彼の声165

2024年

11月21日「災いと幸運の兆し」

 たぶんそれがどちらでも構わないようなことではないはずだが、どちらかというとそれをやってみた方が良さそうに思われて、それをやってみることによってこれまでよりも良い状況や状態になるならさっさとやるべきなのだが、そうなるかならないかがやってみなければわからないとしたら、そこでやるかやらないかの決断を迫られていて、実際にやってみてひどい状況や状態になってしまったら後悔することになりそうだが、予想外のことや思いがけないことが起こるのはそれを考慮に入れていなかったからで、やる前から全ての可能性を考慮に入れておくことなどできはしないし、予想通りのことや思い通りのことが起こっても、それが完全に予想通りであったり思い通りであるとは限らないし、そう思っているだけで実際には違うことに気づいていない場合もあるから、想定内のことが起こっているのにうまく対応できなかったり、対処がうまく行かなかったりするかも知れないし、そうなってしまうことが思いがけないことでもあるなら、事前の見込みや認識が甘かったことになりそうだが、こんなふうに述べてみたところで、こんなふうに述べている自らが直面していたり関わっている物事にうまく対応していたり対処できているとは限らず、述べている限りで勝手に述べられる範囲内では思い通りに述べていることになりそうだが、それもそう思っているだけで、そんな思いから外れたところでは思いもしないことを述べてしまうかも知れないし、この時点ではこれから思ってもみないことを述べる羽目に陥るかどうかなんてわかりようがないが、それが自分にとって想定外の思いがけない事態だとしても、適当にいい加減にそんなことを述べている程度では大したことでもないだろうから、想定外のことや思いがけないことを述べているとしても、すぐにそれが深刻な事態や致命的な結果に至るなんて到底思えないのだが、そうなっていることに気づいていないのかも知れず、その気づいていないことが将来どんな災禍をもたらすとしても、あの時あんなことを述べなければよかったなんて思えないし、述べたこともとうに忘れてしまっているだろうから、それがどうしたわけでもないとしても、実際にそうなればそれとは別の理由や原因を考えてしまい、それが見当違いなことになってしまいそうだが、思いがけないことを述べてしまって後戻りが利かなくなるなら、もうすでにそれに気づいてしまったことになるだろうが、気づいているのに、執拗にそれとは別の理由や原因を探ろうとしていれば、演技としてそんな振る舞いにとらわれていることになりそうで、述べてしまったことをごまかそうとしているわけだが、その気もないのに思いがけないことを述べてしまって自分でも驚いていれば、そこで自らの本心や本音を知ってしまって驚いていることになるかというと、それを否定したいならそうではないと思いたいのだろうが、そんな驚きでは済まないとなれば何なのかというと、やはりそうではないことを証明しようとして、それとは別の理由や原因を無理にでも導き出そうとして焦っていると受け取っても構わないかといっても、そんなのは他人の受け取り方次第で勝手にそう思われることでもあるから、当人には都合の悪い解釈以外はなるべく受け入れるつもりであっても、それも他人にとっては知ったことではないのかも知れず、自分がそれをどう受け取ろうと、他人がどう受け取ろうと、誰の知ったことでもないとは言えないはずだが、なぜかそんなどうでもいいことを押し流すような出来事も思いがけず起こってしまうわけで、それがそれまでに述べてしまっていたことに起因して起こるわけではないとしたら、理由でも原因でもないと言えるかというとそうでもなく、そんなことを述べてそれを実行するために活動してきたから、そういう出来事を呼び込んだと解釈しても構わないのかも知れず、それが当人にとっては災禍でもあり、受け止めようによっては幸運を呼び込む兆しでもあるなら、どちらなのかと判断するまでもなくどちらでもあって、災禍と共に幸運も呼び込んでいるわけだから、そういう成り行きがその人の活動そのものだと受け取っておいても構わないし、その人との関わりの中でどう受け取るかが決まってくるなら、一応はその人の関係者の立場を占めているわけだろうが、それを赤の他人から見れば、何か怪しい関わり合いの中で共犯者のような関係に見えるとしたら、それが悪どいことをやっているようにも感じられて、実際にも兵庫辺りで悪どいことをやりまくって世間に悪名を轟かせた人もいるだろうし、しかも多くの人々がその悪どい活動に巻き込まれて、その人に手を貸して誰を助けたのかと言えば、言わずと知れた人物になるのだろうが、その人物の関係者が二人も自死を選ぶことになったことも事前に明らかになっていただけに、その脅迫まがいの悪どいやり方に加担した人々が将来のどこかで後悔して反省するに至るかというと、たぶんこれからそういうことがどうでもいいことになるような事態に至ってしまって、そういう出来事が起こるわけでもない代わりに何も起こらないわけでもないだろうが、全てがうやむやにならないような対処や配慮が求められていても、そういう対処や配慮を台無しにするような出来事も起こるわけでもない代わりに何も起こらないわけでもなく、何が起こったのかがそれが起こった時点では判断のしようがないのだが、それを泥縄式の成り行きと表現してみてもしっくりはこないだろうが、結果的にその人物がどうにかなってしまうわけで、そのどうにかなってしまう成り行きがこれから決まってくるのかも知れないし、その決まり方も泥縄式に決まってくるのかも知れず、要するに捕えようとして捕えきれなくなってしまうのだが、それが結果的には功を奏するわけで、捕え損なっているのに功を奏するのだから納得できないわけだが、悪どい人を泳がせておけば結局どうなるかが現時点ではよくわからないわけだから、それでも構わないと考えるなら、せいぜいが何でもないと言えるような結果に落ち着くのかも知れないし、ごまかせばごまかすほどそこで暗躍している人や団体の悪事が積み重なるわけだから、そんなことに加担した人々の溜飲など下がるわけもなく、彼らのざまあみろが仇となって、何かとんでもないことが起こるなんて考えるまでもなく、それとは全くの無関係と言えるようなところから災いがもたらされて彼らが結果的に滅び去ることになっても、それが彼らの悪事のせいだなんて思わない方が身のためなのかも知れず、その種の因果応報が不完全な程度にとどまるからこそ、それが幸運が訪れそうな兆しとなるのかも知れない。


11月20日「制度変更の是非」

 現状で何かを取り逃しているのは確からしいと感じていても、その取り逃している物事を知ることができるかというと、それも知っていて、知っているのにこれだと指摘できないようなら、隠している方が現状では都合が良さそうだが、何で都合が良いのかわからないはずがなく、それも知っているのに知らないふりをしているわけでもないとしたら何なのかというと、そのわけを知っているのになぜかそれも述べることができないのかも知れず、そう考えると何だかややこしい事態に陥っているのかも知れないが、相変わらずそれでも構わないようなら、そのまま事態を放置しておくしかないが、もっと他にやりようがありそうなのに、それをやってしまうと何かのバランスが崩れそうで、それが何のバランスなのかもはっきりとはわからないが、そうなることを恐れてそれができないとなると、臆病風に吹かれていることになるらしいが、今は臆病でも構わないと感じているのだから、黙ってそういう成り行きに従っていればうまく行くのか行かないのかも、それもどちらでも構わないのかも知れないし、うまく行っている面と行っていない面とがちょうど良くバランスが取れているのかいないのかも、それもどちらでも構わないようなことかも知れないから、現状のままでも構わないと思うしかなく、無理にいじるようなことではないと思っていても、いったいこれから何をやれば良いのかがはっきりしていないわけでもなく、すでにやることが決まっているのに、それを明らかにできない理由もないとなると、それ以前に回避しなければならないことでもあるのかというと、実際に回避しつつある状況なのかも知れないし、それが自分には関係のないことだとすれば、いったい誰がそれを回避しつつあるのかと言えば、それも言えないなら、誰かの想像にまかせるしかなく、今はその方が都合が良いということにもなるだろうが、勝手に都合が良いと思っているだけで、本当は良くも悪くもないとしたら、自らの勝手な思い込みでしかないだろうが、面倒なことには関わりなくないという怠惰な気持ちでいたいなら、新たなことは何もできなくなってしまいそうだが、何かをやろうとすると面倒でややこしい事態に巻き込まれてしまうなら、もうすでに安定した人間関係の中に身を置いているから、そこで余計なことを無理にやろうとして波風を立ててしまうと、周囲に迷惑が及ぶから、なるべくならそういうことをやらせないように周囲から圧力がかかっていて、そんな圧力を振り切ろうとすれば、当然のこととして周囲の人々との間で軋轢が生じてくるわけだが、今が実際に余計なことをやっている最中であるとしたら、当然面倒でややこしい事態に陥っているはずだが、なぜそうなってしまうのかといっても、そんなのもわかりきったことであって、現状で成り立っている有利不利の関係をぶち壊そうとしているわけだから、当然有利な立場を占めている者たちからの反発を招いているわけで、それが制度的な面で最近世間の話題となっているのが、選択的夫婦別姓に関わる面での、反発や反感に結びついているのだろうが、その一方で、そこから人々の関心を逸らすのに利用されているのが国民民主党がやっているごまかし戦略だと言ってしまうと、両者を結びつけるのも恣意的な意図や思惑があると穿った見方をされる危険性もあるが、対立することではなく、両方共に同時並行してやって行けばそれで構わないようなことだろうが、そもそも国民民主党がやっているのがごまかし戦略かというと、それも否定的に捉えるならそうと言えないこともないにしても、その程度の制度変更で済んでしまうなら、それが改悪だろうが新たな問題も生じてくるにしても、やってから他の面がひどくなるようなら、また再度制度変更するしかないだろうし、そうでなくてもちょっとした制度変更を大げさに宣伝しまくって、それを馬鹿な一般大衆が真に受けて世論調査の支持率が上がる仕掛けというのも、多くの人々が百も承知でそれに乗っかって、何とかもう一方の制度改正の意味や意義を貶めようとしているかしていないかも、現時点では何とも言えないところだが、制度変更によって社会の枠組みや有利不利が変わってしまうことの方が問題なのであって、しかもそれが合理的に考えても良い変化だと思われるほど、それに対する風当たりも当然強くなるわけだが、人種差別や民族差別や性差別などが、そういう否定的な傾向を容認してきた社会を変えようとする試みだからこそ、それを改善しようとする制度変更に対して苛烈な反発や反感を伴うのだろうが、死刑制度の廃止の是非に関しても、全く同じようなとも言えないが、それ相応の苛烈な反発や反感を伴うにしても、それよりは選択的夫婦別姓の方が社会的な影響が大きいと踏んでいるのだが、それだけに卑怯なやり方で妨害工作を仕掛けてくる輩も多くなると予想したくなるが、何かそれが意外とすんなりと成立してしまうようなら、感情的な反発や反感よりは功利的な損得勘定の方が勝ったと考えても良さそうだが、それが国民民主党のせこくてごまかしやまやかしなどを伴っているように感じられるちょっとした制度改正よりは、より単純でごまかしようのない改正内容だから、どうしてもそれに対して反発したり反感を抱いてしまうと、よりおかしな論理や屁理屈などを用いて反論をしないとならないようなことにもなりかねないから、それほどまでにして反対しない方が功利的にも得なのではないかとも思いたいのだが、そういうところは反対する当事者ではないので何とも言えないが、果たして単純な立場の有利不利で考えてしまうのも、それに対していくらでも反論しようと思えば反論したくなるようなことかも知れず、そういう反論に再度反論する気にもならないだろうが、反対する気になるかならないかが問題となるわけでもない代わりに、合理的に考えて正しいような物事に対して無理に反対したくなる感情的な作用が、どんな社会的な傾向から生じてくるのかといえば、有利な立場を占めているような気がする感覚が、そういう立場を守っている自らを正当化したくなる気持ちに気づいているわけではないにしても、実際の言動の中にそれが露わになると、それに対して言いわけがましく否定したくなるような感情も芽生えてくるわけで、要するに合理的な正しさを社会が拒否する限りで、それを拒否することによって社会の中で理不尽な傾向の有利不利の関係が成り立つわけだが、そこから人々の目を逸らすには、国民民主党が主張するようなより小さな微々たる損得勘定の方へと人々が関心を抱くように仕向ける必要があるのではないか。


11月19日「政治と経済と他人事」

 それに関しては例によってあまりはっきりしたことは述べられないが、何だか馬鹿げているように思われることの理由や原因を知りたいわけでもなく、それが馬鹿げていると思ってしまうことも、それほど馬鹿げているとも思っておらず、何となくそう思われる程度のことに過ぎないのだが、何か適当な感じでそうなっているに過ぎないことなら、それをそのまま継続させておけば良いんじゃないかとも思われるのだから、それをことさら難じる必要もなさそうにも感じられて、それが政治に関わってくることであっても経済に関わってくることであっても、そこからちょっと距離をおいて考えてみれば、それほど深刻なことにも思われないわけだが、当事者にとっては死活問題となるようなことであっても、第三者というか、わざと関わらないようにしている人であれば、見て見ぬ振りができる限りで平静を装えるだろうが、なぜそこから目を背けたいのかと言えば、自分に火の粉が降りかからないようにしたいという理由がすぐに思いつくが、無用なトラブルに巻き込まれたくないなら、なるべくそこには近寄らないようにしながら、うまくそこを通り過ぎてしまえばしめたものだと思っているわけではなくても、何となくそういう成り行きに沿って行動していれば、災禍を避けられたことになりそうだが、具体的に何を避けているのかと言えば、身の破滅や人間関係の破綻を避けたいのかも知れず、それが個人的な事情を反映するようなことでもないとしたら、他からの経緯が絡んできたり、その場に特有な事情が影響を及ぼしてきて、それが自分の事情や経緯よりも強くその場の情勢や状況の中で働いていると、自分にはどうすることもできなくなってしまうから、そうなるのを避けるためにもなるべくその場で問題となっている他人事には首を突っ込みたくはないのかも知れないが、自分がどう振る舞おうとしても、否応なく他人の問題に巻き込まれてしまうとすれば、それがとんだ災難だと思うしかなくても、そうなってしまうのを被害妄想程度のこととして片付けたくはないだろうし、何かこれといって実害と言えるような被害を受けていなければ、普通に考えて何でもないことなのだが、今現在の状態や状況としては確かに何でもないような感じとなっているとしても、後から忘れた頃に何やら深刻な事態となってしまっていることに気づいてくるようなら、過去に遡ってあの時のあの行為や行動や言動がまずかったのだと気づけるかというと、その大半は忘れてしまって思い出せないとしても、まれに後からハッと気づくこともあって、あの時のあれだったんだと気づいたところで後の祭りだが、そういう事態に今まさにそれと気づかずに遭遇している最中なのかも知れないが、今ここでそれが何かといっても後からでしか気づけないわけだから、それに言及することなどできはしないとしても、なぜかそれとは違う他人事には世間の話題程度のこととして気づいていて、他人事なのだから無理にそれについて言及しなくても間に合ってしまいそうだが、何を間に合わせようとしているわけでもなく、逆に間に合わないから言葉を用いて説明しようとしているような感じなのかも知れないが、それが自らにとっても厄介事であるから、なるべくなら関わりたくはないのだとしても、なぜかそういう成り行きに巻き込まれて難儀な経験をするわけで、それが自分にとっても見ず知らずの他人にとっても何やらそうなるのが宿命のようにして絡んでくるのだろうが、それが政治的にも経済的にも面倒な事態をもたらしているのだとしても、それに対して傍観者程度の関わりで済ませられるのかというと、そんな関わり方で済んでいると思っていられるなら幸せ者なのかも知れないが、知らぬが仏という意味を知っていなくても、多くの人々が知らぬが仏であろうと試みるのかも知れないが、否応なく関わっていることに気づいていないふりを装っていても、そこで深刻な何かが見過ごされてしまい、多くの人々が見過ごしている隙を突いてやりたい放題やろうとする者たちがそこで暗躍することになるだろうが、果たしてそれでやりたい放題やっていることになるのかといっても、そんなことには関わりたくはないから、それが面倒な事態を伴って自らに絡んでこない限りは、相変わらず見て見ぬ振りを装っていられて、多くの人々がそんな態度や姿勢に凝り固まっているほど、取り返しのつかない破局がだんだん近づいてくると思っていると、なぜか肩透かしを食らうわけで、それが肩透かしなのかどうかもわからないままその場を通り過ぎてしまえば、何でもないことにもなりかねないが、何かに気づいてそこで立ち止まっても、何の得にもなりようがなければ、立ち止まってみただけ損かも知れないが、何を見たことも記憶に残っていなければ、いくらそれを見て大げさに騒いだとしても、そんなことさえ覚えていないのかも知れず、今がまさに大げさに騒いでいる最中なのかも知れないが、なぜかそんな騒ぎにも加わろうともせずに事態をやり過ごせるなら、果たしてうまく立ち回っていることになるかどうかも定かではないが、何が起こっていても知らぬが仏で済ませていられるなら、少なくとも自分にとってはどうということでもないはずだが、それが他人にとって深刻な事態であるかどうかもわざと理解しないようにしているわけでもないだろうが、自然な成り行きに従っている限りで、うまくそういう面倒な判断をしないで済ませられるようなら、たぶんそれで構わないことになってしまうはずだが、そんなはずがないと思いたい人も世の中にはいくらでもいそうだが、うまく自分の方に運を引き寄せられなければ、他人事のままでも構わないのかも知れず、それが無理に無視しているわけでもなければ、実際に無視されているわけだから、こちら側でも無視しているふりを装うまでもなく、何事もなくその場を素通りできるのかも知れず、それが関わらないに越したことはない事態である限りで傍観者でも構わないような気がしてしまい、そんな自分が何に励まされているわけでもないだろうが、その場の空気が自分を無色透明な何でもない存在に仕立て上げているような感じがするだけで、そんな気がする限りでうまく立ち回っているわけでもないにしても、何か無理に欠点や難点を指摘するようなことでもないのかも知れず、そうやって何とか誘惑に屈せずにそれについて言及するのを避けられたような気がするわけだ。


11月18日「ファシズムに屈した兵庫県民」

 それをフェイクファシズムだと言うのは簡単だが、ただのファシズムなんじゃないかと思いたくなるのも洗脳によるものなのかも定かでないが、ある意味では民主主義の勝利だと言い放ちたい気分でもあって、兵庫県民がファシズムに洗脳されているとしたら、民主主義にも洗脳されていそうで、民主主義が行き詰まった挙句に形作る究極の最終形態がファシズムなのだから、民主主義の進化形態であると共に、フェイクファシズムこそがファシズムの進化形態でもあり、それが最終進化形態なのか、あるいはまだその先があるのかも現時点では定かではないが、何やら愉快な世の中になってきたと思っているのは、フェイクファシズムの担い手となって実際に活動した人たちが抱く好意的な幻想かも知れないが、それを否定して非難するのは簡単だが、何となく今はそれで構わないんじゃないかとも思ってしまうわけで、民も社会も心が堕ちるところまで堕ちないと再生は不可能なのではないかとも思いたくなるが、堕ちているのではなく、中身が空っぽになりつつあるから、それがファシズムに洗脳された当事者たちにとっては快楽の源泉となっているのではないかと推測してしまうのだが、全くの見当外れかも知れないから、今は勝手な憶測だと思っておいても構わないが、それが左翼をやっつける快感だとも言えないこともなく、フェイクファシズムの首謀者たちの底意地の悪い勝利の笑みを見る度に吐き気を催す人がいれば、そんな自らが左翼やリベラルな思想にハマっていることを自覚せざるを得ないだろうが、それもたぶんそういうことではないと感じるなら、そこで展開された一連の事の成り行きに疑念を覚えている証拠となるかどうかも定かではなく、何かがおかしいことは確かなのだが、それの何がおかしいのかがよくわからないわけで、彼らの見え透いた嘘に騙されたのが兵庫県民だとしたら、別にそれでも構わないような気もするわけで、不快な真実を知るよりは騙されていた方が幸せな気分になれるなら、騙されていた方がマシな気がしてしまうのかも知れず、騙されている自覚があるなら、騙されたふりをしながらフェイクファシストたちの味方を装っている自覚もありそうで、そんなことで構わないのかと誰から非難されるわけでもないとは到底思えないものの、左翼憎しの感情で凝り固まっていた方が仲間意識を共有できる面では安心感を覚えるかも知れず、それが彼らの心のよりどころかどうかも当事者ではないから何とも言えないところだが、東京や大阪の首長もそんな感情で凝り固まっていそうで、その種の反共思想がそれらの人々の精神を根深く蝕んでいるのかも知れないが、それを幻想にとらわれていると言ってしまうと単純化も甚だしいのだが、幻想でなければ何なのかというと甘えに他ならないと言ってみても、では何に甘えているのかと言えば、国家に甘えているのは左翼も同じはずだから、そうなると勘違いの度合いも深まってしまい、何を良し悪しの判断基準に据えればいいのかよくわからなくなってしまうが、今も増え続ける政府の債務が彼らの甘えのバロメーターだと言い放ってみても、何かそれでは的外れな気がしてしまうのだが、そういうところも右と左とフェイクな右や左も含めて、どちらであっても良し悪しの判断基準とはならないような気がするのだが、兵庫の事例から言えることなら、空疎な官僚主義に染まった中身の空っぽな人物が選挙で県民の信任を得て再選されたことになるのだが、それは東京でも大阪でも似たような傾向だから、行政は官僚に任せておけばいいということになってしまい、そうなると行き着く先には中国の途中で建設が放棄されたゴーストタウンのような未来が待ち受けているかも知れないが、そこまで行かないうちに在野の市民主導で何とかしなければならないだろうから、そこに左翼やリベラルな人々も目をつけて、市民運動のような形態を構築しようとするのだろうが、それに対抗してフェイクファシズム陣営の方でもデマを撒き散らしながら妨害工作を仕掛けてくるわけで、それが今回は功を奏して今だけ金だけ自分だけの人物を再選させてしまったと受け止めれば良いのか良くないのかは、今ひとつ判断しようがないような気がするのだが、その一方で左翼憎しという感情的なイデオロギーによって仲間内の連帯を保っているところが危ういところでもあって、それは世界中の極右勢力にも言えるところだが、イデオロギーとは別の方面から、もちろんそれが誰もがわかっていることでもあるのだが、経済的な観点から物事を考えてみなければならないわけで、わかっているからこそ、そこから目を逸らそうと試みるわけで、なぜ目を逸らさなければならないかというと、どうしても経済的な合理性を考慮に入れると移民を受け入れざるを得ず、もちろんそれが最優先で拒否すべきことでもあるから、世界中で矛盾が生じてしまうわけだが、経済的な利益を追求して自国を富ませれば、相対的によその国が貧困化して、そこから経済的に繁栄した国へと移民が押し寄せる結果を招くから、移民を排除した上での経済的な繁栄を模索するとなると矛盾に直面するわけで、そんな単純な理屈では誰も納得できないのだが、そこから幻想的な価値観として何が生じてくるのかと言えば、普通に考えればそれが自国民だろうと外国人だろうと困った人々を人道的に助けるという左翼思想に行き着くわけで、そうなると助けるための経済的なコストも社会的なコストも生じてくるから、そこを極右勢力からつけ込まれて攻撃された挙句に民衆からの支持を失ってしまうわけだが、今回の件はそれとは違うのだろうが、連日のようにデマや嘘を洪水のように流し込まれて人々の精神がおかしくなってしまったと事態を捉えても、何かそれでは腑に落ちない面がありそうな気がするなら、事の真相はよくわからないのだが、そんなことをやればうまく行くと思い込んでくれればしめたもので、今後もその調子でいくらでも気が済むまでやってほしいと思っているわけでもないにしても、それで構わないような気がするのは自分一人だとも思えないわけで、彼らが憎悪の感情を他の多くの人々に伝染させることによって行き詰まった事態が打開できるとも思えないにしても、それも気のせいに過ぎないことだと馬鹿にしたいわけでもなく、別にそれによって経済的な行き詰まりが打開できるとも思えない一方で、それが国内の経済的な行き詰まりを象徴するような事件でもないなら、では何なのかと言えば、他の何かと同時並行して起こっている現象だと事を捉えたいわけで、その他の何かの中には経済的な行き詰まりや政治的な行き詰まりも社会的な行き詰まりもある一方で、行き詰まりだけではなく希望や期待も含まれているような気もするわけで、それが的外れで勘違いな希望や期待だとも思えないわけだ。


11月17日「部品と社会システム」

 何かの部品が、それが組み込まれているシステムの中では有効に機能していることになるとしても、部品でしかない存在が、それが実際に何かの機械に組み込まれた部品であれば、機械にとっては必要不可欠な存在となるだろうが、比喩として言語表現の中で何かを部品扱いするとなると、いったい何を部品扱いしたいのかと言えば、特定の人物を何かの部品として扱いたくなってくるとしたら、それが人道的な観点から言えば、部品扱いされた人からすれば、ひどい扱いのように感じられるかも知れないし、俺は〇〇の部品なんかじゃないと抗議したくなるかも知れないが、ではいったい誰が何かの部品なのかと言えば、それが微妙に違うような気もするのだが、人が部品として機能するシステムとは何かと言えば、それが何だかわからないでは話にならないが、話にならなくなてもここでは暫定的にそういうことにしておきたいのかも知れず、何かもったいぶって答えとなる部分を隠しておいて話を進めたいわけで、それが何だかわからないままにしておいてから、それとは違う方面で述べておきたいことがあるわけでもなく、そうやってわざとはぐらかしながら話を先へと進めたいわけだが、それに関しておかしな方向と言ってしまうと、現状で進行中の事態が、ちょっとした効果を大げさに宣伝しているような成り行きに思われるとすれば、それがなるほど合点が行くようにも思われて、そんな見え透いた雰囲気作りに関与している人物が何かの部品として機能して、結果的にはメディアの印象操作の罠にハマっているような気もするわけだから、罠にハマっているのが誰とも言わないが、ただ漠然と多くの人々が印象操作の罠にハマっているような気がするだけだから、本当のところはそうでもないのかも知れないし、逆に多くの人々がそんなわざとらしくもごまかしのような争点逸らしの成り行きを冷ややかに見下しているのかも知れないが、何かのついでにちょっとした制度変更が必要だとしても、それ以外のところで、それとは比べものにならないほど切実に求められている制度改革があって、どちらかと言えばそちらの方がメディア的には脚光が当たるべきなのに、どういうわけか知らないが、何とかそうならないようにしたい思惑が働いているのかよくわからないのだが、小狡そうな小人物がまるで機械の部品のように動作して、そこから世の中の関心を遠ざけようと画策して、せこいところで邪魔をしているように見えてしまうわけだから、果たしてそんな部品のような動作を体現しているのが誰なのかと言えば、その小狡そうな小人物の名前を挙げればなるほどと思うか思わないかも、そう思う人の資質にもよるかも知れないが、それが例えば漫画の「ドラえもん」に出てくるスネ夫のような役割分担と言えば、何となくそんな気がしないでもなく、スネ夫のようにせこく小狡く立ち回って小さな利益を求める姿勢に共感する人も、世の中にそれほど多くいるわけでもなさそうだが、そういうことではないと反論したいなら、反論の対象となっているちょっとした制度変更が何かを示さなければならないだろうが、たぶんそんなことをこれ見よがしに示すのが何か嫌な感じがするから、わざとそれを示さないまま話を進めたくなってしまうのだが、そういう意味では何の説得力もない話になってしまいそうで、まずいような気もしてしまうのだが、何よりも人としての器の小ささやスケールの小ささがこれほどまでにむき出しになっているのに、そんな人物をまるでスター扱いしているメディアがいるはずがないと思いたいのだが、その辺のところも含めて、よくわからないというか、自分自身がわかろうとしていないのかも知れないが、それ自体はちょっとした制度の手直しという意味づけでやってみたら、それはそれで強硬に反対するようなことでもないのだろうが、それ以外のところで意味もなく強硬に反対しているようなことがあるだけに、そこから人々の関心を逸らす目的で、ちょっとした制度改正の方を大げさに宣伝しているわけでもないのだろうが、何かそういう成り行きが意図的に歪められているような気がしてしまうから、スネ夫的な立ち回りが目立っている小人物にメディアの脚光が当たるのには警戒してしまうのかも知れず、そういった小さな損得勘定ばかりにこだわるのではなく、もっと広範囲に人心が偏見にとらわれている社会システムそのものに少なからず影響を及ぼすような制度改革の方が重要だと思われるのだが、そうでなくても日本という国家自体がアメリカというジャイアンのような国家にゴマをするスネ夫的な位置づけの国家だと思ってしまえば、少なからず自尊心が傷つく人も出てくるかも知れないが、自民党という落ち目のジャイアンにゴマをする国民民主党の玉木という小人物も何となく情けない雰囲気を漂わせていて、果たしてそんなことをやって国民の目を欺けるようなら、国民も情けないような気がしてしまうし、それではまずいような感じなのだが、ではどうなれば情けないイメージを払拭できるのかというと、皆目見当がつかないわけではなく、そうではないなら何なのかというと、そんなことを思ってしまうこと自体がメディアの世論誘導に屈しているような気がしてしまい、そういう思い込みから意識を引き剥がさないと現状を客観的に捉えられないような気がしてしまうであり、無理にも客観的に捉えようとしなくても構わないのだろうが、なぜ構わないのかもよくわからないにしても、それとは違う捉え方がありそうに思われる限りで、思考を働かせなければならないらしく、ちょっとそれとは違う方面から物事を考えてみようと思っているのだが、だからと言って財務省の思惑通りに事が運んでいると言いたいわけでもないが、そんな財務省でさえ日本という国家をジャイアンに見立てれば、国家にゴマをするスネ夫的な存在が財務省であり、国家よりも国民にゴマをするスネ夫的な存在にならなければならないなんて誰も思うはずもないことだが、強い立場にある存在にゴマをする役割というのが、何よりも受け入れ難いと思うわけでもなく、何となくメディア的なイメージ操作に屈してそんな先入観を意識に植え付けられているのではないかと疑ってしまうのだが、それを部品的な価値観だと考えているわけではないものの、主体的な気持ちで自立的に振る舞う態度を保ちたいなら、そんな何かのパーツ的な立場からは脱したいと思うのも自然な感情の発露だと思いたいのだが、それも客観的に考えるなら何かしら社会に依存しないと生きては行けないわけだから、そういった依存体質を意識しつつも、一方では主体的に振る舞う気持ちも維持しなければならないと思うなら、人は社会システムの部品であると共に、そこから絶えず抜け出そうとする存在でもなければならないのかも知れない。


11月16日「フェイクな誘惑」

 いつものようにそれが何だかわからないが、何か嫌な予感がするということが、ありふれた心理作用の一種だと理解すれば納得できるわけでもないが、気のせいで済ませてしまうことが大半を占めるとしても、ちゃんと理解しているのではなく、いい加減にそう思い込んでいるに過ぎないと思っておくだけでも安心できるわけでもなく、そのわけを知りたいと思うわけで、知って安心したいから知りたいと思うのだろうが、それにしても偽物感丸出しに見えるような人が、なぜいかがわしい思惑を隠そうともせずに、わざとらしくこれ見よがしに疑念を表明するのか、理由を知りたいと思う以前にわかっていることがあって、見え透いた嘘をついたり卑劣なデマを撒き散らしながら、そうすることによって世の中を変えようとしているわけでもないのだろうが、そんなことをやっている人たちの意図や思惑がわかりすぎるくらいにわかっているのに、何かそうではないような別の意図や思惑を想像したくなるわけで、それが面倒でややこしい心理作用だと思っておけば気が済んでしまうようなことでもないが、彼らが情熱を傾けている対象というのが、彼らの都合を最大限に反映した妄想の中ではいかに魅力を発揮しているとしても、それが倫理的に許せない行為を伴ってくるだけに、それではまずいような気がすると共に、それに関して例えば本物と偽物の違いから説明できれば簡単な理解にとどまってしまいそうだが、果たして本当にそうなのかというと、まれに何かのきっかけから努力次第で偽物から本物へ移行できるとしたら、すでに偽物のレッテルを貼られて久しい人や団体が、彼らが本物になりたいがために必死になってやっている努力の賜物としての成果だと受け止めたくなってしまうのだが、本物と偽物の違いをどう受け止めれば納得できるわけでもなく、おもしろければどちらでも構わないし、偽物でも楽しめればそれで構わないような成り行きに心身がとらわれてしまえば、それと意図しなくてもフェイクな話題やそれを世に広めるために行われる煽動活動によって盛り上がるしかないのかも知れず、そこまでは予定調和な成り行きであり結果だと見ていて、それ以上に何かとんでもなく勘違いしていることがあるわけでもないだろうから、それを信じられるか否かではなく、切実に信じたいし、信じているふりを装うことによって、そこに集まった群衆に集団の力が付与される瞬間に立ち会っているだけでも、意識が高揚感に包まれて快感を伴うアドレナリンやドーパミンなどが脳内で分泌されるのかも知れず、だから何だそれがどうしたとそれらの人たちの活動を馬鹿にしたいわけでもないのだが、フェイク感が半端なく感じられる限りで、どう見てもみっともないような雰囲気が満ちていて、世の中には悲惨な結果を招くことを狙っているのか、彼らにとってはそれが悲惨でも何でもないどころか、素晴らしい成果だと誇れるようなことなのか、そして彼らが目指していることが、本当に彼らがそれを目指しているのかさえ疑わしいような気もしてくるから、馬鹿なんじゃないかと簡単に言えるようなことだとしても、どうしてもそれで済ますわけには行かない事情がありそうにも感じられてしまい、それが陰謀論的な成り行きなのだろうが、何かそれ以外にもやりようがありそうで、もったいない感じがしてしまうわけで、彼らが悲惨な人たちに見えてしまうのも、こちらがそういう目で見ているからだとしても、フェイクな誘惑に屈しているように見えてしまうこと自体も、彼らにとってはあんなふうに振る舞うしかやりようがないなのだと理解したくなってくるから、同情しているような気にもなってくるのだが、彼らをああいう活動へと追いやっている何かが世の中に作用していて、それが何なのかといえば、簡単にいうなら、正義が果たされていないから、それに対する抗議の意味も込めて、不正義を行なう余地も生じてくると理解しておけばいいような気もするわけだが、ではなぜ彼らは正義ではなく不正義に訴えかけるのかといえば、それを正義だと思い込んでいるようには見えないのだが、彼らが実際にどう思っていようとそれは正義ではなく、正義を果たそうとして正義とは逆の不正義に訴えかけているような逆説的な成り行きが生じているように見えるわけで、あれが彼らなりの正義なのだと肯定してしまってはまずいだろうから、彼らにとってはあれが正義であっても、こちらは不正義だと理解しておくしかないのだが、それとはちょっと違う視点から述べようとすれば、彼らが狂気に囚われているとも言えてしまうだろうが、あれが狂気なのかというと、やはりそれもちょっと違っていて、狂気でなければ何なのかといえば、狂気に囚われているように装っていて、演技として狂気に囚われた群衆を演じていると理解したくなってくるわけで、要するに彼らのやっていることを正義だとも狂気だとも認めたくない代わりに、フェイクな正義でありフェイクな狂気だと見なしておけば済むようなことかも知れないが、何でもかんでもフェイクで片づけてしまっても構わないのかというと、どう見てもそうとしか言いようがない事態なのかも知れず、そんなふうにして兵庫県あたりで正義や狂気の模造品と化した人々がまるでゾンビの群れのように徘徊しているのを目の当たりにして、あれをどう受け止めればいいのかわからず困惑するまでもなく、あれをトランプ現象の劣化版や矮小版だと揶揄したくもなってくるかも知れないが、トランプ現象自体も何かの模造品なのかも知れないから、あれを本物の模造品のように扱ってはまずいのかも知れないし、本物と偽物の違いなのではなく、十九世紀に出現した大衆市民社会の中で始まって今も延々と続いているオリジナルの欠如したシミュラークルが出現し続ける世界に生きていることを実感できるかどうかも、自身がオリジナルのない模造品と化している人たちには実感が湧いてこないのかも知れないし、彼らには本物の正義も本物の狂気も体験できないわけだから、彼らがやっていること自体が何かの模造品でしかないと見なされたところで、彼らには他にやりようがないわけで、それが彼らの悲惨さを物語っていると述べてみたところで、彼らには悲惨でも何でもないわけだから、これからも何かの機会を捉えてあんなことをやりまくるしか、彼らには活動の可能性が残されていないと見ておくしかないのだが、だから彼らが馬鹿だとか悲惨だとか言ってみても、彼らには馬耳東風でしかないのかも知れない。


