彼の声1722025年12月13日「時流に合わせた態度」情勢が一時的な調整局面だと考えられていたようでいて、思いの外それがだいぶ長引いてくると、そうでもないような気がしてくるから、それと共に不安感も増してきて、そのせいで何か心身が変調をきたしてくるような兆しもあれば、何だかヤバい事態にも陥っているような気もしてくるが、何が原因でそうなっているのかというと、例えば株価の推移や経済の状態なのかも知れないし、政治的な成り行きも不透明感が増してきているのかも知れず、それ以外にもどうとでも言えそうなこともいくらでもありそうで、その大部分が心理的な思い込みに起因してそうなっているのかも知れないから、それが集団で罹る心配症のようなものとして世の中に悪い影響を及ぼしているとすれば、淀んだ空気のような嫌な雰囲気を感じ取っているつもりなのかも知れず、そうなっているからといってはっきりした兆候でもないだろうから、そんな世の中の傾向を敏感に察知しているつもりが、それがとんだ勘違いで、心配しすぎの杞憂に過ぎなかったことが後からわかれば、ほっと一安心するだろうが、それがどうも今のところはそうはならないような気がするから、もうしばらくは不安感を払拭できずにどんよりした曇り空のような情勢が続いて行きそうだが、もうしばらくがいつまで続くかなんてわかるわけもなく、いつまで経っても不安な気持ちのままなのかも知れないし、だからどうしたわけでもないと開き直れるわけでもないが、何の根拠もなく開き直って強がってみせるのでは、ただ単に虚勢を張っているに過ぎなくなるから、もっと自信なさそうに不安げな装いや表情を保っておいた方が無難な態度なような気もするが、わざとそれを意図してそうしているわけではなく、本心から不安がっているのだとしたら、その方が現状を反映しているだろうから、何だかそれが不安感に囚われた人を演じているように見えてしまうと、やはり嘘がバレバレのような、おかしな事態に陥っているような、それが何かの冗談のような気もしてきてしまうが、実際はどうなのかといっても、時間の経過が全てを解決してくれるわけでもないが、それが自分にとって有利な情勢となるように、世の中を変えようとする無謀な試みではなく、絶えず自分の方から世の中の情勢や傾向に自らの思考や言動を合わせようとしていると感じられてしまうと、それだけではまずいような、自分だけではなく他の多くの人々にとって生きやすい世の中となるように、みんなで力を合わせて取り組まなければならないことがあるんだと偉そうに主張してしまう政治家のような気分にもなれないだろうから、そういうところではあまり大げさな使命感に囚われないでいる方が良さそうにも思われて、もっと身の程をわきまえた謙虚な態度でいる方が、ただのどこにでもいるような無名の一般市民のような態度に近づけそうだが、果たしてそれが戦略的な態度なのかというと、その程度にも、そんな振る舞いを演じている者の立場にも、取り組んでいる内容にもよるだろうが、振る舞いを演じているのではないとしたら、ただ単にそう振る舞っているに過ぎないと言えそうだが、演じていることとただ振る舞っていることの区別などつけようがないし、自身も意識して区別をつけているわけでもないだろうから、ただ何となくそうなっているに過ぎないだろうが、それが自然と時流に合わせた態度となっていようと、そんなことを意識しているわけでもないだろうし、意識してそうしようとしているわけでもなく、成り行きとしてそうなっているに過ぎないことだろうが、だから逆に意識してそんな時流に逆らおうとしなくても、自然に逆らってしまうかも知れないし、その場その時の自身の都合に合わせてそうなってしまえば、それも自然な成り行きだと考えられるはずだが、しかも時流が一つではなく、複数の時流があって、その中の一つの時流に合わせてしまうと、自動的に別の時流に逆らうことになってしまえば、そんな成り行きなんて意識できないだろうし、それに気づくことなくそうなってしまうのなら、それも自然な成り行きだと考えざるを得ないが、自分がそんなことを考えているわけでもなければ、それ以前にその場の思いつきで、それも何となく偶然の巡り合わせが作用してそんな考えに至っているに過ぎないことだろうが、しかもそう考えてしまうことも、勘違いしているからとは思わない方がいいのかも知れず、それどころか結構考えていることが何かの的を射ているような感じがするとしたら、考えているそれと無関係ではなく、何かしら気づかないところで関わりを持っている可能性もあるかも知れないから、注意深く思考を巡らしてそれが何なのかを突き止める必要もありそうで、突き止められるなら案外そうなっているのが偶然の巡り合わせなどではなく、必然的な成り行きでそうなっているとしたら、その必然性がどこから生じてくるのかを突き止めたくなってくるようだが、それが自力で突き止められるようなことではないのかどうかも、現状では何とも言えないところで、そう考えるには避けては通れない前提条件のようなものがあって、その条件を満たさないとそれを突き止めるには至れないと考えるなら、今度はそれが何なのかと循環論的に考えてしまうようだが、そうやって迂回路のような紆余曲折が考えている途中の岐路に増設されてしまうと、さらにわけがわからなくなりそうで、そうやって絶えず後からはぐらかしの興味や関心を逸らそうとする新展開が増設されて、当初の計画がうまく行っていないことから人々の意識を遠ざけようとすることが、どのような思惑からそんな余分で余計な成り行きが仕掛けられてしまうのかもわかりきったことにはなりそうで、そんな時流に自意識を合わせようとすることが何を意味するわけでもなく、そもそも時流というのが多くの人々がそれに合わせようとするから生じてくるような現象なのだから、しかも大して苦もなく困難もなく合わせられるからそれが時流として社会の中で機能するわけだから、時流そのものが安易な成り行きから生じてくるとも言えそうで、そうだとすれば時流に乗っている当事者たちが軽薄な態度なのも、何となくそうなるのが必然的な成り行きに囚われていることの証拠だと言えそうだが、そしてそんな時流が何かのきっかけから手のひら返しやハシゴ外しのような仕掛けと共に終了してしまうと、逃げ遅れてそこに取り残された者たちがひどい目に遭いそうだが、果たしてそれが一過性の時流であって、もうすでに終わってしまったか終わりかけていると言えるかどうかも、それが終了したり衰退してみればはっきりするだろうが、それを終了や衰退だと言い切れるかどうかも、現状で試されていることになりそうで、安易に流行が終わった終わったと煽りたがる者も、それが流行の最中であっても次から次へと現れてくるだろうから、それだけ情勢の見極めも困難を伴いそうで、そんな中でもいったい誰の意見や主張や分析などを信じればいいのか迷うところだが、それが確信に至るようなことでもなさそうで、実際に自らも現状認識を絶えず更新している最中かも知れないし、その関係者ならそれが一時的な流行現象などではなく、今後も延々と続いて行くことを前提として、それに関わって行く決意と共に動いて者もいくらでもいる中でも、何かもっともらしい理屈を持ち出してそれを正当化したがる者がいるとしたら、それを信じたくなってしまうのだが、たぶん信じてしまうのは仕方ないとしても、信じてしまったからといって、それへの関わり具合によっては、それを信じている程度や傾向が自身が思っているほどでもない場合もありそうで、そういうところでバランス感覚が働いていることに気づいたとしても、それによって自身が助かるとも救われるとも言えないところだが、自らが新たな時流を作り出すような立場でもない限りは、その度合いがそれほどのめり込むような程度にはならない可能性が高いわけで、そうであるならいきなりの手のひら返しやハシゴ外しなどには巻き込まれないように、絶えず細心の注意を払いながらも、ちょっとだけ時流に合わせる程度でも構わないような態度や姿勢を保つように心がけるぐらいが無難なのかも知れない。12月12日「固有の事情と経緯」物事を前進させる気があるなら、まずは取り組んでいることを明らかにしなければならないと思うのも、たぶんそういうレベルで事が進んでいるわけではなく、それ以前に何事も安易に否定的な反応で済ませてしまう連鎖を断ち切らなければならず、それと同時並行して思想信条的には肯定できない面を肯定しなければならないとしたら、しかし何が肯定できないのかと問うなら、すぐにそれが思い浮かぶわけでもなく、じわじわと人心に染み込むようにして社会に何かが浸透して行くのを感じ取れるかも知れず、その一方で議会においては見せかけの白熱した議論が空振りに終わるばかりで、その裏では粘り強く妥協と譲歩を重ねながら、最終的には渋々認めざるを得ないような折衷案がひねり出されてくることを願うばかりかも知れないが、それもそんふうには事態が進展しないこともわかっているから、交渉がもの別れに終わる確率も高そうで、だから何だというわけでもないが、なぜかそれによって事態が進展したことになるらしく、思い通りには進展しない代わりに、それとは別の方面で思いがけない進展があるようで、そんな進展が予想外の新たな事態をもたらすから、そんな事態に直面すればどうなるのかというと、現状で起こっているようなことが実際に起こっているらしく、それによってよくわからない込み入った事情が生じてくると共に、それをどう取り扱えばいいのかもわからず困惑するしかなさそうだが、実際にそうなっているのだから、現状がどうなるわけでもないことを思い知ることになるだろうが、それでも気づかないところで物事が前進していて、しかも思い通りの前進ではないわけだから、前進していることに気づかないというか、面倒な紆余曲折を伴った迂回でしかないような回り道なのかも知れないが、その場に関わっている誰もが願ってもいないような方面へと事態が向かっていると思うなら、それが事態の進展であり、物事が前進していることになると考えておけば良さそうで、それでは駄目なような気がするだろうが、これまでの事の経緯を振り返るとそんな成り行きばかりだったような気がするのだから、それが確実な事態の進展を示して、それに関わる取り組みもそれなりに前進していると現状を捉えておくのが妥当なところで、それが政治的なまやかしでありごまかしには違いないのだろうが、それを無視してうまく行っているように装うのも何か詐欺のような感じもしないではないが、実際にもそう装っているのがバレているのだから、しかもバレていてもなおそれを見ないようにして支持を装っているわけで、そういう振る舞いが戦略的な態度からもたらされているとしても、それを批判するというのも何だか批判している気にもなれないのだが、毎度のことのようにそれを批判する行為に及んでいる者たちが述べていることを真に受けるわけには行かないとなると、ではどんな態度ならしっくりくるのかというと、我関せずでは済まないとも思えないし、少なくとも批判のための批判にはならないようにはしたいのだろうが、そうなっていること自体もすでに脇道に迷い込んでいることを示しているようでいて、それ以上は無理に不正を追及するわけにも行かないだろうから、その程度や加減を超えて何をどう批判してみても、それだけでは事態を打開できないようだから、それとは違う方面から回り込んでそれに対応しようとしているのだろうが、それも現状ではうまく行っているとも感じられないのだから、事態が行き詰まりの様相を呈しているのかというと、それもそうではないと反論できるかどうかも何とも言えないところかも知れないが、見え透いたまやかしだろうとごまかしだろうと舐めてかかっているわけではないと受け取っておくしかなく、そんなことしかできない政治勢力なのだから、それを支持している世論というのも、それが見え透いたまやかしやごまかしであることを承知で支持しているのだから、そんな人々が支えている政治状況だと言えないこともなく、それが取り立ててどうということはないと言えそうな水準で事態が進行中だと情勢を捉えておく程度でも構わないだろうが、やりたいことがそこにあるとは言えないようなこととして批判の対象となっている勢力がある一方で、それとは別の方面で世論が支持している面もありそうで、そうであるなら多少のまやかしやごまかしは大目に見ている部分もありそうなのだが、その一方で批判されている面ばかりを批判勢力が強調するから、それを真に受けるとひどいことばかりが行われているような気がしてしまうのだが、実際にはそんなことばかりではないと思っておいても構わないのかというと、政治自体がまやかしやごまかしの産物なのだから、それを言うなら経済自体もその大半がそうかも知れないから、どちらでも物事の道理を持ち出すような理性的な対応など受け入れられない傾向があると考えられそうで、ではどういう対応なら受け入れられるのかと言えば