彼の声167
2025年
3月31日「左翼リベラル敵視観」
それがそれほど気にならないようなことでもないのだが、左翼リベラルを敵視する人たちが何をそんなに嫌っているのかというと、それらの人たちの権威主義的なやましさを左翼リベラル系の人たちに見抜かれているからかも知れないが、政治権力に媚びへつらっている人ほど、左翼リベラルに対して異常なまでの憎悪の感情をあらわにすると考えれば、それを憎悪と言ってしまうと、では嘲笑は憎悪の裏返しなのかと勘違いしたくなるが、憎悪の感情を隠すために懸命に嘲笑して見せると解釈するなら、では左翼リベラル勢力を嘲笑することに全力を尽くしているのかというと、それも何か違うような気もしてくるから、彼らの真意をわかっていないことになるかも知れないが、それとは別にローマ教皇や日本の現天皇や上皇を始めとして左翼リベラルであることが真の保守であることの証しとなっていることが、自身が偽物の保守だと自覚している人々には許せないのかも知れないし、そういうところがこんがらがっているような気がするのだが、そういう意味でも国民民主党の玉木代表などがまがい物感を全面に押し出していることが、偽物の保守層から支持されている理由だと言えなくもなく、戦略的にはそれで正しいとしても、何かもったいないような気がするのだが、自分たちが偽物やまがい物でも構わないのかということが、それを自覚しないように意識していても、無意識に装っているのであって、心の奥底では自覚しているからこそ、左翼リベラルに対する異常なまでの憎悪の感情や強い敵愾心を隠そうとしないのではないかと感じられてしまうのだが、それは左翼リベラルをこの世から根絶しない限りは自分たちが真の保守だと民衆から認められないことを自覚している証拠なのではないかとも思ってしまうのだが、何が証拠なのかも示さずにこんなことを述べてみても、大して説得力が伴ってこないかも知れないが、さらに説得力のないディープステート論を述べるなら、世界政府の官僚機構の一部として各国の政府があって、それがEUを代表とするような左翼リベラル的な価値観を担っているわけだから、それに対抗するには右派ポピュリズム勢力を結集しなければならないと誰が訴えているわけでもないにしても、自然と世界的にはそういう流れになっていて、左翼リベラル勢力からすれば、それが権威主義や専制主義的なナショナリズムを形成しているとも捉えられるのだが、そういう視点では何かが欠けていて、何が欠けているのかといえば、それが経済的な視点であることもわかりきったことだが、わかりきってはいても経済的な視点から何が言えるかとなると、何となくしどろもどろになってしまうのであり、資本主義に対してどのような立場から何が言えるのかがはっきりせず、今ひとつ敵対的な姿勢をとれないわけで、逆に資本主義を擁護するといっても、新自由主義は批判するしかないわけだから、どうしても対立とか敵対とかの単純な二項対立的な図式へは持って行けないわけだから、その辺を何としてもごまかしたいわけだろうが、それが表向きには伝統的な保守が農業を基盤として成り立ってきて、その逆に商人資本は士農工商の一番下に位置付けて蔑んできた歴史的な経緯もあるわけで、その代表格がユダヤ金融資本でもあったわけだが、それに伴って仮想敵として位置付けているディープステートもユダヤ金融資本とつながっていて、それらを打ち倒すためにも右派ポピュリズム勢力を結集して対抗しなければならないはずだったのだが、実態はどうかというと、アメリカ自体がユダヤ金融資本に支配されていると言えるかどうかも、それが民主党政府であればディープステート自体が民主党政府なのだから、打ち倒すべき理由として大義が成り立つのだろうが、すでにトランプ政権によって打ち倒されたことになっているわけだから、もはやディープステートは存在し得ないかというと、まだEUが残っていることになるから、EUを解体できれば最終的な勝利となるはずだが、果たして今後トランプ政権がEUに勝利できるかというと、何とも言えないが、EUよりも中国に勝利することを優先しなければならないはずだが、その辺もこんがらがっていて、いったい何が敵で何が味方なのかが一筋縄ではいかないもつれ具合の様相を呈していそうだが、それに関して政治的な民主主義の価値観と経済的な自由主義の価値観とが互いに相容れない面があって、経済的な自由主義を追求し過ぎると専制主義になってしまうから、それに対して何を優先すべきかというと、それが誰もが思い浮かべるような民主主義ではないことをわかっていない人も多過ぎるから、その辺からもややこしい事態になってくるのかも知れず、民主主義を優先させても経済がうまく行くとは限らず、だからといって専制主義になってしまうと、やはり経済がうまく行くとも限らないから、では何なのかというと、行き過ぎた自由主義には規制をかけないと民主主義ではなくなってしまうわけだが、だからといって規制をかけ過ぎると経済が停滞してしまうから、調整が必要となってくるわけで、しかも調整といってもどの程度調整すれば経済がうまく行く保証もないわけで、絶えず調整しながらバランスを保たなければならないのだろうが、調整するのが正義だとも言えないわけだから、調整が一時的にうまく行ったとしても、誰がそれを賞賛するわけでもないし、誰から褒められるわけでもなく、逆に調整によって損失を被った者たちから文句が出てくるわけで、そういう意味では何が正しくて何が間違っているのかなんて一概には言えないのかも知れないし、結果的に貧困に苦しんで不自由な思いをする人々が多く出てくるなら、民主主義的な価値観からしたら、そうなった人々を救わなければならなくなるのだろうが、その一方で経済的な自由を追求する人々からしたら、不当な支出を強いられているような成り行きになってしまうから、弱者救済が不公平に感じられて、では弱者切り捨てで構わないのかというと、民主主義的な価値観からしたらまずいわけで、そういうところでも妥当な調整が必要となってくるにしても、結果的に調整がうまく行ってそれなりの程度で弱者救済が達成されても、それに対して不公平を感じている人々から文句が出てくるだろうから、そんな文句を言ってくる人々を味方につけて政治的な主導権を握ろうとしているのが右派ポピュリストだと捉えておくのが無難なところだろうが、それも単純に弱者救済を否定していると捉えてしまうと勘違いの原因となってしまうだろうし、彼らは彼らで低所得者層を味方につけたいわけで、しかも低所得で働いている人々を味方につけるために所得のない生活保護受給者や移民などの外国人労働者や先住民族や穢多非人と呼ばれる被差別民や年金受給者の老人やLGBTQなどを攻撃するように仕向けるわけだから、よく考えればおかしいのだろうが、それを敵と味方に単純化して分けても違和感を覚えない程度の知性の人々を味方につけたいと考えても構わないのかというと、そうなると違和感を覚えるような賢い人が左翼リベラルなのではないかとも考えられてしまうわけだ。
3月30日「フェイクな未来」
明らかに単純化された物言いに対して、それらしいことをそれらしいとは思わないようにするには、例えばそれを批判できるように言説的に単純化された対象の中でも単純化できない面や要素を見つけ出して提示するしかないが、それを批判できるように単純化して捉えているのだから、批判できない面や要素を見つけ出せばよく、それもある意味では単純化に他ならないが、それを批判するとかしないとかではないとしたら何なのかというと、あらかじめそういう目的を設定しないようにしておくしかないが、言説の対象を否定しようとすれば、否定するのに都合の良いようなことを語ればいいと思ってしまうならわかりやすいが、果たしてそんなふうに思いながらその対象となる物事について語っているのかというと、大抵はそんな自覚もなく語っているのだろうから、そういった先入観を意識しながら言説の対象となっている物事や人物に関する情報から何をどう判断するかも、目的に応じて良し悪しや是非を判断するとなると、それらしいことをそれらしいように思いたくなるのを、なるべくなら回避したいわけで、回避しようとしても結果的にも成り行き的にも回避できない場合の方が多そうだが、要するに始めから批判する気でそれについて語っているわけではなくても、結果的に批判していることになってしまうなら、語っている者の意向とは関係なくそうなってしまうのだから、何かその批判には説得力があるような感じがするのだが、それも言語的なテクニックによってそう思わせるようなことではないとは思いたいのだが、そうではないとしたら実際に行われていることや起こっていることについて語るような感じになってきて、しかもそれに起因して人為的にわざと起こしているようなことについても語ることになるのだが、それを批判するためにわざと否定的な事件を起こしたりして、そんなことをやるからこんなことが起こるんだと批判するような成り行きになってくると、それを批判する側と事件の類いを起こしている側が連携しているようにも思われてくるだろうが、それが無意識の連携だと感じられるようなことでもあるから、関係がないわけではないが直接の共犯関係というわけでもないのだろうから、どちらがどうだと言いたいわけでもなく、ただ社会の中で複数の物事が絡み合いながら起こっていることだと捉えるしかなく、その中でも批判しやすい物事や人物を選んで批判する気もないのだろうが、批判している者も絡み合っている物事の一つでしかないから、それを批判している者だけを悪く言うまでもなく、悪く言うことも批判に含まれてしまうから、微妙な感じで批判を回避しようとしなくても否応なくそうなってしまって、結果的には批判しやすい物事や人物を批判する成り行きに巻き込まれてしまうとしても、何か引っかかるものを感じるなら、抵抗感が伴っていることになるのかも知れず、そういう意味ではそれらしいことをそれらしく語る成り行きに逆らっていることになりそうで、何かそれに関して思い至ることがありそうなのだが、それが何なのかというと、暴力はやっては行けないと言いつつも、それをきっかけとして批判の言説を構築できるようなことになってしまって、暴力を行使した者と批判の言説を構成する者とは何の関係もないと言えないわけでもないのだが、批判の言説を構成する者が直接に暴力を行使してはまずいし、それをやってしまうと批判が台無しになってしまうのだが、やはり批判するきっかけを作るには、他人に暴力を行使してもらうと批判しやすくなるような成り行きになってしまうから、直接には関係ないとしても暴力を行使する者と批判する者が社会の中で無意識の連携を構成しているような感じになってしまうから、そこからやましい感情が生じてくるとも思えないにしても、それも批判された挙句に暴力も行使された当事者としては、何だか被害妄想に陥ってしまっても良さそうな機会を得た感じになってしまって、そういう成り行きを利用しない手はないとも直接には思ってもいなくても、結果的にそれを利用して攻撃を回避するような成り行きに持って行ってしまうなら、うまく立ち回っていることになりそうだが、そうなっている当事者が誰なのかというと、それも微妙なニュアンスを伴ってきそうで、これと言って名指しするようなことでもないのだろうが、そういう成り行きに完全に合致しているとも言えないし、直接にもそうなっているわけでもないのだろうが、現状の中でもイーロン・マスクがうまく立ち回っているわけではないし、不器用だからうまく立ち回れないのだと思いたいのだが、しかもそれで構わないようなことなのかも知れないし、うまく立ち回る必要などなく、それよりは論理的に正しいことをやればいいだけのような気もするのであって、実際にそういうことをやっている最中のように見えてしまうわけで、そのやっていることを阻もうとしているのがメディア的には左翼リベラル勢力であったり、事業の方面では中国の自動車メーカーであったりすることが、何かそれが願ってもない好機が到来しているようにも思われるから、彼なりに不器用に立ち回っているのに、結果的にはそれで構わないようなことにもなっているように見えてしまうのだが、現状で進行中の時代状況がそれを後押しするような成り行きとなっているなら、まさに時代の寵児と言えるようなことになりそうで、それがちょっと前までは主流のメディアにもてはやされている面もあったにしても、逆にバッシングの対象となっている面の方が現状では強いわけだから、主流のメディア自体を打ち倒す役目まで背負っているようなヤバい存在になりつつあるのだが、たぶんこのまま攻撃されて落ちぶれる末路も期待されているのだろうが、そうはならないと予想したいわけで、落ちぶれてしまった方が左翼リベラルメディアとしては願ったり叶ったりなのかも知れないが、逆にフェイクファシズムだ何だと調子に乗って批判している側がひどい目に遭うような気もしないではなく、彼らがトランプを利用して何をやりたいのかも、トランプですらもわかっていないような結果を招く可能性もあると感じられて、全てがイーロン・マスクの思い通りに事が運ぶとも思えないのだが、誰の思い通りに事が運ぶわけでもないし、それをあえてアダム・スミス流に言うなら、神の見えざる手に導かれながらそうなってしまうのだろうが、ではそうなって行った先に待ち受けているのが、どんな世界になるのかも、現時点では誰も思い描いているわけでもないとも言えないが、誰の予想や予言ともちょっとだけ違う状況や情勢になるのだとしても、そのちょっとだけ違うのちょっとだけという程度がどの程度なのかも、人によっても立場によっても、ちょっとどころではないようなとんでもない事態にもなりかねないから、それに関しては現時点で何が言えるわけでもないのだが、それがフェイクファシズムがもたらすフェイクな未来だと否定的に捉えてみたところで、そうなってから過去を振り返ってみれば、誰の予想や予言も外れたことを思い知るのではないか。
3月29日「危機意識の欠如」
この世界ではわかっていないことがいくらでもある一方で、わかっていることが限られているにしても、それが単なる気のせいではなく、下手に知ってしまうと調子に乗って知ったかぶったようなことを述べてしまい、後からしまったと後悔することになるから、何か後味の悪さを覚えるのだが、だからといって他人が調子に乗って述べている内容を参考にしたくなるわけでもなく、それが知ったかぶりのような印象が感じられると身構えてしまって、まずは本当にそうなのかと疑念を抱いてしまうから、それが何かもっともらしいことを述べているように感じられると、より一層そう思われてしまって、自分が述べていることも他人が述べていることも信用できないような疑わしい思いが募ってきて、なかなかこれはこういうことだとはっきりとは断言できなくなるのだが、それでもそんな疑わしい思いを振り切って構わず断言したくなってしまうことがあるとすれば、本当に今が危機的な状況なのかと疑念を覚えていることになるから、そんな類いの危機感を煽りたい人が言うところの〇〇の危機とやらにリアリティを感じない理由が、危機意識に欠けているからというのもわかりきったことかも知れないし、それを大衆市民社会の中で起こる一時的な流行り廃りと捉えるのも大ざっぱ過ぎるような気もするが、〇〇の危機というのもその種の一時的な流行り廃りの流行現象の中で起こっていることであって、それによって何がどうなるわけでもないどころか、実際に小波乱のような危機的な状況となっているのだろうが、その程度のことだと思っているわけだから、それも表面的なことに過ぎず、深刻にそう感じるようなことでもなく、かえってその種の危機意識の欠如感が危なそうな兆候を示している可能性もありそうなのだが、その一方で少なくとも世界を見渡して見れば、メディア的にはトランプもプーチンもエルドアンもネタニヤフも間違ったことをやっているし言っていることになりそうだが、それも表面的にそう思われることであって、実際に深刻な事態をもたらしているのに、表面的にはそうなのであって、なぜそれを表面的なことだと思うのかが、表面的には大間違いなのに、大衆市民社会的にはそれで構わないようなことであるはずもないことだが、各国の指導者的な立場にある者たちが大間違いなことをやるのが、果たして民衆の期待に応えていることになるのかというと、民衆の期待を都合の良いように受け取るならそういうことになりそうで、それを都合の良いように受け取ること自体が大間違いかというと、それも表面的には大間違いなのに、それを大間違いだと批判するメディア関係者の意図や思惑が、何かそうではないようにねじ曲げようとしているような気がするわけで、彼らがどういう意図や思惑を抱いてそれを大間違いだと批判しているのか、彼ら自身もそんなことがわかっているわけでもなく、それを言語化して示すことなど誰にもできないのかも知れず、言語化しなくても大衆の共同幻想となって多くの人々の間で共有されているから、言わずもがなというか、言語化するまでもないことであるから、それが暗黙の了解事項だと言えなくもないが、それが大衆の願望の実現だと考えると、そんな願望など誰も抱いてはいないと否定したくなる者も大勢出てくるかも知れないが、否定したくなるようなことだからこそ、無意識の奥底に隠れている願望なのであって、そういうことをやったり言ったりする役割を担っているのが、世界各国で行政の長のような役職に就く人物となるから、それがメディア的には大間違いなことをやったり言ったりする人物として実際に登場してくると世界の現状を捉えておけばしっくりくるのかも知れず、そんな政治的な成り行きになっているから、それがメディアを介して批判する対象となってくると共に、そんな批判を担当する者たちの言説のネタとしても重宝されている現状もありそうなのだろうが、一般の市民がそれを真に受けるようなことなのかというと、SNSなどで政治方面の話題として取り上げるのにも格好のネタになりそうなのだが、それが日本では国民民主の玉木代表なんかが最近ではすっかり調子に乗ってしまってにわかポピュリストとしての芸風も板についてきた感じにもなってきて、ただでさえ歪んだ顔がより一層歪んでしまって、何だかそれが爽やかな悪人というか、軽いノリで颯爽と悪人をやっているつもりなのだろうが、それを悪人だと認識できない市民がどれほどいるのかもよくわからないが、トランプやプーチンやエルドアンやネタニヤフなどのアクの強さとは比較にならないほどの軽さだと感じられるようなら、悪人でも何でもなく、ただのお調子者程度の役回りに過ぎないだろうが、そうではないとしたらたぶん否定的に捉えてはならないキャラクターなのかも知れず、それどころかよくやっていると評価した方が国民民主の現状に見合っていそうなのだが、そのまま玉木代表が日本の首相になってしまったら、まさに今の日本の顔と言っても何の遜色もない感じなのかも知れず、日本レベルでの政治とはそういう感触を得るような状況なのだと思いたいわけで、それで構わないようなことであるなら、確かに今が危機的な状況でも何でもないわけだが、本当にそれで構わないのかというと、首をかしげる人も結構多そうな気もするのだが、それが俳優というかコメディアンというか、ウクライナのゼレンスキーでも役回りとしては構わないのだが、日本の過去においては例えば植木等みたいなキャラクターが望まれているのかも知れないが、そんな人物がこれから出てくるとも思えないし、実際に実在した植木等ではなく映画の中の登場人物のようなキャラクターとしての植木等のような人物が日本の首相としては最適のような気がするのだが、そんなのはあり得ないし、実際にもそうはならないだろうから、キャラクターとしてではなく、そうかといって優秀でも有能でもなく、日本人の平均的なメンタリティを伴った人物程度で構わないだろうが、それも表面的な流行り廃りの水準にとどまってほしいし、そんなのも物事の本質などとは無縁である方が、かえって幻想を抱く手間も省けて好都合だと思ってしまうわけで、その一方で何よりも避けなければならないのが、しかめっ面してポピュリズムを批判するような人物であっては困るのだろうから、誰が困るといっても誰も表面的には困らないかも知れないが、そこでも無意識の奥底に隠れている願望を反映するような成り行きにならないと、メディア経由の批判ネタとしてはうまく機能しないわけで、それがここ十数年のうちでもっとも有効に機能したのが安倍晋三が総理大臣になっていた期間であるから、誰もが安倍晋三の再来を期待しているわけでもなく、もう二度とあんな奴は現れないでほしいと思っている人が多くいるなら、それが多くの人々の無意識の奥底に隠れた願望を投影したキャラクターだと思っておいた方が、反面教師的なレベルではしっくりくるようなことなのではないか。
3月28日「誤った認識」
何かと主義主張が対立しているように見える国民民主党とれいわ新選組がどちらも世論調査などで支持率が高いのは、どちらも減税を政策に掲げているから支持されていると考えるなら、それが正しいように感じられるだろうが、それらの政党を支持している人々が騙されていると考えるなら、たぶんそういう認識は誤っているどころか、減税を政策に掲げている政党が単純に国民から支持されていると考えるのも誤っているような気がするとしたら、正しいように感じられること自体が誤っているような気がするというのも、何かそこに勘違いが含まれているような気もするから、よくわからないような感じになってしまいそうだが、要するに減税を政策に掲げている政党が国民から支持されているということにしておきたいわけで、そういう結論になるように世論調査がメディアによって調整されていると考えておけば良さそうに感じられるのだが、もちろんそれ以外の要因を無視すればそう考えられるだけで、そういうことまで考えるなら世論調査に騙されるなとか、世論調査の結果に騙されるなとか、世論調査の結果を真に受ける人々に騙されるなとか、いくらでもその種のもっともらしい警鐘を鳴らすことも可能かどうかも、〇〇に騙されるなという警鐘自体にも騙されるなと警鐘を鳴らすことも可能かどうかも、そんなことまで考えるならどうでもいいことを考えていることにもなりそうだが、もっと単純に考えるなら、原発を推進したい国民民主党と原発推進に反対しているれいわ新選組が対立していて、どちらもの政党も減税を政策に掲げていると考えておけば良さそうだが、それ以外でも例えば憲法の改正についても対立点がありそうで、緊急事態条項を憲法に加えるという怪しげな保守層からの支持を得ようとしているのが国民民主党である一方で、それを指摘して国民民主党を批判しているのがれいわ新選組だと認識しておけば良さそうだが、どちらの方が支持率が高いかというと、国民民主党の方が現状では圧倒的に高い支持を得ていると言えそうだが、そんな怪しげな国民民主党をどれほどの国民が支持しているのかというと、全体としてはそれほどでもないだろうし、今のところは五割にも届かないし、二割にも達しないような支持率でしかないわけだから、そういう面では大したことでもないのだろうが、それでも特定の年齢層においてはトップを占めているのが驚きを持って受け取られていて、それが果たして今後どれほど支持を伸ばして行くかが注目されていて、欧米の極右政党のような盛り上がりを期待する向きもありそうだが、果たして国民民主党が極右なのかというと、どうもそれも怪しいだろうし、他にも参政党とか保守党とかが存在しているわけだから、それがイミテーションのようなまがい物のような怪しい雰囲気を纏っている限りで、何か思慮の足りない浅はかな人から支持を集めているような気もする一方で、それがれいわ新選組にも言えることかどうかも、それらの政党の支持者からすればそうではないともっともらしく反論してくるか、無視されるだけかも知れないが、では現時点で一番支持率の高い自民党の支持者はどうなのかというと、さらにひどいと言えてしまいそうだが、それを言うならトランプの支持者やプーチンの支持者やエルドアンの支持者やネタニヤフの支持者などもっとひどいし、世界にはさらにひどい人たちなどいくらでもいると言えてしまいそうになって、ひどいかひどくないかの判断基準をどう設定すれば納得できるのか、さらにわからなくなってきてしまいそうだが、そんなふうに単純にどの政党が支持できるとかどんな政治家が支持できるとか言えないような情勢になっているから、そんなのも誤った認識になりそうで、ではその種の世論調査が誤った認識をもたらしているのかというとそうでもなく、そこから誤った認識を導き出してしまってはまずいように感じられるなら、それ自体が単独で判断基準となるわけではなく、相対的な比較検討の材料として機能していると言えそうで、世の中で起こったり動いたりしている物事の成り行きの中で複雑に絡み合っている様々な要素や要因を考慮して判断すると、れいわ新選組よりも国民民主党よりも自民党の方が相対的に支持できる人の割合が高いと言えそうで、どの政党の支持者が一番まともなのかと言えば、自民党の支持者が一番まともだと言えるかどうかも、それも断じて違うと思っている人の方が多そうだが、では多そうだと思う根拠を示せと言われると返答に窮してしまうが、何となくそう感じる程度のことであって、たぶん批判したいなられいわも国民民主も自民もそれぞれに欠点を抱えていそうだから、それを指摘しながら批判できそうだが、心情的にはれいわを批判したくないわけで、財務省陰謀論に加担するれいわの支持者などを批判しても構わないのだが、国民民主や自民の支持者も同じように加担している実態もありそうだから、それが批判するかしないかの判断材料とはなり難いし、その一方で嘘やごまかしの度合いが高いか低いかという判断基準を設定すれば、そういう判断基準ではまずい場合もありそうなのだが、少なくともれいわの政治家が国会で主張している内容は当人が嘘だと思っていることを主張しているようには感じられないし、その一方で明らかに嘘も方便的なことを語っていそうなのが自民や国民民主の政治家たちだと感じられてしまうわけだから、そういうところで正直者に見えてしまう共産や社民や立民などの左翼リベラル勢力にれいわも含めても構わないかというと、それも微妙にずれるところかも知れないし、正直者というのもどちらかというと馬鹿正直に見えてしまうから、その辺も人によって好き嫌いが分かれるところかも知れず、その一方で時と場合によっては功利的な判断から嘘をついても構わないし、積極的に嘘をついてしまうような立場の人たちが自民を支持しているのかも知れないし、自民を支持しているのを公言してしまうと世間的にまずいと思われるなら、次善の選択肢として国民民主や維新でも構わないし、嘘をついている自覚さえもないなら参政党や保守党でも構わないようなことにもなってしまいそうだが、ではれいわの政治家たちが嘘をついている自覚さえないのかというと、そうは思わないし、そうは思われないようにしているというと、それなりに疑念を覚える面もありそうだが、その辺が参政党や保守党や石丸新党などとれいわを隔てるところなのではないかと考えてみても、本当のところはわからないし、それらを隔てる境界線が曖昧だと言えないこともないし、実際に支持者が被っている面もありそうなのだが、それも根本的なところでれいわの支持者たちとは真逆なことを考えているから言えそうなことでもあって、従来からある社会主義や共産主義とは違う方面から資本主義市場経済を変えるにはどうすればいいのかと考えているわけでもなく、左翼リベラル勢力が批判するような方面を推し進めて行くと何かが変わって行って、結果的に現状の資本主義市場経済とは違った何かが形成されるかも知れないが、それが政府を利用した政治的なやり方によって形成されるかというと、そうではないような気がするのだが、現状ではまだ何とも言えないような時代状況の真っ只中なのではないか。
3月27日「確実さという幻想」
最近はこれまでに漠然と思ってきたことが微妙に違うような気がして、何が違うのかわかっていないのに、その違いを感じている自らの勘を信じようとしてしまうから、しかも勘に頼ってしまうと頭の中がこんがらがってきて、自らの思考を超えて思考とは違う何かが頭の中で働いているようにも感じられて、その働きというのが外部からもたらされる働きなのか、あるいは意識の内部から湧き上がってくる何かなのか、そんなこともわかるはずもないことだから、結局は自らが何を考えているのかもよくわかっていないようで、絶えず何か考えているのだろうが、それを自意識が感じ取れないのだから、考えているような気がするだけで、本当は何も考えてはいないのかも知れないが、それが確実にこうだと言えるようなことではないのだから、たぶん信じられるようなことではなく、しかも信じられないとしても勘に従うならそれで構わないようなことなのかも知れず、要するに自らの勘を信じられないのに勘に従って思考しようとしているのだから、何か矛盾しているような気がするわけで、それで構わないとなると、何を信じればいいのかよくわからなくなるとしても、やはりそれで構わないようなことかも知れず、そんな半信半疑な心理状態を維持しつつ、どう考えてもうまく行かないように思われる世界情勢などについても考えを巡らせながら、それがどうなっても自分の現状には大して影響を及ぼさないようなことなのかも知れないから、そんなことは考えてみるまでもなく、考えてみるだけ無駄で無意味に思われるようなことでもあるから、やはりそれ自体も思い違いなのかも知れないが、案外大げさに世界情勢について考えてみることが、自らの現状の行き詰まりを打開するきっかけとなるなら、そうすることが勘に従うことと一致してきて、勘が示す方向がそういう方面へと向かって道が開けていることを知らせているのかも知れず、だからそれが勘違いだとしても、今はそうするより仕方がないと思うしかなく、そうしたとしても確実な感触を得られるような結果には至らないのが当然だと思っていても、やはり確実な感触が得られるようなことをやろうとしてうまく行かず、もちろんうまく行く時もあるだろうし、うまく行った時の感触が忘れられないから、そうなることを目指してそれをやってみた結果として、思っていたのとは違う現実に直面して戸惑うわけで、今が世界的にそうなっている最中だと思うなら、今に限らずいつの時代でもそうなってきたと思うしかないが、それでもそうやってうまく行かないことをやり続けるしかないわけだから、確かにこれまで漠然とそう思ってきたことが微妙に違うと思うのも当然のことのような気がして、絶えず思っていたのとは少し違う現実に直面し続けているわけだが、たとえそうなった結果からもっともらしいことが言えるとしても、それも絶えずそうなった結果から言えることだから、そうなってみないことには何も言えないわけではないにしても、それに対してもっともらしいことを言うにはそうなった結果を踏まえて言わなければならないわけだから、果たしてもっともらしいことを言う意味があるのかと疑念を抱いてみても、そう言わざるを得ないような事態にも絶えず直面し続けるのだから、いったんそうなった結果に直面してみれば、それに対して何か言わざるを得ないとすれば、もっともらしいことを言おうとする成り行きにとらわれてしまうわけで、だから今はそんなことを述べている人の言説をありがたがって拝聴するしないが、それも本当はありがた迷惑なことかも知れず、何がそうなのかもわからないのにありがた迷惑だと思うのも理由がよくわからないが、何となくそう思われるのだからそこでも勘違いな勘に頼ってありがた迷惑だと思ってしまうわけで、それとこれとが直接関係ないのにそう思われるようなことでもあるから、やはり確実にそう思われるようなことではなく、疑わしいのに半信半疑になってそう思っておいた方が無難に思われるようなことかも知れず、信じられないのにそう思っておいた方が無難なのだとしたら、勘を信じるならそう思っておいた方が無難なのであって、それと同時に勘も勘違いなのかも知れないから疑わしいわけで、その辺も微妙に違うような気がするのだが、ついさっきもそれに類するような動画を見ながらも、疑わしいから途中で見るのをやめてそう思ってしまって、動画の中で対談している人物がもっともらしいことを述べているのに、それが疑わしく思われるのだから、それをどう解釈すればいいのか悩ましいところだが、たぶんその人物にも気づいていないことがあるらしく、それがその人物が信じているらしい論理に従うとそうなってしまうようなことなのだろうが、それに対して日頃からその人物が批判している勢力に入っている者たちがそれに気づいているのかというと、たぶんそこでも勘違いな勘が働いているから、それらの者たちもその人物に批判されるような言動に及んでいると考えれば何となくしっくりくるような気がするのだが、ではそう考えればその人物が気づいていないこともおぼろげながらわかってくるかというと、それがはっきりとこうだとわかって、これはこういうことなのだとその人物が断言するような成り行きに至ってしまうと、それこそが勘違いな勘が働いてそう思われるようなことなのかも知れないから、はっきりとこうだとは断言できないようなことなのかも知れず、要するに先行きの情勢が不確実なことに気づいていても、それについて何か述べなければならなくなるとこういうことだと述べざるを得ないから、結局は述べている内容が疑わしく感じられて、そうではないのではないかと思われて、その人物が述べていることを信じられなくなってしまい、確かにもっともらしいことを述べているのだが、それが不確実なのにもっともらしく思われること自体が疑わしいことになってしまうから、その辺がどうにもならないのはわかっていても、そういうことだと受け止めておくしかなく、それ以上の確からしさを言説の類いから期待するのも筋違いだと思われるわけで、それでも確からしい感触を得たいなら、ここからもうしばらく時間が経って、様々な物事が動いてみてから、それまでに起こった出来事の類いを振り返ってみれば、それなりに確かなことがわかってきて、それに伴って当時はその人物が気づいていなかったことも明らかになってくれば、そうなった時点でなるほどと納得できるかも知れないが、たぶんそうなった時にはもう手遅れであって、すでに取り返しのつかない事態が起こってしまった後なのかも知れないし、そんな事態に乗じてだから言ったじゃないかとその人物が得意になってこれ見よがしに言い放っている未来の光景を現時点で想像できるかというと、それもそうはならないような気がするとしても、そうならなくてもだから言ったじゃないかとは言えるかも知れないし、その種の人物の言い草としては容易にそんな光景を思い浮かべられるわけで、それがその人物が警鐘を鳴らしている危機的な未来通りにならなくても言えるようなことだから、何がどうなってもだから言ったじゃないかと絶えず結果を都合のいいように解釈しながら言い続けるわけだ。
3月26日「ディープステート論のリアリティ」
デタラメなことを報道するメディアという言い回しが、印象操作としてその種のメディア批判というカテゴリーに入る言説の中でよく用いられるわけでもないが、それがデタラメなのではなく、それを報道するメディアにとっての都合の良い解釈を伴っているから始末に負えないと思うかどうかも、それを受け止める側で勝手に判断することだが、都合良く解釈すると共に都合が悪いことは無視して報道しないとか、そういうのを偏向報道というのだろうが、そんな偏向報道をする側が、偏向報道する側にとって都合の悪いことを報道するメディアを偏向報道メディアだと批判したりするから、それらの中で何が正しいのかわからなくなるわけでもなく、大抵は他のメディアを偏向報道メディア呼ばわりするメディアの方が偏向報道メディアのように思われるだろうから、そういうところが何となくわかってしまうようなことなのかも知れず、その種の言い回しとしては、最近はトランプやイーロン・マスクなどの言動を批判的に報道するメディアを左翼偏向メディアだと批判する傾向も流行っていそうだが、その左翼偏向メディアが何の手先として機能しているのかというと、もちろんディープステートの手先として左翼偏向メディアがあると理解した方が、何となく陰謀論的な雰囲気を醸し出せて好都合かも知れないが、では具体的に何がディープステートなのかというと、それが日本でならかつてはGHQがディープステートそのものだったはずだが、今では日米合同委員会がかつてのGHQと同等の権限を有しているかのように語られている方面もありそうなのだが、本当にそうなのかといえば、詳しいことはよくわからない程度の知識しか持ち合わせてはいないのだが、そういう人に向けて日米合同委員会が日本を影から支配していると煽って信じさせるようとしている人がいるなら、そういう人が陰謀論者なのは間違いないだろうが、だからと言ってそんな奴の言っていることは信じられないとも思えないし、半信半疑ながらもひょっとしたら本当かも知れないと思うのも、普通にそう思われる程度のことなのだが、そう思われることを狙ってその種の陰謀論を主張しているようにも思われるのだが、そうだとしてもその程度のことだと思っておけばいいのであって、そんなふうに語られる次元ではそういうことなのであり、それはそれとしてそういうことだと踏まえておけば良く、それとは別の方面では別の方面から物事を考えればいいだけで、世の中の物事の全てが日米合同委員会に関わってくるわけでもないから、ディープステート抜きで考えられるなら、そんなのは無視しておけばいいことでしかなく、しかもそれが政治全般に言えることなら、表面的にも表向きにも国会で普通に民主主義が機能していると思っておいても構わないのだが、ではディープステートがどこで機能しているのかというと、その日米合同委員会とかが開かれた時には機能しているのだろうが、それ以外のところでは無視しても構わないし、何でもかんでも日米合同委員会に結びつける必要もなさそうなのだが、その程度の範囲内でならディープステートとは呼べなそうだが、それに関しては誰も知らない謎な部分を設定しておいてから、それをその種の論者が自らの都合に合わせて都合の良いように語れば、何となくそれが実しやかにそう思われる程度のことなのだろうが、そういう面でもそれで構わない程度のことなのであり、その種の論者が語っている範囲内でそう思っておけば良い程度のことなのかも知れず、それ以外のところではそんな論者の存在など無視して普通のメディアレベルで語られていることを真に受けておけば良い程度のことだと思ってしまうのだが、そうなるとその手のメディア報道に騙されるなと言われる対象になっているのが、まさに自分だと悟るしかないが、陰謀論者からすれば自分が左翼偏向メディアに騙されていることになりそうだが、自分にとってはそうなっていても構わない程度のレベルで暮らしていると思っておくしかなく、実際に彼らが左翼偏向メディアだと批判しているメディアから情報を日々受け取っていて、しかもそれを真に受けているのだから、それらのメディアから洗脳されていることにもなりそうで、何やら大変な事態となっていそうだが、自分にとってはそれが大変な事態だとは感じられないのだから、その種のメディア報道自体もそれほど重要だとも深刻だとも受け止めていないのかも知れず、受け止めるというよりは受け流す程度の感覚でその種のメディア報道に接しているつもりなのだが、それとは別にそうであっても構わないような統治機構としてディープステートが存在していて、それが否定されるような存在であるどころか、なければ困るような存在として行政的な統治機構があって、その中の一部を構成しているのが今日本で話題の財務省でもありそうなのだが、その一方でその種の官僚機構と対立するものとして民主主義的な統治の理想論を信じるわけにも行かないのであって、あくまでも官僚機構によって管理された制度として民主的な統治機構としての国会もありそうなのだが、もちろん三権分立的な論理があるから司法と立法と行政のそれぞれを担う機関が相互に相互を監視し合いながら作用や影響を及ぼし合うような関係を維持しなければならないのだろうが、それが茶番だ何だとちゃぶ台をひっくり返すようなことを言って批判してみても始まらないのであって、その種の制度に則って活動しながら、行政的な管理も受け入れながら、それらの関係を尊重しないと、プーチンやエルドアンなどのようなことを強引にやらざるを得なくなるとも思えないし、左翼偏向メディアなどから攻撃されても批判を受け流すようなことにならないとまずいのかも知れないが、それを左翼偏向メディアだなんて思ってもいないのだから、そういうところでディープステートからの支配も受け流しているのかも知れず、実際にはどこの誰が受け流しているわけでもないだろうが、左翼偏向メディアを利用してディープステートの支配が成り立っているならそれで構わないようなことなのかも知れず、それらのメディアがなくなってしまうと、中国や北朝鮮のような全体主義的な社会になってしまうからまずいようなことなのかも知れないし、その辺のバランスが微妙に両義的で多角的かつ多面的な傾向にありそうなのだが、微妙なバランスを維持しようとしなくても維持されるようにどこの誰が持って行っているわけでもないところが、神の見えざる手が働いていると言ってもリアリティを感じられないかも知れないが、それに関してはまず踏まえておかなければならないこととして、左翼偏向メディアの報道を多くの人々が真に受けるような社会になっていないと、その種のバランス感覚が生じてこないと思っておいた方がいいのかも知れず、しかもそれを真に受けるということがそれを信じることに結びつくわけでもないところが微妙なのであり、たぶんそれを批判的に受け止めるのでも良いし、真に受けながらも受け流すのも良いし、直接信じ込んでしまうのではない限りは、どう受け止めても同時に受け止めずに受け流すことも可能なのかも知れない。
3月25日「史実と現実の狭間で思うこと」
大阪の大仙陵古墳が仁徳天皇陵であるなら、記紀に記された仁徳天皇に関する善政とは裏腹に、民に重税と労役を課して日本最大の古墳を造らせたと意地悪く推測することもできるかどうかも、何とも言えないところだが、それが奈良時代の聖武天皇なら、疫病によって民が困窮しているのに、そんな国難を仏教によって救うために民に重税と労役を課して国家規模の大事業を行なって東大寺の大仏殿を建立したと皮肉交じりに語ることもできそうで、当時が本当にそんな状況だったかどうかも詳しいことはよくわからないが、そこからコロナ禍なのに一年開催期間をずらして無理矢理東京五輪を強行した安倍菅内閣も連想できないこともないし、今も大阪では維新府政が予算の無駄遣いだと批判される大阪万博の開催を強行しようとしていると言えなくもなく、仁徳天皇に関して記紀の編纂時に聖人や善人のように見せかけようと意図した理由というのが、編纂を命じた天武天皇が正統な皇位継承者である兄の息子の大友皇子を殺してその位に就いたのを正当化する目的で、かつて正統な王位継承者であった兄を殺して大王の位に就いたと噂される仁徳天皇を思いやりのある徳の高い人物であるかのように見せかけようとして仁徳天皇と名付けたと推測している人もいて、それも真相は定かでないところだが、国家的事業として編纂された歴史書の中で名君や聖人君主だと記された国王や皇帝の実態がどうだったかとなると、歴史書を編纂した当時に権力を握っていた者の意向が反映していると推測したくなるのだが、それが近代の歴史的な経緯の中でも新自由主義にかぶれた論客が、ヒトラーとスターリンを生んだのが他ならぬケインズとルーズベルトであったと同時代的な状況下で言い放ったとしても、その辺の事情を知らない一般人であれば信じ難いだろうし、そんな俗説が一部の人々の間でまことしやかに信じられているわけでもないだろうが、新自由主義的な国家嫌悪の傾向にかぶれると何やら筋の通った理屈ような論理が導き出されてきて、それがかなり錯綜してこんがらがった様相を呈しているわけでもないのだが、政府の役割や活動と民間の経済活動とをうまく結びつけて、それらの間で何やら論理的に整合性があるかのように見せかけるかが、それが主義主張のレベルでなら大したことはないとも言えないが、実際に経済的な苦境を政治的に解決しようとすれば独裁体制に至るしかなく、今もトルコでエルドアンがそうなっている最中であって、それはかつてロシアでプーチンが政治的な独裁体制を築き上げる過程で起こったことでもあり、ソ連の崩壊によって新自由主義的な経済の傾向が蔓延した末にそうなったと解釈できないこともないが、それに対して自身の政治的な独裁体制をうまく好印象を伴うように装うことに成功したのがルーズベルトであるなら、それを真似ている自覚もなく同時代傾向を伴って真似ているように見えたのが、ヒトラーとスターリンの全体主義的な独裁体制だと考える人もあまりいないだろうし、実際には真似るどころか対立関係だと見られているはずだが、ルーズベルトが主導したニューディール政策で有名なのがTVA計画であってテネシー川流域開発公社による公共事業としての大規模ダム建設だが、世界大恐慌で街角に大量に溢れた失業者を大量動員してダムの建設を行なって、そこでなぜかテネシー川ではなくコロラド川の流域でも同時並行して建設していたフーバーダムの方が当時の世界最大のダム建設であったから有名になってしまったが、そんな公共事業政策を真似したとは思っていないはずだが、当時のドイツでもヒトラーがアウトバーンと呼ばれる大規模高速道路建設をやっていたし、スターリンも計画経済に基づいて重工業化や農業の集団化や戦中はすでに十九世紀には開通していたシベリア鉄道の増強や戦後になってもボルガ川流域における植林、ダム・水力発電所や運河などの建設や、スターリンの死後もアラル海を干上がらせる結果に至った農地事業も継続されたはずだが、そんなことをやり過ぎた末にソ連が崩壊して、それ以前にナチス・ドイツは戦争によって自滅したが、そこでも第二次世界大戦をうまく利用してうやむやにすることができたのが、ルーズベルトのニューディール政策であって、結果の成否がわからないうちに勝手に競合国が戦争を起こして第二次世界大戦に突入して戦時経済となってしまい、ルーズベルト自身も戦争が終結する以前に亡くなってしまったから、ケインズと共に自身が撒いたタネをヒトラーとスターリンが勝手に利用して好き放題やった挙句に大惨事を招いて、それをさらに中国の毛沢東や北朝鮮の金日成やカンボジアのポルポトやその他大勢の開発独裁諸国の独裁者たちが真似て、世界各地で大惨事をもたらしたのに、なぜか元祖ニューディール政策を発案したルーズベルトだけが良い人のような印象で見られているわけだから、それを批判する新自由主義陣営としてはたまったものではないはずだが、もちろんそこから歴史を勝手に遡れば、古くはエジプトのピラミッドやイギリスのストーンヘンジや中国の万里の長城やメソポタミアのジッグラトなどいくらでもその種の大規模工事が挙げられるだろうが、始まりとしては民間の経済活動が盛んになってきて、それを国家権力が利用するような成り行きではありそうなのだが、どうしてもそれを国家権力の側から考えてしまうと、通貨発行権が政府にあるとか、政府主導で国家経済を運営しているような論理になってしまうから、何かそこから勘違いが生じてくるような気がするわけだが、それを政府の官僚機構はあくまでも民間の経済活動に寄生して成り立っていると考えられるかというと、それを考えるのが国家官僚の側であるならそうは思わないだろうし、その延長上で明治政府の富国強兵政策や殖産興業政策などが思い浮かぶのだが、そのどちらが正しくてどちらが間違っていると判断できるわけでもなく、いったん政府の機構の中に入ってしまうと政府主導で経済運営をやらざるを得なくなるというか、それに対してフランスの絶対王政時代の重農主義者たちが、自由主義的な思想に基づいてレッセフェール(なすにまかせよ)と自由放任を国王に説いたわけで、民間の経済活動は無理に規制をかけずに好き勝手にやらせていた方が経済活動が盛んになると考えたのだろうが、経済の状態に対して恒常的にこうすればうまく行くという理屈や論理や理論があるわけでもないと考えるなら、経済状態に合わせたことをやらないとまずいとは思うだろうし、その主なものが中央銀行の金利操作や政府の国債発行になるはずだが、それがあくまでも金融的な操作である限りで民間の経済活動の全てを制御できるわけでもなく、また産業の技術革新を促すために財政的な援助を行う場合もよくありがちなやり方でやっている実態があるのだが、また学校教育を通して人々の知性や理性や悟性などを向上させるようなこともよくやりがちだとしても、そういうところに力を入れれば入れるだけ、国家官僚たちが国民を都合の良いように操作する感覚が強まってしまって、自分たちが主導しているのだという自負と傲慢な思い上がりに囚われて、結果的にうまく制御できない民間の経済活動を軽んじて自滅へと至ってしまうような気がしてならないわけだ。
3月24日「ダメなことをやっている者たち」
