彼の声17

2000年

3月31日

 どうやらその場しのぎのアドリブにも限界があるようだ。とりあえず自分も雑文ライターのようなことしか書けないことがわかった。このような書き方では雑文しか書けないのだろう。やはり、不可能なことを書くことは不可能らしい。だが、これからも一応は抵抗し続けようと思う。別に金をもらって書いているわけではないので、その気になればいくらでもめちゃくちゃなことを書けるはずだが、まだ振幅の狭い範囲で暴れているだけなような気がする。今後はさらなる自由な表現を目指して様々な方向へ散乱しなければならないと感じている。

 しかし同時に、雑文でだめだとも思わなくなった。不可能なことを書くという表現は、ややもするとエキセントリックなアバンギャルドや単なる自意識過剰な英雄的行為に堕する危険性があるように思われる。書き方などどうでもいいのかもしれない(本当はどうでもよくはないが)。書かれていることが相手に伝わればいいのだ。だが、いったい自分はこれらの文章によって何を伝えようとしているのだろうか。また、誰に伝えようとしているのか。この辺があやふやだし、自分にはよくわからない。これらの文章を注意深く詳細に読んでみれば、それぞれにおいて、誰に何を伝えたいのかはおぼろげながらわかってくるかもしれないが、これらを書いている時点においては、そんなことはあまり気にせずに書いてきた。だいたいこれらを書くに至った出発点そのものが、何を書いたらいいのかわからないというところから書き始めているのだから、実際に何を書いているのかあまり気にしていないし、どう気にしなければならないのかがよくわからない。ただ書いているのだ。それがまぎれもない実態だろう。

 だが、何をただ書いているのだろうか。例えば何かを否定したいのだろうか。ではその対象は何だろう。大衆文化か?だがそれはあまりにも漠然としているし、安易な選択だ。あるいは、もしかしたら書くことによって何かから遊離したいのだろうか。なぜ?その離れたいものとは何だろう。しがらみか?なるほど、それ以外のこともあり得るかもしれないが、おおかたはそんなところだろう。しかし、そのしがらみついては語れない。なぜ?それは語りたくないからだろう。では、大衆文化については語れるのだろうか。それについて語ればたぶん反発を招くだろう。またいやがらせのメールが来るのだろう。ひとの楽しみにケチをつけるなということだ。ではいったい何を語ればいいのか。 何もない。何もないがこうして書いている。ようするに、ただ書いているのだ。またもや振り出しに戻ってきた。それの繰り返しだ。

 確かに自由は不可能だ。自由なだけではどこへも散乱できない。ただの一点で錯乱しているだけかもしれない。ではどうすればいいのか。何か別なことを試みなければいけないだろうか。今までとは別の方向から思考しなければならないのだろうか。例えば、視点や論点を変えることとはどのようなことなのだろうか。それで様々な場所へ移動できるのだろうか。しかしどのように視点や論点を変えればいいのか。結局何もわからない。わかろうとしない。わかることなど不可能だ。どこへも移動できない。移動することなど不可能だ。ただここでこうやって書いているだけだ。では、ここでこうやって書いていることとは何なのか。不可能について書いているらしい。書くことなど不可能だと主張しているようだ。こうして不可能が循環している。あやふやな表現だ。何かごまかしを導入しているみたいだ。しかしそのごまかしやレトリックを明らかにするだけの根気がない。いつものように怠惰が邪魔をしている。やはり彼を導入すべきなのか。なぜ?それはあまりにも唐突だ。接ぎ木の論理か?わからない。自分には、なぜ彼を導入すべきなのかが理解できない。それはあまりも安易すぎないか。

 安易だろう。小説の形式は安易と怠惰によって生み出された。何よりも理論を放棄している。弁解の余地は何もない。真理への探求からの限りのない後退だ。しかしそれは、このような雑文エッセイについても同じことが言える。言い逃れは何もできない。つまりこのような文章は、真理への探究の放棄として、そこから逃げた跡に生まれた空隙をごまかしやレトリックで埋め合わせて後ろめたさを隠すために、いわば勇気を放棄した者の言い訳として書かれているのだ。それは本当か?さあ、知らない。こうしてなんとなく書いてきたら、こんな結論に出会った。ただ、この結論にいかほどの説得力があるだろうか。真理への探究自体が抽象的な概念だ。どのような対象に対してそうなのかが何も述べられていないし、明らかになっていない。何に対する真理への探究なのだろうか。例えば、世界資本主義に対する?それとも、主体としての人間に対する?さあ、どちらを選ぶのか。それとも何か他の対象があるだろうか。ここで行き詰まる。探求への手がかりが何もない。というのは嘘で、あることはあるのだが、ここで取り立てて選ぶ気がしない。こんなことを書いている内に頭に浮かぶのは、どうも違うような気がする、という何の根拠もない疑念だ。いつもそんな気になってしまう。もしかしたら、まだモラトリアムなのだろうか。そんな気もする。


3月30日

 風がやんだ。静かだ。さっきまでの強風が嘘のように辺りが静まりかえる。夜になると風がやむらしい。それがこの辺りの風土なのだろうか。

 あまり他人の思想を真に受けてはいけないらしい。もっと広い意味で、〜主義というものは一種の方便なのかもしれない。資本主義者などいう言葉は社会主義者が勝手に敵対する側につけた蔑称だろう。それに対して西側諸国の政治家は、自分たちは自由主義者だと主張して、暗に社会主義諸国では思想や行動の自由が制限されていることに対する自分たちの国の優位性を強調してみせる。冷戦時代の本質とはこういうことだろうか。資本主義・社会主義・共産主義・自由主義・全体主義等、これらの主義について真剣に考えた政治家などたぶん一人もいないだろう。自分の立場を正当化するときや敵対者を非難するときに、〜主義というレッテルをただ便宜的に貼り付けていただけだ。当たり前のことだが、思想家や哲学者が考えるようには政治家や一般市民はその主義の意味や意義を深く考えてはいない。その必要がないからだ。ジジェクによれば、意外にも旧ソ連では共産主義について真剣に研究していた学者が冷遇されていた事例があるそうだ。
 それゆえ、後期社会主義の公式的イデオロギーを「心の底から」信奉する者は、潜在的には、シニカルな者よりも体制にとってはるかに危険だったのである。チェコスロヴァキア以外の国から、これと似た事例を二つ取り上げよう。最初の事例は、エヴァルド・イリェンコフ(1924-1979)とアレクセイ・ロゼフ(1893-1988)という二人の象徴的人物、社会主義体制下におけるロシアの哲学者の二つのプロトタイプである。ロゼフは、ソヴィエト社会主義連邦共和国で(1929年に)出版された著書の中で、マルクス主義を公然と拒絶した(弁証法的唯物論を「まったくのたわ言」と見なした)。短い獄中生活の後、学術研究を続けることを許され、第二次世界大戦中には講義を再開することさえできた - 生き残るためのロゼフの公式は、美学史の中へと撤退することだった。ロゼフは、過去の思想家、特にプロティノスを始めとする新プラトン主義者たちを解釈するという見かけの下、神秘主義者としての信念をこっそりと自説に持ち込む一方で、著書の序においてフルシチョフやブレジネフからひと言ふた言引用し、公式的イデオロギーを口先だけで支持したのだ。こうしてロゼフは、共産主義の有為転変を最後まで生き延び、1989年以後、ロシア神秘主義の伝統の正統な継承者として広く認められたのである。これに対して、優れた弁証法理論家でありヘーゲル学者であるイリェンコフは、心の底からマルクス-レーニン主義の徒であった。イリェンコフは、生き生きとした個性的な散文を書き、マルクス主義を、公式的格言集としてではなく純粋な哲学として研究するように努めた。だが、こうした試みは受け入れられなかった。イリェンコフは除名され、自殺した。「ジョン・キーンのハヴェル伝を読む」(批評空間 II-25)より
 どこの国のどんな体制下でも、結局最後に生き残るのは処世術に長けた人間なのかもしれない。たぶん学校の道徳教育などを真に受けて、その通りに生きればひどい人生になるだろう。イエスの末路にはそれなりの必然性があるようだ。日本でも、国家について真剣に考えている(笑)自由党の小沢一郎氏が周りの人々から煙たがれているのもわかるような気がする。どうやら小渕首相はかなり正統派の政治家らしい。

 なるほど、雑文ライターのように書くことは簡単だ。


3月29日

 それほど世の中の状況が切迫しているとは思われない。なぜか批評家や思想家の危機意識が自分には実感できない。立場の違いだろうか。それもあるだろう。しかしそれだけだろうか。それだけかもしれない。それでは今までこの場で述べてきた政治的・社会的・経済的言説はいったい何だったのだろうか。単なるジョークか?そうは思えないが、あれらを書いた時点では、何らかの危機意識や書く必然性があったことは確かだ。では今はないのか。今も何か書く必要があるのかもしれない。だが、以前とは何か違う感じがする。自分自身の心境の変化だろうか。それもあるだろう。しかしそれだけだろうか。それだけかもしれない。では今は何を書けばいいのだろうか。それがわからないので、なんとなく他人の書いたものを読んでいる。しかし、以前に比べて読むスピードが著しく遅くなったので、だいぶ読むべき書物がたまってしまった。ジジェッキアン・フリークの秋篠凛爾さんからは、スラヴォイ・ジジェクの『幻想の感染』(青土社)について批評を聞きたいとのメールをもらったが、自分にまともな批評ができるか不安だが、とりあえず昨日その書物を買ったので、なるべく早い時期に読んでみようと思う。少なくとも二ヶ月後くらいまでには読み始めていると思う。柄谷行人の『倫理21』(平凡社)は比較的薄い本だったのでちょっと前に読んでみた。ワイドショーやニュースショーのコメンテーターや新聞や雑誌のコラムニストが述べるようなことが書かれてあったのにはかなり驚いた。彼は思想家や哲学者ではなくエッセイストなのかもしれない(一応は文芸批評家らしい)。もちろんコメンテーターや雑文ライターよりはかなりマシなことが主張されているようで、さっそく自分もそれの影響を受けてしまって、この間、この場で死刑廃止論(柄谷自身はそんな主張はしていない)みたいなことを述べてしまった。一方、『ミシェル・フーコー思考集成』(筑摩書房)はなかなか読み終わらない。二巻から読み始めて、続けて一巻を数ヶ月前に読み終わり、今は三巻の途中で『批評空間』を読むために一時中断しているのだが、全部で十巻まであるそうで、もしかしたら全部読み終わるまでにあと数年の歳月を要するのかもしれない。考えただけで気が遠くなる。どうやらフーコーについてはこれだけで手一杯で、彼の単行本までは読む機会は巡ってこないのかもしれない。それはドゥルーズについても言えることで、あのような分厚い本は見ただけで気後れがしてしまう。なぜあれほどの分量でまとまったものが書けるのだろうか。しかもあれをまともに読む人まで存在するらしい。ちゃんと読んで内容が理解できるのだろうか。あれを読むだけでも自分にとっては想像を絶することだ。なるほど、あれらの分厚い書物の存在が、自分とはまるで資質の違う他者の存在を想像させるらしい。


3月28日

 どこにでもありそうな風景だ。電信柱と背景の山並みが重なりあう。そこに月並みな美は見いだせない。たぶん電信柱が邪魔なのだろう。電車の中から信号待ちの人々の群れを見かける。いつだったか鴨の群れを見かけたことがある。どこで見たのだろうか。街中で人の群れを見て、河川敷で鴨の群れを見かけた時の記憶が呼び覚まされた。何の関係もないそれぞれの群れが視覚の裏側で重なりあう。そんな嘘にはだまされない。しかし、恐怖映画よりはマシだろう。なぜ人々は震え上がるのだろう。道端で猫の死骸を見たからなのか。自然と目をそむける。信号待ちの人々はその屍をできるだけ見ないように心がけた。しかしそこにいる人々の心理内容がそんな簡単に見ただけでわかるだろうか。そんな嘘よりは、河川敷で鴨の群れを眺めている方が心安らぐはずだ。教会のステンドグラスは埃をかぶって煤ぼけていた。掃除を怠っているようだ。高い場所だから仕方ないのかも知れない。だが、台所の掃除も結構やっかいだ。換気扇の油汚れはなかなか洗い落とせない。油汚れのしつこさと恐怖映画には共通する要素がある。何度も何度も同じ心理的反復動作を要求してくる。もういい加減やめてほしいのに不快な光景が延々と目の前で繰り広げられる。卑猥なメールを何度も送ってくる人も、たぶんそれと同じ効果を期待しているのだろう。こちらもある程度はあちらの期待通りに不快感を表明して喜ばせてあげなくてはならないのだろう。あちらの努力もある程度は酬われなければならない。現代社会には様々なストレスが生じていることだろうから、その捌け口を必要とする人の存在もある程度は容認しなければならない。しかし本当に不快なのに、なぜ改めて不快さを装う演技をしなければならないのか。それは、本当に不快であっても、それが相手に伝わらない場合があるということだ。だからわざと取り乱した動作や発言で相手を喜ばせる必要がある。しかしそれがあまりにもわざとらしいと、却って自分がからかわれていると悟られて、さらなる反発を招きかねない。演技とは難しいものだ。演劇の効用とはそのようなものだろうか。セリフのわざとらしさを意識しなければ、オペラやミュージカルも意外に楽しめるのかも知れない。電車の扉の貼ってある『ライオンキング』の俳優を見て女子中学生たちが大げさに笑っていた。たしかにあの被り物とポーズはおかしい。


3月27日

 反復すること、何を反復するのだろう。そこには思いもよらぬことが書かれている。驚く。読むたびに驚く。驚きの連続だ。さらに読む。さらに驚く。驚きの反復だ。なぜだろう。親近感とは無縁の文章だ。自分とは遠く隔たった表現や内容にあらためて驚かされる。誰でも書けそうなものは実際に誰でも書く。誰もが模倣する。また、誰もが書く文章は誰もが読む。様々な人が同じようなものを書き、同じようなものを読む。そして、その文章は容易に忘れ去られる。また別の誰かが同じようなことを書くのだから、あえてその文章を記憶に留めておく必要はない。何かしら読んでいれば、すぐに同じような文章に出くわすことだろう。また、そこには保守的な力関係が作用する。その道の権威が書いた文章なら、その権威の後ろ盾を期待して、模倣者はありがたがって模倣した権威の名前を明記する。その結果、模倣する者と模倣される者との絆が深まる。模倣者の勝手な思い込みによって師弟関係が構築される。想像上の共同体が形成される。だが、無名の者の文章を模倣するときは明らかに態度が違う。無名の者の名前など明記しても何の得にもならないので(逆に自らのオリジナリティが台無しになる)、当然無名の者の名前は無視される。その結果、その者の存在すら無視されることになる。もちろん、模倣する文章自体が、誰もが書ける文章なのだから、あえて名前を記すほどの価値がない文章だ。こうして無名の者は模倣されるたびに抑圧される。だから、無名の者は誰もが模倣できるような文章を書いてはならないようだ。では何を書いたらいいのだろう。わからない。たぶん無名の者は書いてはならないのだろう。有名人しか書いてはならないのだ。無名の者は有名人の書いた文章を模倣していればいい。保守的体制派の言い分とはおおかたこのようなものだ。本当だろうか。さあ、書いてきたらこんな結論になった、それだけのことだろう。とりあえず、保守的体制派の言い分を受け入れるなら、もはや雑文ライターの書くようなことしか書けないだろう。ではどうしたらいい。書くことなど不可能だ。つまり、書くことなど不可能だがそこから書くだけだ。それが書く者の自由だ。自由など不可能だ。だが自由に書く。私にはよくわからない。だが、実際にこうしてここまで書いてきた。


3月26日

 平坦な道だ。どこまでもまっすぐにアスファルト舗装が続く。対向車はまるで来ない。のどかな田園風景といったところか。この辺で横道に入る。信号を右折した。閑散とした街路に午後の日差しが眩しい。どうやら嘘をついているらしい。スピーカーからけたたましいエレキの音色がこだまする。忘れ去られたハードロックナンバーがうるさく鳴り響く。忘れ去られたわけではない。そのフレーズは誰もが知っているが、もはや誰も感動しない曲だ。それを聴くと思わず口元がゆるむ。微かな笑いを誘うらしい。そんな形でしか生き延びることのできなかったハードロックは、どこか物悲しい雰囲気を漂わせる。キッチュの末路は悲惨なのかもしれない。真剣な演奏が笑いを誘ってしまうことは間抜けである。笑わそうとして笑わすことのできるコメディアンは、天才として皆の尊敬を集めるようだが、その存在自体が笑いを誘う者はバカにされる。大衆は頭が良さそうに見える人間を敬うらしい。それは暗黙の了解事項なのだろう。こうして、コメディアンで一目置かれる人間は大衆文化の担い手となる。大物になれば、もはや笑いを卒業して、庶民の味方として政治家になるか、あるいは芸術的な精進に励むと相場は決まっている。今まではそうだった。TVによって養われた大衆文化の一形態はそのようなものだった。これからはどうなるのだろうか。わからないし興味もない。大衆文化から遠ざかってしまったようだ。別に大衆文化をバカにしているわけではないが、何が大衆文化なのかよくわからなくなった。自分の認識として、大衆という言葉にあまりリアリティを感じなくなったようだ。大衆についてほとんど考えなくなったから、わからなくなったのだと思う。また文化についても興味がない。自分と同時代の大衆や文化にそれほどの重要性を感じない。例えば、今日、フランスの十八世紀を代表する文学者だと認識されているサドは、当時は三十年間も監獄に幽閉されていて、その時代の大衆文化とはほとんど関係のない人間だった。彼は牢屋の中でひたすら自らの妄想を紙切れに書き付けていたらしいが、当然そのメモ書きの読者はサド本人ただ一人だった。フーコーによれば、当時フランスで文字が読める者のほとんどが読んでいたという大ベストセラー本が存在していたらしいが、今日ではその書物も著者もとうに忘れ去られているようだ。そして当時サド本人しか読んでいなかったメモ書きは、今日では書物として出版されていて、世界中で翻訳され、数多くの様々な読者を獲得している。そこで気づいたのだが、なぜ当時の大ベストセラーだった本の著者ではなく、犯罪者のサドがフランスの十八世紀を代表する文学者なのか。なぜなんだろう。