、そんなのはわかりきったことであり、功利的な利害関心に基づいた戦略的な対応となりそうで、それが見え透いたまやかしやごまかしを平然と仕掛けくるような成り行きをもたらすのだが、それを受け入れるか否かが問われていると言えそうで、誰に向かってそんなことを問うのかと言えば、世論や民意や民度などの方面だが、それらは似て非なる概念で、世論は世論調査などで測られる世間の意見や空気だが、民意は選挙や住民運動などで示される国民全体の意思や要望であり、民度は文化や社会の質として示される国民の教養や成熟度を指すそうだが、民主主義ではこれら全てが重要で、世論調査の限界や民意の捉え方や民度の質が政治の質に影響を与えるとAIが答えてくるが、それに対して政治家は、一過性の世論に惑わされず、国民全体の民意を的確に把握して、社会全体の民度を高めるような、より本質的な判断が求められているそうだが、そういうこと踏まえるなら、確かに高市や維新の連中のやっていることは、世論を惑わし、民意を欺き、民度を劣化させるようなひどいことをやっていると批判できるだろうが、そういうきれいごとの批判が今の世の中で通用するのかというと、やはり問われているのは高市や維新の連中ではなく、あいつらはあいつらでやりたいようにやらせておけばいい程度のことだと軽くみているわけで、事の深刻さなどスルーの対象である一方で、中国の脅威なんかも張子の虎のようなものだと勘違いな認識に囚われていても構わないような気もするのだが、それを言うなら、まさかトランプやプーチンなんかも見かけ倒しなことをやっていると、調子に乗って夜郎自大な虚勢を張っていても構わないのかというと、それをそうは言わないだろうが、一方で舐めてかかってはならないのが、やはり功利的な利害関心に囚われた戦略的な態度だと述べてみても、今ひとつピンとこないのも仕方のないところで、そんな態度の進化形態として自然に生じてくるのが理性的で合理的な判断を重視する姿勢だとしたら、いかにしてそんな姿勢や態度を堅持しているように装えるかも、やはり戦略的な態度から自然に生じてくるようなことなのかも知れず、どうもそういう見せかけの姿勢や態度には騙されないぞと強く思い込んで身構えてしまうと、かえって騙されてしまうような成り行きが生じてくるのかも知れないから、それと比べて高市や維新の連中は無防備に正直過ぎるようなことをやってくるから、それもかえって舐められてしまうような成り行きに囚われていそうで、そうだとすれば高市や維新の連中には誰も騙されていないし、あいつらはああいう連中なんだと誰もが正確に理解している一方で、たぶん高市の前任者の石破には誰もが騙されていたような感じがするわけで、こいつは誠実なんじゃないかと思われるように振る舞っていたと感じられてしまうから、トランプなんかも、こいつはちょっとヤバいと身構えていたように感じられるのだが、もちろんそんなことはもはやどうでもいいような情勢となっているから、今はせいぜいが高市や維新の連中のわかりやすさを批判することが流行する兆しを見せているのではないか。12月11日「機会を逃すこと」それが何の機会なのかもわからないというと、いつもの嘘になりそうだが、ある程度は予想の範囲内で目星をつけているとしても、その機会が巡ってくるのを待つというのも、それを待っている間に何か機会を捉えるための準備をしておかなければならないと考えるのも、現状では冗談のような話で、何の機会なのかも巡ってくるまでわからないようだと、待つだけ無駄なような気もするが、しかもすでに巡ってきている最中なのに、それに気づかずに通り過ぎてしまうようだと、何だかわからずにそうなってしまったことにもなりそうで、それによって自分がどうなってしまったのかと考えても、果たしてこれが機会を逃してしまった結果なのかどうかも、何かと何かが同時にそうなっているような感じもしないではないから、何かの機会を捉えた代償として別の機会を逃してしまったことになるとすれば、同時に複数の機会を捉えるわけには行かないと考えた方が無難で、だからといって残念がったり悔しがったりするまでもなく、事後的には何をあきらめてしまったのかも思い出せないことにもなりそうだが、それがどうしたわけでもないとたかを括りたくなるが、何だかそれがイソップ童話のよう話だと軽く考えて、なるほど酸っぱい葡萄の話だと合点が行くまでもなく、機会を逃して痛い目に遭った経験が、後になって何かの役に立つと考えてしまうのも浅はか過ぎるかも知れないが、実際に早まったことをやってしまった後から後悔しているようでいて、ちょっと痛い目に遭うのがその機会だったような気もするわけで、そうやって何かの免疫を獲得していると考えて、やってしまったことを合理化するような成り行きでもないのだが、どう考えても思考が頭の中で循環している感覚を覚えて取り留めがないが、それでもその機会を捉えたことを自覚して、そこで行なった行為が今後うまい具合に事態を好転させるかどうかも、それが好転したり暗転したりしながら事態が推移して行くのだろうから、その場でそうなった結果を受け止めて一喜一憂したりすることにはなるだろうが、それがその場限りで済むか済まないかも、後に尾を引くようなことになるとしても、すでに取り返しがつかないことをやってしまったわけだから、後はどうなろうと知ったことではないと突き放す気にもなれないが、実際にはそんな大げさなことではなく、ちょっとだけほんの数百円程度の損失を被ったような感じなのだが、あと数分間待てば被らなかった損失なのだから、なぜそれを待てなかったのかと後悔してみたところで、実際にやってしまったのだからそんなのは仕方のないことで、それが今後の教訓となるような気もしないが、今後もっと多額の金額でそうなる機会が巡ってくれば、その時の教訓が活かされるのかどうかも、そうなってみないことにはわかりようがないだろうが、同じ過ちを何度繰り返しても、さらに同じ過ちを繰り返してしまうような気もしないではなく、そんなせこいところで工夫を凝らすような真似はやめておいた方が良さそうだが、できればもっと大局的な見地から自らが囚われている事態を捉えてみた方が気が楽になりそうな気もするから、そんなことはすぐに忘れて、それとは違う方面から物事に取り組むような成り行きに持って行けるかというと、それもそうなってみないことには何とも言えず、何か勘違いしているような気もしないではないところからそれについて考えているようで、今はそう思い込んでいれば済んでしまうことらしく、考えていることが間違っていても構わない状況なのかも知れないから、それが何の状況なのかもはっきりとは断定することもできないが、試行錯誤の機会を与えられているような感じもしなくはなく、そんな機会を逃すはずもないどころか、否応なくそうなってしまうとしたら、機会を逃す選択肢などないと考えておいても構わないようなレベルでそうなっていると事態を捉えたくなってくるのだが、だからまだ思考をまとめる段階ではなく、しかもまとめる段階などこの先永久にやってこないと事態を捉えるなら、それが深刻な事態なのかというと、そうやって相変わらず頭の中で思考が循環しているだけで、何かの無限ループに陥っているような感じもしなくはないが、今がそんな無限ループから抜け出すきっかけを逸してしまった最中で、それも取り返しのつかないことなのかというと、取り返しのつかないことには違いないが、その代わりに頭の中で思考が循環しているに過ぎないから、何でもないことだと事態を軽くみているわけで、一瞬頭痛と共に頭の中が真っ白になったような気がして、脳卒中か何かの前兆なのかと焦ってしまったが、その後の経過は何でもないようでいて、自覚症状がないだけでそれに気づいていないのかも知れないが、果たしてそれが今後この世から離脱するきっかけとなるかどうかも、今のところはよくわからないが、意識して死ぬ機会を探っているわけでもないだろうから、何事もうまく行くような成り行きなのではなく、それでも一時的にうまく行ったような幻覚に囚われることもあるらしいが、それが気のせいに過ぎないと思っておくぐらいが、それに関わっている誰もが踏まえておかなければならないことのようにも思えてくるから、それをやりたい奴らが勝手にやってもらえばいいことでしかなく、他の誰も気にしていないようなことなのかも知れず、その辺は配慮が足りないとも感じられないし、多くの者たちが勝手にそうなってしまうようなことであるなら、それに関わっている誰もがやがて寿命が尽きて死んでしまうようなことと大して変わらない事態なのかも知れないし、それでも構わないような世界の中で誰もが活動していると認識しておくだけでも、それほど無責任な勘違いには至らないかも知れないが、そうなるのを嫌がって逆に独りよがりな責任感が芽生えてくると、各人の都合に応じて集団幻覚作用ような仕組みを伴って押し着せがましい親切心が世の中で増殖してきて、それが高じて他人へ向かって自粛警察のような攻撃が繰り返される事態ともなれば、そうなってしまう原因を他の何に求めるわけにも行かず、お前が原因なんだと名指しされるような事態も生じてくるかも知れないが、たぶんそんな機会を得るのも、何だか貧乏くじを引いたような気になってしまうから、それを逃れたのだと考えられるわけでもないが、まんまと逃げおおせることができたと勘違いして変な自信をつけてしまってはまずいから、できれば何事にも謙虚な姿勢で臨み、絶えず他人から学ぶ態度を維持しておいた方が無難だろうが、学んでばかりでは気が滅入ってしまうわけでもないだろうが、その反対に無理して他人に教える立場になろうとしてしまうなら、学ぶのと教えるのでは非対称な関係であるだけではなく、それよりも気楽な心境で話す立場と聞く立場であろうとする限りで、責任の度合いが違ってくることを考慮に入れておかないとならなくなってきて、他人から教えを請うなら、その他人へ謝礼でも贈らなければならないと、教えてもらった責任を果たせないような感じにもなってくると共に、謝礼を受け取るなら、教えたことが役に立たないとまずいような成り行きにもなってくるから、さらにそんな責任感によって、教える活動も学ぶ活動も、そうすることが有用であることを証明しなければならなくなってきて、ちゃんとした誰もが認める成果を得られないと、活動が無効であることになってしまうわけでもないが、成果が出ないと教え方や学び方がまずかったのだと短絡的に考えたくはなるが、それも程度にもよるが、雑学程度の知識を学んだり教えたり、事前に必ずしも役に立つわけではないと断っておけば済むようなことにもなりそうだが、そうなると学ぶことも教えることも価値が下がって、謝礼のやり取りも成果の有無も関係ないような成り行きになってくれば、それに反比例して自由度も高まると共に、それが何でもないような無価値なことなどあえて学ぶ必要も教える必要もなくなってしまうだろうが、経済的な事情からそういう無価値なやり取りを排除するような成り行きが生じているのかと考えてみると、ただ単にそれを学んでいるとも教えているとも意識していないだけで、実際にはそちらの方が世の中ではかなり大きな割合を占めているような気もするわけだ。