彼の声166
2025年
1月31日「微妙なニュアンスの違い」
そんなことはわかりすぎるくらいにわかっているとしても、わかっているだけではどうしようもないとも言えないが、そもそも何がわかっているのかといっても、そのわかっていることが自分にとって役に立ったりためになったりするのかという関心にも至らず、自分以外でも世のため人のためになるのかと問いたいわけでもないから、わかっていること自体が何でもないことだとは思えないにしても、いつものようにそんなことではないような気がするわけで、恒常的にそうなっていることが今に始まったわけでもないのだから、それをことさらに強調して騒ぎ立てたり煽り立てること自体が何かとってつけたようないかにも今さら感が半端ないような気がしてしまうから、そんなことではないような気がするわけだが、何がそうなのかといってみても、それが微妙にずれていて、なぜか言及しないで事を済ますつもりになってしまって、それでは話にならないし意味不明となってしまっても構わないような気もするわけで、そういうことならもっとでたらめに述べるような成り行きにも傾いてしまうから、さらに意味不明なねじ曲げを駆使して言わんとすることをはぐらかしてしまっても構わないのだが、そういうわけでなるべくそこには触れないようにして話を進めて行くと、まずは何が問題となっているのかといえば、別に政治のあり方が問題となっているわけでもなく、昔から政治などはほんの付け足し程度の作用として、事態が政治を上回る力を世の中に及ぼしながら進行中であると捉えておくなら、何がそうなっているのかといえば、経済の力が政治の力を遥かに凌駕していると事態を捉えても構わないのかといっても、だからといって政治を無視しても構わないわけでもないから、政治が国の経済を崩壊させている例を持ち出せば事足りるのかといっても、どうもそうではないこともわかりきっていて、政治と経済とを分けて考えることなどできないし、どこかの政党の主張のように〇〇政治がこの国の経済を崩壊に導いてきたと主張すれば、その政党の支持者たちが待ってましたとばかりに拍手喝采を浴びせるような成り行きを苦々しく見ているわけでもないが、やはりそんなことではないような気がするわけで、何かそういうことを主張する者たちにとって都合の良いストーリーというものがあって、そういうありふれた典型例を提示されると嬉しくなってしまうような物語の構造に意識をとらわれている支持者向けの主張を真に受けるほど間抜けというわけでもなく、それを間抜けだと馬鹿にできないような気もするが、実態としてはそうではなく、いつの時代でも経済的に報われない層が社会の中に一定数存在していることを見逃さなければ、経済発展が著しい地域ほど貧困の厳しさもより一層過酷に感じられるわけでもないが、社会のどの部分に焦点を当てるかによって主張も自ずから変わってくるということでもなく、なぜか主張する者たちにとって都合の良い主張になるように主張の中身が調整されているから、しかもそれがそんなことを主張する者たちの支持者にとっても都合が良くなるようにも調整されているから、そういう者たちとは利害を共有していない人々の心には何も響かないどころか、これ見よがしにそんな主張をされると鬱陶しいし、うんざりさせられて、もう勘弁してほしいとも思ってしまうかどうかも、それもそんな主張に対する否定的な反応から窺い知れるところだが、そんなふうにしてこいつらはもうダメだと思われてしまうとしたら、そんな者たちがカルト的な宗教の信者のようにも見えてしまうから、そう思われてしまうにしても、それとこれとが区別がつくかといっても、いったい何と何とを区別しようとしているのかもはっきりしないのだが、彼らがはっきりさせないようにしていると見るなら、それが彼らの戦略であって、彼らが敵対しているように見せかけている勢力と彼らが同じ根から生じていると見なしても構わないが、陰謀論的にそうなっているように見えているとしても、それが無意識の連携であって、敵対しながらも無意識に連携し合っているから、そうではない勢力を敵視していることに関しては同じような傾向を見せていて、わざとでないにしても視野を狭めたり目を背けるようにして、都合の悪い面を見ないようにしているのであって、それが彼らの主張が矛盾しないようにするための配慮だと感じられるとしても、意識して彼らがそうやっているとも思えないし、彼ら自身が気づこうとしないことを指摘しても無視されるだけだろうから、そういう意味で首尾一貫した主張を守ることが彼らにとっては他の何よりも優先されていると見えるなら、彼らが教条主義的な傾向にとらわれていると見なしておいても構わないが、本当にそうなのかというと、たぶんそれがマニュアル的な動作なのであって、ある意味では融通が利かないと見ておきたいのであり、そこにつけ込む隙が生じているかというと、そこにつけ込んで何をやりたいわけでもないのだが、ここではそう述べておきたいような気がするから、こうやって長々と無駄に執拗に述べているのかも知れないが、なぜそうなってしまうのかといえば、彼らが彼らの支持者を間違った方向へと導いているからだと言えるかというと、そんな気はしないわけで、むしろ正しい方向へ導いているとあえて嘘をつきたくもなるわけだが、それが嘘だとも思っていないから、そういうところに微妙なニュアンスの違いを意識してほしいのだが、彼らが次に到来する時代においては完全に忘れ去られる存在になろうとも、そういう方向へと導かれているのだから、それは避けようがない成り行きなのであって、そうやって彼らがそこから退場するから次の時代が到来すると思っておいても差し支えないわけだが、次の時代がどんな時代なのかなんて今のところは誰も知りようがなく、彼らがそこから退場してみないことにはわからないから、今は彼らが彼らにとっての正しい主張に導かれながらそこから退場して行く成り行きを黙って見守るしかないというわけでもなく、誰も黙っていないし、彼らを敵視しながらも誰もが彼らに対して批判や非難の声を浴びせているわけで、それが彼らが敵視している対象に対する批判や非難にも結びつくかというと、そうとも限らず、それどころか彼らと彼らが敵視している対象とを同じコインの表裏だと見なしても構わないような気もするのだが、たぶんそんな単純な形態ではなく、もっと色々と他の要素や要因も含んで複雑怪奇に絡み合った複合体を形成していて、そんな複合体の一面となっている彼らにしても、そうなっていることに気づいていないように見えるわけだから、そんな彼らが世の中の状況や情勢をこういうことだと提示して見せる主張や意見の内容がわかりやすく誰もが簡単に理解できるような代物なら、そこに彼らの都合が反映した戦略や戦術の類いがまやかしやごまかしとして含まれていると見なしておいた方が良さそうにも感じられるわけだ。
1月30日「新自由主義+小さな政府の効用?」
誰が主役でもない三文芝居的な演劇を観せられているとも思えないが、何でもかんでも嫌なことが起こったらそれをトランプせいだと言い放ったところで、トランプからしてみれば、日本のローカルで起こっていることなんて知ったこっちゃないだろうから、お前ら馬鹿なんじゃないかと言うまでもなく、実際に何が起こっているかなんて感知できないわけで、N国の立花氏や兵庫や岸和田の地方自治体の首長のことなど知らなくて当然だろうから、確かに知ったこっちゃないわけだが、トランプの影響を受けてそうなったと言ってみたところで、第一次トランプ政権よりも第二次安倍政権の方が先だったから、世界的にポピュリズムが全盛になっているとしたら、社会が動乱状態に入っている時にそういう動きが出てくるわけで、第二次安倍政権誕生のきっかけも東日本大震災だと考えれば納得が行くし、二度の世界大戦とその間に起こった世界恐慌の期間でもそうだったし、当時はヒトラーやムッソリーニやスターリンやルーズベルトなどが有名だったが、普通はスターリンやルーズベルトをポピュリズム政治家とは言わないが、やっていたことはそれらの政治家の間で似ていて、大雑把なところでは大きな政府による社会主義的な政策だったのだろうが、N国の立花氏が絡んで兵庫や岸和田で起こっているのはそういう政策以前の政治家の資質が問題となっていて、それがトランプのような傲岸で威張っている姿勢とイメージが重なっているのかも知れないが、そうであるなら表面的なことでしかなく、また嫌がらせや嘘やデマを言いふらしたりする陰湿ないじめ体質が問題となっているのだろうから、ある意味ではトランプとは関係のない日本特有の集団による嫌がらせ・いじめ社会が顕在化していると見ておいた方が良さそうだが、それらと第二次トランプ政権との違いが何かと言えば、普通にやろうとしていることが新自由主義+小さな政府の実現であって、それとこれとがどう違うのかと言えば、集団で陰湿な嫌がらせやいじめなどやっている余裕がないのが、新自由主義+小さな政府の実現だと言えるかどうかも、何となく理屈の上では、そんなことやっている暇があったら仕事しろということであり、日本の労働生産性が低いのは、ある意味で組織内の仕事以外で陰湿ないじめや嫌がらせが横行していることだと言うなら、何となくそういうところに労力を割いて無駄な浪費が生じているから労働生産性が低いと言ったところで、そんなのは否定的なイメージに過ぎないものの、また職場の外でも不要な接待や付き合いも生じているとしたら、フジテレビの女性アナウンサーがその種の性接待を強いられていたのだとしたら、なるほどそれが日本の文化的な特徴なのだと理解したところで、そんなことをやらなくても済むような組織体制を再構築する必要が生じているかどうかもよくわからないが、必要ならただ単にそういった無駄を省いて、仕事時間だけ仕事してそれ以外は各々が自由にやれということになりそうで、それこそが新自由主義の理想になりそうだが、それも勝手な勘違いかも知れないが、何か学校教育の現場でも教師が放課後の部活の顧問となってサービス残業をやらされるような無駄も生じているようだし、授業時間だけで教育を済ませるようなことをやらないと、教育の質も効率も低下するとは誰も思っていないかも知れないが、そういったメリハリがなく公私の区別がつかないから、無駄にだらだらと余計なところに不要な労力を割いて過労が生じてくるとしたら、そういうところも教育の現場から改革して行かないとまずいような気もするが、職場の仲間がつるんで深夜まで歓楽街で飲み食いして体を壊して早死にするようなパターンは、昭和の時代ではありふれたことだったのだろうが、それは重厚長大産業の中で組織の部品や歯車としての人材が有り余っていたからこそ可能だったと考えても構わないのかどうかもあまり自信がないのだが、そこからIT革命を経て今やAI革命の最中であるのだから、新自由主義的な職場環境では政府の中でも企業の中でも、人的資本の希少性が重要となってきて、陰湿ないじめや嫌がらせによって希少な人材を潰してしまっては、政府にとっても企業にとっても痛手となるように持って行かないと、誰でも取り替えが利くような仕事はロボットに任せておく方が仕事の効率や能率が上がるようなことにでもなってしまうと、日本の少子化社会でも通用するようなことになるかも知れないが、そういうところも良し悪しを論じられるわけでもないが、それにしても国会でれいわの大石議員や山本太郎なんかが大言壮語的な大演説を打っていて、それをれいわの支持者などがSNSなどで大絶賛しているのを真に受けているわけでもないのだが、それとこれとは関係ないというとちょっと違うような気もするのだが、彼らがIT革命やAI革命の重要性を軽んじているわけでもないとは思いたいが、彼らが信じているつもりの大前提の中でその種の産業構造の変化や、それに伴って政府のあり方が変化してきているとも思っていないような感じもしないではないが、一応はトランプ政権の前のバイデン政権がコロナ禍に起因して大きな政府+ニューディール政策的な財政金融の大盤振る舞いをやったから、それに対する揺り返しとして、バイデン政権のバラマキ政策の後始末として、第二次トランプ政権としては新自由主義+小さな政府にならざるを得ないというか、実際の成否は始まったばかりではまだわからないが、そんなことをやろうとしているように感じられる程度のことなのだが、それに対してれいわの政策というのが、たぶん今のところは実現性が限りなくゼロに近く口先だけで掲げているに過ぎないことだが、アベノミクスの延長上でやろうとしていることなのではないかと受け止めても構わないのかどうかも、自分の勝手な認識に過ぎないものの、れいわの置かれた現状の中ではそれでも構わないのだろうし、それについては批判する気も起こらないにしても、その一方で立憲民主党の掲げている政策はより現状に近いことをやろうとしているわけで、もちろんポピュリズム勢力にとって馬鹿にしたり嘲笑の対象となるような否定したいことでしかないにしても、このままでは民衆から支持を得られずに中途半端なままあまり実現しないかも知れないが、別にそれがトランプ政権とは全く違う傾向の政策だとしても、現状の延長上でやろうとしていることには、それなりのリアリティが伴ってくるわけで、それが今後の世界情勢の中でどのような作用や影響を及ぼすとも限らないし、トランプ政権を批判したいなら簡単に批判できるようなことなどいくらでもありそうだが、トランプが何か発言する度にそれに対して批判的な見解もいくらでも述べられるだろうが、そういう表面的な成り行きの下で新自由主義+小さな政府の試みが着実な成果を上げるかどうかにも注目したいわけだ。
1月29日「思考と行動の落差」
誰もがそう思うようなことを自分もそう思っているとしても、誰もが自分と同じような行動に出るとも限らないから、自分が思っていることも他の誰もが同じようにそう思っているわけでもないのかも知れないし、思っていることと行動に出ることが直接結びつくわけでもなく、思っているからといってそのまま行動には結びつかない場合もいくらでもあって、思っているだけで済んでしまったり、逆に思ってもいないのにいきなり行動となって出てしまう場合もあるかも知れないから、誰が何をどう思っていようと、また誰がどんな行動に出ようと、なぜか自分の心には響かない場合もあるだろうから、別に心に響く思いや行動が何なのかを事前に知りたいわけでもないのだが、そういうところが意味不明な感じがしてきて、たまたま偶然の巡り合わせでそうなってしまうだけだと思いたいわけで、そんなふうに思いたいのはどのような理由や原因からそう思われるわけでもないような気もするが、そう思うことによって何かから逃げているとしたら、それが何なのかと問いたいわけでもないが、それ以前に何から逃げているとも思えないのだが、それでも思っていることがそのまま主張や意見として出力されるとも限らないから、そうなる過程の中で他の様々な作用や影響が関与してきて、結果的に自分でも思ってもいないようなことを述べているかも知れないし、それに気づいていない場合も考えられるから、自分の言動が信じられないのかも知れず、突発的に何を言い出すか自分でもわからないようなら、情緒不安定のような心理状態かも知れないが、そんな心理状態のままわけもなく逡巡しているだけでは大したことにはならないのだろうが、そこから何かが吹っ切れて思いがけない言動や行動が出てくるようなら、それが何なのかといっても、たわいない感情的な行き違いの水準で人や集団の間で言った言わないの攻防が繰り広げられている中でそうなってしまうとしたら、それをどう捉えた方が良いわけでも悪いわけでもないにしても、そういう結果を素直に受け止められないような気分となってしまうのかも知れず、おかしいことをおかしいとは言えずに、その代わりに何を言うわけでもないが、それがそういうことではないと思うなら、何がそう思わせるのかもよくわからないとしても、そうは思わせないような何かが作用してそうは思わないようにさせていると解釈したくなってしまうのだが、小さなことにこだわりながら死んで行く人も世の中にはいくらでもいる中で、それが小さなことだとは思えない人がいるとしたら、その人がこだわっている対象に近づき過ぎているからそう思われると解釈しても構わないのかといっても、誰がそれを認めてくれるわけでもないだろうから、それがおかしいとは言わずに済ますことができるとしても、そんな小さなことにこだわっている人とは赤の他人だからそれで済んでしまうだけで、赤の他人でなければ何か意思表示が必要なのかといっても、そうなってみないことには何とも言えないが、そうなってみてもよくわからないかも知れず、その無視してしまいたい小さなこだわりとは何なのかといっても、それもうまく表現できないようなことなのだが、組織の上下関係の中で強いられる理不尽な要求の類いなら、その種の権力の行使を断固拒否できるわけでもないだろうから、要求したり命令する側の倫理観の欠如を指摘したところで、人が嫌がることを要求したり命令せざるを得ない立場というものも考慮に入れる必要があるとしても、そういうことを要求したり命令せざるを得ない組織の体質や構造に問題があると指摘したところで、何かそういうことを巡って堂々巡りの議論が繰り返されているに過ぎないようなことなのかも知れず、実際に組織そのものを改革するような行動が伴わない限りは今後も同じことが繰り返されて行くだけだと指摘したところで、絶えずそういうことを指摘するだけに終始していては埒が明かず、そういう方面では何の改善も期待できないわけだが、そうなっている限りで組織として行き詰まっているのは誰もが承知していることであるから、そんなことはわかりきったことだと思うのも当然なのだが、わかりきったことを指摘されて、はいそうですかと応答するだけなら、行き詰まりを打開できないこともわかりきっているわけで、ではそんな行き詰まりを前にして苦し紛れのハッタリをかましているのが誰なのかといえば、無理なことを平然と要求したり命令したりする輩がそうなのかといっても、当人たちはそれが苦し紛れのハッタリだとも思っていないわけだから、それを馬鹿なんじゃないかと思ってみたところで、他の誰もそうは思っていないなら、自分だけがそう思っているのかというと、そんなことは誰に訊いてみたわけでもないから何とも言えないところだが、普通は組織外の無責任な立場から無理な要求や命令が生じてくるとも思いたくなるのだが、果たしてそういうことを要求したり命令したりするのが組織外の輩なのかといっても、そんな輩も別の組織に属している場合の方が多いのかも知れず、自身が所属している組織でも行き詰まっているのに、他の組織の同じような行き詰まりを指摘して悦に入っているわけでもないのだろうが、少なくとも組織に所属する人員に無理な要求や命令をしないような体制を作れないかといってみたところで、その組織が置かれた状況にも左右されることだから、その組織だけでどうにかできるようなことではなく、絶えずそういう組織特有の問題が否応なく生じてくるような情勢があるのだから、それをその組織特有の体質だとか構造的な欠陥だとか言えることもそれなりに出てくるのだが、それを言ってみたところで指摘してみたところで、組織の幹部や管理職の地位や役職にある者たちがどう対処できるのかと疑念を抱くのも無理もないところで、せいぜいがもっともらしい再発防止策などを発表してから不祥事の責任をとってその地位や役職を辞任するぐらいが関の山で、それ以上は何をどうしようともやりようがないような気もするのだが、それに対して簡単に言えることがあるとすれば、その種の行き詰まった組織から離脱する理由として持ち出してくるのが、それがきっかけになるという口実であり、うまくそんな組織から逃げ出す口実として、そういう無理な要求や命令を立場や地位や役職が上になっている者から引き出して、もうやっていられないから辞めたという成り行きへと持って行ければしめたもので、結果的にそうなることがわかりきっているのにわざとそういう成り行きへと持って行こうとしているわけではなく、なぜか知らないが否応なくそんな仕打ちを受けるような機会が巡ってくるわけで、そんな機会を捉えて逃すことなく行動に結びつけられるなら、そこから逃げるのに成功したことになるわけで、そんな成功がそれとは別の成功に結びつく可能性もあるわけだ。
1月28日「勘に頼った結果」
たとえそれが信じられる理屈だとしても、例によってうまく説明できないのだが、理屈の上では絶好のチャンスなのに、なぜかそのチャンスをスルーしてしまうのだから、ただ単にその機会をみすみす逃しているのに過ぎないのだが、それに関して言い訳を述べるなら、自らの守護霊がそれで構わないと耳打ちしているような気がして、今回は守護霊の判断に従っておくのが無難なような気がして、それは理屈でも何でもなく、ただの当てにならない勘に過ぎないのだが、その一方で今がチャンスだと見なす理屈の方も当てにならないような気がして、そんな気がするだけでそうしてしまうのだから、その程度のことなのかと思うと、何だか馬鹿馬鹿しいような情けないような気がしてしまい、そういうちょっとした隙を見逃さずに動いておけば、それが後々大きな差を生むことも確かなように思えるにしても、今がそういうことをやっておく絶好の機会なのかというと、たぶんそうだと思われるのに、なぜか動こうとしないのだから、無意識がそれよりも大きな何かをつかんでいるような気がして、だからといってこんな些細なところで小さな利益を得るために動くには及ばないとも思えないし、そういうことでもないような気がするのだが、それは利益とは関係のないことかも知れないが、わざと小さな利益を求めずにおくことで、何かしらうまく行くようなことがあるかも知れないから、今はそんな利益でも何でもないような何かをつかんだ気になって、絶好の機会をみすみす逃して残念がっている程度でも構わないのかも知れず、それが言い訳がましい自己正当化に他ならないとしても、そんなふうにして自分に暗示をかけて嘘をついているつもりになっても、本当のところは勘が理解しているような感じにもなっているようで、全く嫌な感じがしないというのも、警戒心が足りないような注意力散漫になって気づかないところで危機を招いているような気もしないではないが、それが何の危機なのかもわからないのだから、それに気づいた時にはもう手遅れになってしまっても構わないような気もするのだが、そんなのも自身に嘘をついている証拠となるかならないかもよくわからないところで、ただ何となくそうではないような気配も感じていて、チャンスに動かなかったことが致命傷にはならないと思っているわけで、そういう意味では現状認識の甘さが露呈しているのかも知れないが、その甘さが今後どう影響してくるかも今のところはよくわからないのではなく、大したことにはならないと甘く見ているわけで、そういうところが危機意識の欠如を感じさせるのだが、なぜそうなってしまうのかといっても今までとはフェーズが違っていると言えるわけでもないが、ある局面では本気で必死になって取り組まなければならないことであっても、いったんその局面が過ぎ去ってしまうとそれまでの努力が水泡に帰すような成り行きも待ち構えているから、そういう成り行きには黙って従っておいた方が無難な感じがするのは、自らの勘が自らにそう告げているようにも感じられて、それが怠惰に流れているのかというと、そんな感じもしないではないが、そういうところで自らが自らを制御しているような感じなのかも知れず、うまく自らを誤った方向に導いて、それがなぜ正しい方向ではなく誤った方向なのかが謎だが、結果的に危機を脱するようなことにでもなれば、自らの勘の確かさを裏づけるようなことになるのかというと、危機感の欠如を意識しているのに危機を脱した気になるのも矛盾しているが、何か無意識にごまかされているような気もしないではなく、今後納得できるような状態や状況にでもなれば、あの時は勘に従っておいて正解だったと安心するのだろうが、そんな気になれるような気もしないから、まだ危機が過ぎ去っているわけでもないらしく、ただ今回の騙しには引っかからなかっただけなのかも知れず、それも実際には騙しでも何でもなく本当のことだったのであり、本当にそうなったのだから、それに対して何もせずにスルーしてしまうのは、絶好のチャンスを逃してしまったことに他ならないと受け止めておけばいいはずだが、今の段階ではそう思われるとしても、ここからの成り行き次第では違ってくる可能性も捨てきれず、勘が感じ取っているのがそうなる可能性だというなら、これから勘の正しさが証明されればしめたものだが、誰が何を証明するとも思えないし、自分が何を証明できるわけでもなく、それどころか何も証明されないままに終わってしまえば、そんなこともわからずじまいになってしまうのだろうが、それでも構わないとなれば、何が構わないのかもよくわからないが、少なくとも現状の世の中で常識とは違った何かがまかり通っているように感じられる限りで、そういう成り行きに沿った対応が自分でも気づかないうちにとられていて、だからそれがどうしたわけでもないとたかを括っていると罠にハマってしまっていて、そういう感覚が理解できないとしても、とりあえずはスルーしておかないと安心できないわけで、安心したいからスルーしているわけでもないと感じるなら、何か矛盾したアンビバレントな感覚に陥っているのかも知れないが、ここではこうしておいて別の機会にはここでの対応とはまた違った対応になってしまうかも知れないものの、とりあえずの対応としては騙しのような感じがしたからスルーしておいた方がいいのではないかとスルーした後からならそう思えないこともなく、本当はどちらでも良かったのかも知れないし、どちらにしても罠にハマってしまったのかも知れないが、果たして今が罠にハマっている最中なのかといえば、そうとも言えないこともないが、そうであっても構わないような感じなのかも知れないから迷うところでもあり戸惑うところでもあるとしても、何だか知らないが後出しじゃんけんのようにしてそれに対するもっともらしい解釈などが提示されたとしても後の祭りであり、もうすでにその場のやり取りが過ぎ去ってしまったわけだから、後戻りが利かないわけで、ここからどうなって行くとしても、また新たなやり取りで応じるしかなく、それがそれまでの延長上で行われるやり取りだとしても、あの時はスルーしておいて、なぜかこの後の及んでスルーせずにそれなりの対応をしてみたところで、何かとってつけたような感じがしないでもないが、何かそれが生き残りを賭けたような苦し紛れの切羽詰まった感が半端なければ、あの時何もせずにスルーしてしまったことが致命的な誤りになってしまうわけだが、どうも今のところはそうはならないような気がしているのだから、それが事態を甘く見ていることの証しにならないことを祈るばかりな情勢なのではないか。
1月27日「部分的なもっともらしさ」
政府に対して財政均衡論を唱える意見を批判したい人たちには、均衡を崩して国債をさらに発行したい思惑がありそうだが、日本の場合はすでに均衡が大きく崩れて国債を発行し過ぎて、債務が大幅に超過している現状があるから、それを少しでも改善しなければならないと考えるのは、成り行き的には真っ当な考えだとしても、そうはいっても実際にはさらに政府の予算が膨張していて、実質的に増額しているのが防衛費になるわけだから、共産党のように防衛費の増額に反対すれば、何かそれで真っ当な主張をしているように感じられるはずだが、そういう面ではそう思われるとしても、アメリカから防衛費を増額するように要求されていることに従わなければならないわけだから、政権交代して防衛費の抑制を目指すような政権を樹立しない限りは、真っ当な政治にはならないと考えるのも、それなりに筋の通った考えになりそうだが、そんなもっともらしくて正しいと感じられる主張をしている共産党に支持が集まっているかというと、全く支持されていない実態があるわけだから、それの何がまずいのかといっても、それ以外のところで共産党が支持されない理由や原因があるのもわかりきったことだが、そういうところではそうだとしても、興味や関心があるのはそういうところではなく、積極財政を推進したい人たちにはそれとは別の方面から主張したいことがあるらしく、そういう方面からの主張としても何かもっともらしい主張が形成されていると見ておけばいいのかというと、そういうことを強調したい人たちにとってはそれがもっともらしい意見になるのだろうが、それもそれとは別の方面から考えるなら、何かそうではないようなことを反論として用意したくなるわけだが、そういうわけで世の中では絶えず部分的にはもっともらしくて正しいと感じられるような複数の意見や主張が共存していて、それらの意見や主張を体現している複数の勢力がある時には妥協が成り立つ限りで協力し合う関係が一時的には結ばれる一方で、大概はお互いに反目し合って対立したり敵対的な関係にあるわけだが、そういう状態をどうしたいわけでもないが、果たしてそれらの部分的にはもっともらしくて確からしい主張や意見を支持したり賛同できるかというと、それがあくまでも部分的なもっともらしさであって、全面的にそうだとは思えないわけだから、普通に考えて支持したり賛同するとしても部分的な範囲内で支持したり賛同できるかというと、それも何とも言えないようなことであり、できればそうではないような主張や意見を持ち合わせていればいいのかも知れないが、今のところはそうではないのだから、ただ単にそれらの意見や主張はそういうものだと受け止めているわけで、後は政権を実際に担っている勢力や国会で多数派を占めている勢力が主導権を握って、それらの勢力が持ち合わせている主張や意見を国政に反映させようとして、それに対して民衆が賛成したり反対したりして、それが選挙結果に反映すればいいのだろうが、実際にそうなっているのかというと、民衆が嘘に騙されていると言いたい人もいくらでもいるだろうし、嘘をついているのがそれらの人たちが批判している勢力なわけで、嘘に騙されるなと警鐘を鳴らしている人もいくらでもいるような気もするが、それらの何が嘘で何が嘘でないかを見分けられるかというと、それも全面的な嘘ではなく部分的な嘘だと言いたいわけでもないが、それらの意見や主張が部分的にはもっともらしい限りは、それに対して反論もできるわけだから、嘘をついていると訴えることも、それらの意見や主張に対する反論だと受け止めておけばいいのではないかと思うわけで、そういう人はそれらの意見や主張の部分的なもっともらしさを受け入れがたく、それに対して完全に正しい意見や主張を求めていると受け止めたくなるのだが、それは無理なような気がして、数学や物理のような計算可能な正しさとは違う方面で成り立っているように思える意見や主張が部分的にもっともらしいなら、それらを完全に正しい意見や主張にすることは無理なのかも知れず、それらのもっともらしさというのが情勢や状況が変わればもっともらしいとは思われない可能性がある限りで、一時的にその場の情勢や状況次第でもっともらしく感じられる程度のことであるなら、そういう意見や主張を支持したりそれに賛同するのも、一時的な範囲内でその場の情勢や状況次第で支持してみたり賛同してみたりする程度で済んでしまうようなことでもあるから、そういう意味では絶えず世の中の世論や民意や人心が流動的に推移していると見ておいても構わないのだろうが、それに対して恒常的に成り立つ意見や主張の全面的な正しさを支持したりそれに賛同できるかというと、たぶんその辺にごまかしやまやかしが潜んでいて、意識が水準や次元や程度の違う正しさや確かさやもっともらしさを混同するように仕向けられていて、それも意図して狙って混同するように仕掛けているとも思えないのだが、上から目線で混同している人たちの知性が不足しているから安易な煽動に騙されてしまうと指摘しても構わないのかといっても、そんなことを言い切れるだけの自信がないわけで、その種の煽動に自分も騙されているかも知れないし、それを騙されていると思うのもおかしいのかも知れないから、では何なのかといえば、そういう煽動を信じたいわけで、騙されても構わないから信じたいというのが偽らざる本音なのかというと、本音を隠して正当化したいことがあるのかも知れないし、それが何なのかといえば、功利的に利益を得たいというのが本心からそう思われるようなことではなく、現状の世界で生じている世の中の成り行きに従うならそうならざるを得ないのであって、そうやって誰もが生きているわけだから、自らもそうやって生きている限りは、否応なくそういう成り行きに従わされてしまうわけだが、しかもそうなっている自分を否定するような正論をカッコつけて言い放ってしまう正義の徒を憎むような成り行きにもなってしまうのかも知れず、そういうわけでその種の世論が全面的に正しい意見や主張になるとしても、そんな正しい意見や主張によって否定されてしまう部分的にもっともらしい意見や主張を持ち合わせている人の方が、現状の世の中ではうまく立ち回っているように見えてしまうから、たとえそういう者たちが見え透いた嘘をついているとしても、そんな嘘に騙されていたいとも思っていないはずだが、結果的にそんな嘘をついている者たちが容認されている世の中で誰もが生きているわけだから、嘘をついている者たちもますます調子に乗って嘘をつきまくるような成り行きになってしまうのではないか。
1月26日「怪しい主張」
簡単に批判できるようなことにこそ、その批判が間違っていることを示す真実が含まれているとも思えないが、どうもそうではなく、物事には簡単に批判できる部分も簡単には批判できない部分もありそうで、批判が嘘偽りにならないようにするための配慮こそが、簡単に批判できるようなことしか主張しない態度そのものになってしまいそうで、そこに簡単には批判できないことが含まれていない限りで、その批判が嘘偽りではないように思われる一方で、何か引っかかるものを感じるわけで、ただ一方的に批判できるところだけが強調されて煽り立てられているに過ぎず、確かにそこだけに着目すればその通りなのかも知れないものの、本当にそこだけに着目して一方的に批判を繰り返していれば済むことなのかというと、どうもそれでは済まないから批判の対象となっている物事が一向に改善も解決もないまま、それに対する批判が飽きもせず延々と繰り返されるだけになってしまっている事例が世の中にはいくらでもあるかというと、何となくそう思われる事例がありそうなのだが、これといって思い浮かぶわけでもなければ、こんなことを述べていること自体が根拠の希薄な怪しい主張になってしまいそうだが、そういう批判が間違っていることを示そうとすると、何か抵抗感を覚えるなら、間違っているのではなく、間違っていないにしても批判では何も解決しないとも思えないが、現状で改善も解決も困難であるなら、批判が間違っているわけではないとしても、批判だけでは不十分だからこそ他に何かやらなければならないことがあると主張できるかというと、主張するのではなく、実際にやらなければならないことをやらなければならず、しかもやらなければならないことが批判の他にもありそうだから、それを指摘しなければならないはずだが、それも指摘するのではなくやらなければならないことであって、批判するのでも指摘するのでもなく、直接それをやらなければならないとすれば、それをやるように主張したところで、主張するのではなく直接それをやらなければならないわけだから、いくらそれを批判したところで指摘したところで主張したところで、まだそれを直接やっていないわけだから、直接の行為や行動に結びつかなければ不十分であることに変わりなく、いつまで経ってもどこまで行っても言葉で言う水準にとどまっている限りは不十分なのであって、言うだけなら批判するのに都合の良いことだけ批判して、指摘するのに都合の良いことだけ指摘して、主張するのに都合の良いことだけ主張して、ただ批判するのに都合の良いことが批判される側にとっては都合が悪いだけで、そこだけで対立や敵対の関係が成り立つわけだが、果たしてそういう批判や指摘や主張で構わないのかというと、言うだけならそれで構わないわけで、それにそれ以外の実践が伴ってくると、それなりにそれだけでは済まないことが明るみに出てきて、そこからわけのわからない紆余曲折やこんがらがった事態も生じてくるのだろうが、だからといって誰もがそんな面倒でややこしいいざこざにつき合っていられるわけでもなく、興味や関心が向かなければ無視されて放っておかれて、関わっていられる暇や余裕のある人だけ関わってくるかというと、そこに損得勘定が当てはまる限りで利益を求めて絡んでくる人や団体も現れるだろうが、そういう方面ではそういう人や団体の間ですったもんだをやっていればそれで済んでしまうようなことなのかも知れず、もちろん合法的な範囲から外れてくるようなら、違法行為を取り締まる側の警察なども介入してくるのだろうが、それ以前に道義的に許せないとか倫理的に許せないとか、弱い者をいじめるなとか、絶えず弱者や貧乏人や虐げられ差別される側に立って権威や権力を持った側を批判するとか、ある意味でれいわ的・山本太郎的な立場というのも、それが戦略的でわざとらしく感じられると、やはりちょっとずれているような感じになってきてしまうだろうし、それもキリスト教の二千年の歴史が物語っているように、弱者の立場から成り上がってひとたび権威や権力を持つようになれば、結局は批判されるような都合の悪い部分を抱え込まなければならなくなるから、権力というのは絶えず社会の中で弱者の側から強者の側へと立場や地位の上下関係に応じた力の行使を伴いながら伝達されるわけで、普通は逆に強者の側が弱者の側へと権力を行使するように見えるだろうが、それがそうなった結果からそう見えるに過ぎず、実際には弱者の側から強者の側へと成り上がってからでないと権力の行使を正当化できないわけだから、社会的な弱者や貧乏人や被差別の対象となる人々などが逆境を跳ね除けて成り上がった末に独裁的な地位や立場を固めてから権力を行使するような成り行きになれば、なるほどお前たちはそんなことをやりたかったんだなと合点が行くはずだが、果たしてフィクションでもないのにそんなふうに都合良く事が運ぶかというと、そういうところで世襲的な生まれながらにして恵まれた地位や立場や財産などを持ち合わせた輩が、しかも無能に見えてしまうようなバカ息子やドラ息子などが威張り散らすから、それが格好の批判の対象となってしまって、果たしてそういう世の中の批判するのに都合の良い面ばかりに目を向けても構わないのかというと、そういう面ばかりが目立ってしまう世の中なら安易にそれを批判していられるだろうが、何かそれでも批判しているだけでは埒が明かないような気もするわけで、そういうところに政府や企業の官僚機構が絡んでくると、弱者の側からも強者の側からも制度的にそれらを支えるように機能してきて、結果的にどんどん官僚機構が膨張して行って、膨張して行くにつれて官僚機構そのものの支配力が強まるように物事が進行して行くわけで、それが古くはキリスト教会による中世ヨーロッパで確立された教権的な支配体制であったり、近代の富国強兵的・殖産興業的な国民国家体制であったり、企業や官庁などの官僚的な支配体制であったりするものの、それらが全て官僚機構の増大に伴って権力も強まるとしても、それと共に経済効率が低下して生産性も下がってくるから、そうした組織的な体制を支える側が心身の面でも経済的な面も負担が増加して行くから、現代の日本で生じている重税感もそれに起因している可能性も高そうだが、結局はその種の官僚機構を解体するのではなく、重税感が解消される程度には効率化しないと政府や企業などを人々が支えきれなくなってしまうだろうから、そういう意味でもそれなりの改革が必要なのかも知れないが、それを実行しようとすると何かと面倒でややこしい事態に直面するのは、行政改革が叫ばれていた昔からわかりきっていたことではあるわけだ。
1月25日「回避しなければならないこと」
自らに課せられた役目や役割を全うする気などさらさらないのに、それ以前にそれを役目や役割だと認識できるわけでもなく、自身でも気づかないうちにおかしな役目や役割を担わされて活動しているらしいから、そうなってしまうのをどうやれば回避できるかなんてわかりようがないが、実際にも長野や岐阜で二日続けて通り魔的な連続殺傷事件が起こっているらしく、犯人もまだ捕まっていないようだが、そういう解釈の仕方も全く間違っているのかも知れないし、刃物で人を刺して回っている者も、自分がそんな役目や役割を担わされているなんてこれっぽちっも思っていないだろうから、何の根拠もない恣意的で出鱈目な解釈でしかないが、何を解釈しているのかといっても、果たして自らが何らかの役目や役割を担わされていると解釈できるような事態に遭遇しているのかというと、何かそう思わざるを得ないような成り行きもあるらしく、自分でもそう思わざるを得なくなると共に他人の言動に遭遇した際にもそう思わざるを得なくなり、なるほどこの人はこんな役目や役割を担わされているのかと感心してしまうわけでもないが、何かそう解釈するとしっくりくるわけでもないのだが、どうしてもこの人はこういうことを物申す役目や役割なんだと思いたくなってしまって、それがたぶんその人が物申す際に抱く意図や思惑とは全く関係なくそう思ってしまうのだから、ある意味でその人にとっては理不尽な解釈になってしまうのかも知れないが、その人の言動だけではなく活動そのものがそういうことをやる役目や役割になっているように見えてしまうと、その人の意思や意志や意向がその活動に反映しているはずなのに、何かそうではなく、それをやらされているように見えてしまうわけで、それがその人の意思や意思や意向に逆らっているわけでもないのに、それどころか積極的にそんなことをやっているように見えるのに、その人自身も自分の意思や意志や意向に従ってやっていることだと思い込んでいるはずだが、それ以上にやらされている感が半端なく感じられるとしたら、何がどうなってそうなっているのか、その人の思考が把握している範囲外から作用や影響を及ぼされてそうなっているとしか見えないようなことなのかも知れず、もちろんそう見えてしまう者がその人とは別人であるのも言うまでもないことだが、自分がそんなことをやらされているなんて全く思えないようなことを実際にやっているとしたら、誰にそんなことをやる役目や役割を課されているかなんてわかるはずもなく、そう解釈すること自体がおかしいのは言うまでもないことだが、自分ではなく他人がやっていることに関してはそう解釈したくなるのも、恣意的に他人を貶めようとしてそう思いたくなると解釈した方がいいのかも知れないし、そういうことなら他人が気づいていないことに気づいている自分の方が上だと思いたいということになって、それが傲慢で自意識過剰な思い込みには違いなく、そんなふうに思い込んでいる自分が嫌な奴だとも解釈できそうだが、それに気づいていないのが他人であると共に自分も気づいていないのではないかと疑念を覚えるなら、他人も自分も気づかないうちに勝手に役目や役割を課せられて動作させられていることになるから、そういうことならどちらが上でどちらが下というわけでもなく、誰がそうなっていることに気づいているわけでもないようなことになってしまうのかも知れないし、それどころか誰もが他人がそうやって動作させられていることに気づいていながら自分のこととなると全く気づいていないようなことなのかも知れないから、そういう事態は回避しなければならないと思っているかどうかも、自分にはよくわからないようなことなのかも知れず、そうなっているからといって何がどうなっているわけでもないと思うしかないし、何をどう思ってみても仕方がないようなことのような気もするが、成り行き的に否応なくそうなってしまうなら、回避しようとしても無駄な悪あがきになってしまいそうで、場合によってはそれが回避しなければならないことなのではなく、逆にその場を支配する成り行き通りに動いた方が身のためで、身のためといっても何か不利益を被るような立場となってしまえば、それによって身の破滅を招いてしまいかねないが、そこでも現状の成り行きを把握しながらうまく立ち回らざるを得ないような必要が感じられるなら、実際にそうしなければならないと思いそうだが、本当に現状の中でそう思っているのかというとそうでもないところが謎なのだが、謎というかある意味ではわかりきっていることなのだろうが、どちらでもあるところが微妙にそう思われる範囲内で半信半疑で動いている現状があって、本当に動いているのかといっても動いているようには見えないだろうし、ただここに留まってひたすら延々と文章を書き記しているに過ぎないことでしかないが、動かずに留まっていても何かが粛々と進行中なのであって、そんな現在進行中の成り行きの中で思考を巡らせながら現状に対処し続けているわけで、果たして文章を書き記すことが現状に対処していることになるかというと、たぶんそれも対処しているだけではなく、現状そのものを生み出していることになりそうで、そうやって新たな現状をもたらしているわけだが、それが現状に対する対処法として確立されているのかというと、確立しようとしていると現状の成り行きを捉えた方が良さそうだが、そうだとすれば対処法が確立されてしまうのも回避しなければならないことになるかというと、そんなことは自分にはわからないし、それも回避する成り行きになれば、そういう成り行きに否応なく従わされてしまいそうだから、実際に確立しようとしてもできない現状があると捉えておいても構わないが、そうだとすればここ二日間において長野や岐阜で行われた通り魔的な殺傷事件の犯人も、その人なりの現状に対する対処法を模索していて、模索した結果としてもたらされたのが一連の犯行だと捉えても構わないのかというと、それも自分がそう捉えたところで、犯人がそんな認識に至るわけでもないだろうから、今のところは自分の勝手な解釈であり勝手な思い込みで妄想に他ならないわけだが、それも果たしてそういうことの延長上で何を考えているのかも、自分の無意識に問いただすわけにも行かないし、問いただしても無意識や守護霊の類いが何を答えてくれるわけでもないだろうが、たぶんそういうところからも自分の無意識や守護霊の類いが自分にどんな役目や役割を課しているかなんて勝手に妄想するような成り行きへと誘導されているような気がしてくるわけだ。
1月24日「イーロン・マスクの知略」
彼らが物事の本質を理解していないのではなく、本質が一つではなく複数の分野にわたって複数の本質があることも理解していないはずもなく、また取り組むべき問題や課題がどこにあるかがわかっていないわけでもないのだろうが、そういう意味で本質を見抜いて本質を突いたことをやっているのが誰なのかがわかっていないと見るべきなのか、うまくはぐらかされているわけでもないのだが、なぜか本質とは違う方面へと意識や関心が誘導されていると見るべきなのか、それがイーロン・マスクに関してなら、彼が取り組んでいることに物事の本質があるわけだが、しかも彼を批判したり攻撃したい人たちにしてみれば、本質から外れたところで批判したり攻撃しているつもりもないはずだが、それも批判したり攻撃するように誘導されていると見ておくのが無難なところかも知れず、わざとそうやってイーロンが極右のふりをしているわけでもないのだろうが、たぶん勘が働いているようにも見えてしまい、まんまとそれに引っかかって批判したり攻撃したりしている人たちが、典型的な左翼リベラル系の識者や知識人に見えてしまうところも、狙っているわけでもないのに結果的にそうなってしまうところが、ある意味ではうまくそれらの人々の意識や関心を誘導していることにはなりそうで、そういうところが天才といえばそんな気もしないではないが、天賦の才だと賞賛するには及ばないし、そうすることによって取り組んでいることがうまく行くとも思えないが、それもやってみなければわからないし、もうすでに取り組んでいる最中なのだろうから、後は結果を見て判断すれば良いことになりそうだが、トランプでさえも彼らの目を欺くための誤誘導をもたらす存在なのだから、トランプのとんでもない言動や詐欺的な交渉術に人々の意識や関心が向いているうちに、またイーロンのことを極右だ極右だと左翼リベラル系の人々が囃し立てているうちに、やるべきことをやってしまう魂胆だと陰謀論的に事態を把握できるかというと、そんな嘘みたいなフィクションで構わないとも思えないが、自分としてはそれでも構わないような気がするから、そういういかにも間違っていそうな解釈をとりあえずの答えとして提示しておきたいのだが、それが何に対する答えなのかといっても、何か説得力のありそうな問いを持ち合わせているわけでもないのだが、とりあえずアメリカ政府の財政状況が危機的な事態なのだろうから、それをどうにかするためにイーロン・マスクや新たに任命された財務長官が取り組んでいるはずだが、たぶん狭い範囲内ならそれだけのことなのだろうが、もっと範囲を広げると彼らが取り組んでいることが彼らの意図や思惑を遥かに超えて全世界にそれなりの影響をもたらすような感じがするわけで、たとえトランプがめちゃくちゃなことをやってアメリカ政府が財政破綻したところで大した問題でもないのかも知れず、もちろんイーロン・マスクが本当に極右だろうと何だろうとそれもどうでもいいようなことかも知れないし、両者共にめちゃくちゃな人間だからこそできることがあると見ておいても構わないが、それはレーニンがイタリア共産党を背負って立つ男だと見込んだムッソリーニや自らの後継者として共産主義の未来を託したトロツキーなどとは違った意味で、時代が彼らを選んでいるような成り行きなのかも知れず、それもそんな成り行きとは無縁の日本から何をどう考えてみても、大した結論にも至りそうもない限りでそう思われるに過ぎない妄想に違いないが、それでも世界的に目立ってしまうのだから、彼らには彼らなりの使命が課されていると見ておいた方がよさそうで、誰が彼らに使命を課しているとも思えないが、たぶん怪物でも何でもないただの人間として何か彼らなりにできることをやる成り行きにはなるだろうから、それに対して彼らのやることなすことにいちいち過剰に反応して、典型的な左翼リベラル系の識者や知識人たちのような批判や非難を浴びせても構わないような気もするのだが、なぜか自分はその範疇にも入らないような一般人だから、そういう人々の仲間には入れてもらえないような気がするのでその気にはならない代わりに、どちらかというとイーロン・マスクの味方を装いたいわけで、それも極右だからイーロンの味方を装いたいわけでもなく、ただ単にその方がおもしろそうだからという単純な理由で構わないかというと、それもちょっと違うような気もするが、何かとんでもないことになってしまうのではないかと期待させるわけで、それも意外と期待外れでしょぼい結果に収まってしまってもがっかりするだけだから大したことはないのかも知れず、当たらない宝くじに期待するようなものかも知れないが、どう考えても宝くじよりは少しは確率が高そうにも思われて、本当に数年後には世界中の街頭に人型ロボットが闊歩している未来がやってくるなんて全く信じていないのは確かだが、数年経っても日本では自動運転すら実現していないような気もするのだが、タクシードライバーの雇用を守るためにロボタクシーが許可されない可能性も高そうだし、イーロンの思うようにはなかなか事態が進展しないような気もするが、それでもトランプを大統領に当選させた実績は誰もが認めるところだろうし、民主党政権が続いて行ったらテスラがやろうとしていることがアメリカでは実現が阻止される可能性が高そうだから、トランプに味方したのだろうから、やろうとしていることを実現させるために効果的に動いているわけで、そういうところがイーロンの有能なところでもあって、どう見ても彼を批判する左翼リベラル系の識者や知識人の上を行っている存在に感じられるわけだが、だからといって今後ともイーロンの思惑通りに事が進むとも限らないし、何かしら彼の邪魔をするような人や勢力も現れるだろうし、実際に現れているからそれに対して色々と物申しているのだろうが、それが完全に二項対立のような敵対関係を形成しているわけではないし、ある面では連携している一方で、別の面では競合しているような関係なのだから、そういうところも完全に二項対立のような敵対関係の立場しかとれない左翼リベラル系の識者や知識人たちとはわけが違うわけで、どちらにリアリティが感じられるかといえば、今どきの漫画でも完全な二項対立のような敵対関係などあり得ないわけだから、見方によっては幼稚な子供のように見えるイーロンの方が現実の世界の側のいるような感じがしてしまうのだから、今のところは彼と敵対させられてしまっている者たちがうまいことあしらわれているような成り行きになっているのではないか。