11月15日「政府のコスト」

 理不尽な事態というと、そんな事態の中で有利な立場を占めている人や団体の存在が理不尽に感じられるからそう思われるのかも知れず、そう感じられる自身はそれほど有利な立場でもないのかも知れないが、それが二重の意味で理不尽な事態に思われるとすれば、他の何が理不尽だとも思われない代わりに、安易に理不尽という言葉を使うのはやめたくなるかというと、できれば納得できそうな理屈や論理や理論を用いて理不尽な事態を説明したくなり、どう説明したいのかと言えば、もちろん理不尽な説明にはならないように事態を説明したくなるわけだが、果たして現状が理不尽な事態なのかというと、ある意味ではそうでもあり、またそれとは別の意味ではそうだとも思えないのかも知れず、ではある意味とはどんな意味なのかというと、何か理性的な主義主張に基づいた価値観を前提とすればそう思われるが、それとは対立する主義主張に基づいた価値観を前提とすればそうでもないとしたら、理性的ではない主義主張や価値観とは何なのかといえば、それが世の中で支配的な慣習や伝統に基づいた主義主張や価値観だとすれば、そういう慣習や伝統が執拗に人々の意識や思考や行動を縛っているから、それらが理性的な思考や言動やそれに基づいて判断するのを阻んでいると言えそうだが、では何が理性的だと定義できるのかといえば、それを具体的に説明するとなると困難を極めそうなのだが、そもそも世の中で特定の人や団体が有利な立場を占めている状態が、どんな理由や原因でそうなっているのかと考えたくなってくるわけで、そういう人や団体が有利な立場を占めていること自体が理不尽に思われるなら、理性的に考えるからそう思われるのだが、理性的というよりは例えば功利的に考えると納得できるようなら、世の中で支配的な慣習や伝統が直接作用したり無視できない影響を及ぼしているから、それらの人や団体を有利にしているわけで、では支配的な慣習や伝統とは何なのかというと、それも功利的に考えるなら、単純でわかりやすいところでは、売買の慣習や伝統によってそれらの人や団体を有利な立場に導いていると思われるが、それでいいのかと問うなら、もっと何か人の心理的な先入観や偏見などをはぐらかすような慣習や伝統を想定したいところだが、どうも普通はそうは思いたくないのかも知れず、それに関しては物や情報やサービスを売買する以前に、それらを有利な条件や不利な条件で売買せざるを得なくさせられてしまう制度やシステムなどを想定したいのかも知れないが、要するに世の中で有利な立場を占めている人や団体であれば有利な条件で売買が成立してより多額の利益が得られる一方で、不利な立場を余儀なくされている人や団体は不利な条件でしか売買ができないから、売買が成立しても少額の利益しか得られない制度やシステムになっているというと、たぶんそれを制度やシステムだと見なすとしっくりこないのかも知れず、制度やシステムではないとしたら何なのかというと、それ以前に権力や権限の行使があり、有無を言わせぬ力による暗黙の脅しによって有利な条件や不利な条件を一方的に提示して従わせるような制度や仕組みやシステムとなっているというと、そんな感じはしないだろうが、実際に貧富の格差が生じてしまうから、何かその辺でごまかしやまやかしが動作しているように感じられるのかも知れず、それがうまく納得できるような理屈や論理や理論などを用いて説明できなければ、そんなふうに仕向けられるような慣習や伝統に従っているのかというと、それもそんな感じなどしないはずだが、どうしても結果的に不利な立場に追いやられている人や団体からすればそう思いたくなってくるわけで、何か騙されているような気がしてくるから、それをどうにかして納得できるように理解したくなるかも知れないが、そんな世の中で何となくそう感じられる人や団体の間の有利不利の関係を政府の力で解消しようとすれば、たぶんそれ相応のコストがかかるのであり、そのコストを誰が負担するのかと言えば、世の中で有利な立場の人や団体がより重く負担するように制度設計がしたいのだろうが、誰が制度設計するのかというと、有利な立場の人や団体がすれば、なし崩し的に有利な立場の人や団体がより有利になるように制度設計してしまうから、それではますます有利不利が助長されてしまって、それを理性的に判断するならそれではまずいことになってしまうだろうが、功利的に判断するならそれでも構わないことになるだろうし、そうなると理性的な判断と功利的な判断が対立することになるかというと、現状では理性的な判断よりも功利的な判断の方が優先される傾向になっている可能性があり、しかもあからさまにわかりやすい形でそうなっているというよりは、何かしらそうは思わせないように仕向けられていると考えるなら、そんな考え自体が間違っている可能性も捨てきれないが、少なくとも理性的に考えるとわかりやすい制度や仕組みにはなっていないわけで、それよりは功利的に考えた方がわかりやすいというと、実際に人や団体が資本主義市場経済の中で利益を求めて動いているわけだから、功利的に動かざるを得ないわけで、そんな功利的な傾向に逆らうようなことをやると反発されるのが目に見えているから、たぶん立憲民主党あたりで主張されている政策の類いが、功利的でないと思われているのかも知れないし、それが偏見なのか先入観なのかは具体的に個々の政策の中身を検討してみないことには何とも言えないが、政府にコストを強いるような政策なのかも知れないし、そのコストを誰がより重く負担しなければならないのかが、世の中で有利な立場となっている人や団体により多くの負担を求めているとすれば、もちろんそれ相応の反発が返ってくるはずで、実際に反発が起こっているのかも知れないが、その一方で政府のコストがなるべく軽くなるような仕組みが求められているというと、それに伴って大きな政府よりは小さな政府にしなければならないだろうが、それも果たしてそんなことが可能かどうかもよくわからないところでもあるから、実際に日本政府ではなくアメリカ政府がここ数年で制度や仕組みやシステムの面でより効率化されるようなら、何かそういうところで見習うべき事例となるかどうかも今のところはよくわからないが、そうはならないとすれば、他にどんなやり方が可能なのか模索しなければならない成り行きになるかどうかも、今後の情勢次第なのかも知れない。


11月14日「事態を静観する」

 何かのタイミングで様々な物事が複雑に絡み合って錯綜しながら互いに作用し合い、結果的にわけのわからない面倒でややこしい事態をもたらしているのかと考えると、そんな事態にはどう対処すればいいのかわからなくなるが、今がそんな事態なのかも知れないが、対処したくてもできないし、対処しなくても構わないなら、静観するしかないのかも知れず、静観するのも対処法だとすれば、今が対処している最中になるだろうが、何もせずに静観するだけでは物足りないから、こうして何か述べていることにもなるとしたら、ではいったい何について何を述べているのかというと、これといって述べている対象が定まっていないのかも知れないし、それに関してはまだはっきりしたことが何も述べられないのかも知れないが、特定の物事についてそれに関わってくる人や集団や団体や勢力を名指しして、それらをきつい調子で批判したり非難するような成り行きになるかというと、それがいつの頃からかよくわからないのだが、昔はいい加減な調子で適当に馬鹿にしながら批判したり非難したり嘲笑したりおちょくったようなことを述べていたような気がするのだが、なぜか最近はそれができなくなってしまい、その代わりに何を述べているのかというと、歯切れが悪くてはっきりしない何を言っているのかよくわからないようなことしか述べられなくなってしまったのかも知れず、それで構わないわけでもないはずだが、先行き不透明感という感覚が、そう述べていれば済んでしまうようなことだとしても、そんなふうに自らがとらわれている事態を表現しているだけでは埒が明かないのはもちろんのこと、それ以外には何も述べられなくなってしまうかというと、この先のどこかで何かとんでもないことでも起これば、それについて何か適当に述べられるかも知れないが、それが起こるのを待っているだけでは埒が明かないなら、自らが積極的に動いて何か起こそうとするだけの理由や動機もなければ、たぶんそんなことなど何もできないことを悟っているのかも知れず、それを起こすだけの力がないという以前に、何を起こせるのかもよくわからないし、実際に何も起こせないからこうしてはっきりしないことを述べているだけなのかも知れないし、はっきりしないことしか述べることができないわけで、確かにそれでは埒が明かないわけだが、どうせ何かやるなら卑怯なことはやりたくないわけで、それをやらざるを得ないのが、こんな現状を維持するために躍起となっている勢力に属しているつもりの人たちなのだとしても、要するにできればやりたくないことをやらざるを得ない境遇にあるわけだから、それだけこれまでに過ちや誤りを延々と繰り返してきて、それがごまかしが利かなくなるほどに追い込まれているような感じになっているわけだろうが、ごまかしが利かないのにごまかさざるを得ないから、どうにもこうにも追い込まれて追い詰められている状況なのだろうが、それもたぶん資本主義市場経済の中ではそうなるようになっているというか、そうならざるを得ないような状況に追い込まれているから、にっちもさっちも行かずに、今までに繰り返してきた過ちや誤りを隠しきれなくなってくるのだが、だから開き直って平気で嘘をつくようなことにもなってしまって、それがばればれの見え透いた嘘なのだからごまかしようがないのは当然のことであり、そうなると開き直って平気でばればれの見え透いた嘘をついている自身を正当化しようがなくなってくるわけで、普通にそうなってしまってからが勝負というか、すでにそんな状態で勝負せざるを得ない人々が世の中にはいくらでもいそうなのだが、しかもそんな不利な状況で何を勝負しているのかというと、大抵は自身の生き残りを賭けての勝負に挑んでいるはずなのだが、果たしてそんな不利な状況や境遇での勝負に勝てるのかというと、果たしてそれに勝ったから今があるというと、それも嘘なのかも知れないし、では勝負に負けても今があるというと、それも嘘なのかも知れず、そもそも勝負などしているつもりもなかったような気がしているとすれば、都合の悪いことは忘れる主義だとも思えないが、そこでも何となく卑怯なやり方で勝負をごまかしてきたような気がするとすれば、そんな気がしないわけでもないが、それでも表面上はきれいごとで済んでいるように見せかけたいわけだから、歯が浮くような美辞麗句のような理想論のようなきれいごとを述べている人がいたら、その陰で数限りのない汚いことや不快極まりないことが行われてきたと想像してしまうわけで、それが表沙汰になっていた方が相対的には健全な世の中になっているような気もするわけで、そういう意味では独裁体制下で民衆が圧迫されているような国よりは、現状の日本の方がまだマシなような気もしていて、政治や経済の方面で日々不正行為や違法行為や不倫行為などが明らかになって、それに対してこれ見よがしに正義の味方を気取って批判や非難を繰り返している人の存在が鬱陶しく感じられても、そういうのは我慢するしかないだろうし、そんな人をやっつけようとしてはまずいだろうから、ただそういう事態を静観するしかないのかも知れず、それに対して何か言いたげになってしまうとしても、何をどう述べれば納得できるわけでもないところが焦ったいのだが、何をどう述べても嘘八百になるわけでもないだろうが、そんなことを述べるだけの切実な理由も動機もない中で、いかにして次善と言えるようなことを述べられるかが勝負となるわけでもないが、何をどう述べてみてもそれだけでも偽善や欺瞞を覚えてしまうとしたら、それだけ身に覚えがあるということであって、それまでに自らが歩んできた経緯がとても正当化できるようなものでもないとしても、正義の味方のふりをしてきれいごとの類いを述べられるなら、少しは肝がすわっているというか、健忘症で不感症なのかも知れないが、正義の味方のふりなのではなく、正義の味方そのものであるとしたら、それがたわいないフィクションの登場人物でも主人公でもない証拠がどこにあるのかというと、どこにあるわけでもない代わりに、運良く汚れ仕事を避けて来られた今まで歩んできた人生に感謝しなければならないとも思えないが、その一方で何かが執拗に咎めてくる事態に苛まれていること自体も、その人が抱え込んでいる罪深さの程度を物語っているわけでもないだろうが、この先のどこかで気分を害したついでに健康も害して精神を病んでしまうような事態になろうとも、それがその人が贖うべき報いだとも言えないのかも知れず、それも何かの気まぐれや偶然の巡り合わせが作用して、そうなっているだけだと思っていれば済んでしまうことなのではないか。


11月13日「トランプ政権の課題」

 状況証拠というと、裁判か何かで持ち出される正式なものというよりは、もっといい加減に一般的な意味で適当な話の中で持ち出される状況証拠であるなら、何となくそういうことかと推測できる程度の範囲内でそんな言葉を使うことになりそうだが、だからそれほど信用できるようなものでもないのだが、どうも状況証拠的には世界のどこの国でも、政府の財政赤字をなるべく抑え込もうとしていて、結果的に債務が増加して財政赤字が増える傾向にはあるだろうが、増え続けるのを放置している国はどこもないだろうから、状況証拠的に考えるなら政府の財政赤字はなるべく少ない方が良い程度の認識は誰もが持っているだろうし、そういう認識で構わないはずだが、だからといってそのことだけを強調するわけにも行かないから、他にも色々と考慮しなければならないことがある中で、何を優先させるかも、直接の政府関係者ではないわけだから、自分が何を言ってみたところで何でもないのだが、政府の役割というのも、まずは現状での役割を考慮に入れておかないと、あまりにも現状からかけ離れた役割を設定しても、説得力に欠ける言説の内容になってしまうから、少なくとも現状で担っている政府の役割からあまり逸脱しない範囲内で政府の役割を設定しておかなければならないだろうが、そうであるにしても、いったい政府に関して何を述べたいのかよくわかっていないのに、いきなり消費税がどうたらこうたらと述べてみても、それが何なのかが意味不明となってしまいそうだが、そういうことではないとするなら、どんな思惑があって何を語ろうとしているのかも、何かうまく説明できないのだが、どうもイーロン・マスクや共和党の若手議員の有力者などが、トランプ政権の間に政府の支出を徹底的に削減して、小さな政府を目指そうと画策しているらしく、しかも減税して小さな政府を目指そうとしているわけだから、果たしてそんなことが可能かどうかも含めてトランプ政権の四年間でどうなるかが見ものだが、経済が表面上は好調なアメリカだからこそできる芸当なのかも知れないし、果たしてイーロン・マスクの経営手腕が政府のレベルで通用するのか否かも現時点ではよくわからないのだが、日本で政府と民間とでは借金の意味が違うだとか利いたふうなことを言っている人たちがそれに対してどういう反応を示すかも、失敗に終わればこれ見よがしに嘲笑することになるのかならないのかも見ものだが、少なくとも日本では官僚制による支配が強力に働いているから小さな政府など無理みたいで、実際にこれまでは結果的に予算も債務も増えてしまってうまく行かなかったわけだが、それがアメリカで実際に政府の官僚機構の無駄を削って小さくすることに成功すれば、国家形態に関する歴史的な転換点になるというとちょっと大げさ過ぎるが、それに関して今この時代にイーロン・マスクという人材が存在していること自体が、何らかの不可抗力の類いをもたらすのかもたらさないのかも、実際に政権が動き始めてから徐々にわかってくることかも知れないにしても、何かとんでもないことを成し遂げてしまうような期待を抱かせるのに十分な状況なのかも知れず、おそらくトランプだけではどうでもいいような四年間になってしまうような気もするから、イーロン・マスクが何かやらかしてあっと驚く結末に至ってしまったら笑ってしまうというか、笑えない未来が到来する可能性も高そうだが、それに対して日本では山本太郎が何かやらかしてほしいという期待も一部では盛り上がっているのかいないのかも、現時点では何とも言えないところだが、山本太郎の主張内容やパフォーマンスがどうというわけでもなく、れいわが国会の場で適当に騒動を起こして問題視されるようなことも、今後とも結構な頻度で発生しそうだが、表面的にはそう見えても実質的には違うような気もするわけで、彼らを批判したり馬鹿にしたりするのは簡単だが、そういう馬鹿なことはやめておいた方が身のためだと思わせる何かが感じられる限りで、それほど主張内容に共感しているわけでも賛同しているわけでもないのだが、彼らがいるから救われている面も感じられて、それが何かというとうまく言及できずに黙らざるを得ないのだが、何かのバランスとして彼らが得難い存在であるように思われるから、それも勘違いのなせる業かも知れないし、彼らがいないと困るようなことかというと、彼らが存在しているから現状がもたらされているような感じがする限りで困ると断言すべきなのだろうが、どうしても彼らを全面的に支持するわけにも彼らの主張に全面的に賛同するわけにも行かないにしても、では他の党はどうなのかと比較するなら、やはり彼らがいないとバランスが崩れて今よりさらにひどい状態になりそうな感じがするわけだから、そういうひどい状態をもたらしているのが維新や国民民主などの勢力だというのは、他の多くの人々とも認識を共有しているかも知れないが、それでも維新や国民民主がそれほどひどいかというと、昔からああいう人々はいくらでもいたわけで、自分もどちらかといえば、ああいう人々や自民党を支持するような人々と共に人生を歩んできたような感じがするのだから、今さら彼らがひどいだなんて言えた義理でもないのだろうが、その一方で山本太郎やれいわの人々がどうかというと、ああいう人々も昔から結構いたような気がすると共に、彼らが集まって集団で組織的に活動して、曲がりなりにもちゃんとした政治勢力を形成しつつあるわけだから、そのこと自体がすごいことだと賞賛したいし、今までにはなかったことだと認めるしかないし、しかもいわゆる保守勢力とも左翼勢力とも一線を画して対立しているところも偉いところなのかも知れないから、これから彼らがどうなって行くかも見ものだし、心配になってしまうところでもあるが、消費税廃止をこれからも訴えて行かなければならない宿命となってしまったところも、それが活動の縛りや制限をもたらしているような気もするのだが、別にそれを訴えていること自体を批判するとかやめろとか言う気にはならないところも、何か将来のどこかでその主張が役立ってくるのか障害となってくるのかもよくわからないところではあるにしても、彼らの活動を批判したり非難するような気にはならない限りで、彼らを表面的には応援していることになってしまうが、その一方で今後四年間のトランプ政権の間で何か画期的とは言わないまでも、何らかの決着がつきそうな予感もしていて、それによって新自由主義的な小さな政府の実現が是か非かの結論が出ればしめたものなのだが。


11月12日「起こりそうもないこと」

 現状の日本で何かとんでもないことが起こっているわけでもなく、これから想定を超えたことが起これば、それがとんでもないことなるのだろうが、ではいったいどんな想定をしているのかといえば、政治的な方面で政権交代が起こる程度では、それがとんでもないことだとは思えないし、それ以前に大したことでもないのに大げさに受け止めるわけには行かない事情もありそうで、確かにアメリカではトランプが大統領に選出されること自体が、左翼やリベラルな思想に傾倒している人々からすればとんでもないことかも知れないが、そのとんでもないことが、日本でこれから起こりそうなとんでもないことと比較して、何か次元の違うことというわけでもなければ、では何なのかというと、これから起こりそうなとんでもないことなんて誰も思いつかないわけでもなく、そのせいぜいが火山の巨大噴火や巨大地震などの自然災害の類いになってしまうのかも知れず、そうではなく人災としてのとんでもないことがこれといって思い浮かばないのだが、人として許し難いような不快な人がどこかの県の知事になりそうだとか、それもとんでもないことには違いないにしても、そういう人は世の中にはいくらでもいるから、トランプがアメリカの大統領になるのと比較してちょっと規模が小さいような気もして、選挙でそんな人に投票する人の気が知れないと思いたいものの、実際にそういう人を熱心に応援している人も世の中にはいくらでもいるから、それも想定の範囲内に収まる程度のとんでもないことになるかも知れないが、それがとんでもないことになってしまうなら、とんでもないことの意味が少し違っているような気がして、少しの違い程度のことがとんでもないことだとも思えないのだが、微妙な違いも含めて言葉の用法としてとんでもないことの範疇に入ってくるなら、話の内容や文脈からとんでもないことの程度を推し量るしかないが、それがとんでもないことだとしても起こりそうなことでもあるから、実際に起こってからとんでもないことが起こったと騒ぎ立てても、それが想定の範囲内でとんでもないことが起こったという程度のこととして、そういう意味でとんでもないことを受け止めるしかないわけで、その程度ではとんでもないことでないような気もするのだが、ではもっと何か起こりそうもないことが思いつくかというと、漫画や映画などのフィクションの中ではいくらでもとんでもないことが起こっているはずだが、フィクションの中で起こっていることと現実の世界で起こっていることを比較してみても、それに対する感じ方もかなり違う印象を伴ってくるはずで、例えばユーチューブで何かこれからとんでもないことが起こると予言するような動画がいくらでもあることも、何となく想定内のことでしかないと思われるのと似たような感じだが、それが起こりそうもないことではなく、起こりそうだからこそ動画にして、多くの人々の気を引きたいという動機で作成されるのも想定内のことだから、そういう意図や思惑が思い浮かぶ限りで、だいたい似たような予言の内容になることも、予言の内容は確かに想定内のとんでもないことだが、とんでもないことが起こると予言すること自体はとんでもないことでも何でもなく、どちらかと言えばありふれた予言の範疇に入るだろうから、そういう意味では安心して気休めや気晴らしや暇つぶしに楽しめる動画なのかも知れないが、そうではなく本当に起こりそうもないことが起これば、その内容によってはとんでもないことが起こったような気がするかも知れないし、そうだとすると誰も予想も予言も想定もしなかったことが起こったことになるだろうから、それが真の意味でとんでもないことになるかも知れないが、別に起こりそうもないことが起こるのを期待しているわけでもなく、期待するなら自分にとって都合の良いことが起こるのを期待してしまうのだが、良い意味でも悪い意味でも期待が裏切られると、それがとんでもないことだとは思わないかも知れないが、何か呆気に取られるようなことが起こって、茫然自失になるのかも知れず、それでもそれがとんでもないことだとは思わないかも知れないが、自分にとってはそうであっても、他人にはそうは思われない場合もあるから、自分と他人とでとんでもないことの程度や定義や傾向などが違っているとしたら、そんなこともありがちなのかも知れないし、想定の範囲内で相対的な差異も生じてくるなら、大した違いでもないのだろうが、そういう意味ではとんでもないと感じること自体も大したことではなくなってしまうだろうし、どこの誰がそれがとんでもないと感じても、どこの誰であってもそんな出来事が起こってとんでもないと感じること自体が、ありふれた想定内の反応であれば、確かにそれが誰にとってもとんでもないことにはなるだろうが、誰もが経験するとんでもないことでしかないとしたら、大したことが起こっているとも思えないかも知れないが、それが大したことだと感じても、誰もがそう感じている程度のことであるなら、やはりそれもありふれたことである可能性が高いのかも知れないが、そうなるととんでもないことが起こるのも、別にそれが起こりそうもないことが起こったとも限らず、起こるべくしてとんでもないことが起こってから、多くの人々が驚いて、世の中が大騒ぎになってしまう事態も、結構の確率で起こりそうで、実際にこれから多く人々がとんでもないことだと思うような出来事が起こって、メディアが騒ぎ立てるような成り行きが想定の範囲内で起こりそうなのだが、そういうことならこれもまでにもその種の出来事がいくらでも起こってきたわけで、これまでにも起こってきたし今も起こっている最中だろうしこれからも高確率で起こりそうだとしたら、果たしてそれがとんでもないことだと言えるかというと、それも想定内で起こるとんでもないことになるはずだが、それが起こりそうもないことではなく、逆に起こりそうだからこそ、起こるのを今か今かと待ち構えていて、実際に起こってみれば、多くの人々がメディアと一緒になってとんでもないことが起こったと騒ぎ立てたいようなら、それがアメリカで言えば、トランプが大統領に返り咲いた出来事なのかも知れないが、では今となっては起こりそうもないが、それが起こったとしても想定内の出来事でしかないことはと言えば、ハリスが女性初のアメリカの大統領になることだったはずだが、それがとんでもないことかというとそうではなく、実際に起こりそうだったのだが、起こりそうで起こらないこととして、将来もいずれは起こると高確率で予想できそうなこととして、誰もが予想できる程度のことなのだろうが、とんでもないことがそういうことではないことも誰もが承知していることなのではないか。


11月11日「有限の存在と無限の可能性」

 何が普通であるかも人それぞれで感覚に違いがあるにしても、普通に考えるなら人の行動や思考にも限界や制約があるはずだが、それは人でなくてもあるかも知れないが、自らの限界や制約の範囲内で思考したり行動するから、有限の存在として自分も生きて死ぬわけだろうが、その一方で無限の可能性を夢見ること自体が勘違いなのかも知れないが、人類が今までに成し遂げてきた数々の成果を都合の良いように解釈するなら、人は有限の存在だが人類には無限の可能性があるとか妄想したくなるが、誰がそんなことを妄想しているとしても、妄想している誰かは相変わらず有限の存在なのだから、無限の可能性とやらがその誰かに宿っているわけでもないと考えるのも間違っているかも知れず、有限の存在だからこそ無限の可能性があるだなんて逆説的にカッコつけて妄想したくなるのかも知れないし、その根拠がどこにあるのかと問われるわけでもないが、何となくそういうことにしておきたいような気がするわけで、それが無根拠な妄想に宿る勝手なご都合主義なのかも知れないが、現実の人間社会で起こっているのはもっと下劣で下世話な実態であり、とても無限の可能性だなんて妄想できるような状況ではなく、愚かで浅はかな大勢の人たちがすぐにバレる嘘に騙されるような情けない様相を呈しているわけだが、そんな嘘に自分も騙されているかも知れないから、早くそれに気づかなければならないのだろうが、今も気づきようがない馬鹿げた物事の成り行きにとらわれている最中なのかも知れず、もしかしたら気づいていながら騙されたふりをしているのかも知れないが、どちらであっても構わないのかも知れないとしたら、どちらにしても自分も愚かで浅はかな一般大衆に含まれているわけだが、その一方で騙されようがない成り行きというのもありそうなのだが、具体的に何に騙されようがないのかといえば、物事の道理として提示される善悪や良し悪しの判断に逆らった、露悪趣味的な主張には騙されようがないと思いたいのだが、それに騙されているように感じられる人々が世の中には大勢いるように見せかけられていて、そういう見せかけに騙されているような気がするから、そんな世の中の有様には疑念を覚えるわけで、果たして本当に大勢の一般大衆が騙されているのかに関して、騙されているとしたらそれが信じられないわけだが、信じるも信じられないも実際に大衆煽動的な効果が発現していて、それによってメディアから脚光を浴びている人がいくらでもいるように感じられるから、そんな人に大勢の一般大衆が騙されているのではなく、その人を介して発動している大衆煽動的な効果に騙されているような気がするわけで、それに関連してSNSなどで嬉々としてデマを撒き散らす行為に興じている人々もいくらでもいるだろうから、何かそういう現象が恐ろしいことのように思われる一方で、自分もその種のデマの拡散に加担しているような感じにもなっているから、なおのこと恐ろしくなってくるのかも知れないが、要するに被害者ヅラができないというか、どうしても加害者の側に回ってしまう成り行きに否応なく巻き込まれて焦ったさを感じているわけだが、それが事の善悪や良し悪しでは判断ができない代わりにどんなふうな判断ができるのかというと、必ずしも損得の判断には馴染まないし、そこからちょっとずれるような判断を迫られるわけだが、結果的に損するなら損しても構わないような、損する過程の中で得することを選ぶような両義的な判断となってしまって、損しているのか得しているのかよくわからない結果になってしまうとしても、そのように判断するしかなく、それが良いことなのか悪いことなのかもよくわからないのだから、何をどう判断しているのかも判然としないような判断となっていて、それで判断していることになるのかというと、何かしら判断しているのだろうが、その判断が必ずしも損得や善悪がはっきりするような結果に至っていないような気もして、よくわからない結果となっているらしく、良い結果をもたらすように、また得するように動いているのだろうが、もたらされたそれが良い結果なのかどうかも、また自らが得しているかどうかも、どちらにでも受け取れるような結果がもたらされているわけでもなく、今が良くても得していても、今だけの可能性があるというか、それが長続きするわけでもなく、絶えずそんな判断が無効となって、どう判断してもそんな判断がすぐに覆されるようなことが頻繁に起こるわけでもないのだろうが、何かを判断していること自体が嘲笑われているような、何を間違った判断をしているのかと誰が嘲笑っているわけでもなく、何をどう判断しても誰からも無視されるようなことでもなく、無視の対象にもなっていないようなことなのかも知れず、もちろん嘲笑の対象にもなっていないのかも知れないが、では何なのかというと、誰が何をどう判断してみても、それが何でもないことのように片付けられてしまうかのような、どうでもいいような状況ではないのだろうが、そんなことにはお構いなしに平常運転のようにして絶えず危機感を煽っている人も中にはいるみたいだが、その人が何をどう判断しているとも思えないし、実際に何をどう判断しているわけでもないから、いつでもどこでも平常運転として危機を煽り立てているのだろうが、それで構わないような世の中なのだから、それをどう判断するまでもないことだと思っておいても構わないのかというと、それも構う構わないの問題でもないかも知れないから、善悪や損得の判断などしようのない状況なのかも知れないが、実際には良かったり悪かったり損したり得したりしているわけだが、何をどう判断したからそうなったようには感じられず、逆に何をどう判断してみても、結果的には良かったり悪かったり損したり得したりするような状況なのかも知れないし、自分が何かを判断した結果としてそうなるわけではなく、何をどう判断しても、そんな判断を有効にしたり無効にしたりする作用が偶然の巡り合わせからも必然的な成り行きからももたらされるから、そんな作用や影響を及ぼされて自らの判断が正しかったの間違っていたのと一喜一憂していること自体が何でもないことであり、そんなことにはお構いなく世の中が回っているような気がするわけで、そんな感じで自らの良し悪しや損得の判断が絶えず過去へと置き去りにされながらも今のところは自分もかろうじてこの世界の中で生かされているような気もするわけだから、たとえ自分がちっぽけな有限の存在であっても、少なくとも死ぬまでは無限の可能性があるような気がしていれば、そんな可能性の中で実際に何が実現するかは、ほんの些細なことしか実現しないのかも知れないし、結果的に実現したそれが大したことでもないような気もするわけだ。


11月10日「わかっていないこと」

 そんなことがわかっていないなんてあり得ないようなことが、わかっているのにわかっていないように装っているとも思えないが、単純にわかっていないだけではなく、わかっていないこととわかっていることがあるわけでもないとしたら、部分的にわかっていたりいなかったりして、その全てがわかるなんてあり得ないことかも知れないが、他人の落ち度やミスならこれ見よがしに何度でも執拗に指摘して、まるで鬼の首を取ったように勝ち誇りたいのかも知れないが、その他人と敵対関係にあるならわかりやすいにしても、そういうことを繰り返しやってしまうことが、たぶんその他人を攻撃しているつもりなのだろうが、そういうことを集団で連携してやっていること自体が、わかっていない証拠となるのかならないのかが彼らの間で問題となることもないだろうが、いったい何がわかっていないのかということが、そんなことも問題となってくるわけでもなく、そこで問題となっているのは攻撃の対象となっている人物をいかにSNS上でやり込めたように見せかけるかということでもないだろうが、何かそういうところでデモンストレーションとしての攻撃の意図や意味を彼らがわかっていないわけでもないはずだが、それを他の何かと履き違えているわけでもなく、何かそれが彼らの致命的な欠陥を形成しているように感じられてしまうことが、彼らの意図するところではないにしても、そんなことはわかりすぎるくらいにわかっているつもりでも、それでもわかっていないことがあるのではないかと推測されること自体も彼らの知ったことでもないにしても、何かそういうところで典型的な兆候を示しているように思われてくるから、わざとこうして意味不明気味にだらだらとそれについて語っているように装う意義もなさそうだが、本当のところは自分にもわかっていないのかも知れず、それに関して少なくとも完全無欠にはなりようがないから、他人の落ち度やミスや過ちを何度も繰り返し指摘して勝ち誇っていること自体が、彼らの致命的な欠陥だと指摘すること自体が的外れなのかも知れず、本当は致命的でも何でもなく、むしろ彼らの得難い長所なのだと賞賛したい気持ちにならなければ嘘なのかも知れないから、それをわざとらしく指摘するのが自らの愚かな悪癖なのだと反省したい気にもなれないが、そんな自分にもわかっていないことがあるらしく、わかっていないからこそ的外れな指摘ができると自らの愚かな行為を正当化したくなるわけでもないのだが、その辺はうまく遠回しにそれとなく別の方面から言及できるようにならないと言語的な技芸を極めたことにはならないにしても、やる必要のない範囲内でやらなければならないことなんてあり得ないだろうが、そのあり得ないことがわかっているとしたら、今ここでそのわかっていることをこれ見よがしに示せるかというと、示す自信があるわけでもないが、示さなければならないことの代わりに示さなくてもいいことを示している可能性に言及しなければならないのかも知れず、言及しなければならないことが他人の落ち度やミスや過ちなどではなく、自分の落ち度やミスや過ちだとしたら、そういうのは避けて通りたいと思うところだが、功利的な損得勘定からしたら、言及するだけ損な気がしてしまうから、大抵の人は正直者にはなれないし、それが馬鹿正直だと感じられる限りで、やはり避けなければならない事態なのかも知れず、もちろん時と場合によっては馬鹿正直を装っていた方が他人から好印象を持たれるかも知れないから、そんな機会を捉えて馬鹿正直を装うことによって他人から信用を得られるかというと、得られたところでその他人が浅はかで愚かな証拠となるかも知れないから、結果的にはそんな他人が浅はかで愚かなことを証明するために自ら馬鹿正直を装うことになってしまうのかというと、そんなことは知るよしもないことであって、その機会を捉えて意図して馬鹿正直を装っているわけではなく、そうなるように仕向けられていることに気づけないわけで、それが何によって仕向けられているのかといえば、その場の状況や情勢や成り行き次第で自然とそうなってしまうわけで、それを後からどう反省してみても、積極的に自らの意志で馬鹿正直を装っていたわけでもないと思われるのだが、その場の状況や情勢に流されてそうなってしまう自らには狡猾さが足りないのかというと、果たして狡猾に立ち回れるのかと問うなら、狡猾であるよりは正直である方が楽な感じがするわけで、利口であるよりは馬鹿である方が他人から安心されるからわざと馬鹿なふりを装うほど気が利いているとも思えないが、自然と馬鹿になれるなら天然なのかというと、それもちょっと違うような気がしてしまうから、やはりその場の成り行きに応じて自然と馬鹿を演じてしまうのかも知れず、その際には自分が馬鹿だからとかうまく立ち回ろうとしているとかではなく、自然にそうなってしまうからそういう動作を押しとどめることができないわけで、わかっていながらそうなってしまうわけだから、自分の意志でそうやっているわけではなく、その場の流れに従わされているとしか言いようのないことなのかも知れず、もちろん反省的な思考の中では自分の意志で動いていると思い込んでしまう場合もありそうだが、その場の状況や情勢に合わせようとすることが自らの意志だと思いたいわけで、そうなるとたとえそうするのが自然の流れであっても、自らの意志に従うのが自然の流れだと合理化したいだろうから、自らの意志が自然の流れと一体化して発動していると捉えておいても構わないかも知れないし、流れに乗って動いている時にはそんなことを意識しているわけでもないが、その場の状況や情勢から自らの意志も生じてきて、そうならざるを得ないような成り行きに沿って自らの意志を発動させているとすれば、ただ単に自然の流れに従って動いているに過ぎないことでしかないだろうが、そこで自らの意志や意思や意向を通そうとしているわけで、それが果たして自然の流れに逆らって通そうとしているように感じられるなら、そういう逆説的な幻想を抱きながら自然の流れに従っていることに気づいていないことになってしまうかしまわないかも、勝手にそう思われるに過ぎないことなのかも知れず、自分がそこで何をどう思っても、そう思うように仕向けられていることに気づかないと他の誰から指摘されるわけでもないが、それに対してなるほどそういうことなのかと合点が行くわけでもなく、納得が行かないなりにも疑念を抱きながらも行動せざる得なくなるから、他にもわかっていないことがあるような気もしてくるわけだ。


11月9日「人間社会のルール」

 最近は何だか晴れない気分だが、その原因が何かといえば、世の中で良心的な価値観が地に堕ちていると、ただ漠然とそう感じているに過ぎないことであって、その良心的な価値観とは何かといえば、それをうまく説明できなければ、何を言いたいのかよくわからなくなってしまうだろうが、それは昔からそうなんじゃないかとも思いたくなって、最近になって特にそんな思いを強く感じているわけでもないはずだが、世の中で不正行為や違法行為をやらざるを得なくなるとしたら、普通に考えて決められたルールを守らないと社会が立ち行かないとは思うものの、そのルールを破らざるを得ない成り行きになってしまう人や団体も必ず出てきて、そんな人や団体が社会から処罰や制裁を受けることによって、結果的にルールを守っておいた方が社会の中で生かされる可能性が高まるというと、そういうことではないだろうと反論してくる人もいないはずだが、ルールが決められているからには、ルールを決めないとまずい事情があるということになりそうだが、それを決めないとまずいということは、破ってしまう可能性もあるということであり、ルールを破った人や団体に処罰や制裁が科されて、そういうことをやることによって社会の秩序が保たれることになるが、ルールを破るのが各国の政府や独裁的な大統領や首長になれば、それだけ権力も権限も強大だから、たとえ国連などの国際機関によって処罰や制裁を課されたところで平然としていられるというか、そうなるとその国の国民が苦しむことになるとしても、当事者である独裁的な政府や大統領や首長などは依然として国内で支配力を保っていられて、なかなかその実権を手放そうとしないのだろうが、結局アメリカが武力制裁をやり過ぎて、もはやそのアメリカも戦死者をむやみやたらと出すわけにも行かなくなったから、最近は経済制裁の類いをやるしかないわけだが、中国の経済力も半端ないから、ルールを無視した強引なことをやってくると、他の国も国連もそれを止める手立てを見出せないし、実際に南シナ海の小島を占拠しているわけで、そういう意味ではルールにも限界がありそうなのだが、その中国にロシアも仲間に加わると、全面的な同盟関係でもないのだろうが、そういうところも微妙な按配でグレーゾーンにとどめておいて、国連や西側諸国との間で決定的な破局を回避しようとするわけだろうが、ロシアはもう行くところまで行くしかないし、アメリカではトランプが大統領になって変なふうにプーチンを利するような介入をするかも知れないし、軍事侵攻されているウクライナはたまったものではないはずだが、そういうところで面倒な事態になっているとしても、今までもそれなりに面倒な事態をすっきりしない中途半端な決着で済ませてきたというか、決着が先延ばしにされることによって、さらにこんがらがった事態となっていて、パレスチナなどはその典型例なのだろうが、それでも第一次や第二次の世界大戦を経て、もはや第三次世界大戦にはなりようがないほどには、実際に多くの国々を巻き込んだ破局的な世界大戦にはなりようがない限りで、世界の秩序が表面的には保たれているように見えるが、それを世界秩序と言えるかというと、そう言える方面では秩序の綻びを無視する限りで言えるようなことかも知れないし、そういう綻びを突いてイスラエルがやりたい放題なことをやっている最中にも見えるだろうが、それをやりたい放題と見なすのもちょっと違うような気がするわけで、ああいう殺戮行為をやらされている感も半端ないと感じるなら、何がああいうことをやらせているのかといえば、それを納得が行くように説明できるかというとそうでもなく、うまく説明できないのにそんなことを述べるのはやめておいた方がよさそうだが、どうしても国家的な秩序形態を保つにはやらざるを得ないことがあるらしく、それがああいうことなのかというと、多くの人々がそうは思わないし、戦争よりは平和な状態を保ちたいはずだが、ああいう国家には戦争を継続させる事情があると考えるなら、それがどんな事情なのかといえば、それを絶え間ない国家化だと言ってみたところで、わけがわからずちんぷんかんぷんかも知れないが、あれを民主的な国家だとは見なしたくない人も大勢いるかも知れないが、民主的な国家の欠陥が露呈しているのがイスラエルだといっても、ではその欠陥とは何なのかと問われると答えられなくなるわけでもないにしても、何か納得の行く答えとはならない可能性が高く、それもうまく説明できないとなれば、本当は答えなど持ち合わせてはいないのではないかと疑われてしまいそうだが、それが単純にルールを定めて人々に守らせることだとはならないだろうし、社会にルールを課してそれを守らせようとするのだろうが、守れない人や団体も出てくるのも想定しながらルールを定めて、守れない人や団体には強制的に処罰や制裁を課せるだけの軍隊や警察などの強力な暴力装置を政府が持っていることが必要なのだから、そういった暴力装置がイスラエルでは大規模に発動中と捉えるのもちょっと違うような気もするのだろうが、それはロシアの軍隊にも言えることだろうし、他国に軍事侵攻中なのだから、何も言い訳ができないはずだが、そんなのは事前に百も承知でやっていることだろうから、すでに肝が据わっていて、プーチンも寿命が尽きて死ぬまでには何とかなると踏んでいるのか、途中で寿命が尽きたところで、その時はその時のことにしかならないのだろうから、そんなのは現時点では知ったことではないだろうし、いったんそうなってしまえばイスラエルもロシアも最後までやり抜くつもりだろうし、それをトランプが仲裁に乗り出すとか、乗り出したところで酷いことになるのが目に見えているから、現時点では納得の行く紛争の解決などあり得ないことかも知れないが、それは今までもそんな解決などあり得なかったことであって、何か中途半端なところですっきりしない結果や結末がもたらされて、将来に禍根を残すことになり、その禍根が現に作用して、ああいった凄惨な殺戮が現状で行われているわけだが、それでも構わないというか、構わないはずがないのだろうが、何かそういうところで納得できる答えを求めてしまうと、それ自体が間違っているような気がしてしまうから、無理に答えを出そうとするとああなってしまうわけで、それも無理に出そうとしているわけではないにしても、部外者が見ると無理に出しているように見えるのだが、当事者にとってはああなるのが自然な成り行きに感じるから、自分たちのやっていることを正当化したくなるだろうし、もちろんそれがやらされていることだなんて誰も思わないだろうが、部外者的な視点からはやらされているように見えてしまうのだが、ああいうことをやらなければ済んでしまうようなことでもないはずだが、ああいう成り行きへと持っていくように仕向けられていると考えるなら、何がああいうことをやるように仕向けているのかといえば、あれが人間社会のルールに則ったやり方なのではないかと思うはずもないが、そうは思えなくてもああいうことが行われている現状を否定しながらも認めざるを得ないのではないか。