12月10日「意図的な操作と誘導」焦って安易な結論に飛びつくわけには行かないとは思うが、それでもわかっている傾向がありそうで、結果的にはうまく行かないんじゃないかと思われることとして、経済的な成り行きと政治の関係が挙げられそうだが、それもたぶんこうすればうまく行くやり方などないと言えそうで、しかもそれがごまかしのような言説となってしまうから、怪しいと思われて、もっともらしいが信じるわけには行かない主張になるだろうが、そういうことを述べている者たちがごまかすつもりもないらしいどころか、できるだけ正確なことを述べようとしていると考えるなら、しかもそう述べてジレンマというか二律背反するような成り行きへと誘導しようとしていると考えるのも、物事を正確に捉えようとするなら、そうなる場合もある程度の認識でも構わないが、それに関して自身が述べていることを補強するような事例が示されると、そのような事例を示そうとする意図がわかってしまうわけで、だから何だというわけでもないが、新自由主義的な結論へと持って行かれるのを、何とかして阻止しようとしているのではないかと勘ぐりたくなるわけだが、それが結論なのかというと、ただの途中経過に過ぎないのだが、絶えず途中経過の中に現状を持って行こうとするから、何らかの結果に至るのを回避するやり方になるだろうが、政府が富裕層や大企業に課税して富を奪うのではなく、富裕層や大企業には投資を促すのが新自由主義的なやり方であり、課税するのではなく投資するなら減税するような成り行きへと持って行くのが賢いやり方になるだろうが、それが日本で言えばNISAだと言えるかどうかも、微妙なところかも知れないが、気休め的なレベルではそうなるしかなく、全面的にそうはならないところが、政治が経済をコントロールするには至らないという部分で、それがうまく行かなくても構わないような成り行きへと持って行こうとしているわけでもなく、それも単純に考えて政府が利益を出しにくいが社会にとって必要不可欠な分野に投資する一方で、富裕層や大企業は当然のことながら利益を求めて投資するのだから、そこで投資する分野で棲み分けができると考えるのも安易すぎる気もしないではなく、それも結果的に利益が出れば投資がうまく行ったことになると考えると、政府による投資はそういう論理ではなく、社会にとって必要不可欠な分野に投資するわけだから、それが具体的にどんな分野なのかも、すぐにこれといって思い浮かぶわけでもないが、日本でなら農業分野とか教育分野とか、医療や介護の分野とか、道路や上下水道などの社会インフラや防災の分野とか、それらしい分野ならすぐに思い浮かぶのだが、実態としてはそれだけではなく、軍事分野とか最先端の産業技術の分野とか、それによって他国に遅れをとらないように、政府が率先してそれなりの金額を投資するような成り行きになっている実態もあるらしいから、それもうまく行くような成り行きにはなりにくそうだが、それに加えて国家間の経済競争とか軍拡競争とか、そういう方面を優先させるようなことになれば、地理的・歴史的・文化的・地政学的な条件や経緯や事情などが各国で異なるから、色々と面倒なことになりそうで、どう考えても面積や人口や埋蔵資源や貿易関係や国家間の同盟関係などによっても、有利不利がある程度は決まってくるから、そういうことを抜きにして単純な主張などできないのはわかりきったことだが、だから軍拡をやめて国民の生活を向上させることに最優先で取り組まなければならないと左翼的なきれいごとを言えるのも、野党的な立場からならそんなことが言える程度のことなのかも知れないし、軍備増強ではなく外交的な面で諸外国と友好関係を築くべきだとも、もっともらしくは言えそうだが、それも実態としては両義的な意味でそうあるべきなのもわかりきったことで、その両義的な意味というのも微妙に本音と建前などの裏表がありそうで、いずれにしても現状の延長上ではそれなりに制約や限界がありそうだから、もっともらしいことを言うだけではなく、実態がどうなっているのかも含めて、こうすべきだと簡単には言えないような現状もありそうだが、そんな現状の中でも何か特定の分野に関してもっともらしく強調しながら訴えかけている主張があるとすれば、それが怪しいと感じられて、その裏で功利的な利害関心や戦略的な有利不利が絡んでくれば、利益を求めていたり有利な立場を占めようとして、そんなことを訴えかけていると考えてしまいがちになるが、さらに他人の言動の揚げ足を取ろうとしたり、非をあげつらうようなことを言い放つ攻撃に出るなら、さも重大で深刻なことについて議論したいような気がするかも知れないが、それが現状の中で言い争われている限りで、そうやって不満のガス抜きをやっているような感じがしてしまうわけで、そこで言われていることと現状との間で無視できない乖離が意識されるなら、激しく言い争われていること自体が他人の注意や関心を惹きつけるためのパフォーマンスなのではないかと疑われて、だからそういう見せかけのパフォーマンスの類いからはさっさと遠ざかろうとして、それを無視してスルーするような成り行きになってしまいそうだが、わざとそうなっているのも現状を反映しているからだとすれば、それが予定調和の駆け引きなどではなく、成り行き上そうならざるを得ない経緯や事情がそこに生じていると考えてしまい、何とかしてちょっとしたことを大げさに煽り立てて、それを現状を打破するための突破口にしたいような意図も感じられるのだが、もちろんそんなことをやっている当事者がそれを自覚してやっているかというと、怪しいわけで、政治家にその種の利害関心や自身や自国が有利になりたいという意図や思惑があるとしても、政治家個人のレベルで意識してそう思っている場合もあるだろうが、また企業経営者が自身の経営している企業がライバル企業よりも有利に事業を進めたいと思うこともあるとしても、それがそうなっている人の意志であると共に、そういう立場を占めている限りで生じてくる意志であることも確かで、何か社会的な立場や地位からそういう意志や思惑などが生じてくるから、その人の個人的な資質のせいにはできないし、その個人的な資質というのもそんな立場や地位から生じてくる面もありそうだから、そういう立場や地位を占めてしまうと、何をやるにしてもその立場や地位に囚われたことをやる羽目に陥ってしまうというか、やれることの選択肢が限られてくるから、そこから逸脱するようなことができなくなるのはもちろんのこと、わざと意識してそんなことをやろうとするわけでもないだろうし、自然にその立場や地位に見合うようなことをやりたがるようになるから、それに伴ってやれることの自由度も狭められて、それは言動の自由度も狭まることも意味しているだろうが、その立場や地位に囚われた言動というのも、その役割や役柄を演じているようなことにもなりかねないし、さらには意識して演じているのではなく、自覚なくそんな役割や役柄に没頭しているように見えてしまうと、そんな政治家とは対照的にトランプがビジネスマンのような振る舞いに及んでいるのが、他の政治家よりまともに見えてしまうのも錯覚には違いないのだが、政治家ふうの政治家の言動に慣れ親しんでいる人々は違和感を覚えるかも知れず、そんな振る舞いが世の中にどんな作用が影響が及ぼしているとも知れないが、それが明確な利害関心から生じてくる言動であるだけに、ある意味でわかりやすそうで、裏があまりなさそうにも感じられるが、そんな単純な割り切り方では何事も済まないと思う人が世の中には多くいるだろうから、幻想など抱けないだろうし、それでも陰謀論者なら回りくどい意図や思惑や野望なんかをぶっ込んできそうだが、ビジネスの延長上に政治的な言動があるということも、日本のビジネス右翼の政治家たちも親近感を覚えるような成り行きが生じているのではないか。12月9日「避けられない対象」そんなことをやって誰が何を喜んでいるのかも、そんなのは他の誰の知ったことではないらしく、世論調査結果に一喜一憂しているようでいて、またメディアを経由して伝わってくる情報の正確さが問われていると思い込んでは簡単に裏切られて、実際にはそんなことではないのは世の中の誰もが気づいているらしく、だからといって自分にとって都合の良い情報しか受け取らないわけでもないし、時には都合の悪い批判もありがたがって真に受けるのだが、それがどうしたと言えるようなことではなく、何かおかしいと思うのが正直な受け止め方だろうが、それを真摯に受け止めたからといって、すぐにお前ら駄目じゃんと言いたいらしいが、そんなことを言っている俺も駄目じゃないかと反省したいらしく、そんな軽薄な自己嫌悪に苛まれながらも、結果的には駄目ではないことになるらしく、そうなる理由を知りたいが、誰がそれを教えてくれるわけでもなく、AIに問えばもっともらしい答えが返ってくるが、それに満足するわけでもないところが中途半端な成り行きのようだが、実際にはそうでもないらしく、それでも構わないとあきらめたふりを装っておけばそれで済んでしまうと軽く考えているわけでもないが、では事態を重く受け止めるにはどうすればいいのかと問いたいわけでもなく、すでに軽く受け流してそんなことはすぐに忘れてしまったつもりのようだが、今後それを思い出すような機会が巡ってくるのかどうかも、文句を言ってくる気に入らない奴は魔女裁判や異端審問にかけて、火炙りの刑に処してしまえばそれで済むようなことなのかどうかも、また組織の構成員に厳格な規律を課して心身を締め上げる一方で、それに耐え切れずにヒステリー発作を起こした者は、悪魔憑きになったことにしておいて、エクソシストを呼んで悪魔祓いでもやってもらえば済むようなことなのかどうかも、今となってはそんなことは数百年前の別の地域で起こったどうでもいい出来事には違いないが、では今の時代では何が起こっているのかといっても、魔女裁判や異端審問や悪魔憑きや悪魔祓いなどと似たようなことが起こっているとは言えないまでも、デマや誹謗中傷などの攻撃を受けて匿名や実名の誰かが炎上することが、火炙りの刑と似たような出来事なのかといっても、そんなのは程度も規模もインパクトも違うし、すでにその種の流行はとうの昔に過ぎ去ったと軽く見ておいても構わないかも知れないし、それも世の中の表層で起こっている大して深刻に受け止めるまでもない枝葉末節な出来事だと言えるわけでもないが、そんなどうでもいい現状からも意識を遠ざけておいてから、他の何に興味や関心を向ければ気が済むとも思えないところが、あえて言及しなければならない成り行きに囚われていそうで、それを避けてはならないと他の誰かから励まされているわけでもないが、今の時代から意識が遠ざかるほど、意識の中に見えている幻影が次第に増殖してくるわけでもないし、その幻影が何なのかと誰から問われているわけでもないのも、それをこれ見よがしに明らかにするまでもないことだとしても、まだそれへの言及が足りないと思うなら、さらに執拗にそれに関して言及しなければならないかというと、そんなわけでもないとしたら、その理由を明らかにしたくなってくるようだが、その理由というのが、それをやってはいけない理由であり、さらにそれを批判する理由ともなれば、ジャーナリズム的な方面で言われていることになりそうだが、ではそれを迂回して、迂回する理由が何なのかといえば、それも謎には違いないが、それに対してすぐに違和感を表明するぐらいでは済まないような軽薄な思考に囚われていそうで、それらが知識や知性の不足という安易な言いわけでも済まないような世の中の様相を呈していそうなのだが、たぶんそれも時の経過と共に相対化される成り行きには違いないだろうが、そうやって遠い未来の彼方で忘れ去られる人々が今もこうして何かの現象に囚われながらも自己主張を繰り返しているわけで、その何かというのが、相変わらず深刻にも重大にも受け止められないような些細で枝葉末節な何かにこだわっているようにも、それに執拗にこだわらざるを得ないようにも思われてしまうのだから、今もそういうことの延長上でそれについて言及することしかできないわけだが、それが何かのゲームには違いないわけで、そんなゲームに参加しているつもりにならないと、必要も動機もないのに無理にそれに言及しても、言及している自らが馬鹿げたことを言っているようにも感じられてしまうから、何とか我慢して言及することに肯定的な意味や意義を見出して、それにこだわっているように装わないと、何らかの事情でゲームに参加できない人や、参加できるのに面倒くさくて参加していない他の者たちにとっては、どうでもいいようなことになってしまうから、言及しているのが馬鹿らしくなって、やめてしまいそうなってしまうのかも知れないが、果たしてそんな理由なのかと疑念を抱いているわけでもないが、なぜかそんなふうにして執拗に言及されている対象があるらしいのだが、その対象を無視しても構わないかどうかなんて自分には判断できないし、他の誰かにその判断を委ねる気にもなれないが、何かの岐路に立たされていると言えるかというと、それもここからどちらかに行く気にもなれないわけだから、岐路であっても無視するか通り過ぎるしかないし、要するに岐路に立たされる役回りなど善意で引き受けるわけにはいかないと思うなら、そのままそこを通り過ぎるしかないが、そんな芸当が自分にできるかというと、自分でもそこから目を背けながら、気づかないうちに岐路を通り過ぎてから、そのどちらを選んでどこをどう通ってきたのか思い出せないまま、すでに通り過ぎてしまったことを忘れているのかも知れず、そんな自分も含めてその岐路を通り過ぎてしまった者たちが行き着く先に待ち構えているのが、そんなゲームに参加する成り行きになるかというと、誰もが気休め程度にそんなことをやっているとも思えないし、中には本気になってゲームにのめり込んでいる人もいくらでもいるという認識で構わないかどうかも、今のところは自分でもよくわからないのだが、ではゲームにのめり込んではまずいのかというと、それも人それぞれであり、中にはのめり込んで破産したり破滅してしまう人もいるだろうが、誰もがそうなるとも限らないからゲームが成立しているのだろうし、参加しているプレーヤーがいる限りで成り立つゲームなのだから、誰もいなくなってしまえば、そんなゲームも自然消滅してしまうだろうが、そうならないようにあれやこれやと工夫を凝らして参加者を募っているのだろうが、そのきっかけが自分の場合は数年前のコロナ禍だったのだから、そのタイミングが絶妙なタイミングだったのかどうかも、今となってはどうでもいいことになってしまいそうだが、不意に引き込まれてしまう成り行きがあって、そんな誘惑に抗えないわけだから、運命のような巡り合わせだったのだろうが、それほどまで重大で深刻な選択をしたようには思えず、何かのついでに気軽な気分でそうなってしまったというと嘘になってしまうが、そうなった口実として持ち出されるのが、それまでの自分が疎かった経済についての知識や知見を得られるのではないかという取らぬ狸の皮算用だったのかどうかも、それも今となってはどうでもいいことには違いないが、現状でも謎なのが、それについて詳しい人ほどそうでもないという逆説があって、それが政治と経済の絡み合いだからこそ、その全体を見通すのではなく、部分的な方面にこだわっていた方がゲームを有利に進められるような感じにもなるから、そういう面では従来から存在している良心的に見える左翼やリベラルな人ほど、それ自体も全体から見れば、ほんの一部の小さな勢力を構成しているに過ぎないことを思い知ることになるわけだが、だからといってそれらの勢力を矮小化して否定的に捉えるわけにもいかない一方で、それとは別の方面で活動する人々も、それらの人々を有利に導くためのやり方にこだわっている限りで、部分的で小さな利害関心に導かれながら活動しているわけだ。