彼の声157

2023年

7月31日「富国強兵と殖産興業の温度差」

 何らかの出来事に起因して不利になったり有利になったりしても、自らの利害に関しては損得勘定など考えるまでもないことだが、回り回ってそれを単純に因果応報という言葉で片づけてみても、何かもっと複雑怪奇な紆余曲折があったようにも思われて、事の成り行きが単線的には進行しない場合をどう考えるかで、考察した結果として出てくる結論も違ってくるはずだが、その例として思い浮かぶのが、マルクス・レーニン主義という事例であり、それが一定の成功を収めているように思われた時期には、そういったわかりやすい主義主張を宣伝したい人たちがいくらでもいたはずなのだが、そんな主義を体現していたソ連やその衛星国家である東欧の共産主義圏が崩壊した後では、それ以前から西側の欧米諸国による経済的な繁栄に伴って、その価値もだいぶ揺らいでいたにしても、実際に東欧の社会主義諸国が激減してからは、一気にその主義主張が廃れて行った経緯がありそうなのだが、そうなる以前に新自由主義者たちが明らかにしていたことが今では忘れられていて、実質的にソ連のスターリンやドイツのヒトラーが模倣したのが、敵対していたルーズベルトのニューディール政策であることを、ケインズ主義やニューディール政策を批判していた新自由主義者たちが指摘していたわけだが、それが今の時代にニューディール政策を政治宣伝に使いたい人や新自由主義を批判したい人にとっては、都合良く無視しておきたいところだが、世界大恐慌の後からルーズベルトの民主党政府が主体となって、国家規模で大がかりな公共事業を行なっていた時期には、それと並行してヒトラーやスターリンもニューディール政策を真似て、同じように国家規模の巨大プロジェクトを遂行している最中だったのであり、日本では未だに原発などに関しては国家規模の巨大プロジェクトとして引き継がれているわけだが、少なくとも民間の経済が疲弊している時には、政府が直接公共投資を行なって大規模プロジェクトに乗り出すという伝統が、当時覇権国だったイギリスとの経済競争に打ち勝つために、ドイツ帝国などが積極的に行なった政策であって、実際にある程度の成功を収めて、経済力と共に軍事力も強大化させることにも成功したから、それが二度の世界大戦の遠因ともなったわけで、もちろんそれを真似た日本でも富国強兵と殖産興業によって近代国家の仲間入りを果たすことにも成功したわけだが、いつまでも一方的にそればかりとなってしまうとそれなりに弊害も生じてきて、実際にドイツでも日本でも戦争を起こして破滅を招いたわけで、ソ連や東欧諸国でも経済がうまく行かなくなり、そうしたことが教訓となって、中国では民間企業の育成に力を入れることによって、一時的には問題を克服したかに見えたが、その一方で政治権力の独占という面では、共産主義的な政治体制としては譲れないところだから、そこがネックとなって、現状でもうまく行かなくなりつつあるのかもしれないが、だからといって政治と経済の間で力のバランスをとることに関して何が言えるかというと、そこでも単純に考えるなら、経済的には主導権のない貧乏人たちが政治の実権を握れば、力のバランスがとれるように感じられるにしても、そこで政治的な独裁体制を敷いてしまうと途端にうまく行かなくなるわけでもなく、場合によっては長期にわたって独裁体制が続いてしまうこともあるだろうし、そうなると独裁体制を守っている側では政治的にうまく行っていることになる反面で、自由を求める一般の市民の側では、それなりの忍耐や苦難を強いられることになってしまうだろうが、それが経済的な面ではどうなのかというと、意外と経済の面でもうまく行ってしまうかも知れないが、うまく行かなくなればすぐさま独裁体制が原因だからだと理由づけされてしまうだろうし、そうなった結果から原因を探って行けば、それなりにもっともらしい原因や理由が見つかってしまうのかも知れないが、そうやって理由や原因を突き止めたからといって、独裁体制を守っている側としてそれをやめるわけには行かないだろうし、場合によっては泥沼の内戦が起こって国土が荒廃して、経済的な繁栄どころではなくなってしまうだろうが、幸い日本では地政学的に条件が良かったからかどうかは何とも言えないが、実際にもそうはならなかったと言いたいところだが、泥沼の内戦に発展する要因ならいくらでもあっただろうし、現に明治維新前後の戊辰戦争や西南戦争なども内戦の一種には違いなく、そこからもっと時代を遡れば、戦国時代などは百年以上続いた内戦であったし、それなりに泥沼の内戦を経験してきたわけだが、同じ内戦であっても時期によっては、経済が発展した時期もあったわけで、それが織田信長や豊臣秀吉などが行なった楽市楽座と呼ばれる自由主義経済の発展だろうが、また同じ内戦期であっても国土が荒廃した時期といえば、室町時代の応仁の乱の頃だろうが、両者の間で何が違うのかといってみても、両者を比較すること自体に意味があるとも思えないし、ただ時期が違うと言える程度のことかも知れないが、同じ時期における比較として顕著になったのが、新大陸における植民地経営に関するイギリスとフランスの違いとなるだろうが、イギリスの植民地では移民してきた人々が自主的に自治を行いながら自由に開拓したおかげで、大いに経済が発展して、それがのちのアメリカ合衆国の建国につながったのとは対照的に、フランスの植民地ではフランス本国による国家統治の延長上で計画的に事を進めたおかげで、経済がそれほど発展せずに結果的に植民地経営に行き詰まって、植民地そのものをイギリスに明け渡す事態を招いたとも言われているが、そういうところから社会主義的で官僚主義的な統治の弱点を指摘して、それがのちの時代のソ連や東欧の社会主義国や、さらに時代を下って、日本のバブル崩壊後の失われた三十年間に行われた官僚主導の統治の弊害だと指摘することもできなくはないが、そこでも成り行きが単線的な経過を辿っていると単純に事態を捉えてしまうと、それが勘違いの原因となってしまうのかも知れず、政治と経済がそれほどダイレクトに結びついているわけではないことを考慮に入れておかないと、政治よって経済を直接制御できるわけでもないことを忘れて、ありふれた失敗を招いてしまうのかも知れない。


7月30日「思考と行動の謎」

 それをやる主体が個人であっても、あるいはその個人を含んだ何らかの団体であっても、その人やその団体の思い通りのことを一方的にやれるかというと、その場の状況や情勢やその程度や傾向にもよるだろうが、その人やその団体に関係する別の人や別の団体もそれなりに存在するなら、そこで生じているその人やその団体を取り巻く人や物や事などの関係性の中で活動が成り立っているわけだから、たとえ活動するに当たってその人やその団体にそれなりの主導権があっても、それによってその人やその団体をその場で生じている成り行きの主人公に仕立て上げられるだけの支配的な力が備わっているとしても、その一方で相対的な是々非々の関係性を考慮に入れていないと、それに関する独りよがりな思考に囚われて、自己中な勘違いにも拍車がかかってしまうのだろうが、それも外部から見た感じでそう思われる程度でしかないなら、本当のところはよくわからないにしても、その程度の感覚でそれらの関係性を捉えておけば、まだそこから時と場合に応じた修正を容認できるような思考の柔軟性を保っていられるだろうから、大してそれが深刻な事態を招いているわけでもなく、しかもその場に外部から突発的な予期せぬ刺激が加えられると、やはりその機会に乗じて何かをやろうとする人や団体が出てくるわけで、そのやろうとすることが、それまでに築いてきた関係性にちょっとした修正を加えたり、あるいは時と場合によっては関係性そのものに大胆な変更を加えたりする成り行きになれば、それに伴って中にはそれに乗じて自身に有利な関係性を築こうとする欲望も出てくるにしても、結果的にはそうはならない場合の方が確率的には高いのかも知れず、それが突発的に起こった予期せぬ事件をきっかけにして開始された行動となると、行動を起こした当人にもよくわかっていないことが結構あり、そもそもなぜそんな偶然の巡り合わせのようにして突然そんなことが起こるのか謎なわけだから、わかっていなくても当然なのだが、わかっていないからこそ、それに起因してさらなる突発的な事件や出来事を誘発する可能性が高まって、実際に予期せぬ事件や出来事をきっかけにして行動を起こす人や団体の出現を誘発したことになるだろうが、自身の行動も予期せぬ事件や出来事に含まれていることに気づいていない場合も多く、しかも自身の予期せぬ行動に自身の思考が追いついていない場合も多いから、自分がなぜそんなことをやってしまうのか自分では理解できず、そうなると自分にとって一番の謎が自分自身となり、よくわからないことをやっている自分自身をどう受け止めればいいのかわからず困惑してしまうだろうが、そこでも少なくとも何かが自らのよくわからない行動を誘発していることは確かであり、簡単に言うなら外部から刺激を受けてそうなったと解釈しておけばいいのだとしても、ではなぜ外部から予期せぬ刺激が加わるのかというと、偶然の巡り合わせてそうなったと言うとそれで終わってしまい、それでは気に食わないなら、何か他からもっともらしい理由を探してこなければならない成り行きが待ち受けていて、そこから暇つぶしの探求が始まってしまえば、それも予期せぬ出来事に含まれるかどうかも、その人の気分次第とも言えないが、そんな成り行きの中で人も集団も行動しなければならないわけだから、その場の成り行き次第な面を考慮に入れておかないと、そういう成り行きを無視して、社会の中で恒常的に成り立つように思われる正義や理性や倫理などに適った主張を展開してしまうと、場違いにその場の成り行きからずれた思考に囚われているような印象を受けてしまい、そんなことは百も承知の上で、それでも人や団体などがそれらの正義や理性や倫理に逆らうような理不尽で不可解に思われるようなことをやってしまう理由や原因を探ろうとすれば、やはり社会の中で恒常的に成り立っているように思われる正義や理性や倫理などに基づいた主張を展開してしまうなら、それは単なる原則論に過ぎないのではないかと思われると共に、そういうことを主張している人は、いつまでもそんな原則論を主張するばかりでは埒が明かないのも百も承知の上で、自己防衛や自己正当化の観点からそんな主張を繰り返していると受け取っておけばいいのだとしても、ではそうではない主張の仕方があるのかと問うなら、たぶん主張と共に実践が伴っていないと行動に説得力が伴わないのも百も承知の上で、そんな原則論を主張しているとも意識していないだろうが、説得力を得たいがために無理に行動を伴わせようとしても、それがうまくいかない可能性が高く、時宜をわきまえない行為や行動がその場の成り行きに合致するはずがなく、そういうことも踏まえると、誰もがその場の成り行きに合致する行為や行動を起こせるわけもないし、結果的にうまく立ち回れた人や団体が、その場の成り行きに合致した行為や行動ができたことになるわけだが、それも行為や行動の最中に工夫を凝らして、自らのペースに他の人や団体や物事を引き込むような芸当がそこに関わってくる全ての人に求められているわけでもないのだが、少なくともその場で主導権を握るには、そういうことが求められてくるのだろうが、結果的に誰がどんな団体がその場で主導権を握るとしても、それがどれほどの期間にわたって保持されるのかも、その場の成り行き次第な面もあるだろうから、結果的にうまく立ち回ってその場の主導権を握ってやりたい放題なことをやっているように見える人や団体を羨ましいと思ってみても、大抵はやりたい放題好き勝手に振る舞っているように見えてしまう人や団体は、他の人や団体などから批判や非難を浴びている場合が多く、実際に多くの批判や非難を浴びながらもそんなことをやっているわけだから、それが好ましいとは思われていないし、多くの人がやめてほしいとも思っているだろうから、それがうまく立ち回っていることになるのかというと、結果的にはそうだとしても、それ相応のリスクを抱え込みながらもそんなことをやっていて、そういうことをやっていると将来に禍根を残すことにもなるだろうし、今はうまくやっているが後が大変だと思っている人もいくらでもいるだろうから、たとえその場の主導権を握っていると見られたところで、その主導権すらも大したことではない場合も多く、結局そういう成り行きが一段落した後から振り返ってみれば、アホくさいことにこだわって馬鹿げたことをやっていたように思われてしまい、そう感じられる限りで、それが一時的な流行り廃りに過ぎないこともわかってきて、その場の流行に煽られてバカ踊りを踊っていた人がその場の主導権を握っているように見えていたに過ぎないなら、そんな主導権などには何の価値もないことになってしまうわけだ。


7月29日「肝心な何か」

 いまだにそれが何の機会なのかよくわからないが、とりあえずその機会を捉えているつもりになって、ここでやるべきことをやっているつもりなのかも知れないが、それでもここで肝心な何かを活用できないとなると、それを活用するタイミングも逸しているとしか言いようがない状況かも知れないが、ここで肝心な何かを活用するに際して、活用しようとしている物事がよくわかっていないと活用できないのかというと、それができるもできないも何かの機会であることは確かだとしても、その機会を捉えて何かをやろうとしているのだろうが、もちろんそう思っていることからして勘違いなのかも知れないし、本当は何の機会でもないのに、勝手に何かの機会だと思い込んでいるに過ぎないのかも知れないが、それに関して、例えば財務省がなぜこの機会を捉えて財政健全化に向けた取り組みを強化しようとしているのかといえば、実際に日本政府が国債を発行し過ぎているからだと解釈できるが、それに関連して財務省が良からぬ陰謀を巡らせているわけでもなく、国債を発行し過ぎているというちゃんとした理由があるわけだから、大っぴらに何を隠す必要もなく、ただこの機会に健全な財政状態に戻そうとして、あの手この手で自民党政府に対して増税するように働きかけていると解釈すればしっくりくるはずだが、そんな情勢の中でも逆に減税を実現するには、予算を減らして小さな政府を実現するしかないかというと、実際にそんなことができるはずもなく、もちろん現実には逆に予算を増やしてしまっているから、確かに現状では新自由主義が目指すような小さな政府など実現できるはずもないのだが、その一方で景気が悪ければ、政府が予算を増やして公共投資を促進する必要に迫られて、そうすれば国内の景気が良くなるかというと、それも予算や公共投資の中身にもよるだろうから、そんなことをやっても必ずしも景気が良くなるとは限らないが、そういうことではないとすると、現状でわかっていない肝心な何かが、必ずしも政府に直接関係することでもなく、だからといって民間の企業に直接関係することでもなければ、では何なのかというと、景気刺激策とかいう直接的にどうこうしなければならないというわけではなく、もっと何か経済とは別の方面で活用しなければならないことなのかも知れず、しかもそれを活用しなければならないのが、政府でも企業でも他の各種団体でもないとすれば、他に何かそれを活用する主体を想定できるのかといえば、何も想定できなければ何でもないことになってしまうだろうが、たぶん何でもないような一般の個々人が関わってくることかも知れず、そうなると公共的な何かになるだろうが、そこから一歩踏み込んで公共の利害と言ってしまうと的外れとなってしまい、では利害でなければ何なのかというと、それが個々人の利害を超越した何かだと考えても、やはり勘違いなのかも知れず、利害を超越しているわけではなく、むしろ利害にこだわってしまうと、利害から外れて行ってしまうような成り行きを招いて、では利害にはこだわらなければいいのかというと、逆に利害にこだわらないと、利害から外れられないわけで、その辺が微妙に矛盾を感じざるを得ないが、元から矛盾していないと矛盾からは逃れられないわけで、矛盾とは矛盾しないようにしているから矛盾してしまうような逆説に起因して発動するのであり、だからある程度は矛盾しているのを承知で事を進めなければならないわけで、それが矛盾に関する理解を妨げて、勘違いを招いてしまう原因となってしまうのだが、それ以前にこういうことを述べていること自体が、何かインチキ霊媒師のような物言いとも思えないにしても、ただの屁理屈に他ならないから、信用するわけにはいかない主張内容となってしまうが、何をどう主張しても主張するだけでは肝心な何かを活用しているとは言えず、そういう意味で肝心な何かとは実践そのものだと言えるのかも知れないが、そこでも何をどう実践するかによっては、それが肝心な何かではなくなってしまう可能性もあるわけで、だからといってそれを一概にこれだと決定することはできず、実際にやってみなければわからないことでもあるから、やってみた後からそれがわかったりわからなかったりすることだと言っても構わないが、それでは何を言っているのかよくわからなくなってしまうから、言っていることが矛盾してくるのは仕方がないとしても、しかも直接何を言っているわけでもないし、それ以外の何を述べているわけでもなく、肝心な何かについて述べているはずなのだが、一向にそれが明らかにはならないから、述べている内容自体が詐欺になってしまうかも知れないが、それに関して肝心な何かをうまく避けながら述べているというよりは、そうせざるを得ない事情があるわけでもないが、それを直接述べてしまうと、肝心な何かではなくなってしまい、そこから外れたことを述べていることになり、なぜそうなってしまうのかというと、それが直接こうだと述べられるようなことではなく、あくまでも各自の実践を通して感じられるようになるから、そうなる前に指摘できるような物事ではないのかも知れないが、それでも間違っていることを承知であえて指摘するなら、偶然にそうなることを受け入れることが肝心なのであり、間違ってもそれが何かの必然であったり、そうなるのが当然だとは思わない方が身のためなのかも知れず、思惑通りや思い通りや予想通りのことが起こっているわけではないはずなのだが、逆に偶然にそうなってしまった結果をいかにして活用するかが、いつ何時でも常に問われていることであって、絶えずそこで自らが試されているのだと気づいてしまうと、それこそが勘違いの原因かも知れないが、それでもそうだと気づいてしまったふりをしておかないと、その状況を利用してうまく立ち回れなくなってしまうわけで、だから勘違いしていることを承知で、その場で起こった偶然の巡り合わせを受け入れた上で、そこで実践しなければならないことが出てくるわけで、しかもそれがその場では何だかわからないから、実践しようがないのだとしても、やはりそれでもそこで何かを実践しているわけだ。


7月28日「政治力の行使」

 政治力の限界がどこで露呈するかというと、経済政策で失敗したり、他にも外交や内政で失敗した時に、政治力の限界が露呈したことになるのだろうが、政治家の類いやそれに対してジャーナリストや評論家の類いが何か主張して、それが各々で程度や傾向の違いがあるにしても、一応は自身の政治力を行使しているつもりなのだろうが、それが何やら良からぬ方面に圧力をかけたり不正なことをやろうとして、それなりの効果や成果を得られたら、政治力を行使してうまくやったことになるだろうが、もちろん後からそんなことをやったのがバレて問題となるから、その種の政治力の行使も万能ではないことが明らかになるわけだが、そんなことをやったのがバレたのに、大手メディアがそれをなかなか報じようとしないというのも、政治力が行使されて圧力がかかっているから報じようとしないのか、あるいはメディア自らが自主規制して政治力を行使している側の味方になっていると批判することもできるが、そういうところでも政治力の限界が露呈していることになるだろうし、常に限られた範囲内で政治力が行使されて、それが限られた効果や成果をもたらすにしても、強権的な傾向の強い政治家であれば、そう見えるプーチンや習近平なら、絶えず自身の政治力を強化しようとするかも知れず、それも制度的に独裁体制を築くことに成功した事例に過ぎないのだろうし、政治家の誰もがそういった傾向を目指すわけでもなく、目指そうとしても制度に邪魔されて、目指せないようになっている国があれば、それが民主主義の制度を受け入れている国になるわけだが、そういった制度も国内でネオナチなどの極右や暴力革命を目指す極左勢力が台頭してくれば、割と簡単に転覆してしまうのかも知れないが、それも国内外の情勢次第な面もあるから、実際にそうなるかどうかは、そうなってみないことにはよくわからないわけだが、そんなふうに考えるなら、どこかの国の独裁者のように制度を自らが有利になるように作り変えようとして、それに成功すれば、そういった独裁者的な政治家の政治力がそれなりに強まることは確かだとしても、その結果としてなぜかうまく行かなくなる面も出てきて、実際にどう見てもうまく行っていない戦争が延々と続いているし、しかもうまく行っていないからこそ、独裁者的な政治家の力の限界も露呈しているわけだが、またそういう独裁者的な政治家が出てこないような制度となっている国に住んでいる人なら、その種の独裁者的な政治家の味方を装う論者や識者の類いには違和感を持つだろうし、根本的なところで間違っているような気がしてしまうわけだが、その根本的なところというのが、政治というのは法的かつ制度的な制約を受けながら行われることであり、自身に課されたルールを受け入れてルールに従いつつルールの範囲内で競い合うゲームのようなものだと定義しておくのが妥当なようにも思われるが、その一方で屁理屈をこねくり回すような主張を嬉々として開陳する輩からすれば、そんなきれいごとを述べている場合ではなく、絶えず自分自身や自らが所属する勢力や陣営が有利になるようにルールを作り変えようとするのが政治活動そのものだと受け取っているように見えてしまうのだが、たとえそれが正論で、そうすることに成功したとしても、その後に待っているのはプーチンや習近平のような立場になってしまい、何か独善的な閉塞感に囚われているように見えてしまうわけだが、それが政治家としての目的が間違っているようにも感じられてしまうとすれば、いったい誰のために何のために政治を執り行なっているのかということにもなってくるだろうが、そう問われてしまうのがおかしいと思うなら、何かそれに代わる都合の良い問い方が他にあるかも知れないが、単純にそれが自身の私利私欲のためにやっていることではないとすれば、利害を共にする共同体のような集団なども想定されてくるかも知れないし、それも民族や宗派といった昔ながらの定義からは外れるカテゴリーだとすると、例えば岸田首相が何のためにあんなことをやっているのかと想像してみれば、たぶんそれが一概には言えないようなことであり、岸田首相自らが思っていたり考えていたり口に出していることとは違った結果を招いているなら、そこに勘違いが潜んでいそうな気もしてくるのだが、それに関して岸田首相と安倍元首相を単純に比較することはできないし、ある方面においては岸田首相の方が頭が良いのは一目瞭然だろうが、その一方で頭が良いか悪いかの基準では測れない何かがあって、そんな基準とも言えない基準で両者を比較してみれば、同類とは言えないにしても、それなりに同じような制約を受けていて、その制約の範囲内でやれることをやっていることは確かなのだとしても、その制約というのが両者を情けなく見せている制約でもあり、そう見える方面に敏感な感性の人たちにとっては、両者に限らず歴代の日本の首相がみっともなく見えてしまうわけだが、そう見えてしまう人たちが期待してしまうのが山本太郎の存在なのかも知れないし、そんな人たちが盛んに山本太郎の一挙手一投足を持ち上げて見せるのも、それに反感を抱く人たちにしてみれば鬱陶しくてたまらないところかも知れないが、どうもそういう感覚とは別の方面から政治家のあり方を問うなら、たぶん無難なのはサラリーマン的な政治家の姿なのであり、それが起業家や企業経営者的な姿ではないところが、そういった方面に好感を抱いている人たちにしてみれば違和感を覚えるところかも知れないが、山本太郎に反感を抱いている人は、是非サラリーマン的な政治家に見える人に選挙の際には一票を投じてみたらいいのではないか。


7月27日「対応できない事情」

 今後世の中で何が変わるかは、変わった時にそれがわかる時もあるだろうが、その変化によって何か悪い傾向が出てくるなら、大抵は手遅れとなってからわかるのかも知れず、例えば何かの潮目が変わったと言われた時にはもう遅く、変わる前に変わった時に備えておかなければならないと言われたところで、何が変わるかが前もってわかるかというと、今は順調に物事が進んでいるが、もうすぐ潮目が変わるから、その時に備えて必要な対策を講じておけと言われても、その対策というのが面倒で厄介な作業を行わなければならず、しかもそれなりに費用がかかることであるなら、警告を受けて素直に、はいそうですか、とは行かないだろうし、変わった時に備えて必要な対処を怠らなければいいとは言えるが、それがいつものように言うは易し行うは難しであることが多く、誰もがそんな警告を発したい側に回りたいのだろうが、その一方で誰もが面倒な対策を講じる側には回りたくないわけで、そういった注意喚起のようなことがメディアを通じていくらでも発せられている現状があるからこそ、いくら注意喚起されたところでそんなことに耳を傾ける人もそれほどいるわけでもなく、誰もがある程度はその種の注意喚起を真に受けるにしても、真に受けたところで対策を講じるかというと、それが簡単にできることならやるだろうが、簡単にできることなのに迷信にとらわれるとやらないし、その迷信というのもメディアを通じて世に広まっていて、しかもその迷信によって多くの人々が政治的に操られていると言えるだろうから、そうなると注意喚起を促すメディアに騙されるなと警告を発するポピュリストの類いもいくらでもメディアから登場してくるから、そうなればもはや何を信じればいいのかわからなくなってくるかも知れないが、それでも多くの人々が自覚することなく信じている迷信があって、それもある程度は信じているという程度であるから、全面的に信じているわけでもないのだろうが、それがちょっとしたたわいない信仰になっているとしても、たわいないからこそ気軽に安易に信じられていることでもあるから、その程度のたわいのなさに心を奪われていることを自覚できないわけで、いつも迷信というのはたわいないことなのかも知れず、その見かけのたわいなさに騙されるなと警告を発する人もいるにはいるが、そういう警告を発する人こそが結構たわいない迷信に取り憑かれている場合もあるから、少なくともいつも安易に警告を発するような役割を自ら進んで受け入れているように見えてしまう人の言うことには騙されるなと警告を発したくなるだろうが、それこそが〇〇に騙されるなと警告を発してしまう人のカテゴリーに含まれてしまうから、できればその種の警告を発するような動作を避けつつも、それとは違う方面から何かもっともらしいことを指摘できればいいのだろうが、まだ何も起こらないうちからそれを指摘できるかといっても、それが指摘するようなことではないとしたら、前もって指摘できるようなことではなく、それが起こってから騒ぎ出すようなことなのかも知れず、しかも起こってからでは遅過ぎるわけで、遅過ぎるからこそ大騒ぎとなるのだろうし、それが起こる前から指摘されていて、それに対して全力で何かが起こった時に備えられるかといっても、それもこれから何が起こるかにもよるだろうし、それが起こってからではもう遅いと言われるようなことに、前もって万全の備えを用意できるかといっても、全ての面でそんな準備ができないからこそ、大災害が起こって大変な事態になるのだろうから、備えるにしても限度がありそうなことは、それも前もって誰もがある程度は承知していることだが、大抵の場合は何かが起こってから実際に多くの人々が大変な目に遭って、それに対する万全の備えをしておけばよかったと後悔するわけだが、そんな時でも中には抜け駆けのようにして十分な備えをしていた人もいるわけで、その時には実際にそんな人が助かるのだろうが、それが起こらないとそれに対する十分な備えが無駄になってしまう場合もあり得るから、そうなるとその人は骨折り損のくたびれもうけとなってしまうだろうから、それは大洪水が起こらなかった時のノアの方舟に喩えられるわけでもないが、下手をすれば周囲の物笑いの種となってしまうだろうし、それに類する挿話としては、米ソ冷戦時代にどこかの金持ちが豪奢な核シェルターを作って、それをどこかのテレビ番組が取り上げていたのを見た記憶もあったかも知れないが、いくら備えあれば憂いなしと言われても、備えられる人が限られてくるような備えを誰もができるわけでもなく、個人や民間では備えられないことを政府や地方自治体などが備えている場合もあるとしても、例えば台湾有事に備えて日本政府が防衛力を増強するというのも、それが台湾有事なら備える直接の当事者は台湾政府であり、アメリカから支援を受けて台湾政府が防衛力を増強するのはわかるが、それを口実にして隣国の日本政府までが防衛力を増強しなければならないという論理に、どの程度の正当性があるのかといっても、台湾の次は尖閣諸島だ先島諸島だ沖縄だと脅しをかけるのも、直接には中国政府であるにしても、それに呼応して防衛力の増強を訴えるのが国内の軍需産業やそれに支援されている族議員や軍事関係者などになるのだろうが、そうなるとそれらの人々や団体にとっては功利的な事情から政府や国民に対してそんな脅しをかけるのだろうし、果たしてそれを真に受けても構わないのかと、どこの誰が問われているとも言えないし、素直に国民全体が脅されていると受け取っておいても構わないだろうが、真に受けるも何も、今も昔も大半の国民が迷信に取り憑かれているから、それが何の迷信かも自覚できずに、誰も迷信だとも思ってもいないし、それを信じていることすら意識していないわけだが、そんな心理状態でどんな判断ができるわけもなく、それを判断しなくてもおのずから行為や行動が伴ってきて、もちろん何もしないのも、何もしないという行為や行動に含まれるなら、その結果として、あるいはその結果とは無関係な方面からも、何らかの事態がもたらされるのではないか。


7月26日「共産党は日本からなくなったらいい」

 単純なレベルでは単純な成り行きで物事が進行中のようだが、それとは別のレベルでは複雑でこんがらがった経緯や事情を抱えている場合もありそうで、どちらの側から言説を構成するかで、その内容も変わってくるのだろうが、時として多くの人たちが大したことはない誰かの発言に噛みつくのは、発言している人がメディアを通じて世間の注目を集めているからだが、「共産党は日本からなくなったらいい」と無名の一般人が発言したとしても、それが共産党にとって見過ごすことができない発言にはならないが、こともあろうに他の政党の代表者が言えば、厳重に抗議するのは共産党としては当然の対応になるだろうし、しかもそう言い放ったのが、いつもお騒がせな物言いやパフォーマンスで何かと物議を醸す政党の代表者だから、待ってましたと言わんばかりに、大勢の人たちが騒ぎ立てるのも当然の成り行きだろうが、それがこういう人ならこういうことを言うのも当然の内容なのだから、何かそれが画期的なことであるわけでもなく、こういうことを言えばその方面の人たちが騒ぎ立てることを承知で言い放つようなことなのだから、どうでもいいと言えばその程度のことには違いないのだが、そういうレベルとは違うレベルで日本維新の会と日本共産党が共鳴し合っている領域があるのかといえば、それが空想の領域というか妄想の領域とでも言えるような領域であり、たぶんそれがれいわ新選組であれば維新の会と現実の世の中で共鳴し合っていて、互いに対立しながらも同じ活動領域を共有していると言えるだろうが、もちろん維新の会にしてみたら、れいわなんて、あんな連中とは格が違うと思っているだろうし、共産党だって眼中にない無視できる存在だからこそ、なくなっても構わない政党だと言い放ったわけだろうが、それに対して批判や非難を浴びせている人たちも、いつもの調子で維新をファシストの集まりだヒトラーだとお馴染みの固有名を持ち出しながら批判してしまうわけだが、中身も主張も全く違うように感じられるのに、構造的に似ているのはむしろれいわ新選組の方であり、れいわがナチスに似ているのは、その支持者の誰もが気づいていないように装いつつも、気づいていても口に出すのも憚られるところだが、党首の山本太郎が全ての元凶は消費税だ!と言うのと、ヒトラーが全ての元凶はユダヤ人だ!と言うのとでは、内容は全く違うとしても、言説の構造的には全く同じだから、山本太郎もヒトラーと同じように危険な存在だと結論づけるわけにはいかないし、維新の会やN国党辺りならやりかねないが、冗談と思って聞き流してもらえば済むようなことであるにしても、たぶん何もないところから、一から政党を立ち上げると、構造的にナチスと似通ってしまう傾向が出てくるのかも知れず、れいわの中にも、ナチスで言えばゲッベルスやヒムラーやレームのような役割を担ってしまうキャラクターが散見されて、もちろんその名称の元となった新撰組にも似たようなキャラクターがいるから、集団で何かをやっていくと、同じような構造の中で同じような役割を担った人物が必然的に現れてしまうのだろうが、共産党はどうかというと、「日本からなくなったらいい政党」と維新の代表者がこれ見よがしに言い放つにもそれなりの理由があって、しかも言い放った当人が気づいていないところで、的を射ている可能性があるわけで、維新の会が「第二自民党」であることを自ら認めているとすれば、それと競合しているのが他ならぬ共産党であるわけで、共産党と自民党が似ているから、維新の会でも無意識のうちに日本共産党をライバル視しているというと、誰もそんなことは思わないだろうし、むしろ真逆の存在だと思っている人の方が圧倒的に多いだろうが、他ならぬ維新の会の代表もそう思っているはずだが、要するに日本以外の社会主義国で共産党が占めている独裁的かつ指導的な立場を、日本では自民党が占めているわけで、実質的に日本の共産党は自民党であるはずなのに、なぜか昔から野党の片隅に日本共産党という社会主義国における共産党の役割を担えない共産党まがいの党が存在していることが、今や自民党にとって代わって共産党の立場や役割を担いたい維新の会としては、何か目障りな存在として意識されてしまうわけで、もちろん自身が意識していることに気づけないから、どうでもいいようなとってつけたような誰もが安心できる当たり障りのない理由をこじつけて、共産党などなくなってしまえばいいと言い放ったわけだろうが、そういう言い放ち方に対して待ってましたとばかりに脊髄反射して批判や非難を浴びせる人たちの理由づけや正当化の内容も、やはりどうでもいいようなとってつけたような誰もが安心できる当たり障りのない内容なのだが、そういう人たちが見逃しているのが、今や維新の会が担っている別の役割なのだが、その役割というのが囮としての役割であり、他ならぬれいわ新選組が躍進するには、維新の会がこれまで通りにひどいことをやりまくってもらいたいわけで、もちろんどこの誰がそう思っているわけでもないのだろうが、成り行きとしては維新の会がひどい暴言の類いを撒き散らしながら、大阪の行政でもやりたい放題なことをやりまくってめちゃくちゃな状態をエスカレートさせるほど、人々のれいわに対するアレルギーやネガティブな感情が薄れて行って、結果的にれいわの勢力が拡大する、と誰が思っているわけでもないのだが、その誰が思っているわけでもないところが、れいわとしてはチャンスが訪れているといえるのかも知れず、しかも維新としても攻撃の矛先をれいわではなく立憲民主党に向けているわけで、それが目下のところは正しい情勢判断であるから、そうなるのも当然だろうから、そういう意味でもれいわに勢力拡大のチャンスが訪れていると思いたいところだが、それも実際にそうなるかどうかは、現状では誰にも予想がつかないところなのかも知れない。


7月25日「誰もがそう思いたいこと」

 それに関してはいつものようにあえていい加減なことを述べるなら、何か思惑があってやっていることだと思いたいのだが、では思惑通りに事が運んでいるかというと、そんなはずがないのも百も承知でやっていることだと思いたいのだが、誰がそう思いたいのかというと、誰もがそう思いたいわけで、その誰もがそう思いたいことというのが、そら見たことかと言いたいことでもあって、しかもそう思いたいが、なぜか実際にはそうはなっていないことでもあるから、たとえ思惑通りに事が運んでいなくても、強引にそら見たことかと言い放つから、何かそれが的外れな印象を受けるわけだが、そこまでは予定調和の結果をもたらすとしても、そこから先の時空で何がどうなっているのかというと、実際にそこまで辿り着いたらわかるようなことであってほしいのだろうが、そこまで行ってもわからなければ、やはり当初の思惑が外れているのだろうし、しかも思惑が外れているのに、性懲りもなくそら見たことかと言い放ちたくなってしまうわけで、それがその人の思惑を裏切りながらも予定調和の結果をもたらしてしまうから、さらにそら見たことかと懲りずに言い放って、余計にその人の思惑を外れた結果がもたらされていることに気づけなくなって、そうやっていつまでも経っても何かが起こる度に予定調和のようにそら見たことかと言い放ってしまうから、あたかもそうなることはとっくの昔にお見通しだと言わんばかりの意見ばかり述べてしまうから、結局そういう人は信用できないと思うしかないわけだが、それ以前にこれ見よがしなことを言い放つ人の言うことを真に受けるのも愚かで浅はか極まりないから、誰もそんな人の言うことを信用するはずもないのだが、それが何かの決まり文句のようにうっかり口に出してしまうようなことでもあるから、たとえ信用できなくてもそんな人がこれ見よがしに言い放つパフォーマンスを見て安心してしまうわけで、そういうレベルではそれで構わないことであって、何やら大げさな調子でそら見たことかと言い放つ人たちのパフォーマンスを見て安心しながらも、肝心の彼らが言っている内容や彼らがはまっている罠を素通りしてから、それを振り返って言い放ちたくなるのが、これもまた性懲りもなくそら見たことかであり、そうやってそれらをたわいないこととして片づけながら、日々の退屈しのぎに興じているつもりだろうが、誰が退屈しのぎに興じているのかというと、それもその種の退屈しのぎを伝えるメディアから受ける印象としては、誰もが興じていることになっているのかも知れず、しかもそんな決めつけに反発して自分だけは違うと言いたい人も中にはいるらしく、気休めにそんな人の生意気な意見にも耳を傾けたくなると共に、そんな意見を聞いてみたところで何がどうなるわけでもないとたかを括りたくもなってくるのだが、ミイラ取りがミイラになるように、意外と自らもそれを真に受けるような成り行きになってしまうと、その程度の意見を小馬鹿にしつつも信用したつもりになって、さらにそれを参考にしながら自身の主張や意見も構成されてしまって、そうなるとそんな人たちから大なり小なりの影響を被っていることになるから、その程度の意見を自らも主張していることにもなって、その人と同類なカテゴリーに自らも含まれてしまうことが、自分だけは違うという思いを裏切っていることにもなるから、何かそういうところが釈然としないわけで、ちょっと前までは自分だけは違うと言いたい人を小馬鹿にしている自らを正当化しようとしていたはずではなかったのか、と自問自答するわけでもないが、そんなことはすぐに忘れてしまうようなことでもあり、気づかないまま無自覚に、性懲りもなくそら見たことかと言い放っている自らに赤面するわけでもなく、くだらないことを言い放って赤面している自らを演じているとも思っていないのだが、いったんそういう成り行きに心身が囚われてしまうと、その場の成り行きに従わなければならないという変な義務感から、誰に頼まれたわけでもないのに、その種の役柄を演じて悦に入ってしまうわけで、果たしてそれがその場でうまく立ち回ったことになるのかというと、そうでもないような気がするのと、そうでもないと思われるようなことをやっているつもりになれるから安心できて、それが本気でそんなことをやっているわけではないという言い訳を述べる機会であるような気もしてくるわけで、それも独りよがりな勘違いには違いないのだろうが、それの何が勘違いだからといって、すでに本気でそんなことを述べているわけではないと思っていること自体が、気休めの退屈しのぎで述べているレベルとなっているわけで、その程度のことをいくら述べても、誰からも相手にされないのは承知しているのだろうが、承知しつつもそんなことを述べている時点で、実際にその程度になってしまっているわけで、そうなればそれが演技などではあり得ず、そんなことを述べている人はその程度なのだと他の不特定多数の人々からそう見なされてしまい、その程度が嫌なら、他の大勢の人々が真に受けるようなことを主張しないと汚名を返上できないわけで、それがその程度の人には無理なことだと思いたいわけだが、それに関して例えば左翼をパヨクだと馬鹿にする程度で何か真っ当なことを述べていることになるのかといっても、それ以外のところでいくら真っ当なことを述べているように装ってみても、どうしてもそれが装っているに過ぎないようなことにしかならないから、装うことが果たして真っ当な態度なのかと誰に問われるわけでもないが、誰に問われているわけでもなくても、すでに左翼をパヨクだと馬鹿にしている時点で問われていて、そういう表現によってその人自身が他の誰からも小馬鹿にされるような紋切り型の思考を招き寄せているわけで、その一方でパヨクだと小馬鹿にされた人の方でも、例えば「今だけ金だけ自分だけ」とかいう紋切り型のキャッチフレーズに感染しているわけだ。


