彼の声160

2024年

1月31日「濡れ衣を着せられる立場」

 濡れ衣を着せられるというと無実の罪を負わされることだが、それと似たようなことでもないのに、特に悪びれもせずに法律違反を繰り返しているなら、法律こそが間違っていると思っているかも知れないが、自身にとってはその方が都合が良いから、そうなるにまかせていると事態を捉えるなら、法律違反を繰り返していようといまいと、結果的にそうなっているだけで、違反するしないに関わらず、行動できる限りで行動しているに過ぎないとしたら、たとえそれが法律違反であっても、違反行為を行うことに何の支障もきたさないことになってしまい、その人にとっては法律などあってないかの如くに振る舞えるとしたら、法律によってその人の行為や行動を制止できないことになるから、その人の権力や権限が法律を超えていることになってしまうが、果たして世の中にそんな存在や役職があるかというと、専制国家の国王ならそんな振る舞いもできるかも知れないが、たとえその種の専制国家であっても、政府の官僚機構が発達していれば、国王の権力や権限が官僚機構によって制限されていて、官僚機構の意に沿わないことは、国王であってもできないような仕組みになっている可能性があり、それでも強引に国王が勝手なことをやってしまうと、王制が倒されるような事態に陥ってしまい、それが革命やクーデターとなるだろうが、それを官僚機構が仕掛けているわけでもないのにそうなるとしたら、ただ単に官僚機構が国王の味方ではなくなっただけのことかも知れず、官僚機構なしには国を統治できないことが明らかになるわけだが、そういう意味でも専制国家の国王のような存在は政府の官僚機構との間で絶えず利害を共有していなければならず、両者の間で利害が一致しなくなった時が、その種の専制的な国家体制が崩壊する時になるはずだが、それとはだいぶ傾向も内情も違うのだろうが、現状の日本の国家体制が専制体制でないことは明らかだが、果たして政権政党と政府の官僚機構との間で利害が一致しているのかといえば、同じ政権政党による長期政権が続いているのだから、利害が一致しているどころか、もはや一心同体の状態だと見なしたくなるところだが、普通はそこに対立軸を見出すのではなく、政権与党と野党との間に対立軸を見出したくなるはずだが、その対立軸も現状ではもはや怪しくなっているだろうから、そちらの方面では物事を対立軸から考えるべきではないのかも知れず、では他に何から考えればいいのかとなると、特に決まりきった関係などではなく、政治的あるいは行政的な権力関係や統治関係などから何を導き出そうとしても特にはっきりした兆候や傾向が出てくるわけでもないとすれば、その場その時の偶然に支配された人や勢力の間での結びつきや対立などからもっともらしいことが言えるわけでもないだろうから、もっともらしくないことを述べておけばいいのかというと、それでは話にならないだろうから、それなりにもっともらしくて納得が行くようなことを述べなければならないだろうが、いくら一心同体だと思われようと政権政党と官僚機構の間でもそれなりに緊張関係があって、いつまでも政権政党の中で蔓延している違法行為を黙認するわけにもいかないから、頃合いを見計らって少しはお灸を据えておかないと、法治国家の体をなさなくなってしまうから、今回のようなことが起こったのだろうが、この際どちらが立場が上なのかを思い知らせる意味でも、そういうことが行われているとしても、建前上は違っていて、民主主義に配慮する外見を維持するには、国民主権の建前を掲げていないとまずいだろうから、後は選挙で民衆がどう判断するかにかかっているはずだが、それもまともに判断させてはまずいわけだから、何とかして現状の国家体制を維持するには、民衆の正常な判断からは逸脱させるような成り行きへと結果を持って行きたいわけで、そうなると結果的に導き出されてくるのは正常ではない異常な判断をするように仕向けるのが理に適っているというか、その理に適っているということが、何にとって理に適っているかが問題となってくるわけだが、それがわかりづらいところかも知れず、それが政府の官僚機構が一定のレベルで権力を維持するには理に適っていると思いたいところだが、本来の意味ではそうではないのかも知れず、今回のような事態になれば、普通は政権交代させることが理に適っているはずだが、それが現状の政治体制ではできない相談なのだろうから、それなりにおかしな事態となっていて、そんな傾向へと誘導しているのが何かといえば、それも普通は政権を維持したい与党勢力や政府の官僚機構やそれらと癒着している経団連などの企業勢力が民衆をおかしな方向へと誘導していると思ってしまうところだが、どうも実態としてはそうではないように思われるわけでもなく、そう思っている人たちが野党勢力を支持したり応援している人の中には大勢いるだろうが、実際にそうであっても構わないのだろうが、実際にそうなっていると思っている人も大勢いるだろうが、なぜかそうではないなら、いったいどうなっているのかというと、あからさまにそんなことには無関心なのであり、それよりも優先させていることがあるわけでもないのに、他に何か関心を惹かれている物事があるとしても、それとこれとを同じレベルで考えるわけにも行かないから、それ自体がその程度のことだと受け止められていると思うしかないわけだが、そうなると犯人は誰かとなるわけでもなく、誰も真犯人でもないとするなら、始めから権力関係も統治関係もその程度のことだと受け止められるような事態となっていると捉えておくしかないわけだが、では政府に頼らず自分の身は自分で守る気でいるのかというと、その気もないのにそうなっていると判断するしかなく、自分を守る気もなく、実際には守っているはずなのだが、そういうところでいつの間にか底が抜けている状態となっていて、何の底が抜けているのかといえば、社会の底が抜けているとも言えるわけでもないが、少なくとも自分の身は自分で守るしかないし、身を守るような事態の中で生きている気はなくても、実際に生きている限りは自分で自分の身を守っているから生きていられるわけだが、政府が自分の身を守ってくれるとは思っていないのかも知れず、政府は政府で自らが抱えている官僚機構を守っているわけで、自分たちを守る上で民衆をどう利用すればいいかが戦略的な課題となってくるとしたら、普通は国民主権や民主主義の幻想を抱かせるように仕向けるとは考えられるところだが、そう仕向けても民衆の方がなびいてこないものだから、そういった幻想を抱かせる気にもなれないのかも知れない。


1月30日「主義主張を批判できる理由」

 他人をうまく言いくるめることが得意な人なら、それなりに話術が洗練されていて、他人を説得する術も大抵の人がそれによって説得される程度には身につけているだろうが、そんな人にも気づいていないことがそれなりにあれば、しかもその気づいていないことが他の誰かには気づいていれば、その誰かが気づいていることを知るには、気づいていることを何らかの形で知らせないと、他の人がそれを知ることはできないだろうが、その誰かがメディアを利用して自身の気づいていることを表明する機会に恵まれるなら、しかもその気づいていることが他の多くの人々にも興味を引くような内容であれば、そのメディアを利用している他の多くの人々にも、その気づいていることが伝わって行くはずだが、そうやって様々な人が気づいていることをメディアを通じて網羅的に知ることができれば、それだけ知っていることの幅も範囲も広がって行くだろうが、もちろんただ知っているだけでは知っている以上に何の役に立つわけでもなく、知っていることを自らの活動に活かさないことには、宝の持ち腐れというか、宝ではなくゴミやガラクタの類いでしかないかも知れないが、それで構わないというわけではなく、敵対していたり競合している他人がそんな状態にとどまっていれば、それを活用しているつもりの自分が相対的に有利になるわけでもないだろうが、そんな気にさせるようなことを知っているかどうかは、その人が述べている内容から判断するしかないが、誰が何を判断しようと、どう判断したところで、それを無視しても構わないような立場を自分が占めているわけでもなく、無視できなければ何か文句を言いたくなるかも知れないが、文句を言ってみたところで何がどうなるわけでもないとは思わないにしても、なぜかそれを利用してそれとは違うことを述べてしまうから、そんなことを述べている当人も困惑するかも知れないが、それが当人の気づかないところで知ってしまった知識から及ぼされる影響なのかも知れず、自分でも気づかないうちに知ってしまう知識の内容が、何かのきっかけから述べていることに反映されていることに気づくわけもなく、そんな知識によって自分でも気づかないうちにおかしな方面へと誘導されてしまっているから、その人のあずかり知らないところでありふれた主義主張に感染してしまっていても、それにどう対処したらいいのかその人にわかるわけでもなく、それを自覚していないから、自身の立場から生じてくる経緯や事情に沿った解釈に囚われて、結果的にはその主義主張が言わんとしている意味や意義を取り逃していることにもなりかねず、それが勘違いな主義主張の曲解ではなく、正しい解釈としてメディアを通じて世の中に広まってしまえば、そうした曲解に共感する人も世の中には大勢いることになるだろうから、本当に曲解なのかといっても、曲解している人とってはそれが正しい解釈だからこそ、そんな解釈を信じて疑わないのかも知れず、しかもそうした曲解が他の大勢の人々にも受け入れられていれば、それらの人々にとってはその方が都合が良いから、それを曲解だとも思わないし、それどころか当たり前の正しい解釈として広く世間で流行していることにでもなれば、いつの間にかそうした解釈で構わないことになってしまうのだろうが、そんな成り行きを批判することがその主義主張の言わんとする意味や意義であるなら、そんな曲解を信じている多くの人々は、それを曲解することによってその主義主張を批判しているつもりになっているかも知れないが、批判していることにも気づいていないとなると、ただ単に曲解を正しい解釈だと信じているに過ぎないどころか、それを正しいとも思っていないし、そんな解釈で構わないわけで、それ以上の関心も興味もないのかも知れず、そんなことには無関心であっても構わない程度の認識しか持ち合わせていないかも知れないが、だからといってその主義主張が全く無視されていることにはならず、そんな主義主張に感染していることに気づいていないから、気づかないうちにそんな主義主張を体現するような世の中の成り行きに誘導されるがままとなっているとしたら、それがこの世界に多大な影響を及ぼしていることになるわけだが、だからといってそうなっていることに早く気づくべきと主張したいわけではなく、それに気づいた者たちがその主義主張を曲解しているわけだから、そんなこじれた事態がそう簡単に正常化するわけでもなく、元に戻るなんてあり得ないのかも知れないが、元の状態ですらすでにその当時に流行していた別の主義主張の曲解によってこじれていた可能性もなきにしもあらずかも知れないし、どうしても世の中で誰もが当然視するような主義主張に対する批判がもっともらしく感じられる状況になっているなら、すでに多くの人々がその批判されている主義主張の曲解を信じていることになり、それを当然のことのように批判している人々こそが、その主義主張を批判できるように曲解した上でそれを批判するような二重の仕掛けが施されていることに気づいていないわけで、だから特定の主義主張をさも当然のことのように批判している人がいれば、そんな批判がどんなにもっともらしく感じられるとしても、その人が批判しているつもりの主義主張こそが曲解されたものだと思っておけばいいのかも知れないが、だからといってそんな批判に騙されるなと言いたいわけではなく、誰も騙されているわけではなく、騙されている人がそれを批判しているわけでもなく、すでに曲解ではない主義主張が世の中に十分に浸透しているから、それを批判するにはあえて曲解せざるを得ないような事態に批判者の方が追い込まれていて、批判しやすいように歪めないと批判できないほど、批判者自身もその主義主張の恩恵に与っているわけで、もちろんそれに気づいていないから批判せざるを得ないのだが、というかそんな批判者自身がその主義主張を体現しているような存在となっていて、自身では気づかないところでそれを批判しているにも関わらず、なぜかそれを世の中に浸透させるのに貢献してしまっていて、だからこそ余計にそれを批判したくなるというアンビバレントな矛盾を抱え込んでいるわけだが、なぜそうなってしまうのか理解できない原因の一つが、それを曲解していることになるのだろうが、その主義主張の批判者がそれに気づかないどころか、批判すればするほどかえって主義主張への感染の度合いが重篤化してしまうことが、その主義主張が広く世の中に浸透するための条件となっているとしても、そんなこんがらがった実態に気づくことも勘違いのなせる業なのかも知れない。


1月29日「認識の妥当性」

 正しい認識とは何かという問いに答えるために、どんな分野で正しい認識が求められているのかと問い返すなら、何か当たり前のことのように感じられる認識というのがあって、それが正しいか間違っているかを判断したいわけではなく、ただ単に正しいということはどういうことなのかと問いたくなってしまうわけでもないが、どうもそんな正しさから距離を置いて、それほど認識の正しさを求めているわけではなく、正しいというよりはどちらかというと認識の妥当性を求めているような感じがしないでもないが、正しいことと妥当であることがどう違うのかもうまく説明できないかも知れないし、そんな程度で妥当な認識を求めても、それが妥当であるとは到底思えないかも知れないが、言葉の意味として妥当の意味を調べれば、何かもっともらしく感じられる意味を得ることができそうだが、妥当というのは結果的に当てはまるようなことなのかも知れず、妥当であるかないかは、それを当てはめてみた結果からわかるようなことであるから、当てはめてみるまではわからないようなことかも知れず、そういう意味では何かをやってみた結果として、それが妥当だったかどうかがわかるまでは、妥当に思われるようなことをやろうとして、実際にそれをやってみてから、それが妥当であったかどうかを判断するような成り行きになってしまうから、仮に妥当でないようなことが行われてしまった後からは、すでに取り返しがつかない事態となっていて、後戻りができないような段階に至っている場合が多いから、その時点で妥当であったかどうかを判断してみても、すでに手遅れとなっていれば、判断など必要ないということにはならず、二度と過ちを繰り返さないためにも一応は妥当であるか否かの判断が必要なのかも知れないが、どうせ二度目以降の繰り返しが起こる際には、一度目の判断のことなど忘れられているから、結局は過ちが何度も繰り返されることになってしまうかも知れないし、判断の妥当性ならそういうことになるにしても、では認識の妥当性となると、それとはどう違うのかをうまく説明したいわけでもないが、例えば誤った認識を抱いていても、また誤った判断を下しても、その時点ではそういう認識を抱いたり判断を下すのが妥当に思われるような場合には、結果的に何かまずい事態を招いている可能性が高く、それが勘違いな認識であると共に致命的な判断ミスとなって、例えば遭難してしまったり事故を起こしてしまうと、それも実際に遭難したり事故が起こった後から、勘違いやミスが指摘されるような成り行きになることが多いだろうから、それもそうなった結果から導き出されることになり、そうなるまではわからないことであると共に、そうならない限りは認識や判断の妥当性が信じられているわけで、そういう意味でも妥当に感じられることが、その場の情勢やそこに至る経緯や自身が抱えている事情などから妥当な認識や判断として求められるとしても、それによって致命的で深刻な事態がもたらされてしまえば、そういう認識を抱いたり判断を下す人にとってはそれが妥当に思われるのだから、そうなるより他はあり得ないような成り行きに囚われているとしか思われないのかも知れず、それが他から間違っていると指摘されても直しようがないから、その種の妥当性がどんな内容になるにしても、そんな何を言われても馬耳東風な人々が多数派を占めている国は滅びるしかないと思われるかも知れないが、そんな認識こそが間違っているとしたら、もはやこの国は滅びるしかないと思っている人たちこそが何を言われても馬耳東風な人々に含まれていて、自分たちが他から何を言われても馬耳東風であることに気づいていないことになるだろうが、要するに多数派の中でお前たちこそがそうなのだと言い合いをしている最中なのかも知れないし、ではそんな多数派には含まれない人たちとはどういう人たちなのかというと、それもそうなった結果からわかるようなことであれば、何か深刻な事態が起こった後から、そんな事態に際してうまく立ち回って自らの成功をゲットできた人が、そうではない少数派に含まれるのかも知れず、そういう人はその場で大勢の人たちが妥当に思われる認識を抱いたり判断を下した際に、あえて逆張りをするような勘の鋭さを発揮して、そこで大勢の人たちの行動の裏をかくような行動を起こすことができれば、そうした行動を起こした人の中からわずかな成功者が結果的に生じてくるような成り行きになり、それに関しては、例えばどこかで金鉱脈が見つかってゴールドラッシュと言われるような事態となれば、大勢の荒くれ者たちが一攫千金を狙って群がってきても、その大半は大した額の金も採掘できずに大金持ちになる夢などすぐに破れてしまうだろうが、大抵はその中から万に一人の割合でうまく立ち回って巨額のカネを得る人が出てくるから、それが偶然にそうなったとしても、そうなった結果からその人のその場での認識や判断やその認識や判断に基づいた行動が正しかったことになり、その正しさを証明するのがその人の成功体験となるわけだが、果たして本当にそうなのかというと、逆にその他大勢の成功できなかった人々の方が、それなりに納得できて妥当に思われる認識や判断に基づいて行動していたのかも知れないし、だからこそ成功できなかったのであり、客観的な視点で見れば、その場では大半の人々が大金持ちにはなれないことが統計的な事実として導き出されてきて、たぶん学者か何かがそういうことを調べたりするのだろうし、そんな学者の研究結果としてそういう事実が導き出されてきて、それがどこかの学術誌で発表されているかも知れないし、そんな学術誌など読んだことなどない人でもその程度のことは予想がつくから、世界のどこかで、例えばそれがアマゾンの奥地やアフリカのジャングル地帯などでゴールドラッシュが起こったと話題となっても、危険だからそんなところまで出かけて行くような人はまずいないだろうし、よほどの物好きや本当のならず者や犯罪に関わって裏の世界でしか生きて行けないような人たちなら、もしかしたら破れかぶれで一発逆転を狙って、怖いもの知らずな者たちが出かけて行くかも知れないが、それも大抵は命の危険と隣り合わせの冒険となるだろうから、一攫千金の夢が破れても生きて帰ってきたら儲けもの程度の結果しか待ち受けていないことも、誰もが予想がつくところで、それがそんなことに対して抱く妥当な認識となるのではないか。


1月28日「諦念の回避」

   どうもやっていることが違うような気がすると共に、それでも事ここに至ってなおのことあきらめるのはまだ早いと何の根拠もないのに勝手に思い込みたいのなら、まずはこれまでにやってきたことを振り返って反省してみれば、それで何となく気持ちが落ち着くような気がするかも知れないが、だからといってあきらめる気にはなれないだろうから、周囲の情勢と自身の意志や欲望との相互作用から、やりたいと思わされていることをやってみるしかないだろうし、それが間違っているような気がするのなら、やりたいことをやっているつもりが、逆にやりたくないことをやらされているとも思えないが、そのどちらでもないようなことをやっているつもりでも、もしかしたら特にやりたいことをやっているわけではなく、そうかといってやりたくないことを無理やりやらされているわけでもなければ、現状でできそうなことをやっているに過ぎないのだろうが、本当にそれができそうなことなのかといっても、結果的にやれている現状があると思うしかないだろうから、それができそうなことだったとそれも結果からそう思われるわけで、どんな理由で何をやるにせよ、それをやってみなければわからないと思う一方で、できることの全てをやっているわけではなく、できることの中からそれなりに自らの好みや願望や切実さなどに影響を受けながらも取捨選択しているわけだが、それができることをやった結果として現実に起こっている事態をもたらしているわけで、その事態が思いがけないことであると同時に思いが実現しつつあることであれば、少しは自らの思い通りになっていることを実感できるかも知れないし、その少しはという程度がどの程度なのかによっても、それと反比例して募ってくるあきらめの度合いにも影響を及ぼしてくるのかも知れず、何かを優先すれば別の何かをあきらめなければならないという二者択一にになるように全て物事が配置されているわけでもないにしても、またそれがうまく行かなければ二兎を追う者は一兎も得られずな結果がもたらされているように思われるにしても、結果的には何も得られていないはずがなく、たとえゴミやガラクタのようなどう考えても役に立ちそうもないものしか得られていないとしても、それらを活用して生きているような実感を得たいとも思わないだろうが、それが結果的に思いがけず生きていることの証しといえるような成果をもたらすなら、自らの思いを裏切るような成果といえるかも知れないし、そんなのは成果のうちに入らないような成果というのが、その場で優先されていることから外れる成果でもあるから、場合によっては自身の取り組みを台無しにしかねないような成果となるかも知れないし、しかもそうなることによってこれまでに取り組んできた物事から離脱できる機会がもたらされて、実際にその機会をものにできれば、これまでとは違う生き方ができるようになれるかも知れず、そうなったところでどうなるわけでもなければ、ただの徒労感しか感じないかも知れないが、それでも生き残っているなら結果的にどうにかなったことになるだろうから、そのついでにこれまでにやってきたことをあきらめるかあきらめないかの二者択一からも解放されたことになるのかも知れず、そんな体験から何がいえるわけでもないだろうが、その場で勝手に思い込んでしまう根拠の定かでない思い込みから解放されるには、それが思いがけない出来事になるように仕向けられてしまうことが肝心なのかも知れないし、何によってそう仕向けられてしまうのかといえば、それもその場の偶然に思いも行動も支配されている限りでそうなってしまうと思うしかないだろうが、果たしてそんな思いがけないことが実際に起こるかというと、それも自らの思い次第というわけでもないが、それによってこれまで抱いていた思い込みから解放されるというのだから、思いがけないことが起こって思いが裏切られない限りはそんな心境には至れないだろうから、果たしてその場へと作用してくる物事の偶然の巡り合わせだけからそんな心境に至れるかどうかは、実際にそうなってみないことには信じられないし、それも大抵は信じられないことが起こらないと信仰を改められず、逆に信仰への思いが強すぎると、信じられないことが起こったところでそれを信仰の強化に利用しようとするだろうから、ひたすら何でもかんでも自らの信仰に取り込んで、自らが抱いている思想の糧として利用するために、それを説明する言説の中で話の辻褄合わせが行われるのだろうが、そうなると取り込んだ物事の意味や事情や経緯が変質を被ってしまい、要するにその思想をもっともらしく感じさせるように意味や解釈の変更も行われると共に、思想自体も新たに取り込んだ物事から影響を被って変質してきて、そのおかげもあって思想自体は当初の過激さが薄れて人畜無害な傾向が強まると共に、世間からの幅広い支持や信用も獲得して、信者を増やすことにも成功するかも知れないが、当初の目的も変質を被ってしまうどころか、思想自体が批判していた当の慣習や律法を容認するような宗教と成り果てると共に、そうやって誰にとってももっともらしく感じられるような当たり前の慣習などがしぶとく存続するわけで、そういった慣習を守るために宗教があるといえるだろうが、そんな慣習によって抑圧されるような人々を救うために、宗教批判のような内容を主張する輩が絶えず現れて、そういった輩の中でも代表格がイエスやブッダなのかも知れないが、そんな輩の教えを世の中に広めようとする過程で、世間からの幅広い支持や信用を得るのと引き換えにして、逆に慣習を守る宗教へと変質を被るのだろうが、それはマルクス経済学などと称される学問の分野などでもよく言われていることで、当のマルクスは当時主流となっていたスミスやリカードなどの古典派経済学を批判するために『経済学批判』や『資本論』などを著したのだろうが、それがマルクスの死後マルクス主義となって世の中に幅広く受け入れられる過程で、硬直化したマルクス経済学としてドグマのような形態を形成してしまい、それ自体がマルクスが生きていたら批判したくなるような代物と化してしまったのだろうが、だからといって初期マルクスへと戻ってマルクスの真意を探ろうとしても、それがマルクスのやり方ではないわけで、実際にもマルクスはそんなことはやらなかったわけだから、そういうところから主義主張が主義主張であってはまずいような事情が生じてくるのではないか。


1月27日「何かという謎」

 世の中では何か冗談のような事態が進行中なのかも知れないが、それが冗談では済まないから、それに関わっている人や団体などは真面目に取り組んでいるつもりなのだろうし、そうやって真面目に取り組んだ結果が何をもたらしているのかといえば、やはり冗談では済まないような深刻な事態をもたらしている場合もあるのだろうが、だからといってやっていることが間違っているとは言えないとしたら、どんなに工夫を凝らしてもどんなに努力してもそうならざるを得ないような成り行きが生じてしまっていると事態を捉えるしかないのかも知れず、何かうまく行っていないことは確かなのだろうが、神ではないのだから、やっていることの全てを見通すことも把握することもできはしないから、思わぬところで思わぬ事件が起こって、それが大したことだとも思えなくても、何か気づかないところでそれなりに作用や影響を及ぼしてくるから、それに関わっている人や団体の思い通りにも思惑通りにも行かない事態をもたらしていると認識するしかないが、そうであってもなおのことあきらめるわけには行かないだろうから、自身の主張や意向を通すためにあれこれと面倒な策略を巡らして、それが最後の悪あがきとならなければいいが、最後であるどころか、そんな面倒なことを仕掛けたから、ますます事態がこじれてきて、さらにおかしな成り行きに導かれながらも、自らも思いがけない突飛な行動に出てしまって、なぜこんなことをやっているのか自分でもよくわからないようなことをやっているのが、何かの冗談のように思われてしまうのかも知れないが、それが冗談では済まないような災禍となって自身に降りかかるなら、避けられない運命だと悟るしかないが、そのまるで冗談のように思われるのに、やがて冗談ではないことを思い知らされるようなひどい結果がもたらされることが、確かに自分にとっては災い以外にはあり得ないような効果をもたらすのだが、自分にとってはそうだとしても、自分以外にとってはそうではないようなことであるなら、他に他人の不幸を嘲笑うような立場というのもあって、自分以外の誰かがそんな立場を占めているとしたら、断じて許すまじとなるかも知れないが、それが自分のあずかり知らないところでそう思われているとしたら、知りようがないことだけに、どうあがいても嘲笑う者勝ちな事態となってきて、それをいくら想像してみたところで、自分にはどうすることもできないし、そんなことを想像するだけでもムカついてくるのは仕方のないことだが、現状の中で何がどうなっているのかといえば、それが自分ではわからないからといって、誰にとっても謎というわけでもなく、人それぞれに知っていることと知らないことがまちまちだから、良し悪しの基準がはっきりしていないとしても、一応は法律によっても慣習によってもやっては行けないことが周知のこととして定まっているようにも思われて、しかもそれをやるのが違反行為となっているのに、なぜか外部からそれをやるように仕向けられてしまい、そんな誘惑に屈して思わずやってしまう成り行きが待ち受けている場合もあるから、それが罠だと知りながらもやらざるを得ないような事態へと追い込まれてしまうと、やってしまった後からそれを咎められても何か釈然としないし、やれと促されてやったのに、それをやった後から悪いと判定されてしまうわけだから、自らの非など認めるわけには行かなくなってしまうのだろうが、だから罪を問われても怒ったような態度で否定したくなるわけだが、それが人それぞれで負っている立場の違いに応じた責任の程度も違ってくるから、それに対する受け止め方の違いとなって表れると、人によっては他人の違反行為を猛烈に非難するようなこともできるが、そんな違反行為をやっている仲間内であれば共犯関係にあるから、お互いにお互いをかばい合うような責任逃れに終始してしまう事態にもなってくるのだろうが、それらの人たちが何に従っているのかといえば、集団の中で醸成される意向に従っていることは確かなのだとしても、意向に逆らえば集団から弾き出されると共に自由な物言いが許されるようにもなってきて、何がそれを許しているのかといえば、自由がそれを許しているといっても、では集団の意向に従うことと集団から弾き出されて自由の身になることと、どちらが得なのかは、その人の立場や境遇によっても違ってくると共に、それを損得の次元で捉えるのもちょっとおかしいのかも知れないし、中には利益を求めて集団の一員になろうとする人もいる一方で、自由を求めて集団から離脱する人もいるとしても、自由を損得の次元から判断できるかというと、それもそう判断しても構わないような立場や境遇がある一方で、中には自由であることが他の何にも代え難い価値であるように思い込んでしまう人も出てくるかも知れないし、心身的にも経済的にも余裕があるから単独でいられる場合もあるから、まずは集団に入ってそれなりの経済的な利益を享受しながら富を蓄えつつも、ある程度の資産を蓄えて心身的にも経済的にも余裕を感じられるようになってから、その集団から独立するようなやり方が賢い戦略だと思われるだろうから、成り行き的には集団の中でどれほど我慢が続くかにもよるだろうが、結果として生じてくる立場や境遇の良し悪しを判断するよりは、集団の中にいれば集団の意向に従っているふりを装いながらも、絶えずその集団から独立する機会を窺いながらも、そんな集団に対抗するには別の集団を作らなければならない事情も生じてくるだろうから、頃合いを見計らって機会を捉えてその集団から離脱すると共に、新たに自分の思い通りになるような集団を形成することが目的として賢いやり方となって、絶えずそんなやり方が試みられるから、結果的に利益を追求する集団がなくなることはなく、そんな集団の特性に応じて集団の利益を最大化するような意向が生じてくるのだろうが、人を誘惑してやまないのはそういう成り行きであると思ってしまうと、ではそんな集団から離脱して孤独の自由を受け入れる人が何を目指しているのかよくわからなくなるわけではなく、自分勝手な振る舞いに他人を巻き込みたくないというアンビバレントな思いがあると共に、社会の中で身勝手に振る舞えばどうやっても他人を巻き込んでしまうわけだから、そんなのはていのいい欺瞞でしかないだろうが、他人の意思や意志や意向などを尊重した上でなお勝手に振る舞いたいという矛盾を抱え込んでいるなら、絶えず他人の同意を取り付けたり意思疎通を図りながらも、時と場合によっては妥協や譲歩を受け入れながら行動するしかないわけだ。


1月26日「政治と経済の領域から外れる結果」

 人の活動の全てが何らかの形で経済に結びついているとしても、だからといって経済こそが全てというわけでもないだろうから、経済至上主義のような考えを示すわけにも行かないが、その一方で人の活動の中で政治が占める割合というのも、そもそも政治とは何かと問われると、政治を職業にして活動している者以外でも、社会の様々なところで、人や集団が関係するところで政治が行われているだろうから、それを単純に利害調整のようなものと捉えても、それ以外の面もあるだろうから、そういう面がうまくは説明できないのかも知れないが、軽はずみな思いで政治や経済について適当なことを語ってしまえば、それでも構わないと思うわけでもなく、やはり語るならなるべく説得力のある内容にしたいのだから、何か深刻ぶってさも重要で重大なことを語っているように装いたいのだが、それが語っている者の活動内容と合致するかというと、そうでもない場合が多いのかも知れず、例えば身を切る改革とかいう流行語が、言葉だけ独り歩きしている一方で、その実態が伴っていないどころか、自分の身ではなく他人の身を切って利益を得るようなことが行われているなら、それが経済活動の本質だと言えるわけでもないが、政治家が身を切る改革を遂行すれば、それがその政治家の利益に結びつくなら、身を切る改革がまやかしに過ぎないとは言えず、経済的な利益を得るために身を切る改革を遂行していると受け止めればいいのだろうが、それでは身を切る改革の意味になっていないというか、普通は自らが犠牲になって改革を進めるのが、身を切る改革だと思いたくなるが、政治家が何のために身を切る改革を推し進めているのかといえば、自らが利益を得る目的があるなら、その利益が身を切る改革から生じてこないと、改革を遂行している意味がないと言えるだろうが、改革から直接利益を得るのではなく、何か遠回しに人知れず利益が還流してくる仕組みを作りたいのかも知れず、そういう意味ではやましいことをやろうとしているのかも知れないが、表向きには自らが犠牲となって改革を断行するようなことを述べておきながら、その裏でこっそり自分だけ儲けていれば、それがずる賢いやり方になるのだろうが、果たしてそんなにうまく行くのかといえば、実際にはうまく行っていないから身を切る改革を遂行しているつもりの政治勢力が各方面から非難を浴びているのに、それでもそれなりに支持されているわけだから、もしかしたら支持している人々が何か勘違いな幻想を抱いているのかも知れず、それが政治と経済から外れる要素なら、それが謎というわけでもないのだろうが、たぶん謎なのではなくたわいない幻想であり、その幻想が人を苦しめているというと、幻想を抱いている人には苦しめられている自覚などありはしないだろうが、他に迷惑を被っている人が少なからずいるだろうから、そんな人々がそんな政治勢力と敵対していて、やることなすこと気に食わないから、それを批判したり非難を浴びせているのだとしても、それでも着々と無駄に予算をかけて見せびらかしのイベントの準備が進行中なのかも知れないが、それが本当に無駄なイベントなのかといえば、捉えようによってはそうではなく、そこから利益を得られる人や団体がそれなりにいるから、そんな事態がまかり通っているわけだろうし、そういうのはいったん動き出したら止まらない成り行きだと受け止めるなら、ではそれに対して反対運動をしている人や団体のやっていることも無駄なのかというと、それもそうではなく、そんな反対運動を通して多くの人々から支持を得たいからやっているとは思っていないだろうし、直接そんな無駄なイベントをやめさせたいから反対運動をやっていて、やめさせることが第一の目的というか、それだけが目的だと思い込みたいのだろうが、結果的にはそうはならず、ではどうなるのかといえば、その無駄なイベントがどうにか面倒な紆余曲折を経て開催にこぎつけた暁には、反対運動が無駄だったことがわかるわけでもなく、わかろうとしないままうやむやのうちに運動がフェードアウトする可能性もなきにしもあらずだが、そうなればなったでそれが反対運動の成果だったことになり、果たしてそれが否定されるような成果なのかといえば、たぶんそれもそうとは言い切れず、そうやってその種のイベント盛り上げていたことになってしまい、もちろん盛り下がるように批判や非難を浴びせていたはずだが、実際には批判や非難を浴びせる行為によって、それに関わった多くの人々が盛り上がっていたのだから、それもそのイベントに関連した一つのイベントだと見なすなら、否定的な意味でも肯定的な意味でも盛り上げ効果があったことになるのだろうから、そこから言えることはイベントを盛り上げるには、それに対する反対運動も盛り上がらないと世間的な話題性を獲得できないのかも知れず、しかもそんな反対の声を押し切ってでもイベントを強行すれば、なおのこと盛り上がるわけで、だからイベントを開催しようとする人や団体としては、強引なことをやって批判や非難を浴びながらも、その準備をごり押しする成り行きになってしまうのかも知れず、そうやって無理なことを強行するから、そこから得られる利益もそんな大騒ぎのどさくさに紛れてうまく立ち回った人や団体に余計にもたらされて、イベントが終わった後から経費の水増しやごまかしなどがバレたら取り締られることになるとしても、イベントをやっている最中ではウハウハな気分になれるわけで、そういう意味でもイベント強行することには肯定的かつ否定的な意義があるのだろうが、だからこそそんなイベントの開催を中止に追い込まなければならないと共に、そんな反対運動を押し切ってイベント強行することに意義が感じられるから、それだけそんなイベントに関わって政治活動を行なっている人や団体にも熱が入るわけだろうが、果たしてそれらの人や団体にもたらされるのが経済的な利益や損失なのかといえば、それもあるだろうが、それ以上に心理的な達成感や徒労感なども入り混じってくるから、それをカタルシス効果とでも呼べばしっくりくるかどうかは何とも言えないが、求めているわけでもないのに結果的にもたらされてしまう効果というのが、何か不条理だと感じられるわけでもないにしても、そんな余計な効果など要らないと思う余裕もないまま、思ってもみなかったような嫌なものを押しつけられて嫌悪感を露わにしたくなるような成り行きが期待されているわけでもないのに、それが結果的には期待通りだと受け取られてしまえば、そう受け取ってしまう人々にとってはそれなりの満足感を得ていることになるのかも知れない。


1月25日「現代という課題」

 そう言われてみれば当たり前ように思われることとして、自らが現代と呼ばれるこの時代に生きていることが、取り立てて珍しいわけではなく、誰もがこの時代に生きていて、誰もこの時代以外には生きていないわけだが、だからといってこの時代が他の時代と比べて特にどうだというわけでもなく、取り立てて現代がひどい時代だとも素晴らしい時代だとも思っていないし、他の時代とは比べようがないわけではなく、比べれば良いところも悪いところもそれなりに指摘できるだろうが、比べること自体が自分にとってそれをやるべきことだとも思われないし、現代を語るとはそういうことではないような気がするわけで、ではどう語れば納得が行くのかと言われても、納得できるようなことを語れる自信もないから、現代とはこれこれこういう時代だと定義したところで、それで何か画期的なことを述べているとも思えないが、画期的でなくてももっともらしく感じられるようなことを語ろうとするから、絶えず現代をどう語れば納得できるかという問いを意識してしまうのかも知れないが、そんな問いに答えるには、何が課題として浮かび上がってくるかというと、やはり他の時代と比べて違いを指摘するような成り行きに持って行くことでしか、現代については語りようがないから、そういう成り行きを避けるにはどうすればいいかという課題を誰もが意識するわけでもなく、大抵はそう語るわけで、そんなふうにしか語れないのだからそう語るしかなく、そう語るのを避けるにはどう語ればいいかなんてわかりようがないが、たぶん現代と他の時代との比較でしか現代について語れないことを意識しているなら、昔は良かったなんて語ってしまうことにはそれなりに抵抗を感じているだろうし、逆に昔よりは科学技術の面で進歩しているなんて当たり前だと思うことについても、確かにそうであるにしてもちょっと違うのではないかと疑念を抱きたくなるわけだが、そういった現代に対する違和感を語るだけが現代を語るやり方になるわけではなく、他にも何かもっと直接現代を語る方法がないものかと新たな語り方を模索しているわけではないにしても、意識して直接語ろうとしているわけではなく、他の何かについて語っていることがそのまま現代について語っている内容になれば、それほど意識せずに語っていることになり、しかもその意識せずに語っている他の何かというのが、なぜか現代を象徴するような物事になっている場合があるから、そういう特定の物事を通して現代の有様が見えてくるような成り行きの中で、それと自覚せずに現代を意識しているのだとすれば、何も改まって現代を語るとか大上段に構えなくても、自然と意識しないで現代について語っていることになるだろうが、それが現代の一面的な部分だろうがちょっとした断片に過ぎなくても、そこから現代という時代の有様が垣間見れるなら、一応は現代を語るという課題に応じていることなるから、それが現代的な言説を構成しているのだとしても、その内容の中で何かしっくりこないような引っかかるものを感じるなら、語っている者や文章を構成している者とは違った現実が見えているから、それらの者たちの言説からはそれなりに違和感を覚えるのだろうが、しかもその見えている違った現実というのがそれに気づかないと何か重大で深刻な事態に陥るように思われるなら、それが現代を理解するには欠かせない本質的で根本的な物事かも知れないが、それが何かというと、その種の内容で言説を構成している者たちが直接対峙して関わっているはずの物事になりそうだが、そういった現代を構成するのに欠かせない、それがないと現代そのものが成り立たないような本質的で根本的な物事というのが、例えば政治と経済とそれらの相互作用や絡み合いだと主張したくなるのだが、それに関して何か気づいていないことがあるかというと、気づいていないのだからそれを指摘することなどできはしないが、それらに関する言説の中で違和感や引っかかるものを感じているのだから、それについて語りたいなら、いやでもそれを言説化しなければならなくなるだろうし、実際にもそれと自覚せずにそういう方面へと意識が向いていて、他の何を語っていても自然とそこへ向かって言葉が連なって行くような気もするわけだが、中にはそれらを意識して避けようとする者たちもいるはずで、そんな者たちが直接政治や経済に言及するのを避けながらもその代わりに何を語っているのかといえば、避けている意識はなくても他に語りたいことがあると思っているから、それについて語っているわけだろうが、その際にはそんな者たちの配慮にはお構いなしに直接政治や経済に関わって現状で行われていることに否定的な立場や視点から批判を繰り返す者たちを毛嫌いしている兆候もありそうで、政治や経済というか、政治を無視して直接経済を語っているように装う姿勢も見受けられるが、また逆に経済を無視して政治だけを語っているわけではなくても、上部構造を形成しているのが政治で、その下に下部構造として経済があるかのような都合の良い図式を念頭に置いていたり、何かうまく政治と経済の相互作用や絡み合いを都合良く分離できるような操作を施したいのかも知れないが、それがそういったことを構成する言説の中ではうまく語られているように感じられるなら、それ自体に違和感や引っかかるものを感じてしまうわけで、言説の中ではそれで構わないとしても、現実の世の中では実際にうまく行っていないわけだから、それに伴って争いや戦いが世界各地で頻発しているわけだが、そこで争われている物事や戦われている物事の中に現代を象徴している本質的かつ根本的な何かがあるように思われるとしても、それが何だかわからないでは話にならないが、そこでも功利的な利害にこだわっている意識はなくても、実際に損得勘定で動いているつもりで、何か肝心なところで利益を取り逃しているような結果が損害を被りながらも実際にもたらされるから、結果的に功利的な利害や損得勘定よりも優先している何かがあることに気づいていないわけだが、その一方で意識できるのが功利的な利害や損得勘定でしかないわけだから、思っていることとやっていることが噛み合っていないような焦ったい焦燥感に囚われてしまうわけだが、要するにそれを利害や損得で単純に分割するわけには行かないから、それと共に物事の良し悪しもはっきりしなくなってくれば、迷ったり戸惑ったりしてしまうことには誰もが気づくはずだが、たぶんいつも気づくのが遅れてしまい、結果が出てからそれに気づいてしまうから判断の遅れを痛感せざるを得ないのかも知れず、いつも気づいた時には現代が過去へと過ぎ去っていて、その一方で意識は絶えず未来の時空で迷っていることになるのではないか。


1月24日「理不尽な行為と不条理な事態」

 何か理不尽であったり不条理に思われることが、どちらも道理に合わないことだが、それが他人の理不尽な行為であることが何となく不条理とは感じられず、そういうことをやりそうな場合の条件というのが、その人が精神的に追い込まれて取り乱していることも条件の一つに含まれるかも知れないが、疑惑を持たれている政治家が唐突に駅前で身の潔白を訴える内容のビラを道行く人々に配っている様子がネットを通じて拡散されていて、それを理不尽な行為だと思うか思わないかは、そこに至る経緯にもよるだろうが、その政治家が過去に大臣を何度も経験した有力な与党の政治家であれば、理不尽と思うよりは、やっていることが何か小物臭くて往生際が悪くて奇異に見えてしまい、さらに映像をよく見るとどことなく顔の表情も皺だらけでやつれているようにも感じられて、やっていることの必死さも相まって哀れな印象も伴ってくるかも知れないが、果たしてそんな行為に同情して次の選挙でもその政治家に投票する人がどれほどいるかは、その政治家が立候補する予定の選挙区の情勢など全く知らないから何とも言えないが、大臣をやっていた頃は周囲に威張り散らして調子に乗っていたエピソードなどもメディアを通じて暴露されているから、ざまあみろと思っている人も多いのかも知れないし、その政治家のそういう面ばかりを強調するなら、何か漫画に出てくる典型的なやられキャラのような感じもしてくるが、全ての面でそうなのかと思ってしまうと、それが勘違いのもととなるような実態もあるのかも知れないが、その政治家に関してはその程度のことにしか関心が向かず、というかそれ以上に何が問題なのかも、そういう成り行きから想像できるわけでもなく、例えばその政治家が経産大臣であってもなくても、経産省の意向にこれまでとは違う変更が加えられるわけでもないだろうし、現状では誰が大臣になっても民間の半導体事業に多額の資金を拠出したり、原発を推進したりするのに都合の良いようなことを述べるだけにとどまるだろうから、現状維持の立場を堅持するといってしまえば、他の与党政治家の誰がやってもそうなってしまうだけのことであり、そんな誰であっても構わない大臣職を歴任する政治家が政権与党では有力な政治家と言えるのだから、そんな事態が不条理だとは誰も思わないだろうが、誰もそうは思わないこと自体が理不尽で不条理な事態だとも思えないことが何を意味するわけでもなく、政治とはそういうものだと理解する以外にはあり得ないわけで、そんな何も変わらない政治に関心を持てと言われても、誰も関心を持たなくても構わないようにも思われてしまうわけでもなく、例えばそれに対して原発の危険性を訴えている人なら、政権交代して原発を廃止するようなことをやってほしいと思うだろうし、それを阻んでいるのが政権与党と経産省なのだから、政権与党や経産省としては誰がなっても構わないような政治家が大臣の職に居座り続けてほしいという意向なのだろうから、そういう政治家が有力な政治家だと思われているのは、かえって好都合なのかも知れないし、そういう意味でもそれが理不尽でも不条理でもないはずだが、そうではないと思うならどうなってほしいのかといえば、有力というよりは有能な政治家なら、原発を廃止しても、また化石燃料を使わなくても、電気料金が上がらないような電力供給システムを構築できるかというと、政治家だけではそんなわけには行かないとは誰もが思うところだろうし、たとえそうであっても、なるべくなら太陽光や風力などの再生可能エネルギーを推進するようなシステムを構築してほしいとは思うだろうが、そういう方向へとエネルギー政策を持って行くには是が非でも政権交代が必要だと思っている人も多いはずだが、現状ではそうならないような成り行きになってしまっているのだから不条理だと思うかも知れないが、そうなるのを阻んでいるのが何かというと、現状で生じている利害関係が現状をもたらしていることは確かだが、多くの人々がそういうことにも無関心でいるように仕向けているのも現状で生じている利害関係であるなら、そういう利害関係を伴ったシステムがインフラの面でも構築されていて、そのインフラの維持に携わっている人や団体などにとっては、それがなくなってしまうと死活問題となってしまうから、それらをぶち壊すようなことは行われてほしくないとは思うだろうから、それらの人々にとって理不尽な行為や不条理な事態といえば、原発を廃止したり、なるべく化石燃料を使わないようにする政策が実行に移されることになりそうだが、そうなると現状を維持するには政権交代を阻んで現状の政権を継続させることになるだろうが、果たして現状の政権が今後とも維持されるのかといえば、今後の成り行き次第になるのは誰もが想像しているところだろうが、実際に現状の維持に関してはほころびが見え始めているから、件の大臣経験者の有力政治家も何やら慌てふためいて自ら駅前でビラ配りをするような不条理な事態に至っているのかも知れず、それが滑稽に見えるのだから、それだけ事態も流動化しつつあるのかも知れず、その流動化して行った先にどんなアッと驚くような事態が待ち構えているとも予想がつかないにしても、久しぶりに愉快な光景を目にして気分の昂揚を感じているわけでもないが、少なくともその政治家は落ち目になっているからそんなことをやらざるを得ないのだろうし、何やら総理大臣になることを夢見ていたらしいから必死になって挽回を図ろうとして、それが最後の悪あがきにならないことを祈るばかりというわけでもないし、結構この先も何度も国会議員には当選し続けるのかも知れず、政権与党の政治家の中にはそういう成り行きを何度も経験してきた政治家などいくらでもいるだろうから、その人もその中の一人に過ぎないわけだが、そういう政治家を支持している人の気が知れないと思っても、それよりは政治には興味がなくて選挙に行かない人たちが大勢いることが、結果的にはそういう組織票に頼る政治家の政治生命を支えているような気もするが、だからといってそんな政治家を落選させるには誰もが選挙に行って別の候補者に投票すべきだと思うわけでもなく、昔は真面目にそう思っていたことが、今ではどうでもいいような気がしてくるのも、そう思わせるようにメディアによって仕向けられていることの効果なのかも知れないが、やはりだからといって選挙に行かないわけではなく、なぜか自らに関しては未だに選挙の度に投票所に行って人畜無害そうなリベラル勢力の候補者に投票している実態もあるわけだ。