3月25日

 かなりいい加減なことを述べているらしい。そんな気がした。いつもそんな気がする。こんな書き方しかできないのは仕方ないとしても、どうも違うらしい。確かに何か違うらしいが、どう違うのかがよくわからない。わからないから、とりあえずこれを続けるしかない。他の書き方ができないのだ。惰性に押し流されていることはよくわかる。とりとめのない気分なのもいつもの通りだ。だが、他の可能性を探らなければならないこともわかっているつもりだ。しかし、これもいつものことだが、頭の中に靄がかかっている。まだ別の可能性を試す時期ではないらしい。しかし、もはやこの書き方では限界だろう。だが、まだ続けたいようだ。これはどうすることもできない。やめることは現時点では不可能だ。やれ、という指令に突き動かされている。誰が指令を出しているのか。わからないが、この指令には逆らえない。どうしてこんな指令が発生するのか意味不明だが、この指令に従うしかないようだ。なぜかはわからない。とりあえずもうしばらく続けてみろ、ということらしい。以前にもこれと同じようなことを書いていた。この指令は繰り返し発せられるのだろうか。指令は循環するのか。しかしなんでそうなるのか。まるで根拠がない。論理もない。因果関係もはっきりしない。ただ指令だと決めつけている。強弁している。これは一種の神秘主義だろうか。とすると、わけのわからない神秘主義に引きずられながらこれを持続させていることになるのだろうか。そうかもしれない。なぜだろう。しかし何も出てこない。頭の中で何かと何かがせめぎ合いをしているのかもしれない。だが、今のところ決着がついていないらしい。膠着状態だ。膠着状態の間はこんな文章になる。本当だろうか。でまかせか?やはりかなりいい加減なことを述べているようだ。また循環する。振り出しに戻ってきた。さあ始まりだ。これからまた賽を投げなくてはならないのか。だが結果は分かっている。どこまで行っても決定不能状態だ。それはいつものことである。だが、いつものこと以外がない。いつものことしかないのだ。しかし、いつものこと以外には興味がない。本当か、これは本当だろうか。それとも嘘なのだろうか。嘘であるようで嘘でないような、結局はっきりとはわからない。しかし冗長だ。あとで読む気がしない。だからこの際はっきりさせよう。何をはっきりさせるのか。脈絡がない。不連続だ。不自然だ。つながらないが、強引につなげてみる。それは唐突に起こった。突発的な事故だった。だが、事故はいつでも唐突に起こる。だからそれは事故だった。事故でしかあり得ない。車で電柱に激突したようだ。運転していた人は死んだ。それだけのことだった。いつものことだ。どこにでもいくらでもありそうな事故だ。車を運転していればいくらかの確率で発生する、そんな事故だ。それを避けるには日頃から安全運転を心がけなければならない。そんなことはわかっている。だが事故は発生する。現時点ではどうしようもない。しかし安全運転を心がけるより仕方がない。だが、心がけていても事故は発生する。そこで、安全運転を心がけていれば、事故を起こす確率が減る、となる。これを信じなければならない。信じていても事故は発生する。だが、信じていれば安全運転を心がけるだろうから、事故を起こす確率は減る。しかしそれでも事故は発生する。神を信じることはこういうことなのかもしれない。本当だろうか。かなりいい加減なことを述べているらしい。


3月24日

 時を刻む時計の音に悩まされる。音がうるさいからだろうか。それほどの音量ではないのだが、妙に気になる。赤い秒針が動く度に目が覚める。一秒ごとに目が覚める。それはだいぶ誇張された表現だろう。だいいち眠っているわけではない。秒針の音が聞こえている間は起きているはずだ。昔は時計のない生活をしていた。朝起きる習慣もなかった。当然のことながら夜寝る習慣もない。日がな一日何もせずに何年も暮らしていた。そんな生活にいつの日か戻りたいものだ。今でもどこかにそんな生活をしている人がいるだろうか。金持ちかモラトリアムならそれができる。自分の場合はモラトリアムだった。今はとうに執行猶予が切れてしまったので、あとは金持ちになるか年金生活者になるかしないと暇人には戻れない。厳しい現実だ。何を今さら甘ったれたことを言っているのだろう。追憶とは甘ったれた願望が反映しているようだ。どうやら自分は、昔も今も生ぬるい人間なのかもしれない。自分で自分を追いつめることなどとうてい無理だ。苦労知らずの人生だ。これでは他人を批判する資格など何もない。だからこそ批判できる。苦労人は他人を批判する術を知らない。おそらくそれを学ぶ暇がなかったのだろう。目標に向かって努力することのみに明け暮れ、知らず知らずのうちに世間知らずになったのだ。だが、実際に世間を知っているのは、社会の荒波にもまれて厳しい競争を生き抜いてきた苦労人の方だ。矛盾しているではないか。なぜそれが世間知らずの証しなのだろう。たぶんそれは生きている次元が違うのだと思う。どちらが高いか低いかというのではなく、批判者と苦労人は別世界で生きていることになるだろう。同じこの世界で共に生きているのに、一方では別の世界で生きていることになる。両者には何の接点もなく、いわゆるねじれの位置に存在する。苦労人にしてみればそれは大変不愉快なことだ。自分が必死になって努力し築き上げてきたステータスに軟弱者の青二才がぐだぐだ文句を言ってくる。それは絶対に許せないことだ。批判する資格のない者が批判している。だが、現実には批判する資格のない者しか批判できないのかもしれない。批判する資格を有する人々は現状を肯定することしかできないのだから。


3月23日

 いやなことはすぐに忘れたい。そんなことは不可能だ。不可能だが忘れてしまった。確かに不可能だが忘れることを許された。いったい誰に許されたのだろう。彼だ、彼が許してくれた。だが、彼とは誰なんだ。彼のことは忘れてしまった。彼が誰なのか忘れてしまった。ある時彼は海岸沿いの砂丘の上に佇んでいた。何か言いたげだったが、すぐに口をつぐんだ。それ以来彼は押し黙ったまま何もしゃべらなくなった。視界には海が広がっている。海は何も語らなかった。またある時、彼は屋上で生活していた。そこで何かが起きた。あの幻影を見て以来、彼は変わった。何を見たのだろう。神の姿でも見たんだろうか。たぶんそんな幻影だったのだろう。視界には空が広がっている。空は何も語らない。では何が、あるいは誰が語っているのだろうか。海ではない何か、空ではない何かが、彼についてこうして何かしら語っているのだろう。遙か遠くのこの世の果てまで見通せる視線がこちらに向かって注がれている。こちらからは何も見えないが、あちらからはこちらがはっきりと見えるそうだ。それは誰の視線なのか。やはり神の視線なのか。神は安易だ。何でも神を持ち出せば片が付くのか。それが神という言葉の機能なのだろう。ここでの神は秘教的概念には進展しない。常に神秘主義から遠く離れる。使い古された言葉だ。ところで、それから彼はどこへ行ったんだろう。あからさまな光景だ。見渡す限りただ石ばかりが転がっている。昔の川の跡なのだろうか。しばらく歩くと水たまりを見つけた。周りには雑草がいくらか生えていた。彼はそこにもいなかった。誰か荒れ地で叫んでいる人を知らないか。荒野に人影はない。荒野にはサボテンがよく似合う。西部劇の影響か。荒野には忘れ去られた墓地がある。近くに町があるのだろう。教会だろうか。丸屋根の寺院が見える。そこでは、寺院の天井を覆い尽くす巨大な眼に見据えられながら僧侶たちが修行に励んでいた。遙か昔の出来事だ。廃墟と化した石造りの町並みは、今では観光産業のためのありふれた風景だ。ここではないどこか、エキゾチックなだけの夢のゴミ捨て場だ。そこに人影はない。物売りと観光客以外は。


3月23日

 うんざりだ。なぜ自分が今さら社会批判をやらざるを得ないんだろうか。なんでまともな報道をしてくれないのだ。どんなに凶悪な事件だろうと、どんなに被害者が残虐な殺され方をされていようと、なぜ国が被害者の家族に成り代わって彼らの復讐を代行しなければならないのだ。犯罪者への復讐を実行するために裁判という制度があるのか。違うだろ!やはりそのような勘違いや誤りを正すためにも死刑制度は即刻廃止すべきだ。死刑は紛れもなく国家による殺人行為だ。どのような理由があろうと、どのような必然性があろうと、そのような特権が存在すること自体が不公平だ。何よりも国家と国民の対等な関係を阻害している。それに、何よりも死刑制度の存在こそが被害者の家族の甘ったれた復讐心を煽っているのだ。卑劣な犯罪で肉親を失った心の傷が、加害者が死刑になればいやされるというのなら、人が死ねばいやされるその心の傷自体が許せない。人を殺していやされるその心はどこまでも醜い。心の傷をいやすというその愚劣な行為は即刻やめてほしい。犯罪被害者は永遠に酬われることはない。失われた命は二度と戻っては来ない。犯罪者の命を奪ってみても同じことだ。また、マスコミは、犯罪被害者の家族を擁護したいのなら、同時に犯罪加害者の家族も擁護すべきだ。犯罪加害者の家族だって村八分などの非道い迫害を受けているんじゃないのか。中には世間の弾圧を苦にして自殺した人までいるそうじゃないか。

 しかし、なんで単なる一般人の私が、こうして世間から嫌われるようないやなことを書かなきゃならないんだ!なんで私ようなマイナーな人間が、こんな損な役回りを引き受けなければならないんだ! この程度のことはちょっと考えれば誰にでも書けることじゃないか!いや、死刑反対の立場からもっとましな意見を述べられる人間はたくさんいるはずなのに、どうしてこういうときに限って何も言わないんだ!誰かメジャーな人がちゃんとした公の場できちんとした発言をすべきだし、それを報道機関はちゃんと伝えるべきだ。復讐心に凝り固まった被害者の肉親だけをTVでヒーロー扱いするのは不公平だ。許せない!これこそ大衆迎合主義だの最たるものだ。この文章をネット上に公開するのは気が重い。苦痛だ。


3月22日

 何も語らないこと、それが嘘の始まりだった。どこで強固な信念が生まれるのだろう。生死の境などを彷徨ったことはない。そんなものは軽く避けて通る。生きるか死ぬかのどちらかだ。確かに双子の伝説をどこかで聞いたことがある。どんな内容だったろうか。忘れた。それは忘れたことになっている。ご想像に任せよう。出口はいくらでもあるそうだ。出口がありすぎて、どこから出たらいいのか迷ってしまう。それが迷路の始まりらしい。新しい境地とはそういうものなのか。では古い境地とはどんなものだったのだろう。誰かが闇夜に吸い込まれる。嘘の始まりと迷路の始まりがどこかで出会う。闇夜でお互いを見つめ合う。だが、時間がゆっくり流れたり急速に過ぎ去ったりしているうちに、いつの間にか闇夜は忘れ去られた。闇夜にこだわっていた人々も、そこに生息していた動物も、ついでに忘れ去られた。人間と動物が共にお払い箱になったわけだ。昼のただ中で時間が麻痺している。夏とはそういう季節だろう。春はすでに取り残された。その置き去りにされた春を懐かしむ人々は、どこかで救いを求める。どこで?彼らは春という場所を想像しているらしい。季節に場所があるのだろうか。大相撲なのか。それは退屈な展開だ。季節は退屈な概念だ。どこかで道に迷ったようだ。偽りの出口から出たのだろうか。しかしどこから出たのだろう。出口から。そこは入り口ではない。ではどこへ入ったのだろう。どこへも入らなかった。どこへも入れなかった。ただ出口から出ただけだ。別に取り残されたわけではない。取り残された人々はとうに忘れ去られた。本心をさらけ出す合間もなしに、ただ次々と忘れ去られた。本心をさらけ出すことはそれほど重要ではない。だから本心までが忘れ去られた。彼らのくだらない感情は無に還った。もうつまらない心理学とはおさらばだ。理性と感情の相補的関係を考察するまでもない。たぶん、人間の攻撃性がどこかで発揮されたのだろう。しかし、それが発揮されたとたんに無効になった。今では苦しみあえいでいるようだ。今までごまかしを重ねてきたつけが一気に噴き出したらしい。やはり彼も闇夜に吸い込まれてしまうのだろうか。忘却の彼方で灰塵に帰すのか。つまり、救いを求める場所とは忘却の彼方だ。そこが最後の場所なのだろう。すでに死んでいる。生死の境を彷徨う暇はない。迷路で迷う時間もない。ただ出口からお引き取りをねがうだけだ。それが不満なら思い出せばいい、自分たちの季節を。過ぎ去った季節を心ゆくまで懐かしめばいい。


3月22日

 『批評空間』が本当に休刊になった。やはり、この場で度々取り上げたのがまずかったのだろうか(笑)。しかし、最終刊のII-25の蓮實重彦と浅田彰の討議「ゴダールの『映画史』をめぐって」を読んで、少し勇気づけられた。こいつら二人は本当に頭がおかしい。こいつらのキチガイ度から比べれば、私なんぞはまだまだ一般人レヴェルであることを痛感させられた(笑)。この程度ではまだ異常の内に入らないようだ。何やら私はまだまっとうな人生を歩んでいるらしい(笑)。


3月21日

 読みやすい文章とはどのようなものだろうか。こんな書き方ではだめなんだろうか。この文章に対する感想は、近頃はほとんど来ないので(最後に来たのは去年の秋だったろうか、おもしろい、ただこの一言だった)、自分で判断するしかないのだが、当然のことながら、自分では客観的な判断はできないと思う(そもそも客観的な判断という判断自体にどのような基準を設定しなければならないかが問題だ)。しかし他人の感想も当てにはならない。だからわからなくて当然だろう。つまり、読みやすい文章とはどのようなものだろうか、という問い自体に、今のところ答える材料が何もない。やはり、こんな書き方ではだめらしい。ではいったいどのように書いたらいいのだろうか。同じような問いだ。またくだらぬ循環を繰り返しているようだ。何か書く対象がないとこんな問いばかりになる。困ったものだ。だがそれでもこうして書いている。不可能な問いに対する、わからない、という答え、それがただ繰り返される。なぜだろう、なぜこんなことをやっているのだろう。だがこれも問いのヴァリエーションのひとつだ。しかしこの循環は何なのだろうか。やはりわからない。試しにこのわからないことに対する理論的な探求でもやってみたい気もするが、いったいどうやって何を探求すればいいのか手がかりが何も見つからない。結局わからない。こればかりだ。もういい加減に雑なこじつけでこのじれったい状況をなんとか切り抜けてみようか。たとえば、いきなり違うことを書いてみればいい。しかし、きちんと考えることと雑なこじつけで切り抜けることとの間にはどのような差異があるのだろうか。また、そのような差異が生じているとして、その差異が出現する条件とは何だろうか。しかしこんな煙の巻き方はつまらない。というか、これで煙に巻いていることになるのだろうか。いったい何を書いているのか。

 たぶん、経済的な事情に関する問いがあるのだろう。たとえば、貨幣を介しての商品の流通形態を変える可能性について考えることにどのような意義があるだろうか。今あるシステムの矛盾を是正したいらしい。現実に起こっている貧困や奴隷労働をなくすために、必然的に貧富の格差の増大を招くような富の蓄積を招かないシステムのあり方について考察すべきらしい。では、豊かさを求める欲望や競争心をどうやって抑制すればいいのだろうか。はたして共産主義者が考えるような富の平等な分配が可能なのだろうか。このような素朴な問いに納得できるまともな回答を携えている人はいないだろうか。確かに、自分は今までこのような問いを抱かざるを得ないようなシステムの中で生活してきたらしいが、では、このような問いを生じさせたシステムについてどう考えればいいのだろうか。これからどうすればいいのか。なぜ自分がこのような問いを抱くに至ったのか、そのような問いがシステムの中でどのように生成されたのかその問いの成立条件を考察すればいいらしいが、それはずいぶんややこしいやり方だ。しかしそこから何がわかるのだろう。自分には忍耐が欠けている。堪え性がない。どうしても物事を短絡的に考える癖がついてしまった。やはりその誘惑には勝てない。そんなややこしい過程はすっ飛ばして、一気に過剰に現状肯定をしてしまう。今推移しつつある第二の産業革命である情報革命をさらに推し進めて、さらなる貧富の格差の増大を招くように先進各国はこぞって努力すべきだとは思う。本当にそのような結果になると思い込んでいるならば。こんなふうに考えるしかない。だが、情報革命で本当に貧富の格差が増大するのだろうか。しかも世界規模で?情報革命が進展すればそれだけ通貨(電子マネーなど)の流通も活発になり、却って富が一ヶ所に溜まりにくくなり、豊かさの一極集中が軽減される可能性もあると思うが。しかし、現実にそうなったとして、だからどうだというのか。たぶんそうなれば、貧困や奴隷労働の質や形態が今とは違ったものになるだろう。かつてのような劣悪な環境で働く炭鉱労働者が世界的に激減したように(日本では紡績工場の女工さんがいなくなった)。ただ、貧しい国の住民はそれに取り残されるそうだが、日本に暮らしている自分にとってはあまり実感がわかない。失業して浮浪者にでもなれば彼らの苦しみがわかるのだろうか。そんなことしかわからない。それが自分の思考の限界かもしれない。どうやら自分は、マルクスを過大評価するような環境には生きていないようだ。自分には何かが欠けているらしい。


3月20日

 しかし何を捜していたのだろう。それが思い出せない。そして今は、その思い出せない記憶を捜しているつもりらしい。いつものように偽りの記憶でも捏造してみようか。そんな解決法にすがるぐらいしか思いつかない。どこかでこの退屈な堂々巡りが断ち切られたりするのだろうか。それが実現するかもしれない遠い未来に思いをはせる。つまらぬ作為にはつきあいきれない。未来の人々にこれを読む機会が巡ってくるだろうか。その前にこれが消滅してしまう可能性がある。自分の生きている間はこれを維持したいが、それもいつ気分次第でやめてしまうとも限らない。NetscapeをパクッたIE(Internet Explorer)みたいな人々にはかなりうんざりさせられたが(そういう人々に限ってマイクロソフトを批判したりLinuxを持ち上げたりしているのはかなり皮肉な現象だ)、それでもこうしてなんとなく続いていることに対しては、自分にはよくわからない。もしかしたら今書いているこのような文章は、もはや現実の自分とは関係のないものなのかもしれない。リアリティが希薄だ。これはフィクションの世界での出来事かもしれない。そんな思いに捕らわれる。これが紛れもない現実だとはどうしても認められないらしい。たとえば、自民党や官僚を批判する人々がそれよりもさらに自民党的官僚的メンタリティだなんて、いったい誰が信じるだろうか。こんな認識に至った自分の頭がおかしいのだろうか。ならば自分の頭がおかしくなった原因を自分で見つけなくてはならないようだ。しかし、それをやるだけの気力が今の自分には欠けている。だが、そこまでやらなくてもいいような気もする。もうこんなことはどうでもよくなってしまったのかもしれない。もうすでに反体制派気取りで勇ましいことを叫ばなくてもいいような気がするのだ。その手の人々がいかに保守的体制派なのかよくわかったのだから。だが、これからいったい何を書いたらいいのだろうか。もう書くことは何もないような気がするのだが、こうしてまたしてもこんなつまらないことを書いてしまった。もしかしたらこれからはこんなルサンチマン的なことしか書けないかもしれない。しかしこれでもいいとは思う。実際に何もないのだから仕方ないだろう。