7月24日「遅々として進まないこと」

 何をやるにしても遅々として進まないことをやっていると焦ってしまうが、焦ったからといって遅々として進まないことには変わりなく、思い通りにならないからそうなってしまうのだとしても、その一方で何の根拠もないのに、何かのきっかけから急に事態が改善して、結果的にはうまく行くような気がするからあきらめるわけにはいかず、そんな気がするぐらいのことであきらめるわけにはいかないと思うのも、無駄で意味のないことをやっている可能性もあるわけだから、徒労に終わってしまうことを覚悟しなければならないと思いながらそう思っていて、それも焦りからそう思われるのだろうが、それがそこだけではなく、世界の至るところでそんなことが行われていると思えば、そんなことをやっているのは自分だけでないと少しは気休めになるかも知れないが、気休め程度で報われるようなことでもなく、今も何かを犠牲にしながらそんなことをやっていて、犠牲にしている何かというのが、それにかかりきりになっていることで、やれなくなっている何かなのだろうが、その何かがやらなければならない何かであれば、やらなければならないことをやらずに、その代わりにやる必要のないことをやっているかも知れないわけだから、そう思えば余計に焦ってくるが、そのやらなければならないことを思いつけないわけではなく、思いつくことならいくらでもあるが、それらの中で何を優先しなければならないのかというと、やはり現状でやっている遅々として進まないことなのかも知れず、それが現状では無駄で意味のないことだと思われるにしても、いつかはきっと役立つかも知れないし、仮に役立たなくても何とかしてやり遂げることができれば、何らかの達成感を得ることができるかも知れず、それが気休めにしかならないとしても、すでに途中までやってきたわけだから、可能な限りはその続きをやらなければならないわけで、それが誰にとっても気に入るようなことではないとすれば、やっているのを批判されたり妨害されたりするのだろうから、もちろん人知れずやっていればその心配もないわけだが、これ見よがしに大々的な宣伝が行われるようなことであれば、嫌が上にも世間から注目されて、それに対する評価が下されることになるわけで、それがこともあろうに自爆営業のようなやり方であると、もちろんやっている当事者にしてみたら、自爆営業などではあり得ないだろうから、そんなふざけた表現で語られるはずのないことだろうが、では果たしてそれを身を切る改革だとかいう潔さに喩えても構わないかというと、それも当事者の自己宣伝の範囲内で好んで使われる表現には違いないわけだが、それが妥当な表現ではないように感じられるなら、それとは違う方面からそう感じられるのだろうから、そちらの方面ではそうではないような理由があって、その理由に基づいてそれに対する否定的な言説が構成されると、それが覆されるような内容になってしまうのだろうが、その一方で遅々として進まないことが何かといえば、それもそれらの勢力が自己宣伝に利用したいイベントの類いには違いないわけだが、肝心のイベントの準備が遅々として進まないことも、それに対する批判に拍車をかけているわけで、批判によってイベントそのものが中止に追い込まれるわけでもないにしても、少なくとも多くの人々に悪印象を抱かせているのだろうし、それでもそれらの勢力を熱烈に支持している人もそれらの地域には結構いることになっているから、そんな情勢にも後押しされながら彼らにとっての自爆営業をやり続けている現状がありそうなのだが、それが他人からどう思われようともやり遂げる価値があることには違いなく、そんな価値を信じて疑わず、共感を表明する人も後を絶たないし、何よりもそれらの勢力を批判する人たちがその価値を信じて疑わないからこそ、その価値を汚すようなことをやっている勢力に対して苛烈な非難を浴びせている現状もあるわけで、それをどう受け取ってみても、否定的な評価しか出てこないようなことしかできない勢力を熱烈に支持している人々が、狂っていると安易に見なしても、当てが外れて焦ってしまうのだろうが、それらの人々が狂っていると見なすことには同意できないし、誰からも共感を得られないとなると、では彼らをどう見なせばいいのか、よくわからなくなってしまうが、狂気というのは絶えず現状の世の中で行われていることに内在していて、狂気を含まない行為などありはしないと思っておいても構わない程度で世の中に蔓延しているから、それをいちいち狂気だと断定しても、そんなのはありふれているから関心を持たれないし、それらの勢力が行なっていることがいつも狂気と共に行われていることであるのを、ある程度は誰もが承知していて、彼らの行いがいつも狂気と共に発動することは織り込み済みのこととして、逆に誰もが彼らの行なっていることを好意的に評価しているわけで、もちろんそれを好意的に評価している人たちが彼らの支持者なのだから、そんな支持者たちに向かってお前らは狂っている!と言い放ってみても、何の反応も返ってこないばかりか、現状では誰もそんなことは言い放ってはいないことになっているのかも知れず、では彼らを批判している人たちは誰に向かって非難の言葉を浴びせているのかというと、もちろん直接には非難の対象に向かって非難の言葉を浴びせているつもりになっているはずだが、それが彼らに直接届いているかというとそうでもないのかも知れないし、彼らにしてみれば、それらの人たちから非難されるのは想定の範囲内のことであって、しかも非難する人たちの存在が彼らにとっては欠かせないわけで、逆に非難の声に反発してより一層彼らを支持してくれる人たちが生じてくることを期待しているから、非難されるようなことをより一層やろうとするわけで、それが彼らがやっている自爆営業の狙いとするところなのだが、だから自分たちが利用しようとするイベントの準備が遅々として進まなくても、それによってより一層の彼らに対する批判や非難を呼び込むなら大歓迎なのかも知れず、やるならもっと派手にやってもらいたいところであり、どんどんやってもらってそのイベントをやる前から盛り上げてほしいだろうが、果たしてそんな否定的な盛り上がり方でいいのかどうかは、実際にそのイベントが行われてから、それが明らかになったりならなかったりするようなことなのではないか。


7月23日「慣れと鈍感さの連動」

 慣れというのは鈍感になることだと言われると、そう言われてみればそうなのかも知れないと思う程度のことだが、実際に何に慣れてしまっていて、それが何に対して鈍感になってしまっているのかがわからず、意外とそれに気づくのが難しいのかも知れず、たぶんそんなことは当たり前のことだと思っていることであれば、確かにそんなことには慣れてしまっていて、それがそれほど当たり前のことでもないことに気づかないなら、それに対して鈍感になっているはずなのだが、当たり前のことが当たり前のことではないことに気づくかどうかで、何がどうなるわけでもなければ、そんなことに気づいたところで、どうということはないが、なぜそんなことに気づかないのかと言われたところで、気づかないものは気づかないわけで、気づきようがないのだから、他人から何を言われたところで、鈍感であることによって、大して不利益を被っているとも思えないなら、それを改めようとするわけでもなく、逆に鈍感であることを利用して、それにまつわる面倒なことは考えようとせずに、逆に鈍感であることを装って、わざとスルーしたり、すっとぼけてみたりと、しびれを切らして向こうからそれを指摘されるまでは無視し続けるような態度でいれば、それで済んでしまえば都合が良いのだろうが、調子に乗ってそんなことをやっていると、忘れた頃に災難が降りかかってきて、実際にひどい目に遭ってから反省するようなことになれば、身にしみて早くそれに気づいて対処しなければ駄目だとわかるのだろうが、それがすでに手遅れになってから気づくわけだから、気づいた時にはもう遅いということになるわけで、もう遅いからといって、そこからどう対応すればいいのかもわからなければ、そういう面はそのまま放置するしかないのかも知れず、それでも構わないと言えるような状態であれば、確かにそういう状態に慣れていて、そういうことに対して鈍感になっているわけだが、それも気にするようなことでもないとたかを括っていられるなら、それが起因して痛い目に遭えば一時的に反省して鈍感な態度を改めようとはするだろうが、それがそういつまでも続くとは限らず、慣れてくれば次第に鈍感になってくるから、気づいた時には元の木阿弥ということにもなりかねず、それも気のせいで済んでしまうようなことだと思ってしまえば、本当に気のせいで済むかどうかも、そんなことがどんなことなのかにもよるだろうが、そういつも痛い目に遭うとも限らなければ、痛い目に遭った時だけ反省して、痛い目に遭わなければ何とも思わないという気の使い分けができれば都合が良いが、面倒なことには首を突っ込まずに避けて通るような芸当が身についていれば、その場で勘が働いて、その程度や傾向を見極めて、気づいて対処するか、気づいてもスルーするかの判断がつくのかも知れないが、気づかなくても結果的に大したことにはならなかったら、後からそれに気づいて結果オーライだと思うこともあるだろうから、そういうことに関しては、当人がどんな態度でどう振る舞おうがその人の勝手とはならないのもわかりきったことだが、意識して工夫を凝らしている気でいるなら、それなりに対処を心がけている証拠となるにしても、それに気づいていないようでいて、しかも結果的に切り抜けられてしまうと、自分でも何か努力してそうなったわけでもないことが、それをどう捉えればいいのかよくわからないから、何か不思議な気分に囚われるかも知れないが、そうなることを目指して努力するという普通の感覚から外れるようなことが結構の頻度で起こっていると思うなら、自分が何か得体の知れないものに守られていると思ってしまっても、それほど奇異には感じられないだろうから、それが自身の守護霊か何かだと思い込んでいれば済んでしまうようなことなら、その種の信仰に取り憑かれているわけだろうが、それも都合の良い時だけそう思うようなことでもあるから、その種の霊的な存在に助けてもらえなかった時のことを都合良く忘れている可能性もあるわけで、だからといってそんなのは迷信だと端から否定するのも、それも自身の都合でどうとでも思ってしまえるようなことであり、たとえピンチになっても守護霊が守ってくれるという自己暗示にかかっていると思っておけば済むようなことかも知れず、そういうところはあまり科学的な合理性を突き詰める必要も感じなければ、そのままそんなたわいない自己暗示を放置しておいても構わないような気がするわけで、その場の状況次第で努力すべきタイミングをとらえて、タイミングをとらえたと思ったらここぞとばかりに努力すれば、結果的に報われたり報われなかったりするだろうから、そんな結果から自らの力量を伺い知れば済むようなことかも知れないから、それも勝手な思い込みに左右されるようなことかも知れないが、そういう時でもその場に慣れてしまうと舐めてかかって、怠惰な鈍感さに頼ろうとしてしまい、それで痛い目に遭えば一時的に反省するのだろうが、そういつも都合悪く痛い目に遭うとも限らないから、何とかなってしまえばそれで構わないと思うしかなく、そういうことの繰り返しの中で生きていると、どんな状況に陥っても慣れれば何とかなるぐらいの適当な感覚になってしまうのかも知れないが、果たしてそれで済むような世の中なのかというと、社会の同質性を求めようと意識しているわけでもなくても、自然とそうなってしまうような成り行きの中で、意外と気づかないことに気づこうとしていて、他の大勢の人たちが気づかないようなことに自分だけ気づけば、それに気づいたことによって自分だけが有利な立場になれると思い込みたいのだろうが、それが幻想に過ぎないことにも気づくべきなのかも知れない。


7月22日「挙動のおかしさ」

 それをうまく表現できないからといって、それを理解できないということにはならず、何を理解できないかはわかっているはずだが、それとは別の方面で何に直面しているのかと言えば、それに対する違和感や齟齬感を振り払うことができず、それが単純にこれはこういうことだと言えるようなことではないと思うしかないが、その一方でそういう感覚を振り払って単純な主張に終始しようとする人たちの存在も鬱陶しく感じられて、そういう人たちはわかっていないのではないかと思うしかないが、それと同時にそう思う自分もわかっていないのではないかという疑念も湧いてくるから、ではそれに関してわかっている人がいるのかというと、たぶんどこかにいるのだろうが、そんなわかっている人の存在を想定してみたところで、少なくとも単純な主張に終始している人たちが、その主張の中で語られている方面のことをわかっていると思い込んでいるらしいことと、それがどう違うのかがわからないなら、そういう人たちが何を理解しているのか怪しいと思っている限りは、わかっている人の中にそういう人たちを含めるわけにはいかないのだが、ではそれを理解できないことのそれとは何かといえば、たぶんそれをうまく表現できないから、理解しようのないことになってしまい、まずは理解できないそれが何なのかを説明できなければならないのだが、それに関して挙動のおかしな人が何を語っているのかといえば、それを挙動がおかしいと表現せざるを得ないことも、それに関してうまく説明できていないことの証拠と言えるかも知れないし、たぶんそう表現することぐらいしか頭に浮かんでこないとなると、やはり挙動がおかしいのであって、わざと的外れな論理や事例を持ち出して、本質的なところから論点や争点を逸らそうとしているわけだが、まさにそれが今一部で話題となっているツイッターのコミュニティノートとかいうふざけた機能にも当てはまることでもあるわけで、ネトウヨがやりそうな嫌がらせだと斬って捨てればそれで済むようなことにもなってしまうのだが、それを問題視することでもないと無視できるかというと、無視しても構わないのだろうが、うまく表現できないのはそういうこととはまたちょっとずれていて、そこに両義的で入り組んだ事情や経緯が作用していることを無視できるかというと、無視して単純でわかりやすい主張に終始していれば、多くの人々がそれに対して安心感を抱くのは想像に難くないが、それがネトウヨとは真逆だと思われている共産党系の人たちにも言えることだから、その辺で微妙にわかりづらくなってくるのだろうが、何かが欠けているからそうなってしまうというと、それも単純な解釈にしかならず、その欠けている何かを補えば、正しい主張になるようなことではなく、逆にそれ自体が正しい主張になってしまうからこそ、何かが欠けているように感じられてしまうわけで、そうであるならあえて間違っているように思われることを主張したくなってしまうのだが、それが主張として機能しないようなことになってしまうなら、何を主張しているわけでもないことにもなりかねず、あえて間違うのではなく、間違うというよりは矛盾を孕んだ不完全なことを主張しておくぐらいが無難なのかも知れず、そういう意味でも安易に主張の正しさを求めるのではなく、結果的にその場限りで間に合うように慎重に言葉を選んで主張する必要があるというと、やはり具体的な事例を説明に含めないと何を言っているのかよくわからなくなってしまうだろうが、恒常的に成り立つようなことではなく、その場の成り行きから主張せざるを得ないようなことになり、状況が変われば通用しなくなるようなことになるから、その場の条件が合う限りで主張せざるを得ないことであり、そういう意味で万人が無条件で納得できるようなことにはならないわけだが、逆に万人が無条件で同意せざるを得ないようなことを主張するとなると、そんなことはその場では主張する必要のないことになって、それよりも優先させなければならないこととして、その場の条件に適合するようなことを主張せざるを得ないとしたら、それが功利的な主張となってくるわけだが、しかもこういう場合にはこういう対処や対応をしておくべきだと主張しても、そんな主張を真に受ける人が多くなってくると、次第にそれでは通用しなくなってきてしまうわけで、そうなると絶えず状況や情勢が移り変わる度に、その場の条件に適合する対処や対応も変わってくるから、それに伴って主張の内容も変わってきて、それが後追い的な主張となってしまうと、その主張が多くの人々に受け入れられた頃にはすでに賞味期限切れとなっていて、そんな主張を真に受けていると、時代の趨勢や流行に乗り遅れてしまうとしても、それでも恒常的に変わらぬことを何十年も訴え続けることはできるのだろうが、それがその場で利益を得ることを優先すると、恒常的に変わらぬ主張など無視できないまでも軽視せざるを得なくなってくれば、そこで何を優先させるべきかという問いに答える必要などなく、何を優先させても結果的にうまくいけばそれで構わないし、結果的にうまくいかなくなれば、何を見直すべきかが明らかとなってくるとしても、それに対する抵抗や反発も、見直すべきことに応じて否応なく生じてしまい、それを見直すには抵抗勢力と戦って勝たない限りは見直せないような成り行きになってしまうと、見直す以前に戦いに勝つことを優先せざるを得なくなってしまうのだが、そんなことをやっている中では、それ以前に主張していたことなどどうでもよくなってしまい、意外と自身がそれまでに主張してきたこととは矛盾したことをやっていることに気づかないわけで、気づいていても気づかないふりをしていないと、現状でやっていることをやり続けることができなくなってしまうなら、まさにその場の情勢や状況に応じたことをやっていることになり、それが自らのそれまでの主張を裏切るようなことをやる羽目に陥っていることにも気づいていても、気づかないふりを装う羽目にも陥ってしまうことにもなってくると、やはりそれだけ挙動のおかしさが際立ってくるわけだ。


7月21日「行きがかり上の動作」

 咄嗟にそこで起こっている事態を飲み込めたとも思えないが、結果的にその場の空気を読んだ動作というのが、本当はそこで起こっていることが納得し難いのに、表面上は納得しているように装って、それが社会全体を揺るがすような深刻な事態でもないと感じられるなら、たとえ周囲の人々の反応に合わせて無難に感じられる程度の態度を偽装していても、大したことにはならないと思いたいのだが、果たしてそれで済んでしまうのかというと、それは偽装している態度の程度にもよるだろうが、何となく現状で周囲の人々の態度に合わせて装っている態度というのが、何かしっくりこないような気がするなら、無理して性に合わないのにぎこちなくそんな装いとなっているのかも知れず、それが周囲から及ぼされている同調圧力の類いに屈していることになるなら、状況がわかりやすくなるのだが、たぶんそれだけではないと思うわけでもないが、気がつかないところで感じ取っている何かがそんな偽装を行わせているとも思えないが、それも思ってもみないところから作用や影響を及ぼされているのかも知れず、ただ漠然と人がその場の情勢に囚われていると見なしても、何がどうなっていることにもならないかも知れないが、自分としてはそれで構わないのであり、たとえ自らがそんな状態だとしても、そんな情勢の中でその場の成り行きに合わせて動いていれば済んでしまうことなのかも知れないから、ではそれで済んでしまうなら、いったい何が済んでしまうのかというと、その人の行為や行動がそれで済んでしまうと言ってみても、では他にそれでは済まないような可能性があるのかといっても、それはその場の成り行きに逆らってみないことにはわからないだろうし、それでも済まないなら、従うのでも逆らうのでもない行為や行動が可能なのか、また従いつつも逆らってしまうような行為や行動が可能なのかと問われているわけでもないが、それは行為や行動を行なった結果として、自身がそれをどう受け止めて、他人にどう受け取られるかにもよるだろうから、結果的にそれで済むのか済まないのかも、そんなことをやってみた結果からわかったりわからなかったりすることかも知れないが、少なくとも破れかぶれの自暴自棄になって、成り行きまかせでそんなことをやっているとも見えないなら、何かしらもっともらしい理由があるように思わせたいのだろうし、要するにそこで行われている行為や行動に対して他の人たちが納得してほしいのであり、自らの行為や行動を周囲の人々に向かって正当化したいのだろうが、自分が納得しているのだから他の人たちも納得するはずだと思い込んでいる可能性まで考慮に入れると、そんな行為や行動に及んでいる人がいかに身勝手な自己中となっていても、なるほどと納得したくなるかも知れないが、それでも納得し難いなら、やはり誰も気づかない何らかの力を及ぼされながら、そんな行為や行動に及んでいると思いたくなってしまうわけだが、それが集団で構成される組織的な力であれば、そんな力を及ぼしている何らかの団体の存在が明らかとなった時点で、なるほどと合点がいくことになるのだろうが、しかし合点がいくことを目指してそんな黒幕的な集団を妄想してしまうなら、そういった陰謀論的な存在を求めていることになって、ありもしない悪の組織を既存の団体に当てはめて悪者扱いするようなやり方も、何やら幼稚な発想なのかも知れないから、そんな安易な妄想には納得し難いし、もっと何かひとまとまりな集団とも言えないような、利害も何も一致しないような複数の人々による自覚なき連携というのも可能性としては想定しておいた方がいいのかも知れず、そんな人々が実際に何をやっているのかというと、複数の人々の間で納得できるようなコンセンサスの類いを人知れず模索していて、それが何となく世論や民意とも言えないような空気のような共同幻想をもたらして、そうした幻想に囚われていることを自覚できない人々が、現状の世の中を支えている自覚もないままに現状を維持していると言っても、誰もそんなことには関心がないわけだが、関心がないということ自体が現状の維持に貢献してしまっているのだから、逆に現状を変えようとしている人たちにしてみれば、現状のひどさに関心を持ってもらわないと困ってしまうのだろうが、しかも現状のひどさに関心を持ってほしいと思っている人たちこそが、何か勘違いしていると思われてしまうのだから、何事も一筋縄ではいかないわけだが、そんな勘違いな人たちが徒党を組んで街頭に立って何か騒ぎ立てたり批判したりと、何やらうるさいことをわめいている姿をメディアを通して見せられると、大抵の人は腹が立ってくると思いたいだろうが、そう思っている人が世の中で多数派を占めていたり逆に少数派に甘んじていること自体にも興味がないとしたら、ではそれらのどこからどこまでが本当に起こっていることのなのか、皆目見当がつかないとも思えないし、人それぞれに勝手な思い込みに囚われている面と逆に集団催眠のように共同幻想に取り憑かれている面とが、やはり人それぞれに様々な程度や割合で意識の中に入り混じっているから、何となく誰もがそんな傾向を把握しているのかも知れず、だから標準偏差から外れているように感じられる人の行為や行動が奇異に見えてしまうわけで、そういう人とはなるべく関わりたくはないし、下手に関わって危害が及ぶのは勘弁してほしいとも思ってしまうし、なるべく面倒な事態になるのを避けようとするだろうが、避けようとしても避けきれないことがはっきりしてくれば、やけくそになってこちらから奇襲攻撃を仕掛けようとするわけでもなく、なるべく怒りが暴発して無謀な行為や行動に出ないように自制したくなるわけだが、実際に自制できるかというと、やはりそうなってみないことには何とも言えないような気がするわけだ。


7月20日「何か変だ」

 何か変だと思った時にはもう手遅れとなっている、とか言いたいことはわかるが、それがコロナワクチン接種の後遺症であれば、すでに接種してしまったのだから、もう手遅れとなっているのだろうが、それが後遺症が出ていない大半の人々にとっては、ただラッキーだったと思うしかないだろうし、ワクチン接種を推奨した政府が、後遺症が出てしまったり接種後に突然死してしまった人の遺族に対して、何らかの賠償を行う義務があるのは、人数が限られた人たちなのだからさっさと賠償すればいいのだろうが、そんなことをやり出したらきりがなくなるから、ダンマリを決め込むのが政府の常套手段だろうから、被害に遭った人たちがメディアと一緒になって騒ぎ立てない限りは、政府も重い腰を上げないだろうから、ここぞとばかりに騒ぎ立てるのが理に適った行為となるのだろうが、理に適ったことをやっていれば、それに関しては何か変だとは思わないし、逆に何か変だと思うから、人はその変な感じを打ち消そうとして、理に適った行為をやろうとするわけで、そういう意味で理性とは、世の中のおかしなところを正すために発揮されるのだろうが、ではおかしなことが起こらないと理性が発揮されないのかというと、逆に一見正しいと思われるようなことが間違っていると主張する際にも、理性の助けを借りてそんなことが主張される場合があるわけで、そういう場合も正しいと思われるようなことが間違っているから、そこでおかしなことが起こっているわけだが、そういう場合のおかしなことというのが、その場にいる多くの人々にはおかしなことだとは思われない中で、それをおかしいと主張するわけだから、当然の結果として、おかしくはないと思っている人々から反発を受けるわけで、そんな反発が起こっている事例として最近話題となっているのが、消費税は預かり金ではないと主張する人たちの存在であり、従来からある論理に従うなら、事業者は消費者が払った税を預かっているわけで、その預かり金を税として納めるのは当然だ、ということになるわけだが、零細な事業者や下請け業者になると、税を価格に転嫁して値上げしてしまうと製品やサービスが売れない事態が生じてしまい、そうなると消費税分を価格に転嫁できないのに消費税を払わなければならなくなるから、困ったことになるわけで、そんな業者の場合には、実質的に消費税は消費者から預かった預かり金ではなく、ただ税を余分に取られていることになるから、消費税は預かり金ではないという論理が成り立つわけだが、それに絡めてインボイス制度が導入されると、免税業者ではなく課税業者として登録しておかないと、元請から仕事がもらえない事態が生じてしまうから、零細な下請け業者であっても課税業者となって、消費税分を価格に転嫁できなくても、書類上は価格に転嫁しているように装いながら、実質的に自身の収益の中から消費税として払う分を捻出しなければならなくなり、そうなると場合によっては事業の継続が困難になってくると予想されるのだろうが、実際に多くの零細業者が廃業を余儀なくされると訴えかける人が、インボイス制度の導入に反対したり、消費税の廃止まで訴えかけているのだろうが、本当にそうなるかどうかは、実際にインボイス制度が導入されてからわかることであり、意外とそうはならないなら反対している人たちの当てが外れてしまうわけだが、それ以前に徴税という制度自体が理不尽な制度だと思っている人もあまりいないだろうから、誰もが納得できる制度にしていかないとならないと考えるなら、ただ反対したり廃止を訴えるだけではなく、改革を訴えるのがよくある争点や論点のずらしとなるわけで、もちろんそれではインボイス制度に反対したり消費税の廃止を訴える人たちは納得しないだろうし、ごまかされたりはぐらかされているように感じられるだろうから、そんな胡散臭い主張には騙されるなと訴えかけるだろうが、そこで何か変だと思うことはあるとすれば、消費税とかインボイス制度とかに人々の関心を誘導して、そういった部分的なことが世の中の全体に波及して、それが世の中がおかしくなっていることの原因だと主張していることが、何か変に感じられるわけでもなく、そう思うのが当然だと思わされていることが何か変だと思うなら、それとこれとは何が違うのかと訝しく思われるかも知れないが、何か変だと思うのは、それが当然視されていることの中で、それが変だと気づいてしまうことであり、それに気づいてしまうと何か変だと思われるのであり、そうなるとそれまでは当然視されていたことが納得できなくなってしまうのだろうが、その納得できないことというのが、消費税は消費者から預かった預かり金ではない、という主張になるかどうかが納得できないわけで、もちろんそこから先で主張される消費税は廃止しなければならない、という主張となるかどうかについても納得できないわけだが、たぶんそこには両義的な傾向があって、その中で主張されている一方だけを強調するのには無理があるように思われるから納得し難いのだろうが、ではどのように主張されるべきなのかといっても、納得できるような主張など思いつかないから、インボイス制度の導入に反対している人たちや消費税の廃止を訴えている人たちの主張には、納得し難い部分があるとしても、そういう主張だと受け止めるしかないのだが、今のところはその納得し難い部分を解消するには至らないから、とりあえずそういう主張にことさら異を唱えることは差し控えておくしかないし、何かそれに対して反感を露わにして、強硬にそんな主張はまやかしだと主張している人たちの方も変なのだが、その白か黒かどちらか一方しか認めないということではなく、どちらもありなんじゃないかと矛盾したことを言いたいわけだから、変なのはこちらかも知れないが、そういった量子論的な1と0の重ね合わせの論理が世の中で通用するかどうかも、今後の成り行き次第なのかも知れない。


7月19日「すぐに思うこととすぐに動くこと」

 それを見てすぐに思うことは、世の中で起こっているのはそんなことばかりではなく、それが世の中で起こっていることの全てではないことはわかっていても、確かにそれを目の当たりにすれば戸惑うばかりで、それをどう受け止めれば良いのかわからなくなって途方に暮れてしまうとしても、世の中のそういう面ばかりに心を奪われて、それについて抱く疑問や疑念をそのままにしないで、ではどうすればそうはならないようになるかについて、暇にまかせてああでもないこうでもないと考えていれば、そんなことを考えている間は無駄に時間が経過するばかりとなってしまい、それを無駄とは思わないで、それについて考えることも貴重なのではないかと暇つぶしの行為を正当化できるわけでもないが、そんなことばかり考えていないで、すぐに行動に駆り立てられてしまうような事態に直面している人も世の中にはいて、果たしてすぐに行動を起こすことを迫られてしまう人が、いったい何を考えているのかと想像することにどんな意義があるとも思えないが、それでも世の中には暇な人と忙しい人がいて、暇な人は暇にまかせて無駄に取り止めのないことをああでもないこうでもないと考えながら暇をつぶしている一方で、忙しい人は考えるゆとりなどないまま行動に駆り立てられていて、中には豪雨の被災地に駆けつけて、後片づけのボランティア活動をやっている人の様子を伝えて、それをこれ見よがしに賞賛したい人もいるようだから、そういったこれ見よがしな行為に反感を抱く人も中にはいるらしく、その人が善人であることを見せつけるためのパフォーマンスだと批判したいのだろうが、その人が著名人であればそう思われても仕方がないとしても、無名の一般人であれば無視される確率の方が高いから、何でもないような善意でやっていることにしかならないのだろうが、中にはどさくさに紛れて金目なものを盗もうとする泥棒をやりたい人もいるかも知れないから、実際に過去にはそんな事例があったのを知るに至れば、被災地にやってくるのは人助けの善意のボランティアばかりではないことを知って、戸惑うばかりとなってしまうかも知れないが、政治家であれば人目を気にするどころか、善意のパフォーマスだ何だと言っていられる場合ではなく、例えばカナダの首相が大規模な森林火災に直面して現地を視察に訪れて、すぐさまアメリカの大統領と電話会談して、アメリカから支援を取りつけることに成功した一方で、フランスはフランスで、フランス語圏のケベック州に消防隊員と救急隊員の合計百名を消火用資機材を伴って派遣したらしいし、イタリアの首相も洪水の対応に行くためにG7サミットを早々に切り上げて現地へと向かったことが記憶に新しいのに、それにひきかえ我が日本の首相ときたら、豪雨で甚大な被害が出ているのに予定通りの外遊三昧に呆けていると批判されるのも当然の成り行きで、それが日本の政治の通常運転だと民主主義後進国の日本にいれば誰もが思うところかも知れないが、語るならそこまで語るのが無難な範囲内で、そこから先にどんな挿話をつなげられるかが腕の見せどころだとも思えないが、何かの冗談でそんなことを語っているとも思えないところが、皮肉な印象を伴ってしまうのかも知れず、その種の話のネタをネットで検索して、それと似たような事例が次々に画面に表示されるのを、ただ黙って眺めているだけでは、検索結果を見ている以外には何をやっていることにもならないのはわかりきったことだが、それ以上の何かを求めているとしたら、では何を求めているのかと問われなくても、自分が何を求めているのかをうまく説明できずに困惑するばかりかも知れず、要するに人目を気にしなければ、何も考えずに何もやらなくても、それが取り立てて不都合なことではなく、何もやらずに怠けていても生きていられるなら、それで構わないのだろうが、その人の周囲に家族でも友人でも仕事上の付き合いのある人でも、誰かしら人がいて、その人が何も考えずに何もやってないことをどう見るかといっても、立場によって見方も感じ方も異なってくるのは確かだが、何か言いたげな人が周囲にいれば、人目を憚らずに勝手に振る舞うわけにはいかなくなり、何か周囲の人々に良く見られるような振る舞いを自然に心がけるようになってしまうなら、そういう人は世の中でありふれているからこそ、他の人々から安心されるのだろうが、逆に周囲の人々を不安に陥れるような振る舞いに終始している人がいれば、場合によっては気が狂っているのではないかと思われて、精神病院に収容した方がいいのではないかと近親者たちが相談するようなことにでもなれば、その人にとっては危機的な事態となってしまうだろうが、なぜ近親者たちがそんなことをやろうとするのかといえば、傍若無人な振る舞いに及んでいる当人のためだという表向きの建前の裏で、近所迷惑で恥晒しな身内を社会から排除して安心したいという思いもあるだろうし、そういった自己保身的な思いと、それが世の中の秩序を守るための社会貢献に寄与するならという思いが合致するなら、そこから実際に家族や親族が示し合わせてそういった行動に及んでしまい、それによって周囲の人々とは異質に見えるような人が社会から排除されて、結果的に多数派が求めるような社会の同質性が保たれるなら多くの人々が安心できるのかも知れないが、そうであっても大して罪もない人々が身体の自由を奪われて収容されている施設が存在していること自体が、後ろめたい思いを抱かせるわけで、だから大した理由もないのに人の自由を奪うのは良くないという思いの高まりから、そういった収容施設をなるべく減らそうとする傾向が、民主主義が普及している国々では生じている一方で、逆に政治的な独裁色の強い国では、社会の治安や保安などのもっともらしい理由をつけて人の自由を奪う収容施設が増える傾向があるわけだ。


7月18日「粘着質な攻撃」

 なぜか知らないが、執拗に面倒で粘着質な攻撃を仕掛けてくる人に向かって、それについては何かの付け足しのようにして反撃できる仕掛けがあるわけでもないのだが、適当な対処を施せば、あら不思議な結果がもたらされて、陰湿な攻撃もピタリと止んだのかどうかは、今後の経過を見る必要もありそうだが、なぜかすっきりと視界が開けて、それがどうも表現としては意味不明な印象が伴ってしまうのだが、SNSのシステム的なバグというわけでもないのだろうが、粘着質な攻撃を仕掛けてくる人を払い除けることが結果的にできたように思われるところが、まだ途中経過に過ぎないとしても一息がつけてありがたかったのだが、もっともそれも勘違いもいいところで、やっているこちらにすればそんなことはどうでもいいことでしかないのに、なぜかあちらはそこにこだわりがあったらしく、ある人のツイートをリツイートするとそれがおもしろくないらしく、執拗にその人のツイートに対する反論を長々と送ってきて、要するにその人のアンチであり、その人のツイートをリツイートしないように、その人のツイートにリツイートする人に向かって執拗に攻撃を仕掛けているという面倒なことをやっている人が世の中にはいるらしく、それも勘違いもいいところであって、こちらとしてもその人のファンでも支持者でもないし、ただその人のツイートが執拗に画面に表示されるから、じゃあそれに対して、適当にリツイートしておくのが無難だろうと、大してツイートの内容などに共感しているわけでもないのに反射的にリツイートしているだけなのに、それがおもしろくないのか、リツイートする人に対して執拗に攻撃を仕掛けるというこれまた意味不明なことを延々とやってしまうご苦労な人も出てくるから面倒な事態となり、そんなことはどうでもいいから、そのアンチな人が送ってくる長々とした反論など読みたくもないので、何とかしてそれが表示されなくなればいいだけのことなのだが、それよりは面倒な事態を招いているある人のツイートも執拗に表示されないようにすればいいじゃないかと言いたくなってしまうところだが、そちらの方は執拗にツイートが表示されるのだからフォローしておけばいいと思って、それ以前にフォローしてしまったので、さらに執拗に表示されるようになってしまい、さらに執拗にリツイートするようになったら、それに対するオマケのようにして粘着質な攻撃が度々送られてくるようになった経緯があり、それ自体が自分には直接は関係のないことであるから、本当の原因と言える何かがあるかどうかも、あえてその辺のところを深掘りする気も起こらないから中途半端なところでお茶を濁してしまうが、もちろん深掘りできるような分析力など持ち合わせていないから、できないことをできるかのように仄めかす必要もないわけだが、ただそんなやりとりともいえない枝葉末節な出来事に絡んで、都合の悪い事情を隠して嘘をついている部分があるとすれば、それがこちらにあることは言うまでもないことであり、それらの経緯の中でこちらの都合の良いところだけかいつまんで説明しているから、あたかも粘着質な攻撃を仕掛けている人が悪いかのように印象操作がされているといえばその通りであり、その人にしてみればある人のツイートが気に入らないからそれに対して反論しているだけなのに、それがどういう経緯でそうなるのか仕組みがよくわからないのだが、そのツイートをリツイートする人たちにその反論が送られてくるような仕組みが作動しているわけで、それがリツイートしている人にしてみれば、その人の了承なしに勝手に送られてくるわけだから、それも執拗に送られてくるから粘着質な攻撃だと受け取るしかないわけだが、ただある人のツイートがどんな内容なのかといえば、LGBT法案やマイナカードやジャニーズ関連の性暴力やインボイスや統一教会や岸田政権や安倍元首相や自民党や公明党や大阪万博や維新の会などを批判する内容だから、そんな批判のツイートにいちいち反論するとなると、やはりある特定の勢力に所属している人がそんなことをやっていると受け取られてしまう以外にはあり得ないわけだが、わざわざそんな回りくどいことまで仕掛けてこないとならないような事情がどこから生じてくるのか疑念を抱くわけでもなく、ああなるほどそういうことをやらないとまずいような事態が世の中では起こっているわけかと勘繰ってしまうようなことでもなく、それ自体がどうということはなく、ただそういう時事的な話題に関して批判する著名人のツイートをリツイートする一般人を攻撃しなければならないという発想が、何やら行くところまで行っているというか、馬鹿なことをやるのもここまでやらないと馬鹿を極められないのかと呆れ返るわけでもないのだが、何か意味不明なことをやっていることに気づかないのかと不思議に思うわけで、そんな現象を目の当たりにして人の感覚の中で何かが壊れていると感じてしまうのも勘違いなのかも知れないが、それが世の中に深刻な事態を引き起こしているとも思わないし、直接時事的な話題について批判的なツイートをしている著名人に反論すれば良いだけではないのかと思うが、なぜそのツイートをリツイートする人に対して攻撃の照準を定めるのか、その理由もちょっと考えればわかるようなことであるのも、わざとわかりかねるふりを装っているだけだが、そういう回りくどさを実際に体験させられると、何かアホくささを感じてしまうわけで、そんなことをやっている人や団体を支持したりそういう人や団体に好感を抱いてしまう人がいるとしたら、その人も馬鹿なんじゃないかと思うわけだが、そんなことを思っている自らがそれほど世の中の標準的な感性の妥当性から外れているとも思えないことも勘違いのなせる業だとすれば、世の中が相当狂ってしまっていると見てもそれほど的外れではないような気もするが、たぶんそれも何かの冗談で述べていることなのかも知れない。


7月17日「一向に気づいてくれない人々」

 わかっている人にとっては当たり前のことが、わかっていない人にとっては当たり前どころか、全くの真逆の意味になるようなことを誰もが迷信の如くに信じているなら、とんでもなく勘違いな思い込みが世の中に蔓延していることになるだろうが、果たしてそんなことが実際に信じられているのかというと、それを信じて疑わない人には、それが誤りだと指摘されても、反発してなお頑なに信じようとしていれば、現状でそれほどまでに魅力的な迷信が蔓延しているのかというと、そんなことはあり得ないような気がするのだが、そんな気がするのだから自らも迷信に気づいていないのかも知れず、いったい何が迷信なのかといっても、気づいていなければそれを指摘することなどできないが、ではそれに気づかなくてもそれについて語れるかとなると、それも無理なような気がするが、なぜかそれについて気づかずに語っているような気になっているとしたら、その気づかずに語っている内容が、誰にとっても当たり前のように理解しているつもりのことであって、本当は理解していないのに、理解しているつもりになっているから、それがなおのこと迷信に囚われている証しとなって、人々が抱いている偏見や先入観として構成されているから、いくらそれが誤りだと指摘してみても信じてもらえず、逆に執拗なまでに頑なに迷信の方を信じようとしてしまい、もはやそうなると手の施しようがなくなってしまうのだろうが、実際にそうなっていても何の不都合も感じられないような世の中になっているとしたら、世の中の全体がその種の迷信を当然のことのように信じていることになり、逆に信じない人の方が何かと生活に支障をきたすようになっているとすれば、そうまでして信じなければ済まない迷信というのが、果たしてどんな迷信なのかと問われても、問われている人々がそれに気づいていないわけだから、それも問う方がおかしいことになってしまい、迷信を迷信だと指摘できないどころか、指摘しても無視されるだけで、後は何事もなかったかのように、相変わらず迷信を信じていることに気づかず、それで何の問題もない状況がもたらされているのが、現状の中で感じられる偽らざるを得ない率直な実感となって、それがまずいわけでも危機感を募らせているわけでもないところが、本当に危機的な状況であるはずもなく、では何なのかというと、何とも思わずに誰もが迷信を信じている状態が当たり前の状態であり、そんな状態にとやかくいちゃもんをつけても無視されたり反発されたりするだけで、文句を言い出すときりがないのだが、文句を一通り言ってみたところで誰ともなく軽くいなされて、後は何の反応も返ってこないからそれっきりとなって、それ以上は文句もいちゃもんも続かなくなってしまうわけで、迷信が信じられている中でいくらそれが迷信だと指摘してみても、何も起こらないことに呆れ果てるわけでもなく、何も起こらないことは事前にわかっていたかのように振る舞わないと、指摘しても無駄だとため息をつくだけだから、一応は気休め程度に指摘する程度にとどめておいて、それが何かのアリバイ作りに結びつくとも思えないが、ともかく自分だけはそれが迷信だと気づいていると強調したいわけでもなく、それよりはただ何となく迷信とは別の何かに気づきたいのであり、果たしてそんなことを指摘することが迷信に気づいていることの証しとなるかどうかも、今ひとつ自信がないのが率直な実感で、それとは別の何かに気づきたいのに、なぜか誰もが信じている迷信に気づいてしまったかのように語らざるを得ないから、そういうところがもどかしくも焦ったいのであり、本来ならそれとは全く違うことを語ろうとしていたのに、なぜか語っている途中から本題だと思っていたことから外れて、思いがけずそんなことを語る羽目に陥ってしまったかのように振る舞わなければならなくなり、しかもどうも自らもその種の迷信に囚われているのではないかという疑念も湧いてきて、だからといってそんな疑念を払拭すべく誰もが囚われている迷信に自分だけが気づいているとこれ見よがしに強調したいわけでもないのに、果たしてそれが迷信なのかどうかも疑わしい程度の些細なこととして、自嘲気味に自信なく語らざるを得ず、もっと正々堂々と語るべきなのだろうが、その気になれないということが、迷信を信じている世の中の多数派に配慮していることになるのだろうが、彼らはそれを信じ込まされているというよりは、騙されているのでもなく、それを信じる方が彼らにとっても都合が良いことのように感じられるのであるから、肝心なのは迷信に取り憑かれていることだけで良し悪しを判断してはまずいわけで、それどころか迷信に取り憑かれていることに気づかないまま、逆にそれを利用してうまく立ち回る必要も時として必要になってくるから、意識して何かをやるにしても、意識できないことまで考慮できるわけでもなく、そうなっていることに気づかないままうまく立ち回れと言われても、誰の知ったことでもないだろうから、無理に迷信に取り憑かれていることに気づく必要もなく、そうなっていることも考慮に入れないまま、それを利用しながら振る舞うとなると、無意識の助けを借りるしかないが、もちろんそこで無意識の助けなど借りている気にはなれないし、無意識に操られながらも自らが動いていることにも気づかないまま、結果としてうまく行ったように感じられるなら、うまく行った原因や理由を自らに都合の良いように解釈したくなるのだろうが、そこでもっともらしい原因や理由などを導き出せなくても構わないわけだが、それどころか下手にもっともらしい原因や理由を思いついてしまうと、それを信じてしまうから、それが迷信に過ぎないことにも気づかなくなってしまい、結果として自らの気づかないところで無意識に操られながら動いていることを考慮に入れることもできなくなってしまい、さらには周囲の何かから作用や影響を及ぼされながら活動していることにも気づけなくなってしまうわけだ。


