるそうで、まずは企業の経営者や役員などの資本家階級があって、次に企業に勤める管理職や専門職や上級事務職などのホワイトカラーを含めて、新中間階級と呼び、さらに正規雇用の単純事務職や販売やサービス職やマニュアル労働者などの正規労働者階級が続き、その下にアンダークラスの下層階級として、非正規雇用者である都市雑業層や、日雇い労働者などの低賃金で不安定な職業に就く人々がいるそうだが、労働者階級の変化として顕著なのが、正規労働者の減少とアンダークラスの増加が問題視されていて、企業が正社員を非正規社員にシフトした結果、かつては貧しくても頑張れば抜け出せた正規労働者の一部が、貧困から抜け出せないアンダークラスへと転落して、そこで定着してしまっていて、そんな現代のアンダークラスは、階級構造の周辺的な存在ではなく、社会構造の主要な一部として組み込まれているとされているらしいが、労働者階級という概念は、賃金で雇用された生産手段を持たない人々を指す意味で今でも存在しているが、むしろ非正規雇用の増加や経済格差の拡大によって、その一部がアンダークラスとなって、それが社会の主要な層として拡大して、固定化しているというのが、現代の社会状況を捉える上で重要な視点となっているそうだが、どうもそういうもっともらしいAIの説明にも疑念を抱いていて、そういうのは単なる社会の中での役割分担に応じた収入格差でしかなく、今やそんな役割分担がAIの普及によって壊れようとしていると単純に言えるわけでもなく、働いて収入を得るというやり方を簡単に変更できるとも思っていないが、人間の介入をなるべく減らして作業を自動化することが業務の効率化に寄与するとしたら、その先に待っているのが、人間をなるべく働かせないようにするシステムが構築されると予想はできるだろうが、今はそんなシステムを構築するために人間が働いているわけで、その延長上で物事が進んで行くと、近い将来、労働によっては収入を得られない社会が到来するかというと、今はそんな社会を実現するために人間が働いて収入を得ている段階だが、そうやって徐々に人間の労働を減らしている最中だから、相対的に少ない収入しか得られない労働者が徐々に増加しながら、アンダークラスへと転落の途上にあると考えても良さそうだが、だから今の時代に労働によって比較的多くの収入を得ようとするなら、人間の労働を減らすための労働に従事する必要があるという逆説的で二律背反する状況が出現していると考えても良いか悪いかは、それも部分的にそうなっている程度の範囲内で考えられることでしかないから、それほど真に受けるようなことでもないだろうが、もっとあからさまに言うならそうした分野で仕事を得るのではなく、そうした分野に投資すべきだと言えそうだが、投資する資金がないと投資できないし、結局は働いて稼いで、稼いだ中から投資する資金を捻出しなければならないなんて、低賃金では生活して行くだけで精一杯で、投資資金なんて捻出できないから駄目じゃないかとなってしまうわけだが、そういう意味でももっともらしく感じられる理屈というが、何か気づきにくい欠陥を伴っていて、逆にもっともらしくは感じられないようなやり方で成功してみせなければならないとも言えないし、確実に成功できる成功例というのが幻想であって、そんなのはフィクションの中にしかないわけでもないが、それに関しては、現状でも示唆に富んだ成り行きになっていて、実際にジャーナリズムの類いが世の中で行われている不正行為や違法行為などを絶えず追及している対象が、世の中で主導権を握って権力を振るっているいわゆる権力者に分類される者や勢力になるわけで、彼らがなぜ世の中で主導権を握って権力を振るっているのかと考えれば、おのずから答えが出てくるのだが、せっかく彼らの不正行為や違法行為を追及しているのに、それに気づかないというのだから、何かそれが灯台下暗しと言えるような皮肉な状況なのかも知れない。


1月11日「ありそうであり得ない話」

 現実にはあり得ない仮定の話の内容で盛り上がるのも、よくある話の成り行きだが、それが話し方次第では、それに加えて話している相手の知的レベル次第では、それなりに説得力を得られそうな話の内容になりそうだと思うなら、話し相手を舐めてかかっている証拠かも知れず、話し手にとって都合の良い方向へと話を進めて行くには、その辺の条件を加味して話を進めて行く必要がありそうで、そんなことを話す前から考えているわけでもないが、その場の話の成り行き次第で、そうなるのが自然な話の流れだと感じられる方面へと、そうなるべくしてなるような話の内容と傾向になってしまうのが、実際にそうなったからといって、自らの利害に直結するような話の内容でなければ、そのまま受け流して放置しておいても構わないと思われる限りで、ある意味では痛くも痒くもない話の内容になりそうだが、そのある意味というのがどんな意味なのかもわからないままに、そんな言い回しを使うのもおかしいが、その一方であり得ない仮定の話というも、例えば最悪の事態が起こることを想定して話を進めるというのも、それが現実に直面している事態ではなく、話すのに都合の良いあり得ない事態について話しているようにも思われるから、そんな話に熱中している人のことをボクシングで言うところのパンチドランカーのような症状だと見なすのも間違っているだろうが、その話すのに都合が良いというのが、危機感を煽るのに都合が良いと受け取ってしまうと、話の内容がよくある目的に合致してしまうから、それに関しては最近では高市があんなことを言ったから大変なことになったと非難するような論調が想定されるのだが、しかもそれで構わないのかも知れず、あまり事態を深刻には受け止めたくないわけで、台湾有事?やるならやってみれば、中国軍のお手並み拝見と行こうじゃないか、程度のことだと軽く考えているわけで、当事者でもないのに他に何をどう考えているわけでもなく、興味本位の野次馬的な立場にもなれないのだが、そんなふうにパンチドランカー系ジャーナリストの話を話半分程度に受け流しておいて、現実の世界で起こっていることに関して、何かそれが自身の安全や状況への直接的な関与よりも、出来事そのものへの関心から状況を観察する人々を指すために使われる言葉であると、それが何を指しているのかと考えるまでもなく、もうすでに自分でそれを指摘していることに気づきながらも、それに気づかないふりをしながら話を進めなければならないわけでもなく、それもなぜそうなるのか知らないのだが、衆議院の解散だとかの日本の政局なども他人事のようにして、今も世界情勢が動いていると考えているわけでもないが、そういえばそうだった程度の認識の自分の無関心さに気づいて驚くでもなく、何をそんなに軽視したいのかも謎だが、やる前から結果など見えていると強がってみせるでもなく、恐れている最悪の事態が何なのかも、あらかた見当がついているとも思えないのだが、人としての底の浅さや軽率さを今さら指摘するような段階でもないし、個人の資質が問題でもなく、組織的な欠陥というわけでもなければ、そうなって当然であって、しかもそれで構わないようなことなのだから、そんな些細で瑣末なことを今さら問題視するには及ばないと笑いながらも、もっとご立派な人が然るべき役職に就くべきとも思えないし、普通にどこにでもいそうな人がそうなってしまうようなことでもあるから、それでいいんじゃないかと思っておいても構わないし、何がそれでいいのかも謎というわけでもないのだから、そうなったことが誰の思惑通りでもなく、ただの自然な成り行きだと思われる限りで、大げさに問題視するのも馬鹿らしく思われるわけでもないのだが、それでも絶えず何かが試されているのであり、それに対する世間の反応がそうだと思うなら、そんな思いが何を標的にしているのかも、その標的となっている対象に政治家や政党も含まれてくるのだろうから、何だかわからないままに事態が進行中のように感じられるとしたら、それもそれで構わないような成り行きだと思っておいても構わないし、実際にそれが起こってみれば、あの時のあれは何だったのかと呆れや驚きを通り越して意表を突かれるような結果に唖然とするわけでもなく、それでも何か釈然としないものを感じるとしたら、そんな釈然としない思いに囚われるような結果がもたらされると予想しておけば事足りるかも知れず、そんなふうに言説の標的や目標を回避しながら、いったい何に関して予想したいのかといえば、それがわかれば苦労はしないようなことかも知れないし、それがわからなくても構わないと思うなら、それも正解の一つだと思っておいても構わないし、それに対して毎度のことのようにしてどうしても日本経済が危機的な状態だと言いたい気にさせるような材料を探してしまうと、それも根拠の希薄な粗探しのような気もしないではないから、果たしてそれがありそうであり得ない話なのかどうかも、あまりはっきりしたことは言えないと嘘をついておいても構わないような気にさせる何があるわけでもないから、どうせそんなのも嘘なのだが、それが危機感の煽り立て疲れを招いていると言えないこともなく、危機的な事態ではないから逆に危機感を煽り立てずにはいられないという逆説に気づいておらず、本当に危機的な状況なら危機感など煽り立てなくても、誰もが危機的な状況であることに気づいているはずだと思うなら、それもそうではないような気もして、誰もが危機的な状況に気づいていないと思うから、今が危機的な状況なのだと知らせようとする使命感に駆られて、危機感を煽り立てているのだと自身の行為を正当化できるかどうかも、それも何とも言えないところで、何だか冗談でこんなことを述べているような気もしないわけでもないが、株式投資のアドバイザー的な立場からもうすぐ台湾有事が起こると予想している人もいるのだが、その人が言うには今が高市政権にとっては衆議院解散の絶好のチャンスだそうで、今解散すれば自民党が過半数を超える議席を獲れて、さらには維新や国民民主などの保守系の政党の議席を加えれば、衆議院の三分の二を超える議席を獲得できるから、株価が上がるには好材料となると予想している一方で、そうなったところで短期的には台湾有事でリスクオフとなるらしいから、今は株を買い増すのは控えるべきだそうだが、そんな予想が当たるか外れるかが自分にとって問題となるわけでもなく、少なくとも自分にとってはそうではないらしく、たぶんその人も自分も世間知らずな面がありそうで、しかもそんな世間など知らなくても済んでいること自体も、自分にとってもその人にとっても幸運なのかも知れないから、世間の隅から隅まで知っている方がかえってヤバいと感じるなら、そういう世間の一般常識の類いからもある程度は遠ざかっていた方が、そんな世間知らずな程度や傾向から、世間と自身との距離を測るには好都合かも知れず、ともかく身の程をわきまえた謙虚な姿勢で取り組まなければならないと思いつつも、いったい何に対して謙虚な姿勢で取り組んでいるのかもよくわからないから、それも見え透いた嘘なのかも知れず、その一方で、ユーチューバーでフリージャーナリストのような人は、今選挙してみい、連立を離脱した公明党なしで自民党が勝てるはずがないと豪語しているのかどうかも、肝心の動画の中身までは見ていないので何とも言えないが、またどこかの野党党首は、高市政権は自身の台湾有事発言で追い込まれていると強調しているみたいだが、それらの見解も自分には今ひとつピンとこないようで、別にそれでもいいんじゃないかと思ってしまうのだが、何だか自分が高市と習近平とトランプの味方のような気がしてくるわけでもないのだが、そうであっても構わないような立場というのが、世間的に許容範囲内なのかどうかも、そういうところも今ひとつピンとこないから、これも誰かの呪いが効いていることの証しと言えるような症状なのかも知れない。


1月10日「統制と管理の違い」

 欲を出しては駄目というか、欲を出して自らの信念を曲げるようなことがあってはならない、というのとは少し違って、それとは別の方面から計算が働いていそうで、思考の視野が狭いのは承知で、何かそれらしいことを語っているのだろうが、自分には自分の意図や思惑がわかっていないようで、今さらそれを想像してみても、何か勘違いのような気がするわけで、結局のところ何だかよくわからないまま、それについて考えているわけだが、それとは歴史的な経緯に関することだが、横暴を振るっている国王などの権力者の類いに向かって、お前のやっていることは法律違反だと訴えてきた法律の擁護者は、絶えず歴史の敗者の側になってしまうというのが、事実なのか史実なのかは、はっきりとは断言できないのだが、では勝者の側に位置づけられるのがどんな者たちなのかというと、その種の権力者に取り入りつつも、隙あらば権力者に取って代わって、世の中の主導権を握ってしまう側に位置づけられて、それが近代の歴史の中ではブルジョワジーと呼ばれる裕福な市民階級とそれと結託した政府や企業の官僚機構だと言えそうだが、それに対する懐疑的な見方ならいくらでもできるかも知れないが、すでに絶対王政の頃にはそれらの官僚機構が社会統制や国家管理の担い手となっていたわけだから、それが近代の主権国家体制の形成期だと言えそうだが、そこでそれらの機構が権勢をほしいままにしていたと理解してはまずいし、誤解を招くわけで、最近まで自分もそうだったのだが、統制と管理の違いを理解しておかないと、国家統治に関して、中国の共産党も、ある意味では日本の共産党もわかっていないことになってしまいそうで、もちろん中国の共産党は直接国家統治をやってきたのだから、それなりに身にしみて組織的な経験として身についていそうだが、それに関してはれいわ新選組なんかも、党内管理を党内統制だと誤解していそうだが、身についていそうな中国共産党でも、どうしても強権的な統制をやらないと体制を維持できないから、そういうことをやってしまってはまずいと感じながらも、必要に迫られてある程度はやらざるを得ないのだろうが、どうもAIもフーコーほどには、統制と管理の違いを把握していないみたいで、というか一般的な意味としてはその通りなのだが、歴史的な経緯としては、重商主義者が商品の価格統制をやってうまく行かないことに、重農主義者たちが気づいて、そんな重農主義者たちからマルクスも学んだのだが、それをマルクス主義者や社会主義者たちが理解できなかったから、ビスマルクの国家資本主義からルーズベルトのニューディール政策までの経験を活かせずに、経済統制を強引にやってしまって、社会主義国特有の経済破綻に直面したとは、それもそう簡単には理解できない理由として、西側先進諸国から競争圧力や直接の経済制裁などの妨害があったからうまく行かなかったんだと言えないこともないから、理屈としてはマルクスのように重農主義者たちから学ばなければならないのかも知れないが、人口の増減や商品の価格の上がり下がりなどは、直接的には制御できないということであり、そうは言っても戦時中などの非常事態時には必要に迫られて統制をやらざるを得なくなってしまうのだが、統制をやると中国の一人っ子政策のように後の時代に禍根を残すような結果に陥ってしまうわけで、それ以前に中国では、毛沢東がソ連に視察に行って、なるほどこうすればいいんだと思い込んで、帰国後すぐに大躍進政策をやって数千万人の死者を出した経験があるし、さらに文化大革命でもやらかしてしまって、これでもかと国家統制の失敗を何十年も続けてしまった経緯があるわけだが、そんな数々の失敗から学んだからこそ、今の中国の経済的な躍進があると、一応は説明できないこともないが、それでも政治的には一党独裁体制だし、コロナパンデミックの際にも、ここぞとばかりに国家統制をやってしまって、どうだとばかりに国家体制の完璧さを誇って見せたのだろうが、そんな中国から影響を受けていると言えなくもないが、トランプも何かと国家統制をやりたがるし、大統領権限で州兵を動員して、威圧的な姿勢で抗議デモを鎮圧したりしているのかも知れないが、実態としてはそれも見せかけの振る舞いのようにも感じられるし、独裁をやるぞやるぞと見せかけておいて、結局は妥協や譲歩も厭わないような、その辺の力加減も心得ているのか、あるいは自覚せずとも身についているのか、その辺もよくわからないが、見かけ上は独裁者のように振る舞おうとするのだが、本気で振る舞ってしまうと裸の王様になってレームダック化してしまうからまずいことも、それなりに経験として身についているような雰囲気も感じるから、統制一辺倒ではまずいことも歴史から学んでいるように感じられるわけだが、統制だけではなく調整も必要なことも、一連の世界各国の政府との間で行われた関税交渉でも明らかになったが、それを何かと批判したがる者たちにとってはお前のやっていることは全て失敗だと言い放ちたい衝動に駆られるのだろうが、トランプだけでやっているわけでもなく、ベッセント財務長官をはじめとして一応は有能そうな取り巻きもいるのだろうから、百パーセント全てを引き受けるのは避けているし、やろうとしてもできないことも心得ているだろうから、ベネズエラの国家運営なんかも、口ではやるやるとは言っているみたいだが、結果的にうまく行かなくてもどうということはなく、独裁者の大統領を拘束できただけでもうまく行ったのだから、それでいいんじゃないかという程度の皮算用なのかも知れず、機を見てタイミングを見計らって、迅速な行動に打って出る時もあるが、その後の経過の中では関係する物事の自然な成り行きに任せる柔軟さも必要なことは、物事の成り行きを完全にはコントロールすることはできないと自覚していれば、自覚していなくても経験として身についていれば、そこで考えなくても自然な動作を伴って出てくるわけで、だからといってやっていることの全てがうまく行くとも限らないから、うまく行かないところはこれ見よがしに批判されるだろうし、そんな批判も想定内の批判となるから、ムキになって食ってかからなくても良さそうだが、演技として怒っているポーズをして、馬鹿な奴だと思わせて油断させておけば、相手に隙が生じるから、その隙を突いて何かのきっかけから攻勢に出るとか、それを個人でやっているというよりは、組織的な動作に組み込まれた演技としてシステマチックに行われているようならヤバそうだが、そんなことをトランプの振る舞いに対して想像しているわけでもなく、重農主義者が言っているように、天候不順か何かで不作になって、農産物の価格が上昇すれば、価格統制をして、強制的に低価格に抑え込むのではなく、価格が上がれば利益を出そうとして、輸入業者が外国から多く輸入するから、そうやって商品が市場に供給されるようになれば、自然に適正な水準に落ち着くだろうし、農民の生活が成り立たなくなるほど農産物の価格が下がってしまうと、農地を放棄せざるを得なくなるから、農業人口が減ってしまう一方で、そんな中でも生き残った農家が、耕作地を広げて規模拡大することによって、相対的には薄利多売的な農業へと進化するかも知れないし、そうなる過程においても農業の技術革新によって生産性が向上すれば、それによって産業として強化されることになるわけだが、それが人為的に行われることは確かだろうが、その一方で自然な経済の成り行きの中でそうなる可能性が高いから、何から何まで全ての面にわたって政府が介入し過ぎると、そういう自然な産業の成長が阻害されて、結果的にうまく行かなくなってしまう可能性も高くなりそうだが、そういう理屈を重農主義者が気づいた点で、マルクスもアダム・スミスよりも重農主義者たちの方が理論として進んでいると評価したらしく、そこから自由主義思想や新自由主義思想が歴史的に発展して行ったらしいのだが、わざと独裁者気取りを装うトランプにもそういうところが受け継がれているのかも知れない。


1月9日「意思と意志と理性の競演」

 何か意図的に情報が操作されているのかというと、そういう部分もあるだろうが、それを意図しているのではなく、意図しない操作となっている可能性もあるらしいが、それが国家意思や国家意志によるものなのかというと、意思と意志の違いを正確には区別できないし、意思といっても国家に意思があるというのは、単なる比喩表現に過ぎないとしても、意思があるように意識せざるを得ない場合もありそうで、さらに意思ではなく意志という言葉を使うと、何か強い意志を伴ってやり遂げなければならない明確な大義が国家にあるかどうかも、その種の政治家たちが国家意志に従っているように感じられる場合もありそうだが、それとは違う分野で、例えば機関投資家が意図的にやっている株価操作の類いであれば、明確な意思や意志が介在していると言えそうで、といってもアルゴリズム取引による自動的な株の売買であれば、コンピュータプログラムが事前に設定されたルールに基づいて、自動的に売買のタイミングや数量を決めて注文を繰り返す取引手法となって、その事前に設定されたルールに機関投資家の意思や意志が反映していることは確かだが、それを直接の意思や意志が伴った操作だと言えるかどうかも、ちょっと異なるような気はするが、果たしてそういうことの延長上で、国家意思や国家意志をもっともらしく説明できるかというと、自分の言語能力を超えているような気もしないではないが、国家の動作もアルゴリズム取引も人間の脳から伝わる心身の動作も、制度的・システマチックな作用を伴っていると言えるかも知れないし、そういう面ではそうだと言えないこともないが、トランプやトランプ政権を批判するジャーナリストや識者などの論調には違和感を覚えるし、大統領令などの行政的な措置を絶えず法的な面から批判を加えようとしていて、今回のベネズエラへの軍事作戦を伴った強権的な武力介入についても、国際法という法があたかも国内法と同レベルで機能するかのような論調で批判しているとすれば、その辺に意図しないごまかしの操作が介在しているような気がしてくるのだが、AIによれば、国際法は確かに存在しているそうで、国家間の関係を規律する条約や慣習法などのルールの体系があって、国内法と同じく法的な拘束力を持つが、警察による強制力のような中央集権的な執行機関がないため、国内法とは性質が異なり、国際社会の秩序の維持、紛争の解決、人権の保護などに不可欠な法として、世界中で機能しているそうだが、国際法の主な特徴としては、国連憲章や海洋法条約などの国家間の合意で成立する成文法や、多くの国家が反復・継続して行い、法として受け入れている内政不干渉の原則や公海自由の原則などの不文のルールや、紛争解決などの条約や慣習法を補完する基本的な原則として、国内法における基本的なルールや論理が国際関係にも適用されることを意味するらしいが、国内法のように警察や裁判所による強制執行はできないが、国際司法裁判所での紛争解決や、経済制裁、国際世論による圧力などが働くが、違反した場合の直接的な罰則は、国内法ほど明確でないのが特徴であり、適用範囲は、国家間の関係だけでなく、国際機関や個人や企業にも、人権法や国際投資法などのように影響を及ぼす範囲が世界へ広がっているそうで、果たして実効を伴った法として機能しているのかというと、国際法は、国連のような国際組織や、国家間の相互依存関係を通じて、紛争を予防し、平和的な関係を維持するための共通のルールとして機能しているとは言うが、世界各国が自国のためにも遵守すべき規範であり、国際社会の安定と発展のために不可欠な存在であるそうだが、そんな国際法を無視するようなことをトランプやトランプ政権がやっているとジャーナリストや識者は非難するわけだが、それもごもっともな批判にはなるだろうが、現状では国際法よりトランプやトランプ政権に取り憑いている国家意思や国家意志の方が勝っているように感じられるし、もちろんトランプだけでなくプーチンや習近平やエルドアンやインドのモディ首相などにも取り憑いているだろうが、それらの意思や意志と似ているのか似ていないのかも、はっきりとは言えないが、かつてヨーロッパで締結されたウェストファリア条約前後で複数の国家主義イデオローグの間で話題となった国家理性というのも興味深いから、その意味も紹介しておくと、国家意思とは、国家が持つとされる独自の意思や、国家の意思決定を指し、法理論や政治学では、国家は法人であり、独自の意思を持つ主体であって、国家法人説という考え方があるらしく、政府などの国家機関がこれを形成して、外交においては、通告・約束・抗議などの一方的な意思表明を指すことが多く、また、ルソーの一般意志である普遍的な公共の利益の概念と関連して、国家の統治組織や国民の集合体が示す国柄や国体といった意味合いも持つそうで、また国家意志の方でも、国家法人説などにおいて国家そのものが持つとされる、法秩序を形成して、行動を決定する独立した意思を指し、また、国家が掲げる目標や政策、あるいは国民・政府が国家の存続・発展のために持つべき強い決意を意味して、単なる個人の意思ではなく、国家という集合体を一つの主体とみなし、その存続や目的達成のために発揮される力であり、外交や国策、軍事力など多岐にわたる形で現れるそうで、さらには国家理性とは、国家の存続と繁栄のためには、個人の道徳や一般の倫理を超えた、国家独自の論理や必要性が優先されるという考え方で、特に近代国家論やマキャベリズム思想において重要な概念であり、これは、フリードリッヒ・マイネッケの『近代史における国家理性の理念』で歴史的に分析され、国家を感情や欲望に流されない生命体と捉えて、その存続のためには必要に応じた行動が許されるという思想を指すそうだが、国家理性の主な概念として、国家の特殊性という観点からは、国家は単なる個人の集まりではなく、独自の意志と論理を持つ一つの大きな生命体であるという考え方があり、さらに権力追求という観点として、国家は本質的に権力追求の衝動に駆られており、そのためにの行動は国家理性によって正当化されるそうだが、そしてマキャベリズムの観点からは、国家存続のためには必ずしも道徳的でない手段も必要とされるという、現実主義的な政治思想と結びつくそうで、近代国家の形成過程で、君主の権力から国民の意思へと基盤が移りつつも、その内部では国家の必要性が倫理と対立する問題として認識されてきたそうだが、それらの意思や意志や理性を持ち出せば、何やらトランプやトランプ政権のやり方が正当化されるかも知れないと思うのと同時に、それを批判するには国際法を持ち出さなければならないという、何やら議論が噛み合わないような、平行線に終わるような、どちらも都合の良い論理や理念を持ち出して、片方は武力を伴った実力行使に出て、それに対してもう片方は理念を持ち出して批判するような、そういうのをどう捉えれば良いのか困惑してしまうというと、またいつもの嘘をついているような嫌な感じもしないではないが、実力行使に出ている方は必要に駆られてやっていると思っているだろうから、そんな批判や非難が返ってくるのも想定内でやっていることである限りで、ある意味で勝算があると考えてやっているだろうし、少なくとも批判している側が実力行使している側に勝てるのかというと、そこでは勝てなくても構わないような想定でやっていることなのかも知れず、もちろん批判している側がそれをはっきりと自覚しているわけではないのも、何となくわかるようなことなのだが、確かにそこでは勝てなくても、歴史的な経緯が前もって明らかにしている結果をあらかじめわかっているから、それをわかっていることも自覚していないだろうが、とりあえず安心して批判できるような成り行きなのかも知れないが、果たしてそれをトランプやトランプ政権が大方の予想に反して覆すことができるかどうかに興味があるわけで、というかそうではなくて、新たな未知の展開に至るような気もしているわけだ。


1月8日「呪いの種類」

 それが神だか悪魔だか、それともそんな単純な概念とは違う複合的な何かが絡み合って、それに慣習や言い伝えなどが意識の中で混じり合った情報なのかも知れないが、それが言うにはどうも呪いには二種類あって、よく呪い殺すとか言われるのが、一般的には普通の呪いに伴って発動する心理的な作用だと思うが、最近起こった何かをきっかけにして発動したのはそれとはちょっと種類が違うようで、それに起因してどうやら長年にわたってアメーバブログで集団的に行われていた何かがバレてしまったような感じもしてくるが、それがバレてしまったのが、そのきっかけとなったのかどうかも、自分には相変わらずよくわからないのだが、ともかくそんなことを執拗にやっていたクズどもに呪いがかけられたと伝えてくる奴もいるようで、それがくだらないデマなんじゃないかと感じられるのも毎度の嘘かも知れないし、別にそいつらに呪いをかけるように自分が頼んだわけでもないのに、向こうから勝手に気を利かせて呪いをかけたのかどうかも、その辺もよくわからないのだが、自分の意思や意志や意向などは無視して、その何だかわからない何かが、そいつらに呪いをかけたと自分に知らせてくるのだから、いったいどういう仕組みで何を使って知らせてきたのかも、今のところは見当がつかないが、それがテレパシーというのか、たぶんそんなのは自分の勝手な思い込みで、ただの幻聴なのかどうかもわからないのだが、ともかくそいつがかけた呪いというのが、呪い殺すのではなく、生かしたまま死ぬまで呪いがかかり続けるような呪いだそうで、いったんそれがかけられてしまうと、そいつらが生きている限りは呪いがかかり続けるらしいが、そんな呪いの効果が何なのかといっても、それも皆目見当がつかないが、ともかく嫌がらせなのかどうかも、自分にはよくわからないが、何か嫌な感じがしただけで、それが長年にわたってアメーバブログから感じられただけで、だからといって嫌だからやめるわけでもないところが、それも自分でもよくわからないのだが、自分にとって嫌な感じをさせることを、そいつらが長年にわたって自分に対してやり続けたことによって、それと引き換えにして何かマイナスのエネルギーのような力が溜まって行くのを、長年にわたって放置するように仕向けられいていたんじゃないかと、そうなった結果からは言えそうなのだが、もちろん何も確証はないし、勝手な自分の思い込みなのかも知れないが、自分にかかっていたストレスか何かが、そんな妄想を自分に抱かせるだけなのかも知れないが、ともかくその妄想の中身から言えることは、自分にとっては嫌がらせみたいな何かが何かの糧となっていたようで、それを通して溜まっていった何かが何かのリミットを超えると、自動的にそれをやっていた奴らやそれに関係した者たちに呪いがかかるような仕組みだと考えてみたのだが、そんな何の根拠もないことを想像してみたところで、何でもないような感じではあるわけだが、それに関連しているのか何なのかもわからないのだが、最近年明けぐらいから、盛んにユーチューブで星占いの動画が表示されて、まるでそれを見ろと仕向けてくるみたいで、それによると、いて座の者が今年は二十四年ぶりに運気が強烈に上昇する期間に突入すると煽り立てるのだが、確かに自分の誕生日からすると、いて座になるはずだが、何やら長年にわたって加えられてきた圧力や重みから解放されて、それによって長年にわたって努力してきたことが報われて、最良の一年になるそうだが、どうせ他の星座の下に生まれた者に対しても、その手の気分が良くなるようなことを言ってチャンネル登録者を増やしたい魂胆なのかも知れず、占い師の狙いとしては、主に相談者の悩みや不安を和らげ、心理的なサポートを提供することにあるそうで、同時に、多くの他の職業と同様に、生計を立てることやビジネスとしての成功も重要な目的だそうだから、それを好意的に受け取るなら、相談者の人生経験や現在の状況に寄り添い、ポジティブな方向へ導くことを目指していて、相談者が抱える人間関係のトラブルやストレス、将来への不安などを聞いて、問題を客観視できるように手助けして、具体的なアドバイスや予測を通じて、相談者が自信を持って決断できるよう後押しして、高いコミュニケーション能力と共感力を活かして、相談者が話を聞いてもらえたと喜ぶことで、心のケアを行い、また占いの結果をきっかけにして、相談者自身が自己分析を行い、新たな視点や気づきを得られるように導くそうだが、その一方でビジネス・金銭的な側面としては、占い師も一つの職業であるため、生計を立てるためのビジネス的な狙いもあり、相談者に占いサービスを提供することで、鑑定料という形で収入を得るわけで、その際には顧客満足度を高め、リピーターを獲得することが安定した経営につながり、他の占い師との差別化を図り、自身のブランド価値を高めることで、より多くの顧客を集める狙いがあるそうだが、また一部の占い師は、自身の経験やスピリチュアルな世界への興味からこの道を選んでおり、自己実現や探求心を満たすことも目的としているが、相談者の人生が良い方向に向かう手助けをしたいという強い思いを持っている人もいて、占い技術や心理学、カウンセリングなどの知識を深め、スキルを磨くこと自体に喜びを感じていて、以上のことから、占い師の狙いは、相談者の精神的な充足と問題解決を支援することと、職業としての経済的側面があると言えるそうだから、まさかとは思うが、本当に呪いが有効に自らの心身に作用していると感じるなら、占い師にでも相談することを勧めるわけでもないのだが、呪詛返しを仕掛けようにも誰が呪いをかけているのかも、誰に向かって呪いをかけているのかも自分にはわかりようがないから、なぜか完全に蚊帳の外に置かれた部外者感を禁じ得ないわけでもなく、禁じ得ないとか、そんな言葉の用法も間違っていそうで、何だか冗談のような、たぶん何かの冗談には違いないだろうが、不気味だと言えば、時折送られてくるスマホのショートメッセージも最近は不明な差出人が多くて、何の意図や魂胆があって、そんなメッセージを送ってくるのか、目的がよくわからないのだが、おかしな内容のメールも多いし、だから何だというわけでもないところが、やはりそのスマホの持ち主なのに部外者のような気がして、いったい誰に宛ててメッセージやメールを送ってくるのか理解に苦しむが、自分が意識していないところで別人格が発現して、何か他の誰かとの間でやりとりをやっていたら怖いが、それとも多重世界の向こう側では、自分が他の誰かや集団で構成する何らかの組織か団体か何かと派手にやりあっていて、その余波がこちら側の世界にも影響を及ぼしてくるのかも知れないと、また勝手な妄想を膨らませてみても、そんなのも考えてみるまでもなくあり得ない馬鹿げた空想になってしまうだろうが、いずれにしても自分が当事者ではないような気がするから、そういうところで、せいぜいそれらの傍観者となって高みの見物でも決め込んでいれば良さそうにも感じられるから、それとは違う方面で何か語る必要に迫られているわけでもなく、目下のところは、フーコーの講義集成の第六巻を高いのを買うかどうかで思い悩んでいて、それを買えば十三巻全てが揃うのだが、それが何か最後の難関のような成り行きになっているような、それも自分の勝手な経緯であり事情に過ぎないのだが、その一方で二十数年前の段階では、なぜかフーコーの思考集成は十巻全巻揃えることには成功したわけだが、それがきっかけとなってフーコーの著作を買って読むようになってしまったのだが、たぶん全てとはならないだろうが、主要な著作は買って読んだはずだが、だからといって、それが価値があるとか、そういうことではないから、他人にとっては何でもないことになるだろうし、マイブームであると同時に、気晴らしや気休めの趣味でしかなく、そこから何かのビジネスに結びつくとも思えないから、何だか不思議な感覚に囚われている今日この頃なわけだ。


1月7日「備えあれば憂いなし」

 物事の捉え方があべこべになっていることに気づかない者たちが語る内容に関して、それほど大げさに呆れ返ってみせるわけでもなく、それに関連して今後どんな出来事が起こることを危惧しているわけでもないし、それに備えて身構えているわけでもなく、別に身構える必要もなさそうで、メディアからもたらされる執拗な勧誘の類いは受け流しておけば済むようなことであっても、彼らが自分に向けてわざとらしく嘲笑するような反応を見せているわけでもないし、元から相手にされていないのだから、現状の中で自意識がどんな出来事に備えているとも思えないのだが、できればもっと真面目に向き合いたくなるような、あまり過剰反応しなくても済むような無難な成り行きへと、自らを取り巻く環境を整えたいとは思わなくても、相変わらず無意識が何をどう思っているのかも、皆目見当がつかない現状の中で、それが特に卑下すべき現状なのかというと、逆にそれ相応に現状を肯定したい心境になりたいのかも知れないから、しかも現状がどうなっているとも思えず、そうなる以前に現状をうまく把握できていないのかも知れず、そんな自分にとってはよくわからない現状の中で、そうなることを強く意識してうまく立ち回ろうとすれば、必ず失敗して惨めな醜態を晒すことになるから、意識してうまく立ち回ろうとするのではなく、また事前に策略を巡らすとか、個人レベルでは太刀打ちできないと思われる集団で構成される組織などに対して、復讐心に駆られて何を仕掛けても、無視されるだけだろうから、少なくとも個人の力で何とかしようとは思わない方が無難なようで、もっと世間に向かって媚びなければならないとか、どうもそういうことでもないようで、誰かの軽薄そうなひと言アドバイスの類いを真に受けてへどが出そうなことを述べなければならないとか、触らぬ神に祟りなしだと思えるようなアメーバブログの惨状なのだから、そんな方面にはあまり近づかないようにしておいて、ちょっとだけ軽く冷やかし程度の感覚で関わっておけばそれで済んでしまうようなことでも、そのための配慮としてメディアを複数に分散させているわけだから、そうやってヤバそうな方面からは遠ざかっているふりを装っているのだが、そうかといって何かこれといって狙いがあるわけでもなく、意識して現状をどうしようとしているわけでもないと思うなら、そんな思い込みが嘘になってしまうから、何かの囮となるようなことを述べているようだが、そのための方策としてわざとフーコーなどからそれふうの内容を移入しているのだろうし、それが何を意図しているわけでもないだろうから、何だかその辺の無意識の意図や思惑などが複雑に絡み合っているようにも感じられるのだが、それも相変わらず自意識が捉えられないような仕組みとなっているようで、自分とはそれほど関係のないところで物事が進行しているような気もするのだが、あまりそれを意識の方で強く反応して言説などを伴って出力しようとしても、そういうのも結局はうまく行かないことは経験上わかっていると思い込んではいるのだが、それも根拠のない思い込みに過ぎないから、現状では何とも言えないところだが、あまりにも被害妄想気味な言葉を弄しても、何の被害に遭っているのかもわからない現状の中で勝手に何かを暴発させてみても、単なる独りよがりな行為にしか至らないだろうから、そういう成り行きに持って行くのも意味不明だし、もっとも何か意味を持つような成り行きというのがどんな成り行きなのかも皆目見当がつかない限りで、それでも相変わらず世界は新自由主義とグローバリズムに支配された状況だと強く危惧しているわけでもないが、実際には良心的なジャーナリズムの輩が危惧するような極右的なポピュリズムに支配された世界になっていれば、それに立ち向かうために民主主義の価値観の下に一大勢力を結集させるような成り行きになってほしいと誰が願っているかも、どうもそんな大げさな善と悪との一大決戦前夜のような情勢認識ではないから、それもよくわからない現状の中で、ともかく自分とは関係のない方面で自分にはよくわからない何かが進行中だと思っておけば良いか悪いかも、わざわざそこへと自ら首を突っ込みに行くような愚は避けたいわけで、飛んで火にいる夏虫だとも思ってはないが、何となく嫌な感じがするから、そんな嫌な感じがする方面にはなるべく関わらないようにしたいのだろうが、それに対しても無意識の勘が働いて、今も無意識の領域でそれ相応の対応や対処が発動中なのかも知れないから、自意識の方でも無意識に対応や対処を任せていると考えれば、妥当な現状認識なのかも知れないが、最近は迷惑メール排除機能をかいくぐって意味不明なメールも結構送られてくるようになってきたから、被害妄想も発動させたいのだろうが、大した被害にも遭っていないのに、無駄に妄想を発動させたところで自意識過剰が空回りするばかりだから、何となくあくびが出てくるような結果しかもたらされず、それでも善意でやっているのか、それとも悪意がこもっているのかもよくわからないところで、得体の知れない何かが発動中だからこそ、トランプもベネズエラへと軍隊を差し向けて、石油利権をアメリカの勢力圏へと取り戻すことにしたのだろうから、それがベネズエラ国民のためになるのかどうかも、利害関係から予想されるところでは、どうせ枝葉末節な領域で判断されることでしかないから、あまりこれといって、部外者の立場からははっきりと言えるようなことではなく、それよりはトランプが意図している狙いとは違う方面からもたらされる作用が、利害関心とは無関係な多くの人々に何かしら恩恵をもたらすような気もするから、トランプとしてはそんな恩恵など意識せず気づかずにもたらすことになると他の誰かが予言しておけば事足りるわけでもないだろうが、実際にトランプ本人とは違う方面から予言ではなく預言がもたらされるわけだが、それをどう捉えれば納得できるわけでもなく、誰も納得できないからこそ預言が力を持つと考えておけば良いか悪いかではなく、預言など無視され顧みられないからこそ、誰も気づかないところでひっそりと社会の中で機能していると言えるような動作なのかも知れないが、だからそんな想像的な機能や動作を肯定せざるを得ないわけだが、実際にはそんなよくわからない働きなど幻想に過ぎないのだから、それも過剰な期待と実際にもたらされるわずかな収益や利益との間の落差から失望がもたらされるだけで、というかそんな収益や利益がどこの誰にもたらされるかも、現時点ではよくわかっていないのだから、それに直接関わっている当事者でなければ、そんなところまで考えが及ぶわけでもなく、しかも直接関わっているかどうかもよくわからないことでしかないのだから、自分に関することではないのかも知れないし、独りよがりな被害妄想と共に言及すべきこともないようで、何だかわからない何かの渦中に巻き込まれているとは思わない方が良さそうだから、絶えず逃げ姿勢を崩さずに事態に対処しているつもりなのかも知れないが、果たして逃げずに立ち向かうような機会が巡ってくるかどうかも現状では判然としないまま、ただ時が過ぎ去るがままにまかせておいても、それほどの不都合は感じていないのだから、変なところで不意に吹き込まれる世間からの誘惑に捕まって、それを真に受けてその気になって活動してしまう身の程知らずな者たちがその後どうなったかは、そんな中でも熾烈な生き残り競争を強いられた挙句に、未だにメディアで利いたふうな意見を述べている人もいくらでも見かける中でも、何かこれといって気にかかるようなことを述べていると感じるわけでもなく、ああこの人はこれから先も死ぬまでこんなことを言い続けるのかと呆れ返るわけでもないから、それをできる範囲内では肯定的に受け止めなければならないような気がするのだが、逆にそれに対して敵対的かつ戦略的な態度で臨めるわけでもそんな立場でもないから、その大半はそのままスルーするしかないような現状なのかも知れない。


