彼の声156

2023年

5月31日「国益と公益の違い」

 例えば国益と人権を天秤にかけてどちらを優先すべきかを判断するとか、できればそんなことを判断せざるを得ない機会など巡ってこないことを祈りたいが、そもそも現状で何が国益かというと、例えば国籍を問わずにその人の人権を尊重することが国益につながるとは考えづらいかも知れないが、それが政治家の類いが考えている国益だとしても、政治家と言えども主義主張が違えば、何が国益なのかに関しては見解が分かれるかも知れず、人の人権より国益を優先すべきと考えている政治家がいるとすれば、ではその政治家が優先すべきと考えている国益とは何なのかがよくわからないし、何が国益になるのかと言っても、それがはっきりとわかるようなことにはならないかも知れず、それ以前にどちらかと言えば人権は国益ではなく公益に結びつく概念であり、しかも政治家が主張する国益とは、その政治家の私益に結びつくことも多いから、どうもその国益=国益を優先させたい政治家の私益となると、それよりは公益に含まれる人権を優先すべきだと思われるし、そういう意味では国益よりは公益を優先すべきだと思っておけば間違いはなく、国家の利益よりは公共の利益を優先すべきだと、リベラルな価値観を基にして主張したくなってしまうのだが、もちろんそれがそんなことを主張している自身にとっての建前上の利益でしかなく、根本的なところでは人は誰でも自らの私益を優先させるだろうから、しかもその根本的なところというのが、その人が置かれた個々の相対的な状況や情勢に応じて何を優先すべきかが異なってきて、何かを優先させている状況や情勢の中では、それが必ずしも根本的なところの利益を優先させているわけではなく、枝葉末節なところで優先させているとすれば、たとえそれが国益であっても、何やらその場の状況や情勢の中ではしっくりくるように思われる可能性もあり、そうであれば別に国益を優先させても構わないような気がするわけで、それが具体的にはどんな状況や情勢なのかと言えば、政治家の類いが政治的な判断を迫られるような状況や情勢となるかも知れず、それが場合によっては公益も国益も私益も同時に優先させたくなるような状況や情勢になってしまうと、どうしたら良いのか判断がつかなくなるかも知れないが、たとえ判断がつかなくても結果的にどれかを優先せざるを得ない成り行きに囚われてしまう場合もあるから、たまたまそれがそれらのうちのどれかになるかも知れないが、それもその時になってみないことにはわからないことかも知れず、それ以前に何を優先すべきかについて、事前に優先順位をつけているとしても、そうであるにも関わらず、その時になってみたら、案外自らの事前の判断など無効になってしまうかも知れないから、やはりその時になってみないことには何とも言えないのかも知れず、それも場合によっては自らの判断に逆らって優先すべきことが出てくるかも知れないし、その場で何をどう判断してみても、そんな自らの判断など簡単に覆ってしまうような状況や情勢というのもあるだろうから、何やら事前に持ち合わせているつもりの信念や情念にこだわらずに、臨機応変な対応が求められていることを自覚できれば良いのだろうが、そうなっても自分で納得できるような大局的な判断となると、最低限の心得として人権に配慮しておいて損はないし、そういう配慮が公益に結びつくと思っておけば良いのだろうが、そうでなくても政治家が持ち出してくる国益とは、その政治家の私利私欲から生じてきて、国の利益と政治家としての野望を恣意的に重ね合わせていると、たとえ国益を持ち出してきても、それが他の政治家の損得勘定と合致すれば自分の言うことを聞いてくれると踏んでしまうわけだが、それがまんざら見当違いではないことを、自身の欲得ずくの政治経験からわかっているつもりだろうが、そういう政治家には公益が何なのかがわかっていない可能性があり、無条件で公益=国益だと思い込んでいる場合が多いわけだが、それが全くの誤りであるはずもなく、公益と国益とで重なる部分があるはずだが、国益よりも公益の方が範囲が広く、自国の利益と他国の利益も含んでくると共に、自国の不利益や他国の不利益も公益に含まれてくるから、そんなのは国益に反すると思われて当然なのだが、具体的に何がそうなるのかというと、やはりそれが人権に関わってくることであり、公共の利益というのが外国人の利益にも配慮しなければならないから、それが自国の利益には結びつかずに、しかも自国の利益というのが幻想に過ぎず、それが自国の利益ではなく自国の政府の利益であって、政府の利益が自国の利益とはならない場合も出てくるから、その利益自体が誰の利益だとも言えないとなると、利益こそが幻想であり、国益なども幻想になってしまうわけで、ではそれに対して公益とは何なのかというと、公共の利益であるから特定の誰の利益とも言えない面も出てきて、この世界に存在する誰もが不利益を被らないようにするにはどうすれば良いかということになるわけだが、各国や各人の利害が複雑に入り組んでいる状況の中では、そんなのはあり得ないと思われるし、それこそが幻想に違いないのだろうが、そこで誰もが妥協し合い譲歩し合って、なるべく特定の国や人に不利益が集中しないように配慮しなければならず、そうした配慮が可能な限りで公益の遂行が可能となってくるわけで、それに反して特定の国の政府や人が、自身の利益を優先させると、公益が損なわれてくるから、そういうところで国益と公益とが一致しなくなってくるわけだが、要するに自国の国益を優先させる政府や政治家などがいるおかげで、他国の国民が困ってしまう事態がもたらされているなら、公益が損なわれていることになるわけだが、それは例えば他国の政府に配慮して、その国から逃げてきた外国人の難民申請を認めない場合もそうであり、その国との外交関係を良好に保つために、たとえその国の政府がその国の国民を苛烈に弾圧していても、見て見ぬふりを決め込むことになるなら、やはりそれでは国益には合致していても公益には反していることになるわけだ。


5月30日「曖昧な意図と意味」

 特に何を批判したいわけでもないのに、結果的に特定の何かに対する批判と受け取られるようなことになるとすれば、ではそれが具体的には何について語っているのかというと、それに対する批判となるような対象について語っているはずなのだが、それがそうは思われないとすると、では批判でないなら何なのかというと、批判を意図しているわけではなく、また批判という意味ではないようなことについて語っているつもりなのかも知れないが、その辺はどう受け取られようと知ったことではないから、たぶんそれを単純化すれば批判になってしまい、それに対する批判で構わないはずだが、それを強引にねじ曲げているように感じられるとすれば、その辺で妙なこだわりが生じているのかも知れず、そのこだわりというのが、批判とは受け取られないようにする工夫に結びつけば都合が良いのだろうが、そんな都合良く語ることなどできないから、やはり単純にそれに対する批判だと思われるぐらいで妥協しておくのが無難なところだが、そこでも変に語っている対象を意識してしまうと、批判だとは受け取られないように工夫を凝らそうとして、それが語っている内容のわかりにくさをもたらしてしまいそうだが、意図して語っている対象を特定できないようにしているわけではなくても、結果的にそうなってしまうなら、すでにそうなっている時点で意味不明なことを語っている可能性もあるから、批判ではなくなってしまうとしても、特にそれが不都合なわけでもなく、わざと意味不明を装っていると受け取ってもらっても構わないわけだが、結果的にそうなってしまうからといって、何か不都合が生じているとも思っていない限りで、かろうじて語れるようなことなのかも知れず、その辺のところでも結果的にどう受け取られようと知ったことではないのであるから、特定の何かを批判しているように装いながらも、それが的外れな批判に終始していると思われても構わないわけだが、では具体的に何を批判しているのかというと、政治に対する思い込みを批判しているのだろうし、またそれが経済に関する思い込みにも結びついていることに対しても批判を展開しているはずなのだが、そうは思われなくても構わないから、結果的にはそこからだいぶずれた内容となってしまってもいいわけだが、それに関してもあまりにも多くの屁理屈が世の中に出回っているのではないかと疑っているのだろうから、そういった屁理屈を批判しているように装いながらも、結果的にはそうはなっていなくてもいいわけで、それが批判ではなく称賛しているように装われても構わないわけだが、では何を称賛しているのかというと、例えば財務省に関する陰謀論的な内容を称賛していることになるだろうし、通貨の供給や国債の発行に関しても、まるでデタラメな内容だとは思えないにしても、何かそれに対する批判を小馬鹿にするような行為を称賛しているのかも知れず、それに関しても真剣には議論したくないわけで、議論するに値するような内容だとは認めていないわけだが、しかし何を議論しなければならないのかについてはそれなりに意見が分かれるところであり、実際に批判している人たちは、何とかして対立軸を強調するような成り行きへと議論を持って行きたいわけだが、どうもそれがおかしいとは言えないにしても、世界の実態を反映していないように思われてくるから、本気で議論するような内容にはなり難く、議論する以前に各国の実情に即して行われていることである限りで、それ以上の議論など不要なのかも知れず、それが政治に関する主張であって、経済政策を伴っていることであっても、そんなことは議論するまでもなく、なし崩し的に各国の政府が行なっていることであるから、改めてそれを正当化する必要もなく、ただうまくいかなければ批判されるようなことであるから、通常の財政状態でも批判されていて、そこからさらに経済が悪化してハイパーインフレなどを招くようなことにでもなれば、完全に経済の舵取りを失敗したことになるのだろうが、それもそうなった結果からわかることであり、経済状態が悪化しない限り政府の政策がうまく行こうが行くまいが、批判されつつも持ちこたえるわけで、結果的に政権が維持されていれば持ちこたえていることになるだろうから、そんな成り行きから何が言えるかというと、政治や経済に関して、何かそこに争点や対立点があるかの如き論調を装うような勢力の主張はまやかしであって、それを真に受けてしまうとまずいのであり、実態としては争うべきことや対立すべきことなど何もないと見なしておけば済むようなことなのに、あまりにもそういうところで特定の立場や主張を強調するようなことをやってしまうと、それが勘違いの原因となってしまうから、できればそういう迂回路へ誘ってくるような議論はスルーしても構わないだろうし、それでもそういうところにこだわらないと他との違いを見せられないような輩が、そういった方面へと議論を持って行こうとして、盛んに対立を促すことになるのだろうが、そんな人たちのペースに歩調を合わせてしまうと、他の方面がなおざりとなってしまい、場合によってはそちらの方が本質的な議論を構成するから、そういうミスリードに乗せられないようにするためにも、下手にそこで争って対立を煽ったりしてはまずいだろうから、そういう方面へと誘ってくる勢力に対しては、それなりの応対が必要だとしても、それが枝葉末節な方面であることは踏まえておくべきで、間違ってもそれがメインの主張とはならないように注意しておく必要があるわけだ。


5月29日「目眩しの疑惑」

 現状で何か気づいていないことがあって、それに気づけば何かの謎が解けるようなことになるなら、誰もがそれに気づこうとするのだろうが、実際には何に気づいていないのかもわからないのに、謎が解けるような期待など抱く成り行きにはならないはずだが、それ以前にもわからないことなどいくらでもありそうで、それに気づかないから何かを疑ってしまうわけで、では何を疑っているのかというと、現状で起こっていることが何かの目眩しなのではないかと疑ってしまうわけで、それに気づかせないように誰かが目眩しを仕掛けていると疑うなら、まさにそれが陰謀論になってしまいそうだが、実際にメディア経由でもたらされる時事的な話題となるのだから、そんな出来事が話題となっていること自体が、何か裏があるのではないかと疑って、そこから自分の都合に合わせた身勝手な妄想を抱きたくなってしまうのかも知れないが、誰が何を仕掛けているわけでもなくても、結果的にそう思われてしまうとすれば、単なる妄想癖でしかなさそうだが、そこで自分とは何の関係もなさそうな結果に一喜一憂すること自体が愚かさの表れで、そう思うようにメディアによって仕向けられているのではないかと疑うのも被害妄想の類いかも知れず、実際には妄想など抱く必要もないのに、なぜか妄想を抱いているふりをしているだけで、自分で勝手にふりをしているだけなのに、妄想を抱いていると思い込んでいるとしたら、頭がいかれていることになってしまうかも知れないが、ではなぜそのつもりもないのに妄想を抱いているふりをしなければならないのかといえば、そうしないと仲間外れになってしまうのが怖いからというわけでもないのだろうが、仲間意識を抱くこと自体も妄想の続きかも知れず、いったい誰に対して仲間意識を抱いているのかといっても心当たりがなければ、ただ単に孤独なだけかも知れないし、そういうところで話の辻褄が合わなくなってくるとすれば、誰が意図して妄想を抱くように誘導しているわけではなくても、たぶん世の中の大半の人々がメディア報道の類いによって疑いを抱くように誘導されていて、誰もそうなっていることを特に深刻な事態だとも思わないなら、それでも構わないのだろうが、誘導されている方面がくだらない方面だと思う人も結構いるかも知れないし、そんなふうに意識されているなら、それも誘導されているふりをしているだけなのかも知れず、誰もが示し合わせて何かの適当なタイミングで妄想を抱いているふりをしてみたり、さらにその場の成り行きで仲間外れになってしまうのが怖いと思っているふりをしてみたり、またその合間にメディアが報じる話題に関心を示しているふりをしてみたりと、本気でそう思っているわけではないのに、それが演技だとは気づかないから、本気でそう思っているふりをしているのだとすれば、そういった目眩しに煽られて我を失っているわけではなく、元から自我などないのかも知れないし、それが自我や自己でなければ何なのかといえば、世の中の慣習に応じるように調整された間に合わせの人格であり、社会によって個々の人々に類型的な人格が付与されているだけであるなら、どうということはないのだろうから、それでも構わないことになってしまうだろうが、他に何か問題があるわけでもなく、別にそれが問題だとは思わないようなところで問題が発生しているのだとしても、それを問題視するように仕向けられていると思い込んでいるのなら、やはりメディア報道の類いによってそう思わされているのかも知れないし、その程度のことだと問題を軽視するようにも仕向けられているなら、逆にそれが深刻な問題だと思っておいた方がいいのかも知れないが、それが目眩しのような仕掛けに惑わされてそう思わされていると疑っておけばいいのだとすれば、それほどのことでもないのかも知れず、しかもそこで話題となっているのが、例えば岸田首相の秘書官をやっていたドラ息子が何か良からぬことをしでかした責任をとって、秘書官を辞任する程度のことに関して、一喜一憂するように仕向けられているとも思えないのだが、どうせあと数十年も経てば、岸田首相のドラ息子や岸信千代という新人議員などが現状の麻生太郎や河野太郎のような存在になっていると予想するのも、そう予想するように仕向けられていると思っておいても構わないだろうから、それが馬鹿げた妄想であれば、やはりどうということはないはずことでしかないわけだが、そう思い込むだけでも中身が空っぽな人格を付与されていることの証拠となるわけでもないが、誰の人格が空っぽなのでもなく、誰もがありふれた人格を付与されていて、それが災いしているわけでもないから、自身がどんな人物でもないと言われるわけでもなく、その代わりに否定的な存在としてメディアの話題を構成しているだけで、これといってその役職にふさわしい業績が伴ってくるわけでもないから、優秀な人材であるはずもないのは誰もが承知していることである限りで、許容の範囲内の行為や行動になっていれば、それを取り立てて問題視する理由にもならないはずだが、それをあえて問題視すること自体が、何かの目眩しだと思われるはずもなく、そういう方面へと人々の関心を誘導させておいてから、その裏で何か良からぬ陰謀が巡らされているわけでもないところが、たわいない成り行きでしかないのだが、それが誰も困らないような話題であるなら、否定的な評価を伴って取り上げられるわけでもないだろうから、その程度では済まないようなこととして、深刻な事態に絡められながら問題視されている限りで、ちょっとだけマシに思われるのかも知れないが、実態としてもそれでは済まない事態になるような成り行きへと持って行きたいのだろうし、本来ならそんなことよりはもっと切実に思われるようなことへと意識を向けたいのだろうが、まずはそれに気づくように仕向けられているとしたら、なぜかそれに起因して目眩しのような仕掛けに惑わされていることになるわけだ。


5月28日「相容れない価値観」

 同じような内容を執拗に繰り返し主張する人によくありがちな習性は、その主張している内容に執念深く執拗にこだわっていることだろうが、そういった執拗さから離れて、何かその場の状況に合わせて臨機応変に対応しなければならないことがあるかといっても、すぐには何も思いつきそうにないが、何も思いつかなくても、どう考えても恒常的に優先させなければならないことがあって、それが執拗に繰り返し主張している内容の中で示されていることであれば、その場の状況に合わせた臨機応変な対応よりも優先させなければならないことになるわけだが、それが何かといっても、人によっても立場によっても変わってくることであれば、恒常的に優先させなければならないことにはならないわけだが、どう考えても優先させなければならないことというのが、全ての人にとってそうであるなら、確かにそれを優先すべきなのだが、それがわかっていながらはぐらかそうとしているなら、その人にとってはそれが優先されてはまずいことになるのだろうが、なぜ全ての人にとって優先すべきことを意図してはぐらかそうとするのかといえば、それが優先すべきことであるのをわかっていないと受け取られても仕方がないだろうが、結構それがわかっていない人が多いから、そういった状況に危機感を抱いて、それについて執拗に繰り返し主張することになってしまうのだが、実際にそうやって繰り返し主張されていることが何かということが、それなりに深刻な事態を孕んでいるように思われて、例えばそれが個人の人権や民主主義といったリベラル的な価値観だと、果たしてそういった全ての人が優先させなければならない価値観を否定する人や勢力が存在するのかというと、もちろん表向きには誰も否定はしないだろうが、なぜかリベラルという言葉に拒否反応を示す人や勢力が出てきて、それが保守を自認する人たちであると、何やらそこから奇妙な主張が始まって、それに伴って胡散臭い雰囲気が漂ってくるわけだが、そういった人たちの狙いが憲法改正であったり、緊急事態に関する議論であったりして、そういうやり方に対して危機感を抱くのは当然のことだが、そういうことをやっている当事者がそれに関してどう思っているなんて部外者には知りようがなく、大抵は否定的な憶測や推測を交えながら悪く言う成り行きになってしまうと、彼らが本気で個人の人権や民主主義を認めないような世の中を目指していると解釈すれば、彼らの正気を疑うしかないが、完全に認めないわけではなく、ある程度の制限をかけようとしていると解釈すれば、それでも構わないのではないかと思ってしまう人も出てくるかも知れないが、果たして現状で個人の人権が無制限に認められる世の中が実現しているかというと、そうではなく、なし崩し的に人権が制限されている実態があることは誰もが承知しているはずだが、それを憲法で保障しないと個人の人権が蔑ろにされてしまうような世の中だから、憲法で保障しなければならないわけで、それを世の中の実態に即してその場の都合に合わせて臨機応変に人権を制限することを認めてしまうと、人権侵害に歯止めがかからなくなってしまうからまずいわけで、そんな理由で憲法で人権を保障しなければならないことを誰もが理解しているかというと、もちろん理解していない人たちや理解していても人権を保障してしまうと都合が悪い人たちが、個人の人権に制限を加えるような憲法の改正を目指しているわけだが、それらの人たちが憲法の趣旨を理解していないことは明白であるから、そういう方面の憲法改正を目指すような人たちを信用できないかというと、信用できないわけではなく、それらの人たちが抱えているリアリティを伴った実感もそれなりに理解できるし、実際に人権に制限が加わるような事態に出くわしているわけだから、そういった世の中の実情に合わせて憲法を変えようとすること自体は理解できるわけだが、それでもそこで何を優先させなければならないかとなると人権の尊重を優先させなければならないわけで、そういうところで実用主義的な思考の人たちとは価値観が違ってくるわけだが、価値観が違うとしても彼らを信用できないわけではなく、それどころか彼らの考え方は理解できるのだが、信用できたり理解できるとしても、憲法の趣旨に照らし合わせると、彼らの意向を認めるわけにはいかず、彼らの意向が実現しないようにしなければならないし、個人の人権を尊重して保障する憲法を変えさせてはまずいわけで、そういう意味ではたとえ世の中の実情や実態に合わなくても憲法を守らなければならないということを理解してもらわなければならないわけだが、もちろん実用主義的な面を重視する人たちには理解されないだろうから、そういう面で価値観の異なる人たちとは絶えず対立することになるだろうし、そういった方面で憲法を変えようとする人たちを抑え込まなければならなくなるから、それが彼らの理屈ではうまく説明できないことになってくるし、納得させることはできないとしても、価値観の相違を伴いながらも彼らと共存していくしかないだろうから、そうであるなら憲法自体が誰もが納得できるような内容とはならないことも承知しておかなければならないし、納得できない人たちを納得させることよりも憲法を守ることを優先させなければならないだろうから、全ての人たちが納得できない憲法だとしても、たとえ世の中の実態や実情に合わない憲法だろうと、そういう方面で憲法を変えてしまうとまずいということを理解しておかなければならないわけだ。


5月27日「何ものにも迫られない心理状態」

 取り立てて現状を肯定しなければならないとも思えないが、それでも無意識のうちに自らが取り込まれている現状を肯定的に捉えているとすれば、少なくとも現状の中で自らが不利な立場や境遇とはなっていないと思うだろうが、不利か有利かといっても程度の違いがあるだろうから、ちょっとぐらい不利であっても、また少しだけ有利さを実感していようと、それが大したことはないと思っているなら、それが勘違いや思い違いではないなら、どうということはないのだろうが、またそれが政治や経済の方面とは直接には関係がないとすれば、何なのかというと、心理状態として有利とも不利とも言えない状態であれば、取り立てて現状を否定的に捉える必要などなく、ではそんな現状を肯定しなければならないのかというと、しなければならないとかせざるを得ないとか、何かを迫られているわけでもなければ、やはり何でもない部類に入るような状況だろうが、確かに現時点ではそうだとしても、いつそれが何かのきっかけから変わってくるとも限らないから、現状ではそうだとしても安心はできないはずだが、安心できない要因があるとすれば、例えばそれを政治や経済の現状に照らし合わせて、何かそこに不満点を見つけようとするなら、実際にひどい政治が行われていて、ひどい経済状態となっていると感じているような人とどう違うのかといえば、そういう方面でのひどさには同意するし、そうしたひどさをどうにかしなければいけないとも思っているだろうが、どうにかしようとして実際に行動しているのかというと、ただ選挙でどうにかしようとしている政治勢力の立候補者に投票しているぐらいではどうにもならないと思っているなら、それも程度が違っているわけで、その程度の行動ではどうにもならないと思っているのに、その程度の行動にとどめざるを得ないなら、行動にも限界があるということであって、しかもその程度の行動にとどめていても構わないような現状であれば、それがどうにもならなくても構わないわけではないにしても、実際にその程度の状態を放置しているなら、それで間に合っているわけで、そんな現状は受け入れ難いと思っていても、そんな受け入れ難い状況を放置しているなら、心の中では受け入れ難いと思っていても、状況証拠的には受け入れていることになるだろうから、思いと実態との間に落差があって、その落差が取りも直さず自らが取り込まれている現状そのものなのであり、その現状をどうすることもできないと思っても、そんな思いを裏切ってどうにかしようとしていて、何かのきっかけから思考と行動が伴ってくれば、それが自らの活動に反映されるのだろうが、反映されているのにそれに気づかない場合もあるから、そうなるとそこで勘違いや思い違いも生じてくるはずだが、そういうことも含めて活動が成り立っているから、勘違いや思い違いも活動の中でそれなりに機能していて、勘違いや思い違いに基づいて思考したり行動しているから、それが自身の都合や事情を無視するような思考や行動に結びついてくると、場合によってそれが起因して自らを窮地に陥れることになるのだろうが、そこでも勘違いや思い違いに囚われていると、自身が窮地に陥っていることにすら気づいていないことにもなってきて、しかもその方が自身にとっては都合が良いとなってくると、果たしてその都合とは何なのかということにもなってくるだろうが、そういうところであまり深く考えない方が身のためなのかも知れず、下手に事態を正確に把握しようとすると、かえって焦りを生んで、それが災いして自ら墓穴を掘るような事態を招いてしまったら身も蓋もないわけだが、そういう場合にはその場の状況が自らに勘違いや思い違いをさせるように仕向けていると捉えておけばいいのかも知れないが、それ以前に勘違いや思い違いをしていることに気づいていないこと自体が、自らにとって致命的な誤謬とはなっていないことが不思議でならないのかも知れないし、もちろんそれにも気づいていないわけだから、不思議でならないとも思っていないし、実際にはそこで暴走しないように二重にも三重にも安全装置がかかっていて、その場で抱いている勘違いや思い違いが自らを守っていることになり、なぜそれで守っていることになるのかというと、勘違いや思い違いをしているから、その程度で済んでいるということであって、それがないと大変なことになってしまうとすれば、要するに現状の中で多くの人々の勘違いや思い違いが作用して、その程度の現状をもたらしていると捉えておけばよく、逆に誰もが現状を正確に把握してしまうと、その程度では済まなくなって、場合によっては暴動や騒乱などが起こるような状況なのかも知れないが、誰もがそうするのを思いとどまっているとすれば、やはりそこには勘違いや思い違いが作用しているから、そうはならないような現状がもたらされていて、中にはそうならないことを不思議がっている人もいるとすれば、そんな人には勘違いや思い違いが生じていないのかも知れないし、そんな人が世の中に多ければ多いほど、暴動や騒乱などが起こる確率が高くなるのだろうが、そうであるなら果たして誰もが暴動や騒乱を起こすように促されている状況とはどんな状況なのかといえば、実際に多くの人々が政治や経済などの方面で主導権を握っている人や勢力に騙されていない状況なのかも知れず、彼らが日頃からついている嘘がばればれになってしまうと、実際にそうなってしまうのだろうが、では暴動や騒乱が起こらない現状の中では、未だに彼らの嘘がばれていない状況なのかというと、彼らが本当に嘘をついているのかということに関しては、現状の中で彼らに対して常に批判的な態度や姿勢で言動や行動を起こしている人たちにとってはそう思われるから、彼らを絶えず批判するような状況になっているのだろうが、それが彼らの勘違いや思い違いを生んでいるとすれば、まだ嘘がばれていないと思ってしまうだろうが、それが実際にも勘違いでも思い違いでもなければ、未だに彼らは自分たちが嘘をついているとも思っていない可能性さえ想定できてしまうが、実態としてはどうなのかというと、日々嘘がばればれなのに、その嘘の程度がその嘘によって騙されている人々に暴動や騒乱を起こす気など起こさせない程度だと思われているかも知れないが、実際にはそれが騙されている人々の勘違いや思い違いである可能性も捨てきれないわけだ。