7月16日「単純な主張と複雑な事情」

 あえて粗雑なことを言うなら、起業したければアメリカですればいいとは言えないものの、アメリカでは他の国や地域よりは多くの起業家がいるかも知れないし、日本でアメリカの真似をする必要はないと思うなら、嘘でも構わないから起業したければアメリカに行って起業すればいいと言い放てば、何となくそんな気がしてくるわけだが、では日本では起業できないのかと問うなら、そんなこともなく、日本でも起業している人はいくらでもいるだろうが、どちらかと言えば、アメリカで起業した方が、アメリカの方が経済規模が大きく、世界進出への可能性も高いから、成功すればそれだけ規模の大きな企業になれるかも知れないが、それだけ起業する人も多くて企業間の競争も激しいから、起業に成功できるかどうかも何とも言えないところだろうから、やはり日本とアメリカを比較して、どちらがどうだと言えるようなことでもないだろうし、日本でもアメリカでも、その場の成り行きや事情で起業する人はそれなりにいるだろうし、そんな人の中から起業に成功する人も失敗する人もそれなりに出てくるのだろうが、どうすれば起業に成功できるかとか、成功する確率を上げられるかとかは、それを言うだけなら成功した事例や失敗した事例を取り上げて、ああだこうだと分析してもっともらしいことが言えるだろうし、そんなことを言う人と実際に起業する人とは立場や境遇が違うだろうから、その手の分析家の主張や意見を真に受けたところで、起業に成功するとは限らないのも、誰もが理解しているだろうから、分析というのはそういう面では当てにならないかも知れないが、気休めとしてはないよりはあった方がマシに思われるだろうし、そんな分析や主張や意見を参考したり活かして起業に成功する人も失敗する人も中にはいるはずで、そうなればそんなふうにして成功した事例をサンプリングしてくれば、そんな事例を宣伝に使って分析家の商売に利用できるだろうから、分析家としては自らの主張や意見を取り入れて起業に成功した事例を求めているだろうし、そうなると分析家というよりは、起業コンサルタントとして活躍できる余地も生じてくるかも知れないが、それでも言うは易し行うは難しという原則は誰もが承知しているだろうから、そんな人の主張や意見を真に受けるのも、その人の勝手で真に受けたり受けなかったりすればいいだけで、それ以上のことは結果が示してくれることであって、結果がどうなったかによって、それに対する評価も変わってくるだろうが、それに対してもっと単純なことを言い放つなら、そんな怪しげな分析家やコンサルタントもどきの主張や意見を聞くのはやめて、日本の景気が良くなれば、その分だけ起業に成功する人も増えると結果から言うこともできるにしても、ではそんなことを言っている人の主張や意見を聞けば日本の景気が良くなるのかといえば、こうすれば景気が良くなるという主張や意見を持ち合わせている人も結構いるだろうから、そういう人の意見を気休め程度に聞いたところで、何がどうなるとも思えないし、どれほどの人がそんな人たちの主張や意見を真に受けるかも何とも言えないし、真に受けたところでその人が日本の景気をどうこうできる立場になれるのかといっても、それもよくわからないかも知れず、そういう人たちには言わせておけばいいということなのかも知れないし、実態としてはそういう人たちが何か言えば日本の景気が良くなるようなことではなく、確かに日本の景気が良くなるに越したことはないとしても、それは結果がそうなるかならないかということであり、そんなことを言うだけでなく、それを実践に結びつけられるかどうかも、政治の方面でそんなことを実践したい人も結構いるだろうから、そういう人たちにはがんばってもらえばいいとしても、たぶんそういった方面とは違うところで何らかの実践が生じている現状があり、政治活動によって直接景気を良くしようとするのではなく、誰もが生きやすく住みやすい社会を作ろうとすれば、その結果として景気が良くなるかも知れない程度のことでも構わないと思っている人も、もちろんそれを直接主張しているわけではないとしても、漠然とそんなことを思っている人が多いのかも知れないが、その一方でたとえ日本よりアメリカの方が景気が良くても、アメリカが住みやすく生きやすい社会かというと、そう思うから世界各地からアメリカを目指す移民が大勢出てくるわけだが、それもアメリカよりひどい社会が世界各地にはあるということの証拠であり、そのひどい社会の一つが日本でも実現していると主張したい人も結構いるかも知れないが、同じ社会の中で生きて暮らしていても、生きやすく暮らしやすいと感じている人も結構いるだろうし、それに関してどういう統計を採っているのかはよくわからないが、世界の住みやすい都市ランキングで、何かと行政が良心的な人々から批判や非難を浴びている大阪が、結構上位にランキングされていることも意外だが、どのような社会であっても、その社会にうまく適応している人には生きやすく住みやすいと感じられる一方で、逆にうまく適応できずに苦しんでいる人にとっては生き難く住み難いと感じられて、そんな人が社会の中でどれほどの割合でいるかで、その社会の生きやすさや住みやすさの程度が変わってくるのだとしても、どうもアメリカの場合は、アメリカの外にいる人にとっては、何やら憧れてしまう雰囲気を感じられるだろうが、実際に現地に行って生活してみれば、その地にうまく適応できた人にとっては、確かに生きやすく暮らしやすく思われるにしても、何らかの事情でそうはならなかった人にとっては、恐ろしい事態が待ち受けているのかも知れず、それはアメリカに限らず、どの国へ行ってもある程度は言えることだろうが、ただアメリカの場合はその落差が日本とは比べ物にならないほど大きいのかも知れず、だからこそ成功者にとっては地上の楽園である一方で、うまく適応できずに失敗すると地獄を見るようなことになってしまうのかも知れないが、たとえうまく適応できて何らかの分野で成功できたところで、その後に転落の成り行きが待ち受けているかも知れないし、また当初はうまく適応できずに失敗して地獄を見たとしても、そこから這い上がって成功した人も中にはいるのかも知れないし、そういうところも日本とは比べ物にならないほど極端でド派手な成り行きが待ち受けているのかも知れない。


7月15日「ややこしい事態」

 たぶんわかっていないことをわかろうとしているわけではなく、逆にわかりきったことをわかっていないふりをしたいわけでもないとすれば、では何なのかといえば、わかってほしいことをわかるのを拒否したい意向がひしひしと伝わってくるようなら、それをわかってしまうと、自身の主張が成り立たなくなってしまうから、断固としてわかることを拒否しているわけだが、もちろんわかることを拒否している当人はそんな理由でわかることを拒否しているとも思っていないわけで、では何なのかというと、自身の主張の正しさやそれを主張している自らの正当性をひたすら喧伝している一方で、それ以上に自らの思考が働いてしまうのを、あらかじめ自らに禁じているようにも感じられて、ではそれ以上思考を働かせてしまうとどうなるのかといえば、自らの主張の矛盾が明らかになってしまうような気がするから、その先のことはなるべく考えないようにしていて、それもはっきりとは自覚していないのかも知れず、そういうところを突き詰めて考えてしまうと何もできなくなってしまうから、それ以上は考えないようにしていると解釈すれば、やはりそんなことはなるべく自覚しないようにしていると見えるわけだが、ある特定の方面へと振り切れるには、あらかじめそれが無謀な試みだと先回りして考えてしまうことを禁じておかないと、無茶な方面へと振り切れなくなってしまうから、それが潔い姿勢だと自画自賛しているように受け取られてしまうとしても、なるべくそんなことも気にしないようにしたいのであり、もちろんそれがややこしい事態であることにも気づかないようにしているわけだから、そんなふうに自らが一方的に振り切れた心身の状態を維持していれば、もう怖いものは何もないと思っているわけではなくても、そうやって思っていることとやっていることが噛み合っているつもりでいると、感覚のリミッターが外れた状態で動き回っているようなものだから、近い将来に起こるかも知れない自爆的な結末の兆候も感じ取れなくなってしまい、何が起因してそうなるとも限らないとしても、思いがけないところから危険が差し迫っているのに、それを感知しようとする慎重さよりも、一方的に凝り固まった自我を貫き通すことを優先させているわけだから、何か破滅的な未来へと突き進んでいるようにも感じられて、それがヒトラー的な生き方から受ける印象だと思ってみたところで、誰がそんな生き方を模倣しているとも知れないし、誰にそんな生き方を当てはめてみてもしっくりくるとも限らず、意識して模倣しようとしているわけでもないのに自然と似てきてしまうなら、その場の情勢がそんな生き方がしっくりくるような情勢となっているのかも知れないし、それがそんな情勢の中に囚われている人が感じる錯覚だとしたら、その場の情勢に騙されていることになるかも知れないが、たぶん自らの意志でそんなことやっていると思い込んでいるうちは、まだそこから引き返す余地があるのかも知れず、もちろんそう思うこと自体が思い違いなのだろうから、実際に引き返せればそれが証明されるのだろうが、心身が一方的に振り切れるとはそんな生やさしいことではなく、そうする以外にあり得ないような情勢の中に囚われているから、実際にそうする以外にはあり得ないのであり、いったんそうなってしまった人をそこから救い出すことなどできないというか、誰もそんな人を救おうとはしないだろうから、そんな人はそんな心身の状態で放置されるしかなく、間違ってそんな状態で放置されている人が社会の中で有力者となってしまうと、ややこしい事態となってしまい、心身がそんな状態となっている人に付き従っている人なら、それがその種の権力者に付き従うことの卑屈さを体現しているだろうから、権力者になっている人以上に嫌な感じを抱かれるだろうから、その種の権力者が自爆的な結末を迎えた後に取り残された人たちとして、何か烏合の衆ような印象が伴ってくるだろうが、果たして安倍元首相のあれが自爆的な結末なのかどうかも、今でもはっきりとそうだとは断言できないような意味不明さが感じられるのだが、これから間近に起こるだろうプーチン的な結末というのも、それがヒトラー的な結末に近い状態となるかどうかも、まだ現時点ではよくわからないし、リビアのカダフィ大佐の結末が、あまりにも絵に描いたような結末となってしまったから、そのインパクトがシリアのアサド大統領を結末へと至る成り行きから逃れさせることになったわけではないとしても、そんなことは日本に住んでいる無名の一般人にとってはどうでもいいことであり、自分以外の特定の誰かがこの先どうなるかとか、そういうことではなく、そうした時代状況の中からその時代の典型例となるような人物が登場してきて、その人物が主犯となって世の中を引っ掻き回した挙句に自爆してしまう成り行きに誰もが魅了されてしまうなら、そんな茶番劇に魅了されてしまう人々が愚かだったことが後の時代に明らかとなれば納得できるが、それに納得できる時代になるまで生きていられるかというと、大半の愚か者たちが死に絶えた後になってようやくそれらの人々が愚かだったと言うことが許されるのかも知れず、要するに愚か者たちが生きているうちは愚か者たちの天下だから、裸の王様を裸だと言うのも憚られる時代に生きていると思っておけばいいのかも知れないが、それでも裸の王様は裸なのであって、それが現状の中で調子に乗って踊り狂っている特定の誰かであるなんて、誰の知ったことでもないのかも知れず、今まさに馬鹿踊りの最中にある人が、そこから遠くない未来に自爆的な結末を迎えることを予言しようものなら、そんな絵に描いたような結末から逃れる口実や余地を与えてしまうことになりかねないから、今はなるべくこれ見よがしな予言や断言は差し控えておいた方が身のためだろうし、ややこしい事態に陥っている中では、誰もがすぐに気づいてしまう単純な論理には従わないことが肝要なのではないか。


7月14日「今まさに起ころうとしていること」

 それを大げさに語ろうとすればきりがないが、今まさに信じられないようなことが世界中で起こっているわけではなく、それが何なのかと誰に尋ねられるわけでもなく、誰もがある程度は予測できて理解できる範囲内で中途半端なことが色々と起こっていて、しかもそれが起こっていることを大げさに騒ぎ立てた割には拍子抜けするような結果がもたらされているとも限らないが、今まさにそれについて騒いでいる最中でもあるし、連日のようにメディア上で特定の出来事について延々と繰り返し騒ぎ立てられている話題もあるだろうが、そんな騒ぎ立てが功を奏して事態が何らかの進展を迎えたとも思われず、逆に何の進展もないように感じられるから、一部の人たちが焦っているのかも知れず、いくら騒いでもまるでスポンジのように大衆の無関心に吸収されてしまって、事ある度にこれでもかと騒いでいるのに期待したことは一向に起こらず、世論の変化も微々たる兆候を見せるばかりで、だからより一層ムキになって空騒ぎに拍車がかかっているとも思えないが、それに関して思い出されるのが、一見それとは全くの無関係に思われるとしても、気になって仕方がないような話として頭の隅にこびりついて離れないような内容でもないのだが、昔どこかの工事現場で、現場の作業員がしきりに運送業に従事していた頃の自慢話をしていて、日常茶飯事のようにいつも自分が運転するトラックの積荷が過積載になっていて、慢性的にブレーキの利きが悪い状態でトラックを運転しているから、それに起因してまさに数々の命懸けのスリルを味わった体験談を大げさな口調で延々とこれでもかと喋っているわけだが、結局はその時点でその人がそこで五体満足で生きていて、しかも得意になって自慢話をひけらかしているわけだから、生き証人としてそんな話をしている時点で、たぶん話の内容をかなり盛っているだろうことは容易に想像がつくから、一般人が実際に命懸けのスリルを味わうのはその程度のことなのであって、例えばそれが映画に登場するインディ・ジョーンズが架空の物語の中で味わっているように見せかけられている命懸けのスリルとは全く違うのは当たり前のことだが、もちろん実際にそれを演じているハリソン・フォードも、別の映画で似たようなキャラクターを演じているトム・クルーズもキアヌ・リーブスも彼らのスタントマンも、仕事の範囲内ではアクションシーンなどで命懸けのスリルを味わうことがしばしばあるだろうから、実際に骨折などの怪我を負ったり、事故で死んだ俳優なども結構いるだろうから、そういう面では慢性的に積荷が過積載のトラックを運転してきた人と通じるところもあるだろうが、たぶん何か事故が起こってから原因がわかって、それがある程度は予測できて理解できる範囲内で起こったことであれば、後から何かしら改善措置が講じられる場合もあるだろうから、そうなればそれなりに事態が進展したことになるのだろうが、元トラックの運転手で工事現場の作業員が自慢したいのはそういうところではなく、劣悪な労働環境の中で数々の命懸けのスリルを味わってもなお自分が生き残ってきたことを自慢したいわけで、それは数々のひどい行政を行なっても今もなお大阪の周辺では絶大な人気を誇っていることを自慢したいどこかの政党の政治家たちと通じるところがありそうだが、その一方でそれに関連して批判したい人たちの主張としては、現場の運転手は悪くないが、積荷が過積載のトラックを運転していることを黙認している運送会社や慢性的にそうせざる得ない運送業界の体質やそんな状態を招いている政治や行政などを批判したいだろうし、もちろんそれは昔の話で、現代ではもう運送業界の体質もそれなりに改善されたかも知れないし、それを運送業界に対して行われた政治的な働きかけや行政による指導が功を奏した結果だと自慢したい政権政党の政治家もいるかも知れないが、そういう方面へは関心が向かない人たちが向かう関心というのが、例えば戦場の英雄とか有能な指揮官とかを崇めたり、戦略的あるいは戦術的に部分的なところだけ誇張してそこで思考停止するやり方であり、それがやり方といっても意識してそんなやり方を心得ているわけではなく、幼少時からその種の漫画を読んだりアニメを観ることによって培われた勘なのかも知れないし、それでも過積載のトラック運転手のサバイバル術を英雄譚のように語られると、現実は漫画やアニメや映画などの英雄譚とは違うことは理解できるし、ひどい行政をやっている政治勢力に盲従する住民たちが愚かなようにも感じられるし、そうなることはある程度は予測できて理解できる範囲内で、何か中途半端なことが行われていることは確かなのだが、そういう傾向に関してどう対処できるわけでもなく、絶えず宣伝や煽動を仕掛ける人にとって都合の良い部分的な面が強調されて、あたかもそれに成功したからこそ、現状の中で自らの存在や行為や立場などを正当化できると言わんばかりに自慢してくるわけだから、そんな人の自慢話を真に受けるわけにはいかないと反発するわけでもなく、自分もそんな人のやり方に倣って自分なりの自慢話を語ろうとする気にもなれないが、少なくともそんな人たちに対抗して現状の中で繰り返し批判されていることは誰もが理解していることであり、しかもそんな批判に反発している人の言い分も、やはりその人にとって都合の良い成果を強調したり誇張することによって、その種の批判に対抗していることも理解できるが、果たして富山や新潟の翡翠海岸に行って大きな翡翠を拾ってきたことを自慢する人のように、自らの政治的な成果を自慢する人の言っていることを真に受けるわけにはいかないのはもちろんのこと、それよりは実際にその人に対してこれでもかと繰り返し批判されていることを、その人が何とかできるとも思えないことも確かなのではないか。


7月13日「坂本龍一と山下達郎の違い」

 誰かが世の中で起こっている出来事に過剰反応しているように感じられるようなら、よくありがちな成り行きとしてそれがメディアで騒がれていて、その実態がよくわからなくても、過剰反応している人の了見の狭さがその人の心身や金銭などの面での余裕のなさに結びついているように思われるかも知れず、では具体的に何に過剰反応しているのかと言えば、ただ漠然と世界の現状に過剰反応しているわけではなく、それが特定の出来事に起因していて、しかもその出来事に直接の関わりがあるから、それに対して過剰反応しているなら合点がいくわけで、さらにその人にとっての致命的な何かに関わっているように感じられるなら、それに対して過剰反応せざるを得ない状況となっていて、本当にそれが致命的なのかといえば、今後のそれ次第ではその人の命運が尽きかねないのだとしたら、まさに現状は危機的な状況にあると言えるだろうが、それが過剰反応だとすれば、案外杞憂に終わる可能性さえ否定できず、何か勘違いしているから過剰反応していると言えるようなことかも知れず、その必要もないのにその気になっているのだとすれば、そんなことに過剰反応すること自体が間違っていることになり、そうすることによって痛くもない腹を探られたり、何かやましいことがあるのではないか邪推されてしまうなら、何もやましいことなどしていなければそんなことにいちいち過剰反応していないで、冷静になって正々堂々と振る舞っていれば何の問題もないはずだが、それができないとなると、やはり何かそれに関連して心当たりがあるのではないかと邪推される羽目に陥ってしまい、しかもそれが邪推ではなく図星だとしたら、やはり過剰反応ではなく、それ相応の正直な反応だと見られてしまうだろうが、その出来事がその人の心にトラウマを植え付けて、それに触れられると痛いところを突かれたように見えてしまって、動揺して取り乱しているように見えてしまうようなら、勘違いでも何でもなく、たとえそれが過剰反応のように見えるとしても、その出来事がその人にとっては致命的な打撃となっているのかも知れないし、果たしてそんな当て推量が本当に的を射ているのかというと、それも今後の情勢次第でどうにでもなるようなことかも知れず、意外と大した事態には発展しなければ確かに過剰反応だったことになるが、それがきっかけとなって事態がおかしな方向へ転がって行けば、そら見たことかと言えるような結果がもたらされるかも知れないし、まだ事態がそこまで進展していないなら、現状ではどちらとも判断がつかず、その人のそれまでの経緯や実績からすれば、必要以上に過剰反応するようなことではなく、実態としても何もうろたえるようなことでもなければ、一時的に焦って対応を誤ってしまったことにしかならず、それなら別にその人にとっては致命的な事態でも何でもないのだろうが、その人にとってはそうだとしても、それ以外のところでメディアが必要以上に騒ぎ立てるから、いつの間にか話に尾鰭がついて、あらぬとばっちりが他の誰に及ぶとも限らない事態となっているとすれば、何やらその人とは関係のないところでおかしな成り行きが生じているのかも知れないし、そんなその人にはあずかり知らないところで起こっている出来事が、回り回ってその人に向かってきて、なぜかその人を苦しめることになっていれば、それが今まさにそうなっている最中の出来事なのであり、過剰反応してやらなくても済むようなことに首を突っ込んでしまったばかりに、それが話題としてメディアに取り上げられて、思わぬところで世間からの過剰反応に直面して困惑している最中なのだとしても、まさかそれが身から出た錆だとも思わないだろうが、対応を誤ってしまったことに関してはその通りだろうし、もちろん現時点では対応を誤ったなんてこれっぽっちも思っていないだろうから、自分は悪くないと思うしかなく、逆にそんなことで騒いでいる世間やメディアの方がどうかしていると思うだろうが、そんなことというのがしばらく前から流行現象として度々メディアに取り上げられている話題なのだろうから、もちろんそれが流行現象で片づけられるようなことではなく、犯罪行為や人権問題として真剣に議論されるべき問題でもあるから、下手に立ち入って火傷を負うような成り行きは避けなければならないはずだが、なぜか妙な経緯に絡んで下手に義理立てしたばかりに、結果的に魅入られるようにしてその問題に立ち入って火傷を負ってしまったのだから、後悔先に立たずな事態に陥っていて、たぶん当人にしてみればとばっちりには違いないのだろうが、それがとばっちりでは済まないところが、発言の軽率さを物語っていて、絵に描いたような炎上案件に発展させてしまったのだから自業自得であり、すでに当人とは関係のないところで事態が盛り上がっているに過ぎず、それとこれとは別次元で起こっていることだと見ても、だからこそそれとこれとを結びつけて対応のまずさだけを難ずるわけにもいかなくなり、結局はその人の人間性の問題だと言われてしまうわけで、逆にその人の知り合いの誰かが、たとえその性格や人格に問題があって、プライベートな面でも仕事の面でも様々な軋轢を生じさせていたのに、公的な面で公共の利害を重じる行動や言動に及んでいたから、その死後にも良識的なメディアから称賛されているのとは対照的に、その人の方はと言えばプライベートな面でも仕事の面でも誰から後ろ指を刺されることなくそつなくこなしてきて、一見何の問題もなく、順風満帆な人生を送っているように見えたのに、なぜか仕事上で恩のあった人に義理立てしたばかりに、世間からもメディアからも叩かれる羽目に陥ったわけで、それが皮肉といえば皮肉なことにはなるだろうが、それが政治的な発言とは極力無縁であろうとした著名人にとっては身から出た錆のように感じられるわけで、果たしてそんな坂本龍一と山下達郎の違いをどう見るかといったところで、関心のない人はどうでもいいようなことなのかも知れない。


7月12日「常識=迷信」

 いくらそれが真実や事実だと知らされたところで、それを知って愕然とするようなことでもなければ、知っても知らなくてもどちらでも構わないと思うわけでもないが、何か拍子抜けするようなことかも知れず、それを知ってもらいたいと思っている人の中には、知ってもらわないと死活問題となってしまう人もいるらしく、本当に知らないと死活問題なのかどうかも、自分にとってはどちらでも良いことのように感じられるのだが、それでも知ってもらいたい人たちにとっては、これまでに世の中で信じられてきた常識を覆したくて、必死になってこれまでの常識が間違っていると声高に叫んでいると表現すると、それが大げさすぎると思われてしまうかも知れないが、今後その主張が世の中に広まって、それが世の中の新たな常識として定着するかどうかは、必死になってそんなことを主張している人たちの努力にかかっているかどうかも含めて、そんなことはどうでもいいと思っているわけでもないし、それ以前に常識=迷信という等式を頑なに信じているわけでもないのだが、かえってそうなってしまった方がおもしろそうにも思われて、別に世の中の人々が常識=迷信であることを知ってほしいと主張したいわけでもないのだが、そんなことも誰もが知っている常識の範囲内なのも間違いないのだろうから、そういう意味でも常識を覆そうとしてがんばっている人たちの主張を真に受けるわけには行かないのだが、だからといってそれに対抗してわざとひねくれたことを述べているわけではなく、ただ通常の感覚でそう思われるから、それほど自らの頭がおかしいとも思えないわけで、その一方で彼らが主張していることも、新たな迷信を世の中に広める行為かも知れないから、それが迷信でないと言い張るなら、それもその通りかも知れないし、彼らの理屈が正しければ、その理屈に則って主張していることもその通りだと思うしかないが、その理屈が正しいかどうかも、彼らの主張を真に受けるなら正しいことになってしまい、それをどう受け取ってみても、自身が正しいことを主張していると思っている人々とは距離を置かないと、それによって自分の思考の自由度を狭められてしまうような気がするから、正しい主張を真に受けるわけには行かず、そんな主張の正しさに引きずられて、そこから抜け出せなくなってしまう事態を避けたくて、その主張に対抗するために無理な屁理屈を持ち出して逆らっているわけではなく、主張を信じたい人たちは信じていればいいわけで、信じる者の全てが救われるとも限らないが、その中から信じることによって救われた気になれる人もそれなりに出てくるだろうから、救われた気になっている人にとっては、主張を信じることによってご利益があったことなるだろうし、そういうところではそれで構わないのだろうが、信じなくても救われなくても構わないなら、信じる者の中に自分が含まれる必要もないだろうから、無理に信じようとしなくても構わないのだが、信じたくなる気持ちを意志の力で抑え込んで、頑なに信じようとしないわけではなく、ただ何となくどちらでも構わないようなスタンスであり続けたいというのも、何か煮え切らない態度のようにも思われるから、主張を信じさせようとする人たちにとっては厄介な存在なのかも知れないが、相手にされていないと思っておけば、何に相手にされていないのかといえば、常識を信じる人たちに相手にされていないわけではなく、常識を疑い、常識の嘘に気づき、そこまでは誰もが気づくかも知れないが、そこにとどまらないで、疑わしい常識に代わる、正しい理屈に基づいた新たな常識を信じさせようと奮闘する人から相手にされないことが、常識を疑うには必要なことだと考えてみても、そうでもないような気がするなら、たぶんそこで気づいていないことがあるのかも知れず、それが何かといっても、うまく言えないことだから、そんな主張に説得力が生じるわけでもないのだが、それに対して反面教師だと見なしてしまっては失礼だろうが、自分たちの主張が新たな世の中の常識として定着することを目指して奮闘している人たちには、何かが欠けているわけではなく、逆に過剰な何かが彼らを突き動かしていて、その突き動かしている何かが何なのかを見極めなければならず、それがわからないことには彼らの主張を信じられないわけでもないが、彼らの何が間違っているとか、あるいは彼らの何が正しいのかとか、そういうことではないような気がするわけで、仮に彼らの主張が正しくても、正しい主張が常識となって世の中に定着するわけではなく、逆にそれが迷信だからこそ常識として世の中に定着する成り行きを考慮に入れないと、正しい理屈に基づいた正しいことを主張する人たちが敗れ去る成り行きに納得できないわけで、もちろんそれ以前にそんな理不尽な結果に納得する必要もないのだが、納得できない迷信がまかり通っている現状が許し難いと思うのも、ある意味ではそう思うのが当然のことだが、常識=迷信であることを踏まえておかないと、必ずしも論理的に正しいことを新たな常識として世の中に広めたいと思っているわけでもないにしても、やっていることを客観的に見るなら、そんなことをやっているように見えてしまう人たちがどう思っているかなんて、他の誰の知ったことでもないかも知れないし、それが躓きの石であることを自覚できるわけでもないが、当人たちはその機会が巡ってきたからそんなことをやり始めたわけでもないのだろうが、現状ではそれに加えて宗教批判と呼ばれるような現象が起こっているし、しかもそれが宗教でさえもなく、単なる詐欺だと言いたい人もいくらでもいるご時世であるのは承知の上で、それでもなおそれを主張したいわけだから、それが常識だと思っているわけでもないからといって、迷信を信じていないことになるわけでもなく、別に迷信を信じていても構わないわけで、迷信を信じているからといって、気が狂っているわけでもなければ、世の中でまかり通っている常識を信じていることになるから、それで構わないわけで、たとえそれが消費税に関する迷信であっても常識であっても、特にどうということはないわけだ。


7月11日「見えていない光景」

 たぶん盲目でもない限りは、普通に目が見えているなら、見えているのは幻影ではなく、現実のありのままの世界の光景が見えているはずだが、極度の近眼の人なら目に映る何もかもがぼやけて見えているかも知れないが、眼鏡をかけたりコンタクトレンズをつければ鮮明に見えるようになるだろうし、眼鏡のガラス越しに見えている世界がありのままの世界ではないわけではなく、近眼でなくても、PCやスマホなどの画面越しにそこに映っているものがありのままの世界の光景ではない場合もありそうだが、見えているPCやスマホ自体がありのままの世界の光景の一部を構成していて、さらに車に乗っていれば外の光景が窓ガラス越しに見えているはずだが、それがUVカットされた光景だろうが、車速に応じて光景が目まぐるしく移り変わっていようが、それをありのままの光景ではないと言いたい人などいないはずだが、それがどういう状況なのか詳しく説明しなくても、そんなことぐらいは誰でもわかっているはずで、それだけでは自らの外の世界で何か不思議なことが起こっているとは思わないはずだが、果たしてそれだけではないことがどこで起こっているのかといえば、なぜかメディアで常識では考えられないようなとんでもないことが起こっていると騒ぎ立てられていれば、当然そのメディアから情報を受け取っている人々の興味がそちらへと誘導されてしまうだろうが、それを自分で直接見ているわけではなければ、信用できないかというと、それは見ていたりいなかったりする対象にもよるだろうし、中には見えていなくても信用できるものもありそうで、信用するかしないかという判断と、メディアによって誘導されて見させられている光景をどう思うかということが、必ずしも関係があるとはいえない場合もありそうで、別にそれを信用しなくても信用できなくても構わないわけで、嘘でも騙されていても構わないから、興味深い光景を見させられて幻想を抱けるならそれで構わないと思われるような対象もありそうだから、またその光景を直接見ることはできず、文字で記されている文章を読みながらそこで説明されている光景を思い浮かべている場合もあるから、ありのままの光景を直接見ているわけではなくても、むしろ見えていない光景を思い浮かべながら満足感に浸れる場合もあるわけで、それが夢を見させられていることだと言えるだろうが、できれば夢を見させられているだけではなく、直接体験したいと思う人もいるかも知れないが、そんな夢の世界を現実の世界で人工的に構築するとなると、何やら遊園地などの娯楽施設や観光地などのリゾート施設を思い浮かべるかも知れないし、そこで実際に非日常的な娯楽や観光の世界を体験すれば、それで夢が実現したと思うわけでもないが、また歓楽街という場所も大都市には一つや二つあるだろうから、そんな場所が気晴らしには必要だと思う人も結構いるかも知れないが、そんな場所も含めてありのままの世界が構成されているわけだから、そんなありのままの世界を部分的に実体験しながら幻想を抱いたところで、それで何かわかったような気になれるかというと、世間をある程度は知ったつもりにはなれるとしても、それ以外の何を知っているわけでもなく、何かわかったような気になったつもりでいても、それが世界の部分的な理解にとどまっていることを自覚できるかというと、いちいちそんなことを自覚するまでもなく、それで構わないわけで、それで何かわかった気になっていればいいのだろうが、そういうところで下手に嫌悪感を覚えてしまうと、勘違いの原因にもなりかねず、現実の世界で生きていれば誰も聖人君子のような気持ちにはなれないし、聖人君子のような人物が歴史上実在したとも思えないが、それも夢の中でそんな人間の理想像を幻想するのだろうから、ありのままの世界で実現しているわけではないように感じられて、逆にそこから外れる人物の動向がメディアを通じて気晴らしの話題となるわけで、もちろん気晴らしの対象となっているだけではまずいと思われて、それよりは批判や非難の対象とならないとまずいわけで、実際に良からぬことをやっているからそうなるわけだが、その良からぬことというのが、多くの人々に幻想を抱かせることになるかどうかはわからないが、何やらカジノだとか万国博覧会だとか、果たしてそんなもので今さら幻想を抱く人がどれほどいるかは、実際にそれが実現してみないことには何とも言えないが、それを批判している人たちの方はといえば、できれば実現を阻止したいわけで、もちろんその実現が間近に迫っているわけだから、阻止できるとも思えないが、仮に実現したところで何がどうなるわけでもないとたかを括っている人がどれほどいるかもよくわからないが、そういう人たちの言い分も理解できないわけではなく、そんなものを推進している勢力がさらにその勢力を拡大させるのも目に見えているだろうから、長い物には巻かれろと下手な処世術に身を投じる人もそれほどいるとも思えないが、そんな人たちには見えていない光景が世界には広がっていて、見えていないからといって想像することはできるから、しかも想像しているだけではなく、実際に多くの人々が体験しつつあるのかも知れないから、その自らが体験しつつある光景の中で自身が生きていることを実感していて、その見えていないのにもかかわらず実感できる光景というのが、人々がそれと気づかずに連帯している光景であり、いったい何のために連帯しているのかといえば、生きるために連帯していると言うと、だいぶ抽象的な物言いとなってしまうが、その生きるということが、どうも自らの利益のために連帯しているわけではなく、逆に自らの利益のためには他者に抜け駆けしなければならないわけだから、そこからは連帯は生まれてこないわけだが、逆に自らの利益を犠牲にしてでも連帯しなければならない必要があるかというと、それが実際に連帯してみないことにはわからないことかも知れず、しかも人によっては連帯したところで理解できないようなことなのかも知れないし、それがわからない人たちが、人々に幻想を抱かせてそこから利益を得ようとする勢力の拡大に貢献しているのではないか。


7月10日「効率化の意義」

 行政がテクノロジーの進化に対応できないとまずいと思うのは、誰がそう思っているとも思えないが、そう言われてみれば誰もがそう思うかも知れないが、テクノロジーの進化と行政の効率化が結びつくのは当然のことのように思われるし、行政が効率化したところで何がどうなるわけでもないとも思わないが、行政が効率化したところで行政そのものが進化するわけではないのは、行政の進化をどう捉えるかで、その是非が問われるわけでもないから、その通りかも知れないが、効率化できるところとできないところがあると捉えておくのが無難なのだろうが、実際に効率化できないところでは複雑な対応をするしかなく、曖昧な部分を残しておかないと、一般市民への対応としてまずい面が出てきそうだが、それに関して実際に数日前に体験して思ったのだが、十数年前の前橋市役所では、自動車で市役所へ行けば、一般の有料駐車場と同じように駐車券を発券していたが、数日前の平日の時間帯に十数年ぶりに行った際には、駐車券を発券する機械は作動しておらず、そのまま駐車場に車を停めて、市役所で用事を済ませる際に、役所の窓口で駐車券にスタンプを押してもらう手間が省かれていて、それが別にテクノロジーが進化したからそうなったわけではなく、ただ単に駐車券を発券する機械を使わなくなっただけで、逆にテクノロジーを使わないから、駐車券を発券して窓口でスタンプを押してもらって、それを駐車場に常駐している職員が回収するという業務がなくなっただけのことであり、確かにそういう部分では行政が効率化されたのだろうが、実態として前橋市役所に行く人以外で、前橋市役所の駐車場に車を停める人などほとんどいないだろうから、立地条件を考えれば前橋市役所ではそれでも構わないが、民間の商業施設などが周辺に密集して立地している東京の都心の区役所などではそうもいかないだろうから、そういうところでは前橋市役所のような対応はとれないだろうし、そういう意味ではケースバイケースなのだろうが、その一方で役所で書類を受け取る際には、窓口の脇に料金を徴収する機械が備えつけられていて、それが一万円札などの高額紙幣を投入しても、ちゃんと釣り銭を出してくれる優れ物で、数百円を支払うのに一万円札でも対応できるところが、テクノロジーの進化を実感させられるというのも、錯覚でしかないだろうが、その書類を郵送するのに、前橋市役所には郵便局が併設されていないので、切手を買うために郵便局が併設されている隣の群馬県庁まで行かないとならない、と行く前にグーグルマップを見ながら事前に算段していたのだが、その場で閃いて市役所の中のインフォメーション窓口で聞いてみたら、地下のコンビニで切手を売っていると言われて、なるほどと思って行ってみたら、ちゃんとコンビニの店員が書類を入れた封筒の重さを計って、送るのに適切な額の切手を売ってくれて、郵便ポストは正面入り口の脇にあることも親切に教えてもらい、わざわざ群馬県庁まで行かずに用事を済ますことができたわけだが、社会の中で様々な制度やシステムが複雑に入り組んでいる中で、工夫を凝らして手続きや手順を効率化したり省力化できる面があることは、実際にそれが実現しているところではそれなりに実感できるだろうが、一方でどうしても避けては通れない手続きや手順というのもあるのだろうし、別に郵便切手は郵便局で売っているという先入観を打ち砕かれたぐらいで気分を害されるはずもなく、コンビニだからちょっとした日常生活に必要なものなら何でも売っているだろうと思うのも普通にそう思うところで、事前にコンビニで切手を売っていることぐらいは知っていたわけで、ただ市役所の地下にコンビニがあることまでは思いつかなかっただけで、そういえばコンビニはどこにでもあるし、規模の大きな病院などにもあるはずだが、さすがに消防署にはなさそうに思われるが、案外規模の大きな警察署にはあるかも知れないし、それはちょっとした場所に清涼飲料水の自販機が設置されているのと似た感覚でそう思われるのだろうが、そういう方面では商売が成り立つ限りで便利さが追求されるにしても、商売そのものを省くわけにはいかず、物や情報やサービスの売買や貸借から収益や利益を得る行為をなくすわけには行かないところが、経済活動の効率化や省力化の限界を感じさせるところだが、その一方で行政の効率化や省力化となると、それがデジタル化と同義のことのように思い込まれていて、実際にマイナンバーカードを普及させるためのゴリ押し的なやり方が非難の的となっている面では、確かに絵に描いたような杜撰で強権的なやり方であるから、そらみたことかと安易に批判できてしまうレベルではそういう成り行きになっていて、それに加えて担当している大臣がいかにも人生経験が足りなそうに見える世襲政治家なのも、その種の先入観や偏見に拍車をかける一因になっているのかも知れないが、もちろん批判や非難している人たちの全てがその種の先入観や偏見に囚われているわけではなく、担当大臣の見苦しく言い訳じみた答弁や発言よりは批判や非難の内容の方がまともに感じられるから、そう思われて当然の成り行きになっているわけだが、それよりはそれがわざとこれ見よがしにそんなことをやっているとは思えないところが、いかにもそうするのが当然のことのような感覚で推し進められているように感じられるから、それが世の中の一般常識というこれまた先入観に照らし合わせるとなぜか異様に感じられて、どこかの独裁国家でもないのにそんなことを強引にやっても許されるのかという不安の入り混じった疑念が生じているように思われるのだが、そういうことをやって当然のことのように強引に推し進めている人たちやそれに対して支持や賛同を表明している人たちの感覚の方が、どうも世界的に見れば多数派が抱く普通の感覚なのかも知れず、それに対して違和感や不安感や恐怖を覚える感覚が、彼らからすれば左翼にかぶれた反政府的な意志の表れなのかも知れないが、どちらの感覚が信用に値するかは、各人の判断にまかされているのが民主的な社会の中ではありふれた常識であり、それが選挙結果に表れるはずだと思うのことも、それだけが投票の際の判断基準とはならないと思う人々との間で、一種のせめぎ合いが起こっているのかも知れない。


