彼の声164
2024年
9月30日「極右と極左の類似点」
行政が目指す方向と経済活動が目指す方向が一致しないのは、行政による徴税が経済活動を抑制する効果がある一方で、徴税しないと行政が成り立たないかというと、無税国家といえば一部の特殊な国を除いてはあり得ないはずだが、徴税して集めた資金を全て経済的な投資に充てるわけには行かないし、社会保障に優先して使われる傾向があるだろうから、自由な経済活動が行われる土台となるのが、行政による国家統治になるにしても、経済活動が行われた結果として生じる社会の歪みや綻びを是正したり補完するのが行政の役割だと規定するなら、経済活動と行政活動が相互に補い合いながら社会を維持発展させて行くような理想論が言えそうだが、実際には良い面ばかりではなく悪影響を及ぼし合っている面もあるかも知れず、それが規制緩和や民営化などの新自由主義的なやり方だと批判するのは簡単だが、それが目眩しのような理屈でもあって、実態として二十世紀の社会主義国やファシスト軍事政権などが行なってきたのは、行政機構を強化するために国民に犠牲を強いるやり方であり、それが理屈の上では国力の強化に結びつくと考えられたからそういうことをやってきたわけだが、それが現代では積極財政政策によって経済を強化することが国力の強化に結びつくと考えるから、ネトウヨ系の者たちも積極財政派に加担している一方で、ケインズ経済学やニューディール政策などの方面から積極財政政策を掲げると、ネトウヨ的な極右方面とは無関係で不可解な戸惑いを覚えるかも知れないが、ネトウヨが山本太郎やれいわを極左だとレッテル貼りして攻撃したい思惑もそういうところから生じてくるのだろうから、経済的な方面での救世済民思想上では右も左もないと言えそうなのだが、そこで違いをあえて判断基準として設定するなら、国民主権や民主主義を重視するか軽んじているかという基準で構わないかというと、そこに思想信条の自由や経済活動の自由も持ち込んでしまうと、民主主義と自由主義の違いも考慮しなければならなくなって、極右なのに積極財政政策を推進していたり、同じようにケインズ経済学やニューディール政策などから積極財政政策を掲げている山本太郎やれいわを極左だとレッテル貼りして攻撃しなければならなくなったりして、何やら面倒でややこしいことになってしまうわけだが、そういうイデオロギー的な対立軸ではなく、貧困に苦しんでいる民衆を救うために積極財政政策を掲げているのだと主張されると、やはりそれがきれいごとのように感じてしまうから、なおのこと腹が立ってきて、山本太郎やれいわが邪魔でならない存在に思われてしまうのかも知れないが、問題なのは積極財政政策が政府が主導して行おうとする政策である限りにおいて、社会主義的な計画経済の罠にハマってしまう可能性が高いということで、政府の官僚機構が強権的な権限や権力を伴って前面に押し出されてくると、民間の創意工夫が失われて経済が停滞してしまうから、そういう弊害を克服するために新自由主義的な経済運営が編み出されてきた経緯がありそうなのだが、れいわのグリーンニューディール政策に関してあえて難を挙げるなら、れいわが推奨する特定のきれいごとの評価基準に適った分野にだけ集中的に政府が投資するというところであり、それが二十世紀の悪しき社会主義的な計画経済に繋がりそうな懸念点なのであり、実際の資本主義経済ではどの分野から金儲けの機会が生じてくるとも限らず、政府が特定の経済分野に投資が集中するように制御して法整備しているうちに、その分野が時代遅れになってしまえば、二十世紀の社会主義国の二の舞になりかねず、そういうところで政府の経済分野への働きかけには限界があるわけだが、では結局どうすればいいのかというと、政府と民間で絶えず役割分担を維持しながらも、必要に応じて政府が経済に介入しなければならなくなるにしても、それも全面的に介入して制御しようとするのではなく、制御しきれない面では景気循環の成り行きまかせにならざるを得ないわけで、そういう意味では景気後退になった際には中央銀行が利下げする余地がないと、介入したくてもできないし、国債を発行して景気刺激策をやるに際しても、すでに目一杯対GDP比で限界を超えているような債務残高があると、どうにもこうにも行き詰まっているように感じられてしまうだろうから、日本政府の現状ではそういう面を正常化したくなるわけで、それを積極財政派に今はまだ時期尚早で正常化しようとしなくてもいいのだと諭されても、にわかには信じ難いだろうから、その辺をどう判断するかも含めて今後の課題で、成り行き次第で面倒なことになってきそうだが、少なくとも現状の日本経済が駄目なのかというと、世界第4位の経済規模を誇っているわけだから、そういう基準から見るなら駄目であるはずもなく、それ以下の国からすれば至ってうまく行っている部類に入るわけで、もちろんうまく行っているとしても、悪い面を挙げて行ったらきりがなく挙げられそうで、実際に山本太郎に言わせればひどい状態や状況になっているはずなのだが、いくら日本の駄目な面を挙げて行っても、実際にれいわが政権を担うほどの勢力にならない限りは、政府を使って政策を実現するような段階へは持って行けないわけで、そういうところが山本太郎やれいわの現状での限界に違いないのだろうが、そうなる途上の段階で政権交代でも起こって、立憲民主党が政権を担う機会がやってくれば、どう考えても経済は差し置いてもリベラル的に価値がありそうな政策を実行しようとするだろうから、現状よりは民主的で国民主権的な制度になるように持って行こうとするだろうから、そうなるのを阻むためにも、ネトウヨ勢力としては積極財政政策によって国民の支持を得ようとしているのだろうし、しかもそれが山本太郎やれいわも積極財政政策を掲げているから、政策が被ってしまって邪魔なのだろうし、今のうちに潰しておきたいと思っているかどうかも定かではないし、れいわが簡単に潰れるとも思えないが、そういうことではないとすれば、単に民衆が地道に支持しながら市民本位の政党としてれいわを育てて行くような機運が生じてくれば、よそからとやかく言われながらもそれなりの勢力へと成長して行くのではないか。
9月29日「騒ぎの後始末」
想像力を膨らませれば大げさなことが言えることのついでに、それがそんな事例となるわけでもないが、例えばありふれたこととしてSNSで日本崩壊だと述べれば、ああなるほどSNSではこういう状態が日本が崩壊した状態だと言えるのかと納得できるわけでもないのだが、日本が崩壊したところでこの程度のことだと軽く見ているようなら、では日本が崩壊したのは嘘なのかと崩壊を疑うわけでもなく、そこで何かが崩壊していてそれを崩壊だと表現しているだけだと思えば済んでしまい、崩壊とはこういうことなのかと納得するわけでもないが、これを崩壊だと表現できるのかと感心するわけでもなく、そんなことを言っている誰かが人心を惹きつけるために崩壊という言葉を大げさに使っているのかと理解すれば済んでしまうわけでもないのだが、別に崩壊という言葉にこだわる必要もないのに、安易に崩壊という言葉を使う輩を馬鹿にするようなことを述べてしまうと、何かそれ自体が屁理屈をこねているような、中身のないことを執拗に述べているような感じになってしまいそうだが、それでも構わないような状況の中で崩壊という言葉が使われているのかと嘘をついても、そんな嘘が世の中で通用するわけもないから、あまりその程度のことを問題視するわけにも行かず、結局はその程度のこととして割と簡単に受け流してしまうのだが、逆に受け流すわけにも行かない興味深いことというのが、それが興味深いことだとしても、現状の世の中に大して作用も影響も及ぼさないことであったりするから、何でもないことだとしても興味深いのであり、それが安心しながら問題視するようなことになれば、SNSなどでも話題となっていることになりそうなのだが、そうなると当事者でもない部外者が野次馬の立場から問題視するようなことにもなるだろうから、興味本位の無責任な態度で問題視するようなことにもなってきて、それがどうでもいいこととしてメディアで話題となっているのだろうが、実態としてもただの騒ぎ屋が騒いでいるだけで、それを真に受ける必要もないことにもなってくるだろうから、その手の輩がいくら騒ぎ立てたところで何でもないことになってしまいそうだが、その種の騒ぎ立てが石破ショックで円高株価大暴落という騒ぎ立てだとすれば馬鹿げたことには違いなく、しかもそれで日本終了だというのだから、さらにそれが馬鹿げた終了になってしまって、そんな空騒ぎに右往左往して一喜一憂していたらどうなってしまうのかと心配するはずもなく、それ自体が空騒ぎイベントには違いなかったのだが、ユーチューブで空騒ぎしている嘘っぽい偽投資家のような人の動画を見ながら、なるほどこれがエンタメなんだと理解してしまうと共に、理解じゃなくて誤解なのかも知れないし、その人が偽投資家だと誤解しておいた方が安心できるわけで、馬鹿な奴が演技じゃない範囲で騒いでいるはずもないと思っておけば一安心できるわけだが、そうやって視聴回数を稼いでいるのかと理解するしかなく、こんな奴がメディアで蔓延っていること自体が日本が終了していることの証しなんじゃないかと深刻ぶるわけにも行かないのだが、それとワンセットになった別の騒ぎ立てとして毎度お馴染みのネトウヨ系の騒ぎ屋が、本物の投資家は石破ショックなんて言葉は使わないと空騒ぎの後始末の火消しのようなことを言い放って、自民党に対するマイナスイメージの払拭に躍起となっているのを見ながら、ああこいつは高市が総裁になるのを信じて疑わなかった奴だと見ておけば、そこでも一安心してしまうわけだが、なるほどこいつが敗戦処理投手のような役目を引き受けているのかと理解しておけば良さそうだが、そんな表面的な理解で構わないのかというと、そういう面ではそうだが、それとは別の面ではまずいと思うなら、ではどういう面ではまずいのかと問いたくなってくるわけでもなく、それではまずい面というのがすぐには思い浮かばないから、そういう一過性の空騒ぎによって忘れてほしい過去の不正疑惑があるだのないだのと言いたいわけでもなく、単純に金儲けのためなら手段を選ばないし選べない輩が、その種の空騒ぎに便乗して見え透いた罠を仕掛けてくるのを見過ごすわけには行かない程度のことで何か述べようとすると、そんなことを述べているだけに終わってしまうから、それではまずいと思いたくなってくるのだが、そう思いたくなっているのに、実際には述べていることを正当化しようとしているわけでもなく、それよりはもっとその場で起こっている事態から距離を置いて、場合によっては突き離して観るような動作も伴ってくるから、それが何なのかと疑念を抱くのだが、それ自体はそうだとしても、あくまでもそれが表面的なところで起こっていることであって本質的なところではそうではないとしたら、では何がそこで起こっていることの本質なのかと問うなら、何とかしてそこから人々の関心を逸らそうとしていると理解しておけばいいのかも知れないし、できればそれとは別の方面へと関心を向けてほしいわけで、その関心を向けてほしい方面とはそこで見せかけられて演出された儀式的な成り行きが支配している方面で行われていることであり、それを自然な事態の進行だと錯覚する限りにおいて、物事の本質を見逃してしまうわけで、そうではなくそれを観ることによって馴致されてしまう感覚を疑わなければならないのに、そうなっていることを当然視してしまうことがその種の儀式を取り仕切っている勢力への支持に結びついてしまうことを自覚しろと誰に諭されるわけでもないが、諭されるまでもなく理解しなければならないことだと言いたくなってしまうのだが、それが余計なお世話であって、そこで儀式的な行事が行われているのを多くの人々に観させることが彼らの真の目的だと言っても、それが何の目的なのかわかるはずもない人が大半を占めるかも知れないが、観させられていることがそれを支持していることに結びつくような自覚などないはずで、実際にもそんなことまで思い至る人など誰もいないだろうが、たぶんその種の儀式的な行事を行なう目的とはそういうことなのであり、それが誰もが承知しておくべき暗黙の了解事項だとも思えないが、ではそんな洗脳的な効果のある儀式など見ないようにすればいいわけではなく、むしろよく観た方がいいわけで、それを観ながら違和感や抵抗感を覚えることが重要なのかも知れず、逆にそれを観て自然の成り行きのように感じられて何の抵抗感も違和感も感じない人が、儀式を執り行う勢力を支持するように洗脳されていると思っておけばいいのではないか。
9月28日「新自由主義と緊縮財政」
新自由主義を批判する奴らの言っていることの何が許せないかというと、そいつらがわざと批判しやすい都合の良い部分しか言っていないのに、そんな主張を正当化しても構わないはずがないが、では何がそうなのかと問われるところで、それを緊縮財政だと批判するやり口が詐欺的な物言いなのは誰もが薄々勘づいているところかも知れないが、世の中の馬鹿な奴らを味方につけるためにわざとそんなことを主張しているとしか思えないから、ますます人を馬鹿にしたクズどもだと怒りが込み上げてくる前に、彼に対抗して何かもっともらしいことを主張する必要性を感じてしまうのだが、それがどうも違うような気もするから迷いも生じてきて、案外積極財政派の主張もあながち間違っているわけでもないのではないかと反省してみるのだが、それでもひと口に政府の予算と言っても、普通に無駄な部分を削ることを緊縮財政だと批判されてはおかしいし、行政改革を否定するのも根本的に間違っていると思えるし、そういった批判や否定のレベルが詐欺のような物言いとなっているから信用できないわけだが、しかも二十世紀の社会主義国が大きな政府で失敗したことに関しては左翼のせいにする一方で、ヒトラーやムッソリーニなどのファシストの失敗には意図して言及しないし、本当にこいつら人間のクズなんじゃないかと腹が立って仕方がないわけだが、こみ上げてくる怒りを抑えつつも、少しは冷静になって心を落ち着けて考えてみなければならないのだろうが、それでもひと口に行政改革と言っても、効率化を図ることをすぐに民営化だ新自由主義だと批判しようとするからおかしいわけで、大阪周辺で維新がやったことを新自由主義だとレッテル貼りしたくてしょうがないような、これも詐欺的に新自由主義を貶めるやり口なのだろうが、いちいち腹が立って冷静になって考えさせないように絶えず煽り立てをやろうとするから、そこでも怒りがこみ上げてくるわけだが、さらにたたみかけるようにして小泉郵政民営化だ竹中平蔵だと、これが悪夢の新自由主義なんだと印象操作がしたいだろうから、何か呆れてものも言えないような気分にさせるわけで、そういうところを恣意的に切り取って否定的に誇張しながら悪く言えば、その通りのひどい印象へと持って行けるだろうが、本当に新自由主義とはそういうことなのか?と疑念ばかりが募ってきてしまうわけで、もちろんそういうことをやっている奴らは何とも感じないどころか、正しいことを主張している気になっているのかも知れないが、彼らがわかっていないことが何かといっても、物事には多面的な傾向や性質がありそうなのだが、さらには矛盾する傾向や性質もありそうで、場合によっては積極財政と緊縮財政を同時並行して推し進めなければならないのかも知れず、それを〇〇主義だと一つにまとめるようなことではなく、場合によっては新自由主義と社会主義とケインズ主義を混ぜ合わせたようなことになってしまう可能性もあるわけで、ひと口に言えるような傾向に振り切れるわけには行かない事情や経緯がいくらでも生じてくるから、結果的にはその中でも部分的には新自由主義的な傾向も必要になってしまうのかも知れず、そういう部分だけ切り取ってそれを悪く言えば済んでしまうようなことではまずいのかも知れないから、実質的には様々な傾向となるような物事を組み合わせて動く成り行きになるなら、何かそれがひと口には言えないような活動になってくるわけで、今回の出来事も野田が立憲民主の代表になって石破が自民党の総裁になったから、さっそくどちらも緊縮財政派だから駄目だと批判するような輩が出てきたのだが、そういうことを述べる人にとってはそれが正しい認識であり正しい意見になるとしても、それで構わないなら世話ないような感想を抱きながらも、では自分はどう受け止めているのかというと、野田と石破が表面的には対立を装いながらも、双方の意図や思惑を超えて、結果的には意識せずに連携し合うような成り行きが予想できるにしても、それが気に入らない人からすれば財務省の意向を反映しているのだと主張したくなるだろうが、たぶんそれがちょっと違うのかも知れず、どう違うかが今後明らかになればわかりやすいだろうが、明らかにならないまま野田も石破も退場を強いられるかも知れないし、何かが起こった際にはその場で現状追認のような認識になっていればそれで構わないかというと、後追い的なところではそれでも構わないだろうが、双方共に少なくとも岸田よりは骨のある人間だと見られているから、それがどういう面で骨のある人間であることが証明されるかというと、簡単に言うならその場で生じている物事の流れにいかに逆らえるかで、そういう雰囲気が醸し出されてくるわけだろうが、岸田のようなあからさまなごまかし答弁ができるかというと、石破がそれをやってしまうと人格崩壊となりかねない予感もするのだが、誠実な受け答えをしないと石破が石破ではなくなってしまうだろうし、まさか岸田のような誰が見ても無責任極まりないクズ人間に見られることに石破の精神が耐えられるかというと、それをやってしまう石破の姿が今のところは想像できないわけだが、そういうところで相対的に石破の人間性の方が中身が空っぽでも平気な岸田よりは信用できそうなのだが、人として強いのは岸田の方なのだが、岸田のやり方では誰からも尊敬されないし、ある意味で無敵の人なのだろうが、岸田の業績と言えるようなことが肯定的な意味であるかというと、あるとは思えないから、岸田のようになってはまずいと誰もが思うところだが、岸田もなりたくてそうなったわけではなく、否応なくそうならざるを得ないような成り行きに従うしかなかったのであり、それは河野太郎にも言えることだろうが、人間的な欠陥がもろに出たと見えてしまうのが、岸田も河野も立場が違っていたらそうは見えなかったはずで、普通の一般人程度の立場だったら、その程度の人間などいくらでもいる程度の認識で済んでしまうような人物であり人格なのだろうが、それがその場の成り行きで否応なく人としての欠陥がこれ見よがしに目立ってしまって、誰から見てもひどい奴に見えてしまうような結果に至ってしまったのだから、そういうところが野田や石破になるともっと骨のある人間としての土台が備わっているように見えるのだが、それがどう壊されて削られて行くかが、今後の見どころだと言えるかどうかも現時点では明らかにはなっていないような気がするわけだ。
9月27日「残念な希望」
現状で何をどうすればいいのかが、それが口では簡単に言えることであったり、文章にまとめて示すことも容易にできるとしても、実際にそれが実現していなければ、実現を阻んでいる何かがありそうなのだが、それをどう表現すればいいのかが、今ひとつうまく説明できないところだが、カタカナ言葉でリアルポリティックスとか呼ばれるものが作用してそうなっているというと、それも言語表現上でそう言われているところのものが具体的に何を意味するとも言えなくもないが、それに関してもっともらしいことを言ってしまうと何か違うような気がするわけで、だからあまりその種のカタカナ言葉を使ってこれ見よがしなことを述べたくはないのだが、もっと単純に利害関係からそうなっていると見なしても構わないが、それだけで割り切れるはずもなく、物事の道理をわきまえたことをやってほしいと思うのだが、それを阻むのもその場で生じている利害だとすれば、利害を取るか道理に従うかの二者択一になるはずもなく、単純な判断では済まないような成り行きにとらわれて、それを批判しようとすればいくらでも批判されるようなことをやらざるを得なくなってしまうから、納得できるようなことはやれないと思っておいた方が良さそうで、単純に割り切れるようなことを言うと、言っている通りには行かないから、言うだけ藪蛇になってしまうようなことなのかも知れず、うまくかっこいいことを言うよりはやろうとすることややっていることを前進させなければならないと言っても、それも違うような気もするわけで、だからあえて間違ったことしか言えないわけでもないが、正しいことを述べたくないとなれば、筋の通らない矛盾したことを述べざるを得ないかも知れないが、共産党が主張するようなことにはなり得ないし、妥協的な言い回しで野田あたりの主張を実現するような成り行きになってしまうのだろうが、それでいいのかというと、もちろんいくらでも批判されるようなことかも知れないが、結果的にそんなふうなことになってしまうと、あまり魅力を感じられないわけだが、そういう人たちはそういう方面でがんばってもらうしかないだろうから、せいぜいが野田を動かして実現するようなことをやるしかないだろうし、嫌がられながらもそれなりの成果が上がるのを期待すれば良いんじゃないかと思いたいが、大した成果も上げられなければ、野田にやめてもらうしかないだろうが、簡単に身を退くような奴じゃないのは周知の通りだろうから、面倒なことになりそうな予感がしているわけだが、少なくとも与野党の対立とやらが見せかけだけの対立になりそうな感じになってくれば、それが野田を代表に起用した成果になるかも知れず、そんな成果が気に入らないことの最たる成果となりそうだが、それが逆説的にそうなることだと言うと、何かすっきりしない結果となってしまいそうだが、どう考えてもわかりやすい成り行きによって真正面からそうなるようなことだとは思えないわけで、不快で不可解な経過や経緯を伴いながらも、何となくそうなるような感じがする結果に落ち着くことになりそうだが、そういう成り行きの中で主導権を握ってその場を仕切っているように見える者たちが、どう見ても不快で信用できないような者たちになるだろうから、かっこいいことを言いたい人にとってはそれが我慢がならないし許せないことになりそうで、こんな奴らが主役であること自体が不快極まりないような気がするのかも知れないが、そうだからこそある程度の妥協的な結果をもたらすことになれば、それが理想論のきれいごとばかり主張する人たちには実現できない成果となりそうだが、もちろん不満たらたらの批判し放題の代物となるだろうから、こんなんじゃ駄目だと言われ続けるような結果になってしまうのだろうが、そういう残念な結果がもたらされた後で選択の余地ができるような成り行きになることを期待したいわけで、今後数年間に世の中の腐った部分の膿を出し切るわけにも行かないだろうが、そういう傾向になるように持って行かないことには、現状の改善など望むべくもないと思っていれば良いのかも知れず、それが具体的に何がどうなってそうなるのかが現時点では皆目見当がつかないところだが、主役を買って出た彼らが自業自得気味に自滅するような成り行きにならないことには、彼らを批判してきた人たちも収まりがつかないだろうから、そのつもりがなくてもそうなるように彼ら自身が持って行くような成り行きになることを期待するしかなく、時期がそういう人たちが淘汰されて行くような時期なのかも知れず、残飯整理のような期間の中でできるだけ良心的に見える人たちが生き残ってほしいのだが、そう見える人たちが権力の誘惑に屈して変節して腐り果てた姿が、現状の中で主役の座を狙っているように見える人たちなのかも知れないから、期待すること自体が愚かだと思うなら、ではどうすれば良いのかと誰に問われるわけでもないが、実際に高市が自民党の総裁に選ばれると株価が上がって、石破が総裁に選ばれると株価が下がるから、高市を応援するようなことを述べている人に向かって何を言えば良いのかよくわからないし、その程度のことなのかと思うしかないわけだが、もっと根本的なところで政府が積極的に財政を支出して経済を支えるようなことをやるのが、社会主義的なやり方だとは言わせないような人たちの戦略的な物言いというのが、昔はヒトラーやムッソリーニなんかを代表とするファシストの主張だったのだろうが、もちろんそうは言わずにケインズを持ち出すのがよりスマートなやり方になるのだろうが、その一方で独裁的な軍事政権なんかもそういうことをやりたがるだろうし、今もエジプトなどでやられているのだが、対外債務まみれのエジプトではうまく行かないやり方なのだろうが、高市が積極財政派を味方につけるために言えることは全て言うような感じになっているとしても、たとえそれが口からでまかせだとしても揶揄するわけにも行かないし、その一方でネトウヨを喜ばすためにも中国などに対して強硬姿勢を取るようなことをリップサービス的なレベルでは言いたい放題言い放っているのだろうが、そういう口の軽さが災禍をもたらす以前に信用できない人も大勢いるはずだが、果たしてそんなのが自民党の総裁になって日本の総理大臣になっても構わないのかと懸念を抱くようなことでもないかも知れないどころか、じゃあ進次郎なら尚のことヤバいのではないかと言いたくなるのを抑えて、じゃあ石破がなれば株価が下がって嫌なのかというと、そういうレベルではそうだとしても、三人の中ではマシに見えてしまうが、結局は岸田と同じような結末になってしまう未来も高確率で予想されてしまうわけだ。
9月26日「分断状況」
誰もそうは思わないところで、人々の間で分断が生じているような気もするが、その中でどちらが優勢となっているかといえば、それを安易に捉えるなら、理性的な傾向の人たちよりは功利的な傾向の人たちの方が優勢となっているような気がするのだが、理性的な傾向と功利的な傾向が必ずしも対立する概念ではないだろうから、安易に世の中の状況を分断だとか見なして対立的に捉えるのは間違っている可能性もありそうだが、その中でもあからさまに間違ったことをやっている人や勢力が理性的な傾向の人たちから批判されている状況もありそうなのだが、それも否応なくそういうことをやらざるを得ないような人たちだからこそ、批判されるのが当たり前のことをやっていて、実際にそういうことを強引にやってしまう権限や権力を有しているから、割と安易に批判されているのだが、果たしてそれで構わないのかというと、もちろん構わないはずがないから批判されているわけだが、それも功利的な面で利益が出ている限りは続けられるだろうし、今は利益が出ていなくても今後の利益が期待される限りで続けられるなら、それほど文句も出ないところかも知れないが、もちろん被害者を出しながら利益を出していたり、無駄な投資に終わってしまう可能性が高いのに強引な支出が罷り通っているようなら、普通に批判されるようなことになるだろうが、単純にそうとも言い切れないようなグレーゾーン的なところで何かが行われていて、それがよくわからないような成り行きをもたらしているのだろうが、それでも対立や分断を煽り立てるしかやりようのない人や勢力にとっては、自分たちの敵となるような人や勢力を名指しして、苛烈に批判するような成り行きへと持って行こうとしているわけだが、それを他の大勢の人々が真に受けて、そんなことをやっている人たちを支持してくれたり応援してくれれば、そうやって対立や分断を煽り立てている人や勢力にとっては思うつぼなのだろうが、必ずしも実態としてはそうはなっていないような気がするわけで、多くの人々が対立するどちらにも分断されているどちらにも同時に含まれてしまうなら、対立でも分断でもないことになってしまい、煽り立てている人たちの見込み違いとなってしまいそうだが、それも単純にそうとも言い切れないようなことであるから、対立や分断の煽り立てが有効だと思う程度の支持や賛同を得られている面もあるだろうが、それもその程度のことだと無視できるかというと、ある程度は無視できるし、またそれとは別の面から見るなら、無視してはまずいような気がする程度で関心を向ける対象になり得るにしても、一部ではそんな感じがする程度のことなのかも知れないから、全面的にそうであるわけでもない程度のことなのであって、だから世の中で大した支持や賛同も広がらないのかも知れないが、それが弱小政治勢力と見なされる人たちの置かれた立場なのだろうが、たとえそういう面ではそうだとしても、それとは別の方面ではそれなりに対立や分断が顕在化しているような状況なのかも知れないが、それが装われたと言っても構わないのかどうかも定かでないが、それなりに対立や分断が装われているように思われるのだが、それが乗り越えられなければならない課題として装われた対立や分断が提示されているような気もするわけだが、そう思っている自分の勘違いであればその方が都合が良さそうなのだが、それに関して象徴的な存在となっているのが小川淳也という政治家なのかも知れず、何か薄っぺらい立ち回りをやってしまって、こいつはこういう奴なのかとだいぶ印象の悪さが際立ってしまったように感じられるわけだが、こいつも元官僚なのだそうだから、何か野望を抱いて政治家になったのだろうし、その野望を実現するためにあえてそういうせこい立ち回りをやってみせたのだと解釈したくなってくるのだが、それが理性的であるよりも功利的な立ち回りに見えるだけに、なるほどこういう奴が今後うまく立ち回って彼自身の野望を成就してしまうと、何となくそれではまずそうな成り行きになってしまいそうで、できれば同じ元官僚であれば小沼巧とか小西洋之とか江田憲司とかが何となく理性的で誠実な雰囲気を醸し出しているだけに、それらの人たちも心の中では何を思っているのか窺い知れない面もあるから、どちらかというと小川淳也の方が正直者でわかりやすい人なのかも知れないし、野田の甘い誘いに乗った軽率な奴だったと将来のどこかの時点で否定的な評価を下される可能性もなきにしもあらずだが、その程度の薄っぺらい人材でも構わない成り行きが形成されていると情勢を軽く見ても構わないなら、実際に岸田文雄とかもそうだったし、まさか小泉進次郎が大方の予想を裏切って自民党の総裁になったり日本の総理大臣になってしまえば、なおのことそういう傾向が顕著になっていることの証拠となってしまうだろうから、そういう成り行きの中で小川淳也とかいう政治家も立憲民主党の幹事長に抜擢されたと見ておけばいいのかも知れないが、たぶんそういう奴らと対立を装ってはまずいのかも知れず、あいつらと自分は違うのだとかっこつけて理性的に振る舞おうとしてしまうと、それがとんだ勘違いとなって、そういう振る舞いはお呼びでないのはもちろんのこと、自らがとらわれている状況や情勢を見誤っていることの証しとなりそうな感じがするわけで、それに関してはたぶん誰もができることならかっこつけて理性的に振る舞いたいのに、それがやりたくてもできないような経緯の中で右往左往しているわけで、また功利的に振る舞わないとならないような事情が生じてしまうから、どちらを優先させようとするかというと、かっこつけよりは実利を得ようとしてなりふり構っていられないから、目の前に差し出された餌に飛びついてみっともない醜態を晒してしまい、そうなって初めて薄汚れた人たちの仲間入りが許されて、それ相応の権力や権限を得るに至るわけで、それと引き換えにしてきれいごとが言えなくなったり、かっこつけて理性的に振る舞うこともできなくなってしまい、そうなると理性的な傾向の人たちからの格好の批判の対象として、あからさまに間違ったことをやらざるを得なくなってしまうわけだ。
9月25日「汚物としての人格」
なぜそう思ってしまうのか理解できないわけではなく、割と容易くわかることではあるにしても、それをそう理解してしまうと不都合が生じるから、なるべく理解しないようにしているというと、何かおかしいことは確かなのだが、そう理解しては行けない対象としてあんな人たちがいて、あんな人たちの方が世の中で多数派を構成しているとすれば、それがまずいことのように思われるのだが、なぜかそうなっているように見えるのが、そう見えてしまう人の側に問題があるのかというと、そう見えてしまう人にとっては、あんな人たちを支持している世の中で多数派を構成する人たちの方に何か深刻な問題があるように感じられるから、そう感じられる限りでそう見えてしまうことを正当化できるような感じになってしまい、それがまずいことのように感じられるなら、何とかしてそう見えてしまう認識を修正しなければならないかというと、修正できないからそう見えてしまうとしたら、こんな世の中は変えて行かなければならないと思いたいところだが、何の権力も権限もない個人がそう思ったところで世の中を変えられるはずもなく、そういうところで自らを取り巻く世の中がおかしな事態となっているような気がして、しかもそういうところは割り切らないと生きて行けないような気になってしまうわけだが、その割り切る対象として最近何かと話題となっているのが野田佳彦だと言えるかどうかも、何となく否定的な偏見を抱く対象として彼が程よくメディア的な話題の中に収まっているから、この時期の期間限定的な存在として野田佳彦が一時的に注目の的となっているかどうかも定かでないが、もちろんあんな奴に注目している方がおかしいと言われると、その通りになってしまいそうで、どうせ今週末には別の誰かが注目されることになるだろうから、野田などにいちいち言及している奴はどうかしていると言われそうだが、それでもほんの数日の間は世の中の汚辱に塗れた部分を野田が代表しているように見えてしまう限りで、野田もそれなりに汚物のような存在感を発揮していると見なしたいわけで、また野田を支える立憲民主党の執行部の面々にも汚物的な雰囲気が感じられるのだが、今後の成り行き次第ではそんな否定的な雰囲気を拭い去ることができると期待したいわけでもなく、そのままでも構わないような気がしてしまうとしたら、野田と共に政治の表舞台から退場してほしい人たちを巻き込んでくれれば、汚物が除去されたような清々しい気分になれるのだが、野田の巻き添えとなってしまう人々がそれに気づいて野田から離れてしまうとまずいような気もするから、野田には目立ってほしくはなく、今後野田と対峙するのが石破なのか高市なのかが数日後に決まるとしても、両者共に野田と同じような汚辱に塗れた人だろうから、彼らも汚物として除去されてほしいわけだが、ではそう思っている自分が彼らとは正反対に位置する左翼やリベラル的な立場なのかというと、それも少し違うような気もするわけで、割と簡単に左翼やリベラルの典型のような立場が存在すると仮定できるかというとできないような気もするから、では何なのかというと、左翼やリベラルを嫌う人たちが罵倒する対象としてそれらの立場が設定されているから、そんな立場であるはずがないと思いたいだろうし、自分は右でも左でもないと言いたい人たちが、実質的には左翼でありリベラルなのであるから、彼らが否定したい対象となる人たちが、彼らを左翼だリベラルだと罵倒する人たちになっているとすると、何かそれがないものねだりのような様相を呈しているわけで、その中でも何か信用できる指標や基準のようなものがあるかというと、平気で嘘をつき、自身でも嘘をついていることを隠そうとしない高市を積極財政派だからという理由で支持する人たちを信用できるかというと、アメリカでも平気で嘘をつくトランプを支持している人がいくらでもいるではないか、日本でも平気を嘘をついていた安倍晋三への支持が高かったではないかと状況証拠を並べて正当化したくなってしまうが、そういうのを受け入れられない人たちが、自分は右でも左でもないと言いたいのだろうが、たぶん左翼やリベラルに分類できるような人たちなのかもしれないから、当人たちはそうじゃないと否定はするだろうが、そうカテゴライズしたくなるような人たちなのだから、彼らの思いなど無視されても構わないような世の中になっている限りで、それなりにバランスがとれているような気がするわけで、そういうところであまり簡単に決めつけたりレッテルを貼るのはやめ方が良さそうで、汚物のような野田が汚物のような維新や国民民主と連携しようとしていても、それを汚物のようだと感じられてしまうのだから、何かしら否定的な偏見にとらわれていることも確かだが、そう感じてしまう自身が左翼的あるいはリベラル的な価値観にとらわれているかというと、それも単純にそうだとは言えないような留保が伴ってきて、左翼やリベラルと見なされても構わないのだが、その種の決めつけやレッテル貼りには逆らいたくなってしまうのだが、だからといって自分は右でも左でもないと言えるかというと、そう言うことにも抵抗感を覚えるわけで、なぜ簡単に右でも左でもないと言えるのか、なぜあえてそんなところを強調するのかが理解できないと言ったら嘘になってしまいそうだが、そうであるならそのついでに積極財政でも緊縮財政でもないと言うべきで、そういうことにこだわってしまうところに違和感を覚えるわけだが、ではどう言えばいいのかというと、自分は右でも左でもあり、積極財政でも緊縮財政でもあると言えば納得できるかというと、たぶんこだわっているのがそこにはないと同時にあるというと、ではどちらなのかと問われるわけでもなく、そんなことを問う必要がないと同時にあるようなよくわからないところでもあり、そういうところを問題視する人の主張や意見がよくわからないのかも知れず、では他に何を問題視すればいいのかというと、政治や行政の在り方が多くの人々が望んでいるような期待しているようなものとは違っていることを問題視するべきだと思っているわけではなく、問題視しなくても済んでしまうようなことなのかも知れず、政治や行政によって全面的に統治されるような世の中ではなくなってきているのは昔からそうなのだが、それを理解している人が相変わらず少ないから、政治や行政に過大な期待を抱いて過大な課題を課すような成り行きになっているような気がするわけだ。
9月24日「転んでからわかること」
例えば気まぐれに非日常的な体験をしたいと思わなくても、それが娯楽のようなたわいない体験であれば、娯楽といってもたわいないとは限らないが、その際に思いがけない事故に巻き込まれて痛い目に遭わない限りで、それなりに安心して楽しめる体験となるはずだが、そのための前提として娯楽に金をかけられるだけの経済的な余裕とか、それを体験する暇があることも必要だろうが、誰もがそんな体験を切実に求めているかというと、それだけを求めているわけでもないだろうから、他にも様々な物事を求めている中では、それほど優先順位が高いとも思えないかも知れず、それも人それぞれにその程度や種類や傾向にも違いが生じてくるだろうから一概には言えないが、その一方で切実に必要だと思うのは娯楽などではないと言える人もいくらでもいて、そんな人にとっての重要であったり重大だと感じる物事の中に何があるかといっても、大抵は仕事関連でそれが出てくる場合も多く、それも切実にやらなければならないこととして仕事を挙げたくなってしまうとしても、その人がそう思っても実際はそうはならないとしたら、一見何でもないような物事が時と場合によっては思いがけず重要になってきたり、それが自身にとって深刻な事態をもたらしているのに、その人の意識には何も感じられず、実際に何も気づかない場合もあるかも知れず、それを体験した後から気づいた時にはすでに手遅れとなってしまえば、何やら取り返しのつかないことをやってしまったと後悔するかも知れないが、なぜかそこでも気づかないままとなってしまえば、重要とも重大とも深刻とも思えないのに、それによってその人のその後の悲惨な末路が決まってしまったり、それでも何とも感じないでそのまま生きて死んで行くだけとなってしまっても、当人にとっては相変わらず何とも感じないから、それが何かと問われるわけでもないが、気づかないのだから問うこともないだろうから、そんなことでしかないのに、実際にその人にとってその場ではどうでもいいような何でもないことであっても、それがその人の命運を決しているような具合になっていれば、世話ないことになるだろうが、今がそうなってしまうかどうかの岐路に立たされていることなど当人には知る由もないことであっても、相変わらずそんなのはどうでもいいままに済んでしまうとしたら、それを知らぬが仏と言ってみたところで、何の反応もないことなのかも知れず、果たして自分も現状でそうなっているかどうかなんて知る由もないことだから、知らずに済んでいるうちはそれで構わないようなことなのかも知れないし、できればそれを知るきっかけがほしいところだが、例えば自分にとってそれが今朝実際に体験した早朝の暗闇の中で階段を踏み外して足をひねって痛めてしまったことだとしたら、何かそれをきっかけにしてその後の運命が変わってしまうような妄想を抱いてみるのだが、そんなことではないと思っても構わないが、その程度のことでそう都合良く運命が変わるわけもないだろうとたかを括りながらも、ひょっとしたら今ここから何か転機が訪れるのではないかと淡い期待を抱いているわけでもないが、すでに階段から転げ落ちたこと自体が自分にとっての転機となるかも知れないし、その証拠に足が痛いから今日は出かけずにいようと思う以前に、痛くて歩くこともままならないから、出かけたくても出かけられない状態なのかも知れず、それならそれで家でじっとしていれば済んでしまうことだろうが、その程度のことで何がどうなるわけでもないと思いつつも、そんなことではないのもわかりきっていると共に、それとは関係のない方面で実際に世の中では何かの事態が動いたわけで、しかもそれが動いたからこそ、その動いた事態を利用してくだらない人たちの言動も活発化しているのかも知れず、実際に彼らが見え透いたことを言っているから、他の多くの人々から馬鹿にされるわけでもなく、実際に馬鹿な人たちがそうした言動を真に受けて、その気になって踊り出してしまうとしても、踊ってしまうその内容が何となく白々しくも嘘っぽく、その意図や思惑が見え透いているだけに、それがそこで動いている物事の本質から外れたところで繰り出されている見せかけの言動なのかと納得できてしまうような感じがするものの、それをメディア言葉で表現すれば紋切り型のありふれた表現になってしまうだけに、それがそこで起こっていることを歪曲しているように感じられるから、そんなことではないと思いたい人もいくらでも出てきても何の不思議もないだろうが、それが不思議ではないからこそわざとそういうことにしておきたいのかも知れず、本当はそういうことではないのに、そういうことにしておくとわかりやすいから、そういうことだと思い込みたいとその場の成り行きを解釈したくなるのだが、果たして本当にそれがその場で起こっていることの表面的な解釈としてメディア上で通用しているのかというと、物事の本質を理解しない愚かな人々の間では通用しているのだろうが、本当のところはそうではないと思いたい人にとっては違うのだから、それが思い違いや勘違いではないなら、賢い人はそうではないことを理解していると事態を受け取っておいても、何かそれが違うような気がするのは何なのかというと、表面的にその場で起こっている事態をそういうことだと理解しておいても構わないようなことなのかも知れず、また愚かな人がそういうことだと理解しているわけではないとしたら、愚かであってもなくてもそういうことだと理解した上で、そこから行動を開始しなければならず、たとえそれが偽善や欺瞞を伴っていても、ある程度は仕方のないことだと諦めなければならず、誰も清廉潔白な聖人君主のような立場などには至れないわけだから、そういう表面的な理解をいったんは受け入れなければならないわけで、それ以上でも以下でもないはずだが、だからそれをわかった上で馬鹿な人たちがそのことの延長上でくだらない言動を弄していると解釈しておけばいいことかも知れないし、本当はそうではないことを織り込み済みの前提として理解した上でそうした言動を弄してそれを真に受けているように装っているわけだから、そんなのは演技以外の何ものでもないことがわかりきっているのだが、それでもなおそれを批判したり非難するようなそぶりを見せている人の意図を察する必要があるのかというと、それも程度の問題だと軽く見ているというと、それもわかっていながらあえて嘘をついているような後ろめたさを覚えるのだが、たぶんより多くの人々がそこで一致団結して一つの目標に向かって行動するにはそうならざるを得ないことだと思う限りで、誰もがわかっていることとしてそれらの人々にまとわりついてくる偽善や欺瞞の態度や姿勢には目を瞑る以外にはあり得ないわけだ。
9月23日「彼らのやり口」
他人に知られてはならない秘密をあえて話すのも、話した後から面倒な事態が待ち受けていそうだが、そうではないとしたら誰が何を知ってしまっても動じない鋼の精神を養えばいいとも思えないし、自分が何を言いたいのかもわからないのに、奇を衒って心にもないひねくれたことを述べてみたところで意味不明には違いなく、これから誰も知らない誰かの秘密を暴露したいわけでも、できるわけでもなく、誰もが知っているありふれたことを語ろうとしているのかも知れないから、毎度お馴染みのつまらない話になってしまいそうで、心苦しいのだが、だからといってそれを事前に知られてしまってはまずいわけでもなく、知るも知らないも、たとえそれを知ったところで何がどうなるわけでもないことには違いないのに、あえて語りたいわけでもないのに、否応なく語ってしまうのが不思議で仕方ないようなことにもなり難いのだが、たぶんそう受け取られても文句も言えないようなことを語り始めているのかも知れず、それ以前にすでに無駄な前振りが長すぎな感じがしないでもないが、なぜそうなるように仕向けられてしまうのかといえば、別にその理由を知りたいわけでもないのだが、それもなぜかそれを知りたくなるように仕向けられているとすると合点が行くわけでもなく、前もって知っていることを知らされて、ああなるほどと思って安心したいのだと馬鹿にするようなことでもないとしたら、彼らの勘違いが聴衆に伝播する様子を眺めながら、これは何かの妨害工作なのかと疑念を抱く必要もなさそうで、それをそのまま肯定的に受け止めておけば済んでしまうようなことなのであって、彼らの活動が何かの妨害工作だと誤解してはならないのはもちろんのこと、たとえそうであっても構わないような取るに足らない無視しても構わない程度の些細な見せかけのパフォーマンスに過ぎないのかというと、どこの誰がそんなふうに受け止めているわけでもないだろうから、そう思うこと自体も勘違いなのかも知れないし、しかもどこの誰が勘違いしているわけでもないから、もうすでに述べている内容が現実の世界で起こっていることからかなりずれた認識にとらわれていそうで、フィクションの中で語っているのかも知れないが、そんな彼らのやり口がいくら現実離れした妄想やたわいない屁理屈に依存していようといまいと、それを真に受けることも頑なに拒否する姿勢に凝り固まっているわけで、そうなっている時点でもはや何を言っても問いかけても聞く耳を持たない人たちなのだから、それだけ彼らが寄りかかって依存している論理や理屈や理論の類いが狂信的に信じられるに足るような代物になっているわけでもなさそうなのだが、それは彼らの立場や境遇とは違う立場や境遇にとらわれているからそう思われるだけなのかも知れず、そういう意味では彼らとは立場や境遇が異なるだけで簡単に拒否できるような代物だと思い込んでいること自体も勘違いのなせる業かも知れないから、用心してかからないととんでもないことにもなりかねないわけでもなく、そうでないとしたら何なのかと問えるわけでもないし、彼らを馬鹿にしたいわけでもないのだが、そんな面倒な屁理屈をこねくり回すような迂回を経ないで、単純に彼らが妨害工作を遂行中だと見なして彼らを敵視するのも良いかも知れず、実際に彼らを敵視している勢力もいくらでもあるだろうから、そういう人たちとケースバイケースで共闘するのも良いだろうし、そんなふうにして彼らに対する拒否の包囲網が形成されている現状もありそうだから、それなりに彼らを受け入れるか拒否するかで敵味方がはっきりと色分けされている可能性もありそうだが、なぜかそんな情勢など無視しながら、彼らをある意味では応援しているのかも知れず、そのある意味ではというところが、やはり面倒でややこしくも理解し難い留保があって、応援しているのとは別の面では敵対している可能性さえ排除できず、実際に彼らの活動を受け流しているわけで、しかも応援しているふりを装いながらも受け流しているわけだから、悪質だと受け取られても文句も言えないような無視の仕方になってしまっているわけで、どう捉えても正当化できないような無視の仕方になっていて、無視しているのに応援を装っているような両義的な動作をもたらすわけだから、彼らとは敵でも味方でもないというと嘘になってしまいそうで、敵であり味方でもあるというと完全にそうなっているわけでもないが、部分的には当てはまるようなことかも知れず、その辺も面倒でややこしいところではあるのだが、なぜそうなってしまうのかと言えば、なぜか彼らの主張を真に受けるわけにはいかないからで、はっきり言えば彼らの主張が間違っていると見なしても構わないのだが、そう見なしてしまう自分の主張が正しいのかというと、途端に怪しくなってしまうから、彼らの主張が間違っていると真正面から言えないもどかしさを覚えるのだが、たぶん彼らが強引にとどまっているように見える立場や境遇の中では、その主張が正しいと思っても構わないようなことなのかも知れず、もちろん彼らにはそれが可能であっても、自分にとってはそんな立場や境遇にとどまれるはずもなく、そういう意味では彼らとは立場も境遇も共有できないような立場や境遇を占めているのかも知れず、もちろんそんな立場が境遇に恒常的に固定されているわけではなく、絶え間ない状況や情勢の変化の中で揺れ動いているのだが、彼らにしてみたらその立場や境遇が揺れ動いているようには見えないはずで、彼らが意識してそんな立場や境遇にしがみついているように見えて、しがみついている限りでその主張が正しいと感じられると解釈しても構わないのかというと、もちろんそれも彼らにしてみれば、断じてそうではなく、彼らが敵対しているつもりの立場や境遇が恒常的に固定されていて、そんな立場や境遇を占めている人や団体などが彼らと敵対する勢力を形成しているはずなのだが、彼らとそれらの勢力に属する人や団体などが彼らとはっきりした敵対関係にあるのかというと、それもたぶん彼らはそうは思っていないだろうが、部分的には敵対しているとしても、敵対していない割合の方が大きいことを彼らが気づいていないのか、あるいは気づいているのに故意に気づいていないふりを装っているのかは当事者ではないからよくわからないにしても、少なくとも彼らの支援者にしてみれば、それらの勢力と敵対しているからこそ彼らを支援しているわけだから、そんな人々を裏切れない限りで嘘でも構わないから敵対を装い続ける必要が生じているわけだ。