12月8日「キリスト教の復興期」あえて根拠も怪しそうな妄想から述べるとすれば、戦前戦中の日本で行われていたことは、天皇制のキリスト教化だと捉えられなくもなく、その名残りが今も日本の統一教会の信者や自民や国民民主や維新や参政や保守などの保守系右派勢力に残っていそうだが、その一方で創価学会などは仏教のキリスト教化だと、それも大した根拠もなく言えてしまいそうだが、それが西洋で三世紀から十八世紀まで続いたキリスト教会による信者を支配する統治術をそっくり真似ていると考えるのも、もちろん当事者はそんな自覚など全くなく、それが天皇制に基づいた日本の伝統だとかいう勘違いに囚われているのかも知れないが、キリスト教会の修道士の役割を担っているのが、日本ではネトウヨや統一教会の信者であり、イスラム教国では過激な原理主義系の武装集団であり、西欧諸国では極右系団体の活動家だと見なすとすれば、今や世界的にキリスト教の復興期だと言えそうな感じもしてくるが、日本で執拗にクルド人などのイスラム教徒に対して敵意をむき出しにしているネトウヨなどはさながら中世のヨーロッパで十字軍の結成に歓喜した民衆と似ていなくもないが、当のイスラム教国でも過激なイスラム原理主義というのが、イスラム教のキリスト教化というわけのわからない事態を象徴する出来事なのかも知れず、日本では明治維新以降に西洋の制度や技術を導入して近代化を図る過程で、和魂洋才だとか都合の良い観念に囚われていたわりには、その裏では西洋の三世紀から十八世までの間で行われていたキリスト教会による民衆を支配するための統治術までこっそり導入してしまったから、それが戦前戦中の軍国主義を招いたと考えられるが、というか西洋文明の土台を構成しているのがそれだから、ある意味では西洋を真似ること自体がそうならざるを得ないということであって、そういう意味ではイスラム教国でも西洋の真似をして近代化を図れば必然的にイスラム原理主義を招くと考えれば、それでは納得できないまでも、その一方でデモクラシーと呼ばれるキリスト教とは異質の古代ギリシア由来の民主主義を拒絶する限りで、イスラム教のキリスト教化が進行するわけだが、それは西洋が十九世紀以降にキリスト教会からの支配を抑え込むために古代ギリシアのデモクラシーを導入したのとは対照的な成り行きだが、日本でも戦後にGHQがキリスト教化された日本を変えるためにデモクラシーを導入したのだが、それでも明治維新以降のキリスト教化の方が強い影響力を発揮しているから、今でもなかなかキリスト教会的な支配力から抜け出られないわけで、アメリカなどでもキリスト教の右派の力が衰えないことと似たような傾向かも知れないが、かつてのナチスのSSがその養成機関においてキリスト教の修道会の規則をそのまま導入したのは有名だが、日本でも現状のSNSなどで暗躍しているネトウヨがナチスの親衛隊のような活動を繰り広げているわけだから、その言動にキリスト教会の修道士のような傾向が窺われそうだが、だからといって今のローマ教皇庁の表向きの傾向からはそんなのは窺い知れないわけだから、むしろローマ教皇庁としては民主主義の庇護者のようなふりをしていると考えられなくもないが、最近ローマ教皇が替わったのだから、先代の民主主義の庇護者のような教皇とは違う方針を打ち出すかも知れないし、その辺は何とも言えないところだが、しかも現代において完全にキリスト教化された国家というのが、中国やロシアや北朝鮮などになってしまうと、ロシアはともかく中国や北朝鮮などはキリスト教とは何の関係もないじゃないかと言えないこともなく、そんなのは嘘っぱちだと思われても仕方のないことだが、キリスト教会によるその信者に対する統治の仕方が、それも西洋の三世紀から十八世紀の間に行われていた傾向が、今の中国や北朝鮮での統治に当てはまるかということが、もちろんその元となったのが旧ソ連でのスターリンによる国家統治に行き着くわけだろうから、結局はそれがヒトラーのナチス・ドイツとも共通の傾向となって、全体主義的な国家統治となるわけだが、何だかそういうところがややこしくてわかりにくいのかも知れないが、その種の国家統治に逆らう要因として出てくるのが新自由主義的な傾向になるというと、そういう方面でも拒否反応が生じてくるだろうから、民主主義的な国家統治と全体主義的な国家統治を対立的な傾向と捉えたくなるのだが、それが間違っているような感じもしないではなく、一方で民主主義的な国家統治が経済的に行き詰まると全体主義的な国家統治に行き着くと事態を捉えてみても、歴史的な経緯からそう言えるような成り行きも想像できるわけで、それが学校の教科書的な事態の解釈ではあるわけだが、もう少し系統立ててわかりやすくそれらの相関関係を構成してみたくなるのだが、何か複雑に入り組んだ関係のようで、食い違いや矛盾なくちゃんと相関図を構成できないような気もするから、何となく今のところはやめておいた方が良さそうで、そこに何が欠けていると言えるのかというと、たぶん経済的な成り行きには違いなさそうだが、西洋でもキリスト教会による支配からの脱却のきっかけとなったのが、産業革命だと考えられそうで、もちろんそこからさらなる全体主義的な傾向も政治と経済が結びつく形で出現してきて、まさに今の中国などはその典型例だと言えそうで、それが民主主義を阻む国家体制をもたらしているわけだから、一筋縄では行かないという表現も的外れなような気もしてくるが、一方に人を操り洗脳するための手法がキリスト教会による信者に対する統治と共に発達してきたことは歴史的な事実としてありそうな反面、民主主義の方でも大衆煽動的な手法も発達してきたわけだから、両者の合体がすぐさま全体主義的な国家統治に結びつくとも言えないが、中国の場合は毛沢東による文化大革命が現状の国家統治の基盤を構成している面もありそうだから、それが他の国々にも当てはまるかどうかも何とも言えず、確かにカンボジアの場合はポルポト派が文化大革命を真似て徹底したことをやってしまったから、それが今も尾を引いていて、民主化を阻んでいると言えるし、ミャンマーでもそれとは傾向は異なるが、軍事政権が民主化の障害となっているし、ベトナムの場合はドイモイ政策などによって経済状態が良好だと言えそうな面もありそうだから、一党独裁体制の共産党政権が民主化を阻んでいるとしても、中国とは相対的な違いもありそうだが、それらの国々では何が政治の民主化を阻んでいるといっても、内戦によって国内が統一されてしまうと、武力で勝った勢力による独裁体制が民主化を阻んでしまうと簡単に言える面もあるわけで、アフリカ諸国のように今も内戦が続いている国もあるわけだから、そうなると内戦が民主化を阻んで独裁政権を生じさせてしまうとも言えそうだが、それも単純な論理になってしまうから、何かそうではないような歴史的な経緯があるらしく、政治の民主化自体が武力を伴わない複数の政党による絶え間ない内戦の最中なのだと考えれば、それが一つの政党によって勝利に至ってしまうと独裁体制化するのだが、それを法的にそうならないような仕組みにしようとするのが、民主的な国家統治になると考えられるのだが、現状でも自民党の右派保守勢力と維新が手を組んで、議会の定数を削減して政治的な独裁化に至りやすい制度に変えようと画策しているとすれば、何となくもっともらしく思われるのだが、それに関しては経済の方面でも、新自由主義勢力が複数の企業による絶え間ない競争状態を維持することが、資本主義市場経済の維持に貢献すると考えているのと似たような傾向なのかも知れず、そんな傾向をまとめるなら、政治の方面では複数の政党による絶え間ない競合状態を維持する一方で、経済の方面でも複数の企業による絶え間ない競争状態を維持することが、現状の政治経済体制を維持継続することにつながると考えた方が良さそうだが、たぶんそれを維持継続させることが良いか悪いかではなく、維持継続させないと、政治的・経済的な変動は小さくなるが、その分だけ政治も経済も停滞してしまうと考えておけばいいような気もするわけだ。12月7日「勘が冴えない理由」何か急かされている感じがするなら、まだ時間的には余裕があるらしいのだが、その一方で心に余裕があるかというと、それが経済的な余裕と比例関係にあるとしたら、経済的な余裕と共に心の余裕も生じてくるような成り行きなのかも知れず、それが自然な成り行きとして考えられそうだが、それでは物足りないなら、では他にどんな余裕が必要なのかと問いたいわけでもないが、たぶんまだ何か肝心なことを忘れているのであり、それが本当に肝心な何かであるなら、急いでそれを思い出さなければならないかというと、それほどの緊急性は感じられないなら、こんなふうにはっきりしないことを述べて行くうちに、そのきっかけがあれば思い出すかも知れないから、もうしばらくはそれが何だかわからない状態を維持できるかも知れないが、こんな状態を意味もなく理由もなく維持したところで、何がどうなるとも思えないなら、現状が何をどう述べてみても仕方のない心理状態だと思うわけでもないが、その一方で何か勘が冴えているように感じられる時にはどうなるのかというと、AIによれば、勘が冴えるとは、物事の本質や良し悪しを理屈ではなく直感的に素早く察知・判断する能力が非常に高まっている状態を指し、洞察力・観察力・危機回避能力が向上し、人の嘘を見抜いたり、状況を的確に把握できるようになることを意味して、直感力が研ぎ澄まされ、頭の回転が速く、周りの状況や相手の気持ちを瞬時に理解するような状態だそうだが、勘が冴えている状態の具体的な特徴としては、無意識に周囲を細かく観察し、情報から本質を見抜く力として、鋭い観察力と洞察力が挙げられ、また危機を察知し、先回りして退避できる能力としては、危機回避能力が挙げられ、さらには言葉がなくても相手の心情や状況を推し量ることができる察し力が挙げられ、素早く状況を判断し、的確な行動に移せる、頭の回転の速さが挙げられるそうで、勘を冴えさせる方法として挙げられるのが、思考から離れ、心のうちなる声や感覚をクリアにして直感を高める、瞑想があるらしいが、まとめとして、勘が冴えるとは、潜在的な情報を感知できるように感覚を研ぎ澄まして、瞬時に的確な判断を下せる状態であり、仕事や人間関係において非常に役立つ能力と言えそうだが、果たしてそんな良いことづくめな状態に自分がなれるわけでもなく、どうやってもそうはなれないような気はするが、その一方で個人の勘がいくら冴え渡っていても、その使い道がない場合もありそうだから、使うタイミングや機会がうまく噛み合わないと、かえって勘を過信して、勘に頼りすぎてやっていることが失敗に終わる場合も想定しておかないと、勘が冴えているつもりになって意識だけ暴走しているのを自覚できなくなってしまうかも知れないから、その反対の鈍感力も必要な場合もあると実際に勘に頼りすぎて失敗した経験があればそんなことが言えそうだが、そんなこともそうなった結果から都合の良いようにいくらでも適当にいい加減なことが言えてしまうだろうから、そうなる際の条件や成り行きや経緯や事情が絡まってくる限りで、あまりその種の勘の良さや悪さに関連する成功例や失敗例を真に受けるわけにはいかないし、それらの事例が現状の成り行きと似ているからといって、それがそのまま当てはまるとは限らないこともわかりきったことだが、実際に勘が研ぎ澄まされるような体験をしたり、自らがそうなるような研鑽に励んだりした末にそうなるなら、そんなことの延長上で事が運んでいる限りで勘の冴えた人間になるかも知れないが、自己研鑽に励んだ挙句に高学歴となったとしても、いったんその種の高学歴のエリートが企業や政府の官僚制に組み