たぶんこけおどし的な意味で何かそんな気がするようなことを感じ取っていると思ってしまうと、何を感じ取っているのかよくわからないのに、何だか誰も気づかないことを自分だけが気づいたような気になってしまって、そこから勘違いが生じてくるのかも知れないが、今ここで自分の領分から逸脱するようなことを述べているとも思えないにしても、身の程知らずと受け取られかねないようなことをこれから語ってしまう成り行きになるとも思えないが、そういうことではないならどういうことなのかと自らに問うまでもなく、これといって元から自分に領分などなく、別にどのような専門分野に精通しているわけでもなければ、ただのバランス感覚だけが試されている可能性もなきにしもあらずだが、それが何のバランスなのかもよくわからないし、結局はどうでもいいようなことを述べているのかも知れないが、それでもそれがルサンチマンと言えるような動機なのかどうかも、他人がそうなってしまう動機を都合の良いように推測しているに過ぎず、ともかく復讐心に凝り固まるのにも理由や動機がありそうだから、それがそうなってしまう他人にとってはそうならざるを得ないようなこととしてそんな行為が正当化されてしまうわけで、行為といっても印象としては攻撃的な傾向を伴いながら他人を批判しているに過ぎないことだが、それがこれといってメディア的な面で注目するようなことでもなければスルーしても構わないわけではなく、スルーできないとなるとその理由を知りたくなってしまうのだが、これといって理由がわからないのになぜそんなことを述べる必要があるのかもよくわからないとしたら、たぶん述べる必要もないことを述べている可能性まである限りで、無意味なことを述べている気がしないでもないが、そういう方面にハマっている人が批判の対象としている物事が何なのかといえば、広く世間に訴えかけるような物事の良し悪しになるわけで、具体的に何を訴えかけるのかと言えば、そういうことをやってはダメじゃないかと訴えかけるのだが、それに対してそういうダメなことをやってしまう人や団体としては、実際にそれをやってしまったわけだから、何がダメなのかよくわからない場合もあるし、ダメな理由がわかっていながら成り行き上それをやらざるを得なかった場合も含めて、そこにダメかダメではないかのもっともらしい基準が示されていると、その基準に則ったことをやっていればダメではないことになるのだろうが、果たしてそんな基準が信用できるかどうかも問われているとすれば、そういうことをやってはダメな理由というのが功利的にも妥当かどうかにもかかってくるわけだが、そういうことをやってはダメじゃないかと批判する者たちの言い分が他の多の人々にももっともらしく感じられるなら、世間からも批判する者たちに支持や賛同が集まるはずなのだろうが、必ずしもそうはならないとしたら、世間的にも良し悪しの判断が分かれていて、そういうことをやってはダメじゃないかと批判する者たちに対して、そういう批判を支持したりそれに賛同する人もそれなりにいる一方で、批判されている人や団体への支持や賛同もそれなりにあれば、それを批判する者たちの意見や主張も世間的にはそれほどもっともらしいとも思われてはいないような気がするのだが、果たして事の真相はどうなのかというと、それに関して何かしら疑念を覚えるなら、その疑念が何なのかというと、それを批判したいなら何とでも批判できるのではないかということであって、批判者の批判がどれほどもっともらしく感じられて信用できるとしても、それを真に受ける必要はないと言ってしまうと、そんなことはないと誰もが思うしかないが、そう思うとしてもそういうことなのかも知れず、たぶんそれで構わないと思うしかなく、それが間違っていて勘違いだとしてもそう思っておいた方が良さそうに思われる限りで、もっともらしいことを述べる批判者には逆らわなければならないのかも知れず、そうは言ってもどう逆らえばいいのかそんなことを述べている自分にもよくわからないのだが、逆らう理由も根拠も示さずに逆らった方がいいと言われても、そんな無茶な物言いには同意できなくて当然だろうが、それとは別にそうはならないようなことをやるべきだと言っても、それが具体的にどんなことなのかも示さずに、しかもそれをやるべき理由も根拠も示せるわけでもないのだが、それに対してそんなことをやってはダメだと批判する者たちに致命的な欠陥でもあれば、それを根拠にそんな者たちの言うことは信用するなと言えなくもないが、それを欠陥といってしまうとそれ自体も間違っているようにも思われるのだが、少なくとも彼らが批判する以前に、そんなことをやってはダメだと批判するようなことを実際にやってしまう人や団体がいて、それをやった後から批判者がそんなことをやってはダメだと批判しているわけだから、結果的にはそんなダメなことをやってしまうのを食い止められなかったわけで、だから彼らには彼らがダメだと批判するようなことを食い止める力がなく、そんな力のない者たちの言うことを真に受けても無意味だと言いたいわけでもないのだが、逆にできる限り彼らに協力して、彼らと力を合わせてダメなことをやっている人や団体に対して抗議しなければならないとも言えるわけだが、なぜか実際にはそうはならないわけで、なぜそうなってしまうのかもよくわからないのだが、そうなってしまうこと自体が自分の意思や意志では決められないというか、決めようとしないし決めるつもりもなく、そうかといってそれをスルーしているわけでもないから、何かしら自分でもそれに対して反応しているつもりなのだろうが、誰を利するような反応なのかも自分にはよくわからないわけで、たぶん功利的な思惑から反応している面もありそうなのだが、それも必ずしも自分の利益に結びついているわけではないし、どちらかというと自分には何の利益にも結びつかないのに、しかもそのほとんどは彼らからシカトされながらも反応しているわけで、だから功利的な面では何の利益も得られないようなことなのだが、では善意でやっていると言ったら善意とも言えないような、そうかといって世間体を気にするわけでもないような反応というか、無反応だと思われても構わないような微かな反応に過ぎないのだろうが、そんな反応を返しながら暇つぶしをやっている程度のことなのだが、それによって何がどうなるわけでもないこともわかっているつもりで済ませている自分も、そんなダメなことをやっている者たちに含まれてしまいそうで、含まれてしまっても構わないのかも知れないし、実際に含まれている可能性が高そうなのだが、そうであるなら自分もN国の立花氏やつばさの党の黒川氏などに近い立場なのかも知れないし、もちろん向こうはそうは思っていないだろうから自分の勘違いな思い込みなのかも知れないが、その一方で彼らを批判したり非難したり馬鹿にしたりする者たちからはシカトされるような立場でもありそうなのだが、今のところはそれで構わないようなことであるどころか、そうなっていた方がこちらとしても都合が良さそうなのだが、それでもなぜか知らないが、そういうことをやってはダメじゃないかと批判するような成り行きからは遠く離れて久しいような気がするわけだ。
3月23日「テスラ打ち壊し運動の幻影」
何が良くて何が悪いのかをこれ見よがしにはっきりと言い放ってくれる煽動者の類いを支持するわけでもなく、そうかといって自分で物事の良し悪しを決めつけるわけでもなければ、では何が言いたいのかといっても、これといってはっきりしたことが何も言えないジレンマに陥っているようにも感じられるが、それがわざと戦略的な観点から装っている優柔不断な態度だと考えるなら、では何がそんなはっきりしない態度をもたらしているのかと疑問に思うわけでもなく、近い将来といってもここ数年の間に到来する何かを見極めようとしている最中だから、今はまだはっきりしたことは何も言えないと考えるなら、果たしてそんなことを本当に自分が考えているのかどうかも怪しいのだが、欧米でテスラ車に火がつけられたり壊されている光景を動画やニュースで見る度に、まさにこれから何が到来するのかを敏感に感じ取っている者たちが、そんな破壊行為に及んでいるのではないかと考えてみるのだが、それがここ二三百年かの間に起こった何度目かの産業革命の到来を告げる前触れのような光景だと考えるなら、元祖産業革命の頃に工場に据えられた蒸気仕掛けの機械を壊そうとした群衆の姿を思い浮かべてみるが、もちろん直接の破壊行為に及んでいる者たちが現在進行中のAI革命によって自らの職を奪われると危機感を抱いているわけでもないだろうし、それよりは政府効率化省を率いて政府職員の強引なリストラを行なっているイーロン・マスクへの憎悪の感情が、彼が経営するテスラの店舗や製品である自動車を破壊する行為に結びついていると想像できるのだが、そういった直接的な思惑を超えて動作する現象がありそうに思われるなら、「ラッダイト運動」と呼ばれる十九世紀のイギリスで起こった機械打ち壊し運動の現代版が今まさに起こっていると考えたくもなるのだが、そんなのは強引なこじつけに違いないのだが、実際にテスラがこれからやろうとするAIを活用したロボタクシーや人型ロボットの世界的な普及によって職を奪われる者が大勢出てくるなら、今まさに起こっていることが二十一世紀のラッダイト運動だったと後世に語り継がれることになるかどうかも、そんなのも今のところはその兆しさえもないだろうから勘違いもいいところなのだが、実際にここ数年でロボタクシーや人型ロボットが事業として成功するか否かも多くの識者やアナリストの類いも疑わしく思っているだろうから、自分の妙な思いつきというか勘違いの勘の大外しな感じがおもしろおかしく愉快でたまらないわけでもないにしても、何でそんなことを急に思いつくのか不思議でならないし、これが自分の意識がアカシックレコードとやらにつながっている証拠だと思うわけでもなく、連想ゲームみたいな脳の神経回路が動作しているに過ぎないことだろうが、そうではなくこれがイーロン・マスクへの左翼リベラルメディアの攻撃が招いた結果だと印象づけられるなら、まさに誰かの思うつぼだと思いたくなってしまうわけで、その誰かというのがイーロン本人なのかどうかも何とも言えないが、無意識の勘が働いているとすれば、イーロン本人もそう自覚していないとしても、数年後にテスラの事業が大成功していれば、さすがイーロンだと賞賛されるかも知れないし、あの時のあれがイーロンの狙い通りのネガティブな反応をもたらしたから、その後の大成功に結びついたと誰が思うわけでもないだろうが、誰もができるわけがないと思っていることを成し遂げてしまうのがイーロン・マスクの凄さだと思うなら、今回のテスラへの襲撃事件もイーロン伝説を語る上で欠かせない象徴的なエピソードとして将来に語り継がれそうな予感もするのだが、果たしてこれからそんなふうに事態が進展してしまうなら、まさに今回のテスラ打ち壊し運動に加わった者たちはイーロンの手のひらの上で踊らされてしまったことになるのだが、そうなってしまうと今まさにイーロン批判やイーロン非難に加わっている者たちもその延長上で踊っていることになってしまって、それが何だか笑ってしまうような、そこにまたもやマルクスの一度目は悲劇に終わって二度目は茶番劇に終わるような格言に当てはまってしまう二度目の茶番劇の真っ最中のような気もしてしまうのだが、そうなると数年後にテスラが大成功することをその数年前の段階で自分が今まさに予言していることになるわけだから、そうなった数年後になって自分の予言が的中したことを自慢しても構わないのかというと、自慢してみたところで誰も賞賛してくれるわけでもないだろうから、別に数年後に自慢している自分の姿を思い浮かべて笑ってしまう今の自分を愚かしいと思ってしまうわけでもないが、何だかイーロンやトランプのやっていることが今後深刻な事態をもたらすどころか、かえってそんなことをやってしまったからこそ、誰もそれを称賛するわけもないどころか、現状の中では彼らを批判したり非難するしかないような立場にならないと良識派を気取れないどころか、しかも現状の成り行きの中で踊らされてしまう人々の傾向というのが、どういうわけか次第に絶滅危惧種のようなカテゴリーに追いやられてしまう兆候があるような気がしてしまい、彼らが何に気づいていないのかが今ひとつわからないのだが、何かに気づいていないから執拗に批判や非難に及んでしまう成り行きにとらわれているようにも思われて、気づいていないそれを単純に新自由主義+緊縮財政+小さな政府と否定的に捉えてみると、彼らがそれに気づいていないわけではないはずだが、彼らがそれらの概念を否定的に捉えていることは確かなのだが、それらを否定的に捉えていること自体が彼らをそれに気づかせない原因となっているようにも感じられて、その一方で彼らが今までの経緯の中で何を批判や非難に利用してきたかと考えるなら、彼らが批判や非難に利用してきたものを、今まさにイーロンやトランプが打ち壊そうとしているから、それをやってしまうと批判や非難の糧がなくなってしまうのを恐れていると彼らが直に思っているわけでもなく、思っているどころかそれに気づいていないから、イーロンやトランプを攻撃せざるを得なくなっているとそれも直に思っているわけでもなく、ただ単にイーロンやトランプが強引なことをやって彼らに批判や非難の材料を提供していること自体も、わざと批判や非難をやらせているともイーロンやトランプも思っていないはずだが、そういうところでそれが何かの演劇のような、それが茶番劇となっているような感じがするのだが、とりあえず今の段階でAI革命によって政府の官僚機構がいらなくなるなんて考えている人は誰もいないだろうが、要するにイーロンやトランプを批判したり非難している者たちは、知らず知らずのうちに自分たちが今まで批判や非難の糧として利用してきた政府や企業や労働組合などの様々な各種団体の組織を構成する官僚機構の側に立ってしまっていて、まさにそれらを打ち壊そうとするイーロンやトランプを攻撃する側に取り込まれようとしているわけだ。
3月22日「原子力の未来」
イーロン・マスクが未だに太陽光発電と蓄電池で電力の9割を賄えると言っているかどうかは確証を持てないし、テスラが定置型の大型蓄電設備を手がけているからポジショントーク的な面もありそうだが、原子力の活用とは言わないところが、データセンターの安定電源に原子力発電を使おうとしているアマゾンやマイクロソフトなどとは、業種の違いもあるのだろうが、水力はともかく風力や太陽光などの再生可能エネルギーは非効率で採算が合わないとあからさまに小馬鹿にしている識者やアナリストの類いとも意見を異にしているようにも感じられて、どちらが真実を語っているのかも素人の自分にはよくわからないのだが、やってみないことにはわからないというのが真実なのかも知れず、確かにドイツの脱原発の試みはロシア・ウクライナ戦争の煽りを受けてロシアからの天然ガス供給が駄目になったから、そら見たことかと再生可能エネルギー依存ではうまく行かないことの典型例のような言われ方をされているが、再生可能エネルギーの比率が4割を占めているスペインでも構成比が風力発電が21%で水力発電が17%で石炭火力発電が13%で太陽光発電3%で原子力発電が19%でその他が十数%程度あるらしいし、ノルウェーのように国土のほとんど全てが山岳地帯であるなら水力発電で9割以上の電力を賄えるのだろうが、あまり変なふうに幻想を抱けないようなことなのかも知れないし、政府が特定の発電業者に補助金を出すというのも非効率には違いないが、発電事業が採算の合う効率的なやり方が産業的な競争に生き残れるようなことであっても、全てがそうなってしまってもバランスが崩れてまずそうだから、調整が必要となってきて、そんな中でも世界的に原子力発電も一定の割合で継続されるような流れになっていそうだが、日本の場合は産業的に採算が合う合わないの問題以外で、原発を推進する側の政治的なやり方が社会正義の観点から許し難い面がありそうだから、そういうところでこじれてしまっているわけだが、フィンランドのように核廃棄物の最終処分施設を完備した上で、社会的なコンセンサスを得ながらやっていることではなく、いやらしい社会的な同調圧力によって地方の過疎地域に原発を強引に押しつけるようなことをやるから、正義感の強い人が使命感に燃えながら反対運動に熱が入ってしまうようなことにもなって、しかも推進派へのトドメの一撃として東日本大震災に起因して大規模な原発事故が起こって、多くの人々が避難生活を強いられて今も大変な思いをしているのに、誰も責任を取ろうとしない結果に至っているようにも見えてしまうから、そういうところがひどい印象を世間的にも振り撒いて、結果的に原発を推進する者たちに悪の権化のような否定的な先入観や固定観念がついて回っているかどうかも、そういう方面に意識が絡め取られている人なら大抵はそう思うだろうから、かなりまずいことになっているのだろうが、それをどうにかして好印象に転換すべく世論誘導のメディア宣伝の類いに多額の費用をかけるのも、それも昔の方が盛んに行われていた印象もありそうで、原発事故前には原発推進派がメディアを通して執拗にやっていたのを多くの人々がテレビや新聞などでよく見かけていたはずで、それによって原発の推進を支持する層も多くいたはずで、その一方で事故が起こった際の原発の危険性を訴えていた市民運動家などを今で言えば陰謀論者のごとくに嘲笑する輩もそれなりにいたのだろうが、実際に事故が起こった直後は原発をやめる機運が一気に高まったようにも感じられたが、そこから十数年が経過した今では世論が軟化して原発を容認する割合もそれなりに増えたのかどうかも、詳しいところはよくわからないが、実際には原発をやめられずに今も全面的とは言わないまでも稼働中の原発が結構あるらしく、なし崩し的にそうなってしまうのがいかにも日本的な成り行きなのだろうが、もっと何かはっきりと事の白黒をつけるようなことが行われる感じがしないのも、それが戦略的というか戦術的というか微妙な感じになりそうだが、うまく行かないなりのことができていると受け取っておいた方が良さそうにも思われて、それは国債の発行残高が対GDP比で二倍を超えていても財政破綻にも至っていないことからも、外国人がそれに勘違いしてMMT理論まで導き出してしまうのだから、ごまかしに長けている印象がありそうなのだが、果たしてそれが世界的に通用するやり方なのかどうかも怪しいし、日本国内で通用していればそれで構わないようなことかも知れないが、何事においても微妙なところで破綻を回避するようなことが行われているから、それが焦ったくて仕方がないように感じられる人も一定数いるのを利用して、そういう煮え切らないやり方に業を煮やして逆にはっきりものを言う態度で世論を喚起するようなことをやろうとする政治勢力も現れて、その代表格が山本太郎やれいわ新選組なのだろうが、それが日本的な談合根回し的な風土の中でどれほどのインパクトを与えられるかも、彼らの現状が示しているところなのだろうし、はっきりとものを言うその言っている内容にも疑念を抱いている人もそれなりにいそうだが、原子力の利用に関して何か言えることがあるとすれば、核分裂の材料となるウラン資源の埋蔵量にも影響を受けるだろうし、あと百年で資源を使い切ってしまうと言われているから、技術革新によって使い方が効率化されたり、新たに埋蔵されているのが見つからない限りで、また原発よりも効率的な発電技術が発明されたりしても事情が違ってきそうで、多かれ少なかれ時間が解決してくれそうだが、その一方でいくら時間が経過しても改まらない日本特有の傾向もありそうで、それも原発そのものではなく、それに起因して不誠実なごまかしやまやかしが横行するのが我慢がならないという面でも、今後改善して行けそうな余地もありそうだから、ちゃんとしたことができる社会にして行きたいと思っている人々が、制度や法律の面で納得できそうな体制を築こうとする面では、政治的な方向性としていわゆる保守派を自称する人々が嘲笑するようなきれいごとを実現するような成り行きへと持って行きたいわけで、それがどれほどの程度や強度や規模を伴ってできるかが、政治活動を通して求められていると思いたいのだが、そう思っているだけでは何も改まらないし、そういう成り行きへと持って行きたい人々が行う直接の政治活動の結果や成果として、社会の成熟度のようなものとして示されるようなことかも知れないのだが、その一方で産業の技術革新によって社会を変えようとする試みも、それと同時並行して互いに両者が入り混じり合いながらも行われていることだから、まさに両者の接点や交点に立つ存在としてなぜかイーロン・マスクが良い意味でも悪い意味でも現状では目立っていて、もちろん彼を批判する人々にとってはひどい政治的な邪魔者に過ぎないのだとしても、何かをこれ見よがしに仕掛けているようにも見えるところがおもしろおかしいわけで、彼の存在が今後の世界にどのような影響を及ぼすのか、あるいは単なる道化の類いとしてさっさと忘れ去られるような軽い存在なのかも含めて、現状においてはトランプと共に注目されているわけだ。
3月21日「疑わしい理由」
詳しいことはよくわからないが、何かが明らかにおかしいと思うことが、それがおかしいと思うのが当然だと考えてしまうと、何かそうではないような理由を探し出したくなる動機に結びつくかというと、そう思うに至る成り行き自体を疑いたくなってしまうわけで、その辺も微妙によくわからないところだが、誰もがおかしいと思うことをあえて指摘することが他の多くの人々から支持や共感を得たいと思うことの表れだと言えなくもないが、それに関して例えばアイヌ人が不当に優遇されているとか、混血が進んでいるからアイヌ民族などもう日本にはいないと主張してみたり、クルド人の集団が日本にやってきて我が物顔で振る舞って好き勝手なことをやっているのを放置しても構わないのかと問題提起してみるとか、それが左翼的な人道主義を攻撃の標的にしていることの表れだと理解したくなってしまうのだが、それを左翼的だと決めつけることも、人道主義というのが左翼に限らず人類共通の守らなければならない普遍的な価値観だと主張したくなるわけでもないのだが、何か行き過ぎた左傾化に歯止めをかけなければならないとか、そういった方面へと思考が凝り固まるのも何かの印象操作のような思惑を想像してしまうが、それを差別的な思考だと理解するなら、心の中ではそう思っていても、建前としては差別主義者の意見や主張には同調できないし、表立っては支持も共感も示さない方が無難だとは思うが、皆が世間体を気にして口に出さないことを差別主義者が代弁してくれると思っているなら、お前も差別主義者と同類だと誰が指摘してくれるわけでもないし、何かそういうところで潜在的な差別容認層からの支持を期待して、自民党が杉田水脈を今夏の参院選比例区での公認候補に選んだと穿った見方をしても構わないかというと、ただ単に杉田水脈のバックについている団体からの組織票を期待しているのかも知れないし、そういう団体と地続きなのが新人議員に十万円の商品券を配った石破首相を引きずり下ろして高市早苗を総理大臣に据えて参議院選挙を戦いたい者たちの思惑とも合致しているかというと、それらを十把一絡げに保守派に括ってしまえばそう言えなくもないが、それも粗雑でいい加減なレッテル貼りになってしまうから、普通はそうは言わない程度にとどめておいた方が無難そうだが、その後の成り行きの中で新人議員に十万円の商品券を配る慣習が他の自民党の歴代の首相もやっていたことだったとバラされてしまって、結局石破おろしも不発に終わってしまうかどうかも今後の情勢次第かも知れないが、選挙目当てでそうなっていると単純には言えないような成り行きなのは確かだとしても、当事者としてそういう成り行きに巻き込まれてしまっている者たちの魂胆が浅はか極まりないと馬鹿にするのも気がひけるし、それを批判ネタに使って何かもっともらしいことが言えてしまえること自体も、何か大事なことを見逃しているというか見落としているというか、そのことの表れとしてそうなっているなら、ではそれが何なのか明らかにしてみろと言われると、何も返答できなくなってしまうわけでもないのだが、世の中の行き過ぎた左傾化に人心が反発した結果として、右派のポピュリズムが世界的に蔓延していると情勢判断してみることの正当な根拠を示せるかというと、それが表面的な傾向だとしても、そういうこととは別の方面から、例えば資本主義市場経済と国民国家の共存が持続可能なのかということが問われていると言ってみても、どこの誰によって問われているとも思えないが、ロシアのプーチンに続いてトルコでもエルドアンが似たような独裁的な傾向を示しているのが、何かを示唆しているようにも感じられるのだが、それが資本主義市場経済と国民国家の両方の行き詰まりなのか、それともどちらか一方だけを変えれば行き詰まりが解消されるのか、そんなことではなくその両方を支えている政府の官僚機構をどうにかしないとうまく行かないようなことなのかどうかも含めて、今のところはこれといって納得できる答えなど見つかっていないような気もするわけでもなく、少なくともイーロン・マスクやエヌビディアCEOなどの産業の自動化やAI化を推し進めようとする者たちやそれに与する勢力にとっては、政府の官僚機構が余計な規制をかけてその邪魔をしてくるから、そいつらをやっつけたいし、そいつらと一心同体だと見なしたい左翼リベラル勢力の力を弱めるためにも、右派のポピュリズム勢力の力を利用したいという思惑を想像したくなるのだが、果たして本当にそうなのかというと、それも何やら悪しき単純化の罠にハマっているようにも感じられるから、そういう成り行きをそのままそう受け止めることはできないし、単純にそう思われてしまうことにも抵抗感を覚えるのだが、ではそうではないとするなら、何かわざとそう思われるようにそれに類する人々が振る舞っているから、それに反発して行動を起こす者たちがそんな思惑に踊らされて騒いでいる現状もありそうで、そういう意味では踊らされている者たちが自滅するように仕向けられていると捉えると、それも穿った見方には違いないのだが、それが本来の意味で物事の本質を的確に捉えた見方ではなく、そういう見方自体も怪しげな陰謀論に意識をとらわれている証拠になるかも知れないし、多面的で両義的に捉えるならそう述べておいた方が無難に感じられる程度のことなのだが、誰か特定の人物や団体にそんな意向があると考えてしまうと何となく違うような気がして、たぶん社会を覆っている空気というか集団意識のような何かが作用してそうなっていると考えても、誰に責任の所在があるのかもわからなくなってしまうから、そう考えるのも意味のないことなのかも知れないが、ではそんな事態の中でどう振る舞えばいいのかというと、実際に振る舞っている人々の動向を見守っている現状もありそうで、誰が見守っているのかというと、神が見守っていると考えると、何かの宗教に関係する意識にとらわれていそうだが、それでも構わないようなことかも知れず、神の存在など信じていなくても、そんなふうに思っておく程度が無難なのかも知れないし、世の中の様々な立場や境遇にとらわれた無数の人々がその立場や境遇に応じた振る舞いに及んでいるから、それらを全て見通すことなど一般の個人には不可能だとしても、それをAI技術を活用して見通せると考えている人々がその種の技術の革新を推し進めているのだから、そういうことをやっている人や団体がその種の業界の主導権を握って何やら仕掛けていることは確かなのだとしても、そういう仕掛けに反発して抵抗を試みる人や団体も世の中には無数にいるから、それらのある面では対立しながらも別の面では連携したり協力せざるを得ない人や勢力の間でせめぎ合いが起こっていると解釈できないこともないのだが、そうなっているからといって、そんな成り行きに便乗して何ができるかといっても、一般の個人にはできることもおのずから限られてきて、そんなできることの中でもこんなふうにそれについて何か適当に述べることも可能なわけだ。
3月20日「相対的な比較と情勢判断」
長年にわたって厳しい債務上限を設けて緊縮財政政策をやってきたドイツが、国防費を増やす目的で積極財政に転換したのが話題となっているが、その一方でアメリカではコロナ禍に伴って超金融緩和をやってインフレを招いたから、金利を上げて金融引き締めをやって、インフレが落ち着いてきたから金利を上げるのをやめて、今度はインフレ動向を見極めながら徐々に金利を下げる段階に入っているらしいのだが、それでも景気後退を回避するためのバラマキ政策に歯止めがかからなかったから、金利が高止まりしている関係で国債の利払いも半端ない額に膨らんでいるのを少しでも縮小するために、政府の支出を削る目的で緊縮財政政策を進めざるを得ないのだろうが、その一方で中国ではかつての日本も経験した不動産バブル崩壊の余波を受けてデフレに陥っているから、大規模な財政出動を伴った積極財政政策をやっている最中のようで、世界各国でその国の経済状態や地政学的な事情や経緯に応じて、ある国では積極財政政策を行なっている一方で別の国では緊縮財政政策をやらざるを得ない事情が生じていたり、そういう成り行きを踏まえれば、何の前提条件もなく一方的に積極財政政策や良くて緊縮財政政策が悪いとか、その逆の方が良いとか悪いとか、そういうのは机上の空論に過ぎないことを理解できるが、しかもそういう政策をやったからといってうまく行くとは限らず、うまく行かなかった典型例が日本だと言えるのか言えないのかも、現状の見方や考え方によって見解が分かれるところだろうが、たとえうまく行かない状態になっていても人によってはそれでも構わないと思っているかも知れないし、そんな人にとっては日本政府の金融政策が積極財政政策になっていようと緊縮財政政策になっていようと、どちらでも構わないようなことかも知れないが、現状が極端な事態に陥っていない限りは、これといって特定の主張を煽り立てる行為にはリアリティを感じられないのが普通の感覚であって、それを真に受けるようならその種の煽動行為に対する免疫力が低下していると理解しておけば良いのか悪いのかも、それも人によってもその人の立場によっても見解の分かれるところだろうが、自分の境遇がひどいと感じられるなら、何らかの不条理に直面しているとか、不利な立場を強いられているとか、色々と何とかしないとヤバいような事態に陥っているからそう感じるのだろうが、そんな境遇であるなら藁をもすがる思いで他力本願的な救いを求めて、怪しげな宗教にハマってしまうとか、極端なことを主張するような成り行きにとらわれてしまう可能性も想定できそうだが、直接トラブルに巻き込まれている当事者なら本気で受け止めざるを得ないようなことであっても、それを見ている野次馬的な傍観者であるなら、その人の都合に合わせて勝手なことが言える余裕も生まれてくるから、何かそういうところから感覚の違いが露呈してきて、SNS程度のレベルでは野次馬的な傍観者を装いながらも他人が煽り立てる極端な主張を真に受けているような役柄を演じていても構わないわけで、仮想のネット空間ではそんなことをやっていても、現実の生活の中では普通に暮らしている限りで、何の影響もないわけではなくても、それとこれとを区別できていれば構わないようなことかも知れず、だから何だと言えるようなことでもないのだが、何かのフィクションの登場人物のような台詞で利いたふうなことを述べてくる人が、そのまま現実の世界でもそんなことを述べているとも限らないと思うなら、そういうことだと思っておいても差し支えない程度のことなのかも知れず、それとこれとを区別するということがどういうことなのかも、それがわかっているようでいて本当は地続きなのだから、区別することも何かのフィクションの中でそんなふうに装っているに過ぎないことかも知れないが、その一方で少なくとも現状で流行っている態度や姿勢を装うなら、どんなに日本政府が国債の債務残高を抱えていても、何やら政府全体が財務省に牛耳られているから緊縮財政政策を強いられていて、そんな財務省の姿勢を批判しながら積極財政政策を唱えてみせるのが正義であるかのように見せかけたいのだろうが、それに対して何をどう批判したり反論を構成する気も、自分にそれができるとも思えないが、とりあえず日銀も財務省も金融正常化を目指していることは確かで、緩和的なゼロ金利政策から徐々に政策金利を上げて行って、それでも諸外国並みに上げてしまうと膨大に積み上がった国債の利払いによって政府の予算が圧迫されてしまうから、諸外国に比べればまだ緩和的な金利水準に留まるのだろうが、そうかといって前世紀の不動産バブル崩壊以来数十年にわたって続けてきたゼロ金利政策の誤りが徐々にわかってきたから、そういう意味でも金融正常化を目指す日銀や財務省の姿勢が正しいのも徐々にわかってきたと受け止めておけば良いか悪いかも、それも人によっても立場によっても見解が違ってきそうだが、少なくとも政策金利をゼロにしてしまうと民間の金融機関が企業や個人に資金を貸しても、大して儲からなくなってしまうから、積極的に資金を貸せなくなった結果として世の中にカネが回らなくなってしまったと思うのだが、そうだとするなら民間の金融機関が企業や個人に資金を貸して儲かる程度の金利水準にしておかないと、経済もうまく回って行かないと理解したくなってくるのだが、そんな理解が正しいかどうかも、これといって確証があるわけでもないが、金融正常化という状態をどう捉えるのかということになるなら、金融機関が資金を貸してそれなりに利益が出る程度の水準に金利が定まっている状態だと理解したいのだが、そういう水準に持って行くにはどうすればいいのかということになると、借りた資金を返せない企業が倒産して、金融機関から事業資金を借りて金利を払えて利益も出せる企業が生き残るような経済環境へと持って行かなければならないのだろうが、そうなるように企業の体質を改善させるためにもゼロ金利政策を何十年も続けてきて、ようやくここ数年の世界的なインフレを利用して金利を上げるチャンスが巡ってきたのだろうが、だから日銀や財務省のこれまでのゼロ金利政策の正しさが証明されたとか、あるいは間違っていたとか述べるようなことでもなく、もちろんそういうことを言い放って日銀や財務省を批判したい人ならもっともらしくそれなりに説得力のあることを主張できるかも知れないが、それも相対的なレベルでそういうもっともらしい批判を真に受けるかどうかが、批判を受け止める人や受け止めずにスルーする人の立場や境遇に応じて決まってくるようなことかも知れないから、あまりそれが正しいとか間違っているとかはっきりさせるようなことでもなさそうに思われて、その場の情勢に応じてそうなってくるようなことでもあるから、そもそも誰もコロナ禍が起こるなんて思ってもみなかっただろうし、ロシアがウクライナへと軍事侵攻するなんて直前になるまでわからなかったわけだから、それらが起こった後から予言していた者が現れるとしても、それも結果論のようなことでしかないわけだから、結果から正しいか間違っていたかを判断してみても、それがどうしたとしか思えないわけだ。
3月19日「MMTが成り立つには」
去年のアメリカの大統領選挙でカマラ・ハリスが勝っていれば、民主党の左派も勢いを増して、ひょっとしたら彼らが推進しようとしていたMMTが試みられていたかも知れないと思うわけでもなく、MMTをやろうとするにも機会とタイミングがあって、世界大恐慌のような大変な事態にならないとそれをやる機会が巡ってこないのではないかと思ってみるものの、そういうことではなく、世界中の国が左翼政権になって、全ての企業が国営企業になって全ての国民が国家公務員になってしまえば、政府も借金し放題で国債を発行し放題になるかというと、ではそうはなっていない現状の世界ではMMTは実現が困難なのかというと、まずはMMT的な主張として代表的なものをネットで検索してみると、「通貨発行権を持つ国家は債務返済に充てる貨幣を自在に創出できる」、「財源確保のための徴税は必要ではない」、「財政赤字で国は破綻しない」、「インフレにならない限り国債はいくら発行しても問題はない」というのがあって、「政府の財源は税と債券発行によって調達すべき」、「赤字拡大が続けば国は破綻する」という主流派経済学の見方に反発しているらしいのだが、たぶんMMTを考え出した人々は閉鎖的な共同体の中でしか通用しないルールが共同体の外でも通用することを前提として貨幣理論を考案しているような傾向が窺えて、それに関して「通貨発行権を持つ国家が債務返済に充てる貨幣を自在に創出できる」という主張の中で問題となってくるのが、「貨幣を自在に創出できる」という箇所であって、何か条件が整えば結果的にそんな成り行きになっているように見えてしまう事態もありそうだが、そもそも貨幣が何に必要なのかといえば、普通に考えて物や情報やサービスの売買や貸借に必要だと考えられて、たとえ債務の返済だけの目的で貨幣を創出したとしても、他の方面にも影響が及んでしまって、世の中に出回る貨幣の量や額が増えればその分だけ貨幣の価値が下がって、相対的に物価が上がってインフレになりそうだが、その際にどうして世の中に貨幣が余分に出回ってしまうのかといえば、国債を発行して買い手が現れて実際に売買が行われるならそれだけのことだが、国債や貨幣などの金融商品は売買だけではなく貸借も可能だから、金融機関から国債を借りて売買するとか、持っている国債を担保にして金融機関から資金を借りるとか、そうやって国債を介して世の中に出回る貨幣が増えることは増えるのだろうが、それがどういう方面で増えるのかというと、金融取引が活発化すればそちらの方面で増えることになり、そうなればそうなるほど金融資産の価値も増える一方で、金融資産を持っていない者が相対的に貧乏になるような気がするのだが、だから世の中で貧富の格差が拡大する傾向になってしまうのかも知れないが、そうやって増えすぎた富をどうやって貧困に苦しむ人々に分け与えるのかといっても、累進課税で富裕層により多く課税して徴取すれば良いと簡単には言えるだろうが、富裕層と貧困層でどちらに政治的な権力があるのかというと、それも普通に考えて富裕層の方が権力を持っているわけだから、そう簡単には事が運ばないことも容易に想像できるはずで、もちろん貧困層の支持を得て政権を取った勢力も世界にはいくらでも事例があるとしても、その代表例が最近ではベネズエラの左翼独裁政権が有名だったが、その政権がどうなったかは誰もがその悲惨な失敗例として周知の事実なのだろうし、簡単に言えることを実現しようとすると困難に直面するのもわかりきったことだが、そもそもの大前提として踏まえておかなければならないこととして、国債を発行してそれが売れるとはどういうことなのかという前提がわかっていないと、それに伴って生じてくる勘違いにも気づかないことにもなってくるから、その辺で何かMMTの推進者にも誤解があるのではないかと思ってしまうわけで、要するに経済が好調の国なら、それに伴って信用力も増してくるから、国債を買ってちゃんと満期まで持っていれば利息がついて資金が増えて戻ってくる可能性が高いから、国債を買ってくれるわけで、それも政府が強制的に大手銀行や大手の保険会社などに国債を買わせているとか、そんなふうに考えてしまうと何か陰謀論くさい話になってしまうのだが、経済が好調な国というのが富裕層がいっぱいいて、その富裕層がそれなりに経済的な主導権を握っていて、それに伴って政治的な発言力も増しているし、政府に対してもそれなりの影響力もあるから、結果的に経済が好調だと言えるわけで、少なくとも国債の直接の買い手が貧困層でないことは確かだろうし、そういう意味では国債を利用して貧困層を助けるという目的が、結果的にそうなればしめたものだが、そうなる途中の段階では必ず金融的な方面での取引を伴ってくるわけだから、国債を買うということがどういうことなのかを考えてみないことには、果たしてMMT的な手法を国債を買う主体となっている勢力が信用しているのかどうかも怪しいし、どちらかといえばそれらの勢力が信用しているのは、MMTとは真逆の小さな政府を実現しようとする新自由主義+緊縮財政政策であることが、実際にトランプ政権によって明らかとなっている現状を前にすると、やはりMMTは机上の空論なのではないかと思いたくなってしまうのだが、政府に通貨発行権があると言っても、経済規模の小さな貧乏な国の政府がいくら通貨をいっぱい発行したところで、他の国の経済状態との比較で通貨の価値を信用されなければその価値がどんどん下がってしまうだけで、経済規模が相対的に大きくて経済状態が良好な国の通貨ならその価値も高いだろうから、そんな国の政府が発行する国債も高い価格で取引されていそうだが、そんな国の中でも日本が他の国との比較で飛び抜けて国債の発行残高が対GDP比で高いから、どうしてそんなに債務収支が悪化しているのに財政破綻しないのかという疑問から、何かそんな状態を肯定的に捉えるのに都合の良い経済理論が編み出されて、それがMMTと呼ばれる経済理論の類いに結実したらしいのだが、それが今のところは財政破綻していないから、さらに国債を発行し続けても大丈夫だと考えるなら、ただ単に日本の現状を肯定的に捉えているだけで、そうではなく山本太郎などが事ある度に言う三十年間不況に苦しめられてきたという主張を真に受けるなら、その原因が国債の発行残高の多さにあると考えたくなってしまうわけで、借金しすぎて首が回らなくなっているから、それが三十年間そうなっていると解釈した方が自然なようにも思われて、要するに自家撞着に気づいていないことになってしまいそうだが、そうなってしまっている状態を打破するための解決策がMMTだと考えること自体も、すでにMMT的なことを延々とやってきた結果としてそうなっているわけで、それこそおかしなパラドックスにとらわれているようにも感じられて、何か笑ってしまうような成り行きになっていそうな気がして、国債をいくら発行しても債務返済の貨幣をいくらでも創出できる以前に、すでに国債を大量に発行してしまったから三十年間も不況に苦しめられてきたと解釈しておいた方が良さそうにも思われるわけだ。
3月18日「財務省解体デモと国民民主党の躍進」
財務省解体デモといっても、保守派が何かを仕掛けていることはわかっているのだろうし、それが争点逸らしというか、怒りを別の方向へと逸らす目的で仕掛けているのも、よくあるいつものパターンであるのも、誰もが薄々勘づいているから、放っておいても構わないような人畜無害な煽動行為なのかも知れないが、その一方で各メディアの世論調査で国民民主党が野党第一党の立憲民主党より支持率が高いのも、自民党を支持していた人たちが日本で左翼政権を誕生させないための次善の策として国民民主党を支持するような流れになっているのかも知れないし、それもそう思っているだけで、そんな気もしない程度のこととして確証など何もないのだが、どちらにしてもそれなりの効果や成果を上げているように思われる限りで、やりたい人たちが自らの意志で勝手にやっていることだとしても、色々と怪しい思惑があってやっていることでもあるのだろうから、そういうことをやりたければ戦略的にも戦術的にもやってもらえばいい程度のことだと軽く受け止めていて、それも自分の勘違いでしかないのかも知れないが、メディア的に好奇心を向ける対象として財務省解体デモや国民民主党の躍進が格好の話題となっていると表面的には見ていて、どちらも何かの見世物的な興行には違いないが、それが物事の本質を突いているわけではなく、本質を突いたからといって何がどうなるわけでもないのかも知れないから、別に本質を突いていなくても表面的な話題である方がメディア的にはウケるだろうが、そうであるなら一時的な流行現象に目を奪われていると思われて、だから悪いわけでもなく、どちらかといえばそれで構わないようなことだから、それがどうしたわけでもなく、そういうところがうまくどう表現すればいいのかよくわからないのだが、たぶんそういうこととは別に本質的な何かがあるわけではなく、皮相上滑りな戯れが必要だから行われているわけでもなく、それもどちらかと言えばそういう戯れが必要だから行われていると考えた方がしっくりくる人も世の中にはいる程度のことなのであって、必要でない人にとっては必要ではない程度のことでもあって、それがどういうことなのかよくわからないならそういうことだと思うしかないわけだが、何か微妙なところで本質的な何かを外しているように見えるのだが、それが意図して外しているのか、あるいはその方が都合が良いと思っているのかも、そんなのも誰の知ったことでもないのだろうが、どちらにしても大したことでもないから、何となく間抜けなことをやっているようにも感じられてしまうのだが、なぜ物事の本質ではないところに目を奪われて関心を向けてしまうのかといえば、単に何が本質なのかわからないということであり、絶えず部分的で氷山の一角のようなところへと注目して、それが財務省であったり103万円の壁であったり、どちらも的外れとなっているわけではなく、逆に多くの人々の関心を惹くための疑似餌のようにも機能するわけで、そんな偽の餌に食らいついて引っかかってしまう程度の人々で構わないわけだが、そういうことの延長上で行われていることなのだから、それ以上の内容を求める必要もなく、そもそもそれ以上の内容が何なのかもよくわからないし、それがポイ活程度のことであるなら、比べるまでもなく、どちらが重要なのかと比較すること自体がおかしいわけだが、ではそれと比較して物事の本質を突いているように感じられるのが、保守派が何としても阻止したい選択的夫婦別姓の導入だと思うなら、何となくもっともらしく感じられて、そこから人々の関心を逸らすために財務省解体だとか103万円の壁だとか、そちらの方へと目を向けさせようと必死になっていると解釈するなら、それが一見的外れのように思われて、しかも案外的を射ているようにも感じられて、誰も直接にはそうは思っていないのだろうが、それとこれとを並べて比較するとしっくりくるような感じがしてしまうわけで、そもそも理性的に考えてみれば、明治政府が西洋のモノマネの一環として夫婦同姓と定めただけで、それに伴って保守派が守りたい家族的な伝統というのとも、微妙にずれてくるものがあるらしいのだが、そんなふうによく考えてみるとおかしいと思われてしまうことを、なぜか考えさせないようにしたいとしか考えられないようなことでもあるのだから、要するに人々が賢くなってしまっては保守派が存続することができないと思っているわけでもないのだろうが、そういうことだとしたらアフガニスタンを支配しているタリバンの延長上に日本の保守派があるようなことにもなってしまうから、それもそんなことを類推してもらっては困るようなことかも知れず、タリバンと日本の保守派とは何の関係もないと思っておけば構わないのだろうが、かつての古代帝国の周辺で氏族社会の伝統が保持されていた事例から類推するなら、中華帝国の周辺に日本があったようにペルシア帝国の周辺に現代ではアフガニスタンと呼ばれる地域があって、またエジプトやメソポタミアの帝国の周辺にパレスチナの地があったりと、必ず文明の中心地で栄える中央集権的で帝国的な制度を周辺地域の国々が真似る過程で氏族的な遅れた伝統が残ってしまうと事態を捉えてみても、それもそんな大げさなことでもないような気がしてしまうから、そう捉えてみることも的外れには違いないだろうが、そういう物事の本質的な面から考えるようなことになってしまうと、下世話でエンタメ的な雰囲気ではなくなってしまうから、そうなると大衆市民社会的なリアリティからも外れてしまって、そんなことは誰も考えていないようことにもなって、普通に考えてそんなことはあり得ないように思われてしまうだろうが、そうならないようにするにはもっと単純明快に庶民に重税を課して苦しめている財務省を解体に追い込んで日本から増税派を一掃するぞ!とか、103万円の壁を取り払って減税を実現するぞ!とか、そんな軽いノリで市民運動の輪を世の中に広げて行けば明るい日本の未来がやってくるような幻想を抱いていた方が、何となく前向きに生きて行けそうな気がしてくるとも、どこの誰がそう思っているとも知らないが、それも勝手に想像を巡らせている程度のことに過ぎないのだが、それらを馬鹿にしたくはないし、逆に敬意を払いたいと思っているわけでもないが、そんな物事の表層で戯れるようなことをこれ見よがしにやっていればエンタメ的な暇つぶしになるとも思えないのだが、それよりも誰も意図しない効果や成果をもたらしていると思うなら、その効果や成果としてもたらされているのが、それらに対する批判の言動になりそうなのだが、だからといってその種の批判者の言っていることを真に受けるわけには行かないところも、何か微妙にそこから考えてみなければならないことも出てくるような気がしてくるわけで、何かそういう成り行きへと民衆を巻き込んで、マッチポンプ的なやり方で民衆が騙されているようにも感じられるから、それが右翼と左翼がグルになっていることの証拠なのかどうかも定かではないが、それらの煽動的なポピュリズムに騙されてはならないと警鐘を鳴らす者たちにも騙されてはならないのだから、逆に騙されているふりを装うべきなのかも知れないし、もちろんそんなことは意識するまでもないことなのかも知れない。
3月17日「批判の逆効果」
日頃からあまり確証を得られないような適当でいい加減なことを述べている自分が、他人の言っていることを確証がないと批判するわけにも行かないが、ではどう批判すればいいのかといっても、批判にならないような程度で述べようとしているとも思えないが、いきなり他人の言動に対してそれは違うと述べてしまうと、批判だと受け取られてしまうのもわかりきったことだから、ではどう言えばいいのかといっても、結果的にそうなってしまうことについては否応なくそうなるしかないわけだから、そういう批判をどう受け取ってみてもそれが批判だと受け取るしかないわけだが、批判を回避できないとしたら、ではそのまま批判を継続して行けばいいのかと問いたくなってしまうわけでもないが、そう述べるのも何かのごまかしのような感じもしないではなく、できるだけ批判を回避しながらもそれが批判とは受け取られないように装いたいのかも知れず、実際には批判しているのに批判とならないように装うわけだから、そんなのはごまかし以外の何ものでもなく、それでも何か面と向かわないような配慮が施されていることを相手にわかってほしいのかも知れず、それが卑怯なやり方だと受け取られてしまうと逆効果には違いないが、そう受け取られても構わないわけでもなく、自分さえ良ければそれで構わないわけでもないのだろうが、自分にとってもそれが良いことなのかどうかも甚だ疑わしいが、何だか知らないがその場の成り行きでそうなってしまうのだから、そういうことだと受け取っておくしかなく、何かその場に居合わせた者たちがわかっていないことがそれらの者たちの意図や思惑を越えて作用しているのだが、それがどんな作用だともわかっていないから戸惑うわけでもなく、そうなることを受け入れるしないとあきらめてしまうと癪に触るわけで、だからせめてもの抵抗の証しとしてその場に残しておきたいことがあるらしく、それがどうにも思い通りには行かない他人に対する嘲りの文句であるなら、そんなふうに他人を嘲った者が自らの負けを認めたことになると思ってもいないだろうが、その場の状況証拠がそういう成り行きを示しているなら、嘲った者負けな雰囲気に感じられるから、その場ではそう思っておいても構わないような気がするのだが、それでもわざと他人から嘲りの罵声を引き出す目的でそんなふうにこれ見よがしに街頭で演説している輩がいる現状も何かおかしいような気もするから、そういうやり方にも限度があるような節度が求められているような気もしてくるのだが、そんなのは演説を打っている者の知ったことではなく、もちろんこちらでも知ったことではないわけだが、ではそれに対して何が言いたいのかと問われてしまうなら、問われてくる事態など想定していないから、問われても答えに窮してしまいそうで、要するにこちらの想定していなかった事態に引きずり込まれて返答に窮するような成り行きへと持って行きたいから、そんな罠として機能するようなやり方であちらが待ち構えていたことを思い知って愕然とするわけでもないにしても、あちらもそこまでは想定していなかったわけで、どちらにしてもそんな思いがけない未知の領域へと足を踏み入れたくはないわけだが、それも結果的にはそんな想定外の事態へと思いがけない紆余曲折を経ながら至ってしまうわけだから、それがお互いの無意識の共同作業の結果だと肯定的に受け取りたいわけでもないのだが、N国の立花氏などはうまい具合に見ず知らずの他人から暴力を引き出すことに成功してしてやったりな高揚した気分となっているのかも知れないし、そうなることも事前にある程度は想定しながら煽動的なパフォーマンスに及んでいる感じに見えるから、そうなってしまっては立花氏の思うつぼだと事後的に理解してしまうのもちょっと違うような気がするのだが、それが罠として機能するのはまれなことであって、そうなるのも偶然の巡り合わせのような気もするわけだから、何から何まで想定内でしてやったりだと事後的に得意満面の笑みを浮かべてしまうこと自体が、その場の成り行きによって踊らされていることの証拠となっていても、それに気づかないようなことでもあるから、それ自体が人知を超えた力が作用してそうなってしまうとも思えないにしても、そんな成り行きに関心を寄せていること自体も、どうでもいいようなエンタメ的な気晴らしを求めているに過ぎないようなことでしかないと思っても、ではそれ以外に何があるのかと問われるわけでもないが、何もないわけではなくもっと真面目になって取り組むべき物事を探しているわけでもないのに、何か高尚なことをやっている人の方が偉いような先入観にとらわれているような気もしてきて、それと比べるまでもなく下世話な印象を世間に振りまいているように見える立花氏を下に見たくなってしまって、何かそれが違うと思うなら、果たしてどう違うのかがわかるような機会が今後やってくるのかと想像してみるのだが、どうもそんな気がないわけで、そういった方面に目を向けてそこで行われていることを肯定的な印象を抱けるように言葉で飾り立てても意味がないような気がしてしまうから、何が違うのかも理由もわからないままにそんなのは違うと思っておいても構わないのだろうが、では果たしてそんなことの延長上に何があるのかと考えてみるのだが、これといって何を思いつくわけでもなく、延長上には何もないわけではないのだろうが、その種の政治的なパフォーマンスの類いがそれらの無内容の全てを物語っているわけでもなく、何かしら好意的に受け止めた方が良い兆しを見つけたいのかも知れないが、実際にはそれらを伝えるメディアをいっさい無視しているわけで、何かそれがわざと無視しているようにも思われるから、その理由を知りたくなるわけでもないのだが、それが見知らぬ街角に佇む旅人の視線から窺い知れる表面的な関心と似ていないとも言えないにしても、そんなことは知るまでもないことを知って、それが何の役に立つとも思えないし、役に立たなくても困らないから、それを表面的な関心のレベルではやり過ごせるのだが、やり過ごしてみたところで、今度はそれとは別の方面からもそんなどうでもことには無関心を装っておいても構わないような表面的な関心や好奇心などが生じてくるのだから、そんなのにも無視を決め込んでおいても何の良心の呵責も感じないわけだから、それを伝えるメディアの方でも勘違いが生じているようにも感じられて、実際にそれを伝えたいと思って伝えている人も勘違いを自覚しているわけだろうし、しかもメディア的にもそれで構わないようなことだと自分には思えるのだが、そう思えるのも勘違いのなせる業かも知れず、そうやって様々な方面からの勘違いが蓄積した挙句に、何かこれといって納得できないようなことが行われながらも、結果的にはそれで構わないようなことになっているのかも知れず、それをそう受け止めている自分の頭の方がおかしいのかも知れないが、何となくそんな狂ったようなことが行われているのを斜め後ろからチラ見する程度にとどめておきたいわけだ。