1月23日「ハイテク音痴と経済音痴の証し」
わかっているようでいて実際にはわかっていないことといえば、通俗的な意味で日本の良心的な知識人と見なされる人たちが総じてハイテク音痴なのは誰もがそう思うところだろうし、それをれいわの人たちや積極財政派と目される人たちが経済音痴だとわざと間違えて呼ぼうとも、そんなのも嘘であるのも誰もがそう思うところかも知れず、自分たちがハイテク音痴であって経済音痴でもあるのにそれをわかっていないと言っても、それもちょっと違うような気もするわけだが、果たしてそこにどんなわけがあるのかと考えてみても、にわかには理解できないようなことかも知れないが、できればもっと公平に言うなら自分も含めて誰もが門外漢なのであって、それを〇〇音痴だと馬鹿にするような奴らこそが自家撞着のような人たちなのであるから、言語表現的な意味でセンスのない人たちだと見なしても構わないわけでもなく、何を言っても馬耳東風だろうから言うだけ無駄で、言わずに書き記す程度にとどめておくのが無難なのでもなく、何かそうではないような気がするわけで、逆にハイテクや経済に詳しい人ほど、自らがハイテク音痴であり経済音痴であることを認めざるを得ないような感じになってしまうのかも知れず、それらの方面の事情に詳しいからこそ、自身の不器用さを認めざるを得ず、世の中でうまく立ち回れないから狭い専門的な領域へと閉じこもって一般の人たちとは違う認識へと至ってしまい、世間の一般常識が通用しない人になりやすいと理解しても構わないかというと、それもちょっと違うような気がしてしまうのだが、それとこれとを混同しては行けないというか、それはそれでありこれはこれであって、音痴は音楽に関係することである一方で、不器用はより一般的な技術に関係することだと理解しておいても構わないような気がするのだが、他人を音痴だと馬鹿にする人の悪意よりは、不器用であることを良い意味で受け取っておいた方が良さそうで、不器用であるからこそ普通の人にはわからないことがわかってしまうようなことも起こるわけで、そんな不器用さがその人の長所となるような方面で肯定的に受け取ってみたいような効果が発揮されて、そういうところで人のセンスが問われているように感じられるから、他人を〇〇音痴だと悪意のこもった囃し立てをやるような人たちを信用してはならないのかも知れず、そう思ってしまう時点でれいわの人たちや積極財政派にはまともな人たちからは相手にされないような過酷な仕打ちが待ち構えているような気がしてしまうのだが、それが自分の思い過ごしであることを祈るばかりだが、それでも構わないというか、それが過酷な仕打ちだからこそ、そこからの反発力が期待できるような気がして、そうやって不幸をバネにして生きているようなありふれた成り行きが思い浮かんでしまうわけだが、それに対してハイテク分野と経済分野においては、両者が互いに連携し合いながら新たな価値の創造を目指すような成り行きになって、そうした価値の創造について行けないのが旧来の価値観に凝り固まった人たちであり、そこに目を向けないから、新たな価値を創造すべく資金がハイテク分野へと集まると共に、相対的に旧来の分野への資金の投資が減ってしまうことに気づかず、旧来の経済分野に携わる人が相対的に貧しくなることにも気づかないと、果たしてそんなことに気づかない人々がハイテク音痴であり経済音痴なのかというと、そういうことではなく、たぶんそんなことはわかりきっていて、誰もが承知していて暗黙の了解事項として物事が推移しているような気もするわけで、そうやって物事を単純化して考えてしまうと、否応なくそうなってしまう事態を理解できないというか、要するに新たに価値が創造される度に従来からある価値の価格が目減りするわけで、しかも廃れてしまえば価値そのものが消失してしまうわけだが、そうした廃れてしまいそうな価値を何とかして支えようとして悪あがきの最中となっているのが、日本の〇〇業界の人たちであって、しかもそういう人たちがお互いにお互いを〇〇音痴だと罵倒し合いながらも内ゲバを繰り広げている最中でもあって、もはやそうなっている時点で自滅的な衰退が始まっていて、他人に向かって〇〇音痴だと馬鹿にするような態度の人たちは、遅かれ早かれ滅びるしかないと思っておいても構わないのかというと、それも早合点な気もしないではないが、だからといってすぐに滅びるようなことではなく、日本が駄目になるようなことでもないのであって、もうすでに駄目になっているわけでもなく、普通に日本でもハイテク投資が行われていて、そういう分野へと投資資金が集まっている限りで、その中から投資に成功する人も出てくるわけで、またハイテク分野に携わっている人や企業もそれなりに成功したり失敗したりするわけで、それを国家的な枠組みで話を単純化できるわけでもなく、ハイテク分野が世界的にアメリカに偏っているのも地政学的な事情や経緯が作用しているから仕方のないことなのだろうし、だから経済的には未だにアメリカ一強体制が維持されている一方で、相対的には日本の経済が劣っているわけだが、それも世界的に見れば進んだ文明レベルに達した地域ではあるわけだから、それほど状況や情勢を悲観的に見るのもちょっと違うような気もするわけだが、現状でもロボット分野の世界的なシェアにおいては日本が世界の半分を占めているのだから、これからAIを利用した人型ロボットなどがハイテク分野でも期待されているからこそ、その分野でのロボットの量産化に関しては、エヌビディアのCEOが日本のロボット産業に熱い視線を投げかけているわけで、果たしてそういう期待に日本のロボット産業が応えられるかどうかも、日本の経産省などの古い官僚主義的な体質が改善されないとまずいような気もするが、というか日本政府抜きで産業の革新が起こるしか生き残る道がないような感じにもなってくるかも知れないし、そうなると何をどうすればいいかなんて現状では誰も理解できないようなことになってしまうかも知れないが、本当にイーロン・マスクやエヌビディアのCEOなどが期待するような人型ロボットの世界的な興隆が数年後に起こるかどうかも、現時点では日本の良心的な知識人などは誰も信じていないだろうし、日本の主流メディアに携わる人々の中でも誰も気づいていないようなことかも知れないが、実際にそうなってから気づいたところでもう遅いというか、また産業的な時代遅れを経験するようなことにでもなれば、まさにそれがハイテク音痴で経済音痴であることの証しとなってしまうのではないか。
1月22日「批判の罠」
表面的にはそれでいいと思うことが、外部的なところではまずいような気がするとなると、何がそうなのかと考えてみたところでわからないのはいつものことだとしても、何か引っかかるものを感じるのもいつものことで、それが何だかわからないでは済まないような気もするのだが、何が済まないのかも今のところはわからないから、もう少し文章を書き記して行けば自ずからわかってくることも出てくるかも知れないから、さらに無駄に回りくどくわけのわからないことを述べて行くしかないが、たぶん安易に批判してはならないといっても、批判するように仕向けられているのだから、批判せずにはいられないだろうから、批判している者たちが安易に批判しているわけでもないだろうし、普通にもっともらしく思われるような批判をしているわけだから、それで構わないといえば済んでしまうようなことなのだとしても、これから四年間も批判し続けるのかと思うと、ちょっと最初から飛ばし過ぎなのではないかと心配になってきてしまうが、それでも誰もが批判できるようなことをみんなで批判しているわけだから、ああ馬鹿な奴らが四年間もこれでもかと飽きもせず批判し続けたんだなと四年後になって過去を振り返れば納得できるかも知れず、そんなところまで先回りして未来の状況を想像するのもおかしいのだが、多くの人たちがトランプを批判しているのだからお前も一緒になって批判すればいいじゃないかと誰から勧められているわけでもないのに、そう仕向けられているような空気を敏感に感じ取っているわけでもないのだが、トランプがわざと批判されるようなことをやるわけだから、それをそのまま批判しても構わないにしても、どうしてもちょっと待てよと躊躇してしまうわけで、何か罠にハマっているような気がするから批判をためらってしまい、考え過ぎなのはわかっているのだが、表面的にはそうだとしても、その実態が違っていることもわかっているわけだから、実質的なところで何が行われているのかを注視する必要があるわけでもないが、ディープステートの面々ならその辺のところはわかっていて、世の中にカネをばら撒き過ぎてとっ散らかったバイデン政権の後始末を着々と遂行中みたいだから、本当に遂行中なのかどうかもまだこれからやろうとしている初期段階に過ぎないのかも知れないが、トランプですらもディープステートに操られているようなものだと嘘をついておいた方がしっくりくるようで、その種の陰謀論など全く信じていないにしても、言い回しとしてはそういうことにしておいた方が何となく話の整合性がつくような気もするから、フィクションとしてはそういうことにしておいた方が良さそうで、トランプの就任式の映像でイーロン・マスクとジェフ・ベゾスとザッカーバーグとグーグルのピチャイCEOが和やかに談笑していたのを見かけて、なるほどこいつらもディープステートの手先なのかと合点が行くわけでもないが、陰謀論的にはその方がおもしろいわけで、そうやってフィクションとしての妄想を膨らませて行けば、何だか自分が世界の真実を知り得たような気になれるかというと、事実なのはトランプの大統領就任式でハイテク業界の企業経営者たちが談笑していただけのことであり、そこから勝手に妄想を膨らませて裏世界の事情通のようなことを述べるのもおかしいには違いないが、話の成り行きとしてはそうなってしまうのだから、ここからさらにスイスのダボス会議などの話題へと話が進んで行けば、何やらそれふうの話になってくるのだろうが、そんなところまでには興味が向かないから、それとはちょっとずれた方向へと話を進めて行くとすれば、トランプの就任式や前日の集会で行われたイーロン・マスクの演説内容ではなく、その際のハイテンションぶりが、大麻でも吸ってきたのか、大麻ならもっと違った反応になるのかも、薬物には詳しくないからよくわからないが、何だか奇妙に感じられて、前日の集会では一緒に連れてきた息子のX君がマルコムXにちなんだ名前ではないことも容易に想像がつくものの、意識して演技しているわけではないもそんな気がしてしまうが、それが無意識の演技であって、その場の即興でああいうことを述べているような気がするから、なるほど信頼できるような気もしてきて、やはり常人ではないんだと感心してしまうのだが、それも何がそうなのかもわかっていないのだから、常人ではない理由を示すこともできないし、口先だけの日本の政治家たちとは違って本気なんだなとその決意のほどをわかったような気になってしまって、同時にヤバいなとも感じてしまうわけで、もちろん日本の政治家たちも意識の中では本気で政治的な課題や問題に取り組んでいるつもりなのだろうから、言葉の意味としての本気か本気でないかなんて意味通りのことに過ぎないのだが、イーロン・マスクのぶっ飛んだヤバさと比較してはまずいのだろうが、本気度という程度の強弱に差があるような気がしてしまい、もしかしたら期待以上のことをやってしまうような結果に驚いてしまうかも知れないし、もちろんそうはならずに毎度のことのように期待外れに終わってがっかりしてしまうかも知れないが、何を期待しているのかもそうなった結果からでないと理解できないようなことかも知れないから、とりあえずここ四年間のことにはなるものの、期待しているのはもっと先の何かになりそうな予感もしているわけで、もしかしたら日本の良心的な左翼やリベラル系の人たちがあっと驚くことが起こるかも知れないし、またそれが起こっても驚くどころか気づかない場合もあり得るだろうから、それも何が起こるかも、彼らがそれを批判できる範囲内でしか理解しようとせずに、そうすることによって時代の流れから取り残されてしまう可能性もありそうだから、今からアリバイ的に警鐘を鳴らしておくのも、いかにもお前らは気づかなかったが俺は気づいていたふうな自慢に過ぎないから、意地悪な感じになってしまってみっともないからやめておいた方が良さそうだが、トランプが意識してこれまでの嫌がらせのようにしてやろうとしてしまうことが、トランプの思いとは裏腹な結果を招いてしまうと予言する気にもならないのだが、そうなることをイーロン・マスクが意識して狙っているわけでもないのに、結果的にそうなってしまうなら、それが自然の狡知であり、神の見えざる手が働いている証拠になるかならないかも何とも言えないところであるにしても、イーロン自身もそんなことなどまだ何もわかっていないのに、彼の満面の笑みがそうなることを暗示しているような気がしてしまうわけだ。
1月21日「ストレスと病」
心身にストレスがかかると人は病気にかかるようだが、それも自然の成り行きには違いなく、成り行きまかせに生きていても病気にかかるらしく、また成り行きまかせに生きているのに心身にストレスがかかることもあるらしいのだが、そうなったからといって何がどうなったわけでもなく、人が死のうが生きようが何がどうなるわけでもないと思ってしまうのは勘違いだとしても、それでもなぜか人は死に操られて死に、生に操られて生きる運命にあり、それが何のことやらさっぱりわからないにしても、自分の思い違いである限りで死にも生にも裏切られていて、何でもないような死も生も体験できると思い込んでいるわけでもないが、そう思っているだけで死からも生からも逃れられるのであり、そんなのは嘘に決まっているが、死も生も痛みと共にそれを実感することになるかも知れないが、何だかそれが苦痛だけに終始してしまえば絶望するだけかも知れないし、絶えず苦痛とは違う何かを追い求めているのだろうが、手に入れられるわけでもなく、願いが叶うわけでもなく、絶えず追い求めているそれを取り逃しているのかも知れず、そこで何を取り逃しているのかといえば、死でも生でもなく、ただの時間であり、眠気にとらわれて時間の経過を感じなくなっているのかも知れないが、そうやって何かを回避しているらしく、寝て起きたら痛みを感じなくなっていて、こうしてまた生還を果たすことができたらしいが、何かのプラシーボ効果なのかも知れないのだが、そうなるには腕時計が必要で、特定の腕時計を腕に巻いて寝ると効果を発揮するらしく、なぜかその時計でないと駄目で、痛みに苦しんでいる時はその腕時計を腕に巻いて寝ると、なぜか痛みが改善してしまい、完全にそれが思い込みの迷信であることがわかっているのに、そうしないとまずいわけで、その時計でないと駄目だというのが意味不明でよくわからないのだが、しかももう一つ別の腕時計を持っていて、それが呪いの腕時計だと思わざるを得ないようなことが起こるのであり、その腕時計をつけて出かけると必ず電車が止まったり、遅れが発生したりして、さらにヤバいのは自動車を運転している時であり、その腕時計をして自動車を運転したら、二度も事故を起こしてしまって、大変な思いをした経験があって、他にも色々な思いがけないがことが起こるから、もしかしたらその腕時計をつけて宝くじを買いに行ったら当たるのではないかと思って何度か実行したこともあったが、全く当たらなかったから、どうもそれは違うようで、たぶんそれも思い込みの迷信には違いないのだが、ある時コンビニの駐車場に自動車を停めてドアを少し開いたら、突然予期せぬ突風が吹いてきて、そのまま隣に停まっていた自動車にドアがぶつかってしまって、その自動車に乗っていた人と一悶着があってからというものの、自動車を運転する時にはあの痛みを和らげる方の腕時計をした方がいいと決めつけて、それからは自動車に乗る時や電車を利用する時には必ずその腕時計をして出かけて行くことにしているわけだが、また予期せず痛みがぶり返して寝ていられない時にも、その腕時計をして寝ることにしているが、腕時計にそんな力があるなんて全く信じていないのに、なぜかそうせざるを得ないような成り行きから逃れることができないのだから、それがどういう理屈でそうなっているかなんて全くの理解不能だが、呪われた腕時計の方はネットで買った中古品だから、前の所有者の怨念が染みついている可能性があるだろうから、神社かどこかでお祓いを受ける必要がありそうだが、そうとも言い切れないようなことでもあって、その腕時計をして交通事故を起こしたからこそ、今の自分の境遇があるような気もしていて、呪われた腕時計によってひどい目に遭ってこうなっていることは確かなのだが、確かなのではなくそれも勝手な思い込みに過ぎないのだが、未だにその腕時計を捨てずに持っていて、たまに動かして腕に巻いて利用することもあるのだが、その際に些細なことでも何か嫌なことが起こると、なるほどこの腕時計が作用してこうなるのかと納得してみたりして、そんなのも気のせい過ぎないのだが、それよりは痛みの原因が何なのかも気にかかるところで、数年前に大学病院で胃の内視鏡検査を受けたこともあったのだが、良性のポリープがあることは確からしく、それが原因なのだろうが、その時点では癌ではないらしく、そのままとなってしまったのだが、昨晩もちょっと食べ過ぎて夜中に激しい痛みに襲われて、痛みを軽減する腕時計をつけて必死に痛みに耐えているうちに、気がついたらだいぶ寝過ごして朝になって、痛みも感じなくなったから、こうして意味不明なことを書き記すしかないような感じになってしまい、これがどういうことなのかよくわからないし、もしかしたらそれによって何かヤバい内容になるのを回避したのかも知れないが、そういえば呪いの腕時計をつけて電車に乗って何度も緊急停車の類いを経験した際には、何か電車の進行方向の先の方で飛び込み自殺の人身事故でもあったのかとよく思ったものだが、電車が遅延する理由が何なのかが未だによくわからないが、日本の鉄道はわりと時間に正確だと言われていたが、それは昔のことなのかも知れないが、呪いの腕時計して電車を利用していた頃も十数年前のことだから、何ともいえないが、二度の自動車事故でも怪我もなく生きているわけだから、相手の自動車の修理費を数十万円負担したぐらいで、またその場では全くの無傷で平然とピンピンしていたのに、俄かに病院に通い出して、保険から百数十万円も支払われたこともあったが、まさかそれが保険金詐欺の類いだったのかも知れないが、今となっては何とも言えない嫌な思い出だが、そのおかげで、おかげでもないのだが、そういうことがきっかけとなって変なふうに作用したのか影響したのかも定かではないが、なぜかこんな境遇に落ち着いているわけで、こうなるに伴ってはっきりした理由も原因も思い浮かばないし、勝手に腕時計や交通事故を結びつけて何を出鱈目なことを語っているのか自分でもよくわからないが、こうなってしまうのだから、何だかわからないことには違いなく、こうなっているからといって何がどうしたわけでもなく、ただ単に文章を当てもなく書き記す毎日を送っているわけで、もちろんやっているのはそれだけではないわけだが、ともかく真夜中に激しい痛みに襲われたのに、今は何ともなく平然としているわけで、胃癌か胃潰瘍ならこんなことはないような気がするのだが、本当のところはよくわからないままとなっているわけだ。
1月20日「呪いと呪文」
N国党の立花氏に自宅の前で騒がれたら、包丁でも持って飛び出して行って立花氏をメッタ刺しにできれば、自らが犯罪者になるのと引き換えにして、あの人も死ぬことはなかったのではないかと妄想を膨らませてしまったが、できもしないことをそうなった結果から妄想してしまうのは良くないことだが、何となくそんな光景が鮮明に思い浮かんだので文章にしてしまって後悔しているが、今年は正月から物騒な話題で盛り上がっているわけでもなく、そういえばサイバートラックに乗ってトランプホテルの前で自爆した人もいたし、フォードの電動トラックで人混みに突っ込んで警察との銃撃戦の末に死んだ人もいたようだが、去年の正月も能登半島で地震が起こって大きな被害を出したことが思い出されて、それがめでたいことではないのは言うまでもないことだが、何か不謹慎な妄想を抱いてしまうのは世情に影響されてそうなってしまうかどうかも定かではなく、果たしてトランプの大統領就任がめでたいのかどうかも、そうではなくトランプの頭の中がおめでたいと馬鹿にしたがる人もいるような気もするが、自分にとっての関心事は、イーロン・マスクがアメリカ政府の効率化を推し進めて、緊縮財政+小さな政府を実現したら、それに対して日本の積極財政派がどんな反応を見せるかということになるが、今ままで散々緊縮財政だ新自由主義だと批判してきたのだから、お前ら面目丸潰れじゃないか!と叫んで勝ち誇ってみたいが、それも自分がやっているわけでもないし、日本ではなくアメリカで行われることだから、全くの言いがかりには違いないが、アメリカ政府の効率化が成功するとも限らないし、うまく行かないんじゃないかと他人事ながら心配になってしまうのだが、テスラ株を15株持っているだけで、その時価総額が一時的に百万円を超えたぐらいで喜んでいるのだから、たわいない存在には違いないのだが、そんなことを思っていると何となく情けなくなってきて自己嫌悪に陥ってしまうかというと、そうなってしまっても何でもないことには変わりなく、何でもないといえば、幸福の科学の建物の壁面にトランプ復活と銘打たれた肖像画が描かれていたのが思い出されたが、それが数年前のことで、なるほど大川隆法の予言が的中したと理解すれば良いのか良くないのかも、そうなる前に当人が亡くなってしまったのが皮肉な結果に思われて、何かちぐはぐな事態がもたらされているようにも思われるのだが、そういえばそのトランプに脅されてイスラエルとハマスの停戦も一応は実現したらしく、それもイスラエルを支持するトランプが自分が大統領に就任したらすぐにアメリカ軍が直接ガザに軍事侵攻すると言われて、慌ててイスラエルが引き下がったわけだから、狂気の沙汰には違いなく、それを狂気だと感じてしまうことでさえも、何かの冗談のようなことのようにも思われて、全くリアリティを伴っていないことのようにも、フィクションの実現化のような気もするのだから、本気でそう思っているわけでもないのかも知れず、死んだ数万人のガザ市民のことなど全く眼中にないような感覚にとらわれて、何だかそれも不謹慎極まりないような気がして、もっともそこから近いシリアではアサド政権下で数十万人の市民が犠牲となって、さらにそこから近いイラクではアメリカ軍の軍事侵攻によって百万人規模で人が死んだらしいし、今も戦争中のウクライナでもそんな感じだろうから、範囲を狭めてガザで数万人を殺したイスラエルの行為を非難するのがおかしいとも思えないが、その種の各国政府の蛮行を挙げて行ったらきりがないようなことにもなりかねず、果たしてそれを見て見ぬ振りができるわけでもないのだが、そんな行為が文明の興隆と共に果てしなく繰り返されてきた歴史を振り返るなら、それとこれとは別次元のこととして立花氏に憤りを覚えるのも、憤りを覚えるように仕向けられているのだから、素直に誘導されるがままに憤りを覚えておけば済むようなことではないのもわかりきったことだが、憤りを覚えるなら、何か他にやらなければならないことも出てきそうで、それを理解できればそんな思いを自らの行動に結びつければいいはずだが、果たしてそれが選挙で投票する行動に結びつけられるかどうかも、そういう理解で構わないかどうかも含めて、よく考えてみなければならないことだとも思えないが、要するに考えるまでもないことであって、さっさと行動しろと促されているように感じられるなら、まだデモクラシーを信じている証拠になるかならないかも、そうではないような気がするわけで、そうではないとしたら何なのかというと、それさえも考えるまでもなく、逆張りを狙って自らが信じていないような行動に結びつけなければならないと考えても、そんなことも考えるまでもないことであって、信じられない行動に結びつけないと太刀打ちできないようなことがあるらしく、それが呪われた自らに対する呪詛返しのような行動となってくるわけで、しかも行動であるよりも言動になってくると、言霊による効力を信じてしまうようなことにもなりかねないから、結果的に言葉の力によって自死を選ぶような成り行きにならないように、頭で考えるよりも身体で考える必要が生じてきて、死に抗うには言葉よりも行動が伴わなければならず、それを自死の行動に抗うように作用させなければならないのだろうが、果たしてそんなことができるかというと、何かそういうところが意味不明に思われてくるから、そんなのは胡散臭い迷信に他ならないのかも知れないし、もっと単純に死んだら負けだと思っておいても差し支えないだろうが、それ以前に言葉の呪術に誘導されて自死を選んでしまう人もいくらでもいるだろうから、そうなったらそうなったでそんな程度でも構わないというと、それも今のところは他人事の範囲内でそう思っているに過ぎないことなのだが、そういう意味ではどういうわけか言葉の力を信じられないから実利を得ようとして、損得勘定に基づいた行為や行動を優先させがちになってしまうわけだが、それで構わないような世の中なのだから、そういう水準で思考も働かせる必要も出てきて、もっと下世話に振る舞うべきだと言えてしまう場面でも慎重に事を進め過ぎて、かえって蛮勇を振るうべき場面でも振るえずにチャンスを逃してしまうわけだが、それが何のチャンスなのかというと、チャンスを逃した後からそれがわかるというこれまた嫌な結末になるわけだ。
1月19日「道理に適ったやり方」
現状で求めているのが論理的な確かさではなく、そうなってしまうのが不条理に感じられるとしても、うまい具合に事が運んでやっていることが自らを利するような結果を得られるならそれで構わないような気がするのだが、求めているのがそんなことではないとすれば、誰が何を求めているのでもなく、自らがどんな結果を求めているとしても、思い通りの結果など得られなくても構わないような成り行きにとらわれているらしく、そんな不確かな事の成り行きに戸惑うしかないが、それを単純に不幸が到来していると捉えるのは少し違うような気がするわけで、到来しているのは不幸ではなく不確かさにとらわれた状況だと見るなら、いったい何を見ているのかというと、自らの現状を自らが見ていると言えるのかというと、そんなはずがなく、見えていないから不確かなのであって、暗中模索の日々を送っているはずだが、ひょっとするとそれが何かの冗談かも知れないから気が気でないというか、そんなことはあり得ないと思いたいのだが、そうとも言い切れないような成り行きにとらわれているようで、現に何かを待つ日々の中で焦ったい思いにとらわれていて、何を待っているのかも、それが一つの出来事の到来を待っているだけではなく、様々な出来事や現象が複雑に絡み合って起こる何かの到来を待っているようにも思われるから、しかも待っているだけでは駄目で、こちらから何かを仕掛けなければ何も起こらないわけではないが、実際に何かを仕掛けている最中なのだろうから、その仕掛けていることが何も期待できないようなことではなく、それが起因して何かが起こることを期待したいのだとしても、今までが期待外れの日々だったのだから、今後もこのまま事態が推移するしかないのではないかと思うしかなく、できればそんな期待外れも外れて、何か思いがけないことが起こって、それがきっかけとなってどうなるのかなんて知ったことではなく、実際に現状でもそうなりつつあるような気がして、勝手にそうなることを期待しているわけでもないのだが、それが期待通りではないようなことなのだから、事態をどう捉えてみてもしっくりこないわけで、何がどうなってそうなってしまうのかもはっきりしないのなら、そんなことは考えてみるまでもなく、考えることも予想することも放棄した方が身のためで、この身がどうなっても知ったことではなければ、これまで通りに思考を巡らせて勝手なことを妄想していても構わないのだが、どうもそうは行かないような成り行きにとらわれているようで、それも勝手な思い込みに過ぎない可能性も高そうだが、元から何でもないのだから、今後も何でもない可能性が高いと思っておけばいいのかも知れず、そう思っていればそんな思いを裏切って思いがけないことが起こるわけでもなく、そんな思いと同時並行して絶えず工夫を凝らそうとしているわけだから、果たしてそれが道理に適ったやり方なのかどうかもよくわからないが、道理に適っていようとどうなろうとも、成り行き上そうならざるを得ないと事態を捉えるなら、そんな成り行きに従うしかなく、それが苦し紛れの悪あがきに見えるなら、自らがとらわれている事態を完全には把握しきれていないことの証拠となるかならないかも、そう思う者の勝手かも知れないが、そうなってしまってもそれを正当化できるようなことでもないのかも知れず、すでにこうなってしまっている時点で道理もへったくれもなく、自らがとらわれている成り行きに従わされているわけで、後はこの場の成り行き次第で自らもどうにかなってしまうと予想するしかなく、予想するまでもなくどうにかなってしまっている現状も現にここにあるわけだから、ここから自分がどうなろうと誰の知ったことでもないと自らの運命を突き放して見ていられるかどうかも、この場の成り行き次第だと達観できるかできないかではなく、達観できるなんて現状ではあり得ないわけだが、少なくとも物事の道理を信じていないわけだから、道理が何なのかも理解しておらず、そんなのは嘘には違いないが、わざとそう思い込みながらも、そういう成り行きから絶えず逃れようとしているわけで、成り行きに従いながらも逃れようとしているのだから、自らの思考も行動も矛盾と共に推移していて、しかもこれから到来する出来事や事件にもうまく対処しようとも思っているから、自意識の中ではかなりこんがらがった心理状態にとらわれながらも平静を保っているような感じもしないではないが、それが自意識なのではないのかも知れないし、自意識でなければ何なのかというと、気まぐれの即興で捏造されるフィクションであればたわいないのだが、少なくとも現状で成り立っているのか成り立っていないのかもわからない世界情勢の中では、現状の何がまずいのかも誰もがわかりきっているだけに、そのまずいことをどうにかしなければならないと考えるなら、まずいことをやっている者たちを批判する成り行きになってしまって、しかもまずいことをやらせている成り行きの中でまずいことを批判しているわけだから、批判する者たちもまずい成り行きにとらわれているわけで、まさか批判する者たちのせいでまずい成り行きになっているなんて思いもしないわけだから、それを批判するのが道理に適ったやり方だと思い込むしなく、それが間違いなのか誤りなのかではなく、まずいことをやっている者たちが間違っていて誤っていると見なすしかないわけで、まずいことをやっている者たちが自分たちがまずいことをやっているなんて思いもしないのは当然だとしても、それを批判するのがまずいことなのかというと、まずいのではなく批判する成り行きにとらわれているのだから、そういう成り行きに従うなら批判せざるを得ず、そういうところで自発的にそうやっているのか受動的にやらされているかなんて立場や視点を変えれば何とでも言えるようなことなのだから、どちらがどうだというわけでもなく、そういうどうでもいいところに首を突っ込んで屁理屈を並べるわけにも行かず、そのついでにそういうところで活躍しようとはしないようにしておいて、それも自発的にそうやっているわけでもなく、成り行き上そうならざるを得ないようなことになってしまっているのだから、そういう成り行きには都合がつく範囲内で従っておいた方がいいとそんな結果を正当化しておいた方が無難そうだが、なるべくそれを直接には批判する側には回らないような配慮が求められているのかも知れず、それも勝手にそう受け止めているだけなのだが、それについては勘が働いてそうなっていると現状を受け止めておくしかないわけだ。
1月18日「共通認識という障害」
共通認識というと多くの人々が同じ認識を共有している状態になりそうだが、多くの人々の間でコミュニケーションが成り立っていれば同じ認識を共有しているかというと、そう思っておいて差し支えなさそうだが、それに関しては少なくともSNSの場ではコミュニケーションなど成り立たないし、大抵は勝手なことを言いっぱなしになってしまうから、まれにコミュニケーションが行われている場合もあるとしても、ほとんどの場合は共通認識が形成されているわけでもなさそうで、他人の意見など無視して勝手に一方的に自らの考えを述べている方が楽なのであって、反論されて意見を変えるなんてあり得ないだろうし、それでも他人と認識を共有しているとすれば、そこで議論を戦わせているように装われているからかも知れないが、それが装われているのであって、絶えず議論が平行線に終始しているのに、意見交換が成り立っているような気がしていると錯覚しているのかというと、自らの自己同一性を確認するために他人に向かって攻撃するような感じなのかも知れず、その自己同一性というのが同じように他人を攻撃している人々と同じ認識であれば、そこで同じように攻撃している者同士で認識を共有していることになりそうだが、そこで共有させている認識の中身がお粗末極まりないと批判しようとは思わないし、共通認識が共同幻想に基づいた間違った認識だと指摘したくなるわけでもないが、たぶん間違った認識でも誤った認識でもなく、紛れもなくそれが正しい認識であり、正しいからこそ他人と同じ認識を共有できるわけでもないが、認識が正しいのではなく、他人と同じ認識を共有していることが安心できるのあって、他人も自分と同じように特定の識者や著名人を攻撃していれば、そんな他人との間で連帯感が生じているような気がするのかも知れず、逆に他人とは違う認識であることを他人に向かって誇るなんておかしいかも知れないが、ではそれが正しいからといって安心できるかというと、意外と間違っている方が安心できるかも知れないし、なぜ安心できるのかといえば、間違っていることを自分で確認できるからかも知れず、逆に他人と同じような認識を共有していることに気づけば、何かそれが共同幻想に囚われているのではないかと自らの認識を疑ってしまうとしたら、そこで認識の誤りに気づいたことになるかというと、単に疑っているだけで、それが間違いかどうかはわからないが、疑わしいと感じるのだから、少なくとも自らの認識が正しいとは思っていないのかも知れず、認識が正しいか間違っているかではなく、他人と同じような認識を持てるかどうかが、安心のバロメーターにもなるわけで、それが正誤ではなく安心をもたらすか不安をもたらすかであって、他人との間で共通認識に至れば安心できるし、認識の相違が明らかになれば不安になってくると解釈しておくのが無難かも知れないが、それが多数決のような決定に至るわけでもないが、多くの人々が抱いている共通認識に対して疑念を抱いていることになってしまうと、果たしてそれが共通認識かどうかも勝手にそう思い込んでいるに過ぎないことかも知れず、いったい何が共通認識なのかということが、今ひとつ理解できないような、SNSなどでこうだと決めつけるような意見や指摘に出くわすと、途端に疑ってしまうのだとしたら、自分はそうは思わないということかも知れないが、具体的に何がそうは思わないのかというと、それが論理的にも合理的にも確からしいと思われることであり、それよりは他の多くの人々と共に迷信の類いを信じていることの方が心地良く、そうすることによって大勢の他人との間で一体感を覚えるとしたら、それこそが共同幻想に囚われていることになるだろうが、それが共通認識であるはずもなく、一体感こそが幻想に過ぎないのだろうが、それでも構わないと思うなら、何かが狂っているような感じになってしまうのかも知れないが、そこで信じられている何が具体的に迷信なのかというと、たぶん論理的かつ合理的な確からしさが疑わしいということであって、慣習的な面でそんなことはないと感じられてしまい、たとえ間違ったことを主張していても、他の多くの人々が支持してくれているのだから、そちらの方が確かな感触を得られて、そんな主張を押し通すことによって仲間や同志と共に心地良い一体感に浸れるわけだが、しかしそうだとすると共通認識と共同幻想とがどう違うのかがよくわからなくなるわけで、両者の間でどんな区別がつくかといっても、にわかには違いがよくわからないが、その一方で論理的にも合理的にも間違っていると指摘されるような認識を多くの人々が共有しているのは狂っているのではないかと思いたいなら、果たしてそれを集団発狂だと言い放ってみたところで、何かの挑発にしかならないだろうが、それでも相変わらず不確かな部分もあるわけだから、迷信を信じている大勢の人々はそこに期待しているわけで、論理的にも合理的にも確からしい指摘が覆されること願いながらも頑なに迷信を信じているわけだが、それの何が迷信かというと、それを信じている狂った集団が自分たちでは証明し得ないようなことになるだろうが、自分たちが狂気に囚われていることを認めたくないわけだから、それを証明しろと言われても、そんなことを言われなくても何のことやらさっぱり理解できないかも知れないが、意識して部分的にしか把握しないように心がけているわけでもないだろうが、うまい具合に都合の悪い方面には目を向けないような心がけが自然に身についてしまうのかも知れず、いったんそんな習慣が身についてしまえば、他人からどんなにもっともらしいことを指摘されても無視していられて、そんな自らの態度に対してやましさや罪悪感も覚えないようになってしまうのかも知れず、それに気づかなくても済むようなサポートが仲間や同志から得られるなら、それが信頼感や感謝の気持ちとなってますます仲間や同志との一体感も深まるかも知れないが、それにしても果たして現状でそんな成り行きがどこで通用しているのかといえば、迷信を共有している集団の中で通用していると見なすしかないだろうが、果たしてそれが本当に迷信に過ぎないのかと疑念を抱けるわけでもないだろうし、何が迷信なのかを明かさずにここまで述べてきて、果たしてそれを明らかにしないまま文章を終えることができるかというと、そうなりそうな気配がしている限りでうまくやったことになるだろうが、文章の内容としてはまずいような気もするわけで、だからこんなことは述べるべきではないと思うしかないわけだ。
1月17日「民主政治と専制政治」
デモクラシーが時代遅れなのは昔からそう思われていることかも知れないが、デモクラシーにこだわらないとさらに時代遅れな専制政治が行われてしまうと現状を危惧したくなるわけでもなく、しかも民主政治も専制政治も時代遅れでも何でもなく、現代でも世界各地で行われていることだから、同時代的な現象なのではないかと思ってみたところで、少なくともメディアでデモクラシーを擁護している人々に共感を抱けないのだから、デモクラシーそのものが自壊しつつあるんじゃないかとも思ってしまうのだが、それでも構わないような気もするのだから、そんなのもデモクラシーが成立した当初からそうなっているというか、擁護するようなものでもないというか、擁護できないような制度がデモクラシーなのではないかと理解しておいた方が良さそうで、なぜ擁護できないのかといえば、放っておくとすぐに衆愚政治に堕するからというと、そうなってしまうことがデモクラシーを擁護している人や勢力のせいでそうなってしまうのかといえば、ある意味ではそう思えて、別の意味ではデモクラシーを擁護している人や勢力とは敵対している人や勢力のせいでそうなってしまうと納得できそうだが、どちらもそう思われるのだから、ではどうしたらいいのかといえば、すぐにわかるようなことではないと述べて、そんな問いからは逃げておいた方が良さそうで、答えなどすぐに出てくるようなことでもないから、民主政治と専制政治が共存している状態が同時代的な現象としてこの世界にもたらされていると理解しておいた方が良さそうだが、そうなっているとまずいのかといえば、できれば民主政治だけになってほしいのだろうが、そうはならない事情や経緯がありそうで、それが何かといえば、それとは違う方面から言えることがあって、デモクラシーを擁護している人や勢力には魅力を感じないのは確かで、何よりもデモクラシーが産業と結びついていないことが致命的な欠陥といえばその通りで、逆に産業に制限や制約を課そうとするのがデモクラシー的な政治であるような先入観もありそうで、普通に考えて貧富の格差を広げるのが資本主義市場経済なのだから、産業の発展に伴って金儲けに成功して富裕になる人が出てくる一方で、貧困化する人も大勢出てくるから、所得の多い人や利益がより多く出ている企業により多く課税する一方で、貧困化する人々を政府が救わなければならないと考えるのが真っ当な考えのように感じられるかも知れないが、普通の感覚ではそう考えるのが間違っているとも思えないのだが、どうもそうではないことが次第に明らかになりつつあって、逆に富裕層や大企業には減税しなければならない一方で、もちろん貧困層に課税するのも間違っていて、そういうのはデモクラシー的な論理からすればあり得ないことであって、場合によっては許し難いことにもなりそうだが、資本主義市場経済が発展するには富裕層や大企業に対して積極的に投資を促さなければならず、投資する資金を確保するためにも富裕層や大企業には減税しなければならないところが矛盾していると見るか合理的と見るかは、人や立場によって見解の分かれるところかも知れないが、そうやって余った資金をマネーゲームへと引き込んだところで、金融資産の大暴落を引き起こして富を消尽させる成り行きに持って行ければ、結果的に貧富の格差がそれほど広がらずに済むようなことになりそうだが、本当にそうなるかどうかもよくわからないのだが、そうなることが事前にわかっていれば誰も投資などに手を出さないだろうから、事前に大暴落など予想できないからこそ、獲得した富をさらに増やそうとして投資することになるわけで、そういう意味で資本主義は世界最強の宗教なのであり、アダム・スミスが言うように、そこには神の見えざる手が働いて富の均衡が保たれると考えておけば良さそうだが、そう考えるなら世の中には貧富の格差が必要で、貧乏人が生活していくのに必要な資金も必要であると共に金持ちが投資する資金も必要となって、しかも投資する資金の方が桁違いに大きいことが資本主義市場経済の発展には欠かせないことになりそうだが、果たしてそれで納得するかというと、納得させようとしているわけではなく、逆に不条理だからこそ魅力を感じるようなことかも知れず、デモクラシーの合理的な論理よりは資本主義の不条理な魅力の方に多くの人々が惹かれてしまうのだろうから、実際に資本主義市場経済が世界で機能し続けている現状がありそうなのだが、それに対してデモクラシーの合理性に従えば、資本家ではなく政府が公共の利益に与するように投資するなら、何となくその方が合理的に思われるかも知れないが、そこに政府の官僚機構が絡んでくるとうまく行かなくなってしまうわけで、要するに公共の利益よりも官僚機構の組織の利益の方が優先されてしまうわけで、その結果として官僚機構が肥大化して行くにつれて民衆に対して重税が課されるようになってしまい、日本のような重税地獄に陥ってしまうというと、本当にそうなのかどうかも何とも言えないが、重税感に苦しんでいる人が実際に多ければそういうことになりそうで、政府の官僚機構と共に日本では大企業の官僚機構の実態も非効率で生産性の低さをもたらしている可能性もありそうだが、そういうところが効率化されれば生産性が向上して産業のより一層の発展をもたらすかといっても、それも実際にそうなってみた結果から言えることであって、そうならない限りはそういうことが批判として持ち出されてくるのだろうが、その一方で政府の官僚機構が産業の発展をもたらすかというと、それも一概には言えないのかも知れず、結果的に産業が発展してみないことには、それが政府の官僚機構のおかげか民間の企業の創意工夫かなんてどちらでもない可能性もあって、他にも様々な要素や要因が複雑に作用し合い影響し合ってそうなるだろうから、またそうはならない可能性もあるだろうから、そういうことも考慮に入れるなら、どちらか一方を一方的に優先させるのではなく、政府は政府で公共投資的な面で民間とは被らないような方面で税収や国債の発行などを利用しながら投資するしかないだろうし、民間でも功利的な方面で投資が行われるだろうから、それらの投資がバランスよく行われれば、デモクラシー的な面では民衆の支持を得られそうだが、そうなったからといって産業が発展するとは限らないのかも知れないし、もっと何か専制政治的な強引さにまかせて不条理なことをやって多くの民衆を不幸に陥らせるようなことになった挙句に経済を発展させるような結果になってしまえば、それが資本主義の不条理さを物語っていることになるのかも知れない。
1月16日「記者会見の感想?」
石丸伸二が記者会見で語っていることについて、あるいはその場からフリージャーナリストが締め出されたことについて、それを批判している文章を読みながら取り立てて何に気づいたわけでもなく、気づいたことを述べているとも思えないが、それでも何かしら気づいているようで、気づいていることを意識しているわけでもないのに、気づいていることについて述べようとしているらしいが、では何に気づいているのかというと、その種の記者会見で語られる標準的な内容から外れていることに気づいているらしいのだが、それでも気づいていることについて述べているわけではないとしたら何なのかというと、記者会見とはこうあるべきだという意見を述べているような気がするのだが、それ以外には何も語られていないわけでもないのだが、こちらに伝わってくるのはそういうことなのではないかと勝手に推測してしまったのだが、勝手にそう思ってしまっただけで、他にどんな感想もなく、感想とはそんなものでしかないが、記者会見自体もそんなものなのかも知れず、記者会見とそれに対する感想を同一視するのもおかしいし、そこで繰り広げられたパフォーマンスには興味が湧いてこないというと嘘になってしまうが、わざとらしく人を挑発したり思わせぶりなことを言い放ったりして話術に長けている印象なのかどうかも、プレゼン巧者でディベート術に精通していると勘違いな感想を述べたくなるわけでもなく、そういうパフォーマンスを否定的に論じたり批判してしまうこと自体も、わざとそういう反応を引き起こして、そういう反応こそが典型的な左翼リベラル系のジャーナリズムが繰り出す否定的な反応なんだと印象づけるための戦略だと穿った見方をしてしまうのも勘違いには違いないが、何かその種の人々には好印象を持たれる演出なのかも知れず、そういう人々に向けて否定的な印象を醸し出そうとするジャーナリズムと戦っている姿勢をアピールしていると受け取っておいてもそれほど間違っているとも思えないが、ではそういう戦略的な意図や思惑ではなく、肝心の記者会見の内容はどうなのかというと、何か具体的なことを語っていたようだが、それがこちらには伝わってこないわけではなく、何かしら伝わってきたから、こうしてそれについて何か述べようとしているのだが、それが何なのかといっても、ここで詳しく説明するようなことでもなさそうで、それに関しては他のところで他の誰かが語っているのを見たり読んだりすれば良さそうで、それよりは直接当人が語っているのを見聞すれば良さそうだが、有名なフリージャーナリストが執拗に詰め寄ってくるのを事前に排除したのだから、そういうのを期待していた人にとっては大して興味を惹く内容でもなかったのだろうから、こちらも何か関心を惹くようなことでもなく、それよりはその場から排除されたジャーナリストが何を述べているかに興味が湧いてくるかというと、そういうわけでもないのだが、では何に興味を惹かれたのかというと、それ自体が大したことでもないのにさも大げさなことであるかのように見せかけているわけでもなく、何か大した実績があるわけでもない人がこれから大した実績を築き上げようとする最中で、その途中経過を見せていると受け取ってみてもいいようなことかも知れないが、それも本気でそう思っているわけでもなさそうで、ただ何となくメディアを通じて伝わってくる反応にちょっとだけ興味を惹かれたわけで、そのちょっとだけというニュアンスにどんな意図や思惑が込められているとも思えないのだが、大ざっぱな認識としてはフェイクで中身のない空っぽな印象というと、それ自体が見せかけの印象なのだから、そんな見せかけの印象に騙されては行けないような気がするわけで、そこで演じられている物事の本質を理解しなければならないといったところで、それがわざとらしく演じられている部分ではなく、真摯に受け止めておいた方が良さそうな部分であって、果たしてそんな部分があったのかと疑念を抱くなら、それこそがフェイクな演出に騙されているような感じがするわけだから、注意深くその辺のところを見極めなければならないような気がするというと、またしても嘘になってしまいそうだが、実際にはそうではなく、中身のない記者会見の無内容に騙されていた方がマシなのかも知れないし、兵庫県のサイコパス知事と同様の空虚感を他の大勢の人々と共有しておいた方が良さそうにも思われるのだが、それに対して地方自治の重要性というこれまたそんなことには無関心な自分が何をどう述べても説得力に欠けそうな意見になってしまいそうだが、たぶん多くの人々が関心を惹かないような地道な活動が地方自治の場では行われていて、しかもそれが重要なことだというからには、そうした活動に住民も積極的に参加しなければならないとも思えないのだが、そこに参加してくるのが石丸伸二ときたからには、何かこれ見よがしなことを言い放つかと思いきや、政治屋がどうのこうのという表面的で具体性に乏しい拍子抜けのような内容だったと誰もががっかりしてみても構わないような気もするが、やはり興味を惹くのはそんなことではなく、その場でフリージャーナリストたちを排除した上で有利な状況を利用して誰かと対決したかったようで、出席しなかったテレビ局を名指しして何か言いたげだったような感じだが、それがそこでの興味を惹くエピソードだと後づけしてみても、それが何かのはぐらかしとして機能するわけでもなく、もっと何か興味深い傾向が透けて見えているような気がして、そのことについて何か適当に述べてみたかったのだが、どうも途中でそこから逸脱してしまったみたいで、何を述べているのかよくわからない意味不明な内容になってしまいそうだが、たぶんロサンゼルスの大規模な山火事のように、何かが起こると露わになるようなことになるわけで、それが普段は多くの人が気づかないのはある意味で当たり前のことなのだから、そんなことには興味を持たないのも当然のことだという前提がある中で、果たして何かの前哨戦のように東京都議会議員選挙を見立てても構わないのかというと、メディア的な関心事としてはそう見立てるしかないだろうから、その辺に認識のずれが生じてきて、そんなわずかなずれが生じている隙をついて、選挙屋のような石丸伸二にもアピールの場が提供されているはずだが、そこで何がアピールされたのかというと、政治屋を排除するために選挙屋が馳せ参じたことになりそうで、政治屋と選挙屋のどちらがどうだと判断できるわけでもなく、どっちもどっちだと言いたい気にもならないにしても、地方自治とは直接関係のないところでその種の言説が動いているような気もするわけだ。
