彼の声171

2025年

11月8日「民主主義の仕組み」

 現状で特におかしなことが起こっているとは思えないとしても、事態を楽観視するつもりもないが、新たにニューヨーク市長になった人も、メディアが騒ぐほど斬新な政策を打ち出しているわけではないし、イギリスの労働党政権と似たようなことをやりたいだけなのではないかと軽く見ているのだが、もちろん国の行政と市の行政ではやれることもやれる範囲も違うから、個々の政策は違うが傾向としては似ている程度の認識なのだが、労働党政権がうまく行っているわけではないし、ニューヨーク市民の市長への支持が長続きするかどうかも、それなりに成果と言えるような成果を上げられるかどうかにかかっているとも思えないし、それほどうまくは行かなくても、トランプ政権が続いている間は、政権に対するリベラル系市民の反発感情が、政権と対決姿勢の市長への支持の支えになりそうで、現状で社会主義的な傾向の政策をやるとすれば、なんとなくそれらしい政策を掲げているようにも感じられるから、やってみればいいんじゃないかと上から目線の部外者のような無責任なことしか言えないが、全体的な世の中の流れからすると、部分的にとどまるような傾向だと今のところは見ていて、遠い未来から現在を振り返れば、産業の技術革新が続いている中で、政治の側からのちょっとした抵抗の試み程度のことだと理解されるのではないかと予想したいのだが、そんなことを今ここで予想すること自体が、予想している自らの力が及ぶ範囲ではないから、相変わらず部外者の無責任な妄言にしかならないだろうが、ニューヨークやロンドンで誕生したイスラム系市長の政策というのも、市長ならそういうことを主張するだろうという内容なのだから、それほど奇異には感じられないのだが、それは日本でも山本太郎やれいわの政治家たちも似たような傾向の政策を掲げているだろうから、実現できるかどうかというよりは、そういう方面とは別の方面へと目を向けたくなってしまい、その別の方面とはどんな方面なのかも、今ひとつピンとこないような方面なのだが、それが表面的な政治宣伝の範囲内にとどまるなら、それでもいいんじゃないかと言えるようなことなのかも知れず、そういう意味では政治家の掲げる政策が実現できるかどうかではないと考えてしまうのも、何だか本末転倒なような気もしてくるわけだが、実際にそんなことをきっかけにして政治が動いて行くことになるのだろうから、それが一見枝葉末節などうでもいいようなことではなく、そんなことに身近に接している人にとってはどうでもいいことではないわけだから、それを政治家が政策として掲げると、何かもっともらしく思われるようなことだとすれば、それを真に受けた市民がその政治家を支持するわけだから、そんなことをきっかけにして事態に変革がもたらされるなら、それはそういうことだと素直に受け止めるしかなく、そういう成り行きが、日本では山本太郎やれいわの政治家からは生まれてこなかったが、ニューヨークやロンドンのイスラム系市長からは生まれてきたと解釈したくなってしまうのだが、そこに決定的な差異があるわけでもなく、それを風土の違いだとわかったようなことを言うつもりにもなれないが、ただ単にそこに至る経緯やそこから生じてくる事情の違いであることは確かなのだろうが、そういう経緯や事情も枝葉末節などうでもいいようなことかも知れず、政治自体も枝葉末節などうでもいいことかも知れないが、本質的でないからこそ政治が重要となってきて、政治が重要だと錯覚させるような世の中の流れになっているというと、そうではなく、政治自体が枝葉末節な些細なことでも多大な手間暇をかけてやらざるを得ないような制度的な障壁が立ち塞がっているから、結果的にうまく行かないような成り行きになっていて、日本でもガソリン暫定税率を廃止する程度のことで、わけのわからない紆余曲折やすったもんだを繰り返した挙句に、ようやくここにきて廃止が実現する運びとなったようだが、どう見てもそれが本質的な問題ではなく、枝葉末節な問題だと感じられて、言うだけならニューヨークのイスラム系市長のようにあるいは山本太郎のように言いたいことを言っていればいいのだとしても、言っていることを実現するとなると、その数百倍の手間暇をかけなければならない割には、結果的には大した成果も得られないような落差を感じさせるわけで、それを単に議会や政府が非効率で多大な時間や労力がかかる手続き上の問題だと言えばその通りには違いないが、そういうことをやらないと制度上はまずいわけだから、やらざるを得ないし、それだけ世の中のコンセンサスを形成するのも、そのコンセンサスに基づいて政治的な承認や承諾を得るのも難しいことではあるのだろうが、だからトランプのように独断で決めてしまうような手法をとりたくなってくるのだろうが、それが民主主義のコストであって、コストをかけないと独裁になってしまうのだろうが、果たしてそういう手続き上の問題だけで済むようなことなのかというと、そういう面ではそうだが、それとは違う面ではそうではないのかというと、では違う面とはどんな面なのかと言えば、それが政治の本質に関わってくる面だとしたら、いったん決めたことや実行したことが結果的に思わしくなくても、それを改めるのには多大な手間暇がかかるような仕組みになっているのが、政治の本質だと言ってしまっても、それだけでは何のことやらさっぱりわからないかも知れないが、そうやって世の中の現状が急変や激変をせずに絶えず安定するような状態を維持していると言えそうだが、それを改革するにしても、急激にやってしまうと、諸刃の剣のように良い効果も悪い効果も一気に出てしまうから、悪い効果への対処や対応がうまくとれなくなってしまい、結果的に改革が失敗に終わる危険性も高まると言えそうだが、それも時と場合によっては迅速に行わなければ手遅れになってしまうこともあるわけだから、行政の長としては非常時には独断でやってしまうような権限がほしいのだろうし、だからトランプなんかは今が非常事態なんだと勝手に宣言して、貿易相手国に高関税をかけまくった挙句に裁判沙汰になっているわけだが、それがおかしいことなのかというと、見た目はおかしいが、やっている当人は必死の形相でやっているわけだから、あいつは馬鹿なんだなと貶していれば済むようなことでもないだろうし、何もやらなかったオバマがやった唯一の功績であるオバマケアを廃止したくて、政府閉鎖が思いの外長引いていること自体も、いったん決めたことや実行したことを変えようとすると、多大な手間暇や損失が生じてしまう格好の実例だろうが、そうまでして成し遂げたい理由が何なのかも、その筋の専門家に伺えばもっともらしい理由を指摘してくれそうだが、それが妥当な理由だと思えても、たぶんそれとはねじれの位置に妥当とは言えないような理由があって、しかもそれが誰も気づかない真の理由であるはずもないだろうが、政府の歳出を削減したいがためにそうしたことを強引に推し進めているわけではないことも、誰もが薄々勘づいていると言えるかどうかも微妙なところだが、それも何かそれとは違う方面からよくわからない作用や影響が及ぼされているからそうなっていると言えそうなことなのかも知れず、それを政府の機能の形骸化を促すような作用や影響だと言うと、逆に誰かが政府の機能を強化するためにやっていると反論してくるかも知れないが、それも諸刃の剣のようにして、政府のある方面では形骸化が促進される一方で、別のある方面では機能の強化が促進されていると言えるようなことなのではないか。


11月7日「教育勅語の由来」

 歴史に詳しい人なら、教育勅語はどうせ西洋思想のパクリだろうとあらかた見当をつけているかも知れないが、直接あからさまにパクってはいないのだろうが、日本の明治維新における状況と似たような中央集権国家を作る過程において、教育勅語と同じようなことを述べている西洋人がいたのを発見したので、少し紹介しておくが、フランソワ・ド・ラ・モット・ル・ヴァイエという人が君主の教育法として記した中で、国家を統治できるようになりたいと思う者はまず自己統治できなければならず、そしてまた別の水準では、自分の家族・財産・領地を統治できなければならず、そして最後に国家を統治するに至ると記しているようで、それを逆から言えば、国家がきちんと統治されているなら、一家の父は自分の家族・富・財産・所有物をきちんと統治できるし、諸個人もしかるべく自分を導くことができる、ということで、明治天皇もそれに含まれる君主に対しては、まずは自己統治できるようにしろと諭して、自己統治ができるようにした上で、さらには自分の家族・財産・領地を統治できるようにしろと諭して、それができるようになれば国家を統治するに至るだろうと述べていて、そうやって国家がきちんと統治されていれば、一家の父は自分の家族・富・財産・所有物をきちんと統治できるし、諸個人も然るべく自分を導くことができるんじゃないかということだろうが、その中で本質的な部分であり中心的な要素は家族の統治であり、その家族の統治こそが「経済」と呼ばれていて、エコノミーないし古代ギリシアのオイコノミアという家政術からきているそうだが、古代ギリシアの家父長が統べるイエ経済を意味するらしいが、そういえば選択的夫婦別姓に強硬に反対する、参政党や保守党などの保守派の政治家が、しきりに家族の絆を強調するのも、この手の西洋思想に洗脳されているのかと合点がいきそうだが、フーコーによれば十六世紀から十八世紀にかけての王族の教育係などの間では、マキャベリの『君主論』が忌み嫌われていて、権謀術策などを用いたやり方では中央集権的な国家を統治できないから、新たな統治術を編み出さなければならないという共通認識となっていて、それで古代ギリシアの家政術などが引っ張り出されてきて、家父長による家族の統治こそが統治の基本であり、それを君主による国家統治に当てはめるという理屈が、当時の世の中ではもっともらしく感じられたのだろうが、それは古代ギリシア世界がよりグローバルなヘレニズム世界へと移り変わっていく中で、崩壊寸前の古代ギリシアの保守派などが、家族の統治こそが国家統治の基本なんだと力説していたわけでもないだろうが、マキャベリにとっては君主は自分の領国に対して単数性・外在性・超越性という関係にあり、君主が領国を受け取るのは、継承、獲得、あるいは征服によってであるが、いずれの場合でも君主は領国の一部ではなく、外部にあるとされていて、君主を領国に結びつけるのは暴力による結びつきであったり、伝統による結びつきであったり、あるいは他の君主たちとの条約による示談、共謀、合意によって打ち立てる結びつきであったりするが、君主と領国の間には根本的・本質的・自然的・法的な帰属関係はなく、君主は領国に外在する超越的なものだということが原則なので、外在的なものである以上は脆弱であり、外部からは絶えずその領国を奪い取ろうとする敵たちに脅かされている一方で、内部からも、臣民たちにはその君主が領国の首長であることを受け入れる明白な理由、アプリオリな理由、直接的な理由などないから、絶えず反乱に怯えなければならず、だからこそ君主は権謀術策に長けていないと、たちまち自分の領国を失う羽目に陥ってしまうということだろうが、それがより広範囲な中央集権的な国家を統治するには君主の力量だけでは限界が出てくるから、そういう自分の領国を保守する君主の巧みさやノウハウに代わる何か別の統治術を王族の教育係などが編み出そうとしていたのだろうが、それで家族の統治を国家の統治に当てはめるという、一見論理的な飛躍が過ぎるのではないかと思ってしまうが、家父長たる一家の良き父が、妻・子供・使用人をうまく指導できて、家族の財産を増やすことができて、家族のために適切な姻戚関係をしつらえることが良き統治であり、それが家族の内部で個人・富・財産を管理する最良のやり方だそうだが、それをどのように国家の内部の管理に導入するのかというと、それに関してルソーが言っていることを要約すると、国家を統治するとは経済を作動すること、国家全体という水準で一つの経済を作動させることになり、そこに暮らす住民や富や万人の操行に対してある形式の監視・制御を行使することにあり、一家の父が家族や財産に対して行う監視や制御などに劣らず注意深いものになるそうだが、その中で監視に関しては、日本の保守派も盛んにスパイ防止法を制定しろだとか昔の治安維持法は悪くなかったとか言っていることにもつながりそうで、そういうことの関連でギョーム・ド・ラ・ペリエールという人が、統治とは物事の正しい処置であり、その物事をふさわしい目的まで躁導するという任務を人は負う、と述べているそうだが、マキャベリにとっては権力の標的とするものが領土でありその領土に住んでいる人々であったのに対して、ラ・ペリエールでは統治されるのは物事だということであり、領土ではなく人間と事物からなる一種の複合体であり、そこに人間たちも含まれるが、彼らが作り出す富や掘り出される資源や生産される食糧といった事物と関係・結びつき・絡み合いを持つ限りでの人間になり、事物には領土も含まれるが、国境を持ち、質・風土・旱魃・豊穣を備えた領土であって、ここでいう人間は、風習・習慣・行動の仕方や考え方といった、他の物事と関わりを持っていて、飢饉・疫病・死といった事故や不幸とも関わりを持っているから、それを家族の統治に当てはめると、家族を統治するとは、家族の所有物を救うことが本質的な目的ではなく、家族を構成する諸個人の財産を増やして繁栄させることが目的となり、家族にとっての土地所有権の問題や、君主にとっての領土に対する主権の獲得などは二次的な要素に過ぎす、ロシアのように広大な領土を持っていてもそこに住んでいる人口は少ないのに対して、オランダはほんの少ない領土しか持っていないのに、そこには多くの人口や富や通商活動があり艦隊もあるから、当時のヨーロッパの中ではロシアよりもオランダの方が重要度が高かったそうだが、そこで当時の法学者や神学者が絶えず口にする主権者の目的が、共通善の実現であり、万人の救済となるところを、共通善とは本質的に言って法への服従だそうだが、今で言えば政府や政権を担う側は憲法に従わなければならないということになるだろうが、ラ・ペリエールの新しい定義によれば、統治とは物事を処置する正しいやり方であるが、法学者たちが言っているような共通善という形式ではなく、統治する対象を相応しい目的へと躁導することにあるそうで、しかもその対象ごとに特有の目的があって、人々をできるだけ多くの富を生産するように計らう必要があり、そのためにはできるだけ多くの食糧が提供されるように計らう必要があり、そうやって人口が多く増殖しうるように計らう必要があるということになり、法への服従よりもそちらの方が優先される必要があるということになりそうだが、まさにそれが功利的な利益の追求の原理になるだろうし、トランプなんかが目指しているのもそんな方面だと理解できそうだが、だからそれに反対している法治国家の原理を守ろうとするリベラル系の指導者に率いられた民衆が何を叫んでいるのかと言えば、王はいらない!と抗議デモで叫んでいるわけだ。


11月6日「コスト削減と効率化」

 メディアが伝えたい話題から何が窺えるかというと、何かしら起こった出来事に多くの人々が反応しているようだが、その反応が正しい反応か間違った反応かということではなく、ただそういう反応をするだろうなと言えるような反応なのだから、その場の成り行きに追従するような反応なのであり、何かに導かれているような感じで、そんな誘導に屈している反応が受動的な反応だと言えるような反応なのかも知れず、そこで何が良くて何が悪いということでもないとすれば、それについての言動が批判的な傾向に傾いているとしても、そんな誘導に逆らい難い気持ちの表れなのかも知れず、その逆らい難い気持ちにさせていること自体が、そんな反応を生じさせている出来事の勝利を物語っているようにも感じられて、それを勝利というと、出来事の擬人化といったまやかしのような表現だろうが、それが人為的な出来事なら、人の意志が出来事を起こすと考えられそうだが、そんな単純なことではないと言いたいなら、ではどういうふうに単純ではないと言いたいのかというと、何か良からぬ陰謀や策謀の類いが妄想されるからそう思われるのではなく、人の意志が出来事を起こすとしても、思い通りにも思惑通りにもならないということなら、利害が相反する様々な方面から人や勢力が介入してくるから、誰の思いとも思惑とも少しズレるような結果がもたらされると考えたいのだが、そうとも言い切れないような結果ももたらされているから、何かその辺で思い違いや勘違いも生じているらしいのだが、それがなぜそうなるのかわからないではいつものように話にならないわけだが、アメリカで社会主義者がニューヨーク市長に当選したと騒いでいること自体が、日本で共産党や社民党の政治家たちが喜んでいると伝えられること自体にも、多少の違和感を覚えるとしても、それが例えば山本太郎が東京都知事に当選するはずがないこととどう違うのかと考えるまでもなく、政治の制度の違いだと単純に考えても構わないようなことではないだろうが、それとは対照的に思えるようなことではないし、分野の異なる方面だが、中国当局が国内の企業に対してデータセンターでエヌビディアのGPUを使うことを禁じたことによって、今後中国が自滅するきっかけとなるかどうかも、あと数年が経ってもよくわからないかも知れないし、そうやってうまくロシアや北朝鮮も含めて中国が自滅してくれれば世界が平和になると考えられるかというと、これから中国が衰退して行くような未来を思い描けるわけでもないが、それとこれとがどう関連してどのような結果をもたらすかなんて誰にもわからないことのようにも思われて、関連なんて何もないのではと疑念を抱くまでもないことだが、たぶん関連があって、社会主義と資本主義が対立しているように見せかけられながらも、官僚主義が温存される仕組みを、果たしてデータセンターを利用したAI革命によって駆逐できるかが試されていると言えるかどうかも、そんなことは誰も気づいていないかも知れないが、一方には中国共産党と中国政府が一体化した官僚機構があって、もう一方にアメリカの民主党が基盤とするアメリカ政府の官僚機構や大企業の官僚機構や企業にまとわりついている労働組合などの官僚機構があって、それらの官僚機構のコストと、データセンターの運用に伴うインフラや電力などのコストのどちらが安上がりで済むかが、今後数年で明らかになるわけでもないにしても、少なくともアメリカでは人員削減が行われているのだろうし、当然それがAI革命の進展に伴って起こっている事態だと言われているが、果たしてそれが官僚機構の縮小や駆逐に結びついているかというと、部分的にはそうとも言えないこともないが、直接的にそうだとは言えないまでも、ただ漠然とAIが人の代わりに働くと思っていること自体も、それほど間違った認識でもないのかも知れないから、コスト削減を目的としてAIを導入する限りで、そこには人件費の削減も含まれているのだろうから、結果的には官僚機構の縮小にも寄与するのではないかとも考えられるなら、中国流の人海戦術がAI革命によって通用しなくなると単純に言えるようなことではないとしても、果たして中国当局が自身の権力の基盤となっている官僚機構の縮小に踏み切れるかどうかも、それとこれとは無関係だと言えるわけでもないが、それらが経済的なコストや効率化と結びついている限りで、かつての社会主義国と同様の高コストや非効率が中国を自滅に導くかどうかも、今後の政治経済情勢の成り行き次第だが、中国でもAIを産業技術の方面では活用しているのだろうから、それほど物事を対立的に捉えるわけにもいかないし、そもそもが政治的な思想や主義主張と産業のコスト削減や効率化とは別問題だと考えがちになってしまうが、政治が産業のAI革命を利用しているようでいて、それが政治そのものにも跳ね返ってこないと思っていること自体が、そうは考えていないかも知れないが、何か政治の側で油断を生じさせているようにも感じられなくもなく、それが今後、結局政治が経済に寄生して行われているに過ぎないことが明らかになれば、政治そのものも不要な活動であることも明らかになってしまうかも知れないが、それほどまでにAI革命の意義を強調するのも大げさ過ぎるだろうし、たぶん間違った認識ではあるのだろうが、何かそれが根本的なところで政治経済の変革をもたらすのではないかと勝手に妄想しているわけでもないが、もっと単純にフィクションのようなことを述べるなら、人は産業革命以来、絶えず人の活動を機械に置き換える作業を行なってきたと言えないこともなく、それが現代に至ってついに人の思考活動も機械に置き換える作業を行なうまでに至ったと考えるなら、そういうことを行なうにもコスト削減と効率化が大前提となる限りで、人が行なった方が安上がりで済むなら、それが経済の分野でも人が行なうことになるにしても、それも機械が機械を自動的に絶え間ない技術革新を伴いながら作れるようになれば、そうなれば人の手間も暇もかからないことになるだろうが、それでも人手が必要な領域や分野があれば、そんな領域や分野で人が活動することになるだろうが、そうなるのを全ての人が意識して目指して活動しているわけではないし、人間社会の一つの傾向としてそうなっている方面がありそうに感じられるだけで、他の方面ではそんなことはないと言えないこともないから、確かにそこだけを強調すればSFフィクションのような感じがしてしまうのだが、ではそういうのとは違う方面から何が言えるかとなると、人がやりたくないことを機械にやらせるというのが、全ての発端だと考えるなら、逆に人がやりたいことは人がやろうとするわけで、そのやりたいことの主な傾向としては、やりたくないことを機械にやらせる傾向だと循環論的には言えそうだが、機械がない頃は奴隷にやらせたり召使いにやらせたり使用人にやらせたり従業員にやらせたりしていたわけで、しかもやりたくないことをやらせられる者たちにとっては、やりたくもないことをやらされるわけだからそれなりにストレスが溜まるだろうし、それをやらせる側の主人と言えそうな立場の奴に対する感情も快く思っていないだろうし、反発や反感も生じてくるだろうから、場合によっては恨みつらみも覚えて復讐心も抱くような気持ちにもなりそうだから、そこから争いや戦いにも発展すれば最終的には暴力を用いて決着を図ろうとする事態にまで至れば、殺傷沙汰になるわけだが、そうならないようにするための方策として機械の活用へと至ったと考えればもっともらしく感じられるかも知れないが、本当にそれだけかというと、もちろんそれだけではなく、例えば機械を作ってそれを動かすこと自体が目的化する場合もありそうで、それが産業の技術革新の原動力となっている面もありそうな気もするわけだ。


11月5日「暴露の報酬」

 ただ漠然と自分はこの世界で何を体験しているのかと考えてみても、すでに体験しているのがそれであれば、そんなことはすでにわかっているはずだが、わかっていてもまだその先があるような気がしてしまうから、もっと何かすごい体験や素晴らしい体験ができるのではないかと高望みしてみても、理想ばかりを追い求めて現実とのバランスがとれていないのかも知れないし、それ以前に何が理想なのかもよくわかっていないのかも知れないが、そうでなければ、案外求めているのは理想の何かではなく、ただのありふれた日常の日々であるなら、現に今もこうしてそれを体験しているのだから、これでいいのだと言えるような心境になっているはずだが、でもまだ何か物足りないものを感じるなら、満ち足りていないでちょっとぐらい不満がある方が、向上心が生まれるきっかけになるかも知れないし、だからその程度の心境で構わないのかも知れず、そうやって現状の有り様を肯定的に捉えたくなってしまうとしたら、それのどこから向上心が生まれてくるかもよくわからないし、ではそんなものはいらないと自らの気持ちを突き放してみても、何だかそれも違うような気がしてしまうから、実際に違っているのかも知れないが、何が違っているのかもよくわからず、その一方で違っていない物事があるのかどうかも、それについてもよくありがちな功利的な判断から何か言えるようなことがあるとすれば、それが何なのかというと、カネの亡者が跋扈するこの世界で、カネ以外に価値のある物事を探そうとしているわけでもなく、全てがカネに結びつくなら、全ての物事がカネの尺度で計られているはずだが、そうとも言い切れない何かがあるらしいと思いたくなってくるわけでもないが、実際にもそうではないのかも知れないし、それが不正なやり方だと指摘したいメディアが誰かのマネロン疑惑を糾弾したいらしいが、その対象となっているのが維新の藤田共同代表だというのだから、しかもそれを報じたのが共産党の機関紙である赤旗なのだから、そら見たことかと小躍りしてしまう者も多そうで、そういう役柄にぴったり合うようなことが暴露されて、何だか笑ってしまう人も多いだろうが、維新の藤田共同代表といっても、それがヤクザのチンピラという風情なのではなく、その態度や物腰が何かの型枠にハマっている風情なのだが、ああいう政治勢力にはお決まりの人材であるのも誰もがそう思うところだろうし、現状の日本社会が生み出す小物の成功者が決まってああいう態度や物腰の人物だと言えないこともないが、要するに優秀なのだろうが、その優秀さがああいう方面で活躍するにはうってつけの人材であるような感じがしてしまうから、なおのことああいう実態が暴露されてしまうと、その人の役回りにぴったり合うようなことをやっているように見えてしまって、何だかそれが、その威張ったような態度や物腰にも何の違和感もなくハマっているようにも感じられて、ああいう人はあれで構わないんじゃないかと思わせるようなことをやっているのだから、あれが悪いことだとは思えないのだが、ああいうことをやりそうな人がああいうことをやっていたわけだから、あれはあれで構わないじゃないかと思ってしまうのだが、そういう意味では日常茶飯事の延長上で行われていたことでもあるから、あれこそがありふれた日常の日々の中でよく見受けられる光景なのだから、理想ばかりを追い求めている夢見がちな人とは違って、地に足のついたことをやっていることの証しとなりそうで、あれを功利的な利益の追求と言ってしまうと、何かちょっとずれた感じになってしまうが、ああいう人なりに工夫を凝らしたわけだから、あれを悪知恵が働くと否定的に見てしまうと、それもちょっと違って、大同小異な感じで多かれ少なかれ、経理的な面での工夫というのは、ああなってしまいがちになりそうで、どこでもあの種の経理的なごまかしが合法的な範囲内でも違法なところでも行われていると考えておいても差し支えないのかも知れず、だからといって他の善良な人々にも推奨されるようなことでもなさそうで、ああいう人物だからこそああいうことをやっているのが似合いそうで、いかにもああいうことをやっていそうな人材が他にもいくらでもいそうで、あれが似合うからとかそういう問題ではないと言われるならその通りなのだが、あれが致命的な問題ではないというと、それもその通りなのかも知れず、その通りのことをやっているのだからなぜ悪いと開き直られると、ああいう開き直り方もああいう人にはお似合いなのだから、ああいう人にはあれ以上の何を求めるのも無理なような気がするわけで、だから何かの型枠にハマっているように見えてしまうわけで、ああいう人は今後も死ぬまであのままだと予想ができてしまうわけだから、あれ以上の人材にはなり得ないだろうし、ならなくなても構わない人材なのだから、あれ以上の高望みは無理な地に足のついた人材だと言えそうで、しかもああいう人材が世の中には必要か否かではなく、人がああなってしまう世の中だと見ておいても構わないが、ああなってしまうからといって、他の誰もがああなっているわけではなく、ああいうことができる人もそう多くはいないと想像できるようなことかも知れないし、だからああいう人が相対的な範疇では優秀だと見られたり有能なのではないかと見ておいても構わないが、それでも人として深みのない人物だと見られても、それを薄っぺらいと否定してしまうと、それもちょっと違うような気がして、優秀であり有能なのに薄っぺらいでは何か矛盾してしまうのだが、果たして薄っぺらい人物を肯定できるかというと、薄っぺらい人物が薄っぺらい人物を好意的に見ていると言われるとその通りだが、あれを薄っぺらいと形容してしまうとまずいような気がするわけで、放っておいても人がああなってしまう世の中なのだから、他にもあの手の人物はいくらでもいそうな気がするのだが、あんなふうに成功していなくても、ああいう人の予備軍がいくらでもいるから、ああいう人が世の中で目立ってしまうのではないかとも思われるのだが、だからあの人を人間のクズだとか罵倒しても、他にも大勢あんな人がいるのだから、では人間のクズでない人が世の中にどれほどいるのかと想像してみても、そちらの方が少数派なのではないかと推測したくなってしまうのだが、ああいう人が世の中には大勢いることを前提として世の中が成り立っているからこそ、ああいう人たちに支持されて高市政権の支持率もこれまでにない驚くべき高さなのだと指摘したくなるし、そういう意味で現代における日本人の完成形がああいう人物なのではないかと考えてしまうのだが、だからあれで構わないのかと疑うまでもなく、あれで構わないのであり、あれ以上の人材を求めるのは非現実的な理想主義者の妄想なのかも知れず、ああいう人材を活用しながら今後の日本も発展して行くと見ておけば、自ずからその発展の限界も知れてくるわけでもないが、現状の中でそれなりにああいう人材が機能しているのだから、あれを否定するのは日本の現状を否定するのと同義なのかも知れないし、たぶんそうだとしても日本の未来は明るいと言えるなら、ああいう人材が日本社会を仕切っているからそうだと言えそうで、ああいう人材をうまく活用しながら未来を切り拓いて行かなければならないと言えるなら、たぶんその通りだと言いたくなってしまうのだが、皮肉を込めてそう言いたくなってしまうのではなく、直接にも今もああいう人材を活用している最中なのであり、だからああいう人材が世の中で目立っていると考えておけばいいのではないか。


11月4日「不都合な自我」

 近い将来においてAIに自我が宿るかというと、AIに宿るのではなく、人がそう思い込まされるのではないかと考えてしまうが、そうでなくても人類以外の生物に対しても自我が宿っているように感じられるだろうし、生物以外でも、何もAIでなくても、機械や土地建物や石や岩や地球や宇宙などの自然全般に対しても、それらに思いがけない挙動が起こって心が動揺させられるなら、何か自我が宿っているのではないかと恐れて、それが高じて汎神論的に神即自然だと考えるようになるわけでもないが、自我に関しては自分でも気づかないうちに何か考えていることがありそうで、他人の自我に対する考えや見解の何を否定して何を批判したいのかというよりは、それの何が謎なのでもなく、謎でないとしたら何なのかというと、それらに宿っている自我の存在を確信できるような心理状態に至りたいわけでもないが、実際にそれが確信に至るかというと、至ったところで驚く以外に何をどう感じるわけでもなく、例えば腕時計に自我が宿っていると思われるなら、その腕時計をつけて電車に乗ると、毎度のことのように遅延したり緊急停車したりすれば、呪われているとか、そう言えば過去に自動車事故を二度起こした際にも、その腕時計をつけていて、二十年近く前に千葉の質屋がネットに出品していたのを買ったわけだから、それを前に所有していた人物の呪いが込められていたりして、そんなのは迷信だろうが、ここ数年はほとんど使っていないのだが、つい数週間前にも思い出したように何となくそれをつけて電車に乗ったら、案の定遅れが発生してしまって、乗り継ぎ駅でかなり待たされたから、やはり呪われているのかと怖くなったわけでもないが、だからといってその程度のことであって、死ぬとかそういうことでもないのだから、それほど深刻な事件に巻き込まれるわけでもなく、それに関して何を思い出しているのでもないが、結果的に機械にも自我が宿っていると確信に至るようなことではなく、では何なのかというと、何となくそう思われるようなことでしかないのだが、では自我が何なのかとAIに訊いてみれば、自我とは、「私」という意識の主体となる感覚であり、心理学や哲学、精神分析学など、様々な分野で探求されていて、一般的には、欲求と現実のバランスをとり、自己を統合する働きを持つ精神の一部とされるらしく、心理学や精神分析学における自我の働きとして、欲求をコントロールする働きがあり、本能的な欲求(エゴ)や社会的な道徳心(超自我)のバランスをとりながら、現実的な方法で欲求を満たすように行動を調整する機能があり、人格を統合する働きとしては、家庭、怒り、喜びなど、様々な局面で自分を「全て含めて私である」と統合する機能もあり、さらには現実との調整として、客観的な視点と自己認識のズレを認識して、自分の能力を正確に把握して状況に適応する働きもあり、また防衛機制として、ストレスに対処するために、受け入れ難い状況から生じる感情を和らげようとするストレス対処のメカニズムもあって、これは、抑圧、投影、合理化などのパターンであるそうだが、その一方で、哲学や一般的な意味における自我としては、自己同一性を表すものとしては、自分が他者と区別される、知覚・思考・意志の主体として意識される「自分」そのものを指していて、アイデンティティを表すものとしては、自分が「自分である」という意識であり、社会的な役割(学生、社員、親など)を担う中で形成されて、「自分本位」な立場などを表すものとしては、日常では「自分中心」な考え方や、自分を最優先に考える心のあり方を指す「エゴ」と同義で使われることもある一方で、ユングの心理学では自我と自己の違いとして区別される使われ方として、自我が意識の中心であり、社会的な役割や目標達成に関わる部分であるのに対して、自己は無意識を含めた心の全体を指していて、より深い本質的な自分自身であり、それに関連して自己実現というのは、社会的な自我の満足だけでなく、本来の「自己」に気づき、成長していく過程を指すそうだが、それらの全ての意味にわたってAIに自我が宿るとも思えないにしても、もっと軽い印象として、AIに接してまるで人と同じように意識が宿っているように感じられるなら、AIにも自我があると感じるだろうし、それは犬や猫にも自我があると感じるのと同じような水準とも言えないだろうが、自意識が接している物事に投影していると考えるのも、またいつもの逆説的な勘違いかも知れないが、それの何が不都合だとも思えないどころか、自分の経験を都合の良いように受けとめるなら、あの腕時計していたから自動車事故に遭っても怪我一つせずにピンピンしていられるとか、それが腕時計ではなく運転していた車自体が怪しげなアメ車の中古車で、事故を起こす前から様々な故障が嵩んで数百万円の修理代を支払う羽目に陥っていたわけだから、そのアメ車の方が呪われていたのではないかと感じられるのだが、というか自分自身が呪われていて、ただでさえ昔から変な物事を引き寄せてしまう謎の力を宿しているのではないかとも感じられて、もしかしたらそれが起因して数奇な人生を歩んでいるのではないかと自らの資質を特別視したくもなるが、それこそが勘違いの迷信には違いなく、自己中心的な自我を持ち合わせていると感じているわけでもないが、ただの一般人に過ぎないのだから、呪われた腕時計をつけて呪われたアメ車を運転して二度も事故を起こしたのに、何の怪我もなく済んでいるのだから、運が良いと都合良く解釈できるわけでもないが、運が良いならそもそも呪われた腕時計も呪われたアメ車も買わないだろうし、そんな怪しげなもんを買ってしまう自分の方が馬鹿で世間知らずな愚か者だったんじゃないかと思っておいた方が無難だが、だったんじゃなくて今もそうなのかも知れないが、その辺で頭のネジが緩んでいるのも自覚せざるを得ず、ちょっとした他人との会話から人間関係がギクシャクしてしまうようなおかしな事態に陥ってしまうこともしばしば起こるので、わざとそうなるように意識しているなんてあり得ないし、できればスムーズかつスマートに物事が運んでほしいのだが、自分が関係してしまうとそれがことごとくこじれてしまうような事態にもなるから、なるべく他人とは関わらないようにしたくなってしまうのだが、そういう経験から自分が何かに取り憑かれているのではないかという妄想を抱いてしまうのだろうが、その取り憑いている何かが自分を守ってくれているのではないかとも誤解というか勝手な思い込みにも取り憑かれているわけで、いったいそれが幸運をもたらす福神なのかそれとも貧乏神や疫病神の類いなのかどうかも、どちらでもあってどちらでもないような中途半端な境遇なのかも知れないが、どちらにしてもこれから宝くじにでも当たったら、幸運をもたらす福神に取り憑かれていたことになると信じられるわけでもなく、そんなのもただの偶然の巡り合わせに過ぎないだろうから、事をそんなふうにねじ曲げて捉えるのではなく、もっとシンプルに世渡りが下手なのだと自己卑下に至るまでもなく、大したことでもないような体験や経験を大げさに誇張しているに過ぎないと考えるなら、現状の社会の中で暮らしていれば程度の差こそあれ誰もが体験したり経験しがちなどうということはない事態を、独りよがりに解釈しているだけなのではないかと軽く見ておくだけでも、気休めにはなりそうで、別にそれによって大して深刻な事態には至っていないと思っておけば、それで構わないようなことなのかも知れない。