11月8日「やりがいのある仕事」

 割に合わないというと、何がそうなのかよくわからないわけではなく、いつものように嘘をついている範囲内では、何が割に合わないのかよくわからなくても、たぶん他の誰かがやっていることが割に合わないような気がしているから、その誰かに同情するつもりもないのだろうが、他にやりようがなければ仕方のないことであって、誰がやっても割に合わないような気がしてしまうのかも知れないが、やらないわけには行かないことをやっているのだろうから、割に合わないとぼやきながらもやらざるを得ないことをやっているつもりなのだろうが、それが馬鹿げたことをやっているように見えてしまう限りで、そう思われてしまうこと自体も割に合わないのだろうから、どう考えても真っ当なことではないらしく、それ以前に真っ当なことがどういうことなのかというと、馬鹿正直に他の誰からも文句も言われないような地味なことをやっていれば、それが割に合う合わないというわけではなく、誰からも見向きもされないことをやっていることになってしまうから、それではおもしろくないのだろうが、そうではなくどちらかといえば他の大勢の人々から恨まれたり憎まれたり羨ましがられたり妬まれるようなことをやっていれば、それなりにやりがいを感じると共に、それ相応のリスクを引き受けていることにもなるから、場合によっては割に合わないことをやっているような気がするだろうが、それでもそれが何だかわからないでは済まないようなことをやっているわけだろうから、誰もが割に合わないと思うわけでもなく、それなりに継続してやれている限りで利益が得られるようなことをやっているはずだが、たぶん利益が得られるということが、他の大勢の人々や団体なども関わっているようなことをやっているはずで、何よりも他から利益がもたらされないことには自分が利益を得られないわけで、自分一人で自給自足しているだけでは利益という概念など生じてこないだろうから、他人や他の集団などと関わらないとならない限りで、それに伴って色々とややこしい人間関係まで生じてくれば、何やら面倒で鬱陶しくもどうでもいいような配慮までしなければならなくなってしまうから、そうなれば割に合わないことをやっている気分になれるかも知れないが、果たしてそういうことをやっていてやりがいを感じるかというと、それもその場の状況次第でやりがいを感じたり感じなかったりするだろうが、社会の中で生きている限りでは、どうやっても他人との間で摩擦や軋轢などが生じてきて、それが時には嫌になってくるから、そんなのは織り込み済みで生きて行かなければならないとしても、何かそういううんざりするような些事から逃れたい気分になってしまって、あれこれと現実逃避の手段などを模索している時期も多少はあるにしても、直面している現実に向き合わないと対処も対応もしようがないだろうから、嫌でも現実に向き合うのだろうが、そういう心理的な葛藤など無視されるようなことをやっているから、それがやりがいのある仕事だと思っていても、実際にはそれ相応のストレスにさらされていて、それをポジティブに思っていても心身が疲弊していることに気づかず、無理が祟って命を削るような成り行きになっていることが多いのだとしても、個人が心身のストレスによって寿命を縮めようと、そんなことにはお構いないような物事の推移が生じているわけで、否応なく仕事をするように仕向けられている限りで、何かしら社会の役に立っているような気がするにしても、消耗品の類いに扱われていることに気づいてしまうとやる気が失せるわけでもないにしても、もっと何かうまく立ち回らなければ、あちらのいいようにこき使われて使い捨てにされてしまうような気がするから、そこから利己的な自我も生じてくるだろうし、自分が他人から利用されるのではなく、自分の方が他人や自分が所属している団体や他の団体までも利用して満足の行く利益を得ないと気が済まないような感じになってくるなら、何かそれで一人前の人間になったような気がするわけでもないだろうが、普通はそうなるはずだと思っているわけでもないとしたら、社会に貢献する人材になるべきだという建前を信じるほどナイーブでもないが、何かそういうレベルでは生きていないような気がするわけで、何事も自らがやっていることを正当化する気にはならない代わりに、他人がやっていることにもそれほど関心を払わないが、自分がやっていることも他人がやっていることも社会の中で起こっている単なる現象や出来事に過ぎないのは確かであるにしても、そこに意味や意義を当てはめる気にはなれないし、そこで生きて行くだけで精一杯というほどの苦労は感じないし、時には必死になっているのだろうが、必死になってやった成果というのが取るに足らない結果でもあるから、そんながっかりな結果を前にすれば、何か骨折り損のくたびれもうけのような気もすると共に、骨折り損でもくたびれもうけでもなければ何なのかというと、やはり何でもないことを必死になってやっている感が半端なく、必死だと言えるような程度でもないとしたら、気晴らしや気休めや暇つぶし程度のことに過ぎないのかも知れず、結果的には必死になってもがっかりな結果になっても骨折り損のくたびれもうけになっても大したことではなく、それらが気晴らしや気休めや暇つぶし程度の結果にしかならないような気がしてしまうから、そんなことをやっている場合ではないとしたら、他に何がやれるのか自問自答したくなるわけでもないのだが、そうやってうまく時間を経過させているような気もするわけで、何もしなくても時間が経過することも確かだとしても、少なくとも何もしないよりは何かやっている方が、それだけ時間の経過が早くなるからそれを利用しない手はなく、時間の経過を早めるために何かをやっていると感じるなら、それこそが気晴らしや気休めや暇つぶし程度のことだと思うしかないだろうが、そう思っているというと自分に嘘をついていることになるのかも知れないから、自分でも気づかないところで何か他の理由や原因や意味や意義があるような気もするわけだが、たぶんそれが何かを知る必要はなく、知らない方が身のためなのかも知れず、自分でも気づかないところで社会に貢献しているとも思えないにしても、何かやっていることについて救いを求めても行けないのかも知れないから、救いも報いも不要だという虚無的な強がりも無用な程度でやっていることを意味不明気味に継続させておいた方が自分にとっては都合が良いわけだ。


11月7日「間に合わない制度改革」

 たぶん現状で何が間に合っているわけでもないが、逆に何もかもが間に合わないから、何も間に合っていないような気がしてしまうのだが、それをやるのが遅すぎるとしても、やらないよりはマシだと思いたいなら、やるに越したことはないとは思うが、この後に及んで何をやるのかその手順が決まっていないとしたら、まずは何をやるべきかをはっきりさせなければならないはずだが、誰にもわかっていないと言ったら嘘になってしまうだろうが、本当のところはわかっていないのかも知れず、実際に自分もわかっていないのかも知れないし、わかっていないのに日々何かしらやっているわけで、計画的に物事を進められないわけだが、自分はそうであっても他では違うだろうし、世の中では様々なところで様々な人や団体が何かしら事前に計画を立ててから物事に取り組んでいるはずだが、果たしてそれがやるべきことかというと、彼らにとってはそう思われるからそういうことをやっているはずなのだが、やらなくても済むようなことをやらざるを得ないような面倒でややこしい事態になっているなら、そういうところに無駄な時間と労力と予算と人材などが使われる一方で、本当に必要なところには時間も労力も予算も人材も間に合っていないのかも知れないし、果たしてそういうことが誰にわかるのかというと、わかる人にはわかるかも知れない程度のことであれば、少なくとも自分にはわかっていないのかも知れないから、あまり偉そうに間に合っていない方面を批判するわけには行かないが、たぶん何が間に合っていないのかということが、それを必要としている方面で間に合っていないから、そこから文句が出るわけで、要するに必要とするところに必要とする物や情報が届いていなかったり、そこで必要とすることが行われていなかったりするから、そこにいる人たちの不満が高まるのだろうが、そうであるなら不満を抱いている方面で必要とする物事が充足されればいいのだろうが、そうなのかと思うだけではどうなるわけでもなく、そこで何を優先させるべきかという判断も絡んでくるから、まずは最優先させるべき必要性に該当する物事から充足されるべきだとしたら、それを最優先させようとしている勢力とそれに対して文句を言っている勢力とで、最優先事項となる物事が違っていることになりそうだが、それが立場の違いなのか認識の違いなのか、ただ判断が違うだけなのか、そういうことがどちらでもあってどちらでもないような、どちらであっても構わないようなことかも知れないが、そういうことではないとしたら何なのかというと、何を優先させてもそれなりにしっくりくるかも知れないし、たまたま様々な事情や経緯が絡んでそうなってしまうから、そうなってしまうと困ってしまう人や勢力から文句が出るだけで、わざとそうしているわけではなく、なぜか成り行き上そうならざるを得ないというか、何を優先させているつもりもないのに、たまたま文句が出るような物事が優先されてしまって、それが問題視されるような結果にも至ってしまうから、不都合な結果をもたらしているような感じになってしまうのだろうが、確かに文句を言ってくる人や困ってしまう人には不都合な結果なのだとしても、それを優先的にやってくれたおかげで好都合な結果がもたらされる人や団体も出てくるなら、そういう人や団体にとってはありがたいことなのかも知れないから、そうなってしまったことが全くもってまずいということにもならないはずだが、もちろんそれが何かがわからないことには話にならないが、普通に考えても何だかわからないわけで、そうでなくても単純な物事ではないとしたら、やはりたまたまそうなってしまうようなことなのかも知れず、そうなった結果から当事者の都合の良し悪しに応じてそう思われたり思われなかったりするようなことであれば、結果的にそうなってから、何かが間に合ったり間に合わなかったりするように思われるだけで、それ自体が他の何かと比較して優先的に行われるようなことでもなく、その場の成り行き次第で、なぜか知らないがそうならざるを得ないと結果的にそう思われるようなことなら、行き当たりばったりでそうなってしまったとしても、それでうまく行くならそれで構わないようなことでしかなく、必要だからとかそれを優先させなければならない切実な理由があるとかではなく、ただそんなことが行われたり起こったりした後から、そうなって良かったとか、それが間に合って良かったとか思うことでしかなければ、何でもないことだと見なしたくなるわけでもないが、そうはならなかったとしても何も思わなければ何でもないことになってしまうのかも知れないし、逆に必要なのに様々な事情や経緯が絡んで、結果的にそれが届いていなかったり、それが行われなかったりすれば、それによって何かが間に合っていないような気がするわけで、そうなってから文句を言ってくる人に向かって何を言い返せばいいのかもわからないなら、確かに文句を言ってくる人にとっては、それが間に合わなかったばかりに不利益を被ったのだと思っておけばいいのだろうが、だからと言って間に合わせるべきだったと思うか思わないかも一概には言えないとしたら、当事者ではないような立場だからそんなふうに思われるだけで、直接の利害関係も何もなければ、それによってその人がどうなろうと知ったことではなく、要するにそれに関しては無責任な立場だと思っておいても構わないのだろうが、果たして世の中にはそんな立場ばかりが無数にあるとしたら、それによって何がどうなっているわけでもないだろうが、それでも何かしら物事に関わりがある限りで、その人が社会的な責任を担っていることになるから、無責任な立場ばかりでは困るというか、こだわりやしがらみの全くない社会など成り立たないと思っておいても構わないものの、確かに面倒なことには関わらない方が無難なのだろうが、それを間に合わせるために面倒でややこしい手続きが必要となるからこそ、そういう手続きに否応なく関わってしまうことになるわけで、それに伴って必要となる物事が間に合ったり間に合わなかったりする成り行きの中で誰もが存在していると理解しておくしかないが、そういう手続きが必要な制度というのが面倒でややこしい事情や経緯を伴って生じてくるから嫌になるわけで、しかもその制度を時代状況や情勢に応じて改正したり改革しなければならないし、さらには改正や改革の手続きにも面倒でややこしい紆余曲折が伴ってきてしまうから、なおのこと鬱陶しくて嫌になってしまうのだろうが、確かに現状では諸々の制度の改正や改革が間に合っていないからこそ、そんな制度が災いして困った事態に陥っている人や団体からの文句が絶えないわけだ。


11月6日「交渉の嘘と真実」

 今のところはそれほど不可解な事態に陥っているわけでもなく、それでもこれからアメリカ辺りでまたこれ見よがしな暴動でも起こったら、なるほどそういうことかと合点が行くかも知れないが、結局は面倒でややこしい状況になってしまうなら、それに伴ってうんざりすることにもなりそうだが、その辺のところも含めてこれから結果が明らかになるのだろうが、そんなことには興味がないと強がって見せるのも、白々しい嘘をついているようにも思われそうだから、世間並みにその種の関心事には差し障りのない範囲内で適当に反応しておいた方が良さそうだが、それがこれなのかと言われると、そうだとしか言いようがないわけでもなく、これからさらに何かしら言葉で表現しなければならないとも思えないし、それが嫌なら沈黙を守れば良さそうだが、そうも言っていられないようなら、何を言っているわけでもなさそうなのに、何か適当なことを言っているように装いたいらしく、そのためにも言説を構成しなければならないようだが、すぐにそうはなりがたく、自らには何も向かってこないような気がするから、いちいちそれに反応できないし、反論を返すような事態にもなりがたいから、一方的にこちらから何か述べて、その述べたことに対する反応など何も返ってこないことを確認しながらも、さらに中身のない言葉を上乗せするしかなさそうだが、それでもここでは何も起こらないのかというと、それも嘘には違いないのだが、確かにここでは何も起こっていないにしても、わざと起こっていることに気づかないようにしているわけでもなくても、何も起こっていないことにしておきたいのかも知れず、実際には何かがそれなりに起こっていることを感知しているはずで、起こったことについても何かしら述べている現状があるのかも知れず、それも見え透いた嘘かも知れないが、嘘しかつけないのかというと、嘘以外に何がつけるわけでもなさそうだから、嘘をつくのではないやり方で何か述べる必要もありそうだが、嘘しかつけないのに何かそれ以外のことを述べようとすれば、それが矛盾だと思われるわけだが、何かそれでは間違っているのかも知れないから、できれば本当のことを述べようとするのだが、本当のことではないとしたら嘘なのかというと、嘘であっても正しいことでもあるなら、嘘をついた方がその場では正しい行為だと思われてしまい、逆にそこで本当のことを述べてしまうとそれが間違った行為であるかのように受け取られてしまうのかも知れず、そうなると嘘をついている人の方が有利な立場となってしまうから、他の周囲の人々も我先に嘘つきの味方を買って出るような、何か本末転倒した状況になってしまいがちだが、そうなるように仕向けているのが、国民民主党の代表者だと言い放つわけにも行かないなら、逆に本当のことを述べている人を黙らせるような力が働いてしまうから、果たしてそれが不可抗力が作用してそうなっていると言えるのか言えないのかもよくわからないところだが、そんなことは気にしないそぶりで、それとは関係のない方面で適当に言説を構成しなければならず、それが見て見ぬふりを装うことになるのかならないのかも判断できないと述べてしまうと、やはりそれも嘘をついていることになってしまうのかも知れず、その辺が微妙なところなのかも知れないが、たぶんその辺で微妙なさじ加減が求められていて、それなりの交渉術が必要とされるにしても、結果はやる前からわかっているようなことでもあるから、交渉するだけ無駄なのだとしても、交渉するそぶりを見せないと政治的な信用が生じてこないわけだから、それなりの交渉が行われていることになっているはずだが、果たしてそれが議会での多数派工作だと言えるのかという以前に、そんなことなどしていないと事前に言い切っても構わないようなことかも知れず、やらなくてもいいことをやっているそぶりを見せる必要もなければ、では何をそんなに心配しているのかというと、そうならざるを得ないような結果を覆すことなどできはしないとやる前からあきらめてしまってはまずいと思うなら、やらなくても構わないような準備を整えてから交渉に臨むしかなく、そして交渉しているふりを装う必要もないのに、無駄に結果を伴わない交渉をせざるを得ないというと、それも嘘をついていると受け止めるしかないが、何かがそういうところでは間違っているわけで、しかも間違っていても構わないような場面だから、間違うことを恐れずに交渉しなければならないような成り行きにとらわれていると見ているのだが、だから交渉の成否などどちらでも構わないというと嘘をついていることになってしまうが、交渉がまとまらなくても決裂しても、そんなことは織り込み済みになるような結果となってしまうわけで、だからそれでも構わないと言えるのだが、もちろんそんなのは嘘に決まっているだろうが、嘘でも構わないから、何か仕掛けているように装う必要が生じていて、それが誰にとってもそこに関わっているどの勢力にとっても必要なことだというと、やはりそれではどうしても嘘をついていることになってしまうだろうが、そこで本当のことは何も言えないわけではなく、実際に多くの人たちが本当のことを言っていて、しかもその本当のことが嘘をついている人や勢力を追い込んでいるわけで、それがどこへと追い込んでいるのかと言えば、本当のことを言うように仕向けられる方面へと追い込んでいるわけだが、それも多くの人たちがそう思いたいから本当のことを言うように仕向られているような気がする限りで、その場で有利な立場を獲得するためにわざと嘘をつくような行為が通用しないようにしたいわけで、そうしたいからといって、実際には嘘をつく行為が通用していて、わざと見え透いた嘘をつくことによってその場の主導権を握っているように見えてしまう人の存在が鬱陶しいわけだが、だから何とかしてそんなふざけた態度を改めさせようとするわけで、もちろんそうなることを見越してそれでもわざと嘘をつく戦略に凝り固まっているようにも見えてしまうから、そんな奴は許せないと憤るのだが、その辺に思惑の行き違いがあるのだろうが、それをそのまま放置するわけにも行かないから、交渉を装いながらもお互いの腹の探り合いに終始するしかないのだろうが、そうなっている時点で何か他の方面で物事の進展があるかというと、たぶんそれがあるような気がする限りで交渉を断続的に継続させるような成り行きにもなるのではないか。


11月5日「帝国と帝国主義」

 注目のイベントの情勢などに関してはメディアから伝わってくる情報を鵜呑みにしているわけでもないが、相変わらず現時点ではわかっていないことがありそうで、それについてもっともらしいことを語ろうとしても、今ひとつちゃんと語れないような気がして、うまく語れないなりにも何かしら現状で示しておきたいことがあるらしいから、それを何とか文章にしようとしているのだが、詳しく語ろうとするとなぜか内容が注目のイベントとはかけ離れてしまいそうで、わざとはぐらかそうとしているわけでもなくても、自然とそこから離れて行ってしまうようなら、語りたいことがそこにはないような気がして、直接には関係のないことを語ろうとしてしまうから、実際には注目のイベントについては何も語らないかも知れないが、ではその代わりに何を語ろうとしているのかといえば、代わりになるというよりは、無関係なことを語りながらも直接それについて語っているつもりになりたいわけで、なぜか注目のイベントには一切触れずに、それについて語ろうとしてしまうのだから、わけがわからないといえばその通りには違いないが、それを簡単にいうなら帝国と帝国主義の違いについてであり、そうなるとさらにわけがわからなくなってくるが、帝国主義にも地域によってそれなりに違いがありそうで、その名称からして、例えばアメリカ帝国主義と中国帝国主義とロシア帝国主義とでは、それぞれに違いがありそうだが、その違いを比べてどれがマシかと論じたいわけでもないから、特にそれらの中でどの国がどうというわけでもなく、どの国でも帝国ではなく帝国主義なのだから、少なくとも帝国よりは進化した形態となっていて、では帝国主義で構わないのかというと、構うはずもなく、できれば帝国主義の段階からは抜け出た方がマシな国家形態となりそうだが、抜け出ようとして抜け出られるのかというと、そんなわけでもなく、実際に抜け出られないから帝国主義の段階にとどまっているわけだが、果たして帝国主義の次の段階があるかというと、それに関してはEUが帝国主義の次の段階へと進んでいるのかというと、そうは思われていないだろうし、むしろEUの場合は帝国主義から帝国へと逆戻りしているようにも感じられて、皇帝のいない帝国が帝国であるはずもないが、その一方で多民族と多国家を包摂する形態をとっているのだから帝国そのものだが、アメリカや中国やロシアなどの帝国主義国家に囲まれた帝国となっているから、それらと比較すれば国家基盤が脆弱な印象を受けるにしても、EUが成立した経緯から考えるなら、帝国主義の限界を突破しようとして帝国に逆戻りしてしまったわけでもないだろうが、かつてのローマ帝国の影が見え隠れしていることも確かで、果たして世界全体がEUのような国家連合体になる可能性がないとしたら、帝国主義の次の段階があり得るのかというと、国連が思い浮かぶ人も多いだろうが、国連も機能不全な面が多々ありそうだから、現状では国連の機能強化を促す機運も高まってはいないはずだが、国家形態自体が次の段階などあり得ないのかも知れず、では次の段階がないなら国家形態がなくなるのかというと、なくなるというよりは絶え間ない形骸化を被っているのかも知れず、だからといって国家自体が自然消滅するような兆候を感じられるわけでもなく、誰もその兆候を感じようとしていないどころか、むしろ国家そのものの存在を実感しようとしている人の方が多そうで、そんな人は国家幻想に取り憑かれているわけだが、アメリカの星条旗や日本の旭日旗なんかを誇らしく掲げている人などはその典型例だろうが、精神の拠り所が国家になってしまうと、国粋主義や軍国主義的な力を必要とするから、それだけでも強権体制に憧れるのだろうが、そこからさらに突き抜けた形態を目指すなら、ヒトラーのようにもはや国家形態すら不要となって、総統の意志を忠実に実行する者だけがこの世界に存在すべきだと思うかというと、勝手にそう思っているに過ぎないから、関係のない他人にとっては知ったことでないのだろうが、そういった極端な精神状態へと誰もが移行できるわけでもないだろうから、歴史的な経緯から今後の来たるべき兆候を想像してみるなら、個人の大げさな妄想や深刻な精神状態とは異なるレベルで、もっと軽い感じの行政形態が求められているような気がするわけで、強権的な傾向をできるだけ取り除くような配慮が求められるにしても、不正行為や違法行為などに対して断固とした処置や処罰が求められる方面では、それなりの強制力が伴ってきてしまうから、強権的な面も出てくるしかなく、結局は警察や軍隊による治安維持的な暴力が向けられる先に誰がいるかが問題となってきて、民間の暴力に対抗する公的な暴力がなくならない限りは、強制的な権力も必要とされて、そういった方面で絶えず行政の在り方が問われてくるだろうから、その種の暴力が国家権力の源泉となるしかないと誰がそう思っているわけでもなくても、成り行き的にはそうなってしまうような気がするわけだが、それを助長しているのが、まさか環境活動家のグレタさんであるわけでもないにしても、抗議デモに参加して警察当局に排除されるニュースが出る度に、その存在意義がアピールされるような逆説的な成り行きにどんな意味があるとも思えないだろうが、できればあの程度の軽い措置にとどめられてほしいわけで、ああいう成り行きを殺傷沙汰などの暴力の応酬へと発展しないように持って行くのが、行政的な手腕の見せどころだと思うのも勘違いのなせる業かも知れないし、憎悪の連鎖をいかにして止められるかといってみても、実際に激しい抗議活動によって死者が出るような成り行きへとエスカレートすれば、そういう命がけとなる大げさな自己犠牲によって国家幻想が強化されてしまい、命をかけて国家を守るとかいう大義も生じてくるだろうから、何やら面倒でこじれた精神状態にも至ってしまうわけだが、それと日々の日常の中で行われている行政的な事務手続きとは全くの無関係だと思いたいのだが、なぜかそれが地続きのように感じられるとしたら、役所で住民票や印鑑証明などの交付手続きが命がけの行為など伴わないのはわかりきっているのに、そこから一歩間違えると、治安の維持のために人が簡単に拘束されて鉄格子の牢屋へとぶち込まれるような緊迫した状況も想像されてしまうわけだから、どうしてもその種の措置が極端から極端へと権力や権限の幅がいかに幅広く設定されているかが問題となってくると共に、そこで解き放たれる人の自由を簡単に制限するような暴力の働きを意識せずにはいられないわけだ。


11月4日「矛盾の活用」

 トランプの宣伝文句としては不法移民の排斥が挙げられるが、その一方で資本主義経済の論理に従うなら、不法移民の人権を無視してを安くこき使って利益を上げたいわけで、だから政治家が不法移民の排斥を訴えているのは理に適っているような気がするのだが、移民によって職を奪われたり安い労働力の流入によって賃金が上がらないことを恐れている住民から支持を得たいなら、確かに移民の排斥を訴えるのが理に適っているが、その一方で資本主義的な経済活動が利益を上げるために安い労働力を求めているのは自明の理なのだから、そこに矛盾があるような気もするわけだが、たぶんそんな単純には事が進まないわけで、トランプはトランプにとって都合の良い一方的な立場から一方的なことを主張して馬鹿な住民から支持を取りつけて大統領になりたいと思っているかも知れないが、住民も馬鹿ではないからそんなのは百も承知で、それはトランプも気づいているだろうから、支持者の住民には一方的な宣伝文句として受け止めた上で支持してほしいのだろうが、実際にトランプが大統領になったら、自身の暴走に議会や司法が歯止めをかけることを期待しているわけでもないのだろうが、実際にそうなるだろうことはある程度は想定した上で、今も暴走気味な発言を意図して行なっているのだろうから、プロレス的な様相を呈しているのかも知れないし、政治家の言っていることを真に受ける馬鹿もそれほどいないのかも知れないが、それでもメディアが伝える表向きの傾向としてはトランプに支持が集まっているように見せかけられているから、良心的な人道主義や人権主義の傾向にある人などが危機感を募らせていると情勢を見ておけば無難なのか知れず、それほど危機的な状況なのかというと、プロレス的な見せ物だと思ってしまう人からすれば、大したことでもないのだろうが、そんな舐めた感覚に逆らって事態を深刻に受け止めるべきなのかというと、何とも言えないような状況なのかも知れないが、現状が現状のままに推移している限りで、それほど現状からかけ離れた事態になるわけでもないとたかを括っていると、思いがけないことが起こって、自らの認識を甘さを思い知ることになれば反省するのだが、何かそうではないとしたら何なのかといっても、これから何が起こるのかを簡単に予想できるわけでもなく、何かが起こってからそんなことは想定の範囲内だと強がってみても構わないが、それもそういうことではないような気がするから、その辺のところがうまく説明できないのだが、大ざっぱなことなら単純化してもっともらしいことが言えるのだが、そんなことを言ってみたところで、そんなのはわかりきったことだと馬鹿にされるのがオチだろうから、あまりもっともらしいことを述べる気にはなれないが、何か歴史的な経緯や地政学的な位置関係が絡んで特定の国や地域の経済が発展すれば、その国や地域へと富が集中すると共に、相対的に貧困化した周辺の国や地域で生活が立ち行かなくなった人々が、移民や難民となって経済的に発展している国や地域へと流入してくるのは、自明の理だと言ってしまえばその通りには違いないが、経済的に発展している国や地域の住民から支持を得たい政治家としては、移民や難民が流入してしまうと地元の住民が職を奪われたり賃金が上がらなくなって困るだろうから、そんな地元民から支持を得るために移民や難民の流入を阻止すると訴えるだろうが、その国や地域の経済が発展する原動力となっているのが、流入してくる移民や難民を活用することによって経済が発展しているとしたら、住民の意向も政治家の主張も、そこで行われている経済活動の中で都合の良いところだけ切り取ってきて、都合の良い部分だけ強調するようなご都合主義に陥っていることになるのだろうが、そんなのも多くの住民も政治家も百も承知で、そんな傾向に囚われている自分たちを戦略的に正当化していると捉えておけば事足りるような気がするから、そういう成り行きを考慮に入れると、彼らの思考や言動の矛盾を論っても無駄なような気がしてしまって、この期に及んでそんなわかりきった誰もが承知している原則論のようなことを述べても意味がないような気もしてしまうのだが、それに対する解決策というわけでもないのだろうが、労働を機械やロボットにやらせれば、それも移民や難民の労働力と比べてどちらが安上がりかという単純な論理で通用するのか否かもよくわからないところだが、たぶんそういう成り行きは政治がどうこうというのとは少し次元やレベルが違うのだろうが、そういう成り行きと同時並行して行政的なコスト負担も絡んでくるから一筋縄では行かないところなのだろうが、大ざっぱなところではそんなことはわかりきっているが、それに対して何かもっともらしく感じられて納得できる解決策があるかというと、政治的には対症療法的な対策しか提示されていないのかも知れず、トランプがアメリカとメキシコの国境に壁を作るとか主張して、実際に曲がりなりにもこれ見よがしな壁を作った経緯もあったはずだが、また経済的な面でも軍事的な面でも覇権を争っているつもりの中国製品に対して高額な関税を課すとか、また大統領に返り咲いたらさらにより一層高額な関税を課そうとするのかも知れないし、そんなことしかできないのがトランプの限界だと馬鹿にしたところで、じゃあお前ならどうするんだと返されると、何か画期的なアイデアを思いつけるわけでもないから、トランプを馬鹿にするわけにも行かないのだが、そういうアメリカの状況や情勢から類推して日本の現状を考えてみても、どうもそんなことでは駄目なような気がするから、誰もが納得するようなもっともらしいことを述べられるわけでもないが、それでも埼玉の川口辺りで生活しているクルド人を攻撃する人たちをどう考えればいいのかと問われるわけでもないし、そんな人たちとは関わり合いにはなりたくないにしても、ではそんな人たちと対立する人道主義や人権主義に傾倒する人たちとは共闘できるかというと、積極的には直接関わりたくはないが、自分自身も偽善者の範疇に入るだろうから、SNSなどで間接的に応援する程度にはとどめておきたいわけで、その程度でどうなるわけでもないのだが、何か直接的な範囲内で迷惑を被っていると思い込んでいる人がいれば、また実際に直接の被害を受けている実態があるなら、そういう被害妄想や被害を被らないように行動することになるだろうし、それに関連した言動にも気を使うことにもなるのではないか。


11月3日「判断の合理性」

 合理的な判断というと、正しい判断であるかのような印象を受けるが、それが本当に合理的な判断なのかと疑念を抱くなら、合理性の中にも合理的でない面や部分があるかのように感じるなら、合理的でないからそう思われるのかというと、何かそれでは矛盾しているようにも感じるが、では何が合理的で何が合理的でないのかというと、それがうまく説明できなくなってしまうなら、合理的な判断ではないのかというと、果たしてそれが合理的な判断なのかどうかが、人によって見解が分かれるなら、人によって判断の基準が違うということにもなりかねないが、そもそも判断の合理性にこだわる必要があるかというと、その人にとっての切実性にも関係してくることかも知れないし、どうしても判断せざるを得ないことなら、切実にそう思われることだから判断せざるを得ないのだろうが、是非の判断をしたくない場合もありそうで、社会的なしがらみが絡んでくると、正しい判断を避けるような傾向があるかも知れず、正しい判断をしてしまうとその人の身に危害が及んでしまうようなら判断したくないだろうから、何かしら正しい判断をしないように仕向けられている可能性があるのだろうが、人が合理的に判断できるような制度として実施が望まれているのが、最近話題となっている選択的夫婦別姓であるにしても、何やらそれに反対している人々にも事情があって、合理的に判断されてはまずいと思っているから反対しているのかも知れないし、合理的でない理由を持ち出して反対しているから説得力がないのだが、それでも制度が制定されることも実施されることも阻んでいるから、何かそれが不条理な事態のように感じられるのだが、さすがに衆議院で与野党の勢力が逆転した状況では、少なくとも法案となって審議されることにならないとまずいだろうし、衆議院では可決されそうだが、参議院では与党の反対多数で否決されるかというと、来年の参議院選挙が意識されるとそうもいかないような気がするのだが、現状の与党がそのまま与党として政権を担って行くことになるかどうかも不透明な状況だから、今後どうなるか予想するのはまだ早そうだが、日本の伝統がどうたらこうたらと合理的ではない理由として、鎌倉時代に生きていた北条政子は源政子ではなかったし、室町時代に生きていた日野富子が足利富子でもなかった事実を挙げるなら、それがどうしたというわけでもないが、時代が違うと言われるとその通りなのだが、たかだか百数十年前の明治時代に欧米に倣って近代的な法律を整備する過程で夫婦同姓にすると決められたことを改正するだけでも、これほどまでに反対する人々が出てきてしまうわけだから、いくら合理的な判断が正しいと言っても、それに逆らう人が持ち出す理屈や理由がいかに合理的でないかを説明しても納得しないわけだから、そういう人たちが単純に気が狂っていると見なしても間違っていることは確かであって、やはりそうなると日本が合理的な判断を受けつけない風土だと言ってみてもしっくりこないところで、では合理的に判断してはまずいのかというと、一つの事例だけを持ち出してまずいかまずくないかを判断するのも合理的でないから、それほどまずいとも思わないわけだが、それとは別の方面に目を向けてみると、減税すべきかすべきでないかの判断が求められていて、それだけを単体で判断するようなことでないのも多くの人がわかっているはずだが、政府の財政状態と民間の経済状態を考慮に入れて、減税するにしてもどのような方面でどれほどの規模で減税できるかとか、減税の恩恵に与れる層がどうなるべきかとか、減税の財源をどうするべきかとか、様々な点を考慮に入れて、減税すべきか否か、減税するとしたらどれほどの規模で減税できるかが問題となってくるわけだろうが、そういう判断をさせないようにするにはどうすればいいかと何やら策略を巡らせているわけでもないのだろうが、それに対する賛成意見も反対意見もいくらでも言うことができそうで、単純にもう三十年間も国民が不況に苦しんできたのだから今こそ減税すべきだとか、それだけを強調するなら、果たしてそれが合理的な判断なのかというと、それに対しても賛成意見も反対意見もいくらでも言うことができそうな気もするのだが、そういうことではなく、まずはもっともらしい理由を持ち出してそれ相応の減税を実施してみてから、それによって政府の財政状態や民間の経済状態や国民の生活がどうなったかを見てから、その是非を判断するような成り行きに持って行った方が無難なのかも知れないが、それに対しても減税を実施してしまったおかげで政府の財政赤字が膨らんで危機的な状態に陥ってからではもう手遅れだと反論することもできそうだから、何とも言えないようなことかも知れないし、言うだけならいくらでも持論を正当化できるから、減税するなら強引にでもまずは減税を実施して、後は野となれ山となれとも言えないが、少なくとも合理的に感じられる判断よりは、合理性を無視してでも強引に事を進めるような成り行きに持って行こうとするわけで、そうやって絶えず危機的な状況へと誘導してから、そこで混乱のどさくさに紛れてとんでもないことが行われるような結果がもたらされるなら、何となく革命が成功したり失敗したようにも思われるかも知れないが、保守的な感性の持ち主からしたら、なるべくならそういう成り行きにはさせたくないだろうし、是が非でも阻止したくなりそうだが、そうなるかどうかはその場の状況にも左右されそうで、少なくとも現状ではそうはならないような気がするだろうが、では減税がやらずじまいに終わってしまうのかというと、たぶん中途半端には行われそうで、雀の涙ほどの減税が行われたらそれで満足するわけでもなく、そんな減税では不十分だと思うしかないが、それでも減税だけでどうにかなるようなことでもないとは誰もが理解しているだろうから、何かそれとは違う方面でももっともらしい理屈などが持ち出されて、そんな理屈に基づいた主張や意見に応えるようなことが行われてほしいと多くの人々が願うかも知れないが、それも実際にはそんな願いを踏み躙るようなことが行われるとすれば、それが経済的な事情から行われたり政治的な経緯から行われることになりそうだが、そういうことが行われるに際して軽視されるのが合理的な判断であれば、何となくそうなるのが当然だと思われてしまうのかも知れず、そういう意味では何かを強引に行うには真っ先に合理的な判断を無視する必要があるのではないか。