7月9日「意図せずに触れているところ」

 なぜか問題の核心に触れようとせずに、あえて核心に触れることを避けているようにも感じられるとすれば、では問題の核心に触れずに何を主張しているのかといえば、論点をずらして巧妙に核心から遠ざかりながら、それとは別の方面へ人々の関心を誘導していると解釈するなら、ではなぜそんなことをやっているのか、その意図を探らなければならないと思いたいところだが、すでにそんなことはわかりきっていて、それが問題の真の核心ではないと主張したいのであれば話がわかりやすくなるだろうが、それ以前に問題とは何かというと、人々の関心をその人が主張している方面へと誘導しようとしている意図そのものであり、何かごまかしていることがあるのではないかと疑ってみるのも、考える方向としては妥当な気がするのだが、なぜそんな意図を想像してしまうのかといえば、それが問題の核心だと思っているからで、何も意図せずにそんなことを主張するとは、どうしても思えないなら、何かをごまかす意図があって、その意図を隠すためにそんな主張を繰り返していると解釈すると、どうもそれでは今ひとつ納得しかねるが、ごまかそうとする自身の意図をわかっていないのではないかとも疑ってしまうが、そんなはずがなく、それとは違う意図も主張の中で表明していれば、それに関してもちゃんとわかっているのではないかと思うしかないが、なぜそれが意図せずごまかしていることになるのかといえば、そんなことは意図しなくても構わないはずだと思いたいわけではなく、それを意図してそんなことを主張しているのに、主張している当人が自身の意図を理解していないのであって、自らの意図を理解せずに、しかも理解していることを前提にして主張しているような内容であり、そういうところで何かちぐはぐな印象を人々に与えているのかも知れないが、そこに問題の核心があるとすれば、それが何なのかと問えるはずだが、問題の核心とは何かという問いに、その人の主張が答えているかというと、そこでも巧妙に論点をずらしながら、直接それには言及せずに、その代わりにそれとは別の方面へと絶えず人々の関心を誘導しようとしていると理解しておけば、それがどこかの国の首相の国会答弁のような手法だと思っておけば、なるほど合点がいくのかも知れないが、表向きにはそれとは真逆のことを主張しているように思われて、しかも公然とそういう手法を非難しているなら、誰もそれとこれとを同一視するはずもなく、むしろ対立していると思ってしまうのも当然の成り行きかも知れないし、それも表向きにはそう思っておいても構わないのだろうが、その表向きにはという但し書きが、何を意図してそんな表現を使うのかもよくわからないところだが、たぶんそれに関して完全には理解しきれていない領域がありそうだから、とりあえずそれとこれとを対立する立場と仮定して話を進めていくしかないが、もちろんそれが見せかけの対立であり、根本的なところではそれもこれも同じ立場の表裏だと理解しておくのが妥当かも知れないが、一応は対立していないとどちらも困ってしまうだろうから、表面上の対立が真の対立だとは思えないのと同様に、問題の核心も真の核心ではないと理解しておいても構わないが、彼らが意図せずに真の核心に触れているところもあって、それが互いに対立していると思い込んでいる彼らの主張が目指す方向と合致しているはずなのだが、その目指す方向というのが政府の活用であり、それが安易な発想だとも思わないが、果たしてそういう方向で主張する内容が対立をもたらすかというと、表向きには対立しているように見えるが、やはりその表向きにはという但し書きに微妙なニュアンスが含まれていて、何かこじつけのような印象も伴ってくるなら、それがどういうことでもなく、目指す方向がそれ自身であり、国家統治のようなやり方に落ち着くのだろうが、今もそれが行われている最中で、世界的にそのやり方を巡って対立が激化しているように装われているのだろうが、それが装われた対立であり、実際に国家統治のようなやり方がうまくいかないのは誰もが承知しているところだが、それでも政治活動をやっている人なら避けては通れないことでもあるから、あえてそこに触れないようにして主張を構成しようとするなら、特定の問題や事案に関しては積極的に言及しようとするだろうが、その一方で批判や非難の矢面に立たされるようなことに関しては、もっぱら批判専用の立場の範囲内で主張を構成しようとして、批判されるようなことをやらざるを得ない方面へは何とかして踏み込まずに事を済ませようとするわけで、そういう態度が問題の核心に直面するのを避けているように見えてしまうから、そこをあからさまに突かれてしまうとまずいだろうが、その痛いところを突かれる感覚というのが具体的にどういうことなのかが、今ひとつ理解できていないところであり、それに関しては例えばフランスで起こっている暴動が意味するところが何なのかを理解できないと、国家統治が本質的にうまくいかないことに関しても理解できないだろうし、逆にうまく行っている国家統治がどのようなものなのかということに関しても、例えば中国のような国家統治になってしまうと、なるほど表向きにはうまく行っているように装われているが、実際にはそうではないことも誰もが承知しているところであり、そのうまく行っているように装うやり方というのが、西側のメディアでは批判されているところであり、その延長上で考えるなら、日本で行われている国家統治においても、中国で行われているようなところを批判しながらも、それが日本でも行われていることを理解していないなら、うまく問題の核心に触れずに済ませていることになるかというと、どうもそれがうまくは行っていないことを誰もが理解していながらも、そうならざるを得ないことは理解せずに、もっぱらそれを批判する側に回ってしまう人が多すぎるような気もしてくるわけだ。


7月8日「回りくどい解釈」

 それがどの後に及んでそんなことを主張できるかは、誰かの想像にまかせるとしても、この後に及んでそんなことはわかっていると言いたいわけではなく、誰の主張に対して反論したいわけでもないのに、なぜかそんなことはわかっているという反論が返ってくるような気がするようなことを語る羽目に陥ってしまい、なぜそうなってしまうのか理由が定かでないのは言うまでもなく、それでもまだわかっていないことが世の中にはいくらでもありそうなことぐらいは自分でもわかっているつもりだが、それらのわかっていないことを考慮に入れないで、わかっていることを辻褄が合うようにつなぎあわせてそれらしいことが主張できれば、誰がそんなことを主張するかで、それに対する反応も違ってくることも考慮に入れる必要もありそうだが、そんなことを主張できる立場の人なら、他の多くの人々からの支持や賛同を期待できそうだが、そこでなぜそうしなければならないのかという問いが発せられるわけでもないが、そういうことを主張している人にとっては、他の多くの人々からの支持や賛同を得られる限りで、その人の立場の正当化につながるはずで、自らの立場を正当化するためには世の中の最大公約数の人々がもっともらしいと思うようなことを主張しなければならないと解釈してみても、それ以上の何を求めているわけでもないように見えてしまうと、ただ自らの立場を守るためにそんなことを主張しているのかと誰に問われるわけでもないが、実際にそんなことを問えば、そんなことを意図して主張しているわけではないと当人から反論がくるとも思えず、大抵は無視されるだけだろうが、では逆に、もっともらしくない主張が何を意味するのかというと、それでは世の中の多くの人々から支持や賛同を得られない主張になってしまい、そういう意味でなぜそんな立場の人が主張のもっともらしさにこだわるのかといえば、世の中の多くの人々から支持や賛同を得たいからで、ではそういうことを主張するにはどういうことを主張すれば世の中の多くの人々から支持されるのかを知っていなければならないかというと、それも実際に主張した結果からわかることであり、そんなことを主張できる立場の人が主張している内容が、世の中の多くの人々から支持や賛同を得られる主張だと、そうなった結果から言えるようなことでもあり、さらに言うなら、そんな立場の人が世の中の多くの人々から批判や非難を浴びるような主張というのもあるわけで、それがその人の関わっていることがうまくいかずに、しかもそのうまく行っていないことについて苦しい言い訳に終始していれば、さすがに世の中の多くの人々から批判や非難を浴びてしまいそうだが、それも気のせいで済むようなことだとすれば、要するにその種の成り行きに関して発言できる立場というのもあって、実質的には世の中の多くの人々から批判や非難を浴びせられているわけではなく、そういう批判や非難を浴びせる立場というもあって、そういう立場の人々が批判や非難を浴びせているだけで、それ以外の大勢の人々がその人に向かって批判や非難を浴びせているわけではなく、そういった批判や非難を浴びせる立場の人々の言い分を他の大勢の人々が支持しているように装われているに過ぎず、そんな装いを表現しているのがメディアが実施する世論調査になるわけだろうが、世論調査に回答しているのがどれほどの人数にのぼるかといっても、多くてもたかだかサンプリング抽出された数千人規模でしかなければ、統計的にはその程度で信用に値すると言われても、実質的には大した人数でもないから、それも装われた結果に過ぎず、そんな装いをSNSなどで目の当たりにしても、大して真に受けているわけではなく、それも組織的にそんな装いを宣伝している場合もあるから、その程度のことだとたかを括っている場合もありそうなのだが、そうやって絶えずそんなことはわかっていると反論されそうな主張に出くわしていると、知ったかぶりでそれを知っているつもりになれるから、それに関する事情通のような気分にもなれるかも知れないが、どうもそう思わせておいて何か勘違いな気分へと誘導されているのではないかという疑いも生じてくるから、そんな気になってはいけないと逆に身構えてしまい、知ったかぶりになっていないで、嘘でも構わないから無知を装わなければならないとも思えないが、そんな大げさに反応するようなことでもないと思っておけば済むようなことなのかも知れず、その程度のことで多くの人々が騒いでいるように装われているのであって、その一方で誰も騒がないようなことに注目している方が無難なのかも知れないから、たとえSNS上では多くの人々が関心を持っていることを自らも関心を持っているように装ってはいるものの、それが偽装だとバレても構わないのだろうが、なぜそんな偽装をしなければならないのかといえば、SNSに参加しているように装っているからだが、もちろんそれも偽装ではなく、本当に参加しているのだが、大して興味もないのになぜか興味を持っているように装っていると、いつしかそんな興味もないことにも積極的に言及しなければ気が済まなくなるかどうかも定かでないにしても、装っている時点ですでに誘導されていて、装わないと済まないような状況となっていることに危機感を抱いているわけでもなく、やはりそれが大したことでもないのに、妙にその気になって装っているわけだから、そんなふうに装っている自らも大したことはない存在だと自覚しているどうかも定かではないが、それも定かではないということ自体も、装う必要もないのに装わされているのだから、装うように誘導されていると受け取っておけばいいのだとしても、そうやって何とかして大したことはない存在へと貶められていると受け取ってしまうと、やはりそこでも事を大げさに捉えていることの証しとなってしまうのではないか。


7月7日「金持ちと大企業の味方を装う」

 ありふれたことを言うなら、万人の味方を装う人は欺瞞に満ちていて、その一方で特定の利害にこだわる人は正直者のように見えるが、それでも何の前提条件もなければ、万人の味方を装った方が人畜無害で当たり障りがなさそうに見えるが、果たして本当に万人の味方を装うことができるかといえば、それに関してわざと意地悪なことを言うなら、貧乏人や中小企業の味方を装う政治家というのが、欺瞞に満ちているように思われるし、なぜそう思われるのかといえば、その政治家が貧乏人でも中小企業の経営者でもないからだが、一方で金持ちや大企業の味方を装う政治家が正直者に見えるなら、実際にその政治家も金持ちで、さらには大企業の経営者と親交があったり、実際に金持ちや大企業から献金や支援を受けている場合も多いからだが、そのどちらがどうだと言うわけではないが、万人の味方を装うならどちらの味方も装う必要があるかというと、そういう場合はどのような主張がその条件を満たすかという問題に直面しそうだが、たぶん論理的にはその対偶を求めれば良く、実際に対偶をそんな命題に当てはめれば、万人の味方を装うなら、貧乏人や中小企業の味方であると共に金持ちや大企業の味方でもあるが、その対偶となると、万人の味方でないなら、金持ちや大企業の味方でないと共に貧乏人や中小企業の味方でもない、という立場を装えるかというと、架空の話の中で装うだけなら何とでも装えるだろうが、現実の世界で政治家が、自らが万人の味方ではないと宣言すれば支持を失いかねず、誰もそんなことは言わないだろうが、何も言わなくても態度に表れると、微妙にリアリティを感じられてくるかも知れないし、それがどんな態度なのかといえば、自らは特定の誰の味方でもなく、ただ法を遵守するという立場を貫けば、何やらそれが政治家としての本分であるかのように感じる人も出てくるかも知れないが、ではその遵守している法を変える必要が出てくればどうするのかといえば、法を変える手続きも法に則って行えば、相変わらず法を遵守していることになるから、法を遵守している立場に変わりがないと言えるだろうし、法というのはその法を変える手続きも法に含まれてくるから、法を遵守している態度に矛盾が出ないようにできていて、表向きにはそんなきれいごとを主張している限りは、自身の政治活動に差し障りが出ることもないだろうが、実際にそんなことが可能かといえば、しばしば違法行為や脱法行為に手を染めて、それをジャーナリストの類いに嗅ぎつけられて、その種の疑惑が取り沙汰されることも多いわけだが、少なくとも法治主義という大前提を守ることが政治には求められると共に、時と場合によってはその法律を臨機応変に解釈して、あるいは自らに都合のいいように解釈して、自らの私益のために政治を利用しつつも、表向きには法治主義の大前提を掲げて、それを踏み外すような他の政治家や政党の行為や振る舞いを断固非難するような立場を貫いていれば、何やらうまく立ち回っているような気になれるのだろうが、そういう立ち振る舞いは批判的な立場を堅持している限りは誰にでも可能だが、実態としては有能な政治家であるほど社会の中で有力者になってしまうわけで、もちろん無能であっても親の七光りや世襲によって有力者になってしまうと、ジャーナリストの類いにそこを突かれて批判や非難の口実を与えてしまうわけだが、実際に社会の中で有力者になってしまうと、政治家の他にも様々な分野でそれなりに有力者がいるから、そんな他の有力者と親交を深めることになるだろうし、そんな有力者の中には金持ちや大企業の経営者も含まれてくるから、自然と有能な政治家であるほど金持ちや大企業の味方のように見えてしまうわけで、そういう面も考慮するなら、では逆に貧乏人や中小企業の経営者は無能なのかと反論してくるひねくれ者も出てきそうだが、それも社会の中では有能と無能とが単純に対立する立場になるとは限らず、結果的に運が良かったから有力者の立場になれたと言える面も大きく、その人が有能に見えるなら、運に恵まれて有力者の立場になったと共に、有力者になれば自然と有能そうに見えるようになるのが通常の成り行きなのだが、少なくとも日本の場合にはそれがなかなか当てはまらずに、あいつは無能なのに親の七光りや世襲によって有力者になったと蔑められる場合も多いから、その辺から有能と無能とがうまく対立しなくなってしまうわけだが、さらに金持ちや大企業の味方であることが、あからさまに正当化できるようなことではないとすれば、実際に金持ちが貧乏人の敵であったり大企業が中小企業の敵であったりするのかというと、それも一概には言えないことであり、中には金持ちが慈善事業を支援していたり直接慈善事業に関わって貧乏人を助けていたり、大企業が中小企業に仕事を依頼していれば協力関係にあると言えるだろうし、それも日本の場合には元請けの大企業が下請けの中小企業を搾取していると言われてしまうから、協力関係にあっても実質的に敵になってしまうのでややこしい仕組みになっているわけだが、もちろん有能な政治家であればそうした対立軸を安易に設定したりせずに、あくまでも特定の誰のどんな勢力の味方を装うこともなしに、法治主義的な立場から中立公正な態度を堅持するかも知れないが、それでも社会の中に存在する他の有力者たちと微妙な距離感を保ちながらも意見交換を行うだろうから、そんなことの延長上で金持ちや大企業の味方のように見えてしまう可能性も否定できないわけだ。


7月6日「当てずっぽうな解釈」

 あえて嘘をつく必要もないが、必要もないのに何を期待しているわけでもないし、さらに勘違いなことを妄想するなら、現状で何の機会が巡ってきているとも思えないが、その機会を捉えるには何をどうすればいいかと問われているわけでもないから、どうも意識していないところで何かを期待していて、現状でも何かの機会が巡ってきているのに、一向にそれに気づいていないのかも知れず、果たしてそんなことを妄想したところで何がどうなるとも思えないのだが、それでも何かの機会を捉えて行動する必要があるのだとしても、それが何の機会なのかが、意外とその時になってもわからないかも知れないから、苦し紛れに嘘をついていることの延長上でそう思いたいのかも知れず、あえてそんな意味不明な嘘をついて、真実を語ってしまうことを回避しているつもりなのかも知れないが、なぜここでそのつもりもないのにうっかり真実を語ってしまってはまずいのか、と誰が問われているわけでもないが、それも現状ではわからないことに含まれるのだろうから、そうやっていちいちわからないことについて当てずっぽうにいい加減な解釈を施すのも、何とか真実を語ってしまうのを回避するための方策なのかも知れないが、それほどまでに真実を語るのが怖いのかというと、そもそも何が真実なのかわかっていないから、語ろうとしても語れないのであり、では回避するまでもないことになってしまうだろうが、何かのきっかけから唐突に真実を語り始めてしまうとも限らず、果たしてそうなってしまうのを用意周到に回避できるかといっても、それもよくわからないのだから、すでにこんなことを語っていること自体も嘘なのではないかという疑念も湧いてきそうだが、ここまでくると何をどう語っても真実には辿り着けず、その代わりと言ったらさらに意味不明だが、なぜか苦し紛れに嘘をつく習慣が身についていて、しかも自分が嘘をついていることに気づけない人が世の中には多いから、自身もその中に含まれていることに気づけないのだろうが、それが嘘になるかならないかも、嘘だと気づかないままそんなことを語ってしまうわけだから、嘘になろうがなるまいが、そんなことを語っている時点で自らが語っている内容を理解していないわけで、意識して嘘をついているわけでもないから、その人が苦し紛れに言い訳じみた嘘をついていることが、その場に居合わせた誰もが気づいているなら、その人の言っていることは信用できないと誰もが思っていて、それが嘘であることもある程度は想像がつくのだろうが、言い訳じみたことを語っている当人の方が、案外それに気づいておらず、思い通りに行かない事態の中で、なぜか焦って自らがついている嘘の正当性を主張していることは確かなのだが、それが空回りな言動に結びついている自覚もなく、しかもその空回りな言動によって他の人々からの批判や非難を呼び込んでいるとしても、意図してそんなことをやっているわけではないのもわかりきったことだが、少なくともそうなっている時点では当人にしてみれば予想外の事態を招いているはずなのだが、またそうなっていること自体がその人の有能でも優秀でもないポンコツ具合を見せつけている時点で、なぜかその人の味方となっている人々にとっては安心できるわけで、ポンコツだからこそ安心してそういった他から簡単に攻撃される立場を担わせているわけではないにしても、成り行きとして否応なくそうなってしまうわけだから、そうなった結果から振り返れば、そうなっていることを正当化しようとすれば、他から攻撃を呼び込んで窮地に陥ってしまうような人だからこそ、安心してその立場を担わせることができるという逆説が成立していることに、誰もが気づいていないわけではないが、そうやってそうなった結果から振り返って理由や原因を求めてしまうと、それが安心できるような理由や原因ではないどころか、逆にそうはならない結果が求められ期待されていたはずなのだろうが、それがなぜ真逆の事態を招いているのに安心できるのかというと、多くの人々がそんな事態を今までに何度も見てきたはずで、それなのにそこで窮地に陥った人たちがどうなったかというと、それなりに信用が失墜して権力や権威を失った人もいくらでもいるのに、そうなった人にとっては災難かも知れないが、事の成り行きとしてはそうなるのがありふれた結果である限りで、なぜか安心できるわけで、今までにも数限りなくそんな光景を目の当たりにしてきた経験が多くの人々の安心感を生むと結論づける人もまずいないだろうが、逆にポンコツではない人によって、そんな逆境が跳ね除けられてしまうと、それに対して批判や非難を浴びせている人たちが困ってしまうかというと、それも結果的にはそんなふうにはならず、それに対して浴びせられる批判や非難の中身はいちいちもっともらしいのだが、しかもどちらかと言えば、批判や非難を浴びせている人たちの言い分の方が真っ当に感じられて納得できるような内容なのだとしても、だからといって結果的にどうなるのかと言えば、納得できないような結果が毎回のようにもたらされて、それが理不尽な結果のようにも思われて、批判や非難をやっている方が報われない一方で、見苦しい言い訳に終始している方が安心されてしまうわけで、その安心感が誰もが表向きには装う戸惑いや不安の表情の裏返しのようにも感じられて、毎回のようにそんな結果がもたらされているのに、それに関して納得できるような解釈が示された例もないし、どう解釈しても、それ自体ではないところからおかしな理由や原因がこじつけられて、それに納得してしまう人たちの態度にも納得できなくなるから、なるほどそういうことをやっているから、そんなことがいつまで経っても性懲りもなく繰り返されるのかとこれまた納得しかねる理由や原因をこじつけて、不快な感情に囚われてしまうから、何とかして早くそんな予定調和の結果から抜け出して心身共にすっきりしたいのだが、たぶん今回もそうはいかないような気がするわけだ。


7月5日「いつものように」

 いつも同じようなことを述べているが、たまにはいつもとは少しは違うことを述べているように装いたいのか、それでも何を述べても同じような内容になってしまうから、もうあきらめているのかは何とも言えないが、結局は懲りずにいつものように同じことを述べてしまうのだが、たぶん己れの死が間近に迫っているから、思わずそんなことを述べてしまうわけでもないのだろうが、逆にそうであるなら理由が意味不明だが、苦し紛れにそんなことを述べているのは毎度のことかも知れないし、何を否定したいのかもよくわからないまま、何を否定的に語りたいわけではなくても、結局は否定しながら批判へと結びついてしまうわけだから、何でもかんでも批判したいわけでもないのに、批判しないと気が済まないと受け取られても仕方のないところが、述べている内容の限界を感じさせて、その限界を利用して無内容なことを述べているつもりもなく、逆に内容のあることを述べているつもりになれるのだとしたら、いつもと同じようなことを述べているから、確かな感触を得られるわけで、そしてその場の状況に合わせた話題を選んでいるつもりにもなれて、そのつもりになれるという感触も嘘かも知れないが、少なくともその場の事情をある程度は知っている気になっていて、その事情というのが相変わらず深読みの陰謀論めいてしまうから、その人なりに想像力を働かせているつもりなのであり、その想像力の傾向というのが、そこで起こっている出来事に関わっている人や団体を批判する目的に沿った傾向なのだが、要するにそれを批判する目的が前もって設定されているから、それを批判するにはそこで起こっている出来事の裏でどんな意図や思惑が渦巻いていればしっくりくるのか、ということに関して想像力を巡らすわけで、だから自ずからそこでどんなことを想像しがちになってしまうかも、ある程度はその内容が定まってきて、それを簡単に言うなら、その出来事によって誰が得して誰が損するのかを想像して、そこで得する人や団体が陰謀を巡らせて、そんな出来事を起こして利益を得ようとしていると結論づければ、納得できるということなのだろうが、果たして誰もが想像しがちになってしまうそうした結論が、本当に正しいかというと、それも正しいか間違っているかよりは、そんなことを安易に想像できてしまうわけだから、それがその場で得したように思われる人や団体を批判する口実になってしまうわけで、要するにそこで損した人や団体が被害者である一方で得した人や団体が加害者であるという単純な二項対立を基にして自身の批判的な言説を構成できるということであり、しかも厄介なことに、損した人や団体が損しているにも関わらず、得した人や団体を支持しているという不可解な事態を招いているわけだから、そこから損した人や団体が得した人や団体に騙されている、というこれまた安易な結論へと導かれて、損した人や団体に向かって騙されるなと警鐘を鳴らしているわけだが、そこで疑念を覚えるのが、果たしてそれらの人や団体が本当に損しているのかということであるなら、そうした損得勘定が何から構成されているかということが、それが普通に金銭的な損得勘定なのかということも含めて、疑念を抱いてしまい、そうではないとすれば何なのかというと、確かにそれが金銭的な損得勘定であっても間違っているわけではないのだが、それだけでは説明しきれない面も感じていて、それ以前にそもそもそれらの人や団体が本当に対立しているのかという前提ですらが怪しいのであり、たまたまそういう出来事によって損した人や団体と得した人や団体に分かれたように見えるが、それが起こる以前には明確には分かれていなかったはずで、それどころか、絶えず損した人や団体の中からわずかな人や団体が得した人や団体へと加わってきて、元からその中にいる人や団体もそれなりにいるのだが、それも過去に遡れば、何かの出来事をきっかけにして、わずかな数の人や団体が得した人や団体へと加わってきたわけで、そしていったんその地位を手に入れると、今度はそれを世襲したがるわけだが、そんな成り行きから想像を巡らすとすれば、現状ではまだ損した人や団体であるにしても、いつかは何かの出来事をきっかけにして、得した人や団体の仲間入りがしたいから、現状で得した人や団体と対立する必要などないどころか、むしろ自分たちもいつかはそうなりたいから、その可能性のありそうな若い人ほど、現状で得している人や団体の支持者になりやすく、その一方でもはや可能性のない老人ほど、そういった人や団体を批判している人や団体の支持者になりやすいと結論づけたくなるのだが、一概にそうとも言い切れない場合もあるから一筋縄では行かず、そうなる可能性がない老人であっても頑なに批判している人や団体を毛嫌いしている人もいくらでもいるだろうし、そうなると金銭的あるいは権力的な損得勘定ではなく、心理的な思想信条に関わってくることになるわけでもなければ、無意識にその場で支配的に作用している慣習に囚われている場合もありそうで、その慣習というのが具体的に特定の宗教などに関係していればわかりやすくなるにしても、直接にはその種の宗教とは関わりのない人まで、そんな宗教と慣習を共有している場合もありそうだから、そういうところでもこれといって理由や原因を特定できないかも知れず、そういう場合は、その種の宗教自体がその場で支配的に作用している慣習を基にして構成されているから、その宗教教団自体をいくら叩いても、それと似たようなメンタリティを伴った人もいくらでもいるから、大して効果がないどころか、今度は数多くのそういったメンタリティの持ち主を敵に回すことになるから、それ以前の批判のよりどころとなる金銭的あるいは権力的な損得勘定を基とした批判も通用しなくなってしまうのかも知れない。


7月4日「事の良し悪し」

 何の前提条件もなければ何が良くて何が悪いと簡単に言えるようなことが、そうなった経緯を考えると、その場の状況の中ではそうなっても仕方のないことのように感じられてしまい、たとえ悪いと思われるようなことでも、そうなるのが当然の成り行きのように感じられるなら、やはり仕方のないことだとあきらめてしまいがちになるから、そこだけを切り取って良いか悪いかを判断しても違和感を伴ってくるのだろうが、それでも法律という基準の他にも、倫理的にどうかと思われる場合も出てきて、中には違法行為であってもバレなければ許される一方で、合法的な行為であっても倫理的には許されないと思われるなら、善悪の判断がそれだけ難しくなってくるのだろうが、そういう場合は事の善悪とは別の判断基準が優先されて、その場でそれをごり押しできる権力がものを言う場合も出てくるから、結局その場で主導権を握っている人や団体の意向が優先されると、後になってそうした威光に翳りが出てきて、主導権がなくなって権力が低下してくれば、その場でやったことが蒸し返されて、それが違法行為であったり倫理的に許されない行為だと騒ぎ立てられるようになってくると、改めて事の善悪が問題視されるようになって、それもそういう成り行きを経過した後から出てくる経緯であって、そんな経緯からある時期にはひどい行為がまかり通っていたにしても、後になってその時期を振り返って、やはりそんなひどいことをやっていてはまずいというコンセンサスが人々の間で共有されてくると、それが世間でまかり通っている一般常識にも反映されて、次第にそういった行為が慣習としても許されなくなってくるのだろうが、現状でも明らかにひどいことをやっている実態があるなら、将来においてそんなことをやっていてはまずいというコンセンサスが世の中で共有される可能性があり、現状で明らかにひどいことをやっている勢力に加担している人にとっては、今はうまく立ち回って世の中のある方面や特定の分野で主導権を握っているつもりになれたところで、後になってそれが仇となり、過去の一時期にひどいことをやっていた人として歴史に名を残すことになれば、それでもまだ良い方で、ひどいことをやっていた中の一人であるどころか、その時期にはそういう人がありふれていたことにでもなれば、時の経過と共に忘れ去られることになるが、過去にもそんな人がいくらでもいたから、その種の人の典型例としてその人も存在していて、社会にそんな人を数限りなく生み出すような傾向があるとしたら、そういうひどいことをやるのはその人のせいとは言えなくなってしまうかもしれないが、現状で明らかにひどいことをやっているのなら、少なくとも良かれと思ってやっていることではなく、それがひどいことだと承知しながらやっている可能性まであり、そうなると確信犯なのだろうが、それをやることに関して、宗教的あるいは思想信条的な裏づけがあるかのように思い込んでいれば、それこそ統一教会や創価学会の関係者のように立ち回ろうとするだろうし、さらに政府や地方自治体などの官僚機構の後ろ盾があれば、いかに無慈悲で理不尽な対応や仕打ちを一般人に対して行なっても、良心の呵責など感じていないように見えてしまいそうで、そうなるとその種の組織や団体の中から作り出される典型的な人格を伴った人物としてありふれていて、その種の人物が漫画やアニメの中で雑魚キャラ扱いされるのにちょうど良い程度だと見なしたいところだが、実態としては雑魚キャラやモブキャラというカテゴリーとは明らかに違って、メディアが取り上げる話題の中心人物になることもあるのだが、それも浮気がバレて話題となる芸能人程度のことではなく、その人を肯定的に取り上げるメディア自体が馬鹿にされたり非難の対象となるわけで、こんなひどいやつを持ち上げるメディアは御用マスコミだと非難されるわけだが、それも慣例に従ったり恒例の行事に絡んで取り上げざるを得ないから、仕方のない面もあるにしても、そうやってメディアが取り上げる度に、それが当たり前のこととして、その人物の存在が広く世間に認められているから、そうやって毎度のことのようにその人の何でもない発言や言動がニュースなどの話題として取り上げられて、その発言や言動が大して中身のない通り一遍の内容であっても、道理に適った真っ当な発言や言動であるかのように解説や解釈によって脚色されるから、中にはそれを真に受けてまともなことを言っていると思い込んでしまう人も出てくるのかも知れないが、たぶんそんなことはすぐに忘れてしまうようなことであって、しかもそうであるからこそ、そんな人がそんなことを言うのが恒例行事であるかのように受け取られて、それ以上の成果など求められず、そういう成り行きになっていればそれで構わないわけで、それで何事もなければ、事の良し悪しなど問題にされず、それで構わないならそんな人を積極的に支持しているわけでもないが、大抵の人はその人に対して強い拒否反応など示さないだろうし、そうなるとその人を支持しない理由など見当たらなくなり、他に切実に拒絶する事情などなければ、それでも構わないような気になってきて、そうやってその人のメディア上での発言や言動が恒例行事化すれば、その人を積極的に支持する理由など特になくても多くの人々が支持していることになってしまい、現状でその人が手がけていることに対して否定的な反応などが顕著に出てこない限りは、その人に対する何でもない感覚が支持だと受け取られて、恒例行事以外には何もせずに大した業績もないにも関わらず、印象として人々のその人への支持が揺るぎないように感じられてしまい、その人のやっていることに反対している人がこんなにひどいことをやっているといくら煽り立てても、大衆が無反応であるかのように印象操作されていると騒ぎ立てたくなるかも知れないが、そこからさらに月日が経ってみると、何やらそうではないような結果がもたらされている場合があるわけだ。


7月3日「興味本位とは別の話」

 興味本位に何を語ろうと、その内容が本当におもしろければいいが、別にそれで何がどうなるとも思えないとしたら、それ以前にその何というのが何なのかがわからないことには話にならないし、それが思いつかない限りは何も語るべきではないと誰から諭されるわけでもないだろうが、だからといってそれに反発して、むきになってそんな話には興味がないことを強調する気にもなれないから、その気になれなくても世間の話題に同調するしかなく、他に何もなければ世間の話題を苦し紛れでも語ることになりそうなのだが、なぜかそれでは語る方向が間違っているのかも知れず、もっと何か世の中の大半の人々が騙されていることをこれ見よがしに暴きたてるような内容にしなければならないというジャーナリズム的な論理を真に受けて、そういう話に興味を持ってしまうと、それを模倣するようなことをやりたがって、それも部分的に自分の思惑に都合の良いところだけ暴きたてるようなことをやっていることに気づかない場合もあるから、そういう話に批判的な思惑を抱きながら引き込まれてしまうと、ミイラ取りがミイラとなってしまうから、そういった話を好んで語っている人を批判しようとしてはまずいわけで、もちろんその人にしてみれば好んで語っているのではなく、その必要性を痛切に感じて、自分が嘘を暴きたてなければ誰が嘘を暴きたてるのかという使命感を抱きながら語っているわけで、しかもその逆にこれ見よがしに誰もが嘘やデマだとわかるようなことをひたすら強弁するような人たちも一部にはいて、そういう人たちは、大抵は世の中で有利な立場を占めていたり役職に就いている人たちやその代弁者を装っているわけだが、なぜそれが嘘やデマだとわかるのかといえば、そんな人たちを批判する人たちがそれが嘘やデマだとこれ見よがしにまくし立てていて、しかもその内容がもっともらしいから、信じないわけにはいかないわけだが、そこまでの成り行きに心を奪われてしまうと、やはりミイラ取りがミイラになってしまい、それとは別の話には全く興味がなくなってしまうわけではないが、それが興味本位に語られているという前提を忘れてしまうわけではなくても、その一方でこれ見よがしに嘘やデマを撒き散らしている人たちが、自分たちの権力を行使してやりたい放題なことをごり押ししているように見えるとしても、そんな欺瞞に巻き込まれてしまってはならないと思いながらも、思わず身構えてしまうわけでもないのだが、そういったショービズ的な見せものが人々の感性を堕落させたとこれ見よがしな意見を述べるつもりもないが、ではそれに対してどう反論すれば納得がいくのかと問いたいわけでもなく、たぶん納得がいくような反論などできないし、どう考えても論理的な整合性のとれたことを主張できないから、苦し紛れなことしか言えないわけだが、それで構わないのかといっても、それが構う構わないの問題ではなく、そういったどうでもいいことを一切無視できるかというと、たぶん無視しても構わないのだろうが、実際にそれを無視している人たちが対立を煽り立てながら騒ぎ立てているのだろうし、それもそれで構わないわけだが、それについておもしろがって語っているところでは、それなりに興味深い内容となっているだろうし、それも興味深いにとどまっていないで、一緒になって騒ぎ立てないと意味がなく、だから人々がその人なりの意味や意義を求めて、一緒になって騒ぎ立てていると解釈できるわけでもないが、それもそう解釈してはまずいのかも知れず、もっともらしく解釈していないで、そこでも一緒になって騒ぎ立てないと意味がないのだろうが、意味がなくてもそこで行われている競争に勝ち残って、馬鹿でも言えるようなことを言わないと、そこから高揚感が生じてこないわけで、要するにそこで行われている競争に勝ち残ったごく少数の人たちが、これ見よがしに馬鹿でも言えるような嘘やデマを撒き散らしたり、それに対しても競争に勝ち残った少数の人たちが、これ見よがしに嘘やデマだと暴き立てるわけだが、もちろんそれらが無名の一般人であってもSNSなどで嘘やデマだと指摘できる程度のことなのだが、そんな場合でもどちらかといえば競争に勝ち上がった著名人の意見や主張が優先されるだろうから、そういう制度やシステムがそこで作動していると見ておけばいいのだろうが、またそんなことの延長上で世の中が回っていると解釈すれば、例えば消費税が金持ちや大企業を優遇する税制だと言えるにしても、そこでも競争に勝ち上がった少数の金持ちや大企業を優遇しなければ回って行かない世の中になっているからこそ、制度やシステムとしてそうなっていると解釈できるし、競争に勝ち上がれば世の中で有利なポジションを得られると思い込まないと、いったい誰が好き好んで挑戦する人たちの大半が負け組となる競争に参加するのかということであり、そんなわけで人々をその気にさせるには、これ見よがしなことを勝者がやって見せなければならず、競争に勝ち抜ければ誰でも馬鹿でも言えるような嘘やデマをこれ見よがしに撒き散らすことができるし、それに対してそれが嘘やデマだとこれ見よがしに指摘して、支持者や賛同者を集められるし、さらに税制面でも優遇されるから、そういう恵まれたポジションを得ようとして、ほとんどの人々が負けてしまうことも厭わずに競争に参加すれば、そんな制度やシステムを管理運営している側としてはうまく行ったことになるのだろうが、どうもそれもうまく行ったり行かなかったりするようなことではなく、結果的にそうなっているに過ぎず、しかもそうはならないような結果を人為的に作り出すことができないから、否応なくそんな結果を追認せざるを得ず、そんな結果を意識して正当化しているつもりもないのに、実際にそんな結果がもたらされてしまうから、その種のゲームに興じている人たちがそれを正当化しているように見えるわけだ。


7月2日「まだ何もわかっていない段階」

 相変わらず何かわかっていないことがあるからなかなか疑念が晴れず、改めて何がわかっていないのかよくわかっていないという当たり前のようでいてややこしい状態にもなっているから、それをうまく言い表せないのだろうが、わかっていないことは傍に置いて、では現状で何がわかっているのかというと、たぶん特定の人々が騙されているのではなく、誰も騙されていることに気づいていないということでもなく、誰も騙していないのに、多くの人々を騙しているように見えてしまうから、多くの人々からおかしいのではないかと疑念を持たれているのかというと、どうもそうではないような気がするから、やはりまだ何もわかっていないのかも知れず、それも後から振り返れば、ちょっと考えればわかるようなことだったのに、現状ではまだ後から振り返るような段階にまで事態が進んでいないからそれがわからないのであり、ならば早く後から振り返るような段階へと事態が進展すればいいのかというと、実際にそうなってしまうと、後から振り返ってあの時はああしておけばよかったと後悔することになるわけで、要するにそれがわかった時にはもはや手遅れとなってしまうから、まだわかっていない段階で何とかしなければならないわけで、わかっていないのに何とかしなければならないというところが、何とかしなければならないことの困難さを物語っているのだろうが、では果たして何とかできるかというと、誰もが現状の中で何とかしようとしているのだろうが、どうやれば何とかなるのかわからないから、とりあえずやってみなければわからないわけで、実際にやってみてから何とかなったのかならなかったのかを判断しなければならず、そうなるとあの時はああしておけばよかったと後悔することになるわけだから、後悔したのだから何ともならなかったのかというと、それでも何とかなったのだろうが、思い通りになったわけではないから、思い通りにならなかった分だけ後悔するわけで、少なくとも思い通りにはならなかったが、そんなことを思っている人の思惑を外れた形で何とかなったことにはなるのだろうが、それが後悔をもたらしたことになり、その後悔をどう受け止めればいいのかというと、何とかしようとしたが思い通りにはならなかったということだから、それで構わないとは思わないだろうが、それだけ事態が前進したか後退したかあるいは前進も後退もしていないかは、その場での実感に過ぎないが、それに関する客観的な指標があるなら、しかもそれを信じられるなら、その指標に照らし合わせて判断すればいいのだろうが、果たしてそれが判断を要するようなことかというと、わざわざ意図して判断を下すようなことでもないのかも知れず、そこからさらに行為や行動が続いているなら、すでにその結果を織り込んで事態が動き出しているわけだから、もはや後悔している場合かと思われる段階にまで事態が至っているなら、結果的にはそれで何とかなったことにして、それで何ともならなかった苦境を脱したことにもなりそうだが、そこから過去を振り返れば、そうなることがわかっていなくても何とかしようとして、結果的には思い通りの結果を得られなくて後悔することもあったが、さらにそこから事態が進展してみれば、まんざらでもない結果に至ったところで、そこまでの成果を自身の都合のいいように解釈しながら自己満足に浸っているとしても、それで構わないと思いたいのだろうが、そう思ってしまう人の気づかないところで何かしらわかっていないことがあるかも知れないが、それも何かが起こった後からそういうことだったのかとわかる場合もあるから、結局は何かが起こった後からそれをきっかけとしてそれ以前のことまで振り返って、何やらそうなった成り行きを結果から考察して納得したりしなかったりするわけだから、手遅れになってからわかるようなことが大半であり、手遅れになるまで気づかないことも多く、後悔することが事前にわかっていたら誰もそんなことはやらないわけで、そうやって多くの人たちが誤りや過ちを犯してしまうのは、事前にそれが誤りや過ちだとはわからないから犯してしまうわけだが、そんなふうにして何度も誤りや過ちを犯した経験を今後に活かせるかどうかも、そんな誤りや過ちを犯してしまった時点ではわからず、そんなことはその時点では皆目見当もつかないから、まずは誤りや過ちを犯してしまったことを後悔するぐらいしかやりようがなく、また後悔してしまった時点にとどまっていてはどうしようもないから、さらにその先へと事態を進展させるべく行為や行動を続けようとするわけで、それも果たしてそんな理由で活動を継続させているのかどうかも意識できないし、大抵はその場の成り行きまかせで動いてしまい、迷いながらも戸惑いながらも動いているから、少しは過去の失敗に懲りているのだろうし、そういう意味では過去に何度も失敗を繰り返しているにもかかわらず、まだ活動が継続しているのなら、少なくともその時点では生き残っていることになり、そうやって生き残った人や団体の活動が続いている限りで、まだどうにかなっていると言えるわけで、結局その場で何とかしなければならないと思いつつも、そこからさらに時間や月日が経過した時点でもしぶとく生き残って活動が継続している人や団体がいる限りで、その場での活動が何とかなっていることになるから、そうなった結果からその場の成り行きを振り返ればそういうことが言えるにしても、そんなふうに過去の活動を振り返って自らがまだ生き残っている理由を都合のいいようにもっともらしく語っている人がいるとすれば、少なくともその人にとっては自身の活動が何とかなっていることになるだろうが、その何とかなっている状態が他の人から見て見苦しく感じられるなら、果たしてその人の活動が本当に何とかなっているのかというと、その人にとっては何とかなっているとしても、未だに自らが誤りや過ちを繰り返している最中であることに気づいていないのではないか。