5月26日「商品の性質」

 経済活動は人が生きていく上で必要になってくる物や情報やサービスの生産と流通と消費のサイクルそれ自体であり、その中で取り扱われている商品が、単体として物と情報とサービスとに分かれている場合もあるが、物が商品であっても、その物が生産されて流通して消費される過程で、その物に関与してくる情報とサービスも絡んでくるから、商品自体は物であっても、その物には情報もサービスも含まれていると見なしておいた方がよく、そういう意味で商品とは物と情報とサービスの混合物と定義できそうだが、それが機械であればシステムとして内部構造があって見た目がそうであるから、商品とはそういうものだと理解できるが、機械でなくてもその商品に情報とサービスが付随していることを端的に表しているのは商品の価格であり、価値の尺度として数値情報が付いているから、その商品が生産される過程でも流通する過程でも、労働としてサービスが加わっているから、それだけ費用が掛かっている分が価格に添加されているわけで、もちろんそれに利益となる分も上乗せされていて、その商品の価値を示す情報として示されるのは、費用+利益となるわけだが、その商品が消費される過程で価値がゼロとなるまで消費され尽くされるかというと、物によってはそうはならないし、食料品なら消費すること自体が食べて消化することだから、食べてなくなれば価値がゼロになるはずだが、もちろん食べた人のエネルギーとなって、そのエネルギーを消費する過程で労働して、新たに価格を伴った商品を生産したり流通させれば、その食料品の価格を示す価値情報が労働サービスを経由して別の商品の価値情報へと移行したことになるだろうから、そうやって物や情報やサービスを含んだ商品の生産と流通と消費のサイクルが回ったことになるはずだが、そこで何が欠けているのかといえば、投資という概念が欠けていて、商品は消費するために買うのではなく、投資するために買うのであり、買った商品を売って儲けるために、何をしなければならないのかというと、物や情報やサービスを投資しなければならないわけだが、その際には買った商品の価値を高めるために加工するわけだが、加工する過程で物や情報やサービスが費やされて、物に情報とサービスが加わって価値が高まると捉えれば納得できるかも知れないが、その過程で利益も上乗せされて、加工にかかった費用の分に加えて、さらに利益の分だけ価値がプラスされた状態で売れれば、そこで実際に利益が出るわけだが、その商品を買う側が利益が出る価格で買ってくれれば問題ないわけだが、価格に見合うだけの価値がないと判断すれば買ってくれないし、買ってくれない限りは利益が出ないわけで、買ってくれないと困ってしまうから、買ってくれるように工夫を凝らさないとならないし、実際には普通に売買されている価格で利益が出れば、何の問題もないのだろうし、結果的にはそういう売買が成立している限りで、資本主義市場経済が回っていることになるわけだが、だからといって、資本主義市場経済をうまく回すためにはどうすればいいかという設問に対して、これといって納得できるような正解があるかというと、そんな正解に基づいて政府の経済政策が作成されることになればわかりやすいだろうが、実際に政府の経済政策がうまくいかずに批判されているなら、それが間違っていて、ならば批判している人たちには正解がわかっているのかというと、もちろんそんな主張をしているわけだから、その主張の中で正解が語られているはずで、実際にそんな主張をしている政治勢力が政権を担って、正解に基づいた政策を実行してうまくいけば、それが正解であることが証明されるわけだが、少なくとも現状で把握されているのは、そんな単純な成り行きにはなっていないということであり、それどころか結果が必ずしもうまくいっていなくても、強引にうまくいかないやり方を継続している面もあるから、それを批判するには事欠かないわけで、うまくいかないからいくらでも批判できて、しかも批判されながらも無理矢理でもやろうとして、実際にやってしまっているから、それなりに弊害が生じているわけで、そういうところが不合理で理不尽なのはわかりきっているが、それをやめられない事情があるから、そんな事情がある限りはやめようとしないし、やめたくてもやめられないわけだが、それも結果的にはやめられない勢力が世の中の主導権を握って、強引にうまくいかないやり方を続けている実態がある限りで、そういうやり方の犠牲となっている人たちが抗議の声を上げることになるだろうし、そんなことはやめて欲しいと訴えかけているのだろうが、訴えかけるだけではやめてくれないのもわかりきったことであり、実際に権力を握ってやめさせるようなことを実行する必要に迫られていて、だから世界中でやめない側とやめさせたい側とで争いが絶えない状況となっているわけだが、それも実態をわかりやすく単純化して説明すればそうなってしまうが、もちろんそう簡単には単純化できないから、そんなわかりやすい説明では納得できないだろうし、実際に主導権を握っている勢力としては、そんな説明は間違っていると主張したいだろうから、その真偽も確かではないわけだが、では納得できるように説明することが困難なのかというと、その辺も微妙で、ある意味では説明に納得する必要はなく、納得できるような説明も必要とされてないのかも知れないが、では結局何なのかというと、結果的に実行できていることがそこで行われていることであり、少なくとも実行できない限りは、どんなに説得力のあることを説明できても、それはフィクションにとどまるのではないか。


5月25日「仮定の話」

 よく〇〇しても政府は財政破綻しないという主張があるが、逆に政府が財政破綻する時というのは、思いがけないことが起こる時であり、財政破綻ということが予期せぬことが起こったということであって、事前にそれがわかるとか予想がつくようなことではなく、どんな勢力でも政府を財政破綻させようとして何かをやるわけではないから、それを先回りして、仮定の話を基にしてもっともらしい主張を練り上げること自体が、本末転倒なのかも知れないが、実際の順序としては、どこかの国の政府が何かのきっかけから財政破綻に追い込まれたり、その国の経済がハイパーインフレとなってしまったりすると、そうなった原因としてもっともらしい原因を挙げることができるわけで、それをまだ財政破綻もハイパーインフレも起こっていない段階で、このままの政策を続けて行けば財政破綻するとか、ハイパーインフレになるとか、そんな警告を発する識者の類いが登場する場合がよくあるだろうが、そういう主張もやはり仮定の話だから、何か主張の中身に説得力を感じても、実際にそうなってみないことには半信半疑のままで、その種の警告も大して重要だとも思えないわけだが、では何が重要なのかといえば、予期せぬ事態が起こった時に、どう行動すべきかが重要だと思われるが、前もってそれがわかっているわけでもないだろうから、そんなことが起こった時に、うまく立ち回った人や団体などが、そのような事態を利用して、その場の主導権を握るようなことになるとしても、だからといって政府はそんな事態にならないような政治を行わなければならないとか、そういうことではなく、財政破綻やハイパーインフレなどならないような政治を行う以前に、少なくともそんな極端な事態に追い込まれる危険性を想定しながら政治や行政を行なっているわけではなく、もっと通常の経済状態の中で、これまでの延長上の範囲内で政治や行政を行なっているわけだから、そうなっている限りで財政破綻ともハイパーインフレとも無縁なのだが、そんな通常の情勢の中では何か極端な事例を持ち出すような主張に意識を引き込まれるようなことにもならないわけで、そんな極端な事例を持ち出す方がどうかしていると思う程度で済んでしまえば、財政破綻ともハイパーインフレとも無縁な範囲内で構成される主張の方がまともだと思うかも知れないが、もちろん人の気を引くには極端な事例を持ち出した方が印象に残るだろうから、人の気を引きつけるためにそんな事例を持ち出していると解釈しておくのが妥当なところであり、そういう意味ではその種の主張は現状を反映した主張ではなく、わざと現状からかけ離れた極端なことを主張していると解釈しても構わないわけだが、そう思われてしまうと話に説得力がなくなってしまうから、話に説得力を持たせるために工夫を凝らす必要が生じてきて、ではどんなふうに工夫が凝らされているのかというと、現状の否定的な面を強調したり誇張して、そうなっている原因を現状で主導権を握っている勢力のせいにしながら、現状の中で不満を抱いている人たちの共感を誘って、そんな人たちから支持や賛同を取りつけようとしているわけだが、それが煽動者やポピュリストの戦略や戦術になっていることは言うまでもないことだが、現にそんな人たちが世の中に出現していることと、実際に世の中が危機的な状況になっていることとがどのようにリンクしているかというと、実際に世の中が危機的な状況になっているから、その種の煽動者やポピュリストが出現したと捉えるのが自然な成り行きだと思うかも知れないが、どうも実際はそうではなく、すでにこれまでにも何度も世界的に危機的な状況を経験しているから、そうした成り行きの中で次第にその手の危機には人々が慣れてしまって、ちょっとやそっとの危機では何とも思わなくなってしまったから、危機を煽り立てる側でもそれなりに工夫を凝らすことが必要になってきて、もちろん意識して工夫を凝らしているわけではなく、すでに先人による危機の煽り立てを体験したり経験していて、世代が離れてしまって体験も経験もしていなくても、そういった体験談や経験談が書物や映像表現などとして世の中に出回っているから、そうしたメディア表現を踏まえた上で、それを前提としてさらに大衆を煽動するような主張をする必要に迫られているのであり、それを意識せずに無意識の中で消化しつつも煽動者やポピュリストとして覚醒しているわけだから、一筋縄ではいかないのはもちろんのこと、何か芝居がかったわざとらしさと共に主張が行われているから、実際の危機的な状況と見られている状況とは少しずれていて、それなりに批評的な迂回がある分、そこに彼らが意図せずに構成するフィクションも介在してきて、そういう部分をどう受け止めるかで、主張からもたらされるリアリティの強度も変わってくるのだろうが、すでにそうなっている時点で感覚をはぐらかされていて、実際に体験しつつあるのが本物の危機ではなく、まやかしやごまかしの危機と言っても、危機には違いないのだが、その程度や傾向が以前の危機とはかなり違っているから、危機について語る言説も、その内容と実感が一致していないようにも感じられて、どう表現してみてもしっくりこないような齟齬感が伴ってくるわけだが、たぶんそれが文明の厚みであり、直接それを体験できないようにされてしまっているわけで、その代わりに体験しているのが冗談のような危機のパロディのような茶番劇なのかも知れないが、それを否定的に捉えてしまうと勘違いの原因となってしまうから、否定せずに肯定できるかといっても、どうしても茶番劇を批判したくなってしまうから、実際に体験しているのはそんなものではないと主張したくなってしまい、何かそういうところで茶番劇に足下を掬われてしまって、そんなまやかしやごまかしには惑わされないだの騙されないだのと強情を張るようになってしまうわけだ。


5月24日「マネーゲームと経済活動の差異」

 マネーゲームというと聞こえは悪いが、何かそこで幻想を抱いている人が少なからずいて、マネーゲームに参加する人が誰でも勝てるわけでもないのは、誰もが承知していることだが、果たして経済活動がマネーゲームなのかは、そういう面もあることは確かだとしても、経済活動によって誰もが生きている現実があるわけだから、少なくともマネーゲームの勝者だけが生き残れるわけでもなく、確かに中にはマネーゲームに勝って大金を手にすることになるごく一握りの勝者も存在していることも事実なのだろうが、そういうことだけがマネーゲームの全てではないし、マネーゲームに参加している誰もが投機的なバクチまがいの行為に手を染めているわけでもないだろうが、やっていることにもやった結果にも人それぞれに程度の差があり、中にはバクチまがいのことをやって破産したり、犯罪に手を染めて破滅する人もいるだろうが、それはマネーゲーム以外でもそうなる可能性があるわけで、そうなってしまう人が出てくるからといって、マネーゲームの全てを否定するわけにもいかないだろうし、経済活動の中でマネーゲームが占める割合がどの程度になるかも、その分野によって程度に差が出てくるだろうから、マネーゲーム自体が経済活動の本質というわけではなく、あくまでも経済活動の結果として生じてくる傾向に、マネーゲーム的な面が著しいところも出てくるとしても、それとは別に経済活動の本質的な部分が何かといえば、物や情報やサービスの生産と流通と消費のサイクルになるだろうが、その中でも金融的な分野での株や債券や為替に絡んだ売買や貸借などの取引がマネーゲーム的な様相を呈するわけだが、そこに政府が発行する通貨や国債なども絡んでくると、経済活動の本質的な部分である物や情報やサービスの生産と流通と消費とはかけ離れてくるわけでもないが、何か政府が通貨や国債の発行量や額やそれに伴って設定する金利を上げ下げして調整することによって、経済活動をコントロールできるかのような幻想も生じてきて、そういったコントロール自体もマネーゲームに含まれてくると解釈するなら、何かマネーゲームと経済活動の主従関係や原因と結果の関係が逆転しているかのような印象も生じてきて、そんな幻想を抱いた政治家の類いが、通貨や国債の発行量や額や金利の率を調整すれば、経済活動をコントロールできると思って、実際にその種のマネーゲームにのめり込んでしまうとどうなるかというと、投機的なバクチまがいの行為に手を染めて破滅してしまう投資家の類いと同じ運命を辿ると予想できるわけでもなく、そういう根拠の定かでないアナロジーを信じるわけにもいかないが、ここ数十年間でも政府がコントロールできなかった偶発的な出来事や事件によって経済活動や経済情勢が左右されてきた面も無視できないし、それが不動産バブルやITバブルや金融バブルや戦争やパンデミックや大規模な自然災害などだが、そういった一国単位の範囲を超える出来事や事件や現象などと世界経済の浮き沈みが密接に結びついている事実があり、それだけでも政府のコントロールを超えて世界に作用や影響を及ぼしているわけだから、政府が政策によって経済を制御するようなこととは、かなり実態がかけ離れてくるわけだが、それでもそんな事態に対処するには、通貨や国債の発行量や額や金利を調整しなければならないし、実際に予算を組んで公的な事業を行うことにもなるだろうから、経済的な変動への対処や対応は絶えず行なっているわけだが、それが一定レベルで効果を上げることもあるだろうから、全くお手上げ状態ではないはずだが、そんな政府のやり方を批判する人たちは、絶えず限度を超えたこと主張するわけで、要するにもっと通貨や国債の発行量や額を増やせ、もっと金利を下げろと主張して、実際にもそんな傾向に従って、各国の政府が金融緩和的な政策を推し進めた結果として、世界的に現状のようなことになったわけだが、そんな現状を批判する人たちの中でも、まだ足りないからもっとやれと主張する人たちのことを、積極財政派と呼ぶのだろうが、もちろんそんな積極財政派が批判しているのが緊縮財政派となるわけだが、果たしてそれが限度を超えた主張になるか否かは、実際にそんなことを主張する勢力が政権を担って、自分たちの主張を実行に移して見ないことには結果が出てこないだろうが、そういう人たちが考慮に入れていないことが何かといえば、やはり偶発的に起こる政府の統治の範囲を超えた世界的な出来事や事件や現象となるわけで、それが起こることによって世界経済が好況になったり不況になったりして、各国の政府がそれへの対処や対応に追われることになるわけだが、実際に政府の力の及ぶ範囲を超えたことが起こっているのに、政府はそれに対処したり対応したりしなければならないわけだから、それ自体が政府のコントロールを超えているから、当然のこととして完全にはコントロールできないわけで、それでもコントロールしようとするから、それなりに無理な面も出てくるわけだが、そういうところが政府に対する批判に使われるだろうし、批判する側はうまくいっていない面を突いて批判するわけで、だからといって無理な対処や対応を強いられている政府に同情して、批判に手心を加えるのもおかしいし、うまくいっていない面は批判するのが当然なわけだから、批判する方がおかしいわけではなく、批判するような成り行きになってしまうわけだから、それをどうすることもできないし、それに対してはうまく行くように努力するしかないだろうから、政府はそんな対処や対応を続けるしかないし、それがうまくいかなければ批判されるしかないわけだ。


5月23日「判断の相対性」

 何か間違っていると思うのは、それがそれほど間違っているわけでもなくても、違和感を覚える程度でそう思われるなら、間違っているとしても大したことではないのかも知れず、それでも間違っているか否かが、その場その時の世の中の状況や情勢次第で決まってくるように思われるとしたら、それが相対的なその場の成り行きからそう思われるのだろうから、その時は間違っていると思われても、そこから何らかの成り行きでその場の状況や情勢が変わってくれば、そうは思われなくなる可能性があり、その場では確かに間違っていると思われても、それがその場だけで間違っていることになれば、他ではそんな判断が通用しない可能性も出てくるから、その場だけの判断を絶対視する必要もないわけだが、その間違っていると思われることが具体的にどんなことなのかということが、とりあえずその場では重要なのであり、もちろんそれが重要だと思われること自体も、間違っている可能性もあるわけだから、その場ではそれが重要だと思われても、そこから状況や情勢が変わってくれば重要ではなくなってくる可能性もあるわけだから、その場では重要だと思われる重要性というのが当てにならない場合も想定しておくべきなのかも知れず、だから識者の類いがその場で強調するようなことを信じる気にはなれないわけだが、なぜ信じる気にはなれないのかというと、それが間違っているように思われるからだが、もちろんその場では間違っているように思われるからといって、それがその場だけの判断で間違っているように思われるかも知れないから、そんな自らの判断も相対的なものでしかないわけだが、一方でその場の成り行きに応じて判断しなければならないように思われることもあるから、そういうところでうまく立ち回らないと、場合によってはおかしな事態に陥ってしまうこともあり、だからといって、ではそれがどのような場合なのかといっても、それを説明している場とそれを実践すべき場が違うなら、説明には納得できないし、説得力のない説明になってしまう可能性もあるから、そんなことをあえて説明する必要もなければ、それを説明するタイミングなどその場ではない可能性まであるから、ぶっつけ本番でその場でやってみてから、それがその場にふさわしい行為か否かが、その場でわかってきたり、その場ではわからなかったりするのかも知れず、しかもその場にフィットするようなことがたまたまできたとしても、そんなことができた人を有能だと賞賛してみたりするような成り行きになる場合もある一方で、その場に居合わせた誰もがそんなことは全く気にしない場合もあるだろうから、そこでもその場でその人が何をやったのかが重要になる場合もならない場合もある一方で、何をやったところで、もちろん何でもやれるわけでもないから、やれることは限られてくるのだろうが、見方や視点を変えれば、その人がその場で何をやろうと、その人がやったことであると同時に、その人がその場でやらざるを得ないことが何かということが、その人の行為や行動や言動を限界づけたり限定づけている限りで、その人がやったことをああだこうだと言ってみても、大してそれが重要だとも思えない可能性もあって、その人がその場ではそういうことしかできず、そんなことしか言えないと見られているなら、その人がその場で何をやっても何を言っても、誰も何も驚かず、何のサプライズもなければ、それが気にも留めないようなことになってしまうのだろうが、そうなることを誰が望んでいるわけでもなくても、結果的にはそうなってしまうなら、その人がその場の状況や情勢の中で、やるべきことをやったり、言うべきことを言ったことになるかというと、たぶんそうではない場合があり、その場では人を驚かすようなことをやってのけたり、言ってのけないとならないような可能性もあるから、そういうことを期待されている人なら、そんな期待を敏感に感じ取って、人々の期待に応えるようなことをやったり言ったりするわけで、そういうことを行うような演出がされている場合もあるから、そんな演出が見え見えな状況や情勢であれば、人を驚かすようなその場の演出を真に受けるのも、何かわざとらしくも予定調和な気がして、実際に誰かがそんな期待に応えてサプライズなことをやってのけたり言ってのけたりしたところで、せいぜいがその場の空気を読んで気を遣って驚いたふりをするぐらいな反応になってしまうのかも知れず、そういう演技に慣れてしまうと、いったいどこからどこまでがその種の演技なのか否かがわからなくなってしまうわけで、しかも演技している当人も自身が演技していることに気づいていない可能性もある限りで、それが動作として自然に感じるなら、それでも構わないような気になってしまうのだろうし、それが自然な言動であるように感じてしまったり、自然な考えや思いであったりするようなら、もはや演技でも何でもなく、実際にそう考えたり思ったりしながらそれに応じた行動や言動が伴ってくるわけで、現状の日本で多数派を占めているような人々の考えや思いなどもそうである可能性も捨てきれないから、たとえそれが間違っているように感じられるとしても、そういった行動や言動を演じさせるような成り行きになっていると見なすなら、それなりに納得できるような状況や情勢になっていて、だからそれを集団催眠や集団洗脳と見なすこと自体も間違っていて、そんな大げさな仕掛けが施されているわけではなく、極めて自然な成り行きとしてそうなっていると状況や情勢を捉えておけばいいのかも知れず、しかもそれが自然な成り行きのように感じられるとしたら、特定のどんな勢力が人々に向かってそうするように仕向けているとしても、そんな勢力自体も他の何によってそう仕向けられているわけでもなくても、それが自然な成り行きに感じられるように、自ら進んでそう仕向けられているように演じていると見なしておけばしっくりくるようなことなのかも知れない。


5月22日「茶番劇の当事者の言い分」

 現状で誰も予期しない事態に直面して狼狽えているつもりもないだろうが、たぶん多くの人々がわかっていないことや気づいていないことがあるから、実際に誰もが予期しない事態に直面していると思っておいても構わないだろうが、そのわかっていないことや気づいていないことというのが、それについて直接語っている人が一番わかっていなかったり気づいていなかったりするのかも知れず、しかもそれについて事ある度に執拗に言及しているような人にそんな傾向があるとすれば、何か灯台下暗しのようなことであり、たぶんそれというのがその種の人たちが絶えず批判的に取り上げていることなのかも知れず、毎度のことのように取り上げていることの中に、彼らがわかっているつもりでわかっていなかったり、気づいていることの中に気づいていないことがあり、それが具体的にどんなことなのかといえば、彼らの期待や思惑を裏切っていることなのだろうが、そんな成り行きが彼らを窮地に陥れるかというと、場合によってはそうなることもあるのだろうが、意外とそうはならないから、それについてわかっているようでいてわかっていなかったり、気づいているつもりなのに気づいていないことであったりするから、そのせいで彼らが自業自得気味に自滅してしまう恐れもある一方で、それが彼らにとっては寝耳に水の出来事であったりするのかも知れないが、実際にそんな事態に直面してしまうとどうなるかというと、それが現状で起こっていることであって、今まさに彼らが自滅するような事態に陥っているのだろうが、なぜそれがわかるかというと、何か四面楚歌のような八方塞がりの事態に陥っているから、それが自滅の危機に陥っているように見えてしまうわけだが、その一方でどうも実際にはそんな深刻な事態でもないようにも見えているから、大して危機意識も感じていないようにも見えてしまい、その証拠に相変わらず全方位に向かって罵倒するようなことを続けているつもりなのだろうが、罵倒するようなことを繰り返しているから、感覚が次第に麻痺するようなことにもなってしまい、それが彼らにとっての自滅を招いているのだが、自滅という状態こそが、なぜか言葉の正確な意味での自滅ではなく、自滅するほどの深刻な事態ではないところが、何かすっぽ抜けているような感じで、自滅ごっこのようなたわいない遊びの延長上で成り行きが進行中なのかも知れないから、狼狽えるようなことでもなく、その程度では気が抜けてしまうような結果がもたらされているようにも感じられて、それとは気づかない限りで茶番劇の登場人物のような役回りを演じてしまっているから、それなりに居心地の悪さを覚えているはずだが、そこで強がってしまうとそんな感覚にも気づかないことになってしまうから、ひどい仕打ちを受けて心の底から怒りが込み上げてくるように感じられるのかも知れないが、それが俳優の演技のような様相を呈してしまうから、なるほど茶番劇の中でそんな役回りを演じてしまっていることに気づくべきなのだろうし、実際に茶番だ茶番だと騒いでいるのだから、その茶番の外側にいると思ってしまうから、自らが演じている役回りに気づいていないことになってしまい、そうなっていることからして何か感覚がずれているはずなのだが、当人たちは自分たちが茶番劇の当事者となっていることに一向に気づかないのだから、かなり間抜けな事態に陥っているわけで、何よりも彼らの語っている内容が、すでに過ぎ去った一度目の悲劇の繰り返しにしかならないから、今まさに体験しつつある二度目の茶番劇の実態からずれてしまっていて、二度目の茶番劇を体験しているのに、それについて語ろうとすれば、一度目のすでに過ぎ去った悲劇についてしか語れないところが、まさに茶番劇の茶番劇たる所以であることに気づけないし、自分たちが語るべきことがすでに過ぎ去った一度目の悲劇ではなく、今まさに自分たちが体験しながら、そこで割り当てられた役回りを演じつつある二度目の茶番劇について語らなければならないことをわかっていないわけだが、語ろうとすれば悲劇しか語れないわけだから、語る役回りにはなれず、その代わりにただひたすら茶番劇を演じることしかできないのであり、それも茶番劇の茶番劇たる所以なわけだが、ではそんな茶番劇を語るにふさわしい人物が、この先いつ登場するのかといえば、もうすでに登場していて、現に今まさにここで彼ら自身が体験しながら演じつつある二度目の茶番劇について語っているつもりなのだが、果たしてその内容を正確に語っていることになるかというと、そんなことができるわけでもないとすれば、では今語っている内容が何なのかというと、少なくとも茶番劇の内容については語っておらず、その代わりに、なぜそれを語ろうとすると、茶番劇ではなく悲劇について語ってしまうのかについて語ろうとしているわけで、それを茶番劇だと批判してしまうこと自体が彼らにとっては悲劇なのであって、彼らは茶番劇の外部から茶番劇を演じている人々に向かってそれが茶番劇であることを知らしめようとしていること自体が茶番であることに気づいていないのであって、実際には彼らこそが茶番劇に巻き込まれているのはもちろんのこと、意図せずに茶番劇に巻き込まれている自分たちをまるで悲劇の主人公の如くに語ろうとしてしまうから、そう語ってしまうこと自体が茶番劇ではなく悲劇について語っていることになってしまい、それも怒りにまかせて語ってしまうから、茶番劇としては笑えないし、実際にも彼らにとっては笑い事ではなく、まさに悲劇そのものでもあるから、笑いよりは怒りや悲しみにまかせて語らざるを得ないのであり、茶番劇の中でヘラヘラ笑っている場合ではないと思うしかないわけだ。