1月23日「共産党の独善体質」

 印象操作というと、その人の印象が悪くなるように持って行きたいなら、世間で良い印象を持たれている人に限って裏の顔があるかのような噂を広めて、その人の印象を貶めようとすることが印象操作にはなるだろうが、それが個人ではなく特定の集団や団体や勢力であっても構わないわけだが、それが印象だけでなく、実際に悪事を働いていることがバレたら、悪い噂が本当だったことになって、その人に対する世間的の見方としての良い印象が完全に裏返ってしまうだろうが、そうなるように仕掛けているのが特定のメディアであるなら、そのメディアに対する印象もそれなりに悪くなるのか良くなるのかは、日頃からそのメディアを信頼しているか否かによっても変わってくるだろうが、それに関して最近の例で言えば、共産党があたかも正義の味方のように感じている人も世間には多くいるだろうが、実はこんなに悪い政党で、党初の女性委員長となった人も、良い人のように見えて、裏ではこんなに悪いことをやっていると報道されれば、しかもそれを伝えているのが常日頃から共産党を敵視しているメディアであれば、なるほど印象操作なのかと納得してしまうかも知れないが、日本共産党がイギリスの労働党やドイツの社民党やアメリカの民主党のような議会制民主主義を実現している国の中で政権を担うようなリベラル政党ではないことは誰もが承知していると共に、また中国やベトナムの共産党や北朝鮮の朝鮮労働党のような独裁的な国で政権を担っている政党とも違うことも誰もが承知しているはずだが、そういう意味では世界でも唯一無二のユニークな政党だと見なしておけばいいとは言い難いし、実際にフランスやイタリアにも似たような共産党があったかも知れないから、それらの弱小共産党との比較から考えなければならないのだろうが、それでは印象に乏しいし、煽り立てとしての効果を期待できないから、結局はカンボジアのポルポト政権や中国の毛沢東時代やソ連のスターリン体制下で大量に民衆を殺してしまった例を持ち出してしまうと、日本共産党にそんなことをやるだけの権力などないから、荒唐無稽なあり得ない比較になってしまうだろうし、現状の世の中でいくら日本共産党を悪く言ってもいくら叩いても大した効果など期待できず、せいぜいが共産党の官僚機構内での主導権争いや権力争いに絡んで理不尽な独善体質が明らかになる程度のことなのだろうが、それは共産党が抱え込んでいる構造的な弊害に過ぎないことであり、どんなにまともで良心的な人でも共産党に入れば、構造的な独善体質に染まってしまうだろうし、それは共産党だけに特有な傾向ではなく、他の政党や企業や官庁などの組織内でも大なり小なりそんな傾向が窺えるだろうが、それと比較して例えば自民党だと、どんなにまともで良心的な人でも自民党に入れば、構造的に金権腐敗体質になってしまうかといえば、たぶん自民党と共産党とでは構造的に決定的に違うところがありそうで、共産党は自民党よりは政府の官僚機構に構造が似ているように思われるわけだが、そういう意味では中国やベトナムや北朝鮮の共産党や労働党などとも構造が似ているのだろうが、それよりは共産党が政権政党ではないところが、日本政府や中国政府やベトナム政府や北朝鮮政府とは決定的に違っていて、その違いの方が大きいから、それによって何か世界でも唯一無二のユニークな政党のように感じられてしまうのかも知れず、そうなるように仕向けているというと、何がそう仕向けているわけでもないだろうが、政府や政権政党の批判ばかりやっている万年野党という役割に活動を限定されている時点で、結果的にそうなっていると理解するしかないだろうから、そういった構造的な弊害は外部環境や存在条件が変わることによって自ずから組織の構造も変わって、共産党自体の印象も変わってくるかも知れないし、そういう意味でも新しい執行部の政治的な手腕が試されるところなのだろうが、印象が変わればいいというわけでもなく、これまで通りの役割分担であっても自民党や政府とっては政権維持の面でもありがたい存在なのだろうから、そういうところに共産党の存在意義を見出すなら、自民党が中国の共産党と似ている面を覆い隠すための囮として日本共産党が必要とされていると見ても構わないはずだが、それよりは実質的に何をやってきたかが良し悪しを判断する材料になるだろうから、メディアとしての共産党の機関紙である赤旗が、数々の政府や自民党などが絡んだ不正や疑惑を追及してきた実績もあるだろうし、国会での共産党の議員による追及も鋭いし、そういう面では好印象を受けるわけで、だから選挙では共産党員以外の人たちも共産党の候補者に投票するだろうから、それなりに国会や地方の議会内でも一定の勢力を保っていて、わずかではあるが地方の首長も共産党系の人が選挙で当選することもあるのだろうが、そういう面も考慮するなら共産党がどうこうというよりは、共産党も含めた政治情勢が今のままで変わらないわけではなく、今後もそれなりに変わって行くだろうから、そういう面で共産党がリベラル政党のような印象を持たれるように努力しているふうも感じられるのだろうが、すでにその存在からしてリベラルな雰囲気を醸し出しているのかも知れず、それも共産党という名称をそのままにしてリベラルを目指すところがユニークなのかも知れないし、そういうところが世界の常識とは少しずれているとしても、その一方で世間的な話題に占める共産党の割合も微々たるものだろうから、メディア的にも無視されても構わないような存在でしかないといってしまうと、政治自体が日本ではその程度のことでしかなく、選挙の投票率も下がりっぱなしでも、取り立てて不都合は感じない人の割合の方が政治に関心を持っている人の割合よりは大きいのだろうから、そこでも共産党だけが問題となっているわけではないし、政治全般にわたって役割も存在価値も意義も低下傾向に歯止めがかからなくなってしまっているのかも知れないし、それが世界的にもそんな傾向なのかというと、ジャーナリズム的にはそうではない面を強調したいだろうが、それも実質的には経済的な利益を追求する面でそうなってくれないと商売あがったりとなってしまうだろうが、経済と政治が直接結びついているわけではないところが、かなりのわかりにくさをもたらしているのかも知れず、政治へと人々の関心を誘導したい人たちは政治と経済が直接結びついている面を強調するのだろうが、それに対して政治に無関心な人々が無意識に抵抗しているとは思えないだろうし、無関心こそが間違っていると確信している人も結構いるだろうが、なぜかそうではないとは誰も思わないのに、実際には無関心なのだから、そこから陰謀論的な考察も頻繁に出てくるのだが、どうもそうではないような気がすると共に、実態としても誰もその辺のところがよくわかっていないのではないか。


1月22日「偽の真理」

 それが偽の真理だとすると、普通に考えて真理ではないことになるだろうが、真理であるのに偽だということが、何かこんがらがっていてよくわからないようなことかも知れないが、何かが起こった結果を使って真理のようなことが述べられるとなると、そんな結果にならなければ真理とは言えないようなことだから、それは偽の真理だと言えるかというと、すでに結果が出ているわけだから、その結果は動かしようがなく、そこから導き出される真理も動かしようがないように思われるだろうが、可能性としてはそうはならなかった結果も十分に考えられるなら、それが真理と言えるかどうかが微妙になってくるわけだが、そもそもそんな結果に左右されるようなことが真理といえるかと問うなら、真理とは何かということが、よくわからなくなってくるだろうが、真理だからといってどんな場合でも信用できるわけではないとするなら、時と場合によってそれが真理となったりならなかったりする程度の真理でしかなく、だから何かが起こった結果からもっともらしくて納得できるような真理が得られたとしても、それはそうなった結果に依存して得られた真理である限りで、そんな結果にならなければ真理とは言えなくなると思っておけばいいわけだが、だからといってそれが偽の真理であるとは言えないし、少なくとも実際に起こった結果から真理と言えるような理屈や論理が得られたのだから、これからその理屈や論理が通用しないようなことが起こらない限りは、暫定的にはそれが真理であることには変わりないわけだが、ではそれとは違う偽の真理とは何なのかというと、真理を覆い隠すような偽りの理屈や論理があるとすれば、しかもその理屈や論理が今のところはもっともらしくて説得力も感じられて納得できるとすれば、それが偽の真理だとは誰も気づけないだろうから、そうなっている時点では偽の真理などないことになるだろうが、後から何かのきっかけでその真理が実は真理ではないことがバレてしまったりすれば、それが偽の真理となって、しかもその偽の真理が世間で信じられていたことによって覆い隠されていた別の真理が明らかにされるような事態となれば、それこそが真の真理だと思われてしまうかも知れず、そんな真の真理が明かされるには偽の真理が多くの人々によって信じられている状態が必要だったと、そうなった結果から説明されると、何やらそれがもっともらしくて納得できるような気がするだろうが、しかもそれこそが偽の真理を真の真理だと信じさせるために仕掛けられた罠だと主張したいなら、それも典型的な陰謀論のような成り行きには違いなさそうだが、そんな作り話のようなことが実際に現状の世の中で起こっているかというと、果たして現代でも迷信のようにして信じられている偽の真理があるかどうかは、その真理が覆されてみないことにはわからないだろうから、そうなった時のことを今ここで先回りして予想するのも無理がありそうで、あまり先走ってそんなことまで考えなくても、せっかく将来のどこかの時点でアッと驚くようなことが起こるかも知れないのだから、その驚きはその時のためにとっておいた方が良さそうに思われるなら、なるべく将来に起こるかも知れない驚きの瞬間を減じないような配慮が今は必要なのかも知れず、だからこれから起こることを予想してはならないとは言えないものの、予想するならもっと現状の延長上で起こりそうなことを予想した方がもっともらしく感じられて説得力もありそうに思われるだろうが、予想ではなく予言や預言となると大抵は多くの人々が信じられないようなことが予言されたり預言されるから、予言者や預言者が非難されて弾圧されたり罰せられたり殺されたりするわけだろうが、しかもそうなるからかえって予言や預言に真実味が増してきて、予言者や預言者の信者が増える結果がもたらされるわけだろうし、そんな成り行きだとまさに自業自得というか因果応報のようなことが起こっているわけだが、その場合だと誰がそうなっているのかといえば、予言者や預言者を非難して弾圧したり罰したり殺したりする人や集団や勢力や機構がそうなっていることになりそうだが、逆にその種の非難されたり弾圧されたり罰せられたり殺されたりする予言者や預言者たちは、わざとそうされたくて予言や預言しているように見えてしまって、自らが聖人になりたくてそんなことを予言したり預言しているのではないかと、それもそうなった結果から勘ぐられてしまうかも知れないが、果たして現状の世の中でそんな役割を引き受けている者がいるかというと、何か無実の罪を被せられて猛烈にバッシングされている対象となっている者がそれに当たるなら、日本では山本太郎以外にはあり得ないが、しかも地震の被災地でカレーを食べたぐらいでバッシングされているわけだから、何かのギャグなのかと笑いたくなってしまうのだが、そういうところが本来の予言者や預言者からは微妙にずれてきてしまい、そのずれをもたらしているのがネトウヨと呼ばれる者たちであり、そういう意味ではナイスアシストだと言えるだろうが、わざとそうやっているとしても、そうなることを狙ってそんなことをやっているわけではなく、だからといって山本太郎が偽の予言者や預言者だとは言えないし、偽の真理を世の中に広めているとは現時点では言えないものの、果たしてこれから偽の真理が覆い隠している真の真理が明らかとなって、世間をアッと言わせるようなことが起こるかというと、それも現時点では何とも言えないし、現時点では予想がつかないから、そんなことが起これば多くの人々が驚くわけだが、それに関してわざと勘違いなことを予言めいた内容として述べるなら、たぶんそれが現時点では否定的な評価として定着しているようなこととして、誰もが紋切り型的な主張として批判の対象として使っている主義主張が、偽の真理として真の真理を覆い隠している言説となっている可能性があり、それが実際に批判の類いに利用している者たちには気づけないことなのかも知れず、そんな言説の中で用いられている理屈や論理に間違いが含まれているような気がするなら、それに関してももっともらしくて説得力のある意見や主張を述べている者たちにも気づかれないことなのかも知れないし、だからこそ今後そんなもっともらしく感じられるような理屈や論理が覆されるなら、それらを覆すような意見や主張の中に真の真理が含まれているような気がするわけだが、実際に将来のどこかのタイミングでそんな驚くべきことが起きれば、その際に真の真理が明らかにされるのではないか。


1月21日「イデア論とまがいもの観」

 何か良いアイデアがひらめいたことが自分にとって都合が良いとは限らないし、何もひらめかないよりはマシというわけでもなく、名案がひらめくと言えるようなことでもないとしたら何なのかというと、それが良いアイデアではないとすれば、良いアイデアだと思っていたことが、実際にそれを試してみたら失敗したり窮地に陥ってしまったら、それが良いアイデアだと勘違いしていたことになりそうだが、あからさまにそう思うのではなく、ちょっとしたことでもそれが良いアイデアだと思う瞬間などいくらでもあって、そのいくらでもある中から、実際にそれを試してみて、うまく行ったり成功する確率がどれほどあるかといえば、それは試してみなければわからないし、なぜかそれがうまく行く確率が高いか低いかということには関係なく、結果的にうまく行けば、それが良いアイデアだったと認識するわけで、試してみてうまく行くまではそれが良いアイデアかどうかの判断を保留しておいて、うまく行った時だけ良いアイデアがひらめいたような気がするとしたら、結果的には後出しじゃんけんのようなものだろうし、意図的にアイデアがひらめいた瞬間をずらして、自身のアイデアの優秀さとそんな良いアイデアがひらめいてしまう自身の有能さを誇りたい気分になってしまうのだろうが、その一方でうまく行かなかったり失敗してしまった時のことも覚えていて、時には反省したりするとしても、それも都合の良い時だけ失敗を反省したり、そこから自分にとって都合の良い教訓を導き出したりして、果たしてそれで反省していることになるかというと、反省とはそういうことであり、反省になっていないとしたら、反省とはそのままでは反省にならないし、教訓も教訓にはならないなら、どちらにしても失敗から学ばないことの方が多いわけだが、それでも結果的にうまく行けば、失敗から学んだからうまく行ったことにしたいわけで、失敗から教訓を得てその教訓を活かしてうまく行ったようなストーリーを語りたいわけだが、そんなことを語りたいから失敗談が必要になってくると、そんな必要に合うような経験談を都合良く捏造するわけでもないのだが、そのつもりがなくても自身の過去の経験の中から、なければ他人の失敗談を借りてくることもあるだろうし、そんな自身や他人が成功者であるなら、なおのこと過去の失敗から教訓を得てその教訓を活用して成功に漕ぎつけた話に説得力が増してくるような気がするだろうが、実際にはそう都合良く話の辻間が合うわけでもなく、教訓として活かせなかった失敗などいくらでもある一方で、もちろん教訓を導き出せなかった失敗もいくらでもあるだろうが、失敗したら失敗しっぱなしであり、逆に成功したとしても、なぜ成功したのかその理由などわからないかも知れないし、運が良かったのかたまたまだったのかはわからないが、とりあえずその時点ではうまく行っているから、それを成功だと認識していたのに、後からそれが勘違いだったことが明らかとなってしまうことだっていくらでもあるかも知れないし、逆にうまく行かないことばかりで嫌になっているのに、そうなっているからこそ、結果的にはそんなことをやり続けていられて、うまく行かないなりにも仕事が続いているからこそ生活が成り立っているような結果がもたらされていれば、そこから都合の良い成功体験など出てこないわけで、そんなわけで誰もが羨むような理想的な成功体験も失敗体験もフィクションでなければあり得ないような事態の中で誰もが生きている可能性が高く、絵に描いたような美談となることも、演劇として上演されるような悲劇となるようなこともなければ、実際には何のドラマも生じてこないような淡々とした日常の中で暮らしている可能性もあるかも知れないが、だからといってそれでは退屈なのかというと、退屈であろうとなかろうと、不満だろうがそれなりに満足していようが、そんなことはお構いなしに事態が進行中だからこそ、それを何と形容してみてもしっくりこないような焦ったい心境になってしまうのかも知れず、うまい具合に現状を言い表せないから、時として何かに操られているのではないかと陰謀を疑ってみたり、自分のあずかり知らないところで自分の処遇について何らかの決定が下されているのかも知れないと不安が募ってきたりする一方で、自分がそれほどの重要人物でもないこともわかっているなら、どんな陰謀が巡らされているとしても、どんな決定が下されたとしても、自分がどうなろうと世の中がどうなるわけでもないだろうし、世界情勢に何らかの影響を及ぼすようなことにもならないだろうから、どちらにしても大したことにはならないわけだろうし、それでも自分にとっては深刻な事態であったりするかも知れないから不安が募ってくるのだろうが、そういう世の中の状況や世界情勢と自身の存在や身の回りの状況との落差を意識できるかといっても、意識できたところでどうなるわけでもないから、何か手も足も出ないような無力感を覚えるかも知れないが、逆に無力でないから生きていられるとも思えないが、社会の中で取り立てて他人に影響を及ぼせるほどの権力を持っているわけではないし、その種の有力者でもないことが、自らに何をもたらしているのかといえば、自由をもたらしていると思うなら、その自由がどんな自由なのかといえば、無責任でいられる自由なのかも知れないと同時に、自分の責任の及ぶ範囲もそれなりに生じていることにも気づかされるなら、その責任の範囲というのが、何か違反行為をやらなければ責任が生じてこないような限定された範囲ではなく、自身が活動している範囲内で、その活動に伴って絶えず移動するような動的で不安定な責任の範囲だと認識できれば、何かをやった結果としてそれが成功と感じられたり失敗と感じられたりするだけではなく、そのどちらでもないような結果も絶えずもたらされていることに気づけるなら、果たしてそうなっていることにどれほどの責任を感じているかといえば、少なくとも自分だけのせいでそうなっているわけでもないなら、それほど責任を感じているわけでもないだろうが、ただその際に自分に関係する他人に不利益や損害などの否定的な結果がもたらされると、それが自分のせいでそんな結果がもたらされたと自覚できる時に限って、どういうわけか自責の念に駆られてしまい、自己嫌悪にも囚われてしまうから、そんな時だけ都合悪く責任を感じさせるような社会のシステムに囚われていると理解しておけばいいのかも知れない。


1月20日「納得が行かない理由」

 それらの見慣れた光景を眺めながら、改めてそれらとは何なのかと問わなくても、そんなのは誰もがわかっていることだから、そんなわけのわからない問いとは別に何を思い浮かべられるわけでもなく、例えばそこで何かが音を立てて崩れて行くような幻影を思い浮かべられるかというと、それが幻影に過ぎないことがわかっているなら、いったい何によってそれが幻影に過ぎないことを思い知らされてしまうかといえば、法律が幻影だとしたら、では法律によって守られている制度とは何なのかとその正当性が問われるような成り行きにはならず、制度を恣意的に運用したいなら、法律も恣意的に解釈せざるを得ないだろうから、法律も制度も絶対に変更できないわけではないが、別に変更したわけでもないのに、それらの運用や解釈を柔軟にその場の状況に合わせて都合の良いように変えているわけではなくても、なぜかうまく言い逃れができる程度には取り繕っているつもりなのだろうが、それでも納得がいかないのは、その場に居合わせた誰にとってもそう思われる程度には、それなりに納得がいかないのに、疑念を覚えながらも押し切られてしまうから、その程度で済むような調整が施されているはずだが、事ここに至ってもなおのことそれが何のことやらさっぱりわからないとしらばっくれるのも、わざとらしくも見え透いた態度に見えてしまうだろうが、本当にそれで済むのなら、これまでの努力が水泡に帰すようなことが起こっているのかというと、水泡に帰すどころか、ちゃんとその場で有効にごまかしが機能しているではないかと強弁したいわけでもなく、そこでもわけのわからないごり押しによって押し切られてしまうのだろうが、押し切られながらも、はいそうですかと形だけ納得したふりをしながら引き下がるような態度でも構わないのかといっても、それ以外にはやりようがない立場でもあるなら、仕方のないことだと落胆してあきらめるしかないだろうが、果たしてそんな体たらくでいいのかと自責の念に駆られる者がその場にどれほどいるのか疑問を感じるなら、ほとんどの者が職業的な使命感を放棄していると見なして、さらに落胆の度を深めるなら、彼らがいったい何の職業かもわからないように装いながらしらばっくれるしかなく、別にそんな使命感など持ち出さなくても済んでしまうような成り行きの中で彼らが活動していることになるだろうから、そこでもその程度の無責任な態度に至ってしまい、そういうところで期待を裏切られていることにもなりそうだが、その場で下手に騒ぎ立てて収まりかけた事態を再び混乱に陥れるようなことができるかというと、逆に混乱の極みに達しているようにも装いたいのだろうから、何がどうなっても狙い通りの結果がもたらされているとぬかしながら強がって見せればいいわけだが、その場の状況をどう見ても誰も強がっているふうも感じられないなら、さらに状況が追い込まれているとヤバそうな雰囲気を醸し出しながら顔面蒼白な表情で深刻ぶって見せておけばいいのかも知れないが、実際にはそれらは全て演技でしかなく、当人たちがそれを演じているつもりなどなくてもそう見えてしまうのだから、マジでそんな間抜けな振る舞いに至っているつもりでも、間抜けなのはそれを観ている観衆も間抜けなのであり、しかもそれをどっちもどっちだと馬鹿にするような第三者的な立場などあり得ないし、傍観者ヅラなどしようものなら、たちまちその場で行われている見え透いた演劇に引き込まれながら、自らの振る舞いが間抜けな演技になってしまうのを受け入れるしかなく、できることなら目を背けて無視を決め込んでいたいはずだが、すでにそれについて自らが言及しているのだから、メディアを通じてその間抜けな演劇の内容が誰の目にも明らかとなっている限りで、そのつもりがなくても積極的に間抜けな演劇の中に入り込んでいるようにも受け取られてしまい、そこで間抜けな傍観者の役割を受け入れざるを得なくなってしまうから、逃れられない運命だと思ってあきらめるしかないわけだが、根本的なところで何が間抜けなのかといえば、誰もが自分が間抜けだと気づかないところが間抜けなのではなく、納得が行かない結果に至っているのに、それを納得が行かないように言説化できないところが間抜けなのかも知れず、逆に納得が行かないのに納得したように装わないと、その場が丸く収まらないから、その場に居合わせた誰もが渋々苦渋の選択として演技を強いられるのだとしたら、たとえそれが間抜けに見えてしまっても構わないような気もしてくるから、間抜けだろうと何だろうと、さっさととっ散らかった状態を片づけてしまいたいのかも知れず、もちろんそれで一件落着とは行かないのは誰もが承知しているつもりで、どうしても納得が行かなくてもそれで済ませてしまうに越したことはないように思われるから、誰もが気乗りしないモヤモヤした気分でそれぞれの役割を演じているつもりなのだろうが、それがどう受け取られるかが、現時点でははっきりしないだろうから、この先のある時点で、今までに起こってきたことを振り返るのに絶好の機会が巡ってくれば、その機会を捉えて性懲りもなくその場の主導権を握ったふりをしながら、もっともらしいことをこれ見よがしに言い放つ輩もいくらでも登場してくるのだろうが、そんな輩の言っていることを真に受けるつもりもなければ、今この時点で否応なく強いられているみっともない演技の方が俄然リアリティを感じられるはずで、こんな成り行きの延長上にどんな事態が待ち受けていようと、こんな事態こそがありのままの現状であることを肝に銘じておく必要などなく、こんな状況の中で生きている誰もが間抜けな事態にとらわれていることには変わりないのだから、しかもそれが馬鹿でも阿呆でもなく間抜けなことに気づくわけもないのだから、馬鹿だとか阿呆だとかお互いにお互いを罵っている限りで間抜けなのであり、馬鹿なことに気づいていないとか阿呆なことに気づいていないとか、それらが共通の意味を担って愚かなことだとしても、間抜けよりはマシというわけでもなく、間抜けなことに気づかなくても構わないどころか、わざと気づいていないふりを装うつもりもなくても、やはり誰もがそれに気づいていない限りで間抜けな状況なのであり、ではいったい何に気づいていないのかといえば、間抜けなことに気づいていないといえばそうではなく、それでは済まないような取り返しのつかない深刻な事態に陥っていることに気づいていないことにでもなれば納得するのだろうが、それが納得が行かない理由にはならないわけだから、その代わりに間に合わせの振る舞いとして誰もが間抜けな演技にうつつを抜かしていると現状を捉えるなら、何か煙に巻かれたような納得が行かない心理状態になれるのかも知れないわけだ。


1月19日「地殻のずれ」

 たぶんそれが今に始まったことではなく、かなり前から人々の意識の中で何かがずれているような気がするのかも知れないが、誰もが気づいているとしたら、そのずれ方が横ずれ断層のようなずれ方なのか、それ以外にどんなずれ方があるのかもよくわからないが、かなり前から何かがずれているのがすでに多くの人々の間で共通認識となっているのかも知れず、だから誰もがそれらの言動に対して違和感を表明せざるを得ないのかも知れないが、ではいったい何に対して違和感を表明しているのかといえば、例えばそれがお笑い芸人やテレビ司会者などの言動なら、すでにその存在の形態が衰退しかかっていて、それらの流行現象も過ぎ去ろうとしているから、何の違和感も覚えないかも知れないが、事ここに至ってもなお執拗に過ぎ去ろうとせずに影響力を行使しようとする社会現象の類いがあって、それがうざいからどうにかして過去の流行現象と見なして片づけたいのに、それがなかなか片づかずにあたり一面に散らかったままだから、そのどこまでも追いすがってきて心身にしがみついてくる執念深さには、もはや呆れを通り越して怒りすら込み上げてきそうだが、お笑い芸人なら人を笑わすことによってその存在意義を人々に意識させようとするのだろうが、それらの職種というか職種ですらなく、大して働いてすらいない者たちがやっていることはといえば、別に人を怒らせることによってその存在意義が社会の中で高まるわけではなく、そうかといって人を感動させるようなことをやっているのかといえば、そうではないことは誰もが承知しているとしても、少なくとも白々しい嘘をついていることも誰もが承知しているかも知れないが、しかも嘘をついているのがわかっていながら、その嘘をついている者たちが世の中の多くの人々から支持されているとメディアを通じて知らされると、やはりそんなのは嘘ではないかと疑ってしまうはずだが、そうやって嘘で塗り固められた名声によって世の中に何がもたらされているのかといえば、やはり何かがずれているような違和感でしかないだろうが、果たしてそんな違和感ですら無視している者たちが何をやっているのかというと、様々な宣伝活動に精を出していて、その宣伝活動が何かこれといってめぼしい成果を上げているのかというと、誰もがその効果を疑っているわけでもないが、そうかといって何の成果も上げていなければ廃れるはずだが、一向に廃れる気配など感じられないわけだから、その効果を信じるしかないと思うなら、その種の宣伝に洗脳されていることになるかというと、洗脳までは行っていないとしても、やはり宣伝に騙されていることにはなりそうで、それも宣伝とはいえないようなものまで含めて、一括りに宣伝と見なすのもちょっと違うような気もするのだが、少しはその効果を疑っているから、まだ騙されてはいないと自らの勘が自らに言い聞かせているような気もするから、しかも何に騙されているのかもわかっていない可能性までありそうだから、それだけ頭の中が混乱をきたしているような気もするが、では騙されているのではないとすれば何なのかというと、宣伝を意識して避けようとしているわけで、しかも宣伝とは違う方面から世の中に広まるような何かを模索しているというと、それが何なのかと問われるわけでもないが、伝染病のような広まり方を意識して目指しているわけではなくても、多くの人々の意識に働きかけながら、人知れず作動している何かがあるような気がするのだが、そうでなくても多くの人々が同じような環境の中で活動していれば自ずから活動の内容が似通ってきてしまうから、それを伝染病に喩えるのも何かずれているような気がするだろうし、そうではないとすると何なのかというと、それが構造的に相似形を形成していると見なすと、何やらしっくりするような気がするとしたら、構造主義にいかれているのかと訝しがられるわけでもないが、その種の相似形の共通点を意識して求めているわけではないにしても、お互いに似ている点を認め合うと何か安心感を得られるような気がしてしまうのかも知れず、そういうところから慣習の共有が生じてくるのだろうが、しかもその慣習がたとえ違法行為をもたらすような成り行きへと進展したところで、慣習と法律のどちらを優先させるかとなると、赤信号みんなで渡れば怖くないという喩えに従って、違法行為がまかり通るような結果をもたらされるなら、それほど違法行為に及んでいる者たちを責める気にはなれないし、それ以上に誰もが守っている慣習を優先させていることに関しては、それが違法と知りつつも共感も寄せているはずで、そうなっている現状を無視してことさらに違法行為をやったことばかりあげつらって非難したところで、何の効果もないどころか、何かそういうところで違和感を覚えざるを得ないわけだが、その辺でずれが生じていることに気づかないと、批判や非難ばかりにかまけている者たちが梯子を外されて孤立無援となったところで、何がどうなっているのか理解できない心理状態となってしまって、結果的に世の中の流行から遅れをとってしまうことにもなりかねないが、そういう意味で語るなら、貧乏人がスーパーで百円の商品を万引きするのは商慣習として許されない行為だが、政治家が数千万円の記載漏れを指摘されたところで、その政治家の熱心な支持者にとっては何でもないことだと想像したくなってしまうが、果たしてその政治家がどれほどの熱心な支持者を抱え込んでいるかが、選挙の際には明らかになるかも知れないものの、たとえ熱心でなくても左翼という言葉に過敏に否定的な反応を示す人が世の中に大勢いれば、そんな政治家でも保守を掲げて誰もが守っている慣習を尊重する姿勢を示せば、選挙で当選する結果に至るかというと、それもやってみなければわからないことだが、そこでも何かがずれているような結果がもたらされて、多くの人々が困惑を隠せない事態となってしまうのかも知れないし、そんなこれまで感じていた常識が通用しないような成り行きがもたらされるなら、これまで感じていた固い保守地盤に何らかの亀裂が入って、新たに横ずれ断層のようなずれが形成されて、そこから地面が大きく割れて、常識やら慣習やらが瓦解するような事態が起これば、梯子を外されて孤立無援になってしまいそうな人々を救い出すことにも成功できるかも知れないが、果たして今後どんな事態が待ち受けているかは神のみぞ知るわけではなく、そんな事態となるには、多くの人々が今までの常識や慣習に縛られた言動を変える必要があるのかも知れない。


1月18日「狂気の使い道」

 正気と狂気の境目がどこにあるかなんて、狂気に囚われて騒ぎまくっている輩には知る必要のないことだが、わざと狂気に囚われている自覚などなくても、そんな狂気を武器にして他人やその他人が属している勢力を攻撃しようと思えば、正気で戦略的に狂気を装っていることになるだろうが、そもそもそれを狂気だなんて思っていないのかも知れないし、攻撃のきっかけさえ掴めれば何でも構わないと思っているわけではないとしても、それが世間の関心をそこに惹きつけるための目眩しのような効果を狙っているわけではないとしても、そんなことを思っている自覚も狙っている自覚もないのに、結果的にそう見られてしまうような狂気の沙汰だとしたら、その自覚もないのに狙い通りのパフォーマンスとなっているわけで、そんなこれ見よがしな見せかけだけのパフォーマンスとは裏腹に、攻撃の標的となっている活動がそれなりの成果を上げているように見えてしまうのは、狂気のパフォーマンスを仕掛けている側が自爆しているわけでも、それがオウンゴールような結果をもたらしているわけでもないとしたら、ただ単に地道な活動の積み重ねが実って一定の成果を上げていると結果を解釈したくなってしまうのだが、では狂気のパフォーマンスなど何の役割も果たしてはいないのかというと、地道な活動がそこで行われていることを宣伝してくれるありがたい行為だとは思わないし、迷惑行為なのはあからさまに誰の目にもそう見えるにしても、そこでも攻撃を仕掛けている側とその攻撃の標的となっている側との共同作業がうまく機能していると受け取りたくなってしまうのだが、そうであるなら戦況は終戦に近づいていると見てもいいのかどうか、誰もそうは思っていないだろうし、まだまだこれから波乱の展開が待ち受けていると思っている人がいくらでもいそうな雰囲気なのだが、そういう面ではそうだとしても、今回の狂気のパフォーマンスが、例えば太平洋戦争末期に頻繁に行われた神風特攻のような自爆攻撃と同じ類いであるなら、やはり終戦が間近に迫っていると解釈したくなってしまうし、それが百年後の終戦だとは思わないから、もっと遥かに短期間で行われている戦争に違いないとは思うが、もしかしたら戦争かどうかもはっきりしないのかも知れず、誰もこの日本で戦争が行われているとは思っていないだろうから、これは戦争ではないと見なしておいても構わないのだが、そうだとすると今回の狂気のパフォーマンスは何なのかといえば、一過性の精神錯乱のようなものだったと見なしておけば済むようなことだったのかも知れないし、無視しても構わないのだろうが、その一方で無視できないのは自然災害の爪痕だろうし、それに対しては目下のところは災害復旧へ向けて着実な歩みが進捗しているはずだが、そこから何が見えてくるのかといえば、ちょっとだけ気を取られてしまった狂気のパフォーマンスとは別の何かが見えてこないと気が済まないようなら、そこから視野を広げて世界全体を見渡してみれば何か気づいたことがあるはずだが、少なくとも日本では政権政党内の派閥とその派閥に所属している政治家との間で違法な資金のやり取りが慣習と化していたことが明らかになったことと、突発的に起こった比較的規模の大きな自然災害に乗じて活動する様々な人や集団の間で精神錯乱の様相を呈するようないざこざが起こったのだが、それとこれとがどう結びつくのかといっても、そこで狂気のパフォーマンスをネットを介して繰り広げた輩たちが、一方では違法な資金のやり取りの慣習を守っていた集団と同じ政治勢力に属している連中だったことが明らかとなったはずだが、もちろんそれ以前からそんなのはここ十数年来わかりきっていることだから、誰も気づいていないはずもないことだとしても、果たして両者が一つに結びついていることに気づける人がどれほどいるのかというと、誰もがそれとこれとは別々に起こったことだと思うしかないだろうし、確かに起こったことは別々に起こったことなのだが、両方の出来事に登場する者たちがもちろん同一人物たちではなく、それぞれに立場や役割を変えて状況にコミットしているわけで、それがどんなコミットの仕方になっているかといえば、例えば民衆の活動を抑圧するようなコミットの仕方であるなら、それなりに政府の官僚機構による国家の統治を手助けしているといえるだろうから、そういう意味では利害や損得を考慮して、違法行為も精神錯乱のような狂気のパフォーマンスも大目に見てもらえる理由となるだろうし、もちろんそれを特定の誰が考慮しているわけではなく、情勢を陰から制御している黒幕的な人物などどこにもいないから、ただの成り行きとしてそうなっているに過ぎないわけだが、そういう成り行きになるように持って行っている何らかの勢力が存在していると仮定しても、果たしてそれを特定の勢力だと断じるわけには行かないのかも知れず、そこには抑圧を受けている当の民衆も含まれていて、そんな民衆が一定の傾向に動作するように仕向けているメディア勢力も含まれてくるのだろうが、どうもそこからは抑圧に対して抵抗する姿勢がはっきりとは見えてこないわけで、そこでも実際には誰かしら抵抗しているからこそ、抑圧的なやり方への批判や非難がメディアの中で語られたり示されたりしているはずなのだが、少なくとも日本ではそうなっている一方で、それが欧米では逆にストライキや道路封鎖などの迷惑行為を正々堂々と抑圧される側が行なっていて、そこに民主主義の社会への浸透度に差が出ていると見なすなら、何かそれがもっともらしく感じられて不用意にも納得しかかってしまうのだが、そこには歴史的な経過に違いがあり、そこに至るまでには血生臭い武力鎮圧が繰り返された歴史が長く続いた末に、ようやく現状のような様相を呈しているわけだから、まだ日本では抑圧が足らないと思えば、これからさらなるひどい仕打ちが待っていると予想したくなるのだが、それが日本ではなく他の地域で現在進行形で起こっていることであり、なぜか日本では一過性の精神錯乱のような狂気のパフォーマンスで済んでいるのだから、それらの戦乱に明け暮れている地域と比較すれば、まだかなり恵まれた環境の中で民衆が暮らしている地域だといえるだろうから、たぶんこれからも政府の官僚機構による中途半端な国家統治が行われて、それをなし崩し的に民衆が受け入れているような生ぬるい状況が続いて行くのかも知れないし、それに対してちょっとだけ抵抗を試みる人や勢力も依然として地道な活動を続ける成り行きになるのではないか。


1月17日「知性への共感と反感」

 何らかの主義主張を信じてもらいたいなら、その主義主張を成り立たせる理論や理屈や論理を駆使して、意識の中に芽生えてくる直感的におかしいと思ってしまう疑念や疑問を取り払う必要がありそうだが、それ以前に知性がないと理論や理屈や論理を信じてもらえないから、まずは知性を養ってもらう必要もありそうだが、世の中にはそんな知性を身につけた者たちを勘に頼った直感から小馬鹿にしたい輩もいくらでもいて、それを反知性主義というとそんな主義主張があるのかと疑念を抱いてしまうだろうが、学校教育では十分に知性を養えなかった人たちが、自身が知性を身につけられなかったことへの怒りと復讐心から、その種の反知性主義を信じてしまうと現状で起こっている事態を捉えるなら、そんなのは嘘か悪い冗談の類いだと思いたくなってしまうが、では反知性主義を信じさせるような理論や理屈や論理があるのかといっても、何か堂々巡りの循環論になってしまうかも知れないが、それがあたかも知性に基づいているかのように装った迷信を信じるように仕向けられてしまうと事態を捉えるなら、ではその迷信とは具体的には何なのかというと、差別心を助長させる人種的あるいは民族的または宗教や宗派的な偏見や固定観念に関連した知性になるのかも知れず、それを知性に反する知性と見なすなら、何か納得できないまでも、自身が属していると思われる集団が有利になるような理論や理屈や論理が持ち出されて、それによって自尊心や優越感を抱くように仕向けられると、愚かで浅はかな人たちなら信じてしまうかも知れないが、もちろん信じている人なら自身が愚かで浅はかだと思ってしまうわけでもなく、逆に優秀で有能な集団に属していると自負するわけで、そういうのを選民思想というとさらに事態がわかりやすくなってしまうだろうが、それを裏づける科学的な理論や理屈や論理となると、例えば他の集団にはない遺伝的な特質とかが先天的に自身のDNAに刻まれているとか、そういうのもわかりやすい傾向になってくるにしても、それに関する知識として日本人が世界最古の文明を築いたシュメール人の末裔だとかいう迷信を信じている人も中にはいるかも知れないが、そういう方面へと妄想が膨らんで行くと、やはり直感的におかしいと思ってしまうだろうし、そんな俄かには信じ難い迷信と自身の主義主張が重なってしまうと、他人から頭がおかしいと思われはしまいかと恐れて、あまり表立ってその種の知識をひけらかすのは避けるようになってしまうかも知れず、表向きには常識人を装いながらも、人知れず迷信を共有する人々との連携を深めようとすれば、それが秘密結社などへと発展したらおもしろそうだが、大抵は宗教を隠れ蓑にしてその種の迷信が社会の中に蔓延って行くのだろうが、何がその種の知性に見せかけた反知性へと人心を誘導しているのかといえば、自らの存在を正当化できる理由や根拠を求めているからかも知れないが、なぜ自らの存在を正当化しなければならないのかというと、その存在自体に疑問や疑念を投げかける人がいるからで、自らが社会の中で存在している理由や根拠が定かではないのは、自身が何ら特別な存在ではなく、どこにでもいるようなありふれた存在であることを痛いほどわかっているとは直接には思っていないとしても、他人の自身に対する扱い方からわかってしまうわけで、何か舐められているような扱われ方なのではないかと絶えず猜疑心に囚われていることを自覚しているわけでもないのだろうが、あんな下衆な連中より下には見られたくないという自意識過剰な自尊心がどこから生じてくるのかといえば、自身の活動状況がどう考えても部分的で局所的な枝葉末節と言えるような方面に限られているから、それに伴って限定される自らの存在形態も部分的で局所的な存在となってしまい、その程度のちっぽけな存在だと普段から常々自覚しているわけではないが、何かの拍子に他人の態度や仕草から窺い知れてしまうから、そういう成り行きに反発する形でそれとは別の方面で自尊心を取り返そうとすれば、結果的に自分が世界最古の文明を築いた偉大な民族の末裔だとかの誇大妄想へと至ってしまい、しらふの状態でなら、恥ずかしくなってそんなことはないと反論したくなるだろうが、例えば酒に酔った勢いで理性が吹き飛んでしまえば、途端に法螺話を始めるような成り行きも想定できそうで、その種の抑制が利かない状態をしらふの時でも実現する装置がSNSなどのメディア媒体なのだと知ったかぶりなことを述べようものなら、なおのこと強烈な反感を買うかも知れないが、それが何に対して知性を発揮できるかが問われているとしても、問われている対象となっている主義主張に囚われている人々にとっては、それを否定されてしまうとたまったものではなく、自身が信じているつもりの主義主張が見ず知らずの無名の一般人から馬鹿にされようものなら、激しく反発するまでもなく無視する以外には対処のしようがないから、そうならないようになるべく世間的にその方面で名の知れている権威のような存在となっていそうな人物の主義主張へと自らが信じているつもりの主義主張を近づけようとするかも知れないが、別に近づけなくてもどっちもどっちな程度でしかなければ無理に近づける手間など不要であると共に、元から権威など不要だからこそSNS程度で間に合ってしまうわけで、その辺で勘違いしないように注意深く自らの主義主張を構成する必要があるかといっても、それも元から主義主張といえるような大げさなことを述べているわけでもなければ、もちろん主義主張自体も大げさである必要もないのかも知れないが、例えば政治家の違法行為を断罪するようなことだけを述べていれば、そこに特定の立場から肯定されたり否定されたりする主義主張など入り込む余地もなく、それで済んでいるうちはそれなりに明快なことを述べていられるはずだが、そこから変にこじれて違法と合法の境界線上で倫理的な次元から違法行為を擁護するようなことを述べてしまうと、何か特定の怪しくも偏向した妄想を伴った主義主張にいかれているのではないかと疑われてしまうかも知れず、さらにそこからそれよりもっと大きな大義に殉じるような行為の最中であることを想像するように仕向けられると、よくありがちな陰謀論的な話へと逸脱して行ってしまうだろうが、果たして事の真相はどうなっているのかと誰に問われるまでもなく、そういった何やら得体の知れない怪しげな主義主張に基づいた制度に心身を囚われているから、それが何の制度かも明かされないうちにそこから制度的にありふれた妄想が生じてくるだけのことなのだろうが、妄想を抱いている当人にしてみれば、そんなのは断じて認め難い事態なのではないか。