9月22日「使い捨てにされる人々」
いい加減な伝聞から推測するのも、そんな推測で構わないはずがなく、何かそれが間違っていることは確かなのかも知れないが、自分の父親の農業高校時代の同級生のりんご農家の人が、選挙になると福田赳夫の選挙運動員のような役目を請け負って、何やら地下に潜って地域の人々に働きかけを行なって、飲ませ食わせ握らせなどの買収工作をやって活躍していたらしいのだが、その人はそんな日頃の無理が祟って体を壊して早死にしてしまったと父が何かにつけて思い出話の中で何度も語っていたのを思い出したが、たぶんそのりんご農家の人が父に自慢話の武勇伝のように何度も語って聞かせていたから、それが伝播して父も何かにつけて世間話の中で語っていたのだろうが、そんなエピソードから類推して、日本の農家の人たちに向かって、お前らは昔から自民党の子分だったくせに、今頃になって被害者ヅラして政府自民党の農政を批判するんじゃねぇよ!と嘲りの文句を言い放つわけにも行かないだろうが、使い捨てにされた人々に追い打ちをかけるような罵声を浴びせるのも忍びなく、ネトウヨなんかも今後社会に影響力を及ぼせなくなれば使い捨てにされてしまう運命なのかも知れないが、現状の世の中で起こっていることが、そういうことではないとすれば、どんなことが起こっているのかというと、ビジネスライクな傾向が強まっているというと、そんなのは昔からそうだろうと言われそうだが、親分子分の盃とか義理人情とかの面倒で理不尽な縛りなどでは割り切れない淡白で功利的な傾向というと、さらにわけがわからなくなって、それが理不尽な縛りだと思われること自体が昔気質の人からすれば不可解な感覚かも知れないが、逆に割り切れないのがその種の理不尽な縛りの方で、今の人にとって割り切れるのがビジネスライクな傾向だと言えそうで、何事もビジネスライクで済ますことができれば面倒なこだわりなど抜きになって、気楽な精神状態を保てるような気がするだろうが、それも安定して利益を得られて生活が成り立っている限りのことであって、資本主義市場経済で世の中が回っている限りは、そうは行かなくなる人が必ず出てくるわけで、そんな人たちをどうやって助けて行くかが問題となってくるはずだが、それも違っているような気がして、いつの時代でも使い捨てにされて没落してしまう種類の人や集団が出てくる限りで、そんな人や集団が犠牲となって社会から消え去ることによって、社会そのものが存続されるような残酷な事態が待ち受けているから、生き残った人や集団はそれを見て見ぬふりをするわけで、それが今年の事例から言えば地震で被災した能登半島の人々になるのかも知れず、そんな人や集団をビジネスライクに切り捨てる傾向が強まっていると言えるだろうが、それが良い傾向かと言えば、その残酷な面を見て見ぬふりができない人にとっては絶対に違うと思われるわけで、それに関しては普通に考えて政府や地方自治体が助ければ済むことであり、実際に助けているはずなのだが、そうは見えないとしたら何なのかというと、助けているふりをしながらも実質的には見捨てているような嫌な感じがするのかも知れず、そういうところが血も涙もない仕打ちだと思われるなら、義理人情的にどうにかしたくなってしまうわけだが、それがそう思っているだけで実際の行動に結びつかないと欺瞞に過ぎなくなってしまい、実際の行動に結びついたとしても実質的な効果が伴ってこないと、それもやっているふりとしか見えなくなってしまうだろうが、現状の傾向となると功利的な方面以外でのやる気のなさが目立っているように感じられて、その辺でビジネスライクな傾向が強まっていると言えそうだが、そうなると何か人助けが利益に結びつくような制度にしたくなるのかも知れず、震災復興で原発誘致とか活断層があるのにめちゃくちゃなことを言い出す馬鹿もまずいないだろうが、それの何がおかしいのかというと、ビジネスライクという意味を履き違えているような気もするわけで、それに絡んで功利性という意味も、必ずしも金銭的に利益が出るか否かではなく、世の中をうまく回して行けるかどうかに功利性の有無がかかっていて、関係する人や団体の間でなるべく感情的なしこりが出ないようにしようとすることが、その後の功利的な物事の流れに結びつくと言っても、具体的に何がどうなればそうなるのかがわからないと話の内容が抽象的過ぎて今ひとつ理解し難くなってしまいそうだが、それが功利的というよりは効率的と言えば何となく事態が飲み込めるわけでもないが、面倒なことが起きないようにすると言っても今ひとつピンとこないかも知れず、政治や行政などの方面では今後も社会保障関連で人を助けるような制度を作ってそれを運用して行くことになるだろうが、それが必ずしも経済的な功利性の追求とは相容れない制度になってしまうとしても、無条件で人を助けるような制度になると、経済的な功利性の追求とは相容れなくなってしまうことは、何となく理解できそうな気もするのだが、それが直接の利益をもたらさないとしても人を助けるべきかというところで、さらに踏み込むなら助けた人や団体から恩を仇で返されるような結果になっても助けるべきかとなると、そうなることが目に見えていると許容できない人も出てくるだろうから、そういうところが欧米などでは移民問題に直面していると言えるだろうが、なぜそうなってしまうのかというところが、世界中で経済的な功利性が追求されているからだとわかっていても拒否したくなるだろうから、そういうことの延長上で割りを食った人々が移民や難民となってしまうとしても、それらの人々を受け入れ可能なキャパシティがあるアメリカが経済的に栄えていることを理解できても許容できないわけで、しかもそうなった人々が使い捨てにされながらも、逆境を跳ね返して成功する人もわずかに出てくるとしても、そこに感情的なしこりや無用な対立が生じてきても、なおのこと活用して繁栄に結びつけるような試みも生じてこないと、功利的な利益の追求には結びつかないのだから、ややこしくも面倒な事態となっているのだろうが、具体的に何がどうなっているのかと言うなら、現状の世界を見渡してみても今ひとつピンとこないかも知れないが、そんな現状を否定せずに肯定して利用しなければならないと言われたところで、絶えずそれを拒否したくなる人々が世の中の多数派を占めている現状があるのではないか。
9月21日「ひねくれ者の性」
やれることを全てやって最善を尽くしているつもりにはなれないとしたら、それよりは何か辻褄が合わないギクシャクしているようなことをやっていると思っていても、成り行き的にそうなってしまうのだから、そうなった結果からそれを否定的に評価してみても、そのつもりもないのに否応なくそんなことをやってしまう自分を自己嫌悪な気分に陥らせるだけで、そんなのは自業自得気味に自分で自分の心身を傷つけているだけのような気もしてくるから、そういうのはやめておいた方が良さそうに思われるのだが、自分の行動や言動が自分を取り巻く周囲の状況や情勢に限界づけられてしまうはわかりきったことだとしても、自己中心的にそれをどう考えてみたところで、結局は自己正当化にしか至らないとも思えないが、ちっぽけな存在でしかない自分から離れて何を考えられるのかというと、それが自分以外のことになるわけでもないとしたら、自分を含んだ世の中の状況や情勢に関して何を考えられるのか問いたくなってくるが、それが他人への批判に結びつかない程度で済めば人畜無害に思われるわけでもないが、自分でも気づかないうちに批判の対象を求めてしまい、しかも安易に批判しやすい対象を提供してくれるのがメディアの便利な機能だとしても、それがメディアの罠だと思って警戒してしまうから、かえって批判を自粛したくなってきて、そうなってしまってもまずいような気もするのだが、メディアの批判的な論調に合わせて批判を促される傾向を感じとると、そんな傾向に逆らいたくなってくるのがひねくれ者の性だと言えるかどうかもよくわからないが、ひねくれ者だからメディアに逆らうとかいう理由ではないような気もすると共に、他に気に食わない点もあるらしく、メディアに促されてそれを批判するように仕向けられていること自体が、メディアの手のひらの上で踊らされているような気がするのは、昔に比べてメディアが劣化したとかいう印象からそう思われるわけではないのはもちろんのこと、昔のテレビや新聞や雑誌などのマスメディアしかなかった頃のメディアが今と比べて良かったとかそういうことではなく、昔も今もそれほど変わらないようにも感じられて、その辺が昔は良かった的な意見や論調にも逆らいたくなってきて、それ自体もそう思わせるように仕向けられているような気もするから、そんなふうにして疑い出したらきりがないが、しかもメディアに対するメディア批判のようなことも言わせたいのがさらなるメディアの罠なようにも感じられるから、本当に疑い出したらきりがないわけだが、それも自業自得の自家中毒のようなことなのかも知れないから、できればそうならないようにしたいわけで、どうやっても疑わしいことしか述べられなければ、それがないものねだりのような感じもしないではなく、もっと率直になってメディアが提供する批判対象をメディアと一緒になって批判していた方が楽な気分でいられそうなのだが、それに関して例えば昭和の時代の頃の自分の経験から振り返ってみると、物心ついた頃に最初に批判対象としてメディアが提供していたのが、金権腐敗政治家の田中角栄であり、それがいつの間にか良い人であるかのように伝えられるようになってしまったのだから、少なからずメディアに騙されて裏切られた感が半端なく募ってきて、自分にとってのメディア不信の元凶になったのが、今のメディアではなく昭和のマスメディアなのであって、しかも金権腐敗政治家の田中角栄と対立していたのが清廉潔白な代表格に見られていた福田赳夫ときたからには、それも今となっては統一教会などを称賛していた発言などが持ち出されて、やはり騙されて裏切られた感が半端なく募ってきてしまうのだから、昔のマスメディアの方がひどい連中の集まりのようにも感じられてしまうわけで、確かに当時の社会がロッキード事件などの政治家絡みの大事件に対するテレビや新聞や雑誌などを総動員しての批判キャンペーンを好意的に受け止めていたはずなのに対して、今のメディアの体たらくときたら情けなくなる人も多いはずなのだが、そういう比較そのものが信じられないのは、その後の世の中の時代の流れを実際に自分が体験してきたからそう思われて、今となっては大物感を漂わせているらしい中曽根康弘なんかは、当時は今の国民民主党の代表の玉木なんとかなどとと大して変わらない印象だったのが、なぜその後の成り行きの中で昭和の大政治家のような風格?を獲得できたのかと疑う気にもならないが、大ボスの田中角栄が脳梗塞か何かで影響力が低下したからだろうが、今から振り返ればその程度のことで、というか脳梗塞になった田中角栄にしてみたら大変なことなのだが、やれ風見鶏だの田中曽根内閣だのと揶揄されて小物感が半端なかった中曽根康弘が、すでに小物感が半端ないままに終わってしまった岸田文雄に対する低評価とは天と地ほどの大差があるような気がしてしまうのだから、そこでもメディアに騙されているような不信感が増幅されて、やり場のない憤りに包まれながらも、騙されてきた自分が馬鹿なんじゃないかとも思われて、身勝手な被害妄想も募ってくるのだが、もちろん自分が騙されているとは全く思っていないと同時に、自分以外の大勢の人々が騙されているんじゃないかと、まるで騙されなかった自分が優秀だったと優越感に浸りたいような思い上がった気分も湧いてくるから、なおのこと怒りが込み上げてくるのだが、それがメディアに対する全くの言いがかりに過ぎないことも、わかりすぎるくらいにわかっているだけに、何かしっくりこないし、笑ってしまうような気分で、そんなふうに思ってきた自分の愚かさを棚に上げて、現状のSNSなどの場で利いたふうな意見や主張を書き込んでいる人たちを馬鹿にするような立場ではないこともわかりすぎるぐらいにわかっているから、どうにもこうにもその種のメディア上で批判されたり非難されている政治家や識者などをそれらの人たちと一緒になって批判したり非難する気にはなれないから、どうしたらいいのかわからずにただの傍観者のふりをするぐらいしかやりようのない自分にもどかしさを感じているわけだが、それで構わないと思うしかなく、それらの人たちの述べていることを全面的に支持できるわけでも賛同できるわけでもなくても、何となくいいね!をしておくだけでもその場に参加しているような気がしてしまうのだが、それも気休めや気晴らしでそうやっていることを百も承知で、そんな何でもないような世の中の成り行きを受け流しているわけだ。
9月20日「他人の知識と歴史」
それに関してわからないことが多すぎるわけではなく、逆にわかっていることを語るのに都合の良い部分だけうまく結びつけるとよくわかってしまい、それがまともに理解できていないことの証拠だと指摘したいわけではなく、では何を理解しようとしているのかというと、それがわからないと話にならないが、たぶん世の中の状況や情勢に関わってくる経緯や事情を理解しようとしているはずで、それを政治や経済の方面から理解したいと思っているから、それに関する他人の認識や見解や解釈を参考にしながらも、独自の認識や見解や解釈と共に示したいのだろうが、それを他人の誤りや過ちや欠点や欠陥などの否定的な部分を指摘するために活用しようとするから、何かそれがおかしいような気がするのだが、おかしくても構わないし、実際におかしいことを述べていて、わざと意識しておかしいことを述べているから大衆受けするのだろうから、そういう面ではお笑い芸人に近い傾向がありそうだが、それも知性がないように見せかけるお笑い芸人では尊敬されないから、何か理論武装のような内容も加味したいようで、それも大衆受けする理論武装でないと意味がないだろうから、似非知識人のようないかがわしい雰囲気を纏いたいと思わなくても、自然にそうなってしまう成り行きに囚われてしまいそうだが、そんな芸風を見透かされていると思うなら、誰が見透かしているのかというと、それも架空の誰かでは話にならないのだが、それを単なる芸風に過ぎないとは思われたくないだろうから、何かこれといって尊敬されそうな中身が伴っていないと舐められてしまいそうで、舐められないための方策として、これ見よがしに言い放ちたい決め台詞ような政策を主張しているつもりになっていると指摘したいわけではなく、誰から何を見透かされていようといまいと、それが両義的な意味合いを伴っていることを理解したいわけで、正しいと思うからそんなことを主張しているように見えるのだが、その正しさが部分的な正しさであることも考慮に入れているかというと、政治や経済の分野では全体的な正しさなんて幻想に過ぎないことも考慮に入れておく必要がありそうで、それらの分野に関わって何かもっともらしいことを述べている人の意見や主張が、全ての面にわたって正しいとは思わない方が良さそうで、その人の主張や意見が正しいからその人を支持できたり、その主張や意見に説得力や魅力があるから賛同するわけではなく、もっと下世話なレベルでその人の人柄に好感が持てるとか、その人の人格が立派だとか、その人が持ち合わせていそうな世直し的な取り組みや救世的な思想が信用できるとか、その言葉巧みな言動から仕事ができる系の有能そうな資質が窺えるとか、カリスマ的なオーラが出ているとか、そんなことでもなさそうで、もっと歴史的な経緯などから導き出されるような逆らい難い何かに人々の意識がとらわれていて、それに起因する浅はかな偏見や固定観念にとらわれている人が多すぎるような傾向もあるから、それがどうしようもなく日本人の民族的な愚かさを形成しているようにも見えてしまい、そういうことを不用意に著名人などが口走ってしまうと、それ系の人たちから執拗に攻撃されるような成り行きがあって、そんな人たちに限って否定的なレッテルを貼りたくなるし、そういう方面へと凝り固まってしまう人もいくらでもいるから、ますます頑なに愚かさの低水準を保守しようとしてしまうのだろうが、果たしてその種の愚かさが保守と同義なのかというと、それもその種の偏見に凝り固まりたくなる意識の程度にもよるだろうが、そういった歴史的にも地域的に恒常的に条件づけられた愚かさが幻想に過ぎないことを受け入れるなら、もっと普通な態度でその場その時の状況や情勢に限界づけられた部分的な理屈や論理や理論の正しさを有効活用しようとする方が無難かも知れず、実際にアメリカのFRBのパウエル議長の会見やその会見を誰かが解説する動画などを見ていると、何かそういう傾向が窺い知れるような気がするわけだが、だから一刻も早く日本でも金融正常化を達成して、財務省がどうたらこうたらとかいう偏見から脱しなければならないと主張したいわけでもないのだが、他にも在日米軍から日本がアメリカの植民地だという偏見も導き出されてくるし、GHQに日本国民が洗脳されたとか、天皇制の伝統を壊されたとかいう偏見も導き出されてくるにしても、そういう知的水準で政治や経済について語っている人とは違うところで、政治や経済や行政や政治について語れることがありそうだから、それとこれとを混同しない方が良さそうにも感じられてしまうのだが、もちろんそれとこれとが直接結びついている面もありそうだから、そういった方面にリアリティを感じている人々にとっては、そちらの方が重要になってしまうのだろうが、最低限の認識として不正や違法行為をやっていたのがばれた政治勢力を支持する多数派の態度というのが、日本人が劣等民族であることの紛れもない証拠だと言いたい人もいるらしく、その一方で憲法に記されている内容をまるで金科玉条の如く守ることが屈辱のように感じられる人々も、何かのフィクションに出てくる架空の存在のように感じられるとしたら、そんなふうに皮肉を込めて述べてしまうとフィクションになってしまうだけで、実際にはそんな虚構をほとんどの人々が意識することもなく日々の日常の中で普通に生きているはずで、その種の他人の知識から構成される歴史的な経緯や事情などをことさらに問題視する機会などないわけで、それよりは世の中の社会情勢や経済情勢に応じた対処や対応の良し悪しから判断すれば済むような成り行きへと持って行きたいはずだが、どこの誰が持って行きたいと思っているわけでもなくても、どんな政治勢力がそういう意向を持っているわけでもなくても、それも面倒でややこしい偏見や感情を廃した形式的で法治主義的なことをやってほしいとどこの誰が思っていなくても、そうなる限りでねじくれた野望に精神を支配された面倒くさい人々が主導権を握るのを阻止できるような気もするわけだが、実際にはそうは行かないところが、日本人が劣等民族であることの証拠であるはずもないし、世界中でその種の人たちが活躍中な現状もあるわけだから、何やら今後もややこしくて不快な事態に絶えず遭遇し続けるような予感もするわけだ。
9月19日「自分の意志に反する動作」
巷では重要だと言われていたイベントをスルーしてしまうのは、自分の意志でそうしているわけではなく、結果的にそうなってしまうのはどういうわけなのかと理由を考えてみるのだが、わかるはずもなく、無意識が何らかの危機を切り抜けようとして、自分の意志に反したことをやっているのではないかと推測してみるが、そんなのはあり得ないと思っておけばいいことなのかも知れないし、本当に危機を回避できたかどうかが今後わかるかどうかも今のところはよくわからないにしても、わかったところで何だか拍子抜けするようなことなのかも知れず、今でも狐につままれたような不可思議な気分なのだが、理屈で考えて理解できないことを偶然の巡り合わせでたまたまそうなったと思っておけば済むようなことなのかも知れないから、とりあえず今回はうまく立ち回った方だと思うしかなく、それでも焦って藪蛇なことをやらずに済んだだけでも上出来なのかも知れないし、何か呆気にとられているうちに重要だと言われていたイベントも過ぎ去って、事前の予想に反したような結果がもたらされたからといって、それほど驚くようなことでもなく、誰にとっても何だかよくわからないような結果なのかも知れず、もちろんそれに関して何か言いたい人なら、もっともらしい理由や原因を探し出してきて、それなりに話の辻褄が合うようなことを述べるだろうが、そんなことを述べなくても済んでしまうならそれに越したことはないのだから、そういうことにしておきたければそういうことにしておけばいい程度のことであり、それで困るようなことにはならなかっただけでも運が良い方なのかも知れないから、そういうことにしておきたいわけで、後は今後の出方次第でさらにどうにかなってしまうことだと思うしかなく、実際に今回の事態を踏まえて何かしら行動した結果がどうなったところで、そのどうにかなった結果を踏まえて、またその先の事態の中で何とかしようとするのだから、延々とそんなことをやり続けるしかないと思っておけばいいとしても、何かそれではきりがないような気がしてしまい、果たしてそれでうまく立ち回っていることになるのかどうかも定かでないが、うまく立ち回る必要もないとも思えないが、そうは思えなくてもそれなりの結果が出ればそれで構わないわけだが、構うも構わないも以前と大して変わらないような結果になっても構わないのだから、そんな結果からそう思うだけで、そうはならなければそうは思わないわけだが、そういうレベルで何をどう考えてもしっくりこないなら、それとは別のレベルで考えるしかなく、成り行きとして今はまだ途中の段階であるなら、それを結果だと思ってしまってはまずいわけで、確かに途中経過の中で何らかの結果が絶えず出てくると思っていても構わないが、たとえそれなりの満足が行く結果が出たからといって、そこでおしまいではないのだから、まだそこから続けなければならないことがあって、それを今も続けている最中なのだから、途中経過の段階で一喜一憂するのも構わないが、その先があるのだから、さらに情勢次第で一喜一憂するわけで、そんなことの繰り返しの中で見失い見落としてしまうことも一つや二つではなく、いくらでも気づかないうちにそれ相応の経験を積み重ねて行くのだから、それを活用できたりできなかったりしながらも、その先のどこかでまた今とは違う何かに出くわすこともあるだろうから、その際にはそれに対応して何とかするような成り行きへと持って行こうとして、それに対応できたりできなかったりする中で、そこでも何らかの事態に至っていることになるだろうから、果たしてそれが危機的な事態なのかどうなのかも、その深刻度がどの程度なのかによっても心理状態もそれなりに違ってくるだろうから、そういうところで深刻な事態なのに情勢を楽観視しているような気分になってしまっている可能性もなきにしもあらずだが、もしかしたら今もそんな気分でいるとしたら、かなりまずい状況なのかも知れないから、何かそれに関して客観的な情勢分析のようなものを求めているのかも知れず、それを他人に頼らないで自分でやればいいことだと思うなら、自分で現状を分析してみればいいことだが、それが今ひとつ本気になれないような現状なのかも知れないし、その一方で何だか笑ってしまうようなことだと思っていて、笑っていないのに笑ってしまうような状況なのだとしたら、なぜか笑えない現状の中で無理に笑う必要もない経緯や事情を抱えているのかというと、これから起こることを見越してまだ笑う段階ではないと気を引き締めているのかも知れず、しかもこれから起こることを誰もが予想できるとしたら、たぶん予想するだけなら確かに誰もが予想できるのだろうが、誰もが安易に予想できるからこそ、予想した後からその予想を裏切るようなことが起こって大方の予想が外れるならわかりやすいのだが、そうとも言えないようなことであって、予想通りのことが起こった後からその予想を覆すようなことをやろうとするから、結果的に予想が裏切られて、ざまあみろとひねくれ者がつぶやいても、それが予想通りのつぶやきなら大したことでもないのだが、それが予想通りになるように多くの人々が行動するからそうなってしまうと、果たしてそれが予想を裏切る結果なのかどうかもよくわからないわけではなく、そうなることを予想したり、予想通りになるように行動したり言動を繰り出すと、そういうことをやっていること自体が予想を織り込み済みにしてしまう結果を招くのであり、それを織り込んでしまうとその先へと事態が進展してしまうから、その事態が進展して行った先で予想を裏切るようなことが新たに起こるわけで、それが予想に対する作用反作用の力を加えた結果となるから、確かに予想とは違った結果になってしまって、予想通りの過程を経て予想とは違った結果がもたらされるような困惑した事態となってしまうわけだから、それをどう解釈してみてもしっくりこないことは確かで、その予想とは違っている程度が許容の範囲内であったり誤差の範囲内であれば、取り立てて騒ぐようなことにもならないのだろうが、それが今回の自分にとってはそうだったと認識できるような程度なのかも知れず、無意識が自意識を操ってその程度になるように動作を調整しているような感じがしないでもないわけだ。
9月18日「分析を真に受けること」
それが何だかわからないのはいつものことだが、単純にそうなってしまうなら、それはそうなった結果からわかることだから、そうなった結果から今後を予測したり予想したり、それに伴ってわかっている事実を都合良く組み合わせて単純なことが言えるとしても、そうなった事実があるのだから、それに関してはそういうことだと言えるだろうが、またそうなったことの延長上で将来において高い確率で起こり得ることとして、予測や予想が言説的なレベルで成り立っているということであり、そういうのが予測や予想なのだから、そういうものだと思っておくしかないのだが、それ以上に何がどうなるわけでもなく、予測や予想が実際にその通りことが起こって当たればそれで構わないわけで、そういう成り行きを分析してそれを言説にしてまとめられた文章を読んでなるほどと思っておけばいいのだとしても、事実としてそれ以上のことではないのだから、そういう事実が何をもたらすのかといっても、そんな分析家の分析を信じられる限りで信頼しておけばいいことだが、それ以上のことがわかったりわからなかったりしても、結果的に何がどうなるわけでもなくても、特に不満というわけでもないわけだから、それはそういうことだと思っておけば済むはずで、なぜかそういうもっともらしい分析とは違う方面から思考が働いて、結果的に分析に逆らうようなことをやって痛い目に遭うのは自業自得だとしても、どうしても痛い目に遭った挙句でないと分析を信じられないのが愚かな成り行きで、分析を役に立てていないような結果がもたらされるわけだから、自分でも自分が馬鹿なんじゃないかと思うところもあるらしく、しかもそれで構わないと思ってしまうわけで、信頼できる分析に基づいた予測や予想を無視して痛い目に遭ってしまうのだから、分析を役に立てていないことになるはずだが、それでも構わないということが、いったいどういうことなのかがよくわからないのだが、分析家の言うことを聞かずにわざと痛い目に遭ったという結果に至りたいわけではないはずだが、結果的にそうなってしまってなるほどと思ってしまうわけだから、逆説的に分析を信頼していることになるのかも知れず、しかも痛い目に遭ったのに懲りていないらしく、たぶん何度痛い目に遭っても懲りないだろうと思いたいわけで、本当にそうなるかどうかは疑わしいし、痛い目に遭わないとわからないこともあるらしいから、それもその種の分析に対する抗体や免疫をつけるためにそうやっていると考えられなくもないが、本当にそんなことを意識しているわけでもなく、分析を盲信しないための訓練を自らに施しているとも考えられなくもないが、それももっともらしくそう考えるとそうではないような気もしてくるわけだから、うまく言い表せないこととしてそう思っていることでしかなく、逆にそうとも言い切れないような心理状態を保ちたいことの表れなのかも知れないが、それもそうとは言い切れない状態というのが絶えず矛盾したことを同時並行的に考えているような気もするから、油断は禁物だと思っておけばいいことだとしても、ある程度は失敗したことにしておきたいというと嘘になってしまいそうで、成功したいのは誰もがそう思うわけだから、失敗した状態を放置しておくというのも、放置することしかできないのだが、その一方で放置せずに事態を改善させようとする過程で、正しい結果ばかり恣意的に選んで自らが述べていることを正当化するような分析家の主張を信じられるはずもないことが明らかになるかというと、それとこれとはちょっと違うのではないかと疑いながらも、自然と予測や予想を外れた結果にも目が行くようになれば、少しは慣れてきたことの証拠だと思いたいが、何に慣れてきたのかというと失敗することに慣れてきたと思われると共に、失敗を失敗には終わらせないような結果に持って行きたいわけだが、それが失敗から成功を導き出すような結果を目指すとしても、結果的にはそうならなくても構わないわけで、では失敗したままでも構わないかというと、失敗の程度にもよるが、それはどういうことなのかと疑わしく思われる一方で、苦もなく単純に成功してしまうと、それが慢心から破滅につながるような杞憂をもたらすわけでもないだろうが、思いがけず成功してしまうというもある意味で怖いわけで、運が良かったと思っておいても構わないが、自力で何とかなったような達成感が思い上がりを生むのもわかりきったことだが、それでも構わないというか、何かをやってもたらされた結果に一喜一憂しているうちに、それを肯定できるような心理状態へと移行できるかというと、それが否定神学へと導かれない限りでうまく行っていると思うわけでもないだろうが、ああでもないこうでもないと思っていれば、ではどうなればいいのかと問う気にもなれないところで、もっともらしい否定的な理由をつけて外野席からあいつにやらせたら駄目だと大声で言い放つような意見や主張を信じられるかというと、信じても構わないのだが、信じているのに動作や行動を伴うと真逆な結果がもたらされてしまう場合があるわけだから、そういう奴らはあいつにやらせたら駄目だと言いながら、そのあいつを応援するような結果をもたらそうとしているわけでもないのに、なぜか結果的に否定しているあいつをアシストするようなことをやってしまって、そういう奴らは信用できないと思いたいのだが、それがすでに勝負がついている時点で言い放っているとそうなった後から解釈してみても、何か腑に落ちないような結果なのかも知れないし、これ見よがしな奴らの言っていることを信用しようと疑わしいと思っていようと、結果的にそんな奴らが言い放ったことが真逆の結果をもたらしたら、信用できないと思うしかないわけだが、そう思った時にはすでに手遅れなのだから、何かこれ見よがしなことを言い放った時点で、それが負け犬の遠吠えだと思っておいても構わないのだろうが、そんな負け犬の遠吠えばかり言い放っている奴らをおもしろがって取り上げるメディアというのも、それを敗戦処理メディアだと解釈しても構わないが、そんな奴らの分析にも一定の真理が含まれていると思うなら、そんな主張や意見にも耳を傾ける価値がありそうで、それが反面教師としての価値なのかどうかもよくわからないが、結果的に正しいことしか言おうとしない人が典型的な負け犬なのかというと、負け犬が確定してしまうとそういう傾向になってしまうと言えないこともないが、少なくとも負け犬が自己正当化しているような意見や主張となれば、正しいことのオンパレードになってしまいがちで、その内容がいかに正しくても、それを活用して何をどうする気にもなれないし、逆によくありがちな成功者の失敗談というのが浅はかな大衆には魅力的な内容だと思われるわけだが、どちらにしても何か違うような気がしてしまうわけだ。
9月17日「制度的な機能と効果」
なぜか自分が自分の意思や意志に逆らって行動していたり、思いがけないきっかけから思いもよらない言動に及んでしまうと、まるで自分ではないかのような他の何かに操られているように思われて、それに気づくと自分でも驚いて、それによって何か別の何かに生まれ変わったような気になるかどうかは定かでないにしても、そこから大変な事態に至ってしまうかどうかも、その場の成り行き次第だと言えるかどうかもよくわからないが、そんなことが滅多に起こるとも思えないし、それが別に頭がおかしくなったり気が狂ってしまったとも思えないようなら、自分ではどうしようもなくおかしな動作にとらわれていることは確かだとしても、それを特におかしいとも思えないなら、そうなっていることに気づいていないのかも知れないから、それがその場の成り行きに沿った自然な動作だと思えばいいのかも定かではないが、そう思う心理的な余裕などなく、心が動揺してそれを必死になって抑え込もうとしているような感じになっている限りで、冷静ではいられないことは明らかで、そうなると心を落ち着かせて理性を働かせる余裕もないかも知れないが、否応なくそうなってしまうのだから、それでも構わないとしたら何なのかというと、そういう過程を経ないと自身が取り組んでいることがうまく行かない事態に直面しているとも思えないが、必ずしもそれがうまく行かなくても構わないような事態だとしたら、何か自らがとらわれている状況を軽く見て舐めてかかるような場合でもないのだろうが、舐めてかかっているわけでもないのに他からそう見えてしまうと、馬鹿にされているように感じられて不愉快な気分になってしまうかも知れないが、誰がそんな不愉快な気分になっているのかといえば、それが演技だとも思えない限りで、それと自覚することなく見せかけのパフォーマンスを演じているのを誰かが見ているとも思えないが、知らないうちに他人の視線が自分に向いているのを意識しているとしたら、それが自分の勝手な思い込みだと思っておいても構わないが、そう思い込むことによって自らが陥っている危機的な事態を乗り切ることができればしめたものだが、そんな都合良くも事が運ぶわけでもなく、そうなっている時点ですでに誰かが破滅しかかっているのであり、あともう一押しで崖から墜落する運命なら、さっさと突き落としておしまいにしたいのかも知れないが、そこからまるでスローモーションのようになって一向に事態が進まず、焦ったくなるほどのゆっくりとした時間経過の中で、このまま進んで行ってしまうとヤバいのに、なぜか進まざるを得ないような成り行きから逃れられないとしたら、それが何らかの制度にとらわれていると見るなら、そんな制度を維持管理している機構か何かによって、そういう成り行きになるように仕組まれているはずだが、それが特定の人物や団体の意思や意志や意向などに基づいて仕組まれているわけではなく、財務省やGHQなどのこれ見よがしな組織を持ち出して責任転嫁するわけにも行かないようなら何なのかというと、フリーメイソンでもイルミナティーでもないだろうし、在日米軍や日米合同委員会でもないはずで、ただ単に日本政府やアメリカ政府の意向でそうなっていると見なしたところで何が言えるわけでもなく、誰の思い通りにも何の意向通りにもならないとしたら、偶然にそうなっているのかといえば、たぶんそう思っておいた方が無難なのかも知れず、あまり事態を複雑に捉えてみても、それを理解できるだけの頭脳を持ち合わせていなければ、いくら物事を難しく考えてみたところで、納得の行く結論など導き出せるわけでもなく、その代わりに陰から世界情勢を操っている黒幕的な存在などを妄想するに至ることしかできないなら、ありふれた陰謀論で間に合ってしまうことにしかならないわけだから、少しは謙虚な気持ちになって地に足をつけて現実的で合理的な説明を目指すしかなく、それだけつまらない結論になってしまうはずだが、冷静に考えてそこに誰の意図や思惑が絡んでこようと、それが制度的な仕組みの中で事態が進行中なのだから、そこで行われている討論やプレゼンテーションの内容に興味がなければ、無視しても構わないが、例えば米不足が財務省の陰謀だろうと、政府による農政が思わしくなくても、ここぞとばかりにそれを騒ぎ立てるのもメディアが管理運営する制度的な機能と効果からそんな反応がもたらされるわけで、やれ政府の減反政策が悪いのだと怒り心頭に達しようと、それも一時的な現象にとどまるなら、価格高騰が沈静化すれば、どうせ世論調査の支持率が上向くのだろうから、それでおしまいとなったら元の木阿弥になってしまい、立憲民主党がいくら今こそ農業者戸別所得補償制度の実現が必要だと訴えかけようと、メディアから無視を決め込まれてしまえば何でもないことになってしまうだろうから、もちろんそんな制度が実現したところでうまく行く保証もないわけだが、それも野党は批判ばかりで何の提案もしないという従来からある紋切り型の攻撃によって打ち消されてしまうのかも知れないが、いくら政策の提言をプレゼンテーションや討論の場で行なっても、それに対して聞く耳を持たない人が世の中の大半を占めている現状をどうすることもできないなら、米不足が大した事態にも至らず、そういう現状の中で物事がそれなりにうまく回っていることになってしまうのだろうが、少なくとも一時的には米不足が実現したのだから、供給が滞ってしまったことに関してはうまく回らなかったことになるわけだが、そこから世論調査の面で政府が打撃を受けるわけでもなく、政権交代の機運が盛り上がるわけでもなければ、それだけではその程度の事態として片づけられてしまい、そうであればそういう面では大した事態にも至っていないはずだが、また地震による被災からだいぶ月日が経っている地方で、政府や地方自治体による復旧作業が未だに遅々として進まないのに、いくら文句を言っても放っておかれている状況となっていれば、結局そこでも大した事態でもないことになってしまうから、そこで制度的な機能と効果に関して何が言えるかというと、意図として放置されているような印象を抱かせるように仕向けられていると被害妄想に陥っても構わないということであり、そういう印象操作をメディアが仕掛けているわけではなく、事実としてそれを報道している限りで、それが制度的な機能と効果をもたらしているわけだが、それによって政府が打撃を受けるわけでもなく、政権交代の機運が盛り上がるわけでもなければ、それとは別の方面の制度的な機能と効果が弱まっていることになり、そこに様々な制度的な機能と効果が働いている中で、それらを効果的に機能させるには何かそれなりに工夫を凝らす必要があるとしても、今のところは工夫を凝らそうとしている方面でそれがうまく行っていない可能性が高いわけだ。
9月16日「現代という時代」
この時代が何でもないような時代だと現代を見下したくなるのは、素直に現代を肯定できないから、現代を語るとなると安易にそう述べたくなってしまい、そんなふうに述べてしまうことが現代の現状を捉え損ねていると言うなら、その通りには違いなく、もっと何か現代について肯定的に語りたいと思うわけでもないが、その肯定したくなる傾向というのが、それも捉えようによっては否定的な傾向の範疇に入ることかも知れないから、何かそれが面倒な事態のようにも思われるわけだが、それが日本のローカルな方面で拒否反応を起こしやすい言葉として、グローバル化という言葉を使いたくなるわけだが、経済のグローバル化を政治によって押しとどめようとする傾向も、何か無駄で余計な悪あがきのような感じもしてしまいそうだが、それに関して正規雇用労働者の解雇規制緩和なんて、大真面目に言い出そうものなら、待ってましたとばかりに労働者の味方側に立って大反対する識者が続出することが目に見えているのに、不用意に言及してしまう小泉進次郎が馬鹿なのではなく、進次郎だからこそそんなことを口走って非難の集中砲火を浴びてしまうキャラクターとして許されてしまうわけでもないのだろうが、駆け引きとしてはそんなのもありな感じがするわけで、何か見え透いているような気もしないではないが、経済のグローバル化を目指す側としては何事も欧米並みにしたいだろうから、やる気満々で進次郎に言わせていると受け取りたくなってしまい、今後それがどうなるかはわからないにしても、どうもそれを批判したり非難したりする識者の類いに同調するのも予定調和な感じがしないでもないから、どうしてもちょっとそれとは違うことを述べたくなってしまうわけで、それをメディアの罠だと警鐘を鳴らして、勝手に妄想を膨らませるのも勘違いにも程があるが、馬鹿正直に解雇規制緩和に反対する意見を述べてしまうとどうなるのかといっても、実際に馬鹿正直に述べている人なんていくらでもいるだろうから、そんな人たちを見習うかどうかというと、見習うはずもないのはわかりきっていることも含めて、これといってはっきりした態度表明をする気にはなれないし、それが労働者を守るという制度的な趣旨なのだから、正義の味方としてはそんな趣旨を尊重する姿勢を示すのが当たり前の対応になるだろうが、では正義の味方でなければそんな態度表明などしなくても構わないのかというと、それも一概には言えないことかも知れず、それを制度的にどうするかが政治や行政の方面で問われているのは百も承知だと思いたいのだが、政治そのものを信用していないのも昔からそうなのだから、馬鹿正直に政治問題化されてしまうことを真に受けるわけにはいかず、問題提起など無視しても構わないと思うなら、ではそれをどう捉えれば気が済むわけでもないが、単に経済をグローバル化したいなら政治もグローバル化したいわけで、そうなると日本特有の進次郎のような世襲政治家なども排除したくなって、欧米並みに解雇規制を緩和するなら、同じように欧米並みに世襲政治家も少なくしたいと思われてしまうわけだが、自分たちに都合の良いところだけを改革したいと思うのも功利的には妥当なやり方かも知れないが、それも単純に倫理的な面から批判にさらされるようなことだとしても、では倫理的な面がどういうことなのかがうまく説明できるかというと、自信がないというと嘘になってしまうが、そういうことを単純に主張してはまずいような気もするから、なぜかそこから論点を逸らすような対処を意識せざるを得ず、功利的なやり方を否定したり批判したりしてはまずいような気もしてきて、世襲政治家が自分たちに都合が良い部分だけつまみ食いのようにして問題提起するのもありなんじゃないかと思ってみたりもするわけだが、たぶんそんな主張をしているうちにどういうわけか回り回って自分たちの首を絞めるような結果がもたらされて、それが彼らには思いもよらなかったことになるにしても、始めから仕組まれていたこととして、そうなった結果から推測できるようなことになってしまい、功利的かつ戦略的に動いた奴が結果的に自滅へと追い込まれるような成り行きが、制度的な社会システムの構築から帰結する結果に思われるわけで、それが産業革命以降の世界情勢で見受けられる典型的な傾向だと言いたいわけでもないが、それでも政治的にも行政的にも制度的に社会のシステムの構築が絶え間なく行われて、世の中の状況や情勢の変化に合わせて絶えず改善や改良が施されなければならず、そんな成り行きの中で政治活動も行政活動も成り立っているのだから、それが世襲政治家だろうと何だろうとやってもらうしかないだろうし、そんな奴らが自滅に追い込まれたところで何の心配もいらないと言えば、それもそうなってもらった方がかえって手間が省ける程度のことなのだが、それにも増して重要なのは、その種のグローバル化には強烈に反対する連中の存在も必要不可欠となってしまうから、良心的な人々が労働者の味方になって反対してもらわないと成し遂げられないようなことでもあり、そうなる経緯を振り返るなら、反対する人々が犠牲者の役割を引き受けることになるのもわかりきっているのに、どういうわけか貧乏くじを引きながらも良心的な人々が反対の声を上げて理不尽な仕打ちを受けることになるわけで、そういうことを強引に推進する側もそれに対して強烈に反対する側もどちらもひどい目に遭うのだが、それをひどい目に遭ったと当事者たちが実感できるかというと、実際にひどい目に遭った人々が死んでしまうから死人に口なしとなるかどうかも定かでないが、死んでしまった人々の代弁者が大した被害も被っていないのにことさらに改悪のひどさを訴えたところで、他の人々がそれを真に受けるかというと、それも愚かで浅はかな人なら真に受けそうなものだが、真に受けてほしいのはそんな人ではないとしたら、ではどんな人が真に受けてほしいのかと言えば、それもそんな人など世界のどこにもいないような理想主義の人々を想定したいのかというと、何かそれもない物ねだりのような様相を呈してしまって、フィクションの中で架空の登場人物が作者の都合に合わせてそんなことを主張しているようなことにもなりかねないが、そんなわけで一度グローバル化の傾向に沿うようなことを推進し出すと、推進している側もそれに反対する側もひどい目に遭うことは確実なのかも知れないが、世界的な傾向としてそうならざるを得ないような成り行きに巻き込まれているわけだから、そんな傾向からは誰も逃れられず、とりあえず馬鹿で愚かな奴でなくても功利的かつ戦略的な振る舞いを装って、そんな傾向の成り行きの中でうまく立ち回ろうとしているうちに、気づかないうちにそんな傾向に馴染んでしまって、結果的には骨折り損のくたびれもうけのような惨状を伴いながら右往左往するだけのような気もするわけだが、それでも生き残った者たちが何かしらの結果を享受できるようなことになるなら、そこから救いようのない悲惨な結果とは違う何かが生じてきたと思うしかないのではないか。