3月19日

 これまでにどんなことを経験してきたのだろう。あまり思い出せない。あまり積極的に思い出そうとしていないのかもしれない。印象深い思い出など今さら語ることはできない。それを語ることは虚構の振る舞いになってしまうだろう。ここに書くために思い出という記憶を再構築することになるからだ。再構築された思い出は実際に体験された過去の出来事とは違う。何かが抜け落ちて何かが強調される。それは今の気分を反映している。真っ白な壁に突き当たる。眩しい。そこから目を背けざるを得ない。壁に背を向けた。もう真っ白な壁は見えない。見ようとしないのだから、とりあえずは見えないことにしておこう。なぜそれを見ようとしないのだろう。壁によりかかって考えてみる。冷たい。背中に壁の温度が伝わる。それを見ずに冷たさだけを感じ取る。そのかわり、壁を背にして正面を見据える。壁を見る勇気がないからそうしているのかもしれない。それでなんとか体裁を取り繕う。偽りの身振りだ。視線が宙を舞う。何かを捜しているらしい。語りをつなぐ手がかりを見つけようとしている。どこにでもありそうなありきたりの庭に見える。この語りを続けるために必要な対象が見つからない。やはり壁に向き直るしかないのか。白い壁と対峙するしか道はないようだ。道はない。その庭には、確かに道がなかった。何かを避けているようだ。道を避けている。歩みを止めてからだいぶ経つ。だからもう道が見えなくなった。こうして白塗りの壁に囲まれた狭い庭に佇んでいる。壁の向こう側にあるかもしれない道は壁に遮られて見えない。壁の向こうに見えるのは遙か遠くの風景だ。たぶんそれが思い出なのだろう。なるほど遠くに見える山は印象深い。つまり、今見ている風景が今の気分を反映している。流れる雲に乗って遠くへ行きたい。使い古された紋切り型だ。さしあたってこんな表現がお似合いだろう。やはり壁を見なければいけないのか。そして、壁を乗り越えて向こう側の道に飛び降りなければいけないらしい。そんなパンクロック的革命幻想に少し浸ってみる。気を取り直して素直に出口から出る。簡単に道に出られた。実にあっけない。結局、壁を乗り越える苦労など何もわからなかった。その庭は出口のない迷路などではなかった。道は相変わらず道だ。側溝からはどぶの臭いが微かにする。何のロマンも感じない。とうてい雲には手が届かない。


3月18日

 それを否定すること、否認すること、拒否すること。世の中には、何に対しても抵抗することを生き甲斐としている人がいるようだ。それは誰だろう。つまらぬ詮索はなしにしよう。依然として抵抗する対象を見つけられない。自由とは何だろう。そのような疑問に抵抗してみようか。だが、それがわからない。自由に生きなければならないらしい。自由を目指さなければならないそうだ。不自由を体験するために?不自由に抵抗するために?その結果として不幸になる。不自由を認めようじゃないか。自らの不自由な境遇を呪うのはやめにしよう。だが、その替わりに不自由の原因を探らなければならないそうだ。しかしその不自由の原因を知ろうとすることがいったい何になるのだろう。原因を探求している間は気が休まるということか。ならば、自由を望むことは気休めだ。つまらない循環になってしまった。対象がないからそうなる。ないわけではないが、どうしてもその固有名を語ることができない。偽善の徒の名前を口に出すことができない。無理矢理書くと頭が腐るかもしれない。他人を手段としてのみならず目的とせよ、と述べている当の人間が、実は違うことをやっている。自分の信奉する人物以外はただの手段として利用する一方で、さらに利用した人物を批判してみせる。それも、その人物の固有名すら無視した形で批判する。わかる人にはわかるようにいやらしく書く。それは最低の批判のやり口だ。もちろん、場合によっては固有名をあげて批判することもある。つまり、論破できる人物に対しては積極的に名指しして批判するが、それが困難らしい人物に対しては、名指しはせずに、遠回しにその人物がかつて批判した人物を擁護してみせることで間接的に批判する。つまらぬ処世術だ。雑文ライターのレヴェルではそれもかまわないが、まともな著作のある人間がそのようなことをやっていると、かなり不快な印象を抱きざるを得ない。だが、当人は、そのような嫌らしい面は括弧に括って読め、とも述べている。それは自己正当化のひとつの形態かもしれないが、これからはそう読むしかないのだろう。こうして自分にとって、その人物は相対化された。しかし、彼が名指しせずに批判した人物は未だ持って相対化できない。相対化は不可能かもしれない。


3月17日

 躓きの石がどこかに転がっている。何の具体性も獲得できずにその存在すら忘れ去られた無名の人々がどこかで蠢いているらしい。中には膝まで土に埋まった者もいる。身動きがとれずに助けを求めてわめいているが、その叫びはどこへも届かない。大きな石が坂を転げ落ちる。何かが押しつぶされたようないやな音がした。石はどこへ落ちてゆくのだろう。たぶん坂の下だ。誰もその石を支えることができなかった。ただ転げ落ちて行く先を見つめるばかりだ。のんびりとした風景に浸される。なぜ牧歌的風景に魅せられるのだろうか。しかし誰が魅せられているのか不明だ。それは石に押しつぶされた人の思い出だったかもしれない。遠い記憶の中をさまよっていたら、頭上から大きな石が落ちてきた。ただそれだけのことだ。さて、そこからどのような教訓を導き出せばいいのだろうか。思い当たるような教訓は何もない。安易に教訓ばかりにとらわれていては愚かだ。それが教訓なのだろう。ところで、彼はどこでその石に出会ったのだろうか。躓くたびに足下に転がっている石を認識する。では、なぜそれが石でなくてはならないのか。たとえば岩ではだめなのだろうか。それは登山者の場合か。中には空き缶に躓いた人もいるはずだ。電車が来た。空き缶をくずかごに投げ入れた。電車の中には大きな石が転がっていた。坂を転がっていた石は、電車で町までやってきた。犬と一緒だ。猫が大きなあくびをしている。犬もつられて大あくびをする。それが牧歌的風景というものか。中には臍まで土に埋まった者もいる。彼は額にとまったハエを取り除こうと折れた両腕をぐるぐる回しながら必死になってもがいていた。たぶん、あと数日もすれば疲れて死ぬだろう。だが、なぜ彼を見殺しにしなければならないのか。それがわからない。できれば頭のてっぺんまで土に埋まって早く死にたかったのかもしれない。牧歌的風景はどこか残酷だ。世間から忘れ去られた無名の人々は、そうやって徐々に残酷な風景に取り込まれてゆくのか。できれば、どんどん土の中に埋没していく体験を私に語ってほしい。


3月16日

 日本語変換ソフトのATOK13 for Macintoshに不具合があったようで、それを開発・販売しているジャストシステムから、不具合を修正したアップデート版のCD-ROMが不具合に対するお詫びの文章とともに郵送されてきた。もちろん無償でだ。アップデート版を送ってやるから金を振り込め、とかいう高飛車な殿様商売を平気でやっているどこぞの会社とはわけが違う。こういうまともな対応ができる会社がコンピュータ業界にあったとは驚きだ。しかし、これと同じ対応を日本のLinux販売業者に求めるのは無理かもしれない。たぶん、それをやるだけの予算と人員を割けないのだろう。それに、単一の動作が売りのアプリケーションソフトと、様々な複数の動作を総合的に要求されるOSとでは、不具合の質や量も異なるのだろう。それに彼らはLinuxそのものを開発しているわけではない。アメリカで別の業者やボランティアのコミュニティが開発したLinuxに、日本人向けの装飾を施して販売しているだけだ。開発元のLinuxに存在する不具合を販売業者が見つけるのはなかなか難しいのかもしれない。なにしろ、例えばメジャーなOSのWindowsでは、それを開発してそのOSのことを一番よくわかっているはずの当のマイクロソフト自身が、OSが発売されて以降、底なし沼のように無限に発生する不具合にまともな対処ができていないようだから。だが、以上に推測される事情が仮に当たっていたとしても、それは単なる言い訳でしかないだろう。実際にまともな対応をやったジャストシステムはまともな会社だ。そして、どのような事情があろうと、それができない会社はダメ会社だ。それが商売やる者の責任であり、そのようなやって当たり前のことができない、倫理観の欠如した者は商売にかかわるべきでない。そのような業者の製品を買って 彼らを甘やかしていると、結局は回り回って消費者が不利益を被ることになる。現実に不具合だらけの高い製品を買わされて苦労している人が大勢いるではないか。


3月15日

 ないものをあるように見せかけることによってどのような効果を期待しているのだろうか。それは、よくありがちな罠なのか。それで読む者の動揺を誘おうとしているわけか。しかしなぜそんなものに動揺しなければならない。どのようなリアクションで驚き焦れば満足するのだろう。たぶんヒステリー発作でも起こせば、罠を仕掛けたつもりの相手は喜ぶのかもしれないが、そんな心にもない演技までしなくてはいけないだろうか。こんなものがそこまでやる必要を感じさせるような罠なんだろうか。いまいちピンとこない。そこに行けば誰に出会えるというのだ。おまえ以外は誰もいないではないか。そこでどんな演技をすればいいんだ。例えば、こめかみに血管を浮き出させてわめき散らせばおまえは喜ぶのか。できれば疲れることはしたくない。今は汗をかくような季節ではない。物事を穏便に済ませることがなぜいけないのか。何をどのように再配置すればわかってくれるだろうか。どのような配分ならおまえは満足するのか。言葉や術策を弄することには腹が立つらしいが、ではどうしたらいい。たぶん、何をやっても腹が立つのだろう。それを読むたびに怒りがわき上がってくるのだろう。では、具体的に何に対して怒っているのだろうか。たぶん、不可能に対して腹を立てていると思う。そこには誰にもどうすることのできない空虚が存在するらしい。それを書く者も読む者も、そこに書かれた文章を排除できないでいる。自分の思ったとおりのリアクションをしてくれないのがいけないのだ。だからますます感情的になって攻撃を仕掛ける。それの繰り返しが犯罪に発展するのかもしれない。もうどうしようもないのだろう。たぶん後戻りはできないだろう。わかってしまえばつまらない構造だ。人間などその気になればいくらでも単純になれる。それが罠といえば罠かもしれない。考えてみれば書く素材などいくらでもあるらしい。じっと待っていれば親切にもあちらからやってきてくれる。しかし、なぜこうしてわざわざ書く素材を提供しにやってくるのだろうか。なぜ無視してくれないのだろうか。なぜそんなにまでして書かせたいのだろうか。やめてしまうと張り合いがないからなのか。しかし自分にはなぜ自分がこうして書いているのかその必然性がわからない。この先何を書くのかもわからない。たぶん自分が書くことに対してあまり関心がないのだろう。とりあえずは、他人と少し違うことを書ければ満足するのだろうが、それは書いた結果を読んで判断する読者としての感想だ。そんなことに満足する以前にそれはすでに書かれている。


3月15日

 久しぶりにPCネタを書いてみる。昨日ソフマップ町田店に行ったら、iMacでインターネット体験コーナーをやっていたので、試しにブラウザのIE4.5でこのページを見たら、なんと文字の色が表示されないことに気づいた(トップページが汚く見えてしまう)。自分のPowerBookのIE4.5では問題なく表示されていたので意外だった。それで、まさかIEでこのページを見るとみんなこんなふうに汚く見えてしまうのだろうか、と思って、今日PC9821XsのWin95にIE5.0を入れてこのページを見たら、とりあえずは問題なく表示された(相変わらずJavaScriptのVirtual文書は表示できないが)。なぜだろう、なぜiMacのIE4.5ではまともに表示できないのだろう。たまたまあそこにあったiMacの調子が悪かっただけなのだろうか。まさかあんな大々的にiMacのネガティヴキャンペーンをやっているとは思えないが。

 また、iMacと同時にiBookも展示されていたが、なれないせいもあるだろうが、操作性が悪い。あらためてPowerBookの操作性の良さを実感した(OSは重いが)。さすがに値段が高だけのことはある(笑)。

 ところで、ソフマップで日本語入力システムのVJE-Delta Ver.3.0 for Linux/BSDを買ってみた。FreeBSDだけのためにあらためてWnn6 ver3.0を買うのはもったいなかったので、値段の手頃さも手伝って(5千円弱)軽い気持ちで買ってしまったが、とりあえずはその判断は正解だったようだ。今この文章はdp/NOTEと組み合わせて書いているが(kinput2入力と同じ設定にすれば使える)、けっこう操作性は快適だ。

 また、しばらく前からこのページのカウンターをやめたので(これで毎日10ずつとか20ずつとか決まった数字でカウンターの数を上げてくれるカウンター増やし魔の人も退散してくれるだろう)、けっこうこのページを頻繁に訪れることができるようになったのだが(自分で自分のページのカウンターを上げるのは気が引ける)、おかげで、このファイルにはだいぶ文字化けがあることが判明した。どうもMac用のFTPのFetchでプロバイダのサーバからこのファイルをダウンロードするときに、ファイルの種類をテキストと自動判断してダウンロードしてしまうのが原因ではないかと思う。とりあえずこれからはカウンターの数字を気にすることはないので、Netscapeで堂々とダウンロードできる。

 それから、リンクから自分が影響を受けやすいページを削除した。どうもそれらのページを見てしまうと、つられて自分も同じようなことを書いてしまいそうな気がするので、なるべく見ないようにするためにあえて削除しておいた。いずれもメジャーなページなので、ここで削除したからといってとりたてて何も影響はないだろうと思う。自分はああいうものとは何か違うことを書いてみたい気がする。


3月14日

 不思議な形の雲だ。ひとりの男が映画のスクリーンに映った雲を眺めている。くの字に曲がった黒い雲が太陽を覆い隠している。そして、その光景はプラスチックケースで梱包されていた。今、そのスクリーンに映った雲を眺めている男をプラスチックケース越しに眺めている。その透明なケースに蛍光灯の光が反射する。正面からケースを眺める自分の顔とケースの中で横向きでスクリーンを眺める男の顔が、蛍光灯の光の反射によってひとつに重なる。だが、男はケースの外から眺められていることには気づきはしない。そんなことは当たり前だ。写真のなかの人物がそれを眺めている視線に気づくはずがない。ところで、男が眺めているものは本当に映画のスクリーンなのか。よく見ると、どうも違うような気がする。スクリーンにしては少し小さい。こころもち画面が湾曲しているようだ。どうもそれはテレビのブラウン管らしい。では、くの字に曲がった黒い雲の正体は何だろう。沈没寸前の船から黒い煙が吐き出されている。どうやら火災を起こしているらしい。その煙が雲に見えたのだろう。黒い煙を吐き出しながら沈没しかかっている船のTV映像を眺めている男がジャケットのCDケースを眺めている。まわりくどい説明だ。その説明を長々と書くためにわざと見間違えてみせたのか。どうもそうではないらしい。これを書く前には、男が眺めているのが映画のスクリーンだと思いこんでいたし、彼が太陽を覆い隠す黒い雲を眺めていると見えた。傾いて今にも沈没しそうな船の存在も認識できなかった。なぜだろう、なぜ書きながらそれをわかることができたのだろうか。書くことによって観察能力が高まったということなのか。ところで、ケースの裏面には男の正面から見た顔がある。顔の半分は青い。影の部分は真っ黒で光の当たっている部分は青い。だが、その顔はべつに何も語りかけはしない。目が何かを訴えかけているわけでもない。ただ青いのだ。その青い色が何を意味するかはわからない。だが青いのだ。その青い顔は強烈だ。プラスチックの反射で、今度は青い顔とその顔を眺める自分の顔がぴったりと重なる。自分の顔が青くペイントされる。青いマスクをした自分の顔は異様だ。それでは、ここで自分は何を語りかけているのだろう。その目は何を訴えかけているのだろうか。だが、仮面は何も語りかけはしないし、たいていの場合、仮面の目の部分は刳り抜かれている。なかには描かれた目がついている場合もあるが、仮面には何も見えない。それをかぶった人間が見ている。では、仮面にはどのような機能があるのか。それを見た人を驚かせるために仮面は存在する。だから青い仮面は強烈だ。その異様さに驚かされる。べつにそれが何を語りかけているのか、あるいは何を訴えかけているのかをわかる必要はない。ただそれを見て驚けばいいのだ。やはりまわりくどい説明だ。なぜこんな説明を長々と語っているのだろうか。それはわかりきっていることだ。


3月13日

 未だ定まらない視線から目をそらす。長居は無用だ。何も感触を得られないようだ。午後の陽ざしに煌めきながら埃が宙に舞う。ソファーには灰が降り積もる。誰が掃除するのだろう。床が砂で傷ついている。スリッパの裏についた砂がヤスリのようにフローリングの床を削っている。怠惰な喫煙者が部屋を汚し続けた。長年にわたってはきだされたタバコの煙で壁と天井が煤ぼけている。テーブルの上はまるで囲炉裏端だ。灰皿から吸い殻が溢れ出す。テーブルの下にあるブリキのバケツの中にも濁った水の中に大量の吸い殻が浸されている。考えてみれば、異常な環境で生活していたようだ。こんなひどい環境では、癌で死んで当然だろう。自分の場合はコーヒーの飲み過ぎだ。すでに胃が荒れきっているのに、コーヒーがやめられない。もう何年も胃の調子が悪い。このままでは胃癌になるかもしれない。なぜ体に悪いとわかっているのに、それがやめられないのだろう。だがその原因を考える気にはなれない。もう十分に分かっていると思う。こうして人は自らの寿命を縮めているわけだ。愚かなことだと思う。きっと死ぬ直前に後悔するのだろう。しかし今は後悔していない。だからやめられないのかもしれない。それが、やめられない様々な原因のうちのひとつということなのか。だが、こんな見解にはあまり乗り気がしない。自分の胃の不調をあまり深刻に考えることができないのだ。だから、胃が痛いのに軽い気持ちでコーヒーを飲み、結果的に更に胃痛を悪化させてしまう。やはり愚かなことだ。こうして人は自らの命を削っているわけだ。怠惰はヤスリのようにその体現者自身を削り続ける。まさに身を磨り減らして破滅を呼び込むわけだ。そこに積極的な意味は何もない。ただの自滅だ。太く短く生きた無頼派にロマンを見いだす人々の気持ちも分からなくはない。しかしそれは枝葉末節なことだ。なぜだろう、なぜそれが枝葉末節なのだろう。例えば『火宅の人』を書いた小説家は一人だけだが、「火宅の人」状態の人は全国にごまんといることだろう。べつに彼ら全員が自らの体験を小説に綴ったわけではない。それに『火宅の人』を読んでそれに感銘を受けて、自らも小説に倣って無頼派になろうと志すおめでたい人などほとんどいないだろう。自らの生きたいように生きられるわけがない。ただ、生きたいように生きていると思いこんでいる自称無頼派がごく一部に存在しているにすぎない。しかしそのような勘違いは、枝葉末節な部分であって、本当はどうしようもなくただ漠然と生きているにすぎない。ただそれを認めることのできない人々が大勢いるのだと思う。たぶん、こんな見解にはあまり乗り気がしないだろう。自分もそうだ。


3月12日

 いつもながらの風の音だ。強くもなく弱くもない。竹藪から風の音が聞こえる。彼は平野と山地の境目に暮らしている。近くの河原で石を積み上げるのが日課だそうだ。そんな偽りの作業に惹かれるらしい。しかし、どのような目的でそんなことをやっているのだろうか。それがなんのための作業なのかわからない。たぶん、意味や目的のない架空の作業なのだろう。だが、実際に彼が作業をやっているところを見た者はいない。しかし、彼の周囲では、彼が日がな一日河原で石積みに汗を流していることになっている。そのような申し合わせができている。口裏合わせというやつだ。どうして?なんのために?彼がすでに死んでいるからだ。彼の仕事も架空なら、その存在自体も今では架空のことなのか。しかしもっとましな嘘がつけないものだろうか。それに、なぜ今までそのようなわけのわからない嘘で世間をだまし通せたのか。別にだましているわけではない。彼が死んでいることなど誰もが知っている公然の事実だ。では、なぜそんなまわりくどい慣習がいつまでも続いているのだろうか。それでなんの不都合もないから続いている。彼の生死などはどうでもいいことだ。毎日石積みの作業に精を出していてくれればそれでいいのだ。それが嘘でもかまわない。要は、架空の話のどこまでで口裏合わせするかだ。たまたま彼が石積み作業をやっているところまでで皆の妥協が成立したわけだ。それくらいなら簡単だろう。話の文句も覚えやすい。彼の姿を見た者など誰もいやしないのだからそれでいいだろう。いらぬ詮索はしないでほしい。そんなわけで彼は河原で毎日石積み作業をやっていることになっている。その作業はこれからも続いてゆくのだろう。これが彼について語られた作り話のヴァリエーションのひとつだ。フィクションは風に煽られて舞い上がる。彼のいることになっている河原にもこの風は吹いているだろうか。彼にもこの風の音が聞こえるだろうか。どうやら、風に流されながらときどき物思いに耽るらしい。風の強さに強弱はない。夕方になるといつも西から吹いてきて、一定の振幅で竹藪を揺らし続ける。そんな音を聞いている。架空の風に煽られる。彼が舞い降りるのはいつの日のことか。