1月15日「煽動に気づくこと」
部分的にはもっともらしく感じられる論理を、そこだけを強調すれば全面的にそうだと納得したくなるとしても、そこだけを強調する煽動を真に受けてそう思ってしまうわけだから、部分的なもっともらしさを強調する煽動者の戦略にハマっていることに気づけば、その種の煽動をかわすことができるかといっても、かわしたところで他の大勢の人々が煽動に引っかかってそう思い込まされてしまえば、気づいた自分が他の大勢の人々から無視される存在でしかなくなってしまうかも知れないし、煽動に騙されるなと呼びかけても場合によっては攻撃の対象となってしまうことだってあり得るし、そういうことをやっている煽動者の戦略から逃れることはできないかも知れないが、それが煽動であることに気づくだけでは駄目なのかというと、ではその種の煽動者に対抗してそれとは正反対の煽動を仕掛けるようなら、それこそミイラ取りがミイラになったような結果を招きそうだが、では何が部分的に正しいのかといえば、例えば郵政事業を政府の事業から切り離すことは部分的に正しく、切り離された事業がうまく行かなくなってそれを批判することも部分的に正しく、税の徴収に関して直間比率の見直しに伴って消費税を導入することは部分的に正しく、その消費税が貧乏人に不利で金持ちに有利だと批判することも部分的には正しいのだろうが、どちらも部分的には正しいのだとしたら、ではどうすればいいのかといえば、それらを現状で批判している者たちはそうするより他にやりようがなく、それらをこれまで通りに批判していればいいだろうし、そうした批判勢力が政治的な大勢力となって政権を取るようなことにでもなれば、郵政事業を再国有化したり消費税を廃止すればいいだろうが、とりあえず現状ではそうなっていないわけだから、それらの部分的には正しい主張を信じている人もそれほど多くはいないと言えるかというと、そういうことではないかも知れないし、一度郵政事業を民営化したり消費税を導入してしまったからには、またそれを元に戻すのには面倒な制度改正が伴ってきたりして、それなりに大変なことになるから、多くの人々はこのままでもそれほど嫌な思いはしていないということかも知れないが、嫌な思いをしているとしても、それをまた制度改正して元に戻すようなことをやるほどのことでもないようなコンセンサスがあるとも言えないが、では将来にわたってそうかというと、もしかしたらそうではなくなる可能性もそれなりにありそうで、元には戻らないが別の何らかのやり方が試されるような事態になるかも知れないし、絶えず新たなやり方が模索されるような成り行きにはなりやすいだろうから、それもこれまでの歴史的な経緯に照らし合わせてもそうなる確率が高いような感じがするのだが、これからどうなるかを予想するのは簡単だが、それが当たるか当たらないかということに関しては何とも言えないから、予想など気休めに過ぎないと言えばその通りかも知れず、気休め以外の効用を期待しているわけでもなければ、自らの願望に近い予想を信じていればいいはずだが、信じているのはそんなことではないとすれば何なのかというと、そうなることを信じているのではなく、そうはならないような気がするだけで、だからといって他にどうなることを予想したいわけでもなく、そうかといって予想通りには行かないような成り行きに困惑したいわけでもないが、メディアを通じてそうなるはずだと強調するのも煽動には違いなく、もっと回りくどい言い回しというか、戦略的な言い回しを使うとすれば、そうならざるを得ないだろうと予言するなら、そうなる可能性が高そうなことを、わけ知り顔でそうならざるを得ないだろうと言い放つわけで、どこかの業界関係者のインサイダーのような立場からそういうことを言いたいのなら、その業界がメディアから注目されていて、しかも業績が好調なら、それを真に受けて信じる人もそれなりに多くいるだろうし、少なくとも街角で演説しているいかにもポピュリストのような立場の者たちよりは信用できそうだが、そういうのも煽動のカテゴリーに入れておきたいと思う人もそれほどいるわけではないにしても、ある種の煽動には違いないわけだから、その種の煽動を真に受けて、その業界の業績が好調な企業の株を買って値上がりを期待する投資家もそれなりに出てきそうで、そうなることを期待してその企業が今後も高業績が続いていかざるを得ないような理由をもっともらしく語る者が出てくるなら、そういうことだと思っておけばいいだろうが、そういうことなら自身の専門分野や得意分野の中でそうなる確率の高そうなことを予言としてメディアを通じて言い放てばいいような気もするが、その予言内容が世間から注目を浴びるようなことでないと宣伝効果も上がらないだろうし、なぜそれを宣伝するためにそんなことを言い放つのかといっても、そもそも自らがそんなことを言い放つような立場なのかというと、よくわからないというか、世間から注目を浴びたいからという目的そのものが、それに賛同したり好感を抱くようなことなのかというと、そんなはずがなく、もっと世のため人のためになるような目的がないと世間から信用されないだろうから、郵政事業が民営化されて職員やその下請け業者がひどい目に遭っているとか、消費税の導入によって多くの人々が重税に苦しんでいるとか、ひどい目に遭っている人々や苦しんでいる人々を救うために郵政民営化に反対したり消費税の廃止を目指して運動しているんだと自身のやっていることを正当化できるなら、何かそれが正義の行為のような気もしてくるはずだが、果たしてそれが全面的な正義なのかというと、そういう運動に身も心も捧げている人の立場に立つならそうだと言っても差し支えはないはずだが、逆にその種の全面的な正義を一身に背負うような立場にはなりたくはないというか、逆にそういう人々を攻撃するようなことはできればやりたくないのだが、成り行き上そうなってしまう人が必ず出てくることは理解できるし、少なくともそうなってしまう人が自分ではないことは確かで、しかもだからといってそれが自分でなかったから無視しても構わないとも思えないから、何らかの形でそういう人々を応援できれば少しはやましさや罪悪感も軽減されるかも知れないが、軽減されなくてもそれなりに生きて行けるだろうから、そういうこととは関わり合いにならなくとも済んでしまうようなら、そちらの方が気楽になれるだろうが、たぶんそういうのも偶然の巡り合わせでそうなってしまったり、またそうはならなかったりすることなのかも知れない。
1月14日「前提条件の変更」
本当にそうなるかどうかもわからない段階では、まだそうなっていないのだから、現状の延長上で何事も考えないと現実離れした思考に囚われてしまいそうだが、現実離れしてもいいなら人型ロボットが人間の代わりに労働するようなサイエンスフィクションのような未来を夢想してみれば、夢想の中では人口減少も労働問題もそれで解決してしまいそうだが、現実の世界ではまだ実現していないことは確かだろうから、現状の中ではサイエンスフィクションのような夢想はないことを前提として、現状で揃っている判断材料を基にして人口減少にも労働問題にも取り組まなければならないはずだが、そうなると今から数年後に実際に人型ロボットが世の中に普及し始めたら、それなしで取り組んでいたことが無駄になってしまうかというと、無駄というわけでもないのだろうが、実際にそうなってみてからでないとそんなことはわからないし、そうなったらそうなったで、これまで考えてきた前提条件が変わったということになりそうで、また変更された前提条件を踏まえた上で、そこで発生してくる問題や課題に取り組まなければならないのだろうが、それが問題だとも課題だとも感じないなら取り組む必要などないのかも知れないが、取り組む問題も課題も人それぞれに違ってくるだろうから、取り立てて現状で何に取り組んでいるわけでもなくても、それで構わないとも思っていなくても、自分でも気づかない範囲内や範囲外で何かに取り組んでいるかも知れず、取り組んでいることに気づいていたとしても、それが取り立ててどうという問題も課題も生じてこないようなことであるなら、普通はそんなことはあり得ないはずだが、意識の中ではどうとでも認識できるわけでもないが、ただ何となくそれでも構わないような気がする限りで、何の問題も課題もないと自らに嘘をついておいた方が構わないと思うなら、そういうことで済ませてしまっても構わないのかも知れず、自らに嘘をついていることすらも気づかないようなら、何か無意識の勘に頼って動いているようなことかも知れないが、それでも何かわかっていないようなことがあるから、絶えず自らの行為や行動や言動にもあるいは他人の行為や行動や言動にも疑念や疑問を感じているのかも知れないが、そういう内面の葛藤をもたらしているのが外部的な情勢や状況の変化だと簡単に言えるのだが、何かこれから今まで当然視してきた何らかの前提が変更されるような出来事が起こるかというと、それが起こることを前提として活動しようとしているわけでもないが、それを事前に予想したくなるのは毎度のことであって、絶えずこれから何が起こるかを予想したくなって、場合によってはそれを予言して、メディアを通じてこれ見よがしに言い放つような誘惑に抗しきれなくなってしまいそうで、それが未来を制御したいという願望の表れであることもわかっているから、思い上がりもいい加減にしてほしいような呆れた気分にもなり、どうしてもそうやって絶えず先回りして先手を打ちたくなってしまうわけで、それ自体も勝手な妄想でしかないこともわかっているはずだが、その一方で大して成果も結果も得られないようなことを必死になってやっているとしたら、空回りしているように見えてしまうかも知れないし、それで構わないわけでもないが、そういう成り行きに否応なく囚われてしまうとしたら、実際にそんな無駄な骨折り損のくたびれもうけのようなことをやっている最中なのかも知れず、そう思うと愉快でたまらなくなるわけでもないが、何をやせ我慢で強がっているのかも当人にはわかっていないのかも知れないから、そうやって絶えず謎な部分を意識している限りで、まだ知らなければならない何かがありそうな感じがしているのだろうし、それも気のせいで勘違いでしかないかも知れないが、知らなくてもいいことを必死になって知ろうとしているわけでもないのだが、必死になること自体がやっていることの言い訳として機能している面もありそうで、必死になってやっているのだから何かしら何らかの成果や結果が伴ってくるはずだと思い込みたいのであって、気休めにそう思っているに過ぎないにしても、何か確信をもたらすような確証がほしいわけで、それを求めて活動しているというと、それも現状でやっていることの言い訳にしかならないだろうが、偶然の巡り合わせでそんなことをやっているとしたら、やっていることの動機に何の説得力もなくなってしまいそうだが、それもいつものようにそれで構わないような気がするから、しかもこれといって何もやっていない時でも、それで構わないような気がするのだから、どちらにしてもその時にはそれで構わないような気がすると自らの行為や行動や言動を正当化したくなるのだろうが、そういう個人的な水準ではそうだとしても、そこに他の人や集団などが絡んでくるとそういうわけには行かなくなり、それに伴って何かしらそれらの人や集団と折り合いをつけられるようなことをやらなければならなくなるとしたら、それが社会的な行為や行動や言動になるのだろうが、そういう成り行きと独りよがりな妄想との間で何か違いがあるのかというと、違いがないわけではないが、どちらも社会から作用や影響を及ぼされた結果として、ある時には勝手な妄想に耽ってみたり、またある時には周囲の他人や集団と折り合いをつけるような行為や行動や言動を繰り出さなければならなくなってしまい、そうなった結果として自身がこの世界の中に存在している前提条件に変更が加えられて、それによって何かしら自身の思考や行為や行動や言動などにも変化がもたらされるはずなのだが、その変化に気づいたところで、あるいは気づかないままでもこれまでとは何かが様変わりしたように感じられるわけでもないのかも知れないし、あくまでも過去と現在と未来の自分を連続した存在として捉えている可能性の方が高いだろうが、それでもまれに何かをきっかけにして生まれ変わったように感じられるなら、それが勘違いで思い込みで気のせいでなければ、その自分を変えたきっかけとなった出来事をはっきりと覚えているはずだが、意外とそれも何かの方便のような言い訳に使われてしまうと、元からそうやって言い訳だらけで何かと告白を多用する体質だった可能性も捨てきれないが、それが人を操る技術として確立されたのがキリスト教会などで多用される告解の儀式となるかも知れず、そういう意味では洗礼を受けて生まれ変わることが、繰り返し行われる懺悔の告解と共に教会への隷属を伴ってきて、結果的に教会を中心とした宗教共同体に組み入れられることを示しているとしても、そういう儀礼的な存在自体も部分的で限定的な生活の一部として相対化されてきたのが現代的な傾向なのだから、そういうところでは修道士のようにそれまでの前提条件の全面的な変更は伴わずに、部分的な変更で妥協することによって一般人としての自我を保つような技術も確立されているのかも知れない。
1月13日「ナチスの戦略」
ドイツの極右政党だとメディアが決めつけているAfDの党首がイーロン・マスクとの対談の中で、自分たちはナチスとは違う、ナチスは国民社会主義労働者党の略称であり、彼らはどちらかといえば共産主義や社会主義に近い勢力であるのに対して、自分たちは自由主義側の政党だという趣旨の内容を述べていたらしいが、ヒトラーが『我が闘争』の中で述べているように、わざと戦略的に共産主義や社会主義などの支持者たちからも支持を得られるようにそういう党名にしたという経緯があるわけだから、AfDの党首が述べている内容をそのまま真に受けるわけにも行かないのだが、ナチスがドイツ共産党と選挙戦で争っていたように、れいわも日本共産党との間で支持者の奪い合いをやっているのかというと、ナチスとれいわを同一視するわけには行かないし、自民や維新や国民民主の方が思想的にナチスに近いのではないかと言いたくなる人も大勢いるかも知れないが、そもそもどの政党がナチスに近いのかで良し悪しを判断するわけにも行かないだろうから、それとは別の方面からそれらの傾向について述べなければならないのかも知れないが、表面的には国民国家の形成がその種のナチス的な傾向をもたらしたと言えるだろうし、しかもそれが資本主義経済の発展と共に強化されて行って、そんな傾向を推し進めて行ってしまうと多くの民が悲惨な境遇に陥ってしまうと結果論的に誰もが理解しているわけでもないし、それどころか経済発展と共に生活が豊かになってくるという幻想を抱きたくなるわけでもないだろうが、それと同時並行して民主的な制度も整備されて行ったと歴史的な経緯を理解したくなるのだが、それをわかりやすく説明しようとしてしまうとそうではない面を省いて説明せざるを得なくなるから、結果的によくできたフィクションになってしまうだろうが、フィクションにならないように説明するには矛盾した面があることを強調しなければならなくなって、説得力に欠ける内容となってしまうかも知れないが、多くの人々が自尊心をくすぐられるような民族的な自画自賛を政治宣伝に使われると、その気になって高揚感がもたらされるにしても、それが他の民族と敵対し合い競い合うような成り行きの中で煽り立てられるわけだから、そこに国民国家的な限界があることも理性的にはわかりきっているとしても、そういう国民国家的な幻想がフィクションに過ぎないこともいちいち証拠を挙げながら説明するのも面倒臭いだろうから、その種の批判の多くが中途半端な内容になってしまうと考えて、その辺をきっちり詳しく説明してどうだと言わんばかりに提示して見せれば、そんなのは無視されるのがオチで、多くの一般大衆は自分たちに都合の良い虚構の物語しか受けつけないものだと馬鹿にしても構わないのだが、独裁体制を築き上げて思い通りのことがやりたいとなれば多くの人々から支持を得られるような民族的なフィクションを提示しなければならないと結果論的に決めつければその通りかも知れないが、それはその種の政治的な独裁体制が築き上げられた結果からもっともらしく説明できることでしかなく、そうなる過程の中では多くの人々がそれに気づかないし、気づいた人が声を上げても無視されるだけだが、現状でわかっているのはそれが単純な国民国家的な幻想とは限らず、場合によってはそれが日本国憲法の理念に近い内容であったりすると、しかもそんな理念から築き上げられるのが政治的な独裁体制などではなく、デモクラシーの理想を実現することになれば、誰もそんな成り行きに抗うはずもないと思いたくなってしまうかも知れないが、実際にはアメリカの民主党政権もイギリスの労働党政権もドイツの社民党政権も、民主主義の理念をできるだけ政治に反映させようと試みたはずだが、結果的に多くの民衆から反感を買っているだろうし、それが多くの民衆を経済的な苦境に陥らせる結果となったから反感を買うわけだが、何によってそうなるのかというと、果たしてそれが政府の官僚機構の肥大化によって経済的な非効率を招いて、結果的に税負担が重くなってしまうからそうなると言えるかどうかも、それとも産業が発展すれば民衆の生活が豊かになって、税負担など関係なくなってしまうと言えるかどうかも、まだその答えが出ているわけでもないような気がするのだが、国債を発行して景気刺激策を打ち出して苦境を乗り切る手法でうまく行くかどうかも何とも言えないままだし、少なくとも現状ではそれがうまく行っていないから政治的な行き詰まりを招いているような気もするわけだが、何かこれといって一つの原因や理由があってそうなっているわけではないとしたら、それを強引に一つの原因や理由に決めつけて、それをどうにかすればうまく行くような政治宣伝をやってしまうのがナチスの手法であったと決めつけたくもなるのだが、それがユダヤ陰謀論であり、日本の積極財政派が用いる財務省陰謀論であり、ある意味ではれいわがやっている消費税廃止論だと言えるかどうかも、人によって意見が分かれるところだろうが、少なくとも日本だけが日本だけがと世界中で日本の国民だけが苦境に陥っているわけではなく、アメリカでもイギリスでもドイツでも苦境に陥っている民衆が大勢いて、それどころか中国でもロシアでも北朝鮮でも、日本以上に苦境に陥っているかも知れないし、それでもどこの国でも経済的に恵まれた境遇にある人もいくらでもいて、北朝鮮でさえも上級国民ともなればそれなりに経済的な豊かさの恩恵に与っているかも知れないが、少なくともナチスがユダヤ人が悪いからだと民衆を煽動して政権を奪った後にどうなったかは誰もが知るところだとして、とりあえずれいわとしては消費税の廃止を掲げて政権を奪りに行くしかないだろうし、実際に現状で政権を獲れるとは信者以外は誰も思っていないだろうが、政治の力だけでどうなるものでもないとはわかっていて、政府がどんな政策を打ち出したところで経済そのものを意のままに制御できるわけでもなく、それは実際に経済状態が上向いてから、政府の打ち出した政策が功を奏したからだと言えるだけで、そんなのは景気循環が作用してそうなったと言ってしまえば、結局はアベノミクスもリーマンショックから世界経済が立ち直った頃に運良く第二次安倍政権の期間が重なっただけで、それ以前の民主党政権の三年間はまだリーマンショックで景気低迷していた時期だったから株価も低迷していたに過ぎないと言っても構わないだろうから、悪夢の民主党政権などと騒ぐほどのことでもないわけだが、もちろん日本の高度成長期の頃であっても世の中には貧困に喘いでいる人や公害で苦しんでいる人などが大勢いたことも忘れてはならないわけだ。
1月12日「知性の程度」
集団の動作に何か特徴的な傾向が現れていると、それをあげつらって批判に利用したくなるのだが、そういう姿勢にとらわれてしまうとまずいような気もするが、何がまずいのかも今ひとつ理解できていないような気もするから、とりあえずその集団的な動作に着目して、そこに現れる特徴的な傾向について適当にいい加減に述べてみると、都合の悪いことはあえて無視しているのか、それに気づかないのか気づいているのに都合が悪いからそこには言及しないのか、それら全ての思惑が一体化して動作すると、何かそれが集団的な傾向として言説や言動に表れていると見なしたくなるのだが、現れているのが集団的な動作だとしても表れているのはそんな傾向にとらわれた言説や言動になるのだが、自分たちにとって都合の良い同じ傾向の言説や言動を集団で集中的にSNSなどのコメント欄に投入して、あたかもそれが多数意見であるかのように見せかける手法がそれらのメディアで蔓延しているとすれば、確かに大勢の者たちが都合の悪いことは無視して都合の良いことだけ主張しているような衆愚的な傾向がもたらされているわけだが、それがネトウヨ特有のやり口だと言ってしまうと、今でも延々とそんなことが繰り返されている現状があるだろうが、そういった集団的な言説や言動がそれらの集団にとって都合の悪いことは無視して都合の良いことだけ集中的に主張していることがわかってしまうかどうかで、それがわかってしまうかわからずにそれを多数意見だと思い込んでしまうかどうかで、その人の知性の程度がわかってしまうかどうかも、そんなことを判断できるような機会に遭遇できるかどうかも偶然の巡り合わせでしかなさそうだが、それがネトウヨ特有のやり口なのではなく、広告宣伝に用いられる手法だと気づけば、大衆市民社会そのものがその種の広告宣伝手法によって絶えず煽動され誘導されていると理解しても良いのか悪いのかも、それだけではないと言いたくなる人も出てくるかも知れないが、だからといってその種の広告宣伝の手法が悪いというわけではなく、メディアを利用して商品を売る上では当然のやり方なのだから、広告宣伝とはそういうものだと理解しておいても、それほど間違っているとも思えないが、もちろんそんなやり方を戦略的に採用している限りで思想信条などは取るに足らないどうでもいいような添え物に過ぎないとも言えないし、特定の思想信条を売り込んでいるわけだから、それ自体に魅力を感じられないとまずいだろうから、売り物としての思想信条自体を吟味してみる必要もありそうで、それに多くの人々が共感して幻想を抱くような内容を伴ってくれば都合が良いわけだが、そうなると自分たちが属している集団を自画自賛するような内容が推測されてきて、逆に過去にその集団が行なってきたことを否定的に見たり、それを批判したり反省したりするような行為となると鬱陶しいし、そういうのは自虐史観だと見なして、そういうことをやっている勢力を攻撃したくなるだろうが、果たしてそういう傾向ばかりに気を取られていても構わないのかというと、どうもそういう水準でそれを自画自賛する勢力とそれを批判する勢力とで対立して争うような光景を目にしても、どちらか一方に肩入れする気にもならないと言ってしまうと無責任に感じられてまずいような気がしてしまい、そんな気がしている時点でそれらの広告宣伝にやられてしまっているような気もするから、やはりそこでも広告宣伝の一環としてそうなっていることを理解するというか、本当のところでは理解できないわけだが、何が本当なのかも意味不明だが、そうではないと感じるのは論理的にも合理的にも矛盾してしまうかも知れないが、要するに過去の歴史や現在の現状を自画自賛していることについても、過去の歴史や現在の現状のまずいところを批判して反省していることについても、それを自画自賛だと受け止めておけばいいし、それを批判や反省だと受け止めておけばよく、そういうことをメディアを通じて広告宣伝していると受け止めておけばよいと割り切ることができるかというと、割り切れなくても構わないし、広告宣伝を真に受けてどちらか一方に加担しても構わないが、そんな現状を肯定できるかというと、それも肯定したければ肯定すればいいし、肯定したくなければ否定すればいいかというと、中には肯定も否定もする気にはなれない人も出てくるとしたら、その人はその種の広告宣伝には関わりたくないと見られても構わないような気もするのだが、少なくとも自画自賛するか批判して反省するかの二者択一を迫られているわけではなく、広告宣伝の意図としては自画自賛したくなったらそういう行為に賛同してくれということであり、またそれを批判して反省したくなったらそういう行為に賛同してくれということだから、どちらもやりたくなければ両方共に賛同しなければいいと理解しておけばいいような気もするわけで、所詮はメディアを利用した広告宣伝なんてその程度の取るに足らないことでしかないと突き放して見てしまっても構わないかどうかも各々の判断に任されていると理解したいわけだが、果たしてそういう物事の処理の仕方で構わないかどうかも、それでいいとは言い切れないような気もするが、少なくともそういった広告宣伝の中で述べられていることが、これから何をやるかについて判断する指標や指針になるかというと、それよりはその種の広告宣伝には惑わされないことの方が肝要なような気もするから、それとこれとは違うと理解すべきなのかも知れないし、その際にそれが人々の意識を広告宣伝する側にとって都合の良い傾向になるように誘導しようとする広告宣伝である一方で、これが自身の活動や生活そのものであることは踏まえた上で何をどう判断すればいいのかとなると、そうした広告宣伝に逆らっても無駄だと理解しておいた方がいいのかも知れず、それよりはその種の広告宣伝を利用した煽動や誘導には引っかかってみるのも一つの手で、それが広告宣伝であることをわかっていながらもわざと引っかかっているつもりになれるなら、そうした広告宣伝を利用した煽動や誘導も自身の活動や生活に役立てる可能性も出てくるかも知れないから、そうしたやり口から学んでおくことからも、それなりに知性の程度を上げることにも結びついてくるかも知れないが、だからといってそんなやり口をそのまま真似てやり返すようなことをやってしまうと、れいわの信者のようにちょっとずれているような感じになってしまうから、できればそれをさらに高次元のやり方へと進化させたいわけだが、そんなことができるかどうかも現時点では冗談半分でそう述べていることだから、真に受けないでほしいわけだ。
1月11日「ナショナリズムとリベラリズム」
一般的に言ってナショナリストには右翼も左翼も含まれることは確かだが、リベラルというとその意味通りに解釈するなら、自由主義の傾向が強くなってきて、ナショナリズムではないリベラリズムというも概念としてはありそうだが、その一方で官僚主義というと、果たして官僚たちはナショナリストなのかというと、そんなのは政府だけでなく企業の中でも官僚主義が蔓延している場合もあるから、ナショナリズムに染まっていなくても官僚主義に染まっている人もいくらでもいるというか、人が染まっているのではなく集団として官僚主義を形成しているとも言えるから、否定的なイメージとして人が官僚主義を意識することはあっても、官僚主義に染まった集団の中で活動していれば、特にそれを意識することもないのかも知れず、そういう意味では国会でいかにも官僚的な答弁に終始している官僚がいるとしても、業務的な範囲内でそういうことを述べていると考えられて、そういうのは役所の窓口業務の延長上でそういう対応をしているだけだとすれば、良心の呵責など感じないかも知れないし、それを官僚的な答弁の官僚主義だと言われても、なぜ批判されているのかも理解できない可能性までありそうだが、自分たちが属している組織を守るために官僚的なわざと訊かれたことに答えないようなはぐらかしの答弁を繰り返す羽目に陥ると考えるなら、そこから国を守るという抽象的な観念に取り憑かれたナショナリズムへと移行する可能性もあるとしても、少なくとも官僚主義とナショナリズムは違うはずだが、もちろんナショナリズムに取り憑かれた国家官僚というもよくありがちな存在だろうから、官僚主義ナショナリズムという概念まで成立するのかも知れないが、官僚主義の動作は機械的な動作だから将来的にはAIで代替可能かも知れないが、場合によってはナショナリズムとリベラリズムもAIで代替可能かも知れないが、普通に考えてそういうところで人の意識が動作するのではないかと思いたいが、それに絡んでくる政治と経済の組み合わせが未来永劫それとは別の組み合わせに取って代わられることもないとも思えないが、現状で政治活動を限界づけているのが経済的な事情であるのもわかりきったことで、それに関して日本でれいわが共産党を攻撃しがちになっている理由が、日本共産党が経済的な事情から目を背けているように感じられるかも知れないが、それに加えて消費税廃止に懐疑的な立憲民主党に対しても攻撃しがちになっているだろうが、どちらも経済的な事情からそういった野党分断的な動作が生じてくると解釈しても良いのか悪いのかも、当事者となっているれいわの人たちがそれを素直に認めるとも思えないし、それどころかそれ以前に政府自民党や公明党や維新や国民民主とも対決姿勢をとらざるを得ないのだから、四方八方の政治勢力と敵対姿勢を維持しなければならないところが苦しいところなのか、あるいはそうなることを望んでいるのか知らないが、そうなるとれいわなしで、れいわという政治勢力を無視した上で政治情勢が推移して行っても構わないような成り行きになるかも知れないが、れいわがナショナリズムともリベラリズムとも無縁だとも思えないにしても、ナショナリズムとリベラリズムが水と油のようにお互いに反発し合う概念なのかというと、現状ではお互いに妥協して水と油が共存し合うような関係を維持しているから、政府の中にも議会の中にも両者の立場が混じり合っていると現状を捉えておきたいのだが、そういう特定の主義主張に意識が取り憑かれていることに気づいているか否かも、気づいていなくても構わないとも言えないが、その人の立場に主義主張が伴ってくるから、それがまさに官僚主義的な立場となって組織内の地位や役職などが構成されてしまうのだろうが、ではナショナリズムとリベラリズムも特定の地位や役職を伴って生じてくるかというと、必ずしもそうとも言い切れないような気がすると共に、場合によっては地位や役職とは無関係にその種の主義主張に取り憑かれてしまう可能性もなきにしもあらずだが、それが特定の地位や役職ではなく、もっと漠然としてあやふやな一般大衆というカテゴリーに分類される人々の意識に感染している可能性の方が高そうで、しかも感染者となっても、自らがナショナリストだともリベラリストだとも意識せずに生きて行けるような感じだろうから、病気の類いに感染して苦しんでいるようには見えないだろうが、集団としての苦しみをもたらしているなら、苦しみと共に高揚感や団結ももたらしているだろうが、それがナショナリズムの特徴だと言ってしまうと、そんなことはないと反論したい人も出てくるかも知れないが、その一方でリベラリズムに感染するとどうなるのかというと、それも感染していることを意識できるとも思えないから、想像でしか語れないが、主義ではなくリベラルそのものをどう体現できるかもよくわからないが、逆説的な理解としては果たしてリベラルではない自由という状態を想像できるかというと、良い意味でリベラリズムという言葉を使って、悪い意味ではリバタリアニズムという言葉を使いたい人も出てくるだろうし、リバタリアンという自分勝手な人という意味で、それを悪い自由という定義にしておきたい意図もありそうだが、少なくとも日本では日本語の水準では区別がつかない概念となりそうで、自由に良いも悪いもないだろうとは普通に思ってしまうのだが、そうなると左翼リベラル勢力の攻撃対象としてナショナリストとリバタリアンの結合が挙げられて、それこそが悪しき新自由主義だと定義できれば都合が良いわけだが、要するにナショナリストがトランプでリバタリアンがイーロン・マスクだと見なせば批判の紋切り型としてうってつけな感じがしてくるのだろうが、もちろんそんなふうに批判の言説を紋切り型化してしまうと、大衆ウケは良いだろうが、そのウケていると想定される大衆というのが、ポピュリストなどに煽動されてしまうような無知で愚かな大衆だという、これまた別の紋切り型的な批判の言説に収斂してしまうから、そういうところで一般大衆が馬鹿にされているような、その種の紋切り型的な言説を弄ぶ輩が悪意に満ちているような感じとなってしまうから、それ自体が衆愚的な言説だから、そういう言説を真に受けてはならないようにも感じられて、その種の紋切り型を回避して言説を構成しなければならないと思ってしまうわけだが、それが良いか悪いかというよりは、どうしてもナショナリズムを否定的に見てしまうものだから、それを体現している人々が本当にナショナリズムに感染しているのかどうかも、彼らの発言がその通りならそう捉えても構わないとしても、そういう人々も含めて社会が構成されていることも考慮に入れるなら、分散的に判断すべきだと思いたいのだが、もしかしたら分散的な判断というのもうまく理解できないようなことなのかも知れないから、単純にナショナリズムも他の主義主張と同じ程度に利用の対象となっていると理解しておくにとどめておいても構わないのかも知れない。
1月10日「仮想の構造」
いつものように何が違うのかわからないわけではなく、それが違っているのには薄々気づいているようでいて、しかもそれに関して気づいていることを明らかにしてしまうと何かと不都合が生じてくるらしいから、わざと気づいていないように振る舞いながらも、本当は気づいているんだぞとそれとなくわけ知り顔でアピールしているわけでもないのだろうが、どうも違っているそれが何なのかが未だによくわかっていないのだとしたら、それに気づいているというのも嘘になってしまうだろうが、それにしてもなぜそういつもいつも回りくどい言い回しになってしまうのか理解に苦しむが、直接には理解できないような構造になっているのかというと、3次元の立体構造に対して4次元の時空構造などはイメージとして把握するのが困難だが、そもそもそれが何の構造なのかもよく理解できていないような感じもするから、何とも言えないようなことなのかも知れず、それが例えば国家の構造なのか世界の構造なのかということではなく、なるべく構造という言葉は使わないようにしてうまく説明しなければならないとしたら、いったいこれから自分が何を説明しようとしているのかも皆目見当もつかないが、時空的な概念を想定しているなら歴史の構造だと言えなくもなく、それが何の歴史なのかというと、市民社会の歴史だと言えなくもないが、それが社会の進化の歴史ではなく、繰り返しの歴史であって、その中で何かが絶えず繰り返し到来するような経過を辿りながらも、いつも同じようなことが問題となっているように感じられるから、その問題となっているのことの解決も絶えず先送りにされているようにも思われて、しかも問題の解決を目指している者がその解決を先送りにしているようにも見えてしまい、結果的には解決しようとするから先送りになってしまうような不条理なことになっているようにも感じられて、それではまずいだろうから、何とかして先送りにしないで解決しなければならないはずだが、それが絶えず先送りにされてしまうとしたら、要するに解決できないということになりそうだが、その解決できないことがロボット技術によって解決されるかも知れないと考えるなら、それが労働問題となるのだろうが、本当にそうなのかというと、労働だけではないとしたら何なのかというと、人の生き方の問題なのかといえば、生きることがそのまま労働となるわけではなく、労働以外にも生活全般となる可能性がありそうだが、それに関して社会の構造から人の生活全般が決まってくるとも思えないし、構造といっても静的な構造ではなく、絶えず変化しつつある過渡的で動的な構造となると、そんなのは構造とは言えないような気もしてくるが、それが単なる時間変化なのかというと、そもそも時間以外に変化する要因があるかというと、存在する物や起こる出来事への力のかけ具合が時間そのものに変化をもたらすような感じになると考えるなら、人が知らず知らずのうちに関心を持った物事へと力を加えることによって、その物事に固有な時間の流れを変えようとしていることになりそうだが、そのわかりやすい例が、ロボットを導入することによって人の労働時間を短縮することだが、物としてのロボットならわかりやすいが、システムや仕組みを変えることによって労働の質そのものを変えるようなことを目指しているとすれば、すでに産業革命の昔から工場制手工業の段階でそんな試みが行われていたはずだが、今の世の中でシステムや仕組みを直接変えずにごまかしとして用いられる手法のよくあるパターンとしては、言い方を変えるということになるのだが、単純な例として誰もがわかりやすいのは、政府は法人税率を下げるために消費税率を上げてきたという批判になるだろうが、結果的に法人税率を下げたところで内部留保が溜まるだけで給料が上がらなかったし、給料が上がらないから消費も増えなかったし、景気も上向かなかったじゃないかと批判できることは確かなのだが、それの何がごまかしなのかと指摘できるかというと、ただ単に世界各国の中で日本は相対的に法人税率が高かったから、バブル崩壊以来企業業績が思わしくなかったから、各国並みに法人税率を引き下げようとしたのだろうし、また税の直間比率にしても、各国並みに直接税の比率を下げて間接税の比率を上げようとしてきた結果として、法人税率が下がって消費税率が上がったわけだが、今では消費税は間接税ではなく直接節税だと言い方を変える人まで出てきて、そんな言い方の変更を迫る人はそれがごまかしだなんて思っていないのは当然だとしても、果たして消費税を廃止することが仕組みを変えることになるのかというと、それも消費税の廃止を主張する人の中には仕組みやシステムの変更だと思っている人も結構いるかも知れないが、政府が税を徴収する仕組みやシステムの変更を迫っているわけではないし、消費税を廃止しても別の税の徴収は続けるつもりだろうから、そもそも政府が税の徴収とは別の仕組みやシステムを採用するなんて不可能かも知れないが、政府とは別の仕組みやシステムが政府と同時並行しながら社会の中で機能していることも確かであり、何かの機会に乗じて、あわよくば政府の力を弱めて同時並行して機能している別の仕組みやシステムの力を強めたいと思っている人もいるかいないかもよくわからないが、新自由主義的な緊縮財政+小さな政府の実現を目指している側としては、そういうことをやりたいと思っているわけではないとしても、それと自覚することなくそうなるように動いていると理解できるわけでもないのだが、それが国家システムという小さな領域の支配権を巡って動いているわけではなく、もちろんトランプなどが意識しているのはアメリカ第一主義という国家的な枠内であることは確かだとしても、そんなトランプ政権に関わっている者たちが思い描いているのがそうではないことに薄々勘づいてしまったから、ナショナリストなどが裏切られた思いに囚われて元旦早々テロ攻撃などに及んだのではないかと穿った見方をしてみたところで、真相は定かでないだろうが、別に彼らが全世界の支配を目指しているわけでもなく、逆に誰にも支配されずに自由を最大化するような試みに囚われているのかも知れないし、それもそんなふうに思われる兆候を誰もが感じ取っているわけでもなく、何となく無意識のうちに自由を求めていることに気づいていない人が世の中の大半を占めているとしても、そういうことがあからさまになってしまうとナショナリズムに囚われた人々も危機感を募らせて人々を過去から連綿と続いている慣習やしきたりの類いに従わせようとして躍起となってしまうから、日本でも選択的夫婦別姓などに強硬に反対するような人々にそんな兆候があるのは誰もが感じ取っていることかも知れないが、その辺で何か寝た子を起こすようなマネをしないような配慮が求められているのかも知れない。
1月9日「減税の是非?」
減税するかしないかではなく、減税するなら減税の中身が肝心なのに、まずは減税するかしないかの次元で是非を判断しようとしているのか、判断しているわけではなく、減税しない側を攻撃するために、減税するかしないかの是非を強調して煽り立てているのだろうが、そんなふうに煽り立てることに関して何か正当化できる理由があるのかないのか、相変わらずそういうことに関しては何をどう説明すればいいのかよくわからず、考えあぐねてしまうが、それが日本ではなくアメリカなら、トランプもイーロン・マスクも彼らを批判する報道を鵜呑みにすれば何かめちゃくちゃなこと言っているように感じられるが、イーロン・マスクにしてみれば、トランプが減税するって言っているから、減税する分で政府の機構を効率化して支出を削ればいいということになって、足し算引き算程度の簡単なことを言っているわけで、それに対して日本ではどうもそういうことではないらしく、その辺がよくわからないのだが、立憲民主党の場合は一律に減税するのではなく、税を取られすぎな人に現金を給付する案を提示していて、その種の法案を国会に提出しているらしいから、それに対して是非を議論したいならすればいいとしても、議論せずに減税しようとしない立憲民主党の姿勢を攻撃したいのだろうから、攻撃すればいい程度のことなのだろうが、これからイーロン・マスクが政府に入ってやろうとする仕事内容よりは、SNSでやっている政治的な発言の方に噛みついた方が、ニュースネタとしては需要がありそうだから、今はそちらの方で盛り上がっているのだろうし、それに加えてトランプのグリーンランドを買い取るとか、パナマ運河をアメリカの管轄に戻すとかの暴論を批判している方が大衆ウケがするだろうから、それも話題となっているようだが、日本の減税派は減税するから予算を削るとかの緊縮財政+小さな政府の組み合わせは絶対に受け入れ難いだろうから、そういう方面に話が進んで行かないようにするためにも、減税するしないの議論に終始して、減税せずに制度的な欠陥から税を取られすぎな人に現金を給付するという案を示している立憲民主党を攻撃するしかないのかも知れないが、その辺のところは彼らの意図や思惑をこちらが察しているだけで、本当のところはよくわからないのだが、何かそれがリベラル左翼な立憲民主党を攻撃しておけばポピュリズムに染まった大衆から支持を得られるという目先の損得勘定のような穿った見方をされると、底が浅いというか、知性のない軽蔑されるようなことをやっているような感じになって、それではまずいような気がするのだが、おかしな方向へと意識を誘導されて議論をはぐらかされてしまっているわけで、それに関しては以前の小泉郵政民営化の際にも、本当ならこれからイーロン・マスクが取り組もうとしているように政府本体の構造を効率化させて無駄な部分を削って減税に結びつけなければならないのに、郵政民営化だけでお茶を濁されて、その程度でやれ新自由主義だ竹中平蔵だ今だけ金だけ自分だけだとか批判されても、そんなのは新自由主義でも何でもないわけで、ここ数年でも政府本体から財務省だけ切り離して、諸悪の根源は財務省だと財務省陰謀論を展開するようなことをやろうとするわけだから、議論を誤った方向へと誘導して論点をはぐらかそうとしているとしか思えないのだが、なぜことさらにそんなことをやろうとするのか、彼らの意図や思惑がどの辺にあるのかもよくわからないから疑念ばかりが募って行って、そういうことをやっている人たちの言っていることを全く信用できないわけだが、イーロン・マスクの方でも本当にうまく行くかどうかも実際にやってみないことにはわからないし、アメリカでも色々と軍産複合体とかの利権が絡んでくる方面ではきれいごとでは済まなくなるだろうから、結果的にはリベラル左翼方面から批判されるようなことにもなりそうだが、やってみて本当に財政健全化に成功するようなことにでもなれば、どう考えても日本の積極財政派の立場も危うくなるような成り行きになってしまうかも知れないし、その辺がイーロン・マスクの手腕に期待しているのだが、それに対して日本の現状をどうすればいいのかと問われると、当事者としての政治家でもないから、それほど説得力が伴うようなことを言えるわけでもないのだが、少なくとも立憲民主党が提出している税制に関する法案をメディアも積極財政派も無視して減税しない立憲民主党に対してネガティブキャンペーンをやり続けるなら、なるほどそういうことかと納得できるわけでもないのだが、野党を分断して政府自民党を利する結果になれば、何となくうまく行ったことにもなりそうだが、それでも今後ものらりくらりで批判をかわして現状維持の状況を保てるなら、日本の現状も衰退傾向のようなことになるのかならないのかも何とも言えないし、それで良いならそうなるに越したことはなさそうだが、どうも自分の感覚ではあまり危機感を抱くようなことにはならないから、それで良いのならそういうことでも構わないと嘘をついておいても構わないのだが、それにしても日本はもう何十年も政府の予算が増え続けているし、国債も発行し続けているわけだから、実質的には延々と積極財政政策が継続しているわけだから緊縮などあり得ないわけで、そういう面では積極財政派がそんな事実をねじ曲げて嘘をついていることになるかも知れないが、それでも何とかなっているわけだから、あまりその種の議論が本質的なところを捉えているような気はしないわけだが、そういう現状を無視してただ一方的に消費税の減税や廃止に狙いを定めて、減税しろだの廃止しろだの主張してうまく行くならそれに越したことはないが、それがうまく行っていないから批判していると現状を捉えてもいいのかというと、どうもそうではないような気もして、では何なのかというと、必ずしもうまく行っていなくても構わないようなことであって、財政がすぐに破綻するとも思えないのだが、逆に今後何かのきっかけから政府の財政が破綻してみれば、そこから何かしらやりようが出てくるのかも知れないが、そうもならないような気がして、現状が延々と続いて行ってしまう可能性も現状の延長上では考えられなくもなく、そんな気がしている限りで、そんな感覚を裏切って思いがけないことが起こってみないことには転機も訪れないのかも知れず、その転機がこれからアメリカでトランプ政権によって起こされて、ああこういうことだったのかと合点が行くようなことにでもなれば、何となくわからなかったことがわかるようになるのかも知れない。
1月8日「現状の無視」