1月16日「事実のねじ曲げ」

 大したことでもないのにさも大変なことが起こったかのように騒ぎまくりたいわけでもないのだが、政府という公的な機関に戦いを挑んでいるつもりが、国家に戦いを挑んでいるかのように受け取られると、戦う相手が政府から国家に変わると何が違ってくるのかと問われてしまうわけでもないが、それもわざと事を大げさに捉えて、国と戦うのは国家に対する反逆だと騒ぎたい輩がうじゃうじゃ湧いて出るようなイメージを妄想したいのなら、国と戦うとはどういうことなのかとさらに問いたくなってしまうわけでもなく、実態は戦っているのではなく、捉えようによってはそれとは真逆の、災害にかこつけたボランティアの人助けに過ぎないのだが、政府が行なっている救助活動の邪魔をするなとまるで縄張りを荒らされたかのように怒りを露わにして民間で勝手にやっていることを攻撃したい気持ちもわからないではないが、政府と民間との競合関係というと、別に人助けを競い合っているわけでもなく、助ける対象となる被災者たちがいて、それを政府と民間との間で奪い合いに発展しているわけでもなく、逆に政府の対応が後手に回って遅すぎるから、民間のボランティアたちが被災地域に入り込んで率先して一人でも多くの人たちを助けようとしていると事態を捉えるなら、事実をねじ曲げて伝えていると受け取られてしまうわけでもなく、普通はそんなふうには思わないはずだが、そこから政府とは何なのかとか、国家とは何かという根本的な問いが発せられるよう成り行きへと話を持って行くのは、やはり事を大げさに捉え過ぎているような気がしてしまうが、果たして政府があったり国家があったりすることが根本的な問題なのかと問うならば、否と答えたいわけではなく、初めから政府や国家があったわけではなく、対外的な事情から政府や国家を形成せざるを得なかったわけで、それが日本と呼ばれる地域では、一度目は飛鳥時代に中国の隋唐帝国と対峙した時に、また二度目は江戸時代末期に西欧の列強と対峙した時に、中央集権的な国家を形成せざるを得ない事情が生じてきたわけだが、それらの延長上で行われていることが他の何に対しても優先されなければならないわけでもなく、政府が警察や軍を使って民衆を脅しながら税を強奪しているとか、それに対抗して民衆の側も反乱を企てているとか、そんな物騒な話ではないはずだが、それだけでは話の構成が不十分であり、警察や軍を使って民衆を脅して抑圧しているだけでは政府による国家統治はうまく行かないわけで、脅す一方で民衆に対して富の幻想を抱かせる必要があり、それが飴と鞭ならぬ、権力の行使による抑圧を覆い隠す目的があるわけではないはずだが、実際に国債の発行量や通貨の流通量を経済の景気循環に合わせてうまく調整することによって、あたかも民衆が経済的に豊かになったかのように錯覚させることに成功すれば、それによって国家の統治がうまく行っているように装えるわけだが、果たしてそんなやり方で民衆を騙せるのかというと、騙すつもりもないのは、国家統治に加わっているつもりの官僚や政治家などの方が国家という幻想に騙されていることの証しとなるわけでもないが、たぶん騙すとか騙されるとかいう否定的な意味で国家統治を解釈してほしくはないだろうし、もっと肯定的な意味合いを伴った言葉を使えば、それが政治宣伝の類いになってしまうにしても、事態を前向きに捉えられるはずだが、それも実際に民衆が物心両面での経済的な豊かさや治安の面での身の安全を実感できなければ、政府への支持が集まらないはずなのだが、支持が集まらなくても軍や警察を使った脅しによって民衆を強制的に従わせればうまく統治ができているように装えるはずだが、そうなると北朝鮮やロシアのような統治形態となってしまうから、民衆の間で不平不満が渦巻いているはずだと思いたいところだが、力よる統治を強いている側に民衆を心理的に引き込むことに成功すれば、そうやって民衆が洗脳されている限りでそれほどの抵抗感や反感は芽生えてこないだろうし、そんなファシズム的な国家統治を意識して目指しているわけではないはずだが、実際に地震の被災地で民間のボランティアが人助けをしているのを快く思っていない人たちはそんな心理状態へと傾いているのかも知れず、さらにそれに輪をかけて山本太郎などがしゃしゃり出てくれば、それ自体が政府への敵対行為であり、あからさまに災害のどさくさに紛れて国家への反乱を企てていると妄想したいわけでもないだろうが、それに近い心理状態だから執拗に攻撃しまくるわけで、それだけファシズム的な国家統治には多くの人々が魅力を感じるわけだが、果たしてそれで構わないのかというと、もちろん民主主義を信じている人々にとってはファシズムなどあってはならない事態だろうし、そうならないようにするにはどうすればいいかと国家の制度や法律の面から工夫を凝らしたいだろうし、それに対する現状での最適解が日本国憲法を守ることだと思い込んでいる人もいるからこそ、ファシズム陣営にしてみれば一刻も早く憲法を改正して、国家のファシズム化への障害を取り除きたいとあからさまに思っているわけではなくても、薄々は勘づいているから、しきりに憲法を改正しようと画策しているわけだろうが、何かそういうところで誰もが国家統治の矛盾をはっきりと意識しているわけではないはずだが、ただ漠然と危機意識は共有しているものだから、ひとたび大規模な自然災害などが起これば、その種の危機意識が顕在化してきて、政府と一体となって国を守らなければならないとあからさまに思うわけではないにしても、多くの人々が国家的な危機に呼応してファシズム的な心理状態に囚われてしまうから、大したことは何もやっていないどころか、実際には迅速な対応もできていないのに、なぜか政府に対する支持がそれなりに高まってしまうのかも知れないが、そこでファシズムの誘惑に乗ってはならないと警鐘を鳴らすのも意味がわからないし、誰もが国家の統治に加わって権力を行使したいと思いたいなら、結局は民主主義的な統治に落ち着くしかなく、それではほとんどの人たちが選挙で投票する以外には何もできないから不満だろうが、統治とはその程度のことだと思って引き下がるしかなく、それが間接的に行使される国民主権の実態であり、大して魅力など感じないだろうが、その一方でファシズム的な魅力というのもせいぜいが実体のない幻想の共同体を妄想させているだけのことだと思っておくぐらいが無難なところなのではないか。


1月15日「限られた体験から得られた実感」

 わかっていることはいつも限られていて、それに伴ってわからないことが無限にありそうだが、もしかしたらわからないことも限られているかも知れないし、わかったりわからなかったりすること以外のことが無限にあるのかも知れないが、そんな根拠も定かでないことを想像してみたところでそれ以外の何がわかるわけでもなく、世の中はわからないことだらけだと単純に理解しておいた方が気休めを得られるに違いないはずだが、そんな雑な思い込みを裏切るような物事にいつ出くわすとも限らないから、そうなることを期待しながら生きているわけでもないが、気に入らない何かを抑圧すると共にそれとは別の何かを煽り立てていると勘違いするなら、それらを同一視していることに気づいていない証拠となるわけでもないが、抑圧しながら煽り立てる動作に騙されるなと警鐘を鳴らすのも、それ自体が抑圧と煽り立ての連携から生じるごまかしの動作に違いないから、騙されるなではなく、逆に騙されたいとは思わなくても、誰も騙されてはおらず、誰も騙されてはいないからこそ、安心して騙されるなと警鐘を鳴らせるわけだが、そんな逆説的な言い回しも信用できないが、ではどんな言い回しなら信用できるのかといったところで、無理に信用してもらわなくても構わないが、信用できないついでに、さらなるまやかしの言い回しを続けるなら、続けられるなら続けたいとは思わなくても自然に続いてしまうのだろうが、その続いて行く先に待ち受けているのが、このままでは大変なことなるだとか、国が滅びるだとか、そういう脅し文句を発する人々が恐れている未来などではなく、相変わらずの現状の延長上にある未来でしかないところが、騙されるなと警鐘を鳴らしている人々の思いを裏切っている未来のあるべき姿なのかも知れず、それをあるべき姿だと認められない人々が、いつも事ある度にここのままでは大変なことになるだとか、このままでは国が滅びるだとか、脅し文句を使って危機を煽り立てるのだろうが、いくら煽り立てても民がそれを真に受けて踊ってくれないから、いつも警鐘を鳴らす行為が空振りに終わっているのかも知れず、もちろんそれを空振りだなんて認めるわけには行かないだろうし、そうかといって何らかの効果や成果や業績を残したと自負しているわけでもないだろうが、実際に行われてきて今も行われている数々の政治的な過ちや誤りを正そうとするから、そんな警鐘を鳴らす動作に結びついてしまうのだとしても、それが悪い動作や行為というわけでもないどころか、そうなるのが当然の動作や行為であるだけに、誰もがそれを真に受ける必要があるだろうから、実際にも多くの人々が真に受けているはずだが、それで構わないのだとしても、結果がどうなるわけでもないところが、そんな危機的で深刻な傾向を伴った思いがことごとく裏切られてしまうというか、すっぽ抜けているという表現がしっくりくるような気がするのだが、その種の不安を募らせると必ずガス抜きに直面するような予定調和な結果に愕然とするわけでもなく、またかと呆れ半分でひと安心していることに自身が気づいていないのかも知れないが、そうならないようにちゃんと事態を正確に把握する必要があるのは言うまでもないことだとしても、楽観視と共に舐めてかかっているわけでもないのに、なぜか気休めのような気分でうすら笑いを浮かべながら皮肉な結果に至っているところを過大評価したくなってしまうから、それだけ事実をねじ曲げて解釈していることになるわけだが、冷笑的な気分で事態を捉えてしまうということが心理的に余裕がある証拠だと思うなら、その心理的な余裕が経済的な余裕から生じてくるというと、現状が大変な事態に陥っているというこれまたよく言われる脅し文句に屈していない証拠になりそうだが、果たしてそんなに余裕があるのかというと、危機感を募らせて盛んに警鐘を鳴らし続ける煽動者を小馬鹿にしている冷笑的な煽動者に洗脳されているわけではなく、メディア上で繰り広げられるそれらの煽動者たちの争いを茶番だと馬鹿にしたい気分でいることは確かなのかも知れず、それが退屈紛れにそう思っているのだから、なおのこと世間を舐めた目で眺めているのかも知れないが、だからといって全面的にそんな気分でいるわけでもないから、それとは別の日常の中では普通に暮らせている限りで、ただのエンタメ的な部分でそう思っているに過ぎないのなら人畜無害でしかないが、そんな方面には無関心であっても構わないような状況なのかも知れないし、思っているだけでは済まないような立場の人たちが、そんな思いに囚われていてはまずいなら、ではどんな思いに囚われるべきなのかといっても、これといって思い浮かぶような思いなど何もありはしないが、思いがどうであれ、思いと行動が一致しないこともしばしば起こる現象だから、何か得体の知れない傾向に囚われながら動作していればそれで構わないとは思わないが、思わなくてもそんな動作に囚われてしまっている現状があるなら、そうなっていても仕方がないだろうが、日本だけでそうなっているわけでもないと情勢を捉えるなら、世界を見渡してみれば、何かしらこの時代に特徴的な傾向が見えてくるわけでもないだろうし、それが取り立てて特徴的な傾向とは思えないが、世の中の否定的な面をことさらに強調して煽り立てると、特に目新しい真実が見えてくるわけではなく、それよりは昔ながらの懐かしい人々が抱く伝統的な思いと重なってくるような感じになってきてしまうから、何かそれが真実というよりはありふれたフィクションに近い話の内容になってしまって、果たしてそんな嘘のような本当の話を信用しても構わないのかと疑ってしまうわけでもないのだが、そういう話に対しても冷笑的な反応を示してしまう人もいくらでも出てくるとしても、少なくともわかりやすいことを語れば、それに対してごく真っ当な反応が返ってきて、それが確かな共感を伴った反応と受け取られてひと安心するのだろうが、それはそれで構わないのだろうし、少なくとも無理に冷笑的な態度で応じながら、ごく真っ当な共感を寄せる人たちを小馬鹿にしたい輩よりはだいぶマシなのだろうが、だからどうだというわけではなく、そんな他人が抱いていると思われる共感を共有したいとは思わないから、それらの人々の共感を信用していないわけで、人がどんな思いを抱きながら他人の主張に共感を寄せるとしても、実際には思いを裏切るような動作になってしまうわけだから、そんな裏切りの動作が世界の真実だと受け止めるしかないわけだ。


1月14日「サイコパスな代表者」

 国家があることを前提にして話を進めて行くと、国家以前に何があったかなんて問題とはならなくなってしまうが、それで構わないなら単純な話となってしまうわけでもないものの、官僚機構を伴った政府という国家を統治する組織がある限りは、そこから自律的な意向が生じてきて、その意向に従って組織が動いていると事態を捉えても構わないはずが、それが組織の中で指導的な役割を担っている人物の意向と同一視されてしまうのも何か違うような気もするわけで、その指導者的な人物が組織内で指導的な立場にならない限りはそんな意向を抱くこともないということが、その人物が言っている内容が単に組織の意向を代弁しているに過ぎないと見なしても構わないといったところで、そうなってしまうと組織の意向に従っているなら代表者なんて誰でも構わないとは言えないものの、誰が指導的な役割を担っても組織が変わらないならそう言いたくなってしまうが、その人物にカリスマ的な資質があろうがなかろうが、そんなのは組織にとってはどうでもいいことになるわけでもなく、ないよりはあった方がそれふうの代表者としてふさわしく感じられて、そういった指導者ふうの人物が組織内で発言力を増してきて、実際に組織の代表者に選ばれるような成り行きが生じてくると考えれば、代表者にふさわしい人物が代表者に選ばれると見ておいても構わないが、では代表者にはふさわしくない人物が代表者に選ばれてしまうとまずいのかといえば、結果的に代表者が失脚してしまえば、その理由として代表者としてはふさわしくなかったからということにもなるかも知れないし、結果から言えばもっともらしい理由などいくらでも付け加えられるとしても、国家の統治機構や行政機構を代表する人物が代表者としてふさわしいかふさわしくないかといった判断基準から評価されたりされなかったりするとしても、評価に納得するかしないかも含めて、大したことでもないような事態が進行しつつあるのかも知れないから、そういうことの良し悪しも大して問題とはならないのかも知れないし、そんな恣意的にいくらでもバイアスがかかった肯定的あるいは否定的な評価とは別問題として、それを組織自体の形骸化と単純に受け止めてはまずいような事態も起こっていて、形骸化しているのに、それに伴ってかえって組織特有の意向や傾向が顕在化してきているというと、その意向や傾向というのを否定的かつ批判的に受け止めたくなってきてしまうのだが、組織の代表者が意図してわざと多くの人々から批判され非難されるようなことをこれ見よがしに言ってみせたりやってみせたりしているようにも感じられるかも知れないが、それでもそんなことには無関心な人々が世間の多数派を占めているとも言えなくなってきているはずだが、それを全く意に介さないような振る舞いに終始しているようにも感じられるわけだから、まるでサイコパスような人物が代表者となっていると受け止める人もまだそんなにはいないだろうが、すでに気づいている人もちらほらと見受けられるようになってきた感じもしないではなく、果たして彼が本物のサイコパスなのかどうかをどうやれば知るに至るのかといっても、現状で判断するしかないだろうが、そうならざるを得ない成り行きの中でそんな人物が組織の中から生じてきたのなら、例えば彼が現代のスターリンと呼ぶにふさわしいとは誰も思わないし、もっと地べたすれすれの低いレベルにとどまっているような感じで小物感を醸し出しているものだから、彼を誰もが正当には評価したくないように感じられるから、彼の意識の中でもジレンマが生じているかどうかも定かではなく、まるで世の中の多くの人々から嫌われようとしてそんなことを言ってみたりやってみたりしているように見えてしまうから、逆にわざとそんなことを言うはずもやるはずもないとも思われて、果たして本気でそんなサイコパスな役柄を演じているつもりなのか、そのつもりでも演じている自覚もなく、そうならざるを得ない成り行きの中で否応なくそうなってしまうのかも知れないが、だからといってもちろん彼に同情する者など誰もいないだろうから、逆に孤立無援というわけでもなく、そんな彼が嫌われ役を買って出ているような成り行きだと情勢を受け止めるなら、使える限り批判や非難の矢面に立たせておけば、当面の困難を切り抜けられると踏んでいるのかも知れないし、そうやって世間の関心がそちらへと気を取られているうちに、水面下で大変な事態が進行中だと陰謀論的には呟きたいだろうが、それも穿った見方をし過ぎているのかも知れず、たぶん事態を逆説的に受け取ってはならないというと、わざと現状に対して逆説的な解釈を施したくなってしまうのだが、それが誰かの思う壺というわけではなく、素直に現状を受け止められないのだから、戯れに逆説的な現状の解釈では満足できはないが、不満を覚えながらも仕方なくそんな解釈を施しながら、ここは一歩退いて世界を見渡してみなければならないわけでもないにしても、少なくとも小物の彼にはサイコパスな役柄など荷が重過ぎてうまく務まらないと思うのも勘違いなのかも知れず、スターリンもかつてはそうであったように、小物だからこそサイコパスへと成長できると理解しておいた方が、幾分現状に合ったものの見方に近づくと思っておけば、勘違いの程度も少しは改善するような気もするわけだが、それが全く勘違いではなく真正面から正しいと思われてしまうと、それとは裏腹に勘違いの程度も最大限に強まってしまうから、ちょっとだけ勘違いしている程度に認識をとどめておくのが妥当なところであるなら、そういう意味では彼を良心の呵責など全く欠落したサイコパスだと思っておいても、それほど間違ってはいないのかも知れないし、その程度の勘違いで済んでいるうちは、まだ茶番劇の範疇に入るような成り行きの中でみみっちくもせこいこだわりを後生大事に保持していられて、それに伴ってそれなりに余裕と安心感を抱きながらその種の茶番劇を鑑賞していられるのかも知れないが、そんな茶番劇の中でも、小物の彼の他にどんな役柄を演じている者が彼とぐるになって茶番劇を盛り上げているのかといえば、当人同士がそれと自覚しながら連携しているとは言い難い組み合わせでそうなっているから、それがスターリンとトロツキーを比べれば、トロツキーの方が遥かに大物感を感じられるほどのオーラを纏っているのと同じとは言い難いとしても、後になってその組み合わせが判明してしまうと世間をあっと驚かすかも知れないし、それに関してはすでに薄々勘づいている人も結構な割合でいるのかも知れないが、今のところは勘づいている人も気を利かせてバラさないような配慮を心がけているのかも知れないし、楽しみはなるべく後にとっておいた方が、その時が来た際にはより大きな感動と喜びが待ち受けているのではないか。


1月13日「政府と企業との関係」

 日本の景気を占う上で欠かせない指標といえば、これまでは工業製品の輸出に伴って生じてくる貿易黒字の額が重要だと思われていた時代もあったのだろうが、そのためには為替を円安に誘導して輸出額を増やそうとする努力が政府の政策を伴いながらも行われてきたはずだが、少なくともバブル崩壊後の日本では次第にそうも行かなくなり、一方では情報革命の進展に伴って急成長したアメリカのGAFAMと呼ばれる巨大ハイテク企業に主導権を握られて、またもう一方では中国や東南アジアやインドなどの新興国にも工業製品の分野では追い上げられて、中国には実際に追い抜かれて、現代ではもはや実質的にも工業製品の輸出一辺倒の産業構造ではなくなり、貿易が黒字どころか赤字になることも頻繁に起こるようになってきた一方で、資金のやり取りを加味した経常収支では黒字になっていることの方が多いから、工業国家から金融国家へと変貌してきた面もありそうだが、金融国家といっても、例えばスイスなどはそう言われてきた面もある一方で、投資銀行のクレディ・スイスはなくなったが、食品のネスレや資源穀物のグレンコアや高級腕時計のロレックスなどの世界的な覇権を握っている大企業もあるし、日本では自動車のトヨタが世界的な覇権を握っている企業の一つだが、内燃機関車では確かにそうだが、近年新たな車として脚光を浴びている電気自動車の分野ではアメリカのテスラや中国のBYDなどに対して遅れをとっているし、その地位も盤石とは言えなくなってきたのかも知れないが、スイスが永世中立国の立場を利用して個々の企業が汚い金儲けをやっているといっても、一部の企業ではということになるだろうし、例えばグレンコア社がタックス・ヘイヴンのジャージー島に本社を登記して、アフリカの資源国の政府高官などに賄賂攻勢を仕掛けているとか、悪い噂が絶えないとしても、その一方で戦争を放棄した平和憲法を擁する日本でも、トヨタが下請けの機械部品を扱う中小企業の犠牲の上にあぐらをかいて、営業が殿様商売をやっているとか、それらの大企業の闇の部分を挙げて行けばきりがないかも知れないが、日本で政府に批判的なジャーナリストや識者や野党政治家などが、政府や政権政党と大企業が集まって構成される経団連などとの癒着関係を事ある度に非難するが、アメリカでも軍産複合体と呼ばれる軍と軍需産業との間の癒着関係が指摘されるところだが、果たして政府と企業との関係が直接の結びつきを指摘されて非難されるような関係なのかというと、それが企業献金を介して政権政党と企業との関係が非難されることになるわけだが、下手をすると贈収賄に発展するから、日本では企業献金の禁止という建前の抜け穴としてパーティー券の販売という奇妙な制度を設けているわけだろうし、さらにその一方で政府から政党助成金も受け取っているから、金券腐敗政治の悪習が全く改まっていないわけだろうが、その一方で政府の責任として、雇用の創出や賃上げを促すような政策を実行できるかとなると、それがどのような政策になるにしても、形式的には政府と企業は別組織であり、企業が内部留保を貯め込もうが従業員の給料を低く抑えようが、企業側の勝手だとは言えないものの、賃上げするように労働組合がストライキを脅しに使うのも合法的な行為だろうし、政府が警察や軍を動員して労働組合のストライキを武力を用いて鎮圧するようなら、政府はあからさまに労働者よりは企業の味方だと言えるが、欧米各国の政府がそんな荒っぽいやり方を使ってまで経済発展してきた歴史的な経緯があるから、それへの反省を踏まえて民主的な国家では法律によって労働者のストライキ権を認めるような成り行きになってきたわけだろうが、日本では労働者の味方を装う左翼勢力の退潮傾向が顕著になったのが先か企業の経営陣と労働組合との馴れ合いの癒着体質が浸透してきたのが先かは、どちらも同時並行して進んできたのかも知れないが、そうやって労働者側が企業側に丸め込まれると共に、従業員の給料が上がらなくなってきたと分析できるかどうかもよくわからないが、それよりは新自由主義の隆盛と共に労働者の派遣が合法とされたり、消費税の導入と法人税の引き下げが同時並行して行われたのが原因だと言われることもあるが、それが争点や論点のはぐらかしだとも思えないが、様々な要因が複合的に絡み合って現状がもたらされていることは確かなのだろうし、対立すべきところを対立せずに馴れ合いの癒着や談合によって切り抜けようとしたツケが現状に悪影響を及ぼしていることも確かなのだろうが、社会の中で各人や各勢力が占めている立場をわきまえるなら、時には対立しても、また時には協力関係を築く必要があるにしても、理性よりも馴れ合いの慣習を優先させてしまうと、その場では妥協の産物として丸く収まるかも知れないが、それが国内の村落共同体的な内部の身内の間では通用するにしても、それでは公的な法律や制度が形骸化してしまうから、共同体の外との接触が頻繁に起こるような外の世界では通用しなくなってしまい、逆に外の世界でも通用する公的な法律や制度を国内でも通用させるしかないというと、理性に照らし合わせればそんなことは当たり前のことなのだが、身内との馴れ合いの感情を無意識のうちに優先させてしまうような人々からは反発されたり反感を買うような結果がもたらされて、そうなると公的な法律や制度に則ったビジネスライクな関係を重視するか、誰もが暗黙にうちに守っているつもりの慣習をなし崩し的に同調圧力に利用するような村落共同的なやり方を優先させるか、という二者択一を迫られているわけでもないのだろうが、一方だけになってしまうと社会が成り立たないというか、成り立たなくても成り立っているように見せかけられているに過ぎないのかも知れないが、それらを時と場合に応じて使い分けるようなことなどできないから、一方だけを重視する勢力と敵対する勢力との間で対立や争いが日々繰り広げられている現状もありそうだが、そこでも対立や争いの決着がついたりつかなかったりしながら、事態が絶えず流動的に変化し続けるにしても、そんな中でも時折おかしなこだわりが顕在化してくるから、それに過剰反応してさらに輪をかけておかしな対立や争いが勃発してきて、結果的に正気ではないような様相を呈してくるのだが、それが重篤化した症状というのが、山本太郎が地震の被災地に入って炊き出しのカレーを食べたら、それを執拗に攻撃しまくる輩が多数登場してきた経緯だと言えるかどうかもよくわからないが、とにかく最近の出来事では地震本体よりも強烈な印象を受けたわけだ。


1月12日「技術的な妄想と政治的な思惑」

 夢の技術といえば普通は核融合だとかワープ航法だとか、まだ実現していない未来の科学技術を想像するはずだが、未来ではなく過去にその効果が信じられていた技術となると、魔法だとか錬金術だとか現代では効果が疑わしい技術になりそうだが、そんな類いの中でも眠っている間に見た夢に出てきた物事から、その人の将来の運勢を占う技術となると、卜占にも技術や知識が伴うことは確かだとしても、それも効果が疑わしい過去の技術だと見なしたくなるが、今でもそれを信じている人が少なからずいるから、少しは商売として需要がある技術には違いないだろうが、その一方で夢占いから精神分析が医療や学問として生じてきたように、占星術からは天文学が生じてきたり、錬金術からは化学が生じてきた経緯などがあるから、昔の技術の発展形として実用的な効果や成果を期待できる技術が生じてくることにも、技術の連続性や継続性という観点からそれらの経緯が好意的に受け止められる理由となってくるだろうが、それとは対照的な成り行きとして、これまで信じられてきた常識をひっくり返すようなパラダイムシフトをもたらす技術となると、暗号解読から進化して計算の飛躍的な向上をもたらしたコンピューター技術や、それに付随して世界的な情報網を構築したインターネット技術などが挙げられるだろうが、それらの技術が成り立つ前提条件として半導体技術の飛躍的な進化が不可欠だったわけで、それなしにはデジタル技術全般が成り立たないし、昨今流行の兆しを見せているAI技術も半導体技術なしにはあり得ないわけだが、もちろんそれ以外にも従来からある様々な科学技術や産業技術がそこにいくらでも関わってくるのだが、基礎的な技術として半導体技術がそれなしにはあり得ない場所を占めているから、国家戦略的にもその重要性を認識せざるを得ないのだろうが、そんな認識が誤りでも勘違いでもないのはわかりきっていることだが、他にもそれなしには他の技術が成り立たない基礎的な技術があるかというと、それとはだいぶ傾向も程度も異なってくるが、製鉄技術なども確かにそれなしには他の産業が成り立たないだろうが、半導体技術と製鉄技術の違いなど誰もがわかっていることだろうが、製鉄がコストを無視すれば世界のどこでも実現可能な技術であるのに対して、半導体となると話は別で、製鉄とは比べ物にならない莫大なインフラ整備を施した上に、製造に必要な精密機械を大量に導入しないと使い物になる半導体チップが製造できないという難点があるから、世界のどこでも実現可能というわけではなく、世界の中でも限られた数カ国で半導体が製造されている現状があり、しかも半導体チップなど世界中に広まっているどんな機械にも大なり小なり組み込まれているから、半導体を制する者は世界を制するような妄想を誰が抱いても不思議ではないが、実態としてそうでないのは、国家や政府が半導体技術を独占しているわけではなく、特定の企業がその技術を担っていて、しかも半導体そのものを製造する企業と製造する装置を製造する企業が別々にいて、半導体チップを設計する企業も別にいて、さらには半導体を製造する工場を建設する企業も別にいるわけだから、それらの全ての工程を一手に引き受けて独占体制を築き上げているのでもない限りは、どう考えても半導体を制する者は世界を制するとはなり得ないはずだが、実際にアメリカが中国に対して最先端の半導体技術を盗まれないように様々な制裁措置を講じている現状を考慮するなら、そんな妄想を抱いてしまうのも当然かもしれないし、そういうところで政府機関が生じさせる国家的な意向を無視するわけにも行かなくなってきて、国家戦略的な見地から日本でも半導体産業を保護しようとして、莫大な予算を投じて半導体工場を建設しようとしたりしているわけだろうが、それが技術そのものからではなく政治的な思惑からそういう成り行きが生じてくるわけだから、そんな面倒な思惑を巡らさなくても済むような未来を夢想してみるなら、単純に中国が民主化されればその種の国家戦略も変わってくると考えられるが、それが現状ではあり得ないことだから、面倒でこじれた事態となっているわけだが、その種の政治的な思惑が邪魔をして科学技術や産業技術の発展が阻害されるどころか、逆に国家間の競争を招いて技術の進歩を促進させるような成り行きも想定できるから、その種の競争を肯定できるかといっても、それが軍事技術の開発競争になってしまうと否定したくなってしまうだろうし、そこから民間への技術の転用が起こって、それに関連した産業が栄えるという実例もあるから、それを全面的に否定するのも立場によっては違うような気もしてくるだろうが、産業技術の何を肯定して何を否定しても、そこに政治的な思惑が絡んでくると、それを口実にして対立を際立たせるような成り行きになってくると共に、産業の政治利用という観点からも、自国の産業を誇ってみせることが民衆からの支持や賛同を取り付けるには効果があるようにも思われるから、そういう意味でも政治主導で産業振興を行う成り行きとなってくるのだろうが、それが逆に民間の創意工夫を阻害する結果をもたらして政治的な失敗をもたらす原因にもなり得るから皮肉な成り行きなのだろうが、政治的な思惑が何から生じてくるのかといえば、民衆が様々な意向や傾向や程度を伴いながら政治に介入してくるから思い通りにはならないのを、技術の力で太刀打ちしようとするわけだが、太古の時代にはそんな技術の中でも卜占の技術が圧倒的な力を発揮していたが、現代では科学技術を応用した軍事技術や産業技術などの助けを借りて民衆を統治しようとはするのだろうが、それで民衆の信頼を得ることができるかというと疑念を抱かざるを得ないというか、民衆の心を掴むのに技術の力を借りなければならないということ自体が、民衆から信頼されていない証しとなるわけでもなく、大なり小なり技術なしには政治活動もままならないことは確かなのだろうが、無理に何が何でも信頼を勝ち取らなくてもいいような制度に形の上ではなっていて、要するに信頼を得られなければさっさとやめればいいという制度になっていて、やめた時が死ぬ時になってしまうような独裁体制になっていなければいいのだろうが、それがなかなかできない制度となっているというか、制度をねじ曲げてそうなってしまう国が世界にはまだまだ数多く存在していて、日本でもそんなねじ曲げが起こりつつある最中なのかも知れない。


1月11日「機能主義と実用主義の盲点」

 価値観の分散というと単純にランダムかつデタラメに分散しているわけではなく、何らかの程度や傾向を伴って分散しているはずだが、その程度や傾向に応じて価値観の違いが明らかになるわけでもないのかも知れず、何かそうではないような分散とは違った成り行きに囚われていて、それが分散とは逆の集中だと単純には言えないような複雑でこじれた様相を呈しているからわかりにくく、ただ単に分散しているわけでもなく、分散しているからどうだということも言えないが、価値観の違いから何が言えるわけでもなければ、価値観の違いなど持ち出さなくても、ある一定の程度や傾向から何かもっともらしく言えることがあり、それが機能への信仰というと何か宗教のような意味で解釈したくなってくるが、たぶんそれに囚われている誰もが信じられないようなことを当たり前のように信じていることに気づいていないのかも知れず、何が信じられないのかといえば、逆にそれを信じているからこそ信じられないというと、ますますわからなくなってくるが、人が機能的に生きているというと、自身を取り巻く環境の中で自らを機能させようとするのだろうが、機能させないとまずいのかというと、社会の中である一定のレベルで機能していない人間は役立たずだから不要なのかというと、そんなことはないと思いたくなり、生きていること自体が何かしら機能している証拠だと言いたくもなるが、死んでいる人も死してなお機能している場合もあるから、生きているからといって、機能に絡めて生きている状態を正当化するのもちょっと違うような気もしてくるのだが、何かそこに遂行すべき目的があり、その目的に応じて機能していれば、その目的が誰もが遂行すべき目的となるわけでもなければ、そんな目的に応じて機能している人を手放しで賞賛するわけにも行かなくなるが、そこに多種多様な目的があって、そんな多種多様な目的に応じて機能している人も多種多様に存在していると社会の現状を捉えれば、それでも社会の中で暮らしている誰もがその存在を認められることにはならないし、社会を維持発展させる方向で機能している人は認められるが、社会を壊したり衰退させる方向で機能している人は認め難いどころか、場合によっては何か適当な理由をつけて抹殺したくなってくるかも知れないが、では社会が果たして現状のままでも構わないのかいうと、社会の様々なところで不具合や歪みが生じているから、それを直したり治さなければならないと主張している人もいるから、そういう人や勢力を社会を破壊する人や勢力だと見なして攻撃を仕掛けているつもりの人や勢力もいるわけで、そうなると社会の中で暮らしている人々の間で価値観の違いが生じていると単純に理解するわけにも行かなくなり、そこから主義主張の違いへと論点が移動するとも言えないかも知れないが、様々な用途に合わせて人々が機能しているから社会が成り立っていると結果論的に解釈するだけでは済まないような感じになってきて、そうではなく絶えず無駄に機能していない人が一定数の割合で存在していないと、社会の流動性も生じてこないだろうし、そういう人たちの中から新たな機能が生じてきて、結果的に世界の変化に応じて社会も変化できるようになると解釈すれば、よりもっともらしい説明には感じられるだろうが、果たしてそんな機能主義的な観点から人の社会性を説明しても構わないのかというと、やはり倫理的な観点から人をまるで機械やロボットのように扱うなと批判されるだろうから、何かが欠けていることは確かだろうが、そこから宗教などを持ち出して人の心の状態を弄ぶような思考や思想も出てくるのだが、ただ単に人が社会の役に立つか立たないかといった機能的かつ実用的な観点から特定の人物や勢力を評価したりしなかったりするレベルでは、それで話が済んでいるうちはそういうことを主張していれば、何かもっともらしいことを言っているように感じられるのだが、そこから人は機械でもロボットでもないという反論が出てくるようなレベルへと話が移行して行くと、では機能主義や実用主義以外に何かもっともらしく納得できるような価値観を持ち出せるのかとなると、もっともらしくは思えないし納得できないかも知れないが、そうかといってあからさまに宗教を持ち出すのは煙たがられるだろうから、心理学や社会学などの助けを借りてわかったようなわからないようなことを述べれば、人を煙に巻くことはできるかも知れないが、難しいことには背を向けて無難に立ち回るには、わからないことよりはわかりきったことを強調するに越したことはなく、そうなると人を目的意識へと誘導して、他のややこしくも面倒なことには触れないようにすればいいわけで、それが自由という名の方便になってしまうとしても、例えば資産の最大化を目指したいとか、生活にゆとりや潤いをもたらしたいとか、物心両面で満足感を得たいとか、ただ単に豊かな生活を送りたいとか、逆に貧しくとも心清らかに生きて行きたいとか、特定のありふれたテーマに目標を絞り込んで、それの実現を目指して日々努力を重ねて精進して行けばいいような単純な目的思考であることを建前としては主張できるにしても、日々の実生活の中で本当にそんなことをやっているのかというと、自分の実体験として到底信じられないというか、それよりは怠惰で何もしていない割合の方がはるかに多いから、建前として出てくるありふれた目的や目標などは、メディアを介して商品の宣伝や広告やアンケートなどの中で言われていることであり、そういう目的や目標をメディアに接する度に意識に刷り込まれるから、無意識のレベルでは信じているつもりだろうが、そんな成り行きについて改めて思考を巡らせると、メディアからの刷り込みに対する抵抗や反感などが芽生えてきて、実際に自分の生活実感から言えることになってくれば、何もしないで退屈を持て余している時間の方がはるかに多いわけだから、それらの目的や目標を信じているつもりなのだが、実際にはそのことごとくが自分の何もやらない行為によって裏切られているような実態があるわけで、それがメディアからの宣伝攻勢に抵抗したり反感を抱いているからそうなっているわけではなく、ただ単にやろうとしてもできないという能力不足であるような気もするから、そういう意味では機能主義も実用主義も自らの生活の中では通用しておらず、それらはいつも自堕落な怠惰に負けていることになるのではないか。


1月10日「決断をはぐらかす」

 すぐに判断する必要もないことかも知れないが、時と場合によって決断せざるを得ないような状況へ陥ってしまうとしても、そこで何を決断するのかといえば、どこかのお笑い芸人やテレビ司会者が芸能界からの引退を決断するわけでもないから、大したことでもないはずだが、相変わらず意識の中で何かが微妙にずれているように思われて、少しピントの外れたことを考えているのかも知れないが、そこで何かを決意する時がそれを実行しない未来を想像してしまう時でもあるから、どちらにしても苦し紛れに切羽詰まって決断を下した後から決まってそれが翻されてしまうわけだが、それが果たして態度変更や意見変更と言えるのかというと、そうなることを前もって予期してしまうのだから、それをやろうとしてもできないことが明らかとなっていて、しかもそれで構わないことも事前にわかっているというか、それだけ十分に余裕を感じながら決断したことを実際にはやらないつもりなのだとすれば、では何のための決断なのかというと、決断したふりを装っているのでもないだろうが、何にせよ決断できないことが明らかとなるのを恐れて、なぜかできもしないことをやると決断してみせるのだが、決断した後からその決断がうやむやとなるように策を弄するといっても、いったいどんな策なのかもよくわからないのだが、たぶん大したことは何もやらずに事態を放置して知らんぷりの態度に終始するのかも知れないが、それでも何かやっている感を醸し出そうとして、何かを決断したように装いながらも、絶えずそこから論点や争点をずらそうとしているわけで、その決断した何かというのが、当初に決定した方針を何が起こっても変更しないという意思表示であり、しかもそんな意思表示などしていないとしらを切るわけだから、悪質極まりないのだろうが、そんな態度があからさまに見える勢力を支持している人々もそれと同類だと見なすしかないだろうし、何とかしてそうは見えないように誠実さを全面に押し出せるわけでもなく、その代わりに繰り出す見え透いたごまかしやまやかしが目立ってしまって、そんな状況をどう受け取ってみても肯定するわけには行かないだろうが、彼らがどんなに嘘で塗り固めてみても、その嘘がすぐにバレるような嘘なのだから、それとは対照的に実際に見えている現実の光景が真実を物語っていて、そんな光景を見た誰もが嘘をついている者たちの悪辣さを極められない中途半端なお粗末さを嫌というほど感知しているはずだが、それらの者たちが一方的に嘘をついているわけではなく、お粗末な嘘を見破っているつもりの者たちもそれなりに嘘をついているかというと、嘘をついている自覚がないといっても、それを否定するしかないだろうが、それに関してはもっともらしいことを想像を巡らせてまことしやかに言えるから、それが嘘だと言われても否定するしかないといっても、嘘だとは言われないし、否定せざるを得ない状況に陥るわけでもないだけに、普通に何の疑いも抱かずに本当のことを語っていると思い込むしかないわけだが、確かに本当のことを語っているはずで、それが実際に起こっていることについて述べているわけだから、都合の良い事実を自らの論理や理屈に合うようにサンプリングしてきてもっともらしく思われるように話を構成しているわけだから、確かに本当のことを語っているとしても、その一方で都合の悪い事実を伏せているわけではなく、隠さなくても構わないように自説の説得力を強化しているというと、そんなことはないと否定するしかないのだろうが、それ以前にそんなことを問いただされるわけでもないから、言うだけなら言いっぱなしになるだけなのだろうが、何にしても言うだけならいくらでも都合の悪そうな事例を持ってきて、それを批判する対象となる相手に定めて攻撃できるわけだから、そんな攻撃を繰り返している輩が述べていることを真に受ける必要もなければ、無視しても構わないわけで、それが言説以外の行動や行為に結びつくかといっても、言葉を用いて批判しやすいところだけ狙って批判を繰り返すような行為とは違う次元で実際に行われていることがあり、それをまた言葉を用いて批判するわけだから二つの行為がダイレクトに結びついているわけではないというと、では何なのかと問いただされるわけでもないが、少なくともカレーを食べたの何だのと枝葉末節な部分を突いて何か言っているふうを装う輩が紛い物の偽善者でもないのは誰もがわかっているはずだが、そんな部分的でどうでもいいところに人々の関心を向けさせようとしてわざと攻撃を仕掛けているつもりもなく、仕掛けている者たちはそれなりに本気なのだろうが、自身がそんな狭い視野しか持ち合わせていないことを世間にさらけ出しても平然としていられるわけだから、その程度の世間だとたかを括っている感覚もないのだろうし、その辺が理解し難いところというわけでもなく、それを理解した上でなおそれ以外に何が言えるかということにもならず、それだけで終わってしまうのが言葉を使ったやりとりの限界となるに伴って、そんなどうでもいい現象をもたらしている自然災害から何が言えるわけでもないが、何とかして多くの人々の関心を狭くて安易で情けなくて恥ずかしい部分へと向けさせて、そんな方面へと関心を向けている隙に、気づかれないように何か悪どいことをやろうとする魂胆があるかのように装っているわけでもないところも、その種の陰謀論からはかなりずれてくるところなのかも知れず、たとえそれが非常事態だとしても、非常事態の中でさえカレーを食ったからどうたらこうたら言う程度なのだから、非常事態の方がそんなことを述べている輩に馬鹿にされているというか、馬鹿にされる筋合いも馬鹿にしているつもりもないのに、結果的には非常事態を馬鹿にしているような感じになってしまうわけだから、直接自然災害に遭ってしまった人たちにとっては死傷したり家族や友人や財産を失ってしまって悲劇のただ中で絶望感に苛まれているはずなのだが、それを利用して善意の人助けに赴く者たちを左翼だ何だのと攻撃しているつもりの輩にとっては、自らが自作自演の茶番劇の主役にもなれない雑魚キャラの悪役程度の存在になってしまっている自覚もなく、そうやって現実を歪めて伝えようとしていること自体も、本気でやっている者たちは自主的に率先してやっているつもりになれるはずだが、それを外部から客観的に見ればやらされている感が半端ないように見えてしまうだけに、それを長い目で見ても災害に便乗して悪事を働く典型的な者たちだと理解されてしまうのではないか。


1月9日「無視すべき現状」

 このままでは〇〇が滅びるという殺し文句というか、それでは全く滅びないし、誰もそうは思わないから逆に滅びるのかも知れないが、大して魅力を感じなければ殺し文句でも何でもないと思えばいいのか、その辺はそれを受け止める人にもよるだろうが、受け止めずに受け流すようなことにでもなれば、そんなのは真に受けずに無視していれば済むことでしかなく、たとえそれが虚栄だろうと何だろうと衰退しているのではなく栄えていることには変わりなく、間違いなく多くの人々が今の虚栄でもある繁栄を謳歌しているのだろうが、それが各種の統計的なデータからは間違いなく衰退の兆しを見せていても、繁栄と共に衰退も同時進行中だと捉えるならしっくりくるのかも知れず、だからといってこのままでも構わないわけでもないはずだが、構わなくても情勢は刻一刻と変化し続けていて、結果的にはなるようになって行くのだとしても、なるようになって行く先にいったい何が待ち受けているのかといえば、それが国家の滅亡だと言いいたくなる人も大勢いるだろうが、あるいは国家ではなく人民の滅亡と言えば、アフリカ人の誰かの音楽の中にも出てくる歌詞の一節を思い出すわけでもなく、そんな中でも個々の人々は自身が囚われている成り行きに従いながら生きて行くしかなく、もちろんそれに逆らったところで、逆らうように仕向けられていることになるだろうから、それが何らかの傾向となるように何かによって外部から誘導されていると受け取ってみたところで、客観的に見ればそうなっていることには変わりなく、そうなっているからこそ未だに生き残っているのであり、しかもそうなっていなくても生き残っているかも知れないから、そんなのは迷信に違いないわけだが、迷信だからと言って信じてはいけないわけではなく、自らが信じられない成り行きに従っていることを確信できれば、それを逆説的に信じるしかないだろうが、たとえそれを信じたからといって救われるわけでもなければ、救われたいから信じているわけでもなく、気休めに過ぎないことを知りながらも信じているに過ぎないわけだが、そんな状態をどんなに言いくるめてみても、日本も含めた主要な各国の財政状態が国債頼みで火の車なのはわかりきったことだと思いたいわけだが、その一方で政府が財政出動するから経済成長が保たれると強弁してみても、それにも各国で状態には程度の差があるだろうから、一概に財政均衡を図ることが正しいとか間違っているとか言えないものの、実態としては財政赤字の拡大と共に財政均衡を唱えているわけで、一定の歯止めをかけながらも、その歯止めがなかなかかからないわけだから、掛け声倒れに終わっていることを認めたがらないのも今に始まったことではなく、そんなぎりぎりの綱渡り状態を演出しながら何をやっているのかといえば、一方では予算の無駄遣いを指摘されながらも、必要な方面へと予算が回って行かない悪循環が続いているというと、それも今に始まったことではなく、もう何十年も前からそんな事態が慢性化しているわけで、だからどうしたと言いたいわけでもないのも今さら指摘されるまでもなく、実際には何だかわからない状態が今後も延々と続いていくしかなく、この先のどこかのタイミングで財政破綻が明らかとなってから、ようやく重い腰を上げて何とかするふりをして見せるかもしれないものの、そうなってみないことにはわからないから、現時点でそれをどうこう言ってみても馬耳東風な雰囲気が醸し出されて、その一方で財政均衡論者や緊縮財政論者と見なされて誰かが叩かれている現状もあり、そんなわけでその種の理屈が通用しない現状もあるらしいから、今はそれをいくら蒸し返しても無駄だと思っておくしかなく、今はまだその機会ではないとは思っておいても差し支えないが、おかしなことを現状の中で主張している人々がいなくなるまで待つしかないと思うなら、果たしてこの先にそれらの人たちが退場する機会が巡ってくるかといっても、何かその予兆を感じとっているわけでもないが、今さら政府による財政出動からもたらされる経済成長こそが幻想に過ぎないとちゃぶ台返しのような主張を唱えるわけにも行かないから、そうなればなったで、それはそれとして肯定的に受け止めておくしかないだろうし、実際に各国の中央銀行が政府が発行する国債を買い取ることによって金融緩和を演出する時期や場面もあるから、それが行き過ぎてインフレになればなったで、今度は中央銀行が政府の国債をあまり買い取らずに金融引き締めをやって、インフレを抑制するような政策もやっている現状もあるだろうから、そういう面ではアメリカでも欧州でもまだ中央銀行の金融政策が機能しているのだろうが、日本では国債を買い取り過ぎて金融緩和をやり過ぎたから機能していないと言われていて、現状では機能を取り戻すべく、とりあえずマイナス金利を解消しようとしているものの、そのタイミングを逃しかかっているような危ない局面になっているのかも知れないが、部外者にとってはそんなことなどどうでもよく、それよりは積極財政と緊縮財政の対立軸から自分たちの論理や理屈にとって都合の良い事態を持ち出して、そうなった時点での自分たちの主張がもっともらしくも説得力があって納得がいくような条件を基にして主張を構成したいのだろうが、そうなればそれなりに効果を上げられるような成り行きにもなってくるとしても、果たして今後そんな成り行きに持って行けるかというと、それも現時点では今ひとつよくわからないような気もするが、そうなるように事態を都合良く持って行くには、まずは政権を取らないと話にならないから、そういうところでまだ机上の空論の域を出ない話でしかなく、それを信用しろと言われてもなかなか信じられない要因や理由もいくらでもありそうに思われるから、その種の話となると何やら眉唾な気もしてしまうわけだが、それ以前に無視できない現状があり、どちらかというとそちらの方が実際に行われていることだからリアリティを感じられて、そんな現状の中では、政府は国内外の景気状況に応じて、それなりに財政出動して景気刺激策もやって、財源を得るために国債を発行しているのだとしても、その国債を中央銀行が買い支えることもあるだろうが、景気が加熱して物価が上がってインフレとなれば、中央銀行が金利を上げたり国債を買うのやめたりしながら、インフレの抑制策を講じるだろうから、それもやり過ぎない程度でやっている限りで財政の均衡が保たれる結果へと落ち着くのだろうから、ことさらに一方向へと振り切れるような成り行きは避けなければならない程度に収めなければならないことなのではないか。