5月21日「将来のない国」

 ビジョンとは目指している将来の姿を示すことらしいが、ビジョンが欠けていることが何を意味するかというと、それが何のビジョンなのかがよくわからなければ、場合によってはビジョンなど要らないと思われるかも知れないが、そうであっても政治家の類いであれば、国の将来の姿を肯定的に語って見せるのがよくありがちな態度となるだろうし、それも誰もが思い描くような無難でありふれたビジョンを提示しておけば、その程度のこととして馴れ合いの関係にある支持者や支援者には安心されるだろうから、要するにビジョンの中身に魅力を感じるとか実現性があるとか、そういうことではなく、中身などどうでもいいわけでもないが、それよりは無難でありふれたビジョンを語る政治家に安心できるということであり、それで構わないなら、それで構わないような状況となっていれば、安心してそんな政治家を抱えている政治勢力に政権をまかせられるということであれば、そんな政権が長期的に安泰である国の将来など何も期待できないような気がしてくるかも知れないが、それで構わないと言ってしまうと、何かわざと見え透いた嘘をついているかのように受け取られてしまうが、そういうところが微妙に感覚がずれていて、政治家が語る将来の国のビジョンなどに期待している人など誰もいないような状況というのが、その国の可能性のなさを示していると共に、それが何の可能性なのかと言えば、どうでもいいようなビジョンを語る政治家の思い通りになる可能性のなさを示していると言えるかも知れず、それで構わないなら、そんな国の将来の可能性ではなく、そんなことには無関心な民衆の可能性というのがどうなる可能性なのかと言えば、魅力の感じられない政治家の類いの言動に煽られてどうにかなるような可能性ではなく、人それぞれにその人が抱えている事情や経緯に応じてそれなりに生きていく可能性になればよく、それが他人から見て羨ましいと感じられるような可能性とも限らないだろうから、良くも悪くもどちらでもあるような可能性になるだろうが、国の将来など憂う暇のない人たちが大勢いるような国というのが、活気あふれる国であれば、その国の政治家もそれなりに身の程知らずな野望を抱けるような感じになってくるだろうが、現状の日本がどうなのかというと、たぶんその国の政治家を見れば、そうではないことが一目瞭然となっているのかも知れず、しかもそれで構わないような雰囲気が日本の現状から感じられるようなら、少しはまともな成り行きになってきたと言えるのかも知れないし、政治家が油ぎった野望など抱くとろくなことにはならないから、それよりはどうでもいいような将来のビジョンを語ってお茶を濁す程度のことで構わないのかも知れず、また国力がどうのこうのではなく、国の内外の民衆の生活や人権に配慮した政治をやってくれるぐらいで構わないと言ってしまうと、それでは困ると感じる人も出てくるだろうが、政治に関心を持っている人ならそれ相応の幻想を政治に対して抱いているだろうから、そういうところは致し方ないだろうが、そういう面を割り引いてみるなら、現状の政治に期待するようなことは何もないのかも知れず、むしろ政治に何かを期待するのは筋違いな面もありそうで、それが何かといえば、期待するのではなく、逆に政治家の言うことに惑わされるようなことがあってはならないと思っておいた方がいいのかも知れず、さらには政治家を批判している人たちの言うことを真に受けるのも面倒なら、政治に対して無関心を装えばいいのかというと、どうもそうではなく、素直に応じる必要がないのであり、絶えず疑いの眼差しを向けておけば事足りるわけでもないとしても、一筋縄ではいかないことを肝に銘じておくということでもないだろうが、少なくとも直接的に応じるような成り行きにはならず、各国の首脳が集まって会議を開くような政治ショー的なイベントに関心を抱く必要もない代わりに、そんなことが行われている現実をそれ相応に受け止めておけばいいと言ったところで、何がどうなるわけでもないことを肝に銘じておくといっても、やはりそれでも何がどうなるわけでもないのだが、そうであっても選挙になれば投票しておく必要も感じられないのに、それ相応の思惑を抱きながら投票しておいて損はないというと、それも信じらない部類に入ってしまうだろうが、信じられなくても信じられないこととして、何かしらアクションを起こさないと、いいようにやられてしまうわけで、何をいいようにやられてしまうのかというと、無関心を利用して好き勝手なことをやられてしまうわけでもないのだが、たとえ無関心であってもそんな心理状態を政治に利用されてはまずいわけで、そういうところがあまり単純に考えてしまわない方がいいわけで、気に入らないといっても無関心なら、気に入らないも何も感じないかも知れないが、そうであっても政治につけ込まれないようにしないとならないし、こちらが何かしら対応しても、どうにもならない面があるから、何か対応したところで無駄になると思うだろうが、それがたとえ結果的に無駄になっても対応しておかなければならないところが微妙に気づかないし、向こうは気づいてほしくないわけだから、こちらは積極的に気づく必要があり、気づいたところでどうにもならないと思われても、気づいて無駄だと感じられるようなことをやっておいて損はないと思い込みたいのだが、結果的には骨折り損のくたびれもうけになろうとも、そこでも積極的に行動しなければ、何かいいようにやられてしまって、後から後悔することにもならないかも知れないが、それでもやった方がいいと言っても、信じられないかも知れないが、こちらからは信じられないような行動に出ない限りは何の可能性もなくなってしまうだろうから、信じられなくても可能性に賭けてみないことには何も起こらないと思っておいた方がいいわけだ。


5月20日「共産主義と新自由主義の対立」

 それらはどちらも誰もが知っている主義には違いなく、そんな主義に基づいて活動しているつもりがなくても、否定的なレッテル貼りの対象となりやすいから、どちらもが批判の対象となる勢力として、それらの主義を担う特定の人や団体の名前が挙がってくることは確かだが、実際にそれらの主義に関連して何をやっているかというと、物や情報やサービスの売り買いや貸し借りを通じて利益を得るやり方をどう評価するかということになるわけだが、実際に利益を得るやり方を否定的に評価するのが共産主義である一方で、肯定的に評価するのが新自由主義になるだろうが、その行為自体は主義でも何でもなく、資本主義市場経済の中で当たり前のように行われていることになるわけだが、印象操作としてそれらの主義を利用するには、それぞれに特有の使い道があり、物や情報やサービスの売買や貸借を伴った取引の結果として、不利になってしまう側の味方を装うのが共産主義である一方で、有利になって利益を得る側の味方を装うのが新自由主義だと思われていて、そう受け取るなら共産主義と新自由主義とは対立する正反対の主義となるはずだが、もちろん公式的な見解としてはそうではなく、共産主義とは正反対の主義になるのは資本主義になるはずだが、もはや全世界が資本主義市場経済に覆われてしまったから、対立軸として資本主義を否定したり批判の対象とはできなくなってしまい、それに代わる否定的な批判の対象として持ち出されてきたのが新自由主義であり、要するに単なる金儲け主義では下世話な印象を伴ってしまって、真っ当な批判としては相手にされない事情があるから、それを新自由主義と言い換えて、何かまともなことを述べているような印象を得たいのだろうが、また共産主義の方もあからさまにそうは言わず、左翼とかリベラルとかグリーンニューディールとか、左翼やリベラルまでは完全に否定的な概念として使いたい思惑があるものの、それに代わる新たな肯定できる概念としてグリーンニューディールという名称を持ち出す人や勢力も出てきて、それに絡めて政府の財政政策として積極財政と緊縮財政を持ち出してきて、緊縮財政+新自由主義を否定して、積極財政+グリーンニューディールを肯定する思惑も生じてきているわけで、ものは言いようで、それが共産主義や社会主義といった否定的な印象を打ち消す効果が期待されていることは言うまでもないことだが、従来からある共産主義や社会主義を肯定できる主義として捉えている人にとっては単なる言葉の言い換えに過ぎないことなのだが、実質的にはどうなのかというと、物や情報やサービスの売買や貸借を伴った取引の結果として、不利な立場や境遇となってしまった人をどう助けるかに関して、政治や行政の方面から助けたい人たちが、左翼やリベラル寄りの政策を打ち出したいわけだが、そうだとしても現状では物や情報やサービスの売買や貸借そのものをやめさせることはできないから、共産主義そのものを肯定するわけにはいかないし、また物や情報やサービスの売買や貸借から利益を得ること自体が経済活動そのものであるから、利益を得ること自体を資本主義としても新自由主義としても否定することもできないだろうが、ただ利益を得ることから生じる経済格差をそのままにしておくわけにはいかないという立場をとりたいわけで、そこを批判するための口実として機能させたい思惑があり、資本主義はもはや批判できないとしても、経済格差を助長する新自由主義なら批判できて、逆に経済格差を縮める政策として積極財政+グリーンニューディールを活用したいわけだが、それも結果から言うなら、経済格差が著しく拡大させた原因を新自由主義的な経済政策のせいにしたいという思惑からそういう論理が生じてきたわけだが、実際には20世紀末から始まった情報革命に伴って、それ以前からある物の売買や貸借から利益を得るやり方に加えて、情報の売買や貸借から利益を得るやり方の割合が著しく増大したから、物と情報とでどちらの売買や貸借の方が効率的でコストがかからないかということでしかないのだが、そういうところで何が新自由主義であるかないかの解釈に誤解が生じていて、情報革命に伴って情報を売買したり貸借することによって、それ以前の物を売買したり貸借することよりも格段に利益を得られた結果を、どうやって新自由主義に結びつけるかということが、確かに金融的な情報である株や通貨や債券などの売買や貸借から利益を得ている業種に携わっている人や企業を新自由主義的な金儲けと結びつけやすく、それが印象という物ではなく情報であり、また例えばグーグルの検索サービスや広告サービスなども物ではなく情報であるから、日本でも電通や博報堂などの広告代理店も物ではなく情報で多額の利益を得ているわけだから、そういった業種も新自由主義的な印象に結びつきやすいわけだが、そうだとしても肝心の新自由主義の中身とは全く無関係とは言えないものの、何か次元の違うところで印象が語られているようなことに多くの人々が気づいていないし、また小泉政権が行なった郵政民営化を新自由主義だと解釈してみたりと、何が新自由主義なのかを全く理解していない人々が、新自由主義を悪者に仕立て上げて何かもっともらしいことを語っているつもりでいるわけだが、もっと根本的なところで、自由主義的な経済政策というのが、市場を神の見えざる手に任せて、経済活動の自由を保障して、政治が市場に対して何の手も加えない放任政策を維持するのに対して、新自由主義的な経済政策というのは、市場に政治が積極的に介入して、市場の中で公正な競争が成り立つように手を加えるという趣旨で、競争に対して公正中立な立場をとるのが新自由主義の意図するところだと理解しておくのが妥当なわけで、それを意図して悪者に仕立て上げないと気が済まないところが何かおかしいわけだ。


5月19日「ソクラテスの役割」

 古代ギリシアのアテネで、ソクラテスがなぜ死刑を宣告されて死ななければならなかったのかというと、簡単にいうなら衆愚政治をやっている多数派に従わなかったから憎まれたわけだが、現状の日本と古代のギリシアの状況が同じでないのはわかりきったことだが、今の日本で誰がソクラテスのように振る舞えるわけもないし、果たして保守派から反日左翼のレッテルを貼られるような人たちがソクラテスと立場や境遇が同じであるはずもないだろうが、今の日本でも衆愚政治をやっている多数派に従わない人はいくらでもいるだろうから、それらの人たちがソクラテスと立場や境遇を共有しているわけではないとしても、ある意味では山本太郎をはじめとするれいわ新選組の人たちが、ソクラテスのように街中で一般の民衆と問答を実践しているし、国会でも衆愚政治をやっている多数派に向かってしばしば反抗的な態度を示して嫌われているから、全く同じではないにしても、似たような立場や境遇にあるとは言えるだろうが、ソクラテスがアテネを凋落の危機から救ったわけでもないし、それと同じようにれいわ新選組の人たちが、日本を凋落の危機から救うわけでもないだろうが、弟子のプラトンが目指したような哲人政治をれいわの人たちが目指しているわけでもないし、何から何まで同じ成り行きや経過を辿るはずもなく、そんなことはわかりきったことだが、ソクラテスの行動が当時のアテネの民衆からなかなか理解されなかったように、れいわの人たちの行動も、少なくとも現状の日本で衆愚政治に加担している多数派からは忌み嫌われているだろうから、そういう意味ではソクラテスが当時のアテネで果たした役割をれいわの人たちも果たしているように見えてしまうわけで、それもそう見えている人など自分以外には誰もいないかも知れないが、それがどんな役割なのかといっても、何の役割とも思えなくても、そう思う方が極めて真っ当な感覚かも知れないが、世の中の情勢がおかしくなって、衆愚政治に歯止めがかからなくなってくると、ソクラテスのように誰からも理解されない奇怪な行動に出る人が必ず現れるかというと、ソクラテスのようにということがまずあり得ないし、少なくともれいわの人たちとソクラテスとでは似ても似つかない行動というわけでもないが、根本的なところで何か違っていることは確かなのだろうが、少なくともソクラテスが何か民衆のために良かれと思ったことをやっていたわけでもないだろうから、現状の日本でれいわの人たちが民衆のために良かれと思ってやっているのとは本質的に異なることをソクラテスはやっていたはずなのだが、ソクラテスが自身でも理解できないことをやっていたかどうかは、今となっては誰にもわからないことだが、その行動や言動が当時の多数派からは目障りになってきたから、何か適当な理由をこじつけて殺すことになった経緯は、現状の日本でも似たような傾向があり、何か適当な理由をこじつけて、れいわの人たちの国会内での行動を阻止したい思惑が働いていることは確かで、わざと嫌がらせのようなことをやっていると多数派から受け取られても仕方のないことをやっているようにも見えるわけだが、れいわの人たちがやっていることが、現状でも次第に歯止めがかからなくなりつつある衆愚政治に歯止めをかけるためにやっていると受け取っても、間違っているとも思えないにしても、ソクラテスがやっていたことが、当時の衆愚政治に歯止めをかけるためにやっていたわけではないことは明らかであり、何かその辺でちょっと違うのだが、結果的にはどちらも奇怪な行動に出て、多数派が行なっている衆愚政治に逆らうようなことになってしまったこと自体は、同じではないにしても似たような結果がもたらされている時点で、同じ役割を担っていると見なしてもそれほど間違っているとも思えないわけで、もちろん自分以外には誰もそんなふうには思わないだろうが、もちろん山本太郎は明確な意志や目的を抱いてやっていることであるのに対して、ソクラテスの場合はそうではなく、神のお告げに従わなければならないから、その辺が不明確なのだろうが、衆愚政治に歯止めがかからない状況というのは今も昔も似たような傾向として、そんな状況の中にいる人々に少なからずプレッシャーを加え続けているわけで、そういう状況下に置かれた人々の中から、何やら同じではないにしても似たような行動に駆り立てられる人物が現れてくると状況を捉えたくなってくるのであり、それが古代のアテネではソクラテスであったのとは少し事情や経緯は異なるが、現代の日本では山本太郎のような人物が現れて、何かちょっと常識からずれたようなおかしな言動や行動を伴いながらも、活動がそれなりの支持や賛同を得られているわけで、そんな現状をどう受け止めるかといっても、全面的に支持や賛同を表明できるわけではないにしても、現状で進行中の衆愚政治という執拗な成り行きに対する反応という面では、なるほどこうなってしまうのかという感慨以外には何も出てこないが、望ましい反応ではないということが、何か紛れもない真実を物語っているように感じられて、誰も望んでいない事態であるから、誰も望んでいないような人物が現れて、誰も望んでいないような方向へと人々を導いていく経過の中で現状が進行中なのであり、それをどう受け止めてみてもしっくりこないわけだが、それで構わないはずがないのに、何か納得せざるを得ないようなことになりかけているから、それを肯定的に受け止めるわけにはいかないものの、こうなるのも致し方ないようなことなのだろうから、前向きに事態を捉えるしかないし、少なくとも山本太郎やれいわの人たちの行動や言動を否定する気にはならないし、かといって全面的に賛同することもできないにしても、それ以前にどう見ても、現状の衆愚政治に加担している人や勢力が明らかにおかしいから、そのおかしさが愚かしさというよりは気が狂っているようなおかしさの割合の方が大きいから、何かそれにふさわしい反応の仕方として、山本太郎なりソクラテスなりが必然的な行動や言動を伴いながら登場してくるのかも知れない。


5月18日「知らないことの優位さ」

 この世界についてわかっていることなどたかが知れているとは思わないし、専門的な分野によっては驚くほど詳しく知られている場合もありそうなのだが、それでもわからないことはいくらでもありそうで、例えばそれについて知っているか否かが、致命的な結果をもたらすなら、是が非でも知っておいて損はなさそうだが、それが何かということが、よくわからない場合もありそうだから、下手に知っているつもりにならないことが肝要だとしても、現状では知り得ないことを知っているつもりにはなれないし、知る必要のないことまで知っていることを自慢したいわけでもないが、誰も知らない秘密にどんな価値があるとも思えないなら、そういうところではあまり詳しくない方がかえって身を助けるかも知れず、中には知らない方がマシな場合まであるかも知れないから、何でもかんでも知ろうとするのも、賢いやり方とは言えず、かえって無知であることが窮地を脱するには必要であれば、逆に知り過ぎてしまったばかりに、それが災いしてそこから抜け出すタイミングを見失って、危機の中で囚われの身になってしまう可能性もありそうなのだが、では何に関してそうなのかといっても、例えば専門バカと揶揄される人々に当てはまりそうなことかも知れないが、それほどバカでなくても、逆に有能だと評判の人ほど自ら墓穴を掘ってしまうわけでもないだろうが、例えば法律の専門家なら何でもかんでも法律の問題に結びつけようとしてしまうわけでもないにしても、法律の範囲外で起こる問題というのが、何のことやらさっぱりわからないことかも知れないが、国会で扱われるような制度の問題というのが、制度の範囲内で片付けようとする問題である限りで、個々のケースで当事者の個人的な事情にまで首を突っ込むようなことはやらない方が身のためだと言えそうなのだが、例えば難民を救済したいなら難民とは言えない人まで救済しても構わないだろうし、救済する必要のない人まで救済してしまったところで、特に問題はない程度のことにしておけばいいわけで、そういうところではできるだけ制度の恩恵を受ける人から感謝されるような仕組みにしておいた方が無難だろうし、そういうところで善意の出し惜しみをして、うまく立ち回って得してしまう人を取り締まるようなことはやらない方が良いと言うと、逆にセコく規則や法律を厳密に適用して、できるだけ助ける人数を絞り込もうとする思惑を抱いてしまう人からは、対応が甘いと言われそうだが、場合によっては舐められても構わないわけで、そういうところで寛容に扱う対象を間違えないことが肝要であり、制度の趣旨を誤って捉えている人が日本では多すぎるわけだが、それに関して一番やってはならないことを現状の公共サービスに携わっている人たちがやっているのだろうし、それが強者に対しては寛容になる一方で弱者に対しては不寛容な態度に出ていて、本来なら逆に、弱者に対しては寛容になる一方で強者に対しては不寛容にならなければいけないのに、そういう基本的なところがわかっていないから、強者には媚びへつらう一方で弱者を執拗にいじめるようなことを集団で嬉々としてやってしまって、世界から軽蔑の眼差しで見られてしまうわけで、もちろんそう見られていることにさえ気づかないほどみっともない態度が身に染み付いてしまっている人も多いわけだが、そんな人たちが世の中で多数派を占めているとすれば、実際に世の中がひどい状況となっていて、そんなひどい状況を利用して勢力を拡大している集団がいるなら、やはりそんな集団に所属している人にとっては、身の程をわきまえて無難に立ち回るには、強者には媚びへつらって弱者をいじめるようなことにはできるだけ加担しておいた方が良さそうだが、そんなひどい状況の中でも、できるだけひどい人や集団には加担しないようにするにはどう振る舞えばいいのかというと、知らないことを利用するしかないだろうし、それがひどい行為には見て見ぬふりをするということではなく、制度的な面では制度の範囲内で対応するしかなく、下手に制度の対象となっている人の個人的な事情に感情移入するようなことはせずに、制度にのめり込むような行為はできるだけ回避しなければならず、絶えず制度と自身との間でニュートラルな関係を構築することによって、制度の奴隷となることを回避できるわけだが、その一方でそうなることを回避できずに、制度の奴隷となってしまった人に特有な心理状態というのが、職務に忠実に振る舞っている自らを誇るような威張った態度であり、そんな人が誰に向かって威張るのかと言えば、弱い立場の者に向かって威張って見せるわけだが、そういう態度が組織と一体化している感覚を伴いながら、人を自己の消失した空っぽな機械に近づけるのだろうが、逆に自己という概念が確立されると何をもたらすのかというと、弱者に対しては余裕を見せて寛容な態度を示す一方で、強者に対しては媚びたりへりくだったりせずに、対等な立場であることをわからせようとして、強がって見せながら自らの正義感を示そうとするわけで、要するに生意気な態度に感じられるから、印象が悪くなるのだろうが、それが何を知らないことになるのかといえば、身の程を知らないことになるのだろうが、そういう意味で現状の日本で自己を確立するには、身の程知らずな存在になる必要があるのではないか。