11月2日「未知の出来事の活用」

 物事を思考する上で、何がどうなってそうなってしまうのかと考えると、そうなる理由や原因を知りたくなって、知ったところで後の祭りだとしても、知り得た知識を活用してどうにかしたいのだろうが、それをどうにかしたいからそうなった理由や原因を知りたいということが、果たしてそうなった理由や原因を知ったところでどうにかできるのかというところが、それとこれとが直接結びつくようなことなのかも含めて怪しいのだが、そうなった理由や原因を知りたいだけなら、それを知ったところで何がどうなるわけでもなければ、知ったところでおしまいというわけにも行かなければ、知った内容をメディアを通じて伝えることになりそうだが、伝えたところで何がどうなるわけでもなければ、伝えたところでおしまいというわけにも行かなければ、それも結局は知ったことや伝えたことをどうにかして活用したいのだろうが、それを活用して何をどうしたいのかというと、それも活用している過程でどうにかなるのだろうし、そうなるとどうにかしたいから知り得たことをメディアを通じて伝えるという目的が生じてくるのだろうが、そういう目的自体が怪しいわけではなく、伝える内容が怪しい場合もありそうだし、知り得た知識も胡散臭い場合もありそうだが、そんなことには興味がなければ無視していても構わないとも言いきれず、それが自身に関わってくるようなことになると、やはりそれを活用して何かをどうにかしたくなってくるから、それがその人の活動そのものだとしたら、そんな活動の過程で何かがどうにかなってしまいそうだが、それがその人の思い通りにどうにかなるなら、成功と言えるのかも知れないが、その人の思いも何かがどうにかなる過程で生じてくるのだから、それ以前からそう思っていたわけではないのかも知れないし、そんな成り行きがそう思わせるのだから、その人がそんな成り行きに依存しながら活動しているわけで、だから何なのかというわけでもなく、それがどうしたと問われるわけでもないにしても、過去に遡ってそんな思いや考えを否定してみたところで、そんな成り行きを考慮に入れていないだけで、それもどうしたわけでもなく、思ったり考えたりしているだけでは何がどうなるわけでもないが、そんな思いや考えからその人の活動が生じてきて、それが現実の世界で何らかの作用や影響を及ぼしてくれば、そんな作用や影響を及ぼされた他の人や団体が何かしら対処や対応や対策を講じざるを得なくなって、それも他の人や他の団体の活動になるのだろうが、そうやって社会の中で人や団体の活動が生じてくるから、それらの人や団体に関係する他の人や団体やそれらに関係する物や情報なども動くことになりそうだが、そうやってごちゃごちゃと人や物や情報などが世の中で流通したり交通していれば、それで済むようなことでもなさそうだが、何か気に入らないことがあれば文句も出るから、そんな文句も無視できれば面倒なことにもならなそうだが、無視できなければ何かしら対処したり対応したり対策したりすれば、そういうことをやっているうちは活動が成り立っているのだろうから、活動がしたいなら他人の文句にいちいち反応しなければならないのだろうし、反応する理由もなければ無視を決め込むだろうが、反応することによって何かしら利益を得られるなら無理にでも反応するだろうから、そこから面倒でややこしい事態にもなりそうだが、対処や対応や対策などがまずければ事態もそれなりにこじれてきて、さらに面倒でややこしいことにもなりそうだが、意図してわざとそうなるように持って行って、そこからも利益を得られそうなら、そこでも無理にも事態をこじれさせようとするのかも知れないし、それも意識してそうしようとしなくても、向こうから勝手におかしな挙動で騒ぎをデカくしようと仕掛けてくるかも知れないし、仕掛ける意図もなくても勝手にそうなってしまえばしめたものというわけでもないだろうが、誰がそんな騒ぎによって漁夫の利を得ようと得まいと、そんなのは他の誰の知ったことでもないとも言いきれず、何かしらそこで介入してくる人や団体も出てくれば、やはりそこからも事態がこじれてくるだろうが、それで構わないのが世の中だと達観できるわけでもなく、不透明で五里霧中な焦燥感にとらわれながらも、わけがわからないまま辺り一帯を右往左往する羽目に陥ってしまうような感じなのかも知れず、それが何だかわからないという実感しかないなら、確かなことは何も言えないまま、自身がとらわれた成り行きの中でそれなりに思考を巡らせて、そうなってしまった理由や原因を知ろうとするのだが、それを知ったところでこじれた事態を収拾できるとも限らず、そこに関わってくる人や団体の間でそれなりに納得できないまでも妥協や譲歩が模索されなければ物事が前に進まないわけで、それ以前に原則論を主張し合って対立を鮮明化させる期間も必要かも知れないが、どうしても思い通りの結果がもたらされることにこだわってしまうと交渉もそこで停滞してしまうだろうから、そこで何を活用しなければならないかをわかっているわけでもなくても、無闇矢鱈と暗中模索となってしまうのも致し方ないところだろうが、それがそういうことではないとしたら何なのかと議論を蒸し返したくもなければ、交渉を延々と継続させておけばいいのかも知れないし、次の出来事が起こるまでの時間稼ぎや暇つぶしとして、そんな結論に至り得ない交渉が必要なのかも知れないから、そこから突破口が開けるとすれば、そこに関わっている誰もが思いもしない出来事が起こることが求められているわけでもなくても、誰もそんなことを求めているつもりもなくても、突発的に何かが起こるのかも知れず、それが起こらないなら延々と退屈で実りのない無駄な話し合いが続いていくような感じになってしまいそうだが、何も起こらなくてもフィクションの中では起こってしまうし、そんな出来事を想像してしまうわけで、またそこに関わっている人々とは何の関係もないところでも、絶え間なく何かが起こっているから、そこから作用や影響が及んでくるというと、そんなのはにわかには信じ難いが、すでに彼らの意識できないところで思いがけないことが次々と起こっていて、それを彼らが感知できないから、感知できないのが当然だとしても、何かしらそこへと作用や影響を及ぼしているのが気づけないわけで、だからなんだそれがどうしたと言うわけでもないのだが、なぜか今も誰も感知しないところでも、他の誰かが感知しているところでも、同時多発的に様々な出来事が起こっているから、何もしなくても絶えずそこから作用や影響が及ぼされているわけで、だから現状の停滞局面でもこじれた事態が収拾されることを願いながらも、割と楽観視できるわけだ。


11月1日「経験の罠」

 経験にも良い経験も悪い経験もあるだろうが、良いか悪いかではない経験があるかというと、良いとも悪いとも言えないような経験もあるのだろうが、何を経験したところで、今もそれを経験し続けていれば、それを経験している人が生きていることになりそうだが、それを経験したからといって何がどうなるわけでもないと思ってしまえば、まだ経験が足りないのかも知れず、もしそれがもういい加減に死にたくなるような経験になれば、悪い経験かも知れないし、死にたくなるどころか、もうすぐ死ぬかも知れないし、死んだところでどうなるわけでもなければ、死ぬという経験自体もどうということはないのかも知れないし、この世の中で誰が死んだところで他人事なら、そんな死とは何の関わり合いもないどころか、それが自分の死であっても、大した出来事でもなさそうだが、そういう極端な経験ではなければどんな経験なのかというと、やはり何でもないような経験であり、これと言って印象に残らないような経験が日々積み重なるでもなく、単なる通過儀礼のようにして次から次へと通り過ぎるような経験であれば、何の得にも足しにもならないような経験となってしまうのかも知れないが、それでも経験は経験として自らのどうでもいいような人生に彩りを加えて、後から暇にまかせて思い出す機会を得るような経験でもあれば、それを思い出すことも経験には違いないのだが、確かに何かの拍子にどうでもいいようなことを思い出しても、何の得にも足しにもなりそうにないが、それが印象深いから思い出すのだとしても、何でもないような経験を思い出すことに何の意味があるとも思えないし、思い出すのだから印象に残らなかったわけでもなさそうだが、印象に残らない経験であっても後から思い出すことができるのだとしたら、ただ単に記憶力が良いことになるのかならないのかもよくわからないが、たまたまふとした拍子に何でもないようなことを思い出すことが不思議でならないわけでもなく、そんな経験もすぐに忘れてしまい、忘れた頃にまたふとした拍子に思い出すこともあるだろうが、何かが意識の中で巡回して、記憶に埋もれた過去に経験した出来事を選び出してそれをランダムに思い出すのだとしたら、それも何でもないことには違いないにしても、何かそれではとりとめがなく、できればもっと有意義で得難い経験であってほしいと願いたいわけでもないが、何かしら経験を積むことによって心身が少しはマシな状態になりたいと願っているのかも知れず、それが誰もが抱くありふれた願いだとしたら、そう願うこと自体も何でもないような経験に含まれそうだが、何かポジティブになれるのならそう願いたいし、少なくとも死にたくなるようなネガティブな心理状態とは正反対の状態に至りたいだろうし、それも誰もが思いつきそうなありふれた願いには違いないが、死にたくなるようなネガティブな心理状態になる時もあるから、それに対する救いとして、今よりもっとポジティブに生きたくなるような心理状態になる時もあると考えるなら、ネガティブな心理状態とポジティブな心理状態の両方が必要とまでは行かないにしても、両方の心理状態の間で行ったり来たりしながら生きていることになりそうで、どちらか一方に振り切れた時が危険なのかも知れず、それが鬱になるか躁になるかのどちらか一方の心の病の兆候だと言えないこともないが、そこに至るまでの経験が作用してそんな状態をもたらすのだとしたら、心の病は経験の病だと言えそうだが、遺伝的な形質も作用してくるにしても、それも前の世代から受け継がれてきた経験が作用してそうなると考えるなら、人類の歴史そのものが心の病を作り上げてきたわけで、個々の人間はどうということはない存在であっても、病の傾向としては社会がその中で生きている特定の個人に病を植えつけるような成り行きを伴ってきて、ある一定の条件下に置かれると高確率で発症するようなことであれば、そういう条件を満たさないような環境下で生きて行ければ心の病になるのを免れそうだが、中には否応なくそんな環境下で生きて行かざるを得ない人もいくらでもいるだろうから、政治的な課題として人が心の病を発症するような劣悪な環境は変えなければならないと言えそうだが、そこに経済的な事情も絡んでくるから、思うように社会環境を変えることもままならない事態となっているとしたら、現代ではそれもありふれた状態となっているかも知れないし、そんなのも織り込み済みの現代社会だからこそ、心の病もそれなりに発症するから、それに対処するための精神医療もそれなりに繁盛していることになりそうだが、そんな事態となっているからこそ、なるべくその中で暮らしている人々の心理的な負担を軽減するような方向で社会変革が望まれるのだろうし、そのための制度改革として、例えば選択的夫婦別姓なども、そうなってほしいこととして望まれていそうだが、そういった変革や改革を望まない人もいくらでもいるから、面倒な事態になっているのだろうが、人に心理的な負担をかけて言うことをきかせて制御したり支配しようとする思惑もありそうで、そういう人為的な制御や支配から自由になりたいという願望と、逆に人を人為的に制御したり支配して利益を得ようとする願望との間でせめぎ合いが起こっていると社会状況を捉えるなら、妥協的なやり方として契約によって人を部分的に縛る方法が模索されてきたのだろうし、それが支配したりされたりするのではなく、対等な立場で特定の用途に限って契約を結ぶ関係になるのだろうが、そういう関係でもそれなりの程度で煩わしさや心理的な負荷が生じるだろうから、特定の用途を人ではなく機械やロボットなどにやらせればいいという方向でも、産業の技術革新が進展してきたのだろうし、そういう意味では現状で起こっているAI革命なども、人間の自由になりたいという願望から派生してきていることだが、そういった技術革新によってどこまで自由になれるかといったところで、それに伴って経済的な負担も生じてくるだろうから、心理的な負担の軽減と経済的な負担の増加との間でどちらがどうだというわけでもないだろうが、どちらも連動しているから、各人が置かれた社会的な立場や境遇から生じてくる条件に応じて、比例して増えたり減ったりするか、反比例して増えたり減ったりするか、あるいはそれぞれが固有の増減を示すか、それも時期によっても地域によっても異なってくるから、世界各地で複雑怪奇な様相を呈しているのではないか。


10月31日「自助努力の限界」

 たぶんわかっていないことがあるのだが、しかもそれがわかっていないからこそ、うまく行っているような気がするのも、勘違いでしかないのかも知れないが、それがわかってしまうとかえって尻込みしてしまって、いざという時に蛮勇を振るえなかったり、もちろん場合によっては蛮勇など振るう必要もないのだが、結果的にもどちらが良いかはよくわからないし、怖くなって臆病風に吹かれてしまうことも、それに関してもっともな理由があればそれほどまずいことでもなく、どんな時でも向こう見ずな態度で勇気を出して行動できるわけでもないから、その場の状況や情勢に合わせてできる範囲内で行動すればいいことだが、それでもわかっていないことがあるから、絶えず疑わしいことをやっているわけで、自らの勘に頼って理屈に合わないことをやってしまうのも、あながち間違いだとも言えないような結果がもたらされる場合もあるから、自分の勘を信じても構わないのだろうが、何とも言えないような結果を前にして、それをどう捉えたらいいのかよくわからず、正しいとも間違っているとも、良いとも悪いとも言えないような感じになってしまうと、どうしても自らの行動や言動を正当化できなくなってしまうから、何となく駄目なような気がしてしまうと共に、その程度でも構わないような気もしてしまうから、狙ってそんな結果に持って行っているわけでもないのだが、なぜか知らないがそうなってしまうことが多いような気もするから、そうならざるを得ないと捉えておくしかなく、それが自分の行動や言動の限界だとは思えないにしても、自分だけではどうにもならないことだから、そういうところは仕方がないし、結果がどうなるにしても現状でやれる範囲内でやるべきことをやっているつもりになっていれば、それで構わないようなことでしかないにしても、自分ではどうにもできないことがあるのはわかりきっているのだが、中途半端なことしかできないのも自身の力と自身の置かれた立場から推測できるから、そこが自らの限界なのだろうが、果たして限界を超えて何かやる必要があるのかというと、その必要があったりなかったりしても、自分にはわからない場合があるから、それもわかる範囲内で活動するしかないのだろうが、そういうことではないとすれば何なのかというと、自分についてはそうであっても、自分を含んだ世の中については、そんな捉え方ではまずいのではないかと疑念を抱いているわけではないのだが、世の中をどう捉えたらいいのかわからないでは話にならず、何かしら自らに都合の良いように捉えているのかも知れないし、それが正しい捉え方だと思っているわけでもないのは確かだが、そう捉えざるを得ないとしたら、自己中心的に世界を捉えている証拠かも知れないが、そんな捉え方ではまずいならどう捉えれば納得できるわけでもないが、たぶん合理的に世界を捉えてしまうと間違っているような気がするわけで、この世界が合理的にできているわけでもないのは、現状の世の中で主導権を握っている人や勢力を見れば一目瞭然というわけでもなく、それらの人や勢力が主導権を握っているように見えるだけで、本当はそうではないような感じがしてしまうのは、やることなすことうまく行っていないように思われるからだが、というかうまく行かないようなことをやらざるを得ないと現状を見ているわけで、すでにやっていることがうまく行っていないから、それをうまく行くようにすることが活動の動機となっていて、ではうまく行っていれば活動する必要がないのかというと、元からうまく行くような活動ではないのかも知れないし、絶えずうまく行かないことをどうにかしようとすることが活動そのものになってしまうから、うまく行かなくて当たり前の活動なのかも知れず、だからうまく行っているようには見えないわけだが、逆にうまく行かないようにしないと活動が成り立たないような感じにも見えるから、そうなると本末転倒なことをやっているのではないかと活動そのものを疑いたくなってきて、それに対して単純にこうすればうまく行くという提案や提言そのものも疑わしく感じられて、彼らには単純なことをやる勇気がないと見るなら、勇気があるかないかが問題となっているわけではなく、単純なことができないのを前提として彼らの活動が構成されていて、単純なことをやるという前提そのものがないというか、そんなのを前提とするわけがなく、そうでなくてもすでにこんがらがった状態の中で活動しているわけだから、それに対して単純な提案や提言をする人や勢力などは無視の対象となっているのかも知れず、そこに至る経緯やその場で生じている事情を知らない門外漢が単純で的外れな提案や提言をしているに過ぎないなら、そんな提案や提言を真に受けないのも当然だが、それでいいのかというと、彼らの都合から考えるなら構わないのだろうから、そういうことだと現状を見ておくしかなく、そうなると現状でうまく行っていないことがそのまま放置されるような未来を予想するしかないが、実際には放置されているわけではなく、逆にさらにうまく行かなくなるように事態を込み入らせて、ますますこんがらがってしまうように仕向けられているわけでもないのだろうが、結果的にはそうなってしまうのかも知れないし、そうなるように意識してやっているわけではなくても、そこから利益を得ようとすること自体がそんな結果をもたらすわけで、利益を度外視すれば単純なことができるのだが、単純なことをやってしまうと何も利益を得られないから、無理に差異を作って錯覚をもたらして、そんな錯覚に惑わされて合理的でないことを多くの人々がやろうとして、結果的に回りくどい紆余曲折が生まれて、そんなややこしくもこんがらがった過程の中で利益が生じてくるというと、そんなわけがないと思いたくなるのだが、それに関して冗談を述べるなら、どうせ国民民主の玉木代表なんかもその種の錯覚にとらわれている真っ最中なのかも知れず、何やら当人もワクワクドキドキな未来を夢想しながら取らぬ狸の皮算用を巡らしているのかも知れないが、何か間抜けなような感じがしてしまうのは勝手な偏見にとらわれているに過ぎないのかも知れないが、そんな深刻さに欠ける現状の中で、おかしな結果がもたらされることになろうとも、がっかり感が半端ないとしても、それもさらにこんがらがった事態の様相を呈するまでのつなぎ役として、そんな人物に脚光が当たってしまったのだから、そうなる成り行きを楽しむといったら勘違いになってしまうだろうが、もうしばらくは勘違いな妄想を抱いている期間なのかも知れない。


10月30日「判断の対象外」

 現状で何を判断できるかといっても、何について判断しなければならないのかわかっていても、それに言及する気にはなれず、判断というよりは重大な決断を下すとか、それも何について決断したいのかにも言及する気にはなれないのだが、何やら明らかにできないことについて判断したり決断したいらしいのだが、それの何が間違っているのかといっても、いきなり判断する以前に間違っていたら困るが、では正しいのかと問われるわけでもなければ、何かをやった結果が思わしくなければ、あの時の判断や決断が間違っていたと判断しても、そんな判断自体が間違っている可能性さえありそうだから、単純に計算結果や測定結果などが間違っていれば、それがはっきりと間違いだとわかることもありそうだが、それ以外では不用意に行動や言動の正しさを求めては行けないのかも知れず、それよりはその場の成り行きに自身の行動や言動を合わせようとすることが肝要だと思いたいのだが、もちろん合わせようとすること自体も結果的に正しい場合も間違っている場合もありそうだが、意識して合わせようとしなくても自然とその場の状況や情勢に同調できるようなことになれば、少なくともその場ではうまく立ち回っていることになるはずだが、そういうことばかりに気を取られて、意識がとらわれている物事の本質を見失ってしまう恐れも考慮に入れたくなるのだが、そうでなくても何かはっきりした判断の指標がわかっている状況や状態を想定できるわけでもないから、何か絶えず行き当たりばったりでその場の成り行きに合わせて心身が動作するような感じになってしまえば、自らが何をどうしたいのかよくわからなくても、とりあえずはその場の成り行きに合わせて動いていれば安心できるが、そんな安心と引き換えにして自分の行動や言動の良し悪しも判断できないようなことにもなりかねないが、そこでも正しいか間違っているかではなく良し悪しを判断すること自体も、はっきりした理由や根拠があるわけでもないとしたら、なぜそんなことを唐突に判断しようとするのか、その動機も示せなくなってしまうだろうが、そもそもここでこんなことを語っている意味があるのか、あるとしたらどういう意味があるのかもよくわからないし、いったいどういう経緯でどんな事情を抱え込んでいるからこんなことを語り始めているのかも、それを明らかにできない限りは事情も経緯もわからずじまいになってしまいそうで、このままで意味不明なことを延々と述べているに過ぎなくなってしまいそうだが、果たして現状が何かこれといって重要な判断や重大な決断を要する事態なのかも、要するにそれについてもしらばっくれている最中なわけで、それを明かさないまま話を前進させようとしているから、それがわざとらしくも勿体ぶった嫌味な態度や姿勢に見えてしまい、誰がそれを見ているかも明かせないとなると、普通に話になっていないのだろうが、そんな話にならない判断を要する対象となるのが何になるとも限らないが、それが正しいか間違っているかであっても良いか悪いかであっても何かしら判断しているから、そんな判断に基づいて物事の進展があるのかないのかもはっきりしないところかも知れないが、迷っているわけでもないだろうことは明らかであるとすれば、勿体ぶって判断をわざと遅らせることによって、遅らせているうちに自身に有利な条件が交渉相手から提示されることを期待しているとしたら、それが身の程知らずのとんだ見込み違いにならなければいいが、そういうことをやっている人物が他ならぬ議会勢力の合従連衡に関してキャスティングボートを握っているつもりの政治家の類いになってくれば、その人物が何だか策士のようなまかり間違えばペテン師みたいな雰囲気を醸し出しているようにも見えてしまうから、それも要するに思いがけず自身に脚光が当たってしまったからには調子に乗って踊り始めた浅はかな輩だと見なしておいても構わない程度のことであるなら、その器ではない人物にありがちな浮き足だった態度なのかも知れないが、だから安心して眺めていられるのかも知れないし、お前みたいな奴がいくら踊っても、大山鳴動して鼠一匹ならぬ、鳴動もしないし鼠さえ出てこないような結果になりそうなのだが、そんな退屈な子供の火遊びなど眺めている必要さえないと言い放つほどの自信もないから、何かこちらでもそれなりに心配しているふうを装いたくなるのだが、それでもたぶん結果的にはその器でもないのに調子に乗って踊り始めた奴から退場する羽目に陥るのかも知れず、できればそうなることを願っているだけで、それも当てが外れて案外しぶとく粘りに粘って対立する双方から利益を引き出して、してやったりのご満悦となってしまうのかも知れないが、そうなればなったでさらに面倒でややこしい事態が思いの外長引くだけで、良心的な人々からしてみれば呆れた事態なのだろうが、ただの邪魔な障害物でしかない奴らの馬鹿踊りなどさっさと終わらせて、やるべきことをやる成り行きになってほしいのだろうが、そうなるまでにはさらにわけのわからない回り道を経由しなければならないのかも知れず、その途中で回り道からも外れて藪の中に突っ込んでしまえば、もはや出口さえ見つからないような迷路と化して、ただその中で右往左往しているだけとなってしまうなら、そこで政治と経済と社会の正常化をあきらめなければならないことにもなりかねないが、それもたぶん元からそれらの正常化など眼中にないのかも知れないし、目的がないわけではないのだろうが、その目的というのが元から彼らの目的ではなく、ただそれまでの経緯にとらわれてそうなっているだけで、わけのわからない紆余曲折の挙句に他の誰の目的でもないようなことを結果的に遂行する羽目に陥ってしまうのかも知れず、そうなってしまってから、最終的な判断が誰に委ねられているかを把握できればいいのだろうが、それを誰が把握できるかが、今後の課題となっているわけでもないのだが、それが把握できないのではなく、それを誰もが把握していることに気づいていないというわけでもないのに、把握しているふりをしているわけでもないし、気づいているふりをしているわけでもなく、それ以前に否応なく国民主権なのだから、誰もが演技として主権を行使しているつもりになれるはずなのだが、行使したところで要するに主権を行使していることになっているのに、実際に主権を行使した結果がここに出ているから現状がもたらされていて、そうやってもたらされた現状の中で信任されたつもりの政治家たちが右往左往している状況となっているはずだが、今ひとつ彼らを信用できないのかも知れない。


10月29日「勘違いの原因」

 世の中には理由や原因がよくわからないのに勘違いなのではないかと思われることがそれなりにあって、そう思うこと自体も勘違いなのかも知れないが、それが自己中心的な思い込みなのだとしても、勘違いしないで他人に配慮ばかりしていると貧乏くじを引いてしまうから、そんな勘違いを利用して利益にありつきたいと思っているわけではなくても、結果的には他人を騙したり押し除けるようなことをやらないと利益にありつけないようなら、そうやって他人をやっつけないと他の他人からも勘違いな支持や賛同を得られないし、そういう意味では善人であったり善人のふりをしている人ほど貧乏くじを引きやすく、逆に悪人ような感じの人であるほど一般大衆から好感を持たれて、勘違いな支持や賛同を得られやすいような理不尽な成り行きになっているのかも知れないが、それを勘違いだと思うこと自体も勘違いなのかも知れず、世間の主流を形成している物事の成り行き自体が、そこで主導権を握っている人や勢力の勘違いから生じているとも言えないが、そういう人や勢力の勘違いを他の多くの人や勢力がどれほど許容できるかが、それらの人や勢力が世の中の主導権を握る上では必要不可欠な前提条件のようにも感じられるから、そうやって主導権を握っているように見える人や勢力が正しいことをやっていると思われるなら、それこそが勘違いなのかも知れず、権力や権限を使って力まかせの勘違いなごり押しをやっているから、そうすることによって主導権を握っているように見えるわけだが、実質的にはどうなのかというと、それを許容しているというか、見て見ぬふりをしながら、それとは無関係な方面で活動しているように装っていても、実際にはそんな悪人や悪いことをやっている勢力の味方となってわけで、しかも善人のふりをしながら悪人の味方をしているとなると、普通に考えて偽善者なのだろうが、そういう人が偽善者であることに他の大勢の人々が気づいていないのかというと、意外と当人も気づいていない場合もありそうで、また気づいているような感じなのに、気づいていないような演技をしているようにも見えてしまうから、そういうところがどう捉えたらいいのかわかっていないし、それがわからなくても構わないようなことだとしたら、ではわからないまま気づかないままとなってしまうのかというと、何かそれがそういう成り行きにまかせて、それがそのまま放置されているような感じになってしまうから、まずい状況なのかも知れないが、少なくとも自分にはどうすることもできないし、それをどうしようとも思っていないわけだが、そもそも単純に人を善人だとか悪人だとか区別できるかというと自信がなく、少なくとも山本太郎なんかは善人のふりをしている悪人のようにも見えてしまうから、そう見えてしまう自分の勘違いならお笑い種なのだが、それでも構わないような気がしているから、あまりそういうところは割り切って考えないようにしているのかも知れず、悪人だからこそ魅力的に感じられてしまい、馬鹿な一般大衆を騙しながら今ある地位を獲得しているように見えることについては好意的に見ていて、そうでなければ務まらないようなことをやっているのかも知れず、そんな勢力を信じていないのに支持しているふりも装っているようなややこしい事態に陥っているわけでもないところが、何だかよくわからないのだが、そのまま放置しておけばやがて化けの皮が剥がれるようなことを期待しているわけでもないから、何とも言えないところなのだろうが、そんなことよりは現時点で実際に権力や権限を使ってそれなりにごり押し的なことをやっている勢力を倒さなければならないとも思っていないどころか、それを倒そうと頑張っている勢力を支持しているつもりなのだが、どうもそれも中途半端にすっきりしないような状態となっているから、無理にそんな勢力への支持や賛同を表明する必要も感じていないし、自分一人が支持を表明したところでどうなるわけでもないから、そんなことはどうでもいいことなのかも知れないが、それよりは他に注目すべきこともあって、それが政治ではどうにもならないような世の中の成り行きなのかも知れないし、たぶんそれが世界経済に関することだと見ているわけで、しかもそれに政治や戦争なども絡んでいるから、政治も戦争も経済情勢から生じていると思いたいわけだが、政治に関係する方面からも戦争に関係する方面からも、経済情勢を自分たちが有利になるように持って行きたい意図や思惑が感じられるとしても、そういう意図や思惑こそが経済情勢から生じてきていることだから、そこに政治や戦争に関わる人や勢力の思考的かつ行動学的な限界も生じてきているわけで、経済情勢のおかげで彼らが思考できないことや行動できないことが生じているようにも思われて、政治も戦争も経済活動が行われている中で遂行されているに過ぎず、そんなことは当たり前だが、経済から生じてくる限界を超えて政治や戦争を遂行することができないからこそ、それらの主張や意見も経済の限界を超えているように感じられると説得力がなくなってしまうのだが、限界を超えているように感じられるのに、それをどうやってごまかすかが重要となってくるわけでもないのだが、政治的にはごまかしようのないことを主張しているのに、それが必然的に経済的なごまかしを伴ってしまい、それをそれをそのまま主張しようとすると、そこを突かれてこれ見よがしに誤りや矛盾を指摘されてしまうから、経済的な方面では無謀なことを主張するのには躊躇が伴ってくるわけだが、そうなるとそんな無謀なことを主張できる立場に誰がなれるかが問題となってくるし、実際に我先に無謀なことを主張したい輩がいくらでも登場してくる状況の中で、日本共産党が遅れをとっている理由として考えられるのが、他の国々の共産党が独善的な立場を利用して無謀なことをやり過ぎたからこそ、それがトラウマとなって日本共産党としては経済的に無謀なことを主張するわけには行かなくなっているのかも知れないし、無謀なことを主張できないから大衆的な支持や賛同を得られないし、少数派としてジリ貧に陥っているのだろうが、だからといって今さら共産党の看板を引っさげてマルクス経済学などを説得力のありそうな理屈や理論を伴って再構築するわけにも行かないだろうから、結局は平和主義や人道主義などのリベラルな価値観を掲げたり、政府や政権政党の不正行為や違法行為や不祥事をあばくようなことしかできなくなってしまったと結論づけるわけには行かないにしても、逆にそういうことをやれるだけでも大したことだと賞賛した方が無難なのかも知れないのだが、そうはいっても大衆的な人気を集めるには実現不可能な無謀な経済的な主張がないとならないような風潮こそがおかしいと思うなら、そういう政治的な限界を逆利用しないとならないような時代状況なのかも知れない。


10月28日「不透明感と逡巡」

 現時点でわかっていることが、それほど確実な判断材料となるわけでもなさそうだが、それ以前に自分が何をどう判断したいのかもよくわかっていないから、何が判断材料となるわけでもないが、では現時点で何がわかっているのかというと、メディアから伝わってくる情報をまとめてみれば、何となく他の大勢の人たちと同じような認識に至るだろうが、そこから何をどうする立場でもないし、茶番劇の類いを観ているだけでは何がどうなるとも思えないから、様子見を決め込むわけでもなく、ありのままの現状について何か適当でいい加減なことを述べるような感じになってしまいそうだが、根本的なところでは現状のままに事態が推移するのだろうから、その現状が何なのかを理解したいと思ってみても、具体的に何を理解したいのかもわかっていないのかも知れず、理解したいと思う対象が見つからないわけでもないが、ただ漠然とし過ぎているようで、それがはっきりしないのだが、だからといって明確なことが何も言えないはずがなく、事実をありのままに述べればいいはずだが、ではその事実が何なのかというと、現状のままの世界や社会や世の中があるという事実には変わりないから、それをどう理解したいのかといっても、それもよくわからないと言ってしまうと、現状を理解していないことになるようだが、現状の何を理解していないのかというと、たぶん人の心理状態を理解していないし、普通に理解できないわけだが、その代わりに軽い気持ちで大衆を馬鹿にしたがるのだが、その馬鹿にしたがる大衆の中に自分も含まれていることを考慮に入れるなら、大衆を馬鹿にすることが自分も馬鹿にすることになってしまうから、それではまずいのかというと、まずいわけでもないと感じられて、自分も馬鹿にしたい大衆と同じように馬鹿なんだと思っていても構わないようにも感じられる一方で、大衆を馬鹿にしたがる自分の方が大衆より馬鹿なんだと思っていても構わないような気もするから、どちらが馬鹿なのかというと、自分の方がより一層の馬鹿なんじゃないかと自らを卑下するのもちょっと違っているとしたら、馬鹿な自分を正当化したいと思っているのかも知れないし、馬鹿か馬鹿じゃないかの基準で物事の良し悪しを判断できるようなことでもないのかも知れないから、では何なのかと言えば、大衆がどうであれ、大衆が抱く共同幻想の内容が何なのかといっても、それも理解できないことの範疇に入ることかも知れず、幻想なのだからそんなものなどないと思っても構わないのかも知れず、そうなると思考が振り出しに戻ってしまい、いったい何を考えたいのか皆目見当がつかなくなるかというと、それも共同幻想と同じような嘘には違いないのだが、そうなると思考のとっかかりを見出せずに途方に暮れてしまうが、たぶん日本の大衆に限って言えば、政治に参加したくないと見なしておけばいいんじゃないかと、今回の総選挙での投票率の低さから言えるようなことだとしても、そんな大衆を軽い気持ちで馬鹿にすることは簡単なのだが、お前ら馬鹿なんじゃないのといくら貶してみても無反応なような気もするから、貶すだけ無駄なような気もして、逆に貶すよりは褒めるべきかと一瞬強がってみるのだが、何を強がっているのかといっても、何かそうではないような感じがして、そうすることが強がってみせるようなことにはならず、ただ単に無理に現状を肯定しているに過ぎないのではないかと自らの態度に疑念を抱きつつも、では他に何をどう解釈すればいいのかと問われると、誰もそんなことは問わないだろうし、現状を自らに都合の良いように解釈したくなるのをためらってしまい、やはりそれも違うような気がするわけで、ではそういうことではないとすれば、いったい現状をどう解釈すればしっくりくるわけでも気が済むわけでもないとしたら、ただ単に何だかわからない現状に過ぎず、何だかわからないのに無理にこうだと決めつけるのもおかしいような間違っているような気もするわけで、だから何なんだと問われるわけでもないのだが、一般大衆が何を考えているのかよくわからないというか、案外何も考えていないんじゃないかと決めつけるわけにも行かないから、判断がつかないままとなってしまうわけだが、そうだとすれば判断停止の状態にとどまるのが正解なのかというと、それが正解かどうかも判断がつかないし、正解であってもなくても構わないようなことなのではないかと思っておいても正解なような気もするのだが、正解にこだわる必要もないし、間違った解釈でも構わないような気もするから、結局は何だかわからないままにとどまるわけだが、しかしいつまで判断停止状態でいられるわけでもないだろうから、いずれははっきりした結論を出したいし、現状はこうなっているのだと述べようとしてしまい、それも間違った結論へと導かれている証拠となってしまいそうだが、いずれにしても世の中に存在している多数派の心理状態が理解できないことには変わりなく、そんな存在なども幻想に過ぎないのだと言い放ちたくなる気持ちをぐっとこらえて、何とか理解しようと努めなければならないとも思わないが、自分は多数派ではなく少数派に属しているのだと思ってしまうことが、それを選民思想だと貶されると、その通りなのかも知れないと述べたくなってしまうのだが、そうではないと言い切れるような判断材料が揃っているわけでもないし、それよりは自分も多数派で構成される大衆の一部であって、そんな大衆を馬鹿にしたがるようなら、自分も馬鹿に含まれてしまうのだと思っておいた方がよく、間違っても少数派の知的エリートなどではあり得ないだろうから、そういう多数の馬鹿に対する少数の知識人のようなありふれた構図自体が成り立たないのであって、しかも馬鹿であっても構わないし、選挙なんかには行かない馬鹿と、行かない奴を馬鹿にしたい馬鹿と、行っても白票を投じると嘯く馬鹿もいるし、世の中馬鹿だらけなのだと思っていれば、それで構わない時代であって世の中なのだと思ってしまう馬鹿もいるらしく、世の中を舐めていて、人を舐めていて、社会も舐めているような馬鹿ばかりなのかというと、それで滅ぶような社会ではないし、滅ぶような国家でもなく、そんな馬鹿でも許容可能な世界なのであって、その中で人が意識してどんな態度で臨んでも、そんなのには無反応で応じるしかないと言ってしまうと、ではそれ以外に何かやりようがあるのかと問われるわけでもないのだが、何も問われないとしたら、無理に政治に参加しようとしなくても済むようなことなのではないか。


10月27日「戦略的な態度」

 自身がとらわれている物事の成り行きの中で、自分が努力して改善できる点があるなら、少しは努力しようとするのだろうが、実際に少しは努力しているつもりになれることもあるが、その少しは努力しているということが、努力を怠けてしまうこととの間のせめぎ合いの中で、妥協や譲歩の結果として少しは努力していることになってしまい、それが努力し過ぎるとまずいとも思えないのだが、少しの努力で済ませていることが、自らの現状を維持していることにもなるから、自分の気づかないところで微妙にバランスが保たれているような気もするのだが、それが絶妙なバランスとも言えないところがよくわからないところでもあって、何事もやり過ぎは良くないと言われても、その程度や按配や加減などがよくわからず、その辺は勘が頼りでしかないわけだが、何か明確な指標があるわけでもないし、何とも言えないところなのだが、何か言っていることも確かで、その言っている内容について自信が持てないのも毎度のことで、自信がなくても言わざるを得ないから、何かもっともらしいことを述べているつもりにはなれるが、それが暫定的なもっともらしさでもあって、恒常的にもっともらしいとも思えず、状況や情勢が変わればもっともらしくは感じられなくなってしまうかも知れないが、それ以上のもっともらしさを追求しているわけでもないから、その場その時でもっともらしく思えるならそれで構わない程度のもっともらしさなのだろうが、何がそうなのかというと、現状でもっともらしいことはと言えば言わずもがななことでもありそうで、多くの人々が関心を持っていると思いたいことでもあって、今日という日付けでもっともらしいと思うことがありそうで、これから何かが起きそうな予感がしているのだろうが、なぜかそう思うことに逆らうなら、今日に限って求められているのはもっともらしさではなく、たぶん多くの人々が戦略的に振る舞うことが求められていて、今日に限ってはそう振る舞ってほしいわけで、間違ってももっともらしさを信じてしまってはまずいわけで、それよりは結果的に間違ってしまっても構わない覚悟で戦略的な観点から行動してほしいと思うわけだが、自分がそう思うと同時に他の多くの人々もそう思っているのではないかと推測したいわけだが、それでも鈍感な人もいくらでもいるだろうし、従来から感じているもっともらしさに従って、絶好の機会を台無しにしてしまうなら、そうなってしまう人々の鈍感力が作用してそうなってしまうわけだろうが、しかもキャスティングボートを握っているのが、他ならぬ鈍感力に囚われた人々なのだから、そんな人々のせいでまたとない絶好のチャンスを逃してしまうようなら、それらの人々の救いようのない愚かさに絶望するしかないかというと、たぶんそうなってしまったら絶望しておけば良く、そしてまたの機会を窺うしかなく、今日がまたとない絶好の機会なのだから、二度と巡ってこないかも知れないと今日に限っては思うしかないとしても、なぜかそんな機会を逃してしまったら、またの機会を窺うのだから、何か矛盾しているはずなのだが、そういうのも今日に限って発動すべき戦略的な態度であって、多くの人々が戦略的な態度になって行動するように誘導したいのだが、誘導したいのは山々だが、自分一人ではどうしようもないことでもあって、ここで自分一人がいくらそんなことを述べてみたところで、何を述べているのか意味不明に思われるだろうから、やはり言わずもがなな状況なのかも知れないし、焦ったさを覚える反面、もしかしたらわかってくれるのではないかと淡い期待を滲ませているつもりなのだろうが、そんな情勢であることを肌で感じているのかも知れず、論理的な正しさというよりは、感覚的なもっともらしさに逆らって戦略な態度で臨まなければならない状況というのが、何が起因してそうなっているのかといっても、何のことやらさっぱりわからないわけではなく、それも今日という日付に限定されている限りで、わざとでも無理にでも鈍感力を発揮させている人でない限りは、誰もが意識していることになるはずだが、曲がりなりにも知性を身につけていることを自覚できるなら、他にどんな理由や事情や経緯にとらわれていても、ここ一番で知性を発揮しなければ他のどこで発揮する機会も巡ってこないような絶好の機会であるはずで、もちろんそんなのは嘘に決まっていると思ってしまえば、どうしても鈍感力に頼らざるを得ない身の上であることを悟るしかないが、果たして自分がそんな身の上なのかというと、それも自分の勝手な思い込みであって勘違いに他ならないが、そんな勘違いな状態でここまで生きてきたのだろうから、この先も勘違いなままで通用するのかというと、もちろん当人は勘違いだとも思っていないわけだから、他人からそれが勘違いなのだと指摘される機会など巡ってくるとは思えない範囲内で、たぶん勘違いだとは思っていないだろうが、そんなことよりここまで言わずもがなで済ませているこちらこそ意味不明であって、戦略的に振る舞えと諭しておいて何に対して戦略的に振る舞うのかも一言も述べない姿勢というのも勘違いには違いなく、何だかわけのわからないことを述べているのだろうが、それも今日に限ってはどうしてもこう述べないとしっくりこないような気がするわけだが、他の人々に言い聞かせているというよりは自分に言い聞かせているだけなのではないかという疑念も湧いてくるのだが、やはり自分一人が戦略的に振る舞ったところで、それだけでは何の効果も発揮しないのはわかりきっていて、できるだけ多くの人々が今まで抱いていたもっともらしい先入観や固定観念や偏見を捨ててでも戦略的に振る舞ってほしいわけで、そう述べるだけでもわかってほしいのだろうが、こう述べても何のことやらさっぱりわからないようなら、わざとでも無理にでも鈍感力を発揮させているとしか思えないわけだが、自分がそう思っていても他の人々はそうは思わないだろうし、それも自分の勝手な思い込みで状況や情勢を見誤って勘違いしていることに違いないかも知れないが、それでも今日だけは戦略的に振る舞わなければならないと思ってしまうのだから、勘違いにも程があるということなら、その通りには違いないのだが、本当に今日が運命の分かれ目であるなら、それが誰の運命なのかも今のところは定かではなく、きっと多くの人々にとっての運命の分かれ目であったことが、後になって気づくとも限らないし、気づかないままになってしまうとも限らないが、とにかく今日だけはより多くの人々が戦略的に振る舞うべき日であることが、確信をもって言える日なのではないか。