短期的な情勢の変化に一喜一憂しながらも、それが本当に短期で終わるような情勢の変化なのかと疑ってかかるなら、何か次に到来する大きな変化の前触れなのではないのかと警戒してみても、先行きが不透明であることには変わりなく、心情的にはどうしてもあっと驚くような思いがけない大げさな事件や出来事が起こらないと気が済まないのだが、気が済まないからさらに妄想を膨らませて危機感を募らせてしまっても、それが現状で陥っている勘違いな錯覚なのかも知れないし、そうではなく合理的に考えて何か納得できるようなことを予想できるかというと、そんなことを予想する気もないのに、できれば大げさなことが起こってほしいから、そんな期待に引きずられて世の中の動向を見誤っているような気もしないではないが、実際には見誤っているわけではなく、自らの妄想を正しい情勢判断に結びつけたくて、わざと勘違いな錯覚と戯れているだけなのかも知れず、そうだとしても現状をどう判断したいのかというと、嘘でも構わないから将来を楽観的に見ている現状があり、将来ではなく現状をどう見ているのかと問われているような気もするのだが、現状を無視して将来を楽観視しているのだとしたら、その無視したい現状とは何なのかというと、危機が間近に迫り来るような現状だと勘違いしたいわけで、要するにそんな嘘の現状を無視したいのかも知れないが、嘘だと言い切れるかというと、危機的な状況だと思いたいわけだから、何がそう思わせたいのかといえば、それをメディアのせいにしても構わないのかというと、こちらの願望や期待を反映するような現状をメディアが示してほしいような気もするわけだから、そういうメディアを選んで視聴しているのかも知れず、そういう願望や期待に応えるような話題を提供するのがメディアの使命だと勘違いもしたいわけで、できればAIがこちらの意図を汲んでその種の話題を優先的に提供するようなことをやってほしいのだが、実際に現状でもそうなっているような気もするから、そんな未来になることを望んでいる以前にそうなっていると現状を見ているわけで、すでに現状でもそれが実現しているのではないかと思いたくて、それが自分で自分に嘘をついているような気がするとしても、それでも将来を楽観視しているとしたら、それが自分の将来ではなく、世界の未来なのではないかとも妄想したくなるのだが、自分には現状しかなく、将来など何も望めないような現状の中で、世界の未来を絶望視する気も起こらないとしたら、なぜか将来を楽観視するしかなく、そんな理由ではないだろうと思っているのだが、何かその辺で話の辻褄が合わなくなっているような気もしてきて、自らが構成しつつある文章がおかしいのかも知れないが、そんな現状は無視してさらに話を進めると、他にも疑念を抱いていることがいくらでもあるような気もしてくるのだが、それに関しては絶えず何かが起こったことを利用して疑念を抱くようなことになってくるから、では何も起こらないなら疑念を抱けないのかというと、何も起こらないはずがなく、疑念を抱くには事欠かないほど、世の中では絶えず疑念を抱くようなことが起こっていて、そんな疑念を抱きながら自らが存在していることになるらしいから、我思う故に我ありではなく、疑念を抱く故に我ありということになるらしいが、その中の一つとして現状に対して疑念を抱いているのだから、現状を無視しているわけではなく、現状に対する疑念を利用して自らの思考を働かせていることになりそうだが、それと同時に現状を無視して将来を楽観視している自らにも疑念を抱いていることにもなりそうで、なぜ現状を無視する必要があるのかと自らの思考を疑っている可能性も捨てきれず、そんな自らの思考の現状を疑っていることにもなりそうだが、何が疑わしいのかといえば、現状を無視して将来を楽観視していること自体が疑わしく思われて、自分で自分に嘘をついていて、本当は世の中の現状に対して危機感を抱いているのではないかと思いたいのだが、現実には現状に対して危機感を抱いている人が大勢ひっきりなしにメディアに登場してくるから、そんな現状を疑わしく思う以前に無視して、将来を楽観視したいわけだが、それが自分に嘘をついていることになるのかというと、そんな気がしないでもなく、本当は自分も現状に対して危機感を募らせながら、メディア上で何かそれふうの意見や主張を語りたいのかも知れないが、そんな自分の姿を想像するだけで笑ってしまうようなことなのかも知れず、果たしてそんな馬鹿げた自分の姿を想像してしまう現状の何が問題なのかというと、それが危機感を募らせる人の願望なのかも知れず、そういう願望を抱いている人がメディアからそれふうのメッセージを発信していることは確かなのだが、それを見ている自分がそのメッセージを真に受けないのはどういうわけなのかというと、危機感を募らせる人の意見や主張に対して疑念を抱いているとしたら、それがどんな疑念なのかといえば、それらの人たちが現状を無視していないことに疑いの眼差しを向けているのかも知れないし、では現状を無視しないと駄目なのかというと、駄目であるわけでもないどころか、現状を無視する方が駄目な態度だと普通にそう思われるし、では彼らが無視していない現状とは何なのかというと、問題だらけの現状を批判的に見ている態度になりそうだが、現状を批判的に見ること自体が駄目なのかというと、逆に現状を批判的に見ないと危機感を募らせられないのではないかとも思われて、そこに危機感を募らせるような現状があるからこそ、そんな現状をどうにかしなければならないと思うはずだが、ではそんな問題だらけの現状を無視しても構わないのかというと、大抵の論者は無視できないから否応なくそれを批判する成り行きになるのだろうから、そういう成り行きなら自然な物事の推移になりそうだが、それの何が問題であるはずがなく、わざと問題視するのはいちゃもんをつけているに違いないわけだが、では果たしてそんな現状を問題視する人々が大勢メディアに登場してくる現状を無視できるかというと、それどころかこんなことを述べている自らも現状を問題視しているのではないかと疑念を抱かざるを得ないが、その辺で頭の中がこんがらがっているような気もして、何かおかしいような感じになってくるのだが、それでも依然として現状を無視して将来を楽観視しているとすれば、現状を無視せず直視して問題視している人々の存在に勇気づけられているのではないかとも思いたくもなり、だからそんな人々がメディアに登場してくる限りで将来を楽観視できると現状を都合の良いように捉えたくなる自らの姿勢に疑念を抱いているのかも知れない。
1月7日「日本の惨状?」
昔よく行っていた中小企業の財務勉強会では、その企業の経営状態を見るには、財務諸表の中でも貸借対照表や損益計算書よりも、キャッシュ・フロー計算書を見ることの方が重要だと講師の人が力説していたのを思い出したが、たとえ損益計算書で利益が出ていても、実際に入ってくる資金が少ないとその企業の経営が成り立たなくなってしまうから、キャッシュ・フロー計算書を見て資金の出入りの流れを読み取らなければならないということだろうが、商品の在庫が溜まっていても、それが資産には計上されるが、果たしてその在庫が売れる当てがあるのかどうかが定かでないなら、売れ残りの在庫であればそれがキャッシュになる当てがないということだろうから、あるいは赤字覚悟で安売りしなければならなくなるかも知れないし、最悪の場合は産廃業者に金を払って廃棄しなければならない在庫なら負債が増加しかねないし、そういうところもキャッシュ・フロー計算書を見て資金の流れを把握しなければならないのだろうが、逆に負債だらけの赤字企業でも、絶えず資金の流入が続いていれば、企業の経営が成り立っていることになるだろうから、その流入してくる資金がどのような種類の資金であるかも問題となってくるだろうから、それだけでその企業の経営状態を判断するわけには行かないとしても、企業経営がそのまま政府の国家運営に当てはまるわけではないにしても、新自由主義で問題となっている人的資本の重要性というのも、昔の欧米からエコノミックアニマルと揶揄された日本の高度経済成長期の人材が、今のIT革命を経てAI革命へと至る成り行きの中で通用するか否かというよりは、ITにしてもAIにしても知性が問題となってくる分野だから、それも簡単に言うわけにも行かないが、例えばN国党の立花党首の煽動に乗せられて一緒になって騒いでいる群衆に知性が備わっているかというと、ユーチューブで左翼リベラル叩きの急先鋒となっている人たちは、確かに悪知恵が働く侮り難い人材かも知れないが、それも新自由主義的なデマでよく知られる、今だけカネだけ自分だけという近視眼的な標語が当てはまりそうで、新自由主義の実態としてよく言われるのは、今だけではなく将来を見据えた投資を行わなければならないし、カネだけではなく株や債券やコモディティなど分散効果を得られる投資が推奨されるし、自分だけではなく広く社会に貢献するような投資にして行かないと、回り回って自分に利益がもたらされないことになってしまうから、今だけカネだけ自分だけではまずいわけだが、そういうことまで考慮に入れるなら、日本の高度経済成長期のエコノミックアニマル的なやり方が、回り回って今の日本の惨状をもたらしたとも言えなくもないが、投資によって経済の全てを語れるわけでもないだろうから、これも語るのに都合の良い部分だけサンプリングして語っているに過ぎないとしても、自分的には日本の現状が惨状でも何でもないと思いたいわけで、単純明快な煽動などには引っかからないだけの知性が人的資本には求められていて、それを人的資本などという物扱いしないで、ただ単に人材と呼べば済むようなことでしかないとしても、世の中に金儲けがうまい人が確かにいるかも知れないが、そういう人材が求められていると単純に言えるかというと、それが結果論的な錯覚なのかも知れず、結果的に金儲けに成功した人がメディア的にも脚光を浴びるかも知れないが、そんなのはごく一握りのわずかな人材に過ぎず、その他大勢の人々が大衆市民社会の中で暮らしている限りで、そういう大多数の人々で構成される集団意識や共同幻想の類いがとらわれているのが、今だけカネだけ自分だけになってしまうと確かに新自由主義的にもまずいわけだが、ではどんな人材が求められているかというと、たぶん取り立てて積極的にはこれといって求められてはいないのかも知れず、それでもあえていうなら、自身がその種の集団意識や共同幻想に感染していることを自覚できるだけの知性がほしいわけで、そんな知性の持ち主が世の中から求められているわけでもないどころか、逆にその種の集団意識や共同幻想に感染していることに気づかない人たちが安易な煽動を真に受けてしまうから、その方が煽動者にとっては都合が良いし、そんな人が世の中に多くいればいるほど世論誘導もやりやすいような気がするとしても、それも実態としてはそうではないのかも知れないし、何かが違っていて、実際に大衆的な煽動行為を仕掛けている山本太郎なんかもその辺のところは違和感を覚えているかも知れないが、そういうところでIT革命をくぐり抜けてきてAI革命へと至っている最中で、実際にネットを利用しながら知性を身につけつつある人々が多くなってきている可能性もあるわけで、どうしても一般大衆は馬鹿だという先入観から抜け出せないと、そこから錯覚にとらわれて、多くの人々が単純明快な煽動に引っかかっているような思い込みにもとらわれてしまうから、結果的に誤算や見込み違いも生じてくるかも知れないが、それが誤算でも見込み違いでもないとするなら何なのかというと、一般大衆が集団で構成する集団意識や共同幻想を煽動者の方が信じ込んでしまうから、結果的に誤算や見込み違いも生じてくると捉えた方がしっくりくるのかも知れないし、そうなると煽動者の方が一般大衆に裏切られてしまうような事態にもなってしまうのかも知れず、煽動者の方はそれらの一般大衆が自分たちの支持者であり、当然自分たちの煽動に乗って騒いでくれると期待しているから、自分たちの在庫だと認識してきたのだろうが、だが実際に煽動を真に受けてくれるかどうかは、その場その時の状況次第で変わってきて、その状況や情勢の変化というのが、積極財政やMMTなどに傾いていたアメリカの民主党政権から、緊縮財政で小さな政府を目指す新自由主義的な共和党政権へと変わったことも無視できないし、それに対して日本の一般大衆もこれからアメリカの変化を目の当たりして、何か今までとは違うぞと警戒する可能性も出てくるだろうから、そうなると安易な積極財政論にはあまり乗ってこないかも知れないし、何よりも世の中の流行現象に敏感になっているなら、今までの考えをさっさと改めないと流行遅れになってしまうかも知れないから、潮目が変わったと判断するなら、素早く新たな流行に乗ろうとして、これまで信じて従ってきた煽動者など簡単に見捨ててしまうかも知れないし、煽動者の方でも大衆から見捨てられないように何か工夫を凝らさないと落ち目になってしまうかというと、それもちょっと違うような気もするわけで、そういうところでもすぐに勝手な想像力を膨らませて結果へと先回りしないで、現状で生じつつある情勢や状況の推移を辛抱強く粘り強く見続ける必要があるのかも知れない。
1月6日「政府という大前提」
政府の役割を過小評価したいなら、何かそれが現実離れした主張や意見に結びついてしまうような気はするが、政府が現状の体制や機構へと至った経緯や事情を考えれば、もうそれは動かし難い現実として、何を考えるにもまずは政府ありきで物事を考えなければならなくなってしまうなら、政府が他の何事にも優先して必要不可欠な存在だと思うしかなく、そんな前提の上に立って他の物事についても考えるようなことになってしまうかというと、そういう考え方がそれほど間違っているとも思えないが、たとえそれが間違っていなくても政府なしでも考えられるような物事が世の中にはいくらでもあるかも知れないし、その中でも政府よりも重要な世の中を構成する上で欠かせない要素があるかというと、社会学者の類いなら社会そのものが政府に先行して構成されたと主張するしかないが、社会学者でなくても多くの人がそう思うかも知れないが、だからといって政府が要らないとは言えないのも現状では当然のことだから、政府があるから国家が成り立ち、社会が成り立つとまでは言えないにしても、政府が行政を担っていて、今さらそれをなくそうなんて誰も思っていないはずだが、そうであっても強権的な政府であっては自由がなくなってしまうから、できれば政府の役割を必要最小限度にとどめておきたいと思っている人や勢力もそれなりの割合で世の中には存在しているはずで、その必要最小限度というのがどの程度で済ませることができるかが、よくわからないといってしまうと、必要最小限度自体も意味をなさなくなってしまうが、それに関して政府とは別の方面から考えられることとして、最近の生成AI技術の進展に伴ってわかってきたことがあって、昔ながらのサイエンスフィクションに出てくるマザーコンピューターのような一つの人工知能によって全世界や全人類が支配され管理されるようなことにはならず、同時並行的に世界中に無数のAIサーバーがあって、それらを利用してAI関連のサービスや製品や情報が提供されることになるから、それらが一つのマザーコンピューターのような人工知能の類いに統合される成り行きには今のところはなっていないばかりか、逆に一つに統合してしまうとAI技術の進歩が止まってしまい、絶えず複数のAI技術が競合関係にないと技術革新の類いはあり得ないような成り行きになっていると現状を捉えておけばしっくりきそうだが、それとは少し違うが世界中の国に政府があるわけだから、世界中の政府が競合関係にあることは、敵対関係にも同盟関係にもあることと同時並行してそうなっていることも確かで、国内でも複数の政府が併立しているわけではないが、民主主義体制の中では一応は三権分立の体裁を整えていながらも、実質的には違う面もいくらでもありそうだが、政府が他の勢力と競合関係にあるかというと、あるとしても行政を担っている政府に圧倒的に権力や権限が集中している状態が当然視されているような気もするが、それも実質的にはそうではないとすれば何なのかというと、逆に政府に権限や権力を集中させてはまずいと考えるなら、強権体制にならないような仕組みや体制が求められていると考えておいた方が無難なのかも知れず、そうであるならまずは政府ありきではなく、そうかといって抽象的な国民主権に実態を伴った権限や権力があると強弁するのでもなく、それらが絶えず何らかの制限や制約や限界と共に構成されているような世の中の構図を思い描いておいた方が良く、しかもそれらの権限や権力がちゃんと機能するわけでもない現実があって、権限や権力を行使しようとしても、それと競合してくる他の何かがあるから思い通りには行かないわけで、そこに権限や権力があると主張することはできるのだが、主張通りのことができるわけではなく、そこでも主張通りのことやらせないように妨害してくる他の何かがあるから、何をやるにもその度ごとに交渉相手や取引相手や競争相手などの意向を無視するわけには行かず、その行為や動作に絡んでくる相手との駆け引きの中で思っていることも考えていることもやりたいことも変形を被ってしまうから、当初に思い描いていた通りにはならない場合が多く、そうなると戦略的に相手を出し抜くようなやり方も編み出されてくるから、それに伴って相手を欺いたり騙したり裏切ったりするような否定的なやり方も否応なく取らざるを得なくなってきて、さらに事態がこんがらがってくれば、結果的に事態の収拾がつかなくなってしまうのだろうが、現状でも世の中の様々な方面で事態がとっ散らかっていて収拾がつかなくなっているから、それに伴って相対的に政府の権限や権力も弱まっていると考えられるかというと、民主主義的な力が社会の中で強く働いている国ほどそうなってしまう度合いが高まっていると言えそうで、それは自由が制限されている度合いが高い強権的な国々と比較してそんな印象が強いような気がする程度のことだが、そう見えるだけで、強権的な体制の国にも権力の腐敗という面ではそれなりに収拾がつかなくなっている面があるから、一概にそう言えるようなことでもないのかも知れず、そういう意味では政府による社会への一元的な管理や支配という幻想を抱くべきではなく、実質的には管理でも支配でもなく多元的な力の相互作用の中で、絶え間ない交渉や取引や駆け引きなどが行われている限りで、一応の暫定的な力の均衡が維持されているような世の中の状態を保たなければならないというか、結果的に維持されているに過ぎないだろうが、維持されなくなってしまうと世の中が動乱の時代に突入して、混乱の収拾を目指して強権的な体制が構築されることにもなるだろうが、そうなってしまうのを未然に防ぐためにも強権体制が望まれる場合もありそうだから、卵が先か鶏が先かの循環論になってしまいがちだが、そうならないようにするためには何が必要か、どうすればいいかなどという結果論的な主張や意見には何の効果も成果も期待できないし、それに対する新自由主義的な回答となると、交渉や取引や競争などを円滑に行えるようなルールや仕組みを構築して、それを絶えずその場の情勢や状況に合わせて更新しながら維持することが、政府などの制度を維持管理運営する関係機関には求められることになりそうだが、それでいいなら日本の経産省のように直接産業にテコ入れするようなことをやっても、あまり思わしい成果や効果は期待できないのも当然なのかも知れないし、それよりは公平公正なルールや仕組み作り程度に活動をとどめておいた方が無駄に予算を消尽しなくて済む可能性も高まるから安上がりなのかも知れない。
1月5日「集団意識と共同幻想」
単純明快なことを主張するのが悪いわけではないが、結果的にはそうではないような主張が生じてくるとすれば、そうなる過程で主張している者の力ではどうにもならない紆余曲折のような成り行きも生じてくるから、それを考慮せざるを得なくなって、そんな経緯や事情を考慮に入れれば、自ずから主張も主張のやり方も単純明快ではなくなってしまうかも知れず、だからできるだけ単純明快でわかりやすい主張になるように心がけても、どういうわけか知らないうちに自然とそこからずれて行ってしまうようなら、主張者の内からも外からも何らかの作用や影響が及ぼされていると意識せざるを得ないかどうかもわからないが、なぜかそうなってしまうことに気づかない場合もありそうで、自分では意識して主体的に意見や主張を述べているつもりでも、そんな個人の力ではどうにもならない成り行きに巻き込まれてしまうと、結果的に集団意識のような共同幻想のような傾向に従わされてしまうわけで、そうなると多くの人々が抱いている願望を自分も抱いていることに気づかず、自分が主体的にそんな願望を抱いていることを意識してしまうのかも知れないが、それが集団意識や共同幻想にとらわれることによってそんな願望を抱かされていることに気づけるかというと、気づいたところでそれでも構わないような気がしてしまうのかも知れず、だから他の大勢の人々と連帯して共感し合っているような気分になって心地良さを感じてしまうかも知れないが、別にそれが悪いわけではないと思うなら、そう思ってしまう理由や原因を知ろうとするわけでもないだろうから、そういうことは良いことだと受け止めておいても構わないのかも知れないが、自らが他の大勢の人々と共にそうなってしまっていることに気づいているなら、なぜそうなってしまうのかとその理由や原因を考えてみる機会を得られるなら、少しは考えてみた方が良さそうで、考えてみたからといって何がどうなるわけでもないかも知れないが、例えばイスラエルとパレスチナとの和平に尽力したラビン元首相を殺した暗殺犯の青年が彼独自の思想信条から行動に駆り立てられていたわけではなく、和平に反対するイスラエル国内の強硬派から多大な影響を及ぼされて暗殺に及んだと誰もがそう思うだろうが、そういった前例を踏まえた上で今のイスラエルのネタニヤフ首相の行動や言動を考察するなら、国内の強硬派の意向に沿ったものになることは、それも誰もがそう思うだろうが、それとは違った脈絡から、例えばれいわの大石議員が国会で、イスラエルの蛮行に対して非難決議さえ出さないのは許せないと訴えたところで、ああなるほど、れいわの支持者向けのパフォーマンスだと冷淡に突き放して見ていられるかというと、誰もがそう思うわけでもないだろうが、れいわに批判的なスタンスの人々や冷笑系の人々ならそう思うかも知れないし、大石議員のような態度や姿勢の人を今後国家の命運を左右するような責任ある立場や役職には就かせない成り行きも待ち構えているような気もするわけで、大石議員が今後石破首相のように変節してしまう可能性など今のところ皆無だろうから、現状の大石議員の立場なら、れいわの国会議員なんだからそういうことを言えるかというと、共産党の国会議員でも言えるかも知れないし、では立憲民主党の国会議員でも同様のことが言えるかどうかは疑わしいところだが、少なくともそういうことを言う成り行きにはならないかも知れないし、そういうことを言うよりは他に優先させなければならないことがありそうで、現状でも国会内でそれを優先させている最中なのだろうが、山本太郎が能登半島の被災地に一番乗りしたからといって、戦場に一番乗りした武者に褒美をとらすようなことでもないだろうから、それをネタにれいわの支持者が自慢したからといって、れいわに批判的なスタンスの人々が腹を立てることにはなりそうだが、大石議員にしても山本太郎にしても、何かこれ見よがしな言動や行動がいちいち気に触るようなことになってしまうから、それが笑ってしまうというか、手がけている対象が深刻な事態に陥っていることばかりだから、笑い事では済まないようなことばかりなのだが、それとこれとは違う傾向として、石丸伸二や玉木雄一郎のような存在もあるらしいのだが、それをポピュリズムのカテゴリーに入れて同一視しても構わないのかというと、それもちょっと違うと誰もが思っているのだろうが、政治的なメインストリームの中に今後石丸伸二や玉木雄一郎などの方が先に入って行くとしても、たぶんそれでも構わないようなことなのかも知れないし、相変わらずそれに対して左翼やリベラル系の人たちから絶え間ない批判や非難が浴びせられるとしても、果たしてそんな成り行きを予定調和の茶番劇だと軽く見ていられるかというと、冷笑系の人たちならそう見ておいても構わないような成り行きにではあるにしても、何かそれに対して警戒したり警鐘を鳴らしているのが誰なのかというと、それも何か笑ってしまうような人々が間抜けな感じで警戒したり警鐘を鳴らしているような気がしてしまうのも勘違いのなせる業かも知れないが、何となくそうなってしまって、そういう成り行きをなし崩し的に許容してしまう風土になっているのなら、それはそういうことだと受け止めるしかないのかも知れず、石丸伸二や玉木雄一郎のようなマイルドな存在が求められている政治情勢になっていて、ああいう存在を批判的な視点から見てしまってはまずいのかも知れず、まずいといっても対決姿勢を堅持している人々にとっては深刻な事態なのかも知れないし、あんな奴らに主導権を握られては日本もおしまいだと悲観的になっているかも知れないが、それもこれから日本がおしまいになるわけではなく、もうすでに何度もおしまいになってきて、今後も何度もおしまいになると思っておいても構わないのかも知れず、実際にあんな奴らと言われてきた人々が延々と政治的な主導権を握ってきたのだから、今もこんな現状になっているわけで、それをどう捉えたらいいのかと思い悩む必要も感じない人が世の中の大半を占めているような気もしてしまい、ああいう人々の天下なら今までにも何度も嫌になるほど経験してきたのだろうから、これからもそんなことの繰り返しだと思えば安心できるわけで、それに対して少なくとも立憲民主党の政治家たちは、とりあえず選択的夫婦別姓法案などを国会に提出して地道にリベラルな価値観に基づいた制度を実現しようとするしかないだろうし、ああいうこれ見よがしなパフォーマンスとは無縁なことに尽力して行くぐらいしかやりようがないのではないか。
1月4日「無理なごり押しに逆らう」
やっていることがうまく行くような気がするのは、それが勘というわけでもないのだろうが、勘に頼ったようなことをやってしまうと、結果的にうまく行かなければ自分の勘に頼り過ぎて周りが見えていなかったことになるかも知れないが、自分を信じるというのが自分の勘を信じることと同じなのかというと、同じような気がするのだが、そうではないとしたら、時には自分の勘に逆らうようなこともできるとしたら何なのかというと、その場の状況や情勢がそうさせるようなことも起こるのかも知れず、勘に頼ってやってしまうとうまく行かないような気がするから、勘に逆らってまでその場の状況や情勢に従うようなことをやろうとするのだろうが、それでうまく行くかどうかもその場の状況や情勢次第だとすれば、それでうまく行かなければ、その人がその場の状況や情勢からも見放されていることを意味するかどうかもよくわからないが、何をどうやってもうまく行かないなら、単にその人にそれをやる能力がないと見なされても仕方のないことだが、そうなると勘に頼るとかその場の状況や情勢に従うとか以前の問題だと言えそうだが、そうではないとしたら何なのかというと、時として自分の勘に逆らってまで、さらにはその場の状況や情勢にも逆らってまでやらなければならないことややらざるを得ないことが出てくるのかも知れないが、それで結果的にうまく行くなら単に強運に恵まれていたことになるかというと、実際にそうなった事例を持ち出さないことには信じてもらえそうにないだろうが、そうではなく、うまく行かなくても構わないからごり押し気味に事を進めようとしているとすれば、マイナ保険証の推進のような事例が思い浮かぶだろうが、その場では確かにうまく行っていないにしても、それで構わないようなことであり、そういうことをやり続けている限りは、それに関連した各省庁のメンツが保たれるようなことかも知れず、それと似たようなことかどうかはちょっと違うかも知れないが、USスチールが日本製鉄に買収されてしまうとアメリカのメンツが潰れてしまうということかも知れず、そんな屈辱的なことは許されないと公式的には言われないにしても、何となくそんな感じなのではないかと推測したくなるわけで、日米同盟といっても日本とアメリカの間では絶対に踏み越えてはならない上下関係があるということだろうが、そんなのは知ったこっちゃないと言える立場や態度があるかというと、それも勝手にそう思っていれば良い程度のことなら、誰もがそう思っておいても構わない程度のことなのだろうが、それがうまく行こうが行くまいが、誰かがうまく行けば他の誰かがうまく行かなくなるような事態も想定できるが、そういう対戦的ゼロサム的な理屈だけが全てで通用するわけではないところが、資本主義市場経済のわかりにくいところでもあって、共存共栄的な事態も状況や情勢によっては実現できるかも知れないから、そういう面を強調できるなら資本主義礼賛的な主張や意見にも行き着きそうだが、もちろんそれも全てにわたって成り立つような理屈にはならずに、絶えず競争的な傾向が強まれば弱肉強食的な事態にもなるだろうから、その場で生じている事情や経緯に応じて、正当化できる傾向も自ずから定まってきて、そういうところで偽善や欺瞞の印象が強まってくるなら、否定的な傾向を無視して現状で行われていることを正当化したり礼賛していることになりそうだが、結果的にそうなってしまうとしても、それでもなお自らがやっていることを肯定的に捉えられるなら何なのかというと、自分で自分のやっていることを理解できない部分を意識していて、何だかわからないがそうならざるを得ないような成り行きがあって、そんな成り行きに従っていてもうまく行くかどうかもわからないが、否応なくそうなってしまうという事態を前にして、もうこうなるしかやりようがなく、これが自分の限界であり、精一杯のことができているわけではないが、こうなるしかあり得ないような事態がもたらされているのだから、こうなってしまうことを肯定的に捉えるしかないというか、否定的に捉えたくなって、もっと他にやりようがあるはずだと絶えず他のやり方を模索したくなってしまうのだが、そんなふうに試行錯誤した結果として出力されてくるのがこれなのだから、もはやこうなってしまうのを認めざるを得ないような結果がもたらされているとあきらめるしかないような状況なのかも知れず、だからこれはこれとしてこういうことだと捉えておくしかないとすれば、それが単なる自己正当化でしかないとしても、安易な自己否定をさせないような成り行きにとらわれていると解釈しておくのも、何かそれではまずいような気もするが、自分がどうこうというよりは、世の中の状況や情勢がそんな成り行きに従うか逆らうかの二者択一を強いてくるとも思えないのだが、選ぶ権利も権限も自分にはないように思われるのであり、否応なくどちらか一方を選ばされてしまうとも思えないし、選んでいるわけではなく、結果的にどちらか一方を選んでいるとも思えないような成り行きにとらわれていて、そういう選択からずれたようなことを述べているとすれば、それが何に関してそうなのかというと、どうも自分には他の誰かと戦う余地などなさそうに思われる限りで無視されていても構わないわけで、何か画面上では誰かと誰かが絶えず対立して戦っているように見えるのだが、それがどっちもどっちというわけではなく、明らかに理性的かつ合理的に振る舞っている方を応援しているつもりなのだが、つもりなのであって、別に直接応援しているようには感じられないわけで、何だかわからないがそれについて何かを述べる機会が与えられていて、勝手なことを述べている限りでそれが許されているわけで、誰がそれを許しているとも思えないが、変なふうにおかしな傾向に凝り固まって戦略的な態度で何か主張しているのを受け流しながらも、何かを述べなければならないらしく、それをしなければならないというのも、実際にはしなくても構わないような気もするのだが、彼らの敵でも味方でもないような立場や態度を無理に保とうとしているわけでもなく、そうなるのが自然な成り行きのように感じられるのだから、逆にそれが不自然に感じられる主張や意見になってしまうとすれば、それが自然災害を利用して強調される主張や意見になりそうな気もするわけだが、そんな主張や意見も受け流さなければならないとしたら、そうなるのが自然な成り行きになるように仕向けられているのかも知れず、最近もそうである意見とそうではない意見の区別がついているようなついていないような微妙な心境でいるから、過敏にその種の意見に反応せざるを得なくなってしまうのだが、それもそうなるのが自然の成り行きだと感じられる限りで、実際にそうなってしまうわけだ。
1月3日「理に適ったやり方」
何か不信感を抱かせるようなことを他人がやっているのを見ると、それが間違っているように感じられるのだから、それが間違いであることを指摘したくなってしまうのだが、ではそんな指摘をしたくなってしまう自分はどうなのかというと、そうすることが正しいと思うなら、その正しいと思うことをやればいいが、正しいのではないとしたら、間違っているのかというと、正しくも間違ってもいないようなことであるなら何なのかというと、普通に考えて正しいかも間違っているかもわからないようなことをやらざるを得ないのだとしたら、果たしてそれをやるべきなのかというと、やらざるを得ないのだから、やるべきかどうかもわからないということでしかないが、結果的にやってしまっているとしたら、それをやらざるを得ないからやっていると思うしかないのだが、そうではなく知識として物事の道理のようなものを知っていて、その道理に従うことが理性的に考えて正しいと感じるなら、その正しいと思うことをやれば良いはずだが、その道理というのが時代状況に伴って変化するのかしないのか、そういうところがはっきりしないというか、例えば高橋是清が世界恐慌を利用して当時の日本経済をデフレから脱却させたと考えるなら、それが道理に適ったやり方だったのだろうが、それに伴ってインフレが加速してしまったから、今度はインフレを抑えるために積極財政から緊縮財政に切り替えて、軍事予算を削減しようとして軍部から恨みを買って二・二六事件を誘発させてしまい、結局自身が殺される原因を作ってしまったと考えるなら、自業自得の因果応報なのかも知れないが、それも道理に適っていると考えれば、高橋是清としたら正しいと考えられる道理に従ってそういうことをやらざるを得なかったわけで、そういう成り行きを現代に当てはめてみれば、リーマンショックでもコロナ禍でもアメリカでは利下げと共に金融緩和政策が行われて、それによってインフレになったから利上げと共に金融引き締め政策が行われたはずだが、特にコロナ禍ではFRBとバイデン政権が異次元の金融緩和政策をやって政府の負債も膨大に積み上がって、このままでは持続不可能に思われるから、予算を削減して政府の規模を縮小して小さな政府を目指すやり方に切り替えようとしているのだろうが、日本ではどうなのかというと、バブル崩壊後に金融引き締め政策をやってしまって、それが後の時代では間違っていたと指摘されることになるとしても、実際に地価高騰によってインフレになっていたのだから、段階的に利上げを行なって金融引き締めをやらざるを得なかったのだろうが、そこから長期的に経済が停滞してしまったから、慌てて今後は金融緩和政策に切り替えてゼロ金利政策を長い間やっていたところで、その間にもリーマンショックがさらに追い打ちをかけて、手の打ちようがなくなって、民主党へ政権交代も起こって、東日本大震災によってトドメを刺されて、そこから自民党に政権交代してヤケクソ気味にアベノミクスの異次元金融緩和までやった挙句に、コロナ禍まで起こった頃には、もうすでに異次元の金融緩和をやって長期間にわたってゼロ金利政策までやっていたのだから、これ以上はどうにもこうにもやりようがなかったわけで、そこからロシアのウクライナ侵攻を契機に世界的にインフレが起こってやっと日本もデフレから脱却しつつあるのだろうが、そういう成り行きの中で何が間違っていたかなんて一概には言えないどころか、それを批判しようとするならいくらでも間違いを指摘できるかも知れないが、確かにアベノミクスはやり過ぎだったのだろうが、民主党政権がやろうとしていたことをことごとくひっくり返してひどいと感じられたにしても、消費税だけはちゃっかり上げて顰蹙を買ったにしても、それによって株価が上がって内閣支持率も上がって、そういう面では成功したと言えるわけだから、そういう方面で恩恵に与った人や勢力からすれば良かった政策には違いないわけだが、たぶんその場その時ではそれをやる側にとっては理に適ったやり方に思われるわけで、そういう意味では正しいことをやったから、株価が上がって内閣支持率も上がったと受け取っても、それほど間違いではないわけだろうが、その裏では数々の不正行為や違法行為なども行われて、それが今なお〇〇事件として問題視されている一方で、戦後民主主義を否定する戦前の軍国主義的な傾向も左翼やリベラル勢力から批判されているわけだが、それが日本だけの傾向ではなく、世界的に右翼的なポピュリズム勢力が広く民衆からの支持を獲得している現状にもつながっているわけだから、流行り廃りの流行現象としてそうなっているとも単純化して事態を捉えるわけには行かないのだろうが、経済的な成り行きと同時並行してそうなっているように思われる一方で、それに対する左翼リベラル勢力の経済政策や社会政策がうまく行かないことも、民衆からの支持や信用を失う原因となっているから、そんな情勢の中で果たして理に適ったやり方があるのかというと、それを単純で部分的なところから指摘するなら、日銀が金融正常化を目指して段階的に利上げするのが理に適っているように感じられるものの、それもインフレが収まってしまうと正当化できないようなことになってしまうから、その場その時の情勢次第でどうとでも言えるようなことかも知れないし、またそれが戦略的に理に適っているというと、ポピュリズム勢力がやっているように、SNSなどのメディアを使って煽動によって左翼やリベラル勢力に対してネガティブキャンペーンを仕掛けることになるのだろうが、それの何が理に適っているといったところで、攻撃を仕掛けられている左翼やリベラル勢力にとっては、根拠の希薄なデマや言いがかりに過ぎないと感じられてしまうわけだから、全く理に適っているとも思えないわけだろうが、それを単純に右翼と左翼の対立だと矮小化して捉えても構わないわけでもなく、実際に中国を考慮するなら、中国政府も中国軍も欧米や日本の左翼やリベラル勢力ではないわけだから、アンチ中国という面では右翼やポピュリズム勢力が対立しているのは、左翼でもリベラルでもないどころか、彼らと同類のナショナリストとしての中国の右翼やポピュリズム勢力と敵対していると捉えた方がしっくりきそうだが、しかも経済という面では日本の右翼やポピュリズム勢力が守りたいトヨタが、彼らが攻撃している中国のBYDと提携しているわけだから、政治的には対立している裏で経済的には協力関係を築いているといういつもながらのプロレス的な見せかけのバトルを演じているようで、それが理に適ったやり方だとトヨタでもBYDでも認識しているのではないか。
1月2日「言語的なレベルで語られること」
事の成り行きをねじ曲げているわけでもないのだろうが、その人が信じている思想信条に則って都合の良いように事実や史実が再構成されて出力されてしまう事態をどう捉えればいいのか理解に苦しむが、そういうことではないとすると何なのかと疑念を覚えるわけでもなく、奇妙な論理に基づいたおかしな言い回しに遭遇して考え込んでしまい、いったいこの人の思考回路はどういう構造になっているのか?と困惑してみたところで、何がどうなっているわけでもなく、自分の方がわざと理解しないように身構えているだけなのではないのかと疑ってみたところで、そうだとしてもその意図を汲んでその人が提示する奇妙奇天烈な論理や屁理屈の類いを尊重するほど寛容な態度にはなれないから、何となくそういう論理や理屈は通用しないのではないのか?と疑念を表明しておく程度が精一杯の抗い方なのかも知れず、実際には奇妙奇天烈だとも屁理屈だとも思っていないわけで、ああいう人はああいうことを表明する成り行きにとらわれていて、それの何がおかしいわけでもなく、当人がそれに関して何をどう考えていようと否応なくああなってしまうから、何だか笑ってしまうような笑い事ではないような不可解な思いにとらわれてしまうわけだが、そうなってしまう傾向を構造論的に理解しておけば済むようなことなのかどうかも、そんなふうに割り切ってしまうこと自体が、そうなるに至る過程を無視して物事を単純化しているに過ぎないことなのだが、しかし何事も構造論的な理解に留めておくことが何を意味するとも思えない限りで、それが間違った理解だとは思えないにしても、単純化した理解に他ならないわけだから、言語的なレベルではそんなふうに語ることによって何かもっともらしいことを述べているような感じになってしまうから、それはそれでそういうことだと思っておけば済んでしまうわけで、確かにそういうレベルではそうであっても、世の中ではそういうレベルを超えたところで、あるいはそういうレベルにも達しないところで、人や集団による様々な活動が行われている現状がありそうだから、それを言語レベルで語ると何かそうではないようなことなのではないかと疑念を抱いてしまうわけだが、それを言語レベルで語ろうとするわけだから違和感を覚えるのも仕方のないことなのかも知れず、だからといって他の視聴覚的な手段で伝えようとしても、言語レベルとは違った傾向を伴うにしても、それがその対象となっている活動そのものではないだけに、何かしら伝える側の意図や思惑を伴ってしまうからずれを感じるわけで、それが伝えようとする活動に伴って生じてくる意図や思惑になるから、そういう面を考慮に入れて理解しておけば済むことになるとしても、それを伝える側の意図や思惑からはみ出る部分に注目したくなってくるなら、そこが伝える側の理解が及ばない部分でもあるから、それが構造論的な理解が見逃してしまう部分にもなってくれば、そういう部分に真実や真理が含まれてくると思っておけば良いかどうかも、そういう部分の中身にもよるだろうが、それに関する具体例を提示できるかとなると、かなり対象が絞り込まれてくるかも知れず、では何がそうなのかというと、例えば構造論的な理解でなければ歴史的な理解になるかというと、歴史的な理解こそが構造論的な理解に当てはまりそうにも思われるから、両者の間で重なる部分も割合も結構大きそうだが、それ以外にも政治的な理解や経済的な理解も構造論的な理解に含まれてくるから、そんなことではないのかも知れないが、そうではないとすると何なのかというと、歴史的・政治的・経済的な部分をパズルのように組み合わせれば見えてくるものがあるなら、それが構造論的に見えてくる図形や相関図のようなものとなってきて、それを地図のような概念だと理解しておけば良いのかも知れないが、そうなると地図上から見えているものと実際に現地に赴いてから見えてくるものとの間で差異が感じ取れるようなことになってきて、地図の平面上に記されたものと現地の時空の中で立体的に時間変化を伴いながら見えてくる存在との間で差異があるのは当然のことだが、それを言語的に示そうとすればさらに言語に特有の変形を伴ってくるわけだから、それとこれとは違うと思ってみても、そんなのはわかりきったことであって、そんな変形や変異を考慮に入れながら言説の対象となる事物を捉えておくぐらいしかやりようがないわけで、普段はそういう経緯や事情は織り込み済みとなっているはずだが、何かそこに注意しておくべき留意しておくべき点があるかというと、言説の中で語られる内容を真に受けることよりも、言説の対象となる物事について考える習慣をつけておくことが肝要なのかも知れず、言説によって特定の傾向のバイアスをかけられてそう思い込ませようとする意図や思惑を考慮しなければならないし、それが絶えず誘惑的で単純化されたわかりやすい言葉を駆使して都合の良い理解へと誘導したがる意図や思惑を感じ取れるなら、それとは逆に都合の悪い傾向を見つけられて理解されると、嘘がばれてしまうから、あるいは隠しておきたい真実や真理へと辿り着いてしまうから、そうなる前にそれを避けながら別の方面へと誘導したがると理解したくなってくるなら、薄々勘付いていることになるだろうが、それが勘違いでなければ、それを伝える側にとって都合の良いように伝えようとしている側の意図や思惑からずれるところに、それについての真実や真理が隠されていることになるのかも知れないが、そうではない場合もあるかも知れず、そんな都合の良い方面へ誘導しようとする意図や思惑に従っていても、逆にそれに従って理解しようとするから、なぜか伝える側の意図や思惑を超えて気づいてしまう可能性もありそうで、だからそんな意図や思惑に気づいても逆らわずに従っていれば、自然と彼らの意図や思惑が浅はかで愚かなことがわかってしまう場合もありそうだから、素直にそれを受け入れたり受け止めておくことも肝要なのかも知れず、それを善意で騙されたふりをしておくぐらいの余裕があれば、それなりに懐の深さや度量の広さを装えそうで、そんなふうに余裕綽々に装ってみたところで何がどうなるわけでもないと思うなら、やるだけ無駄なような気もしてくるだろうが、そういうところから戦略的な態度や姿勢が生じてきて、それがお互いに騙し合いのような様相を呈してくるなら、現状で人と人の付き合いや集団内で普通に日常茶飯事のレベルで行われていることに近づくような気もするのだが、果たしてそれも構造論的な理解の網にかかるようなことなのかどうかもよくわからないが、そうだとしてもなお誰も気づいていないレベルで人の意識をすり抜けるようなことが社会の中で頻繁に起こっているのではないか。
1月1日「世界の現状」
粗雑な煽り文句に対してなら、それが間違っていることを指摘できそうだが、実態がそうではないことを知っているというか、推察できる程度で直接知っているわけではないにしても、そんな煽り文句が実態とはかけ離れているから、それに反応しても仕方ないように思われて、新自由主義批判派の今だけカネだけ自分だけにしても、積極財政派の財務省陰謀論に対しても、そんなくだらないデマに反応するだけ馬鹿げているように思われるのだが、ではそれらの実態がどうなっているのかというと、今ひとつわかっていないように思われるから、結局わかっていないことについてあれこれもっともらしいことを述べなければならなくなって、うまく説明できないような気がするから、たぶん断片的なことしか述べられないのかも知れないが、日本ではなくドイツに関してなら、シリア難民を大量に受け入れたり、トルコやイランなどからの移民も増加して、移民排斥を主張する極右勢力の台頭を許したり、原発の廃止や石炭火力発電など化石燃料から脱却して風力や太陽光などの自然再生エネルギーの推進を目指したが、実態としてロシアからの天然ガスに依存していたのが、ロシアがウクライナへ軍事侵攻したのを契機にそれをやめてしまったからうまく行かなくなって、自動車産業でもEV推進や中国依存が仇となって、中国の国内企業のEVにシェアを奪われて、大打撃を被ったわけだが、日本に関してはどうなのかというと、ドイツほど衰退の原因や理由がはっきりしているわけではなく、衰退しているわけではないのではないかという疑念も湧いてくるのだが、もちろんデータ的には少子高齢化に伴う人口減やバブル崩壊以来三十年以上も不況が続いているというデマだとは思えない刷り込みによって、何となく衰退が続いているように思い込まされているような気もするのだが、実際に一人当たりのGDPもアジアのシンガポールや台湾や韓国に抜かれて、GDP自体も円安によってドイツに抜かれて、世界第4位に転落して、インドにも抜かれて5位まで転落しそうだから、これを衰退と言わずに何と言えばいいのかと言われそうだが、普通の国になって良かったと強がってみせる必要もないのかも知れないが、ドイツに関して言えることは、理性的かつ合理的に事を進めた結果として一時的に不況を招いているように見えるのだが、そういうところが日本とは違っているように見えるのであり、ドイツのやり方を日本が見習う必要などないどころか、現状ではうまく行っていないわけだから見習う必要などないと言えそうだが、何か真面目な優等生のようなことをやってきたのにうまく行かないのが不思議でならないどころか、ドイツの場合はちゃんと問題点がはっきりしていて、しかもそれに関して解決が困難であることもわかっているから、それで構わないような気がしてしまうというか、ドイツ人でもないからそんなことが言えるだけかも知れないが、日本の場合はポピュリズム勢力の台頭などはドイツと似ているところも少しはありそうだが、どうも根本的なところで違うような感じなのであり、それが何なのかといってもはっきりとはわからず、それどころかこのままでも良いんじゃないかとも思ってしまいそうになるから、なおのことよくわからなくなってしまうわけだが、ドイツの他にも隣の韓国も、クーデター未遂の大統領を弾劾しようとしたり、真面目な優等生のように理性的に振る舞おうとしているように見えるのだが、果たして日本でもドイツや韓国を見習って優等生のように理性的に振る舞わなければならないのかというと、たぶん立憲民主党の政治家たちは理性的に振る舞おうとしてポピュリズム勢力から攻撃されて支持率を落としている最中なのだろうが、このままでは夏に想定されている衆参ダブル選挙で政権交代が難しくなってしまいそうだが、そうなっても構わないのかも知れず、どう見てもポピュリズム勢力が天下を取ったところで、一時的な三日天下ではないかも知れないが、なぜかそうなっても日本では構わないような気がしてしまう一方で、アメリカではイーロン・マスクが戦略的に振る舞っていて、トランプも信頼してイーロン・マスクに改革をやらせれば、二年後ぐらいには結果が出るかも知れず、その結果によってはなるほどと思うようなことにもなりそうなのだが、それが政府という存在がどうあるべきかに関する世界的な指針というか見本になれば、他の国でもそれを見習うような機運も高まるような気がするのだが、見習ってもうまく行くかどうかはその国の情勢次第な面もありそうだが、ポピュリズム勢力のように都合の良いところを一方的に主張しているだけでうまく行くとは思えないものの、それが主張できている間だけ、うまく行っているようにその支持者の間では感じられるわけだから、そういう面ではうまく行っているのだろうが、もちろん理性的な態度になってしまうと、都合の悪いところを批判する成り行きになってしまい、実際に理性的な態度を維持しているように見える識者やジャーナリストなどがポピュリズム勢力を批判しているとしても、その大半が無視されている現状もありそうなのだが、だからといって理性的な態度に見える立憲民主党の政治家たちに政権を任せたとしても、うまく行くかどうかはわからないし、ドイツのようにうまく行かないこともあり得るわけだが、うまく行かなくても構わないというと無責任に感じられるだろうが、うまく行かなければ政権交代すれば良く、今後は定期的に政権交代して行くしかあり得ないと思うわけでもないが、結果的にそうなって行けば、うまく行かないなりにも理性的な意識が国民の間でも定着して行くことになって、それでもうまく行かないかも知れないし、政府のやることは総じてうまく行かないと思っておいても構わないような気もするのだが、政府という組織というか団体の存在自体が、うまく行かないことをうまく行かないなりに推し進めることしかできない構造なのかも知れないから、国民はうまく行くことを期待するとしても、構造的にも役割的にもうまく行きそうにないことをやらされる宿命なのだと歴史的な経緯からも窺えて、逆にうまく行くようなことなら民間の企業などが率先してやる成り行きになってしまうのかも知れず、それもうまく行った結果からそう見えるに過ぎず、一つの企業がうまく行っているように見えるなら、その企業がうまく行っているのに伴って、他の多くの企業がうまく行かずに倒産したり廃業に追い込まれたりしているわけだから、その一方で政府はうまく行かなくても倒産も廃業もできないわけだから、うまく行かないように見えるのが当たり前のことだと思っておいても構わないような気がするわけだが、うまく行かないなら少しは謙虚になって理性的に振る舞っておいた方がまだマシな気もするわけだ。
2024年
12月31日「売買と貸借の慣習」