3月11日

 仏壇の奥から線香の匂いがする。猫の目が一瞬輝く。四角い畳の合わせ目に沿って音もなく歩いてくる。裏の墓石は半分傾いている。木の根が張りだしているらしい。墓地のどこかに境界線があるようだ。それでもめている。昔の地図はあやふやだ。そこを掘ったら骨がでてきた。もう夜だ。オレンジ色の炎が燃えさかる。ときどき薪が崩れて火の粉が方々へ飛び散る。マグネシウムライトに照らされて犬が眩しそうにあくびをしている。そんなことがあっただろうか。応接間には鹿の角と日本刀が飾られていた。掛け軸にはなんと書いてあったのか。たぶん、ありふれた教訓だったかもしれない。庭には柿の木が数本生えている。柿の木の下はいつも湿っている。柿の木には、小さな熟しきらない実が大量に落ちる季節がある。いつの季節だったろうか。昔の記憶はあやふやだ。無造作に電気コードを引き抜いてみる。明かりを消してみよう。懐中電灯の丸い光に照らされて机の引き出しが浮かび上がる。引き出しの中には壊れた電卓が入っていた。もはや使う用途のあまりない関数電卓だ。簡単なプログラミングもできたはずだ。電卓の持ち込みが許される試験の時に、前もってこっそり工学の数式を入力しておいたことがある。それが実際に役立ったかどうかは覚えていない。そんなことがあっただろうか。昔の記憶はあやふやだ。そして今ここに何か文句を代入しなければならないようだ。あの時何を考えていたのだろう。何に出会ったのだろうか。そうした当たり障りのないこと以外に思いつかない。再び電気コードをコンセントに差し込んでみる。何か状況は変化しただろうか。犬はまだ吠えない。いつの間にか猫は姿を消していた。外は相変わらずの砂利道だ。車が通り過ぎるたびに白い砂埃が大量に舞い上がる。屋根はいつも真っ白で、布団もろくに干せない。そんな風景に出会ったのはいつのことか。どぶの臭いがする。トタン屋根には鳥の糞がよく目立つ。川には生活排水が流れ込み赤ミミズが大量に発生していた。それが当たり前の時代があった。今でもそんな光景にお目にかかれるだろうか。とりとめのない感慨に押し流されている。電池切れだ。明日単三電池を買ってこよう。地面に鉄の楔が打ち込まれた。誰かを捜しているようだった。彼の姿は見えない。どこで出会えばいいのだろうか。未来の出来事がおぼろげながら見えてきた。どうやらどこかで彼と出会うようだ。そんな期待を直ちに忘却する。打ちのめされたいのだろうか。曇り空に願いを込める。夜空の星に希望を託す。冷たい大地が呪われる。地底からあらゆる叫びがこだまする。歓喜の津波が押し寄せる。君の忘却は木っ端みじんだ。そんな未来になるらしい。


3月10日

 人々が群れ集う場所は息苦しい。通りの向こう側で人だかりができている。興味がないのでそこへは近づかない。近くの公園から浮浪者の臭いが漂ってくる。ベンチで新聞を読んでいるらしい。コンドルは飛んでゆく、そんな曲だった。通りの向こう側から聞こえてくる。おおかたペルー系の楽団が民族衣装でもまとってストリートライヴをやっているのだろう。以前どこかでやっていたのを見たことがある。何種類かのギターと笛の音色が重なる。ジプシーの雰囲気というものはどこにでも出現するらしい。彼らが本物のジプシーかどうかは知らないが、そのような雰囲気を湛えていることは確かだ。駅前に座り込んでギターをかき鳴らしながらがなっている若者とはだいぶ違う。若者には歌うべき歌がない。若者が歌っていると思いこんでいるものは歌ではない。それは、団地の公園でたまにやっている共産党の政治演説や右翼の街宣車やちり紙交換や石焼き芋などの声に似ている。それは、興味のない人間にとっては単なる騒音にしか聞こえない。ペルー系楽団の演奏は興味のない人間にも一応は音楽として聞こえる。たぶん技術とはそういうものなのだろう。それが良いか悪いかではなく、ただ単に、若者の歌や演奏やパフォーマンスは技術的に未熟なのだ。しかし、そのことは、一方では可能性があるということだ。若者には今よりうまくなる可能性がある。だが、その可能性に期待はしない。ただ無視して通り過ぎるだけだ。あにき風を吹かせて声をかけてやるのはプロのミュージシャンがやればいいことだ。浮浪者は河原に住んでいるらしい。数十年前は、鉄橋の下に子供たちの秘密基地があった。浮浪者は駅のホームでゴミ箱を漁っていた。捨てられた週刊誌や漫画本を集めていた。それを道ばたで売っている。確かに金は必要だ。そして金がある程度貯まってくると、金がなかった頃とは違う人間になる。なるほど、自分は浮浪者とは違う境遇になった。ここに至る分岐点はいくつかあったのだろうが、結果として、こうなった。それに対しては何の感慨もない。浮浪者になってもよかったのかもしれない。しかし浮浪者さえも金に縛られている。わずかな金を得るためにゴミ箱漁りをしなければならない。不自由だ。駅前でがなっている若者のギターケースに小銭でも投げ込んでやるべきだろうか。


3月9日

 洞窟の奥底で水が滴り落ちる。ガソリンスタンドの貯蔵タンクの中で軽油が気化する。遠く離れた二つの出来事がどこかで出会う。どこで出会うのだろうか。地下水は山の中腹からわき出した。程なく川に合流して湖に流れ込む。どこに視点があるのだろう。階段を足早に駆け下りる靴音が駅のホームにこだまする。そこには誰もいない。人気のない空間は空気が澄んでいた。午前三時だ。気がつくと視界がゆがんでいる。足下の地面がだんだん目の前に迫ってくる。地面の匂いをかいでみた。微かに石油の匂いがする。のどに渇きを覚える。水がほしい。ここはどこなんだろう。とにかくもう行かなくては。ぼんやりTVの時代劇を見ていた。ふと見上げてみれば、食堂の天井は埃と油で黒ずんでいた。炒めたもやしの味が塩辛い。目の前を黒猫が通りすぎる。大きな石だ。こみあげてくるものがある。我慢してみる。なんとか踏みとどまった。だが次は危ないかもしれない。相変わらず地面は傾いている。疲れた足取りで神社の石段を一歩一歩登っていく。なぜ行く先々で坂ばかりなのだろう。それも上り坂ばかりだ。洞窟の奥底で横たわりたい。近くのガソリンスタンドで給油した。床の間にあるのは鼈甲細工の飾り物だ。珊瑚礁の色を思い出せない。水槽の中には熱帯魚が揺らめく。湖に流れ込む小川の水は冷たかった。浸した手が痛いほどだ。せせらぎの近くに水鳥が佇む。カワセミだろうか。水中に獲物を探しているらしい。病室では例の発作が始まっていた。たいそう苦しんでいるようだ。手足が痙攣しはじめる。早く楽にしてやりたいが、皆が見ている前で首でも絞めて殺すわけにもいくまい。ただ見つめるばかりで一向にらちがあかない。誰も何もできないでいる。見守る人々に死ぬ間際の苦しみをいやというほど見せつけながら、なおももがき苦しんでいる。もう充分醜態をさらしたはずだ。まだ足りないのか。石段を登り詰めた先には何もなかった。ただ枯れた草むらの空き地が広がるばかりだ。火災で焼け落ちたのか。石の鳥居さえ跡形もなくなっていた。麓の洞窟には立て看板があった。半分朽ちかけている。もはや何が書いてあったのか判別できない。ここはどこだろう。誰と出会うつもりだったのか。死にかけた老人とは何も話さなかった。出会ったのは上り坂ばかりだった。道ばたの自動販売機で買った缶コーヒーを飲みながら考えた。あの時何を考えていたのだろう。とうとう何も思い出せなかった。


3月8日

 どこへ行ってきたのだろうか。膝とつま先が痛い。靴の踵がだいぶ磨り減っている。土埃で汚れたズボンの裾先に気づき、それを丁寧に払う。いったいどこで何をやってきたのだろう。三日ぶりに戻ってきた飼い猫ではあるまいに。どこかで意識と記憶を忘れてきたようだ。まさかそんなわけはない。ただそうなりたかっただけなのだろう。おおよそ願望と現実は一致しないものだ。現状ではどこかへさすらうあてはない。勝手な願望だ。いい加減なロマンチシズムにでもイカれたのか。まったくロマンに憑かれた意識というものは、実際の旅先で生ずる様々な困難や苦労をまるで考慮に入れずに、ただ盲目的にここではないどこかへ旅することを望むようだ。こんなときには、旅行ガイドと世界地図でも眺めながら好き勝手な妄想に耽っていればいいだろう。もはや風景を愛でることしかやることがない隠居老人の気分を空想上で味わう。それが安易なロマンチシズムに対する安易な対処法か。だがこういう安易なリゾート願望は、旅が日常の一部と化している人間にとってはまったく笑止なことなのだろう。ここではないどこかへ行きたいという生ぬるい願望は、どこかの遊園地や地方の行楽地にでも行けば、いたるところにあふれかえっていることだろう。しかし、その安易な願望に救いを求めたくなる気持ちもわからないではない。しばしばそういう逃避願望で何かしら息抜きをしていることは確かだと思う。別にいつもそれを実行に移さなくても、ただそんな妄想に一時的に浸かっていれば、不完全ながらも少しは心が充たされるのかもしれない。確かにそれはくだらないことだが、現実逃避をその程度にとどめておくことが賢明な生き方なのかもしれない。そのような不徹底に甘んじていれば、とりあえずこの退屈な日常をやり過ごせるのだろう。だがそれは幻想でもある。それと引き替えにどこか神経が麻痺する。本当か?別に麻痺してもかまわないだろう。もう鋭さを維持することはできない。精神の痴呆化が進行中だ。どうやら、また心にもないことを書いている。本当にそれでユーモア表現に結び つくとでも思っているのか。さあ、よくはわからないが、もはや神経が麻痺しているので安易なことしか書けない。またか、また心にもないことを書いている。要するに袋小路だ。もはや神経が麻痺しているので心にもないことしか書けない。そしてまた、もはや神経が麻痺しているので、こうやって同じような記述でこの文章を長引かせることしかできない。それは本当なのか?わかっている、それが嘘だということを。


3月7日

 勤勉さに何かが邪魔されているようだ。何が邪魔されているのだろうか。答えられない。どうして答えられないのか。枯れ枝に綿のような羽毛の断片が引っ掛かっている。小鳥でもそこにとまっていたのだろうか。だんだんコルトレーンにも耳が慣れてきた。しかしテクノやフュージョンを体験せずに死んでしまったからなのか、マイケル・ブレッカーなどよりも幾分か素朴に感じられる。枯れ葉を踏みしめながらしばらく歩いてみる。河川改修工事で川は黒く濁っている。いったんコンクリートで覆ってしまったものを、今度は自然の景観にできるだけ近づけようとして、川底を掬って土手に土を盛り上げている。コンクリートで直線に区切られた内部で、石と土で川の蛇行を再現しようとしているらしい。中には、取り除くのが面倒くさいのか、捨てられた自転車が新たに造られた土手に半分埋もれたまま放置されている。ユンボウでオブジェでも制作しているつもりなのか。土建屋さんにも芸術心があるらしい。遠くにはゴミ焼却施設の煙突が何本か見える。煙突の最上部で光が点滅しているが煙は見えない。光の点滅は飛行物体の衝突を避けるためなのだろうか。煙が見えないのは、何か消煙のためのフィルターでも取りつけてあるのかもしれない。以前、川崎のコンビナート地帯で火を噴く煙突を見たことがあるが、あれは何の煙突だったのだろうか。おおかた製鉄所か火力発電所といったところか。まるでブレードランナーのような光景だった。あのとき横羽線沿いで食べたラーメンはまずかった。話を現在に戻して、湾岸から離れてもう少し内陸に引っ込んでみる。東京の郊外の多摩地域辺りでは、ひとつの丘全体が住宅で埋め尽くされているのを見かけることがある。丘の上から斜面まで似たような大きさの一軒家によってびっしりと埋め尽くされている光景は、見る度に異様に感じられる。子供のころ住んでいた地域では、人家はまばらで、丘といえば畑と林が大部分だったからそう感じるのだろうが、たぶん数十年前は、そこにも同じような光景が広がっていたのかもしれない。しかし、実際にそこに住んでみれば、単に普通の日常生活を体験するだけなのだろう。ところで何に答えようとしていたのだろうか。もう忘れてしまった。風景と思い出に邪魔されてしまったらしい。


3月6日

 石ころだらけの荒れ地に雨が降る。時折吹きつける強風に煽られて折り畳み傘が壊れた。たまらず車の中に逃げ込む。雨に曇る車外の景色を眺めながら、数キロ下ったところにある自動販売機で買ってきた缶コーヒーを啜っていた。ときどきそんな夢を見る。それが何かを暗示しているのか。無意識に夢の中の出来事に意味を求めている。そこに何か肯定的な意味を導いて安心したいのか。朝焼けと夕焼けの合間に昼が通り過ぎる。夕焼けと朝焼けの合間に夜が通り過ぎる。なぜそんなことを繰り返すのか。いったい何が望みなのか。試しに絶望してみたいか。絶望する余裕などない。ということは、絶望さえも演技でしかないのか。余裕がなければ絶望できないその絶望とは、はたして本当の絶望なのだろうか。それはたぶん嘘だ。ではどうするつもりだ。寒さに震えて何も叫べない。小声さえ出ない。ただ沈黙するだけだ。しかし、それがどのような意味を含んでいるのかよくわからない。いったい何を主張したいのだ。この期に及んで何を強弁したいのだ。絶望とは希望のことだ。そんな嘘は聞き飽きた。いい加減うんざりする。できることなら、嘘ではない真実の心情を吐露してみたい。しかし、偽りの心情という間違いに魅惑されている。試しに絶望してみる。結果としてそんな嘘っぱちの絶望しか味わえない。たぶん何事もフィクションなのだろう。こうして作り話を書き付けることが日課となった。はたしてこれでいいのだろうか。今のところはこれでいいのだろう。なんとなくそう感じる。もしかしたら死ぬまでこれでいいのかもしれない。だが、たまにはよくないことも書いてみたい。とりあえずはこのままでいいと思うが、将来、何か別のことを書く必要性が生じたりする時が来るのだろうか。それは、もう少し本を読んでから判断すべきことかもしれない。それはいつだろう。だが一方で、その時が来なかったりする場合もあるだろうか。それならそれでもいいと思うが、おそらくそんな想起や推測を越えて、その事件は不意にやってくるのかもしれない。そんな不意打ち信仰にはもはやリアリティを感じられないが、とりあえず今のところはそんなことを書くような展開を見いだせない。だが、当然のこと未来の出来事は未来にしか起こらない。実際にその時が来てみないと、本当のところはよくわからないだろう。だが、その時が来たらもはや手遅れかもしれない。たぶん手遅れでかまわないと思う。手遅れになってから騒ぎ立てれば済むことだ。ただうろたえていれば、事件は勝手に過ぎ去ってくれるだろう。今までは、そうやって歴史は生み出されてきた。歴史は教訓として学ぶものではない。教訓がたやすく忘れ去られるから新しい歴史が刻まれるのだ。本当か?たぶんこれもひとつの冗談には違いない。こうして作り話を書き付けることが日課となった。


3月5日

 マイナスのイメージを逆手にとって宙返りしてみる。しかしそれでプラスにはならない。一回転して元の位置へ戻ってくる。そして今度は逆方向に回転してみる。また、一回転して元の位置へ戻ってきている。たぶんどの方向へどんなに回転してみても、結局は元の位置へ戻ってくる。しかしいったい何がマイナスなのだろう。マイナスとはどのような状態のことなのか。なぜはじめからマイナスと決めつけているのか。もしかしたら基準となるゼロ点の位置取りがおかしいのかもしれない。ゼロ点をもう少し低く、例えば現在の位置よりも低く設定すれば相対的に現在の位置はプラスになる。つまり、そのイメージがマイナスなのかプラスなのかは、基準となるゼロ点の位置取りによって相対的に決定される。このように考えれば、イメージなどあまり本質的なものでないことがわかる。しかし、そもそも何のイメージについて語っているのか。イメージの対象物をどこかへ置き忘れてきたのか。それになんでイメージが回転しなければならないのだ。話の元となる基本設定が何もない。その結果として、何について語っているのかまるでわからない。わからないのは当然であって、はじめからイメージの対象物など存在しない。だから基本設定なしで語るしかなく、結果として理解不能な文章となるより他ない。ただ言葉が回転しているだけだ。回転軸となるゼロ点を中心として、ある周期を保って回転しているのだろう。とりあえず現在は何回転かして元の位置へ戻ってきている。そして気まぐれで今度は逆回転してみる。また一回転して元の位置へ戻ってくる。しかしそれでプラスにはならない。たぶん逆回転はマイナス回転と見なされるので、それをプラスとは 見なさないのだろう。それをプラスにするためには、言葉はさっきとは逆方向へ回転しなければならない。それもさっきよりは少なくとも倍以上回転する必要がある。同じだけ回転したのではプラスマイナスゼロだ。こんなふうにして、なぜ回転しているのかはわからないが、これで文章に動的要素が加わったことは確かだ。なるほど、活気のある動的な文章だ。言葉そのものに元来から生じている静的イメージを逆手にとって宙返りしてみる。しかしそれで本当に動的イメージを生じさせたのだろうか。少なくとも、回転という言葉は動的イメージを連想させる。つまり、言葉そのものは静的だが、回転という言葉の意味が動的なのだ。そこに錯覚が生じているようだ。思い違いかもしれない。言葉が回転しているのではなく、回転という言葉の多用によって文章に動的イメージを醸し出そうとしているだけだ。その動的イメージは、単に回転の意味に依存しているにすぎない。やはりごまかしなのか。そう思われてもしかないだろう。だがそれでかまわない。これが現状でできる数少ないやり方のひとつなのだから。