1月6日「理由のこじつけ」

 そうなることが事前にわかっていたわけでもないのにそうなってしまったとしたら、それの何がおかしいわけでもなく、そうなることが事前にわかっていたから動作したり行動したわけでもないだけだが、それが理由なき動作や行動になるかというと、理由はいつも後からわかるのだから、そうなってから理由を後づけできるとしたら、事前に理由があったわけではないのかも知れないし、ただ単にそうなってからそうなった理由を思いついただけかも知れず、もっともらしい理由をこじつけただけかも知れないが、そうやって強引な辻褄合わせをやっていると、それの何がおかしいのかというと、ただ単に辻褄が合っていないような気がするわけでもなく、そんな理由を後づけてもっともらしく語ろうとする者の述べていることを信用できなくなるわけでもないのだが、ただもっともらしい理由をつけて、やってしまったことを正当化したいだけのような気もしないではないが、それを正当化しているのが、そんなことをやってしまった当事者なら、そんな気がするだけかも知れないが、無関係な第三者が勝手な理由づけをやっているなら、行為や行動の当事者が、そんな理由じゃないと反論するかも知れないし、たぶん力関係からしても無視されるだけかも知れないが、新年早々トランプ政権が派手にやらかしてくれたおかげで、それに対する日本のポンコツなジャーナリストや政治家や識者たちの勝手な理由づけやこじつけや決めつけには呆れてしまったわけでもないし、彼らがポンコツではないと言っておかないとまずいだろうから、少なくとも彼らが常日頃から事ある度に批判している高市政権の連中と同程度には優秀であり有能だと誉めておくしかないのだが、自分などは足元にも及ばない愚かさにまみれているのかというと、たぶんそれも逆なんじゃないかと思っておかないと、日本の社会が成り立たないような気がしてくるから、それも自分の勝手な勘違いなのだと反省しなければならないし、自分程度の分際で上から目線で偉そうなことは言わない方が良さそうで、何かしらヒエラルキーに支配された社会なんだと思っておくのが無難なのかも知れないが、フーコーの講義集成を昨日読んでいたら、十六世紀のヨーロッパのイデオローグでテュルケ・ド・マイエルヌという人物の思想が紹介されていて、人間を真の臣民にすること、人間を、まさに一つの活動をもち、その活動がその人間の完徳を特徴づけるべき、したがってまた国家の完徳を可能にするものとして、自分の専心する何ものかへと向かう真の臣民とすること、これこそがこの時以降、国家の内政と呼ばれるものの持つ根本的な、また最も特徴的な要素の一つで、内政が狙いとするのは社会の中で行われる人間の活動であり、それが国家と関係を持つものとしての人間の活動だそうで、それまで君主や国家の関心を惹いていたのは、人間たちが何であるか、またその身分によって何であるか、さらにはその美徳によって、内属的な質によって何であるかということであり、人間たちが美徳を持っていること、服従的だということ、怠惰でなく勤勉に働く者だということが重要であって、国家の質の良さは国家の諸要素の質の良さに依存していて、かつての関係は在り方の関係、在り方の質の関係、美徳の関係だったのが、テュルケ・ド・マイエルヌが考え出した新しい構想では、国家の関心を惹くのは、人間たちが何であるかではなく、司法国家におけるような彼らの係争でさえもなく、国家の関心を惹くのは人間たちの金銭でさえもなく、人間たちの金銭に関心を持つのは、いわば税制国家の特徴であり、それに対して内政国家を特徴づけるものは、内政国家が関心を惹くものは、人間たちが何をしているのか、彼らの活動、彼らの職業であり、つまり内政の目標とは、国力の発展における示差的要素をなしうるものとして人間たちの活動を制御し引き受けることなのであり、これがドイツ人が内政国家と呼んだもの、フランス人はそうは呼ばなかったけれども事実上設置したものの組織をなすことになるものの中核であり、テュルケ・ド・マイエルヌの企図を通じて見られるのは、つまるところは、国家の構成要素としての人間の活動であり、内政は、人間の活動が実際に国力とその発展である国家に統合されるために必要充分な全てのものを道具として手に入れるのでなければならず、国家に実際に有用な仕方でその活動を刺激し、規定し、方向づけることができるようにするのでなければならず、ここで問題となるのは人間たちの活動から出発して、その活動を通じてなされる国家にとっての有用性の創造なのであり、職業・活動などの人間たち行ないから出発して、公的有用性が創造され、そこから出発してこそ、そこで近代的な内政という理念の核心を改めて捉えてこそ、内政がこれ以降引き受けると主張する対象を容易に演繹できるようになり、まず第一に内政は人間たちの数を引き受けなければならなくなり、人間たちの活動に関しても、また国家に関わる有用性への人間たちの統合に関しても、まず人間たちがどれだけいるかは、またそれをできるだけ多くすることは重要であり、生きている、健康な、平和な人間が豊富にいなければ、正義を行うことも、戦争を行うことも、財政状態を向上させることもできないから、人間が多ければそれだけ、国家・君主は力あるものになり、また内省の第二の対象は生活必需品であって、人間たちがいるだけでは充分ではなく、さらにその人間たちが生きられなければならず、内政はこの直接的な必要物に携わることになり、人民のために食糧・衣服・住居・暖房を手にいれるという内政の目標は、農業政策を含意していて、租税負担や民兵の規模を縮小することで、田園地帯の人民を増やし、農耕地でない土地を農耕地にし、これはまた物品の商品化や流通、食糧難に備えて備蓄などの正確な制御をも含意していて、そのためには食糧・物品の商品化が監視されることになり、さらに内政の第三の目標として、健康という問題があり、多くの人間たちが、提供される食糧や必需品によって生き延びて、労働し活動し、仕事ができるようにしなければならず、そのためには疾病一般を見張らなければならないから、それが都市空間の中での公衆衛生対策にも結びつき、健康に次ぐ、内政の第四の対象は、多くの人間たちが生きていくことができ、しかも健康だとすると、次はその人間たちの活動を見張ることであり、その人間たちが何もしないでいることがないようにするということであり、労働できる者を全て労働に就かせるということになり、そして内政の最後の対象は、人間たちの活動から生じてくる商品・生産物の流通であり、流通はまずは、そこにもたらすべき物質的な道具という意味で了解する必要があり、街道の状態や発達の程度、河川や運河などの航行可能性に携わり、またその物流空間においては、商品や人間たちの流通を見張って、そこで統制を行なって、人間の浮浪を抑止しながら、他方では商品がこれこれの方面に流通するのを促進したり、熟練工が自分の労働の現場から離れるのを妨害したりして、そうやって内政が引き受けるのは社会という広大な領域になるわけで、つまり、内政は人間たちが生きること、しかも多数で生きることを確保して、人間たちが生きるための食糧を手にしている、つまりあまり死なないだけのもの、大量に死ぬことがないだけのものを手にしている状態を確保しなければならず、そして同時にまた、人間たちの活動において単純な生存以上のもの全てが事実うまく行き、生産され配分されて、それによって国家がそこから力を実際に引き出すことができるようになるという状態も確保しなければならないそうだが、内政とは、人間が生きること、ただ生きるというより少しマシに生きることや、多くの人間が共存することが、国力の構成・増強にとって実際に有用となることを確保する様々な介入・手段からなる総体のことだそうだが、そんな内容を読んで、なるほど高市やトランプは国家の臣民なのかとちょっと思ったが、また日本の右翼は天皇の臣民になることを願っているのかどうかは定かでないが、それも実質的には国家の臣民になることを願っているのに、それに気づかないだけなのではないのかと考えてしまったわけで、それも無理なこじつけになってしまうのかも知れない。


1月5日「用意周到な準備」

 ちょっとした気の迷いなんだろうが、彼らの困惑の色を隠せない顔に、どんな禍々しい影が映り込んでいるようにも見えないが、懸命に自らの思想信条からはみ出ないように堪えている姿について、単なるやらかしへの反応としてはそうならざるを得ないと考えてみても、それが単なるやらかしではなく、もっと深刻で重大な何かだと受け止めざるを得ない態度を保ちたいのだから、そうならざるを得ないだろうが、そんなふうに〜ざるを得ないという表現の連発が、何か嘘をついている証拠なのかも知れず、わざと真意をねじ曲げてでも訴えかけたいことでもあるのかどうかも、言論ではなく実践を伴う成り行きにはなるだろうが、言論を行使することも実践には違いないのだが、今はまだそれを明らかにする時期ではないのかも知れないし、時期も何も、そんな段階でもなく、今がまさにそれをやっている最中なのだろうから、それが理性の狡知なのか自然の狡知なのか神の狡知なのかは、他にも色々と含みがありそうだが、そういう力が働いているとしか思えないようなことなのかも知れず、人が苦し紛れに頼ろうとする合理的な理屈を凌駕する理不尽な力が働いている最中なのだから、信じられる理屈が通用しない現状の中で、どう振る舞ってみても過ちを犯してしまうのかも知れないが、それが過ちなのか誤りなのかは、振る舞ってみた結果から判断したところで、やはりそれも判断ミスだと受け取られかねないから、そんな判断ミスが瓢箪から駒のような結果に結びつくことを期待するしかないのかも知れないが、そんなのは無理に決まっていると事前にあきらめてしまっても構わないのかも知れず、実際にあきらめたふりを装いながらも、一縷の望みに何を託しているのかも、そんなわずかな希望ですらも勘違いな幻想に囚われているに過ぎないとしたら、果たしてこれが絶望的な状況なのかというと、そうではないからこそ、こうして余裕綽々の態度で見え透いた嘘を毎度のことのようについていると受け止めてしまうのだが、それが自分の態度ではないとすれば、わかる人にはわかるようなわけ知り顔の態度にもなれないとしたら、ごく平凡な平常心を装う程度で済ませられると軽く考えているなら、それを心がけておくだけも気休めにはなりそうで、今さら一年の抱負もないだろうから、新年早々ちょっとしたサプライズがあったものの、その程度ことは事前に予想されていたことなんだと強弁してみせるのも、俺がそれを他の誰よりも早く予想していたじゃないかと強がってみせたところで、ユーチューブでそんなことをやってみせたところで、お仕事ご苦労さんとねぎらいのひと言でもかけてほしいのかと穿った見方しかできないが、今年もその程度の態度を保ちたいと思っているわけでもないのに、自然とそんな態度で身構えてしまうのだから、何のことはなく、何かに踊らされている最中であることを意識せざるを得ないのだが、だから事前に用意周到な戦略や作戦を練っているように見せかけながらも、あたかも自然に押し出されるようにしてやってしまうことが、結果的にどんなにひどい惨状になろうと、それで構わないとは思えないしても、否応なくそうなってしまうのだから、やってしまった当事者にはそれが間違っているとは思えないし、いったんそういう策略的なやり方に手を染めてしまうと、普通に考えて後戻りができなくなってしまうだろうから、そうなる前の段階で起こったことに素直に反応して自然に対応するようなやり方が身についていれば、それで構わないようなことになってしまいそうで、果たしてそんな自然な対応ができるような状況なのかどうかも、現状ではそんなことをやっているつもりにはなれるのだが、本当にやっているかどうかもよくわからないが、実際にそうなっているならそれに越したことはなく、なっていなくても構わないようなら、どちらでも構わないとその場の都合に合わせて思っておくぐらいが無難な態度になるだろうが、そうやって自分の都合が許す範囲内でやっていることが収まるなら、うまくやっていることになりそうで、そんなやり方で構わないようなことになってしまいそうだが、組織的な連携動作もそういうことの延長上で、個人の意向など無視しているわけでもないだろうが、それに関わっっている限りで、部分的な意思疎通の中だけで意識されるのとは違うことが実際には行われているわけで、それに関わっている各々の意識が完全には把握できなくても構わないとは思えないが、実際にそれを把握できないわけだから、把握できないことまで知ろうとすることに、どんな意義や価値を見出せるわけでもなければ、無駄で余計な詮索になってしまうだろうが、それも自身の利害関心とは別に知りたいことがあるなら、単に興味深いから惹かれるのかも知れないし、そんな興味の対象が何なのかというと、この世界の中で何をやるにも絶えず法律や制度との兼ね合いの中でやることになるから、やっていることの都合が許す限りで場合によってはそれらに対する侵犯行為が行われて、そんな許されない行為のどこまでが結果的にはうやむやにされながらも、うまく切り抜けられるなら、やったもん勝ちなことにもなりかねないから、それを許すまじと多くの人々が思うだろうが、実際にやったもん勝ちにされてしまうと、何らかの権力や権限を利用してそれが行われるとしても、場合によってはそれが実力行使でやられることの一部始終になるのだろうから、それを止めようがなく、止められないから、後からそれを言語によって評価したがるわけで、すでにそれが行われた結果を否定的に捉えて、やってはならないことが行われたと批判したり非難するわけだろうが、それが後の祭りに過ぎないなら、やはりやったもん勝ちを目指していることになるわけで、それに対して用意周到な準備を怠らずに万全な備えで応じようとしているのだから、それが行われた後からそんなことを言いわけ作りと共に行なっていると受け取られて、肝心の実力行使にやっていることが追いついていないことになるだろうが、そうやって絶えず後出しじゃんけんが空回りし続けながらも、結果的には自分たちの体裁を保っているように見せかけようとしているわけだから、完全に後手に回っていることになるだろうが、そういう情勢を作り出すことに腐心している態度が、果たしてそれを用意周到な準備だとは言わないだろうが、それ以前に直接には関わっていないわけだから、対応が後手に回ってしまうのも当然だろうから、それが部外者にとっての精一杯の対応だと言えそうで、そんな部外者などに何を言ってみても意味がなく、単なるその場にお呼びでないがらくた人間がユーチューブを見ているに過ぎないだろうが、それを見て笑っている自分が情けなくなるわけでもなく、それを笑うために見ているとも思えないのだが、そこから何を探し出そうとしているのか、動画のどこに秘密が埋もれているのか、それを探しているわけでもないのだが、見つけ出そうとしているとも思えない何かが、そこにはないこともわかっていて、そこにはないが別のどこかにもないなら、それを見る必要もないわけではなく、必要に迫られて見ているわけでもなければ、必要もないのにそれを見ながら別のことを考えているとも思えないが、それも実際にはそう考えているのだから、そう考えている限りで、有効活用ができていると考えているのかも知れないし、そうなると必要か不要かというよりは、すでにそこに探しているものがあるのに、それを見ないようにしているとしか考えられず、それを見ないようにするために、わざと意識してユーチューブを見ようとしているとも思えないが、見るというか観ながらそれをやり過ごすことに意義があるのかも知れず、わざとではなく必要に迫られてもいないなら、素直な態度で自然な成り行きとしてやり過ごせるように、そのためにも事前に用意周到な準備を怠らないことが肝心だと思っているのかも知れないが、その辺もうまく活用できれば、今後も後出しじゃんけん的なずるい態度で世の中で起こっている物事に臨むしかなさそうだ。


1月4日「ベネズエラの石油利権」

 取り立てて何がどうなったわけでもないのだが、ベネズエラは世界最大の石油埋蔵量があると言われるが、石油の質が悪く、精製には手間とコストがかかるそうで、左翼独裁政権の大統領がアメリカから奇襲攻撃を受けて拘束されて、今後親米政権が誕生するのかも知れないが、これでトランプ政権がベネズエラの石油利権を手に入れたことになるとしても、隣国のガイアナの石油の方が質が良くて低コストで精製できるそうで、そちらはアメリカのエクソンモービルが開発しているそうだから、アメリカとしてはこれで南米の石油を押さえたことになるのかどうか、その隣のスリナムでも石油開発が進んでいて、さらにはフランス領ギアナでも石油資源が確認されているらしいから、あの地域では今後石油が増産されるようだが、そういう経済的な論理でアメリカが事を進める一方で、相変わらず日本では日本共産党が、勝手に他国を侵略したとしてトランプ政権に対する批難声明でも出しているらしいが、そういう論理からすれば、これで中国が台湾への武力侵攻がやりやすくなったと言えるかどうかも、中国政府の論理では台湾は元から中国の領土で、他国への武力侵攻とは言えないから、それとこれとは違うのかどうかも何とも言えないところだが、そんな世界情勢にそれほど興味や関心があるわけでもなく、不意を突かれて少し驚きはしたが、少し前からベネズエラの周辺で麻薬密輸船に攻撃を加えたと発表していたのだから、その兆しは窺えて、そうなってからは、なるほどと納得したような気がしただけで、だから取り立てて何がどうなったとも思えないのだが、国際法がどうたらこうたらではなく、アメリカの利益になるかどうかという論理が優先されるのだろうから、それをどう正当化できるわけでも合理化できるわけでもなく、ただの国益優先主義だと考えるしかないだろうが、そんな国際法を無視した軍事行動に対して反動や反発のような反応が返ってくるかも知れないが、それがどんな反応になるかなんて現時点では予想しようがないが、考えるとっかかりがつかめないというか、思考の糸口が見つからないのとはわけが違うようで、共和党のブッシュ政権が当時のパナマに軍事侵攻して独裁者のノリエガ将軍を拘束したことが先例となって、今回のベネズエラの大統領の拘束についてもそれと似たようなことをやっただけかも知れないものの、だからと言ってそれの何がヤバいとかではなく、何かが違っていて、何かそれがビジネスの一環でやっているようにも感じられて、愛国ビジネスかもよくわからないが、トランプとしては一応政治的な主義主張とは違う方面からビジネスライクなことをやっているような印象を受けるのだが、少なくとも思想信条的な使命感に燃えた大げさな大義ではないのだから、そういうところが中国の習近平だとかロシアのプーチンだとかとはやっていることの重みが違い、トランプの方が軽く作業をこなしている感じなのだが、それで良いのか悪いのかというよりは、正義の度合いが低いから、軽いノリでやってしまえるようなことかも知れないところが、逆説的にはヤバいのかも知れないが、それをヤバいとは感じられないのだから、ヤバいのではなく軽いのであって、ビジネスライクな軽さなのかも知れないし、それに対して日本で勝手に批判や非難の行為に及ぶ奴らがどうなのかというと、相変わらずの古風なイデオロギー込みの正義漢ふうな物言いに終始するしかないのかも知れないから、それではビジネスライクなトランプの軽さには太刀打ちできそうもなく、何だか議論が噛み合わないまま平行線に終始するような予感がしてくるが、それで構わないようなことだろうから、やはり何がどうなるわけでもなく、日本で批判や非難に及んでいる奴らもトランプも勝手に我が道を行く程度の成り行きなのではないかと踏んでいるのだが、そう現状を捉えるとやはり時代がそれだけ先に進んだような気もしてきて、仕事のやり方にしても、執拗な粘着質の情念や憎しみや恨みつらみなんかを伴わずに軽くビジネスライクに済ませようとしているように見えてしまい、かえってそちらの方が見方によってはヤバそうに感じられるかも知れないが、それに伴ってユーチューブに出てくる左翼系の老人たちも時代の急速な進捗から置いて行かれているようにも見えてしまうのだが、別にそれでも構わないのかも知れないし、そんなことを平気でやっているトランプの身にも、やがて何らかの報いとなる災禍が降りかかってくるようにも感じられるし、そうなることを願っている者も世界中に大勢いるような気もするが、なぜか結局そうはならないとしたら、他にもプーチンやネタニヤフやエルドアンやハメネイなんかもいるし、トランプより先に、まずはそいつらの方に災禍が降りかかってくるだろうから、トランプは逃げ切れるんじゃないかと無責任に予想したくなってくるのだが、そういう意味ではトランプの取り柄が、いつの間にか存在の耐えられない軽さを身につけたことが功を奏しているのかも知れず、もちろんそれが原題の小説や映画とは何の関係もない軽さなのだが、彼らの共通点としては、新自由主義とグローバリズムに逆らっているふりを装う限りで命脈が保たれるというか、もちろん実態としてはそれなしではあり得ないのだが、それに全面的に従ってしまうと、そこからもたらされる不具合や欠陥の責任を取らされるから、政治的なポーズとしては、それに逆らっているふりをしておかないと、右派保守系勢力や政府の官僚機構からも見放されてしまうから、そういうところでうまく立ち回る必要がありそうだが、もちろんそれに対して左派リベラル勢力の方でも新自由主義やグローバリズムを批判し続けてきたわけだから、どちらにしても欺瞞や偽善の徒であるのを免れないわけだが、そんな胡散臭い態度や姿勢を民衆の方でもどう受け止めれば良いのかが、今ひとつ定まった基準や論理や価値観が形成されていない現状がありそうで、それに対してトランプの場合はひたすら功利的な振る舞いに終始することによって、軽くそれらの主義主張をあしらっているようにも見えるし、自らを軽薄に見せかけることによって、それを批判勢力がつけ入る隙だと誤って判断して攻撃してしまうから、うまく彼らをあしらうことにも成功していると言えるかどうかも、勝手にそう見えてしまうだけなのかも知れないが、機会を捉えてこれ見よがしに大げさな大義を言い放つようなパフォーマンスもやってみせることは確かだが、それを誰も真に受けないのかどうかも、誰もそれを真に受けていないように見えてしまうのだが、だから軽く振る舞うことに成功していると考えられるが、それに対してオバマやバイデンなんかは本気で理想の大統領像を演じているようにも見えてしまったから、実質的なことは何もできないままに終わってしまった悲劇の主人公のような印象を受けるのだが、それに対してトランプは始めから自身の役割が間抜けな道化で軽薄な裸の王様でも構わないことを心得ているというか、割り切っているというか、それを自覚しないでその種の理性の徒から批判や非難の的となることを受け入れているから、逆にそんな制約を取り払って振る舞えるわけだろうが、果たしてそれによって無敵になったと言えるのかどうかも、実際にヨーロッパのリベラル系の首相や大統領にはできないことを強引にやっている最中なのだが、それも彼らとは立場や条件が違うからそうなってしまうのだろうが、それが思想信条的な主義主張ではなく、あくまでも効果的な振る舞いであり、計算や機能を伴った功利性であるから、利益の最大化を実現しようとする戦略的な行動や言動であるところが、思考している次元が違うわけだが、自国を利するのに都合の良い国内秩序や国際秩序を維持しつつも、国力を最大限に増強したいわけだから、そうするにあたって利害関心とは関係のない思想信条とか主義主張なんかにかまっている暇はなく、絶えず意表を突いて先手を打って、交渉相手や戦っている相手が体制を立て直す暇を与えないように振る舞わなければならないと考えるより前に、そんなビジネスライクな割り切り方が自然に身についていると解釈したくなるのだが、それでは少々トランプを買い被り過ぎな印象も受けるが、ちょっと間抜けで馬鹿なところも見せておかないと、相手が油断してくれないのではないか。


1月3日「現実を変える力」

 世の中には、金の力で現実を変えようとする者たちと、言葉の力によって現実を変えようとする者たちと、他にも直接の暴力とか、政治的な権力とか、他にもいろいろな力を使って現実を変えようとする者たちがいるだろうが、それらの力を効果的に組み合わせて多くの人や勢力が現状でも何か仕掛けているようで、そんな方面からの圧力を意識せざるを得ないが、それに対して何をどう考えているのかというと、すでにそんなふうにわざと物事を単純化して捉えているのだから、それに対してどう答えればいいのかわからないようなことを問われているわけでもないだろうが、言葉に関してそれを比喩的に表現するなら、人の意識に言葉が感染していると言えるようなことかも知れないし、言葉の感染力を利用して、現実に起こっていることを言葉を使って押さえ込んだりねじ曲げようとしていると言えそうだが、誰がそんなことをやっているのかというと、そこに自分も含まれているのかも知れないし、他にも色々と厄介な者たちがいることは、SNSや他のメディアの動向などからは窺えそうだが、政府や政権に批判的な奴らも含めて、言葉を使う奴らが信用できないのはいつもそう思うところだが、信用できなくても信頼しているというと、もちろんそれもいつもの嘘に含まれるだろうが、それでもやってはいけないことの一線を越えて言葉の力を信じ過ぎてしまうと、N国の立花氏のようにいつも元気に張り切って活動することになるから、結局は嘘やデマの虜となってしまいそうだが、一線を越えてから後戻りが利かなくなることも承知の上でそんな行為に及ぶのだから、ある意味で覚悟ができていると言えそうで、権力による後ろ盾がないとそれに起因する事件が起こった後から容赦のない攻撃にさらされることになり、実際に今も攻撃にさらされている最中だと言えそうで、しかもそんなふうに正義の逆側から述べてしまうことも、何か間違っているような気がしてしまうわけで、その違和感に気づかないと、言葉の正しい使い方に関して、それが現実を変えるために使うのではなく、現実を表現するために使われていることも、何となくそうではないような気がしてくるわけで、そういう意味では立花氏を攻撃する者たちよりも、立花氏を信用したくなってしまうのだが、もちろんそれが詐欺師やペテン師の類いを信用してしまうことと同義なのかも知れないが、加えてヒトラーやムッソリーニなんかも信用したくなってしまうとしたら、トランプやプーチンやネタニヤフやエルドアンなども信用したくなってしまうのだが、彼らを一緒くたにするのも間違っていそうだが、それでも無理に同一視したくなるのだから、彼らがつかんでいると思い込んでいる現実というのが、それが何であれ、力の行使の有効性を信じることにつながるのではないかと考えてしまうわけだが、その一方で理性的な態度を取ることによって言葉の力を疑ってしまうとしても、自信のないことの表れとなりそうだが、自らの力を信じられなくなると共に、自らが繰り出す言葉の力も信じられなくなるとしたら、そんなものを頑なに信じるには及ばないし、信じるとか信じないとかではなく、それを利用して現状の中で機能しなければならず、その機能が何なのかと考えてみたところで、それがわかった後から何がどうなるとも思えないが、力を加えても何ももたらされなければ、力が幻想に過ぎなかったことを実感できるわけでもなく、力が足りなかったからとか、他から邪魔をされているとか、考えようによっては何とでも解釈が可能だと思っているわけでもないが、それも物理的に加えられる現実の力の比喩として言語に力が宿っているような気がするわけで、実際に発せられる言葉によって人や物や情報が動けば、言葉に力が宿っていることを信じたくなってしまうだろうが、その延長上で立花氏から発せられた言葉によって、その標的となった数人の人物が死んだのだから、立花氏の言葉には人を殺すだけの力があったことが証明されたような気がするはずだが、それも考えようによっては言葉を使うことによって人を殺せるだけの力を持っている立花氏はすごいと言えるだろうから、信者もその力を信じてついてくるかも知れないし、もちろん立花氏が数人であるのに対して、ヒトラーやポルポトであれば数百万人になって、さらにはスターリンや毛沢東であれば数千万人に上るのだから、その圧倒的な規模感に天と地ほどの差がありそうだが、彼らと立花氏の違いが何なのかといえば、政治的な権力の差になるだろうが、立花氏が徒手空拳でそこまでやれたのには、あっぱれな気もしないではないにしても、というか日本社会の中に立花氏の居場所を提供したのは、他でもないNHKの貢献度が大きいだろうし、放送法という法律に守られたNHKの存在が、ある意味で理不尽に思われる受信料を徴収する制度が、立花氏に活躍の場を与えたことに対して、政府や政権に批判的な者たちが明確な見解を示さないことも、何となく欺瞞や偽善を感じさせる限りで、それが日本社会に巣食う闇だと言えそうだが、だから日本社会を変えるには放送法を改正してNHKを単なる民間の有料放送業者にする必要があるかどうかも、果たして現状の政治勢力やメディア勢力にそんなことをやれる力があるかどうかも、どうも現時点ではないような気がするわけで、NHKの社会への影響力が諸悪の根源だと言いたいわけではないが、立花氏を単体で、他との結びつきから切り離して攻撃しているわけでもないのだろうが、自分がNHKの受信料の支払いを拒否する口実を見つけたのが、かなり昔の元号が昭和から平成へと移り変わる前後で、天皇の病状を延々と報道したり、自粛ムードを煽ったり、また亡くなってからは、それも延々とそれを報道し続けたと記憶しているが、その後引越しを機にテレビを捨ててしまって、これで受信料など支払わなくても構わないだろうと勝ち誇ったわけでもないが、そういうところから一時的には反体制派気取りにはなれたのだが、そこから数十年が経過してみると、今やテレビなど見ないのが当たり前の世の中になりつつある中で、NHKが悪知恵を働かせたわけでもないだろうが、今度はネットに接続できれば受信料を徴収できるとか無茶な論理を通用させようとしていると噂されているみたいで、本当にそんな無茶を実現できるかどうかも、そんなことが実現したら自分がどうなるかも、その時になってみなければよくわからないが、そうはならないことを祈るばかりというわけでもなく、それほど深刻に受け止めているわけでもないが、そんな理不尽なことがまさか実現するわけもないと今のところは楽観視しているわけだが、NHKに対する抵抗運動なんかを残りの人生を捧げてやらなければならないとかいうのも、そんな光景を思い浮かべてみるとゾッとするが、NHKから訴訟を起こされて裁判所に出向いて、何か証言しなければならないようなことが、自分の身に起こるなんて、現状では考えられないが、今もNHKの受信料の徴収人と玄関先で何度も口論となったのが思い出されて、他にも執拗に尋ねてくる新聞の勧誘員とも何度も口論となったり、人として未熟な若い頃の自分の態度に問題があることは、今から振り返れば痛いほどわかるのだが、そういう若気の至りの経験から、マスコミをマスゴミと揶揄するような風潮には、若い頃の自分なら嬉々として賛同するだろうから、今時の若者が高市政権を圧倒的に支持しているのもわかるような気がするわけで、そういう面では高市政権に批判的なジャーナリストの類いには不利な世の中になっているのだろうが、もちろんNHKも高市政権側の勢力に入るだろうから、その辺が微妙に昔からそうなっている方面でも理不尽な気もしないではないが、今では政権に批判的なジャーナリストの類いも政権に迎合的なメディア全般も、それら全てが相互補完的な関係だと勝手に解釈したくなるのだから、そういうところでもご都合主義的で身勝手な偏見や錯覚や間違った固定観念に自分が囚われていても構わないような気がするとしても、別にそれがどうしたわけでもないと思いたいわけだ。


1月2日「国家の捉え方」

 今もこうして語っている内容が、語りの対象となっている物事の全体を語っているわけでもなく、絶えずその中から部分的に語るのに都合の良い要素や要因を選んで語っているに過ぎないとしても、それについて語るとはそういうことだから、その何かが何なのかというと、政治や経済や社会や他の何らかの分野を構成する何かになるしかなく、それについて語るとはそういうことでしかないという否定的な語り方ではまずいと思うなら、では他にどう語れば納得できるわけでもなく、それについて語っていると思い込んでいても、自分でも気づかないうちにそれとは違う何かについても語っていることになるかも知れないから、語る対象をこれだと特定できないジレンマに陥るかも知れないが、語っていること自体も、語るのではなく書き記しているようにも思えないし、ただキーボードを叩いているに過ぎないと言える程度のことであるから、語ることと書き記すこととキーボードを叩くことの間に生じている差異を無視できるかというと、そんな枝葉末節な方面へと興味や関心が向かって行くのを別の方面へと強引にねじ曲げて語るなら、最近まで混同していた言葉の差異を知る機会が巡ってきて、それが対立と競合の違いだと言えるかどうかも、トランプが前任者のバイデンとの違いを意識しているかどうかも一概には言えないものの、トランプにとってそれが米中対立ではなく米中競合なんだと言いたいような傾向をその言動から感じられることとして、帝国主義的な侵略形態の相似性を意識できるなら、ロシアがウクライナへと軍事侵攻したのに対して、同じように中国が台湾へと軍事侵攻するかどうかも、またトランプ政権のアメリカが最近ベネズエラへと軍事的な圧力をかけている事態を、それぞれの差異を無視して、それを一律に帝国主義的な侵略だと見なすのもちょっと乱暴すぎるような気もしないではないが、その辺のところがそれに関する語り方から生じてくるごまかしやまやかしの類いだと感じられるのだが、ではそれをどう捉えれば納得できるのかどうかも、そちらへと関心が向かないし、それを語る者の都合の良いように事態を捉えるしかないようにも思われる限りで、それはそういうことだと受け止めておいて、それとは違う方面からそれを説明したいなら、かつてのイタリア国内でのフィレンツェやベネチアなどの小国同士の競合関係を、三十年戦争後の欧州内では、イギリス、オーストリア、フランス、スペインなどの間で当時の大国同士の競合関係に置き換えてみれば、そこでヨーロッパのパワーバランスという力の均衡状態が意識されて、そして現代ではそれを、アメリカ、中国、EU、インド、ロシアなどの間で世界の大国同士の競合関係に置き換えてみれば、そこで世界のパワーバランスという力の均衡状態が意識されるかも知れないが、何かそれが胡散臭い相似性から連想される過去の繰り返しのように単純化しては考えられない程度には、過去から現在に至るまでの歴史的な経緯と各時代における特有な事情も考慮に入れるなら、そんな相似性を持ち出したところで、何の説得力も得られないとは思われるのだが、その一方で、少なくとも現状では、ロシアが国力の増強に失敗しつつある最中なのは、そういう方面に関心を持っている多くの人々が認めるところだろうが、そして中国も台湾に武力侵攻するなら、建前としての大義名分は違うとしても、実質的な目的としては国力を増強したいから台湾を手に入れたいわけだろうから、逆にそれによって世界各国からの経済制裁などによって国力の増強に失敗してしまうなら、ロシアの二の舞となりかねないだろうが、とりあえず現状ではそこまで事態が進行していないから、台湾周辺で大規模な軍事演習などを行なっているにしても、それが国内の不動産バブル崩壊などから生じている経済的な苦境から民衆の関心を逸らすという政治的な意図や思惑があるのかどうかも、その程度のことだとは到底思えないだろうが、国家の指導者的な役職を担っている者たちや政府の官僚機構の構成員などが、何をどう考えて自分たちの組織的な活動目的を合理的に導き出しても、複数の国が世界の中で競合している限りで、フーコーが言うような国家理性が発動して、国政に関わる政治家や官僚たちが国力増強の論理に囚われてしまうのも、競合関係からもたらされる自然な成り行きには違いないわけで、それに関して、単純に国家とは何かと考えてみても、国家とはいわば、フーコー風に難しく言えば、知解可能性の原則にして戦略的な図式であり、統治的理性の調整的理念のことであって、国家とは、すでに所与のものになっているいくつかの要素・制度をそれらに固有の本性・結びつき・関係において思考するしかじかのやり方のことだとすれば、主権者とは何か?行政官とは何か?官憲とは何か?法とは何か?領土とは何か?その領土に住んでいる住民とは何か?このようなことが国家の要素として知覚されるが、国家とはすでに所与のものとなっているそれらの要素や本性や関係を構想・分析・定義するしかじかのことであり、国家とはすでに打ち立てられている諸制度からなる一大総体に関する知解可能性の一つの図式のことだと説明されても、普通の一般人にはちんぷんかんぷんだろうが、そこから王や大統領や首相などが特有の役割を持つ人物として定義されていることに人は気づくそうで、その役割は神に対する役割や人間たちの救済に対する役割というよりは、行政官僚や判事などといった国家に対する役割であり、つまり国家は、所与のものとなっている現実の知解可能性の原則であり、すでに打ち立てられている制度的総体の知解可能性の原則であって、そして国家はこの政治的理性において一つの目標として機能して、つまりそれは、能動的介入の終局に獲得されるべきものとして機能するわけで、国家とは、統治術の合理化という操作の果てにあるべきものであり、国家理性の介入によって獲得されるべきは国家の完全性・完了・強化であり、また国家が危険にさらされたり、何らかの革命によって国家が転覆されたり、一時的に国家に特有な力・効果が停止された場合には国家の再建が目標となるが、現実にうまく国家を存在させるためにでなければ、国家といったものを理解することはできず、国家を合理的に存在させるための知解可能性の原則にして戦略的な目標こそが、国家理性と呼ばれていた統治的理性を枠づけるものだそうだが、だからトランプや習近平やプーチンなんかも、国家理性に操られながら、自分たちが経営している国家を絶えず強化して完全な国家にしなければならないという使命に従わされているわけだろうが、だからトランプにとってのアメリカが完全な国家になるにはカナダやグリーンランドが必要だろうし、習近平にとっては台湾が必要となり、プーチンにとってはウクライナの占領地域がロシアのものとなる必要がありそうだが、つまり国家とは本質的にまずもって、政治と呼ばれるあの思考・考察・計算・介入の形式に関する調整的な理念のことなのであって、それはマテーシスとしての政治、統治術の合理的形式としての政治であり、統治的理性は現実を読解するにあたっての原則として立て、目標として、命令として国家を立てるのであって、国家とは、統治的理性に命令を下し、様々な必要性に応じて合理的に統治できるように計らうもののことで、それは現実的なものに対して国家が持つ知解可能性の機能で、統治するということはこの機能によってこそ合理的に統治するということであり、国家を統治する役割を担っていると自覚している者たちには、国家理性によって、絶えず国家を維持し増強するように命令が下されているのだろうが、それが歴史的経緯からは、国家の誕生、増強、完成、衰退という誰もが知っているサイクルが待ち受けているわけで、どうもこのサイクルのことを革命と呼ぶらしく、そこで国家理性を介して命令されている内容としては、革命を回避して国家を完成された恒常状態に維持しろということらしい。