何かごちゃごちゃと狭い範囲内で適当でいい加減なことを述べていると、それによって何が報われるわけでもないのだが、報われたいからそんなことを述べているわけでもないような気がするものの、事の成り行き次第でそうならざるを得ないようなことになってしまうから、そういうところでは否応なくそんな成り行きに巻き込まれて、自分でも思いもよらないことを述べてしまうのも、事の成り行き次第でそうなってしまうわけだから、それが拒否できない成り行きなのかも知れず、それに関しては軽く触れる程度に留めておいて、その先へと進んで行かなければならないような気がするのだが、それ自体も何やら塵も積もれば山となるような結果になっても、それが大したことだと褒め称える成り行きになるわけでもなく、それを褒め称える気にはなれなければ批判するしかないとも思えないが、それの何が間違っているわけではなくても、例えば物事を単体で取り上げてその本質とやらに言及したいなら、そうではない面にも言及しないことには、そこから説得力が生じてこないような気がしてしまうのだが、それを物事と物事の関係性というと、ではその物事が具体的に何なのかを示さないことには話にならないかも知れないが、それが貨幣だというのなら、貨幣そのものに本質があるわけではなく、貨幣を介して行われる売買や貸借という行為自体に本質的な意味や意義があると言いたくなってしまうのだが、それを言ってしまったらおしまいというわけでもないだろうが、貨幣に価値があると幻想を抱いている人がいるとしたら、それを介して売買や貸借ができる限りで価値があることも誰もが理解しているはずだが、それ以前に慣習として売買や貸借の取引が行われてきたわけだから、そういう慣習を制度として取り込む過程で、貨幣の発行に関する取り決めも生じてきたのだろうから、売買や貸借を円滑に行う上で必要となってくるのが貨幣だと捉えるなら、貨幣という現物や数値的な情報よりは、売買や貸借などの貨幣を利用した行為の方に本質がありそうに思われるのだが、それをあたかも貨幣に本質があるかのような本末転倒な錯覚を抱くことによって何が生じてくるのかといえば、売買や貸借のルールを無視するかのような暴論が生じてくると捉えても構わないのかどうかも、実際に積極財政派が主張するようなことを政府がやってみれば、それがどのような結果をもたらすのかが明らかになりそうだが、それに関しては少なくともアメリカではイーロン・マスクが政府に入って、そうなってしまうのを食い止めるようなことをやる成り行きになっているはずだが、果たしてそれがうまく行くのかどうかはやってみなければわからないが、それに対して日本では政府の予算の膨張に歯止めがかかっているようには見えないから、このままではそう遠くない将来のどこかで破綻が待ち受けている可能性もなきしもあらずだが、世界的に見れば日本より先に破綻しそうな国の方が圧倒的に多いだろうから、その辺は相対的には安心材料なのだろうが、たぶん破綻したところでどうなるわけでもないとたかを括っていてもいいのかどうかも、実際にそうなってみないことには何とも言えないところだが、そういう意味では積極財政だとか緊縮財政だとか騒いでいる人たちが何を言いたいのかよくわかっていないところもあって、政府がどうなろうと売買と貸借の慣習が成り立っているところで社会が構成されていて、そこで物や情報やサービスが取引されている実態がありそうだが、そういうのは信用の問題だと言えてしまうようなことでもあるから、貨幣の専門家が提示する貨幣理論とやらがそのまま適用されるかというと、貨幣の専門家といっても貨幣を鋳造したり印刷するのを専門とする職業に従事している人も、ある意味は貨幣の専門家だと言えそうだが、何か貨幣の流通に関する理論的な研究もあるだろうから、そういうところから貨幣理論が導き出されてくるのかも知れないが、そんな理論を利用すれば売買や貸借の慣習から外れるようなことをやっても構わないのかというと、少なくとも慣習から外れるようなことをやっているのが明らかになれば、じゃあ慣習に従って売買や貸借の取引をやっている側が黙ってそれを許すのかといえば、ずるいことをやっていると思われるなら、そんなことをやっている者や団体の信用がなくなってしまうだろうから、その団体が特定の国の政府なら、そんな政府が発行している貨幣が信用できないとなるだろうし、その報いとして貨幣価値が暴落するかも知れないが、それも本当にそうなるかどうかも、実際にそういうことをやってみないことにはわからないのかも知れないから、とりあえずは積極財政派が選挙で勝利して政権を奪取してから積極財政政策を実行してみるしかないわけで、そうなってからでは手遅れかも知れないが、実際にそうなることを期待していて、積極財政派の意見や主張に対しても、それほど強硬に反対する気にもなれないわけだが、それに反対するとか賛成するとか以前に、理論的に貨幣の本質とやらが特定されて理論的に貨幣の価値が計算可能であるなら、それもそういうことだと思っておけばいいだけで、理論的にはそうだとしても、実際に売買や貸借の取引が理論通りに進行するかというと、どうもそういうわけにか行かないような気もするわけで、そうなるとそれらの実際の取引が学問的な領域からは外れてくるのだろうから、そこで駆け引きのような交渉の結果のような様相を呈してきて、相場よりも高く売り抜けたり、安く買い叩いたりして、そうやって利益を上げようと目論むのだろうから、何か一筋縄では行かないややこしくも複雑でごまかしのようなやり取りを経て価格が決まってきて、それが気に入らないなら詐欺だと非難できるかというと、非難したければすればいいことだが、詐欺でなければ何なのかというと、交渉のテクニックであり技術だと正当化したくなるのかも知れず、そうした売買や貸借の際に用いる交渉術の類いを学問的に体系化してみたところで、そこから理論的な形態が定式化できるかできないかも、その種の専門家ではないので何とも言えないところだが、何かそういう方面で騙されていることや錯覚している面があるなら、そういうことも考慮に入れて売買や貸借などの取引に臨むしかないが、果たしてそれが技術的なことなのかというと、その全てが騙しのテクニックの類いだとも思えないし、何かルールの面で正当化できるやり取りの慣習があるから、それに則って制度的にも定式化される過程もありそうで、そんな制度的な枠組みの中で売買や貸借の取引が行われているから、誰もがそれを尊重しなければならない成り行きになってしまうのだろうが、そういう面と政府の活動とが結びつくと、やり過ぎたことをやってしまって財政破綻するような結果もそれなりにもたらされてくるのではないか。
12月30日「対決をはぐらかす」
普段の生活の中で、そんなことはとうにお見通しだと言われるような場面に遭遇することなど滅多にないだろうが、遭遇するとすればフィクションの中で決め台詞のようにして言い放たれる場面を想像してしまうが、誰かと誰かが対決していて、一方がもう一方に向かって罠の類いを仕掛けてきて、その罠を見破ったもう一方が仕掛けた側に向かってそんな台詞を言い放ちそうな場面なのだろうが、それに関して何を言いたくなるわけでもないが、安易に思い浮かぶのがそんな決め台詞の類いだとすれば、その種の罠を仕掛けられるのを恐れているから、事前にそんな台詞を用意しているような気もするのだが、しかも実態としてはそんな台詞を言い放った側が敗れ去るような結末も想像されてしまうから、そんな台詞を不用意に発してはまずいのかも知れないし、そんなことを言い放ってしまう者には何かが足りないような気がするわけで、果たしてそれが思慮深さの類いだと考えてしまうのも的外れかも知れないが、的外れのついでに思い浮かべてしまう光景が、漫画か何かの対決シーンなのだから、現実の世界ではそうはならないと思うのも同時に思ってしまうことなのだから、やはりフィクションの中でしか実現しない場面なのかも知れないし、そうなると現実の世界では通用しない台詞がフィクションの中で通用するような虚構性を意識してしまうから、間違っても現実の世界でそんなことを言い放っては行けないような気がしてしまうのだが、それも大げさな言いようで、ふざけて人をからかうような場面でならいくら言い放っても構わないように思われるだろうから、そうなれば大して気にならないことではあるにしても、ふざけて言うのではなく本気でそんなことを言い放てるかというと、言い放ちたいならどうぞご勝手にと誰から勧められるわけでもないが、言い放たなくてもそんな趣旨で語られる意見や主張に出くわすと、ああなるほどと感じて内心にやりと皮肉な笑みを浮かべてしまうわけでもないのだが、少なくとも心理的に余裕がないんだと推測してしまうわけで、それが具体的にどんな内容の意見や主張に対してそうなのかということが問題となってくるとも思えないが、それが人や集団の経済活動に関する議論の中でその種の意見や主張が生じてくるなら、いったいそれがどういう背景から出てくる意見や主張なのかというと、意見や主張の中で何かを批判しているような趣旨が伺えると、それが毎度のことのように批判対象が批判しやすいように歪められているから、お前がそんなふうに批判してくるのはとうにお見通しだと言わんばかりの反論も出てくるから、批判とそれに対する反論とがセットになって、経済活動に関する議論を低レベルな水準に押し留めるような効果を発揮しているように感じさせるとしても、現実の経済活動が簡単に批判されるレベルで行われているのかというと、そうではないと言いたくなってしまうのだが、不確実な未来を前提にして行われることだから、計画通りには物事が進みそうにないのも予想の範囲内でそう思われるのだから、行なった結果が悪ければ、当然のことながら批判の対象となるにしても、どの程度悪かったのか、悪いなりにも少しは良い面もあったのか、逆に良い結果となったところで無批判に賞賛されるほどのことなのかというと、そういうところが言及される対象となるなら、簡単に批判されるようなことでもなく、たとえ結果が悪くてもそうならざるを得ない面にも言及しておかないとまずいような気もしてくるから、それをあからさまに批判したければどうぞ勝手に思う存分批判していれば良いのだろうが、だからといって結果論的な水準でこうしていればうまく行ったはずだと言えないこともないが、それを言ってしまったらお終いだと言えないこともなく、その辺をどう捉えたら良いのか判断がつかないところだが、確かに今となっては結果論的にアベノミクスは大失敗だったと言い放ちたい人も大勢いるのだろうが、ああいう成り行きになればああいうことをやりたくなる勢力が現れるよなとそれも結果論的には言えるようなことなのだろうから、しかもその後にコロナ禍やロシアのウクライナ侵攻などが起こって、結果的にインフレが起こったわけだから、それも結果的にはそうなるより他はあり得なかったようなことにもなってしまったわけだから、それをどう肯定的にも否定的にも評価してみても、偶然の巡り合わせでそうなった面があることは否定できないし、それを必然的にそうなった面を強調したり拡大解釈して批判するなら、それに対する反論も待ってましたとばかりに、そんな批判が生じてくるのはとうにお見通しだと反論できるかというと、何とも言えないところだが、そういう論調を真に受けても構わないかというと、真に受けるわけには行かないのもそんな気がしてしまうのも当然の成り行きのような気がしてしまい、批判にもそれに対する反論にも同調したくはなくなって、どうもそういうことではないような気がするとしても、ではどういうことなのかと問われると、どう語ればいいのか皆目見当がつかないわけでもないにしても、経済活動としてそうなっている面がある一方で、政治的な対応や対処や対策としてあれこれやってみるのも、今後も継続的にも断続的にも何かしら行われることになるのだろうが、それを行うに当たって何か指標や展望のようなものを提示する成り行きにもなるだろうし、実際にすでに提示されているような気もするし、そんな指標や展望が正しいか間違っているかに関しては、それを批判したい側としては間違っているから批判したいのだろうが、さらには日米関係などを構造論的に捉えて何をやっても無駄だと言わんばかりに政治的な対応や対処や対策を否定的に貶す人も出てくるだろうが、そういう人たちが何を批判して何を否定したいのかと言えば、現状で理性的に肯定したい物事や道理を批判したり否定したい傾向にあると単純化したくなるのだが、ではその代わりに何を肯定したり擁護するのかというと、理性的には嫌悪したり道理に合わないことを肯定したり擁護しているのかというと、実際に肯定したり擁護している人たちはそうは思わないわけで、それどころかそれがこれまでにない新たな理性であり道理なのだと正当化しているような気がするのだが、そういう抽象的な単純化で納得できるかというと、たぶん誰も納得しないし、誰も支持も賛同もしてくれないような気がするとしても、何となくそう感じられるような成り行きが現在進行形で推し進められているような気がするわけだが、実際にはどうなのかというと、そんな気がする程度のことだとは誰も思っていないのかも知れず、それどころか大々的にこれ見よがしに推し進められているからこそ、それを批判したい人も大勢出現してきている現状があるのではないか。
12月29日「戦略的な形態」
人が有限の存在であるのは誰もがそう思うことである一方で、そんな有限の存在でしかない人が無限の存在としての神を信仰するのも、何となく有限と無限を対立的にも補完的にも設定して宗教として提示できそうだから、否応なくそうなってしまうように思われるのだが、もちろんそれを提示する者は意識して宗教として提示するのではなく、思想というカテゴリーを念頭に置いているような気がするのだが、それが思想の段階にとどまるか、さらにそこから一歩進んで宗教となってしまうかは、そんな思想の創始者に感銘を受けて関わってくる者たちの戦略にも影響してくることかも知れないし、その教えを世の中に広めようとすれば、必然的に宗教という戦略的な形態をとらざるを得ないかというと、過去にはそうならざるを得ないような時代状況が繰り返し現れたから、現代でもそれが残っていて、衰退せずに残っている宗教のうちでもいくつかが、世界宗教となって多くの信者を抱えていると現状を捉えておけば良さそうだが、その一方で宗教には至らずに思想の段階にとどまっている形態も世の中にはいくらでもありそうで、思想と宗教とではどう違うのかといっても、重なる部分が大部分を占めるだろうから、それほど違いがあるわけでもないのだろうが、もちろん思想の段階でとどまっている方が良くて宗教になってしまうと悪いとも言えないだろうから、たとえ宗教になってしまっても世の中に害を及ばさない限りで肯定されるはずだが、それが毒にも薬にもならないと判断される以前に何でもない形態なら流行らないわけで、だから世の中で流行らせるには、場合によっては毒にも薬にもなりそうな宗教という形態をとらざるを得ないのかも知れないが、それも実際に毒にも薬にもなってから、その功罪が議論される成り行きになるわけで、そんなふうに議論される頃には十分に世間を騒がせるようなムーブメントを起こしているわけだが、だから毒にも薬にもならない宗教などあり得ないと理解しておいても構わないだろうが、それは思想全般にも言えることかも知れないし、それを信じる人に何かと害を及ぼしたり徳や得をもたらしたりするから議論の対象になるのだろうから、何も及ぼさない思想などあり得ないし、徳や得をもたらせば信仰の対象としてありがたがられるだろうし、多大な被害や損失をもたらせば恐れられ怖がられるだろうが、そうなっても消滅せずに執拗に纏わりついて社会から排除されないようなら、マルクスが宗教はアヘンだと言ったような作用が想定されるが、しかもマルクスがそう言ったという事実を逆手にとって、それを利用するような戦略的な形態も出現するわけで、マルクスがそう言ったから宗教を社会から根絶やしにしなければならないと考えるなら、そんな思考に凝り固まった独裁体制こそが、宗教を強制的に禁止して宗教施設などを破壊する行為に及んで、結果的に社会に多大な被害や損失をもたらした事例もあるわけで、しかもさらにそれを逆手にとって、右翼的な勢力が宗教を禁止したり宗教施設を破壊するようなことをやった左翼政権は怖いという印象を増幅させて、そんなイメージを政治宣伝に使うという悪循環ももたらされるわけだから、それを戦略的に利用するような成り行きになれば、思慮の浅い人が容易に騙されて屁理屈的な論理を真に受けるような事態が起こってしまい、それに類する成り行きが現状でもSNSなどで蔓延していそうだが、マルクスが言った内容については、そこだけをわざと取り出して都合の良いように単純化して解釈すること自体がおかしいわけで、普通に考えてマルクスの意図を汲むなら、世の中では飢えや貧困や差別などの不条理で絶望的な境遇へと追い込まれる人が必ず出てきて、そんな人は最終的には宗教にすがる以外には選択肢がなければ、宗教は痛みを和らげるアヘンのような効果しかもたらさず、それでは延々とそんな状態が続いて行くしかないわけだから、根本的な解決を目指すなら、飢えや貧困や差別自体を社会からなくす努力をしなければならないとなるだろうが、実際には宗教関係者が慈善事業としてそういう努力をする成り行きにもなるだろうし、宗教こそが全世界から飢えや貧困や差別をなくす使命を帯びていると宣伝する宗教など世界中にいくらでもありそうで、それも逆説的な戦略だと言うつもりはないにしても、言語作用としてああ言えばこう言うということがいくらでも言えるような印象なのだが、もちろんそれにも限界や制約があるだろうが、それを根気強く探す努力などするわけもなく、いつものように物事を単純化して都合の良いように解釈したくなってしまうわけだから、懲りないその種の面々がメディアに群がってくる現象に嫌気がさすわけでもなく、逆におもしろがってさらに他人の言動を歪曲して解釈したくなってしまうわけで、それが他人が言ったことをねじ曲げて解釈しているとも思えないのだから始末に負えないにしても、そういう人はそれで構わないような成り行きにとらわれている限りで、自らの考えが論理的に正しいように感じられるとしたら、それと自覚することなく戦略的に振る舞っていることになるのかも知れず、そんな戦略的な振る舞いが社会の中でどれほど通用するかで、そういうやり方が通用する社会の中で暮らしている人の知性の平均的な程度が知れてくるわけでもないにしても、逆に戦略的なやり方が通用しなくなるとしたら、そうなってしまった社会の現状がどうなっているのかというと、そんな社会状況などあり得ず、絶えず何かしら戦略的なやり方が流行ったり廃れたりして、それが見破られて廃れる度に、また新たな戦略的なやり方が模索されている限りで、社会が活性化されるような幻想を得られるかというと、それは幻想ではなく紛れもなく社会の実態であって、社会こそが集団幻想の産物だと見なしたくなるにしても、果たして幻想から実態が生じてくるかというと、それに関しては慣習とか礼儀作法とか暗黙の申し合わせような動作を多くの人が共有している限りで、そこに社会が構成されているような感じになっているのだろうが、それを制度化して法律という形態でそこに暮らして生活している人々に守らせるような成り行きになってしまうと、それは国家になるしかないだろうから、そういう成り行きが社会から国家への進化だと見なしても構わないのかというと、そう見なしたいならそう見なしても構わないが、国家になっても社会がなくなるわけでもないし、依然としてそこには社会が構成されているように感じられるわけだから、国家よりも社会の方がより根源的な構造だと見なしても構わないような気もするわけだ。
12月28日「因果関係の破綻」
株価の値動きのようにちょっとしたきっかけからそれまで保っていた均衡が崩れて大きく上下に変動して、それによって表面的には危機的な事態となっても、果たしてそれが危機的な状態だと言えるかというと、当事者が何かの激しい変動にどの程度の深刻さで直面しているかにもよるだろうが、なぜそれが表面的だと言えるのかも、何に関してそんなことを述べているのかも定かではないなら、ただの印象で語っているだけで、いい加減な感想でしかないが、世の中の成り行きに関してそこに歴史的な連続性があるなんて信じていないと言ったら嘘になるが、物事が連続的な経過を辿って動いている場合もあるにはあるだろうが、その一方で何の前触れもなく突発的に何かが変動する時もあるだろうから、そこで原因と結果がつながっていない可能性もありそうで、そうなると原因でも結果でもなくなってしまうが、何かの突発的な変動によって今まで原因だと思っていたことがそうではなかったことに気づかされたことがあるかというと、にわかには思い出せないのだが、原因と結果の結びつきには疑念を抱いているのだから、何か過去にそんな経験をしたから疑念を覚えているのかも知れず、それが何だか今は思い出せないとしても、何かが勘として身についているような気もするわけで、そんな不確かであやふやな感覚を頼りにして何をこれから述べようとするのかも自分でもわからないが、そこからありふれているようなよくありがちな意見として、危機的な事態になった時こそがそれをうまく利用して飛躍するチャンスだと逆説的に言いたくなってくるのだろうが、なぜそんなことを言いたい人が結構な割合で出てくるのかと言えば、安定的に推移する状態の中ではヒエラルキーが揺るぎなく固定されてしまっているなら、階層構造や上下関係の中で地位や階級が下位の者たちが上位へとのし上がるのが困難になっているから、そうしたヒエラルキーが崩れるような時こそが、社会の底辺で虐げられていた者たちが下剋上のように浮上できるチャンスが到来すると考えるわけでもないだろうが、何かそうではないように感じられるとすれば、何がそうではないのかというと、実際にそんなチャンスをつかんで飛躍する者もごくわずかに出てくるとしても、誰もがそうなれるわけでもないし、誰もそうならなくても不思議ではなく、そんな時だからそうなる者が大勢出てくるとも限らず、出てくるなら偶然にそうなったと見なせば、それでも構わないようなことかも知れず、無理にそうなった原因を探らなくても構わないようなことなら、そういうことでもいいような気もするわけだが、それでは気が済まない人が世の中には大勢いるようで、そんな人たちが何かこれといって納得できる原因や理由を執拗に求めているから、そんな求めに応じて導き出される原因や理由がもっともらしくも怪しいわけで、その大半が物事の単純化から生じてくるように思われるわけだが、それに関して浅はかな人でもなくても錯覚しがちなことといえば、一つの結果に対して一つの原因や理由があると思い込んでいるわけでもないに、それで納得しがちになってしまうのかも知れず、それを客観的に捉えるなら、多数の結果に対して多数の原因や理由があるかも知れないし、それらが複雑に錯綜しながら絡み合っているから、うまく説明するのが困難になってきて、そういうのは偶然の巡り合わせでそうなってしまうとも言えそうだが、何でもかんでも偶然で済ますことができなければ、それらの中でもその場の成り行きに応じて語るのに相応しい結果とそうなったことの原因に相応しい要因が選び出されてくると言えるかどうかも、その場の状況や情勢次第な面もありそうで、その時期の時代状況や情勢に応じて語りたいことや語りたがることが出てくるから、そういうのをいくら強調したところで、それとは違う時期や時代状況の中では、それが選ばれない可能性も出てくるから、たとえそれがその時代には多くの人々が関心を持っている物事であっても、それとは違う別の時代状況の中ではそれほど関心を持たれないことだと、その時代においては無視の対象となっているかも知れないし、だからといって無視しても構わないわけではない物事もあるだろうが、たまたまそんな時代状況の中では無視されていることが、それも何かの偶然だと言っていいのかよくないのかもよくわからないにしても、それとは違う別の時代状況の中では重要な物事だと思われているかも知れないから、それをどう捉えればいいのかといっても、この時代に生きている者たちにとってはこの時代に特有の関心を惹く物事があって、それがメディアを通しても盛んに取り上げられる重要な物事だと思われるなら、それを真に受けている者はそう思うしかないかも知れないし、そうは思わなければそれを真に受けていないことになるだろうが、それに関して語っている者が語る際に一つの結果とその原因として持ち出してくる物事をさも重要であるかのように強調しているとすれば、そういうことを語っている者が何に取り憑かれているのかといえば、そんなふうに語るに際して利用している言語的な言い回しに取り憑かれていると解釈しても構わないような気もするのだが、それを拝聴している多くの人々がその原因として持ち出してくる物事に注目してほしいからそんな言い回しになってしまうと解釈するのも、何かのはぐらかしみたいで馬鹿にしているように受け取られてしまうかも知れないが、そこに注目してほしいのにわざとそれをずらして、何かそれとは別のことを言いたくなるような気分になってしまうとすれば、そんな何かを大げさに言い立てる言語的な強調表現自体を鬱陶しく感じていて、だから注目してほしいことをわざと無視して、それとは別の方面から関心を惹かないどうでもいいことを指摘するような意地悪な態度が生じてくるのかも知れないが、果たしてそれで構わないのかというと、構うか構わないかではないこともわかっていながら、そこで何かを見失っていて、その見失っている物事が注目すべき物事でないなら何なのかというと、たぶんそれがバランス感覚だというと、なおのこと意味不明に思われるかも知れないが、他人が注目すべきこととして持ち出してくる物事が何を物語っているのかといえば、それを受け止める自分がそれには注目していないという事実であって、何でそうなるのかと問われても、それこそ偶然の巡り合わせが作用してそうなってしまうと答えたくなってくるわけで、そうなってしまう原因も理由も自分にはわからないわけだから、そんなことには関心がないと言えないこともなく、実際に関心がそこに向かなければそのまま忘れ去ってしまうことになるのではないか。
12月27日「場の罠」
これから起こりうることの何を予想したいわけではなくても、何かしら予想したくなるのも、たとえそれが逆張り的な目立ちたがりな予想だろうと、そういうことを語りたがる人が世の中には多いからかも知れないが、それに関して何かわかっていないことがあるのは確かなような気もするが、何がわかっていないのかがわからないのも毎度のことでもあるから、わからないなりのことを適当に語ろうとしてしまい、それが全くの見当外れで的外れなデマを構成してしまうとしても、頭がイカれているからそうなるのではなく、正気を保ちたいからわざと頭がイカれているふりを装いたいのかそうではないのかも定かでないが、何を予想したいわけでもないのに話の最後にはお決まりのお約束として、将来への展望を語ってみせるのもよくありがちな蛇足には違いないが、果たしてそれが現実逃避願望の表れなのかどうかもよくわからないし、何から逃避したくて将来への展望を語りたがるのも、そんな理由から語りたいわけでもないのに、否応なくそういうことを語る成り行きには逆らえずに、何かのついでに語り得ることとして、来年の予想程度で済ませたい内容があるらしいのだが、それでは済まないようなこととして、不特定多数の人々を脅かしたり驚かそうする目的で語りたいことがあるなら、それは予想ではなく予言となってしまいそうだが、逆に楽観的なことを語りたいなら何になるのかと考えてみるが、希望的観測というのがそうかも知れないが、自らの将来がどうなることを希望しているのかというと、それを今ここで語りたいわけでもないから語らないだろうが、語ってしまうとそれをばらすことになってしまうから、その内容によっては妨害が入って希望が実現しなくなる危険性もあるなら、なるべくなら語らないに越したことはなく、話の成り行き上それを語らざるを得なくなってしまえば、意図して嘘をつくかも知れないし、他の誰もが安心できそうな希望を語ってみせるのも演技には違いないだろうが、そういう意味では予想に自らの希望が含まれてしまうのはまずいと思われるなら不用意には明かさず、そんな希望は秘めたままにしておいた方が良さそうだが、自分だけではなく他の多くの人々が抱くだろう最大公約数的な希望を語ってみせて、他の多くの人々から支持や賛同を取り付けたい魂胆が見え見えだと、何やら政治的な野心があるのではないかと勘ぐられるかも知れないが、実際に政治家の口からそんな内容が語られたら、勘ぐられるのではなく、そのものズバリでしかないが、そうやって絶えず思慮の浅い愚かな人々を騙そうとする意図もないのにそんなことを語りたがるのも、語るように仕向けられる場がそこに構成されているから、そういう場ではそういうことを語らざるを得ない成り行きになっていて、そういう場ではそういうことを語ってみせるのが政治家の義務であって礼儀の一部であるかのような暗黙の申し合わせになっていると決めつけるわけにも行かないとしても、そういう場ではそんなことを語ることが誰から期待されているわけでもないのに、なぜかそんな架空の期待に沿うような内容を語らないと違和感や不信感を抱かれてしまうのかも知れず、しかも他の多くの人々が期待するようなことを語っているつもりが、その期待というのがその場の空気を読んで語れという期待であるなら、たとえ中身のない空疎なことを語っていても、なぜかその場の雰囲気にはフィットして、そういう場ではそういうことを語るものだという安心感を得られるようなことが語られてしまうとすれば、ではそんな共同幻想的な安心感とは何なのかといえば、何かをやり過ごすには欠かせない儀礼的な感覚なのかも知れないが、そこで何をやり過ごそうとしているのかというと、実質的な行為や行動が伴うのをやり過ごしているような気もするのだが、では実質的な行為や行動とは何かといえば、それが利害関心から生じてくる行為や行動であり、利益を得るための取引や交渉となってくるのだとしたら、相手がいないと取引も交渉も成り立たないから、そこで誰が取引相手や交渉相手となるのかといえば、話を聞きにくる人々がそんな相手となるのかどうかも、その覚悟ができているかどうかもその場では判然としないのかも知れず、だから直接そうなってしまうのを避けるためにも、その種の曖昧模糊とした儀礼的で空疎な内容が必要とされるなら、ではいったいその場が何をやるための場なのかというと、少なくとも世間話や無駄話をするためだけの場だとは誰も思っていないのかも知れないし、実質的な実りをもたらすような成り行きへと持っていかないとまずいなら、何かの展示即売会に先立って語られる内容になれば、目的がはっきりしてきそうだが、そんな場でしかないのに相手の意表ついて何か気の利いた罠を仕掛ける必要や必然性があるのかというと、そうではなくまんまと罠にかかっているのが、実りある話の内容に持って行こうとしてあれこれと聴衆の関心を惹きそうな話題を持ち出している当人なのかも知れず、それが否応なく観衆の期待に沿うような話の内容になるように仕向けられていて、それ自体が罠だといっても納得できないだろうが、お前らは馬鹿だからこんな話をすれば喜ぶんだと見下し気味に観衆を軽蔑していても、馬鹿な話を嬉々として披露しているのはお前の方じゃないのかと観衆から笑われていようと、その場がそれで盛り上がるなら話芸として成立しているのではないかと自己正当化したくなるとしても、果たしてその種の漫談や漫才が実りある話なのかといえば、どんな内容であっても、そこから結果的に金銭のやり取りが生じてくればそれで構わないと思うしかないのだろうが、実質的には誰もそんな話は求めていないとしたら何なのかというと、その場に居合わせた誰もがその場ではそんな話をするもんだという先入観に意識を支配されていると言えるか言えないかも、誰もそんなふうには思わないかも知れないが、実際にそうなった結果をもっともらしく思われるような原因や理由と共に提示しようとすれば、そんなことが言えても構わないような気もするのだが、本当にそうなのかというと、勝手にそう思いたいだけで何の根拠も証拠もないが、そういうことの延長上で何か気の利いたことを述べようとすれば、その場の空気や雰囲気に支配されているような話の内容を真に受けてはならないと警鐘を鳴らしたくなってしまうとしても、それも実質的には誰も真に受けてはいないはずで、ただ退屈な時間をやり過ごしたくてそんな空疎な話に耳を傾けたくなるのかも知れず、もちろん話の内容が空疎であるならよりいっそう退屈になるから、あくびが出てくるかも知れないし、居眠りをして周囲から顰蹙を買ってしまうかも知れないが、それでも暇つぶしとなればそれで構わないような心境に落ち着くのかも知れない。
12月26日「本末転倒な思考」
たぶんそれが本末転倒だと思うのは、何か納得できるようなことを述べている思想家や理論家の類いの教えに従ってやれば良いとは必ずしも言えないことを理解しないで、結果的にはうまく行った事の成り行きを思想家の〇〇の教えに従ったからだとか、理論家の〇〇の教えに従ってやったからうまく行ったとか、うまく行った事例を思想家や理論家の教えに当てはめれば、確かにうまく行った結果からならそう言えるのだが、実際にはその思想家や理論家の教えが何から導き出されてきたのかといえば、現実に起こった事の成り行きを分析したり考察して、こうすればうまく行くという思想や理論の類いを導き出したのだろうから、その教えよりは現実に起こった事の成り行きの方が先行しているわけだが、それが本末転倒だとは言えないかも知れないが、本末転倒の本来の意味とは違ったところで、何か引っかかるものを感じるのであり、それがどういうことなのかよくわからないから本末転倒だと思うのもおかしいのだが、結果から言えることをこれからやろうとしていることに当てはめても構わないのかというと、学校の試験問題ならそうなるだろうから、また数学や物理や科学実験や工学的な検証実験などではそうなるだろうが、そんなことを現実の社会で起こっていることに当てはめて語っている人をメディアを通して見てしまうと、何か本末転倒なことを述べているように感じられてしまうのだから、それの何が本末転倒なのかうまく説明できないし、それがわからなくて焦ったいのだが、そう感じられてしまうのだから、自分の勘が何かをつかんでいるような気もするわけで、その一方で学校の試験で優秀な成績を収めて難関の上級公務員試験にも受かって国家官僚になった人などは、そういうことに対して違和感など覚えないかも知れないが、そんな優秀な官僚たちに国の命運を託してしまうとどういうことになるかに関しては、明治維新から七十七年後の現実を突きつけられて誰もが嫌というほど何かを痛感させられたはずだが、しかもそこから七十七年後には何が起こったのかというと、安倍晋三の暗殺が起こったのだが、それが何を物語っているかも意味不明だとしても、だから何だと言われても、誰もが納得できるようなことは述べられないが、七十七年周期で何かが繰り返されているわけでもなく、前半の七十七年間と後半の七十七年間で何が違うのかと問われても、何とも言えないが、前半の七十七年間の反省を踏まえて後半の七十七年間の中で政治が行われてきたはずだが、その反省が後半の七十七年間の中で活かされてきたのかというと、ある程度は活かされてきたのだろうし、前半よりは後半の方が平和な世の中になったはずだが、その平和な世の中をぶち壊そうとしたのが安倍晋三とその仲間たちだったのかも知れないが、世の中を前半の七十七年間へと引き戻そうとした安倍晋三の夢も自身の暗殺によって潰えたように思われたが、その意志を継いで安倍晋三がなし得なかったことを達成しようとする者たちも世の中にはいくらでもいるから安心できないとしても、果たして情勢をそう捉えても構わないのかというと、何かそれに関しても違和感を覚えるわけで、ではそういう捉え方ではまずいのだとしたら何なのかというと、そう考えてしまうのも本末転倒な考えなのかも知れず、ではそうではないとしたら何なのかというと、その間にも絶え間ない産業技術の発展があって、それを考慮に入れていないから違和感を覚えるのかというと、それもちょっと違うような気がするだが、それがちょっと違うとしても合っている部分や面も指摘できて、その指摘できる部分や面というのが、日本の官僚組織が旧来の今や廃れつつある重厚長大な産業構造にはフィットするが、そこから二十世紀末のIT革命を経て現在進行中のAI革命に至る成り行きの中ではフィットしないと言えそうだが、大ざっぱに言えばそんなふうに言えないこともないが、それでは何を述べていることにもならないような気もするから、やはりちょっと違うような気がするのだが、官僚組織といっても政府から大企業から労働組合などまで含まれてくるわけだから、それは日本だけではなく世界中のその種の官僚組織全般でも言えるわけだから、日本特有というわけでもないだろうし、日本だけが時代遅れの官僚組織に社会を支配されているわけでもなく、大なり小なり世界中でそんな傾向になっているような気もするわけで、しかもそういう傾向と民主主義の普及が日本において遅れていることとどう結びついてくるのかもよくわからないし、民主主義だけなく自由主義も考慮に入れておかないと、それが勘違いの原因となってしまいかねないから、下手に二項対立的な単純化にとらわれてしまうとまずいような気もするわけだが、自由と民主は必ずしも対立する概念ではなく、両立が可能だと考えられるから自由民主主義という概念もあるわけで、その一方で民主主義ばかりが強調される傾向にもなっているから、自由主義が何なのかを理解していない人も世の中には大勢いる可能性があって、しかも自由主義といっても政治的な自由主義と経済的な自由主義を区別しても良いのかどうかも定かではなく、自由民主党という政党があるにも関わらず、その実態が官僚主義に支配されて自由も民主も抑圧する成り行きになってしまうと本末転倒な感じがしてしまうのだが、それも大ざっぱに言えばそう言えるような気がする程度のことでもあるから、必ずしも実態をそのまま反映しているとは感じられないわけで、そういう観念的な思考がIT革命やAI革命の現状とどう結びつくのか皆目見当がつかないから、何か的外れなことを述べているのではないかと焦ってしまうのだが、過去の一時代では重厚長大産業とそれを支える官僚組織が一体化した形態が必要だったにも関わらず、その種の官僚組織内では自由も民主もないわけだから、自由や民主を求める民衆の仮想敵としてその種の官僚組織も存在意義があったはずだが、だんだんその種の重厚長大な官僚組織が時代状況と合わなくなってきたから、形骸化して解体される傾向にあるかというと、必要なところでは今もそれなりに存続しているから、それがないと政府も大企業も労働組合も立ち行かない限りで、今後も存続し続けると思われているだろうが、その一方でIT革命やAI革命を通過した未来の状況の中ではどうなって行くかというと、それに関しては都合の良いような想像もいくらでも可能だが、実際にそうなってみないことにはわからないこともいくらでもあるのかも知れないし、果たしてそもそも自由や民主に関して現状で思い描いている内容に普遍性があるのかといっても、よくわからないのかも知れないし、わからなくても構わないようなことなのかも知れず、時代の変遷に応じて意味も意義も変わって行くのかも知れない。
12月25日「犠牲者の行く末」
わかりきったことをわかりきったように述べても、何も伝わってこないように感じられるなら、そうは感じられない自身が何かのイデオロギーに感染しているから、わかりきったことを指摘されても、何のことやらさっぱり理解できないような事態に陥っているのかも知れないが、それとは違ってこれからイーロン・マスクがアメリカの政府に入ってやろうとしていることは、その種のイデオロギーとは無縁の行為となりそうで、ただ単に減税するなら予算を削れということになるだろうから、それが日本でもドイツでもフランスでもイギリスでもできないことである一方で、ある意味ではアルゼンチンでなら行くところまで行ってしまっているからやらざるを得ないことになっていて、アメリカの場合は日本やドイツやフランスやイギリスのように手遅れにならないうちにやってしまおうということになるのかも知れず、他のどの国でもできるわけでもないが、ひょっとすると現状のアメリカでならできるかも知れないから、今このタイミングでやらないと日独仏英のように後戻りができなくなってしまい、慢性的な不況となってしまうから、これが財政健全化と経済を両立させる最後のチャンスだとすれば、規制緩和と緊縮財政という新自由主義的な政策を実行する絶好の機会ように思えるわけだが、それがトランプ減税の他にも不法移民の流入を防ぐのにも一定の効果を上げる可能性もありそうで、不法移民を強制送還してしまうと労働力不足になるという指摘にも、政府の職員を大量にリストラすれば民間の労働力不足の解消にもある程度は役立つかも知れないし、そんなことをやっているうちにもAI技術の進展によって労働の自動化が進展して行けば、労働力をロボットで肩代わりできるのではないかと期待されるが、それはトランプ政権よりもっと先の話になりそうにも思われるが、数年後にはテスラのロボタクシーが普及して、人型ロボットのオプティマスも簡単な単純労働をこなせるまでに進化する可能性もありそうで、そんなふうに辻褄が合う部分だけを説明すれば、何やらアメリカの未来は明るそうに感じられるかも知れないが、実際にはそうはならないような予感もするわけで、何か見込み違いが生じてきて思いがけない事態に陥ってしまえば、トランプ政権もそれなりにピンチになって大変なことになってしまうかも知れないが、それも現状では予想がつかないし、まだその兆しさえないようなことなのかも知れず、前回のトランプ政権の際にもコロナ禍という思いがけない事態が起こって、対処できずに選挙で敗れたと解釈してもいいのかどうかもよくわからないが、少なくともトランプが選挙に負けて多くの人々が良かったと思ったはずだが、ではバイデン政権が何をやったのかというと、コロナ禍の対処とロシアのウクライナ侵攻に翻弄されて、さらにはアフガニスタンからの撤退でも失態を演じて、ハマスのテロ事件を発端としたイスラエルのガザ侵攻でも、多くの民間人を死傷させて汚点を残したと言えなくもないが、それも悪い部分だけを列挙すればネガティブな印象となるが、その種の政治的な行き詰まりはもう何十年も前からそうなのだろうから、今に始まったことではなく、欧米ではリベラルな社民主義が行き詰まっているのは民主主義の普及と同時並行で起こっていることだから、それに対する拒否反応がポピュリズム政治を生み出しているのも今に始まったことではなく、日本ではそのリベラルな社民主義ですらがそれを体現する勢力が政権を担えない状態が長年にわたって続いているわけだから、すでにもうどうにもならない状態が常態化しているわけだが、それでも何とかなっているような気がしているのだから、政治が社会の中で本質的な部分を占めているわけではないことが明らかになっているのかも知れず、様々な問題を抱え込んでいても、それが一向に解決しないとしても、絶えずそれらが先送りになっているとしても、そこに暮らす人々の生活が成り立っている限りで、曲がりなりにも社会の現状が維持されているはずで、先送りとなってきた政治的な課題とやらも、与党が過半数割れとなった現時点で何とか進展させようとしているのだろうが、相変わらずポピュリズム勢力による妨害工作が後を絶たないし、それが妨害工作だなんて多くの国民は思ってもいないだろうし、それどころかポピュリズム勢力を応援している国民もいくらでもいるだろうから、実際にも自分もポピュリズム勢力の中でもれいわを応援していることになっているだろうから、何だか笑ってしまうような現状なのだが、消費税を廃止できるなんて全く信じていないのに、消費税の廃止を掲げる勢力を応援しているわけだから、自己矛盾が生じているような気もするのだが、それとこれとはどう違うのかというと、それ以前にそれが何でこれが何なのかもよくわかっていないのかも知れないし、そういうところが自分でも何だかわからないのだが、その一方でリベラルな社民主義がうまく行かないことも百も承知で、それを担っている勢力を応援していることも確かなのだから、そちらの方でも自己矛盾をきたしているのかも知れず、しかもそれらを応援しているにも関わらず、それらと敵対関係にある新自由主義を信じているわけだから、頭の中が矛盾だらけなのだが、それらの相矛盾し合う主義主張の中に現状の政治的な行き詰まりを解決するためのヒントが隠されているように思われると共に、実際にはそんなことではなく、AIに絡んだ産業技術の進展によってそんな怪しげなイデオロギー的な幻想も吹き飛ばれてしまう未来が到来することも期待しているような気もするわけだから、それらのうちの何を選んで何を選ばないかということではなく、その場の成り行きに応じてそれらに絡んだ様々な物事が同時並行的に作用し合って、自分の期待とは全く違った未来が到来するのかも知れないし、そんな未来にまで生きてはいない可能性の方が高そうだが、そうなったからといって相変わらず現状で問題となっている何が解決するわけでもないのかも知れないし、政治的な課題とやらも何も進展しないまま、それがもはやどうでもいいこととして自然消滅するような未来が待ち受けているのかも知れないが、少なくとも現状で騒ぎ立てているポピュリズム勢力が政治的な主導権を握っているように見えるとしても、そう見えるだけで実態は違うということではなく、実態としてもそうであっても構わないような気もするのだが、誰がどんな勢力が主導権を握っても、歴史的な事実に照らし合わせてみるなら、その場で主導権を握った者や勢力から順番に衰退したり消滅して行くのだろうから、今はせいぜい主導権を握って派手に騒ぎ立ててもらうしかないのかも知れず、そういう者や勢力が何かの犠牲となることによって世の中が動いて行くと現状を捉えておくしかないのかも知れない。
12月24日「逆らうわけには行かない成り行き」
どう考えてもそうなるしかないような成り行きには逆らうわけには行かないような気がするとしても、実際に逆らえないのだから、逆らおうとすること自体が間違っている以前に、では何に逆らおうとしているのかというと、いつものようにそれがよくわからないでは話にならないが、例えばそれが時代の流れには逆らえない程度のことなら、時代の流れに取り残されてしまう人がいるとすれば、その人が時代の流れに逆らっているのかというと、逆らうつもりもないのに取り残されてしまう事態も考えられるだろうから、時流に乗ろうとしても乗れない人も出てくる限りで、意識してあえて逆らうようなことをやっている人や団体以外は、結果的に時代の流れに乗れずに取り残されてしまうとしても、逆らっているわけでもないのにそうなってしまうのだから、そうなるしかないような成り行きに逆らっているわけでもなく、時代の流れに乗れずに取り残されてしまうこと自体が、逆らうわけには行かない成り行きのような気もするが、そういう意味では日本の自動車産業がEV化や自動運転化などの時代の流れに乗り切れずに取り残されてしまうとしても、それもそういう成り行きには逆らえないからそうなってしまうようなことなのかも知れず、もちろん実態としてはそうではなく、中国の自動車メーカーなどと提携したり協業しながら、それなりにそちらの方面の先端技術を取り入れている最中なのだろうから、今後もガラパゴス化しつつも何とかやって行けそうな気もするのだが、それでも政治的な方面では日中双方のナショナリストたちの自尊心を満足させるために表向きには対立を煽りつつも、経済的な方面ではお互いに利用し合って利益を得ようとするのは昔からよくある成り行きなのだろうから、そういうところはプロレス的な見せかけの対立だと捉えておいても良さそうだが、対立を煽ることだけに活動を全振りしている者たちにしてみれば、時としてそれが裏切り行為のように映るかも知れないが、そう思ってしまうのもプロレスの枠内でそう思ってしまうということなのかも知れず、味方の裏切り行為に怒っている役割を演じているようなことに気づいていない可能性まであるわけで、どこまでが演技なのかといっても、人の意識そのものが社会的な役割の中で何かを演じていることに気づかないようになっていて、そういう人たちの言動そのものがわかりやすいと思うなら、何かの典型例というか、型にハマった紋切り型的な言動になっているからわかりやすく、そういう紋切り型の典型例を演じている自覚はなくても、実際に他の大勢の人たちと同じようなことを口走って同じような行為や行動に及んでしまえば、それがその人のオリジナルな言動ではないことになってしまうから、当人がそれに気づかなくても無自覚にそんな役柄を演じているように見えてしまうわけで、それをどう捉えるのかといっても、その人がそういう役割を演じているのだと捉えておくのが無難に思えるのだが、そう思ってしまうことも逆らうわけには行かない成り行きなのかも知れず、実際に逆らえないからそう思ってしまうわけで、そう思うことの良し悪しとは別のレベルでそうならざるを得ないようなことなのかも知れないから、それをどうこう言ってみても始まらないことである限りで、そうならないように工夫を凝らさなければならないわけでもないだろうから、そういう成り行きはそのまま放置するしかないのかも知れないし、放置できないほど煽り立てが激しさを増してきて目に余るようなら、それを抑制するような反作用も自然発生的に生じてくるのかも知れないし、今のところはそうではないような気もするから、そういう方面の煽り立てはそのまま放置しておいても構わないのだろうが、それとは別の方面では身内同士の争いに発展している事態もありそうで、それを争いだと見なすのも少しずれているのかも知れず、争いは争いでも一定のルールに基づいた競争であるなら許容の範囲内に止まるにしても、何かそこでも目に余るようなやり過ぎが許せないなら、何かしらそういう方面から非難の声が上がるわけで、その種の内輪揉めのようないざこざをどう捉えたら納得できるのかといっても、納得できないから非難の声を上げるわけで、果たしてそれらの争っている人や団体の類いが本当に争っているつもりなのかというと、当人たちは争っているつもりなのだろうが、そうだとすれば内輪揉めなどではないだろうから、何かはっきりした対立軸ような指標や基準がありそうなのだが、そうではないとしたら何なのかといっても、皆目見当がつかないわけではなく、それが政治的な勢力争いや権力闘争だと理解しておけばいいようなことだとしても、なぜか内輪揉めにしか見えないとしたら、その理由が何なのかというと、要するに全ての方面で方向性が一致しているのに、まるで一致していないかのように対立を演じているのであって、そうだとすればその種の内輪揉めに騙されてはならないはずなのだが、その一方で一致している方向性が何なのかというと、それが税の取り方であったり税の使い道であったりするのだろうが、そこでも一致しているわかりやすい方向性といえば、減税するなら予算を削れということになるなら、削りたくない官僚組織との対立になりそうだが、そこから国債の発行という何やら打ち出の小槌の使い過ぎが露呈していて、結局今のままではどうやってもうまく行かないわけだが、うまく行きそうなきっかけを掴んでいるのが、AI技術を活用した労働の自動化を推進する勢力ということなりそうだが、果たしてそれとこれとがすんなりと結びつくのかということでさえも、ほとんどの人が理解していない可能性まであるわけだから、数年後にそんなふうな成り行きになりそうになってもまだ理解できない人が世の中の大半を占めるとしても、それが逆らうわけには行かない成り行きだとしたら、否応なくそういう時代の流れに乗り遅れて取り残される人々も大勢出てきそうだが、そんなことはそれらの成り行きを推進する勢力の知ったことではないだろうから、たとえ労働組合的な伝統に固執する勢力との対立が激化するにしても、何か変なふうにややこしい紆余曲折を伴いながらも否応なくそんな成り行きに誰もが巻き込まれながらも、日本の自動車メーカーのようになし崩し的な対応を迫られてしまうのかも知れず、それで何がどうなるわけでもないにしても、気づかないところで何かがどうにかなってしまうから、そこでもそんな成り行きに応じて生じてくる社会的に割り振られた役割を多くの人々が無自覚に演じてしまうなら、そこからもわかりやすい紋切り型の典型例のような言動が出力されてくるのではないか。