9月15日「誰も認めたがらない現状」
相変わらず回りくどいことを考えている現状から抜け出せないなら、このままではまずいから何か工夫を凝らそうとするのではなく、このままではまずいと思うこと自体も、現状の延長上でそう思っていることでもあるから、そう思わないと現状を変えられないと思って焦っているに過ぎず、このままではまずいと思ってしまうこと自体も間違いでしかないとしたら何なのかというと、ではこのままでも構わないと思うしかないのかというと、現状を肯定するしかないと思うなら、それの何が間違っているわけでもなく、現状を肯定すること自体が現状を変える原動力になると思いたいわけで、それが何も逆説的にそう思うのではなく、なぜか結果的にそうなるわけで、そんなのは嘘に決まっていると思いたいだろうが、そうなった結果からこれまでの状況が変わったと思いたいわけで、それをそう思いたいということが、果たして現状が変わったと実感しているからそう思うのかというと、それがたぶん現状の延長上でそう思いたいのだから、何も現状が変わっていないことを認めながらも、現状の延長上で現状を変えたいというご都合主義的な願望の表れなのかも知れず、こう述べると何か述べていることの辻褄が合っていないような感覚にとらわれるが、それもなぜかごちゃごちゃと回りくどく述べていることの延長上で、現状を変えるための方策を模索しているような気もするわけで、それが現状を肯定できないから変わらないのではなく、ただ単に現状を変えようとするから変わらないとも思えないし、変えようとしても変わらないのが現状だとすれば、変えようとする方向とは違う方向へと変わってしまうのも現状であるから、結果的に現状を変えようとする意志とは違う方向へと変わって行ってしまうという意味で、結果的には現状が変わるわけで、そういう回りくどい変化では気に入らないから、思い通りに現状を変えたいという思い上がった意志も強まるわけだが、誰もそれが思い上がりだとも傲慢だとも思わないだろうから、結果的に現状を変える難しさに直面するとしても、現状が思いとは違った方向へと変わってしまうのを誰も認めたがらないのも頷けるが、そんな誰も認めたがらない成り行きこそが現状の変化そのものであり、今まさに誰の思惑から外れるようにして現状が変わって行くとすれば、それで構わないと思うしかないとも誰も思わないだろうが、そんな現状を肯定するしかないとも思えないにしても、ではそんな現状の変化に逆らって何を考えているのかというと、現状が破綻するまで現状の延長上で現状を推し進める必要があるかと現状で問われているわけではなく、そんなことは誰も問わなくても否応なくそうなってしまうと予想したいわけで、しかもそんな予想が裏切られることも同時に予想したいのだから、どちらか一方になるわけではなく、どちらの予想も満たすような現状の変化を予想したいと思うこと自体も間違っているような気もするわけだが、なぜどちらか一方になると予想したいのかというと、予想が矛盾せずに話の辻褄が合うようなことを予想したいからで、それが間違っていると言われても、そうなると予想自体が成り立たなくなってしまうから、できればそんな両儀的で意味のない予想は回避したいのだろうが、予想が当たることと外れることが同時に起こると何か不都合が生じるのかといっても、何も相反するそれらが同時に起こらなくても構わないし、それなりに時間的なずれを伴うにしても、相反することが起こったところでそれがおかしいとも思えないとしたら、現状の延長上でそれが起こっているように感じられるから取り立てておかしくはないはずだが、そんな現状で起こっていることの何もかもを批判するように強いられている人々からすれば、それがおもしろくないのは言うまでもなく、決してそれらの人々の思い通りには行かないからおもしろくないのだろうが、実際にそれらの人々の思い通りに行かない現状の中で活動せざるを得ないのだから、その活動が成り立っている限りで思い通りに行かない現状を肯定するしかないのかも知れず、もちろんそんな現状を批判する活動に特化している人々にしてみれば、現状を批判する活動を肯定せざるを得ない現状の中で活動しているわけで、それが回りくどくもこんがらがっている現状に対する態度や姿勢になるとしても、それ自体が彼らの思い通りに行っていない現状そのものでもあるから、それを彼らが肯定せざるを得ない現状を批判する活動だと見なすなら、それなりに自分たちの活動の辻褄が合っているようにも思われるはずだが、どうもそれが辻褄を合わせるように活動しようとするから間違ってしまうのかも知れず、その辺が彼らには理解し難いところだろうが、活動の中で言っていることと行なっていることの辻褄が合うかというと、そうはさせないように現状が推移しているように思われるのだから、なぜそうなってしまうのか理解し難いのだが、物事の成り行きが誰の思惑からも外れて行ってしまうからそうなるのではなく、物事の成り行きに言っている内容と行なっている内容を合わせようとするから、その合わせようとする意図や思惑を裏切るようにして物事の成り行きが推移してしまうのであり、それが思い通りに行かない原因なのかも知れず、こう述べても誰も納得できないだろうが、なぜかこう述べざるを得ないというか、こう述べることでしか説明できないというと、もっと他に誰もが納得できる説明がありそうにも思われるが、そのありそうにも思われる説明というのが、説明している時点ですでに物事の成り行きに合わせようとする説明になっているから、その時点では成り行きに合っているから納得できるのであり、そこから成り行きに合わせようとする意図や思惑が裏切られてしまうと途端に納得できなくなってしまうだろうし、要するに物事の成り行きに合わせて説明も変えて行かなければならず、いつまでも同じ説明にしがみついていると、説明自体が物事の成り行きの変化について行けずに、置いて行かれてしまうわけで、だからそこで何が間違っているのかといえば、いつまでも同じ説明の延長上で説明を継続させようとするから説明を間違ってしまうと言えるわけだが、果たして物事の変化に合わせて説明を変えて行くような芸当が可能かというと、どうしても説明に一貫性を持たせようとすれば、そんなのは無理であって、説明しているうちにその説明自体を否定したり裏切るような説明になってしまえば、話の辻褄が合わなくなっているように思われるし、そんな矛盾した説明には説得力が生じないわけだ。
9月14日「逆説的な真実」
著名人だからと言って、何を言っても許されるわけでもなく、メディア的な意味で公人となれば、おかしなことを言えばそれを話題にされて、それに対する反応として、それなりに批判されたり疑念を持たれたりするのだろうが、それが揚げ足取りのレベルでも曲解される範疇でも難癖をつけられて因縁をつけられがちにもなってしまうのかも知れないが、あからさまにウケ狙いで何か適当でいい加減な妄言や暴言を言い放っているとも思えないが、何か言っていることの底が浅いと見られたらおしまいとはならないまでも、その程度の人なんだなと蔑まれるような事態になったらまずいのだろうが、それでも浅はかな一般大衆を大勢フォロワーにつけて、もっともらしい理屈や論理や理論で武装して知識人ふうの意見を述べれば賢い人の部類に入れられて、それなりに世間に影響を及ぼしているつもりにもなれるのかも知れないが、それがその人だけではなく、似たような傾向の別の著名人も同じようなことを述べているなら、そんな言動が世の中でまかり通るような状況になっているのかと認識しておけばいいのかも知れず、それが特にがっかりするような内容でもなく、良識的な範囲内で当たり障りのない内容であるなら、そんな意見や主張がまかり通ってもどうということはなく、何の影響もないと感じられるが、何か気に障るようなことをここぞとばかりに言い出すと、意地悪な方面で人気者になりたいんだなと間違った意味で穿った見方をしておけば良いのか悪いのかよくわからないが、ちょっと斜に構えてひねくれた賛同者を得たいがためにわざとそんなことを口走るのかと見てしまうが、たとえ自らが悪者に見られても伝えたいことがあるような成り行きになってしまうと、それが勘違いな思惑だとしても何か逆説的に言いたいことがあって、それを伝えるには自身が世間から嫌われるような不利な立場になってしまっても構わないようなことなのかも知れないから、その人の真の意図を注意深く探らなければならなくなるとしたら、果たしてそんなことを述べているのかどうか、それも自らの勝手な思い込みに違いないのだが、それも意図せず自覚しないでそんなことを述べているようなら、そういうことを言わせる何かが世の中の空気や雰囲気として蔓延しているほどのことでもなくても、想像されるその人の架空の意図を汲んで、うまい具合になるように解釈したくなってくるのだが、そういうことをここ数年で考えさせるのが、山本太郎の空回り的な言動なのかも知れず、もちろん彼の支持者や賛同者は空回りだなんて全く思っていないだろうし、それとは真逆の良い効果を世間に及ぼしていることを頑なに信じて疑わないはずだが、そんな山本太郎と完全に敵対しているわけでもないだろうが、枝野幸男がひたすら正しいことを述べようとしているのが気に入らない人も大勢いるのかも知れず、それに関して自分が枝野のような意見や主張を述べられるかというと、全く述べられないし、むしろ自分でも間違っていると思われる意見や主張になってしまいそうで、この時代にこんな世の中の状況の中で正しいことを述べられる枝野がおかしいのではないかと疑念を抱かざるを得なくなるわけで、逆に小泉進次郎が明らかに間違ったことを述べても多くの一般市民から支持や賛同を得られるような状況の方がごく当たり前のように感じられるのだから、進次郎よりは数百倍も正しいことを主張できる枝野が世間から反感を買っているのも当然だと思われて、何かそういう逆説的な世の中の風潮というのが人々が狂気に囚われている証拠だと言い放ちたくなるわけでもなく、自分もどちらかといえば進次郎や安倍晋三に近い愚かな人間なのかも知れず、どう考えても理性的には間違っている新自由主義的な価値観に染まっているわけで、しかも進次郎や安倍晋三に近いのに総選挙になったられいわに入れようか立民や共産の候補者に入れようか迷っているのだから、全く矛盾しているような気がするわけだが、何が矛盾しているのか定かでないのに矛盾しているような気がするのもおかしいのだが、素直に批判することができないわけで、では嘘をついているのかというと、人としての質が進次郎や安倍晋三に近いと見え透いた嘘をついていることも確かなのだが、完全に嘘だとも言い切れないような気もするし、日本人なら誰でも進次郎や安倍晋三的なメンタリティを共有している面があるのではないかと想像したくなってしまうのだが、そう思うと進次郎や安倍晋三を嘲笑したり罵倒するような言動には少なからず反感を覚えるし、だからその種の批判派が世間的な支持や賛同を得られていないのではないかと勘違い的に思ってしまうのだが、その程度の軽い気持ちで政治情勢に接しているのだから、かなり甘っちょろい人間には違いなく、実際に自民党政治と呼ばれる簡単に否定される政治活動によって不利な立場に追い込まれている人々が抱く憤りや怒りをわかっていないことになるわけだが、そんなふうに感じるひどい境遇というのが自分も含めてある程度は誰もがそうなのかも知れないし、進次郎の置かれた立場というのも誰もあんなふうにはなりたくない程度の感じで、あんな感じの人物など世の中にはいくらでもいるだろうと思われるのとは対照的に、枝野幸男のような優秀な人材は滅多に出てこない逸材だとその言動から思い込まされてしまうから、それでも進次郎の方が立場上は圧倒的に有利なのが理不尽に思われても当然なのが、なぜかそれで構わないようにも思われてしまうわけだから、それが理性的に考えるとおかしいはずなのだが、どうしてもそうは思わないわけで、このまま進次郎が自民党の総裁になって日本の総理大臣になってしまった方が自然な成り行きのように感じられてしまうから、そんな感じで日本の現状の中では誰も政権交代などあり得ないと思い込んでいるらしいことが、それも理性的に考えるとかなりおかしいはずなのだが、さらには優秀そうに感じられる枝野が野党第一党の代表にすらなれないとなれば、さらにおかしな事態になってしまうかというと、別にそれもそうは思わないし、野田あたりが立憲民主党の代表になって良心的な市民の多くが落胆するとしても、なぜかそうなるのも自然な成り行きのように思われてしまうわけだから、自分も含めて未来のどこかの時代から誰もこの時代を振り返ることもないようなどうでもいいような時代なのだとしても、この時代の雰囲気の中で生きている人々が感じている当たり前の常識が他の時代では通用しないことにも誰も気づかないだろうが、それでもこの時代の日本の中で生きている人々の頭や心がおかしいわけでもなく、気が狂っているわけでもないところが、何か理不尽な現状をもたらしていることになるのかも知れない。
9月13日「利いたふうな口をきく」
何か間違っているような気がするのは、これといって批判する気もないのに、その場の成り行きに流されて自然と言及してしまう対象があると、時にはそれが批判しているような感じになってしまい、何かそれに関する的外れな見解を述べているような気がすると後悔して、できればもっとマシなことを語りたかったのに、否応なくそんな言説の内容になってしまうから、なぜそうなるのか自分でもよくわからないのだが、本当にその気もないのにそんなことを述べてしまうのだとしたら、そう述べるように仕向けられてしまうとしか思えないが、何によって誘導されているのかと言えば、世界情勢や日本の情勢を伝えるメディアがそう仕向けているのかというと、たぶんメディア自体にそんな意図や思惑などなくても、メディアを通じて何かを伝えている人にはその種の意思や意志や意図や思惑などがありそうに思われるのだが、それもその人が意識せず自覚せずにそうなっていると、本人が思ってもいないことを伝えている可能性まであるから、その人のせいにできるわけでもないとしたら、その人も否応なくそんなことを伝えるように仕向けられていて、それが笑顔を絶やさないニヤけた面構えの老人が余裕綽々の態度で利いたふうな口をきくなと言わんばかりに中身のない説教を垂れているような場面を想像してしまうのだが、そうなってしまってはまずいのだろうが、まずいとわかっていても、わかっているのにその理由がわかっていないような気がしてしまうから、わかっているのにそれをうまく説明できないようなもどかしさを覚えるのだが、立場上そうならないと自然な感じがしない態度や姿勢があるらしく、そういう態度や姿勢になればその場にフィットしているように感じられるから、その場の空気や雰囲気に流されてしまうと否応なくそうなってしまい、そうなってしまう成り行きの中で何となく思い浮かぶ体制が、それを共産主義と言ってしまうと抵抗感を覚える人が多いから妥協的な表現として社会主義という言葉を使いたいのだが、それに関わっている人々がそれと意識せずに主張している傾向を分析してみれば、それも分析と言うと大げさに聞こえてしまって、そんなものではないと言いたくなってしまうと同時に、実際にそんなものではないと言うと嘘になってしまうような気がするのだが、そんなわけで現状の世界情勢や日本の情勢の中でできるだけ良心的なことを主張してしまうと、否応なくそれが政治的な主張や意見になってくる限りで、どう見てもそれが社会主義的な主張や意見になってしまう一方で、そんな主張や意見に反して経済の実態が否応なく新自由主義的な傾向を示しているから、そこで生じているギャップを利用して何か主張できるような気がしてしまうのだが、それがどうも勘違いをもたらしていて、ギャップを埋めるようなことを政治の側でやってしまうと、それが新自由主義的な傾向にならざるを得なくなるから、政治に関して良心的なことを主張したい人々からもっともらしくも抵抗感を伴うような批判や非難に直面するわけで、その辺でうまく批判や非難に直面しないようにするには、結局は社会主義的な生活保障のような制度を作らざるを得なくなるから、保守派からそれを左翼やリベラル的な傾向だと攻撃されるわけだが、否応なくそうなってしまう成り行きを理解しなければならないというと、どちらか一方の主張や意見が正しいわけではないことを理解しなければならないということになりそうなのだが、だから比喩的にはアクセルとブレーキを同時に踏み込むような矛盾したことをやらざるを得ないことも理解しなければならないのだろうが、言語表現としてはそうであってもそれを支持したりそれに賛同できるかというと、主張や意見のもっともらしさにこだわるならそんなわけには行かないだろうし、どちらか一方の側につく方が納得できるとしても、そういう意味では世論や民意が割れている状態が望ましいのかも知れず、実際にそうなっている国々でそれなりに政治も経済も安定していると言えそうだが、それが結果的にそうなっているだけに、それに関して何か政治的に工夫できる余地があるとすれば、余地があろうとなかろうと、自然にそうなってしまうとしか言えないようなことかも知れず、それがこうすればうまく行くようなことでもないから、その辺でも政治的な主張にも提言にも限界がありそうで、すでに言われているようなことの繰り返しになってしまうわけだが、そこで批判されていることを無視してどちらか一方に振り切れたことを主張すれば、どちらか一方からの支持や賛同を得られるにしても、果たしてそれをそんな主張をそのまま実行できるかとなると、主張通りのことを実行してしまうと、もう一方からの苛烈な批判や非難に直面してしまうから、政策の実行段階で必ずブレーキがかかってしまうような事態にも否応なく直面してしまうから、結局それで構わないようなことかも知れないし、そうなると政策の実行力が問われているわけではなく、調整力が問われることにもなりそうで、何か相矛盾したことを調整しながらやる必要が出てくるのだが、それが矛盾していることを悟られないようにすることも重要となってくるかも知れないが、大抵はそんなわけには行かないだろうから、見え透いた嘘をつかなければならなくなって、そうなった際には政策の実行者の良心も問われてくるかも知れず、問われたところでどうしようもなく、結果的にごり押し的な成り行きになってしまえば、そこでも苛烈な批判や非難に直面しながら政策を断行することになってしまいそうだが、それが例えば現状の日本で行われているマイナンバーカードの推進や防衛費の増額や原発政策の継続などになってくると、それも何か違うような気がしてしまうわけで、もっと左翼的でリベラル的で社会主義的なことをやろうとして、保守派から苛烈な批判や非難にさらされながらも政策を断行するような状況へと持って行かないと、政治と経済との間でバランスがとれないような気がするのだが、そうなって初めて、このままでは日本が滅んでしまうという危機感にも結びついて、実際に滅んでしまった方が日本のためにはなりそうな予感もするわけで、そういう意味では現状で成り立っている日本を滅ぼさないと真っ当な状況には至れないし、しかもそうなってしまうと経済の面ではかなりまずいことにもなりそうだが、もちろんそうはならないようにメディアを使って世論誘導が行われているわけで、そこでも何かそうしたことの是非を巡って予定調和の対立が装われているような気もするのだが、それが予定調和だと思われている限りで現状の日本が成り立っていることになるのではないか。
9月12日「新自由主義的な錯覚」
どうも新自由主義については自分でもわかっていないことがあるのは確からしいのだが、その中でも確実に言えるのが、批判系の識者がこれ見よがしに批判する新自由主義に関する偏見というか、それが真実だと思い込んでいる紋切り型の認識なのかも知れないが、短期的な利害関心に基づいて行動するのが駄目だということではなく、合法的な活動の範囲内ならそれでも構わないはずだが、では長期的に利益を求めるなら良いのかといっても、それが功利的な価値観に基づいた行動なら短期でも長期でも新自由主義的な活動の範囲内だろうから、そういうところから良し悪しが言えるわけではなく、そもそも利益を求めない経済活動などあり得ないと思っている限りで、それが新自由主義的な経済活動になってしまうというと単純化し過ぎているだろうが、では新自由主義的でない経済活動があるかというと、彼らが何かこれ見よがしに批判できる経済活動であるなら、それを新自由主義だと決めつけて批判していれば済んでしまうようなことであり、昔はその真逆な活動として社会主義だとか共産主義だとか言って否定しておけば済んでいたことが、今やそれらの主義の真逆な主義として否定する主義が新自由主義となっているわけで、どうもそれらの主義の実態が定かでないような気がするのだが、それが保守主義にも言えることかも知れず、そこでも否定の対象として保守主義や保守派と決めつけて否定できる何かがあるわけで、それを流行現象だと見なすなら、昔の流行が社会主義や共産主義を否定するのが流行していて、今や新自由主義や保守主義を否定するのが流行していると捉えておけば済むことだとしても、肝心の主義の内容がよくわからなくても構わないようなことなのかも知れず、イメージとして何となくそういうレッテルを貼っておけば否定したり批判できるようなことだとしたら、たとえその説明がもっともらしく感じられなくても、実際に否定的な結果がもたらされていることが明らかであるなら、例えば貧困や貧富の格差をもたらしたのが新自由主義的な経済活動だと言っておけばもっともらしく思われて、逆に昔は経済活動の停滞をもたらしたのが社会主義や共産主義的な政治体制だと言っておけばもっともらしく思われるようなことであり、また偽りの伝統を重んじる保守主義が男女格差や差別の助長や選択的夫婦別姓制度の阻止をもたらしているとも言えるだろうから、そういう面を強調するとそう思われるようなことであるとしても、言っている内容が矛盾しないようにしているだけで、それをそのまま真に受けてはまずいわけだが、本当のことを言うなら説得力のない矛盾したことを言わないとならないとも思えないが、それを批判したいなら批判するに当たって都合の良いところだけを重点的に言わないと言っている内容に説得力が生じてこないから、そういうものだと割り切ってその種の批判を受け止めておけば良い程度のことに過ぎないわけで、要するにその種の識者の論法が〇〇主義だから悪いと解釈できるようなら、その悪い傾向を〇〇主義に責任転嫁していることになり、それに関してわかりやすい事例を挙げるなら、積極財政派が諸悪の根源だと攻撃の対象としているのが政権与党ではなく財務省を挙げているのもわかりやすい責任転嫁のやり口だが、彼らのフィクションをどこまで真に受ける必要があるのかも、馬鹿でなければわかる程度のことだから、それほど深刻に受け止める必要もないのだろうが、昔は政府が独裁体制を維持するには、社会主義や共産主義の看板を掲げておくだけの必然性が当時の時代状況の中で生じていた地域もあっただろうが、今ではあからさまに社会主義国だと呼べるのが中国や北朝鮮やキューバやベネズエラやベトナムぐらいしかなくなってしまった時代状況から、そうではないことが言えそうだが、それでも他の世界各国でも大なり小なり生活保護や老後の年金などの面では社会主義的な制度を取り入れているわけで、だから単純に〇〇主義だから悪いわけではなく、良い面でも悪い面でもそれを説明するのに〇〇主義だとレッテル貼りして単純化すればわかりやすくもいい加減にもなるわけだが、その実態から何が言えるかとなると、説明の程度によってはそういう安易なレッテル貼りでは済まなくなる面も出てくるわけだが、そうなると〇〇主義を全面に押し出した説明を用いている識者の類いを信用できるかというと、それもその場の状況次第では安易なレッテル貼り的な説明でも間に合ってしまう場合もあるから、一概には言えないかも知れないし、それに対する受け止め方も気晴らしや暇つぶし程度でも構わない状況なら逆に安易な説明の方が考える手間暇をかけない分だけ重宝がられるだろうから、そんな世間話的な内容のワイドショーなどの場ではそれで構わないわけだろうが、それに関して最近の政治ネタとして小泉進次郎と言えば新自由主義だと決めつけておけば済んでしまうような単純化が流行っていて、なるほどそれで間に合うような政治情勢なのかと小馬鹿にしたくなって安心してしまうと同時に、要するにそれを批判する側も小泉進次郎と同様に何も考えていないのかと呆れさせるように仕向けているようにも思えて、それも一種の世論誘導には違いなく、実際に小泉進次郎が総裁選に勝利して総理大臣になって解散総選挙をやって自民党政権を存続させれば、小泉政権への支持率が爆上がりとなってしまうだろうから、そこまで行ったら一段落かと一安心する一方で、では小泉進次郎のことを新自由主義だとレッテル貼りして批判していた識者の類いが無能で愚かなのかというと、それが今まさに世の中の多くの人々がそう思い込むように世論誘導をやっている最中なのであり、そんな人を馬鹿にしたような安易な世論誘導には引っかからないようにしようと世間に向けて警鐘を鳴らす気にはなれないし、むしろそうなった方がおもしろいのではないかとも無責任に思ってしまうのだが、安倍晋三が長期政権を継続させていた頃もそんな感じで事態が推移していたようにも思われるし、日本の現状から言えることは、政治的な空洞化を利用した経済運営が功を奏して、結果的には現状が維持されているような成り行きになってしまうところが何か深刻さに欠ける事態なのかも知れず、もちろんそうなったらなったで、毎度お馴染みの識者がしゃしゃり出てきて、飽きもせずこのままでは日本が滅びると言い放つ光景も今から想像されてしまうのも、それも何か予定調和な成り行きのようにも思われて、またかとがっかりする光景も思い浮かんでしまうわけだ。
9月11日「政治参加に伴う違和感」
国がそこにあることを前提として政府がある以上は、政治家や官僚などに任せきりにしないで、一般の国民も何らかの形で政府に関与しなければならないと思うが、それが民主主義のあるべき姿なのかというと、そうだと思いたいのだが、そういうことではないとすると何なのかというと、特定の勢力や団体による政府や政治の私物化を許さないと思うなら、私物化とは何なのかというと、公共の利益に反するようなことを人や団体がやっているのを私物化と言えるかというと、そういうところも微妙なのだが、政府から政府という組織を管理運営する官僚機構が生じてきて、官僚機構が各省庁を機能させようとするから、その機能させようとする傾向が、政府という組織を発展させるように機能すると、政府という組織を発展させるために国民を活用したいと官僚自身が思うわけでもないだろうが、国民の方では自分たちの生活を豊かにするために政府を活用したいと思うはずだが、そうなると官僚機構と国民との間で利害が一致するかというと、一致しなくても共存共栄の方向で双方が歩み寄れるかとなると、そもそも官僚も官僚である前に国民でもあるわけだから、その辺のところも官僚機構の組織内での身分や地位などが絡んでくると微妙に勘違いが生じてくるのかも知れないし、果たして公共の利益とやらが官僚機構の利益と合致しないとしたら、そこで利害の対立が起こってしまうかも知れず、国民の方では国民に奉仕するのが公務員としての官僚の役目だと錯覚しているというよりは、もちろんそれが錯覚などではなく、国民も官僚も国に奉仕するのが本来の役目だと錯覚しているわけでもないだろうし、そういうところでも微妙に上下関係や権力関係をはっきりさせてはまずいような思惑があるわけでもないだろうが、政府と官僚と政治家と国民の利害が必ずしも一致するわけではないことを前提にして各々が身の振り方を工夫しないとまずいとも思わないだろうし、基本的な姿勢や態度として各々が利己的に振る舞えば、神の見えざる手に導かれながらその地域に暮らしている人々が豊かになると信じられるわけでもないから、結果的に豊かになったり貧しくなったりするだろうが、そんな結果を受け入れざるを得ないのは国民も官僚も政治家も同じというわけではなく、何かしら不満を抱きながら文句を言いたくなるわけで、そこで各勢力が譲歩や妥協して利害調整などが行われるかというと、自身が有利な立場や境遇でいられるならそれで構わないわけだから、たとえ憲法や法律などによってきれいごとの権利や義務などが定められていても、それが自分や自分たちの勢力にとって不利だと判断されると、それを形骸化させたり有名無実化しようとするかも知れず、そういうことをやるために盛んに憲法改正を唱えている勢力も現にいて、それが戦略的な態度や姿勢だと言えるだろうから、何かもっともらしい理由や理屈をつけてそんなことを仕掛けてくる者や勢力の存在が、それを真に受けて彼らの味方を買って出るお人好しな国民も湧いてくる原因ともなり、そんな人たちが彼らに利用されているだけの存在だと気づくこともないだろうから、そうやって各自各勢力が思い思いに短期的な利害関心に基づきながら利己的に振る舞っている限りで新自由主義的な傾向が強まるだろうが、それが良いか悪いかでは判断できないとしたら何なのかというと、そんなことは気にせずに馬鹿になっている必要がありそうで、それと共に戦略的な思惑で馬鹿を装っているのがばれないようにしたいのだが、誰もがそんなわけには行かないだろうから、馬鹿を装うのは小泉進次郎だけにしておきたいわけで、それが無理な相談なのかも知れず、実際に無理だとしても山本太郎などが外野席でいくら騒いでも蚊帳の外に置いておく限りでうまく物事が滞りなく進展するだろうし、進展させてはまずいと思うなら、相変わらず外野席で騒ぎを起こすようなことになってしまうわけだが、あくまでもそれが外野席でのいざこざである限りで社会に大した影響力も発揮しないままにとどまるわけだが、何かそれが寝た子を起こすような行為に結びつけようとする努力のように見えてしまうと、そういうのが勘違いのもととなってしまうのだろうから、なるべく無視を決め込んで触らぬ神に祟りなしの状況を維持しなければならないのだろうが、本当にそうなるかどうかも含めて馬鹿なふりを装いながらも、国民主権というきれいごとを主張しながら政治家や官僚より自分たちの方が立場が上なんだと一般の国民が妄想を抱けるかというと、そこで利口ぶって国民主権を規定した憲法など何の効力もないただの紙切れだと言い放つ馬鹿もいないだろうから、馬鹿なだけでは通用しない世の中になっていることは誰もが承知しているはずだが、では馬鹿以外にも装うべき立場や役回りがあるのかというと、たぶんそれが戦略的な装いなどではなく、装っていることも演技している自覚もないような振る舞いになってしまう限りで正気を保てるような世の中になっているとしたら、果たしてそういう世の中で何をどう考えて行動すればいいかなどという問いに対する答えがあるわけでもなく、考えてから行動するのではないとしたら考えながら行動していることを意識することもできない状況で、考える前にすでに行動しているような動作となっていて、行動した後からその行動を振り返りながら考えていることは確かなのだが、そうなっている時点ですでに思考が行動よりも遅れていて、現状を把握できていないことになってしまい、それでも何とか行動に先回りして予想したり予測したりしているのだが、それが作り話のフィクションとなっていることにも気づいていないから、実際の行動と思考との間に生じているずれを埋めることができないわけで、しかもそうなっていることを意識できない代わりに、行動と思考が連続して動作しながら結びついているような作り話のフィクションを信じてしまって、それが勘違いをもたらすわけだが、そんな勘違いに含まれているのが、短期的な利害関心から生じる浅はかでその場限りの損得勘定であるとしても、それに基づいて振る舞い行動しているように感じているわけだから、そこから少し遅れて繰り出される言動の類いにも、現実に起こっていることや生じている物よりは思い描いている妄想の方が強く反映した結果として、独りよがりな偏見やこだわりに基づいた誇張的な視聴覚映像を伴いながらメディア上へとそれが出力してくるわけだ。
9月10日「比喩的なごまかし」
それほど間違っているとも思えないことの中に何か致命的な欠陥が潜んでいるとすれば、それが原因で深刻な事態になりそうな予感もするが、現状の世の中で行われていることの何がそうなのかというと、それもそうは思えないようなことでもあれば、具体的に何がそうなのかというと、それが行われた結果としてうまく行っていないことがそうなのかも知れないが、今はそうでも状況や情勢が変わればそうではないように思われる場合もありそうで、今はそうでもそれなりにうまく行くような工夫が凝らされているなら、実際にうまく行っている面があればメディアでも脚光を浴びている可能性もあり、実際にそれがメディアを通して世の中に知れ渡るような成り行きになっていれば、一般の人々がメディアからそれを知ることになるのだろうが、逆にうまく行っていないからメディアを通して批判されているとしたら、しかもうまく行っていないにもかからず、強引に推し進められているようなことであれば、何やらわかりやすくなってきて、それを比喩的にごまかして述べるなら、人が行なっていることは絶えず諸刃の剣のような様相を呈していて、その中で良いと思われる面を部分的に賞賛したり、逆に悪いと思われる面を部分的に批判したりしても、果たして良いと思われる面と悪いと思われる面とが表裏一体を形成しているように見えたり感じられたりするわけではなく、部分的に良い面だけが強調されたり、あるいは逆に部分的に悪い面だけが強調されたりすれば、そこだけに注目するように仕向けられてしまうから、それが全面的に良く見えたり全面的に悪く見えてしまうのかも知れず、それが錯覚なのかというと、例えばマイナンバーカードの普及が強引に推し進められていることに関して、それが全面的に悪いと思われているだろうし、そう思われてしまうこの時点から時が経てば、果たして何でもないことになってしまうかというと、実際にそうなってからでないと何ともいえないが、それとは別の事例として、例えば郵政民営化に関して、今でも大失敗だったと悪い面を強調するメディアでは執拗に言われていることだとしても、そんなメディアには大して関心のない人々にとっては何でもないことかも知れず、実際にほとんどの人々がそれを既成事実として受け入れていて、民間企業としての日本郵政が倒産でもしない限りは大して関心が向かないのかも知れないが、マイナンバーカードが今後廃れることがあるかというと、廃れるのではなく、何か別の形態へと変化しそうな感じで、それに関してすぐに思いつくのが、スマホのアプリになりそうで、スマホ自体も廃れたら、さらに違った形態に変化するかも知れないが、そういう意味では良い面があろうが悪い面があろうが、メディアによってそれらがいくら強調されようが、結果的にはなるようにしかならないと予想したくなるのだが、そんなメディアと一緒になって当時の郵政民営化絶対反対!と叫んでいた人がどれほどいたのか、今となっては定かでないが、結局全面的に反対していた人たちが梯子を外されて孤立無援となってしまったのかどうかも定かではなく、最近では都知事選挙で小池知事のひどさをこれでもかと延々と訴えていた人たちも梯子を外されて孤立無援となってしまったかどうかも何ともいえないところだが、その種の批判を全面的にやってしまうと後には退けなくなってしまい、何か困った事態になってしまうわけでもないのだろうが、そんな人たちは他にもいくらでも全面批判や全面反対の案件を抱えているから、それらを世の中の状況や情勢に合わせて取っ替え引っ替えしながら批判活動や反対活動を継続させて行くのかも知れないが、それほどの関心も根気もない人はそんな人たちとは付き合いきれなくなってしまい、次第にその種の全面的な批判や反対とは距離を置くようになってしまうかどうかも、それもその場の状況や情勢次第になってくるのだろうが、そうやって長い物には巻かれろ式な対処や対応でも構わないのかといったところでも、それもその場の状況や情勢次第だといってしまうと話にならないかも知れないが、何かそういうところでこれまでとはちょっと違う対処や対応の仕方を模索したくなってしまうわけで、実際にここでもそれを模索している最中だから、こうしていつまでも煮え切らない態度で何かわけのわからないことを述べているのかも知れないし、これでは何の対処にも対応にもなっていないような気もするわけだが、世界中でどこもかしこもうまく行っていないと見るなら、それがどうしたわけでもなく、そういう状況や情勢に慣れるしかないのかも知れず、それらにいちいち文句を言わないと気が済まないようなら、絶えず不満を抱きながら粗探しのようなことをやっていればやがて寿命が尽きるだろうから、そういう人はそれで構わないと見ておくしかないのだろうが、自分はそういうことには付き合いきれないと感じるなら、そこからある程度は距離をとっておいて、その場の状況や情勢に合わせてそういう人に同調してみたり距離をとってみたりの日和見主義に徹するのも面倒なら、何かそれとは違う態度や姿勢を編み出さなければならないかというと、どうもそういうわけではなく、何もかもが片手間で済ませてしまうようなことなのかも知れず、何事にも深入りしないで浅瀬にとどまりながら様子見姿勢を維持しているようにも思われて、そういう態度が時には自己嫌悪をもたらすとしても、何事も機会が巡ってくるタイミングではないと思いたいのだが、それでも否応なくそんな機会が巡ってくれば行動せざるを得なくなって、事前にどう行動しようと目論んでいても、そんな目論見などその場では通用しないから、出たとこ勝負な事態に巻き込まれてしまって、そこで試されているのが何なのかと考える暇も余裕も与えられないから、自分が何を考えていようと思っていようと、そんな考えや思いなど無視するような成り行きになってしまうから、その場の成り行きまかせに行動するしかないのかも知れず、そうやって今に至っているような気がするとしても、本当はそんなことではなく、何かの論理や理屈や理論に従いながら行動しているに過ぎないことに自分が気づいていないだけで、かえってそれに気づかないことが功を奏している可能性もあるわけだから、結果的に自らの思いや考えに逆らうような行動になってしまっても構わないようなことなのかも知れない。
9月9日「人的資本の活用」
それが自家撞着だと指摘した方が良いのか悪いのか、その辺が述べていることの全てがそうとは限らないから微妙で、それに関して枝野幸男が新自由主義的な経済政策を批判しつつも新自由主義経済学の範囲内で自らの経済政策を主張することのどこが自家撞着だと言えるのかということが、それを自家撞着だと批判するのは的外れかも知れないと思いつつ、山本太郎が教育への投資と言おうものなら、ほらみろお前だって新自由主義を批判しながら、新自由主義経済学者が唱える「ホモ・エコノミクス」の人的投資について語っているではないか、とまるで鬼の首を取ったかように指摘すれば、屁理屈にしかならないだろうから、あまりそういうところで重箱の隅をつつくようなことをこれ見よがしに述べるのは気が退けるのだが、スミスやリカードなどの古典派経済学が労働を単なる労働時間という尺度だけで論じたりマルクスが労働力商品と決めつけたのを批判するために、人的資本の活用について論じている新自由主義経済学を持ち出すと、何やらもっともらしいことが言えるような気がしてしまうとしても、そもそも政治家や経済評論家のやり口なんて、いつも決まって特定の主義主張や学説の類いを通俗的な解釈に貶めてからこれ見よがしに批判するのがわかりきっているだけに、彼らの批判自体が学術的にはいい加減な代物だと見なしておけばそれで済んでしまうわけだが、そうやって政治家や経済評論家の類いを貶めるのも、彼らが言おうとしている内容の良心的な部分を見落としてしまうことになるからまずいと思われるし、そういうところもうまく表現するのが難しいのだが、果たして教育分野における人への投資が肯定できるようなものなのかが、それが政治的な主張となればもっともらしく感じられるようなことであっても、そういう政治的な主張から離れて、ではどのような分野の中でそれを論じようとするのかも、そういうことではないような気もするわけで、少なくともそれが政治的な主張に結びついてはまずいような気がするから、だからといって何も哲学的な内容を述べるつもりもないのだが、なぜか直接将来の所得には結びつきにくいものとして教育への投資が必要だから、しかもそれが必要だと決めつけるわけにも行かないから、何とも言えないのだが、とりあえず知らないよりは知っていた方がマシだと思える内容が学校教育や家庭教育や社会教育などによってもたらされるならそれで良さそうなのだが、それが無駄な知識だと思われても構わないし、直接の技術革新などの役に立つとも思われないようなことが知識として求められてもいないような環境の中から、結果的に人への投資が蓄積するから功利主義的には理解し難いのかも知れず、そうなると文系が無駄で、理系だけに功利的な価値があるかのような単純な考えではうまく行かないのも当然で、またすぐには役に立ちそうもない基礎研究分野に予算を配分すれば将来の経済成長が期待できるかのような幻想も、功利的な勘違いのようにも思われるかも知れないが、金銭的に儲かる可能性の低い分野を政府が支援するというのは、必ずしも理に適っているというわけではなくても、結果的にそういうことになっていた方が社会に厚みが生じるという方便でも納得し難いだろうが、学業の優秀な人が数学や物理学などの分野で活躍しているのは結果的にそうなっているだけで、そこに経済的な価値を当てはめるわけにも行かず、そういう分野で無駄に人材が浪費されていると捉えるのも、何か的外れのように感じられるから、違うと思っていれば済むようなことだろうし、そういう人たちを生かして普通に生活が成り立つ状態が維持されていないと、何かまずいような気がするとしても、それが功利的にまずいわけではなく、社会的にまずいと考えても納得し難いが、それも結果的に社会が栄えている国や地域ではそういう人たちも活躍できる環境が生じていると見るしかないわけで、その逆ではないところが解釈の単純化や通俗化では理解できないところでもあり、投資された人材が何らかの形で役立つならそれでも構わないが、必ず役に立つわけでもないところが無駄で非効率に感じられるとしても、それもそういう面がないとその中から将来において役に立つ人材や物事が生じてこないと考えるのも勘違いなのかも知れず、何か目的や目標などを設定してそれに向かって努力すれば結果的にその努力が報われたり報われなかったりすることもありそうだが、何事も分析して予想や予測を駆使して結果へと先回りして、そこから何が有効で有用かと考えてしまうことも、そういう予想や予測が当たったり当たらなかったりもするだろうが、それが無駄で役に立たない努力や尽力になることも覚悟しておかなければならず、他と比べて繁栄している国や地域があれば、どうなればそうなるのかとそれが分析したり研究する題材や材料となるが、そうした分析や研究が功を奏して自分たちの国や地域が繁栄するようなことが起これば、何かそれがうまく行ったような気にはなるだろうが、明治維新や戦後復興などの過去にそうしたことが起こったとしても、そう何度も何度もうまく行くようなことでもないのかも知れないし、政治や行政などの分野ではそういうことをやりたがる傾向になるわけだから、やりたいならやってもらうしかないとしても、そういうことを主張している人物が枝野幸男なのかも知れないが、彼が立憲民主党の代表になって政権交代が実現して日本の総理大臣になればなったで、それなりに格好がつくとは思うが、どうも実際にそうはならないような情勢なのかも知れないから、現時点では何とも言えないが、彼が「ヒューマン・エコノミクス」と銘打って何かもっともらしいことを主張しているの見て、そういえばそんな言葉が他でも使われていたような気がしたから、ある程度目星をつけて持っている書物を部分的に読み返してみたら、なるほどアメリカの新自由主義経済学の中に「ホモ・エコノミクス」という言葉が出てきて合点が行って、それに関して通俗的な意味での新自由主義を批判しながら、枝野自身が述べている経済政策的な主張がどうも「ホモ・エコノミクス」という概念の範囲内に入るような内容なのではないかと思われて、何かそれがユーモラスな堂々巡りのような気がして笑ってしまったのだが、実際にメディアが通俗的な意味での新自由主義を批判の対象として流行らせたわけだから、政治家の枝野がそれを真に受けるのも当然の成り行きだから、それが悪いわけでもないだろうし、しかも枝野が立憲民主党の代表選挙では今のところは劣勢みたいだから、結果的には大したことでもなく、もちろん彼が代表になっても政権交代が実現して総理大臣になったとしても、別にそれでどうなるとも思えないわけだが、そうなる可能性も低そうだが、そうなれば少しはマシなことをやるような気もするわけだ。
9月8日「楽観的な展望」