5月17日「常識の崩壊という常識」

 この世界で起こっていることや行われていることに関して、何か違和感を覚えるなら、何かがおかしいから違和感を覚えるわけではなく、何がおかしいのかはわかっているのに、それについて直接言及しようとすると、そのおかしさをうまく表現できなくなってしまうから違和感を覚えるのだが、これ見よがしにおかしな言動が多くの人々の関心を集めている裏で、人知れず別のおかしなことが行われているわけではなく、これ見よがしな言動自体がおかしいことは誰もがわかっていることなのだが、誰もがおかしいと感じる言動に及んでいる人が平然としていられることにも違和感を覚えるし、表向きに覚える違和感はそうだとしても、本音としてはそんなことには大して違和感を覚えていないわけで、おかしな言動に及んでいる人が平然としていられるのは、その人が所属している勢力が多くの人々から支持を得られているからで、しかもその言動にしてもそんな勢力に所属していればそんな言動に及んでしまうだろうことは容易に想像できて、要するに想定通りのおかしな言動に及んでいること自体が違和感を覚えるわけではなく、またそんな勢力を支持している人々がおかしいこともわかりきったことなのだが、明らかにおかしな言動に及んでいる人が所属している勢力を支持している人々が多数派を構成している世の中がおかしいこともわかりきったことであるから、そんなことにも違和感を覚えても一向に構わないわけだが、それが表向きには違和感を覚えても構わないことであって、誰もが覚える違和感になれば納得がいくはずだが、納得できることに違和感を覚えるはずもなく、通常であれば納得できないからこそ違和感を覚えるはずだが、なぜかそこで違和感を覚えているふりをしなければならず、それが違和感を覚える演技となってしまうから、そんな違和感を覚える演技をしている人に対して違和感を覚えるわけで、そういう違和感を覚えるような振る舞いに興じている人々がおかしいわけではなく、これ見よがしにおかしな言動に及んでいる人が平然としていられるわけだから、誰もがそんな事態に対して違和感を覚えざるを得ないわけで、そうやって違和感を覚えるように仕向けられているわけだから、そこで違和感を覚えているように振る舞わなければならず、そうしないと納得がいかないし、誰もが違和感を覚えるように仕向けられているから違和感を覚えるような事態になっていることにも、違和感を覚えざるを得ず、そうなっていること自体がおかしいわけだが、それがおかしな事態だとしても、そんな事態に直面して納得がいかないわけではなく、何やらその種の人がそんな言動に及んでしまうのは納得できるわけで、しかもそんな言動に及んでしまうことには常識のある人なら違和感を覚えるように仕向けられているから、そこで違和感を覚えるように仕向けられてしまうことにも納得がいくわけだが、納得ずくで違和感を覚えるということ自体が、違和感を覚えるという動作とは矛盾してしまい、通常であれば納得できないから違和感を覚えるわけで、だから矛盾していることに気づいてしまうと、矛盾してしまうことに納得できないから違和感を覚えるわけだが、その違和感とこの違和感がどう違うのかといえば、常識に照らし合わせて納得ずくで覚える違和感と、納得ずくで違和感を覚えるように仕向けられてしまうことの矛盾に気づいて覚える違和感との違いになるだろうが、果たして違和感を覚えるように仕向けられてしまうことがおかしいのかというと、これ見よがしにおかしな言動に及んでいるわけだから、違和感を覚えてもらおうとして、わざとおかしな言動に及んでいると受け取っておくのが妥当なところだろうが、もちろん当人は平然とおかしな言動に及んでいるわけだから、その自覚がないはずだが、その人が所属している勢力が実際に多くの人々から支持されている現状がある限りで、そういう勢力が多くの人々から支持を得られるような世の中の空気をその人が敏感に感じ取っている可能性が高く、だからそういうことを言えばそんな勢力を支持している人々から賛同を得られることも感じ取っている可能性も高く、そんな人々の期待に応えるにはそういう言動に及ぶ必要も感じ取っているから、結果的に平然とおかしな言動に及んでいるわけだが、それを世の中の常識に照らし合わせておかしな言動だと感じてしまう人は、当然のことながら違和感を覚えるわけだが、それが違和感を覚えるように仕向けられて感じる違和感であって、世の中の空気を読めば違和感など感じないから、そこで違和感を感じるか否かで差が出てくるのだろうが、それが取りも直さず人権感覚の差であり、同調圧力という世の中に蔓延している空気を読んでしまう人には人権感覚に関しては鈍感にならざるを得ず、その場の空気を読んで他の人々と同じように振る舞えるか、あるいは空気を読まずに他の人々とは違う振る舞いに及んでしまう人を許容できるか否かで、人権感覚に差が生じてくるとしても、違和感を覚えるように仕向けられている中で、他の人々と同じように違和感を覚えることに納得がいかなければ、果たして違和感を覚えるのを思いとどまれるかというと、そんなことができるはずもなく、違和感を覚えるように仕向けられていることに気づかなければ、そのまま他の人々と同じように何の疑念を抱かずに違和感を覚えてしまい、それがわざとではないにしても、世の中の空気を読んで平然とおかしな言動に及んでしまった人がもたらした選別効果でもあり、暗黙の同調圧力に従えない人に対しては非寛容にならざるを得ず、当人は自覚することなく制度や慣習に従わない人々に攻撃を仕掛けて、その際になぜ従えないかを理解しているわけでもないだろうから、容赦しないわけだが、その一方で他人の人権に配慮しようとすれば、なぜその人が世の中の常識に照らし合わせておかしな言動に及んでしまうのかを考える必要に迫られて、そこから違和感を覚えるような言動に対しては疑念を抱きながらも、直情的な拒否反応ではなく、まずは理性的な思考を働かせる習慣が身についてくるのではないか。


5月16日「言い逃れにならないこと」

 日々世の中の様々なところで何かしらわけのわからない攻撃の被害に遭っている人々が、それを仕掛けている人や団体にごまかされているような気がするにしても、それにしてはメディア経由で漏れ伝わってくる謝罪のような言動から窺われるのは、そのほとんどにおいてうまく言い逃れができていないからその後の成り行きがこじれてくるのかも知れないが、それが何についての言い逃れなのか当事者がよくわかっていないと、言い逃れをしているという自覚もなしに言い逃れに終始している可能性がある限りで、結果的には言い逃れに失敗しているから、被害に遭った人々やその支援者たちによる執拗な追及にさらされていて、だからといってうまく言い逃れに成功してしまっては、事の成り行き上まずいわけで、言い逃れができないような公的な制度のようなものが確立されないと、それらの被害に遭った人たちが泣き寝入りとなってしまうから、それが何の被害なのかもよくわからないまま、責任の所在がうやむやにならないようにしなければならないと主張する人もいるはずもないだろうが、少なくともそれが何でもないはずがないから、誰かしら何かしらそれ相応の攻撃を受けていると思いたいが、相変わらずそれが何の攻撃なのかが今ひとつはっきりしないわけで、もちろんはっきりしている面もいくらでもあるから、はっきりしている方面ではそれに対する処置もそれなりに試みられているのだろうが、対処がうまくいっているかというと、うまくいっている面もそれなりにあるから、そういう方面では泣き寝入りすることもなく、言い逃れもできないから、責任の所在がはっきりしているところでは、それなりに該当する当事者が責任を取らされることにもなるのだろうが、そういう成り行きにはならないところでは相変わらず言い逃れが試みられているのだろうから、実際に毎日のように責任を追及されて言い逃れに追われている人や団体が、どのような言い逃れを駆使してうまくごまかしに成功しているのかといえば、必ずしも言い逃れがうまくいっているわけではないように装われていること自体が、結果的に言い逃れがうまくいっている部類に入るのだろうから、表向きには言い逃れがうまくできずに開き直ってみたり逆ギレしてみたりしながらも、それが困った事態になっているように見せかけられているのだが、実際に困った事態になっているのに、そんな困った事態を招いている側がその場の主導権を握っていて、言い逃れができずにひどいことをやっているのがバレバレなのに平然としていられて、ひどい事態を招いた責任など全く取らないどころか、いつの間にかなぜか責任を追及している側が逆に悪者扱いされてしまうという理不尽な事態にもなっているから、不条理に至っているように思われるのだが、それを伝えるメディアも平然とひどい事態を招いた側を擁護するような成り行きになってしまうから、正義が果たされていないようにも感じられて、それで構わないのかと言っても、誰がそんなことを言っているわけでもないことにもなってきて、それで構わないのを織り込んで、その後の成り行きが進行していくように見せかけられているから、その場で正義にこだわってしまう人たちは、ますます納得がいかなくなってしまうのだろうが、正義が遂行されるべきだと思っている人たちに味方してはいけないという空気を作っているのが、他ならぬマスメディアだと言えないこともないはずだが、実際にはそうではなく、その場では誰も責任を取り得ないことをわかっているから、誰もができるだけ見て見ぬふりをしたくなってしまい、多くの人がそれをやってしまうと、何事もなかったかのように装われてしまうのだろうが、そうではないことは誰もが承知していることでもあり、誰もが承知しているからこそ、その場で言い逃れに失敗している当事者の味方をしていることに、ある種のやましさを感じてしまい、それがその場で責任の追及をしている側に正義があることも証明していて、誰もがそれを承知しているのだろうが、だからといって責任を追及している側の味方をするわけでもないから、困った事態がもたらされていて、責任を追求すればするほど、そんなことをやっている勢力の支持率が下がっていってしまうのだが、たぶんそれで構わないのであり、そうなっているからこそ、その場で力の均衡が保たれていて、もちろんそれが多くの人の不信感を買うような均衡であり、実態としては均衡でも何でもなく、ただ言い逃れに失敗し続けている側が常にその場の主導権を握れるように調整されている均衡であるから、誰がその場をそんなふうに調整しているとも感じられないところも納得がいかないところであり、だから責任を追及している側に与する人たちも、焦って陰謀論の類いを信じてしまい、それがそうなった人の自滅を招いて、それらの人たちが不利な立場を強いられているような被害妄想を抱いてしまうのも無理はないわけだが、果たしてそれで構わないのかというと、誰もそうは思わないだろうが、意外とそんな思いに逆らってそれで構わないと思っておいた方が無難なのであり、ここに至ってもまだ機が熟していないのかも知れず、それがいつまで経ってもそのままだと半ば呆れを通り越してあきらめた頃に機が熟すわけでもないが、現状で延々と言い逃れに追われている人たちにその場の主導権を握らせておけばいいと言っても、誰が主導権を握らせているわけでもなく、ただ成り行きとしてそうなっているだけのことに従うも逆らうも、そんなことは誰にもできないと思っておけばいいのではないか。


5月15日「当たり前ではないこと」

 結果的にそうなるのが当たり前のことが、なぜか当たり前のようには思えないとしたら、それがどうなっているのかというと、稀にしか起こらないことのように思われて、そうなるとは思われないようなことが、奇跡的にそうなったように思われるなら、確かにそうなるのが当たり前のようには思えないわけだが、そうなった際にはそう思われるかも知れないが、そうなるのが当たり前であることに気づかなければ、確かにそれに気づいていない人にとってはそう思われるだろうが、いったんそうなるのが当たり前であることに気づいてしまえば、どうということはなくなってしまい、そうなるのが奇跡でも何でもないことを理解してしまえば、そうなるのが当たり前のことだと思うしかないわけだが、それが何かといえば、場合によっては何だかわからないようなことであり、例えば時が経てばわかるようなことであれば、時が経つのを待つしかないが、それとは別に、そこから場所を移動して振り返ってみれば、それが何でもないことのように見えてくる場合もありそうで、そうやって化けの皮が剥がれるには時間の経過や場所の移動を必要とするのであれば、それなりの手間暇を要することになるのだろうが、大抵の場合は手間隙をかけずに理解したいと思うようなことでもあり、安易な理解にとどめておきたいと思っているわけではないとしても、実際には意識しないで浅はかなことに共感してしまうから、メディア経由で仕掛けられる安易な誘導に多くの人々が引っ掛かってしまうのだろうが、それが引っ掛けようとしているわけではなく、意識して誤った方面へと誘導しようとしているわけでもないところが厄介なのだろうし、そうなっていること自体が当たり前とは思えないようなことであれば、しかもそれが何か素晴らしいことのように思われるなら、確かに稀にしか起こらないようなことだと思われるかも知れないが、実際に起こっているのはそんなことではないどころか、極めてありふれたことが起こっているとすれば、ではなぜそうは思われないのかといえば、そこで行われているのがこけ威しと言ってしまえば身も蓋もないが、それをこけ威しだと批判している人がいるにも関わらず、多くの人々がこけ威しをやっている人や勢力に惹かれてしまうとすれば、実際にも当たり前ではないことをやっているように見えてしまうから、こけ威しに惹きつけられてしまうのであり、それが結果的にそうなるのが当たり前のようなことであり、こけ威し自体は当たり前のことではないのだが、多くの人々がこけ威しに惹きつけられてしまうのは当たり前の成り行きになるから、それが当たり前のことではないこけ威しのイベントに誰もが惹きつけられてしまうという当たり前の結果がもたらされるわけで、またそんな当たり前の結果を批判するのに、例えば新自由主義というありふれた紋切り型の比喩表現しか持ち合わせていない煽動者の類いには、人々の関心を惹きつけられないし、そんな煽動には魅力を感じないのも、誰もがそう思うところかも知れず、しかもそれが当たり前のことではないから、そんな煽動には引っ掛からないし、それが煽動だとも思っていないのは、煽動している当事者でさえ思っていないことでもあり、こけ威しをこけ威しだと極めて真っ当に批判しているつもりなのだろうが、それを新自由主義だと批判していること自体が煽動の類いでしかないことを理解していないのがなぜか致命的なのかも知れず、それを新自由主義だと批判すること自体が紋切り型の批判となっていることを理解しているとも思われないのが、煽動者としての自覚のなさの表れで、そんな批判になってしまっていること自体が魅力に欠ける煽動だと思われてしまっても、当事者には理解されないだろうが、もちろんそんなことなど思うはずもないことで、それに対して当たり前ではないことに惹きつけられてしまうという当たり前の結果を目の当たりにして、いったいどんな比喩表現を用いて対抗できるわけでもないだろうし、それ以前に新自由主義だと決めつけていること自体が、比喩表現を用いて言われていることだとも理解していないわけだが、それが致命的な見落としだとも気づいていないはずで、そうであるなら比喩表現ではない新自由主義そのものであることが何を意味するのかというと、肯定的な意味を担うはずのものであるにしても、それをわざと否定的なものとして理解しようとしているわけだから、それなりのこじつけや曲解を伴っているはずで、そこに付け入る隙が生じているから新自由主義とは似て非なるものを新自由主義だと決めつける羽目に陥っているわけで、程度の差はあるにしても、結果的にはそれを煽動に利用しているわけだから、煽動である限りはそれなりのこじつけや決めつけを必要としていて、それを新自由主義だと批判している人たちがそれをやってしまっているわけだから、自分たちで墓穴を掘ってしまっているような結果に陥っているわけで、果たして結果的にそうなるのが当たり前のことなのかというと、当人たちは夢にも思っていないだろうが、それに気づく必要さえないわけだから、別にそれで構わないわけで、政治や行政の否定的なやり方を新自由主義だと決めつけているわけだから、ではそれとは違うやり方として、何を行えばいいのかと問われたところで、自分たちが批判しているのとは真逆のやり方をやるしかないだろうから、それを新自由主義とは真逆のやり方だと思っている限りで、社会主義的な計画経済になるとも思えないだろうし、資本主義経済の枠内で何かをやろうとしているわけだろうが、すでに批判している対象を新自由主義だと批判している時点で、やれることがそれなりに限定されてしまって、税制や財政の方面で何か改革的なことをやれるはずだと思っているのかも知れないが、そういう限定的な縛りがかえって足枷となってくるわけで、自縄自縛な結果を招いてしまうのも、結果的にはそうなるのが当たり前のことなのかも知れないが、言説的な辻褄合わせと実際に行われていることを結びつけようとしているわけだから、言説的にはそれで辻褄を合わせることができるとしても、実際に何ができるかと問われるわけでもないが、それでも稀に言説の当事者が何かをやる機会が巡ってくると、当然のこととしてそれをやるのが当たり前のようなことをやる羽目に陥って、その中には新自由主義だと決めつけられるようなことも、あるいは社会主義の計画経済だと決めつけられるようなことも含まれてくるわけで、それをどうやっても言っていることとやっていることの整合性がとれないような結果に陥ると、やはりそうなるのが当たり前だとは到底思えないような非常識なことも苦し紛れにやらざるを得なくなってきて、それがかつて批判していた人や勢力と同じ成り行きだと気づくかどうかは、実際にその時になってみないことにはわからないわけだ。


5月14日「予想と実感の差」

 自身の主張にとって都合が良くなるような予想をする人は信用できないわけではないが、それが予想には違いないから、必ず予想通りのことが起こるとも言えず、また予想の程度にもよるから、予想が含まれる主張ほど当てにならないものはないとも言えないし、安易な予想に基づいた主張ほど信用ならないと思ったところで、逆に信じられる予想に基づいた主張なら納得してしまうかも知れず、だからといって予想が当たったり外れたりする限りは、信用できる予想に基づいた主張であっても、それを支持したりしなかったりする判断材料になるのが、必ず予想の当たり外れになるわけではなく、たとえ外れそうな予想に基づいた主張であっても、場合によっては支持する可能性はあるだろうから、そういう意味では予想の当たり外れと、それを支持するかしないかが、必ずしも一致するとは限らないが、では予想が外れても支持できる主張というのが具体的にどんな内容になるかというと、それも主張の内容にもよるだろうが、例えば主張の中で強く批判されている人や団体について、そんな人や団体が世の中で主導権を握ってしまうと、ひどい世の中になると予想しているなら、そういう主張を支持していれば、予想が当たろうが外れようが、そんな人や団体が世の中で主導権を握ると、実際にひどい世の中になると思っているから、それを支持しているわけだが、もうすでにひどい世の中になっているから予想するまでもないことだと思っているなら、そんなことはわかりきったことだと言わんばかりに批判に同調していて、批判の対象となっている人や団体が実際に世の中をひどい状態に陥れていると思いたいのだろうが、果たしてそういう思い込みが何をもたらしているのかというと、予想の先取りとして確信をもたらしているとも思わないはずだが、逆にわかっていないことに気づいていない可能性もあり、そのわかっていないことというのが、予想がすでに実現していることであり、予想しているのではなく実感しているから批判に同調しているのであって、それが予想だとも思っていないことに気づいておらず、これからそうなるのではなく、もうすでにそうなっていると思い込んでいるなら、主張の中で強く批判されている人や団体に世の中の主導権を握られているとも思っているわけで、別にそれがおかしいとも思わないはずだが、ではなぜすでにそうなっていることがこれからそうなると予想されているのかと言えば、自らの感覚が現実を追い越しているとは思っていないだろうが、何かそこにずれがあるのに、それが一致していると思い込んでいて、まだそうなっていない段階ですでにそうなっているような思い込みに囚われているから、その種の予想に同調している自らの感覚に騙されているとも思えないし、そうなっていることに気づいていないわけだが、そんな傾向の人が多ければ多いほど、過剰な悲観論に民意や世論が引きずられてしまうから、まだそうなってはいないことに気づけないわけだが、実際にその種の主張によって悲観論を煽り立てている人や勢力に騙されているわけでもないのだろうが、もちろんそれを煽り立てている人や勢力が、自分たちの主張に同調してしまう人々を騙そうとは思っていないだろうし、むしろこのままでは大変なことになるという自らの半ば確信に他ならない予感をできるだけ多くの人々が信じてほしいから、盛んに悲観論を煽り立てているのだろうが、そこでそれらの人たちが気づいていないことが、このままでは大変なことになるというのは予想であって、まだ大変なことになっているわけではないという現実を、もうすでに大変なことになっていると勝手に解釈していることであり、もちろん勝手にそう解釈しているわけではなく、そう解釈してほしいから悲観論を煽り立てているわけで、しかも煽り立てている人でさえも自らの意図に気づいておらず、このままでは大変なことなると盛んに煽っておきながら、もうすでに大変なことになっていると思い込んでほしいのだから、その時点で誤解が誤解を呼んでいるとも思っていないわけだが、それが予定調和の茶番でしかないとも思っていないだろうが、案外すでにこれから大変なことが起こる時期が過ぎ去っていることにも気づいていなければ、では現状がどうなっているのかといえば、意外とどうということはない状況なのかも知れないから、何かそこで感覚と言動と現実がずれている可能性もあるから、実感自体がすでに経験から感じている過去の実感であるにも関わらず、相変わらず主張の中身が、このままでは大変なことになると騒いでいるとすれば、もうすでに大変なことになっていることにも主張が追いついていないし、さらにはすでに大変なことが過ぎ去っているのに、未だにこのままでは大変なことになると騒いでいる可能性もあるとしたら、まさにそれが茶番の実態なのかも知れず、要するにこのままでは大変なことになると騒いでいるうちに、実際に大変な時期をやり過ごそうとしていることに気づいていないわけだから、騒いでいるほどには大変な事態でもなかったことになるわけだが、それでもまだ、このままでは大変なことになると騒いでいるとすれば、それ自体が大変なことだと解釈しておけばいいのだろうが、そう解釈できること自体が、大して大変な事態だとは思っていないことの証しとなってしまうから、すでに感覚が裏切られていることになるのではないか。


5月13日「理由にならない理由」

 例えば怠惰な人が何も考えない理由が、考えなくても生きていけるからという理由を思いついたところで、それが理由になっているかというと、ただ生きていることの理由など考えなくても構わないと思うなら、考えていることの辻褄が合わないような気がして、果たして自分が怠惰なのかと疑問を抱くなら、確かに怠惰な時もあるから、怠惰な自分に嫌気が差せば、その場の気分次第で、現状の怠惰な生活を変えなければならないと思うかも知れないし、そうなった際に、現状で怠惰な状態でいることの理由を考えてみる可能性もありそうだが、果たして怠惰な人がそんなことを考えるのかといえば、現状が怠惰な状態であることが、考えるのが面倒くさいから、結果的に怠惰な状態となっていると考えるなら、そんなことを考えている自らが怠惰なのかというと、やはり何か考えていることの辻褄が合わないような気がするわけだが、果たしてそんなことを考えている理由が何なのかというと、他に理由が思いつかないから、その理由を考えていることになるなら、考えている理由を思いつこうとしていることになるから、怠惰にまかせてそんなことを考えていることになるかどうかは、何とも言えないところかも知れないが、考えなくても構わないことを考えているわけでもなく、それを考えていることと自らが怠惰な状態となっていることが直接結びつくわけでもないから、それとこれとは次元の違うことだと思っておけばいいわけでもないが、そうなっている理由をいくら考えてみたところで、それが考えている理由になるとも限らず、では考えているのは理由ではないのかというと、考えた結果として出てくるのが、理由とはならなくても構わないし、理由でなければ何なのかというと、考えた結果として現れた心理状態なのかも知れず、それが何らかの心理状態であれば、ではそこで何を考えているのかというと、なぜそんなことを考えているのか、その理由を考えているなら、考えている方向性としては合っているような気はするものの、それがどんな方向なのかというと、理由として妥当だと思われるような方向で答えを導き出そうとしていて、そうであれば正しい方向で物事を考えていることになりそうだが、そうではなく、わざと話がこんがらがるように仕向けて、まともな答えにたどり着かないようにしているなら、なぜそんなことをしているのかといえば、理由がわからないからそうなってしまっていると考えるなら、それが何の理由なのかというと、そんなことを考えている理由がわからないわけで、そうやって話が堂々巡りとなるように仕向けながら、答えの出ない方向へ思考を導いているとすれば、やはりなぜそんなことを考えているのか、自らの意図がわからなくなってくるだろうから、意図的に答えに辿り着かないように仕向けていることは確かなのだが、その理由がよくわからないのも確かなことかも知れず、そうやって話を込み入らせて、わけがわからないことを述べているように装いたいのかも知れないが、もちろんあえてそんなふうに装う理由がわからないから、確かにわけがわからない話になって、話の内容がわからないということはわかっているから、そういうところはわかっていることが、わけがわからない話の内容と矛盾していることにはなるだろうが、わざとそう述べる意図がわからないというのは嘘で、わけがわからないように装う意図が見え透いているところはわかりきっているから、そういうところから次第にそんなことを述べている理由が明らかになってくるなら、それがわざとらしいわけのわからなさとなっているわけで、それを偽装と呼べば納得できるかも知れず、果たしてそんな見え透いた偽装に騙されるほど馬鹿なのかというと、馬鹿なふりをしているなら、そうであっても構わないだろうが、今度は馬鹿なふりをする理由が何なのかを思いつけないから、そんな自らの馬鹿さ加減を思い知らされて、何かそれが予定調和な結果のように思われてしまうと、いくらわけのわからないことを述べても、結果的にはどうということはない内容のなさでしかないことが明らかとなると共に、それが浅はかな試みにしかならなかったことが、自らの馬鹿さ加減を思い知らされたような気がするなら、妥当な結果を得たようにも思われて、その程度のことで済んでしまうことが、そこに欠けているのが他者の他者性と言えば納得できるわけでもないが、そうなってしまうことの理由を突き詰めて考えて行くと、それが究極の理由となるわけでもないが、もっと一般的な次元で導き出されてくるのが、自己言及的な自家中毒となるわけで、そういう予定調和の袋小路で見えてくる光景が、安易に理由を求めてしまう自身の姿となってくると、何かそれが救いとなるわけでもないが、あらかじめ自らに禁じているのがその種の救いであるから、そんな落とし穴に落ち込まないようにするには、そこでも安易に他者を求めてはいけないのかも知れず、それが鏡に映し出された自らの鏡像となってしまうのを避けるには、自然と自らに似てくる他者というのが偽の他者でもあるから、そこでも騙されてはいけないと思ってはならないわけで、実際にそれが似て非なる他者であることを理解できないから、自らの同類しか認めようとしない態度になっている人が世の中に溢れかえっている現状に我慢がならないわけで、そんな光景をもたらしているのが何かといえば、メディア的な自家中毒状態だと責任転嫁するわけにはいかないから、自分とは無関係な他者を無視するのも話の進行状況の中では当然の成り行きとなるわけだが、そうなってしまう理由などどこにも見当たらないから、自らが囚われている制度の中で規則に忠実に行動したくなるわけでもないだろうが、それを自己のないテクノラートに特有な現象だと理解するのも勘違いなことかも知れず、その種の人たちに自身と他者を識別できる自己や自我を求めてはいけないのであり、それらを制度の一部として認識してきたのだから、制度に忠実に従っている限りで、正常に動作する機械だと思っておいて差し支えないわけだが、それがまともな人間としての動作だとは思えなければ、何かそこで無いものねだりをしていることになってしまうわけだ。