1月1日「ポピュリズム的な展望」

 最近は何に依存しているのかと言えば、他はそれほどでもないのだが、何かを文章にして語る面ではAIに依存しているらしく、AIが出力してくるもっともらしい回答にわざと反論しているように装いながらも、それでしてやったりな気分になれるわけでもなく、不十分なことを述べているような気がして、それでもポピュリズム的な主張よって一過性の人気を得ることに成功した政治家のような宣伝文句に動じるわけでもなく、どうしても無難なところでごく当たり前の常識的な意見に逆らうようなことを述べようとして、結局はそれに失敗しているような気がするのだが、それもいつものように、だから何だという開き直りの笑いが発動するわけでもなく、批判的な意見としては若者たちを騙しているポピュリストの政治家やメディア関係者などが述べていることを真に受けるわけでも、その種の者たちが若者たちに試練を課していると思っているわけでもないから、そんな若者たちを巻き込んでポピュリズム勢力に退潮の兆しが忍び寄っているとも思えない限りで、今後もそんな傾向が執拗に続いて行きそうな気配を感じているし、それで構わないような時代状況なのかも知れないと感じられる限りで、かなり勘違いな思い込みに凝り固まっているとも思えないし、それが見せかけの傾向である限りは、物事の本質がそこにあるとも思えないわけで、では本質がどこにあるのかと言えば、それが世界の経済的な成り行きの中にあるとも思えないなら、自然現象の中に物事の本質があると思うしかないのかも知れず、ではそんな自然現象が具体的に何なのかというと、それが人工的な現象だとも人為的な世論誘導だとも思えないから、日頃の人の生活から実感としてそれがもたらされていて、そんな生活から生じてくる不満をどこにぶつけるかという成り行きになれば、それを政治やメディアが利用しようとして、安易な攻撃の対象を一般大衆の前に提示して、こいつらをSNSで攻撃しろとそそのかしているわけでもないが、しかもそこまでは想定の範囲内なのだから、誰かがそれをやってしまうと、他の誰かから馬鹿なんじゃないかと笑われるわけでもなく、どこの誰がそれを笑っているわけでもないから、大半の人はそんな間抜けな犯人探しに対して見て見ぬふりを装っているに過ぎないだろうが、だから現状で批判や非難や攻撃の対象として誰がいて、どんな勢力が対象になっているとしても、意識を物事の本質から逸らすには、必要不可欠な囮の役目を担っていそうなのだが、しかしそうやって人々の目を物事の本質から逸らそうとする意図や思惑の持ち主が何を狙っているのかもよくわからないわけで、それに関してよく言われるような、一方に右派保守勢力がいて、もう一方に左派リベラル勢力がいて、両方の勢力の中にもポピュリズム勢力が混在しているような相関図を頭の中に思い浮かべても、どうもそれが見せかけの構図であって、そんな構図を信じてしまってはまずいような気がしてしまい、その見せかけの構図というのが、一見すると自然で偶然のように見える物事の配置が、実は非常に緻密に計算された見せかけの構図というわけではなく、それが比喩的な表現として、物事の表面的な体裁や、人間関係や組織や団体の力関係や対立関係で、現状の世論調査で判明している表向きの勢力バランスなどを真に受けてしまうと、それが錯覚となってしまうのかも知れず、実は裏では全く異なる意図や力関係が成り立っていて、見せかけとしては明確な対立や敵対関係が装われているとしても、それこそが密かな連携関係の徴しであったり、それに関して最もわかりやすいのが、米中ロの対立関係になるだろうし、対立しつつも帝国主義的な観点からすれば、紛れもない連携関係や連帯関係なのだから、対立自体が見せかけの対立だと言えそうで、実際には支え合っているように見えるなら、米中ロの3カ国はEUと対立していると言えそうで、しかも対立しているとは完全には言えないわけだから、そんなのは間違った解釈に違いないのだが、それが国家の統治形態というレベルで見るなら、明らかに米中ロは国家統治の段階なのに、EUは国家統治の段階から一歩先を行っていて、しかもそれが世界の各方面から統治の限界を指摘されるわけだから、何とかしてEUを解体させたいという思惑も働いているのだろうが、そうなると物事の本質が政治や経済の問題から少し外れて、国家統治の問題へと移ってくるだろうが、もちろん統治の限界を露呈しているのが政治や経済の方面なのだから、それが同時に政治や経済の問題でもあるわけだが、ではEUがどんな問題に直面しているのかといっても、それも表面的には加盟国の多様性に伴う政策決定の難しさや、加盟各国の国内政策の自由度の制約や、経済格差や移民問題への対応の遅れや、民主主義の赤字といった点に集約されるそうで、加盟国がEUの法律や規制に従う必要があり、特に経済や移民政策において、各国の事情を十分に考慮しない一律の方針が国民の反発を招いて、また加盟各国で経済発展の段階や歴史的背景が異なるから、内部対立が生じやすく、全会一致が求められる分野などでの迅速な意思決定が困難になっていて、各国で守るべき財政規律に関しても、EU域内で経済格差が大きいから、ユーロ圏内における財政規律を遵守できない国が出てきてしまい、それが加盟国間の対立を深める要因ともなっていて、さらに国境管理という加盟国の主権に関わるセンシティブな問題が、共通の政策を行う上で、例えば難民の分担受け入れ案などを巡る意見の対立が、EUのガバナンスの課題として顕在化していて、そういう様々な問題に伴って、EUが強力な権限を持つ一方で、市民の民意がEUの官僚機構に邪魔されて、政策決定過程に十分に反映されず、それが欧州議会の権限が弱いことを示す問題で、市民参加の不足や意思決定の不透明性やEU市民としての意識の低さなどが、民主主義の赤字と言われる主な原因とされる一方で、それに対して最近は欧州議会の立法権限や役割を強化する動きが進められて、移民や難民の問題、環境問題、コロナ禍、ウクライナ戦争などを通じて、幅広い課題への関心が高まり、ポピュリスト政党の台頭も相まって、欧州議会選挙の投票率が上昇傾向にあり、それによってEU市民としての意識が強まり、心理的距離も縮まる傾向が見られて、民主主義の赤字は多少なりとも改善に向かっているそうだが、それに対して米中ロの側は、今や完全に中央集権的な国家資本主義体制の強化を推し進めていて、それがかつてのプロイセン=ドイツ帝国の再来だと言えるかどうかも、仮にそう見えるとしても、それ自体も見せかけの体制かも知れないが、数十年前はソ連の解体と共に、グローバリゼーションや新自由主義がいったんは勝利したかに見えたのだが、結局はそれが国家資本主義的な米中ロと社会民主主義的なEUに帰結したわけだから、かえって資本=ネーション=ステート状態が相互補完的な装置として強化されたわけで、資本主義市場経済を放置すれば、必ず経済格差と対立に帰結して、そこでネーションが共同性と平等性の幻想を伴って、資本制経済がもたらす格差や諸矛盾を解決するように要求すると、国家が課税と再分配と諸規制によってそれを果たそうとすれば、左翼リベラル的な無理難題に直面するわけで、柄谷行人によれば、それが歴史の終わりとしての永遠の資本=ネーション=国家の体制だそうで、それが産業の技術革新であるAI革命によって打破されるかどうかも、今後数年でわかってくるのかこないのか、その辺にも関心があるが、たぶんそんな問題よりも、他に新たな問題が顕在化してくると、そんな問題など無視して構わないような情勢になれば、世界が永遠の資本=ネーション=国家の体制から脱したことになるかも知れないし、そうなるとそれに伴って国家統治の体制も現状とは異なる体制へ移行している可能性があるのかないのかも、現状では何とも言えないが、現状の国家資本主義と社会民主主義の対立や敵対関係も相互補完関係と同時並行してそうなっている限りで、意図的に対立や敵対を煽り立てている者たちがそれに気づいているわけでもないような気もするわけだ。


2025年

12月31日「実利の幻想」

 どう考えてもそれがおかしいと言えるようなことではなく、普通にそうなっていることとして、経済活動が行われている限りで、実利の幻想がもたらされると共に、人々が追求していると信じている実質的な利益や価値が、実際には見せかけであったり、本当に無意味なものであると言い切れるかというと、見せかけの利益というのが、一見すると非常に有益で価値があるように見えるものが、実は一時的な満足しかもたらされれず、長期的な幸福や充足にはつながらない、という批判的な視点があって、それが本質的な価値の欠如となって、物質的な富や社会的な地位など、多くの人が追い求める目標が、人にとって本当に重要なものであるか、という根源的な問いかけを内包しているそうだが、その過程で目的と手段の混同が起こって、実利を得ることがいつの間にか目的化して、本来の人生の目的や意味が見失われている状態が、実利の幻想に取り憑かれた心理状態だと言えるかどうかも、何とも言えないところで、このテーマはアダム・スミスやカール・マルクスといった経済思想家から、古代ギリシア・ローマのストア派やエピクロス派といった哲学者に至るまで、多くの思想家によって考察されてきたそうで、人にとっての真の幸福や善とは何かを問い、単なる実利の追求に対する警鐘を鳴らしているそうだが、果たしてそんな世迷言を真に受けるような自分なのかというと、またもやそれに逆らって見え透いた嘘をついてしまうかも知れないが、それが本当に世迷言なのかという疑念も、人によっては世迷言なのではなく、それを実利の幻想だと考えて否定的に捉えてしまうことの何が間違っているのかというと、それも人によって立場によっても、その人が囚われている事情や経緯などによっても、その場の気分によっても違ってくるかも知れないし、それを真に受ける人も世迷言の類いだと思う人も何とも思わない人も出てくるかも知れないが、そもそも人や人間という共同幻想を伴うような漠然とした概念がいつ生まれてきたのかも、個人や家族や民族などを何かを判断する上での共通の基準と考えるのも、普通にそんなふうに改めて考えてみるようなことではないから、そう考えることから導き出されてくる結論のようなものが、世間の一般常識からはかけ離れてしまいそうだが、それも普通に実利が実利として意識されることもあるし、幻想だと思われることもあるだろうから、AIがそれをもっともらしい意味を伴った文章として出力してくるとしても、それ自体を真に受けるわけでもなく、それを参考や口実にして語れる限りで語るような成り行きにはなるだろうが、それが正しいか間違っているかではなく、実際に実利を求める活動に携わっていれば、活動そのものがそうなのだから、実利を求めて現実に活動していて、活動に携わっている人がどんな幻想を抱いていようと、実利を求めて活動していることに変わりなく、普通に考えてそういう活動が経済活動なのだから、それを肯定しようと否定しようと、そんな活動が生じている現実が動かしがたく社会の中で機能していると言えるだろうし、ある意味で活動がそうなるのは避けられないわけで、実利を求めないと社会が成り立たないと言えないこともないが、そういう水準から物事の良し悪しを論じるのではなく、その活動内容が合法なのか違法なのか、真っ当なやり方なのか、人を騙すような詐欺的なやり方なのか、といった水準で普通は良し悪しを判断したがるだろうが、それが経済活動である限りで、あるいは政治活動である限りで、それが人を騙すような詐欺的なやり方にならざるを得ないような傾向もありそうだから、人によってはN国の立花氏のようなやり方は、大勢の人々が巻き込まれて何人も人が死んだのだから、絶対に許せないと強く否定的な感情を伴ってそう思う人もいる一方で、あの程度の攻撃で死んだ奴の方が馬鹿なんだと冷笑的な反応を見せる人も結構いるかどうかも何とも言えないところだが、そんな極端な事例を持ち出してもっともらしくそれを説明しても、何の説得力も得られないことも確かかも知れないから、一応はそういうことではないと捉えてみたいのだが、例えば真っ当なやり方で金儲けなんかできるはずがないと利いたふうな意見を述べることもできそうで、それもそう述べることができる場合もありそうな範囲内ではもっともらしい感じもしないではないが、それに対して普通に真っ当なやり方で金儲けができるということが、そしてそれが経済活動として社会の中で成り立つことが、経済活動自体を社会の中で機能させるには必要なことなんだと正論を語るような成り行きになれば、何となくそれがもっともらしい意見だと世間では思われてしまいそうだが、実際には疑わしい行為のように感じられる経済活動を社会の中でやってみせることが、しかもそれによって多額の収益を上げて世間一般で毀誉褒貶を巻き起こすことができれば、イーロン・マスクのようになれる場合もありそうだが、果たしてそれが真っ当なやり方で金儲けをやったと言えるかどうかも、批判的な奴らは腹を立てているだろうから、あんな奴は絶対に死んでも認めないと思っているかも知れないし、イーロン・マスク自身は今でも現在進行形で毀誉褒貶の渦中で活動していることになるだろうが、そこから真っ当なやり方では少額の利益しか得られないが、疑わしいやり方をやってみせることができれば、場合によってはイーロン・マスクのようになれるかも知れないと言える程度のことなのかも知れず、それでも中には真っ当なやり方で多額の利益を得られた者もいるかも知れないから、そんな意見が正しいかどうかは、実際の事例から信じられたり信じられなかったりするかも知れないし、こうすればうまく行くという助言を真に受けて、実際にそれを実践して成功する者もいる一方で、条件やタイミングが合わなければうまく行かないかも知れないから、あえて言うならそう言えるだけのことでしかなく、実際にそれを試してみなければ、そう言える程度のことでしかないから、実際に確かめてみなければ何でもないことになってしまいそうで、だから絶えず懐疑と共に活動しなければならなくなり、N国の立花氏もイーロン・マスクも、真っ当な行為というよりは、どちらかと言えば疑わしいことをやった結果が、現状の両者の境遇をもたらしたと言えるだろうから、それを真似るとか参考にするとか、それ以前に考えるまでもなく、誰でも実践できることであるはずもなく、真似ることもなく、参考にする対象ともならず、現実の世界ではそうなって当然の成り行きの中で大半の人々が暮らしているだろうから、それが役に立つとかハウツー的な意味での学ぶ対象でもないことも確かで、それに対して一般人が学ぶべきなのは、ストア派やエピクロス派に特徴的な自己への配慮であって、自らの魂を救わんと欲するする者は、絶えず自らに気を配って生きるべし、という警句と共に、ストア派のセネカが述べるように、他の仕事をあきらめて、自分自身に専念しなければならない、ということの意味が、実際に暴君ネロの教育係として権勢を誇ったセネカが偉そうに他人に説教するようなことなのかと疑念を抱くかも知れないが、理性に従い、感情に流されず、心の平穏を目指すストア派の教えを実践しつつ、知恵・正義・勇気・節制を含んだ徳こそが真の幸福であると説き、宇宙の摂理に従い、人間本来の理性を磨くことを重視し、欲望や恐怖といった破壊的な感情に支配されず、不動心を目指し、賢者にとって、富や健康は望ましいものではあっても幸福そのものではなく、理性によって得られる徳こそが唯一の善であり、幸福の源泉だと考え、自分のコントロールが及ばない出来事や運命に心を乱さず、受け入れる態度が重要であり、また同じストア派のエピクテトスによれば、自分の思考や行動をコントロールできることと、コントロールできない外部の出来事を区別し、理性と勇気や正義や節制などの徳を重んじて、内なる平静と自由を追求することが哲学の革新であり、人生で本当に重要なのは、自分の判断や欲望や行動に囚われた内面であり、他人の評価や健康、富などはコントロールできない外部の事柄であって、そんな外部に心を奪われずに、内面を鍛えることが重要だと説いたそうで、それもその人の境遇や事情や経緯や条件に応じて、それを真に受けるかどうかも決まってくるのではないか。


12月30日「過去の繰り返しの妥当性」

 それが肝試しという感じでもないだろうが、何か妨害工作を仕掛けられているような被害妄想に陥っている気分で、自業自得気味にそんな心理状態になっているとも思いたくないのだから、心理的に追い詰められていると感じるなら、その通りなのかも知れず、そんな心境になれるのだから、なりたくてなっているわけでもなく、そういうことだと思っておいても構わないだろうが、何がそうなのかと考えたくもなるのだから、その対象が今ひとつ捉えきれていないのも毎度のことのような気がして、それが何だかわからないでは話にならないのに、無理にも話になるように持って行こうとしているわけだから、そんなのは無理なのもそう思われるところではあるのだろうが、果たしてそれが何かの試練を形成しているのかどうかも、何の試練なのかもわからないのだから、嘘なのかも知れず、以前とは成り行きが違うと思うなら、そこで何かが繰り返されているというよりは、繰り返しながらも絶えず更新される何かがあるらしく、それに対して以前に起こった成り行きを現状に当て嵌めてしまうこと自体が、事態を正確に捉えていないことになるのかどうかも、程度の問題となりそうで、学校の教科書的な解釈であればそれでも構わないし、果たしてそれ以上の解釈が求められているのかということが、特に求められているわけではないようで、過去の成り行きが現状でも同じように繰り返されていると事態を捉えても、それを説明するレベルでは充分にもっともらしく感じられる程度には妥当なのだから、そういうことにしておきたいのだろうが、それが実際の成り行きと比較してどう違っているのかも、説明との間でどんな差異が生じているのかも、それを説明できる限りでもっともらしく説明してしまえるわけだから、その差異が説明不可能なら、説明しているレベルではそんな差異は無視されるしかなさそうで、それについて語ることと、そんな成り行きに関わって実際に活動している当事者とでは、また活動にそれについて説明することも含まれているとしても、何か差異が生じているのは当然なのかも知れないが、だからといって過去の事例を参照できないわけではないのだから、過去の事例との比較も説明する上では当然のこととして比較されるわけで、それが説明の中で安易な単純化に陥ってしまうとしても、もっともらしく感じられる限りで、そんな説明にも説得力が生じてくるのだろうから、普通に真に受けてしまうだろうし、説明としてはそれで構わないことになってしまえば、それがそういうこととして説明されることになるわけで、たとえ説明している内容と現実に行われていることが少し違うとしても、説明している内容としては妥当なのであり、その辺の違いを理解できるかどうかも何とも言えないところだが、単純な理屈とわかりやすい物言いで説明すれば、それで構わないようなことかも知れないし、そうやって説明の対象を言葉の型枠に嵌め込んで説明した気にはなれるのだが、説明としてはそれで構わないことになってしまうのだから、それでは現実に起こっていることや行われていることではなく、それが言葉で説明できる範囲に限られたフィクションになってしまうとしても、相変わらずそれでも構わないことになってしまうから、そこで何を説明しているわけでもなく、説明の対象を説明するのに都合の良いように説明しているに過ぎないとしても、やはり説明としてはそれで構わないのだから、説明とはそういうものだと受け止めざるを得ないのだが、それの何が不満なのかというと、説明しやすいように説明したり批判しやすいように批判していることがわかってしまうと、何となくちゃんと説明しているのかちゃんと批判しているのか自信がなくなってしまい、そんな説明や批判では駄目なんだと思われると、何でそれが駄目なのかもよくわからないが、それが信用できなくなってしまうわけで、だからあえてもっともらしく感じられないようなことを述べようとしてしまうのもおかしいが、わざとひねくれたようなことを語ってしまっても、それも何だか勘違いしているような気もしてしまうのだが、最近はこんな前置きが長過ぎて本題に入れずに終わってしまうことも多そうで、その辺に改善の余地がありそうだが、ともかく現実に起こっていることを過去の事例との比較で説明してしまうと、それでも構わないのだが、それが他人の説明である限りで、それを批判的に受け止めたくなるわけで、そんな説明を批判してみても話にならないが、そこからうまく回り込んで批判的な言説をスルーしている最中かも知れないが、真正面からそれを言説の対象として取り上げないのも戦略的な配慮の表れとなりそうで、その代わりに枝葉末節なところで人畜無害そうな言説を構成しているつもりにもなれないが、そういうやり方で接しているような気分で、それでは駄目だとは感じられないものの、実際にそうはならないわけだから、それ自体が何だかわからないようなことについて語っているわけで、具体的な何かであることは事実としてそうなのだが、そこで特定の意向を感じられる限りで戦略的な物言いだと感じられて、それ以前に真正面から取り上げていないのだからそんなのはわかりきっているとしても、そのついでに高市政権やトランプ政権の何を批判しているのかというと、それが批判するまでもないことだと思われる限りで、うまくそんなベタなネタを真正面から取り上げてしまう愚を回避したと思われながらも、そこから逃げているのだから、別にそれでうまく立ち回ったことにもならないだろうが、そんなやり方でも功利的な水準ではうまく対処しているつもりになれる一方で、倫理的な観点からしたら駄目だとも言えないし、そんなことは気にしなければいいわけだが、うまく立ち回ろうとする限りで、それが功利的な立ち回りになることも承知でそうしているわけで、そういう意味では高市もトランプもうまく立ち回っていると言える程度には成功していると言えるだろうから、そんな重箱の隅を突つくような批判など意に介さずに堂々と振る舞っていればいいとしか言えないようなことなのかも知れず、実際にも悪びれる暇などないと言えそうな成り行きの中で職務を全うしているはずだが、そういう個人的な立ち回りのレベルで政治が動いているわけでもないとは、少しはそういう面もありそうな感触も覚えるのだが、それとは違う国家レベルで何が起こっているのかというと、国家間競争という国際的な枠組みをどの程度の価値観を伴って信じても構わないかどうかも、立場によって異なりそうだが、それを軍拡競争を伴って競い合うような経済競争という水準でも、中国のペースに乗ってしまえばそう思っても構わないのかも知れないが、他の国がそんなペースに合わせても構わないかどうかも、良し悪しを言えるような立場などないのかも知れず、それでも世界的にロシアや中国に対処しようとしているわけだから、ある程度の水準で物事をそう捉えるのも妥当な態度なのかも知れないものの、その一方で貿易が行われているのだから、それも貿易戦争とは違う水準で観光やビジネスなどでも人の出入りもあるわけで、あまりその種の国家間競争という水準で物事を捉えない態度も必要な場合もありそうだから、そうなっている状況が捉えようによってはフィクションになるわけでもないが、高市やトランプも部分的かつ成り行き的にそれに対処しているつもりになれるような水準があるのかも知れず、別にそれがどうだとか、うまく行っていたり行っていなかったりするだろうが、それが果たして今後数年の間に破局的な事態へと至るかどうかも、実際にそうなってからそれがわかったり、大したことは何もわからなかったりするかも知れないし、誰のせいでそうなったとか言えるようなことかも知れないが、そうはならなければ平穏無事なのかというと、それでも構わないだろうが、それが国家的な成り行きであるなら、誰がどんな対処や対応や対策などを講じたところで、そうならざるを得ない成り行きになりそうで、それでも構わないとは誰もそうは言わないだろうが、そうなったとしても事前の予想や予測と共に事後的なもっともらしい説明によって、納得できるような成り行きにはなりそうで、説明に騙されているわけではないだろうが、言語による魔法にかかっている限りでそう思われるようなことなのかも知れない。


12月29日「排外主義と陰謀論の流行」

 世間では毎度お馴染みの何かが繰り返されているのも毎度のことだが、その何かについて語ろうとすると、すでに他にも語っている人がいくらでもいて、わざわざ自分がそれについて語らなくても、自分よりもそれについて詳しい人が語ればいいんじゃないかと思ってしまうが、実際に語っているのを見たり聞いたり読んだりして納得できればそれで構わないわけだが、その一方で何かそうじゃない成り行きに囚われているようにも思われるなら、それについて語ればいいじゃないかとも思われるから、それが何なのかというと、メディアから伝わってくる内容として、それを表面的な流行り廃りのレベルで言われていることが、一時的に世間で流行って遠からず廃れて沈静化して行く現象に目を奪われ関心を向けていることについて、それをそのまま語ってしまうと、そう語るように仕向けられているのではないかという疑念が湧いてくると共に、そう語ることも他にもいくらでもそう語っている人がいるわけだから、それも一時的に世間で流行っていることに含まれるわけで、それも世間というよりはメディアで流行っているわけだが、そう語ること自体が、そう語れとメディアによって仕向けられているんじゃないかと思われるなら、それに反発して逆らいたくなるのだが、しかも逆らうこともメディアの想定内なんじゃないかと勝手に推測できるわけでもないが、誰も意識してそうなることを想定して流行り廃りを主導しているわけでもないはずだが、そんなところまで深読みしているわけでもなくても、そんな兆候を察知したつもりになって、その裏をかいたつもりになっているわけでもないのに、それ自体をスルーしたくなり、すでに語っているのだからスルーしているわけでもなく、何だか嘘をついているような気がしてしまうが、その流行り廃りが具体的に何なのかというと、例えばそれを排外主義と陰謀論の流行だと言ってしまうと、一応は多くの人々がなるほどと納得するかも知れないが、それも昔ながらの流行現象で、しかも毎度お馴染みの何かが繰り返されているに過ぎないから、今に始まったことではないとも思われて、国家的な枠組みが危機に陥る度に、そこから目を逸らすように誘導する目的が意識されるわけでもないが、そういうことが声高に叫ばれるようになるに過ぎないから、それで構わないと思うなら、そんなのは無視してスルーすればいいだけのようにも思われるわけでもなく、それでは済まない危機的な事態だと考えられるわけでもないが、それに対して冗談混じりにわざと現時点では的外れなことを述べるなら、単純に産業の技術革新によって社会が変わろうとしているから、その技術革新を邪魔されると困るから、そこから大衆の目を逸らす目的として排外主義や陰謀論が意識されるわけでもないのだが、たぶん結果的にそうなってしまうとしても気づかれないわけで、これまでも気づかれなかったのだから、きっと今回も気づかれないと思っておくのが無難な認識となりそうで、だからそうなってしまうのを声高に問題視するわけでもなく、それとは違う方面から、例えば国家的な枠組みが危機に瀕しているから、そこから目を逸らさせる目的で、排外主義や陰謀論をメディアを通じて流行らせようとしていると考えておけば事足りるようなことかも知れないが、本当はどちらも違うような気もしないではなく、ただの偶然の巡り合わせでそうなっていると考えておくのも無難な認識なのかも知れないから、本当のところはよくわからないだろうが、いずれにしてもそうなった結果からもっともらしいことが言えるだろうから、そういうもっともらしい意見や見解などを見たり聞いたり読んだりして納得しておけばいいようなことかも知れないと思っておけばいいんじゃないかと誰がそう思っているわけでもないだろうが、自分でさえもそうは思っていないわけだから、そんなのも嘘に決まっているだろうが、少なくとも世界を代表してトランプとプーチンと習近平とエルドアンとネタニヤフなど、多くの国家的な指導者たちが、それらの者たちが直接意識しているわけでもないのに、国家的な枠組みの不具合や欠陥を世界中の人々に向かって、直接それを訴えかけているわけでもないのに、結果的にそれが明らかになっているわけだから、それを世界中の人々が理解できないようにするために、排外主義や陰謀論を流行らせていると受け止めてしまうと、何だかそうではないような気がしてしまうから、それとは違う方面から物事を考えたくなってしまうのだが、そういう逆説的な成り行きではなく、直接的に排外主義と陰謀論によって国家を支えているとも言えそうで、それを流行らせている当事者たちがそれによって国家を支えていると思っているわけではなくても、結果的にそうなっているように受け止めるなら、それももっともらしくそう思われることに含まれてくるわけだが、そのもっともらしくそう思われるからこそ、逆に疑わしくも思われるなら、それも偶然の巡り合わせを必然的に起こっていると勘違いしているに過ぎないと思っておいても構わないだろうが、何かのついでにそうなっているわけで、その何かというのが、排外主義を流行らせているのがメディアの陰謀だと思っておいても構わないし、それ自体がそれなんだと思えばそれが正解でも構わないわけだが、それ自体が何かのついでにそうなっているに過ぎないことだから、それが国家的な枠組みが危機に陥っていることのついでに排外主義と陰謀論の組み合わせが流行っていても、また産業の技術革新が社会を変えようとしていることのついでに排外主義と陰謀論の組み合わせが一時的に流行っていても、どちらでも構わないようなことかも知れず、それが何かのついでに流行っているに過ぎないと思っておけば、そんなどうでもいいような流行に乗ってこれ見よがしにそれを煽り立てている者たちが、そしてそれを真に受けて大げさに問題視している奴らがアホに見えてしまうかどうかも、そんな流行現象にどれほど深く関わっているかにもよるだろうが、それらの流行現象に深く関わっていることを自覚している者たちが、国家的な枠組みが壊れてしまったら大変だと思っているかどうかも、あるいは産業の技術革新によって現状の社会が変わってしまったら大変だと思っているかどうかも、大変だと思う危機意識と排外主義や陰謀論を真に受けることの程度や傾向が、何かのついでにそう思う程度のことであれば、それをことさら問題視するには及ばないわけでもないところが、そういうことをネタにして商売をやっている政治やメディアの関係者たちとしても、世間の一般大衆がそれを真に受けてくれないと商売あがったりだから困るわけで、そうなると何がどうなることが彼らにとっては大変な事態なのかと言えば、国家的な枠組みが壊れてしまうことや産業の技術革新によって現状の社会が変わってしまうことよりも、排外主義や陰謀論が世間で流行しないことの方が大変なことだと思うわけでもないだろうが、実際に流行したわけだから、すでにそういう問題はクリアしているわけだから、その点は安心できるだろうし、そこからそんな流行が今後どこまで長続きするのかに世間の関心が移ってきているとも思ってはいないだろうが、そうは思わないようなことが実際に実現するとしたら、今後産業の技術革新によって国家的な枠組みが崩壊したところで、誰もそうは思わないわけで、そのせいぜいが排外主義や陰謀論によって国家的な枠組みが崩壊したことにしておけば、何となくそうなるのももっともらしく思われるから、現状でも危機感を煽りたい者たちが、このままではそうなってしまうという危惧の念を抱いていると推測されるだろうが、それも直接そんなことを意識しているわけではなく、実際にそうなってから、そうなった理由や原因として、排外主義や陰謀論によってそうなったと思われるわけだが、そういうところが意識してそう思っているわけではなくても、結果的にそう思われてしまうようなことなのではないか。


12月28日「物事の裏表」

 毎度のことのように、自分でもよくわからないことについて、それをわかっているかのように装いたいわけでもないのに、成り行きとしてそれをもっともらしく語ろうとしているわけで、それが信用できないのも毎度のことだが、そうなってしまうのだから、そうなるのが自然の成り行きだと思うしかないが、その一方でわかっていることもあるのだから、そのわかっていることを手がかりにして、そこから推論を働かせて、わかっていないことを解明しようとしているなら、述べていることがおかしいんじゃないかとはならないはずだが、どうもそこに微妙なずれがあって、物事のわかっていない面とわかっている面の両面があるらしいことも、普通に想像できるから、そういうことにしておいて、それについてはよくわからないなりにも、思考の対象として納得が行く状態にまで持って行こうとしているんじゃないかと理解しているつもりになりたいわけで、それが物事のわかっていない面とわかっている面という単純な捉え方ではなく、例えば政府に与する政治家や政党の不正行為や違法行為を追及することだけに特化している勢力が、政府や政権の政策の問題点や欠陥を追及することだけに特化している勢力でもあるのは毎度のことで、どちらも同程度に追及しているのだから、それだけに特化しているわけではなく、絶えずこうすればいいんじゃないかと独自に政府や政権の政策に対する対案や政策提言を出していれば、そういうことのバランスを重視しているようにも感じられるから、そんな政治家や政党やメディア関係者を支持するのも、それも対案や政策の内容にもよるだろうが、そうなるのが普通の成り行きのようにも感じられるものの、どうもそれが怪しいのかも知れず、本気でそんなことをやっている勢力を信頼しているわけではなく、逆に不正行為や違法行為が次々に発覚してしまう政治家や政党の方が信頼できるなら、そんなことをやっていればそうなっちゃうよなと、そうなるのが自然な成り行きのように感じられて、それが日本の政治情勢であり、そこに絡んでくる経済情勢なんじゃないだろうかと推測されてしまうところが、政治家や政党がそういうことをやってしまう情勢なんだと理解しがちになるわけだが、しかもそんな政治勢力の支持率も高いわけだから、国民の方でもそんな事情を察して、それらの政治勢力を支持しているんじゃないかと推測したくなるわけだが、だからそんな政治勢力を支えているメディア関係者も人間のクズだとも極悪非道な連中だとも反吐が出るような奴らだとも思わない代わりに、彼らも世の中の慣習や制度に囚われながらも、それらの政治勢力と共にそうなるように仕向けられているわけだから、ご苦労さんと労いの言葉の一つもかけたくなるわけでもないのだが、果たしてそういうことの延長上で何がどうなっているのかというと、日本の政治情勢も経済情勢も社会情勢もそれなりにうまく行っているのではないかと思い込みたいわけでもないが、自分がそう思い込まなくても、実際にそうなっているのだから、それはそれでそういうことなのではないかとも思えないし、やはり何かわかっていないような気もするから、それについて思考を巡らせている最中なのに、同時にそれについて語っているわけだから、それがどう考えてもわかっていないことについて語っているわけで、しかもそれをもっともらしく語るように仕向けられているから、それがわかっていないのにわかっているかのような語り方になってしまう限りで、嘘をついているようにも感じられてしまい、そういうところから漠然とした疑念が生じてくるわけでもないだろうが、それが疑念というよりはごまかしやまやかしにつながって行くような成り行きも生じていそうで、何やらその種の批判を封じ込めるために、それとは無関係な人畜無害な分野へと、メディアの言説を囲い込もうとする意図や思惑も推測されてくるから、そういう意図や思惑を感じ取れるようなら、それも当然の成り行きとして、それに対する反発や反抗も生じてくるだろうから、おもしろがってそんな反発や反抗の言説にも注目してしまうわけだが、それも実質的にどうしたわけでもないから、子供騙しのような仕掛けにならざるを得ないだろうが、それらをいちいち気にしているわけでもなく、何かのついでに関心が向いてしまうような成り行きなのだろうが、あまりそういうのを馬鹿にしたくはなく、思考の対象とはならないような些細な紆余曲折がそこで生じているに過ぎないのだろうが、それでも病的な傾向として日本社会に巣食う宿痾のような捉え方もしたがるのかも知れないし、そんな煽り立てから何か意味のある問題提起がもたらされるとも思えないが、そうやってわけのわからない寄り道をしている間に、政治方面の批判が封じ込められるなら願ったり叶ったりなのかも知れないが、その種の批判を封じ込めようとする力も自然発生的に生じてくるような成り行きなのかも知れないから、そういう方面に囚われてしまった人々の意識も、おのずから社会の慣習や制度に従っている限りでそうなっていると言えるようなことなのかも知れず、それが社会の構造的な傾向として見受けられるなら、果たしてそんな誰もが囚われてしまう構造をどうやれば脱構築できるかとか、相変わらずのわけのわからない思想的なまやかしに囚われながらも、出口の見えない迂回路を選んでしまう成り行きなどが、どこの誰から生じてくるわけでもないだろうから、そこで幻想など抱くにも及ばないし、その全てが現実の世界で実際に起こっていることだとも思えないが、そんなわざと関心を逸らすような動作を自らに課しているわけでもなければ、その種の罠に自らかかりに行く愚も選べないはずだが、そうやって自らが自らを正しい方向へと導けるように日々誰かによって直接指導されているわけでもないのだとしたら、そうなっていないだけで自由が自らの内にもたらされていると言えるのかも知れないから、そんな自由が貴重だとも感じられないとしても、それに対して労働や作業や仕事として、そういう成り行きに囚われてしまっている人々を批判の対象としても無駄なようにも思われる限りで、その種の人畜無害で功利的かつハウツー的な方向への誘導的な作用や影響力の行使も、無視すべき類いになってしまうようにも感じられて、実際に無視しているつもりでいても結果的には、わずかなポイントを餌にしたアンケート攻撃などによって誘導されてしまっている現状もありそうで、それもたわいない作用には違いないのだが、ちょっとした利益に目ざとくなるように精神を改造されているとも思えない代わりに、アンケートの対象となる商品を買うように促される面では、そんなことはわかりきっていると思いながらも、ついつい買えるような安いものなら買ってしまうかも知れないが、尾を引くような執拗さを感じられる限りで、悪意がこもっているようにも感じられて、それが意図しない悪意となって、その種のポイントを餌にしたアンケートには取り憑いているようにも思われるから、あまり深入りしないで、そればかりにのめり込まないことが無難な接し方にはなるだろうが、その一方でそういうことをやるのが仕事となってしまった関係者には、何やらそれにもご苦労さんと労いの言葉をかけたくなるわけでもないが、できればそうはなりたくないような立場を保ちたいような、もちろんそんな立場になろうとしてもなれないだろうから、その辺は安心できるのだが、たぶん現状の日本社会を陰から支えているのはその種の慣習的かつ制度的なロボット人間たちなのではないかと、それを馬鹿にしているわけでもないのに、そんな立場にもなれない身でありながらも、そういう人間たちに向かって、ご苦労さんと上から目線で労いの言葉をかけられるような身分でもないのに、何となくそんな光景を思い浮かべながらもほくそ笑んでいる自分が痩せ我慢の強がり体質でないことを祈るばかりだが、今後も餓死しない程度には生きて行けそうな気もするわけだ。