11月3日「謎の力」

 偶然の結びつきが何をもたらすのかというと、たぶん理由のなさであり、なぜそれが結びついているのか理由がわからないことになるが、それでも構わないからこそ、物事が偶然に結びついて何かを起こすのだが、それが何なのかも偶然の結びつきだからわからないとなると、謎を感じさせることになるが、物質が重力で結びついていたり、他にも電磁気力や弱い力や強い力で結びついていることになるが、物理的な力で物質が結びついていることは説明できるが、偶然の結びつきが謎の力で結びついているとも思えないし、説明できるわけもないのだが、そこにどんな因果関係が働いているのかもわからないし、偶然にそうなっているとしか思えなければ、それ以上の説明は困難を極めそうだが、その場の成り行きに沿って行動すると、偶然にそうなってしまうとすれば、それが何だかわからないのは毎度のことだが、そういうことの延長上でユーチューブの画面で執拗に表示されるチャンネルはXで紹介しておけばいいやと思って紹介しているわけだが、その全てを観ているわけでもないから、それらの結びつきをうまく説明できないのだが、何らかの傾向を伴って表示されているのだろうし、その仕組みがよくわからないのだが、その過程でチャンネル登録もしているわけだから、それ以降はチャンネル登録したものが優先的に表示されるだろうし、とりあえずきっかけがそうなっているのだから偶然の巡り合わせには違いないのだが、だから何だというわけでもなく、興味や関心を惹かれるのはそういう方面の分野なのだろうから、ユーチューブで観ているのもそういう方面の動画なのだろうが、そこから多少は影響を受けて、ここで記される文章の内容もそういう方面へと自ずから偏って行くのかも知れないし、他に興味や関心のある方面の内容も記されるだろうが、それが厄介な問題を抱えているとも思えないのだが、厄介ではないとしても見過ごすことができないなら、それについて語らなければならないかというと、意外とそうでもなく、それは政治や経済の分野でも言えそうなことかも知れないが、実際にはそうでもないからそれについて語る成り行きになってしまうとすれば、それも逆説的にそうなっているとも思えないし、では語る理由は何なのかと問われるわけでもなく、ただ執拗に付きまとってくるといっても、そんなのはこちらの勝手な思い込みに過ぎないから、何か関心があったり興味を惹かれるからそれについて語ると受け止めておくぐらいで構わないのかも知れず、だから大した理由もなくそれについて語っているという結論に落ち着きそうだが、改めてそれが何なのかというと、改める必要もないが、それが何だかわからないでは嘘になってしまい、メディアから伝わってくる世の中の話題に反応しているに過ぎないと言ってしまえばその通りなのだが、それに関して自分が思うところも考えていることもありそうだから、それも批判的な思考に偏っていると批判的なことを述べていることになりそうで、実際に何かを批判しているようだが、その批判対象が一般に批判されている対象とはちょっと違うとも思えず、それについて述べる度に何か引っかかってくるものがありそうだからといって、他人の批判を批判的に見ているとしても、それをそのまま批判するわけにもいかないから、それに関して何かわかっていないことがあるらしく、そのわかっていないことについて考えているように装いたいわけで、それが本当のことのように感じられるとしても、そう感じられる自分が勝手にそう感じているに過ぎない限りで、勘違いの可能性も高いわけでもなく、勘違いだとしてもそれについて語るような成り行きに囚われてしまえば語らざるを得ないわけで、そういう成り行きがなぜもたらされるのかも謎だが、それがなぜとかどうしてとかではなく、ちゃんとした理由や動機があればわかりやすいのだが、現状ではそれがわからないのだから、今後もわかりにくいと考えておけば構わないのかどうかも、わからないとわかりにくいでは意味が違うから、どちらか一方に統一した方がわかりやすいのかも知れないが、そんなのはどちらでも構わないようなことだとしても、それでは済まないと考えるなら、気が済むまで考えていれば良さそうにも思われて、実際にも気が済むまで考えているのだろうが、未だ結論には至っていないし、何が結論だとも思えないが、結論などないと言ってしまうと身も蓋もないが、実際に真に受けていない面もあって、何を批判したいわけでもなく、批判されている対象をそのまま批判したいわけでもないのだが、では批判者を批判したいのかというと、それも違うような気がして、批判の対象となっている者や勢力はそのまま批判されるようなことをやっていればいいとも思えないし、それに対する批判者もそのまま批判していればいいとも思わないが、では何なのかというと、それもよくわからないわけで、それらが謎の力によってそうなるように導かれていると解釈するのも意味不明だし、謎の力なのではなく、功利的な利害関心からやっていることが大半なのかも知れないが、それを支持している者たちも意味不明だし、それを意味不明だと考えているわけではなく、どうせ目先の損得勘定で動いているんだろうと馬鹿にしたいわけでもないが、おおかた見当がついているような気がするものの、確証には至っていないのだから、こうだと決めつけて結論を言い放つような馬鹿な真似はしない方が良さそうで、結局よくわからないのが事の真相というか、真相は藪の中であるはずもないが、そうやってわざとわかっていないふりを装いながらも、確実に結論へと近づいているとしたら、自分でもそれに気づいていないのかも知れず、気づいていないのに勘が知らせてくるから、自分でも知らないうちに勘が導く方面へと向かって動いているのかも知れず、しかも動かないまま動いているのだから、場所が動かないとしても時空が動いていて、そこにとどまっているのに、自分にとって重要な何かをそこで探り当てていることにも気づいておらず、気づいていないのに探り当てていると言えるのも嘘に決まっているような気もしないではないが、それでも現状が謎の力に導かれるがままになっていて、そのまま謎の力に導いてもらえば、結論に至れるとも思っているわけでもないのだが、それが何の結論なのかもわかっていないのだから、そんなのも嘘に決まっていると言えそうだが、少なくともそのままの姿勢や態度に凝り固まっているというか、絶えずもっと柔軟に対応しなければならないはずだが、何に対応するのかもわかっていないし、そうなってからそれに気づくこともあるだろうが、そこで現状で優勢となっている勢力を批判的に捉えてもいいのかどうかもよくわからないわけで、何かユーチューブで批判の急先鋒と化している人の言っていることを真に受けられない経緯や事情もありそうで、特定の勢力に対して単純な論理を当てはめているようにも感じられなくもないから、それがどういうことなのかと考えるなら、短い距離で通用する論理を用いているから言えるようなことがありそうで、では長い距離ならそういう論理は通用しないのかというと、通用しなくても構わない範囲内で述べているだろうから、それ自体も評価や判断の対象とはならないのだろうが、そういう批判に同意するなら、それでも構わないようなことではあるのだが、だから自分もちょっとだけその種の現状批判の動画を参考にしながら何か語ろうとしているのだろうが、そうしようとすると今回のようにそこから自然に逸脱してすっぽ抜けてしまう成り行きが待っていて、だから困惑しているのかも知れないが、それでも構わないと勘が告げているようにも感じられて、何だか中身が希薄な内容となってしまい、そんな結果を前にして、それをどう受け止めればいいのかよくわからずに途方に暮れているわけだが、それも謎の力に導かれた結果だと受け止めるのが妥当なところかも知れない。


11月2日「価値の意味」

 現状で何が言えるかといっても、現状が何かの成り行きの中で推移していることは確からしいが、それについて何をどう考えているのかもはっきりしないから、何をしらばっくれているとも思えず、そんなことが言える程度の内容に何の価値があるとも思えないし、そもそも価値とは何かと考えるなら、価値があるとかないとか考えていること自体が物や情報やサービスの価値だと勝手にそう思っていること自体も間違っているような気がして、では金銭で買えない価値が何なのかと考えるなら、感情的・精神的価値とか、経験や知識とか、人生観や健康とか、AIが出してくる答えにもあまりそうだと思えるようなものもなさそうで、それらも金を出せば手に入りそうな価値なのではないかと思えてしまうが、一般的には希少な物事には価値がありそうで、逆にありふれた物事には価値がなさそうに思えるが、それも逆説的にいうなら、どこにでもありふれた物事にこそ価値があると言いたくなってしまうが、自分ひとりが言いたくなっても他の多くの人々が認めてくれないことには価値などないと思うなら、それが社会的なコンセンサスを伴った価値だろうし、そういう価値ではなく、自分だけが価値があると思っている限りで、価値があると勝手にそう思っていれば良さそうだが、そんなのは思い込みに過ぎないし、何に価値があるかに関しては人それぞれで異なっていても構わないが、結果的にはそうではなく、多くの人がそう思っている限りで価値があることになるとすれば、そんな価値が社会的なコンセンサスを伴った価値であって、そんな中でも権威ある者が認めた価値に他の多くの人々が引きずられて、あの人がそう言っているのだから価値があると思い込まされているとしたら、しかもそんなことを言っている者が一人ではなく、複数の権威者や格付け会社などの価値を決める機関まであって、それらがそれぞれに違うことを言っているとしたら、いったい誰の言っていることを信用すればいいのか迷うところだが、その一方で価値を定める理屈を伴った価値基準や、分析を要する複数の価値を表すパラメーターと言えるようなものまであれば、それを参考にして価値を計量するような成り行きになってくれば、そうやって求められる価値の信用度もそれなりに高まってくるだろうが、そうなると価値基準が一つではなく、価値を示す基準としてお互いに関係し合う複数の項目がある時にはレーダーチャートとして図が示されるだろうし、そんな図を見てもどの項目を重視したり優先すれば良いかも迷ってしまうなら、人によって見方も違ってきて、それでも全ての項目において高い数値を示しているならそれだけ価値が高いことにはなるが、そもそもその手のレーダーチャートで示される複数の価値基準というのも、それ自体が信用のおけるものなのかどうかも、何かまやかしのような感じがしないでもなければ、そんな図を見た結果として導き出される価値判断も信用のおけるものではなくなるが、何か別に信用のおける定まった価値があると思っても、状況や情勢の変化によっても微妙に価値が揺れ動いているような場合もありそうで、それが流行り廃りなどの流行現象から影響を被っているなら、通貨や株や債券や貴金属の金や土地の価値などもそれに応じて揺れ動いていて、それが表面的な流行り廃りなどではなく、ちゃんとした経済情勢に伴って変動しているなら納得するしかなく、それをちゃんとしたと表現するのもおかしいが、そうなっているからといって価値を全面的に信じているのかというと、実際にそれらが市場の売買によって価格が決まるから、価値を疑いながらも信じて売買するしかなく、しかも絶えず価値に裏切られることを恐れているから、価値が下がることや場合によっては暴落することも想定しておかなければならず、そういう意味では価値の変動をいち早く察知したいわけだが、変動の兆しを察知して売買などの行動を起こすことが価値の変動への対処や対応となるだろうが、そうなるなら事前に複数の成り行きを想定しておいて、実際に起こるその場の成り行きに応じてそうなった場合に決めておいた行動を起こすようなことになりそうだが、それも相対的な程度の範囲内でその種の行動が伴ってくるわけだろうから、その際には何が判断の基準や指標として役立つかどうかも、その種の専門家の助言が役に立ったり、最近流行りのAIに判断をまかせるとか、様々な経緯や事情に応じてやり方も複数に分岐してくるかも知れないが、実際にやってみなければわからないことも出てくるだろうし、やってみたところでわからなかったりもしそうだが、何かこれといって踏まえておかなければならないことや、注意しておかなければならないことがあらかじめわかっているなら、それを踏まえておいたり注意しておけばいいだろうが、そういう対処や対応が通用しているうちは、その場を仕切っている制度に従って事態が進行しているからそうなっている可能性が高く、制度が想定している範囲内で成り行きが進行しているから、その制度が管理しているゲームのルールの範囲内で通用している対処法が有効に作用するわけだが、しかもそのゲームが勝ち負けを伴うような結果をもたらすなら、結果的には勝った者に利益がもたらされて、負けた者が損害を被るような事態も起こるかも知れないが、それも根本的なところではそうではないと考えるなら、実際に人や企業などをその場の成り行きに従って動かすような仕組みが働いていて、意図してそういう制度設計になっているわけでもないだろうが、その場の成り行きが破綻しない限りで、自動調整機能が発動してそうなるような成り行きになっていると、人も企業もその場の成り行きに沿って動いていれば、自ずから活路が開けるような事態が起こるのかも知れず、そんな中でも意図しなくても制度を守るような行動が自然に発動するわけで、それがその制度を批判する側にとっては許し難いことだから、そういう行動に出てしまう者たちが批判対象となって、制度の欠陥や問題点と共にそれをうやむやにしようとする者たちとして批判されるわけだろうが、それが特定の何かの価値を決めたり保持したり維持するための制度だとしたら、そうすることに価値を見出すことでさえも、それによって利益を得たり損害を被る結果をもたらすなら、損害を被ったと感じた者たちにとってはその行動が批判の対象となりそうだが、それをゲームに見せかけるなら、勝ったら利益を得て負けたら損害を被ると単純化されて、負けた者を納得させるような正当化が通用して、そうであるなら制度の狙いとしては、それが欠陥や問題点などではなく、ただのゲームによって勝敗が決まって、そこで負けた者や競争に敗れた企業などが損害や損失を被っているに過ぎないのだと結果を正当化できるかというと、しかも負けた者も常時負け続けているわけではなく、勝ったり負けたりする範囲内の成り行きに持って行ければ、うまくそれがゲームとして機能していることになり、そういう意味でも事態のゲーム化が有効であると考えるなら、それらの成り行きの中で何が価値を持っているのかとも考えられるから、自ずから答えも導き出されてくるわけで、それが何の答えなのかもはっきりとはわからないが、ここからさらに事態が進展して行けば、それも自ずからわかってくるかも知れないし、あるいはどこまで行ってもわからないままかも知れないが、現状でまかり通っている資本主義市場経済の欠陥や問題点を指摘したい人が世の中にいくらでもいるわけでもないだろうが、それをゲーム化によってごまかすことが有効だとも思ってはいないだろうし、マネーゲームに興じている人もいくらでもいる中で、その欠陥や問題点を指摘する人が絶えずゲームの敗者の側から批判しているとも言えないから、なるべくならゲームそのものを疑いながらも、ゲームに深くのめり込まずにちょっとだけ参加している程度の感覚を失わないように心がけるのが、無難な態度なような気がするわけだが、それも人によってもその人の立場や境遇によっても無理な場合もあるわけだ。


11月1日「難しくてややこしい内容」

 何でもないようなことの一つとして何があるわけでもなく、他にもいくらでも何でもないようなことがありそうで、それが何なのかといっても、相変わらずこれだとはっきりとは示せない焦ったさを覚えるのだが、簡単に語れるようなことではないらしく、それに関連する物事が複雑に絡み合っていて、もつれた糸を解きほぐすような作業を必要としているようで、大雑把な傾向としては否定的にも批判的にも言えるようなことだから、それを単純化して安易に批判してしまいそうになるが、なぜか批判をためらってしまうようなことだとすれば、それが何なのかというと、それらを構造的に見てはいけないようなことかも知れないし、それらとは構造的に見るだけなく歴史的に見なければならないといっても、それを共時的と通時的と言えるかどうかも、ちゃんと理解しているわけでもないから、定常宇宙論とビッグバン宇宙論の違い程度のことしか思い浮かばないが、それがフーコーの『言葉と物』によれば、西洋の十八世紀と十九世紀を隔てる博物学から生物学への移行であり、一般文法から歴史的文献学への移行であったり、財政学から政治経済学への移行であったりするのだろうが、財政学といっても、富を数量化して、流通を計量化して、通貨の役割を定めて、通貨の平価を切り下げるべきか切り上げるべきかを知ることが重要であったり、対外的な通商の流れを打ち立てたり維持したりすることも重要であったりして、それが富の分析と呼ばれているらしいが、それがフーコーが言うには、それに対してある時、人口という概念が理論の領域にも経済的実践の領域にも入ってきて、重農主義者のケネーは真の経済的統治は人口に携わる統治だと言い続けたそうで、政治経済学においての中心的な問題は人口問題だそうだが、それに関してマルクスとマルサスの対立がその証拠となっていて、その基底となるリカードの知的財産を利用したのは、マルクスもマルサスも共通して利用していたが、マルサスにとっては人口問題が本質的に生物経済学の問題として思考されていたのに対して、マルクスは人口問題を迂回して、人口という概念自体を排そうとしていて、その概念を生物経済学の形式ではなく、階級や階級対立や階級闘争という、歴史的・政治的な形式に改めて見出そうしていて、人口か諸階級かということであり、それが今で言えば人口が富裕層と貧困層とに分断されていることになりそうで、経済に関する思考から出発して、人口という概念が導入される限りでのみ思考可能だった政治経済学の一思考が、そこで分断されたことになるらしいが、それが博物学から生物学への移行となると、博物学が生き物を分類上の特徴に応じて割り振る機能や役割を持っていたのを、十八世紀と十九世紀の初頭に、分類上の特徴の評定から有機体の内的分析への移行が起こって、次いで解剖学的・機能的な一貫性において捉えられる有機体から、その有機体とその生命環境との構成的・調整的な関係への移行がなされて、さらにそこから生命環境から個体群への移行が起こって、個体群についてダーウィンは、環境が有機体としての生命へ影響を及ぼすのは、個々の生き物ではなく、それらをまとめた個体群を通して影響を及ぼすと見ていたようで、それが人類であれば個体群が人口となるらしいが、ラマルクは何か直接的作用によって環境による有機体の成型がなされると想像するように強いられていたのに対して、キュヴィエが援用したのは一見すると神話的なものだったが、何か大災害や創造などの神が行なう創造行為の方がラマルクよりも遥かにうまく合理性の領域を構成できるのに対して、ダーウィンの方は個体群こそが環境と有機体を媒介するものであり、個体群に固有な変異や淘汰といった効果の全てがあるということを見出したそうで、従って生き物の分析の内部でなされた個体群という問題設定こそが、博物学から生物学への移行を可能にしていて、博物学と生物学をつなぐ蝶番は個体群の側で探すべきであり、それが人類に関してなら人口となるらしいが、さらに一般文法から歴史的文献学への移行についても、一般文法が言語上の記号と任意の語る主体が用いる表象作用の間の諸関係を分析するのに対して、文献学は世界中の様々な国においてなされた一連の調査が人口と言語の間の関係を評定し得た時、そこからさらに集団的主体としての人口が、人口に固有のではなくその言語に固有の規則性に従って話している言語を変化されうるのはどのようにしてかということが問題となった時、初めて誕生し得たのであり、ここでもまた一般文法から文献学への移行を可能にしたのは人口という個体群を導入したからだそうだが、それらを要約すると、博物学から生物学へ、富の分析から政治経済学へ、一般文法から歴史文献学へ移行を行なった変容の操作子を探すには、またそのようにしてかつてのシステムを揺さぶり、かつての知を生命や労働や生産の科学へ、言語の科学へと引き倒した当の操作子を探すには、人口の側で探さなければならず、またそれは人口の重要性を理解した指導的な立場の者たちが、この方向に博物学者を向かわせると生物学者になったり、文法学者を向かわせると文献学者になったり、財政学者を向かわせると経済学者になったということではなく、権力の諸技術とその対象との間の絶え間ないせめぎ合いを通して、それが現実的なものにおいて、人口及び人口に特有の諸現象を現実の領域として徐々に開拓して行ったわけで、人口が権力の諸技術の相関物として構成したことを出発点としてこそ、様々な知の対象領域が開かれて、人口が近代の権力メカニズムの特権的な相関物として自らを構成・継続・維持し得たのは、このような知が絶えず新たな対象を開拓したからであり、そこから人間を生き物として労働する個人として語る主体として分析する人文科学を通じてなされる主題設定は、権力の相関物として、知の対象としての人口の出現から出発して理解しなければならないそうだが、十九世紀の人文科学から出発して思考され定義された人間や十九世紀の人文主義において考察されたような人間は、人口のひとつの形象に他ならず、権力の問題が主権の理論において定式化されたとすれば、主権を前にして人間は存在しないし、存在し得たのはただ法権利の主体という法的概念だけだったということになり、その反対に主権と向き合うものとしてではなく、統治や統治術と向き合うものとして人口があったとすると、人間と人口の関係はちょうど法権利の主体と主権者の関係に等しいということが言えるそうだが、要するに西田昌司なんかのあの手の輩が、国民主権を頑なに認めようとしないのは、人を統治や統治術の対象として、人口の一要素としてしか見ていないと考えてもいいのかどうかもよくわからないが、そうであるなら日本の伝統がどうのこうの言っている奴らに限って、十九世紀の西洋かぶれの域を脱していないような気もするわけだが、そういうところは自分もその手の奴らの思想なんかはあまり理解していないから、何とも言えないところではあるわけだ。


10月31日「わかっていないこと」

 わかっているようでわかっていないようなこととして思い浮かぶのが、何かと何かの組み合わせなのだが、例えばそれが功利主義と違法行為の組み合わせであれば、経済の分野で企業などが功利的に利益を追求する過程で違法行為が行われて、やってはいけないこととして法律で規制をかけられているのを、その規制を破って利益を追求しようとしてしまうから、それが違法行為となってしまうわけだが、違法行為を行なうのが政治家であれば、それを暴くメディアが日本ではなぜか共産党の機関紙である赤旗となることが多いらしく、赤旗のスクープとして政治家の違法行為や不正行為が取り上げられて、大抵は政治資金を得るために違法行為をやってしまうわけで、現状では政権与党の自民党や維新の違法行為が暴かれることになりそうだが、それに乗って国会で政権与党の違法行為や不正行為を野党側が追及することになると、それが政治的な課題とは方向性が異なるわけでもないが、選挙で野党側が議席を減らすことになって、赤旗が政権与党の政治家の不正を暴いたのに、肝心の共産党の議席が減ってしまって、それを逆効果と言えばいいのかどうかも、ちょっと違うだろうが、なぜそうなるのか、それがわかっているようでいてわかっていないようなことかも知れないが、単純にそれとこれとはちょっと違うと述べてしまうと、それも何がちょっと違うのかも、わかっているようでいてわかっていないことになってしまうらしく、それを選挙結果には結びつかない行為だと述べてしまうのもちょっと違うのかも知れず、政治の不正を追及しなければならないのは当然のことだが、そんなのは検察がやることだというと、司法も日本では政権側に忖度している可能性が高いから、三権分立が形骸化している中では、ジャーナリストなどが政権側の不正行為をメディアを通じて暴露したところで、国民には無視される可能性も高いが、事の本質がそういうことではないとすると、そんなことは問題ではなく、ただ単に行為や行動の合法性よりは功利的な利益追求の方が世の中では重視されている傾向があるということかも知れず、それが資本主義市場経済の中で生きている者たちの価値観であって、法治国家なら違法行為が摘発されて処罰されるのが当然の成り行きだが、その一方で功利的な利益の追求は肯定されるべきで、そうした経済活動によって国家が成り立っていると考えるなら、それとこれとを善悪の天秤にかけるようなことでもなく、やはりそれはそれこれはこれとして判断するしかなく、そういう判断がどういうことなのかというと、それもわかっているようでいてわかっていないような曖昧な判断となってしまうだろうが、メディアによって吹き込まれた勝手な偏見や先入観や固定観念などが働いて現状の世の中が構成されているから、それに関して何が良くて何が悪いかなんて、事の善悪を判断できるようなことではないのかも知れず、最近の事例としてそれを挙げるとすれば、例えば大阪万博をその開催を主導した維新も含めて、執拗にジャーナリストや識者や政治家などが批判し続けたのに、それは数年前に開催された東京五輪にしても同じようなことだったのだが、終わってみれば何でもないことだったとは批判し続けて者たちは絶対に言わないだろうが、普通の一般人の感覚としてはただ単に大がかりな客寄せイベントが行われただけのことであって、そんなもんに多額の公的な資金を使うなと批判できるが、やはりそれとこれとは別の案件だと思っているわけでもないだろうが、それが現状でも高市政権の支持率が七割にも上っていることとどう関係するのかと問うわけにもいかないし、まだ何もやっていないのに支持している人たちが大勢いるわけで、そういう人たちにとっては、政治と金の問題などどうでもいいことだと思っているわけでもないだろうが、やはりそれとこれとは別問題だと言えるような成り行きが生じていると考えたくなってしまうが、実際に株価も上がって、円安も進行して、物価も高止まりなのに、それを高市への批判に転化するわけにもいかないだろうから、やはりそれとこれとは別問題になってしまうのかも知れないが、何だか知らないがそうなってしまうような成り行きに囚われていて、その辺もわかっているようでいてわかっていないようなことなのかも知れないし、わかっていないからこそ、メディアが醸し出す礼賛的な雰囲気に多くの人々の意識が囚われていて、そうやって否定的な面や批判的な面をうやむやにしながら事態が進展して行ってしまうから、当面の危機を乗り切ったことになるだろうが、それが政治的な危機の次元ではそうだとしても、それはかつての大英帝国の全盛時に国内の一般庶民が悲惨な暮らしを強いられていたのとは違う状況だろうが、意外と現代でもアメリカの一般庶民と言えるような人々の暮らしが悲惨だとは思われていないことと、それほど変わらない状況なのかも知れないが、誰にもどうにもできないことではあるわけで、何がそうなのかといっても、現状が何も変わらないわけではないが、少しだけ変化が期待されているとすれば、ガソリン暫定税率などの廃止となってちょっとだけ現れるかも知れないが、給付付き税額控除も実現したところで、それもちょっとだけマシになった程度のことであって、また数万円の現金給付が行われるかも知れないが、そうしたバラマキが根本的な問題解決になるわけでもないし、しかも何が根本的な問題解決なのかもよくわからないし、立憲が求める企業団体献金の禁止は実現しないだろうし、それも根本的な問題解決とは別問題なのかも知れないから、とりあえず今まで通りに資本主義市場経済の中で誰もが生きて行く現状が変わらない限りは、功利的な利益の追求が企業を主な経済活動の主体として続いて行くだろうことは、誰もが疑っていないし、そのつもりでほとんどの者たちが生きて行くことになりそうだが、その過程で行き過ぎた違法行為や不正行為が見せしめ的に摘発されることになろうと、だからといって功利的な利益の追求が合法的な範囲内に収まっているように見えるなら、それが正々堂々と今後とも行われることになるだろうから、それに対して政府が規制をかけて抑制することになるとしても、それをやめさせることはできないし、やめさせるわけにはいかないわけで、民間の経済活動からピンハネのように税を徴収することによって、政府の活動も成り立っているわけだから、政府がそれを変えることはできないと見ておかなければならないし、そうだとすれば政治によって世の中を変える試みは失敗に終わらざるを得ないと理解しておいても構わないのかというと、政治の側ではそれを失敗だとは認識できないだろうし、何かしら法整備や民間への投資を行いながらも、現状をより良い社会へと変えていくつもりになれるだろうから、そういうことをこれからもやって行くしかないだろうが、そこでも功利的な思惑から特定の勢力を利するようなことを仕掛けてくるだろうし、今もそれをやっている最中なのかも知れないが、果たしてそれによって利益を得られるかどうかも、自国を利するために他国を脅して交渉を行うようなことをアメリカが主導してやっているわけだから、日本政府としてもそれには逆らえないし、逆らえないにしても精一杯の抵抗を試みているわけでもないだろうが、それをうまくやっているようにメディアと結託して見せようとしているわけで、そういうことまではアメリカ政府としてもやめろとは言わないし、容認するしかないだろうが、そういうことの範囲内で体裁を取り繕ったことが評価されているわけで、もちろんそれを批判したい勢力としては執拗にいちゃもんをつけるしかやりようがなく、実際にそれもやっている最中なのではないか。


10月30日「大量生産の原理」

 浅ましいとかおぞましいとかいう言葉がピッタリ当てはまる人物が誰なのかといっても、誰の想像にまかせても知っている人物がすぐに思い浮かびそうだが、それはお前だと指さされるような場面はドラマではないのだから、現実の世界で経験することはなさそうで、高市もトランプもどちらかといえば浅ましい人物のカテゴリーに入りそうだが、その一方でおぞましい人物といえばサウジの皇太子とか金正恩とかプーチンとかネタニヤフとか、直接人を殺す命令を下す人物に当てはまりそうだが、それも立場の違いというか、どのような国家の統治体制によってその人物の地位や身分が付与されているかで、やれることにも違いが生じてくるだろうから、それらの人物の人格や性格も国家の構造から影響を受けて生じてくる割合も高そうだが、それはそういう人物の支持者の人格や性格に関してもいえそうなことだとすれば、それと似たような人物も次から次へと大量に出現してくれば、国家の構造からそんな人物が大量に生産されてくることになりそうで、そんないい加減な理屈で構わないのかというと、そういう連中に含まれそうな人にとってはそんなのは認め難いだろうが、マクロ的な視点からそんないい加減なことを述べても、個々の人物の日常生活までは考慮に入れていないし、他人の人格や性格なんて見ず知らずの他人にわかるわけもないのだから、いい加減なことを言うんじゃないと怒られそうだが、では本当のところはどうなのかというと、全く知らないと言っておけばそこで話が終わってしまいそうで、それでも無理に話を続けるなら、大量生産の原理に基づいて大衆市民社会の中で暮らす人の人格や性格も出力されてくるといい加減に考えるなら、例えばSNSへの紋切り型の投稿がその人物の人格や性格を決定しているようにも思われて、同じような出来事に対して同じような投稿が大量に寄せられるなら、世の中には同じようなクズな奴らがウジ虫のように大量発生しているんだなと否定的な実感も伴ってくるだろうが、そんな実感を抱いている人の人格や性格もそこで決まってきてしまうから、自分がそんな実感を抱いたら、やばいやばいと反省を促されるわけだが、人が嫌がるようなことはやってはいけないと思うなら、人が嫌がるようなことをやるとそれが人から人へと連鎖して、そんな連鎖に加わった人を心理的に苦しめることになりそうだが、それが大量生産によってみんなでよってたかって特定の個人を攻撃することに快感を覚えるような成り行きになれば、そういう攻撃に加わった人たちの人格や性格もそんな攻撃によって鋳型に嵌め込まれた紋切り型の人格や性格として大量生産されることになるから、そこでもそんな攻撃に加わってしまうとやばいと思えば、何とか自分の人格や性格も紋切り型の鋳型に嵌め込まれるのを逃れることができたとホッと一安心するわけでもないが、そういう罠が世の中にはいくらでも仕掛けられているから、国会のヤジなどに反応しないように心がけておかないと、いつどんなきっかけから浅ましい人々の仲間入りしてしまうとも限らず、いったん罠にハマれば自制心など簡単に取り払われてしまうから、くれぐれもその種の誘いには乗らないように注意喚起したいわけでもないが、そんな成り行きにも程度の差があるだろうから、ちょっとした過ちならすぐに思い直して引き返せるが、それがだんだんエスカレートしてくると、人の人格や性格も浅ましいのレベルを超えておぞましいレベルへと移行して、勢い余って殺傷沙汰などを引き起こしてしまえば、取り返しのつかない事態となってしまいそうで、大抵の人はそうなる手前で踏みとどまるだろうが、そんなことはお構いなしに、赤信号みんなで渡れば怖くないとばかりに、メディアやSNSなどから同じような紋切り型の人格や性格が大量生産されると現状を解釈しても構わないかどうかも、そういうのにハマってしまう者たちの言動が目立ってしまうから、そう感じられるだけで、案外ほとんどの一般市民は冷ややかに眺めているだけにとどまっているのかも知れないし、国会で反射的にヤジを飛ばした議員もあまり気にするようなことでもないと軽く受け止められるようなことではないにしても、そこからやられたらやり返す的な応酬があり得るのかというと、たぶんやられ損な気がしないでもなく、他人事だから誰の知ったことでもないだろうが、それ自体の良し悪しなども、どうとでも言えるようなことなのだから、そういう出来事に反応して偉そうに説教を垂れるような奴こそが、何となく嫌な奴だと思われる限りで、なるべくなら関わらないようにしようと思うのも正直な感想だが、問題視するのはそこではないとも言えそうで、過去の悪事をうやむやに済ませようとしているから、それに腹を立ててヤジを飛ばしたと解釈したくなるのも普通にそう思うところだが、それも戦略的にそう思わせようとしてそんなヤジに出たと解釈しても筋が通りそうで、さらにはそんな役柄を意図して演じているとも言えるだろうが、その手の人たちには高市の振る舞いや言動のことごとくがこれからも批判材料になりそうな予感もするから、それをやりたいならいくらでもやればいいだろうし、たとえそのことごとくが空振りに終わろうとも、粘り強く執拗に繰り返されるなら、少しは効いてきたと思い込んで自己満足に浸れるかも知れないから、それもそういうことだと受け止めておくしかなく、だからといって何がどうなるわけでもないと軽くあしらっておきたくなるが、それもそういうことではなく、その場の空気がそうさせてしまうようなことなのかも知れず、そういうことをやっている人の自主性や積極性などを考慮に入れるようなことではないと考えるなら、何かあうんの呼吸で行われているようなことでもあって、そんなことをやらせる制度にその人の行動や言動がハマっているから、議員が役割分担としてそういうことをやるように操られていると認識しておいても構わないのかも知れないから、そんなことを問題視するだけ無駄なのではないかと思ってしまうが、だからくだらない演技はやめろと言いたくなるにしても、やっている議員はやらざるを得ない立場に囚われているだろうから、世の中の制度に囚われているのは何もヤジを飛ばした議員だけでなく、それに反応してクズなウジ虫君たちがSNSなどに大量に湧いて出るのも制度的な現象なのかも知れないから、それをどう見ても、世の中で制度が滞りなく作動している証拠だと考えておいても良さそうで、そんな制度の良し悪しを云々するのも、いつものように何か違うような気がするわけで、違うとすれば何がどう違うのかというと、制度にも様々な制度があって、制度と別の制度が連携して何か現象を起こそうとしているとすれば、何か目的があってそんな連携が起こっているのではなく、別々に複数の制度が動作しているとしても、制度の特性として絶えずその制度に絡め取られた人々を同じような傾向に揃える機能がありそうで、そんな制度が大衆市民社会の中で動作しているわけだから、そこに暮らしている人々を制度が捕らえて、制度が動作しやすいように人の動作を変形するわけで、実際に大勢の者たちが同じような言動や行動を出力するように変形しているとしたら、制度によって変形させられていると理解したいのだが、それに対して議会制度に絡め取られた議員のヤジが他の議員たちと同じような傾向になっているなら、議会制度によって動作を変形させられて出力されたヤジだと言えなくもないが、議員が制度に逆らうならヤジを飛ばさなくなるわけではなく、ただ単にヤジの対象となるようなことをヤジを飛ばされる側がやらなければ良いと言えそうで言えないようなことなのかも知れず、それもヤジを飛ばす原因となるようなことも制度的にやらざるを得ないから、結果的にヤジを飛ばす方もヤジを飛ばさざるを得ないようなややこしい制度設計となっていると考えるのも、何となく間違っているような気もするわけだ。


