彼の声168

2025年

4月3日「おかしいこと」

 日本に関して何か思い違いがあって、それがこの国がおかしくなったと思ってしまう原因だとしたら、ではおかしくはなっていないのかというと、政治的にも経済的にも行き詰まっていると思うなら、それが普通の状態だと思っておけばいいのであって、国家とはそういうものなのであって、政治家や国家官僚が国家の繁栄を目指そうとすれば必ず行き詰まると考えれば、それで正解というか、しっくりくるような気がするのだが、それに加えて国家の繁栄が必ずしも国民の繁栄には結びつかないのが国家の傾向だとしたら、たぶんそんな単純な逆説ではなく、もっと様々な経緯や事情が複雑に入り組んでもつれ合って錯綜した事態となっていて、果たしてそれが国家の繁栄だと言えるかどうかも、様々な指標があるから一概には言えないことなのかも知れず、それに関する典型例として、十九世紀において大英帝国が世界の覇権を握っていた頃の一般国民の悲惨な生活状態がマルクスの『資本論』の中で示されているのが挙げられそうだが、十九世紀の状況と二十一世紀の世界情勢は違うし、また二十一世紀のそれが十九世紀的な国民国家なのかも、当時とはだいぶ状況も情勢も違うだろうから、現状の世界の中での政府と民衆との関係も、国ごとでだいぶ違いがありそうに感じられるのだが、では日本の場合はどうなのかというと、現状をおかしいとは思わないこと自体がおかしいと思うなら、何か政府に対して文句があるからそう思われるのかどうかも、何となくそうではないような気がするわけで、政府というよりはそれを支えている社会がおかしいと思うなら、社会の中で生きている人間たちもおかしいのかというと、おかしいとかおかしくないとかで判断するのもおかしいような気がするなら、ではそうではないとしたら何なのかというと、現状でうまく行っていない面に目を向けているからおかしいと感じるのであって、うまく行っている面があるからそれを優先させると、それとは逆にうまく行かない面が目立ってしまうと考えるなら、うまく行っている面をうまく行かないようにすればバランスがとれるかというと、ただ単にうまく行かなくなる面が増えるだけで、より一層社会状況がおかしくなってしまうかも知れないが、それもそう簡単には言えないことであり、そう簡単には行かないことだと思っておいても構わないが、自然な成り行きとしてうまく行っていない面があれば、うまく行っていない当事者がそれをどうにかしてうまく行くように工夫を凝らすはずだが、そうはなっていない成り行きがあるなら、それも様々な物事が複雑に絡み合っている中で、そんな状態をある面から比喩的に見ればうまく行っているように見えても、別の面から見ればうまく行っていないように見えるということになれば、うまく行っている面をそのまま推し進めたい側とうまく行っていない面をどうにかしてうまく行くように持って行きたい側とでせめぎ合いが起こっている最中だと見ておいても構わないが、そうやって複数の人や勢力の間で争いが起こっているなら、そんな争いの中で優勢に事を進めている側ではうまく行っている一方で、劣勢になっている側ではやっていることがうまく行っていないことになるだろうから、そうなっていればわかりやすいのだが、その場の情勢や状況によっては一概にそうは言えないような成り行きになっているなら、事態が混沌としていることになりそうだが、そんな成り行きの中で何がおかしくて何がおかしくないかに関して、何か社会の中でコンセンサスや共通の判断基準があるなら、それに照らし合わせておかしいだのおかしくないだのを言えばもっともらしく納得ができるようなことにもなりそうだが、そういったコンセンサスや共通の判断基準そのものが狂っているように感じられるなら、例えばそれが国会の憲法審査会において保守派が示しているコンセンサスや判断基準となってきそうだが、勝手に狂った基準を設定して、その基準に現状が適合していないから憲法を変える必要があるとかないとか、そういう論理を持ち出してくるなら、それがおかしいと感じられるし、そんな論理がまり通っていること自体が、この国がおかしくなっている証拠だと主張するような人がメディア的にも目立っているなら、世間の共通認識としてのコンセンサスが、この国がおかしくなっていることに同意するような成り行きになっていそうなのだが、果たして現状でそんなコンセンサスがあるかというと、メディア上で識者の類いがおかしくなっていることに関してもっともらしい理由や原因を挙げて、この国がおかしくなっているのかと広く世間に向かって問いかけるなら、大抵はそう思われるようなことなのかも知れず、確かにそんな世間の水準ではそう思われるとしても、現実に感じている生活実感として普通に暮らしているなら、そういう水準ではそうは思われないし、メディアを通して感じられる実感と実際に暮らしている中で感じる実感に差があるのは当然のことであり、どちらがどうだと言うつもりもないし、両者を比較して何か言えることがありそうだが、比較すること自体がメディア的な論理に基づいて行う比較になってしまって、現実に感じている実感とは乖離してしまう可能性も高そうで、そんなメディアの論理に民衆を従わせる作用が意図しないところで生じてしまうとしたら、生活実感からかけ離れておかしく感じられてしまうとしても、その一方で何から何までメディアの論理に従わせることもできないだろうから、特定のメディアが民衆の意向を何らかの方向へと誘導しようとしているように感じられる限りで、民衆の方では何かこの国がおかしくなってしまったように感じられるのではないか。