1月8日「法治国家の破綻」

 わざとそうなっているというわけでもないが、結果的にそうなってしまうのだからわざとではないにしても、そうなるがままに放置してしまうと、少なくともそうはならないようにしているわけでもないから、わざとそうならないようにしなければならないとも言えないが、結果的にそうなってしまったからには、そうなっている状態の中で居直っていたいわけでもないだろうが、それに対する無難な解釈を示すなら、そうならざるを得ないという表現を使うしかないが、現実にそうなっているのだから、それに対して何か言わないと気が済まない人もいくらでも出てくるにしても、あえて何も言わないに越したことはないわけではなく、さっさと文句を言って溜飲を下げるに越したことはないと思っていれば済むことかも知れないし、また文句を一通り言えば気が済むわけでもなければ、それを行動の動機にすれば何となく格好がつくような気もするわけだが、格好がついたからといって中身が伴わなければ気が済まないだろうから、行動した結果としての成果が期待されてしまうのだが、だからといってそんなことまでやる必要があるのかどうか疑わしいなら、やらなければいいわけではなく、それもやらざるを得ないのだから、やらざるを得ないことが優先されてしまうのも仕方のないことだが、そうやってなし崩し的にそんなことがやられてきた背景がありそうだと推測してみたところで、だからといってそれが今まで通りに放置されてしまったままだとまずいから、この辺で悪習をいったんリセットしておく必要があるのだろうが、リセットしたからといって、リセットされた当事者たちが黙って引き下がるわけでもないだろうし、また新たな悪習を常態化させて、これまで通りに慣習による支配を存続させようとするのだとしても、それを普通に改めようとするのなら、慣習による支配よりは、法律や法律に基づいて運用される制度による支配へと移行したいわけだが、果たしてそれが法治主義なのかというと、それさえも少し違うような気がするのだが、そうなると慣習主義でも法治主義でもなく、主義というよりは実践として何ができるかということになるわけだが、信じていることを実践するよりは実際に行われていることを重視しても、それが慣習や法律や制度に従って行われていること以外に何ができるかというと、それ以外に何も行われていないわけではないが、それが大して重要だとは思えないのかも知れず、もちろん重要だと思われることだけで人や集団の活動が成り立っているわけでもなく、様々な傾向や程度を伴いながら活動しているわけだが、そんな活動の実態が違法行為を伴っているようだとまずいのだろうが、まずいとしてもバレなければ構わないと思っているのがバレてしまうと、違法であることを知りながらそれが常態化していたことになるのだから、悪質なことをやっていたことになるのだろうし、そういうことをやっている連中が支配している国がならず者国家だと言えるだろうが、どの国でも大なり小なり程度の差こそあれ、そんなことをやっている連中が国の支配層を構成している実態もあるのかも知れないが、それがバレても取り締まれないとなると、法治国家とは言えなくなってしまうから、とりあえず日本ではそれがバレてしまったのだから、というよりはバラしておいて取り締まらないとまずいような空気を醸し出しているのだろうし、実際に取り締まられて逮捕者も出てひと安心とまでは行かないまでも、行政機構としては法治国家の体をなしているように装いたいものだから、形だけでも法律や司法が機能しているように見せかけたいだろうから、それなりに世間を味方につけられる程度の成果を出したいだろうが、その成果というのが現状維持となると落胆してしまうわけだが、そうなればホッとひと安心したい人も大勢いるのかも知れないし、それも今後の世論の動向次第な面もありそうだが、現状維持だとまずいと思うなら、それが現状を変える行動に結びつけばいいわけで、そんな行動を促されているのがどんな人たちなのかと言えば、意外とそれが政治家などではなく、一般の市民が行動を促されているのを多くの人々が無視するなら、それが現状維持に結びついてしまうわけだから、現状維持を画策している勢力としては、そうなるようにするためにはメディア戦略を重視したいだろうし、何かというと安易で浅はかな人々をターゲットにして、それらの人々を取り込むために現状の変化をもたらそうとする人たちの足を引っ張るようなことを仕掛けるわけだが、その仕掛けというのがお粗末極まりないというと、お粗末極まりないからこそ、安易で浅はかな人々からの支持や賛同を取り付けられるわけで、そんな成り行きを考慮に入れるとすれば、今後も現状の体制が維持されるなら、それだけ世の中には安易で浅はかな人々が多く、そんな人々の天下が続く限り現状が維持されて、果たしてそうなっているから日本が衰退するのかというと、どうもそうでもないような気もしてくるから、何か気づいていないことがありそうにも思われるのだが、安易にそういう成り行きと日本の衰退を結びつけるのはちょっと違っているのかも知れず、それ以前に現状が維持されているわけでも日本が衰退しているわけでもなく、それが良い方向へと変化していると思う人はほとんどいないかも知れないが、人々の思い通りに世の中が変化するはずもなく、絶えず思いを裏切ってその裏をかくような変化が待ち受けているというと穿った見方をし過ぎだが、そうならない限りは真の意味で世の中が変化したことにならないなら、これから思いがけないことが起こるのを期待するしかないが、期待してもその期待が裏切られるようなことが起これば期待通りだと思われるわけでもないから、そういう意味でも期待通りの変化など期待するまでもないことであり、それでも現状の体制がこのまま維持されるとまずいと思うのが良心的な多くの人々の間での共通認識となりつつあると思っておくのが無難な現状認識には違いないにしても、果たしてこれから日本が真のならず者国家へと脱皮するのかというと、誰もそうは思わないだろうが、そのそうは思わないということが、ではどう思っているのかという問いに答えられるだけの材料が出尽くしているわけでもないところが、この先もどうなるわけでもないとたかを括っておいてから、そんな思いが裏切られるのを待つしかないのかも知れない。


1月7日「厄介事の種類」

 目の前の厄介事を何とかしなければならないのと、他人の厄介事に関してああだこうだ言うのは、だいぶ違うことかも知れないが、何が違うのかをわかっていない人が他人がやっていることに対して言いたい放題文句を言っているに過ぎないとしても、それが言いたい放題言われている人にとっての厄介事かどうかは知らないが、そうやってそれ自体が絶えず言いたい放題言われている相手に反撃の機会を与え続けていることにも気づかないまま、実際に思わぬところから見知らぬ相手からも反撃を喰らって、誰が相手かもわからないまま途方に暮れてしまうわけでもなく、少なくとも自身が攻撃の対象になっているわけではなく、見ず知らずの他人同士で攻撃の応酬が続いている光景を傍観するばかりとなっているわけでもないだろうが、他人の厄介事をまるで自分のことのように思っているわけでもないのだから、それがメディアで話題となっているから文句を言いたいことの対象となってしまうのだとしても、何かそうではないような気がしてしまうのは気のせいではなく、それが世間で共有している話題だから、共有している限りでそれに関して言及しても構わない状況となっているのだろうが、そんな話題とは関係のないところで自分が関わっている厄介事を何とかしなければならないわけだから、見ず知らずの他人の厄介事などにかまっている余裕などないわけで、それでも世の中には他人の厄介事に言及しなければならない立場というのもあるらしいというか、勝手にそんな立場をメディア上に設定した上で文句を言っている人たちまでいるわけだから、そんな人たちには文句を言わせておけばいいに決まっているだろうが、なぜ自分がそういう成り行きから離脱したいのかわけがわからないのは、何か取り立てて理由があるわけでもなく、文句など言っている場合ではないほど深刻な苦境に陥っているわけでもないのだが、文句を言っても構わないのになぜそれをやろうとしないのか、その理由が文句を言っても無駄だと思っているからではなく、なぜか文句を言われている人や勢力に同情しているわけでもなく、それどころか文句を言われるのは当然で自業自得だとも思っていて、だからと言って自分までが誰かの尻馬に乗って文句を言わなければならないでもないから、取り立てて文句を言っているわけでもないように装いながらも、しかも文句を言わずに何を書き記しているのかといえば、内容によっては文句を書き記していることにもなりかねないが、それ自体が自分にとっての厄介事となってしまっているのかも知れず、その辺が微妙に矛盾しているが、では文句でなければ何なのかと問われてもよくわからず、わからないからといって困惑しているわけでもないし、それが困惑するような事態にはなっていないところが、それなりに余裕があるらしいことの証しとなっていれば都合が良いわけだが、少なくとも厄介事となっていれば都合が悪いはずで、厄介事を抱え込むことが自分にとって都合が良いなら、他人の厄介事を解決するのが仕事の職業に就いている場合だが、そんな職業に就いているわけでもないのだから、これ以上厄介事を抱え込むのは困るしできれば避けたいはずだが、それでも否応なく抱え込んでしまうような成り行きに囚われているならあきらめるしかなく、しかも抱え込んでいる全てが解決困難な厄介事でもなければ、自力で解決できることについては順次解決して行けばいいだけのことであるから、今も解決に向けて努力している最中なのだろうが、中には自分でも気づかないうちに自然と解決しているわけではなく、厄介事だと思っていたのが、なぜか試練を乗り越えて幸運を掴み取るチャンスとなっていたりすると、困難に立ち向かうのにも俄然やる気が出るだろうが、そんな都合の良い話もそうはないだろうし、あっても稀にしかなさそうにも思われるが、今がそうなのかというと、誰にとってもそうとは言えないが、何かのチャンスが巡ってきていることは確からしく、そんなチャンスを物にするためにも果敢に目の前の課題に挑戦している最中の人もいくらでもいそうだが、たぶんそういう一般論ではなく、現状でも世間で話題となっている出来事への対応について文句を言いたい人が大勢群がっている問題があって、それについて何か文句を書き記さなければならない事態に陥っているのかというと、逆にそれをスルーして別に話題にもなっていないことに言及したいわけでもないのだが、わざとそこからずれたことを述べたいわけでもないのだが、どういうわけか避けようとして避けられないような話題があるから、それについて書き記している最中なのかも知れないが、それがうまく表現できない代わりに、それとは関係のない方面へとどんどん内容がずれて行ってしまうから、やはりそれ自体が厄介な現象なのかも知れず、なぜそうなってしまうのかよくわからないわけだが、そうなりながらもわかってきたこともあって、そのわかってきたことについて書き記そうと思うのに、それも書き記しているうちにどんどんそこから外れて行ってしまう現象に悩まされているというと、実はそんなに悩んではおらず、書き記したい内容からずれても外れても構わないようにも思われてくるから、そう思うのが自然な成り行きだとも思うしかなく、わかってきたことを書き記すのではなく、未だにわかっていないことについて書き記した方がいいのではないかと思っているわけでもないのだが、それもなぜか自然とそうなってしまうから、そんな成り行きも厄介事に含まれているような気もしてくるから、わかってきたのにそれを書き記せないもどかしさと共に、まだ試行錯誤な状況を脱し切れていないことの証しなのかも知れないが、それとは別にコロナパンデミックが始まる数年前に書き記した内容を改めて書き直している最中でもあるから、しかもそれに行き詰まって数ヶ月間放置されている状態も長引いていて、それも厄介事には違いないが、何かの拍子に俄然やる気になって書き直し作業もはかどるかも知れないから、今はそれとは別の厄介事の解決を目指しているわけだが、解決できずにそれも途中で放棄されてしまうかも知れないし、他人にとってはそんなのは何でもないことに過ぎないかも知れないが、自分にとっては相変わらず厄介事に他ならず、それも長年にわたって解決できない問題となっているわけでもないのだが、最近は自然に雲散霧消しかかっているような気もするのだが、忘れた頃にぶり返してくるほど大げさに事態を捉えているわけでもないところが、何でもないことではないとしても、それとは少し違うニュアンスを含んでいると捉えるのが、感触としては妥当なのかも知れない。


1月6日「堂々巡りと螺旋的な歩み」

 今のままでも構わないと思うのは、今のままでも何とかなっているからだが、それと共に今の状態から抜け出してもっと良い状態へ至りたいと思うのも当然のことであるから、誰もがそう思っているのなら、現状でも構わないとは思わないはずだが、半分はあきらめかけていて、どうしようもなくこうなってしまっていることを自覚しているから、一方では現状のままでも仕方ないと思いながら、もう一方ではこんなどうしようもない現状からはおさらばしてもっとより良い状態へと至りたいわけだが、そんなわけで現状のまま生きて行くのに最適なやり方を模索する一方で、機会を捉えてこんなどうしようもない現状から抜け出す方法も模索しているわけで、両睨みの状態になっているから二兎を追う者は一兎も得ずな結果に終わってしまうかも知れないが、そうなることを承知でこうならざるを得ないから、こんなどうしようもない現状をもたらしているとしても、こんな状態から抜け出すきっかけを掴めずにいるのも、自身を取り巻く情勢次第だと思うのも気休めに過ぎないのだから、現状をどう捉えてみても実際に現状から抜け出そうとする行動が伴わない限りは、そんな思いが募ってくるばかりとなってしまい、思いが募れば自然と行動も伴ってくると状況を都合の良いように捉えて、実際に現状でもそれなりに行動している最中であることもわかりきっているはずだが、なぜかここにきて機会を捉えたと思ってしまうと勘違いもいい加減にしてもらいたいような面倒で意味不明な成り行きが待ち受けているから、何か出鼻をくじかれたような気にもなって、それでも構わずわけのわからない紆余曲折の挙句に思いがけない展開が待ち受けているとも限らないから、希望を捨てていないわけだが、それが何の希望なのかもわからないから、そうなってみないことにはどんな結果が待ち受けているかも知ったことではないような気分で行動せざるを得ないのかも知れず、それさえも結果的には勘違いとなってしまうのかも知れないが、思うだけなら何とでも思われてしまうから、それと比較すれば大した行動とはならないような気もしてきて、結果的にも大したことにはならないだろうが、個人で勝手に行動している限りはたかが知れていて、それもどんな行動になっているかにもよるだろうが、これまで通りとはならないように心がけているわけでもないにしても、自然と周囲の状況や自身が抱え込んでいる事情やこれまでに至った経緯に少なからず影響を受けてしまうから、そんな連続性を引きずりながらも、果たして今後突然の非連続的な契機が生じてくるかどうかも、予測不可能なことだから何とも言えないにしても、その一方で自分以外の方面へと目を向けて、世の中の政治的あるいは経済的な現状を否定的かつ批判的に捉えることは比較的容易にできそうだが、逆にそれらを肯定的かつ好意的に捉えるとなると、何やら怪しい方面からおかしなバイアスがかかっているのではないかと疑われそうで、それに関しては例えば数日前に起こって今も余震が続いている地震の被害を大したことはないように見せかけようとして、なるべく騒ぎを抑えて報道するように圧力がかかっているわけでもないだろうから、現地の悲惨な状況を伝えるだけでなく、そんな中でも人助けのような心温まる光景をなるべく伝えて悲観的な気分に傾くのを食い止めようとしている意図はそれほどないだろうが、それと同じように政治や経済の現状の中でも肯定的かつ好意的に受け止められるような面があるかというと、経済が産業から金融へと軸足が移って行くのは、成り行きとしては自然な流れであるから、貿易収支よりは経常収支の方が黒字となっている現状もそれほどおかしなことではなく、産業の拠点が国内から海外へと出て行く流れを食い止めようとして、産業育成を目指すのにも無理がありそうだが、そうした産業の空洞化の責任を政治や行政に押しつけるのも無理な話には違いないが、逆にこれまでとは違う方面で人々が活躍の機会を得ようとするのを阻止するようなことをやってしまうと、現状の否定的な面が露わになってくるというと、具体的に何がそうなのかと問われても、これまで通りの産業を保護しようとしてきたことが、かえって社会の構造が変わって行く傾向と合わなかったのかも知れないし、未だに産業の衰退を受け入れようとはせずに、無駄な悪あがきの最中であることも、結果的には政治的な勘違いの原因となっているのだろうが、そういう流れを政治や行政の力で食い止めようとしても限界があるから、経済政策の失敗をことさらに非難したくないわけだが、たぶん失敗した方が良かったと思っておいた方がよく、もちろんそれを失敗だとは認めたがらないのも当然のことだが、そんな中でも一部の産業は生き残るだろうし、実際にも国内でそれなりに多くの産業が生き残っているわけだが、それと同時に海外に活路を見出している産業もいくらでもあるから、そんな現状が政治や行政の状況だけから説明できるわけでもなく、個々の企業の生き残り戦略が功を奏していると見ておいた方がいいのだろうが、それでも人々が現状に不満を抱いているとすれば、政治や行政の方面で変革を期待するなら政権交代を目指せばいいだろうから、政権交代の受け皿がないとかたわごとを言う人は信用できないにしても、ただ単に選挙で野党の候補者や政党に投票すればいいに過ぎないことでしかなく、政権交代を阻止したいがためにたわごとを言っている人は放っておいて、別に阻止されたところでそれなりに対応するしかなく、どちらにしても何が大して変わるわけでもないとは思えないし、政権交代すれば現状の政治腐敗が少しは改善すると思いたいわけだが、だからといってその後に期待外れに終わるのも予想がつくところなだけに、それほど期待に胸ときめかせて政権交代を望んでいるとは言えない状況の中で、何が何でも変わってほしいところがあるともいえないところが、期待がいつの間にか忘却に変わる程度が望ましく、たとえ期待外れに終わったところで痛くも痒くもないから、さっさと政権交代して気分を一新させてほしいのだが、自分がそれを望んでも他の多くの人々がそうなることを目指して行動に出なければ何も変わりようがないだけに、今のところはそういった方面の変革もその程度のことに過ぎないとたかを括るしかないわけだ。


1月5日「予見の不確かさ」

 これまでの経緯に対する一応の感想としては、そんなはずがないとは思うが、何がそうなのかといえば、こうなることが予見できたと思うなら、それはこうなった結果からそう思われることであり、これとは別の結果が出たとしても、やはりこうなることは予見できたと思いたいわけで、結局どうなったとしても、こうなることは予見できたと思いたいわけだから、仮にこうなることが予見できなかったとしても、いったん結果が出てしまった後からは、やはりこうなることは予見できたと思いたいわけだから、何かを予見できると思ってしまうことが、いかにいい加減な思い込みに基づいているかが、薄々勘づいているとしても、こうなった結果からそう思われてしまうのだから、予見の不確かさを考慮に入れておかないと、起こったことに対してそれを謙虚に受け止められなくなってしまうのかも知れないが、それに関してもっともらしいことを言っている人の意見を聞いてみると、言っていることのことごとくがもっともらしくて納得できるようなことを述べているのに、なぜかそう思われるからこそ今ひとつ信用できないという逆説的な思いが募ってきて、言っている内容の辻褄が合っているどころか、妙に辻褄が合い過ぎているから逆に疑念が湧いてくるというおかしな感覚に囚われてしまうのだが、正しいことを述べているに違いないのだが、その正しさが信用できないならではどう述べれば信用できるのか、その辺がよくわからないのだが、そうとは言えない面が言っている内容から窺い知れないと信用できないとなれば、一方的に正しいのではなく、誤っている可能性もあるようなグレーゾーン的な領域で語っている内容が信用に値するわけでもないのだが、それでも妙に辻褄が合い過ぎている言説よりは幾分マシに思われてしまうわけだから、そんな内容ならそれほど信用することはできないが、ちょっとだけ信用できる程度の内容の方がなぜかしっくりくるわけで、そういうところが話の辻褄が合い過ぎることを語って、他人を納得させて信用や信頼を得ようとする気満々なことを主張する人が陥りがちな錯覚なのかも知れず、それは錯覚ではなく確信に違いないのだが、そういうことを語っている当人にとっては確かに確信に値することを語っている気でいるのだろうが、それを直接聴いたり書かれている内容を読んだりする側にとっては、何か違和感が伴ってくるから、逆に違うような気がしてくるわけで、その違いをどう説明したらいいのかよくわからないのだが、うまく説明できないから下手な説明になってしまい、結果的に信用に値しない内容となってしまうかも知れないが、それでも構わないわけで、何かが起こった後からもっともらしくて話の辻褄が合うことを主張して他人を納得させようとするよりは、実際に納得し難いことが起こっていることを感じ取る必要があると思うのだが、間違ったことをやったのがまずかったというよりは、間違うしかないような成り行きに囚われてしまっていることを感じ取っているから、そんな成り行きに囚われながらも間違っていることをやらざるを得ない勢力を支持するか、さもなければ無関心を装うことしかできないのが、大多数の人々が陥っている心理状態なのかも知れないが、そんな人々に向かっていくらもっともらしいことを述べて支持や賛同を募っても無駄なのかも知れず、今は彼らの自業自得な惨状を放っておくしかないとしても、彼らのさらなる自滅な成り行きに寄り添いながらも、そんな人々がどんどん自滅して行くのとは反比例して上昇する成り行きに囚われなければならないと言ってみたところで、果たしてそんな成り行きがどこで生じているのかといえば、それが今ここで生じている成り行きであり、すでに自滅してしまった人々の屍を無情にも踏み越えて前進しつつある成り行きを形成しているはずだが、そんな人々がやっていることが積立NISAの類いだとしたら笑ってしまうだろうが、それに類することかどうかは定かではないが、昔は中国ファンドとかいうちょっと紛らわしい名称の金融商品が盛んに宣伝されていた記憶があるのだが、ちょっと調べてみると正式名称が中期国債ファンドとかいう投資信託の類いなのだが、バブル全盛時に金余りの富裕層あたりが購入していたのだろうが、昔はそんなブームで誰が盛り上がっていたのか記憶が定かではないが、そういった資本主義経済の上積み的な部分で優雅に活動していれば、それとは真逆の下積み的な部分で押し合いへし合いしながらもがき苦しんでいる人々のことなど気にする必要などないかも知れないが、上積み的な部分でも競争が激化すれば、そこから振るい落とされていつ下層的な部分へと墜落してしまうとも限らず、そうなって真の地獄を味わってから、そんな構造がいつの間にか構築されてしまっていることに気づいて愕然するかどうかもよくわからないところではあるにしても、何かそれが正気の沙汰でないような気がしてくるなら、それに関してもっともらしく納得できるような説明をしている者の感覚が何かおかしいと思うかも知れず、正しいことをやっていれば防げたようなことではなく、間違ったことをやったからそうなったわけでもなく、間違うしかないような成り行きに囚われながらもそうならざるを得なかった現実がある限りは、そうなってしまった後からそんなことをやってきた勢力やそれを代表するような人物を批判してみても、やはり何か違うような気がするわけで、そうなってしまうことがいくらその途中で予見できたとしても、その際にいくらそうなることを阻止しようと行動して、逆にそんな行動を主導権を握っている側から弾圧されたとしても、そんなことの積み重ねによってそうなってしまったわけだから、今さらそれが間違っていたことが明らかになったところで、やはりその際に弾圧された側にはそら見たことかとしか言えないにしても、その際には実際に阻止できなかったわけだから、どの面下げて物を言っているのかと言われることもないだろうが、やはりそれは今でも負け犬の遠吠えにしかならないだろうし、そういう人にはそれを批判する権利も当然あるのだとしても、そんな人の主張内容がどんなにもっともらしくて正鵠を得ているとしても、その一方でなぜか未だに間違ったことを延々と言い続けている人の方が気力が漲っているように見えるとしたら、まだ終わっていない証拠となるかどうかも疑わしいとしても、それが現実の状況を物語っているように感じられてしまうわけだ。


1月4日「排除の論理に内在する欠陥」

 自主的に現状で行われていることを批判しているつもりであっても、何かやらされている感が気になるなら、何によってそう仕向けられているのかを知る必要がありそうだが、それが誰にも知り得ないことではなく、逆に誰もが知っていることだからこそ、知っている通りにはならないように振る舞いたいのだろうが、否応なくそうならざるを得ないような成り行きにハマってしまうと、前車の轍にハマってそのまま行き先を固定されてしまうような無力感を味わう羽目に陥ってしまいそうだが、やはりそうならないようにするにはどうすればいいのかと事前に策を弄する余裕などなく、行き当たりばったりにその場でアドリブの演技をやらざるを得ない事態に直面してしまうから、それが演技だと見破られてしまうとまずいが、果たしてそれを見破るような相手に遭遇するのかといっても、相手などどこにも見当たらなければ、目の前の壁に向かって独り言を呟いているに過ぎず、それ自体が何の意味も効果もわからない行為になってしまいそうだが、なぜかそれを批判せざるを得ない状況に追い込まれる前に、やるべきことがありそうに思われるなら、それが批判より優先されなければならないだろうから、他から批判されないようなことをやらなければならないわけではなく、逆に他から批判を誘発するようなことをわざとやるような戦略な振る舞いが必要となってくるのかも知れず、それが結果的に競争相手が批判に専念して他には何もやれないように仕向けられるなら、自分たちが競争相手ができないことをやる機会を得られて、うまくいけばそれをやる立場を独占できて、そうやって他の競争相手をそこから排除することができるかも知れないが、そううまく事が運ぶかというと、それも逆に競争相手がいるからこそできるような行為をやる成り行きに持って行かなければならないとしたら、独占的な立場を占有してやりたい放題やってしまいたい者たちにはそれがわかっていないというと、それもわかっているからこそ、それをやらないように仕向けられてしまうと現状を解釈するなら、なおのこと意味不明となってしまいそうだが、少なくとも競争相手を打ち負かすために競争しているのではなく、競争状態を維持するために競争しているわけでもないだろうが、結果的には競争状態が維持されないと市場が停滞してしまうわけで、恒常的に成り立つ静的な論理ではなく、絶えず動的な過渡状態の中で活動していることを考慮に入れないと、現状の解釈を誤ってしまうのだろうが、誤った解釈から導き出される結論の方がもっともらしく思われるわけだから、そちらの方を選んで恒常的に成り立っていると見なされる静的な論理が確立されてしまうのだろうし、だからいつも誤った論理が信仰の対象として世の中に広まってしまい、それを正しい論理であるように言いくるめるための言説的な技術も求められてしまうのだろうから、何かその辺で頭の中がこんがらがってしまうのだが、だからといって物事を単純化してしまえば、後に残るのがどうということはないつまらない目的になってしまって、そんな目的のために手段を選ばないようなことをやってしまっても構わないのかというと、それがイスラエル当局がやっていることと重なるかどうかもはっきりとは言えないものの、そうならないように振る舞える余裕があれば途中の紆余曲折の中に留まっていられるのだろうが、やはりそうなると焦ったくなってしまうだろうから、何事も結論に向かって直線的に突き進んでしまいがちになるのも無理はないのだが、それが静的な定常状態を目指す試みとなってしまうと、そうなった時点で目的が見失われるわけでもないとしても、そこに至る途中で打ち捨ててしまったものの中に未来への可能性があったことを後から知って後悔するわけでもないから、そうなってしまった者たちにはわかりようのないことになってしまうだろうが、果たして誰もがそこまで至れるかというと、まだ誰も辿り着いていない地点に目的として探し求めていた宝が隠されているとも限らないから、だから目的こそが幻想だと見なしてしまうと身も蓋もなく、旅の途中で目的を明かさないことが暗黙のルールとなっているわけでもないはずだが、本当は目的そのものがはっきりせず、本当の目的など明かしようがないのかも知れないし、ただ人は生まれてから死へと向かって歩んでいるに過ぎないから、死ぬことが目的だとは口が裂けても言えないにしても、何かのついでに機会をとらえて明かされる途中の目的というのが、たぶん間違っているわけで、もちろん目的を自覚しているのにそれが間違っているとは断言するわけにはいかない事情もあるから、その時点では目的から導き出される目標に向かっているつもりにならないと、生きている意味がわからなくなってしまうから、嘘も方便だとも思えないにしても、そういう意味でも安易に排除の論理を優先させて早く目標の地点に辿り着こうとしても、その途中で別の目的が生じてきてそれを優先させるような成り行きに囚われて、結果的にはどう考えても誤った論理に固執していることに気づけなくなってしまうのだろうが、逆にその種の排除の論理から本来の目的が透けて見えてくる場合もあるわけで、排除の論理を使って独占的な立場を築き上げた勢力が何をやっているのかといえば、内輪で生じてくるたわいない揉め事にかかりきりとなっている現状があり、そんな内紛劇を見るにつけ、そんなことをやっている場合ではないことを現状で顕になっている惨状が示していて、それを見せつけるために立て続けに様々な惨事が起こっているわけでもなく、それらの惨事に対処することが本来の目的ではあり得ないとしても、それも何かのついでに対処すべきどころか全力で対処しなければならないことになるだろうが、すでに独占的な立場を築き上げているわけだから、他でどんな惨事が起こっていようが安泰でいられるわけだから、惨事に対する反応も鈍く、中途半端な対応しか取れないし、今後やらなければならない復興作業にも身が入らず、いつまで経っても惨状から抜け出すことなどできないだろうが、それでも構わないのかというと、独占的な立場の上にあぐらをかいている限りは他者の痛みなど気にする必要もないわけで、そんな態度や対応を見て腹が立つなら、現状で抱いている固定観念や先入観や偏見をさっさと捨てて、惨状から抜け出すことを新たな目的に設定する必要が出てくるのかも知れない。


1月3日「無関心と戦う」

 運が良いのか悪いのかは今のところは運が良いらしいが、自然災害や事故とは無縁の生活を送っているつもりで、何だかそれらの出来事からは蚊帳の外にいるような気分が勘違いで、本当は蚊帳の内側で惰眠を貪っているに過ぎず、いずれ自分にも事故や災害に遭う順番が回ってくるのかも知れないが、たとえそうなっても生き残っていれば、その後の世界情勢を知ることができるかも知れないが、知ったところで個人の力では何をどうするわけにも行かず、相変わらず蚊帳の外で事の成り行きを傍観するしかないかも知れないが、ただ傍観しているだけではなく、何かしらそこへと介入している気になって、それが直接の介入ではないとしても、間接的に言葉を弄することによってちょっとだけ介入している気分になりたいのかも知れず、要するにそれについて言及したいのだろうが、言及したからといって、そこからどんな事態が待ち受けているわけでもなければ、傍観者の立場から一歩も外へと踏み出してはいないわけだが、何かしら事態が変化する兆しを感じ取っているなら、その変化について語る必要がありそうだが、少なくともこれまで通りの世界秩序になっているわけではなく、それが秩序と言えるかどうかも定かでない水準で、かろうじて保っている秩序を揺るがす事件や出来事が頻発しているのはこれまで通りかも知れないが、それがこれまで通りとはいえないような兆しが感じられるなら、どんな兆しなのか説明する必要がありそうだが、それもAIだとかロボットだとかの産業技術の進展でしかないならこれまで通りの延長上で起こっているに過ぎないことだが、そうではないとすれば何なのかというと、これまでとは明らかに違う傾向になるはずだが、それが事態を傍観していないで戦う意思を示す者が目立ってきたということなら、いったい何と戦うのかといえば、政府や政権政党とであれば、今までの延長上でやってきたことになるだろうが、そうではないとすれば、例えば資本主義経済と戦うとなると、何やら社会主義者のような古くさい者たちが復活してきたことになるだろうが、本当にそうなのかというと俄かには信じ難いが、そうなのではなく新たなこれまでにはない戦士たちが現れたことになるなら、彼らを何と表現すればしっくりくるのかというと、たぶん当人たちは戦っている自覚がないのであり、また戦わずして勝とうとしている自覚もなく、何と戦っている自覚も持ち合わせておらず、ただ淡々と日々の暮らしの中で自身のやるべきことさえわからず、怠惰な日常に埋もれているだけではないはずだが、それで戦っていることになるのかといえば、当人たちが意識するしないに関わらず、日々の日常の中で絶えず何かと戦っていることになるかも知れず、その何かというのが、例えば他人の無関心と戦っているというと、それで戦っていることになるのかと疑問に思うかも知れないが、戦っている気はなくても、絶えず見ず知らずの他人が自分の存在を気づいてほしいわけで、自分を気にかけてほしいから何かしらアピールしていて、アピールしているのだから、その対象となる他人と何かを巡って競っていることになるだろうが、競っているというよりは戦っている自覚にまでは至っておらず、ただ必死にではなくてもちょっとだけではあっても何かアピールしたいことがあるのだから、それだけ他人との違いを強調したいわけだが、その一方で他人と同じ価値観を共有する範囲内で強調したいわけだから、アピール合戦という傾向に導かれていて、それが他人との直接の戦いというよりはただ単に他人より目立ちたいと思っているわけではないとしても、他人と同じカテゴリーに入る中で他人との違いを強調したいという面倒なアピールになるわけで、それがややこしくもどうということはない範囲内での競い合いを実現しているわけで、そこが微妙な戦いであることを巧妙に隠蔽したい意図を醸し出しているとしても、当人にはその自覚がないわけだから、少なくとも戦っているわけではないはずだが、結果的にはアピール合戦という戦いを構成しているわけで、そんなアピール合戦に挑むには何が必要かといえば、自分の持っているものを見せびらかす必要があり、金に物を言わせて他人に見せびらかすアイテムを集めたり、集めたそれらを各自が思い思いに趣向を凝らして加工を施して、他人の持っている同じカテゴリーに属するそれよりも良く見せたいわけだが、それが自身の私的な空間の中での趣味趣向の範囲内であればそれなりに人畜無害ではないにしても許される範囲内には留まっていることになるはずだが、そこから逸脱して公共の空間で自身の趣味趣向をひけらかすとなると、そこに他人の意思や意向も影響を及ぼそうとして、自ずから競い合いがエスカレートしてくるにしても、あくまでも趣味趣向の範囲内でやっている限りで、たわいないアピール合戦をやっているに過ぎないのだろうが、さらにそこから政治的なアピール合戦になってくると、個人の趣味趣向からも逸脱してきて、公共の立場を踏まえる必要も生じてくると、競い合いとは違う何かを他人と共有しなければならなくなると共に、それがコンセンサス程度の申し合わせなら許容の範囲内で済むはずだが、他人と意見を共有できないことについてどうやって決定しなければならないかというところで問題となってくるのが多数決の論理であり、多数決によって何を決定するのかというと、他人とのアピール合戦で勝った者を負けた者たちが一致団結して叩くということを決定する成り行きではないはずだが、少なくともそこで表面的に見えてくる成り行きというのが、アピール合戦の中でより多くの人々から支持や賛同を得られた者の意見が皆の総意として決定されるはずなのだが、だからといってそれが優れた意見や主張とは限らず、逆に優れた意見や主張を無視して、場合によってはそれらをつぶすために、月並みで平凡な毒にも薬にもならない意見や主張に多くの人々が支持を表明したり賛同するような場合がほとんどであるなら、少なくとも現状の改革よりは維持をもたらしたいわけだが、さらに悪いことには現状を過去のひどい状態へと引き戻すために多数決を利用する場合もあるだろうから、戦略的な見地からは現状の改悪を目指すことにも利用されてしまい、そういう意味では多数決が何に利用されるかに注意してその決定過程を見守らなければならないが、多くの人々が他の何かをアピールすることにかまけていれば、そんなことには無関心となってしまうのではないか。


1月2日「足りない感覚」

 唐突に何かのこじつけのようにして思うことがあるわけでもなく、それよりはこの世界で足りないものがあるような気がするなら、例えば失われた時を求めて世界のどこかで彷徨っている者が想定できるわけでもないが、何となく欠落感を抱かせるような気分に浸りながらも、以前から持ち合わせていたように思われる感覚から何かが失われているような気がするとすれば、それが味覚だとしたら、ここ数年来のコロナパンデミックの際にワクチンを何度も接種したおかげで、その副作用かどうかは知らないが、最近味覚が薄れてしまったような気がして、何を食べても味気ない感覚に囚われているのだが、それが原因でなければ加齢の影響で、老化と共に味覚が薄れてくるという説もありそうだが、自分に関してではなく、今この世の中で何が足りないのかといえば、愛が足りないとかいう抽象的なことではないとすれば、貧乏人なら金が足りないと即物的に思う人もいるかも知れないが、実態としては逆に世の中に金が有り余っているからこそ、物価が上がって物が買えなくなって困窮してしまうと思えば、そんな単純なことではなく、物の流通が滞って品不足に陥っているから物価が上がっているだけではなく、コロナパンデミックで一時的に人が自宅待機を強いられて人手不足になったから物の流通が滞って、また人手不足から給料も上がって、さらに自宅待機を強いられて仕事ができなくなった人に対して世界各国の政府が給付金を支給したから、それだけ通貨の供給量も増えて、通貨の量が増え過ぎればインフレになるし、インフレになったからといって慌てて金利を上げて金融引き締めをやり過ぎて通貨の量が減り過ぎればデフレになるから、さらにデフレなるのを警戒して、インフレが沈静化してきた機会を捉えてあまりにも金融緩和を性急にやってしまうと、またインフレがぶり返してくるから、各国の中央銀行も慎重に事を進めなければならないのだろうが、それに加えて世界各地で戦争も勃発しているし、自然災害なども頻発しているから変動要因が多過ぎて、結局何が足りないのではなく何もかもが過剰に起こっているから、足りない感覚は錯覚なのかといえば、何もかもが過剰にあるからこそ逆に何かが足りないと思ってしまうかも知れず、そんな足りないものの中でも社会の秩序が足りないと思うなら、安易に国家統制によって民衆の自由を奪って締めつけを強化すればいいと思ってしまう人や勢力などが、ファシズムに魅了されてしまう可能性もなきにしもあらずだが、現状の日本で盛んに憲法を改正して緊急事態条項を加えようと画策している人や勢力などは、そんなファシズムに魅了されている人々なのかも知れないが、そんな人々には何が足りないのかといえば、知性が足りないと単純にいえるようなことではないだろうし、その緊急事態条項を利用してどうなったかという歴史的な知識が欠落しているわけでもないはずだが、馬鹿なことを繰り返すと結局は一度目は悲劇に終わったが二度目は茶番劇に終わってしまうという紋切り型に陥ってしまうから、やめておいた方がいいと警告してもやってしまうのが彼らの愚かなところなのかも知れないが、やりたいならやってもらっても結構だが、全世界に醜態を晒す羽目になっても誰が助けてくれるわけでもないだろうし、今もすでに金権腐敗体質によって醜態を晒している最中かも知れないが、自然災害のどさくさに紛れて何をやろうとしても、お天道様がちゃんとお前らの悪事をお見通しだという成り行きになってしまうわけでもないだろうが、そんなことをやっても関心がない人の割合が世の中の大多数にのぼるかも知れず、そんなわけで何をやってもうまく行かないというわけでもないが、うまく事を運んでも結果的にそれがどうなるわけでもないところが、それをやってうまく行ったと思ってしてやったりな気分で浮き足立っている時期には、確かに高揚感に包まれて自分たちの偉業を自画自賛したくなってしまうとしても、それで万事がうまく行ったわけではなく、なぜかその後から思いがけないことが起こって、それまでにやってきたことが全てちゃぶ台返されるような事態が待ち受けているのかも知れず、それが功利的な範囲内で視野を狭めて目の前の小さな利益を求めて現状の延長上で活動中であるほど予期せぬ出来事になってしまうのだろうが、その一方で対処できるのは予期していた事態であり、実際に予期していた事態に対処するためにせこい目標を掲げてそれに向かって日々努力して精進している最中である自らの行いを強調したいし正当化したいわけだが、そんな小さな目標に凝り固まっている人々に足りないのが、自らの存在が取るに足らない小物に過ぎないという謙虚な自覚かも知れないが、それ以上に足りないのが大局的な見地に立って大胆に物事を進めるのに必要な蛮勇なのかも知れず、もちろんそれが必要でないからせこい活動に終始しているわけで、その方が安全勝ちの結果に事態を導けると踏んでいるわけだが、そう言われてみればその通りの結果が得られる目前だったとしても、果たしてそれで勝った気になれるのかというと、その気になって小さな勝利に酔いしれること自体が、世の中に醜態を晒していることになってしまうのかも知れず、それがこれまではその醜態から世間の目を背けさせることに成功していたわけで、それは今も続いていて、人々の目をせこい利益を獲得する方面へと誘導させて、わずかなポイントを貯めるために日々精進するように仕向けさせている中では通用している戦略なのだが、それが戦略に過ぎないといってしまうと、誰でもそんなくだらぬ戦略の裏をかけるような気にさせてしまうかも知れないが、逆に誰もがそれが大げさな策略に引っかかっているわけでもないと思わせている範囲内でうまく行っている戦略になる限りで、誰もが何かのついでに引っかかっている策略でもあって、それが何かのついで程度のことだから、そんな策略に引っかかっていようとどうということはないわけで、だからそんなせこくて小狡い策略を巡らせて多くの人々をそこへと引き込んで多額の利益を上げている者たちの思う壺な展開となっているはずだが、実際にそうなっているとしても誰もそんなことには関心がない限りで、それらの者たちの偉業が偉業とは評価されないし、それを偉業だと褒め称える必要もないわけだが、そういうところが彼らにとっては誤算だとしても、せこい金儲けをやめる理由とはならないわけだ。