込まれて、そこで組織の歯車として機能しているうちに、せっかく磨いた勘がすり減って、ただの部品人間となってしまえば、宝の持ち腐れともなりかねないが、勘が冴えるとはそういうことではなく、勘がすり減ってただの部品人間となる前に、このままではまずいと気づくことだと考えるなら、自身の勘がすり減らないうちに戦略的な態度で野望を抱いてその組織の頂点を目指すとか、あるいはその組織を抜けて、仲間を募って自身で別の組織を立ち上げてその頂点に立つとか、そんな成り行きまで想像できないこともないが、さらにハードボイルドなどのフィクションの中で起こる過程に倣って妄想を膨らませるなら、個人の力で組織に立ち向かってその組織を瓦解に追い込むとか、勘ではなく安易な想像力に頼るなら、そんなどうでもいいようなことが言えるかも知れないが、たぶんそんなご都合主義的で単純な成り行きにはならないのが現実の世界で起こっていることだとすれば、それも勘が告げていることであって、人がそれまでに生きてきた過程が経験として意識の中に積み重なると、そうはならないことが勘に照らし合わせて何となくわかってくるのかも知れず、それも確実にそう言えるわけではなく、中にはフィクションのような成り行きが現実に生じることもあるだろうが、それも自身ではなく他の誰かの身に起こる確率の方が高そうな気がするわけで、その誰かというのが誰なのかと考えてみても、当てはまりそうな人物の名前がすぐに思い浮かんでくるわけでもないが、その人物がソフトバンクGの孫正義だとすれば、それがフィクションではなくある程度は現実に起こっている出来事に当てはまることには違いないわけだが、もちろん全ての成り行きがぴったりと当てはまるわけではなく、そこには嘘も含まれてきて、嘘である方が事の深刻さを忘れるには役立ちそうなのだが、それを忘れ去るにはまだここからさらに事態がわけのわからない紆余曲折を伴いながら進展してみないことには無理なのかも知れないし、何を忘れ去りたいのかも外部から窺い知れるようなことではないだろうから、それが孫正義とは直接には関係のないことかも知れないし、今となってはそんなこともあった程度で、当事者であっても無視できるようなことかも知れず、そんなヤバそうな人脈と共にダーティーな顔役として暗躍しているのが孫正義だとは言えないまでも、その種の陰謀論者に言わせれば、いくらでもヤバい噂話が出てくるかも知れないし、そんな話を真に受ければ、そちらの方面で裏世界の事情通になれるわけでもないが、事情通になろうとするのではなく、あくまでも深みにハマるのを避けつつ、事の表層にちょっと触れるぐらいにとどめておけば、何もユーチューブで孫正義の危ない面を自身が間接的に見聞きした程度で語ってみせるようなことにはならないだろうし、その辺のバランス感覚が何によって求められているわけでもなく、その一方でまるでそれを本当であることのように語り出してしまうと、何となくその種の陰謀論者の仲間入りをしたような気になれるかというと、語っている内容にもよるかも知れないし、昔からソフトバンクがすぐにも潰れそうだと煽ってきた者たちがその後どうなったかといっても、人それぞれにその後の境遇も違っていそうだが、別にカショギ氏のように殺害されたという噂など聞かないし、黒川敦彦も未だ健在な印象を受けるが、彼らがなぜ陰謀論の深みにハマって何かを語りたいのかといっても、事態を捉えているレベルがそうなってしまうから、物事の大局を見失うだけではそうはなりようがなく、また素人探偵的な気分で事の真相を探りたいという好奇心に頼ってしまうのも、ただのジャーナリズムの論理に囚われていることになってしまい、何かそれだけでは物足りないわけで、そんな成り行きに何を付け加えれば満足できるのかと問えるわけでもないにしても、やはりハードボイルド的なフィクションの力に頼らなければ、気分がすっきりするような破壊的な結末をもたらすには至れないから、それに伴って批判するだけでは飽き足らずに攻撃な感情を爆発させるような成り行きへと持って行ってしまうと、何やらハードボイルドの作者のような事態になってしまうのではないか。12月6日「逸らされる関心」誰かがどこかで冗談のようなことを本気で述べているらしく、それが本当に本気なのかどうかも、半信半疑でそんないい加減なことを述べているとしたら、意外と当たらずとも遠からずなことを意識して述べようとしているのかも知れず、あるいは意識しなくても、その場のノリでそんなことを述べようとしているようでいて、否応なくそんなことを述べてしまう成り行きに囚われているとしたら、世間で流行っている風潮に惑わされ乗せられていると言えそうな成り行きには違いないが、実際にそうなっていれば、そんな風潮に迎合している人たちは安心できるだろうが、確かな感触を抱きながら大真面目にもっともらしく思われるようなことを述べているつもりだとしたら、その感触がどこから生じてくるのかといえば、それに対する世間の反応に勇気づけられているのかも知れないが、そんな世間の反応そのものが的外れだとしたら、そんな風潮に染まっている世間そのものが信用できなくなってしまうだろうが、そうなっているからこそ、うまく世の中がそこで主導権を握っている者たちの都合のいいように回っているように感じられるとしたら、意見変更や態度変更して自らもそんな成り行きに迎合するような言動に改めた方がいいのかというと、そんな意向など無視してそうなっていると言えそうな成り行きに囚われているのかも知れないから、だから無理に意見変更や態度変更などしなくても、また自然にそうなってしまうことを受け入れるまでもなく、そんなことはあえて意識するまでもないことになりそうで、意識できないところで起こっていることに気づこうとするなんて、そんなのは無理に決まっているから、そうではなく、メディアから伝わってくる世の中の情勢から読み取れる傾向があるらしく、そんな世間の表層で起こっている傾向から、世の中が変化する兆しを感じ取れるなら、それに関して考えてみるのも、少しは気休めのようにしてこの世界の理解に至れるかも知れないから、実際にそんなことをあてもなく考えている最中なのかも知れないが、何かこれといって特定の物事について主体的に考えているわけでもなく、逆に何か得体の知れない作用によって考えさせられているとしたら、いったい何によって考えさせられているのかと疑念を覚えるわけだが、この世界そのものによって考えさせられているとしても、自らもこの世界に含まれているわけだから、考えるまでもなく疑念を覚えるだけ無駄なのではないかと思考がぐるぐる循環してしまうのだから、取り留めもないことを考えているわけで、そんな取り留めのなさの延長上で何が起こっているのかと問うならば、それが昨今の政治経済情勢だと言えるわけでもなく、誰も動乱や混乱に乗じて一気に片をつけようとしているわけではないのだろうから、延々と長引いているわけで、長引かせないとならない事情を理解できるわけでもないが、結果的に長引いているのであって、それも誰も望まない方向へと導かれているような気もするのだから、事態が進行して行くにつれて次第に不安感も増して行くだろうが、それが未知の事態なのかというと、そうなってから誰かが過去の事例と似ている点を挙げて安心しようとするだろうから、そんな意見に同調している限りで一時的に安心できるかも知れないが、安心できないならそこで見逃している点が何かと考えてみても、まだそれが始まったばかりの段階ではわからないことが多すぎるような気もするだろうから、本当に始まったばかりの段階なのかと疑念を抱くこともできるだろうが、それに対して〇〇バブルは末期の段階か、すでに終わっていることに誰も気づいていないのだとこれ見よがしに言い放ちたい輩もいるだろうから、立場によって見解が分かれるところかも知れないが、そうやって何とかして多くの人々の関心をそこから逸らそうと躍起になっている事情がどこから生じてくるのかも、SNS上でそんな煽り立てをやっている者たちに訊いてみても、ちゃんとした返答など何も返ってこないかも知れないが、この世界が大きく変わり始めていることについて、この世界の一部を構成している多くの人々がそれに気づいてしまっては困るような事態となっているなら、気づかないうちに変えてしまおうとして焦っているのかも知れないと推測してみても、誰が焦っているのかも皆目見当がつかなければ、そんなのは嘘だと意味不明な妄言はさっさと退けられてしまうしかないが、案外誰もがそれに気づいているからこそ、それを必死になって否定しなければならない立場や態度が生じているのかも知れないし、そこに利害関係を想定してみるなら、現状の世界が変わってしまうと、そんな立場や態度の者たちの論理や、その論理に基づいた常識が通用しなくなってしまうから、そうなってしまうのは何としても避けたいとそれらの者たちが焦っているのかも知れないが、そんな推測も今のところは無視されるしかないが、ではそんな意図や思惑もわからないままになっていないと、他の者たちから煽り立てる理由や原因を探られてしまうから、それもわからないままにしておいた方が彼らにとっては都合が良いのではないかと推測したくなるが、現状がそうなっているだけでも興味や関心がそちらの方面へと誘導されていることになってしまうから、推測したいのを何とか思いとどまりながらも、それとは別の方面から探りを入れられるかというと、探りを入れたいわけでもないのに、なぜそんな仮定を持ち出すのか、そんな意図や思惑も謎のままになってしまいそうで、だから焦りを覚えつつも、事態を単純化して説明したいなら、単純化すれば事態がわかりやすくなるどころか、かえって謎が深まってしまうかも知れないとしても、それをバブルだと見なしたい者の意図や思惑を探るしかないと考えるのではなく、実際にそれによって不利益を被っているから、それをバブルだと見なして退けたいのだと事態を解釈するしかないが、それが意に反してこの世界を根底から変える大変な現象だとしたら、そんな煽り立てによって退けられるようなものではないと考えられるし、一過性の流行現象などではなく、今後も延々と人間社会にまとわりつきながらもこの世界に多大な作用や影響を及ぼし続けるのではないかと予想しておけば済むようなことかも知れないが、実際にはそれでは済まないだろうから、そうなることを恐れる者たちが必死になってバブルだ!バブルだ!と煽りながらも、そんな者たち自身が次第にフェードアウトしてしまうような後退戦を強いられている最中なのかも知れないが、それがそんな者たちが強いられている現状の境遇だとしたら、それとは違った立場や境遇がどこにあるのかというと、それも単純に理解しようとするなら、現状の世の中で起こっている現象に深く関わって、それをさらに推進しようとしている者たちも一方にはいるはずだが、そんな者たちを代表するのがイーロン・マスクやエヌビディアやグーグルのCEOだと言えるかというと、それも単純に解釈するなら、そんな見解になるしかないだろうが、そう仮定するのも、他に含みがあるような言い回しになってしまうが、彼らがこの世界に無視できない多大な影響を及ぼしていると述べてしまうと、そうではなく、彼らが代表となっている巨大ハイテク企業が多大な影響を及ぼしていると述べてみても、ちょっと違うような気がするわけで、では彼らや彼らの企業が取り組んでいる物事がそうだと述べてみると、それでも構わないが、もっと本質的なレベルで何かもっともらしいことを述べるなら、人類の技術的な傾向がそんな現象を引き起こしていると言えそうで、そういうレベルで起こっていることになれば、一時的な流行現象で片付くようなことではないと考えられるのだが、その一方でそれらの企業への株式投資のレベルでは、一過性のバブル現象も起こるだろうし、実際にそんな傾向が見受けられるから、それをバブルだ!バブルだ!と煽り立てるような成り行きに囚われてしまう者も一定数の割合で出てくるだろうから、そんな成り行きに囚われてしまった者たちの間では一過性の流行現象だと片付けてしまっても、それなりに妥当な受け止め方になるのかも知れないが、その一方でそれが人類の技術的な傾向の帰結だと考えるなら、今後もそんな成り行きが延々と続いて行く未来も予想されるのではないか。