物事を単純に考えるなら、政治には政策論争がつきものなのに、しかも政策などにはあまり期待しないし関心が向かないとしたら、それではまずいのかも知れないが、それ以前に考えなければならないこともありそうで、政治の領域で実際に行われてきたことが問題となるはずで、例えば消費税の増税が行われてきたのが問題だと言うなら、単純に消費税の減税を行えばいいじゃないかと言えるわけで、減税を実施したいなら選挙で消費税の減税を訴えて議会で多数派となって政権をとって実施すればいいじゃないかと言えるわけだが、消費税減税派や廃止派はそれを目指せばいいだろうし、そんな単純な考えではおかしいと思うなら、もう少し複雑でややこしいことを考えればいいのかというと、それも政治の領域で活動している人が考えればいいことかも知れないが、どうも実際に主張しているのはそういう単純なことではなさそうで、何かごちゃごちゃと面倒な事態になっていて、そこに至る経緯やそこで生じている事情もかなりこんがらがっているように感じられるのだが、消費税だけが問題となっているわけでも争点となっているわけでもないのは明白で、他の政治的な問題や争点との兼ね合いや整合性や優先順位なども考慮しなければならないとしたら、単純に消費税の減税や廃止だけを訴えるようなことにはならないし、他にも色々と問題視しなければならなくなってくると、単純に消費税の減税や廃止を重点的に優先して訴えている勢力としては、それがないがしろにされているように感じられるから、そんな政党は支持できなくなり、実際に自民党も立憲民主党も支持できないなら、そういうことでいいんじゃないかと思われるのだが、消費税に関してならそれで構わないし、消費税の減税や廃止がそれほどまでに重要なことなら、そういうことを主張する勢力や政党がいずれは政権を担って、実際に消費税を減税したり廃止を実現する成り行きになるような気もするが、なぜか今はそんなことには関心が向かないとしたら、ではどんなことに関心が向いているのかというと、たぶんナショナリズムをいかにして抑制しなければならないかが問題だと思うわけで、そういう意味ではグローバリズムなどに関心が向いているのだが、それを大ざっぱに言うなら経済的な新自由主義と政治的なグローバリズムをいかにして推進して行くかに世界の未来がかかっているように思われるわけだが、もちろんどちらも世界各地で激しい抵抗に直面しているわけで、反新自由主義で反グローバリズムであることに政治的な正義があり、それって要するにナショナリズムであって、ナショナリストがそういう主張を訴えているわけで、それが日本では消費税の廃止を訴えているのもナショナリストでもあるから、消費税の廃止にも政治的な正義があるわけで、そうであるのに自民党の保守派が消費税を推進しているどころか新自由主義もグローバリズムも推進しているから、ナショナリズム的な正義の価値観からしたら、そんな奴らは売国奴だと言えるが、その一方で政治経済の世界的な傾向が新自由主義とグローバリズムに傾いているから、真の抵抗勢力がその種のナショナリストであって、もちろん日本ではそうだが、アフガニスタンではタリバンがナショナリストであり、欧米では移民反対の極右勢力がナショナリストに分類されるところが、面倒でややこしいところなのだが、彼らに正義があるとしても、新自由主義とグローバリズムの世界的な傾向が今後も続いて行くと考えるなら、いずれは正義が敗れるという理不尽な結果に直面しそうで、ナショナリズムの正義が敗れて新自由主義とグローバリズムの勝利となれば、世界統一政府の実現というナショナリストにとっては悪夢の未来となるだろうが、本当にそうなるかというと、現状では何とも言えないが、何かそれでは現状で起こっている事態を単純化し過ぎているようにも思われるから、自分の勝手な妄想でありフィクションに過ぎないのだとしても、たぶん実際に世界各地で激しい抵抗に直面しているわけだから、そこで争われている物事の本質を新自由主義とグローバリズムが射抜いているような気もするわけで、激しい抵抗に遭っているからこそ、逆にそういう傾向が顕著になっていることの表れであって、今後も激しい抵抗に遭いながらも推進されて行くような成り行きになるのではないかと予想したくなってしまうわけで、そんな政治経済的な争いが日本では争点隠しの囮となる派生物として、執拗に消費税の是非を争点化したがる勢力が生じていると見ているわけだが、またそんな勢力に限ってさらなる争点隠しの派生物として財務省の陰謀を執拗に強調する傾向もあるわけだが、だからといってその種のナショナリストを悪者扱いする気にはなれないわけで、逆に正義の味方だからこそそうならざるを得ないと見ておかないと、そこで争われている物事の本質を見誤ってしまうような気もするわけで、そんな正義の味方のナショナリストたちを敵視してはならず、彼らのような正義の味方が犠牲となることによって新自由主義とグローバリズムの未来が実現するわけだから、良心的な国民であるなら彼らの味方を装わなければならず、それが逆説的な真実となってしまうのは悲劇に他ならないが、逆にあからさまに新自由主義とグローバリズムに塗れているのに、なおも自民党の保守派が愛国的なナショナリストだと錯覚するのは欺瞞であり偽善に他ならないが、そういう見え透いた嘘を信じているふりを装うのも、何かうまく現状の中で立ち回っているような気もするだろうから、そうであっても構わないのかも知れず、こんな説明では納得し難いだろうし、誰も信じてくれそうもないような気もするのだが、世の中の成り行きが悲劇では説明できず、オペラもどきのオペレッタというジャンルがかつてのヨーロッパの大衆市民社会で流行っていた頃があったらしいが、それが悲劇でも喜劇でもなく笑劇のような様相を呈しているところがわかりにくいのかも知れず、ナショナリストにしてみたら世の笑い者にしたいのが立憲民主党の政治家たちなのだろうが、そうなると自民党政権が延々と続いて行くことになるかというと、現状ではそう思われるわけで、本当にそうなるかどうかは今後の成り行き次第だが、彼らが敵視したい左翼やリベラルというジャンルこそが、意外と新自由主義やグローバリズムとも整合性がとれているとも思えないだろうが、何かそこでも微妙にねじれの関係となっているのかも知れないし、うまく対立するような関係とはならないから、単純な是非や良し悪しの判断へと強引に持って行こうとすると、さらに面倒でややこしい事態をもたらすのかも知れない。
9月7日「直らない癖」
わざとチャンスを逃しているわけでもないのだが、ここでチャンスをものにできればこの時点ではうまく行ったことになるはずなのに、実際にはチャンスを逃して残念がる一方で、わざと絶好の機会を逃しているような気もして、そんなふうにして結果を都合の良いように捉えたがる癖がついてしまって、結果的には正しい判断ができていないような気がするのだが、自らがとらわれている事態を自らに都合の良いように捉えたがっているのがわかっていても、そう思いたくなる癖がなかなか直らないもどかしさを覚えながらも、これでいいのだと思いたくないのに、そう思ってしまっても構わないような気がしてしまうのだから、そんな癖が直らずに実際に痛い目に遭っているのにもかかわらず、なおもこれでいいのだと思いたくなってしまうのだから、それも直らない癖には違いなく、そう思いながらも微妙に感覚や勘がずれているような気もするから、そのずれを直せば少しは正しい判断ができているような気になりそうなのだが、状況や情勢を正しく判断している気になってしまってはまずいような気もするから、判断を誤っているのではないかと絶えず心配していないと、それ自体が気が休まらない原因のような気もするが、やはり正しい判断ができて安心してしまっては、何かまずいような気もするわけで、そんなどっちつかずな気分で何がどうなるわけでもないと思いながらも、そう思っている限りで心のバランスが取れているような気もしてくるから、それもこれでいいのだと思う癖がついている証拠となってしまいそうだが、なぜこれでいいのだと言えるのか、何か納得できる根拠や証拠を示せるわけでもないから安心できないわけで、安心できない限りは、安心してしまってはまずいような気がする気分を保っていられて、それが逆説的に安心材料となるなら矛盾していることになるかどうかもよくわからないにしても、何となく頭の中がこんがらがってくるような気もするが、どう思ってみても自己正当化の罠を逃れることなどできないのだから、これでいいのだで構わないはずだが、そんな心境に至るまでの間に何か自己正当化以外のことをやれるなら、そちらの方が主に取り組まなければならないことのようにも思われるのだが、それが思いがけない紆余曲折を伴った試行錯誤の取り組みになるのだとすれば、そういう取り組みが成功するか失敗するかが気がかりというよりは、何らかの結果に至る過程で経験する思いがけない紆余曲折の方が重要に思われて、それがきっかけとなってこれでいいのだと思う自己正当化から逃れることができれば、それと共に自己中心的で独りよがりな世界観からも抜け出せるかも知れないから、そうやって得られた認識がそれなりに正しい現状認識になるかどうかも気がかりというわけでもなく、正しい認識を得たいから進んで思いがけない紆余曲折にハマり込みたいのではなく、わざとそうしているわけではないことを確認したいというか、ただ単にチャンスをものにできる確率が低いから、後から思えば絶好を機会を逃したように思われるわけで、そういう意味ではわざとチャンスを逃したなんて嘘に決まっていて、チャンスを逃したのに残念がるどころか、これでいいのだと思ってしまうこと自体も間違っていて、そう思ってしまう癖を直さなければならないと思うことも、何かの囮としていつまで経っても直らない癖としてとっておきたいわけで、要するにそれが絶えず反省するきっかけとして必要なのかも知れず、それもかも知れないだけで、本当は必要でも何でもないのに、結果的に癖が直らないから、そういうことにしておきたいと自分で自分に嘘をついていて、頭の中でそんな作り話をいくら構成してみても意味がないのに、意味があってもなくても構わないようなことでもないはずだが、いつの間にか気にならない程度の虚構として、自分を騙してこれでいいのだという自己正当化を温存させているわけでもないのに、なおも機会を捉えて自分を自分から逸脱させるためのきっかけとして、思いがけない紆余曲折にこだわりたいのだが、それが思いがけず起こり遭遇することだから、意識してわざと思いがけない事態をもたらそうとしているわけでもなく、たまたまそうなってしまったのを、それが起こった後から事前にそうなることを予想していたと思い込みたいわけでもなくても、自分に都合が良いように認識したいし、わざと都合が悪いように認識したいわけでもないが、都合を考慮する暇や余裕などないままに思いがけず起こるから、それが思いがけない紆余曲折になるわけで、起こった後からそれが起こることを事前に予想していたと主張するようなことでもないのもわかりきっているはずだが、他人が得意になってそういうことを述べているのを見ながら、なるほどこの人も自分と同じように自己正当化の罠から逃れられないのかと思って安心できるかというと、果たしてそれが人の振り見て我が身を正せということわざの類いとは正反対の悪癖なのかというと、それも自分の都合に合わせてそういうことにしておきたいのだが、どうやっても我が身を正せない自分を許してしまうような自堕落な態度を保ちたいと思うわけでもないも嘘に違いないのだが、そうやって思ってもいないフィクションを思いついてしまうこと自体も、思いがけない紆余曲折のような気もするわけで、それが思い通りに思っていることでもないはずだが、何かうまく自分の思惑通りに騙されているような気もしてくるから、内心ニヤリと笑みを浮かべながらもそれが自家中毒気味の自己正当化になりそうな予感もしない程度で済ますことができれば、うまく嘘の無限ループから抜け出たつもりにもなれるのだが、その一方でそれ自体が相変わらず意味不明な戯言を述べているような気もしてくるわけだから、安心できないというか安心してしまったらそこでおしまいというほどの深刻な状態でもなく、結局は一安心してしまって、そこから油断が生じて、またしてもチャンスを逃して残念がっている自身の未来の姿が思い浮かぶのだが、その程度で済んでいるうちはまだまだ大した危機でもないのだろうが、逆に深刻な危機を乗り越えた末に何かをつかみ取るような成り行きにならないと、それが価値ある大げさな行為や行動や言動には結びつかないような気もするわけだ。
9月6日「普遍的なやり方」
部分的なところで何か主張しているのを、その部分を超えて全体にまで押し広げるわけには行かないが、部分的な主張が悪いわけではなく、部分的に通用している程度なら、その範囲内では有効な主張だと認識しておけばいいわけだが、その一方で部分ではない普遍的な主張というのが何なのかというと、それがちょっとわかりにくいのだろうが、そこで部分と全体の対比ではなく、なぜ普遍という概念にこだわるのかというと、それも何となくそう思うことでしかないなら説得力がないが、では全体と言ってしまってはまずいのかといえば、そこで問題となってくるのが全体主義と言われる否定的な概念になってきて、部分的にしか通用しないことを全体にまで強引に通用させようとすると無理が生じてくると考えればしっくりくるだろうし、そういう全体主義には普遍性がないということになりそうで、ではそれに対して普遍性を持つのは具体的にどういうことなのかというと、それもちょっとわかりにくいのかも知れないが、場合によっては部分的な主張にも普遍性がありそうで、もちろん部分ではなく全体的な主張にも場合によっては普遍性がありそうで、その場合によってはという但し書きがどういうことなのかというと、特定の部分だけで有効な主張があるなら、それとは別のところでもそこだけで有効な主張がありそうで、そういう傾向には普遍性があると言えそうで、それを無理に全体化しない限りで、そういった主張には普遍性が伴っていると言えるのかも知れず、そういった様々な場合ごとに部分的に有効な主張をその場の状況や情勢に応じて組み合わせることによって、ある一定の範囲内で有効なやり方というのが導き出されてくるなら、そういうやり方にも普遍性が伴ってきそうだが、それもその場だけで有効なやり方になりそうで、それとは別のケースでは必ずしも有効とは言えなくなってしまうのかも知れず、そういう意味では馬鹿の一つ覚えのようにして、どんな状況や情勢の中でも、ひたすら同じことを主張したり同じやり方を押し通すようなことができるかというと、それができればそういうやり方にも普遍性が伴っていそうだが、それができなければ馬鹿の一つ覚えのような主張ややり方では通用しないことになりそうだが、通用するかしないかは実際に試してみなければわからない場合も多いだろうから、それが馬鹿の一つ覚えだと馬鹿にできるか否かも、馬鹿の一つ覚えのようなことを主張したりそんなやり方を押し通そうとしている人や団体が、実際にそれを試してみて通用しなければ、それを馬鹿の一つ覚えだと馬鹿にすることができそうで、また実際にまだそれを試すような段階にも立場にもなっていない人や団体が、馬鹿の一つ覚えのようにして執拗に同じような主張を繰り返している場合も多く、果たしてそういう同じような主張を延々と繰り返すようなやり方に普遍性があるかというと、それもそんな主張を繰り返すことによってそれを試す段階や立場へと至れるなら、そういうやり方が有効だったことにもなるだろうし、そういうやり方にもある程度の普遍性があったと思っても構わないようなことかも知れないが、それもただ延々と同じようなことを主張しているだけでは駄目かも知れず、それが駄目かどうかも、そんなやり方を試してみた結果として明らかになったりならなかったりするようなことかも知れないから、途中の段階では何とも言えないようなことかも知れないし、途中の段階が延々と続いて行くようなら、延々とわからずじまいになってしまい、それではそういうやり方に普遍性があるかどうかもよくわからなくなってしまいそうだが、いつまで経っても結果が出なければ駄目だと思っても構わないだろうし、そんな主張ややり方には普遍性がないと思っても構わないが、思うかどうかではなく、実際にそれを試す段階や立場に至らないと、いつまで経ってもそういうやり方が有効だと主張するばかりでは埒が明かないわけで、その主張を実現できるかどうかが試されていると見ておけばいいのだろうが、もちろん見ているだけでは実現しないわけだから、それを実際に試す段階や立場へと至らないと埒が明かないわけだが、それを実際に試してみた人や団体がうまく行かなかったのが明らかになっているのに、それでもそういう人や団体が属している勢力を支持し続ける姿勢や態度にも、何かそこに普遍性があるのかというと、結果的にそんな姿勢や態度を貫き通せれば、そこに何らかの普遍性が伴っているからそういう姿勢や態度を貫き通せたことになるかというと、それに対して何か異を唱えたくなるのかも知れず、そこでそんな姿勢や態度を貫こうとする人や団体と、それに異を唱える人や団体が対立して争っていることになるのだろうが、それもそういう姿勢や態度に普遍性があるかどうかというよりは、普遍性があろうとなかろうとそういう価値基準とは別のところでせめぎ合いが起こっていて、争っている双方の利害が食い違っているから、そこで実際に争いが起こっていて、どちらの姿勢や態度にも普遍性などなく、そこで争われているのが特殊な利害であれば、それが他では通用しない利害であり、そこだけで有効となる利害になってくれば、そんな利害には普遍性がないことになりそうだが、それが具体的にはどんな利害なのかといえば、それが意外とその場限りの金銭的な利害であったり利己的な損得勘定であったりすると、例えばその金銭的な利害が他では無効となってしまうようなら、そこで使っている通貨が他では価値を持たないようなことになってしまうだろうし、またそこでこだわっている利己的な損得勘定が無効となってしまうような状況や情勢が他ではもたらされていることになってしまうだろうが、果たしてそんなことがあり得るのかと考えるなら、そこで使用している通貨の価値が暴落してしまったり、そこでこだわっている損得勘定とは違う種類や傾向の損得勘定の方が他では圧倒的に優勢となっていたりするかも知れないが、そう考えると何か思い当たる節がありそうで、何かというとすぐにハイパーインフレなどの極端な状況を持ち出して論争にも至っていない相手を批判するような主張なんかが、何か普遍性に欠けているような気がして、しかもそれが論争にも至っていない相手がそんなことを主張していると言いがかりをつけてくるやり方もかなり悪質な感じがしてしまうが、それ以外にもこのままでは状況が崩壊するとか破滅するとか主張したり、もう崩壊しているとか破滅していると主張したりしている時点で、そんな主張をする人が実際に崩壊させたり破滅させたりしている当事者ではないし、崩壊していたり破滅している当事者でもなければ何なのかというと、果たしてそんなことを主張している当事者が単なる状況の傍観者に過ぎなければ、そんな主張に普遍性が伴っていようといまいと、たぶんそれを自覚しているわけでもないが、その種の主張をしている人をあまり信用していないから馬鹿にしたくなってしまうのかも知れない。
9月5日「同時並行する現象」
ものは言いようで、特定の物事の成り行きや歴史的な経緯を利用して、自説を正当化するようなことを述べてしまうと、何か嘘っぽく感じられるようなことになってしまえば、そういう説明には説得力がないのかも知れないが、それが景気循環などの経済的な現象であるなら、一つの変動要因だけではなく複数の要素や要因が絡まり合って成り行きが変動するような説明になれば話に説得力が生じてくるはずだが、大抵はそういう感じの説明になってくるのだろうが、何かが起こった結果としてそうなってしまったようなことがあると、それが起こらなければそうはならなかったと言えるだろうが、起こらないという仮定がそもそも嘘っぽいわけで、実際に起こったのだから、起こった後から、起こらなければそうはならなかったと言ってみても、そんなことを言っている時点でそれはフィクションであり、その人の都合を反映した作り話になってしまうわけだが、例えば二十世紀に世界大恐慌が起こって世界的にファシズム勢力が台頭してきたような歴史的な経緯があるのは、世界大恐慌がファシズムの台頭を許したと簡単に言えるようなことだが、ではファシズムの台頭を許さないためには経済恐慌を起こさなければ良いと言えるかというと、要因はそれだけじゃないだろうと反論したくなるのは当然だろうが、実際には世界大恐慌が起こってしまったから、そうなってしまったことの反省を踏まえて、その発端となった株式市場の制度的な改革や改善が行われたはずで、また労働環境についても失業保険などの公的な保障も充実させて、経済恐慌や戦争などに起因して発生する社会の長期的な混乱や動乱の程度をなるべく抑えるような措置を講じてきた経緯がありそうだが、社会の混乱につけ込んで台頭するのがファシズムなどの独裁的で独善的な政治勢力であるから、社会の混乱の程度を抑えることによって、ファシズム勢力が台頭してきたとしてもその程度を抑えられるはずで、逆にファシズム勢力としては社会の混乱の程度が大きければ大きいほど、その活動や活躍の機会もそれだけ大きくなりそうだが、だからファシズム勢力の宣伝としては世の中が大変なことになっていると盛んに煽り立てることになるわけで、またこの未曾有の危機を乗り越えるために我々に力を貸してほしいと民衆に向かって訴えかけることになるだろうが、ファシズム勢力でなくてもそういう訴え方になるわけだから、そんなふうに煽り立てたり訴えかけている勢力の全てがファシズム勢力であるはずもなく、それがありふれた政治批判の典型例になるような社会の混乱を政府のせいにして批判するわけだが、政府や政権政党の方でもわざと政情不安を招いてファシズムの度合いを増したい場合もあるだろうし、政府の中でも軍部がクーデターを起こして軍事政権を樹立する場合もあるから、政府にとっては社会の混乱が独裁的な傾向を強めるには格好の口実にもなり得るわけで、そういう意味では野党的な立場から民衆に向かって危機意識を煽り立てるような行為がかえって政府によって逆利用されてしまう可能性もあるところが、諸刃の剣のような危うさもあるから用心しなければならないのだろうが、そういった用心しなければならないことの中には、憲法に緊急事態条項を付け加えようとする動きも含まれてくるのだが、ただでさえ資本主義市場経済には景気循環がつきものだから、不況や不景気の度合いが強まれば社会の混乱の度合いも強まるから、そんな混乱に乗じて程度の大小や強弱があるにしても一応はファシズム勢力の活動や活躍の機会ももたらされるわけで、そうした勢力が独裁的な権力や権限を手にして世の中を自分たちに都合の良いように作り変えようとする行為も、当然の成り行きとして生じてくるわけだが、そんな成り行きにも程度の大小や強弱がある限りで、それらの全てを否定したり根絶するようなことにはならないだろうから、マイルドなファシズムと形容した方がしっくりくるような成り行きが日本では今も進行中だろうし、もちろんそれが日本だけではなく世界的に常時進行中であることも、資本主義市場経済の進展と同時並行しているのだろうから、そういう成り行きをことさらに問題視する必要もあまりないかも知れず、むしろそうしたマイルドに薄められたファシズム的な傾向や社会不安や政情不安などと上手に付き合って行くしかやりようがなく、苛烈にそうした傾向を否定したり非難するようなことをやってしまうと、逆に寝た子を起こすようなことにもなりかねないから、上手に付き合って行くやり方もよくわからない中で、いったいどうすればいいのかと誰に問いかけてもまともな回答など返ってこなそうな状況の中で、はっきりとこれだと言えるようなものなど何もありはしないわけではなく、逆にこうだと断言してしまうような人の言っている内容をそれほど信じられるわけでもないところが、ややこしくも面倒な状況かも知れないが、そうなっている限りで社会の破綻要因がマイルドに薄められた現状がかろうじて続いて行くのかも知れないし、はっきりとこうすればいいのだと断言してしまう人も、何かの囮としてキープしておく必要もあるのだろうが、そんな人の言っていることを真に受けてしまう愚かで浅はかな人々も犠牲者として必要かも知れないところも、世の中で様々な要素や要因が複雑に絡み合って決して一つの傾向や方向へと振り切れない状況を維持するには必要かも知れず、それも必要条件ではなく十分条件に過ぎないかも知れないし、何かそういうところで勘違いや思い違いもありそうなのだが、そういうことも含めて何をどう考えどう捉えればいいのかと問うこと自体も、自身が体験しつつある状況を単純化したくなることの表れに他ならないから、そういう問い自体も自意識を間違った認識へと誘導していることにもなるだろうが、あまりはっきりした解答などが出ることを期待しない方が良さそうで、絶えずもっともらしい解答が出てくるのを先送りにしながら生き長らえているのかも知れないから、焦ったいだろうが、性急に答えを出そうとする意志を思いとどまらせないとならないのかも知れず、そういう意味では気長に構えて自然の成り行きにまかせながらも、暇つぶし程度な気分で何をどうしたいわけでもないのだが、それでも否応なく自身の外部から及ぼされる作用や影響によってどうにかなってしまうような成り行きには逆らえないわけだ。
9月4日「面倒な成り行き」
行動の全てがそのまま勝負事や賭け事に結びつくとも限らないが、勝機をつかむには機会を捉えて適切に行動することが重要となってきて、実際にその機会を捉えて行動した結果から事の成否が決まるなら、それがゲーム的な成り行きだと言えるかどうかもわかりそうなものだが、もちろん世の中の全てがゲームの類いに支配されているとも限らないが、そこに参加する者たちが各々に勝つために必要な戦略や戦術の類いを持ち合わせているかどうかも、そこで行われている内容にもよるだろうが、そういうことではないとしたら何なのかというと、勝つためには手段を選ばないといった単純なゲームではなく、またルールの範囲内でやるべきことがあらかじめ決められているわけでもないとすれば、好き勝手にやりたい放題やれるわけでもないだろうから、何かしら面倒でややこしい制限や制約がある中で行動しなければならないだろうし、それがルール以外にも行動に作用や影響を及ぼしてくるなら何なのかというと、人と人との間で生じる面倒でややこしい駆け引きの類いになってきそうで、そういう面では交渉術として取り引き相手から妥協や譲歩を引き出すタイミングやテクニックなども重要となってきそうだが、それも違うとしたら何なのかというと、なぜかそれがルールではない慣習的な手続きを経ないとうまく行かないようなことになってしまうと、それを知らないとお手上げ状態となってしまうし、何よりもそういう暗黙の了解事項のような慣習に慣れないとまずいわけで、それがその場を支配する礼儀作法のようなものなのかは何とも言えないし、その場の空気を読むことがそれに当たるかどうかもよくわからないとしたら、そこに関わってくる様々な要素や要因が複雑に絡み合ってくるような様相を呈しているのかも知れないが、それが何なのかといってもよくわからないわけで、ただ何となくそうなっているようなことなのだろうが、慣れている人なら何となくわかっているようでいて、本当のところはよくわかっていない場合もありそうで、誰も完璧には理解していなくても、そういう成り行きに巻き込まれてしまうと、その中でもうまく立ち回って成功するのか、たまたま何かの歯車が噛み合って特定の人や集団が優勢となってしまうのかは、実際にそうなってみないことにはわからないことかも知れないし、そうなったところで、誰にもはっきりしたことは言えないようなことかも知れないが、何となくそうなってしまうとそれでいいような良くないようなことになって、なし崩し的にそうなってしまうから、そういう成り行きには誰も逆らえないことになってしまえば、それに従うしかないから、そうなった後から大して文句が出るようなことにもならないのだろうが、それが不可解というよりは、不可思議というわけでもなければ、自然な成り行きとでも形容する以外にはあり得ないのかも知れないが、そういう成り行きへと持って行こうとしているわけでもなくても、自然にそうなってしまえば、特に面倒な事態になっているとも思えないのだが、それを目指さなくてもそうなってしまうのだから、そうなるしかないとしか言えないようなことなのだが、果たして世の中の全ての成り行きがそうなるとも限らないはずだが、多くの人々が得体の知れない何かに囚われている限りで、そうなっていることを理解していなくても構わないようなことかも知れず、それを無理に理解しようとしても勘違いな解釈に至るしかないから、実際に山本太郎やれいわの支持者たちなどが奇妙な言動や行動を伴いながらも、彼らにしてみたらそれで構わないような状況の中で、彼らにふさわしい形態となっているはずだが、それに関して他の党の人たちと比較して何が言えるとも思えないし、彼らなりの対処や対応をとることで現実の世の中と折り合いをつけるしかやりようがないのだろうから、そういうところで活動が成り立っているように見えるのだが、そういうレベルでの活動と現実の世の中の成り行きが結びついているかというと、それもある程度は結びついているのだろうが、たぶん彼らとは直接には結びついていない方面で経済的な成り行きも生じていて、それが彼らには理解できない方面の成り行きなのかも知れないし、それを彼ら以外の誰が理解していようといまいと、彼らには直接関係のない方面の成り行きなのかも知れないが、そういう成り行きの中で何がどうなっているのかというと、世界各国の政府や議会などでは対処しきれていない方面で動いている世界情勢なのかも知れず、政治の領域からは触れることのできない成り行きが生じているのかも知れないから、もちろん彼らにはどうすることもできないからといって、他の政治勢力や政府でもどうすることもできないのだから、彼らに何か能力不足のような否定的な欠陥があるわけでもないのだが、それを新自由主義的な成り行きといってしまうと、勘違いもいい加減にしてほしいようなことにもなりかねないが、マネーゲームだけで経済が回っているわけではないもわかりきったことだが、誰もどんな勢力も制御しきれているわけでもないのに、何かそこからある種の傾向が生じていて、そんな傾向がマネーゲーム的な傾向であり、誰もがそこに参加しているわけでも参加できるわけでもないのだが、それも成り行き的には強制参加のような傾向がいつの間にか生じてくるから、否応なく程度の大小や強弱を伴いながらも参加させられてしまうのだろうが、それがマネーゲームだからといって、通貨を発行している政府に絶対的な有利さや主導権などがあるわけでもないところが、理解しづらいところかも知れないし、政府に絶対的ではなく相対的な有利さや主導権があるとしても、通貨そのものに絶対的な価値があるわけでもないだろうから、それが場合によっては通貨の代わりになりそうな貴金属の金などにも言えることかも知れないが、単独でどうにかできるようなことでもない代わりに、そこへと関わってくる様々な要素や要因に絡めて部分的に制御するような成り行きになってくれば、政治や行政にも部分的な役割を担うようなことにもなるのだろうが、それがいつの間にか全面的に権力を行使したり権限を一つの機構へと集中させるようなことをやってしまうと、途端に全てがうまく回らなくなってしまうのだろうが、政治や行政が目指してしまうのはいつも決まってそういう方向なのかも知れず、部分的な制御では思うような成果を得られないから、特定の役職などに権力や権限を集中させて全面的に制御したくなってしまうわけだ。
9月3日「逆説的な役割」
他人を説得するにはその他人が信じている理屈を持ち出すのが手っ取り早いが、他人が信じている理屈を持ち出してその他人が肯定している物事を否定したり批判することになれば、嫌がらせをやっているような気まずい感じがするだろうし、それが誰もが納得できてもっともらしく感じられる理屈になれば、なおのこと他人の間違いや誤りを指摘して論破したい意図や思惑が窺われるから、そんな理屈を用いて現状で行われていることを否定したり批判したりする成り行きになれば、その否定や批判の標的となっている他人でなくても、嫌な感触が何かを否定したり批判する行為自体から生じているのはわかりきっているが、そんな何かを否定したり批判する主張や意見に説得力が感じられないなら、論破の試みが失敗に終わっているようにも思われるから逆に安心できて、述べていることに説得力が感じられないから嫌な感じも軽減して、安易な理屈を持ち出して何かを否定したり批判することの愚かさや浅はかさを、そんなことをやっている者自身に思い知らせているようにも思われて、その否定したい何かというのが現状で無理やり争点化しようとしているような物事になると、なるほど強引に批判や否定の対象となる物事へと人々の関心を向けさせようとしているのかと理解できるが、それとは違うかどうか怪しいにしても、例えば政治家が担っている立場になると、多くの人々から支持を得られるようなわかりやすいことを実現しなければならなくなるから、それも安易に浅はかなことを主張してそれを実行しようとして、それをメディアに巣食う識者の類いにたしなめられることになりそうで、その際にはやはり多くの人々がもっともらしく感じられる理屈が持ち出されて、そうなると政治批判の類いが有効に機能しているように思われるのだが、それがそういうことを実行する過程で生じてくる通過儀礼のように思われると、それを否定したり批判する役目を担っている識者の類いと、それを提案して実行する役目を担っている政治家や官僚とがグルになって、そんな事業を推し進めようとしていると思われるわけでもないが、実際にその種の事業が推し進められてしまうから、政治批判の類いも無効なのではなく、有効に機能しているのではないかと逆説的にそう感じられて、結局その種の政治批判をする役割を担っている識者の類いを信用できなくなってしまうわけで、それが現状で進行中の成り行きには欠かせない通過儀礼のようにも感じられてしまうわけだが、現状でやっていることを否定したり批判するような紆余曲折を経ないと物事が前に進まないと考えてもしっくりくるわけでもないのだが、それを否定したり批判する者たちが言説の標的としていることをやめさせるために否定したり批判していることは確実なのだとしても、結果的にやめさせるには至らない事例が多すぎるから、それを否定したり批判する者たちへの信用が低下してしまう一方で、逆にごり押しのようにしてそれらをやり通してしまう側の力が肯定されるとまでは行かないものの、結果的に民衆からの支持を背景としてそんなことが行われていることになってしまうから、民主主義を肯定するならそういうごり押し的な力の行使も肯定できるかというと、それとこれとを混同するわけにも行かず、そういうことをやってしまう側としては民主主義の勝利を印象づけたいとしても、肝心の選挙で勝利する必要があって、実際に選挙で勝っているならそれで問題ないと言えそうだが、ではそれを否定したり批判している側はそうなってしまってはまずいのかというと、まずいからそれを否定したり批判していると見ておけばいいのだとしても、そんなまずい状況を長引かせることに加担していると思われる人々も一方にはいるとすれば、そんな人々がどんな人々なのかというと、普通に考えてそれを否定したり批判する者たちの信用を低下させるようなことを仕掛けている人々だと思いたくなってしまうのだが、それもそうではないと否定したいわけでもなく、逆にそういうことを仕掛けているように感じられる人々を肯定したいわけで、では果たしてそんな人々を肯定するに際してどんなもっともらしい理由や根拠を示せるのかというと、たぶんその辺が微妙なところで、それを単純に利害関係のレベルで語れるかというと、彼らの利益になるからそういうことを仕掛けているどころか、逆に彼らが気づかないところで自滅へと追い込まれるのではないかと予想したいわけで、たぶん利害を意識できるような成り行きにはなっていない可能性があり、彼らは意識せずに自滅へと導かれているから、そんなことを仕掛けていると現状の成り行きを解釈したくなってしまうわけだが、では自滅しないためにはそれをやめなければならないのかというと、それをやめればお前たちは自滅だと誰が言い放っているとも思えないが、なるほどそんな理屈なのかと思って内心ニヤリと笑みを浮かべてしまうような状況だとしたら何なのかというと、それも何でもないと思うしかないが、何でもないような人たちが自滅的な結果しかもたらさない罠を仕掛けていると思っておいても差し支えないのだが、ではそんなのは無視して、これまで通りに政府や地方自治体が行なっているごり押し的な公共事業のような類いを否定したり批判していれば構わないかというと、そういう役割を引き受けている人々がメディア上には少なからず存在していて、それに対してこれまた多くの人々がいいね!という好意的な反応を示していると見ておいても構わないが、そういうことが今後とも繰り返されるかというと、それもそんな成り行きが継続されて行くのではないかと思っていても構わないのだろうし、それの何が逆説的な役割なのかと問いかけて疑念を表明したくなるわけでもないのだが、そんな傾向や方向に沿ってそこで行われている物事を見ていればそれで構わないとしても、それとは垂直軸で交わるような傾向や方向に沿うような見方や考え方をとるなら、ちょっと違った光景が見えてくるかもしれないし、またねじれの位置からそんな光景を眺めるなら、さらに違った形状や形態も思い浮かぶかもしれないが、たぶんそんなことをやる必要さえない人々が世の中の主流派を構成している限りで、現状の世の中がさらに続いて行ってしまうと考えるのも、今後何か思いがけないことが起こるまでは、それで通用しているような気分でいられるのかも知れない。
9月2日「富の消尽」
現時点でわかっているようでわかっていないことというと、それが経済のことであれ政治のことであれ、何かもっともらしいことが言えてしまう一方で、それを言ってみたところで、言っている内容が世の中の現状から乖離しているように思われると、それを理想と現実がかけ離れていると解釈してみても、また言うは易し行うは難しと理解したところで、そういう言説的な単純化からははみ出るところに現実の世界のわかりにくくこんがらがっている面がありそうで、それをうまく説明できないから言うだけでは違和感が伴うのだろうが、そうだとすると簡単に言えてしまうようなことを信じてしまうとまずいのかも知れないが、それでも簡単に言えることが何なのかと言うと、良心的な政治家の類いが安易に富裕層や大企業に増税すればいいんじゃないかと主張できるようなことなのかも知れず、それが正しい主張のように感じられるから、そういうことを主張する政治家の類いを支持したくなってしまうわけでもなく、実際にはそうはなりづらいことを知っているから、そういう政治家を支持しづらいのかも知れないし、では実際の成り行きがどうなっているのかというと、富裕層や大企業には投資させて保有する富を消尽させるように仕向けられていると考えると、それも俄かには信じ難いかも知れないが、例えば古代に巨石や巨岩を加工して巨大なモニュメントの類いを建てる行為が、ただ無駄に多くの労力と手間暇をかけているだけのように感じられるかというと、果たしてそこで暮らしていた人々の生活の中でそれらの記念碑的な建造物が何を意味していたのかと想像してみると、やはり安易に宗教的な儀式の類いを思い描いてしまうのだが、そんなものを造るよりは人々の生活を直接豊かにする目的で公共的な何かを造れば良さそうだが、それも治水事業とか灌漑設備とか都市施設などで実現したのだろうが、実際にはそれよりも支配者のための豪華な宮殿とか巨大な墳丘墓とかの方が目立ってしまうから、そういった方面で無駄に富を消尽させているように思われるのだが、それもそんな無駄に巨大な建造物を造れるだけの人数とそれらの人数が生きていけるだけの経済的な裏づけがあったからこそ、遺跡として現代でもそれらが残っているわけで、実際にそんな遺跡を造れるような巨大な王国や帝国などがかつて存在していたと想像できるわけだから、人の経済活動が行き着く先が、そういった無駄に思われるようなものを造るような成り行きへと導かれているような気もしてくるわけだが、確かに普通に考えてイースター島の住民が巨大なモアイ像を造る必要性などないような気がするのだが、そんなものを造る手間暇などかけないで、自分たちの生活をエンジョイしていればその方が良かったのではないかと思うわけでもなく、果たしてモアイ像を造ることが島民の娯楽だったのかと想像する人もまずいないだろうし、何かの宗教的な儀式に必要だったから無駄に手間暇かけて巨大なモアイ像を造ったのではないかと推測したくなってしまうわけだが、それと現代において大阪のゴミの埋立地に万博会場を造ったり、カジノ施設やホテルを建てることが同じなのかというと、どう考えても同じとは思えないが、では奈良時代に疫病が流行して民衆が苦しんでいるのに、都に巨大な大仏殿を建造したり、遷都を何度も繰り返した聖武天皇の事績と比較したらどうなのかと問う人もまずいないだろうが、為政者の勘違いな思い込みがそんなことをさせるのだとその場の事情や経緯を無視して安易に言い放つのも、何かおかしいような気もするから、どうしても言うとなると、もっともらしい理由や理屈をつけてそういうことをやるのが当然のことのように説明したくなってしまうのだが、それ自体がおかしいのに、大阪万博やカジノ事業に反対する理由をもっともらしく述べるのも、誰もがそんなことなどわかっているのにあえて言わざるを得ないようなもどかしさを感じるわけで、逆に万博やカジノを推進する理由を説明せざるを得ない立場になってしまうと、さらなる窮地に陥ってしまうような感じにもなってくるのだろうが、そういう無理な理由や理屈をつけて事業をごり押しせざるを得ないのだろうから、またそれがマイナンバー事業をごり押しせざるを得ない担当大臣にも言えることなのだろうが、それに反対するにしても賛成して推進せざる得ないにしても、そういうことを言わざるを得ない立場というのが現実に存在してしまうわけだから、そうなっている時点で言説的な困難が実際に進行中の物事の成り行きから生じているわけで、それをどう捉えてみても納得し難いかというと、それに関して何か言っている者にしてみれば、ここでメディアを通じてもっともらしいことを言い放って多くの人々から支持や賛同を得たいという嫌らしくも図々しい魂胆や皮算用があるのかと問われるわけでもないが、それもそんな成り行きに否応なく巻き込まれているような気もしないではないから、何かこれ見よがしなことを言いかけてはちょっと待てよと躊躇するほどのことでもないにしても無性に居心地の悪さを感じるわけだが、どうしても多くの人々が求める方向へと思考も感情も言動も誘導されているような感覚が拭えないから、かえって警戒してしまうし、それを警戒せずに不用意にメディアで識者の類いが述べるようなことをSNSなどで述べてしまうと、何か罠にかかってしまったような焦燥感も覚えて、これではまずいなと反省するわけでもないが、少なくとも現状の世の中で進行中の経済的な成り行きを重視するなら、行政的なシステムの面での徴税による富の再配分などの働きが有効に機能するような状況ではないことは理解できるし、それよりは古代より連綿と続いている富を消尽させるような働きの方が強く機能しているのではないかと思ってしまうわけだが、もちろんそれが正しい現状認識だとも思っていないし、もっと理性的かつ合理的に行政を機能させるにはどうすれば良いのかと暇にまかせて日々考えているわけでもないが、少なくとも富裕層から貧困層へとダイレクトに富を移すようなことはできないし、大企業に増税して中小企業に減税するようなことを簡単に実行できると考えるのもちょっと無理なようにも思われるから、そういうことを安易に主張する政治家の類いを支持できるかというと、やはりそれもちょっと支持するのを躊躇してしまうわけだ。
9月1日「逆らわないこと」
軽い気持ちでそんな気がする程度の気分が意外と重要であったり、時にはそれが起因して重大で深刻な事態をもたらすこともあるらしく、思いがけずそうなってしまうと、そうなった結果からもっともらしく言えてしまうことが出てくれば、それを真に受けてそういうことなのかとそれについての見解や説明を信じたくなってしまうが、信じたところで気のせいでしかなければ、勝手な思い込みに違いないのだろうが、それの何がおかしいのかといっても、それを直接述べる気にはなれないわけだから、回りくどくとぼけた内容になってしまいそうだが、そういう些細な経緯や事情が絡まり合って何かの拍子にこれでもかと積み重なったり執拗にまとわりついてきたりするから、単体なら無視できても合わせ技のようにして効いてくると対応せざるを得なくなって、対応しているうちに当初の目論見や計画とは違う方向へと舵を切らされてしまい、果たしてこれでいいのかと問うまでもなく、問う余裕などないまま否応なくそうなってしまうから、それが特定の人物の意志や意向とは違う自然の作用や影響である限りで、そこに関わっている誰も逆らえない成り行きになってしまうのだが、今がそういう成り行きなのかと言えば、部分的にはそうだと思っても構わないが、それが部分的である限りは逆らう人もそれなりに出てきて、そこで生じている自然の成り行きに逆らえる人がその場の主導権を握れるかというと、大抵は逆らうようなことを言っている人を擁護したい人もそれなりに出てくるわけだが、そういう人たちが反体制派的なポジションを獲得するとしても、それに対してああなるほどと他の多くの人たちから思われてしまえば、何でもかんでも反対する人というレッテルを貼って片づけられるような人々だと理解されてしまうわけで、そうならないように細心の注意を払う必要があるかというと、それもどういうわけか逆らう人たちの間でも主導権争いが起こってしまい、そんなことまで注意を払っている余裕などなくなってしまうから、果たしてそれがそこで生じている自然の成り行きの思うつぼなのかというと、自然の成り行きが何を思っているわけでもなく、それが神の意志だと思いたいならそう思いたい人が勝手に思っているに過ぎないことだが、そうなっているうちに結局は逆らう人々も信用できないことになれば、うまく反対派や反体制派を封じ込めたことになるかも知れないが、そんなふうにして封じ込められてしまう人たちがどんな人たちなのかといえば、それが反対派や反体制派のレッテルを貼られた著名人になるから、彼らが現状の世間を構成する勢力にも含まれてくるはずで、こんな現状を維持するためにわざわざ主流派を批判しているのかと思えば、どういうわけか合点がいくような気がしてしまうのだが、それも身勝手な思い込みに過ぎないのだろうし、できれば反対派を批判するのではなく、反対派が批判の対象とする主流派を批判の標的に定めなければならないのだが、自然の成り行きに沿うならそうは行かないわけで、なぜか反対派の方を批判するように仕向けられて、反対派の中で内ゲバの内部抗争が発生して、反対派自体が自滅するように持って行かれてしまうなら、反対派だとレッテル貼りした側の思うつぼだが、本当にそうなるかというと、そういうところで山本太郎の手腕が試されていると思うわけでもなく、そんな成り行きも無視できるようなことかも知れず、自然の成り行きに逆らうのではなく、逆らわない程度の軽い気持ちでそんな成り行きについて行けば、知らないうちに過ぎ去ってしまうようなことかも知れないから、取り立てて行動する上で指針となるようなことが思いつくわけでもないのだが、主流派としては何とかしてひどい自分たちの味方をするように持って行きたいわけだから、そういう思惑がどこから生じてくるのかが謎なのだが、もちろんそれを謎だと思うこと自体も勘違いであり、現状で批判の的となっているひどい人たちの方が主流派の支持や賛同を得られているから、実際にひどいことをやらざるを得ないような立場になっているわけで、それをこれ見よがしに批判されたり非難されてしまうわけだから、ではひどいことをやめればいいのかというとそういうわけには行かず、やめられない限りでひどい現状が維持されてしまい、そうなっていること自体が不条理に感じられるのだが、それもそれで構わないようなことなのかも知れず、そういう成り行きに絡め取られている人たちの自業自得だと思うしかなく、何かそれが自滅のような結果をもたらしてしまうから、そうなってはまずいような気もするのだが、それでもそんな成り行きには逆らわない方が良さそうに思われて、なぜそう思われるのかも謎なわけでもなく、わかっているのにそれをあえて述べる気にはなれないから、そのままになってしまうにまかせながら、さらに述べるとすれば、その辺でうまい具合に世の中ができていて、現状でも批判しようと思えばいくらでも批判しまくりになってしまうような批判の対象となる人や勢力が世の中の主導権を握っているように見えてしまうわけだから、反対派や批判派のレッテルを貼られるような人たちがこれ見よがしにいくらでも批判や非難を浴びせている現状をどう捉えたら納得できるわけでもなく、それも自然の成り行きで批判したくなるのをぐっとこらえて、何となく軽い気持ちでいいね!をつけて済ますようなことになってしまうわけで、そうやってやり過ごしていれば時の経過がそこで問題となっている物事を解決できるかというと、そうは思えないし、そこからある程度の時間が経過したところでも相変わらず懲りもせずいいね!つけて済ましている自分に嫌悪感を抱いているわけでもなく、こんな成り行きに逆らったら負けなのだと自分にくどいくらいに言い聞かせているとも思えないのだから、どう考えても軽い気持ちでわざとやり過ごすようなそぶりになっている自分を責める気にはなれないわけで、これでいいのだとは言えないまでも、彼らを説得しようと試みても聞く耳など持っていないのもわかりきったことだから、このまま放置する以外にはやりようがないのだと自分に言い聞かせるつもりもなく、やはりもっと軽い気持ちで、へぇ〜と事態を憂うでもなく心配しながら眺めているでもなく、ただやり過ごしているわけで、ここから事態がどう転んでも構わないような自然体で臨んでいればそれで構わないような現状なのかも知れない。
8月31日「AI革命の恩恵」