7月1日「政府が発行した国債は誰の資産?」

 当たり前のことだが、政府が発行した国債は、実際に国債を買った人や団体の金融資産であり、現状で日本政府が発行した国債の50数%は日銀が持っているそうだから、その分は日銀の資産になるわけだが、日銀が日本政府から独立した機関であるか否かは、法律的には独立した法人であるらしいから、かろうじてその辺の辻褄が合うのだろうが、それとは別の方面で、少なくとも直接的には、国債は国債を買わずに所有していない人の資産ではないことは明らかで、そういう意味で国債は国民の資産だと叫ぶ人は迷信を信じていることになるが、その一方で民間企業における連結決算の理屈を当てはめて、日銀は政府の子会社だから日銀の保有する国債は日本政府の資産だと主張する人もいるみたいだが、それを公に認めてしまうとヤバいような気もするわけで、あくまでも形式的ではあっても、日銀が日本政府から独立した法人であるという建前を維持しておかないと、政府が発行した国債を政府が買い取っているという八百長になってしまい、そういうところで、政府とその国の中央銀行の立場というのは微妙な関係にあるのだろうが、仮に迷信を信じている人の言う通りなら、日本国民は全員が金持ちになっているはずだが、確か現状で国債と地方債を合わせると1200兆円あるそうだから、国民の人口が1億二千万人いるとすれば、一人当たり1000万円の資産を持っていることになり、もちろん実際にはそんなことはないわけだが、少なくとも国債を実際に買わずに所有していない人には国債を売る権利も権限もないわけで、その人が所有している資産でないことは一目瞭然だろうが、そうではなく一人一人の国民ではなく、国民全体の資産だと考えると、国債を発行すればするほど国民全体の資産が増えることになってしまうわけだが、国債が売買の対象であることを考えるなら、国債の発行額をどんどん増やしていってしまうと、国債の価値がどんどん下がってしまいそうに思われるが、それに関して何やら迷信を信じている人が、毎年税収以上の国債を発行しなければならないと主張している人までいて、どういう理屈でそんなことを主張しているのか今ひとつ理解できないのだが、実際に国債の発行額がどんどん増えていっている傾向が世界各国の統計で示されているのかも知れないが、それに関して世界的な傾向を見るなら、国債の比率が対GDP比で100%を超えるとヤバそうに感じられるわけだが、日本の場合は世界で唯一200%を超えて、240%近くまで行っているようで、2位のイタリアの130%や、3位のアメリカの100%を大きく引き離していることになり、いかに日本が世界の中でも異様に突出しているかがわかるのだが、実態としては日本政府が財政破綻しているわけでもハイパーインフレを招いているわけでもないから、迷信を信じる人たちも今のところは強気でいられるだろうし、そんな実態に後押しされる形でMMT派や積極財政派も平然としていられるわけだろうが、国債の性格上返済せずに借り換えを続ければいいとも言われているし、また国民が保有する金融資産額も2000兆円を超えているそうだから、政府の借金より国民全体の金融資産の方がかなり上回っていることになり、それとこれとを差引するのもかなり乱暴だが、一応はまだ国債を発行する余裕が結構あると積極財政派も主張したいだろうし、もちろん金融資産を保有している人も人それぞれで、富裕層は極端に多く保有している一方で、一般の庶民はほんの少ししか保有していないだろうから、そういった面では貧富の格差が著しく開いているだろうが、果たしてそういう理屈が通用するかどうかは、今後の成り行き次第だろうし、日本以外の世界各国の首脳も日本の真似をして国債の発行額を対GDP比で200%を超えて発行しても大丈夫だと考える人はまずいないだろうから、日本の状況が今後どうなって行くかが世界的に注目されているのかも知れないが、現状の日本政府が何に力を入れているかというと、台湾有事などに備えて防衛費を増額しているらしいし、本当に台湾有事が起きるかどうかは何とも言えないが、また産業振興などにも力を入れているとしても、相変わらずの国内外の企業誘致に補助金を出すぐらいなものだろうし、さらには徴税を強化したいらしく、それに加えて財政の健全化も一応は目指しているふりをしている一方で、予算規模が年々増えているわけだろうから、国債の発行残高も減るどころか年々増えていて、そうなると一応は積極財政になるはずだが、その一方で政府外から積極財政派を自認する人たちが盛んに財務省を緊縮財政派だと非難しているのが奇妙な印象を受けるわけで、年々国債発行残高が増えている現状を考慮すれば、少なくとも緊縮財政ではないような気がするのだが、財務省は緊縮財政を目指しているものの、他の省庁や内閣が財務省の意向に逆らって、積極財政にしているのか、あるいは現状の予算状況でも、政府外の積極財政派にとっては緊縮財政だと考えているのか、その辺もよくわからないのだが、例えば教育関連や福祉関連の予算を削っているなら、そういう面が緊縮財政と言えるだろうが、少なくとも増やす分野がある一方で削る削る分野もあるから、そういう面を強調して緊縮財政だと批判しているかも知れないが、批判している勢力にとっては、例えば教育の無償化だとか自然再生エネルギーの推進だとか、そういう方面で予算を使ってほしいのだろうが、それ以外の個々の予算の使い方が批判されている面もあるから、そういうことなら、積極財政派と言えども、無駄に予算を使っていると思われる方面では削って、彼らが主張する方面で予算を増額してほしいと考えているなら、ただ単に政府が割り振った予算配分に文句があるということになるから、それを積極財政と緊縮財政との対立に当てはめるのは無理がありそうだが、どうもその辺のところも今ひとつ理解できないわけだ。


6月30日「賃金格差と貧富の格差」

 賃金格差と貧富の格差が同じではないことはわかりきったことだが、貧困と貧乏に違いがあるかといっても、貧乏が個々の人々が一時的または恒常的に金がない状態であるのに対して、貧困は貧しい状態が社会全体に蔓延して多くの人々が貧乏で苦しんでいる状況を言うのだろうが、世の中の全体が貧困で苦しんでいても、一定のレベルで世界各国には富裕層が存在しているだろうし、そうなっているとそこで貧富の格差が生じていると言えるだろうが、それとは別に職業や職種の中で役割分担も生じていて、役割や役職ごとに賃金格差も生じてくるから、そんな状況の中で賃金格差と貧富の格差が重なっている部分もあるにはあるが、それとこれとは別の制度や成り行きの中で生じている場合もあるわけで、要するに極端な話をするなら、無職で貧乏なら貧困に苦しんでいるのは当たり前の話だが、その一方で無職でも大金持ちで富裕層に属している人もいるだろうし、それが必ずしも良い生活状態や精神状態とは言えない場合もありそうで、金持ちであるほど心身を病んでいたり、家族や交友関係で深刻な悩みを抱えている場合もあるだろうから、一概に賃金格差や貧富の格差が著しい世の中になっていようと、そんな社会で人々の間に分断が生じていようと、スタンダップコメディアンが、日本では右翼と左翼、右と左に分かれているんじゃない、上か下か上翼と下翼に分かれているから、貧乏人と金持ちから同じ税率の税を徴収するのは不公平だと文句を言おうと、貧乏人は貧乏人同士で競争している一方で、金持ちの方でも金持ち同士で競争している場合もあるから、必ずしも貧乏人同士で一致団結しているわけでもないし、貧乏人同士でも右翼と左翼に分かれていがみ合っているし、また金持ちがみんな政府や政権与党や野党の中でも政権寄りの政党を支持しているわけでもないし、金持ちほど慈善事業をやったり、左翼でリベラルな政治姿勢をアピールするようになる場合もあるから、そんな傾向が社会の中で入り混じっているのが実情だろうし、そういう面では一概に分断を強調しても説得力を感じられず、また消費税は貧乏人にも金持ちにも同じ税率で徴収するからけしからん、インボイス制度は零細な個人事業者を狙い撃ちにした増税だと言うのはその通りだが、その一方で金持ちの方が貧乏人より桁違いに高額な商品を買っているから取られている税額もそれだけ高く、また中小企業より大企業の方が売り上げが桁違いに大きいから、やはり取られている税額もそれだけ高いだろうし、そんな論理を持ち出すならそれももっともらしく思われるわけだが、さらに環境活動家のグレタさんがヨットで大西洋を横断して国際会議の抗議活動にやってきたことがあったが、少なくともそのヨットの所有者は金持ちだろうし、子供の頃から世界を股にかけて活動しているグレタさんの家族や友人たちも富裕層に属しているだろうことは想像に難くないが、フィンランドでは貧乏でスーパーのレジ係をやっていた女性が首相になったこともあったり、アメリカの左翼で有名なMMT論者のアレクサンドリア・オカシオ=コルテス下院議員も元は貧乏な下層労働者でウェイトレスやバーテンダーをやっていたらしく、そういう事例を持ち出せば一概に貧乏人だからどうだとか金持ちだからどうだとか言えなくなってしまうのだが、それでも経済状態がインフレに陥れば大変な思いをするのは貧困層であり、そんな状況下では政府はそうした貧困層を助けるために何とかしろという主張は説得力が出るだろうし、何とかするどころか、そんな状況下で零細な個人事業者を家計を直撃するインボイス制度を導入するのはやめろと主張するのも説得力があるだろうから、そういう人たちには言わせておけばいいとしても、それで何がどうなるかというと、そうした主張と共に政治活動をやっている人や勢力としては、それを梃子にして、あわよくば政権交代を狙っているつもりなのだろうし、それが実現すれば良い傾向だと言えるだろうが、少なくともまだ実現していないし、それどころかそんな野望の実現を阻むようなことをやっている人や勢力もいくらでもいるだろうから、しかもそちらの勢力の方が世の中の主導権を握っているから、なかなかその種の野望が実現しないわけだが、それを野望と表現するのも、野望なんかじゃないと反発されるかも知れないが、何かそんな人たちの揚げ足を取ろうとしたくなる理由は定かでないが、そこに正当化できない行為や行動として何かがあるような気がするなら、そういった運動への反発も生じてくるだろうから、彼らが批判していることの裏返しのような感情も伴って、では零細事業者だけが不利な扱いを受けるのは不公平だから、一般のサラリーマンと呼ばれる人たちに対しても、例えば現状で一律に控除している給与所得控除をやめて、実際にかかった経費を一人一人別々に申告して認められた限りで、年末調整などの際に返ってくる仕組みにすれば、税の公平な徴収に寄与するのではないかと主張する人も出てきても不思議ではないはずで、実際にも財務省辺りでその種の制度の見直しを検討しているらしいから、一部では話題となっているようで、そういった税の公平な徴収を実現する方面で厳密に公平性を求めて行くときりがなくなってくるだろうし、そういうところでひたすら一方的に正しいと思われる論理を突き詰めていくと、回り回って自ら墓穴を掘るようなことにもなりかねないから、絶えず極端なことをやろうとするのではなく、逆にバランスの取れたことをやらないとならないと述べたところで、では何と何のバランスを取るのかと言われると、それが多方面にわたるバランスだから一概に決められず、そうなると述べていることの説得力を得られないことにもなってくるわけだが、それでも構わないようなことが果たして実現するのかというと、それが誰の思惑も裏切るような形で将来において実現するようなことにでもなれば、そうなって初めて世の中が変わったことを実感できるのかも知れない。


6月29日「安易な結論」

 相変わらず具体的に何がどうなっているのかがよくわかっていないのかも知れないが、必要があるからそうなってしまうと考えてしまうと合点がいくものの、結果的にそう見えるだけで、案外始めから必要性を認識していたわけではなく、始めからということが、それが何の始まりなのかもよくわかっていない可能性があるから、始めからではない可能性もあるが、それも結果から見ると、始めから何か意図や思惑があるように思われるから、そう考えてしまうわけだが、その発想に柔軟性がないと思われることも、他の何かとの関連性からそう思ってしまうわけで、それが安易に批判できる結果であり、それをやった結果が思わしくなかったから、うまくいかなかった結果になるわけだが、うまくいけば普通は批判されないが、うまくいかなければ、そのうまくいかないことを批判するのは容易いわけで、そうなると結果的にやったことがうまくいかないから批判されることになったと思われるわけだが、それで構わないのかというと、そういう成り行きになるのは当然のことだから、それも結果的にはうまくいかなかったことに含まれるわけだが、そんな批判へと意識を誘導されてしまうと、批判するのが当然のことのように思われるから、当然の結果として安易にうまくいかなかった結果を批判している自らを正当化できて、果たしてそれを正当化している自らが正しい行いをやっていることになるのかと問うわけでもないが、そんなことは問われるまでもないことだから、うまくいかなかった結果を批判している意見や主張に同調してしまうのかも知れないが、確かにそんな批判に同調してしまう人の意識に柔軟性がないことは明らかで、そうなってしまうと他のことまで配慮が及ばなくなってしまうから、それが硬直化した教条主義的な思考になりやすく、共産党やれいわの支持者たちが陥りがちな立場になってしまうが、うまくいかないことを批判しているのだから、そういう面ではそういった批判がうまくいっているわけで、逆にそんなことはあり得ないが、うまくいっていることを批判できるかというと、やっていることがうまくいっているのだから批判する必要などなく、そんな批判は必要ないことになってしまい、やっていることがうまくいけばそれに対する批判者などいらなくなってしまうのだが、果たしてそんな安易な結論で構わないのかというと、どうもそうではないような気がするとしても、ではそういう結論の何が間違っているのかと問われても、批判していることの対象が具体的に何になるかでそれに対する結論も変わってくるなら、ではいったい何に対して批判したいのかということが、現状では今ひとつわかっていないのかも知れず、その一方で安易に批判しやすいことなら、日本政府に限らず世界各国の政府がいくらでも批判材料を提供してくれるので、そういう類いの批判材料には事欠かないわけだが、そんな批判へと意識が誘導されてしまうと、その場限りの短絡的な思考に陥りやすく、各国の政府が提供してくれる批判材料にいちいち反応していれば、それを批判しているだけでその種の言論活動が完結してしまい、根本的な結論としては政府や行政のやることがうまくいくはずがないと思っておけば事足りるかというと、中にはうまくいっていることもあるわけだから、そのうまくいっていることを引き合いに出して、あちらではうまくいっているのにこちらではうまくいっていないと相変わらずの批判を展開できて、それではまずいのかといっても、そういった批判で構わないならまずいわけがなく、うまく批判できているわけだから、それで構わないことになってしまい、たぶんそういった面でも安易な批判的思考から抜け出られなくなってしまうのだが、なぜそれではダメなのかよくわかっていないし、それでも構わないのではないかと思っておけば、それで済んでしまうことになるなら、それ以上は思考を巡らす必要はなくなってしまうわけだが、あえてそういう成り行きに逆らう契機がどこで生じてくるかは、実際にその時になってみないことにはわからないわけではなく、その時になってもわからないのかも知れず、わからなければその機会を逸してしまうわけだが、果たして今がその時かというと、それも何とも言えないし、実質的にはわかっていないと状況を捉えておくのが妥当なところかも知れず、今はただ政府がうまくいかないことをやっているのが明らかだから、それを安易に批判していれば済むような状況なのかも知れないし、それで構わない立場の人たちが騒いでいるだけで、他の大多数の人々はそうでもなく、相変わらず無関心を装いながらも現状維持の姿勢に甘んじて、何もしないわけではないが、時が過ぎ去るのをただ黙って待っていれば構わないような立場の人も少なからずいるのかも知れないが、その一方でうまくいかないことををごり押しするのが政府や行政のやり方なのだから、それに対する抵抗勢力が少なければそんなゴリ押しが簡単に通ってしまうから、大手のメディアも協力して抵抗勢力がそれほど多くないように装うのに躍起となっているわけでもないだろうが、ただ単に無視していれば済むようなことなのかも知れず、そんなことをやっているうちに何がどうなるわけでもないが、確実に何かがどうにかなってしまう面もあるわけで、それが今後明らかになってくれば、それに呼応して抵抗勢力の士気もそれなりに盛り上がるかも知れないが、それと共に空回りの空騒ぎにも拍車がかかるかも知れず、そんな騒ぎに浮かれているだけでも、世間からの支持や支援を受けているつもりになれればいいのだろうが、そうなることも始めからわかっていて、そういった成り行きも予想の範囲内で起こっていることであれば、そういう騒ぎも含めて政府のやり方が揺るがないことが明らかになってきて、今も昔も政府はうまくいかないことをごり押しすることしかできず、そういうことをやるから政権交代が頻繁に起こるように仕向ける必要があるわけだが、それができないと長期独裁体制になって民衆が苦しめられることになるわけだが、果たしてそんな安易な結論で構わないのかというと、日本では必ずしもそうはなっていないという見え透いた反論もあらかじめ用意されているのではないか。


6月28日「驚くべきこと」

 そんなことはあり得ないとは思わないが、誰もが気づいていないことを自分だけが気づいているとも思えないし、確かに多くの人々が気づいていないことが何かしらあるのかも知れないが、たとえそれに気づいたところで大したことはないかも知れず、それに気づいてから実際に驚いたり驚かなかったりするとしても、逆に誰もがそれに気づいていることの方が驚くべきことであって、もちろん誰もそんなことに驚いているわけでもなく、それに気づかない方が驚くべきことかも知れないが、なぜ気づくことが驚くべきことなのかというと、誰もが慣習や因習に囚われているからそれに気づかないとすれば、では誰もがそれに気づかせないようにしている慣習や因習とは何なのかというと、それが気づくべきことであり、それに気づいて驚かなければ、何でもないことかも知れないが、果たして何でもないことに気づいて驚くかというと、誰も驚かないことが予想されてしまうが、誰もが囚われているのに気づいていない慣習や因習の中で、何か気づいて驚いてしまうような慣習や因習があるかというと、驚いてしまうかどうかはわからないし、人によっても立場によっても変わってくるだろうが、それが法律違反や憲法違反などを伴いながらも、多くの人々がそんなことをやってしまうのであれば、人によってはそれが驚くべきことになるかも知れないし、そんなことはやめるべきだと騒ぎ立てる人まで出てくるかも知れないが、そうなると犯罪行為と慣習や因習が重なり合っていることにもなるから、そういった慣習や因習が世の中で流行っていれば、場合によっては社会を揺るがす大問題としてメディアで話題となる可能性までありそうだが、果たしてそんなことが現状の世の中で流行っているのかと問うなら、そんなことはないと誰もが思いたいだろうが、誰もが気づかないところでそれが機能していて、誰もがそれに気づくべきことだと主張したくなってくるような慣習や因習であるとしたら、それが何なのかというと、それに関してあえて嘘をつくなら、なぜ嘘をつく必要があるのかというと、こんなことを述べている自身もそれに気づいていない可能性がありそうで、それに気づいていないのに、なぜここまでありもしない慣習や因習について語ってきたのか、自分でもよくわからなくなってくるが、何か引っかかるものを感じていて、何に関して引っかかるものを感じているのかも明らかにできないとなると、それ自体が嘘である可能性が濃厚となってくるが、たぶんそれが嘘ではなく、何に関して引っかかるものを感じているのかも、あえてそれを明らかにしないだけで、あえて嘘をついたりあえて明らかにしなかったりして、勿体ぶって人を煙に巻こうとしているだけかも知れないが、それもなぜ人が犯罪行為になることを厭わずに執拗に法律違反や憲法違反になるようなことをやろうとするかに関して、それなりに思い当たる節がありそうだからだが、それを一言で言えば、それが人の生存本能と結びついた情念に囚われていると言ってみても、それと慣習や因習とがどう結びつくのかよくわからないかも知れないが、その種の情念が理不尽な行動や行為に人を駆り立てるとしても、それが犯罪行為として特定されている面では、単に法律違反として処理されてしまうから、そんな行動や行為に遭遇した人が驚いてしまうのも納得できるが、びっくりするような驚きを伴う行動や行為を、驚きなしに行えるようにしたのが慣習や因習だと思っておけばいいと言っても、それが慣習や因習であることを知らなければびっくりするようなことなのだとしても、それを知ってそれが日常生活に馴染んでいれば、たとえそんな行動や行為に遭遇しても、もはや全く驚かなくなってしまうから、慣習や因習に馴染んでいない部外者にとってはびっくりするようなことなのだろうが、それを平然とやっている人や集団にとっては、もはや日常生活の延長上でそんなことをやっていることになるから、たとえそれが情念に囚われた衝動的な行動や行為であっても、そういう行動や行為に常日頃から馴染んでいる人や集団にとっては何でもないことであり、ではそういった行動や行為がどこから生じてくるのかというと、普通の何の変哲もないどこにもでもあるような集団内から生じてくるわけで、例えばそれが学校の部活動や校内外で活動する不良のごろつき集団や街の暴走族グループやヤクザの集団内で行われることであったり、もちろんちゃんとした大企業でもしばしばその種の不正行為が発覚して摘発されることもあるだろうし、さらには自民党や維新の会などのある種の保守的な情念の下に集う政治集団内でもしばしばそうした行為が発覚するだろうが、そんな情念に支配された集団内にいると、立憲民主や社民や共産などが主張するきれいごとがムカつくし、そんなことを主張される度に腹が立ってしょうがないと感じるかも知れず、そんな感情をSNSなどで代弁しているのがいわゆるネトウヨと呼ばる見るからにガラが悪そうな人々であり、感情が鬱積していたのが十数年前の民主党政権時代であり、その鬱積していた感情が大爆発したのが安倍政権時代なのだろうが、その余波が今もなお日本中に渦巻いているとしても、だからといって民主主義や人権や国民主権などのきれいごとを唱えてしまうとろくなことにならないのかというと、そういうわけでもないと思いたいのだが、日本で通用している慣習や因習などがそれらのきれいごとを受けつけないような傾向があるのかといっても、他の世界の大多数の国でもそういう傾向があるから、しばしば世界各地でそれらのきれいごとを破壊するような独裁政権が誕生しているわけだから、それが日本特有の問題でもないだろうから、安心して左翼やリベラルなきれいごとを尊ぶ人たちは、ガラが悪い人たちに叩かれても懲りずに民主主義や人権や国民主権などのきれいごとを唱えるべきなのではないか。


6月27日「矛盾の隠蔽と対立軸の設定」

 現状で安易な問いを誰に向かって投げかけることができるわけでもないが、例えば人がメディアを通じて何に引き寄せられているのかと問うなら、意見や主張が対立する話題に引き寄せられるのだろうが、そこで安易に対立すれば誰もが都合の良いことばかり主張できるようになれるわけでもないが、その都合の良いことというのが、安易な対立軸を設定して、それについて言及する自分とは対立する相手を批判することになるのだが、そんなのは議論を盛り上げる思惑があるなら当然のやり方であるから、それの何が悪いとも思えないだろうが、それをやると何を無視してしまうのかというと、批判している相手とは対立していない点を無視しているわけだが、対立点を基にして自らの意見や主張を構成しているわけだから、逆に対立していない点を強調されてしまうと、対立を強調する自身の意見や主張が矛盾してしまうから、そんなことはやらないのが当然だとしても、そんな意見や主張がおかしいと思うなら、対立していない点を示すことになるのも当然のことであるから、どうしても対立していないじゃないかと批判したくなってしまうわけで、そういうところから矛盾が導き出されてきて、それを指摘されてしまうと主張や意見が成り立たなくなってしまうから、そこには触れてほしくないのだろうが、当たり前のことを当たり前のように主張するなら、その当たり前のことというのが対立点を解消するようなことになるから、果たしてそれで矛盾が解消するかというと、主張の内容次第では解消することになるだろうが、それで納得できるかというと、それも主張の内容次第では納得できそうなのだが、納得できる主張というのが臨機応変な内容になってきて、対立を装うどちらの主張にも含まれる主張となってくるわけだが、矛盾し合うことをやるということであり、対立するどちらの主張も取り入れることになり、対立するどちらか一方をやり過ぎないことにもつながるわけで、そうかといって対立点を相殺して何もやらないわけではなく、それが機会を捉えてどちらか一方を強調することになるにしても、その場その時だけ強調すればいいようなことを、常時強調してしまうとおかしくなってくるわけで、そういう意味では例えば機会を捉えて積極財政を強調する場合もあるにしても、その一方でそれとは別の機会を捉えて緊縮財政を強調する場合もあるだろうし、その両方を同時に強調したらおかしくなるにしても、場合によっては強調しない方が良いという事態もあるかも知れず、その辺が微妙なところで、どちらか一方を延々と強調し続けて、かえす刀で逆の立場を一方的に批判し続けるような態度になってしまうと、柔軟性に欠ける主張となって、主張通りのことをやってしまうと必ずうまくいかなくなってしまうわけで、そういうところで何をどうすれば良いかなんて、それを実践する以前にこうすれば良いとか言えるようなことではなく、何事も実践してみてから判断するしかなく、それをやってみるまではわからないことがいくらでもあるから、まずはやらないことには前進できないが、それに対して当然のことながらやってみた結果が思わしくなければ、それが批判の対象となってくるわけだが、それもやる前から批判されるわけでもないから、それをやってみることが肝要で、やってみてうまくいくならそれでいいのだろうが、うまくいかないならやり方を工夫してうまくいくようにしないと批判が止まなくなるだろうから、嫌でもやり方を工夫しなければならなくなるにしても、そうやってうまくいかないなりにも工夫している内容が、当初の主張とは矛盾してくるわけで、そうなるとその矛盾を突いてさらなる批判も試みられるだろうから、面白がってそんな批判の尻馬に乗って騒ぎまくる輩も出てくるなら、メディアもそれを話題として取り上げるわけだが、そこから何が言えるかといっても、それ自体が枝葉末節な成り行きであると共に、それを伝えるメディアも大したことは伝えていないのだが、そこにはデマや嘘も混じっているから、そんなデマや嘘には騙されるなと警鐘を鳴らすのもメディアの役目だから、どちらにしてもそんな騒ぎに心を奪われているうちに、対立する意見や主張のどちらもそんな騒ぎを起こすためには必要だったと納得してしまうわけで、そんなことに納得したところで物事の本質を捉えたことにはならないが、ここに来て何やら世間の関心を積極財政派と緊縮財政派の対立へと引き込もうとする意図や思惑が感じられたところで、それによって何を否定して何を救済したいのかと勘ぐりたいわけでもないが、少なくとも積極財政派を自認している勢力の中には、れいわ新選組も含まれるが、維新の会や自民党内の宗教右派と目される選択的夫婦別姓やLGBTQや同性婚などに反対している勢力も含まれる一方で、彼らが緊縮財政派だと批判している勢力には、財務省と共に選択的夫婦別姓やLGBTQや同性婚などに賛成している立憲民主党も含まれるのだが、そういった対立軸を利用して特定の勢力を批判する論調から何が言えるわけでもないが、少なくとも積極財政と緊縮財政という対立に関しては、大ざっぱな大前提としてはそれが恒常的に成り立つ対立などではなく、どちらの政策を選択するかは景気循環に左右されて、同じ政治勢力がどちらの政策も併用する場合もあるだろうから、そういうところがどちらが良くてどちらが悪いとは言えないところで、どちらが良くてどちらが悪いと主張している輩がいるとすれば、そういうことを主張している前提が現状でどうなっているのかを改めて考えてみる必要があるわけだが、実際に良いと主張している政策を実行に移してみたところで、良い面と悪い面が出てくる可能性が高く、良い面はそのまま続ければいいとしても悪い面は改善しなければならないし、改善したところで、今度はそれによって良い面が減じられてしまう兆候も出てくれば、それをどう捉えてみたところで大した効果も得られないことに気づかされるのではないか。


6月26日「現状でわかっていること」

 人は誰でもただ漠然と生きていく中で何かしら制限や制約を受けていることは確かだが、中には漠然とではなく、ちゃんとした目的や目標に向かって生きている人もいるらしいが、それもその種の発言から窺い知れることであるから、本当にそうなのかはその人の行動を見ればわかったりわからなかったりすることだが、それによって何がどうなっているのかもある程度はわかっていて、そんな制限や制約が加えられている中でも、自分のなりの行動や言動ができていると実感できるなら、それで思い通りになっていることにはならなくても、また行動や言動の結果から、自らの力を超えた何らかの作用によって生かされているだけだとわかったとしても、一応は主体的に物事を考えて、それを自らの活動に生かそうとしていて、そうだとしても自らの力を超えた作用が何なのかがわかっているとも限らないから、それだけ様々な方面から有形無形の力が加わっていて、時にはそれに抗いながらも、また時にはそれを利用しながらも、その場の状況に応じて生きているから、それが一定の期間にわたる持続的な活動となっているわけだが、そんなことがわかったところで、それをどう活かせばいいかなんて、すでにそれを活用している時点で、そんなことを記述しているわけだから、記述に活かしているのは一目瞭然だが、果たしてそれが目的なのかと問われるわけでもないだろうが、記述に活かすためにそんなことを知ろうとしたわけでもないはずで、記述した結果としてそんなことがわかってきたということであるから、初めから目的や目標としてそんなことを知りたかったわけでもなく、そういう意味ではそれに関しては、目的や目標に向かって生きていることとは微妙に違うだろうが、それとは別のところに秘めた意図や思惑というのがあるかも知れないが、それはそれとして機会をとらえて条件が整えば発動するような仕掛けとなっているのかも知れないから、現状でわかっていることには含まれず、そういうところで自分でも気づいていない意図や思惑が自らの行動や言動を操っていて、そういった自覚なく発動したり口走ってしまう動作というのが自分では制御し難いわけで、そこに自らの本心が表れているとしても自分ではそれに気づかず、行動や言動の結果から、こんなはずではなかったと悔やんでみても後の祭りで、自分で自分の意図や思惑や目的や目標を押しはかることができないばかりに、自分を裏切るような行動や言動になっているとすれば、それが自分の以外の何かに操られた結果としてそうなっているのか、あるいは自分で自分を裏切るように制御していることになるわけではないとしても、やはり腑に落ちないわけで、そういう成り行きに巻き込まれてしまうと自らの多重人格を疑ってしまうかも知れないが、そういった精神の葛藤や紆余曲折を経由して考えてみれば、そういうこととは別の方面から及ぼされている作用にも気づきたくなってくるのかも知れないが、気づいたところで自身にはどうすることもできない作用であれば、黙ってそれに従うしかないかも知れないが、黙らなくても自然と従っているようなら、そういった作用に自らの心身が馴染んでいる証拠かも知れず、他人が理不尽な迷信に囚われているのに気づく分には、なるほどそれに気づく程度には自分が理性を持ち合わせていると思いたくなるのだが、自らが理不尽な迷信に囚われていることに気づけるかというと、それがなかなか気づきにくいのかも知れず、気づかなくても自身の活動が成り立っているなら、迷信を信じていることを前提とした活動になっていて、迷信を信じるように仕向ける宗教団体の類いに所属しているなら、それがよくありがちなことかも知れないが、必ずしもあからさまに宗教だとは気づかないようなところで迷信の類いを信じるように仕向けられているとすれば、それが何かといってもこれといってまとまった形態を確認できない場合もあって、ただ漠然と周囲の人々も信じているように思われるから、自分も信じている方が都合が良く、もちろん信じているように装っているつもりでも、自然と信じてしまうような迷信もいくらでもあるだろうから、迷信を信じるなと警告したいわけでもないのだが、もっとも何が迷信かもわからないのに、信じるなも何もないだろうが、その迷信というのが世の中の様々な制度やシステムを統合してデジタルに移行すれば効率化するという粗雑な思考だとすれば、そういうのは社会インフラの整備が遅れている開発途上国の独裁政権の発想だろうし、世の中が人や団体の活動によって自然に多様化しているのを、強引に政府や行政が統合しようとしても、うまくいくはずがないのは、少しは世の中の事情を知っている人なら、誰でもある程度は予想がつくところだが、世間知らずというのがどの程度の世間知らずなのかも、信用に値する基準などどこにもないだろうから、そんな強引なことをやろうとしている勢力にどの程度の支持や賛同が集まっているかで、世間知らずが世の中にどれほどいるかが窺い知れるところかも知れないし、行政のデジタル化という迷信をどれほどの人々がどの程度の割合で信じているかも、統計的にはよくわからないだろうから、少なくともそういうことを積極的にやろうとしている勢力が、本当にそれをそのまま信じているのか、あるいは彼らも気づいていないところに秘めた意図や思惑が人知れず埋もれているのかも、現状ではよくわからないところだが、それを推進しているのか推進しているように装っているだけなのかもよくわからないが、現状でわかっているのは必ずしもうまくいっているわけではなく、それに関連してそういうことを推進しているように装っている勢力自体が旧態依然としたやり方で推進しているように装っているから、そんなことをやっていること自体がデジタル化の推進とは真っ向から抗っていることを、当のデジタル化を推している人や勢力が気づいていないように見えてしまうところが、何か間抜けな様相を呈しているのではないか。


6月25日「経済成長以外の要素」

 経済に関して何かわかりやすい指標として経済成長率があることは確かだが、経済成長率に関して外国と日本との単純な比較によって何が言えるかというと、日本の状況を否定的に捉えるなら、批判的な言説の中でそれなりにもっともらしいことが言えるだろうし、それで構わないならそういうことを主張していればいいのだろうが、それでは納得できなければ何を主張すればいいかと言っても、これといって一概には言えないことの方が多そうだが、何をどう言えば納得がいくということよりも、意外と納得できないような結果が出てきて困惑してしまう方が真実を語っているように感じられる場合もありそうで、それに関してその国の政治情勢の良し悪しが経済成長に連動しているかというと、それよりは景気循環に経済成長が連動している割合の方が大きそうだが、政府が打ち出す政策が良ければ経済成長率が上がって悪ければ経済成長率が下がるとか、単純にそう言えるようなケースも中にはあるのだろうが、少なくとも日本の実態としては微妙なところであり、経済成長率が長期間にわたって低迷しているからといって、その間の政府の経済政策が間違っていたからそうなったと批判している政治勢力もいるだろうが、それが産業構造の転換時期からもたらされた傾向と考えれば合点がいく場合もあるから、そういうところも一概には言えないことになってきそうで、では日本の最近の数十年間をどう説明すればいいかというと、必ずしも政府の政策的な失敗から長期低迷を強いられたとは言えない面もあるとすれば、そういったところをうまく納得がいくように説明しようとしても、納得がいくか否かということにはそれほどこだわらない方がいいのかも知れないし、ともかく政府の経済政策がうまくいけばその国の経済成長率も上がるということが、どういうケースに当てはまるかは、かなり単純化されたモデルを持ち出せば、納得がいくような説明が可能かも知れないが、日本の場合は20世紀末から始まったIT革命において、最先端の産業技術の分野で、日本企業がアメリカや台湾や韓国や中国などの企業との競争にことごとく負け続けたわけだから(半導体、PC、インターネットサービス、スマホなど)、そういう面で経済が低成長なのは納得がいくだろうし、ここにきてEV関連やAI技術などでも遅れをとっているから、今後も経済成長率の向上は見込めないかも知れないし、社会の構造自体も保守的な慣習に囚われている面で人の自由な活動が制限されて、他の先進諸国などと比較して遅れている部分があるから、そういう面でも不利となっている可能性もあり、確かに国民が自民党政権を許容している限りは、国内が経済的な停滞に直面し続ける可能性もなきにしもあらずだが、逆に左翼やリベラルを許容すれば、それが経済成長に結びつくかというと、それとこれとは話が全く別だと思われるだろうが、確かにそういうことではなく、あくまでも経済成長は結果であって、それを直接政治的に目指すような目標ではないのかも知れず、それよりは他の欧米諸国と同程度には、人が自由に生きられる社会を制度的に構築しようとした方が、数値目標としてそれでは納得がいかないかも知れないが、もちろん何もかもを欧米に倣う必要もないだろうが、逆に日本の保守層の方が、神道を欧米のカトリック教会に見立てるような猿マネを明治維新以来してきたわけだから、そちらの方がかなりみっともないわけで、欧米のキリスト教右派の猿マネをやっている保守派が邪魔をして、臨機応変に何でもありだった日本に限らず人間社会の本来のいい加減な面を損なっているようにも思われないとしても、それが全てではないのが取り止めのないところかも知れないが、何かこうすればうまくいくと言われる方法というのが、過去の成功事例を模倣したやり方になると、それ以外のやり方を否定するような主張となってしまうから、そういうところで融通が利かなくなってしまうのだろうが、それが悪いというわけではなく、そういうやり方をやる機会が巡ってくるかというと、それも今後の努力次第で運次第な面もありそうだが、少なくともそれをやるべきだと主張することはできるから、そういうことを主張している人が多い中で、それらのうちからどれほどのアイデアが実際に試みられるかも、現状では何とも言えない面がありそうで、政府がやるべきことをこれといって一概に規定できるわけでもないが、左翼的な理念である民主主義の根幹をなず国民の人権や主権などを蔑ろにしてはいけないし、そういうことを蔑ろにする政権を国民が支持していては、国民自ら自分の首を絞めているようなものだろうから、愚かな国民ほど左翼的な理念を毛嫌いして、人権や国民主権を無視する勢力を応援する傾向になるかも知れないが、それを愚かだとは思わせないような仕掛けがメディア社会の中で構築されているとしたら、そういう傾向には惑わされないようにしなければならないと言ったところで、そんなわけにもいかないだろうから、惑わされる分には惑わされている人々と一緒になって、民主主義でも人権でも国民主権でも蔑ろにしていても構わないのかも知れず、そういうことをやっていると民衆の自由な活動が阻害されて経済成長に結びつかないと主張されたところで、たぶんほとんどの人は納得しないかも知れないが、それも納得できないようなことが実際に社会の中で行われているからそう思われるのだろうし、そういう意味では実際に民主主義や人権や国民主権が制限されている中国経済が今後においてどうなるかが、誰もが注目すべき点になっていくのではないか。


6月24日「世界の変革」

 ただ漠然と世界を変えようだとか社会を変えようだとか世の中を変えようだとか、誰もそんな大ざっぱでわかりきったことを主張しているわけでもないが、その一方で人の経済活動が世界や社会や世の中を変えていて、それが特定の誰かが意図して変えているというよりは、絶えず誰も意図しない方向に変わってしまうから、それを政治によって制御しようとしていると状況を捉えると、そんなことをやっているわけではないと思うなら、では何をどうすればいいのか、よくわからなくなってしまいそうだが、経済活動だけが世界や社会や世の中を変えているわけではなく、他にも例えば戦争によって世界や社会や世の中を直接変えようとしていて、もちろん戦争は政治の延長であり、政治は戦争の延長だといえる面もあるなら、政治によって世界や社会や世の中を変えようとしている面もあるだろうが、また変えるだけではなく維持している面もあるだろうから、そういった面から状況を捉えるなら、経済活動によっても人の生活が維持されているといえるだろうし、政治によって現状を維持しようとする勢力は保守派と呼ばれるだろうが、もちろん維持するだけでなく、時代状況に合わせて変化させなければならないところは変化を促すわけだが、そこで現状で問題となっているのが行政機構のデジタル化に関連して、日本ではマイナンバーカードの導入で躓いていて、また税制に関してはインボイス制度に導入についても反対運動が盛り上がっているわけだが、いずれもそれを受け入れると損害を被ったり不利になると言われているから、反対運動が盛り上がっているわけだが、それ以前に行政が民衆が反対していることを強行するという成り行きが、いつの時代でも起こってきたわけで、しかも反対しているのになし崩し的に強行されてきたわけで、そういった成り行きによって世界や社会や世の中が変わってきた歴史もあるから、今回も反対運動に加わっている側が長期的には敗れるのが目に見えているわけだが、それは消費税廃止を掲げている勢力が、その主張を実現できないこととも関連してわかりきったことかも知れないが、そういった反対運動を行なっている勢力を支持することはできるし、一緒になって反対運動に加わることもできるから、賛同したいなら反対勢力を支持すればいいのだろうが、その一方でそれらの制度を民衆が賛同できるような制度に改善することも必要だと思うなら、選挙にでもなれば民衆が賛同できるような改善案を示して、支持を求めればいいのだろうが、果たして臨機応変にそういった立ち回りができるか否かで何がどうなるわけでもないとすれば、そういった方面には関心のない民衆もいくらでもいることにはなるだろうが、そんなこととは別の方面で何かが絶えず変化しているから、そんな方面に人々が目を奪われていて、その方面というのがメディアで絶えず宣伝されている方面になるだろうが、それが例えば他人の足を引っ張ったり誹謗中傷を加えたり著名人の醜聞を言いふらしたりする方面なのかも知れないが、そういった方面と政府などの行政機構の政策に対して反対する方面とは全く別の次元に入る関心であるから、両立可能ではあるだろうが、足を引っ張ったり誹謗中傷を加えたり醜聞を言いふらされたりする著名人が反対している政策を推進する政府関係者や国会議員などであれば、たちまち反対運動と結びついてくるだろうし、それが反対している制度や政策の欠陥などと混同されてしまうわけではないが、SNSなどの論調となると一緒くたにされて、それへの批判や非難が攻撃の対象となる人物へと向かってしまうわけで、その是非を論じる気にはならないが、そういうことにも関心を示さない人もいくらでもいるから、その内容がどうだろうと、無関心な人には響いてこない問題となるだろうし、そういう意味で全ての民衆にとって関心のあることなどそうはないだろうが、関心があってもそれが問題とはならない場合もあるだろうから、その人にとって関心のある分野がどのような方面であっても、その分野に関心のある他の人たちと共有できる問題があれば、それなりの人数の人々がそれについて考えることになるのだろうが、考えたからといって、その問題が解決するとは限らないし、問題を解決するための活動が生じてこないとどうにもならないだろうが、実際にそういった活動の中のいくつかが、マイナンバーやインボイスなどのカタカナ表現で示される制度への反対運動となっているわけで、果たしてそれが問題を解決するための活動となっているかどうかも、今のところはよくわからないのだが、少なくともそんな制度が導入されると不利益を被ると思われる人たちがそれに対する反対運動をやっているわけで、そういった反対運動に関心を示さない人たちも、実際に不利益を被る危険性があるとしても、それも程度の問題で、大したことはないと高を括るなら見て見ぬふりをするだろうし、実際にそんな人が世の中の大半を占めるなら、反対運動も大して盛り上がらずに、なし崩し的にその種の制度がそれなりの紆余曲折を経ながらも導入されて行くだろうが、そんな経緯で導入されたところで、消費税の導入と同じように一定の期間を経れば、そういった制度があることを前提として物事が回っていくだろうし、そうなってしまうこと自体が世界や社会や世の中が変化した証拠だというなら、変化とはその程度のことになるわけだが、それがその程度のことであると共に、それとは別の方面でもそれなりの変化を被っているなら、変化に応じて人々の活動も生活も変化して、それが多くの人々にとっては変化したとは感じられない程度の些細な変化であっても、人によっても立場によっても生活や活動が激変する人も出てくるかも知れないが、それが今後どれほどの数や規模でそうなるかも、そうなってみないことにはよくわからないし、大したことにはならなければわからないままになってしまうのかも知れない。