5月12日「間違った意見」

 別に人の行動や言動が世の中の情勢に左右されてしまうことが駄目だとは思わないし、そのことの是非を問いたいわけでもないが、もちろんそれがメディアで話題となっている著名人となれば、それ相応に言説の対象となって、その行動や言動の是非を問うことが、そういうことを語る中では主題となってくるわけだが、ただそれを黙って拝聴する余裕もなく、またそれに対する自らの意見が正しいか否かを知りたいわけでもなく、自らの意見が他人とは違うことをそれほど意識しているとも思えないが、では何なのかというと、それについてあからさまに間違った意見を言いたい人たちがメディアの中では目立ってしまうとしても、そういう意見を主張する人が他の良心的に見える人たちから批判されたり非難されてしまうのも、よくある成り行きになってしまうから、なぜそれがあからさまに間違っているのかに関しては、それを批判したり非難する人たちが語っている内容からわかることだが、わかったとしてもそれを支持したりそれに賛同しておけば済むわけでもないから、何かそうではないような事態に直面していて、しかもあからさまに間違った意見を主張する人たちの支持者や賛同者の多さに驚き不安感を覚えて、そちらの方が多数派を形成しているわけでもないのだが、どちらかといえば世の中で主導権を握っている勢力に属している人たちの方が、あからさまに間違った意見を主張している事態が、理不尽なことだと思われて、当然のことながら深刻な状況だと悟って危機感を募らせるわけだが、それが思い違いだとは思えないとしても、あからさまに間違った意見を主張する人の方が権力を持っているということが、どうしても腑に落ちないし、なぜそうなってしまうのか理解できないから、思い悩むしかないが、そんな人や勢力がこれ見よがしに権力を行使すること自体が、間違った意見を主張することと同義なことだと思えないしても、わざと間違った意見を主張しているわけではなく、またわざと良心的に見える人たちからの批判や非難を誘発させたくて、そんな意見を主張しているわけでもなく、もちろん自分たちの傲岸不遜な態度を見せびらかすように振る舞っているわけでもなく、では何なのかというと、その場の成り行きにフィットしているというと、何か感覚がおかしいのではないかと不信感を抱かれるかも知れないが、そういうこともあからさまに間違っていることの一部に含まれているというと、それも何か屁理屈のように感じられるかも知れないが、何が正しくて何が間違っているかという理屈でその場が成り立っているわけではなく、どう振る舞うことが求められているかというと、誰がそれを求めているわけでもないような気もしてくるだろうが、そこで求められている態度や振る舞いが、あからさまに間違った意見を主張することになるわけでもないが、実際にそうなってしまっているわけだから、それが認められるか否かということが、そんな意見を主張している人にとっては、そうすることが極めて自然な振る舞いのように感じられるのだろうから、実際にそう振る舞っているわけだが、どう考えてもそれが狂っている世の中の情勢を反映しているわけではなくても、そういう振る舞いや態度がまかり通っている状況があるわけだから、それが信じられないのだろうが、それが非常識というわけではなく、逆に常識的な態度や振る舞いに及んでいるから、それが間違った態度や振る舞いだと感じられるなら、間違った態度や振る舞いが常識として通用していることになり、そうなっていること自体がおかしいわけではなく、逆に当たり前のこととしてまかり通っている実態があるから、そんな態度や振る舞いに及んでいる人たちが、実際にそこに存在しているわけだが、少なくとも実在している人たちがあからさまに間違った意見を主張しているわけだから、そんな人たちが平然としていられる世の中がおかしいと思わないと、それをおかしいと思っている人の方がおかしいことになってしまうから、やはりそこで理不尽なことが起こっていると感じるしかなく、それが深刻な事態だと危機感を募らせるだろうが、確かにそうやって大変なことが起こっていると騒ぎ立てる人がいる一方で、あからさまに間違った意見を主張しても平然としていられる世の中になっているわけで、何か狂っていると感じても、その感覚も狂っているかも知れないし、あるいは両義的な事態となっている可能性もあり、どちらか一方ではなく、どちらもありだとするなら、重ね合わせの状況がもたらされていると解釈しても構わないわけではないが、どちらか一方が正解だとか不正解というわけではなく、たとえ間違った意見を主張しても平然としていられるということ自体が、それなりの許容度を示しているのだから、そういう世の中になっていると受け止めるしかなく、それでは駄目だと思うだろうが、駄目なりの世の中になっていて、駄目な程度でも通用してしまうのだから、駄目な人でも生きていける世の中になっていると受け取るしかないし、生きていけるどころか、それなりに権力も持っているから、威張っていられて、そういう人に媚びへつらう人も結構いるから、威張っているように見えてしまうわけだが、実際に威張っているかどうかも含めて、何かおかしいと思ってしまうなら、やはりそういう意見が批判や非難の対象となっていること自体が、世の中の健全な面を示しているわけだ。


5月11日「表面的に思うこと」

 くだらないと思うことが具体的に何なのかと問うなら、それが何かの陰謀だとも思わないが、安易に特定の団体の思惑を想像してしまうのも、そう思ってしまうこと自体が、自らの願望を反映した勝手な妄想のような気がしてしまうから、そんなことはないと思っておいた方が無難なのだろうが、何がないといっても、例えば人ではないのだから、アメリカに意志などないと思えばいいのだろうが、何か意志のようなものを感じることはあるだろうから、それを国家の意志と呼ぶなら、そんな気がしないでもないが、現状で感じているのはアメリカの意志などではなく、特定の誰の意志だとも思えないが、誰かの願望が実現したのが、現状の国家体制だとも思えないから、それが願望というよりは、成り行きでそうなっていると考えておくべきかも知れないが、人の願望を国家に投影してしまうことが、国家意志のようなものを信じてしまうきっかけとなって、そこから国のために働くという範囲の限られた活動にその身を投じる気になるわけでもないだろうが、そんな単純な成り行きなどあり得ないとも思えないが、言葉で説明すると嘘のようなわかりやすさが虚構の意志として構成されてしまうから、それを真に受けるほど思考が劣化している人もあまりいないだろうが、そうなった結果からすぐに原因を想像してしまうのも、その人の願望の表れと言ってしまうと身も蓋もないが、実態がそんな単純なことではないのはわかっているが、それをわかりやすく単純化して主張に結びつけてしまう人が他の大勢の人々から支持されてしまうから、いつの間にか状況を単純化したフィクションが真実だと思われて、それを真に受けて信じてしまう大勢の人々によって多数派の世論が形成されて、理不尽な選挙結果のような民意となって示されてしまうから、何か納得がいかない状況が実現してしまうのだろうが、そんな妄想のような国家意志に操られて実際におかしなことが行われているわけだから、そこから誰かの陰謀を想像せざるを得ない人も出てくるだろうし、それにかこつけて何やらややこしい論理がまかり通っているような状況になっているのかも知れないが、本当のところは何が実現しているとも思っていないし、人の意志が作用して実現できることなどたかが知れていて、もちろんそれとは別の何かが作用して思いもよらぬ事態がもたらされるとも限らず、理由も原因も定かでないような成り行きの中で、何かの意志のようなものを想像してしまうわけで、そんな意志に基づいて何らかの達成が実現するわけではなく、そこで達成された何らかの状態が、どう説明しても違和感を覚えるような結果をもたらしていると、それがどうしてそうなったのかを説明しようとする際に、誰かの意図や思惑が反映された結果だと主張したくなってしまうわけでもないのだろうが、本当にそう思っているのなら、そんなことを主張しても違和感など覚えないはずだが、そうは思っていないならそんなことを主張する必要もなくなってしまうはずだが、何を思っているわけでもないのに、その場の成り行きに応じて何かを主張する必要に迫られてしまうと、他に主張することが何もないとは思えないはずだが、何かもっともらしいことを主張しているように装いたいから、そんな主張になってしまうとも思っていないはずだが、結果的にそんな内容の主張をせざるを得ないとしたら、なぜそうなってしまうのかなんて疑問に思うわけでもなくても、なぜか無自覚にそんなことを主張している人が結構多いわけで、主張している当人が別に何かを主張せざるを得ないから、そんなことを主張しているとも思ってもいないはずだが、そうなった結果を特定の誰かのせいにしないと、その人の主張が成り立たないことを理解しているわけでもないだろうが、そんな主張の中で犯人扱いされやすい人の代表例として例えば日本では竹中平蔵という名前がよく出てくるはずだが、それに近い固有名として小泉政権の新自由主義政策が招いた結果だと断言されたりするのだろうが、実際に多くの人々がそんな主張を真実だと思っていて、別にそれがそれほど間違っているわけでもないはずだが、何かそうではないような違和感を覚える人もそれほどいるとも思えないし、それが当時の状況を単純化したフィクションであるはずもなく、実際にそれが真実であることを証明するようなことが政策として行われていたはずだが、たぶん日本を衰退に招いたと言われるそれらのエピソードを主張の主旨に持ってくると、もっともらしいことを主張しているような印象を伴ってしまい、そういう主張に違和感を覚えるどころか、多くの人々がそれが真実だと思っているはずだが、果たして本当にそうなのかと問うと、他に何かもっともらしい真実を主張することができると期待してしまうわけでもないのだが、実態としてもそうではなく、もっともらしく思われるようなことを主張したいわけでもないのだが、では何を主張したいのかというと、特にこれといって主張したいことがあるわけでもなく、たぶん現状を信じられやすい真実が招いた結果だとは思いたくないわけで、さらに言うなら、そうなった原因としてもっともらしく語られる内容が、現状で多くの人々に信じられている内容と一致するとも思えないし、だからといってそれとは別に、何か信じるに値するもっともらしい真実を示すことができるとも思えないし、それよりは逆に信じられないようなフィクションとして、何か現状の中で構成できるかも知れず、それが国家意志のようなものになるとも限らないが、そうではなく、国家や政府や行政の範囲内で何か主張するとなると、否応なくそうなってしまうということかも知れず、それを否応なくだとか、本当はそうは思わないはずなのに、なぜか成り行き上はそう主張せざるを得ないとか、そんなふうには誰も思わないわけだが、それどころか誰もが嬉々としてそんなことを主張したがるのだから、そういう人たちがその種の国家意志に従っていると主張したくなるわけでもないのだが、実態としてはそうなのだろうし、そういう人たちはそういうことを言わせる制度の中で、否応なくそんな主張に囚われてしまっているわけだ。


5月10日「無関係な出来事」

 その場で感じる自らの都合に合わせて何を想像してみても、またその想像に基づいて行動しようと思っても、結果的には思い通りには行かないし、予想が外れることよりは、予想とは別に自らの思惑をはぐらかすようなことが起こって、それが予想が及ばない方面で起こっていて、しかも自身には直接関係のないことなのだが、それが取り立てて自身の活動に影響を及ぼすわけでもないのに、それが起こったことに気づいた時点で予想とは違っているわけで、何かを予想した時点で、予想している対象に意識を集中するように仕向けられるわけでもないのだが、それを予想してしまうこと自体が、感覚の範囲を狭めてしまって、他のことに意識が向かないわけでもないとしても、予想に基づいて先入観が生じてしまうと、そんな先入観が裏切られるようなことが起こるわけでもないのに、先入観とは関係のないことが起こると、無駄に先入観に囚われているような装いとなって、それがはぐらかされているような感触をもたらして、先入観に囚われている自らが置いてきぼりを食ってしまうように、事態が自らとは関係のない方面へと転がって行ってしまうと、それ自体が自らには関係のない出来事だから、直接関与する必要のない成り行きになってしまい、何やら傍観者のような立場に追いやられてしまうわけだが、それで一向に困らないわけで、それで済んでしまうなら、かえって手間もかからずに好都合なように感じられるのだが、もっと自らを困らせるような事態になることを予感していたのに、何かそんな予感が完全にすっぽ抜けたような結果の中で、どうすればいいのかよくわからなくなってしまうのだが、それも結果的にはそれで構わないのだから、それなりにうまく立ち回って、事なきを得たことになるのだろうが、果たしてそれで構わないのかと自らの振る舞いの是非が問われているわけでもないとしても、何か居心地が悪いから、余計なことをしでかしてしまわないか心配になってきて、かえって身構えてしまうのだが、たぶん自らの気づかないところでそれなりの配慮がされているから、面倒な事態に直面したり巻き込まれるような成り行きを回避できたと思っておけばいいのだろうから、どう考えてもそれ以上の詮索は無用な結果がもたらされていて、何事もなかったわけではないにしても、事が丸く収まったように装われている中では、そこから気を利かせて、わざわざ事を荒立てる必要などないのはもちろんのこと、寝た子を起こすようなまねはやらずに、後はそこからさっさと退散すればいいような成り行きになっているはずなのだが、果たしてすんなりと退散できるかというと、そこで何かはぐらかされているような気がするから、いちいち疑念を抱いたことについて、直接関わろうとしてしまうと、それが蛇足となり、余計なお世話となってしまうのだろうが、そこに自らの都合に合わせた因果関係を想定してしまうと、さらにややこしい事態が待ち受けているから、あくまでも自らの都合とは無関係であることを前提にして、そこで起こっている個々の出来事を別々に把握しておいた方がいいのかも知れず、間違っても自らの事情に照らし合わせて相似的な面などを探し出そうとしてはまずいわけで、それが自分と似たような境遇だと思って同情してしまうこと自体が錯覚なのであって、似て非なる成り行きだと思っておいた方が無難なのは明らかで、無理にでも共感したくなるような出来事ではなく、他人の境遇は他人が通ってきた道筋から生じてくることであると共に、自らの境遇が興味深い事例を他人に向かって見せているわけでもないことが、不思議とも感じさせないような成り行きを示しているなら、それがありふれたことなのではなく、自らに特有な経緯となっているわけでもないとするなら、では何なのかといえば、個々の事例としてそれぞれに適当な距離や間を介して隔たって存在していると理解しておけばいいことであって、それらを無理に結びつけようとしても、こじつけとなってしまうから、それがやぶ蛇のような結果を招くのを避けるには、無関係であることを保つ必要があり、下手な関係づけを強いるよりは無関係である方が自らに固有な成り行きにフィットして、結果的には事なきを得る可能性が高いから、そういうところで関わりを持ってしまうような因果を断ち切ろうとしなくても、自然とすれ違いが生じてくるタイミングを見計らって進んでいくような配慮が求められているのかも知れず、それも勝手な思い込みからもたらされる妄想に過ぎないだろうが、念には念を入れて用心しておいた方がいいとしても、そんな思い込みの大半は杞憂に終わるだろうから、機会を逸して期待を裏切られたと思ったところで、それが何の機会だったのかといえば、結構ひどい目に遭う機会だったのかも知れないが、幸運が作用して酷い目に遭わずに済んだわけではなく、それなりに酷い目に遭っているのに、それよりもはるかに致命的で深刻な状況に陥らずに済んだと思うわけでもないが、すでにそんな出来事とは全くの無関係となってしまっているわけでもないのに、なぜか危機が去ったような気がしてしまうわけで、もちろんまだそこから危機の続きが待ち構えているとも知らずに安心してしまうわけでもなく、何が何でも現状が危機的な状況だと思い込みたいわけでもないのだから、大げさに騒ぎ立てる機会を逸してしまったとしても、平静を装っておけばいいわけだが、それがその場の状況に応じた振る舞いになるわけでもなく、そうかといって場違いな装いを纏って、これ見よがしに登場する機会でもないことをわかっているなら、やはり自らには無関係な成り行きの中にいることを意識してしまうわけだ。


5月9日「面倒な成り行き」

 現状の世の中で実際に行われていることが、それほど不確かで根拠もあやふやな幻想や迷信に基づいて行われているとも思えないし、その目的に応じてちゃんとした実績が伴っていれば、それなりに成果を期待できて、確実なことが行われているはずだが、それが人をどれほど騙したかという実績になると、詐欺の類いになるだろうが、騙すのではなく、人を何か良い方向へと導くようなことであれば、そういった方向での努力は一般的には肯定されるべきだが、その良い方向というのが、人によっては逆に悪い方向だと受け取られるようなことだと、人によって判断や評価が分かれるようなことをやっていて、例えばそれが金銭的な利益を求める経済活動であり、結果的にそれがうまくいっている範囲内で評価されるような活動であれば、そういった活動を評価する人や団体にとっては、それがちゃんとした実績を伴った肯定できる活動だと認められるわけだが、そうした活動によって弊害がもたらされていることを問題視するような人や団体にとっては、その活動が否定的な評価を伴った批判の対象となってくるだろうし、場合によってはそんな活動はやめさせようとするかも知れないし、そうなると単に金銭的な利益を求める経済活動であるだけではなく、それ以上の何かが求められていて、例えばそれが環境に配慮した活動にすべきだと主張されるなら、活動によって環境破壊が促進されているから、そうした弊害を伴う活動はやめるべきだと批判されるかも知れないし、そんなふうに否定されたり批判される理由がはっきりしているなら、改めるべきことも明確になるだろうが、改めるべきだと主張している人や団体と対立しているなら、意識して改めようとはしないだろうから、そこで争いが起こって、争っている相手を打ち負かさないと弊害が改まらないようなことになってくると、何やらそこから事態がこじれてくるわけだが、人や団体の活動が全ての面で肯定されるような活動とはならなければ、そこには必ず弊害となるような問題が含まれていて、それを巡って対立や争いが起こるわけで、それがどの程度のことかにもよるだろうが、力まかせに無理なことをごり押しすればするほど、弊害の程度も大きくなってくるだろうから、それに伴って事態のこじれ具合も誰の目にもはっきりしてくるだろうが、すでにそうなっている時点で、問題の解決など困難になっているし、真っ当なやり方では事態が動かないから、力まかせに無理なことをごり押しするようなことが行われて、さらに事態をこじれさせてしまうことになるから、より一層面倒な成り行きになってしまい、人や団体が社会の中で利益を求めて活動すれば、大なり小なりそういった弊害が生じてくるわけで、そんな問題を抱えながら活動が行われている実態がある限りで、何かしら訴訟沙汰を伴うような事態が起こってくるわけだが、逆に何の問題も起こらないような活動では、利益など得られないと思っておいた方がよく、世の中で誰がか利益を得られると、他の誰かが不利益を被るような事態が想定されるなら、そこから対立や争いが起こるのが必然となり、誰かが不利益を被っているからこそ、そんな状況をもたらしている行為や活動が批判されて、批判されても改まらないようなら、そんな行為や活動をやめさせようとするのだろうから、そうなっている時点で解決が困難な状況となっていて、それを強引に解決しようとすれば、力まかせに無理なことをごり押しするようなことをやらなければならなくなり、その最たるやり方が戦争になるのだろうが、話し合いでどうにかなるようなことではないから戦争になるというと、では話し合いなど無駄なのかというと、結果的に無駄となった状態が戦争状態と言えるわけだから、そうなるまでの間に話し合いが無駄にならないように努力をしなければならないわけだが、その途中の段階では話し合いが無駄になるかならないかは誰にもわからないだろうし、そうなるのを予想したり予測することはできるし、そうなってから、そら見たことかとそうなった結果を追認することもできるわけだが、そんな成り行きの中では誰もが否定的な心理状態となって、そういった争いの渦中にいる当事者や関係者を批判しがちになってしまうだろうが、そんな状況の中ではうまく立ち回ろうとしてはまずいのかも知れず、逆にある程度は不利益を被って被害者のような立場を占めておかないと、自らの活動を正当化できなくなってしまい、それがあからさまには加害者の立場になるのだろうが、果たして被害者や加害者だけが争いの関係者や当事者なのかというと、そう捉えておいても構わないが、そうではないような成り行きをもたらしたければ、交渉者や仲介者のような立場を占めたくなるだろうし、成り行きによっては漁夫の利を得たいという思惑が透けて見えるようなら、それもある意味で加害者になってしまいそうだが、そんな意図がなくても結果的にうまく立ち回ってしまうのが、そういった立場を占めてしまう役回りを担う人や団体になるわけで、果たしてそれが政治家や政党としての役回りなのか、あるいはもっとはっきりした職業として、弁護士などの職種も制度的にはあるだろうが、何かそういうところで紛争の解決自体が、あまり正当化できない役回りを必要としていて、そういう役回りを担ってしまう人や団体が、最終的にうまく立ち回って利益を得られるような制度やシステムになってしまうと、それに伴って不利益を被ってしまう人や団体にとっては、交渉や仲介を引き受けながら揉め事に関わることによって利益を得てしまう人や団体が、自分たちの味方なのか疑問に思うかも知れないが、それも制度やシステムとして中立的な立場があると共に、その中立的な立場を担うような人や団体が、結局はそうした争いを利用して利益を得てしまうことによって、まさに漁夫の利を得るような成り行きに持っていくための制度やシステムを構築していることになるわけだ。


5月8日「関わらざるを得ないこと」

 何をやってみてもうまくはいかない面が出てくるのは、全てが作り話のような都合のいい成り行きにはならないのと共に理解できるが、何かはっきりとわかるようなことが起こってからそれを説明するとなると、それに関しては都合のいいことしか語れなくなってしまうわけではないにしても、逆にうまくはいかなかったところを批判するとなると、そんな批判だけを強調するなら、やることなすことことごとくがうまくはいかなかったような話になってしまうだろうが、そういった語り手の都合が良かったり悪かったりする面だけではなく、どちらでもないようなところで成り行きが進行中であるなら、それに関して語る必要のないところまで考慮できるわけでもないが、全てを語る必要はないし、場合によっては語るに際して都合の悪いことにはなるべく触れないようにして語りたくなってしまうにしても、事の成り行きがそれについて語る者の都合などとは一切無関係に推移するわけでもないにしても、語る者が語る対象となる出来事の当事者ではない場合には、それに関して語る権利があったりなかったりするわけでもないが、当事者の都合とは違った、それについて語る者の都合もあるから信用できなくなるわけでもないのだが、何かそういう面で様々な都合が入り組んでくると、それについて語っている者の立場や素性などを考慮に入れながら、語っている内容を受け止めるようなことになるから、場合によってはそれについて語っている者とは違う判断や評価も伴ってきて、それが語っている者と対立するような判断や評価になってくると、語っている内容を真に受けてはいないどころか、その内容を全く信用していないことにもなるだろうから、それについて語っている者を評価したりしなかったりすることにもなり、別に偉そうに上から目線でそれについて語る者を馬鹿にしたいわけでもないとしても、何か本来の興味から外れた方面でそれについて考えているような成り行きになってきて、果たして誰かが語っている出来事そのものに興味を持っているのか、あるいはそれについて語っている内容に興味を持っているのか、さらにはそれについて語る者に興味を持っているのかとなると、それらが渾然一体となった現象に興味を持っていることになるのかも知れないが、何か定まったところから考えているわけではなく、絶えず場所を移動しながら、異なった立場からそれについて多面的かつ複合的に考えているわけでもないとすれば、では何なのかというと、あまり深くは考えずに物事の表面にだけ興味を持っていて、考えている対象となる出来事に関わって深入りしたくないとなると無責任な立場となってしまうが、何か直接の関わりを拒否するような視点というのが、ある意味でずる賢さを体現しているから、それに気づかれてしまうと当事者から相手にされなくなってしまうだろうが、逆にそうした狡猾さが自ら興味を持った出来事に深入りして泥沼にはまってしまう危険を回避していると共に、それと引き換えにして味わう当事者意識の希薄さも体現しつつも、ジャーナリズム的な無責任さを隠蔽しているわけでもないが、それが自身で体験しつつある出来事の多面性を見ないようにしていることに結びつくわけでもないのだろうが、そこでうまく立ち回ることと、事件の加害者や被害者になってしまうこととは質や傾向の異なることであるのはわかるはずだが、立場や境遇などの微妙なすれ違いを通して見えてくるものが、そこで起こっている出来事に直接関わってしまう当事者には見えてこない光景であったり、それが見えてこない立場の人には意味のない光景だとしても、それを何か意義深いことのように言いくるめる手法というのが、メディア的なまやかしだと断じても構わないのだろうが、無責任な傍観者や野次馬にとって興味深いのはそういうことであって、そういうふざけたところから言説を構成するのがエンタメ系のやり口であり、それに関して観光業者というのが、その言葉の直接の意味とは無関係な方面から興味深い対象となってくるわけで、そんなどうでもいいことよりは直接の生活苦に陥っているような人たちのために働きたいと思うのが、これ見よがしな方面で思うところなのだろうが、そういった方面へと向かっていくと、何かそこで行く手を阻まれるような事態に遭遇するわけでもないとしても、それ以前に自らの立場や境遇がそことは違う方面へと向かうように仕向けられていることに気づくわけでもないのに、実際にそうではないことに気づかされるような出来事を体験させられてしまうと、その種の絵に描いたようなリアリティが信じられなくなってくるわけで、それがよくできた作り話とはかけ離れた現実の出来事であり、わざわざそれについて語る必要を感じさせないような普通の何の変哲もない出来事なのだが、そういう出来事がそれに関わっている人々に何か困ったような事態をもたらすわけでもないどころか、そうならないように様々な安全装置を何重にも施された中で起こるような成り行きになるから、そこで起こっていることに慣れてしまうと、逆にメディアが伝えてくる深刻な事件や事故の類いには全くリアリティを感じられなくなってしまうわけでもないのだが、そういった出来事とは質も傾向も異なる違和感を覚えるわけで、それが誰もが体験する日々の日常の退屈さとどう違うのかといっても、何かそこから教訓のようなはっきりした意味や意義など感じられないから、それを何度体験しても懲りることもなく、それが馬鹿げたことでもおかしなことでもないのだから、馬鹿にするわけでも無視したくなるわけでもなく、そんなことの延長上で生きていることを骨身に染みて理解することぐらいが、かろうじて意識できることになるのではないか。