3月16日「SNSの対応」
相変わらず何だかよくわからないが、延々と大勢の人からSNSから問答をひっきりなしに仕掛けられると、途中までは熱くなってムキになって対応していたが、こちらは一人なので対応しきれずに、途中で嫌になってやめてしまったが、何となくそれで構わないような気がして、もういいやと思って寝てしまって、自分でも途中で考えるのを放棄してしまったから、理解できないままになってしまったが、途中までは何かを理解したような気になっていたのかも知れないが、結局は今ひとつわからないのかも知れず、確か向こうの人々は集団で何らかのこだわりを持っているようで、それを頑なに信じているのかも知れないが、自分にはそれを信じられないから、疑念を覚えながらも素人なりの見解を示そうとしていたのだが、いつものようにうまく表現できずに的外れな答えと誤解に終始していたのかも知れず、自分には自分が何を考えているのか理解できないところもあるから、いつも見当外れなことを述べてしまうようで、問答を仕掛けてくる人たちには理解不能かも知れないが、そうなってしまうのだから、それをどう制御することもできないし、何かが頭の中で暴走しているようなのだが、その際に自分でも必死になって何か思考を巡らせているのだろうが、出てくる答えが自分でも驚くべき内容であるから、何か自分が答えているのではないような感じになってしまって、誰か自分以外の他人が乗り移っているのではないかと思われるわけでもないが、答えているのは自分ではない誰かなのかも知れないから、何だかおかしいのだが、おかしいと思いながらも勝手に答えているもう一人の自分が自分の中にいるような感じなってしまって、まあそれでいいやと思う間もなく、もう一人の自分がさっさとそこから降りて寝てしまうのだからそれっきりになってしまったようで、自分が何を攻撃されているのかも別に攻撃されていないわけでもなく、何となく勝手に問答を仕掛けられているようでいて、そのきっかけを作ってしまったのが自分なのではないかとも疑われて、それがもういいやと感じてしまうのだから、そんなことはすでにどうでもいいことなのかも知れず、どうでもいいような問答の繰り返しに飽きてしまって、問答の内容が当事者にもなれないようなことなのだから、現状の自分とは直接には無関係なことなのかも知れず、そういうレベルでは税収が政府の財源ではないと言われても、向こうがそう思っているのだからそのままにしておいた方が良かったのかも知れず、何となく感覚としては税収が政府の財源なのではないかと思ってしまうのだから、それをわざわざひっかけ問題のように税収は政府の財源ではないと言い張っているのだから、たぶんどうしても国債を発行してそれを政府の財源と見なさないと困るような仕組みになっていて、それをそう考えると向こうの人々の主張としては、何か都合が良くしっくりくるのかも知れず、それも何となくそう思われるようなことかも知れないにしても、そういうことを向こうが述べているのに、門外漢で素人の自分がいちゃもんをつけてきたのが気に入らないような感じだと思われるのだが、そういうことならそれでいいんじゃないかと寝て起きたらそう感じたわけで、何か向こうの人々に申し訳ないような気になってしまって、なるほど世の中にはあんな方面でこだわりを持っている人々が大勢いるのかと感心してしまうわけでもないが、それならそれでいいんじゃないかとも思いながらも、税収が政府の財源ではないと主張することにどのような意図や思惑があるのかもよくわからないままになってしまって、何となく心苦しいのだが、それはそれでいいかと思って、そんなことを主張しているのだから、何かの機会をとらえてそう主張する人々が政治的な主導権を握れば、税収が政府の財源ではないような仕組みが作られて、もうすでに昔からそうなっていると主張しているような感触なのだから、こちらが税収が政府の財源だと勘違いしていて、財務省によって多くの人々がそう思い込まされているとも主張しているような感じもするのだから、そういうところはあまり深く突っ込んでもらいたくないのかも知れず、そういうことならそれでもいいのだが、向こうはこちらを論破したいのかすでに論破したつもりになっているのかも知れないが、相変わらずこちらは税収が政府の財源でもいいんじゃないかという考えなのだから、あちらの意見や主張を受け入れていないような感じなのだから、何だかよくわからないのだが、素朴に考えて国民や企業などから税を徴収してそれを政府の予算に組み入れて活動してもらった方が自然な感じがするのだが、それがそうではないと主張しているわけだから、何かそれに関して説得力のある税や予算のからくりを説明している感じなのだが、それを説明されても自分が馬鹿だから理解できないのか、その辺がそうなのだとしても、とりあえず向こうの人々は税収が政府の財源であっては困るようなことを主張していて、そういう思い込み?が間違っているらしく、財務省に洗脳されているのだと言いたいのかも知れないから、自分も財務省に洗脳されていることになっているらしく、だからそれは洗脳されているお前の思い込みに過ぎないと受け取っておけばいいのかも知れないが、だからと言って、はいそうですかこちらが間違っていましたとも感じないわけだから、そういうところが腑に落ちないわけで、これ以上は関わり合いになるのはヤバそうだから、彼らと同じ積極財政派のれいわを応援するのも、ちょっとやめた方がいいのかどうかもよくわからないが、それもこれからの成り行き次第な感じがするから、あまりどちらかに振り切れた対応とはならないだろうし、それよりもアメリカのトランプ政権の動向も気になるし、様々な方面から批判や非難を浴びながら数々の妨害も仕掛けられながらも、果たしてイーロン・マスクが政府の効率化を成し遂げてしまうかどうかも、あと一年余りで決着をつけようとしているわけだから、どちらかといえばそちらの方に関心が向いていて、それが新自由主義的な緊縮財政で小さな政府の実現であるだけに、それが成功してしまうと今までそういうやり方を批判してきた人々の面目が丸潰れとなってしまうようなことでもあるから、やはりそちらの方が世界的な大転換をもたらすような出来事だと思いたくなってしまうのだが、しかも嫌われ者のトランプを大統領にしてまでもやってしまおうとするわけだから、税収が政府の財源ではないと主張する人々も何だか感覚が狂っているようにも感じられる一方で、トランプやイーロン・マスクに期待している自分も彼らを批判したり非難している人々から見れば別の意味で感覚が狂っているように感じられるのかも知れないし、それがどっちもどっちでお互い様だとも思っていないわけだから、何か世界中で騒がれていることが日本で騒がれていることと地続きとなっているような感じもするわけだ。
3月15日「右翼と左翼の共通点」
サンデル教授の共同体主義で思い出したことがあるのだが、批判する対象を批判しやすいように単純化して、批判しやすいところを強調したり誇張して批判するところが右翼と左翼の共通点だというのは、昔からわかっていることには違いないが、というかそんなのは右翼や左翼に限ったことではないが、サンデル教授が唱える共同体主義自体が右翼と左翼の共通の実態そのものを表しているような気がしないではなく、そう考えるのも右翼と左翼を単純化して捉えていることになりそうだが、それが右翼を批判する左翼の主張を正しいと感じてしまうとわかりにくくなってしまって、さらには左翼を批判する右翼の主張が間違っていると感じてしまうとなおのことわかりにくくなってしまうのだが、それがサンデル教授の新自由主義批判にも表れているようにも思われて、それに対して社会の共同体を維持するには、人と人との対話によって社会の中で守るべき共通の価値観を創造するようなことを考えているのだろうが、たぶんどう考えても完全にそうなることはなく、対話が成り立たないから右翼と左翼が社会の中で対立しているのであって、その際には右翼と新自由主義とが親和性が高いから、左翼としては右翼と新自由主義を一体化したものと捉えて批判すればわかりやすくなるのだろうが、その実態としては右翼が左翼をやっつけるために新自由主義を利用しているに過ぎず、右翼も左翼も共に社会を構成する共同体から生じてきているところが、右翼と左翼を対立する勢力と捉えるとわかりにくく、確かに対立していることは事実なのだが、相互補完の関係にあると捉えてみたところで、実際に対立して敵対していること自体を強調したり誇張する限りで、それがポピュリズム的な煽り立てとなって、相互補完の関係にあることを忘れさせるのだろうが、では右翼と左翼は仲良くしなければならないというわけではなく、対立することによって右翼も左翼も自分たちの勢力を維持しているわけで、対立が成り立たないとどちらの勢力も維持できないと考えるなら、双方共にポピュリズム的な煽り立てをやっていないとならなくなってしまいそうだが、それに対して新自由主義的な観点から考えるなら、双方の勢力を共に自滅に追い込むには、右翼と左翼が生じてくる社会の共同体そのものを破壊すればいいことになりそうだが、何によって破壊するのかといえば、資本主義市場経済のより一層の発展によって社会の共同体が破壊されると考えられそうだが、もちろんそれは左翼の言い分であって、右翼と新自由主義が一体となって社会の共同体を破壊すると主張したいわけだが、その一方で右翼の言い分としては、左翼が人道的な観点から受け入れる移民や難民が、あるいはLGBTQが、選択的夫婦別姓や同性婚などが社会の共同体を破壊すると主張したいわけだが、その一方で共同体を維持するには異分子を排除しなければならないと考えるなら、それに関してはフロイトが社会の共同体から狂人が排除されていることを発見して、フーコーが狂人の他にも犯罪者や性的倒錯者なども社会の共同体から排除されていることを発見して、さらには癩病患者は排除されたがペストは排除できずに共存するしかなかった歴史的な経緯を発見したが、たぶんサンデル教授やハーバーマスなどが掲げる対話的理性が通用しないのが狂人であることはわかりきっていて、その延長上で日本の左翼たちが社会の共同体から排除しようとして躍起になっているのが、N国の立花氏やつばさの党の黒川氏であることも示唆に富んでいて、それは兵庫県知事などにも言えることだが、要するに彼らには対話的理性が通用しないから社会の共同体から排除せざるを得ないわけだが、それらの共同体の破壊者たちに対してどのような態度や姿勢で臨めばいいのかということが、左翼的な脈絡からは出てこないわけでもなく、犯罪者と見なして共同体から排除したいように見えるわけだが、もちろん表向きにはあからさまにそう言い放つわけでもないだろうが、彼らに向けた激しい憎悪の感情が左翼的な限界を際立たせているようにも感じられて、そうなるのが当然のように思われるなら、たぶんそう思っている人は左翼なんじゃないかと思っておけば良さそうだが、別にそれが悪いとも思えないし、何となく自分もそういう面では多少は左翼的な心理状態にありそうなのだが、そうであっても果たして対話的理性が通用する人だけで社会の共同体を構成できるかというと、そこでも資本主義市場経済の進展によってもたらされる功利的な損得勘定が対話的理性よりも優先されてしまう現実があるから、立花氏や黒川氏や兵庫県知事などを利用したい人たちにとっては、左翼の対話的理性などを尊重しても何の得にもならないと考えているわけでもないだろうが、それらの人たちを敵と見なして自分たちの活動に利用している人が、ジャーナリズムに携わる人たちになるとしても、そこでも左翼と右翼の相互補完的な関係が成り立っていると見なしておけばいいかどうかは、その人の立場や境遇などによって見解が分かれてきそうだが、そもそも対話的理性だけによって社会の共同体が構成されているわけではなく、経済的な支えや裏付けがあってはじめて共同体が成り立っていることは言うまでもないことであるから、その経済的な支えや裏付けが何から生じてくるかというと、功利的な損得勘定が人々の思惑として社会の中で複雑に絡み合うことによって社会そのものが構成されているわけだから、そこには共同体があるだけでなく、様々な共同体が同時並行的に存在している一方で、それらが相互に作用を及ぼして、時には瓦解しながらも、ある程度の期間は存続していて、そうやって無数の共同体の絶え間ない生成と消滅が繰り返されている中でも、共同体の破壊者として登場しているのがN国の立花氏やつばさの党の黒川氏や兵庫県知事やトランプやプーチンやイーロン・マスクだと言えるかどうかも、彼らも自身である種の共同体を率いているから、彼らと関係する立場や境遇の人々からしたら、彼らは共同体の指導者だと言えるだろうが、その一方で左翼的な対話的理性の価値を肯定するなら、まともに対話が成り立たない者は、共同体の暗黙のルールから逸脱する者として排除するしかなく、もちろんそれを共同体からの排除とは言わないだろうし、できることなら彼らを自分たちが推進する対話のルールに従わせようとして、絶えず対話を試みるわけで、執拗に質問しようとして、実際に事ある度に記者会見などの場に引きずり出そうと試みるわけだが、それが共同体からの排除の儀式であるはずがなく、逆に対話的理性が支配する共同体へと引き込もうとしているわけだが、もちろん彼らが対話的理性の支配に屈するはずもなく、絶えずはぐらかしの答弁によって逃れ去ろうとするのを、執拗な質問によって引き留めようとするわけだが、そういった言葉による攻防やせめぎ合いや駆け引きによっても無数の共同体を含んだ社会内の力学的な均衡が束の間の期間で表面的には維持されているのだろうが、その一方で実質的な面では資本主義市場経済からもたらされる功利的な損得勘定に基づいて多くの人々が企業や政府や他の各種団体の中で行われる経済活動にとらわれている現状もあるわけだ。
3月14日「攻撃者の思惑」
この世界の何がどうなっているわけでもないと思うなら、それが思い違いであっても、特に変わったところは何もなさそうに思われても、何かしら情勢が刻一刻と変わり続けていそうだが、そんな程度ではそうなのかも知れないが、それに対して何かこだわりを持っている人なら、情勢の変化に逆らって頑なに自身のこだわりを守ろうとするのかも知れないが、守ったところで時流には逆らえないのかも知れないから、実際に逆らえないからなのかどうかは知らないが、何か適当な理由を持ち出して敵対しているつもりの誰かに向かって攻撃を仕掛ける者がいようものなら、それが世間で目立ってしまうとメディアで話題となるのだろうが、だからといってそんな話題に関心があるわけでもなければ、わざと無関心を装っているわけでもないのだが、少なくとも自分は誰から攻撃されているとも思っていないし、それに対して何か適当な固定観念に基づいて攻撃を正当化する理論武装をするようなことがあってはならないとも言えないが、なぜそうなってしまうのかと誰に問われているわけでもなく、果たして他人への攻撃を正当化できるかというと、あからさまに攻撃しているのならもっともらしい理由を持ち出して攻撃の正当性を主張するような成り行きにもなってしまいそうで、それも攻撃の種類や程度や範囲にもよるかも知れないが、そんなことにはお構いなく、何かの情念にとらわれているようなら、理由など何でもいいわけでもないにしても、何かとってつけたような理由ともいえないような説得力のない理由になってしまいそうだが、結果的に何だかわからないような攻撃にさらされていると感じるなら、そんなのは気のせいに過ぎないと思いたいのだが、実際に気のせいなのかも知れないが、なぜかそれが何だかわからないようなことなのかも知れず、何か人知れず攻撃を仕掛けられているような気がするのだが、それも被害妄想の一種なのかも知れないから、あまり深くは考えないようにしているのだが、その辺で腕を振り回してみて何かに当たれば、その当たった何かが気のせいの原因なのかも知れないから、ちょっと腕を振り回してみれば、何だかわからないような反応がちょっと出てきたから、そういうことだと思いながらも、自分の勘違いでも構わないことかも知れないし、結果的にはどうもなっていない現状があるのだから、そんなのも攻撃でも何でもないと思うしかないようなことなのかも知れないが、要するにメディアで騒がれているようなこととは無縁の毎日を送っているのだから、ちょっとした何かの行き違いにも敏感に反応してしまって、何か得体の知れない何かから攻撃されているのではないかと疑って被害妄想に陥っていることでしかないと受け止めているわけで、だから何でもないと安心しているわけでもなく、自分の勘が狂っているわけでもないなら、何かしら自分の知らないところで何かが起こっていて、それが起因して自分の現状にもそれなりに影響が及んでいるのかも知れないが、今のところは何も知ったことでもないから、知らないままに事態が推移しているようだが、それで構わないようなことなら、そのままになってしまうのだろうが、しかしそんなことでは攻撃も何も受けていないことになってしまって、気のせいなのが証明されてしまいそうだが、もちろんそれを証明したいわけでもないのだが、証明するまでもないことには違いなく、証明しようとしても何をどうやれば証明したことになるのかもよくわからず、途方に暮れてしまうだろうが、どうしても説得力のありそうな行動や言動の理由づけが見当たらず、それに関して何を語るにしても本気で語っている気がせずに、そんなことなどどうでもいいのではないかと思ってしまうから、今ひとつ気が入らないわけだが、そうなってしまう事情や経緯を無視して単純な論理に凝り固まれば、攻撃対象が自ずから定まってくるのだろうが、そうなってしまう他人を横目に見ながら何を思うでもなく、その人自身も何でもないような存在でしかないわけだから、他人と他人がSNSなどで論争しているように装われても、それも何かの演技を観せられているに過ぎないのではないかと疑って、無視しながらそこを通り過ぎてしまうのだが、だから何か壁のようなものにぶち当たっているとか障害物の類いに行手を阻まれているとかではないのだから、スルーしておいても何でもないことになってしまって、それができてしまう限りで攻撃されているわけでも攻撃しているわけでもないと受け止めるしかなく、何か他にやりようがあるわけでもないから、そのままになってしまいそうで、そういうことで構わないと思っているわけで、それで攻撃をはぐらかしたともやり過ごしたとも思えないし、もとから攻撃されているとも思っていないのだから、そこから何をどう取り繕ってどう考えてみても、攻撃とは無縁の毎日を送っているはずなのだが、それでも自分がそれと自覚しないで誰かに向かって攻撃を仕掛けていることに気づいていないとしたら、それの何がいったい攻撃なのかと考えるのも無駄なような気がして、しかも不思議と自意識も無意識も自らの意図しない動作によってはぐらかされているようにも感じられて、それがあたかも数日おきに自分のところにかかってくる詐欺的な勧誘電話の類いを全てブロックするやり方にも似ていて、詐欺でもないのにブロックしているから、最近は何が何だかよくわからず、電話の類いには絶対出ずに、呼び出し音が鳴り止んでからネットで電話番号を検索して勧誘電話だと確認してからブロックする作業を続ける毎日を送っているらしく、それほど頻繁に勧誘電話がかかってくる理由もないはずだが、被害妄想にとらわれた心の中では攻撃されているつもりになっているわけだから、そうやって被害妄想にとらわれた自身の心理状態を持て余しているどころか、それが何かの気休めになっているのかも知れないが、そういえばテレビもないのに攻撃的な態度で向かってくるNHKの勧誘員の姿を見かけることもなくなって数年が経ってみると、もうかれこれ四十年近くもテレビのない生活を送っていることに気づいたわけでもないのだが、また数日前に郵便受けに何年ぶりかでNHKの受信料の申込の封筒が入っているのに気づいて、未だにこんなことをやっているのかとその執拗さに愕然としたわけでもなく、その中にはネットでの受信方法も示されていたから、受信しなければ受信料を払うこともないんだとこちらの都合の良いように受け取っておいて、今後はなし崩し的に受信しなければ受信料を払わなくても済むような制度へと移行してほしいのだが、あちらも既得権益を守る官僚機構を抱え込んでいるわけだから、執拗に自分たちの権益が確保されるような現状維持へと持ち込もうとしてくるだろうし、ネット環境が使えるだけで受信料を払わなければならないような制度にしようとするのかも知れず、そういうところにどうにもならない社会的な不条理が感じられて、それに対してそんなNHKの権威を失墜させたインターネットのありがたみも感じているわけでもないが、テレビ放送局が世の中から消え去っても執拗に形を変えてメディア権力もネットの中で維持されている未来も想像できそうだから、それでおしまいというわけでもないことがわかりきっているだけに、自分が敵対しているのが政治権力であると共にメディア権力だと再認識させられるようなことでもなく、少なくとも敵対しているとも対峙しているともいえないような何でもない存在でしかないのだから、普通にその種の敵対関係を意識せずにスルーしておくぐらいが、自分にとっては精一杯の抵抗となるのかも知れない。
3月13日「関税のパラドックス」
トランプが周辺国からの輸入製品に高額な関税をかけると脅しをかけるやり方に関連して思い浮かぶのが保護貿易と自由貿易だが、普通に考えて自国の産業を保護するためにその産業が作り出す製品と競合する輸入製品に高額な関税をかけて、輸入品より国産品の方が売れるようにすると考えれば理解できるかも知れないが、事はそう単純に行かないこともよく考えたらわかってきそうで、製品の材料を輸入している場合には材料にも高関税をかけてしまうと製造コストが上がってしまうからまずいわけで、アメリカの場合は隣国のカナダから輸入される工業製品には高関税を課す一方で資源にはそれほど高い関税はかけない方針のようだが、工業製品といっても機械の部品となると、アメリカ国内でその部品を使って製品を組み立てることになるから、やはり機械部品にも高関税をかけるとなるとそれだけ製造コストが上がってしまって、それを回避するにはアメリカ国内で部品も製造する必要が生じてくるから、果たして資源だけ安く輸入して他は何から何までアメリカ国内で製造するとなると、理屈の上ではそういうことも可能だが、どう考えても人件費が高くつきそうで、果たして工業製品の類いがアメリカ国内で消費する分を製造するだけで割に合うかどうかも、それだけでは産業として成り立たないような気がするわけで、結局工業製品は輸出しないと産業としては成り立たず、人件費の安い国で製造してそこから輸出して利益を出すというのがこれまでの常識だが、その一方で絶えず付加価値の高いハイテク製品を作り出してそれを利益の出る価格で売ろうとするわけだろうが、究極的には物よりも情報の方が付加価値をつけられそうで、さらにはサービスを売ることにもなりそうで、情報やサービスを売るにはそれらを提供するインフラが整備されていないと売れないわけだが、もちろん物にも情報やサービスがついてきて、それらが一体となった製品が高く売られている現実がありそうだが、そんなふうに物や情報やサービスが複雑に絡み合いながら売買や貸借が行われている中で、何かわかりやすい単純化された理屈や論理や理論などを提示して、それを政治宣伝として人気取りに使う意図や思惑があると考えるなら、強いアメリカを取り戻すには国内に産業を誘致して働き口を増やす目的で外国に高関税を課すと主張すれば、そういう部分を強調するなら一見筋の通ったことを言っているように感じられるのだが、果たして実態として筋の通った主張通りのことが行われているのかというとそうでもないだろうし、逆に世の中では筋の通らないことがいくらでも行われているから不条理感が高まるわけだが、それも筋が通らないことを指摘してそれを批判したり非難するわけだから、トランプが他から苛烈に批判されたり非難されているようなら、筋の通らないことをやっているからそうなっているわけだろうが、その場の成り行き上ある方面では筋の通ったことを主張できるが、それとは別の方面ではそれが筋の通らないことになってしまったり、その場の都合に合わせて両義的かつ多面的にそうなってしまうと考えるしかないが、主張することはできてもそれを実際に行うとなるとうまく行かなくなってしまって、何か行き詰まってしまうようなら、今後そうなってトランプがレームダック化してしまう可能性もなくはないにしても、それもある方面ではそうなっているように見えても、それとは別の方面からはそうは見えないように取り繕われたりして、そんな微妙な感じで今後数年が経過してみれば、何となくトランプの業績と言えるような何かが見えてくるかも知れないものの、それも表面的にはそう見えるにしても、結局は資本主義市場経済が続いていく限りで表面的なさざ波や波紋を形成する程度のことなのかも知れず、その証拠に台湾のTSMCがアメリカのインテルの工場を使って半導体を製造するといっても、ハイテクの最重要なコアな部分は台湾から外へは持ち出さないつもりであったり、日本政府は毎度のことのようにアメリカに媚びへつらうような姿勢なのに、USスチールの買収を阻止されている日本製鉄が妙に強気な姿勢を崩していないのも、産業技術的な面で確かな感触を保持しているからそんな感じになっていそうなのだが、果たしてそれが政治より経済の方が世界的に優先されているからそういう傾向になっているのか、政治では経済を制御できないことの表れとしてそうなっているのか、今ひとつよくわからないところだが、メディアから伝わる情報を鵜呑みにするつもりもないにしても、何か政治宣伝の類いに多くの民衆が踊らされて、暴徒がテスラの販売拠点に押しかけて、窓ガラスを割ったりテスラ車を損壊すれば、表面的にはそれが深刻な事態だと感じられる人も大勢いるだろうが、産業技術的の面ではそうでもないのかも知れないし、テスラを叩けば中国メーカーが喜ぶだけで、果たして日本のトヨタやドイツのフォルクスワーゲンが中国メーカーに対抗できるかどうかもよくわからないし、そうかといってスウェーデンのボルボはすでに中国資本の傘下だろうから、何かそういうところも一面的かつ表面的なさざ波や波紋程度の現象に過ぎないわけだが、そういう意味では左翼リベラルの世界的な劣化と言えなくもない事態が進行中だと断言できるわけでもないし、昔からそうなっているような感じがして、その象徴を形作っているのがEUと呼ばれる国家連合形態のような気もするのだが、果たしてそれが古代のローマ帝国や中世の神聖ローマ帝国の現代版か否かも冗談としてはそんな感じもしないではないが、そこには常に建前と本音の微妙な食い違いが見え隠れしていると言えなくもなく、そんな食い違いを突いて右派のポピュリズム勢力が攻勢を仕掛けているのだが、それも政治的な領域での政治宣伝を伴った表面的な攻勢に過ぎないところが、やはりメディア経由で良心的な民衆が社会主義勢力に騙されているというと、社会主義勢力としては騙しているつもりもないのは明白で、彼らにしてみれば民衆は右派のポピュリズムに騙されていると思い込みたいはずだが、そのどちらにしても世界を覆う資本主義市場経済の存続を前提とした活動になっている限りで、それが致命的な欠陥を抱えていると指摘した方がいいのか、その証拠を示せと言われてもすぐに簡単には示せないだろうし、簡単にわかりやすく示そうとすればフィクションになってしまう可能性が高く、そういう面ではうまく説明できないから焦ったい感じになってしまいそうで、だから日本では的を射ているようでいてちょっとずれているような財務省解体デモなどが一部ではメディア的な話題となっているらしいのだが、果たして政府の官僚組織の無駄を削って効率化すれば経済が活性化するのかということが、無駄を削った分だけ減税できればいいのだが、減税したからといってその分だけ経済的な負担が減ると考えれば、そういう部分では一見筋が通っているように感じられるのだが、その一方で筋の通らないことがどこで行われているのかというと、たぶん民間の経済活動の中でも行われていそうな感じがするのだが、それが今のところはうまく説明できていないわけで、しかも筋の通らないことを行わないと経済活動がうまく行かないようにも感じられてしまうわけだ。
3月12日「何かの比喩」
例えば千回に一回は本当のことを言いたくなるとか、そんな気にさせるような出来事に今まさに遭遇しているなら、なぜそう思わせるのかよくわからないし、なぜではなく、どうしてそんな意味不明な成り行きに心身が巻き込まれてしまうのか、その理由を知りたくなってしまうというのは嘘で、本当はそんなふうには思っておらず、真実を語りたくなるのは千回に一回どころではなく、いつ何時でも常に本当のことを語っていたいわけで、嘘偽りのない事実に基づいて自説を構成したいらしく、それが適当でいい加減な程度ではなく、やはりより正確な事実にこだわりたいのだが、なぜか今はそうはならないような成り行きに巻き込まれているというと、何か嘘っぽいのだが、いったい誰がそんな成り行きに巻き込まれているのか疑念を抱くまでもなく、誰もが少しはそうなっていて、そのついでに自分もある程度はそんなふうになっているのかも知れないが、実際にそうなっていても誰もがそんなふうには思われないわけで、いつも破顔の笑みを絶やさない人の目尻に深く刻まれたしわが何を物語っているかぐらいは知っているつもりになれるわけでもないが、それでも何となくそういう人の性格がわかってしまうから、しかも性格だけでなく思考パターンや行動パターンまである程度は予測可能なら、それが利いたふうな意見や主張の全貌なのだとしても、わざとそういうところは無視したいらしく、無視したところで何がどうなるわけでもないのだが、そうかといって何もどうにもならないわけでもなく、無視しておけば何事もなかったかのように振る舞えるわけだが、その道の専門家でもない人が素人くさい意見の全てを馬鹿にするようなことがあってはならないとも思えないから、その全てではなく自身の都合や力量に合わせて批判や反論が可能な意見や主張を取捨選択して、それらを利用して何かこれ見よがしなことを述べていようと、その都合というのが見え透いた自己の保身に関係してくれば少しはわかりやすいのだが、それを気にしていないと言ってしまえば嘘になりそうだが、そういう場合は嘘でも構わないらしく、そういう場合とはどんな場合なのかもわかりきったことになりそうだが、そんなことを語っている当人がそれに気づいていないように見えるなら、それもわざとそう見えるように振る舞っているとも思えないから、その人には気づかないことが他人には気づいてしまう程度のことなのだろうが、実際に現時点でトランプやイーロン・マスクを攻撃している人たちが数年後にはどうなっているかなんて、それを想像してみること自体もどうでもいいことには違いないわけで、どうせ数年後の時点でも調子に乗って正義の味方気取りになっているはずだと馬鹿にできるかといっても、それを馬鹿にするつもりにもなれないのだが、馬鹿にしているのではなく、感心しなければならないわけでもなく、では何なのかというと、たぶんこんなことを述べている自分もそうなりかけているのではないかと疑ってしまうのだから、そうならないに越したことはないにしても、正義の味方になれるかも知れないという誘惑には抗し難く、実際に誰もがというわけでもないが、正義の味方になろうとしてしまうらしく、他人のテスラ車を壊して日頃の鬱憤を晴らそうとしてしまう者も後を絶たないのだろうが、それを真に受けられるようなら単純化の罠にハマっていそうだが、何かの仕掛けくさいその種のメディア的な演出にまんまと騙されているとは思えないし、騙されているのではなく実際にそうなっているのだから、そんな事実を真に受けていれば気が済む程度のことなのだとしても、それが対岸の火事のようにも感じられる限りで、傍観者の心理状態が維持されているらしく、たぶんそれも世界情勢の比喩としてメディア上で機能するような出来事なのだから、ウクライナやパレスチナやシリアやミャンマーなどの地で実際に人殺しや物壊しに励んでいる人たちとは関係がないとも思えないわけで、何かそれとこれとが地続きなこととして、それに関してもこれに関しても主導権を握っているように見える人に対する憎しみが起因してそうなってしまうことが、自然な感情の発露のように感じられるのだから、本当はそうではなく、もっと複雑で込み入った事情や経緯が関係して狡猾かつ残忍な身体の動作や攻撃的な言葉の組み合わせが生じてしまうのだとしても、そこまで推測しないうちに二項対立的な物事の単純化で間に合ってしまうのだから、たとえそれが出来の悪いフィクションだとしても、あまり深くややこしく物事を考えずに済むなら、直情的にそういう動作や言動に訴えてしまうわけで、それで構わないなら大したことはないはずだが、そうなっている中でもメディア的な仕掛けに騙されているのが良心的な一般市民だと被害者気取りでそう思うわけでもなく、彼らは騙されているのではなく騙されている市民を演じているのだと説明しようものなら、それとこれとがどう違うのか、それもうまく説明できるわけでもなく、そんなのはどちらでもいいことなのではないかと思うなら、それも単純化の罠にハマっている証拠なのかも知れないが、別にそれで構わないのだから、トランプやイーロン・マスクを攻撃する左翼メディアに騙されるなと警鐘を鳴らしたくなるわけでもないのだが、しかも騙されるなと警鐘を鳴らすような識者の類いに騙されるなと警鐘を鳴らしたくなるわけでもないのだが、要するに警鐘を鳴らしているつもりにはなれないわけで、そんな役割を演じているつもりの人をSNSなどで見かけて笑ってしまうわけでもなく、もちろん気の毒に思うわけでもないのだが、破顔坊のような笑顔で利いたふうなことを説教している誰かとは遠く隔たった地点から、何かそれとは違うことを述べている気もしないのだから、やはりどうでもいいことにとらわれながらもそこから抜け出そうとしてもがき苦しんでいるような自業自得な状況なのかも知れないが、その一方でクーデターを首謀して義兄をまんまとナポレオン三世に仕立て上げることに成功した後、自身は内務大臣から立法院議長といった要職を歴任した人物が、なるほどその時代のイーロン・マスク的な役回りだったのかと遠い時代に思いを馳せてみたところで、何だか経緯を知らない人にはちんぷんかんぷんなことかも知れないし、それに対して現代においてバーニー・サンダースが批判している内容がそのまま、詩人ヴィクトル・ユゴーの起草した宣言文の類いに記された言葉にも共鳴してきて、何やら笑ってしまうような、トランプのそれがナポレオン三世の治世から数えて何度目かの茶番劇なのかと数えてみたくなるのだが、当然その中にはルーズベルトやヒトラーやスターリンやムッソリーニや毛沢東や金日成やポルポトやチャウシェスクなどが程度の良し悪しや強弱を伴って控えていそうな感じもするのだが、それらから比べれば何かだいぶマシなことが行われているどころか、見方によってはだいぶひどいことが行われていると思いたい人もいくらでもいるのだろうが、それらを混同してはいけないような気もするわけで、もっと現代という時代を信頼しておいた方が勘違いの度合いも控え目な程度に落ち着くような気もするわけだ。
3月11日「間違いの原因」
取り立ててそれが不思議な現象だとも思えないが、自分のやっていることも含めて世界的にやっていることが間違っているような気がするのだが、それが確かだと思うことでさえも間違っていそうで、何がどう間違っているのかが自分でも今ひとつわかっていないらしく、それでも薄々は気づいていることもありそうなのだが、今はわかっていないふりを装っておいた方が無難に感じられるから、あえて間違ったままにしておこうと思っているわけでもないのだが、成り行き的にはそれで構わないようで、何か功利的な思惑からやっていることが短期的には間違っていても、それで構わないようなことかも知れず、ここで間違っておかないと、この先のどこかで取り返しのつかない大きな間違いを犯してしまうとも思えないが、果たしてそれが間違いなのかどうかも、この先の成り行きが不透明だから何とも言えないとしたら、それを間違っていると捉えるのも間違っていることになりかねないから、それでも構わないような気がして、間違っていることの範囲内では、今やっていることが間違っているのではないかと疑念を抱くことさえ間違っているような気もするわけで、そうなると捉えどころがなさそうで、たとえ間違っているような気がするとしても、いちいちそれを気にしていたら何もできなくなってしまうから、気にしない方が身のためなのかも知れず、しかもいちいち気にしていたら何もできなくなってしまうとも限らず、なるべくなら鈍感力を発揮しながら今まで通りの振る舞いでも良さそうなのだが、何に対して鈍感になればいいのかもよくわからないから、自分の感覚をわざと鈍感にできるわけでもないような気がして、意識して自分の感覚を制御できるはずもないと思うしかなく、そうなると感覚が間違っているとも言えないのかも知れず、では感覚でなければ何が間違っているのかと問うなら、考え方が間違っているなら話が早そうだが、そんなふうに問う気にもならないとしたら、実際にも何も問われていないような気もするのだから、少なくとも自分が問われているのではなく、何かメディアでは著名人の類いの姿勢や態度が絶えず問われていて、それを問う者たちがメディアを介して問うような制度となっていそうだが、もしかしたらそういう方面へと関心を誘導されてしまうとまずいのかも知れないし、しかもそれが間違っているのではなくまずいと思うなら、それの何がまずいのか理解しているのかというと、今ひとつそれも理解できていないような気もするわけだが、そんな気がする程度のことでいいかどうかもよくわからず、それがまずいとか間違っているとか思うこと自体も、何か間違っていそうで、逆にそういうメディア的な誘惑に誘導されるがままになっていた方がかえって考える手間が省けて自分にとっても社会にとっても都合がいいのかも知れないから、そういうところでは無理に事を荒立てて、メディアに自意識を支配されているとか危機感を抱くような成り行きに意識を持って行かない方が身のためなのかも知れず、ではそれに対して自然体でいられるかというと、それが何を以てどんな状態が自然体なのかも皆目見当がつかないし、自然体でいられるからといって間違っていないわけでもないような気もするから、たぶん間違っていること自体も自然体でいることの証しとなっていて、自然に間違ってしまうならそれでも構わないと思うしかなく、そういうのが自然の成り行きなのかも知れず、それが長い目で見れば正しいことでもそうならざるを得ないようなことでもないとしたら、何よりも正しいことをやるには自然の成り行きに逆らってでも正しさにこだわらなければならないのかも知れないから、そんなふうにして常に正しさにこだわってしまうと寿命を縮めることになりそうで、もちろんそうやってやっていることの正しさにこだわっている人にとっては、自らの命を削ってでもこだわっているのだろうから、それがその人の生き方だと思っておいても構わないだろうが、正しいことをやることが正しいとは限らないというこんがらがった成り行きに世界が支配されていると捉えるのも間違っていそうだが、そんなふうに込み入らせて物事を考えないで、もっと単純に事の善悪に従って行動すれば良さそうだが、その事の善悪というのが信用できないわけで、どう考えても正しいことを主張しているように思われるバーニー・サンダースの意見に同調できない立場や境遇に陥っている人が世界にはいくらでもいるから、多くの人々の行動や言動が間違っているように感じられるのだが、果たしてそんな単純な認識で構わないのかというと、その人の立場や境遇によってはそう思っていても構わないはずだが、それも思うか思わないかではなく、自身の行動や言動に結びつかないと、ただの傍観者で何もやっていないし何も言っていないことになりかねないから、こうして適当にいい加減に述べているのだろうが、述べてみたからといって直接に効果を上げたり成果に結びつくとも思えない限りで、何を述べてみても空振りに終わってしまいそうだが、しかも今はそれで構わないのかも知れないから、今でなければ未来永劫無意味でも構わないようなことかも知れず、そうなると何か述べていること自体が間違っているような気もするわけだが、それもそうならざるを得ないような気がするとしても、そこで何とか踏みとどまって、かろうじて何かしら言説を構成せずにはいられないわけだから、何か持続力が備わっていて、しかもそんな慣性の法則に従うような持続力に信頼を寄せてはまずいのかも知れず、だから忘れた頃に不意にやってくる何かの誘惑に従っておくことも肝要なのかも知れないから、それが何なのかと考えてもわからないし、考えないようにしておいた方が身のためだと思うわけでもないのだが、今がまさにその時だと感じているなら、そういう成り行きに従っておいても構わないはずだが、しかし間違いの理由も原因もわからないままそうなってしまっても構わないとは思えないだけに、少しは疑念を抱き続けることも肝心なのかも知れないから、もちろんそうすることの理由も根拠も示せないのだから、当てにならないことなのだが、もっともらしく納得できて信じられる理由や根拠がないと何も述べられないわけでもないから、そんなのも考えようによっては無視してしまうのだろうし、それを無視していられるのだから、少なくとも今は死ぬか生きるかの戦争状態の地域からは遠く離れて暮らしていることは確からしく、だからバーニー・サンダースによる批判の対象を一緒になって批判するとかいう行為から生じるリアリティからも遠く離れていると勝手に思っておくのも間違いには違いないのだが、何かそうではないと感じてしまうこと自体も間違いなのかも知れないし、しかも間違っていても構わないような状況の中でもこうして適当なことをいい加減に述べているのだから、これでいいはずがないのだが、こうならざるを得ないような成り行きに従わされていると状況を捉えておくしかないのかも知れない。
3月10日「無理なことを主張する者たち」
単純にやっていることが合理的かそうでないかがそこでの良い悪いの判断とはならないし、文句があるなら気に入らないことをやっていて、そうなるのが自然に感じられる成り行きに逆らっていても、だから反発を招いて反感を買ってしまうと考えてみても、そうなることも自然の成り行きなのだから、周囲からの反発を招かないように反感を買わないように配慮する気がないなら、威張り腐ったことをやっているように感じられるだろうから、それに対する当然の反応として反発や反感が返ってくるのだろうから、現状でそんなことが世界中で行われていると見ておけばよく、そうなることを承知でやらざるを得ないのだから、無理なことがわかってやっていることではあるのだろうが、それと同時に無理ではないことも行われているから、それが反発や反感を招かないようなことではあるのだとしても、では反発や反感を招かないようなことばかりやっていればいいのかというと、結果的にはそうはならないわけで、そこに対立関係や敵対関係があれば、対立していたり敵対している双方に都合が良いことなんてそうはないように思われるし、どちらか一方にとって都合の良いことであっても、もう一方には都合の悪いことになってしまうから、そこで何かやればどちらか一方からそれに対する反発や反感が返ってくると見ておかないとならないようなことしかできない場合も想定できるだろうから、そんな情勢の中でごり押し気味に強引なことをやろうとすれば、少なからず文句が出てくるのは想定済みでもやらなければならないことがありそうで、そんなことが世界中で行われていると認識できるが、だからなるべくなら文句を言われないように工夫を凝らさなければならないと考えられるにしても、それがごまかしやまやかしを伴っていれば、人を欺くようなことが行われて、単純に嘘をつくにしても、なるべくばれないような嘘をつきたいところだが、嘘がばればれなのにやってしまうようなことになってくれば、権力を振るって文句を言わせないようにしてやることにもなってきそうだが、そうでなくても何かちょっとしたことでも他人に文句を言いたくて他人を攻撃したい人も世界中にいくらでもいそうではあるのだが、それらの程度にも深刻度にも違いがあるだろうから、やっていることの程度や深刻度に応じて良し悪しを判断してみたところで、人によって立場によっても度合いが違ってくれば、何かしっくりこないようなことになってしまいそうだが、果たして何が良くて何が悪いかが人によってそれほど違いがあるのかというと、それも時と場合によって違いがあった方が都合が良いなら、あるいは違いがない方が都合が良いなら、それぞれに応じて違いがあるように見せかけたり違いがないように見せかけたり、そう思わせたり感じられたりするように工夫を凝らすことになるのだろうが、そういう意味でもごまかしやまやかしの手法として、ものは言いようとなってくるのだとしても、そんなふうにそれについての言説に工夫を凝らしているように感じられるなら、言葉に騙されていると悪いように受け取ってみても構わないが、騙すつもりがなく述べていることを信じさせようとしていると受け取っておくなら、たとえそれに関する統計データによる裏付けも示されたところで、都合の悪いデータはあえて示さないような配慮があるのではないかと疑ってみても、そうでなくても述べていることが一方的で一面的な方面に偏っている印象を受けるなら、なるほどそういうことなのかと推測したくなってしまうから、そんなばればれの嘘をついている方が正しいことになってしまうと不条理感も高まって、それにしてもそうやって愚かで浅はかな大衆を大勢味方につけているかのように振る舞うことが有利なのか不利なのかよくわからないのだが、それも時と場合によって有利になったり不利になったりどちらでもなかったするのだろうが、どんな場合に有利になったり不利になったりするのかも、その時の運次第というわけでもないのだろうが、何かその場その時の時流に乗って有利になったり時流に乗り損なって不利になったりする場合もありそうだから、そんな時にここぞとばかりに攻撃を仕掛けるとかありそうで、そんな仕掛けに愚かで浅はかな大衆が乗っかってくるのかと想像してみるのだが、果たして一般大衆が愚かで浅はかなのかというと、必ずしもそうとも言えないような気もするから、そんな大衆を煽動して攻撃を仕掛ける側でも、何か大衆の動向を見誤っている可能性もありそうで、いつまでも愚かで浅はかな大衆という前提を信じるのも危険なのかも知れず、時にはそんな大衆に裏切られることもありそうな気もしていて、そもそも大衆が何も知らないわけではなく、今やインターネットによって知り過ぎるぐらいにその辺の事情や経緯を知っているからもはや無知な大衆ではないはずだが、それでも知っているのがデマや嘘ばかりなら愚かで浅はかだと言えそうだが、デマを煽って嘘を撒き散らしているのもネット空間なのだから、真理や真実の何十倍も何百倍も何千倍も何万倍もデマや嘘が流通していれば、そんなネット情報を信じるはずもないと思いたいが、中にはわざと信じていて、功利的な観点からデマや嘘を信じて行動した方が得なのではないかと思いたくなるとしたら、それをデマや嘘だと知りながらもそんなデマを煽って嘘を撒き散らすことが自分の利益になると信じていることにもなりそうだが、他人を騙して利益を得ようとするのは詐欺師の常套手段だと思うが、他人を騙す前に自分で自分に暗示をかけてデマや嘘を真理や真実だと思い込んでしまえば良心の呵責も感じないだろうから、そうやって何の疑念も抱かずに一方的かつ一途に同じ嘘を延々と繰り返し主張している人がいるなら、宗教的な信仰の徒だと理解しておいても構わないはずだが、しかもそんな主張が一方ではもっともらしくも説得力のありそうな批判や非難にさらされていれば、なおさらそういうことだと思うしかないが、それが本当に功利的かつ戦略的な損得勘定からそんなことが行われているのかというと、やっている者たちがそんなふうに思っているわけではなく、結局はそういうことをやるのが正義だと思いたいわけで、俺たちは正義の味方なのだとあからさまに口に出して主張するわけでもないだろうが、それが無理なことであればあるほど強引にやらなければならないほど、そんなことをやるのが正義なのだと信じ込まないとできないだろうし、しかもそういうことをやるに当たって少しでももっともらしい理屈や論理や理論があれば、そういう理屈や論理や理論の類いが正しいことをどうだとばかりに威張って言い放つわけで、それを真に受けるのが無知で愚かで浅はかな大衆だと感じられるようなら、そういうのがポピュリズムの類いだと思ってしまうのだが、果たして本当にそうなのかと疑念を抱くなら、では他にそういう成り行きをどう受け止めればいいのかといっても、もしかしたらそういうことをやらないとそれが政治的な主張として成り立たないのではないかと危惧したくなるのだが、では他にやり方があるのかというと、それもそういうことをやっている人や勢力の社会的な立場や境遇の有利不利によっても違いが生じてくるのではないか。