3月4日

 何かしら負担が増している。負債がふくらむ。もう差し引きゼロには戻れない。このまま永遠にマイナス状態から抜け出られないのか。しかし彼はそんな状況とは無縁らしい。たぶん疲れているのだろう。疲労の残り滓が蓄積しているようだ。胃が痛む。食べ過ぎだろう。どうしたらいいのだろう。これからいったい何を負担しなければならないのだろうか。たぶん薬屋にいって胃腸薬を買えばいい。そこで薬代を負担しなければならない。前回と似たような文章になるのか。そうではないらしい。ただし、気持ちの整理がつかない。未整理のまま記述だけが先走る。気がついたら状況が切迫している。もう残された時間がないようだ。それを本能が感じ取っているのか。だから何もないのに書いてみる。そんなふうにせっぱ詰まって書けば緊張感が増すだろうか。あくびが出る。眠たくなる。まるで緊張感がない。しかし彼はそんな状況とは無縁だ。この先があるわけがない。これはここだけの記述だと思う。だいぶ前からそう思っている。しかしこれは別に未開拓の領域ではない。誰かがすでに似たような文章を書いていることだろう。だが、彼はこんなものにつきあってはいられないようだ。これは試練なのか。そうではないらしい。彼はこんなものはつまらないと述べていた。赤の他人に試練を課すのは漫画やドラマの中での話だ。だいぶ前にそんなようなことを語っていた。では、これは幻想なのだろうか。幻想で片づけられるのか。やはりつまらぬフィクションもどきなのだろうか。これを幻想の一言で片づけていいものかどうかわからない。ところで何が幻想なのだろう。彼の存在自体が幻想なのだろうか。それも少し違うような気がする。別に多重人格を装っているわけではない。そんなものは稚拙な遊技だ。過剰だ。不足だ。では逃げ道とは何だろう。例えば、最後に虹を見たのはいつだったろうか。たぶん忘れている。指先に軽いしびれを覚える。もう長いことないだろう。そして彼は死んだ。今では虚構の存在だ。たぶんそんな雰囲気に浸っていたかったのだろう。現実とは裏腹だ。彼は死んだのに生きていた。別に亡霊となって帰って来たのではない。亡霊ならまだ安心できる。怨霊退散の願いなどまったく聞き入れてはもらえなかった。彼は生身の人間として、図々しくここに居座っているのだ。もう取り除くことはできない。つまらないハッカーやクラッカーとはわけが違う。彼は情報を盗まれても困らない。盗む必要性のない人間だ。盗んでみても彼のことはよくわからない。経歴を一通り知っても、それだけでは彼自身を知ったことにはならない。では彼とは何者なのか。彼は彼ではない。これが彼の本質かもしれない。だから彼に対しては何も期待できない。彼は彼ではないので期待しようがない。それでは、彼をどう扱えばいいのだろうか。例えば、物語の主人公として設定するのは少し安易すぎるだろうか。たぶん、どこかにそんな物語はいくつかあったかもしれない。ある文脈に照らし合わせれば、そんな物語などありふれているかもしれない。だが、ことを穏便に済ますために、とりあえずそれで妥協してみよう。自分にはもはや彼と対峙する気力はない。何よりも疲れているのだ。


3月3日

 どこにでもあるような細いアスファルト道が丘の向こうまで続いている。普通の乗用車がやっとすれ違えるほどの道幅いっぱいに、土砂を積んだ4トンダンプがこちらへ向かってくる。どうしたものか、一本道で脇道がない。仕方なしに五百メートルほど手前のT字路までバックした。なぜだろう、そんなたとえ話だった。しかしなんでこれがたとえ話なのか。これに別の意味が含まれていたりするのだろうか。それとも、やはり嘘なのか。そんな予感がする。タイヤは回転し続ける。たぶんブレーキを踏めば止まるだろう。当たり前だ。止まったあとは、サイドブレーキを利かせてからエンジンを切る。そこではじめて静寂が訪れる。周りの風景を眺める余裕が生じる。鳥のさえずりさえ聞こえるようになる。たぶん、運転中も聞こえていたのかもしれないが、エンジン音に気を取られて、それを意識して感じ取る隙がなかったのだろう。歩く距離の何十倍もの道のりを移動 してきたのに、途中何も見てこなかった。実際は、道路沿いの様々に風景が移り変わるさまを目にしてきたはずだが、何も覚えていない。見てこなかったのではなく、見た景色を覚えていないということか。そんなものがたとえ話なのか。いったいそれが何にたとえられているだろうか。何を語っているつもりなのか。例えば、そんな体験を人生にたとえたりすれば気が済むのだろうか。やめておこう。細いアスファルト道の両端は側溝になっていた。むきだしのままのU字溝だ。蓋がないので、脇へ寄りすぎるとタイヤが溝にはまってややこしいことになる。T字 路までバックして正解だったのだろう。そんなわけで、また振り出しに戻ってきた。変わり映えのいない気分だ。だいぶ前から、BGMはコルトレーンだ。相変わらずの風景だ。今から思えば、何がジャイアント・ステップスだったのだろうか。それは別に謎ではない。晩年のフリージャズですら明快だ。それをBGMで聴く限り、単なる気休めでしかない。そんな聴き方では不満か。ではどんなふうに聴けばいい。BGM以外でジャズを聴く方法を教えてくれ。おそらく誰も知らないだろう。教えてくれるはずがない。他人に勧めるような聴き方はない。ましてや、ジャズの聴き方を教えろ、などという傲岸さは、ジャズをわかっていない証拠だ。たぶん、わかっていない方がいいと思う。そんな気がする。なぜだろう。たぶんそれが謎なのだろう。謎を解き明かすつもりはない。謎など無視だ。気分を害しているつもりなのだ。作り話で気分を害しているつもりらしい。これも演技か。


3月2日

 強風が吹いている。風の音がする。簡素な言い回しになる。風に煽られて竹藪が揺れ動く。竹が風にざわめく。竹と竹がこすれるとそんな音がする。竹藪の背景からも音がする。遠くから車の行き交う音が聞こえてくる。幹線道路から近い場所だ。少し前の薄暗い夕闇が更に暗くなる。夜だ。ただの夜だ。春の暖かさが待ち遠しい。冬はもう終わりだろうか。しかし、夏の暑さを思い出すとうんざりする。季節は春で終わってほしい。それは不可能な願いだ。避暑地に別荘でも所有して、夏の間そこに長期滞在したいものだ。まるで老人のような願望だ。たぶんそんな生活とは死ぬまで無縁だろう。そのようなことは、ごく限られた人間にしかできない贅沢なのだろう。そんな夢を抱きながら、それを実現させるために必死になって努力したりするほど貧しくはない。そういう努力がいかにさもしいものなのかがわかるくらいの貧しさだ。それに、世の中には、それが夢などではなく当たり前の日常の一部と化している、どこぞの資産家のお坊ちゃんやお嬢ちゃんもいることだろう。立場の違いで夢も変わるし生活も変わる。そんなことは当たり前のことだ。しかし不自由なことだ。一昔前の社会主義者ではないので、共通の夢や共通の生活に幻想は抱けない。今年の夏は暑いだろうか。平均寿命まで生きるとすれば、夏の不快な暑さにあと数十回は耐えなければならないのか。と、ここに書くためにこんなふうに思考している。普段からこんなことを思い浮かべながら生活しているわけではない。これは、ここに書くために、この場で生み出されただけの文章だ。言うなれば即興の産物だ。なぜだろう、なぜこんなことを書くのだろう。これを書いた後で、何か反省しなければいけないのだろうか。もうすでに風は止んでいる。竹藪も静かになった。しかし車の行き交う音は相変わらずだ。ただの夜だ。では、それ以外の、何か特別な夜といったものが存在したりするのだろうか。例えば、新月の夜や満月の夜は特別なのか。たぶんそれはそれで特別な夜だったりするのだろう。自分には何も特別ではないが、立場の違いで、ある限られた人々の間では特別な夜だったりするのだろう。それが特別であることは、それに関わりのない門外漢にはわからない基準があるらしい。中には、特定のコンピュータや、特定のOSや、特定のブラウザなどにこだわっている人もいるのだから。


3月1日

 Tower Records新宿店は品揃えが豊富だ。というのも、自分が以前から探し求めていた曲が2曲見つかったので、そんな印象を抱かせた。たぶん、見つかったのは偶然にしても、そのような時期だったのだろう。おかげで、ロバート・ワイアットのシー・ソング(アルバム『ロック・ボトム』収録曲)とホルガー・シューカイのペルシアン・ラヴ(『MOVIES』収録曲)に巡り会えた。2曲とも、昔ピーター・バラカン(まだ日曜深夜のTBSでやっているかもしれないCBSドキュメントの進行役をやっているかもしれない人)がNHK-FMでかけていたのを、ラジカセでカセットテープに録音した印象深い曲だ。近頃は、もうほとんどカセットテープでは聴かないし、テープ自体も古くなってかなり劣化しているので、それにしても良いタイミングで見つかったものだ。もうあの時から十年ぐらいになるだろうか。CD陳列棚の宣伝文句によると、昔ピーター・バラカンが推奨していたロバート・ワイアットは、今ではあの小山田圭吾(渋谷系?)が推奨しているらしい。CD付属の解説を読むと、この『ロック・ボトム』は、ワイアットが転落事故で半身不随になって、車椅子生活を送るようになってからはじめて出したアルバムだそうだ。どうしても、彼の暗く沈んだ歌声はその下半身不随と結びつけてしまいたい下世話な衝動に駆られるが、その独特なヴォーカルは、不思議なテンポとメロディの曲とともに一度聴くと忘れられなくなる。一方『MOVIES』は輸入盤なので(Made in Austria)、当然日本語の解説はなく、アルバムの中で、ペルシアン・ラヴ以外の3曲はごく普通のロック・ポップスなのに対して、なぜペルシアン・ラヴだけが特異な民族音楽的構成なのかがよくわからない。モンゴル系のようなチベット系のような、はたまたトルコ系のような歌い方の男性ヴォーカルと、インド映画で主題歌を歌うヒロインのような歌い方の女性ボーカルが、アラブ系(中近東系)流行歌謡曲でデュエットしている、と表現すればいいのだろうか。このペルシアン・ラヴも一度聴いたら二度と忘れられなくなる曲だ。この曲を聴いていると、なぜかヒンドゥー教とラマ教の聖地カイラス山と紺碧のペルシア絨毯(しかしペルシアンブルーは絨毯ではなく青磁器かガラスの色のことではなかったか?)を思い浮かべてしまう。ともかく、実感としては、日本で何百万枚も売れている曲とはほとんど無関係に、多種多様な世界中のあらゆる種類の音楽が日本国内には流通しているようだ。もしかしたら、TVの歌番組やアイドルロックバンドなどの流行を追いかけている数百万人の中高生の方が少数派なのかもしれない。


2月29日

 言葉上の演技など他愛のないものだ。それ自体何の効力もない。その場かぎりの言い訳でしかない。他にやることが何もないことを自ら証明するようなものだ。たぶんどこかでずれが生じているのだろう。それ以後は崩れ落ちる感覚に絶えず支配されている。焦点が定まらないのはもちろんのこと、何よりも考えることを怠けている。思考できない。考えるより前に書いている。記述が思考から見放されているのだ。書く根拠を与える後ろ楯が何もない記述だ。書く必然性もないのに書いているわけだ。なぜだろう。だが、そんな疑問には何の関わりあいもない。しかし、なぜ、と疑問を発せざるを得ない。無駄なのに一応疑問を呈してみる。傷を被ると痛みが伴うのと同じように、根拠のない記述には疑問が伴う。それはあまり説得力のないたとえだ。もしかしたら、もうやめてほしいと良心が悲鳴をあげているのだろうか。そして、疑問の連発によって意味不明な記述を押さえ込もうとしているわけか。おそらく、そうではないらしい。逆に、記述を長引かせるために疑問を連発しているのだろう。たとえばそれは、痛みを長引かせるために傷口に針が刺さったままにしておくのと同じことだろうか。ならば、針が痛みの感覚を絶えず刺激するように、疑問は絶えず記述を刺激し活性化させているのだろうか。それでは、記述に関わりあいのない疑問がなんで記述を刺激できるのか。本当にそれによって記述が活性化したりするのならば、疑問は記述に関わりがないどころか、疑問そのものによって記述を継続させているのだから、疑問こそがこの記述を成立させている主要因ではないか。たぶんその通りなのだろう。だからこそ、新たな疑問を呼び込むために、そんな疑問には何の関わりあいもない、と述べてみせたわけだ。それ自体が、この記述を長引かせるためのに用いた傷口に刺さった針だったわけだ。なるほど、おかげで痛みはこんなにも持続した。しかし一方で、精神はさらに荒廃した。良心は粉々に打ち砕かれた。何かが置き去りにされている。なおざりにされたままだ。では、今こそ傷口に刺さった針を取り除かねばならないのだろうか。そうではない。たぶんそれは嘘だろう。本当に記述を長引かせることは痛みを長引かせることになるのだろうか。やはり論点を少しづつずらして述べている。そんなことは述べていなかったはずだ。ただ、記述を長引かせることを痛みを長引かせることにたとえて述べていただけだ。疑問自体がずれている。つまり、疑問より前に、このようなずらしが記述を長引かせていたのだ。焦点が定まった時点でその文章は終りを迎える。ひとつの結論によって焦点が定まる。だから、絶えず焦点を定まらせないようにするために、ずれを導入していたわけだ。こんなものは単なるはぐらかしだ。わかってしまえば他愛のないものだ。言葉上の演技など実に他愛のないものだ。結局こんなつまらない結論になった。これで焦点が定まった。だが、こんな結論こそ嘘かも知れない。


2月28日

 唐突な成り行きに驚いてみせる。それなりに焦りの表情を浮かべてみる。これで深刻な雰囲気になるだろうか。たぶん深刻さとはそんなものだろう。いったい何を知り得たのだろうか。たぶん、ことの顛末によって知り得たものはたくさんあるのだろう。そう、たくさんのことを知ったつもりでいる。しかし、それは所詮たくさんでしかない。ひとつひとつのことを明確に系統立てて体系的に知ったわけではない。身につけたと思いこんでいるそれぞれの知識が互いにつながらない。ただバラバラにいろいろなことを知っているに過ぎない。それらが互いに無関係に隔たりながら離散的に分布している。まるで役に立たない知識の分布だ。何も実を結ばない知識だ。それぞれの知識が役立つように結びつけようとしないのだから仕方ない。配線がつながらないのだ。だからネットワークを構築できない。それでどうしようというのだ。何もできないが、とりあえず知識だけはあるつもりだ。たぶん、それは無知である証拠かもしれない。知識はあるが結果として無知をさらけ出している。何もやりようがない。ただ沈黙する。あと十年も沈黙すればあきらめがつくだろう。それ以外にはやりようがない。もう何も出てこない。とりあえず鬱状態を装っていよう。そして、焦りの表情を浮かべながら、どうにもならない成り行きにただ驚いていればいいだろう。そんなことしかできない。成り行きまかせとはこういうことだ。様々な知識の離散的分布を吟味している。その分布の形から、今ある知識の有り様を診断する。だが、いったいそこから何を導き出せばいいのだろうか。その辺がよくわからない。ただ自分の診断結果を眺めていれば気持ちが落ち着くとでもいうのだろうか。たぶんそういうレヴェルの話ではないだろう。ただ読み続けるしかない。読んでみればそれなりにわかる。そんなことしかできない。結果はある程度予想がつく。これまでも予想の範囲内で収まってはいる。ただ細かい偶然要素まではわからない。そんなことまでわかる必要はないのかもしれないが、できるだけ可能な限り詳細に知りたい。そんなことを知っても無駄だと思われることまで知りたい。だからこうしてひたすら沈黙しているわけだ。そんなわけでこれからも沈黙していよう。沈黙することは意外とおもしろい。他人の醜態をq椰だ眺めている。なるほど、他人の醜い性根がよくわかる。だが、それと同時に自分の醜態もよくわかる。こんな意地汚いことを述べていること自体が、まぎれもなく醜態をさらしていることになる。こんなことを書いているうちは、まともな文章など書けなくて当然だろう。まだ沈黙が足りないようだ。


2月27日

 たぶん心にもないことを書いている。思っていることをそのまま文章にしているわけではない。こう書けばなんとなくおもしろそうな予感がするとき、試しにそれを書いてみる。書いた後、それがおもしろそうな展開になると判断すれば、そのまま消さずに残しておく。それから、その後に、適当なその場限りの思いつきだけのフィクションをつなげていって、文章全体がそれなりの長さになったところで、最後の部分を適当にまとめてそれで終わりだ。しかしなぜだろう、そんな中身のない文章であっても、後から読んでみるとそれなりに何かしら主張があるらしい。書いている過程では、適当な長さになるように心がけているだけで、それ以外は何も考慮せずに、ただ闇雲に書いているに過ぎないのに、そんな無意味な行為から生成した文章には、それなりに意味らしきものがあり、何かしらそれ独自の主張が含まれている。自分の文章についてはそんなふうに感じている。そんなふうにして自分の文章を読み返している。そして読み返した後から、また新たに意味のない文章を書こうとしている。それの繰り返しだ。これはたぶんマンネリ状態なのだろう。しかしそれでもいいと思っている。他に何か書けるのだろうか。できれば別のことも書いてみたいが、どのようにして書けばいいのかよい方策が見つからない。いや、見つけようとしていない。試行錯誤することを放棄しているようだ。ところで、努力することとはどのようなことなのだろうか。このようにして書いていることも、結果としては努力していることのなるのだろうか。何を努力しているのか、また、何のためにこのような努力をしているのだろうか。たぶん、それの答えにはたどり着けないだろう。瞳孔が開きっぱなしなのだ。目を閉じる動作を忘れてしまった。だが、目を閉じるとはどのようなことなのだ。その動作にどのような隠喩を込めて語っているのかがわからない。瞳孔と瞼にはどのような隠喩が含まれているのだろうか。もしかしたら、それは隠喩ではないかもしれない。はじめから何も含まれてはいないのだ。もしそうだとすれば、それはなんとなく知的な雰囲気を醸し出すためのレトリックなのだろう。一概にそう断言する気にはならないが、それをレトリックだと判断すると、なんとなくその部分がわかりやすくなる。たぶん無意識にそのような効果を期待しているのだろう。そう、わからないことは無意識のせいにすれば何事も楽だ。しかし無意識の使い方にも一工夫が必要だ。年がら年中無意識ばかり多用するのはわざとらしいし、芸のなさが露呈してしまう。たまにさりげなく目立たないようにしてそっと何気なく文章の末尾に忍ばせるのだ。たぶんこれは嘘だ。無意識で調子に乗りすぎた。なんとなくつまらなそうだからこの話はこの辺でやめにしよう。