10月29日「信じることと疑うこと」

 肉を食うと老化が早まるのは、それが動物性タンパク質だから、アンチエイジング物質を含む植物性タンパク質とは違って、加熱調理に伴って老化物質が生成されるからだそうだが、本当かどうかは何とも言えないところだが、動物性タンパク質でも魚なら健康に良いと言われているし、肉だけでなく栄養のバランスに注意しながら他の食材も食べろということだろうが、だから何だというわけでもなく、うまいものにはそれ相応のデメリットも伴ってきそうで、そこへと関心が集中してしまうと、危うい傾向もそれだけ高まってしまうと考えておくだけでも、少しは気休め程度の効用は得られそうだが、正確に分析できるわけでもないから、迷信だと思っておくぐらいでも構わないし、迷信であっても他にも怪しげな迷信も信じているつもりだから、様々な迷信をバランス良く信じておけば、一つの迷信だけにこだわることもないだろうし、それを迷信だと認識している限りは、本気で信じているわけでもなく、疑わしく感じながらも気休め程度に信じていれば、それがどういう信じ方なのかよくわからないが、それを半信半疑というと、何となく納得し難く、一応はそういう表現で納得するしかないが、本当に半信半疑なのかどうかも、その実態は相変わらずよくわからないわけで、自分が何を信じているのかなんて自分でもよくわかっていないが、自分の勘を信じているのかというと、それも絶えず疑いながら信じている時もありそうだが、疑念の方が勝ってしまうと、どうしても論理的かつ合理的に物事を考えようとしてしまい、それが実際にはそうではない場合もありそうだが、思考している意識から外れて何かをやってしまう時には、確かに勘に頼っている面もあるが、考える前に感じ取れと一概には言えないような気もするから、それもケースバイケースなのだろうが、自意識にまとわりついて離れない疑念というのも、勘が働いて常識やもっともらしい主張を疑えと命じているように思われるから、何が起因してそうなるのかといっても、言っていることや言われていることの実態や現状からの乖離を意識しているのかも知れず、それを簡単に述べてしまってはまずいのだろうが、例えるなら、戦争もビジネスの延長上で起こっていることであって、戦争が本質なのではなくビジネスが本質なのであって、経済活動の際にトラブルが起こっているのが戦争状態だと認識しておいても構わないが、それを思想信条などから説明しようとすると無理や勘違いが生じてきそうに感じられるのだが、戦争そのものもビジネスの対象だとしても、利益を得られない戦争はやるべきではない程度の情勢認識で戦争に関わっているのなら、何となく部外者としては納得できるような事態なのかも知れず、では戦争の当事者がそこで何を信じて戦争に関わっているのかといえば、利益を得られることを信じて関わっているとは思えないだろうし、そういう意味でも国防がどうたらこうたらと愛国心から講釈を垂れる者がいたとしても、本気でそう思っている者もその中にはいくらでもいるのかも知れないが、その実態や本質としては、そこで経済活動が成り立っている限りで、そこから利益を得ている者や企業などが暗躍しているから、そういう成り行きを批判するのに戦争の悲惨さなどを持ち出すのは的外れな印象を伴ってしまうと述べてしまっても良いのかどうかも、何となく気が引けるのだが、それは昔のヤクザ映画が義理人情を持ち出すのと似たようなことかも知れないが、そうかといって全てをビジネスだと割り切って活動できるかどうかも、そこで義理人情が生きているように見せかけることはできるかも知れないし、かつてのスペイン内戦に義勇兵として参戦した者たちにはロマンがその意識に取り憑いていたかも知れないが、その一方で昨日のトランプと高市の会談は完全にビジネスオンリーで行われていたのには、何か象徴的な意味合いが込められていそうに感じられたのだが、要するにビジネスヤクザ同士の接待&交渉といった印象を受けると共に、北野武のヤクザ映画には足りないものがそこには含まれていそうなのだが、だからといって現実とフィクションには違いがあるのだろうから、どちらがどうだと言いたいわけでもないが、政治家というよりは日本の政財官の官僚機構がビジネス上の商談を仕切っていたわけでもなく、あたかも江戸幕府とアメリカのペリーの交渉によって不平等条約を結ばされたような印象も受けるのだが、そうだとしても日本政府の官僚機構がやれるのはその程度のことなのだから、高市にしてもコバホークとかいうクズな売国野郎と見られている人物にしても、よくやったと誉めておけば済むようなことだと軽く考えておいても構わないが、それも表面的なところで行われていることだから、あまり真に受けるようなことではないなら、では事の真相はどうなっているのかといえば、どうなっているのも何も、国策としてAI投資がアメリカで行われるということらしいし、そこに日本や韓国が付き合わされて投資させられるのだから、一部では無駄に終わるのではないかと危惧されている投資だからこそ、かえって何の成果も得られずに無駄に終わってしまった方が、各国の政府批判に傾いている人々にとっては喜ばしいことかも知れず、実際にどうなるかは数年後にわかればマシな方だと見ているのだろうが、何かこれまでにはあり得なかった経済効果が上がるなら、そんなことの中心にアメリカという国が存在してほしいと願っているわけでもないし、そうではないなら何なのかというと、これから人類史上最も重要な社会の構造的な変革が行われて、労働の価値観や活動形態にも重大な変更が加えられるとしたら、そんなことは現状では誰も思いつかない事態となりそうだから、それがトランプにも高市にも思いもよらない事態となるのも想像に難くはないし、そういう事態に関わっている自覚もないかも知れないが、それ以外にも農産物や軍事兵器も日本が買わされるのだから、表面上は不公平な取引なのだろうし、それも表面上はという但し書きが必要なのかどうかもよくわからないが、ひょっとして実質的にはそうではないと考えたくなってしまうのだが、では実質的にはどうなのかというと、今後アメリカ社会がおかしくなるわけで、今もだいぶ荒廃しているようだが、それがより一層の荒廃をもたらすとすれば、AI革命がそれをもたらすことになりそうだが、しかも今まで栄えていた社会が荒廃するのと同時並行して、新たな社会が出現しつつあるとしたら、それこそがAI革命の成果だと言えそうだが、そんな成果を得るのにアメリカが南北戦争以来の内戦を経験する羽目に陥るかも知れないし、実際にすでにトランプ政権への抗議運動に対して、政権側が州兵を派遣して鎮圧しようとしているわけだから、内戦状態だと言うと大げさ過ぎるだろうが、そうやって衝突が激化するに従って、だんだん内戦の泥沼状態へとアメリカ全土が沈んで行ってしまうかも知れないが、それでもそれが思想信条的なところからそれを説明しようとすれば、何かそれが間違っているとも思われないだろうし、実際に抗議運動に身を投じている市民はアメリカにデモクラシーを取り戻すために戦っている気でいるだろうから、そういうことだと事態を捉えておく方が無難なのだが、その一方でAI革命の方はビジネスでやっていることだから、しかもトランプ政権の民衆に対する強権的な姿勢が、途上国で顕著に見られる開発独裁体制だと言いたい者もいくらでも出てくるだろうから、その辺に民衆の間でも認識の食い違いが生じていそうなのが、政治と経済の矛盾を物語っていると簡単に言ってしまうのも、何か勘違いのような印象を伴ってしまうかも知れないが、それが今後現状のアメリカ社会が壊れて行く過程で生じている興味深い現象となって顕在化してくるのではないか。


10月28日「法治国家の現実」

 法律だけで国家統治はできないことは、昔からそう言われてきたことかも知れないし、それが政治家の法律違反を黙認する口実となるわけでもないだろうが、ではそういう成り行きの延長上で法律の専門家が蚊帳の外に置かれることになるかというと、そういうわけでもないだろうが、では法律だけは対処できない国家統治の対象として何があるのかと問うならば、問い方が間違っているような気がしないでもないが、大枠としてはやってもいいこととやってはいけないことを法律で定めるとしても、その運用に関しては微細な調整が必要になると解釈するなら、物事のあらゆる面でそういうことが行われていると考えられるかも知れないし、弾力的な運用といっても何を運用するのかも今ひとつはっきりしないところだが、あからさまに法律の抜け穴を探すというわけでもないが、グレーゾーンを設けておいて、それも恣意的にわざとそういう細工をするわけでもないにしても、要するに都合の悪い法律にはしたくないわけで、国家統治にとって都合の良い法律を作りたいだろうが、それは法律を作って運用する側にとって都合の良い法律であって、それが抜け穴だらけで骨抜きな様相を呈していれば、そういうことだと思っておいても構わないが、その一方で統治する側にとっての裁量が最大限に認められているなら、統治する側にとっては願ってもない状況だと言えそうだが、そうなったとしてもうまく行かないことはいくらでもあるのかも知れないし、法律でも強権的な権力の行使によってもどうにもならないのは、自然災害とかそれに起因する疫病の蔓延とか民衆が思い描く勝手な妄想や願望なども制御することはできないし、何よりも強権的な権力の行使によって人口が減少して、それに伴って国力が減退してしまえば、自業自得だと言えるかも知れないし、それを実際にやったのも歴史上何度も繰り返された強権的な独裁体制による戦争だと言えそうだが、そんな経緯が多少なりとも教訓として現状の世界に作用しているなら、それが政治情勢に反映されているから、昔よりは戦争が起こりにくい世界情勢だと言えるかというと、誰もそうは思わないかも知れず、今も世界各地で戦争が行われている現実もありそうで、そんな情勢の中でも性懲りもなく繰り返されている悪行の類いがあるかというと、それを悪行だと自覚せずにやってしまうこととして、結果的には民衆の中にも悪者が大勢含まれていることが明らかになって、ネットのSNSなどを通じて胸糞悪くなるようなデマやヘイトが広まって、しかもそれが放置されているのだから、多くの人々が腹立たしく感じるかも知れないが、そういうことをやっているのが何かの別働隊だとしたら、そういうところに世間が関心を向けている間に、それとは別の方面から混乱のどさくさに紛れて行われていることもありそうで、それがどんな混乱なのかも、混乱などどこでも起こっていないとも言えないが、頭の中が混乱している自覚がないというか、実際にトランプの言動にしても自意識の混乱を隠せないし、わざと意識が錯乱しているように見せかけているわけでもないだろうし、どうせ交渉術だとか強がって見せるにしても、表面上はそうではないと言えるようなおかしなことが起こっているから、何か発言が二転三転しているような印象を受けるわけだが、それが自然に発生する自律調整の類いだとすれば、トランプにしても世情に敏感に反応しながら、自らの言動を調整していると見ておくのが妥当なところだが、そういうところが法律とは違う面で起こっていることだと見なしても構わないかというと、そんなトランプの意向や傾向とは関係のない方面からも様々な作用や影響が及ぼされてくるから、そんな世の中の傾向や流れには逆らわないような言動や行動が期待されていて、それに対してトランプと言えども従わざるを得ないのかというと、全面的に従っているつもりはないだろうが、結果的には今のところはそれなりの均衡が生じていると言えるだろうから、そうなっているからこそそれを批判する側も安心してトランプ政権を批判できるし、それは日本においても安心して批判できる対象となりそうな高市政権が誕生したから、内閣支持率も高いと結論づけても構わないような気がするわけで、実際にもこうだと決めつけて批判している側と相互補完関係にあるといえそうだが、今のところはそうだとしても、いつどんなタイミングで混乱が発生して、それをきっかけにしてそんな関係も破綻するかも知れないから、安心して批判している側でもその立場が安泰というわけにも行かなそうで、それが誰にとって都合が良いことなのかも謎というわけでもないが、そんな状態になってしまうと、今さら過去の悪行や違法行為を暴き立てても、それ自体が世間の話題ともならないような状況となるから、それが起因して法治国家の限界が浮かび上がってくるとも思わないだろうが、そういうことの繰り返しによって国家統治が継続して行くと考えるなら、法律とは直接関係のない方面から法治国家が支えられているような奇妙な国家構造が浮かび上がってくるわけでもないのだが、そういう意味では批判が批判として機能するということが、批判されることによって窮地に陥るとかそういうことではないような気がするわけで、批判勢力から安心して批判されることによって政権の支持率が上がるわけだから、その政権の表向きの看板が批判勢力から安心して批判されるようなわかりやすい傾向になっていることが重要なのかも知れず、意識して真似しようとしてトランプ政権の真似をしたわけでもないだろうが、偶然の巡り合わせによってそうなったとも言えないにしても、看板の付け替え作業がタイミング良く遂行されて、しかもそれが安心して批判されるような装いになったわけだから、現状がこうなるのもある程度は予想の範囲内かも知れないが、うまく行き過ぎているというのも、かえって今後の行く末に暗い影を落としているとも、誰もそうは思わないにしても、なぜか強運という成り行きが何に関係してそうなっているのかということが、意外とそれを批判する者たちにはわかっていないだろうし、それ以外の誰もそんなことにまで考えが及ばないのかも知れないが、攻めている場所が違うというも、法治国家が必ずしも法律によって守られた国家ではないということも、そんなことは誰にもわからないだろうが、人が法律を守ったり破ったりすることとは違う方面から法治国家が成り立っているとしたら、ではなぜそれを法治国家だと錯覚するのかもよくわからないにしても、それも表看板として法治国家の看板を掲げておけば、それを真に受けた人々が勘違いしてくれるのと同じようなことではないだろうが、そんな表看板を直接批判の対象としてしまうと、高市政権が軍拡極右政権だとか言い放って安心して批判できるから、ああそういうことなんだとこちらでも安心してしまうわけで、その一方でトランプ政権がベネズエラに軍事侵攻でもすれば、そら見たことかと小躍りして軍拡極右政権だとレッテル貼りができるから、それも安心して批判できるような結果を招くわけだが、それを安心してとわざとらしく逆説的に表現すること自体にも違和感を覚えるかも知れないが、そういうところで紋切り型的な批判とかいう皮肉な言い回しを使いたくないなら、安心できる批判というのは、批判勢力が安心して批判できるような行為や行動をあえてこれ見よがしにやって見せるようなことになりそうだが、自分にとってはそれが西暦二千年前後の十年ぐらいでクリントンを間に挟んでブッシュ親子がやってみせたことになるのだが、あんなことをこれからトランプが繰り返すわけでもないだろうが、あれから二十数年が経ってみて、何だか釈然としない気持ちになっているのかも知れない。


10月27日「それとこれの違い」

 それはそれこれはこれといったところで、何がそれで何がこれなのか、それもこれもわからない限りで、何を述べているわけでもないことになってしまいそうだが、実際にわかっていないのかも知れず、わかっていないといったところで、わかっていることもわかっていないこともあるだろうから、何がわかっていて何がわかっていないのかを示さなければ話にならないが、例えばれいわの山本太郎と参政党の神谷宗幣が同じことをやっているように見えてしまうなら、それは目の錯覚かも知れないが、似ているようでいてちょっと違うのか、それともだいぶ違うのかも、だいぶ違うなら同じようには見えないはずだが、人の感情に訴えかける術を心得ていて、それを最大限に利用しているから、知性のない人はすぐに彼らの話術とひたむきな熱弁に引っかかってしまうと述べたくなってしまうが、両者を比較してより悪質なのは神谷宗幣の方だと言いたくなってしまうとしても、根は同じなのだから、その由来や根源を明らかにしたくなってしまうが、そうしたくなってしまうということ自体が、何かの罠にハマっている証拠かも知れないから、言説がそういう方面へ向かってしまってはまずいような気がしてしまうのだが、気が引けるということが罪悪感や後ろめたさを覚えることと同義なのかどうかも、そう考えるとしっくりくるような事態なのかどうかも、何となくそうではないようなことなのかも知れず、その辺がよくわからないのだが、目眩しと言ってしまうと政治全般がそうではないのかと疑ってしまい、人々を考えさせないようにするために、安易な答えをいくらでも目の前に並べてみせるのが政治の役割なのではないかという一応の回答が思い浮かぶのだが、それがどんな問いに対する回答なのかもよくわからないから、ひとまず保留にしておくしかないが、そういう傾向が顕著に表れている代表格の政治家が山本太郎と神谷宗幣だと見なしても構わないような気がする一方で、人々が安易な答えを求めているから、そんな求めに応じてせっせと回答者の役割をこなしているのも山本太郎と神谷宗幣だと考えれば、彼らが一般大衆とグルになって政治参入のハードルを押し下げていると事態を捉えておいても構わないような気もするが、それがとりもなおさず政治の民主化だと言えるかどうかも、そうとも言い切れないような気もする一方で、何かの戦略の一環でそうなっていることを考慮に入れるなら、それが何の戦略なのかと言えば、それをやることによって痛手を被っている勢力を壊滅に追い込む戦略だと言えないこともないが、そこでどんな勢力が得をしてどんな勢力が損な立場を強いられているのかと考えれば、自ずから想像がつきそうなものだが、いずれにしても彼らに倣ってわかりやすい答えを求めてしまっては、それが罠にハマることと同義とは思えないにしても、安易な答えを示すことが世間の同調圧力に屈していることになるわけでもないが、何かまずいような気がするわけで、それを気のせいだと軽くいなすわけには行かないとは思うが、何よりも彼らが提示してみせる答えに納得しているわけでもないのだから、そうかといって信用できないとも思えないし、それが世間の傾向や風潮を反映しているなら、一般大衆から支持されているわけで、そういうところは信用できるし、その信用がどういう種類の信用なのかと言っても、詐欺的な信用だと言ってしまうと、普通は信用してはならないのが詐欺なのだから、逆説的な意味で信用できると言った程度のニュアンスなのだが、世の中の傾向を映し出す鏡のような存在だと言ってしまっても構わないかも知れないが、多くの人々が安易な方向へ押し流されているのを見ると怖くなるわけでもなく、それが昔からそうだったとは言えないだろうが、何かが絶え間なく繰り返されているとしたら、大衆市民社会の中で繰り返されているのだろうが、その何かが何なのかというと、単に流行現象といってしまうと単純化し過ぎには違いないのだろうが、その流行の中身が何なのかというと、安易に敵を定めて攻撃するような行為が流行していると言ってしまっても、それも単純化し過ぎだろうが、ならばお前らを煽動している奴らがお前らの敵なんだと言ってしまっても、その証拠はどこにあるんだと返されるかも知れないが、ではお前らをけしかけている奴らをどうすればいいのかと問うなら、お前らに娯楽を提供している奴らだから、お前らもあいつらの仲間なんだと見なすなら、一緒になって政治で遊んでいればいいんじゃないかと事態を好意的に受け止めておけば済むようなことかも知れないし、それを好意的には受け止められないなら、批判的に受け止めるしかないわけでもないが、革命への機運が高まっていると勘違い気味に受け止めておくのが無難なのかも知れず、革命などあり得ないが、それがあり得ないことだと思っておいても構わないが、そういうのが意外と正気を保つ上でも戦略的には有効であるわけでもないが、現状がこうなっているのだから、こうなっている現状をどう受け止めてみても、現状であることには変わりないわけだから、果たしてこんな現状が受け入れられないような現状なのかというと、どうもそうでもないような気がしていて、そうでもないなら素直に受け入れているのかと言えば、それが素直に受け入れているのではなく、疑いの目でそれらの光景を見ているわけで、それらの光景とはどんな光景なのかというと、彼らが熱弁を振るっている光景を疑いの眼差しで見ているわけだが、そしてそこに彼らの聴衆として参加している支持者にも目を向けてみれば、彼らは疑うことを知らないのかと言えば、そうとも言えないが、彼らと共犯関係にあるとも言えない気がして、そうでなければ被害者なのかというと、その辺も何とも言えないが、さらにそれらの現象に対して一貫して批判的な立場を貫いている者たちにも加われない自分は何なのかというと、もちろん単なる傍観者というわけでもなく、こんなことを述べているのだから、一応は批判的な傾向へと傾いているのかも知れないが、それがそうでもないとしたら、彼らと共犯関係だと言えないこともなく、どうしても山本太郎や神谷宗幣のやり方に感心してしまい、そうであるならよくやっていると賞賛しても良さそうだが、彼らの言動によって踊らされている人々もよくやっている部類に入りそうだが、それが表面的な部分で誤解を招いていると穿った見方をするなら、では何が誤解なのかというと、あれを批判していると思い込んでいる者たちの方でも誤解が生じていて、批判の餌を目の前にぶら下げられながら誘導されていると見ているのだが、要するに批判しやすい言動をわざとこれ見よがしに見せられて、素直にそんな擬似餌に食らいついてしまう者たちが、確かに批判の急先鋒を形成しているのだが、それが疑わしいと感じている人たちは、そこから一歩下がって、注意深くそんな光景を観察している最中なのかも知れず、それらの人たちの勘がヤバいと告げているかどうかは定かでないが、それに関しては普段は国会でヤジを飛ばす系議員と見られている立憲の米山議員も、今回はあまりヤジを飛ばさなかったようだが、何となくその辺で勘が働いて、ちょっとヤバいような気がしたのかも知れないし、そういう意味ではこれからも山本太郎や神谷宗幣などのこれ見よがしな囮の役割を担った煽動家が次々と現れるのかも知れないが、果たして彼らが批判を誘発する擬似餌だとしても、では何のための擬似餌なのかということが、それが資本主義市場経済を維持継続させるためには必要不可欠なのかと的外れな疑問をもたらすわけでもないが、擬似餌に食らいついて釣り上げられてしまった先で批判勢力の者たちがどこへと持って行かれてしまうのかも、まさか缶詰工場の類いでもないだろうが、これからそれがわかるような話の展開が待ち受けているかどうかも、現状ではよくわからないわけだ。


10月26日「思潮と風潮の傾向」

 理由はわからないが、今ここで実際に何かの歯車が狂うようなことが起こっているのかというと、現状がそうなのかと問いたいわけではないが、順調に進んでいたことが何かのきっかけからおかしくなってきたとも思えず、それが何らかの原因でうまく行かなくなっているのかというと、それがきっかけでも原因でもなく、最初から歯車が狂うような設計だったとしたら、単純に設計ミスということになるだろうが、わざとそうなるように仕掛けたのかというと、それが原因であるのはもちろんのこと、そんなことを思いついたきっかけが特にあるわけでもないとしたら、いつものように偶然の巡り合わせによってそうなったと考えるのが妥当なところだが、何の前触れもなく急にそうなったと考えても、きっかけも原因も理由もわからなければそうだと思うしかないが、何かひらめいてしまって、しかもそれをやらざるを得なくなってしまうようなことが唐突に起こると、そんなことをやったきっかけというのが、何かひらめいたということになるが、それをやっているうちに何かひらめいたことを忘れてしまったら、そうなってしまった後ではきっかけを思い出せなくなったことになりそうだが、なぜか今になってそれが急に思い出されるようなことが起こるかというと、それを急に思い出したからこんなことを述べているとしたら、それに関して何をどう考えたらいいのかよくわからなくなってくるが、そうやって毎度のことのように頭の中がこんがらがっているわけだが、それでもこうしてここまでやってきたのだから、なんだかんだいってもうまくやっている方なのではないかと思わず本音が漏れてくるわけでもなく、述べていることの何が本音なのかも自覚していないようで、何もかもが行き当たりばったりで時流に乗ってここまでやってきたわけではなく、逆に流れに逆らって痛い目に遭ったことも一度や二度ではないと架空の真実を思い出しても、何のことやらさっぱりわからないわけでもなく、足を踏み外して階段から転げ落ちるようにして、その後どうなったのかも思い出せないのだから、その際に頭を打って記憶喪失にでもなったわけでもないのだが、まだ自分が嘘をついているのではないかという疑いが晴れずに、悶々とした日々を過ごしていると嘘をついているのかも知れず、しかし誰が嘘をついているとも知れないのに、なぜそれがわかるのかも釈然としないが、故意に嵐を呼び込もうとしているとも思えないし、そうかといって何かのまじないによって災禍を切り抜けようとしているとも思えないが、いつものルーティーンだと軽くいなして、ゲスな連中に反応しているのも、いつもの顔ぶれだと認識できれば、それもスルーの対象となるしかないが、だから取り立ててそれがおかしいわけでもなく、結果からそんな出来事を振り返れば、そうなっていること自体があらかじめ黒幕的な誰かによって仕組まれたかのように感じられるとしても、それが気のせいというわけでもないにしても、そうなった結果からそんな物語を語る者の都合の良いように構成されているに過ぎず、いったん語られてみれば語るのに都合の悪い部分が省かれているだけで、それに気づいてしまえば恐るるに足らずな事の成り行きなのだろうが、しかも事ここに至ってもなお昔と同じようなうんざりする誹謗中傷攻撃が繰り返されてしまうとしたら、そんなことはもう起こらないとたかを括っていたのが、考えが甘かったと認識を新たにして、急に身構えることになってしまうかというと、どうも今回はそうではないような気がするわけで、繰り返す側は昔と同じように振る舞おうとするのだろうが、昔とは状況も情勢も同じではないし、何よりもこれまでにまかり通ってきたことやそれに呼応して起こったことや行われてきたこと踏まえて今の世の中があるわけだから、それだけでも昔とは違うと考えたくなってしまうのだが、それが油断を生じさせているわけでもないだろうが、ここにきて巻き返しもあったにしても、現状になってみれば、昔の対立軸をそのまま保つわけにも行かないことが、何やら調子を狂わすような成り行きにもなりそうな予感もするから、それだけ彼らがうまく立ち回ってここに辿り着いたとも思えないが、踊らされているのも彼らだけではなく、それに対応して何やらこれ見よがしに仕掛けている側にもつけ入る隙が生じていそうだから、そこを狙って攻撃の矢を放つような機会を捉えているつもりになっている者たちにもつけ入る隙が生じていると指摘しなくても、勝手に向こうから自業自得な悪行に及んで、それが災いして自滅する成り行きなのかも知れないから、そんな成り行きになることを期待してしまうのだが、それもタイミングの問題なのかも知れないし、たまたま現状の成り行きとタイミングが合ったからこうなったと結果から振り返るなら、なるほどうまく奴らをおびき出して一網打尽にする絶好の機会なのかも知れないから、そんな成り行きに呼応して彼らが活動を開始したと考えるなら合点が行くとも思えないが、だからと言ってそれに成功する保証も何も、今のところはそんな兆しも感じられないわけだから、昔と同じ状態になったと勘違いして小躍りしてしまう輩は遠からず自滅する運命だと予想するのもおこがましいが、もちろん身の程知らずなのはどちらかというと、彼らと敵対しているつもりになって身構えている勢力だと言えないこともないが、そんなことは自分には関係のないことであるから、彼らも彼らと対立している勢力も、その存在を無視しておけばそれで構わないのだろうが、語る口実として使えないこともないから、こうして言及しているのかも知れず、それさえも感知しないことだとしたら、それもどうでもいいことになってしまうが、いくらここが絶好のタイミングだとしても、何をやるためのタイミングなのかわかっていないような気がするから、結局は成り行きにまかせて何かに導かれるようにして、結果的にうまく行けばタイミングを捉えて何かをやったことになりそうだが、それがやってみるまではわからないどころか、何をやっているのかさえわからないでは話にならないが、成り行きまかせでやっているのは自分だけではないような気がして、要するに自分も含めて誰もが他人の言うことなど聞いていないような感じで、警告や警鐘を無視してひたすら世間の風潮に囚われているから、時代や社会の傾向や流れに逆らうでもなく、それらのトレンドに順張りで活動している最中だから、それを盲従と表現するとぴったりくるかも知れないが、人々の思考や行動様式が全体としてどのような方向へ向かっているかと問うなら、それを一時の感情に流されていると表現してみても必ずしも的外れでもないが、そうなるようにSNSなどのメディア上で煽られていることは確かだとしても、それを真に受ける人も他人から馬鹿にされていることを思えば、今さら参政党がロシアの諜報機関と結託して、日本を混乱に陥れるようなデマの拡散と煽動に及んでいると危機感をあらわにしてみたところで、とんだ茶番劇だと言えないこともないが、意外とそんなんもありじゃないかと娯楽の題材としては興味をひく成り行きだと見ているわけでもなく、では何なのかというと、どんな勢力も盤石な状態ではなく、苦し紛れによせばいいのに無理な煽り立てを仕掛けてきているものの、そういうトレンドからふるい落とされないようにしっかりと脇を固めてどんな対処をしなければならないかと思案している最中でもなく、社会全体に広がっている物事の考えた方や思潮や風潮の傾向が右か左のどちらかに傾いていると感じるのではなく、絶えず右と左が相互補完関係を形成して人々に対してどちらか一方を選ぶように仕向けてくるわけでもなく、相互に相互を侵食して陥入してきていると考えておけば、そんな幻想に囚われているだけでも正気を保てると勘違いしていても構わないような気はするわけだ。


10月25日「経済の実態」

 最近気になる話題というほどのことでもないのだが、防衛費を増やすことの経済効果というのが、スウェーデンのように軍事産業が国内の主要産業でなければそれほどの効果はないと言えそうだが、確かに日本にも三菱重工や川崎重工やIHIなどの企業があるのだろうが、それらは軍事産業以外の分野でも事業を行なっているだろうから、それだけが全てではないだろうが、それに対して批判的な方面からよく言われることとしては、アメリカから武器や兵器を買わされるから、日本がその分だけ損をするという理屈を持ち出して批判されるわけだろうが、そのアメリカでは防衛費の削減に動いているようで、その一方でアメリカの同盟国には防衛費を増やすように要求してくるわけだから、果たして日本政府がアメリカの武器や兵器を買えという要求に屈して、防衛費を増やさざるを得なくなる成り行きを正当化できるのか、それとも単に防衛費を増やすのではなく、自国の防衛力を強化するには流行りのAIを活用して効率的な防衛システムを構築しなければならないかどうかも、ハード面もさることながら、ソフト面でもそれ相応の改革に着手しなければならないのか、それとも日本の自衛隊はアメリカ軍の下請けに甘んじているから、アメリカ軍の防衛システムに組み込まれている以上、黙ってアメリカ軍の命令に従っておけば良く、そうなっているならそんなことまで気にかける必要もないのかどうかも、その辺の詳しいところはよくわからないが、いずれにしても防衛費がGDP比で2%を達成したところで、それほどの経済効果は期待できないだろうが、それと中国や北朝鮮やロシアなどの軍事的な脅威とは大して関連性もないような気もするのだが、その種の隣国からの軍事的な脅威はアメリカから武器や兵器を買うための口実で、アメリカ政府が武器や兵器を買えと脅しをかけてくるのを、日本政府がどうやってほどほどのところで交渉を収めるかが政治的な手腕の見せどころと言えるかどうかも、勝手にそんなことを想像してみたところで、自分に何ができるわけでもないから、どうでもいいことには違いないが、それが軍事産業に限らず普通に経済が社会の中で回って行くには何が必要なのかと考えてみると、生活に必要な物や情報やサービスが提供される過程で、それらの売買や貸借を通して利益を上げられるなら、結果的に経済が回っていることになりそうだが、その際には産業の分野でも、その分野の中でも、経済活動の対価として得られる利益にも差があって、一般的に利益率の低い産業の分野に携わっていたり、その分野の中でも収入の低い部門で活動していると、相対的に低収入に甘んじることになりそうだが、もちろん利益率が低いなら、企業の規模を大きくすれば良いし、実際に利益率が低いと言われる、卸売業や小売業や建設業や食品製造業などでも、大企業になれば、その正社員であれば、それなりに高い収入を得ているだろうし、また収入の低い部門だと言われる、宿泊業や飲食サービス業や農林水産業の従事者やビル建物清掃員やクリーニング職や紡績・服飾・繊維製品従事者などが低収入だそうだが、もちろん非正規雇用形態なら当然低収入なのかも知れないし、それらの業種でも大企業になれば、その正社員であれば、それなりに高い収入を得ているだろうし、そうでなくても一般的に企業経営者やその幹部社員になれば高収入を得られるだろうから、一概に貧富の格差を問題視するのも、何かそういうところが大ざっぱ過ぎて、あまり経済の実態を正確には捉えていないような気がするわけだが、そうなっているのを政治の力でひっくり返そうとしているわけでもないのだろうが、主張としてはそれをどうにかしたいと主張する勢力もいるだろうし、それが実現不可能な夢物語の類いだとしても、一定数はそんな主張を真に受ける者も出てくるのだろうから、そんな奴を相手にしても無駄で無意味だとは言えないにしても、やるならもっと部分的でちょっとした制度的な改変を目指すことになりそうで、業務の効率化や生産性を向上させるにはどうしたら良いかという問いを掲げて、そうした問題に取り組んでいれば済むようなことになりそうだが、もちろんそれは個々の企業内で取り組むことであって、公的な領域から政治が関与するようなことでもなさそうだが、むしろ政治の理念として労働者を守る側に回ってしまうと、企業が容易に従業員の首を切れないような制度にしてきた経緯もありそうで、それが業務の効率化や生産性を向上させる上で障害となっていると主張するなら、お前の主張は新自由主義かと叩かれそうだが、そういうレベルで議論すること自体が有益なのかどうかも疑念を覚えるし、現状でも納得し難い状況や状態となっているだろうから、そういう面に関わっている者としたらそんな状況や状態を改善するにはどうすればいいかと問いたくなってしまうのだろうが、それに対してこうすればいいと納得できそうな答えを持ち合わせている人もそれなりにいるはずだが、どうも経済の実態がそういう傾向なのではなく、逆に絶えず納得し難く理解不能な領域へと導かれているような気がして、それもことごとくがそうではないにしても、実際に政治的な取り組みに逆らうような事態が起こるから、そういう事態が起こっても、それに逆行するようなことはやらない方がいいのかも知れないし、やろうとしてもうまくは行かないような気もするわけだが、それがどういうことなのかというと、納得が行かないことが経済を動かす原動力となっているというと、また意味不明でよくわからない妄想の世界に意識が突入してしまいそうだが、納得が行かない事態に直面する度に人も企業もそれに対処しようとするから、その対処するための活動が経済活動に結びつくと考えるなら、そう考えればしっくりくるどころか、そんないい加減な答えで構わないのかと馬鹿にされたような気がするかも知れないが、各自に対してお前が直面している事態をどうにかしろいう課題を負わされていて、そんな課題に取り組んでいるうちは生かされていると思っておいても構わないが、果たしてそれが生きるための糧として与えられているようなものなのかどうかも含めて、そこでも神の見えざる手が働いていて、人も企業もとりあえず目先の利益を確保するために動いているのかも知れず、それが結果的に目先の利益を確保できた人や企業が短期的な時間軸の中では活動が継続しているのだろうが、それが長期的にはどうかというと、計画通りに事が運ぶように配慮しなければならず、その際にも突発的な変動に直面したり、絶え間ない雑音に悩まされながらも、堪え切れなくなれば、微調整や、それで済まなければ大幅な変更を強いられるのだろうが、それがそうなった結果から過去の経緯を振り返れば、そこから何らかの理屈や道理や論理や理論が導き出されるにしても、それと同時に行き当たりばったりでその場の即興に頼っていた面を忘れてしまうのだが、とりあえず現状で活動が成り立っている人や団体の動向からそんな行動原理のような理屈などが導き出されるのだから、他の人や団体もそれを参考にしながら活動して行くことしかできないのかも知れないし、それに加えて偶然が作用して、それまでのやり方とは違う何かが導き出される場合もあるだろうが、それを偶然ではなくAIを活用して推論したがる風潮もあるだろうから、現状ではそういう方面での活動も世間的な脚光を浴びていて、それがメディアを経由して世の中に伝わって行く成り行きもあるだろうから、多くの人々もそういう方面へ興味や関心を向けている現状もあるわけだ。