12月27日「世界情勢の裏返し」

 何かのついでにそれが積極財政だと言われても、言っている当人は何のついででもなく、至って普通にそれをそう評しているだけなのだが、少なくともそれが何でもないことではなく、いつものようにそれがいつもの人たちから批判されてはいるが、それも何かのついでに批判されているわけでもなく、何か他に気にかかることがあるわけでもないから、あまりその種の形容には関心を持てないし、では他の何を問題視したいのかと問われるわけでもなく、できればそれをスルーしたくなるが、他に何を問題視するつもりもないのに、自らの内から自然と湧き出てくる何があるとも思えないし、普通はそういうのは自然には出てこない人為的な問題があるらしく、それを突き止めなければならないわけでもないのだが、気がついてしまうのはそんなことではないようで、人や集団の活動の無意味な面と言ったら、活動している者にとってはそうではないから、その辺が受け止め方の問題なのかもしれないが、それを問題視しないと気が済まないというよりは、問題視するように仕向けられている立場があって、勝手に問題視しているわけではなく、人の勝手にはならないような成り行きがあるから、その全てがそうでもないとしても、なぜかうまく関心を逸らされているようにも思われて、できればそんなふうには批判のネタとして話題にされたくないという事情があるのかないのかも、そんな事情を誰が知っているわけでもないのに、勝手にそう思うのはなぜかと言えば、積極的にそうしたいわけでもないのだが、消極的な思惑の裏返しだと言えるわけでもなく、それが積極でも消極でもないなら何なのかというと、積極じゃなくて緊縮なんだと屁理屈をこねるような成り行きにもならないだろうから、結局は通過儀礼的な成り行きになってしまえば、それで構わないのかも知れず、自分がそれを勘違いしているのを承知でそんな落とし所を想像してしまうのだが、苦し紛れにそう述べてしまっても、それが何に関して何をどう述べているのでもないようにも思われるから、何を述べているのかよくわからないままに、その種の問題視をスルーしたことになれば自分にとっては都合がいいようにも思われて、そう思われる限りで、その場で誰かがうまく立ち回ったことにしておきたいのかも知れないが、唐突な核武装宣言とかそうやって話題を無理やり作っているとも思えないし、結果的に話題に事欠かないように持って行かれてしまっているようでいて、意図してそうなっているわけでもないところが微妙なさじ加減なのかも知れず、結局何だかんだ言っても政治的にはうまく回っていそうで、挑発的な話題に振り回されながらも、適当にジャーナリストの類いが軽くあしらわれている現状があるのだから、世界的に政治の勝利には違いないのだろうが、それが束の間の勝利に終わるか恒久的な勝利が続くかなんて、そうなってみないことにはわからないのは毎度のことだが、今さら政治と経済を分けて考えるなんて愚の骨頂だと思うわけでもなく、まさか政治に連動して経済が動いているように装われているなんて、そんなはずもないが、たぶん逆に経済情勢に応じて政府の予算が組まれているから、政府の予算だけから言えることも部分的な程度にとどまるのかも知れず、ではそんな見解を真に受けているのかというと、それも真に受けているから、それに対する批判にも何となく同調したくなるだろうが、本気でそう思っているわけでもないから、善意でそう思っていて、その善意というのが自分にとっては嘘っぽいのだが、それに対する懸念や疑念を批判的に伝えるのがジャーナリズムの役割だと考えているわけでもなく、逆に不自然な賞賛などの肯定的な反応に出くわすと身構えて、どちらにしても過去に起こった出来事や行われたことであるか、また現在進行形で起こっていたり行われていることであるか、さらには将来の予想や予測であるか、そんなことを気にしているわけではなく、結局はそれを信用できるかできないかも重要ではなく、それが自分にとって都合の良い情報であるか都合の悪い情報であるかに関わらず、その全てを自らが囚われている現状に合わせて、場合によっては現状に逆らいながらも、いい加減に適当に理解しようとするから、何をどう捉えているわけでもないのだが、たぶん嘘なんじゃないかと疑いながらも、そんなことを考えているようで、しかも何を考えているのかもうまく理解できないし、考えていないことまで語っている場合さえありそうだから、そうやって捉えているつもりの世界情勢なんかも、なぜか嘘っぽく感じられて、そんなことを考えている自分が信用できないわけだが、そこに信用できそうな確かな理屈が働いていればわかりやすいのだが、確かな理屈など存在しないのではないかと疑っている疑念自体も信用できない一方で、思考しているのだから確かな理屈を求めているわけで、そういうところが矛盾しているのはわかっているはずだが、わかっていても結局は矛盾した思考動作になってしまうのだから、何だかそれが信用できないわけで、だから何だというわけでもなく、自分で自分を信用できない心理状態となっているに過ぎないわけだが、もっと自分を信じろと事ある度毎に強く自らに言い聞かせる場面も思い浮かぶのだが、それが懐疑と共に信用しろと言い聞かせているみたいで、それも矛盾した心理動作には違いないが、わざとそう思い込もうとしているようにも思われるから、そう思うこと自体も信用できないし、そういうことの延長上で、何やら世界情勢について利いたふうな見解を述べようとしてしまうのだから、何だかそれが冗談半分で述べているようにも思われて、それも信用できないが、何かわざとらしいのかも知れず、別に高市政権のそれが積極財政でも何でも構わないとは思えないが、その場の情勢に応じた予算編成だとは思えるから、そこからどうなろうと知ったことではないわけではなく、現状の世界情勢の裏返しとして、そうなっていると考えても構わないのかも知れず、世界情勢の裏返しとは、表面的なニュースの裏にある各国間の思惑、経済的な動機、国内の政治的な事情などが複雑に絡み合った状況を指すとAIには考えられるようだが、現在の主要な動向と、その裏にある側面には、地政学的な分断の進行を物語る、表面的な動向として、米中対立、ロシアによるウクライナ侵攻や緊迫する中東・台湾情勢や、アメリカによるベネズエラへの軍事的圧力などにより、世界的なブロック化という分断が進行しているようで、それに対する裏返しの側面として、基軸通貨であるドルへの不信感が金や銀やプラチナ価格の高騰を招いたり、ステーブルコインへの関心の高まりは、従来の基軸通貨であるドルに対する不信感の裏返しだとみられていて、また各国が経済安全保障を強めて、半導体などの戦略物資の国内生産を進める動きは、従来の自由貿易やグローバル化による相互依存への懸念の裏返しであり、また米国の政治動向とそこから及ぼされる影響に関しては、表面的な動向としては、米国政治は引き続き世界情勢に大きな影響を与えていて、例えばトランプのアメリカ第一主義などが注目される一方で、その裏返しの側面として、アメリカ第一主義という政策転換が、同盟国の国内政治にも影響を与えていて、世界各国や同盟国にも高関税を課して、それによって隣国のカナダやメキシコが苦境に陥り、それが米国内のラストベルトなどへの投資を優先すべきという国内事情の裏返しに基づいている側面があり、台湾の半導体企業を米国内に誘致することに関しては、経済的な合理性と共に中国の台湾侵攻を見据えた、安全保障上の意義が優先される投資事例として見られるが、さらに世界経済の脆弱性と格差に関して、表面的な動向としては、世界経済は来年にかけて穏やかな回復基調あると予測されている一方で、脆弱性も残っていて、その裏返しの側面として、各国の株価指数が最高値を更新する一方で、世界的な経済格差の拡大が進行しているという側面があり、中国などでも若者の失業率が高く、努力が報われないという絶望感から、ネズミ人間と呼んで都市の低層で生活する人々を指して揶揄する現象が拡大するなど、経済成長の裏で国内の構造的な苦境があるそうだが、これらの動向は、各国が自国の利益や国内の課題を優先した結果として現れている、現代世界の特徴的な側面だと言えるそうだが、そんなふうに何だか相変わらずわかったようなわからないようなもっともらしい回答をAIが返してくるから、それを真に受けずに何となく笑ってしまうわけだ。


12月26日「国家理性とは」

 以前、西洋では三世紀から十八世紀までキリスト教会に支配されていたと述べたことがあったが、その支配に綻びが出始めた頃が、宗教改革によってカトリックとプロテスタントに教会が分裂した頃になるだろうが、そこでも教会の支配に反発したり抵抗する住民をプロテスタント系の教会の支配に移行することで、何とかキリスト教会による住民の支配を一応は継続できたわけだが、教会の支配が決定的に破綻するきっかけとなったのが、三十年戦争後に締結されたウェストファリア条約によって、スイスやオランダの独立が認められた一方で、神聖ローマ帝国の形骸化がより一層進んで、それに伴って教会の権威もより一層低下したと考えられるが、そこでヨーロッパ全土を新たなローマ帝国に統一して、キリスト教会が統一された帝国の宗教的な権威となって住民を精神的な面で支配する夢が潰え去ったと解釈しても良さそうで、その一方でヨーロッパが様々な国に分裂したままでもいいんだ的な現状肯定的のイデオロギーとして出てきたのが、フーコーによれば国家理性というイデオロギーになるらしいが、そういうイデオロギーが現代にも脈々と受け継がれていて、現代でもEUが新たなローマ帝国となるを阻止するために、またそれを世界全体に敷衍させれば、国連がローマ帝国化するのを阻止するために、ヨーロッパ各国でも世界各国でも、国家経営を担う政府の官僚機構に巣食う者たちの間で精神的な支えとなっていると解釈するのも、ちょっと大げさ過ぎるが、そもそも国家理性とは何なのかというのも興味深いから、フーコーが述べているのを自分なりに要約してみるなら、イタリアのパラッツオによれば国家理性とは国家の完全性・静穏・平和を獲得するための諸手段を知らしめる規則ないし術となり、ドイツのヘムニッツによれば国家理性とは公的な事柄・会議・計画の全てにおいて払うべき配慮、国家の保守・増強・幸福のみに向かうべき配慮であり、この配慮にのためには最も容易かつ最も迅速な手段が用いられなければならないそうで、何やら日本でもチンピラ保守のコバホークあたりがこの種のイデオロギーに染まっていそうだが、国家理性の定義において特徴的なのは、国家自体以外の何ものも参照されていないことであり、自然的な次元も、世界の次元も、自然の根本的な諸法則も、神的な次元でさえも参照されておらず、国家理性とはただ国家の本質のことであって、実践的な側面と認識的な側面を併せ持つ術であり、保守的というよりは保存的な概念で、国家が完全な形で存在し維持されるために必要充分なことが評定されるということが本質的に問題となり、国家理性は国家の変容の原則でも、国家の進化の原則でもなく、ただ国家の増強が望まれて、増強とは、すでに実際に国家を構成している特徴の水増し・改良でしかなく、その変容では全くないわけで、つまり国家理性は保守的なのであり、十七世紀後半にはシャトレ侯が、問題なのは正しい凡庸さに到達することだと言っているようで、言い得て妙で、政治の諸手段は、宗教を正確に観察すること、あらゆる物事において正義を行うこと、人民が自分で自分を維持できるように計らうこと、そのために国家から貧困と富を追放すること、国家において正しい、称賛すべき凡庸さを維持することに存することだそうだが、そして最も重要な特徴と言えるのが、国家理性には国家以前・国家外の目的に関わるものなど何もないということであり、国家以後の目的にさえ関わるものはなく、国家理性に染まった者たちは、現状の国家から統治形態が国家とは違う仕組みになる可能性なんて、全く考慮に入れていないわけで、仮に国家理性によって至福や幸福や完徳がもたらされるとしたら、国家自体にもたらされるわけで、それに対してキリスト教会側のイデオロギーの形成を担っていたトマス・アクィナスが何を語っていたかというと、王の統治は、現世のしかじかの術に属しているが、王の統治の最終目標は、人間たちが現世の立場から脱して、人間の国家から解放されて、永遠の至福、神の享楽といったものに達することができるようにすることだとされていて、その統治術・君臨術は現世外の目的、国家外の目的へと整序されていたのとは対照的に、国家理性の目的は国家自体であり、完徳・幸福・至福といったものがあるとしても、それは国家自体のものでしかないそうで、それに対してパラッツオは、国家外の目的、個人的な目的を何も提示することができない統治などに、なぜ人間たちは従う義務があるというのか?という反論と、国家理性・統治術・統治自体は、欠陥を修正したり直接の危険を回避したりする必要があるときだけ介入すべきではないか?という反論に対して、そういえば日本でも緊急事態条項の制定に異常にこだわっているな者たちがいることが、それを象徴しているような気もするが、とんでもない、国家は、国家理性によって指揮される統治術によって絶えず考慮し直され維持されなければ、一瞬たりとも存続・維持できないだろう、国家自体だけでは、一瞬たりとも平和理に自らを保守することは可能・充分ではなく、人間の本性の弱さや人間たちの悪意があるが故に、統治をよく考えられた仕方で保証する国家理性に特有の行動が、絶えずあらゆる場に、あらゆる点になければ、国家においては何事も維持され得ないだろうと語っているみたいだが、ここで問題となっているのはまさに無際限な時間、恒常的かつ保守的な統治の時間で、起源や基礎づけや正当性や王朝に関する問題さえ立たないことになり、それに対してマキャベリの立てていた問題は、権力を掌握したやり方に応じてどのように異なる統治を行うかということになり、それが継承によるのか簒奪によるのか征服によるのかによって、同じやり方で統治することはできないと考えていたわけだが、そのような問題はもはや介入してこないかせいぜい二次的な仕方で介入してくるに過ぎず、統治術と国家理性はもはや起源に関する問いを立てることがなく、統治の中にあるということはすでに国家理性の中にあるということであり、国家の中にあるということになり、統治術を変更するのに適切な起源となる点が存在しないだけでなく、終着点に関する問題も立てられてはおらず、そして国家理性とそれによって指揮される統治は、諸個人の救済に気にかける必要がなくなって、国家は歴史の終わりといったものさえ探究するには及ばなくなり、それは統治性の無際限であり、政治術の無際限な特徴ゆえに、終わりのこない開かれた歴史性の中にいることになるわけで、それによって世界が一つの帝国によって統一されるのではなく、様々に異なる国家間で、一つの国家がその他の国家を支配することを妨害することによって生じる均衡によって互いに共存できるような共存の仕方によって世界平和が実現できるような、均衡を保った国家の複数性において、その複数性によって獲得される安定性が、世界平和をもたらすと考えられて、そしてこの無際限の統治性という考え方は、人間たちの幸福を目指してなされる進歩という考えによって修正されて行き、そこには国家理性に関する分析の全てに欠けている何かが含意されていて、その何かとは人口という概念になるらしいが、その前にそんな国家理性が肯定しているのが意外にもクーデターという行為らしく、なるほど軍部や軍人なんかが確かに軍事クーデターをやるような成り行きが頻繁に起こるのも、やはり国家理性に洗脳されている証拠となるかどうかも、国家理性自体は合法性・正当性といったシステムとは全く同質ではなく、それは公共の法、特有の法、根本的な法その他、いかなる類いの法をも破ることを可能にする何かであり、国家理性は法に従って命ずるのではなく、必要なら法自体に命ずるのでなければならず、法の方が国家の現状に適応するのでなければならないそうで、つまり、クーデターは国家理性に対する断絶ではなく、それどころか国家理性の一般地平・一般的形式に書き込まれている要素・出来事・やり方であって、つまりは法を超出する何かというか、ともかくも法に従わない何かになるそうだ。


12月25日「終わりの始まりという嘘」

 これもよく言われる言い回しとして、終わりの始まりが、そんなことを言っている者の都合に合わせていつでも始まっているのだとしても、いったい何に関してそう思っているのかというと、飽きてしまったからその終わりが始まろうとしていると言いたいわけでもないだろうが、何に飽きてしまったのかと言えば、おおかたやっていることに飽きてしまったのだろうが、と言っても飽きてしまった当人がそんなことを言っているわけでもなく、そうかと言って口が裂けても言えないといった強い調子で言わないわけでもないだろうが、普通に考えて維新勢力による戦略的な仕掛けが空回りに終わることぐらいは今に始まったわけではなく、昔からそうだったようにも誰もが思っているだろうから、またそんなことをやるのかと呆れられる程度のことが今後とも行われそうだが、それをやる原動力となっているのが現状の経済情勢だと感じられる程度には、動機がそこにありそうなのだが、だからと言ってそんなことをやっても無駄無駄無駄と漫画の決め台詞のようなわけにはいかないのも、それが無駄だと感じられるようなことが有効に作用しているから、現状が現状のようになっていて、それでも構わないような現状が構成されているわけで、それに対しては絶えず現状を変えたいという意向が発動中なのだろうが、それと共に政治的な領域では絶えず国家経営という企業経営とは少し違う意向も発動中で、そんな国家経営にとっては何がうまく行っていることの指標なのかと言えば、GDPが伸びていることが、うまく行っている指標となっているらしく、実際にアメリカのGDPが高い数値を示していて、それがトランプ政権による国家経営がうまく行っていることの証しとなっているようだが、日本でも立憲の枝野や安住が、古い原発を廃炉にしてより安全性の高い原発を建造した方がいいんじゃないかと言い始めたようだが、マイクロソフトやアマゾンのように原発にデータセンターを併設して使いたい意図でもあるのかどうかもよくはわからないが、そこでも確実に国家経営という意向が発動中なのかも知れず、産業の技術革新の延長上で、世界的に従来の原発よりも安全性が高いと言われる小型原発の開発が話題となっていることは確かだが、日本でもそんな小型原発の開発競争に加わりたいという意向も働いているのかも知れないし、実際に開発に取り組んでいる企業もありそうだが、その一方で原発反対という左翼リベラル方面の民意を踏みにじることにもなりかねないし、枝野や安住も国家経営の意向に惑わされて危ない賭けに打って出ている感覚でもないにしても、そこでデモクラシーの論理と国家経営の意向がぶつかり合うとかいう単純な成り行きでもないし、そういうやり方がうまく行くとか行かないとかではなく、もちろんうまく行くに越したことはないが、たぶんデモクラシー自体もそれほど信用できるわけでもなく、それが実現しているように装っておけば、その実質を無視していられるわけでもないが、微妙に形骸化させつつもやり過ごすような成り行きへと持って行けると踏んでいるわけでもないだろうが、結果的にそうなっている現状もありそうで、それがデモクラシーより国家経営を優先させるやり方として、世界的に模索されている最中かも知れないから、そういうところがヤバそうに感じられるだろうが、実際にデモクラシーを無効化させたり形骸化させる試みが昔からいくらでも試されてきたような歴史的な経緯があると理解しておく方が妥当な感じがするわけで、国家経営にはデモクラシーが邪魔なのかも知れず、しかも邪魔なのにそれを実現させておかないと、結果的に国家経営がうまく行かなくなる傾向にもなるだろうから、結局はそれを無視したり無効化したり形骸化させて、国家経営に専念してしまう独裁体制が、結構な割合で最終的には行き詰まってきた歴史的な経緯があるらしいことは踏まえておかないと、その微妙な関係を理解できなくなってしまうだろうが、そうであるならデモクラシーを尊重しないようなことをやり始めると、それがその政権の終わりの始まりを感じさせるような成り行きだと言えそうだが、国家経営には邪魔なのに尊重しなければならないところが、単純な思考の持ち主には理解し難いところなのかも知れないが、しかも国家経営には国家経営がうまく行かなくなる事態も必要だと言えるような矛盾した成り行きも経験するわけだから、その辺が国家経営という概念自体も信用できないだろうし、もちろん国家経営の意向に逆らうデモクラシーの論理も信用できないだろうから、どちらにしてうまく行かなくなることを前提とした成り行きなのかも知れず、何よりも国家経営の主体が政府だということも、政府に批判的な民意を尊重しつつも国家経営という怪しげなことを実行しているわけだから、それを信用しろと言われても無理なのかも知れず、あまり信用されていなくても実際に行われているのだから、一応は尊重せずにはいられなくなるとしても、信用していないのに、尊重している態度というのも嘘っぽい感じがしないではなく、何だかそれが共同幻想の産物であるような実態のなさを感じさせるわけでもないが、その一方で確実に税を徴収しているわけで、徴税という強制的な行為によって政府という組織の実態が意識されるわけだが、しかもその政府が他の国の政府と対立したり同盟したりすることによって、そんな関係性からも政府の実態が窺い知れるだろうが、世界の中で複数の国家が併存していて、それらの国家ごとに政府があることも、誰もが当たり前のこととして認識しているわけだが、それらの国で住民の生活に必要な物資が足りていることが、しかも住民が容易に手に入れられる価格で供給されていることが、果たして政府の力でそういうことが実現しているかどうかも、政府もそうなるように努力はするだろうが、それが全面的に政府の力でそうなっているとも言えない面もありそうだから、その辺がデモクラシーの論理の正しさが揺らぐ点かも知れないし、しかも国家経営の意向からは必要な物資が足りていない住民が多少はいても、国内の産業が稼いでいてGDPも堅調であればうまく行っていることになるわけだから、もちろん住民の大多数が貧困になってしまうと革命が起こって国家経営が破綻してしまうわけで、その辺のさじ加減が政府の力でできるかどうかも、大半の政府ではうまく行っていないから、世界の大半の国々でデモクラシーが実現していない現状もありそうだが、そういう意味では国家経営とデモクラシーが両立している国々が先進国だと言えないこともないが、そこからデモクラシーが実現していれば国家経営もうまく行っていると理解したくなるのだが、それが勘違いの原因となりそうで、国家経営がうまく行かないとデモクラシーも実現が困難になってくる一方で、デモクラシーのコストを国家経営によって捻出しなければならなくなるから、結構それが無理芸になってくるわけで、できればデモクラシーなんか無視して、国家経営だけに専念できれば政府としても楽になるだろうが、そうなると住民の不平不満を警察権力や軍隊を動員してでも抑え込まなければならなくなるから、しかも武力で抑え込めば抑え込むほど住民の方でも反感や反抗心も高まるから、反政府デモなんかも頻発して社会の治安も悪化して、それが産業的な方面での活力の減退につながってしまうと、回り回ってそれが国家運営にも支障をきたすようなら、効率的な国家運営ができなくなって、国家破綻の危険性も高まるだろうから、国家経営にとってデモクラシーの実現は避けては通れない障害物だと理解したくなるのだが、できればそれなしで済ませようとする傾向も世界的に強まっているから、絶えずそんな傾向から面倒な紆余曲折が生じてくるかも知れないし、実際に国家運営にデモクラシーの実現が含まれているとは理解していない人も、日本でもいくらでもいるだろうし、そんな人々が世の中の多数派を構成するようになれば、日本の国家破綻も近いとは誰も思わないし、それよりは産業の衰退によって国家が破綻すると考えている人の方が圧倒的多数だと思われる限りで、デモクラシーの維持も危うい状況になっていると考えがちになれるわけだ。


12月24日「事前の申し合わせ」

 言う前から予想がつくようなことを言ってしまうと、それがそんなことを述べている者の欠点であるはずもないが、結果的になめられてしまうかどうかも、もちろんそんなことを述べている者がそれを認識できるわけでもないだろうが、認識できなくても、毎度お馴染みのもっともらしいことを述べてしまっても構わないだろうし、大して効果がないようなことを述べているのだから安心されるし、それによってなめられているわけでもないだろうが、安心されることがなめられていることになるのかどうかも、受け取られ方次第なような気もするが、それに関して事前の申し合わせが何だったのかというと、そこで何らかの合意が形成されていたかどうかも、その場では明らかにはならないなら、そんなことまで窺い知れるわけでもなく、事前の申し合わせとして、何かを行う前に関係者間で事前に相談して取り決めを調整して、その内容や対応方針について合意しておけば、後で揉めることはない程度のことなのだろうが、後で揉めることを承知で、わざと爆弾発言のような煽りをぶっ込んで、事前の申し合わせを破る気満々な態度というのも、話が違うじゃないかという反応を引き出したいのかも知れないし、それとは経緯も事情も違うだろうが、日本も核兵器を持つべきだという政府高官の発言が爆弾発言なのかどうかも、逆にこいつなら言うだろうと受け取られるなら、それが予定調和というか、関係各方面から予定調和な反応を引き出したいという意図があったわけでもないだろうが、結果的にはそうなったようで、それがどうしたわけでもないのだが、それが何かの目眩しなのかと考えてみても、当てが外れているような気がして、そういう発言をする意図や思惑を想像してみても、何の意味もないようなことであるなら、あまり気にするようなことでもないだろうから、事の本質がそれとは別のところにあって、それが何なのかというと、何か微妙に追い込まれているから核兵器を持つべきだと思っているわけでもないのに、結果的にそんな発言となってしまうのだから、それに気づいていないのにそんな発言をする機会を意図的に作ってしまったのだから、そんな予定調和な発言をした奴は、自らの意図に気づいていないのかも知れず、自分の意図に自分が気づかないなんて、そんなことがあるわけもないとは思いたいが、案外そうなっているのかも知れず、それでも高市内閣の支持率も高いのだから、別に追い込まれているわけでもないとは考えられるのだが、調子に乗って日本も核兵器を持つべきだとか政府高官とやらが発言してしまうこと自体が、それが本音だとしても、雲行きが怪しくなっている兆しのような気もしないではないが、それでも構わないとしたら、その発言自体が何かとんでもないようなことでも重要でも重大でもない発言となっていると受け止められるわけでもないのだが、場違いでもないはずで、何かすっぽ抜けているというか、やはりこいつならこんなことを言う程度のこととして片付けられてしまうだろうが、少なくともそれを大げさに騒ぎ立ててはまずいとも感じられるわけで、もっと軽くお笑い芸人のほんこんが口走ってしまうのと同じ程度のこととして受け止めておくのが無難なのかも知れないし、政府高官とほんこんが比較の対象になるのかと問われるまでもなく、それもそんなはずもないだろうが、何かスルーの対象として核兵器発言が誰によって問題視されているのかと言えば、ユーチューブでメディア関係者が問題視しているのもいつものことだが、それを真に受けない態度というのも世の中で定着しているようにも感じられて、そんなことより他に気づくべきことがあるのかというと、それが核兵器に関する象徴な意味よりも、軍拡したい意図の表れだと思っておいても構わないだろうが、周辺諸国と軍拡競争がしたいとも受け取られるだろうし、それが罠だとすぐに気づくわけではなくても、軍拡競争をやればやるほど経費がかかって経済がヤバくなるとは、それもすぐに気づくべきことだとも思えないのだが、本当にそうなるかどうかもわからない段階で、絶対にそうなると断言できるわけでもないが、軍需産業が輸出産業となれば国家経済に貢献すると思っているのかも知れないし、そういうところでも何とも言えないが、軍拡が経済的な利益に結びつかどうかというのも、軍需産業に携わっている企業の利益に結びつくだけでは、またその企業の株価が上がるだけでは何とも言えないし、日本がスウェーデンのように軍需産業で潤う国になれるかというのも、それ以外の産業の割合の方が圧倒的に高いだろうから、すぐにそうなるわけでもなさそうで、要するにその政府高官というのが軍需企業から献金などを受けている可能性もあるだろうから、そういう枝葉末節で部分的な事情が関与しているなら、その発言自体も大したことはないと結論づけても構わないようなことにもなってしまうから、どうということはないと軽く受け流したくなってしまうが、その一方で国家統治には国家防衛も含まれてきて、何から国家を防衛するのかというと、隣国の軍事的な脅威から国家を守らなければならないとなると、どこまで軍事力を強化するのかという程度の問題となりそうで、また他にも他国との同盟関係の面でも色々と厄介な事情もあるだろうから、口実としてアメリカから防衛費の増額を求められているとしても、軍事負担を増やして日本の経済力を削ぐという意図もありそうだから、それをそのまま真に受けるのも馬鹿正直過ぎるような気もしないではなく、そこでもアメリカとしては日本が核武装して軍事強国になるのは望ましくなく、いつまでもアメリカの従属国としてアメリカの意向に従う程度の中途半端な国であってほしいだろうから、その辺の圧力加減が微妙に曖昧なのかも知れず、というかそんなことまで考える必要もなく、防衛族議員なら軍需企業と癒着して防衛力の増強を訴えていれば務まる程度のことであれば、またもや簡単な話となってしまうだろうが、それにしてもイスラエルはイランやイエメンに対して核攻撃は今のところは行わないし、ロシアもウクライナに対して核攻撃を行わないのに関して、微妙に核兵器が威嚇目的以外には使えないのか、使ってしまうとヤバいのかも、今後実際に核保有国が核兵器を使えば、その辺の事情がわかるのかどうかもよくわからないが、あからさまに核兵器を保有すべきだと言ってしまう奴の感覚が、その辺の空気を読めないことから不用意な発言だと言えるかどうかも、あるいは当人は機会を捉えて仕掛けたつもりなのかどうかもよくわからないのだが、実際にも笑ってしまうような結果となっているみたいで、高市の台湾有事発言に触発されたのかも、そのつもりもないだろうが、発言した本人が自身の意図に気づいていないような気がするわけだが、またそんな発言がタイミングよく飛び出すこと自体も、別に高市政権が高支持率を維持しているにも関わらず追い込まれていることの兆しとは言えないだろうが、高市政権が今後どうなろうと、日本の政治経済情勢が進んで行く方向性は変わらないと考えたいのだが、それがどんな方向なのかというと、少なくとも批判勢力が懸念している方向ではないことは確からしく、政治的な方面の懸念や心配は相変わらず続いて行くだろうが、それとは違う方面から現状のごまかしやまやかしの政策を乗り越えて進行する成り行きがありそうで、現にそういう方向で尽力している勢力がいくらでもいて、そんな勢力が今後政治的な主導権を握るわけでもないだろうが、それでも構わないわけで、今もそうだが、昔からそうだったのかも知れないが、人々が政治に騙されているのではないなら、政治の限界に気づいているとも言えないのだが、たとえ意識して気づいてなくても、政治がやりようのないことをやろうとしてもできないことをわかっているとも意識してはいないだろうが、結果がそれを示しているようにも感じられて、それは政治情勢について何かもっともらしいことを述べている識者やジャーナリストなどの言動からも窺い知れることになるだろうが、社会に直接関与できないわけではないが、関与しようとして跳ね返されている実態は確実にありそうだから、そういう面ではなめられているようにも見えるわけだ。


12月23日「囲い込み運動」

 現在進行中のAI革命は、AIによって職が奪われる面に関しては、その前のIT革命でもそういう面があったわけだから、その延長上で起こっていることだろうが、さらに時代を遡れば、イギリスの産業革命前後で起こったエンクロージャーと呼ばれる囲い込み運動でも、似たような面があるのかも知れず、エンクロージャーとは、中世以来の開放された農地や共有地を、柵で囲って私有地化して集約化する動きで、十六世紀から十七世紀の第一次と十八世紀から十九世紀の第二次の二度にわたって大規模に行われて、農業の資本主義化を促進して、土地を失った農民を都市の工場労働者へと転換させて、産業革命を支える労働力を供給する資本主義の原始的蓄積の過程として重要だそうで、第一次は羊毛生産のための牧羊化が目的で、第二次はノーフォーク農法などの効率的な農業技術の導入のためで、いずれも農民から土地を奪い、資本と労働力を生み出す結果となったそうだが、マルクスは『資本論』で、この過程を原始的蓄積の典型例として分析して、資本主義社会の成立に不可欠な過程と位置づけたようだが、それをそのまま現代に当てはめるのもかなり強引な解釈だが、第一次エンクロージャーに当たるのがIT革命で第二次エンクロージャーに当たるのがAI革命だと見なすなら、何かしっくりくるような気がするわけで、イギリスの産業革命前後の囲い込み運動では土地が囲い込まれたわけだが、IT革命やAI革命前後の囲い込み運動では資産がコンピュータなどの情報技術によって囲い込まれたと解釈できそうで、紙などの印刷物で管理運用されていたのが、デジタル情報として管理運用されるようになったわけで、それによって事務処理が効率化されたから、IT革命では主に事務系の職種が奪われて、さらにAI革命では奪われる職種が多岐に及ぶことになりそうだが、果たしてそれによって人々が産業革命によって課された労働から解放されることになるかどうかも、まだ現段階では何とも言えないだろうが、現状で奪われつつある職種に代わる新たな職種が作られるかも知れないが、案外それが職種ではなく、働かなくても誰もが生きて行けるようになれば、確かに労働から解放されることになりそうで、そんなのは現状ではあり得ないと思うが、産業革命がそうであったように、またそのはるか以前の農業革命でもそうなったように、弊害ばかりで苦労が絶えない社会になるかも知れないし、実際にそうなってみないことにはわからないだろうが、それに反して人々が願っているのが、今より生活が楽になってほしいということだろうから、生活を楽にするための産業技術によって、かえって過酷な生活を強いるような未来になってしまうのは勘弁してほしいだろうが、それに関しては以前の産業革命や農業革命の成り行きを振り返ってみるなら、絶え間ない道具や機械の技術改良や技術革新によって、各種の生産が増大すると共に、養える人口も増えたわけで、それによって生活が楽になったり豊かになる面もある一方で、そんな道具や機械が人間同士の争いに応用されて使用されることになるから、それによって弊害も生じてきて、それが争いの大規模化であり、そんな争いが大規模に繰り広げられるのが戦争になるわけで、人口が増えた分だけ争いの規模も大きくなれば、破壊される建造物や死傷者の数も増えることになると、そんな争いのただ中で暮らしている人々の生活も確かに過酷を極めるわけだが、なぜ争うのかと言えば、他人や他の集団から利益を奪おうとするから争いが起こるわけだが、道具や機械の技術改良や技術革新自体も、改良されていない道具や機械を使っている他の人や集団から利益を奪うために、絶え間ない技術改良や技術革新が試みられていると考えるなら、それ自体も絶え間ない争いの中で、技術改良や技術革新が起こっていることになるわけで、それは農業革命以前の狩猟採集生活においても、他の動物や別種の人類との間で繰り広げられた生存競争の中で、狩猟道具や採集戦略の絶え間ない改良や革新が起こっていて、道具や戦略の改良や革新によって人類が生き残ってきたと言えそうで、そして農業革命においては自然からより組織的かつ効率的に収奪するやり方を編み出したと言えるだろうから、一時的には自然との争いに勝利したと言える面もありそうで、実質的にはより過酷な労働を強いられるようになったとも言えるだろうから、良い面も悪い面もありそうだが、そういうことの延長上で産業革命でも、当初はさらに大勢の人々が過酷な労働を強いられて、労働者が悲惨な生活を送らなければならなくなったのだろうが、それも時期や状況によって様相が微妙に違ってくるだろうから、そういう面もあった程度に解釈しても構わないだろうし、どのような時代状況の中でも、絶えず争いに勝利すれば一時的には勝利している間は生活が楽になったような気がするわけで、実態としてはそうでもないかも知れないが、だから現状でも以前と比べて生活が楽になったように感じられる人がいれば、その人は何らかの争いに一時的に勝利しているから、何に勝利しているのかもわからなくても、楽な生活を送っているように感じられるかも知れないが、そんなのも気のせいと言えばそう言えないこともないだろうし、気にしなければ何でもないことになってしまう程度のことに過ぎないのだが、その一方でそれが何であれ争いのただ中で活動しているように感じられるなら、その争っていること自体に生きがいを感じられるかも知れないが、そうなっている分だけ、より過酷な環境の中で活動しているようにも感じられるかも知れないし、そうなっていること自体も、嫌々強いられて否応なくそうなっているか、逆に自分から積極的かつ主体的な姿勢や態度で争いに参加している気になれるかで、その場の気分も違ってくるだろうが、その種の闘争心をむき出しにして、自ら戦いを挑んでいるつもりになっていること自体も、それと気づかないうちに争いのただ中に囲い込まれていることの証拠かも知れないし、社会の構造自体がその中で人々を争わせることによって社会が維持されるような仕組みなのかも知れないから、それが競争社会と呼ばれるのだろうが、やりたくもない争いや戦いをやらされて消耗してしまうのが嫌なら、それ相応の戦略的な態度や姿勢でうまく立ち回る必要も出てくるのだろうが、普通はそんなことなど意識できないし、何と争っているのかも戦っているのかもわからない場合でも、気づかないところで何かと争っていたり戦っていたりするから、その争っている程度や戦っている度合いも、大したことはない程度や深刻な事態をもたらしているものまで千差万別だとしても、そんなことの延長上で人間社会が成り立っていても、いちいち気にしている暇などない日々の中で暮らしているなら、それで済んでしまうだろうから、だからそれがどうしたと言われても、何をどう返答すればいいのかわからないわけだが、少なくとも今後AI革命によって労働が不要な社会がもたらされても、どうせ争いは続いていくだろうから、争うことが生きがいだからこそ、絶えず他人の言動に対して批判がもたらされるし、他人の言動がおもしろくないのは社会の中では立場や役回りが違ってくるから仕方がないのはわかりきったことだが、そこで善意に基づいた建前としては争いや戦いをやめさせるようなことが推奨されるわけで、しかもそれが建前であることもわかりきったことだとしても、その一方でなし崩し的に争いや戦いを継続させて、そこから利益を得ようと試みるのが、ゲーム的な戦略となって、様々な方面で活用されている実態もあるわけで、そういう面を考慮に入れるなら、AIの活用も争いや戦いに勝つための戦略の一環でやっていることになるだろうから、結局は社会の中で人間を活動させるには、その活動が活躍と言われたりすることもあるにしても、それ自体が争いや戦いの一種だと見なすなら、他の活用法も色々とあるにしても、争ったり戦ったりするための道具や機械がAIそのものだと言える面もあるのかも知れない。


12月22日「主張にならない主張」

 何かのきっかけからまたもや他人の態度や姿勢に対して軽蔑的な言葉が思い浮かんで、もういい加減に嫌になってくるわけでもなく、いつものようにそうなる経緯がわかっていないのはお互い様で、そこで闇雲に語られているのは、ただの語るのに都合の良い主張でしかなさそうで、しかもそれによって何を主張していることにもならないとしたら、いつかは理解し合えるかも知れないとか、そんな淡い期待も裏切られるしかなく、しかも意識してそれを主張しているのではなく、結果的に主張しているように感じられてしまうから、そこから誤解が生まれてくるのだろうが、そんな成り行きの中で何を考えているのかと問うまでもなく、何も考えていないわけではないが、そこに至るまでの成り行きの中で何が起こっているのかというと、それもなぜかそこへと至れずに、言葉が指し示す目標まで到達できないわけで、確かにそれなりにもっともらしいことを主張しているのに、なるほどそう言われてみればごもっともだと思われることが主張されているのだが、なぜか現実の世界ではそれが通用していないようにも思われるから、そんな観点からすれば他人の主張に賛同できないのもうなずけるが、賛同できなくても参考にはなるから、そんな他人の主張を参考にしながら自分の主張を練り上げようとしているわけでもないが、結果的には主張にならないようなことを述べているのかも知れず、果たしてそれが主張にならない主張だと言えるかどうかも、実際にそれを主張しているつもりにならないと、何を述べているのかもよくわからなくなってしまいそうだが、たぶん単純な理屈に囚われてその場の情勢を見誤っていると言えそうで、投機筋の短期的な思惑から円安に為替が誘導されているとしても、日銀が利上げしたらより一層の円安になったこと自体に驚いてしまうのも、アメリカのFRBが利下げして日銀が利上げすればドル安円高になるのが、普通に考えられるもっともらしい成り行きだとしても、そこに影響を及ぼしてくる要因がそれだけではないことも考慮に入れるなら、現状の円安も説明できないわけではなく、実態としては物価高に利上げ幅が追いついていないのだから、実質的には金融緩和状態が継続されている限りで、ちょっとだけ利上げしてもまだ円安誘導になっていると解釈するなら、現状の円安状態も納得できないまでも、それなりに致し方のない情勢だと言えそうで、その程度の利上げではインフレを抑える効果はないと言えないこともなく、そういう意味では政権の財政拡張路線をなし崩し的に是認していると受け取られても、文句は言えない情勢であり、利上げしてインフレを抑え込むという断固とした意思を表明できず、そんなシグナルを市場に送れない隙を突いて、短期的には投機筋の円売り攻勢を招いている最中だと言えないこともないが、それもいつまで続くかは不透明だろうし、日本だけの事情で決まるわけでもなく、アメリカのFRBがさらに利下げして、日銀がさらに利上げする事態になれば、それも利下げや利上げの程度にもよるだろうが、場合によってはそこからドル安円高に反転する可能性もあるかも知れないから、現状の円安状態だけから日本の経済情勢がどうのこうの言えるようなことでもないだろうが、さらにそれを政権批判に結びつけるのも、何か批判するのに都合の良い口実を見つけて批判しているだけなようにも思えてしまうから、あまりその種の主張には説得力は感じられないのだが、それでもそんな主張には一定のレベルで安心感をもたらしているようで、またいつもの調子で間抜けな奴らが政権批判をやっていることが安心材料にはなるわけだが、しかもそれを間抜けな奴らだとは全く思っていなくても、心にもないことを述べてしまえる情勢かも知れないから、何となくその場のノリでそれらの人々のことを間抜けな奴らだと見なして悦に入っているわけでもなく、それほど愉快な気分にはなれないわけだが、愉快な気分ではなく情けない気分にもなれずに、ではどんな気分になれるかというと、そうなるとそんなふりをしたり装ってみたりして、だいぶ演技としての戦略的な姿勢に近づいてしまうだろうが、少なくとも彼らの批判対象と彼らの批判が同期していて、彼らが彼らの批判対象を馬鹿にしている限りで、彼ら自身も彼らの批判対象とそれほどの優劣も有利不利も大差ない状態が維持されてしまい、そうなると彼らも彼らの批判対象と同レベルで馬鹿にされても文句は言えないと考えても構わないとも思えないのだが、そうは思えないのに結果的にはそうなってしまった方が自然な成り行きのように感じられてしまい、だから自らの批判対象を馬鹿にしてはまずいような気がするわけで、大抵は自身と同レベルな対象については批判的な態度で批判できる一方で、自身より遥かに高いレベルの対象を批判できるかというと、そうなると批判するのが身の程知らずな行為であることを思い知らされるだろうから、そんな対象は批判の範疇には入らない一方で、自身より遥かに低レベルだと思われる対象になってしまうと、批判するのではなく馬鹿にしてしまうのかも知れず、しかも自分より下に見ているそれが、意外とそれを馬鹿にしている自分の方が下である可能性もあるから、そんな思い上がった態度になっているのを見ている他人にとっては、何となくそれが間抜けな感じがしてしまうわけだが、もちろんそれが上か下かなんて一概には言えないような気もするなら、同程度のレベルの対象だと見なしておいても良さそうだが、それなら馬鹿にしてはまずいと思わないと、何となく身の程をわきまえた態度にはなれないような気もしてしまうわけで、それに関して何かこれ見よがしな言い回しとして気になっている表現があるかというと、例えば批判対象を経済音痴だとか馬鹿にしている者たちの方が遥かに経済音痴だと感じられると、何かそれが間抜けな事態だと感じられてしまうわけだが、どう考えても音痴だとかいう比喩で語られる内容ではないような気がしてしまい、そもそも比喩の用い方が間違っているような気がしてしまうのだが、政治から経済へと何か作用や影響を及ぼせるかというと、それもそんな結果から政策の失敗だとか批判されることが、そうならざるを得ないような成り行きの中でそうなってしまうように感じられるのであり、政治側の事情を考慮に入れるならそんなことをやらざるを得ないようなことをやるわけだから、その結果としてうまく行かないようなことになれば、それが批判の口実になるだろうから、そんな批判に対しても、そんなふうに批判されて当然のような結果がもたらされていることを認識せざるを得ないし、そんな成り行きの中で何をどう考えてみても、結果的に批判されるようなことが行われるのだが、しかも批判されながらも行われた結果をさらに批判するわけだから、そうなっている限りで批判されながらも行われていることがそれなりに通用していると考えなければならず、少なくともそんなことをやっている政権が崩壊するまでは、絶えずそんなやり方を批判されながらもそれが続いていくことになるから、それを続けていられる限りで政策が通用していると考えられるわけだが、実際に円安株高になっていればそれで構わないわけではないにしても、株高の恩恵を受けている者たちからはそんな政策が支持されているのだろうから、そういう方面では通用していることになりそうで、その一方で円安で物価高を懸念する者たちからは批判されるわけだろうが、だからといって金利をもっと上げろと主張されても、変動金利で住宅ローンなどを借りていれば、金利が上がったらヤバいだろうから、そんな方面からは金利を上げることには反対されるだろうから、何か金利の上げ下げとは違う方面からも対策が求められている面もありそうで、実際にそういう方面でも何かしら政策を講じようとはしているはずだろうが、もちろんその程度のことは政策の担当者にもわかっているだろうから、何かしらそれらしいことはやろうとするのだろうが、それがうまく行くかどうかは、うまく行かないなら批判されるだろうが、うまく行かなくてもやっているふりぐらいはするだろうし、またその成果を強調するような宣伝もやるのではないか。