4月2日「それとこれとはどう違う?」

 テスラ車に放火したりテスラの店舗を破壊するのはイーロン・マスクに対する暴力を用いた脅しだと誰かが非難したかも知れないが、イスラエル政府がガザを空爆するのは非難するくせに暴力を用いてイーロン・マスクを脅す行為を非難しない左翼リベラルな連中はダブルスタンダードだと批判できるかというと、普通に考えてそれとこれとは違うと思うのだが、何が違うかというと、それをうまく説明できれば大したことだと賞賛されるわけでもないだろうが、権力者の横暴には民衆が抗議する権利があると主張したいだろうし、たとえそれが非合法な暴力を伴っていようと、民衆による抗議という形態をとるなら左翼リベラル的な価値観からしたら許容の範囲内だと表立っては言わないまでも、そういうことの範囲内でテスラ車に放火したり店舗を破壊しているのを大目に見ているはずだが、そんなことの延長上で安倍晋三や銃撃されて殺されたりN国の立花氏が暴漢に襲われて負傷したら、どのような理由があっても暴力は許されないと言う左翼リベラルな人が出てくれば、それが自己防衛的な意味合いを含んでいて、実際に正義の味方のフリージャーナリストの人が何やら殺すぞという類いの脅迫メールが送られてきたとユーチューブで騒いでいるらしい動画を見ずに、何だかな〜と思う一方で、それが事の良し悪しを伴った感情ではなく、安倍晋三が銃撃されて殺されたりN国の立花氏が暴漢に襲われて負傷したら、心の内ではざまあみろいいきみだと思っているくせに、口先ではいかなる理由があっても暴力に訴えてはならないと建前論を言うような奴に限って、自身に対して殺すぞと脅す脅迫メールの類いが送られてきたら青くなって警察に駆け込むような腰抜け野郎なんだ、そんな奴は信用できないと思っている架空の誰かの姿を思い浮かべておもしろがっているわけでもないのだが、それはそれこれはこれとして、そうなるに至る経緯や事情がありそうで、それら全てを論理的に整合性を伴って説明できるかというと、説明できる人はいるのだろうが、自分は説明する気にはならないし、実際に説明しようとはしないわけだから、説明できる自信はないし、そんなことまで説明できなくてもどうということはないような気がするわけで、その一方で興味深いのはそれとはちょっと傾向が異なるのだが、日銀がアメリカのFRBとは違って、それももちろん日銀とFRBとでは経緯や事情が異なると言ってしまえばそこで終わるような話なのだが、現状でインフレがいよいよその程度が甚だしくなってきたのに、インフレを抑えるためにFRBのように急激に金利を上げようとはせずに、様子見の姿勢を維持しているのが、それに関して何やら正しい意味での穿った見方を示したい経済学者の類いが、財務省の意向としてはこのままインフレが加速して行けば通貨の価値が安くなって政府の債務も相対的に軽減されるからインフレを放置しているんだと主張しているようだが、それって戦後すぐにハイパーインフレによって政府の債務がチャラになった経緯が連想されてしまうのだが、果たしてそういうことかというと、ハイパーインフレまでは行かないものの、もっとスマートなことを日銀や財務省の幹部連中は考えているのではないかとも想像したくなってきて、それが間違った意味での穿った見方ではなく、良い意味でも建前論としても金融正常化の機会を窺っているのではないかと推測したいわけで、要するにポピュリズムとは真逆の事を荒立てないやり方を選んでいて、穏便に事を済ますために調整局面を利用していると見たいのだが、日銀も財務省も減税ポピュリストのようには馬鹿じゃないということであって、その辺が用心深いのだろうが、しかもトランプやイーロン・マスクのように馬鹿で無鉄砲なヤンキー野郎のような荒事をやる立場にはないし、実際にやれないわけだが、良く言えば官僚主義が育んだ優秀な人材が揃っていて、何事も穏便に済まそうとするところが日本の事情を反映しているわけだろうが、そういうやり方が穿った見方をする経済学者の類いが危惧するような経済的な破綻をもたらすとも思えないどころが、予定調和の範囲内で起こる小波乱のような結果をもたらすにしても、何事も穏便な範囲内に収まるように持って行こうとしているのだから、そうやって情勢や状況がこれまで通りの延長上で推移してしまうことが何を意味するのかといっても、別にどうということはないと安心できるかと問うなら、どうということはないことが安心しても構わないようなことなのかと問いたくなってくるわけでもないのだが、とりあえず金融正常化を目指すのだろうし、インフレを抑えるために不必要に金利を上げてしまうと、国債の利払い費が増加してしまって政府の財政を圧迫してしまうから、その辺のさじ加減が微妙な調整を必要とするのだとしても、民間の金融機関が資金を貸し付けてもそれなりの利益が得られるような金利水準に持って行ければ金融正常化と言えるような状態なのだろうから、それがどの程度の金利水準なのかも素人だからよくわからないが、少なくともアメリカの金利よりは少し低い水準にしておけば、それなりの円安水準も確保されて輸出産業もやって行けそうな状況になるのかも知れないが、そこへそうはさせじとトランプ関税が待ち構えているわけだから、先行き不透明な状況になっているとしても、そんな情勢の中でも何を信用できるかというと、やはり無鉄砲に馬鹿な荒事を強引にやろうとしてしまうトランプやイーロン・マスクを、事の是非とは関係なく信用しておいた方が良さそうに感じられて、たとえそれによって彼らが自滅しようとしまいと、結局左翼リベラルの正しいやり方や官僚主義的な穏便さだけでは事態が打開できない現状がありそうで、だからといって彼らの強引なやり方で事態が打開できるとも思えないどころか、かえって事態がこじれにこじれて、ますます混沌としたとりとめないの事態に陥ってしまうかも知れないが、だからそんなことをやってしまう者たちを信用できるといっても逆説的で意味不明なのだが、バランス感覚としてはそんな奴らが世間の批判や非難を一身に浴びながらも強引にやってしまうから、何かが前進しているような感じがするのも気のせいに過ぎないとしても、それでもそんな犠牲の十字架を背負った者たちを何となく信用したくなってしまうわけだ。