1月1日「右と左の曖昧な定義」

 現状の世の中で、それが日本と呼ばれる地域に限った話かも知れないが、政治の分野で何かを主張をする際に、避けては通れない通過儀礼にようにして言い放たれるある呼び方に対して強い拒否反応を示す人々の存在が疑念を抱かせるのだが、そういう人々を蔑んで腰抜けだとかゴミだとかクズだとか呼んでも構わないかというと、たぶんそれでも間違いではないはずだが、別にそんなにひどい言い方で罵倒する必要もないだろうが、信用できない人々であるのは確かな感触を伴ってそう感じられて、その呼び方を受け入れられないこと自体が、そもそも終わっているというか、その程度のことにこだわっていること自体が、だから日本人はダメなんだと思われる程度のことであり、それも大して本質的なことでもなく、どちらかと言えば枝葉末節などうでもいい部類に入る印象を伴って、現代の日本人を象徴するメンタリティなのではないかと思いながらも、軽く受け流しておけば済むようなことでしかないだろうが、それが自らは左翼ではないと言い張る批判派であったり、逆に自分こそが真の保守だと強弁する人々だが、政府や政権与党のやり方を批判しているのだから、そんな者たちはみんな左翼じゃないかとツッコみたくなるのだが、フランス革命の際に国民公会の左翼席に陣取って急進的な主張を繰り返すジャコバン派などが左翼の起源だが、そうなると現代の日本の国会で左翼席に陣取って急進的な主張を繰り返す勢力と言えば、山本太郎とれいわ新選組に他ならないわけで、当人たちがいくら否定しようと、自分たちこそが真の保守なんだとたわごとを呟く輩までが出てくるとしても、彼らこそが真の左翼だと見なしておけばいいわけで、そういう意味では街頭で演説している山本太郎に向かって、左翼死ね!と罵声を浴びせたネトウヨの反応が真っ当な部類に入ってきそうだが、ではそんなネトウヨと呼ばれる人々が真の保守なのかと言えば、それに関しては多くの人々が疑念を抱いているだろうし、大抵の人々がしっくりくる呼び方としてすぐに思い浮かぶのが、エセ保守という呼び方になるだろうが、真の保守はあんな連中ではないと思っている人が多そうだが、保守というのがそのまま右翼に結びつくかというと、どちらかというと右翼は過激な思想に被れているから保守ではなく、保守から厄介者扱いされるのが右翼と呼ばれる勢力だが、敵というわけではなく、左翼に対抗する上でも味方に取り込んでおいて、言論弾圧などをする際には左翼を暴力を用いて封じ込めるのに使いたい勢力になるだろうから、一般的な意味として街宣車などで騒音を撒き散らす人々が右翼と見られているだろうが、そういう勢力は右翼の中でも極右と呼ばれることも多いと共に、それに対抗して暴力を用いて革命を起こそうとする勢力が極左とも呼ばれるのだろうが、そうなると極右も極左も過激派と呼ばるカテゴリーに入ってくるだろうから、その辺から定義が曖昧になってきて、右翼と呼ばれる人々の政治主張の中では、日本共産党なども暴力革命を肯定する極左暴力集団だと位置づけたいから、そんな主張を真に受ける人も少ないだろうが、昔はそうだった時期もあったから、それを今の判断基準として通用させようとすると、何か感覚がずれてしまうような印象を伴ってくるわけで、そういう意味では無理にれいわ新選組を左翼と見なす必要もないだろうし、自分たちこそが真の保守だと主張したいなら言わせておけばいいことでしかなく、保守だとかリベラルだとか自称したい人は勝手に自称してもらって結構なのだが、山本太郎に言わせると主張の中身で判断してほしいということだと受け取るしかなく、エセ保守で新自由主義に被れた勢力によって国民が貧困に追いやられているから、そんな勢力から政権を奪還して、国民を救わなければならないと思っているらしいから、普通にれいわ新選組に対しては支持を表明しておけば済むということでしかないが、れいわだけを支持しているわけではないところが、れいわにとっては厄介なのかも知れず、れいわが批判している他の野党勢力を支持している人も多いから、れいわだけを支持するコアな人となると、まだ少数派に留まっている現状もあるだろうし、その辺が今後の成り行き次第でどうなって行くのかが、現状ではよくわからないところだが、そんな自分もれいわを支持している一方で、新自由主義に被れているわけで、その辺がかなり矛盾しているわけだが、とりあえず選挙では結構な割合でれいわの候補者に投票しているわけだから、れいわの支持者のカテゴリーに入るわけだが、山本太郎の主張に完全に賛同しているかというとそうでもなく、別に山本太郎が日本の総理大臣になっても構わないとは思うが、山本太郎が総理大臣になったところでどうなるわけでもないとは思わないが、それなりにどうにかなるのだろうが、それは誰が総理大臣になってもどんな政党が政権を担ってもそれなりにどうにかなる程度のことだという甘い楽観主義に囚われているからで、実際に民主党政権であった時期でも、悪夢でも何でもなく、それなりにどうにかなっていたはずで、下手をすると今の自民党政権よりもだいぶマシな印象を抱いている人も多いはずだが、今でも有権者の半数以上の人々が選挙で投票に行かないわけだから、政治もその程度のことなのだと思っておけばいいわけで、だからその程度なのだから、下手に保守的な現状維持にこだわっていないで、他の民主主義国のように国民が気軽に政権交代を選択すればいいだけのように思われるのだが、そこがどういうわけか日本の現状が許さないらしく、頑なに自民党政権を維持するような成り行きになってしまっている限りで、野党が悪いわけではなく、単に国民の自業自得でしかないわけだが、そういう意味ではメディア上で識者の類いが深刻そうな面持ちで危機感を表明しても、ほとんどの国民が真に受けていないのかも知れないし、なぜ真に受けないのかといえば、山本太郎の主張とは裏腹に国民が現状で起こっている事態を深刻に受け止めていないわけではなく、選挙で政権交代という結果をもたらさない限りは、それが国民が本気ではないことの証しとなるわけでもなく、こんな現状でも構わないと思っている人などほとんどいないとしても、実際に結果として明らかになっている状況が現状を物語っていることにしかならないのではないか。


2023年

12月31日「詐欺的な真実」

 何かに引き寄せられるようにしてそれについて語ってしまうとしても、その何かがそれなのかというと、そういうわけではなく、何かがそれについて語ってしまうきっかけとなっていれば、それと何かが関係していると思いたいのだが、どうもそうではないとしか思えなければ何なのかというと、少なくとも引き寄せられているのはそれではなく、それに引き寄せられているわけでもないのに、それとは別の何かに引き寄せられながらもそれについて語ってしまうわけで、しかもそれについて語っている人が何かの当事者ではないのだから当惑してしまうわけではなく、それどころかほとんどの場合は直接の当事者ではない他の誰かがそれに言及するわけだから、それを信用しろと言っているわけではないにしても、一応は疑いの眼差しを向けなければならないわけではないが、誰かが述べている内容が信じられなければ疑ってしまうのだが、それについて語っている誰かに詐欺的な匂いを嗅ぎつけてしまうと信用できなくなってしまい、騙そうとしてそんなことを語っているわけでもないとは思うが、少なくとも当事者であれば都合の悪いことは語りたくないわけで、それが当事者を貶めようとしているわけではないとしても、他の誰かが当事者にとっては都合の悪い真実を暴露して、結果的に当事者を窮地に陥れるような結果に至れば、真実を暴露した誰かにとってはしてやったりな良い結果を得たことにはなるだろうが、果たしてその真実が事実なのかというと、なぜか事実としては認め難いのかも知れず、少なくとも当事者がそれを否認しているわけだから、自身にとって都合の悪いことを認めるわけにはいかないのも当然のことだが、もちろん都合の悪いことだからこそ真実に違いないと思われてしまうわけで、そういった利害関係や損得勘定から真実を類推してしまうと、事実を見誤ってしまうことになるかというと、それが真実だと信じている人にとっては、当事者にとって都合の悪いことだからこそ真実だと思われてしまうわけだから、事実である前に真実であることが優先されてしまうわけで、真実なのだから事実に違いないと思うのが当然の成り行きだが、では真実と事実が違うのかというと、同じでないとおかしいはずだが、そんなおかしなことが起こってしまうと、それが冤罪事件へと発展してしまうのだろうが、そういう方面ではそれが話題となることが結構あるにしても、ここではそうではなく、それが真実であることも事実であることもそれほど問題とはならず、逆に真実にならないようなことが問題となっているわけではないが、事実をそのまま語っているつもりなのに信じてもらえないことが問題であるわけでもないにしても、世の中には信じてもらえないような事実があることも確かで、嘘のような本当の話というのも詐欺ネタとしてよく使われるのだろうが、それが功利的な方面で魅力を感じられると、そんな儲け話に引き寄せられてカモネギな人たちが騙されに集まってくるのを、誰が皮肉な笑みを浮かべながら眺めているわけでもなく、実際に騙されてひどい目に遭った人たちに向かってざまあみろと誰かが嘲っている未来を想像したくなるわけでもなく、たぶん来年は多くの人たちが新NISAに群がってそんな成り行きになってしまうことを願っているわけでもないのだが、それが詐欺なのではなく、騙されたわけでもないとするなら何なのかというと、安易に儲け話に乗るとひどい目に遭うという格言があるかも知れないが、たとえ詐欺でなくても儲け話には裏があって、それが裏とも言えないような当たり前の真実であれば、誰もが儲かるわけではないという事実になってしまい、そうなると真実と事実とが普通に一致するわけだが、それが儲け話なのに、儲け話というと警戒されてしまうから、別の言い方でごまかそうとしているわけでもないのだろうが、何か中性的な言い方として資産形成と言ってしまうと、目的が一攫千金のような投機的な儲け話なのではなく、地道に着実に何十年もかけて少しずつコツコツと資産を増やすような話になってくるのだろうが、それには都合の良い条件があって、毎月一定の収入があって、しかもその収入の中から投資に回せるだけの資金に余裕がある人であれば、それこそ何十年も投資を継続できるのだろうが、そういう前提で投資できる人が世の中にどれほどいるかとなると、疑念を抱かざるを得ない世の中の現状があるだろうから、そんな投資話には疑いの眼差しを向けざるを得ないだろうし、誰にでもすぐにできるようなことではないと思うなら、その手の話で盛り上がっている方面のメディアは信用できないわけだが、では果たして多くの人々がそんな儲け話や投資話に引き寄せられるようにして、新NISAについて語っているかといえば、少なくとも誰もが語っているわけではなく、投資関連のメディアで語られているだけで、多くの人々は自身には関係のないこととして聞き流していると想像してしまうわけだが、雰囲気としてはそれを売り文句にして、そんな制度を新たに実施した成果を強調したい政治的な思惑もあるだろうし、これからは投資によって国民が豊かになる時代だと誰が主張しているわけでもないだろうが、理屈の上では国民が日本企業の株を買い支えれば、それだけ株価が暴落しにくくなるような気もしてくるが、もちろん実際に買わせたい株は日本企業の株であるよりは、アメリカの企業や世界の中で経済が成長している地域で活動している企業の株を買った方が、値上がりの可能性も高くなるだろうし、それも個別の企業の株ではなく、様々な企業の株をひとまとめにしたETFなどに投資した方が、より安全だろうし、そういうところから少しずつ制度を創設した側の思惑もずれてくるかも知れず、そうやって絶えず制度の趣旨の裏をかこうとしているわけではないにしても、機会を捉えてうまく立ち回ることが成功するための条件だとも言えないが、それが成功するための必要条件なのか十分条件なのかもはっきりしないところで、誰もが成功しなくても構わないのが投資の現実なのだろうから、逆に多くの失敗が積み重ねられないと成功者が現れないという事実もあるだろうから、そんな中で何が真実だと見なされても、その真実に辿り着ける人もごくわずかに限られてくるから、それだけ成功と失敗の落差も大きくなってくるのではないか。


12月30日「好景気の到来」

 経済の景気循環の中で景気が良くなったり悪くなったりする分には、ただそんな現象が起こっているに過ぎないことだが、そんなふうに突き放して事態を捉えてみても、その中で窮地に陥ってもがき苦しんでいる人の痛みなど伝わってこないだろうし、他人の苦しみなど知ったことではなければ、そう思っている自分にとっては、景気が良かろうが悪かろうが、どうということはない経済状態の中で暮らしていることになるだろうが、そんな中でも何かをもっともらしく語るとなると、語る脈絡に応じて恣意的に世の中の状態を都合良く捉えて語ることになってしまい、例えばそれを批判的に捉えるなら、世の中の状態を悪く捉えがちになってしまうのだろうが、逆にわざと現状の世の中の状態を良く捉えて語る気になれるかというと、わざとでなくてもそんな話には説得力が感じられないというよりは、何か良からぬ悪巧みを計画している連中の一味なのではないかと疑われてしまうかも知れないが、とりあえず今年を振り返ると日本では物価上昇と共にデフレを脱却して賃金も上がって株価も上がって景気が良くなり、何か良いこと尽くめの年だったと振り返れば、どこからともなく嘘をつくんじゃない!と非難の声が聞こえてくるわけでもなく、事実を述べたまでだと開き直れるわけでもないが、何かそれに関して都合の悪いことを伏せているわけでもなければ、それで構わないような状況なのかも知れないし、世の中の景気が良いとはそんな印象となってしまうのかも知れないが、実際には都合の悪いことを並べて行くとそれどころではないことが明らかになってしまうだろうし、そういった都合の悪いことを強調したい人などSNS上にはいくらでも出てくるだろうが、そういう人たちが悪いわけではなく、事の良し悪しとは別次元のところで、客観的な真実や事実を知りたいはずだが、そんな都合の良い真実や事実などどこにも見当たらず、恣意的に事実を歪めて伝えたいとあからさまに思っているわけでもないにしても、結果的に出力される大半の情報はそうなっていると解釈したくなってしまうとしても、そんなことが誰にわかるとも限らず、それが真実だと思えばそれで済むようなことであり、たとえ恣意的に歪められた嘘であっても、それが信じられるような内容であれば信じても構わないだろうが、その一方で信じればいいというわけではなく、信じても構わないが、信じていることが嘘であるなら、それ相応の報いを受ける場合もあるから、たとえそれが嘘であっても真実であっても、どちらにしてもそんな嘘や真実に応じて報いを受けるというなら、その報いというのが何になるかで、その嘘や真実の真価がわかってくればいいのだが、それが価値ではなく利益であるとするなら、あるいは価値であると共に利益や損害にもなるような報いとなれば、そんな利益を得られたりまた損害を被ったりする過程で、何かそれらしい活動をしていることになるはずで、それが信じるに値する価値であったり、それを信じたからこそ利益を得られたと感謝したくなったり、それを信じてしまったばかりに多大な損害を被ってしまったと後悔するような結果を招くなら、それなりに活動した結果として報いを受けたことになるだろうから、因果応報のような感慨を抱くかも知れないが、果たして現状の日本の中で好景気を実感している人がどれほどいるかというと、その割合がアメリカほどには高くはないと思いたいところで、アメリカでも景気後退に直面しつつあるようだから、好景気を実感している人などいくらもいないと思いたいところだが、世界が好景気だろうが不景気だろうが自分さえ良ければそれで構わないと思いたいわけではないとしても、そんな自身の立場や境遇に合わせてそう思わされてしまうだろうから、日本でも物価高で多くの人々が苦しんでいると報道されている中でもうまく立ち回って利益を得られている人もいくらでもいるだろうから、そういう人にとっては今まさに好景気が到来していると思い込んでも何の不都合も感じないはずだが、それを後から客観的に振り返れば物価高と景気後退が同時進行するスタグフレーションの真っ只中だったと判断しても構わないのかも知れないし、世の中の経済状態がどうであれ、そんなことはお構いなしに進行中のその時々でメディアが仕掛けて世間で話題となっている事件に気を取られてしまうわけだから、それが政治のスキャンダルであれお笑い芸人のスキャンダルであれ、そうやって世間で話題となるように仕掛けられているわけだから、そっち方面に多くの人々が気を取られるように仕向けられていると受け取るしかないし、そんな仕掛けにハマって多くの人々がそれを仕掛けた側にとって都合の悪いことから気を逸らされているとも受け取るしかなく、本当にそうなのかというと、誰もそんなことなど知り得る立場にはないのも当然だとしても、それはそんな話題へと人々の意識を誘導している側にとっても知る由もないことなのかも知れず、何か理由や動機があってそんな成り行きへと意識が入り込んでいるわけではなく、もちろん後から理由や動機が事後的には導き出されてくる場合もあるだろうが、意図して誘導している当事者にも知り得ないことがあるかも知れないから、その知り得ないことを探そうとして見つかるわけでもなければ、見つからないままとなってしまうかも知れないが、それが見つからない限りは謎として機能して、その謎を巡ってそれを解き明かそうとする人々をその話題へと引き寄せて、意識を捕らえて離さないようなら、そんなことを仕掛けた側の思う壺だと言えるかとなると、それに関してわけ知り顔を装いたいなら、そうだと言いたくなってしまうだろうが、そうでなければそんな話題など無視していればいいだけかも知れないし、多くの人々がそんな話題に気を取られているうちに取り返しのつかない事態が進行中だと言いたいなら、どうぞ勝手にそんな陰謀論を主張していれば済むことでしかないだろうが、それでは済まないとなると何なのかといっても、取り立てて思い浮かぶこともないのだが、少なくとも今年が好景気が到来した年ではなく、何かそれとは全く違う歴史の転換点に差しかかった年だと位置づけたい人もいくらでもいるかも知れないが、それに対してどんな幻想も抱けないとしたら、単純に経済の景気循環が絶え間なく進行中であるだけなのかも知れないし、そんな中でも世界的に政治的な行き詰まりが鮮明になった年であると共に、それがいつの時代でもそうであるとしたら、政治的な行き詰まりとは恒常的に絶えずそうであり続けるから、それが危機感を抱くにはもってこいの状況なのかも知れない。


12月29日「労働と教育」

 無理なことをやっている労働現場というのも、人手が足りずに間に合わない状態となっていようと、そんなのはお構いなしに強引に作業が続けられてしまうだろうが、それとこれとは話が違うと思われることを強引につなげて、何かもっともらしく装うとすれば、だからどうだというわけではなく、結果が原因とは無関係なわけだが、そんな結果をもたらすために原因があるわけではないとすれば、そもそもそれが原因ではないということになるだろうが、そうではなくそれだけが原因ではなく他にも様々な原因が作用しているから、一つの原因と一つの結果を結びつけて話を構成してしまうと、それは違うと思われてしまうわけだが、それでもなぜかそれがもっともらしく感じられるとすれば、そういう語り方が世の中で流行っていて、それに慣れ親しんでいるからそう思われるのかも知れず、だからそんなもっともらしい話に騙されてはいけないということではなく、騙されてしまうのではなく、そういう話を信じて納得したいわけで、そんな話を信じてそれで済ませてしまおうとしているわけだが、そうなるとそんな話をする側とそんな話を聴く側が共犯関係にあると言えるのだろうが、それが教育神話としてそんな話を聴かせたい側と聴きたい側の共同幻想を構成していると思いたいわけだが、本当にそうなのかと問われると、はっきりとした証拠など挙げられないから、嘘かも知れないし、自分の勝手な妄想に過ぎない可能性もなきしもあらずだが、それに関しては結果から原因を推測してしまうと、もっともらしいことが言えてしまうから、それを信じたい人は信じればいいとしても、そんな多くの人々が信じているらしいことを、ひねくれて信じられないふうを装いたければ、やはりそんなもっともらしい話は疑ってみるしかないわけだが、目指すべき結果を得られないのが教育であるなら、始めからそんな決めつけを設定するのも全く根拠のない話だが、要するにある一定の状態を目指さなくても構わないわけだが、教育を将来への投資と考えてしまうと結果を目指さなければならなくなってしまい、そこからもっともらしい幻想が生じてくるわけだが、そんな幻想を抱いてしまうこと自体が間違っているというと、教育を行政の課題に設定してしまうこと自体も間違っていることになってしまうのだろうが、要するに教育の無償化とかいう幻想を振り撒いて、何やら政治的な人気取りに使おうという魂胆が浅ましいというか、それとは違う理由でやりたければ、教育の無償化を実現してみればいいのだが、どうしても結果から考えてしまうから、何か望ましい結果や都合の良い結果をもたらそうとして、もっともらしい理由や理屈をつけて、人々が望んでいるらしいことを実現しようとしてしまうのだろうが、実際に結果として出てくるのはそんな望ましい結果などではなく、もっと不確かで思いがけない結果であり、しかもそれが結果だと断定するわけにはいかない結果なのかも知れず、だから結果を求めてはならないといっても、望ましい結果を妄想してしまうからそんなことをやろうとするきっかけになるのだろうが、それでも倫理的な観点から言うなら教育などに結果を求めるのは間違っていると言わなければならないだろうし、しかもそれが功利的な結果を求めるのだから浅ましい魂胆があるに違いないわけだが、それに関して簡単に言うなら、教育に結果を求めた結果が日本では1945年の悲劇をもたらしたのであり、またそれを今から繰り返すのも愚かしいのだが、どう考えてみても今は富国強兵や殖産興業の時代とは様変わりしていて、お馬鹿な政治家や行政官僚が時代錯誤な妄想を抱いているに過ぎないわけだが、そんな妄想を取り除いて考えるなら、教育の現場が人手不足で疲弊しているなら予算をつけて教員や職員を増やせばいいだろうし、仕事が多過ぎるなら単純に減らせばいいわけで、客観的に考えるなら教員は授業の時間内で生徒や学生に教えればいいだけで、それ以外の事務仕事は職員が分担すればいいのだが、それで問題が解決すれば話が早いが、管理職や保護者などの教育に関係する欲望に目が眩んだ人々が勝手に功利的な妄想を膨らませてしまうから、その負担が教員にのしかかってきて、余計な仕事が増えて現場が疲弊してしまうという話でしかないと事態を受け取るしかないが、それも勝手に一つの原因と一つの結果を短絡させて物事を単純化して考える限りで導き出されてくる妄想に過ぎないが、つい最近も教育の国家統制みたいな法案を国会で通そうとして一悶着あったらしいが、戦前の旧帝国大学などをその頂点に位置付けて行われたエリート養成教育が何をもたらしたのかといえば、学業優秀で頭でっかちなエリート官僚やエリート軍人などが机上の空論を実行に移した結果として、1868年の明治維新から77年後の1945年に至って一度目の悲劇がその幕を閉じたわけだが、しかも性懲りもなく夢をもう一度とばかりに戦前戦中の軍国主義の復活を目指したわけでもないだろうが、憲法を改正して大日本帝国憲法の理念を復活させようとしたかどうかも定かではないにしても、それに類するような雰囲気を醸し出していた安倍晋三や彼を神輿に担いでいた人々の目論見も、1945年から77年後の2022年に至って安倍晋三自身が殺害されたことによって、二度目の茶番劇がその幕を閉じて、今はその後始末の最中のはずだが、まだその野望が燻っているのかも知れないし、三度目の正直を目指して何かしょうもない計画が人知れず進行中かも知れないが、そんなくだらない陰謀論とは別の次元で行われていることとして、学校教育などの中立的で単なる通過儀礼に過ぎない管理システムに資本主義や道徳主義や軍国主義などのイデオロギーを持ち込むのもかなりおかしいことだが、ただ単に様々な学問を教師が教えて子供に学ばせれば済むようなことなのに、どうしても教育がダメだから国家が衰退するんだ的な理屈が政治や行政の方面から理由づけや原因を特定して安心したい人たちの間で妄想されてしまうわけで、それが単なるこじつけに過ぎないとは思えないから、そこから事がこじれて国家統制のようなことをやりたがってしまうのも無理もないにしても、そんなことをやった結果どうなるかといったところで、それだけが原因となるわけでもないところが、それだけで結果を予想してしまうのもいい加減な妄想となるしかないのではないか。


12月28日「逆説と矛盾の果てに」

 人は同時代的に進行中の出来事には気づかず、気づいていてもついつい無視を決め込んでしまうのも、気に入らない結果には目を背けたくなってしまうものだが、その代わりに現代よりは過去の歴史から教訓を得ようとするのだろうが、それが気休めにしかならないことにも気づかないというより、わざと気休め程度で済ませようとしているというと、全く反省していないのではなく、何か反省しているように装うと共に、その反省が実質的には全く反省していないと同じ程度だと解釈しても構わないが、反省などすべきではなく、むしろさらにより一層過ちや誤りを推し進めて、過去の歴史から学んだ教訓など粉砕してしまわなければならないのかも知れず、その粉砕してしまわなければならないことの標的となっているのが、現代の日本では日本国憲法となっているのだが、本当にそうかというと、それも表面化している事態を見るならその通りには違いないのだが、本当に粉砕できるかどうかは今後の成り行き次第であるにしても、今後粉砕したと思って歓喜の声を上げてしまう瞬間には、すでに歓喜の声を上げている人々の方が歴史の圧力によって粉砕されてしまっているわけではなく、何か皮肉な逆説や矛盾をきたすような結果に塗れてしまっているのかも知れないし、そんな人たちの憲法改正という業績や実績が陳腐化してしまっている現実に気づくわけでもないから、それらの人たちにとってもそれらの人たちと敵対しているつもりになって反対運動を繰り広げている人たちにとっても、どうということはない結果が待ち受けているのかも知れないところが、何か双方共に骨折り損のくたびれもうけ的な結末を前にして唖然とする仕草もできないようなどうでもいい結果になってしまうことを予言したくなってくるが、だからといってすでに現状の活動に足を突っ込んでいる人たちを批判したいわけでも非難したいわけでも馬鹿にしたいわけでもなく、いったんそういう成り行きに囚われてしまうと後戻りができなくなるという当たり前の現実を前にして何を思うわけでもないのだが、そんなことを思っているわけでもない自らもそれらとは別の成り行きに囚われているだろうから、どちらにしても後戻りが利かなくなる事態に直面しているわけで、そこでどうにもこうにも他にはやりようがなくて途方に暮れているわけではなく、やはり途方に暮れている自らの心境にも気づいていないのかも知れず、だからまだやりようがあると思ってしまうのだが、だからといって国の制度や法律を自分たちの立場が有利になるように作り変えるような試みがうまく行くとしても、うまく行くだけのことであるから、結局はその有利な立場が固定化してしまえば、その先には衰退が待ち受けているわけで、特定の立場や階層を特権化してそれを固定化すると、人や物や情報の流動化を阻害して、結果的に社会の衰退をもたらすのは当然だとしても、制度や法律を自分たちが有利になるように変えようとする欲求には勝てないだろうし、そうならないようにするための歯止めとなるように三権分立を定めているのにそれすらも歪めようとするわけだから、それが歯止めとして機能している国が民主主義国で、機能していない国が専制主義国や開発独裁国家となるわけだろうが、それでも自分たちの立場や階層を特権化する必要があるかといっても、結果的にそうならざるを得ないような成り行きに囚われてしまうわけだから、そんなことをやろうとしている勢力の中に身を置いてしまうと、自らの意思や意志よりも集団の意向が優先されてしまう成り行きには逆らえないし、実際に逆らえないからそれと知りながら違法行為や不法行為へとエスカレートして行ってしまうのだろうが、そうなってしまう人たちはそれで構わないというか、そんなことしかできないのだからそうなるより他はあり得ず、そうなってしまった人たちが後戻りなどできるわけもなく、そこから盛者必衰のことわりが現実化した時点で違法行為や不法行為を問われて当局に取り締まられるわけだろうが、そうならないようにするには国家体制を民主主義国から専制主義国や開発独裁国家へと作り変える必要があり、それに成功したというか元からそんな傾向があった国の中で現状では有力な国が中国やロシアなのかも知れないが、日本でも憲法を改正して昔の大日本帝国のような非民主的な国家体制に作り変えようとしているかどうかも現状ではまだ定かではないにしても、すでにそうなりかかっている情勢でもあるのだろうが、それが国の制度や法律を変えてそうなるように仕掛けているつもりなのだろうが、そんなことを仕掛けているつもりの人たちが気づかないところで、それとは違う成り行きが水面下では進行中なのかも知れず、しかもそれがそんな仕掛けに逆らって抵抗運動や反対運動を表立って繰り広げているつもりの人や勢力によって進行中なのではなく、不気味にそれらに対して無関心を装っているように感じられる人々の意識の中で進行中かも知れないから、たぶんそれに対して対処や対策など立てようのないことなのかも知れず、現状で対立しているつもりの双方がどんなに自分たちの立場に合わせた都合に応じて危機を煽っても、多くの人々が無関心を装ってついてこない現状があるのかも知れず、それだけ世の中の価値観が分散していて、決して昔のような極端で熱狂的な傾向の流行現象にはならない限りで、メディアを通じて偏った傾向を煽り立てる勢力に対する信用もなかなか高まらないから、いくら国の制度や法律を自分たちの勢力が有利になるように改めようとしたところで、改めている途中でそう都合良くは改められないような紆余曲折が待ち受けていて、それが改めようとしている人や勢力の意図や思惑を外れる成り行きを伴ってしまうから、今後も中途半端にその効力や効果を発揮できないような結果がもたらされ続けるのかも知れず、そういう意味では国家も政府も行政機構もそれなりに形骸化していて、何をやってもやっていることが空回りしているような結果しかもたらされず、昔のような強圧的で強権的な行為がうまく機能しないままとなってしまい、それが昔においてそんなことをやり過ぎた弊害だといえばその通りなのかも知れないし、また現状の世界の中でそんなことをごり押ししている政府があれば、それこそがかつての専制主義国や開発独裁国家がそんなことをやり過ぎた挙句に、妥協的な産物として否応なく民主化されざるを得なくなった現状の先進諸国が歩んできた歴史の途上にあると捉えておけばいいのではないか。


12月27日「日本の現状が世界の現状」

 事実を述べているのだからそれが印象操作とは言えないし、自身が述べている内容に沿った都合の良い事実を並べて、話に説得力があるように装いたいのだろうが、装うというと何か本当はそうではないような印象が伴ってしまうが、そんなことを述べている当人の頭の中では装っているのではなく、ただ単に事実をありのままに述べているつもりだろうし、もちろんつもりなのではなく、事実をそのまま語っているはずだが、それが何か問題なのかというと、問題であるはずがなく、そう述べるのが当然の成り行きだとしても、果たしてそれとは少し違うことを語れるかというと自信はないが、それが良かったり悪かったりするのではなく、良し悪しとは違う次元で自分が述べたいことや語りたいことを述べたり語っているはずが、どうもそれがそうではあっても、やはりそれとは別の次元では自身の外部からも内部からもそうなるような成り行きに沿ってそんなことを述べたり語ったりするように仕向けられていて、そんな呪縛から解放されないから、そういうことを述べざるを得ないし語らざるを得ないのだろうが、それと関係があるかどうかはよくわからないのだが、映画評論家という肩書きで実在している町山智浩は、自身が称賛したり絶賛している映画とは大きくかけ離れた出来の映画で方々から酷評されている『進撃の巨人』の脚本を書いていて、壮大なスケールの原作漫画の実写版を日本で制作するとなると予算の都合上失敗が目に見えているのに、そんな映画の脚本を書かざるを得ない立場というのが、映画評論家という肩書きに泥を塗っていることになるかというと、果たして泥を塗るほどのレベルの映画評論を書いているのかもよくわからないし、何かそういうところで関心を持てなければどうでもいいことの部類に入ってしまうのだろうが、同じ映画評論家という肩書きも持つ蓮實重彦が『凡庸な芸術家の肖像』という19世紀のフランスの大衆市民社会と現代の日本の大衆市民社会を結びつけるような驚くべき作品を著しているのとはかなり趣きが異なってくるのだが、両者を比較して優劣をつけるようなことができるわけでもないし、なぜか『進撃の巨人』よりは『凡庸な芸術家の肖像』の方を映画化すべきだと思うが、たぶんそういう成り行きにはならないと思うし、なったとしても成功するかどうかもよくわからないが、もちろんハリウッドで巨額の予算をかけて『進撃の巨人』を映画化すれば世界的にヒットするだろうし、その種の映画は他にもいくらでもあるだろうが、当然それが町山智浩の映画評論の題材にもなるだろうが、そういう脈絡から映画評論家が称賛したり絶賛するような映画が生じてくるとは思えないわけで、その一方でたぶん『凡庸な芸術家の肖像』の映画化がうまく行けば、町山智浩のような評論家の類いが称賛したり絶賛するような映画になると思われるのだが、だからといって映画化の話の進展するとは思えないし、そんな想像を掻き立てられても、日本の脈絡からはそういう成り行きは絶対に生じてこないのではないかと思うわけだが、ここ十年余りの自分の実感から述べるなら、まさに安倍晋三がナポレオン三世と同じような三代目の政治家として長期政権を打ち立てて国の制度や法律を滅茶苦茶にした感じなのに、両者共にマルクスが述べたような一度目は悲劇に終わるが二度目は茶番劇に終わるという予言通りの結果を実現してしまったのだから、しかも自分以外に誰もそのことを指摘しないばかりか無視を決め込んでいるわけだから、目が節穴には違いないのだが、それが同時代的な経験としてこの時代に生きているわけだから、両者の一致に感動する以外にはあり得ないし、実際にこの感動をどう表現したらいいのかわかりかねるし、うまく表現できていないこともわかりきっているだろうが、実際に体験してしまったからには、事ある度に思いつくままにそれについて繰り返し語る羽目に陥ってしまうのだが、安倍晋三に付き従ったネトウヨとかアベウヨとか、ナポレオン三世に付き従ったルンペンプロレタリアートとかにもこの感動を分かち合ってほしいし、世紀と時代と地域を隔てて同じようなことをやってしまった人たちというのが、当人たちは自主的にそんなことをやりたかったから活動をしたつもりが、両者共に同じように茶番劇のような結末に至ってしまうわけだから、またそんな茶番劇の後始末としてフランスではパリコミューンのような大惨事に発展したが、かたや日本では山本太郎の登場と共にれいわ一揆が勃発している最中だろうが、それがパリコミューンにまで発展するかどうかも現状ではよくわからないが、そうでなくてもミャンマーやウクライナやパレスチナでは大惨事が起こっている最中だから、それらが日本にまで飛び火する可能性は低いだろうが、何か世界中で大衆市民社会と呼ばれる共通のフォーマットを通して人々の思いがつながっていて、それが否定的な傾向を強めると極右的な暴力にも発展すると共に、それに対抗すべく極左的な勢力も台頭してくるかも知れないが、現代ではそれを右だとか左だとか表現すると何かずれているような気もしてくるし、時代の変遷に伴って従来とは少し違う新機軸のような様相を呈しているかも知れないから、それに伴ってもっと時代状況に合った表現も新たに発明されるかも知れないが、成り行きとしては相変わらずその他大勢を構成する無名の一般大衆の要望を政治や経済がどう実現するかが問われていて、その要望というのがどうということはないのかも知れないし、ただの人並みの暮らしを実現してほしいという漠然とした思いに他ならないのだが、その一方で資本主義経済の進展が貧富の格差を拡大させるから、自身や家族の暮らしが貧しいと思われるだけ不満も高まってくるわけで、また仕事の面でも理不尽な待遇を強いられるとやはり不満が高まってくるし、立場や役職の上下関係における上からの権力の行使には抵抗感や反感を覚えるだろうから、そうやって素直に受け入れ難い状況や境遇に陥ってしまうこと自体が、それをどうにかしてほしいという思いにつながってしまうわけだから、そんな現状を変えない限りはどうにもならないわけだが、それも相変わらず自らの力ではどうにもならない現実に囚われているのではないか。


12月26日「部分的な肯定と否定」

 こんなことを述べてみたところで、それがどうしたと言われてしまうと、それに対して反論する気にもならないが、大抵の主張は、その内容が主張者の把握している範囲内ではもっともらしいが、主張者の意図や思惑から外れるところで何か部分的におかしいのは、誰の主張でもそういう面があるかも知れず、そんな他人の主張の部分的におかしいところを揚げ足取りのようにして批判に転用している人の主張も部分的にはおかしいのだから、そんな主張を全面的に真に受けるわけにはいかないのは当然かも知れないが、だからといってそれを全面的に否定するわけにもいかないから、部分的に肯定できる面を参考にしながら自らの主張を構成しようとするのだろうが、そうではなく他人の主張の全面的な肯定や否定を自らの主張として押し出してしまうと、思慮の浅い愚かな大衆を相手にして支持や賛同を募っていると受け取られて、それが世の中で流行っている風潮や傾向にハマると、確かにポピュリズムのような大衆現象を引き起こすことに成功するのだろうが、それに成功したからといって、それが一時的な成功でしかないことは、過去のそんな現象によって引き起こされた数々の失敗例を振り返ればわかりきったことになるにしても、わかってはいても性懲りもなくそうなってしまう成り行きがあるから、今も世界各地でそんな失敗例の一つとなるべく大衆的な人気を狙ってそんな試みが飽きもせず繰り返されているわけだが、その程度にもピンからキリまである中で、多少の疑念は抱きながらも妥協的な観点から部分的に肯定できる主張をどの程度受け入れるか否かという判断を迫られる場合もあるだろうし、そんな事態に直面した際にどう振る舞えばいいかもその時になってみないことには判断のしようがないが、頑なに自身の主張の正しさを求めて他人の主張を全面否定する姿勢を貫こうとする人を支持したり賛同できるかというと、それが主張だけでなく言動一般に及んでくる場合がほとんどだが、世間知らずな愚か者の若者であればそうなっても仕方がない面もありそうだが、歳をとってそれなりにこじれた事態を乗り越えてきた中高年がそうであれば、何か功利的な利害心が絡んで演技やポーズとしてそんな役柄を演じているか、それとも天然の無自覚が作用してそうなっているかは定かではないにしても、それも世間知らずな愚か者の若者でない限りは、そういう人を信用するわけには行かないのが普通の感覚だと思いたいのだが、それを現状に照らし合わせてみると、何か微妙にそうなりかかっている人などメディアから伝わってくる話題に関係する範囲では程度の差こそあれいくらでもいるような気もするのだが、果たしてそんな人たちの中に自分も含まれてしまうかどうかも怪しいところだが、現状がそうなっていることを踏まえれば、そんな現状の中で危機感を募らせながら、深刻ぶって何か主張することが馬鹿らしくなってくるわけでもないにしても、実際にそんなことを主張している人がいくらでもいる現状の中でどんな態度や姿勢でいるべきかなんて知ったことではないが、どんな主張を真に受けるのかと問われているわけでもないのだから、すでに真に受けているのが他人の主張ではなく、それを主張だとも思っていないことを真に受けていて、それが何なのかも自覚できないようなことなのかも知れないとすれば、では具体的に何を真に受けているのか自分では自覚できないとしたら、それが自分にとってそれほど深刻な問題だとも思っていないことなのかも知れないし、そうかといって他人事だともいえないなら、自分が関わっていることを真に受けているはずなのだが、それがどの程度の割合で関わっているかが、それに対して当事者意識を覚えるか否かといったことが問題となってくるだろうが、少なくとも深刻に受け止められないようなことであれば、それを真に受けているとは自覚していないのかも知れず、その自覚がないのに真に受けているのだから始末に負えないのだが、しかもそうだからといって、その人がそれほど危機的な状況でもないとすれば、たとえそんなことを真に受けたとして痛くも痒くもない立場でいられて、その人がそれを真に受けたことによって他の誰が迷惑を被るとも思えなければ、何の罪悪感も覚えないわけで、そんなことを真に受けている人が他にもいくらでもいて、そんな人たちの共同幻想によって世の中の現状が維持されているとすれば、それで構わないと誰もが思っている自覚もなくそうなっているのだから、そんな中でどんなに危機感を募らせようと、他の大多数の人々がそれを真に受けないわけだから、別の危機感とは無縁の何かを真に受けている限りで、危機感を募らせている少数派を馬鹿にしたくなってくるわけでもなく、ただ単にそんな危機感には関心がないだけで、それよりも優先順位の高い関心を向ける対象がいくらでもあれば、そちらへと優先して関心を向けるだろうから、相対的には危機感が薄いわけだが、それでも少しは申し訳程度ではあっても危機感を共有しているかも知れないが、他にも様々な関心を他の多くの人々と共有しているから、それが全面的な危機感ではなく部分的な程度にとどまっている限りで、それほど真に受けているわけでもないことにもなるだろうし、その程度の部分的な危機感でも構わないのかというと、そうなるより他に可能性がなければ、そんなものだと受け止めるしかなく、そんな人たちが世の中の多数派を構成していることを前提として何か自分にとって関心のあることを主張するしかないだろうし、別に意識して主張しなくても自身の言動から滲み出てくれば、それに対して他人が共感を覚えるか否かは他人の勝手だが、そんな状況下でどんなことを主張できるのかと改めて考える余裕もないだろうが、それが他人からの全面的な肯定や支持や賛同を期待するようなことではないのかも知れず、意識して肯定的に受け止められるように工夫を凝らして、実際に多くの人々からの支持や賛同を期待しなくても、世の中の情勢がそういう主張を求めるような成り行きになっていれば、その人だけではなく他の多くの人々も同じような思いを抱いている可能性もあるわけだから、そんな可能性に期待するというと、それも自覚せずにただ漠然と感じているに過ぎないことだろうが、案外そんな肯定とも否定とも微妙にずれる思いが成就する未来がやってくるかも知れないというと、さらに胡散臭く感じられてしまうだろうが、少なくとも今はその程度にとどめておくのが無難なのかも知れない。


12月25日「河野大臣のデジタルイデオロギー」

 人の立場や境遇に応じて生じる言動を、その人が囚われている制度から説明することは可能だろうが、果たして人の動作を制度の中で機能している機械の部品の働きのように見なしても構わないかというと、当然それだけが人の動作の全てではないから、説明が不十分となってしまうだろうが、そもそも説明する必要があるのかと問われると、必要のあるなしにかかわらず、文章の中で何かしら説明せざるを得ないわけだから、何かについて語ったり文章を記したりする限りで、必然的に何かの説明が導き出されてきて、人の動作となる行為や行動や言動が結果的に何かに導かれるように繰り出されてくるなら、人が囚われている社会の制度やシステムに導かれながら繰り出されてくるのだろうから、その制度やシステムの動作を把握しておけば、自ずからその人の思考や行動のパターンも読めてくると理解するなら、その人の動作にも対処や対応がしやすくなるはずだが、肝心の人を捕らえて操っている制度やシステムが一つではなく、絶えず複数の互いに傾向の異なる制度やシステムが社会の中で動作しているから、それらを全て把握しきれないし、また複数の制度やシステムの間で働いている相互作用を理解するのも難しいだろうから、単純に一つの制度やシステムへの依存度が高い人ならわかりやすいかも知れないが、そんな人ばかりが社会の中で活動しているわけでもないから、そういった事情を考慮するなら、こんなふうに何かわかったようなことを述べてみても、それがどうしたと返されるのがオチだろうが、その制度やシステムが提供する役柄を演じているだけのように思われる人というのも、その人のそういう面を強調して単純化しながら、その人の行為や行動や言動をそういった傾向に当てはめて解釈しているだけなのだとしても、その典型例として挙げたくなるのが、例えば河野デジタル大臣であれば、そのデジタルシステムに囚われたロボットのような動作が特徴として挙げられるかも知れないが、ここにきて盛んにイデオロギーがどうたらこうたら言い始めていることも、デジタルイデオロギーに囚われた言動だと解釈したくなってしまうのだが、そもそも彼が囚われているデジタルイデオロギーとは何ぞやと問われるなら、ネットで検索してみれば、何やら四つのイデオロギーがあるらしく、その中で河野デジタル大臣が感染しているイデオロギーに近いのが、国家を後ろ盾とした情報統制システムを作り上げるチャイニーズデジタルであることは明白だとしても、他にどんなイデオロギーがあるのかというと、GAFAMなどの巨大テック企業を中心として世界を席巻しているアメリカンデジタルと、日本が模範とすべきと言われる市場原理の競争主義の中にも倫理観を打ち立てようとするヨーロピアンデジタルと、インドを中心として台頭してきているサードウェーブデジタルだそうだが、それに関して流行現象の一種として売れている書物もあるらしく、どうも河野大臣が言及したいのはもっと古いマルクス主義などの左翼イデオロギーのようだが、自分が流行中のデジタルイデオロギーに感染している自覚があるわけでもないのは当然かも知れないが、どうせ感染するなら日本と敵対しているつもりの中国のイデオロギーではなく、最低でも同盟国のアメリカのイデオロギーやヨーロッパやインドのイデオロギーに感染した方が、外交関係の上でも何かと好ましいような気がするのだが、肝心の日本の政治体制がアメリカやヨーロッパやインドなどよりも共産党による一党独裁体制の中国に似ているものだから、中国と似た官僚機構の歯車と化している河野大臣がチャイニーズデジタルを推進してしまうのも必然的な帰結だと解釈できてしまうのかも知れず、しかも自身は左翼イデオロギーが攻撃の標的だと意識しているようだから、自分自身がイデオロギーに染まっているのを隠すための偽装だと解釈しても構わないのかも知れないが、もちろん河野大臣にそんな自覚があるわけでもないところが、単なる官僚機構に操縦されたロボットでしかないことを証しているにしても、現状でもそういうやり方がうまく行っていないわけだから、普通はやり方を変えなければならないと思うところだが、いったんやり始めたら止めることができないのがイデオロギーに染まってしまった人の哀しい性なのかも知れないし、もちろん困難を乗り越えてこそ仕事にやり甲斐を感じるわけだから、今が乗り越えるべき困難を乗り越えている最中だと実感しているのかも知れないが、そんな河野大臣の自己満足のために無駄に予算が浪費されているわけでもないだろうし、使えないシステムを作り上げて納入した民間の企業を儲けさせるためにそんなことをやっている自覚もなく、全ては国家のため政府のためにやっていることになるかというと、逆に国家や政府を破滅に導くためにやっている自覚がないのも当然のことだが、傾国や亡国の政治家として有名な古代ギリシアのアルキビアデスが世襲政治家だったのも、現代に通じる皮肉な成り行きを思い起こさせるわけでもなく、河野太郎程度に破滅させられるような国家でも政府でもないところも、成り行きが一度目の悲劇ではなく二度目の茶番劇であることを証明しているわけでもないのだろうが、全てはこの時代に特有でかつこれまでにも何度も繰り返されてきた流行現象の一種として一時的に盛り上がった挙句に、次の流行現象の隆盛によって忘れ去られてしまう現象でしかないとしても、そうした成り行きに気を取られているうちに大事な何かが一緒に打ち捨てられてしまうような気もしてくるとしたら、それが何かと問われるわけでも特定されるわけでもないだろうが、その代わりに河野大臣がイデオロギーという言葉を持ち出して何か攻撃してきたわけだから、それに対して彼自身がデジタルイデオロギーに囚われていること指摘することさえできないメディア関係者の無能さも目立っているわけでもないが、そんなことよりもそれをデジタルイデオロギーという流行現象の中で生じている枝葉末節な問題として片づけられるわけでもないところが、何か起こっていることの深刻さを物語っているわけでもなく、実際に迷惑を被っている人がいくらでもいることはわかりきっているのだが、それでもたぶん今起こっていることを失敗例として参照しながら、次の段階や時期が遠からず到来して、そんな未来から過去の出来事として振り返ってみれば、どうでもいいようなくだらないエピソードに関わった人物として河野大臣の名前が挙がってくるわけでもなく、そんな人物の存在さえどうでもいいようなこととして忘れ去られてしまうから、今起こっていることが振り返られる可能性さえないのかも知れない。