10月24日「価値のあるなしと良し悪しの違い」

 ただ漠然と人はどんな行為や行動に価値を見出すのか、といういい加減な問いに対して、良いか悪いかではなく価値があるかないかと言っても、それ自体が社会の中で直接的に問題となっているわけでもなく、何かわかりやすい対立軸を設定して、何が良くて何が悪いのかをはっきりさせるようなことをやりたがるなら、アメリカのリベラル勢力が全米各地で一斉にトランプ政権がやっていることに対して反対デモをやっている光景を画像や動画で観ても、彼らが具体的にトランプのどんな行為や行動に反対しているのかまでは知るに至らないし、そんなのはネットで検索して調べればわかるようなことかも知れないが、例えば民主党が優勢な州の都市に大統領権限で州兵を動員して威嚇したり、公共事業の予算の差し止めをやったり、そんなふうに色々と妨害行為を行なっているから、それに反対していると推測されるが、その際の合言葉として、アメリカに王は要らない、と叫んでいる光景をメディア経由で目にしても、我が物顔で強引なことをやってまるで王のように振る舞っているトランプの存在自体が要らないと解釈しておくのが無難なところだが、それとは全く関係がないとも言えないが、人の行為や行動に価値を見出すということが、具体的にどういうことなのかが、今ひとつピンとこないのだが、表面的な結果や成果だけではなく、その背景にある動機やプロセスや考え方などに重きを置いて評価することだとAIは告げているが、その中でも動機や意図として、結果的には成功しなかったとしても、その過程において誰かのために尽力したことや、困難に立ち向かった勇気そのものに価値を見出したり、そこに至るプロセスにおける努力として、結果的に大した成果は得られなくても、試行錯誤しながら努力を続けた過程そのものに心を動かされたりすれば、そこに価値を感じたことになるだろうし、また他者への影響として、そこで誰かが何気なくかけた優しい言葉や、さりげない手助けが相手の心を救ったり、周囲の雰囲気を良くすることに価値を見出したり、困難な状況下での選択として、自己の利益を犠牲にしてでも倫理的な判断を下すことに価値を見出したり、そこでなぜ行為や行動に価値を見出すことが重要なのかと言えば、深い人間的な理解を得るには、他者の表面的な言動だけではなく、その背景にあるなぜそうしたのかという動機や価値観を理解するきっかけになり、また相手との信頼関係を構築するには、相手の誠意や努力を認めることによって、より深い信頼関係を築くことができるだけなく、そこで自己肯定感を向上させるには、自分の行為そのものが相手から肯定的に評価されることで、努力した結果が思わしくなくても、努力したそのこと自体を認められるなら、自己に対する肯定感を高めることができるし、自己を取り巻く環境となる社会の有り様が、より良い状態を形成するためにも、倫理観や思いやりといった、個人間のやり取りにおける価値を尊重する文化が醸成されなら、社会そのものがより良い方向へ向かうことが期待できるし、そういう意味でも、人のためになりたいとか人間的に成長したいといった、その人の根底にある誠実さやひたむきな姿勢を評価することが重要で、努力、忍耐、学びの姿勢といった、結果ではなく目に見えない成長を重視すべきで、そういう行動がもたらすポジティブな波及効果や、相手との信頼関係の構築に貢献した点を評価すべきで、その際に起こる葛藤やプレッシャーの中で、その人が何を優先してどのような信念に基づいて行動したかを評価すべきだそうだが、果たしてそういうことの延長上でトランプや高市やこれ見よがしに登用された女性閣僚や自民党の裏金議員なんかを評価できるかというと、できないこともないだろうが、その種の文章構成力がうまくない自分には無理かも知れないから、その辺は省略して、物事の良し悪しと価値があるのかないのかとの関連で、当然のこととして価値があることをやるのが良いことで価値がないことをやるのが悪いことだと普通はそう言えるし、そうなるはずだが、実際には何かをやった後から判断されて評価されるだろうから、後からならその場の都合に合わせて価値があったりなかったり良かったり悪かったりと、物は言いようでどうとでも言いくるめることができるかも知れないし、そういうことの宣伝として、誰かを肯定的かつ好意的に語る動画を観たり文章を読んだりすると、何か違和感を覚えるよりも無理があるような気がするなら、その人の否定的な面を知識として持ち合わせているからそんな気がすると考えるなら、それが政治家であって、なおかつ支持率が高いと、支持している人々はその人の否定的な面に関する知識が不足しているのではないかと思ってしまうのだが、それもあるとしても、どうもそうではなくて、結構その人を批判している勢力が嫌いだという感情的なバイアスも働いているだろうし、批判の仕方にも違和感や嫌悪感などを覚えるようなら、その人と同類の人たちがその人を支持していると共に、その人への支持率が高いなら、それだけその人と同類の人が世の中には多いと考えれば何となくしっくりくるような気がするのだが、それも違うような気がするなら、宣伝を真に受ける人が騙されやすいと単純化したくなるのだが、中にはそういう人もいるだろうが、支持されている人と支持している人の違いが何かと言えば、支持されている政治家の類いはメディアを通じて様々な批判や場合によっては非難や糾弾にさらされるだろうが、その政治家を支持している人たちまで批判や非難や糾弾の対象とはならないだろうし、政治家を支持している人たちが大して痛手を被らずにその政治家を支持し続けられるなら、もちろんその政治家がスキャンダルや失政などをきっかけにして失脚したり、政治生命を絶たれるようなことが起こっても、その政治家と似たような傾向の人がその政治家の後継者として新たに台頭してくれば、今度はその政治家を支持すればいいことになるわけで、しかもその政治家と似たような傾向というのも、メディアによる安易な決めつけやレッテル貼りによって、絶えず単純化されて伝えられるから、そういう政治的な傾向に対する民衆の理解が深まらないし、それに関してはここ二、三日でも、高市や高市が首相になるのを手助けした維新に対して、それを批判する側からは盛んに、新自由主義だ新自由主義だ、と馬鹿の一つ覚えようにして単純化とレッテル貼りが繰り返されているわけだが、それが批判を無効化する煙幕であることを理解していないのだから、馬鹿は馬鹿なんだなと呆れ返るわけでもないが、批判する側が自滅を繰り返しているというのも、今に始まったわけでもないだろうが、極右で新自由主義だから駄目なんだと簡単に決めつけられるようなことなのかと疑念を覚えるわけでもないにしても、そうだとしてもそれで何か気の利いたことを述べているつもりにはなれないし、その場の状況や情勢や経緯や事情などが複雑に絡み合いながら現状がもたらされていると考えるなら、それが極右と言われようと新自由主義と決めつけられようと、それ以外の要素や要因も絡んでくるからそうなったと言えるにしても、それに関して何か述べるとなると、簡単に決めつけたりレッテル貼りすればすぐにもっともらしいことを述べられるかどうかも、その人の言語能力のレベルにもよるだろうが、それにしてもそういう述べ方では、その場の状況や情勢や経緯や事情などを無視して、大前提として〇〇は駄目なんだとアプリオリに言えるということが、のっけから〇〇は駄目なんだという前提に基づいて、高市は〇〇だからヤバいんだ、維新は〇〇だからヤバいんだと決めつけて議論を進めるようなやり方が、何となく多くの一般人から違和感や嫌悪感を抱かれる原因となっているような気もするわけだ。


10月23日「歴史の転換点」

 そろそろ何か大きな出来事が起こりそうな予感がするが、その大きな出来事というのが戦争なのか恐慌なのかも、どちらであっても構わないが、どちらでもなければ大きな出来事など起こらなかったことになるかというと、それも今のところはわからないが、何も起こらないなら平穏無事で結構なことだが、何か大きな出来事が起こるのを期待するというのも、その意図がよくわからないというと嘘になってしまうが、そんなのは気のせいだと思っておけば良さそうで、世の中がすでに末期的な状態だと感じられても、何の根拠も証拠もなさそうで、現状の何が末期なのかもよくわからないわけで、言うだけならいくらでも言えるわけでもなく、言わなくてもいいことまで言えてしまうわけでもないが、政治と経済の現状として考えられるのが、どうもグローバリズムの後退が鮮明化しつつある最中なのかどうかもはっきりせず、各国の政府がそうなるのを何とかして阻止しているわけでもないだろうが、その取り組みがうまく行っていないのは毎度のことで、うまく行っていないから政治的な混乱がもたらされていると捉えるのも、逆に政治的な混乱に乗じて政治が行われているわけだから、政治家にとっては世の中が混乱していないと困ると考えるのも、自家撞着のような成り行きなのかも知れないから、政治的な混乱そのものが政治だと言えなくもなく、情勢が平穏無事に収まらないように絶えず引っ掻き回していると考えておくのが妥当なようだが、それは産業の技術革新にも言えそうで、あらゆるコストを削減して利益を上げようとしていると一面的に捉えるのも、少し違うかも知れないが、利益をさらなる技術革新を目指す取り組みへの投資に充てているのだろうから、何かそれが限りのない無限循環へと至る過程を想像させて、そう考えれば世の中の現状が末期的な状態でも何でもなく、まだこれが始まりの段階に過ぎないような気がしてしまうのだが、それに伴って日本政府も今後高市政権として産業の技術革新の波に乗り遅れないように、先端産業への投資と、労働者の雇用形態などの面で制度的な見直しに着手するつもりなのかも知れないが、たぶんそんなことしかやりようがないからやろうとするのだろうが、やってみれば結果がついてくるだろうから、それがどんな結果をもたらすかも、思惑通りに行くわけがないと予想してみても、予想するだけ無駄で、予想するまでもないことになりそうだが、しかもそれに加えて、バラ色の未来へと至るにはそれ相応の負担と犠牲が伴うような成り行きを経る必要がありそうで、今がちょうどそのための試練の時を迎えているような気もしないではないが、世界中が中国製品の過剰輸出の脅威に対処しているわけではなくても、かつてのヒトラーのドイツよりも今のプーチンのロシアよりも習近平の中国の方が強力なのは誰もが認めざるを得ないところだから、アメリカのトランプでさえも万策尽きて徐々に後退局面となっている感を否めないが、先に仕掛けた側が負けるのも、全てがそうだとも言えないにしても、今年が何らかの歴史の転換点になると考えるのも大げさすぎるが、これまでの経緯から言えそうなことは、トランプ政権が逆説的に世界の中で最も政治と経済のグローバル化に貢献していると考えてしまうのも、少し逆張り的な思考が過ぎるかも知れないが、トランプとしては新世界秩序とやらを打ち立てたいと思っているのかどうかも、それもよくわからないのだが、仕掛ければ仕掛けるほどグローバル化の蟻地獄にハマってしまうわけでもないが、アメリカと中国とで貿易戦争を繰り広げていれば、双方共に少なからず痛手を被るだろうから、たとえ共倒れにならなくても、それだけ政治と経済のグローバル化が進展すると考えておけば良いかどうかも、まだ先が長いとしたら、これから何度も面倒でややこしい紆余曲折が待ち構えているかも知れないから、当分の間は静観するしかないだろうが、どうせ高市が来日するトランプに対しておもてなしのご機嫌とりをやるだろうし、それがどうしたわけでもないが、たぶんアメリカが最後の覇権国で、今後国家も政府も衰退して形骸化の一途を辿ると予想してみても、そんな予想の結果がすぐに出るとも限らないし、あと何百年後にそうなったとしても、その頃にはこの時点での予想など忘れられているだろうから、予想自体も意味のないことだが、今後数百年のことなんて今を生きている人々には関係のないことであって、生きている数十年の間に歴史的な転換点となるようなことが起こってほしいとも思わないだろうが、仮にそんなことが起こってもその時代に生きている人々は気づかないだろうし、現にここ最近でもAI革命がどうたらこうたら巷では言われているとしても、どうせデータセンターへの過剰投資によって、その大半が大して稼動せずに無駄に終わる程度の認識しか持ち合わせていないだろうから、現状では何がどうなるとも思っていないが、すでにそう思っている時点で歴史的な転換点を通り過ぎている最中であるのに、鈍感だからそれに気づいていないのかも知れないが、世の中の大半の人々がそれに気づかないままやり過ごしてしまうから、それが歴史的な大転換をもたらすと言えるかどうかも、そうなれば後世の歴史家がそんなことを言うかも知れないが、実際にそういうことが起こらないように、メディアと民衆が共謀して、そうなりそうな芽を事前に摘み取っている最中なのかも知れず、それ関しては世間でバッシングの対象となっている物事があれば、それが後に歴史的な大転換をもたらす可能性を秘めた萌芽かも知れないし、そういう意味では民衆やメディアが拒否反応を起こすような物事がそれだと言えそうな気もするのだが、それも実際にそうなってからも気づかれない場合もありそうだから、一概にそうだとも言えないだろうが、何かそういう事例が現状の世の中でもあるのかというと、これといって思い浮かぶわけでもないが、最近はなりをひそめたが、イーロン・マスクの政治的な発言が、メディアやメディアの報道を真に受けた民衆からだいぶバッシングの対象となっていたようだが、果たしてあれが歴史的な大転換の前兆だったのか、あるいはもうすでに歴史的な大転換が起こっていたのに大半の人々が気づいていないのか、さらにはそんなことも全く起こらなかったのかどうかも、果たして数年後にそれが明らかになるかどうかも現状ではよくわからないが、そう言えばアップルのスマホが出た時点でも、あの程度のことでも歴史的な大転換だと言えるかどうかも、アップル信者でなければ、大半の人々はそうは思わないだろうが、大転換でなければ中転換とか小転換とかも安易に想定されるわけでもないが、これからもそんなことの延長上で似たようなことが結構頻発するのかも知れないが、まさか高市が首相になったぐらいで歴史的な大転換が起こったと言い出す者がいたら、周囲から失笑を買うかも知れないし、あまり事を大げさに捉えるのも良くないような気がするものの、歴史的な転換といっても程度に差があるらしいことは、おぼろげながら同意しておいた方が良さそうであるにしても、何かこれと言って同時代的に気づくことがあれば、それが大抵はメディアによって気づかされることなるとしたら、すでにわかっていたことに改めて気づいたような成り行きに意識が囚われて、そうなっている限りで共感するように促されているとしたら、メディアによる誘導に屈しているような嫌な感じがするのだが、無理にそんなことに気づかなくても構わないような立場や境遇にあるとあきらめておいた方が良さそうな時代状況なのかも知れないし、というかそんな立場や境遇になれる人も限られてくるのかも知れない。


10月22日「分不相応な会見」

 どこかの政党の会見を聞いていて、こいつら完全に間違っていると感じたとしても、そう感じた自分の方が間違っているかも知れないから、あまり確実に正しいことは言えないのだが、何が間違っているのかと言えば、一面的で部分的な範囲内では正しいと思われることを全面的で全体的に正しいと思っているように見えてしまうところが間違っているように感じられて、そんなことを述べても意味がわからないが、党利党略だと思われかねないことを思いっきり述べていることが、他の党に対する批判がそのままその党にも当てはまるのではないかと思われるところも、戦略的にも誤っているようにも感じられて、そういうところがお粗末とは言えないにしても、配慮を欠いた発言にも感じられて、そういう意味でもこいつら完全に間違っていると感じられたわけだが、もちろん批判対象となっている別の党の方が誰が見ても完全に間違っているのだから、正しい主張をしているつもりなのだろうし、その党の支持者向けの主張としては正しいことを述べているだろうから、それで構わないようなことなのだろうが、そういう一面的で部分的に正しい主張を掲げていると、限られた支持にとどまるのではないかと予感させるような主張である一方で、実際にもそれで構わないような低い支持率しか得られていないわけだから、さもありなんと思われることでしかないのだが、それに対して他党の幹部級の議員が述べている内容の方がその場の情勢の中では妥当な範囲内に収まっているように思われて、なるほど大人の対応ができているなと感心させられたわけでもないが、こういうところではこういうことを述べておけば無難だと思われるレベルで、好感が持てる発言内容に終始していると感じられたのだが、それが正しいとか間違っているとかではなく、その場その時の状況や情勢に対応した発言ができるかできないかで、発言の中身が云々ではないところで、その妥当性や無難さが好感を得られて感心させられるようなことになると、肝心の主義主張などはどうでもいいことなのかと疑念を覚えるわけでもないのだが、それ以前に枝葉末節だと思われる部分で無用な力の入れようが目立ってしまうから、こいつら勘違い集団だと見なしたくなってしまうわけで、言っている内容とその場の状況や情勢がもたらす立場や境遇との間にずれが生じていることに気づいていないから、場違いな内容を平気で述べているように見えてしまうのかも知れず、もっと分相応な態度を示さないと夜郎自大なことを言っている典型例のように感じられて、そういう意味では舐められているのかも知れないが、それがいつもの調子なのだから、そろそろ支持者にも見限られ始めている印象も感じられるわけだが、そんなことはお構いなしに少数派として放って置かれるのかも知れず、一時的なプチブームが過ぎ去ってしまえばそうなるしかなく、過去にもそんな政党はいくらでもあったのだろうから、それらの中の一つとして知っている程度の存在になってしまえば、現状でもすでに過去の存在となったわけではなくても、すでにそうなりかかっているのかも知れないし、今後完全にそうなってしまってもそれでも構わないと思われるかどうかも、現状でも何とも言えないだろうが、そんなことを思っているのも自分だけかも知れないから、ただの勘違いな予感に過ぎないが、彼らが何を勘違いしているのかと言えば、法的あるいは制度的に言えることと、慣習的に言えることの区別がついていないとしたら、そんなのは誰でもそれを混同しているわけだから、彼らだけが悪いわけではなく、しかも区別などつかない場合も多そうで、そういうところでも何とも言えないのだが、あまり単純化したくはないが、例えば国家的なレベルで国の人口をどうするべきかという問題と、個人レベルでの人権や人道的な配慮を優先すべきという主張との間で、どうやっても折り合いをつけられない面も生じてくるだろうし、そういうところで国家的なレベルで女性に対して産めよ増せよと出産を奨励するようなことを平気で主張するなら、個人の人権や人道的な配慮を欠いた発言になってしまうことも、よくある保守派の政治家の失言として問題視されるケースだろうが、そういうわかりやすい事例ではなく、法的な面で不正行為や違法行為を許さない態度と経済的な面で功利的に利益を求める行為との間で、何かこれと言って納得できる相関関係があるかどうかも、規制を緩めて何でもありな状態にしてしまえば経済が活性化するかというと、そもそもそういう前提そのものがあり得ないが、それも部分的なところで不正行為や違法行為を許さない面では取り締まりを強化するしかないし、それとは別に景気刺激策や経済振興策を実行すれば良いと言えないこともないが、少なくともルールを守らない者は信用できないという法的な前提がどれほどの程度で周知徹底されているかが、経済活動の面でも微妙に影響を及ぼしてくるとしたら、実際に信用のならない奴らが政治的な面で主導権を握ったわけだから、今後の日本経済の見通しは明るくないのではないかと心配になってきてしまうかどうかも、そういう奴らが守れるようにルール変更した方が良いと言えるかどうかも含めて、そんなことが今後の検討課題になるかどうかも、何とも言えないところだが、そこでも部分的にこうだと言えることが別の方面から部分的にこうだと言えることとの間でそれほど整合性を期待できるような内容でなければ、あまり信用できない怪しい内容がそこで言われていると現状を捉えておくしかないが、人は利口になればなるほど、先行きの見通しが立たない中では思い切ったことができなくなる傾向になりそうで、そうなると馬鹿じゃないと改革の担い手にはなり得ないという逆説的な事態も想定されるかも知れないが、では馬鹿な奴を信用できるかというと、自らが利口な部類に入っているという思い上がった自覚があるなら、日頃から馬鹿にしている奴らが何を主張してきても、普通は相手にしないだろうが、だから馬鹿な奴らが利口な奴らを力づくでも強権を振るって黙らせるような政治が行われる一方で、それが大失敗を招くならそれなりにわかりやすいが、日本の場合はそうではないと言えるかどうかも、人によって見解が異なるかも知れないものの、今が何かの岐路に立っていると訳知り顔で言いたくはないのだが、そういうところでは少子高齢化という衰退を招きながらも、微妙なところでうまく立ち回ってかろうじて現状維持にとどめていると現状を捉えてみても、それが意図してそうなっているわけではなく、誰もそれを意図しないところで何かの均衡が保たれているように感じられるのだが、しかも誰もが部分的な方面からしか事態に関与できないから、そこに関与してくる者たちの立場や境遇に応じて、その者にとっての都合の良さそうな幻想や妄想も生じてくるのだが、そうした幻想や妄想に囚われた意見や主張を信用しろと言われても、そんな幻想や妄想には共感できなければ、彼らの主張も信用するわけにはいかないのも当然だろうが、そういうことの延長上で何が考えられるかというと、直接的に人口減少に歯止めをかけるのは無理だとしても、それとは別の方面からそこに住んでいる者たちが暮らしやすい社会を実現するにはどうすればいいかと問いたくなってくる一方で、そこでもそれを直接的に実現するのは無理だとしても、それとは別の方面から、とりあえずは不正行為や違法行為が明らかになったらちゃんとそれが取り締まられないと、そこから社会的な信用は生まれてこないし、そうなって絶えず人々が政治に対して疑念を抱きながら生活していれば、自ずから生きて行く上での積極性が減退するような精神状態となるから、そういう成り行きが経済にも暗い影を落として、世の中に不信感が蔓延すると共に、なるほどそんな傾向が少子高齢化を招いているとは誰も直接には感じないが、それも集団的な無意識のの中でそうなっている可能性もあるかも知れない。


10月21日「空騒ぎの饗宴」

 それがぬか喜びに終わるかどうかも何とも言えないが、一時的にはうまく立ち回っているように見える成り行きの中で、何か不安材料を探し出して懸念を表明することぐらいは紋切り型的な思考の人なら朝飯前だと思われる一方で、そうした懸念が杞憂に終わって、意外と現状ではうまく立ち回った者たちの天下になるのではないかと楽観的な予想に傾いてしまうが、結局そこで何が言いたいのかというと、それを茶番劇だと言い放つ者たちの負け惜しみ的な怨嗟の声が空振りに終わってしまえば一件落着となりそうだが、もちろん本当は一件落着とは程遠い状態となっていて、それを一件落着だと思わせるような成り行きに心身が囚われてしまうと、確かにその渦中にいればそれで構わないような気がしてしまうのだが、そこから油断や隙が生じてしまうと、本当の一段落がついてみると、それがぬか喜びと共に生じていた慢心に他ならないことに気づくかどうかも怪しいところだが、大抵はそんなことにも気づかないままその先へと事態が進展して行くにつれて、その場を丸く収めるために行き当たりばったりでついた見え透いた嘘やごまかしやまやかしの方策が仇となって、何やら将来に禍根を残しそうな兆候が感じられるが、それも長い目で見れば現状に行われていることが一過性の空騒ぎに過ぎなかったことが明らかになる途上にあって、しかもそんなことをやっている当事者にとっては一過性の空騒ぎこそがその渦中で立ち回るべきことの全てとは言わないまでも、彼らの活動そのものが一過性を空騒ぎを起こすために仕掛けているわけだから、彼らにとってはそれで構わないようなことなのかも知れず、だからといって彼らのペースに巻き込まれないように立ち回ろうとしても、周囲からの同調圧力に屈して否応なく巻き込まれてしまうかも知れず、だから不本意ながらも巻き込まれてしまっても無理にそこから抜け出そうとはせずに、そんな渦中で右往左往しているうちに一過性の流行現象のようにして、気がつけばたわいない空騒ぎの宴も過ぎ去っていたりもするだろうが、それがいつまで続くかも、今後の世の中の情勢次第かも知れないにしても、空騒ぎを楽しみたいなら巻き込まれていた方が安心できるだろうし、実際に多くの人々がすでに渦中へ巻き込まれていて、巻き込まれているからこそ空騒ぎを仕掛けている勢力を支持しているわけで、その勢力への支持率の高さが空騒ぎの程度や規模も示していると言えそうだが、それを空騒ぎだと見なすのも、否定的な意味合いを込めてそう見なしていること自体も間違っているとしたら、本当は空騒ぎなどではなく、それ相応の成り行きの途中経過の中でよく見受けられるちょっとしたイベントなのだろうが、そのイベントが何なのかというと、これからそれがわかるかどうかもあまり自信がないのだが、それも空騒ぎが過ぎ去ってから何かのレッテル貼りのようにして〇〇ミクスとかとんちんかんなネーミングで呼ばれるようなことかも知れないし、そんなやり方が物事の本質から逸脱した的外れなやり方であるとしても、それがまかり通ってしまうこと自体も、やっていることの程度の浅さを物語っていることを示している可能性も捨てきれないが、それで構わないような状況かも知れず、まずはそうやって何か的外れなやり方でその場で起こっている事態の一部始終を捉えておけば、後々そこから面倒でややこしい紆余曲折へと至ってしまっても、その時の的外れなやり方が功を奏して、その後からやってくるおかしな成り行きにもそれなりに対処可能なような気がするのだが、今もそんな気がしているのだから、事態を深刻に受け止められずに、成り行き的にもそれで構わないような軽い気持ちで楽観視しているわけだが、その一方で何やら大変なことが起こっていると騒ぎ立てる人もそれなりにいるのだろうが、その騒ぎ立て方も従来通りのワンパターンな騒ぎ立て方だから安心してしまうのもおかしな感覚だが、そうやって騒ぎ立てている人たちが従来通りの騒ぎ立てに終始している限りは、彼らがこれまでやってきた騒ぎ立て方のやり方から逸脱していないのだから、大したことはないと認識できるが、彼らが従来通りの人畜無害な騒ぎ立てから逸脱して、社会を本質的な面から改革するような行動を起こせるかというと、それがどういう行動なのかも現状では皆目見当がつかないにしても、彼らにはできないからこそ従来通りの人畜無害な騒ぎ立てに終始することしかできないと事態を楽観視しておいても構わないのかというと、とりあえず現状では楽観視していて、実際に調子に乗って空騒ぎに興じている勢力の方でも事態を楽観視しているだろうから、そこから油断や隙が生じてこないと、逆につけ入る隙が生じてこないと考えるなら、気を引き締めて事に臨みたいような調子で、彼らが実現したい物事に取り組んで行くだろうが、それも本当にそんな成り行きになるかというと、そんなのはそうなってみないことにはわからないにしても、もうすでにそうなりつつあるわけだから、それが彼らの願望の実現に結びつかどうかも、それなりに結びつきそうな兆候も見受けられるから、それに対して危惧の念を抱いている人もそれらしい発言に及んでいるようだが、それが的外れだとも見当外れだとも思わないが、それについては自分はそうは思わないだけで、自分が思わなくもそうなってしまうかも知れないし、それも従来通りの調子でこれまでに述べてきたことの繰り返しになってしまうと、ああまた同じことを述べていると思われて、そのまま述べている内容がスルーされてしまう結果に陥ってしまうのだろうが、しかしそれ以上に何を述べればいいのかと誰が疑念を抱くわけでもなく、ああいう人ならああいうこと述べて、こういう人ならこういうことを述べるというワンパターンの成り行きに陥ってしまう限りで、それがこれまでの成り行きの延長上で起こっていることだと多くの人々から認識されて、そんなワンパターンにハマってしまうとたとえそれが懸念材料であっても同時に安心材料になってしまうから、そんなことを述べても無駄無駄無駄な言説になってしまいそうだが、実際にそういうことを述べている人がいれば、その場を彩る風景の一部としてそういうことを述べる人がそこに存在していることになり、それがそんな光景と慣れっこになっている人であれば、ああまたいつもの調子でいつもの人が同じようなことを言っているんだなと安心されるだろうが、それが別に悪い傾向だとは思わないだろうし、むしろそんな人がいてくれるからその場の風景に彩りが加えられて、より一層その場で主導権を握っている勢力が引き立つような肯定的な感覚に囚われるかも知れないし、その場ではそれで構わないとしても、別の場ではどうなんだと疑念を覚える人もいるはずもなく、そういう観点からその場の状況を捉えられるわけでもなく、だからどうしたとも言えないような現状になっているとしても、やはりその場ではそれで構わないわけで、そういう兆候がだんだん増してきて、ついにそうなったのだから、今やそれが実現したと見なすしかないのかも知れないが、そんなふうにその場の状況を肯定的に捉えたとしても、蚊帳の外に置かれた者たちがそれが茶番だとか嘲ってみても負け惜しみにしか聞こえないから、あうんの呼吸で罵声を浴びせるのはやめておいた方が良いかも知れないし、ではその代わりに何をやればいいのかと問われるわけでもないが、そうかといって何も問われないわけでもないから、事ここに至ってもまだやるべきことがありそうに思われる限りで、これからもそれを模索して行くしかやりようがないのではないか。