何かそういう成り行きになれば、できれば信頼できる予想に基づいて行動したいが、それを信頼できるか否かの判断が他の多くの人々も信頼しているからだというと、本当に多くの人々が信頼しているのだろうかと疑念を覚えるなら、疑い始めたらきりがないが、では納得できる理屈や論理や理論などに基づいた予想なら信頼できるかというと、その理屈や論理や理論などを信頼できるかというと、そこでも疑い始めたらきりがなく、そもそもそれがどういう成り行きなのかが問題となってきそうで、他人と同じことをやっていたらうまく行かないことであれば、他の多くの人々と同じ行動になってしまうとまずいわけで、多くの人々が信頼している理屈や論理や理論などに基づいて多くの人々が同じように行動したところでどうなるわけでもないとも言えないものの、結局そこで競争が起こって競争に勝ち抜いたごく少数の人たちが成功するようなことだと、ほとんどの人々は成功するはずがなく、それも程度や傾向にもよるだろうから、成功しなくても構わないようなことなら、たとえうまく行かなくてもそこで繰り広げられた競争やゲームの類いを楽しめただけでも良しとしなければならないかどうかもそうなった結果から判断するしかないが、競争やゲームに勝利したごくわずかの成功者たちを祝福するような結果になれば、それで良かったことになってしまうのかも知れないが、そういうことならそれで構わないと言えてしまうが、本当にそれで良いのかどうかも、人によって立場や境遇によっても判断が違ってくるなら、競争やゲームに負けて悔しがっていた方がまともな反応かも知れないし、それが勝負事になる限りで、そうなるのが見え見えだと予想されるなら納得できるかというと、果たしてそういう予想に基づいて行動できるかどうかが、勝てる見込みがある者なら喜んで勝負事に参加するだろうが、負けそうならやめておいた方が良さそうで、それも果たして事前に勝てそうか負けそうかの判断がつく場合もつかない場合もあると、その判断がつかないと迷うところだろうし、それもそんなことを言い始めたらきりがなく、そもそも勝負事はその勝負事を仕切っている人や団体をいかにして味方につけるかで勝ち負けが決まってくるなら、仕切っている人や団体を味方につけられなかった奴らが負け犬の遠吠えのように勝負の公正さやルールの透明性を訴えかけたところで、すでにその時点でやる前から勝負ありという事態になって、山本太郎の記者会見を聞いていると、いつも負け犬の遠吠えのような雰囲気を感じてしまうところが何だかな〜と思ってしまうし、八百長だと言いたくもなる者に同情したくなるのだが、そういう世の中の汚い面を乗り越えられるかというと、乗り越えなくても通過儀礼のようなものかも知れないし、そういう汚い面から目を背けながらいけしゃあしゃあときれいごとを言ってのけるのが談合的な慣習なのだろうから、長い物には巻かれて同調圧力に屈したふりを装いながらも、ちょっとした隙を突いて反撃に出るようなことでもなく、本気でそう思っているわけではないとしたら、何か違うような気がしてしまうわけで、本当はどっちでも構わないのだが、何がどっちでも構わないかが、果たしてハリスでもトランプでもどちらがアメリカの大統領になったところで大して変わらないし、何がどうなるわけでもないと突き放して見ていられるのかというと、そうやって他人事のふりをしながらも、それよりはAI革命が十八世紀の産業革命や二十世紀末のIT革命に匹敵するどころか、それらを遥かに凌駕するようなことになるとも限らないから、もちろんそれが拍子抜けするようながっかりな結末になっても構わないのだが、それによって現状で行き詰まっている何かが改善したり解消するというよりは、現状とはまた別の思いもよらない問題が出てくるなら、それがAI革命の成果だと言えるかどうかも人によって見解が分かれそうだが、思いがけない方面からこれまでにはない傾向が出てくれば、それがAI革命によってそうなったと言えるだろうから、そんな傾向を利用したり活用することで人の活動も変わってくるかも知れず、そうなれば予想外の成り行きが生じてくるだろうし、そうなることを現時点で予想できるかというと、何か期待したいのだろうし、そうなった後からなら予想していたと主張する者もいくらでも出てくるかも知れないものの、かつての産業革命が起こった時点でもIT革命が起こった時点でも予想外のことが起こっているはずで、その現時点で信頼できる予想に基づいて行動する者が大勢いる中で、それもごくわずかに予想外のことが起こったのを利用したり活用する者も出てきて、その中から成功者が現れたのかも知れないが、産業革命やIT革命が世の中に及ぼした作用や影響によって、実際に世の中がそれ以前とは様変わりした面もあるだろうから、やはりAI革命も世の中を様変わりさせるような作用や影響を及ぼすかというと、それも現時点では予想できないようなことを今後起こすかも知れないし、それが起こってからそうなることを予想していたと主張する者もいくらでも現れるかも知れないが、少なくとも現状の資本主義経済で問題となっている貧富の格差などをAI革命が改善したり解消したりするとは思えないし、そういう傾向とは違う傾向が顕著になることによって貧富の格差自体が無効化するわけでもないにしても、それとは違う方面で別の価値観や判断基準が重要に思われたり優先されるような事態になってくれば、貧富の格差などあろうがなかろうが問題ないとはならないにしても、それとは別の方面で別の問題が重視されるような傾向となるかも知れず、それが何なのかというと、現時点ではまだはっきりしていないと述べておくしかないが、それを単純に考えるなら例えば産業革命時よりもIT革命時の方が地球上で生きている人の数が何倍にも増えていることが何を意味するのかというと、産業革命から続いた人類の繁栄が人口増加をもたらしたと言えるだろうし、ではそこからIT革命によって何がもたらされたかといえば、富裕層に偏って資産が飛躍的に増えたことになるだろうが、またインターネットの地球規模の普及によって人々のコミュニケーションの機会も飛躍的に増えたことにもなるだろうから、そこからさらにAI革命によってどうなるかというと、人の活動の様々なところで自動化が飛躍的に進展することが予想はされるが、それによって人の生活がどう変わるかが現状で生きている人々の想像を超えたところで思わぬ変化が起こるのかも知れないし、富裕層ほどのその恩恵に与れる可能性も高そうだが、意外と全ての人にも恩恵がもたらされる可能性もないとは言えないような気もするわけだ。
8月30日「的外れな思考」
自らが直面している事態に関して何かしら腑に落ちないことがあるなら、それについて考えてみようと思うかも知れず、普通は思う前に考えているはずだが、また考えると共に調べてみようと思うかも知れないし、それについて考えたり調べたりすることが何を意味しているのかといえば、それを知ろうとしていると理解できるが、それを知ってどうするのかというと、抱いている疑問や疑念を解消してすっきりしたいから、考えたり調べたりするのだろうが、それでも考えれば考えるほど調べれば調べるほど、かえって疑問が増してきたり疑念が深まってしまえば、それがどういうことなのかというと、実際にそうなってみないことには何とも言えないが、果たして現状の中で何が腑に落ちないのかというと、そんなのもいくらでもある中でも、何を優先して考えたり調べなければならないのかというと、やはりそんなのもいくらでもあるから、年がら年中いくらでも考えたり調べたりしているはずだが、それでも一向に疑問も疑念も解消しないように思われるなら、では考えたり調べたりしても無駄なのかというと、それも実際に無駄だと思う物事もあるし、無駄ではなかったと思う物事もあるだろうが、もちろん考える内容にも調べる内容にも程度や傾向の違いがあって、いくら疑問や疑念が湧いてきても大したことではない物事から、疑問や疑念を解消しないと何か深刻な事態に陥ってしまうかも知れない物事まで、その対象にも色々違いがあるから、考えても調べてもわからなくても構わない程度の物事ならどうということはないが、果たして現状でそれがわからないと深刻な事態に陥ってしまう物事があるかというと、それが自分にとってそうだというよりは世の中にとってそうであるなら、確かに誰にとっても深刻な事態になるかも知れないが、誰もそんなことには気づいていない可能性もある一方で、逆にわからないままでも大して気にならない物事などいくらでもありそうな中で、自分にとってそれがわからないと深刻な事態に陥ってしまうような物事については、それなりに必死になって疑問や疑念を解消しようとするだろうが、実際に現状でも必死になっているかどうかは何とも言えないが、それなりに考えていることも調べていることもあって、それが誰にとっても興味深いとも感じられないが、何か大げさなことを考えているのは確かで、そんなことがわからなくてもどうということはないとは思っているのだが、逆にわからないからこそ現状の世の中がそれなりにうまく回っているような気もすることだから、かえってわかってしまうとまずいようなことかも知れないが、自分がわかったところで世の中がどうなるとも思えず、できればわかったことを文章にして示したいのだが、それが現状ではうまく行っていないような気がするわけで、まだわかっていないと言えばその通りでしかなく、これからそれを理解したいし、理解したことを文章にして提示してみたいと思っているが、無理なような気がしているわけだから、わからないことをわかろうとしているだけかも知れないし、それに関しては的外れなことを考えているのかも知れないが、それが的外れだとしても自分にとってはそれを切実に知りたいと思うのかも知れず、それが誰にとってもそうは思われないことも理解しているつもりだが、興味のない人にとってはどうでもいいことが自分にとってはどうでもよくないのだから、関心の向かう先が人によってもその人の立場や境遇によっても違ってくるのが、それだけ世の中の全ての人が関心を持つようなことがわかっていないわけでもないのだが、それがそうではないようなことに関心を持っている証拠となるのかならないのかもよくわからないのだが、そのおぼろげながらの不確かな理解力に頼って文章を構成していることが、何か的外れな内容になってしまっているのかも知れないが、そもそも思考の対象となっている物事が何かというと、それがはっきりしていないのかも知れないから、的外れも何も、的を得ていない可能性もなきしもあらずで、的がないのにそこへ向かって思考の矢を放ってみても、かすりもしないのは当然なのだが、いったい何を的として想定しているのかと言えば、資本主義市場経済だと思いたいのだが、それ自体が実態があってないような物事であれば、何かの幻影のようなものに思考を向けているのかも知れず、もちろん誰もそれを幻影だと思わないから、それについて四六時中と言わないまでもそれなりの時間を割いて考えているわけだが、果たして考えるだけ無駄というわけでもなくても、何か目的がないと考える意味も意義も価値もないことなのかというと、目的がないわけではなく、ただ単に理解したいから考えているわけだが、それがシンプルな目的なのかというと、そうではないとしたら何なのかといったところで、何でもないとも思えないし、理解するだけではなく、理解したことを活用して何かしら働きかけたいのかも知れないし、それが何に対して働きかけるのかといえば、どう考えても世の中に向けて働きかけたいはずだが、何かそれが雲をつかむようなことでもあって、何の感触も得られないようなことかも知れず、だから漠然とそう思っているだけで、今のところは何がどうなっているわけでもないのだろうが、それでも多くの人々が簡単にそうだと指摘したりこれ見よがしに言い放ってしまうことが、ちょっと待てよと疑問や疑念を抱くようなことになってくるから、そういう成り行きの中で資本主義市場経済については考えざるを得なくなってきてしまうわけだが、もうかれこれ十年以上は考えているのにまとまった形で思考内容を示せないとなると、さすがに能力のなさを認めざるを得ないし、自分が扱いきれるような対象ではないのかも知れないし、そうであっても他の人たちが示している内容に満足できないから、それを批判したくなってしまうわけで、そんな批判を素直にして行けばそれで構わないように思われるが、批判しようとするとちょっとそれではまずいような気もしてきて、何か自分独自の内容を付け加えたくなると、やはり現状ではまだ理解が足りないように感じられて、そう思うと批判も躊躇してしまうし、なるべくちゃんと理解してからそれを文章にして示したいのだが、今のところはまだそれを示す段階には至っていないような気がするわけだ。
8月29日「自然と身につくスキル」
何かの結果が出てから動くのでは遅い場合もあるし、手遅れになってしまうかも知れないが、結果が出る前に動くのでは一か八かの賭けになってしまうような気がするから、動こうとしても動く気にはなれないのも当然なのだが、なぜか今は動くべきではないと思ってしまうのだから、自身でそれを判断していて、その判断が正しいか間違っているかがはっきりしない時もありそうだから、そうなった時には何をどうしなければならないかもわからずじまいになってしまいそうだが、結果が思わしくなければ、あの時こうしておけばよかったと悔やむとしても、こうしておけばよかったと思うことがその時にはできなかったわけだから、それも結果的には不可能だったと思うしかなく、なかなかやろうとしてもできないことがあるらしいのだが、そう思う一方でそうではないと思う時もあって、後から悔やむようならそれでも構わないと思うわけで、悔やむような事態を何度も経験しないと行動に結びつかないような気もするから、悔やんでいるようならまだ経験が足りないと思うしかなく、何度も後悔しないと身につかない動作もあるらしく、それが戦略的な行動となるよりは、無意識の行動に結びつかないと身についていないような気もするから、安易な学習によってそれを身につけるよりは、痛い目に遭う度に後悔しながらも、そんなことを何度も経験しているうちに自然と身についてくるようなことかも知れず、それでは手遅れになってしまいそうだからこそ、安易な人はハウツー本と言われる書物の類いで学ぼうとしてしまうのだろうが、そうやって安易に学んだつもりが、やはり痛い目に遭ってから後悔するわけで、そんな本を読んだところで大して効果がないことを思い知るほど愚かではないのだろうが、その種の書物ほどよく売れるわけだから、それだけ世の中には安易で愚かな人が大勢いることになってしまうのだろうが、本当にそうかというとそうでもないようにも感じられて、そういう人たちが世の中で多数派を形成しているわけだから、そういう安易で愚かな人たちの意向が世の中の政治や経済に反映しているわけで、だから戦略な態度をとるなら、そういう人たちの意向に逆らわない方が身のためだと意識して思っていなくても、それも自然と意識することなくそういう人たちの意向に同調してしまうから、何も改まって戦略的な態度をとることもなく、それも自然と身についてしまう態度なのだろうが、それでいいのかと自問自答することもあまりなさそうだが、果たしてそういう態度が自然に改まることがあるのかといっても、それも意識して人々の態度を改めさせようとして啓蒙や啓発活動をやっている人や団体もいるにはいるが、大抵は多数派から反発されたり反感を買ったりするわけで、それでも何かのきっかけから多数派に受け入れられることを目指して活動しているのだろうが、それらの人や団体の方が多数派に歩み寄ってしまうと受け入れられるチャンスも出てくるのかも知れないが、それでは啓蒙や啓発の意味や意義が薄れてしまうから、反発されたり反感を買うことを承知で活動するしかないだろうし、そうなっている時点で痛い目に遭っていることになるはずだが、一方的にやられっぱなしになるわけでもなく、世の中の状況や情勢が悪化してくれば、自然と愚かな多数派の方が態度を改めざるを得なくなってきた時が、啓蒙や啓発活動のチャンスだと思うわけでもないのだろうが、そういう人や団体の主張としてありふれているのが、今が危機的な状況だと盛んに煽り立てるのがよくあるパターンだとしても、それはこれまでにもいくらでも危機的な状況だと言われてきて、それを乗り越えてきたのか回避することに成功したのかが、そうは思えないとしたら、危機的な状況というがそれなりに大したことであったにしても、結果的にはどうにもならない状況ではなかったわけで、もちろんあの時こうしておけばと悔やむようなことも色々とあるだろうが、なぜか危機を乗り越えたのでも回避できたわけでもなくても、その後の状況としてそれなりの現状があるわけだから、いくら危機だ危機だと騒ぎ立てられても、そんな現状の中で人が生きていられる限りで、ただ単にそんな危機を通過して今があるということでしかなく、そうなると盛んに未曾有の危機だ何だと騒ぎ立て煽り立ててきた人や団体が梯子を外されてしまったことにもなるだろうから、騒ぎ損なのかというと、それらの人や団体の犠牲の上に現状があるようにも思われて、だからそういう人や団体が進んで犠牲者の役割を引き受けていると見ておけばいいのかと思うのも、何かご都合主義のような感じになってしまうが、少なくとも大変な事態になりたくなければ俺たちの言うことを聞いてくれという論理が、多数派には通用しないし、実際に通用してこなかったから現状のようなことになってしまったわけで、すでにそうなっているわけだから、今さら危機だ何だと騒ぎ立てたり煽り立てたりすること自体が、騒ぎ立てたり煽り立てたりする人や団体が危機の犠牲になることによって危機が乗り越えられるのでも回避されるのでもなく、ただ単に危機を通過して現状が保たれるようなことになるのだろうが、果たしてそれで現状が保たれているのかというと、それでも以前と比べて何かしら変化しているとすれば、その変化が危機だ何だと騒ぎ立てた人や団体の尽力の賜物かというと、そう思いたいなら思っていればいいようなことかも知れないし、そんな変化にも誰も注目しないし話題にもならなければ、それでも構わないのだろうが、それで危機を乗り越えたり回避できたと思わない方が良さそうだが、どうもこれまでの歴史的な経緯から言えそうなことは、痛い目に遭ったからといってすぐにそれが教訓となって危機に対処できるようになるわけでもなく、痛い目に遭ったら遭いっぱなしになってしまって、それがいつの間にか忘れられた頃にまた痛い目に遭って、いったい何度痛い目に遭ったら学習するのかと自らの馬鹿さ加減に呆れてしまってもさらに痛い目に遭ってしまい、そんなことを繰り返しているうちに自らの寿命が尽きて死んでしまえばそれで構わないようなことなのかも知れず、それでは何の救いもないような感じになってしまうが、もちろんそれで構わないとは思わないだろうが、それが自分ではどうすることもできないのかも知れず、では果たしてそれが自然に身についたスキルかというと、誰もそうは思わないだろうが、それもそう思わなくても構わないような感じの自然に身ついたスキルなのかも知れない。
8月28日「くだらない人々」
それらの人の何を信用していないのかといえば、自分も含めて人そのものを信用していない面がありそうで、それを人一般と言えば何かもっともらしく感じられるわけでもないのだが、それを自虐的なニュアンスを込めて日本人を信用できないと述べても、日本国民を信用できないと述べても、ではそれ以外の外国人や他の国の国民を信用しているのかといえばそんなはずがなく、どんな国の人も国民も信用できない時はあるだろうし、だからと言って〇〇人や〇〇国民を名指しして罵倒したり小馬鹿にするような煽り立てをやりたいのかと言えば、そんなことをやっているのが一部の信用できない日本人であることも確かだが、その一方で良識ぶった意見を言う日本人を信用できるかというと、いつまでも金権腐敗政治を糾弾し続ける政治家や識者などを信用できるはずもなく、逆にその種の政治的な問題を巧妙に避けて経済的な問題ばかりを取り上げる解説者の類いも信用できないだろうから、うまく自身が専門とする分野内に収まってそれ以外の問題を扱わない人というのが、それがずる賢い面では信用できないにしても、そんなふうに立ち回らないとその人の商売にはならないだろうから、その人の専門とする分野では信用できるはずなのだが、だからと言って積極財政にしないと日本が滅ぶとか財務省が日本を滅ぼすとか、そんな主張まで真に受けてもいいわけではなく、何となくそうではないような気もする程度のこととして受け止めたいわけで、専門的なことを述べている一方でその種のお約束的なわかりやすさとは違う面で巧妙に媚を売るような述べ方に関心が向くわけだから、では具体的に何がどうなっているのかというと、少なくとも何か嫌な感触を覚えるのだからその感触がどこからきているのかを確かめたくなってくるから、くだらない人々だと斬って捨てずに、そこで踏みとどまって、その種の人たちの述べている内容を参考にして文章を構成するような成り行きになってしまうわけだが、それがどういう内容になるかといっても、何かの囮としてそういう人たちを配置しているわけでもないメディアに特定の意図や思惑が行き渡っているとも思えないが、結果的には内ゲバ的な内部抗争へと関心を向けさせられてしまうわけだから、まんまとその種の世論誘導に屈している人たちが馬鹿なんじゃないかと思ってみても、そう思っている自分も何かそれとは違う方面で勘違いなことを述べているような気もするから、他人に向かってくだらない人々だと見下すような気分にはなれないし、確かにその中には馬鹿にされる役割を担うような人々が囮として紛れ込んでいて、そんな人を馬鹿だと嘲っていれば済んでしまうようなことかも知れないが、そうやってそういう方面へと関心を誘導されてしまうわけだから、そこでも馬鹿にしないという選択肢がなくても踏みとどまらなければならないような気がすると共に、まさに政治家が不祥事のバーゲンセール状態なのに、そこへと飛びついてこれ見よがしに批判しまくり状態になってしまった人たちがその後どうなってしまったのかが気にかかるわけで、今もひっきりなしにそれが続いているというのに、それでもひたすら政権交代を起こさせないように持って行こうとするメディアの思惑をどう捉えたらいいのかと問うようなことでもなく、偽善や欺瞞に塗れながら政治家の不祥事を追及しているのが見え見えだから、政権交代を促そうとする勢力に人々の支持が集まらないのかというわけでもなく、あいつらは財務省に洗脳されているとデマを流している人々が何なのかといっても、そうやって批判勢力の中でも内ゲバの内部抗争へと誘導しているのかと穿った見方をしたいわけでもないのだが、そういう陰謀論的な妄想よりも何かが根本的に間違っているわけでもなく、正義の側に立とうとしてはまずいような成り行きに囚われていることに気づいていないような気がするわけで、もちろん自分も気づいているわけでもなく、何かを述べればどういうわけか自分が正しいことを述べているように装ってしまって、それではまずいような気がしてしまうわけで、自分もくだらない人々に含まれていることを忘れてしまうと、いつの間にか正義の味方のようなことを述べていて、不祥事政治家たちを批判しまくっている人たちを応援したい気になってしまうわけだから、そんな気になっている時点でメディアが仕掛ける世論誘導の罠に引っかかっているのかというとそうでもなく、それを世論誘導だと見なすのも勘違いもいいところで、むしろ政権交代させないような世論誘導に引っかからないように用心しなければならないと思うと、それも違うような気がするものだから、そういう単純なことではないとしたら何なのかというと、小泉進次郎の頭の中身が空っぽだと嘲ることの何がおかしいのかと疑念を抱いている一方で、岸田文雄があれだけひどい政策をこれでもかとやりたい放題やって内閣支持率を下げ続けても、それでも政権交代を起こそうとしないわけではなく、起こそうとしているのにそれを支持しようとしない人々が何なのかといっても、それでも彼らは馬鹿なんじゃないかと思えば納得できるかというと、果たしてその馬鹿なんじゃないかと思われる人々に自分が含まれているのかというと、そうは思えないわけだから、そういう面では素直に正義の味方になってしまうだろうし、自分がくだらない人々には含まれていないことを確信するしかないわけだが、それがまずいのかというと、7月の東京都知事選挙の結果に直面して、それではまずいような気がしてしまうわけだから、何か考えを改めなければいけないような気がするのだが、そういうところでくだらない人々か正義の味方の人々かの線引きをしてしまうのもちょっと違うと思うしかなく、自分が正義の味方のような人々を応援してしまうとしても、それと同時にくだらない人々にも含まれているような気もするから、正義の味方の人々と敵対関係にあることも事実としてあるのかも知れず、実際に彼らが批判する新自由主義を擁護しているわけだから、彼らからすれば批判対象のくだらない人々とそれほど違わない可能性もあるだろうし、もちろん積極財政と緊縮財政の二項対立も信じていないし、彼らが嫌う行政改革も必要だと思っているから、そういうところでも意見や考えの相違があるわけだ。
8月27日「状況への対応」
現状が何かの過程にあることは確かだが、様々な物事が変化する過程にある中で、これといって重視したい変化の過程があるかというと、すぐに思いつくわけでもないが、変化の程度や傾向にも色々と違いがある中で、そういう変化の過程に直接関わってくる人や団体にとっては、自分たちが関わっている物事の変化の過程を都合良く制御したくなるかも知れないが、それに対する関わり方の程度や傾向によっても、それがどれくらい制御可能かによっても関わっている形態が異なってくるだろうから、例えば台風の進路を人為的に制御できるわけでもなく、全く制御不能であることを受け入れて、進んで行く過程を予測することしかできないなら、台風に関わっているのは主に気象予報士の類いとか、防災に関係する人や団体になるだろうが、人が生きて行く過程において様々な物事に関わって行くことになるとしても、その中でもなるべくなら関わりたくない物事も、その人が抱え込んでいる事情や経緯に応じて色々と出てきそうだが、また関わろうとしても関われないし、関わったところで何の足しにも利益にもならないことが予想されたり、うまく都合良く物事に関われないような成り行きに巻き込まれていると感じたらどうすればいいかといっても、できる範囲内で色々と無駄に努力する羽目に陥ってしまうとしても、何か右往左往しているうちに何とかなってしまったり、また何ともならずに落胆するだけかも知れないが、そういう運命だと思ってあきらめが肝心だとまるで他人事のように自分の境遇を突き放していられるなら、まだ余裕があるには違いないが、その余裕がどこからくるのかといえば、それが経済的な余裕かも知れないし、心に余裕があるからかも知れないが、うまく行っていないことが確かなのに、そのうまく行っていないことが自らの活動の原動力になっていることにも、それほどの深刻さも感じられるわけでもなく、これでいいのだと思っているわけでもないのだが、それでも何かしら思うところがあるわけだから、そんな思いに応じた活動の実態も伴ってくる限りで、それを受け入れざるを得ないというか、受け入れる気もないのにそうなっているから、思い通りに事が運んでいるわけでもなさそうだが、それが誰の思い通りにもなっていないなら、何かそれが自分にとっての救いになるかと思ってみたところで、他人の不幸と自分の不幸のどちらがどうだと比べられるわけでもないだろうから、まだ材料が不足しているわけで、それが何の材料なのかもよくわからないなら、何と何を比べることもできないだろうし、比べる必要もなさそうだが、それとは直接関係のない方面で何らかの作用や影響を及ぼされていると想像してみたところで、実際に自分を取り巻く環境の中で様々な物事の変化に応じて動いていたりいなかったりするわけだから、それをどう捉えてみてもうまく捉えきれず、それに関して物事の理解が追いついていないようなら、感覚がしっくりこないままにとどまりそうで、何だかよくわからない状況の中で右往左往しているとも思えないが、自身がそうではなくても、自らを取り巻く状況の中で多くの人や団体が右往左往しているように感じられるとしたら、自分が傍観者としてそれら人々の右往左往ぶりを馬鹿にしながら眺めていることになりそうだが、もちろん自分が他の何にも関わっていないというわけではなく、何かしら直接関わっている物事もあるのだろうが、それが周囲の誰からも見向きもされない物事というわけでもないとしても、関わり方がちょっとした程度でしかないとしたら、そこへ全面的にのめり込んでいる人からしたら無視しても構わない存在となってしまいそうで、だから無視されても構わない程度のちょっとした関わり方であれば、大してそれが深刻に受け止められるようなことにはならないのかも知れないし、それで構わないなら単なる傍観者に見られてもどうということはなく、かえって無視されていた方が都合が良さそうで、それがたわいないことだと思われるからそうなってしまうというわけでもないのだが、そこへと全面的に関わっているように見える人や団体がそれほどうまく行っているようには見えないから、関わっても大したことにはならないようにも思われてしまうだろうし、それでも関わらざるを得ない人たちが大勢出てきてしまうこと自体が、何か世の中の不幸な現状を物語っているように感じられて、そういう方面の物事の歴史的な経緯に照らし合わせて、そこへと関わってしまったばかりに過去の人々がどうなったのかが、割とはっきりと結果が出ているようなことなら、現状でそこへと積極的に関わっている人々の行く末もある程度は予想がつくかも知れず、そういうことを踏まえながら現状を捉えているのなら、あまり深入りしない方が得策のような気がしてしまうわけで、それもそんな気がする程度のことであるから、たとえそれが思い違いや勘違いであってもどうということはないと情勢を軽く見ているのだから、愚かだと自己嫌悪に陥るほどのことでもないが、自分の頭の中で何かが空回りしているのと同時並行して世の中でも何かが空回りしているような感じにとらわれているのかも知れないが、そんな空回りを代表しているのが政治的な空回りなのかも知れないし、それを空回りさせているのがメディアの狙いだと見てしまうと、またいつもの陰謀論を連想して小馬鹿にするようなメディアを舐めた態度にもなってしまうが、たぶんそうではなく、そうしたメディア報道に踊らされるなと警鐘を鳴らしている人たちを見習ってしまうとまずいわけで、真っ先に無視しなければならないのがそうした人たちなのであり、どうもそれに関して思考が先走り過ぎていることを反省しなければならないのかも知れず、空回りしているのではなく、空回り状態になっているのを真摯に受け止めているような感じなのかも知れないから、メディア報道に踊らされたり騙されていればそれで済んでしまうようなことなのでもあり、それで済ませておいた方が賢明に感じられるならそうしておくべきかも知れず、実際にも傍観者の立場を強いられているなら、そこから無理に離脱しようとするのではなく、傍観者の立場に甘んじていないで、自ら積極的に行動を起こすべきだと促されてしまう成り行きにも逆らわなければならないかも知れないから、そういう方面を見るように目を向けさせられていることにも抵抗する必要も出てくるわけだ。
8月26日「政権交代の現実味」
枝野幸男の思い込みに何か共感するものがあるかというと、何もないわけではないが、なるほどと思うことはいくらでもあって、そのなるほどと思うことが、何かこの人は勘違いしているのではないかと思うようなことだとしても、頭の良い人はこういうことを言いたがる程度のことであって、それが致命的な勘違いとも思えないようなことだから、こういう人が日本の首相でもやっていればそれなりに格好がつくような気がしてしまうわけだが、じゃあ石破茂や小泉進次郎が首相ではまずいのかというと、これまで通りの日本の政治が続いて行く限りでどうということはなく、自民党政権では日本が崩壊するとか騒ぐのもおかしいのだが、そういうところが毎度お馴染みのポピュリストの煽り立てを真に受けていない証拠となってしまうが、できれば立憲民主党に政権交代してくれた方が日本が普通の国に近づくからそうなってほしいのだが、なかなかそうはならないような成り行きになっているらしく、そういうところはあきらめるしかないようだが、枝野にしろ他の誰にしろ、政治ができることというのが現状の自民党政権がやっている程度のことでも、現状のようになっているわけだから、そこからもっともらしく現状の問題点や改善点を挙げて行けばいくらでもありそうなのだが、それが政治的な主張になればそれなりに格好がつくだろうからそれで構わないのだが、また今後何か思いがけないきっかけかられいわ新選組が政権を取って、山本太郎が首相になって消費税が廃止されたところで、そういうことだと受け止めるしかなく、そうなればなったで世の中がそういう出来事を織り込んで行くだろうから、どうということはないと思っておいても差し支えないだろうし、現状では消費税を廃止すべきか否かが政治的な争点になっているかどうかに関しても、そういうことを争点にしたい人たちが勝手に騒いでいればそれで構わないようなことかも知れず、どちらでも構わないというと嘘になってしまい、それよりは選択的夫婦別姓のようなことでも、その是非が争点になっても構わないようなことだろうが、最近はそういうことには関心が向かなくなってしまって、何かの是非や賛否をめぐって対立を煽るような手法を見飽きてしまったらしく、どうでもいいやと思いたくなってしまうのをかろうじて引き止めるような事態に遭遇しているかというと、引き止めようとしている人が少しはいるような気もするが、そういう人には魅力を感じないのは以前から何となくそう思うところかも知れないが、では他に何か関心を向ける対象があるかというと、何もないとは言えないが、それが何でもないようなことかも知れないが、それでも構わないようなことでもあるから、何か目的があって活動するようなことでもなさそうだが、目的を明かさないことが肝要なのかというと、目的がないわけではないが、その目的がたわいないことのように思われるから、目的があってもなくてもどうでもいいような気がしてしまうわけで、例えばこれから一年以内に何かとんでもないことが起こるような気がするから、それに備えて今からやっておくべきことがありそうな予感もしてくれば、実際に何か準備しているのかというと、今のところはそうでもなく、そのための準備ではなく、なぜかそれとは直接関係ないことのために準備しているような気がするのだが、それが何のための準備でもないような気もするのだが、実際にそうなってからそれがわかるようなことなのかも知れず、現時点では何のために準備しているのかもわからないのに、何かに備えているようなことでもあるから、何だかわからないのだが、そのための準備としてやっているようなことが何なのかといえば、心の準備のようなことなのかも知れず、それでは準備とは言えないようなことだとしても、それで構わないのだから、実質的には何の準備でもないかも知れないが、それでも何かに備えているのであり、自分でも気づかないうちに備えているというと嘘かも知れないが、それでも何となく準備しているような気がするから、知らないうちに心の準備ができているのかも知れず、何が起こっても動じないように心の準備をしているというと、何となくそんな気がしないでもないのだが、そうなってからわかるようなことなのだから、そうなってみないと準備していたかどうかもわからない可能性もあり、実際には何の準備もしていなかったことが露呈して狼狽えてしまうかも知れないが、そうなっても構わないような気もするから、何かに備えているなんて嘘かも知れないが、果たしてそんな嘘であっても構わないようなこととして、何かしらメディアを通じて情報が伝わってくるのかというと、少なくとも天気予報や台風情報などは嘘ではなく、ちゃんと観測した結果としてその種の情報がもたらされているはずだが、それでもどんどん情報がずれて行ってしまい、数日前の情報と現時点でもたらされている情報との間で無視できない誤差が生じていても、だからといって数日前の情報が嘘だとは思っていないわけで、数日前の段階ではよくわからなかったことが徐々にはっきりしてくるようなことでもあるから、だんだんその時が近づくにつれてわかってくるようなこともあるのかも知れず、そんなわかってくる程度や度合いに応じて準備することも準備できることも変わってくる可能性もありそうで、だから今は心の準備程度でも構わないが、その時が近づくにつれて徐々に準備しなければならないことがわかってくるとしたら、絶えず注意深く情勢の推移を把握しておく必要もありそうだが、それも果たしてそういう出来事に備えて準備しているのかというと、やはり今のところはよくわからないままなのかも知れないし、そういう意味ではそれが起こることを信じるか信じないかはあなた次第のあなたに自分が含まれてはおらず、何かが起こることは起こるのだろうが、それが起こった時にそれに対する備えができていれば運が良かったと思うかも知れないが、それが起こらずに準備が空振りに終わってしまったところで、自分がそれに気づくとも限らず、何を準備していたのかもわからずじまいになってしまっても構わないようなことなのかも知れず、自意識がそれを感知できなくても、なぜかそれに対する準備ができていたことになるような気もするのだが、いつものようにそれも気のせいで済ませてしまうような気もするわけだ。
8月25日「それが原因となる理由」
それが権威や中心の定かでない分散したネットワーク状の形態の特徴だと述べてしまうと、そう思うこと自体がおかしいと感じるのは毎度のことで、彼らにおかしいとは思わせないようにしたい意図や思惑があると想像してしまうと陰謀論になってしまいそうだが、彼らとは誰かというと、誰かしらそんなことを画策して実行している人や団体の存在を想定してみると、何やらそこで行われていることの理由や実態がわかってくるような気がしてしまい、そんなのはお前の勝手な妄想だと小馬鹿にしたくなるのだが、妄想だの陰謀だのを想像しないと何を述べる気にもならないような世の中の状況なのかも知れず、それが気のせいでは済まないような深刻な事態にしておきたいわけで、気のせいでは済まないから絶えず誰かが煽り立てる危機感にもリアリティが感じられてくるのだが、それが気のせいであるなら、気のせいで済ませて話にもならなくなってしまうのだが、そんな気がしている嫌な感じを強引に振り払って話を無理やり作ってしまえば、内容がそれふうのフィクションになってしまうかというとそうでもなく、フィクションであっても構わないのだが、そこで行われていることの実態なんて勝手に想像してみるしかないわけで、それについては何の手がかりもないわけではないが、勝手に想像することによって話の内容が興味深くなってくるならそれで構わず、そうであっても何かが起こればすぐにそれが起こった理由や原因を言わないと気が済まないのかというと、それができれば言いたくなってくるのだろうが、それが起こった時の状況にも程度にも傾向にもよるから、すぐにそれを指摘できなくても、少しは考えてから言った方が、言っていることの重みやありがたみにも違いが生じてきそうなものだが、我先に何か言わないと気が済まないような成り行きにとらわれてしまうと、軽はずみなことを述べているようにも感じられて、少しは熟慮して言葉を選んで述べているようにも見せかけないと知性を感じられないと思うなら、我先に言ってしまう人にまとわりつく雰囲気としては頭の中が空っぽな印象も伴ってきてしまうが、そうでなく例えば批判の対象となっている人物の頭の中が空っぽだと印象操作したいような意図が想像されてしまうと、なるほどそういうところで持ち前の悪知恵を活用したいのかと穿った見方もしたくなってしまうところで、ちょっとそれでは意味不明が過ぎるようにも感じられて、反省してそこから少し軌道修正して、そもそも論的な議論の蒸し返しやちゃぶ台返しに戻りたくもなってきたタイミングを見計らって、相手を煙に巻くようなことを述べているのにようやく気づいてみれば、自分でも何を述べているのかよくわからなくなっているわけだが、わからなくても誰かに神罰が下されていることは明らかで、それが批判の対象となる誰かであってほしいのだろうが、そんな都合良く神罰の類いが下されるわけでもないだろうし、神的な作用に意図や思惑などが感じられるはずがなく、思いがけないところから思いがけない人に向かって何かが下されるから、誰も神から下されたものだとも思えないし、ましてやそれが神罰だなんて理由も原因も思いつけないから、下された当人も戸惑うしかないのだが、中には戸惑う隙も暇も間も与えられない場合もありそうで、ただの不用意な人がほんの気まぐれで行った登山の途中で遭難しただけのことなら、素人の山岳遭難で片づけられてしまうだろうし、そうなった原因や理由など、その場の状況の程度や傾向に応じていくらでも思いつきそうだが、思いつくのではなく、それが本当の原因だと決めつけたい理由が何かというと、理由を述べている人が真実を述べているように装いたいからでもなく、実際に真実を述べていることを信じてほしいから、執拗にいつまでもそれにこだわっているわけで、俺の言っていることが正しいのだと相手に認めさせたいから、いつまでも執拗にそのことに言及し続けるのだろうから、自らの意志に忠実な言動になっているはずだが、ではなぜそうなると神罰が下されてしまうのかというと、理由などないが、その言動が原因となって神罰が下されてしまうのだとすれば、言動の中身が悪かったことになりそうだが、ではそれが理由なのかというと、当人には納得が行かないだろうし、そもそもそれが神罰だなんて思いもよらないかも知れないが、では何なのかというと、不用意な発言がその人に災いをもたらしたことになれば、口は災いの元だと言えるだろうが、それを口に出して言ったわけでもないのに、いつの間にか言ったことにされてしまって、そのことを理由にしてさっさと片づけられてしまうなら、直接その人を片づけたい人や集団の陰謀だったことになるかというと、陰謀というからには直接手を下すのではなく、それらの人や集団とは直接関係のない別の誰かに片づけさせるように仕向けていたことになるかも知れないが、片づけられてしまった人が納得が行かないのはもちろんのこと、なぜ自分が片づけられてしまうのかも、その原因にも理由にも心当たりがないなら、何なのかというと、その人物が鈍感なのかも知れないが、例えばその人物が石破という名前なら、多くの人がその人物のこれまでの言動に原因があったことに納得してしまうのかも知れず、当人が納得し難いのに他の多くの人々が納得してしまうとしたら、その人の言動の伝えられ方に問題があったと思うかどうかに関しても、それもそうなるように持って行きたい思惑がメディア報道の類いに働いているとすれば、何となくそんな気がしてしまうだろうが、それも成り行きに従えばそうならないとまずいし、そうなってほしいと思っている人が大勢いるから、そんな大勢の人々の思いを察するような結果となってしまうのかも知れないが、実際にそうなったからといって、だから何だと思うわけでもなく、そもそもそんなことにはあまり関心がないだろうし、その人物の名前が石破であろうとなかろうと、また別の誰であろうとなかろうと、そうなってしまう原因が口は災いの元となるようなことでなくても構わないのだが、今後自分以外の誰かに神罰の類い下されたところで、自分でなければ運が良かったと思うわけでもなく、冗談で片づけられてしまうようなことを述べているのを他人がどう思っていても、自分には知る由もないことになってしまうのかも知れず、それがいつの間にかそうなってしまうとすれば、それだけこの時点からそれなりに歳月が経過してしまったことになるだろうが、そうなったからといって自らの意味不明が予言が当たったと言い張りたいわけでもなく、何かの予言の類いがここに書き記されていると言い張りたいわけでもないから、現時点では何とも思えないわけだ。
8月24日「クルド族と秦氏」
SNSなどでよく見かけられる意見や主張から窺い知れるのは、何かそうじゃないと気が済まないような理想とする状況や状態を思い描いていて、それが実際にはそうなっていないから、そんな現状が気に食わなくて仕方がないような焦ったい思いに囚われている人も世の中には多いようだが、それもそうなって当然の思いになるだろうから、そう思うのはその人の勝手だが、その人が気に食わない部分というのが、気に食わない対象となる人や団体との間で利害が食い違う部分だと認識しておけば良いのか悪いのかが、それを利害というと、そうじゃないと反論したくなってくるなら、世のため人のためになっていないから、そこはそうじゃないだろうと批判したいのかも知れないが、要するに利己的な利害で動かないで、世のために人のためになるようなことをやってほしいと思うなら、その人にとっての批判の対象となっているのが、公的な政治や行政などに関わってくる人や団体となるのだろうが、その中で団体に関しては地縁血縁的な族という集団も含まれてきて、最近民族差別などで話題となっているクルド族なども族には違いないし、また日本の古代で渡来系の一族で有名なのが秦氏だろうが、クルド族も現代の渡来系一族と言えるだろうから、時期が古代と現代とで違うが、迫害されて日本へと逃げてきた経緯などは似ている面もありそうだから興味深いのだが、クルド族はイスラム系だが、秦氏が創建した神社というのが、稲荷神社と八幡神社で、日本の神社が全国で小さなものまで含めると、数十万社にもなるようだが、一応はちゃんとしたものだと8万数千社と言われるようだが、その中で数え方にもよるだろうが、稲荷神社が3万数千社で、八幡神社が4万数千社だと、小さなものまで含めすぎかも知れないが、かなりの数の稲荷神社と八幡神社があって、しかも稲荷神社の「イナリ」という発音が、キリストの十字架図に書かれた「INRI」と似ていて、ラテン語で「ユダヤの王、ナザレのイエス」を示しているから、稲荷神社の神が古代ネストリウス派のキリストであり、その一方で八幡神社の神である八幡神をユダヤの神である「ヤハウェ」と読めば、古代の秦氏が持ち込んだ神が古代のイスラエルから伝わった神だと言えるだろうから、クルド族の大部分が信仰するイスラムの神であるアッラー(ヤハウェのアラビア語読み)とも一致してきて、古代の渡来系一族と現代の渡来系一族のつながりもそれなりに縁があるということにもなりそうだが、クルド族の中にはイスラム教徒の他にもキリスト教徒やユダヤ教徒や少数ながらゾロアスター教の流れをくむヤジディ教徒もいるらしいが、古代のイスラエルの民にしても現代のクルドの民にしても、定住できずに流浪の民となってしまうと、生きて行くには商業に携わらなければならなくなるだろうから、自然と金儲けの傾向が身について、金儲けに成功して勢力を増してくれば、地元で定住している人々との間で軋轢が生じてくることにもなるだろうし、そういうところで経済的な方面から利害対立も顕著になってくればまずいだろうから、そうならないうちにクルド人を叩いておかないとまずいだろうし、朝鮮人街や中国人街やインド人街やブラジル人街に続いてクルド人街までできてしまうと、何かと地元の日本人の肩身が狭くなってきてしまうことを恐れるのもごもっともなことだが、京都の太秦(うずまさ)などは古代においては秦氏の街だったのだろうから、そういうところも歳月が経過して行くうちに何かと衝突しながらも日本人と混じり合ってくると、何でもないことになってしまうのだろうし、そういえば群馬県の太田市周辺のブラジル人街に近いところに多胡郡があったり、前橋市に合併した町で大胡町という地名もあったが、胡人というのが古代中国においては北方や西方の異民族のことを指しているから、古代において群馬県周辺で馬を飼って暮らしていたのが、その胡人であったらしいし、その群馬県から山を越えたところにある新潟県を含む北陸地方も越後、越中、越前と昔は呼ばれていて、それが古代中国の越という国から渡来してきた人々が住んでいた地域らしいから、そういう意味で日本人といっても古代まで遡れば渡来人の寄り合い世帯の様相を呈してきてしまうわけだから、現代の川口周辺でクルド人が差別されていると騒いでいる人たちにしても、関東大震災の際には朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだと無実の罪を着せられて大量虐殺されたと叫んでいる人たちにしても、それなりに差別を嫌悪する意識というのが歴史的な経緯としての知識を土台にして育まれている限りで正当化できるように思われるのだが、それが倫理的に人権意識となって直接に人権を擁護することが正義であるように主張されてしまうと、無意識に抱く経済的な利害関係や生活習慣の違いから外国人を差別したくなる嫌悪や恐れの感情を抱いている人たちには納得が行かないだろうし、よそ者のあいつらが好き勝手に振る舞ってうまい汁を吸っているのを左翼の奴らが放置しているどころか、助けているのは許せないとなるのも当然の成り行きに思われるのだが、じゃあクルド人が古代の秦氏のように日本の発展のために尽くすような成り行きへと持って行ければいいのかというと、それほどの経済力がクルド人にあるとは思えないし、逆に秦氏のような力がある方が、それだけ当時の社会への影響力が半端なかったということでもあるから、どちらかといえば古代の秦氏を現代に当てはめれば欧米人のような立場なのかも知れず、要するに経済力のある欧米人には逆らえないが、経済力のないクルド人ならやっつけることができるというわけで、それが経済的な力関係でもある限りで、そういった経済的な面を無視して、倫理的に差別は許されないという価値基準に持って行こうとしているところも、無意識にそれと意識することなく正義の味方を気取りたいと見てしまい、ちょっと意地悪すぎるが、善意からそういう差別反対運動をしてしまうと見えづらくなってしまうのであり、それが義理人情でも構わないのだが、もっと下世話な経済事情から見て行けば、それなりに見えてくるものがあるだろうから、正義の味方のような態度で差別は許せないと息巻いている人は偉い人なのだが、偉い人は偉い偉いとおだてておけば良いとしても、直接的な面ではクルド人には普通の外国人として接していてもそれほどの罪悪感を覚える必要もないのではないか。