12月24日「財政均衡主義の正当性」

 そう言われてみれば納得できそうだが、よく考えてみるとそうとも言い切れないようなこととして、最近の事例で疑念を抱いているというか、気にかかっていることとして思い浮かんでくるのが、例えば財政均衡主義と呼ばれる主義主張があると言われれば、確かにそういう主義主張に基づいて資金の貸し借りの収支を考えていることになってしまうが、それに関して民間の資金の貸し借りと通貨の発行権のある政府の予算の中で問題となっている国債の割合を同じ次元で捉えてはならないと主張したい人たちが、その財政均衡主義に囚われていると見なしている人たちを批判しているわけだが、それに関して論理や理屈のもっともらしさとは微妙にずれてくる信用という概念を導入しながら考えてみると、始めから財政均衡主義という主義があるというよりは、収入と借金のバランスに関しては、論理や理屈よりも経験的なレベルで、現状では国債の対GDP比の割合が、日本が他の国々よりずば抜けて高いという事実があって、そうなっているにもかかわらず、さらに予算に占める国債の割合を高めて行っても大丈夫なのかという疑問が湧いてくるわけで、それが論理や理屈に先行して信用にかかわってくるわけだが、いくら論理的にも理屈的にも正しいことを主張できても、社会的な信用がない者が何を言っても無視されるような状況があり、それが国家や政府のレベルになると国際的な信用となってくるわけだが、その日本という国家ブランドの国際的な信用力というのが、論理的にも理屈的にもはっきりとは計測できないところで、GDPが中国に抜かれて、最近はドイツにも抜かれて、数年後にはインドにも抜かれるらしく、また人口の減少にも歯止めがかからないから、その分だけ国家的には衰退傾向が顕著になってきて、国際的な信用力も低下していると見るなら、印象としてはそう思われても当然かも知れず、そんな信用力の低下を食い止めるためにも、自民党政権が途上国などに盛んに予算をばら撒いていると受け取っても構わないのかも知れないが、その一方で国民が貧困に喘いでいるのに、それを救済しないで外国に予算をばら撒くとは何事だと国内的には顰蹙を買っているわけだが、そういった経緯や事情を踏まえた上で、日本の国家財政が他の主要な国々と比較して、国債の対GDP比の割合が飛び抜けて高いとなると、このままではヤバいと思われても当然のことであるような気にもなってくるだろうが、それに対しての反論となるのかどうかも定かではないにしても、民間では借金を返さなければ破産するが、通貨発行権のある政府の借金は必ずしも返す必要はなく、償還期限が来たら順次借り換えればいいとは主張できるものの、そうやってどんどん政府の負債が増えて行くと共に国際的な信用力も低下して行くと、相対的には通貨安を招いて輸入物価が上がってインフレとなって、結果的に貧困に喘いでいる民衆がさらに苦しむことになるとは説明できるが、実際にそうなるかというと、それ以外の要素や要因やそれらを加味した条件も考慮に入れなければならず、そのそれ以外の要素や要因というのが現時点ではまだ顕在化していない可能性もあって、それらが今後何かのきっかけから明らかとなってくるかどうかも現時点では定かではないが、少なくとも現状で日本の円が他の国の通貨と比較して安くなるか高くなるかの基準は、現時点での国際通貨の中でも基軸通貨となっているアメリカのドルと比べてどうかということであり、そうなるとアメリカの金利が高くなれば相対的に金利の上下が少ない日本の円が安くなって、逆にアメリカの金利が安くなれば相対的に日本の円が高くなるという関係の方が、日本国内の経済状況よりは優先されて、そういう条件も加味して日本の現状を考えると、ただ単に日本だけの事情や経緯を踏まえて議論するわけにも行かなくなってくるのだが、少なくとも現時点ではという条件付きだが、アルゼンチンやベネズエラやジンバブエなどの通貨安でハイパーインフレで財政破綻国と日本を比較すること自体ナンセンス極まりないが、そういうレベルとは別次元のこととして、国債の対GDP比の割合を他の主要国並みに下げるには、財経均衡主義を唱えておくのが無難なところで、それが方便として唱えるか本気で唱えるかはともかく、政府の予算の中で無駄でおかしな予算の使い方を指摘して、それを改めさせる試みも同時並行でやって行かなければならないし、そういうことをやっているのを緊縮財政派だと見なして批判するのはどう考えても筋違いであるから、その辺のところで積極財政派を自称する勢力の主張している内容がどうなっているのかを見極めなければならないし、また政府の予算の中で何を優先させなければならないかということに関しても、社会保障費や道路や上下水道の維持補修費などの社会インフラにかける費用は普通に考えても最優先事項になってくるにしても、それらの中身を精査してみないことには、そこでもおかしな慣習がまかり通っている可能性もあるから、一概にそれ相応の予算額が必要かどうかが部外者にはよくわからないわけだが、それに加えていかにも無駄に予算が使われているという先入観を抱かれる防衛費というのも、まずは自衛隊員がまともな生活環境の中で暮らしているかどうかに関しては、生活環境を改善するためにそれ相応の予算額を計上しても構わないだろうが、そういった予算額とは比べ物にならない桁違いに高い兵器の購入となってくると、事故が頻発しているオスプレイや古くて精度の低いミサイルをアメリカから大量に購入してみたりと格好の批判材料を提供してくれるわけで、そんな成り行きや経緯を無視して、ただ単に積極財政政策だけを掲げたところで、的外れな感を免れないし、また最近流行りのグリーンニューディール政策にしても、現に再生可能エネルギーの利用を推進しているイギリスやオーストラリアなどでは人々が電気代の高騰に苦しんでいるというニュースもあるらしいから、そこでもその政策の中身が問われてくるのだが、一つの政策を金科玉条の如く掲げているわけでもないだろうし、様々な方面で様々な主張や意見を複合的に組み合わせて提示するとわかり難くなってしまうのは仕方がないにしても、人々がそれを理解しようとしない限りは、ポピュリズムが蔓延するにまかせるだけとなってしまうから、安易に政治状況を批判する前に、民衆の民度が上がって行かない限りは民主主義が社会に定着することはないと思っておけばいいのではないか。


12月23日「表現と実態の乖離」

 回りくどいと言われればそれまでだが、それについて語られている内容を真に受けるなら、語られている内容と実態との間に乖離があるとは思えないが、何かわかったようなわからないようなどちらでもあってどちらでもないようなことをわざと主張したいわけでもないのだが、自分が把握している世の中の実態がメディアで語られている実態から著しく乖離しているとは思えないところが、何か勘違いしているようなしていないようなどちらでもあってどちらでもないような状態ではないはずだが、それを言葉を用いて捉えようとしているわけだから、そんな言葉を共有している他の誰にとってもわかりやすく共感を得られやすい表現を用いようとする意図に応じて、そんな意図や思惑から生じる勘違いの度もそれだけ高まるとは思えないところが、それが用いている言葉とそんな言葉に自らの思いを込めようとする意図や思惑との間の共鳴状態や相互依存状態を強める原因となるというと、単なる言葉遣いの問題なのかと物事を単純化したくなるにしても、一方ではこの国が滅びるという表現を使いながら、国なんか滅んでもいいじゃんと思い込んでいるわけでもないが、果たして国とそこに暮らす民衆との間に直接の関係があるのかないのか、そういうところがそもそもあいまいなような気がすると共に、この国に暮らす民衆の程度や状態も、人によって立場も境遇も異なるから一概にはその良し悪しなど言えないし、それに関してはすぐにわかりやすく共感できるような表現を使いたがる傾向として、経済的な貧富の格差や、社会的な権力や権限を持っているか否かに応じて、上級国民だとか下級国民だとかの表現を使って差異を際立たせると、浅はかな人々からより広範な共感を得られやすいと思われているわけでもないだろうが、そうやって差異を際立たせて対立を煽るようなやり方を真に受けるわけには行かないと思うわけでもなく、その種の言動に出くわすとなるほどと思って、そんな煽動的な表現を用いて大衆的な共感を求めてくる人の意図や思惑を見透かしたつもりになれるわけでもないのだが、その一方でわかっているつもりになりたいから、そんな煽動的な表現の使い手を小馬鹿にしたくなる気持ちを抑えながらも、自らはそんな表現を好んで使うわけでもなく、好んで使わないからといって、何かそれとは違うさらに大衆的な共感を得られやすい表現を知っているわけでも使っているわけでもないから、そういった表現から想像される世の中の状態を実態からかけ離れているとは思わないが、だいぶ誇張されているとも思っているし、だからといってその種の表現者と対立したいとも思わないが、そうは思わないがそれとは微妙にニュアンスが違うような気もするから、それに関してすぐに思い浮かぶのが、山本太郎やれいわ関係者が使う資本家という表現が何かずれているような気がするわけで、そのずれが顕著に感じられるのが投資家や機関投資家という存在になるわけだが、たぶん広い意味ではそれらも資本家なのだろうが、またそれとは別に重なる面もあるにしても会社経営者や会社役員なども果たして資本家に含まれるのかと疑念を抱くわけではないにしても、単純に資本家や資本家側の存在というカテゴリーに含まれるにしても、果たしてそれらの人々とそれ以外の一般の民衆が対立しているかどうかが、よくわからないというか、通俗的な解釈としてはよくわかるのだが、たぶん世の中の実態に当てはめようとするとよくわからなくなるという実感なのだろうが、資本家とそれ以外というおおざっぱなカテゴリー分けよりは、直接的な利害関係から個人投資家と機関投資家とか会社の経営者や役員と従業員とかのカテゴリー分けの方がリアリティを感じている人も多いと思いたいのだが、そうやって細かく分類していくと確実に政治的な主張の趣旨には合わなくなってしまうから、趣旨の内容に応じて、時にはおおざっぱに資本家という言葉を使いながら、一般の民衆とは敵対する立場の人として資本家という存在を持ち出す一方で、中小企業の味方を装うために大企業を悪く言わなければならないだろうし、また大企業の味方のような立場に見えてしまう労働組合の連合を悪く言わなければならないし、その連合を有力な支持母体にしている立憲民主党を悪く言わなければならないから、そうやってそれらと対立する存在として自身の政治的な立場が定まってくるにしても、それでも微妙に対立とは違った、場合によっては連携を模索しなければならない面も出てくるから、他の政党との対立を真に受けている支持者の思いを裏切るわけにはいかないとしても、それなりに筋の通った対応も場合によっては柔軟な対応も必要となってくるから、その辺が一筋縄では行かないとしても、それは他でも敵対しているように装っている資本家という存在の中でも、大企業が傘下の中小企業を食い物にしている実態がある一方で、機関投資家が個人投資家を食い物にしている実態もあるだろうし、おおざっぱに資本家と企業経営者が連帯している面もあるだろうが、その資本家が投資家になれば、投資家の意向を無視して株価が下がるようなことを企業経営者や役員会がやらざるを得ない場合もあるだろうから、そういった個々の事例を真に受けるなら、ただおおざっぱに資本家と一般民衆を敵対する方向に導くような言動を駆使して大衆的な支持を得ようとしても、そんな目論見がどれほどの効果を上げるかもはっきりしないところだが、もちろんそんな下世話な思惑などは初めからないと言い切ってしまっても構わないわけだが、そういった言動をどこまで真に受けても構わないのかどうかといったところで、何かこれといってはっきりした対立概念を提示できないのかも知れないし、最近の傾向としては、単なる行政機関の一部門に過ぎない財務省を悪者扱いするような、財務省そのものに特定の悪だくみがあるかのように主張されると、かなり激しい違和感や抵抗感を覚えるのだが、逆にそういうことを言い放つ人が感じているように見えてしまう昂揚感にも、この時代に特有な幻想が関与しているのかも知れないが、どう考えてもザイム真理教とかいう言葉を嬉々として使ってしまう人が大間違いを犯しているように感じられてしまうのも、そんな幻想に囚われている証拠かも知れない。


12月22日「納得し難く許し難い結果」

 何をやるにも一筋縄では行かない事情があるから理解し難いのだろうが、何かしらそうなるに至る経緯があって、人によってはそれが許し難いと思われて、そうなった結果からそんな結果を招いている人や勢力を批判していれば、批判していること自体が納得できて、批判している立場も正当化できるのだが、そんな結果にならざるを得ない経緯というのも、結果から見れば許し難いにしても、途中の段階ではそんな結果に至るなんて夢にも思わないし、うまく行くことが前提で事を進めているし、いくらそうなってしまう結果が許し難いとしても、そんな結果をもたらしている人や勢力を批判していれば納得できるということが、それを批判している人や勢力にとっては批判している限りで面目が保たれるから、批判せざるを得ないし、しかも批判の中で通用している論理や理屈が正しいと思われる限りで、批判する理由や根拠にもなっているから、そういうもっともらしい論理や理屈に基づいた批判が、批判者の立場や主張を正当化するには是が非でも譲れないところだろうが、その一方で結果的に納得し難く許し難い行為や行動や言動に及んでいる人や勢力の方が世の中の多数派の支持や賛同を得られていれば、何かそこに避けて通れない成り行きがあり、それが批判者にとっては納得し難いし許し難い経緯や事情に基づいていれば、そこからさらに批判者の感情を逆撫でするような許し難い行為や行動や言動も生じてきて、そこがここぞとばかりに批判や非難を浴びせるところでもあるから、批判されている側がそこを改めれば批判者も納得して批判や非難が止むはずだが、もちろんそこが改めるわけには行かない事情や経緯となるから、それを巡って対立する両者の言い分や主張が平行線に終始してしまうところでもあり、そこをこれ見よがしに強調すればますます議論が平行線に終始して納得し難く許し難い結果となってしまうだろうから、そこが議論するまでもなく批判や非難の対象となっている人や勢力に非があることの明白さも物語っているから、それをごまかしたりはぐらかしたりしながら言い逃れが始まるのだろうし、しかもそういう人や勢力のバックには世の中の多数派による支持や賛同があればあるほど、多数派と批判や非難の対象となっている人や勢力が共犯関係を築いている必然性もあるから、逆に批判や非難を浴びせている側がなぜか劣勢に立たされている事態となってきて、いかに彼らの言い分に説得力があって納得できる論理や理屈に基づいた批判や非難であろうと、それに反感を抱いている多数派の方が聞く耳を持たない必然性もなきしもあらずな事態となって、そうなればなるほど衆愚的なポピュリズムが一時的な勝利を収める結果になってしまうのだろうが、それが真っ当な批判や非難に終始していると思い込んでいる人や勢力にとっては納得し難く許し難い結果となるわけだが、そういうところで何が正しくて何が間違っているかという判断基準と、何が良くて何が悪いかという判断基準が微妙にずれている可能性もあるから、良かれと思ってやったことが結果的に間違っていると判断されれば、そんな判断を下した人や勢力に対して反感を抱く人々が多数派を形成して、理屈の上でも論理的にも正しくてもっともらしい批判をする少数派の人や勢力を多数派が数の力で抑え込もうとするだろうが、それが正しいやり方かといえば戦術的にも戦略的にも正しいのかも知れないが、論理や理屈の面では間違っているだろうし、そんな成り行きが納得し難く許し難いとしても、なぜかそんな成り行きがまかり通ってしまう時期をひたすら耐えなければならないとしたら、何かそれが不条理にも思われてきて、論理や理屈の面では間違っている多数派が数の力で正しい意見や主張や批判などを抑え込んでいる現状が長く続けば続くほど、それを黙認している世間の疚しさや後ろめたさも強く意識されるはずだが、そこには言い訳めいた開き直りも伴っていて、批判や非難の度を強めている人や勢力に対して、彼らは左翼だからと差別用語を当てはめて、それを払い除けようとするわけだが、それが通用しなくなるには左翼でない人や勢力までが批判や非難に加わる必要があり、そういうことを考慮した上で現状を肯定的に捉える態度や姿勢が必要になってくるかというと、そうでもない人や勢力も相変わらず幅を利かせて、盛んに左翼でない人や勢力を批判や非難の対象に加えようとするのだろうが、そこで正しい論理や理屈とは矛盾するやり方が積極的に求められているわけでもないのだが、批判や非難の急先鋒を自負しているつもりの人たちにはわかっていないことがあるらしく、わかっていないからこそ左翼でないことを理由や根拠にして批判や非難を浴びせようとするわけで、そうなると論理や理屈の面ではそれで正しいとしても、戦術的にも戦略的にも間違っていると見なさざるを得ないわけではないにしても、なぜか結果的に彼らが次の新たな時代の中で主導権を握れずに無視されて忘れ去られた存在となってしまうわけでもないだろうが、いつの時代にも反主流派的な存在としてそういう人や勢力が少数派にとどまる宿命を背負いながらも、論理的にも理屈的にも正しい主張や意見や批判を繰り返している実態があるから、そうならないような戦術や戦略が求められているわけでもないのだが、そういうことを理解も自覚もしていないのに、実際にそういうことをやって世の中の主導権を握る人や勢力が現れるわけで、それがなぜそうなってしまうのかという問いに対する回答では解明不可能な成り行きの結果としてそうなってしまうから、それも論理や理屈の面で正しい主張や意見や批判を繰り出す人や勢力にとっては納得し難く許し難い結果になるだろうが、実際にそんな結果を目の当たりにすれば、世の中の多数派を構成する人々がどちらの味方になって支持や賛同を表明するまでもなく、論理や理屈から正しい主張や意見や批判を構成する人や勢力とは一味違う人や勢力に魅力を感じて、もちろん魅力を感じる理由や根拠がはっきりとわかるような言語化などを伴わないところも納得し難く許し難いところでもあるわけだ。


12月21日「誰も気づかない予兆」

 来るべき時がついに来たわけでもないのだろうが、果たして来るべき瞬間に誰がそれに気づいているかどうかも怪しいのかも知れず、誰もそれに気づいているとは思えないとしたら、その時とは誰もが注目している時ではなく、誰も注目はしていないだろうが、多くの人々が別の出来事に目を奪われている隙に人知れず事態が推移しているから、そんな事態に誰もが気づくわけでも注目しているわけでもないとすれば、そんな事態とはどんな事態なのかと言えば、忘れた頃に大規模な地震が起こるのもよくあることで、それが起こる予兆に気づいたところで、大抵はそれが起こった後から、あの時の胸騒ぎはこれだったのではないかと思ったところで、後の祭りには違いないのだが、それでも何か嫌な予感がするからそこから急いで遠ざかった後に巨大地震でも起これば、間一髪で災難から逃れたことになるのだろうが、少なくとも大規模な地震が起こった瞬間にはそこにいる誰もが気づきそうだが、地震ではないとすると何なのかというと、自然災害の類いではなく人災なのかも知れないが、ひょっとすると人災ですらなく、ちょっとした行き違いや手違いによって人や物や情報などの流通が少しの間だけ滞ってしまったからといって、すぐにどうなるわけでもないと思っていると、そんなことでもバタフライ効果のように影響が増幅されて、結果的に社会の方々で支障をきたす場合もあるかも知れないから、いちいちそんなことにまで事前に注目したり、それをきっかけとしてまるで他人の粗探しのように目くじらを立てる必要もないのだろうが、それでも何かが起こる前ではなくすでに起こっているのに、しかも現に起こっている最中においてもそれに気づかないようなら、何でもないようなことでしかないはずだが、それが起こっている最中においてはそうだとしても、そこからある程度の時間が経ってから事の重大さに気づくのもよくあることかも知れないが、そうではなく、起こる前でも起こっている最中でも起こった後でもそれに気づかないとしたら、どう考えても何でもないことには違いなく、そんなことに気づく必要も、さらには大げさに注意喚起する必要もないだろうが、そんな気づく必要もないことが今も世界の方々で起こっているから、さらには起こっているわけでもないのに言説の中に示されている場合もあるから、誰もがそれに気づく必要もない事件や出来事や現象などの影響を受けながら世界が絶え間なく動いていることに気づくはずもなく、それよりは逆に誰もがすぐに気づくようにメディアを通じて用意周到かつ大々的に報じられる事件や出来事や現象などの影響を受けながら、しかもまだ気づかない人にまでそれに気づくように仕向けられている事件や出来事や現象などの影響を受けながら、世界が動いているかのようにもっともらしく語られてしまうわけで、別にそれが悪いことでも何でもなく、そうやって世界を動かしている黒幕的な誰かが世界の方々に存在しているとも思えないし、そんな黒幕的な誰かの悪事を暴くために、ジャーナリストの類いが日夜世界中を駆け回っているとも思えないが、何かそういうところで多くの人々が騙されているわけでもはぐらかされているわけでもなく、もっと身近でメディア的な基準ではどうということはない些細な日常から生じる細々とした事情や経緯に意識を囚われながら暮らしているから、そんなことに気を取られているうちに、それらが遮蔽版などの障壁となって、大局的な見地から判断しなければならないことがおろそかになっているのかも知れず、しかも自らが判断する資格も技量もないような気になってしまうから、そういう小難しそうなことは他の誰かその筋の権威のような存在に判断をまかせようとしてしまい、そんな権威に従っている意識はないのだろうが、そんな権威のような存在に限って、その悪事を暴き立てようとするジャーナリストの類いに反感を抱いているとすれば、その気もそのつもりもないのに権威に従っていることに気づいていないわけで、しかもそれが権威とはとても言えないようなネット上のご意見番のような存在であるなら、さらにそんな小物の言うことを聞く気もないのに聞いているどころか、なぜか共感を寄せいていることにすら気づいていないわけだから、それ自体が大したことではないのに、そういうどうでもいいような共感が他の多数の人々の意識を経由して、それがバタフライ効果のようにして世の中に広まってこの世界に多大な影響を及ぼしているのだとすれば、それをあからさまに差別意識と言ってしまうと事を大げさに捉え過ぎかも知れないが、それに関して日本のどうということはない政治家の差別意識とイスラエルの民衆の中に蔓延している敵対者への憎悪や差別意識が同じレベルではないのは明らかだと思いたいが、バタフライ効果を考慮に入れれば、小さな何でもないようなちょっとした差別意識が他の多くの意識と共鳴し合って、当初には思ってもみなかったような重大で深刻に感じられる事件や出来事や現象を引き起こしていると考えれば、例えばアメリカで起こっている銃の乱射事件なども、そのきっかけは日常の些細な感情の行き違いや衝突から始まっていると考えられはするが、それを銃規制によって深刻で重大な事件に発展しないように抑制したいのだろうが、銃の使用を規制したところで相変わらず憎悪の感情が燻っているわけだから、アメリカとは別のやり方が日本では行われているかも知れないし、それがより陰湿で執拗な攻撃に発展しているから、ジャーナリズムもメディアもそれを深刻な社会問題として取り上げたいのだろうが、それが道具として銃を活用して暴発させるのがアメリカで行われているやり方だとしても、攻撃の道具が戦争の道具としても使われるわけだから、より苛烈なやり方で組織的に戦争の中で使われている実態もあるわけだから、今さら武器よさらばとはならないものの、武器にはそれに打ち勝つ武器で兵器にはより強力な兵器で対抗する手段がエスカレートして行くとしても、それと同時にそうではないような方面からそういった傾向を抑制するようなことも行われているわけだから、そういう傾向に気づいてそれを推し進めようとする人や勢力もいくらでも存在している現状もあるわけだが、その一方でそれに気づいていない人たちが抱いている幻想というのが、そんな傾向を促進する方向にも抑制する傾向にも働いていて、それが経済的な効果を伴いながら働いているから、そこから功利的な傾向の利害心も必然的に生じてくるわけだ。


12月20日「きっかけの連鎖」

 何かきっかけがあったからそんなことが行われるようになったのだろうが、そのきっかけというのが、きっかけがあった時点では良し悪しの判断などつかないし、もちろんそんなことをやっている当事者には良かれと思われて、なし崩し的にそんなことが行われるようになったはずだが、きっかけというのは前もって人為的に制御することはできないし、逆にきっかけを人為的に作って、やりたいことをやりやすいようにする成り行きもあるだろうが、果たしてそれで人為的にそれをやるきっかけを作ったことになるかというと、それ自体はそうだとしても、人為的にきっかけを作らざるを得ない事態に追い込まれている可能性もあるから、きっかけを人為的に作らされたそのきっかけというのが、それとは別のきっかけから強引にそんなきっかけを作ってやらざるを得ないことが生じている限りで、それ以前に人為的にそんなことをやらざるを得ないきっかけがあったことになるから、そんなことをやるきっかけをもたらした人為的でも恣意的でもない経緯や事情がそれをやるきっかけを作ったことになるはずだが、それをやってしまった結果から説明すればそういうことになるにしても、きっかけが生じた時点では、まだそれが行われた先の結果に至っていないわけだから、まだそれを説明する段階にも至っていないわけで、それが結果に至る途中の段階で生じてしまう紆余曲折を伴った経緯や事情となるにしても、結果からそれが行われていたことの良し悪しを判断する立場にある人たちにとっては、そんな途中で生じている紆余曲折の経緯や事情などをいちいち考慮に入れていたらきりがないわけで、そういうわけで結果的に判断するのに都合の良い単純な判断基準としてわかりやすいのが、それが合法か違法かという基準で事の良し悪しを判断できれば確かにわかりやすいのだが、そんな判断基準で事の良し悪しを語れる水準ではそれで構わないわけだが、それ以外に何か留意すべきことがあるのかというと、誰にとっても留意すべきでもないのかも知れないし、そういうところは人によっても立場によっても異なってくるかも知れないが、そんな違法行為を取り締まる当事者でもないのに調子に乗ってそれを咎めていると、やがて頃合いを見計らって梯子を外されるようなことを仕掛けられる危険性があるから、そういうところは程々にしておいた方がいいような気もするが、往々にしてやり過ぎてしまう傾向にもなってくるから、それがその種の違法行為をやってしまう人や勢力にとっては付け入る隙になってきた経緯もあるだろうし、逆に違法行為を繰り返してきた人や勢力の方が結果的には世の中の主流を占めているような逆説的な事態にもなっているわけで、そういう点に留意しておかないと、違法行為をやってしまった人や勢力を一方的に批判したり非難していると、思わぬ情勢の急変に足元を掬われて、正しい批判をしている側が逆に窮地に陥るという不条理な結果を招くことにもなりかねないが、それでも構わないような成り行きの中で違法行為をやった者勝ちな状況にもなっているから、それがバレない限りは違法行為をやりたい放題やれるわけでもないにしても、それをやっている側としてはバレたところで居直れるような状況にもしたいわけで、そういう意味では違法行為を叩くだけではなく、何かそれとは違う方面から主張すべきことがあるかというと、例えば違法行為をやるよりはもっと確実に利益を得られる方法があるかというと、違法行為が摘発される危険と隣り合わせで行われるヤバい行為であるのと同じではないが、合法的に利益を得られるやり方にしてもそれ以上に損失を被る危険性も高いなら、やるには絶えず躊躇や逡巡が伴い、それを無視する勇気や度胸が必要にもなってくるのだろうが、どちらにもある程度は常識外れな馬鹿でないとできないような成り行きが含まれてくると、中途半端に利口な人たちは保守的で確実な世間一般でも認められるような月並みなことをやろうとするだろうから、馬鹿な奴らは向こう見ずな賭けにも出られるが、そんな奴らの大半が失敗することが目に見えている賢い人たちは、そんな馬鹿な奴らを利用して確実に利益を得られるやり方を模索するだろうし、そんなことをやったところで誰もが利益を得られるとは限らず、利益を得ようとする者たちの中からごくわずかな者だけが思った以上の莫大な利益を得られる一方で、大半の者たちは人並みな利益で我慢を強いられるのだろうが、その人並みというのも場合によっては人並みではないような状況にもなってきて、ごくわずかな者たちが人並み以上の莫大な利益を取り過ぎるからその皺寄せを受けて、人並みの水準が次第に人並み以下の低水準に低下してくる傾向というのが、貧富の格差が拡大する傾向なわけだが、果たして本当にそうなるかというと、それも人によっても社会的な立場や境遇によっても異なってくるだろうし、世間的な実感としてその国や地域の経済的な事情や経緯にも応じて、相対的にそう感じる人が世の中で多いか少ないかでその国や地域の経済の水準も違ってくるだろうが、そんな実感がその国や地域の政治や行政にどれほどの影響を及ぼしてくるかも、現状が示しているところではあるにしても、そんな相対的な実感とは微妙にずれる水準や次元として、人が自由に生きられる程度というのもそれなりの幻想を伴いながら、経済的な事情や経緯に左右されている面もあるから、そういうところで行政が定める法律や管理運営している制度が心理的な影響を及ぼしてくるわけで、そこであまりにも行政に依存した生き方を強いられるなら、自由を奪われていると感じられるから、それに関しては例えば人の活動や思想信条の自由を奪う制度の中国から他国へと亡命する人々が後を絶たないような成り行きもある一方で、それに対して日本ではどうかというと、行政による締めつけは相対的にはそれほどきつくない一方で、社会からの締めつけが相対的にきついから、それなりに自殺者も多く出ている実態もあるだろうが、それが差別的な慣習を伴うような心理的な締めつけであると同時に、そこから経済的な締めつけも生じてくるからややこしくも執拗な傾向を示していて、そんな社会的な締めつけを主流派の政治や行政も改善しようとしないから、それなりに自由を求める人々の不満も高まっている一方で、逆にその種の締めつけを利用して利益を得ている人や勢力もあって、そんな人や勢力が政治や経済の中で主導権を握っている実態があるのではないか。


12月19日「結果に一喜一憂する愚かしさ」

 相変わらず予感が当たっているようでいて、なぜかそんな予感に合わせてわざと的外れなことを述べたくなるのかも知れないが、誰がそんなことを述べているのかといえば、そこに関わっているつもりの誰もがそんなことを述べているわけでもなく、逆に大半の人たちはそれらしいことを推測して、述べていることが真実に近いように装っているのかも知れないが、それに対して自分だけが勘違いしているとは思えないが、そう思っていること自体が勘違いなのかも知れないし、いずれにしても結果が出てみないことにははっきりしたことはわからず、それが何の結果なのかというと、それまでにわかったことを小出しにリークして撒き餌をばら撒いた結果であれば、現状のような結果がもたらされているわけだが、それよりもその先の結果を誰もが知りたいわけで、期待している結果がいつまで経ってもはっきりしないのでは話にならないが、それが何の結果になるかが現状の中ではそれほど重要だとも思えなければ、結果をそれほど重視しているわけでもなさそうで、ではそれとは別に何を重視しているのか皆目見当がつかなければ、そこに至る過程の中で何かしらヒントが隠されていると思いたくなるが、結果よりは結果に至る過程の方が重要な気がするのも、何かそこで勘違いを犯しているようにも思われて、さらに何を述べたいのかさっぱりわからなくなってくるが、たぶん焦らしているのではなく時間稼ぎをやっているような感じなのかも知れず、それが何のための時間稼ぎなのかが今のところはよくわかっていないわけだが、それでも当てが外れているとは思いたくはないのだから、それが勘違いの原因なのかも知れず、それによって世間の関心が何かとんでもないような方面へと誘導されているとも思えないのだから、捜査結果に誰もが関心を持つように仕向けられていることは確かなのだが、それが退路を絶って背水の陣で事に臨んでいることの表れだと世間に受け止められるようなら、大方の意に反して大した結果にはならないと予想したくなるのだが、当てが外れているのはそんなことではないとしたら、当てが外れているように思わせたいのでもないとすると、たぶん予感が当たっているのであり、大した結果には至らないのかも知れないが、それが人によっては大した成果が上がったと思いたいのかも知れず、場合によっては思い通りの結果だと思いたい人もいるから、そうなると結果をわざと大げさに賞賛したくなるのだろうが、それが自らの予感とは相容れないどころか、そう思ってしまう人がいるのも想定内だと結果を受け止めたいのだが、なぜかそれが大方の予想通りだと思われることの真相であり、結果を都合のいいように解釈したいことの表れなのだろうが、誰にとって都合がいいのかといえば、事を穏便に済ませたい人たちにとっても、事を荒立てたい人たちにとっても都合がいいわけで、では果たしてそれ以外の結果が出てくるのかというと、そんな結果が出てきたところで、やはり結果を都合のいいように解釈してしまうから、そんな解釈を真に受ければ予想通りの結果だと見なして、何かそれで安心できるわけでもないのだろうが、要するに安心して不安に駆られるような逆説的でかつ予定調和な反応を示せるから、それもそうなった方が都合がいいわけで、結局はどんな結果が出ても、それを都合のいいように受け取る姿勢が変わらなければ、そう受け取っていられる人の勝ちだと思いたいわけだが、果たして本当に勝ちなのかどうかは、それもそれを勝ちだと解釈した方が都合が良ければそれで構わないわけだが、果たしてそれ以外の解釈が成り立つのかというと、成り立たないわけではないのだが、それに関しては面倒で意味不明な紆余曲折を伴うような回り道を経由した挙句に、人々の期待を裏切ったことさえうやむやにしたいような結果が出ることが望まれているわけではないにしても、望まない結果が出てしまうことに対する反応というのが、失望以外の何ものでもないのもわかりきったことには違いないのだが、そうなることを望んでいるわけでもないのにそうなってしまうのもよくありがちなことでもあるから、そうなることを覚悟しておいた方がいいと警告してみたところで、たぶんそれも予想通りの反応だと都合良く解釈してしまうわけだから、結果的に何がどうなろうが知ったことではないとは思わないが、相変わらず何かがどうにかなってほしいという希望を捨てきれず、その何かが何なのかが、誰もが推測できる範囲内である限りで、そんな推測をしてしまうこと自体も予定調和な結果であるような気がしてしまうから、そこでも結果を都合良く解釈してしまうご都合主義が幅を利かせているわけだが、そうであるならどんな結果が出ようが、そんな結果を打ち砕くことができるかどうかが期待されているのも予定調和な範囲内の反応には違いないのだが、果たしてそんな期待に応えられる人物や勢力が現状の世の中に存在しているかというと、すぐに思い当たるのが現状を劇薬を用いて変えようとしているように見なされる人物やその人物が率いている勢力になるだろうが、それが誰かということが誰もが知っている人物や勢力になるのだとすれば、それこそが予定調和で予想通りの期待であって、結果的には何の面白味もないわけではないにしても、そういう劇薬的な効果というのが比喩としてそう思われている以上に、それに対して穏便で無難な期待というか、すでにそう思われている時点で期待外れだから、あまり表立ってその人物やその人物が代表となっている勢力に対しては期待など語られず、どちらかと言えば批判の方が殺到している印象も拭えないが、その穏便で無難な効果が期待されていることを何に喩えればしっくりくるかというと、劇薬よりは風邪薬程度のプラシーボ的な効果と言えば、何となく予想がつくかも知れないが、意外と世の中の多数派を構成するような人々がどちらを選ぶかというと、それが意外でも何でもなく、風邪薬程度の気休めのような効果の方を結果的に選んでしまいがちだと推測してしまうわけだが、果たして結果がどうなるかは今後の捜査の進展次第というわけでもなく、それとは無関係なところで思いがけない結果が出てくる可能性もなきにしもあらずなのではないか。


12月18日「それでも構わない現状」

 現状でうまく行っていない物事が目立ってしまって、そこばかり強調してこのままでは日本が滅びるとか警鐘を鳴らしてしまう人が後を絶たないとしても、そんな人たちには言いたいように言わせておいて、後は放って置かれるだけというわけでもないのだろうが、それでも構わないような現状の中で何かもっともらしく納得が行くようなことを述べたところで、やはりそんなことを述べたい人たちには述べたいようにさせて後は放って置かれるだけというわけでもないのだろうが、たぶんそういう現状が納得が行かないのかも知れず、納得が行かないから自身が放って置かれるような物言いとは違うことを言いたくなってしまうのかも知れないが、別に放って置かれても構わないような現状があるから、そこから自由な物言いを夢想したくなるとしても、果たしてそれが自由な物言いだといえるかというと、そこで何か引っかかるものを感じるとしたら、今度はそこから自由ではない物言いの不自由さを実感できるかというと、それがそんな現状に対して異議を唱えることにつながるのだろうが、いくら現状に対して異議を唱えたとしても放って置かれるだけなら何もやりようがないわけで、要するに放って置かれないように他からかまってもらえるような物言いに終始しなければならなくなってしまうと、毎度のおなじみの煽動的な物言いになってしまい、現状の中で絶えず異議を唱えるのにふさわしいようなことを煽り立てる成り行きに持って行きたくなるのだろうが、ではいったい何を煽り立てているのかというと、現状が否定的な傾向になっていると煽り立てるわけだが、果たしてそんな物言いが嫌なら逆に現状を肯定できるかというと、無理に肯定する必要はないかも知れないが、無理にではなく素直に情勢判断や情勢分析に基づいて現状を肯定したいなら、世の中がうまい具合に回っているところを肯定的に評価すればいいのだとしても、具体的に何がそうなのかというと、やはりそれが逆説的にそうなっているのではなく、そうなるのが当たり前のようにしてそうなっているところを肯定的に評価できるかというと、そういうところは評価するまでもないところであって、そこではそうなるのが当たり前のようなことが当たり前のようにして行われているから、そうなっていても何とも思われないのかも知れず、それがそうなっていなければ、必ず文句が出るわけでもないのだろうが、そうなっていてもいなくても構わないようなことではなく、そうなっていないと困るようなことであれば、困らない程度にそうなっていれば、誰もそれに対して文句など言ってこないのだろうが、文句が少しでも出るようなら、それを無視できなければ何かしら対処や対応の対象となるにしても、果たしてどこからも文句が出ないようなことをやれるかというと、どこからも無視されるようなことをやっていれば、確かに文句とも無縁にやっていられるだろうが、そうではなく何かをやればそれが他の誰かの利害とぶつかってきて、それが自らを利するようなことであれば、必ず利害を巡って他の誰かとぶつかり合うわけでもないのだろうが、お互いの利害がぶつからないように調整し合うことができれば、そうなっている水準ではうまく行っていることになるのだろうが、利害がぶつかってくるのがその二人や二つの勢力とは限らず、他にも複数の人や勢力と利害がぶつかるようなら、その種の調整も困難を極めるだろうから、そうなると何事もうまく行かない様相を呈するのだろうが、たぶん現状の世の中ではそうなっている面が目立っていて、そんな面を挙げて行けばきりがないにしても、そんな現状を肯定したくなるならそれでも構わないと思うしかないのだが、果たして肯定する気になれるかというと、それよりはうまく行っていない面を批判している方が何かとやりやすいのかも知れず、だから世の中のあらゆる面からうまく行っていないことに対して批判が湧き上がってくるのかも知れないが、もちろん批判の矢面に立たされている立場の人としては、そういった批判とは戦わないと自らの立場を守れないから、戦い方にも色々あって、真正面から正々堂々と議論するのではなく、うまくいなしたりすかしたりごまかしたり無視したりしながら、うやむやのうちに何事もなかったかのように振る舞いたいのであれば、何か後ろ暗いことがあるから、そこをごまかしたいという意思表示でもないのだろうが、そういった回りくどくも面倒で大した効果も成果もよくわからないようなやり方では納得できないなら、技術的な確かさやシステマチックな出力を期待して、単純な作業をごり押しするような傾向になるのかも知れず、それがデジタル化を口実や掛け声に使って行われていることだと現状を解釈するなら、何やら話の辻褄が合ってくるような気にもなるが、それらが同時並行して行われているから、ますますいかがわしさや詐欺的な印象も強まってきて、それに対する批判や非難の苛烈さも強まってしまうのかも知れないが、それに対して抗議したくなるのも当然の成り行きには違いないのだが、素直に抗議してはそう仕向けてくる側の思う壺というわけでもなく、抗議したければ抗議させるだけさせて後は放って置かれるだけではないにしても、放って置かれないようにするにはどうしたらいいのかというところで、何やら行き詰まりの気配も漂ってくるにしても、何かそうなってしまう人たちが見落としている点があるのかといっても、別にそれに関して思い当たる節もないのだが、その種の抗議が報われるのかというと、報われてこなかった歴史が何を物語っているわけでもないとは言えないものの、そこに単純な利害関係を当てはめるわけには行かず、というかそうなっている状態を短期的な視点で見てもよくわからず、長期的な視点で見ても何が見えてくるわけでもないが、長期的にどうなっているのかを注意深く見て行かないと、すぐに結果が出るようなことではなく、そうかといってかなりの歳月が流れてしまうと忘れられてしまうのだが、少なくとも何もしない傍観者にはなり得ず、自らの意志とは関係のないところでそうせざるを得ないようなことをやらされている現状に気づくわけでもないのだが、たとえそれに気づかなくてもやるべきことをやっているような感覚に囚われているなら、放って置かれてもそれをやるしかないわけだ。


12月17日「競争原理と新自由主義」

 何かややこしい仕組みが見掛け倒しであることを隠すために幻想を振りまいているようだが、それに関しては何でもかんでも競争原理一辺倒で構わないわけではなく、場合によっては競争原理とは相容れないやり方も必要となるのかも知れないが、その辺のさじ加減がわかっていないと、一つの傾向ばかりを推し進めるような一方的な成り行きになりやすいが、それに関して何かと誤解を招くような建前と本音を使い分けるご都合主義ではなく、単純に矛盾したことをやらなければならないというと、さらに誤解を招くかも知れないが、そういった傾向に伴って新自由主義に関しても誤解している人がいくらでもいるから、それ以前に新自由主義を悪く言うためにわざと誤解しているように装っているわけでもないのだろうが、浅はか極まりないやり方としてすぐに槍玉に上げたくなるのが、今まで競争していなかった産業分野に競争原理を導入するのが新自由主義的なやり方なのではなく、ただ単に競争を阻害するような独占企業を規制するのが新自由主義だと言うと、両者の違いがわかっていない人たちが文句を言ってくるかも知れないが、新自由主義にも良い面と悪い面があるから一概に良い面ばかりを強調するわけにもいかないのだろうが、逆に悪い面ばかりを強調して悪の権化のような言い方で新自由主義を否定しにかかるから、救いようのない馬鹿な連中だと蔑みの眼差しで見られてしまうのかも知れず、どちらにしても理性的で合理的なやり方と共に、矛盾したやり方も併用しないとうまく行かないというか、それ以前に資本主義市場経済そのものが矛盾しているわけだから、矛盾をどう利用するかがうまく市場経済に介入する鍵となるわけで、大企業による寡占状態となって競争がなくなると資本主義市場経済が停滞してしまうから、政治や行政が介入して自由競争の状態を確保しようとするのが新自由主義がやろうとするところだったはずだが、日本の場合は逆に大企業による寡占状態をもたらすために規制緩和して競争原理を導入しようとするわけだから、結果的に新自由主義とは真逆のことをやっているわけだが、それを新自由主義の弊害だと批判してしまうと、二重に間違っていることは確実なのだが、それを新自由主義を悪の権化だと攻撃しているつもりの人たちはわかっていないと批判するのも酷だが、そういうところがややこしくもわかり難いところなのかも知れないし、わからなくても構わない現状もあるのかも知れず、弱肉強食の資本主義経済の中で競争して行けば、遅かれ早かれ少数の大企業による寡占状態となってしまうわけだから、新自由主義を批判している人たちの方が論理的には正しいわけだが、論理的な正しさを真に受けても構わないのかというと、実態として世界中で少数の大企業による寡占状態が成り立っているわけだから、それを正しく批判したとしてもその批判が正しいこともわかりきっているとしても、実際にそうなっているわけだから、正しい批判とは相容れない現状があって、だから矛盾したことをやらなければならないといっても、具体的に何をどうしろというのかよくわからず、納得し難いのも当然のことだが、なぜか行政がやるべきなのが、新自由主義とは真逆の労働者を守るための社会主義的なサポート体制を構築することだというと、さらに矛盾してくるが、果たしてそれで自由競争を促進することに結びつくのか疑問を感じるところだが、人々を支配して管理して統治するのではなく、あくまでもサポートに徹することになると、現状で行なっている行政の統治とはますます背離してくるかも知れないが、例えばわかり難い例外規定をいくつも付け足して税制面での優遇措置を充実させるのではなく、ただ単に簡素でわかりやすい税制にして行くことが、事務処理を軽減化させるには有効だが、そうやって何を目指すのかといえば、人やシステムに過度な負担をかけないことが肝要で、その負担というのが心身への負担であると同時に経済への負担にもなってくると、負担をかけないやり方というのが制度のわかりやすさに結びついてきて、それが現状の社会の隅々にまで行き渡って蔓延している監視社会的な息苦しさの軽減に役立てば、それだけ人や物や情報の自由な流通を促進させることにも寄与するのだろうが、その一方でどうしても制度を管理運営する側の視点からすれば、権力を行使して自由を制限しようとしてしまうわけで、そういった官僚主義的な傾向が蔓延してくると、必ず人や物や情報の囲い込みに結びついて、それよって社会を安定させると共に停滞ももたらしてしまうわけだが、人や物や情報を制度の枠組みに組み込んで従わせようとするのではなく、人や物や情報の自由な流通を制度がサポートするようなことが行われるなら、新自由主義的なやり方に近づくといってみたところで、では具体的に何をどうすればいいのか皆目見当がつかないところで、言うのとやるのではレベルや次元が異なり、実際に何かをやっている当事者たちが実践の現場で工夫を凝らさなければならないところでもあるから、ここでは何とも言えないところだが、現状でもわかっていないところがあって、現状の悪い点を挙げてゆくのは比較的容易だが、それらをどうやって修正したり改善して行けばいいのかと言うと、それが言うだけでは修正も改善もままならないわけで、言うだけではなくやらなければならないわけだが、ただ監督官のような立場で部下に向かって指図していればうまく行くのかといっても、そんなわけには行かないから、そこから先のところでは実際に何かをやっている当事者が自身の思うことを実践すればいいというわけではなく、なぜか場合によっては自身の思っていることとは矛盾したことをやらざるを得ないようなことが起こってしまうからますますわけがわからなくなってしまうのだろうが、微妙なところで何かがずれていることに気づかないと、やはり必ず官僚主義的な支配と管理と統治に結びついて、安定と停滞をもたらして自由のない息苦しい世の中になってしまうわけで、その微妙な何かが理性的で合理的な思考や理屈からは生じてこないから、それとは矛盾するようなことを実践しなければならなくなってきて、そんなことを思いがけずやってしまう当事者たちを度々困惑させるわけだ。