3月9日「わかっていないこと」
現状の世界情勢に関してわかっていることはいくらでもありそうだが、ではわかっていないことは何なのかというと、わかっていないのだからわかるはずもないことかも知れないが、わかるはずのないことをあえて述べなければならない理由などあるはずもなく、理由がないと思うこと自体がわかっていない証拠となるとも思っていないが、何かプーチンにもトランプにも習近平にもわかっていないことがあるらしく、それをバーニー・サンダースがわかっているとも思えないのだが、実際に彼らを批判していて、しかもそれがわかりやすい批判内容になっている限りで、バーニー・サンダースがトランプとプーチンを批判する理由もわかりきっているように思われるのだが、ではバーニー・サンダースがわかっていないことが何なのかというと、そんなのも彼に直接訊いてみてもわかるわけでもないようなことなのかも知れないが、彼のわかりやすいトランプ批判を聞いても彼の批判に賛同できない人がアメリカのみならず世界中にいくらでもいることは想像に難くないわけで、それを彼がわかっているのかというと、党派的に彼が左翼だから、もうそれだけで彼の批判には耳を傾けないとしたら、そういうこと以外でもわかっていないことがあると想像したくなってしまうわけで、しかもそれが戦略的な見地からあえて彼のわかりやすいトランプ批判をスルーできるなら、そんなことをやってしまう人たちが抱えている事情やそうなってしまう経緯がバーニー・サンダースにはわかっていないはずもないことかというと、それがわかっていないとしたら、その延長上で日本の社民党の福島党首にも共産党の田村委員長にもわかっていないのかというと、それも何ともいえないことかも知れないが、では誰がそれをわかっているのかといえば、少なくともバーニー・サンダーズのわかりやすいトランプ批判をスルーできる人たちにはわかっていそうだが、ではそれが何なのかというと、第二のルーズベルト的な存在が今後アメリカの民主党から出てくるような予感がするわけでもないが、そのお膳立てをせっせと自覚することなくやっているのがトランプだと言えるわけでもなく、今後そんなふうに事態が進んで行けば誰もがわかりやすい話の結末に納得できるかも知れないが、少なくともルーズベルトの前任者のフーヴァー大統領はトランプとは真逆の人道主義者だったはずで、そういうところがわかりにくく捉え所がなくこんがらがった事態の様相を呈しているようにも思われて、すんなりとここから二度目の世界大恐慌へと事態が進んで行くわけでもないような気がするのだが、そんな深刻な事態へと世界情勢が至るとも思えないから、妙に安心していると、思いがけずとんでもないことが起こって、ああやっぱりと思ってしまうかどうかも今後の成り行き次第だが、もうすでにかなりの段階まで事態が進展していて、あともうひと押しで世界経済が奈落の底へと真っ逆さまに落ちて行くのだとしたら、是非そうなったところに傍観者として立ち会ってみたいが、もちろんそうなった際には無傷でいられるはずもないし、ある程度の被害や損害は覚悟しておかないとならないだろうが、要するに危機的で深刻な事態に至らないと突拍子もないことはやれないわけで、やれない以前にそんなことを言い放っている時点で、そうなることを期待したり望んでいると思われても仕方のないことだが、わかっていないことがそういうことではないとすれば、では何がわかっていないのかといっても、やはりわかっていないのだからそれを述べられるはずもなく、バーニー・サンダースも述べていないことの中にわかっていないことがあるらしいと見当をつけてみたところで、そんなことがわかるなら誰も苦労はしないだろうが、実際に誰が突拍子もないことをやっているのかといえば、普通に考えるならトランプがやっていて、イーロン・マスクもこれまでには考えられなかったことを強引にやっているはずだが、それに対して彼らのせいで遠からずアメリカが衰退すると予言する人たちがどういう傾向なのかといえば、もちろんバーニー・サンダースと同じようにわかりやすいことを言い放つ人々なのだから、それが的外れなことを言っているわけではなく、どちらかというと的を射たことを言っているつもりになれるわけで、もちろんバーニー・サンダースのトランプ批判も的を射ていて、もっともらしい内容なのだが、そんな正常な神経の持ち主なら誰もがもっともらしいと思う批判に反論するような人がいるとしたら、そんな人たちはいわゆる陰謀論者だと思われてしまうわけで、屁理屈で理論武装する陰謀論者がトランプの支持者だと言いたくなってしまうのだが、そうじゃないとしたら何なのかというと、別にトランプを支持しているわけではなく、しかもイーロン・マスクがあと一年も持たずにトランプと喧嘩別れになってしまっても、それでも構わないとも思っていて、たぶん彼らがあんなことをやってしまうからわかってくることがあるのではないかと期待しているというと、何か他力本願みたいで心苦しいのだが、なぜそう思うのかというと、バーニー・サンダースのような良識人がアメリカの政治の主導権を握るようなことは絶対に起こらないと断言したくなると共に、もちろん日本でもそんなことは起こりそうもないと思うのだが、それはオバマが大統領になった際の演説を聞いてそう思ったわけだが、何かリベラルな良識人が大統領になったのかと一瞬そう思ったのが全くの勘違いであることを思い知らされたという感じなのだが、なんだこいつガチガチの国家主義者で国粋主義者じゃないかと驚いて、次いでそういうキャラクターを意識して演じているのかとも思ったわけだが、それ以降の在任期間の八年間で目立った成果は何も上げられずに大統領職を退いてから、今度はリベラルな良識人を演じているように見えてしまうのだから、なんだこいつらは信用できないと思ったのだが、そういう経験からバーニー・サンダースが何かリベラルな良識人のようなトランプ批判をやっているのをユーチューブで見かけた際にも、もしかしてこいつはこういう立場だからこういうことが言えるのではないかと疑念を抱いてしまうのだが、その一方でイーロン・マスクのやっていることが世界中の左翼リベラルから批判され非難されるようなことだとしても、何かオバマやバーニー・サンダースやそれに近い人々のもっともらしくも的を射たトランプ批判などより段違いに効果を上げているように感じられて、しかもそれがイーロンの意図しないところで効果を上げていて、そう思うと笑ってしまって、何だかやらかしているのだが、それが誰もわかっていないような効果をもたらしていると想像してみるのだが、もちろん百%勘違いだと確信しながらもそう思ってしまうわけで、そういう意味ではやはり今まさに現在進行形で世界を救っているのはイーロン・マスクなのではないかと嘘をつきたくなってしまうわけだが、こんなことをここで述べてみたところで全く説得力がないし、それも未来永劫説得力を持ち得ないだろうが、それとは違った脈絡からは日本では山本太郎の政治的な空振り具合にも注目しているわけだ。
3月8日「とりとめのない人権感覚」
とっくに気分は嫌になっているのに、毎度のことのように不条理に直面している気になっているが、不条理の程度にもピンからキリまであるから、どうということはなければ無視してスルーしておけば良さそうで、それでも何か考えさせられるものがあるとも思えないし、そんなどうでもいいような不条理ならあえて言及するまでもないことだが、そもそも何が不条理でもないと思うまでもなく、何か人の傾向がおかしな傾向に凝り固まっているのがわかってしまうと、そんな人にどう接すればいいのかわからず困惑してしまうが、そんな人と直接対峙しているわけでもなければ、知らんフリを決め込んでおけば良さそうなのだが、ユーチューブの動画を見る度にその発言が痛々しく目立ってしまうのがれいわの高井幹事長だが、有能だから目立ってしまうのだから、それを否定的に見てしまうのも不公平なのだとしても、その有能さというのが決して好意的には見られない有能さであることが、逆説的に致命的な欠陥であるかのように感じてしまって、ある意味であんな人だから重宝されると推測してしまうが、あんな人になろうとしても自分のような凡人には絶対になれないとは思うが、なりたくもないし、あんなふうになっていないから今の自分がありそうなのだが、ああならないと務まらない役割があること自体が不条理な感じもしないではないが、ああいう役目を平然と請け負っていること自体が、自分には突き抜けられない方面へと突き抜けているからああなってしまうのだろうから、ああはならずに済んでいる自分の方が幸運なのかも知れず、幸運という言い方自体もちょっとおかしいが、人としておかしくならないとあんなふうにはなれないと感じてしまうと、何か気の毒に思われてしまい、他にも立憲民主党を目の敵にしているれいわ系ユーチューバーの人もいて、なるほどこういう人はこういう感じでいいのかと思ってしまって、変に根性がねじ曲がっているようには見えないし、逆に仲間内では誠実さに満ち溢れて信頼されていそうで、こういう人たちの献身的な尽力に支えられて今のれいわがあるんだと感心してしまうのだが、こんなことを皮肉混じりに述べている自分も四千円を払ってれいわオーナーズになっているのだが、直接の活動に加わっているわけでもなく、定期的にれいわオーナーズ宛に送られてくるメールの類いもあまり読んでいないが、そんなやる気のない自分もN国は論外だとしても、国民民主や維新などをどう見ているのかと問われるわけでもないが、日本国民の多数派を代表するような層という存在を想定できるかどうかも怪しいところだが、自民党以外で支持するとしたらそれらの層に属するサイレントマジョリティーの類いの人たちが暗黙のうちに次善の選択肢として想定に入れているのが、国民民主や維新なのではないかと危惧しているというと、それが危惧するようなことなのかと疑念を覚えるかも知れないが、危惧するまでもなくそれらの人たちにとっては安全牌なのかも知れないし、何かの際のサーキットブレーカーとして国民民主や維新が機能していて、衆議院で少数与党となっている状態で政府の予算案を維新が賛成に回ってくれたから無事国会を通過したことになるなら、それもそういうことだと思うしかないが、その際にはたとえ維新の前原議員がコウモリのような不快な印象を持たれる役割を担っていても、当人に対してお前には良心のかけらもないのかと問いただしたくなるようなことではないのかも知れず、維新の組織的な事情でそうならざるを得ないのだろうから、裏切り者のような嫌な感じがするのだが、国民民主や維新の議員のメンタリティがそのまま日本の多数派の人々のメンタリティだと思うのも、何か情けない感じがしてしまうのだが、それをメンタリティで表現するようなことではないとしたら、それよりも優先せざるを得ない事情や経緯があって、例えば兵庫県議会でサイコパス知事の味方となって暗躍していた維新の県議たちも、れいわの高井幹事長とは別の意味で組織の部品的な人材であって、人が三人死んでも良心の呵責など微塵も感じられない平然とした態度でいられて、そういう意味では時と場合によっては人権意識も人道主義なども絶対的な価値などではないことを思い知らされるのだが、誰もが機械の部品のような人材になりたいわけではないとは思いたいが、あれらの人々を機械の部品だと表現するのも、それを当人たちが耳にしたら怒るかもかも知れないし、機械の部品でなくても怒りもせずに無視して相手にしないでスルーするだけかも知れないが、機械の部品に向かって挑発的な言葉を投げかけるのもおかしいし、お前らは人の心の欠如した機械の部品なんだと言い放っても意味のないことになってしまうから、そう思ってしまうのも不条理には違いないわけだが、何を言われても利用価値のない人間には何の反応も示さないのも、それも人の社会的な性質だと見なしても、何となくそんな感じがしないでもなく、そういう意味では人と機械の間にどんな区別もつけられないし、ましてや機械ですらない単なる部品でしかないと他人を貶めること自体が、単なる負け犬の遠吠えみたいな感じになってしまうから自己嫌悪を覚えるし、自分が何に負けているのかといっても、たぶんひたすら何かに負け続けていそうなのだが、何かが何なのかもこれといって思い浮かぶわけでもないのだから、たぶん嘘をついていることになりそうだが、しかもそんな否定的な言葉をいくら費やしてもびくともしない何かが人を支配していることは確からしく、それを支配と表現するようなことでもないのかも知れないが、人の道に外れた行為を平然とやってしまえる感覚に支配されていると表現するしかないし、時と場合によっては自分もそんな感じになってしまうかも知れないから、あまりN国の立花氏などを悪者扱いする気にもなれないし、そうでなくても向こうから悪者扱いしてほしいからわざと悪者のように振る舞っていそうだが、ああいうこれ見よがしなキャラクターを演じている人をこれ見よがしに悪く言っても、挑発に乗っている感じがして向こうの思うつぼなのではないかと疑念を覚えるから、相手にしないに越したことはなく、こちらも相手にされていないだろうから何でもないことだが、そうであっても人には生まれながらに人権などなく、憲法にその種の内容が記されているからそう思うしかないし、そうであるなら憲法なしでは人権などあり得ないのかというと、そういうわけでもなく、ただ単に利用価値のありそうな人間が社会の中で生かされているだけなのではないかと思われるわけで、だから人には利用価値が感じられる限りで人権も保障されていそうで、それを老人で後先短いから利用価値がないと思うなら、そう思う人にとっては老人に人権などなく、さっさと死んでほしいと思い込んでしまうかも知れないが、それも本当はそんな単純な論理では世の中が回っていないことを何かの機会に思い知るに至るなら、本当にそんなことを思い込んでいる者など誰もいないことも思い知るに至るかも知れないし、時と場合によって他人の人権よりも優先しなければならないことが生じてくるから、否応なく何かの方便としてそんな類いの論理に従っているふりを装ってしまうのではないのか。
3月7日「パラレルな関係」
どうもこれが一時的な変動なのかも知れないが、世界がひどい方向へと歩み出している最中で何をどう述べてみてもしっくりこないような気がして、今さらアリバイ工作のようにしてこれから主導権を握りそうな勢力を批判しておくのも卑怯な感じがしてしまうからやめておいた方が良さそうだが、トランプの思惑通りには事が運びそうもないこともここにきてはっきりしてきたような気もするわけで、そんなことは事前にある程度は予想できたわけだが、その一方で日本ではポピュリズム勢力が政治的な主導権を握りそうな勢いなのだろうから、大正の米騒動と令和の米騒動をパラレルに考えれば、ここから暗い時代へと突き進んで行きそうな気配もするのだが、二つの米騒動の間に平成の米騒動もあったらしいが、それは冷夏が起因する気候的な変動によってそうなったのだから、ちょっと傾向が異なるのかも知れず、バブル崩壊から間もない時期に冷夏で米が不作となって平成の米騒動が起こったらしいのだが、自分にとっては同時代的な直接の経験であったにもかかわらず、今となってはほとんど印象に残っておらず、忘れてしまっているわけだが、しかも今まさに令和の米騒動も直接経験している最中なのに、米の価格が異常に値上がりしている最中なのに、大して痛手を被っていないのだが、大正の米騒動の際に暴動を起こして軍隊に鎮圧された当事者であれば、その大変さや深刻さを思い知るに至ったのだろうが、今でも農協による農家の統制や搾取が蔓延している中では、農協の支配から逃れないと儲からない仕組みなのかも知れないが、中には企業経営のようにして成功している米生産者も少しはいるのかも知れないが、誰もがそんなやり方でうまく行くわけでもないだろうから、それ以前に農業で金儲けするような雰囲気でもないのかも知れず、そうなると政府が農業公社でも作って個人や企業の金儲けとは異なる公共の利益を優先した農業でもやるしかないのかも知れないが、そうなってしまうとコストがかかって非効率なやり方が蔓延してしまって失敗する可能性も高くなりそうで、どちらにしてもうまく行くのは難しそうだが、それに対するポピュリズム勢力の宣伝文句は当然のことながら、米騒動の責任を政府に転嫁するわけで、政府が悪いから政府の対応が悪いからこんなことが起こるんだと批判すれば、そんな勢力の支持者たちも、そうだそうだと囃し立てるのだろうが、何か悪いことが起これば政府が悪いからこうなるんだと批判していれば、それで構わないようなことになってしまいそうだが、それで済むなら都合が良さそうだが、国民主権なのだから回り回って国民が悪いからこんな政府になっているということになってしまうと都合が悪そうで、そこまで考えずに政府が悪いからという段階で思考を停止しておくのが国民にとっては都合が良いのだろうが、そういうことも含めて大正の米騒動は悲劇に至ったが令和の米騒動は茶番劇に至りそうだと毎度のお馴染みのマルクスの格言?でお茶を濁しておけば良さそうだが、それでは何もわかった気がしないわけで、そんなことではないと考えるなら現状をどう捉えたら納得できるわけでもなく、納得できないから絶えず疑念を覚えるわけだが、何の根拠もないのに一度目は悲劇に終わって二度目は茶番劇に終わると言い放ってみてもそれがどうしたと問われると返答に詰まってしまいそうで、一度目の経験が二度目の経験に活かされるからそうなると思ってみたところで、同じ人間が二度の出来事を経験できるとも限らず、二つの出来事には人の一生を超えた隔たりがあるなら、社会が持続しているから世代を超えて経験が受け継がれると考えれば少しは納得できるかも知れないが、そんな経験が世代から世代へと受け継がれたところでそれを個人が意識できるわけでもないだろうから、集団的な無意識の領域で経験が積み重なるとしか言えないようなことかも知れず、そういうことの延長上で考えるなら、ファシズムがフェイクファシズムへと今の時代では変貌を遂げているように、全てが薄められた善意の共有レベルで悲劇が悲劇として繰り返されずに、絶えず悲劇から逸脱しておかしな紆余曲折を伴って悲劇とはならないような配慮が根回しのようにして悲劇を別の何かに変えてしまうわけで、そういう意味ではトランプがやっていることも悲劇にはならずに茶番劇になるように仕向けられていそうなのだが、何によってそう仕向けられているのかといっても、取り立てて成り行きを操っている黒幕のような存在を特定できるわけでもなく、イーロン・マスクがトランプを操っているわけでもなく、イーロン・マスクでさえも操られている当事者になってしまいそうだが、それに対して日本のポピュリズム勢力も中途半端に攻撃目標を財務省に定めてみみっちいことをやっているらしいが、それがありもしない仮想の敵のようにも思われて、何だかそれも悲劇にならずに茶番劇で済むような配慮なのかも知れず、本気になって財務省解体デモなどに加わっている者たちには失礼なのだが、またタバコの吸い過ぎで癌に罹って亡くなった経済アナリストに対しても、その人を馬鹿にする気にも批判する気にもなれないのだが、何かそれも時代状況的にはそれで構わないようなことであるのに、そんなことをやっている人々が生じさせている渦の中に入るのは避けたいし、自然とそこから距離を取りたくなってしまって、そうかといって山本太郎が主導する消費税の廃止や減税を求めるデモもどきのパフォーマンスからも遠ざかりたくなってしまうのだから、そんなやり方を批判したいわけでも馬鹿にしたいわけでもないのだが、何だかそれはそれとしてそういうことであって、ではどういうことなのかと問われるとそれにも返答に窮してしまうわけで、あんなことをやっている人たちもいるんだ程度の認識で済ませたいわけで、しかもあんなことをやっているんだ程度の人たちが一時的にではあっても社会の主導権を握るようなことにでもなればなったで、それでも構わないとも思いたいわけで、トランプだってイーロン・マスクだってそれなりに主導権を握って政治に取り組んでいるのだから、日本のポピュリストたちも政治的な主導権を握ってやりたいことをやってみれば良さそうに思われるし、やったところで茶番劇にしかならないとも思えないが、やってみただけでも少しは気分が高揚するだろうから、それが現代的な民主主義の在り方だと事態を好意的に捉えておけば、納得できないまでも仕方のない程度のこととして済ませられるなら、それでは済まないならどうなるともどうすればいいとも思えないし、すでに世界的にはどうにもならない事態に陥っているわけだから、それで構わないと思うしかないのだが、歴史を振り返れば十九世紀のナポレオン三世の時代から民主政治の行き着く先には茶番劇しか待ち受けていないことがわかってしまったわけでもないはずだが、トランプ演説から何がわかるとも思えないのだが、ああいう人はあれで構わないような成り行きにとらわれている一方で、ああいう人を生み出す社会状況というのもあるから、それなりにああなる必然性を生じさせているのではないかと思ってみたところで、今ひとつしっくりこないし納得できるわけでもないわけだ。
3月6日「挑発には乗れない体質」
意識が人々の表面的な行動や言動から遠く離れているわけではないが、それを表面的だと見なす根拠や証拠をどう説明できるわけでもないし、また表面的な行動や言動の他にどんな行動や言動を示せるわけでもないとしたら、述べていることに説得力がなくなってしまいそうだが、ポピュリストの戦略として思い浮かぶのが、何か人を挑発するような言葉をこれ見よがしに投げかけて、その言葉に多くの人々が反応して罵声を発するように仕向けてくるわけだから、そんな見え透いた挑発に乗って罵詈雑言の類いを批判や反論として返してしまっては向こうの思うつぼだから、そんなことをやってしまうのをかろうじて思いとどまってみたところで、何か嫌な感じがして不快感を溜め込むばかりで一向に埒が明かないのもわかりきったことだが、そういうループには入らないように注意しなければならないと思っても、また彼らが意図してそんな馬鹿げたやり方を仕掛けてくるわけではないと思ってみたところで、その真意など知るよしもなく、彼らも社会の何らかの傾向によって操られて否応なくそうなってしまうのだから、彼らを非難してみても仕方がないとあきらめるわけにも呆れるわけにも行かないが、では何なのかというと、世の中の風潮や傾向に煽られて出てくる人の表面的な行動や言動の他にも、理性や悟性や知性に裏付けられた行動や言動もあるにはあるだろうが、果たしてそれらの区別がつくのかと問うなら、言葉の意味に違いがあることは確かだが、そもそも理性や悟性や知性に裏付けられた行動や言動が何なのかがよくわからないわけで、しかもそればかりでは行動や言動も成り立たないと考えられるから、普通に考えるなら理性や悟性や知性にも限界や制約や程度の高低や強弱や大小や多少があるから、人によって持ち合わせている理性や悟性や知性にも違いがあると思っておけばいいのかも知れないが、それを学校教育などによってある程度のレベルに引き上げたいのかも知れないが、それも人によって成績が良かったり悪かったりするわけだから、何とも言えない程度で収まっている範囲内で民度が形成されて、そんな民度に合わせて人々を煽動する行動や言動も形作られてくると見ておくしかないわけだが、それに関して理性や悟性や知性に頼って思考する限りで信用してはならないのが、それをポピュリズムだと見なして一括りにしてしまうことの全てであって、その中でも明らかに違うことは区別して認識しておかなければならないとは思うのだが、例えばそれをフェイクファシズムだと見なして、トランプやイーロン・マスクや兵庫県知事やN国の立花氏やれいわや国民民主や維新などを一緒くたにできるかというと、それらを同一視したいならそれなりに似たような面もあるにはあるのだろうが、少なくともアメリカ政府の財政がこのままでは破綻しかねないから、イーロン・マスクが政府職員のリストラをやったり予算や官僚機構の無駄を削減して政府の効率化を推し進めていることは確かであり、それを批判する側が真正面から批判や非難を浴びせているのかというと、そうではないような感じになっていて、そのやり方が強引だからそれに反発したり反感を買っているわけで、それも強引にやらないとできないようなことだから批判や非難を浴びるのを承知でやっていることだとしても許されるわけでもないが、一方でれいわも国民民主や維新などと一括りにされるのも受け入れ難いことだろうが、支持者と一緒になって立憲民主党を攻撃して自民党政権の延命に手を貸していることは事実であるから、口先では政権交代を目指しているように装いながらも、裏では自民党と一心同体だと見なされても仕方のない状況なのもわかりきったことだが、だからといってそれがどうしたわけでもないところが、茶番だ茶番だと煽っている当事者が茶番劇の登場人物なのは昔からそうなのだから、ただのありふれた事の成り行きを辿っているだけで、彼らの煽り立てを真に受ける必要もないのだが、立憲民主党の政治家たちがそれに対してどう反応する必要もないのかも知れないし、反応したければしておいても構わないが、普通に政府の無駄な支出を指摘しつつも国民の暮らしに役立つような提案をして行くしかないだろうから、れいわなどの攻撃に屈する必要も可能性もなさそうな感じに見えるわけで、後は選挙の際に国民がそれをどう判断するかにかかってくるわけで、立憲民主よりも国民民主を政権の受け皿として選ぶなら、それでも構わないのかも知れないし、そうなったからといって103万円の壁がどうたらこうたらが実現したり全国各地の原発が再稼働するのかも知れないが、国民民主とれいわが煽っている共通の攻撃目標があるとしたら、それが財務省であることもわかりきっているだろうが、アメリカではイーロン・マスクとベッセント財務長官がアメリカ政府の財政健全化を目指しているのに対して、日本では財務省と日銀が一体となって日本政府の財政健全化と金融正常化を目指していて、金融正常化に関しては少なくとも金利がある状態にしないと銀行などの金融機関が資金の貸借によって利益を得られないわけだから、ゼロ金利では世の中にカネが回って行かないわけで、それも鶏が先か卵が先かのパラドックスに直面してしまうのだが、何によって世の中に流通する通貨供給量が増えるのかというところで、民間の金融機関としてはカネを貸して利益を得られないと貸せないし、景気が良くならないと借りた方でもカネを返せないし金利を払えないということにもなりかねないが、またその一方で不景気になってカネを返せなくなった企業が倒産しないと資本主義市場経済が活性化しないわけで、結局は政府が企業を助けてなるべく倒産させないようにしてしまうことが経済の活性化を阻害していることに気づいてこなかった三十数年間だったと思い知ったのか、まだ思い知っていない者の方が圧倒的多数なのかもよくわからないところだが、そういうことの延長上で考えるなら不必要にゼロ金利政策を長引かせてしまったから失われた三十数年をもたらしたことに、ようやく財務省も日銀も気づいたから、今まさに金融正常化に前のめりになって急いでいると解釈したくなってくるのだが、果たしてそんな解釈で正しいのか正しくないのかが今後わかってくるのかわからないままなのか、あるいはそんな解釈自体が大間違いなのかも、今のところはよくわかっていないのだが、少なくとも現状で財務省陰謀論を煽っている者たちは、まさに自民党政権から財務省へと日本衰退の責任を転嫁しながらも、その一方で立憲民主党が中心となって政権交代することも絶対に阻止しなければならないという使命感に燃えながら、れいわと国民民主が反目を装いながらも裏では連携して、結果的には自民党政権の延命に手を貸しているように見えてしまうわけだが、自民党政権が延命できなければ情勢的には国民民主が中心となる政権が誕生しそうだが、そうなれば大々的に全国の原発が再稼働して原発ムラも再復興しそうだが、それでれいわが納得するかというと、また立憲民主党辺りにそうなった責任を転嫁して自分たちの姿勢や活動の正しさや正当性を主張し続けるのではないか。
3月5日「前途有望なポピュリストたち」
毎度のことのようにポピュリストが騒ぎ立てる世の中になってしまって、それが何だというわけでもなく、果たして狂っているのはポピュリストだけなのかというと、狂っている者たちは自身が狂っているとは思っていないだろうから、狂っている者たちにとってはこれが当たり前なのかも知れないし、彼らにとっては世の中がおかしな状況になってしまったから騒ぎ立てているはずだが、ではそれらの狂人たちは前途有望なのかというと、ある意味ではそうなのかも知れず、彼らの時代が今まさに到来していると思っておいても差し支えないが、では自分も彼らと一緒になって発狂する必要があるのかというと、そんなことはできないと思うと共に、実際にも彼らの発狂状態を観ているに過ぎないと言ってしまうとちょっと違って、こうして彼らを利用して文章を構成しつつあるのだろうが、それだけでは物足りないからちょっと違う方面のことを述べようとして、それがうまく行かずに四苦八苦しながら暗中模索の日々を送っているらしいのだが、無理なことを主張しようとしているような気もしないではないから、結局はポピュリストの主張から大なり小なり無視できない影響を被りながらも、それもうまく消化できないから紆余曲折を繰り返しているわけで、それを述べさせないように制御しようとしているのがその種のポピュリストたちなのかも知れず、その代わりにポピュリストたちと一緒になって無理な主張をするように仕向けられているのかというと、ポピュリストの主張に同調させられてしまうとそうなってしまいそうだが、彼らをポピュリストと蔑んだり狂人だと貶めたりすること自体もまずいような気もするわけで、善良な一市民がそうなってしまうのかというとそうとも言えてしまうから、一方的に彼らを非難したくはないわけだが、最近でも左翼やリベラルな人たちも世界的にはポピュリズムに傾いているわけだから、それもトランプやイーロン・マスクの強引なやり方によって火がついたと捉えておいても差し支えないにしても、世界的にはといっても欧米の社会がそんな傾向になっているだけで、日本ではれいわがそれ以前からがんばっているわけだが、れいわの議員が国会で消費税廃止を訴えるのも半ば恒例行事のようになってきたから、本当に彼らの主張通りに消費税が廃止される流れになるのかと期待したいわけでもないが、立憲民主党のような財源の裏付けのある減税を主張した方が無難には感じられるものの、もちろん減税だけが目的ではなく社会そのものを人々が暮らしやすいように変えたいのだろうが、どうも前途有望に感じられるのは無理な主張を繰り返すポピュリストたちなのだから、これから無理なことが行われるのを期待せずにはいられないだろうし、実際にそんな感じに世の中の空気が変わりつつあるわけだから、そういう流れを作っているのも、強引なことをやっているトランプやイーロン・マスクの功績だと認めざるを得ないが、果たしてそんなことをやり続ければ世界が変わるかというと、やっているのはそれだけではないということであって、他にも様々な方面で世界を変えようとしている者たちが活動中だから、実際に世界が変わりつつあるわけだろうが、全てが変わるわけではないものの、世界をどんなふうに変えようとしているのかが問題となっているわけではないとしたら、変えようとしている者には変えたいことがあるのだろうが、それが変えたい者の思い通りに変わるわけではないのはわかりきったことであって、変えたい者たちも変えたくない者たちもいくらでもいるだろうから、それらの者たちが競合している限りで、誰の思い通りにも行かない状態がもたらされているはずだが、その中でも力の強弱があるだろうから、トランプやイーロン・マスクが力まかせに強引に変えようとする度に、それに対して抵抗勢力が阻止しようとして暗躍したり、あからさまに反対運動をやって強引な変革を阻止しようとするわけだが、現状では双方によるせめぎ合いの真っ最中なのだから、それなりに世界が動乱状態に陥っているはずだが、そういうことでしかないわけだから、それに対して一市民の立場から何をどうしたいわけでもそこへと直接介入したいわけでもできるわけでもなく、そうかといってただの傍観者というわけでもなく、なろうとして傍観者になれるわけでもないから、こうしてそれについて何かしら言及している最中なのだが、世界や社会の変革者気取りに誰もがなれるとも限らず、中には世界や社会の混乱に乗じて金儲けがしたい輩もいくらでもいるとしても、そんな志しが低い輩が結果的に世界や社会の変革者になってしまう事態がもたらされるとしたら、それが意図しない変革者の出現となるかというと、直接変革を目指さない方が結果的にはうまく行ってしまうというややこしくも面倒くさい成り行きがこれまでにもこれからもそうならざるを得ないような感じや傾向になってしまうと思いたいわけで、それが勝手な思い込みではないとしたら、過去にそんな事例があったかというと、短期的な損得勘定にとらわれながら多くの人々や企業などが資本主義市場経済の中で右往左往しているうちに結果的に世界や社会の変革がもたらされたと情勢を捉えるなら、果たしてそんな捉え方が妥当なのか、あるいは思いっきり間違っているのかも現時点では何とも言えないが、そういう意味では保護貿易によって力をつけて覇権国へとのし上がった国家が自由貿易を推進することによって自国の優位を盤石なものとすると共に、経済成長の恩恵に与って軍事力も増強させるから、それも結果的に軍事的な覇権も確立されるわけだが、アメリカがそうやって覇権国の地位を手に入れたのかというと、かつてのイギリスなら保護貿易によって国力をつけてきた経緯があったはずなのだが、アメリカにはこれといってそうなった経緯があったわけでもなく、もちろんそれ以外でも奴隷貿易によって国力を増強させた経緯もありそうだが、少なくとも今はそうではないから輸入品に高関税をかける保護貿易によって国力をつけようとしていると受け取られるだろうが、トランプがその種の国民国家の競合状態の幻想に取り憑かれていると理解したくなってしまうのだが、それが幻想なのかといっても、それも全てがそういうわけでもなく、トランプのやっていることも含めて部分的にそうなっている範囲内ではその種の幻想が機能することもあるのだろうが、それを真に受けるわけには行かない方面でも世界や社会が動いている最中でもあって、トランプがそこへ従来の価値観や国家観に基づいた直接の権力行使を仕掛けている最中なのだが、その全てが空振りに終わるわけではないものの、トランプでもどうにもできない面がありそうで、それはトランプがレームダックにでもなってから明らかになることかも知れないが、それも完全にそうなるわけでもなく、トランプの頭の中では終始やりたい放題やっているつもりになっている状態を保ちたいわけで、そんな心理状態を保ちながらも時期が来たらトランプにも退場してもらうことになりそうな気配を感じていると嘘をつきたくなってしまうわけだ。
3月4日「騒ぎの真相」
それを馬鹿げたことだと思うのもいつもの成り行きに沿ってそう思っているのだが、ではいつもの成り行きとはどんな成り行きなのかといえば、これまで通りの成り行きといっても何がどうなっているのかよくわからないが、何となくそんな感じがするだけで、この先のどこかの時点でこれまで通りの成り行きに変化の兆しが感じられたなら、そこが何かの転機となるかどうかも、そうなってみないことには何とも言えないにしても、それに気づかなければそのままそこを通り過ぎてしまう可能性もありそうで、そうなったからといってすぐに何がどうなるわけでもないのかも知れないが、どうにかなればさすがに気づくはずだが、それでも気づかないとしたら、人知れず何らかの事態が進行中なのかも知れないし、誰もが気づいている事態の進行に隠れて進行中の事態があるとしたら、そんな誰も気づいていない事態の進行に自分が気づいているわけでもなさそうで、それとは違ってメディアで騒がれていたり注目されている事態の進行には自分も含めて誰もが気づいているだろうし、多くの人がそんな事態に目を奪われているうちに、人知れず何かが進行中だとすれば、そんなことに気づく必要さえなさそうに思われるのだが、果たしてそれが深刻な事態なのかというと、深刻に感じられるようなら多くの人がそれに気づくだろうし、世間も注目するだろうから、メディアでも取り上げられて場合によっては大騒ぎとなるだろうが、それも順序としてはメディアが騒ぐから世間で騒がれているように感じられるだけだろうが、本当にそうなのかというと、なぜかそんな騒ぎには興味がないと言ったら嘘になりそうだが、向こうからわざと騒ぎを起こすようなことをされると気持ちも反発してしまって、あえてそれを無視したくなるわけでもないのだが、何か騒ぎを起こそうとする人の思惑を想像して、その裏をかくようなことができないかと考えてしまうわけだが、だから世間の騒ぎを素直には受けとれないのかも知れず、絶えずその先を見越して行動を起こしたいと思うわけでもないのだが、そうやって気持ちが行動や言動よりも先走っている一方で、現状で進行中の事態の中で見逃している成り行きがあるのではないかと現状そのものを疑っているわけだが、それを見つけたり探し出して、それを使って他人を出し抜きたいわけでもないはずだが、他人とは違ったことを述べたいわけで、果たしてそんな願望が自身の優秀さや有能さを証明するのかといっても、もしかしたらその逆になってしまう可能性もなきにしもあらずだから、そういうところでもちょっと違うような気がしてしまうわけで、相変わらず何が違うのか謎なのだが、そのちょっと違う感覚が何を意味するわけでもなく、ただ単にそんなことにこだわっている自分が愚かな可能性も高そうで、何の根拠もないのにそう思ってしまうのだから、何かそれが勘ちがいのいい加減な誤解に過ぎないと思うなら今ひとつ信用できないわけだが、自分で自分を信用していないのだから自業自得であるはずもなく、そんなことよりは世間も世間があるように見せかけているマスメディアも信用できないのではないかと疑念を抱いている方が責任転嫁ができて気分が良さそうだが、果たしてそれが疑念なのかといっても、では疑念でなければ何なのかというと、勝手に疑念を抱いていると思い込んでいるだけで、それが思い込みに過ぎなければ疑念でも何でもないかも知れないが、そういうところも自分が何をどう思っているかなんてよくわからないのだが、何かを仕掛けているのだとしたら、いったい何を仕掛けているのかといえば、仕掛けているのは自分ではなく、トランプが関税をかけると周辺国に脅しをかけているわけだが、脅された国の方でも今さらどう対応すれば納得が行くわけでもないだろうから、不条理な事態に陥っていると思うしかないだろうが、全ての物事が流動的に推移していることに気づいていないわけでもなく、そんな考え方が根本から間違っているわけでもないだろうから、現代人の意識に根本的な間違いを吹き込んだのが国民国家という幻想的な概念であるはずもなく、未だにそれを信じている者たちが事態をこじれさせていると考えると、こじれさせている人や団体の方でもそんなことに気づいているわけでもないだろうから、それに関しては何がどうなっているわけでもなく、それも根本的なところで解決不可能だと思っておけばいいのかも知れないが、無理なことを仕掛けている方でも、そんな仕掛けによって自国が有利になると思って仕掛けているはずだが、結果的にはそうでもないと予想するアナリストの類いも世の中にはいくらでもいそうだが、予想してみてもどうでもいいことのように思われて、予想するだけ無意味なのではないかと思いたいわけで、先行きが不透明だから不安を打ち消すためにも予想せずにはいられないだろうし、予想するのが仕事であるなら予想せざるを得ないわけだが、だからといってそんな予想を誰に信じてもらえるかとなると、そんなのは予想する側の知ったことではなく、予想を受け止める側がそれを信じようと信じまいとどちらになったところで、信じる者が救われるわけでもないなら、救われようと思う者が予想を信じるわけでもないだろうから、救われたいから予想を信じるとか信じないとかではなくなるなら、そうではないところで客観的な視点や観点からの予想が求められているはずだが、その一方で信じる者を安心させたり喜ばせるような予想も求められていると穿った見方をするなら、予想する者のさじ加減でどうとでも言えるような予想に落ち着いてしまいそうで、そんな予想を信じて安心したいなら、あるいは不安感にとらわれたいなら、不安感にとらわれることを求めているわけでもないだろうが、そんな求めに応じた予想が必要になってきそうだが、果たしてそんな予想で構わないのかどうかというと、それも構うとか構わないとかではなく、現状の不条理を将来への楽観悲観的な予想では払拭できないと思っておいた方が良さそうで、それよりは不条理な現状のただ中にとどまっている現実を直視するしかないと思ってみても、襲ってくる不安感と共に心理的な負担が増すばかりだが、果たしてこれが不条理なのかと問う必要もなく、そうではないと思いたいわけでもないなら何なのかというと、それ以上に何か考えなければならないことなどあるわけでもないところが謎でもなく、現状でまかり通っている常識にとらわれない行動や言動が求められているわけでもなく、それどころか誰もが過去からの延長上で思考しながら行動していると考えておいた方が良さそうだが、それが過去のしがらみにとらわれた思考や行動や言動に違いないわけで、それが未来志向の思考や行動や言動を妨げているわけでもなく、取り立てて未来志向になることを意識する必要もなく、現状の中で覚える不条理感を解消しようとする必要もないなら、今まで通りに不安感や焦燥感にとらわれながら生きて行けばいいような気がしてしまい、実際にも今もそうなっているわけだ。
3月3日「批判者のご都合主義」
わかっていてもそうなってしまうのだから、そうなるのが必然的な成り行きには違いないはずだが、何がわかっているのかといえば、それがわからないでは話にならないが、たとえわからなくても構わないようなことであって、無理なことを主張しているのだから、表向きにはその主張の何が無理なのかがわかっていないということになりそうだが、逆に無理なことがわかっているのにそんなことを主張しているのだとしたら、無理を承知で無理なことを主張していると受け取るしかなく、何を主張するにしても主張者が不利になるようなことは意識してわざと言わないということでもあり、その代わりに批判する相手が不利になることだけは強調しすぎるくらいにしつこく言っておけば良いということだと受け取っておくしかなく、そうやってその種の批判者の化けの皮が剥がれそうになっている現状なのかも知れないが、そんな批判するのに都合が良いことだけ執拗に言い立てる批判者を信用しても構わないのかというと、彼らのご都合主義体質は信用できないと思うわけでもなく、そのまま彼らの言い分を信用しておけば良いということでもあって、それもこちらの都合が許す範囲内で信用しておけば良いのだろうが、こちらの都合が何なのかもわかっていないのに信用しているわけだから、それを信用と言えるかどうかも微妙なところだが、批判者のご都合主義を信用するような奴は信用できないと思ってしまう自分がその種の批判者のご都合主義をある程度は信用しているのだから、自らのご都合主義もある程度は信用している証拠なのかも知れないし、またれいわの大石議員が国会でやる炎上商法やN国の立花氏が街頭でやる炎上商法もある程度は信用しているわけで、その種のポピュリストが出現してしまう時代的な背景が何なのかもある程度はわかっているはずだが、それを説明できるかというと、何となくうまく説明できないような気がして、ポピュリストの批判の矛先がどこへと向かっているのかが、部分的に批判しやすい面だけ批判しているように感じられて、それがお笑い芸人のウケ狙いのような傾向を感じるから、大衆のウケ狙いとして財務省陰謀論を煽り立てるような成り行きとも合致していて、それを世界レベルで展開するならトランプやイーロン・マスクが格好の批判対象となってしまうわけだが、そうなるとポピュリストを批判する者たちも大衆からのウケを狙って格好の批判の標的となる者たちを批判するような成り行きに巻き込まれてしまって、その種の批判者もポピュリズムに感染しているだけなのではないかと疑ってしまうのだが、アメリカではイーロン・マスクが財政健全化をやろうとして強引に官僚機構のリストラを決行している一方で、日本の官僚機構を代表する財務省が推し進める財政健全化を阻もうとする者たちが積極財政を主張しているわけだから、では日本の財務省とアメリカのイーロン・マスクの両方を財政健全化という点で批判しているのかというとそうではなく、その辺を単純化することができないわけで、日本でも政府の官僚機構の弊害を正そうとするなら、普通に考えて行政改革を推し進めなければならないはずだが、それ以前に小泉政権の郵政民営化を批判しているわけだから、規制緩和の新自由主義には反対したいわけで、その延長上でアメリカで今まさに推し進められている規制緩和の新自由主義には反対するのかというと、外国のことはスルーしておいて、日本に関わってくる面では在日米軍関連で日本政府の対応を批判したいわけで、またイスラエルがパレスチナで行なっている戦争行為もそれを支援するアメリカと共に批判したいのだろうし、そうやって部分的に批判しやすいところだけ批判するしかないわけだが、何かそれが政府の官僚機構全体の改革を目指すのではなく財務省だけ批判するような奴らと利害が一致する部分では共闘したいような思惑を欺瞞だと批判するわけにも行かないところが、何となく微妙に抵抗感を覚えるわけだが、しかしそうなると経産省などの方面でも、防衛省などの方面でも、農水省などの方面でも、文科省などの方面でも、総務省などの方面でも、個別に批判したいところも、大衆的なウケ狙いを意識している自覚があるわけでもないだろうが、そうなってくるとN国党がNHKだけ標的にしているのとどこが違うのかと批判したくなってしまうのだが、それこそが財務省解体デモなんかと同じ発想のような感じがするわけだが、その一方では政府の無駄を削った分だけ予算を減らして減税するようなやり方を緊縮財政だと批判したり、規制緩和して経済活動を活発化するようなやり方を新自由主義だと批判するのだろうし、確かにどちらにしても弊害も出てくるから、それなりの調整が必要ではあるにしても、ポピュリストたちが批判しやすいところだけ批判しているのをどう受け止めなければならないかが、それなりに知性がないと物事の一面だけを批判者の都合に合わせて強調したり誇張したり歪曲したりねじ曲げたりしているところに気づきにくいかも知れず、もちろんそれに気づいたからといってそれに対して批判するようなことになってしまってはきりがないのだとしても、それもとりあえずそういうところを指摘した方がいいことは確かだろうから、そういうやり方には騙されるなと警鐘を鳴らす必要もあるのかないのかもよくわからないが、何となくおかしいところは指摘しておかないとならないような気がするわけで、それに気づくとどうしても指摘したくなって、SNSなどに書き込もうとしても、その途中で嫌になって破棄してしまうことも多いのだが、どうせ書き込んでも無視されるだけで、そもそも聞く耳を持たないような奴らがポピュリストとなって騒いでいるわけだから、嫌な感じがするにしても、黙っていればやりたい放題なのだから、何か反応しなければならないと思いつつも、たまには無視されるのを覚悟で反応してみることもあるのだが、当然のことのように無視されるだけで、結果的に嫌になってしまって、最近は反論やいちゃもんなどいっさい書き込まずに、いいね!とリポストで返しておくことが多いのだが、それで構わないような気がしてしまって、言いたい奴には言わせておけばいいようなことでもあるから、言っていることがおかしいと思ってもそのままスルーするしかなく、言っていることではなく書き込んでいるに過ぎないことだから、あちらも無駄に書き込んで、それにバカな奴らが引っかかってしまうだけだろうから、大したことではないと思っておくしかないわけだが、そうやってポピュリストやポピュリスト批判者たちに都合の良いことだけ言わせるだけ言わせておけば、それが自分にとっても都合の良いことなのかというと、ある程度はそうなのかも知れないし、彼らを反面教師的に扱っても構わないわけでもないのだが、それでも何か参考になることがあるらしく、そういう意味では彼らを利用してこうして文章を構成できるわけで、それがどうしたわけでもないのだが、たぶん大衆市民社会を代表する存在として彼らの動向に注目しておけばいい程度のことなのかも知れない。
3月2日「世界の未来像」