12月23日「困難なこだわり」
それがあることによって当たり前のことを当たり前だと言えなくなってしまうとしたら、では当たり前のことを言えなくしているそれとは何なのかというと、それがあるのではなく起こっているのだとしたら事件や出来事には違いないのだが、実際に事件や出来事としてメディアが取り上げているわけではないとしたら、架空の事件や出来事なのかというと、そうではなく、確かに事件や出来事としては取り上げられてはいないのだが、別の何かとして取り上げられていて、それが何なのかといっても、何かがそこにあって、何があるのかと言えばこだわりがありそうなのだが、ではこだわっていることが事件や出来事なのかというと、それにこだわることによってそこで起こっていることをわからなくしているように思われて、それが起こっているから当たり前のことを当たり前だと言えなくなっているとしたら、誰がそうは言えなくなっているのかといえば、メディアを通して何かを伝えている人たちがそうは言えなくなっていたりそうは述べられなくなっているのだが、ではなぜそうなってしまうのかといえば、言うのが困難になっていたり述べるのが困難になっている理由や原因を単純化してはまずいのだろうが、あえてそれを言いやすいように言うとしたら、特定のイデオロギーにこだわっているから当たり前のことを当たり前だと言えなくなってしまっていると言えなくもなく、しかもそうは言えなくなってしまった者たちはそれをイデオロギーだなんて思っていないわけだから、そこから何やら面倒でややこしい事態になっているのだが、イデオロギーとは何かといえば、通常の意味で言われているイデオロギーの他に何かこれといってこだわっている傾向があって、それも簡単に言ってはまずいかも知れないが、そこに利益には還元できない何かがあると感じるなら、それがイデオロギーだと見なしても構わないのかというと、誰もそうは思っていないだろうが、良心的に思われる多くの者たちが利益には還元できない何かにこだわっているのであり、しかもそれもそうではないと思われるようなことなのだから、そんなことにこだわっているのではないと言われるとその通りだと応じるしかなく、ではそれにこだわっていないのかといえば、人それぞれにこだわっている物事が違っているといえば、それもその通りなのだとしたら、ここまで述べてきた内容が間違っているのかというと、そう思われても仕方のないことかも知れないが、それが利益を得られる前提があるからこそこだわれるのであって、利益を得られないとこだわれないといえば、そうではないと反論してくる限りでこだわっているのかも知れず、それが逆説的にこだわっていることになるのかといえば、そうは思われないのに結果的にはそういうことになってしまうこだわりなのかも知れないから、ややこしくてわかりにくい事態なのかも知れないが、何か批判する相手をこうだと決めつけないと批判できないようなことでもあるから、そんなふうに決めつけるのはおかしいと言われると、そういう批判には説得力がなくなってしまうのかも知れないし、そうは思わない人には確かに説得力のない批判なのだが、その種の決めつけ批判を真に受けている人には説得力のある批判なのだろうから、そこで説得力があると感じる人とないと感じる人の違いが何なのかというと、特定のイデオロギーにこだわっているか否かで感じ方も見解も分かれるというと、やはりそれではそこで問題となっている物事を単純化して解釈していることになって、それではまずいような気がしてしまい、そうではないとしたらどう解釈すればいいのかというと、それにこだわっている者たちがイデオロギーだとは思っていないこだわりが何なのかということがよくわからないのであって、わからないのならそれをイデオロギーだと決めつけるわけにも行かないはずだが、それ自体はイデオロギーだとは言えないのだが、それを批判に活用するとイデオロギーになってしまうようなものなのかも知れず、では別の表現や別の言葉で言えるようなことなのかというと、こだわりとしか言えないから、こだわりで構わないかというと、それに凝り固まるようにしてこだわっているのだから、そういうのをイデオロギーと呼んでも構わないような気がするわけだが、イデオロギーだと決めつけてしまうと、そこで起こっていることを単純化して理解していたり解釈していることになってしまいそうで、単純化するとわかりやすくなることと引き換えにして、そこで起こっていることをわからなくしているようにも感じられるから、それを単純化して理解したり解釈してはまずいのかも知れず、それに関して例えば選択的夫婦別姓に反対している者たちが狂気のイデオロギーにとらわれているから反対していると述べると、ちょっと違うような気がして、もっと何か現実に生じている利害関係から反対しているのではないかと推測したくなるわけだが、反対することによって彼らに利益がもたらされるから反対していると述べても、それもちょっと違うような気がして、それをイデオロギーだと見なして単純化するか、利害関係だと見なして単純化するかの二者択一とは言えないような事情や経緯にとらわれているから彼らは反対せざるを得ないと言うと、それもちょっと違うような気がするから何なのかというと、結局何だかわからなくなってしまうわけだが、彼らにもうまく説明できないようなわけのわからない思考や現実の人間関係などにとらわれているというと、実際にそこから出力されてくる彼らの主張に説得力が伴っているかというと、普通におかしいと感じざるを得ないわけだから、彼らの頭の中では辻褄が合っているとしても、そう思い込んでいるに過ぎないと思っておく程度が無難なのかも知れないし、事の真相など誰にもわからないのかも知れないが、ともかく様々な事情や経緯が作用して合理的な制度の制定を阻もうとしているわけだから、彼らがこだわっていることが彼らにとっては切実に思われる程度でリアリティーが伴っていることは確かなのだろうが、そんな彼らが主張している内容に説得力を感じるかというと、やはりそれを単純化して理解したり解釈してはまずいのだろうが、彼らがとらわれているイデオロギーに共感できる人には説得力を感じられる主張なのだろうから、選択的夫婦別姓が当たり前な世の中になってしまうと、彼らには受け入れ難い世の中になってしまうのかというと、一方ではマイナ保険証が当たり前な世の中になるようにごり押し気味に事態を進展させているわけだから、それとこれとを比較すること自体もおかしいのだろうが、何だか笑ってしまうが不条理な感じがするわけだ。
12月22日「開き直りの必然性」
何かそう思ってしまってはまずいこととして思い浮かぶのが何なのかというと、それがにわかには思いつかないなら何か忘れていることがありそうに思われるのだが、何も思い出せないとなると、何かそう思ってしまってはまずいような気がしたのは何だったのかとなるわけだが、それが気のせいでなければ、例えばやっていることが大してうまく行っていないのに、見栄を張って、何事もうまく行っているかのように見せかけてはまずいのだが、何かのきっかけからうまく行っていないのが明らかになって、あるいはうまく行っていないのを他の誰かに暴露されたりして、それがまずいことだとしたら、うまく行っていないのにうまく行っているように見せかけてしまうと、引っ込みがつかなくなると思えばいいのか思わなくてもいいのか、そんなのは引っ込みがつかなくなってから考えれば済むことかも知れないが、そうなってからではもう遅いと思うなら、手遅れにならないうちにどうにかしなければならないのは当然だが、どうにもならない状況に追い込まれてしまうから引っ込みがつかなくなるわけだから、いったんそういう成り行きにとらわれてしまうとそこから抜け出せず、そうなってしまったことに気づいたら、もはやここまでだとあきらめて観念するしかないのかも知れず、もっとも観念したところで何がどうなるわけでもないと思うなら、そうなってしまってもじたばたするしかないわけだが、現状の中で起きているのがそういうことではないとしたら何なのかというと、ただ単に開き直っているわけでも居直っているわけでもなく、絶えず何とかしようとしていて、そうやって何とかなっていると思い込もうとしているわけで、実際にも何とかなっている面もそれなりにあるなら、まだ全てが終わっているわけではないのだが、果たしてこの世が終わりなき世界なのかというと、何らかの終わりがあるにしても、終わりの先にも何かが続いていて、それでは終わったことにならなければ、そこで終わったことにしておかないと示しがつかないというわけでもないのだが、何に対して示しがつかないのかといえば、終わったことにしておきたい者たちに対して示しがつかないわけではなく、終わったと信じ込んでしまった者たちに対して示しがつかないかも知れないが、それは信じ込んでしまった者たちの自業自得なのだから、示しがつかなくても無視するしかないのかも知れず、無視されても黙っているわけにはいかないなら騒ぐしかなく、この落とし前はどうつけてくれるんだと凄んでくるなら戦うしかないだろうし、戦うことに正義などなくても、とりあえずは戦うことになるだろうが、果たしてその先に待ち受けているのが何なのかといえば、それが戦いの終わりでなければ泥沼の終わりなき戦争に他ならず、そこで延々と戦い続けることになるだろうが、何と戦っているわけでもなければ、残り時間との戦いなのかも知れず、実際に死ぬまでの残り時間の中で誰もが戦う相手と見なした誰かと戦っているわけだろうが、果たしてそれで戦っていると言えるのかというと、では言えなければ戦いとは何なのかと問われるわけでもなく、たぶん戦わずして勝利できるわけでもなければ戦うしかないが、勝利する必要もないなら戦う必要もないのだろうが、それでも戦っているとしたら否応なく残り時間と戦っているわけで、それが戦う必要もなければ負けを認めることになるわけでもなく、戦わないのだから勝ちも負けもないとしらばっくれていられるかというと、そんなことを思うまでもなく、戦いとは無縁の静かな生活を送っていれば構わないはずだが、構わないと思ってもあちらが構ってくれなければ拍子抜けとなってしまい、そんなのはどうでもいいことになりはしないかと期待してしまうが、構ってくれなくても構わないのに、向こうから戦いを仕掛けてくれば応戦せざるを得ないだろうし、そうやって終わりなき泥沼の戦いが死ぬまで延々と続いて行くだろうが、それがそう思ってしまってはまずいことなのかというと、たぶんまずいとかまずくないとか言うことではなく、言わなくても戦っているわけで、言うまでもなく誰もがこの世界の中で戦っているわけだが、そんな否応なく戦いを強いられている者たちがどんなに過酷な苦境に陥っているとしても、絶え間なく否応なく戦いが続いているのだから、戦い続けながら死ぬことになりそうで、たとえそれを集団ヒステリーという病気だと断定しても彼らの戦いが止むことはなく、彼とは誰なのかといえば、そこに自分が含まれていると感じるなら、集団ヒステリーに感染していることになるかならないかもよくわからなくても、そんな程度だと思っておけば気休めになるかならないかもよくわからないが、それもたぶんそんな程度の者たちが世の中にはいくらでもいるから、そんな程度の者たちが騒いでいる姿に共感を寄せてしまう人がいるとしたら、そんな人も集団ヒステリーに感染していると思っておけばいいのかも知れないが、果たしてそれで騒いでいることになるのかどうかも定かでないとしたら、ただのSNS効果の一種だと思っておけばいいのかというと、それでも構わないだろうし、その種の炎上と呼ばれる集団ヒステリーを仕掛けているのが誰なのかといっても、誰でもなく誰でも構わないような虚無的な心理状態の無名の誰かであっても構わないが、そこに特定の固有名が伴ってくる必要もないのかも知れず、しかもそうやって攻撃相手となる誰かの活動を終わらせたいのだが、それが終わりなき戦いの延長上で起こっていることだけに、戦いが終わってしまってはまずいわけで、終わった終わったと煽り立てながらも戦いを延々と長引かせたいと思っているわけでもないのに、実際に終わらせようとして終わってしまってはまずいとも思わなくても、相変わらず延々と戦いが続いている中で絶えず集団ヒステリーになるように仕掛けているわけだから、戦いが続いていた方が好都合なのだろうし、戦いが沈静化してしまうと集団ヒステリーを仕掛けられないわけだから、戦いの高揚感を維持すべく、仕掛ける相手を絶えず探し回っていて、攻撃対象を見つければ一気呵成に集団ヒステリーを仕掛けてくるわけだから、それが戦いを終わらせないための戦略であることは言うまでもなく、それを客観的に見るなら攻撃相手をぶちのめして戦いを終わらせようとして攻撃を仕掛けているのに、戦いが終わってしまってはまずいのだから、いったいそれがどういうことなのかというと、絶えず攻撃相手が出現してこないとまずいわけで、それをどう解釈すればいいのかといっても、例えば自身の尻尾に噛みついて飲み込もうとしている蛇を思い浮かべるのはどうかといっても、ちょっと違うような気もするが、実際に日本は人口減少に直面しているわけだから、自分を終わらせようとして自分と戦いながらジリ貧に陥っているどこかの国の姿を思い浮かべてしまうわけだが、それがそう思ってしまってはまずいことなのかというと、何となくしっくりくるのかこないのかも今のところはよくわからないわけだ。
12月21日「勘違いな真実」
それに関して何をどう考えてみても、無理に結論を導き出すには及ばないが、例えば原子力技術に関しては、従来からある大量殺戮兵器としての核兵器や放射能で汚染された廃棄物を大量に出す発電所などを連想すれば、どう考えてみてもやめた方がいいと思われるはずだが、これから核廃棄物をほとんど出さない小型原子炉が実用化されると、これまでのマイナスイメージが完全に払拭されるわけではないにしても、その種の新技術を利用した発電なら許容されるような成り行きになるかも知れないし、産業技術というのは良いか悪いかよりも利益が出るか出ないかが優先される傾向があるのは当たり前のことだが、原子力技術のようにどう考えてみても悪いと決めつけられてしまうとしても、利益を得られる可能性があるなら、何か妥協的なやり方が模索されてしまうから、それが良いか悪いかとは別の方面からやりようがあるのかも知れないし、そうなるには悪いと決めつける方でも全力で否定しないと、結果的に妥協的なやり方や折衷的なやり方などのグレーゾーン的な新技術が編み出されてこないのかも知れず、そういう面で何かしら工夫のしがいがあるというと、結果的に全力で悪いと決めつけてくる圧力を逆利用することになるだろうが、その種の柔軟性とはちょっと違う傾向というと、何かそれもやりようがありそうな感じになるのだが、結果的に何が悪いと言われようと、これ見よがしに嘘をついているのがばればれなのに、ごり押し気味に自身の行為や言動を正当化している者の姿を見て他人がどう思うかということに関して、当の強弁している者がわかっているかとなると、わかっているような気もするし、わかっていないような気もするのだが、産業技術なら良し悪しの他に利益を出せるかが重要となってくるだろうが、それどころか利益を出せないと、それが良いと評価されてもそれだけでは持続できないわけだが、良いと評価されているのに利益を出せない分野を政府が積極的に支援するには、そういうことを正当化するための理屈や理念の類いが必要となってくるだろうし、そういう理屈や理念に説得力が伴ってくれば、政府のやっていることに世論の支持も伴ってくるのだろうが、それが良いことなのか悪いことなのかを判断するような成り行きになるかならないかも、世の中の状況や情勢次第な面もありそうだが、そういう状況や情勢を作り上げるのがメディアだと言うつもりもないにしても、メディアが影響力を行使して政府のやっていることに対してネガティブな印象を人々の意識に植え付けることに成功すれば、そういう面での世論誘導にも成功したことになるだろうし、逆に悪い印象ではなく良い印象をもたらすことに成功すれば、メディアが政府を助けたことにもなるだろうが、メディアと政府の関係が対等な関係ではないのはわかりきったことだが、対立的な関係とか協力的な関係とか一概には言えないとしたら何なのかというと、相互補完的な関係である面も意識しておかないと、何か勘違いしてしまいそうで、それが勘違いだとはっきり断言できないようなことかも知れないが、ある意味で勘違いしていた方が、メディアと政府が対立していたり協力していたりするような幻想を抱けるのかも知れないし、メディアと政府との戦いや談合のやり取りなどを妄想しやすくなるわけだろうが、実態としてはそうではないような気もするわけで、政府といっても議会もあるし各省庁もあるから一枚岩ではなく、メディアといってもその中でも対立し合っていたり談合や連携などの関係もそれぞれにあるだろうから、単純に割り切れるようなものでもないのだろうが、そういうのを言語的に単純化してしまった方がわかりやすくなると共に勘違いの度も深まるのかも知れず、しかもそれでも構わない言説のレベルもあって、SNSなどで短く断言調で述べるならそうならざるを得ないから、かえって勘違いしていた方が効果的なことを言い放てるようなことにもなってきて、そういう成り行きを利用してそれなりにメディア的な影響力を保持しているようなインフルエンサーの類いも結構多いだろうから、そういう人の言っていることを真に受ければ、勘違いに感染されると共に、そんな感染者が多ければ多いほどその種のインフルエンサーの影響力も増してくるのだろうが、果たしてそれが本当に勘違いなのかというと、それを真に受ける人が多ければ多いほど勘違いが勘違いではなくなって、何やらある種の真理や真実として世の中に流通することになるとしたら、それをどう捉えたらいいのかというと、フーコーが『狂気の歴史』の中で述べているように、他の多くの人々とは違った非常識な行動や言動が目立ってしまう人を権威的な立場の医者や学者などが狂人だと見なせば、実際に狂人になってしまって狂人扱いされてしまうようなことなのかも知れないし、しかも医学的に狂気に囚われてしまった人が頭の病気だと見なされて治療の対象にもなってしまうわけだから、そんな成り行きをどう見ても狂気が病気であることが真実だと思ってしまうし、狂人を病院に閉じ込めて社会から隔離することにも正当性がありそうに思われてしまうわけで、どう考えてもそれが勘違いだなんて思えないわけだが、果たしてそれと同じではないにしても、似たような成り行きがメディアを通じて起こっているのかというと、何かそれに当てはまる事例を持ち出す気にはなれないというか、果たして核廃棄物をほとんど出さないという触れ込みの小型原発が実用化されて、従来からある原発危ないというイメージが払拭されるとしたら、それが多くの人々が信じられる真実や真理として世の中に定着することになるかも知れないが、そんな未来を切り開くのが現状でその種の小型原発を開発している企業だと言えるか言えないかも、そこにその種の話題を好意的に伝えているメディアが絡んでくることになるとしても、実際にその種の小型原発を開発している企業が利益を出して、それを利用して発電する企業も利益を上げてから、それが真実や真理として世の中に定着することになるのだろうから、まだ現状ではその段階には達していないわけで、実際に利益が出ていない段階で政府がその種の企業を支援して利益を出すまでに育てるような成り行きになってしまえば、そういうことに関して原発に対して否定的なイメージを抱いている人々が政府のやり方に反対することにはなるだろうから、そこにもメディアが介入してきて、政府を擁護することにも批判することにも、どちらにもそれに応じた種類のメディアが絡んでくることになってくるかも知れないし、そうなったところで民衆の側がどう判断するのかといっても、そうなった際にそれが明らかになるかも知れないが、そこで信じられてしまう真実や真理の類いをどう解釈したらいいのかに関しては、多くの人々が迷うことになるのではないか。
12月20日「機械的な学習」
物事を論理的に考えようとする際に、何か疑念を覚えて、それがそうではないような気がするとしても、何がそうではないのかがよくわからず、そういう論理ではないと考えるならどういう論理なのかと考えても、そもそも論理ではなく勘なのかも知れないし、うまく論理的に説明できないなら勘でしかないだろうが、それでは何を考えているとも思えないから、どうしても無理にでも論理的に考えようとしてしまうのだが、それがどんな論理なのかといっても、何か合理的にそう考えるとうまく説明できるようなことなのだが、そう思われることを信じようとしてしまい、それの何が合理的なのかと問うなら、これといって納得できるようなことでもないとしたら、それでは論理にもなっていないような気がするから、ただ単に勘に頼って考えているに過ぎないとしたら、合理的でも論理的でもなさそうに思われてしまうわけだが、そうなると経験的に確からしいことを暫定的に確からしいと思うしかなく、できれば確からしいのではなく正しいことを考えたいのだが、その正しさの根拠を示せないことには正しいとは思われないから、正しいことを考えるのは無理なのかも知れないが、経験的に確からしいことが正しいとは限らないとしても、確からしいわけで、その確からしさというのが厄介で、論理的に正しいことと経験的に確からしいことのどちらを選ぶかと問われても、その場の成り行きにもよるだろうが、選ぶ以前にどちらもそれだけでは不十分で、そんな選択を強いられた時点でヤバいのかも知れず、何かを選ぶという行為自体がそんなことではなく、大抵は何だかわからないが選ばされてしまうわけで、こちらが主導権を握って主体的に選ぶような成り行きにはなっていないから悩むわけで、もうその時点で合理的な選択とか論理的な選択とかではなくなっていて、最悪どちらを選んでも間違っているような選択を強いられているような気がするわけで、こちらが圧倒的に不利な状況の中でどちらを選んだところでひどい目に遭うような仕掛けになっているとしたら、じゃあ選ばない方がいいのかというと、選ばざるを得ないような状況に追い込まれているというと、何となく現状でもそうなっているような気がするわけだが、例えば持っていないと困るからスマホを持っていても、ひっきりなしに不快な広告メールが送られてきたり、どうでもいいようなニュースばかりを伝える機能などが増えて行くから嫌になって、なるべくスマホは見ないようにしているのだが、それでも1ヶ月で数千円の利用料がかかってしまうのだから、それが何かのペナルティだと被害妄想のように思ってしまうと、果たしてそれが合理的な認識なのかと考えるわけでもないのだが、馬鹿げたことでしかないから、何を考えているわけでもなく、ただ何となくスマホを持っているのに活用しないようなら、やめてしまえばいいと合理的に考えられるかというと、そうは考えないわけで、数千円程度の利用料なら払えるから、とりあえずは持っておく程度のことであって、持っているだけならなるべく安いスマホで済ませておきたいから、数万円程度の安い中国製のスマホを使っているわけで、たぶんそれが合理的な判断だと思われるわけだが、それ以前にスマホを持っていること自体がうまく論理的に説明できないようなことだとは思えないとしても、論理的な説明だけでは不十分だと感じられて、要するにスマホを持っていること自体が不条理な感じなのだが、しかもそんなことは大して重要だとも思えないから、不条理であっても合理的ではないとしても構わないようなことなのかも知れず、奴らはこちらに権力を行使しようとして絶えず仕掛けてくるわけで、こちらは必要な機能だけあればそれで構わないのに、不快な広告だとかどうでもいいニュースとかを見せようとしてきて、嫌なら料金を余分に払えと脅してくるわけだから、タチの悪い強盗のようなものだと思ってしまうと、それほど大げさなことでもなく、耐えられる程度で済むことでしかないわけだが、そういう不快な連中が主導権を握っている社会なのだから、その延長上でさらに不快な連中がその種のメディアから湧いてくるとしても、それほどおかしなことでもないわけで、何かが狂っていることは確かなのだが、そんなことはどうでもいいこととして片づけておかないと、そこから先へは進めないと思ってみても、いったいどちらへ進めばいいのかわからないから、ただ闇雲に暗中模索を繰り返すしかないというと嘘になってしまうが、そうやって絶えず不快さから逃れるための対処法を模索しているのかも知れず、色々なことを経験しながらその経験値を高めていると考えると、それが機械的な学習のような感じになっていて、だからそれをやめてしまえばいいとはならないわけで、グーグルだのヤフーだのエックスだのと広告攻撃やニュース攻撃を仕掛けてくる奴らがどういう傾向の不快なものを見せたがるのかと無意識のうちに考えていて、こちらが前もって予測していたり予想の範囲内の内容であるなら、なるほどそういう理由でそういうものを見せたがるのかとわかったつもりになりたくて、そういうものを見る度に絶えずそんな思考を働かせるような成り行きになってしまい、何やらそれがAIの機械学習のような感じになってしまっているような気がしてくるのだが、そう考えると笑ってしまって、奴らに向かってお前ら馬鹿なんじゃないのとからかいたくなるこちらの方が馬鹿なんじゃないのかと反省してみたり、果たしてそれが戦略的な態度なのかというとそうでもなく、別に戦略的な態度をとることが良いとも思えないし、否応なくそんな成り行きにとらわれてしまうのだから、受け身の姿勢に過ぎないわけだが、こちらから何か仕掛ける余地などないわけではないが、全てを断捨離して仏門に入るとか、そうなるとあちら側の世界の思うつぼだろうから、生きている間はこちら側で無駄な抵抗を繰り返さないとならないとは思うわけでもないのだが、それも思うか思わないかではなく、否応なくそうなってしまうのだから、そこでもそんな成り行きにとらわれているわけで、どう考えてみてもそう考えるように強いられる前に考えてしまい、その考えというのがAI学習のような考えなのだから、すでに思考がAI時代に対応しようとしていて、メディアが仕掛けてくる不快な広告攻撃やニュース攻撃によって訓練されている最中なのかも知れず、もはや自分がテスラのオプティマスのような人型ロボットに改造されている最中なのかも知れない。
12月19日「釈然としない思い」
それとこれとがどう違うのかよくわからないわけでもないのに、また見え見えの演技だと疑念を抱かれるのに、印象としてはそれで構わないようなことをやっているのが、山本太郎の能登の被災者への肩入れだと評価したいわけだが、実質的には何か違うわけで、理由が今ひとつわからないのだが、なぜかそれがわかった気になってしまう思いが何なのかというと、ただの勘違いに違いないと思ってみても、何か釈然としないような、そう思ってしまう自分に嘘をついているのではないかと自らの思いにも疑念を覚えるわけだが、精一杯のことをやっているのだからそれを賞賛するしかないにしても、何か引っかかるものを感じるのだから、お前には騙されないぞと身構えても構わないのだが、それはそういうことでしかないのであって、それ以上は何を考えてみても無駄な気がするから、そこから先のことは考えずにいるわけだが、先のことを考えてしまうと、後が怖いと思っておけばいいわけで、後が怖いことをわかっているなら、山本太郎に関しては今のままで構わないような気がするわけで、これ以上は彼らの勢力を拡大させないことが肝要なのだろうが、もちろん肝要ではない成り行きになってしまった方がおもしろいような気もするわけだから、どうなろうと知ったことではないとは思わない範囲外でどうにかなってしまうことを期待しているわけで、期待しているというよりは彼らの熱意に敬意を払って今まで通りに応援していればいいのだが、それはそれとして立憲民主党の方でも能登の復興予算を一千億円確保したみたいだから、それについても例によっていちゃもんをつけてくる悪意のこもった輩が大量に湧いて出るにしても、好意的に評価しておけばいいはずだが、そういうこととは無関係というとまた嘘をついていることになってしまうが、それと自覚することなく嘘をついている感じで何か適当なことを述べるとすれば、万事がうまく行っているはずがないのに、それどころか深刻な事態に陥っているのがわかっていながら、そこから目を背けて何を考えているのか自分でもよくわからないが、それを深刻だとも思わないというか感じないというか、野次馬根性でおもしろがっているとも思わないのだが、他人が世界の方々で大変な思いをしているのに、それをおもしろがるなんて不謹慎極まりないのだが、シリアのアサド政権が一般人を何十万人も虐殺していたのが明らかになっても、北朝鮮の兵士がウクライナで大勢死傷したことが明らかになっても、能登半島の被災地で今なお大変な境遇にある人たちが大勢いるとしても、なぜか自分が関心を持っているのがそういうことではないとしたら何なのかというと、例えば日本の経産省の官僚たちがぱっと見勝ち目がなさそうな民間の半導体企業に数兆円もの補助金を交付しようとしたり、そうしないとその半導体企業の工場が建たないのだから、経産省の意向としては合理的な判断なのだろうが、そうやって政府主導で国策事業を推進してもうまく行くのかどうか、現状では絶対に勝てないような感じになっているわけだから、その数兆円が無駄になってしまう可能性が高そうに思われるとしても、経産省の論理ではそういうことをやらざるを得ないような成り行きになってしまうわけで、それに対して野党的なきれいごとの論理からすれば、教育の無償化にその数兆円を使えば、多くの国民から賞賛されるはずだが、官僚の論理ではそうはならないところが微妙というか、それとこれとは分野が違うから普通は比較できないわけだが、結果的にそんなきれいごとの論理など通用しなくなってしまうのだろうが、それに関してというわけでもないのだが、変なイデオロギーに染まらないで、れいわの国会議員が素人の一般人の代表として国会で慣習としてまかり通っているおかしなしきたりの類いとは関係なく素直に場違いなことを発言してくれれば、好感を得られるような感じになりそうだから、それでいいんじゃないかと思ってしまうわけで、直接にはそれがどうしたわけでもないだろうが、そういうところでうまく行っているわけでもないのに、なぜかうまく行っていない面とは別のところから何かが変わるきっかけがもたらされていると勘違いしても構わないような気がするものの、これ見よがしにカッコいいことを言い放ちたい国民民主とかの代表やその支持者たちの言動も見え透いたごまかしのように胡散臭く感じられてしまうのも、騙された奴らが馬鹿みたいに見えてしまうから、やめておいた方が良さそうに感じられてしまうのだが、そういうことじゃなくて、そういう演技とは違うところで実質的に事の成り行きが進展してほしいのだが、何か見せかけとは違うところで実質的に何かがどうにかなってほしいと思うのも、自分の勝手な願望であって、それも木を見て森を見ない程度の軽い勘違いに他ならないのかも知れないし、実質的にも普通に物事が進展しているはずなのだろうが、それがメディアを通して見ると、見せかけの演技の類いばかりが目立ってしまって、何をやっているのかさっぱりわからないわけではないのだが、何となくそれが焦燥感をもたらしているようにも感じられて、こんなんじゃ駄目なんじゃないかと勘違いさせるようなことが行われているように見えてしまうから、そんなのは錯覚だと思っておいても構わないのだろうが、人を錯覚させるようなことを仕掛けているのも明らかなのだろうから、そんなのをフェイク・メディアと呼べば良いとは思うものの、アメリカでも大手メディアがフェイクまがいの報道に手を染めている実情があるわけだから、メディア全般が信用できないというか、信用する奴がメディアに騙されると単純に考えられるわけではなく、メディアに騙される人にとって都合の良い内容を報道するようにメディア自体が仕向けられているような感じだから、騙される人々と騙すメディアが共犯関係にあるというと、そういうことをはっきりと理解しているわけでもないのだろうが、理解していなくても何かあうんの呼吸でそんなことがまかり通るような世の中を共同で作り上げているというと、もちろん本当に意思疎通ができているのかといっても、双方共にそんな自覚など持ち合わせてはいないはずだが、善意でそんなことをやっている気がしていることは確かなのかもしれないし、本気でこうでなければならないなんて思っていなくても、なし崩し的には双方共にこうでありたいと思うような態度や姿勢に収斂して行ってしまうわけだから、それ自体が予定調和な成り行きだと見なしても、それほど間違っているようには思えないわけで、だからそれをフェイクなバーチャル・リアリティだと見なしても何かそんな気がしないでもないわけだ。
12月18日「政府の効率化」
現状の世界情勢の中で注目すべき目立った傾向があるかというと、それが世界情勢と言えるような傾向なのかどうかはわからないが、そうなると文章的におかしいような気もしてくるとしても、日本で言われているような積極財政と緊縮財政の対立的な構図に当てはまるかどうかもよくわからないのだが、少なくともアルゼンチンの大統領が推し進めているのが緊縮財政政策であるのは、誰もがそう思うしかないはずだが、その政策に共感を示しているイーロン・マスクも、これから政府効率化省の責任者として行政のスリム化を推し進めて行くつもりなのだろうから、果たしてそれがうまく行くかどうかは現時点では何とも言えないが、それがトランプが行おうとしている減税した分だけ政府の財政削減に結びつけば、収支の辻褄が合いそうだが、普通に考えて減税した分だけ予算を減らせばいいと考えても良いか悪いかは、政府の予算を当てにして商売している民間の業者にとっては死活問題となるかどうかも、政府への依存度にもよるだろうし、商売でなくても政府の関連事業や行政システムの面で必要な予算を削られてしまうとまずい部分が出てくるかも知れないが、無駄な予算を減らすという面では、何が無駄で何が無駄ではないかを巡って適切な判断が必要となってくるだろうし、イーロン・マスクやトランプがこれは無駄だと言ってくる内容にどれほどの説得力が伴ってくるかも、これから議論を呼ぶかも知れないが、そういうわけでこれからトランプ政権がやろうとすることに緊縮財政政策的な面があることは、どう見てもそうだと認めざるを得ないだろうし、もちろんそうであっても全てが緊縮というわけではなく、中でもエネルギー分野などには積極的に予算を振り向けるかも知れないし、そういう意味では政治宣伝として積極財政と緊縮財政を対立的に煽り立てる日本の積極財政派の主張も、普通にまやかしだと見なしたくなってしまうとしても、何に予算を振り向けるかで良し悪しを判断するような冷静な対応をされると、積極財政派の化けの皮が剥がれるかというと、彼らとしてもそういう成り行きには議論を持って行きたくはないだろうから、揚げ足取りのようにして攻撃対象を緊縮財政派だと決めつけるやり口をどこまで信用できるかも、要するにそれが左翼攻撃に結びつけば良いと見なしても構わないのかどうかも、微妙に矛盾をきたすというか、それも普通に考えて左翼と言えば無駄に政府を大きくしてしまう社会主義だという従来からある先入観があるのに、それをねじ曲げて、一方では新自由主義と緊縮財政を結びつけて批判しているのに、もう一方で社会主義的な大きな政府を批判する上で、あれが積極財政ではないのかというと、あれは違うと強弁しなければならないのだから、後は苦し紛れに財務省陰謀論を持ち出してしまい、何か論理的に破綻しているんじゃないかと考えても構わないかどうかも、今ひとつよくわからないところだが、少なくともヒトラーの国民社会主義やナポレオン三世のサン=シモン主義と似ていなくもないし、左派への支持層の切り崩しとして積極財政と大きな政府の実現を掲げているなら、それを偽装左翼と言ってしまうと反発されてしまうだろうが、攻撃対象を左翼と決めつけてさらに緊縮財政派と決めつけて左派を攻撃しつつも、ちゃっかり左翼的なポーズをとって、左派支持層から支持を取り付けたい意図が見え見えだと言ってしまっても反発されてしまうから、これ以上彼らを悪く言うつもりもないのだが、これから本当にイーロン・マスクが政府の中で規制緩和などの新自由主義的な政策と行政の効率化などの緊縮財政的な政策を推し進めてしまうと、そういうことを大々的にやってしまうと、途中でトランプがヤバいと感じて待ったをかけることになるかどうかもよくわからないし、中国の古代王朝などの例を持ち出せば、王朝を打ち立てた功労者というのは、その王朝の初期段階で粛清されるのが常だから、イーロン・マスクもトランプに勝手な因縁をつけられて切られてしまう可能性も少なくはないかも知れないし、本当にこれからどうなるかは未知数だが、もし本当にイーロン・マスクがトランプから信頼されていて、規制緩和と行政の効率化を大胆にやってしまったら、それをそのまま日本の政治情勢に当てはめることなどできはしないとしても、じゃあ日本の積極財政派の主張とは何なのかと改めて問う人も出てこないかも知れないが、何となくお前らバカじゃねーのかと言い放ってしまいたくなるような気分になるかも知れず、そう言い放ってしまいたくなる理由や根拠を今のところはうまく説明できないのだが、イーロン・マスクは改革の期間をはっきりと一年半と区切っているのだから、たぶんあと一年半が経ってみれば、その理由や根拠が明らかになるかも知れないし、改革が失敗に終われば積極財政派もひと安心するかも知れないが、とりあえずMMTなどの民主党の左派は少なくとも四年間はなりをひそめるだろうから、日本の積極財政派の理論的なよりどころがどうなってしまうのかもよくわからないが、そういう意味でも来年から始まるトランプ政権でどんなことが行われていくのかが興味深いというと、単なる野次馬根性の域を出ないところだが、もちろん恒常的に新自由主義+緊縮財政が正しいということではないのは理解しているし、時と場合に応じてそういうことをやらざるを得ないわけで、またそういうことをやり過ぎてしまうと何かと社会の中で弊害が生じてくるから、それも時と場合に応じて社会主義的な政策も必要となってくるわけだから、積極財政が良くて緊縮財政が悪いとか決めつけて攻撃するような輩は基本的にそういうことがわかっていないというと、それも承知で馬鹿な奴らを味方につけるためにわざとそういうことを仕掛けてくるわけだからタチが悪いというか、戦略的に振る舞おうとしているのだろうが、それをひどい奴らだと決めつけても構わないのかというと、それも時と場合に応じてそういう奴らが出現してくるのだろうから、ちょうど今がそういう時期なんじゃないかと思うしかないわけだが、だからどうだというわけでもないが、そんな奴らから攻撃されるのは承知で、立民あたりの政治家が政府の予算に関してこれが必要であれが不要だと国会などで指摘して行くしかないのかも知れず、そういう指摘を積み重ねて行けば何か国会の審議が正常化しているような印象を受けるだろうから、そういうことを粘り強く淡々とやって行くぐらいしか今はやりようがないのかも知れないし、それに対して国民民主などがトリッキーでこれ見よがしなことを言ってくるかも知れないが、それをどう受け流すかといっても、何ともやりようがないような気はするが、どうしてもそれが重要だとも深刻だとも思えないわけだ。
12月17日「予言者の言い訳」
今後何かが起こる予感がするとすれば、バブル崩壊が起こると反射的に思ってしまうが、それに関して素直に状況証拠から考えるなら、米国株のバブル崩壊が間近に迫っているらしいということになるだろうが、それがいつ起こるかは誰にもわからないどころか、実際に起こってみれば起こることを予言した者も、起こる時期を当てたと主張する者も現れるから、そういうことだと思っておけばいいが、たぶん株価の暴落に巻き込まれてしまう人も大勢現れるから、そんな逃げ遅れた人々の中に自分も含まれてしまうかも知れないし、今もそんな予感がしているのかも知れず、しかも暴落から逃げなくても構わないような気もするわけだから、それがどういうことなのかよくわからず困惑しているのだが、もうすでに逃げられないようにロックオンされていて、無理に逃げようとしてしまうと取れそうな利益を取り損なってしまうから、結果的に暴落に巻き込まれた方が相対的に損失が少なくて済むようなことだとしたら、そんなのは成り行きを都合の良いように解釈しているに過ぎないことかも知れないが、その時が来てみたら何かその直前で警戒警報の類いが頭の中で鳴り響いて、それに気づくようなパターンも予想していて、それも勝手な希望的観測に過ぎないことだが、何となく楽観視しているというと嘘になってしまうが、何かそれが馬鹿げたことのように感じられるわけで、しかもその延長上で日本でも馬鹿げた騒ぎが起こっている最中のようにも思われて、いつものように懲りない面々が騒ぎ立てて煽り立てているのもワンパターンのような気もして、それが皮相上滑りな軽薄この上ない馬鹿騒ぎには違いないのだろうが、なぜかそんな騒ぎを冷ややかに冷静に眺めていられるかというと、いられる人が賢くて、眺めていられずに一緒になって馬鹿騒ぎに加わってしまう人が愚かだと言えるかというと、そんな感じもしなくもないが、どうもそれを賢いか愚かかではっきりと区別してはならないような気もしてしまうわけだが、なぜそう思うかというと、要するに短期的には馬鹿騒ぎを煽っている指導者のような煽動者の類いが賢く見えてしまうわけで、そういう人が賢いと思われる一方で、それを眺めているだけで何もしようとしない人が愚かで鈍感なようにも見えてしまい、そういう人が愚鈍だと思われてしまうかというと、そう思われても構わないのだが、それも何かそうじゃないと感じられるなら、そういうことについてもどういうことなのかよくわからずに困惑してしまうのだが、たぶん短期的に見ればそうなのだが、長期的に長い目で見ると世の中の様相が違って見えてくる可能性もあり、将来において忘れ去られてしまう人たちが我が世の春を謳歌するかのように調子に乗って騒いでいる一方で、ああこいつらみんな馬鹿なんだなと思って騒ぎに加わらない者が真の賢者だと言うつもりもないが、それに関して興味深いエピソードを挙げるなら、ロシアの文豪のツルゲーネフが当時ナポレオン三世統治下のパリへと旅行に来ていて、彼を出迎えたフランス側の知識人たちが揃いも揃って小物ばかりだと手紙の中で嘆いていたらしいが、確かにその当時の大物と見られていたビクトル・ユゴーは後にナポレオン三世となるルイ・ボナパルトによるクーデターに抗議して亡命生活を送っていて、残っていたのはナポレオン三世に媚びへつらう体制迎合的な御用文化人しかいなかったわけだから、そう見えても仕方がなかったのだろうが、今の現状がそんな単純な成り行きにはなっていないことは百も承知だとは誰もが思うところかも知れないが、大物と見られていたビクトル・ユゴーさえも十数年も亡命生活を送っていて馬鹿なんじゃないかと当時の一般市民には思われていたんじゃないかと推測したくなってしまって、大物のビクトル・ユゴーの方が愚かで鈍感である一方で、後世には忘れ去られてしまう小物の御用文化人たちの方が賢く立ち回っていたことは確かなのかも知れず、そういうことなら今の現状の中でも賢く立ち回っている人たちが、後世においては小物扱いされて忘れ去られてしまうとしても、賢いことは確かであり、賢いことは良いことだと言えるかどうかも一概には言えないにしても、現状の成り行きに合わせるなら否応なくそうなってしまうのかも知れず、もちろんユゴーの方はその後大どんでん返しが起こって、ナポレオン三世が普仏戦争に敗れて失脚した後ようやく亡命生活を終えて、帰国してみれば一般市民から大歓迎されて一躍英雄扱いされてしまったかどうかもよく知らないが、少なくとも死後国葬が行われたのだから、それなりにフランスを代表する知識人として尊敬されたことは確かだろうし、韓国の大統領はクーデターを起こしたが失敗したようだが、フランスの大統領だったルイ・ボナパルトはクーデターを起こしてナポレオン三世となって、日本の安倍晋三はクーデターを起こす前に暗殺されて、そのエピゴーネンたちが騒ぎまくっている現状があるらしいのだが、何だかその騒ぎも一過性に終わるような気がするわけだから、どうでもいいようなことなのかも知れず、後は騒ぎが沈静化するのを待てばいいような気もするが、そうなるに至るまでがまだまだ面倒でややこしい紆余曲折をうんざりするほど経なければならないような気もしているから、できればそんな馬鹿騒ぎとは無関係に生きて行きたいのだが、そうも言っていられない事態に巻き込まれてしまうかどうかも判断がつかないし、すでに巻き込まれているかも知れないし、それに気づかないわけではなく、本当は気づいているのにあえて無視するわけでもなく、あちらからは無視もされていないようなどうということはない存在でしかないのだろうが、とりあえずはメディアを通して騒ぎが伝わってくるから、こうして言及しているのであり、しかも逃げ腰で言及しているものだから、実質的には何を述べているのでもないようなことなのかも知れないが、何となくそれで構わないような感じで何か適当でいい加減なことを述べているような気もするが、果たして今の日本にビクトル・ユゴーのように一般市民から馬鹿なんじゃないかと思われている愚鈍な知識人や文化人の類いがいるかというと、大抵の人は賢く立ち回ろうとして四苦八苦していることになりそうだが、これまでの歴史的な経緯からすれば、賢く立ち回ってしまうと、後の時代では小物と見られて忘れ去られてしまうようなことになってしまう可能性があるから、ではビクトル・ユゴーのように大物に見られるにはどうすればいいのかという問いが成り立つはずもなく、誰もが否応なくそうなってしまうようにして、世の中の状況や情勢に迎合しながら、無自覚に賢く立ち回ろうとしてしまうのかも知れず、だからそんなことまで気にする必要はないと思っておけばいいのかも知れない。
12月16日「通用しないやり方」