2月26日

 現実などそう度々直視できるわけはない。よほどの暇人かお節介焼きでもない限り、また、現実を直視することを仕事としている人でない限り、そのような行為とは無縁だし、ことさらそんなことをやる必然性も生まれない。だいいち、普通に生活している人には、そんなことをしている暇はほとんどない。ただ仕事に追われる毎日だ。よくありがちな推理小説に登場する、素人探偵の役柄を引き受けざるを得ない状況に追い込まれることなどまずはあり得ない。また、自ら進んで探偵ごっこにのめり込むような事件に遭遇することもほとんどないだろう。そのような滅多にない状況を疑似体験させるために推理小説の存在意義があるのだから。だが、何かのきっかけで、知りたくもない実態が、自分を巻き込んであからさまに露呈するときがある。例えば、自分のやっていることが結果として他の人々の生活を害しているとわかったとき、それは自らの限界を悟らされる瞬間でもあるが、たぶん、そのようなとき、否応にも現実を直視せざるを得なくなる。そしてそれは、常に自分の利益が抵触される事態に直面させられ、自分が一歩引き下がらなければ解決しないことを悟らされる。それで結局、このままではまずいと思い、今までしてきた態度を改めなければならないという認識に至る。そこで真摯に態度を改めるか、それとも今まで通りの自分のやりかたを押し通すかは、そのときの状況次第なのだろうが、できればそのような状況に追い込まれる前に、普段からこまめな状況分析を怠らずに、絶え間なく自らの態度の微調整を心がけ、いざというときには気軽に態度変更できるようにしたいものだ。できればそう願いたいが、現実はそんなに甘くはないのだろう。だぶん実際は、日々の怠惰に押し流されるがままなのだろう。おおよそ、そのような現実に対しては、斜め後ろから横目でちらりと一瞬見るだけで済ませて、あとは、自分とは関係ない、という勝手な思い込みで生活していると思う。そういつもいつも、そんな心を掻き乱されるようないやな実態につきあってはいられない。見るも汚らわしいものには、それを直視せずに目を閉ざしてしまう。例えば、鯨は息継ぎのためにほんの一瞬だけ海上に姿を現す。あとの大半は海中で生活している。つまり、鯨は、ほ乳類として生きていく上で欠かせない肺呼吸の動作を一瞬で済ませている。自分は、もしかしたら、妄想の海に潜ったままで生活しているのかもしれない。いつの日か、妄想の海底に沈んだまま、二度と現実の海上に浮き上がってこれなくなるかもしれない。


2月25日

 過去の記憶を呼び覚まし、すでに起こってしまったとりとめのない出来事ばかり回想しているようだ。それに対しては何の感慨も抱けない。出てくるのは、つまらない後悔の念ばかりだ。そんな否定的な感情にはもうこれ以上つきあいきれない。しかし、どうあがいても過去とは断絶できないだろう。これからも絶えず過去の記憶に拘束され続けるしかない、だが、現在からはすでに遠く隔たっている出来事について今さらどう考えようと、何がどうなるわけでもあるまい。ただ、意識が過去の郷愁の中をさまようことで何かしら心が癒されるのかもしれない。しかし過去の出来事ばかりをそう度々は思い出せない。また、いちいち意識して思い出すのは面倒だ。それに、厳密には、思い出される過去の記憶と実際に過去のある時点で起こった出来事とは、完全に重なっているわけではない。記憶は常に過去の出来事を思い出した今の時点において再構成される。現時点での意識が記憶の断片をコラージュする。結果として気分次第で勝手な昔話が作られる。まるで司馬遼太郎の歴史小説のように。昔話はどうしてもフィクションにならざるを得ない。過去を語る意識自体が自らにとって都合のよいフィクションを要請している。これは、秀逸なドキュメンタリーが、何の破綻もなく、制作者の意図を反映した内容になるのと同じことだ。では、意識はどのような意図を持って過去を語るのだろうか。過去の出来事に何を反映させたいのか。それは過去から現在に至るまでの途切れることのない意識の連続性である。過去においても自分は現在と同じ自分であったことを絶えず確認しておきたいのだ。自らを一貫性のある同一時間軸に拘束しておきたいのだ。ではなぜ連続性を保っていなければいけないのか。それは意識の崩壊、つまり自らの人格崩壊を防ぐためにそうしているのだろう。過去の自分が現在の自分と同一人物でなかったなら、現在の自分を構成している意識の存立基盤が見失われてしまう。つまり過去の記憶とは、自らの自己同一性を保証する唯一の証拠なのだ。だから人は絶えず自らの過去を思い出し続けなければならない。例えば、記憶喪失に陥った人は自分が何者なのかわからなくなる。


2月24日

 淀んだ空気を吹き払い、不快な湿気とともに言葉も戸外に掃き出した。偽りの動作だ。ナメクジは相変わらず窓ガラスを這っている。窓越しに見えるのは安売り中古車販売店の看板と国道沿いの街灯だけだ。昔、切れた蛍光灯の替わりを求めて団地内をさまよった思い出がある。新たに蛍光灯を買うのが惜しくて、街灯の電球を拝借しようと考えたのだった。仕事も金もない極限状況では、普通では考えられない突飛で非常識な発想がひらめくようだ。人気のなくなったのを見計らって、電柱に昇ってそこについている薄暗い街灯から電球を取り外そうと考えたのだが、いろいろ逡巡を繰り返した挙げ句に、結局実行しなかった。実行できなかった。実行する勇気がなかった。あたかも痴漢か変質者のように夜の団地内をあてもなくさまよい歩くうちに、実行をためらわせるためのいろいろなもっとらしい理由が頭の中で次々に堆積していった。例えば、街灯から電球を取り外せる確証がまるでない、仮に取り外せたとしても、ワット数や接続するソケットの形状など、はたしてそれを自分の部屋で使えるのかどうかもわからない。実行してみなければ何もわからないのだ。それに、電柱に昇っているところを警官にでも見つかった場合どう申し開きするのか、うまい口実が思い浮かばない。また、万が一電柱から落ちて怪我をしてしまったらどうするのか。自分の住んでいるアパートの部屋の蛍光灯が切れたから街灯の電球を盗もうとした、などというわけのわからない理由で、警察に捕まったり、怪我をしたり、最悪の場合、打ち所が悪くて死んでしまったりしたら、本当にお笑いぐさだ。お笑いぐさどころではない。想像を絶する愚か者だ。この計画を実行に移すのはかなり馬鹿げている。割の合わないリスクばかりである。と、これは途中から話を作っている。フィクションがかなり加味されている。当時を思い出しながら書くと、自然と作り話になってしまう。あのころの自分にリアリティを感じない。本当は、何も考えずにただ夢遊病者のように近所の団地内を小一時間ほどさまよって、何もせずに自分の住んでいるワンルームアパートの蛍光灯の切れた部屋へ帰ってきただけだった。翌朝になって近所のコンビニで蛍光灯は買った。


2月23日

 竹藪は数十年に一度一斉に枯れるらしい。一度その光景を見たことがある。確かそのとき白い花を咲かせていたような記憶がある。枯れてしばらくは何も生えてこない。しびれを切らして新たによそから孟宗竹を持ってきて植えたら、その後、元からあった真竹も生えてきて孟宗竹と混在してしまった。孟宗竹は太くて背が高い。成長すると普通の二階建ての民家より高くなる。手元に植物図鑑を持ち合わせていないのであやふやだが、確か竹はイネ科の植物だと記憶している。つまり竹は巨大な草だ。草と木の区別は曖昧なのかもしれない。小笠原などの絶海の孤島に行くと、よそでは草として普通に見かけられるものが、ある種の植物の中には一年で枯れずに巨大に成長して木化しているものもあるそうだ。ワラビやゼンマイなどを含むのシダ植物も、海から陸へ植物が進出した頃の古生代には巨大な木であったらしい。犬は大型なものほど短命だそうだが、植物は大きなものほど長命だ。生きている限り成長するので、盆栽のように人間が意図的に手を加えない限り、必然的に長寿なものほど巨大になる。しかし細胞レヴェルで考えると、木を構成するひとつひとつの細胞は一定期間を過ぎると死んでしまう。わかりやすい例を考えるなら、落葉樹の葉は一年で枯れ落ちるし、また、樹齢数千年といわれる屋久島の縄文杉も、幹の内部は腐って空洞となっている。樹齢七千年とされる七千年前の部分はもはや跡形も残っていないらしい。昔NHKの特集番組で年代測定をしたのを記憶しているが、確か今も残っている部分で最古のものは、せいぜい二千〜三千年前ぐらいだったと思う。たぶんその残っている最古の部分も、細胞自体は死んでいるのではないだろうか。あまり植物学には詳しくないのでそう断言はできないが、木の幹の細胞は芯から次第に死んでゆくのだろうか。ともかく、木という形態自体は数千年間も維持されることがあるが、少なくとも内部のひとつひとつの細胞はそれほどの長寿ではないらしい。もちろんそれは動物の場合にも当てはまり、動物の体内細胞も一定期間を過ぎると死んでしまうのだが、ただ、脳細胞とかはどうなのだろうか。例えば、将来人間の首から下だけ生かしておく技術とか開発されたとしたら、やはりその人が生きていることにはならないと思う。植物には動物の脳に当たる部分がないので、動物と植物では、その形態や機能の違いから判断すれば、両者の生死の概念はかなり異なっていることは確かだろう。また動植物を生物として一括して考えても、その生死の概念にはかなり曖昧な部分がある。例えば千数百年前の飛鳥時代の地層から発見された蓮の種が発芽したことがあったが、その蓮は千年もの間生きていたと考えていいものかどうか。それはまた、動物の冷凍精子や卵子についてもいえるだろう。それらの休眠期間を生きている期間に数えられるかどうかは曖昧だ。もちろん生死という概念自体が、人間が勝手にそう考えていることでしかなく、あくまでもそれは人の間だけで通用している概念でしかないが。


2月22日

 色彩の成り立ちはそれほど複雑でない。いくつかの原色を構成する成分のそれぞれが、相互に少しずつずれながら重なっていて、結果として微妙に異なる淡いコントラストを無限に生成しているように見える。そんな絵を眺める。しばらく見つめ続ける。気が付くと静止しているはずの絵が動いている。本来は動くはずのない絵が、あるときは複雑な軌跡を描いて前後左右上下斜めにジグザグ状に動きながら、またあるときは、横方向には円回転から楕円回転へ交互に移り変わると同時に、縦方向には螺旋状に間隔が延びたり縮んだりしながら回転し、そして、絵のなかのランダムなそれぞれの座標位置で色が無限に変化しながら、交互に、またいくつかは同時に点滅を繰り返す。眺めていると次第に目が痛くなってきた。そしてついには、目まぐるしく変わる絵の変化速度について行けず、もはや眺めることができなくなった。もうわけがわからない。床と壁と天井がぐるぐる回っている。気が付いたら真っ暗だ。気絶してしばらく目が裏返っていたようだ。そしてふと外に目をやったら、窓の外が真っ赤に染まっているのに気づいた。どうやら網膜がおかしいようだ。屋外の赤につられて、さっきまで白色に見えたものがピンクがかって見える。さらによく目を凝らして見ると、ピンクの中に灰色の斑点が散らばっている。その斑点も注意して見るとわずかに動いているようだ。しかし動きが変だ。斑点がどんどんこちらに近づいてくる。灰色の斑点が次第に大きくなってきた。時間の経過とともにピンク色と灰色の比率が完全に逆転してしまって、今や灰色の背景の中にピンクの斑点が浮かんでいる状態だ。灰色が視界いっぱいに広がっている。そしていつのまにかピンクが消えていた。またその灰色には、見る場所や位置によって色の濃淡があるようだ。限りなく黒に近い灰からほとんど白としかいいようのない灰まで実に様々な灰色がある。そんな灰色のヴァリエーションを見て楽しめばいいのか。そういうことだ、これは白黒の世界だ。淡い擦れた墨色に美を見いだすのか。なるほど、水墨画とはこういうものなのか。しかしこの灰をどうすればいいのだろうか。その灰色の濃淡から元の色を想像してみたりすればいいのだろうか。いや、そうではなく、灰そのものを直視しなければならないのか。おそらくそれをじかに見れば目がつぶれてしまうだろう。目がつぶれたらどうするのだろう。それでは刳り貫かれて空洞となった眼窩から何を見ればいいのだろう。


2月21日

 ここだけの話だが、最近、ここだけの話など知る必要性を感じなくなった。流通範囲の限定された情報をありがたがるのは錯覚ではないか、また、取り立てて興味のない事件の真相など知らなくてもいいと思うようになってきた。報道機関によって伝えられている、いわゆる「世間の動向」に対する関心が急速に薄れてきたらしい。これは、今までTVニュースや新聞などを通して伝わってくる情報に過敏に反応しすぎていた反動かもしれない。今では、例えば、なぜあのときNHKの臨時ニュースなどに怒りをあらわにしていたのか理解できない。また、例えば、今話題のアメリカの大統領選挙とバスケットボールゲームの違いを理解する気になれない。理解しなくてもいいとさえ思ってしまう。両者とも自分には関係がないからなのか。厳密にいえば、誰が大統領になるかで、アメリカの属国に住んでいる自分の生活も多少は影響を受けるかもしれないし、また全米プロバスケットボールリーグの試合をTVで見れば、選手たちの洗練された動きにたぶん感動するだろうし、まるっきり関係なくもないだろうが、やはりそれらは、今の自分にとっては無視してもかまわない程度の些細な出来事という認識なのだろう。これは、何事に対しても敏感に反応していた過去の一時期からの後退なのだろうか。戦線離脱ということか。別にそのような認識でかまわないと思う。しかしそんなかっこの良いものでもないような気もする。ただ、誰に頼まれもしないのに勝手な思い込みでマスコミ関係者と同レヴェルで時事問題についてうんちくを傾けているつもりだっただけではないのか。要するに、単なる独りよがりのお節介に過ぎなかったのではないのかと思う。過去に自分の書いたその手の文章を読み返すと恥ずかしくなる。なぜあんなにも感情的になってことさらシニカルさ装うとしていたのか。今にして思えば、ただ強がり痩せ我慢だけで精一杯虚勢を張っているみすぼらしさばかりが目立つ文章だ。やはりあれをやめてよかったのだろう。おかげで同じようなことをやっている人々の文章を読む必要性を感じなくなった。ただ、あれをやめた後、書く素材がなくなってしまった。それでもこうやって何かしら書いている。このような行為についてはよくわからない。わかろうとしていない。わかる必要性を感じていない。


2月20日

 簡素な表現からしだいに遠ざかりつつある。視点がめまぐるしく変わる。それは何を書きたいのかが定まっていない証拠だろう。時には述べていることが支離滅裂だ。何がそのようなわかりにくい複雑な表現を要請しているのだろうか。別に何が要請しているわけでもない。答えはすでに出ている。何を書きたいのかはっきりしないからそうなる。それに本当にわかりにくくて複雑な表現なのだろうか。ただ怠惰なだけではないか。中途半端な惰性で書いているからそうなるのだ。自分で読んでみて、まともな文章ではないと思う。連続的にひとつの流れになっていない。前後の文章がまるでつながらない。この持続を切断する根気の不足はどこから生じるのか。だから答えはすでに出ているではないか。何を書きたいかはっきりしないからそうなるのだ。ではどうしたらいいか。黄昏時にわびしさでも演出すべきなのか。沈む夕日に向かって意味不明な呪文を呟けばいいのか。ところで、落日の光景とはどのようなものだろうか。洛陽の街で散歩してみればいい。それで落日の光景がわかるだろう。なるほど、何を書きたいかはっきりしないときは中国へ旅立てばいいのだろうか。接ぎ木のやり方とはそういうものなのか。だが、文章のつながりが不自然だ。まったく違う種類の文章を苦し紛れに無理矢理接ぎ木しているだけだ。これではこの文章には何も繁茂しないだろうし、早晩枯れるしかないだろう。しかしこんな述べ方には別の次元で無理がある。植物と文章は形質も機能もまったく違う概念だ。それなのに安易に文章を植物にたとえて、まったく異なる二つの文章を強引につなげることを接ぎ木にたとえるのにも無理がある。やはりこのようなやり方はごまかしではないのか。ではどうしたらいいか。書かなければいい。書かなければごまかしも生じないだろう。しかしそんなご託宣に率直に従うつもりか。しかし、それは本当にご託宣なのか。それについては、わかろうとすることが面倒なのでよくわからないが、明日書かなければ、書かなければいい、というご託宣に従ったしたことになるし、もしさらに惰性で書いているならば、ご託宣に逆らったことになる。ただそれだけのことだ。そんなご託宣など何の拘束力もありゃしない。では、なんでそういう結論になるのだろうか。繰り返すが、答えはすでに出ている。何を書きたいかはっきりしないからそうなるのだ。


2月19日

 松の幹に猿の腰掛けは生えるだろうか。中途半端な知識では事の真偽はわからない。櫟林に寒風が吹きすさぶ。枯れ葉が降り積もった地面から細長い篠が幾本か生えている。その櫟林を透かして見える遠くの丘は、半分が畑で、残りの半分の松林の中にその神社がある。そこで石で頭を叩き割られた死体が見つかった。そんな話は聞いたことがない。なぜそんなことを書いたのだろう。わからない。別にミステリアスな雰囲気をねらっていたわけではない。確か丘の上の神社には湧き水が出ていた。よくありがちなパターンだ。だが、あの浴槽ほどの大きさの四角い石の容器からあふれ出ていたのは本当に湧き水だったのだろうか。もしかしたら水道水だったかもしれない。遠い昔の記憶だ。今となっては事の真偽は定かではない。その神社は今でも存在しているが、今さら湧き水なのか水道水なのかを確かめに行くほどのこだわりはない。たぶん丘の上の神社の記憶などどうでもよかったのだろう。話を猿の腰掛けに戻そう。いったん猿の腰掛けにとりつかれた木は枯れるしかないそうだ。そんな話をどこかで聞いたことがある。だが、そこから猿の腰掛けと木の関係を人間へのアナロジーに転化したりはしない。たぶん猿の腰掛けの話などどうでもよかったのだろう。疲れていると安易なアナロジーにすがりたくなる。しかし、話にアナロジーを絡めるのは面倒だ。さらに小道から山奥にはいる。ただ単調な林が周囲に広がるだけだ。突然シンバルの音だ。ヘッドホンから流れる曲の中に、遠くから微かにシンバルを叩く打音が聞こえる。時には間欠的に、またあるポイントでは連続して、注意して 聴かなければ気づかないほどの小さな音で断続的に叩いているようだ。しかしその微かなシンバルの音が曲全体にどのような効果を及ぼしているかは定かではない。自分にはそのアレンジはわからない。たぶんシンバルの音などどうでもよかったのだろう。夕闇が間近に迫っている。だがこれを書いている時点ではすでに真っ暗だ。たぶん夕闇などどうでもよかったのだろう。別に林の中を散策していたわけではない。単なる空想だ。では、なぜこんなことを書いたのだろう。たぶんあなたの想像したとおりだろう。