12月21日「奇異な振る舞いに隠された意図」

 他の誰かの振る舞いが奇異に感じられるようなら、その誰かの振る舞いがその場の成り行きに合っていないのか、それともそれを奇異に感じている者の感覚がずれているのか、もたらされているのがそれだけの情報ではどちらともいえないし、どちらでもないかも知れないし、どちらでもあるかも知れないが、安易にそうだとは言えないような気がするなら、誰かの振る舞いに惑わされているような気もしないではないが、そこからそれ以上の何が言えるわけでもないから、その件に関してはそこで話がおしまいになってしまいそうだが、無理に話を続けようとして、逆に意識してその場の成り行きに合うように振る舞おうとするなら、自然な振る舞いではなくなってしまいそうで、それを自然に振る舞っているように見せかけたいなら、それがわざとらしい演技のように見えてしまって、逆効果をもたらしているような成り行きに囚われてしまうから、そんな他人の振る舞いが他の誰かにとっては奇異に感じられるのかも知れないし、その場の成り行きには合っていないようにも感じられてしまうのかも知れないが、そもそもそれがどんな振る舞いなのかが明かされていないわけで、いったいどんな振る舞いが奇異な印象を受けるのかがよくわからないのだが、たぶんそれとこれとが地続きでないようなことを理解できないようなことではなく、クロウンとクラウンの違いが何なのかと理解できないとなると、道化師と王冠の違いになるだろうが、道化師がCLOWNで、王冠がCROWNであるなら、LとRの発音の違いが判別できない日本人程度のことになるだろうが、王様をクラウンと言うのかとAIに問いかけてみたら、王様のことをクラウンと言うことはあるが、ただしクラウンと言う言葉は、実際の人物である王様=キングそのものではなく、象徴としての王権や王室であり、物理的な王冠を指すだけでなく、国王という地位や王室や君主制そのものを象徴する言葉として使われて、王室制度全体を指すそうで、特定の人物を指してあの王様はクラウンだというのは不自然だが、王権や王室といった概念を指す際にはクラウンと言う言葉が適切に使われるそうで、ジョニ・ミッチェルのダンシング・クロウンという曲があるのだが、それがアバのダンシング・クイーンのパロディなのかと思いながらも、つい最近までそれが踊る王様だと誤解していて、何かのきっかけからそれが踊る道化師だとわかって、長年の誤解がようやく解けたような気がしたが、そういえば確か日本のヘビメタバンドというか、一人でやっているのかも知れないが、王様というがいるのだが、その王様の衣装が王様そのもので、それが道化師と王様のダブルミーニングなのかと、そう受け取っても良いかどうかも、それほど詳しくないので何とも言えないところだが、さらに言えば、有名な画家のベラスケスの絵画でラス・メニーナスというのがあり、国王夫妻の肖像画を描いているベラスケス自身を描いている絵画であって、肝心の国王夫妻の姿が背後の鏡に目立たないように写り込んでいる一方で、国王のお供の道化師は飼い犬と共にちゃっかり右下の隅に描かれているのが印象深いが、もっと直接的にアンデルセン童話で裸の王様も有名だが、高い地位にある者が周囲の意見を聞き入れず、真実が見えなくなっている状態を皮肉る寓話として理解されるわけだろうが、王様が道化師のように振る舞っていると解釈するなら、わざとそう振る舞っておいて、自分が裸であることを部下や臣下が忠言できるかどうかを試していると受け取れなくもないが、そういう振る舞いなら誰もがそれとわかる奇異な振る舞いには違いなく、果たしてそんなわかりやすい事例が現実の世界にあるとも思えないが、それに関して例えば、〇〇が日本を滅ぼすという紋切り型の表現がメディア上で見受けられたら、ちょっとは警戒してそんな表現に騙されないように身構えた方が良いかどうかも、実態としては誰も騙されていないように感じられるのだが、それが薄められた善意の共有というマイルド〇〇がよく使う表現に結びつくとも思えず、なぜそれがマイルドなのかと考えてみても、ベラスケスがラス・メニーナスによって当時のスペインでは王権がいかに影の薄い存在であったかを表現してみせたと穿った見方などしなくても、何がマイルドなのかも誰もがわかっているような気もしてくるのだが、そこから日本人は誰もがマイルドヤンキーであり、残クレアルファードの世界で生きているわけでもないだろうが、そういう典型例こそがメディアによって作られた虚像なのも誰もがわかっていること自体が、善意の共有というマイルドな世の中の情勢そのものなのかも知れないし、それがマイルド〇〇だからこそ高市政権の支持率も高いと言えそうだが、政治家がまるで道化師のように振る舞っていると理解できるような情勢かというと、確かに首脳会談の際の一連の政治的なパフォーマンスの中で、高市とトランプの振る舞いが奇異に受け取られたこともスルーの対象となるだろうが、成り行き的には予定調和のようにしてそんな流れになっているわけで、何が予定調和なのかといえば、マイルドヤンキーが高市である一方で、本物のヤンキーがトランプであるところも、しかもマイルドヤンキーによって日本が守られていると解釈してもいいのかというと、批判勢力としてはマイルドヤンキーによって日本が危機に瀕していると主張したいところだが、もっと直接的にメディア表現に近づけるなら、〇〇が日本を滅ぼすと言い放ちたいところかも知れないし、それをもっと事態をマイルドに考えるなら、マイルドな危機に瀕している一方で、マイルドな滅亡に直面していると言えそうで、危機も滅亡もマイルドなのだから、大したことはないとたかを括っておけばいいのかというと、危機も滅亡も批判的なメディアによって偽装されたものだと考えておいても構わないし、案外そんな偽装によって日本を守っているつもりになりたいのかも知れないが、それも守るべき対象が日本ではないのかも知れないし、日本ではないとするといったい何を守っているのかと問われるまでもなく、それがLとRの発音の違いを判別できない程度のことであると共に、クラウンを守っているつもりがクロウンを守っていると勘違いしているわけでもないが、それを王冠を被った道化師の類いだとトランプから連想してみても、まだ勘違いの度合いが高いのかも知れず、ただのピエロだと軽く見ていたら、それがバットマンに出てくるジョーカーのような役回りで、世界を混乱に陥れることを楽しんでいる悪のカリスマが誰かと考えてみても、トランプやプーチンや習近平がそうであるはずもなく、それに対して日本のマイルドヤンキー程度ではそれらのカリスマ的な存在には到底及ばないこともわかりきっているから、日本を滅ぼす力などあるはずもなく、そんな力などなくても、批判勢力が探り当てて指摘するような不正な行為によって日本が滅ぶのかと疑念を抱くわけでもないのだが、逆に薄められた善意の共有によって今後日本社会が衰退の一途を辿るとしたら、その薄められた善意とは何なのかと考えてしまうところだが、たぶんそれこそが日本を守る対象に含めてしまうという勘違いな思いだとは言えないまでも、守る対象を間違えているとすれば、ではいったい何を守ればいいのかよくわからなくなってしまうが、お前らのような頭の足りないアホな奴らが日本を守らなくても、日本が勝手にお前ら全員を守ってくれるよと神のお告げが下されるわけでもないが、日本がどうだということではなく、それを日本だとは思わない方が良さそうで、では日本でなければ何なのかというと、あえて誰かが守ろうとしなくても滅びもしない幻想の共同体を日本だとかアメリカだとか中国だとか呼んでいるのだろうが、そこに実態があるのかというと、ありそうでないようなフィクションの産物なのかも知れないから、それを真に受けるような心境にはなれないわけではなく、それがフィクションだからこそ、守るとか守らないと滅びるだとか勝手にそれについて語ってしまっても構わない概念なのではないか。


12月20日「宗教に関する記憶違い」

 当初においてはそんな話ではなかったような気がしたのだが、気がつけばそういう話だったことにされてしまって、何だかそれでは納得がいかないのだが、しかも今ではそれが何の話だったのか思い出せなくなっていて、さらにそれの何に納得がいかなかったのかも思い出せないとなると、完全に頭がボケてしまったような気がして、もう少し言葉を記していくうちに、運が良ければ不意に思い出すきっかけに遭遇できるかも知れないが、思い出せないままでも構わないような気もするから、このままの状態で話を進めて行くしかないようだが、そんなふうに話のとっかかりでつまずいているようでいて、それがきっかけとなるとしても、思いがけない結果がもたらされる前兆現象だと勝手に想像してみたりしても、相変わらず何のことやらさっぱりわからない今日この頃だが、逆説的な成り行きとしては、株価が暴落するぞするぞと煽っている者たちがあきらめて煽らなくなった時が、真の意味で暴落間近だと言えそうなことかも知れないが、だから株価の暴落が実現するには、まずは暴落するぞするぞと煽っている者たちを黙らせるような安心感が市場にもたらされないことには、それが実現しないと言えそうで、当初はそんな筋書きで事が進んでいたはずだったが、なぜか話の途中から事情が変わってきて、もう株価の暴落なんて心配する必要もないんだと吹聴する者まで出始めてしまえば、それが何の話なのかと不思議がられて、どこの誰が不思議がっているわけでもないだろうが、たぶん株価が暴落するとかしないとかいう判断とは違うレベルで事態が進行中であることが次第に明らかとなってきて、そんな話題などさっさと忘れ去られてしまい、そうやって誰もが忘れた頃に株価の暴落が起これば、ようやく話が蒸し返されて、過去に暴落を煽っていた者たちが、そら見たことかとあたかも自身が暴落を予言していたかのように主張し始めるなら、なるほどと誰もが合点がいったような気分になれるかも知れないし、それの何が合点がいったと思われるのかよくわからないようなことかも知れず、重層的に複数のニュアンスが絡み合っているから、それをどう言い表せば納得がいくわけでもなく、合点がいったとしても、何の合点がいったのかよくわからないが、ともかく合点がいったように感じられて、そういうことだと結論づけて事を収めておけばいいような気もしてしまうなら、そういうことで構わないだろうが、それでは納得がいかないのもうなずけるような事の経過なのかも知れず、要するに事の本質は実際の現象とは別のところにあって、社会の共同幻想となる群衆心理がこれから起こり得る事態を先取りしようとして勝手に暴走している最中であるから、それが実際に起こっている事態とはかなりずれていても、そんなのは枝葉末節な付け足しのような些事でしかなく、そんな些事を深刻に受け止めてみても、当てが外れてしまうのも当然の成り行きだとは言えるが、当てが外れるように仕向けられているような気がするなら、そういう成り行きには黙って従っておいた方が無難なような気もしてくるから、だから現時点で暴落するぞするぞと煽っている者たちの言うことには、そうかそうかとそれを真に受けておけばそれで済んでしまうわけで、それが時流に流されている態度になりそうだが、しかもどういうわけか知らないが、それを真に受けているのに、そういう者たちの言う通りにはできないわけで、何だかそれが、そうなっている仕組みが自分でもよくわからないのだが、株価が暴落するぞするぞと煽ってしまうこと自体が、そんなことを言ってしまったり述べてしまう者たちが他にもいくらでもいる中の一人に過ぎなくなってしまうから、その種の紋切り型の言説の罠にハマっているのは確かだとしても、もっともらしいことを述べているのも確かで、その時点で株価が暴落するぞ教という宗教に入信しているような思い込みに囚われているわけでもなく、本当に今後株価の暴落が起こるとしても、別にその人の努力や尽力によって株価が暴落するわけでもないから、完全に他力本願であって、だから信用できないというわけでもなく、ある程度は信用しているわけだから、そんなふうに煽っている者たちを批判する筋合いもないのだが、何だかそんな疑心暗鬼に陥っている集団心理のような現象がおもしろおかしく感じられて、何となくそこに言及したくなるような誘惑には逆らえず、ここまでいい加減に適当なことを述べてきたわけだが、それが特徴的な傾向を示しているとしても、そんな傾向から窺える社会情勢というのも、いつも通りの軽薄この上ない浮わついた気分が蔓延しているようにも感じられるが、それが一面的な傾向としてはそうなのだとしても、そこから深刻な事態となるように想像を巡らせている限りで、それを正当化できるような気もするだろうが、それが深刻な事態を招くからこそ、事前にそうなる危険性に関して注意を喚起する理由が生じてくるようにも思われて、それが煽りの正当化に他ならないのもわかりきったことだとしても、そんな煽りを前提とした情勢が形成されていることもわかりきっているのだから、煽った結果が情勢として形成されているとも言えるわけで、煽りを織り込んだ現状となっていて、しかも煽りだけが現状に作用しているわけでもなく、他の要素や要因も現状に少なからず影響を及ぼしているわけだが、それが何なのかといっても、煽っているのに比べて目立たないから、そんなよくわからない正体不明の要素や要因など考慮に入れられない一方で、煽っているのが目立ってしまうから、それを真に受けないわけにはいかなくなってしまって、つい煽りの誘導に従いがちになってしまうのだろうが、実際にそれを真に受けて煽りの誘導に従っているつもりなのに、なぜか煽っている者の言う通りにはできないわけだから、そういうところが謎といえば謎なのだが、要するに煽っている者たちとは違う事情や経緯が生じていて、そちらの方が縛りが強いから、他人の煽り程度ではその縛りが解けないと認識しておくしかないのかも知れず、そんなわけで、せっかくこれ見よがしに株価が暴落するぞするぞと煽られて、それをある程度は真に受けているのに、なぜか煽る者の誘導には従えずに、今後株価の暴落に巻き込まれて、何で俺たちがあの時あれほど警鐘を鳴らしたのにお前らは俺たちの言うことに従わないのかと咎められても、申し訳ございませんと謝るしかなさそうだが、果たして今この段階でそんな嘘をついている場合なのかというと、それもここだけで嘘をついても大した事態を招くとも思えない限りで、安心して嘘をついても構わないような状況なのかも知れず、それが嘘なのかどうかも自分にはよくわからないのだが、それも当初においてはそんな話ではなかったような気がするのだが、そこで判断の対象となっていたのは嘘をつくつかないかではなく、煽動者の誘導に従うか従わないかでもないとするなら、そんなもっともらしい煽り文句を真に受けるか受けないかでもないのかも知れないが、たぶん納得できないのは、群集心理とか集団的な思い込みから生じる共同幻想の類いとは違うレベルで起こっている現象が、群集心理や共同幻想に囚われた者たちに制御できるようなことなのかどうかも、まさかそれが株価の暴落を防ぐための試みとして評価できるわけでもなく、結果的にはそうなっているとしても、誰もそうだとは認められないどころか、株価の暴落を煽っている者たちにしてみれば、実際に株価が暴落しないと彼らの自己実現が完遂しないわけだから、皮肉な逆説が生じているのかも知れず、そこで何かのパラドックスが起こっているのではないかと勘違い気味に考えてしまうこと自体も、実はそうではないことがどうやって証明できるわけでもないが、そこに作用や影響を及ぼす要素や要因が他にもあって、それがそうなることを願ってしまう者たちの煽りによって目立たなくされてしまうから、それについて考えたり分析しようとする者の思考を混乱させる原因となって、結果的にもたらされる事態には納得できないような気にさせるのかも知れない。


12月19日「至福の時間」

 至上の時とはどんな状態の時なのかと改めて考えてみるまでもなく、別に中上健次の『地の果て至上の時』を読みたいわけでもなく、それが至福の極みだとか、悟りの境地だとか、煩悩から解脱した涅槃の境地だとか、勝手にそんな精神状態を思い浮かべてみたところで、今ひとつピンとこないが、普段はそれよりはだいぶ下の低レベルと言っても良さそうな心理状態でいるような気もして、それが自分にとって都合の悪い方面から目を背けて、そんな自分の立場を正当化できるところだけ強調できれば、そんな状態を維持していられる限りで、至上の時を過ごしていられるわけでもないだろうが、ではそれより遥かにマシな心身の状態の時がどんな状態なのかというと、それが中途半端に様々な方面から無視できない作用や影響を及ぼされて、至上の時を過ごせないように限界づけられた不自由な状態だとしたら、そこで意識して何を手加減しているわけでもないのだが、それどころかそんな中途半端な焦ったい状態を脱したいと願いながらも、なかなかそこから抜け出せないとしたら、別にそれによって至上の時を過ごせなくても構わないような心境となってしまいそうだが、そんな幻想を抱くまでもなく、誰もが逃れられない何かによって限界づけられている中でも、大抵は経済によって活動が限界づけられてしまうだろうから、他の何にも増して経済を優先させなければならないと思っているわけでもなくても、自然とそうなってしまうような成り行きに囚われていそうだが、それが何かの罠だと感じるわけでもなく、他の何にも優先して目先の利益をつかみ取ろうとしている状況でもなさそうなら、もっと余裕があるように装いたいのかも知れないが、ではいったい他の何に価値を見出したいのかといえば、それもそんなふうには改めて考えてみるまでもないことかも知れないし、それが価値のあるなしに関わらず、ただ漠然と自由を求めているような気もしないではないが、それが幻想で、逆に自身にとって都合の良い何かに束縛されていたいのかも知れないし、それもいったい何に束縛されていたいのかと考えてみるまでもなく、改めて考えるようなことでもないとしたら、経済的な価値に思考や感情を束縛されていると言えるような状態なのかも知れず、しかもそんな価値や価値観に束縛されていることに気づけないわけで、何かの大前提として自らがそうなっていることを信じて疑わないことにも気づいてないから、それが始末に負えないわけではなく、そうなっていないと自身や自身を含んだ集団の活動が成り立たないような状態となっていると捉えるなら、そんなことでさえなぜか自覚できないまま、強いられてそうなっていることにも気づかないまま、それを強いるような活動に囚われて、それとは別の大切な何かにこだわれなくなっていて、しかもその大切な何かというのが、必ずしも経済的な利益には結びつかないから、逆に経済的な余裕がないと気づきにくく、わざとそれを無視することによって経済を優先させるような成り行きに巻き込まれてしまうと、またもやそれを自覚できなくなって、エコノミックアニマルのような活動状態となってしまうのかも知れず、果たしてそんな状態の中で、至福の時間を過ごしているように感じられるかというと、何かしら利益が出ているように感じられると、そんなふうに錯覚してしまうのかも知れず、そしてそんな状態に至れるように、今を犠牲にして時間に限界づけられた労働に没頭しようとして、それが絶え間なく努力しているような自己肯定と共に明るい未来を予感させるかも知れないが、そんな余裕のない状態を否定的に捉えてはまずいと思われて、しかも今を犠牲にしているわけではなく、働いて稼いでいるのを肯定的に受け止めていて、しかも皮肉を込めてそう思うのではなく、人生の中でそんな時期もかつてあったような気もした程度にそう思われて、今はそんな時期から遠い彼方で別の何かを経験している時期であり、労働していた時期とは違う時間軸に捉われているから、他人の痛みにも鈍感になっていて、だから他人が狂気に囚われて街頭で何かわけのわからないことを怒鳴っていても、ただうるさいと感じるだけにとどめておいて、そこからさっさと立ち去ろうとしてしまうのかも知れないが、そんな内容の動画もスルーできるかというと、実際にスルーした上でこんなことを述べているのだから、うまくそれをやり過ごすことに成功したと思っておいても構わないだろうが、またその動画の中では、狂気に囚われながら怒鳴っているのではなく、誰かが街宣活動をやっている最中なのかも知れず、善意でそんな街宣に耳を傾けても構わない程度に心の余裕があるかというと、それも余裕があるから耳を傾けるのではなく、その気もないのにそうなってしまうような成り行きに囚われてしまうから、自分の意思や意志や意向が作用してそうなってしまうとも言えないのかも知れず、場の力に黙って従っておけば事なきを得られるような思い込みの中で行動が限定されてしまうから、そうなってしまうとしても大して苦にならないわけで、そこで言われている内容などはすぐに忘れてしまえば、その場限りの雑音にかき消されて、それも他の雑音にまぎれ込んだ雑音に他ならず、雑音でしかないなら、言語によって示されている内容を無視できないまでも、言われているその意味を理解できないかのように装えるのかも知れず、そうなれば他の誰かの不正行為や違法行為に引き寄せられることもなく、何とかそれらに対する批判に及んでしまうのを回避できるとも限らないが、要するに何かの言い訳として経済が問題視されていて、スケープゴートとして利用されているわけだが、そちらへと目を向けさせておいてから、他の様々な問題が先送りにされるシステムが作動していると言えそうなのだろうが、本当にそんなシステムが作動しているのかと問われると、今ひとつ確信が持てず、メディアでも国会でも行われている見せかけの議論に惑わされているようにも思われて、議論してもしなくても構わないのかも知れず、議論するのが無駄というわけでもないのだが、無駄であっても構わないような成り行きの中で、無駄な議論が繰り返されているわけでもなく、議論すること自体が有益であり、議論すれば経済についての理解が深まると思っておいても構わないが、ただの妨害工作として機能するように経済問題が執拗に持ち出されるわけでもなく、それが何に対する妨害なのかというと、逆に不正行為や違法行為が追及されるのを妨害していると言えないわけでもなく、それもそんな追及自体が経済に関する議論が進展するのを妨害していると言えないこともなく、どちらが優先されるべきなのかと問う必要もないし、優先順位などあってないようなものだろうから、どちらの方面からも批判を機能させたいのだろうが、そんな批判をかわすには経済問題を持ち出せば、うまくその場をやり過ごすことができるわけでもないが、たぶん経済問題が解決不可能な問題だからと言っても、他の問題もそうだとも言えないし、根本的な仕組みとしては、問題を解決するための取り組みなのではなく、それ以前の段階で問題に取り組む姿勢を見せることが、そこでのやるべきこととして重要視されているような成り行きなのかも知れないから、そんな見せかけの姿勢に惑わされてはならないとも言えないし、多くの参加者が惑わされていた方がその場がうまく収まるような結果をもたらすのかも知れず、だから大いに惑わされるべきだとも言えないにしても、それと同時並行してそれに対する批判にも惑わされていた方が、何となく現状の維持に貢献しているような結果も出てくるから、どちらにしてもそんな議論に参加することに意義を見出すようなメディアの傾向ともなっていて、そうやって有意義な議論が繰り返されているように装われていれば、どうにか現状が維持されているように感じられるのかも知れないし、そんな有意義な議論が繰り返されている間にも至福の時間がもたらされているのかも知れない。


12月18日「地の果てと至上の時」

 何だかすっきりしない曇り空のような現状の中で、いつものように何をどう考えればいいのかよくわからず、しかもなぜかそれほど思い悩んでいるわけでもないようでいて、考えあぐねているようなふりをしながらも、かえってわからないことが考えるきっかけとなっているような気もしてくるから、それが好都合だと言えるかどうかもよくわからないのだが、現状がそんなよくわからない情勢なのかも知れないが、例えば産業の技術革新が社会問題を解決すると言えるかどうかも、逆に社会により一層の混迷をもたらしているような気もしないではないが、そんなふうに物事を語るのに都合の良いように社会情勢を捉えるなら、それが都合の良いように捉えているとも思えないのだが、結果的にはわかったようなわからないようなことを述べていれば、それで済んでしまうようなことなのかも知れないし、それでは気が済まないと、もう少しはっきりしたことを述べたくなって、焦って時事的な話題に飛びついてみても、何だかそれがメディアの世論誘導に引っかかっているような気がしてしまうから、それでは気が済まないのではなく、ただ単に気が進まないだけかも知れないが、昔ITバブルの最中だったかどうかは記憶が定かでないのだが、テレビのコマーシャルで、荒野のど真ん中に企業の担当者と管理職ふうの上司か誰かが呼び出されて、部下に向かって、何でこんなところに、今で言えばデータセンターのようなものを建てるんだ!と怒鳴っているの尻目に、部下は自信満々に土地が安いんですよ、と答えて、それに対してその怒鳴っている上司のそのまた上司もニヤリと笑みを浮かべながら、当時の専門用語のような内容を語りながら部下と意気投合している場面を思い出したが、オラクルのデータセンター建設が、それに出資する予定だった企業が降りてしまったのではないかと騒がれて、またもやAI関連株が暴落して、他の大手ハイテク企業はフリーキャッシュフローが潤沢にあるので、今のところは倒産する懸念はなさそうで、無理してAI競争に加わったオラクルやソフトバンクグループは危ういのかも知れないが、だからといって、そうやって競争から脱落する企業が出てくるのも、新たな産業技術が世に普及する過程では、よくある成り行きには違いないのだろうが、それとは次元の異なる現象かも知れないが、産業の技術革新が既存の問題を解決するのではなく、それとは別の新たな問題が浮上してきて、そちらの方が社会に強く影響を及ぼすようになるから、相対的にはそれ以前の問題が問題ではなくなってしまうのかも知れず、それが問題の解決と言えるのかというと、そう言っても構わないだろうが、昔の印象に残った光景と現状が入り混じりながらも、地の果ての荒野のど真ん中にAIデータセンターを建てるのではなく、そこからも遠く離れて、地球の周りの宇宙空間にデータセンターを打ち上げた方が、無限に近い太陽光を電力に活用できるから安上がりなんだと妄想を抱いている企業経営者もいるらしく、その筆頭格がスペースXのCEOでもあるイーロン・マスクなのだろうが、果たしてそんな構想が数年後にも実現するのかどうかも、現状ではよくわからないが、果たして本気でそんなことを言っているのかどうかも、何かの冗談のような気もしないではないが、件の企業の経営が危ないなら、現象としてはその企業と関連株が暴落するだけで、その煽りを食って関係のない企業の株まで暴落するわけでもなければ、全面的な暴落相場のような事態にはならないようにも思われるが、その企業に資金を貸している大手の金融機関まで破綻すれば、金融危機も発生して、それが引き金となって全面的な暴落相場になるのかも知れないし、そこまで予想したところで現状が変わるわけでもなければ、あまり心配しているわけでもないらしく、何の根拠もなくそう思っているわけでもなく、それが無謀な賭けだとは思えないわけで、あと数年経っても現状が変わらなければ、何か期待外れだったように思われるかも知れないが、世の中が一変していることに気づいていない可能性もあり得るから、それに気づかなくても構わないようなことなのだろうが、それよりは今後表面化する新たな問題というのが、現時点で思いつけるかというと、誰もが容易に思いつくこととしては、人がAIに頼り切ってしまって、人としての能力が劣化すると共に、生物としても退化する兆しまで確認できるなら、それが進化の真逆だから危機感を覚えるかも知れないが、案外それが需要と供給の関係でしかなく、必要に応じて使われるだけで、その必要というのが誰もが思い浮かべてしまうような画期的な何かをもたらすために使われるというよりは、それもメディアで話題となるような最先端の何かにも使われるだろうが、一般人が使う領域では違うのかも知れず、何かのついでにちょっとだけ便利に感じられるような方面で役立てられる範囲内では、大した効果も影響もないような結果しかもたらさないのかも知れないし、それもこれまでにやってきたことの付け足しのような経緯を伴うなら、それよってやっていることが複雑化したり単純化する限りで、何かためになったようにも意識されるだろうが、もしかしたらそれが気のせい程度のことなのかも知れないから、実態としては錯覚なのかも知れず、そんな錯覚や幻想を伴うような効果しかもたらさないなら、何がどうなるわけでもないだろうが、しかもその何がどうなるわけでもないこと自体が、結果的に何かがどうにかなったことになるとしたら、それこそが誰もが気づきにくい効果であって、そんなところからAIを活用する企業が利益を得られるなら、それこそが濡れ手で粟のような効果だと言えるかも知れず、ほんのちょっとした手間を省いても構わないようなことに、多大な技術的な進歩が絡んでくるようなことになれば、果たしてそれが技術文明の進歩だと言えるかどうかも疑わしく思われるかも知れないが、それに気づかなければ何とも思われないような進歩でもあって、実質的には進歩でも何でもないのだろうが、それが具体的に何なのかというと、人の動作を機械で再現するような試みなのかも知れず、しかも人間よりも正確に動作するようにしようとしているわけだから、機械は間違いや過ちや誤りを犯しにくいと言えそうで、それが機械の用途なのだろうから、機械と人間の違いを際立たせることになれば、人間と同じように動作するのではないと言えそうで、しかも機械が人間と同じように間違いや過ちや誤りを犯してしまうと、機械としては使い物にならないわけだから、そういうところで一概にAIを使って人間と同じように動作させようとしているわけではなく、人間より賢くないとAIを使う意味がないところが、AIの限界だと言えるかどうかも、もちろんそれは限界ではなく、逆に人間の限界を突破することになるのではないかと考えられなくもないが、そこに認識論的な食い違いがあるらしいのだが、それを食い違いとは言わないんじゃないかと疑念を抱くなら、それもその通りなのだが、そこから見方や考え方を逆転させれば、逆転させる意味や意義などわかるはずもないだろうが、人は絶えず誤作動を起こすから、それが人としての特徴を構成していて、それに対して機械は絶えず誤作動を限りなくゼロに近づけないと、機械として使い物にならないという特徴を構成しているから、それが人と機械を区別する特徴だと強引に結論できるかというと、それだけではなく他にも色々と人と機械を区別できる特徴が見つかるかも知れないが、社会の中の役割分担としては、人の誤作動を機械によって低減するような成り行きになりそうで、そこで人と機械の役割が分かれてくるなら、人が絶えず誤作動し続ける限りで機械が役に立つと言えそうで、果たしてそう述べることが勝手な屁理屈になるのかどうかも、こうして意味のない屁理屈を並べて利いたふうなことを述べている気になってしまうのも、人間に特有な動作としての誤作動だと解釈するなら、今後はAIがそれを自動的に訂正してくれるようなシステムも出てくるのではないか。


12月17日「軽い症状」

 なぜか今回は面倒な言い回しとなるような予感もするが、それがすぐに思い浮かぶわけでもなく、それ以前に世間で流行っている流行現象に踊らされているというと、そこで誰が踊らされているのかと問われるまでもなく、それも何となくメディアから伝わってくる世の中の空気や雰囲気からそれとなくわかるようなことかも知れないが、何が世間で流行っていようと、大してそれに興味があるわけでもなく、全く興味がないわけでもないのに、それについて言及しようとしているのだから、わざと無理にそうしているわけでもないとしても、結局は興味も関心もないようなどうでもいいようなことに言及してしまいそうで、様々な物事が一過性の流行現象の中で流行っている中でも、株式投資もその中の一つの流行現象かも知れないが、まんまとそれにつかまってしまって、容易には抜けられなくなってしまったとしたら、それで構わないようなことかも知れず、他人事になれるわけでもないが、金銭的に余裕のある個人や、金融機関が直接やっているのが取引の大部分を占めるとしても、中には借金して信用買いや信用売りに挑んだり、オプション取引というややこしそうなやり方まであるから、プロでもない限りはそこまでのめり込む者も少なそうで、奥が深いというか、素人がうかつに手を出してはならない領域もあるかも知れないが、誰もがそんなところまで道を極めたいわけでもなく、それが道を極めるという大げさな表現にも当てはまらないような低レベルで、何かの片手間にできる範囲内でちょっとだけ関わってみた程度にとどめておきたいわけだが、今のところはそれで構わないとは思うのだが、今のところはという留保が何を意味しているとも思えないし、今後何かのきっかけから、そうではなくなる予感がしているわけでもなく、それとは少し距離を置きたいのに、向こうから執拗に追いすがってくるとも思えず、放っておいてもらえばそれでも構わないような程度なのかも知れないが、それとは違うレベルで考えられることとして、例えば単純に金利と株価と為替と経済成長率などを比較するわけにも行かないが、ピケティがr>gだと過去のデータから割り出したのを、国民民主の玉木がg>rにするんだと意気込んでいるようで、gが名目経済成長率でrが利子率だと言われている中で、こうすればそうなると理屈の上ではできるようなことを言いたいのかも知れないが、他にも色々とそれに関わってくるパラメータがありそうで、gやrにしても本当にそれを比較すれば何かもっともらしいことが言えるのか疑わしく、ピケティが述べていることも玉木が言っていることも、あまり真に受けるようなことではないような気がしてしまって、何か一つの不等式で表されるようなことを拡大解釈して、それを経済全体の状態に当てはめるようなことが、ピケティも玉木もそうは言っていないはずだが、それを真に受けると、それで何か理解したような気になってしまう態度が浅はかなのもわかりきったことかも知れないし、他人の言動や書物に著された内容に惑わされているような気もするのだが、他にも惑わされていることがいくらでもありそうだから、何に惑わされていようとも、それらがことごとく真に受けるようなことではないと先回りして否定的な態度と共に身構えてしまうのではなく、実際に惑わされてみないとわからないことも出てくるから、ピケティの『21世紀の資本』を読んで惑わされてみようと思って、実際に約十年前に読んでみたわけでもないが、なぜかそこからマルクスの『資本論』を2回も読み返す羽目に陥ってしまって、それがものすごい回り道を強いられているようにも感じられて、読んだところで何でもないのだが、それが何か意味や意義があるかのようにも装えないわけで、無理に装わなくても自然な効果として滲み出てくるようなことなのかも知れないし、そんな効果を期待しているわけでもなく、その当時に書き記されていた内容と現代がどれほど隔たっているのかと思いを馳せるわけでもなく、比較しようがないとも言えないが、比較するのではなく思考するヒントとなるようなきっかけを書物の中に探しているというと、それだけでは済まないはずだが、何かもっともらしいことを述べているような気がする程度のこととして、そんなことを述べているわけでもなく、すでに存在している物事を活用したいというと、その中には書物も含まれるだろうから、マルクスの『資本論』を活用して、ピケティは『21世紀の資本』を著したのかというと、どうもそうではなく、うまくそれをスルーして、しかもマルクスの思想と呼ばれる何かを批判的に活用することによって、自著がベストセラーになるように活用したとも言えて、そんな活用の仕方が何かずるいような感じがするわけだが、日本でも『人新世の「資本論」』というマルクスの思想と共に『資本論』を活用した書物があるらしいのだが、そちらの方はまだ読んでいないからそれについては何とも言えないのだが、その著者が、こんなことを言えば左派リベラル系の人々には受けが良さそうなことを、方々で語っているみたいで、それも何か怪しい感じもしてしまうのだが、何かそれが煙幕を張られているような感触を覚えて、どうしてもその種の人当たりの良さには警戒するように勘が働いて、それが玉木が言うような表面的なもっともらしさというか、悪く言えば薄っぺらさとは少し傾向が異なるだろうが、それとは対照的な共産党の志位議長のような、その語り口から感じられる誠実さも、やはり何か胡散臭く感じられてしまい、どちらも否定的に受け止めてしまうと、完全にないものねだりになってしまうから、適当なところで妥協するしかないのだろうが、それにしてもピケティの抜け目のない商売人のようなやり方で人心を惹きつける手法が、賞賛に値するような価値観として世界的に形成されているのかも知れず、そんなのは勝手な妄想に過ぎないとしても、さらに勝手な妄想を並べるなら、もしマルクスが生きていたら、生きているはずもなく、死人に口なしなのだが、お前ら俺をダシに使って勝手なことをぬかしやがって!と怒り心頭に発しているような光景が思い浮かぶのだが、さらに言えば、g>rにするんだと意気込んでいる能天気でお人好しそうに見える玉木よりは、r>gだと過去のデータから割り出して、これ見よがしにハッタリをかませてみせたピケティの方が、はるかに人としてヤバそうな闇を抱えていそうな雰囲気を感じてしまい、両者共にその主張を真に受けるような気にはなれないわけだが、要するに経済状態に応じて経済成長率も利率も変化するわけで、その逆ではないということが、意図的にごまかされているわけではなく、原因と結果の取り違えとして錯覚してしまうようなことであるから、もちろんそんなこともわかりきったことになりそうだが、そんな都合の良い状態になるように政策を講じて経済に働きかけることはできるだろうが、必ずしもそうなるとは限らないし、そうなれば政策が功を奏したことになるからうまく行ったことになるとしても、同じような政策によって働きかけたとしても、状況が違えば結果も違ってくるから、政策だけでそうなるとも限らず、そこに関わってくる他の様々な要素や要因がうまく噛み合えばうまく行く程度のこととして、経済政策の類いに関して肯定的な意味や意義がありそうだが、実際に過去のデータを分析した結果としてr>gのような傾向が割り出されてきたからといって、それではまずいからすぐにrを下げてgを上げるようなことができるかというと、rが大きいことから恩恵を受ける層や分野に課税して、それをgを上げるための投資に回すようなことをやろうとしているのが、世界的に見ても左翼リベラル的な政権のやろうとしていることになるだろうが、実際にそれがうまく行っているのかというと、どうもそれが現状ではうまく行っているような印象は受けない一方で、それよりはどちらかというと新自由主義的な傾向の政策の方が優先して行われているようにも感じられるから、それが世界的に問題視されているのかどうかも、そういう傾向を批判する者たちはいくらでもいそうだが、それも批判されながらも行われている現状があるのではないか。