あまり説得力のなさそうな日本の安易な未来像を思い描いてみると、今後は日本もギリシャやスペインやイタリアやスイスなどのように観光業で少しは発展するかも知れないが、すでにそれなりに発展しているだろうから、今さらそんなことを言うまでもないことだが、ここ数年で都心に超高層ビルが次々に建っているのをユーチューブの動画などで観ると、必ずそこには世界的に有名な超高級ホテルが進出しているから、全てがそうではないとしても、そうなると観光するのが富裕層で観光客を接待するのが一般層になりそうだが、そんな構図にも限度がありそうで、世界中が観光地になるわけでもないだろうから、限られた地域が観光地化することもある一方で、もうすでに日本の観光地化も限界に達しているとしたら、どこが限界なのかも実際にそうなってみないことにはわからないし、部分的にそうなっている面もあるだろうが、ただ単に特殊な地域が観光地などではなく、世界全体が観光地でもあって、言っていることが矛盾してくるが、世界の大都市には観光地である部分もあって、歓楽街などがそうなっているにしても、これといって何もなくても、人が大勢集まっていればそんな人々が利用する娯楽施設も必要になってきて、その中でも富裕層が利用するのが高級ホテルなのだろうから、部分的にはそういうことだから、外国ならどこでも良いというわけでもないにしても、暇と金を持て余している人が外国旅行をするわけで、それが特に世界的な有名な観光地である必要もないということになりそうで、そういう面ではこれといって何をどうしなければならないわけでもないのかも知れず、その一方で産業の機械化や自動化によって農林水産業や工業や製造業などに携わる人口が少なくなってきているのもわかりきっているから、余った人員はサービス業に従事するしかないとしても、もちろんサービス業も機械化や自動化によって人手が要らなくなりつつあるなら、労働そのものの必要性も徐々に低下してくるかも知れないから、じゃあどうやって人々が収入を得るのかというと、直接の労働以外に何があるのかと疑念を抱くかも知れないが、少なくとも現状で行われていることの延長上で活動して行くしかなさそうで、実際にもそうなっているわけだろうが、そんなことを気にかける必要もなく、収入をもたらす産業に関わって何かしらの糧を得るしかないだろうから、時代状況に応じて収入を得るやり方を模索しなければならないわけだろうが、そういう方面ではそうだとしても、そこからこれといって特徴的な傾向が顕在化しているのかというと、資本主義市場経済の進展と共に富の不均衡が増大して行って、中間所得層が減って富裕層と貧困層への二極化が進展していると言えそうだが、それに関する最近の動向として考えられそうなのが、政治や行政面の制度改正などによって貧富の格差を是正することはできないような傾向になってきて、格差是正という社会正義を実現すべく直接そういうことをやるのではなく、そんなことを政治宣伝にして貧困層や不満を抱いている人々を味方につけようとする煽動に騙されるなと警鐘を鳴らしたいわけでもなく、そうではないとしたらどうするべきなのかと問う必要もないわけではなく、そんな問いに対してもっともらしい答えとなる政治宣伝に騙されるなと警鐘を鳴らしたいわけでもないのだが、そこでも産業の進展に伴ってそれに関わってくる人々の境遇も決まってくるわけだが、何かそこから現状で問題となっている社会的な不具合を解決する手掛かりとなるような何かが見つかるかも知れないが、彼らはそんなことが知りたいわけでもないのかも知れず、それを利用して自分たちの立場を有利にしたいわけで、そんなことを主張している自分だけでなく自分が属している集団が社会の中で主導権を握るために活動している面もあるだろうから、そんな自分たちを利する目的で活動しているようにしか見えないとしたら、彼らが功利的な思惑で活動していると言えそうだが、そんな面ばかりが目立っているとしたら、貧富の格差の是正とかの社会正義の実現という建前論的な大義名分も政治宣伝として利用できるから使っているだけで、あるいは積極財政だの財務省解体だのの胡散臭そうでこれ見よがしな煽動の類いにしても、そんなことを主張している者や集団がそれを主張することによって政治的な主導権を握りたい以外の意図や思惑があるかといっても、彼らが味方につけたい人々からの支持を利用して政治的な主導権を握りたいということ以外で、果たして味方についた人々が彼らの政治活動によって救われるような感じがしないわけで、救われるどころかさらなる悲惨な境遇へと貶められてしまうような気もするわけだから、悲惨な人々がさらに悲惨な目に遭うようなひどい事態になってしまうとしたら、もちろんまずいことのように思われてしまうわけだが、どうもそうではないとしたら何なのかというと、それも結果と原因の取り違えと言ってしまうと身も蓋もないのだが、やはりそこから矛盾や逆説や皮肉を肯定するような成り行きになるしかなく、言っていることとやっていることが矛盾しているからこそ行動と言動のバランスが保たれるような結果に至るわけで、そういう意味ではトランプもイーロン・マスクもまともだと嘘をついておくべきなのかも知れず、またそれに対して彼らの行動や言動を連日のように非難し続ける人々の方が狂気に囚われているとも嘘をつきたくなってくるのだが、彼らが無自覚に従っている功利的な思惑からすればそうなるのが当然の成り行きの中で各々が役割分担を受け入れているだけなのかも知れないが、彼らが敵と味方に分かれて反目したり対立しているつもりになっているのが、ただの功利的な論理に従っているだけに過ぎないように見えてしまうのが、何だかそれをどう捉えたらいいのかわかっているからこんなことを述べているはずだが、どちらが良いとかどちらが悪いとか、簡単に言えてしまえるが、それを言っても仕方がないような気がするから、そんなことを言うのがどうだというわけでもなく、そんな状況の中でプーチンや金正恩や習近平などが漁夫の利を得ているとしても、そんなのは枝葉末節な利益でしかなく、もっと根本的なところで進展している成り行きがあって、そういう成り行きに忠実に動いているのが誰なのかといっても、それがトランプやイーロン・マスクであっても構わないどころか、彼らを目の敵のようにして連日非難している人々にどのような利益がもたらされるとしても、それもたわいない程度のわずかな利益であって、それを政治の劇場化と揶揄する気にもならないが、ともかくイーロン・マスクが政府の職員を強引にリストラして政府を効率化してどうなるかが興味深いから、今はそれを見守るしかないし、たぶんその効果が誰も思ってもみないような予想外のところから生じてきて、彼を非難する人々にとっては害悪だと言いたくなるようなことになりそうだが、これまでにも手掛けてきた数々の事業でそうなってきたようなことが起こるかも知れないから、たとえひどい結果に終わろうとも彼らにとってはひどい結果であって、そうなることに期待しているわけだ。
3月1日「気の迷い?」
心の中では今回もちょっとした危機をやり過ごした気になっているみたいだが、それが思い過ごしだったと後で思い知るとも限らないし、まだそこを通り過ぎている最中なのかも知れないから気を引き締めて行く気にもなれないが、なぜか気が抜けてしまったのか、大してうまく行ったわけでもないのに安堵しているに過ぎないことなのか、どこを通り過ぎている最中なのかも夢の中でも現実の世界でもよくわからなかったのだが、それが今後何かの拍子にわかってくるとも限らず、すぐにそれに気づくとも思えないが、何かしら気づいてしまうことがありそうで、昨日も自らの勘に頼ってやってしまったことがあって、その結果として何がどうなったとも言えないのだが、機会を捉えて動いたのだからそれで良かったと思うしかなく、後からその時動かなかったことを悔やむよりはマシだったと今は正当化しておくしかないが、事の経過がそうではなかったことを明らかにしてくるようなら、いつものようにあの時ああしておけば良かったと後悔するしかないが、不意に意識に逆らってしまうのを自意識ではコントロールできないらしく、無理にコントロールしようとするとひどい結果をもたらすことも経験上わかっているから、それが功利的な思惑だと事後的には理解してみたところで、理解したのではなくそういうことだと推測してみたに過ぎず、その場では何だかわからないわけで、何だかわからないままそうせざるを得ないようなことをやってしまうわけだから、それが生存本能なのかも何とも言えないところだが、それでもうまく立ち回っているようには思えないわけで、とっさの判断が作用しているにしても、後から思えばもっと他にスマートなやり方があるにしても、それもそうなった結果から思考を働かせればそう思えるようなことなのだから、やはりその場ではそうはならないわけで、それをやらなければならないような気がするのだが、何をやらなければならないのかがその場ではよくわからず途方に暮れてしまうわけでもないのだが、これだと思って何かをやろうとすると抵抗感を覚えるから、これではないのかと思うのだが、ではこれなのかと思って別のことをやろうとすると、やはり抵抗感を覚えて、これでもないのかと思うのだが、そうしてあれやこれやと色々やろうとしていくうちに、抵抗感を覚えないことが見つかって、なるほどこれをやればいいのかとわかったつもりになってやってみたのが昨日の成り行きであって、実際にもその場ではうまく行ったような気がしているのだが、後からどうなるかは何とも言えず、自分ではうまく理解できないのだから、自分の思考を超える何か別の力が働いて自分を動かしていると理解しても間違っているような気がしないわけで、だから何だかわからないままでも構わないようなことなのかも知れず、後からそれがわかったり気づいてくるようならそういうことだと理解しておけばいいだろうし、わからなくても気づかなくても忘れてしまっても構わないが、そういう成り行きとは違う方面から理解できることの方が圧倒的に多いだろうから、それがメディアを通してもたらされる何かに関する情報に過ぎないとしても、それも理解できると思い込んでいるに過ぎず、そう思い込まされるように仕向けられていると理解しても、そんな理解も勝手な思い込みに過ぎないだろうが、それも何となくそう思ってしまうわけだから、その場では暫定的にそういうことにしておいて、後からそれが思い違いだとわかれば改めるかしらばっくれるかしておくしかないが、そんなメディア経由でもたらされる理解というのが、大抵はその全体が単純化されて一面だけ都合良く強調された理解に過ぎないことも多く、それをそのまま真に受けるわけにもいかないとしても、ひとまずそれもその場ではそういうことにしておきたいわけで、要するにそういうことにしておいてその場ではやり過ごすようなことにもなってしまっても構わないが、それをスルーしたと思っておいても都合に合わせた合理化だと思っておいても、どちらにしてもちょっとだけ正しくてかなり間違った解釈だとも思わないにしても、それをそのまま真に受けない態度や姿勢が、ひねくれ者特有の戦略だと思うわけでもないが、何か物事の曲解というか解釈のねじ曲げというか、それが自分の都合に合わせてそうなっているわけでもないところが謎だが、都合の悪い状況になっているのにそのままそんな状況を放置しておいてから、それとは別の方面から自分でも思いがけないことをやってしまって、どうしてそうなってしまうのか理解できずに思い悩むわけでもなく、そういうことなんだとそうなった結果を良くも悪くも受け止められずに困惑しているようだが、思い悩んでも困惑していても構わないようなスタンスを維持しておこうと思っているわけでもないのに、結果的にそう受け止められても仕方がないような心境へと至ってしまうのだから、それを自分の力ではどうしようもできないわけで、結局は何だかわからないがそうなってしまうようなことであって、単純に自らの意思や意志や意向が作用してそうなったわけでもないと思っておくしかなく、それをどう捉えても腑に落ちないわけだが、そんな試行錯誤の紆余曲折を伴いながらもギクシャクした成り行きにならざるを得ないのだから、それを結果からスマートな解釈に結びつけてみたところでフィクションにしかならないと思っておいても差し支えなく、言葉で説明する内容よりも現実にやっていることの方がはるかに複雑怪奇で意味不明な部分が多いから、わけがわからなくなっていることは理解できるが、だからといって仕方がないと思うわけでもなく、それを何とかしてうまく行くように持って行きたいわけだが、しかもたとえうまく行かなくても構わないわけでもないのだが、うまく行かないなりにもそれをうまく行っているように見せかけようとするわけでもないところが、自らの理解や思考の範疇を超えて何かがどうにかなっているような感じがするのだが、そういうところから得体の知れない力が加えられて自分が動かされているような気もするから、他からそれを制御するような働きかけが行われても、自分も自分の意思や意志や意向だけでこうなっているわけでもないのだから、そんなのは自分にとってはどうでもいいことのようにも思われて、やりたいなら勝手にやってもらえばいいにしても、自分の知ったことではないような感じがするわけで、自分にもどうすることもできない自分がとらわれている成り行きを他からどうしようとされても、自分には関係のないことだと思いたいわけでもないのだが、それでも自分自身が取り組んでいることもありそうで、果たしてそれが自分の意思や意志や意向が作用してそうなっているかどうかも何とも言えないところだが、他の何かに引き寄せられるようにして引き込まれるようにして巻き込まれるようにしてそうなっているかどうかも何とも言えないし、それを自分が制御できるとも思えないが、少しは部分的に制御している気でいるなら、それが自分の力が及ぶ範囲内で制御しているように思えるわけだ。
2月28日「避けられない危機」
最近は何かを避けている感じなのかも知れないが、何を避けているかは相変わらずわからないから、そんなのは嘘かも知れないが、避けられるものならさっさと危険を避けたいし、無意識のうちに勘が働いて危険を避けているなら安心できるが、何となく安心できないから避けられていないような気もして、たぶん避けようとしても避けられない危機が間近に迫っていて、しかもその危機を利用して何かをやらなければならず、実際に危機を利用することができれば何となくそれで構わないどころか、ひょっとすると多額の利益を得られるかも知れず、危機を利用して儲けようと企んでいるとしたら、儲け損なって大失敗してしまうような気もするから、あまり欲を出さない方が身のためかも知れないし、金儲けなんかよりもっと大事なことがありそうな気もしているから、そちらの方に関心を向けておいた方が良さそうな感じもするから、そちらとはどちらなのかもわからないのに、妙に心が澄み切っているような気持ちになっているとしたら、強がりと気のせいと勘違いが入り混じった心理状態になっていそうだが、何となく世界が愉快な状況になりつつあると思うと勝手に笑みがこぼれてきそうで、春が近いから気が変になってしまったのではないかと自分の精神状態を案じているのかも知れないが、それを意識するまでもなく今が危機の真っただ中にいるから気分がハイな状態なのかも知れず、何が危機なのかといっても、もしかしたら自分とは関係のないところで危機的な事態が起こっているとしたら、そんなのはいつものことでしかないわけだが、今まさに世界各地で危機的な状態で、日本でも盛んにヤバいヤバいと叫んでいるお笑い芸人もいるかも知れないし、それが危機的な状態とは誰も受け止めていないどころか、笑わせようとしていると受け止めていそうだが、何か他にそうではないようなことが起こっていて、それを問題視している政治家や識者の類いなども大勢いて、それをSNSなどで指摘している者もいくらでもいそうだが、そんなことが日常茶飯事な状態なのだから、何も危機的な状況でもないような気もするわけだが、そういうことではないとしたらいったい何に反応して危機だと思うわけでもなく、それが何だかわからないから危機なのでもなく、何かをつかむきっかけというか、そのきっかけをつかもうとしていて、何となく理解しかかっていることがあって、それに昨日は気づいたのだが、まだうまく説明できないみたいで、どう説明しようとしても腑に落ちないところがあるから、まだ理解が足りないのかも知れず、もう少し思考を働かせて頭の中で整理してみようと思うのだが、そんなことを一晩中考えていたわけでもないのだが、そうではないとしたら何なのかというと、わかっているのにうまく説明できないことがあるらしく、説明できないことを説明しようとしているから、それを説明できたらどうなるのかと考えてみても、ただ考えられないことを考えているに過ぎないのだが、だから経済や金融が理解できないというと、何となくそういうことなのかも知れず、わかる必要すらないことなのかも知れないから、誰にとってもわからないままでも構わないわけだが、全てを見通せないから短期的な利害にこだわって行動してしまうわけで、それが正しいとも言えないにしても、否応なくそうなってしまうことを利用して一時的な利益がもたらされると思っておいても構わないのだが、思ったからといって実際に利益が得られるわけでもなく、利益を得ようとしなければ得られない利益があって、それが不完全な理屈や論理や理論などに基づいて利益を得ようとするから、その場その時の運に左右されると思っておいても構わないが、確実に得られるのではなく、確率的に得られると考えれば、結果的に利益を得られる確率が高かったり低かったりするわけで、利益を得られた結果からそういうことがわかるわけだが、結果からわかることを予想や予測しようとするから、不確実な予想や予測に基づいて利益を得ようとするわけで、百%利益を得られるなら誰でも得られることになってしまって、そんなことはあり得ないのだから、大抵は誰かが利益を得られた一方で他の誰かが損をしたことにでもなれば納得したくなってしまうわけだが、そうではないとしたら何なのかというと、そういう利害関心自体が何でもないようなことであって、そうなった結果から信用できそうな理屈や論理や理論が得られるとしても、そんな理屈や論理や理論に基づいて利益を得ようとすると、いつものようにそれが原因と結果の取り違えから生じる錯覚だと思われても、そんなふうに結果から考えることしかできないわけだから、結果を基にしてその延長上で予想したり予測するしかなく、そうなるといつまで経っても百%の確率で利益を得られるわけがなく、結果的に利益を得ることに成功したり失敗したりするわけだが、そんなこともわかりきっているから、それがどうしたわけでもないわけだが、なぜそんなことを一晩中考えていたなんて嘘をつかなければならないのかといっても、嘘ではなくそれとは別の何かをつかみかかっているから、それをつかむきっかけとしてそんなことを考えていたような気がするわけだが、本当のところはよくわからず、わかるはずのないことを考えているわけでもなく、銀行などの金融機関で行われる資金の貸借によって資金が新たに生じるからくりを説明しようと試みているはずだが、そんなのはマルクスの『資本論』の第三巻でも述べられている古くから知られていることでしかないわけだが、なぜか現代でも積極財政派が政府が発行する国債ばかりに目を向けさせようとして、そこばかり強調するから、なぜか直接ではないにしても中央銀行が国債を買うことによってしか貨幣が生じてこないかのようなデマというか錯覚というか、何だかよくわからないことを主張しているような感じがして、そういうところで何をどう説明すればいいのか、それをうまく説明できずにいるわけだが、もちろんそれを直接説明したかったわけではなく、他に説明しようとしていたことがあったはずなのだが、なぜか引き寄せられるようにしてそういう方面へと関心が向かわされてしまうから、何か鬱陶しいというか、気が散るというか、いい加減にしてほしいというか、そんなのはあちらの知ったことではないはずだが、こちらもこちらで勝手に何か述べているだけで、その内容がどうなろうと知ったことではなく、何となくそんなことではないとわかっていながら、途中でおかしな紆余曲折が待ち受けているから、それを理解するきっかけを取り逃してしまったような感じになってしまい、今日も失敗してしまった感じがするわけで、今はそれで構わないようなことなのかも知れず、まだその時期ではなく、もうしばらく待って、アメリカのトランプ政権の緊縮財政政策の成否などを見極めてからでないとはっきりしたことは言えないのかも知れず、だからまだそれを述べる時期でもそれに関する文章を構成するわけでもないわけだ。
2月27日「中途半端な焦燥感」
先行き不透明という言葉は今さらながら聞き飽きたが、聞き飽きたといっても、ここから先も不透明には違いなく、短期的には予想も予測もつかないし、それでも適当にいい加減に当てずっぽうで予想したり予測したりしながら、それが当たったの外れたのと結果に一喜一憂するしかなく、ただ気休めや気晴らしに当てもなく予想したり予測したりしているわけでもないし、アナリストと呼ばれるその種の専門家の予想や予測を少しは信用しているのだろうが、信用したからといって気が休まるわけでもないし、それに関して確証を得たいという無理な願いを誰が聞き入れてくれるわけでもないから、半分は疑いながらも、もう半分は信じざるを得ないという中途半端で焦ったい意識の領域にとどまりながらも、そこから確信の領域へと意識が振り切れたら気持ちも楽になって安心すると共にあきらめの境地にも至るかも知れないが、そうなってしまってはまずいと感じているのだから、やはり中途半端に焦ったい心理状態を維持しなければそこから先へと進んで行けば信仰の世界が開けているのだろうから、その手前のところでかろうじて踏みとどまっているぐらいが、何事も中途半端な程度で済んでいる自らにふさわしい態度や姿勢だと思うしかなく、実態としてもそんな状態で安定しているわけでもなく、絶えず上下左右に揺れ動きながらも、いつ束の間の均衡が崩れておかしくなってしまうとも限らず、鉄壁の防御などあり得ないし、ちょっとした攻撃にさらされても、それも攻撃とも感じられないようなそよ風が顔に吹きつけてきても動揺してしまうような壊れやすい心の持ち主だと自分のことを思っているわけでもないだろうが、そんな情緒不安定な期間も過去にはあったのかも知れないが、今も気づかないところでそうなっている可能性もなきにしもあらずだが、何だかそれが真に受けるようなことではなく、いつものように鈍感力を発揮しながらなるべくうろたえずに平常心を保っているように装っているつもりなのだろうが、しかもそれが自分自身に嘘をついているような感じもするから、やはりそれでは駄目なのではないかとも思っているわけだが、他にやりようがあるわけでもないから、こうなるしかないという感じになってしまうのだろうが、こうなるしかないといってもいったいどうなっているのか、こうなっている全てを把握できるわけでもなく、何かの傾向を部分的に感じ取っているに過ぎないことなのだが、そこから事の全体を想像してみても、妄想の域を出ない感じになってしまうのだろうが、果たしてそんな妄想に頼って確信に至るような認識を得られるのかと自らの勘を疑ってみても埒が明かないし、結局は半信半疑のままの心理状態で否応なく自身がとらわれているその場の成り行きに応じた行動や言動を繰り出して、その結果として周囲から返ってくる反応を窺いながらもさらなる行動や言動を繰り出してみるしかないし、そんなことの連続の中で思考するしかないわけだが、そんな暗中模索の手探り状態から抜け出そうとしてしまうと、もっともらしい信仰や信念やこだわりなどに凝り固まりそうになるわけだが、それに関しては何かこれといって決めつけるような言動に及んでしまう人が他の多くの人々からもそれなりに共感や賛同を得られるなら、世の中で何かしらコンセンサスができあがっているのかも知れないし、それを多くの人々がとらわれている共同幻想の類いだと否定的に捉えてみても仕方がないのかも知れず、社会の中で誰もがそうだと思うようなことをそう思う人々を代表するような者がこれ見よがしに言い放って、他の多くの人々から共感や賛同を得ることによって主導権を握って、社会をそう思う方向へと導いて行くような成り行きになってしまうのだとすれば、それをそうは思わない少数の人々が阻むことなど容易ではなく、どちらかといえば多数派に従わされてしまいがちになってしまうのだろうが、果たしてそんな多数派の主張が正しいのかというと、それを正しいとか正しくないとかで判断するのも正しくはないような感じがするわけで、その場の雰囲気に流されていた方が安心できるのだが、安心したいのだが安心しては駄目だと警鐘が鳴らされているから安心できないのであり、それも勝手な思い込みで、いったいどこで警鐘が鳴らされているのか感じ取れないわけでもないのだが、それが心の内から鳴り響いてくるようだと、そんなのは勘違いな思い込みだと無視したいわけではなく、無視できないから警鐘が鳴らされていると思い込みたいわけで、そんなふうにして絶えず心の中で葛藤が生じているわけだが、それ自体も勝手な思い込みとも思えず、周囲の状況や情勢に応じて過去の経験や体験も思い出されてきて、それが総合的な判断に結びついているなら、そういうことでしかないと思うしかないのだが、自分が主体的に判断していると思い込まないと判断できないのだが、それが同時に否応なく周囲から判断を促されてもいるから、何をどう判断してみてもそうではないような気もしてきて、両義的で多面的なとりとめのない心理状態の中で何か考えているわけで、考えながらも行動や言動も伴ってくるわけだから、それも結局は思考が行動や言動に追いつかず、絶えず自身の動作に遅れながら反省的な思考にとらわれているから、結果しか見えていないとしても、その結果から類推や想像を働かせて未来に起こりそうな出来事を予想したり予測しているわけだから、そこから確証を得られなくても当然だとしても、そんなあやふやな予想や予測に基づいて絶えず見切り発車的な行動や言動に至ったとしても、何となくそれをどう捉えてみても、そうならざるを得ないような実感を行動や言動の結果から得られるのだから、結果から考えるならそうならざるを得ないとしか感じられないわけで、結果が動かし難いと思われる限りでそう思ってしまうわけだから、過去に起こった出来事に関してならそう思うしかないにしても、これから起こる出来事に関してなら何とでも想像力を働かせて可能性を模索することができるだろうが、これから起こりそうな出来事となると過去に起こった出来事との関連性を考慮に入れて、起こる確率や可能性が高そうに思われることを予想したり予測したくなるのだろうが、それが過去と現在と未来との連続性を信じられる範囲内でそう思われることでしかないなら、思いがけず予想外に予測を大きく外れるような出来事が起こって、驚くような結果に直面してしまうと、何となく今まで信じていたことがわかってしまって、なるほど自分は今までこんなことを信じていたのかという反省と共に、それなりの程度で痛い目に遭ったら自身の愚かさを思い知ることになりそうで、思い知ったところでそこでも鈍感力を発揮すれば愚かなままでいられるかも知れないが、そういう意味では信仰や信念やこだわりに頑なにとらわれている人が死ぬまでそんな状態に凝り固まっているような成り行きがあるなら、それがその人の死因に関係している度合いも高くなるのかも知れない。
2月26日「トランプ=ヒトラーという単純化」
何かというとすぐにヒトラーを喩えに持ち出す人の心理状態が何から生じてくるのかといえば、ナポレオン三世から生じてくるというと、何か関係のないことのように思われるかも知れないが、関係がなくても構わないようなことなのかも知れず、トランプ自身もヒトラーを意識していると言われているから、ことによるとトランプでさえもトランプ=ヒトラーという単純化された図式の信奉者かも知れないところが、何か民主主義的な政治体制からもたらされた幻想を構成しているようにも思われて、選挙で大統領などに選ばれたことによって気持ちが大きくなって独裁的な権限を付与された気になっている者なら、誰でもヒトラー的な気分になれそうな気もしてくるが、でもそうなるとそんな図式にはトランプでもヒトラーでもプーチンでもエルドアンでも、古今東西の数多くの独裁的な権力を振るった者たちが当てはまりそうだが、だからどうしたわけでもなく、何となく誰かがそこで毅然とした決断力に酔いしれているような光景を思い浮かべてしまうだけで、そこというのが大統領執務室の類いならなおのこと格好の舞台装置が整っている感じになってきて、それもだからどうしたと思うことの延長上で思っていることに過ぎず、そこから何かもっともらしい民主主義の傾向を導き出せるわけでもないにしても、やはり何となくでしかないのだが、別にそれでいいんじゃないかと思ってしまうのだが、あえてトランプとヒトラーの違いを指摘するなら、トランプがアメリカの大統領の典型的な傾向である国家主義者や国粋主義者のレベルにとどまるなら、ヒトラーやスターリンは自身が国家を超えた存在になることを目指したと理解したくなるし、ヒトラーやスターリンにとって国家は自身より下の存在でしかないのに対して、トランプはアメリカを偉大な国にするという使命感に燃えているような感じに見えるわけだが、そうなるとトランプ自身もトランプ=ヒトラーという比喩的な構図を持ち出す者たちも何か勘違いしているような感じになってしまって、もっと何か違う方面からトランプ的な傾向が生じてきているのではないかと考えられもして、あえていうならモンロー主義のような傾向から説明できそうな感じもしてくるのだが、それを単純にアメリカ的な自由主義と言ってしまってもちょっとずれてきそうだが、トランプにしてみたらアメリカ人はアメリカで製造された製品を買って消費してほしいと思っていそうで、さらにはアメリカで製造された製品を世界中に輸出する夢を抱いているような口ぶりで、何だかその辺にトランプ特有の勘違いもありそうな気もするのだが、よその国からの輸入品に依存してしまうとアメリカがその国に搾取されていることになるから良くないと思うわけで、他の国に主導権を握られないようにするには、すべての製品をアメリカで製造して自国製品を自国民が買って消費すればアメリカの自立性や独立性が保たれると考えているのではないかと推測してしまうが、そうなるには輸入品に高関税をかける一方で、できるだけ国内で製品を製造する体制を構築すれば良いという論理にこだわっていて、それこそがアメリカを偉大にする唯一のやり方だという信念に凝り固まっているようにも見えてしまうわけだが、果たしてそんなやり方がうまく行くかどうかは、普通は駄目なんじゃないかと思ってしまうが、トランプがそうしたいのだからやらせておけばいいだろうし、うまく行かなければ軌道修正するかどうかも今後の情勢次第な面もありそうだが、トランプがそんな妄想に取り憑かれてしまう背景としては、四百年近く前のウェストファリア条約によってヨーロッパで主権国家体制が確立されて以降の国家間の経済覇権競争から、国家を代表する人物や政府などの国家機関の意向となって表れてきたと解釈したくなるのだが、本当にそうかどうかは何とも言えないし、そんなことよりももっと狭い範囲内で民主主義だの何だのの理想論の類いから外れることをトランプが強引にやろうとするから、そこからすぐにトランプ=ヒトラーという単純思考に向かってしまった方が批判しやすいし、現代的な情勢の中では多くの良心的なリベラル思考の人々がもっともらしく思う傾向に合致しやすそうなのだが、そうなるとプーチンでもエルドアンでもネタニヤフでも安倍晋三でも次から次へと独裁者的な存在が同じような批判の傾向の網にかかってきて、それが何だか金太郎飴風の批判にも行き着いてしまうような感じもしないではないが、その方が批判しやすいのだから、批判の効率性の面では馬鹿な民衆がそんなワンパターンの批判に騙されるのかと穿った見方をしたいわけでもないのだが、そういう批判が広く世の中に普及しているならそれでも構わないような情勢なのかも知れず、せいぜいがトランプをヒトラーになぞらえて利いたふうな批判をやっていれば世間が安心するのかも知れないし、批判する馬鹿どもはそこまでは考えていないだろうから、思い起こせば十年前でも安倍晋三をヒトラーになぞらえて批判していた者たちも今ではどこでどうしているのか知らないが、性懲りもなくまた同じような奴らが湧いて出たと思っておけば済んでしまうようなことだとも思えないし、ただ何となくいつの時代でもその種の輩が登場してきて、毎度お馴染みの独裁者批判をやっている光景を思い浮かべる度に、そんなことをやる度に批判のテロメアがすり減ってきて、効力のない何でもないような批判になってしまうような感じもするのだが、それでも世間は構わないし、そうなってくれた方がかえって好都合なのだろうから、誰が好都合なのかもわかりきっていそうで、その種の批判者たちに聞いてみれば、それがディープステートではないにしても、社会を支配する存在がもっともらしく語られそうだが、たぶんそんな批判者たちを馬鹿にしていてはまずいのであって、逆に批判者たちを支持して批判に賛同して、自身も同じような批判をしなければならないのかも知れず、そうやって批判への共感の輪を社会全体に広げて行けば、批判の対象となっている独裁者もどきを失脚させることができると信じていた方が身のためなのかも知れないから、本当に共感しているなら批判していても構わないのだろうが、なぜか今の自分はそうではなく、トランプが何だというわけでもなく、トランプを利用して新自由主義的な小さな政府にしようと取り組んでいるイーロン・マスクがやっていることが、果たして何らかの成果を上げるかどうかに注目しているわけだが、それとは真逆のことを日本ではれいわ新選組が主張しているはずなのだが、しかもれいわ支持者の中にはトランプを支持している者までいて、減税という点で支持しているのだろうが、トランプのやる減税はどちらかといえば富裕層や大企業に有利になるような減税なのに、なぜかトランプを支持しているのがおかしいわけではなく、彼らは元ネトウヨだから安倍晋三と仲が良かったトランプを支持していると決めつけてもしっくりくるわけでもないが、何となくその辺のところも興味深いわけだ。
2月25日「詐欺師のレッテル貼り?」
何か感触が違うことは確かなのだが、その確かさが怪しいのだから、何か違うと思ってみても、それが確かではないのかも知れないし、何か違うと思ってしまうこと自体が勘違いなのかも知れないが、そんな勘違いな思い込みを抱いたまま適当でいい加減なことを述べなければならなくなると、さらなる焦りが襲ってくるはずもなく、焦っているわけではないと強がりたくなるわけでもなく、そんな焦りを利用してうまくやり過ごしたつもりになっているそれが何なのかを明らかにしたくなるわけでもないのだが、本当はうまくやり過ごしたわけでもなく、逆にやり過ごすことができずに焦っているのではないかと自分の心理状態を疑っていて、その疑いを晴らすことができないから焦っているのかも知れないが、それなりの痛手を被らないと切り抜けられない事態に直面しつつあるのかも知れず、何かしら攻撃されているような気がするのだから、無傷でいられると思ってしまうこと自体が甘い考えで、何かしら被害や損害の類いを被っておいた方がかえって謙虚な気持ちにもなれるから、致命傷にならない程度で済んでしまえば運が良かったと思っておくぐらいが無難な心理状態なのかも知れないが、たとえそれが善意から生じてくるような感情の発露だとしても、見え透いたデマに踊らされてはまずいとは思うのだが、そんなデマを信じさせようと仕向けてくるヤバそうな働きかけに対してはスルーしておいた方が良さそうだが、実際にデマに踊らされて目立っている人々の渦中に巻き込まれてしまっても、デマを真に受けている限りで居心地が良さそうには見えるものの、彼らはそれをデマだとは思っていないのだろうから、その辺が違和感を覚えるのだが、いったい何がデマなのかといえば、普通に考えて財務省陰謀論の類いがデマだと思われるにしても、もしかしたらデマではなくある程度の割合で真実が含まれていたりして、ある程度の真実が含まれているからこそ多くの人々がデマに踊らされてしまうのだとしても、そんなデマを煽っている者にとっては百パーセント真実に違いないのだが、真実なのにそれがデマだとわかってしまうとしたら、自分が何をわかっているのかも怪しいところだが、しかも逆にデマに騙されるなと煽っている者の主張でさえも抵抗感を覚えるとしたら、そこで激しく対立しているように装っている両者共に信用できないようなことになってしまうから、そういうどうでも良さそうに思われる争いからは遠ざかっておいた方が無難なような気がしてしまうのだが、本当に自分にとってそれがどうでもいいことなのかと疑念を抱くわけもないと嘘をついてしまっても構わないかどうかも疑わしいが、どうもそれについては自らの勘の確かさが感じられないようなことなのかも知れず、そもそも政治そのものが人々が嘘やデマを信じることによって動いて行くのだとわかっていながら、実際に国民民主党などが持ち出してくる税をちょっとだけ安くしようとする制度改正などに賛同してしまう人々が大勢出てくるわけだから、そんな嘘やデマを信じるなとは言えないようなことであって、その程度のことなら容認すべきなのかも知れないし、その程度のことで国民民主党への支持率が実際に上がってしまうわけだから、政治とはこういうものなんだと納得しかかってしまうわけだが、それをたわいないと小馬鹿にしていては話にならないだろうから、一応は真に受けておくべきことだと自分に言い聞かせてみるが、何となく笑ってしまって冗談でしかないような感覚にとらわれている自分の方が正常な心理状態なのかも知れないと思いつつも、正常であってもなくても構わないような世の中の状態なのかも知れないし、そんな状態も昔から延々と手を替え品を替えて煽られてきたやり方だと思うのも、何となくいつまでそんな見え透いた煽動の手口に騙されているわけでもなく、騙されたふりを装いながら乗ってしまう人々の勝ちだと物事を流行現象のように考えても、それにも何となく乗り切れない自分が鈍感なのかも知れず、もちろん愚鈍であることを正当化する気にもなれないのだが、昨日も兵庫県の騒動を利用して騒いでいる人たちの主張をちょっとだけ聞いてみたのだが、ユーチューブで見ているニコニコ動画の画面に流れているらしい数々の紋切り型的な決めつけのテロップがなるほど詐欺師のレッテル貼りなのかと納得できるかというと、どうもそう捉えてしまうこと自体が違うような気がしてしまい、それをエンタメだと割り切るわけにも行かないから、そういう方面へと関心が向かうのを躊躇してしまうような感じになってしまって、その件ついてはそれ以上は考えないようにして、そこから物事を単純化して良し悪しを決定するような方向へと行ってしまう思考回路の交通整理の類いに自意識が歯止めをかけているような気もしてきて、そんな自分が何を信じられるわけでもないが、その種の人々の集まりに紋切り型的なレッテル貼りをしてその気になってしまうとしたら、そういうレベルではそういうことなのであって、それをそれとは別のレベルから良し悪しを決めつけてみたり、これ見よがしな正論をかまして批判しているつもりなっていてはまずいことだとは思うわけだが、だからといって何をどうしたいとも思えないわけだから、スルーしきれないなら、何かしらそれに対して反論とは違う方面から述べておかないとまずいわけでもないだろうが、妥協的なやり方でなし崩し的に何か述べられないかと思案してみるのだが、どうも妙案が思い浮かばずに今に至ってしまって、これといって納得できるようなことを述べられていない現状の中で焦ってしまうわけでもないとも感じているものの、それでも何かやらなければならないとけしかけられている人々がいるらしく、彼らが何かに触発されて騒いでいることは確かなのだが、それが何だかわからないとも心当たりがないとも言えないのだが、それを言説にしてまとめようとすると、どうしても一つの文章の中にまとめきれない何かが余分に含まれていると感じているわけでもないのだが、相変わらずうまく言い表せないから結局それとは違うどうでもいいような方面からこうしてぐだぐだととりとめもないことを述べる羽目に陥ってしまって、何となくまた失敗してしまったような感じになってしまうから、どうしても的外れな内容にならざるを得ないのであって、その辺がまだ推論の進め方にも文章の構成にも改善の余地がありそうに思われるのだが、今さらそんなはったりをかましてどうするのかと自意識の増長に抗ってみたところで逆らえず、何かをつかみかかっているような感触が勘違いなのかどうかもわからないまま、一向に推し進められない計画も後に控えているから、それをどうしたらいいのかもまだ結論が出ておらず、そんな中途半端な心境で何も手につかないまま寿命を終えてしまうのももったいないようにも思われるから、こうして技量の上達を目指しつつ毎日少しずつ文章を記しているつもりなのかも知れず、それがどこへと行き着くかは神のみぞ知るとも言えないような程度の研鑽レベルにも達しない努力なのかも知れない。
2月24日「反省の無限ループから外れて」
最近は説得力のないことばかり述べているようにも感じられて、元からそうなのかも知れないが、それでは駄目だと反省してみるのだが、よく考えてみればそんなことしか述べられないような気もするから、これが自分の限界だと悟るなら、今後もそんなことしか述べられないような気もする一方で、それ以外にも何かわかっていないことや気づいていないことがあって、それがわかったりそれに気づいたりすればそれを述べればいいような気もするから、そういうことを述べていればうまく行くようになるかも知れないと期待してしまうのだが、一方でわからないままでも気づかないままでも仕方がないような気もするから、どちらがどうだと判断もつかないまま、これからもわからないまま気づかないまま述べて行くような成り行きになってしまうかも知れないと自らの力量不足に落胆しつつも、そんなこととは関係なく否応なくそうなってしまうことについてはどうしようもなく、他にやりようがないことをやっている気がしないでもないなら、このままの延長上で続けて行くしかないが、そんなふうにして今もわかったようなわからないようなことを述べているに過ぎないとしても、何かしら疑念を抱いてしまうことについては考えてみるしかなく、そんな考えている内容を述べているつもりにもなっているようで、実態は言葉を記して文章を構成しているわけで、その文章を読み返してみると何か説得力のないことばかり述べているようにも感じられて、それでは駄目だと感じて反省しているのかというと、そんな気もしないではないが、それよりは絶えずマウントポイントを探し回っているような感じもしてしまうから、それが自己嫌悪をもたらす以前に、自らを利する目的でそんなことをやっていると自覚しているわけでもないにしても、他人の非をあげつらう一方で、そんなことをやっている自らの批判行為を正当化するようなことになってしまうと、こんなことばかりやっていては駄目だと反省してしまうわけでもないのだが、反省するよりは他人の真似をしているだけなのではないかと焦るよりも呆れている方が実感としては強いのかも知れず、それが違っているような気がしてしまうわけで、何が違うのかもよくわからないし、それに関して気づいていないことがあるような気がするのだが、何に気づいていないのかもわかるはずもなく、それに気づけば気づいたそれについて述べるかどうかもよくわからないにしても、否応なく疑念を抱いてしまうのだから、それが結果的に他人がやっていることや述べていることの良くない面を探し出して、良くない理由を示すと共にあげつらってどうだ参ったかとばかりにマウントポジションを取ったつもりになれるかというと、そんな格闘技の比喩を持ち出して何か気の利いたことを述べている気にはなれないし、ではどう表現すればしっくりくるのか皆目見当もつかないが、そんなことを考えながらも何か気が晴れず気分がすっきりしない日々を送っているが、いったん人や集団が関与する闘争の類いに巻き込まれてしまえば、余裕こいて他人の身になって想像を巡らすような成り行きにはなりようがなく、自らの破滅を回避するには自己保身的な行為をやるしかやりようがなくなってしまい、それがバレると世間に醜態をさらしてしまうようなことにもなりかねないが、それよりも自らの行動や言動に関して、それをやるに当たってもっともらしい理由や正当な根拠を示せるかといっても、やってしまってからではもう遅いと言えるような後悔先に立たずなことをやっているとしたら、普通に考えて後からそれが過ちや誤りだと自覚できるようなことをやってしまったのだろうが、たぶんそれが自己保身的な防衛本能が機能してそうなってしまうにしても、やらないわけには行かないだろうから、みっともなくても卑怯だと見られても、自分さえ良ければそれで構わないとも思えないし、短期的な利害関心と盲目的な勘に頼ってやってしまう過ちや誤りなど避けようがないと思うなら、他人がそんな行為に及んでしまうのを許せるかというと、自分なら許せるが他人であれば許せなくても構わないと思っているわけでもないが、それも結果的にはそう受け取られても仕方のないような成り行きになってしまったら、もう観念するかないと腹を括って、たとえそれが悪事だとわかっていても、やれる限りのことをやってしまうのかも知れず、実際にもこれまでにも数限りなく悪事の類いを働いてきたのかも知れないが、それが数限りないと大げさに表現できるようなことでもないとしても、些細な過ちや誤りを犯して反省したり後悔してしまうのだから、それをどう受け止めてみてもどうしようもなくどうでもいいようなことなのかも知れず、結果的にそうなってしまうことを重く受け止められないタチというわけでもないにしても、それに起因して他人が死のうが自身が死のうが、実際にそうなってからでないと、またそうなってからでもよくわからない成り行きに今も巻き込まれているとしたら、何となくやりきれない思いに囚われているような気がすると共に、何だか作り話のフィクションとしてそう述べているに過ぎないとも感じられるなら、何かそれも心理的な昇華作用を期待しているような感じにもなってきて、それも自己保身的な防衛本能が作用してそうなっていると受け止めておいた方が良さそうにも思われてくるが、そういうところで自身の些細なあるいは弁解しようのない過ちや誤りを傍に置いておいてから、他人の卑劣で非道な行為が暴露されてからそれを批判したり非難したいなら、そんなことをやっている他人の言動に注目しておくぐらいで軽くそれをやり過ごすことができるとも思えないが、SNSでそんな他人の書き込みに対していいね!ボタンを押しておけば、それと同等の効果を得られるかも知れないが、もちろんそんなのは自分の勝手な思い込みに過ぎないにしても、そうすることによって避けようのない過ちや誤りを犯してしまうのを少しは避けているとも思えないのだが、メディアを通して他人の卑劣で非道な行為を知ってから、それに対する苛烈な批判や非難に共感したり同調したり批判者や非難者の行為を真似たりしても、それらとは大同小異とも思えないような卑劣で非道な行為をやっている者たちが世界中で野放しになっているわけでもないが、中には政府の助けを借りてそんなことをやっている者も、逆に政府と敵対しながらも、政府の中で主導権を握りながらそんなことをやっている者もいるだろうから、たとえ悪事をばらされても悪びれずに平然としていられる人物がいくらでも存在すること自体が明らかになっているどころか、そんな人物たちが多くの民衆から支持されている現状もありそうで、それが世の中が平和だからそんな人物が殺されずに済んでいる現状もある一方で、殺された者も殺されかかった者もいるにはいて、さらには殺されないようにするために自身に向かって批判や非難を浴びせてくる者たちを逆にやっつけている者もいるにはいるだろうが、少なくとも現状でそんな成り行きに巻き込まれていないなら、平和な地域で平和に暮らしている証しかも知れない。
2月23日「不条理の活用」
世の中の風潮が不公平や不平等を容認する傾向になっているのが良くないと感じている人がいたら、不公平や不平等をそのままにしておいてはならないという正義感や倫理観がその心理に働いていそうだが、その種の不条理を容認できない心理的な傾向も作用反作用的な力の働きであることも確かなのかも知れないが、世の中の状況がそんな不条理な傾向になってしまうのも、社会的な作用の結果としてはよくありそうなことだと思われて、では何が社会的な作用なのかといえば、物や情報やサービスの売買や貸借を伴った資本主義市場経済の作用によってそこで活動する人や団体の間で不公平や不平等がもたらされると考えるなら、何となくそんな理解でも構わないような気がしてしまうわけだが、一方では不公平や不平等な状態を容認する社会的な不条理が経済的には不条理でも何でもなく、それどころか経済競争の帰結としてもたらされる当然の結果であるなら、果たしてそんな社会正義の面では不条理であるが経済的な面では不条理でも何でもなく当然の帰結となっている状態をどうすればいいのかと問われているとも思えないと嘘をつきたくなってくるのだが、その一方で典型的な批判者の類いはそんな状況や状態をもたらしている犯人を探し出して攻撃したいわけで、そこからわかりやすい対立軸を導き出してそれを提示することによって自説に説得力を持たせたいわけだが、そうなると共産党の関係者のように単純に長年にわたってそんな不条理な状態を放置してきた自民党政権が悪く、そんな政権を支援してきた大企業が悪いと言えてしまうのだが、その種の批判者の論理に従うならそれでも構わないとしても、大企業による経済の寡占的な支配が世の中の安定をもたらしているとも言えて、それも結果論でしかなく、そんな寡占状態を技術革新によって打ち破って様々な企業が栄枯盛衰を繰り返す絶え間ない競争状態をもたらすことによって、そこに関わってくる人や団体の間での断続的な力の均衡を実現できるなら、自ずから不公平や不平等を当然視する不条理な状態も解消されて、それが新自由主義的な社会の理想状態だと解釈できるかというと、左翼やリベラル系の人に言わせれば、そんなのはご都合主義的な幻想に過ぎないと斬って捨てられるかというと、何とも言えないところだが、少なくとも政府が直接その種の技術開発競争を主導してしまうと、政府の官僚機構自体が徴税による強制強奪を前提とする経済コストを無視した構造になっているから、かつてのソ連のように結果的にアメリカとの競争に敗れてしまうというと、それが今の中国とアメリカとの競争に引き継がれていると見なしたところで、何か国家的な覇権争いと混同しているような感じになってしまって、政治的な要素も絡んできてちょっとずれてきてしまうのだが、またそうやって物事を単純化してわかりやすい解釈や理解へと持って行こうとする度に、勘違いの度合いも増してくるような感じなのだが、果たしてそれでも構わないかというと、気休めや気晴らしの井戸端会議レベルではかえってその方が気が紛れるだろうが、そんな気休めや気晴らしの類いを真に受けたくないなら、では現状の世界の状態をどう理解すればいいのかと問われたところで途方に暮れてしまうが、経済的なレベルでは絶えず短期的な損得勘定が優先されている限りで神の見えざる手が働いて、結果的に長期的な景気変動を伴いながらもそれなりの調和が保たれると理解しておいても構わないかも知れないが、短期的な損得勘定を軽視して物事を長期的かつ計画的に推し進めようとしても、それも前世紀の社会主義国の二の舞にならないとも限らず、そうはいっても政府と企業の違いもそれなりにあるから、国家的な視点から物事を理解しようとすれば、それなりに勘違いが生じてきそうだが、そうなると短期的な損得勘定と長期的な計画投資を同時並行的に推し進めるような折衷的な妥協点も見出されてくるものの、何に関してこんなことを述べているのかもよくわからないから、いい加減にあやふやなことを述べているに過ぎないのだが、少なくとも今の世の中に蔓延する不条理感が経済活動に起因して人々の間にもたらされる不公平や不平等から生じていることは確からしく、そんな不条理感を利用して批判を展開する者たちが後を絶たない状態が産業革命以来続いているような感じがするから、その端緒がマルクスの『資本論』だとしても、それが経済から政治へと批判対象が移動してくると、それも絶えず政治力を活用して経済を立て直すようなことをやりたい者たちへと範囲が広がって行くにつれて、そんな者たちの意図や思惑の怪しさも増して行くような感じにもなってくるから、何かそれがやばい傾向のように思われてしまうのだが、そういう怪しげな政治勢力の仕掛けや誘導などに引っかかってしまう人が大勢出てくるのも、実際に富の不均衡をもたらす経済的な不条理を政治の力でどうにかしてほしいという他力本願的な願いだと解釈してしまうのも、ちょっと違うような気がするわけで、それを単純に強制強奪的な徴税行為によって実現できるかというと、それも単純に富の再分配と呼んで正当化したいのだろうが、そういうやり方が当然のことのように強制的な権力の行使を伴ってくる限りにおいて、経済的な不条理とは別の政治的な不条理も生じさせるわけだから、なおのことより一層のこじれた事態をもたらしてきたといっても、実際に政治的な独裁体制がその種の強制的な権力の行使を乱用する度に、場合によっては戦争も伴った世の中の混乱状態がもたらされてきたわけだが、少なくともその種の強制強奪的な徴税行為に対する反発がその標的となる側からも対抗策として画策されてきたわけで、そんな対抗策によって支えられてきたのが日本では自民党政権であり、それを支えてきたのが経団連などに属する大企業だと共産党的な論理からすれば簡単に言えることで、もちろんその対抗策というのがれいわ的な論理からすれば消費税率の引き上げと共に行われてきた法人税率の引き下げの実現だと簡単に言えるだろうが、彼らが共に見逃している重要な点が何かというと、徴税という強制強奪行為によって経済活動から生じる不条理を是正できるかという問いに対する答えになりそうなのだが、それに対してトランプ政権やイーロン・マスクがやろうとする新自由主義的な論理から導き出される答えが何なのかというと、貧困や富裕や大企業や中小企業などで区別せずに一律に減税を実現したいと受け止めるしかないようなやり方であって、それに対して当然のことのように左翼やリベラル層が反発しているかどうかというと、どうもそういうことではなく、何やら直接それに対して反発しているのではなく強引で無謀なやり方だから反発しているように見えるわけだが、要するに人権や人道的な配慮を無視して無慈悲なやり方だと非難しているような感じなのだが、たぶんそうした方面でも何かしら多くの人々が不条理感を覚えているのだろうが、それも不条理の活用から生じてくる活動そのものなのかも知れないし、世の中にもたらされている不条理を活用することで人や団体の活動が生じてくるように感じられるわけだ。