12月16日「古の知恵」

 一見何でもないようなこの時代でも、何か小波乱のようなどうでもいいような些細な事件がまるで深刻で重大な出来事のように断続的にメディアで取り上げられて、それに対して昔は良かったと過去の時代の良い面を懐かしみながら、現状の相対的なひどさを憂うばかりでは、時代が未来へと前進しないような気がするにしても、その一方でなぜかそれでも構わないような気もして、たとえば昭和の時代の良さは経済の高度成長に支えられていたからで、それがなくなった今では、昭和の時代ではまかり通っていたことがまかり通らなくなってしまったから、昭和の時代とは全く違う困難に直面しているわけだが、果たしてそんな歴史的な経緯を無視しても構わないかというと、無視しないと今ここで起こっていることを批判できないのかも知れないが、批判がその程度でも構わないのかというと、それ以上の高度なレベルで批判できるのかといっても、何か無理なような気もするわけで、過去の時代の良い面を強調しながら、今の時代のひどい面を批判するやり方が、西洋で古代ギリシアを理想化して懐かしんだり、中国で三皇五帝の統治を讃えてみたりするやり方に学んでいるわけでもないのだろうが、自然と人の意識や思考がそうなってしまうのだから、そうならないように注意しろと警句を発したところで、そうなるように仕向けられている時代情勢に逆らえるわけでもなく、逆らえなければそんな時代の流れに応じた言説が自然と出てくるにまかせるしかないだろうから、それを肯定的に受け止めておけばいいのかも知れないし、そういうところでそんな成り行きにあからさまに逆らうのではなく、何かそれらとは違う画期的な見解や認識を提示できればいいのかも知れないが、それが無理ならせめてそれとは微妙にずれた内容を述べてみたいのだが、結果的にはどうということもない凡庸な見解や認識にしか至らなければ、どちらかといえば肯定よりは否定的に受け取られてしまうのだろうが、何かそれに加えて言うべきことというか、言わざるを得ないことがあるとすれば、過去の時代のひどい面がなおざりにされてきたから、それが今の時代の禍いにつながっていると解釈したくなってしまうわけだが、では昭和の時代のひどい面が何かといえば、もちろん田中角栄を筆頭とする金権腐敗政治に他ならず、それが今の時代にも脈々と受け継がれているわけだが、どういうわけか今の時代に田中角栄を肯定的に評価する一方で、山本太郎を現代の田中角栄だと褒め称える人々の頭の中では、政治に金権腐敗を蔓延させた昭和の否定的な面がきれいさっぱり洗い流されているわけでもないはずだが、何かそういうところがご都合主義的なメンタリティだと批判したくなってしまうが、それに対して立憲民主党の中でも何かと批判や非難の矢面に立たされている泉健太にしても野田佳彦にしても米山隆一にしても、陰謀論者で有名な原口一博にしても、自民党とは違う保守勢力を目指して自民党とは違う政党を立ち上げているわけだから、そういう面は評価しても構わないとは思うのだが、それに対してある種の批判勢力を代表するような識者やジャーナリストの類いときたら、自民党の政治資金に絡む裏金問題を自民党の伝統である金権腐敗体質として叩く一方で、返す刀で今度はそれとは別の方面から立憲民主党の主要な政治家たちをディスりまくるという毎度おなじみの与党も駄目だが野党もだらしないという紋切り型の言語表現にハマっている愚かな人々なわけだが、確かに財務省の緊縮財政論に洗脳されていると噂されている野田佳彦や米山隆一や枝野幸男などを批判している一方で、原口一博は消費税の減税や廃止を明確に訴えているし、同じく立憲民主党の馬淵澄夫はれいわの政策に理解を示していて、れいわの方でも山本太郎は元立憲民主党の政治家で選挙で落選した森裕子をれいわに勧誘したがっているし、れいわの現幹事長の高井たかしも元立憲民主党岡山県連合代表であるから、選挙で落選したり不祥事を起こして除籍処分にならなければ、彼らは立憲民主党の政治家にとどまっていたはずだが、そんな成り行きの中で現状をどう捉えたらいいのかといっても、肯定的に見るならそれで構わないと思うしかなく、そこから事態がどう転がって行くにしても、結果的にはなるようにしかならないと現時点では思っておいて差し支えないが、政治にあまり関心がなければ詳しい事の経緯やそこから生じてくるややこしい事情など無視して、与党も駄目だが野党もだらしないという紋切り型のメンタリティに意識や思考が取り憑かれていても構わないわけで、そんな人々の存在が世の中の多数派を構成していても、それで構わないような成り行きに従って情勢が動いて行くと見ておけばいいとしても、たぶんそう思っているとそんなありふれた思いを裏切るようなアッと驚く事態が待ち受けているとも限らず、そんな出来事が起こることを期待していても、期待を裏切るようなうんざりする事態が待ち受けているとしても、そのどちらがどうだというわけでもなく、そんな結果の良し悪しとは関係のないところで人知れず事態が推移していて、今回の自民党の裏金問題にしても、誰もがそんな状態が常態化しているのを薄々承知の上で当たり前のように政治情勢を捉えていたはずが、それが思いがけず検察権力が立件しようとしていることが明かされると、にわかに色めき立って、ここぞとばかりにメディアやジャーナリストや野党勢力などが自民党の金権腐敗体質を糾弾するようなことをやり始めているわけで、それが毎度おなじみのごとく共産党が赤旗などの左翼メディアの記事を基にして国会で追及しているだけでは、他の与野党もメディアもガン無視を決め込んでいるはずが、何に踊らされているかは承知の上だとしても、ここぞとばかりに騒ぎ立てているわけだから、そこに与党内の権力争いのようなもっともらしい陰謀が関与しているとしても、何かの機会が巡ってきていることは確かで、たとえそれがすっぽ抜けて大山鳴動して鼠一匹な結果に終わろうとも、騒いだ者勝ちな雰囲気を漂わせている限りで、調子に乗って騒ぎ立てるにしても、それに乗っかって騒ぐ上で守るべき金科玉条のルールとして、与党も駄目だが野党もだらしないという紋切り型のメンタリティに染まることは、現状を維持する上でも守っておいた方が無難な掟でもあるわけだ。


12月15日「逆転を狙わない発想」

 何やらこの後に及んで悪あがきの最中なのはいつものやり方には違いないのだが、ではそれの何が逆転の発想なのかといえば、逆境を跳ね除けて起死回生を狙うようなトリッキーな発想を思い浮かべてしまうが、ただ単に日頃の見方とは逆の視点で物事を考えることらしく、それほど大げさなことでもないようだが、現状が劣勢なのかというと、果たして何に対して劣勢なのかもよくわかっていないような気もするわけで、そうであるならわざわざ逆転の発想など求めなくても構わないような気もするが、気がする程度のことではなく、現状がもっと重大で深刻な事態なのではないかと思いたくもなるのだが、どうもそんな気がする程度では肩透かしの感を否めず、それに関して思うところがあるとすれば、そもそも民主主義を信じておらず、それが窮余の策から出てきた間に合わせのやり方のように感じられるから、そうではない正攻法のやり方を思い浮かべたくもなるわけでもないが、逆に正攻法のやり方が民主主義なのかというと、それもただ単にそう思い込まされているだけで、それに関わってくる制度によってそう思い込まされているに過ぎず、それに対してもっと根本的なところで考えなければならないことがあるような気もしてきて、それも気がする程度のことなら枝葉末節などうでもいいことのように思われるのだが、そうなることを狙ってうまく行くわけでもないのも経験的にわかっているのなら、あえて逆転を狙わずにそのままの状態で済ます方がうまく行くとも思えないが、もしかしたらうまく行かないままでも構わないのではないかと思ってしまえば、それで構わないことにもなってしまい、何が構わないのかといえば、当然のことながら現状のままでも構わないことになるわけだが、現状の何が問題なのかといっても、それが問題だとは思っていないわけではなくても、何とかして問題を矮小化して捉えて見せることによって、問題とされる当事者たちの勢力を温存させようとしていること自体が問題なのだが、それに気づいているふりをしている人たちも問題を抱えていて、何よりも気づいているふりをしていることが問題なのだろうが、なぜそれが気づいているのではなく、気づいているふりをしていることになるのかというと、誰かがそれに気づいていると声高に主張していること自体が、それに気づいていることを装う演技になってしまうわけで、その実体が何も明らかになっていないにも関わらず、それを何かのせいだと声高に主張することによって、何かもっともらしいことを述べているような雰囲気を漂わせているのだから始末に負えないと言ってしまうと、ではその全容を知っているのかというと、どうもそうではないわけで、逆に知らないからこそ、例えばディープステートとかいう謎の存在を想定せざるを得ず、さらには日本政府の上に日米合同委員会とかいう組織も想定せざるを得ないから、それらの存在を想定した上で成り立つ主張というのが、もっともらしさと疑わしさが入り混じって魅惑の妄想を抱かせるのだが、その一方で現実に起こっていることが何なのかというと、政治資金を集めるための競争が行き過ぎて、違法行為がまかり通っていたに過ぎないというどうしようもない現実に意識が引き戻されてみると、それが大したことでもないような気もしてくるわけだが、それをさも大げさに飾り立てるために必要な大がかりな構造まで持ち出されてしまうと、そんなことまでして何を隠そうと企んでいるのかがわかってくるわけではなく、現状で部分的に明らかになっているみすぼらしくもしょぼい構造に見合うだけの恥ずかしい主張にはなりそうもないから、何とかして現状を大げさに飾り立てるのに必要な架空の構造や組織が必要となってくるのだろうが、そうやってそれが何か凄い出来事に直面しているかのように装う必要が意識されてしまうこと自体も、しょぼい現実を凄い現実へと変容させることができるわけでもないことに気づいていないことの表れなのかも知れないが、その必要がないことに気づいていないわけではなく、その必要があるからそんなことをやってもうまく行かないことに気づいていないと言ってしまうと、果たしてそんなことをどれほど意識しているのか疑問に感じるかも知れないが、たぶん意識はしているのだろうが、それが理解できないことでもあるから、結果的に無自覚な演技にもなってしまい、自分がそれを演じていることにも気づいていないから、無意識の演技のようにも見えてしまって、それに気づいていないようにも思われて、そこでそれをどの程度意識しているかに応じて生じてくる各人の意図や思惑も複雑に交錯しているのだとしても、誰もがしょぼい現実の中でそう思っていることは確かなのだから、そこに関わっていると思い込んでいる人たちがそれなりの合理性を伴って意識される意図や思惑と実際に体験しつつあるしょぼい現実との落差をどうやっても埋め合わせることができないわけで、それを強引に埋め合わせようとすれば、例えばディープステートとか日米合同委員会とかを持ってこないと整合性が取れないのだろうが、果たして意識と現実との間で整合性を取る必要があるのかというと、その必要性を意識してしまう人には必要な構成となるにしても、そんなことにも気づかなければ、わざわざそんな大がかりな仕組みなどを持ってくる必要もないこともわかりきったことだが、必要のあるなしではなく、単にしょぼい現実の中で暮らしていることを自覚できれば、そんな現実に応じて意識が構成されるわけだから、政治家の違法な金集めをそのままの現実として捉えることもできるだろうし、そんなことまでやらざるを得ない状況を支えているのが自身も含めて一般の人々であることも理解してくれるなら、さっさと他の民主的な世界の国々と同じように政権交代が起こるかも知れないが、もちろん民主的な国々がそれほど多いわけでもないから、他の強権的で独裁寄りの国々と同じような政治体制であれば、そう簡単には政権交代など起こらないわけで、では日本の政治体制がどちらなのかというと、これからそれが明らかになるような成り行きの途上に現状がさしかかっているのかも知れないし、あるいはいつまで経っても明らかにならない状況が長引くことも想定できるのではないか。


12月14日「比較と検討」

 それとこれとは関係ないわけではないが、関係が薄いというと何となくそう思われる程度のこととして事態を捉えておけば済むことかも知れないが、何と何がそうなのかというと、それが何と何の比較になってしまうと、何か胡散臭く感じられてしまい、では比較するのではなくどうすればいいのかというと、検討すればいいのかとすぐに思いつくわけでもないだろうが、両者をつなげて比較検討とかいう言葉も思い浮かんでくるが、比較検討しているだけでは物事が前に進まないと批判できないこともなく、対立しているように見える何かと何かを比較検討するような成り行きになれば、何かやっている感が出てくることは確かなのだが、似たような何かと何かを比較検討するとなると、そんなことをやっている意味があるのかと疑念を覚えるかも知れず、そんな似たような言葉として思いつくのが比較と検討であり、比較することと検討することが関係が薄いどころか、両者をつなげて比較検討という言葉まで出てくるわけだから、直接関係してきて連携して何かやっている感を醸し出そうとする言葉なのだろうが、それでも何と何を比較検討しているのかと述べてから、比較という言葉と検討という言葉を比較検討していると述べてしまうと、何やらまやかしの類いを語っているような雰囲気も漂ってくるだろうが、それと同じわけではないにしても、実態としては比較検討などという言葉を使って何かやっている感を醸し出していること自体が、逆に何もやっていないことを物語っているような気もしてくるから、比較もせずに検討すらしていないのに、これから比較検討するような雰囲気を匂わせることが、すでに結果ありきで物事が進行中であるような状況を物語っているというと、そういうことだと成り行きを解釈せざるを得なくなってきて、あなたの言っていることには聞く耳を持たないし、あなたが何を言ってきてもこちらの言い分は変わらないことを比較検討とかいうまやかしの言葉を持ち出しながら暗に示しているわけだが、それが他人の言っていることに耳を傾けることの実践例だと解釈するなら、まさに逆の意味で本音と建前の使い分けのような例にもなってくるだろうが、そういうことを実践しているのが他ならぬどこかの国の総理大臣なのかも知れないというと、何やら左方面のアレルギーが再発してくる人も少なからず出てくるかも知れないが、実際に何と何を比較検討しているのかといってみても、それをあからさまに示さないように心がけているわけでもないのだが、本音が右で建前が左だと言えば済んでしまうようなことだとしても、それを言わないように気を使いながらも、いかにして世間的に聞こえの良い内容を意見として出力できるかが、識者や言論人としての腕の見せどころだと思っているわけでもないが、何かそれとは違うところで大事なことが倫理的に問われているような気もするから、まやかしの比較検討ではなく、結果的にまやかしになってしまうとしても、少しは謙虚で真摯な態度や姿勢で何かと何かを比較して検討しているように装いたくなってしまうのだが、それでも結果が比較検討するまでもなくわかってしまうとすれば、そういうところで予定調和な成り行きになっているのだろうが、いったんそんな成り行きに意識が囚われてしまうと、途中で何かを比較検討したつもりになっても、全くそうは思えないような結果に至ってしまうわけだから、比較検討したことが結果に全く反映されていないと思われてしまって、それではまずいような気がするわけで、意識してそうはならないような結果へと心身の状態を持っていけるかといっても、無理して自身の体質を変えようとしても、かえってより一層の偏ったこだわりが露呈してきて、それが大して重要だとも思えない人には馬鹿げたことのように感じられてしまうから、どうでもいいようなことにこだわって自業自得気味に墓穴を掘っているようにしか見えないはずだが、どうしてもそういう方面でその人の体質が露呈してしまうと、どんなにもっともらしくそれなりに共感できる主張や意見を述べているような人であっても、そうなった時点で何か馬脚が露わになってしまったように感じられてしまうのであり、しかもそれが右だの左だのに絡んでそう思われると始末に負えないわけで、そういった自身の体質に染みついてどんなにそれを否定してもそこから抜けきれない決まり切ったレッテルを貼られてしまうような結果がもたらされると、どんなに比較検討しても変わらない結果が出力されてしまうまるで機械のようなシステムがその人には内蔵されていると見なさざるを得なくなるが、実際にそんな態度や姿勢に直面してみると、なるほどその人の能力や資質などを遥かに超えたところでその人を制御している何かが社会の中で作用していることを思い知ったつもりになれるかというと、どうにかしてそれを変えないことには世の中も変わらないと思うと絶望的な気分になってしまうかも知れないが、たとえ多くの人々の努力や尽力よってその人の態度や姿勢を変えることができたとしても世の中が変わらなければ、その人が変わるだけでは駄目なのかと思い知るわけでもないが、どうも世の中が変わるとはそういうことではなく、特定の人や勢力の社会的な影響力が低下したり逆に高まるだけではなく、その人やその勢力に対する世間の見方や接し方が変わるようなことが起こらないと世の中は変わらないと思っておいても構わないが、なぜかそうなってしまった時にはすでに世間の見方や接し方が変わってしまっていて、逆にそうならないように必死になって特定の人や勢力をディスっている人が少なからず存在しているから、しかもそんな人の主張や意見がある程度はもっともらしく思われるから、世の中が変わらないことを実感できるのだろうが、しかもそんな人に限って世の中を変えようとして真摯な態度で言論の場で活動しているように装っているところが、何か救いようのない世の中の状況を物語っているようにも思われてくるから、そういうところはどこまでも逆説的な様相を呈しているのかも知れないが、それに対して真っ当な神経の持ち主ならそんな状況を何とか変えなければならないと思いたいところだが、なぜか真っ当でないからそう思うわけでもないのだが、そういうところはそれで構わないような気もしてしまうわけで、それでもそんな人たちのディスりを遥かに凌駕する作用が働いて、結果的には変わりようがないと思われた世の中が現に変わって行っているような気もするわけだ。


12月13日「科学の意味」

 自分も含めて世間一般の常識に囚われていると、どうしても科学の意味を狭く捉えてしまって、それが本来の意味と言って良いのかどうかもあやふやなのだが、どうしても学問の分野を文系と理系に分けて捉えて、理系が科学に関係する分野で、文系がそうではないような先入観を抱いてしまい、自分もかなり歳をとってからそれに気づいたのだが、文系の分野で人文科学と言われるカテゴリーを科学の範疇に入れると、哲学や文学なども科学に入ってくるというと、かなり強い抵抗感を覚えるのだが、それに関しては例えば大学の〇〇学部の〇〇科で学者の類いが教えている学問の分野は全て科学の範疇に入ると見なせば良いかも知れないのだが、そこで単に〇〇科で教えている学問の分野が科学だと捉えるなら、そんな科があるかどうかは定かでないが、例えば宗教学部のキリスト教科で宗教学が専門の学者が教えるキリスト教も科学に入るわけで、なぜそんなことをここで述べるのかというと、昨日の文章に対して、通りすがりの人が天動説が宗教で地動説が科学であり、緊縮財政が天動説で積極財政が地動説なのだとコメントしてきたので、果たして宗教と科学が対立する概念なのか?と疑念を覚えた次第で、確か天動説も地動説も物理学や天文学の学問の分野で主張されている学説なのだから、両方ともに科学の分野で言われていることであるから、確かに中世のヨーロッパでキリスト教の影響下で学ばれたスコラ哲学の中では古代ギリシアのアリストテレス由来の天動説が信じられていて、それに対して15世紀以降のコペルニクスやガリレオなどが唱えた地動説がキリスト教会から激しい弾圧に直面したという歴史的な経緯を踏まえれば、天動説が宗教で地動説が科学だという先入観も生じてくるだろうが、それに対して現代で通用している科学的な知見を踏まえれば、太陽の周りを地球が回っていることは確かなのだから地が動いていることは確かだが、その太陽も太陽系全体として銀河系の中心を回っていて、その銀河系も他の銀河との間の重力の相互作用によって動いているから、天も動いていて、しかもその天の一部に地球も含まれているから、広い意味では天動説であり、地動説と天動説とは対立概念なのではなく、それどころが地動説は天動説に含まれてしまうのかも知れず、そうなると天動説と地動説の対立を比喩として用いることが、ヨーロッパの歴史的な経緯に囚われた非科学的な迷信に基づいていると言ってしまうと言い過ぎには違いないが、どうしても世間一般の常識に囚われていると悪い意味で天動説を用いる一方で良い意味で地動説を用いてから、自らが主張する説を良い意味で用いる地動説に喩える一方で、自らが批判したり非難したり貶したりする説を悪い意味で用いられる天動説に喩えるというよくありがちな紋切り型の罠にハマってしまうのだが、それも積極財政を良い政策として推奨する一方で、緊縮財政を悪弊として退けたい意図や思惑があるからそうなってしまうのだろうが、宗教が悪くて科学が良いというのも微妙な認識かも知れず、公平を期すなら宗教にも科学にも良い傾向のものや悪い傾向のものがあり、それに関してかなり矛盾した言い方になってしまうが、積極財政と言われる政策にも緊縮財政と言われる政策にも良い傾向のものや悪い傾向のものもありそうだから、それらを融合させて良い傾向のところだけを抽出するわけにもいかないし、それどころかどんな政策を実行しても、良い傾向と悪い傾向の両方が必ず出てくるというとやりようがないかも知れないが、大抵はうまく行かなくなるわけだから、うまく行かなくなったところを絶えず修正しようとしたり改善しようとするしかなく、もちろん修正や改善を施したところでうまく行く保証はなく、絶えずちょっとやそっとでは理解できないわけのわからない問題に直面し続けるのだろうが、そういうことが起こる度に対処や対応を試みて行くしかなく、そんなことの絶え間ない繰り返しや積み重ねの末に現状があるわけで、主張としては単純に対立する概念を持ってきて一方が良くてもう一方が悪いと言えることは確かなのだが、それだけで済んでいるうちはまだ道半ばにも達しておらず、そこから実践の場で行為や行動などの活動を進めて行くと、次第ににっちもさっちも行かない困難に直面してくるわけで、主張としては積極財政が良くて緊縮財政が悪いと主張しているわけだから、そういうことを主張してそれに賛同したり支持してくれる人を募って、政治活動をするなら選挙に立候補したり、間接的に政治に関わりたければ学者や識者や評論家やジャーナリストなどの立場から政治に働きかけるような活動を行なっていけば、そこから直接に積極財政を政策として実行する機会を得られるかも知れないが、そうなればそれをやってもらえばいいわけで、やってみた結果がどうなるかは実際にやってみないことには何とも言えないが、うまく行くに越したことはないわけだが、それに対して自分の意見を述べるなら、それらのもっともらしくもある程度の支持や賛同を得られそうな無難な政策ではなく、現状の日本では実現可能性ゼロの非科学的で、捉えようによってはかなりの矛盾を孕んだ荒唐無稽な政策を妄想しているわけだが、それが小さな政府を目指す新自由主義的な政策であり、それを実現すべく活動しているわけでもないのだが、たぶん死ぬまでに何の行動も起こさないだろうが、述べるだけなら比較的簡単に述べることができるから、ここに示すとすれば、税制で現状で変える必要があるのは、具体的には何の特例措置もなくして法人税を15%に消費税を5%に引き下げて、その他の酒税やたばこ税や石油関連や自動車関連などの間接税を全て廃止して、それに見合った予算規模に縮小して、小さな政府を実現すると共に、都道府県をひとまわり大きな州に再統合して、国政を連邦制に移行した上で地方自治の権限を強化して、中央集権的な行政の弊害を軽減すれば、今後国の人口が減少してきても、少ない人口に見合う行政を実現できるのではないかと考えているわけだが、そんな考えを示しておけば、それが取り立ててすぐにどうなるわけでもないだろうが、もしかしたら世の中でそんな考えに近いことが実現する機運が今後高まってくるようなら、自分とは別のもっと政治に関わっている度合いの高い誰かがそれに近いような内容を主張し始めるのかも知れない。


12月12日「日蓮と山本太郎」

 確かにそう言われてみればなるほどと納得できるようなことが世の中ではいくらでも起こっているのかも知れないが、たぶんそうではないこともいくらでも起こっていて、それが何なのかというと、それが過去の歴史の中に埋もれているようなことであれば、調べてみればわかることかも知れないが、例えば鎌倉時代に日蓮宗の祖となった日蓮が、仏教の数ある経典のうちで法華経こそが最も優れた経典で、そう解釈しない他の宗派を苛烈に攻撃しながら、このままでは日本が滅びると予言したことが、何やら現代において山本太郎が、このままでは日本が滅びると言い放って、消費税を廃止することが滅びるのを回避する唯一の方法だと説いて回っていることと重なってくるように思われるのだが、その結果として日蓮の周りには今日の創価学会の隆盛につながる熱心な信徒が集まったのと同じように、山本太郎の周りにも積極財政派で知られる熱心な信徒が集まっていると解釈するなら、なるほどと納得できるかどうかはよくわからないが、そうなると日蓮宗と積極財政派が攻撃するザイム真理教も宗教関連でつながってきて、当時の日蓮が攻撃していた他の宗派が現代のザイム真理教に相当するのかと納得できるかどうかもよくわからないが、果たして当時に今日のザイム真理教に相当する宗派があるかというと、天台宗や真言宗や当時流行っていた浄土宗や禅宗などがあるが、日蓮に攻撃された他の宗派の僧侶たちが幕府に告げ口したおかげで、日蓮は伊豆や佐渡に流刑になったそうだが、当時の武家政権や朝廷に深く関わっていたのは日蓮もそこから仏教を学んだ比叡山が総本山の天台宗だが、天台宗が今日でいうザイム真理教と同じ役割を果たしているかというと、後に北条得宗家や幕府を後ろ盾とした天台宗と日蓮宗の信徒との間で抗争事件も起こっているし、そういう面ではなるほどと思われるかも知れないが、その一方で他の野党勢力を山本太郎やれいわの支持者たちが批判したり非難するところでは、鎌倉時代の野党勢力としては南無阿弥陀仏を唱える浄土宗や浄土真宗があるだろうし、法然を祖とする浄土宗が旧民主党で、さらに親鸞を祖とする浄土真宗が立憲民主党だとすれば、法然が鳩山由紀夫で親鸞が枝野幸男になりそうだが、当時日蓮が激しく非難した天台宗の密教化というのが、今日でいうなら政府や財務省の緊縮財政化やザイム真理教化なのだろうが、日蓮が真言密教の祖である弘法大師空海の霊験の欺瞞性を暴露するところなどは、それに当てはまる内容が今日の山本太郎や他のれいわの幹部や国会議員などが国会での質問や街宣やおしゃべり会などで嫌というほど主張している内容と一致するかどうかはともかく、換骨奪胎的な構図としてはなるほど当てはまるような気もするのだが、だからといって現代の池田大作亡き後の創価学会の信者が日蓮の再来である山本太郎を新たな教祖として崇めるべきかというと、部外者としてはそれも面白そうだが、すでに創価学会の信者は国家体制に取り込まれて保守化しているだろうから、当時の体制側の天台宗と抗争していた日蓮宗の信者たちとは異質な存在と成り果てているだろうから、すでに牙を抜かれて保守派に与する創価学会の信者たちにとってはまるで日蓮の生まれ変わりのような山本太郎もれいわの信者たちも敵対勢力としてしか認識できないような気もするのだが、その辺は歴史は繰り返さないが韻を踏むという格言通りなのかも知れないし、時代の変遷や歴史的な経緯が宗教的な教義や信者の立場や信仰の内容などを真逆に配置するような成り行きを構成するのかも知れないが、何か現代において訝しく感じられるところがあるとすれば、山本太郎やその支持者たちの攻撃的で激しい姿勢や口調というのが、このままでは日本が滅びる、という深刻で危機的な思いの表れだと解釈するなら、そう思っている人たちにとってはそうだとしても、その一方で彼らが敵だと見なして激しく非難している勢力やそうした勢力に与する人々やそういうことには無関心で選挙にも行かない多数派の人々にとっては、必ずしもそうではないと推測されてしまうわけだから、その辺の思いの落差をどう捉えて解釈すればいいのかよくわからず困惑してしまうのだが、山本太郎がいくら何十年も日本がひどい状態になっていると力説しても、平然とそれを受け流している人々が世論調査的にもかなりの割合になっているかというとそんなことはなく、実際に世論調査でも生活が苦しいと実感している人の割合が多数派を構成していると主張したくなるのだが、では何で山本太郎やれいわ新選組への支持を表明する割合がわずか数%しかいないのかというと、それは鎌倉時代の当時でも日蓮宗の信徒の数よりは他の宗派の信徒の数の方が圧倒的な多数派を占めていたと想像できるし、何かそういうところで考慮に入れていない他の要因があるような気がして、そんな劣勢を覆して将来れいわ単独で選挙で勝利して議会で過半数を占めて政権を奪取できるかというと、ドイツでナチスが政権を取った際には産業界から支援を得られたり、国軍と対立してしまった党内の武闘派を粛清したりして、また政権を取った後には国会議事堂に火を放ってそれを共産党のせいにして壊滅に追い込んだり、ひどいやり方によって全権を掌握したわけだが、それも歴史は繰り返さないが韻を踏むという格言を真に受けるなら、現状ではその可能性など誰も信じていないし、予想もしていないところが付け入る隙が生じているというと、それでも納得できないところだろうが、何かナチスとは真逆の平和的な成り行きに従ってそうなってしまうような未来がやってくるとしたら、それも現状では予想もつかない思いがけないところからそうなる可能性もありそうだとも思えないところだし、やはりそれも逆説的な成り行きになりそうなのだろうが、少なくとも現状ではれいわよりは立憲民主党の方が政権に近そうだし、多くの良心的な人々も批判しながらもそれを期待していて、ドイツでもナチスよりは社民党などの左翼政党が連立政権の主要な一翼を担っているケースの方が圧倒的に期間が長いわけだが、ひょっとしたら大どんでん返しのようなことが起こって、今後れいわ新選組が主体となった政権が誕生する未来もあり得るのかも知れない。


12月11日「現実に背を向ける理屈」

 頭がキレて弁舌も巧みな人が何かにつけて持ち出す理屈がもっともらしく思えるなら、そんな人から論戦をふっかけられても太刀打ちできないと思っておいても構わないが、それでも疑念を抱く余地があるとすれば、それが何なのかというと、何か厄介な事実にぶち当たっていて、そのもっともらしく思える理屈が破綻している面に気づいたからではなく、理屈が破綻しないように語っている事実に気づいたからかも知れないのだが、意識してそう語っているわけではなく、たぶんそう語るのが習慣と化しているから、そういう語り方に則って理屈を持ち出すともっともらしく思われるのであって、それとは違う語り方にすればそれほど納得できるわけでもないなら、語っている内容ではなく語り方に騙されているというと大げさに聞こえてしまうが、それに近い成り行きに囚われているのかも知れず、その種の語り方に関して顕著な例として挙げられるのが結果を都合の良い原因と結びつけて語るやり方になるというと、そんなのは当たり前のことで、それ以外にどう語れば納得できなくなるのか、全く見当がつかなくなってしまうのだが、時間的な順序に従って語るなら何かが起こってからそれに驚いたわけで、そして頭がキレて弁舌が巧みな人でなくても、それが起こった原因を持ち出してきて、その原因によってそれが起こる仕組みをもっともらしく説明されると、なるほどと思って納得してしまうのだが、それを簡単に語るならそんな内容になってしまうわけで、なぜそれでは納得できないのかといえば、そこには驚きが欠けていて、何かが起こってそれに驚いた事実を打ち消すためにそんなふうに語られるわけでもないのだろうが、驚くべきことが起こったのに、その原因が特定されてしまうと驚くべきことではなくなってしまうのかというと、そういう出来事も中にはあるはずだが、たぶん原因がそれだけではないと、それが原因だと指摘されても納得できないわけで、しかもわざとそれ以外の原因を無視しているように感じられると、それが原因だと決めつけて起こったことをもっともらしく説明している輩には疑念を眼差しを向けざるを得なくなるわけだが、そういう輩には都合の良い理屈があって、その都合の良い理屈に起こったことを当てはめるには、他の原因が邪魔になってくるわけで、それが起こるには様々な原因が複雑に絡み合わないと起こらないとしたら、その理屈だけでは説明がつかないことが起こっているにも関わらず、それだけが原因でそれが起こったのだと強弁しているような印象が感じられるなら、そういう輩にはそれ以外の原因を持ち出されると都合が悪くなる事情があると推測したくなるのだが、その事情が何なのかと言えば、持ち出してきた理屈が通用しなくなるという事情なのだろうが、そんな理屈に基づいて何でもかんでも何が何でも自らが持ち出した理屈から導き出される目的に結びつけるようなら、狂信的にその理屈を信じていることになるだろうが、そんな狂信的な理屈の信徒を拒絶したり排除しようとするのではなく、たぶんそれを利用しなければならないわけで、それが厄介なことだとしても、そんな輩を利用すること自体が、そこから起こる驚くべき出来事の原因の一つとなるように事態を持っていかなければならないわけでもないだろうが、結果的にそうなればそれが思いがけないことになって、誰かがそれを予想してそうなるような予定調和な成り行きを避けられるかも知れないのだが、そうなることを狙ってそれを起こすようなことでもない限りで、それが誰にも予想がつかなかった出来事になる可能性があり、そうなるとその場で主導権を握っている勢力を出し抜いたことになるかも知れないが、出し抜こうとして出し抜いたわけでもないところが、誰の思い通りの結果にもならないわけで、そうならないと現状の停滞を打開することはできないと言いたいわけでもないのだが、実際にそんなことが起こりつつあるとも言えないが、それが起こってみれば、またいつものようにそれが起こった原因を一つに特定したい輩が、自説に都合の良い理屈だの屁理屈だのを持ち出してそれをもっともらしく説明しようと試みるのだとしても、それがもっともらしいと思うなら納得しても構わないし、そんな説を唱えている輩を利用したいなら利用すればいいとしても、特定の理屈を用いて物事を説明できること自体が、その物事だけを重要視していることの証拠であり、その物事だけに関心を持つように仕向けてくるわけだから、そんな輩にはそれとは違う方面に関心を向けられると都合の悪い事情がありそうに思われるから、要するにそれとは違う方面に関心を向けられると、相対的にもっともらしく説明している物事が大して重要ではないような気がしてきてしまうから、彼らにとっては自分たちが説明している物事の重要度が低下してしまうと商売あがったりとなるわけでもないのだとしても、どうしても関心を向けてくれないと困る事情を抱えているから、ひたすら説明している物事の重要性を強調するしかないわけで、それを強調しなければならないということ自体が、それ以外のその物事に関わってくる様々な要因を無視するように仕向けている理由になるのだろうが、果たしてそれが現実の世の中で通用するようなことなのかというと、それだけでは通用しないからそれを強調せざるを得ないわけで、もちろんそんな理屈を現実の世の中で通用させようとするから、そんな理屈に基づいて説明される物事や出来事に関心を向けるように仕向けてくるわけだろうが、果たしてそんな狂信的な理屈の信徒を味方につける必要があるのかといえば、必要のあるなしとは違う次元や水準で、それらにも共感や支持を示しておくべきなのかも知れず、それが本気で共感や支持を寄せていることになるのかというと、どうもよくわからないのだが、それがどちらでも構わないということではなく、何となくもっともらしいことを語っている人たちを拒絶したり拒否してはもったいないような気がするわけで、そういったもっともらしいことを語ることができる技術を他の何かに役立てる必要があるかないかとは別に、それをこれから起こるかも知れない出来事の原因の一つになるように活用しなければならないのかも知れない。


12月10日「逆説的な考察」

 嘘も方便だと思って間違ったことを主張しているわけでもないのだろうが、時として集団化した人々を導くには間違ったことを主張しなければならなかったり、その集団がさらに劣化して群衆化した人々を導くには、もっとひどいことを主張しなければならなくなったりするわけだが、何かを煽り立てればそれに同調するような人々が理性を持ち合わせているとは思えないが、そんな集団を率いているように見える輩が有能だと感じるなら、それが錯覚であるわけでもないだろうが、集団の利害を主張しているのなら、その集団と一心同体なのかというと、集団の中にいる人にはそう思われるから、そんな集団の指導者に従っているのだろうが、集団の利害=集団の構成員の利害なのではなく、集団の中にいる個々の構成員の利害など無視されてしまうのが集団の利害なのであり、集団の中にいる構成員は集団の利害が自分の利害と一致するから集団に付き従っていると錯覚するわけで、自らが集団の犠牲になってしまってもそれに気づかない人も出てくるだろうし、だからといって集団の中にいてはまずいのかというと全くそんなことはなく、集団の中で特定の役割を担って機能している限りで、集団によって生かされているから、集団の中にとどまっていようとするわけで、それが集団の中にいることの利点だと思っているうちは集団の意向に付き従っているのだろうが、そんなことを理解しているからといって、個人が集団を出し抜けるわけでもなく、集団の意向には逆らえないから、大抵の個人は集団の中で生きる道を模索することになるのだろうが、そうはいっても集団化できない人も中にはいるから、そんな人を集団が受け入れるわけもなく、苦労して集団の構成員になっても、そこから弾き出されてしまう人もいるだろうし、全ての人が集団化を達成できるわけでもなく、それが全ての人にとっての達成すべき目標となっているわけでもないから、集団化にも群衆化にも馴染めなければ、無理にその中に入ろうとしなくても構わないはずで、なぜそうなってしまうのか理解できないからといって、それがそうならないことの理由ともならないはずだが、それに関してもっともらしいことを述べている人の意見を聞いて、なぜかそうではないのではないかと思うのだが、そう思っている理由がわからなければ、それに関してもっともらしい反論を言えないはずだが、言うだけではなく文字に記して文章を構成しようとしてみると、なぜそれが理解できないのかがわかってくることもあるだろうが、それを文章に構成してみても理解できないのなら、その中で何を語っているかも理解していないはずで、それで構わないとなるとさらに不可解なことを述べていることになってしまうのだが、それでも構わずあえて間違ったことを述べるなら、集団化にも群衆化にも逆らってはならず、理性を働かせてもっともらしい理屈を並べて無理に逆らう理由を導き出しても無駄とは言わないが、逆らわなくても自然と集団からも群衆からも弾き出されてしまう成り行きに身をまかせていれば、それで済んでしまうようなことかも知れないから、それが集団や群衆の利害と自らの利害が一致しなかった結果だと理解しなくても、元から利害など一致していなかったわけだから、それは理解する必要もないことだと思っておけばいいことなのかも知れず、何かそういうところで正しい選択や行いをやろうとすると、かえって集団の利害と一致して、自らの使命が自らが属している集団を救うことだとか悟ってしまうから、そうなるとややこしい成り行きが待ち受けていて、下手すると集団のために命を捧げるとかどうしようもなくおかしな動作を伴ってくるのかも知れず、それがおかしな動作ではなく正しい行いだと思い込んでしまえば、それ自体が狂った心境なのだろうが、それを共同幻想の罠だと指摘してみても納得できるわけでもなく、すでに強固に組織化された集団の一員となっていれば、どこまで深入りしているかにもよるだろうが、深入りすればするほど共同幻想の強度も強まってくるだろうから、ひとたびそんな幻想に囚われてしまうと集団から抜け出すのにも大変な苦労や苦痛も伴うだろうが、逆に抜け出そうとしなければ共同幻想の甘美な誘惑に屈していつまでも夢見心地な心境を保てるかも知れないものの、それが共同幻想の罠だから早く気づけとアドバイスするには及ばないし、それがそうではないところが理解不能なところかも知れず、たとえ彼らが特定の集団や群衆が抱く共同幻想の罠にハマって夢見心地になっていても構わないわけで、そういう人たちはそうなっていればいいと突き放した言い方になってしまうとしても、別にそういう人たちを馬鹿にしているわけでも軽蔑しているわけでもなく、そうなりたくたくてもそうはなれない成り行きに囚われてしまうと、実際にも夢見心地にはなれないわけだから、そうなれるかなれないかで良し悪しを判断するわけにも行かず、そうは行かないからといって何かまずいことになっているわけでもなければ、そんなのはスルーしておけばいいことになるわけでもないだろうが、夢見心地な人々を前にして指導者ヅラした人物が集団の大義とやらを持ち出してきて、それに伴って大層ご立派な正論とやらも披露している姿に疑いの眼差しを向けている自らを想像してみたところで、そういう成り行きが何なのかを理解しているからそんなことを想像しているわけでもなく、ただ何となくヤバそうな雰囲気に気づいているに過ぎないのだろうが、その程度の理解で構わないのかも知れず、もちろんそれで状況を完全に理解していることにはならないだろうから、何かそれに関してもっともらしいことを述べるような成り行きにはならないのだろうが、いくら考えても考え過ぎてしまうと、逆にそんな成り行きに逆らう大義とやらも導き出されてしまうから、そうなるとさらに面倒な事態が待ち受けていて、それにかこつけてできもしないことまで妄想するようにもなってしまうから、程々のところで妄想をとどめておかないと、かえってミイラ取りがミイラになってしまうような事態にもなって、気がついたらどこかの集団の指導者となっていたら、それこそ取り返しがつかないことだとも言えないだろうが、時にはそういった理解を深めない方が、それに関わって罹る病も軽い風邪程度で重篤化せずに済むのかも知れない。


12月9日「守銭奴とは違う行為」

 自分が何に取り憑かれているかなんて、それを他人から指摘されたところですぐに否定したくなるだろうが、魑魅魍魎の類いに取り憑かれているのではなく、自らが魑魅魍魎になっているとしたら、守銭奴が魑魅魍魎の類いかどうかは何とも言えないが、そういうことではなく、では何なのかというと、たぶん法律に違反しているかどうかという基準で、守銭奴だろうと何だろうと、それが合法的な活動に基づいていれば、とりあえずセーフなわけで、違法行為となっていればアウトだと見なされてしまうのだろうが、それもセーフかアウトかということではないとすれば、たとえやっていることが違法だろうが合法だろうが、何かそれとは違う判断基準があって、その基準に照らし合わせると、そちらの方が他の全ての基準より優先される成り行きになっていれば、それが違法行為であっても率先してやってしまい、そういうことが許される環境がそこにあれば、そんな環境の中で羽振りを利かせている勢力が存在していることになるのだろうが、そんな勢力が特定の政党内で〇〇派と呼ばれていようと、そんなことには関心のない人も世の中には大勢いるのだろうが、関心のある範囲内であれば、そんな勢力を攻撃するにはどんな判断基準を当てはめれば、攻撃している自らを正当化できるかといえば、それらの勢力が違法行為をやっているからという理由になりやすいところだが、それが安易な理由かというと、安易だろうが何だろうが、違法行為をやっていればアウトだと言えるから、攻撃する側はそういう判断基準を当てはめようとするのだろうが、果たしてそれで構わないのかというと、それを攻撃している側としてはそれ以外にはあり得ないのかも知れないが、違法行為を率先してやっているような環境の中で活動していれば、それで構わないような成り行きに身をまかせているわけだから、調子に乗っているわけで、そうなっている限りで、それが後から大変なことになるなんて夢にも思わない心地でやっているわけだから、その時点ではそれで構わなかったわけで、それを後から違法行為だと指摘されたところで、そうなってからでないと判断がつかないだろうし、それが良し悪しの判断なのか是非の判断なのかも当事者ではないからよくわからないが、そういうことは実際にそうなってから判断するしかなく、違法行為をやっている時点では判断できないのかも知れないが、そうなっている時の心理状態としては集団で何かに取り憑かれているような状態だったのかも知れず、それが何かの妖怪なのかその妖怪の孫なのかも、今となっては判断がつかないところかも知れないし、そうではないとしたら何なのかというと、単に調子に乗っていただけで、我が世の春を謳歌していたと表現すればしっくりくるわけでもないのだろうが、実態としては何をやっているわけでもない活動の中で違法行為が行われていたわけではなく、活動の事後処理的な面で違法となるか合法となるかの違いが生じてくるとしたら、合法的な処理をしておくに越したことはないわけだが、それができない事情を抱えているような活動内容であったと解釈してみても、そういうことが実際に行われている成り行きの中では、そうせざるを得ないようなことになってしまうわけで、しかもそういうことがなし崩し的に容認されている環境になっている方が、何かと活動がやりやすいといってしまうとその通りなのかも知れず、そうではなく、例えばそれとは活動の内容も種類も違う違法行為を行なっている勢力として有名な極左暴力集団の中核派や革マル派などになれば、活動自体が違法行為に含まれてしまうわけだから、そうであればあからさまな違法行為をやっている実感も湧いてくるだろうが、活動そのものの違法性ではなく、活動に伴って生じてくる会計処理的な面で違法な処理をせざるを得ないとしたら、何かそういうところで面倒な事態になっているわけで、それが何に起因してそうなっているのかは、部外者にはよくわからないところだが、それとは別の方面にも関わってくることだろうから、そちらの方面でもややこしい事態になっていることは想像に難くないところだとしても、その実態がどうなっているかは当事者でないとはっきりとはわからないところだが、そういうことに絡んで良からぬ宗教団体なども暗躍しているのだろうから、それを単に違法だと決めつけられる面から推測してみても、実態の全容をつかめるわけでもないだろうが、そこから想像できることはといえば、中核派や革マル派などの違法行為や暴力団関係者などがやる違法行為とは少し違うことが行われていて、〇〇党の〇〇派が普段からやっていることが、何でもないことだとは言えないし、何かそれなりに実体のあることが行われているはずなのだろうが、そこから派生する詐欺的な手法というのが、雰囲気として政治活動の資金を集めている活動には違いないとしても、その資金が実際に行われている政治に活かされているかというと、そういうわけではなく、政治ではなく政治活動に活かされていて、その政治活動というのが、政治活動に使う資金を集める活動であるところが、それが詐欺的な手法だと言えばその通りなのかも知れないが、果たしてそれ以外に資金の使い道があるのかと問われるわけでもないが、集金活動=政治活動なのかというと、当事者はそうではないと反論してくるだろうし、それ以外の活動にも資金が使われていると主張してくるだろうが、それが違法行為だと指摘されている内容が集金活動に伴って生じているわけだから、他にも資金が使われていることは確かだとしても、あくまでもメインの活動は集金活動だと見なさざるを得ないわけで、それとは違って中核派や革マル派であれば、どう見ても集金活動がメインの活動とは思えないし、極左暴力集団と言われている範囲内であれば、たとえ当事者たちが政治活動がメインの活動だと主張していようと、暴力革命を目指しているに違いないとレッテル貼りしたいところだろうし、暴力団も実態としてはみかじめ料の徴収や違法薬物の販売や違法賭博などの集金活動がメインの活動であろうと、やはり暴力行為がメインの活動だとレッテル貼りしたいところだが、どう見ても〇〇党の〇〇派だと集金活動以外の何をやっている印象もないのではないか。