10月20日「比較から生じる錯覚」

 今と昔を比較して何も変わっていないとは思えないが、比較対象として何を思い浮かべているのかもはっきりしないから、ただ漠然とそう思っているだけで、思っているだけなら勝手な妄想の範囲内でそう思っているに過ぎないのだから、変わっていてもいなくてもどちらでも構わないようなことなのかも知れないが、何の今と昔ではなく、単に今と昔といっても、昔からの地続きで今があるなら、変わっていない面も変わっている面もあると想像できるし、想像と現実が違うなら何が違うのかを具体的な事例を挙げて示さないと、何を述べているのかよくわからないことになってしまうだろうが、何かの巡り合わせで今がこうなっているなら、確かにそんな巡り合わせが起こる前と後では、巡り合わせが起こった分だけ状況が少しは変わっているはずだが、それでも何も変わっていない面もあるとしたら、そういう面では今も昔も変わらないと言えそうだが、そもそも何のために今と昔を比較したいのか、その理由も定かでない中では比較する必要すらなさそうで、だから今と昔を比較しても意味がないとは言えないにしても、意味がある部分を今と昔とで比較してみれば良さそうだが、それについては昔よりは今の方が良くなっている面を実感できれば今の状態や状況を肯定できそうだが、逆に今の方が昔よりは悪化している面が目立っていれば、今の状態や状況を否定して昔の方が良かったという老人の郷愁のような感想が出てきそうだが、どちらにしても感覚としてそう感じられる程度で、何かそういう統計的なデータを示してそんな実感を補強するようなことをやるとなると、そういうことをやる意図や思惑を想像して、そんなことをやっている者の狙いが何なのかを明らかにしたくなるわけでもないが、昔が今と比べて良かろうが悪かろうが今を生きていることに変わりないなら、昔の郷愁に浸っている暇などないわけではなく、暇があるから余裕があるから昔の郷愁に浸っているとも言えないとすれば何なのかと疑念を覚える暇もありそうで、またいつものように頭の中がこんがらがっているようだが、頭の中で思い描いている昔の状態や状況が、それを思い描いている者の記憶から構成されている限りで、本当の昔ではないと考えるなら、その者の都合が反映した幻想の昔であって、それと今の状態や状況を比較してみたところで、昔と比べて今が良かったり悪かったりすることを言いたい意図や思惑に応じて、出力結果もおのずから変わってくると結論づけておいても構わないが、それ以前に何と何を比較して言いたいことの対象となる何かの良し悪しを言うこと自体に、比較の妥当性が疑われるような恣意的なバイアスがかかっている可能性もありそうだから、そういう比較を真に受けない方が良さそうに思われて、比較対象となる物事が他にあるとしたら、それをわざと無視して比較するのに都合の良い対象だけを比較している可能性まで想像されてしまうなら、それが意図的で戦略的な比較だと理解しておけば良さそうだが、そんな比較を用いてどちらか一方を選ぶように誘導されているとしたら、果たしてそれに気づくことができるかできないかではなく、それが実際には今と昔の比較に気を取られている間に別の何かを選ぶように仕向けられるシステムだと言っても、そんなシステムがどこにあるのかと問いたくなってしまうわけでもないが、それが世の中の現状についての認識に変更をもたらすとも思えないし、それとは違う方面で何かの枕詞のようにして失われた三十年がどうたらこうたら言いたいのだとしたら、その失われた三十年の前は今と比べて良かったのか悪かったのかと言えば、そういう話を持ち出してくる者の意図として想像されるのが、そういう面に限って当然の状況証拠として昔の方が良かったと言いたいと察してしまうわけだが、それが失われた三十年の前から生きている自分の感覚の中ではそうではなかったと言えないこともないが、それも何かの物語の導入部で人の関心を引きつけるための擬似餌として機能していると推測するなら、言いたいことは失われた三十年がどうたらこうたらではなく、その後のこうすれば日本経済が再生するという胡散臭い政治的な主張になりそうな予感が脳裏をよぎると共に、そんなユーチューブ動画を観るをそこでやめてしまって、そこから先の話の内容を把握しないまま、ここまで述べてきたわけだが、観なくても想像がつくわけでもないが、そういう話には関心がないと逃げておいても構わないわけでもないが、何となくそれで済んでしまうわけで、それで済んでしまうとしたら今後高市政権によって日本経済が再生するのかどうかにも関心がないわけではないとしても、再生するとかしないとかがどうでもいいとは思っていないが、メディア的な論調としたら、何か良い兆しが見受けられるなら再生したことにしておいて、それに呼応して政権の支持率も上がるのだろうから、結果的に日本経済の再生が高市政権によって成し遂げられたことになってしまうなら、そういうことだと受け止めておいても構わないだろうが、それがまやかしの経済再生だとも言えないだろうから、経済の再生とはその程度のことである限りで、それと比較して失われた三十年についてもその程度のことだと受け止めても構わないのかというと、今となってはそれでも構わないし、過去の状況や状態などそれを語る者の意図や思惑に応じていくらでもどうとでも言えるようなことではないかと結論づけるわけにも行かないが、今も昔もどんな経済状況の中でもそれなりにうまく立ち回っている人や企業などいくらでもあるわけだから、そんな連中や企業などを基準にして事態を考えるわけにも行かないが、だからと言って一般的な経済指標を基にして景気の良し悪しを判断してみたところで、ああ言えばこう言う的な言い回しで都合良い面だけ強調されて、それを真に受けるならその通りだと思われてしまうから、それも自分自身の生活実感から得られる印象と違うなら信用できないにしても、自分の実感や印象も自分の経験から得られる狭い範囲内での実感や印象なのだから、それが自分とは立場や境遇の異なる他人の実感や印象とは違うとしてもそれほど違和感を覚えるようなことでもなさそうだが、そういう意味では明日高市が首相に選ばれたところで、気休め的な減税などをやろうとするのだろうから、そういうところに国民の期待があるかのような報道もされるだろうから、また拡張的な積極財政政策が期待されているのかいないのかも、メディアがそう伝えているのと実際に行われる政策との間にはそれ相応の違いもありそうだが、そういうことに国民が関心があるのかないのかについても、それを伝えるメディアの伝え方次第でどうとでも受け取れる範囲内では、何となくそういうことだと思っておいても構わないような気がするわけで、そんなメディア的な伝え方の傾向と共に、それを政治的なまやかしだと言いたい者たちの言い分にもある程度のもっともらしさが伴うにしても、実態としては現状の中では大した割合も影響も少ないのかも知れず、実際に偏向した方面からの情報ばかり得ているとも思っていないが、どうも他人の言動から察するなら、誰もが現状のままでも構わないとは口が裂けても言わないと穿った見方はしたくはないのだが、それも程度の問題で、そんなことを強く意識するような状況ではなさそうで、誰もが危機感を覚えない程度で事態が推移しているなら、割と思いがけないきっかけから危機が到来するかも知れないが、それが本当の危機だと実感できるなら、もうすでに危機などとうの昔に過ぎ去ってしまってからそう感じている証拠となるわけでもないが、そんなことの延長上に現状がメディア的な言説から構成されているなら、今まさに危機的な状況というメディアによって捏造されたフィクションを体験している最中なのかも知れない。


10月19日「ファシストとリベラルの補完関係」

 安易に違和感という言葉は使いたくないが、でもどうしても違和感という言葉を使いたくなるような成り行きになっているようで、何がそうなのかというと、相変わらずそうなるしかないような言動に直面して、ああこの人たちはわかっていないんだなとほっと一安心してしまうような事態の中で現状が推移しつつあるのかも知れず、しかしわかっていないから安心してしまうという成り行きが逆に心配になってきてしまうわけでもなく、こちらでも何がわかっていないのかもわからないのに、わかっていないと決めつけて安心してしまうのだから、どっちもどっちだと思いたくなるわけでもないのだが、わかっていないのではなくわかろうとしていないと事態を捉えておいた方が、より現状を正確に把握したつもりになれるかも知れないが、それでもあからさまに彼らはファシストたちの気持ちをわかっていないと述べてしまうと、ではファシストは誰なんだと問われてしまうから、その辺をあいまいにしておきたい意図がありそうで、誰がファシストなのかもはっきりしない現状だと述べると、完全に嘘をついていることになってしまうから、微妙にファシストを特定しないまま話を進めたくなってしまうのだが、ファシストだからといって否定的な意味でそういうレッテル貼り的な言い回しにしたくはないし、元祖ファシストのムッソリーニもイタリアでは悪くは言われていないようだが、ネタニヤフ的なレベルでのファシスト的な傾向だと誰もがファシストだと悪く感じるのだろうが、高市や玉木のファシストぶりとなると、ファシストを演じている程度のマイルドファシスト的な傾向だから、そんなことを言えば維新などはファシストそのものだろうが、みんな揃ってファシストごっこをやっている感覚なのだから、それがどうしたと言われても、ファシストを批判する山本太郎もファシストじゃないかと言うつもりもないが、公明党のバックには中国ではなく創価学会がついている一方で、立憲民主党のバックには労働組合がついていて、共産党は官僚体制そのものだが、そういう判断基準ではなく、それに対してリベラル的な価値基準を持ち出せばファシストたちが悪いことになってしまうのだが、どうもそういう価値基準を持ち出すとファシストを支持する国民がファシストに騙されていることになってしまって、そうなると世の中の実態を反映しないフィクションとなってしまうので、たぶんそうではないと現状を捉えたいのだが、それを大げさに考えるなら今は第三次世界大戦の真っ只中で、トランプとプーチンと習近平とインドのモディ首相まで含めれば、みんなファシストだと言えるような状況の中で、日本だけファシズムを免れるわけでもなく、確か経済ヤクザと言われるジャンルがあったかも知れないが、それに対して今は経済ファシズムが真っ盛りだと言えるような世界情勢なのかも知れず、またリベラル的な大きな政府では財政破綻に陥ってしまうから、新自由主義的な小さな政府にしたいとも言えないような、明確な対照関係とはならず、昔はファシズムの方でも大きな政府だったはずで、その辺も微妙にわかりづらいのだが、少なくともAIの活用によって政府の業務を効率化するという大義名分はありそうだが、それが必ずしも小さな政府とはならないかも知れないし、昔流行った対立軸はもはや通用しないのかも知れないが、そうかといってリベラル系の政党の政治家の主張には何かが欠けているような気もしないではなく、彼らにとって都合の良いことばかり主張しているのは、ファシストの方でもそうなっているはずだが、誰もがはっきりとわかる両者の間の明確な違いではなく、両者共にそうだと言えるような面に着目しないと、うまく現状を把握できないような気がするのだが、それがどういうことなのかというと、産業技術が進展する方面へと政府による投資も向かって行く一方で、絶えず社会インフラの維持管理にも政府による統治が絡んでくるから、そういう方面で資金が必要となってくるのにしても、政府だけの判断で一方的に予算を増やせるわけでもなく、政府の予算は税収に依存していて、行政サービスの一環としての社会保障関連にも予算が取られるから、産業振興によって税収を確保することになるとしても、国債を発行して政府の債務を増やすのにも、それなりに限界がありそうで、そういうこととリベラル勢力がやっているファシストたちの不正行為や違法行為や強権的な政治弾圧などを批判して糾弾する行為との間に、どんな整合性があるかも、そちらだけの主張を聞いていれば、リベラル勢力が正義の味方でファシストたちが悪の権化というリベラル勢力の都合を反映した構図を信じたくなってしまうのだが、実際に国民からの支持を背景にしてファシストたちが権勢を振るっているわけで、それを一方的にファシズムに騙されていると主張できるかというと、普通に考えて民主的な政治体制そのものがファシズムの温床となっているから、民主的な政治体制にも現状の政府にも欠陥があると考えてしまうと、欠陥こそが利点なんだと逆説的にも言えるようなことだから、その辺も安易にこうだと決めつけるのはただの単純化になってしまいそうだが、単純に民主的な政治体制が経済的に行き詰まれば、ファシズム勢力が台頭してきてしまうから、行き詰まらないような経済にしなければならないと考えるのも、それも単純化の罠にハマっているような気がしてしまい、しかも毎度のことながら、そうではないと思ってしまうのも言説的な脈絡に応じてそうなっているだけで、本当はそれを単純化だとか決めつけずに、そういうことだと結論づけても構わないような気もするが、そんなどちらであっても構わないような世界情勢なのかも知れず、そうだと決めつけたい者にとってはすでに答えが出ているのだから、共産党の志位議長のように、現行の資本主義市場経済とは違う経済へ移行すべきで、そうするに当たって『資本論』の中にヒントが記されていると主張しているのかどうかも、詳しいことはよくわからないが、そうだとしても政治によって経済を制御しようとすれば、トランプが現状でやっている強権的な傾向にならざるを得ないような成り行きになってしまうから、あまりお勧めできないが、もっと客観的な水準で現状の世界情勢を捉えるなら、世の中の経済情勢に応じて政治情勢も変わってくると言えそうで、その逆ではないような気がするわけで、だから目下のところは現状で進行中のAI革命の動向次第で政治情勢も変わってくると考えておくだけでも、あまり大げさな妄想を抱かずに済むような程度の認識にとどまりそうな一方で、かつてのIT革命と同時並行して何が起こっていたのかと言えば、湾岸戦争から世界同時多発テロを経由してアメリカの共和党政権がイラクやアフガニスタンなどで戦争を行なっていたわけで、それは現状のAI革命と同時並行してロシアとウクライナやイスラエルとハマスが戦争を行なっているのと似た状況とも言えないが、これから台湾有事などが起これば、かつての状況とさほど変わらなくなってくるかも知れないし、だから何だと言われても、何かもっともらしい理屈を持ち出して説得力のありそうなことを言えるわけでもないが、世界の中心部では産業技術の革新的な進歩が進展中であるのに対して、その周辺部ではその技術を使って戦禍が広がっていると対照関係を強調するのも、何かもっともらしい印象づけを狙っているような感じになってしまうから、そこでもそうではないと毎度のことのようにそれとは違うことを述べたくなるのだが、どう述べてみても肝心なことを見落としているようにも感じられるから、やはり勝手にそうだと決めつけるわけには行かないような気がするわけだ。


10月18日「避けられない事態」

 なぜそうなるのか詳しいことはわからないが、何となくそれに関してはわかるところもあるような気がしないでもなく、それが何なのかというと、それに起因して身の回りでうんざりするようなことが起こったわけでもないから、直接には自分に関係があるわけでもないが、それでもいったんそれが起こってみれば、それがそうならざるを得なかったと思われるのだから、誰のせいでそうなったわけでもないことであっても、仕方がないとあきらめるしかないようなことなのかというと、そういうのとは違うレベルでそうなってしまったようなことだと考えるなら、確かにここ二、三日でコーヒーと紅茶を飲むのを急にやめてしまったら、カフェインが抜けて気分に高揚感がなくなってしまったような不思議な感覚だが、それも相対的なレベルでどうでもいいことだと達観できるようなことでもないのだが、その前後で些細な気づきにくい違いがあっても、何か内面から滲み出てくるような心理的な改善を期待してわざとそうしているわけでもなく、かえって逆効果なのかも知れないと恐れつつも、悪あがきのようなことをやっているのかも知れず、あまりそれを肯定的に捉えるようなことでもなさそうだが、肯定できなければ否定できるのかというとそうでもなく、肯定も否定もし難いどちらとも言えないような心理状態だと思っておけば良さそうだが、それに伴って自分の意志も意思も意向もはっきりとはまとまらず、そこで自分が何をしたいのか自分でもよくわからないのだが、いつもと違うわけでもない世の中の現状をどう捉えてみても、事態がそうなるように意図的に仕向けている傾向もありそうだが、そういう傾向には乗りたくないような気もしないではないから、あからさまに逆らうでもなく、逆らっていることを悟られないように振る舞うべきでもないが、これ見よがしではなく、気づかれない程度で時流には逆らいたいわけで、それを時流というのもおかしな表現だが、果たしてそれが世の中の風潮なのかというと、そんな気もしないわけだから、一部ではそれに呼応して盛り上がっている程度の現象ではあるはずで、それをそんなことはないと否定したい気は山々だが、本当に否定したいのかというと、そのままでも構わないような気もしてくるから、ではこの後に及んで何がしたいのかというと、何でもないでは済まないことだとしても、あからさまに批判するには抵抗感が伴うようなことになってしまうから、そうではない方面から批判を避けつつも、それを穏便に済ませたいわけで、できればそんなややこしい迂回などせずに、単刀直入にはっきりと良くない部分を指摘できれば苦労はしないのだが、そうなるのを避けたいなら、時事的な話題でも持ち出して、それについてわかったようなわからないようなことを述べていればいいのかも知れないが、それで済むなら話は簡単だが、なぜそれを避けるのか、納得できる理由など何も思いつかないから、やはりそれについて述べなければならないだろうが、それとは何かという問いではなく、人の気分の問題と言えばその通りだと思いたいのだが、そう思いたくても、実際にはそれとは違うことを述べていて、正確には述べているのではなく書き記しているのだろうが、相変わらず考えがまとまらないからそう思っている程度で済ませたいわけだが、今この世界で避けられない事態が起こっているとは思えないし、そんな思いを絶えずはぐらかすような政治的で経済的な操作が施されているとも思えないが、それに関してわかりやすいことを述べるなら、述べている内容が絶えず的外れになってしまい、述べている内容と世の中の実態との間で生じているずれを見過ごすわけには行かないなら、述べている内容と世の中の実態のどちらを真に受ければいいのかというと、両方共に真に受けているから、そのずれを把握できなくなってしまい、述べている内容が実態からかけ離れていることに気づけなくなり、そこからさらに世の中の実態について述べようとするから、述べれば述べるほど、どんどん実態からかけ離れたフィクションに近づいてしまうのだが、そうなるとそんな世の中の実態からかけ離れたフィクションを語っているのは誰なのかという問いに行き着いてしまうが、ではそれを語っている者を名指しできるかというと、事を穏便に済ませたいならそうは行かず、そんな輩について批判的な論調で述べることになりそうだが、それを避けるにはどうしたらいいかという問いに至らないように述べる必要があるかというと、それがややこしくも焦ったくも面倒な迂回を伴うような成り行きにもなりそうで、そうならないようなことを述べる自信がないのだが、たぶん世の中の実態というのが部分的な範囲内にとどまる限りで、その範囲から外れる世の中の実態もあるわけだから、そういう意味では世の中の実態が一つではなく複数の実態がある中で、その部分的な範囲内で述べている実態というのが、それを述べている者が捏造しているフィクションだとは思えないが、そんな実態がないわけではなく、世の中の実態からそれなりの影響を被っているから、そんなフィクションを語っているはずなのだが、そうであるなら世の中の実態からフィクションが生じていることなるから、それがフィクションだとしても、ある程度は世の中の実態を反映していて、だからもっともらしく思われたりリアリティを感じられるのだろうが、フィクションである限りは実態からかかけ離れた要素や要因も語りの中で捏造されている実態もありそうなのだが、それが物事の単純化を伴うようなフィクションであるならわかりやすく、しかも場合によっては人畜無害なフィクションになるだろうが、その単純化された図式というのが、わかりやすいが信じるわけには行かない内容なのかも知れず、それ以前に信じるとか信じないとかいうレベルで述べるようなことでもなさそうで、わかりやすいならそれで構わないような風潮もありそうだから、そんなフィクションを真に受けると、何やらフィクションの中で語られている通りの世の中になっていると誤解して、そんな誤解に起因してわかりやすい偏見や固定観念も生じてくるのだろうが、しかもそれが誤解だとわかっているのに、そこから生じてくる偏見や固定観念をメディアを通じて世に広めようとするから、それが世の中の実態となって多くの人々の意識の中で定着してしまい、そんな現状の中に自分がいると思ってしまうと、それも誤解かも知れないから、そうなっていると思い込んでいる世の中の実態などあまり当てにならないだろうが、それ以前に当てにするとかしないとかの選択肢なども幻想に過ぎないから、本当のところはそのどちらでもあってどちらでもないような世の中の実態なのであり、それ以上の確かさを他人の言説などに求めようとしては行けないのかも知れないから、他人が語る世の中の実態についてのフィクションを本当のことだと信じているふりを装っておいた方が無難なのであって、そこからもっともらしい幻想が導き出されても構わないし、逆にそんな幻想に浸っていた方が気休めにもなりそうだが、気休めどころか不安や恐怖に苛まれるようなら、なるほどと思っておいても差し支えないが、ではそれの何がなるほどなのかと言えば、もっともらしくて嘘っぽいデマや噂話を真に受けることが世間の一般大衆にとっては気晴らしとなるような娯楽の延長上でそうなっていることを考慮に入れるなら、そういう内容を軽はずみに吹聴する政治家の類いに大衆的な人気が出ると思っておいても、それほど世の中の実態からかけ離れた現状認識とはならないだろうし、そんなことの延長上に現状の世の中が構成されているのではないか。


10月17日「批判する口実と支持する理由」

 何か圧力をかけて無理矢理そうなるように持って行こうとしているわけではないとしたら、自然の成り行きでそうなっていると考えるしかないが、さらにそれとは違う方面から、不正なことをやってきたから、また違法な行為がちゃんと罰せられないから、そういう行為をやってきた勢力を支持できない人々が一方にいるのに対して、それとは別というわけでもないが、大雑把に言って功利的な判断から多少の不正行為や違法行為には目を瞑って、利益を得られると判断すれば支持する人々も一方にはいると考えるしかないが、それとこれとを安易に対立関係と捉えるのも粗雑すぎるなら、その人の都合に応じてどちらか一方の勢力を支持するような成り行きになるかというと、そうなった結果からそう見えてしまうということだろうが、それに加えてよくありがちな偏見にとらわれて特定の勢力に対する嫌悪感などが入り混じってくると、果たして本当に功利的な判断からそれらの勢力を支持しているのかどうかも怪しいし、それらの勢力を支持しても大して利益も得られていないのに、それでも支持している場合には、何らかの偏見に囚われているか、あるいはそれに対する知識や知性が不足している場合もありそうだが、それもはっきりそうだと言い切れるようなことではないから、批判する口実として持ち出されてくるのが、政治と金の問題だと単純化されて、それを支持するかしないかの判断材料として、そこだけを切り取って提示してくるから、そういうやり方も疑わしく感じられて、例えば裏金議員が大して罰せられずに公職に復帰するのはおかしいだとか批判しているようだが、たぶんそんな批判など無視されているわけではなく、批判する者がそういう事例ばかりを強調しているわけでもないのだろうが、それとは別の脈絡で語られるようなこともあるだろうから、むしろどちらかというとそちらの方が優先されて語られると、そんなところで過去の不正行為や違法行為が他人事として片付けられる傾向にあるなら、結果的にはそんな批判など無視されているように感じられるのだが、それもそう述べてみるとそう感じられるようなことでしかないから、確かな証拠となって確実にそうなっているわけでもないようにも感じられて、そういうところで何をどう考えればいいのかよくわからなくなるのだが、普通に考えてそれとこれとは別問題として捉えているのだろうが、それが別問題ではなくちゃんと結びついている証拠として挙げられそうなのが、今日もアメリカの地銀2行の不正疑惑に絡んだ融資が明らかになって、それを口実にして株が売られて株価が下がって、それらの地銀とは関係のない企業の株を持っていても、株式市場全体の株価急落に巻き込まれて資産が減って損失を被ったはずで、確かに金融不安が株価急落の主な要因だろうが、地銀の2行が融資の焦付きで損失を計上しただけで、全体の株価が下がるなんて、それも十分な担保を取らずに融資したという不正行為なのだから、それをそれとは関係のない企業の株も大量に売る口実に使うわけだから、そこだけを考慮すれば不条理極まりないだろうが、それと全く同じ理屈とも言えないのだが、自民党の裏金議員が大して罰せられずに平然と幹事長代行に抜擢されたからけしからんとなるのも、それと同じような成り行きだと感じるなら、そう思っておいても構わないはずだが、それでも日本では自民党政権が続いて行くとしたら、それとこれとは別問題だとは言わないが、そんな程度では国民の自民党に対する信頼は揺るがないと言えるかどうかも、今後の選挙結果からわかることなのだろうが、今はわからなくても何となく予想がついているようなことでもあるから、わからないというのが嘘かも知れないと思う一方で、嘘ではないなら何なのかというと、確かな根拠も理由もなくそう思っていることとして、多くの人々が迷信を信じているように思われるのだが、その迷信が何なのかとはっきりとは示されないから、ただ漠然とそう思われることとして、共同幻想のような何かに多くの人々が取り憑かれていて、結果的に自民党政権を批判する者たちが多くの民衆から嫌われているのだろうが、それだけのことに何かもっともらしい理由や原因があるとは思えないし、そういう民衆の意向が何を意味するとも思えないが、それでも何かの限界が間近に見えているような気もするから、それが何なのかと考えても今のところはよくわからないし、自分にとってはわかるはずもないことになってしまうだろうが、それにそれほど関連するわけでもないのだが、何か騙されたような気がすることとしては、他の誰が騙されていると言いたいのではなく、自分がそれらの批判に騙されているのではないかと疑念を抱いてしまうのだが、なぜそれを真に受けないのか不思議に思うこととして、裏金議員の萩生田が自民党の幹事長代行になることがそれほど批判されるようなことなのかと感じられて、そう感じてしまうことについて何かもっともらしい理屈や論理が持ち出されて納得できるようなことではなく、別に納得しなくても構わないし、それが自分にとっては大した問題じゃないし、自民党の支持者でもないし、選挙の際に自民党の立候補者に投票しているわけでもないのだから、何かそういうところで勘違いを犯しているとも思えないのだが、もちろんそれとは無関係な方面でも、融資の焦付きで損失を計上したアメリカの地銀2行の株を持っているわけでもなく、その煽りを食って自分が持っている株が下がったから不快に感じているだけで、しかもそんな金融機関の信用不安がなくても、現状の株価が高すぎると感じる人が多ければ、いずれは何か別の口実をつけて売られる公算が高そうだから、そのきっかけを提供したのが今回はアメリカの地銀2行による不正融資疑惑になったわけで、それが先週から今週にかけてはトランプが中国に向かって吠えたり、公明党が連立から離脱したりと悪材料が続いて株価が下落した一方で、抜けた公明党に代わって議員数が公明党より多い維新が新たな連立のパートナーとして急浮上したから、下がった株がまた急騰したりして、そうなると株を持っている人にとってはこのまま維新と自民が組んで連立政権が続いて行ってほしいだろうから、またそんな人からすれば自民党の過去の裏金疑惑などどうでもよく、自身の持っている株が上がるならどんな材料でも大歓迎かも知れないが、それに対して維新のダーティーな面をこれまで延々と批判し続けてきたジャーナリストや政治家などからしたら、維新と自民が組むなんて最悪の事態だと思うだろうから、実際に来週そんな政権が誕生したらこれまで以上に批判的な姿勢を強めて、何かにつけてどんな些細なことでも批判の口実に利用するだろうから、そういう方面での需要が高ければ商売繁盛となりそうだが、それに対して自分のスタンスがどうなのかと言っても、関係ないと言えば関係のない方面で生きているわけだから、それにかこつけて何か語る口実として役に立つなら、こうして適当にいい加減に語るまでのことになってしまうのだが、しかもそういう成り行きとは同時並行してそれとは違う成り行きをもたらしたいわけで、それが何なのかもよくわからないのも毎度のことだが、何かをつかみかけているようで、それが勘違いかも知れないが、たぶん勘違いではなく、少しだけそういう方面へと導かれているような気がするのだが、もちろんそういう方面がどういう方面なのかも今のところはよくわからないにしても、それでも表面上は政治と経済が絡み合った問題に取り組んでいるつもりにはなっているわけだ。


10月16日「騒動の顛末」

 案の定というか、なるほどと多くの人も感心したわけではないだろうが、大した騒動にはならないこともよくわかったと言えるような結末に近づきつつあるのかも知れないし、その程度で事が収まるならひと安心と言えそうな情勢だから、結局いつもながらの茶番劇に終始するだろうと思っていると、果たしてここから思いがけない大どんでん返しが待ち受けているかどうかも、ほとんどその可能性はゼロに近いだろうが、一応はちょっとだけ波乱を引き起こす想定外の展開も期待しておく程度の心構えで、これから起こるだろう何のことはない退屈な結末に備えておけば事足りる印象だが、今回の騒動に乗じて多数派工作を仕掛けた側としては、結果的にうまく行かなかったことに懲りて、今後はあまり無謀な仕掛けはやらない方がマシだと反省しておけば気が済むようなことかというと、どうせほとぼりが冷めてからまた性懲りもなく機会を捉えて仕掛けようとして、結局うまく行かずに落胆するしかなさそうだが、そうやってこれまでにも何度でも数限りなく落胆し続けてきた経緯もありそうで、だから今回に限らず何度でも機に乗じて仕掛けざるを得ないのかも知れないが、一度あきらめてしまったら、もうその先はないと肝に銘じておけば良いようなことかというと、そうでもないのかも知れず、まだ騒動の途中の段階でこんなことを述べてみてもあまり意味のないことかも知れないが、今回の騒動について何を述べようとしているのかも、こんなことを述べている自分にも今のところはよくわからないし、わざとそれを避けているような意図も感じられなくはないが、今回の騒動に関わっている者たちの固有名を持ち出して、その固有名で呼ばれる人物がどうたらこうたら言ってみても埒が明かないような気もするわけで、だから固有名を持ち出してその人物をおちょくるのも避けてきたような感じなのかも知れないが、産業技術と国家間競争の観点から考えるなら、産業技術を使った国力増強を推進している勢力がいて、政治勢力もそんな勢力に含まれているわけだが、そういう方面ではそうだとしても、個人のレベルでそんな勢力を支持しているのかというと、どうもそういう思惑とは違う思いを抱きながら日々暮らしていて、意図してそんな勢力を積極的に応援しているわけでもなく、そうは言ってもそれらと重なり合う部分が全くないわけでもないし、そういう成り行きをどう捉えたら良いのか判断がつきかねるが、それを口実にして利益を得たい思惑も一方にはあるわけだから、表向きにはそんな勢力を支持している人も世の中にはかなりの割合で存在していると考えれば、世論調査結果などからそれが窺えるが、メディアの傾向からも、どちらかというとそんな勢力には逆らわないように心がけている意向も窺える一方で、それを批判する勢力の主張に賛同できるかというと、賛同できる部分もそれなりにある一方で、疑念を覚える面もそれなりにあるから、全面的に賛同しているわけでもないのだが、ではそれらの批判勢力の何が疑わしいのかといっても、これといってはっきりと言えるようなことでもないとしたら、疑わしいこと自体が気のせいなのかも知れないが、批判勢力もそれらの勢力に含まれているなら、役割分担としての批判とは何なのかというと、社会が分断されているように見せかけたいということになりそうで、それも安易で粗雑な解釈に過ぎないが、例えば産業技術を使った国力増強を推進する勢力が社会を守っているようでいて、実際には社会を破壊していて、富める者と貧しい者とに自滅的な分断をもたらしていると批判できるかというと、そういう主張は聞き飽きたと反発したくなり、そんな成り行きの中で批判するのに都合の良い部分だけサンプリングして提示しているに過ぎないと思われるが、そうであるなら批判対象となっている勢力を産業技術を使った国力増強を推進している勢力と見なすことでさえ、そんな勢力に対して否定的な傾向のレッテル貼りをしているだけなんじゃないかと反論したくなるが、様々な要素や要因などが複合的に絡み合い錯綜している社会の状態の中で、言説の内容や傾向や程度に応じて都合の良いように批判できる部分をサンプリングできると事態を捉えるなら、それらの勢力の中には自己言及的にその勢力自体をを批判する勢力も含まれてくると考えても構わないかというところで、それでは批判すること自体が自家撞着となってしまいそうだが、たぶんそれで構わないようなことなのかも知れず、その場の情勢や状況に応じて勢力内で批判する側と批判される側が目まぐるしく入れ替わっているわけではないにしても、それが固定された役割分担とも言い難いような微妙な程度で混ざり合った状態であるわけでもないが、その勢力にとって都合の悪い部分は絶対に変更不可能であって、例えばそれが選択的夫婦別姓などに関連する激しい拒否反応となって現れるのだが、そういう部分では社会を守る側に立っていると言えそうなのだが、それがわかりやすい不条理だからこそ批判材料として目立ってしまうとしても、その一方でわかりにくい部分では何が行われているのかというと、例えば少子高齢化によって社会そのものが自滅への道を歩んでいると危機感を露わにするのだが、その危機感がどこから生じてくるのかが、現状で進行中の少子高齢化なのかどうかも、普通にそうだと言えるようなことかも知れないが、逆説的に少子高齢化こそが社会を守っていると言えるわけでもないが、今ここにある社会を維持しようとするから、結果的に少子高齢化がもたらされるとは考えないだろうし、自分たちにとって都合の良い社会を防衛しようとすると、かえって社会そのものが先細りになって行ってフェードアウトするような現象を理解できるかというと、多くの人にとっては理解し難いことかも知れず、そうではないなら何なのかというと、社会を一面的に捉えているから、都合の良い面からしか社会を見ていないし、都合の良いところや都合の悪いところばかりが目立ってしまって、そのどちらでもない面を見ていないからこそ、都合の良い面は一方的に自画自賛したい一方で、都合の悪いことに対しては頑なに激しく拒否するような態度が顕在化してくるわけだが、それが彼らの特徴的な傾向であるなら、そんな勢力の中でそういうことをやる役割を担っている者たちには気づいていないことが、何らかの兆候や傾向を伴って実際に社会の中で作用しているのかも知れず、その兆候や傾向を見つけるには、彼らが自画自賛している物事をそれとは別の方面から見る必要があると共に、また彼らが頑なに激しく拒否する物事に関しても、それとは違う方面からそれを見る必要がありそうなのだが、果たしてそんなふうに観察方向を変えるだけでわかるようなことなのかどうかも、実際にもそれを試してみないことにはわからないだろうから、それを実践してみてどうなのかというと、比喩としてこんなことを述べている限りはまだ実践にも至らない程度であって、これからさらに思考を働かせる必要もありそうだが、それ以前の成り行きとして彼らの批判対象がどこから生じてくるのかという謎でもない謎のような問いも思い浮かぶのだが、彼らの活動に伴って批判対象が生じてくるとしたら、活動そのものが批判対象と探す行為と一体化していると言えそうで、その時点ですでに批判しやすい傾向に当てはまるような対象が探し出されてくる限りで、それと同時に他の批判しにくい対象や批判にそぐわない対象などがその選択肢から外れるわけで、しかも選択肢から外れる対象の方が世の中の大部分を占めているとすれば、そんな対象にならない対象の中に彼らが気づいていない世の中の兆候や傾向がありそうにも思われるのだが、それはこんなことを述べている自分も気づいてない兆候や傾向かも知れないから、それについては少なくともここでは述べられないわけだ。