2月22日「税は財源ではない」
積極財政派のポピュリストが自信満々に税は財源ではないと言い切る動画を見ながら、自分は自信満々に何かを言い切ることなんてできないというか、それほど自信に満ちたことは述べられない人生を歩んできたような感じなので、ただただすごいと感心するばかりだが、確かに国債も政府の財源には違いないが、国としての信用がないと勝手に国債を発行しても買ってくれる人や団体が出てこないと、政府が国債を発行して中央銀行が買い取るとか、そんなことばかりやっていると国際的な信用がなくなってヤバいような感じになってしまいそうだが、普通に考えれば税も国債も政府の財源には違いないわけだが、積極財政派の主張としては、なぜか自信満々に税は財源ではないと言い切りたいわけで、その自信満々に言い切ってしまう意志表示の態度や姿勢をこれ見よがしに示したいと受け取るしかないが、そういうこれ見よがしな態度や姿勢が典型的なポピュリストのそれであることに当人が気づいているのかどうかも、わかっていて自らの発言に説得力を持たせるためにあえてそんなふうに演じているのか定かではないが、そんなふうに自信満々に言い切ってしまえばきっと大勢の人々が信じてくれるだろうと意識してそう思っているわけでもないだろうが、感触としてはそんな感じがしないでもなく、その辺のところで危うさを感じてしまうのだが、そんな感じの人が何を軽視しているのかと言えば、経験的な感触としての確からしさであり、自信満々に何かを言い切ってしまうことも、経験的な感触に頼って確からしいからそう言い切っているのかどうかもよくわからないにしても、そうではなく確かな理論的な裏付けがあって、その理論的な裏付けを信じ切れるから、自信満々に正々堂々と正論を主張しているつもりになっているとしたら、それを悪く言えば怪しい説を信じる〇〇信者だと決めつけたくなるが、確かに理性的な正しさよりも宗教的な信仰心の方が勝ってしまう事例も歴史上多くの人々の心理的な兆候となって現れてきたのだろうし、それよりも経験的な確かさがどこから生じてくるかというと、それも普通に考えて社会を支配する慣習的な拘束力や同調圧力から多くの人々が従ってしまう動作があって、そういうことを考慮に入れるなら、現状の世の中で強力に働いている慣習の中でも、商慣習の一種である物や情報やサービスの売買や貸借に伴って生じてくる慣習であれば制度的な裏付けも伴いながらも否応なく従わざるを得なくなるだろうが、そんな経験的な確かさを覆すコペルニクス的転回を意味するのが積極財政論であって、それが天動説の迷信を覆した新たな地動説となると確信しているような感じがするのだが、その一方で欧米などでまことしやかに囁かれている経験的な確かさから言えるのが、政府の単年度財政赤字が対GDP比で3%を超えたり、債務残高が対GDP比で60%を超えてくると過剰財政赤字と認定されるらしいのだが、日本の場合はネットで検索してみると、直近では単年度財政赤字が対GDP比で3%を超えていて債務残高も同じく200%を超えているから、客観的には過剰財政赤字だと言えそうだが、だからといって国債を全く発行してはならないとも言えないし、行政の無駄を削減しつつ徐々にでも対GDP比で3%を超えないレベルに国債の発行を抑えて行けば、国際的な信用も保たれそうだが、その程度の穏便な表現にとどめておけば、別に今の日本政府の財政状況が危機的な状況にあると危機感を煽るような感じにはならないはずで、今にも財政破綻やハイパーインフレが間近に迫っているとか、そういうことではないとは思いたいのだが、それに対して積極財政派の言い方となると、何か極端な事例を持ち出して、絶対にそうはならないと主張するとかのレトリック手法のような感じになってしまって、多くの人々が自分たちの主張を信じてもらえない歯痒さを感じているから、ことさらにそんな強がり傾向になってしまうのかと受け取っておいても構わないとも言えないが、それも売買や貸借の慣習に逆らうような不自然な理屈を持ち出すからそう思われるのかも、微妙に疑念を覚えるところだが、それに対して学校教育の過程で偏差値の高い部類に入りそうな知性を持ち合わせた人々から、こいつらの言っていることはディベート的なまやかしなんじゃないかとまるで嘘を見破ったかのようなことを言われてしまうのかも知れないが、比喩的な言語表現を散りばめて嘘を真実に見せかけるような取り繕いではなく、ちゃんと経済学的な領域で理論的な確かさを持ち合わせているような雰囲気も感じられるとしても、どうしてもそんなことまで深く知ろうとはしないから、今のところは眉唾的な学説もどきだと思ってしまうわけだが、そんな積極財政派の怪しさとは別に、信じられるような成り行きとして世界的に数々の激しい批判や非難を浴びせられながらも否応なく生じてくるムーブメントの方に関心が向くわけで、それが新自由主義と小さな政府の組み合わせであって、今もアメリカでトランプ政権の中で財務長官やイーロン・マスクが取り組んでいることがそうだと見なしたくなるわけで、資本主義市場経済を肯定するとか正当化するとかではなく、否応なくそうなってしまう成り行きの中で行動や言動を繰り出すなら、そういう傾向にならざるを得ないと認識しておけばいいのかも知れないが、しかも政府が強制的に行える権限として徴税権を有している限りは、政府という組織を維持して行く過程で避けては通れない成り行きなのだから、積極財政派が税は財源ではないと言い張ってみたところで、実際に徴税が行われているわけだから、しかも政府が国債を発行すると言っても、何をすることによって政府が稼いでいるのかといえば、徴税によって稼いでいるとは普通は言わないが、民間では物や情報やサービスを売買したり貸借することによって稼いでいる一方で、政府は徴税や国債の発行によって活動の経費を賄っているわけで、他にも公共事業の類いもありそうだが、儲かる事業は民間でやってもらって、儲からなくても民衆の生存に欠かせない事業は政府が引き受けるしかないだろうから、そういうところで役割分担が行われているのだろうが、その際にはどうしても政府の組織や機関そのものの権限を強化して権力を増大させる傾向になってしまうから、税を取り過ぎたり国債を発行し過ぎて破局的な結果をもたらすこともあるだろうが、それを回避するためにも民主主義的な政治制度の機能としては、民衆の中から選挙で選ばれた代表者が政府をコントロールするような仕組みになっているのだろうが、日本の場合は政府の官僚機構が強力に政府そのものをコントロールする傾向にあるから、それが財務省陰謀論などの嘘っぽい俗説が世の中に広まる傾向にもなっているのだろうが、実際に国際的に確からしい国家財政に関する経験則に照らし合わせるなら、単年度財政赤字が対GDP比で3%を超えたり債務残高が対GDP比で60%を超えてくると過剰財政赤字だと言われているのだから、妥当な線としてはそうした経験則の範囲内に政府の予算規模を収めておいた方が良さそうに思われるわけだ。
2月21日「押し付けの選択を回避するには」
調和が取れない物事の成り行きを対立的に捉えるのは簡単なのだが、簡単だからといってすぐに対立している一方の陣営を支持するようなことにでもなれば、それなりにわかりやすいことを主張できるのだが、それが容易に説明がつくようなことだと、それなりに対立する双方共にどちらの陣営の欠点や欠陥も説明できてしまうようなことにもなりかねず、そうなると欠点や欠陥を抱えている陣営を支持していることを正当化できるかと問われると、別に正当化しなくても構わないと思うなら、特に一方の陣営を支持する必要もなくなってしまうのだが、それでも一方をえこひいきしたいなら、その理由をもっともらしく説明しなければならなくなるだろうが、どうもその気にはなれないような気がするわけで、だから対立を装っているように見えるどちらの陣営も支持することもできずにいると、否応なくどっちつかずなことを述べなければならなくなってしまいそうだが、それで構わないならそうすればいいだろうから、こうしてどっちつかずなことを述べているようで、どちらの陣営の欠点も捉えようによっては利点となったり、お互いの欠陥を補い合えば完璧になるかというと、そうとも言えないこともないが、双方の意図や思惑を汲むなら必ずしもそうはならず、対立状態そのものを見せつけることによってどちらか一方を選ぶように仕向けてくるわけで、だからひたすら対立を煽っていると解釈したくなるわけだが、そうやってそれがどうでもいいような些細な違いだとは思わせないようにしたいわけで、そうなるとどちらの陣営にとっても都合の良いことしか主張しなくなるわけだが、それでも構わないのかというと、そうやって対立を煽ってどちらか一方を選ぶように仕向けているのだから、そんな双方の意図や思惑を汲んでどちらか一方を選べばいいのかというと、そうしたいならすればいいだろうし、実際にそうする人もそれなりにいるだろうが、中にはどちらも選ばない人もいるから、その辺も人それぞれで受け止め方が違ってくると、それもそれなりに結果が無難な線に落ち着くならどうということはないのだろうが、果たして現状の中で政治的な対立を煽ることによって何か良いことが起こるかというと、実際に起こっているそれが良いことなのか悪いことなのかどちらとも言えないようなことなのかが、その判断がつかないなら、まだ様子見姿勢を崩していないことになるのかも知れないが、それでも現状の問題点が指摘されて、それを是正するような成り行きになるなら、そういうことをやってもらうしかなく、それがアメリカでは行政の無駄を削って小さな政府を目指して減税しようとするなら、それがどんな効果をもたらすのか見てみたいわけで、また日本でも小泉政権での郵政民営化以来、その弊害ばかりが強調されてきたが、その後の民主党政権下でも事業仕分けによって行政の無駄を削ろうとして果たせなかったが、果たして今後立憲民主党が政権を取れば、また行政の無駄を削って減税を実現するような成り行きになるのかどうか、現状でもそうなるのを阻止すべく、自民や国民民主や維新やれいわまでが立憲民主党に対してネガティブキャンペーンをやっている最中のようだが、阻止されても大したことはないとは思いたいのだが、それでも衆議院では現状でも少数与党状態になっているわけだから、そんな状況を利用して長年にわたって放置されてきた選択的夫婦別姓ぐらいは、最低限でも衆議院で採決するまでには持って行った方がいいんじゃないかとは思うところだが、それさえも実現できないようなら、それをれいわの連中の政治力のなさや教条主義のせいにするのは酷だが、批判するならどうせ立憲民主党が批判されるのだろうから、何となくそういうことかとあきらめた方が良さそうなのだが、それがなぜかどうでもいいように感じられて、そんなことは大したことではなく、日本ではごちゃごちゃと偏狭な奴らが自分たちの都合にこだわってどうでもいいことをひたすら騒ぎ立てているに過ぎないことでしかなく、それがどうなろうと世界には何の影響もないような感じになってしまい、しかもそれでも構わないのだから、騒ぐだけ無駄なような気がして、それをどう捉えたらいいのかよくわからないのだが、それと比較するまでもなく、イーロン・マスクのやっていることは、すごいんじゃないかと感じてしまうわけで、世界中の左翼リベラルを敵に回して、果たしてアメリカの行政の無駄を削減できるかどうかに関して、トランプがめちゃくちゃな世界の現状変更をぶち上げているうちにやってしまおうということだと、勝手に自分がそう解釈しているだけで、イーロン本人がどう思っているかなんてよくわからないのだが、ある意味ではあっぱれなことであって、どう考えてもすごいことをやっているわけで、それが後世の時代にどのような評価を伴って残るかどうかも現時点ではよくわからないし、現状では世界中から非難の大合唱を浴びているのだから、それだけ大それたことをやっていると捉えておけばいいのかどうかも、イーロンの手腕を過小評価したければいくらでも悪くは言えるものの、それを極右だ何だと非難してみたところで、プーチンのように戦争を起こしているわけでもないところが、何かそういう方面の意見や主張とはずれてくるわけで、そういうところをどう捉えるかが、それも人によって評価や良し悪しの判断も分かれるところではあるだろうが、その一方で左翼リベラル的な価値観として受け入れ難いのが、金持ちや大企業にも減税するという許し難いやり方になるわけだが、そういうところで逆に金持ちや大企業には増税しなければならないと当然のことのように主張してしまうと、それが資本主義市場経済の論理とは相容れなくなってしまうわけで、何かそういうところで貧富の格差の是正といったイデオロギーが邪魔をして、政治的な行き詰まりをもたらしているといってみたところで、どうせ無視されてしまうのだろうが、というかその是非が普通に対立を形成しているわけだが、それを教条主義的なイデオロギーに囚われていると指摘したところで、当たり前のことを当たり前のように主張しているに過ぎないから、教条主義だともイデオロギーだとも感じないだろうし、根本的なところで意見や主張の相違をもたらしているといってみたところで、そんなのは一方的に金持ちや大企業に減税する方が悪いと思われてしまうから、そこから先では話にならないわけだろうが、それが現状の政治経済的な行き詰まりを打開する鍵だと言えるかどうかも、誰も信じてもらえないかも知れないが、少なくともバイデン政権でのコロナ禍に対する積極財政政策によって何がもたらされたのかというと、金持ちや大企業がより一層豊かになって貧富の格差がさらに拡大したわけだが、それに対してバイデン政権としては金持ちや大企業への増税を検討していたことは確かだが、それが議会で承認を得たのかというと、それが中途半端なままトランプ政権へと政権交代してしまった印象なのだが、もしかしたらそれで良かったというと非難されるわけでもなく無視されるだけだろうが、それもなし崩し的にはそうなってしまうような時代状況だと理解したいわけだ。
2月20日「蝉の抜け殻状態」
無理ではないと頭の中では思っていることが、実際にそれをやる機会が巡ってくるかどうかも現時点ではわからないどころか、そんな可能性などほとんどゼロだと思われるようなことが、普通にそれをやる機会が巡ってくるとは思えないのだが、妄想の中では自らが主体的な立場や地位になってそれをやるようなことを思い描いてしまうから、それ自体が現実離れしたフィクションには違いないのだが、そんなことを本気で考えているわけだから、他人から頭がおかしいと思われないようにするには、うっかりそれを口に出したりSNSなどに書き込んだりしないように注意しなければならないとしても、中にはトランプのようにそれをやる機会が現実に巡ってきてしまう者もいるわけで、そういうことをやらせるのが民主主義の政治システムだと考えるなら、そうなる当事者によっては民主主義をぶっ壊すきっかけにもなりかねないが、その一方で日本の場合は民主主義そのものが形骸化されるような成り行きになってしまうわけだから、あからさまに直接ぶっ壊すのではなく、結果的に蝉の抜け殻のような空疎な政治システムになってしまうわけだが、何がそうさせるのかといっても、動物的な生存本能にまで遡るわけには行かないし、また社会的な仕組みがそうさせるとまるで構造主義者のような責任逃れができるわけでもなければ、性急に簡単な答えへと辿り着こうとしない方が賢明なのかも知れず、実際に民主主義が蝉の抜け殻のように空疎な制度になってしまっているなら、では抜け殻の本体がどこへ行ってしまったのかと探すまでもなく、元から本体などなかったと言うなら嘘になってしまうが、それも普通に考えて政府という機構が作り出す幻想が民主主義と呼ばれる政治制度なのかも知れず、それが本当に幻想なのかというと、幻想だとしたら本当ではなく虚構には違いないのだろうが、その虚構をいかにして民衆に信じさせるかが民主主義の成否を決めると考えれば、その前提となる政府の組織が資本主義市場経済の中でも矛盾なく機能していないと、民主主義自体が実際には成り立っていないのではないかといった類いの疑念を民衆に抱かれるかというと、実際にロシアや中国の民衆なら民主主義を信じていないはずだが、それは政府が信じさせなくても困らないからそうなっていると言えるかどうかも微妙なところだが、ミャンマーの反政府勢力なら民主主義を信じているからこそ民主主義の実現を拒否する政府に対して徹底抗戦を仕掛けているのだろうが、日本の民衆はどうなのかというと、うやむやのまま放置している状態だと見なしても構わないのかというと、そうでもないだろうし、その辺はどう受け止めても釈然としないところで、頑なに信じ込む状態になるのを避けて中途半端にどっちつかずな状態を維持しているようにも感じられるのだが、それをいいことに保守派が憲法に定められた国民主権をなくしてしまおうとしていると受け取っても構わないかといっても、それも意識してそう思っているわけでもないような中途半端にその場の成り行き次第でどうとでも受け取れる態度を装っているのかも知れず、たぶん民主主義を信じきれていない状態を保とうとしている自覚などないだろうが、それで構わないなら都合が良いとも言えないし、そういう方面では自分たちの都合を意識するわけでもなく、それよりは近視眼的な損得勘定を優先して動いているようにも見えるわけで、それを示す格好の事例が国民民主党の玉木代表の言動や行動などに現れていそうだが、最近も新潟の柏崎原発へと視察に行ってきたようで、原発再稼働に向けて前のめりになっているように見受けられるが、原発再稼働の口実としてにわかに浮上してきたのが、AIインフラの構築に際して重要となってくるクラウドサービスを提供するデータセンターの役割であって、現状のデータセンター内では情報の処理に使うGPUの電力消費量が莫大で、しかも安定的に大電力をデータセンターに供給するには原発が最適だと言われているから、待ってましたとばかりに電力系の労働組合が支持母体となっている国民民主党としては原発の再稼働に向けた好機が到来したわけだろうが、それだけをあからさまにアピールしても、十数年前の大地震に関連して原発事故が実際に起こった日本ではそれなりにまだ民衆の間で拒否反応が残っているだろうから、他に何かアピールできないかといえば、物価高で民衆が苦しんでいるというイメージを最大限に活用するには減税アピールが効果的だろうから、れいわが主張するような消費税の廃止が現実的でないと判断するなら、もっと容易に実現可能で政府との間でも妥協が成立しやすく、実現しても大して効果もないかも知れないが、それでも減税を実現したという実績を象徴的に政治宣伝に使うには103万円の壁というのが使えそうだと判断したのだろうが、その一方で大阪万博の開催の雲行きが怪しくなってきた維新の方でも、開催経費については政府からの負担をお願いしたい都合上それだけをあからさまにアピールするわけにも行かないから、それ以外に何か民衆にアピールできる材料があるかというと、それが教育の無償化だと判断したわけで、それも大した効果も得られないかも知れないが、政府と協議して維新が教育無償化を実現したという実績を作って、選挙の際にアピールしたいから、現状で少数与党となっている政府自民党に足元を見られながらも、予算案を通すための交渉材料に教育無償化が使われているわけだろうが、それらの経緯や事情が見え見えだから、民衆の方でも国民民主や維新を支持してしまうと自民党政権の延命に手を貸すことも見え見えな状況下で、何をどう判断すればいいのかと迷っているとも見えないのだが、たぶんなし崩し的に今後も自民党政権が続いていくとしたら、絶えず近視眼的な損得勘定へと民意や世論を誘導するような手法がこれからも各種メディアを通じて横行するのだろうが、それでも構わないとしたら、いったい何が構わないのかと言えば、資本主義市場経済自体が絶えず近視眼的な損得勘定で動いている面があるだろうし、人の思惑としては狩猟採集生活の昔からそうなるように仕向けられているというと、そんなふうには思われるのだが、それに対して長期的な視点で計画的に物事を進めるにはどうしたら良いかと考えるまでもなく、もしかしたらAI技術の進展に従って次第にそうなって行くとも思われないしても、そんな思惑を誰が抱いているわけでもなくても、技術の傾向に人が従わされてしまう成り行きとなってしまうかも知れないし、そういうところは短期的な思惑が積み重なって長期的な思惑を形成するのではなく、なぜそうなってしまうのかを人の意識では知り得ないようなことが起こって、それが長期的な傾向をもたらすわけで、その代表例と言えば長期的な景気変動サイクルや先進国の人口の減少傾向などが知られているだろうが、果たしてAI技術の活用によってその種の長期的な傾向を制御できるかどうかも現時点では定かでないにしても、それに関連して生じる絶え間ない技術革新という現象も長期的な傾向には含まれてくるわけだ。
2月19日「おぞましさの肯定」
何事も唐突にわかってしまうわけでもないが、ただ何となくだんだんとわかってきたことがあるらしく、いったんその種のポピュリズムの理屈がわかってしまえば、そうなることによって一過性の熱狂から一気に冷めて正気に戻って関心が薄れてしまうわけでもないが、どんな政治勢力もそれなりに解消できない矛盾を抱え込んでいるから、そこを突いて矛盾を強調したり誇張したり悪いイメージを抱くように仕向けて攻撃する形態へと持って行ければ、それによって勧善懲悪的で単純明快な主張を言説的に構成できれば単細胞で思慮の浅い人々からの一定の支持や賛同を得られるのだろうが、世の中にはそうならざるを得ない成り行きがあるらしく、何がどうなってそうなるかなんて簡単には説明しきれないが、果たしてそうなる成り行きを回避できるかといっても、実際に回避できない人や勢力がそんな成り行きに巻き込まれてこれ見よがしに単純化した一点突破的な主張をしているわけで、それをどう受け止めればいいかなんて、理屈がわかっているなら相手にしないで無視すればいいだろうとは簡単には言えないし、それらの103万円の壁だの教育無償化だの消費税廃止だのの一点突破的な主張の背後でうごめいている政治的な思惑が何なのかと想像するだけおぞましいと身震いするわけでもないが、それを悪だくみの類いだと否定的に受け取ってもあちら側の思うつぼだと考えるわけでもなく、逆にそういうことしか主張できないんじゃないかとそれらの人や勢力の能力不足を指摘してみたところで、何か的外れな指摘になってしまうような感じがするからやめておいて、では他に何かもっともらしい指摘ができるかというと、もっともらしいというわけではなく、どちらかと言えばあまり説得力がないような大勢の人々から支持や賛同も得られにくいことをわざと指摘したいわけでもないが、何か良からぬ悪だくみを成功させるために多くの人々から支持や賛同を得ようとして、支持を得られやすいことを一点突破的に主張しているのだと決めつけてはまずいような気がするわけで、またその悪だくみというのが例えば憲法を改正して民主的な政治体制を崩壊させることだと決めつけてもまずいような気もするわけだが、では他の意図や思惑を推測できるかというと、推測したいのではなく、そんなふうに一点突破的に主張することがかえって彼らの意図や思惑を裏切るような成り行きを誘発して、誰も想像すらしていなかったような思いがけないことが起こると予言したいわけでもないのだが、逆に人々の関心をそういう的外れな方面へと引きつけようとして、それが無駄な努力と骨折り損のくたびれもうけのような結果に至ることを願ってひたすらそんなことをやっていてほしいというと嘘になってしまうが、結果的にはそうなってしまうと予想しておいても構わないような気がするわけで、それ自体がそうなることを意図して行われているわけではないにしても、結果的にはそうなってしまうから、それがあたかもそうなってしまうことに人々を気づかせないようにさせるために、それとは別の方面へと人々の関心を向けさせるために、そんな無意識の誘導に操られながら特定の政治勢力に属する者たちがこれ見よがしに一点突破的な主張を繰り返して、それに呼応して浅はかな人々が支持や賛同を表明すると共に、逆にそんな見え透いた主張には騙されるなと警鐘を鳴らす識者や知識人の類いも出てくるとしても、もうすでにそうなっている時点でそちらの方面に世間の関心が向いてしまっているから、うまく世論誘導に成功したことになるのかも知れないが、その一方で多くの人々の関心が向かわない方面で果たして世の中の本質的な変革がもたらされるかというと、それもそれを本質的な変革だと言えるかというと、もしかしたら誰もそうは言わないのかも知れないし、そうは言わなくても本質的な変革なのかどうかも確かではないにしても、現状でも継続的に起こっていることの中から例えば産業的な進展の方面から何が言えるかというと、それが一見何でもないようなことかも知れないが、絶え間ない技術革新の情報が日々メディアを通して伝わってきて、ただそれをへぇーと感心しながらも他人事のようにして右から左へと受け流しているに過ぎないことなのだが、それに関連して最近流行りのAI技術の進化が人類社会に飛躍的な革新をもたらすなんて全く信じていないわけで、全く信じていないからこそ気づかないうちにAIに意識を取り込まれてしまうような事態をもたらすとも思えないが、少しは利用していることは確かだろうし、否応なく利用されてしまっている面もあるにしても、それを意識して拒否しているわけでもなく、どうでもいいと感じていることの範囲内から生活が新たな技術によって侵食されていて、それはIT技術が世の中に普及した時期でもそうなっていたかも知れないが、それが制度的な面での一点突破的な主張とは別の方面からの変革である限りで、何かレベルや次元の違う作用ではあるのだろうが、どちらに普遍性があるかといってみたところで、それが普遍性という判断基準ではなく切実さという判断基準に基づいて判断したがるのだが、それをただの制度的な変革といってしまっても、それとは別の方面でも例えば選択的夫婦別姓という一点突破的な主張には向かない主張もあるのだろうし、果たしてそちらの制度変更へと人々の関心が向かないようにするために、それらの一点突破的な主張を繰り返しているのかと邪推するわけにも行かないが、なぜことさらに一点突破的な主張にこだわるのかと疑念を抱くわけでもないのだが、彼らには彼らに特有の事情や経緯があって、もしかしたらそこに触れられるとまずいようなことにもなっていそうで、そんな彼らの弱点を突いて、それこそそこを強調したり誇張して攻撃するのに都合が良くなるように歪ませてから攻撃を仕掛ければ、彼らの主張も崩壊せざるを得ないかというと、彼らに向かってそんな攻撃を仕掛けている者たちもそれなりにいるのだろうし、そんな者たちの主張もそれなりに説得力のある内容となっていそうだが、それもそもそもがそんな一点突破的な主張を繰り返していること自体が、何らかの欠点や欠陥があるからそうなっているわけで、要するにそれだけでは無理があるから、できれば他の様々な方面も加味して包括的かつ多面的に主張を構成する必要に迫られるような成り行きへ持って行かざるを得なくなるなら、それなりに世の中の様々な方面や立場からの支持や賛同を期待されるような大規模な勢力へと発展した結果としてそうなるのだろうから、その段階に達していないから窮余の策として一点突破的な主張を繰り返して少しでも世間の認知度を上げたい意向があると推測してみたところで、当人たちはそうは思っていないだろうから無視されるだけだろうが、当人たちが切実にそうだと主張したいことというのが、それとは事情や経緯が異なる立場や方面で活動している人からすれば、それだけ切実さが薄れるのはわかりきったことだが、それを言葉巧みにごまかせるとも思えない程度のレベルで何かしら思い違いや勘違いがあるような気もするわけだ。
2月18日「無敵の主張」
互いに矛盾し合う複数の論理をどう組み合わせるかなんて考えるだけでも無理そうだが、意図的にそうするのではなく、そこにどんな意図や思惑が絡んでくるかなんて、その場の成り行き次第でどうにでもなってしまいそうだが、実際にはそんなことが行われているわけではなく、その場の成り行きに従って否応なくそうなっているだけで、結果的に矛盾し合う論理や理屈が共存しているに過ぎず、意図してそんな状態を放置しているわけでもなさそうだが、放置しているどころか、そんな論理や理屈に依存した複数の対立し合う主張が戦わされて、結果的に噛み合わない議論が平行線に終始している実態もありそうだが、それでも主張する側は一方的に都合の良いことだけ主張して、その主張に従わない方が悪いと言い張るわけだから、それに対して何をどう反論しても聞く耳を持たないのも、議論する前からわかっていて、そんな主張者たちをどう扱えばいいのかもよくわからないわけで、要するに彼らは自分たちが戦争を起こしたがっているという自覚がないのであって、もちろんそんな彼らの無意識の思惑通りに戦争など起こらないし、現状では起こしようがない状況なのかも知れず、少なくとも今の日本ではそうなっていると思いたいが、そんな戦争など起こりそうもないことをいいことに、ひたすら無敵の主張を繰り返しているのが誰なのかというと、果たしてそれが積極財政派の中の誰かと言いかけて、慌ててそんなことはないと嘘をつきたくなってしまうから、その辺の事情が微妙にわからないのであり、彼らには大日本帝国の亡霊が取り憑いていると言ってみたところで信じてもらえないだろうし、むしろ戦争のない平和な世界を目指しているとも言えそうで、その辺も矛盾してきてしまい、どうやってもうまく事情を説明できないのだが、少なくともかつての元祖積極財政政策であるルーズベルトのニューディール政策は、日本が暴発して真珠湾攻撃を仕掛けてきてくれたから、財政破綻に陥らずにその成否をうやむやにすることができたと考えても構わないのかというと、確かに戦時統制経済にして物資を配給制にしてしまえば誰も文句を言いたくても言えなくなってしまうのだが、今ひとつ確証が持てないからこれ以上は踏み込まずにおくが、現状の世界でもロシアに続いて中国が暴発するように仕向けているのかというと、バイデン政権にしてみればコロナ禍が起こったから積極財政政策をやらざるを得なかったわけで、それによって財政破綻の一歩手前まで政府の債務が積み上がってしまったと考えられるものの、その一方で日本ではコロナ禍以前にアベノミクスで異次元金融緩和を続けていたから、コロナ禍が起こっても積極財政政策などやっている財政的な余裕などなかったわけで、また中国より先にロシアが暴発してしまったから、それへの対応で右往左往しているうちにバイデン政権からトランプ政権へ政権交代してしまって、結局は財政破綻でも戦争でもない平和な結末へと事態の収拾を図ろうとしていると現状を捉えておけばいいのかといっても、実際にそうなってしまえば財政破綻も戦争も起こらないことになるから、何でもないことになってしまって、財政破綻の危機も戦争の危機もなかったかのようなことにもなりかねないが、本当にそうなるかというと、それも中国の出方次第な感じがしないでもなく、台湾へと武力侵攻させようとして、しきりに挑発を繰り返しているのかといっても、中国軍の方が挑発しているような感じもするが、今後も国際情勢の成り行き次第でどうにでもなってしまいそうで、中国国内の経済情勢や政治情勢もかつての日本のようにやけくそ気味に暴発するような状態には見えないが、それも現状では何とも言えない一方で、それよりはもっと規模も程度も小さい範疇で起こっていることといえば、例えばれいわの高井幹事長あたりが国会で演説している内容が果たして無敵の主張だと言えるかどうかも何とも言えないところで、何かヤバそうな雰囲気だからまともに聞いていられないのだが、あれも財務省陰謀論の一種なのかと言えるかどうかも何となく判断を保留にしておきたいわけで、その辺はえこひいきが利いているのかも知れないからひとまずスルーしておいて、多くの人々が何かに魅入られたようになって引き込まれてしまう渦中にあるのが政府を利用して行いたくなる積極財政政策なのかと事態を捉えたくなり、そうなることが間違っているとか、それを嫌っているわけでもないのだが、社会主義や社会民主主義的な政治体制がそもそも政府を利用して社会的に弱い立場の人々を救おうとする傾向だから、そのためには積極財政政策の類いをやらざるを得ないという事の成り行き自体が、何か接木的な無理がありそうに思われて、それに対してハーバーマスなんかは一つの国家では賄いきれないなら国家連合としてのEUがあるじゃないかと主張したいのかも知れないが、それもイーロン・マスクにしてみれば官僚組織の膨張によってコスト負担に耐えきれなくなると主張するわけで、その種の主張がいわゆる無敵の主張に対する制限や制約を前提としたつましい主張になるのだろうが、どちらがどうだというわけでもなく、時期や地域などの事情や経緯などが作用してくれば、それに伴って実現可能な条件もそれなりに求まってくるかも知れないが、それも統治に失敗した国家から曲がりなりにも統治が成り立っている国家へと移民が押し寄せることになるから、それへの対処が統治の失敗をもたらすから、結局はうまくいかなくなるわけで、ではなぜ統治がうまくいかなくなるのかといえば、国家間で経済格差があるし、地理的な条件も歴史的な経緯も人口も異なるから、どの国でも同じように経済が発展できるわけでもなく、統治のやり方も民主主義的な統治体制にはなりがたく、結果的にどうしても統治がうまくいかなくなれば人が生活できなくなるから、移民となって外国に出ていくしかなくなって、出て行った先の国で移民排斥などの問題が起こるのだろうが、果たして統治がうまくいかなくなった国を国連などを通じて他の国々が援助して立ち直らせることができるかというと、それもうまく行った事例と未だにうまく行かない事例があるだろうし、アフガニスタンなどは何十年も援助し続けたのだろうが、結局は非民主的なタリバンの支配下に落ち着いて、今も非人道的な行為が繰り返されている実態もあるらしいし、こじれにこじれてどうにもならない状況が延々と続いて行きそうだが、もちろん日本でも隙あらば民主主義とは違う統治体制を目指そうとする機運が高まるのだから、どうもそういうところで左翼リベラル的な民主主義の価値観を嫌う傾向が根強く社会に蔓延っているみたいで、それが資本主義市場経済の中で経済活動の自由を追求する傾向との間で矛盾を生じさせると考えるなら、果たしてその矛盾を産業の発展によって止揚することが可能なのかどうかも、実際に現状で優勢となっている産業発展の結果からわかったりわからなかったりするかも知れないものの、意識してそれを目指そうとしなくても成り行き的にはそうならざるを得ないのかも知れない。
2月17日「ロジックとは異なる印象」
何かを語ると、語り足りないような、語る範囲や時間が限られているような、そもそも語っていないような、ただ文章を記しているに過ぎないことだが、語る人にはその人に特有のロジックがあって、そのロジックに従って語って行くと、その人にとってのいつもながらの主張となって言説が構成されてくると安心したくなるのだが、例えばそれが勧善懲悪の昭和の時代劇のような内容となってくると、老人特有の単純化された善と悪の世界観で内容が完結しているなんて今の時代にはあり得ないかも知れないが、そうなるとトランプやイーロン・マスクなんてまるで悪の権化のような語られ方をされて、そんなふうに決めつけられたSNSの書き込みを読んで、何か痛々しい思いが募ってきたが、確か昨年暮れのバイデン政権の時に、テスラのサイバートラックが頑丈だから軍用のトラックとして使おうとして、購入費用として国防総省が結構な額の予算を計上したらしいのだが、それが今年になってトランプ政権下でのイーロン・マスクとの関連で利益相反ではないかとメディアが少し騒ぎ始めたら、そら見たことかとまるで鬼の首を取ったかのような激しい攻撃的な内容をSNSに書き込んで、どうだ参ったかとばかりに悦に入っているわけでもないのだろうが、何か金持ちに対するルサンチマンだと受け取られかねないような内容にもなっているのを当人が気づいていないのか、あるいはわざとそう受け取られるようにしているのかも、自分もあまり文章読解力に自信がある方でもないので何とも言えないところだが、その種の左翼的な傾向にある人に特有な共産党的な文章というと何となくなるほどと伝わるニュアンスかも知れないが、その人も含めて何らかの傾向的なロジックに囚われていることは確かで、もちろん今の時代の共産党を代表する存在である山添議員や田村委員長などは、そうなってはまずいことを肌で感じているのか、そんな傾向にはならないようにちゃんと言葉を選んで言説を構成しているというと、それもこちらの勝手な推測に過ぎないのだが、そういうまずいと思われる傾向の言説に久しぶりに出くわして感動しているとも言えず、その人をフォローしているわけだから毎日のようにその種の書き込みを読んでニヤリと微妙な笑みを浮かべながらも、それが何かの反面教師のような精神のバランスを保つための素材だとも言えないが、そんないかにもな人ほど立憲民主党の野田代表などが目の敵となっているようで、野田代表が何か発言する度にSNSでディスっているわけだが、そういう人たちにとっては腹が立って仕方がない人なのだろうが、そうなっていることを考慮に入れるならちょっと立憲民主党が主導する政権交代などあり得ないような感じがしてしまうが、そんな人たちと比較するのも気が退けるが、イーロン・マスクは自身がドイツの極右政党と言われるAfDを支持することによって、ドイツやヨーロッパの良心的な左翼リベラル層から反感を買ってテスラ車が売れなくなることを知っているはずだが、やはり断固として支持してしまうわけだから、そういうところはどう見ても昭和のテレビ時代劇の悪代官に賄賂を贈る越後屋などとは全く次元の違ったキャラクターなのは誰もが承知しているはずだが、イーロンにはイーロンのロジックがあって、イーロンやテスラの信者や支持者がやめてほしいと思うようなことを平然と大胆不敵にやってしまうのがイーロンのイーロンたる所以であって、それがツイッターの買収であったりトランプへの支持であったりするわけだから、そんなイーロン・マスクに対してどんなロジックを当てはめてみても、何かずれているような気がしてしまうわけで、彼のやることなすことの全てがうまくいくとは限らないし、大失敗してしまった方がかえってせいせいするかも知れないが、わざとそんな嘘をついておいても構わないようなことなのかも知れないし、それでも勝算があったり勘が働けばやってしまうのが、どう考えても日本的なごまかしやまやかしが通用しないヤバい領域で行われていることの全てなのかも知れず、だからどうだというわけでもないのだが、それに対して自分も含めて日本的なぬるま湯体質が骨の髄まで染みついている側から何かもっともらしく感じられるようなロジックを当てはめられるかといっても、どうもこれといって思い浮かぶわけでもないのだが、少なくとも米国政府に関連する領域でイーロンがやっていることややろうとしていることを素直に受け止めるなら、政府の官僚機構の無駄を削減して政府の債務額を対GDP比で3%を超えない範囲内という現状で考えられている妥当な水準へ持って行こうとしているわけで、その無駄を削減するやり方が強引でしかもこれ見よがしで各方面から非難されるようなやり方だとしても、今まで誰もやろうとしてもできなかったことをやろうとしているわけだから、当然の結果としてそういうことをやってしまおうとしていることに対しては激しい抵抗に遭うだろうし、激しい抵抗に遭っている最中なのかも知れないが、それを勧善懲悪的な昭和の時代劇のようなロジックに強引に当てはめて悪の権化のような存在のように扱って激しく罵倒してみても、やはりリアリティを感じないのはわかりきったことではあるのだが、そういう感じで自身の言説を紋切り型的に構成せざるを得ない経緯や事情がどこから生じてくるのかといえば、どうしても勧善懲悪的な昭和の時代劇の光景が思い浮かんでしまって、何だか愉快な気分になって、ニヤリと笑みを浮かべながらそんなSNSの書き込みを読んでいる自分がまさにぬるま湯体質なのかと気づいてしまって、ちょっとだけ自己嫌悪感を覚えるのだが、そういうふざけた感覚のレベルでは、気休めや気晴らしの娯楽となる程度でそれで間に合ってしまうわけだから、それではまずいわけでもなく、かえってそうなればそれを真に受けずに済んでしまうから良かったと言えるようなことかも知れず、そんなぬるい感覚でいても構わない時もあるが、できれば本気で物事に取り組んでいる感覚でいる時の方がメインの時間帯として人生の大半を占めている感じになっていたいから、いつもそうなっていてはまずいような気がするわけだろうが、そんなふうに生活にメリハリをつけようとしてもつけられない事態に直面しているのかも知れず、それもだからどうしたと言われると何も返答できなくなってしまうが、人には人の領分があって、そうした領分からその人に固有のロジックが生じてくるというと、その人だけに固有というわけでもなく、それも集団的な共同幻想の類いからその典型例となるような紋切り型のロジックも生じてきて、それが昭和の時代劇を通してもたらされた勧善懲悪的なロジックとなって、そんなテレビ番組を見ていた人々の思考を支配していたわけだろうが、それによって完全に支配されて人々がそんなロジックによって操られていたわけでもなく、支配されている感覚など誰にもなかっただろうし、実際にテレビ時代劇による支配などなかったはずだが、それでも何かふとした拍子に誰かの言説の中にその種の痕跡を感じさせるような印象が残っていると、やはり思わずニヤリと笑みを浮かべながら嬉しくなってしまうわけだ。
2月16日「自然の摂理」
それの何が不条理だと思うわけでもなく、それが何だかわからないのはいつものことには違いないのだが、わかっていてもわからないふりをしながら、当たり前の対応に難癖つけるのは、何か良くないことをやっているような気がすると共に、そんな枝葉末節などうでもいいことにこだわるのも良くないことのようにも思えるのだから、そんな思いとは裏腹なことを述べていること自体が不条理だと感じられて、結局は不条理でも何でもないことを不条理であるかのように思わせることに失敗しているらしく、そういう回りくどい述べ方はやめておいた方が良さそうで、もっと素直に批判の対象を直接批判するようなことにならないと意味不明になってしまうわけで、だから何だというわけでもないのだが、何でもないようなことを大げさに強調するのもわざとらしく感じられる限りで、誰がどんなに強引なやり方で事を進めようとしても、その人物が世の中の成り行きに従っている面では自由に好き勝手にそんなことをやっているわけではなく、それなりに制限や制約が課されているからその人物の思い通りにはならず、そういう面ではプーチンもトランプも思い通りのことがやれていない現状があるらしく、何かしらうまく行かない現状を打開すべく手を打とうとしているわけで、手を打ったところでうまく行くとも限らないし、さらなる面倒で打開困難な事態が待ち受けているかも知れないが、打開困難である方が逆説的には都合が良く、いつもの主張の中で強調されているところとは別のところに無意識の真意が潜んでいるからわかりにくく、そんな無意識に意識が支配され制御されているとしても、それに伴って行動や言動が発動した結果も両義的で諸刃の剣のような効果がもたらされるから、どう考えてもその人物の主張や利害や都合がそのまま反映された結果がもたらされているとは言い難く、たとえそれが過去の二の舞のような結果になろうとも、そうなることが危惧されていても、実際にそうなったところで、絶えずそれで構わないようなことになってしまうわけだから、もちろんそれでは駄目だと多くの人々が思うだろうし、実際に苛烈な批判や非難がこれでもかと浴びせられるのだが、そうなっても相変わらず神の真意がそこにあるわけではなく、それが神の真意とも自然の狡知が作用した結果とも思えないような何かをもたらして、それに誰もが気づくわけでもないのだろうが、そんな成り行きに沿って事態の進展がもたらされるから、そういう成り行きには黙って従うしかないのかも知れず、黙っていなくても文句や不平不満を呟きながらも従わされている成り行きがあるわけだから、そうなっている者にとっては否応なく自身の意向に逆らってでも従わざるを得ないから腹が立つわけだが、そういうところでその人の信じている理屈や論理にどれほどの説得力があるのかと問うまでもなく、不快感と共に半信半疑な疑念を抱きながらもそんな成り行きに沿った行動や言動が自身から否応なく出力されてくるわけだから、そんな成り行きによって行動や言動がコントロールされていることを自覚できるかどうかもその人の技量や力量に含まれてくるかも知れないし、たとえ無自覚に逆らおうとしても逆らえないような葛藤がその人の疲労や老化をもたらして心身への負担として顕在化してくるようなら、否応なくそうなってしまうことに対して諦念を抱きながらも、なるべく逆らわないように工夫を凝らしている人よりも自身の寿命を縮めている可能性が高いとしても、結局は何のことやらさっぱりわからないかも知れないが、果たしてそれがその人の反逆精神を形成しているなら、それに伴って不要な心身の浪費によってその人の死も間近に迫っているような気もしてくるから、何か現状でも気の毒な心身の疲弊状態をもたらしているのかも知れず、そうならないように工夫を凝らすなら、意識してそうやっているとも思えないが、無意識による意識のコントロールによって自然の成り行きに従う行動や言動が出力されるように配慮されていれば、果たして天寿を全うすることができるかといっても、そんなのはその人の運次第だと思っておいた方が無難だろうし、天寿を全うすることがその人の目的ではないなら、たとえ自身の寿命を縮めることになろうとも神や自然への反逆精神を養う成り行きになってしまい、それなりの代償を払うことによって成し遂げられる成果の類いがもたらされるかも知れないし、そうなるのもその人の運次第かも知れないが、普通はそんなことまで意識できないからどうなろうと知ったことではなく、それよりは自らの気休めや気晴らし目的でゲームの類いに参加しながら、その中でもいかにうまく立ち回れるかを他のゲーム参加者と競い合っていることを意識せざるを得ないから、それだけそういう意味不明なことに対する興味も関心も奪われていて、神の真意や自然の意向がそこには働いていないことに気づけないわけだが、果たしてそれを見えないようにしているのが人工的な遮蔽幕なのか、あるいはそんなもので覆い隠すまでもないことなのかも含めて検討の余地がありそうに思えるわけでもないだろうが、そこで見えている光景や背景からあえて意図的に目を背ける理由など何もないわけではなく、見たくないものが見えないようにわざと人工的な遮蔽幕をこしらえているわけでもないだろうが、しかもその遮蔽幕が言語的な主張から構成されているとさらに面倒な事態になっていて、そうやって見たくない物事や認めたくない物事をその場の都合に沿ったレッテル貼りによって変形して見せたり、その物事の一面だけを強調したり誇張したり拡大解釈して他の面は無視することによって単純化してわかりやすいフィクションとして提示して見せたり、そうやって恣意的なねじ曲げや歪曲を施さないと批判や非難の対象とはなり得ないとしたら、遮蔽幕自体がそれを観る者にとっても観せたい組織や勢力にとっても、それらの人々にとって都合の良い幻影を映し出すスクリーンとして機能しているのではないかと映画的な比喩を用いて語りたくなってしまうが、語りたくなるのだからそれも言語的なフィクションになってしまうのかも知れず、現実に存在しているものや現実に起こっていることを言葉を用いて表現する度にいちいちそれをフィクションだと断定していてはきりがないが、そうやって物事の一面しか語っていないわけではなく、絶えず多面的に語ろうとはしているものの、それだけでは言葉が足りないから、それも否応なく語るのに都合の良いフィクションが自ずから構成されてしまう限りで、それがその場の都合や成り行きに沿った出力結果になるのには違いないわけで、問題なのはそれ自体ではなく、そういう成り行きをもたらす過程の中にそういうことをやっている者の恣意的な意図や思惑を介在させていることになるとも思えないが、言語表現によってそれをそのままの形で示せないことがわかりきっているなら、そのままの形で示せない理由がそういうことをやっている者の限界や制約を構成していて、その限界や制約によってその者の思考や行動や言動などが制限を受けていることを理解できれば、それが同時にその者が抱え込んでいる長所でも短所でも欠点でも欠陥でも肯定できる面でも否定できる面でもどちらでもない面でもあると理解しておけばいいのかも知れない。
2月15日「情報過多の代償」