6月23日「理由にならないこと」

 たぶんそれがどうなっているのかよくわからないのだが、理由もなくそうなっているわけでもないと考えると、それが間違っていて、納得できるような理由があれば安心できるが、不安を覚えるならそうではなく、理由などないから不安になってくるのであり、要するに納得できる理由というのが間違っているわけだが、納得できない事態を前にして納得できる理由を考えようとするから間違ってしまうわけで、ならばどうすればいいのかというと、ただ間違ってしまうことを受け入れるしかないが、人は大した理由もなく行動しているのに、そこで行動した理由を求めてしまうと、間違った理由に基づいて行動していることになり、そうなると行動した結果に納得できなくなり、こんなはずではなかったと思うのだろうが、それでも間違っていることを認めようとしないから、行動した理由に納得したいのだが、理由もなく行動した結果として現れた事態を前にして、どうしてこうなったのかと問うこと自体が間違っているのだから、問いに対する答えが間違っているのも当然であるから、どうしてこうなったわけでもなく、理由もなく行動したからそんな事態に陥ってしまったのであり、それに対して納得できる理由を求めようとするから間違ってしまうのだろうが、すでに納得できない結果がもたらされているわけだから、そうなった理由にも納得できなくても構わないのだが、もちろん納得できないのだから構わないはずがなく、そこでいくら納得できるような理由を捏造してみても、それでは嘘をついていることになってしまうから、理由がないことに納得できなくても、納得できるような理由を捏造する必要もないのだろうが、納得できないとしても、別にやってはいけないことをやってしまったわけではないのだから、行動そのものが間違っているわけではなく、ただ行動した結果として納得できない事態に陥ってしまったわけだから、それを納得できるような理由を挙げて行動したことを正当化しようとしても、理由自体が嘘になってしまうから納得できるはずもないが、それが行動の延長上で生じてくる言動となるから、そうした言動には嘘が含まれてくるのも当然であり、別に嘘をつきたくてついているわけではなく、行動したことを正当化しようとすると、もっともらしい嘘の理由を捏造せざるを得なくなると考えればいいのだろうが、それが避けられない事態なのかというと、行動を正当化する限りは避けようがなく、行動したことが間違っていたわけでもないのだから、その時点では正当化する必要もないのだろうが、行動した結果として納得し難い事態に陥ってしまうと、こんなはずではなかったと悔やむことになるから、そこで行動したことが間違っていたわけではないことを正当化せざるを得なくなるかというと、確かに行動したことに関して納得できる理由を示したくなってしまうのだろうが、理由もなく行動に至ってしまったのだから、納得できるような理由などないのも明らかで、それでも理由を提示しようとすれば、嘘をつくしかなく、結果として行動と辻褄の合う理由が捏造されてしまうのだろうが、それで納得できるかというと、行動と行動した理由が辻褄が合う部分には納得できるかも知れないが、つきたくもない嘘をついていることには納得し難いだろうから、そういうところで行動と言動の整合性を求めてしまうと、嘘をつかないと辻褄が合わないような納得し難い結果がもたらされてしまい、そういう意味でもこんなはずではなかったと思うしかないだろうが、行動した結果が納得し難いから、それを言葉によって補完しようとするからおかしくなってしまうわけだが、立場上そういうことを言わざるを得ないと、やはり嘘をつくしかその場を切り抜けられなくなってしまい、もちろんすぐにバレるような見え透いた嘘をつくから、そこを突かれて批判や非難を浴びることにもなるだろうし、そうなると行動が間違っていたことを隠したくて嘘をついていることになってしまうわけだが、果たして本当に行動が間違っていたのかというと、結果的に嘘をついているからそう思われるのだとしても、それも結果からそう判断されるだけで、本当のところはよくわからないわけだが、元から特定の意図や思惑を抱いて行動に及んだわけでもなければ、それほど行動した理由にこだわる必要もないのだろうが、ただ行動した結果としてもたらされた事態が思わしくなければ、どうしてそんな行動に及んだのかその理由を求めたくなって、そこで結果と原因の取り違えが起こって、行動した結果が思わしくないことが理由を導き出そうとする動機であり原因であって、そこから導き出された結果が捏造された動機や理由であるのに、それを逆転させて、まず行動するに際して明確な動機があって、それが行動した理由であり、そしてその動機や理由や行動のやり方が間違っていたからひどい結果がもたらされたと結論づければ納得がいくのかというと、それは結果としてもたらされたひどい結果を批判する者が主張することであって、そんな批判さらされると、実際に行動した者は腹が立つだろうし、断じてそうではないと反駁したくなるだろうが、ではそこで自らの行動を正当化する必要があるかというと、そんな立場に立たされると正当化せざるを得なくなって、苦し紛れに見え透いた嘘をついたり言い逃れをしたりして、そうやって自ら墓穴を掘ってしまうわけだが、果たしてそんな結末に納得できるかというと、それを批判する側は、そらみたことか、してやったりと得意になるだろうが、逆にそうならないようにしなければならないとなると、そこからそうならないようにするための戦略的な仕掛けが世の中の様々な方面で構築されるようになってきて、実際にそうした仕掛けを利用して批判を封じるような政治的な働きかけが絶えず世の中に加わってくるわけだが、そうなっていることも、その種の批判をこれみよがしに仕掛ける側としては納得がいかないわけだ。


6月22日「囮としての役割」

 現状で批判しやすい人や勢力が何かの囮として機能しているのは言うまでもないことだが、なぜ批判しやすいのかと言えば、批判しやすいことをやっていたり、批判しやすい言動に終始していたりと、そんな人や勢力が世の中で主導権を握っていれば、格好の批判対象となって、そんな人や勢力を批判していれば、それで正義の味方のような立場になれるかも知れないが、どうもそれが罠にかかっているような状況に感じられると、批判の対象が正義の味方を装う人や勢力を罠にかけるための囮だと想像できるが、世の中で主導権を握るためにあえて批判の対象となるようなことをやってみたり言ってみたりしているわけでもないだろうが、結果的に批判している人や勢力が世の中の主導権を握れない状態となっているなら、そんなふうに現状を解釈してみても構わないような気がするのだが、そうではなく、ただ現状の世の中で主導権を握っている人や勢力が批判しやすいことをやっていたり、批判しやすい言動に終始していたりしているだけで、現状では世の中で主導権を握っている状態と批判しやすい行動や言動に及んでしまうことがセットになっていると捉えておくのが妥当な解釈かも知れず、またそれに対応してそれを批判する人や勢力が登場してくることもセットになっているのが現状なのかも知れないが、要するに現状では批判しやすい行動や言動に及んでしまう役目とそれを批判する役目とが立場ごとに割り振られていて、そういう立場を割り振られてしまう人や勢力が、その立場に応じた行動や言動に及んでいると解釈しておけばしっくりくるだろうが、逆にそういう立場を割り振られているのに、大手新聞社やNHKのように批判する立場を全うしない勢力も批判されているのだが、なぜそうしなければならないのかといっても、批判している人々が社会を維持するにはそういう立場が必要だと思っているわけでもないだろうが、それがそれらの人々の自覚なしにそうなってしまうとすれば、まさにそんな役割分担が施された世の中になっていると状況を捉えておけばいいのだろうし、そうだとすれば大手新聞社やNHKもそれらの人々から批判されやすい行動や言動に及んでいると捉えられるし、逆に言えばそういった方面で主導権を握っているから批判されやすい行動や言動に及んでいるわけで、そうだとすると世の中で主導権を握るには競争相手を批判専用の立場に追いやってしまうことが必要なのかも知れず、そうやって批判にかかりきりとなってしまうと主導権を握れなくなってしまうから、批判以外のことをやろうとすれば、それが批判されやすい行動や言動になってしまい、それを批判専用の立場に貶められた人や勢力から批判されてしまうわけで、立憲民主党の泉代表などはまさにその典型になってしまったわけだが、そんな情勢を見ている維新の会や国民民主党などは、それに先んじて批判専用の人々から批判されやすい行動や言動に及んでいて、中途半端に批判専用の立場から抜け切れない立憲民主党を出し抜いたつもりになっているわけでもないだろうが、完全に批判専用の立場に入っている共産党やれいわなどとは少し立場が異なっていることは確かで、そこに政治的な主導権を握る可能性を残しているのかどうかは何とも言えないところだが、国会でどの政党がまともな活動を行なっているかというと、立憲民主党であることは確かであり、それを批判専用でないメディアが報じていることも確かだが、現状では大手新聞社やNHKなどの批判されやすい行動や言動を擁護するメディアとそれを批判することだけに特化したメディアによる寡占状態というわけでもなく、そうではないメディアから情報を受け取ることが肝要というわけでもないから、それに関しても何とも言えないが、少なくとも批判しやすい行動や言動に終始している人や勢力を支持することはできないし、また批判専用に特化した人や勢力を支持しても構わないのだが、そうなってしまった人や勢力が世の中の主導権を握るとは到底思えないし、また中途半端に批判専用の立場から抜け切れない人や勢力も主導権を握れるとも思えないのだが、少なくとも批判されやすい行動や言動が、それに引っかかって批判してくる人や勢力を批判専用の立場に貶めるための囮には違いないわけだから、そうやって批判専用の立場になってしまうのを避けるには、そうならないように試行錯誤を繰り返している人や勢力を応援していくしかないだろうし、その一方で現状で構成されている予定調和の役割分担に忠実に振る舞っている人や勢力には現状を変える可能性はないと見ておくのが妥当なのかも知れないが、それが妥当な判断だからといって、そんな妥当性などすぐに覆って予想外の結果がもたらされるのが世の常だと思っておいても差し支えなく、確かに現状では役割分担に忠実に振る舞っているように見えるような人や勢力でも、いつ何かのきっかけから豹変するとも限らないし、そういう意味で現状を固定した状態と見ておくのも誤っているだろうから、固定化した状態を維持しようとする人や勢力ほど信用できないものはないが、逆に現状で成り立っている役割分担をそのまま受け入れるのではなく、そこから抜け出ようともがいている人や勢力が信用できるかというと、それも維新の会や国民民主党のように、あからさまに批判しやすい行動や言動に及んでいる勢力を支持している人ほど愚かに見えてしまい、そういうわかりやすさに騙される人もまずいないとは思うが、実際にそれらの勢力を支持している人たちが大勢いることも確かであるから、その辺が理解不能な状況なのかも知れないが、現状が理解不能だと思っている限りは、まだわかりやすい予定調和の二項対立に囚われていない証拠なのではないか。


6月21日「空洞化の真相」

 最近のメディアから感じられる傾向として、その中でおかしな挙動を示している人について語るとなると、国家的な価値観を再興したい人が、何やら悪あがきの最中というわけでもないが、当人がそれを悪あがきだとは気づいていないのも、いつのもパターンだとも思えず、今やそれがもっと深刻化してきたと思ってしまうと、当てが外れてしまい、それどころか茶番な傾向も目立ってきたからといって、誰もそれを真に受けないわけではないが、空振りな傾向も目立ってくるわけで、そこで何かが形骸化していると見てしまっても、もはやそんな茶番だとか空振りだとか形骸化だとかいう表現ではしっくりこないような事態に陥ってしまったのかも知れず、すでにそうなっているのが普通のことだから、特にそれがおかしいとは思わないし、狂っているという表現とは真逆の、特に何でもない普通な状態だと感じられると、それがどうしたわけでもないと思うしかなく、普通なのだから狂ってはいないし、通常運転の範囲内でそうなっているわけだから、彼らが嘘やデマだと思われるような内容を語っていたり、記述していても、そういうことは語るべきでないと批判することはできるのだが、たぶんそれを相手にしていては埒が明かないわけで、実際にそこで何が行われているのかというと、経済活動が行われていることは確かなのだが、それを経済活動だと言ってしまうと、ただ漠然としていて範囲が広すぎるようにも思われて、理性的に振る舞いたい人なら、もっと分野を狭めて思想や哲学の問題として捉えたいのだろうが、何かそれではまずいように思われて、そういう分野から見ると、もっと幼稚で低レベルなことを語っているように思われるのだが、それを批判の対象とするからそう思われるのであって、別に批判するようなことではないと思うならそれでも構わないわけで、それについて語る対象とはなっていないから、批判する以外の人には取り上げられないのだろうが、そう見るなら、確かにそこに批判の対象となっている人たちが存在しているのだとしても、批判する以外に何をどう語ればいいのかがよくわからず、そのよくわからないついでに、それとは別の方面からわかってくることは、それに触れさせないように仕向けられているようにも思われて、なるべくその話題を遠ざけておくことで、それへの批判も無視できるようになっていると見なすと、なぜかしっくりくるような気がするわけで、それについて語ることに抵抗感を覚えるから、自然と語るのが億劫になり、できればそれ抜きでそれに関わってくる現象について語ろうとすると、ただ漠然と経済問題として語るしかないようにも思われるから、何となく思想や哲学を抜いて経済の範囲内で語ることになるわけだが、それによって実質的に何を語っているのかというと、中身のない空疎な内容になってしまうわけでもなく、経済の範囲内で適当に語れるとしても、では具体的に何を語っているのかといっても、日本をどうするのかとか、日本経済の再生とか、もうどうにかなっていて日本経済も再生していると見ても、仮にそうなっていてもそれが大したことではないように思えるから、それでは物足りないのかも知れないが、その程度のことだと見ておくなら、身の丈に合っているようにも感じられて、それが相対的な地域性の中でそうなっていることだから、それ以上に何がどうなるとも思えず、日本という範囲内ではその程度でも構わないと思っておいた方がいいのだろうが、それに加えて政治的な主張も伴ってくると、身の丈に合わないアメリカや中国などと対等に渡り合える力が必要になってくるのだろうが、当のアメリカや中国も、それぞれにそれ単体で国家としてのまとまりがあるように感じられるが、それも政府としてはそうなのだが、政府自体が内部ではそれなりに分裂しているから、国家として一定の傾向を示せるかというと、必ずしもそうではなく、それを無理やり一つに統合できるわけでもないから、それなりの範囲で力の分散した傾向があるわけで、それをどう捉えればいいかといっても、一概には傾向を示せるわけでもないから、それなりに分散した傾向になってくるわけだが、それをどうしても一つの傾向を伴った表現で示そうとすれば、何やらこういうことだと言えるのだが、それが国家の現状を正しく表現しているとも言えないから、国家的な範囲内でまとまりのある傾向が伴っているわけでもないことになり、それよりはある一定の範囲内で判断が揺れ動いていて、場合によってはどうとでも受け取れるようなことをやっていると見ておいた方が、より妥当な判断に近づくのだろうが、でもそうなると何を言っているのかよくわからなくなり、何とでも言えるようなことをいくら述べてみても、それがどうしたわけでもないから、何も言わない方がマシなようにも感じられるのだが、何も言わないと活動がままなくなるから、何か言わざるを得なくなってくると、どうしても国家的な価値観に頼ってもっともらしく状況を説明しなければならなり、それが日本ではこうだがアメリカではこうで、中国ではこうだとか、まるで国ごとに違いがあるかのように語らざるを得ず、そうした相対的な違いを絶対的な価値観の違いだと説明してしまうと、完全に状況を見誤ってしまうことにもなるだろうが、ではそれ以外にどう語ればいいのかと言われても、国柄の違いで説明することしかできなければ、すでにその時点で誤っているから、誤らないように語るにはどうすればいいかと問われるなら、経済的な事情の方面で語るしかないわけで、そういう意味では思想や哲学の方面の知識が空っぽであると、あとは経済の知識で語るしかないような空疎な状況になってしまうのだろうが、たぶん実際にはそうではなく、他にもいくらでも違う方面から語ることができるはずなのだが、そこに国家的な価値観を導入しようとすると、他に語ることが見当たらなくなってしまうのかも知れず、それが文化的な空洞化を物語っているとも思えないが、わざと文化の多様性から背を向けて語ろうとすると、そんな結果が生じてくるのかも知れない。


6月20日「幸福の代償」

 社会の中では様々な制度が機能しているが、その制度がうまく機能しなくなって破綻すると何が起きるかというと、その制度の恩恵に与っていた人や団体に何らかの被害が及ぶことが予想されるが、特に制度が破綻していなくても、制度がうまく機能している時点でも、制度に管理されながら活動していると、次第に働く意欲が減退してきて、制度によって生かされているだけとなって、このまま活動しても何の将来も可能性もないことに気づいてしまえば、もちろんそれが生活の安定と引き換えにして受け入れた不自由さであり、それを幸福だと勘違いできるかというと、それは勘違いではなく幸福そのものなのかも知れず、それ以前に人は幸福なだけでは生きてはいけないし、場合によっては逆に不幸である方が生き甲斐を感じるわけで、不幸を乗り越えて幸福になる過程で生き甲斐を感じるわけだが、いったん幸福になってしまうとそこで終わりとなるわけではなく、物語ならそこでハッピーエンドとなって終わるのだろうが、現実の生活ではその後の人生が待っているいるわけで、果たしてハッピーエンドの後に続く人生が何なのかといっても、単なるおまけの付け足しに過ぎないとは誰も思わないだろうが、幸福を目指すのは良いが、幸福になってしまってはまずいとも思えないし、少なくとも不幸なままでいるよりは幸福になった方がマシであることは確かで、それが去勢されて愛玩動物になってしまったペットの家猫であるよりは、野生の中でほんの数年しか生きられない野良猫の方が幸福だとも思えないのと同じであるはずもないし、猫だからまだSNSの動画などで見る分には幸せそうに見えるにしても、そんな意味の定かでない比喩的な物言いではなく、実際に様々な産業分野でシステムに動きを制限されて管理されながら飼い殺しのような活動を強いられている人などいくらでもいるだろうから、システムの内情がどうなっているかにもよるが、たぶん人は自分で自覚していなくても自由を求めていて、もちろん自由なだけでは生きてはいけないから、世の中の制度に身を委ねながら束縛の中で生きていくしかないのだが、そうなっているから現状では様々な程度で不自由だとしても、なるべく不自由な状態から自由な状態へと移行したいと思っていなくても、不自由な状態の中に安住してしまっていることに気づかないから、そんな状態の中で自らが幸福だと勘違いしてしまうのかも知れず、それが勘違いではなく正しい認識だと思っていても構わないのだろうが、実際にそんな制度の中で人を集団として管理している側としては、人を幸せにしたいから管理していると思っているわけではなくても、その方が幸せだと思わせたいのかも知れず、人を管理して幸せだと思わせるようなことをやりたいわけで、人が幸せに働いているように見せたいし、制度の外部の人たちに向かって、いかに人が管理されることによって幸せになれるかを証明してみせたいとは思わなくても、人が幸せそうに働いている映像などを見せながら、盛んにそんな幸福を実現している制度やシステムの良さをアピールするわけだが、果たしてそんな制度の実現を目指しても構わないのかというと、そこに欠けているのが不幸になる自由だというと、そんな自由は要らないと思うわけでもないだろうが、それが屁理屈だと思われても仕方がないし、必要なのは不幸になる自由ではなく、幸福になる自由だとひねくれ者でなければ誰もが思いたいわけで、しかも自由の反対が不自由であり、不自由になるのは幸福ではなく不幸だと思いたいし、自由になるのが幸福で、不自由になるのが不幸だと思いたいわけで、それが真っ当な人間が抱く正常な認識だと思うわけだが、果たして本当にそうなのかというと、それはその人が囚われている制度やシステムに満足しているか不満を抱いているかによっても変わってくるだろうが、そこで物事の程度を正確に感じ取るなら、必ずしも自由も不自由も幸福も不幸も共存できないわけではなく、自由でありながらも不自由でもあり、幸福でありながらも不幸でもあるから、そこで自由な状態と不自由な状態が重なり合っていて、また幸福な状態と不幸な状態も重なり合っているし、さらに満足な状態と不満な状態も重なり合っているから、それらを同時に感じ取る必要があるといっても、普通はどちらか一方しか感じ取れないから、どちらを強く感じ取るかで自由か不自由か、幸福か不幸か、満足しているか不満を感じているかを決めなければならないのだが、それがその場で主導権を握って、その場で活動する人々を制度的に管理している側に決められてしまうと、その場で活動する人々が制度的に操られていることにもなるのだろうが、その管理術にマインドコントロールなども含まれてくると、何やら不自由なのに自由を感じられたり、不幸なのに幸福に感じられたり、不満なのに満足を得られたりするのかというと、そういう面もある程度は可能かも知れないが、それよりは不自由なのに不幸なのに不満なのに我慢を強いられている面の方が大きければ、そこで抑圧やら同調圧力が働いていることになるだろうし、もちろん不自由や不幸や不満を耐え忍ぶことが美徳だと教え込まれていれば、それなりに辛抱強く耐え忍ぶだろうが、実際にそういった忍耐強さや辛抱強さが備わっていれば生きられる程度の不自由や不幸や不満であれば、その制度が社会の中でうまく機能している証拠となり、人が生きていける程度のちょうど良い圧力が加わった社会となっているはずだが、その一方でそこで生きている人の数がだんだんと減って行く状況となっていると、そんな社会の中で不自由や不幸や不満に耐え忍んでいる人も不安になってくるだろうし、もしかしたら限度を超えた圧力が加わっているから、そのせいで人がだんだんと減ってきているのではないかと心配になってしまうかも知れないが、それも人が減ることと同調圧力が加わっていることを恣意的に結びつけているだけかも知れないから、本当のところはよくわからないのかも知れないし、よくありがちなこととして物事を逆説的に考えたくなってしまい、何かそこで生じている否定的な結果や傾向をそこで主導権を握っている人や勢力のせいにして批判したくなるわけで、その延長上でそういった人や勢力に批判や非難を浴びせている人や勢力も世の中に多すぎるのかも知れないし、それでも多くの人々が社会の中で生きている事実をどう捉えるかで、その社会に対する評価も違ってくるだろうから、あまりにも拙速に否定的な結果や傾向を自身の言動に活用しない方が賢明なのかも知れない。


6月19日「迷信を信じられる理由」

 現状で何かわかっていないことがあるかというと、それに関して思い当たる節としては、自らが信じていることが迷信だと薄々わかっているのに、それでもそれを信じざるを得ない理由がわかっていないのかも知れず、確かにこれまでにも偶然の巡り合わせなのだろうが、些細な奇跡が連続して起こっているように思われて、そんないくつかの奇跡的な出来事を取捨選択して都合よくつなぎ合わせれば、自身が神に守られているのではないかと思われて、たぶんそこで神に守られなかったことを都合よく忘れていて、その一方で結果的に神に守られて九死に一生を得たように感じられたエピソードを印象深く覚えているから、それもただそう思われるだけで、実態としてはそれほどのことでもなかったのかも知れないし、そうはならなかった可能性を考えれば、その中には死ぬ可能性もあったのだろうが、その可能性はほとんどゼロに近いのかも知れないし、死ぬ可能性だけを過大に見積もれば、その逆の死ななかった結果が奇跡のように感じられるのかも知れず、そんなふうに死なずに生き残った結果を都合よく解釈すれば、あたかも自らが神に守られているから死なずに済んでいるかのように感じられて、そうなっていることを信じたくなってしまうかも知れないが、本気でそう思っているわけではなくても、もしかしたらと思わせるような出来事が連続して起こっているような気がしてしまうと、やはりそれを信じざるを得ず、実態としては冗談で信じているふりをしているだけなのかも知れないが、自分でも気づかないうちに信じているように振る舞ってしまうから、そんなふうに振る舞ってしまう自らの態度に驚きながらも、それが神に操られながらそう振る舞っているようにも感じられてしまい、その辺が微妙に意識の中でこんがらがっていて、そんな迷信を信じているふりを装いながらも、いつの間にかそれが信じていることになってしまう結果に惑わされて、それが信じるふりをしている演技だとは気づかないまま、どうも無意識のうちに神への信仰を演じようとしていて、しかも自然の成り行きとしてそうなってしまうように感じられるから、あたかも神に操られてそう振る舞っているような感触を得てしまうわけで、そんな感触も嘘なのかも知れないし、それが嘘だと思っているのに、嘘でも構わないから信じたいわけではなくても、いつの間にかそんな嘘の感触を実感していて、そうやって自らに騙されながらも、それが結果的に神に導かれてそうなっているかのように演じているのかも知れず、実態としては神ではなく、ただ単に自らの意志に自らが従っているに過ぎないのに、そこに神の意志を差し挟んでいるのが自分ではないような気がするわけで、それも嘘には違いないのだろうが、そこでもいつの間にか自らに嘘をついていることを都合よく忘れていて、そんなご都合主義が自分以外に通用するわけもないだろうが、それが自らの意識の中では通用しているように感じられてしまうのかも知れず、実際にこんなふうに語ってしまうとほぼ百パーセント嘘をついていることになるのだろうが、言葉にすればそうだとしても、普段はそれが言語化されていないから信じられてしまうわけで、なぜそんな迷信を信じているのか納得し難いし、本当は信じていないのではないかとも思いたいのだが、何かの拍子にふと神の意志に従っているかのように装うとしっくりくるような事態に遭遇してしまうから、なぜかややこしいことになってしまうのだが、実際に神の意志に従っているとうまくその場を切り抜けられたような気がするわけで、実際にはうまく切り抜けたわけではなく、それどころかほとんどうまくいかずに、やることなすこと失敗だらけで、ひどい事態に陥っているはずなのだが、実際にも窮地に陥っているはずなのに、結果的に生き残っていると思ってしまい、それがどんなことがあってもほぼ百パーセントの確率で生き残れるようなことなのだとしても、なぜが奇跡的に九死に一生を得たような感触を得られるものだから、その感触を信じてしまうわけで、要するにそれを切り抜けられたことを大げさに捉え過ぎているのだろうが、そう事態を捉えていた方が気分が良いだろうし、そう思っていないと気が狂うわけでもないのだが、そう思っていた方が精神衛生上は都合が良いわけで、それがご都合主義の最たる傾向なのだが、そこへと至る間に様々な紆余曲折を経験しているから、それが信じられないような奇跡の連続だと思いたいわけで、そんなふうに自らの辿ってきた経緯を振り返れば、呆れるほどの自画自賛に陥ってしまうのだが、現状でも神に導かれるままに波瀾万丈の人生経験を奇跡的に送っている最中でもないだろうが、そんなことの延長上でどこかの街頭パフォーマンス集団を応援しているふりを装っているのかも知れないし、それがSNS上だけの演技なのか、あるいは本気で応援しているつもりなのかも定かではないが、そこでも神の意志を感じているように装いながら、自ら進んでそんなことをやっているとも思えないのに、やっているふりをしていることを自覚してしまうわけだから、何かそこに嘘っぽさも感じ取っているし、それを心の底から信じているわけでもないのに、どう見てもおかしな人々を応援している自らを突き放して見ているというおかしさを経験しつつあるのかも知れず、そんな事態をどう捉えてみても、どうでもいいことではないはずなのに、結果的にはどうでもいいことになってしまうようにも感じられるから、自らが神に導かれながら奇跡的に苦難を乗り越えようとしているという迷信も、それと同レベルの嘘として信じていられるのかも知れない。


6月18日「普通ではないこと」

 普通に考えられることの普通という程度が、どの程度普通なのかと問われても、そんなことを普通に考えてわかるわけもないし、考えるための取っ掛かりとして、そんなことを普通に考えてしまうところが、苦し紛れに普通ではないことを考えている証拠となってしまいそうだが、それでも普通に考えて、世の中に存在している人の大半は、働いて生活の糧を得ているはずだが、中には働かずに生活の糧を得ているどころか、生活する以上の糧を働かずに得ている人もいるだろうが、それが普通ではないことであるのはわかりきったことだとしても、普通に考えるなら世の中で人が働いているから、そこでその人の役割分担が生じて、その人が働くことでその人が関わっている事業も成り立っているから、その事業の中でその人が必要とされて、その人が必要な限りで、そこでその人が生かされていると考えるのが、普通に考えられることだが、たぶんそれ以外の人の存在形態も生じていて、中には必要とされないのに生きている人もいて、必要でないのに生きているから、その生きている状態や形態が普通ではないと言えそうだが、必要とされないのに生きている人がいるからといって、その人をわざわざ抹殺しようとは普通は思わないだろうが、中にはその人の存在が邪魔だから抹殺の対象となる事態もあるだろうから、生きている人をわざわざ抹殺しなければならない事態というのが、普通ではないのもわかりきったことだが、そういう意味では普通ではない事態というのが普通に生じてくるなら、それも普通ではない事態となるだろうが、そんな普通ではない事態の中で活動する必要が生じてくれば、普通ではないやり方で活動しなければならなくなるかも知れず、それがどんなやり方になるのかといっても、普通ではない事態に直面してみないことにはそれを実感できないだろうが、その人にとっては普通ではなくても、そんな事態の中でも普通に生きている人にとっては普通に感じられるなら、そう感じる人にとってはそれが普通の事態であるだろうから、人によってその人の立場や境遇によっても、普通の事態の状態や状況も変わってくるといえるだろうから、その人にとっては普通ではないことも、他の人にとっては普通である可能性も出てくるから、それが普通だとは思われなくても、他の人にとっては普通だと思われる可能性を想定しなければならず、そういう意味で例えばLGBTQ+のカテゴリーに入る人にとっては普通なことが、そういったカテゴリーを嫌悪する人にとっては普通ではないことが想像に難くないだろうし、それを嫌悪しているのだから、そういう人にとっては受け入れ難いことがあるのも想像に難くないわけだが、それを嫌悪する立場が普通であってほしいなら、その嫌悪すべきカテゴリーに理解を示すような法整備が行われてしまうとまずいわけで、嫌悪すべきカテゴリーに入る人たちを差別するような状態が普通であってほしいのだろうが、それが少数派に対する差別が認められる社会という状態であって、そういう状態を保つためにあれこれと屁理屈を並べて、そんな人たちにとって普通の状態を維持したかったのだろうが、なぜ彼らが差別を必要とするのかというと、彼らにとっては差別するのが普通の状態だからだが、そんな普通の状態が変わってしまうと、彼らにとっては普通ではなくなってしまうから困るわけだが、そういう意味では普通の状態が維持されてほしいわけだが、その一方で資本主義経済を推進するには、絶えず世の中に差異が生まれないと困るわけで、その差異を利用して利益を生じさせたいわけだが、それが普通の状態が新たに普通でなくなる状態となり、また普通でなくなる状態が新たな普通の状態になるわけで、そういう意味ではLGBTQ+のカテゴリーが新たに認められる状態というのが、資本主義経済にとっては必要かというと、それを利用して利益を得るには必要となってくるのだろうが、そうやって新たに作り出される差異を利用して利益を得るやり方が、資本主義経済の中では普通のやり方になるわけだが、少なくともLGBTQ+のカテゴリーを嫌悪する人たちにとっては、何もそんなところで差異を作り出して、そこから利益を得るような商売をしてほしくはないのだろうが、資本主義経済を推進する立場としては、利益を得られるなら手段や方面を問わないわけで、そこに差異があるならそこから利益を得たいわけだが、そういうところで思惑の違いが生じていることは確かなのだが、そこで問題となっているのは、少数派を差別する状態をいつまでも維持しているだけであると、そこに差異が生じてこないということであり、できればそんな状態を変えて、これまでとは違う状態にして、そこに差異を作り出したいわけで、その差異を利用して新たな需要を喚起して、そこから利益を生じさせたいわけだが、そういうやり方が資本主義経済の中では普通のやり方だとしても、LGBTQ+というカテゴリーを利用してそれをやってしまうと、そのようなカテゴリーに入る人たちを嫌悪していて、そういう人たちを差別することによってこれまで通りの普通の状態を維持したい人たちにとっては、それが迷惑極まりないやり方だと思われるのだろうし、できれば他の方面で新たな需要を喚起して資本主義経済を推進してほしいと思っているのかも知れないが、果たしてLGBTQ+のカテゴリーから利益を得るやり方が新しい資本主義だと言えるかいうと、それまでに認められなかったところを新たに認めることによって、そこから利益を得るという手法がこれまで通りの資本主義的なやり方には違いないわけだから、そういう意味では新しい資本主義には当たらないかも知れないが、絶えず新たな価値を創造しながら、そこからこれまでにない差異を作り出して、そこから利益を得るというやり方が普通の資本主義的な手法なのであるから、それを新しい資本主義だと定義すること自体が普通ではないことであると同時に、そう定義することによって差異を作り出す手法自体が普通の資本主義のやり方でもあるわけだ。


6月17日「古びた価値観に囚われる」

 それが昨今の世界情勢と大して関係があるとも思えないが、興味のあることが政治や経済とは全くの無関係というわけでもないのだから、何か時代遅れな知識を用いて世界の今を語るというのも、だいぶピントがずれているとしても、それでも印象としては現状の世界が昔から歴史的な連続性があるような気がするなら、昔ながらの大国の覇権争いに日本も巻き込まれているふうな視点から世界について語りたくなってしまうのだろうが、どうも実感としてはそうではなく、もっと身近でレベルの低い枝葉末節なところから政治や経済について語らないと、リアリティが得られないような気がするなら、では何をどう語ればいいのかといっても、現状では語るのに適切な範囲や分野がすぐには思い浮かばないが、現状の世界で起こっていることが政治的にどうにかなるようなことではないと言ってしまうと、まただいぶ無責任極まりない言い草になってしまうが、どうにかなるようなことではないことを扱うのが政治という分野の取り止めのなさだと言ってみても、何かそれも責任逃れのような言い草に感じられてしまうだろうが、やはり今では時代遅れとなってしまった古びた物言いとしては、大国の興亡的な語り方でも構わないとは思うのだが、実際にはそうではないような成り行きが現状で生じてきているとも断言できないが、いつの時代でも批判的な言説を弄ぶような人や勢力が、多数派的な勢力がやっていることのダメさ加減を告発するような成り行きになってしまい、それがまずいとも思えないにしても、そのそうは思えないという実感に忠実に言説を構成する必要があるかというと、それも何かピントがずれているように思われて、それでは何をどう語ればいいのかという問いに対する答えに辿り着けないままになってしまうから、すでにそうなっている時点で言説が破綻しているのだが、大雑把な変動のパラメーターとして思い浮かぶのが、政治や経済や宗教や民族などのありふれた概念だとしても、それよりも細かな変動要因として、産業の地域的な偏差や興亡などから言えるようなことが出てきて、それを特定の国家と重ね合わせてしまうと勘違いの素となるような気がして、もはや大国の興亡ふうにアメリカと中国の覇権争いにインドやEUが絡んでくるような語り方では時代遅れなのかも知れず、表面上はメディアでそんなことが語られているとしても、政治ショーとしても覇権争いしている国の政府の当局者などが、対立する相手国の政府を非難するようなことが起こってはいるが、実際にもそのつもりになって軍隊を動かして外国を攻撃して、人を大量に殺傷したり建物や施設や設備などを破壊している政府もあり、国内でも軍隊や警察を動員して反政府勢力を取り締まるようなことも起こっているのだが、それが次第に空振りに終わるような事態も起こっていて、その種の戦争こそが時代遅れのやり方だと言ってしまうと、実際に行われているのだから、時代遅れでも何でもないではないかと反論されてしまうだろうが、そういうことも含めてそれと同時並行して、そうではない部分が拡大し続けていて、それに関しては中国政府が台湾有事を起こした時点で明らかになることかも知れないが、もはや戦争や経済競争によって覇権国が移り変わったり、軍事衝突によってどうにかなるような事態でもなく、現状で覇権国の政府が何か積極的に動いて世界の覇権を保持するようなことになるわけでもないとすれば、では実際に何がどうなっているのかというと、何もどうなっていないわけではないものの、政治や経済の覇権が特定の国から別の国へと移ることもなく、政府の活動も形骸化しつつあるわけでもないが、軍事的政治的な覇権が空洞化していて、特定の国の政府が世界の覇権を手に入れるために活動するようなことが実際に起こっているとは言えないような成り行きであり、それよりは政府が次第に国内でさえも統治できなくなりつつあるわけで、行政機構として一定の役割を担いながら機能しようとはしているのだろうが、それも中国政府なら現実に国内の政治や経済を支配するために活動しているつもりなのだろうが、そういう活動が形骸化しつつあるというと、他の国ではそうかも知れないが、少なくとも独裁体制を維持している政府であればそんなことはないはずだが、確かに今はそうかも知れないが、いずれはそれができなくなってくると予言したくなるわけでもないのだが、少なくとも外国との間で政治や経済の争いに勝ったり負けたりするようなことではなくなりつつあるわけで、それよりは国内の行政的な統治がままならなくなりつつあり、警察や軍隊をいくら使って治安を維持しようとしても、そういった方面での治安自体が、世界の覇権を握るとか、そういった方面での活動とは無縁となってくると情勢を捉えておけばよく、要するに官僚機構が役所仕事をやっている時点で、それが国内の行政活動の一環となるだけで、そんなことをいくらやったところで、世界の政治や経済の覇権を握るとかいうのとは無縁となってくると事態を考えるだけでも、国際的な紛争や戦争などとは縁遠くなってくるわけで、そういう意味で国内の失政から民衆の目を逸らす目的で隣国の軍事的な脅威を煽るようなことが、政治的なパフォーマンス化してしまうところが、もはや政治の形骸化をもたらしているのは周知の事実なのがわかりきったことなのだが、それが現実に起こっている戦争や紛争にどう結びつくかが、現状で世界的に試されていることであり、それが実質的に結びつかなくなってしまう時点で、政府のお役所化が完了してしまうわけで、そうなってしまうと、もはや大国の興亡というおとぎ話の無効化も完了してしまうのではないか。