8月23日「妨害工作の是非と成否」
なぜそう思うのかは特に謎でもないのだが、それほど危機的な状況でもないのに、わかっていないことがいくらでもありそうな気がして、何がわかっていないのかを知ろうとして簡単にわかるとも思えないから、嫌な予感がしているのが勘違いではないとは思いたいが、そう思うことの根拠をはっきりこれだと示すこともできないから、何がわかっていないのかわかっていないような気もして、できればそれを知って安心したいのだが、それをわからない限りは安心できないし、安心できないのがそのまま不安に駆られていることになるかというと、嫌な予感がしているのだから不安に駆られていると思いたいのだが、なぜかそんな不安と共に、いつものようにそれでも構わないと思いたいのだから、嫌な予感がして不安に駆られているのにそれでも構わないのはなぜかというと、不安感を振り払いたいから強がっているわけでもないのだろうが、そうならないと行動を開始できないとも思えないし、他人が強がっているのを見ると無性に腹が立つわけでもないが、他人がやっていることを邪魔することに生きがいを感じているとも思えないのに、結果的にはそこに関わってくる多くの人や団体が他の人や団体の邪魔をしたいだけのように見えてしまって、お互いにお互いの邪魔をすることによって、事態を停滞へと導こうとしているとその場の状況を見ているわけでもないのだが、そんな意図も思惑も感じられないのに結果的にそうなってしまうなら、それでも構わないと思うしかなく、嫌な予感とはそうなってしまうような気がすることなのかというと、そう受け取ってもらっても構わないが、そうならざるを得ないようなことでもあるから、そうなるのは仕方のないことでもあり、そうなっているのを外部からとやかく言っても始まらないような気もするから、そうなることは織り込んでおいて、そうなってしまってもなおやらざるを得ないことが出てくるなら、それをやることによって事態を前に進めなければならないと思うしかないのかも知れず、それがある種の判断材料となるのだろうが、そのある種というのがどんな種なのかもわかっていないから、わかっているようなふりをしながら知ったかぶりなことをこれ見よがしに述べてみたところで、意味不明なのはわかりきったことかも知れないが、事態を前に進めるには他人のやっていることを邪魔しなければならないと思っているわけでもないのに、結果的にそうなってしまうのだとしたら、それを自覚することができないと思うしかないが、否応なくそういう成り行きに巻き込まれている人や団体が何をやっているのかといえば、果たしてそれが本当に他人や他の団体の邪魔をしていると言えるのかというと、邪魔するのではなく批判しているのだと思っているわけでもないだろうが、何かを批判しているつもりでそれに類することを述べていると見るなら、批判するなら勝手にどうぞと突き放して見ているわけだから、批判している内容に関心がないのかというとそうなのかも知れず、批判を邪魔くさいと思っているのに、肝心の批判内容に関心が向かないのだから、その批判自体が有効に機能するとも思っていないわけで、批判されてもそんな批判など無視すればいい程度のことであって、批判を真に受けるのは馬鹿な証拠だと強がっているわけでもないが、批判している側からすれば、批判を真に受けてほしいから批判しているわけで、果たしてそれが批判の邪魔をしていることになるかというと、そんなことにはならないはずだが、邪魔くさいから無視している側からすれば、無視を装っているのに邪魔くさいと思っている分だけ無視できないことを悟るしかなく、そういうレベルではその種の妨害工作がそれなりに効果を上げていて、それが心理的な効果であるだけなく、経済的な効果になるかというと、まだそこまでは達していないような気がすると共に、経済的な効果ではなく政治的な効果になれば、実際にそうすることによって事態が進展すれば効果を上げたことになるはずだが、事態が進展するどころか停滞しかもたらさないと見るなら、何の効果も上げていないどころか、かえって逆効果だったのではないかと不安が募ってくるかも知れないが、そうなった結果からそれを肯定的に見るなら、そうなることを狙って妨害工作を行なったと受け取っても構わないのかも知れず、しかもそれがその場で振る舞っている誰かの退場を促すために仕組まれていることであるなら、誰がそれを仕組んだのかといえば、実際にこれから退場を余儀なくされる者が自分をそこから退場させたくて仕組んでいるとも思えないが、結果的にそうなるなら、あり得ないことだがそう受け取っても構わないのかも知れず、自らをその場から退場させるために自らの活動の妨害工作を仕組んでいると考えること自体が荒唐無稽な嘘に決まっているだろうが、結果的にそうなるならそう受け取っておく方が納得できるわけで、それが自分が自分に課した試練でもあるから納得できると思うなら、自分に対して嘘をついていることになるだろうが、そんな誰かが人生最大にして最後の賭けに出ているのを、傍観者のふりをしながらただ眺めることしかできないとしたら情けなくなるわけでもなく、少なくとも自分がそんなことをやらなくても済んでいることが幸運だと思うわけでもなく、逆にそういうことを自覚なくやってしまう者の方が、それと気づかない限りで幸運を掴んでいるような気もして、羨ましくも思われるが、結果的に悲惨な目に遭うのはそういうことをやってしまう者自身なのだから、それを幸運だと皮肉るよりは単純に不運だと嘆き悲しんでいる方がマシなような気もするだろうが、何しろ強がって見せているわけだから、不運を幸運だと強弁したい気にもなるだろうし、自らに試練を課していると共に、自らの競争相手にも試練を課していると思い込む方が得策なような気もするはずで、実際にそう思っているような節もありそうだが、それに対して何か質問を投げかけている側の言い分が、相変わらずの従来通りの通り一遍な気のない内容だと感じられるようなら、何か肩透かしを食らったような拍子抜けのような気分を味わっている可能性もありそうだが、それも妨害工作の一環でそんなはぐらかし攻撃を仕掛けていると思えば、それなりに納得できるような敵対的な態度や姿勢だと受け取るしかないのではないか。
8月22日「根拠のない予想」
たぶん経済活動の自由を規制せざるを得ないところが、社会主義的な理屈の難点なのだが、課税して規制するのがより一般的なやり方になるにしても、逆に財政的な優遇措置を講じて経済活動を活発化させようとするのも一般的なやり方になるが、思想信条の自由なら規制しなくても構わないどころか、積極的に自由を推し進めなければ民主主義の理念に反するから、その種の自由を肯定するのは誰もが納得できるにしても、経済活動を自由放任にしてしまうと貧富の格差が生じて、結果的に貧乏人の自由が奪われてしまうから、法の下での人民の平等を重視する意味でも、経済活動の自由は規制せざるを得ないかというと、何かそこでひと工夫して、経済活動の自由も他の自由と共に規制せずに済ますことができれば、民主主義的な理念と共に自由主義的な理念の方も擁護できるのだが、果たしてまやかしにならない程度でそんなことができるかというと、そこで新自由主義的な矛盾した理屈を持ち出して、経済活動の自由を守るために経済活動を規制しなければならないと主張するなら、では具体的にどうすればいいのかというと、経済活動の自由な競争を阻害する市場の独占を取り締まることになるだろうが、自由な競争が行われた結果として勝者による市場の独占が起こるわけだから、それを取り締まること自体が矛盾しているような気がするが、理屈としては市場が特定の企業によって独占されてしまうと、他の企業がその分野に参入できなくなって経済活動の自由が損なわれてしまうから、そうなった場合はその企業の独占状態を何らかの措置を講じて解消しなければならなくなると共に、そうなる前に様々な規制を施して独占企業が生じないように工夫を凝らさなければならないのだろうが、果たしてそうやって絶えず経済活動を活性化し続ける必要があるとすれば、政府にそんなことをやる役目が割り振られているのかといえば、誰がそれを割り振っているわけでもなく、人民がそれを望んでいるなら政府もそうせざるを得ないだろうが、何か騙されてるような気がするなら、では騙している主体が何なのかというと、別に政府が人民を騙す必要があるかといっても、そんな気もしないわけではないが、経済活動の面で他の国と競争している感覚がどこから生じてくるのかといえば、もしかしたらそういう感覚自体にあまり納得できるような根拠などないのかも知れず、人民の方でもあまりそういう感覚を真に受けない方が身のためで、他の国との競争に負けないように積極的に自国の産業育成を促すように政府に対して働きかけなどやらない方が、かえって破局的な未来を避けられるかも知れないし、それが直接的な働きかけであるほど勘違いの度も強くなってしまうといっても、何のことやらさっぱりわからなくなってしまうだろうが、たぶん政府が求められているのは他国に負けない防衛力の増強とか、他国との競争に打ち勝つ産業育成とかではなく、もっと内政的な行政サービスや福祉サービスの充実というと、さらに勘違いの度が強まってしまい、絶えず政府が何か策を講じなければならない成り行きに導かれてしまうと、結局は中国的な人民を監視して誘導して制御する国家に否応なくなってしまうから、そうなってはまずいと思うなら、そういうところであまり人民が政府に対して抱く欲望や願望に耳を傾けてはならないというと、ますますわけがわからなくなってきてしまうだろうが、それでも何か人民に対して政府が策を講じる必要があるとすれば、あまり政府に過大な期待を寄せないように世論を誘導しなければならないと思うわけだが、民主主義的な選挙がある限りはそんなわけには行かないだろうから、現状でそんなことは誰も望まないとしても、新自由主義的な傾向が強まってくれば自然な傾向としてそうなって行ってしまうような気もするわけで、それで良いか悪いかは政府に過大な期待を寄せている人たちからすれば良いはずがないだろうが、そうなってしまうと政府が人民を助けてくれなければどうなってしまうのかと絶望的な未来を想像しがちになってしまうかも知れないが、それでも人が生きて行けるなら、誰かが助けてくれなくても生きて行けるような未来が到来するかも知れず、そうなれば政府が国を統治する必要もなくなって、人が誰に統治される必要もなくなるかというと、そんなことは現状では考えられないが、何か現状では考えられないようなことが起こりつつあるのかも知れないし、そのすでに起こりつつあることに気づいているつもりが勘違いなのかも知れないが、要するに人の想像の上を行く事態が進行中なのかも知れないから、過去から現在までの成り行きの延長上で何を予想してみたところで当てが外れてしまい、何か思いがけないところから世の中が変わってしまって、しかも変わってしまったことに気づけないまま、現状で生きている人たちが次々と亡くなって行った先で、そうなってしまったことを当然視するような結果に誰も驚かない未来が到来するのかも知れないが、そうなることを現時点で予想するのは不可能だろうが、少なくとも現状の成り行きにの中にヒントの類いが隠されていたり、隠されてもいないのに誰もそれに気づかないようなことかも知れないし、別に気づかなくても何の問題もないかも知れないから、無理にあり得ない未来を妄想する必要もないだろうが、そうなってしまう根拠がどこにあるのかというと、なぜか知らないが、日本のメディア状況の中からそれを類推したくなってしまうから、それがそもそもの勘違いの原因なのだろうが、その中でもうまく立ち回っている人たちが少なからずいて、そんな人たちが人民をあからさまに騙しているわけでもなく、人民の求めに応じてそんなふうに振る舞っているわけでもなければ、何なのかというと、それも荒唐無稽な妄想に違いないのだが、神の見えざる手に導かれながらそんな方面へと人民を導いているように感じられてしまい、ついに頭がおかしくなったのかと自分で自分を信じられなくなってきたのだが、しかもそれで構わないような気がするのだから、あえてさらにおかしな予想を述べるなら、日本政府という組織は今後もより一層の事務的な形骸化を被り続けて、それがなぜか今後の世界標準となるような政府の存在形態となって行くのではないか。
8月21日「状況の見方や捉え方の違い」
状況が見えていないのは、見ようとして見えるわけでもないことに気づいていないのかも知れないが、見ようとして見えている物事の成り行きが思っている通りではない場合もあるかも知れず、それが何かといえば、人が集団で作り上げている状況なのだろうが、そんな状況の中でうごめいている人々の立場や境遇に応じて、状況の見え方が変わってくるのは当然なのだが、自分が見ているつもりの状況が、立場や境遇の違う他人に見えている状況とは必ずしも一致しないことに気づいていない場合も多そうで、同じ状況を見ていると思い込んでしまうと、自分にとって正しい状況の見方を、そのまま自分とは立場も境遇も異なる他人に押し付けるわけには行かないことがわかっていないから、それが自分とは違う状況の見方や捉え方をする他人を批判する口実になるだろうが、しかも本当にわかっていないのではなく、その人の言動からわかっていないように感じられてしまうわけで、それがわかっていないと感じられるから、わかっていないことを批判しているつもりなのだろうが、本当にわかっていないのかというと、それが人によっても立場によってもその人の境遇によっても、わかっている程度にもわかっていない程度にも違いが生じてくるから、自分がわかっていないことを他人がわかっていたり、他人がわかっていないことを自分がわかっていたりするだけではなく、そのわかり方の程度や傾向にも違いが生じてくれば、自ずからその主張や意見も噛み合わなくなってきて、違いを利用して論争相手を批判しているつもりにはなれるだろうが、それで本当に批判していることになるのかというと、批判している当人はそう思っていても、批判されている人には的外れな批判だと思われて、いちゃもんをつけてくるなら相手にしないようにしたくなるだろうから、議論が平行線に終始したままになって、そういう方面については次第に関心が薄れて行ってしまいそうだが、そうなってしまった時点ですでにそこで推移している物事の成り行きの本質からも外れてしまっていることにも気づかないから、何か関心のないところで無駄に論争が繰り広げられているに過ぎず、いくら議論が白熱していようとそんなのは見せかけの盛り上がりでしかないから、そういうのは無視していれば済んでしまうようなことになってしまうわけだが、果たしてそれで構わないのかというと、それも構わない程度や傾向にも違いが生じてきて、自分はそれで構わないのに、それが他人にとっては無視できないどころか、そこにこだわってほしいわけだから、無視してもらっては困るわけで、そういうところがどうにもこうにもわかり合えないところであるから、そういうところは放っておくしかなく、興味も関心もないのに無理に興味も関心もあるように見せかける必要などないだろうから、別にわかり合えないと突き放してしまっても構わないような気がしてしまうだろうし、実際にそうなってしまえばそれで構わないことになってしまうのだが、そうなってしまうことを前提として受け入れるなら、たとえ他人と状況の見方や捉え方が違っていようとそれほど苦にならないはずだが、それでも他人に向かってわかってほしいことを主張したいわけだから、それが他人にはうざったいことになりそうで、そんなうざったいことをSNSで延々と述べている輩がいれば、普通にうざったい奴だと思うだろうから、そんなうざったい奴の言っていることを面白がってからかい半分でいいね!したくなってしまうのかも知れず、そうやっておけばうざったい奴も勘違いして自分が評価されていると思い込んでしまうだろうから、調子に乗ってさらにうざったいことを延々と述べ続けることにもなり、そんな奴はそうやっておけば一丁あがりなことになってしまって、そんなキャラクターとして仕上がってしまうのだろうが、果たしてそんな仕上がり方をしてしまった人物が周囲の人々からリスペクトされているのかというと、勘違いしているのは当人だけとは限らないが、そうやって周囲からおだてられておかしなキャラクターとして世の中で通用しているように見えてしまうことが、その人の末路として売れなくなったお笑い芸人のような境遇を想像してしまうのだが、そこまでやらなくてもいいだろうと思われるところで自らの愚かさに気づいてしまえば、ブレイクせずに何でもないままになってしまうかも知れないが、普通はそれで構わないようなことなのかも知れず、人は誰でもおかしなキャラクターになってまでブレイクする必要などなく、周囲から常識人に見られている方が無難なのかも知れないから、わざとこれ見よがしにうざったいことをこれでもかと強調する必要などないのだが、そうしないと他人が振り向いてくれないと思うなら、道化になりたくてそんなことをやっているように見えてしまうだろうが、当人は至って真面目に振る舞いたいのかも知れず、それが勘違いだと思うならその通りなのだろうが、当人にとっては勘違いなどではなく、やるべきことに真剣に取り組んでいるつもりになっているわけだが、そのやるべきことが他人にはやり過ぎなことのようにも感じられて、やり過ぎなことだから真面目を通り越しておかしく感じられてしまうのだから、そんなのも当人には知ったことではないとしても、その気になって勝手にそうやっていれば済んでしまうようなことでしかなく、その人にとっては真面目に取り組むべき関心事だとしても、他の人にとってはそうでもないわけだが、そうならないようにするには、他の多くの人々が関心を向けていることに自分も関心を向けて取り組めばいいのだろうが、果たして何から何までそんなことをやれるかというと、それよりは自分勝手なことをやりたい気満々なことの方に関心が向かってしまうだろうから、そういうところでうまく自分の関心と他人の関心との間で整合性が取れずに思い悩むかも知れないが、それ自体がそもそも状況の見方や捉え方を誤っている可能性もあるわけだから、自分勝手にやりたいと思うことが勘違いで、それが他人のやりたいことを自分もやりたがっていることに気づいていないことになれば、同じやりたいことを巡って他人と自分が被って衝突しているから、自分がやりたいことをやろうとすると、それを他人が邪魔してくるような成り行きに感じられて、他人もそう思っているかも知れないし、互いに互いのやりたいことを邪魔し合っているから、やりたいのにやりたいことをやらせてくれないようなことになっているのかも知れないし、だからより一層自分勝手にやりたいことを思う存分やりたくなってしまうのかも知れない。
8月20日「戦略的な振る舞い」
何かが強引に行われているように見えることに関して説明する必要があるかというと、説明しなくてもわかることなら説明するまでもないことだが、本当にそれが強引に行われていることなのかというと、強引というよりは戦略的な意図や思惑に基づいて行われているようにも見えるのだが、ではその戦略的な意図や思惑とは何なのかというと、それがいつものようにメディアを利用した世論誘導の類いだと見なすなら、そんなのは見え透いているから、説明するまでもなくわかりきったことであり、今さらそれが戦略的だの何だのと警戒する必要もないような気もするのだが、まずは批判勢力が疑似餌に食いついてくるような成り行きに持って行くための囮となる人物をこれ見よがしに立てておいてから、その人物に批判が集まって気を取られているうちに、頃合いを見計らって本命となる人物をなるべく目立たないようにそっとお披露目して、その人物に批判が集まらないようにうまくメディアをコントロールしながら、それと気づかれずにサイレントマジョリティーからの支持を取り付けようとする魂胆が見え見えとは感じられないものの、それが何かの目くらまし効果を発揮すれば儲け物だと思っているわけでもないのだろうが、そういうやり口が強引に行われているように感じられるのはなぜかというと、誰もそんなことには関心を持っていないように見せかけられているわけではなく、人々の無意識に訴えかけているからややこしくも面倒なことになっていて、そんなことには無関心な人たちの無意識が気づかないところで少なからず影響を受けていて、それが馴致という効果の間接的で気づきにくいところだが、意識がそれと気づかないうちに愚かな人物の言動に慣れてしまうわけで、それが当たり前のように伝えられるから、次第にそれを愚かだとは思わなくなってしまうのだが、なぜそう思ってしまうのかといえば、その人物の愚かさがその人物の言動を介して、結果的にそれを愚かだとは思わなくさせられてしまう人々に伝染するからだろうが、それがその人物を愚かだと批判する人たちの言動に反発することによってもそうなってしまうだけでなく、積極的にその人物を愚かだと批判する人たちが世間から有形無形の攻撃にさらされることによっても勇気づけられてしまい、その人物を愚かだと批判している人たちが逆に攻撃されているわけだから、愚かだとは思えない自分たちの方が正しいと錯覚してしまうわけで、世の中の多数派を占める人々がそうなってしまえばしめたもので、まんまとサイレントマジョリティーを騙すことに成功したことになり、そうなるようにメディア総出で仕掛けている最中なのだろうが、果たしてそれがすんなりうまく行くかというと、そこでそういう成り行きを批判している人たちの知性が試されているというと、別に誰が何を試しているわけでもないのは相変わらずわかりきったことだとしても、すでに疑似餌に食らいついて知ったかぶりの批判をここぞとばかりに繰り返している人たちが愚かに見えるなら、それなりにうまく行っていることになるわけだが、そうとばかりは言えないところから思わぬ何かが起こってくれば、風向きもちょっとは変わると思いたいが、そんなことが今後も執拗に繰り返されて、多くの人々から飽きられてくれば、それとはちょっと違う成り行きも否応なく求められるのだろうが、それも強引にそうなるように持って行こうとすれば失敗に終わるだろうから、まだ当分はサイレントマジョリティーに属する人々がメディアが提供する愚かさに塗れているぐらいがちょうど良いのかも知れないし、そんな役割を担っているインフルエンサーの類いの人を騙すようなこれ見よがしな言い放ちをありがたがっている程度でも構わないのかも知れないが、そこで試されているのが果たして知性なのかというと、たぶんそれもそうだと思いたいわけで、そんな嘘かも知れない傾向を嘘だとは認めたくないわけだが、なぜそれを認めたくないのかといえば、現状で強引に押し進められている行為に逆らいたいからではなく、それをうまくやり過ごしたいからでもなく、否応なくそんな成り行きに意識を絡め取られているのに、なぜかそれでも構わないような気がしてしまうのだから、今はそれでも構わないが、いずれそれでは通用しなくなってきた時に、自身の知性が試されるような成り行きへと持って行ければしめたものなのかも知れず、もちろん自分で自分を積極的にそういう成り行きへと追い込んで行くわけでもないとすれば何なのかというと、そんな成り行きなるのを予想したくなってしまうわけで、願望としてそう思ってしまうわけだから、実際にそうなるかならないかは現時点では何とも言えないわけだが、何かそれに関して信じられるような当てがあるのかといっても、何もないとは言えないものの、それに近いような現状なのかも知れず、実際にはそうならなくても構わないようなことであって、現状の愚かさに塗れているだけでもそれなりに生きて行けるから、そうやって死ぬまで愚かなままでも構わない程度のこととして現状が延長して行った先に、自らの本物の死が待ち構えているのかも知れないから、そうなった時に後悔するわけでもないだろうし、後悔できない程度のこととしてたわいない人生が送られてしまってはまずいのかどうかもよくわからないが、それも戦略的な振る舞いに含まれるとしたら、何を意図してどんな思惑を抱きながら生きているのかといえば、それを自意識に悟られないようにしなければならないのかも知れず、自分の意図や思惑を自意識に悟られてしまうと何がまずいのかもよくわからないが、人生を平穏無事に過ごすには戦略的に生きる必要があるのかと誰に問われているわけでもないだろうから、それが自問自答に至らない程度で何か他に当てとなる助け舟が思いつくわけでもなく、わざと答えに辿りつかないように配慮しているとも思えないが、意外とそこで試されているのが知性ではなく理性であることに気づけないから、誰もが愚かさに塗れて浅はかな知識のひけらかしに走って、自ら墓穴を掘ってしまうのかも知れず、そんな人に限って他人のレッテル貼りにかまけているうちにミイラ取りがミイラになるようにして自らの死に至り、そんな自らも他人から安易なレッテルを貼られながらこの世からの退場を余儀なくされてしまうわけで、それが自らの認識の甘さも露呈していることにもなってしまうから、より一層の愚かさに打ち負かされたようにして死んでしまうのではないか。
8月19日「頭ではなく身体で考える」
今後何が起こったところで自分にとっては何でもなくはないのだが、それが何でもないのではなく、何でもなくはないということが、今ひとつわかりにくいことだと思っているわけでもなく、勘違いでそう思っているような気もするのだが、何かしら変化がもたらされるのだろうが、変化したところでどうということはないと思ってしまうと、それが勘違いだと思いたいのだが、頭ではそう思っていても身体がついてこないようだと、やはり頭が勘違いしていると見なして、身体の動作を優先させなければならなくなり、身体の動作に頭を従わせるようなことになってしまうわけだが、そういう表現が何を意味するのかということも含めて、何を述べているのかよくわからず、かつてニーチェがそんなことを著作の中で述べていたような気もするが、その真意も測りかねるし、ニーチェのそれと自分のそれが同じだとも思えないし、それも勘違いの範囲内でそんなことを述べているに過ぎないことかも知れないが、それでもそう述べるとしっくりくるようなら、現状がそんな表現に合うような状況なのかも知れず、何かしら変化がもたらされていても、それに合わせて無理に動かなくてもいいような現状かも知れないから、頭で考えてもっともらしく感じられる理屈や論理や理論に従って動いてしまうとまずいのかも知れないし、それに対して身体の反応が鈍いと感じるなら、意外とそんな身体の反応に従っておいた方が無難な結果を得られるのかも知れないが、それでいったい何に対して動くだの動かないだのと述べているのかというと、それに関しても頭の中で机上の空論のようなことを考えないようにしているわけだから、現状では動けないし動かないとしたら、何かの到来を待っているのだろうが、では何を待っているのかというと、機が熟するのを待っているとしても、いったい何の機が熟するのを待っているのかも不明ならわけがわからなくなってしまうが、それが嘘で、わけがわからないわけではなく、わけがわかっているつもりになれるからこそ、そのわけがわかってしまうことが勘違いなのかも知れず、それを頭ではわかっているのだが、身体がそれに反応しないから、何かがおかしいと思うしかないわけで、今までとは状況が違うのか違わないのかもよくわからないのだが、それもちょっとだけ違うのだとしたら、そのちょっとの違いをどう受け止めればいいのかもよくわからないし、ちょっとの違いにこだわった方が良ければ、頭の中でそう考えているからちょっとの違いにこだわりたいのだろうが、そんなことを考えながらもそれに合いそうな理屈や論理や理論の類いを模索しているわけで、それを確信できるだけの証拠もほしいわけだから、今までとはちょっと違うことを強調する方がもっともらしく感じられるような理屈や論理や理論の類いを求めていることにもなるだろうから、それが求まれば机上の空論ではなく、実際に感じられる変化をもっともらしく説明できることにもなり、そんな理屈や論理や理論の類いに基づいた結果も得られるような幻想も抱けるのだろうが、それが幻想ではなく、そうなることを確信できれば都合がいいのだが、果たしてそれを確信できるだけの材料が現状で揃っているのかというと、実際には確信が持てないのだから、それに類する理屈も論理も理論もなくはないのだが、何かそういうことではないような気がするわけで、何よりも身体の反応が鈍いのを感じているわけだから、動こうにも動けない現状があるのかも知れず、本気でそんなことを考えているわけでもないような心理状態なのかも知れないし、自分が何をどう考えても世界が動くはずがなく、自分が動かないことによって世界も動かないはずがなく、世界の方は自分を置き去りにしながら、勝手に動いて行ってしまうわけだから、自分の方が世界の動きに合わせて動く必要があるかどうかもよくわからないが、否応なく動かされてしまうなら、その動きを意識して止めようとしても、止めることができずに無駄な努力に終わってしまい、そうであるなら果たして自分が動くに当たってそれを後押しするような理屈や論理や理論などが必要かというと、誰もが安心してそれを信じていられるようなものなどないと思っておいた方が良さそうで、世の中の全ての人が納得して従った方がいいような理屈や論理や理論があれば、誰もが安心して従ってしまうと差異や違いが生じてこないわけだから、たとえそんなものがあったとしても無意味かも知れないが、人は誰でもそんな無意味な理屈や論理や理論の類いを求めているのかというと、そうではないと述べておかないとまずいような気がするわけで、例えば部外者であれば誰でも建前としては差別反対や戦争反対などを主張できるが、何かのきっかけから差別する側や戦争する側の当事者になってしまうと、そうなるに至る過程で避けられない経緯や事情が生じてきてしまうから、嘘やごまかしなしにはそうなってしまった自らを正当化できなくなってしまい、正当化できないならそれでも構わないのかというと、社会の中で生きているとそうも行かないわけで、結局は嘘やごまかしに塗れて生きて行くことになるだろうし、そういう意味では嘘やごまかしも必要不可欠になってくるのだろうが、少なくともある程度は嘘やごまかしを活用しながら、それができるだけばれないように生きて行くしかなく、ばれたらばれたで開き直るしかない場合もあるだろうし、実際にその種の開き直りがまかり通っているから、現状でも見え透いた嘘やごまかしを駆使して主導権を握っている人や勢力がいくらでもいて、そんな人や勢力が正義の味方を自認する人から批判や非難を浴び続けている現状もありそうで、もっとも正義の味方の方でも、完全無欠で清廉潔白な存在などではなく、叩けばそれなりに埃が出てくるから、何かの隙を突いてそういうことが行われて、化けの皮が剥がされてしまうこともしばしばあるから、結局はそうやって何かの均衡が保たれているように感じられるのだが、そう感じてしまうのも勘違いな幻想なのかも知れず、本当のところは誰にもよくわかっていない部分があって、そのわかっていない部分を誇張して怪しげな憶測に基づいて語るのが陰謀論の類いになってくるわけだろうが、それを信じるか信じないかはあなた次第であるはずもなく、もっと確からしい誰もが信じられる理屈や論理や理論の類いが求められているのだが、それがわかってしまうと差異や違いがなくなってしまうから、誰もが知らない秘密を自分だけが知っている状況を作りたいわけだが、そんな都合の良い状況自体がまずあり得ないわけだから、わけがわからなくても当然の現状の中で誰もが生きて行くしかないわけだ。
8月18日「絶好の機会?」
それを批判したいなら容易に批判できそうなことが起こってしまうと、それを起こしてしまった人や団体にとってはまずいことだが、その一方で待ってましたとばかりにそんな人や団体を批判したい人にとっては願ってもない機会になるだろうし、ここぞとばかりに苛烈に批判すれば事態がそれなりに動きそうなものだが、それにしてもどうして容易に批判されてしまうようなことを起こしてしまうのかといえば、もちろん批判されたくて起こしてしまうわけではなく、できれば起こしたくはなかったのに、否応なく起こってしまうこともあるだろうから、起こってしまったからには何とか取り繕えばそれが見え透いたごまかしになって、そんなごまかしがばれてしまえば、ごまかしたこと自体も批判の対象となって、火に油を注ぐように苛烈な批判が繰り返されることになってしまうかも知れないが、本当にそれが批判するには絶好の機会なのかというと、そんな批判を繰り返している人たちが気づいていないことがあれば、批判を招いている人や団体の術中にハマっていることなのかというと、そんな気がしないでもなく、なぜかうまい具合にあしらわれているようなことになっていれば、それを批判するように誘導されていることになってしまい、わざと火に油を注ぐような燃料を投下されて、勝手に炎上するように仕組まれているような気がするわけだが、そうであるならそれが炎上商売なのかというと、何となくそう思われるようなことが世の中では結構頻繁に起こっているように見えるなら、メディアの中にはその種の放火魔が大勢潜んでいるようにも思われるだろうが、その種の炎上商法に長けていたのが安倍晋三だと思うわけでもないが、岸田文雄も結果的には炎上商法によって政権を維持してきたようにも見えてしまい、何かそういうところで勘違いがあるのかも知れず、本物の放火魔でもないのに、結果的にそう見えるように演出していたのがマスメディアなのかも知れないし、意図しない効果を誘発することによって安易な批判を誘発していたわけで、そういった表層的な炎上現象に目を奪われていると物事の本質を見失ってしまうような気もするのだが、それも気のせいかも知れないし、実際に政治体制がガラクタのような粗大ゴミの様相を呈しているから、そこから目を逸らしていれば全てがうまく行っていると錯覚できるわけでもないが、目を逸らすどころか、それを商売のネタにしている人からすれば、自らも炎上に巻き込まれて燃えかすのようになりながらも、安倍や岸田の求めに応じて苛烈な批判を繰り返すことになったのだろうが、そうやって炎上商売に付き合わされた人たちがその後どうなったのかというと、果たしてそれが現状の悲惨な惨状を示しているのかというと、それもよくわからないのだが、結果的にアベノミクスが大成功だったのかといえば、何となくそういうことにしておいた方が良さそうで、皮肉を込めてそう言わざるを得ないような結果がもたらされていて、それを批判したい人にとってはいくらでも批判していたいわけだから、まさに炎上商法としては大成功だったのだろうし、新自由主義的な観点からも大成功だったのかも知れず、批判のネタが尽きない限りはいつまでも炎上していられたのだろうが、ここにきて風向きが変わってきたからもはや用済みになりつつあるのかも知れないし、安倍の死後に岸田が炎上商法の総仕上げをやって退場しつつある最中なのかも知れないが、果たして何が仕上がったのかといえば、これからそれがわかるかわからないかも現時点では何とも言えないが、日本の政治体制が仕上がっていることは確かかも知れず、政治体制が仕上がった後は経済体制が仕上がってくるかというと、それを体制と呼んでもいいのかもよくわからないが、それに対して批判を途切れさせてはならないと思っている人もいくらでもいるかも知れないし、これからも政治的な炎上商法に対峙して効果的な批判を繰り出さなければ日本が良くならないと考えている人さえ多くいそうだが、本当にそうなのかというと、実際にそうなって行けばその通りになってしまうのだろうが、果たしてそれが嫌ならそうなっている状態から絶えず視線を逸らしていればいいのかというと、ある程度は視線を逸らさないでそれを直視する必要があるなら、ではそうすれば何が見えてくるかというと、それが新自由主義的な論理であり仕組みなのかも知れず、ゲームのプレーヤーとしてマネーゲームへの参加を強いられるから、誰もが投資ごっこの範囲内で投資をする成り行きにとらわれる必要があり、それを通して学ばなければならないこともあるらしく、そこで何を学ばなければならないのかといえば、経済情勢の浮き沈みの中で自らの振る舞い方を絶えず学び続けなければならず、しかも全面的にそこへ意識を没入すべきことでもなく、どちらかといえば他にやっていることの片手間にやらざるを得ないことになってくると、普段からちょっとだけそちらにも目配せしておく必要があるから、気休めにやるようなことになる一方で、夢中にならない程度にとどめておかないと大変なことになるような気もするから、それも油断していると大やけどしてしまうのかも知れず、だから全面的に肯定するわけにも行かないし、正当化できるわけでもないことをやらざるを得ないのだから、嫌ならやらなければいい程度のことでもあり、しかもやらざるを得ないような成り行きに巻き込まれてしまうと多大な損失を被るようなことでもあるから、油断しては行けないのだが油断せざるを得ないようなことでもあって、自己責任でやって損失を出せばそういうことだと思っておけばいいわけで、そうやって少しは痛い目に遭わないと経験として役立たないと思っているうちは大して痛手を被っていることにはならないが、果たしてその程度の状態をいつまで保っていられるかも誰にも知り得ないところかも知れず、今が投資をやるに当たっての絶好の機会なのかというと、今のところはよくわからないわけで、結果的にもよくわからないままとなってしまうのかも知れないが、そこへと引き込まれてみれば、自然と立ち回り方を模索するようなことになってしまうから、それ相応の経験の範囲内で立ち回っているうちにどうにかなってしまえば、それで頭がどうにかなったことになるわけでもなく、それなりに自らの資産状態がどうにかなってしまったことを知るに至るのではないか。
8月17日「無意味な対立」
少なくとも何かを大げさに煽り立てる必要のない人にとっては、現状が崩壊や破綻や終わりの危機に直面するよりは、それほど良くならなくても今の状況がそれなりに続いて行けばそれで構わないはずだが、それも何が続いて行くのかにもよるだろうし、悪い状況が続いて行くよりはより良い状況となってほしいはずだが、そのより良い状況というのも、人によっても立場によっても真逆の状況となってしまうなら、現状に対する受け止め方に関してはかなりの差異や違いがありそうだが、その差異や違いが何なのかというと、それがそのまま人の立場や境遇の差異や違いになればわかりやすいだろうが、そうではないとすれば何なのかというと、その人が関わっている方面に違いがあるとすれば、それがそのままその人の立場や境遇の差異や違いになりそうだが、関わっているのが同じような方面でもそこで明確な対立が起こっていれば、対立している一方にとっては好都合な状況でも、もう一方にとっては最悪な状況となっているかも知れないし、どちらにとっても好都合ならそちらの方面が繁栄していることになるだろうし、逆にどちらにとっても最悪な状況ならそちらの方面が衰退していることになりそうだが、そうではなく繁栄だとか衰退だとかではなく、繁栄していても都合が悪かったり、衰退していても都合が良かったりすると、では何が都合の良し悪しを決めるのかというと、例えば現状に関してどれほど勘違いの度合いが大きいか小さいかによって都合が良かったり悪かったりするのなら、気のせいだということにもなるだろうが、立場や境遇が同じでも気のせいで都合の良し悪しが決まってくれば、都合の良し悪し自体に実質的な意味はないことにもなりかねないが、それでも都合の良し悪しにこだわっていると何が起こるかというと、それが宗教的な信仰へと至るはずもないだろうが、実際に信じている宗教の違いや同じ宗教内でも宗派の違いによって対立が起こっていれば、そんな宗教や宗派とは無関係な人たちから見れば、それが無意味な対立だと思われるかというと、そこで実際に権力闘争や主導権争いの類いが起こっているなら、どちらが権力や主導権を握るかを巡って争っていて、権力や主導権を握った側が優位な立場や境遇になるなら、そこで行われている闘争や競争にも意味があるように感じられるはずだが、それが相手を殺傷する戦争になっているとそれに反対しなければならないというと、そういうところだけを切り取ってきて、部外者のような人たちが戦争反対だと息巻いていると、そういう反対運動をやることが、そういう人たちにとっては都合の良いことなのかと疑問を抱く人などまずいないだろうが、では戦争が起こっていること自体がその人たちにとっては都合の悪いことなのかというと、逆にその種の反対運動をやるには都合の良い状況かも知れないが、そういう都合の良し悪しという相対的な差異や違いではなく、人をむやみやたらと殺傷する戦争こそが絶対悪なのだと主張することもできそうだが、そういう絶対的な正義を主張する機会を与えてくれるのが戦争なのだと屁理屈をこねる人もまずいないだろうし、戦争が起こると絶対的な正義を主張するのに都合の良い機会が到来するのだと自身の立場や主張をを正当化できるかというと、それも屁理屈の範囲内での主張となってしまうだろうが、戦争に反対するのにそんな屁理屈まで持ち出す馬鹿などいないはずだが、そこで権力闘争や主導権争いが起こっている事実は認めざるを得ないだろうし、主導的な立場や地位を占めて権力を行使するようなことが行われている限りで、誰もがそれを行うことができるわけでもないのだから、そういう立場や地位を占めるための争いが絶えず起こることになるのだろうが、民主的な選挙によってそれを決めることができれば一応の平和が保たれるはずだが、果たしてそういう制度的な仕組みが世界のどこでも通用するのかというと、通用しないから戦争が起こると考えるのが妥当なのかも知れないが、たぶん通用していない地域では通用させたくない事情や経緯があり、同じ宗教や宗派や民族や人種などが多数派を占めているなら、民主的な選挙をやっても構わないが、別の宗教や宗派や民族や人種に属している人が自分たちよりも多くいる状況の中で選挙をやってしまうと都合が悪いから、できれば別の宗教や宗派や民族や人種に属する人たちを排除した上で民主的な選挙をやりたいとなると、果たしてそれが民主的な選挙になるかというと、そういう選挙を民主的な選挙だと定義した方が都合が良ければそうなるかも知れないし、少なくともイスラエルではパレスチナ人やイスラム教徒が多数派になってしまっては都合が悪いから、そういう人たちを外国人として排除した上で民主的な選挙が行われているわけだが、建国の前からそこに住んでいた人たちの子孫が外国人として排除されてしまうのは理不尽だろうから、そういうことをやっている時点でおかしいのだろうが、そういうおかしいことをやらないとイスラエルという国家が成り立たないから、強引にそういうことをやらざるを得ないのだろうが、そんなイスラエルの味方となっているアメリカを非難するのも、そういう面だけを持ち出して非難している限りはそれなりに非難している自身の立場を正当化できるのだが、そういう面ではそうだとしても、別の面ではアメリカと友好関係を築く必要が出てきて、また沖縄の米軍基地反対運動をやっている人たちを応援する立場になれば、そういう面ではアメリカ政府がやっていることを非難することができるのだが、またそれもそれとは別の面ではアメリカと友好関係を築く必要が出てくる方面ではそうでもないとなると、果たしてそんな自らの言動の整合性を保つことができるかというと、それも時と場合に応じて述べている内容を変えて行けば、その時々のその場の成り行きや成り立ちや傾向に応じて言動の中身や内容を変えて行くことになるだろうし、その場その時の言動とそれとは別の場や別の時期で言っている内容や態度や姿勢が変わってしまっても大丈夫かというと、それをいちいち指摘して回る者の言い分もご都合主義のような印象を伴ってくれば、そんなふうになってしまうことも含めて、立場や意見や主張や態度や姿勢の差異や違いも相対的な程度や範囲内になってしまうと解釈しておくしかないのではないか。
8月16日「完全無欠の危うさ」