4月1日「新自由主義の問題点」

 自らの立場をこれといってはっきり示す機会などあまりないかも知れないが、例えば現状の世の中で新自由主義的な立場というのがあるのかないのか、少なくともそれを批判の対象とすることは容易にできるだろうから、他人から批判される立場になりたいとは思わなければ、自身が掲げる主義主張を新自由主義とは言われないように用心した方が良さそうだが、それ以前にこれといって自分から明確に主義主張を明らかにするようなことは戦略的にも避けたいだろうから、他人が述べていることをこれだと否定的な意味を込めてレッテル貼りして〇〇主義だ〇翼と批判するような、よくありがちな形態を想像できる限りで、他人の言っていることを批判しやすいように単純化して否定的に歪ませる際の決めつけとして、あいつは新自由主義だと言い放つようなことになるわけだから、そんな否定的な印象を伴った新自由主義を今さら肯定的に捉え直すのも至難の業のように思われてしまいそうだが、歴史的な順序としては自由主義の欠点を補ったのが新自由主義だと見なされるわけだから、そういう経緯から新自由主義を捉え直すのが妥当なやり方のようにも感じられるが、それを批判する側はそんな経緯は一切無視していきなり新自由主義を批判する成り行きになりそうで、そういう否定的なレッテル貼りの対象となる新自由主義と本来の新自由主義との間でどのような差異があるかといっても、そんなのはレッテル貼りにしか使わない側としては無視しても構わないことにもなりそうで、興味のないことかも知れないし、それも今さら説明するまでもないことかも知れないが、そういう意味でも何かそういうことをやられては困るようなことが、新自由主義と呼ばれる概念を使って行われてきたことになりそうで、それが新自由主義とは直接関係のないことだとは思われないにしても、例えば既存の制度に守られた既得権益を壊すための規制緩和であったり、政府の官僚機構を削減して予算の無駄を減らすための試みであったりする限りで、良いことが行われているような印象を伴うわけだが、その一方でそういうことをやるに伴って弊害も生じてくるから、その弊害を強調するなら悪い印象を伴ってくるわけで、それに関してはトランプとイーロン・マスクのおかげで彼らがやっていることを批判的に報じているメディアの実態についてもわかってきたことがあるから、それらの良し悪しを総合的に判断するような成り行きにはならないにしても、現状の人間社会の問題点がそのまま新自由主義の問題点と完全に重なるわけでもないが、実際にも政治的な方面では世界的に民主主義の危機に直面しているわけだから、しかもそれが経済的な方面でも不具合を生じさせているようにも感じられてしまい、アメリカではトランプが減税の財源をひねり出そうとして輸入品に関税をかけようとして、経済的な混乱をもたらしている一方で、日本では財源を明かさずに一方的に減税を主張するポピュリズム勢力が隆盛を極めていると情勢を捉えても構わないのかというと、それも物事の一面だけを強調しているようにも思われて、何か釈然としないのだが、少なくともアメリカでは強引に改革を推し進めている最中であって、それがメディアを巻き込んだ頑強な抵抗に直面していると事態を捉えると、そんなやり方を批判する勢力としてはそれ自体を