人が視野が狭くて射程が短い部分的な思考に凝り固まることが、そうなってしまうことの何が悪いわけでもないとすれば、なぜそうなってしまうのかについて考えるよりも、どうやってどのような経緯でそうなってしまうのかについて考えてみなければならないとも思えないが、ある程度は計画的に物事を進めているとしても、それがある程度であって、その場の状況や情勢に合わせて柔軟に計画を変更できないとまずいというか、そうやらないとうまく行かないのではなく、結果的にうまく行けば、途中で行なった柔軟な計画変更が功を奏したことになるのだろうから、そんなふうに思われるとしても、うまく行った結果を都合良く解釈するだけでなく、うまく行かなかった結果さえも都合良く解釈してうまく行ったように見せかけたいのはもちろんのこと、うまく行かなかったことが周知の事実であるのにも関わらず、なおもうまく行ったと強弁したいし、場合によっては権力や権限を行使してまで、うまく行かなかったことを知らせようとする者の口を封じようとするわけで、それが計画を取り仕切っている者のやりたいことであるだけでなく、そうしないとその者の立場や地位が危うくなるからやるように仕向けられてしまうとすれば、それがその者が属している組織や官僚機構などの意向だと解釈しておけばいいのかというと、そういうことなのではないかと推測できるにしても、あからさまにそんなことをやれと命令されるわけでもないだろうから、そういう成り行きを結果論的にインパール作戦だと批判されようが、そんなのは無視して同じ過ちをこれでもかとうまく行くまで執拗に繰り返すことしかできないかというと、それが狭い組織や共同体の内部では通用するかも知れないが、外部に競合する別の組織や共同体などがあると、そういうことを繰り返しているうちに外部の組織や共同体との競争に敗れて衰退して行ってしまう可能性がありそうだが、なぜそれが外部では通用しないのかと言えば、うまく行っていないのにうまく行っているかのように見せかけるごまかしやまやかしが見破られて信用されなくなってしまうのかも知れず、それ以前にうまく行っていないのだから外部との競争に敗れてしまうのも当然のことだが、ではそういうやり方の何がまずいのかというと、そんなのは言うまでもないことだと思われるものの、そうならざるを得ない成り行きを食い止めることができるかというと、誰もがそうなることをわかっていながら食い止められない可能性があるわけで、だからそんなことを繰り返しながら様々な組織や共同体の類いが衰退するわけで、それで構わないようなことだとしても、そういう成り行きにとらわれてしまった組織や共同体の内部にいる者たちはたまったものではないだろうが、そうなったからといって、そうなってしまった組織や共同体の指導者の類いが馬鹿だから愚かだからそうなったとも言えないのかも知れず、普通に考えてそういう組織や共同体のトップに立つ人材となると、それなりに有能で優秀だから指導者的な地位や役職を占めるに至ったはずなのだろうが、少なくとも馬鹿や愚か者をトップに据えるなら、その組織や共同体自体の存続が危うくなりそうだが、それもそうとは言い切れない面もあるとしたら何なのかというと、馬鹿でも愚かでも人望があったりカリスマ性があったりすれば組織や共同体のトップに立てるかも知れないし、またわざと馬鹿で愚かで人望もカリスマ性もない者をトップに据えて、それを傀儡として利用するとか、そうなる成り行きに応じて様々なケースがあるだろうから、一概には言えないことかも知れないが、トップがどうであっても誰であっても組織や共同体の傾向には変わらない面があり、それがたとえやっていることがうまく行かなくてもうまく行っているように見せかけたり、うまく行っていないことを批判する者の口を封じたり、批判を無効化するようなことをやって組織としての体裁を保とうとしたりする傾向だと言えるかどうかも、それもたとえそうだとしても、やっていることはそれだけではなく、その組織や共同体の類いが長く存続しているように感じられるなら、それなりにうまく行っている面もあるから存続していると言えそうだが、それも外部条件にもよるところもありそうで、競合相手となる組織や共同体にとってその組織や共同体が存続していた方が都合が良ければ存続するかというと、それも一概には言えないところだが、そうなる場合もあるしならない場合もあるかも知れず、それも結果的に存続しているなら、そんな結果に合わせてもっともらしい原因や理由が導き出されてくるから、そんな原因や理由を信じられるならそういうことだと思っておけばいい程度のことに過ぎないだろうが、その組織や共同体に属している者たちが、やっていることがうまく行っているかどうかなんてあまり気にしなくても済んでしまう場合もありそうで、それどころか誰がやってもうまくいく程度の比較的簡単なことを選んでやっているだけでもそれでも構わないとなれば、そんなことをやるためだけの集まりなら、誰もが気軽に入ってこれるし、例えばそれが週末にキャンプに出かけてバーベキューなどをやるためだけに集まる仲良しサークルの類いなら、大して難しいことはやらないはずだが、その程度のことで何か批判されるような成り行きも生じてこないだろうが、それがたまたま山奥の渓流沿いのキャンプ場でやっていて、運悪く集中豪雨に遭って土石流に巻き込まれて全滅してしまえば、何やら防災意識が足りないとか非難されることになるかも知れないが、そんなことで組織のトップに立つ者が何やらかんやら言われるようなことでもないだろうが、そうなるとそれに関して持ち出す事例が間違っていることになりそうだが、批判したい者たちは毎度のようにインパール作戦がどうたらこうたら言えそうな事例を選んで取り上げたいわけだから、それがマイナンバーカードへの批判に利用されても原発への批判に利用されても、インパール作戦を持ち出せば何か言ったような気になるにしても、それを止めることは今のところは完全にはできていないわけだから、そんな絶えず批判されるような成り行きと今後とも長く付き合って行かなければならないとしたら、たとえうまく行かなくてもやっていることが通用しているとも言えそうだから、そういう紋切り型の批判の対象となるような事例に遭遇したらまたかよと思いながらも、呆れるわけでも飽きてしまうわけでもあきらめてしまうわけでもなく、そういう批判も批判の対象と一体化して行われていることなのだと思っておくぐらいが、それに対する無難な受け止め方なのかも知れない。
12月15日「自由と民主」
何かが起こった結果からその是非や成否や善悪を判断するのは遅すぎることはなく、そうなるのは当然のことなのだが、起こる前からそうなることを予想して動くとか、本当にそんなことができるかというと、実際にそれをやっているつもりになっている人や団体もいくらでもいるかも知れないが、二度三度同じようなことが起こらないと、それに対する対処や対策や対応もこれといって定まってこないだろうし、日本のバブル崩壊後の日銀の対応が後手に回ってしまったから、それを教訓としてリーマンショック後にアメリカのFRBが迅速な対応ができたかというと、それでもうまく行かなかった面もあったから、その十数年後に起こったコロナ禍ではさらに迅速な対応となって、急激なことをやって、その副作用としてインフレが起こって、そこでも対応が遅れたが、なぜかAIバブルによって株価は高いままだが、実体経済はどうなのかというと、日本では景気が悪い悪いと騒ぎ立てる人や政治団体の類いはいくらでもいるが、騒いでいる割には騒ぐだけの元気があるようにも感じられて、騒げば騒ぐほどそれに反比例して、印象は大したことはないような感じにもなってしまうのだが、騒いでいる人や団体が世間からどれほどの支持を得られているかで、景気が悪い程度がわかってしまうわけでもないはずだが、今後世界的に株価が大暴落でもしない限りは、誰も景気の悪さを実感できないかというと、少なくとも今景気が悪い悪いと騒いでいる人たちが景気の悪さを実感していなければ、騒いでいるのが嘘になってしまうだろうが、景気が良くても悪くても世の中には生活が苦しい人がいくらでもいるというのが普通に考えられる状況で、実際に経済成長が著しいインドではひどい生活を強いられている人などいくらでもいそうだし、それは日本や中国の高度経済成長期でもそうだったかも知れないし、産業革命によって一時的に世界の覇者となった大英帝国などでも労働者がひどい環境の中で過酷な労働を強いられて、健康を害して早死にする人が多かったようだが、昔と今とでは状況が違うし、国によっても地域によっても時代によっても違うだろうから、比較して良し悪しを決めるようなことではないにしても、では何なのかというと、民主主義がまかり通っている世の中だから、政府がやっていることが間違っていると感じる人が多いと考えれば、人々の願いを政府が叶えてくれるのが民主主義のあるべき姿だと思い込んでいる人も多いかというと、直接にはそんなふうには思っていなくても、制度的にはそんな傾向へと思い込ませるように仕向けられているような気がするわけだが、それに関して多くの人が見落としがちなのが何かといえば、民主主義であると同時に自由主義でもあるということかも知れず、民衆に向かってお前らは合法的な範囲内で自由にやってくれと誰に言われているわけでも突き放されているとも誰もそんなことは思わないかも知れないし、自由主義というのがそういうことだとも思っていないのかも知れないが、民主主義と自由主義が相反する概念だとも思えないというか、ただ単に意味するところが違っていて、ねじれの方向性や傾向があるかのような印象なのだが、民衆が自由にやるということに関して何をやるのかもわかりきったことで、普通に生活するだろうし、経済活動を行うことになりそうだとしても、もちろん社会にも自然にも様々な制約や限界があるから完全に自由には振る舞えないが、それでも自由にやれと言いたいだけなら言えるだろうし、それが無責任な突き放しの言い放ちかというと、たぶんそういうことなのかも知れないが、その一方で民主が何を意味しているのかと言えば、民衆が主体となって政治を動かせと言うことだと解釈できるかというと、そんな感じがしないでもないから、政府に対してああしろこうしろ文句を言っても構わないような気もするし、なぜそんなに文句を言ってくるのかと言えば、民衆の代理人を気取った政治家たちの言い分としては、民衆が生活に困っているから政府が何とかしろということだと解釈しても構わないかというと、何となくそんな感じもしなくはないが、そうなると自由主義的な観点からしたら、お前ら自由にやれと言われて自由にやろうとしたら、その結果として生活に困ってしまったわけだから、そんなのはお前らが勝手にそうなったのだから自業自得だと突き放すわけには行かないのが、政府が生活に困った民衆を何とかしろと文句を言ってくる政治家の立場だと決めつけてもいいのかどうかも、実態としてはちょっと違うような気がするとしても、理屈としてはそれでも構わないような気がするわけだが、そんな理屈を通したくないのが政府側についている政治家や官僚たちだとしても、一度自由と民主にかぶれてしまった民衆を押さえつけておくことができるかというと、シリア内戦の結果を見ても韓国で戒厳令が頓挫した事件を見ても、そんなのはたまたまそうなったところだけサンプリングしてきただけだと言われても、たとえうまく行かなくても日本のように政府の官僚機構による勝利に終わっているとしても、何かしら実際に民衆が生活に困っている実態がある限りで文句を言ってくる者が現れるわけだが、過去の全体主義に支配された時期には文句を言うにも命がけだったかも知れないが、現状の日本では誰もが気軽に文句を言える環境なのだから、文句を言いたい人は言えばいいと突き放されても、言えばいいんじゃないかとしか言えないし、そうやって文句を言ってくる人が大勢いるから、政治家の活動が成り立っていると思っておけばいいことでしかないだろうが、文句を言うだけが活動の全てではないことも当たり前の事実としてあるわけだから、それ以外のところでも何かしらやらなければならないことが出てくるわけだが、それが交通整理的なことなのかも知れないし、各方面の利害調整的なことかも知れないが、それらを全体的に見ると何か活動の辻褄が合わなくなるのかも知れず、しかも辻褄を合わせようとするとたちまちうまく行かなくなってしまい、辻褄を合わせようとしなくてもうまく行っていない面もありそうだが、文句を言うなら絶えず部分的なところから他の利害を無視して言いがちになってしまうから、利害を無視された他の方面から反論や反撃を食らってしまい、主張の中で辻褄が合っていないことを指摘されて、主張内容に説得力がなくなってしまうかも知れないが、それで構わないというと単なる開き直りになってしまうとしても、成り行きとしてはそれで構わないようなことになっていて、そうなると文句を言い出したら言いっぱなしになってしまうわけだが、それでも文句を言わなければならないのが、民主主義の民主主義たる所以なのかも知れないし、それがうまく行かないことの全てではないにしても、その大半を占めているような気がするわけだ。
12月14日「激動の時代」
産業の技術革新に関しては今まさに激動の時代が始まろうとしていると言っていいのかどうか、そんなのはあと数年が経ってみないことにはわかりようがないかも知れないが、数年経っても何の実感も湧いてこないかも知れないし、産業だけではなく社会全体が激動の時代が始まっている最中だと思っても、自分の感覚では二十世紀末もそうだったような感じがしなくもないが、それも二つの世界大戦と世界大恐慌を経験した時代に生きていた人からすれば、どうということはない程度なのかも知れないが、自分の実感など信頼できないものの、自分を信じるということが、信じた結果を都合の良いように解釈しているからだとしても、何か信じざるを得ないような気がするわけだから、今後自分の勘を信じたばかりにひどい目に遭ったとしても自業自得なのだから、そんなのは仕方のないことであるにしても、今さらそれはないだろうとがっかりするようなことを体験してみれば、自分の見込みや思い込みや皮算用などが甘かったというか的外れだったというか勘違いだったというか、そんなに卑下することもないだろうが、何となく反省したくなったり教訓を導き出そうとしてあれやこれやと思案してみたところで、どうもそうではないような気がしてくるのだから、うまく行かない理由や原因を他人に転嫁したくなるとしても、そんなことでもないとしたら何なのかというと、偶然の巡り合わせでそうなったと理解したくなってしまうなら、そんなのも無責任極まりない自己正当化に起因したご都合主義的な思い込みには違いないが、そこに違法行為などが絡んでこない限りは責任逃れしても許されるわけでもないのだが、何となく偶然にそうなったのなら誰の責任でもないような気がしてしまって、もちろんそれで済むはずもない場合もいくらでもありそうだが、そこに関わってきた人々の自由が保たれたような気がするわけで、果たしてそれが松下幸之助が設立した松下政経塾や吉田松陰が開いた松下村塾で教えられていた内容に合致するかしないかなんてどうでもいいことかも知れないが、そこに「松」という漢字が含まれていることに注目してみれば、たぶん偶然にそうなったわけではなく、時代が新しい方が古い方を真似てそう名付けたように感じられる限りで、そこで教えられていた内容も新しい方が古い方に倣っていたような感じがするから、なるほど両者の名前に「松」が含まれていたのは偶然だとしても、さらには「松下村塾」の「松下」がそのまま人名に当てはまるのも偶然の巡り合わせだとしても、果たしてそこで教えられていた内容まで似通ってしまうかというと、新しい方が古い方を似せていると推測できるのだから、たぶんそうなのではないかと想像してしまうわけで、果たしてそれを二番煎じだと貶すことができるかどうかも、今は判断や評価を保留しておきたいところだが、何やら激動の時代に立ち向かう人材を育て上げるとか、そんな目的まで想像してしまうのだから、何だか笑ってしまうのは自分だけではないと思いたいのだが、それに関連しているわけでもないのだが、昔は死者が出て指導者が逮捕されて有罪が確定した戸塚ヨットスクールとか、富士山辺りで毎朝大声を上げさせて一騎当千の男にするための塾とかが有名だったが、激動の時代に相応しい人材とはどんな人材なのかと想像するだけ無駄なような気もするし、結局それに相応しくも似つかわしくもない人材が出てきて時代の寵児となれば、何となくそんなフィクションがありふれているわけでもないだろうが、想像するならそういう感じになってきそうで、そんな人材が誰の想像も超えたことを成し遂げてしまうから伝説となって後世に語り継がれることになると、そんなフィクションもありふれているかも知れないし、そういうことなら神話的な存在であるメソポタミアのギルガメシュ王だとか、歴史的な存在であればマケドニアのアレキサンダー大王とか、日本史界隈では織田信長などが有名どころではあるにしても、そういうのは天然の素材であって、それに対して人工的に作り上げるのは集団で構成される組織とか組織を動かすシステムとか仕組みになってくるだろうが、そうなるとたぶん人材を育てて輩出する組織が学校や塾という組織でありシステムであり仕組みだと考えておけば良さそうだが、そういう機関が制度的に確立されてきた経緯として、そういう人材の受け皿となる組織も生じてきたからだが、それが現状でも存在する各種団体なのだろうが、それらの中でも政府や企業などに必要とされる人材を育てるための機関が学校や塾だと考えると、何かそれではちょっと違うような気がすれば、学校や塾などで教えるのはそれだけではなく、もっと範囲の広いカテゴリーで、人間社会で生きて行くためのノウハウを教えるのが学校や塾だと考えればしっくりくるかというと、自分が経験してきたことからすれば、そうでもないような気もするわけで、何か建前上はそれでも構わないものの、実質的には学校や塾がすでに人間社会であって、その中でいかに生き抜くかがその中に入った者に課された課題となっているような感じだったのであり、学校や塾の中に入っても誰も助けてくれないわけで、そこで繰り広げられる生存競争に勝ち抜くというか、負けても構わないし、どちらかと言えば自分はそういう環境に馴染めず、負け続けてきたような実感があるのだが、しかも負け続けた末に今の何でもないような生活があるわけだから、それでも構わないというか、構わないはずがなく、こんな体たらくでは激動の時代に生き残れないのではないかとあきらめてしまうわけでもないのだが、生き残れなくても寿命が尽きれば死んでしまうのだから、そんなことはどうでもいいと思うわけでもないが、何か違っているような気がするのは気のせいには違いないのだとしても、学校にしても塾にしてもそこへとのめり込むような組織でもシステムでも仕組みでもなく、宗教教団ではないのだから身も心も捧げるとかあり得ないし、嫌になったらやめればいいと軽く考えていてもやめられなくなったら泥沼に引きずり込まれるようにしてひどい目に遭いそうだから、深みにハマらない程度の立ち位置を確保しなければならないのだろうが、そんな処世術を身につけるには教育が必要だとか、それも循環論になってしまいそうだが、たぶん身につけるべきは処世術などではなく、そこで生じてくる各々の成り行きに伴って勝手に身についてしまう何かがあれば、それが学校教育の成果だと言っても構わないか否かも、人それぞれで見解が異なってくるかも知れないが、学ぶ機会をもたらすのが学校や塾だけではないということを学校や塾での体験や経験がわからせてくれるなら、それも自己言及的には一つの成果なのではないかと思うか思わないかも、どちらでも構わないようなことかも知れない。
12月13日「ビジネスとイデオロギー」
ビジネスとイデオロギーを別々の概念として区別できるかというと、そんなのはわかりきったことで、ビジネスはビジネスであり、イデオロギーはイデオロギーに過ぎないことだが、それが例えば日本の戦後の高度経済成長期に活躍した企業経営者のうちでも、松下幸之助とか稲盛和夫とかになると、自分たちの成功に勘違いして、ビジネスをイデオロギーへと落とし込もうとして、結果的に宗教じみたことやってみたり政治的な野心に酔ってしまったのかも知れないが、実際にその気になってしまった松下幸之助が設立した松下政経塾というプラトンが開設したアカデミアみたいな学校の出身者が案の定イデオロギーに脳みそを汚染されてしまって、そういう人たちが政財界で活躍するほど日本経済が衰退するような印象を持たれて、日本経済の衰退がそれらの人たちのせいだとは一概には言えないどころか、ただ単に日本でも中国でもインドでも、経済の高度経済成長期が永続するはずがないということだけであり、別にそれ自体はどうということはないのだが、それに対してトランプやイーロン・マスクはビジネスマンであり、ちゃんとビジネスとイデオロギーの区別がついているかというと、普通に考えてイデオロギーをビジネスに利用できるのであれば喜んで利用するだろうから、そこに違いがあるというと何が違うのかと言えば、簡単な例を挙げるなら立憲民主党の原口一博や参政党の神谷宗幣などはイデオロギーに洗脳されているのに対して、トランプやイーロン・マスクはイデオロギーを利用していると言えるかというと、そんな印象を受けるだろうが、厳密に区別できるわけでもないから、はっきりとそうだとは言えない程度のあやふやさはあるにしても、どちらかと言えばそんな印象を受けるのであって、そこに日本とアメリカの違いがあるかのような気がしてしまうわけだが、洗脳されるか利用するかの違いで日本とアメリカの違いを説明するなんて単純化にも程が過ぎるだろうが、そんなことをこれ見よがしに言い放って多くの人々から関心を集めたいような立場でもないから、あまり気が進まない意見となってしまうが、何か笑ってしまうというか、単に日本に続いて中国でも高度経済成長期が過ぎ去って、まだインドではその最中であるかのような状況だから、そんな成り行きに煽られて中身のない虚業的なビジネスや怪しいイデオロギーが生じてくるに過ぎないことなのに、そこからある種のもっともらしい理屈や論理が出てくるようなまやかしを信じる気にはなれないのだが、信じられなくてもそんな理屈や論理に従って活動しているような成り行きにとらわれてしまうと、それに気づいていないだけなのかも知れないが、自分もそれと気づかずにもっともらしくも怪しい理屈や論理に従って思考を働かせているのではないかと思うと、何だか笑ってしまうような情けないような気分になってしまうが、もちろんイデオロギーが駄目でビジネスなら良いとか、そういう単純なことでもなく、その中身が良し悪しの問題となってくるわけだろうが、それも良し悪しの問題でもないところで、例えばビジネス主義とかいうイデオロギーがあるのかないのか、それを功利主義と呼べば良いのか良くないのか、その辺のところも微妙にわからないのだが、そうやってビジネスも主義化してしまうと、そりゃ違うだろうとどこからか呆れた声が聞こえてくるような気配も感じるのだが、そういうところで何でもかんでも主義化してしまうところが、〇〇人の悪い癖だと言い放ちたくなるとすれば、果たしてその〇〇に当てはまるのが、日本なのかどうかもよくわからないところだが、どうもそうなってしまうと現状で問題となっている物事の本質からかけ離れてしまうような気もしてきて、しかもそうやって本質からかけ離れたところで何か言葉遊びの類いに興じていること自体が、その種のイデオロギーを馬鹿にしながらもそれを題材に使って無駄に言説を間延びさせているに過ぎないから、そういうのが悪質なやり方に感じられるならやめた方が良さそうに思われるのだが、手法としてはそれで構わないような気がするとしても、手法のレベルにとどまっているから胡散臭く感じられるのであって、実際にやっていることがそれ自体ではなく、主義化された損得勘定の次元にとどまってくると、それに関しても適当でいい加減なことも述べたくなってしまうなら、どうしてもそれをわかりやすく単純化することしかできなくなって、苦し紛れにそれを帝国と帝国主義の違いから説明したくなってしまうのだが、現状のアメリカで行われていて行われようとしていることが、帝国や帝国主義に関係することでもないとは言えないし、それとは全く異なることだと言うつもりもないが、実際に多数の移民がアメリカを目指して押し寄せてくるわけだから、そんな移民の出身地が直接的にアメリカによる政治的経済的な支配に苦しめられているわけではないし、ただ何だかわからないが貧困に苦しんでいて生活が困難だから移民となって経済的に栄えている国や地域を目指して出て行く場合もあるだろうし、また政治的な迫害を受けていなくても自由を求めてアメリカを目指して出て行く場合もありそうだが、ビジネスの面で成功したいからアメリカを目指すとか、出身国の独裁体制や特定の勢力に経済を牛耳られているのに嫌気が差して出て行くとか、果たしてそういうところから好意的な気分で信じられるようなイデオロギーが生じてくるかというと、どうもそうではないような気がするわけで、イデオロギーを信じるなら出て行かずに自国にとどまって、自国を繁栄させようと考えるわけで、あるいは自国を自国民にとって住みやすく暮らしやすい環境に作り変えようとするなら、そういう活動をするに当たってそういう活動を正当化するようなイデオロギーが自ずから求められてくるような気もするのだが、そうだとすればイデオロギーにこだわらない人々はさっさとひどい状況の祖国を見捨てて出て行ってしまうのに対して、その国に人をつなぎ止めて束縛するような国粋的なイデオロギーが生じてくると、原口一博や神谷宗幣のような人物として構成されてくるような作用も生じてくるかも知れず、そういう成り行きが良いか悪いかではなく、否応なくそうなってしまうのかも知れないし、それと同じような人の出現の形態となるとドイツロマン主義とか、それとはちょっと違うかも知れないがフィヒテとか、ナショナリズムの系統に連なるような人物が社会の中に構成されて行くにつれて、何やらそれふうの社会情勢が生じてくるのだろうが、それも経済情勢の興隆と共に生じてくるわけだから、そうなるための基盤となる経済の高度成長が必要となってくると考えれば、納得するどころかそれでは鶏が先か卵が先かの単なる循環論のような気もしてくるわけだ。
12月12日「わかってしまうこと」
政治や経済や社会に関して何がわかっていないのかわからないのは毎度のことのように感じられるとしても、わからないなりにもメディアを通してそれらに関する情報を見聞すればわかってくるような気がしてくるのも気のせいには違いないのだが、何がわかってくるのかをここで示せなければわかっていることにはならないのかというと、そういうことでもないような気がして、何も示せないわけではないにしても、これといって示さなくてもわかってしまうことがあるのかも知れないし、しかもわかっているような気がするのにそれをうまく説明できないとしたら何なのかというと、何かの兆候を感じ取っていて、それをどう説明したらいいのかよくわかっていないようで、それが何の兆しなのかもわかっていないのに説明できるわけがないのだが、説明できなくてもわかってしまうのだから、それではわかっていないことになってしまうのかというと、それをわかることと説明することは違うと言えなくもないが、わかっているなら説明できるはずだとも言えなくもないから、本当のところはわかっていない可能性もありそうだが、だから説明しようにも説明になっていないのかも知れないが、わかっていないのに説明できるとしたら何なのかというと、説明が間違っていることになりそうだが、どちらがどうというわけでもなく、説明なのか何なのかもよくわからないのだが、意識が何かに蝕まれているようで、それが誰の意識とも言えないし、誰かであって誰でもない意識によって社会が蝕まれているというと、それが世間という無意識の集合体のようなものかも知れないし、そんな得体の知れない何かが社会全体を危機に陥れているとかいう大げさな事態でもないのだろうが、危機ではなく危険ならいつでも危険と隣り合わせだから、危険な物事に接するには注意が必要で、では危険と関わることが危機的な状況なのかというと、それも程度の問題であり、対処や対応ができる危険なら、それができる限りで危機的な状況とは言えないだろうが、場合によっては対処できなくなったり、うまく対応できないと危機的な事態に陥るかも知れないが、それも程度の問題であるなら、いったいどんな程度で危機的な状況なのかと言えば、その程度がよくわからないでは話にならないが、それも今のところはよくわからないのかも知れず、対処も対応もする必要がない程度であれば、そんなのは危機的な事態だとは言えないはずだが、そんな状態が放置されているのかも知れず、それがわざと放置されているなら問題だが、逆にこれから危機的な事態に陥ってほしいのかも知れず、誰がそうなってほしいと願っているとも思えないが、社会全体が危機的な事態に陥らないと対処も対応もしようがないのだとすれば、いったいそれがどういうことなのか、誰も皆目見当がつかない事態でもなく、今がそんな状態であれば、誰もがそれを意識しているのかも知れないが、なぜかそれで構わないのかも知れず、こんな状態でも一向に構わないし、こんな状態だからこそ対処や対応が可能なのであって、誰もが対処や対応している最中でもあるから、それが取り立てて危機的な事態だとは感じられないのかも知れないが、それでは危機でもないのに危機だと思ってしまうのではなく、危機的な状況なのにそうは感じられないから、誰かが危機だ危機だと騒ぎ立てなければならないのかというと、そんな前提でもないような気もするのだが、では何なのかというと、たぶん何もかもが何かの物語通りの進行となっていて、それが誰かの筋書き通りだと考えてしまうと当てが外れてしまい、誰が描いた筋書き通りでもないのだが、それでも世の中の成り行きが何かの物語通りの進行となっているなら、それが何の物語なのかというと、何もかもがうまく行かずに危機的な事態に陥る物語だといえば、それを誰もが思いつくような物語でもないのかも知れないが、誰もが漠然と恐れている事態であれば、そんな事態になるのは是が非でも回避したいのだろうが、それがなぜか何かに魅入られたように引きずり込まれてしまう成り行きにすでになっているようにも感じられるから、これから恐ろしい危機が到来するのかも知れないものの、そうなると予言したいわけではないのだが、そういうことを述べると興味深く感じられるから、誰となく危機が到来することを他の誰かに告げたくなってしまうのかも知れず、たぶんそうなっている時点で危機に関するありふれた物語へと意識がとらわれているのだが、果たしてそれが嘘だとわかってしまうような機会が巡ってくるのかどうかも、皆目見当がつかないが、なぜ嘘だとわかるのかも理由など思いつくはずもなく、そんなふうに思いたくなってしまうのだが、たぶん安易に危機的な状況に陥ることを想像してはまずいのかも知れず、なぜそうなのかもよくわからないのに、想像してはまずいと言える理由なども思いつけないのだが、要するに危機的な状況を言葉で先取りしたり想像力によって先回りしてしまうと、大抵は当てが外れて、現状からかけ離れたことを考えてしまっているから、それが現状で起こっている危機でも何でもない出来事に対処も対応もできなくなってしまう原因でもないのだが、それでも安易に危機的な状況に陥る未来や将来の自分の姿を思い浮かべてはならないという戒めの言葉をどこかで思い出すか思い出さないかも、現状では定かではないが、遥か遠くの未来まで想像力を膨らませて思い描いてしまうと、それが現状からかけ離れた自分勝手な妄想の物語となってしまっていることに気づかないわけでもないが、そんな物語を信じてはならないという戒めの言葉でも構わないが、果たしてそんな戒めの言葉がどこからやってくるのかもよくわからないわけだから、それ自体を信じる必要もないわけだが、何かそういうことに関して、本当の物事の成り行きが全く物語通りの進行ともなっていないのに、それを無理やり自らが妄想している予定調和の物語に当てはめて考えているわけでもないはずだが、そういうところが自意識の精神作用としておかしな偏見の類いにとらわれていると、どうしても自身の思い描いた通りの物語に現実の物事の進行を当て嵌めようとしてしまうわけだが、そんな無意識の思い込みの集合体に社会全体が蝕まれつつあるわけでもないと思いたいのだが、なぜかそれが日本に限ったことではないのかも知れないが、もしかしたら世界中がそうかも知れないし、おかしなわかりやすくも笑ってしまうようなありふれた物語に多くの人々の意識がとらわれているような気がするわけで、そんな事態をどう捉えたらいいのかもよくわからないのだが、果たしてそれがメディアの影響なのかどうかも、これといってはっきりした根拠も理由も示せないのでは、単なる気のせいに過ぎないのだろうが、これが危機的な事態なのかといっても、何だかどうでもいいような気もしてしまうわけだ。
12月11日「終わった感が半端ない?」
何かやらかした感が半端ないようなことの典型例というのが、それがわかってしまったきっかけが勘違いからだとしたら、わかってしまったこと自体も勘違いなのかというと、もちろん勘違いなどではないと思っているのだが、では何が勘違いではないのかといえば、自身が何かを終わらせた当事者でもないのに、〇〇が終わったとかこれ見よがしに言い放ってしまうのはまずいということが、そういうこと思わず口にしてしまったり著作の中で語ってしまうような人々に共通する歴史的な経緯を少しでも知っている者にとっては、常識の範疇で理解していることになりそうだが、それに関するやらかしてしまった者たちを挙げて行けば、有名どころではナポレオンの登場によって歴史が終わったと勘違いしたヘーゲルとか、ソ連の崩壊を目の当たりにして歴史の終焉を著してしまったフランシス・フクヤマとか、第一次世界大戦の終わりに際してヨーロッパ文明の終わりに直面していることを悟ってしまったポール・ヴァレリーとか、同じく広島と長崎に原爆が落とされたことを知って、人類文明の終わりが近いことを悟ったサルトルとか、それらからかなりの年月を経て今に至っても何も終わっていないことを知っている自分たちにとっては、果たして彼らの実感が勘違いに過ぎなかったのかというと、そうは思わないし、確かにそういうことを実感する機会が巡ってきて、思わず〇〇が終わったと言い放ちたくなる衝動に駆られる心理状態に至るのもわかるような気がするのだが、最近でもEVが終わったとぬか喜びしているアンチ中国系・アンチエコロジー系・アンチリベラル系の人たちの勘違いというか早合点というか、それに対してテスラ信者などは数年前からこれからのトレンドはEVじゃないんだ、AI技術を使った自動運転技術なんだと煽りまくっていたのが来年辺りに実現しそうになっているから、にわかに盛り上がってテスラ株も爆上がりしているが、果たしてそれらのアンチ〇〇系の人たちのEV終焉説が本当に現実となるのか、あるいは単なるぬか喜びに終わってしまうのかが、ここ数年で明らかになるかも知れないし、ならないかも知れないが、少なくともそれに関して逆説的に因果応報のような教訓的めいたことを述べるなら、〇〇が終わったと言い放ってしまった人から役割が終わってしまうというか、厳密には終わりはしないし、その後も執拗に生きながらえるだろうが、そういうことを言い放つ役割がそんな人たちに巡ってくるというか、それがああなるほどと思われるような人たちなのだから、思わずそんな人たちを小馬鹿にしたくなるとしても、やめておいた方が良さそうで、何か笑ってしまうようなことだとしても、そんな役割を担わされた者こそが大衆市民社会の犠牲者なのだと知ったかぶって言い放ってしまうと、やはりそんなことを言い放ってしまう役割を担わされてしまうことになるから、そういうのは是が非でも避けなければならないのかも知れず、直接自身の手で終わらせたわけでもないのに、〇〇が終わった終わったと言いふらして回るような行為自体が浅はかな愚者の行為のように見えてしまうのは当然だとしても、それでもそんなことを思わずやってしまうとしたら、そんなことをやるように仕向けられていて、誰が仕向けているのかと言えば、大衆がそれをやってほしいと期待しているように感じられるから、よせばいいのに思わず識者気取りや著名人もどきが大衆の期待に応える犠牲者の役割を買って出てしまうわけで、NHK党の立花氏などは言いふらして回るだけでは飽き足らず、直接左翼やリベラルを終わらせる当事者になろうとして躍起になっているのだろうが、それも空回り感が半端ないというか、ちゃんと実績を残しているのだから空回りしているわけではないと反論されるような立場でもないが、それを当事者になりたい病と呼べば、ホリエモンや山本太郎なんかも含まれてくるかも知れないが、それを当事者になりたいのになれない病というと、少し病状が悪化した状態だろうし、韓国で戒厳令に抗議して集まった一般市民などは命がけの覚悟ができていたから、戒厳令を阻止した当事者になれたと賞賛してしまうのも、それも勘違いのような気がしてしまうとしても、何やら現時点では結果オーライとでも呼べそうな状況に至ってしまったようだが、一時的であっても韓国では通用したが、それが日本では通用しないのかというと、韓国と日本とで差異を感じられるなら、こちらとあちらでは大衆市民社会の成熟度や腐敗度が異なると述べておけば済んでしまうようなことかも知れないが、いずれにしてもそんな大衆市民社会を味方につけることが必要だと痛感させられるような事態が現状の中で起きているかというと、政治的なポピュリズムの観点からしたら、それこそが勝利するには必須条件だと言えそうで、そうなると賢者よりは愚者を味方につけることにも結びつきそうで、愚者を味方につけるには自身も愚者のように振る舞わなければならないかというと、愚者の定義に関して、賢者から見た愚者であることと愚者から見た愚者であることが違ってきて、賢者から見た愚者というのが一般的にはただの愚者の他にも悪どくずる賢い愚者が警戒すべき存在であるのに対して、愚者から見た敬うべき従うべき愚者のというのが、まるで賢者のように見える愚者でなければならないところが、愚者には賢者のように振る舞っているように見えるのだが、賢者にはそれが演技に過ぎないように感じられるわけで、そういう意味では愚者が愚者に騙されていることになるだろうが、もちろん騙しているつもりなどさらさらなく、自分で自分を賢いと思い込んでいる可能性もあるだろうし、賢いか愚かかの対立軸ではなく、聡明か愚鈍かの対立軸でもなく、賢くも愚かで、聡明であることが愚かな証拠となったり、賢く振る舞おうとするのではなく、ただ単に大衆市民社会の中では愚鈍であるべきなのかも知れず、愚鈍であるかのよう振る舞うのではなく愚鈍であるべきと言ったところで、何のことやらさっぱりわからないかも知れないが、戒厳令を阻止しようと集まった韓国の一般市民はプロ市民というか、命の危険を顧みずに出かけて行ったのだから愚鈍なのであり、それと比べたら日本の腐敗した大衆市民社会の中で大衆の期待に応えて〇〇が終わったと思わず言い放ってしまう識者気取りや著名人もどきの輩は、ヘーゲルやヴァレリーやサルトルやフクヤマなどには及ばないにしても十分聡明であり、自身を聡明であるかのように見せかけながら賢く振る舞おうとしているのではないか。
12月10日「対立点と類似点」
わずかな差異を含みながらも同じようなことを主張する人々にも、お互いに対立する事情や経緯が生じてくれば、そのわずかな差異を巡って対立することになるだろうが、それが戦略的な観点から対立しているなら、利害関係や主導権争いなども絡んでくるから、それを競合関係や競争関係から考えるなら、大した違いもないのに協力できずに対立してしまうことが愚かだとも思えず、何かの集団内で誰が主導権を握るかで争うこと自体が、猿山のボス猿を決める戦いのようにも感じられて、それが集団内の内紛でしかないわけだから、似た者同士の近親憎悪的な感情を表しているのかも知れないが、そこで対立点よりも類似点を強調するなら、一般的に言われる左右の対立というのも似た者同士の対立と言えないわけではなく、そうなると表向きには利害の対立よりも意見や主張の対立が際立ってくるはずなのだが、それが集団内の誰に利益を分配するかで意見や主張の対立が生じてくるなら、根本的には利害の対立に収斂してくるわけで、それが集団内といってもお互いに同じ集団に属しているとも思っていない場合もほとんどだろうから、派閥の争いだとしても、それも表向きにはあからさまな利害ではなく、同じ意見や主張を共有するグループを集団内に形成する傾向にあり、しかもそのグループの勢力を集団全体に広げようとして、絶えず多数派工作を仕掛けるわけだが、その多数派工作の中には選挙で自分たちの勢力を拡大するやり方もあるだろうから、それがルールに基づいた公正なやり方のように思われるだろうが、対立をなるべく平和的に争うやり方として選挙が編み出されてきた経緯があるとしても、選挙の後にも対立が残るから、それが対立を解消するやり方とはならないのだが、選挙が一応は争いの決着をもたらすから、不利な結果がもたらされた側が抗議することもあるだろうが、争いを収めるには選挙が有効なやり方にはなるわけだが、根本的なところで何から利益がもたらされるかで、場合によってはそれを利益とは言わない場合もあり得るから、それが誤解を生む原因となるだろうが、その利益の使い道を巡っても対立が生じてくるなら、使い道の正当性も問われてきて、例えば税収が政府の利益なのかというと、一般的にはそうは言わないだろうが、利益というよりは収益に近く、徴税活動によって得られた収益だと見なすとしっくりくるわけでもないが、果たして徴税活動を事業活動だと見なすのも変な感じには違いないが、集められた資金をどうやって人々の分配するのかといっても、そういう単純な話ではないことは誰もが承知していることであって、それが政府という組織を維持するために使われるというと、それだけではないと思いたいところだが、もちろんそれだけではないことも誰もが承知していることかも知れないが、人々が暮らしやすくなるようにするために政府の活動があるという理想論の類いを多くの人々が真に受けるかというと、そんなふうに考える以前に総論賛成各論反対のような狭い利害関係の中で物事を捉えている人が世の中の大半を占めている現状があるのかも知れず、その種の思考の範囲内でひどい人たちが自分たちの勢力へと利益誘導しようとするから、結果的に世の中を混乱に導いている現状もありそうだが、それがあからさまで直接的な利益誘導ではなく、そんなことをやるに当たっての大義名分が必要となってきて、それが人々を助けるためにやっているんだと主張したいわけで、さらにもっと稚拙に単純化するなら、敵から人々を守るためにやっているんだとも主張したいわけだから、そういう主張を真に受ける人を愚かだと馬鹿にするわけにも行かないだろうし、そんな主張を真顔で言ってくる者を愚かだと馬鹿にするわけにも行かないが、要するにそれを単純化すれば馬鹿馬鹿しいと思われるようなことを、何か屁理屈のような理屈にもなり得ないようなことを絡めて事態を込み入らせて主張すれば、それを真に受ける人が大勢出てくるのかというと、果たして彼らがそんなことを主張しているのかどうかもよくわからないのだが、彼らとは誰かといえば、一般市民を煽動して大衆運動のようなムーブメントを起こそうと仕掛けてくる者たちなのかも知れないが、たぶんそんなレベルで活動している集団に引きずられて単純な思考にとらわれては行けないような気がするのだが、それと共に彼らの活動を利用して利益を得ようとするのもまずいことなのかというと、それは人それぞれに置かれた立場や境遇に応じて、利益を得られる機会を捉えて得られるものなら得ようとするのかも知れず、それも絶えず個々の利益と全体の利益とに分割できるわけでもないのだが、意識の中では常に単純化して事態を捉えようとするだろうから、そうした単純化の罠にハマってしまった者たちが対立を煽って騒いでいる現状もありそうなのだが、その一方で談合的な傾向の官僚制に組み込まれた者たちの方でも、集団の利益を自身の利益だと勘違いしながら活動するだろうから、官僚機構の部品として機能しながら集団の利益を守ろうとしながら、機構の仕組みを社会の中へ張り巡らしながら増殖してくるから、税収が官僚機構の拡大膨張に費やされてしまうと、一般大衆が政府の官僚機構から搾取されるがままとなってしまいそうな印象を受けるわけで、本当にそうなっているかどうかなんて誰にもわかりようがないわけでもなく、他の国々と比較してどれほどの税負担となっていて、どれほどの行政サービスによって生活が支えられているかを数値化してみれば、そういうことがわかってくるかも知れないが、その数値化されたデータや表やグラフから何が読み取れるかも、恣意的にデータを偏らせるような改ざんやごまかしが行われていると騙されてしまうのかも知れないし、そういう操作を複雑怪奇に込み入らせて恣意的に歪ませて説明されると、何か煙に巻かれたような感じにもなってしまうかも知れないが、何にしても説明する者の都合の良いように説明されて、説明を受ける側も都合の良いように受け取って、それで一件落着とはならないだろうから、そういうところで知性がないと騙されてしまうというか、騙す方も騙すつもりで騙しているわけではないとすれば、騙されていることにならないかも知れないが、騙されたくなければ単純な対立として提示されている人や勢力の構図や相関図の類いを疑ってみるのもそれなりに思考する上でのとっかかりとなりそうで、それ以前に意識が二項対立に基づいて単純化されていれば考える手間も省けて、敵と見なした相手を攻撃することしか眼中にないようなロボットになるしかないが、指導者に操られるロボットになりたくなければ、対立点や類似点やどちらでもない点などを見つけ出して総合的にも部分的にもその場の状況や情勢に応じて思考してみるしかないような気もするわけだ。
12月9日「批判の怪しさ」
現状がうまく辻褄が合うようなことができる状況なのかというと、それ以前に辻褄が合わないから苦労が絶えないと思えば、確かにそんな感じがしないでもないが、彼らが何をやるかではなく、自分がそれに対してどう考えているかでもないとすれば、彼らも自分もその件に関しては蚊帳の外なのかというと、どうもそうではないらしく、まずは彼らが誰なのかを特定しなければならないと考えるなら、いったいここで何を述べたいのかが朧げながらわかってくるわけでもないのだが、彼らを怪しいと感じるならそれで構わないようなことでしかないとしても、彼らの何が怪しいのかがよくわからないわけではなく、彼らの論理が単純明快だから、そんなのはわかりすぎるくらいわかっているのに、なお怪しいと感じてしまうところが、彼らが必ずしも論理に従って動くわけではないというところであって、彼らは彼らで時として論理よりも優先しなければならないことが出てくるのかも知れず、それが彼らの動きの中では不確定で不確実な要素なのだろうが、それを見落としてしまうと、彼らに対する単純でわかりやすい解釈が成り立ってしまい、そうなると批判しやすい勢力に対しては紋切り型のレッテル貼り的な批判で間に合ってしまうのだが、それと同じ傾向の彼らにとっては批判の対象外の人物や勢力の存在に関してはわかっていても無視せざるを得ないという欺瞞が生じてきてしまい、なるほどそういう部分が彼らにとってのご都合主義的な面なのかと納得したくなるわけだが、だからといってその種のご都合主義者だと彼らを決めつけて貶めるわけにも行かないところが、彼らを単純化して批判するのをためらわせるわけで、批判の対象となる連中をやれ新自由主義者だの緊縮財政派だのと単純化して貶めているつもりでも、位置や場所が異なればそれが通用してしまうわけだから、実質的には貶めていることにならないわけで、その場の情勢に合わせて述べていることが、位置や場所が違うところでは合わせようとしても合わないとしたら、こちらではこういうことを述べておきながら、あちらでは違うことを述べなければならないかというと、そうは行かないなら、こちらでだけこちらで通用することだけ述べるしかなく、それが彼らの限界であって、彼らが述べている内容の怪しいところだと言えなくもないが、果たしてそれで何かもっともらしいことを述べていることになるのかというと、何かそれでは不都合を感じるなら、その不都合がどういうことなのかといえば、何となくそうではないような気がするとしても、気がするだけでは話にならないから、もっと踏み込んで何かもっともらしいことを述べる必要に迫られてしまうと、こちらの方でもうまく表現できずに行き詰まってしまうかも知れないから、そういう方面からは急いで退散しなければならないのかも知れず、無理に踏みとどまって何か適当でいい加減に述べるとすれば、それを単純に新自由主義だとか緊縮財政だとかのレッテルを貼るだけで何か批判しているつもりになれるわけではないということでしかなく、日本では批判が通用しているように感じられるとしても、少なくともアメリカではその通りでしかないわけで、それで構わないわけではないとしても、そういう方針で物事が動き出そうとしているのだから、それをそうだと批判したところで意味不明なことになってしまいそうで、そんな安直で単純なレッテル貼りでは批判にすらならないなら、ではどう批判すればいいのかという疑問に直面するわけでもないとしたら、そこから目を背けていることに気づかないだけかも知れず、日本では相変わらずそれを新自由主義だ緊縮財政だと批判しているうちに、当の新自由主義や緊縮財政のフェーズに突入しているアメリカとの間で取り返しのつかない差がついてしまうとも思えないし、ただ単にそんな批判が現状の中で有効に機能するとも思えず、批判するなら批判させておけばいい程度の認識で構わないのかも知れず、誰が何をどんなふうに批判しようと、物事が勝手に動き出すわけではなくても、勝手に動き出しているように見えてしまって、そう見えてしまう人にとっては、そんな批判など無効に思われるわけだから、そう思うならそう思っておけばいいのだろうが、それでも批判している人にとっては批判せざるを得ない成り行きにとらわれているのだから、そういう人は飽きもせずやれ新自由主義だ緊縮財政だと批判するしかないわけで、では批判するのではないとしたらどうすればいいのかとは問われないだろうが、新自由主義的なやり方や緊縮財政的なやり方を活用すればいいのかというと、どうもそういうことではなく、ただ単に成り行きとしてそうなるならそれを批判していればいいような感じになってしまうから、そういう感じになってしまう人も結構の割合で出てくるということであって、それが良いだの悪いだの言ってみても始まらないから、そういう人はそういう成り行きの中に取り残されてしまうというか、他の人たちもそんな批判に加わりたければ加わって、彼らと一緒になって批判していれば済んでしまうようなことでしかなく、それに対してアメリカでは新自由主義的な規制緩和と緊縮財政的な政府機関の効率化と共に予算の削減をやって、結果的に産業の活性化と減税を実現しようとしているわけだが、それを日本でも真似できるかというと、真似するとも思えないから、相変わらず新自由主義や緊縮財政への批判が有効に機能しているように見せかけたいのだろうが、それ以前にそもそも日本の政治体制の中で行われているあれが新自由主義でも緊縮財政でもないわけだから、批判の対象自体が虚構なのかも知れないし、そういう意味では批判自体が的外れなのかも知れず、的外れというよりはいつもながらのねじれの位置から批判していて、うまく批判すべき対象を避けながら批判しているから、批判している人たちの立ち振る舞いがうまく行っているのだろうから、そのままの感じで批判を継続させていればいいのかも知れないし、それによって一般大衆を騙していることにもならないのかも知れないし、一般大衆の方でも彼らと一緒になってうまく立ち振る舞おうと意識していなくても、成り行き的にはそうなってしまうようなことなのかも知れないから、そういうところでそれをはっきりと自覚しなくてもその場を空気を読んでいるわけで、その代わりに被災地の復興がどうたらこうたらという方面へと関心を向けたいし、向けさせるように持って行こうとしているようなコンセンサスを形成しようとするわけだが、もちろんそれが以前から彼らがやってきた新自由主義や緊縮財政への批判を忘れさせるためにやっているとも思えないから、それらとは奇妙にねじれた位置を保とうとしていることの表れなのではないか。
12月8日「物事の道理」