これといって特に批判したくなる主張内容ではないどころか、かなりうまい具合に正しいことを述べているように感じられると、逆におかしいんじゃないかといちゃもんをつけたくなるのが、なぜそう思うのか理由がわからないのだが、それが資本主義経済に関する批判的な主張だと、より一層そう思われるから不思議なのだが、なぜそれが疑わしいのかといえば、ひどい結果がもたらされたことを批判するのは当然なのだが、逆ひどい結果がもたらされているのに世の中が繁栄しているように見えることが、果たしてそれが錯覚なのかどうなのかが、意見が分かれるところであるどころか、ひどい結果を批判するだけでは状況の全てを語ったことにはならず、もちろん全てを語り尽くすことなどできないのだが、資本主義経済が負債と共に繁栄するという逆説的な傾向がある限りで、負債を背負わされる側にとってはひどい事態なのかというとそうでもなく、必ずしもそうとも言えないところが微妙なところで、しかも人ではなく法人に負債を背負わせるところが、何かそれが錯覚のような気がすると共に、それを錯覚と言ってしまうと間違っていることにもなりかねないが、逆に法人ではなく人に背負いきれない額の負債がのしかかってくれば、その人の経済的な破滅を意味することになるだろうし、法人であっても負債を返しきれなくなったところで破産することもあるが、負債を返すのではなく、満期が来たら借り換えて利子を払い続ければそれで済む場合もあるだろうから、それが政府であると債務超過となったところで何ともないわけでもなく、政府が債務不履行となった国の国民が貧困に苦しむ場合も多いだろうから、そういうのは制度的なまやかしだといってしまうと語弊があるにしても、人が破産したり企業が倒産したりするのは、そうなる人や企業が相対的に多ければ大変なことのような気がするだろうが、そうやって負債が返却不能になってしまうことが、結果的に資本主義経済を延命させると言うと、そんなのはあり得ないと思うかも知れないが、そういったマネーゲーム的な貸し借りの面での破綻はルールの範囲内で起こることであって、肝心の人の生活状態がどうなっているかが問題なのかといっても、それもゲームの範囲内で状態の良し悪しが揺れ動いているわけだから、状態が悪くなった人を誰が助けるのかということにもなってきて、助けないと死んでしまうなら、それで構わないかというと、死ぬにまかせているだけでは精神衛生上良くないということでもなく、自分がそうなった時のことを想像してみろと言われたところでピンとこない人もいくらでもいるだろうから、ひどい状態となった人たちを団結させないようにすることも資本主義経済の延命にとっては必要かも知れないし、逆にそういう人たちを団結させて自分たちの味方に引き込みたい政治勢力にとっては、世の中の大半の人たちの経済状態がひどくなっていることが、政治的な主導権を握るための必要条件となるかというと、それも微妙なところであって、必要条件というか十分条件であれば、世の中の経済状態がそれほどひどくなっていなくても政治的な主導権を握れる可能性もあるのだろうが、それが必要条件となってしまった国で共産主義革命や軍事クーデターなどが起こってしまったと見なしてもいいのかどうかも、そういうところがこうなれば必ずこうなるとも言い切れないところでもあるから、そういう二者択一的な状況へと追い込まれないようにするにはどうすればいいかと考えたくなってしまうが、そこから先は妄想の領域だから、それなりに現実離れしていると言わざるを得ず、そんなことまで考える必要はなく、実際にそんなことが起こるには破局的な戦争の類いが起こらないことには事態が進展しないわけで、実際にそうなってから事態の収拾を図るしかないわけだが、それも資本主義経済の進展に伴って大規模に起こってきたことでもあるから、今も世界各地で戦争状態であるにしても、実際にそうなってしまった結果からそれを反省したり不戦の誓いを立ててみたりと、絶えず事態の収集を図ろうとしているのは当然の成り行きなのだが、それも絶えず実際にそうなってから事態の収拾を図らなければならないから、事前に危機的な事態に備えて何かしらやっておくべきことが想定されるにしても、それを全てやり切ることはできないし、しかも想定外の事態に遭遇した時がチャンスなのだから、それが何のチャンスなのかも実際に行動した後からわかったりわからなかったり、わかったと思ったことが勘違いであったりもするから、そうなってみないことには何とも言えないのだが、少なくとも世の中の全ての立場や役割にある人や団体の味方になれるような立場や役割などないと思っておくしかなく、そういう意味で現状の資本主義経済にとって必要なのが政府の規制緩和を求める新自由主義的な立場や役割だとしても、そういう成り行きに歯止めをかける立場や役割も必要になってくるから、どちらが勝つか負けるかが双方の立場や役割を担っている人や団体にとっては重要なことであるにしても、一時的に勝ち負けが決まったところで、一方的に勝ったままになったり負けたままになってしまうとまずいわけで、絶えずせめぎ合いや競い合いが起こっていないと困るし、しかも立場や役割が特定の人や団体によって独占されて固定されてもまずいわけだから、絶えず流動的に変化し続ける限りで資本主義経済も進展して行くと考えたところで、必ずそうなるとも限らないだろうから、現時点で誰もが納得できるようなこととしてこうだと言えることが、未来永劫そのまま言えるわけでもないことは容易に想像がつくだろうし、だから完全無欠の正しいことを主張しようとすると、それが現実離れした机上の空論のような内容となってしまうわけでもなく、それなりにもっともらしいことが言えるのだが、そういうことを言っている人が世の中の主導権を握れるかというと、そんなわけがなく、逆に多くの人たちから反感を買うようなことを主張する人が特定の分野で主導権を握っているように見えるから、そういう人やそういう人が率いている団体の類いが、もっともらしくも正しいことを主張している人たちによる批判や非難の標的となっている現状があるのではないか。
8月15日「こだわらなくてもいいこと」
良くも悪くもなく、上にも下にも行かないどっちつかずな状態が、特に何の判断を誤らせるわけでもなく、何をどう判断すればいいのかわからないことが、果たして判断を誤っていることになるのかといったところで、何も判断しようがないのだから、判断できないし、今が何を判断する機会でもないと思うしかないが、それに気づいていないのだから判断しようがなく、ではそれが何なのかと問われているわけでもないが、問うまでもないことかも知れないから、気づかなくても構わないのかも知れず、それで構わないと思っていることが判断を誤っていることになるのかも知れないが、気づいていないのだから、たとえ判断を誤っていようと、どうしようもないことであって、それよりも他にこだわっていることがあるなら、そんなことにこだわっていることがそもそも判断を誤っているのかも知れず、気づいていないことよりもこだわっていることの方が問題なのかも知れず、こだわるべきではないことにこだわっているのが判断を誤っていると思うなら、その通りであって、そんなことにこだわるべきではないのにこだわっていることが、判断を誤っていると思っておけばよく、そんなわけで今が判断すべき時ではないのに、無理にそれを判断しようとすれば判断を誤っていることになるのだから、判断することにこだわっているのがそもそも判断を誤っていることになるわけで、状態が良くも悪くもなく、上にも下にも行かないどっちつかずなのだから、それをどう判断すればいいのかと迷うなら、どうにもこうにも判断できないままでも構わないのであり、それを無理に良し悪しなどを判断しようものなら、それこそが判断を誤っていることになり、判断する必要のないところで判断してしまうと、今後判断しなければならないところで判断しないようなことにもなりかねないから、今はただ判断する機会が到来するのを待っていればいいと判断できるかというと、それも一つの判断なのだから、結局判断を誤っていることになってしまうかも知れないが、単なる話題作りの一環としてそうなっているとすれば、そういう無理矢理の話題作りに関心を持つことが、話題作りをやっているメディアからすれば、飛んで火に入る夏の虫というわけでもないだろうが、いかに我関せずの態度を保てるかが、無理矢理作られた話題に関心を向けるように促されている人たちに求められているとも思えないだろうが、自分もその中に入るかどうかも判断がつかないが、判断を誤らないように気をつけなければならないと思ってしまうことが、すでにマスメディアの術中にハマっていることになるのかならないかも、自分には判断がつかないのだが、判断する必要のないことだと思ってそれを無視できるかというと、誰がその役職から降りようと、その代わりに他の誰がその役職に就こうが、そんなのは知ったことではないとはならないところが、すでにある程度はマスメディアの術中にハマっている証拠かも知れないし、わざとそういう成り行きへと持って行こうと画策しているわけではなく、すでに自然の成り行きとしてそうなっているところで、そんな成り行きに応じて何かを画策していると思っておけばいいことでもあるから、こちらとしても彼らの思惑通りにその話題へと関心を向けておいても構わないだろうし、無理にそうしているわけではなく自然の成り行きに応じてそうなってしまうのだから、そういう面ではそうなっていればいいわけで、何もそうなっていることの良し悪しを判断する必要もないわけだが、それが果たしてこちらの思惑通りなのかといえば、事後的にそう思われるのだから、そういう成り行きに応じてそう思われるようなことなのであり、それも事後的にそう思っていればそれで済んでしまうようなことかも知れず、それが予定通りの物事の進行なのだとしたら、そういう物事の流れに乗ってそうなってしまうようなことでもあり、何もそうなってしまうことについて異議を唱える必要も感じないわけだが、そういうところで何が起こってもそれを批判的に物事を捉えないと気が済まない人というのもいるから、そういう人の批判もなるほどと思っておけばいいのだろうが、結局は何でもないような人がその職に就いて数年が経ったから、その人の役目が賞味期限切れとなったタイミングでその職を辞することになったと物事を捉えておくのが妥当なのかも知れないが、それが何でもないことでは済まないと思っている人たちがいきり立つしかなく、うまい具合に事の成り行きが進行してしまったことが許せないわけで、もっと何か一波乱も二波乱も起こすだけの力量が不足していたのではないかと思うならその通りかも知れないが、彼らの力量不足など織り込み済みの材料でもあるから、そんなのは問題外なのだとしても、これからどうなるかといっても、少なくとも今回の件でいきり立つような人の意見は信用できないし、ただでさえ何でもないわけだから、これからもしばらくは何でもない状態が続いて行くと情勢を楽観視できるかというと、絶えず危機感を煽っていないと気が済まない人なら、気が狂うような何でもない時期かも知れないし、本当に気が狂うならそれが気晴らしの事件となるかも知れないが、そういう面ではそうだとしても、それとは別の面ではそうでもないような兆候を多くの人たちが感じているわけだから、せいぜいがそうでもないような方面へと関心を向けていれば済むようなことかも知れず、それがこの時期のメインの関心事となれば、マスメディアの話題作りも空振りに終わってしまうことにもなりそうだが、それで構わないのかというと、そもそも誰もが関心を向けるような物事などあまりないのかも知れないし、そんな中でも何かが形骸化の兆しを見せているとすれば、それが当のマスメディアの話題作りになるわけで、しかもかなり昔からそうなっているわけだから、そんなところへと関心を向けていること自体が、何かの判断を誤っているような気もするわけだが、そんなにこだわっているわけでもないから、それも全面的な関心ではなく、頭の片隅で感じているようなことかも知れず、そうやって義理で付き合っている感覚もないのだが、ただ何となくこだわらなくてもいいことにこだわっていることには違いないわけだから、そんなところにこだわってしまう自らの感覚もかなりずれているような気もするわけだ。
8月14日「自覚せざるを得ないこと」
すでに定まった社会的な立場を守りたいと思うなら、その人がその立場に安住しているからそう思うと推測したくなるが、当人がそんな理由を意識できるかというと、それとは違うもっと別の魅力的な理由を持ち出したいと思うなら、それが何かというと、その立場からもたらされる利益を守りたいと思うよりは、実際に利益を得るために活動していることが、同時に自身の立場を守っていることになりそうだが、それが立場によっては他人からそう思われてしまうとまずい立場もありそうで、活動そのものが自身の利益よりは他人の利益を優先して守らなければならない場合もあるから、そういう活動に従事しているなら、他人の利益よりも利己的に自分の利益ばかりを守ろうとしていては、他人から信用されなくなってしまうだろうから、他人にそういう姿をなるべく見せないようにしなければならないだろうし、そういうことをやっているのを他人に悟られないようにしなければならないはずだが、それとは逆に他人のために働いているのをこれ見よがしにアピールしているように見えてしまうと、疑いの目で見られてしまう場合もありそうで、こいつがやっているのは単なる見せかけのパフォーマンスなのではないかと見られてしまってはまずいだろうから、他人からそう見られないようにするにはどう振る舞わなければならないかなんて考えるような立場ではないから、そんなことまでわかりようがないが、自らの立場をわきまえずにそういうことをやってしまうと、それが出過ぎたマネだと思われて、他人から反発されたり反感を買うことになるだろうが、たぶんそれが微妙なさじ加減で、人によっては感謝されたり好感を抱かれたりする場合もあるから、どういうことをやればそうなるかならないかは一概には言えないところかも知れず、その場の情勢や状況次第で、またそんなことをやる人が世間からどう見られているかにもよるだろうが、その人とは別の誰かがやればありがたがられるのに、なぜかその人がそんなことをやると反発されたり反感を買うようなことにでもなれば、その人の世間的な印象が何かと否定的に見られるような傾向ということになりそうだが、もちろんそう見られるように印象が操作されているからそう見られてしまうとなれば、メディアによる印象操作によってその人に対する悪いイメージが人々の意識の中に植え付けられていることにもなりそうだが、実際にそういうことをやっている現場に出くわすと、何か不快な感情が込み上げてくるのだが、例えばユーチューブで毛沢東が二十世紀最悪の独裁者だと銘打たれた動画のタイトルを目にしてしまうと、ヒトラーやスターリンを差し置いて、またネトウヨのクズ馬鹿野郎が印象操作をやっているのかと怒りの感情が湧き上がってくるが、別に毛沢東を崇拝しているわけでもないのに、そう思ってしまう理由が何なのかというと、どう考えても二十世紀のアジア人政治家で世界にその名を轟かせて欧米でも一目置かれた人物といえば、毛沢東とガンジーになるわけだから、それを小物の政治家ばかりの日本で偉そうに二十世紀最悪の独裁者だと言ってしまうこと自体が、何か身の程知らずなことであるような同じ日本人として情けなくなって恥ずかしくなってしまうような嫌な感じになってしまうわけだが、そんなことを思ってしまう自分にも偏見や臆見を信じている面も多少はあるだろうが、バランス感覚としてそこから逸脱するようなことでもあるから、ここから毛沢東に関する美談などを反論として述べる気にもならないが、実際に多くの中国人から偉大な人物として崇拝の対象となっているのを貶すようなことをやってしまうと、そんなことをやっている側が小物にしか見えないような事態にもなってくるだろうから、そういうのはやめておいた方が身のためだと思われて、そんなのは無視していればいいのだが、それでも何かのついでに言及したくなってしまう小ネタの類いなのかも知れず、そういう気晴らしの小ネタとして人の気を引くためにあえて毛沢東を二十世紀最悪の独裁者だと煽り立てるのも、よくありがちなユーチューブ的なその種の動画で使われるやり口なのも、多くの人が承知しているところだろうが、システムとしてそうなっているのをその通りにやっていて、それを真に受ける馬鹿も自分を始めとしていくらでもいるような気もするから、そういうメディアの罠にハマっている自分を自覚していることが肝要かというと、嫌でも自覚せざるを得ないというか、そういう成り行きの中で例えば山本太郎が自然災害に遭った被災地に出かけて行ってボランティア活動をやっているのをどう感じるのかといえば、メディアによる印象操作に感染しているわけだから、どうせ他人のために働いているのをこれ見よがしにアピールしている偽善者だと否定的な感情を抱きながら見ている人もいくらでもいるんだろうな、と思ってしまう自らが恥ずかしくなってくるかといえば、それほどのことでもないわけで、もちろんそれとは別のレベルで毛沢東を二十世紀最悪の独裁者だと煽り立てるネトウヨのクズ馬鹿野郎のことも、何とも感じないわけではなく、確かにそれを見た際にはそれなりに強い怒りの感情が湧き上がってきたのだが、そこから少し間を開けて振り返ってみれば、ユーチューブ如きに怒りの感情をぶつけてしまう自分がアホくさいのではないかと反省してしまい、その程度のことに見合う怒りの強さが、本物の怒りの領域には達していないとすれば、では本物の怒りとは何なのかが、よくわからなくなるわけでもないのだが、たぶん自らに向けて放たれた他人の怒りの感情を押しはかるような機会に出くわした際に、なるほどこれが本物の怒りの感情なのかと納得できるわけでもないのだが、それとは違って、それなりにもっともらしく思われる数々の状況証拠を挙げて行って、だから毛沢東が二十世紀最悪の独裁者なんだと指摘してみたところで、どうしても救国や祖国解放の英雄としての毛沢東の方が勝ってしまう事態をどう捉えたらいいのかというと、それが国家主義的あるいは民族主義的な幻想なのだと指摘できないこともないのだが、それだけではないわけで、易姓革命を実行したのが毛沢東だったのだと言えないこともないだろうが、周恩来が見抜いていた人としての器の大きさが毛沢東にはあったと言ってみても、それこそが偏見や臆見にとらわれていることの表れだと言えなくもないし、スターリンやヒトラーにはあった人間的なセコさや偏狭さが毛沢東にはなかったと言ってみても、やはり言い足りない何かがあるのかも知れない。
8月13日「歴史の連続性と事件の突発性」
この先どんなことが起こっても、大したことにはならないとたかを括っているわけでもないのに、なぜか油断して痛い目に遭ったような結果を招いて、油断していたわけではないのに、なぜそうなってしまうのかわけがわからなくなることもあるだろうが、何に対してどんな対処をしなければならないかが前もってわかっているわけではなくても、ある程度は見当がついていることに関しては対処できると踏んでいるから、事前にこうなったらこうすればいいとルールを設定しておけば少しは安心できるが、いざそうなってみると、なかなか決断がつかないまま、結局は対処が遅れて悔やむことになるわけで、事前に予想していたのとは何かが違っているから、思うようには動けないし、時として思いがけない行為にも及んでしまって、それが想定外の事態なのだが、そんな想定外の事態の中でどう振る舞うかが試されているというと、誰が何を試しているのでもなく、自分が誰から試されているわけでもなくても、なぜか試されているように感じられるから、要するに度胸が試されているわけで、それが違うのではないかと思いながらも、そんな成り行きに自意識がとらわれているようなことになってしまうと、その場の雰囲気に呑まれているような気がして、怖気づいて自らが小物に過ぎないことがわかってしまえば、何となくあきらめの境地にも至れるかというと、それもそういうことではないと思いたいわけで、それよりは現在の思いや考えや行いが過去や未来へと影響を及ぼしていて、今やっていることが将来において何かしら役に立つような気がすると共に、過去を都合良く捉え直すのにも役に立つような気もするから、未来に向けた働きかけなら納得できるが、なぜか過去に起こった出来事や歴史的な経緯を都合良く捉え直す作業をやろうとする傾向には注意しなければならないし、用心しないととんでもないことにもなりかねないような気もするから、そんなことをやっている人をどこまで信用できるかにも、何か気を許すとそこから油断が生じてきて、そんな人の解釈や見解を真に受けて、その種の歴史の改ざんを好意的に受け止めてしまうと、それが将来にも少なからず影響を及ぼしてしまうのかも知れないが、そういう人たちが持ち合わせている致命的な欠陥というか欠点が何なのかといえば、歴史の連続性を信じていることになるだろうが、それが同じように歴史の連続性を信じている他の大勢の人たちの自尊心をくすぐりながら都合の良い方向へと誘導することになるだろうから、欠陥や欠点ではなく長所や利点だと見なしても構わないが、彼らが見落としているのが、状況や情勢の突然の転換であるのも、彼らにしてみれば別に見落としているわけでも見逃しているわけでもなく、物事が連続的に起こっている中でも十分に説明できることなのだろうが、彼らがやりたいのが、数々の歴史の転換点を彼らにとって都合の良いようにつなげて、全体として彼らが納得できて正当化できる歴史的な連続性を構成したいわけで、それが彼らにとっては都合の悪い面や部分を無視したり排除した上で成り立つ矛盾や破綻のない連続性になるのだろうが、彼らが敵視している対象となる歴史観から見ると、それが何かおかしいわけで、例えば古代史が文明の中心領域からは遠い日本を中心として物事が動いているような解釈となっているから、何かそれが信じ難い印象を受けるのだが、そういう捉え方ではしっくりこなければ、ではどんな捉え方をすればいいのかというと、突発的に起こった出来事を都合良く解釈するのではなく、そういう事後的な対処では突発的な出来事は起こせないと見ておけばいいわけで、自分たちが出来事を起こす側にならないと主導権を握れないと思うならその通りだとしても、そういうことができる人や集団がどれほどいるかといえば、誰もがそんなことができるわけでもないから、そんな出来事が起こった後から都合の良い解釈を施して、そんな解釈を世の中に広めて主導権を握りたいと思うとか、そういう自覚があることを自身で気づいているわけでもないのだろうが、実際にやっているのがそういうことだと、それが自覚なき思考や行為や行動や言動に結びつくわけだが、そうやって突発的に起こった出来事を何とかして連続的な成り行きの中に都合良く置き換えようとする際に、自らの意向や都合に沿うように解釈しようとしていることに気づくべきかも知れず、それが自らの情念の表れであったり、自身の意志や意向を正当化したいがためにそう解釈しようとしていることに気づいてしまうと、ちょっと待てよと戸惑いや躊躇いや恥じらいが生じてくるかも知れないし、しかもそれを無視してでもそう解釈したいなら、それだけ自らの情念に打ち勝って理性を働かせることができなかったことになるかも知れないが、それも理性的に考えるなら過去の歴史をどう解釈変更したところで、世界の現状を変えるには至らないはずだが、それが世界の将来や未来を変えるための原動力になるような気がするとしたら、何か精神論や根性論のような根拠のなさを感じるかも知れないが、それもそう言われるようなことにはならず、何か科学的な状況証拠のようなものに基づいて過去の歴史を変えようと画策しているつもりになっているのかも知れないし、過去の解釈変更によって未来を変えることができるかというと、そこに何かが抜けているとすれば、現状の世界を直接変えようとする働きかけが抜けているのかも知れないが、そんな人たちに限って現状の世界を直接変えようとする人や団体の活動を妨害しようとしているなら、なるほど典型的な保守派がそんなことをやっているのかと納得できるだろうが、果たして現状がそう捉えられるかというと、何となくそこからちょっとずれているようにも感じられるから、では何なのかといえば、なぜか彼らが敵視しているつもりの対象から彼らが学んだ結果としてそうなっていると解釈しても構わないのかも知れず、それが〇〇中心の歴史観の模倣として成り立つようなものでしかなく、それを単なる猿真似だと馬鹿にするわけにも行かないのだが、そういう〇〇中心の歴史観の日本版から反面教師的に学ばなければならないことがあるとすれば、連続的な歴史観とはちょっと違う出来事が突発的に起こる歴史の転換点を重視する必要もありそうだが、それもそういうことではないかも知れないし、物事の成り行きから外れて起こる事件性だけを注目しても、それ以外には何も言えなくなってしまうから、少なくとも思いがけず起こるような突発的な事件には驚くしかなく、それをもっともらしく思われる理屈を使って、事後的にその驚きを減らそうと画策するような考察はやめた方が良さそうに思われるわけだ。
8月12日「錯覚に頼った行為」
何か言ってはならないことを言っているような気がする時には、言う対象への礼儀をわきまえていないことになるかというと、リスペクトが足りないとか、何かと面倒なしきたりといえるような手順を踏まないと無礼な態度だと思われるようなら、何やら社交界に入った貴族のような気分になれるわけでもなく、現代における平民の社交界のようなSNSに儀礼やしきたりがあるとも思えないようなら、そういったものに対して幻想を抱いていないことになるわけでもないだろうが、そこでまかり通っている儀礼が礼儀に含まれるかといっても、どちらにも関心がないわけではなく、それがあることを薄々は感じていてもはっきりとはわからないから、ただ何となくそんな感じがするだけのことであって、そういう些細で枝葉末節なことにも気を配らないとうまくは立ち回れないのかも知れないが、不器用な自分がうまく立ち回ろうとして努力するわけもないから、そういうことではないとたかを括って、その種の努力や配慮を無視するわけにも行かないが、それでもそういうことではないと思っているから、そこから外れた態度で見当違いなことを述べているようで、その述べている内容にも今ひとつ自信が持てないのだが、そこで何かひどいことが起こればすかさず我先に言い放ちたいのが〇〇終了!という誰もが同調できる軽薄な合言葉だとしても、時宜をわきまえないと確かにそれが見当違いな言い放ちになってしまい、他人とは一味違うことを述べないとリスペクトされないのではないかと勘違いな思いにとらわれているのも、そうではないことの証拠となるわけでもないだろうから、いつも的外れなことを考えているようでいて、実際にはわざとおかしなことを述べている自覚があって、何かとひねって見ないと気が済まないから、それが自業自得気味に自ら墓穴を掘っていることになるのだろうが、そんな形骸化した自身の思考の中身が何でもないことが何を意味するわけでもないが、それでも構わないようなことだから、何かを適当に語る前からすでにネタ切れとなっていて、とりあえずそこでは何かが終了しているから、すでに何かが終了した後の世界で誰もが生きているような状況なのかも知れず、上流社会や貴族社会が二度とリスペクトされないことを残念がっていること自体が、現代ではそんな社会を誰も体験していないわけだから、確かに漫画か映画か小説の中で歪められた妄想の産物には違いないのだろうが、そういった妄想の世界から遠ざかれば何が見えてくるのかといったところで、誰もが日々体験しつつある現実には違いなく、例えばそれが少子高齢化の現実なのだとしても、それを体験していること自体がそれだけではないことをなぜ理解できないのかと焦ったい思いにとらわれるわけでもないから、それが何もわかっていないことの証しとなるわけでもなく、それに対して対策を施せばそんな傾向に歯止めがかかったり事態が改善するわけでもないことも、自然な成り行きとして誰もが理解しているわけでもないだろうが、そういうことではないのは誰もがわかっているような気がするのは、自分がとらわれている成り行きが他人がとらわれているのとは少し違うとは思われないのと同じようなことだと理解しているからだとしても、それでは体裁が保てないから、苦し紛れのような打開策や改善策を妄想するのだろうが、そんなことを妄想している時点でそれが気休めの焼け石に水のような対策だと理解しているわけで、そういう策では何も変わらないような世界で生きていることを自覚できないわけではなく、策そのものを実行する役割でもないと自覚しているのに、それをあえて言うと他人から相手にされなくなってしまうわけでもないが、そういう打開策やら改善策やらを提示するような役目だと思い込んでいる人を馬鹿にしたいわけでもないのだが、それをありがたがって拝聴しているふりを装っているとも思えないし、それをどう捉えたらいいのかわからないと述べておくのが、無難な態度だと思われるわけでもないが、それに近い心境に落ち着くしかないのかも知れず、他に何も思いつかないからわざとそういう世間話の延長上で気乗りしない話題を持ち出しているとも思えないなら、何か他にやるべきことがあって、それをやらないことの言い訳としてそんな話題を持ち出しているとも思えないが、そのやるべきことというのがまかり間違えると自分に大変な事態をもたらすようなことであれば、あまり気乗りしないのも頷けるが、そうでなければ何なのかということが、それもよくわからないようなことかも知れず、自分でなくても他にやろうとしている人がいれば、面倒だからその人にまかせれば済むことかも知れないし、それも何をまかせるのかによってもまかせられた人にとっては迷惑なことになるだろうから、自分の勝手な都合でそんなことを考えているだけでは、それもあまり実現性の低いようなことかも知れないし、現状でできそうなことを自分がやる成り行きへと持って行きたいのだが、他人の真似をするだけなら簡単そうに思われるが、しかも簡単に真似できるようなことになってしまうと、何か価値がないようなことを真似て自己満足に浸るような結果がもたらされるだけで、もちろんそれでは満足できないから、他人のやっていることを真似るわけには行かないわけではなく、単純に利益がもたらされることを期待して他人のやっていることを真似るわけで、しかも他にも大勢の人々もそんな思惑から真似ていると、競争相手がそれだけ増えるから、利益を得られる確率もそれだけ低下するようなジレンマに陥りそうだが、そんな見え透いた下心が邪魔になってくると、時として自分独自のあり得ない幻想にとらわれることにもなるだろうが、そんな幻想も多くの他人も共有するようなことにでもなれば、それが多くの人々にとって都合の良い共同幻想となって、社会の中で集団催眠のような効果をもたらすかも知れないが、それこそが利益と呼ばれる共同幻想だから、それが誰にとっても同じ利益になるわけでもないのに、通貨という共通の尺度で計れるような気がするから、そこからありふれた錯覚も生じてくるわけで、例えば投資に使った資金の額と生活に消費した資金の額が同じ価値を持つとは思えないのだが、同じ資金から振り分けられているわけだから、それが用途に応じて違う価値があると錯覚するわけだが、もちろん錯覚しないと多額の資金を投資に割り当てられないだろうから、そういうところで何か幻想のようなものが介在しているのだが、それが何だかわからないようになっているから、もったいないという感覚を封印して、割と簡単に不用意なことに平然と多額の投資を行なってしまうわけだが、それもたぶん間違った認識なのだが、今のところはそれの何が間違っているのかわからないから、それがわかった時点で訂正や修正を施すしかないわけだ。
8月11日「人を惑わす言動」
求められているのが戦略的な態度ではないとすれば何なのかというと、それ以前にいったい誰が何を求めているのかということがよくわからないのだが、わざとわからないふりをしながら的外れなことを述べたいわけではなく、できれば誰もが納得できるようなもっともらしい見解を提示したいのだが、それが嘘だとすればやはり戦略的に振る舞っていることになり、人を騙すようなことを語ろうとしているのではないかと自身の言動を疑いの目で見ていることになるが、では何を述べているのかというと、誰もが戦略的な言動に及んでいるのだから、そこには目的があって、言動を繰り出す者にとっての思い通りの結果になるように持って行きたくて、そんな見え透いた言動に及んでいると現状を見るなら、そんな現状とはどんな現状なのかと問いたくなってきてしまうが、誰の言動が見え透いているのかというと、それをわざとぼかして言動を繰り出す者が、自分ではなく他人に何かをやらせようとして、そんな言動を繰り出しているように思われると、そういう意図が見え透いているようにも感じられるのだから、無自覚にそういう言動になってしまうのなら戦略的とは言えないが、意図的にそんなことをやっているとも思えないとすれば、戦略的でも何でもなく、ただの無自覚な行為に過ぎないが、彼らの言っていることを信用できないのは以前からそうなのであって、何もそれが今に始まったことではなく、その魂胆が見え透いているように思われて、しかもなぜかそれが無自覚な魂胆だとしたら、自分で自分の魂胆を理解していないように見えてしまい、果たしてそれが戦略的な態度なのかというと、もしかしたら戦略的に自滅を呼び込むように持って行っているのかも知れず、それが無自覚な自殺願望の表れだと見なして良いのか良くないのかは、当人の真意を測りかねるから何とも言えないところだが、連携ではなく対立させたい空気を読んでいるのなら、そういう空気に逆らうのもおかしいような気がするだろうから、普通に対立していればいいのかも知れないし、もちろんそんなところで対立しているから駄目なんだと言いたい人も言う人もいくらでもいることを承知で対立すれば良く、そんな期待に応えることが戦略的な態度だと思うなら、それが勘違いな態度なのだろうが、果たして戦略的に人を惑わすような言動に及んでいるのかというと、たぶん当人が自覚していなくても結果的にそうなってしまうとすれば、それが自覚なき戦略なのかも知れず、人を惑わすような言動によって人を惑わしていると認識しておけばいいようなことなのかも知れず、ではそんな言動によって自らも惑わされているのかというと、何となく惑わされていると思っていて、しかも惑わされていても構わないような気がするから、そのつもりで惑わされているのであり、それがわざとではないにしても試練だとも思えないのだから、試練を乗り越えようとするわけでもなく、そのままでも構わないと思っているわけで、だからといって茶番だ何だと馬鹿にしたいわけでも、軽く鼻であしらいたいわけでもなく、彼らが本気でそんなことを主張していると思っていて、一応は彼らの主張を真に受けているそぶりを見せているつもりなのだが、そのそぶりというのが演技とか装いとかいう見せかけの意味に受け取っても構わないかというと、真に受けているのだから本気で彼らの主張を信じてみたいのだが、信じてみたいのに支持しているわけでもなければ、彼らの主張に賛同するわけでもないのだから、何か矛盾したことを述べているらしく、そういうところが微妙な感じがして、不完全なことを述べているとしたら、逆に完全に正しい主張などないと思っておけばそれでも構わないようなことでもあって、その主張が不完全であるのを承知の上で、そういう主張をしている人たちを支持しているらしく、主張を支持するのではなく主張している人たちを支持しているのだから微妙な感じで、主張が不完全で正しいとも思えないのに、主張している人たちを支持するということが、どういうことなのかというと、それがうまく説明できないが、彼らに期待しているということであり、何を期待しているのかというと、将来において何らかの役割を果たしてくれるのではないかと期待しているわけで、今は間違った主張にとらわれているとしても、そういう成り行きを潜り抜けないとその先には進めないようなことになっている可能性もあるわけだから、主張の正しさではなく言動の傾向が期待できるような感じになっていて、それがこれから様々な紆余曲折を経てどうなるかも、大したことでもないような気もするから、では何なのかというと、何でもないような人たちが関わっていることだから、相対的に他の欲得ずくの人たちよりは信頼できるということであり、そういう意味では今は大した力も発揮できないかも知れないが、それなりにある程度の規模の勢力には成長する可能性はあるかも知れず、その程度のことであればそれで構わないことであり、それに伴って彼らの主張も何らかの譲歩や妥協を強いられるかも知れないし、もちろん頑なに変わらぬ主張を貫き通すのも彼らの勝手となるかどうかも現時点でははっきりしないが、主張の中身よりも活動そのものが重要だというと、そんなことはないと反論されるわけでもなく、ただ無視されるだけだろうが、彼らの活動に比べれば主張などどうでもいいとは言わないが、主張にこだわっていてもそれで構わないのであり、彼らがそれにいくらこだわっていても、世の中の成り行きがそれを無視するように推移して行けば、彼らが時代の進行から取り残されるとも限らず、たとえ彼らが時代遅れになってしまっても、それでも構わないような時代状況だと思っておけばいい程度のこととして、彼らの活動を支援して行けばいい程度のことであり、果たしてそれで支援していると言えるかどうかも、彼らにとってはそんな支援など要らない程度のことなら、そういうことだと受け止めておけばいい程度のことなのだが、彼らの主張が間違っているというよりは、不完全だと思っておけばいい程度のことであれば、無理に彼らと対立したり彼らを批判したり非難したりする筋合いも生じてこないような気もするわけで、今後その主張を発展させて行って、いつの間にかそれが時代状況と合ってくれば、彼らにも浮上のチャンスが巡ってくるかも知れない。
8月10日「対立を煽り立てる罠」
現状の世界ではありふれている何かと何かが対立しているように装われている面が少なからずあるとしても、それが表面的なところでは従来から例えば国家や民族や宗教などの面で対立が煽られているからといって、意識してそれを経済に直結させようと画策しているから、そこに問題があるように思われるのだが、果たしてそこに何か決定的な差異や違いがあって、それを巡って争いが起こっていると考えると、それもちょっと違うようなことになっているのに気づけなくなってしまうのかも知れず、何が違うのかといえば、単純に対立しているだけではなく、様々な対立軸が複雑に入り組んでいることを考慮に入れておかないと、対立を煽り立てる人や勢力によって意識を彼らが向けたがっている方面へと誘導されてしまうわけで、それがありふれたところでは国家や民族や宗教や宗派や人種や性別などの対立へと、個別に単純化するような方面になるわけだが、そこから何が派生しているわけでもないのだが、日本で流行っているローカルな対立としては、積極財政と緊縮財政の対立だとか左翼と保守の対立だとか富裕層と貧困層の対立だとか、何かと対立を煽り立てている人や勢力に起因する経緯や事情に応じて、複数の対立が複雑に絡み合いながらも、個別の対立ごとにどちらが有利でどちらが不利になっているだとかが問題視されているはずだが、積極的に対立を煽り立てている側に固有の問題があることは確かで、対立を煽り立てないと問題視していることをスルーされてしまうから煽り立てる以外にも、対立しているところへと人々の関心を向けさせないとばれてしまう嘘やごまかしている点があるかというと、対立を煽り立てている側がそれを嘘やごまかしだと認識しているわけでもないのは当然だとしても、否定的なレッテルを貼られて攻撃されている側にとっては、当然のこととしてそれが不当な言いがかりだと思われるだろうから、そういう煽り立てを無視するか受けて立つかは微妙に判断がつかないところかも知れないが、対立を煽り立てている側に嘘やごまかしがあることを明らかにできれば、それを対立を煽り立てている側が認めるはずもないだろうが、その時点でどちらが正しくどちらが間違っているかに関しては、一応の答えを提示できたことになるわけだから、とりあえずは対立を煽り立てる側に反撃するには、相手の嘘やごまかしを見つけてそれを明らかにするようなやり方が試みられるはずだが、それの何が嘘やごまかしだと言えるかということに関しては、微妙に双方の間で認識や見解が異なってくるのもよくありがちなところでもあるから、それに関しては何やら中立的な立場を装いながら、双方の言い分の中で誤りを指摘するような理性的な態度も可能かも知れないが、そういうところで巧妙に小狡い意図や魂胆が隠されていることに気づくべきかも知れないし、そこにも都合の悪い面を避けようとする思惑が働いているから、そういうことから類推しても、個々の事例ごとに単純に対立を煽り立てる言動には注意しなければならないのかも知れず、わかりやすい対立を煽られてそれを真に受けて暴動などに参加して逮捕されてしまう若者たちが愚かなのは誰もが承知していることだが、攻撃を仕掛けている側の煽り立てを真に受けてしまってもいいのかということが、微妙に判断がつかないというか、少なくとも攻撃に際して攻撃の相手にわかりやすい決めつけやレッテル貼りをしている時点で、それに関係する物事の複雑で面倒でわかりにくい絡み合いや錯綜などを無視しているわけだから、それが嘘やごまかしそのものなのも誰もが承知していることだが、そんなことはわかりきっているだけに誰も煽動者に騙されてはいないはずなのだが、そんなわかりきった判断基準を超えて作用する何かがあるとしたら、それが経済的かつ功利的な利害や損得勘定となるわけだが、煽動者の言っていることを真に受けて付き従っているように見える人や集団がいたら、彼らは煽動者に騙されているのではなく、利益になると思い込んでいるから煽動者に付き従っていると見なすのが妥当なところなのだろうが、そういう自覚がない場合も多いわけで、自分たちのやっていることを理解していないのかというと、そんなはずがないと思うだろうが、彼らが馬鹿だから愚かだから煽動者に付き従っていると見なすのも嘘やごまかしに含まれるかも知れず、しかもそれ以前に煽動者が特定されないような不特定多数の人々が自然発生的に暴動を起こしている場合もあるわけだから、煽動者に騙されるなと警鐘を鳴らすこと自体もちょっと違うような気もするわけで、本当のところは経済的かつ功利的な利害や損得勘定から行動しているのに、あからさまにそう決めつけられると自分たちの行動を正当化できないから、それに代わる方便となる嘘やごまかしのアイテムとして、ありふれたところでは国家や民族や宗教や宗派や人種や性別や政治的な左右などの誰にとってもわかりやすい概念が共同幻想を伴った価値観として使われるのだろうが、そういうわかりやすい概念が長年にわたって使い古されて、もはやそれを真に受ける人も馬鹿や愚か者以外ではあまり見当たらなくなってしまったかどうかも、地域差も地政学的な事情もあるから、未だにリアリティを伴っているところでは有効に機能している一方で、日本ではそこからちょっとひねった概念として提示されているのが、積極財政と緊縮財政という対立軸なのだろうが、それも政権交代させないように機能している面もあるわけだから、何かそういう面を考慮に入れるとあまり真に受けるわけにはいかないような気もしてくるわけで、それを偽りの対立軸とまでは言わないにしても、少なくともそこに関わってくる誰もが正当化できない経済的かつ功利的な利害や損得勘定から考えられるかというと、それも物事を単純化しているようにも感じられるから、そうではないとすれば何なのかといっても、逆説的には対立しないように持って行きたいわけでもないのだが、要するに対立している面があるとしても、その一方で対立していない面もあるわけだから、その両面を考慮に入れれば、どうすればいいかが自ずから明らかになってくるわけでもないところが、誰にとっても悩ましいところでもなく、少なくとも対立していた方が都合の良い人や集団が対立を煽っていると見なすしかないわけだが、その都合の良さが幻想に過ぎないことに気づいていない可能性もなきにしもあらずなところも、彼らがわかってくれないところでもわかろうとしないところでもあるわけだ。
8月9日「早まった行為」
突発的に思いがけない事態に直面していたことは確かで、そんな事態がいつまでも持続するはずもなく、遅かれ早かれやがて日常の生活の中で忘れてしまう体験でしかないが、次第に平静を取り戻して行く中で、何か教訓めいたことを思いつくわけでもないとすれば、心身に何の痕跡も残さなかったかというと、何かの拍子にその時のことを思い出すこともあるのだろうが、そこで早まったことをやってしまった人が一時的にぬか喜びして、うまく立ち回れなかった人に対してざまあみろと嘲りの文句を言い放ってしまったのが、果たして後になって致命的な失態だと気づくに至るかどうかも、今この時点では何とも言えないが、そうはならないような気もするから、誰も気づかないままとなってしまえば、致命的な失態でも何でもないことになってしまうかというと、要するにそれが原因でどうにかなってしまったことに気づけないだろうから、今後執拗に原因不明な何かに悩まされるかも知れないし、あえてそれが原因だと指摘する人も出てこないだろうから、それもそのままとなってしまうかも知れず、そんなわけで突発的に起こった思いがけない事態に遭遇して何がどうなったわけでもないことになってしまうだろうが、それで構わないかというと、人それぞれで構わないのかも知れないし、他人がどうなろうと知ったことではないのは、誰にとってもそういうわけにも行かないかも知れないが、何かすっきりしないわけで、まだその時の対処や対応の良し悪しがはっきりしていないから、何とも言えないわけではなく、それなりに結果が出ているのにそれを結果だとは認めたくないのかも知れないし、思いがけない事態に対処した結果が思いがけない事態をもたらしたことに気づいていないわけでもないのだろうが、その対処の仕方が致命的な失態をもたらしたとは認め難く、自身の過ちや誤りを認め難いのは誰もがそうだとしても、そうであっても構わないような態度を死ぬまで押し通そうとするから死期を早めると解釈するなら、確かにそれが致命的な失態だと言えるのだが、果たしてそれが本当にそういうことだったのかというと、実際にそうなったところで誰がそれを指摘することもなければ、それを誰が証明してみせたわけでもないから、誰もそうだとは思わないままとなってしまうのかも知れず、それでも構わないなら何の問題もないわけだが、どんな原因で誰が死のうが生きようが何の問題もないとも言えないが、これからそうなることを前もって言っておきたかったわけでもなければ誰がそうなるわけでもないのかも知れないし、それが取り越し苦労とでも言えるようなことでもないとするなら、では何なのかというと、自らがそうならないように振る舞いたいのかも知れず、そんな事態の中でうまく立ち回ってしまうと、それに味を占めてしまうからまずいと言えるようなことであるから、だから調子に乗らないように前もって痛い目に遭っておいた方が良いとも言えないが、実際にそういうことだと思われるような体験だったのかも知れず、自分にとっては突発的に起こった思いがけない事態の前の段階で、それへの備えとして予行演習のような出来事を体験していたわけで、それを事前に行なっていたから実際に痛い目に遭って、それが起こった際にはそれを利用して調子に乗ってうまく立ち回るのを思いとどまってしまい、結果的には大して痛手を被ったわけでもないようなことになってしまったかどうかも、あまり都合良く解釈するのはやめた方がいいような気もするから、そこでも正当化するのを思いとどまってしまうのだが、だから神からの啓示でそうなったしまったと思っておけばいいようなことなのかというと、啓示というか、どちらかというと命令とか司令に近いものなのかも知れないが、果たして神が自分に向かってそんな命令とか司令とか下すようなことなのかというと、そんな大げさなことでもないと言えばその通りのような気がしないでもなく、何かの気晴らしや気休めにそんな妄想を抱いているぐらいがちょうど良いと言えるようなことでもないが、そのおかげで危機的な事態をやり過ごすことができたとも思えないのだが、それが驚くような事態だったのは確かだが、危機的な事態だとも感じなかったわけで、それが起こっている最中に、こういうことが起こるとそれを利用して調子に乗ってこれ見よがしなことをやってみせたり言い放ってみせたりする人が出てくるなと思ったわけでもないのだが、それもそうなった後からそう思われるようなことであり、実際にそれに類することを言い放った人もいたような気もするから、そういうことを文章として構成するような成り行きになってしまって、これではまずいのではないかと思ってしまったわけで、そこから慌てて軌道修正を試みている最中でもないのだが、その過程ではなぜかそこから逸らされて行くような成り行きになってしまうのが不思議に感じられるわけだが、結果的にはなぜかうまく立ち回ったことになるようなこれ見よがしな行為とは真逆なことをやってしまって、表面的には痛い目に遭ったことになるのだろうが、それが予防接種のような免疫を獲得する行為だったと言えるのかどうかも、どうしても自らの行為を正当化するわけにも行かないから何とも言えず、それがフライング気味の早まった行為には違いないのだが、結果的にはそれで良かったようなことになりつつあるから、そういうことだと解釈したくなってしまうが、喜ぶのはまだ早いと思わざるを得ないような情勢なのかも知れず、これからもう一波乱も二波乱もありそうな予感がするから、それを乗り越えられるかどうかはそうなってみないことには何とも言えないが、予感としてはこれからもうまく立ち回れずに調子に乗れない状態のままでも構わないような成り行きにとらわれながらも、何となくそれらを受け流したりやり過ごしたりしながら事態が進んで行くような感じなのかも知れないから、どうなるにしてもこれ見よがしなことをやってみせたり言い放ってみせたりはしないことになるのではないかと思っているわけだが、それもそうなってみたところで何でもないようなことだから、それが取り立てて良し悪しを言えるようなことではないのかも知れない。
8月8日「慣れた感覚」