12月16日「わかっていないこと」

 わかっていないことは他にもあるらしいが、それが動画の途中で見るのをやめたりしても構わない理由なのかというと、話の途中までしか知らないのに、結末がわかってしまうわけでもないのだが、結末なんかには興味がないというわけでもなく、そこから予想とは違う思いがけない結末に至ったところで、そんなのはどうでもいいことだと負け惜しみの虚勢を張りたいわけでもなく、何となくそこから先は見ない方がいいような気がしてしまうから、そこで動画を見るのをやめてしまうことも多いが、逆につまらない動画であっても最後まで見てしまうことも結構多いから、その場で最後まで見る時間的な余裕があるかないかが、そうなってしまう主な原因だと思われるものの、興味深い内容なら最後まで見るんじゃないかと思うまでもなく、結末が気になるわけでもないが、時間的な余裕がある時に不意に思い出して、再度見てから何を思うわけでもなく、ああこんな内容だったんだと思うわけで、それが残念な内容なのかというと、そうでもなく、なるほどと思わせるような内容であることも多いのだが、それでもまだ何かに気づいていないわけで、どうせ気づかないまま忘れてしまうだろうが、それで構わないわけでもないのだが、何となくそんなふうに暇な時間でもない貴重な時間をやり過ごしていれば、それで済んでしまうような今日この頃なのかも知れないが、もしかしたらそれがわかっていないような気もしないではないが、どちらでもいいような感じかも知れないし、何でもなくはないのだが、微妙にそういうところで何にこだわるべきでもないような気もして、それっきりとなってしまうことも多そうだが、何かの途中で不意に思い浮かぶ何かがあるから、それが起因して何が起こるわけでもないが、突然何かを思い出したようにわかっていなかったことがわかってしまうかというと、そこからもう一歩が踏み出せないわけで、もう一歩でわかりそうなことが、そのもう一歩が踏み出せないばかりに、わからないままに終わってしまうなら、わからないままでも構わないような気がするから、結局はわからないままに終わってしまいそうなのだが、それをわかるには全ての動画を見なければならないのかというと、そんなことをやっている時間的な余裕などないと言えるようなことはわかりきっているのだが、どうやら気がつけば居眠りの最中だったようで、目が覚めたら見ていた動画が終わっていて、もういいやと思ってそのまま寝てしまったのだが、そしてどうやらミシェル・フーコー講義集成の第十巻が明日発売されるらしく、十三巻あるうちの最後まで未翻訳だった巻が発売されるというので、先週予約注文を入れておいたのだが、これで全巻手に入りそうだが、第六巻が古本で6万9千円もするので、買う気になれずに買わないままとなっているが、すでに図書館で借りて読んでみた限りでは、翻訳者がまたもやあの人なので、あの人の翻訳文が読みづらくて、読んでも理解できない頭の持ち主なので、約七万円も出して買う気になれないわけで、その一方で新刊で出る第十巻は六千九百円程度だから、普通に買えるわけだが、自分にとって興味深いのは、第八巻の1970年代当時の新自由主義経済学に関する論考なのだが、今はその前巻の第七巻をちょっとずつ読み返している段階だが、そこから80年代になってサッチャーやレーガンなどの新自由主義的な経済政策が脚光を浴びるちょっと前に、なぜか十九世紀以前の古い時代しか研究対象としないフーコーが珍しく同時代的な話題を取り上げたのが、意表をついているように感じられて、もちろんフーコー自身は同時代的な社会運動などにも積極的に関わっていたから、その延長上で新自由主義経済学なども講義で取り上げたのだろうが、その内容がサッチャー=レーガン的な新自由主義から日本の小泉=竹中的な新自由主義へ至る経済政策に対する紋切り型の批判などとは全く重なり合わないどころか、実際になぜ新自由主義経済学に対する捉え方がこうも違うのかと、それが経済学と経済政策の違いなのだが、もちろん著名な経済学者が政府の経済政策に関わる事例もありそうだが、その隔たり具合に結構驚いたわけで、またそれを手がかりにして、なぜか新自由主義陣営が敵視していたルーズベルトのニューディール政策が、ヒトラーのナチス・ドイツやスターリンのソ連を経由して、毛沢東の中国や北朝鮮やベトナムやカンボジアのポルポト政権にまで至る、形を変えて脈々と受け継がれてきた経緯も妄想されたりもして、さらに最近ではれいわがれいわニューディールとか打ち出してきて、ああなるほどと勝手に合点が行ったような気がして、たぶん政治が直接経済に介入しようとすれば、しかも人助けがしたい左翼リベラル勢力であるなら、多くの者たちがニューディール政策のようなことをやりたがるだろうが、しかしその前提条件が世界大恐慌なのだから、その関わり方が大げさ過ぎて、それが政治ができる範囲を大きく逸脱していることに気づかないというか、やり過ぎてしまうから、結果的に数百万から数千万人の犠牲者が出てしまうと結論づけたくなるのも、時代状況が当時とは異なるのだから、非現実的な妄想に過ぎないが、その一方で例えば日本の失われた三十年が世界大恐慌に匹敵するような出来事だったのかといえば、事ある度にそれを持ち出す者がそう印象づけたいのかも知れないし、それも大げさ過ぎるような印象を受けるなら、世界大恐慌自体もかなり実態から誇張されて物語られている可能性も捨てきれず、そんなことを言うなら、第一次や第二次の世界大戦に関してもそんなことが言えそうで、今でもそれに匹敵するような体験が世界各地の紛争地帯で日々生み出されているような気もしないではないが、それを語っている者にとって都合の良いように語っていること自体も、疑わしく感じられるなら、それを物語ることと実際に政治の場で実践に活用することの間でも、かなりの違いがありそうで、そんなことは言われるまでもなくわかり切ったことであるにしても、具体的に政治の場で行われていることがどうなのかといっても、そこで行われていることに関連する様々な経緯や事情が絡まってくることは確かであっても、それに対して容易に批判できるようなことが行われているわけだから、それを批判している者たちがやりたいことができないのだから批判するしかないとしても、批判者がやりたいことができない事情や、それをやるに至れない経緯も生じていて、それを邪魔する要素や要因が取り除かれないとやりたいことができないのかというと、それは少し違うような気がして、批判している者たちは批判することしかできないのかというと、実際に批判しているならやりたいことが批判することになってしまう成り行きに囚われているわけで、それが社会の中での役割分担でもあって、批判が批判として社会の中で機能しているなら、批判することができていると言えそうで、それを結果からいつものように意地悪く述べるなら、批判者が容易に批判できる余地が生じるようなことが行われているわけで、批判者から絶えず批判されるようなことが行われていれば、そうやって批判者を機能させることに成功しているとも言えそうだから、結局うまくやっているわけで、批判者たちを批判に専念するように仕向けておけば、行為者が批判者からその立場を奪われるようなことにはなり難いかというと、政権交代が可能な民主主義の政治制度ではそうではないはずで、それは批判者が批判する立場に固定されて、そんな立場に居座って安住している限りで、そうなるとも考えられないが、何かそういうところでわかっていない経緯があるらしく、それとは違う面でも、例えばそれを新自由主義だと見なして批判する手法も、いつもその弊害ばかりを言い募る成り行きに囚われてしまうと、それが紋切り型的な言説となって、その種の批判の典型例として他の多くの人々の意識の中で固定されてしまうから、それだけ批判としての効果が薄まってしまうような現象が生じてくるのかも知れない。


12月15日「掟破りのプロレス技」

 やってはならないことをやろうとすることに意義があるとしたら、どんな意義があるのかというと、やってはならないとされている行為をあえてやることによって、結果的にやってはならない理由が明らかになるとしたら、果たしてそれが意義のあることなのかどうかも、例えばそれがプロレス技の類いなら、あえてそれをやってみせることによって対戦相手を挑発して、観衆を沸かせる演出となりそうだが、果たしてそれが事前の打ち合わせ通りの試合展開なのかどうかも、そんなことに興味があるわけでもないとしたら、そこから事前の打ち合わせにはない試合展開に至ってしまうなら、それがやってはならないことであって、そうなれば興味深い話の展開となりそうだが、まさかそこから本気の殺し合いに発展するようなことが、それが漫画なら起こりそうで、もちろん観客の見ている前ではやらないが、後でこっそり人知れず夜の人気のない公園かどこかで行われていたりして、そして翌朝人気プロレスラーの変死体が見つかるとか、そんな話の展開も安っぽい漫画や小説でならよくある話かも知れないが、それもたぶん安っぽい話になってしまうと、途端に興味が薄れてしまうだろうが、ではフィクションで安っぽくない話などあるのかというと、その場の状況によりけりで、暇つぶしに楽しむ娯楽程度の接し方なら、安っぽい話の方がかえって安易な気分に合っているかも知れないし、真剣に議論するようなことが安っぽい話であるわけではないと考えるなら、では何が真剣に議論するようなことなのかということが、何だかよくわからないわけで、プロレスの反則技なら悪役レスラーが好んでやりそうなことだし、やってはならないことをあえてやるのが悪役レスラーたる所以だろうから、それも観衆を沸かせるための演出だと考えるなら、やってはならないことをやることの意義がそこから生じてくるわけだが、果たしてそれが何のための比喩なのかもよくわからず、そんな喩えを持ち出して、いったい何を説明しようとしているのかも、今のところはよくわからないわけで、例えばこれからやってくる危機の類いを予見するには、やってはならないことをあえてやる必要があると考えられるわけではなく、そんなはずがないと思われるのだが、これからやってくるだろう危機そのものが、観衆を沸かせるための演出だとしたら、そんなことはあってはならないと思うかどうかも、そんなのはそうなってみないことにはわからないだろうが、そうなってみてもわからないかも知れず、それ以前にそもそもいったい誰が観衆なのかということも、今のところはよくわからないのだが、何やらプロレス的な演出として危機がやってくるとしても、ウクライナやパレスチナで起こっていることがそうであるはずもないと思うわけでもなく、それが陰謀論的な思考であることも百も承知で、ウクライナ軍がロシアから石油を積み出すタンカーをドローン攻撃すれば、ロシア軍はウクライナへ物資を届けるトルコの船舶をドローン攻撃して、それが何を意味するのかなんて誰でもわかりそうな成り行きとなっているが、まさかそれがプロレス的な演出だとは思えないだろうが、そんな状況に際して、トルコのエルドアンがロシアのプーチンに向かって、ロシアもベラルーシもEUとNATOに入ればいいじゃないかと皮肉まじりに提案するわけでもないだろうし、それの何が皮肉なのかも意味不明だが、EUとしてはウクライナをEUに加盟させるコンセンサスが出来上がりつつあり、それに対してロシア寄りのハンガリーが反対すれば、加盟国のすべての国の承認が必要だから、ウクライナのEU加盟が阻止されてしまうのだろうが、それを何とかして掟破りのプロレス技の如くにまとめてしまおうとしているのかも知れないが、そういう話ではないとしたら何がそう言えるのかというと、意図しないで人を欺こうとしていると言えるようなことであり、わざとそうなるように仕掛けているわけでもなくても、結果的にそうなってしまうとしたら、それが危機的な状況なのかというと、かえって危機を回避するような状況だと言えそうで、ちょうど今がそんな状況なのであって、世界情勢を絶えずひっかき回していないと、ごまかしが通用しなくなってしまうから、お騒がせなことを起こさないと気が済まないとそれを意図して考えているわけでもないとしても、それがごまかしではないとしたら、何なのかというと、ただの軍事作戦の類いになりそうで、軍事作戦が危機を起こしているのに、結果的にそれが経済的な危機を回避するような成り行きになっているとすれば、果たしてそんなことがあり得るのかと疑念を覚えるところだが、普通は経済危機が軍事危機をもたらして破局的な事態をもたらすと、世界大恐慌から第二次世界大戦へと至る過程では考えられていたはずだが、それが今や逆転しているというか、逆転でもない成り行きをもたらしていて、わざと小規模な軍事的な緊張をもたらしているわけでもないのだろうが、それによって世間の興味や関心をそちらの方へと向けておいて、それによって経済的な危機に至るのを回避したいという思惑が働いているわけでもないのだろうが、結果的にはそう受け取られても仕方のない現状がもたらされていそうなのだが、それが中国を挑発した高市発言であったり、中国軍によるレーダー照射を問題視してみせたりすることにつながっているとすれば、それが意図しない危機回避のやり方だと思われるわけでもなく、それを批判する側は、不必要に軍事的な緊張を高めたと批判したいらしく、果たしてそれが的外れな批判なのかといえば、普通は的を射た批判に当たるはずだが、それとは別の方面から考えるなら、それこそが掟破りのプロレス技だと言えそうで、もちろん根拠など何もないのだが、何がそうなのかと言えば、高市の失言や中国軍のレーダー照射を問題視することになりそうで、それらは観衆に向けた演出効果が期待されていて、本質的なことを問題視しているわけではなく、しかもその観衆というのが、自分がその中には入らないような観衆に向けてメッセージが発信されているらしく、とりあえず蚊帳の外にいた方が気が楽なのだから、自分にとっては好都合なのかも知れず、この先どんな出来事が待ち受けているとしても、そうなった結果が重要なのではなく、そこに至る過程の中でどう生きるかが重要だと、二十世紀を代表する小説だと言われる『失われた時を求めて』の作者も、聖書の『ヨハネの黙示録』の作者も、それを自覚していたわけでもないのに、延々とそこへ至る途中の過程を長々と書き記しているわけで、それに呼応しているわけでもなくても、政治情勢も経済情勢も、わけのわからない紆余曲折を延々と繰り返しているようにも感じられるから、世界大戦や世界恐慌へと至らないような配慮が求められているわけでもなくても、なし崩し的にそうならないように、そうなるのが自然の成り行きとして、それを迂回するための面倒でややこしい回り道を開拓している最中なのかも知れないが、そんな利いたふうな希望的観測が造作もなく簡単に打ち砕かれる未来がやってくることを心から願っているわけでもないが、こんな現状を肯定せずにはいられない気分でいるわけでもないのに、現状に対する否定的な受け止め方については、はっきりと拒否したいわけでもないのに、気がつけば現状をなし崩し的に肯定せざるを得ない立場を意識してしまうのだから、現状に対する否定的な意見には、あまりそれを真に受けるような態度にはなれないし、それが現状の維持を願ってそういう煮え切らない中途半端な態度に傾いているわけではないにしても、どうもメディアで批判の対象となっているのが、掟破りのプロレス技のようなやり方に過剰反応しているように思われてならないから、それらの勢力が日本も含めて、世界的にあまりにも悪役レスラーのような役回りにハマっているように見えるから、何だかそれらが事前の打ち合わせ通りの行為や行動や言動のような気がしてしまって、そういう行為や行動や言動に対して真正面から思いっきり批判や非難の言動で応じている勢力が痛々しくて見ていられない状況なのかも知れない。


12月14日「善意と悪意と誠意」

 善意で人を導こうとすると、結果的にそんな善意が反感や反発と共に踏みにじられるのも毎度のことだろうが、そこに悪意だけが潜んでいるのではないとすれば、人を導く行為が善意だけで行われるわけではないという感じなのかも知れないが、そこには悪意だけではなく誠意が潜んでいて、その誠意がその場の状況によっては悪意と受け取られかねないのかも知れず、それに関してはまたもやAIがもっともらしい回答を提示してきて笑ってしまったが、善意、悪意、誠意は、日常会話と法律用語で意味が大きく異なり、日常的には善意は親切心、悪意は害悪だが、法律では善意は知らないこと、悪意は知っていることを指し、誠意は真心や真面目さで、相手を思いやる心や、物事を真剣に取り組む姿勢を意味して、日常的な意味では、善意が他人のためを思う親切心、思いやり、良い心であるのに対して、悪意は、他人を憎み、害を与えようとする悪い心であり、その一方で、誠意は、真心を込めて相手に接する態度で、真剣に物事に取り組む姿勢であって、法律用語としての意味は、特に民法では、法律の世界では、道徳的な意味合いは関係なく、単に事実を知っているか知らないかだけで区別されて、善意は、ある事実を知らないことまたは信じたことで、それに対して、悪意は、ある事実を知っていることまたは信じていなかったこととなり、例として、善意の第三者という概念があって、不動産の仮装売買に絡んで、AからBへの偽の売買を知らずにBからその土地を買ったCは、善意の第三者であり、AはCに対して所有権を主張できないそうで、Cの権利は保護されるそうだが、その一方で、誠意は道徳的・倫理的な概念であり、善意や悪意のような事実の認識とは異なり、誠意を持って接するとは、結果的に相手を傷つけないように、という善意の表れとも言えるが、法律上の善意とは別物で、誠実な態度や真剣さが誠意であり、これには善意としての相手への配慮が含まれて、まとめとして、日常では善意と悪意は感情や意図を表すが、法律では知識の有無で判断されて、誠意は、真摯な態度や真心であり、これらの概念を区別することが重要だそうだが、そんなふうに何やら利いたふうな回答をこれ見よがしに出してくるAIに向かって、知ったかぶりやがって!と罵声を浴びせても、それに対してまさかAIが、ちゃんと誠実に答えてやったのに、その態度は何だ!と反発してくるわけでもないだろうから、たぶんAIの方としては、なるべく知識や知見を求めてくる者の知的レベルをおもんばかって、わかりやすく丁寧な説明を心がけているように装われているはずなのだが、こちらが人ではない対象に向かってそんな勝手な想像を巡らせてみたところで何がどうなるわけでもないが、誠意を込めて誠実な対応を心がけているつもりなのに、それがそんなことも知らないのかと悪意を込めて慇懃無礼な対応に感じられてしまうこともあり得るだろうから、何だか相手から馬鹿にされたように思われて、勝手に気分を害してしまうこともあり得そうで、そんなことまで配慮しなければならないほどのことでもなければ、事を大げさに捉え過ぎな印象も受けるだろうが、知識のレベルではなく礼儀作法のレベルで齟齬が生じているかも知れないが、本当のところは礼儀作法でさえなく、人を導こうとする意図や思惑そのものが、それに対して反感を抱くような反発力を働かせる要因となるのかも知れず、そこで自由が侵害されているのだが、その自由が導きには従わない自由だと言えそうだが、それを悪く言えば、せっかく教えてやったのにその教えに従わなかったばかりに、ひどい目に遭っても構わない自由なのだろうが、そんな自覚もなく良心の教導などに従わない奴らをどうやって従わせるかを巡って、その技術的な困難さと共に悪戦苦闘が繰り広げられたのが、ヨーロッパの中世における良心の教導によって社会の支配を目論むキリスト教会と、それに反発する住民たちとの間で起こった対立抗争の歴史であり、教会に従わない奴らは最後の審判によって地獄に落とされるはずだったのだろうが、教会の教えに従って慎ましく暮らしていれば、死後天国へ行ける程度のことで住民が満足できるかというと、反乱分子を異端審問や魔女裁判にかけて公衆の面前で火炙りの刑に処すのも見せしめ的な効果はあるものの、また妥協策としてプロテスタント系の別の教会制度に抗議する住民たちを組み込んでみたところで、あまり思ったほどのかんばしい成果が得られなかったから、産業革命以降に全盛となってきた、功利的な利害関心を煽って人心を誘導する術の前には、なすすべもなく敗れ去ったとまでは言わないものの、キリスト教会の形骸化は免れていないし、共存共栄程度の手打ちで済ませて現在に至っているはずだが、その一方で功利的な利害関心を煽っている側でも、それによって全ての住民を満足させるには至らないどころか、経済活動によって社会の中で貧富の格差がもたらされてしまうから、貧しくなった住民が満足できないわけで、だから苦肉の策というわけでもないにしても、デモクラシーによって政治的な面での民主化を達成して、富の再分配というきれいごとを実現したいのかも知れないが、そう簡単には事が進まないのも現状が物語っているところでもあるだろうから、根本的なところで人を良い方向へと導こうとする行為が、果たして正しい行為なのかどうかも疑わしいと考えてみたところで、行為の正しさを求めているのではなく、社会の支配を目指しているというと、誰がそんな大それた野望を抱いているわけでもないが、その自覚がないということが、結果的に目指されてしまうように感じられてしまうわけで、キリスト教会も最初は対抗してくる異端の宗派との間で起こった主導権争いから、結果的にその宗派を撃退したことによって、社会の中で主導権を握ることができたのと同時並行して、必然的にそんな自覚もなく社会全体の支配を目論むようになったと解釈できないこともないわけで、その異端とされた宗派が、グノーシス派と呼ばれていたわけで、物心二元論的な思想であって、過酷な修行を積み重ねて、物質世界から解脱して霊的な状態へと至れると主張したのだろうが、その過酷な修行によってキリスト教徒が死んでしまうから、死なないように修行者を修道院に閉じ込めて、指導者に絶対服従を強いるような制度を構築する過程で、組織管理のようなノウハウが蓄積して行ったらしいが、そんな制度が確立されていく過程で、その種の組織管理術を社会全体へと波及させて行く流れとなったと解釈しても構わないかどうかも、その種の専門家に言わせれば、そんな単純な成り行きではないと否定されてしまいそうだが、日本でもそんなキリスト教会の手法を真似たとは関係者は誰も自覚していないだろうが、それが現代でも天皇制を社会を支配するための道具として活用したいと受け取られかねないような主張をする勢力もいるだろうから、意識してそんな野望など抱いていなくても、結果的にそういう方向へと人を導いているように見えてしまうから、しかもその当事者に当たるような人々は、自分たちが善意でやっていることが、結果的にそう見られかねないことなど、思ってもいないかも知れないし、それが悪意からではもちろんないとしても、それどころか他人に対して誠実に対応しようとしているように見えるなら、誰もそれを非難したりしないだろうし、だから悪意がバレバレなことをこれ見よがしにやってしまう者たちなど、それほど恐れるに足らずな勢力だと軽く受け流すわけにも行かないにしても、そんな見え見えのバレバレな勢力が世の中でのさばっている一方で、善意でやっていることを前面に押し出しながら誠実な対応を心がけているように見える勢力もヤバいと感じられるかというと、どちらもヤバいと考えられるなら、それらの勢力には何が足りないのかというと、足りないのではなく、ただ単に何をやるにも多くの人々が功利的な利害関心に囚われていることを踏まえておくべきなのかも知れない。


12月13日「時流に合わせた態度」

 情勢が一時的な調整局面だと考えられていたようでいて、思いの外それがだいぶ長引いてくると、そうでもないような気がしてくるから、それと共に不安感も増してきて、そのせいで何か心身が変調をきたしてくるような兆しもあれば、何だかヤバい事態にも陥っているような気もしてくるが、何が原因でそうなっているのかというと、例えば株価の推移や経済の状態なのかも知れないし、政治的な成り行きも不透明感が増してきているのかも知れず、それ以外にもどうとでも言えそうなこともいくらでもありそうで、その大部分が心理的な思い込みに起因してそうなっているのかも知れないから、それが集団で罹る心配症のようなものとして世の中に悪い影響を及ぼしているとすれば、淀んだ空気のような嫌な雰囲気を感じ取っているつもりなのかも知れず、そうなっているからといってはっきりした兆候でもないだろうから、そんな世の中の傾向を敏感に察知しているつもりが、それがとんだ勘違いで、心配しすぎの杞憂に過ぎなかったことが後からわかれば、ほっと一安心するだろうが、それがどうも今のところはそうはならないような気がするから、もうしばらくは不安感を払拭できずにどんよりした曇り空のような情勢が続いて行きそうだが、もうしばらくがいつまで続くかなんてわかるわけもなく、いつまで経っても不安な気持ちのままなのかも知れないし、だからどうしたわけでもないと開き直れるわけでもないが、何の根拠もなく開き直って強がってみせるのでは、ただ単に虚勢を張っているに過ぎなくなるから、もっと自信なさそうに不安げな装いや表情を保っておいた方が無難な態度なような気もするが、わざとそれを意図してそうしているわけではなく、本心から不安がっているのだとしたら、その方が現状を反映しているだろうから、何だかそれが不安感に囚われた人を演じているように見えてしまうと、やはり嘘がバレバレのような、おかしな事態に陥っているような、それが何かの冗談のような気もしてきてしまうが、実際はどうなのかといっても、時間の経過が全てを解決してくれるわけでもないが、それが自分にとって有利な情勢となるように、世の中を変えようとする無謀な試みではなく、絶えず自分の方から世の中の情勢や傾向に自らの思考や言動を合わせようとしていると感じられてしまうと、それだけではまずいような、自分だけではなく他の多くの人々にとって生きやすい世の中となるように、みんなで力を合わせて取り組まなければならないことがあるんだと偉そうに主張してしまう政治家のような気分にもなれないだろうから、そういうところではあまり大げさな使命感に囚われないでいる方が良さそうにも思われて、もっと身の程をわきまえた謙虚な態度でいる方が、ただのどこにでもいるような無名の一般市民のような態度に近づけそうだが、果たしてそれが戦略的な態度なのかというと、その程度にも、そんな振る舞いを演じている者の立場にも、取り組んでいる内容にもよるだろうが、振る舞いを演じているのではないとしたら、ただ単にそう振る舞っているに過ぎないと言えそうだが、演じていることとただ振る舞っていることの区別などつけようがないし、自身も意識して区別をつけているわけでもないだろうから、ただ何となくそうなっているに過ぎないだろうが、それが自然と時流に合わせた態度となっていようと、そんなことを意識しているわけでもないだろうし、意識してそうしようとしているわけでもなく、成り行きとしてそうなっているに過ぎないことだろうが、だから逆に意識してそんな時流に逆らおうとしなくても、自然に逆らってしまうかも知れないし、その場その時の自身の都合に合わせてそうなってしまえば、それも自然な成り行きだと考えられるはずだが、しかも時流が一つではなく、複数の時流があって、その中の一つの時流に合わせてしまうと、自動的に別の時流に逆らうことになってしまえば、そんな成り行きなんて意識できないだろうし、それに気づくことなくそうなってしまうのなら、それも自然な成り行きだと考えざるを得ないが、自分がそんなことを考えているわけでもなければ、それ以前にその場の思いつきで、それも何となく偶然の巡り合わせが作用してそんな考えに至っているに過ぎないことだろうが、しかもそう考えてしまうことも、勘違いしているからとは思わない方がいいのかも知れず、それどころか結構考えていることが何かの的を射ているような感じがするとしたら、考えているそれと無関係ではなく、何かしら気づかないところで関わりを持っている可能性もあるかも知れないから、注意深く思考を巡らしてそれが何なのかを突き止める必要もありそうで、突き止められるなら案外そうなっているのが偶然の巡り合わせなどではなく、必然的な成り行きでそうなっているとしたら、その必然性がどこから生じてくるのかを突き止めたくなってくるようだが、それが自力で突き止められるようなことではないのかどうかも、現状では何とも言えないところで、そう考えるには避けては通れない前提条件のようなものがあって、その条件を満たさないとそれを突き止めるには至れないと考えるなら、今度はそれが何なのかと循環論的に考えてしまうようだが、そうやって迂回路のような紆余曲折が考えている途中の岐路に増設されてしまうと、さらにわけがわからなくなりそうで、そうやって絶えず後からはぐらかしの興味や関心を逸らそうとする新展開が増設されて、当初の計画がうまく行っていないことから人々の意識を遠ざけようとすることが、どのような思惑からそんな余分で余計な成り行きが仕掛けられてしまうのかもわかりきったことにはなりそうで、そんな時流に自意識を合わせようとすることが何を意味するわけでもなく、そもそも時流というのが多くの人々がそれに合わせようとするから生じてくるような現象なのだから、しかも大して苦もなく困難もなく合わせられるからそれが時流として社会の中で機能するわけだから、時流そのものが安易な成り行きから生じてくるとも言えそうで、そうだとすれば時流に乗っている当事者たちが軽薄な態度なのも、何となくそうなるのが必然的な成り行きに囚われていることの証拠だと言えそうだが、そしてそんな時流が何かのきっかけから手のひら返しやハシゴ外しのような仕掛けと共に終了してしまうと、逃げ遅れてそこに取り残された者たちがひどい目に遭いそうだが、果たしてそれが一過性の時流であって、もうすでに終わってしまったか終わりかけていると言えるかどうかも、それが終了したり衰退してみればはっきりするだろうが、それを終了や衰退だと言い切れるかどうかも、現状で試されていることになりそうで、安易に流行が終わった終わったと煽りたがる者も、それが流行の最中であっても次から次へと現れてくるだろうから、それだけ情勢の見極めも困難を伴いそうで、そんな中でもいったい誰の意見や主張や分析などを信じればいいのか迷うところだが、それが確信に至るようなことでもなさそうで、実際に自らも現状認識を絶えず更新している最中かも知れないし、その関係者ならそれが一時的な流行現象などではなく、今後も延々と続いて行くことを前提として、それに関わって行く決意と共に動いて者もいくらでもいる中でも、何かもっともらしい理屈を持ち出してそれを正当化したがる者がいるとしたら、それを信じたくなってしまうのだが、たぶん信じてしまうのは仕方ないとしても、信じてしまったからといって、それへの関わり具合によっては、それを信じている程度や傾向が自身が思っているほどでもない場合もありそうで、そういうところでバランス感覚が働いていることに気づいたとしても、それによって自身が助かるとも救われるとも言えないところだが、自らが新たな時流を作り出すような立場でもない限りは、その度合いがそれほどのめり込むような程度にはならない可能性が高いわけで、そうであるならいきなりの手のひら返しやハシゴ外しなどには巻き込まれないように、絶えず細心の注意を払いながらも、ちょっとだけ時流に合わせる程度でも構わないような態度や姿勢を保つように心がけるぐらいが無難なのかも知れない。


12月12日「固有の事情と経緯」

 物事を前進させる気があるなら、まずは取り組んでいることを明らかにしなければならないと思うのも、たぶんそういうレベルで事が進んでいるわけではなく、それ以前に何事も安易に否定的な反応で済ませてしまう連鎖を断ち切らなければならず、それと同時並行して思想信条的には肯定できない面を肯定しなければならないとしたら、しかし何が肯定できないのかと問うなら、すぐにそれが思い浮かぶわけでもなく、じわじわと人心に染み込むようにして社会に何かが浸透して行くのを感じ取れるかも知れず、その一方で議会においては見せかけの白熱した議論が空振りに終わるばかりで、その裏では粘り強く妥協と譲歩を重ねながら、最終的には渋々認めざるを得ないような折衷案がひねり出されてくることを願うばかりかも知れないが、それもそんふうには事態が進展しないこともわかっているから、交渉がもの別れに終わる確率も高そうで、だから何だというわけでもないが、なぜかそれによって事態が進展したことになるらしく、思い通りには進展しない代わりに、それとは別の方面で思いがけない進展があるようで、そんな進展が予想外の新たな事態をもたらすから、そんな事態に直面すればどうなるのかというと、現状で起こっているようなことが実際に起こっているらしく、それによってよくわからない込み入った事情が生じてくると共に、それをどう取り扱えばいいのかもわからず困惑するしかなさそうだが、実際にそうなっているのだから、現状がどうなるわけでもないことを思い知ることになるだろうが、それでも気づかないところで物事が前進していて、しかも思い通りの前進ではないわけだから、前進していることに気づかないというか、面倒な紆余曲折を伴った迂回でしかないような回り道なのかも知れないが、その場に関わっている誰もが願ってもいないような方面へと事態が向かっていると思うなら、それが事態の進展であり、物事が前進していることになると考えておけば良さそうで、それでは駄目なような気がするだろうが、これまでの事の経緯を振り返るとそんな成り行きばかりだったような気がするのだから、それが確実な事態の進展を示して、それに関わる取り組みもそれなりに前進していると現状を捉えておくのが妥当なところで、それが政治的なまやかしでありごまかしには違いないのだろうが、それを無視してうまく行っているように装うのも何か詐欺のような感じもしないではないが、実際にもそう装っているのがバレているのだから、しかもバレていてもなおそれを見ないようにして支持を装っているわけで、そういう振る舞いが戦略的な態度からもたらされているとしても、それを批判するというのも何だか批判している気にもなれないのだが、毎度のことのようにそれを批判する行為に及んでいる者たちが述べていることを真に受けるわけには行かないとなると、ではどんな態度ならしっくりくるのかというと、我関せずでは済まないとも思えないし、少なくとも批判のための批判にはならないようにはしたいのだろうが、そうなっていること自体もすでに脇道に迷い込んでいることを示しているようでいて、それ以上は無理に不正を追及するわけにも行かないだろうから、その程度や加減を超えて何をどう批判してみても、それだけでは事態を打開できないようだから、それとは違う方面から回り込んでそれに対応しようとしているのだろうが、それも現状ではうまく行っているとも感じられないのだから、事態が行き詰まりの様相を呈しているのかというと、それもそうではないと反論できるかどうかも何とも言えないところかも知れないが、見え透いたまやかしだろうとごまかしだろうと舐めてかかっているわけではないと受け取っておくしかなく、そんなことしかできない政治勢力なのだから、それを支持している世論というのも、それが見え透いたまやかしやごまかしであることを承知で支持しているのだから、そんな人々が支えている政治状況だと言えないこともなく、それが取り立ててどうということはないと言えそうな水準で事態が進行中だと情勢を捉えておく程度でも構わないだろうが、やりたいことがそこにあるとは言えないようなこととして批判の対象となっている勢力がある一方で、それとは別の方面で世論が支持している面もありそうで、そうであるなら多少のまやかしやごまかしは大目に見ている部分もありそうなのだが、その一方で批判されている面ばかりを批判勢力が強調するから、それを真に受けるとひどいことばかりが行われているような気がしてしまうのだが、実際にはそんなことばかりではないと思っておいても構わないのかというと、政治自体がまやかしやごまかしの産物なのだから、それを言うなら経済自体もその大半がそうかも知れないから、どちらでも物事の道理を持ち出すような理性的な対応など受け入れられない傾向があると考えられそうで、ではどういう対応なら受け入れられるのかと言えば、そんなのはわかりきったことであり、功利的な利害関心に基づいた戦略的な対応となりそうで、それが見え透いたまやかしやごまかしを平然と仕掛けくるような成り行きをもたらすのだが、それを受け入れるか否かが問われていると言えそうで、誰に向かってそんなことを問うのかと言えば、世論や民意や民度などの方面だが、それらは似て非なる概念で、世論は世論調査などで測られる世間の意見や空気だが、民意は選挙や住民運動などで示される国民全体の意思や要望であり、民度は文化や社会の質として示される国民の教養や成熟度を指すそうだが、民主主義ではこれら全てが重要で、世論調査の限界や民意の捉え方や民度の質が政治の質に影響を与えるとAIが答えてくるが、それに対して政治家は、一過性の世論に惑わされず、国民全体の民意を的確に把握して、社会全体の民度を高めるような、より本質的な判断が求められているそうだが、そういうこと踏まえるなら、確かに高市や維新の連中のやっていることは、世論を惑わし、民意を欺き、民度を劣化させるようなひどいことをやっていると批判できるだろうが、そういうきれいごとの批判が今の世の中で通用するのかというと、やはり問われているのは高市や維新の連中ではなく、あいつらはあいつらでやりたいようにやらせておけばいい程度のことだと軽くみているわけで、事の深刻さなどスルーの対象である一方で、中国の脅威なんかも張子の虎のようなものだと勘違いな認識に囚われていても構わないような気もするのだが、それを言うなら、まさかトランプやプーチンなんかも見かけ倒しなことをやっていると、調子に乗って夜郎自大な虚勢を張っていても構わないのかというと、それをそうは言わないだろうが、一方で舐めてかかってはならないのが、やはり功利的な利害関心に囚われた戦略的な態度だと述べてみても、今ひとつピンとこないのも仕方のないところで、そんな態度の進化形態として自然に生じてくるのが理性的で合理的な判断を重視する姿勢だとしたら、いかにしてそんな姿勢や態度を堅持しているように装えるかも、やはり戦略的な態度から自然に生じてくるようなことなのかも知れず、どうもそういう見せかけの姿勢や態度には騙されないぞと強く思い込んで身構えてしまうと、かえって騙されてしまうような成り行きが生じてくるのかも知れないから、それと比べて高市や維新の連中は無防備に正直過ぎるようなことをやってくるから、それもかえって舐められてしまうような成り行きに囚われていそうで、そうだとすれば高市や維新の連中には誰も騙されていないし、あいつらはああいう連中なんだと誰もが正確に理解している一方で、たぶん高市の前任者の石破には誰もが騙されていたような感じがするわけで、こいつは誠実なんじゃないかと思われるように振る舞っていたと感じられてしまうから、トランプなんかも、こいつはちょっとヤバいと身構えていたように感じられるのだが、もちろんそんなことはもはやどうでもいいような情勢となっているから、今はせいぜいが高市や維新の連中のわかりやすさを批判することが流行する兆しを見せているのではないか。