その人の都合で強調したいところだけ強調すれば何かそれらしいことが言えるような感じになってしまうと、それを予定調和だとは言い切れないが、うまく言いくるめられてしまうような結果に至ってしまえば、反論を返せないジレンマに陥ってしまうから、何とか相手が反論できるような不完全なことを述べようとしているわけでもないのだが、すぐにそれとわかるような屁理屈によるごまかしを利用できればそれに越したことはないような成り行きへと持って行きたいとは思わなくても、その場の成り行きとしては否応なくそうならざるを得ないような傾向に囚われてしまうと、何となくそれが屁理屈ではないと強弁したいような思いにとらわれてしまうのだが、では何が屁理屈なのかといえば、これから述べることが屁理屈なのかも知れないし、これまでに述べてきたことが屁理屈を用いて述べられてきたことかも知れないが、なるべくなら屁理屈だとは思われないようなことを述べたいのだが、そもそもそれの何が屁理屈なのかといえば、強引に道理に合わないようなことを主張したいわけでもないのだが、その道理というのもよくわからないなら話にならないが、その辺が微妙なところで、物事の道理とはこういうことだとは一概には言えないのではないかという疑念を覚えながらも、それでも道理に頼ってもっともらしいことを述べようとして、結果的にそこで躓いてしまうとすれば、いったい何に躓いているのかというと、物事の道理とはこういうことだと断定したい思いが空回りしてしまうから、結果的にそれが屁理屈のように思われてしまうのかも知れないし、まずはこれが道理だと言えるようなことを述べてみないことには話が始まらないのだが、未だに何が道理なのかよくわかっていないからうまくそれを表現できないわけだが、逆説的には道理に適っていないと批判できるようなことがいくらでもありそうで、これが道理だとは直接言えないのに、なぜか道理に適っていないと批判できるわけだから、その辺のギャプがごまかしのような屁理屈のような感じがしないでもなく、そういう類いの批判にいつも騙されているのではないかと疑念を抱いてしまうのだが、それに関して何がおかしいのかというと、例えば目的が先に示されて、その目的を遂行するために活動するという順序がおかしいとは思えないのだが、実際にはそうではないとすれば、そちらの方がおかしいような気がしてしまうわけだが、目的がよくわかっていないのに活動が先行してしまい、その過程で活動している理由を問われたり、自身でなぜ自分は活動しているのかと疑念を抱いたりしてしまうと、そこから活動の目的を捏造せざるを得なくなって、そうなると無理やり屁理屈を持ち出して自らの活動を正当化するようなごまかしに至ってしまって、自分で自分の墓穴を掘ってしまうような自滅的な結果が待ち受けているような感じになってしまうのは、何としても避けたいわけで、だから物事の道理に適うような感じに持って行くには、活動を始める前に目的を設定して、その目的を遂行するために活動するようなことにしないと、自分でも納得できないし、活動に協力してくれる周囲の人々を納得させることもできないはずだが、たぶんそうやってしまうと活動があらかじめ設定した目的によって制約を受けてしまうから、活動して行くに従って、その活動内容に合うように目的を徐々に変えて行かなければならなくなるかも知れず、結果的にそうなってしまえば、目的よりは活動の方が先行するという逆転現象に直面することになるわけだが、果たしてそういう臨機応変なことができるかというと、そもそもそんなことをやる必要が生じてくるかどうかも活動している途中で気づくかというと、大抵はそれと気づかずに活動内容が当初に想定していたことからどんどん変質して行って、結局目的などどうでもいいようなことになってしまうと、何をやっているのかよくわからないような結末に至ってしまうかも知れないが、結末すらない場合もありそうで、何だかわからないがいつの間にかフェードアウトしてしまうような自然消滅的で意味不明な活動になってしまうかも知れないし、そうならないためにも目的が必要だと結果から言えるかどうかも、その場の状況や情勢に応じて言えたり言えなかったり言う必要もなかったりするかも知れないが、そもそも活動とは何なのかと問いたくなってくると、そもそも論に意識が絡め取られていることになってしまうだろうが、これこれこういう目的があるから活動しているんだと強弁したくなるような事態に直面しているかというと、それが背水の陣のような追い込まれた状況を想像してしまうのだが、自分で自分を追い込むようなことをやってしまうと、自分で無理やり設定した目的から逃れられなくなって、目的から目標へと進展してしまう事態にもなりそうだが、そんなふうに絶えず部分的で狭い領域へと自身の活動を追い込んで行ってしまう人にありがちな態度が、何かに異常なこだわりを見せて、それを狂信的にひたすら守ろうとする態度に至ってしまうのだろうが、そうなってしまった人を他人がどう感じるのかといえば、何か宗教じみているように見えるはずだが、それが超人的な力を得ようとしてそうなっているなら、よくありがちな漫画の世界の住人となってしまいそうだが、そんなふうにはなり得ない境遇であれば、もっと柔軟な態度が求められていそうだが、挫折してそうなっても何か腰砕けのような印象を免れないとしたら、そうなりたくなければ初めから強硬な態度にならないような配慮も求められていそうだが、何かそういう面で物事の道理に沿った形の信用できそうな態度があるかといっても、それも実際にそこで何をやっているかで印象が違ってくるだろうから、一概には言えないようなことかも知れないが、少なくともその場の状況や情勢に合いそうな理屈や論理を導き出せれば、そんな理屈や論理に基づいて行為や行動や言動を繰り出すことになるだろうし、そんなふうに活動した結果がうまく行かないなら、理屈や論理がその場の状況や情勢に合わなかったことになるかというと、うまく行かないなりにも一応は行為や行動や言動に至ったわけだから、それなりのことができたと見なしても構わないような気がするわけだが、その場がゲームや試合などの競争に支配されているなら、それに応じてうまく行った者が勝利してうまく行かなかった者が敗北すればわかりやすいのだが、大抵はそんな単純な構造や構成にはなっていない場合がほとんどだろうから、誰が勝って誰が負けたかなんてわからずじまいに至ってしまうことの方が多いのかも知れない。
12月7日「うまく行かないこと」
世の中で政治的にも経済的にも社会的にもうまく行かないことが連続しているように思われても、そう思う人がそんなところだけに注目しているに過ぎないとしても、うまく行かないなりにもそれなりのことができていれば構わないような気がするものの、そのうまく行かないことを利用して利益に結びつけるとか、そんなせこいマネをやろうとしてしまうのも、せこいかどうかもそれをやっている当人にその自覚があるかどうかも定かではないが、それがうまく行かないことをやっている当事者から反感を買うようなやり方になるかならないかも、すでにそれ以前にうまく行きそうにないことをやろうとしていること自体が自業自得なわけだから、結果的にうまく行かないことを批判されるような成り行きになることは覚悟しておかなければならないのかも知れず、そんなふうに批判されていることの大半がそんな類いの批判だと思うか思わないかも、それを受け止める人次第だと思っておいても構わないのかどうかも、見ず知らずの部外者の他人から批判される身になってみれば、そう思っておくだけでも気休めのような効果を期待したいわけでもないにしても、そんなうまく行かないことに執拗に絡んできて、それをこれ見よがしに批判したい人も世の中にはいくらでもいるだろうから、うまく行きそうにないことをやっている当事者にとってはたまったものではないのかも知れないが、それもある程度は事前に予想されることでもあるから、そんな他人のやっていることを批判しようと待ち構えている輩を逆に叩きのめしたい衝動に駆られるのも無理もないことだが、そんな輩も他の何かに利用されている存在なのかも知れないから、もちろんその何かがメディアの類いでもあり、そんな輩とメディアが互いに互いを利用し合うことによって、何やら世間的なコンセンサスを形成するような作用も生じてくるとしたら、それがメディア社会の中で起こっているありふれた現象だと思ってみても、何だか腑に落ちないわけでもないのだが、そんな中でもわかりやすくてそれなりに説得力のある批判には、何となく抵抗感も伴ってきて、逆に批判される側の方に親近感を抱くような心理作用のような感情も生じてくるから、それがスポンジのような批判吸収作用というか、どんなに説得力のある批判をされても動じない精神というと、それが大そう強靭な精神の持ち主のような印象を受けてしまうが、そんな者を支える群衆を味方につけるから平然としていられて、それもその種の大衆市民社会が倫理や良識に反する悪党の類いを育てる傾向があるというと、何だかそれではそうなる経緯を単純化し過ぎているような気もしないではないが、逆に世の中にはうまく行くこととうまく行かないことが必要だと結果から言えてしまうかどうかも、そういった対立的な捉え方ではなく、どちらの傾向も入り混じっていることの中でどちらの傾向を強調するかで、それが否定的な批判や非難になるか肯定的な擁護や称賛になるかが決まってくるというと、それもそんな気がしないでもないにしても、語り方としてはそう語ってしまうと結果論に過ぎないようなことにもなってしまうから、何かそうはならないような言説を構成しなければならないのかも知れず、もちろん結果論の類いであっても困らない人などいくらでもいて、何かしら結果を得られたら、そこからそんな結果に基づいてそれに対する良し悪しや善悪の判断や評価を下していれば済んでしまうレベルではそうなのだが、そうならざるを得ない必然的な成り行きとか、そうはならない可能性とか、どうなっても構わないような偶然性とか、そうなる過程で揺れ動くその途中で生じてくる経緯や事情に着目すれば、その種のもっともらしく感じられる結果論では満足できないかも知れないわけだが、そういうところで目のつけどころがありふれた善悪の視点から語られるような内容になってしまうと、それで満足できる人など世の中にはいくらでもいるかも知れないが、そんなことをいくら指摘しても世の中は変わらないような気がすると共に、実際にこれまでもそんな指摘がいくらでも行われてきた結果として、今あるような世の中になってしまったわけだから、そんな行儀の良い誰もが納得せざるを得ない善悪の指摘には反感を抱くような感情の持ち主やそれらがより集まって形成される群集心理などによって世の中が動いているような気もしてくるから、そういう反感や群集心理の担い手にとっては、自分たちの反抗的な感情を爆発させるための起爆剤として求められているのが、何やら良識ぶって物事の良し悪しを決めつける左翼やリベラルの価値観というと、もちろんそっちの方が良いに決まっているだろうが、良いに決まっているからこそ無性に腹が立つような反抗感情が生じてくると言ってしまうと、そんな簡単に決めつけられること自体にも腹が立つだろうから、それではまずいというわけでもないにしても、格好の餌として攻撃の対象に定められてしまうような気もしてしまうから、できれば誰もが納得できて屁理屈以外の反論を許さないようなことを述べては行けないのかも知れないが、それがあちらの都合であって、それに対してこちらの都合を優先させる必要があるのかというと、あちらとこちらを対立させて捉えるのもちょっと単純化が過ぎるような気もするから、実際にはそうはならないとしたら何なのかというと、わかりやすくて説得力のある批判をしまくる人が一般大衆から無視される傾向にあるのかも知れず、それよりは欠陥丸出しで良識人を攻撃しまくる輩が一般大衆からはもてはやされる傾向にあるから、その種の良識人気取りの人たちには不条理な世の中だと思われて、こんなひどい世の中は何とかして変えなければならないと思いがちなのだとしても、そう思っている人たちに批判材料を提供しているのが、論理的な欠陥丸出しで攻撃してくる輩なのだから、それらが相互補完関係にあると捉えてしまうと、それも結果論的な捉え方であるから納得できるが、そんな捉え方だとまずいような気がするわけで、それに関してはどうしても良識的な視点に立ってしまうと資本主義経済を容認できなくなってしまい、それが現に成り立っている経済だとしてもそうであってはならないような認識にならざるを得ないというか、物や情報やサービスの売り買いから利益を得るやり方そのものが、倫理的でも良心的でもないのだから、そういった売買の慣習を基盤として成り立っている社会そのものが、彼らにとっては変えなければならない社会であることにどれほど気づいているのかはよくわからないが、そういう意味では利益を求める功利的な思惑の中で人々の感情が揺れ動いている限りは、良識的な意見や主張や指摘を無視してでもやらなければならないことが自ずから生じてくるわけで、それをあからさまにやろうとすれば人々の間で軋轢や摩擦も生じてくるから、結果的にやっていることがうまく行かなくなるわけだ。
12月6日「回りくどいやり方」
今は身動きが取れないというと、何かそれがまずい事態なような気もするのだが、そうではないと思うことの中には、このままでも構わないような気もする面もあるから、今は動く時ではないと思っておけばいいのかというと、それでは現状維持のご都合主義だと否定的に捉えることもできなくもないが、それに関しては自分の守護霊のような得体の知れない何かが今は動くなと自分に言い聞かせているような気もしないではなく、そんな根拠の定かでない警告を振り切って無理に動けば痛い目に遭いそうな予感もするから、動かないと決めたところで、そんな思い込みを信じるわけにも行かないような気がするなら、不意に気が向いたらその気になって何かをやり始めてしまっても構わないのかも知れないが、それが作り話のような感覚で述べていることらしく、実際にはそうではないのに、それに関して適当にいい加減に述べるとそうなってしまい、何を述べているのかよくわからない内容となってしまうのだが、それが何かの試練だと見立てると不条理のような感じがしなくもなく、何やら次から次へと自分の身に災いが降りかかってくるようなヤバい感じもしなくはないのだが、それもまたその試練を乗り越えた先に幸運をつかみ取れるような機会が巡ってくればありがたいのかも知れないから、それも勝手に都合の良い未来を夢想しているに過ぎないことでしかないが、そんな呆れるような妄想とは裏腹に、どうしても知らないうちに危険地帯へと誘導されて、なぜかそこで伸るか反るかの大勝負の賭けに挑まなければならないような成り行きに直面しているようで、それこそが危機的な兆候なのだろうから、その確率はほぼゼロに近いのだろうが、一応は自らの死を覚悟するとか事を大げさに捉えがちになってしまうのだが、たぶんちょっとした油断が仇となってそうなってしまうようなことなのかも知れず、自分を信じてそんな回りくどいやり方をとるしかなかったのだろうが、それで信じていることになるのかならないのかも自信を持てないし、本当にそれが回りくどいやり方なのかもよくわからないでは話にならないが、話にならないのに強引に作り話を捏造しているような感じになっているようで、それでは自分に嘘をついていることになってしまうのだが、少し気分を落ち着けて考えてみれば、来週の火曜日に予約を入れた歯科医院の診察までに虫歯が急速に悪化して、そこから病原菌が体内に侵入して死んだらどうしようと危機感を募らせているのだから、馬鹿な話には違いなく、それ以前になぜか数日前にスーパーで硬いフランスパンを買ってかじってみたら、それまで微かに痛かったのが激痛が走るようになってしまい、そんなのは自業自得に決まっているだろうが、なぜそんなことをやってまで歯医者に行く決心をつけなければならないのかが、それを実行してしまう自分が何を考えているのかよくわからないと言えば、それも嘘には違いなく、スーパーで三十パーセント引きのシールが貼られたフランスパンを見たら無性に食べたくなった程度のことをどうしてそんな回りくどい話に歪曲したくなってしまうのかもよくわからないでは、それも嘘になってしまいそうだが、自分が何を考えているのかよくわからないのは、そんな自業自得な結果に至ってからそう思うのだろうから、その途中の段階ではそれなりにその場その場で自分では合理的に感じられるような判断を積み重ねていて、そんな数々の判断が積み重なってみると、何か奇妙な結果をもたらしてしまい、それが不思議でならないような気がしてしまうから、自分が何を考えて行動しているのか自分でもよくわからないような結果に至って、ただ困惑するばかりなのだが、それも予定調和な困惑には違いないが、そうなることをあらかじめ予期していて、スーパーでフランスパンを見た際に、この機会を捉えて歯医者に行って虫歯を治療してもらおうとひらめいたとも思えないのだが、結果的にはそうなりそうな予感がするわけで、そうなる前に不測の事態が起こって死んでしまえば、予想外の結果に至ってしまったことになりそうだが、そうなる確率もゼロに近いと思いたいのだが、そんなことを想像していると自然と笑ってしまうようで、何だか間抜けな感じがしないでもなく、死因が硬いフランスパンをかじって虫歯を悪化させたことになってしまうと、何か冗談のようなギャグのような、そんな間抜けな死因では死んでも死に切れないと思うわけでもないが、虫歯などで死ぬはずがないとは思いながらも、食べ物を噛む度に激痛が走るのだから、何かそれが深刻な事態を招いているような気になって、あと数日間はそれに耐えなければならないと思うと憂鬱な気分になるのだが、果たしてそれが身動きが取れない理由なのかというと、苦し紛れにそんな見当外れな理由をこじつけているのにそれでも構わないような気になっているのだから、結果を都合の良いように解釈すれば何とでも言えてしまうようなことなのかも知れないが、機会を捉えて何かやるという行為や行動が結果的に何を招くかが、それをやってみなければわからないとは限らず、その結果が良くも悪くも功罪半ばするとしても、やる前に何かひらめくようなことを何度も経験してみると、そうなった結果を前もって予知していたような気になるわけで、それが結果的にはそんな予感がしたからそれを実行してみたような感じになれば、自らがそうなることを前もって知っていたような気にもなってきて、もしかしたら自分には予言者の素質があるのではないかと思い込んでしまうわけではないにしても、守護霊にこの機会を逃さずにフランスパンを買ってかじってみろ命令されたわけでもないにしても、フランスパンをかじることと歯医者に行くことを結びつけてしまうところが、何だか馬鹿げているような感じがしてしまうわけだが、そんなことを思い浮かべながらも虫歯の痛みに耐える日々を送ってしまうのも、何だか間抜けな気がして、笑いながらも痛いという相反する感覚にとらわれていること自体も、奇妙と言えば奇妙な結果を招いているわけで、果たして歯医者に行くまでのあと数日間のうちにまた新たなわけのわからないこじれた事態に巻き込まれないことを祈るばかりなのだが、なぜこうなってしまうのかといっても、数十年前の虫歯の治療の際に詰めたものが劣化してしまって、歯と詰め物の間に隙間が開いてそこから虫歯が進行した結果なのだろうが、これらも徐々にそんな事態が続いて行くような予感がしているのは、すでに数年前から定期的に今回と同じような経緯で歯医者の世話になっているからで、こうなることはある程度は予想の範囲内の事態だからそんなに心配するほどのことでもないとは思っているわけだ。
12月5日「新たな関心事」
今まで延々とやってきたことを突然やめてみると、何か気が抜けたような感じがして、それを体験している感覚としては何でもないことの連続に飽きて嫌気が差すとか、贅沢な悩みには違いないが、嫌になっても構わないとも思われるのだから、そんな心身の状態を改善する気も起こらないようなら、それが怠惰な状態だと言えそうだが、今はそうではないと思うなら何なのかというと、自分の心理状態とは無関係に揺れ動いている何かがあって、それが世の中の状況だとしたら、そんな状況に関心を持っていることになりそうだが、地震か何かで地面が一時的に揺れ動いているに過ぎないなら、その程度にもよるが、関心を持っているのはそんなことではないだろうから、たぶん他の多くの人々が関心を持っている物事に自分も関心を持っていて、それをメディアを通して安易に確認する日々を送っているらしく、それが退屈な原因なのかも知れないから、確かにそんなのは何でもない部類に入ることなのだが、部外者気取りの自分にとってはそうかも知れないが、当事者気取りの者たちにとってはそうではないことも想像に難くなく、それが自身にとって重要なことだと思うから、執拗に関心の対象に絡んでくるのだろうが、重要でないなら何なのかというと、なぜそんな仮定で考えるのかもよくわからないが、重要か重要でないかの対立軸などではなく、何だかわからないが否応なく絡もうとしてしまうというのが偽らざる成り行きのような気がしてしまうのだから、そんなことをやっている当事者にとってはどうしようもなく成り行きにとらわれてしまっているのかも知れず、要するにそういうのに関わってしまうと言い逃れができないようなことをやらざるを得ないし、言わざるを得ないような状況になるから、それに対して他からいちゃもんをつけられるのが腹立たしいだろうが、それはいちゃもんをつけてくる者たちにも言えることで、そんなことをやられたり言われたりすれば、無性に腹立たしいからいちゃもんをつけるわけで、それがどっちもどっちという見え透いた単純化では割り切れないから、どちらかに非があるとしか思えないし、それももちろん誰が見てもおかしなことを一方的に強引にごり押ししてくる方が悪いに決まっていそうだが、そんなわかりやすい事態なら疑問を抱く余地など何もなさそうに思われるのだが、果たしてそんなわかりやすい事態なのかというと、それを苛烈に非難する者にとってはそういうことにしておきたいわけで、そうでないと一方的にそんなことをやっている者や勢力を悪く言うことができなくなってしまうからだが、そんな他から悪く言われるようなことをやるに際して、あるいは言うに際して、何かそれを正当化できる根拠があるのかというと、そんな者たちの言い分を聞いてみれば、言っていることを真に受けるなら、それなりにもっともらしいことを言っているような気がするかというと、どうもそうではないような気がするから、すでにそんな気がしている時点で彼らの言い分を真に受けるわけには行かなくなっているのだろうが、それが彼らにとって都合の悪いことを言わないのはもちろんのこと、都合の悪いことを言わなくても済むような方面へと対象を絞って言っているような気もするから、そういうところが見え透いていると思うなら、そんな正当化や言い訳の類いを言ってくる者たちを信用するわけには行かなくなるのだが、それも信用できるかどうかという判断基準でもないから、そういうところでそれをどう判断すれば良いか悪いかも何とも言えなくなってくると、微妙な感じになってしまうのだが、それがここ数年で起こったことについての評価に絡んでくるなら、なおのこと疑念が深まってくるわけでもないのだが、単純に陰謀論的な言説だと決めつけるわけには行かないし、常によくわからない謎な部分が残っているわけだから、それをこうだと決めつける論理や理屈がおかしいことは確かなのだが、もちろんこうだと決めつけるから何となくそれをもっともらしいと感じる愚かで浅はかな人もそれなりに出てくるのだと推測したくなってくるとしても、そう感じてしまう当人が自身を愚かで浅はかだとは思うはずもないだろうが、果たしてこれはこういうことだと断言できるようなことなのかと問いたくなってくるような出来事であれば、それを強引に断言する者たちの感覚がおかしいのではないかという疑念の方が正しい感覚のような気がしてしまうのだが、それがここ数年でコロナ禍に始まって、それに対するワクチン接種の是非であったり、ロシアがウクライナへと攻め込んだ戦争に関連した言説であったり、パレスチナの地でハマスのテロに対してイスラエル政府による多くの一般市民を巻き込んだ徹底的な壊滅作戦への言動であったり、それらの出来事の中で例えばワクチン接種で死者や重い障害が副作用として出たことを強調すれば何か一方的に悪者を特定して糾弾できるとか、プーチンは悪くないとか、ハマスやヒズボラはイスラエル政府の巧妙な罠にハマったのだとか、そういうことを思いっきり全力で主張できるのかというと、自分にはできないし、全力で主張している人を擁護する気にもなれないのだが、そういう人が出てくるのは当然の成り行きのような気もするが、少なくとも自分はそんなことを主張する立場にはなれないし、そうかといってワクチン接種を全面的に擁護する気にも、ロシア政府とプーチンやイスラエル政府とネタニヤフの蛮行を一方的に非難する気にもなれない、と言い切るわけにも行かないような中途半端なところで躊躇してしまうわけだが、たぶん自分はワクチン接種の通知が来た全てに応じてきて、少なくとも六回ぐらいはワクチン接種を受けたような気がするが、今のところはコロナに感染したわけでもなく、感染したところで気づいていないのかも知れないが、自分が良ければそれでいいとも思っていないが、そういう体験がワクチン接種を全力で非難している人たちに対して抵抗感を覚えさせるのかも知れないし、それとは別の方面で戦争を仕掛けたロシア政府やそれを命じたプーチンが悪いことは確かだとは思うし、それ以前にプーチンによる独裁体制自体も否定的な印象を受けるし、また奇襲攻撃を仕掛けたハマスにも落ち度がありそうには思われるし、それを口実にしてガザ地区を徹底的に破壊したイスラエル政府とネタニヤフにも否定的な印象を持っているが、それら全てにおいてそうならざるを得なかったような気がするのも、そんな結果からそう思われるところではあるものの、それらに関連して起こったここ数年間での出来事の全てにおいても、何かもっと他にやりようがあったのかと問う気にはなれないわけだ。
12月4日「非常事態下での振る舞い」
混乱を終息させようとしているなら、強制措置の理由を明らかにしなければならないのはもちろんのこと、クーデターを未然に防ぐとか、そんなありふれた理由を勝手に想像してしまうが、明かされた理由が本当の理由でないなら、何か他に隠さなければならない事情もありそうだが、実際にはそんなことではなく、韓国でもフランスでも日本でもドイツなどでも政権与党が劣勢な状況だから、韓国では大統領が戒厳令を発して野党が多数を占めている国会を強引に抑え込もうとして、さらなる混乱を招いているとしたら、事態の打開を図ろうとしたことがかえって裏目に出ていることになるが、それが他の事態が起きるきっかけとなれば、それとは違う方面からそうなった理由や原因を想像したくなって、何か不測の事態が起こることへの期待が一時的には高まったものの、国会の戒厳令解除決議を受けてさっさと戒厳令を解除して軍も撤収してしまったようで、結果的には強制措置が失敗に終わったようだが、それによって隣国への興味が薄れてしまうわけでもなく、もとからあまり興味などないに等しいわけでもないのだが、やろうと思えばそんなことまでやってしまう政治体制というのが、それが未だに戦時体制の国ならではの深刻さというか、そこから北へと向かえばさらに深刻な事態の国もあるだけに、それをこれから世界が激動の時代へと突入しかかっていることの兆しと感じるのも勘違いで、すでに激動の時代の真っただ中なのに、鈍感だからそれに気づいていないのかも知れないし、こんな感じで構わないのかと困惑するわけでもなく、これから日本の周辺で戦争など起こりようがないと思っていることが、真珠湾攻撃の前夜でもそんなふうに思っていた人がいくらでもいたらしいが、すでにその時点では中国で戦争状態だったのだから、今の現状とはだいぶ違っているようだが、日本が戦争の当事国にはなりようがないと思ってみても、今と昔ではだいぶ事情が異なっていて、激動の時代といってもすぐに戦争などで社会そのものが破壊されるような事態になるとは限らず、もっと低レベルの非常事態かも知れないし、低レベルであれば非常事態とは言わないのかも知れないが、事の成り行きとして日本でも国会が少なくとも衆議院では政権与党が過半数割れな状況なのだから、それによって何か不測の事態が起こるとも思えないし、どうせ国民民主などの蝙蝠みたいな政党が与党に歩み寄って事なきを得るのだろうから、そうでなくても政権交代程度の政変が不測の事態であるはずがなく、普通に何年かおきに政権交代が起こっている方がまともな民主主義国の通常状態なのだろうから、今までの状態の方が異常なのかも知れないし、そんな異常さを象徴しているのが政権政党は自民党でなければならないと思い込んでいる狂った国民感情なのかも知れないが、国民が狂っているから三十年もデフレ状態が続いてきたと思うわけでもないし、どちらかといえばデフレでも構わないと思ってきた自分の方が感覚が狂っているのかも知れないし、しかも今もそう思っているのだから、何か感覚がおかしいのかも知れないが、たぶんデフレでもインフレでも自分の生活が成り立っていれば、それが大したことでもないということであり、実際にここ数年でインフレが顕著になって、いきなり米不足で価格が二倍近くに値上げされて、今も高止まりが続いていることについては、正直言って驚いているわけで、まさかこんなことになるなんて数カ月前には予想だにしなかったが、国内米の価格が高騰しているなら輸入米の関税を下げるべきだとかいう議論など一向に出てこないようだし、そういう意味ではだいぶ前から日本の農業自体が産業としては非常事態を迎えているのかも知れないが、それでも現状で何とかなっているという感覚もある意味では狂っているのかも知れないが、それもその程度の感覚など狂っていても何でもないことなのかも知れず、何か騒ぎ立てるような感じにはなっていないような気がするし、そんなことでは騒がない一方で、兵庫県のサイコパス知事の件では誰もが騒いでも構わないようなコンセンサスができあがっているようで、そんなコンセンサス自体もあるのかないのかよくわからないが、それもおかしいような気もしてくるから、そういう方面でも触らぬ神に祟りなしとも言えないこともなさそうだが、何でもかんでも狂っているで片づけられるわけでもないだろうから、狂っていること自体にも程度や傾向の違いがあって、それに関しては例えばスマホでポイ活をやり始めて複数のポイントを集める成り行きになり、色々なアプリを利用しながらポイントを集めてきたが、やり出すと次第に広告による攻撃が激しくなってきて、何かひっきりなしに高齢者の性的興奮を促す薬の広告が表示されるようなったり、ハゲや白髪や皺を抑えるための怪しげなシャンプーや溶剤もひっきりなしに表示されるし、テムとかいう中国辺りのネット通販の寸劇調のCMも不快極まりないから、嫌になってポイ活の類いは全てやめてしまったのだが、何かその類いの領域でも狂気に支配されているような感じがして、そうなると実際の戦争とか内戦とかいう状況とは違った方面で、何か不快感や不愉快な気分にさせられるような日々が続いてしまうから、その種の狂気によって人の欲望を刺激して意識を支配するようなやり方が平然と行われている実態をどう考えればいいのかよくわからなくなってくるのだが、普通の一般人はそれをそんなふうには感じないのかも知れないし、自分もその一般人に含まれているのに違うふうに感じているわけでもないのだろうが、少なくとも疑念を覚えるわけだから、嫌な感じがしたら、自然の成り行きとしてそんなくだらないものはやめてしまうに限るだろうが、そんな広告攻撃に耐えながらポイ活に日々励んでいる人がいれば、果たしてその人が狂人だと言えるのか言えないのかという判断などあり得ないし、普通の多くの一般人がそんなことをやっている現状があるかも知れないし、それを狂気の状況だとは誰も感じていないはずだが、それでも自分はなぜか嫌になって馬鹿らしくなってやめてしまったわけだから、他にも大勢の一般人が嫌になっているはずだと思いたいのだが、それも人によって程度や差異があるだろうから、そんな嫌がらせの広告攻撃などものともしないで平然と平常心でポイ活の類いに日々励んでいる人もいくらでもいると想像できてしまうところが、何というか自分の精神面での弱さを思い知らされるわけでもないのだが、それを狂った世の中だと斬って捨てるような大げさなことでもないだけに、何とも言えないような嫌な感じがするわけだ。
12月3日「自らの存在と死ぬまでの時間」
必ずしも人の行為や行動や言動や動作などが意味を持つとは限らないが、フィクションの中で意味を持たせることはできるかも知れず、そんなフィクションも現実にはあるかも知れないが、現実の世界ではどうかというと、いちいちそれらを意味に結びつけようとしなくても事が済んでしまう場合もあるだろうが、事とは何かと問うまでもなく、意味に結びつけようとする人の都合に合わせて、肯定的な意味や否定的な意味やどちらとも言えない微妙な意味や中立的な意味などに結びつけられて何か語られる場合もありそうだが、語る都合に合わせて様々な意味を結びつけて文章として構成されたものが、いったい何を意味するのかと問うだけ意味不明なような気がするとしたら、そんな問いを発すること自体が無意味というわけでもないが、そういうことではないとしたら、どう問えば納得できるとも思えないし、意味もなく性急に苦し紛れな問いを発するべきとも思えず、それを問わずに何を問うのかといっても、何かを問わないと間が持たないわけでもないとしたら、それらをいちいち特定の意味に結びつけないと気が済まないわけでもなければ、気が済まないのでも間が持たないのでもなく、ただ単にそれが言説に構成される過程で言葉の意味が必要とされるから、そんな必要に応じて意味が求められるような成り行きになってしまい、要するにその意味を問えばその答えが出てくるような成り行きに持って行ければ、何となくそれによって言説としての体をなすような結果がもたらされるのかも知れないし、果たしてそれで構わないのかと問うこと自体が意味不明なのかも知れず、その際に意味不明を放置しておいても大した不都合も感じなければ、そうせざるを得ないようなことにもなってしまうから、そういう成り行きはスルーするしかなく、スルーできなければ苦し紛れに何かごちゃごちゃと屁理屈をこねているような感じになってしまうのだろうが、それこそがスルーしたくなるようなややこしくも面倒な紆余曲折であって、そんな意味不明な成り行きに付き合わされると嫌になってしまうのだが、それでも場合によっては根気強く丁寧に対処したり対応しないと後々さらに面倒でややこしい事態へとこじれて行ってしまうから、それが交渉なのか駆け引きなのか取引なのか、それらが同時並行的にこんがらがりながら入り組んだ様相を呈してくると、何が何だかわけがわからないのはもちろんのこと、そうなると自らの力量や技量を超えてしまうから、まともに対応できなくなってしまうわけで、対応できなくても否応なく無理やり対応するような成り行きにもなると、もうその時点でどうでもいいやと思うしかなく、どうなろうと知ったことではないと投げやりな対応になってしまうと、当然の結果として交渉や駆け引きや取引などがうまく行かなくなるのだが、それをうまく行かなくても構わないように持って行くのも至難の業というか、結果的にはそうでもないことの方が多いような感触なのだが、要するに感情を排した事務的な対応というか単なる残務整理のようなことにもなるから、そんな対応に終始していればそれなりな結果がもたらされて、それで済んでしまえばしめたものなのだが、それがフィクションの中ではそうは行かないからといって、現実の世界ではそうなってしまうことの方が多いかどうかも、各々が取り組んでいることの内容にもよるだろうが、もちろんフィクションにも様々な傾向があるだろうから、一概にそうとも言えないところかも知れないが、その中で起こっている事態の進行が興味深くならないと失敗と言えそうなフィクションが多いような気がするのだが、それが思いがけず驚くような結果へと至ってしまえば成功したことになりそうなのだが、現実の世界ではそうなることはまれで、フィクションのような結果を期待すると当てが外れて、何だかはっきりしない不快な結果となることが多いなら、そこでフィクションではないことを思い知らされるというか、思い知るのでもなければ、何とも感じないような結果に直面して何を思うでもなく、がっかりすればいいわけでもないなら、何をどう判断も評価もしなくても済んでしまうような結果を前にして、困惑するでも悩むでもなく、こういうことなんだと受け止めるしかないというか、受け止められないとも感じられなければ、何かしら受け止めていることになるのだろうが、そこから意味や意義を導き出せなければそれでも構わないと思うわけでもなく、だからといって他に何か思い当たることもなければ、ただただ事態を静観しているだけなのかも知れないが、当事者なのにそんな態度でも構わないのかというと、自分が当事者だとも感じられなければ他人事に過ぎないのかも知れないが、そんなはずがないと思うなら、何かしら自分が体験しつつある事態に関わっているのだろうが、その関わり方の程度や傾向がそれほど大したインパクトも伴わないような関わり方なのかも知れないから、それが何でもないことであるはずもないのに、なぜかどんな結果がもたらされても大して気にならないようなそぶりで関わっているのかも知れないから、それが他人事でもないのに他人事のような受け止め方になってしまうわけで、それでは駄目だと思いたいのだが、誰がそう思いたいわけでもないとすれば、そんなことを記しているのはいったい誰なのかという疑問も抱いてしまうが、それに関してもわざと無関心を装ってしまうのも今に始まったことではなく、自らが誰でもない誰かでしかない世界で生きている気分はどうなのかと誰から問われているわけでもないから、誰に向かって答えるわけにも行かないし、それに対してこの世界の中で存在している自らの意味や意義や存在している時間内で何ができるかが問われているわけでもないと事態を捉えるなら、その存在と時間に何の意味があると問いたいわけでもなく、それが哲学的な問いへと変容する機会がいつか到来することを期待したいわけでもないなら何なのかというと、それも苦し紛れにわけのわからないことを問いかけているに過ぎないと受け止めるしかないが、たぶん答えはすでに出ていて、それに対してちゃんと答えているのに、なぜかそこから延々とわけのわからない蛇足が続いているに過ぎないというか、そんな蛇足もとうに過ぎ去った後からさらに無駄で余分な何かが余計に語られているわけだが、それが自分にとっても他の誰かにとっても思いがけない期待外れな結果なのかも知れず、がっかりするような結果なのだとしても、そこを無理やりにでも通過しないと、なぜか次のフェーズには到達できないと思うか思わないかも、現時点ではどうでもいいことになってしまうような気がするわけだ。
12月2日「攻撃材料の提供」
それほど腑に落ちない事の成り行きでもないが、何かそこに隠された真実とか秘密とかがあれば、興味深いフィクションとして楽しめるのかも知れないし、そんな都合良く真実とか秘密とかが隠されていたためしもないだろうから、大抵は何か驚くべきものが発見されてから、そんなよくありがちなストーリーに再構成されて興味深く語られることになりそうで、話の構造がそうなっていることも、そう語らないと興味深い話にならないからそう語られるとも思えないが、何となく知らないことを知りたいという、しかも思いがけずに驚くべき事実を知ってしまうようなありふれた願望に応えるような成り行きが求められてしまうからそうなってしまうと考えられなくもなく、だからといって無理にそこから奇を衒ってあり得ない別の方向や傾向へと話をねじ曲げるわけにも行かないだろうから、自然の成り行きとしては隠された真実や秘密を探し出すような冒険や推理の話にしてしまうのが無難なところだろうが、具体的に何がそうなのかといっても、もしかしたらそんなことなど全く思ってみなかった事の成り行きが、意外とそんな典型的なフィクションの構造に落とし込まれて語られている実態があるのかも知れず、何かそれによって本当はそうではないことが、そういう方面よりも別の方面に注目すべきなのに、なぜか多くの人々が安易に興味を抱く方面へと意識や興味を誘導されてしまうような成り行きにとらわれてしまい、しかもそれこそが隠されてもいないむき出しの現実から目を背けるための口実に使われているようなことになってしまっていて、なぜそうなってしまうのかも誰にもよくわからないし、そんなふうに人々の関心や世論を誘導している当事者さえも無自覚にそんな成り行きに加担しているのなら、それを陰謀論的に陰から操っている黒幕的な存在など考慮に入れる必要もなくそうなっている可能性があるのかも知れず、そしてそんなよくできた作り話のような方面へと意識や関心や興味を誘導されている方が、むき出しのつまらなくも腹立たしくも不快で不愉快でありふれた現実に直面しているよりは心地良いわけで、誘導している方も多くの人々にエンタメ的な楽しみの材料を提供していると思っているわけではなくても、群衆を思い通りに操作したり制御したり誘導している感覚が心地良いのかも知れず、おもしろがってそんなことをやっていると自覚していなくても、いじめの対象となる人物や集団などを大勢の不特定多数の群衆がよってたかって攻撃しているつもりになれるなら、なおのこと愉快な感覚にとらわれるかも知れないし、例えば正義の味方のような良識ぶった人物が実は悪魔のような世界征服を企らむ闇の組織の手先だったという作り話としては幼稚な部類に入りそうな子供騙し的な嘘なら、騙される人もそれほど多いとも思えないし、それが誰もが知りたい隠された真実や秘密だとも思えないだろうが、ただその種の定型的な典型例のバリエーションとして、何やらイデオロギー的に攻撃の対象となる批判勢力などが構成されてくれば、そういう勢力から批判されて反撃を狙っている人々には願ってもない攻撃材料を提供されて有頂天になるわけでもないだろうが、そういう需要が満たされる範囲内で流布され拡散されることを期待して、それっぽいデマや噂話が形成されるのかも知れず、もちろんそれをおもしろがって流布したり拡散する輩は、それがデマや根拠のない噂話であるのを承知で流布したり拡散するわけだから悪意が込められているのはもちろんのこと、わざとそんなことをやって騒ぎをデカくして愉快な気分になれるわけだから、悪気がないといったら嘘になるが、罪悪感から逃れられるなら、その理由や言い訳を提供してくれる者たちの味方になる方が得だと思われるし、実際にそんな者たちの味方になってくれる一般群衆が腐肉に群がるウジ虫のように大量に湧いて出たというと、そういう成り行きをわざと汚らしく穢らわしく表現しているに過ぎなくなってしまうにしても、良識を気取った人たちにはそうとしか言い表せないような事態なのかも知れないし、もっと穏便に好意的に事の成り行きを受け止められるなら、できればそうした方が無用な反発や反感を買わないで済ませられそうだが、それが子供騙しの宝探しの大冒険を裏返した暗黒面を反映した悪の陰謀論であるはずもなく、そこからだいぶ離れたところで演じられ興じられる馬鹿騒ぎの茶番劇だと小馬鹿にするわけにも行かず、何となくそれっぽいというと、いったい何っぽいのかと問いただそうとしてくる者も誰もいなそうだが、何か冗談で済ませられるならそれに越したことはないとは思わないにしても、そんなことに気を取られている暇はないと言われると、もちろん誰もそんなことは言ってこないし、思ってもいないだろうが、果たしてそんな冗談で済ませたい茶番劇風の騒動の延長上で何が行われているのかと言えば、それがウクライナやパレスチナの地で行われている本物の戦争だと言いたくなる気持ちを抑えて、そんな大げさなことではないと強がる理由もないが、そのせいぜいが日本の国会で行われている質疑応答程度でも構わないと思いたくなるわけで、その前に何やら自然の成り行きをねじ曲げようと画策するような勢力争いや駆け引きや交渉や取引なども行われているような感じもしないではないのだが、どうしても事前の話し合いや多数派工作などには協力を拒む理由を強引に強調したい思惑があるのかないのかも、そんなことをやっている人たちの言い分にも、彼らの都合を反映した言い分になるのも、そうなるのが当然の成り行きであることも承知しておかなければならないとしても、それが少なくとも見え透いた嘘やデマを撒き散らして妨害工作を公然と行なっている者や勢力を利することにならなければ良い程度には思っているのだが、どう考えても倫理や良識よりは利己的で功利的な損得勘定が優先されているように感じられるなら、理性的な態度で妥当な合意が形成されることを期待している人々から失望されるだろうし、その失望の対象となりかねないのがれいわ新選組にならないことを祈るばかりなのだが、それが彼らに課された宿命なのだと思うわけでもないが、何か誤解されるような意図や思惑がありそうな気配もしないわけではないらしく、短視眼的な思考にとらわれてしまうのも周りが見えていない状況下ではありがちな過ちだとしても、それも成り行きとしてはそうなっても構わないような人たちなのかも知れないし、何も彼らがよくできたありふれた物語の主人公などに当てはまる必要もなく、使い捨ての消耗部品であっても構わないわけだから、何か人為的に構築されるアスレチックな難所で思いがけず自然の狡知にハマってしまう宿命だと現状を捉えておいても構わない事態なのかも知れない。
12月1日「原因不明の説明」
そうなっていてもそれほどおかしいわけではないのだが、これ見よがしに目立つパフォーマンスの類いではなく、何となくじわじわと押し寄せてくる何かに行動や言動を阻まれているといっても、何によって阻まれているのかもよくわからないのだが、そうなっているうちに無駄に時間が経過するばかりでは焦りを覚えるような気もするが、それも気のせいに過ぎないなら、事態が一向に改善しない理由も原因も相変わらず何だかわからないのに、そんな気がする程度のことを題材として何を語りたいとも思えないのだから、取り立てて何を語っているわけでもないのだが、何か嫌な気がすると思うなら、確かにスマホでも見れば不快な広告を無理やり見せられているような気がするのだが、それに耐えられないこともないから、それ自体は大したことでもなさそうだが、そんな個人的な感想などではないとするなら、例えば最近メディアでよく見かけるNHK党の立花氏などは、もし来年の夏に衆参ダブル選挙をやることになった挙句に、政権交代でも実現すれば、どうせ立憲民主党辺りが中心となるような連立政権になるだろうから、その際に太っ腹な対応を取れるなら、彼を総務副大臣にでも抜擢して、NHKスクランブル化法案とかいう類いの法案を国会に提出させて、適当に審議して、賛成多数で成立させてしまえば、彼の役割も終わると思うのだが、そんなのはあり得ないと思うのも誰もが納得できないようなことかも知れないが、何となくあり得ないことを語ってみたい程度の戯言に過ぎないなら、そういうことでもいいような気がするわけで、もちろん現状はそうはさせないような成り行きになっているから、本来の目的からは大きく逸脱したおかしな方面へとねじ曲げられてしまうのかも知れないし、そんな成り行きになってしまう原因が何かと問われているわけではなくても、それを誰もが承知しているとも思えないし、何だかわからないがそうなってしまうでは納得できないのも当然だが、実際にそんな事態に直面してみれば、そういうことなのかと納得できるわけでもなくても、実際にそんな類いの理不尽な事態に直面しているとも思えないのに、結果的には何だかわからないわけで、その際に取り立てて物事を込み入らせて難しく考えているわけでもないとは思うのだが、人に本来の目的や役割などがあるなんて思わない方が身のためで、理由も原因もよくわからないまま、誰もそんなことなどやってほしいとも思わないようなことをやる羽目に陥ってしまうなら、それも偶然の巡り合わせでそうなってしまったと思うしかないかも知れず、それに気がつけば、気がつかなくても、どちらでも構わないとも思えないが、なぜか知らないがそうなってしまうのだとしたら、わけもなくそうなっているわけではないにしても、そうなってしまうわけなど知りようがないわけだが、そうなってしまった結果からもっともらしい理由や原因を導き出せても、本当にそんな理由や原因が起因しているのかと疑念を抱くわけでもないのだが、そう思うしかないようなことかも知れないし、そう思わなくても構わないのに、なぜ構わないのかもわからないのにそう思ってしまうとしたら、それが信じられないようなことであっても、勝手に都合の良いように結果を受け止めるしかないかも知れず、それでは理由になっていないし、原因でもないようなことを原因だと思っているわけでもないにしても、何となくそうなってしまうようなことに納得できるわけではなくても、実際にそうなってしまっているのだから、それをどう捉えてもどう考えてもよくわからないわけで、だから思い悩むわけでもないのだが、なぜかそれとは別の方面から事態が揺れ動いたりするとしたら、それを利用して何かを行う機会が到来したと思うのも勘違いなのかも知れないが、そう思った先から事態がこじれてくるわけで、そこからわけのわからない紆余曲折が待ち受けていて、思いがけないところから思いがけないことが起こって思いがけない結果がもたらされるとしたら、実際にそうなってもそれに気づかないし、そうなったとも思えないかも知れず、その代わりに何やらもっともらしい理屈や論理や理論などに基づいて起こった出来事を考察して、結果的にもっともらしく思われる理由や原因を導き出せれば納得できるかも知れないが、果たして自身が納得するために、あるいは自身に関係する人々を納得させるために言説を構成しようとしているとしても、何だかそれでは後出しジャンケンのように感じられるなら、そういう成り行きの過程において、その途中の段階で、すでに起こってしまったことではなく、現在進行形の出来事として事態を捉えられていないのかも知れず、今も絶え間なく事態が揺れ動いている最中なのに、いつも決まってそうなった結果からもっともらしい理由や原因を導き出して納得しようとしてしまうから、その時点で起こっている事態にはそれを説明する言説が対応できていないわけだが、だからといってすでに起こってしまった出来事を説明するもっともらしい言説の内容に納得しても構わないし、それはそういうことだと思い込んでしまってもどうということはなく、説明するのに都合の良い部分を説明しているだけのことだと馬鹿にする必要もないわけで、それを説明できるだけでも大したことであり、他人を納得させる術を心得ているのだから、自分などはその足元にも及ばないと敬っておけば事足りると思うのもちょっと大げさすぎるが、そういうことではないような気がするのだから、何だかそこに謎な不満というか怪しい疑念というか、何だか割り切れない思いに囚われてしまうわけでもないが、ただ淡々と理解すべきことだと思っておいても済むようなことでもないのだろうが、そういう意味では説明できるところだけサンプリングして提示するような言説には不満が残るにしても、それを話術や文章術によって他人を納得させることができるとしたら、そんなのはまやかしだと批判するようなことでもなく、それはそれでそういうことだと受け止めておくしかないのかも知れず、それ以上のそれを超えるような言語術の出現を期待しても当てが外れるだけで、その種の言説によって全てを説明できるわけでも、その全てに納得できるわけでもないと思っておいても構わないかどうかも、それもそういうことではないと受け止めておいても構わないようなことなのかも知れない。
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