5月7日「保守への誘惑」

 今のご時世で、何を信じればいいのかわからないからといって、何も信じられないわけではなく、他に信じられるものがなければ、自分を信じるしかないが、信じたところで何がどうなるわけでもなく、自分の他にも、何やら過去の亡霊を呼び出してくるような風習が流行っているわけでもなさそうだが、保守という立場を正当化するために、江戸時代に生きていた著名人を呼び出してくるとすれば、例えば本居宣長を呼び出すなら、そこからどんな効用が得られるかと問うなら、中国から渡来した儒教系の思想を漢意としてあからさまに退けたわけでもないだろうが、漢意の反対語となるのは大和心や大和魂であり、源氏物語や和歌などに日本独自の思想や文化が宿っていると単純に主張したわけではなく、もちろん源氏物語の作者の紫式部は、漢文や漢詩を読み書きできて、中国の歴史にも造詣が深いインテリ教養人だから、和魂洋才ならぬ和魂漢才の元祖のような存在であるから、日本独自の思想や文化といっても、日本発のオリジナリティーのようなものを期待してしまうと当てが外れるだろうし、また和歌の元祖のような存在である万葉集にしても、原文は漢字で書かれているから、漢詩の教養がないと和歌もうまく構成できないだろうから、そういうところも中国の思想や文化に対峙するものとして日本独自の思想や文化があるわけではなく、またそれは西洋の思想や文化に対峙するものとして日本独自の思想や文化を期待するのは無理があるということが、和魂洋才や和魂漢才という造語の意味からしても、何か勘違いしがちになってしまうわけだが、また日本の古代では、大陸から弥生人が渡ってくる前には縄文人の文化が花開いていたから、縄文文化こそが日本文化の源流だと主張したくなってしまう人もいるだろうが、イギリスでもアングロ・サクソン人が渡ってくる前にはケルト人の文化が花開いていたし、ドイツやフランスでもゲルマン人の大移動が起こる前には何かしら先住民の文化が花開いていたのだろうし、古代インドでもアーリア人が移動してくる前にはインダス文明があったのだろうから、少なくとも日本だけが特別な地域というわけではなく、そういった歴史的な経緯から保守という概念を導き出そうとしても、当てが外れるようなことになりそうなのだが、では保守とは何なのかというと、単純に日本の文化や伝統を守ることだと考えても、そこには中国や朝鮮半島の文化や伝統も含まれてくるし、また明治維新以降に混入してきた西洋の文化や伝統も含まれてくるから、日本というカテゴリーでは括れない文化や伝統になるわけだが、それを強引に神道という概念に結びつけてみても、古代のユダヤ教や中国の道教などの要素も混ざってくるだろうし、また意外とそこにも明治維新以降に混入してきた西洋のユダヤ=キリスト=イスラム教的な要素も含まれてくるから、あまり日本独自という傾向は期待しない方がいいのかも知れず、さらにそうであるなら宗教右派的な人々が忌み嫌う西洋由来の民主主義とか左翼思想とかも、日本の伝統や文化の中に含まれても構わないような気もするのだが、そこまで含んでしまうと、では何を保守から除外すればいいのかわからなくなってくるが、何でもかんでも外部から受け入れるのが日本の文化であり伝統であるといっても、少しは取捨選択も働いているはずで、それが本居宣長の強調する漢意の類いだと見なすなら、それが論理的な思考であり、情念に囚われずに理性的に物事を考えることになるわけだが、果たして保守を自認する人々が論理的な思考を全く拒絶しているかというと、そんなことはなく、都合に合わせてちゃっかり利用しているわけで、それが和魂洋才と呼ばれたり、それ以前には和魂漢才という表現に該当する利用の仕方になるのだが、本当にそんな使い分けができているのかというと、漢意とは違う大和心とか大和魂とかいう概念が何を意味するのかを理解しないと、その辺がよくわからなくなってしまうだろうが、それに関しては現状でも政治の方面で特徴的な傾向が現れていて、具体的な傾向として論理や功利では割り切れないことをやっている勢力が現に存在していて、そうした勢力が実際に何をやっているのかというと、何やら無謀なことを行なったり主張していて、例えばその行なっていることが牛歩戦術であったり、主張していることが消費税の廃止であったり、インボイス制度の撤廃であったり、また身体に障害のある人を優先して国会に送り込んでいたりと、果たしてそんなことをやっている勢力が真の意味で保守なのかというと、多くの人々がそうは思わないかも知れないが、それを大和心や大和魂の表れだと見なすなら、そう言われてみればそんな気もしてくるかも知れないが、それでも保守派を自認する人々から見れば全くそうではなく、むしろ彼らが忌み嫌う左翼と呼ばれるカテゴリーに入れたくてしょうがないような勢力であるはずだが、それは本居宣長にしても吉田松陰にしても、彼らが生きていた時代の中では主流派からは外れた存在であったのだから、当時の保守派からすれば、現代の山本太郎のような存在が、当時の本居宣長や吉田松陰だったわけで、そういうところが現代において本居宣長や吉田松陰などに心酔している人たちには、理解できないところであり、自分たちが山本太郎のような人物に心酔していることに気づいていないわけで、要するに現実にそこにいる人物から目を背けながら、過去の著名人を持ち上げるという、これまたよくありがちなことをやってしまうのが、典型的な保守派に特有な傾向となってしまうわけだが、果たしてそれで構わないのかというと、そうしないと保守派としての体面を保てないし、実際に政治的な主導権を握れないわけで、そういうことをやってしまうのと引き換えにして人畜無害な存在となってしまうわけだから、それを批判する人々にとっては有害極まりない存在に見えてしまうわけだ。


5月6日「理解の限度」

 それを全く理解していないわけではないが、改めて考えてみるまでもなく、そんなことはわかっているはずのことが、案外わかっている人がほとんどいないとなると、では実際に何がわかっていないのかというと、日々当たり前のようにして行われていることに関して、それがどのような理屈に基づいて行われているのかが、案外誰もわかっていない場合があり、それがわかっていなくても構わないようなことであれば、わかる必要があるかというと、疑問に感じなければわかる必要などなく、わかっていなくても構わないのかといえば、自分でそれを判断するしかないが、わかっていないことに気づかなければ判断のしようがないし、ではわかっていないことに気づくべきかといっても、誰が気づかせてくれるわけでもなければ、わからないことに気づかないままに終わってしまうかも知れないが、実際に誰がそれを教えてくれるわけでもないし、誰も教えてくれなければ、現に今もわからないままとなっていて、何をわかる必要があるのかもわからず、途方に暮れているわけでもないが、そんなこともわかっていないのかと呆れられてしまうかも知れないし、もちろん誰が呆れるわけでもないから、呆れること自体があり得ないことかも知れないが、何がわかっていないのかもわからないままここまで話を進めてくること自体があり得ないことであるから、かなりおかしな話の成り行きになっていることは確かであるにしても、それに関して常識として考えられることが、意外とそれが非常識と見なされたりするから、油断のならないところかも知れないし、実際にわざと非常識なことを主張してくる人もいくらでもいるから、それの何が常識で何が非常識なのかについては、注意しておかないと、非常識なことを主張してくる人たちの口車に乗って、あり得ないことを信じ込まされてしまうようなことにでもなれば、そんなことを主張してくる人たちの思う壺となってしまうだろうが、最近ではそれに関して身構えてしまうこととしてよく言われる主張が、政府の財政赤字に関して、財務省のデマを信じるなとか、緊縮財政派の口車に乗っては駄目だとか、そんな趣旨の主張に出くわすことが結構あるかも知れないが、それに関しては未だにどちらが正しいのかわからないままなのだが、もしかしたらそういうことではないのかも知れず、どちらが正しいのかを決める必要などなく、そんな主張をただ聞き流しておけば済むようなことであり、あとは時間が解決してくれるわけでもないが、解決しなくても構わないようなことでしかなく、解決しないままにしておくことが肝要というわけでもないのだろうが、それとは別の方面から別の解決策が示されるわけでもなく、解決策が示されたとしても、それが信用できない解決策になってしまう可能性も高く、主張することができるとしても実行しないままとなってしまう主張が結構多いわけだから、それもそういうことなのかも知れないと思ってしまうわけで、要するにそれが正しいか間違っているかの判断ができないままとなって、真偽がうやむやの主張となるしかなく、それを拙速に決める必要もないのかも知れず、まずはそんな主張をしている勢力がその主張を実行できるような成り行きにならないことにはどうにもならないのであり、そんな主張が実行に移された結果を見て判断しても遅くはなく、いったん実行に移されたらもはや後戻りができなくなってしまうとしても、そうなるまでは判断のしようがないのではないかと思う一方で、現状ではそうなっていないわけだから、今ここでどう判断してみても、それが明らかになるのはだいぶ先のことであって、結果に辿り着くまでは様々な紆余曲折が待ち受けているような気がしていて、もっと言うなら、現状がミスリードのただ中にあるのではないかと思っているわけで、誰が誤った方向へと人々を導いているのかといえば、正しい方向が決まっていない段階で、これが正しい方向だと決めたい人や勢力がミスリードしていると見なしたいのだが、そう見なすこともミスリードかも知れないから、現状では進むべき方向を決めかねていると言うべきところかも知れないが、進むべき方向など拙速に決めなくても、すでにミスリードされているとすれば、誤った方向へと導かれていることになるのだろうが、そんな主張をする人もいくらでもいる状況なのだから、どうも騙されてはいけないと思うこと自体もちょっと違うような気もするわけで、ではどうすればいいのかというと迷っていればいいわけではないが、やはり進むべき方向を決めかねているうちに、自ずから正しいとは思えないような方向へと導かれている現状を実感せざるを得ないから、自らの意向など無視して勝手に進んで行ってしまう方向へと進んでしまうのを躊躇しているわけだが、躊躇しているうちにも勝手に進んで行ってしまうわけだから、それが自らの意志で進んでいるとは思えないにしても、何らかの引力に引き寄せられているような気もするから、それが抗い難い力なのかも知れず、そんな力に導かれるがままになっている現状をどうしたものか決めかねているのだが、果たして決めかねているのに引き寄せられてしまうような現状の中で、何ができるのかと自問自答しているわけでもないが、結果的にそんな成り行きの中で抗い難い力を感じているのだから、そんな力に従わざるを得ないのかも知れず、実際に従っているから、そのことの良し悪しを決めかねているのだが、その一方でそれとは違う方面では明確に駄目だと思うことも、世界的な成り行きとして進行中であるから、そちらの方が日本で進行中の成り行きよりは重大な結果をもたらすような気もするわけだ。


5月5日「知らぬが仏」

 世の中で起こっていることに関して、何か特徴的な傾向があるからといって、自らの活動にもそんな傾向があるとも思わなければ、そこから大して影響を受けているとも思わないはずだが、気づかないところで何かしら影響を受けていれば、自分の生活や活動も世の中で起こっていることに含まれているのはわかりきったことだから、それを自覚することなくそんな傾向となっているのかも知れず、それほど実感が湧いてこなければ、自分が鈍感なのか世間知らずなのかは、ある程度はそういう面もあるだろうし、あえてそういう傾向に対して意識して敏感に反応できないからこそ、かえってそういった傾向に無自覚に囚われていて、それについては知らぬが仏ということわざが適切かどうかはよくわからないが、わざと気づかないように心がけているわけでもないにしても、そういった傾向に囚われていることを意識せずに済んでいるから、それなりに自然体で対応できていることになりそうで、自らもそういう傾向になってしまっているのに、そうなっているからといって、それがどうしたわけでもないような精神状態でいられると現状を捉えておけばよく、だからといって無自覚にひどいことを行なっているとも思ってもいないわけだが、そんな状況の中で正気を保つには、全てのことに敏感に反応してしまうと気が滅入ってしまうから、ある程度のいい加減さや鈍感さが必要なのかも知れず、そんな態度でいるから平然としていられて、それが高じてろくでなしな人間だと思われている恐れもありそうで、他人を馬鹿で間抜けだと嘲笑したいわけでもないにしても、ある程度はそんな人物だと思われていた方が気楽に生きていけるかも知れないから、わざとではないにしても、無自覚に馬鹿で間抜けな行為に及んで呆れられている面もありそうなのだが、それが誰にでもありそうな特徴的な傾向というわけでもないだろうし、それが世の中で起こっていることと連動しているようなら、何らかの流行現象に囚われている可能性もあるかも知れないが、そうではなければ何なのかというと、社会の中で生きる一般的な人の習性として、そういう面があると捉えても構わないかも知れないし、そうだとしても相変わらずその場の成り行きを自らに都合のいいように受け取るしかなく、そうしないと生きてはいけなくなるわけでもないが、自然とそうなってしまうように自らを自らで誘導しているわけでもないのに、結果的にそうなってしまうと事態を捉えるしかなく、都合の悪いことには気づかないようにしているのかも知れないが、それを自覚できないのだからどうしようもなくそうなってしまうわけで、それに気づいてしまうことを恐れていると考えれば言動や行動の辻褄が合いそうで、意識して辻褄を合わせようとしているわけでもなく、むしろ行動と思考が一致しない方が都合がいいのかも知れず、実際にもかなりちぐはぐなことをやっているから、自らの態度や行動に疑念を抱いているわけだが、頭の中で考えていることが実行できない代わりに、自らのとっさの対応に自分で驚いてしまうようなことが起こるから、考えていることの上を行くような行動となってしまい、だからといってそれができたことに自信を深めるわけでもなく、相変わらず自分がどんな行動に出るのか自分でもわからないから、絶えず不安感に苛まれていても、結果的にはそれで構わないようなことになってしまうから、そういうことをやりたくてやったように受け取っておけばいいとしても、それを言葉で説明しようとすると、思考と言動と行動の辻褄が合わないような気がするわけで、それをちぐはぐなことだと思っていても、事の成り行きとしては連続的に思考と動作が噛み合っているような気もしてくるわけだから、そこでも自らの都合のいいように事態を捉えている一方で、何か根本的なところでわかっていないことがあるような気もするから、安心はできないし、それでも結果的にうまく行っているように感じられると、それが勘違いだとしても構わないのであるから、勘違いをしているなりに言動や振る舞いをコントロールしているつもりで、実際にはどう考えても破綻している面もあるから、ぐだぐだになっているのだろうが、果たしてそれが心身の危ういバランスの上にかろうじて成り立っている脆い状態なのか、それともちょっとやそっとのことではびくともしない安定した状態で成り立っていることなのかは、今のところは謎だと思っているわけでもなく、それも自分では気がつかないしわからないことだが、世の中で起こっていることに連動してそうなっていると事態を捉えておいても構わないが、何が起こっているのかを全て把握できないのもわかりきったことだから、どうしても自らに関わりがありそうなことは把握しておきたいのだが、こちらが把握する前に向こうから勝手に関わってくるのであり、その際にはこちらの都合など一切無視して何かが起こるのであり、それを自らの都合のいいように受け取ろうとするわけだから、まさに勘違いもいいところであり、こちらの動作とあちらの動作が噛み合っていないことも承知しているものの、こちらとしては噛み合っているように装いたいわけだから、あちらの動作に合わせてこちらも動作しようとしているはずだが、それが多少なりとも噛み合っている面もあるから、かろうじて言語や動作のやり取りが成立しているのだろうが、それでも多少の齟齬感は覚えるし、実際にぎくしゃくしたやり取りとなってしまい、できれば何の問題もなくスムーズに事を済ませたいのだが、そうもいかないから、双方でうまくコミュニケーションが取れずに多少の行き違いは生じてしまうのだろうが、それをそのままにしておくわけにもいかないから、妥協や譲歩を模索しつつも、互いの動作をすり合わせて、結果的には交流がうまくいっているように装うわけだ。


5月4日「幻想を抱く対象」

 何か人が集団でおかしな行為に及んでいるなら、もちろんそれをやっている当事者は自分たちがやっていることがおかしいとは思っていないだろうが、それが側から見ておかしいと感じられるなら、そんな行為に及んでいる人たちがやっている行為について何か幻想を抱いているのかも知れず、幻想を抱くことが何を意味するかは、何に対して幻想を抱いているかにもよるだろうが、自分たちが幻想を抱いていることにすら気づいていない可能性もあり、それが幻想だなんて思ってもいなければ、では何なのかという疑念も湧いてきそうだが、よくありがちなのは、良かれと思ってやっていることが、実はその反対のひどいことであって、ひどいことをやっているのに気づいていない場合があり、しかもそれを誰がひどいことだと断じるのかと言えば、そんなことをやっている人たちを批判する人たちがひどいことをやっていると断じるのであるから、そんな人たちとは対立するしかなく、自分たちは断じてひどいことなどやっていないし、逆に素晴らしいことをやっていると自分たちの行為を誇るようなことになれば、評価が真逆になってしまうわけだが、実際に何がそうなのかといえば、幻想を抱いているから素晴らしいことをやっていると思い、逆に幻想を抱けないとひどいことになるなら、幻想を抱いている対象が問題となってくるわけで、それらの人たちが何に対して幻想を抱いているのかといえば、よくありがちなのが思想信条に関することであったり、例えば宗教に絡んでこじれた対立が生じてくるわけだが、中にはそれを宗教だとは認識していない場合もあるかも知れず、具体的に国家や民族や人種などに絡んで面倒な対立が生じてきて、それらが幻想を抱く対象となってくると、さらに事態がこじれてきて、それを単純に経済的な貧富の格差で割り切って単純化されるとまずいわけで、実態としては資本主義経済の中で起こっていることなのだから、実質的にはそういうことなのだが、そんな割り切り方をされてしまうと幻想を抱けなくなって、経済格差だけで物事の良し悪しを判断されるとごまかしが利かなくなってしまうから、わざとその間に目眩しとなる幻想を挟み込んで、事実をねじ曲げて捉えたいわけだが、そう捉える人たちは、もちろん事実をねじ曲げているだなんて思ってもいないし、むしろそんな自分たちを批判する人たちが事実をねじ曲げていると言いたいだろうから、そこでも対立が生じてくるわけだが、もちろん現状では世界的にその種の幻想が通用しなくなってきたから、逆にその種の幻想の中に人々を囲い込もうとする勢力が、側から見ればおかしなことをやっているわけで、その典型例が陰謀論的な煽動となって現れてくるのだろうが、それらの幻想よりもっと直接的で魅力的な幻想が、経済的に豊かになるという幻想なのだが、資本主義経済の中では誰もが豊かになれるわけでもないから、幻想がいつまでも幻想のままで一向に実現しないと、次第に不満が溜まってきて、その不満を別の幻想によって解消しなければならなくなると、やはり国家や民族や宗教や人種などの幻想に頼らなければならなくなるだろうが、果たしてそれらの幻想で代替できるかというと、やはり現状では世界的に無理になりつつあるから、余計にそれらの幻想を煽り立てるような行為が行われて、それがおかしな行為だと感じられるなら、幻想を抱けなくなりつつあるのだろうし、それだけ経済的に豊かになるという幻想の方が他の幻想よりは魅力的に感じられる世の中になりつつあるのだろうが、多くの人々が国家や民族や宗教や人種などに絡んで起こる紛争に幻滅していて、それらに絡んで起こる醜い争いから逃れようとするから、そういう大ざっぱで醜い争いしかもたらさない幻想から逃避するのに都合の良い幻想として、新たにLGBTQなどのもっと私的で細分化された幻想も出現してきて、それらも経済的な豊かさを求める幻想に代わる代替価値を担う幻想なのかも知れないが、そういった幻想に顧客や信者を奪われてしまうと商売上がったりだから、宗教右派をはじめとする従来からある国家や民族や宗教や人種などに幻想を抱いている人たちは、それらの新たな幻想を抱く人々を頑なに認めようとしないわけだが、それらの新たな幻想に肯定的な可能性があるとすれば、争わない方向で互いの多様性を認め合うところであるから、そういう面でも争いを好み、激しく対立し合う国家や民族や宗教や人種などに幻想を抱く人々とは相容れない傾向となってくるのだろうが、それらの幻想の中で良し悪しを決めるわけには行かないし、どれもが傾向や程度や種類が異なる幻想には違いなく、幻想を真に受けて信じている人にとっては、それを信仰することが生きがいとなってくるわけだから、馬鹿にすることも嘲笑することも憚られるだろうし、お互いの幻想を認め合うのにも限度があり、認め合うよりもいがみ合う方が幻想をより強く信じることにつながる場合もあるだろうから、一概に幻想から醒めた方がいいとも言えないが、幻想からもたらされる弊害を弱めるような効果が求められるなら、まずは特定の幻想を信じている人を差別することは許されないし、経済的な豊かさを求める幻想から生じる貧富の格差を縮めるには、公的な面での措置が必要となってくるだろうが、特定の幻想が自然に廃れるなら、所詮は幻想にすぎないのだから廃れるにまかせても構わないような気もするし、無理にそれを維持しようとしなくてもいいような気もしてくるが、やはり廃れてしまってはまずい立場の人もいるから、そういう立場の人や団体が、自分たちが信じている幻想の信者を増やそうとして、盛んに宣伝活動や布教活動をしている実態もあるわけだ。


5月3日「結果を原因と取り違えること」

 例えばテクノロジーの進歩が社会にどんな変化をもたらすかは、実際にテクノロジーが進歩してから、それがわかったりわからなかったりするだろうが、人の活動が思考と連動して技術的な方面でのまやかしに囚われてしまうのも、技術的な進歩という幻想に依存した結果であり、それが結果であって原因ではないところがわかりにくいだろうが、結果を原因と取り違えてしまうのもよくある過ちであり、それが技術的な進歩が原因でそうなったわけではなく、技術的な進歩が何か良いことだと幻想を抱いた結果として、技術的な進歩を利用したまやかしに引っかかりやすくなり、そうしたまやかしへと誘導する言動にも騙されやすくなるのだから、昨今のAI技術の進歩によって、進歩したAI技術を悪用して民主主義や人権が脅かされるとしても、民主主義や人権が脅かされる原因がAI技術の悪用にあるわけではなく、AI技術が進歩していなかった昔から、民主主義や人権は常に脅かされてきたわけで、AI技術を使わなくても民主主義や人権が脅かされているわけだが、ただ一方的に脅かされているわけではなく、民主主義や人権を尊重したり促進したりするのも、AI技術を利用してそうなる可能性もあるかも知れないわけだから、テクノロジーの進歩というのは、ただ一方向へと変化を促したり影響を及ぼすだけではなく、実際に特定の分野でテクノロジーの進歩が起こってから、人がそれを利用して何かをやろうとするわけだから、その利用法や活用法を思いつかないと、そうはならないわけで、しかも誰が何を思いつくかなんて事前には予想も予測もつかないし、思いついたところで、その思いつきが社会にどれほどの変化をもたらすかも、実際に何か変化が起こってみないことにはわかりようがなく、中には変化しているのに気づかない場合もありそうだが、社会の変化をテクノロジーの進歩が原因でそうなったと言える場合もあるのだが、逆に社会が変化したからテクノロジーの進歩が起こる場合もあるし、社会の中で民主主義や人権を尊重するようになったから、そういった社会の変化に応じた分野でテクノロジーの進歩も起こったと言えるし、単純にテクノロジーの進歩によって民主主義や人権が脅かされていると言える場合があるとしても、そこだけを強調したり誇張して対応や対策を協議するようなことになると、そうなった結果を原因と取り違えていることにもなりかねず、それでは様々な方面から多面的に事態を捉える視点が欠けていることになるわけだが、主張としてはそういう主張をしやすいわけで、何かによって民主主義や人権が脅かされていると主張すれば、脅かされている原因を何とかしなければならないと単純なことが言えるから、そういう主張が好まれていて、そんなわかりやすい主張に安易に賛同したい人も結構多いだろうから、多くの人々から支持されて賛同を集められるような主張をしたがるわけで、それも結果を原因を取り違えていることになるだろうが、安易にそんな主張を支持したり賛同してしまう人々には気づきにくいことでもあるから、そうなってしまうのも致し方のないことかも知れないが、そういった物事の単純化を真に受けると、憲法を改正して緊急事態条項を設ければ、政府が議会や国民の意向を無視して好き勝手なことができるから、是が非でも緊急事態条項を設けたくて、そのために憲法改正をやりたくて仕方がないような愚かな人々も出てくるようだが、そういう方面へと突っ走っている人や勢力がなぜ愚かなのかと言えば、それも結果を原因と取り違えているからだが、すでに過去に緊急事態条項を利用して好き勝手なことを強引に行なった事例があるから、では憲法を改正して緊急事態条項を設ければ、過去にそんなことをやったように好き勝手なことができると考えてしまうこと自体が浅はかなのであり、しかもそのために憲法を改正したくて仕方ないという意思を丸出しにしてそんな行為に及んでいるわけだから、すでにそんなことをやっていること自体が、思いがけない結果をもたらす可能性を高めているのであり、そういった思慮の浅さがわかりやすいから、それだけ直情的で愚かな人々からの支持や賛同を得られることは確かなのだが、それに関してわざわざ歴史は繰り返さないが韻を踏むとかの紋切り型の格言を持ち出さなくても、何か間抜けな印象を受けるわけで、もちろんそれに対して過去に緊急事態条項を持ち出して好き勝手なことをやったナチスドイツの例を持ち出して、現状で憲法改正に向けて強引なことをやっている勢力を批判することも、それと対をなす愚かな行為だと嘲笑するつもりはないが、実際に起こるのはそういうことではないような気はするし、それらの勢力が強引に憲法を改正することに成功したとしても、ナチスドイツと同じようなことができるとも限らないし、もちろん歴史は繰り返さないが韻を踏むと言えるようなことが起こるかも知れないが、起こるとしても一度目は悲劇に終わったが二度目は茶番劇に終わる可能性は高いだろうし、実際に現状で行われているのが二度目の茶番劇である可能性も高く、それが茶番劇としての憲法改正ごっこであり、緊急事態ごっこのように見えてしまうから、やっていることの中身が馬鹿げていて、実際に馬鹿げた人たちが馬鹿げたことをやっているわけで、それもここ十年間にわたって特に顕著になってきたように感じられて、何よりも馬鹿げたことをやっている人たちが本気になって茶番劇を演じていることに無自覚なのが、何か救いようのない愚かさを見せているようにも感じられてしまうから、もはやそれが後戻りができないことを証立てているようにも思われて、いくら馬鹿げた憲法改正ごっこをやっても昔のような具合には行かないことは明白だろうから、そんなことをやっているうちに誰もが予想だにしない思いがけない結果に終われば、社会が変わったことを実感できるかも知れないが、もしかしたらそれにも大半の人たちが気づかない結果に終わる可能性もありそうだが、いずれにしてもそうなってから実際に社会が変わるのではないか。