10月26日「抗いようのない心身の動作」

 そんなことはいちいち指摘しなくてもわかりきったことかも知れないが、何が正しくて何が間違っているのかを物事の道理を使って示せたとしても、実際に行動が伴ってくると、それの何が正しかろうが間違っていようが、否応なくその場の状況や情勢に合わせて言動や行動が伴ってくるから、結果的にそれが間違っていようが、成り行きとしては否応なくそうなってしまうわけだから、途中でやめられなくなり、そうなってしまったことについて後からいくら仕方がなかったのだと弁明しても無駄で、そんな弁明でさえも、その場で生じている成り行きに合わせて、否応なく弁明をするように仕向けられたり誘導されていることになるから、それが自分の意思や意志や意向に従っていたり逆らっていることだと感じても、なぜか自分の意思や意志や意向よりもその場の状況や情勢に従ったり逆らったりする心身の動作である方が強く意識されて、それで良いのか良くないのかと自分で判断しようがしまいが、そういうことをやっている限りは、やってしまったり言ってしまったことの責任を問われたり問われなかったりしても、自分がやってしまったのだからその責任を負うべきかどうかも自分では判断できない場合もあるから、何かそういうこととは別に、自らの動作もその中に含まれる成り行きが、そこで起こっていることや行われていることの全てを含んでいるわけではないとしても、それを正しいとか間違っているとかの判断や評価とは別の価値基準で判断や評価ができるかというと、やはり価値や基準とは別にすべてが偶然にそうなっているとも言えない程度で、その場の成り行きや流れに逆らったり従ったりしているつもりにもならなくても構わないような気がするわけで、それが臨機応変な対応だとも対処だとも言えないかも知れないが、結果的に何となくそうなってしまったように感じられるなら、それで何とかなっていると思うしかなく、実際には実態としても何ともなっていなくても、自分では気づかないところで何とかなっている可能性も捨てきれないから、そこに至るまでの様々な経緯やそこで生じている様々な事情を含んで自らも存在していて、結果的にそうなってしまうのを自分ではどうすることもできないとは思えないし、もっと何かやりようがあって、もっとうまく立ち回れる可能性もありそうなのだが、実際にうまく行っていたり行っていない結果を含みながらも、そのすべての動作が連動しながら自分の行動や言動としてこの世界に関わりながら構成されていると思いたいのだが、もちろん本当はそんなふうには思ってもいないのに、文章に示される内容としてそう思いたいと記しておいた方が良さそうに思われるからそう記しているわけだが、そんなふうに思うのも嘘なのかも知れず、それが他人や他の団体や勢力に関してなら違うだろうし、事の良し悪しや正誤を何の躊躇いもなく示したくなってしまうのだろうが、自分に関してなら正しいとも間違っているとも必ずしも判断しなくても評価しなくても構わないわけで、どちらでもないというかどちらであっても構わないし、どちらでもあっても構わないような行動や言動になっている気がするから、たとえその時点では間違っているような気がしても、後からそうではない感じになってくれば、なるほどその時点では間違っていても、後からそんな判断や評価が修正されるようなことになれば、それで構わなかったのだと自らの間違いや過ちや誤りを合理化したくなるというと、ただの自己正当化に過ぎないのではないかと疑念を抱くと共に、その程度でも構わないのではないかと自身の行為や行動や言動の判断や評価を正当化したくなってしまうわけで、要するにごまかしやまやかしなのだろうが、それが自分に甘く他人に厳しいことの典型例となるのかならないのかもよくわからないが、もちろんよくわかっているのによくわからないと思いたいわけだが、その理由など知りたくもないと無責任な態度や姿勢を伴いながらも、なぜか知らないがそうなってしまう成り行きの中で、自らの心身の動作がうまく機能しているのかしていないのかもよくわからないのだが、結果的には何とかなっているわけだから、何らかの機能は果たしていると思いたいのだが、実際に昨日も自動車運転免許証の更新手続きの際に、視力検査で眼鏡をかけるかかけないかのぎりぎりのところで眼鏡なしでOKで切り抜けたように思われて、それが五年に一度の一か八かの賭けであるような気がしているわけだから、勘違いもいいところなのだろうが、免許証の更新時期が近づく度に今回こそは駄目なのではないかと不安感に苛まれているというと、そんな気がしないでもないのだが、毎回毎回いつもぎりぎりセーフというのも、自らの強運に感謝したくなるわけでもないし、ただ単に視力が中途半端に悪いに過ぎないのだろうが、悪いにしても眼鏡をかけなくても済む程度の悪さというのが、何となく微妙な状態なのであって、これ以上悪くなるか良くなるかのどちらか一方へと振り切れたくなるわけでもないのだが、どちらか一方に振り切れようとしたくてもできないというと嘘になってしまうとしても、何かのきっかけからそうなる恐れがないとも限らず、どちらかというと悪くなることを恐れているのは当然と言えば当然だろうが、その場の状況や情勢がそうなるとも思えないが、その一方で自らの意思や意志や意向としては、当然のことながら視力が改善してほしいわけだから、意識して遠くを見るように心がけていれば、実際に遠くを見ることを実践できれば自然に視力が良くなるようなことが言われているから、それもふとした拍子にそれを思い出して、遠くを見ようとしてしまうことがあるにしても、いつもそうしているわけでもないから、当然のこととして視力など改善しないわけで、もう何十年も前から眼鏡をかける一歩手前で踏みとどまっているような気がしている限りで、それが自分の恒常的な状態かも知れないし、単なる自然な成り行きとしてその程度の視力を維持しているに過ぎず、特に努力など何もしていないことになっているはずだが、それでも免許証の更新時期が近づく度に視力検査で不合格になるのを恐れて、それを思い出すと遠くを見るように心がけようとするのだが、結果的に視力検査をぎりぎりでパスして新しい免許証を手にしてしまえば、ほっと一安心してしばらくは遠くを見るようなことなど意識しなくなってしまって、またそれから時が経って免許証の更新時期が近づけば、性懲りもなく遠くを見なければと意識してしまうわけで、そういう心身の動作を振り返ってみれば、自らの愚かさも中途半端に良くも悪くもない程度で維持されているような気がするわけだ。


10月25日「政治家の使命と判断」

 他人の心理状態をいくら推測してみても、そんなのは自分の勝手な思い込みにしかならないが、状況次第で何となくわかる場合もあるだろうから、それほど当てにならないわけでもなく、現時点で窮地に陥っているわけでもないのに、大変だ大変だと騒ぎ立てるような事態なのかというと、それは事態の程度によっても傾向によっても、そこに関わってくる人の立場や境遇によっても変わってくるだろうから、他人の身になって考えたところで、あくまでも推測の域を出ないことだが、世の中には今が大変な状態の人もいるだろうし、世界では戦争の真っ最中の地域もあるわけだから、その地域で暮らしている人は確かに大変なのだろうが、他人がどうであれ、口では大変な状態になっている人を助けたいと言う人もいるだろうし、中には実際に助けている人もいるだろうが、政治家が人を助けるための制度を作るとなると、その制度の網に引っかかる人が助けられるような成り行きを作りたいということになりそうだが、それとこれとはどう違うのかといっても、人を助けたり助けられたりすることもあるという範囲内であれば、何か違いがあるわけでもないが、制度の網に引っかかる人が大勢出てくれば、それだけ多くの人を助けられるから、実際にその制度によって助かった人が多ければ多いほど、それが良い制度だということになりそうで、そんな制度を作ることが政治家の使命だと言えば、何となくそんな感じがしないでもないだろうが、そんなことができる政治家がどれほどいるのかというと、それもそういうことができる立場にならないとできないし、そんな制度を作りたいと主張するだけで、なかなかその先へと事態が進展しない場合がほとんどかも知れないし、逆にひどい制度を作って多くの人を困らせるようなことをやろうとして、世間から反感を買ってしまう場合もありそうで、マイナ保険証とかが最近ではその典型例となっているわけだろうが、なぜそうやって多くの人を困らせるようなことをやるのかというと、そういうことをやらなければならない事情があって、その事情を優先させたいからやろうとするわけだが、それが必ずしも人を助けるための制度とはならない場合もあるとしたら何なのかというと、助けることよりも優先させる何かがあるのかといっても、助けるにもその程度や傾向や種類などがありそうで、例えば便利になって助かるとか、軽い程度でも構わないようなことなら、それが大変なことでもないはずだが、その便利さというのも、そんな気がする程度のことなら、そういう面ではそうだとしても、別の面では深刻な欠陥が生じていて、それが露呈すれば批判されるだろうし、当初は軽い気持ちで便利だから助かると思っていると、後になってひどい不便や不利益を被ってしまえば、確かにそんなのは気のせいに過ぎなかったことがわかるだろうが、それが気づかない場合もあるかも知れないから、ちょっとした便利さに気を取られていると手痛いしっぺ返しを食らうことになりそうだが、それも人の生死とか深刻な経済的な損失とかに直結するようなこととは関係のない方面のことなら、どうということはないと思いたいが、そんな制度が必要なのかというと首を傾げざるを得ないというか、知らないところで切実な必要性が生じているから、そんなふうになってしまうなら、そんなのは知ったこっちゃない人にとっては迷惑な話だろうが、誰もが得する制度というのもあまりなさそうで、誰かが得すれば別の誰かが損する場合もあるなら、損得勘定の問題となって、妥協や譲歩などの利害の調整が必要となってきそうだが、単純に損得では割り切れないようだと、では何が問題となるかというと、たとえそれが必要だとしても公平さや公正さが問題となってきそうだが、そういう意味ではなるべく万人に対して公平公正な制度を作ることになるだろうが、社会の中で利害関係や権力関係などがある限りで、制度を作るだけではうまく行かない可能性も高そうで、社会の中でそれらの関係が複雑に絡み合っていて、錯綜してもつれ合ってこんがらがっているところでは、にっちもさっちも行かないような事態となっているから、わざとらしいごまかしやまやかしを駆使して何とか切り抜けようとするわけで、それに関連して不正行為や違法行為なども横行するから、それをジャーナリズムがあばき立てて、これ見よがしにメディアを通して民衆に向かって伝えようとするわけだが、それがいつも空振りに終わるわけでもないだろうし、民衆の方でも不正行為や違法行為を許さない姿勢や態度になれば、建前上は真っ当なやり方が通用する社会となっているはずだが、それがそうも行かないところがややこしいというか、例えば共産党の機関紙でもある赤旗が政府や政権与党の不正行為や違法行為をあばき立てても、そこにイデオロギーが絡んでくるとそういう行為には反発したり反感を抱いたりするわけだから、しかも共産党を絶対に支持しない人も世の中にはいくらでもいるから、そうなると単純な利害関係とは言い難いような感情的な嫌悪感まで伴ってくるから、一筋縄では行かない事態となってくるわけで、そういう歪んだ感情を利用して不正行為や違法行為にも目を瞑ってもらって主導権を維持しようとする勢力も少なからず存在しているから、それを良しとしない使命感に燃えている政治家としては、そういうところを少しでも正そうとしなければならないのだろうが、それも建前上で主張していることに過ぎないなら、裏で不正行為や違法行為を温存させざるを得ず、そうなると民衆を裏切っていることになるかというと、民衆の方でも隙あらば不正行為や違法行為に手を染めて、利益を得たい魂胆があるなら、その辺で違法すれすれのグレーゾーンをそのままにしておきたいのだろうから、微妙なところで百パーセント清廉潔白とはならない程度に社会の状態をとどめておきたいとあからさまに思っているわけではないだろうが、成り行きとして身内には甘く他人には厳しい態度や姿勢になってしまうから、それも微妙なさじ加減で体面が保たれる限りで建前やきれいごとを主張できる状態も保ちたいわけだが、そういうところでどこまで不正行為や違法行為を許容するかも、そんな判断を要する対象となる人や団体との関係から決まってくるようなら、相対的な範囲内でそれなりに弾力性があって融通の利く判断も求められてくるのだろうし、そうなると何でもかんでも法律に照らし合わせて善悪や良し悪しを判断するようなことは避ける成り行きに持って行こうとするのではないか。


10月24日「令和のボルシェヴィキ」

 以前とは何かが違うと感じるのは、そう言われてみるとそんな気がする程度のこととして感じているのだが、実際に何が以前とは違うのかと問われると、分析家の類いならもっともらしいことを言えるかも知れないし、実際に今回は違うと言っている人もちらほらいるらしいが、まだよくわからない程度のこととして情勢の変化を受け止めておきたいわけで、違うと指摘できるほどの材料を持ち合わせているわけでもなく、ただ何となくそう思う程度のことに過ぎないのだが、確かに今回は以前とは違って、本気で世の中の情勢を受け止めている人がそれなりにいるのかも知れず、本気というのがどういう意味でどの程度の本気なのかも、人によってまちまちというわけではなく、誰もがこのままの態度や姿勢では駄目だと思い始めているから、あることをきっかけにして世の中の空気も雰囲気も今までとは一変するような出来事が起こってほしいのかも知れないが、それがすでに起こっている出来事とは根本的に違うようなとんでもないことだとは断言できないが、これから何かが起こって世の中がどうにかなってしまうというよりは、それを起こすのはそう願っている人々の方であり、まさかこれから本物の革命が起こると断言したくなるわけでもなく、それもそんな気がする程度のことだと嘘をついておきたいわけで、実際には何も起こらないかも知れないが、れいわが日本のボルシェヴィキであるなら、山本太郎がレーニンのような存在となる一方で、何やらスターリンのような雰囲気を纏った人物も台頭してきたようで、これは相当ヤバいのではないかと不安になってきたが、そんなのは自分の勘違いでほとんど杞憂に終わるだろうが、ロシアが二段階の革命を経てソビエトへと変貌したように、日本でもこれからわけのわからない紆余曲折を経た挙句に革命が起こって、新たな二十一世紀のソビエトが誕生するわけがないとは思いたいが、本当にそうなったらおもしろそうで、あり得ない未来として密かにそうなることを期待しているわけでもなく、そんなのはあり得ない妄想の産物であるにしても、そんな雰囲気がれいわ新選組には感じられるから勘違いな期待も高まるわけだが、たぶん冗談でならそんなことが言える程度で終わってしまうとして、そこで何が終わるのかというと、浅はかで安易な期待が軽い失望に変わるのもいつもの成り行きには違いないが、そこで終わりではなく、絶望のただ中で何かが生まれるのであって、絶望しなければ何も生まれないのかというと、そういうわけでもないところが、今回は何かが違っているのかも知れず、全く絶望していないと言うとそれも嘘になってしまうが、絶望こそがどうでもいいことであって、絶望という言葉を現状の世の中に当てはめること自体が間違っているように思われるから、そこに希望が生まれているわけでもないのに、何だかわけがわからない情勢の中で意味不明な事態が進行中のようで、そこにつけ入る隙があるらしく、多くの人々がそこへ関わろうとしているわけでもないのだろうが、すぐに希望が絶望へ変わるのではなく、期待が忘却へと変質する過程で社会や国の制度が形骸化してきて、それに伴って経済の形式化も促進されて、金融経済へと実体経済が置き換わって昇華して行くに従って、幻想や信仰の対象となる金銭的な価値の実態や中身が何もないことが露わとなったところで、経済的な崩壊現象が起こるのだとしても、何もないわけではなく、多くの人々が金銭的な価値に幻滅するだけだから、そんな幻滅とは裏腹に曲がりなりにも実体経済は続いて行くわけで、人が集団としてそれなりの規模で存続する限りはそこに経済も伴ってくるから、なくなりようがないわけだが、経済的な崩壊現象が起これば金銭的な価値のヒエラルキーも崩壊するのかというと、意外とそうでもないだろうから、それが完全な崩壊とは言えないし、相変わらず実体経済は崩壊せずにそれなりに機能し続けるわけだが、機能し続けるからこそ、それに合わせて金銭的な価値もそれまでとは桁違いに縮小してしまうから、そこで経済的な損失が明らかになるわけだが、確かに経済的な損失には違いないのだが、金銭的な価値が大幅に減少するに過ぎないから、それだけでもかなりの痛手になるにしても、実体経済の中で経済活動の直接の担い手となっている人にとっては、自身の経済活動が続けられる限りで生活が成り立つことにもなるから、たとえ金銭的な貯蓄が激減するにしても、収入の当てが全くなくなるわけではないのだろうが、それに伴って社会が再編成されるところまで成り行きが進むと、何かそこで革命が起こったような感じになるのだろうが、そんな激しい経済的な変動が起こることを今後期待できるかというと、その兆候は嫌というほど窺えるのだろうが、データ的にもそうなりそうな気配がありそうなのだが、誰もそうなることを期待しているわけでもないだろうし、できれば多くの人々がそうなるのを回避したいはずだが、実際にそうなれば、そうならざるを得なかったこととして取り扱われるだろうが、それも言説の素材として取り扱われるだけではないにしても、そこから時が経てばなぜかそうなってしまうわけで、二十世紀の世界大恐慌がそうであったように、二十一世紀の世界大恐慌も次の世紀では言説の素材や題材でしかなくなり、それを実際に体験した人々も忘却の彼方へと退いてしまうわけだから、体験していない未来の人間にとっては何の痛みも苦しみも感じない単なる歴史的な出来事に過ぎなくなってしまうのだろうが、そこに何かが抜け落ちているとすれば持続的な実体経済が抜け落ちているわけでもないが、次の世紀でも人の経済活動が継続されていれば、世界大恐慌など単なる一時的な変動でしかなく、それが本当の終わりではなかったことが明らかになると共に、相変わらず金銭的な価値への幻想や信仰もそれなりに残っているかも知れないが、マルクスの予言通りにまさかの共産主義社会が次の世紀には実現していれば、それも無に帰している可能性もあるかも知れないし、果たして何がそれを実現するのかというと、技術革新がそれを実現するか、あるいは政治的な革命がそれを実現するのかといえば、その先駆けとなるのがまさかの令和のボルシェヴィキであるはずがない政治勢力となるかも知れないし、れいわ新選組が令和のボルシェヴィキであるはずがないと誰もが思うはずもなく、そんな発想自体が自分の妄想の中でもあり得ないことのように思われるから、できればそうはならないことを願っているわけでもなく、やはりそうなることを冗談半分で密かに期待しているわけだ。


10月23日「狂気に囚われる人」

 それをセンセーショナルとでも形容すればありふれた事件の類いに感じられるかも知れないが、そこで常軌を逸したことが行われていると思うのも毎度のことで、なぜそう思うのかというと、メディアを通して伝えられる人の行動や言動が狂っているように思われるからかも知れないが、確かにそこだけを強調すればそうなのだが、所詮は人の行動や言動なのだから、起こった後からなら何とでも説明がつきそうにも思われるから、すぐにそんなことは織り込み済みになってしまって、起こった当初は大変なことが起こったと騒ぎ立てられるが、そこから時間が経過するにつれて、それが次第に何とも思わないような出来事になってしまって、今ではそうなってしまうのが当然のことのように思われてしまうのが、例えば中東やウクライナで起こっている戦争なのだろうが、それが戦争以外でも、アメリカの大統領選挙などでも投票日が近づくにつれて次第に常軌を逸した行動や言動が目立ってきたが、トランプもイーロン・マスクも狂気に囚われていると言えば元からそんな感じがしないでもないから、彼らにとってはそれが当たり前の言動なのだとしても、ああいう言動と共に彼らの立場や境遇が構成されていると思っておけば、それで納得するわけでもないが、ああいう人たちが日々尋常ではない状況の中で活動していることが想像できる限りで、ああなってしまっても構わないような気がしてしまうのだが、正気であることにこだわりたい人なら、とてもじゃないがあんな人を支持したいとは思わないかも知れないが、熱狂状態の中で高揚した気分となっていれば、あんな人物が大統領となることに救いを求めてしまうのかも知れず、イーロン・マスクにしても自身が経営しているテスラのEVの最も売上の大きい中国との対立を煽っているトランプを応援しつつも、規制当局とは自動運転の死亡事故やスペースXの衛星打ち上げを巡って対立しつつも、民主党政府のEV補助金や電池生産の交付金を利用して商売をやっている一方で、NASAや国防総省とも民間の宇宙産業の担い手であるスペースXを介してビジネスパートナーなのだから、何やらこんがらがった立ち位置であることは確かで、経営している企業の商売が有利になるように振る舞っている限りで、それなりに理に適った行動や言動になっているはずだが、時としてテスラの株価を下げるような行動や言動にもなってしまうから、言っていることとやっていることが矛盾しているようにも感じられるし、もちろんそういう行動や言動が彼自身のカリスマ性を高めて、信者がついてくるような結果をもたらすわけで、どこでどう辻褄が合っているのかいないのかも、彼自身にもよくわかっていないのかも知れず、それを狂気や正気で判断するのも間違っているかも知れないし、主義主張の一貫性なども大して気にならない範囲で活動しているわけだろうから、人としての善悪や常識や道理や倫理などから逸脱しても構わないようなことを言っていられたりやっていられる限りで、トランプやイーロン・マスクなどの存在感が際立ってしまうのかも知れないが、イーロン・マスクは仕方がないとしても、トランプが大統領になってしまうと、ポピュリズムによって民主主義がぶっ壊されるような事態になってしまうから、それは是が非でも避けたいわけだろうし、そうならないための何らかの策が講じられて、結果的に大統領になるのが阻止されてしまうと、またそれが非合法的なやり方でそういうことが行われたのではないかと毎度お馴染みの陰謀論が広まりそうだが、アメリカではそんなことで済んでしまう一方で、日本でも万が一政権交代が起こってしまうと、投票日の翌日の月曜日に株価が大暴落となるかどうかも定かではないが、可能性としては野田が総理大臣に返り咲く程度のことだから、財務省陰謀論者の言い分としては予想の範囲内になるはずで、他に取り立てて何がどうなるとも言えないところだが、最低でも選択的夫婦別姓が実現されれば格好がつきそうで、リベラルな価値観が少しは実現しそうな予感もするだろうが、果たして今までが狂気に囚われていたのが正気に戻ったと言えるような状況となるかどうかも、国民民主や維新の政治家なども含めれば、相変わらず狂気に囚われているような感じもするから、何とも言えないところだろうが、それらの何が狂気なのかというと、感覚として歯止めがかからないような言動が目立っているような感じなのだが、人権を顧みないような態度や姿勢にとらわれているわけで、人権といっても今ひとつピンとこないかもしれないが、ごく普通の人間なのに何かが狂っているような感じに見えるから、いざとなったら血も涙もないような非情なことを平然とやってのけるような危うさが感じられて、何か底が抜けている感じなのだが、社会がああいう人間を作り出してしまったのだから、それもそうなるのが当たり前な状況なのかもしれないが、それをどう捉えたらいいのかわけがわかないわけではなく、昔からそんな人間などいくらでもいたような気もするし、現状でも世界を見渡せばプーチンやエルドアンやネタニヤフなど、その種の人間には事欠かないはずだが、その辺がうまく説明できないところでもあって、何かロボットのような人間と言ってしまうと、メディアから伝わってくる雰囲気がそうであるだけで、実際に直接付き合ってみれば、それなりに人間味あふれる普通のどこにでもいる一般人と変わらないように感じられるのかもしれないが、それが国家主義的なイデオロギーにとらわれてしまうと途端に頭がおかしくなってしまうのかも知れず、それは普通の一般市民にも言えそうなことなのだが、それが近代の民主主義的な価値観と共に生じてきたイデオロギーだからこそ、執拗に人々の意識の中で生きながらえている価値観でもあって、一方にヒューマニズム的な人道主義精神を訴える人が出てくると、それと表裏一体をなすような形で国家主義的なイデオロギーに精神を支配された人も出てくると考えておけばいいのだろうが、そのどちらもそうじゃないことを理解できるかというと、理解するかしないかではなく、それ以前の感情に根ざしているから容易には取り除けない障害物のようにして、人々の精神に巣くっているのだろうが、どちらもが精神の拠り所となってしまうから、それを狂気にとらわれていると解釈すること自体も間違っているのかも知れないし、もっと肯定的に捉えた方がいいのかも知れないが、ではそれらのどちらもがそうじゃないことを証明できるかというと、証明するようなことでもないのかも知れないし、そんなのは不治の病として放っておくしかないのかも知れない。


10月22日「わずかな力の揺らぎ」

 述べている内容がそれほどもっともらしく思われるわけではなく、では他に何か信じられる当てがあるわけでもないが、中途半端に不明確な内容を語っている限りで、内容が確からしいわけでもなく、それを確からしいと感じるなら、そんなことを語っている人や勢力に洗脳されているとも思えないが、洗脳という強い作用や影響ではなく、もっとゆるい拘束を伴った信じるか信じないかはあなた次第だとかいう薄っぺらい勧誘文句程度の内容には違いなさそうで、そんな勧誘を間接的にそれとなく受けているわけでもないのだが、じわじわと圧力を加えられているような圧迫感を感じているかというと、そんなこともなく、たぶん気のせいには違いなく、何でもないと言えばその通りかも知れないが、何とも言えないような感じのわずかな影響を及ぼされているというと、そんな何だかわからないわずかにしか感じられない影響など無視していれば良さそうなものだが、心の隙を突くような感じでちょっとずつ絶え間なく攻め立てられると、徐々に追い詰められるような感じでジリ貧に陥って行って、ついには攻撃相手の軍門に下るような結果に至ってしまうのかも知れないが、果たして現状でそんな攻撃を加えられているのかといっても、そんな自覚はないのだが、では誰がそんな攻撃にさらされているのかといっても、自分以外の誰もここにはいないはずだが、少なくとも自分ではないなら、メディアがそんな成り行きを伝えているのかと言えば、それも伝えているのだろうが、それとは違う傾向の成り行きも伝えているから、そればかりが目立っているわけでもなく、どちらかと言えば、そういう成り行きは目立たないはずだが、攻撃の程度にもピンからキリまでありそうで、それと自覚できないような程度でなら、自分も何かしら攻撃と言えるような作用を及ぼされているから、それ相応のストレスを感じているのかも知れないが、やはりそんなのは普段は無視しているのだろうが、病気などの傾向が顕著に窺えるようになれば、ちょっとした不快感でも事を大げさに捉えてしまって、それが命取りになるような気がして、さらに気が滅入ってしまうのだろうが、そんな心身が連動した悪循環を断ち切れるとも思えないし、自身の体調の悪化を悪く受け取っては駄目だと自分で自分に言い聞かせるようにして励ますのだが、そんなことを思っている時点で悪循環に陥っているから、心理的にもうつ状態がどんどん進行してしまうのだろうが、今がそんな最悪な状態なのかというと、今よりもさらにひどい状態を数限りなく経験してきたわけでもないだろうが、今もそれほどでもないのに、ひどい状態だと嘘をついても構わないのだが、それよりはこんなふうに語る成り行きに身をまかせているだけで、何でもないのにひどい状態を想像しながら、フィクションとしての虚構を物語っているつもりなのかも知れないが、それが自らの意識に対して虚を突くような攻撃となって自らに否定的な作用を及ぼしているのかというと、そんなはずがなく、むしろ馬鹿げた作り話を余裕で受け止めて、それとなくずらしているような気もするのだが、何をずらしているのかというと、語りたいことを語らないようにして、それとは違う方面へと話をずらしながら面倒なことを語るように誘導している感じなのかも知れないが、誰が誘導しているのかと言えば、たぶん自分で自分を誘導しているつもりでいるらしいが、そうではないとしたら何なのかというと、これ以上は語ってはまずいと感じているから、わざと内容のないようなことを述べようとしていて、語りたくて仕方がないようなことをわざと避けながら、その代わりに意味不明でつまらなそうなことを延々と述べようとしていると現状を捉えておくのが無難に感じられるのだが、他人の商売の邪魔をするほどの力が自分にあるとは思えないし、そう思うなら昔のようにもっと好き勝手にひどいことを書き散らしていれば気が済むはずだが、現状はもっとひどいというか、誰もが塵も積もれば山となるような幻想を抱かせられているとも思えないのだが、それが幻想ではなく現実になることを証明できるかが試されているというと、いったい誰がそれを証明するように促されているのかというと、それが現状で生きている人々が想像できる範囲では、それなりに当てはまりそうな人物の存在を感じているらしいのだが、それが大きな勘違いというよりは間違っていて、すぐにそんな期待が裏切られてしまいそうな予感もしているのだが、だからあえて的外れなことを述べるなら、状況的には現状でもうまく行っていると思いたいわけで、たとえそれが間違った認識であるとしても、今はそう思っておくべきかも知れず、これから思いがけないことが起こるように現状で推移している世の中の成り行きを持って行きたいわけだが、人の思い通りに行くような成り行きでもないわけだから、そんなのは無理に決まっているわけだが、決まっているからこそ、そう決まっていることを覆すような意図や思惑に基づいて誰もが行動していて、それに伴って摩訶不思議な言動も繰り返されるわけだが、何かそれがどういう思惑でそんな言動になってしまうのか、その理由がすぐにわかるわけではないのかも知れないが、人々が納得するような理由が事後的に導き出されるとしても、あくまでもそれが起こった後からもたらされるからこそ、そんな理由を知って納得してみたところで、もう手遅れとなってしまうから、手遅れにならないうちに何とかしようとして、今もそれに関わっているつもりの者たちが右往左往しながら盛んに人々を誘導するための言動を繰り出している最中なのだろうが、結果的にその大半が相殺されて、大して世の中に影響を及ぼさないような事態となるはずだが、すでにある程度は結果が予測可能な段階に入っているかも知れないが、それでもなおわずかに残された不確実な変動の余地を埋めるようなことをやっているつもりなのだろうが、必死になっていることも確からしいが、必死さを感じられるようなそれらの行動や言動をどう受け止めているのかというと、冷めた目で眺めているわけでもないのだが、たぶんそうではないとしても、そんなふうに感じている自分も十数年前に実際に自然の大変動を体験したからこそ、それを偶然に巡ってきたチャンスだと捉えたかどうかは定かではないが、それをきっかけにしてそこから抜け出ることができたわけで、抜け出た先に待っていたのが今ある状況には違いないわけだが、これで良かったのか悪かったのかを判断するようなことではなく、結果的にはどうなっても良かったのにそうならざるを得ないようなこととして今に至っているわけだ。


10月21日「信じる人は救われる?」

 疑わしく思われることがあるならそれを疑っていればいいが、それが信じられるようなことなら疑わしくは感じられないはずだが、では疑わしく思われるようなことを信じているとなると、そんなことを信じている人が疑わしいが、それを信じているのが自分だと、何か矛盾しているような気がしてしまうが、疑わしいと思っているのに、メディアから伝わってくる感触としては、疑わしく思われる勢力を支持している人たちが大勢いて、それらの人たちが騙されているんじゃないかと思われるとすれば、騙されている理由や原因を知りたくなってくるのだが、実態としてはそうではなく、その勢力を支持している大勢の人たちが、さらに多くの人たちを騙そうとしているんじゃないかと思われてくるとしたら、なぜかそれらの人たちが騙されている自覚も騙そうとしている自覚もなしにさらに多くの人たちを騙そうとしているんじゃないかと思いたくなってくるとしたら、何やらねずみ講のようなシステムを想像してしまうが、金銭を介してそういう連鎖が起こっているわけではなく、誰もが容易に理解できそうな紋切り型的な譬え話のような理屈を介して、それを信じられる人たちがそんな譬え話から主張を構成する勢力を支持するように仕向けられているとしたら、ある意味ではわかりやすいのだが、そのわかりやすい理屈を信じてしまう人たちが安易な理解に囚われているような気がしてしまうから、かえって危ういのではないかとも思われてしまうのだが、その簡単に理解できる譬え話が、例えば食うに困った貧乏人がコンビニで数百円の商品を万引きすれば警察に捕まるのは当たり前のことで、それと比較できないこととして自民党の国会議員が派閥から数百万円から数千万円のキックバックをもらっていても警察には捕まらないし、そんな自民党の国会議員を批判しているれいわの大石あきこに政治資金収支報告書の記載漏れが発覚したのをネトウヨが裏金隠しだ何だのと攻撃するのも当たり前といえば当たり前には違いなさそうだが、ではそんなエピソードを組み合わせてもっともらしい譬え話が構成されてしまうのを真に受けて、自民党はけしからん!しかし野党には投票したくないから、今回は白票を投じると憤っている人がいるとなると、そんな人こそが正真正銘の馬鹿でクズで偽善者に思われてくるのだが、果たしてそんな話を信じられるかというと、要するにそれはそれこれはこれで、それらを結びつけてどうこう言うようなことでもなく、そんな話を自分の主義主張に利用しようとも思わないし、それが何かの判断材料になるわけでもないというと嘘になってしまうが、何か違うようなことではないのかと疑ってしまうわけだが、それを技術論に還元してしまうのも倫理的にはおかしいのだろうが、コンビニでいかにバレずに万引きをやれるかに関して技術を磨いている人なんて想像できないし、レジを通さないで商品を外へ持ち出そうとすれば防犯ブザーが鳴るようなシステムが導入されているのかも知れないし、果たしてそういった防犯装置を導入するのと、ある程度は万引きされても構わないようなコストととの間で、どちらが安上がりなのかについても検討の余地がありそうにも思われるし、自民党の国会議員に関してもいかに多くの政治資金を集めるためのパーティーを開催して、派閥から多額のキックバックを受けるかを議員同士で競い合っていたようだから、そんなことをやっている中では罪悪感など生じてこないだろうし、そんなことでしかないと言えばその通りには違いないのだが、自民党の支持者もそんなことに罪悪感を感じるほどナイーブな神経など持ち合わせてはいないだろうから、そんな人々が自民党の立候補者に投票することは予想できるが、それでは埒が明かないと考えるなら、たとえそれが違法行為に該当しても別に悪いことだとは思っていないだろうから、そんな人々にとってはそれと万引きとは別々のことだと思うしかないだろうし、それとこれとを無理に結びつけて何かもっともらしいことを主張する人など無視していれば済むことにもなってしまいそうだが、そんなこととは関係のない方面から行政面の不具合を解消したり改善するための提言をする政治家の主張に耳を傾けたいと思うなら、そういう政治家を支持したいと思っている兆候なのかも知れないし、特定の政党や政治家を支持していることを正当化したいなら、支持するのに都合の良いことだけ強調すれば済んでしまうことになりそうで、もちろんその逆に支持しない理由を正当化するのにも否定的な面を強調すれば済んでしまうことになってしまうのだが、そういうことがあからさまに顕在化している主張となれば、ああなるほどそういうことかと思われてしまうのだから、それで構わないはずなのだが、そういうことを主張している他人を信用できるかとなると、社会的なしがらみが関わってくればたとえ信用できなくても支持しているように装うかも知れないし、装うのではなく本当に支持していることになっても構わない程度のことである場合もありそうで、そういう人が組織の構成員となっていれば、そんな組織の規模に応じて多くの組織票を当てにできる政党や政治家が有利になるわけだろうが、そういう意味で信じるとはそういう組織の構成員になることだと理解しておいても構わないし、理解していなくてもそれと自覚することなく組織の構成員になっていることに気づいていない人も多そうで、気づいていないというのも嘘で、実際に何らかの団体に属していればあからさまにそうなっていることを理解しているはずなのだが、そうではないとしたら何なのかというと、そういう組織や団体を信じるか否かではなく、ただ単に功利的に利用したり活用したいだけで、自身に利益をもたらしている限りで支持するようなことであるなら、わかりやすいことになってしまうが、それも個人としての自身ではなく、日本国に利益をもたらす政党であり政治家だと思っているようなら、要するにそれが建前上の勘違いになりそうで、もちろん当人は勘違いだなんてこれっぽっちも思っていないだろうし、トランプのアメリカ第一主義のようなイデオロギーの延長上に、ニッポン第一主義のような妄想が意識の中に構成されてくるのだろうが、そういう人にとってはそれでも構わないのだろうが、それではまずいのではないかと疑念を抱いている人も世の中にはそれなりにいるような気もするのだが、そう思っている自分はどうなのかというと、どちらとも言えないような何かこれといってはっきりしたイデオロギーのようなものは持ち合わせていないような気がするわけで、それもあからさまな逃げの態度に過ぎないから、ある程度の偽善や欺瞞に塗れているわけだ。