現状がこうなったからといって何が裏切られたわけでもないし、こうなることはある程度は事前に予想していたわけだから、予想の範囲内で何とでも言えるようなことなのだが、ではこうなった状態の中で何か対処できることがあるのかというと、今が対処している最中だから今後もそれを続けて行くしかなく、実際にどうなったのかといっても、誰もが知っている範疇に入ること以外で、これといって誰も知らない秘密などあるわけでもなく、知らないことを知ろうとしているのは、いつもの想像力が作用して勝手に妄想しているに過ぎないが、何を今さら悔やんでみても、後悔先に立たずな成り行きの範囲内でそう思っているわけだから、それが自然の成り行きだと思っていればいいようなことでしかないが、何も不思議には感じられない程度で、確かにちょっと驚くようなことが起こったのに、それが起こった後の状況の中ではそれほど深刻には思われない程度の状態を保っているわけで、まさか感覚が麻痺しているからそう感じるのかと自らの実感を疑っているわけでもなく、信じるしかないと頑なに思い込むような信念などないから、それに関連して信仰の類いを軽んじている限りで、どっちつかずな状況なのかも知れず、自分の失敗を失敗だとは思っていないのは、ある程度失敗は避けようがなく、避けられないことだからそれを頑なに認めないわけにもいかず、そう思われるようなことではなくても、それもある程度は失敗を前提として物事が推移していて、結果的にそれを成功に持って行くつもりで活動しているから、しかもそれも失敗に終わっても構わないようなことなのかも知れず、そういう意味では絶えず失敗していないと活動が持続しないような失敗中毒に陥っているわけでもないのだが、普通は失敗すればそこで活動が終わってしまうと思いたいのだが、逆に失敗していないと困るわけでもないのだが、失敗に対処することが活動そのものとなっていて、まずは失敗してそれに対処することによって活動が成り立つようなことなのかも知れず、それに関して例えばアベノミクスが失敗に終わったと主張したい人などいくらでもいる世の中になっていること自体が、なぜかアベノミクスの成功を物語っているとも思えないだろうが、狙いとしてはそういうことなのであり、何かアベノミクスが失敗に終わったことを前提として活動が成り立っているようなら、そういう活動そのものが間違っているような気がしてしまうこと自体が、自分の勘がそう思わせることの真実なのであり、それで構わないようなことなのだが、結局はうまく行かないから何とかしなければならないと思いながら活動しているわけで、それが人の活動の本質であり実態なのだとしても、果たしてうまく行かないことが何かのきっかけからうまく行き始めて、それが成功だと言えるような成果を伴ってくれば、確かに満足感を得るに至るのだろうが、それではまずいと思うなら、ではどうなればいいのかと自らの感性を疑ってみるわけにも行かず、ない物ねだりにならない程度で、現状の傾向とは違う方向で模索しなければならないことが出てくるとも思えないが、たぶんそういうところで自らの感性が試されていると思うしかなく、それが具体的に何なのかといっても、今のところはよくわからないし、死ぬまでわからないかも知れないが、真に模索すべきだと思っているのは経済的な何かという面では、そこからちょっとずれるようなことかも知れず、その辺のところで思うように思考が定まらないから、何も導き出せずに終わってしまう可能性もなきにしもあらずだが、終わるということがどういうことなのかといっても、単に自らの死以外に何かそれなりの結果がもたらされるとしても、それが何に結びつくわけでもなく、それで構わないようなことなのかも知れないが、それなりの形態を伴ったことにでも結びつけば儲け物なのだろうが、今のところはそんな兆候は微塵も感じられないから、今後とも何がどうなって行くわけでもないのかも知れないし、気が向いた方面へと言語作用を働かせていれば、それなりの分量の言葉の連なりがもたらされて、それをどう解釈してみてもこれといって肯定できそうな意味や意義が伴ってくるわけでもなさそうだが、人の有り様というのが、その場の情勢や状況に合わせて肯定的に感じられたり否定的に感じられたりするのを、何かその中で普遍的な価値観を幻想してみたところで、それが何を示しているとも思えないなら、何かのまやかしに過ぎないことかも知れないが、まやかしを導き出すために文章を構成しているとも思えないなら、何やら現状の中でもっともらしく思われる理屈や理論に基づいた考えや認識や解釈の類いを提示したいのかも知れず、それがどんな状況や情勢の中でも恒常的に成り立つようなことでもないとすれば何なのかといっても、どうにも答えようのないことになってしまうのだが、誰もが試されていることが危機的な状況や情勢の中でどう行動したりどのような言動を繰り出すかだとすれば、たぶんそんなことにはお構いなくそうではないような方面へと逃げ出したくなってしまい、逃げ足の速さが競われるような状況や情勢が果たして危機的な事態なのかというと、たぶんそれもそうではないと思われて、成り行き的にはそこに踏みとどまっていることが逃げ遅れたと判断されるかどうかも怪しいところで、どう考えても理性的に振る舞うことが求められているのに、それがどういうことなのかわからない人たちがいくらでもいて、それがわかってしまっては困るような状況や情勢なのかも知れず、それがわからない人が大勢いることを前提として世の中で多くの様々な活動が成り立っているわけで、それをこれだと特定できないような成り行きがもたらされているから、その中で多くの人々が右往左往しているような状態なのかも知れないが、そうなっていないと活動が成り立たないのかというと、ではこれといって理性的に振る舞っている実態があるのかというと、それもよくわからないから、あれこれと振る舞い方を試しながらも、実際にはぎくしゃくしたみっともない動作となっているとしても、そういうことの範疇で人の振る舞いが一応はそれなりに成り立っているように見えるわけで、それで構わないわけではないのだろうが、構うも構わないもそんなふうにしか振る舞えないわけだから、他人の振る舞いを見てそれを妥当な振る舞いだとは感じらない限りは批判や非難の対象となってしまうわけだ。
8月7日「日本システムの機能」
日銀が金利をわずかに上げたぐらいで日本が滅びるとは思わないが、そういうことを言う人がまともなのかというと、世の中にはそういうことを言わざるを得ない立場というのがありそうで、そんなことを言っている人の立場というのがそうなのかというと、その種の人たちがそういう立場を作り上げて、その立場を死守したいから、今ここで日銀が金利を上げたら日本が滅びると言わざるを得なくなっていると解釈しておくのが無難なところかも知れないが、それとは少しずれるわけでもないが、山本太郎がここ数年で作り上げてきた立場というのが、消費税が日本を滅ぼすという主張を成り立たせる立場なのかも知れないし、そういう主張が正しいように思わせるデータや理屈を使ってそういうことを言っているわけだが、日銀が金利上げたら日本が滅びるとか消費税が日本を滅ぼすとか、その種の主張の利点や欠点は何かと考えたいわけではないものの、滅びるとか滅ぼす対象となる日本とは何かと考えたいわけでもなければ、そういうことをまともそうな人に言わせるシステムが作動しているような気がするわけで、それをシステムと呼ぶのも制度だと見なすのも、そう考えると頭がこんがらがってくるような気がしてしまい、ちょっと物事をひねって考え過ぎな感じもしないではないが、さらにひねったことを述べるなら、例えば日本という言葉の代わりに世界という言葉を入れてみると、日銀が金利を上げると世界が滅びるとか、消費税が世界を滅ぼすとか、そんなのはどう考えてもおかしいと思うはずだが、その対象が世界になってしまうと明らかにおかしいのに、それを日本に限定するともっともらしく感じられる何かがありそうで、その何かがそれをもっともらしく感じさせるシステムとか制度とかだと断定できるかというと、果たしてそれがどんなシステムであり制度なのかということに関して、それをもっともらしく説明できるかにかかってきたそうだが、どうもうまくは説明できないような気がするから、いい加減でインチキ臭い話の内容になってしまうかも知れないが、まずはシステムと制度のどちらを使った方がしっくりくるかというと、それに日本という言葉を当てはめてみるとシステムの方がしっくりきそうで、では日本システムと世界システムの違いは何かと問うなら、一つの国家に限定されるか否かにかかってきそうだが、アメリカのFRBが金利を上げたり下げたりすると、日銀とは違って、それが世界金融システムに少なからず影響を及ぼすのに、日銀が金利を上げたり下げたりするだけでは、世界金融システムはびくともしないように思われるということが、日本とアメリカの国力の違いだと説明できそうで、それが円とドルが世界システムへと及ぼす影響力の強さにも表れてきそうだが、少なくとも投機筋から円売りを仕掛けられて、円安に歯止めがかからなくなってきたから日銀が金利を上げざるを得なくなったという背景がもっともらしく説明されているのだから、そういうことを考慮に入れるなら、日銀が金利を上げたら日本が滅びるのではなく、このままでは円安に歯止めがかからなくなるから金利を上げざるを得なくなったと解釈するのが自然だが、結果的に株の暴落を招いたと判断するなら、そら見たことかと日銀が金利を上げたのを非難できるわけだから、それが時宜を捉えた非難の仕方にふさわしいかというと、そういうレベルではそう思うにしても、もっと長い目で見れば、この辺で株を暴落させておいた方が何かと都合が良さそうにも思われて、それが何の都合なのかが今ひとつわかりかねるにしても、よくわからないことに関してはあまり勝手な臆見に基づいて判断しない方が良さそうだが、そんな思考を成立させる世界では通用しないローカルな日本システムとは何なのかというと、日本だけで通用する日本特有の思考や思想をもたらすシステムには違いないわけだが、そういったシステムの信奉者が、それを世界でも通用させたいのかというと、日本の工業技術やスポーツ選手などが世界で通用した際には、それが世界で通用したように主張したいのだろうが、またそれに対していちゃもんをつけてくる人や勢力などに対しては反日というレッテルを貼って排除するのかも知れないし、反日というレッテルを貼ることも日本システムの機能に含まれてくるのかも知れず、そういうのはシステム全般から見れば枝葉末節な部類に入りそうだが、ではシステムの主要な部分では何が機能しているのかといえば、日本そのものを否定的に見るように仕向けていて、しかも否定的に見た者を排除するように仕向けているから、それが二重の罠なのかも知れず、罠にかからないようにするには、日本の現状を否定的に見ている者の主張には賛同しないようにしなければならず、それを支持したりそれに賛同したりすると、反日のレッテルを貼られて排除の対象となってしまうから用心する必要があるわけで、そういう意味では日銀が金利を上げたら日本が滅びるとか、消費税が日本を滅ぼすとかいう主張が、日本の現状を否定的に見ているのだから、そんな主張を支持したりそれに賛同してしまうと、反日のレッテルを貼られて排除の対象となってしまうのかというと、なぜかそうではなく、そこでも微妙なさじ加減から注意深く成り行きを見守る必要があるかも知れないから油断がならないわけで、そういう主張を支持したりそれに賛同するような人にも日本システムの中で機能している人たちが含まれていて、そこで機能している微妙なさじ加減に気づかないと、日本システムによって騙されてしまうわけではないにしても、何か見当外れな方面へと誘導されてしまうわけで、そこで機能している人たちが実際に何をやっているのかというと、従来からある紋切り型の体制批判とは違うと共に、従来からある反体制批判も批判しているわけで、そこが微妙にずれてくるところであり、体制も批判するし反体制も批判するから、どちらにも属さない第三勢力だと認識してしまうとそれが勘違いのもととなってしまうから、そこでも用心しなければらないわけだが、結果的に何を利するようなことになっているのかをよく考えてみる必要があるわけだが、それが日本システムとして世界の中で特有の機能を果たしているのではないか。
8月6日「言いたいことが何かある」
たぶん今ここで新たな事態が起こっている最中なのだろうが、確かに何かが起こって、事態がそれなりに動いたわけで、それが何でもないことの繰り返しではなく、簡単に言うなら通常のマネーゲームの延長上で比較的振れ幅の大きいことが起こったわけだが、それに関してもっともらしい意見を述べている人たちにとっては、それなりに言いたいことが色々とある中で、それが以前から述べている持論の延長上で述べているに過ぎなければ、今ここで新たに起こっていることを見逃していたり見落としていることになるかというと、それが指摘されない限りはそうでもなく、折りに触れて述べてきた範疇で説明できるようなことであれば、それで構わないのかも知れず、特に目新しいことは何も起こっていないと思うなら、そんなことはなくても、それが大して重要だとも思われなければ、無視しても構わないような些細なことかも知れないし、それが重大だと思うようなことであれば、それについて触れないわけには行かないだろうが、重大でも重要でもなく、普通に考えて暴落によって金融資産が目減りすれば、それだけ世の中の貧富の格差が縮まったと考えてもいいのかというと、そうでもありそうでもないようなことが起こっていて、暴落に乗じて投資できるだけの余裕のある者だけが、さらに資産を増やす機会をものにして、投資できないと資産が減って富裕を目指す競争から脱落すると考えても構わないかというと、単純にそうなるとも限らないし、その場の運にもやり方次第にも左右されるところだろうし、投資の目的が富裕になる以外にもあるなら、それが金融資産の暴落に乗じて行うことでもなければ、それとは別の機会に行うことであったり、そもそも機会を捉えて行うようなことでもないのかも知れないし、積立投資のように定期的に少しずつ行うことになるなら、暴落が起ころうと起こるまいと関係のないことになってしまうが、そういうことをやっている人には暴落に乗じて述べるようなこれ見よがしな意見に対しては、それほど世間的に話題になる程度以上には関心が向かないのかも知れないし、ただ淡々とやるべきことをやるだけなのかも知れないし、全面的にそれだけにかかりきりとなっているわけでもなければ、部分的に行なっていることになるだろうから、他にも色々と手がけている中で、特にこれといってこだわっているわけでもなければ、適当にいい加減な感じでその場の気分次第で、気が向いた時に行えばいいようなことかも知れず、そんなことで済んでしまう限りでそれなりに心理的にも資産的にも余裕があり、それとは対照的に暴落によって大損して多額の負債を背負ってしまった人ほど事態を深刻に受け止めているはずだろうが、果たしてそんな人がそれほどいるのかというと、普通は余剰資金で投資している人が大半なのだから、暴落しようがしまいがどうということはなく、ごく一部の本気になっている人以外は、運良く資産がちょっと増えれば儲けものぐらいの気持ちで投資しているのかも知れないし、投資を煽っている証券会社や銀行の宣伝文句とは裏腹に、それをそのまま真に受けるほど愚かな人もあまりいないような世の中なのかも知れず、株価が暴落したぐらいで政府の責任を追及するようなことを述べている人ほど、勘違いも甚だしいような気もするのだが、では他に何か言いたいことがあるのかというと、投資で大損こいた人は自己責任だから放っておかれても文句は言えないが、自然災害で被災して生活に困っている人が放っておかれるのはまずいような気はするが、そういうところでも政府のやっていることを支持できるか否かが、世間の常識の範囲内で判断しなければならないことになってくるはずだが、次第に常識が通用しない世の中になってきているとすれば、それが今ここで起こっている新たな事態なのかも知れないし、絶えず過去からの延長上で物事を捉えようとしてしまうと、そういうところが見逃されたり見落とされたりすることだと言いたくもなるが、それも大抵は不満を溜め込んでいる人や集団であれば、過去からの延長上で織り込み済みの常識が通用しなくなってきているからそれが不満だと、自分たちの感知しないところで新しい常識がまかり通ってしまうと、それが原因で自分たちが不利な立場や境遇に追い込まれてしまうことを恐れるあまり、頑なに保守的な価値観を保持して、そんな価値観に凝り固まってしまうかも知れず、それが世界のどこでも顕著になってきていると考えるなら、そうなる原因を取り除くべく人や物や情報の受容や移動を制限したくなるわけで、都合の良い人や物や情報だけ受け入れて、都合の悪い人や物や情報を拒否したり排除しようとするのだろうが、そういう傾向は世界共通だから、新たなことをやろうとしたり、自分でも気づかないうちに新たな慣習や生活習慣を取り入れていたり実践する人にとっては、何かしら周囲から圧力が加えられて息苦しくなる経験をするかも知れないし、そういった同調圧力のようなものを跳ね除けながら生きて行けるか、それとも同調圧力に屈したり、屈しなくても屈したふりを装いながらも、戦略的な振る舞いに及んで、一定の譲歩や妥協を伴いながらも、それなりに生きている人も結構いるかも知れないが、そうなるのにも限度があるから、何かの限度を越えると暴動が発生したり、凶悪な犯罪が立て続けに起こったりするのかも知れず、それが大規模な自然災害がきっかけとなってそうなったりする場合もありそうだが、その一方で果たして株価の一時的な暴落を原因として何が起こるかといえば、愚かな人ほど暴落に巻き込まれるわけでもなく、愚かな人ほど損失額が大きくなるわけでもなければ、人の愚かさとは関係のないところで何かのバランスが作用して、結果的には損得や収支に起因する一喜一憂がもたらされるとしても、ただ淡々と事態が推移した後に、これまでの行き過ぎがある程度は是正されて、その後始末のようなことが行われるのかも知れないが、それが何の後始末になるのかが、それに関わってくる人によっても立場によっても受け止め方が変わってくるだろうが、暴落の際にうろたえていい加減なことを言い放ってしまった人ほど、その後始末に苦慮することになるのではないか。
8月5日「めったにないチャンス」
めったにないチャンスを逃すとは、危険を犯さないことと同義かも知れないが、果たしてここで賭けに出る必要があるのかというと、果たしてチャンスを逃さないためには危険を犯して賭けに出る必要があるのかないのか、そんなことはそんなことをやる人の勝手だろうが、何かその是非を巡ってヒントとなるような兆候が起こっているのかというと、事情通と呼ばれるカテゴリーに入る人たちが実際にその兆候が見られるから警告を発しているわけだが、そういう意味ではそのチャンスでもありチャンスでもないような状況なのかも知れず、誰にとってもチャンスとも言えないだろうから、自分にとってチャンスだと思って手を出せば、それが見込み違いの場合は窮地に陥る可能性が高いということかも知れないし、逆に危険を冒してチャンスをものにする人もわずかに出てくるなら、事情通という人たちの見込み違いだったかというとそういうわけでもなく、多くの人たちにとってはチャンスでも何でもなく、ただの危険な兆候に過ぎないはずだが、だから多くの人たちが怖がって手を出すのをためらっているうちに、ごくわずかの向こう見ずな人たちが手を出して、その中からさらにごくわずかな人たちがチャンスをものにするような機会なのかも知れず、確かにそういう意味では多くの人たちにとってはチャンスであるどころかただの危険に過ぎないが、多くの人たちにとってそうであるから、ごくわずかの人たちにとってはそこがチャンスだと考えることが、果たして現状に照らし合わせて妥当なのかと問われているわけではなく、そういう逆張り的な思考こそが間違っていると言えそうで、世の中の現実を舐めていると感じられてしまうかも知れないが、それがいきり立った不良が喧嘩相手に向かって、ナメてんじゃねえぞ!と脅しをかける際に使う舐めていることでもなければ何なのかというと、世の中の現実を舐めて痛い目に遭った方がいいんじゃないかと思われる程度の舐めている感覚なのかも知れず、逆張りしたければすれば良いから、逆張りした中からごくわずかの成功者が出てくるようならそれでも構わない状況なのかも知れないが、その成功者が自分になるとは限らないのはもちろんのこと、逆張りした者が誰も成功しない方が怖がっている多くの人たちにとっては安心できるわけで、逆張りして痛い目に遭った愚か者に向かってざまあみろと言い放ちたいわけで、人の言うことを聞かないから痛い目に遭うんだと説教したくなるだろうし、これからは物事の道理をわきまえて真面目に働けと言われて、いきり立った愚か者が意気消沈すれば、してやったりとなりそうなのだが、そんな成り行きに当てはまりそうな愚か者が果たしてこの世の中にいるのかというと、それがこれからわかるかも知れないし、わかったところでどうということはなく、そんなのは愚か者の知ったことではないとしたら、愚か者の方が道理をわきまえているつもりのわけ知り顔の知ったかぶりに勝利することになるだろうが、それもあり得ない話に思われるとすれば何なのかというと、その種のフィクションを絡めた想像力にも限界があって、絶えず人の想像を裏切るようなことが起こるとも限らないし、起こらないとも限らないが、どちらであっても構わないし、どちらでなくても構わないにしても、そんなことにはお構いなく、そういったチャンスと呼ばれる機会を通り過ぎてから、何かもっともらしくも説得力のあることが言えるようになり、そうなった時がわけ知り顔の知ったかぶりが勝利する機会がやってきたことになって、ここぞとばかりに怖がってチャンスをものにできなかった小心者たちやチャンスだと思って手を出して痛い目に遭った愚か者たちを小馬鹿にする機会に恵まれるわけだが、だからといってそれでわけ知り顔の知ったかぶりが世間から認められて尊崇されることになるかというと、中にはうまく立ち回ってそうなる者も出てくるかも知れないが、そこでも誰もがそうなれるわけではなく、ごくわずかの尊崇されるチャンスをものにできた者が実際に尊崇されるかも知れず、その方面の権威として愚か者たちから崇め奉られるかも知れないが、そこでもそんな奴を崇め奉るような者たちこそが愚か者だと言われるかも知れないから、安易に他人を小馬鹿にしたり賞賛したり崇め奉ってはまずいのかも知れず、それ以前に自分で考えて自分の判断に基づいて行動して、行動した結果から教訓やら反省点を導き出せたら、それをまたその後の行動に活かせば良いのだろうが、やっていることがうまく行けば自分が優秀で有能だからと思い込むのも愚かなことかも知れないし、うまく行かなければそれを他人のせいにするのも愚かなことかも知れないから、自分も他人もある程度は愚かであることを前提として行動しなければならないし、愚かだからこそ不用意に慎重さを欠いて行動できるのかも知れないし、それで構わないようなことになるとしたら、運が良かったと思うしかないのかも知れず、少なくとも現状の中だけでうまく行くための答えを求めたりせずに、過去の歴史や経験から学ばなければならないとしても、未来から学べるわけでもないし、自分にとっては未知の経験となるが、これから実際に体験することになるから、そうなると学ぶよりも優先して何かをやらなければならず、その何かというのが誰もがわからないし気づかないことになるだろうが、それが実際に今ここでやっていることになるわけだから、そんなのはわかりきったことだと思ってみても差し支えないのだが、わかりきったことがわからないとも思わないし、気づいていないはずがないわけだが、それに関しても絶えず自分の意図や思惑から外れた方面から何らかの作用や影響を及ぼされていると考えておくのが妥当なのかも知れないし、そういう作用や影響を及ぼされていることには気づいていて、ある程度はわかっているはずなのだが、だから自分の意図や思惑に気づいていないしわかっていないというと、何のことやらさっぱりわからなくなってしまうかも知れないが、この先何か結果のようなことに気づいたりわかってしまったりしても、そんな結果に動揺したり困惑したりするだろうが、そうなるように何かが仕向けているとも言えないし、そういう先回り的な思考を跳ね除けるような思いがけない出来事が起こるから、それに動揺したり困惑したりすると思っておくしかないのかも知れない。
8月4日「後悔できないこと」
そうなってしまうことに関しては特に何か信じられる理由があるわけでもないのだが、それでもなぜか自分でも信じられないことをやってしまうと、なぜそうなってしまうのかよくわからないのだが、それで構わないような気がして、すぐには自分がやってしまったことを理解できずにうろたえてしまうが、何かに導かれながらそんなことをやっているような他力本願な気分となって、そういう成り行きに身をまかせていればいいような気がするから、そうなるがままになって、実際にここまでやってきたわけだが、具体的に何をやってきたとも思えないのだから、何もやっていないのと同じではないものの、何かこれといって提示できないようなことでもあるから、結果として何がどうなったにしても、何かがどうにかなってしまったことについてはそういうことでしかないわけだが、その何かというのが自分には今ひとつ理解できないことだから、どう評価すればいいのかもわからないまま、自分の知らないところで結果的に何かがどうにかなっているのかも知れないから、そういうことに関しては何とも言えないところだが、今後何かしら結果が出て、それを理解できたところで自分なりに評価してみればいいことであるから、そうなった際にそんなことをやってしまったことの良し悪しを判断するにしても、それを否定的に捉えるか肯定的に捉えるかは、その場の状況や情勢にもよるが、そんな判断を下してみたところで、その頃にはもう過ぎ去ったことでもあるだろうから、大して痛手を被っているとも思えないわけで、それを今から予想しているわけだから、いい加減で当てにならない予想でもあるわけで、そんな予想を果たして信じられるかというと、自分で予想しているのに信じていないわけだが、自分が信じてもいない予想に基づいて行動するとなると、絶対に間違えそうだが、そんな自分が自分を騙すようなことで構わないのかというと、そうでもしないとなかなか行動に結びつかないのかも知れないし、わざと間違えるようなことをやらないと、それによって活動がうまく行かなくなるとしても、それで構わないような活動内容なのかも知れず、要するにそんな活動などやめてしまえばいいから、わざと間違えて活動をやめるきっかけを作っているらしく、そうやってそんなどうでもいいような活動からの離脱を目指しているのかも知れないが、そう考えるのも勘違いだとしたら何なのかというと、もしかしたら間違いでも勘違いでもない可能性もあるから、とりあえず今は自らが囚われている成り行きに身をまかせるしかなく、身をまかせていればそこから離脱できるわけでもないにしても、その中で行動していれば成り行きも自ずから変わってくるだろうから、自分がそこから離脱するというよりは、成り行きが変わって行くのに合わせて自分の行動も変わって行くように仕向けていればいいのかも知れず、果たしてそんなうまく事が運ぶとも思えないが、途中で成り行きと行動が合わずにぎくしゃくして、それなりに摩擦や軋轢も生じるだろうが、そうなっても構わないわけで、そうなる以前にすでに勘違いでいい加減な予想に基づいて行動しているわけだから、うまく行くはずがないと思っていればいいわけで、そういうところで何か確信を抱くようなことになると、その確信に裏切られた時が窮地に陥る時でもあるから、それに関しては今までの経験を踏まえて、歴史的な経緯も踏まえるなら、どうせこれから信じられないようなことが起こって、誰もが予想だにしなかった結果がもたらされるのが見え見えだと思われるような成り行きに誰もが囚われていると思っておけばいいわけで、そんなことまで考慮に入れるような成り行きでもないとしても、用心しておくに越したことはないし、現状の中でも信用できる人の予想が裏切られるようなことが起こる可能性が高いと情勢を見ているわけだが、果たしてそれが勘違いでいい加減な予想なのかといえば、そうであってもなくてもどちらでも構わないのだが、どちらにしても結果と言えるような結果が出れば、そんな結果に一喜一憂するだろうが、だからといってそれによって身の破滅をもたらすようなことでもなければ、どうということはないわけで、それが思いがけず身の破滅をもたらすような結果になっても、それに対処しているうちは生きているだろうから、それが気休めや気晴らしや焼け石に水程度の対処だとしても、やっている最中ではそれが自身の活動となっているわけだから、そういうことをやっているうちに成り行きが変わってくる可能性もあるわけで、そうなるのを今ここで予想するのもいい加減な勘違いになってしまいそうだが、つい先日も日銀が金利をちょっと上げたぐらいで、日本はもうお終いだと思っている人がいるなら、それ以前に異次元の金融緩和を継続している時点で、日本はもうお終いだと思っていた人もいるだろうし、さらにそれ以前に不動産バブルが崩壊した時点でも、日本はもうお終いだと思っていた人もいるだろうから、その延長上で今後もいくらでも、日本はもうお終いだと思う機会がやってくるのかも知れず、そういうお終いならいくらでも気が済むまでそう思っていればいいことに過ぎないとしても、そう思ってしまうことが真の意味でのお終いという状態を裏切って、要するにお終いの価値がインフレぎみに下がっているわけだが、果たしてそういう価値の下がったお終いを真に受けても構わないかというと、真に受けても構わないだろうし、お終いとはその程度のことだとたかを括っても構わないが、どこの誰が日本がお終いだと言っているのかも、その際には考慮しておかないとならないし、日頃から何かとその種の言動を繰り返し述べている人がそんなことを言っているなら、またかと思うだけで、大して気にならないが、果たしてそれ以外の人がそんなことを言い放っているかというとそうでもなく、そうであるなら今回もその程度のこととして日本はもうお終いだと思っていればいいことに過ぎないが、それ以外で何か気になる兆候でも察知しているのかというと、どうも自分の勘違いな勘を信じるなら、今回はそれとは真逆の成り行きになるような気もしているわけだ。
8月3日「やめられない衝動」
ほどほどのところでやめておくには、何事もやり過ぎないことが肝心だが、どこまでやってもやり足りないような気がしてしまうから、大抵は何事もやれるだけやってしまって、それが結果的にはやり過ぎな事態を招いてしまうとしても、何もやらないよりはやった方がマシだという実感と、過ぎたるは及ばざるが如しという格言との比較で、どちらがどうだというわけでもないが、その場の成り行きに応じて何かしら思うことも色々と出てくるにしても、できればちょうど良い加減というのが目指すべき状態なのだが、結果的にはそうはならないことの方が多いだろうから、そこからさらに余計なことをやらざるを得なくなって、それをやってしまったばかりに、それまでにやってきたことが台無しになれば後悔するだろうし、またやるのを躊躇してしまうと、あともう一押しが足らないから、成功の一歩手前で引き返すようなことになってしまっても後悔するだろうから、どちらにしても結果次第で何とでも言えるようなことだから、結局帯に短し襷に長しの中途半端で役立たずな状態の中で的外れな不満を抱いているぐらいがちょうど良いのかも知れないし、不満があるからその不満を解消するために、よせばいいのにまた余計な何かをやろうとして、しかもそのやろうとしてしまうことが結果的に蛇足となってしまえば、ますます不満が増幅されるような事態となってしまい、さらに余計なことをやらざるを得なくなって、そうやってどんどん自業自得気味に自滅へと向かって突っ走って行った先に、自らの死が待ち構えていれば、これにて一件落着な結末となるかも知れないが、今はまだその途上にあるのだから、いくら先回りして気休めに悲観的な未来を予想してみても、まだまだ先が長いような感じがする限りで、何かそれが勘違いなのかも知れないから、最近K2で滑落して遭難してしまった登山者の成り行きがその種の自滅を体現していると言い放つつもりもないが、たぶんそういうこれ見よがしな結果を回避するには、自力で何とかする以上にその場での運も味方してくれないと避けられない事態だろうから、危ないところには近寄らないでは、虎穴に入らずんば虎子を得ずな結果には違いないが、そうではなく大抵は何でもないようなことを金儲けに結びつけるようなやり方に落ち着くわけで、そういうやり方で成功した人がそれなりに優秀で有能なのはわかりきったことだとしても、そういう人が人々の尊敬の対象になるかというと、どうもそうではないことも世の多くの人が承知していて、人から尊敬されたくてそんなことをやっているわけではなく、結果的にそこで行われている競争か何かの中で努力が実って金儲けに成功するようなことになったのだろうから、それが何でもないようなことだと思われる限りで、実際に何でもないことだと思っておけばいいわけで、それでもたぶん大金を稼いだ結果を過大評価したくなるのだが、何でもないようなことによって過大な成功を手に入れようものなら、それもやり過ぎな範疇に入るようなことかも知れず、そんな身の程をわきまえないアンバランスな成功が身の破滅をもたらしても、メディア的にも大した話題にもならずに、ひっそりとこの世から消えてしまうような結果がもたらされて、それがどうしたわけでもないことにもなりかねないし、たぶんそれで構わないようなことだから、誰もそんなことには大して注目もしないわけだが、気休めに観る対象としてそんな成り行きの一部始終を提供するのがユーチューブには違いないのだが、暇にまかせてそれを観ているわけだから、少しはそれを興味深く感じているはずで、少しは内容がおもしろいとも思っているから、観続けているのだろうが、そのおもしろい程度というのが暇つぶしにはちょうど良い程度だからこそ長続きするわけで、そういう成り行きが深刻な事態をもたらすとも思えないのだが、その一方でそれとこれとを比較するわけにも行かないこととして、現状の世の中が深刻な事態になると騒ぎ立てるような動画も、観ている途中で嫌になるとそこで観るのをやめてしまう程度のこととして断続的に観続けている実態もあるわけで、一応は興味を抱いて観ようとするのだが、いつも途中で見るのをやめてしまうのだから、それがつまらなくて興味を惹かない内容でもないのだが、そこで述べられていることに違和感を覚えたり反感を抱くのが刺激になるから観ているようなものなのかも知れないが、嫌なのに観ざるを得ないことが精神的にある程度の苦痛をもたらしているとしても、その一方で何でもないようなものも普通におもしろがりながら観ているわけだから、どちらが良いか悪いかを判断するなら、何でもないようなものが良くて違和感や反感を覚えるようなものが悪いと単純に評価できるかというと、それでも構わないわけだが、どうしてもたとえ否定的な刺激をもたらすものでもそれを嫌な感じを受けながら観ているわけだから、それだけ観ている自分に強い作用や影響を及ぼしているはずだが、その一方で何でもないように感じられるどうということはないものの方が、それだけ無関心という悪影響をもたらしている可能性もあるかも知れないし、それが何に対して無関心になるように仕向けているかといえば、実際に世の中で嫌なことが起こっていることに無関心になるように仕向けているようにも思われるわけだが、そんな嫌なこと忘れるための憂さ晴らしとして何があるのかというと、誰もがそれを知っていて、しかも誰もがそれを憂さ晴らしや気晴らしとして体験しているはずで、そんな世の中だからこそ、わざと嫌になるようなものを観せて、多くの人々がそこへと関心を向けるように仕向けているのかも知れないが、そういうことが行われていること自体が余計なお世話のように感じられるとしたら、すでにそういうことをやり過ぎな状態がもたらされていると認識しておいても構わないだろうし、そういう意味では世の中の多くの人々の精神が絶えず四六時中過剰なメディア攻勢にさらされていて、そういったメディア支配に屈している現状もありそうだが、だからといって嫌な世の中だと思う反面、こうなっている以外にはあり得ないことも誰もが承知して受け入れている現状もあるのではないか。
8月2日「見せかけの演技」
それが演技なのか何なのかは、自らの勝手な思い込みを信じるなら演技だと見なしても構わないし、演技でないなら何なのかと問いたいわけでもないのだが、そこで何が見せかけられているとしても、それが起こってからすかさずそれに対して反応しているのだろうが、その反応がその人が日頃から唱えている主義主張にぴったりと一致するようだと、その主義主張に合わせた反応を演じているわけで、それでは何か驚きに欠けているというか、そこで起こったことをそのまま伝えていないように感じられてしまい、そういう反応に関してわかりやすい例として、日本で典型的に見かけられるのが共産党の人たちの反応となるだろうが、共産党の人たちは昔からそうだから、何かの風物詩のようなものとして何とも思わないのだが、共産党の人たちとは主義主張が正反対とまでは言えないとしても、野党的な反応というか、こんな人たちまでがこんな反応なのかと感じられるような反応が世の中に蔓延しているわけでもないのだが、それに気づいて軽く驚いてしまって、そういう反応に感じられてしまうような反応を示す人たちの述べている内容が信用できないというか、そうなるとそこから遡ってなるほど昔から共産党の人たちが述べていることを信用していなかったのかと改めて気づいてしまって、何かそれが逆説的に納得してしまうから、それがおもしろく感じられたわけだが、だからといって共産党の人たちの主義主張に賛同できないわけではなく、いつももっともらしくも正しい意見を主張しているわけだから、別にその主義主張の内容に反対したいとも思えないが、そういうことに関してはその通りだが、それとは別の方面から共産党の人たちが言わないことから、彼らが絶対に言わないし主張できないようなことまで含めると、何か違うような気がするわけで、そこから微妙にずれているというよりは、共産党の人たちが公式の場では絶対に言わない本音のような内容を石丸伸二やトランプなどが普通に言うから、それを本音だと思い込んでしまう若者たちがその種の演技としての本音の吐露や暴露に騙されてしまうわけでもないのだろうが、少なくともその種の内容がその人が培ってきた感性に合うから彼らの支持者になるわけだろうが、演技が悪いとも思えない一方で、果たしてそれがその人の本音だと思われるようなことまで公式の場で言い放っているのかというと、それがどうもそうではないような気がしてしまうから、何が信用できないのかが、たとえその内容を信用できないとしても、それがわざとらしい演技だと感じられても、共産党の人たちが絶対に言わないし言えないことをこれ見よがしに言い放つことが英雄的な言動なのかというと、たぶんそう思われるからそういうことを言い放つ人の支持者がそれなりに生じてくるのだろうが、その一方でそういう英雄的な言動の人について行くような人たちではない部類に入ってくるのが、自分のような何事にも煮え切らない態度に及んでしまう優柔不断なひねくれ者なのかというと、それなりにそうだとも言えないこともないが、日頃から唱えている主義主張に忠実な言動を心がけていても、あるいは〇〇反対という公式的なきれいごとに異を唱えるような本音を言い放つことが英雄的な行為だと思っても、絶えず言行不一致な面を考慮に入れるなら、言うことも行いに含まれるから、その不一致を強調し過ぎるのもちょっと違うのだろうから、それはそれで一定のもっともらしさが伴ってくる限りで少しはそんな言動に及んでしまう人を勇気ある行為だと讃えても構わないが、その一方で〇〇反対という公式的なきれいごとにも一定のもっともらしさが伴っているから、昔からそういうことを主張する共産党の人たちにもそれなりに支持者がついているのだろうが、たぶんどちらにしても部分的で一面的なある意味で一方的な主張なのかも知れず、そんな人たちには言わせておけばいいのだとしても、果たしてそれを真に受ける人がどれほどいるのかと疑念を抱いているわけではなく、どちらも言い放てないような中途半端な状況の中で誰もが生きているとも思えないが、言い放つこと自体は容認できるが、そういう言い放つ行為を受け流して聞き流している人もいくらでもいる世の中なのかも知れず、言いたい奴には勝手に言わせておいて、それ自体を無効化させようとするわけでもないし、まるでその種の言い放った声がスポンジのように吸収されてしまう防音壁のようなものがどこに設置されているわけでもないのだろうが、まともに響いてこない世の中に暮らしているようにも思われるから、その種の言動には全く共感も共鳴も起こらないわけではなく、彼らも少しは民衆の心に響くようなことを述べているのだろうから、自分の心にも全く響かないわけではないとしても、むしろそれなりにもっともらしいと感じられて少しは共感できる面もあるのだが、だからといってそんなことを述べている人を熱烈に支持する気にはなれないというか、それに関して自らの言行不一致を認めざるを得ないから、〇〇反対というきれいごとを主張する人に選挙で投票しても構わないわけで、逆に功利的な欲望や感情や損得勘定に心を支配されて、しかも言行が一致してしまう人たちが公的な政治に携わってしまってはまずいような気もするから、そういう人たちの主張にも一定の説得力があっても、そういう言動に賛同する人たちを味方につけたくて、パフォーマンスとしてこれ見よがしなことを言い放つわけだが、言っていることがそればかりな人が政治的な実権を握ってしまうと、世の中できれいごとが通用しなくなってしまってまずいのだとしても、それもどうもそういう二項対立に気を取られてしまうとまずいような気がするわけで、そういう二項対立自体も世の中の実態を反映していないし、経済的な弱者を救うようなことを主張している人たちの中にも、〇〇反対というきれいごとを主張する人たちに憎しみの感情を抱いていたり、そんな主張を小馬鹿にしたり嘲笑するような人も大勢含まれている一方で、逆に経済的な強者の富裕層に含まれるような人たちの方でも、〇〇反対というきれいごとに傾倒している人もいくらでもいるから、それを単純に言行不一致だと見なすのもちょっと違うわけだ。
8月1日「嘘の程度」
勘に頼って語ると、思ってもみなかった奇妙な内容になってしまって、これが自分の本音なのかと思って愕然としてしまうが、何か嘘をついているようでいて、部分的には真実に近づいているようにも思われるのだが、その一方で語るべきでない内容まで含まれているようにも思われて、それがやましさを覚えるというとちょっと違うとしても、それが何だかわからないが、何かを裏切っているようにも思われて、その裏切りが許せないかというと、そうでもないようにも思われてくるから、どうということはない程度の内容になっているのかも知れないし、たぶんそれで構わないのであり、感触としては自らの力量に見合った分相応でいい加減なことを述べているらしく、そこからさらに現状でわかっているつもりの事実に基づいて語りたいのだが、部分的な範囲内でうまく行っている活動であれば、それが合法的な範囲内で何も問題がないわけではないにしても、それなりに現状の中で活動が成り立っていると言えるだろうが、部分的にはそうであっても全体として辻褄が合っているのかというと、それがわからないのだから、やっていることが正しいか間違っているかで物事を判断できないし、法律に照らし合わせて合法か非合法かで判断が可能だが、それも法律を守るべきだと思っている範囲内で可能な判断だから、非合法なことでも正しいと思われてしまうと、合法か非合法かで判断するのが無意味とは言えないにしても、それよりも優先させる事情や経緯が出てくるのかも知れないし、場合によっては嘘をついてでもやらなければならないことになってくれば、客観的に考えてもやましいことをやっているはずなのだが、果たして他の何にもまして自由を優先させることがそういうことなのかというと、自由だからそうなるのではなく、逆に不自由だからこそ、法律など無視してやらなければならないことが出てくると思われるのだが、その辺で自由と不自由とを取り違えていることになるわけでもなく、法律を無視する自由や法律を破る自由などなく、法律を無視できない不自由があるし、法律を破れない不自由もあると考えるとしっくりきそうで、法律を無視したり破ったりしたことがばれると、実際に罰せられるから、できれば法律を無視せずに法律を破らない範囲内で活動を成り立たせたくなってくるのだろうが、ばれない限りは法律を無視したり破ったりできるかというと、その場の状況や情勢の中でそれができるかできないかが決まってきそうだが、その場では可能だとしても後からばれる可能性も出てくるだろうから、そういう意味でも法律に抵触するようなことはやらない方が身のためではあるのだろうが、現状のメディア上で話題となっているのが自民党の国会議員が違法行為をやっていたことが発覚した程度のことである限りで、それでも自民党を支持している人が世の中には大勢いるだろうから、その程度のことなのだが、それが小池百合子が嘘をついていたのがばればれなのに、選挙となればそんなのは無視して小池百合子に投票する人が大勢出てくるのと大して変わらないと思いたいが、それらの何が問題なのかと考えてみたところで、それがどうしたわけでもなく、そんなのは大したことでもないと思われてしまうことが問題なのだろうが、自分にとっても大したことでもないから、無視しても構わないようなことなのかも知れないが、ではそれ以外で何か無視できないことがあるのかというと、これといってすぐに思いつくようなことでもないが、それが嘘であり、実際にはどうするべきか迷っていることがあり、それが他人にとってはどうでもいいことであるのはわかりきったことなのだが、自分にとっても無視しても構わないし、むしろ無視していた方が無難に思われることなのだが、妙に気になってしまって、それがもとで無駄に金を使ってしまうことが見え見えなのに、なぜか決断を迫られていて、決断しなくても構わないし、決断を先送りにしたまま忘れてしまった方が、かえって事態をこじらせずに済むような気もするわけだが、それでもどうしようかと未だに迷っていて、それをやるかやらないかを決めかねているのだが、そういうところが矛盾しているというか、頭の中で物事の優先順位がこんがらがっていて、やるべきことをなかなかやらない一方で、やらなくてもいいことを無性にやりたくなってしまうから、それが失敗の原因となると共に、それがきっかけとなって思わぬところから何かがどうにかなってほしいとも内心期待しているわけだから、結果的にはいい加減なことをやっている現状があるわけで、すでにそういう方面ではやっていることがうまく行っていないはずなのだが、なぜかそれで構わないと感じられてしまうから、自分が思っていることとやっていることが一致していないような気もして、その言行不一致のようなずれた感じが自らの現状を構成していて、それではまずいような気がしているのに、自身を取り巻く物事の成り行きがそんな言行不一致をもたらすような方向へと否応なく進んで行ってしまって、それが抗い難くそうなって行くように感じられるから、そのままでも構わないような気がしてしまうのだが、そういうことの延長上で世の中で様々な種類や傾向の人たちも活動していて、結果的に違法行為や嘘をついたりする羽目に陥ってしまうことも百も承知で活動しているから、そういうことまで考慮すれば、自民党の議員の違法行為も許されるかというと、結果的に違法行為がばれたのだから、そういう面は許されないだろうから、裁判で有罪認定された後にそれ相応の罰を受けるのかも知れないが、そんなのは知ったことではない人たちが自民党を支持し続けるのだろうから、そんな人たちの頭の中では違法行為など大したことでもないはずだが、もちろん自民党と敵対する勢力の議員などが違法行為を犯そうものなら、ことさらにそれを問題視してそれを非難するかも知れないし、そういう面では功利的な判断からそうなってしまうのだろうから、そういう判断が他の何にも先んじて優先されるべきなのかも知れない。
|