12月11日「機会を逃すこと」

 それが何の機会なのかもわからないというと、いつもの嘘になりそうだが、ある程度は予想の範囲内で目星をつけているとしても、その機会が巡ってくるのを待つというのも、それを待っている間に何か機会を捉えるための準備をしておかなければならないと考えるのも、現状では冗談のような話で、何の機会なのかも巡ってくるまでわからないようだと、待つだけ無駄なような気もするが、しかもすでに巡ってきている最中なのに、それに気づかずに通り過ぎてしまうようだと、何だかわからずにそうなってしまったことにもなりそうで、それによって自分がどうなってしまったのかと考えても、果たしてこれが機会を逃してしまった結果なのかどうかも、何かと何かが同時にそうなっているような感じもしないではないから、何かの機会を捉えた代償として別の機会を逃してしまったことになるとすれば、同時に複数の機会を捉えるわけには行かないと考えた方が無難で、だからといって残念がったり悔しがったりするまでもなく、事後的には何をあきらめてしまったのかも思い出せないことにもなりそうだが、それがどうしたわけでもないとたかを括りたくなるが、何だかそれがイソップ童話のよう話だと軽く考えて、なるほど酸っぱい葡萄の話だと合点が行くまでもなく、機会を逃して痛い目に遭った経験が、後になって何かの役に立つと考えてしまうのも浅はか過ぎるかも知れないが、実際に早まったことをやってしまった後から後悔しているようでいて、ちょっと痛い目に遭うのがその機会だったような気もするわけで、そうやって何かの免疫を獲得していると考えて、やってしまったことを合理化するような成り行きでもないのだが、どう考えても思考が頭の中で循環している感覚を覚えて取り留めがないが、それでもその機会を捉えたことを自覚して、そこで行なった行為が今後うまい具合に事態を好転させるかどうかも、それが好転したり暗転したりしながら事態が推移して行くのだろうから、その場でそうなった結果を受け止めて一喜一憂したりすることにはなるだろうが、それがその場限りで済むか済まないかも、後に尾を引くようなことになるとしても、すでに取り返しがつかないことをやってしまったわけだから、後はどうなろうと知ったことではないと突き放す気にもなれないが、実際にはそんな大げさなことではなく、ちょっとだけほんの数百円程度の損失を被ったような感じなのだが、あと数分間待てば被らなかった損失なのだから、なぜそれを待てなかったのかと後悔してみたところで、実際にやってしまったのだからそんなのは仕方のないことで、それが今後の教訓となるような気もしないが、今後もっと多額の金額でそうなる機会が巡ってくれば、その時の教訓が活かされるのかどうかも、そうなってみないことにはわかりようがないだろうが、同じ過ちを何度繰り返しても、さらに同じ過ちを繰り返してしまうような気もしないではなく、そんなせこいところで工夫を凝らすような真似はやめておいた方が良さそうだが、できればもっと大局的な見地から自らが囚われている事態を捉えてみた方が気が楽になりそうな気もするから、そんなことはすぐに忘れて、それとは違う方面から物事に取り組むような成り行きに持って行けるかというと、それもそうなってみないことには何とも言えず、何か勘違いしているような気もしないではないところからそれについて考えているようで、今はそう思い込んでいれば済んでしまうことらしく、考えていることが間違っていても構わない状況なのかも知れないから、それが何の状況なのかもはっきりとは断定することもできないが、試行錯誤の機会を与えられているような感じもしなくはなく、そんな機会を逃すはずもないどころか、否応なくそうなってしまうとしたら、機会を逃す選択肢などないと考えておいても構わないようなレベルでそうなっていると事態を捉えたくなってくるのだが、だからまだ思考をまとめる段階ではなく、しかもまとめる段階などこの先永久にやってこないと事態を捉えるなら、それが深刻な事態なのかというと、そうやって相変わらず頭の中で思考が循環しているだけで、何かの無限ループに陥っているような感じもしなくはないが、今がそんな無限ループから抜け出すきっかけを逸してしまった最中で、それも取り返しのつかないことなのかというと、取り返しのつかないことには違いないが、その代わりに頭の中で思考が循環しているに過ぎないから、何でもないことだと事態を軽くみているわけで、一瞬頭痛と共に頭の中が真っ白になったような気がして、脳卒中か何かの前兆なのかと焦ってしまったが、その後の経過は何でもないようでいて、自覚症状がないだけでそれに気づいていないのかも知れないが、果たしてそれが今後この世から離脱するきっかけとなるかどうかも、今のところはよくわからないが、意識して死ぬ機会を探っているわけでもないだろうから、何事もうまく行くような成り行きなのではなく、それでも一時的にうまく行ったような幻覚に囚われることもあるらしいが、それが気のせいに過ぎないと思っておくぐらいが、それに関わっている誰もが踏まえておかなければならないことのようにも思えてくるから、それをやりたい奴らが勝手にやってもらえばいいことでしかなく、他の誰も気にしていないようなことなのかも知れず、その辺は配慮が足りないとも感じられないし、多くの者たちが勝手にそうなってしまうようなことであるなら、それに関わっている誰もがやがて寿命が尽きて死んでしまうようなことと大して変わらない事態なのかも知れないし、それでも構わないような世界の中で誰もが活動していると認識しておくだけでも、それほど無責任な勘違いには至らないかも知れないが、そうなるのを嫌がって逆に独りよがりな責任感が芽生えてくると、各人の都合に応じて集団幻覚作用ような仕組みを伴って押し着せがましい親切心が世の中で増殖してきて、それが高じて他人へ向かって自粛警察のような攻撃が繰り返される事態ともなれば、そうなってしまう原因を他の何に求めるわけにも行かず、お前が原因なんだと名指しされるような事態も生じてくるかも知れないが、たぶんそんな機会を得るのも、何だか貧乏くじを引いたような気になってしまうから、それを逃れたのだと考えられるわけでもないが、まんまと逃げおおせることができたと勘違いして変な自信をつけてしまってはまずいから、できれば何事にも謙虚な姿勢で臨み、絶えず他人から学ぶ態度を維持しておいた方が無難だろうが、学んでばかりでは気が滅入ってしまうわけでもないだろうが、その反対に無理して他人に教える立場になろうとしてしまうなら、学ぶのと教えるのでは非対称な関係であるだけではなく、それよりも気楽な心境で話す立場と聞く立場であろうとする限りで、責任の度合いが違ってくることを考慮に入れておかないとならなくなってきて、他人から教えを請うなら、その他人へ謝礼でも贈らなければならないと、教えてもらった責任を果たせないような感じにもなってくると共に、謝礼を受け取るなら、教えたことが役に立たないとまずいような成り行きにもなってくるから、さらにそんな責任感によって、教える活動も学ぶ活動も、そうすることが有用であることを証明しなければならなくなってきて、ちゃんとした誰もが認める成果を得られないと、活動が無効であることになってしまうわけでもないが、成果が出ないと教え方や学び方がまずかったのだと短絡的に考えたくはなるが、それも程度にもよるが、雑学程度の知識を学んだり教えたり、事前に必ずしも役に立つわけではないと断っておけば済むようなことにもなりそうだが、そうなると学ぶことも教えることも価値が下がって、謝礼のやり取りも成果の有無も関係ないような成り行きになってくれば、それに反比例して自由度も高まると共に、それが何でもないような無価値なことなどあえて学ぶ必要も教える必要もなくなってしまうだろうが、経済的な事情からそういう無価値なやり取りを排除するような成り行きが生じているのかと考えてみると、ただ単にそれを学んでいるとも教えているとも意識していないだけで、実際にはそちらの方が世の中ではかなり大きな割合を占めているような気もするわけだ。


12月10日「意図的な操作と誘導」

 焦って安易な結論に飛びつくわけには行かないとは思うが、それでもわかっている傾向がありそうで、結果的にはうまく行かないんじゃないかと思われることとして、経済的な成り行きと政治の関係が挙げられそうだが、それもたぶんこうすればうまく行くやり方などないと言えそうで、しかもそれがごまかしのような言説となってしまうから、怪しいと思われて、もっともらしいが信じるわけには行かない主張になるだろうが、そういうことを述べている者たちがごまかすつもりもないらしいどころか、できるだけ正確なことを述べようとしていると考えるなら、しかもそう述べてジレンマというか二律背反するような成り行きへと誘導しようとしていると考えるのも、物事を正確に捉えようとするなら、そうなる場合もある程度の認識でも構わないが、それに関して自身が述べていることを補強するような事例が示されると、そのような事例を示そうとする意図がわかってしまうわけで、だから何だというわけでもないが、新自由主義的な結論へと持って行かれるのを、何とかして阻止しようとしているのではないかと勘ぐりたくなるわけだが、それが結論なのかというと、ただの途中経過に過ぎないのだが、絶えず途中経過の中に現状を持って行こうとするから、何らかの結果に至るのを回避するやり方になるだろうが、政府が富裕層や大企業に課税して富を奪うのではなく、富裕層や大企業には投資を促すのが新自由主義的なやり方であり、課税するのではなく投資するなら減税するような成り行きへと持って行くのが賢いやり方になるだろうが、それが日本で言えばNISAだと言えるかどうかも、微妙なところかも知れないが、気休め的なレベルではそうなるしかなく、全面的にそうはならないところが、政治が経済をコントロールするには至らないという部分で、それがうまく行かなくても構わないような成り行きへと持って行こうとしているわけでもなく、それも単純に考えて政府が利益を出しにくいが社会にとって必要不可欠な分野に投資する一方で、富裕層や大企業は当然のことながら利益を求めて投資するのだから、そこで投資する分野で棲み分けができると考えるのも安易すぎる気もしないではなく、それも結果的に利益が出れば投資がうまく行ったことになると考えると、政府による投資はそういう論理ではなく、社会にとって必要不可欠な分野に投資するわけだから、それが具体的にどんな分野なのかも、すぐにこれといって思い浮かぶわけでもないが、日本でなら農業分野とか教育分野とか、医療や介護の分野とか、道路や上下水道などの社会インフラや防災の分野とか、それらしい分野ならすぐに思い浮かぶのだが、実態としてはそれだけではなく、軍事分野とか最先端の産業技術の分野とか、それによって他国に遅れをとらないように、政府が率先してそれなりの金額を投資するような成り行きになっている実態もあるらしいから、それもうまく行くような成り行きにはなりにくそうだが、それに加えて国家間の経済競争とか軍拡競争とか、そういう方面を優先させるようなことになれば、地理的・歴史的・文化的・地政学的な条件や経緯や事情などが各国で異なるから、色々と面倒なことになりそうで、どう考えても面積や人口や埋蔵資源や貿易関係や国家間の同盟関係などによっても、有利不利がある程度は決まってくるから、そういうことを抜きにして単純な主張などできないのはわかりきったことだが、だから軍拡をやめて国民の生活を向上させることに最優先で取り組まなければならないと左翼的なきれいごとを言えるのも、野党的な立場からならそんなことが言える程度のことなのかも知れないし、軍備増強ではなく外交的な面で諸外国と友好関係を築くべきだとも、もっともらしくは言えそうだが、それも実態としては両義的な意味でそうあるべきなのもわかりきったことで、その両義的な意味というのも微妙に本音と建前などの裏表がありそうで、いずれにしても現状の延長上ではそれなりに制約や限界がありそうだから、もっともらしいことを言うだけではなく、実態がどうなっているのかも含めて、こうすべきだと簡単には言えないような現状もありそうだが、そんな現状の中でも何か特定の分野に関してもっともらしく強調しながら訴えかけている主張があるとすれば、それが怪しいと感じられて、その裏で功利的な利害関心や戦略的な有利不利が絡んでくれば、利益を求めていたり有利な立場を占めようとして、そんなことを訴えかけていると考えてしまいがちになるが、さらに他人の言動の揚げ足を取ろうとしたり、非をあげつらうようなことを言い放つ攻撃に出るなら、さも重大で深刻なことについて議論したいような気がするかも知れないが、それが現状の中で言い争われている限りで、そうやって不満のガス抜きをやっているような感じがしてしまうわけで、そこで言われていることと現状との間で無視できない乖離が意識されるなら、激しく言い争われていること自体が他人の注意や関心を惹きつけるためのパフォーマンスなのではないかと疑われて、だからそういう見せかけのパフォーマンスの類いからはさっさと遠ざかろうとして、それを無視してスルーするような成り行きになってしまいそうだが、わざとそうなっているのも現状を反映しているからだとすれば、それが予定調和の駆け引きなどではなく、成り行き上そうならざるを得ない経緯や事情がそこに生じていると考えてしまい、何とかしてちょっとしたことを大げさに煽り立てて、それを現状を打破するための突破口にしたいような意図も感じられるのだが、もちろんそんなことをやっている当事者がそれを自覚してやっているかというと、怪しいわけで、政治家にその種の利害関心や自身や自国が有利になりたいという意図や思惑があるとしても、政治家個人のレベルで意識してそう思っている場合もあるだろうが、また企業経営者が自身の経営している企業がライバル企業よりも有利に事業を進めたいと思うこともあるとしても、それがそうなっている人の意志であると共に、そういう立場を占めている限りで生じてくる意志であることも確かで、何か社会的な立場や地位からそういう意志や思惑などが生じてくるから、その人の個人的な資質のせいにはできないし、その個人的な資質というのもそんな立場や地位から生じてくる面もありそうだから、そういう立場や地位を占めてしまうと、何をやるにしてもその立場や地位に囚われたことをやる羽目に陥ってしまうというか、やれることの選択肢が限られてくるから、そこから逸脱するようなことができなくなるのはもちろんのこと、わざと意識してそんなことをやろうとするわけでもないだろうし、自然にその立場や地位に見合うようなことをやりたがるようになるから、それに伴ってやれることの自由度も狭められて、それは言動の自由度も狭まることも意味しているだろうが、その立場や地位に囚われた言動というのも、その役割や役柄を演じているようなことにもなりかねないし、さらには意識して演じているのではなく、自覚なくそんな役割や役柄に没頭しているように見えてしまうと、そんな政治家とは対照的にトランプがビジネスマンのような振る舞いに及んでいるのが、他の政治家よりまともに見えてしまうのも錯覚には違いないのだが、政治家ふうの政治家の言動に慣れ親しんでいる人々は違和感を覚えるかも知れず、そんな振る舞いが世の中にどんな作用が影響が及ぼしているとも知れないが、それが明確な利害関心から生じてくる言動であるだけに、ある意味でわかりやすそうで、裏があまりなさそうにも感じられるが、そんな単純な割り切り方では何事も済まないと思う人が世の中には多くいるだろうから、幻想など抱けないだろうし、それでも陰謀論者なら回りくどい意図や思惑や野望なんかをぶっ込んできそうだが、ビジネスの延長上に政治的な言動があるということも、日本のビジネス右翼の政治家たちも親近感を覚えるような成り行きが生じているのではないか。


12月9日「避けられない対象」

 そんなことをやって誰が何を喜んでいるのかも、そんなのは他の誰の知ったことではないらしく、世論調査結果に一喜一憂しているようでいて、またメディアを経由して伝わってくる情報の正確さが問われていると思い込んでは簡単に裏切られて、実際にはそんなことではないのは世の中の誰もが気づいているらしく、だからといって自分にとって都合の良い情報しか受け取らないわけでもないし、時には都合の悪い批判もありがたがって真に受けるのだが、それがどうしたと言えるようなことではなく、何かおかしいと思うのが正直な受け止め方だろうが、それを真摯に受け止めたからといって、すぐにお前ら駄目じゃんと言いたいらしいが、そんなことを言っている俺も駄目じゃないかと反省したいらしく、そんな軽薄な自己嫌悪に苛まれながらも、結果的には駄目ではないことになるらしく、そうなる理由を知りたいが、誰がそれを教えてくれるわけでもなく、AIに問えばもっともらしい答えが返ってくるが、それに満足するわけでもないところが中途半端な成り行きのようだが、実際にはそうでもないらしく、それでも構わないとあきらめたふりを装っておけばそれで済んでしまうと軽く考えているわけでもないが、では事態を重く受け止めるにはどうすればいいのかと問いたいわけでもなく、すでに軽く受け流してそんなことはすぐに忘れてしまったつもりのようだが、今後それを思い出すような機会が巡ってくるのかどうかも、文句を言ってくる気に入らない奴は魔女裁判や異端審問にかけて、火炙りの刑に処してしまえばそれで済むようなことなのかどうかも、また組織の構成員に厳格な規律を課して心身を締め上げる一方で、それに耐え切れずにヒステリー発作を起こした者は、悪魔憑きになったことにしておいて、エクソシストを呼んで悪魔祓いでもやってもらえば済むようなことなのかどうかも、今となってはそんなことは数百年前の別の地域で起こったどうでもいい出来事には違いないが、では今の時代では何が起こっているのかといっても、魔女裁判や異端審問や悪魔憑きや悪魔祓いなどと似たようなことが起こっているとは言えないまでも、デマや誹謗中傷などの攻撃を受けて匿名や実名の誰かが炎上することが、火炙りの刑と似たような出来事なのかといっても、そんなのは程度も規模もインパクトも違うし、すでにその種の流行はとうの昔に過ぎ去ったと軽く見ておいても構わないかも知れないし、それも世の中の表層で起こっている大して深刻に受け止めるまでもない枝葉末節な出来事だと言えるわけでもないが、そんなどうでもいい現状からも意識を遠ざけておいてから、他の何に興味や関心を向ければ気が済むとも思えないところが、あえて言及しなければならない成り行きに囚われていそうで、それを避けてはならないと他の誰かから励まされているわけでもないが、今の時代から意識が遠ざかるほど、意識の中に見えている幻影が次第に増殖してくるわけでもないし、その幻影が何なのかと誰から問われているわけでもないのも、それをこれ見よがしに明らかにするまでもないことだとしても、まだそれへの言及が足りないと思うなら、さらに執拗にそれに関して言及しなければならないかというと、そんなわけでもないとしたら、その理由を明らかにしたくなってくるようだが、その理由というのが、それをやってはいけない理由であり、さらにそれを批判する理由ともなれば、ジャーナリズム的な方面で言われていることになりそうだが、ではそれを迂回して、迂回する理由が何なのかといえば、それも謎には違いないが、それに対してすぐに違和感を表明するぐらいでは済まないような軽薄な思考に囚われていそうで、それらが知識や知性の不足という安易な言いわけでも済まないような世の中の様相を呈していそうなのだが、たぶんそれも時の経過と共に相対化される成り行きには違いないだろうが、そうやって遠い未来の彼方で忘れ去られる人々が今もこうして何かの現象に囚われながらも自己主張を繰り返しているわけで、その何かというのが、相変わらず深刻にも重大にも受け止められないような些細で枝葉末節な何かにこだわっているようにも、それに執拗にこだわらざるを得ないようにも思われてしまうのだから、今もそういうことの延長上でそれについて言及することしかできないわけだが、それが何かのゲームには違いないわけで、そんなゲームに参加しているつもりにならないと、必要も動機もないのに無理にそれに言及しても、言及している自らが馬鹿げたことを言っているようにも感じられてしまうから、何とか我慢して言及することに肯定的な意味や意義を見出して、それにこだわっているように装わないと、何らかの事情でゲームに参加できない人や、参加できるのに面倒くさくて参加していない他の者たちにとっては、どうでもいいようなことになってしまうから、言及しているのが馬鹿らしくなって、やめてしまいそうなってしまうのかも知れないが、果たしてそんな理由なのかと疑念を抱いているわけでもないが、なぜかそんなふうにして執拗に言及されている対象があるらしいのだが、その対象を無視しても構わないかどうかなんて自分には判断できないし、他の誰かにその判断を委ねる気にもなれないが、何かの岐路に立たされていると言えるかというと、それもここからどちらかに行く気にもなれないわけだから、岐路であっても無視するか通り過ぎるしかないし、要するに岐路に立たされる役回りなど善意で引き受けるわけにはいかないと思うなら、そのままそこを通り過ぎるしかないが、そんな芸当が自分にできるかというと、自分でもそこから目を背けながら、気づかないうちに岐路を通り過ぎてから、そのどちらを選んでどこをどう通ってきたのか思い出せないまま、すでに通り過ぎてしまったことを忘れているのかも知れず、そんな自分も含めてその岐路を通り過ぎてしまった者たちが行き着く先に待ち構えているのが、そんなゲームに参加する成り行きになるかというと、誰もが気休め程度にそんなことをやっているとも思えないし、中には本気になってゲームにのめり込んでいる人もいくらでもいるという認識で構わないかどうかも、今のところは自分でもよくわからないのだが、ではゲームにのめり込んではまずいのかというと、それも人それぞれであり、中にはのめり込んで破産したり破滅してしまう人もいるだろうが、誰もがそうなるとも限らないからゲームが成立しているのだろうし、参加しているプレーヤーがいる限りで成り立つゲームなのだから、誰もいなくなってしまえば、そんなゲームも自然消滅してしまうだろうが、そうならないようにあれやこれやと工夫を凝らして参加者を募っているのだろうが、そのきっかけが自分の場合は数年前のコロナ禍だったのだから、そのタイミングが絶妙なタイミングだったのかどうかも、今となってはどうでもいいことになってしまいそうだが、不意に引き込まれてしまう成り行きがあって、そんな誘惑に抗えないわけだから、運命のような巡り合わせだったのだろうが、それほどまで重大で深刻な選択をしたようには思えず、何かのついでに気軽な気分でそうなってしまったというと嘘になってしまうが、そうなった口実として持ち出されるのが、それまでの自分が疎かった経済についての知識や知見を得られるのではないかという取らぬ狸の皮算用だったのかどうかも、それも今となってはどうでもいいことには違いないが、現状でも謎なのが、それについて詳しい人ほどそうでもないという逆説があって、それが政治と経済の絡み合いだからこそ、その全体を見通すのではなく、部分的な方面にこだわっていた方がゲームを有利に進められるような感じにもなるから、そういう面では従来から存在している良心的に見える左翼やリベラルな人ほど、それ自体も全体から見れば、ほんの一部の小さな勢力を構成しているに過ぎないことを思い知ることになるわけだが、だからといってそれらの勢力を矮小化して否定的に捉えるわけにもいかない一方で、それとは別の方面で活動する人々も、それらの人々を有利に導くためのやり方にこだわっている限りで、部分的で小さな利害関心に導かれながら活動しているわけだ。


12月8日「キリスト教の復興期」

 あえて根拠も怪しそうな妄想から述べるとすれば、戦前戦中の日本で行われていたことは、天皇制のキリスト教化だと捉えられなくもなく、その名残りが今も日本の統一教会の信者や自民や国民民主や維新や参政や保守などの保守系右派勢力に残っていそうだが、その一方で創価学会などは仏教のキリスト教化だと、それも大した根拠もなく言えてしまいそうだが、それが西洋で三世紀から十八世紀まで続いたキリスト教会による信者を支配する統治術をそっくり真似ていると考えるのも、もちろん当事者はそんな自覚など全くなく、それが天皇制に基づいた日本の伝統だとかいう勘違いに囚われているのかも知れないが、キリスト教会の修道士の役割を担っているのが、日本ではネトウヨや統一教会の信者であり、イスラム教国では過激な原理主義系の武装集団であり、西欧諸国では極右系団体の活動家だと見なすとすれば、今や世界的にキリスト教の復興期だと言えそうな感じもしてくるが、日本で執拗にクルド人などのイスラム教徒に対して敵意をむき出しにしているネトウヨなどはさながら中世のヨーロッパで十字軍の結成に歓喜した民衆と似ていなくもないが、当のイスラム教国でも過激なイスラム原理主義というのが、イスラム教のキリスト教化というわけのわからない事態を象徴する出来事なのかも知れず、日本では明治維新以降に西洋の制度や技術を導入して近代化を図る過程で、和魂洋才だとか都合の良い観念に囚われていたわりには、その裏では西洋の三世紀から十八世までの間で行われていたキリスト教会による民衆を支配するための統治術までこっそり導入してしまったから、それが戦前戦中の軍国主義を招いたと考えられるが、というか西洋文明の土台を構成しているのがそれだから、ある意味では西洋を真似ること自体がそうならざるを得ないということであって、そういう意味ではイスラム教国でも西洋の真似をして近代化を図れば必然的にイスラム原理主義を招くと考えれば、それでは納得できないまでも、その一方でデモクラシーと呼ばれるキリスト教とは異質の古代ギリシア由来の民主主義を拒絶する限りで、イスラム教のキリスト教化が進行するわけだが、それは西洋が十九世紀以降にキリスト教会からの支配を抑え込むために古代ギリシアのデモクラシーを導入したのとは対照的な成り行きだが、日本でも戦後にGHQがキリスト教化された日本を変えるためにデモクラシーを導入したのだが、それでも明治維新以降のキリスト教化の方が強い影響力を発揮しているから、今でもなかなかキリスト教会的な支配力から抜け出られないわけで、アメリカなどでもキリスト教の右派の力が衰えないことと似たような傾向かも知れないが、かつてのナチスのSSがその養成機関においてキリスト教の修道会の規則をそのまま導入したのは有名だが、日本でも現状のSNSなどで暗躍しているネトウヨがナチスの親衛隊のような活動を繰り広げているわけだから、その言動にキリスト教会の修道士のような傾向が窺われそうだが、だからといって今のローマ教皇庁の表向きの傾向からはそんなのは窺い知れないわけだから、むしろローマ教皇庁としては民主主義の庇護者のようなふりをしていると考えられなくもないが、最近ローマ教皇が替わったのだから、先代の民主主義の庇護者のような教皇とは違う方針を打ち出すかも知れないし、その辺は何とも言えないところだが、しかも現代において完全にキリスト教化された国家というのが、中国やロシアや北朝鮮などになってしまうと、ロシアはともかく中国や北朝鮮などはキリスト教とは何の関係もないじゃないかと言えないこともなく、そんなのは嘘っぱちだと思われても仕方のないことだが、キリスト教会によるその信者に対する統治の仕方が、それも西洋の三世紀から十八世紀の間に行われていた傾向が、今の中国や北朝鮮での統治に当てはまるかということが、もちろんその元となったのが旧ソ連でのスターリンによる国家統治に行き着くわけだろうから、結局はそれがヒトラーのナチス・ドイツとも共通の傾向となって、全体主義的な国家統治となるわけだが、何だかそういうところがややこしくてわかりにくいのかも知れないが、その種の国家統治に逆らう要因として出てくるのが新自由主義的な傾向になるというと、そういう方面でも拒否反応が生じてくるだろうから、民主主義的な国家統治と全体主義的な国家統治を対立的な傾向と捉えたくなるのだが、それが間違っているような感じもしないではなく、一方で民主主義的な国家統治が経済的に行き詰まると全体主義的な国家統治に行き着くと事態を捉えてみても、歴史的な経緯からそう言えるような成り行きも想像できるわけで、それが学校の教科書的な事態の解釈ではあるわけだが、もう少し系統立ててわかりやすくそれらの相関関係を構成してみたくなるのだが、何か複雑に入り組んだ関係のようで、食い違いや矛盾なくちゃんと相関図を構成できないような気もするから、何となく今のところはやめておいた方が良さそうで、そこに何が欠けていると言えるのかというと、たぶん経済的な成り行きには違いなさそうだが、西洋でもキリスト教会による支配からの脱却のきっかけとなったのが、産業革命だと考えられそうで、もちろんそこからさらなる全体主義的な傾向も政治と経済が結びつく形で出現してきて、まさに今の中国などはその典型例だと言えそうで、それが民主主義を阻む国家体制をもたらしているわけだから、一筋縄では行かないという表現も的外れなような気もしてくるが、一方に人を操り洗脳するための手法がキリスト教会による信者に対する統治と共に発達してきたことは歴史的な事実としてありそうな反面、民主主義の方でも大衆煽動的な手法も発達してきたわけだから、両者の合体がすぐさま全体主義的な国家統治に結びつくとも言えないが、中国の場合は毛沢東による文化大革命が現状の国家統治の基盤を構成している面もありそうだから、それが他の国々にも当てはまるかどうかも何とも言えず、確かにカンボジアの場合はポルポト派が文化大革命を真似て徹底したことをやってしまったから、それが今も尾を引いていて、民主化を阻んでいると言えるし、ミャンマーでもそれとは傾向は異なるが、軍事政権が民主化の障害となっているし、ベトナムの場合はドイモイ政策などによって経済状態が良好だと言えそうな面もありそうだから、一党独裁体制の共産党政権が民主化を阻んでいるとしても、中国とは相対的な違いもありそうだが、それらの国々では何が政治の民主化を阻んでいるといっても、内戦によって国内が統一されてしまうと、武力で勝った勢力による独裁体制が民主化を阻んでしまうと簡単に言える面もあるわけで、アフリカ諸国のように今も内戦が続いている国もあるわけだから、そうなると内戦が民主化を阻んで独裁政権を生じさせてしまうとも言えそうだが、それも単純な論理になってしまうから、何かそうではないような歴史的な経緯があるらしく、政治の民主化自体が武力を伴わない複数の政党による絶え間ない内戦の最中なのだと考えれば、それが一つの政党によって勝利に至ってしまうと独裁体制化するのだが、それを法的にそうならないような仕組みにしようとするのが、民主的な国家統治になると考えられるのだが、現状でも自民党の右派保守勢力と維新が手を組んで、議会の定数を削減して政治的な独裁化に至りやすい制度に変えようと画策しているとすれば、何となくもっともらしく思われるのだが、それに関しては経済の方面でも、新自由主義勢力が複数の企業による絶え間ない競争状態を維持することが、資本主義市場経済の維持に貢献すると考えているのと似たような傾向なのかも知れず、そんな傾向をまとめるなら、政治の方面では複数の政党による絶え間ない競合状態を維持する一方で、経済の方面でも複数の企業による絶え間ない競争状態を維持することが、現状の政治経済体制を維持継続することにつながると考えた方が良さそうだが、たぶんそれを維持継続させることが良いか悪いかではなく、維持継続させないと、政治的・経済的な変動は小さくなるが、その分だけ政治も経済も停滞してしまうと考えておけばいいような気もするわけだ。


12月7日「勘が冴えない理由」

 何か急かされている感じがするなら、まだ時間的には余裕があるらしいのだが、その一方で心に余裕があるかというと、それが経済的な余裕と比例関係にあるとしたら、経済的な余裕と共に心の余裕も生じてくるような成り行きなのかも知れず、それが自然な成り行きとして考えられそうだが、それでは物足りないなら、では他にどんな余裕が必要なのかと問いたいわけでもないが、たぶんまだ何か肝心なことを忘れているのであり、それが本当に肝心な何かであるなら、急いでそれを思い出さなければならないかというと、それほどの緊急性は感じられないなら、こんなふうにはっきりしないことを述べて行くうちに、そのきっかけがあれば思い出すかも知れないから、もうしばらくはそれが何だかわからない状態を維持できるかも知れないが、こんな状態を意味もなく理由もなく維持したところで、何がどうなるとも思えないなら、現状が何をどう述べてみても仕方のない心理状態だと思うわけでもないが、その一方で何か勘が冴えているように感じられる時にはどうなるのかというと、AIによれば、勘が冴えるとは、物事の本質や良し悪しを理屈ではなく直感的に素早く察知・判断する能力が非常に高まっている状態を指し、洞察力・観察力・危機回避能力が向上し、人の嘘を見抜いたり、状況を的確に把握できるようになることを意味して、直感力が研ぎ澄まされ、頭の回転が速く、周りの状況や相手の気持ちを瞬時に理解するような状態だそうだが、勘が冴えている状態の具体的な特徴としては、無意識に周囲を細かく観察し、情報から本質を見抜く力として、鋭い観察力と洞察力が挙げられ、また危機を察知し、先回りして退避できる能力としては、危機回避能力が挙げられ、さらには言葉がなくても相手の心情や状況を推し量ることができる察し力が挙げられ、素早く状況を判断し、的確な行動に移せる、頭の回転の速さが挙げられるそうで、勘を冴えさせる方法として挙げられるのが、思考から離れ、心のうちなる声や感覚をクリアにして直感を高める、瞑想があるらしいが、まとめとして、勘が冴えるとは、潜在的な情報を感知できるように感覚を研ぎ澄まして、瞬時に的確な判断を下せる状態であり、仕事や人間関係において非常に役立つ能力と言えそうだが、果たしてそんな良いことづくめな状態に自分がなれるわけでもなく、どうやってもそうはなれないような気はするが、その一方で個人の勘がいくら冴え渡っていても、その使い道がない場合もありそうだから、使うタイミングや機会がうまく噛み合わないと、かえって勘を過信して、勘に頼りすぎてやっていることが失敗に終わる場合も想定しておかないと、勘が冴えているつもりになって意識だけ暴走しているのを自覚できなくなってしまうかも知れないから、その反対の鈍感力も必要な場合もあると実際に勘に頼りすぎて失敗した経験があればそんなことが言えそうだが、そんなこともそうなった結果から都合の良いようにいくらでも適当にいい加減なことが言えてしまうだろうから、そうなる際の条件や成り行きや経緯や事情が絡まってくる限りで、あまりその種の勘の良さや悪さに関連する成功例や失敗例を真に受けるわけにはいかないし、それらの事例が現状の成り行きと似ているからといって、それがそのまま当てはまるとは限らないこともわかりきったことだが、実際に勘が研ぎ澄まされるような体験をしたり、自らがそうなるような研鑽に励んだりした末にそうなるなら、そんなことの延長上で事が運んでいる限りで勘の冴えた人間になるかも知れないが、自己研鑽に励んだ挙句に高学歴となったとしても、いったんその種の高学歴のエリートが企業や政府の官僚制に組み込まれて、そこで組織の歯車として機能しているうちに、せっかく磨いた勘がすり減って、ただの部品人間となってしまえば、宝の持ち腐れともなりかねないが、勘が冴えるとはそういうことではなく、勘がすり減ってただの部品人間となる前に、このままではまずいと気づくことだと考えるなら、自身の勘がすり減らないうちに戦略的な態度で野望を抱いてその組織の頂点を目指すとか、あるいはその組織を抜けて、仲間を募って自身で別の組織を立ち上げてその頂点に立つとか、そんな成り行きまで想像できないこともないが、さらにハードボイルドなどのフィクションの中で起こる過程に倣って妄想を膨らませるなら、個人の力で組織に立ち向かってその組織を瓦解に追い込むとか、勘ではなく安易な想像力に頼るなら、そんなどうでもいいようなことが言えるかも知れないが、たぶんそんなご都合主義的で単純な成り行きにはならないのが現実の世界で起こっていることだとすれば、それも勘が告げていることであって、人がそれまでに生きてきた過程が経験として意識の中に積み重なると、そうはならないことが勘に照らし合わせて何となくわかってくるのかも知れず、それも確実にそう言えるわけではなく、中にはフィクションのような成り行きが現実に生じることもあるだろうが、それも自身ではなく他の誰かの身に起こる確率の方が高そうな気がするわけで、その誰かというのが誰なのかと考えてみても、当てはまりそうな人物の名前がすぐに思い浮かんでくるわけでもないが、その人物がソフトバンクGの孫正義だとすれば、それがフィクションではなくある程度は現実に起こっている出来事に当てはまることには違いないわけだが、もちろん全ての成り行きがぴったりと当てはまるわけではなく、そこには嘘も含まれてきて、嘘である方が事の深刻さを忘れるには役立ちそうなのだが、それを忘れ去るにはまだここからさらに事態がわけのわからない紆余曲折を伴いながら進展してみないことには無理なのかも知れないし、何を忘れ去りたいのかも外部から窺い知れるようなことではないだろうから、それが孫正義とは直接には関係のないことかも知れないし、今となってはそんなこともあった程度で、当事者であっても無視できるようなことかも知れず、そんなヤバそうな人脈と共にダーティーな顔役として暗躍しているのが孫正義だとは言えないまでも、その種の陰謀論者に言わせれば、いくらでもヤバい噂話が出てくるかも知れないし、そんな話を真に受ければ、そちらの方面で裏世界の事情通になれるわけでもないが、事情通になろうとするのではなく、あくまでも深みにハマるのを避けつつ、事の表層にちょっと触れるぐらいにとどめておけば、何もユーチューブで孫正義の危ない面を自身が間接的に見聞きした程度で語ってみせるようなことにはならないだろうし、その辺のバランス感覚が何によって求められているわけでもなく、その一方でまるでそれを本当であることのように語り出してしまうと、何となくその種の陰謀論者の仲間入りをしたような気になれるかというと、語っている内容にもよるかも知れないし、昔からソフトバンクがすぐにも潰れそうだと煽ってきた者たちがその後どうなったかといっても、人それぞれにその後の境遇も違っていそうだが、別にカショギ氏のように殺害されたという噂など聞かないし、黒川敦彦も未だ健在な印象を受けるが、彼らがなぜ陰謀論の深みにハマって何かを語りたいのかといっても、事態を捉えているレベルがそうなってしまうから、物事の大局を見失うだけではそうはなりようがなく、また素人探偵的な気分で事の真相を探りたいという好奇心に頼ってしまうのも、ただのジャーナリズムの論理に囚われていることになってしまい、何かそれだけでは物足りないわけで、そんな成り行きに何を付け加えれば満足できるのかと問えるわけでもないにしても、やはりハードボイルド的なフィクションの力に頼らなければ、気分がすっきりするような破壊的な結末をもたらすには至れないから、それに伴って批判するだけでは飽き足らずに攻撃な感情を爆発させるような成り行きへと持って行ってしまうと、何やらハードボイルドの作者のような事態になってしまうのではないか。


12月6日「逸らされる関心」

 誰かがどこかで冗談のようなことを本気で述べているらしく、それが本当に本気なのかどうかも、半信半疑でそんないい加減なことを述べているとしたら、意外と当たらずとも遠からずなことを意識して述べようとしているのかも知れず、あるいは意識しなくても、その場のノリでそんなことを述べようとしているようでいて、否応なくそんなことを述べてしまう成り行きに囚われているとしたら、世間で流行っている風潮に惑わされ乗せられていると言えそうな成り行きには違いないが、実際にそうなっていれば、そんな風潮に迎合している人たちは安心できるだろうが、確かな感触を抱きながら大真面目にもっともらしく思われるようなことを述べているつもりだとしたら、その感触がどこから生じてくるのかといえば、それに対する世間の反応に勇気づけられているのかも知れないが、そんな世間の反応そのものが的外れだとしたら、そんな風潮に染まっている世間そのものが信用できなくなってしまうだろうが、そうなっているからこそ、うまく世の中がそこで主導権を握っている者たちの都合のいいように回っているように感じられるとしたら、意見変更や態度変更して自らもそんな成り行きに迎合するような言動に改めた方がいいのかというと、そんな意向など無視してそうなっていると言えそうな成り行きに囚われているのかも知れないから、だから無理に意見変更や態度変更などしなくても、また自然にそうなってしまうことを受け入れるまでもなく、そんなことはあえて意識するまでもないことになりそうで、意識できないところで起こっていることに気づこうとするなんて、そんなのは無理に決まっているから、そうではなく、メディアから伝わってくる世の中の情勢から読み取れる傾向があるらしく、そんな世間の表層で起こっている傾向から、世の中が変化する兆しを感じ取れるなら、それに関して考えてみるのも、少しは気休めのようにしてこの世界の理解に至れるかも知れないから、実際にそんなことをあてもなく考えている最中なのかも知れないが、何かこれといって特定の物事について主体的に考えているわけでもなく、逆に何か得体の知れない作用によって考えさせられているとしたら、いったい何によって考えさせられているのかと疑念を覚えるわけだが、この世界そのものによって考えさせられているとしても、自らもこの世界に含まれているわけだから、考えるまでもなく疑念を覚えるだけ無駄なのではないかと思考がぐるぐる循環してしまうのだから、取り留めもないことを考えているわけで、そんな取り留めのなさの延長上で何が起こっているのかと問うならば、それが昨今の政治経済情勢だと言えるわけでもなく、誰も動乱や混乱に乗じて一気に片をつけようとしているわけではないのだろうから、延々と長引いているわけで、長引かせないとならない事情を理解できるわけでもないが、結果的に長引いているのであって、それも誰も望まない方向へと導かれているような気もするのだから、事態が進行して行くにつれて次第に不安感も増して行くだろうが、それが未知の事態なのかというと、そうなってから誰かが過去の事例と似ている点を挙げて安心しようとするだろうから、そんな意見に同調している限りで一時的に安心できるかも知れないが、安心できないならそこで見逃している点が何かと考えてみても、まだそれが始まったばかりの段階ではわからないことが多すぎるような気もするだろうから、本当に始まったばかりの段階なのかと疑念を抱くこともできるだろうが、それに対して〇〇バブルは末期の段階か、すでに終わっていることに誰も気づいていないのだとこれ見よがしに言い放ちたい輩もいるだろうから、立場によって見解が分かれるところかも知れないが、そうやって何とかして多くの人々の関心をそこから逸らそうと躍起になっている事情がどこから生じてくるのかも、SNS上でそんな煽り立てをやっている者たちに訊いてみても、ちゃんとした返答など何も返ってこないかも知れないが、この世界が大きく変わり始めていることについて、この世界の一部を構成している多くの人々がそれに気づいてしまっては困るような事態となっているなら、気づかないうちに変えてしまおうとして焦っているのかも知れないと推測してみても、誰が焦っているのかも皆目見当がつかなければ、そんなのは嘘だと意味不明な妄言はさっさと退けられてしまうしかないが、案外誰もがそれに気づいているからこそ、それを必死になって否定しなければならない立場や態度が生じているのかも知れないし、そこに利害関係を想定してみるなら、現状の世界が変わってしまうと、そんな立場や態度の者たちの論理や、その論理に基づいた常識が通用しなくなってしまうから、そうなってしまうのは何としても避けたいとそれらの者たちが焦っているのかも知れないが、そんな推測も今のところは無視されるしかないが、ではそんな意図や思惑もわからないままになっていないと、他の者たちから煽り立てる理由や原因を探られてしまうから、それもわからないままにしておいた方が彼らにとっては都合が良いのではないかと推測したくなるが、現状がそうなっているだけでも興味や関心がそちらの方面へと誘導されていることになってしまうから、推測したいのを何とか思いとどまりながらも、それとは別の方面から探りを入れられるかというと、探りを入れたいわけでもないのに、なぜそんな仮定を持ち出すのか、そんな意図や思惑も謎のままになってしまいそうで、だから焦りを覚えつつも、事態を単純化して説明したいなら、単純化すれば事態がわかりやすくなるどころか、かえって謎が深まってしまうかも知れないとしても、それをバブルだと見なしたい者の意図や思惑を探るしかないと考えるのではなく、実際にそれによって不利益を被っているから、それをバブルだと見なして退けたいのだと事態を解釈するしかないが、それが意に反してこの世界を根底から変える大変な現象だとしたら、そんな煽り立てによって退けられるようなものではないと考えられるし、一過性の流行現象などではなく、今後も延々と人間社会にまとわりつきながらもこの世界に多大な作用や影響を及ぼし続けるのではないかと予想しておけば済むようなことかも知れないが、実際にはそれでは済まないだろうから、そうなることを恐れる者たちが必死になってバブルだ!バブルだ!と煽りながらも、そんな者たち自身が次第にフェードアウトしてしまうような後退戦を強いられている最中なのかも知れないが、それがそんな者たちが強いられている現状の境遇だとしたら、それとは違った立場や境遇がどこにあるのかというと、それも単純に理解しようとするなら、現状の世の中で起こっている現象に深く関わって、それをさらに推進しようとしている者たちも一方にはいるはずだが、そんな者たちを代表するのがイーロン・マスクやエヌビディアやグーグルのCEOだと言えるかというと、それも単純に解釈するなら、そんな見解になるしかないだろうが、そう仮定するのも、他に含みがあるような言い回しになってしまうが、彼らがこの世界に無視できない多大な影響を及ぼしていると述べてしまうと、そうではなく、彼らが代表となっている巨大ハイテク企業が多大な影響を及ぼしていると述べてみても、ちょっと違うような気がするわけで、では彼らや彼らの企業が取り組んでいる物事がそうだと述べてみると、それでも構わないが、もっと本質的なレベルで何かもっともらしいことを述べるなら、人類の技術的な傾向がそんな現象を引き起こしていると言えそうで、そういうレベルで起こっていることになれば、一時的な流行現象で片付くようなことではないと考えられるのだが、その一方でそれらの企業への株式投資のレベルでは、一過性のバブル現象も起こるだろうし、実際にそんな傾向が見受けられるから、それをバブルだ!バブルだ!と煽り立てるような成り行きに囚われてしまう者も一定数の割合で出てくるだろうから、そんな成り行きに囚われてしまった者たちの間では一過性の流行現象だと片付けてしまっても、それなりに妥当な受け止め方になるのかも知れないが、その一方でそれが人類の技術的な傾向の帰結だと考えるなら、今後もそんな成り行きが延々と続いて行く未来も予想されるのではないか。