6月16日「過失と過誤」

 自分が関わっている物事のうまく行っている面を過大に評価したくなるのは、誰もが陥りがちな過ちだとしても、もちろんその際には過大に評価しているとも思っていないわけだから、過ちを犯してしまっていることに気づいていないわけだが、誰が何を過大評価していようと、結果的にうまく行っていないことが周知の事実であるなら、いずれは自身の過ちに気づいて反省する機会を得る可能性もありそうだが、なぜか何らかの経緯からそれが過ちではないことになってしまうと、では周囲の人々が過ちだと思い込んでいたのは間違いだったのかといえば、その時には確かに過ちだと思われていたことが、その後の情勢や状況の変化に伴って過ちだと思われなくなる場合もあるから、そう都合良くそんなことばかりが起こるとは限らないとしても、運がその人の味方をして、いつの間にか犯した過ちがうやむやになってしまえば、強運の持ち主ということになるだろうが、それもそういつもいつも天がその人の味方してくれるとも限らないから、そんなことは稀にしか起こらないだろうが、例えば人を助けることが過ちだと思わなければ、大抵は人を助けることが良い行いだという社会通念を信じたくなるだろうから、それで構わないような気がするだろうが、過ちを犯した人を助けることが過ちであるかないかも、過ちの内容にもよるだろうが、それを過ちだとは思わないことが、後になってその人にどんな災いや幸運をもたらすとしても、それはそうなった結果からわかったりわからなかったりすることだろうが、なぜか納得がいかない経緯から、恩を仇で返すようなことが起こってしまうなら、いくら何でも過ちを犯してしまったことを自覚しそうなものだろうが、たぶんそれもその場の成り行き次第でどうにでもなってしまうようなことであり、その後の成り行きからそれが過ちであるかないかなどということはどうでもよくなってしまうなら、その場で犯した過ちなど打ち消すようなことがその後に起こって、それがその人に災いをもたらすか、あるいは幸運をもたらすかも、実際にそうなってから判断するしかないだろうが、その場でいくらひどいことをやって批判されたり非難されていようと、ひどいことをやられた当事者でなければ気にしないようなことであるなら、すぐにそんなことは忘れてしまうのかも知れず、実際にこれまでにもそんな経緯をメディアを通じて嫌というほど見せられてきたから、それを根に持つような人は意外と少ないのであり、そんなわけでひどいことをやっている人や勢力などがメディアを通していくら批判されたり非難されても、意外とそれを真に受けるようなことにはならないから、そういう面では大して思ったほどには批判や非難の効果が上がらないのかも知れず、それをそういうものだと受け取って良いか悪いかは一概には言えないところだが、メディアからもたらされる情報を信用しているつもりでも、その信用を真に受けてしまうと、それが勘違いや思い違いの原因となって、後になってこんなはずではと思うような結果に直面して、裏切られたような気になってしまうのだが、それがメディアの論調に裏切られたのではなく、メディアの効果を過大評価してしまった自らの愚かさに気づくべきようなことでもあって、何かそこで思い知った気になれば、少しは懲りて反省する気にもなるのだろうが、そんな機会がまた巡って来れば、そこで性懲りもなくメディアの論調を真に受けて、ひどいことをやって一方的に批判や非難の対象となっている人や勢力に今度こそ天罰が下ることを期待してしまうかも知れず、そんな期待をこれまでにも何度も何度も嫌というほど裏切られてきたのに、やはり今回も性懲りもなく、メディアの論調と一緒になって、これ見よがしな批判や非難の対象となっている人や勢力に対して、憎悪の念を募らせるのだろうが、それもいつものように肩透かしを食らって、期待が落胆に変わるとしても、それでも性懲りもなくそんな思いを募らせるのだとすれば、そんなことの繰り返しによって成り立つような成り行きに自らが囚われていることを自覚せざるを得ないのだろうが、そこで致命的な過ちを犯しているのが自身であるかないかの判断がつくかというと、たぶんそんな成り行きを何度も経験しているのに相変わらず生きているのだから、それが比喩でないなら致命的ではないと思うしかないだろうし、それが誰もが陥りがちな過ちだとしても、それが致命的でない些細な過ちだからこそ、何度過ちを犯しても大して痛手を被らないし、ただ期待を裏切られて落胆するだけで済んでしまうのだから、要するにメディアが提供するエンターティンメントを享受しているだけのことなのかも知れないし、そう受け取るなら過ちでも何でもなく、それが正しい享受の仕方でもあり、何か釈然としない面もあるだろうが、そういうものだと思うのも癪だとしても、そんなことが起こる度にそれを真に受けて、メディアの論調と一緒になって、批判や非難の対象となる人や勢力に天罰が下ることを期待しながらも、結果的にそうならなければ、予定調和のように期待が裏切られて落胆するしかないわけだが、果たしてそんな期待を裏切らないような事態がいつの日にかやってくるのを期待し続けても構わないのかというと、それも実際にそうなってからわかることであり、そういうことが起こるの見越して、先回りしてそうなった光景を想像するようなことはやらないに越したことはないのかも知れず、だからと言って期待するのが馬鹿らしいと思うのもちょっと違って、それを期待しながらも、期待が裏切られることも見越して、これまでとは違う行動を心がけるようなこともできないなら、期待が裏切られる原因や理由を探ろうとしてしまうかも知れないが、それもそんなことまで考えるまでもないことなのかも知れない。


6月15日「世界の現実」

 たぶんこの世界の全ての経済活動を把握することはできないというわけではなく、経済活動に国境はないから、日本だけで区切って経済活動を把握しようとしても、物の輸出入や人の出入りや国境を越えた資金の流れなどを考慮に入れないと、その実態を把握したことにならないのはもちろんのこと、経済活動以外の人や団体の活動や人以外の活動もそこへと絡んでくるとすれば、ますます実態の把握が困難になってきてしまうだろうが、世界全体を把握できないからといって、部分的な把握でも何か納得できるような傾向を導き出すことができれば、それで世界の現実を捉えたことになるかというと、それもどの程度のレベルで納得するかにもよるが、誰もが納得できるかどうかはよくわからないのだが、誰もが薄々は気づいている傾向で言えば、例えば日本政府がいくら欧米諸国との同盟関係を強調しても、実質的に日本政府が目指しているように見えてしまう統治形態というのが、中国政府や北朝鮮政府などのような独裁的な統治形態であることが、別におかしいわけではなく、根本的な前提として政府の官僚機構が民主主義的な政治手続とは相容れない傾向があるわけだから、それが当然の成り行きなのだろうが、放っておけばそうなってしまうのを食い止める必要があるかというと、それがそこに住んでいる民衆の判断にまかされているのが、民主主義的な政治手続きによって実現している選挙制度になるのだろうが、実態として選挙制度が有効には生かされていないように思われるなら、その地域には民主主義が定着していないことになるだろうが、果たして民主主義を定着させる必要があるのかというと、それもそこに住んでいる民衆の判断にまかされているのだろうが、制度があっても放っておけばロシアのような独裁国家になってしまいがちになるから、放っておくわけにはいかないのが、民主主義のややこしいところだとも思われないし、たぶん放っておいて独裁国家になってしまっても構わないのだろうし、それもそこに住んでいる民衆の判断にまかされているのだろうが、何かそうではない要因があるとすれば、放ってはおけない事情がある人々の存在であり、放ってはおけないから誰ともなく政治活動を開始するわけで、そんなわけで放っておけない人々がどれほどいて、そんな人々がどう振る舞うかで民主主義がその地域に定着できるかどうかが決まってくると事態を捉えれば納得できるかも知れないが、その一方で、その地域の経済的な事情がどう民主主義に絡んでくるかも重要で、経済的に主導権を握っている勢力が民主主義を容認できるか否かも、民主主義の定着の度合いにに少なからず影響を及ぼしてくるのだろうが、そういう意味では中国のように民主主義を導入するコストを全くかけずに、経済だけ効率重視で資本主義を取り入れるようなことをやると、民主主義のコストをかけている他の欧米諸国などが黙っていないことになるわけだが、日本政府も放っておけば中国政府のような国家官僚制になってしまいそうだが、それの何がまずいのかといっても、これといって納得できるような答えを持ち合わせていないのかも知れず、その国家官僚制が持ち合わせていない答えが自由主義の中にあるわけで、しかもそれが国家官僚制にとっては間違った答えになるわけだが、18世紀のフランスの重農主義者たちが唱える自由主義に最も合う統治形態というのが専制主義であり、なぜか民主主義ではないわけで、しかもその後欧米で優勢になってきたのが、自由主義と民主主義の合体であり、自由民主主義という統治形態になるわけで、間違った答えが世の中で主流となってしまうところが一筋縄では行かないところだが、お互いに納得がいかない主義主張が合体して欧米的な社会が形成されているところが、中国的な国家官僚制の信奉者たちも、欧米よりも自分たちの方が優れているという妙な自信につながっているのだろうが、そういった自信が日本でも民主主義を左翼の制度だと見なしてリベラル的な価値観を軽んじている人々にも生じているのかも知れず、それが明治維新以後の七十数年で致命的な破滅を経験したにも関わらず、大して懲りていないわけで、そうした懲りない面々が今も世界各地で民主主義を無視した独裁体制をせっせと築き上げている最中なのであり、それが欧米諸国の思う壺というわけでもなく、実際にフランスの重農主義者たちも指摘しているように、専制主義が国家の経済発展には欠かせないのだろうが、それが経済発展だけではないところが微妙なのかも知れず、経済至上主義的な目的意識とは相容れない何かが民主主義の魅力を生じさせていて、民主主義という面倒なコストをかけた上でないと、その種の魅力が社会の中に生じてこないのかも知れず、それが国家官僚制や専制主義に凝り固まっている人たちには理解できないのかも知れないし、またその亜流として日本で国防がどうのこうの主張しながら中国の国家官僚制と対峙しているつもりの人たちにも理解できないところかも知れないが、理解できなくても当然なのかも知れず、それらの人たちには理解できないどころか、むしろ憎悪や嫌悪の対象となっているのが、左翼やリベラルという価値観であり、それが現代ではLGBTQと言われるカテゴリーにも反映している価値観なのだろうが、それが具体的に何かといっても、はっきりとはこれだと断定できないようなことなのかも知れず、何やら漠然とした多様性や多義性を含んだ得体の知れないものであり、〇〇至上主義の類いにとっては、余計で余分で非効率でコストと見なして削ってしまいたいものなのだろうが、だからそうしたコストカッター的な信奉者たちが、社会にとって役に立たない人間を抹殺したくなるのも頷けるわけだが、そういう人たちが理解できないのが、自由民主主義的な矛盾に満ちた価値観だと思っておけば良いのではないか。


6月14日「理由なき行動」

 今後数年間か、場合によっては十数年間かも知れないが、何かはっきりした世の中の変化は感じ取れないかも知れないが、その間にやっておくべきことはいくらでもあるのかも知れず、そのやっておくべきことが、なぜやっておくべきことなのかということが、たぶんはっきりした理由がわからないのだが、少なくとも人の行動や言動がどこから生じてくるのかというと、まず第一に人の生物的な特徴や習性から行動が生じてきて、さらに言うなら社会的な特徴や傾向から行動や言動が決まってくるのだろうが、その中でも世の中を律している法律や制度や慣習から行動や言動が決まってきて、しかも法律と制度と慣習が複雑に絡み合っている中で、それらに囚われている人の行動や言動には特徴的な傾向が現れるのだろうが、その特徴的な傾向というのが無自覚な行動や言動になるわけで、その中でも慣習に縛られた思考や言動や行動が、しばしば理性や悟性に逆らう思考や言動や行動に結びつくわけだが、人を慣習に縛りつけておくには、権力の行使を伴った強制が必要になってくると、それが理性や悟性とは相容れなくなり、そこでどちらを優先するかの選択を迫られるわけでもないが、集団内で権力を保持するには、場合によっては人を考えさせないようにするために慣習に縛りつけておく必要も出てきて、慣習を受け入れること自体が、その慣習を利用して集団を支配するためには、是が非でも必要となるようだと、そういった集団が慣習を基にして成り立っていることになるが、それが法律よりも慣習を優先させると共に、慣習に基づいた法律を制定していると、それがしばしば理性や悟性とは相容れない法律になっているから、理性や悟性を優先するならそうした法律は改める必要が出てくるわけだが、逆に理性や悟性に基づいた法律になっていると、慣習とは相容れない法律になっているから、慣習を優先させたいならそうした法律は改める必要が出てくるわけだが、どちらがどうだと言いたいわけでもないが、例えば日本国憲法と大日本帝国憲法とを比較すれば、どちらかといえば古い慣習に基づいている割合が高いのが大日本帝国憲法である一方で、理性や悟性に基づいている割合が高いのが日本国憲法だと言いたくなってしまうのだが、それは時期的にどちらが古くてどちらが新しいかを考えれば一目瞭然だとしても、時代が現代に至っても未だに古い慣習を優先させたい勢力が何をやりたいかというと、時代的に新しい日本国憲法を改正して古い大日本帝国憲法に近づけたいという意向が、ある特定の集団内で働いているとすれば、そうした集団が何に基づいて組織されているかといえば、理性や悟性とは相容れない慣習に基づいて組織されていて、実際にその種の改憲派が認めようとしないのが、LGBTQであったり、選択的夫婦別姓であったりするから、日本国憲法が時代状況に合わなくなってきたから改憲しなければならないという大義名分とは真逆に、時代状況そのものに逆らっているのが当の改憲派であるところが、奇妙にねじくれていて、そういうところが日本の改憲派に宿る狂気を物語っているのだが、果たしてそれが今の時代にやるべきことなのかというと、世の中の趨勢に従うなら、精神をその種の狂気に覆われた改憲派とは真逆のことをやるべきだとすれば、LGBTQを認めたり選択的夫婦別姓を実現するために、それに関連する法律を改正すべきとなるのだろうが、世の中の状況がここに至って、改憲派の方はもはや自分たちの精神に宿る狂気を隠そうともしないし、その狂気が如実に表れているのが、緊急事態条項を憲法に入れる口実になるだろうが、それがどう考えても合理性を欠いていて、要するに理性や悟性に照らして考えるとおかしな口実になってくるわけで、何かとってつけたようなことを主張するから、そうしたことを主張する理由が、彼らにはわかっていないのではないかと思われるわけで、要するに彼らが慣習に精神を支配されているから、自分たちのおかしさに気づけないようにされているというと、もちろんそんなことはないと反論してくるだろうが、果たして狂気に囚われているから理性や悟性に逆らう慣習を守らなければならなくなるかというと、普通に考えてそうではなく、むしろ慣習は狂気とは無縁だと思いたいところだが、慣習に囚われた思考で考えるなら確かにそうなのだが、慣習では解決不可能なところがLGBTQであり、逆に慣習に囚われた人にとっては、LGBTQのカテゴリーに入る人たちは狂人だと認定しなければならず、実際にそれらの人々を狂気に囚われた人として社会から排除してきた歴史があるわけで、慣習に囚われるとLGBTQのカテゴリーに入る人たちを狂人だと決めつけて排除しなければならないわけだから、逆にLGBTQであることが自然だと感じている人にしてみれば、自然の成り行きでそうなったのに、それが認められない社会の方が狂っていることになるだろうから、自分たちを排除しようとする人たちが狂気に囚われていると思うかも知れず、そんな狂気を抑え込むには理性や悟性の力が必要になってくるわけで、人が狂人扱いされないためには、理性や悟性の力を借りて、慣習から狂気を取り除くための法整備が必要になってくると考えるのが妥当なのかも知れないが、もうすでに慣習に取り憑かれてしまっている人たちにとっては、それが受け入れ難いことになるわけで、実際に未だに同性婚や選択的夫婦別姓を頑なに認めようとしないし、今回のLGBTQに関する骨抜き改悪法案ですらも容認できないのかも知れないが、もちろん自分たちが狂気に囚われているなんて思いもしないだろうが、狂人は自分が狂人だとは絶対に認めないわけだから、そうなってしまうことが特におかしいわけでもないのかも知れない。


6月13日「予測がつかない事態」

 たぶん解釈のしようによっては、現状の世の中で全くの予想外の出来事が次から次へと起こっていて、実際に多くの人々がそれに巻き込まれて困惑しながらも、それを体験している最中なのだろうが、それもそんな事態に巻き込まれているからといって、巻き込まれている程度や傾向が大して深刻な事態にはなっていなければ、致命的な取り返しのつかない状況となっているとも思えないだろうし、それが思い違いや勘違いではないことを祈るばかりというわけでもなく、他人はどうか知らないが、少なくともその人にとってはそうなのだから、たとえ次から次へと予想外の出来事に巻き込まれていようと、今のところは大したことはないと思っていられる程度の状態であれば、確かにそういう面ではそうであり、他に心配事や憂慮すべきことなど何もないというわけでもなく、実際に不安感に苛まれている時もいくらでもあっても、それも人によってもその場の状況によっても、程度の差や感じ方に温度差がある限りで、何かのきっかけからいつそれが深刻な事態にへと変貌するとも限らないが、とりあえず今のところは大丈夫だと思うだろうし、それが全くの予測も予想もつかないとしても、予測や予想をする必要のない出来事を体験しつつあるのだとしたらそれで構わないわけだが、それが人によっても立場によってもそうだから、大変だと騒ぎ立てている人にとっては確かに大変なことだろうが、その大変さが全くわからないわけでもないとしても、なぜか他人事でいられるなら、その人にとってはそういうことだと解釈するしかないが、何が他人事なのかといえば、大抵はメディアで騒ぎ立てられていることなのかも知れず、確かにそれに関しては多くの人々が大変だと騒ぎ立てているのだが、自分も一緒になって騒ぎ立てていても構わないのかと自問自答する機会がそういつもいつも巡ってくるわけでもないが、今も予想外の出来事が起こっているのに、なぜか関わり合いのないことでもないのだが、他の大勢の人々と一緒になって騒ぎ立てるような気が起こらないということがどういうことなのかというと、たぶんその出来事を利用してうまく立ち回っているような気がするのであり、それがそんな気がする程度のことであり、気がするだけで実際には大して関わり合いのないことなのかも知れず、場合によっては無視しても構わないようなことなのに、そこでもなぜか関わっているように装ってしまう成り行きに巻き込まれているから、実際にもそんなふりを装っていて、要するにその気もないのに騒ぎ立てている人たちと一緒になって騒いでいるふりをしているのであり、そうなると騒いでいるのは演技でしかないわけだが、たぶんそれが演技となってしまうか、しかも演じていることを自覚できるか、あるいは本気で騒いでいる気になれるかどうかで、関わっている程度に差が生じているといえるはずなのだが、実態としてはそうではなく、その程度にどのような差が生じているわけでもなく、その場で関わっている人それぞれに異なった役割分担が割り当てられているわけでもなく、では何なのかというと、その気になれるか否かの違いなのかも知れず、その気になって直接関わっている人が多ければ多いほど熱くなっているはずなのだが、熱くなって熱心に関わろうとすることが良いか悪いかとは別に、その関わっているつもりの事物との距離が、身近に感じられるとか疎遠に感じられるとか、そういう程度でもないとすれば、では何なのかというと、熱くなって熱心に関わろうとすると、それが演技になってしまうというと、熱くなっている当人はそんなつもりもないのに、そう見えてしまうから、何かそういうところがややこしいわけで、演技をしているつもりもないのに、それが演技に見えてしまうというところが、本当にそうなのかといっても、熱く熱心に関わっているつもりの人にはそうは感じられないはずだが、自らが演じていることを自覚できないとしたら、もちろんそれが演技ではなく、本気で関わっているからなのだろうが、では本気で関わってしまうのがまずいのかというと、その気になっているのだからまずいわけではないのだが、別にそれが演技に見えようが見えまいが、本気で関わっているのだから、どう見えようがそんなことまで気にすることもないのだろうが、それが演技に見えてしまう人の関わり方というのが、直接関わっていないように感じられてしまうから、それが演技に見えてしまうのだろうが、では直接その物事に関わっている人がどう見えるのかというと、何か予測がつかない事態に直面しているように見えてしまうというと、それがどういうことなのか事態が飲み込めないかも知れないが、要するにそこで割り当てられている役割など演じている余裕がないということであり、ただ単に自分の言葉でしゃべっているから、それが演技には見えないし、事前に予想がつくような内容を語っているわけではなく、また事前に予想がつくような行動や言動に及んでいるわけでもないから、それに対して事前に用意された言葉で応じてしまうと演技に見えてしまうわけで、そこで演技か演技でないかの差が生じてくるわけだが、たぶん最低でもその見分けがつくような人になってほしいから、そういう場が用意されていると解釈すれば、何となくその場の成り行きが理解できそうなのだが、逆に納得しようとするからそれが演技になってしまうのであり、そうではなく本当に予測がつかない事態に遭遇しているなら、納得して安心する余裕などないはずなのだが、ではどうなるのかというと、素直に驚くような事態に直面できればいいのだが、それも事前に驚く用意をしていると、それが演技となってしまい、驚いたふりをしていることになってしまうから、そう振る舞っている時点で、真の驚きとは無縁になってしまうのだろうが、それに気づいていない人たちが予定調和の演技に興じているように見えるから、その種で起こっている騒ぎには今ひとつ同調できないのかも知れない。


6月12日「人権以外の問題」

 例えば消費税とかインボイスとか入管施設内での問題とか同性婚とかLGBTQとか選択的夫婦別姓とか統一教会とか創価学会とか何か部分的な分野で問題提起している人ばかりがいる現状の中で、一見そうではない問題提起などあり得ないような気がするのだが、何か問題提起するとなるとたちまち専門的な分野の中での問題提起となってしまい、その分野とは無関係な人には関係のない話となってしまうかというと、他の社会問題につながってくるから、関心を持たざるを得ない話になってくれば、社会全体で考えなければならない問題となってきそうなのだが、それが大雑把な範囲内では人権の問題だと見なすことができそうな問題が多そうだが、それ以外で消費税とかインボイスとか積極財政とか緊縮財政とか、税制や経済の問題となると、人権とは関係のない問題となるのかというと、それも大雑把に言うならそう捉えても構わないだろうが、中には強引に人権の問題に結びつける人も出てくるかも知れないが、逆に人権の問題に踏み込まないための逃げ道として、税制や経済の問題をことさらに強調するような仕掛けになっている可能性もありそうなのだが、意識してそんなふうにしているわけではなくても、自然の成り行きとしてそうなってしまう場合もありそうで、ではそうならないようにしたいなら、どうすればいいかというと、税制や経済の問題を無視できるわけでもなければ、その問題についておかしな点を指摘するしかないだろうし、大した問題でもないのに強引に深刻な問題だと強調している箇所を暴いてみせればいいのだろうが、果たしてそんなことができるのかというと、それも言説的なレベルでは可能かも知れず、何かそういうところでまやかしが絡んでいるとすれば、それが何かといえば、たぶんそこで偽りの対立が装われていて、対立する双方が敵視しているのが、それが緊縮財政と呼ばれる幽霊のような実態のない状態であり、実態としてそうはなっていないのに、中身のない幽霊のような存在と戦っているふりをしていることに気づくなら、そこにまやかしのカラクリが仕掛けられていることにも気づけるはずだが、なぜそんなことをやっているのかといっても、はっきりした理由など何も見当たらないのかも知れず、ただそういう成り行きに意識せずに従ってしまうような傾向があるから、何かそういうところで納得できる理由を求めようとすると、緊縮財政派という幽霊を実態を伴った勢力として設定しなければならず、実際にそれに該当する勢力を財務省や御用経済学者などに求めてしまうと、実際にとても緊縮財政とは言い難い政府の予算が組まれている現状をどう説明するのかというと、そういうところから積極財政派を自認する人たちの論理的な綻びが見え隠れしてくるような気がするのだが、ではそういった積極財政対緊縮財政という偽りの対立を持ち込んでリベラル勢力を根絶しようと企む人々にはどう対処しなければならないのかというと、たぶんやりたいならどうぞやらせておけばいいのであり、それ以前に左翼やリベラルを自認するような勢力も実態の定かでない幽霊である可能性も捨てきれず、それを言うなら左翼やリベラルと対立しているように装われる右翼や保守と呼ばれる概念にしても、実態の定かでない幽霊のような概念である可能性まであるから、要するにそういう方面で対立をことさらに強調すること自体がある種のまやかしであり、それも日本特有のまやかしだと言うと、他の国ではそんなまやかしは通用しないのかと思われるだろうが、そういった左翼や右翼や保守やリベラルといった用語で何か対立を装うこと自体が日本では通用しないというか、それも通用しているように装うこと自体が言語的なまやかしであり、ただ単に集団の中で同調圧力によって個人が抑圧されているのを何とかしなければならないし、政府や地方自治体の予算が何かおかしなことに使われているのを何とかしなければならない程度のことだと単純化しても良さそうなことであり、それ以上に何がどうなっているとしても、それのバリエーションに分類されることであるなら、それで済んでしまうことになってしまうが、果たしてそれでは済まないことがあるとすれば、それを左翼や右翼や保守やリベラルといった用語でどう説明できるかというと、難儀してこじつけのようなことが行われていると見なすわけにも行かず、できるだけそういった実態の定かでない概念を取り去る努力が必要なのかも知れず、しかもバリエーションとして新たにこじつけてきた積極財政対緊縮財政という対立軸にしても、政府や地方自治体の予算を何に使わなければならないかに関して、あるいは徴税のやり方をどうやって納得できるような制度へと落とし込むことができるかに関して、問題意識がそこへと直接向かってしまうとごまかしが利かなくなるとは思っていないのだろうし、なぜかそこから目を逸らすべくありもしない対立軸を持ち込んで設定しようと仕掛けてきているわけでもないのだろうが、結果的にはそうなってしまうから、そういうところが謎かといえば、それが謎だとも気づかない人が大半を占めているのかも知れないが、そこへと至るを逸らす目的でそれらの用語を偽りの対立軸を設定するために使っているわけでもないのだろうが、なぜか結果的にそんな成り行きになってしまうから、それが謎に思われてしまうわけだが、もちろんほとんどの人は謎だとも思わずに、相変わらず左翼だの右翼だの保守だのリベラルだの、最近は積極財政だの緊縮財政だのと当然のことのように使いながら、そういった対立をさも実態があるかのように装いながら、そうなっていることを暗黙の前提として意識してしまうわけだ。


6月11日「人を惑わす勢力」

 たぶんそれの何に惑わされているのかはわかっているつもりだが、惑わす側は惑わそうとして惑わしているわけではなく、それどころか惑わされないように真実を伝えようとしているようにも見えてしまうから、それが間違いや勘違いだと指摘したくなるのをためらってしまい、それが相手の術中にハマっているようにも思われて、もちろん相手にもなっていないし、無理して惑わされているつもりにもなれないのに、たぶんそれでも惑わされているような気になってしまうわけだが、しかもそんな事実を伝えようとしているように見えてしまう人や勢力にだけ惑わされているだけではなく、そんな人や勢力に惑わされるな、騙されるなと警鐘を鳴らしているようにも見えてしまう人や勢力にも惑わされているような気もしてくるから、何かありとあらゆる方面から人を惑わす勢力が出現しているようにも感じられて、それがややこしい事態になっているような気もしているわけだが、では人を惑わさない人や勢力がいるかというと、そんなことはなく、逆にどんな人や勢力もが人を惑わそうとしていて、惑わすことに躍起となっているわけで、それがメディアの性質そのものだと言えるから、人を惑わさない勢力など存在しないと思っておくのが妥当かも知れず、それがややこしい事態を招いているどころか、極めて当たり前の事態となっていると現状を捉えておけばいいのだろうが、ではそんな状況の中で惑わされないように身構える必要があるかというと、それも当然そうしたいはずだが、実際には当然の成り行きとして惑わされてしまうから、惑わされないように身構えても惑わされてしまうのは仕方がないとしても、惑わされていることを自覚したいわけで、騙されていることに気づきたいわけだが、それを自覚したり気づいたところで後の祭りで、もう手遅れとなっているのだろうが、それでも惑わされていることを自覚したいし、騙されていることに気づきたいわけだが、その際に一番用心しなければならないのは、惑わされるな騙されるなと警鐘を鳴らしている人や勢力であり、そんな人や勢力に惑わされないように騙されないように身構えなければならないところがややこしいのだろうが、しかもそれらの人や勢力が惑わそうとしたり騙そうとしているわけではなく、本気で警鐘を鳴らしているから、多くの人々がそれを真に受けて惑わされたり騙されてしまうからややこしいわけで、ではどうすればいいのかと言えば、たぶん惑わされたり騙されていた方が無難なのであり、無理に惑わされないように騙されないように身構えてしまうと、かえってこじれた成り行きに巻き込まれて面倒な事態に陥ってしまい、そこから抜け出すのに余計な手間暇がかかって苦労を経験しなければならなくなって、それだけ人一倍人生経験を積むことにもなるかも知れないが、そうなったからといって何か得するわけでもないところが面倒なのかも知れず、だから惑わされたり騙されている方が無難だと言ってしまうと、何の進歩も進化もなくなってしまうから、惑わされていることを自覚したり騙されていることに気づこうとしなければならないのであり、そうすることによって面倒な事態に陥ってしまうとしても、そんな事態を乗り越えて生きて行かなければならないのだろうが、惑わす側も惑わしていることを自覚していないし、騙す側も騙していることに気づいていないわけだから、それだけこじれた事態になっていて、そんな事態を乗り越えることなど不可能かも知れないが、乗り越えることが不可能なことにも気づいていないわけだから、乗り越えようとする人が自分が不可能に挑戦していることにも気づかないわけで、要するに惑わしている勢力に属している人たちも惑わされていて、騙している勢力に属している人たちも騙されていると見ておけばいいのだろうが、もちろん惑わされていることを自覚できないし、騙されていることに気づいていないわけだから、それを認識できるわけでもないし、認識できないことにも気づいていないのかも知れないから、そこでもややこしく面倒でこじれた事態に直面しているのだろうが、そうなっていることにも気づいていなければ、それを認識できるわけもなく、そういう面では何もかもがわからずじまいとなっているのかも知れないが、そんな状況の中でも誰もが生きているわけだから、それがどうということはないわけでもないが、そうなっている前提を踏まえられなくても、そうなっていることを想像できなくても、それはそれとして、それに気づこうがそれを自覚しようが、気づいたところで自覚したところで、それとは違う方面では気づいていないことや自覚できないことがいくらでもあると想定しておけばいいのだろうが、それらにどこまで気づいたところでそうなっていることをいくら自覚したところできりがないと思っておけばいいとしても、きりがなくても、なおも気づこうとするし自覚しようとするわけで、それが際限のない事態をもたらしていると自覚しても、それに気づいたとしても、その先に自覚すべきことや気づくべきことが延々と連なっているなら、きりがなくてもそれに気づこうとしたり自覚しようとすればいいのだろうが、いくらでもその先があるなら、きりのいいところであきらめてしまっても構わないし、自らの限界を悟って、それ以上は気づこうとも自覚しようともせずに、それ以降は身の丈に合った生き方を模索すればいいのかも知れないが、それができるとも思えなければ、絶えず気づこうとしたり自覚しようとすればいいし、現状でも誰もがそんな生き方をそれと自覚することなく、そうなっていることに気づかないまま、そんな生き方を実践しているのかも知れないし、それで構わないわけでもないだろうが、構うか構わないかの選択の機会や余地などがあることにも気づいていないだろうし、実際にその時々で絶えず構うか構わないかをそれと気づかずに選択していて、それを選択していることにも気づいていない可能性まであるから、そんなことにもいちいち気づく機会を逃しているのではないか。


6月10日「経済成長至上主義からの脱却」

 どこの誰があからさまにそんな主義を主張しているわけではなく、経済成長至上主義という主義がどこにあるわけでもないが、他と比べて特定の国だけが経済成長していないと言われても、しかもその国が日本だと指摘する人も、日本政府を批判する目的があるから、わざわざそんなことを指摘するのだろうが、実際に統計結果からそんなことを指摘できるにしても、世界中を探せば経済成長率が低い国など、日本以外にもいくらでもありそうだが、日本という国を単体で捉えた場合には、すでにとっくの昔に高度経済成長期は終わっているわけだから、そうなった時点で経済成長至上主義からは脱却したわけで、もちろん高度経済成長している時期においても、誰がそんな主義を唱えていたわけでもないだろうから、脱却も何も最初からそんな主義などないと考えればあり得ないわけだが、ただ日本の現状を批判的に捉えると、経済成長率がかつてよりは低いから、また他の国との比較で、日本だけが経済成長していないじゃないかと安易に批判できるし、そういうところから政治的な主張をひねり出すなら、経済成長率を上げるにはどうすればいいかという主張が出てくるわけだが、果たして他の国で経済成長率を上げなければならないと主張するような政治的な目標を掲げる政治家や政党などが存在するのかといえば、中には数値的な目標を掲げている政府もあるのかも知れないが、それよりも日本の政治や経済の状態や産業構造や社会の実態などから言えることは、少なくとも日本がアメリカのようにも中国のようにもインドのようにもEUのようにもなれないのは明白だから、世界の中で経済的な主導権を握れるわけでもなく、他の国や地域との相対的な力関係の中で経済成長率を上げるにはどうしたらいいかという問いに対する明確な答えなどないような気がするし、そういう主張をまともに訴えかける人を信用できるかと問われても、それも主張の内容によるだろうが、それが政治的な主張となると、何か違うような気がするわけで、では他にまともに感じられるような政治的な主張として何が言えるのかというと、それが政治的な主張である限りで、人が住みやすく暮らしやすい社会環境にしなければならないとか、そういった方面の主張であるなら、それなりにまともな主張のように思われるが、そこから具体的に何をどうしなければいけないかとなってくると、何か実現可能性の面で、あるいは内容の傾向や程度の面で、それなりに支持できるかどうかの判断に関して差異が生じてくるだろうが、具体的にどんな制度や法律を作ったり、あるいは既存の制度や法律などを改善したり改正する際にも、それなりに賛否が分かれるだろうし、そういうところから政治的な主張が生じてくるのだから、そこに経済成長至上主義とかいう主義が入り込む余地などないような気がしてくるわけで、その代わりに例えば消費税に関しては、廃止や存続という大雑把な判断ではなく、消費税率を何%にするのが妥当だとか、相対的な判断も生じてくるから、その妥当性がどこから生じてくるのかといっても、一つの理由ではなく、他の理由との兼ね合いから妥当な理由が生じてくるから、妥当でなくてもそうせざるを得ないような成り行きにもなってくると、そうせざるを得ない理由をうまく説明できないようなことにもなってきて、判断の妥当性とは違う理由からそうせざるを得ないようなことにもなってくると、言っていることとやっていることが食い違ってきたりもして、そうなるとわけがわからなくなってくるのだろうが、理由がなくてもそうせざるを得ないとなってくると、そうせざるを得ないこと自体が嘘になってきてしまい、そうせざるを得ないのではなく、そういうことをやりたくないのに、結果的にやっていることがそうせざるを得ないことになってしまい、さらにそこから自らの意志に反してもやらざるを得ないようなことまで出てくるわけで、結果的にそうなっている時点で、その場の成り行きに従わざるを得ないような立場に追い込まれてきて、それが経済に関してなら何かもっともらしく感じられるように言説を構成しようとすると、成長なくして分配なしだとか、その場の間に合わせのような苦し紛れの言い草がひねり出されてくるのだろうが、そこから政治的に行えるような具体的な措置も導き出されてくるものの、それが言説のレベルで言えるようなことであるから、それを制度や法律としてどう具体化できるのかとなると、すでに行われていることの延長上で行うようなことでないと、そんなのは絵に描いた餅のような実現不可能なことのように感じられてくるわけで、そうなるとさらに選択の幅が狭まってきて、結局は現状維持のようなことを改革してるように装いながらもやっているふりをしているのを、その場に居合わせた誰もが正当化せざるを得ないようなことになってくるのだが、そういう成り行きの中でその場の空気を読めない者が周囲の配慮を欠いた言動や行動を起こすようなことが起こってしまうと、誰もが従っていたその場の成り行きが、そうせざるを得ないことなどではなかったことがバレてしまうから、面目をつぶされた格好になってしまい、そうやって配慮を欠いた言動や行動に出て面目をつぶした者が懲罰の対象となってしまうわけだが、それで構わないと思うなら、そう思っている者は、その場を覆っている空気に従うような幻想の共同体を信じていないことになるわけだ。


6月9日「50年前のフランスと今の日本の人権感覚」

 1970年の5月にフランスで極左集団の毛沢東派の活動家たちが、逮捕勾留中に拘置所での扱いが人権侵害だとして、ハンガーストライキを開始して、それがそれなりの待遇改善に役立ったらしいのだが、その件がハンガーストライキの最初の事例というわけでもないのだろうが、そこから独裁体制下で逮捕勾留された政治犯などが、待遇改善を求めて勾留中にハンガーストライキをやるような成り行きが世界各地で流行ったかどうかは、あまり詳しくないので定かでないが、なぜか現代の日本で維新の梅村みずほ議員が誰に吹き込まれたのか、あるいは何が原因で勝手にそう思い込んでしまったのかも定かでないが、入管施設で勾留中に死亡したスリランカ人が、支援者にそそのかされて行なったハンストが原因で亡くなったと執拗に決めてかかっているのが、支援者の人権活動家=左翼(憎悪と蔑視の対象?)というおかしな偏見や固定観念に取り憑かれているようにも思われて、その種の精神的な病理(左翼嫌悪病?)の根深さを想像したくなってしまうが、当時のフランスではそのハンガーストライキに触発されたミシェル・フーコーが、政治犯だけではなく、刑務所などに服役している一般の受刑者が刑務所内で受けている人権侵害を訴える活動を開始して、その活動がGIP〔監獄情報グループ〕の活動として、その後数年間続いたわけだが、その際に『この考えは最近のものです。二月に起きた、二回目のハンガーストライキを覚えていますか。その時にはこうした言葉が聞かれました。「困ったことだ、このブルジョワの青年たち、極左の連中ときたら!彼らは別個に扱ってほしいのだ、特別の規定を要求しているわけだ!」まあ、一般的には、これはうまく効果を挙げられなかった。世論でも、ジャーナリズムの反応はずいぶん鈍かった、けれどもやっと......、また普通犯の家族においても。我々は以上のことを今日なおも事実として確認しているのです。』と、当初はあまり社会的な反響は少なかったようなのだが、刑務所内の深刻な人権侵害の惨状を暴露していくにつれて、徐々に世間の注目を集めるようになって行った経過は、程度や規模の差こそ違いがあるものの、今日の日本の入管施設内での深刻な人権侵害の惨状を暴露するにつれて、それなりに一部のメディアで取り上げられるようになって行った経過と似ているわけだが、さらに時代を遡れば『たぶん。最近の政治的な出来事を思い起こすと、我々に衝撃を与えたことが一つあります。誰一人として、あるいはほとんど誰もが、1961年10月17日のアルジェリア人のデモについてもはや話しません。この日とそれに続く数日間、警官たちは約二百名のアルジェリア人を街路で殺害したり溺死させるためにセーヌ川に投げ込んだのです〔当時パリ警視長官だったバポンがアルジェリア人に事実上の外出禁止令を発令し、これに抗議するデモに対し、警察は徹底的な弾圧を行った〕。反対に1962年2月8日のOAS〔秘密軍事組織、1961年〜1963年にアルジェリアの独立に反対した右翼組織〕に反対するデモがシャロンヌ〔パリのメトロ駅〕で9名〔8名の誤りか〕の死者を出す結末に終わったことは相変わらず人々の話題に上ります。』という惨事も経験していて、おぞましい惨劇を身近に直接経験しないと人々の間で人権意識が高まらないし、またそこから数年後の1975年9月22日には、当時隣国のスペインで長期独裁体制を敷いていたファシストのフランコ政権が11名の反体制派に絞首刑判決を言い渡したことに対して、当時のフランスを代表する七人の侍ならぬフーコーを含めた七人の著名人が直接スペインに乗り込んで、七人を代表して俳優で歌手のイヴ・モンタンがマドリードのトーレ・ホテルで記者会見を開いて抗議声明を読み上げるという出来事が起こったのだが、当然フランコ政権は乗り込んできたフランスの七人の著名人を拘束してすぐさま国外追放にしたわけだが、そんなふうにして民衆の人権意識を高めるには、その国を代表するような著名人たちが率先して範を示すことも必要となるだろうし、さらにそこから数年後の1977年7月11日には、当時の西ドイツで活動していた赤軍派の弁護士のクラウス・クロワッサンという人物がフランスへ亡命申請をしてきた際には、フランスの裁判所はクロワッサンを西ドイツへ強制送還するという裁定を下して、11月16日に送還されることになったわけだが、当然のことのようにクロワッサンを支援していたフーコーは、当時のフランスと西ドイツの間で交わされた高度な政治取引を揶揄して『世論は恐るに足らない、もしくは、メディアによって条件づけられていると権力側はみなしたわけです。しかも、真っ向からぶつかろうとするこうした意志は、権力側が何年も前から維持してきた恐怖ゲームの一部です。公安に関するキャンペーン全体はー信用してもらい、政治的に採算がとれるようにするためなわけですがー政府が合法性に先んじて迅速に強力に行動できるということを証明するような華々しい措置によって支えられなければならないのです。今後は法律よりも治安が優先するというわけです。権力側にしてみれば、法律という工廠には市民を守る能力がないということを示したかったのです。』と述べているが、十数年前のアルジェリア人に対して警察が問答無用で弾圧していたのに対して、同じヨーロッパ人だからという理由もあるだろうが、一応は裁判を経て強制送還するぐらいには人権に配慮するようになったと、それを進歩なのかどうかは見解が分かれるにしても、市民の人権意識を高めるには、何よりもその地に住んでいる人々が日々実践しなければならないことがあり、それを啓蒙活動だと言ってしまうと、保守派から左翼のきれいごとだと馬鹿にされてしまうかも知れないが、日本でも、今回の山本太郎の行動が範を示したことになるかどうかも、人によって見解が分かれるかも知れないが、どう見ても率先して損な役回りを引き受けたようにも見えるから、好意的に受け取っておけば良く、もしかしたら山本太郎のおかげで、あと50年ぐらい経てば、日本でも今のフランス程度には人権意識が高まると期待しても構わないのではないか。