10月15日「ロジックに囚われた思考」

 なぜかその場の手違いで予定していたこととは違ったことをやっているらしいのだが、予定が予想に基づいているから、予想外の事態が起こってしまって、予定していたことができなくなっているのかも知れないが、予想外の事態によってその場でまかり通っていたロジックも信じられなくなっているのかも知れないし、それがちゃんとしたロジックなのかも疑わしいから、ロジックとは言えないのかも知れないが、それでもどんなロジックに基づいてその場で物事を動かしたいのかというと、それをはっきりこうだと示せないならロジックとは言えないし、いったい何がロジックかも説明できなくなってしまうだろうが、繰り返し現れる特徴的な傾向からこれはこういうことだと推測できると、こういうことが起こればこう対処すればうまく行きそうだから、ここではこういうことをやれば良いと言える限りで、こうなればこう対処するというロジックが生じてくるのだろうが、そうであれば過去の経験から一定のロジックが導き出されてくると言えるかというと、単純には言えないが、無理にも単純明快なロジックを示すなら、国民民主は原発推進だから、党内に原発反対派が多い立憲とは連立政権を組めないと言えるだろうし、また改憲派の国民民主と維新に対して立憲には護憲派が多いから連立政権は組めないとも言えるだろうから、そういう観点からしたら、国民民主の玉木が首相になる可能性は低いと言えそうだが、本当にそんなロジックからだけからそうなるかというと、それも何かの手違いからそうではなくなるかも知れないし、現時点でそれを予想するのは困難だが、たぶんこの時点では目立っていないが、それとは別のロジックも働いているだろうし、とりあえず政権交代してさっさとガソリン税の暫定税率を廃止するとか、消費税の軽減措置とかをやってしまってから、後は野となれ山となれというロジックとも言えないようなロジックを働かせられるかというと、そういうことをやれるだけの度胸が玉木にあるかというと、誰がどう見ても軽薄な小心者で口先だけの腰抜け野郎に見えてしまうから、あいつにそんなことはできないと多くの人々が見ているだろうが、それも何かの手違いから思いがけないことが起こって、あれよあれよという間にやってしまったら、玉木の株も上がるだろうが、しかし玉木にとってこれが首相になれる千載一遇のチャンスなのかというと、玉木が現状をどう捉えているのかと言えば、そんなのは当人に聞いてみても腹の中はわからないかも知れないが、人として器が小さいとかいうロジックを持ち出してみても、そんな奴でも首相になれるだろうし、誰が首相になれるかなれないかという比較などとは違った方面から、誰が首相になってもやれるならさっさとやれよと言われそうなことをやってほしいような世の中の空気なのかも知れないし、それができない事情があるのかないのかが今後わかってくるような成り行きなのかも知れず、そういう意味では高市がなっても玉木がなってもどうということはないはずで、どちらが首相になっても大して変わらない日本の現状があるらしいのだが、それが何なのかというと、世の中のあらゆる方面で産業の技術革新の波が押し寄せてきているわけでもないが、その中でも変わらないし変わろうとしない人や集団のこだわりを保持したいような気になっている者が多すぎるわけでもなく、何とかして他人に対して勝手なことはさせないように社会のしきたりの類いを守らせようと躍起になっている者たちも世の中にはいくらでもいるだろうから、そんな奴らがその場で主導権を握って他人や身内の勝手な行動や行為を阻止しようとしていると現状を捉えても良いのか悪いのかもよくわからないが、そんな奴らが粘着質のような執拗な態度で社会の秩序を守っているつもりなのかも知れないし、そんな奴らに従っているように見せかけながらも、隙あらばそいつらから主導権を奪って好き勝手なことをやりたいのだろうが、それが好き勝手といっても、そいつの意識の中ではそいつが主導権を握って好き勝手なことをやっている未来の姿を思い描いているとしても、そこにもロジックが働いていて、そいつがやろうとしていることとそいつが従っているふりをしている奴らが実際にやっていることの間にはそんなに違いはなく、どんな奴が世の中で主導権を握って何かやっていても、やっていることがそれほど変わらなければ、誰がやっても大差ないような結果がもたらされるのかも知れず、だから高市が首相になっても、玉木が首相になっても、やっていることが大差なければ、どちらがやっても大して変わらないじゃんと言えそうなのだが、そういうことが高市や玉木が囚われているロジックから言えるかも知れないが、ではそいつらがどんなロジックに囚われているのかというと、うまく説明できないが、たぶんトランプが囚われているロジックと同じようなもんだと理解したいのだが、高市も玉木もそんな気でいるのかも知れないし、日本では公明党や他の立憲や社民や共産やれいわなどの野党勢力に邪魔されてうまくやれないと思っているのかも知れないが、果たしてそれがアメリカでトランプが民主党を叩き潰そうとしていることとパラレルな関係にあるのかというと、どうも日本ではそれとは少し違うロジックも働いているような気もするのだが、しかもそんなロジックを否定的に見ては行けないような情勢なのかも知れず、それがどんなロジックなのかといっても、やはりロジックとは言えないようなロジックなのだが、たぶんそれが新自由主義的なやり方に直結してくるような成り行きをもたらすのかも知れないし、うまくやれば経済的な困難に打ち勝つには至らないとしても、経済的な困難と同時並行して作用し続けるような補完的な効果をもたらすかも知れないが、それが動作し続ける一方で、政治の方はいつまで経っても旧態然な形態を保ち続けて、結果的に政治の形骸化を印象付けることにもなるだろうが、だからといって国家も政府も行政もいらないわけではなく、役所的な作業を担う機関を形骸化を伴いながらも存続させるような情勢になってくると共に、警察などの治安機関の活動にも経済的な功利主義のロジックが働いてきて、その種の新自由主義的な論理に従うなら、そういうところにもコスト意識が浸透するから、なるべく手間暇をかけないで世の中の治安を維持しようとする傾向になってくると予想したいのだが、それが果たしてロボコップのような機械化された警察官の登場というSF的な近未来を妄想するに至るわけでもなく、そうかといって公務員をドラスティックにリストラして人員を削減して人件費を抑え込むにも至らないとしたら、そこでも形骸化を生じさせて、警察官のふりをする警察官の登場という自家撞着的な傾向に至ってしまうかも知れないが、すでに政治家のふりをする政治家として政治家を演じる役割を担っている高市や玉木などがその代表格なのだから、近未来においては人間のふりをするロボットの登場も間近に迫っていることを考慮するなら、データセンターをフル稼働させて、AIトレーニングやAI推論力をどんどん強化させて、人間のふりをするアバター的な機能を進化させて行けば、果たしてそれが新自由主義が求めるコスト削減に結びつくかどうかも、そんな成り行きがある程度進展してみないことにはわかりそうもないにしても、それもそうならない代わりに誰も想像だにしなかった思いがけない紆余曲折が待ち構えていると妄想してしまうのだが、そういうのも自分の勝手な勘違いでしかないが、アメリカもそうだが、高市や玉木の言動から察するなら、日本でも良い意味で、ある程度は国家的な形骸化を被るような未来が待ち受けているのではないか。


10月14日「公明党の連帯責任」

 最近は結構な頻度で自分の感覚がおかしいと思うこともあるが、否応なくそうなってしまうのだから、それが自分独自の感覚というよりは、メディアからもたらされる情報などに反応してそうなってしまうなら、そんな情報から感覚が影響を受けていることになりそうだが、その行き過ぎを改めるようなきっかけもメディアからもたらされて、その時点から過去を振り返って反省したような気になるのだが、なぜか昨日は共産党の志位議長の『資本論』についての対談を観ようと思ったのに、その場の成り行きで連立を離脱した公明党の代表のインタビューを観るように仕向けられてしまって、それをユーチューブで観たのだが、なるほどうまいこと言うなと公明党の代表の語り口に感心してしまったのと、政治のプロなんだから演説慣れしているだろうし、ああいう説明に終始するのも頷けるが、それに対して何か引っかかるものを感じたわけでもなく、無難で穏当な内容だった一方で、そこから何かセンセーショナルな発言内容を引き出せるわけでもなく、うまいことインタビュアーのツッコミや追及などをいなしたりかわしたりしながら、穏便に事を収めた感じの印象を受けたのだが、それに対してインタビュアーの方は公明党が自民党と連立を組んでいた時期に行われていたことを批判的な調子で取り上げて、公明党の代表に反省を促すような、その非を認めさせたい意向に囚われていたようだが、どうしてもインタビュアーの主張としてはアベノミクスが駄目だった失敗だったという見解らしく、それに伴って連立を組んでいた公明党にも責任があるんじゃないかというような追及の仕方なのだろうが、一概にそうとは言えないような認識の自分からすれば、そういうことを言える程度でそう思われることでしかなく、そういうところでインタビュアーの態度も従来通りの傾向に囚われていると思うしかなかったが、日本政府や自公政権を批判してきた者からすれば、普通に公明党も批判したいわけだから、公明党が連立から外れたところで、公明党良くやったとは言わないだろうから、また公明党を嫌ってきた自民党支持の右派勢力の方でも、公明党が連立から離脱したのだから、これで邪魔者がいなくなったと喜んでいるはずだが、そういう状況情勢的な事情にはそれほど興味も関心も向かない一方で、時代の傾向として良くも悪くもアベノミクスはやらざるを得なかっただろうし、アベノミクスの悪い面だけあげつらって批判する気にはなれないにしても、自公政権がアベノミクスをやらざるを得なくなった経緯とか事情とかも考慮に入れたいのだが、さらにはアベノミクス以前の3年続いた民主党政権下での経済政策も、あれで良かったのか悪かったのかという評価にもあまり興味も関心もないが、リーマンショック後に自公政権が行き詰まってどうにもならなくなったから政権を投げ出して、民主党に3年間やらせている間に東日本大震災が起こって、そんな頃合いを見計らって、まんまと政権に返り咲いたタイミングで、異次元金融緩和という切り札というか、もうこれ以上はやりようのないことをやってしまったわけで、それがリーマンショック後の世界的な経済の立ち直りの時期ともちょうどタイミングが合ってしまったのだから、うまく株価が上がったわけだが、それに対してそんなアベノミクスの負の側面が顕在化したのが、その後のコロナショックに伴った世界規模の金融緩和の反動として生じたインフレ物価高な事態なのだろうから、しかもロシアのウクライナ侵攻も追い打ちをかけて、日本でもアベノミクスの異次元金融緩和をやめる条件が整いつつあるのだろうし、実際にも徐々に金融正常化へと舵を切っている最中なのだろうが、ここから仮に高市が首相になったところで、また異次元金融緩和へと逆戻りさせるわけにも行かないだろうから、そういうところが政治の限界だと見ておいても構わないような気もするが、ではこの時点で政治的にやれることが何なのかというと、直接的には気休め的な物価高対策になりそうだが、その程度のことでも消費税とかをどうするべきかという争点に多くの人々の関心を引きつけようとしているみたいだが、それとさらにガソリン税の暫定税率の廃止とかにも注目させようとしていて、やるならさっさとやれよと言えばそうなるにしても、そういう部分的な税制改正の類い以外にもやるべきことがありそうで、実際に新たに首相が選出されてから色々と国会で議論が行われるか、それ以前に衆議院の解散総選挙をやるかどうかも政局的な焦点となってきそうだが、それらが全て物事の本質からかけ離れた枝葉末節な些事に過ぎないとしても、成り行きとしてはそういう感じで物事が進んで行けば、一応は政治が通常運転の範囲内に収まるのだから、そんなふうに事態が進行して行く限りで誰も何とも思わないような結果に至るわけでもないだろうが、そういうことなんだと思っておけば差し支えないような結果で、そんな中でも連立を離脱した公明党が政局のキャスティングボートを握るようなつもりもなさそうな印象を受けるインタビュー内容だったから、何となく拍子抜けだったのだが、もちろんそうなるのも予想の範囲内であって、こんな腑抜けた奴らに何ができるわけもないと突き放した見方をしておいても構わないが、対する首相候補だと取り沙汰されている国民民主の玉木にしても、何というか悪口を言うのは簡単なのだが、言ったところで、それ以前に似たようなことを言っている奴らがいくらでもいるだろうから、今さら悪口を言っても意味がないような気もするわけだが、もちろんそれに対する高市の悪口なんかも嫌というほどネットで見かけるから、そんなのも枝葉末節などうでもいいことの範疇に入りそうだが、高市にしても玉木にしても、こんなお粗末な低レベルの人材しか日本にはいないのかと馬鹿にするような程度ではなく、自分も含めて日本に暮らしている人々が他の国々の住民と比べて特にひどいとは思えないし、おかしな政治イデオロギーに洗脳されてポピュリストの煽動を真に受けるような人でも構わないのかも知れず、現に高市も玉木もそんな類いの中に入るような人材というか、もちろん彼らは人々を煽動する側なのだろうが、安倍晋三とは違って馬鹿じゃないからそのものではなくそれを演じているように見えてしまうわけだが、当人たちも演じている自覚があるのかないのかは、もしかしたら自覚なく演じているのかも知れないが、彼ら以外にもそれと自覚することなく演じている者たちがネットにはいくらでも掃いて捨てるほどいるだろうから、演じている自覚がないのもそれほどおかしいとは思えないし、例えば共産党に山添拓という国会議員がいるのだが、ユーチューブでその発言内容を聞いてみる限りで何だか高市や玉木とは真逆の役回りを演じているようにも感じられてしまって、それがハッとさせるわけだが、こいつらみんな学業優秀で偏差値の高い大学出身なんじゃないかと思うと共に、そう思うと日本の学校教育の成果とはこういう連中を成功例として世に出すために仕組まれてきたんじゃないかとも思われて、それに対して自分なんかはどちらかというと、安倍晋三のような馬鹿の部類に入るような人材だと思っているから、そんな馬鹿から見ると日本的な尺度での優秀な人材というのが、明治の富国強兵や殖産興業の時代から首尾一貫して社会に輩出され続けてきて、時期的にも戦前戦中戦後に関係なく、うまく社会の中で機能してきたんじゃないかとも、彼らが何の違和感もなく日本社会にフィットしているようにも感じられるから、今後もこんな状況が延々と続いて行くような気もするわけだが、その一方で例えば日本のロボット産業から生み出される製品に関して、その機能や傾向や特徴がこの種の連中と似通っているようにも感じられて、そこでなるほどと納得しても構わないような気がしてしまい、それが自分にはおかしな感覚だと思われるのかも知れない。


10月13日「そうなるのが当然だと思う」

 そうなるのが当たり前というわけでもなく、当たり前だと感じるようなことをやるのがまともな神経の持ち主だとも言えないような気がして、空っぽな無の中心の周りを空疎で空虚な言葉がぐるぐる回っているのは、そこに重力が働いているからではなく、空間が歪んでいるからだとアインシュタインが言ったわけでもないが、そうなっている実態がどうなのかというと、何事もなく平静が装われていて、いつもながらの人々がいつもながらの言葉を用いて対話を試みているに過ぎないが、そこでは言葉が通じないから会話が成り立たないのではなく、同じ種類の言葉を用いているのに相手のペースで勝手に事を進められては、その場の主導権を握れなくなってしまうから、何とかして同意を拒んで議論が平行線に終始するように持ち込もうとしていて、そこで話がすんなりまとまってしまうと困るのだろうが、そんなことは話す前からわかっているから、協議が合意に至る可能性はゼロで、交渉が決裂するのも当たり前な情勢だろうが、たぶんそれがそこから大どんでん返しが起こるための素地が固まったことを示す兆候だと勝手に根拠のない推測をしてみても、そうなるのが当然だと思うのも、外れることが前提の予想に過ぎないが、ではそれを予想しても無駄なのかというと、そうは思えないから勝手に予想したくなるのだろうが、何を予想したいのかはうまく説明できないのだから、何かを適当にいい加減に予想しているみたいだが、ここではそうなってからそうなることを予想していたと後だしじゃんけんのように述べれば良さそうで、だから今は何をどう予想しているのかを明らかにしたくないわけだが、どうもそんな嘘をついてみたところで誰も信じてくれないような気がするから、そうなるのが当然だと思っていればそれで構わないような気がするのだが、それが誤解だと感じるなら、誤解している理由や原因を明らかにしなければならないかというと、それ以前にどこの誰が誤解しているのかというと、共産党の志位議長がマルクスの『資本論』を誤解していると言えるわけでもないのだが、直接そういうことは言えないにしても、ああいう公式的な読み方とは違う『資本論』の読み方が可能なのではないかと昔から言われてきたことも確かかも知れず、そういうことの延長上であまりああいう方面へと深い入りしたくはないが、国家統治の合理性と社会主義の合理性は一致するのだろうが、それが資本主義市場経済の非合理性とは相容れないだろうし、どちらかというと国家統治の非合理性の方が現代では目立っているから、それに反して国家統治の合理性を求める社会主義はお呼びでないことになっていて、もちろん表向きはお呼びでないが、裏側からこっそり社会主義の合理性を国家統治に利用していて、それが社会主義を否定しつつも利用している国家統治のえげつない面だと言えそうだが、もちろん政府のみならず大規模な官僚機構を有する大企業なんかも、表向きには新自由主義の仮面を被っていても、官僚機構内ではちゃっかり中国の共産党のような体制を築いているから、そういうところが言っていることとやっていることが違うじゃないかと言えないこともないが、それも社会主義がどのような統治体制にもフィットする合理的な原理を持ち合わせていることの証拠だと言えるかどうかも、それもちょっと違うような気がしてくるのだが、合理性と非合理性を対立軸で持ち出しても、そうならざるを得ないところでは非合理的なやり方がまかり通っている一方で、都合の良いところだけ合理的なやり方が持ち出されてくると言えなくもなく、何かを説明する時だけやっていることや言っていることの中から合理的に説明可能なところだけ説明するようなことになるから、そういう説明がもっともらしく感じられるだけで、それだけをやっているわけでも言っているわけでもなく、非合理的なやり方をごり押ししている面は取り上げようとしないだけで、本当は非合理的なやり方をごり押ししていることをごまかしたり隠すために、合理的なことをやっている面を強調してそちらの方に興味や関心が向くように仕向けているのだろうが、その逆にそれを批判する時だけ批判対象となる人や勢力が非合理的なことを無理やりごり押ししていると批判するわけで、その辺のあうんの呼吸で、いつものように〇〇に騙されるなと言い放つ山本太郎の煽動に騙されるなと誰が言い放っているわけでもないが、労働者だけが搾取されているわけではないことをマルクスが『資本論』によって明らかにしたと述べてみても、現代では投資家という名の資本家が政府や企業から搾取されているとは言わないまでも、少なくとも機関投資家が個人投資家を食い物にしていることは誰もが認める事実なのだろうから、一方的に労働者が搾取されていると強調するのは欺瞞だと言えるだろうし、誰が安全地帯から世の中を操作できるわけでもないから、官僚機構の内部に巣くっている官僚たちも、いつリストラの対象になるとも限らず、日々ビクついている可能性もなきにしもあらずで、誰が誰を搾取しているとか言い出したらきりがないから、そうなっていることを否定的に受け止めるのではなく、なるべく嫌なことはやらないように心がけるしかないが、心がけても成り行き的に嫌なことをやらざるを得ない立場や境遇に追い込まれてしまうと、どうしてもそうならざるを得ないような成り行きに従うしかないのだが、そういうのを強権的な政治体制や理不尽な資本主義市場経済のせいにしてみても、実際にそうなっている人々にとってはそういうことだと言えるにしても、日本共産党にしてもれいわ新選組にしても、そこには大なり小なり官僚機構が組織されていて、官僚機構を維持運営するための体制ができあがっているわけで、そうした組織運営体制の中で人員の立場や地位や役職が決まってきて、それに伴って人と人の間に上下関係も生まれてくると、当然のことのように上からの命令を下の立場や地位や役職の者が拒めないルールもできあがってくるから、それがそのまま搾取に結びつくわけではないが、しかも理不尽な命令ばかりではなく、合理的でもっともらしく感じられる命令だとしたら、そんな命令には従わなければならないと思うだろうから、そうなるのが当然だと思うような成り行きが生じてくるのだろうが、それは資本主義市場経済の中でまかり通っている売買や貸借のルールにも言えることで、たとえそれが不利な状況での不等価交換だといきり立って反発してみても、逆に自分に有利な状況で物や情報やサービスの交換に成功したところで、いつも有利な状況で交換できるわけでもなく、そういう意味では現状の中で変えられない条件や経緯や事情などがいくらでもある中で、共産党の志位議長やれいわの山本太郎などは、それらの者たちの都合に合わせて条件や経緯や事情などを変えようと思えば努力次第で人為的に変えられると主張しているようにも感じられるのだが、果たしてそうなのかと疑念を覚えるのは簡単だが、実際に高市支持者などはSNSなどを駆使して人為的にネットの世論を高市が有利になるように変えつつあると見ておいても構わないだろうし、実際にそれが功を奏して自民党の総裁選では事前の段階では優勢だった小泉を逆転して敗北に追い込んだわけだから、やってできないことはないが、やる必要があるのかと疑念を覚えるのも簡単だが、それをかつてヒトラーやムッソリーニなどが用いたファシズム的なやり方だと批判できないこともないが、自分の立場としては、やるならやってみれば、としか言えないのかも知れない。


10月12日「そんなの関係ねえ!」

 自民党支持者は総じて何でもありというわけではないはずだが、何でもありな状況になってくると、本当は何でもありではないとしても、平然と功利的な立場や姿勢や態度から、そんなの関係ねえ!という昔流行ったお笑い芸人の決め台詞の如くに、そういう振る舞いや言動がひねり出されてくると言えるかどうかも、左翼やリベラルの主張や論理が無視されていることも確かだから、そんなことを述べたくなってしまうのだが、少なくとも高市への支持を公然と表明している人は、左翼やリベラルからの批判は無視しているだろうから、そういうことなんだと納得してしまうのだが、そういう態度を馬鹿にしているわけではないのだが、ユーモラスというか何というか、何か感心してしまって、根本的なところで左翼やリベラルの主張が間違っているとは言えないが、彼らの主張とはちょっと違うことが、日本も含めて世界中で行われるのをどれほど許容できるかが問われていると感じられるのだが、実際に韓国の歴代大統領やフランスのサルコジ元大統領などは不正行為や違法行為を摘発されて裁判でも有罪判決を受けているが、左翼やリベラルの主張を真に受けるなら日本では全くそうなっていないから、その辺をちゃんとしてほしいということになりそうだが、ただ単に政治家の不正行為や違法行為が発覚したら、その政治家がどのような立場であっても普通に摘発されて、場合によっては検挙してほしいということであれば、それなりに法治国家としての体裁が整うのだが、そんなの関係ねえ!とは思っていないにしても、それだけではないのも確かで、微妙に建前としての人道主義の方も何とかしてほしいとも思っているはずで、それが建前ではないことを証明できるかというと、それがその人の置かれた立場や境遇に応じて、主義主張としてはそうであっても、実践形態としてはそうではないことも証明できそうなのだが、いつものように言っていることとやっていることが違うじゃねえかと批判したいわけで、そうなると言っていることにも屁理屈が含まれてくることになり、それを屁理屈だとは認識できないのが建前としての人道主義になりそうなのだが、それに関しては自分のような新自由主義+小さな政府+グローバリズムなどにかぶれた人間からすれば、それでも構わないと思っているのだが、そういうところを言っていることだけの正しさに基づいて批判されても、実態がそうではないのだから困惑してしまうというか、困惑しているだけで済んでいるならどうということはないというと、言うだけの人の方でも困惑するかも知れず、現状が言うだけでは済まなくなってくれば、だんだん日本の現状も世界標準に近づいてきたと言えるかどうかも、これからの成り行き次第だが、言うだけの人が考えている前提がそもそも間違っているというか錯覚に囚われているというか、それがどんな錯覚なのかというと、全面的ではないにして部分的には正しいことを主張しているという錯覚なのかも知れないが、部分的に正しければそれで構わないとはならないだろうが、現状が部分的に正しいことしか主張できないと考えられて、これから高市が首相にはなれない代わりに玉木がなれば、消費税率を5%に減税したところで、減税する理由としては部分的に正しいのだろうが、そういうことが実現するならそれでも構わないと思うしかなく、インドでも部分的に消費税と似たような種類の税を減税しているはずだが、そういうことをやってみてから、何かしら不都合な面が出てくれば、それに対応するしかないだろうし、不都合な面をどうにかしようとするのが政治活動に結びつくなら、そういう意味では全面的な正しさよりは部分的な正しさの方が政治活動の継続性を保てるかも知れないが、そうやって他から問題点を指摘されるようなことをやっているのがトランプ政権になるかどうかも、それを全面的に間違っていると批判したい者も左翼リベラル方面からも新自由主義方面からもいくらでも出てくるところが、それなりにバランスがとれているとは言えないだろうが、間違ったやり方をごり押ししてでも事態の進展を促していることは確かかも知れず、しかもそういうやり方に対しても問題点をいくらでも指摘できるから、それをいくらでも批判できるから、そういったもっともらしい指摘や正しい批判が行われることによっても事態が進展しているように感じられるわけで、もちろんそれも実態はそうではないと指摘したり批判できるから、そういうもっともらしい指摘や正しい批判が行われることによっても事態が進展しているように感じられるとすれば、それも錯覚なのかも知れないし、それに対してそんな指摘や批判をする側に回って、絶えずもっともらしい指摘や正しい批判をやっている側の者たちは、トランプが何か言う度やる度にそれに対して否定的な見解を述べなければならないわけだから、完全に言っていることがトランプ頼みで後手に回っていて、トランプの術中にハマっていると言えなくもないが、それも見方によっては、そんなの関係ねえ!と無視されるような指摘であり批判なのだろうが、そんなことの延長上で日本で高市が首相になっても玉木がなっても、もっともらしく感じられるような問題点を指摘されたり正しいと思われるような批判にさらされながらも、次々に政策の類いを打ち出せるかどうかは微妙なところだが、どちらが首相になったところで、とりあえずガソリン税の暫定税率の廃止ぐらいはやれそうな雰囲気だが、それ以外にこれといってやれるようなことが思い浮かぶわけでもないが、玉木が首相になったら消費税率を5%に減税するぐらいは、国民の人気取り程度の軽いノリでやってしまうのかも知れないし、軽薄そうなしゃべり口に感じられてしまうのだから、そういうことをやってくれないと面目躍如とは行かないだろうが、そんなことをやるのが正しいか間違っているかではなく、それ以前にそれをやれるかどうかにその人の政治的な手腕が試されているような状況なのかも知れず、トランプのように絶えず何か仕掛けていないと気が済まないような成り行きへと自らを追い込んでいるから、それをごり押しせざるを得ないような状況へと持ち込んでいる限りで、そういう類いの政治活動が成り立っていて、それで良いか悪いかではなく、それを他から批判されたり非難されるような嫌なことをこれ見よがしにやろうとするから、たとえうまく行かなくても、絶えずそんなことを仕掛けているから、レームダック化を今のところは免れているように見えるのだが、まさかそんなトランプを真似しろだとかは、高市や玉木に対しては言えないし、立場が違うからトランプみたいなことはやれそうもないが、玉木が首相になった場合には、立憲民主党の良識派を気取った議員たちがどう立ち回るかも見ものだが、野田や安住がしゃしゃり出てきた段階で、ある程度は妥協や譲歩が利いているのかも知れないが、玉木や国民民主党が批判されそうな傾向に対してはある程度はスルーするのかどうかも、実際に玉木が首相になってみないことにはわかりようがないし、玉木の方でもあまりにも右派系の方面へ媚びるようなら、公明党が自民党と決別するような成り行きも想像されてしまうが、それがまたしても調子に乗って軽いノリで、そんなの関係ねえ!的な態度がとれるかどうかも、何とも言えないところで、それ以前に高市がこの状況で首相になれるかどうかも、今後数週間以内には結果が出るわけで、どちらにしてもうまく多数派工作が実って政権交代ができれば、一応民主主義を標榜する国としてはかっこがつくのではないか。


10月11日「語る口実」

 それが何かの口実であるにしても、ちょっとしたきっかけから相場が崩れるのも毎度のことだとわかっていながら、そのきっかけがそれが実際に起こるまでは相変わらずわかっていなかったようで、何が起こるかも事前にはわかっていないのに、それが事前にはわかっていないのだから、そんなことが起こるまではわかるはずもないのもわかりきったことだが、わかっていないのに語ろうとしているわけでもないが、語ろうとしていることと実際に語ることの間には微妙なずれがあるどころか、それを語ろうとするとなぜか全く関係のない別の内容を語ってしまうのかも知れないし、たぶんその時点では何を語るのか定まっておらず、その場の成り行きにまかせて自分でも思ってもいなかったようなことを語りだすかも知れないから、すでにそれを語っているのにそれに気づいていないというのも嘘かも知れないが、確かなことは何もわかっていないのではなく、確実に言えるようなことでもない限りは、たぶんわかっていないのであり、だから確実に言えるようなことをこれ見よがしに言いたがるのは、それ以外のことがわかっていない証拠だと言えるかどうかも、それも確実に言えるようなことではないから、確実にわかっていることについてだけ語るのではなく、あやふやな印象について語るのも意味不明だが、それが強い印象を伴って示されていれば、嫌でもそれが目立ってしまうから、意識もそんな物事に引きつけられて、それについて語らざるを得なくなるとも思えないのだが、それに対して確実に言えることが何なのかと言うと、それについては興味も関心もなく、魅力を感じないことだと一概に言えるわけでもないから、事実として言えることがあって、それが起こったと言えて、しかもそれを間接的に見聞きしただけではなく直接体験したなら、その体験したことについて語ればいいのだが、それを今ここで語っているつもりなのに、他の何かにはぐらかされて結果的にはうまく語れないのであり、それをひっきりなしに聞こえてくるスマホの通知音のせいにしても、八つ当たりの範囲内でイラついていることでしかないから、実質的にはそうではないわけで、その場の成り行きに沿って事を進めればそれで構わないと思うしかないのだが、たとえそれが誤っていても間違っていても仕方なく、そういう成り行きに沿ってそんなことをやってみたのだから、自分の内発的な自主性や積極性よりも強い力が外部から及ぼされて、そんなことをやるように仕向けられているのかも知れず、そんな力には逆らわない方が良さそうに思われるから、そんな行為や行動に及んでいるらしいのだが、それでもやっているうちにやっていることが疑わしく感じられて、こんなことをやっていても仕方がないような気がすると共に、この時点ではやらざるを得ないのだからやるしかないような気もするわけだから、自分の意思や意志とはそれほど関係がないようなことをやっているのかも知れないし、何かの世界的な傾向に踊らされているのかも知れないが、少し冷静になって考えてみれば、何か危うい賭けの真っ只中に引き込まれているのかも知れず、それがAIバブルと言われても、ITバブルのような結末を予感させるとしても、それがいつ弾けて崩壊するのかも、実際にそうなってみないことにはわかりようがなく、もちろんバブル崩壊の兆しが出ているのだから、それが間近に迫っていると認識しておくのが無難なところだが、すでに引きずり込まれているから今さら退くわけには行かないと思うなら、もう手遅れだとあきらめるしかないが、やがて退く機会が巡ってきて、それを事前に察知して、うまくバブル崩壊に巻き込まれるのを回避できればしめたものだが、本当にそうなるかどうかもその時がやってくるまではわからないと思っているわけではなく、どうせ巻き込まれて痛い目に遭うはずだと確信しているのかも知れず、ITバブル崩壊の時がそうだったように、そこに参加している大半の者が巻き込まれないと、そうはならないのだから、もうすぐやってくるAIバブル崩壊の時もそうなると予感しているのだが、果たしてそんな予感が杞憂に過ぎないのかどうかも、実際にそうなってみないことには何とも言えないが、そうなればなったで、それがそれについて語る口実になるから、語る口実を求めている自分としてはそれでも構わないような気もするのだが、その一方でAI関連株も買っているわけだから、そうなればそれなりに痛手となるはずだが、それが実際にはそういうことではないとしたら何なのかというと、それとは関係のない方面から、そんなことはどうでもいいような成り行きにも巻き込まれようとしているのかも知れず、それが何だかわからないから、得体の知れない不安感に襲われていると現状を捉えてみても、そんな嘘をついてみたところで意味がなく、本当はわかっているくせに、なぜかそれについては語らないのだから、自らの本音や本心がどうなっているのか計りかねるが、AIに関してなら生成AIからAIロボティクスへと事態が進展してみれば、それがITバブルとは違ったその先へとまだまだ続く技術革新だと誰の目にも明らかになるかも知れないが、だからまだ生成AIの段階でそれがバブルだ!バブルだ!と騒いている者たちがいれば、そんな者たちの当てが外れるかも知れないし、AIビジネスを主導するエヌビディアのCEOも生成AIからAIロボティクスへと進化させるためにも、日本のロボット産業に関わっている代表的な企業と提携関係を構築して、AI産業の次なる段階に至るための準備を整えている最中かも知れないが、そういう意味では毎度のことのように、トランプが頃合いを見計らって中国に向かって吠え立てて株価を急落させた今こそが、AI関連株を買う絶好のチャンスだと思って、多くの者たちがAI関連株を買い漁っているようだが、また日本で公明党が自民党との連携関係に見切りをつけて連立から離脱したのも、中国からの指令だと右派勢力がいきり立っている今こそが、日本株でもエヌビディアと提携関係にある企業の株を買う絶好のチャンスだと多くの者たちが思うかも知れないが、果たしてそれがそうなのかどうかも、世界的に流行しているAIバブルに踊らされていることにもなるのだろうが、たぶんそうだとしてもそういう方面へと自分も導かれていることに関しては、何やらそれとは違う方面から考えていることがあるらしく、そんな自分の魂胆を自分自身がわかっていないのかも知れないから、そうなってしまう理由や原因などいくら詮索してみても、何となくそうなっていること以外にはこれといって理由も原因もないような気がするのだが、それもたぶん今後何かのきっかけからわかるようなことになれば、それが以前からあった理由や原因ではなく、後付け的にその場の都合や成り行きに応じて付け加えられるような理由や原因となってしまうと、理由や原因が過去にあったわけではなく未来にあるかのようなよくわからない事態となってしまって、そうなるとそれを求めて現在進行形で行動しているようなことになってきて、果たしてそんなふうに現状の行動理由や原因が未来にあると言えるのかどうかも、ただ単にそれを目的だとか目標だとか言い換えても妥当なのかどうかもよくわからないのだが、少なくとも現状では生成AIはそれなりの確実性を伴って実現しているとしても、AIロボティクスの方はまだ開発段階で、まともに収益化もできていない状態なのだから、それは量子コンピューターにも言えることだが、そんなことに取り組んでいる企業の株を買うこと自体が危うい行為であることも確かなのではないか。