12月5日「相対的な正しさ」

 世界のありのままの現状を直視して、それを素直に受け止めれば、自ずから世界に対する正しい理解や認識が導き出されてくるようなことにはならないとしたら、そうなる以前に直視しているつもりのそれが、ありのままの現状とは限らないし、メディアを介して歪められて伝わっている可能性も否定できず、また自身がこれまでに生きてきた過程の中で体験したり経験したことが固有の経緯や事情を生じさせて、さらには取り組んできた物事からも特有のこだわりや偏見なども生じてくるから、それらが自身の心身に無視できない作用や影響を及ぼして、ありのままの現状を直視することを妨げていると考えるなら、結果的に導き出されてくるそれが、正しい理解や認識とはならなくても構わないのではないかと開き直るような態度になるかも知れず、しかもそもそも何が正しいかなんて、その人にとっては正しいことでも、他の誰かにとっては正しくないかも知れないから、そういう意味では正しいか正しくないかの判断がそれほど重要ではない場合もあり得るかも知れず、そんなことまで考慮に入れるなら、何をどう判断したいのかといっても、その判断が必ずしも正しくないことも踏まえておかなければならず、しかもそれが正しいか正しくないかではなく、そんな判断に基づいて行われることが結果的にうまく行くか行かないかといったことでもないとしたら、自身の判断などどうでもいいこととして無視されて、何をどう判断しようがしまいが否応なくそうなってしまうような成り行きに囚われている場合もありそうで、何だかよくわからないがそうなってしまうようなら、そうなることを避けられないと思うしかなく、そんなふうに事態を受け止めなければならず、そんな避けようのない成り行きに自身が囚われているとしたら、それが自分だけではなく、世界全体が囚われていると考えるなら、物理法則か何かに囚われているのかも知れないが、それが宗教系の思想に囚われるなら神の意志に支配されていることになるかも知れず、そんな大げさな影響が及ぶ範囲ではないとすれば、部分的に自らの力が多少なりとも及ぶ範囲内で物事を考えなければならないが、その際に避けては通れない思考対象として何があるのかといえば、それがちょっとした生き方の改善程度にとどまるなら、たぶん日々の生活の中で偶然に左右されて右往左往させられるような事態なのかも知れず、それが偶然に巡ってくる機会を捉えて逃さずに行動に結びつけるようなやり方を模索しているなら、そういうことの積み重ねの中で思考しているような感じがするのだが、それに対して不満を覚えるなら、関心が向いているのが自身の力の及ぶ範囲から外れているのかも知れないが、それが何なのかというと、安易な思考に囚われた行為や行動や言動から予期せぬ不用意な危機を招くような成り行きになりそうだが、その際の判断材料として、何が相対的な正しさとして指標のようなものを形成するのかと考えてみると、法律や制度や慣習などが単純に思い浮かぶわけだが、それぞれが単体として作用してくるわけではなく、それらが複雑怪奇に組み合わさったシステムのようなものとなって動作してくると、何かメカニカルな力が働いて、自動制御のようにして人や物や情報などを操作して世の中に作用や影響を及ぼしてくるから、普通に考えて個人の力では到底太刀打ちできなくなるだろうが、そんな自動制御的な機構が作動している世の中で暮らしていると考えるなら、それをもっと具体的にこれだと指摘できるような言説が求められているのではないかと勝手に受け止めたくなるのだが、それが勘違いなのかも知れず、そんな得体の知れないものが動作しているわけでもなく、世界の現状をそんなふうに捉えるのも陰謀論と大して変わらない捉え方には違いないが、しかもそんな機能を有した機構を政府という行政機構に求めるのも、何か当てが外れるような落胆をもたらすかも知れないが、それが政治家の類いがそれと自覚せずに目指している政府の在り方だとしたら、与野党に関係なくそういう成り行きに囚われているような感じもしないではないが、それが個々の政治家や官僚たちが共通のコンセンサスとして抱いているようなことではなく、それらの者たちが集団となって動作するとそんな傾向になってくるような成り行きだとしたら、政府の構造からそんな傾向が生じてくると受け止めたくなるが、そしてそんな張りぼてのような見かけの構造に騙されてはならないとすぐに注意喚起したくなるわけでもなく、張りぼてなどではなく、ちゃんとした中身を伴っているのではないかと政府の肩を持ちたくなるわけでもないが、政府に関わっている個々の人物たちがそう思っているわけではなく、政府としては国家の統治機構として機能したいのだろうし、実際にちゃんと機能しているように見せかけたいのに、それに失敗しているわけでもなく、それなりに社会の中で機能しているのだろうが、ちゃんと機能してはまずいような、見せかけ程度の機能にとどまってほしいと誰が願っているわけでもないだろうが、実質をあまり伴わない見せかけ程度の機能にとどまるなら、それによって国内の平和が保たれるとは、誰もそうは思わないだろうし、そんなわけのわからないことを思っている者など世の中には一人もいないだろうが、現状でも社会の様々な方面から政府に対して苦情が寄せられているなら、それによって政府がちゃんと機能していることの証しとなるかというと、それもそうは思わない人が世の中の大半を占めるだろうし、苦情が寄せられないようにちゃんと国を統治するのが政府の役目なのではないかと思ってしまう人もいるかも知れないが、そんな苦情に対応して対策を講じるのも政府の役目だと考えられなくもないにしても、結局政府による統治とは民の苦情に対応して何か策を講じることだと考えればそれで済んでしまうようなことなのかも知れず、そうやって何か策を講じてくること自体が政府の機能だと考えても構わないが、しかもその苦情の原因となっているのが政府の対応だとすれば、何か政府の怠慢で苦情が生じているような本末転倒なことにもなりかねないが、政府の存在や活動が民の苦情を生じさせて、そんな苦情に対応して何か策を講じることが政府による国家統治になるとすれば、現状でも日本に限らず世界各国の政府はそれなりに機能していると言えそうだが、では政府がなければ苦情が生じなくなるかというと、そんなことはなく何かしら苦情に対応する役目を担う機構が自然に生じてくるなら、それが政府になると言えるだろうから、国家にとって政府は必要不可欠な存在だと言えなくもないが、そんないい加減な理屈では誰も政府の存在意義を肯定できないだろうし、肯定できなくても構わないような存在なのかも知れず、わざとそんないい加減な理屈を用いて政府の役割を規定できるわけでもないが、その一方でわざと面倒な事態を引き起こして、それに対応して政府にとって都合の良い策を講じるのが、実際に政府が用いる常套手段だと考えるなら、高市などはわざとではないにしても失言によって日中関係をこじれさせたわけだから、それなりにうまく機能していると言えそうな役回りかも知れないし、中国政府もここぞとばかりに活動を活発化させて、日本に対して策を講じている最中なのだから、中国政府を機能させるには高市による失言が有効だったと言えそうだが、それも一過性のちょっとした機能なのだから、大げさに戦争を引き起こしかねないと高市を批判する日本国内の識者なども、そういうことを言わせるように仕向けたと解釈すれば、何となくうまく立ち回っているような気もしなくはないが、そんな逆説的な意味で高市が首相として適任者だと太鼓判を押すような太鼓持ちの役回りを引き受けるメディア関係者もそう多くはいないことを祈るばかりだが、そういうのがちゃんとした機能と言えるかどうかも、何か釈然としないなら、そこにもわざとらしい勘違いが含まれているのかも知れない。


12月4日「泥縄式の対応」

 何かのついでに交わしたちょっとした受け答えの際に、そんなことはないと否定したい気持ちが意識されて、後からその際に何を否定したかったのかとその時の状況を思い出してみるが、否定したい対象というのが、今ひとつ実体をつかみきれていないような気がするものだから、相変わらずうまく言い表せないような焦ったさを覚えると共に、それの何が本質的に感じられるわけでもないが、何かつかみどころがなく、それについて執拗に考えていると、なぜか急にそこから意識が遠ざかって、もうお前には用がないと言われているような、一瞬それが何のことやらわけがわからず、そんなことを言われる意図を測りかねるが、誰に言われているわけでもないのだから、空耳に違いないが、それが天啓であるかのような大げさに事態を捉えられるわけでもなく、たぶん用がないということはすでに自分は用済みなのかと不安感が募ってきて、もうこれ以上はやる必要のないことを惰性でやり続けているのではないかと思い至るわけでもないが、寒気の影響で心細くなっているとしても、理由が依然として弱いようにも感じられるから、それが何の理由なのかもわからないままに、さらに思考を巡らして、いったい何をそんなに考えているのかと自問自答を試みても、どうもまともには返答が返ってこないようで、答えられない事情でもあるのかと訝しむわけでもないが、ひたすら愚鈍で愚直な対応というのも、そんな対応に誰が囚われているのかも、自分ではないと否定しきれないような、具体的に何がどうなっているのか、ちゃんと把握できないことには、それに対して何をどうやればいいかも、皆目見当がつかないと言ってしまうとお手上げ状態となってしまいそうだが、実際にお手上げ状態となっているのが、何なのかと考えてみるまでもなく、現に今ここで対応しているつもりのよくわからない事態なのかも知れず、対応できないのに対応しているつもりになっているのだから、ひたすらそこから意識を遠ざけておかないと、それ以外には何もできなくなってしまうというのも、何だかややこしい事態に陥っているようでいて、実際には何もしていないのにそれが対応していることの証しとなってしまうようで、ほったらかしにしておけば、それで構わないようなことになってしまうなら、実際に直接自分が対応しているのではなく、もちろん自分の代わりに他の誰かが対応しているわけでもなく、何もしないことがそれへの対応となってしまうようなお手上げ状態なのであり、だから特に何か対応できなくて困っているわけでもなく、何もしないでお手上げ状態でいることが、それへの対応となっているようにも思われて、何だかそれが不可思議な未知の体験であるような錯覚を覚えるわけだが、錯覚でも何でもなく、実際に今ここで起こっている出来事には違いないわけだが、こちらが特に何もやらなくても向こうから勝手に片付いてしまって、気を利かせて無理にも手を下すような真似などやらなくて済むように自動的に調整が行われているようでいて、こちらが気づかないうちにそうなってしまうのだから、誰かが裏から手を回しているわけでもないだろうが、それに対してこちらは気づくべき時に気づけば間に合ってしまうような按配なのだから、そんなことが実際に起こっているのが信じられないし、何かの幻覚に囚われているのではないかと恐れを覚えるが、実際にそうなってみるとそれを認めざるを得ないし、物事の都合の良い面ばかりを見ているような気もしないではないが、そうならざるを得ないような成り行きに囚われていると思うしかなく、それが機会を捉えて行動に打って出るような手間などかけなくても済むように、勝手に向こうから出向いてきて、こちらが気づかないところまで片付けてしまうのだから、それを唖然としながら眺めているだけで済んでしまい、確かにそうなってしまうと自分の出る幕などなく、もはや用済みの存在だと言えそうな気配も漂ってくるのだが、それでも自分がそこにいないと何事も片付かないようで、いるだけでいいなら居続けるしかないが、たぶんそんな夢を見ているわけではなく、眠っているわけでもなく、ここで現実に起こっている出来事に立ち会っているのであり、そんなことを空想している意識など邪魔だと言わんばかりに物事が片付いている最中だと認識する以外には何も考えられないわけで、それは年末恒例の大掃除の類いなのかも知れないが、それによって何が片付いてしまうのかも皆目見当がつかないわけではなく、中国やロシアや北朝鮮などがすぐに片付けられてしまうとも思えないが、いったい何によって片付けられてしまうのかも、ただの一般人に過ぎない自分などが想像も及ばない何かが作用してそうなるわけでもなく、確実に何かの転機が近づいているのかも知れないし、それに関しては自分以外の陰謀論者の意見を聞くまでもなく、遠からずそうなってしまうようなこととして、経済的な成り行きが作用してそうなってしまうのかも知れないが、そうなってから誰もが気づくようなことだとすれば、まだ誰も気づいてないことにはなりそうだが、たぶん今はそういう話題の逸らし方ではうまく行かないらしく、それを直視しないと見えてこない現状がありそうで、しかもそんな現状を見ないようにそこから目を背けている誰かがもっともらしくそれを解説している最中なのだから、なぜそこから目を背けながらもそれについてもっともらしく解説しようとするのか、そんなわけのわからないやり方が現状では有効だとすれば、盲目の手探り状態でいる方が現状に関しては正しい認識に近づけるのかも知れないが、その正しい認識というのが陰謀論と排外主義によって世界の現状を読み解くというのだから、確かに世界の現状から目を背けて盲目の手探り状態で世界の真実に辿り着こうとしているようで、それが正しい現状認識だとベストセラーの書物で示されると、それを真に受けるような人の方が自分よりは正しい現状認識の持ち主なのかと思って、呆れるわけでも唖然とさせられるわけでもないが、その一方でその種の書物が昔から事ある度に流行ってきたような気もしないではなく、それに対応して世界の現実を直視しないで書物に書かれている内容を信じようとする態度も、昔から多くの人々が実践してきたような気もしないではないが、果たしてそれが泥縄式の対応だと言えるかどうかも、そうではないと言えないこともないが、それがこの世界で起こっている出来事に対応しようとするのではなく、書物に書かれている内容に対応しようとしているのかも、どちらでもありそうだが、確かに書物に書かれている内容を読むことも、現実に起こっている出来事には違いなく、それも同時並行的に現実に起こっている出来事にも書物に書かれている内容にも対応しようとしているのだから、そうすることによってこの世界に対する正しい現状認識へと至れるなら、それが現状への正しい対応だと受け止めるしかなく、その書物の中では陰謀論と排外主義がいかにして強く結びついて世界の現状を構成しているのかが詳しく解説されているはずで、そんな世界の現状を真に受けることが正しい現状認識を得るための手助けになると力説されているかどうかも、その書物を読んでみないことにはわかりようがないが、それに対して自分の現状認識がそれとはどう違うのかも、そんな書物を読む機会が巡ってくればそれなりにわかってくるかも知れないし、その際にはこれまで抱いてきた自分の現状認識がいかにお粗末で誤っているのかを思い知るに至るかも知れないが、そんなお粗末で誤っているかも知れない自分の現状認識がどのようなものなのかといえば、今や世界はグローバリズムに覆われていて、そんなグローバリズムに対抗したい者たちが、安易な陰謀論や排外主義に助けを求めていると認識したいわけだが、真に恐れるべきは陰謀論や排外主義ではなく、グローバリズムの方であって、最終的にはグローバリズムの勝利に終わるとしても、その際に中国やロシアや北朝鮮などがグローバル経済に飲み込まれてしまうかというと、もうすでにそうなっているような気もしないではないわけだ。


12月3日「人的操縦術の効力」

 人を操縦する術というのが技術的にある程度は確立されているとしても、そんな操縦術の対象となる者たちがそれに抵抗したり反抗することも考慮に入れなければならないし、結果的にうまく行っているとは思えないが、その一方で政治的な方面での問題視が空振りに終わっているような気がするのは、単に自分が関心を持てないという事情がありそうだが、関心を持たないように仕向けられているとしたら、それが操縦されていることの証しになるのかというと、そんな気はしないし、むしろSNSなどの画面にその種の煽り立てが頻繁に出てくることによって、関心を持てと促されているのに、それをウザいと感じてスルーしようとするわけだから、それもウザいと感じるように仕向けられていると受け取れないこともないが、そんなことまで疑い始めたらきりがないから、あまり逆説的な意図や思惑に同調する気にもなれないのだが、昔からネトウヨによってウザい存在としてキャラ立てが確立しているのが蓮舫だと認識していて、蓮舫が何を言っても、騒いでいるレベルで言っている内容がスルーの対象となってしまい、それは辻元清美などにも言えそうなことだが、その種のキャラ立てされた存在が言っていることをその内容など考慮せずに、ただ何かうるさく騒ぎ立てていることとしてスルーできることが、果たして人的操縦術にハマっている証拠だと言えるかというと、そんな気もしないではないが、蓮舫に付きまとっているイメージは未だにそうだとしても、辻元清美などはそんな悪いイメージを振り払うべく、意識してそれとは違う振る舞い方を心がけているようにも感じられるが、そういう人名や事例を持ち出すのもちょっとずれているような気もしないではなく、時代的には蓮舫や辻元清美などはもはや過去の存在となりつつあって、今や新たな人物が否定的なレッテル貼りの対象となっているのかも知れないし、さらに否定的なレッテル貼り自体がもはや時代遅れなやり方となりつつある可能性さえ考慮に入れておく必要もありそうだが、とりあえず最近は共産党の山添拓が一時的に攻撃の対象となっているらしいが、それもわざと相手の意見を歪曲して言いふらすという典型的な言いがかりには違いないわけだから、昔ながらの稚拙なデマの拡散ではあるが、問題がそこにあるのではなく、共産党の典型的な軍拡反対の主張も、そうなるに至る経緯や事情を考慮に入れていないような感じがするから、軍拡反対を表明することによって世論を喚起するやり方も、社会の多くの人々の意見や関心を特定のテーマに向けて呼び覚まして、人々の考え方を変えたり、議論を促したりする手法としては、何となく問題提起が空振りに終わっているような気がするわけだから、そういう意味では人的操縦術の効力が賞味期限切れとなっているというか、共産党と言えば延々とそんなことを主張しているイメージが定着しているだけに、またやっているのかとしか思われないだろうし、それも共産党の支持者に向けて、共産党への支持をつなぎ止めておくための一環でやっていることであるなら、そんな主張ばかりでは共産党の外へは支持が広がって行かないのではないかと要らぬおせっかいな心配をしたくなるが、共産党自体も人畜無害な反戦平和の党というイメージの拡散をやらざるを得ない経緯や事情に囚われているようにも感じられて、それも共産党の政治家には解くことのできない呪縛によってそんな様相を呈していて、それを逆利用して共産党への攻撃に転化するような作用も生じていると穿った見方をしたくなるものの、それはそれで枝葉末節などうでもいいようなことのようにも思われるから、共産党も共産党で今後ともそんな政治主張に囚われていれば事が済んでしまう成り行きになっているのかも知れず、それによって何が済んでしまうのかというと、万年野党の境遇に甘んじているのが共産党の宿命となっているようでいて、それが今後何か転機が訪れるとも限らないから、最近ネトウヨからの攻撃にさらされている山添拓にも、その言動から将来的に飛躍する可能性が窺えるかというと、現状では何とも言えないところだが、政治家に期待するのではなく、他の何に期待するわけでもないのだが、政治的な現状もそのままでも構わないような感じなのかも知れないし、寝た子を起こすような真似は誰にもできないだろうとたかを括っていて、いくら山本太郎が躍起になってそれを蒸し返そうとしても、もはや解決済みの問題なのかも知れないから、山本太郎の国会質問もスルーの対象となっているわけで、何かそれが本質的でないような気がするとすれば、では他に何か本質的な問題があるのかと問うなら、その種の人的操縦術が空回りしているような印象を受ける一方で、それが空回りしているからこそ、安心してそんなことをやっている勢力が世間から黙認されている現状もあるらしく、どうせ大したことにはならないだろうと甘く見られているというか、それがいつもの調子だからこそ、そんな風潮の中にいると居心地の良さを覚えるのかも知れないが、山添拓が自衛隊の隊舎にエアコンなどいらないと言ったとSNS上で言いふらすのだから、またやっているのかと受け止めるしかないわけで、そういう矮小な部分へと世間の関心を誘導したいんだと気づいてしまうのだが、中には馬鹿で浅はかな奴らがそんなデマを真に受けるんじゃないかと恐れて、必死になってデマの打ち消しに躍起になるようなお人好しが現れるならデマの拡散が大成功したことになるのだろうが、それによって人的操縦術が空回りしていると言えるかどうかも、やっている方はしてやったりな満足感に浸れるのだから、空回りしているようには感じられないだろうが、それと同時並行して山添の問題提起のまずさも事後的にはわかってきて、後出しじゃんけんのようにして、山添は武器や兵器の購入を減らす代わりに自衛隊員の生活環境を改善するために施設整備の予算を増やすべきと主張すれば良かったんじゃないかと言えるだろうが、そういう臨機応変なロジックの組み換えができないことが、共産党特有の硬直化した教条主義的な体質に表れているとも批判できそうだが、それも事後的には何とでも言えるようなことだから、そんなことの延長上で現状の共産党に求められているのは、主義主張の全面的な刷新などではなく、今までの決まり文句のような紋切り型の主張の仕方を改良して、ネトウヨ程度の輩に揚げ足を取られないようにするための工夫を凝らす必要がありそうだが、たぶんそれも矮小な部分へ問題の本質を逸らすような行為となってしまいそうで、総論賛成各論反対のような現状維持の試みに近づいてしまいそうだが、それも他の様々な物事と同時並行して行われる限りで、大して深刻な事態にはならないだろうから、それで構わないようなことになってしまえば、世間に受け入れられるような行為となりそうだが、そういうことの積み重ねによって広く一般大衆からも信頼感を得られるとすれば、そんな成り行きの延長線上で今後飛躍のきっかけとなるような出来事も起こるかも知れないし、それがどんな出来事になるかも現状ではわからないだろうから、何をどうやればうまくいくかなんて、現時点ではわからなくて当然であるような態度でも構わないだろうが、それでも現状のままではまずいと感じるなら、絶えず何かしら工夫を凝らすように仕向けられてしまうだろうし、そういう成り行きに囚われている限りで、関わっている物事を前進させたいような気がするわけで、またそれを前進させるための試練として、ネトウヨの揚げ足取りや、それを利用したデマの拡散が待ち構えているわけだから、それも言説に工夫を凝らすことによって乗り越えて行かなければならなくなるのかも知れないが、そうやって敵対しつつも互いに互いを利用し合う成り行きに持って行ければ、それなりに事態が前進したことになるのかも知れない。


12月2日「説明することの困難さ」

 説明することが不敵な笑みを浮かべながら戦いを挑んでくるバトル漫画のモブキャラが何かに取り憑かれるようにして一心不乱に取り組むようなことでもないだろうが、これから何を説明するつもりなのかも皆目見当がつかないと毎度のことのように嘘をつきながら、その内容に説得力がなさそうなのもあらかじめ予想がつきそうで、結局論理的に破綻してしまうからかも知れないが、まだ何も説明していない段階でそんなことが言えるわけもなく、ではこれから何を説明するつもりなのかといえば、まだ説明する内容を考えている最中なのかも知れず、それでは遅いし、とりあえずまだ説明するに至っていないようでいて、すでにこんなことを説明しているわりには、その意図が自分でもよくわかっておらず、特に定まった意図があるわけではなく、行き当たりばったりで言説を構成するつもりのようだが、それが気まぐれに何かを適当に語っている程度の内容になれば、それをうまく説明できた部類に入るようなことかも知れないが、それにしても自分にとって他人事なのに、メディアを介して意識に侵入してくると共に、関心を持てと執拗に絡みついてくる作用があるらしく、そんなふうに影響力を行使して思考の邪魔をするから、何かをうまく説明できなくなるわけでもないが、それが必ずしも説明の邪魔をしているわけではないとすれば、逆に説明の助けになっているのかといえば、説明するのとは別の方面からも影響を及ぼしてきて、それとは別の方面へと言説を誘導しようとするから邪魔くさいわけで、その別の方面が説明するだけではなく、説明しながら批判する方面だと言えるかどうかも、どこから説明対象が批判対象へと移り変わってしまうとも思えず、どちらでもあるような内容となってしまうのかも知れないが、捉えようによってはどちらでもある言説の中で、どちらが人を無関心へと導く分散作用が伴っているのかと問うつもりもないが、説明対象からも批判対象からも意識が遠ざけられてしまうとしても、それが本当の狙いだとしたら、どこの誰がそんな狙いを抱きながら影響力を行使してくるのかといえば、それが特定の誰かではなく、メディアのせいにしてみても漠然とし過ぎているようで、まだ狙いも魂胆も定まっていない段階で、わけもなく不敵な笑みを浮かべていること自体が、これから行われる本格的な大決戦の前のちょっとした前座のような戦いの中でサクッと負けるフラグが立っているようにも思われるから、戦う前からある程度は予想がついてしまう話の展開となりそうだが、そんなことを考えている時点で頭の中では説明が破綻しているようで、もっともらしい内容とはならないことによる脱力感と共に説明することの困難さを痛感させられるわけでもないが、わざと説明から逸脱しているような感触を伴いながらも、何を批判しているとも思えないから、意図を測りかねるが、そんなことの説明責任がどこから生じてくるかも皆目見当もつかないから、説明を要するような話でもないと突き放してスルーしてしまっても構わないようなことかも知れず、どんな話にもそれに関する詳しい解説を付け加える必要が生じてくるわけでもなく、それも行き当たりばったりでその気になったら適当な解説を付け加えておいても構わない程度のことだが、絶えず成り行きの結末へと先回りしてそこで余裕綽々な態度で待っているような嫌味な態度が伴うとも限らないから、わけ知り顔のような顔をぎこちない作り笑いと共に装う必要も感じないだろうが、むしろ余裕がなくいつも焦っているような切羽詰まった自信のない態度でいる方が、誠実さが顔の表情に表れているようにも感じられて、他人から下に見られると共に好感も得られそうで、それを見え透いたわざとらしい演技だと見破られてしまう事態というのも、その場の情勢次第で、表面的にはそんなことはどうでもいい枝葉末節な事の成り行きには違いないのだが、そうではなく取り組んでいることの中身が具体的にどんなことをやっているのかが知りたいわけで、それが今のところはよくわからないと述べてしまうと信用を得られないのも当然だが、たぶんわかっていないからこそ、そこから疑念が生じてきて、バトル漫画の中ではひたすら戦っている途中の過程が引き延ばされて、いったい何のために戦っているのか、一応はその理由や原因や狙いや魂胆や意図や思惑などが明らかにされているはずだが、そのどれもが戦いそのものよりも重要性が低いと思われてしまうのも、何らかの効果によってそんな感じがしてしまうのかも知れないが、その効果が何なのかというと、戦うきっかけが得られるなら、それが何であっても構わないような効果なのかも知れず、そんな効果がどこから生じてくるのかといえば、世の中でただの一般大衆に含まれる、どこにでもいそうな人々がそんな漫画を読んでいる退屈な日常生活から生じてくると考えてみたところで、別に日常の全てが退屈であるわけでもなく、漫画を読んでいる程度の暇があるから退屈な感覚を生じさせているとも思えないが、そうやって自分では理解できない何かをやり過ごしているわけで、それが意識して直接取り組んでいることではなく、意識しなくても自然の成り行きに従って行われていることだとしたら、それに関わっているのに、気づいていない得体の知れない成り行きに囚われていそうだが、それが何なのかを知ることが重要だとも思えないし、自分にとって重要であろうとなかろうとそうなってしまうようなことであるなら、たぶん社会的な成り行きに囚われていて、自分だけでなく他の多くの人々もそれに囚われているのに気づいていない世の中の成り行きがありそうで、そんなことを知ることが重要でも何でもないなら、あえて知る必要などなさそうだが、それよりは意識して取り組んでいることの方が重要だと思うなら、その通りだと認識しておいても構わないが、それと同時並行して勝手に無意識の動作と共に自動的に行われていることもあると言えるかどうかも、それに気づかないし、それを意識できないのだから無視するまでもないことになりそうだが、では自分が漫画に出てくるモブキャラのような役割を引き受けている自覚があるかというと、そんな自覚もなければあえて無視するまでもなく、スルーするまでもないことになりそうだが、自らが活動する環境が組織的な形態を伴いながら集団行動のような動作になってくると、その中の構成員のような立場になってしまい、そんな組織の中で主導権を握れていないことに不満を抱くまでもなく、自分がまるでモブキャラのような立場になっていることも自覚できるかも知れないし、そんな境遇でいるのが嫌なら、さっさとそんな組織からは抜け出たいと思うかどうかも、組織内での居心地の良し悪しもあるだろうから、一概には言えないことにもなりそうだが、ではそれが人間社会の中に自身が囚われていることと重なり合うような状況なのかというと、どうも少し違っていると気づくなら、組織内と社会内では自由度のレベルが異なることにも気づくかも知れないし、それが共同体と社会の違いだと認識できるかどうかで、共同体と社会とを同一視しているのがナショナリストである一方で、それを区別して捉えているのがグローバリストだと単純化するわけにも行かないが、少なくとも漫画に出てくるモブキャラ的な人物が共同体内で下に見られるような役割分担であるのは、誰もが気づくところかも知れず、何の根拠もないのに不敵な笑みを浮かべられる自信がどこから生じてくるのかと言えば、自身が所属しているつもりの共同体に守られていると勘違いしているから、不敵な笑みを浮かべる余裕があると解釈できるかというと、それもその場の状況次第な面もありそうだが、それに対して組織の側の論理として想像できるのは、いざとなったらいつでも他の構成員と取り換えが利くから、使い捨て専用の戦闘員程度の取り扱いだと理解しておいても構わないような気もするわけで、そういうところまで考えが及ばないから、話の都合上咬ませ犬にもなれない雑魚的な立場で、不敵な笑みを浮かべながら負けることが前提の戦いを挑んでくるのかも知れない。


12月1日「無理難題への取り組み」

 その真意を確かめてみるまでもなく、わかりきったこととして無理難題が持ち出されてくる流れとなるのも、漫画的なストーリー展開ではよくあることだが、そういうことをやるのが目的化しているように感じられると、わざとやっているのではないかと疑われるのだが、そうなるのが自然の流れであるように見せかけたいのではなく、意図して画策しているわけでもなくても、否応なくそうなってしまうような成り行きへと持って行かなくても、なぜか知らないが結果的にそうなってしまうとすれば、理由も原因も定かではないだろうが、実際に経済活動からそんな流れが生じてくるなら、利益を求めているからそうなるとしか言えないようなことなのかも知れず、そうだとすれば売買や貸借などを伴った商取引からそういう流れが生じてきそうなのだが、それの何が無理難題なのかと問えるわけでもないが、要するに社会正義などのきれいごとが主張されている間はそういう流れは無視していられるかも知れないが、実際に世の中で経済活動が行われている限りは、経済的な利益を求めないわけには行かないから、それを無視するわけにも行かないわけで、確かにそんなことはわかりきったことなのだが、経済的な利益を追求する側にとって、それと社会正義などのきれいごとを両立させるのが無理難題だと言えるかどうかも、ロックフェラーやビル・ゲイツなどのように汚いやり方によって独占的な立場を築いて巨万の富を得た後から非営利の財団を設立して慈善事業などに取り組む成り行きが生じてくるわけで、リベラル勢力などが政府や国家を利用して社会正義などのきれいごとを実現しようとしている一方で、それを実現するための費用が民間の経済活動から税を徴収することによって生じてくるわけだから、一方だけに携わるわけには行かないし、そういった経済活動に近い立場の自民や国民民主や維新や参政などの不正行為や違法行為を見つけ出して暴露したいジャーナリズムなども、社会正義などのきれいごとの実現に一役買っているとしても、それらの政治勢力の応援団を買って出る者たちもSNSなどを利用して嘘やデマを拡散して、そうした反体制的なジャーナリズムなどに対抗していると言えそうだが、そもそも経済活動自体が一歩間違えばまやかしやごまかしを伴った詐欺などと紙一重なことをやってしまうわけだから、社会正義などのきれいごととは相容れない面を持っていると言えそうで、そういう意味でも世の中は社会正義などのきれいごとだけでは成り立たないと言えるかどうかも、両立不可能であるにもかかわらず、両方共に実際に行われている現実がある限りで、一方だけに関わって一方だけを正当化するのは欺瞞のような気がしないわけでもないが、そんな中でもうまく立ち回るには社会正義などのきれいごとだけに関わっているように見せかけたいと思っているわけではないとしても、実際に行動としてそういう方面へと引き寄せられるようにして、被災地でのボランティア活動などに携わっている自身の姿をメディアを通じてアピールしているように見られてしまうと、やはり山本太郎のように偽善者のレッテルを貼られてしまうことにもなりかねないから、無名の一般人ならそんな心配はいらないから自由に行動できそうだが、それが政権与党の不正行為や違法行為などを追及している勢力などと共に、経済活動の面で不利な立場を強いられてしまいそうな危険性がつきまとってくるかも知れないが、逆に有利な立場を得ようとすれば不正行為や違法行為をやってしまう危険性と隣り合わせとなるだろうから、実際にそうした行為を見つけ出して暴露したいジャーナリズムの標的となってしまう危険性も伴ってくるわけで、どちらにしてもうまく立ち回るにはそれなりのリスクを引き受けなければならなくなるわけだろうが、それが無理難題への取り組みと言えるかどうかも、やっている側としてはやらざるを得ない成り行きに囚われているわけだから、それをやらずに済ませる選択肢はないと事態を捉えておいても構わないが、どちらか一方の側を応援するというのも、やめておいた方が良さそうな立場なのかも知れず、応援するのではなく、できれば当事者となって活動している側になれば、自らがやっていることの責任を自ら引き受けるという逃げ隠れができない立場になれるわけで、そうなれば傍観者であることのやましさに煩わされることもないだろうが、それも誰もがそんな立場になれるわけでもないから、なろうとしてもそう簡単になれるわけでもないと事態を捉えておいても構わないだろうが、中には不正行為や違法行為に手を染めないとなれない場合もあるわけだから、なった後からそれがバレてしまうとその責任を追及されて、面倒な事態に直面してしまうわけで、しかも長くそんな立場でいられるのも、並大抵の努力では済まなくなって、プーチンのように邪魔者や足手まといになった者たちを次々に粛清しなければならなくなってしまうと、死ぬまでそんなことをやっている羽目に陥ってしまうから、よくある独裁者の罠にハマっている感じなのだろうが、一般人ではそこまでは行かないとしても、そのせいぜいがSNSなどで嘘やデマを撒き散らしながら、社会正義やきれいごとを主張する正義の味方気取りの左翼やリベラルに絡みつきながら執拗な攻撃を加え続けるのが関の山といったところだろうが、いつの時代でもそんなウジ虫が大量発生しているとも限らないし、その当事者になってしまうとそれが経済的な利害関係から生じてくるなんて思えないだろうし、それとこれとは全く関係のないことのように思われても、何となくそういうことではないような気がするかも知れないが、どう考えても経済的な利益を得ようとする際に味わう不条理感や理不尽な扱いを考慮に入れるなら、その一方で社会正義やきれいごとを主張している奴らがいいとこ周りばかりやっていてずるいと感じられるかどうかも、それとこれとが直接結びついているという実感を得られる立場というのも限られてくるかも知れないが、その種の憎悪感情を隠そうとしない者たちが囚われている状況というのも、経済的な余裕のなさが心の貧しさに結びついて、きれいごとを言う者たちへの憎悪の感情へと進展すると一概には言えないものの、きれいごとを言える立場というのが、それをカネの力でそんな立場を買い取ったロックフェラーやビル・ゲイツなら正当化できるわけでもないが、その一方でうまく立ち回るにはその種の罠にはなるべく近寄らないようにしながらも、憎悪の感情には陥らずにスマートな金儲けができるように自身の境遇を持って行ければしめたものだが、それも状況次第で絵に描いた餅のようなきれいごとに過ぎなくなるかも知れないし、昨今の投資関連の誘い文句がそんな絵空事を象徴しているとしても、何か無理してうまく立ち回ろうとしなくても、自身の立場を無理にも正当化しなくても済むような生き方を模索している人も結構多いのかも知れないし、自身が不条理な欲望に囚われていることに気づいていないぐらいでも、それなりに生きて行ける世の中になっているのは、昔からそうなっている可能性も捨て切れないが、それらに対立軸を設定して敵と味方に立場を分けて、どちらか一方の味方を装うようなやり方を逃れられるなら、それがうまく立ち回っていることの証しとなるかどうかも、それも一概には良し悪しを言えないだろうが、良し悪しにこだわらないこともそこから逃れられるチャンスと言えるだろうから、無理に逃れようとせずに、そんな立場にこだわってしまっても、それなりに生きては行けるだろうから、そこでも判断の基準としては合法的な側で活動していれば、法的には問題ないわけだから、少しは気休め程度の正当化は可能かも知れないが、それでも何かのきっかけから不正行為や違法行為をやらざるを得ないような立場になってしまうとしたら、社会の制度がそんな立場を必要としているぐらいの認識でも構わないのではないか。