10月20日「かつてない事態」

 それを現状の延長上で考えてもうまく言い表せないとなると、現状からはかけ離れた自分勝手な都合が反映されたフィクションのような作り話の中で成り立つようなことかも知れないが、そう思っても構わないようなことだと、かえって不都合なことになってしまうかも知れないが、かつてない何かが到来しそうな予感がすると言っても、それが何だかわからないでは話にならないが、わかってしまっても信じられないようなことかも知れないから、何だかわからない事態に陥ってしまうような予感がしていると共に、もうすでに世界中がそんな事態に陥っているのかも知れないから、そこで何が正しいのかもわからない状況の中で考えなければならないと言っても、何を考えているのか自分でもわかっていないようなことかも知れず、世界がかつてない事態に陥っているからこそ、そう思われるようなことなのかも知れないが、世界が陥っているのではなく、なるようにしかならないようなことであるから、否応なくそうなっているわけではなく、どうなってもよかったのに、たまたまそうなっているような感じなのかも知れず、それを偶然の巡り合わせだと思っていれば済んでしまうようなことかも知れないが、それでも何か感じ取っているような気がするわけだから、何らかの傾向に沿って動いていることは確かなのかも知れず、その傾向というのが現状で顕在化している傾向だと見なしたいわけだが、やはりそれが何だかわからないでは話にならず、そんなよくわからない傾向に従いながらよくわからない方面へと多くの人々が導かれているのだろうが、それを未だかつてなかった事態だと状況や情勢を捉えてしまうからよくわからなくなってしまうわけで、それよりは何かが循環しているような感じで状況や情勢を捉えた方が理解しやすいのかも知れず、では何が循環しているのかと言えば、人や物や情報が絶え間なく循環していると言ってみても何のことやらさっぱりわからないのかも知れないが、そんな中でも多くの人々を特定の価値観を信じるように誘導したがっている傾向があると言っても、誘導したがっている当事者たちにはその自覚がなく、それが何だかわからないままにそんな方面へと導こうとしているから、導いている者たちにも導かれている者たちにもその自覚がないのだから始末に負えない事態となっていて、そういう認識に至れば何となく何が循環しているのかわかってくるかも知れず、それを新たな宗教だと言いたがる人も今後それなりに出てきそうだが、それが以前から社会に取り憑いている宿痾の如き存在に感じられるなら、是が非でも取り除くべきだと思ってしまうから、そうなると例えば宗教はアヘンだと言い放つような事態にもなってしまうかも知れないが、もちろん真意はそうではないところが多くの人々が理解できないところであって、勘違いしているところなのだろうが、社会から取り除くべきは宗教ではなく貧困であり、人々を宗教に頼るしかない追い込まれたジリ貧の状況から救い出すべきだと解釈するなら、何となくそれらしくもっともらしい意見に聞こえてくるわけだが、それも従来からあるありふれた解釈なのであって、そんな解釈が通用している限りで未だかつてない事態ではなく、かつてあった似たような状況や情勢が絶え間なく循環しているに過ぎないことになってしまうのだが、そうではないとしたら、では未だかつてない事態とはどんな事態なのかというと、そんなもっともらしい解釈さえも通用しない異常事態となっているのかと言うと、通用していないわけではなく、そんな主張や意見でも構わないのであり、そういうもっともらしい主張や意見を言っている人たちを支持したいなら、どうぞ好き勝手に支持していればいいじゃないかと突き放そうとしているわけでもないのだが、そんなことにはお構いなく、それとは別の方面へと誘導されている人もいくらでもいるから、何かそっちの方が世の中の真実を物語っているような気がしてしまうわけで、では社会から貧困を取り除くべきだと訴えている人たちは駄目なのかというと、そういうことではなく、やはりやるならどうぞやってくださいと促されているだけで、しかもそんなことを訴えている人たちが貧困に陥っている当事者には見えないから、そういうのはお助けマンの類いであり、助けたいならやらせておけばいいのであって、別に彼らを弾圧したり抑圧しようとしなければ済んでしまうようなことなのだから、それとこれとは別問題だと思っておけば、彼らとは別方向に歩んで行けば良いような気分になってしまうわけで、たぶんそういうところから彼ら特有の勘違いが生じてくると思ってしまっても構わないのかも知れないが、それの何が構わないのかというところが謎でもなく、軽く簡単にご都合主義だと言い放つなら、そんな決めつけにも黙って頷いておけば良く、そこから先へ歩んで行くにはそれとは違う方面からのアプローチが必要となる段階なのかも知れないから、今はそれを模索している段階だと自分たちが置かれた状況や情勢を捉えておいた方が無難なのだろうが、それもそう自覚する必要もないことなのかも知れず、それと自覚しなくても自然とそんな方面へと導かれている人もいくらでもいて、だから従来から繰り返されてきた人々を貧困から救い出さなければならないという主張も苦にならないわけで、黙ってその脇を通り過ぎて行くような薄情な人を装っていても構わないような事態になっているのかというと、そんな人も昔からいくらでもいたような気もするから、そういうことではないと思いたいわけでもなく、そうであっても何の罪悪感も嫌悪感も覚えるようなことでもないから、そういうことが問題となっているわけでもなく、そこからちょっとずれたところで何らかの変動が生じてきていると捉えておいても構わないのだろうが、それが何かと問われてもはっきりとは答えられないような微妙なずれでもあって、確かにそういうことも部分的には含まれてくるのだが、微妙にそこから外れたところも含まれてくるから、そこだけの問題に限定されてしまうと、ちょっとそれでは不十分な感じになってしまって、そういう部分にも関心を向けても構わないのだが、メインテーマとはならないようなことなのかも知れないから、もう少し視野を広げてみると、自ずから見えてしまう光景があって、それが見えてしまうと彼らには不都合な事態になってしまうから、何とかしてそこだけに視線が集中するように仕向けようとしているのだが、それが今のところは関心のない人には通用していないように見えて、だから彼らが嫌がらせの標的にしている勢力への攻撃も空振りに終わっているようにも感じられるわけだ。


10月19日「日本農業の再生」

 昔から考えていることで、実現できないと思うから、そんなことを述べてみても無駄だと思っていることがあって、それをここで述べてみても構わないのだが、やはり今はやめておいた方がいいだろうと思うから、たぶんやめてしまうのだが、では他に何か思い浮かぶことがあるかというと、ないわけではないが、それも何か違うような気がすることで、何を述べるべきか迷っている中でも、日本の農業の再生を考えている人が結構いるらしいのだが、政府の農業政策を批判するついでにそれらしいことを主張するばかりで、あまりそういう主張には説得力を感じないからスルーしておけばいい程度のことなのかも知れないが、たぶん自分も説得力のないことなら主張できて、そんなことを主張しても実現できないことだろうから、主張するだけ無駄なのだろうが、それを簡単に言うなら、政府が農業公社を設立して採算を度外視した農業をやれば良い程度のことなのだが、その際には労働力として生活保護を受けている人の中から働けそうな人を雇って、受給している生活保護費をそのまま給料として渡して貯金したり蓄財しても構わないように法律改正でもすれば、結構な量の労働力を確保できるような気がするのだが、後は自動車教習所の送迎マイクロバスのような方式で、毎日政府が確保した耕作放棄地などに適当な人数を送迎して農作業をやって貰えばいいだろうし、その際には耕作放棄地の持ち主を農業指導員として雇って監督して貰えばいいだろうが、持ち主がいなければ地元の農協の職員や農水省の役人や農業高校の先生などでも構わないが、生活保護の受給者数が二百万人もいれば、その中の何割かは五体満足でそれなりに作業もできそうな気がするが、何かそういうことやるに当たって不都合な点があるのかないのか、素人の自分にはよくわからないのだが、もし農業公社のような形態が可能なら、例えば農水省の管轄で農業公社を設立する一方で、経産省か総務省の管轄で産業公社を設立して、大阪の府政では派遣業者のパソナが暗躍しているらしいから、生活保護受給者の中から働けそうな人を産業公社で雇って、全国津々浦々の政府や地方自治体の役所に出向してもらって窓口業務や事務などの仕事をやって貰えば、生活保護費をそのまま給料として手渡すことで、行政経費が削減できるかも知れないし、そういう人たちには住宅公社などの空き部屋に住んでもらって家賃は政府が支給する制度にすれば、その分で少しは財政負担が増えるだろうが、防衛費などに莫大な予算を使うのに比べれば大したことはないような気がするのだが、果たして実際にそんなことが可能なのかというと、できないような気がすると共に、そもそも何でもないような立場の自分の主張など誰も真に受けないし、こんなところで何を述べても誰も相手にしてくれないような気がするから、こういうことは述べるべきではなさそうな気もしてきて、こういう真面目そうな意見や主張よりは、もっと馬鹿げていてくだらないことなら、要するに他人から馬鹿にされるような意見や主張なら自分の立場にもふさわしいような感じがしてくるから、せいぜいが第三次世界大戦がもうすぐ起こるとか株の大暴落が起こって世界大恐慌がやってくるとか、誰もが気軽に言えるようなどうでもいいことを述べている方が人畜無害で無難なのかも知れないが、そういうことを述べてしまっても、何だか自分に嘘をついているような気がしてきて、もっと何かもっともらしいことを述べなければならないと思う一方で、そうなると山本太郎が主張しているような、消費税率上げる一方で法人税率を下げてきた自民党政府はけしからん、などという趣旨の毎度お馴染みの主張に対していちゃもんをつけたくなってくるのだが、山本太郎がそんなことを主張する経緯や事情を考えると、彼には延々とああいうことを言わせておいた方がいいような気がして、こちらがそれにいちゃもんをつけるような立場ではないような気もしてきて、ああいう方面の主張には反論も反対意見も言うべきではないと思う一方で、では今の自分の立場に見合った主張とは何なのかと考えてみても、どうもそれがよくわからないのだが、現状では実現不可能に思われることなら、それなりに思い浮かぶことがあるのだが、例えば消費税率を上げて法人税率を下げるのではなく、ただ単に法人税率を何の条件もなしに一律15%に下げるべきだとか、他の全ての間接税を廃止する一方で、消費税を5%に下げるべきだとか、税率を下げた分は予算を減らせばいいとか、そんなことが現状でできるわけがないだろうし、たとえ自分がプーチンや金正恩などの独裁者になっても実現不可能なような気もするし、そういうデタラメなことを考えている自分が山本太郎なんかを批判できる筋合いもないのだが、そういうところで現状の日本の政治や行政の置かれた状況やそうなるに至る経緯やそこで生じている事情をわかっていないのであり、わかろうともしていないような気がするから、そんなふうに現状を捉えてみると、自民党や立憲民主党の政治家が主張していることの方が、部外者の自分が主張したくなるデタラメで実現不可能な主張よりは、少しは地に足のついた真っ当な主張になるのかも知れず、要するに彼らが現に置かれている立場に基づいて実現できそうなことを主張していると理解するしかなく、それがメディアに寄生する各方面の識者の類いからは批判の的となるようなひどくて中身の空っぽな主張内容だとしても、批判している識者の主張も現状でそれがどれほどもっともらしくて説得力のありそうな主張内容だとしても、たぶん現状では実現不可能な主張になるのかも知れないから、そういう面は割り引いて考えないとならないようなことなのかも知れず、その一方で今度の選挙で自民党が勝てば株価が上がるし負ければ株価が下がるようなことを真顔で語る人たちには腹が立って仕方がないのだが、彼らの立場ではそういうことを述べざるを得ないのであって、自民党の政治家がどんなにひどいことをやっていても、政権交代など論外で、そんなのはあり得ないこととして話を進めるしかないようで、昨日もユーチューブの株式関係の動画を見ていると、あの西村さんが裏金議員と呼ばれて可哀想だとか言っているアナリストがいて、こんな人でもこんな認識なのかと思って愕然としてしまって、もしかしたらその程度のことに驚いている自分の方が全くの世間知らずなのではないかと思って不安になってきてしまったのだが、そういう水準で判断するなら、やはり山本太郎やれいわを馬鹿にしたり嘲笑するのはまずいと思わざるを得なくなってしまうわけだ。


10月18日「チャンス到来?ピンチ襲来?」

 フィクションの中では偶然に巡ってきた機会をものにして、どうでもいいような登場人物が何やら面倒なことをやらかすことになりそうだが、現実の世界でも何やら面倒なことをやらかす者が出てくるかも知れないし、それが誰なのかがここで問題となっているわけでもないのだが、誰でも構わないわけではなく、何かメディアで話題となっている者がやらかすと興味深いし、やらかした者が新たに話題となることもありそうだが、実際に誰が何をやらかしているかが興味深いことでもあるのだが、やらかしていることにまだ気づいていない場合もあるから、やらかしたことが明らかになってから大騒ぎとなることもあって、何がどうなるにしても面倒でややこしい事態になるような気がするわけだが、すでにそうなりつつあることを多くの人々が恐れていて、アメリカでそれをやらかしているのがトランプやイーロン・マスクなどだとしても、ロシアのプーチンやイスラエルのネタニヤフなんかもそんなことをやらかしている代表格のような存在なのかも知れないが、それが中国となると習近平がやらかしているというよりは、集団でやらかしているような感じがするし、国家ぐるみでやらかしているから、代表者の習近平といえどもそれを制御できていないのかも知れないし、そういう国家意志となるような集団意志に国家の官僚機構が操られているから、今後何かの機会を捉えて台湾有事が起こるかも知れないし、そうなればなったで、そこから第三次世界大戦へと進展するような成り行きに世界情勢が誘導されて行ってしまうかも知れないが、そうなれば世界経済がリセットされて、そのどさくさに紛れて各国の債務もハイパーインフレでも起こって帳消しになってめでたしめでたしとなると共に、その代償として多数の民衆が死傷して経済基盤のインフラも大規模に破壊されて多大な損失を被るだろうから、それが戦後復興のチャンスとなるわけだが、果たしてそんなふうに事態が進展してしまうかどうかも今のところはよくわからないのだが、過去にそれと似たような成り行きが起こったわけだから、今回もそれと同じような成り行きへと進展するかどうかも現時点ではよくわからないから、今からそうなることを想定して何か備えておく必要があるかというと、現状では皆目見当もつかないようなことなのかも知れず、わかっているのはそんな大げさなことではなく、そのせいぜいが株の大暴落が起こることを恐れておくぐらいが無難なところだが、そこでも災い転じて福となるようなことを期待してしまい、それもご都合主義でしかないのだが、多くの人々がそんなことが起こるのを恐れているうちは結構持ちこたえてしまい、そんな事態にはなかなかならず、そうなることを期待して待ち構えている人たちがいくら待っても何も起こらないから、それが杞憂に過ぎないことを悟って忘れてしまった頃に突然何かのきっかけから思いがけないことが起こるのかも知れないが、それがいつ起こるかを予想できないから、それが起こるのを待っているのもただ無為に時を過ごすばかりで、待っている時間がもったいない気がしてしまうから、そんなことなど考慮する気もなく、それよりは現状の延長上でその続きとなるようなことを日々やっていて、そうやって多くの人々が目先の利害やちょっとした情勢の変化ばかりに気を取られていることが、そういう思いがけないことが起こることの十分条件かも知れず、それが必要条件ではなく十分条件であることが、必ず起こるわけでもないが忘れた頃に起こるようなややこしいところでもあって、直接のきっかけを何が求めているわけでもなく、それがきっかけだとも気づかないようなことが起こったことにも気づけないから、それが起こってから起こったことのきっかけや原因を事後的に特定したくなるようなことでもあり、人々の意識や注意や警告などをうまくすり抜けて事態が進行するようなことなのかも知れず、だから事前には捉えどころがなく、結局は事後的にしか認識できないようなことであるから、それを事前に予想しても外れてしまうし、そうであっても誰もが予想したがって、それが起こることをこれ見よがしに予言して周囲の人々から注目を浴びたいようなことなのだろうが、もちろんそれが起こってから我こそが事前に予言していたと言いふらそうとするのだが、そんなことばかりに気を取られていると、思いがけないところから思いがけない作用や影響が及ぼされて、それを利用して思いがけない勢力が世の中の主導権を握るような事態にもなってしまうから、事前に用意周到な準備をしながら、それが起こったらすぐに主導権を握るための行動を開始しようと虎視眈々と機会を狙っていた現状でも有力な勢力が、そんなぽっと出のよくわからない勢力に出し抜かれて、しまったと思ったところでもはや手遅れとなってしまえば、それがよくできたフィクションのような筋書きのないドラマのような事態の推移となりそうだが、そんなことを今ここで予想してみたところで意味不明だし、何を予想しているのか自分でもよくわからないのだが、たぶんそうはならないようなことを期待しているわけで、しかも何がどうなってそうなってしまうのかも皆目見当がつかないから、そんな事態に備えて事前に何をどうしようとしているのでもないし、それ以前にその場の成り行きにとらわれてそんな成り行きに従いながら行動していて、その結果として何やら面倒でややこしい事態に陥っているような気がするのだが、結果的にも途中経過的にもそれで構わないようなことだと思われてしまい、別にそこから抜け出ようとしているわけでもなく、むしろそうなってしまったことを受け入れているような気もして、結果的にそうなってしまったことがかえって自分にとっては好都合だとも思われてしまうから、あとはそれが勘違いでないことを祈るばかりだが、ここで祈ってみてもどうなるわけでもなく無駄なのかも知れないし、無駄だと思うから今さら祈るつもりもないのかも知れないが、すでにとっくの昔に賽が振られて、今は出た目の数だけ歩を進めている段階であり、それと同時並行して、さらにわけがわからなくなるような事態に備えて、何やら勘を研ぎ澄ます訓練を受けているような気もするわけだが、それも杞憂に過ぎないことを祈っているような気もするが、他に何を祈っているのかというと、当然のこととしてうまく自らがとらわれている事態を切り抜けられることを祈っているような気もするのだが、そんな祈りが通じてうまく切り抜けられるとも思わないし、たぶん切り抜けるのではなく、そんなわけのわからない事態の中にとどまるように仕向けられているような気もするわけだ。


10月17日「経済音痴への批判」

 何となく政治家や識者が政府の経済政策がどうのこうの述べている内容を真に受けるほど馬鹿でもないと思ったところで、それの何が気に食わないのかと問われると、まともに返答できるほどの知見や見識を持ち合わせているわけでもないが、他党を経済音痴だとディスっている政治家やその支持者の主張が稚拙だと馬鹿にしたくなることもあるから、何か勘違いしている恥ずかしい人たちの述べている主張や意見に対してなら批判できそうだが、ではその批判が的を射ているかというと自信はなく、こちらでも何か勘違いしていて的外れで見当外れなことを述べているのではないかと思って不安になってくるが、その意味からして経済音痴とかいう言葉を使うセンス自体が恥ずかしいような気がして、他の人や団体がやっていることを経済音痴だとディスれる自信がどこから生じてくるのかよくわからないのだが、少なくとも現状でそれなりに収入があったり収益を上げているから人や団体が存在していたり企業などが存続しているはずで、経済音痴だと経済活動が立ち行かないのかというとそうではなく、政府などの経済政策や経済運営がうまく行っていないから、あるいは敵対する政党の経済政策がひどいから、それを経済音痴だとディスっているらしいのだが、それを音痴という比喩で嘲笑すること自体が的外れで、経済活動が続いていること自体が、それなりに経済状況や経済情勢に応じたことをやってきたから、結果的に経済活動が続いているわけで、そうなっていることと音痴であるかないかという判断とは全く結びつかないような気もするわけだが、何か経済を舐めているような感じがするから、真顔でそんなふざけた表現を使う人の主張や意見を真に受けたくないのも当然だが、そもそも政治の力で経済をどうにかできるほど甘いものでもないと現状を捉えているから、それでも政治の領域で経済政策の類いを打ち出さなければならない事情や経緯があることは承知しているが、政治だけでどうにかなるわけではないというスタンスを保ちながらも、何かこれといって納得できるようなことが言えるかというと、やはり自信がなければ経済音痴だとかディスっている人たちを批判できなくなってしまうが、もっと根本的なところで、例えば政治と経済とは二律背反する傾向があるのではないかと述べてみたところで、意味不明だと思われるかも知れないが、経済を活性化させるには何よりも政治力を行使しないことが肝要で、政治に依存しない自律的な経済活動を尊重すべきだと述べてみても、何を言っているのかよくわからないかも知れないが、政治にできることは経済活動を抑制することしかできないと述べれば、それは間違っているのではないかと反論されるわけでもないだろうが、要するに政治は経済活動の邪魔をすることしかできないのだから、なるべくなら政治が経済に介入するのはやめた方が良いと主張したくなるわけだが、では政治にできることは何かというと、人や団体の活動の自由を尊重するような制度的な枠組みを構築することだというと、何か抽象的で具体性がなくなってしまうかも知れないが、経済活動への規制を最低限にとどめるようにするといっても、具体的に何をどうすればいいのかわからないかも知れないし、結果的に人が人として生きて行けるようにしなければならないと言ってみても、ではどうやればそうなるのかわかりやすく具体策を示せと言われると、そこで行き詰まってしまいそうだが、具体的には教育の無償化とか税制の簡素化とか行政の効率化とか、それとこれとがどう結びつくのかよくわからなそうだが、直接経済に介入するのではなく経済活動の障害となるような邪魔な物事を取り除くことが、結果的には経済の活性化につながると主張したいのだが、経済に対して政治が出しゃばらないようにすれば、自然と人や物や情報が自由に流通するようになりそうで、逆に政府の官僚機構がしゃしゃり出てきて企業を直接指導するようなことをやれば、途端に萎縮して停滞や硬直化がもたらされてしまいそうだが、政府や行政が直接サポートしなければならないのは、生活が立ち行かなくなった人々であるから、それが直接の金儲けには結びつかないどころか、社会保障のための予算がかえって増加するだけから、そういうところが政府や行政の官僚機構が嫌うところかも知れず、政治が配慮しなければならないことが、政府や行政機構が繁栄しないようにしなければならないところも、何か逆説的でわかりにくいところかも知れないし、実際に行政機構が栄えると行政のコストばかりがかかって重税をもたらして民衆が貧困化するわけで、しかも行政のコストの削減という掛け声が社会保障費の削減に結びついてしまっても、民衆が貧困化する可能性があるから、その辺もわかりにくいところかも知れないが、そういうややこしいところがわかりにくいといっても、それほどややこしいわけでもないが、民衆が賢くならないと、といってもその程度のことは理解しておけよと言いたくなってしまうが、別に上から目線で偉そうなことを述べているつもりもないのだが、れいわの候補者や支持者などが他党や政府を経済音痴呼ばわりしているのを、お前らこそが稚拙な経済政策を掲げておいて経済音痴じゃねえのかと嘲笑したくなるのを何とか思いとどまりながらも、そんなことが言えるほど自分も大して経済に詳しいわけでもないから、たぶんれいわの人たちを馬鹿にしてはならないのであり、彼らは煽動者であって、そうやって彼らに敵対する者たちを罠を張って待ち構えているわけだから、彼らの挑発に乗ってはならないのであり、お前らこそが経済音痴じゃねえのかなんて嘲笑しながら反論してくる知ったかぶりの馬鹿奴らを叩きのめすことによって、支持者がさすがれいわだ山本太郎さんだと拍手喝采を浴びせるような舞台装置を携えて活動していると見ておけば良いのかも知れないが、政治そのものをあまり小難しく捉えるのも勘違いの原因となりそうで、アメリカの政治を見ればその辺は理解できるかも知れないし、政治自体がうまく機能しなくても構わないような代物なのであって、トランプが大統領にでも返り咲けば、そんなもんなんだと小馬鹿にしたくなるような事態がもたらされそうなのだが、それだけでは済まないからこそ、アメリカが世界の中で超大国の地位を維持していられるわけで、今や世界中の経済的な不幸を糧にしてアメリカ一国が栄えるというシステムが機能していると理解しておくのが無難なところなのではないか。


10月16日「自分とは無関係な他人事」

 身の回りで何か思いがけない出来事が起こって、それに関して色々と考えたり思ったりしても、それだけで済んでしまえば何のことはなく、周りから心身に何らかの作用や影響が及ぼされているのかも知れないが、それに気づかないのだから何でもないことだと思うわけでもないのだが、何でもないのに勘違いであるはずもないし、何かしらダメージを負っているのに気づかないのも鈍感な証拠となってしまうが、私的な領域ではそうであっても、公的な領域ではそうも言っていられなくなるわけでもないが、それが公私混同と言われるようなレベルでもなければ自分には関係のないことだと思い込もうとしても、周囲が許してくれないようなことにでもなれば、それなりに対応せざるを得なくなって、そこから人間関係がこじれたり経済的な利害が絡んでくると、何やらこんがらがった事態になってしまうのだろうが、それもそういうレベルでは面倒なことかも知れないが、関係のない人にとってはどうでもいいような他人事に過ぎないのかも知れず、無関係を装えば大して気にならないのかも知れないが、それがメディアで話題になっていることなら嫌でも関心を持ってしまい、関心を持ったところでただの観衆以上の何者でもなければ、そこに直接関わってくることもなく、自分でも気づかないうちに何かしら影響を受けて、当事者の味方を装って擁護するようなことを言ってみたり、敵対しているつもりになって批判的なことを言うにしても、メディアを介して間接的に言ったり、書き込んだりすることにしかならなければ、それもそんなことには興味のない人にとっては他人事に過ぎないはずだが、果たしてそうではないような在り方があるのかどうかもよくわからないにしても、それ以上に直接的な何かを求めているわけでもないわけで、他に何か求めなければならない事情があるとも思えないが、なぜか理屈とも論理とも言えないような勘を頼りに何か述べるような成り行きにとらわれてしまうと、直接には関わっていない物事に関わっているつもりになって、妄想の中で自分が主人公のフィクションが形成されてしまうから、まるで自分のことのようにメディア経由で伝わってくる他人の話題を意識してしまうのだが、それではまずいわけでもなく、それを共同幻想と言ってしまうと、お前の妄想なんか俺は知らないし、お前と俺とは赤の他人同士なんだから、お前の妄想や幻想を俺が共有しているわけがないと他人から言い放たれるわけでもないが、それでもメディアを介して他人と同じような妄想や幻想を抱いているとしたら、無関係なのに無関係ではないような、どちらか一方ではないような両義的な無関係ではない関係を想像してしまうわけで、それがただの勘違いであればそれで済んでしまうようなことなのだろうが、そうではないような直接的な関係や立場になることを望んでいるわけでもないのだが、そういう関係や立場になるのを避けられるから、メディア的な無責任さを味方につけているつもりで、メディアで話題となっている他人の言動や行動の良し悪しをああだこうだと好き勝手に言えるわけだが、やはりそれではまずいわけでもなく、逆にそれではまずい直接的な関係や立場になってしまうと、言いたいことも言えないような微妙な状態になってしまい、他人事では済まなくなるからそうなるのだろうが、他人事では済まなくなるということが、言ったことが直接自分に返ってくる関係や立場だとすれば、それが自分が当事者になっていることの証拠だが、何の当事者なのかといえば、自分が言ったことに責任を持つような当事者的な立場なのだろうが、だからといって誰もが当事者になれるわけでもなく、相変わらずその他大勢に含まれている限りで、何を言っても無視される無責任な立場を保っていられるわけだから、そんな状態が当事者意識の欠如をもたらすのだろうが、それで構わないとは思えないし、たとえ無視される存在だとしても、自分が言うことには責任が生じているつもりにならないとまずいような気がするのだが、つもりではなく本当に責任が生じているかどうかを誰が判断するのかといっても、自分で判断するしかないし、判断したからといって何がどうなるわけでもないような気もするのだが、では何をどう判断すれば何がどうなるわけでもないとも思えなくなるのかというと、実際に自分の言動によって何らかの出来事が起これば、何か直接の作用や影響が生じたように思われるのだろうが、今のところはそんな成り行きになったようには思えないし、ただ無駄に無意味に言葉が消費されているに過ぎないとしか思えないにしても、そうなることを期待して何か述べているのかというと、たぶん少しはそう思っているはずだが、それよりはどちらかと言えば何を述べても誰からも何とも思われないのではないかと思っている割合の方が勝っているような感じで何か述べているはずで、だから無責任な感覚で述べている割合の方が大きそうだが、それで構わないのかというと、それではまずいと思いたいのだが、まずいも何もそんなことにはお構いなく、自分が述べていることが自分が述べているわけではないような気がするわけで、自分とは無関係な他人が述べているような気もするわけだが、ではその他人が誰なのかというと、自分しかいないわけだから、自分が他人であり、自分とは別人の誰かが述べていることを自分が書き記しているのかも知れないが、果たしてそんな無責任極まりない嘘が通用するのかというと、少なくともそれが自分の意識の中では通用しているつもりになっているのかも知れず、それが通用している限りで自責の念を感じていないのかも知れないが、それで構わないはずがなく、もっと責任感を強く意識すべきだと思うわけでもないが、今ここに記されつつある文章の中ではそんなことを述べているだけで、自分がそれを書き記しているのに文章の中でそれを述べているのは自分ではないと思いたいわけでもないが、そういう意味では自らに無視できない作用や影響を及ぼしているメディア自体も、そこで述べられている内容が特定の誰かの名前や匿名を伴って述べられていることは確かなのだが、誰もが似たような内容になってしまうと、述べているのが誰であっても構わないようなことが述べられていることになるから、そんなことを述べている責任が誰に生じているとしても、誰もが言えるようなことである限りで、それを誰が言っているとしても責任など大して感じていないような気がするわけだ。


10月15日「行動の実現」

 果たして来るべきイベントに向けてどれほどの人が行動を促されているのかと考えているわけでもないのだが、そんなことはどうでもいいとは言えないし、多くの人たちにとってもどうでもいいことであるはずがなく、そうなったところで何の問題もないとも思えないから、実際にそうなってしまっては困る人の存在をどれほど想定できるかというと、そもそもそれが何の問題もないわけでもなく、誰もそうではないと思いたいわけでもないだろうから、そうではないと思う人が世の中の大半を占めていれば、それが実際に多くの人々の行動となって現れるはずだと信じて疑わない人が世の中にほどいるのかと思ってみても、そうなることを期待している人が多いはずなのに、なぜか結果的にはそうはならずに期待外れに終わるようなら、そうするように呼びかけて行動を促した人が落胆するのは目に見えているが、そんな人たちも世間から無視されるだけなのかも知れず、実際にそうなれば何事もなかったようにまた平穏無事な世の中に戻ってしまうだろうが、しかし今回もそうなってしまうなら、いったいいつになったらそれが実現できるのかと問いたくなってしまうわけでもなく、今回もそうなることを阻止するために、人目を欺くための目くらましやごまかしの要因がいくらでも差し挟まれてくるから、大半の人たちがそんな罠に引っかかってしまって、だからといって詐欺師やペテン師の類いに誘導されてひどい目に遭うわけでもなく、何事もなかったかのような結果を前にして、それほど疑念を覚えるわけでもないだろうが、では一過性の騒ぎが何だったのかと問いたくなるなら、過ぎ去ってみれば何でもなかったのだと自分たちの行動を正当化できるようなことでもないにしても、行動したのではなく傍観していたに過ぎないなら、あえて行動しようとしない傍観者の思い通りの結果になるかというと、それが思い通りの結果だと思い込めるなら、それでも構わないが、そうではないとしたら何なのかというと、やはりそんなことはどうでもいいと言い放てる人がどれほどいるかが、結果の良し悪しを判断する上での重要な指標となるわけでもなく、どちらかと言えば残念がってほしいのだが、結果の中で何を残念がるかでその人の良識が問われるとも思えないから、何を残念がってみたところで、やはりそんなことはどうでもいいことの範疇に入りそうだとしても、どうせ残念がるなら何かがうまく行ったからそうなるわけでもないのは当然のことであり、それもどちらかと言えば失敗の部類に入るようなことが起こるから残念がるわけで、もちろん失敗したからホッと一安心してしまう人もそれなりに出てくるだろうから、安心してしまう人が行動しようとしない傍観者であるなら、やはり傍観者の思い通りの結果が出たことになるはずだが、そうではなく思い通りに行かないのはお互い様だと言えるような結果がもたらされるとどうなるかといえば、それが無難な結果なのかも知れず、そうなることを予想したくなるのだが、予想が外れても構わないし、どのように予想が外れるかも興味深いところかも知れないが、人々が行動した結果がどんな事態を実現させるかがここでは問題とはならず、それよりは行動せずに傍観を決め込む人々に天罰が下ってほしいと願う人もそれなりにいるかも知れないし、傍観者をできるだけ減らす努力が求められているはずだが、逆にイベントに無関心な傍観者が増えてしまうような成り行きになれば、それでも願ったり叶ったりだと言えるかというと、たぶんそう言える人まで世の中には一定数いるような気がするから、結果がどうなろうと知ったことではないような態度になれるわけでもないが、せいぜいが残念な結果に直面して絶望するぐらいが装われる無難な態度なのではないかと思っているのだが、そんないい加減な予想が外れてほしいとも思っているわけだから、相変わらず真意を図りかねるのもいつものことかも知れないが、果たしてそんな矛盾する両義的な態度でも構わないのかというと、構うも構わないもどちらでも構わないわけではなく、そうなった結果に自身の態度や姿勢を重ね合わせたいわけで、合わせようとして合わせられるわけでもないだろうが、そこで合わせるのに失敗すればしめたものかも知れず、世の中の状況や情勢や傾向に逆らうようなこだわりがあるから合わせられないわけではなく、ただ単に不器用だから合わせられないと思いたいわけだが、それにしてはそうなってしまうことを正当化したがるのだから、全く懲りていないわけで、うまく立ち回れないからあちらこちらにぶつかって、それなりに軽傷を負った挙句にどうにかなってしまいそうだが、そういうやり方しかできないわけだから、すでにポンコツな心身の状態となっていて、つい最近も階段を踏み外して痛めてしまった足を引きずりながら部屋の中を右往左往しているわけだが、それがそれまでに行動した結果として実現された状況や状態なのだから、うまく行ったからそうなったとは思えないし、逆にうまく行かなかったからそうなったと思いたいのだが、少なくとも四六時中傍観者でいられるわけでもなく、傍観できずに行動してしまうわけで、行動してあちらこちらにぶつかって軽傷程度で済んでいるのだから、ある意味では無難な結果だと言えるかも知れず、重傷を負って重篤な状況や状態にならなかっただけでも運が良いと思っておけばいい程度のことなのだが、そうなる前の段階ではそうなりたかったわけでもないだろうし、できればあちらこちらにぶつからずにうまく障害物を避けて通りたかったはずだが、実際に行動してみれば、そうも行かないことを自身の身をもって実際に体験したわけで、それが傍観しているだけでは体験できないことに他ならないが、別に貴重な体験だと言いたいわけでもないし、実際に障害物を避けきれずにあちらこちらにぶつかってしまうわけだから、うまく行っているわけでもなく、何かしら失敗しているに違いないのだろうが、失敗していても軽傷程度で済んでいるわけだから、うまく行かないなりにも何とか生きている状態を保っているわけで、そうなっている限りで、それだけで何がどうなっているとも思えないが、そんな状態をかろうじて保っているから、まだその先の未来があるような気がするにしても、それほど長くは生きられないとも感じられるから、何となくゴールが近づいているような気がすると共に、実際にそこまで辿り着いてみれば、ゴールなどなかったことに気づいて愕然とするような気もしているわけで、だから行動した結果が無駄に終わろうとも、逆に行動せずに傍観者に徹しているよりは少しはマシな気もするわけだ。


10月14日「れいわの主張」

 観るまでもなく聞くまでもなく読むまでもないとなると、なぜそんなに無視したくなるのか理解できないが、それを理解しているのに理解できないと述べることの真意もよくわからないのかも知れず、では理解させないようにしているのが何なのかというと、バランス感覚の欠如だと指摘してみたところで、それだけでは何のことやらさっぱりわからないが、そう仕向けるように彼らが強調していることだけに注目してみれば、なるほどそうだと納得しそうにはなるが、ちょっと待てよなぜそこだけを強調しなければならないのかと考えてみると、物事の他の面に注目してみればそこだけを強調しなければならない理由が見えてくるわけでもないが、彼らの主張には無理がありそうにも思われてくるから、ちょっと違うような気もしてくると共に、彼らの主張に全面的に同意するわけにも行かないが、全面的ではなく部分的なら同意しても構わないかというと、そうなると彼らが批判している勢力の方でも、全面的ではなく部分的に同意できる面も出てくるから、彼らが煽っている対立もことさらに煽るほどのことでもないような気もしてきて、そんなわけで彼らを全面的には支持できないが、特定の政治勢力への支持や賛同はその程度でも構わないと判断するなら、全面的に支持しているのでも賛同しているのでもないが、部分的には支持できる面も賛同できる面もある程度で妥協しておくしかなく、その程度の軽い気持ちで部分的に支持しているのだが、その一方で彼らが批判している勢力に対しても部分的に支持しているのかも知れず、その程度で深入りせずに浅瀬にとどまる限りで、彼らの存在意義もありそうに思われるのだが、それ自体が政治的な在り方にも問われてくるから、あまりそういうところへと全面的に意識を向けるわけにも行かないが、民衆をそういうところへと全面的に意識を向けさせた勢力が、民衆からの全面的な支持や賛同を得て独裁的な政治勢力になりそうなのだが、昔はそういう事例もあったのかも知れないが、現代においてはそうはならないのかも知れず、なぜそうはならないのかと問われるわけでもないが、歴史的な経緯が作用して彼らを今のところは少数派のままにとどめさせるように力が働いているのかも知れないし、今後何かのきっかけからそうではなくなる可能性もなきにしもあらずだと思いたいのだが、それが何なのかは現時点ではよくわからないし、確率的には少数派のままにとどまるような気もするから、その程度のこととして彼らの存在意義を部分的に認めているわけで、何でもないような存在でしかない自分が認めたところで、何がどうなるわけでもないことは百も承知だとしても、自分が彼らをどうこう批判してみたところで、彼らにとっては何でもないことだから、批判するまでもない政治勢力なのかも知れないが、他の誰かが粗雑な理屈を持ち出して彼らを批判しているのを嘲笑するでもなく眺めているうちに、彼らに関してそれとなく言及したくなってきて、実際にこうしていい加減に言及している最中なのかも知れないが、それがしっくりくるわけでもなく、しっくりこないとしたら何なのかというと、彼らの主張自体がどうでもいいことなのではないが、彼らの主張があちら方面に偏向していること自体が、何らかの歴史的な背景を物語っていると見るなら、それが国家に対する紋切り型的な思考からきていると言えないまでも、彼らに対して怒りや憤りを露わにする人たちと同根な方面からきていることは確からしく、それが何かというとやはりうまくわかりやすく言い表せないような何かなのだろうが、簡単に国粋主義や人民主義とは言えないような何かからきているわけで、それが彼らが批判の的とするような新自由主義的な見地からすれば、とっくの昔にゴミ箱へ投げ捨てたりお払い箱にしてしまった何かなのかも知れないが、彼らも彼らに対して怒りや憤りを露わにする人たちもそこにこだわっていて、それらの人や勢力には避けては通れない障害物とは言わないまでも、どうしてもそこにこだわらないと自分たちの存在意義がなくなってしまうような重要かつ切実な何かなのかも知れないが、そこにこだわることによって彼らを取り巻く演劇な舞台装置や彼らにとっては大掛かりな仕掛けが動作してそれなりに機能しているように見えるのだが、そう見える人たちが世の中にどれほどいるかというところで、彼らにも彼らなりの誤算や見込み違いがあるかも知れず、今のところは実際にもその程度にとどまるから、彼らに対する支持や賛同もそれほどの熱狂にも至らないとしても、その一方で熱心な信者もそれなりに出てくるから、それが彼らにとっての頼みの綱なのかも知れないが、その一方で熱心な信者など必要ないのが新自由主義の功利的な利点でもあるから、それが信仰のレベルの違いとなり、安易さの程度の違いともなりそうで、信仰ではないと主張したいなら、信仰とは何なのかと問いたくなってくるわけだが、馬鹿でもわかる理屈を信じるのが信仰だとしたら、賢い人には通用しない理屈になるだろうから、果たして愚かであることと賢くあることの違いが何なのかと問われてきそうだが、そういうところがよくわからないと述べてしまうと、自分も愚かな人々に含まれてしまいそうだが、では信仰を伴わない主義主張ではまずいのかというと、それが利益をもたらすなら信じなくても構わないはずがないと思いたいのだが、信じるから利益がもたらされるのではなく、利益をもたらす理屈を知っているから利益がもたらされるのでもなく、たとえ理屈に適ったことをやっていても利益がもたらされるとは限らないし、ただの偶然が作用して利益がもたらされるのでもなく、それなりに利益を得ようとして利益を得るためにやったことがうまく行けば利益がもたらされるに過ぎないわけだが、それと新自由主義とは無関係かも知れないし、新自由主義を信じているから利益がもたらされるわけでもないのだが、利益がもたらされることを肯定するか否定するかで新自由主義であるかないかが決まるわけでもなく、では何なのかというと、何かひどいことをやって利益を得た事例があると、それを新自由主義だと言い放って批判したり非難するやり方が流行っているほどのことでもないのだろうが、そうやって彼らが批判したり非難している事例が新自由主義的なやり方なのかというと、そういうことだと見なしておけばしっくりくるようなことなのだから、それでも構わないのだろうが、それに対してなぜか理由が定かではないが、無視できない弊害が伴うことを承知で自分は新自由主義やグローバリズムを擁護していることになるのかも知れない。