10月10日「循環する危機とこけおどしの効果」

 奇妙な響きのカタカナ言葉として、例えばカタストロフという言葉が検索すると見つかるが、それが何かの大規模な破局を伴った事態だとしても、何が破局なのかといっても、どうも状況はその後の時代に入っているようで、最近はポストコロナとも言われなくなって、それによってもたらされたニューノーマルとは新しい状態だが、そんな言葉の意味を知ったところで特に驚くわけでもなく、何が言いたいのかも問われないようで、実際には何でもないようなことがカタカナ言葉で表現すると、それによって何か効果があるかのような気がするわけでもないとしたら、これといって該当する何かが思い浮かぶわけでもないのだが、そんな言語的な効果ではなく、実際はどうなんだと問いたいわけでもないが、そういうことではないのなら何なのかというと、カタストロフが間近に迫っていると思いたい人が大勢いるわけで、そう思いたいから危機感を煽りたいわけだが、それが昔からそう思われているとしたら、今もそう思っている人が大勢いるのだから、たぶんそう思っている人々にとっては、絶えず危機的な事態が間近に迫っている状況の中で生きているはずなのだが、それにしては現状ではそうは感じられないのだから、そう感じている自分が鈍感なのではないかとその感性が疑われるが、逆にもうすぐ危機を脱する機会が巡ってくるのではないかと期待したいのだから、今が危機的な事態の真っ只中にいるのかというと、そうなっているのに気づいていないのではないかと疑われて、また危機的な事態でもないのに、もしかしたら危機的な事態なのではないかとも疑われる一方で、もうすぐその危機を脱する機会が巡ってくるかも知れないとも思われるのだから、何だかいつものように頭の中がこんがらがっているのだろうが、要するに危機の程度が破局的な事態をもたらさない程度の危機なのかも知れず、それを危機と認識しても構わないのかと問われるなら、その程度の危機も危機のうちに入るのではないかと思いたいわけでもないのだが、なぜか結果がこんな感じなのだから、こんな感じとはどんな感じなのかというと、危機的な事態の真っ只中にいるはずなのに、こうして大して追い込まれた感じがしないような心理状態と共に危機的な事態を通り抜けようとしているのかも知れないと思いながらも、それに気づいていないような気がしないでもないが、では何なのかというと、たぶん今が危機的な事態の真っ只中にいるような気がするのだが、それが気のせいだとも思われるのだから、危機を危機として受け止められないのではないかと危惧しているわけだが、それをどう表現してみても、現状が現状であることには変わりなく、危機が常態化していると逆説的には言えるような状況なのかも知れないが、だからと言って危機的な事態であることには変わりないから、そういう印象を感じとっている人が危機感を煽り立てたいのだろうが、別にそれが空振りに終わるわけでもないとは思うのだが、そんな人々が思っているような破局的な事態がやってくることはないような気がするわけで、そういうところが悩ましいだろうが、それらの人々が危機感を煽る役割に固定されてしまうと、そんな人々は放っておいても構わないような状況となってしまうわけで、実際に現状がそうなっているような気もするわけだが、彼らの言っていることが間違っているわけではないのだが、効果がないと放っておかれるわけで、逆に間違っていることを言ったりやったりしている者たちの実践が効果を上げていると、そちらの方に実質的な利益がもたらされるような状況なのであり、そうなると実際に危機感を煽っている者たちが危機的な事態に陥る一方で、間違ったことを言ったりやったりしている者たちの方は、そんな危機などどこ吹く風のようにして、それらの者たちには無関係な他人事のように振る舞っていても一向に構わない状況となって、それが現状で起こっている実態なのではないかと考えてみるのだが、果たしてそれでいいのかというと、たぶんそれで構わないような事態なのだから、利益を得られるようなことを言ったりやったりしている者たちの方が有利な状況となっているのだろうが、では何によって利益を得ているのかと言えば、もちろん危機感を煽ることでも利益が得られるならそれでも構わないし、そんな者たちからすれば間違ったことを言ったりやったりしていると思われる者たちの方にも利益がもたらされるなら、それでも構わないことになりそうだが、では利益を得られるならどちらでも構わないかというと、利益を得られるか得られないかでそうなっているわけではなく、危機感を煽りたい者たちはそれが正しい行為だと思っているから煽っていると思うなら、たぶんそういう面もあるにはあるのだとしても、ではそれとは違う理由して、例えば危機感を煽れば利益を得られるから危機感を煽っているのかと言えば、そこに功利的な思惑がありそうなのだが、それもたぶんあからさまにそう思っているのではなく、中には危機感を煽っても利益を得られない者もいくらでもいるだろうから、そういう理由を危機感を煽っている全ての者に当てはめるわけには行かないのだろうが、そういう意味では危機感を煽ることとそれが正しいことを述べていることになるのかどうかの間でも微妙なずれがありそうにも思われるのだが、そういうところでも何かこんがらがっているような印象を受けるのだが、それに対して危機を煽っている者たちには危機を未然に防ぐことはできないと言い放ってしまえば身も蓋もないが、実際にコロナ危機でもウクライナ危機でもインフレ危機でもどんな危機でも未然に防ぐことはできなかったと言うべきではないのだが、その一方で例えば間違ったことを言ったりやったりしている代表格として真っ先に挙げられるトランプなんかは、債務を増やす減税を実行しても、輸入製品に高関税をかけると脅して国内に企業誘致を推し進めて、移民の流入を食い止めることによって失業率が高まらないようにして、FRBに対しては利下げをしろと脅しをかけながらも、政府機関の削減もやって、さらにはイスラエルとハマスの紛争を終結させて、ロシアとウクライナとの紛争もウクライナにロシアの石油施設を攻撃させることによってロシアを弱体化させて、ロシアから石油を輸入しているインドにも高関税をかけたり、インドからやってくる技能労働者にも就労ビザの更新料を大幅に上げて打撃を与えて、そんなことをやりながらもアメリカの財政危機を回避できれば、一定の成果を上げたことになりそうだが、どうやらアメリカの政府債務が対GDP比で6%台から5%台へ下がったとベッセント財務長官が自慢げに語っているわけでもないだろうが、トランプ政権の間に3%台に下げることができれば債務危機から脱したことになるだろうから、あと3年で不可能な数値目標ではなさそうにも思われる限りで、意外と達成してしまうような気もするのだが、そんなことが行われている間でも、やれAIバブル崩壊だ、アメリカが財政破綻してドルが紙クズになるだとか危機感が煽られているとすれば、そんな危機感を煽っている者たちもうまく立ち回ったことになるのかも知れず、果たしてそれがトランプとの連携プレーだとは誰も思わないだろうが、当人たちもトランプ政権とは対決姿勢を崩していないつもりになっているとしても、何となくそれが役割分担ではないのかと疑われて、こいつらグルなんじゃないかと疑念を抱いてしまうのだが、そうやってこれまでも数々の危機を通り過ぎてきたような気がするわけで、だから危機感を煽る行為がこけおどし程度の効果しかもたらさないとしても、それで構わないような気もするわけだ。


10月9日「尽力と貢献の程度」

 たぶん社会の中で何らかの制度に従うことも逆らうことも、従うだけでなく逆らうことに対しても制度特有の対処や対応が発動して、それによっても制度を機能させることになるから、そんな制度の機能から逃れるには制度に関わらなければ良さそうだが、こちらが関わろうとしなくても、社会の中で暮らしているだけで否応なく同時並行的に無数の制度に関わってしまうから、社会そのものが複雑に絡み合う無数の制度の集合体だと捉えておくしかなく、その中の特定の制度に従うか逆らうかとか、そんな制度から逃れるにはどうすれば良いかとか、そんな問い自体がナンセンスかも知れないし、逆に制度をうまく活用するにはどうすれば良いかと考えるまでもなく、社会の中で生きて暮らしているだけで、否応なく制度をうまく活用する方法を絶えず模索しながら生きて暮らしていて、社会の中で生きて暮らしていること自体が、制度を利用しながら生きて暮らしていることになるわけだから、そんなことは問われるまでも実際にそうしていることになりそうで、実際に利用可能な制度がいくらでもある中で、何を利用するかが戦略的な取捨選択の対象となってくるようにも思われる一方で、しかもただ単に何を選んで何を選ばないかではなく、選び方や利用の仕方の面でも、自分なりに工夫を凝らさなければならなくなるから、そうなると自分にとって利益をもたらす可能性の高そうな制度を選んだだけでは、実際に利益がもたらされるとは限らず、選んでから実際にそれをうまく利用しないと利益を得られなかったり、場合によっては頃合いを見計らってそんな制度から抜け出さないと、せっかく得られた利益を制度を管理運営する機関や組織から搾取されたり、逆利用される立場にもなりそうだから、制度へののめり込み度合いが深いと、抜けようにも抜けられない事態にも直面してしまい、実際に制度を管理運営する側になって、機関の中で組織の歯車として機能してしまうと、まるで消耗品のように使い捨てられるまでは囚われの身になってしまうかも知れないし、しかもそんな立場や境遇がその人にとって最悪というわけでもなく、中には機関のために組織のために喜んでその身を削って、それらの繁栄や発展に貢献しようとする者も大勢出てくるだろうから、そういうのがウインウインの関係だと勘違いしがちになってしまうだろうが、もちろん当事者にとってはそれが勘違いであるはずもなく、実際に機関や組織のために働く見返りにそれなりに満足できる程度の報酬をもらっている限りで、喜んで機関のために組織のために働いているわけだろうから、それを勘違いだと思うこちらの方が勘違いしていることになってしまい、それもそうなっている時期やタイミングや、その時の状況や情勢や立場や境遇やその程度や傾向に応じて、どちらにも受け取られるようなどちらにも受け取れないようなことかも知れないが、どちらにしてもある時にはその人材が切実に必要とされて、実際に頼りにされる一方で、また別の時には不要であるどころか邪魔になってくる場合もありそうだから、あまりそういうところでこれだと決めつけるような態度や姿勢はとらない方が良さそうで、またそうかといってその場の成り行きに応じて、人によって態度や姿勢をころころ変えてしまうと、日和見主義のように見えてしまうから、その辺のさじ加減も、普通にそういうことではないにしても、何かその場の状況や情勢にフィットするような態度や姿勢が自然と模索されてしまうから、しかもそれもそうではない場合もありそうで、無理にフィットしようとするとかえって逆効果となってしまう場合もありそうだから、一概にはこうだとは言えないことなのかも知れないが、そういうところでも目先の利益か長期的な利益かどちらか一方を重視するようなことでもなく、場合によってはどちらでもあり、しかもどちらでもないような両義的な矛盾した対応をしておいた方が良さそうな成り行きになってしまうと、たぶんわけがわからなくなって困惑してしまうだろうが、そうなってもそれで構わないのかも知れず、そうやってうまく何かをやり過ごしている気になっていれば、それが勘違いだとしても自分的にはそれで構わないようなことになってしまうと、やはりわけがわからず困惑してしまうのだが、それも下手にわかろうとせずに、また強引にこうだと決めつけて、わかったつもりにもならずに、わけがわからないままにしておいた方が良さそうな場合もありそうだから、自意識の中ではうまく立ち回っていたり、そのつもりでも実態としては違うのではないかと疑念を抱きながらも、そんな成り行きに身をまかせてここまで生きてきたような気がするのだが、だからといって世間的に認められるような何かに成功しているわけでもないのだから、どうということはない立場や境遇なのだろうが、それをどう捉えてみても何でもないような存在でしかないわけだから、やはり現状ではうまく立ち回っているつもりになっても、それが勘違いだと疑っていても構わないのかも知れないが、それでも何か他に尽力しなければならない対象があるのかどうかもよくわからないし、他の何に貢献しているとも思えないにしても、他ではなく社会のためになるようなことを述べなければならないと思うわけではなくても、実際に社会の中で生きて暮らしている限りで、否応なくそうならざるを得ない事態に直面しているかというと、それに気づかない方が都合が良さそうに感じているわけでもないが、実際にそうなのかも知れず、そういうところでそれを自覚して何かの使命感に燃えてしまうと、よくありがちな左翼リベラル的な言動を弄して、立憲民主党の枝野や米山議員のような立場になれるならそれでも構わないのだろうが、それも自分的にはそうではないわけで、その辺のところが微妙にずれたことを述べているつもりになっているのかも知れないが、それも勘違いのなせる業でそう思うようなことなのかも知れず、何をどう述べてもそんなことは何でもないこととして片づけられてしまうどころか、そのまま放置されるがままの世の中になっているから、どうでもいいこととしてスルーしておいても構わないのだろうが、それでも自然と功利的な振る舞いに及んでいるとすれば、そういう振る舞いがフィットするような何らかの制度に囚われているのかも知れないが、それが特定の一つの制度ではなく、世の中で複数の制度が同時並行的に機能している中で、それらの制度に応じた振る舞いになっているらしいのだが、だからといってそんな制度を活用して利益を得られている面も少しはあるにしても、逆に制度の方でもそれなりに機能している限りで、そんな制度を機能させている機関や組織の方でも利益を得ているのだろうから、そういう在り方や現状をどう捉えてみたところで、必ずしも功利的な利益追求の面だけから評価できるようなことでもないと考えておかないと、そういう機関や組織の悪い面をあげつらって一方的に批判したり非難するような態度になってしまうから、たぶんそうなってしまうのは避けなければならない立場でも境遇でもないのだが、何か感覚としてそれは違うような気がするわけで、だからその辺の良いか悪いかの判断を保留するようなグレーゾーンを意識しながら述べているつもりなのだが、それが煮え切らない態度だと感じられても、たぶんそれもその通りなのかも知れないから、そういうところはそのまま認めても構わないような心境に至っているのかも知れないが、それも時と場合に応じて変化するような態度や姿勢の中で、またまたそう感じられるような時もある程度でそうなっているのではないか。


10月8日「気分がすぐれない原因」

 最近は何か頭の中がすっきりしないようなことを述べて、微妙に気分が晴れないが、AIに言わせれば、気分が晴れない日々が続いたなら、それは鬱の兆候かも知れないから、その方面の問題を扱う専門機関に相談しましょうと勧められるみたいだが、気分が晴れない原因として挙げられるのが、ストレス・過労・睡眠不足・栄養不足などが原因で起こる身体的な不調である一方で、心理要因としては人間関係の悩みや将来への不安などが挙げられて、それらが複合的かつ複雑に絡み合ってくると鬱病や気分障害といった精神疾患の疑いも生じてきて、それへ対処法としては心身のリズムが乱れがちにならないように規則正しい生活を心がけるとか、リラックスできる時間を設けるとか、気晴らしに軽い運動をするとか、信頼できる誰かに悩みを聞いてもらうとか、症状が軽い場合には色々と気休めのようなやり方があるらしいが、それでも治らず、症状が長引いて日常生活に支障をきたす場合には、専門機関に出向いてカウンセリングでも受けた方がいいんじゃないかと勧められるようだが、その種の専門機関として、精神科や心療内科や地域の保健所や精神保健福祉センターといった機関があるらしいのだが、そういった怪しげな機関が担っている社会的な役割が、何やら社会を維持して行く上で欠かせない経済的な運営コストとなって、人々からちょっとだけ利益を奪っているとも言えなくもなく、ほとんどの人はそんな機関など利用しないだろうし、自分も利用したことはないが、それでも社会の中で生きづらさを覚えるごく少数の人々を助けるためには必要かどうかも、実際にそれらの機関が存在していて運営が成り立っている限りで、必要だから存在していると考えても良さそうだが、逆に存在しているから一定の需要も喚起されると考えれば、気分がすぐれずに心身の失調を改善できないなら、それらの機関に出向いて相談してみれば良いとかいう宣伝が利いてくるから、その必要が生じていると言えるかどうかも、鶏が先か卵が先かの議論になってしまうだろうが、たぶんそういうことの延長上でそれらの機関と何かしら関係がありそうな政府の存在の意義や必要性を語る成り行きになってしまうと、かなりの論理的な飛躍を感じさせる内容となってしまうだろうが、そんな機関が実際に存在している現状の中でそれが存在している意義やその必要性を考えると、なし崩し的にその意義や必要性を容認せざるを得なくなるわけでもなく、それらが存在していることから生じてくる経済的なコスト増に気づけば、大して利用者がいないのだから不要だと批判したり、逆にそれを必要とする少数者を助けるためにもなくすべきではないと存在意義を肯定してみたりもできるだろうが、そんなことを考えているだけでも何かおかしいわけで、それの何がおかしいのかというと、たぶんそういう前提そのものが何かそれとは関係のない方面から来ているような気がするわけだが、わざと物事を込み入らせて余計な紆余曲折を設けて、そうやって人の意識を困惑させながらはぐらかして必要性という怪しげな理由を信じさせて、それらの存在の正当化を容認させているのではないかと疑われて、果たしてそういうことの延長上で政府という機関の存在意義も捏造されているのかというと、それもそもそもが社会の存在意義もそういう成り行きから生じているのではないかと疑われて、そうだとしても現状では存在しているのだから、そんな現状を維持しなければならないと思われる方面では、そうした機関の存在を肯定するしかないだろうし、それを肯定するにしても、社会の中でそれらの機関が機能している限りで、何かと問題が起こっているわけで、社会の問題を解決するためにそれらの機関が存在しているのに、それが存在していることからもそれに関連して様々な問題も生じてくるのだから、そういうことを全て思考の対象にしようとすると、取り止めがないような漠然とした気分になってしまって、それらをどう考えればいいのかよくわからず、うまい具合にそれを説明できずに途方に暮れてしまうのだが、そんな世の中で何かが起こってから、それが起こったことを巡って後追い的にそれを肯定してみたり否定してみたり批判してみたり賞賛してみたりするのは、そんなことをやっている人の勝手だろうが、もちろん勝手にそんなことをやっているわけではなく、それが起こったことに意識が囚われているから、そうした行為に及んでいるわけだが、たぶんそうした行為を制度化しているのがメディアと呼ばれる機関であって、そこでも機関が社会の中で機能していることになるわけだが、そこでも需要と供給の関係から必要だからメディアが存在していると考えてしまうと、すでにメディアという機関が存在していることを前提としてそんな既成事実化が成り立っている世の中でそう考えてしまっているわけだから、もうすでにメディアの術中にハマっていると考えられなくもなく、結局はメディアが存在していてそれを利用しているからメディアが必要だと考えてしまうわけで、果たしてそれをメディアの術中にハマっているからそう思われてしまうのかと考えてみても、やはりそれも事後的に後追い的に思考を巡らせて、しかもそれに先回りしてそう考えてしまう者を嘲笑しようとしているわけでもないが、それでも何か腑に落ちないから、そこで立ち止まってそう考えてしまう意識に逆らって思考を巡らそうとしてしまうのだが、それが何なのかといっても、わからないことには変わりないのだが、社会そのものの構造が制度化を必要としていると考えてみても、様々な物事が制度化しているからそこに社会が存在していると言える限りで、すでにそうなっていることを前提にしてそう考えられるだけで、それも後追い的な思考のバリエーションの一つとなってしまうのだが、それ以外には思考しようがないと考えるなら、今後も後追い的に何かが起こった後からそれを思考の対象とするしかないわけだが、そんな思考の逆手を取って、これから起こることを予想する行為も生じてくるとしたら、それも予想するのとは意味的には正反対の後追い的な思考形態だと考えるなら、予想した内容に説得力を持たせるためにも、すでに起こったことを援用して、その起こったことの延長上でこれから起こることを予想してみせるわけで、それに関してよく言われることは、歴史は繰り返さないが韻を踏むとか、その類いから何が言えるかというと、過去に起こったことがそのまま繰り返して起こるわけではないが、現在進行形で起こっていることも過去と似たような成り行きになると予想すれば、何やらそれが説得力を得られるような制度的な成り行きが生じているわけだろうが、それが制度的な成り行きだと考えられる理由としては、社会の中で何らかの制度が機能している限りで、その制度に囚われた成り行きになると予想できるわけで、そういう意味では制度の機能が何なのかというと、絶えず社会の状態を一定に保つためにその中で起こっている物事の成り行きを同じような結果へと導くのが制度の役割だと言えそうで、しかもそんな制度を維持存続させるのに都合が良いような結果に持って行こうとするのも制度の機能なのだから、そういう制度的な機能に基づいた予想をすれば、制度に意識を囚われた人の意識に説得力を感じさせるような予想内容となるわけで、そんな制度を維持管理しているのが社会の中で様々な役割を担った機関になるわけだ。


10月7日「政治による調整」

 人や企業の自由な経済活動を推進するのが経済的な自由主義だが、そうした経済活動に伴う野放図な環境破壊や利益追求の行き過ぎに規制をかけて、富裕層ではない一般の労働者や消費者の暮らしを守るのが民主主義を推進する政治の役目だと主張してみても、自由主義も民主主義もそれだけではないと言えるかどうかも、もっともらしいことならいくらでも言えるかも知れないが、そうではなく、わざと疑わしいことを述べてみたいのだが、何が疑わしいのかというと、政治的な民主主義と共に経済的な自由主義も実は一般の労働者や消費者の暮らしを支えていて、自由な経済活動に規制や歯止めをかけ過ぎると、それだけ一般の労働者や消費者の暮らしを圧迫することになるというと、それが疑わしいような気がするわけでもなく、要するに規制や歯止めをかけ過ぎるのではなく、ちょうど良い程度の規制や歯止めが必要になってくるだろうが、そのちょうど良いというのがどの程度なのかが、政治情勢や経済情勢に応じて決まってくるということであって、その場の情勢に応じて規制や歯止めを緩めたり引き締めたりすることによって、結果的にちょうど良いさじ加減になるように、政治の領域でそれらが調整されることになりそうだが、何が調整されるのかといえば、それが政府による各種の許認可や税率や国債の発行額や中央銀行による政策金利などになってくれば、それが結果的に民間の経済活動の行き過ぎを規制したり環境破壊に至るような都市や自然の乱開発に歯止めがかかることになれば、政治による経済の調整が一定の効果を挙げたことになりそうだが、そういう面ではそうだとしても、それとは別の方面で例えば資本主義市場経済が進展すればするほど人々の間で貧富の格差が広がる傾向を政治によって歯止めがかけられるかというと、そうなるとすぐに富裕層や大企業に増税する一方でそれ以外の所得層や中小企業には減税しろと主張する政治家や政党が出てくるのだが、そういう主張が疑わしいとは誰も思わないだろうし、普通にありふれたもっともらしい主張ではあるのだろうが、どうもそれがそうではないと述べると、それが疑わしい意見になりそうで、必要以上に税をかけ過ぎるのも経済の停滞をもたらすと主張するなら、果たして富裕層や大企業により多く課税することがそうなのかというと、逆に今までが富裕層や大企業を過度に優遇してきたのであり、そんな主張の方がもっともらしく感じられるような事例が数多く示されることにそうだが、たぶんそういう成り行きが資本主義市場経済を進展させてきたと言えるのかもしれないし、逆にそういう成り行きに歯止めをかけるようなことをやると経済が停滞することになりそうだが、それも現状で生じている成り行きに応じてそうなっているのであり、そういう成り行きに逆らうようなことをやると、成り行きが逆転するわけでもないだろうが、そんな政策が経済を阻害する要因になってきそうだが、ではそんな成り行きを助長させる要因は何なのかというと、たぶんそれがそういうもっともらしいことを主張している者たちが受け入れ難いような真実なのかも知れず、要するに富裕層がそれ以外の層の暮らしを支えていて、大企業が中小企業の活動を成り立たせている実態があって、現状の資本主義市場経済には富裕層や大企業の存在が必要不可欠であるから、逆説的に富裕層や大企業を優遇しなければならないと言えるとしたら、それもそういう成り行きに沿って資本主義市場経済が進展してきたからそう言えるようなことであり、富裕層や大企業が経済を牽引しているからこそ、逆説的にそれらが優遇されることになるわけで、実際に富裕層頼み大企業頼みの経済になっていると考えても良さそうだが、それは利益率の高い高価な商品を買えるのが富裕層であり、その一方でそれ以外の一般大衆が買えるような利益率の低い廉価な商品を製造して流通して販売することができるのが大企業であるのも当然の事実であるからそういうことが言えて、それも産業の構造から言えることになると、例えば中小企業などの小規模事業者が採算の合う製品を生産する際には、それが特許などで守られた特殊な製品でなければ、製造コストの面でより安価な製品を大量生産できる大企業には太刀打ちできないし、また少量であっても質の高い製品を生産するとなると、当然価格もそれなりに高価になってしまうから、一般の消費者では買えなくなると共に、富裕層をターゲットとした商品にならざるを得なくなるだろうし、また高価で性能の高い検査製品や製造装置などを大企業向けに製造販売することにもなれば、そんな経緯からも中小企業には富裕層や大企業が必要不可欠な存在となってくるだろうが、その一方で大企業が富裕でない一般の消費者向けに安価な商品を大量生産・大量流通・大量販売する成り行きにもなるだろうから、そうなると一般の消費者には大企業の存在が必要不可欠になるわけで、そういう成り行きから考えれば、富裕層や大企業に過度に増税すれば、その分だけ富裕層の消費が減退して高価な商品も少し売れなくなると共に、大企業の生産・流通・販売コストも増税した分だけ増加するから、商品価格の値上げとなって一般の消費者に返ってくることになるだろうから、富裕層や大企業により多く課税する一方でそれ以外の層や中小企業に減税するというもっともらしい主張には、そういう面に限ってはあまり効果がないように思われるのだが、もちろんそういう部分だけ強調して抜き出して示せばそう思われるだけで、ここでは述べられていない方面でそれとは違う効果や影響などを持ち出してくれば、また違ったもっともらしい解釈を導き出せるかも知れないが、税による調整にもそういう単純明快な理屈だけで説明できるような経緯や事情などが絡んでくるわけでもないとすれば、そこに絡んできたり介入してくる者や勢力に特有のわかりにくい経緯や事情もありそうで、そちらの方がどちらかというと影響を及ぼす割合が高そうに感じられるなら、やはりそれがその場その時の政治情勢や経済情勢などが複雑に絡んでくるから、結果として出力されてくる税の種類や税率などが誰にとっても納得し難いものとなるかも知れず、あらを探せばいくらでもツッコミどころが出てくるようなつぎはぎだらけで、特定の業種や製品に対しては税を優遇したり、場合によっては免除したりする一方で、別の業種や製品に対しては狙い撃ちのようにして高い税率を課してみたりと、それを結果から見ればおかしいことが一目瞭然だとしても、そこに至る経緯や事情を考慮に入れるとそうならざるを得ないとしたら、その際たるものが日本では輸入米に対する異常な高関税に帰着しているだろうが、他にも特定の業種や製品などに対する優遇税制などを挙げて行ったらきりがないことにもなりかねないだろうが、そういうややこしくもこんがらがっている制度的な不具合を解消して行くのも難儀なことかも知れないし、そういうことをいちいち政治問題化しなければならない事態にもなりそうだから、何かそれがうまく説明できないし、一般の民衆にも苦労がうまく伝わらないから、それよりはもっともらしく感じられるような物事を単純化した主張をしておいた方が民衆から支持を得られると考えられてしまうのではないか。


10月6日「迷走する未来」

 案の定というか予想通りというか、そういう反応なんだと思われるようなことが実際に起こっているから、それを鼻で笑いながら、なるほどと感心してしまうのだが、彼らは一般大衆の功利的な期待を過小評価していたのか、それ以前に彼らとは誰のことを想定しているのか、彼らが誰であっても、そんな期待など端から無視しているのか、実際には何も期待していない人が大半だろうが、そういう予想通りのありふれた反応はスルーして、それについては何をどう考えたらいいのかと思案しているわけでもなく、思案するまでもなく安易に思いついてしまうことが、実際に誰もが思ってしまうことだとは限らず、そんなことにはお構いなしに事態が今も進行中で、その進行中の事態へとメディア経由で意識を向けさせられているから、それに気づかないと考えておけば良さそうだが、何に気づいていないのかがよくわからないでは話にならないが、実際に自分も何に気づいていないのかわかっていないわけで、少なくとも勘がそう告げているような気がするのだが、この先のどこかの段階でそれがわかれば、そういうことだったのかと合点が行くかも知れないが、今のところは何が起こるか何とも言えず、わからないことにしておくのが無難な気もするが、それが起こったところで何でもなければそれで済んでしまうのだが、それにかこつけて騒ぎ立てたい人も出てくるだろうから、思わず何かの条件反射のようにして騒ぎ立ててしまった人にとっては、そこで深刻な事態が起こったと勘違いしておいても良さそうだが、もちろんその人にとっては勘違いではなさそうで、無関心な他人にとっては勘違いして騒ぎ立てていると見えてしまうだけで、それもスルーの対象となってしまう人にとっては何でもないようなことかも知れないから、たぶん自分もそれに気づいてもスルーして無視してしまうかも知れず、それで構わないと思いたいのだが、実際には深刻に受け止めなければならないことかも知れないから、それが起こったのに呼応して大変だ!大変だ!と騒ぎ立てている人々に同調しなければならないだろうが、なぜかそんな騒ぎを無視してさっさとそこを通り過ぎて、しばらく間をおいてから、その時見て見ぬふりをしてしまったことをわざとらしく後悔してみせるかも知れないが、そこまでが偽善者の演技なのかも知れず、演技ではなく本当に偽善者かも知れないが、善人を演じるのが偽善者なのだから、少なくとも偽善者を演じるのは本当の偽善者ではないという解釈も成り立つだろうが、その辺が自分の頭の中ではこんがらがっているようで、事の真相はよくわからないということにしておきたいのだが、嘘をついていることになってしまいそうで、実際にわかりきった事態が進行中であり、もはや見て見ぬ振りを装うのも無理なのかも知れず、そんな成り行きを前にしてただ茫然とするだけで、驚きや呆れを通り越して焦りを覚えるかも知れないが、その程度のことで驚いていたら、そこからさらにあり得ないことが起こる度にいちいち驚いていたら身がもたないと思ってしまうかどうかも、この段階でそんな先まで予想できるわけでもないだろうが、相変わらず何かわかっていないわけで、わかるわけもないのだが、予想したくなるような成り行きに囚われていることも確かな感触を伴ってそう思われるわけで、しかもそれを勝手に予想した挙句に大外れな事態に直面して茫然自失となってしまえば何やら一件落着したように思われて、そうなってからすでに手遅れであることを悟ると共に正気を取り戻すなら、まだ救いがありそうに思われるのだが、かえって何も救いがない方が多くの人々にとっては都合が良さそうで、そうなればそれに気づく可能性も高まるだろうから、それに気づきたいなら救いなど不要だと思っておいても差し支えないだろうし、できれば何の救いもない絶望的な未来がやってきてほしいのだが、自分がそう願っているわけでもないとすれば、他に誰が願っているのかも定かでないが、誰の願いも聞き入れられないような未来がやってくることを期待しているわけでもないから、少しは願いが叶った方が良さそうだが、願いの中身がたわいないものとなってしまいそうで、だから結局は誰の願いが叶ったとしても自分にとってはどうということはなく、そんなのは無視してスルーするしかないようで、全く誰の発言にも主張にも意見にも共感できないような今日この頃の心境だが、それでも自分的には無駄な悪あがきの最中なのだろうから、そんな心身の状態をどう軌道修正しようとしているのかもよくわからないまま、まずは自分がそうしなければとは思うが、何がそうなのかもよくわからないのだから、そんな思いに囚われていること自体が意味不明なのかも知れないが、他人の聞く耳を持たない症候群をあげつらうのも気が引けるが、そういう自分もそうなのかと問われるなら、自覚がないわけだから、そうだとしても何とも言えないし、この後に及んでわけのわからない神秘主義にイカれたふりをしてもすぐにバレてしまうだろうから、実際には自分なりのリアリズムに意識が囚われていて、なるべく他人の意見や発言や主張にも耳を傾けようとして、時間が許す限りでメディアを通じてそれらの意見や発言や主張にも耳を傾けようと試みるのだが、昔のようにそれらに反論を試みる気にはなれず、反論するだけの気力が減退しているのかも知れないが、反論しても無視されるだけから、無駄だと思っている面もあるらしいが、だから何だと言う気にもならないし、反論に必要な屁理屈もあまり思い浮かばないが、無理に反論を試みる必要もない立場になってしまったというか、時代が屁理屈を伴った反論など許さない状況なのかも知れないが、それ以前に何が屁理屈なのかというと、たぶん今の時代に自由民主主義を肯定するにはそれなりの屁理屈が必要だと感じるのだが、それが民主主義だけでなくそれと矛盾する自由主義も肯定できるかというと、互いに矛盾し合う関係だからこそ、それらを合体させて自由民主主義として肯定する必要があるのだろうが、今やその必要すらも感じられないのだから、もはや屁理屈を弄してでも無理に肯定する必要もないと突き放してしまっても構わないかどうかも、判断しようのない時代状況なのかも知れないが、そこで誰も気づいていない何かを使ってそうした架空のイデオロギーを肯定する気になるような成り行きを現状では想像できるわけでもないから、そんなイデオロギーを無化するような世界の経済情勢にリアリティを見出した方が良心的な態度だと思うのだが、それは今までがそうではなかったわけではなく、今までもそうだったのに、そんな経済情勢を無視していたわけでもないにしても、それを考慮に入れないような政治的な幻想を抱いても誰からも攻撃されないような情勢だったわけでもないのだが、そんな幻想を抱きながらもかろうじて持ち堪えていた時代状況が確実にあったわけで、それが今や瓦解して政治的な幻想が通用しない時代状況に今まさに突入したのかというと、まだそうとも言い切れないから、何やら梁山泊のような仮想のメディア空間に立て籠もって民主主義を肯定したい者たちがもっともらしい主張をしているように見えるのだが、そんな背水の陣のような籠城戦のような断末魔の闘争に持ち込んでいるつもりが、結局誰からも無視されてスルーされている現状もあるらしいのだが、誰かしらそんな未来がなさそうな光景を想像しているのも、昔からそんな光景もありふれていたような気もしてくるのだが、とりあえずはそこでは誰も当事者ではないのだから、そんな見せかけの梁山泊もどきなどは無視してスルーしておけばそれで済んでしまうような情勢なのではないか。