無駄な情報が多すぎて消化しきれないようなら、少しは入力を削れば良さそうだが、何がそうなのかといっても、何が無駄で何が有用なのかもよくわからず、無駄な情報をありがたがって有用な情報を切り捨てている可能性もあるだろうから、そういうところは自らの勘に頼るしかないが、もちろんそれでは駄目で、その情報が無駄か無駄でないかの判断を養わなければならないと思ったところで、その判断が怪しいのだから、結局は何だかよくわからないまま、その場の成り行きに従って必要だと思う情報を入手しようとするしかなく、結果的にそれが無駄だろうが有用だろうが、どちらとも判別がつかない情報まで意識の中に入ってくるわけで、これといって有効な対処ができるわけでもないのだろうが、そういうところはすぐにハウツー的な情報の活用法など探せばいくらでもあるだろうから、気休めがほしいならその種の活用法を試してみれば良さそうだが、それが気休めにしかならないなら無駄なのかも知れず、しかもこんな無駄なことを述べていること自体も気休めにもならない無駄な情報発信となってしまいかねないから、あまり意識して無駄な情報を削ろうとしない方が身のためだと思うか思わないかも何とも言えないが、何かしら余裕があるならくるものは拒まずに積極的に無駄な情報も受け入れる懐の深さも必要かも知れないが、その辺の事情も経緯も何とも言えないところで、ただ何となく生きているようでいて、無意識の動作としてはここぞという時には効果的に動きたいのかも知れず、それが何の効果なのかも動いてからわかったりわからなかったりするようなことかも知れないが、わかったところでその場では効果があると感じても、時が経ってみればそうではないことを思い知るかも知れないし、またその場では何の効果もないように感じられても、時が経つにつれてじわじわと効果が出るようならしめたものなのだが、効果に気づくか気づかないかもよくわからないところで、たとえ気づかなくても効果が上がっていればいいのかも知れないが、効果が上がっているのにそれに気づかないとやめてしまうかも知れないし、そういう意味では効果が上がっていても、何だかわからないままその恩恵を受けていてもありがたみが感じられないだろうが、気のせいというもあるだろうから、気のせいでそう思われるような気休め的な効果では困るというなら、結局は金銭的な価値によって効果の度合いを計るような拝金主義にもなりかねないから、そういうのとは別に納得できる判断基準が必要だと感じられるかも知れないが、納得できたり説得力を感じられる理屈や論理こそがあやふやな幻想をもたらすわけで、理屈や論理を追求することもそれが必要な場面では満足のいく効果をもたらすかも知れないが、それが必要な場面というのも、いつどんな時に必要なのかと事前に効果的な場面や局面を想定しておくような感じになることもあるだろうが、何事も用意周到に事を進められるわけでもないだろうから、その場その時で即興で取り組まなければならない動作や言動が求められる場合も出てくるだろうし、実際にそうなってみないことにはわからないから、その場の成り行きに応じて効果的な動作や言動を繰り出そうとしてもうまくいかなければ能力不足で才能がないと思われても仕方のないことだから、それに関して何をどう考えてみても最適解の類いには辿り着けないのかも知れず、何が最適解なのかもこれといって判断基準や最適解を満たす条件も定まっていなければ、そんなのはよくわからないわけで、あらかじめ決められたルールの範囲内で行動や活動や言動などが制限を受けているわけでもなければ、ルールを決める必要があるのかどうかもよくわからないなら、何をやればいいのかも、どんなふうに振る舞えばいいのかも、これといって納得できるような動作になるわけでもなく、とりあえずその場の成り行きに応じて動いてみれば、その場が無人の荒野でなければそれなりに他人の反応が期待できるはずだが、何の反応もなければ無視されていると思っておいても構わないし、では何か反応が返ってくるまでは勝手に動いていればいいのかといっても、勝手に動けるなら動いていてもいいかも知れないが、それも時と場合によりけりだろうから、実際にはそうはならないと思っておけばいいとしても、何かそういうことではなく、それもどう考えても言葉では言い尽くせない現実のとりとめのなさに直面して途方に暮れてしまうようなことにでもなれば、いくらそれに関する情報を求めてみても一向に埒が明かないような事態にも直面して、無駄なゴミ情報ばかりに取り囲まれているのに肝心の情報が一向に入手できないような焦燥感を覚えずにはいられず、それに関する情報をいくら求めても既知の情報しかなく、自分で新たに事を起こさないと現実を作り変えられないことに気づいたとしても、果たして自分の力で現実を作り変えられるのかといっても、それも自身が動いてからわかるようなことでもあって、実際に山本太郎のように動いてそれまでにない新たな状況をもたらしたとしても、それが何かしら効果を上げているのかといえば、確かに何らかの効果を上げているのだろうが、当人としてはまだ不十分だと思っているのだろうから、さらに効果を上げるべく動いて行くのだろうが、そういう成り行きを見習って新たについてくるムーヴメントというのも、二匹目のドジョウが石丸伸二のような人物なのだろうから、それが山本太郎ではなく橋下徹の二番煎じだと揶揄したくなる人々もいるかも知れないが、何かの劣化版が新たな改革の旗手のように見なされる成り行きも、勘違いな人には新鮮に感じられるわけで、そんな人はホンモノとキッチュの見分けがつかないと思われても、それも勘違いの最たる認識なのかも知れず、その種のまがいものこそが世間で一過性の流行現象のようにしてもてはやされるとしたり顔で言い放ってみたところで、ではホンモノがどこにいるのか、ホンモノはお前なのかと言い返されてみれば沈黙するしかないとも言えないし、それさえもそういうことではなく、世の中の成り行きに合わせてそんなちょっと見てくれが良くてカッコ良さそうな人物が登場してくるから、それに合わせてメディアもそんな人物たちに脚光を浴びせれば、何となくそういう風潮ができあがるような感じになるわけで、それが何だといっても、ありのままの現実であって、それ以上の情報などありもしないことを捏造でもしない限りは出てこないと思っておけばいいとも言えず、それらが言語の対象になるなら装飾過多になるように過剰に言い表されて、それが言語的な幻想に過ぎないのだろうが、それに対する反応として何かしら毀誉褒貶的な感情のリアリティも伴ってくるから、それらの人物が他の一般人とは一味違う特別な存在であるかのような幻想がもたらされるとしても、実際には何が行われているのかといえば、その政治的な実態に実績が伴ってこないと一過性の流行り廃りで終わってしまうのだとしても、そこには依然としてそうとも言い切れないような何か得体の知れない幻影の類いが感じ取れるのかも知れない。
2月14日「テロとの戦いとは違う論理」
簡単に言うならテロ組織は撲滅しなければならないが、そのテロ組織がハマスやヒズボラだと、そうも行かなくなる理由を見つけられるかというと、ハマスに関してはテロとは違う方面でも治安や行政などの活動もしているから、そちらの方を重視すれば安易にテロ組織だとレッテル貼りできなくなる人も出てくるかも知れないし、それを言うならヒズボラも一般的には武装組織であり政治勢力でもある面の方が大きいだろうから、安易にテロ組織だとは言えなくなってきて、イエメンのフーシ派などと同じカテゴリーにも入りそうだが、ヒズボラ自体がイスラエルの諜報機関によるテロ攻撃によって多数の戦闘員が携帯端末に仕掛けられていた誘導爆弾が爆発して死傷して弱体化してしまった経緯もあるし、それがイスラエル政府によるテロ組織を撲滅する作戦の一環なのだろうから、単純にテロにはテロで対抗という構図を当てはめても構わないかどうかも、簡単には肯定できないような気もしてくるが、そんな情勢に合わせて日本でタカ派だと目されている政治家などがハマスやヒズボラなどのテロ組織は撲滅しなければならないと発言すれば、すぐさまそうだと賛同してその発言を支持したくなる人が出てくるなら、そんな人は単なる部外者感覚で遠く離れた地域に住んでいる一市民がそう反応しているに過ぎないと理解しておいても構わないかといっても、現地に住んでいてイスラエルの攻撃によって被災して家や職場が瓦礫の山となり親族や家族や友人が死傷した市民なら、イスラエルやアメリカこそがテロ国家だと非難したくなるだろうから、日本に住んでいてそんな想像を巡らしてしまうこと自体も、何となくそんな気がする程度のことなのだが、ではテロとの戦いではなく、テロのない社会を実現しなければならないと主張してみたところで、瓦礫の山と化したガザ地区を開発してリゾートホテルが建ち並ぶ一大観光地にするんだと能天気な構想をぶち上げるトランプを支持できるかというと、それはかなり違うんじゃないかと疑念を覚えるのも普通の感覚だろうが、何かの冗談のようなことを平気で口走ってしまうその非常識な老人を狂人だと非難したい人もいくらでも出てくるだろうが、そういう常識的な感覚が通用しない世界になってきているのかも知れず、そのトランプの横で息子のX君を肩車しながら吃音混じりに調子に乗ってしゃべりまくるイーロン・マスクの姿を苦々しく思いながら見ている人もいくらでもいそうだが、そのイーロン・マスクが掲げているのがテロとの戦いではなく官僚組織との戦いであって、それが右翼と左翼との戦いだと単純化できないところが新機軸というわけでもなく、昔から新自由主義に傾倒する人々が唱えていることでもあるのだろうが、要するに社会主義や社会民主主義の政治体制が行政の官僚機構の膨張を招いていて、そのコスト的な無駄を削れないから、そこに新自由主義陣営としてはつけ込む隙が生じているということであり、なぜそれらの左翼リベラル陣営が行政の無駄を削れないのかというと、それを無駄だとは理解していないだろうし、無駄であるどころか弱者救済のような大義名分を伴う活動を行政が率先してやらなければならないという使命感に突き動かされている限りで肯定できるはずだが、そういう誰もが否定できない建前に隠れて不正行為や不正な蓄財が行われているのを突き止めて、ほら見ろお前らだって偽善者じゃないかと暴露したいわけで、なるほど善人の仮面を被った悪人の類いを吊し上げて、そんな成果を見せつけることによって行政の無駄を削ることが目的の自分たちの活動を正当化したいと理解しておけばいいのかといえば、果たして左翼リベラルメディアがそれをそのまま伝えるかというと、実態としてはそうではなく、逆に弱者救済の大義名分に沿って正当な活動をしている組織をコスト削減の対象にして縮小しようとしているのだと非難するわけで、どちらの言い分が正しいか否かというよりは、その否定的な面と肯定的な面を伝える側の都合に合わせて強調する一方で都合の悪い面は無視していると受け取るしかなく、公平な観点からそう伝えているわけではなく、戦略的かつ功利的な観点から伝える内容を都合に合わせて取捨選択していると言えそうだが、その一方で政府の財政赤字の削減という別の大義名分もあるわけで、それを日本の積極財政派のようにちゃぶ台返しのようにして全く心配ないようなことを主張しても大丈夫なのかと疑念を抱いてしまうのだが、それもどうも日本の積極財政派の非常識のような特殊な常識が世界では通用していない感じがしているから、現状で成り立っていることが今後どうなっていくのかについても興味が尽きないわけだが、少なくともアメリカで高金利状態が慢性化しているこの機会を捉えて、日銀としても財務省としても日本政府としても、異次元金融緩和状態を改めて諸外国並みの金利状態へと金利を上げていって、いわゆる金融正常化を実現したいのだろうが、しかも物価のインフレが今後も続いていくなら、通貨の価値が下がって債務の削減に役立つ一方で債務の金利も上がるから痛し痒しな面もあるとしても、そういう金融的な損得勘定の面は表面的なことでしかないだろうし、それよりは産業的な面で稼ぐ力を上げていかなければ話にならないと考えるなら、政府がどうこうというよりは、民間で産業が育っていかないと経済成長も期待できないから、そこからジリ貧な国内状態になりそうかというと、そこでも政府や大企業などの官僚組織が問題化してくれば、要するに組織や機構の中で大して稼いでないところに巨額の収入がもたらされていると言えるかというところで、気づきにくい勘違いの類いが生じているように感じられるのだが、それを単純化すれば無駄な高給取りをなくすことが官僚組織や官僚機構の改革だと言えるかも知れないが、本当にそうなのかというと微妙にずれてくるのかも知れないが、結局は物や情報やサービスの売買や貸借の過程で中間搾取的な部分をいかに削るかにコスト削減の成否がかかってくるのだろうが、経済活動ではそうだと言えそうだが、政治活動になってくるとそれとは違う傾向が伴ってくるだろうから、果たして政治活動自体が行政の無駄を削減することが目的となってくるかというと、それ以外にも優先すべき目的があって、その最も優先すべき目的というのが弱者救済的な活動になってくると左翼リベラル的な価値観からすれば主張したくなるところだろうが、その一方で新自由主義的な価値観すれば最も優先すべき目的とは何かといえば、いかにして功利的かつ効率的に利益を得られるかということになるかというと、そう考えがちになってしまう人もいくらでもいるだろうが、たぶんそうではないわけで、そもそも自由主義という概念の意味をそのまま受け止めるなら、自由な状態になることを求めていると解釈しておいた方が良さそうで、そのための手段として経済活動も選択肢となってくるだろうが、経済活動の自由を求めることも自由主義の一種なのだから、そういうところで拝金主義的な勘違いも生じてくるのではないか。
2月13日「意表をつく話の展開」
唐突にそんなことを言われても困惑するしかないが、何を言われているわけでもないとしたら、何かの幻聴なのかと疑念を覚えるわけでもなく、それでもそう言われたのだから、何か言い返さなければならなくなって、その場で何か言い返したはずだが記憶になく、果たしてそこで会話が成り立っていたのかも定かでないなら、声が人混みの喧騒にかき消されながらも各々が勝手に独り言を呟いていたに過ぎないとしたら、たぶんそれが会話とは言えず、独白の分散状態と言ったらしっくりくるわけでもないが、それが眠っている最中の夢の中での出来事であるはずもなく、どこかの街中で交わされた会話とも言えないような一方通行の言いっ放しでしかないだろうが、なぜそんなことを思い出すのか、思い出したのではなく即興的な話の捏造に他ならないかも知れないが、わけがわからないというと、またいつもの調子に戻ってしまいそうで、見せかけの会話といっても何がそこで見せかけられているのか説明が必要だが、これといって何を説明する気にもならず、会話の内容を云々する以前にそれとこれとは違うだろうとツッコミを入れたくなるようなことに過ぎないとしても、事でもないとしたら、そこでは何も起こらなかったことになってしまいそうだが、言葉と言葉が交わらないのだから会話など成立しないし、そんな状態を第三者が恣意的に都合の良い部分だけ切り取ってきて、それらを適当につなぎ合わせてあたかも会話しているように再構成してみせただけなのだろうが、それの何がおもしろいと言ってみたところで、肝心の内容が明かされないままでは話にならないが、あらかじめ予想がつくようなことを言わなければならない立場でもないのだから、もっと自由にその場の即興で工夫を凝らしてみれば良さそうなものだが、そうも行かないのが制度的な言葉のやりとりであって、質問に対する答えを前もって用意している範囲内で応答しているわけだから、そういう面も考慮に入れて答弁の内容を受け止めておけば良さそうで、だから何だと言い返すこともないが、話の行き先がそこからどこに辿り着こうとそんなことはどうでもよく、ことさらに隙あらば相手の意表を突こうと狙っているわけでもないとしても、相手の言っている話の内容を意味通りに受け取ってはならないわけでもないはずだが、どう考えてもはぐらかそうとしているとしか感じられないなら、不誠実な態度であることが明白なのだから、まともに取り合わないことが肝要なのかも知れないが、それがこちらの受け取りようによっては誠実な印象にも受け取れるとしたら何なのかといえば、相手の知的な雰囲気に呑まれてはいけないし、その有り余る知性に騙されてはならないということになりそうで、もちろん実態としては騙されるということではなく、相手の言っている内容をそのままの意味通りに受け取っておけばいいのだろうが、それ以前の大前提として、それとこれとは違うレベルや次元の話であることも踏まえておかないと、相手の話の延長上で行われていることと、こちらが問題視している実態とは無関係であるわけでもないにしても、その話の延長上にある実態とは別のところにこちらが問題視している実態があるわけだから、やはりそれとこれとは違うレベルや次元の話であることはわかった上で、それが相手の都合に沿った内容だと理解しておくしかないし、しかもそれ以前にこちらは相手にもなっていないし、論争の対象にもなれないレベルで話のコラージュが勝手に恣意的に行われている時点でフィクションにしかならないわけだが、それをフィクションだと受け取っておいてもいいのかというと、たとえフィクションであってもリアリティを感じられる限りは真に受けておいた方が良さそうで、実際にパレスチナの地ではひどいことが行われているわけだから、そんな事態の収拾を目指して行われる行為もひどい内容にならざるを得ず、きれいごとでは済まないのはもちろんのこと、批判や非難の対象にしかならないようなことが行われた末に、一応の事態の終息が図られるわけだろうから、それをもって解決したことにはならないし、解決を目指して事態の収拾を図ろうとしているとしても、逆に新たな見過ごすことなどできないひどいことが行われるわけだから、それを客観的に見るなら事態をより一層こじらせる結果に終わるのだろうが、それは今までもこじらせまくって現状の維持が図られるような成り行きへと持って行っているわけで、それが誰の目論見通りの結果であろうと、絶えず地域的な変動要因が顕在化していないと、つけ入る隙が生じてこないわけだから、そこにつけ込んで利益を得ようと企んでいる者や勢力がいると結果的にはいくらでも陰謀の類いを後付け的に付け加えてみたところで、何だかそれもよくできたフィクションなのか現実に起こっていることなのかどちらでも本当のことのように感じられるにしても、その種の妄想がもたらすわけ知り顔の雰囲気に呑まれてしまうと、それこそ有り余る知性に満ち溢れているテクノラートたちの思うつぼにハマってしまいそうで、ハマってしまっても構わないのだろうが、何だか大した知性の持ち主でもないエリート意識とは無縁のこちらとしては笑ってしまうしかなく、頭が悪いから相手の話について行けず、早々に関心を失ってそこから退散するしかないような事態がもたらされて、そこから先に歩を進めて行った先の何でもないような現実の街中で迷子になってしまったわけでもないのだが、なぜか昨晩見た夢の中でも街中で当てもなく右往左往しているような感じになっていて、何かそこで目的があったようななかったような、今もそれが思い出せずに、その代わりにとりとめのない嘘話も入り混じっているようにも感じられるから、話の全てがフィクションというわけでもないにしても、何かおかしな心理状態の中で文章を構成しているから、それに伴って現実と妄想が入り組んだ話の内容となっているのだろうが、そこで何が真実で何が虚構かといったところで、たぶんその全てが真実だと主張したくなるわけでもなく、全てが嘘だと述べておいた方が良さそうに感じられるのだが、嘘話の中にも一定の割合で真実が含まれていることを願っても願いが叶えられるとも思えないが、何か自意識が気づいていないことが含まれている可能性があるから、後から読み返してそれを見つけられたら文章を構成した意義も感じられる程度で、そこから新たな認識を得ようと試みるだろうから、そんな当てのない期待を抱きながらも、さらに述べるべきことを記憶の中から探し出そうとしているのかも知れないが、それが自分の記憶ではなく、他人の記憶でさえないような事態が待ち受けているとしたら、それこそが見ず知らずの誰かの意表をついた話の展開であるはずもないが、そういう得体の知れない匿名の記憶がネットを通して世界中へと送信されているとしたら、それを受信した者がそれに対して何をどう返信してみても当てがなく、それ自体も得体の知れない匿名の情報発信となりかねないわけでもないにしても、それらのどうでもいいような無数の記憶を反映して形成されるのがAIの類いだと理解したところで、それも勘違いの一種なのかも知れない。
2月12日「戦略的なこだわり」
わざとそれを循環論的に述べるなら、自身が関わっていると思い込んでいる物事の中で何を重視するかで、その人の主張や意見の傾向が定まってきそうだが、それ以前にその人がこだわっている物事を重視しているに決まっているが、しかもその人にとって都合の良い物事にこだわっていると考えるなら、その物事にその人の主張や意見が依存して構成されているはずで、そうやって戦略的にこだわっている方が都合が良いように受け取られる物事に対して、その戦略的かつ表面的なこだわりの下に真意が隠されているような感じになってくれば、その勢力が不自然にこだわっているように感じられる物事が、それが表面的にこだわっている物事の他にも、それに戦略的にこだわることによって有利な立場になりたいと受け止めても構わないのかというと、そういう勢力を支持している人たちも戦略的な思惑から支持しているようにも受け取られてしまうから、なるほどそんな戦略的なこだわりを強調する勢力もそれを支持する人たちもぐるなんだなと思うしかなくなって、そんな勢力やその支持者たちは信用できないと思っておいても構わないだろうが、例えば税額控除を103万円から178万円へと引き上げることだけを強調するという戦略にどれほどの人が引っかかってしまうとしても、それはそういうことだと思いたいわけだが、その一方でトランプを批判する共産党の田村委員長や山添議員が主張している内容が、トランプのガザ地区に関する主張が国際法に違反するからと受け止めても構わないのかというと、それ以外にも地球温暖化に関する国際的な取り決めも無視しているところも批判しているのだろうが、それが戦略的な思惑から批判しているとも感じられないだろうし、トランプの方がよほど戦略的な思惑から強引なことを主張していることも確かなのだが、国民民主党のこれ見よがしな胡散臭さとは別の意味や傾向を伴っているようにも感じられて、何か考えさせられるのだが、共産党の場合は従来からの支持者の心をつなぎ止めるためにもトランプを批判しなければならないし、そんなふうには意識していないのだろうが、そう見えてしまう程度のことなのだが、国民民主党の場合は騙されたふりをしても構わない人たちから支持を取り付けたいわけで、具体的には立憲民主党が主導する政権交代や選択的夫婦別姓法案の成立を阻止するためにも、野党を分断して国民民主党の政策や主張を支持してほしいわけだが、そのための大義名分として減税を主張しているわけで、しかも103万円の壁を178万円まで引き上げるというと具体的な提案までしていて、そこだけを強調することによって、何かもっともらしい印象を多くの人々の意識に植え付けようとしているのだろうが、よく考えてみればおかしいし、不自然な主張には違いないわけだが、誰もが真剣に政治と向き合っているわけではないし、好意的なイメージを振り撒くことによって気軽な支持を取り付けたい下心が見え見えだとしても、支持を装う人の中には、わざと騙されたふりを装いながら戦略的な見地から表面的に支持している人までいるわけだから、そういうところが空気を読む感覚なのだとしても、そういう人は昔の民社党や新自由クラブやみんなの党などの支持者と被るような人なのだろうが、どちらがどうだと言いたいわけでも事の良し悪しを判断したいわけでもないのだが、そんなことを考えている自分にもわかっていないことがあるらしく、変なふうに特定の分野で起こっていることを世界全体の情勢や傾向に絡めて述べようとしてしまうと、それこそ無意識のうちに詐欺的な詭弁を弄していることにもなりかねないから注意しなければならないが、少なくとも激しく対立して敵対しているように見える勢力の双方がお互いにお互いの立場や位置を補完し合う関係になっていることは確かであって、その補完という意味が補い合うことになるとしても、直接的にも間接的にも相手を攻撃しているのだから、相手の力を弱めたり場合によっては消滅に追い込むようなことをやっていて、どう見てもそれを補完関係だとは見えないわけだが、攻撃する相手がいなければ成り立たない立場を占めていること自体が危うい形態であることを認識できるなら、程度の強弱があるにしても批判対象に依存した主張だけに終始しているような意見には注意しなければならないし、また国民民主党のような不自然にピンポイントで具体的な提案だけを強調しているなら、何かそれ以外のところで空気を読んでほしい意図や思惑があるのかと穿った見方をせざるを得ないわけだが、そういった直接には言わないところで好意的な雰囲気やイメージ作りに長けているのが石丸現象と言われるような保守層に対する懐柔戦術でもあるのだろうが、それを戦術だなんて誰も思っていないし、当人は政策なしで選挙の立候補者を集めているわけだから、その政策がないというところに真面目な左翼やリベラルが噛みついてほしいのかも知れないが、それが逆説的な敵の敵は味方だ的な戦術となって、噛みついてくる左翼やリベラルが鬱陶しいと思う人がいたら我々を支持してほしいということだろうとこれも穿った見方をせざるを得ないが、そんなどうでもいいことを推測してしまってから、そんな程度で構わないのかと逆にそれらの現象に巻き込まれてしまう人々が心配になってきてしまうわけでもなく、それも表面的な成り行きとしてはそうなっても仕方がないし、それで構わないようなことだと突き放してそこから距離を置いて見ておいた方が無難なわけでもないだろうが、本当に扶養家族の誰かが103万円も働いて収入を得て、さらに税額控除が引き上げられたからといって、178万円まで働いて収入を得るようなら、扶養してもらわなくても構わないような感じにもなってしまうだろうから、本当にその当事者になれば確かに減税の効果が得られるはずだが、どれほどの人がその種の減税の恩恵に与れるかと考えてしまうと、なるほどそんな人は滅多にいないことも推測できるのだが、大半の人々は減税というイメージに惹かれて、自身はその対象者になれないとしても、好意的な印象を抱いて、減税に取り組んでいる国民民主党を支持する人もそれなりに出てくるのだろうから、果たしてそんな人が国民民主党の政治宣伝に引っかかっていると言えるかというと、そうでもないというか、その一方で貧乏人でもないのに貧乏人の味方を装うれいわ新選組に対して好意的な心象を抱いている人なんていくらでもいるだろうから、どこからどこまでがその種の政治宣伝に引っかかっているかなんてその線引きも線引きする人の立場や境遇にも依存してくるだろうから、何とでもその人の都合にまかせて勝手なことが言えるわけでもないが、何かそういうこととは次元やレベルの違う切実な判断基準があるかといっても、その種の勢力が宣伝として用いる戦略や戦術を理解した上で判断することしかできないし、それが必ずしも良し悪しの判断でも損得の判断でもないとしたら、自らの意思や意志とは別にその場の成り行きに判断が支配されてしまうようなことなのかも知れない。
2月11日「意志薄弱な理由」
なぜかどうしようもなく自分の意思や意志や意向などに逆らうようなことを自分自身がやってしまう事態に直面してしまうと、普通に困惑するのだが、なぜそうなってしまうのかというと、理由として思い浮かぶのが、神や守護霊の類いが思い通りのことをやらせないように誘導していると考えれば、そんなのは根拠のない妄想の類いには違いないが、それを無意識による自意識のコントロールだと言い換えてみたところで納得できるわけでもないが、そこから何を敷衍して述べたいわけでもないが、大衆市民社会と呼ばれる近代社会の成立と共に人の意識もそれ以前とは様変わりして、それに伴って人の無意識による意識のコントロールにも時代状況に合うような変更が加えられて、それが近代社会に特有の傾向をもたらしたと考えるなら、実際に起こった出来事を基にして何かもっともらしく語る必要に迫られそうだが、例えばフランス革命によって人々の意識に何らかの変更が加えられたというと、確かにフランス革命が市民による王権の打倒というそれまでにはなかった象徴的な出来事であったにしても、それが全世界に与えた影響となると、たかだかヨーロッパという一地域で起こったことだから、それなりに限定的な影響なのではないかと考えたくなるが、フランス革命という一つの事件がそうなのではなく、それによって様々な出来事がもたらされたということであって、その中の一つがフランス革命であったと考えるなら、それ以前にもイギリスの産業革命であったりピューリタン革命や名誉革命であったり、フランス革命と同時並行的にはアメリカ合衆国の建国であったり、そこから百年近く経って起こった南北戦争であったり、そこから影響を受けたプロイセン経由のドイツ帝国や明治維新経由の日本帝国の建国になってくると、フランス革命以降のナポレオンの登場とその失脚からの共和制や王制や帝制が数十年おきに打ち立てられるような紆余曲折の歴史的な経緯も絡んでくるわけだろうが、何がそれらの出来事をもたらしたのかといえば、どう考えても大衆市民社会の成立が、それに起因してそれらの出来事をもたらしたと単純化して考えても構わないのかというと、では何が大衆市民社会をもたらしたのかというと、産業の発展がそれをもたらしたと簡単に言えるが、では何が産業の発展をもたらしたのかと言えば、そこからが何を強調するかで微妙に見解が分かれてくるのかも知れないが、イギリスに関してならそこに石炭があったからそれを活用して産業革命が起こったと簡単に言ってみても、もっともらしく感じられるだろうが、ではフランスに関してなら隣国のイギリスの産業発展から影響を受けたと言えるかというと、それならドイツに関してもそう言えそうだが、そういうことをどんどん遡って行ってしまうときりがないから、とりあえずは産業発展と大衆市民社会の出現から考えてみると、工場制手工業の発達に伴って出てきた部分的に役割や能力を限定された人間の登場という出来事から、いわゆるパーツ的な人間が世の中に大量発生した時期が大衆市民社会の成立と同時並行して重なっていて、それが人として不完全であっても構わないどころか、人間自身が有限な存在であることが意識されたわけで、というか誰もそんなことは意識していないのだが、暗黙の了解事項として誰も意識していないのに、そんなことは当たり前のこととして踏まえられていて、それが人間であることの前提条件となっているわけだから、あえて意識しなくてもそんなことは誰もが理解しているはずで、わかりきっていることを改めて意識する必要などないわけだが、そうなると役割や能力がある特殊な方面に限定されているわけだから、それ以外のことについて能力や技量が不足していても構わないわけではないが、文句を言われても困ってしまうわけで、しかもそれが能力や技量などではなく、人としての在り方だと考えてしまうと、そういう在り方とは違う在り方や存在の形態や思考の構成が違う人にしてみれば、ある方面では理想的な在り方だと思われている人の存在が許し難いような、そんな存在に対して怒りが込み上げてくるような感じになってしまい、そういうところが簡単に右だとか左だとか表現してしまうと、何かそれが勘違いであるような気もしてくるわけだが、それを単なる社会的な役割分担の範囲内で捉えてみても、実際にそうなってしまっている人からすれば、自身と対立していたり敵対する立場を占有しているように感じられる他人を自分と同じ価値を共有する同じ人間だと認められるかというと、どう見ても特定の他人の行為や行動や言動を激しく糾弾しているような感じになっていれば、同じ人間として認めていないから攻撃しているように見えるわけで、果たしてそれが単なる社会的な役割分担の範囲内でそうなっているに過ぎないだなんて、どう見てもそうは見えないのだが、それを同じコインの面の表裏でしかないなんて、実際に対立や敵対している双方の人や勢力に向かって言ってみても、そんなのは聞き入れられないどころか無視されるに決まっているが、そういうところで視野狭窄というか1か0かどちらか一方の立場しかとれないような物事の構成の中で存在することしかできないから、量子論的に1と0の両方の立場を同時に占有できるようなことにはなり得ないわけだが、実際には重ね合わせの原理も働いているから、対立する立場の両方に重複するような曖昧で微妙な立場もあり得るだろうが、それが言葉を用いて意志表示などが伴ってくると、必然的に態度や姿勢をどちらか一方に明確化する成り行きになってしまうわけだから、そこから先が言語的なフィクションとなってしまうとしても、それには気づきようがないわけで、そうやって自他の対立したり敵対する立場を鮮明化したくて自身の立場に相応しい言説を構成しようとするのだから、自らの立場や態度や姿勢を言語を用いて明確化したり鮮明化させることが言語的な意味での立場や態度や姿勢の虚構化なのかと言えば、逆に現実化だと思いたいのかも知れないし、自らの立場や態度や姿勢を言語を用いてはっきりと示すことが政治的にも必要不可欠ではあるし、まさかそれがフィクションを信じることだとは思えないだろうから、そこからたとえ現実離れした妄想が生じてこようと、それ自体が自らが同時並行的に体験しつつある現実の出来事に違いないわけだから、それなりの言語表現的なリアリティが感じられる限りで、そんな言語表現によって自らが存在している現状を信じるしかなく、それが自分の都合を反映した勝手なフィクションを物語っていることだとは思えないわけだが、逆にそうなってしまうから他人との間で共同幻想的な共感作用に従って意思疎通や連携も可能となってくるかというと、社会自体に特定の立場や境遇に人々を振り分けるような機能や作用が備わっていると考えるなら、結果的にそうなるならそういうことだと受け止めておいても構わないかも知れないが、それも大衆市民社会の中で通用する各人の同質性と、それと重なり合って作用している産業社会の中で機能する役割分担の個別化が組み合わさる限りで、そこに存在している人間が生まれてから死ぬまでの時間の中で言語的な物語がフィクションとして構成されることもある程度の許容度で人々の間で共有される可能性も出てくるのかも知れない。
2月10日「いつもとは違う感じ」
いつものように何かが違うのはいつもと同じような感じだが、不完全なことしか述べられないのも誰もがそうなるしかないようなことでもあって、それに対して考えているのがそういうことではないと思うのも、いつもと同じ感覚で、何だかそれがマンネリ化しているようで、それもいつものことに違いないのだが、違っていても違わなくてもいつものことなら、ではいつもと違うとしたらどうなったら違うのか、それも考えあぐねるようなことでもないとしたら、何をどう考えてもいつものことに違いないとすれば、いつもこんな感じになってしまうのだから、いつもとは違う感じなんてあり得ないが、何がいつもとは違うのかといえば、何か間違ったことを述べているような気がするのもいつものことなのだから、いつもと違うような気がするのも間違っているのかも知れず、そうであるならいつもとは違うのではなく、これから間違ったことを述べようとしていると解釈しておけばいいのかというと、そうでもありそうでもないようなことを述べようとしているのかも知れないし、述べようとしているのではなく、何がそうでもありそうでもないのかもよくわからず、さらに考え込んでしまうが、それが考え込むようなことではないとすれば、簡単に理解できるようなことであって、間違うはずもないことであるなら、それがいつもとは違うような気もしてくるのだが、それに関して何が簡単に理解できるようなことなのかというと、歴史的な経緯がそうなのかも知れないが、それが簡単に理解できるようなことではないということが、実際には簡単に理解できるなら間違っていて、それが何なのかといえば、世界史の歴史的な経緯が簡単に理解できるようなことであって、しかもそれがある意味では間違っていることだとすれば、それに関して何を述べようとしているのか簡単には理解できないようなことでもあって、これまでにも世界の歴史に関して何も述べていないわけではないが、実質的には何も述べていないようなことでもあるなら、それをどう理解すればいいのかわからず困惑してしまうかも知れないが、それも困惑するようなことではないとすれば、それが何なのかが未だに明かされていないということであり、そうやって無駄に言葉を費やしているわけだが、その一方で絶えず視界から逃れ去る何かを目で追いかけているからといって、それを完全に捉えきれているわけでもないから、それが何だかわからないといっても、何か嘘をついているような感じになってしまうのだが、それを簡単に述べるなら、簡単に述べていること自体が間違いだと言われてしまいそうだが、歴史の連続性を信じてはいけないということであって、もちろん誰もがそれを信じているからこそ、わざと信じてはいけないと述べたくなってしまうわけで、そんな逆張り的な物言いには半ば飽きているのだが、そう述べるしかないような感じになってしまうから、これから自らが述べようとしていることに関して疑念を感じてしまうわけだが、もうすでにここまで述べているわけだから、今さらそれをなしにできるわけもなく、疑念を感じるようなことをさらに述べなければならなくなりつつあるのだが、歴史の連続性を語っている者が何を正当化しようとしているのかといえば、自分のみならず自分たちの存在を正当化しようとしているのはわかりきったことだが、それが自分のみならず自分たちの歴史なのかといえば、自分や自分たちの存在がその歴史に含まれているのだからそう思えるのもわかりきったことなのだろうが、自分や自分たちが存在する以前の歴史が果たして自分や自分たちの歴史なのかと考えるなら、歴史の連続性を信じるならそう思われて当然だが、そうなるとどこで歴史の区切りを入れるのかということが問題となってきて、また歴史が連続しているその地域と別の地域との境界もどこで区切りを入れるのかも問題となってくるだろうから、そこから自分や自分たちの存在を正当化するのに都合の良いところで境界を設けることになってきて、そういう恣意的な境界線の内と外とで歴史的にも地域的にも区別することができるわけだろうが、なぜそこで歴史的な連続性や地域的な連続性が途絶えるのかも、その理由というのが言語的・民族的・宗教的・人種的・遺伝学的な区別ができると信じたいのだろうが、そういうことをもっともらしく述べている者の欺瞞性というのも誰にとっても理解できるようなことなのかというと、そういう区別を信じている者にとっては理解したくないことなのかも知れず、わかっていても意識して理解しないようにしている者もいるかも知れないが、それも無意識が作用すれば嘘も方便のようにして信じられると思いたいのだが、そういう信仰から行動や言動が生じてくるなら、そんな行動や言動からも解決不可能な事態がもたらされてくるだろうから、そこから否応なく行動や言動が出力されてしまう者たちにとっての都合の良い理屈というのが、そんな者たちに抗う者たちにとって受け入れ難い理屈であって許し難い行動や言動だと思われる限りで、そこに対立や敵対の関係が構成されるわけだろうが、果たしてそんな対立や敵対の関係に連続性があるのかといえば、それもそうなった結果を恣意的に解釈する限りで連続性を設定できないこともないが、実際はそうではなく唐突にどこからともなく人や物や情報がもたらされるような機会に巡り会えるかというと、そういう機会が絶え間なくもたらされているからこそ世界がそれによって攪拌されて混ざり合っているわけで、それがある意味ではエントロピーの増大の法則に従った成り行きであり、そんな作用に抗っているのが歴史の連続性を信じる人々なわけだが、果たして彼らは本当に抗っているかというと、エントロピー増大の法則には逆らえないのも誰もが理解していると思いたいわけだが、逆らえない作用に抗っている人々が信じていることが何なのかというと、それが言語的・民族的・宗教的・人種的・遺伝学的な区別だと言いたくなってしまうが、もちろん実質的にはそんなことではなく、それが歴史的な連続性からもたらされる自分のみならず自分たちの存在の正当性を信じていることになると考えたくなってしまうのだが、本当にそうなるのかどうかもはっきりと言えるようなことでもないのかも知れないし、ただ漠然とそんな感じがする程度のことなのかも知れないが、それは日本の古代史などに人一倍のこだわりを持っているように見える人にも言えることかも知れないが、そんな人々に向かって何か言いたいことがあるかというと、それはお前の歴史ではなくお前たちの歴史でもなく他人の歴史だと言い切れるわけでもなく、お前たちと古代人との間に連続性などなく、現代人は誰もが根なし草であり、それに対して古代人は他者であり他人なのだと力説しても理解不能で意味不明になってしまうかも知れないが、何かもっともらしくない嘘も方便にもならないようなことを言い放ってみたくなるなら、そこに連続性とは真逆の不連続性や非連続性を意識している証拠が見出されるわけでもないが、何となくそう思い込めばいつもとは違う感じがしてしまうわけだ。
2月9日「慣習ではない」
感触としてはそう考えることが間違っているとは思えないのだが、具体的に何をどう考えているのかというと、主張や行為や行動を正当化するためにもっともらしい理屈を導き出そうとしているみたいだが、その理屈が何なのかといえば、それが社会の慣習に依存して導き出される理屈だからもっともらしく思われて、もちろんもっともらしいことが正しいとは限らないが、慣習とは何なのかと言えば、社会的な成り行きの中で発生してくるような多くの人々に共通する思考や行動や動作のパターンとなり、例えばそれが物や情報やサービスの売買や貸借から生じてくる慣習なら誰もが理解できそうだが、慣習とは理解できない慣習があるというか、そんなのは慣習ではないと反駁したくなるような慣習があるかというと、例えば物事を単純化して考えることが多くの人々にとって半ば慣習と化しているとは言い切れないような気はするが、単純化の効用を理解できないわけではなく、それを単純化ではなく効率化と考えれば、何やらその方が効果や成果が伴ってくるような感じもしてくるが、ではそれとこれとがどう違うのかと考えてみると、そんなのはネットでそれぞれの意味やその比較を検索してみれば通り一遍の解釈が導き出されてくるだろうから、それほどこだわりがなければそれで済ませておけば、何やら雑学的な知識の習得の範囲内に落ち着いてしまいそうだが、そういう範囲内にとどめておいてそれ以上は踏み込まないことも、知識の泥沼にはまり込まないための知恵となるかならないかも、各自の立場や境遇によっても異なってくるだろうし、果たしてそういう知識の取り扱いも慣習に基づいて思考していることになるかというと、そんなのも怪しいことでしかないが、確実なことが言える範囲内では、例えば電子回路内の電気信号を光信号に置き換えればそれだけ省電力化が実現できて、それによって電子回路の働き自体も速くなって効率化されるはずだが、そういう技術を研究しているのが日本ではNTTであるなら、そういった近未来の技術がNTTによって実現できるなら、NTT株の将来の値上がりも期待できるかというと、ところが肝心の企業としてのNTTの組織が非効率な官僚主義によって蝕まれていて、そういうところが経営危機に陥っている今話題の日産や少し前までの話題となっていた東芝などと同じ傾向なのだろうし、同じような研究を手掛けているアメリカや台湾などの企業に先を越されて研究技術を実用化されてしまえば、技術はあっても宝の持ち腐れとなりかねないから、NTT株への長期的な投資はやめておいた方が良さそうな感触なのだが、NTTが今後ぬるま湯的な官僚主義の悪習から脱却する機会がやってくるかどうかも、すでに通信業界はKDDIとソフトバンクと共に寡占化が成り立っていて、そこに楽天が参入したところで未だに赤字の垂れ流し状態だから、何もしなくても三社の独占状態が維持されてしまう限りで、長期低落傾向のぬるま湯状態の官僚主義でも間に合ってしまいそうだが、果たしてそこにスペースXのスターリンクが衛星通信を利用して独自のサービスを直接提供するような事態になっても、コスト面で人工衛星の打ち上げ費用や維持管理と地上の基地局の開設費用や維持管理のどちらに有利性があるかなんて素人にはよくわからないが、何事も競争にさらされることが必要だとも言えないだろうし、否応なく弱肉強食のような成り行きに巻き込まれるなら、そこで嫌でも競争が起こるのだろうが、果たしてそういう企業間競争やさらにそこから範囲を広げた国家間競争などが社会の慣習に基づいているかなんて、にわかには理解の範疇に入ってこないことだが、競争が人間社会の慣習なのかといっても、直接食うか食われるかの動物的な関係ではないことは確かだとしても、直接の殺し合いにならないようにルールに基づいた競争にとどめておくことで、人間社会が成り立っていると考えるなら、何かそれなりに肯定できる感じになってくるだろうが、実際には殺し合いも起こっていて、それが国家間で大規模に行われると戦争になってしまうが、それを競争にとどめようとして決定的な対立や敵対に至らないように交渉や駆け引きや取引などが必要に応じて行われて、そうやってなし崩し的な競争状態や競合状態が維持されるとしても、そういう状態がさらに軟化して談合状態になってしまうと、支配的な立場にある者たちが主導して利益を独占するような不公平で非効率な官僚主義が蔓延してしまって、被支配的な立場にある者たちが一方的に搾取されることになってしまうから、対等な立場での競争状態や競合状態を維持継続させなければならず、そうなるように持って行くためのルール改正が力の不均衡がもたらされる度に行われなければならないだろうが、それも建前としてそんな理想論が主張されたり暗黙の了解事項として世の中に行き渡っている程度に過ぎないことかも知れないが、そもそも官僚主義が非効率なのかということが認識が間違っているような気もするし、組織を効率的に動作させるために官僚機構が編み出されてきた経緯があるのだから、昔は少なくとも組織を効率的に支配して管理するには官僚機構が欠かせなかったわけで、そういう認識は現代でもある程度は通用しているはずだが、その一方で無駄に指揮命令系統が増殖してしまうという弊害も昔から指摘されてきたことではあるだろうし、その点では今話題の日産などでも同業他社に比べて高給取りの執行役員の数が多すぎる問題などが指摘されているようだが、官僚機構を規模を絶えず必要最小限にとどめておくことがコスト削減のためにも求められるにしても、そういう意味では同業他社との競争が絶え間ない組織の効率化圧力にさらされ続けられて効果があるとしても、果たしてそこから範囲を広げて国家間でも各国の政府の機構に関してそんなことが言えるかとなると、何か違うような気がしてしまうから、そういうところからもっともらしい理屈を導き出せないような感じにもなってしまうかも知れないが、国家間競争があるとしても全体から見れば一部で行われていることであって、それが覇権国争いと呼ばれる範囲内で行われていることだとしても、そもそもの国家が存在している前提条件に大きな違いや開きがあって、国家規模が人口規模や占有面積についても大国と小国の間では雲泥の開きがあるから、はじめから競争など成立しないレベルの開きがあるわけで、そういう意味では国家間競争から政府の規模や組織構成を考えるのではなく、その国の人口や経済の規模に見合う政府の規模や構成にしないとならないだろうし、それがどんな程度なのかと言えば、普通に考えてその国の国民が重税で苦しまない程度の政府予算にしないとまずいとは思うが、それに関してもごまかしやまやかしとして国債や公債の発行によって必要以上の予算規模にすることが可能なのかといっても、それも他国との比較で国債や公債の発行額が飛び抜けて大きいようなら、それが果たしてGDP比で計ることが妥当かどうかも、今のところはもっともらしい比較が対GDP比であるからそうすることが無難に感じられる程度のことなのだろうが、そこに地政学的な地域条件や歴史的な経緯などが絡んでくればまた違ってくるとしても、妥当性という程度ではその種の比較の確からしさに従っておいた方が無難なのかも知れない。
2月8日「ダメなものはダメ?」
何となくダメなものはダメなのかも知れず、トランプのやり方がうまくいかないのが早くもわかってしまったような気がするが、そんなのはやる前からわかっていたと多くの人が思うところだろうが、それがどういうことなのかといえば、うまくいかないなりのことをやらないとダメなのも、すでにバイデン政権の頃からわかっていたことだが、それもうまくいっていなかったと判断するようだと、それ自体もダメな判断で、そのダメな状態をどうにかして無理に取り返そうとするから、さらにダメになってしまうのだから、現状のダメな状態を維持しなければならず、世界的に各方面でダメな状態が延々と維持されてきて、そんなダメな状態を強引にひっくり返そうとするから、ダメな状態がさらにより一層悪化しつつあるのかも知れず、そんな悪化しつつある状態が世界の現状であるなら、ここからさらに事態が悪化するだけかも知れないが、そうやって状況が悪化しつつあるのをそのまま放置するわけにはいかないから、何とかしてこれ以上悪化するのに歯止めをかけようとすれば、それもうまくいっていないから悪化し続けていると現状を解釈するなら、では他にやりようがあるのかといえば、現状でやっていることをそのままやれる限りでやっていくしかなく、しかもトランプが思いっきり余計なことをやってしまうのを黙って見守るしかないわけではなく、それに対して批判や非難を多くの者たちが浴びせなければならないと多くの人々が思っていて、実際にも各方面から執拗に批判や非難を浴びせている最中なのだろうが、そんな否定的な反応と共にトランプの強引なやり方が世界中で機能しつつあるのかも知れず、こうなることも事前にわかっていてそれがトランプの狙いというわけでもないだろうが、このままトランプにやらせるだけやらせてみれば、世界がトランプの有能さや優秀さを思い知るとも思えないが、それでもなるほどと思うようなことがわかってくればしめたもので、それがわかったからといってトランプに感謝しなければならないとも思えないだろうが、世界の潮流がトランプを主人公に選んでしまったわけでもないとは思いたいが、すでに多くの人々がトランプにはうんざりして、もうこれ以上出しゃばるのはやめてくれと思っているかも知れないが、たぶんここからが本番で、ここからやりたい放題やりまくれば、なぜか世界が救われると思ってしまう人がいるとしたら確かに狂気じみているだろうが、トランプにはそういうことが求められているのではないかと思うわけでもないのだが、それも何となくそうなった方が結果的には良かったと言えるようなことになるのかも知れず、トランプが世界中を引っ掻き回さないと世界が活性化しないと思うのも勘違いだろうが、実際にそうなってしまえば否応なく活性化してしまい、そうやって世界の人々に不快感や憤りの感情を植え付けることがトランプの役目だと勝手に思っていれば済んでしまうようなことなのかも知れないが、そういう否定的な先入観を植え付けることがリベラルなメディアの使命であるなら、そんな役割を担っているメディアも今まさに活性化しつつあるのかも知れず、トランプのやることなすことその言動の全てにノーを突きつけようとしているとしたら、それこそがリベラルなメディアの役目であって、そういう面でメディアに活性化の機会を与えているのがトランプだと穿った見方をしたくなるわけでもないが、結果的にそうなるようにバイデンが不幸の種を蒔いておいたと解釈しそうになってしまうが、意識してそういうことをやったわけではなく、コロナ禍やロシアによるウクライナ侵攻やアフガニスタンからの撤退作戦の大失敗やハマスの急襲に対する待ってましたとばかりのイスラエルの大攻勢などが、そうせざるを得ないようなこととしてバイデン政権の対応の選択肢を狭めていたわけで、それこそがトランプの再登場を招いたわけだが、労働組合の結成を阻止し続けるテスラに対しても各種の労働組合からの支持を基盤とする民主党政権には許し難いことでもあるから、イーロン・マスクとしても企業としての生き残りを賭けてトランプ政権を誕生させるしか選択肢が残されていなかったのだろうから、そうやって様々な方面からの尽力によってトランプの活躍の場が整えられて行ったわけだが、いざこうなって見ると、やはり予想通りの傍若無人ぶりにそれも待ってましたとばかりにリベラルメディアが批判や非難の大合唱となりつつあるのだから、何だかそれが笑ってしまうような笑い事では済まないような様相を呈しつつあるのかも知れないし、何だかそれがワクワクドキドキの波瀾万丈な経験をもたらすと誰もが期待に胸をときめかせているわけでもないだろうが、何かの冗談であってほしいと願いながらも未だに悪夢にうなされている最中だと思い込んで現実逃避したいわけでもなく、それこそ悪ふざけでも何でもないことでしかないが、よく考えてみればナイスタイミングでトランプ登場となったわけで、そう思う理由に説得力があるとも思えないが、それもよく考えてみればバイデンやオバマのやり方では何も解決できないことも誰もがわかっていたはずなのに、それでもリベラルなやり方での解決を期待せざるを得ないのが、リベラル勢力の限界でもあって、解決できないことがわかっていながら解決を期待し続けることが矛盾していると見られてしまうとしても、うまくいかないことをうまくいかないなりのやり方で延々と辛抱強く継続させるのがリベラル的なやり方なのかも知れないし、それでは何も解決しないからトランプが強引に解決しようとして無茶なことをやってしまうから、かえって世界が活性化するような事態が引き起こされるなら、トランプの存在意義もそれなりにあったと言わざるを得ないが、そうやって世の中の状況や情勢が自然と右や左へと揺り動かされるように持って行くのが神の見えざる手だと結果論的には言えるが、そうなっている渦中にいれば、もういい加減にしてほしいとうんざりするかも知れないし、そうやってうんざりするような心理状態となれば、そんな状態から抜け出すために自ら積極的に動いて何かしらやらざるを得なくなるのかも知れないし、そんなきっかけをもたらすためにトランプが再登場してきたと都合の良いように解釈できるかというと、それが誰の都合なのかと問うまでもなく、世界中の誰もがそう問われていると言えないこともないが、トランプに対して不快感を覚えながら否定的な反応を示さざるを得ない人が世界に大勢いるとしたら、そんな彼らが何を問われているのかと言えば、今こそ立ち上がれと誰に煽られるまでもなく、立ち上がって何をすればいいのかと戸惑うまでもなく、そういうことではないとしたら何なのかと自分自身で自問自答してみるまでもなく、実際にトランプに対して抗議の声をあげている人々がいるわけで、それらの人々と利害を共有できるかどうかということよりは、人権がどうたらこうたら人道的な対応がああたらこうたらと言える範囲内で何か発信できればそれなりに自己満足に浸れるかも知れないし、それでは不満なら実際に行動を起こす必要に迫られてしまうわけだ。