12月8日「知の活用と効果」

 社会の中で全てを知り得る立場などあり得ないが、立場などなくても絶えず知ろうとしているのは確かだが、知らなくてもいいことまで知ろうとしているわけではないにしても、知らなくてもいいことを知っているかどうかも自分では判断できないし、果たして自分にとってそれが知る必要のあることなのかどうかを知ることができるかというと、実際に何かを知ってから自分にとって必要かどうかを判断すればいいことかも知れないが、普通は知る必要があるから知ろうとするわけで、自分では知る必要があると思っても、その必要があるかどうかも、場合によっては大して必要でもないのに知りたがったりするわけだから、知ろうとした時の状況に応じて、その必要性にもピンからキリまであって、知りたいのになかなか知ることができずに苦労して知ることができたとしても、果たしてそれほど手間暇や労力をかけて知る価値があったかどうかも、それを知り得たことによる効果や効用に応じてその重要度が変わってくるだろうし、それを知っていることを活用したり利用して社会の中でうまく立ち回ることができれば、確かに知る価値があったことになるにしても、それを知ってしまったばかりにそれに起因してとんだ災難に遭ってしまったら、価値がないかというとそうではなく、価値があるからこそ災禍まで引き寄せてしまう場合もあるから、知る価値がないというのは、知ったところで何も起こらないような物事であれば知る価値がないということになるだろうが、そう単純に価値のあるなしで知っていることを判断できるわけでもない可能性まであるかも知れず、猫に小判のようなことわざからわかることではなく、確かに人によってあるいはその人の能力や資質に応じて、知る価値がある物事も違ってきて、ある人には知る価値がなくても、別の人にとっては知る価値が大いにあるのかも知れないが、それを知っているか否かで人の価値も変わってくる可能性まで考慮に入れるなら、ある程度は知っていても知らなくても構わないような成り行きの中で生きている人にとっては特定の知に関して価値があるかないかの判断など不要となり、知ることや知っていることに価値を見出さなくても普通に生きて行ける世の中が到来していて、知らないことはネットで調べれば済むような世の中になっているはずだが、ではネットで調べてもわからないことに価値があるかどうかも、知っていることよりは知っていることを活用できるかどうかの方が重要に感じられるとしても、知っているかそれを活用できるかという基準で物事の良し悪しを判断するようなこととは違う面でも判断しなければならないとしたら、ではそれをどう判断すればいいのかとなると、誰にとってもよくわからないのかも知れず、価値があろうとなかろうとあえて知ろうとしていない場合さえあって、都合の悪いことは知らない方がうまく立ち回れるのではないかとその場の状況を都合良く捉えていることに無自覚なのかも知れないし、何か信じられる根拠があるわけでもないに、何となくそう思われてしまうのだから、いい加減なご都合主義に取り憑かれているのかも知れないが、うまく立ち回ればいいということでもないとしたら、ぎこちなく不器用な動作や言葉遣いに終始していればそれで済んでしまうことさえあって、下手にうまく立ち回ってその場を丸く収めてしまうと、かえってその手腕を買われてより困難な状況を丸く収めるように仕向けられてしまい、その人の有能さが災いしてより困難な状況を何とかしなければならない立場をあてがわれて、人一倍の苦労を強いられるようなら、果たしてそれが良いことなのか悪いことなのか判断がつかないようなことにもなりかねず、それもその時々で巡ってくる運不運に左右されるようなことかも知れないが、たとえその場でたまたま他の人の知らないことを知っていて、その知を活用してうまく立ち回ってそれなりの利益を得られたところで、それがその後に巡ってくる幸運や不運の原因となろうがなるまいが、それを良し悪しの判断に結びつけても、その人の知らないところでその人に関わってくる物事が知らない間に作用していれば、そんな判断では不十分なのだろうが、そうなると何を知っていようと、知らないことがある限りで安心できるわけでもないのはわかりきっているが、知っていてもそれを活用できるとも限らず、活用したところでかえって藪蛇な事態となってしまうかも知れないし、その場その時はうまく立ち回ろうとしてしまうのだろうが、うまく立ち回れたところで自己満足以外の何がもたらされるわけでもなければ、もちろんうまく立ち回れたからこそ利益がもたらされたと自己正当化したいのは山々だが、そういうことの積み重ねによって何がどうなっているのかといえば、人によっては例えば嘘をつかざるを得ない立場に追い込まれているわけで、それが違法行為だと判断されれば嘘やごまかしがバレたことにもなって、実際に窮地に陥っているのだろうが、そんなことをやるように仕向けているのが誰の指図でもなく、誰彼ともなくその場その時の成り行きに従えばそうなってしまうようなら、そこにそういうことに関わっている人々が抱いている共同幻想のような価値観があって、無自覚にもそういう価値観に従って行動してしまったから、現時点で窮地に陥っているのだろうから、それを自業自得だと言われても納得がいかないのはわかりきったことかも知れないが、そうなるとただ知り得たことを活用してうまく立ち回るだけでは済まないことにもなってきて、その種の価値観に染まり過ぎないことが肝要に思われてくるわけで、ではうまく立ち回ってやり過ぎないためにはどうすればいいのかとそうなった結果からもっともらしく問えるにしても、問われているのはそういうことではないのもわかりきったことで、うまく立ち回ろうとする気を抑え込めるなら、では下手にぎこちなく立ち回って失敗すればいいのかというと、それも無自覚にそうなってしまうことを意識できるかといっても、そうなってみないことにはよくわからないし、たとえそうなってもそのことに関しては無自覚なままかも知れず、それを知ろうとも活用しようとも思わないかも知れないし、そうなるのもその場その時の運次第な面もあるだろうが、そうなった結果からわかるようなことではないとしたら、事前にそれを知り得るようなことでもないのかも知れない。


12月7日「明確な意志の不在」

 何かこれといって明確な魂胆があるわけでもなく、ただ場当たり的な対応に終始しているに過ぎないのだろうが、それを民に見透かされているわけでもないにしても、いい加減な対応の裏をかくような動きが次から次へと出てくるから、何か事態の収拾を図ろうとする人々を陥れる陰謀が巡らされているような気がしてくるのだが、誰が裏で糸を引いているわけでもないのだろうし、そう見ると何かのロボットのような動きも目立ってしまうとしても、そこに黒幕的な存在の意図や思惑を想像してしまうと、わざと人々を怒らせるようなことをやりたがっているように見えてしまうわけで、誰を怒らせるようなことなのかといえば、実際に怒っている人々が想定されて、それらの人々からやることなすことに対して延々と批判や非難を浴びせられて、どうにもこうにも身動きがとれない事態となっているのだろうが、実態としては誰の意図や思惑からも外れているようなことが起こっていて、しかもその場の情勢に対応して何らかの意図や思惑を抱いているように想定される人自身が、なぜか自分の意図や思惑を裏切るようなことをやってしまうから、より一層混乱に拍車がかかっているようにも見えてしまうわけだが、果たして本当にそうなのかというと、現時点では何が本当に起こっているのかも判然としないが、メディアからもたらされる情報を真に受けるなら、やることなすことうまく行っていないのは毎度のことであり、それが何十年も延々と続いているからもはや常態化しているとしても、そんな成り行きの中でも各自各勢力が思い思いにやっているようなことが、勝手にやっているわけではなく、ある時にはお互いにお互いの行為や行動を阻もうとしたり、阻もうとしているつもりが逆に促進するような結果を引き起こしてしまうから、困惑するしかないとしても、結果的に役割分担や機能に基づいてそんなことをやっているように受け取られてしまうから、そうなるように仕向ける意図や思惑もそうなった結果から想像されてしまい、そんな結果を前にして事態をどう捉えたらいいのかわからなくなって、どう捉えてみてもしっくりこないとしても、少なくともそれが予定調和を形成しているわけではなく、何らかの方向性を意識させながら、各々の目的に従った行為や行動となっているはずだが、その目的が何なのかが、口で言うほどはっきりしているわけではないところが、自らの目的をはっきりと口に出して、それを主張や意見の中に反映させているつもりになっている人ほど、何か勘違いを犯しているように見えてしまうわけだから、たとえできないことをやろうとしているわけではなくても、実際に行為や行動の結果としてうまく行っていないことが明白になっている限りは、誤りや過ちを犯している最中であるように見えてしまうわけで、しかもなぜかやっていることがうまく行っていなくても平然としていられて、少なくともうまく行っていないことを批判したり非難しながら追及している勢力よりは支持もされているから、支持しているよりは不支持の方が遥かに多いとしても、不支持を明確に表明している一方で、だからといってそれを批判したり非難している勢力を支持しているわけではなく、その場の主導権を握ってやっていることがうまく行っていない勢力に対しては不支持を表明しながら、そのやっていることを批判したり非難している勢力を支持するわけでもないところが、妙にねじ曲がった意思表示となっていて、それが理解し難い状況をもたらしていると言えるわけではないが、やっていることには不支持を表明しながらそんな現状を変えようとしないと受け取られて、結果的には自業自得気味にジリ貧となっていると事態を捉えようとすると、どうもそれも間違っているような気がしてきて、実態はそうではないと明確に言えるわけでもないのだが、事ここに至ってもなお気づいていないことがあるらしく、たとえそれに気づけなくても現状の中ではどうということはないのかも知れず、それがやっていることには不支持を表明している人々が気づいていないことになるのだろうが、今後もそれに気づかないまま、そういう態度がやっていることに批判や非難を浴びせている勢力を苦しめることになるとしても、それも自業自得な結果として、そういう態度を維持しようとする人々へと因果応報を伴って返ってくることになるだろうから、そういう態度に応じてなるようにしかならないことを自覚できなくても、知らぬが仏という状態になるわけでもないが、それに気づかないことからそんな結果がもたらされていることにも気づけないのだから、せいぜい無自覚に苦しんでいればいいのかも知れないが、苦しみを自覚できないなら、無理に苦しんでいるように装う必要もないわけで、そういう意味では民の苦しみを理解できない政治家がいたところで、そんなのは気にするようなことではなく、いちいち民の苦しみなどを考慮に入れていたら何もできなくなってしまうから、それだけ民の苦しみを無視してでもやらなければならないことが目下のところは目白押しな状態なのかも知れず、そんな状態をどう変えようとしても、それが民からの支持には結びつかないのだとしたら、不支持を甘んじて受け入れていた方が、現状の成り行きに沿った対応となるらしく、実際に行われていることがそういう対応によって示されていて、現状の中でできる精一杯のことをやろうとして、それが民からの不支持に結びついているのだから、そういう面では現状の成り行きに沿った対応となっているわけで、それを批判したり非難している勢力がいるとしても、そんな勢力を民が支持するはずもなく、支持しているのはいつも通りの少数派にとどまり、それを批判したり非難したところで多数派からはそっぽを向かれている現状があるらしく、それで何がどうなっているのかといったところで、苦しい現状が延々と続いていくしかなさそうに感じられるのだが、そんな実感も勘違いに含まれる可能性もあるとしたら、本当のところはどうなのかといっても、大して気にならない程度なのかも知れず、苦しみの程度というのが他と比べても大して実感が湧いてこないような程度かも知れないし、それが他の何と比べられるかもよくわかっていない状況なのかも知れない。


12月6日「今後巡ってくる機会」

 自分が何を考えているのかもわからないようなら、頭がおかしいのかも知れないが、全くわからないわけではなく、少しはわかっていることもありそうで、何かを待ち続けていることは確かなのだが、それが一つではなく、複数の何かを待ち続けているのであれば、例えば二兎を追う者は一兎も得られずな結果を招きそうな予感もするのだが、少なくとも追っているのではなく、待っているというのだから受け身の姿勢を維持しているわけで、待っているばかりで何もやらないわけでもないのだろうが、他のことをやりつつも何かを待っているような気がするわけで、待っていれば何がやってくるとも限らないが、とりあえず何かの機会が巡ってくるのをひたすら待っているような気がするわけだから、それが巡ってくるのを期待しているのだろうが、何が巡ってくるのかもわかっていないような気もするわけで、それでも期待しているのだから、少しは良いことが起こるのを期待しているような気もするわけだが、それが一つのことではなく、複数の良いことが起こるのを期待しているのかも知れず、なぜそれが複数なのかもよくわからないのだから、期待していること自体が意味不明だが、とにかく今後何が起こるかはわからないが、起こってほしいことが起こるとは限らないのは承知しておかなければならず、しかも何が起こってほしいのかもよくわかっていないわけだから、良いか悪いかはそれが起こってみないことにはわからないかも知れないが、起こったところでわかるとは限らず、そこで何が起こっているのかもわからないかも知れないし、現状でもよくわからないことが起こっているのだから、それが良いか悪いかなんて判断しようがないことかも知れないが、判断しようがなくても何かが起こってほしいと思っていて、実際に何かが起こっているわけだから、それが期待通りのことなのかも知れず、それが良かろうが悪かろうが関係なく、何かが起こっていればそれで気が済んでしまうようなことなのかも知れないが、それが何だかわからないわけで、何だかわからないが何かが起こっていて、起こっている内容が期待通りではなくても、起こっていること自体が期待通りだからといって、何が起こっているかもわからないのだから、何を期待しているのかもよくわからないが、たぶんおかしなことが起こっているのであり、そのおかしなことに関しては困惑しているのかも知れないが、困惑しながらもそれが起こっている限りは期待していた通りなのだから、それがおかしいのは確かだが、おかしいことが起こることを期待していたのかも知れず、実際におかしいことが起こっているわけだから、それで構わないわけだが、果たしてそれが困惑するようなことかというと、それでもたぶん困惑するようなことであり、実際に困惑しているのだから期待通りなのであって、期待通りにおかしなことが起こって、それが起こっていることに困惑しているわけだが、しかしいったい何が起こっているのかというと、それがよくわからないわけで、おかしなことが起こっているのだからそれで構わないはずだが、それがよくわからないのだから、何を期待していたのかもよくわからず、とにかくそれが実際に起こっているわけだから期待通りなのであり、よくわからないことが起こっていること自体が期待通りでもあって、すでにそんなことを述べていること自体がおかしいのだが、やはりそれで構わないわけで、要するに今ここで起こっていることを理解していないのだろうが、理解しようとしていないのかも知れず、理解する気もないのかも知れないが、相変わらずそれで構わないのだからおかしいのだろうが、おかしいなりにも期待通りのことが起こっているわけだから、すでにそんな機会が巡ってきていて、その機会をとらえて何か述べているはずなのだが、それも相変わらず述べている内容が意味不明であるから、一向に何が巡ってきているのか理解できず、果たしてそれで機会をとらえて述べていることになるかどうかもよくわからないわけだが、それでも矛盾したことを述べるなら、うまく巡ってきた機会をとらえて何か述べていることになるのかも知れず、それが期待していたことなのかも知れないから、何だかよくわからないが、期待通りの巡り合わせになっているようで、巡ってきた機会をとらえて、その場の情勢に応じたことを述べている人たちが、その場の主導権を握っているように見えるのであり、それが後づけ的に求められる期待通りの結果なのだろうが、元からそんなことを期待していたわけではないのは、その場に居合わせた誰もが承知していることで、当初はそんなことは期待もしていなかったのであり、何が起こるかわからなかったのだから、何を期待しているわけでもなかったのだろうが、実際にそれが起こってみれば、どういうわけか知らないが、期待通りのことが起こっているような気がするわけで、その機会をとらえて期待通りのことを述べているような気にもなるわけだが、そんなことを述べるつもりもなかったのに、なぜそれが期待通りの結果なのかもよくわからないわけだが、よくわからなくてもそんな気がしてしまうのだから、たぶん期待した通りのことが起こっているのであり、過去に遡ってそんなことを期待していたような気がするわけで、それが巡ってきた機会をとらえてそう思ってしまえるわけだから、まさにそれが期待通りの結果なのかも知れないが、相変わらずわけがわからないことには変わりないわけで、何かの巡り合わせでそうなっていることは確かだろうが、そこにどんな理屈や原理が働いているかもよくわからないわけだが、とりあえずそれが期待通りだと思われるのだから、そんな結果を良い結果だと認めても構わないはずだが、その一方で疑念を拭えないことも確かで、果たしてこれでいいのかと疑念を抱きながらも、それが期待していた通りの結果なのではないかと思い込もうとしていることも事実だから、そういう意味では機会をとらえてそう思い込もうとしているわけで、そんな機会が今後いつまた巡ってくるとも限らないから、今はそれが偶然にしても必然にしても巡ってきたわけだから、実際にその機会をとらえて何か述べているつもりなのだろうが、相変わらず何を述べているのかよくわからないまま、ただ何となく空疎な内容に終始しているような気もするわけだ。


12月5日「新しい出来事」

 現状では過去から続いている経緯とは直接にはつながっていないことが起こっているから、それに関して何かもっともらしい見解を示さないと、述べていることに説得力が生じないかも知れないが、では何がこれまでにない新しい出来事なのかといっても、産業技術の分野でならそんなものはありふれていそうだが、それが世界経済に無視できない影響を及ぼすようなものとなれば、それなりに限られてくるはずで、例えばそれが近ごろ流行りの生成AIとかいう技術であれば、それを使ってこれまでにはなかったようなことができるかのような幻想を抱けるし、実際にこれまでにないようなことをやっている分野もありそうだが、それが産業技術の分野ではないとすると、何か他にこれまでにない新しいことが起こっているのかというと、そんなことに気づく必要もないかも知れないし、気づくも気づかないも、誰もすぐには気づけないから新しいのかも知れず、そうであれば気づかなくてもいいかも知れないし、それに言及しなくても済むようなことなら、それに言及できないからといって述べていることに説得力が生じるか否かとは関係のないことかも知れないが、実態としてはそうではなく、逆にこれまでの経緯の延長上でこれまでの続きとして起こっていることについて言及しないと、話に説得力が生じてこないのかも知れず、それが歴史の連続性や繰り返しに関する言説になりそうで、では何がそこで連続していたり繰り返されているのかといえば、過去において起こったことと同じようなことが現代でも起こっていれば、それが繰り返し起こっていることになるから、それによって歴史が連続しているような気にもなるだろうが、その一方で歴史の非連続や不連続について語るなら、突発的に何かこれまでとは違うことが起こっていることになりそうだが、果たして現状でそれに言及できるかというと、何も思いつかないし、何に言及できるわけでもなく、そうではなく、昔と同じようなことが起こっているなら、以前に起こったことと今起こっていることを比較して述べれば、何かもっともらしいことを語っているような気にもなれるが、過去に起こったこととは全く違ったことが起こっていると現状で語れるかというと、それがどのように違うのか説明しないと、その違いがわからないだろうが、たぶんわからなくても構わないのであり、話に説得力などなくても構わないなら、唐突に今までにないことが起こっていると語ればいいだろうが、何が今までにないことなのかというと、それがよくわからないでは話にならないが、それもたぶん話にならないようなことが起こっているのであり、話にならないからこそ、そんなことについては誰も語らないのかも知れないが、誰にも語り得ないことを誰が語れるはずもなく、語れないからといって何の不自由もないはずで、それよりは昔から連綿と続いている出来事や現象について語った方がもっともらしく思われて、話にも説得力が感じられるだろうが、説得力など無視してさらに語るなら、それが無理やり起こしているようなことでもあるのかも知れず、無理やり起こさないと、過去から連綿と続いている慣習や守られてきた掟などを打ち破ることはできないのではないかと思われるわけだが、起こし方にも無理やり感があると抵抗感もそれだけ強く意識されるだろうし、強い反発や反感が巻き起こるようなら、やはりこれまでにないようなことを無理やり起こしている感が意識されるわけで、それが政治活動の類いとなれば、今まさにれいわ新選組がやっているような活動になるはずだが、それについては多くの人々が反発や反感や戸惑いなどの否定的な面からも、あるいは逆の肯定的で好意的な面からも語られているはずだが、そういう毀誉褒貶を伴った活動ではないとすると、いったい何について語ろうとしているのかといえば、それら全般とは異質なことが起こっていて、下手をすると現状の資本主義経済を崩壊させかねないことが起こっているなら、それが何かといえば、たぶんそれが一方では資本主義経済を守ろうとする行為になるはずで、資本主義経済を守ろうとしているのに、なぜかそれが資本主義経済を崩壊させかねない行為となるなら、何やら意図せずに逆効果をもたらしていることになりそうだが、果たしてそれが今に始まったことになるかというと、普通はそうではないような気がするわけで、逆に昔から資本主義経済の発展と共に成長してきた機構が行なっている行為になるはずで、それが政府による経済への介入になるだろうが、そうした介入によって何かこれまでにない新しい出来事が起こっているとは思えないはずだが、認識としてはこれまでとは逆のことが起こっていることに気づき始めたのかも知れず、要するに政府が経済に介入するのではなく、経済の方が政府のやり方を制御しているわけで、その時々の経済状態に応じて政府の方が政策を決定しなければならないような成り行きになってきたわけだが、それが政府が経済を制御しようとして失敗した20世紀の社会主義から学んだことであり、少なくともそうやって政府が資本主義経済を守ろうとしているわけで、果たして実態として守っていることになるのかといえば、守っているどころではなく、ただ経済に従わされているに過ぎないわけだが、それでいいのかというと、そうするしかやりようがなく、それに伴って各国の政府が過剰に国債を発行せざるを得なくなって、自国の経済を守るために国債を発行し続けることによって、政府が自身の首を絞める結果を招いているから、実態としてはそれによって資本主義経済が崩壊するのではなく、資本主義経済を守ろうとして政府の方が崩壊の危機に瀕しているわけで、それが自業自得だとは思えないから、より一層の国債の発行を強いられているのだろうが、果たして本当に国債の過剰発行によって政府が崩壊するのかというと、誰もそうは思っていない現状もありそうだから、その辺で新たな事態に気づいていないことになるのだとしても、近い将来に到来するそれが資本主義経済の崩壊でも政府の崩壊でもないとすれば、何なのかといっても、現状では誰もそれに気づいていないわけだから、黙って今後の結果を見届けるしかないわけだ。


12月4日「日本衰退論の不都合」

 単純な理解で済むようなことを無理にねじ曲げて込み入らせて複雑に理解しようとしているわけではないとは思いたいが、ある一定の範囲内で起こっていることの実態を語る上で踏まえておかなければならないことの傾向として挙げられるのが、たぶん同時並行的に複数の事態が進行中であることかも知れず、その結果として一概には言えない傾向になってくるのだろうが、では何が一概には言えないのかというと、単純に対立する概念で表現できるような二つの傾向を示す現象が同時並行的に起こっているとは言えないことかも知れないし、だからある傾向を示すような現象をことさらに強調したがるのもやむを得ないところだが、それがただ一方的にそうなっているわけではなく、それと相反するような現象と同時並行的にそうなっていることであれば、確かに一概にそうだとは言えなくなってしまい、強調したがっている現象がただ一方的にそんな傾向へと進行しているわけではないことを認めざるを得なくなってしまうわけだが、現状の中で何がそうなっているのかと言えば、例えば衰退と繁栄が同時並行的に起こっていると言えるようなことかも知れず、ただ一方的に衰退しているわけでも繁栄しているわけでもなく、衰退しつつも一方では繁栄していて、また繁栄しつつも一方では衰退していると語ってしまうと、では衰退と繁栄のどちらが勝っているのかと問いたくなってしまうが、同時並行的に起こっているからどちらが勝っているとも言えないのかも知れず、もちろん実際に衰退が明らかに勝っていると言いたくなるのも当然だろうが、それでも構わないようなことが起こっていて、そういうことを言いたい人にとってはそういう傾向を強調したがるような感情に囚われているわけだから、言いたい人には言わせておけばいいようなことにもなってしまい、そんなわけで日本が明らかに衰退していると主張することがそれになりに真っ当なことを述べているように思われるのだが、果たしてそれに反論したいならそうではない傾向を示せるかというと、日本が今もなお繁栄し続けている証拠を示せばいいのだろうが、どうも無理にそんなことをやらなくてもいいような成り行きなのかも知れず、人口の減少だとかGDPが特定の国に追い抜かれたとか、そういうことを持ち出して日本衰退論を語っていた方が時流に適合して、そんな風潮に染まっていればいいような気もするから、そういう方面ではそういうことを言うのが流行っているのだろうし、流行現象としてはそれで構わないのだろうが、流行とは違うことを述べる必要があるかというと、その必要を感じるような立場でもないと思うなら、無理にひねくれてそれに対して反論を用意する必要もないのだろうが、現状では確かにそうだとしても、かつての繁栄していた頃がどうだったのかというと、今よりは確実にひどい状況だったように感じてしまうわけで、それに伴って時代が確実に進歩しているような感じがするわけだから、昔の方が良かったなんてこれっぽっちも思わないことに違和感を覚えるとしても、要するに昔の繁栄していた頃よりは今の方が確実に繁栄していて、ではなぜ統計的なデータなどから他の国と比べて衰退しているように思われるのかというと、他の国でも昔よりは確実に繁栄しているから、どちらがより繁栄しているかというと、相対的な比較として日本よりは繁栄の度合いが高い国が昔よりは確実に多くなってきたと言えるわけで、それが日本が衰退していると錯覚させる要因だろうが、そうは言っても国内でも人口が減少して過疎が深刻な地域で暮らしていれば、衰退を痛感するだろうし、それは他の国でも言えることで、荒野のただ中にあるゴーストタウンを眺めれば、かつての繁栄を想像したくなるだろうし、戦争や自然災害に襲われた地域を見渡せば、衰退よりは荒廃を実感させられるだろうが、そういう意味では国ごとや地域ごとに繁栄しているとか衰退しているとか言いたくなるような言説的なフォーマットに則って語っている限りでもっともらしく思われるようなことでも、そういった言説領域からひとたび意識が離れてしまうと、途端にどこの国や地域が衰退していようが繁栄していようがそんなことはどうでもいいような感じになってしまうのだろうが、その一方でそれを批判に活用するために何か指摘するような成り行きになってしまうと、その種の批判にとって都合の良い統計的なデータなども持ち出されてきて、それをこれ見よがしに提示された際には、なるほどと納得したくなってしまうのだが、またそこでちょっと待てよと疑念を抱いて過去を振り返ってみたりすると、今と比べてそんなに過去の一時期が繁栄していたのかと訝しく思いながら当時のことを思い出してみれば、何か違和感を覚えてしまうわけで、繁栄していたとされる当時も、時期によっては今よりも遥かにひどい状況の中で暮らしていたような気もするから、そんな昔には戻りたくはないし、決して繁栄を謳歌していたような思い出などこれっぽっちもなく、それが個人的な実感である限りは、他では違っていただろうし、確かに繁栄を謳歌していた人々がそこに確実にいたからこそ、その時期には繁栄していたことになるのだろうが、だからといって今でも繁栄を謳歌している人々が確実にいるはずで、いくら衰退のただ中で苦しんでいる人が大勢いるからといって、それは他の国や地域でも日本とは比較にならないほど多くいて、実際に移民や難民となって世界各地を彷徨っている現状もあるのだろうが、そうなると相対的に日本の現状が衰退しているかというと、衰退はしているとしても、その一方で繁栄している面もあるだろうから、一概にその良し悪しをどうだと言えるような立場ではないが、結局は衰退のただ中にいる人たちをどうやって救うかとか議論したくなってしまうわけだが、それに関しても政治が間違っていたから日本が衰退してしまったと言いたい人もいくらでもいるとしても、これから間違った政治を改められるかと言えば、これまでの悪政が改められたとしても、必ずしもそこから正しいと言えるような成り行きにはならず、相変わらず結果的に正しいと言えることと間違っていると言えることが混在した状況となるのではないか。


12月3日「ご都合主義に塗れる」

 四方八方に向かって良い顔はできないのは、様々な利害関係が錯綜し合って絡み合っている中では致し方のないことだが、その一方で誰彼構わず四方八方に向かって貶していれば嫌われるのも当然のことで、どちらにしても世間的に許される程度や限度の範囲内で振る舞わないと、一方的で傲慢な態度や姿勢に見られてしまうから、そういうところは中途半端な程度や傾向になりがちだが、程度や限度をわきまえないように感じられてしまうのは、普段の行動や言動が災いしている可能性もありそうで、そういうところも自分では気づかないから、他から注意してもらわないと、しかもその注意を真に受けないと、なかなか謙虚な態度や姿勢が身につかないが、謙虚なだけでは何かにつけて他人に譲ってしまって、いつも貧乏くじを引いてしまうことにもなりかねないから、時と場合によっては自らの利益を最優先させて利己的に振る舞う必要も出てくるなら、果たしてそれがご都合主義になってしまうかというと、そう見られないようにうまく立ち回る必要も出てきそうだが、うまく立ち回るということが絶えずごまかしやまやかしを駆使することに結びつくなら、欺瞞や偽善に塗れることにもなるだろうから、それが後ろめたくて疾しい思いに囚われると、なるべくそれが顔に出ないようにしないと、他人に悟られてしまうだろうから、余計に良い人ぶって、自分が貧乏くじを引かない程度の範囲内で他人に対して親切心を発揮したくなるだろうから、自らがそんな中途半端な善人を演じていることにも、やっているうちに次第にその自覚も薄れて行ってしまうかも知れず、そういうところからも演技のぎこちなさを他人に見抜かれてしまうと、善人であることを信じてもらえなくなってしまうから、自らに利益がもたらされることを期待して善人ぶっている魂胆が見透かされてしまうことにもなりかねないが、演じている自覚がなければそんなことを思う必要もなく、素直に他人を思いやって自己犠牲を伴うような親切心を発揮して、結果的に貧乏くじを引いてしまっても気にせず、絶えず社会に尽くすような態度を実践できれば、何やら真の善人になれたような気がするかも知れないが、立場上誰もがそうなれるわけでもないから、大抵は狭い範囲内で感知できる程度の損得勘定で動いていれば、その程度の人間として他人から認知されている限りで、ごく普通の社会人でいられるのかも知れないから、無理に完全無欠の善人を目指さなくても世間的な基準からすれば許容の範囲内に入るのだろうが、私的な面であればその程度で済むだろうが、行政などに関連する公的な役職に就いているとそうもいかなくなってくるのが、それも世間一般の常識の範囲内で認知されていることになるだろうが、私利私欲の追求がどの程度の水準で許されるかは、何かこれといって倫理的な基準のようなものが示されているわけではないし、個々のケースでも印象が違ってくるだろうから、それが違法行為にならない程度で済んでいれば、少なくとも合法的な水準では許容されるだろうが、そういうところでも突出してやり過ぎているように見えてしまうと、こんなことが許されてもいいのかと周囲から疑問の声が上がってくるだろうから、何事も出過ぎたマネはしない方が無難なところだが、時と場合によっては出過ぎたマネをしないと他の勢力を出し抜けないわけで、しかも他に気づかれないように出し抜かないと、出し抜いたことにはならないなら、そこでもごまかしやまやかしによって目眩し効果を期待するような成り行きになってしまうのかも知れず、そういう意味では正々堂々としていられないわけで、そうなると結果的にはずるくて卑怯なやり方で、それをやっている時には気づかれないようにしながらやることになるかも知れないし、他者を出し抜いたり欺いたりしながら自らに有利な状況を作り上げて行くようなことになれば、後からそれを批判されたり非難されたりすることになってくるだろうから、そういうことをやって現状で優位な立場を築いている勢力が悪者扱いされてしまうのも、当然といえば当然の結果なのだろうが、実際に批判されたり非難されるようなことをやっていたのがバレて悪者扱いされるのであれば、因果応報だと言えるだろうから悪者扱いされても納得できるわけで、そういう意味では誰彼構わず四方八方に向かって罵詈雑言を浴びせているように見えても、実際に四方八方で悪者扱いされるような勢力が悪事を働いているのだから、そうなるのも致し方ないのかも知れないが、そういうところだけ目立ってしまうから、何でもかんでも辺り構わず批判しているようにも見えてしまって、そんな批判することだけに専念しているように見えてしまうこと自体がご都合主義のような見方をされかねないのだろうが、他には何もやっていないのかというと、何かしらもっともらしいことを提案しているように装っていれば、批判しているだけではないことが証明されるかも知れないが、そういう提案を無視するようなことをやられると、印象としては批判しかできない勢力のレッテルを貼られて、他のことは何もできない役立たずな勢力という否定的な評価が定着してしまうのかも知れないが、そんな印象操作を打破できるかというと、印象操作をやっているメディアを信用するなと訴えかけるだけでは、多勢に無勢な印象も持たれて、全く歯が立たないような気もしてくるだろうが、それの何が悪いのかといっても良し悪しの判断ではなく、その機会をとらえて何かやるような成り行きになるしかなく、それがその時になってみないことにはわからないから、今のところは全く予想がつかないわけだが、現状でも次々に明るみに出る悪事に対して無駄な批判を延々とやっているように感じられるかも知れないが、それが機会をとらえてやっているようなことではなく、それを批判するように誘導されているわけで、何に誘導されているのかといえば、機会をとらえて批判の対象となる悪事を明るみに出してくる勢力に誘導されているわけだが、そんな成り行きの中で何が主導権を握っているのかといえば、機会をとらえて過去の悪事を明るみに出してくる勢力以外の何者でもないわけだ。


12月2日「韻を踏もうとする傾向」

 何かの主義主張に忠実であることを示すためにはどんなことを述べなければならないかというと、そのままの主義主張でも構わないはずだが、それを否定したいわけではないが、ニュアンスや雰囲気だけ似せて見せるようなことをやりたがっているわけでもないのだろうが、何かのイミテーションのようなことを述べている人が多いような気がするのは、たぶん気のせいには違いないのだが、そんな人たちが何かのまがいもののような気がしてくると共に、肝心の主義主張が示されないことには、そんなことは言えないはずだが、それを共産主義だとか社会主義だとかいってしまうと、それに対する月並みな拒否反応が示されて、なるほどそういうことを述べてしまってはまずいのかと納得するしかないのだが、それらの主義主張とは違うことを述べているように装いながらも、実質的にはそれらの主義主張に近いことを述べているなら、やはりそれらのまがいものだと見なすしかないのだが、別にそれでも構わないような気がするとしたら、それらに似せているというよりは、そういう主義主張とは違うことを言っている意識はないが、自然と似てきてしまうと事態を捉えておいた方が無難なのかも知れず、それが間違っているとか正しいとか言いたいわけではないが、何が正しいか間違っているかは、それをやった結果からわかったりわからなかったりすることだから、それをやる以前の段階で正しいか間違っているかがわかってしまう場合もあるだろうが、とりあえず結果から判断するのでは遅すぎると言われようと、今はそれを判断するタイミングではないような気がして、そんな気がするだけで判断を躊躇するのも、何の根拠も示されていないわけだから、そんなのは何の説得力もないが、述べていることに説得力を持たせたいわけではなく、では何なのかというと、そんな気がする程度で構わないような気がするのだから、その程度のことに過ぎないのだが、その程度の延長上に何があるのかと言えば、政治的なデマや陰謀論の類いであり、逆に〇〇のデマを信じるな!と逆説的なデマを信じさせようとする論調もあるにはあるのだろうが、それもデマの類いだと斬って捨てるのもちょっと違うような気もするから、それもそんな気がする程度のことには違いないのだが、そんな気がする程度のことを真に受けても構わないのかというと、何となく真に受けそうになっているから、ちょっと待てよとその手前で立ち止まろうとして、それらをそんな気がする程度のこととして片づけてしまいたいのかも知れず、それもそうかも知れない程度のことであって、本当は片づけてしまいたいわけでもないのかも知れないが、何かそこにためらいがあるから、そんな気がするとかそうかも知れないとか、そうだと強く断言せずにあいまいな表現にとどめているのかも知れず、そういうところで迷いが生じていることは確かなのだが、迷いを断ち切って信仰の世界へと歩みを進めるわけにはいかない事情があるなら、その事情とは何かといえば、断言口調で何かを述べることに対する拒否反応に出くわしているというと、いったい誰が拒否反応を示しているのか定かでないが、そういった断言口調の信仰を何かの撹乱要因なのではないかと思いつつも、そうとは言い切れないから、その撹乱要因と見なしている行為をこれだと断定したいわけでも、それに対してこれ見よがしに拒否反応を示したいわけでもないのだが、それに関しては何かわかったようなことを言いたいわけでもなく、そんな断言口調を駆使して世の中の民意や世論を自分たちの勢力にとって都合の良い方面へ導きたいと思っているわけでもないのだろうが、実際に導いているつもりにならないとやっていられないだろうから、逆に断言口調にはなれないとしたら、人々を導くつもりもないから、そんな気がする程度のこととしてそれらの行為を取り扱いたいのかも知れず、デマを信じても構わないが、信じても構わないデマとは何かといえば、〇〇のデマを信じるな!と断言口調で訴えられている〇〇のデマなのであり、実際に自らも〇〇のデマだと訴えられている内容を信じていて、信じているからこそ、〇〇のデマを信じるな!と断言口調で訴えている人たちの言っていることに疑念を抱いているわけだが、そういうところでなぜか頭がおかしいのかも知れないが、おかしいなりの思惑があって、思惑があるからといって取り立てて何を企んでいるわけでもないのだが、単純に〇〇のデマをデマだとは思っていないわけで、それを〇〇のデマだとも思っていないし、それを〇〇のデマだと思い込ませようとすること自体がデマだと思っているわけだから、別に頭がおかしいからそう思っているわけではなく、それも単純に常識に照らしてそう思っているから、〇〇のデマだと断言すること自体が非常識に思われるわけだが、非常識だからといって、非常識なことを主張する人や勢力を批判したり非難したいわけではなく、そんなことを主張するならそれも構わないだろうとは思っているわけで、そんなことを主張するに至る経緯がありそうで、それをデマだと信じたい事情もありそうだから、それはそういうことだと思っておけば良い程度のこととして、その件に関してはそれで済んでしまうようなことなのかも知れず、そんなデマを信じているからといって、それらの勢力が間違ったことを主張しているとは断言したくないところがややこしいところだが、それもありなんじゃないかと思ってしまうから頭がおかしいと思うならその通りには違いないが、せいぜい〇〇のデマを信じるな!と訴えかけていれば、その後に起こる変革の波を乗り切れるとも思えないが、果たしてこれからどんな変革の時代が到来するのかといっても、それを一概に変革の時代だとは断言できないのかも知れないし、すでに変革の時代がだいぶ以前から始まっていて、それに今ひとつ乗り切れていないから、〇〇のデマに騙されるな!と警鐘を鳴らす必要が生じている可能性もなきにしもあらずかも知れないが、そこでも果たして〇〇が変革の対象となっているかというと、そこで作動しているシステムの一部が〇〇なのであって、それを自体を部分的に取り出して、変えなければならない対象と見なしていること自体が、そういうことを主張している勢力にとっては重要なことなのかも知れないが、世の中にはそうは思っていない人や勢力も結構多く存在しているのかも知れない。


12月1日「憲法と詐欺」

 それが何なのかといってもうまく表現できないのは毎度のことだが、それを何かの集団に喩えるなら、その中に若干ながら異物が混入している感覚というのが、誰かが語っている話の内容から窺える印象には違いないのだが、その誰かが誰なのかも、話が具体的にどんな内容なのかも明かさずに何を述べようとしているわけでもないが、本当に何もわからずにそれについて語ろうとしているのだとすれば、それを国家的な幻想といってしまうと、国家よりも法律の方が先に来るなら、法律に基づいて国家的な幻想が人の頭の中で構成されるはずだが、それが理性的でまともな考え方になるかというと、理性を持ち出せばそうだとしても、その一方で理性に対して感情を持ち出したい人も大勢いて、感情にまかせて国家的な理想を語ろうとすれば、それがロマン主義に至るのが欧米的な国家主義の解釈になるだろうが、果たしてそれでいいのかというと、実態としては経済から国家を語らざるを得なくなり、例えば移民が増えすぎると、移民への行政負担も増えすぎて、それに伴って政府の財政規模も膨らんで、税負担にまで及んでくれば、経済的な面ではまずいことになりそうだが、日本のように移民が入り込んでこないように有形無形の障壁を設けていれば、欧米のように移民が増えすぎることもない代わりに、人口減に苦しむことになり、生産労働人口の減少によっても、経済な面でも社会保障の面でもまずいことになりそうで、そうなると移民の流入を増やさずに人口を増やすという無理な対応を強いられて、もちろんそれが無理だとは思っていないわけだから、少子化対策を講じているはずだが、それがうまく行っているのかというと、現状ではうまく行っていないはずだが、ではどうすればいいのかといっても、本当はそれが経済的な理由ではなく、感情的によそ者を受け入れたくないという村落共同体的な体質が災いして、移民に対する否定的な感情が生じているにしても、果たして日本に村落共同体的な体質が色濃く残っているかというと、そういう幻想を抱きたい人が政治的な主導権を握っているから、経済の停滞を招いているとも指摘できるかも知れず、自前で調達するのではなく、多種多様な人材を広く世界中から受け入れないと、経済が活性化しないと主張したいのだろうが、その一方で政権政党としては、組織票を期待して移民排斥を主張する極右的な勢力から支持を取り付けたい思惑もあって、そんな勢力の意向を汲んで、非民主的な憲法にすべく、絶えず憲法改正へのポーズを維持しなければならず、そういう面では必ずしも経済情勢の改善が最優先課題となっているわけでもないのだろうが、経済的な面でも村落共同体的な感情の面でも、どちらにもいい顔をしているように装わないと、政権を維持できないかというと、それ以外の面でもいい顔をする必要が出てくると、面倒なことにもなりかねず、できれば世の中の多数派に向かっていい顔をしたいのかも知れないが、もしかしたら今の日本には多数派に相当する層が皆無な可能性があり、ほとんどの人々が少数派へと分断されていて、しかも政治に対しては無関心を装うように強いられているから、選挙では投票率が上がらずに、それをいいことに、特定の少数派の組織票によって政権選択が決まってしまい、それに伴って大多数の人々の意向が無視されているのかも知れないが、そういうことが政権に批判的な勢力から主張されているにしても、それも本当にそうなのかというと、現状ではよくわからないのかも知れず、そう説明されるとなるほどとは思うのだが、それに関しては強引に憲法を持ち出して、教育の場で憲法がないがしろにされているからとか、あるいは憲法そのものがどうだから国民の民度が低いとか言う人も出てくるかも知れないが、何でもかんでも憲法のせいにされても自主性がないように思われて、もちろん何でもかんでも没個性的な集団主義に染まって、個人の自主性を育む教育が行われていないからとか、また今度は教育のせいにしたがる人も出てくるかも知れないし、自分以外の何かのせいにしないと気が済まないところが、そもそも自主性がないことを証明しているわけだが、個人に自主性があるとかないとかではなく、集団の意向に個人を従わせるような制度となっている面も否定できないが、それもそう言われてみればそんな気もしないではなく、そういった一見もっともらしい意見や主張のどれもが今の日本社会に当てはまるような気もしてくるだろうが、今の日本の現状を否定的かつ批判的に見ればどんな主張や意見ももっともらしく思われるのであり、その逆に日本すごいぞ!論的なことを主張すれば眉唾的な日本礼賛論になってしまうだろうが、それらのどちらでもないなんて、主張や意見としてはあり得ないだろうから、日本の実態がどちらでもなければ何を言いたいのかわからなくなってしまうのだが、たぶんどちらであっても構わないような状況なのが今の日本の現状であり、日本の現状を批判したければいくらでも気が済むまで批判していればいいだろうし、逆に日本礼賛論に終始していれば気分が高揚してしまうような人も中にはいるだろうから、そういう人向けに宣伝活動したいなら、どうぞ好きなだけやってもらえばいいだろうが、どちらでもないということがどういうことなのかというと、今世間で話題となっている個々の社会問題や政治問題に取り組む姿勢に凝り固まることでもないとしたら、たぶん特定の何かにこだわってしまうとまずいわけではないにしても、そうなってしまうかそうなるように仕向けられてしまう成り行きには絶えず疑念を抱いていないと、そういう方面で提示されたり指摘されたりするもっともらしい意見や主張に意識を取り込まれて、その賛同者や支持者に仕立て上げられて、自主的に思考する機会を奪われてしまうわけで、そうなってしまってはまずいわけでもないのだろうが、そういう意見や主張によって賛同者や支持者を募っている勢力にしてみたら願ってもない格好のお客さんになるわけだが、それでも構わないのだろうが、自らの自主性を優先させるなら、まずはそうなる途中で立ち止まって自主的に考えてみる心の余裕が必要となってくるのではないか。