12月5日「相対的な正しさ」世界のありのままの現状を直視して、それを素直に受け止めれば、自ずから世界に対する正しい理解や認識が導き出されてくるようなことにはならないとしたら、そうなる以前に直視しているつもりのそれが、ありのままの現状とは限らないし、メディアを介して歪められて伝わっている可能性も否定できず、また自身がこれまでに生きてきた過程の中で体験したり経験したことが固有の経緯や事情を生じさせて、さらには取り組んできた物事からも特有のこだわりや偏見なども生じてくるから、それらが自身の心身に無視できない作用や影響を及ぼして、ありのままの現状を直視することを妨げていると考えるなら、結果的に導き出されてくるそれが、正しい理解や認識とはならなくても構わないのではないかと開き直るような態度になるかも知れず、しかもそもそも何が正しいかなんて、その人にとっては正しいことでも、他の誰かにとっては正しくないかも知れないから、そういう意味では正しいか正しくないかの判断がそれほど重要ではない場合もあり得るかも知れず、そんなことまで考慮に入れるなら、何をどう判断したいのかといっても、その判断が必ずしも正しくないことも踏まえておかなければならず、しかもそれが正しいか正しくないかではなく、そんな判断に基づいて行われることが結果的にうまく行くか行かないかといったことでもないとしたら、自身の判断などどうでもいいこととして無視されて、何をどう判断しようがしまいが否応なくそうなってしまうような成り行きに囚われている場合もありそうで、何だかよくわからないがそうなってしまうようなら、そうなることを避けられないと思うしかなく、そんなふうに事態を受け止めなければならず、そんな避けようのない成り行きに自身が囚われているとしたら、それが自分だけではなく、世界全体が囚われていると考えるなら、物理法則か何かに囚われているのかも知れないが、それが宗教系の思想に囚われるなら神の意志に支配されていることになるかも知れず、そんな大げさな影響が及ぶ範囲ではないとすれば、部分的に自らの力が多少なりとも及ぶ範囲内で物事を考えなければならないが、その際に避けては通れない思考対象として何があるのかといえば、それがちょっとした生き方の改善程度にとどまるなら、たぶん日々の生活の中で偶然に左右されて右往左往させられるような事態なのかも知れず、それが偶然に巡ってくる機会を捉えて逃さずに行動に結びつけるようなやり方を模索しているなら、そういうことの積み重ねの中で思考しているような感じがするのだが、それに対して不満を覚えるなら、関心が向いているのが自身の力の及ぶ範囲から外れているのかも知れないが、それが何なのかというと、安易な思考に囚われた行為や行動や言動から予期せぬ不用意な危機を招くような成り行きになりそうだが、その際の判断材料として、何が相対的な正しさとして指標のようなものを形成するのかと考えてみると、法律や制度や慣習などが単純に思い浮かぶわけだが、それぞれが単体として作用してくるわけではなく、それらが複雑怪奇に組み合わさったシステムのようなものとなって動作してくると、何かメカニカルな力が働いて、自動制御のようにして人や物や情報などを操作して世の中に作用や影響を及ぼしてくるから、普通に考えて個人の力では到底太刀打ちできなくなるだろうが、そんな自動制御的な機構が作動している世の中で暮らしていると考えるなら、それをもっと具体的にこれだと指摘できるような言説が求められているのではないかと勝手に受け止めたくなるのだが、それが勘違いなのかも知れず、そんな得体の知れないものが動作しているわけでもなく、世界の現状をそんなふうに捉えるのも陰謀論と大して変わらない捉え方には違いないが、しかもそんな機能を有した機構を政府という行政機構に求めるのも、何か当てが外れるような落胆をもたらすかも知れないが、それが政治家の類いがそれと自覚せずに目指している政府の在り方だとしたら、与野党に関係なくそういう成り行きに囚われているような感じもしないではないが、それが個々の政治家や官僚たちが共通のコンセンサスとして抱いているようなことではなく、それらの者たちが集団となって動作するとそんな傾向になってくるような成り行きだとしたら、政府の構造からそんな傾向が生じてくると受け止めたくなるが、そしてそんな張りぼてのような見かけの構造に騙されてはならないとすぐに注意喚起したくなるわけでもなく、張りぼてなどではなく、ちゃんとした中身を伴っているのではないかと政府の肩を持ちたくなるわけでもないが、政府に関わっている個々の人物たちがそう思っているわけではなく、政府としては国家の統治機構として機能したいのだろうし、実際にちゃんと機能しているように見せかけたいのに、それに失敗しているわけでもなく、それなりに社会の中で機能しているのだろうが、ちゃんと機能してはまずいような、見せかけ程度の機能にとどまってほしいと誰が願っているわけでもないだろうが、実質をあまり伴わない見せかけ程度の機能にとどまるなら、それによって国内の平和が保たれるとは、誰もそうは思わないだろうし、そんなわけのわからないことを思っている者など世の中には一人もいないだろうが、現状でも社会の様々な方面から政府に対して苦情が寄せられているなら、それによって政府がちゃんと機能していることの証しとなるかというと、それもそうは思わない人が世の中の大半を占めるだろうし、苦情が寄せられないようにちゃんと国を統治するのが政府の役目なのではないかと思ってしまう人もいるかも知れないが、そんな苦情に対応して対策を講じるのも政府の役目だと考えられなくもないにしても、結局政府による統治とは民の苦情に対応して何か策を講じることだと考えればそれで済んでしまうようなことなのかも知れず、そうやって何か策を講じてくること自体が政府の機能だと考えても構わないが、しかもその苦情の原因となっているのが政府の対応だとすれば、何か政府の怠慢で苦情が生じているような本末転倒なことにもなりかねないが、政府の存在や活動が民の苦情を生じさせて、そんな苦情に対応して何か策を講じることが政府による国家統治になるとすれば、現状でも日本に限らず世界各国の政府はそれなりに機能していると言えそうだが、では政府がなければ苦情が生じなくなるかというと、そんなことはなく何かしら苦情に対応する役目を担う機構が自然に生じてくるなら、それが政府になると言えるだろうから、国家にとって政府は必要不可欠な存在だと言えなくもないが、そんないい加減な理屈では誰も政府の存在意義を肯定できないだろうし、肯定できなくても構わないような存在なのかも知れず、わざとそんないい加減な理屈を用いて政府の役割を規定できるわけでもないが、その一方でわざと面倒な事態を引き起こして、それに対応して政府にとって都合の良い策を講じるのが、実際に政府が用いる常套手段だと考えるなら、高市などはわざとではないにしても失言によって日中関係をこじれさせたわけだから、それなりにうまく機能していると言えそうな役回りかも知れないし、中国政府もここぞとばかりに活動を活発化させて、日本に対して策を講じている最中なのだから、中国政府を機能させるには高市による失言が有効だったと言えそうだが、それも一過性のちょっとした機能なのだから、大げさに戦争を引き起こしかねないと高市を批判する日本国内の識者なども、そういうことを言わせるように仕向けたと解釈すれば、何となくうまく立ち回っているような気もしなくはないが、そんな逆説的な意味で高市が首相として適任者だと太鼓判を押すような太鼓持ちの役回りを引き受けるメディア関係者もそう多くはいないことを祈るばかりだが、そういうのがちゃんとした機能と言えるかどうかも、何か釈然としないなら、そこにもわざとらしい勘違いが含まれているのかも知れない。12月4日「泥縄式の対応」何かのついでに交わしたちょっとした受け答えの際に、そんなことはないと否定したい気持ちが意識されて、後からその際に何を否定したかったのかとその時の状況を思い出してみるが、否定したい対象というのが、今ひとつ実体をつかみきれていないような気がするものだから、相変わらずうまく言い表せないような焦ったさを覚えると共に、それの何が本質的に感じられるわけでもないが、何かつかみどころがなく、それについて執拗に考えていると、なぜか急にそこから意識が遠ざかって、もうお前には用がないと言われているような、一瞬それが何のことやらわけがわからず、そんなことを言われる意図を測りかねるが、誰に言われているわけでもないのだから、空耳に違いないが、それが天啓であるかのような大げさに事態を捉えられるわけでもなく、たぶん用がないということはすでに自分は用済みなのかと不安感が募ってきて、もうこれ以上はやる必要のないことを惰性でやり続けているのではないかと思い至るわけでもないが、寒気の影響で心細くなっているとしても、理由が依然として弱いようにも感じられるから、それが何の理由なのかもわからないままに、さらに思考を巡らして、いったい何をそんなに考えているのかと自問自答を試みても、どうもまともには返答が返ってこないようで、答えられない事情でもあるのかと訝しむわけでもないが、ひたすら愚鈍で愚直な対応というのも、そんな対応に誰が囚われているのかも、自分ではないと否定しきれないような、具体的に何がどうなっているのか、ちゃんと把握できないことには、それに対して何をどうやればいいかも、皆目見当がつかないと言ってしまうとお手上げ状態となってしまいそうだが、実際にお手上げ状態となっているのが、何なのかと考えてみるまでもなく、現に今ここで対応しているつもりのよくわからない事態なのかも知れず、対応できないのに対応しているつもりになっているのだから、ひたすらそこから意識を遠ざけておかないと、それ以外には何もできなくなってしまうというのも、何だかややこしい事態に陥っているようでいて、実際には何もしていないのにそれが対応していることの証しとなってしまうようで、ほったらかしにしておけば、それで構わないようなことになってしまうなら、実際に直接自分が対応しているのではなく、もちろん自分の代わりに他の誰かが対応しているわけでもなく、何もしないことがそれへの対応となってしまうようなお手上げ状態なのであり、だから特に何か対応できなくて困っているわけでもなく、何もしないでお手上げ状態でいることが、それへの対応となっているようにも思われて、何だかそれが不可思議な未知の体験であるような錯覚を覚えるわけだが、錯覚でも何でもなく、実際に今ここで起こっている出来事には違いないわけだが、こちらが特に何もやらなくても向こうから勝手に片付いてしまって、気を利かせて無理にも手を下すような真似などやらなくて済むように自動的に調整が行われているようでいて、こちらが気づかないうちにそうなってしまうのだから、誰かが裏から手を回しているわけでもないだろうが、それに対してこちらは気づくべき時に気づけば間に合ってしまうような按配なのだから、そんなことが実際に起こっているのが信じられないし、何かの幻覚に囚われているのではないかと恐れを覚えるが、実際にそうなってみるとそれを認めざるを得ないし、物事の都合の良い面ばかりを見ているような気もしないではないが、そうならざるを得ないような成り行きに囚われていると思うしかなく、それが機会を捉えて行動に打って出るような手間などかけなくても済むように、勝手に向こうから出向いてきて、こちらが気づかないところまで片付けてしまうのだから、それを唖然としながら眺めているだけで済んでしまい、確かにそうなってしまうと自分の出る幕などなく、もはや用済みの存在だと言えそうな気配も漂ってくるのだが、それでも自分がそこにいないと何事も片付かないようで、いるだけでいいなら居続けるしかないが、たぶんそんな夢を見ているわけではなく、眠っているわけでもなく、ここで現実に起こっている出来事に立ち会っているのであり、そんなことを空想している意識など邪魔だと言わんばかりに物事が片付いている最中だと認識する以外には何も考えられないわけで、それは年末恒例の大掃除の類いなのかも知れないが、それによって何が片付いてしまうのかも皆目見当がつかないわけではなく、中国やロシアや北朝鮮などがすぐに片付けられてしまうとも思えないが、いったい何によって片付けられてしまうのかも、ただの一般人に過ぎない自分などが想像も及ばない何かが作用してそうなるわけでもなく、確実に何かの転機が近づいているのかも知れないし、それに関しては自分以外の陰謀論者の意見を聞くまでもなく、遠からずそうなってしまうようなこととして、経済的な成り行きが作用してそうなってしまうのかも知れないが、そうなってから誰もが気づくようなことだとすれば、まだ誰も気づいてないことにはなりそうだが、たぶん今はそういう話題の逸らし方ではうまく行かないらしく、それを直視しないと見えてこない現状がありそうで、しかもそんな現状を見ないようにそこから目を背けている誰かがもっともらしくそれを解説している最中なのだから、なぜそこから目を背けながらもそれについてもっともらしく解説しようとするのか、そんなわけのわからないやり方が現状では有効だとすれば、盲目の手探り状態でいる方が現状に関しては正しい認識に近づけるのかも知れないが、その正しい認識というのが陰謀論と排外主義によって世界の現状を読み解くというのだから、確かに世界の現状から目を背けて盲目の手探り状態で世界の真実に辿り着こうとしているようで、それが正しい現状認識だとベストセラーの書物で示されると、それを真に受けるような人の方が自分よりは正しい現状認識の持ち主なのかと思って、呆れるわけでも唖然とさせられるわけでもないが、その一方でその種の書物が昔から事ある度に流行ってきたような気もしないではなく、それに対応して世界の現実を直視しないで書物に書かれている内容を信じようとする態度も、昔から多くの人々が実践してきたような気もしないではないが、果たしてそれが泥縄式の対応だと言えるかどうかも、そうではないと言えないこともないが、それがこの世界で起こっている出来事に対応しようとするのではなく、書物に書かれている内容に対応しようとしているのかも、どちらでもありそうだが、確かに書物に書かれている内容を読むことも、現実に起こっている出来事には違いなく、それも同時並行的に現実に起こっている出来事にも書物に書かれている内容にも対応しようとしているのだから、そうすることによってこの世界に対する正しい現状認識へと至れるなら、それが現状への正しい対応だと受け止めるしかなく、その書物の中では陰謀論と排外主義がいかにして強く結びついて世界の現状を構成しているのかが詳しく解説されているはずで、そんな世界の現状を真に受けることが正しい現状認識を得るための手助けになると力説されているかどうかも、その書物を読んでみないことにはわかりようがないが、それに対して自分の現状認識がそれとはどう違うのかも、そんな書物を読む機会が巡ってくればそれなりにわかってくるかも知れないし、その際にはこれまで抱いてきた自分の現状認識がいかにお粗末で誤っているのかを思い知るに至るかも知れないが、そんなお粗末で誤っているかも知れない自分の現状認識がどのようなものなのかといえば、今や世界はグローバリズムに覆われていて、そんなグローバリズムに対抗したい者たちが、安易な陰謀論や排外主義に助けを求めていると認識したいわけだが、真に恐れるべきは陰謀論や排外主義ではなく、グローバリズムの方であって、最終的にはグローバリズムの勝利に終わるとしても、その際に中国やロシアや北朝鮮などがグローバル経済に飲み込まれてしまうかというと、もうすでにそうなっているような気もしないではないわけだ。12月3日「人的操縦術の効力」人を操縦する術というのが技術的にある程度は確立されているとしても、そんな操縦術の対象となる者たちがそれに抵抗したり反抗することも考慮に入れなければならないし、結果的にうまく行っているとは思えないが、その一方で政治的な方面での問題視が空振りに終わっているような気がするのは、単に自分が関心を持てないという事情がありそうだが、関心を持たないように仕向けられているとしたら、それが操縦されていることの証しになるのかというと、そんな気はしないし、むしろSNSなどの画面にその種の煽り立てが頻繁に出てくることによって、関心を持てと促されているのに、それをウザいと感じてスルーしようとするわけだから、それもウザいと感じるように仕向けられていると受け取れないこともないが、そんなことまで疑い始めたらきりがないから、あまり逆説的な意図や思惑に同調する気にもなれないのだが、昔からネトウヨによってウザい存在としてキャラ立てが確立しているのが蓮舫だと認識していて、蓮舫が何を言っても、騒いでいるレベルで言っている内容がスルーの対象となってしまい、それは辻元清美などにも言えそうなことだが、その種のキャラ立てされた存在が言っていることをその内容など考慮せずに、ただ何かうるさく騒ぎ立てていることとしてスルーできることが、果たして人的操縦術にハマっている証拠だと言えるかというと、そんな気もしないではないが、蓮舫に付きまとっているイメージは未だにそうだとしても、辻元清美などはそんな悪いイメージを振り払うべく、意識してそれとは違う振る舞い方を心がけているようにも感じられるが、そういう人名や事例を持ち出すのもちょっとずれているような気もしないではなく、時代的には蓮舫や辻元清美などはもはや過去の存在となりつつあって、今や新たな人物が否定的なレッテル貼りの対象となっているのかも知れないし、さらに否定的なレッテル貼り自体がもはや時代遅れなやり方となりつつある可能性さえ考慮に入れておく必要もありそうだが、とりあえず最近は共産党の山添拓が一時的に攻撃の対象となっているらしいが、それもわざと相手の意見を歪曲して言いふらすという典型的な言いがかりには違いないわけだから、昔ながらの稚拙なデマの拡散ではあるが、問題がそこにあるのではなく、共産党の典型的な軍拡反対の主張も、そうなるに至る経緯や事情を考慮に入れていないような感じがするから、軍拡反対を表明することによって世論を喚起するやり方も、社会の多くの人々の意見や関心を特定のテーマに向けて呼び覚まして、人々の考え方を変えたり、議論を促したりする手法としては、何となく問題提起が空振りに終わっているような気がするわけだから、そういう意味では人的操縦術の効力が賞味期限切れとなっているというか、共産党と言えば延々とそんなことを主張しているイメージが定着しているだけに、またやっているのかとしか思われないだろうし、それも共産党の支持者に向けて、共産党への支持をつなぎ止めておくための一環でやっていることであるなら、そんな主張ばかりでは共産党の外へは支持が広がって行かないのではないかと要らぬおせっかいな心配をしたくなるが、共産党自体も人畜無害な反戦平和の党というイメージの拡散をやらざるを得ない経緯や事情に囚われているようにも感じられて、それも共産党の政治家には解くことのできない呪縛によってそんな様相を呈していて、それを逆利用して共産党への攻撃に転化するような作用も生じていると穿った見方をしたくなるものの、それはそれで枝葉末節などうでもいいようなことのようにも思われるから、共産党も共産党で今後ともそんな政治主張に囚われていれば事が済んでしまう成り行きになっているのかも知れず、それによって何が済んでしまうのかというと、万年野党の境遇に甘んじているのが共産党の宿命となっているようでいて、それが今後何か転機が訪れるとも限らないから、最近ネトウヨからの攻撃にさらされている山添拓にも、その言動から将来的に飛躍する可能性が窺えるかというと、現状では何とも言えないところだが、政治家に期待するのではなく、他の何に期待するわけでもないのだが、政治的な現状もそのままでも構わないような感じなのかも知れないし、寝た子を起こすような真似は誰にもできないだろうとたかを括っていて、いくら山本太郎が躍起になってそれを蒸し返そうとしても、もはや解決済みの問題なのかも知れないから、山本太郎の国会質問もスルーの対象となっているわけで、何かそれが本質的でないような気がするとすれば、では他に何か本質的な問題があるのかと問うなら、その種の人的操縦術が空回りしているような印象を受ける一方で、それが空回りしているからこそ、安心してそんなことをやっている勢力が世間から黙認されている現状もあるらしく、どうせ大したことにはならないだろうと甘く見られているというか、それがいつもの調子だからこそ、そんな風潮の中にいると居心地の良さを覚えるのかも知れないが、山添拓が自衛隊の隊舎にエアコンなどいらないと言ったとSNS上で言いふらすのだから、またやっているのかと受け止めるしかないわけで、そういう矮小な部分へと世間の関心を誘導したいんだと気づいてしまうのだが、中には馬鹿で浅はかな奴らがそんなデマを真に受けるんじゃないかと恐れて、必死になってデマの打ち消しに躍起になるようなお人好しが現れるならデマの拡散が大成功したことになるのだろうが、それによって人的操縦術が空回りしていると言えるかどうかも、やっている方はしてやったりな満足感に浸れるのだから、空回りしているようには感じられないだろうが、それと同時並行して山添の問題提起のまずさも事後的にはわかってきて、後出しじゃんけんのようにして、山添は武器や兵器の購入を減らす代わりに自衛隊員の生活環境を改善するために施設整備の予算を増やすべきと主張すれば良かったんじゃないかと言えるだろうが、そういう臨機応変なロジックの組み換えができないことが、共産党特有の硬直化した教条主義的な体質に表れているとも批判できそうだが、それも事後的には何とでも言えるようなことだから、そんなことの延長上で現状の共産党に求められているのは、主義主張の全面的な刷新などではなく、今までの決まり文句のような紋切り型の主張の仕方を改良して、ネトウヨ程度の輩に揚げ足を取られないようにするための工夫を凝らす必要がありそうだが、たぶんそれも矮小な部分へ問題の本質を逸らすような行為となってしまいそうで、総論賛成各論反対のような現状維持の試みに近づいてしまいそうだが、それも他の様々な物事と同時並行して行われる限りで、大して深刻な事態にはならないだろうから、それで構わないようなことになってしまえば、世間に受け入れられるような行為となりそうだが、そういうことの積み重ねによって広く一般大衆からも信頼感を得られるとすれば、そんな成り行きの延長線上で今後飛躍のきっかけとなるような出来事も起こるかも知れないし、それがどんな出来事になるかも現状ではわからないだろうから、何をどうやればうまくいくかなんて、現時点ではわからなくて当然であるような態度でも構わないだろうが、それでも現状のままではまずいと感じるなら、絶えず何かしら工夫を凝らすように仕向けられてしまうだろうし、そういう成り行きに囚われている限りで、関わっている物事を前進させたいような気がするわけで、またそれを前進させるための試練として、ネトウヨの揚げ足取りや、それを利用したデマの拡散が待ち構えているわけだから、それも言説に工夫を凝らすことによって乗り越えて行かなければならなくなるのかも知れないが、そうやって敵対しつつも互いに互いを利用し合う成り行きに持って行ければ、それなりに事態が前進したことになるのかも知れない。12月2日「説明することの困難さ」説明することが不敵な笑みを浮かべながら戦いを挑んでくるバトル漫画のモブキャラが何かに取り憑かれるようにして一心不乱に取り組むようなことでもないだろうが、これから何を説明するつもりなのかも皆目見当がつかないと毎度のことのように嘘をつきながら、その内容に説得力がなさそうなのもあらかじめ予想がつきそうで、結局論理的に破綻してしまうからかも知れないが、まだ何も説明していない段階でそんなことが言えるわけもなく、ではこれから何を説明するつもりなのかといえば、まだ説明する内容を考えている最中なのかも知れず、それでは遅いし、とりあえずまだ説明するに至っていないようでいて、すでにこんなことを説明しているわりには、その意図が自分でもよくわかっておらず、特に定まった意図があるわけではなく、行き当たりばったりで言説を構成するつもりのようだが、それが気まぐれに何かを適当に語っている程度の内容になれば、それをうまく説明できた部類に入るようなことかも知れないが、それにしても自分にとって他人事なのに、メディアを介して意識に侵入してくると共に、関心を持てと執拗に絡みついてくる作用があるらしく、そんなふうに影響力を行使して思考の邪魔をするから、何かをうまく説明できなくなるわけでもないが、それが必ずしも説明の邪魔をしているわけではないとすれば、逆に説明の助けになっているのかといえば、説明するのとは別の方面からも影響を及ぼしてきて、それとは別の方面へと言説を誘導しようとするから邪魔くさいわけで、その別の方面が説明するだけではなく、説明しながら批判する方面だと言えるかどうかも、どこから説明対象が批判対象へと移り変わってしまうとも思えず、どちらでもあるような内容となってしまうのかも知れないが、捉えようによってはどちらでもある言説の中で、どちらが人を無関心へと導く分散作用が伴っているのかと問うつもりもないが、説明対象からも批判対象からも意識が遠ざけられてしまうとしても、それが本当の狙いだとしたら、どこの誰がそんな狙いを抱きながら影響力を行使してくるのかといえば、それが特定の誰かではなく、メディアのせいにしてみても漠然とし過ぎているようで、まだ狙いも魂胆も定まっていない段階で、わけもなく不敵な笑みを浮かべていること自体が、これから行われる本格的な大決戦の前のちょっとした前座のような戦いの中でサクッと負けるフラグが立っているようにも思われるから、戦う前からある程度は予想がついてしまう話の展開となりそうだが、そんなことを考えている時点で頭の中では説明が破綻しているようで、もっともらしい内容とはならないことによる脱力感と共に説明することの困難さを痛感させられるわけでもないが、わざと説明から逸脱しているような感触を伴いながらも、何を批判しているとも思えないから、意図を測りかねるが、そんなことの説明責任がどこから生じてくるかも皆目見当もつかないから、説明を要するような話でもないと突き放してスルーしてしまっても構わないようなことかも知れず、どんな話にもそれに関する詳しい解説を付け加える必要が生じてくるわけでもなく、それも行き当たりばったりでその気になったら適当な解説を付け加えておいても構わない程度のことだが、絶えず成り行きの結末へと先回りしてそこで余裕綽々な態度で待っているような嫌味な態度が伴うとも限らないから、わけ知り顔のような顔をぎこちない作り笑いと共に装う必要も感じないだろうが、むしろ余裕がなくいつも焦っているような切羽詰まった自信のない態度でいる方が、誠実さが顔の表情に表れているようにも感じられて、他人から下に見られると共に好感も得られそうで、それを見え透いたわざとらしい演技だと見破られてしまう事態というのも、その場の情勢次第で、表面的にはそんなことはどうでもいい枝葉末節な事の成り行きには違いないのだが、そうではなく取り組んでいることの中身が具体的にどんなことをやっているのかが知りたいわけで、それが今のところはよくわからないと述べてしまうと信用を得られないのも当然だが、たぶんわかっていないからこそ、そこから疑念が生じてきて、バトル漫画の中ではひたすら戦っている途中の過程が引き延ばされて、いったい何のために戦っているのか、一応はその理由や原因や狙いや魂胆や意図や思惑などが明らかにされているはずだが、そのどれもが戦いそのものよりも重要性が低いと思われてしまうのも、何らかの効果によってそんな感じがしてしまうのかも知れないが、その効果が何なのかというと、戦うきっかけが得られるなら、それが何であっても構わないような効果なのかも知れず、そんな効果がどこから生じてくるのかといえば、世の中でただの一般大衆に含まれる、どこにでもいそうな人々がそんな漫画を読んでいる退屈な日常生活から生じてくると考えてみたところで、別に日常の全てが退屈であるわけでもなく、漫画を読んでいる程度の暇があるから退屈な感覚を生じさせているとも思えないが、そうやって自分では理解できない何かをやり過ごしているわけで、それが意識して直接取り組んでいることではなく、意識しなくても自然の成り行きに従って行われていることだとしたら、それに関わっているのに、気づいていない得体の知れない成り行きに囚われていそうだが、それが何なのかを知ることが重要だとも思えないし、自分にとって重要であろうとなかろうとそうなってしまうようなことであるなら、たぶん社会的な成り行きに囚われていて、自分だけでなく他の多くの人々もそれに囚われているのに気づいていない世の中の成り行きがありそうで、そんなことを知ることが重要でも何でもないなら、あえて知る必要などなさそうだが、それよりは意識して取り組んでいることの方が重要だと思うなら、その通りだと認識しておいても構わないが、それと同時並行して勝手に無意識の動作と共に自動的に行われていることもあると言えるかどうかも、それに気づかないし、それを意識できないのだから無視するまでもないことになりそうだが、では自分が漫画に出てくるモブキャラのような役割を引き受けている自覚があるかというと、そんな自覚もなければあえて無視するまでもなく、スルーするまでもないことになりそうだが、自らが活動する環境が組織的な形態を伴いながら集団行動のような動作になってくると、その中の構成員のような立場になってしまい、そんな組織の中で主導権を握れていないことに不満を抱くまでもなく、自分がまるでモブキャラのような立場になっていることも自覚できるかも知れないし、そんな境遇でいるのが嫌なら、さっさとそんな組織からは抜け出たいと思うかどうかも、組織内での居心地の良し悪しもあるだろうから、一概には言えないことにもなりそうだが、ではそれが人間社会の中に自身が囚われていることと重なり合うような状況なのかというと、どうも少し違っていると気づくなら、組織内と社会内では自由度のレベルが異なることにも気づくかも知れないし、それが共同体と社会の違いだと認識できるかどうかで、共同体と社会とを同一視しているのがナショナリストである一方で、それを区別して捉えているのがグローバリストだと単純化するわけにも行かないが、少なくとも漫画に出てくるモブキャラ的な人物が共同体内で下に見られるような役割分担であるのは、誰もが気づくところかも知れず、何の根拠もないのに不敵な笑みを浮かべられる自信がどこから生じてくるのかと言えば、自身が所属しているつもりの共同体に守られていると勘違いしているから、不敵な笑みを浮かべる余裕があると解釈できるかというと、それもその場の状況次第な面もありそうだが、それに対して組織の側の論理として想像できるのは、いざとなったらいつでも他の構成員と取り換えが利くから、使い捨て専用の戦闘員程度の取り扱いだと理解しておいても構わないような気もするわけで、そういうところまで考えが及ばないから、話の都合上咬ませ犬にもなれない雑魚的な立場で、不敵な笑みを浮かべながら負けることが前提の戦いを挑んでくるのかも知れない。12月1日「無理難題への取り組み」その真意を確かめてみるまでもなく、わかりきったこととして無理難題が持ち出されてくる流れとなるのも、漫画的なストーリー展開ではよくあることだが、そういうことをやるのが目的化しているように感じられると、わざとやっているのではないかと疑われるのだが、そうなるのが自然の流れであるように見せかけたいのではなく、意図して画策しているわけでもなくても、否応なくそうなってしまうような成り行きへと持って行かなくても、なぜか知らないが結果的にそうなってしまうとすれば、理由も原因も定かではないだろうが、実際に経済活動からそんな流れが生じてくるなら、利益を求めているからそうなるとしか言えないようなことなのかも知れず、そうだとすれば売買や貸借などを伴った商取引からそういう流れが生じてきそうなのだが、それの何が無理難題なのかと問えるわけでもないが、要するに社会正義などのきれいごとが主張されている間はそういう流れは無視していられるかも知れないが、実際に世の中で経済活動が行われている限りは、経済的な利益を求めないわけには行かないから、それを無視するわけにも行かないわけで、確かにそんなことはわかりきったことなのだが、経済的な利益を追求する側にとって、それと社会正義などのきれいごとを両立させるのが無理難題だと言えるかどうかも、ロックフェラーやビル・ゲイツなどのように汚いやり方によって独占的な立場を築いて巨万の富を得た後から非営利の財団を設立して慈善事業などに取り組む成り行きが生じてくるわけで、リベラル勢力などが政府や国家を利用して社会正義などのきれいごとを実現しようとしている一方で、それを実現するための費用が民間の経済活動から税を徴収することによって生じてくるわけだから、一方だけに携わるわけには行かないし、そういった経済活動に近い立場の自民や国民民主や維新や参政などの不正行為や違法行為を見つけ出して暴露したいジャーナリズムなども、社会正義などのきれいごとの実現に一役買っているとしても、それらの政治勢力の応援団を買って出る者たちもSNSなどを利用して嘘やデマを拡散して、そうした反体制的なジャーナリズムなどに対抗していると言えそうだが、そもそも経済活動自体が一歩間違えばまやかしやごまかしを伴った詐欺などと紙一重なことをやってしまうわけだから、社会正義などのきれいごととは相容れない面を持っていると言えそうで、そういう意味でも世の中は社会正義などのきれいごとだけでは成り立たないと言えるかどうかも、両立不可能であるにもかかわらず、両方共に実際に行われている現実がある限りで、一方だけに関わって一方だけを正当化するのは欺瞞のような気がしないわけでもないが、そんな中でもうまく立ち回るには社会正義などのきれいごとだけに関わっているように見せかけたいと思っているわけではないとしても、実際に行動としてそういう方面へと引き寄せられるようにして、被災地でのボランティア活動などに携わっている自身の姿をメディアを通じてアピールしているように見られてしまうと、やはり山本太郎のように偽善者のレッテルを貼られてしまうことにもなりかねないから、無名の一般人ならそんな心配はいらないから自由に行動できそうだが、それが政権与党の不正行為や違法行為などを追及している勢力などと共に、経済活動の面で不利な立場を強いられてしまいそうな危険性がつきまとってくるかも知れないが、逆に有利な立場を得ようとすれば不正行為や違法行為をやってしまう危険性と隣り合わせとなるだろうから、実際にそうした行為を見つけ出して暴露したいジャーナリズムの標的となってしまう危険性も伴ってくるわけで、どちらにしてもうまく立ち回るにはそれなりのリスクを引き受けなければならなくなるわけだろうが、それが無理難題への取り組みと言えるかどうかも、やっている側としてはやらざるを得ない成り行きに囚われているわけだから、それをやらずに済ませる選択肢はないと事態を捉えておいても構わないが、どちらか一方の側を応援するというのも、やめておいた方が良さそうな立場なのかも知れず、応援するのではなく、できれば当事者となって活動している側になれば、自らがやっていることの責任を自ら引き受けるという逃げ隠れができない立場になれるわけで、そうなれば傍観者であることのやましさに煩わされることもないだろうが、それも誰もがそんな立場になれるわけでもないから、なろうとしてもそう簡単になれるわけでもないと事態を捉えておいても構わないだろうが、中には不正行為や違法行為に手を染めないとなれない場合もあるわけだから、なった後からそれがバレてしまうとその責任を追及されて、面倒な事態に直面してしまうわけで、しかも長くそんな立場でいられるのも、並大抵の努力では済まなくなって、プーチンのように邪魔者や足手まといになった者たちを次々に粛清しなければならなくなってしまうと、死ぬまでそんなことをやっている羽目に陥ってしまうから、よくある独裁者の罠にハマっている感じなのだろうが、一般人ではそこまでは行かないとしても、そのせいぜいがSNSなどで嘘やデマを撒き散らしながら、社会正義やきれいごとを主張する正義の味方気取りの左翼やリベラルに絡みつきながら執拗な攻撃を加え続けるのが関の山といったところだろうが、いつの時代でもそんなウジ虫が大量発生しているとも限らないし、その当事者になってしまうとそれが経済的な利害関係から生じてくるなんて思えないだろうし、それとこれとは全く関係のないことのように思われても、何となくそういうことではないような気がするかも知れないが、どう考えても経済的な利益を得ようとする際に味わう不条理感や理不尽な扱いを考慮に入れるなら、その一方で社会正義やきれいごとを主張している奴らがいいとこ周りばかりやっていてずるいと感じられるかどうかも、それとこれとが直接結びついているという実感を得られる立場というのも限られてくるかも知れないが、その種の憎悪感情を隠そうとしない者たちが囚われている状況というのも、経済的な余裕のなさが心の貧しさに結びついて、きれいごとを言う者たちへの憎悪の感情へと進展すると一概には言えないものの、きれいごとを言える立場というのが、それをカネの力でそんな立場を買い取ったロックフェラーやビル・ゲイツなら正当化できるわけでもないが、その一方でうまく立ち回るにはその種の罠にはなるべく近寄らないようにしながらも、憎悪の感情には陥らずにスマートな金儲けができるように自身の境遇を持って行ければしめたものだが、それも状況次第で絵に描いた餅のようなきれいごとに過ぎなくなるかも知れないし、昨今の投資関連の誘い文句がそんな絵空事を象徴しているとしても、何か無理してうまく立ち回ろうとしなくても、自身の立場を無理にも正当化しなくても済むような生き方を模索している人も結構多いのかも知れないし、自身が不条理な欲望に囚われていることに気づいていないぐらいでも、それなりに生きて行ける世の中になっているのは、昔からそうなっている可能性も捨て切れないが、それらに対立軸を設定して敵と味方に立場を分けて、どちらか一方の味方を装うようなやり方を逃れられるなら、それがうまく立ち回っていることの証しとなるかどうかも、それも一概には良し悪しを言えないだろうが、良し悪しにこだわらないこともそこから逃れられるチャンスと言えるだろうから、無理に逃れようとせずに、そんな立場にこだわってしまっても、それなりに生きては行けるだろうから、そこでも判断の基準としては合法的な側で活動していれば、法的には問題ないわけだから、少しは気休め程度の正当化は可能かも知れないが、それでも何かのきっかけから不正行為や違法行為をやらざるを得ないような立場になってしまうとしたら、社会の制度がそんな立場を必要としているぐらいの認識でも構わないのではないか。 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