2月7日「無駄と矛盾」
相変わらず何だかわからない事態に遭遇しているようだが、その場の成り行きに従うしかないらしく、せっかくのチャンスを逃した後にはどんなピンチが待ち受けているのか、すでにピンチの真っ只中にいるのかも知れないし、今はそれで構わないようなことなのかも知れず、ここから何かが過ぎ去った後から自分がとらわれている成り行きの全容がわかるようなことだとしたら、たぶんそうなってからそれを理解しておいても構わないような気はするが、それとは何かといっても、もうすでに手遅れになっているのかも知れないから、何が手遅れなのかもわからないまま、それ自体が自分にとってはどうでもいいことになりそうで、そこから関心が遠のいてしまっているのかも知れず、関心を向ける先に真実があるとは限らないから、そこに関心が向かないのかどうかもわからないが、騙されている感じがしないとなると、それこそ騙されているからそう感じるのかも知れないし、ここは騙されてみないことにはわからないこともありそうで、騙された気になってうまく切り抜けないとまずいのかも知れず、それが切り抜けられないから騙されてしまうとも受け取れると、何だか矛盾しているような感じがしてしまい、何かそこには両義的な意味や意義が含まれているのかも知れず、それがどういうことなのか今ひとつわからないのも相変わらずだが、両義的というからには二つどころか複数の全く方向も傾向も程度も違う意味や意義が混じり合っているのかも知れないが、それに関してはたぶん安易なごまかしやまやかしなどが通用しない方面であからさまに何かが行われていて、実際に何が行われているのかといえば、それがディープステートの仕業だとしたら陰謀論には違いないが、どうも実態としてはそうではなく、人が集団となって世の中に有形無形の作用や影響を及ぼしていて、そういうことに関連してごまかしやまやかしなどの不正行為や違法行為に結びつく行いを暴こうとして、それを暴く行為自体を正当化すべく、こんなにおかしなことが人知れず行われていたと主張したいわけで、それが日本に関してならことさらに財務省に結びつけたい思惑が働いている一方で、アメリカに関してなら政府自体の官僚機構全般でそんなことが行われいたとイーロン・マスクなどが主張しているわけで、そうなるとことさらに財務省だけを目の敵にしている日本の財務省陰謀論者の方に何かおかしな思惑が作用しているような感じになってきて、財務省陰謀論者のごまかしやまやかしも連想されてしまうから、両者を結びつけて思考を巡らすのはやめておいた方が良さそうで、もちろんイーロン・マスクの方でも何かと民主党政権が力を入れていた方面の不正を暴こうとしていて、そういうところは財務省陰謀論者と同じような傾向を見せていると言えそうだが、何か党利党略的な思惑が作用してそうなっていると見ておけば構わないようなことだとしても、日本でも各省庁の無駄を削る試みが行われるような傾向になってくれば、例えば今話題のパランティア・テクノロジーズに仕事を依頼して、AIを活用した無駄を削るプログラムでも作ってもらった方が良いんじゃないかと思ってしまうが、果たして本当に各省庁の無駄を削れば減税をもたらすような財政の削減が実現するのかといっても、実際にやってみないことにはよくわからないことには違いなく、そういうところがイーロン・マスクが手がける政府効率化省による取り組みの結果次第で、何かわかってくるようなことにでもなればしめたものだが、アメリカの事例がそのまま日本に当てはまるわけでもないから、大して参考になるようなことでもないのかも知れないが、そもそも日本の方がかなり昔から行政改革が叫ばれてきた経緯がありそうで、果たしてそれがまたしてもアメリカに先を越されてしまって悔しがるようなことにならなければいいが、それ以前に何に関して先を越されてしまったのかといっても、ITやAIの分野でも日本の方が先に手をつけていたのに、中途半端なことをやってぐずぐずしているうちに、いつの間にかアメリカに先を越されてしまっている現状もありそうだが、もちろんその大本となるインターネット自体がアメリカが主導権を握って構築されたものだろうから、しかも現状ではアメリカ政府がそれに全面的に関与しているわけでもなく、どの国の政府にも属さない組織が管理運用しているのだろうから、それがディープステートの実体であるはずもないことだが、その一方で肥大化して無駄だらけの行政機構となっている各国の政府というのも、ただ単に徴税や国債の発行によって維持運営されている組織だと無色透明な捉え方をするなら、そこに国家的・民族的な着色を施して幻想を抱くようなことはやめておいた方が良さそうにも思えるが、それが何かを隠す目的でごまかしやまやかしとして行われているのかというと、やっている側はそうは思わないどころか、本気になっている人もいくらでもいるだろうし、その種の国家間競争の起源がウェストファリア条約にあるとしても、そのはるか以前から近代的な国民国家が存在していたかのような幻想を抱いている人もいくらでもいるとしても、そんな歴史的な経緯の成れの果てに、まだそこから四百年弱ぐらいしか経っていないのに、成れの果ても何もないだろうが、メソポタミアのシュメール文明まで日本の起源を遡ろうとする人まで現れてしまうのだから、トランプのアメリカ第一主義なんかもまだ狂気の部類にも入らないような稚拙な程度なのかも知れないし、それが集団幻想というか共同幻想というか、何かもっとドラスティックに考えを改めないと、幼稚な幻想とあからさまな国の実態を混同しているような心理状態になってしまいそうだが、では何がそうさせているのかといえば、それが選択的夫婦別姓程度の制度改正にも頑強に抵抗せざるを得ない集団意識がそうさせていると考えても良さそうだが、そういう面倒くさい人々の感情を避けて通ってきたから、それに伴って組織の無駄や矛盾も放置されて今に至っていると考えても、それだけではないと思いたくなるだろうが、その一方である程度は無駄や矛盾があった方がそれだけ余裕があるということだから、その余裕がなくなってきたから、無駄や矛盾を放置できなくなってきたということでもあるから、それを是正したり改善する機会も到来していると現状を捉えておけばいいのかも知れないが、そうしたことをやろうとする勢力の邪魔をしている勢力も当然のことのように同時並行的に出現してくるわけで、それを単に抵抗勢力と呼んでみても、その対象となる勢力にしてみれば、自分たちこそが真の改革勢力なんだと胸を張って威張っているわけでもないだろうが、何かそこにごまかしやまやかしが含まれているなら、それに気づいた者が自身の都合次第でそれを暴露するしかないだろうが、そんなこれ見よがしな暴露の類いを真に受けるかどうかも、それをメディア経由で受け止める人々の判断にかかっているのかも知れない。
2月6日「事前にわかっていたこと」
わかっていないのは自分の方だと反省したくなるような結果を前にして茫然自失となっているわけでもないが、ではわかっているのかというと、そうなることがわかっていたのに対応を怠ってしまって窮地に陥っているわけでもなく、何となく後悔している感じがしないでもないが、わかっていても対応できないことがあると考えるなら、それをわかることとそれをわかった上で対応することとの間には天と地ほどの決定的な差があると理解しておけばいいのかも知れないし、実際にそうなった後からなら誰でも容易に理解できることが、そうなっている最中においては、結果がどちらに転ぶかわからないから、悪い方に転んだ時のことを考えれば思い切った対応などとれないわけで、そんなことを考えているうちにも対応できずに後悔するような結果を目の当たりにして、あの時ああやっておけば良かったと臆病風に吹かれて対応できなかったことを悔やむわけだが、ではもう一度似たような場面が巡ってきた際には今度は千載一遇のチャンスとばかりに思い切った対応がとれるかというと、やったところで結果が悪い方に転んでしまえばさらに後悔する羽目に陥るかも知れないし、そういうことを考慮に入れるなら臆病風に吹かれて対応を躊躇してチャンスを逃して後悔しておいた方が無難なのかも知れず、実際にそうなった結果からそう思っているだけで、それとは逆の事態も経験してきたかも知れないし、逆というか何か違う対応を取らざるを得ない状況に追い込まれたりして、それが否応なくそうなってしまうから、そうなると選択の余地などないわけで、そうならざるを得ないような結果を前にすれば、たとえ結果が思わしくなくても自分の力では覆せないような結果だったと悟るしかなく、どうやってもそうならざるを得ないように思われるならあきらめるしかないだろうから、そうなれば後悔するとかしないとかのレベルではなく、黙ってそんな結果に従うしかないわけだが、そんな結果を前にしても自身の対応を正当化するようなことなら言えそうで、そうなることは事前にわかっていたはずだと結果が悪い方に転んだのを見届けてから後出しじゃんけんのようにしてそんな結果を招いた当事者を非難する論法も結構ありそうだが、そういう対応が悪い結果を踏まえてやる鉄板の対応だと言えそうで、そんな後出しじゃんけん論法を駆使して湧いて出る多くの批判者たちがわかっていないのは何なのかというと、自身がそんな結果を招いた当事者ではないことをわかっていないはずがないだろうが、それでも批判や非難の当事者にはなりたいから我先に批判したがる理由もわかっていないわけでもないはずだが、悪い結果を利用して有利な立場になりたいわけで、そういうわけで悪い結果が出ればそれを批判したり非難する側に回り込んで悪い結果を招いた当事者を攻撃するわけだが、それが悪い結果をより一層悪く見せかけようとするやり方でもあって、悪い結果を招いた悪い奴を成敗する役割を担いたいとあからさまに思っているわけでもないだろうが、その種の正義の味方気取りの批判者たちに他の多くの民衆も加勢するような成り行きになるかというと、最近の例では兵庫県知事選挙で不信任を突きつけられてなお知事に返り咲いた人を批判したり非難する側にとっては、それが悪い結果であるのは火を見るよりも明らかなことであって、そんな悪い結果を見届けてから我先に批判や非難を開始した者の中には、あからさまに悪人を成敗したいと思っている者も結構多そうで、実際に選挙戦での違反行為を告発した著名な弁護士などはその急先鋒だと言えそうだが、その急先鋒となっているつもりの名物弁護士の類いに単なる目立ちたがり屋なのではないかと疑念の目を向けている人も中にはいるみたいで、もしかしたら役立たずのポンコツ弁護士だと言えるような過去の事例があって、だからその弁護士に加勢するような愚かな真似はやめておいた方が無難なのかも知れないが、その件に関しては枝葉末節な取るに足りない傍系的なエピソードに過ぎないとしても、事の全体としては世間をお騒がせのN国の立花氏が暗躍していたのは明らかなのだから、県知事と立花氏を一まとめにして批判や非難を継続して行えば、何やらそれが鉄板のやり方のようなコンセンサスができあがっている感じなのだが、そこからさらに範囲を広げて、それをトランプ現象などに付随して起こっていることだと主張する者まで出てくるわけだから、何やら今や世界的に流行しているポピュリズム現象の一端として兵庫でも岸和田でも起こっていることだと敷衍してしまうと、主張内容がそれだけ希薄化して、何を言っているのかわけがわからなくなるわけでもないだろうが、それでも彼らの言いたいことは何となくわかりそうな感じなのだが、それを利用して実際に政治の場で行われていることに目を向けないと、そこで行われていることやそこから生じてくる現象の本質を理解できないわけでもないとしても、本質を理解したところでそれに付随して起こっている枝葉末節な取るに足りない傍系的なエピソードに目を奪われて、そちらの方に否応なく多くの人々の関心が向けられてしまって、当事者となっている人や団体は何が何だかわからないまま右往左往しているうちに、うまい具合にそこに関わっている誰かが得をして誰かが損をするような結果へと持って行かれて、そんなことの全てが済んでからあっと驚く未来が待ち受けているわけでもないのだろうが、たぶんそれらの物事の本質なんて誰も見極められないだろうから、だからなんだというわけでもないのだが、その度ごとに起こっている傍系的なエピソードの数々にいちいち関心を向けて、そこから生じる結果の良し悪しに一喜一憂していれば、また悪い結果を利用して批判や非難を開始してしまう者たちの言動にも関心を向けていれば、何かしらわかってくることもありそうだが、そうであってもそんなことに関心を向けている自身も、自らが行なっていることの当事者であることも自覚しておかなければならないのかも知れず、そんな自らが関わっていることも、全体から見れば枝葉末節な取るに足りない傍系的なエピソードの中で行われていることであって、そうであっても自らにとってはそれが思い通りにならないおかしな成り行きにとらわれているのだから、それをおかしいと感じてしまうのも勘違いのなせる業かも知れないが、たぶんおかしいのではなくごく当たり前の普通にそうなっていることでしかないのだろうが、それが自らの思い通りには行かないからおかしいと思われてしまうこともわかっているのに、思い通りにならないのも事前にわかっていたことなのに、だからおかしいと思うのも勘違いだとは思えないわけで、何か信じている理屈に従ってやっていることなのに、それが理屈通りには行かず、必ずずれや遅延や行き過ぎなどが生じてしまって、それがその場では気づかないから結果的に思い通りにはならないわけだが、それも全てが思い通りにならないわけでもないから、中にはうまく行くことだってあるのに、その場ではそれにも気づけないわけだ。
2月5日「トランプの野望」
トランプ政権が始動して以来、何かわかってきたことがあるかというと、これと言って印象に残るようなことはないと嘘をつきたくなってくるが、誰もがトランプやイーロン・マスクに向かって激しく憎悪を掻き立てるかというと、実際に彼らを元から激しく非難するような人の種類がなるほどと思われるような人たちなのだから、それ以外の人たちの彼らに対する見方や見解や評価が変わってきたようには思われない限りで、それなりにうまくやっていることになるかというと、もう少し時間が経ってみないとわからないが、時間が経っても相変わらずわからないままかも知れないが、毀誉褒貶が激しいのが相変わらずである限りで、うまくやっていることになりそうな感じだが、トランプの攻撃目標がEU的な社会民主主義体制や中国的な社会主義体制だと言えるかというと、それらを支える官僚機構がいわゆるディープステートなのかどうかもよくわからないが、そういうことではなく、世界中がアメリカを食い物にしているような被害妄想を抱いているように装いながらも、実態としては逆に世界中をアメリカのハイテク産業が食い物にしているという見方もありそうだが、ともかく世界の四方八方に向かって攻撃を仕掛けているような印象を受けるのだが、それによって一時的には一触即発の緊迫した事態がもたらされるのだが、それに対して何か本気で事態に向き合うようなことでもないみたいで、やんわりといなしておけば済むようなことなのかも知れず、そういう態度をとれずに激しく対抗意識をむき出しにするような人々は相手にしない方が良さそうで、実際に相手にされていないみたいな感じになっているから、そういう意味では普通の一般人にとってはわりと平穏無事な四年間が経過して行きそうな気配も感じるのだが、それもトランプ政権とどう向き合うかによって印象が変わってきて、勝手に攻撃的な反応を示す人や憎悪を掻き立てる人にとっては今後四年間が激動の時期のような勘違いが生じるかも知れないが、そういうことに鈍感な人にとっては何でもないような四年間が過ぎ去ると嘘をついておきたくなるわけで、その辺の落差をどう捉えたらいいのかと考えたいわけでもないのだが、何か冗談のようなことを本気になってやっているようなユーモラスなイメージなど誰も抱かないだろうが、フィクションとしてならそれもありなんじゃないかとも思っておきたいわけで、実際に起こっているのはフィクションでも何でもなく、他人に迷惑をかけるのを生きがいにしているような感じの人だから、トランプにはせいぜい四年間は威張り散らしてもらって、その間に周囲の人たちがうまく政府を効率的な体制へと持って行ければ、アメリカにとってはしめたものなのかも知れないが、アメリカにとってはと言っても、アメリカ人がそれをどう思うかなんて知ったことでもないのだろうし、たぶん四年後には何かが進展しているような感じになれば、それがアメリカの黄金時代の到来となるかどうかも何とも言えないところだが、一方でイーロン・マスクが言うには今年が世界にとって重要な転換点になるらしく、世界というかテスラ社にとってはということかも知れないし、今年が自動運転元年となるかどうかがテスラ社の今後を左右することにでもなれば、そういうところは注目しておけばいいのだろうが、そうなることを期待してイーロンはトランプに投資したわけで、ビジネス的な思惑があると言ったらその通りなのかも知れないが、その一方でロボット技術によって社会を変えるという野望もあるだろうから、民主主義的な政治体制を維持する上で必ず財政的にも税制的にも負担となってくる政府の官僚機構をいかに低コストで維持するかが、それがロボット技術やAI技術の活用によって可能となるかどうかも現状では何とも言えないし、イーロンがそこまで考えているかなんてよくわからないが、トランプ的な野望として多くのトランプ批判者が想像してしまうのが、ロシアのプーチン政権のような非民主的な独裁体制だろうし、トランプがそんなそぶりを見せようものなら、待ってましたとばかりに批判や非難を浴びせようと待ち構えているわけで、実際にトランプの大統領就任式に列席したハイテク企業の経営者たちをオリガルヒだなんて利いた風な呼び名で呼んで悦に入っているわけだが、それが冗談のようなギャグのような効果をもたらしているかというと、そういうのを真に受けている人にとっては冗談では済まないような深刻な事態に世界が直面していると思っているかどうかなんて、それも今のところはよくわからないのだが、果たしてトランプ政権が冗談で済んでしまうような事態が今後待ち受けているかどうかなんて、それも誰もが予想だにしない事態かも知れないが、トランプのやることなすことに過剰に反応したい人というのが、果たして単なる暇人なのかと疑念を抱いているわけでもないのだが、そうでなくても厄介な人間がアメリカの大統領になってしまったのだから、それをおもしろがるというか、それに対して本気で怒っている人を嘲笑したいわけでも馬鹿にしたいわけでもないのかも知れないが、では何なのかというと、トランプ本人は至って真面目に政治に取り組んでいるように見えるわけで、それに対して彼のやっていることや言っていることがいちいち気に触るとしたら、そういう人がとらわれている思考というのが、何となくこれまでの政治に行き詰まりを感じていた人たちの考えとは少し違う傾向があるのかも知れず、それが自分たちの主張が聞き入れられないことから生じる焦りのような感情だとしたら、余計にトランプのような存在が腹立たしく感じられるかも知れないが、政治をナメているのかとも言いたくなってしまうかも知れないし、実際にそう見えるからこそ、なるほど政治とはこういうものなんだと妙に納得してしまうというか、それも誰も納得などしないからこそ、怒りが湧き上がってくるのだろうが、それで構わないというと何が構わないのか、さらに腹立たしくなるかも知れないが、そんなふうにしてルサンチマンのようにトランプを罵倒し続ける人というのが、そういう人の政治的な主張というのも化石化した民主主義政治の理想を語っているようにも感じられるわけだから、それと共に確実に時代が進展しているような印象も受けるわけだが、そうやって絶えず時代遅れな物語にしがみつきながらも、批判や非難の標的となるような獲物や題材を絶えず与えられているわけだから、この四年間というのが激動の時代のような錯覚を覚えるかも知れないし、それが錯覚なのではなく、果たしてイーロン・マスクが言うところの歴史的な転換点となるかどうかも含めて、何か今年が重要な年となるような予感がしているわけでもなく、気づかないうちに世界が様変わりしてしまうような予感もしていないのだが、それが例えばスマホの登場が劇的に世界を変えたわけでもないのと同じようなことでもないのだろうが、もしかしたらそんなことなど遥か昔の忘れ去られた遠い過去の思い出だと思わせるような奇妙な変化が実際に訪れるのかも知れない。
2月4日「功利的な価値に逆らう者たち」
世の中の現状を考える上で踏まえておかなければならない分野として、政治と経済と社会と技術というそれぞれが重なり合う部分も傾向が違う部分も範囲や程度が違う部分もありそうな分野以外に何か抜けている分野があるかというと、他にいくらでもありそうな気もするが、これといって思いつかないなら、その抜けている分野が思考する上での盲点となってきそうで、盲点というか見逃している点がわからないまま話を進めて行くと、とりあえず資本主義市場経済に全世界が覆われていることを踏まえて、それに伴って経済的な合理性に基づいた功利的な価値観が現状で優勢となっていると考えれば、社会の中で自身や自身が属している集団が有利な立場を確保するために様々な技術を駆使して政治や経済の分野で活動しているはずだが、それを今だけ金だけ自分だけだと批判したい人が何を信じているのかというと、それが果たして功利的ではない別の価値観を信じていると言えるかどうかもよくわからないが、勝手に自分でそう思っている以外にも、何かこれといって肯定できる価値観があるかというと、わざとそれを言わないように意識しているわけでもないのだが、誰もがすぐに思いつきそうな価値観として社会主義・共産主義的な貧富の格差のない平等な社会を政治的に実現させようとする試みになりそうだが、それをいかにして社会主義や共産主義という言葉を使わないで主張するかで四苦八苦して、それどころか最近では左翼やリベラルとも言わないようにしていると穿った見方をしたくなるのだが、そういうことをやっている者たちが苦し紛れに持ち出すのが保守という言葉であって、自分たちこそが真の保守勢力だと、ネトウヨのようなエセ保守ではないんだと主張したいのかも知れないが、言葉遊びの次元でそういうことを主張しているわけではないことを証明するために政治活動をやっているつもりの者も結構いるのかも知れず、何かそういうところで避け難い困難が生じているような気がしないではないが、もちろん彼らが暗黙のうちに、あるいは公然と否定しているのが、今だけ金だけ自分だけというキャッチフレーズによって矮小化している新自由主義なのかも知れないが、そうやって世界経済の新自由主義的な実態から目を背けながら民衆を騙そうとしていると決めつけても構わないわけでもないだろうが、結果的にも誰も騙されてはおらず、誰もが新自由主義的な経済実態を意識せずにはいられないはずだが、そうした実態を素直に利用しようとはせずに、利用している側は利用しているのではなく活用していると主張したくなるかも知れないが、うまく利用することができない者たちがいるとすれば、積極的に利用しないのではなく、利用しようとしてもうまく利用できずに思ったようには利益を得られないから、結果的に経済的な苦境に陥っていると実態を捉えておいた方が良さそうだが、そうなっている限りで否応なく経済的な競争を強いられていて、そうなっていることを直視しなければならないはずだが、もちろんそうなっている当事者は否応なく現実を直視していて、悪戦苦闘している最中の者も世の中にはいくらでもいそうな感じだが、その一方で余裕綽々な他人事のような態度で、経済的な利益を大した苦労もせずに享受している者も世の中にはいくらでもいるかも知れないし、人それぞれに境遇が違っていても、そんなのは当たり前のような実態でしかないが、それに対して政治的な立場をとりたいなら、貧富の格差を是正するような態度にならないと広く民衆から支持を得られないような思い込みがあるのかも知れず、それが左翼やリベラルや社会主義や共産主義的な立場なのだろうが、なぜか現状ではそれらの立場を否定したい輩が大勢湧いてきて、それらの言葉を使わずに民衆から支持を得られる方法を模索しているわけで、それがない物ねだりの困難を生じさせていると現状を捉えたくなると共に、もう一方の功利的な新自由主義も今だけ金だけ自分だけだと否定したいわけだから、さらなる困難も生じさせているわけで、しかもそれらの対立させたい概念のどちらをも否定しておいてから、自分たちは真の保守勢力だと主張したいわけだから、それをごまかしやまやかし以外の何なのかと問いたくなるが、それを言ったらおしまいだから、言わずに済ませて、他にどんなことを主張できるのかと考えてみたいのだが、主張する以前に活動しているわけだから、自らの活動に都合が良いような主張が自ずから自然と導き出されてしまうことに気づかないと、自らの主張の功利的な面や傾向にも気づかないことになってしまうのかも知れず、自らを利するために主張している実態にまずは気づかないと、何か世のため人のために人類により良い未来がやってくるように、日々弛まぬ努力や尽力を積み重ねているような偽りの大義を信じてしまいそうになってしまうとも思えないが、それを偽りの大義だと決めつけるわけにも行かないが、世のため人のためになるようなことをやれば、それが回り回って自分の利益にもなると功利的に回りくどく考えてみたところで、その種の名誉欲というか慈善事業的な意図や思惑が生じてこようと、その種の欲望を肯定しておかないとまずいような気もするが、何かそれらの中の一つの立場やそれに伴って生じてくる一つの主張にこだわらないことが肝要だと考えるなら、なぜそう考えるのかも今ひとつ説得力のある見解など今のところは思いつかないが、それも世の中の実態としては様々な価値が互いに作用や影響を及ぼしながらも共存しているわけで、それに絡んでくる各自が否応なく強いられている活動の実態もあるわけだから、それも否応なく強いられているのではなく、積極的にそんな活動に身を投じていると思い込んでいる者も結構の割合でいるかも知れないが、結局は自らの活動の実態を正当化するために何かもっともらしいことを主張していると考えられて、そう考えれば主張というのはその活動をやっている者の活動を正当化するための主張になってしまうから、その活動と対立したり敵対するような活動をやっている者であれば、自らの活動と対立したり敵対する活動をやっている者を批判したり非難したくてたまらなくなるだろうし、そんな活動は阻止したいし邪魔をしたくなるのも当然の成り行きだから、そこで対立したり敵対する複数の活動がぶつかり合っていると情勢を捉えておいても構わないが、そうなっている限りでそこから生じてくる主張も互いに対立したり敵対し合うような内容になってくるわけだろうが、果たしてそれらの主張とは対立も敵対もしないような主張も可能だろうかと考えるなら、それらの活動と関わらない活動になっていれば対立も敵対もしないだろうが、では多少とも関わってくれば否応なく対立や敵対することになってしまうかというと、たぶんそこから交渉や駆け引きや取引などが生じてきて、妥協や譲歩を引き出して共存できるような状態や状況を目指す試みも生じてくるのではないか。
2月3日「責任転嫁する人の思惑」
なるほどこういうことかと合点が行ったわけでもないが、類推というのが何かと何かを結びつけて物事を都合の良いように考えることだと合点が行ったわけでもないのだが、例えば財務省からの天下りをテレビ局が受け入れていれば、そのテレビ局の報道が財務省寄りになると言えるかというと、そんな気がしないでもなく、しかし財務省寄りの報道というのも、いったいどんな報道なのか興味深いといえば言えないこともないが、そういうことを言っているのが財務省陰謀論に洗脳されている人なら、やはりなるほどと合点が行くような気もしないではないが、そんな財務省陰謀論によって責任転嫁されているのが何なのかと考えれば、政権の悪政を財務省だけに責任転嫁することの利点を考えるなら、そう言うことによって政権政党が責任逃れができるということであるから、その程度の意味を理解できないような人が何を考えているのかと言えば、政府の財政を破綻させたいのではなく、いくら国債を発行しても破綻などしないと強弁したいのでもなく、ハイパーインフレなど起こらないと言い放ちたいわけでもなければ何なのかというと、その人が何を考えていようとこちらの知ったことではないのだが、そもそも他人が何を考えているかなんて推測するだけこちらの都合の良いように推測するしかないから、財務省陰謀論に洗脳されている人と同じような傾向になってしまうわけでもないにしても、そもそも財務省にどんな意向が働いているかなんてわかりきったことで、普通に考えて財政健全化をしたいわけで、他の国々に比べて日本政府が国債を発行し過ぎているから、少しでもそれを改善させたいと考えるのも無理はないだろうから、そんなのは陰謀論以前にそう思われて当然だろうから、何かそれで不都合が生じているのかと考えるなら、そういうところからも勝手にこちらの都合に合わせて推測せざるを得ないのだが、政権が財政健全化をしたい財務省の意向に逆らって国債を過剰に発行してきた経緯があるわけだから、今後もそれを続けたいと推測せざるを得ないのだが、それなら財務省に騙されるなと煽っている人が批判している自民党政権と同じではないかと考えたくなるのだが、そんな人の言い分としては自民党政権とは予算配分が違うということだと推測したくなるのだが、なら別に財務省陰謀論を煽る必要もなく、その人が推している勢力が政権をとっても、自民党政権と同じように国債を発行して予算を確保すればいいんじゃないかと思いたいが、なるほどだからこそ財務省と同じ意向の財政健全化をしたい立憲民主党を攻撃しているのかと合点が行きそうだが、果たしてそんな推測が正しいか間違っているかなんて、そんなことは問題ではなく、立憲民主党の中でも積極財政を掲げている人も減税をしたい人もいるだろうから、そんな人たちが立憲民主党の中で主流派となれば財務省陰謀論者にとっても都合が良さそうだが、現状ではそうはなっていないのだろうから、財務省陰謀論者と立憲民主党とは対立関係にあると見なしてみても構わないかどうかも、立憲民主党の執行部の意向としても税制の不公平な部分を是正して、不当に税を取られ過ぎな人や団体には、取られすぎな分を給付する案が出ているらしいから、そういうところでも利害調整や妥協ができないかどうか連携を模索したければすれば良さそうだが、その一方で政権交代を是が非でも阻もうとしている側としては財務省陰謀論者を利用して野党を分断して政権交代を阻もうとするだろうから、そうなれば財務省陰謀論者が政権選択に関してのキャスティングボートを握っていることになりそうだが、果たして現状がそうなっているのかというと、とりあえず立憲民主党を攻撃してその力を削って弱めることにはある程度は成功しているわけだから、そういう面ではうまく行っているのだろうが、果たしてそれでいいのかというと、自民党政権の延命を助けているとも言えるわけだから、政権交代を願っていない人々にとっては願ったり叶ったりだろうから、そういう損得勘定の範囲内では財務省陰謀論者にもその種の役割分担が有効に機能していると言えそうだが、野党勢力を応援している財務省陰謀論者がその辺のところをどう考えているかなんて、それも推測の域を出ないところだが、それとは違う方面で、例えば立憲民主党が提出するらしい選択的夫婦別姓法案の類いにも、攻撃している立憲民主党の法案だから反対するのかというと、それも果たして是々非々で対応してくれるのかどうかも今のところは定かでないような感じみたいだが、自民党側の岩盤保守と呼ばれる選択的夫婦別姓を頑なに拒否している勢力を利するようなことをやるのかどうかも定かではないが、少なくとも彼らと同じように減税を目指している国民民主党は今のところは自民党の味方をするような意向になっているらしいから、このままでは法案が成立する可能性が低いのか、あるいは妥協的な骨抜き法案になってしまうかどうかもまだ不透明な状況のようだが、そういうことも含めて単純な対立や敵対関係とはならないような成り行きになっていると言えそうなのだが、それに対してはっきりわかりやすいことを主張したいとなると、対立や敵対を強調して煽り立てないと自分たちの攻撃的な活動を正当化できない事情もあるだろうから、何か適当に妥協したり譲歩するなんてあり得ないような感じにもなっていそうで、そんなところでもごまかしやまやかしが通用しないから、その種の清廉潔白な正義を掲げてしまうと中途半端な人たちがついてこれないわけで、その一方でどちらかというと世の中で通用しているのが本音と建前の使い分けのような妥協的でグレーゾーン的でもあるどっちつかずの優柔不断な態度や姿勢だから、ことさら勇ましいことを言い放ってしまうことには躊躇が伴ってきて、果たしてそうやって財務省や立憲民主党を悪者扱いすることによって誰が利するのかといっても、何か笑ってしまうような結果に至らないか心配になってきてしまうわけでもないが、その代わりといっても勘違いにしかならないが、N国の立花氏や兵庫県知事や岸和田市長やフジテレビなどを悪者扱いしても構わないような情勢となっていそうだが、逆張り的には被害者ヅラしているフジテレビの元女性アナウンサーや執拗な質問や追及によって各方面から鬱陶しがられているフリージャーナリストなども悪者扱いしても構わないような空気を作りたいのかもしれないし、何かその人やその団体の都合に合わせて悪者扱いして攻撃したい対象が決まってきそうなのだが、中にはタバコを吸い過ぎて癌になって最近亡くなった日本では著名な経済アナリストの遺志を受け継いて財務省に戦いを挑むような成り行きになっている人たちの動画をちょっとだけ観て、何だかな〜と違和感を覚えながらも、彼らを批判したいのかしたくないのかも定かでないようなそれほど困惑しているわけでもないのだが、なるほどと合点が行ったような気がするのも嘘なのかもしれないから、本当のところは何だかわからないのだが、全面的に否定する気にもなれないのだから事態が込み入っていることは確かなのかもしれない。
2月2日「もっともらしくない主張」
論理的にもっともらしい意見や主張を真に受けているわけでもないのだが、論理的にもっともらしいことと人道的にもっともらしいことが区別できないわけではなく、時として人道的なもっともらしさが非合法な行為や行動をも容認しがちになってしまうことも考慮に入れなければならず、そうなると法治的なもっともらしさと人道的なもっともらしさが対立してしまう可能性も捨てきれないが、それに対して詰めが甘いというか、何かもっともらしくないことを述べなければならなくなってしまうとしたら、何に関してそれがもっともらしくないのかといえば、論理的にも人道的にも法治的にも、それらとは違う方面からもっともらしくないこと述べてしまうかも知れないが、何がそうなのかと考えてみるが、そんなことがすぐに考えつくわけでもなく、何か適当なことを主張したいなら何かしらもっともらしい主張になるように工夫を凝らして、それをわかりやすくしたいなら、例えば特定の対立し合う二つの論理のうちの一方の論理に沿った主張になってしまうと、それと対立するもう一方の論理からは受け入れ難い主張となってしまって、そうやって対立したり敵対したい意図や思惑が見え見えの主張になってしまうとわかりやすくなるだろうが、そういうことに気づかない愚かで浅はかな人を騙す目的で主張するようなことになってしまうと、独裁体制下で非合法な活動を手がける反体制派まで批判するようなことにもなりかねないが、そういう極端で極限的な状況を持ち出すまでもなく、もっと素直に矛盾したことを述べたいわけで、そうなると思案のしどころがどこなのか考えあぐねてしまうのだから、そうなっている時点で素直でも矛盾でもなく、ひねくれてねじくれた屁理屈になって、何の説得力も生じてこないだろうが、ひねくれ者が主張するならできるだけ多くの人々から支持や賛同を得られないようなことを主張したいわけで、それが政治的な主張になってしまうとまずいだろうが、別に政治に関係するようなことでもないとも言えないが、安易に浅はかな支持や賛同を期待してしまうと、それがポピュリズムだと批判されるようなことになってしまうだろうから、そうなるのは避けようがないとしても、避けようとして避けられるわけでもなく、逆に大衆的で広範囲な支持や賛同を期待しているような意図や思惑が見え見えだと、何かそれではまずいような気になってしまうから、そういうことではないとすれば何なのかというと、一点突破的で一方的に正しい批判をしたいわけでもなく、そんなのは主張でも批判でも何でもないかも知れないが、特定の立場や観点に立たないことなど述べようとしても述べられないから、そういうところで言語的な主張や批判の限界があると考えてみても、では何をどう述べたらいいのかと問われると返答に窮してしまうが、歴史的な経緯や事情や成り行きに沿うなら、社会の進化や進展に伴って述べられることが変わってくるような感じになっているのかも知れず、昔は許されなかったことが現代では許されるようになっているとすれば、保守派にとっては今でも許されないことが進歩派にとっては容認されていて、それが許されてしまうと保守派が守っている伝統や慣習が成り立たなくなってしまうから許されないとなれば、不当な制限や制約を伴った伝統や慣習など破壊されて当然だと進歩派には思われるようなことが、保守派には是が非でも守らなければならないと思われることであったりすれば、そこでもわかりやすい対立や敵対が生じてくるはずだが、そういうことで構わないのかというと、そこにも愚かで浅はかな人々が騙されてしまうまやかしやごまかしが潜んでいて、それをジャーナリズムが暴き立てるようなことにでもなれば、それもわかりやすいのだろうが、少なくとも歴史的な経緯や事情を反映した地政学的な地域差や温度差や民度などに違いがあるから、一つの価値観としての民主主義が世界全体へと拡がらない傾向がありそうで、それが拡がらないようにしているのが偏狭な保守主義だと断罪したところで、建前上は保守主義こそが民主主義に基づいていると反論したくなる人も出てくるだろうから、民主主義にも地域的な変異や偏差があることを認めてしまうと、民主主義には普遍性がないことにもなりかねず、では民主主義に代わる守るべき価値観があるのかというと、それが必ずしも民主主義と対立する概念にはならないが、自由主義があると言えるのかどうかも、また果たして民主主義と自由主義とが共存可能なのかどうかも、守るべきは〇〇主義などではなく、生まれながらに誰もが持っている人として生きる権利だと主張してしまうと、たまらず保守派が人権などないと反論してきそうだが、そうなると結局は経済的な利害関係の範囲内で許容可能なことと許容できないことが出てきそうで、自身にとって利益になる行為や行動や言動なら許されるが、自身に不利益をもたらす行為や行動や言動なら許されないと一概に言えるかとなると、どうもそうではなく法治主義的な面では合法的な範囲内で許されることと許されないことが出てきそうだが、たとえ合法的なことをやっていても、他人にとってはそれが許されない行為や行動や言動となれば、場合によって法律を破ってでもそうした行為や行動や言動をさせないようにするために何らかの攻撃を仕掛けてくる場合も、あるいは攻撃とは思えないような圧力や影響を及ぼしてくる場合もありそうだから、そういう面では法治主義的な力にも限界がありそうで、そうなると人と人との間で、そこに組織的な集団なども絡んでくるかも知れないが、人の行為や行動や言動の邪魔をするようなことが絶え間なく仕掛けられてくるから、あるいは邪魔をしたり妨害してくるわけではなくても間接的な圧力や影響が絶え間なく及ぼされているから、そんな邪魔や妨害や間接的な圧力や影響を跳ね除けようとするだけでなく、時としてそれらをうまく利用しながら活動しなければならない場合も出てくるから、何か一筋縄では行かないような、さらにこんがらがってうまく解きほぐすことができないような面倒な問題に直面してしまうわけで、そんなことまで考慮に入れるなら、単純に消費税反対だとか減税しろだとか主張しながらデモのようなパフォーマンスを見せつけている団体が目障りだとしても、果たしてそういうパフォーマンスに関わっている人たちがそういう主張をそのまま何の意図も思惑もなく主張しているのだろうかと疑念を抱く者もあまりいないだろうが、それも考えすぎてしまうと陰謀論的な妄想にも囚われてしまうから、あまり考えない方が身のためなのかも知れないが、何か騙されているのではないかと疑い出したらきりがないが、それに対してあまり説得力を感じられないようなもっともらしくない主張を試みるなら、もっと事を複雑怪奇に回りくどく考えながらも、それとは正反対の主張となるようなことでもなく、そういう単純明快な主張に反論するのでもなく、かといって支持も賛同も示すわけでもないようなことを主張したくなってしまうのだが、その内容がどのようなものになるかは今のところ定かではないのかも知れない。
2月1日「悪意に満ちた言動」
悪意に満ちたことをやっている人たちの意図や思惑を押しはかるまでもなく、そこにはわかりやすく愚かな民衆が騙されやすい主張や意見が含まれていると見るなら、事態を甘く見ている証拠となるかならないかも今のところははっきりしないが、たぶんそんな彼らの攻撃対象となっている勢力としては彼らの行動や言動を規制したり処罰するようなことを政府を動かしてやりたいのだろうが、こちらの意図や思惑としてはそういうことではなく、やりたいなら好き勝手にやらせておけばいいというスタンスで構わないのかというと、情勢としてはそうなりつつあるように感じられるのだが、それに対してぶれない姿勢で臨むことが求められているとも思えないし、対応が面倒くさいと思うならぶれても構わないとしたら、ぶれても構わないから柔軟な対応が求められていると受け止めておくしかなく、彼らが悪意に満ちていることぐらい誰でもわかりそうなものだが、それがわからない人々が自分たちの愚かさにも気づいていないわけでもなく、実際に愚かだからこそ悪意に満ちていることを隠そうともしていないわけで、それも短期的な時間軸でなら効果を上げているように感じられるのだから、愚かなのではなく賢いやり方だと思い込んでいるように見えるからこそ、そんな彼らを利用して功利的に利益を得たい思惑も生じてくるのだろうが、それにしては彼らが推している人や勢力がポジショントークしかできない腰抜けぞろいなのも、なるほどそれらの人や勢力がまがいもののシミュラークルでしかないことを証し立てているようにも感じられるが、しかし今の時代に何かの模造品のような存在以外の立場をとれるような人や勢力などあり得ないと思うなら、そうならざるを得ない人や勢力の存在を好意的に受け止めるしかないようにも思われて、そういう意味では政治家や識者や知識人の模造品がメディアを通じて世の中に満ち溢れている状態も、昔からそうだったようにも思われるから、大して心配するようなことでもないのだろうが、たとえそんな人や勢力がメディア上ではAIに置き換え可能だとしても、本当にそうなるかどうかも今のところがよくわからないから、やはり大して危機感を抱くようなことでもないとたかを括っているわけだが、それに関して能登の地震や豪雨災害の被災地が自身の選挙区であるらしい立憲民主党の政治家の人が黙々と現地の人々のために活動しているのを、山本太郎のようなこれ見よがしなパフォーマンスと比較して誠実そうに見えてしまうことも示唆に富んでいて、なるほどホンモノはどちらなのかと問うまでもなく、そういう問い自体が今の時代では無効なのだろうから、要するにホンモノを求める方がおかしいのであって、そういう比較によってホンモノとニセモノの区別をつけてはいけないのであり、あまりそういうことから良し悪しの判断はしない方が身のためであるような気がしてしまうのだが、それに対して悪意に満ちた人や勢力としては立憲民主党の執行部を財務省の犬だとか罵倒したくなるのだろうが、それを悪意に満ちていると判断するのも間違いなのかも知れず、彼らは本気でそう思っているのだろうから、そう思わせておけばそこから選択の余地が生じてきて、そういうところから良し悪しの判断が生じてくると考えてしまうのだが、それも短期的な損得勘定の判断だと思っているわけでもないのだろうが、ポジショントークしかできない人や勢力としてはそういうところから短期的な損得勘定が生じてきて、実際にN国の立花氏などは批判対象に含めない代わりに、世間をお騒がせの立花氏や兵庫県知事や岸和田市長やフジテレビを批判したり非難する側の揚げ足を取ろうとするわけで、要するにその手の正義の味方の面々を憎んでいるわけだが、それも憎んでいるように見えるだけで、ポジショントークの延長上でそういう態度や姿勢に凝り固まっているのが実態なのかも知れず、そういう人や勢力が選択的夫婦別姓に強硬に反対したりの、保守岩盤層と呼ばれる人々からの支持を期待して、そういうポジションを保持しているように見えるものの、それが目先の損得勘定に起因してそうなっている自覚などなく、本気でそんな態度や姿勢に固執しているようにも見えるから、世間の同調圧力に屈しているからかもよくわからないのだが、そうやって日本と呼ばれる地域が世界レベルで地盤沈下している真っ最中だと認識してしまうと、それも何か勘違いのような感じもしてしまうから、そういう方面でのこれ見よがしな煽り立てなどを真に受けてはならないのはもちろんのこと、そこに絡んで出てくる誰かの主張や意見よりは、現実に行なわれている活動に関心を持つべきなのだろうが、それもメディアというフィルターを通して意識に入ってくる情報に過ぎないなら、自身がそれらの活動に関与していないことも明らかになってしまうから、全く当てにならないというと言い過ぎだが、それでも自身が関与している活動が全くないわけではなく、生きている限りで世の中で行われている何らかの活動に関与するしかないわけだから、そういうところから見えてくるものや思考の対象となることが出てくるわけで、そこから直接の感触や手応えも実感として真摯に受け止めざるを得ないのだから、そうした実感とメディアで言われていることとの間の落差やずれや齟齬を感じ取れるなら、どちらにリアリティを感じられるかといえば、直接感じた方にリアリティがあるのは言うまでもなく、そこから想像や類推の思考も働いてきて、知性で感じ取らなければならないことも出てくるわけだが、そんなふうにして物事の良し悪しの判断を避け続けてしまってもまずいような気もするから、せいぜい正義の味方を気取った人が不用意に批判対象に向かって口走ってしまう、今だけ金だけ自分だけとかいう紋切り型のレッテル貼り攻撃を嘲笑しつつも、ああなるほどそれで批判が間に合ってしまうのかと驚いたふうを装うわけでもなく、それとこれとはレベルや次元が違うとも思えないのだが、あまり大げさな危機感を抱いて事を深刻に受け止める気にはなれないわけで、実際に悪意に満ちた攻撃の文句がSNSなどで頻繁に見かけられるとしても、誰かがそれに対して反論するように促されているわけだから、そう仕向けられてそんな言動に及んでいると受け止めてしまうから、そういうのに絡んでしまうと面倒なことになるから、自然とそれが放置されるがままとなってしまうのだろうが、要するにそれもそれに対して反論するように促されているとわかってしまうというか、そうやって人々がSNSを利用してほしいわけで、そんな利用の促進目的でわざとこれ見よがしに反論を促すような文句が優先的に目につきやすいポジションに置かれていると見るならば、その手の誘いには安易に乗らないようにしておこうとしてしまうわけで、たぶんそういう胡散臭いところでも奇妙な駆け引きが人々の間で生じているようにも思われるわけだ。
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