10月5日「ビジネス極右系政治家」

 過去を振り返ったり今を語ったり未来を予想することが、大抵の場合は何かを語っている内容になるだろうが、最近起こった出来事を振り返って、何か印象深い事件らしい事件があったわけでもないと、それらを軽くスルーしたくなるわけでもないが、それらを忘れようとする気持ちに待ったをかけられるわけでもないから、何かちょっと待てよと立ち止まって疑念を挟みたくなる気分にもなれないなら、では他に何か考えるべき対象があるのかと自問自答を試みるが、例えば昨日は自民党の総裁選挙で高市早苗が当選して、それを最悪の事態だと絶望している人も一部にはいるのかも知れないが、高市が当選すれば明日は株価が上がる予想なのだから、株を持っている人が絶望するわけでもなく、逆にあんな嘘つき女が自民党の総裁になっただけでも株価が上がるのだから、株を買う奴らがいかに勘違いな幻想に囚われているのかを示しているわけでもないとしたら、それとこれとは話が別で、何だか現状がわけがわからない事態になっているわけでもなく、そういうもんだと何をあきらめた方が良いわけでもなく、そうかといって残念な気持ちになってため息をつく必要もなく、それほど疑念や違和感を表明したくなるわけでもないのだから、極めて普通の成り行きでそうなっただけのことなのかも知れず、隣の韓国でも三代前には大統領が女性だったし、フランスではルペンは封じ込まれてしまったが、イタリアのメローニはうまくやっているらしいし、そう言えばイギリスでは保守党の女性首相が歴代で三人はいたような気がするから、高市が日本で初の女性首相になったところで、世界的に見れば大して珍しいことでもないはずだが、高市の場合はビジネス極右と言われているのかどうかも詳しいところはよくわからないにしても、何やら安倍晋三の後継者を自任しているのかも知れず、その辺が危険視されているのかも知れないが、だから何だと言うわけでもなく、日本だけがそうなのではなく、世界的にそんな傾向なのだから、政治の分野ではそんな右寄りの傾向が今後も続いて行くと予想しておけば無難だが、それがヤバい傾向かというと、その辺はどうしても資本主義市場経済との兼ね合いで考えたくなってしまうわけで、しかも部分的にそんな傾向になっているだけで、世界全体がそうなっているわけでもなく、左寄りの傾向の政権もいくらでもありそうで、そういう方面ではそうだとしても、他の方面ではそれとは違う傾向になっているとも言えないが、これから起こる社会の変革に際して、その変革から世間の興味や関心を逸らすために必要な目眩しのような機能が、現状で世界的に流行っているそれらのビジネス極右的な傾向が求められていると考えられなくもなく、それがどういう理由でそう考えられるのかといったところで、何かこれと言って納得できるような理由を提示したくなるのだが、たぶんそれが納得し難いようなことを述べる羽目に陥ってしまいそうで、それに関して勘違いしているのは自分の方かも知れないが、少なくとも産業界の側で政府を利用するには、なるべくなら極右政権の方が利用しやすいと考えているわけでもないだろうが、左翼政権だと自由な経済活動に規制をかけたり、労働者の保護を目的として社会保障的な税などの負担を求めたりするから、政府が企業活動を邪魔したりブレーキをかける傾向になるから、どちらかと言えば左翼政権より右翼政権の方がマシだと多くの人々が思っているわけでもないだろうが、そう思っている人がいるとすれば、そういう人がどちらかと言えば政府の活動よりは企業活動から利益を得られているなら、そう思うのも無理はないだろうが、それがそうでもないなら、左翼嫌悪の政治宣伝に洗脳されているとか、そうでもないなら実際に左翼勢力から批判されたり非難されたり何か自らの行いを糾弾されているようなら、イーロン・マスクのような立場かも知れないが、そういうところも一概にどちらがどうだとも言えない微妙なさじ加減から、何となくそうなっているような傾向なのかも知れないが、そんな傾向の世間的な人々が何から興味や関心を逸らされているのかといえば、世間の動向を常に気にする人々が政府や政治に対してどんな幻想を抱いているかでそれがわかるわけでもないが、世の中の支配的な傾向に対する批判や非難の矛先にあるのが何なのかということが、批判しやすいように非難しやすいようい単純化されてデフォルメされた政治的な対象となるなら、それが極右的な紋切り型になりそうだが、またそれへの反発として極左的な紋切り型もあるだろうが、そんな方面へと人々の興味や関心が逸らされていると、何やら企業の経済活動がやりやすくなるような成り行きになれば話は簡単で、それ自体も簡単に批判対象となってしまう何かの紋切り型かも知れず、しかもそうではないところがわかりにくく問題の本質を捉えにくいところかも知れないが、世間的な興味や関心へと意識を誘導された先にあるのが右か左かの単純な二者択一を迫るような成り行きではないとしたら、では何に対して興味や関心を向ければいいのかと問われているわけでもないから、そんなことには無関心を装っておいても構わないようなことでもあって、政治的な選択自体も他の何かから興味や関心を逸らす目的で設定されているようなことかも知れないし、そうやって何かから絶えず興味や関心を逸らしておけば、その何かというのが何でもないような空虚な空っぽの器であって、そんな器にその時々の社会情勢や政治情勢の中で興味や関心を抱いたメディア経由の話題を取っ替え引っ替え出し入れしておけば、何となくそうすることによって気が済んでしまうようなことなのかも知れないから、そうなってしまうこと自体が何かの罠のように機能しているのかも知れないし、そんな罠にハマっていれば何やら心が満たされるどころか、絶えずメディア経由でもたらされる世間の話題に興味や関心を向けていないと気が済まないわけで、常に興味や関心を抱く対象を求めてメディアへ意識を向けておくように強いられているわけだが、果たしてそんな仕組みやシステムに意識を奪われていても構わないのかというと、暇があるからそうなっているだけで、そんな暇がなければ相対的にはそういう割合も少なくて済むわけだが、では暇がない状態を目指すなら、四六時中他の何かをやっていればいいのかというと、他の何かをやりながらも絶えずメディアが気になってしまったり、そんなニーズに応えるのがラジオ的なメディアだろうが、そればかりではなく複数の作業を同時並行的に行なっていると、それだけメディアに気を取られている割合も部分的な程度で済んでいる限りで、罠へのハマり方も比較的浅い程度で済んで、そうなれば世間的な話題にもどっぷり浸からず、深みにハマらずに済むようなことにもなりそうだが、そんなことの延長上で、高市早苗の位置づけがビジネス極右系政治家というジャンルなのも、日本の政治情勢において何かのバランスをとる上で、そこへと多くの人々が興味や関心を向けている間に、その裏で何か他にやるべきことがあると考えてしまうと、それがたぶん当てが外れるようなことであり、そうではなく高市早苗的な存在を批判したり非難している人たちがどんな人たちなのかを把握して、彼らの主張や意見の何が無理で何が実現不可能なことなのかも把握しておく必要もありそうで、それが現状でわかっている日本の政治経済の問題点だと考えるなら、やはりそこへと興味や関心を向けている間に、それとは別の方面からそんな興味や関心を逸らす目的で行われていることが、思考の視界に浮かび上がってくるのではないか。


10月4日「表面的なわかりやすさ」

 メディアを使ってどんなに知識を蓄えても、個人レベルではその蓄積量にも限界がありそうで、またわかっていないこともいくらでもありそうだが、蓄えた知識を活用しようにも、そのやり方の面でうまい具合に活用方法を編み出せないと、何か宝の持ち腐れのような感じになって、雑学の物知り自慢のような出力形態になってしまえば、知識の使いようによっては他人から馬鹿にされて嘲笑の対象にもなってしまい、肝心な時に役に立たないことにもなりそうだが、普通に自転車操業のような感じで、知識の入力と出力が同時並行的に発動するような形態が一般的に思われるが、特にこれといって系統だって一定の原理や法則に従って知識を活用しているわけではなくても、結果的に知識が活動とうまく噛み合えば、それなりの成果を得られるかも知れないが、そういうことではないとすれば、どんなに自分の都合に応じた成果を期待しているわけではなくても、そんな見え透いた嘘をつきながらも、何かしら自分に利益をもたらす結果を得たいとは思うが、それが自分の勘違いな見込み違いや期待外れとは関係のないところから成果となって表れても、それに気づいていないのかも知れないし、それでは成果とは言えないかも知れないが、なぜか何かに導かれるような感じで活動していれば、それがすぐには気づきにくい成果となって表れている証拠かも知れず、自分には何だかわからない方面で成果を得られていることに気づいていないのかも知れないが、意識して知識を活用しているとは言えないレベルで、得られた知識に導かれて、それを知識だとも認識していないような気もするのだが、何かの機会に不意にこうしろと命令されているような気がすると共に、それが何かの助言なのか命令なのかも未だによくわからないのだが、無意識に知っているわけでもない知識の活用に絡まって何かが仕掛けられてくる限りで、なるほどお前は知っていることを活用しなければとは思わなくても今ここで知らない何かを活用している最中なのかと我ながら感心してしまうわけでもなく、それが結果的には知っているつもりが思いっきり裏切られて、思いがけない紆余曲折を体験して驚いてしまうのだが、何かが起こったのをきっかけとして心身が勝手に動作して、直面した出来事に対応したり対処した際にこれまでに身につけた知識を活用しているつもりもないのだが、何かのついでに否応なく参加させられてしまっているゲームの類いに気を取られていて、それがたわいなくどうでもいいようなゲームだと思っているから、気軽に参加させられているがままの状態を放置しているのだろうが、積極的に自分の意志で参加した覚えもないのに、そうなっていることに何の不思議も不信感も覚えないわけだから、うまくメディアの仕掛けに乗せられてそうなっている状態が何なのかと改めて考える隙も暇もないことを悔しがっているわけでもないが、考えない方が賢明だとは言えないまでも、初めてゲームに参加した時の心境など今さら覚えていないし、それが今ではそうなっていることを当然視するような事の成り行きに囚われているわけだから、確かにそれでは、お前はもう死んでいるとケンシロウに言われたわけでもないのに、脳死状態でたわいないゲームに取り組んでいるつもりになっているわけでもないのに、実際に何かのついでにそうなっている状態を放置しているのだから、何かに導かれていることには違いないのだろうが、そんな自分も含まれる不特定多数の見ず知らずの他人と共に複数のゲームを同時並行的にやるように強いられている現状の中でも、もはやそれをゲームだとも意識できない場合もありそうで、何かそれに対して反応すればポイントが加算されたり、反応するのが面倒くさいから放っておけば、執拗に端末機器が知らせてきて、こちらが気づいてそれを見るまでは延々と発信音が鳴り続けるような機能を停止したりもするのだが、発信音を鳴らすアプリが一つではなく、自分でも何の発信音が鳴っているのか把握していないわけで、だから何かしら発信音が鳴るとすぐにスマホの画面を見る習慣がついてしまって、まるでくびきをつけられてどこかの畑を耕すように誘導されている牛の動作を連想させられるわけでもないが、気が散って発信音が気に障ると、鳴っているアプリの設定を開いて発信音の停止を試みるような方向へと、自分の動作を徐々に持って行っているのだが、それがつい先日は電話の発信音を止めてしまったことに気づかずに、ホームセキュリティのセコムから警報ブザーが鳴っていると何度か電話がかかってきたのに気づかずに、警備員が直接自宅に出向いて機器の故障に気づいたのだが、そこでようやくスマホの電話の発信音を停止していたことに気づいて、慌てて停止を解除したのだが、それが何のゲームに起因してそんな間違いを犯してしまったのかもよくわからないままに、さっきもスマホから何かの発信音が聞こえてきて、気が散って苛立っているらしく、こうしてどうでもいいような雑音の類いに気を取られているうちに、心身が消耗して寿命が縮むように仕向けられているのかと被害妄想に陥っているわけでもないが、そうなっても構わないようにそんな状態を放置しているわけで、何となくそれでうまく立ち回っているつもりになっているとすれば、たぶん勘違いには違いないが、そんな勘違いな心理状態にとどまるように何かによって仕向けられているのかも知れず、そんなふうにそうなるように仕向けられてしまうことが、現状の中で生きて行くには必要なことかも知れず、本当はそう思っているわけではないのに、逆にそれが必要なことだと強く意識させられているとも思えないのだが、微かにそんな気がしないでもないことが、どっちつかずな微妙な感覚なのであり、そういうところで表面的なわかりやすさを求めてしまうと、メディアの術中にハマってしまうわけでもないが、間髪を入れずに執拗に鳴って人の気を引こうとするスマホの発信音ように、そんなたわいない仕掛けに騙されてはならないわけではなく、もちろんわけ知り顔で騙されたふりを装う必要もないのだが、たぶん騙されていても構わないのかも知れないから、騙されたつもりになって、どうも週明けの月曜日には日本株が急騰すると期待されているらしく、高市が自民党の総裁に選ばれると無条件で日本株が急騰すると言われている一方で、進次郎がなっても一応は急騰するのではないかと言われているみたいだが、林がなってしまうとヤバいと恐れられているのかどうかも、詳しいところはよくわからないが、そんなでたらめな期待も一過性で過ぎ去ってしまうだろうから、結局は誰がなっても化けの皮が剥がれるのにそれほど時間はかからないと予想したいが、そんな予想が良い方に裏切られて、批判しようと手ぐすねを引いて待ち構えているメディア関係者たちを唖然とさせるような予想外の事件も発生してほしいのだが、それが何だかわからないのもいつものことで、今ここで何を示すこともできないが、遠からず思いがけない出来事が起こって、それが一般大衆の興味を引くような暇つぶしにうってつけな気晴らしの話題となってしまっては、予想通りの結末に導かれてしまいそうだが、それでも構わず、できればなるべく誰の興味も引かない潜在的なレベルで事態が進行してほしいわけで、他の何かに気を取られているうちに事態が進行しているとしたら、その代わりに多くの人々が気を取られているのがAIバブルの類いでも構わないが、果たしてそれ以外に何があるのかと問われないようなところで何かの事態が進行中だからこそ、たぶんそんな何かに導かれているような気がすると思われるのだが、それが批判対象となっていれば、そんな批判対象と共に批判している者たちも物事の表面的なわかりやすさに囚われているから、それに気づかないのではないか。


10月3日「技術的な試み」

 二律背反というとアンビバレントとは少し違う意味だが、実際に両方ともに人の心理に関わる何かを表現していると感じられるのだが、正反対の意味を同時に共有していると言えるかどうかも、正確には少し傾向が異なるのかも知れないが、どちらもそう思われて、どちらにも受け取られることだとすれば、一方だけでは通用しない状況なのかも知れず、例えば同じ政府の中で緊縮財政と積極財政が同時に推進されるとどうなるのかといえば、それが現状では世界中のほとんどの政府で行われていることだと認めるしかなさそうだが、また新自由主義的な政策と社会主義的な政策が同時並行して実行されていることでもあるから、絶えず両者の間でちょうど良いバランス加減が調整されていることにもなりそうだが、それが意識して行われているわけではなく、その場その時の社会情勢や経済情勢に対応して行われていることだから、一方的にこうだと決めつけるわけには行かないだろうが、それも絶えず暗中模索の手探り状態の中で試されていることにはなりそうだが、そういう技術的な問題以外に何があるのかというと、それも技術的なことには含まれるだろうが、政府の統治対象が個々人ではなく統計的な人口になってくると、例えば人口減を食い止めるために少子化の改善に取り組むような感じになってきて、特定の個人の人権がどうのこうのではないような傾向にもなってくるから、そういうところで行政サービスと国家統治の辻褄が合わなくなってくると考えれば良いのか悪いのかも、それらを両立させるというのではないとすれば、どちらを優先させるとも言えないようなことかも知れないし、確かに少子化を改善して人口を維持できれば、国民年金などの制度の維持にも貢献できるから、もちろんちゃんとした収入を伴うような人口を維持しなければならず、そういうところが低賃金や無職の外国人労働者ばかりを受け入れることで人口を維持するわけには行かないのかも知れないが、そうは言っても人手不足なのも何とかしなければならないだろうから、現状の日本では外国人労働者の人手が欠かせない産業分野もあるわけで、そうなると外国人に対する排斥運動が盛り上がっているのに外国人労働者が必要とされているという二律背反でアンビバレントな感情が社会の中で渦巻いていることにもなるだろうが、労働力不足を解消するために行なっている方策とよそ者を受け入れ難い村落共同体の構成員の嫌悪感が両立不可能な構造になっているから、共同体の構成員の方ではよそ者に頼らないで身内で同質な構成員の人口を増やしたいわけで、そのための方策もお見合い結婚の奨励とかの技術的な問題となるのかも知れないが、どちらにしても感情的な問題を技術で解決するような傾向が伴ってくるから、それを技術的な問題だと割り切れるなら、もっとストレートにハイテク分野の方面から、最近流行りのAIを活用した問題解決手段となると、人的な労働力をAIを活用した機械に置き換えるような試みになるのだろうが、村社会の集団的な嫌悪感情を行政の面でも産業の面でも技術的に解決しなければならないところが、村社会の集団構成自体も元々農業などの技術的な都合から形成されてきた経緯があるとしても、何かそこでも二律背反というかアンビバレントな感情を伴った集団心理から同時並行的に生じてくると考えても良いのか悪いのかも、一概にはこうだとは言えない事情も絡んできそうだが、そこで勘違いして何かと何かを混同しているとすれば、国家的なナショナリズムと地域的なパトリオティズムの違いがわかりにくく、オリンピックで日本選手を応援するのがナショナリズム的な感情に根ざしているのに対して阪神ファンはパトリオティズム的な感情に根ざしているようには感じられるが、果たしてそれを愛国心と愛郷心とに区別できるかというと、例えばよそ者が外国人なら愛国心が発動して、東京方面から来たよそ者がプロ野球の阪神タイガースを馬鹿にしたら愛郷心が発動するかというと、そういう区別がピンとこないのだが、それとは違う方面から例えば哲学者のカントがベルリンからの教授招聘を断って生涯生まれ故郷のケーニヒスベルクを離れなかったことをパトリオティズム的な感情の表れであって、それこそがナショナリズム的な誤った感情を克服するには必要だと言えるかどうかも、誰かが昔そういう意味の内容を著作の中で述べていたような気がするのだが、そういう意味ではイーロン・マスクとドイツのAfDの党首もどこかでやった対談の中でナショナリズムとパトリオティズムを混同して捉えているようにも感じられるが、果たしてナショナリズム的な愛国心をパトリオティズム的な愛郷心に置き換えることが可能かどうかも、それはそれこれはこれであって、それも多くの人々が同時並行して両立可能なような気になっていると思われるのだが、どちらを肯定してどちらを否定するようなことではなく、自然な感情の発露としてそうなってしまうようなことであって、それがその人にとっては自発的な感情の発露だとしても、結局は国家的・地域的な構造から生じてくるものである限りで、ことさらに国家的なナショナリズムを外国人排斥運動の盛り上がりを理由にして有害な感情だと批判的に否定してみても、そういう感情に囚われている当人にしてみれば、自然にそうなってしまうのだから、理性の力を借りても矯正できないだろうし、そういう人も世の中には一定数いるもんだと受け止めるしかなく、心がそういう感情に根ざしているから、そんな心理状態を正当化するために、やれ外国人の犯罪が増えているとかのデマを信じようとするわけで、そういうところが理性的な価値観を重視する人にはわかっていないから、実際に外国人の犯罪が増えていない統計的なデータを示して説得を試みて、火に油を注ぐような成り行きになって失敗してしまうのかも知れないが、それも感情を技術によって克服しようとする試みには違いないのだが、その全てがうまくいくとは限らないし、実際に統計的なデータを示して誤りを指摘する試みには感情的な反発が返ってくるわけだが、逆にその種の反発や反感を利用すべく、感情的になっている人から支持を取り付けるために、彼らが信じているデマを裏づけるような統計的なデータを示して喜ばせるようなやり方も多用されているかも知れないし、やりようによってはその種のナショナリズム的な感情に囚われた人々を利用できるのだろうが、それにしてもその種の煽り立てをやって支持率が上がった参政党などと、トランプ的な手法を同一視するわけにも行かないから、トランプにも参政党的な面もあるだろうし、実際に参政党の党首や政治家たちもトランプに対して親近感を抱いているだろうが、両者共に愛国ビジネスな面もあるにしても、それがどう違うと言っても聞く耳を持たない人には意味をなさないことではあるのだが、少なくともトランプの置かれた状況と参政党の党首の置かれた状況は違っていて、ビジネスの手法も違っていると言えるかどうかも自信がないが、同じような感情を共有しても技術的な違いがあれば、そちらの方がより強く世の中へと作用するし、影響を及ぼす程度も異なることは踏まえておかないと、それとこれとを同一視して勘違いを増幅される結果に終わるのかも知れない。


10月2日「正気と狂気の境界」

 他人と比べて自分の感覚がおかしいと思うなら、何かしら他人を観察して自分と比較しているのだろうが、勝手にそう思っているに過ぎないとしたら、大して他人と変わらないのに、自分だけが何か特別な存在だと思いたいだけなのではないかと疑われてしまいそうだが、社会の中での自分の立場や境遇を考えてみれば、何も特別な存在ではなく、ただの一般人のうちの一人だと思われるなら、別に感覚がおかしいとは思えないはずだが、自分だけがおかしいのではなく、他の多くの一般人も自分と同じように感覚がおかしいと思うなら、どういう基準からそれがわかるのか、今度はそれを知りたくなってしまうが、普通は他の多くの人々と自分が同じ感覚を共有していると思うなら、特に感覚がおかしいとは言えないどころか、自分の感覚が多くの他人と同じような感覚だと思える限りで、自分が他人と同じように正気を保っていると感じられて一安心してしまうところだが、それは世の中が平穏無事な状態となっている限りでそう思われるかも知れず、例えば暴動が国内の各地で頻繁に起こって世の中が動乱状態になっている中では、多くの人々が狂気に囚われていると思われるかも知れないし、世界の中では比較的平穏無事な状況の日本にいるからそう思われるなら、他国で起こっている暴動をメディアを経由して知った感覚なのかも知れず、そうなるとメディアの伝え方次第でもそう感じてしまうだろうし、暴動によって多数の死傷者が出るような事態だと、それも暴動が起こった原因にもよるだろうが、多くの人々が暴徒と化して店舗が破壊されて物資が略奪されたり、車が放火されて炎上している映像などを目にすると、街中で暴れている群衆が狂気に囚われているように見えるだろうが、暴動が起こってしまう原因として、経済が悪化して多くの人々が困窮している中でも、独裁体制下で強権政治が行われたり、政府高官の汚職が発覚したりして、怒った群衆の抗議デモが暴徒化するような事態となれば、大規模な暴動が起こるのも無理はないと思うだろうが、そんなふうに明白な理由があるなら、たとえ群衆が暴徒化して街中で暴れ回って狂気に囚われているかのように見えても、正気だからこそ狂気化するような感じで、その狂気と精神を病んだ狂気とは簡単に区別できるような気がしてしまうのだが、また日本では街中で群衆が暴徒化するような状況は数十年前のはるか以前に過ぎ去ってしまったような感じもしないではなく、それだけ現状の国内情勢が安定しているように思われて、政府による統治がうまく行っているだけではなく、社会そのものが安定的に推移していて、それが歴史的かつ文化的な経緯や地政学的な他の要因も寄与してそうなっていると受け止めたいが、たぶん明白な理由が見当たらないことが、うまく行っている証拠だと逆説的に言えるようなことかも知れず、しかも現状の政府に批判的な人々からすれば、必ずそんなことはないと感じられる程度に逆説的にそう思われることのように推測されて、こんなひどい経済状態の日本で暴動が起こらないのはおかしいと思いたくなるような心境かも知れず、そんなふうに思っている人に限って、至って正気だと自負しているとも推測したくなってしまうが、その一方で例えば南米のアルゼンチンで緊縮財政を推進しているミレイ政権が、貧困率が急激に上昇して多くの国民から反発されて窮地に陥っている現状を見れば、やはり新自由主義+緊縮財政ではうまく行かないと、日本国内の積極財政派が勇気づけられるかも知れないが、そう単純には日本とアルゼンチンを比較してもっともらしいことは言えないにしても、国家主義的な狂気に囚われていると極端で無理な比較を強引にやってそれを自己正当化に使いたいのかも知れないが、そういう面では日本の良心的な識者などがこぞって批判したがるトランプ政権がうまいことやっているようにも感じられて、単純に狂気の国家主義+新自由主義+緊縮財政にはせずに、単なる財政破綻を先送りにしているだけのように感じられる一方で、〇〇主義一辺倒にはならないように微妙な調整力が働いているようにも思われるわけで、うまく国内外の良識派に批判されるようなことをわざとやって、そこへと批判や非難が集中している間に、〇〇主義一辺倒では矛盾してしまうようなことを両義的に行なっているようにも感じられる限りで、それがうまい舵取りであるようにも感じられるわけで、それも意図してそうなっているのではなく、成り行きに応じてそうなっているところが、それなりの程度で粘り腰を生じさせてもいるのだろうが、そんなことは日本やアルゼンチンでも言えることかも知れないし、どちらの国の政府も一方的に否定されるような状態でもなさそうで、それなりにうまくやっている面もありそうなのだが、そういう意味では全面的にそうはならない程度に〇〇主義的な傾向を強めない方が良さそうで、相反する複数のやり方があって、場合によっては批判や非難を受けるような様々なやり方があるから、それらを全面的に採用するのではなく、そんなやり方を併用しながら弾力的な国家運営を心がけるような感じになっているのかも知れず、状況の変化に柔軟に対応すべく、必要に応じて組織や制度や政策を機動的に見直して、逐次それを実行するような国家運営が、実際にどの国の政府でもそれなりに行われていると認識しておくべきかも知れず、それだけ政府による国家運営のノウハウが歴史的な経緯や地政学的な事情が生じてくる度に蓄積されて、程度の強弱を伴いながらもそんなノウハウが活かされているから、それなりに批判や非難にさらされながらも粘り腰が生じて、結果的に世界大恐慌や世界大戦には至らないのかも知れないが、それらを過去に経験してきているから、それがそうはなりにくい体質となって実体化していて、そんなことの延長上でITバブルのようにはAIバブルは進行しないし、またリーマンショックのようには今後起こるかも知れない〇〇ショックも進行しないだろうし、日本でも岸田ショックから石破ショックを経由して、また新しい自民党の総裁が決まって週明けには〇〇ショックが起こるかも知れないが、前の二つのショックで免疫がついているから大したショックにもならないのかも知れないし、高市がなっても進次郎がなっても林がなっても、どいつがなっても基本的にはどうということはないから、その程度の話題としてさっさと片付けられてしまいそうだが、そういうところでも誰がなっても深刻な事態にならないような配慮が前もってされているから、そういうところでは国家的な安全装置が機能していそうなのだが、その安全装置と言えるようなものが何なのかが、これといって制度的にも仕組み的にも全面的にそうだと言えるようなものではなく、何だかはっきりしない微妙に不透明な成り行きに社会全体と言えるわけでもないところが部分的に囚われているから、果たしてそんなものが機能しているとも言えないような程度でそうなっているのかも知れないし、それも結果的には何事もなかったかのように感じられるなら、それを批判したり非難している方面の人々からすれば、相変わらず深刻な事態になっているはずなのだろうし、今後も事ある度に苛烈とは言えない程度にその方面の人々から批判されたり非難されたりするのだろうが、それが全くこたえていないとは言えないし、実際に岸田も石破も辞めることになったわけだから、それなりにこたえたわけだろうが、そうだとしても大規模な反政府暴動が起こって大勢の死傷者が出るような事態にはなっていないわけで、そういう面だけ強調するわけには行かないにしても、他の国と比較すればその程度のこととして片付けられてしまうような事態なのではないか。


10月1日「残された時間」

 何かに先回りして、誰かに先んじて何を述べてみても、そんなのは誰の知ったことでもないようで、すでに他の誰かに先回りされていて、そんなことはすでに先人が述べていたことだと言わんばかりに、後出しじゃんけんの如くに過去に遡ってそれが示されてしまうから、後はお前はすでに死んでいるという往年の決め台詞が待ち構えているような気がしてしまうのだが、そこではすでに死んでいるとしても、ここではまだ生きているわけだから、時間の順序が逆なような気がしてしまうが、しかもそんなのは気のせいであって、今もこうして過去から未来へと何かの時系列に沿って、順番にそれを述べている最中に過ぎないのだろうが、それとは何かと問われているわけでもないから、それが謎のままでも構わないような気もしてしまうが、謎があればそれを解こうとしないと事の成り行きとしてはまずいだろうから、気を取り直してそれが何なのかを知ろうとしなければとは思うが、それについてはまだ謎な部分もかなりの割合を占めていそうで、その謎が一向に解けないから、ここから先へはまだ歩を進められずにいるようで、現状では足踏み状態なのかも知れないが、だから未だにそれが謎のままにとどまっている現状があるらしいのだが、それの何が謎なのかといっても、相変わらずそれが何だかわからないでは済みそうもないから、もういい加減にそれを特定しなければならない時期にさしかかっているようにも、謎についてちゃんと具体的に謎が何なのかを述べなければならないとも思われるのだが、それについても一向に事態が進展していないようで、謎がわからずに行き詰まっているというと昔からそうかも知れないし、まさかここで行き止まりというオチがついてしまったら、ここまでの努力が水の泡となってしまいそうだが、そうは言っても謎解きに関してどれほど努力したわけでもないような、今までに大したことは何もしてこなかったような、遅々として物事が進まない歩みなのかも知れないし、ほとんど事態の進展が見られない現状の中で、今もこうして何かの機会が巡ってくるのを待っているのだとしたら、その機会というのが何なのかが現状でも謎のままなのかも知れないし、しかもそれを待っているうちにすでに通り過ぎてしまったのだとしたら、せっかくその機会が巡ってきたのに、それに気づかなかったことにもなりそうだが、そんなわけで今も何とも言えない何もやりようのない時間を過ごしている最中だと思うなら、これからも一向に何も言えないままとなってしまいそうだが、それでもかろうじて何か言えることがあるとすれば、やがて明るい未来がやってくるような気がするわけで、しかもそんな未来へと至るまでの間にまだ何かをやる時間が残されているような気もするわけだが、しかしそれが誰にとっての明るい未来なのかも、またそれが誰に残された時間なのかも謎なような気がして、少なくともそれが自分ではないとしたら、自分以外の他の誰かに明るい未来がやってきて、しかもその誰かには何かをやるための時間が残されているようにも感じられるとしたら、それが自分ではないところが残念なのかも知れないが、この後に及んでそんな見え透いた嘘をついて何をしらばっくれてみたところで、何かそうではないような気がしないでもなく、それも気のせいで済むような話でもなさそうに思われるが、それで済まないなら今まで通りに謎解きに励めば良いと思いたいのだが、それもタイミングの問題であって、偶然に何かが巡ってきたタイミングに合わせて謎解きをしなければならないとしたら、そのタイミングが今ひとつ掴めないまま今に至っているのかも知れないが、しかしただ漠然とそんな意味不明なことを考えているだけでは埒が明かないから、もう少し具体的に謎が何なのかを決めなければならないと思っているのだが、自分で勝手にそれを決めるようなことなのかも、決められるようなことなのかも謎だが、それを自分で決められなければ他の誰かに決めてもらいたいわけでもなく、自分にも他の誰にも決められなくても、必ず何かのタイミングで謎解きをやる機会が巡ってくると信じているわけでもないが、たぶんそうはならないような気がするわけで、それも気のせいで済ますわけにはいかないのかと悩んでいるわけでもないのだが、もうすでに自分でも気づかないうちにそれが何の謎解きなのかも決まっているようで、自分がそれに気づいていないことが肝要なのかも知れないが、たとえ気づいていなくても自分でも知らないうちに何かの謎解きをやってしまっていて、そんなわけのわからない謎解きが無駄な行為でないことを祈るばかりというわけでもなく、何を祈っているわけでもなく、それを今ここでやっている最中なのかも知れず、それが何の謎解きなのかも自分では気づかないまま何かの謎解きをやっているわけで、そんなのはにわかには信じられないし、信じたくもないが、信じるか信じないかではなく、ただ単に信じられないことが起こっているから、それが自分にとっては謎なのかも知れないが、他の誰にとっても謎だとも限らず、それがわかっている人も世の中には大勢いるのかも知れず、しかもわかっていなくてもわかっているつもりになってしまうから謎だとは思えないわけで、わかったと思い込んでしまうことが、ある意味ではその人の終わりを意味しているようにも思われて、実際にその意味をわかってしまったような気になっている人がいたら、試しにその人に例えば人生の意味とかを尋ねてみれば、それに対して何か気の利いた返答が返ってきたら、なるほどと感心してみれば良さそうに思われるのだが、感心したところでそれがどうしたわけでもなければ、依然として謎のままにとどまりそうだが、では謎が謎でなくなってしまったら、何やら気の利いた返答をひねり出した人の終わりが近いのかというと、それがその人にとっての終わりだとは誰も気づかないだろうし、当人も気づいていないだろうから、当人にとっては終わりではないかも知れないし、まだその先にその人にとっての未来の時間が続いていると思っているのかも知れないが、それでも何かこれだと思うような答えが出てしまった後には、それほど多くの生存時間が残されてはいないような気がしてしまうとすれば、それが何なのかと疑念を抱いているわけでもないのだが、時間が過去から未来へと過ぎ去るのではなく、地層のように縦方向に積み重なって行く感覚を得られるなら、横方向に過去を振り返るのではなく、下を見下ろせば、そこで高所恐怖症にかかったかのように足元がよろけてしまって、そのついでに石畳の歩道で石と石の間の継ぎ目の出っ張りに躓いて転びそうになってしまった過去の記憶も脳裏に蘇ってくるかも知れないが、またそれが失われた時を巡って思い出される虚構のエピソードなのかどうかも、即興で何を思い描いてみても、それは架空の時間でしかなく、そんな経験など過去にいくらでもあったような気がするだけで、それが取り立てて自分にとって重要な出来事だとは到底思えないのだが、過去の思い出が地層のように下から上へと積み上がり続けると、老人のように足元がおぼつかなくなるという答えでは納得し難いなら、加齢による筋力やバランス感覚の低下だと普通に言えそうだが、そうではなく竹馬のように過去の思い出が足の下にどんどんくっつきながら背が高くなって行ってしまうと、歩こうとしてもちょっと外部からの力を加えられるとバランスを崩して、そのまま倒れ込んでしまえばそこで人生がおしまいとなってしまうような恐怖感を覚えるようなことなど普通は誰も感じないはずだが、そうはならないようにするなら、そこにじっととどまって、そこから歩き出そうとはしない方が、そのままじっとしていてもやがて力尽きてしまうとしても、できるだけ長生きしたければ、その場にとどまってそこから先へは進もうとしない方が、少しは延命効果を得られそうで、その分だけ死ぬまでの時間稼ぎができそうな気がしてくるのではないか。