5月2日「偽装と作為」

 あたかも知らないことを知っているかのように装うのも偽装には違いないが、偽装するつもりがなくても、思いがけない紆余曲折を経た挙句に、結果的にそう受け取られかねないような振る舞いを強いられてしまうと、誤解を解こうとしても叶わずわけがわからなくなってくるが、それが意図しないごまかしなのかまやかしなのかはどちらでもなさそうだが、わけがわからないのではなく、実感としてはわかっているつもりでその辺の経緯をわかりやすく説明したいのだが、その場の状況次第では説明が通用しない場合があって、現実に進行中の成り行きの中で、それについていくら語っても、言葉を使って説明しているそれとは微妙に違っているような気がするのだから、その場の成り行きに含まれる言語活動も状況と連動しているはずなのだが、それが部分的に連動しているに過ぎず、全ての面で一致しているわけではなく、絶えず結果を都合のいいように解釈しようとしてしまうから、そういう部分がフィクションと化すわけで、そうなることはその場に居合わせた誰もが承知しているはずだが、その場で進行中の成り行きに沿って思考を働かせて、それを言葉で表現しようとする度に、そこから外れてしまうわけで、そうなるとやはり言葉が足らないのは致し方のないことであり、うまくその場を切り抜けるには、それを完璧に説明する必要などないどころか、あえて知り得ない部分を残しておかないとうまく切り抜けられないとも思わないが、結果的にはうまく切り抜けなくても構わないのであり、うまく切り抜けようとして失敗しておいた方が無難な場合もある限りで、下手に完璧な説明になってしまうと、作為として逃げ場を失って、それが災いしてかえって事態をこじれさせてしまう場合もあるから、実際にはうまく切り抜けられずに焦って右往左往しているうちに、新たに思いがけない経緯やこじれた事情などの紆余曲折がそこから複雑に入り組んできて、どうしたらいいのかわけがわからず途方に暮れているうちに、次第に考えるのが面倒臭くなってきて、うまく立ち回ろうとしても無駄なことがわかってくるから、悪あがきをやめて、その場の成り行きに素直に従うしかなくなってくるのであり、それが言葉ではうまく説明できないその場の成り行きであるなら、知らないことやわかっていないことはしつこく追及せずにそのままにしておくしかなく、誰もがその場の事情を完璧に把握しているわけでもないのを利用しようとしているわけでもないのに、結果的には誰もが利用しているから、あたかも知らないことを知っているかのように装うのだろうが、誰もが完璧には装えずに無知をさらけ出して、うまく切り抜けられずに醜態もさらしてしまうのだが、それで構わないわけで、できないことをやろうとしても、うまくいかないのはわかりきったことであり、うまく立ち回れなくても構わないとは思わないが、結果的にその場を切り抜けられなくても、その方が無難な結果になってしまうわけで、もちろんそれが無難だとは誰も思わないが、誰もそうは思わないからこそ、無難だと思わないところが、完璧さを避けられて、結果的にはそれで構わないとも思えなくても、実際にそれで構わないような成り行きになってしまえば、そんな結果を受け入れたくなくても受け入れざるを得ないわけだが、否応なくそんな結果に直面してしまうのだから、それが避けられない結果となって、回避不可能な結果としてその中に心身が含まれてしまうわけで、そんな自らの力ではどうにもならない現実を突きつけられてしまうから、それで構わないと認めざるを得なくなって、実際に認めたくなくても認めていないのに認めていることにされてしまい、認めたことを前提として事態がさらにその先へと推移して行ってしまうから、そこで置いてきぼりを食らうのが嫌なら、嫌々でも渋々でも不平不満を口にしながらも、そんな成り行きに沿った行動や言動を求められて、完璧からは程遠い下手くそな対応であっても、曲がりなりにもそれに応じていれば、何とかその場の状況から脱落せずについて行っていることになるわけで、そうなっている限りでそれで構わないことにされて、理性的な振る舞いからはかけ離れてしまうわけで、しかもそんな不完全で失敗しまくりに見えてしまうからこそそれが好感されて、世の中の大多数を占める不完全で中途半端な対応しかできない人たちからは、自分たちと同類だと見なされて安心されることになり、仲間意識を伴った共感作用と共に、一致団結した連帯の証しを得られるわけだが、それが何かというと、日本の政治を見れば一目瞭然だといっても、そういうところは誰も認めたがらないが、暗黙の了解事項としてはお互いに目配せしながら許容されるだろうし、その一方で清廉潔白を旨とするある種のジャーナリズムの担い手からは日本の後進性として忌み嫌われるのだろうが、だからこそある種のジャーナリズムとは敵対しているつもりの勢力の中では好感されるし、実際にそういうレベルでの対立や敵対の姿勢が好まれるのだが、それこそが一対の予定調和な妥協点を形成していて、それ以外の面では似たり寄ったりなのに、そこだけが対立点であるように装われるから、それもある種の偽装ではあるものの、そこに日本人と呼ばれる人々の真の姿が隠されているわけではなく、元から偽装なのだから、真の姿などどこにもないわけで、作為として日本人を演じることが、逆説的に自然な演技に見えてしまうわけだから、真実などあり得ないし、あるのは日本というフィクションそのもの以外にはあり得ないわけだ。


5月1日「情勢に関して思うこと」

 果たして世の中の情勢を自らの境遇に引き寄せて解釈することが妥当かどうかはわからないのだが、特に何がわかったとも思えないのに、それ自体が何でもないことであるような気がするのは、メディア経由で知るからそう思われて、それが政治や経済の情勢で、そこで起こったことをどう受け止めるべきかと考えている最中に、そんなのは自分には関わりのないことだと気づいた気になって、それで合点が行くような結論に至ったように思われるのも、それに関して何かわかったと思うことが、その場の情勢であれば、情勢を自らに都合良く解釈できる限りで、解釈している自らの勝手な思い込みである可能性も捨てきれないが、それをどう受け止めてみても、単に自分にとって良かったとか悪かったとか思われてしまうなら、そんな結論に至ってしまうこと自体にそれほど深刻に受け止めるだけのリアリティが感じられず、それが自分に関わってくる情勢だと思うはずもないのに、それでも自分にとって重要なことなのではないかと思ってしまうのだから、その重要さという程度が、自分には関わりのない程度の重要さとなって、他ではどうかはわからないが、少なくとも自分にとってはさほど重要でもない程度の重要さというのが、二重基準があるような気がするわけで、それがメディア的な基準と直接自分に関わってくるような基準との落差となって認識されているような気がするわけだが、その二つの基準が一致することがあるのかというと、自分のような一般人レベルではあり得ないのではないかとも思われるのだが、直接の当事者感覚とは未来永劫縁がないかというと、そんなのは実際にそうなってみないことは実感できないが、少なくとも部分的に感じ取っていることだから、全てにおいて重要だとは思われず、メディアから得られる政治や経済の情勢というのは、部分的な範囲内での重要度にとどまるのだろうし、さらに言うなら、重要であるかないかの判断基準というのも、個々の局面で異なってきて、ある時には重要だと思われても、別の時にはそれほど重要だとも思われないから、重要性自体が相対的な判断基準で、いつでもどこでも重要であるはずもなく、メディアに接している時だけ重要だと思われるわけでもないが、そんな感覚でも構わないのかも知れず、それとこれとが地続きであるとは思われないから、それが重要であってもなくても自分には関係のないことになってしまっても構わないわけだが、そういう意味では大して深刻だとは思っていない事態に直面している一方で、直接には直面していないにも関わらず、間接的なレベルで深刻に受け止めるべきだと感じている情報をメディア経由で日々受け取っているはずなのだが、それが自らの意識へと直接もたらされているわけでもないから、他人事だと見なしても構わないようなことでもあり、そうやってなかなか全面的な深刻さを感じられない限りで、メディア経由で受け止められる政治や経済の情勢に関する重要度が取るに足らない程度だとは思えないにしても、真に受けるレベルでは大したことでもなく、実際に他人事で済ますことのできる立場というのも、結構な割合で共有できるから、どうということはない程度でいられる人もそれなりに多いのかも知れないが、それが悪いことだともまずいことだとも思わないし、それだけ世の中が平和な状態で保たれているはずだが、それとメディア経由で伝わってくる内容に落差や食い違いが顕著に表れていると、何か騙されているような感覚に襲われるわけだが、それがメディアに騙されていると思うかは微妙なところであり、メディアによる程度の強調や誇張を真に受けなければ、騙されているとも思わないだろうし、実際に部分的な面を強調したり誇張して伝える傾向が意識される限りで、それを承知しているなら、そういうものだと思っていて、それに対応して、伝わってくる内容の重要度や深刻度も、当事者でないとわからない程度でしかなければ、自身の想像力で補うしかないが、確かにひどい状態になっている人が世の中にはある程度いるから、そういう状態になっていることを強調したり誇張してメディアが伝えると、それを真に受ける人はそう思うだろうが、それを自分の立場や境遇に引き寄せて解釈したり判断するなら、そうは思えない人の割合が多ければ多いほど、メディアが伝える内容の深刻度や重要度も、それほどのことでもないような気になってしまうから、世の中がひどい状態になっているのに、一向に政治が改まらないことに腹を立てるか疑念を抱くのも、実はそれほどひどい状態ではない可能性があるから、そういうところが微妙に感覚に狂いが生じていると思うなら、それも気のせいで済ますわけにはいかないにしても、それに関する自らの実体験に虚構が含まれてくると、信用するわけにはいかなくなるにしても、それの何が信用できないのかといえば、メディア経由でもたらされる政治的な主張が信用できないわけで、しかもどちらかというと政治批判の類いが信用できなくなれば、保守的な現状維持へと気持ちが傾いてくるのだろうが、そこで何を心がけなければならないかといっても、それも人それぞれで異なると、どんな傾向にも持って行きようがないだろうが、各人の実感よりも信用できる感覚があるのかといえば、各人の実感ほど信用できないものはないとは誰も思っていないにしても、メディア経由でもたらされるもっともらしい政治的な主張込みで誘導される感覚というのが、最も信用できない代物だとも思わないわけで、なぜそうは思えないのかというと、それが言語的な誘導だからとも思わないが、実際に誘導しようとする意図や思惑が気づかれない範囲内で、そのタイミングを見計らって世論調査を用いて世論誘導が試みられるのだろうし、その内容を多くの人々が真に受けてほしいから、これ見よがしな煽り立ても同時並行して行われて、そんな見え透いた煽動に引っかかる人もそれなりに多くいるはずだが、それも多くの人々が煽動に引っかかっているように見せかけられているに過ぎないのかも知れない。


4月30日「考えるまでもないこと」

 あえていい加減なことを述べるなら、人は考えるまでもないことを考えている一方で、考えなければならないことを考えない代わりに、慣習に従おうとして、意識して慣習に従っているつもりが、実態としてはそうではない面もあり、慣習にあからさまに逆らって波風を立てたくなければ、周囲の人々に気兼ねして、形だけは慣習に従っているふりをするのであり、心から従っているわけではなく、従っているように見せかけながら、その場を丸く収めようとするのであり、そうなっている限りで考えるまでもないことが何かといえば、慣習に逆らうなんて考えるまでもなく、あり得ないことであり、慣習に従うか逆らうかの二者択一を迫られているわけではなく、見せかけとして慣習に従っているように装うのであり、その一方で考えなければならないことが何かといえば、その場を丸く収めるにはどうするべきかと考えるわけで、もっと正確に言うならどうするべきかというよりは、どう振る舞うべきかと考えなければならないわけだが、実際には考えるより先に感じ取らなければならず、その場の空気を感じ取って、どう振る舞うべきかと考えるというよりは、考えるより前にやるべきことが自ずから決まってくるわけで、それが考えるな、感じ取れという戒めの言葉になるわけだが、果たしてそれでその場が丸く収まるかというと、それも形の上では収まったことになり、丸く収まったことにしておくわけで、本当は丸く収まっているとは言えない状態であっても、実際には何事かが起こっているとしても、形の上では何事もなかったかのように振る舞わなければならず、それが慣習に従うことによって得られる効果や効用となるわけで、世間体を気にするなら何事もないように見えることが肝要で、何事かが起こっているのにそうは見えないことが、慣習に従うことによって実現するなら、形の上ではその場が丸く収まっていることになるのだが、もちろん形の上ではという但し書きがどの程度の水準でそうなのかが、そうなっている状況を受け入れる人々の立場や考え方にもよるだろうが、慣習に従うことを受け入れている限りで、その立場が慣習によって守られていたり、さらにはそうなっていることを認めるのは考えるまでもないことであれば、そんな考え方も慣習に則っていることになるだろうから、そこから慣習に逆らうだの反発するだのの契機は生じてこないはずだが、それもそれほど切実さが感じられなければ、長い物には巻かれろ的な対応でも構わないわけだが、なし崩し的に慣習に依存した行為や行動によって社会が成り立っている面に着目すれば、それ以外にはやりようがない何かが行われているわけでもない状態であれば、そんな状態の良し悪しなど考えるまでもないことであり、慣習に従っていること是認する立場を守っているのであれば、そんな状態が良いのは改めて考えるまでもないことだが、果たして慣習に従っていることを是認できない立場がどのような場合に生じてくるのかというと、それも考えるな、その場の空気を感じ取れ、という戒めの言葉が当てはまる場合かどうかは、何とも言えないことかも知れないが、その場の成り行きに素直に従うことが慣習に逆らう動作をもたらすかというと、それが必ずしも倫理的な行為になるとは言えないものの、大して肯定できるようなことにもならないわけだが、あえて逆らって動作が慣習を外れてしまうというか、それが良かれと思ってやっているわけでもなくても、結果的にはそうなってしまうなら、心の中では嫌々ながら形だけは慣習に配慮しているものの、肝心な時に自らの動作を間違えて慣習から外れた行為になってしまうなら、単に習熟度が未熟で、慣習通りの動作とはならなければ、慣習が蔑ろにされているわけでもないが、素人がやろうとしてもできないような熟練度が要求される慣習となると、慣習通りの動作ができる人もそれなりに限られてきて、誰でもやろうとしてもできるわけではないなら、それを専門にやる役職が必要となってきて、専門家以外には慣習通りの動作ができなくなってくれば、慣習そのものが廃れる傾向も出てきて、それが伝統芸能のように公的な保護の対象ともなってくると、そうなってしまった慣習の実践はもはや一般人とは無縁なものとなってしまうのだろうが、そういう特殊なケースは除いて、一般人レベルで関わってくる慣習というのが、果たして深刻な事態を引き起こすかというと、それも慣習の内容にもよるだろうが、誰もがそれを慣習とは認識できないと、そのこと自体に起因してどんでもない勘違いが犯されるわけでもないだろうが、些細なたわいない行き違いに過ぎなければ大目に見てもらえそうだが、その程度のこととは言えない状況になれば、あえて慣習に逆らって意識して理性的に振る舞わなければならないのだろうが、そう振る舞うことが誰にでもできることではなく、慣習に従っているだけでは成し遂げられないことを意識できるかどうかが、誰にとっても考えるまでもないことであるはずがなく、人によっては誰もが考えなければならないことだと主張したくなるのだろうが、無自覚に慣習に従っていることを意識できない人からしたら、それがあってはならないことのように感じられてしまうわけだ。


4月29日「人権の必要性」

 人権というと、人として生まれながらに持っている権利という抽象的な説明では不十分だろうが、それが慣習とは別種の概念であることに気づかない人も多いかも知れないし、慣習を守ろうとすると人権が無視されがちになるというと、そんなことはないと反論されるかも知れないが、では何が人権を守るのかというと、たぶん社会が守るのではなく、また人が守るのでもなく、法律の類いによって人や団体や社会に人権を守らせることになり、放っておくと人や団体や社会が人権を無視しがちになってしまうから、法律を制定して人や団体や社会に向かって人権を守るように促さないと、基本的には守ってくれないのが人権であり、なぜ人権を守らないのかというと、人が人を利用して利益を得たいからという理由では不十分かも知れないし、それもそんなことはないと多くの人から反論されるかも知れないが、実際に社会の慣習を守らせるために人が他人の人権を踏みにじるようなことをやるから、それが悪いことなのかと疑念を抱く人も出てくるかも知れず、慣習を守らせようとする人や団体にとっては、人権よりも慣習を優先させたいのであり、また慣習を基にして規則を作って、それを人に守らせようとすることが、人権無視につながる場合もあるだろうし、人に理不尽な規則を強制することが人権無視そのものだと言えるだろうが、なぜ強制するのかというと、簡単に言うなら社会の権威に従わせようとするには規則を強制したいわけで、その規則というのが権威に絶対服従するという規則であり、そうやって理屈ではなく、有無を言わせぬ強制力によって社会の秩序を維持しようとするやり方が人権無視につながるわけだが、なぜそうまでして権威に従わせようとするのかというと、権威となって好き勝手なことがやりたいとは思わないだろうが、実際には好き勝手なことをやろうとしているように見えてしまうわけで、それを好き勝手だと受け取るのは間違っているわけだが、では何なのかというと、規則に従うことであり、どんなに理不尽な規則であっても従ってもらわないと困るのだが、その従ってもらわないと困る規則というのが、権威に絶対服従するという規則であり、逆になぜ人権を尊重しなければならないのかというと、理不尽な規則には逆らう権利が必要ということなのだが、それが人権の要だというと、それもそんなことはないと反論されるかも知れないが、逆に理不尽ではない規則を守ってもらうには、人として最低限の権利を認めてもらわないと、規則を守る必要はないということであり、その最低限の権利というのが理不尽な規則には逆らう権利であり、では理不尽ではない規則とは何かというと、人権を守るという規則であるから、少なくとも強制される規則とは、人権を守るという規則になるわけで、そういう理屈を慣習を守ることを強要する人たちが理解してくれるかというと、慣習を守っていること自体が理屈ではなく守っているわけだから、理屈より慣習を優先している限りで、理屈の優先順位は慣習よりも低いわけで、理屈を軽んじていることになれば人権も軽んじていることになるかというと、そんなことはないと反駁するかも知れないが、結果的に慣習を優先させると理屈と理屈に基づいた人権を軽んじることになり、それが高じると人権無視につながるというと、それもそんなことはないと反論してくるかも知れないし、あからさまに意識して人権無視をしているのではなく、結果的に人権無視になってしまうわけで、規則を強要すると強要する人の人権を無視しないと強要できないわけだから、そういう意味では慣習と規則が渾然一体となって人権無視を強要することになり、それが人の自由を奪う行為となるわけだが、そういう意味では自由を尊重するには人権が守られなければならず、逆に自由を抑圧すると人権が守られなくなるわけだが、自由主義と人権主義も渾然一体となっていて、そういう理屈がわからない人たちが人権無視をしているように見えるはずだが、なぜか人権無視をしていると目される勢力が推進しているのが新自由主義だと批判されているわけで、新自由主義を批判している勢力が人権の尊重を訴えるのはおかしいわけではなく、新自由主義によって労働者の人権が脅かされていると訴えるわけだが、そういうところから人の自由と人権の尊重ということがどういうことなのか、あまり深く考えずに、一方では人権の尊重が訴えられ、もう一方では新自由主義が批判されているわけだが、人が活動する自由を尊重しつつも規則を守らせることを両立させるには、守ることに納得できる規則にしなければならず、ただ一方的に権力を行使して規則を守らせようとするだけではうまくいかないわけだが、その辺のところを規則を作る側や守らせようとする側が理解しているかというと、理解しているとしても、結果的には規則を守ることを強要する成り行きになってしまうわけだ。


4月28日「制度に絡む不信感」

 不信感というとわかりやすいが、安易に不信感を抱きたくなる対象があって、やはりそこから物事の否定的な印象を利用して単純化したくなって、それに関しては疑念を覚えるのだが、安易に飛びつきたくなる否定的な主義主張というのが、誰もがそう思うような内容によって定義されるというと、そんな定義を誰がするのかといえば、実際に否定したい対象をそういった主義主張だと見なして否定しにかかる人たちが定義しているわけで、そうすることによって物事がわかりやすくなれば、実際にわかりにくい物事をわかりやすく説明してしまうわけだから、それが不信感を抱きたくなる対象だというなら、何やら話の辻褄が合ってくるわけだが、やっていることを批判するのにわかりやすい主義主張に絡めなくても批判できるかというと、そういう主義主張を持ち出さないとわかりにくくなってしまうなら、わかりにくいことをわかりやすく説明することが、説明する物事を単純化することになるかというと、その辺が微妙であり、それが下手をすると否定的なレッテル貼りになってしまうかも知れないが、それが安易に否定される主義主張に対する誤解だというなら、誤解している人たちが否定的なレッテル貼りをすることによって自滅しているわけでもないが、自滅していることに気づかないというと、誰もそれを自滅だとは見なさないのだから、それを自滅だと見なすこと自体も間違っているだろうが、そういう意味では安易に否定できる主義主張が、実はそうではないと言いたいのだが、それに関しては誰も同意してくれないだろうから、それを批判するのに利用している人たちにとっては、見直すことも断じて認められないだろうし、否定したい主義主張を肯定するような語り方は受け入れ難いはずだが、それ以前にそれとこれとを当たり前のように結びつける語り方というのが、いつの頃からか否定的な先入観や偏見を人々の意識に植えつけているわけだから、そこからそれに対する不信感が生じていることになりそうで、いったんそういった先入観や偏見に囚われてしまうと、もはや後戻りができなくなって、そうなってしまった人の批判には疑念を覚えざるを得なくなってしまい、できればそんな人たちを支持したいのだが、疑念から生じる不信感と共に支持することになるから、かなりの自己欺瞞を感じるしかなく、その辺の食い違いを解消できないまま、何か自らの微妙な立場を意識しているわけだが、それを特定の主義主張に落とし込まないでいられるなら、わかりにくくなる反面で、物事の単純化を避けられるかも知れず、そうなるとレッテル貼りができなくなるから、広範な支持を獲得できなくなるかも知れないが、誠実な説明を心がけるならそうした方が少しはマシになるかも知れないし、現状で行われていることを正確に表現しようとするなら、レッテル貼り的な安易な言語表現では誤解を生むだけで、何よりもそれを否定的な印象を伴った表現を使って批判するから、そういった主張に対する支持も限定的な範囲内にとどまるというなら、そんなことはないと反論されそうだが、そんなはずがないという思いが誤解そのものだとすれば、正解があるのかというと、安易に否定的な印象には結びつけないことが肝要だろうが、否定しないのなら肯定すべきかとなるわけではなく、否定も肯定もしないわけにはいかないが、どうしても否定したくなるようなことを言ってしまうのであり、それが罠なのかも知れないが、誰が罠を仕掛けているわけでもないのに、勝手に罠にかかってしまうから、結果的には罠なのだろうが、何の理由もなく否定されるようなことを言ってしまうわけではなく、成り行き上そうなってしまうのであり、それが制度的な成り行きなのだが、制度を利用しながら活動している限りは、制度に逆らうような成り行きにはならず、制度に逆らう者が出てくることも制度上は想定されているだろうが、それも制度に従って活動している限りで、制度に逆らうことになるわけで、制度に従ったり逆らったりする者が出てくるから、制度が社会の中で機能していることになるのだろうが、果たしてそういう意味で制度に関わっている人たちが制度の罠にかかっていることになるのかというと、結果的に制度を利用することによってうまく行っているのなら、別に罠にかかったとは思わないだろうし、うまく行かないから罠にかかったと思いたいのだろうが、要するに信じていたのに裏切られた感が強いと、もしかしてそれが罠だったのではないかという疑念が湧いてくるだろうから、制度の罠にかかったと思う限りで、制度を利用することによってうまく行くと思っていたのに、そんな思いが裏切られてうまく行かなくなってしまったから、罠にかかったと思いたいのだろうが、それを利用することによってうまくいく場合があるからそれが制度になるわけだが、全てがうまく行くなら制度の体をなしていないし、それを利用した誰かがうまく行くことによって制度が維持されることは確かだが、必ずうまく行くとも限らないから、制度に裏切られる人や団体も出てきて、それが制度に対する不満となって、制度に対する批判者も現れるし、制度を改善すべきだと主張する者も現れるわけだが、そういう成り行きを単純に捉えてはならないのであり、実際にうまく行かないから批判したり否定するのは当然だと思われるだろうが、だからうまく行かない制度を否定するだけではなく、うまく行くように改善しようとしたり改革しようとするのであり、それを否定しやすい主義主張に基づいて批判するなら、それも必ずしもその主義主張と制度とが完全に一致しているわけではない場合もあるから、言葉で定義する主義主張が制度を反映しているわけではないことを念頭に置かないと、言葉で説明する主義主張と実際に利用されている制度とが、直接結びついていると錯覚してしまうことになりかねず、例えばその制度が新自由主義に基づいているから否定されるべきだと信じてしまうなら、制度を改善したり改革するのではなく、制度そのものをなくそうとするわけだが、すでに制度が社会の中で機能していると、それを利用してうまく行っている人や団体が存在している限りは、簡単になくすわけには行かなくなり、むしろ改善したり改革する方が無難で妥当なように思われてくるわけだ。