10月13日「世界の限界」

 自分が述べていることの限界をどう捉えるべきか悩んでいるわけでもないが、それよりは他人が述べている内容のおかしな点や間違っている点を指摘したくなるなら、他人を批判したいからそうなってしまうわけではなく、素直に他人が述べていることがおかしいと思ったり間違っていると思ってしまうからだろうが、実際にはそれほど苛烈に批判している気もしていないし、なるべく批判しないようにしたいとも思っていても、何かを述べていると安易に他人への批判に結びついてしまうなら、それが自分が述べていることの限界を構成しているような気がしてしまい、別にそんな限界を突破してもっと現状の世の中を肯定したくなるようなことを述べたいわけでもなさそうだが、現状を否定的に捉えることが否応なく批判に結びついてしまうにしても、ありふれた批判にはならないようにしたいわけでもなく、もちろん他人のありふれた批判を馬鹿にしたいわけでもないのだが、批判されたくてわざと批判されるようなことを述べている人たちに巻き込まれないように配慮しているとしたら、そんな自爆のような行為には関わらないようにしたいのかも知れないが、だからといって日本の現状を否定的に述べるのを避けるようにしているわけでもなく、ありふれた態度としても日本の現状を否定的に捉えても構わないとは思っているのだが、それが自爆的な行為に結びつくとは思えないし、逆に日本の現状を肯定的に捉えることの方がかなりの無理がありそうで、素直な実感として日本の現状を否定的に捉えておいた方が無難そうに感じられるのだが、要するに日本の現状を批判的に語りたいのだろうが、それが日本にとどまらず世界の現状を否定的に捉えたいなら、否定的に捉えたいのが日本だけではないことを強調したくなるということになりそうだが、そういう実感がどこからきているのかといえば、資本主義市場経済の限界からきていることは明白なのだが、そんなことはすでに昔から資本主義の矛盾など明らかになっているはずだが、それがすぐに社会主義や共産主義に移行するわけでもないのも、そういった主義主張にこだわった数々の政治的な試みが失敗に終わってきた経緯を踏まえれば、それも誰もが理解できるレベルで明らかになってきたはずだが、だからといって資本主義経済の世界的な進展に伴って問題視されてきた富の不均衡な状態を放置するわけにも行かないだろうから、何かしら政治的な方面で焼け石に水的な対策や対応や対処が迫られている中でも、果たしてそれが日本でも世界でもありふれた政治的な課題となっているのかどうかが、それも何か信じられないようなことでもあるから、そうではないような気がしていて、逆に富の不均衡など放置しておいても構わないような気もしているのだが、要するに人々の間に生じている貧富の格差に応じて政府が焼け石に水的な対策や対応や対処を施せばいいのではないかと思ってしまうわけだから、現状で行われている政治的な対策や対応や対処で構わないとも思っているわけで、そうなると資本主義経済の世界的な行き詰まりなど信じていないことにもなってしまい、とりも直さずそれが現状の肯定に結びついてしまい、それが現状を否定的に語ろうとすることと矛盾してしまうのではないかと危惧しているわけでもないが、イーロン・マスクが提示するロボットの導入によって労働問題が解決するかのような楽天的な未来を夢見ているわけでもないのだが、意外とその程度のことに過ぎないようなことなのかも知れず、それによって何かが解決に向かうというよりは、より一層の混乱というか、ややこしくも複雑に入り組んだ面倒な事態にも直面して、何だかわからないようなわけのわからない未来になるような気がするのだが、そんな中でも日本ではまるで宗教のように消費税の廃止にこだわっていたり、財務省や在日米軍の存在を問題視していたり、原発の問題を指摘していたりもするのだが、その各々が単体でわけがわからないわけではなく、それらが複雑怪奇に絡み合うようにして何だかわからないイデオロギーを構成しているような気もするから、そういうことではなく、もっと普通に個人の自由に配慮して選択的夫婦別姓を制度化したり、人道的な観点から死刑を廃止したり、より民主的な憲法にすべく、憲法から天皇に関する記述を全て削除して修正を施すとか、よりリベラルな傾向になる兆しを感じているわけでもないが、そういうこと自体が枝葉末節で些細な取るに足らないことのようにも思われると嘘をつきたくなるわけでもなく、それら全てが資本主義経済の世界的な行き詰まりに結びつけて考えるわけにも行かない問題となるかというと、それとこれとは別問題だと捉えてみても構わないが、それら全てに関して近視眼的で射程の短い思考で焼け石に水的な対策や対応や対処を施そうとするような政治的な成り行きへと持って行けるかどうかも現状では無理かも知れないが、現状では無理だと思うなら現状を変えるような政治的な変化を求めていることになるだろうが、誰もがそう思っているわけではなく、それどころか多くの人々がもっと近視眼的で射程の短い思考で物事を考えていて、万が一でも政権交代なんてあり得ないが、そうなってしまうと株価が下がるとか、選択的夫婦別姓が実現してしまうと家族の絆が壊れるとか、民衆への見せしめのためにも死刑制度は維持しなければならないとか、国家のために憲法を改正するなら国民主権こそなくさなければならないとか、政府のベース財源として消費税は必要不可欠だとか、色々とそういうことを述べるともっともらしく感じられる立場というのもありそうだが、それらが本気で切実にそう思っているわけでもなく、何かのついでにそう思っておいた方が都合が良い程度のことだと思いたいのは、もしかしたら自分だけかも知れないが、そんな自分でさえここで文章を構成する成り行きに合わせて出まかせ的な嘘をついている可能性もなきにしもあらずで、全然本気ではないとしたら何なのかというと、ある面では長期的な視点に立って計画的に物事を進める必要が生じていることは確かだと思いたいのだが、そう思いたいだけで、実際にはその場の都合に応じて臨機応変な対応や対処が求められていて、それが長期的な視点に立った計画的な物事の取り組みとは相容れないわけでもないのだが、場合によっては矛盾してしまうのだろうが、矛盾するからといって、どちらか一方のやり方に統一する必要もないところが、取り止めのないところなのかも知れず、矛盾をそのままにしておくわけにも行かないのに、結果的にはそうなってしまうところが、それが自らの限界でも日本の限界でも世界の限界でもあると見ておいても構わないが、結局はそんな限界も何かのきっかけからあっけなくぶち破られてしまう事態に直面して、唖然とするしかない未来を妄想したくなってしまうわけだ。


10月12日「支持者の獲得」

 現状で何がおかしいわけでもないと思うことの他にも、何だかわからないが何かおかしいと思うこともあって、他にも気づいていることや気づかないことまで含めて、様々なことが起こっていたり実際に行われている中で、人為的に行われていることを肯定するか否定するかで、それを肯定する勢力と否定する勢力とで対立や争いが起こっているようにも見えるのだが、イーロン・マスクが関わっている事業などは主に民間で行われていることになるとしても、そんなことができるわけがないと批判されるようなことを手掛けているわけだから、それに加えてイーロン自身の人格や性格に難があるのも格好の攻撃のターゲットになりやすいし、メディアで話題にならないはずがないような成り行きになっているのだろうが、そういうわかりやすいことではない方面で、何かが起こっていたり行われていることを伝える上で、伝える側の戦略的な方針というのが見え透いていると、ある意味ではそれもわかりやすい範疇に入るのだが、例えばなるほど都合の悪いことは伝えないんだとわかってしまうと、そういうことがわかってしまう自分が賢いと思い上がった気分になってしまって、途端にこれではまずいと思うと共に、都合の悪いことは伝えないという戦略的な方針がわかっていない人たちが騙されていることになるわけでもないのだが、そういうメディアに好感を抱いている人々の方でも、彼らにとっても都合の悪いことは伝えないから好感を抱いていることも想像されてしまうから、そういった党利党略的な傾向というのが、なぜかあからさまに公正中立な立場を装っているわけではなくても、それを伝えている側も都合の悪いことを伝えないことを自分たちもわかっているのかと疑問を感じるような成り行きの中で、わかりやすい公正中立さとは少し違う傾向にこだわっているようにも感じられるから、それが何だかわからないが何かおかしいと思われるようなことでもあって、微妙なさじ加減で振り切れていないから、かろうじて一部の偏向報道のようなことをあからさまにやってしまうメディアとは一線を画しているのだろうが、彼らにとっての都合の悪いことは伝えないことをわからせた上で、利用価値がありそうなことや興味深そうなことを伝えようとしているわけだから、そういうニーズがある限りでそういうメディアも成り立つような成り行きになるわけだろうが、そうなっていること自体がおかしいとは思えないし、そうなるのが当然だと思う限りで、何だかわからないが何かおかしいとも思わないのだが、それがメディア側の都合に合わせると何もおかしいとも思わない反面、メディアが伝えている対象の側に立つと、お前らそんな伝え方で良いのかと文句を言いたくなるわけでもないのだが、メディア側にとっての都合の悪いことを想像したくなってくるわけで、そうなるとメディアが伝えないことを知ろうとするわけだから、そこからあえてそれを伝えようとしないメディアの限界が浮かび上がってくるような気もするわけだが、そう考えている時点でそれを伝えようとしないメディアとは対立する立場になってくるのだが、そんな対立を促しているのが当のメディアなのだから、もちろんメディア側も自分たちが伝えようとする情報の受け手が、自分たちと対立する立場になろうとは夢にも思ってもいないだろうから、そういうところが何だかわからないが何かおかしいのかも知れないが、多くの人々が興味を持つような話題を多くの人々にとっても好感を持つように伝えてメディアのユーザーを増やそうとしているのだろうが、それが裏目に出ているとも思わないはずだが、なぜかそんなことをそんなふうに伝えられると、それを伝える側にとっても受け取って好感を抱く側にとっても不都合な真実を知りたくなってくるわけで、それが彼らが好感を持ったり逆に嫌気を感じたりする対象とは別の方面に不都合な真実があるとも思わないのだが、それが不都合な真実だとも気づかないようなことかも知れないが、要するに彼らが設定したい判断の是非や善悪や良し悪しとは微妙にずれた方面で起こっていることや行われていることが、彼らにとっては判断のしようのない不都合な真実を構成しているような気がするわけで、それが何なのかといっても、うまく言い表せないようなことになってしまうと、それについての納得できる言説ともならないだろうが、わかりやすく対立が成り立つような物事の関係というのが、それらを無理に対立の構図に当てはめようとする意図や思惑が窺い知れる限りで、そういう対立が成り立たないような不都合な真実を知りたくなってくるわけで、そういう意識が安易な対立の構図をメディアを利用して世の中に広めようとする人たちに抗わせることになるわけだから、それに気づけば彼らの都合で物事を対立させようとする意図や思惑も想像してみた方が良さそうで、なぜ対立していた方が彼らにとっては都合が良いのかが、彼らの利害に結びついているなら、功利的な損得勘定の思惑から対立を煽っていることになるだろうが、そんなわかりやすい理由になっているのかというと、彼らにしても何が得で何が損なのかがわかっていない可能性もあるから、それだけこんがらがった物事の関係や絡み合いの中で対立を煽っていることになるのだろうが、対立を煽るような経緯や事情が生じているからそうなるにしても、そんな経緯や事情についても、はっきりとそうだと理解できるようなことでもないのかも知れず、彼らも彼らなりに理解しようとはしていて、それと気づかない誤解や勘違いからそんな成り行きにとらわれている可能性さえあるのだから、一概にそれを功利的な損得勘定だと言い放ってみても当事者は納得しないだろうし、そんな下世話なことではなく、もっと高尚なレベルで大局的な見地から物事を考えているつもりになっている場合もありそうで、下手をすると倫理や道理などを持ち出して自分たちの意見や主張を正当化したくなってくるかも知れないが、それ自体も彼らの都合に応じて持ち出されてくるのだから、それをご都合主義だと言い放ちたくなるにしても、それをあからさまに批判したり非難してしまうと、彼らが設定した対立の構図に当てはまってしまうからまずいというわけでもないのだが、彼らにしたらそうなるように仕向けているわけで、もちろんそれを意識して仕向けているとも限らず、無意識の誘導だと考えた方がしっくりくる場合もあるだろうが、やはりそういう無意識の罠にハマりたくないなら、彼らの意図や思惑を敏感に察知すると共に、そこからちょっとずれた地点から考えてみた方が無難なような気がするわけだ。


10月11日「強いられた態度変更」

 それが何かのきっかけから簡単に述べてしまえることであって、そんなことを述べても何がどうなるわけでもないこともわかっていても、やはりそんなことを述べている現状があるわけだから、そんなことを述べるように仕向けられていて、何によってそう仕向けられているのかといえば、世の中の状況や情勢に心身がとらわれているから、そんなことを述べるように仕向けられて、否応なくそうなってしまうことに何の疑問も感じないわけではなく、それどころか絶えず何か引っかかるものを感じているから、いつでもそんなことを述べてしまうことに疑問を感じているのだろうが、それに気づいていても口に出すわけでも文章に記すわけでもなければ、ただ漠然と取り止めのない疑いを世の中に向けているわけでもなく、いったい何を疑っているのかと自問自答したくなるわけでもなければ、そう簡単に述べてしまえることが自分に何か深刻な事態をもたらしているわけでもないとすれば、大して重要でも重大な事態をもたらすわけでもないことを述べていることになりそうだが、たぶん偶然にそうなっていると解釈しても構わないようなことなのであり、切実にそんなことを述べたいと思っているわけでもないことを述べていて、何かのついでに気休めに気軽に適当にいい加減に述べていることに過ぎないはずなのだが、述べている内容が実現してしまうというほどのことでもないにしても、それが図星のようなことが起こってしまうと、急所を突いているとしか思えなくなって、やはり世の中の成り行きに沿ったことを述べていたのだと気づいて驚いてしまうのだが、だからそう述べるように仕向けられているのだとしても、他にも似たようなことを述べている人がいれば、やはりその人も世の中の成り行きに沿ったことを述べるように仕向けられていて、そう述べるように仕向けられていることを意識して感じ取っているわけでもなくても、自然な発露のような感じでそうなってしまうのかも知れないから、そういう成り行きには逆らえないと見るしかなく、他の誰かから促されてそうなってしまうのではないとしたら、自らの意志でそんなことを述べているとしか思えないだろうが、それが自らの意志だとは意識できないなら、そんなことを述べようとして述べているわけではないから、確かにそう述べるように仕向けられるとしか思えないはずだが、そんなことにまで気が回るかというと、いったい何に配慮しているのかよくわからないし、述べるにもタイミングがあって、ここぞという時に述べないとタイミングを逸してしまって、何か的外れなことを述べているようにも感じられてしまうのだが、だからといって的を射ているそれが何なのかといっても、それもよくわからないとしたら、何でもないことではないはずだとしても、述べている対象がよくわからないままそんなことを述べているのであるから、意味不明と言わないまでも、何だかわからないままそんなことを述べているのだから、それが自分の意志で述べているわけではなくても構わないようなことなのかも知れず、そうだとしても何でもないのだが、自身にとっては何でもないことであっても、何かあざとい仕掛けを施しながら述べていることでもないわけだから、自然にそうなってしまうだけで、意図して述べていることではなく、意図せずにそうなってしまうような言動を強いられているわけで、そうなっている限りで事前の想定や思惑とは違ったことを述べさせられているはずなのだが、要するに以前に述べていたことの延長上で述べることができなくなってしまう限りで、以前とは立場が様変わりしてしまったことを実感せざるを得ないわけで、それが反主流派から主流派への移動であり、態度変更を強いられていることの表れとなっているはずだが、誰が態度変更を強いられているのかといえば、言っていることがコロコロ変わると言われている人物なのだろうが、それを簡単に立場が変われば言っている内容も正反対になってしまう程度のことなら、そんな立場もその程度の立場なのであって、そんな立場になる前に言っていた内容でさえその程度で済んでしまう内容なのであるから、どちらにしても立場が変われば簡単に変わってしまうのだから、元から大して重要なことも重大なことも言ってこなかったことになりそうで、その場限りで済んでしまうようなことを言ってきたからこそ、何かのきっかけから否応なく立場が以前とは様変わりしてしまえば、そんな様変わりしてしまった立場に応じたことを述べる必要に迫られて、以前から述べていた内容を簡単に捨て去って、新たに獲得した立場に沿ったことを述べているだけで、たとえ以前の立場で述べていたことを真に受けて、その内容に共感していた人がいて、述べていることが突然変わったから裏切られたと思うかどうかも定かでないにしても、立場に応じて述べていることがコロコロ変わる程度のことを述べていたわけだから、そういう人からの信用を失ってもそれほど痛手とはならないのかも知れず、むしろこれまでの支持者や支援者を裏切った方が得だと判断するなら、損得勘定が働いてそう思う程度のことなのだから、以前からも功利的な水準でそんなことを述べていたわけで、そうではなく何か大げさな大義にその身を捧げるようなことではなく、もちろん建前上はそんなふうに装っていたとしても、実質的には経済的な功利主義の水準で動いている面の方が割合が大きいからこそ、そういう方面での不正行為や違法行為もそれなりに出てくるわけで、それとこれとは次元が違うと言いたいのは、その人のメンツに関わる方面でそう言いたくなることでしかなく、それも実質的にはそれとこれとが絶えず連動しているからこそ、建前上の大げさな大義とやらをきれいごととしていつも念頭において行動していることにしておきたいのであって、そういう隠れ蓑の裏で不正行為や違法行為を行なっていても、知らぬ存ぜぬを貫かざるを得ないような成り行きになってしまうわけだが、そうやって大げさな大義を裏切っている実感も湧いてこないし、不正行為や違法行為を行わないと大げさな大義を遂行できないのかというと、例えばそれに対する見え透いた言い訳の材料が憲法改正から持ち込まれてくるようなら、憲法が悪いから不正行為や違法行為をやらざるを得ないなら、結局は憲法を改正してそれらが不正でも違法でもないようにしたいということになるかというと、絶対にそんなことは口が裂けても言わないはずだが、それも彼らの意図しないところでそんな結論が導き出されてくるから、それが彼ら自身も思ってもみなかった彼らの無意識の発露だという結論になりかねないわけだ。


10月10日「言論のゴミ捨て場」

 人は自身が信じている論理に従った言動や行動にとらわれている限りで、正しいことをやっていたり言っている気になれるらしいが、例えばそれが憲法の論理であったり損得勘定の論理であったり自分で決めたとりあえずのルールであったりしても構わないかというと、果たして複数の論理が複雑に絡み合っている中で、どの論理を優先させればいいのかが、その場で判断できるかどうかも、それがその場の状況や情勢次第で信じられたり信じられなかったりすることになるだろうが、自分が正しいと思って従っているつもりの論理がその場で有効に機能しているかどうかも、自身の判断に影響を及ぼしてくるだろうから、いくら正しいと思っている論理に従いながら行動していたり、論理に沿った意見を主張していると思い込んでも、うまく行かないなら自らが従っている論理そのものが間違っているか、別の論理の方が勝っているのか、あるいは論理がその場の状況や情勢に合わない可能性も考慮に入れておく必要もあるかも知れないが、他にもその場に作用してくる様々な力が自身の行動や言動に絡んでくるから、自分にとっても他人にとっても何かしっくりこないような噛み合わない言動や行動が伴ってくれば、おかしいと思うしかないだろうが、おかしいも何も、あからさまに悪意を込めた曲解を駆使して因縁をつけてくるクズな人もいくらでもいて、敵と見なした人の言動や行動を必ず悪い方向にねじ曲げて否定的な解釈を施したくて仕方がないような反応しかできないような人が味方しているのが、まるで社会の害虫のような存在なのだが、しかもそんな害虫に取り憑かれながらも寄生虫に血を吸われながらも生き続けているのが、さらには害虫や寄生虫などと共存共栄しているつもりになっているのが、世論調査で害虫を支持している人々になっているのが不思議でならないわけでもないのだが、いったい誰が社会の害虫や寄生虫などを支持しているのかと言えば、たぶん誰がではなく、誰も支持などしていないのに、なぜか支持していることになっているとしたら、そんな世論調査結果がそれを伝えるメディアによって捏造されているのかと言えばそんなことはなく、少なくとも自分は支持していないが、他の誰かが支持していると思うしかなく、しかも支持していない自分の方が世の中では少数派なのだと知って愕然とするしかないのだが、さらにはそれを選挙結果でダメ押しされて精神的に立ち直れなくなって、挙げ句の果てに気が狂って街頭に飛び出して無差別殺傷の凶行に及んだら気が晴れるわけでもないだろうが、別にそうなるように仕向けられているわけでもないことは承知していて、そんなことを空想している自分も、自ら率先して害虫駆除の先頭に立っているわけでもないから、どちらかといえば無責任な事なかれ主義に感染していて、そんな腰抜けな自分とは違って害虫駆除をやりたくて仕方がないような怒れる若者という存在も、害虫の手先となってひどいデマを撒き散らかしてSNSを言論のゴミ捨て場と化している若者たちに押さえ込まれている可能性の方が高いのかも知れないが、果たしてそれをやっているのが若者かというと、意外とそうとも限らず、そんな若者たちを管理している存在として酒を飲み過ぎてタバコを吸い過ぎて脂まみれの老人顔になってしまった中高年もいくらでもいるだろうから、そういうのが現代のストレス社会を象徴する存在であったり、そういう人は無理が祟って長生きしても六十代で死ぬ人が多いのだろうが、そうはならないような生き方ができるかというと、果たして現状で自分が実践している生き方がそうだとは思えないが、生き方と呼べるような論理的に整合性のとれた暮らしを実践しているわけでもないから、その場の成り行きまかせで右往左往しているに過ぎないのかも知れないが、少なくともそれが悪あがきの最中だとは思っていないわけで、自分では思っていなくても実際にはそうかも知れないから、客観的にそうなっているとしたら残念なことになってしまいそうだが、その残念な結果というのが、もしかしたら自らの死に結実するのかと恐れているわけでもなく、自らの存在やその存在が消滅する死とは関係のないところで、自らの言動や行動の中で何らかの論理が働いているとしたら、それがどのような論理なのかと暇にまかせて考えてみるのだが、そんな嘘をついている自分が考えていることが、論理的に信用できるようなことではないのかも知れないから、結局は自分自身が信用できない存在なのかも知れないが、信用できないと言えば、最近驚かされたのが、嘘つき女の典型例のような高市が自民党の総裁に選ばれることを信じて株を大量に買いつけるような人の存在であり、結局高市が選ばれずに株価が暴落して、ユーチューブでギャーギャー騒いでいる人の動画を見ながら、こいつ本当に株を買ったのか?ただの株価暴落に便乗して騒ぎを演じて動画再生回数を稼ごうとしているだけなのではないかと疑いながらも、高市を信用しているわけではなく、平気で嘘ばかりついて信用できない高市が総裁に選ばれることを信じている人たちが大勢いること自体が、何か世の中が狂っているような、別に日本だけが狂っているわけではなく、アメリカではトランプが大統領になってしまうかも知れないし、サウジアラビアの皇太子などは平気で人を殺す人だし、そんなことを言うなら金正恩だってそうだし、プーチンだってエルドアンだってネタニヤフだって、その種の独裁者など昔からいくらでも数限りなくいたのだから、別に世の中が狂っているわけではなく、それと比べれば高市なんて大したことはないのはわかりきっているのだが、高市の代わりに選ばれたのが石破であっても、前任者の岸田と大差ないことが誰もが理解できたはずだが、その程度の奴らに過ぎないのに、なぜそんな奴らの味方になろうとする者たちがひっきりなしに次から次へと現れるのか理解できないわけではなく、しかもそんな奴らに異を唱えて政権交代を目指す勢力をSNSなどで因縁や難癖をつけながら攻撃しまくっているクズな奴らもいくらでも掃いて捨てるほどいる現状が、狂っていなくて何なのかと問われるわけでもないことも百も承知しているわけで、そうなっていることが当たり前の現状の世の中で自分も生きているわけだから、普通に考えて、こんなひどい世の中は変えなければならないと思っても構わないはずなのだが、それが言動や行動に結びついてしまうと何やらおかしな圧力を感じてしまうわけだから、気のせいならそれで構わないとしても、何だか変な事態に直面しているような気がしてしまうわけだ。


10月9日「装われた対立」

 何か底が浅いというか、見た目があからさまに対立しているのだから、それを真に受けるならうまくやっているようには見えないが、よく考えてみれば理に適っているようなことかも知れず、見せかけの対立だと、多くの人々からそれが嘘だと見透かされてしまってまずいから、本気で対立していることにしておきたいのかも知れないが、もちろん本気なのか本気でないのかが問題となっているわけではなく、対立した結果がうまい具合に対立している双方に利益がもたらされるなら、対立を装う戦略が功を奏したことになるのだろうが、果たしてそんなことで構わないのかというと、舐めているというか人を馬鹿にしているようなことかも知れず、そう受け取られるとあえての対立戦略が失敗してしまって、何の利益も得られないどころか、惨憺たる結果に終わってしまうのかも知れないが、もしかしたら利益を得たいがために対立しているわけではなく、愚直に筋を通したいから対立していて、利益を得られるかどうかなんてどうでもいいことだとしたら、果たしてそれがあっぱれなことなのかどうかも、現時点では判断し難いが、あえて対立することに関して何の意図も思惑もないとは思えないわけで、だから何だというわけでもないのだが、それが浅はかな魂胆だと受け取られるようだと失敗に終わってしまい、失敗したところで大した惨状にもならないだろうから、やるだけやってみて思うような結果に至れば運が良かった程度で儲け物なのかも知れないから、現時点ではその程度のことだと受け止める以外にはあり得ないとしたら、それが判断を誤っている証拠だと言えないこともなく、そんなことをやる以外にはやりようがないことだと半ばあきらめているような感じになっているとしたら、案外思いのほか当てが外れていて、かえって思いがけずうまく行ってしまうかも知れず、何よりもカッコつけて大同団結のようにして小さくまとまらずに、なりふりかまっていられない状況だと実感していることが肝心なのであって、たとえそれが見え透いた見せかけの対立だとしても、これまでの予定調和な状況をぶっ壊すには必要な対立なのかも知れず、果たしてそんなことをやったところでぶっ壊れるような状況なのかどうかもよくわからないが、彼らの力でぶっ壊すわけではなく、あくまでも彼らを支持する人たちの力が結集すればぶっ壊れるかも知れないが、対立していてはぶっ壊すこともできないと思うなら、対立していること自体が予定調和になっていないことの証拠であって、逆に小さな違いをうやむやにして大同団結してしまうことが予定調和になってしまうなら、小さな違いにこだわって対立している方がマシなのかも知れず、その辺がどちらになっても納得できないところだとしたら、まずは対立しておいた方が良心的な対応や態度や姿勢に見えるかも知れないが、それがまずしなければならないことだとしても、そのままで構わないわけではなく、対立しっぱなしに終わってしまえば失敗なのであって、まずは対立しているところから一歩進んで、その先の段階として妥協や譲歩などを伴った交渉や取引が生じてこないとまずいわけでもないのだが、はじめからそれを目指すようだとやはり予定調和となってしまうから、結果的にそうなることまで予想した上で行動や言動が伴ってしまうとまずいのかも知れず、だから現状では無理にも対立しなければならず、こんなところで対立していては駄目だとわかるまでは対立することになってしまい、そういう実感が身に染みて感じられるまでは激しく対立していた方がいいわけで、下手に中途半端な妥協や譲歩をもたらす歩み寄りはやめておいた方が良さそうだが、そういうきれいごとで済むようなことでもないのかも知れないから、部外者の立場であれば黙っておいた方が良さそうで、あまりこれといって事態の収拾を図る策などない方が都合が良いだろうし、もちろん目的がこれまでの予定調和な成り行きをぶっ壊すことになるとも限らず、では他に目的があるとすれば、それが何なのかというと、なぜかそこで対立を演じること自体が目的化しているような感じになっているとすれば、そんなのは間違った目的には違いないのだが、これが目的だと言えるようなことでもなければ何なのかというと、否応なく対立を強いられてしまう成り行きにとらわれているのであって、どう現状を捉えてみたところで、裏切られたという思いが募ってくるのだろうから、対立せざるを得ないわけだが、それも裏切らざるを得ない成り行きにもとらわれているわけだから、今は裏切るしかなく、裏切られたからには対立せざるを得ないわけだが、果たしてそう事態を捉えると納得できるかというと、そういうことにしておきたいというと嘘になってしまうのだが、やはり嘘でも構わないからそういうことにしておきたいわけで、少なくとも現状の中で対立していることこそが嘘には違いなく、ここで対立などしている場合ではないと言われるとその通りなのだが、だからこそ今ここで対立するしかないと思うなら、それも何となくそう思われるようなことなのかも知れないから、とりあえず対立してもらえば良いことなのだが、対立している勢力が何かの冗談のような人たちで構成されている勢力なのだから、無理に対立を煽り立てること自体を馬鹿にしておいても済んでしまうのかも知れないが、それらの勢力を冗談のような人たちで構成されていると言ってしまっても構わないのかというと、たぶん悪意を込めてそう言ってしまいたいわけで、しかもそんな人たちを支持していることになってしまっても一向に構わないのだから、何か意識の中で矛盾が生じているわけだが、昔はヒトラーやムッソリーニなんかがそういう存在だったのだろうが、彼らが中心となってやってしまったことが冗談では済まないような深刻な事態をもたらしたわけだから、今や彼らを冗談のような存在だとは誰も言わないだろうが、それと同じようなことが今まさにここで起こっているわけではないとしても、山本太郎の振る舞いが喜劇王のチャップリンのように見えてしまうとしたら、まさにそれが冗談のような光景なのかも知れないし、被災地のどろどろになった地面に長靴がめり込みながら歩いている姿が、まるでチャップリンのようだと思ったのだとしたら、勘違いもいい加減にしてほしいかも知れないが、彼らが本気の迫真の演技に興じているように見えるとしたら、何だかよくわからないのだが、不謹慎にも笑ってしまって、笑う場面ではないのに笑えるのだから、どうもそれも自分が悪意を込めて笑っているようにも感じられるから自己嫌悪の度合いが増してくるわけだ。


10月8日「非難の矛先」

 忘れていたことが不意に思い出されて焦ってしまうなら、何かそれが自分にとって都合の悪いことだったのかも知れないが、そうではないとしたら何でもないはずがなく、単純に反対したくなることがあって、それが戦争反対というわかりやすい主張なら誰にでも気軽に肯定できるはずだが、もちろん気軽とは真逆の気が重くなる惨状を前にして、今もなお無慈悲に戦争を遂行している当事国を非難していれば、何となくそれが当然のことのように思われてくるはずだが、それができない立場があるのも承知していて、否応なくダブルスタンダードにならざるを得ないとしたら、敵対している国が遂行する戦争を非難する一方で、同盟国側の戦争なら認めざるを得ないということになりそうだが、果たしてそんな単純なことであっても構わないのかというと、いつものようにそこへと至る経緯やそこで生じている事情を考慮に入れることになるのだろうが、そういう経緯や事情を無視してそれをダブルスタンダードだと非難しても構わないかというと、それも立場によっては無視するのが当然の立場もある一方で、無視したところでお咎めなしで済んでしまうことに対して文句を言いたくなってしまう場合もありそうで、経緯や事情や立場なんかを持ち出してあれこれ言い訳を言う奴こそが卑劣千万であり、戦争をやってはいかん!と主張すればいいんだと簡単に言い放てる奴も世の中には五万といて、それを立場の違いや経緯や事情を考慮しながら嘲笑しようとする奴も卑劣千万には違いなく、別に卑劣千万だと思われても構わないなら、確か福沢諭吉が「桃太郎は盗人であって、卑劣千万なり」という論法で、何か利いたふうな意見を述べていたらしいが、まさかそれと同じような論法になっては幼稚すぎるが、誰もがプーチンやネタニヤフのような立場にはなれないし、ああいう立場にならずに済んでいるだけでも幸運とも思えないし、エルドアンや金正恩程度で済んでいるだけでも幸運とも言えないが、世の中には非難しても構わないような立場が現にあるわけだから、そういう立場になってしまった者たちを他の多くの人たちが非難していれば済んでしまう成り行きになっているわけだが、それでは済まないと思うから非難せざるを得ないのだろうし、せざるを得ないという言い方を用いても卑怯な感じがしてしまうから、何の但し書きも前提もなく非難すればいいようなことだとしても、逆にそうなってしまうと非難する以外には何も言えないようなことになってしまうから、そうなってしまった人たちは非難しっぱなしになってしまって、そこで用済みとなってしまうとまでは行かないだろうが、戦争が悲惨な局面を迎える度に非難を繰り返す成り行きにとらわれてしまって、そんな立場を維持しているだけの存在と成り果ててしまうのだが、それ以外にどんな立場が可能なのかと問うのも道義的には卑劣とまでは行かないにしても、何かそういうことを述べてはまずいような感じになってしまって、できればあえてそういう話題を持ち出して正義に逆らうような不利な立場になりたくないと思っても、もうすでに持ち出しているのだから後の祭りで自業自得には違いないのかも知れないが、かなり微妙なことを述べるなら、それが取り返しのつかない悲惨な事態になっているからこそ、そんな悲惨な事態を起こしている当事者や当事国の政府を非難している自らを正当化するのは憚られるような逆説的なニュアンスを伴ってきて、非難していること自体は正当化できるが、非難している自らを正当化するような主張になってしまうと出過ぎたマネをやっているように思われてしまって、かえって世間から共感を得られないような面倒な事態に陥ってしまうから、それではまずいわけでもなく、それがまずいわけでもないということが理解できないと、そういうことが起こる度にそんなことばかりやっている人たちのカテゴリーに入れられて、反戦平和活動家のような立場になってしまうから、活動がそういうことばかりに限定されてしまうようなことにもなってしまうわけで、まさか職業としてそんな立場が成り立つなんて誰もそこまでは考えない限りで、それではまずいわけではないことになるわけだから、たぶんその辺が微妙な立場なのであり、かつてのベトナム戦争などへの反戦平和活動から生じてきた人々が、直接その後の左翼的な行き詰まりをもたらしたとも思えないのだが、それなりに時代から取り残されて思うこともあるらしく、世捨て人のような境遇を得られた人も中にはいるだろうし、チョムスキーのような生き残り方もわずかに可能だったようだが、果たして小田実のような立場で良かったのかというと、彼が何かの障害物のように機能してしまったから、左翼が衰退する原因を作った象徴のような存在だと見られている面もありそうなのだが、今もその種の過ちが繰り返されようとしているとすれば、それでも構わないようなことでもあり、そういう人たちと共に滅んで行く情緒的な価値観がある一方で、何かもっとドラスティックに血も涙もないような功利主義的に事態を捉えても構わないような成り行きもあるらしく、それでもプーチンやネタニヤフなどの存在を擁護できるわけでもないのだが、ああいう存在が否応なく生み出されてしまう成り行きを制度的にどうにかしたいわけで、そうなると国家主義や民族主義などをお払い箱にするような制度的な刷新が求められていることになりそうで、それがその種の人たちが否定したり拒否すべき価値観としてのグローバリズムになってくるわけだが、拒否する対象となってくるから、それだけ脅威に感じられるわけで、そうなってしまってはまずいようなことが今まさに実現しようとしているから、実際にプーチンやネタニヤフなどに絡んで戦争が起こっているわけで、彼らが直接それを脅威に感じているどころか、彼らもある意味ではその先兵になっている面もあるだろうし、それを利用して戦争を継続させているわけだから、気づかないうちにその虜になっている面もあるから、それを否定したり拒否しているのは彼らではなく、現状では直接戦争には絡んでいないどころか彼らや彼らが関わっている政府が行なっている戦争を非難している人たちまで含まれてくるから、微妙にわかりづらいのかも知れないが、場合によっては直接真正面から戦争反対を叫んでいる人たちが、グローバリズム的な成り行きに逆らって国家や民族の側にとどまろうとしているような逆説的な態度や姿勢をとっているわけだが、それが取りも直さず戦争の原因や理由にもなっているわけだから両義的な傾向を示していると言えるのではないか。