否定的に捉えたいわけで、批判する側はそれを改革だとも認められないわけだから、そこで議論が噛み合わなくなって当然なのだが、一方でそれをどう見ても政府の機構を縮小して職員をリストラして予算を削減しようとしているわけだから、新自由主義的な小さな政府を実現させようとしていると受け取ればいいのだろうが、さらには規制を緩和してアラスカで石油やガスの開発を促進したり、運輸方面では自動運転の全国的な普及を目指しているわけだから、まさに規制緩和の新自由主義だと受け止めたいのだが、日本で新自由主義といえば、小泉竹中郵政民営化で失敗したという固定観念を世間に定着させたいし、アベノミクスも新自由主義の失敗例だと決めつけたいわけだから、トランプ政権のやっていることを好意的に受け止めるには、新自由主義的な傾向は無視して、減税を実施しようとしている面だけを強調したいわけで、それを戦略的な受け止め方だと見なしても構わないのかもよくわからないところだが、例えば立憲民主党の予算の無駄を削減する試みを財務省に洗脳された緊縮財政だと批判するのではなく、新自由主義的な小さな政府を目指す試みだとは立憲民主党の政治家もそれを否定するだろうし、口が裂けてもそうは言わないだろうが、そういうところがアメリカでも日本でも物事の本質とは違った方面で戦略的な姿勢や態度に凝り固まっているような気がするのだが、もちろん予算の無駄を削減する行為自体は新自由主義でも何でもなく、普通に国会の予算委員会ではそういうことをやるのが当然のことなのだが、それに対して何が自然な受け止め方で何が戦略的な受け止め方なのかが、その区別を恣意的につけたところで、そういう見方に疑念を覚える人もいるだろうから、人それぞれに違った見方や考え方があって当然だと思うしかないが、それを否定的にレッテル貼りする行為自体が戦略的なやり方だと捉えるなら、戦略的なやり方自体が悪いわけでもないのだが、わざとこれ見よがしに単純化した攻撃文句を言い放つような輩には注意した方が良さそうに思われて、そういうことを言っているのを真に受けたくはないし、安易で浅はかな人ほどそれを真に受けて真似して、その人自身も攻撃的な文句を言い放つような手法を多用するようになるから、その種のポピュリズム的な煽り立てが人から人へと伝染するのが大衆市民社会に特有の傾向だと事態を捉えたいにしても、そういう傾向を政府当局が抑圧しようとすれば言論弾圧になってしまい、民主主義の崩壊を招く原因ともなりかねないから、結局は一般の市民の方でその種の煽動には安易に乗らないようにするしかないのだが、煽動を仕掛ける側としては多くの市民を煽り立てて大衆運動へと結びつけたいわけだから、その際のキャッチフレーズ的な煽動文句をどう受け止めればいいのかといってもその内容にもよるだろうが、例えば財務省解体と叫ぶことが何を意味するのかと考えてみれば、おかしいと思われるのが当然の反応だとしても、そういうことが叫ばれている経緯や事情を考慮に入れると、そう叫んでデモをやっている集団の意図が良いようにも悪いようにも思い浮かんできてなるほどと合点が行くなら、そういうことだと思っておけばいいとしても、何やらそれが戦略的な思惑からやっていることだと感じられる限りで、何となく真に受けるわけには行かなくなってしまうわけだ。