6月8日「気のない反応」

 騒いでいるのはごく一部の過激な活動家だけだという印象操作が行われているとも思えないし、それがおかしな成り行きだとも感じられず、確かに毎度のことではあるのだが、それにしては何か小細工のような仕掛けが施されているとも思えないが、そういうところでセコく立ち回るとかえってみっともない醜態を晒してしまうから、正々堂々とした態度が求められていると感じられても、行動の見栄えが良くなるように、ここぞとばかりにこれ見よがしな演技を見せつけようとしているというよりは、できるだけ誠実に振る舞っておいた方が身のためだから、あんな行為に及んでいるわけでもないだろうが、それ自体の良し悪しを論じる気にもなれないし、ああいうのを見せられた一般の人々がどんな反応を示すかで、世の中の情勢が変わるとも思えないのだが、あそこだけの場面を切り取って、野蛮な行為だと非難するのも、ありふれた反応には違いなく、直接の利害とは関係のないところから、その人の行動や活動の誠実さが求められるなら、そこへと至る過程において、十分に誠実な対応が積み重ねられてきたとは言えないから、結果がああなってしまうのも、事前に予想されていたことなのだろうが、ああいうところで誠実に振る舞っておくことが、後から何らかの利益を得られるのを期待しているとも思えないし、それよりは、ああいう結果になるような状況を作り出さないようにしたいから、何とかしなければならないと思ってしまうわけだが、これから何とかしなければならないわけで、ああならないような状況を実現したいから、これから何とかしなければならないと思うのだろうし、そんな思いを抱きながら、これから行動するのだろうから、これから行動することのきっかけになるような出来事を、あそこに集まった誰もが体験したと解釈しておけば良さそうだが、果たしてこれからどんな行動になるかは、誰も予想することはできないだろうし、これからどんな行動が起こされるとしても、悔いが残るようなことにはなりたくないから、未練が残らないようにするには、ああいう行動にならざるを得ないのかも知れず、そういう意味ではまずは後戻りができないように、取り返しのつかないことが行われたわけで、果たしてあれが本当に取り返しのつかないことになるかどうかも、これから行うことにかかってくるというなら、これから起こす行動によってはそうなるかも知れないし、それはそうはならない可能性も含めて、これから行うことにかかってくるわけだろうが、そんなことの発端になる出来事にしては、特に大したことはない結果なのだろうし、それに関わった人たちの役割分担も、従来通りの役回りに違いなく、これまでにも繰り返されてきた、今回と同じような成り行きと比べて、何がどう違うわけでもないにしても、出来事の発端となったことに関しては、これまでにも繰り返されてきた成り行きとは違って、少なくとも功利的な思惑からそんな行動に訴えたわけではなく、そういうところが例えば欧米で起こった似たような活動と地続きになってきたわけで、そういうところが進歩だと受け取って良いかどうかは何とも言えないところだが、少なくとも自分たちと利害を共有しない赤の他人を思いやる心が芽生えてきたから、今回のようなことになったと見なしても構わないわけで、もちろん外側からそう見えるだけで、内側から見る人の感情は相変わらず従来からある閉鎖的で村落共同体的な価値観に囚われているわけだが、それにしてもようやく善意を伴った他からのお仕着せではなく、自主的に歩み出した人々の行動を好意的に評価する下地が整ってきたのかも知れないから、時代が半世紀以上も遅れて追いついてきたわけで、しかもまだ感覚が旧態依然となっている人たちが多数派を構成しているわけだから、結果がああなってしまうのも無理はないにしても、それでもこれから時代が動くきっかけにはなっているわけだから、動き出した時代に取り残されようとしている人たちが抵抗勢力を形成しながら、旧態依然とした秩序や慣習を守ろうとしているわけで、彼らが人ではなく国を守ろうとしているとしても、その国というのが従来からあるはずの幻想の共同体が支配する国になるかどうかも現状では定かではないが、相変わらず見え透いた嘘をつきながら、よそ者を排除しながら国を守っているつもりになれるわけだから、実態としては排除しているつもりのよそ者とは違った別のよそ者に支配されていると陰謀論者に批判されながら、国を守っているつもりになれるところが、どこまで愚かなのか底が知れないと誰に笑われているわけでもないにしても、少なくとも彼らが敵対しているつもりの外国勢力というのが、中国やロシアや北朝鮮や韓国政府ではなく、また陰謀論者が指摘するようなディープステートと呼ばれる勢力でもないとすれば、では何なのかというと、勢力など形成できないようなただの個人や家族に過ぎないのかも知れず、外国から逃げてきたただの個人や家族の味方になったところで何の得にもならないから、功利的な理由で味方になっているわけではなく、何の利益にもならないような人々の味方になることによって、その延長上に存在している国内の人々も念頭に置いている場合もありそうなのだが、重要なのはそれらの人々の味方になったところで功利的には何が得られるわけでもないと表面上は思ってしまうところが浅はかなのかも知れないし、直接には何も得られなくても、たぶんそれらの人々からの信用が得られるわけで、その功利的な利益を犠牲にしてでも得られる信用を得ることが重要なのであり、それが国際的な信用につながるといっても、何のことやら直接にはよくわからないだろうが、わからなくても当然であるから、そんなことなど気にしなくても構わないわけだが、それでも普通は直接の利益を得るにはどうすれば良いかを単刀直入に考えがちになってしまうから、そう考えてしまうことが浅はかであることに気づかない人が結構多いわけだ。


6月7日「予感の曖昧さ」

 これから何が起ころうとも、それがこれまでに経験してきたことの延長上で起こるとは限らないし、全くの未経験で未知の出来事が起これば、事前に身につけて培ってきた知識や経験や勘が何の役にも立たない場合もあり得るが、すでに起こって経験してきたことの延長上で起こる出来事であれば、それが起こることを事前にある程度は予想がつくかも知れず、そんなことが起こる予感がしているわけでもないが、未知の出来事ではないような気がするなら、過去に起こった何かが完全に同じことではないにしても、繰り返されるような成り行きになってしまうかも知れず、それが何なのかというと、戦争であればよくある成り行きになるかも知れないが、戦争といってもその程度や規模の面でピンからキリまでありそうだから、安易な思いつき程度でそれが起こることを正確に予測できるわけでもなさそうだが、もうすでに起こって、今も続いている戦争もあるわけだから、そんな戦争に関しては、解説や実況などのビジネスに参入しているメディアも結構多そうだが、それをビジネスと言ってしまうと、誹謗中傷ビジネスと言われた挙句に逮捕されて話題となった人もいるだろうから、何事もビジネスが絡んでくると、詐欺やペテンの疑いも拭いきれなくなってくるが、戦争自体は実際に起こっているわけだから、それに絡んで詐欺やペテンも行われているとしても、戦争が起こっていること自体が嘘というわけでもなく、実際に死傷者が大勢出て、建物や施設なども大規模に破壊されているわけで、戦争が起こっていること自体が嘘でないことを、それについての解説や実況などのビジネスに参入しているメディアが証明する必要もないのだろうが、しかしそれらのメディアが何か証明するようなことがあるのかというと、俄かには何も思いつかないのだが、実際には戦争についての解説や実況が詐欺やペテンではないことを証明しなければならないのだろうし、その一方で事実や真実を恣意的にねじ曲げるような解説や実況の方が興味深いから、そちらの方に魅力を感じてしまうわけだが、果たしてそれが実際の解説や実況からわかるかというと、ただ何となくそんな気がする程度のことであり、それが詐欺やペテンだと思ってしまうこと自体が勘違いや思い違いそのものかも知れないが、逆に人を詐欺やペテンにかけようとする人としては、事実や真実に基づいたメディア報道を嘘だと主張したいのだろうから、例えば西側メディアが事実を正確に伝えずに、人々を誤った認識へと誘導していると解説する陰謀論者も中にはいるわけだが、それが物事の本質的なところでそう述べているとは思えないのは、たぶん戦争の本質が詐欺やペテンとは別のところにあるからだが、要するにそれを戦争にはならないように持って行くには詐欺やペテンが必要になってくるのかも知れず、下手に愚直で正直な対応を心がけてしまうと戦争になってしまうというと、誰もがそんなことが戦争の原因ではないと思いたいだろうが、思わぬところから戦争が起こってしまうと戦争のきっかけを捉えるなら、案外そうなのかも知れないし、交渉相手をいかに怒らせないようにするかが、戦争を回避する上では重要な要素かも知れないから、逆に戦争を起こした方が有利だと判断すれば、ちょっとしたきっかけを捉えて、わざと怒りの拳を振り下ろすようなことをやって、それを戦争の大義名分にすることができれば、戦争を仕掛けたことを正当化できたつもりになれるのかも知れないが、そういう成り行きを踏まえるなら、戦争の予兆というのは、もはや見え透いた詐欺やペテンなどではごまかしようのない事態に陥ってしまったことを実感すると、いよいよ戦争が間近に迫っていると感じられてくるのかも知れず、では実際に日本の周辺地域でそうしたごまかしようのない事態になっているかというと、今はそうなっているとは思えないが、いずれは我慢の限界を突破してしまうような事態が予想される地域も、誰もが思いつきそうなところにあるのだろうが、それが誰もが思い当たるから、かえって注意がそこに集中している間はそうはならないわけで、なるとすれば逆に危機が一時的に去ったように思われて、そこへの注意や注目が緩んで、もはやそんなことにはならないだろうと誰もが思い始めた途端に、思いがけないきっかけからそうなってしまうのではないかと想像できるが、それも想像上のありがちなフィクションから導き出された妄想であるから、実際にはそんなことにはならず、もっと誰もが想像だにしない経過を辿ってそうなるのかも知れないが、そうなったとしても、それを利用して人を詐欺やペテンに引っかけようとする思惑も働いてくるから、そこから人を騙すのに都合の良い口実が導き出されてくるのだろうが、実際に事実や真実をねじ曲げることの何が都合が良いのかというと、それについて弄する言説のレベルで物事の辻褄が合うから都合が良いのだが、そういった言説のレベルでの都合の良さと、現実に起こっていることの都合の悪さとの間の落差が大きければ大きいほど、それについて言説を弄することの意義や意味が生じてくるのかも知れず、要するに詐欺やペテンのやり甲斐が感じられてくると同時に、そこで実際に起こっていることの事実や真実よりも、起こっているように見せかけたいことの嘘の方が辻褄が合って、よりもっともらしく思われてくるわけで、そういうもっともらしいフィクションの中に物事の真理が含まれてくると、そんな嘘を信じたい人々の願望も自ずからわかってきて、彼らの思惑通りに事が運べばどんな世界が実現するのかも、予定調和のようにして見えてくるわけだが、そんなふうにして見えてくる光景が現実のそれではないのもわかりきったことではあるわけだ。


6月6日「意図的な操作」

 何か単純に物事を考えたくなるのをぐっと堪える機会が誰に巡ってくることもないだろうが、世の中の状況が誰ともなく人を選んで心の中に疑念を芽生えさせるわけでもなく、ただ漠然と世の中がおかしいと思うのでもないし、特定の誰かが、それがメディア経由で疑念がもたらされるのであれば、特定の著名人や世の中で名の知れた政治や経済に関係する団体などが、何やらおかしなことをやっているのなら、それが世間で話題となるのだろうし、世間で話題となるというよりは、一部のメディアで話題となるだけに終わることも多いのだろうが、逆に話題とならないように無視しているなら、話題となるように仕向けてくるのをメディアが無視していると言えそうだが、もちろん一部のメディアでは意図的に話題作りをしているから、それが世の中の全体にまで広がらないように、あえてそんな話題作りを妨害する意図はないにしても、何かの商売のネタとして使えるなら、その商売で儲けたい思惑があれば、喜んでその種の話題作りに協力する人や団体も出てくるのだろうが、それがあからさまな金儲けというわけでもなければ、ただ単に興味深いからといった程度で済んでしまうなら、その種の話題作りにしても、思ったようには盛り上がらないのかも知れず、それもそんなことには大して関心がなければ、世間で盛り上がらなくても一向に構わないわけだが、そういう話題作りを仕掛けている団体としては、何か意図的にそんなことをやっているのだろうから、そうした団体にとって都合が良いような先入観や固定観念などを、そんな話題に関心を持った人々の意識に植え付けたいのだろうし、それにしても本当にそんなことができるかというと、陰謀論的にはそういうことをやっている団体が存在していることにしておきたくて、そんな団体の存在や団体の思惑などをメディアを通じて吹聴するのだろうが、そこまではよくある成り行きかも知れないが、何かそういうこととは全く関係のない方面というのが、現実にあるとは思えないにしても、想像することならできるかも知れず、では具体的に何を想像したいのかといえば、特定の人や団体の意図や思惑を超えた不特定多数の最大公約数的な意図や思惑に操られて、ただ何となく集団意志のようなものに同調したり同期してしまう人が世の中で多数派を構成していて、そうした集団意志のようなものに同調したり同期している勢力が多数派として政治的な主導権を握っていると考えがちになってしまうのだが、どうも実態としてはそういうことではなく、そんなふうに単純に物事を捉えたくなってしまい、そんなことを想像しているだけで、何の根拠もないことでしかないから、たわいない妄想にすぎないわけだが、そうやって単純に物事を捉えることが、自分にとって都合が良いことなのかというと、考える手間を省くには都合が良いのかも知れないが、それも都合が良いかどうかということではなく、そう思うことが何か責任逃れのように機能しているとすれば、では逆に責任を引き受けるとはどういうことなのかと問うなら、直接政治活動に身を投ずれば責任を果たしたことになると思っているわけではなく、責任など果たせないし、責任を引き受ける立場にもなれないから、直接政治活動に身を投じている人や勢力を応援しておくぐらいが無難なのかも知れないし、応援しているつもりにもなれないとしたら、では何をやっているのかというと、いつの間にか政治を批判しているわけで、しかもその気もないのに批判していることになってしまうとすれば、それが実態としてどういうことなのかといっても、よくわからないのかも知れないし、無理にわかろうともしていないし、わかり得ないのかも知れないが、中にはわかってしまうこともあって、何がわかってしまうのかといっても、それもたわいないことであるから、大したことでもないわけだが、実際に最近わかってしまったことが何かといえば、例えば猪瀬直樹という人物が国会議員になっていることがわかってしまい、その人物のしゃべっている内容がわかりすぎるくらいわかるような内容で、なぜそれほどまでにわかるのかといえば、誰もが思いつくような内容を誰もが思いつくような程度でしゃべっているから、それがわかりすぎるくらいにわかってしまうわけで、果たしてそれで良いのかといえば、何の謎もない内容をしゃべっているわけだから、かえってまずいわけでもなく、その人物にとってはそれで構わないようなことをしゃべっているから、なるほどそれが当人の身の丈に合っているように感じられてしまうから、それがわかりすぎるくらいにわかってしまい、改めてそれについて考えるまでもなく謎でも何でもないわけで、それ以上に何をどうすれば良いわけでもなく、それ以下でもないから、ちょうど良いことをしゃべっていて、それに関しては何の疑念も生じてこないわけだが、確かにそういう人物のしゃべっている内容が、世の中の多数派を構成するような集団意志そのものを反映しているというなら、その通りには違いないと想像できるのだが、それで構わないのかというと、何かもっと良識に訴えるようなことをしゃべってほしいと思うなら、そう思う人たちがリベラル勢力を形成しているようにも思われるし、そこから理想的な左翼勢力の姿も想像できるわけだが、ではそんなふうに想像できる理想的な左翼勢力が政治的な主導権を握って政権を担ってほしいかというと、どうも現実にはそうなっていないことは事実として思い知らされているように感じられて、そうはならないことを嫌というほど思い知らされてきたわけだから、どうあがいても無理だろうとは思ってしまうわけだが、それでも理想を追い求めることが必要かというと、ある種の人々にとっては切実にそうなってほしいと願っていることなのだろうが、その一方で猪瀬直樹という人物の程度の方が日本の現状の身の丈に合っているように感じられてしまい、そう感じられてしまう自らの感性に自己嫌悪を覚えながらも、その妥当性を実感してしまうわけだ。


6月5日「戦時下の教訓話」

 例えば過去の一時期に顕著となった傾向を例に使って、現状で問題となっていることの教訓としても、現状が過去とは違う状況となっている場合もあるから、過去の事例が本当に現状の教訓となるかどうかは、時と場合によりけりで、教訓となったりならなかったりすると見ておいても良さそうだが、教訓にならなくても言説の辻褄が合っているように感じられると、何となく主張が論理的に正しいと思われるわけだが、主張というのはその程度でも構わないから、まずは主張が実践されてみてから判断しなければならないとしても、必ずしも主張通りのことが行われるわけでもないから、主張がどうであれ、実践においてうまくいけば、うまくいった事例を基にして、うまくいった事例を正当化するような主張として再構成されるわけだが、もちろんうまくいかなかった事例を教訓として主張が構成された方が、より説得力が生じてくるわけで、実際にうまくいかなくて痛い目に遭ったからこそ、二度とこういうことをやってはダメ的な教訓話に説得力が生じてくるのだが、そういうわかりやすい例というのが、大抵は極端な状況下で大変なことが起こった話ばかりで、そういう話を真に受ける人にはそれなりにインパクトをもたらして、それが有名な教訓話や失敗談として世に知れ渡ることになるのだが、現状で起こっていることが教訓話で出てくるような極端な状況下で起こっていることかというと、教訓話をしている時点が、そんな話をしていられる程度の余裕のある状況なわけだから、教訓話で出てくる状況とはそれなりに違っていることに気づくなら、何やらその種の教訓話を真に受けなくても構わないような気もしてくるわけだが、もちろん真に受ける人が多ければ多いほど、それが教訓話として機能してくるかというと、それもそうではないような気もしてくるわけで、教訓話が教訓として機能している状態というのが、教訓が生かされている状況ではなく、過去の教訓が顧みられないからこそ、人々が教訓を忘れているからこそ、これから大変なことが起こるぞという脅しとして機能するわけで、教訓話が教訓として生かされないからこそ、かえって教訓話を使って脅しをかけてくるというややこしい使われ方をするわけだが、果たしてそういう脅し文句をどこまで真に受ければいいのかといってみても、大して真に受けていないからこそ、その種の教訓話に反論を加えようとするわけだから、そういうことも含めて、よく反戦平和主義者の類いが持ち出す戦時下の教訓話に反論を加えながら逆利用することによって、自説の正しさに説得力を持たせようとしても、それ以前の前提として、現状が直接には戦時下とは言えない状況となっているわけで、もちろん世界のどこかで紛争が起こっていて、戦争状態となっている地域もあるから、そんな地域では現実に戦時下なのだが、そうでなくても言説としてはそれなりに説得力があるから、それで構わないわけで、言説の正しさも感じられて論理的にも正しければ、言説の範囲内ではそれで構わないと思うしかないが、それが言説の範囲内でそう思われることだから、それでいいことにはなるが、逆に言説の範囲内ではデタラメなことのように思われても、やっていることが結果的にうまくいけばそれで構わない場合もあるかも知れず、さらにやっていることですらも、必ずしもうまくいっていなくても動じないし、戦時下というのは何でもありなわけでもないものの、かなりめちゃくちゃな状況でもあるから、必ずしも言説の正しさなど求められていない可能性もあるわけで、例えば戦時下で小説が発禁処分を食らった作家の谷崎潤一郎が、東京の寿司屋かどこかでマグロのステーキを美味そうに食べている、というエッセイか何かの文章を読んで、別にそれがどうしたわけでもないが、たぶんそこには何の教訓も政治的な主張もないのだろうが、贅沢は敵だとか、欲しがりません勝つまでは、とかいう標語が流行っていた時期に、マグロのステーキを悠々と食べている谷崎潤一郎に反骨精神のようなものを感じるかというと、そういうことではないような気がするわけで、美味いものを食べたいのは、別に戦時下であろうとなかろうと、人の根源的な欲求を満たす行為として正当化できるか否かということでもなく、何となくそれが無駄で意味のない行為のような気がするのが、気のせいかどうかということでもなく、戦時下の教訓話を後世の時代に持ち出すのとは全く違った方面で、戦時下の東京の寿司屋でこっそりとマグロのステーキを食べている谷崎潤一郎という存在が、余裕綽々のような雰囲気を纏いながらも、そういうところではわかりやすい教訓話とも筋の通った政治的な主義主張とも無縁でも構わないのだと思うわけでもなく、それとは対照的に戦争を遂行するために、政府が返すアテのない国債を大量に発行した挙句に、戦後直後にハイパーインフレを招いたとかいう事態を教訓話に転化すれば、国債の大量発行は戦争への道だと単刀直入な標語が形成されるかも知れないが、それを現状に当てはめて軍事費を増やすために国債を発行するのはもってのほかだと誰が思っているわけでもないにしても、政府が国債を発行を極力抑えながらも防衛費の増額を実現しようとしていることをどう批判すればいいのか、などという設問がどこからともなく提示されているわけでもないが、逆に何の教訓話にも転化できそうにないエピソードをどれほど持っているかが、その人の感性の豊かさを示すわけでもないものの、少なくとも論理的な思考とはうまく結びつかないところが、教訓話に持ち込まれてしまうのを辛うじて逃れていて、それを辛うじてと表現するのも勘違いもいいところかも知れないが、なぜか変なエピソードが思い出されてしまうのだから、その種の教訓話に感性が抵抗していることは確かなのではないか。


6月4日「政府が国債を発行する理由」

 それに関しては理屈がないわけではないが、それよりも何が優先されるかといえば、その場で生じる偶然の巡り合わせだと言ってしまうと、そんなはずがなく、どう考えてもそれだけでは済まないはずだが、政府が国債を発行する理由として考えられるのが、直接には税収を超える規模の予算を組むからだが、なぜそうするのかというと、政府の官僚機構の絶え間ない膨張であり、また国家間競争に直面すると、富国強兵や殖産興業の面で国家予算も絶えず膨張し続けるというジレンマに直面してしまうと考えるなら、確かにそんな感じもしないではないが、少なくとも無限に国債を発行できる道理はなく、何かしら国債の発行額にもこれ以上は発行できないという上限額がありそうなのだが、日本の場合はもうとっくの昔に上限を突破してしまっていて、毎年のように国債を過剰に発行せざるを得ない悪循環に陥っていると言うと、そうではないという反論が、積極財政派から絶えず発せられているはずで、確かにそれも現状で財政破綻しているわけではないのだから、さらに国債を発行し続けても大丈夫なのだろうし、実際にも毎年のように政府が国債を発行し続けているわけで、それも絶えず予算の無駄遣いを指摘されつつも、必要なところへと予算が振り向けられていないと批判され続けていて、しかもそんな批判を繰り返している勢力も、積極財政派であれば必要な方面へと予算を振り向けるには国債の発行が必要だと主張しているわけだから、それも政府が国債を発行する上でもっともな理由となるわけだが、では果たして何が必要で何が不要かというと、例えばそれが政府主導で行われる大規模な国家プロジェクトとなると失敗する公算が高く、民間の場合は結果的に成功した企業の事業が生き残り、失敗した企業の事業は多額の負債を抱えて倒産して消滅してしまうわけだが、政府主導の巨大な国家プロジェクトの場合は、失敗しても予算がつくからやめられなくなって、結果的に多額の予算が無駄に使われて、失敗したプロジェクトが延々とゴリ押しされ続けてしまい、悲惨な結果に終わるしかないわけだが、果たしてそんな事業が必要なのかというと、実際に古くは原発とか、最近では汚職五輪とかマイナンバーカードとか、批判しようと思えばいくらでも批判可能な国家プロジェクトが目白押しなのであり、そういう意味でなぜ政府が国債を発行しなければならなくなるのかというと、失敗した大規模プロジェクトを続けるためには国債を発行しなければならないと言えるかというと、それだけ無駄に予算を使わなければならない宿命なのかも知れず、そうなってしまうから批判されやすいのも政府の宿命なのかも知れないが、そこから言えることは、政府という組織は失敗した国家プロジェクト続けざるを得ない宿命だから、そういう無駄な事業を続けるには無駄な予算が必要となってくるから、結局は税収だけでは予算を賄え切れなくなってきて、結果的に国債の発行が欠かせなくなると理解しておけばいいのかも知れないし、こんな理屈では誰も納得してくれないのはもちろんのこと、無駄に予算を浪費するのではなく、必要なところに必要なだけ予算を使えばいいと主張することはできるが、政府という官僚機構は資本主義経済の中では致命的な欠陥を抱えた組織であり、その欠陥が倒産できないということであり、民間の企業であれば事業が失敗すれば社会的な信用を失って資金供給が続かなくなって、事業そのものが消滅するしかないわけだが、政府は倒産できないし、倒産するわけにはいかないから、失敗した事業であっても、無駄に予算をつぎ込んで継続させようとするわけで、そういうことを平然とやっているから政府ばかりが経済活動の前面に押し出されてくると、かつての社会主義国のようなことになってしまうわけで、現状でも北朝鮮のような惨状を呈していても、北朝鮮政府は倒産することができないから、そこに住んでいる民衆を悲惨な境遇へと陥らせているわけだが、それは現状の日本でもある程度は言えることかも知れず、経産省などが企業活動を監督して指導するようなことをやってしまうから、事業が失敗した大企業であっても倒産させるわけにはいかないし、余計な延命策を弄して、場合によっては国家予算をつぎ込んでも監督官庁の面目を保とうとするわけだが、それが良いか悪いかではなく、政府の性質上そういうことをやってしまうわけで、そういう意味では資本主義市場経済の中では各国の政府が余計な存在なのだが、もちろん余計ではあっても、通貨を発行しているのも中央銀行を運営しているのも政府であるから、余計な存在であると同時に必要不可欠な存在でもあって、そういうところが矛盾しているのだろうが、矛盾した存在である政府が存在しているからこそ資本主義市場経済も成り立っていて、そういう方面では無矛盾な理屈とはなっていないし、なぜか政府が発行した国債を中央銀行が買い取るという八百長のようなおかしなことが平然と行われているわけで、そんなことをやっているわけだから積極財政派もMMTのような無茶な論理を持ち出してくるし、それが実際にそれなりの成功を収めてしまえば、さらなるおかしな状況となってしまうのかも知れないが、そういう理論を信じている人たちにとっては特におかしくはないわけで、正しいことを言っていると思っているわけだから、それをどうこう批判する気にもなれないし、それ以前に政府の予算の使い方をいくらでも批判できるわけだから、そちらの方が批判のメインとなるのも当然のことであり、それが政府の活動の宿命でもあって、もっともらしい批判をこれでもかとされながらも、うまくいかないプロジェクトに無駄な予算をつぎ込んで継続させている一方で、批判派が主張するような必要なところへは予算が回って行かない事態となっているわけだ。


6月3日「予定調和の成り行き」

 これから何かの巡り合わせで、そうなって当たり前だと思うようなことが起これば、そら見たことかとドヤ顔にもなりそうだが、それが起こった後からそうなるわけだから、それを事前に自信満々で予想していたわけでもなければ、予想が当たったとドヤ顔で威張り散らすわけにもいかないし、そんな都合よく事態が進展しなければ、もっと謙虚になって事態の推移を見守るぐらいが、それらの出来事に関わり合いのない者が取るべき態度となりそうだが、もちろん直接には関わっていなくても、関心を持っているから、事態の推移を見守っているわけだが、それがどんな事態なのかというと、これから起こる不測の事態であり、それが起こっていない段階ではわかりようがなく、これから何が起こるかもわからないのに、予想が当たったと誰がドヤ顔で威張り散らせるわけもないだろうが、たぶんこれから起こるのはそういうことではなく、例えば政府が発行する国債の償還資金を調達するために借換債が延々と発行されるような成り行きかも知れず、そうやって絶えず国債の借り換えが行われるから、借りた借金を返せなくなるような事態は生じないと得意満面のドヤ顔で説いてみせる者がどこからともなく現れるわけでもないだろうが、誰かが期待している事態がそんな予定調和の成り行きではないことは明らかで、もっと何か危機的で深刻な事態に陥ってしまうことを危惧しているのだろうが、そんな危惧の念とはほとんど縁のないその他大勢の人々にとっては、実際にそうなってみないことには何の関心も示さないだろうし、実際に政府が発行する国債が延々と増え続けている現状を危惧しているのは財務省内に巣食う勘違いな緊縮財政派以外には誰もいないと豪語する者がどこからともなく現れるわけでもないだろうが、そもそも事前に何かが起こることを危惧するという予定調和の成り行きではなく、誰も事前に予想だにしなかった思いがけないことが起こってから驚くのであり、もちろんそうなってから、我こそは事前にこうなることを予想していたとドヤ顔で名乗り出る目立ちたがり屋も現れるかも知れないが、そんな事態は枝葉末節な無視しても構わないようなどうでもいいことでもあって、では何が深刻に受け止めるべき無視できない事態なのかと言えば、それが事前にわかるようなことではなく、たとえ誰も予期しなかった事態になったところで、それが深刻に受け止めるべき事態か否かが必ずわかるとも限らないから、その時になってみたところで、わかったりわからなかったりすると思っておけばいいのかも知れないが、果たして現状で起こっていることや起こりつつあることがそういうことなのかというと、誰が確信を抱いて深刻に受け止めなければならないことだと主張しているとしても、やはりそれが半信半疑な程度のことかも知れないし、その人の社会的な立場や境遇によっても変わってくるようなことかも知れないが、そういうこととは次元やレベルの違うところで、本質的な議論へは踏み込まないように配慮しながらも、何か枝葉末節なわかりやすい対立へと議論を誘導しようとしている傾向が窺えるとすれば、それが何かといえば、まずはそれを枝葉末節だとは言わせないようにしたいわけで、それが枝葉末節なことではないとすれば、本質的であったり根本的なことになるだろうが、やはり何がそうなのかということを明らかにしたくないとあからさまに言うことはないだろうが、その代わりに何が必要で何が不要なのかを明確にしたくないとも思っていないのに、結果的にはそうなっていて、誰のために何をしなければならないのかもよくわからないまま、なし崩し的に決まっていくことがあり、そんなことやる必要もないことが他に優先して行われる一方で、必要なことが後回しにされているどころか一向に行われないから、それによっておかしな事態が起こっていると主張したいのだが、そういう主張とは全く関係のないところで、それがどうでもいいような枝葉末節な出来事なのだが、重箱の隅をつつくような揚げ足取りが繰り返されているうちに、必要なことが一向に行われないという深刻な事態が放置されているから、それについては誰もが絶えず危機感を募らせるし、事ある度に危機感を煽られるのだろうが、それがこれから起こる危機を予想したり予言したりするようなことではなく、今現に起こっていることについて危惧の念を覚えるようなことであるから、それについては早急に改善したり改革しなければならないと思うだろうが、しかも改悪するようなことが行われようとしているから、なおのこと危機感を募らせたり、危機を煽りたくもなるのだが、成り行きとしてはそうはならず、むしろどうでもいいような枝葉末節な問題の方に執拗な言及が行われるから、そちらの方がアリバイ作りのように問題視されてしまい、それに関する主張を利用して、強引な世論誘導が行われる一方で、肝心なところが無視されるから、いつまで経っても今やるべきことが明らかにされないばかりか、それとは違う方面で絶えず話題作りが行われて世間の関心を集めるような成り行きになるわけで、そんな話題作りに気を取られているうちに、さらに深刻な事態が到来しつつあるのかといえば、それに気づかないのだから、何の到来を予感するわけでもなく、実際に何が到来しても、その到来にも気づかないのだから、灯台下暗しとも思われないし、その灯台が照らしている方面に目をやると、そこに浮かび上がってくるのが、何かのどさくさに紛れて行なっているごまかしやまやかしであり、それも枝葉末節な方面で問題視するように仕向けられてしまうのだが、それが物事の本質や根本からはかけ離れているように感じられながらも、実はそういう枝葉末節に思えることを問題視していると見えてくる光景があるから、結局はそういう方面からそれが問題だと指摘せざるを得ないわけで、しかも問題だと指摘しながらも、徐々にそこから視点をずらして行って、それがもはや予定調和とならないような灯台下暗しなところへと、視線を移動して行かなければならないわけだ。


6月2日「改善の兆し」

 何かに反対しているということが、メディアを通してその事実を知らされると、それが毎度おなじみの反対運動や反対集会のようなパフォーマンスだとわかるのだが、それに対して簡単に言うなら、うまく行かないことは改善しようとすればよく、もちろん言うだけでは改善しないし、世の中には簡単には改善できないことも結構ありそうだが、そんな状況を改善したいわけではないとは言えないはずだが、ではそれらの人々がメディアを通して何かを訴えている人々をどうしたいのかというと、何か世論誘導のようなことをやろうとしているなら、それが世の中の状況を改善させる途上でやっていることになれば、何か良い印象を得られるかも知れないが、そうではなく、それが無駄な努力のように思われるなら、そんな無駄な努力のせいで、世の中の状況がどんどん悪化の一途を辿っているように感じられるかも知れないが、どうも実態としては、特に何に反対しているわけでもないとすれば、メディアを通じて見せられているそれらの反対運動や反対集会とは無関係な方面で活動していることにはなるだろうが、さらにそれらの反対運動や反対集会には惑わされないようにしているとなると、なるべく関わらないようにしているのかといえば、たぶんそうではなく、では逆に積極的に関わろうとしているのかというと、なぜかそうでもないわけで、では何なのかというと、少しは関わっているのだろうが、実態としてはそうではなく、関わっているように見せかけているのであり、そう見せかけながらも、実質的にはそれらとは何の関係もないところで活動しているのであり、その辺が微妙なところなのだが、その関わっている範囲をグレーゾーンというと、直接には大して関わっていないように見せかけながらも、ちょっとだけ関わっているようにも見せかけようとするから、何か紛らわしい活動なのは当然だとしても、要するにそれらの反対運動や反対集会が対象としている制度や法律の類いを、積極的ではないにしても受け入れながらも、なおかつそれらの反対運動や反対集会の類いを応援しているように装っているわけで、それでは反対運動や反対集会の主催者に対する裏切り行為になってしまうのかというと、それも明確にそういうわけではなく、別にそれらの邪魔をしているわけでもないどころか、逆に応援しているふりをしているわけだから、それがふりだとばれない限りは、特に問題はないし、それが応援していることになるのか応援しているふりをしていることになるのかに関しては、どちらでも構わないのだから、実際に応援していることになっても構わないし、そう見えてしまっても何の問題もないわけで、だから実態としても反対運動や反対集会を応援していることになるわけだが、それでも反対の対象となっている制度や法律に逆らっているわけではなく、それどころか何の抵抗もせずに受け入れているわけだから、そんな実態の人が多ければ多いほど、それらの反対運動や反対集会の類いがいくらパフォーマンスとしては盛り上がっていても、それ自体が形骸化していると言えるわけで、それで構わないのかといっても、実態としてそうなってしまっているわけだから、そんな実態からかけ離れたところでそれらのパフォーマンスが行われているとすれば、やはりそれが見せかけだけのパフォーマンスとなってしまい、実効性が伴っていないわけだが、たぶんそうなっている限りで、なぜか事態が改善の兆しを見せていて、別に世の中の状況が悪化の一途を辿っているわけではなく、むしろ良い傾向を見せているわけで、もちろんそれらの反対運動や反対集会を主宰している人や団体にとってはそうではないのは明らかなはずだが、多くの人々がそれらのパフォーマンスに対して支持や賛同を装いながらも、実質的には何の反対もしていない人々からすれば、ただの見せかけだけの反対運動や反対集会だけで間に合ってしまっているわけだから、大して世の中の状況が悪化しているわけでもないし、しかも反対運動や反対集会を受け入れていられるだけの心の余裕さえあるわけだから、そうなっていること自体をどう受け取ればいいのかもよくわかっておらず、その程度で済んでしまうような世の中の状況を楽しむ余裕があるわけもないにしても、逆に世の中の状況が悪化の一途を辿っていることを実感しているわけでもなく、その代わりに物見遊山の観光気分でそれらのパフォーマンスを見物しているつもりでもなく、それなりに事態を深刻に受け止めているふりを装うのだが、それがふりなのではなく、意識の中では本当に事態を深刻に受け止めているはずなのだが、実感としてもそうだとしても、なぜかそんなパフォーマンスに直接その身を投じている人々とは隔たりや距離感を否めないし、立場や境遇が違っていることも実感せざるを得ないとしたら、要するに直接の当事者でもないのに、その気になってその種の運動や集会に参加しているつもりになっているのであるから、少なくとも当事者意識とは無縁であることには気づいておらず、その証拠に反対の対象となっている制度や法律を何不自由なく受け入れていて、平然と従ってそれらの制度や法律がもたらす恩恵にも与っているわけだが、本当にそれで構わないのかというと、やはりそれへの反対運動や反対集会にも賛意を示しているわけだから、そういうところが矛盾しているわけだが、それも事態の一面的な認識や解釈であって、実際にはそれらの反対運動や反対集会の盛り上がりを意識しつつも、それが制度や法律の改善に役立ってほしいと願っているわけだ。


6月1日「偶然の結果」

 個人で行動したり複数の人々が団体を形成して組織的に活動した結果として何がどうなるにしても、そうなることを狙って実際にそうなるかどうかが、その場の運次第では、それがちゃんとした目的を伴った行動や活動の対象となるには動機としては物足りないし、それだけではやり甲斐が湧いてこないかも知れず、それでも通常ではあり得ないことを実現しようとするなら、そうなることを願い祈り、実現できることを信じるぐらいしかやりようがないが、単に願ったり祈ったり信じたりするだけでなく、実現するように努力したり尽力することになれば、そうした努力や尽力が実るかどうかは、ある程度はそうなる見込みがあることが前提となるだろうから、見込みがあるから努力や尽力のし甲斐があって、逆にどんなに努力や尽力をしたところで、その場の運や偶然の巡り合わせに期待するしかない割合が大きければ、努力や尽力にも限界があり、努力や尽力のし甲斐や値打ちがないようなことにもなりかねないが、何かこうすれば確実に実現できるやり方が確立されていれば、まずはそれをやろうとするだろうし、もちろん必ずしも実現できる可能性が高くなくても、根性や情熱や情念や執念が人一倍強ければ、何が何でも是が非でもそれをやり遂げようとするだろうが、そんな条件や前提が事前にわかるようなことではないのかも知れないが、何かが作用して現状の世の中が実現していて、それが実現しているとは誰も直接には意識していないのかも知れないし、確かに人や団体の努力や尽力が実って何かが実現している状況が少なからずあるのだろうが、その実現している状況というのがその中で不満を抱いている人が大勢いるような状況であれば、しかも多くの人々が困っている状況であるなら、そんな状況をどうにかして改善しなければならないという思いも多くの人々が抱くだろうから、そこから状況を改善させようとする努力や尽力が生じてくるのだろうが、もちろん状況を改善させるやり方として、こうすればうまくいくと主張する人が出てくるとしても、主張通りのことが行われるかというと、全面的にそうなるわけでもないから、そこからも不満や困惑などが生じてくるだろうし、そんな主張も一つではなく複数あれば、それらの様々なこうすればうまくいくという主張が、必ずしも同じ方向や方面へと向いているわけでも向かっているわけでもないから、個々の主張を信じて実践している人や団体の間でも、世の中の状況に対する認識や見解も異なってくるだろうから、そんな認識や見解に応じて個々の行動や活動も微妙に異なってきて、そうなってしまう結果として誰の思い通りにもなっていない状況がもたらされるから、そういう面では行動や活動がうまく行っていないわけで、要するに複数のこうすればうまく行くという主張が競合しているおかげで、その結果として誰の思い通りにも行っていない状況がもたらされているから、それなりにうまく行っていないし、そのうまく行っていない状況の中で多くの人々が不満を抱いたり、行動や活動した結果としてもたらされたうまく行っていない状況にも多くの人々が困惑しているわけだが、だからといって、誰もこうすればうまくいくという主張を取り下げたり撤回するようなことにもならないだろうから、納得できる理由として主張がうまくいかない原因を導き出さなければならない事態にも直面していて、安易にその原因を求めるなら、誰かが邪魔をするからうまく行かないということになりやすく、邪魔をしてくる人や勢力と争い戦うような成り行きにもなりやすいわけだが、どうもそうなると、何やらその争いや戦いに勝つことがうまくいくための条件として挙げられて、争いや戦いに勝つには何をやれば良いのかという目的意識も生じてくるから、そこから争いや戦いに勝つという目的に人や団体の行動や活動の形態や内容が収斂してくると、そこから行動や活動の単純化に至ってしまい、争いや戦いに勝つにはこうすれば良いというやり方や方法を導き出そうとしてしまうから、当初の主張の中で言われている、こうすればうまくいくという内容と、そこからより単純化された、こうすれば争いや戦いに勝てるという方法論との間で、行動や活動の目的がずれてしまうようなことが起こって、その際にも、行動や活動がうまく行かないから争いや戦いに至るということが理解されないわけで、しかも次第に争うことや戦うことが行動や活動の目的と化してしまうから、そこから戦う姿勢を維持することが重要だとか言う本末転倒な主張までも生じてきてしまい、それが目的の形骸化をもたらしているわけだが、いつの間にかそうなってしまうことが偶然にそうなっているわけではなく、何か必然的な成り行きを伴ってそうなってしまったような感じがしてしまうのかも知れないが、それをただ単に個人や団体の行動や活動がうまく行かなくなってきたから、その結果として争いや戦いが絶えなくなってきたと解釈するなら、何やらそれがもっともらしく感じられるのだろうが、確かにそう思われるとしても、そこで勘違いしていることがあるような気がするなら、それが何かといえば、争うことや戦うことが当初の目的ではなかったということであり、それがいつの間にやら、まず最初に行わなければならないことのように思われてしまうから、そうした争いや戦いのゲームに意識を囚われて、それと引き換えにして当初の目的を忘れてしまうわけだが、その際にも、行動や活動が敵対する人や勢力による妨害工作によって邪魔されてしまうからうまく行かなくなるという理由や原因に納得せざるを得なくなり、行動や活動の結果として争いや戦いがもたらされたことを忘れてしまうわけだが、そうやって絶えず当初の目的が争うことや戦うことに置き換わっていることを意識できないし、そうなっていることを理解しようとしないから行動や活動がうまく行かなくなっているわけではなく、ただ単に行動や活動が敵と争ったり戦ったりすることに置き換わっているだけで、それを行動や活動がうまく行かなくなっているとは認識できないから、いつの間にか目的が争うことや戦うことに置き換わっていることにも気づけないわけだ。