10月7日「主義主張と固定観念の連携」

 他人と同じ判断材料を共有していても、なぜかその同じ判断材料を使って他人とは真逆の判断を下したくなるとしたら、それを知った他人にはそうなってしまうのが不思議でならないかも知れないが、真逆の判断を下してしまう原因をイデオロギーの違いだと述べてしまうと拒否反応が返ってきそうだが、イデオロギーをもたらすのが思考的な視野の広さや狭さに起因しているように思われると、その人がとらわれているのが具体的にどんなイデオロギーなのか知りたくなってしまうが、果たして事なかれ主義の類いをイデオロギーだと見なしても構わないのかどうかが、ここで問題となっているわけでもないはずだが、思考的な視野が狭いと事なかれ主義に陥ってしまうかどうかも怪しいところで、考えている傾向や方向が違うから、そう感じるかどうかもよくわからないのだが、結果的に現状を維持するような言説を構成していれば、変化を求めてはいないことになり、もちろん現状の改革を主張するような言説的な装いを伴いながらも、批判の対象となっているのが現状を維持する勢力ではなく、現状の変革を目指す勢力なのだから、なるほど結果的には現状の維持にしか至らないような方向で議論を進めているわけで、それが戦略的に意図してそんな装いにカモフラージュしているというよりは、本気で現状を変革したい気でいるように見えるから典型的な思考の視野狭窄だと見なしたくなり、そう述べたところで意味不明な感触を覚えるのだが、そうではないとしたら何なのかというと、イデオロギーにとらわれているわけではなく、固定観念にとらわれていると見なした方がしっくりきそうで、それがどんな固定観念なのかというと、左翼嫌悪症から生じる固定観念となると、攻撃の対象として嫌悪しているイデオロギーが自ずから決まってきそうだが、もちろんその手の輩は直接そうは言わないわけで、そうは言わない対象もそれと共にうまく回避しようとするのだろうが、そういうところも欺瞞としてそれとなく機能させて、何かもっともらしいことを言っているように装いたいのではなく、意識してそう装いたいわけではなく、それをイデオロギーだと見なされないようにしたいのも、それも意識してそうなるように装っているわけではなく、そういうことを言う人が自然の成り行きでそうなっているように見えてしまうのであり、そう見えてしまっても構わないような装いなのだから、ある意味でそういう態度や姿勢を取りながらも、そこで居直っているように見えてしまい、それがその人がいくら否定しても、そういうイデオロギー的な装いとなっているように見えてしまうわけだから、当人がいくら否定しても無駄なのかも知れないが、そんなわけ知り顔の知識人ふうの装いとは、そういう方向や傾向に凝り固まっているように見えてしまう限りで、人畜無害だと見なしておいても構わないわけだが、だからそういう嫌味な人は無視するに越したことはなく、そんな人は放っておいて存在しない前提で話を進めるべきなのかも知れないが、もちろんそれと同時にわざとデマを撒き散らしながら揺さぶりを仕掛けてくるタチの悪い輩も、それ以前に無視すべき存在なのかも知れず、それらもなぜか意識して戦略的な態度や姿勢になっているようにも見えないところが、微妙に間抜けな感じの装いになっているから、よほどの世間知らずでなければすぐにばれてしまうというか、相手にすると面倒な人なんだなと理解できる限りで無視の対象となってしまい、なるべくそういう人を避けながら言動を繰り出すように誘導されてしまうわけで、誰がそうするように誘導しているわけでもないのだろうが、それに関してはたぶん彼らには避けようとしても避けられない事情や経緯があって、できればそれを避けながらも自身の主張を正当化できるという前提で議論を進めようとするのだろうが、それなしでは彼らの存在そのものが成り立っていないわけだから、いくら意識してそれへの言及を避けているつもりでも、何かそれが欺瞞に感じられてしまうのだから、土台そんなのは無理ゲーなのだが、そんな彼らの涙ぐましい努力も早晩水泡に帰す結果となりそうだが、現実にそうならないとまずいわけで、彼らが避けようとしている話題もそれに関連していて、それを簡単にいうなら彼らのイデオロギーとは直接には関係のない政治家の不正行為や違法行為なのだが、意図して言及しないというわけでもないのだろうが、逆にそこに直接言及している人たちを攻撃したい意図が見え見えであるだけに、しかも直接言及している内容としての政治家の不正行為や違法行為というよりは、それらの不正行為や違法行為に言及している人たちのタチの悪さを煽り立てるという側面攻撃になってしまっているところが無理ゲーと化しているわけだが、それがあからさまな印象操作や争点逸らしの様相を呈しているわけだから、よほどの馬鹿でなければわかってしまうようなごまかしでしかないわけで、逆に彼らを使ってそんな無理ゲーをやらせている勢力が何なのかというと、不正行為や違法行為をやっていた政治家を抱えている勢力であることもわかりきっていて、そんな彼らが自分たちの劣勢を挽回すべく起死回生の逆転劇を狙って放ってきている政策が、たぶん積極財政政策だと見なしたいのだが、もちろんそうではない人たちも掲げている政策だから紛らわしいのかも知れないが、そういうところで政治家の不正行為や違法行為を追及している側が一方では緊縮財政政策によって国を破滅に導いて民衆を貧困に陥れていると主張すれば、それとこれとは次元の違う問題なのではないかと疑念を抱いてしまうのだが、そちらの方も根本的なところで成り立たない対立軸だと見なすななら、ただ単に予算の無駄遣いを改めると共に、逆に必要なところは積極的に予算を増やせばいいことである限りで、トータルで予算が増えようが減ろうが、そうなった理由に納得できれば積極財政と緊縮財政の単純な二項対立など成り立たなくなってしまうわけだろうが、そうした単純化を真に受けてしまう人が単に頭が悪いと思われるにしても、そうなる過程の中で煽動によって単純な二項対立を真に受けるように誘導されているわけだから、思考的な視野狭窄を施されていると見ておくのが無断な解釈だが、それを煽動者が意図的に施しているというよりは、煽動者を支持する人たちがそうなることを望んでいるから、そうした大衆の意向を敏感に感じ取って、煽動者の方が大衆の望む方向に世論を誘導するように仕向けられていると解釈しておくのが、それなりに無難な世の中の理解に結びつくような気がするわけだ。


10月6日「予想と予感」

 何に取り組むにしても、それを簡単に成し遂げられたら大した成果だとは感じなくても、やっていることにもよるが、それなりに大変な苦労をして肯定的な結果に至れば、満足感や達成感を得られると共に、それが自身の努力の賜物だと感じられる限りで、大した成果だと実感できるかも知れないし、その際に他人と連携することが必要な場合でも、他人との間で信頼関係を構築できれば、自らの能力が高いから人間関係がうまく行っているような気にもなるかも知れず、その一方で世間的な評価や評判に引きずられて満足や不満を抱くようなことになると、自分だけで自己満足に浸っても何か物足りなくなって、自分以外からもたらされる好意的な反応を期待してしまうのだろうが、他人や集団との付き合いの中で駆け引きや取引や交渉などを伴ってくると、自分一人で勝手に思っていたり考えていることではなく、それらの外部的な存在との相互作用の中で思ったり考えたりすることだから、それを自分が主体的に思考した結果だと錯覚してしまいがちになるところで、自分の思いや考えであると共に他人の思いや考えを自分も共有していたり、さらには集団的な共同幻想に自意識を支配されている可能性まで考えなければならない場合もありそうで、他人の思いや考えに疑問や疑念を抱いている自分の思いや考えにも疑問や疑念を抱いていることを考慮に入れたところで思考の堂々巡りに陥ってしまいそうだが、その種の集団的な共同幻想から解放されなければならないわけではなく、世間に向かって今こそ目を覚ませと訴えかけたいのでもないとしたら、特定のヤバそうな宗教団体に所属している人々を憐れむような優越感に浸りたいわけでもなければ、そういう存在も含めて許容できる限りで受け止めざるを得ないこととして、努力すれば報われるような目的意識に縛られている程度の軽さの領域にとどまりたいわけで、それが軽く安易に達成可能だとは思わないし、その場の状況や情勢に成否が左右されることであると共に、運が良かったり悪かったりすることによっても成否が左右されるようなことでもあるから、それなりにうまく行くように努力はしてみるのだろうが、努力した結果をどう評価してみてもしっくりくるようなことでもなければ、そうなった原因や理由をそれほどはっきりとこれだと特定しなくても構わない程度にとどめておきたいわけで、それが身勝手なご都合主義なのだとしても、社会の公的な領域ではそうは行かないところを、私的な思い込みの範囲内ではそういうことにしておきたいのだから、それ自体が無責任極まりないことだとしても、うまく立ち回って丸く収められたら儲け物なのだろうが、今がそうなる過程の中で行動している最中だと思い込んでみても、どうもそんなわけには行かないような予感もするわけで、個人的な経緯や事情など全く顧みられないような結果に至ってから後悔することになっても、それも自己責任でやっていることだから仕方のないことだとあきらめられるようなことにはならない予感もしてくるから、そうなってしまった責任を他の誰かになすりつけたいと思っているわけでもないのだが、〇〇が悪いからこうなったのだと言いたい他人の言っていることを真に受けることもなく、もっと複雑怪奇に入り組んだ複合的な原因とも理由とも言えないような複数の何かが作用してそうなってしまった結果を前にして、はっきりしたことなど何も言えなくなってしまうにしても、選択の機会が絶えず巡ってきていることを実感していれば、迷い悩みながらもその機会を無駄にはできないような気がしてしまうから、選んだ方が良さそうに思われる方を選ぶしかなく、選んだところでどうなるわけでもないと思っていそうな他の人たちには期待できないのだが、そういう期待できない人たちの意向には逆らいたいのかも知れず、だからといって期待できない人たちに向かって言い放つような言葉も文句も持ち合わせてはいないのだが、たとえ無駄だとわかっていても、そのわかっていることが嘘や勘違いや思い違いになることを期待するしかなく、結局自らの思いや考えや予想や予感や予測が裏切られることを期待するというアンビバレントな感情を振り払うことができないわけで、それだけ大衆市民社会と呼ばれる現状で成り立っているように見える社会の在り方に対して不信感や疑問や疑念を抱いているのかも知れないが、ではお前は世の中がどうなってほしいのかと問われているわけでもなく、問われても納得できるような答えには辿り着けそうもないし、どうなっても構わないわけではないのは確かだとしても、どうなるかがある程度は決まっているだろうし、それなりに予想や予測がつく程度の範囲内で今後も状況や情勢が推移して行くことも確からしいし、そんな状況や情勢の中で自らの思いや考えも現状の世の中との相互作用から生じてくることも確からしいのだが、そんな思いや考えの中でも自身の安易さや浅はかさは棚に上げて、他人の安易さや浅はかさを馬鹿にしたり批判する筋合いもなさそうなのだが、何かかっこいいことを語るとなると、否応なくそうならざるを得ないような成り行きにとらわれてしまうから、ユーチューブなどでかっこいいことを言い放っている人たちの真似をしたいとも思わないのだが、なぜか結果的にそんな人たちと言説の内容が同期してしまう事態となってしまうと、それがまずいと思わなくても居心地の悪さを感じるのだが、どうしてもそういうところでそれらの人たちと無自覚に共有している共同幻想のような何かに自意識を支配されているわけではないとしても、なるほど自分の他にも多くの人たちが自分と同じようなことを思い考えているのかと気づいたところで、どうにかしてそんなことを思ったり考えてしまうような傾向を変えなければならないと思うわけではないのだが、それは同じ社会の中で暮らしているのだから仕方のないことなのだろうから、素直に多くの人々と共感していることがあると認めても構わないことなのだろうが、その共感している中身が気に食わないとしたら、果たしてそれを変えられるのかといっても、個人の力ではどうにもならないことなのだろうが、だからといって他の多くの人々と力を合わせて変えなければならないことだと自覚するようなことでもなければ何なのかというと、最近も実際に愚かで浅はかな人たちの意向が叶わなかったようにも思われるし、それが叶ってしまっても良かったようにも思われるのだが、実際にはかろうじて阻止されてしまったのだから、世間的な良識や常識も少しは機能することもあるんだと思うようなことなのだが、それが多くの人々が一致団結して力を合わせてそうなったとも思えないようなことだから、大した成果でもないと思っておいても構わない程度のことなのではないか。


10月5日「政策の遂行を阻む市場の反応」

 たぶん日本経済に関してはうまく行っている面があっても、必ずしも誰かの思惑通りに行っているからうまく行っているわけではなく、そんな中でも日銀が金利を上げて正常化を図りたいのに、それを阻むような市場の反応が返ってくるから、金利を上げようにも上げられないジレンマに直面しているらしく、しかもそうなるとドルに対して円安になるから、輸出企業の業績も上がって株価も上がって、株式投資をやっている人からすれば都合が良いわけで、そういう面では日銀の金融政策がうまく行っていないから円安になって株価が上がっていると言えなくもないし、しかも財務省が財政健全化目的で消費税率を上げられない理由も円安株高な情勢を壊したくないからだと言えるわけでもないが、結果的にそうなってしまうのだから、それがリフレ派の経済運営が功を奏しているというよりは、なし崩し的に否応なくそうなっているだけで、政治が市場を制御できていないことの証拠になるわけでもないが、主張したいことを主張したりやりたいことをやろうとすると、市場の反応が裏目に出るから、そういうことまで考慮に入れて、必ずしも主張したいわけもないことを主張しなければならないし、市場の良い反応を期待できるようなことをやらなければならないような感じになってくるのだろうが、それで構わないのかというと、言っていることとやっていることが違うじゃないかと批判したい人もいくらでも出てくるから、それではまずいわけでもなく、そうなることも含めて、なし崩し的にそうなってしまうようなことでもあるから、そういうことだと受け止めておくしかないのかも知れず、そういう面ではそうだとしても、そうなってしまうと何か主体的に中身のあることや説得力のありそうなことが何も言えなくなるわけでもないだろうが、官僚が用意した作文を棒読みしているだけの政治家に魅力を感じる人など誰もいなくても、儀式的な成り行きとしてはそれで構わないようなことでもあるから、それに対して中身が何もないと批判する方も、予定調和な反応には違いないのだろうが、少なくとも言いたいことを言いたい放題言えるような状況にはなっていないから、そこだけを部分的に取り出してそのことの是非や良し悪しを評価することにはならず、それに対して何かもっともらしい批判を述べている内容を額面通りに受け取るわけにも行かず、そういうことも含めて結果的にどうなっているのかを見なければならないだろうが、だからといってそういう成り行きを肯定するわけにも行かないから、それを批判したいなら勝手にいくらでも批判できるようなことになるとしても、ただ批判しっぱなしになってしまうだけでは、何も効果的なことを述べていることにもならないから、皮相上滑りな状況なのかも知れないが、結局は世の中の大多数の人々から支持を得られるようなことは主張できないし、支持されるようなことを実行できるわけでもないとしたら、逆に世の中の各方面から苛烈に非難されるようなことを主張したり実行していても、それで構わないようなことにもなりかねず、そういう面で何をどうやったらうまく行くかと問われるまでもないことを主張して実行しようとしていると受け止めておけば良いのか悪いのかもよくわからないのだが、結果的にうまく行っているように装われている限りで、それなりに妥当なことを主張して実行していることにしておきたいのだろうが、それも必ずしもうまく行っているわけでもないから、世の中の各方面から文句も出てくるし、それなりにもっともらしい批判や非難を浴びせられるわけだが、実態としてはその場の成り行きの中で言えそうなことを言ってみて、ひどい反応が返ってきたら謝罪して前言を撤回するような事態にも追い込まれそうだが、それで済まそうとしているような感じで、批判する人にとっては済まないのが明らかなのが当然だとしても、言説的なレベルではそれで済んでしまうとしても、結果としてちゃんとした成果が出ないと、批判が有効に機能したとは言えないだろうから、そら見たことかと言えるような結果を期待したいのだとしても、どんな結果になったところでそれを批判したい人にとってはいくらでも批判できるようなことになってしまい、そんな批判が皮相上滑りだとしても構わないようなことにもなって、逆に効果の出ない批判ならいくらでも許容されるような状況となっているのかも知れないから、その辺でも批判を真に受ける必要もなくなって、表面的には何でもないような状況がもたらされていて、もちろん本当はそうじゃないと怒りを露わにしていきり立ってしまう人もいくらでも出てくるわけだが、そんな人が選挙に立候補して何かもっともらしいことを主張することになって、そういう主張に感銘を受けた人が大勢その人に投票してくれれば、何か格好がつくような結果になりそうなのだが、そこでも実態はそうではなく、すでに疑念や疑惑を抱かれている人が、その疑念や疑惑の程度に応じてそれなりにもっともらしい批判や非難を浴びせられながらも、なぜか当選してしまって、そんな理不尽な結果に腹が立っていきり立ってしまう人も大勢出てくるのが、今までの経緯を踏まえたそうなる確率の高そうな予想になりそうで、そんな多くの人々が納得できない結果がもたらされても、相変わらずメディアでは事なかれ主義的に無難な解説や説明が事後的に行われて事態が丸く収まるわけでもないが、だからといって日本では暴動やストライキやテロが起こるわけでもないとたかを括っていると、数年前には実際にテロが起こって安倍晋三がその犠牲になったし、もっと時代を遡れば二・二六事件五・一五事件などが起こっていた時代もあったのだが、原敬や浅沼稲次郎も刺されて死んだし、そういう事件を挙げて行けばいくらでもありそうで、別にそうなることを期待しているわけでもないのだが、そういう事件を起こす当事者が何か勘違いしているとも思えないし、それなりに切実な理由や事情があってそういう成り行きの当事者になってしまうと事態を捉えてみても、何かそれが違うような気がするとしたら何なのかというと、それほど切実で深刻で重大な事態でもないのに、それを切実で深刻で重大な事態だと現状を捉えているわけでもないのだが、もっと軽い気分や理由で安易に人を選んでしまっても構わないような現状なのかも知れず、世の中の多くの人々が促されて嫌々重い腰を上げて渋々変化を選択する事態ではなく、できれば割と簡単に、現状で主導権を握っているように見える人たちにダメ出しして、そこから退場してもらうような成り行きへと持って行きたいわけで、石破みたいな奴にふんぞりかえられて平気なお前らこそさっさと死んでほしいわけだ。


10月4日「限界づけられた思考と言動」

 何を考えるにしても部分的にしか考えられないし、何を述べるにしても部分的にしか述べられないが、それを考えていたり述べている自身が社会の中では部分的な存在なのだから、ある意味で分相応な限界なのかも知れないが、それを部分ではなく全体的なことを考えていると妄想できるなら、妄想ではなく部分的な存在でしかない自分でも全体的なことを考えられて、そこからさらに飛躍して部分とか全体とかではなく、本質的なことまで考えているように思われると、部分や全体よりはそちらの方が重要に思われてくるし、それとは逆に枝葉末節なことなど考えていては駄目だとも思われてくるだろうが、では本質的なことと枝葉末節なことの両方を考えられるなら、それが全体的なことを考えていることになるのかというと、たぶんそうではないことは誰もが容易に想像がつくだろうし、それ以外にも物事の表層と深層の対比とか、色々な面から考えているような妄想を抱けるはずだが、それが妄想を伴っているとしても、多くの人々が日本国内の政治情勢について考えてしまうのを妨害するために何をやらなければならないかと考えるなら、中国経済が崩壊しているんだと盛んに強調したい輩が、何かそれに関して争点逸らしやはぐらかしのような煽動を仕掛けているのかというと、それも穿った見方や考え方になってしまいそうだが、果たしてそういう人たちが中国経済が崩壊だと騒ぎ立てることによって、人々の関心を日本の政治情勢から逸らすことに成功しているのかというと、それとこれとは関係がないと思いたいのだが、それにしては最近ユーチューブ上で中国経済が崩壊しただの何だのと騒ぎ立てている人が多すぎるようにも感じられるし、あるいは中東情勢に関心を向ければ、日本の政治情勢には関心が薄くなってしまうのかと思うわけでもなく、またヨーロッパの移民問題やアメリカの大統領選挙に関心を向けさせようとしているわけでもなさそうだが、いくら中国経済が崩壊したと断言したところで、テスラや中国のEVメーカーの電気自動車が中国で売れているから、それらの企業の株価も上がっているのではないかと推測したくなってしまうのだが、もしかしたらそれとこれとも直接には関係のないことかも知れず、中国経済が崩壊したことと中国で電気自動車が売れていることは直接には関係がないと考えても、話の辻褄が合わなくなることでもなく、それはそれこれはこれだと別のことのように考えられるなら、要は程度の問題に過ぎず、彼らが中国経済が崩壊したと断言できるような程度のことが実際に起こっていると思っておけばよく、またヨーロッパで不法移民による犯罪が深刻化している程度のことも実際に起こっていそうだが、それと日本で移民反対を唱えている人たちの言動に関しても直接には関係ないと思っておけばいいのかも知れないが、想像力を働かせてそれとこれとを結びつけたくなってしまうだろうし、一般の人々が想像力を働かせるようにそれを問題視する人たちが仕向けていると推測したくなってしまうわけだが、そうではないとしたら何なのかというと、各々が直接結びついて関係し合いながら複数の出来事が起こっているわけではなく、そこで陰謀論的な意図や思惑を連想させるように複数の出来事が起こっているから、それらを相互に関連させて考えてしまうと、世界情勢を影から操っているような陰謀論的な黒幕の存在も容易に想像できるかも知れないし、そんな黒幕的な存在が実在する証拠を挙げられるような人が陰謀論者としてSNSなどで活躍しているなら、そういう面では話の辻褄が合いそうに思われてくるわけだが、たぶん妄想できる範囲内ではそういうことだと信じられる人が世の中にどれほどいようと、現実に起こっていることに目を向けざるを得ない事態に実際になっているから、そんなことには無関心でいられて、そんなことが何なのかというと、中国経済が崩壊しただの何だのではなく、世界情勢を影から操っている黒幕的な存在の動向でもないとすれば、自業自得な言動に頼らざるを得ない政治家の行き詰まり状況なのかも知れないが、それが何を意味するのでもなく、意味など後からいくらでもその場の都合に合わせて付け加えられるから信用がならない言動となってしまうわけで、その場の都合に合わせてかっこいいことを言い放ってしまったつけが、ここにきてかっこいい言動とは真逆のみっともない振る舞いに転じてしまうから、口は災いの元だと皮肉を込めて誰かに向かって言い放ちたくなってしまうし、何を言われても馬耳東風を装わなければならなくなると、もうすでにそんな振る舞いの終わりも近い可能性も窺われて、そうなることがわかっていれば、かっこいいことなど言い放ちはしなかったわけではなく、言い放たないとそんな立場にもなれなかったわけだから、結局は自身の言動を裏切るような立場にならざるを得なかったわけだろうが、だからといってそんな立場になりたくなかったわけではなく、その立場になるにはかっこいいことを言い放つしかなかった反面、いったんそんな立場になってしまうと、そこに至るまでに費やした言動を裏切るようなことをやらざるを得なくなるわけで、そういう裏腹な立場になろうとしてなれるわけではないし、そんな立場を支えている人たちも、自分たちが意図することなくそんな立場を構築していて、そこに犠牲者となる人を据えつけるわけだが、据えつけられた人からすれば、自分の思い通りのことが言えないし動けない苦境にひたすら耐え忍ぶ日々を送るしかなく、そんな境遇しか構築できない状況がもたらされているわけだから、すでにジリ貧な状況へと追い込まれているはずなのだが、それがいつまでジリ貧な状況が続いて行くのかと苦悩する暇も余裕もないような追い込まれた状況なのかというと、それよりはそんな立場になれただけでもラッキーだったと自らの強運に自信を深めるような勘違いな心理状態なのかも知れないし、まさかそれが自らの実力だと過信するほどの馬鹿でもないはずだが、そんなことを推測してみたところで、その人の人格とか能力の良し悪しや優劣などが問題となるような成り行きなのでもないとしたら、そんな立場に収まるのが誰でも良かったはずもないが、その人の力でどうにかなるような立場でもないとしたら、それを遥かに凌駕する力が周囲の各方面から働いているから、少なくともその場に限界づけられて視野狭窄した思考や頭脳からはその力に抗う術を導き出せない事態に陥っているわけだ。


10月3日「左翼の論理」

 現状の世の中で左翼的でリベラルな幻想を抱くとしたら、それが自分には好感の持てる幻想である限りで、そうではない人たちにとっては腹が立つような幻想には違いないだろうが、なぜそう思うかというと、最近の日本共産党の主張が何かおかしな傾向を見せていて、大学の学費が高過ぎるから値下げを訴えていて、その延長上で教育の無償化を主張しているのだが、彼らがどんな意図があってそんなことを主張しているのかよくわからないわけではなく、また労働時間の軽減や平均時給の引き上げを求めていたりする場合もあるのだが、学生が学費を稼ぐためにバイトばかりやって、肝心の講義中には居眠りをしていれば、何のために大学で学んでいるのかわけがわからないわけではなく、ただ単に就職に有利になるからでは、確かに中身のない空っぽな人間が生産されているに過ぎないだろうが、それが今に始まったことではなく、昔からそうだったように思われる限りで、例えば全共闘世代の老人たちが学生運動をやっていた頃も、そういう中身のない空っぽな人間が絶え間なく生産されていたように思われるから、昔の学生がちゃんとしていたとも思えないのだが、ではどういう人間が生産されればいいのかと問われると、特に納得できるようなもっともらしい答えを持ち合わせているわけではなく、答えに窮してしまうが、型にハマった人間など生産されなくても構わないような気がする一方で、学校教育によって社会に適合する人間が生産されているとも思えないが、大学への助成金を増やして教育にかかる費用の半分を政府が負担するようにすべきだと共産党の政策担当者が訴えているのを見て、なるほどこれが左翼の論理なのかと理解できるわけでもないのだが、それとは少し趣旨が違うかも知れないが、民主党の農業者戸別所得補償制度というのも含めて、それ自体が直接の金儲けに結びつく分野というわけでもないところが、そこで生活している人の質を向上させたいという意図だと理解しても構わないが、生活に余裕がないとまともな判断ができる人が生じてこないと思うわけでもないのだが、まともな判断というのが何なのかというと、それをまともとは言わないかも知れないが、世論誘導を狙った煽動者がこれ見よがしに言い放つような煽り立てを真に受けない程度のことならどうということはないのだが、例えば統一教会から支援を受けていた政治家が選挙で落選するような結果になれば、有権者にまともな判断ができていたことになるだろうし、また違法な資金提供を受けていた政治家が選挙で落選しても、有権者にまともな判断ができていたことになりそうで、そんなことを組織ぐるみでやっていた政党が選挙で敗れて政権交代が実現すれば、有権者にまともな判断ができていたことになるだろうが、それとこれとは直接関係がないように思われるのだが、そうなることを直接狙ってそれに関連した政策を訴えかけているわけではなく、そうではないとしたら何なのかというと、一般市民の良識に期待しているというと、それも的外れな理解かも知れないが、そういうところが論理的とは言えないかも知れないし、それとこれとも直接には無関係かも知れないのだが、何かそういうことではなく、経産省が半導体産業を復活させようとして特定の企業に肩入れして多額の補助金を交付するとかになってくると、そういう分野ではそうなるとしても、左翼的にはそうではないようなことをやりたいわけで、もちろん誰が左翼なのかも、誰も自身が左翼だとは認識していないだろうし、それどころか今や左翼とは馬鹿にしたり否定的なレッテル貼りをして攻撃の対象となっているわけで、要は日本人の人としての知性や品性を底上げしないと、左翼の論理さえまかり通らない情勢となっているから、それをどうにかしたいと思っているわけでもなく、別に就職に有利となるから大学に入りたいという短絡的な思考の若者などそれほどいるわけでもないが、それ自体が知性も品性もないことの証拠だと言えるわけでもないのだが、知性や品性を身につけるために学校教育が必要だと思っているわけでもないから、その辺は何とも言えないところだが、教育の制度としての体裁を保ちたいなら、政府が大学などの教育機関に積極的に助成金を交付すればいいだろうし、場合によっては半導体産業の復活などよりそちらの方を優先させた方が良さそうに思われるわけだが、その根拠は何かと問われると、やはり答えに窮してしまい、共産党の政策担当者などに聞いてみれば、もっともらしい理由を説明してくれそうだが、それが中国政府などになれば国家戦略として直接最先端技術に関わってくる企業を育成するために様々な優遇措置を講じて、実際にそれなりに成果を上げている実態がありそうなのだが、もちろん日本政府の各省庁の官僚たちもそんなことならすぐに思いつきそうで、その辺は中国政府の官僚と大して変わらないメンタリティというか、官僚機構の組織的な傾向として構造的にそうなってしまうわけで、何かというとすぐに政府が民間企業を指導するような力関係や上下関係を構築したがるのだろうが、それではまずいのかというと、政府側からすればまずいわけでもないどころか、積極的にそういうことをやらなければならないという使命感に燃えて実際にそんなことをやってしまうのだろうが、それが間違っているわけでもないところが、理解できないところでもあって、理解されなくても構わないし、理解できなくて当然なのだろうが、そういう政府が構築しようとする力関係や上下関係に逆らう意志があるわけでもないのだろうが、成り行き的にはそういう関係とは関係のないところから世界を席巻するグローバル企業が生じてくるから、政府当局者としてはそんな企業に規制をかけて好き勝手なことをやらせないようにしなければならないだろうし、そうなっている時点で政府と企業が対等な関係とは言わないまでも、それなりに緊張感を維持できるような関係が形成されるわけだが、どうも日本では政府と癒着することを目指すような志の低い企業が政府に優遇される傾向になってしまうから、そういう企業を政府が優遇してしまうと、その産業の分野が駄目になってしまう事例がこれまでの経緯から明らかになってきたように思われるわけで、それに関してこうすればうまく行くような指針などあるわけでもないだろうが、そういうところで何か工夫が求められているような気がするわけだ。


10月2日「馬鹿げた思い込み」

 何か馬鹿げたことを考えていると、それが現実に起こるような気がするのだが、その馬鹿げたことが何なのかというと、例えば馬鹿げたアイデアが思い浮かぶなら、そのひらめきが馬鹿げていることになりそうだが、そのアイデアがひらめいた当人には馬鹿げているどころか、もしかしたら画期的なアイデアかも知れないと期待してしまうと、それがその人の勘違いになってしまうのだが、発明王の馬鹿げたアイデアとなるなら、誰が発明王なのかも、自称発明王という肩書きもありそうだから、その肩書きも信用できなくなるだろうが、どうしてもそれが馬鹿げたことだとは思えないとしたら、当人にはそう思われるが、他の大勢の人たちには馬鹿げたことのように思われるとなると、場合によってはその当人が周囲の人々から狂人扱いされていたりして、そうなると悲惨なことのように思われてくるが、国会の壇上で何かやっている大石あきこを狂人扱いする人もいないだろうから、それが馬鹿げたアイデアで人畜無害な見せかけのパフォーマンスに過ぎないと批判したいわけでもなく、逆によくぞやってくれたと拍手喝采送るような立場でもないとしたら何なのかというと、ああいう人もいるんだな、程度のことで穏便に済ませておきたいのだが、空振りばかりやっている人というのが、まさか自分なのかと思って怖くなってくる場合ではなく、ああいうことをやらざるを得ない境遇にハマっているわけで、もっと何かちゃんとしたことができるような大勢力になれば、それなりに優秀な人なのだろうから、まともそうな役職の類いを割り振られることにもなりそうだが、今はああいうことをやって空回りしているように見えてしまうのだとしても、あれを空振りだとか空回りだとか否定的に捉えるのも、偏見にとらわれている証拠なのかも知れないから、許容の範囲内であんなことをやっている人だと見ておいても構わないのかも知れず、だからなんだと言いたいわけでもないのだが、何か文句も言えないことでもないだろうが、敵に奇襲をかけるとか、テロ攻撃とか、それが予定調和ではなく意表を突くようなことにでもなれば、してやったりとなるのだろうが、そういうアイデアを思いつくこと自体がジリ貧に陥っていることの証拠だと言えなくもないから、他人からそれが馬鹿げたアイデアだと思われているうちは、しめしめと思っていること自体も勘違いのなせる業なのかも知れないが、裏をかいたり意表を突いたりしながら、本当に裏をかいているのかと疑念を抱いたり、意表を突いているつもりが、そんなのは先刻お見通しだと、何か成果や戦果が怪しいことにもなってくるのだろうが、それとこれとは関係のないところで、たぶん馬鹿げたアイデアがひらめいていて、それを実行に移すタイミングを測りながらも、本当にそんなことをやってもいいものかどうか迷いが生じてきているのだが、そんな嘘で構わないのかどうかもよくわからないところで、いったい何を考えているのかというと、意外と何も考えていないのかも知れず、成り行きまかせで動いているだけで、その場その場で最善を尽くすようなことになってくれば、それなりに手応えを感じるかも知れないが、そうではないとしたら、やはり空振り続きの空回りに過ぎないことが、実際に動いた結果から失敗してしまったことがわかってくれば、がっかりしてしまうかも知れないが、人はうまく行っていることの邪魔がしたいのであって、それがうまく行っているとは限らないから、邪魔をしたところで、うまく行っていないことの邪魔をしていることにでもなれば、果たして結果が思わしくなければ、邪魔をしたことが功を奏したことになるのかならないのかが、それだけでは何とも言えないようなことなのかも知れず、そうなるならイスラエルとハマスとヒズボラの戦闘など、何がうまく行っているのかよくわからないようなことかも知れないから、どうとでも解釈ができるわけでもないが、そこに外国からイエメンのフーシ派やイランも介入してくるから、一応は戦争状態であることは確かなのだろうが、戦争であれば何でもないわけには行かないだろうから、単なる見せかけのパフォーマンスであるはずもなく、実際に多数の人々が殺傷されて、物的な損害も半端ないわけだが、それも長期的な展望に立てば、何かの途中経過でしかなく、その途中経過の中でイスラエル政府が暴走中であるのも、そうは情勢を捉えたくない人であっても何となくは理解しているだろうし、戦争遂行中の個々の作戦がうまく行っていて、それ相応の戦果を上げているし、実際にそれが成果なのだから、武装組織のハマスやヒズボラを壊滅に追い込んだところで、成功と言えるはずだが、その代償が何なのかも現状ではよくわからないし、軍事作戦の成功が何を意味するのかも、人によっても立場によっても違ってきそうだが、何を意味したところで、それがイスラエルの敗北だと認めるわけにも行かないし、実際に戦争に勝利しつつあるわけだから敗北であるはずがないのだが、それでも長期的にはイスラエルが滅亡に向かって突き進んでいるとしたら、いったい何が原因でそうなってしまうのかといえば、戦争の勝利が原因で国家の滅亡をもたらすのかも知れず、しかもイスラエル一国ではそうであっても、なぜかその巻き添えを食って滅亡してしまう周辺国の事情となると、何が原因で滅亡したのか理解不能な結果となるかも知れないし、本当に中東のあの辺の国々が今後数年以内に地図上から全て消え去るとも思えないだろうが、実際にそうなってしまえば、何かそれが不可解なことだと思うか、あるいは長年にわたって戦争に明け暮れてきたのだから滅亡して当然だと思うかも、人によっても立場によっても違ってくるかも知れないが、そもそも部外者に過ぎない自分がそんなことが現時点でわかるのかも意味不明には違いなく、たぶん嘘をついていると思われても構わないのだが、あるいはそんなことは起こらないと思っても、自分も含めて誰にとっても何でもないことになりそうだが、果たしてそれが馬鹿げたことなのかというと、ついさっきまでそんな馬鹿げたことを考えていたと嘘をついても構わないのだが、それが嘘ではないとしたら、実際に数年以内にそれらの国々が滅亡すれば、そこから遡って数年前にそれが現実に起こるような気がしていたと思うだろうし、またもしかしたら自分には予知能力があるのではないかと勘違いもしたくなるだろうから、その時点でもおかしな思い込みにとらわれてしまうわけだ。


10月1日「石破の流儀」

 それを予定調和と言ってしまうと身も蓋もないが、事前にそうなることを予想していたわけでもないのに、実際にそうなってみれば、こうなるだろうとは思っていた通りの結果へと落ち着いてしまった感が半端ないが、少しは誠実そうで話のわかる人として一目置かれていた人物が、ひどい連中の助けを借りて実際にその役職に就いてみれば、結局はなりふり構わず功利的な態度に豹変してしまう有り様を目にして、なるほどと予定調和な事の成り行きだと思って安心すると共にがっかりしてしまうのだが、石破に対してそれほど裏切られた感も覚えないし、こういう奴はこうなるだろう程度の奴だと思いながらも、こうはならない結果などあり得ないし、ああいうひどい環境の中でひどい境遇を強いられながらもひどい連中から嫌われながら生き残ってきたのだから、ああなればこうなるという成り行きに沿った行動や言動を繰り出さないと周囲のクズどもが承知しないだろうから、誠実な対応など期待する方が世間知らずもいいところだろうし、後は国民に是非の判断がまかされるとしても、その国民とか有権者とか呼ばれる人たちの方でも、クズやゴミやウジ虫の割合が多ければ多いほど、石破みたいな奴でも支持せざるを得ないような結果にならざるを得ないだろうし、石破を支持するのが嫌でも自民党を選挙で勝たせるように投票することにも投票を棄権することにも白票を投じることにもなりそうで、それでも結果的にそうなれば今まで通りの世の中がそれなりに悪化しながらも続いて行くのだから、良心のかけらもないクズでゴミでウジ虫たちに囲まれながら生きて行くことにもなるだろうから、何か嫌な感じを覚えながらも利己的に自己責任で振る舞って行くしかないが、万が一政権交代が実現して立憲民主党が政権をとっても、前門の虎、後門の狼ならぬ、前門の石破、後門の野田だから、そういう面ではそれほど変わるわけでもないが、少しは左翼でリベラルなこともやってくれると期待したいのだが、期待できるのは選択的夫婦別姓制度が実現する程度のことかもしれないし、他にもきれいごとが通用するような法整備が行われるかも知れないが、国民民主や維新が与党になれば、クズゴミウジ虫の範疇でも暗躍するだろうから、相変わらず憲法改正や原発政策などに関しては嫌な現状が継続するかも知れないし、石破も野党的な立場になれば、また豹変してかっこいいことが言えるようになるかも知れないが、そうなったところで信用のならない奴であることが確定してしまうだろうから、さっさと別の奴に交代させられてしまうのかも知れず、その程度の立場や役職には違いないのだから、石破も岸田のように周囲から嫌がられながらも、無能の烙印を押されながらも、なかなかの粘り腰で権力の座から降りようとはしないだろうから、政権交代が起こらなければ、執拗にしがみつくようにして何年も居座り続けるような予感もするが、石破に何ができるのかと問われるわけでもなさそうで、周囲の奴らにとっては、俺たちがお前をその役職に就けたのだから、俺たちの言うことを聞けと脅されている程度の操り人形なのかも知れないし、何を期待すればいいのかよくわからないが、それに関して人としての良識を期待するのは、前任者の岸田でそんなのは百パーセントあり得ないことを思い知らされたはずで、しかも馬鹿で愚かな国民ほどそれをすぐに忘れて、石破に期待したのに裏切られたとか騙されたとか言いたい愚か者も今後いくらでも現れそうだが、そういうことことも含めて予定調和だと言いたくなる衝動を抑えつつも、果たして自民党の支持者が望んていることが何なのかと想像することもできないような世の中の状況なのかも知れないが、何の期待も希望もないのに、それでも自民党政権の延命を望んでいるとしたら、根本的なところでそういうことではないのかも知れないし、石破が選ばれなければ高市が選ばれていたはずで、また石破や高市でなければ進次郎が選ばれていたはずだから、それを何とも感じないような人たちが自民党の支持者なのだから、しかも高市が選ばれて円安株高になることを想定して株を買いまくっていた人までいるわけだから、そういう人たちの存在をどう捉えてどう評価すればいいのかよくわからず、ただ困惑するしかなく、そんな人たちと同時代的に共存しているわけかと思ったところで、それがどうしたわけでもないところが拍子抜けな感じもしないではないが、それに関して例えば高市がネトウヨ系の人たちから支持を得られることを期待して靖国神社へこれ見よがしに参拝して利いたふうなことを言い放ってみせたり、積極財政派から支持が得られることを期待して金融緩和政策の継続を強調して日銀の金利引き上げを牽制してみたりすることが、政治家として現状でやれることなのかと疑念を抱いているわけではなく、なぜかそんな高市には信念が感じられないのと同じように進次郎にも全く信念が感じられないのだが、なぜそう思うのかというところで、石破や岸田の登場となるとその役職に就いた途端、化けの皮が剥がれるようにメッキが剥がれるような情けない感じになってしまうと共に、その役職に就くまでは曲がりなりにも政治家としての信念があったように感じられるから、その信念とは何なのかというと、やはり彼らに対して馬鹿で愚かな俺らが幻想を抱いていたことになるのかと反省せざるを得ないというか、結局は政治家としての信念がありそうに思われていた石破や岸田にしても、メディアを通して幻想を抱かせるようなシステムの中でそう思わされていたに過ぎず、また野田を十年間隔で懲りずに代表に選んでしまう立憲民主党の政治家や党員にしても、何か野田に政治家としての信念があるように思わされているに過ぎないのかも知れず、彼らが信念のない政治家の代表格のような存在の高市や進次郎などとはひと味違う何か政治家としてのオーラを放っているように見えてしまって、それが誤解や勘違いの原因となって、石破や野田や岸田などの何でもないおっさんを選んで後悔することになるのかも知れないが、実質的には彼らも高市や進次郎と大して変わらない日本人なのであって、もちろん日本以外の外国にも同じような傾向の政治家がいくらでもいそうだが、そういうところではその役職に就いた政治家がそこに関わってくる他の政治家や官僚たちと連携して実際に何をやるかで良し悪しを判断するしかないし、実際にこれから彼らがやって行くことの良し悪しを判断することになるわけだ。