2月18日

 爬虫類が猿になる。猿は人間の生まれ変わりらしい。トカゲの尻尾がのたうち回る。持ち上げたら切れてしまった。ダンスとはトカゲの尻尾の痙攣に似ている。たぶん人間は爬虫類の一種なのだろう、似ている。そんな出鱈目な印象で退屈な一日を過ごす。人間の尾てい骨の先にはトカゲの尻尾が生えていたのか。では切れた尻尾はどこで踊っているのだろうか。たぶんアメリカのどこかでダンスしているのだろう。ニューヨーク辺りだろうか。彼の地に行けば尻尾のダンスが見られるかもしれない。アメリカへの興味とはそういうものだ。アメリカにはアリゾナの砂漠とニューヨークの摩天楼しか存在しない。要するに観光地なのだ。では、その他のアメリカとは何だろう。単なる農村だろう。巨大な村だ。しかしそんなありふれた見解には飽きた。アメリカとは日本のことだ。アメリカとは中国のことだ。アメリカとはアフガニスタンのことだ。世界にはいろいろなアメリカが存在する。アメリカはトカゲの尻尾に似ている。ヨーロッパから切り離されて、さらにアメリカ本国からも切り離されて永遠の飛び地となった。アメリカとはアラスカのことだ。しかしアラスカはすでにロシア領となった。いつ返還されたのだろうか。それとも買い戻したのか。そんな金が今のロシアにあっただろうか。そんなデマには動じないのか。その映画では、法隆寺の住職がキング牧師役を演じるらしい。明白な嘘とはそういうものだ。仏教とキリスト教の大げさな融合。両者はトカゲの尻尾に吸収される。トカゲの尻尾には哀愁が漂う。ダンスしながら虚空に飛翔する。軟化しながらゴミ拾いに勤しむ。猿が爬虫類になる。猿はトカゲの生まれ変わりらしい。そして、人間は猿の一種なのだろう。それが一般的な見解だ。進化論とは無関係に猿は遠からず爬虫類になる。誤解されているのだ。尾てい骨からトカゲの尻尾が生えてくる。その尻尾が切り離されてアメリカとなった。しかしアメリカにはアリゾナの砂漠とニューヨークの摩天楼しか存在しない。その他のアメリカは日本であり中国でありアフガニスタンである。これは答えのない謎かもしれない。自由の女神は逆向きで海中に沈んでいるのだ。


2月17日

 「奈落の底」の「奈落」とはどのような場所だろうか。辞書にはいろいろな意味が載っている。ここで取り立てて考えるまでもない。毎晩決まった時刻になると、地下室から異様なうめき声がするらしい。どこぞの老人が鞭で打たれているのだろうか。その痛々しい絶叫が月夜にこだまする。体長30センチメートルの巨大なイモムシを想像してみるがいい。熱帯地方に行けば出会えるだろうか。しかし熱帯地方でも老人のうめき声は聞こえるだろうか。たぶんそこは反響音だけの世界になる。そこでイモムシが緑の葉に隠れながら暮らしているのだろう。当然絶叫する老人には出会えない。月曜の朝が憂鬱なのは過去の話だ。老人の痩せた姿もはるか遠くに霞んでやがて見えなくなるだろう。絶叫音もうわさ話にかき消されてしまう。だが、それは実にたわいのないうわさ話だ。火星の位置を正確に計測しようとする、ただそれだけの話だった。捜し物は未だに見つからない。地下室での出来事は期待はずれに終わった。また奈落の底に還ってくる。奈落を巡り続ける。意外と奈落の底は天国だった。ラテンアメリカの苦しみなど知らない。しかし東南アジアの繁栄とは無関係だ。それを月曜の朝から捜しているのだ。イモムシの歴史などひもといている暇はない。ではどんな本を読んでいるのか。たぶんそれは悲劇だろう。ジーン・ビンセントの末路に涙する。そんなわけはない。ところで、限りなく下降し続ける話はそれからどうなったのだろう。下降した先が奈落の底だったのだろうか。では、巨大イモムシを想像した後どうしたのだろう。熱帯地方への旅行を思い立ったらしい。それで実現したのか。わからない。永久に知り得ない。そこで話が途切れていた。後のページは破り捨てられていた。それでは悲劇に至らない。未完であり未解決だ。闇夜にうめき声がこだまする。またもや老人が鞭で打たれる。どうやら鞭で打っている人物は、老人にその話の続きを書かせようとしているらしい。しかし、なぜ鞭で打つことが話の続きを書かせることにつながるのかよくわからない。観察者の思い違いか。だが、どうやってその光景を眺めているのだ。どこから見ているつもりなのだ。観察者の居場所を確保しておくのを忘れていた。たぶん、観察者は火星から地下室を覗いているのだ。荒唐無稽だ。これも悲劇にはならないだろう。未だに月曜の朝には遠く及ばないのか。それは時間が解決してくれるだろう。そのままで絶叫をやり過ごしていれば、必ず月曜の朝は巡ってくる。そこで老人の絶叫をやり過ごすことが肝心だ。


2月16日

 はたして誰も書くことができないようなことを書けるだろうか。たぶん通常では不可能かもしれない。それができると思いこむことは単なるうぬぼれでしかない。では、自分が異常なら書けるのだろうか。そんなことはわからない。ただ、それを通常とか異常とかいうのは、それが書かれた後からその文章を読んだ者が判断することであって、そのとき書かれつつある文章とは直接関係のないことだ。だが、例えば他人の書いている文章のおいしい部分だけをパクって、それを水増ししただけの二番煎じや三番煎じなら容易に書けるのかもしれない。しかしそれはプロの雑文ライターのやることだ。わざわざアマチュアがやることではない。そんな仁義に反するようなことをしては、それで生計を立てている雑文ライターに申し訳ないだろう。ではどう書けばいいのだろうか。雑文ライターが書くようなありきたりなことを誰よりも早く嗅ぎつけ、それを一般受けするようなユーモア表現を交えながらおもしろおかしく書けばそれでいいのだろうか。たぶんそんな書き方もあったかもしれない。で、誰よりも早く書いた自分の優秀さを誇示してみせるのか。そうやって自尊心を自分でくすぐり、結局はそれもうぬぼれに結びつくしかない。そういうことはやめたほうがいいだろう。どう書けばいいかなどと考えること自体がおかしい。考えるより前に書いてしまう。どのようにも勝手に書いてしまうだけだ。そして実際には、書いてしまった後から、自分がすでに書いてしまった、そのこと自体に驚き、その取り返しがつかない結果によって、どう書けばいいのか、などどいう反省混じりの未練がましい思考が働くのだろう。要するにこれも、結果から原因を操作しようとする不可能な倒錯である。すでに書いてしまった文章に対する後ろめたさが、ではどう書けばよかったんだ!というもはや手遅れの叫びを生じさせるわけだ。もちろんその叫び声はどこへも聞き届けられずに、ただ沈黙の壁に吸収されるだけだ。そして、当然のことながら、その問いは次に書かれる文章には何も生かされず、また書いた後から同じような思いに駆られるしかない。その不可能な問いに答える誠実さは同じような文章しか生み出さない。反省を次の文章に生かそうと努力すればするほど、文体の洗練と引き替えにしたマンネリズムを呼び込む。プロの名文家や美文家を目指している人ならそれでもいいのかもしれないが、そのような美文や名文には積極的な価値を見いだせない。興味がない。作文教室の先生や生徒の文章など読む気がしない。そのような受験競争的な道を選べないのだから、結局はそのときどきで勝手に書いてみるしかない。それは自分では制御不能のどうしようもないことだ。


2月15日

 言い知れぬ不安とともに限りなく下降している。なぜなんだろう。どうやって下降しているのだろう。下降していった先はどこなのだろうか。いったいどこへたどり着こうとしているのか。相変わらず予定調和の疑問ばかりだ。しかも疑問に対する返事も相変わらず沈黙し続けている。ただ、限りなく下降し続ける。それ以外は何もわからない。そんな意味不明はもうたくさんだろうか。たぶんそんなことはどうでもいい。ただ闇雲に下降し続けるのだ。下降の意味が無効となるまで下降するのだろう。もはや下降し続けていることさえどうでもいいくらいまで下降してみる。なぜそうするのか。ここでも疑問だ。どこまで下降していっても疑問がまとわりついてくる。ではなぜ疑問がまとわりついてくるのか。下降している根拠が見つからない。どうして下降しているかが説明されていない。だから疑問を発せざるを得ない。これは仕方のないことだ。ただ闇雲に書けば、出てくるものは必然的に疑問ばかりとなる。だから下降するのだ。限りのない無数の疑問を呼び込むために下降する。そして時たま気分次第で答える。下降したついでに適当な答えを見いだす。その場その場で答えを見いだすために下降する。これは一つの運動だ。言葉を蓄積させるための運動なのだろう。こんなふうにして書き続ける。書き続けるために下降する。だがこんな書き方では意味の結晶を生成できない。ただ、無意味に押し流されているだけだ。どこへも行き着かない。何も見いだせずに漂泊するばかりだ。とどまることを知らぬ限りのない漂流だ。しかし言葉は停滞している。どこへも行き場がない。いったいこれで本当に下降しているつもりなのか。方向感覚がない。力はどちらへ働いているのだろう。下か、上か、右か、左か、前か、後ろか、それともどこへも働いていないのか。どうやらだいぶ前から下降が止まっていたようだ。今となってはもはや下降していた感覚は忘れ去られた。ではどうするのか。わからぬ。答えを見いだせない。ここからどう展開させるのかまるで見当がつかない。これはもう終われという合図だろうか。なるほど、下降が止まったら終わればいいのか。しかしこれでは限りなく下降し続けたことが嘘になる。つまり、下降にも限りがあったのだ。こうして言葉はあっさり裏切られた。しかし当初は本当に下降していたのだろうか。冒頭の言葉は嘘だったかも知れない。何の説明もなくいきなりなぜ下降していたのだろうか。どうして冒頭から下降していなければならないのか。今回は最初から意味不明だった。要するにフリージャズにかぶれていたわけか。


2月14日

 地表面に沿ってあてもなく彷徨う。地上に穿たれた窪みから斜め後ろを眺める。荒く削り取られた崖が見える。地層の褶曲を垣間見る。辺りには何の変哲もない小石がまばらに散らばっている。土砂が運び去られた跡には、ただ土と小石が残っているだけだ。土砂は土と小石からできている。同じものが削り取られ、運び去られ、跡には同じものが残る。そしてまた同じ作業が繰り返されるのだろう。ただ循環する、それだけだ。今度は、削られた木の表面に現れた年輪の模様を眺める。真正面から見据える。規則的な模様だ。たぶん元の木は規則的に成長したのだろう。季節が規則的に巡りゆけば、材木用の木は規則的に成長し、規則的に切り倒され、規則的に削られる。使われる用途も規則的なのだろう。これも同じ作業の繰り返しだ。ただ循環する、それだけことだ。ただしそこに経済的要因が加わる。土砂の運搬も製材作業も、そこから規則的に利潤が得られる間は事業が続いてゆくのだろう。このように規則的な現象は循環する。循環している間は規則が成り立ち、予測や計算が可能となる。だから誰もが循環を望む。規則的な毎日を望む。安定したいのだ。自ら進んで機械の歯車となることは幸せなことなのだろう。しかし自分が機械の歯車であることは絶対に認めるわけにはいかない。何よりも自尊心が傷つく。たとえ自らが抱く夢に向かって日々の努力を怠らず、その結果として規則的な毎日を送っていようと、それを機械の歯車にたとえられると無性に腹が立つだろう。それは自分の自由意志でやっていることだ、というわけだ。そこから先は考えない。「自由」という言葉の限りのない曖昧さや明白な矛盾については、できうる限りなるべく考えないようにしているらしい。事を荒立ててはいけない。規則的な作業そのものを疑ってはいけない。それは循環を継続させるためには重要な条件かもしれない。ある思考レベルに留まり続け、そこから先は不問に付す。そうやって絶えず崩壊を未然に防いでいるつもりなのだ。その先はあえて述べない。批判の一歩手前に留まろう。


2月13日

 機能的な言葉の使い方を忘れていた。さらに時間が停滞する。空気までが行き場を失う。言葉を対流させる基軸を見つけられない。その空間は常に密閉しており、換気が極端に悪い。二酸化炭素の濃度もかなり高いだろう。湿り気を帯びた黴臭い空気が下方に淀んでいる。最悪の環境だ。当然こんなところには誰も住んでいないだろう。人のいる気配がしない。物音もしない。ゴキブリやネズミも棲んでいないようだ。きっと残飯が生じないからだろう。だが、こんなところにも蜘蛛の巣が張られている。夏になれば何か小昆虫でも紛れ込んでくるのだろうか。埃で靴の裏が白くなる。床に靴跡が残る。もうだいぶ前から空き家のようだ。ふいに天井からつるされた裸電球に視線が引きつけられる。他に何もないからだろう。これが探偵小説なら、ここで埃をかぶった日記やら色あせた写真やらを発見するところだろうが、あいにくそんな気の利いた小道具は何も見あたらないようだ。読者を劇中に引き込むために使う安易な手がかりなどを提示するには及ばない。そんなありふれた契機を設定するのはつまらない。あるのは裸電球とそれが取り付けられているソケットと電気コードだけだ。そこから物語などいっさい生じそうにないただ殺風景なだけの空間でしかない。だが、こんな場所でいったい何をやればいいのだろう。簡単なことだ、安易に思考を働かせる。いつものことだ。試しに禅の精神について考えてみる。無の境地を悟ればいいのだろうか。そういうことだ。例えば、何もない空間でも空想すればいいのだろう。おそらくそれが無の境地だ。さっきから語っている何もない空間を空想すればいい。しかし、それはすでに空想しているではないか。それはさっきから語っている空間だ。つまり、すでに記述が無の境地について先回りして提示している。だからもはや何もやることがない。そういうことで、予定調和は完了している。なるほど、実に用意がいい。これこそ機能的な言葉の使い方だ。確かにこんな言葉の使い方は忘れていた。これは嘘だ。忘れたふりをしていただけだ。


2月12日

 白抜きのアルファベットを照らしながらオレンジ色の光が鈍く輝く。それが辺り一面の水たまりに照り返されて、路上に佇む黒い人影を浮かび上がらせる。闇夜に雨が降っているらしい。赤と黒だけの風景が暗闇に広がる。まるで映画のワンシーンのようだ。時間について語っているらしい。しかしそこで時間が停止している。それ以後は二度と時を刻まない死の時間が到来した。それと入れ替わりに、何もかもが停止した影の時間が始まる。おそらくその瞬間に、シャッター音が撮影者と被写体の鼓膜をただの一度だけ振動させたのだろう。その音は風景に死を宣告する合図だ。以後はその音以外のいかなる音も消失する。活動する世界に終わりを告げ、静寂した影だけの世界が生成される。その情景は、フィルム上にただ影として痕跡を残し、この世から永久に消失する。その遺影となったフィルム上の影は、現像されてネガとして定着する。こうして、揺らめき動く世界に一瞬の間だけ出現した空間は、影として平面上に圧縮され、一枚の写真として紙やモニターの画面上に展開される。その奥行きの消失した影の空間内では、もはや誰も聞き取れないシャッター音が永遠に鳴り続けることだろう。聞くことの不可能な幻の音が無限に鳴り響く。しかし、何かが足りない。欠落している。簡単にわかる。音や時間の欠落であり、奥行きの消失だ。匂いもない。それが視神経を過敏に刺激し、視覚の過剰に結びつく。誰もが露出過剰になる。悪趣味だ。人はそんなものに感動するらしい。感動せざるを得ないときもある。人の情念に訴えかけ、時として忘れ得ない風景になったりする。そんな情景の虜となった人は、奥行きのない平面化した人間になるのだろうか。その一枚の写真を基点として無限の物語が生まれたりするのだろうか。語り継がれる際限ののないドラマ。そんな語り部に堕するのはいやだ。まるで盲目の琵琶法師だ。視覚の過剰は盲目に結びつく。欠落を過剰で補ってはならない。欠落は欠落のままで放置すべきだ。欠落の跡を丹念にたどり、欠落の形状をきちんと認識すべきだろう。


2月11日

 苦悩できない。悩みはあるが、それが苦しくない。たぶん悩まない人間はあまりいないだろう。ふとしたきっかけで様々な情景を思い出す。思い出すたびに心が掻き乱される。とても平常心ではいられない。それが悩みなのだろうか。なぜ思い出す情景を選択できないのだろう。それで困っているのか。過去の情景をあれこれ選べずに困っているのだろうか。なぜそれらを選択できないのだろう。しかし、それは苦しいことなのか。だが、選ぶことができたとして、それでどうなるのか。例えば、どちらの情景もいやなのにどちらかを選ばなければならないとしたらさらに困るだろう。しかし、なぜ苦渋の選択をしなければならない。なぜ選ばなければならないのか。だから選択などしない。選択する立場にはない。では、あるがままを受け入れるしかないのか。たぶん、何も受け入れないのだろう。何も選ばない。それがひとつの選択かもしれない。では進む道などないのだろうか。道があっても進まないのだろう。どこへも行かない。行く気がしない。では何を悩むのだろうか。おそらく悩んでいないのだろう。だから苦しくない。ではなぜ悩みがあるのか。悩みはあるが悩んでいないということなのか。どうやら存在している悩みをそのまま放置しているらしい。放っておかれる悩みはそのままの形態で凍結され、決して発芽したり開花したりすることはない。その悩みは永遠に種子のままで取り残されてしまうのだろう。そして店晒し状態で次第に風化してゆく。要するに不発弾だったのか。でもいつかそれが爆発したりするのだろうか。それを期待してみる。気まぐれに時限爆弾のイメージに魅惑される。それが爆発した瞬間を空想する。恍惚の表情を浮かべながら爆発と一体化した自分を想像し、そのイメージされるシュミレーションに浸りながらうっとりしてみる。気色悪い。だが、はたしてそんなものに魅惑されたりするのだろうか。試しに、悩みの爆弾の存在を悩ましく思ってみたりするわけか。馬鹿馬鹿しい倒錯である。それが爆弾なら、たぶんはじめから信管が抜かれているのだろう。起爆装置のない爆弾など単なる観賞用の玩具にすぎない。確かにこれでは悩めない。それでも無理矢理悩もうとするならば、それは演技以外の何ものでもない。白々しい猿芝居だ。まるでリアリティがない。いっさいの切実さが放棄され、弛緩しきった冗長さを垣間見ることになるだろう。例えば、たぶんこれらの文章がそうだ。


2月10日

 気が動転する。いや、気が動転している。しかしなぜそう書くのか。これは照れ隠しの言い訳なのだろうか。本当に気が動転しているわけもなく、動転しているふりすらしていないのに、気が動転している、と書いた。なぜ心にもないことを書くのだろう。では、なぜ心にもないことを書いてはいけないのか。一度に両方の疑問に答えるのは難しい。だが、確かに焦っていたはずだ。これについては確信がある。しかし、焦っていることは、すなわち気が動転していることなのだろうか。それに、これを書いている時点では焦っていない。今は至って冷静だ。本当なのか。本当に冷静なのだろうか。なぜそう言いきれる。何も言っているのではない、書いているのだ。つまり心にもないことをいくらでも書けると言うことか。そうではない、実際に思っていることすらいくらでも書ける。それに書けると言っているのではない。書ける、と書いているのだ。文章中で言うと書くを区別するのは難しい。慣習では両者は混同して書かれるようだ。言うと書かれ、書くと書かれる。要するに書かれる。なぜなのかは知らないが、とりあえず書くことは自由だ。実際にこうして書いているのだから。しかしいくらでも書けるわけではないようだ。自由に書けることはいくらでも書けることにはならないようだ。両者の違いは何だろう。わからない。しかし本当に自由に書いているのだろうか。そう言いきれる自信はない。だが現実に、自由に書ける、と書ける。また、いくらでも書ける、とも書ける。これは驚きだ。なんとちょっと前に、いくらでも書けるわけではないようだ、と書いているのに、今度は、いくらでも書ける、と書けた。恐ろしい。矛盾していることすらいとも簡単に書ける。これが、自由に書ける、の正体なのか。と同時に、いくらでも書ける、の正体でもあるのだろうか。このような結果に気が動転する。いや、気が動転している。これは照れ隠しの言い訳などではない。本当か、本当に気が動転しているのか。これもひとつの演技ではないのか。動転しているふりをしているのだろうか。しかし今回は焦らない、二度目は焦らない。至って冷静だ。心にもないことともに心に思っていることすらいくらでも自由に書けるのだから、何も焦る必要はなく、したがって気が動転するはずもない。たぶん歯止めが利かないのだろう。回転する言葉の車輪を止められない。ただ言葉が循環し続ける。恐ろしい。ただし、恐ろしい、と実感できない。何よりも実感できないことが恐ろしい。


2月9日

 美学的フレーズとはどのようなものだろう。はっきりとはわからないが、後で読んで恥ずかしくなるような文句なんだろうか。では自分はどのようなことを述べているのだろうか。美学的フレーズを使用しているのだろうか。内省の言葉はちらほら見受けられる気がするが、何を内省しているのだろうか。これまで歩んできた経験についてどう思っているのか。経験とは何だろう。あるいは何を経験してきたのだろう。今さらあらためて文章にする気がしない。ここではなんとなく語る気がしない。つまり、なんとなく語れない程度の経験なのだろう。そうやって簡単に内省と経験をやり過ごす。美学的フレーズなど置いてきぼりだ。もはや置き去りにされたまま顧みられない。ではいったいここで何を語っているのか。何も語る気がしないと語っているわけか。何かを語ろうとしてすぐに途中でやめてしまう。やめた後からすぐに別の言葉を持ち出してきて、その言葉について語ることもまたすぐにやめてしまう。それの繰り返しなのか。ただ循環しているのだろう。それが今生じつつある経験だ。こうやって循環を経験している。そのドライヴ感覚を経験しつつある。そして、循環を経験しつつある自分について、どんな循環を経験しているのか内省してみる。これはたぶん、最初に美学的フレーズという言葉が思いついて、それについて語ろうとしたが、美学という言葉自体に少々気恥ずかしさを覚えたので、それをうやむやにやり過ごそうとして今度は内省という言葉を持ち出してきた。そして、今度は内省という言葉についてきちんと語る自信がなかったので、さらにまたあらたに経験という言葉を持ち出してきた。だがこれについても語るのがいやなことに気がついた。こうして自分の意識や経験を観察してみた。本当にこれで内省したことになるのか。要するにこれは物語の構築そのものだ。本当にその瞬間そう思ったかどうかはわからない。本当にその時点で、気恥ずかしさを覚えたり、語る自信がなかったり、いやなことに気がついたかどうかはよくわからない。後からそこに書かれている文章を読んで、その文脈から説得力のありそうな理由を推測してここで説明したに過ぎない。つまり、新たなストーリーを付け加えたわけだ。だが、これについても本当に説得力があるかどうかは怪しい。まるであやふやな説明だ。説明とは所詮そのようなものかもしれないが。


2月8日

 もはやどのように言い繕ってもどうなるわけでもない。当たり前のことだが、この現実はこれからも成り行きまかせで適当に変化してゆくだけだろう。ただ、何らかの積極的な行動に訴えることによって、この現状に対して多少なりとも作用を及ぼすことができるかも知れないが、どのように働きかけたらいいものかわからないし、自分にはこんなところで書く以外何もできない。いや、他に何かできるのかも知れないが、怠惰と臆病が邪魔をしてこれ以外やる気がしない。まるで気の抜けた状態だ。それに懐疑の気持ちもある。このままでもかまわないのではないか、実際にこのままでも大した不自由を感じていないし、これ以上良くなっても仕方ないのではないか、という実感が最近は強い。つまり自分も多分に保守的な傾向を持っているということだ。どのような分野においても、今ある現状の革新を訴えている人たちにあまり魅力を感じない。些細なことに感情的になってつまらない縄張り争いをしているようにしか映らない。そんな実感とともにインターネットの他のWebページは読まなくなった。自分とはほとんど関係のない単なる情報が羅列されているだけの文章を読む根気がなくなったのかも知れない。自分とは関係がない、と言いきってしまえる無関心な人間になってしまった。そんなわけで、近頃は過去の人間の著作ばかり読んでいる。では昔の本が自分とどう関係しているのか。たぶん、これを書くための糧としているのかも知れない。具体的どのように糧となっているかはわからないが、少なくとも、今までのような苦し紛れのおちゃらけはやめようと思うようになった。少しはまともな文章を書きたくなった。だがそれはあまりにも漠然とした欲求だ。具体的にどのような内容を書きたいのかがまるではっきりしない。ただ漠然と書きたいだけなのだ。書こうとする文章の内容そのものが欠落している。これはかなりおかしな事態だ。これも怠惰や倦怠の顕れなのだろうか。思考そのものを放棄しているのだろうか。こんな不可思議な心持ちでこれからただ闇雲に書いていったらどうなってしまうのだろうか。狂うのか。そんな気はしないが、はたしてこれがどこまで持続するかに興味がある。と同時に、こうやって書いていることがまるで他人事のような気もするのだが。とにかく先のことはまるでわからない。


2月7日

 3種類の色の重なりから苦痛が滲み出る。血の色だ。ペンキが地面に垂れ続ける。どろどろの原色が奇妙に混ざり合い、自由の開放感を形作る。色の解体が持続しながら蟻を呑み込む。その小さな死は、自由に何の影響も及ぼさないだろう。誰も知らない自由だ。どこかで言葉が重なり合う。氷が溶けだした。薪は炭化して灰になった。紫の花の風景。それは春のカレンダーに組み込まれている。カレンダーはしわくちゃに丸められ、無造作に火の中に投げ込まれた。紫の花が黄色い炎を噴き出しながら燃える。あっという間に灰になる。意識の中で炭の赤とペンキの赤が混じり合う。血の色を連想してみた。血の自由は苦痛を伴う。どこかに捌け口があるのだろう。しかし自由の捌け口は醜い。自身で鬼畜だとか廃人だとか宣言しなければ自由になれないらしい。酷い世の中だ。やめた方がいいのだろう。偽りの自由でしかない。鬼畜や廃人用の自由。やはりやめた方がいい。そんな連中が世の中を批判している。保守政党や保守政治家を批判する。プロ野球チームまで批判する。苦痛が滲み出る。反吐の出るような苦痛だ。もう読めない。挫折する。自由とは何だろう。これは偽りの苦痛なのだろうか。苦痛が滲み出るような自由はいらない。偽りの苦痛もいらない。鬼畜や廃人もいらない。人柱宣言などごまかしだ。すべてが小心者の似非文学趣味である。実践する気もないのに、やれ鬼畜だ廃人だ人柱だと身内の間でにやにや笑いながらわめき合う。そんな無頼派気取りがのさばっている間は何も変わらないだろう。作家やマスコミ関係者はクズでかまわないとかほざいている奴は、早晩保守派に足下をすくわれて転向せざるを得なくなる。小手先のごまかしなど長続きするはずがない。黄色い炎を噴きながら燃えさかり、あっという間に灰になる。


2月6日

 黄昏時だ。疲れているのだろう、意識には相変わらず意味のない空隙が生じている。試しにその空隙に楔を打ち込んでみる。さらに空隙が広がった。さらに打ち込む。割れた。なんとなく二つに割れた固まりの一方に注目する。その断片の形から何かの姿を想像してみる。割れた面に沿って注視する視線によって、その固まりの形状から導き出されるイメージを意識に送り込んでみる。すると、その固まりのイメージは、意識の中で過去の記憶と照合され、具体的な事物の形と結びつく。〜のような形だ。それが結果として出力された言葉だ。つまらない、無内容だ。〜は何も指し示しはしない。導き出されたのはそれだけだった。一連の動作はそんなつまらぬ言葉に結実したのだった。そんな結果に落胆する。つまらない言葉遊びだった。想像力が飛翔せずに低空飛行から失速し、墜落してしまった。暇つぶしに言葉遊びで墜落してみた。なるほど、墜落は落胆を象徴しているらしい。だが、それでは済まないのだろうか。そんな簡単にはことは終わらないのか。途中で邪魔な情報が挟み込まれる。恣意的な感情に意識が蝕まれる。だが、簡単には終わらせない、という感情程度では単なる言葉上の操作しかできないだろう。試しに時間をさかのぼってみる。打ち込んだ楔によって生まれた空隙の中で、摩擦熱によって温度が上昇する。空気が一瞬揺らめく。煙だ。そして今度はその煙のイメージから、煙の前に発生したと思われる火花を想像してみる。目には見えない幻の炎を空想する。さらに幻の炎は荒唐無稽な妄想力を借りて雷へと姿を変える。意識の中で燃焼する炎は電子の稲妻へと変貌した。そんなことはあり得ない、確かに荒唐無稽だ。そんな出鱈目な記憶はすぐに忘れ去られるのだろう。ではどんな記憶が忘れられないのか。そんな当たり前なことには答えない。〜のような記憶だ。ぬかるみのように固着していた汚れはきれいに洗い流された。そんな簡単に忘れ去られていた。相変わらず空隙は空隙のまま残っている。もはや楔が打ち込まれた形跡など残ってはいない。すでに日が沈んでから数時間が経過している。あたりは闇に支配されている。心は空隙で充たされる。


2月5日

 貧窮の時、何かが崩れる。バランスを失った感覚は窮迫の現実から遠ざかり、散漫な距離感を形成しながら意識を蝕みつつ空間にまで成長する。そしてその隔たりによって作りだされた無意味な空間は次第に膨張して行き、その膨張が頂点に達したとき、張りつめきった窮迫は精神の均衡を破り、意識の内部で炸裂する。炸裂し続ける。終わりのない炸裂だ。そして、炸裂のただ中で、すべてを引き寄せる特異点が生成する。特異点には炸裂した残骸が次から次へと集中し圧縮され、そこから新たな貧窮の時が生まれる。こうして貧窮の時は循環する。すべてから遠ざかりつつすべての間近にまで迫る。すべてに接しながらその反対方向に無限の距離を保つ。決してその距離を踏破したりしない。克服することには無関心だ。定常状態を目指したりしない。常に過渡現象の中に隔たりを導入し続ける。螺旋階段の途中から下降し始める。だが行き着く先がない。ただ下降し続けているのに、次の瞬間気がついたら上昇し続けている。足を踏み外したらそこは滑り台だった。下へ下へと滑り落ちる。次の瞬間気がついたら上へ上へと滑り上がっていた。目眩がする。そこはただの階段の途中だった。足を一歩も踏み出せない。そこで立ちすくむばかりだ。限りのない時が過ぎてゆく。とりとめのない時間が経過する。目の焦点が定まらない。まとまりのない意識で逡巡し続ける。固定点を見つけられない。巡礼地など存在しない。ここには巡るべき土地など何もない。常にここへ留まり続け、同時にあちらへ留まり続ける。移動せずに同時に無限の場所へ留まり続ける。ここは場所が場所として機能しない土地だ。のどの渇きで目が覚めた。夜空が回転し続ける。つられて月も回り続ける。ふいに地平線の凹凸に気づく。山の起伏の途中に灯りが点在している。視界の平凡さに落胆する。目にうつるのはありきたりな風景ばかりだ。視線は常に定常状態で固定されている。それが鳥瞰的な思考を構成するのだろう。失われた光景は見失われたまま二度と戻ってこない。思い出すのはありきたりな風景ばかりだろう。永遠に巡礼地を巡り続けるのだ。決しておなじみのコースから横道に入り込むことはない。


2月4日

 言葉は自分自身に返ってくる。そして猶予の期限が過ぎたので容赦なく返答を迫ってくる。どうやら言葉の賞味期限が過ぎたらしい。しかし、いったいそれに対して何をどう答えればいいのか。どういう風な返答が可能なのか。どんな答えを期待しているのか。何もわからないではないか。ところで何がわからないのだろうか。だいいち何を要求しているのかがはっきりしない。それは当然のことだ。現にそれについては何も語ろうとはしていない。それなのに返答を要求してくる。これでははじめから明確な返答など不可能だ。つまり、返答の猶予期限を過ぎていないばかりか、あらかじめ勝手に設定されている猶予期限そのものが無効だろう。それでは言葉には無限の猶予期間があるということか。それは知らないが、おそらく何も返答する義務も必要もないのだろう。では冒頭の文章は何なのか。なぜあんなことを書いたのだ。書くための単なるきっかけなのだろうか。それもあるが、確かに言葉はそれを書いた自分に返ってくる。ただし否定や無効という形を伴って。自分で書いたことを自分で否定し、その文章の無効を自分で宣言するするために、あらかじめ自分で否定すべき文章を書いておかなければならない、ということだろうか。では何のためにそのようなまわりくどいことをするのか。言葉を循環させるためにそうする。つまりこれがひとつの返答だ。ただ言葉を循環させるためだけに、こうして不可思議なことを書いている。結果として自己言及のみの文章が生じる。どうやら限りのない自己言及が求められているらしい。しかし、ここでいう自己とは、これを書いている自分のことではない。自己とは言葉そのもののことである。言葉そのものに言及するために言葉は言葉自身に返ってくる。確かに言葉を操作しているのはそれを書いている人間だが、結局は語っている人間を越えて言葉は言葉そのものを語り出す。どのように操作しようとも、言葉は言葉自身に返ってくる。書き手の作為を越えて返ってくる。常に使用する際に設定された言葉の意味を否定し無効になるように返ってくる。


2月3日

 シニカルな氷の世界から何年が経ったのだろう。今ではまるで感動しなくなった曲だ。切羽詰まった雰囲気でただヒステリックに訴えかける、そんな曲だ。あとは言葉遊びの世界となる。歌詞については、幾分かは今でもリアリティを感じる部分もあるが、大部分はやはり意味不明で稚拙な言葉遊びに感じられる。しかしこんな感想では曲から何の感動も引き出せないだろう。自分の感性が衰えたのだろうか。それとも曲自体が思春期のお子様向けで、今の自分には陳腐に聴こえるのか。あるいはまた、時代の変化による風化作用が関係しているのだろうか。どちらにしろ、当時とは明らかに嗜好が変わったようだ。では今はどんな曲が好みなのだろうか。いろいろな種類の曲を聴いている。中には感動する曲もある。ミルトン・ナシメントのミナスには感動する曲が多い。北島三郎状態でない時のミルトンには感動することが多い。しかし、なまじっかヴォーカル力がありすぎると、時として歌いすぎてしまう。そうなると完全に演歌の世界に突入してしまう。程よく抑制を効かせてさりげなく歌うときのミルトンには感動する。氷の世界もミナスもそれほどリリースされた年代は変わらない。しかしミナスを初めて聴いたのはつい最近のことだ。どうして若いころにミナスに出会えなかったのだろう。当時は、自分の周りの状況は欧米のロック一辺倒だったから仕方のないことかもしれないが、仮に当時に出会ったとして、氷の世界に感動していた人間がはたしてミナスに感動できただろうか。両者の違いがわかっただろうか。歌詞の出来の違いがわかっただろうか。音楽の違いがわかっただろうか。たぶん両方ともに感動したのだろう。今とは違う種類の感動ではあるが。

 今日Mandrakeを入れてみたらデスクトップテーマに氷の世界があったので氷の世界について語ってみた。


2月2日

 得体の知れぬ素性の人間が謎の訪問者を演じる。それはありきたりな展開だろう。物語の明白性とはこういうものだ。現実はそうはいかない。たいていは得体が知れているから謎の訪問者とはならない。それは物語の明白性とは決定的に違う。謎の訪問者との出会いは仕組まれた出来事だ。作者が出会いを仕組み、その出会いが決定的な重要性を持つようにお膳立てをしてあげる。そのような展開は読んでいて鼻白む思いになる。なぜ人間同士がそんなありきたりな出会いをしなくてはいけないのだろうか。どうしてそんな安易なドラマばかりなのか。それが物語の定型ということなのだろうか。そうしないと話が先に進まないのかもしれない。謎は想像力をかき立てる。とりあえず謎が解き明かされるまでは読者の興味をつなぎ留められる。それは、TVのクイズ番組と同じ構造なのだろう。もしかしたらこれらの文章も謎解きゲームの題材となっているのかもしれない。これらを書いている自分には何が謎なのかはわからない。別にクイズを出題しているつもりはない。だが、これらを読む人間が、これらを書いている本人に確かめる勇気もなしに勝手に謎を設定してしまうのだろうか。もしそうだとすると、つまり出会いとは双方の独りよがりなすれ違いのことだ。それは許容の範囲内ではある。得体の知れぬ人間の書いた文章だと決めつけることで安心できる。それが責任逃れの第一段階だ。後は勝手にパクッて、挙げ句の果てには自分は鬼畜だとうそぶいてみせる。それが大のオトナの正体なのか。ただただあきれ果てるばかりだが、それで通用しているのだから、それも許容の範囲内なのだろう。批判などしない。する気も起きない。ただ、そういう人々を無理して応援する気がなくなっただけかもしれない。だいぶ前から、もうお節介なことはやめようと思い続けてきた。それをこの間から実行している。


2月1日

 空白の時間が過ぎてゆく。時間の進み方もいつもとは違ってだいぶゆっくりだ。やるべきことを見失ったまま、ただ時の流れに身をまかせるばかりだ。鐘の音などどこからも聞こえない。弔いの響きなど聴くには及ばない。いったい何を弔うというのか。断末魔の咆哮くらいでは目が覚めないだろう。野獣はどこで死ぬのだろうか。野生からは遠く隔たった生活をしていると、当然そんなことにはまるで無関心だ。葬送曲の旋律とも無縁だ。では、鎮魂歌は誰のための曲なのだろうか。このレクイエムに感動すべきなのか。これは誰の魂を鎮めるためのものなのか。いかにも純真な見てくれの聖歌隊が葬儀で歌う。死者を弔うために、邪悪な魂を鎮めるために、その無垢で透き通った歌声が教会の構内に響き渡る。半端な光景だ。何かが足りない。目がかすんできた。不徹底な描写は読んでいて退屈だ。闇に光る銀色の目。野獣がどこかで生きている。たぶんこのサンプリング周波数では引っかからないのだろう。突然鐘が打ち鳴らされる。複数の鐘が同時に複雑な間隔で乱打され、途中からレゲエのリズムが加わる。それが突撃の合図だった。後はわけのわからない争乱状態が押し寄せるがまま。どこでもないどこかでサンプリングレートが一気に上昇したのだった。時間の速度が指数関数的に増加してきた。目覚めぬまま狂乱の坩堝に突き落とされる。断末魔の叫びは聞こえただろうか。獣の咆哮は届いたろうか。過剰さとは何だろう。こんなものなのか。心臓の鼓動が鈍い。北欧のツンドラ地帯でトナカイが死ぬ。アマゾンのジャングルで森林が焼かれる。だが、どこでもないどこかでは何も起こらない。レクイエムの歌声はさらに続く。静かに風が吹く。川の流れは緩やかだった。霧が徐々に晴れてきた。かすんでいた木々の輪郭が鮮明に浮き上がる。どこまでも湿地帯が広がっていた。しかし、どこでもないどこかでは何もない。空白の場所で空白の時間が過ぎてゆく。言葉では何も届かなかった。見えない旋律は歌われない。ついに目覚めぬままこの場所に帰って来た。ここからは一歩も外へ踏み出せない。レクイエムの歌声はいつの間にかやんでいた。あれは幻聴だったのか。ここでは何も聞こえないだろう。四方を消音壁で囲まれているのか。弔いの鐘の音はここでは聞こえないらしい。どこへゆけば聴くことができるのだろう。