4月27日「不可解な理解」

 どうも自分の感覚ではおかしいと思うことが、そうではないような印象を受けることの方が多いのだが、たぶん勘違いしているわけではなく、それについては正しい認識だと理解しているのに、メディアでそれについて論じている人たちはそうではないらしく、そんな人たちの認識の方が正しいなら、自分の認識の方が間違っているような気もしてくるわけだが、それが何なのかというと、簡単に言うなら制度の問題となるのだが、制度を充実させれば問題が解決するわけでもないとすると、制度の問題だと捉えること自体が間違っているわけではなく、もちろん制度にも限界があるだろうから、何事についても至れり尽くせりとはならないし、では何が問題なのかというと、確かに制度的に不備な面もあって、そういうところは充実させればいいとしても、それとは別の方面から心理的な面も絡んでくるなら、それも多くの人々が指摘していることだが、物事を単純に考えてはいけないのもわかりきったことで、それについては誰もが納得できるような解決策などないから、簡単に批判されるような主張がいくらでも出てくる一方で、それ以上は何がどうなるわけでもないと思われるなら、それを批判したり非難する人々に対しては無視するようなことが行われようとしているから、おかしいのではないかと思われるのも当然だが、おかしいと思う自覚はあるのだろうが、それでもなぜか批判や非難にさらされている人たちの態度はといえば、相変わらず平然と一点突破的なことを主張していて、もちろんそれに対して批判や非難を浴びせかける人たちも、同じ調子で一点突破的な主張をしている人もいて、そんな主張をしている人たちにはそれが理解できないとは思えないのだが、理解せずに無視するような態度に出るから、そういう態度が理解できないのはもちろんのこと、理解したくない人たちからの支持や賛同を当てにしているなら、そんな態度にならざるを得ないのだろうが、そういう人たちが使う手法が、戦略的に不完全な理解にとどまるやり方であり、完全に理解すると批判や非難に同意せざるを得なくなるから、理解していないように装い、そんなわざとらしいはぐらかしが見苦しく見えてしまうのもわかりきったことだが、それがこれ以上は理解できませんという宣言になるとしても、都合の悪い主張にいくら説得力が感じられても、都合が悪いから無視するしかないし、わざととぼけている自覚はなくても、そう見えてしまうとしたら、答えになっていない回答を駆使して、言われたことを理解していないように装いながらも、その場を切り抜けようとするわけで、それがごまかしには違いないのだが、正々堂々と振る舞っているように見せかけながら、それへの賛同者とグルになってごまかそうとするわけだから、悪質なのもわかりきったことだが、しかもそれが無自覚にそんな振る舞いに及んでいるように見せかけようとするから、いったいどこからどこまでがごまかしなのか理解し難く、そんなやり方に引き込まれてしまってはまずいのは承知しつつも、そんな人たちばかりがこれ見よがしに大量に出てくると、ごまかしの底が一向に見えてこないし、悪貨は良貨を駆逐するということわざがそのまま当てはまりそうだが、それもそんな単純に情勢を捉えてしまうと勘違いの原因となってしまい、実態としてはそうではなく、貨幣に悪貨も良貨もなく、本物と偽物があるだけで、しかも偽物の方が圧倒的に少なく、また何が本物で何が偽物だと言っている人自身が偽物に見えてしまうから信用できないし、そうやって単純な理解に至ろうとする人たちをごまかしを駆使して信じ込ませるターゲットにしているわけだから、そんな人たちと敵対している人たちを支持したくなるのだろうが、それで構わないとしても、結局はそれでは済まなくなり、支持するというよりはごまかしを駆使する人たちと敵対したくなると、それが高じて清廉潔白な人になろうとしてしまい、そうなると他から支持を得られなくなってジリ貧状態となってしまうから、それではまずいと思って、ではごまかしを駆使する人たちを支持すればいいのかというと、そんな人たちとは敵対したくなってしまうのだから、それが大勢の支持者や賛同者を得られないことの根本的な理由や原因だと思いたくはないとしても、そうなってしまう事態とどう向き合うかが思案のしどころとも思えないが、少なくとも物事の完璧な理解には至れないし、どんなに理解しようとしても思い込みは避けられず、そう思い込んだら駄目だというわけでもなければ、ある程度はごまかしを許容する必要に迫られるなら、例えば政府の少子化対策の対策をごまかしだと理解しない方が無難なのかも知れず、少子化対策という問題設定自体にごまかしが含まれているから、ごまかしでない対策が可能だと思い込んでしまうと、それ自体が勘違いとなり、逆にごまかしでない対策などないと思っておく方がいくらかマシな現状認識へ至れて、ごまかしの上塗りを自覚することができそうだが、ではそんなごまかしそのものである少子化対策などやらない方がいいのかというと、気休めとしては心理的な効用がありそうで、徐々に国家体制が安楽死へと向かっている成り行きから目を逸らす目的で、政府が少子化対策に取り組む必要が出てくるのだろうが、それを積極的に取り組むことではないと捉えるなら、やはりそれも認識不足で理解不足なのかも知れないし、では消極的な取り組みに終始しては駄目なのかというと、逆に積極的に取り組んでいるように装うことが少子高齢化を促す試みになってしまい、案外その方がマシに思われてくるのかも知れない。


4月26日「予感と経験」

 何かこれといって予感がしているわけでもなく、ただでさえ鈍感だから、何を予想しても当たるわけもないと高を括っていて、そういう方面では本当に鈍感なのかと言えば、自分では鈍感だと思っているわけでもなく、あえて理由もなく嘘をつくなら鈍感を装いたいのかも知れないが、なぜそんな偽装を心がけているのかと問われても、あえてそうする理由など何も思いつかないし、何に対して偽りの態度を装っているわけでもなければ、意味不明なことになりそうだが、それでも何かが起こることに賭けていて、その何かというのが、それによって世の中がどうなるわけでもないと予想しているわけだが、もちろん予想など当たるわけもないとすれば、予想が外れて、それが起こることによって世の中がどうにかなってしまうのかも知れないが、賭けているのはそんなことではなく、世の中がどうなるわけでもないと予想した後に起こる出来事に賭けていて、しかも相変わらずそれが何なのかもわからず、結果的にそれでは何を述べていることにもならないし、それに関して語る話の中身も空っぽとなってしまいそうで、意味不明な話の中身と、ここ数年の世界で起こっているパンデミックや戦争などとは全くの無関係かも知れないが、多少なりともそれらの出来事に関わって生じてくる経験が、話の中身に利用できるかも知れないが、ではそれについて語らざるを得ないかというと、それも相変わらず何も語らずに済まそうとしていて、この先何が起こるかもわからないのに、それが起こることに賭けているわけだから、その賭けに自らが勝つだの敗れるだのとも一切無関係かも知れず、自らは絶えず蚊帳の外に置かれて、ただそれを傍観することしかできないかも知れないが、それでも多少なりとも関わることに期待していて、深入りする気もないのにちょっと覗き見する程度で済まそうとしているのだから、ただの軽薄な野次馬根性も見せられずに、意気地なしとも思われずに済むような部外者となれば、そこでうまく立ち回ったことにもならないだろうが、すでに予期せぬ出来事が立て続けに起こっているはずだから、さらにこれから思いがけない出来事が起こるのを期待しながらも、メディア経由でもたらされる専門家的な予想や予測も外れる成り行きになることを願っているわけでもないが、かつて誰も第一次世界大戦が起こることを予想していたわけでもないし、また世界大恐慌が起こることを予想していたわけでもないし、さらには第二次世界大戦が起こって原子爆弾が製造されて実際に使われることを予想していたわけでもないのだから、それらに比べればここ数年で起こっている出来事など、大したことでもないと思われるわけでもなく、意図せずそれらの出来事に深く関わらざるを得なかった当事者や関係者にしてみれば、やはり思いがけないことの連続のような体験をしたのだろうが、これから起こることとそれらの体験がどう結びつくとも思えないし、それらとは何の関係もないことがこれから起こったとしても、何がどうなるわけでもないだろうが、これから何かが起こることに賭けている身からすれば、別にここ数年で起こってきた数々の出来事を遥かに凌駕するような大事件の類いが起こってほしいと願っているわけでもなく、それよりは世の中の大半の人々にとっては何でもないような取るに足らない出来事が起こっても構わないのだが、当たるわけもない予想としてはそうではなく、取るに足らないことなのは確かかも知れないが、それについて騒ぎ立てる人はいつものように結構いるだろうから、騒ぎ立てる人々にとっては相変わらず大変なことになるのだろうから、世間的にも大変な部類に入る出来事になりそうで、何やらいつものように大騒ぎする人々にとっては大変なことが起こって、いつものように騒ぎ立てられるのだろうが、それで構わないわけだから、何が構わないのかと言っても世間的に構わない程度のことであり、そんな予感がしている自分にとってはその程度のことであり、そんなことが起こることに賭けたとしても何を賭けているのかもよくわからないだろうし、その時点では何でもないことになってしまいそうで、だから賭けに勝つことでも負けることでもないようなことが起こることに賭けていると言っても、こんなことを述べていること自体が何でもないことには変わりないのだが、述べていること自体がそうだとしても、それが起こって大変なことが起こったと騒ぎ立てる人々にとっては、何でもないことであるはずもなく、大変なことが起こったと騒ぎ立てなければ気が済まないようなことが起こるのだから、それを大変なことだと思うのが当然であるようなことが起こるのだろうし、それが起こることをいくら予想してみたところで、それを予想する自らにとっては何でもないことであるから、それだけ認識に落差が生じると予想したいし、もちろん予想しても当たるわけもないと高を括っていて、だから現時点では情勢を楽観視していると思われても構わないが、それが大変なことだと深刻ぶっている人々にとってはそうではないわけだから、何かそれが冗談のように思われるわけでもないが、その程度のことだと思われても構わないし、その程度のことというのが、ある意味では現状で起こりつつあることであり、現在進行形で起こっていることなのだが、要するに日本に暮らしている大半の人々が狂気に囚われていて、それが何でもないことなのだから、何か狂っていることは確かなのだろうが、しかもそんなのはこれまでにも当たり前のように経験してきたことだろうから、自らは情勢を楽観しているわけで、それがどう狂っているのかと言っても、笑ってしまうようなことだとは思われないだろうし、騒いでいる人々にとって深刻に受け止めざるを得ないことでもあるから、実際にメディア上ではそれなりに話題となっていて、政治や経済の絡み合いから論じられていることでもあるわけだが、狂っている人々が世の中の大半を占めているとなれば、やはりそうなっている人々にとってはそれが当たり前のことだと思われるのではないか。


4月25日「らしくない主張」

 もっともらしいことを主張するのはその人の勝手なのではなく、主張している内容に説得力を持たせるには、もっともらしいことを主張せざるを得なくなるということでもなく、時流に乗って何か主張すれば、主張している内容がもっともらしく感じられるようになるのでもないとしたら、ではどんなことをどう主張すればもっともらしい主張となるのかといえば、それを主張している人はそうなることを狙ってそんなことを主張しているつもりもないのに、結果的にはもっともらしく感じられる主張になってしまうのかも知れないし、別にそれが悪いことではないだろうから、そうなればなったでそれで構わないのだろうが、別にそうならなくても構わないなら、もっともらしいとも感じられずに、それどころか全く説得力のないことを主張しても、しかも他から馬鹿にされたり嘲笑されるようなことを主張しているのに、それでも多くの人々から支持や賛同を得られるなら、内容のもっともらしさにこだわる必要はなく、それよりは目的に合致したことを主張しなければならないだろうし、それなりに中身のあることを主張しているなら、何の目的もないことを主張しているわけでもなく、何かこうしたいとかこうしなければならないと主張しているなら、その場合の目的というのが、こうしたいとかこうしなければならないという内容に含まれてくるはずで、なぜこうしたいのかという理由から、こうしなければならないという成り行きになり、こうしたいという理由がこうしなければならない根拠になれば、その理由や根拠がもっともらしく思われるはずだが、しかもそんな主張が他から批判されたり非難されていて、批判の理由や非難の根拠の方がもっともらしく思われるなら、そんな批判や非難の対象となる主張がもっともらしいとは思われないはずだが、実態としてはそういうことではなく、他から批判されたり非難されているにも関わらず、しかもその批判や非難の方がもっとらしくて説得力があるのに、なぜかそんな批判や非難の的となっている主張をしている勢力が多くの人々から支持を得られていることになれば、要するにその主張がもっともらしいとも思われず、主張の内容にも全く説得力がないのに、そんな主張をしている勢力を支持せざるを得ない人々が世の中に大勢いることになるわけで、果たしてそんな主張がまかり通っている世の中がまともな状態なのかというと、たとえまともでなくても、そんな世の中を維持したいのだろうから、それが難儀なことであるのはわかりきったことかも知れないが、それがわからない人々がそんな勢力を支持しているわけだから、かなりヤバいことがゴリ押しされている印象を受けるわけだが、確かにそんな勢力と対立している人たちにはそう思われるだろうが、そんなことには無関心な人たちにはそうは思われていないのかも知れず、その辺がよくわからないことになりそうだが、毎度のことのように、このままでは大変なことになると危機感を煽り立てても、どうもそうではないような気がするなら、ではそんな気がしてしまう理由を明らかにしなければならないかというと、それがよくわからなければ、明らかにはできないかも知れないが、そんな気がすることに関して説得力など求めていなければ、それでも構わないだろうし、理由は定かでないが、ただ何となくそんな気がする程度のことであるなら、他から同意や賛同など得られなくても構わず、自分だけがそう思っていればいいようなことでしかなく、そもそもそんな気がする程度のことが、まともな主張に結びつくわけでもないだろうから、何を主張しているわけでもなく、ただそんな気がする程度のことを、ことさらに主張することも強調する必要もないわけだが、その程度にとどめておくことが肝要なのでもなく、逆に肝要なのはもっともらしくて説得力のある主張をすることになるのかも知れないが、その必要もないのにそんなことを主張する必要もないなら、では何を言いたいのかというと、もっともらしく振る舞って多くの人々から支持や賛同を得たいなら、主張にもっともらしさをまとわせるのではなく、逆にもっともらしい批判や非難を誘発するようなことを主張しなければならないのであり、批判や非難に知性や理性をまとわせようとする人々を憎むように大衆に向かってけしかけなければならず、間違っても知性や理性の体現者となってはならないのであって、そうした体現者とは敵対するように振る舞えば、より多くの人々から支持や賛同を得られる成り行きになっていれば、そんな役割を演じてみせることが時流に乗っていることにもなるわけで、まさに現状の中でそんな役割を意識して演じているわけでもないとしても、成り行きとしては無自覚にそんな振る舞いを体現している勢力が、時流に乗って世の中の主導権を握っているように見えてしまうとしたら、それをポピュリズムとか衆愚とか形容したくなってしまうのだろうが、不用意にそんなことを口走ってしまうと、たちまち知性や理性の体現者となってしまうから、それとは逆の意味で無自覚な演技者となってしまい、そうなってしまうのを避けるには、意識してもっともらしくないことを主張するように心がけなければならないわけではなく、そんな気がする程度にとどめておくことが肝要な振る舞いになるわけでもなく、そうではないとしたら、どんなことをどう主張すればいいのかということでもなく、それでも何か主張したいなら、それを受け取る人の知性や理性など当てにしない方がいいのかも知れず、それよりは熱意とか情熱とかひたむきさとかが伝わるように心がけた方がいいのかも知れない。


4月24日「印象づけられた狂気」

 例えば個人の能力に関する有能さとか優秀さなどとは別に、そういう基準での判断や評価ではよくわからないその場の情勢に依存した判断や評価から何がわかるかというと、集団の内外でのやりとりや組織的な連携や協力から生じてくる影響や効果を考慮することになるが、しかもすぐに対立や敵対から導かれる敵と味方とを区別したり選別したりせずに、そこから何がわかるかを考える前に、すぐにはわからないところから個人や集団がはっきりした役割分担など決まっていない中で、何ができるかといっても、できることやできないこともはっきりしていない中で、たまたま成り行きまかせで活動しているわけでもないが、それも活動しているのかしていないのかよくわからないような活動になっていれば、そこでこれといって目立つことは何もやっていなくても、何かやっているように見えてしまうなら、それが何でもないことであっても、何かしら周囲に作用や影響を及ぼしながらも、それを意識させることができて、意識したところで何がどうなるわけでもなければ、無視しても構わないようなことなのだが、否定的でも肯定的でもそれを印象づけるようなことにでもなれば、そこから不可思議なことが起こって、場合によっては思いもしなかった効果が現れて、驚くべき結果がもたらされれば、それが何かというと、現状で起こっていることであり、それを驚くべき結果だとは思えないし、そうなるのが当然の結果だと解釈するなら、何か見落としているのかも知れないが、予期せぬ偶発的な作用や影響を見落としているとしても、そんなのは無視できるほどの微々たるものでしかなければ、実際に予想通りの結果が出たと見なしても構わないはずだが、そういう面ではそうであっても、それを後から振り返ってみれば、見えてくる風景が違って見える場合もあるから、まだ現時点ではそれに気づいていないということかも知れないが、あの時がターニングポイントだったと言えるような機会が将来においてやってくれば、そこで何かがわかるはずだが、そういった結果的にわかることがどれほど重要かと言ってみても、そこでわかったところで後の祭りであり、すでにそれが済んでしまった後からわかるようなことを、たとえそこでわかったとしても、もはや何もできないし、完全に蚊帳の外ではないにしても、今ここで起こりつつあることを現在進行形で知りたくても知ることができない焦ったさを覚えるわけで、誰がそんな成り行きを操作したり制御しているわけではなくても、それを後から振り返ると、現時点では気づかない何かが主導的な役割を担いながら、後からわかるような成り行きが起こっていたように感じられてしまうから、それがわかった時にはもはやそうなった結果を動かしようがないから、そうなったことに関しては完全に対応が後手に回ってしまったことを認めざるを得なければ、少なくとも現在進行形で起こっていることについては、取り立てて主導的な役割を果たしているわけでもないだろうが、それでも何がどうなっているのかもよくわかっていないのに、あたかも現状の中で自分たちが属している勢力が主導的な役割を担っているように装うことができて、それを印象づける目的で、何かそれが効果を上げているようなことを仕掛けていると宣伝することもできそうなのだが、どうもそれが眉唾もので、そんな人たちを多くの人々が支持しているように見せかけられていること自体が、どう見てもひどいことをやっている人や勢力が支持されているように印象づけられていて、そんな人や勢力の活動が評価されるような結果など何ひとつ残していないどころか、逆に誰もがそれと認識できるような惨憺たる結果が出ているのに、なぜそんなひどい結果を出している人や勢力が多くの人々から支持されているのか不思議でならないなら、そこで何かがおかしいと思うしかなく、実際にひどいことが起こっているから、それに対して批判が行われているし、ある方面では明らかに狂ったことが行われているから、それに対する非難の声もあちらこちらから上がっている中で、多くの人々がそれらの人や勢力を支持しているように装われているから、何かが狂っているような実感を抱いているわけだが、それが狂っているのではなく、ここからしばらく歳月が経過して後から振り返れば、そうなって当然の実感であることが理解できた時の人々の驚きようを、現時点で想像できるかというと、誰も想像できないかも知れないが、過去にもそんな狂気に包まれていた時代が結構あったはずで、現状でも世界各地で起こっている戦争や紛争などの現場では、まさに平常時では考えられないような暴力の応酬が実現しているわけで、それとはかなり趣が異なるとしても、一応は平和な状態となっている地域でも、何かしらおかしな事態となっていても何ら不思議ではないが、そこでは多くの人々の精神が狂気に包まれた時代に生きていることを実感できないから、世の中の大半の人々が自分たちが平常心を保っていると思い込んでいるのだが、そう思い込んでいる人々が何を支持していることになっているのかといえば、平然と気が狂ったような言動に及んでいる人や勢力を支持していることになっていて、もちろん狂気に包まれた人たちは、自分たちが気が狂っているのを認めるはずがなく、逆に自分たちが支持している人や勢力を批判したり非難を浴びせている人たちを屁理屈を用いて攻撃していることにも気づいておらず、それを屁理屈だとは認識できないから気が狂っていると見なされているわけでもないし、社会の中でそれほど大勢の人々が気が狂っているなんて想像もつかないことであり、しかもその気が狂った集団の中に自分たちが含まれているなんてあり得ないことであるから、自分たちが狂気に包まれているなんて信じられないわけだが、狂気というのがいつの時代でも社会の中の多数派に宿る傾向があることも、現状では誰も理解していないから、いつもその種の狂気が過ぎ去ってから認識されることでしかないわけで、今まさに社会全体が狂気に包まれている最中では、気が狂っていること自体が普通の精神状態でもあるわけだ。


4月23日「不可解な人権意識」

 唐突にそんな心境になれたところで、そこから何かのきっかけを掴んだように思われても、それが何のきっかけなのかも判然としないうちに、思いがけないところでその機会が巡ってくるから、それが何の機会なのかもよくわからず、少なくともそうなることが何かを知るきっかけになれば、少しは気休め程度の効果を期待したくなるが、後からそれに関して理解できたような気がするとしても、すでに忘れてしまって覚えていないのかも知れず、実際に忘れてしまえばそれを理解するきっかけを掴み損ねたことになりそうだが、それがまるで不意打ちのようにして起こるから、何か稲妻に打たれたようにしてそうなるわけでもないだろうが、もちろん稲妻に打たれた経験があれば生きてはいないだろうから、比喩としても嘘っぽいが、それでもそうなれば何かしら衝撃を受けるわけで、それを突然理解するに至るきっかけが、いつも不意打ちのようにして起こるわけでもなく、後から思えばなぜそんなきっかけからそれを理解できたのか不思議に思われるとしても、中には本当にそれを理解できたのか疑問に思う場合もありそうだから、勝手な思い込みに過ぎないかも知れないが、だからといって理解できていないことを確信できるわけでもないし、たぶん突然理解できたから、それ以前に理解するに至るきっかけを掴んだつもりになれるのだろうし、それを理解していなければ、きっかけだとは認識できないわけだが、何かのきっかけからそれを理解したはずで、そう推測するしかないとしても、そうなるに至る途中経過の中では案外それがわからず、いつも後から振り返ってみると、それを理解できたきっかけがあったような気がするのだが、果たして何かのきっかけからそれが理解できたのかというと、そんなきっかけがなくても自然と理解できたのではないかと疑念を抱く場合もあるだろうが、大抵の人であればきっかけがないと理解できないことかも知れず、実際に未だにそれを理解していない人には、まだそのきっかけが訪れていないか、あるいはきっかけがあったのに、何らかの経緯や事情からそれを取り逃してしまったか、そのいずれでもなければ、その際には確かにそれを理解できたのかも知れないが、その後にそれを理解できたことを忘れてしまったのかも知れず、それを理解することがそれほど重要だとは思わなければ、意外とすぐに忘れてしまうようなことかも知れないが、ではそれを未だに理解できていないか、あるいは過去の一時期には理解に至ったものの、今ではすっかり忘れてしまったのか、どちらかはわからないが、少なくとも現時点ではそれを理解できていない人がどうなっているのかというと、理解するきっかけをなかなか掴めずに焦っているわけでもなく、取り立ててそれを理解しようとしているわけでもないとすれば、それを理解することの重要性を認識できないでいるのだろうが、果たしてそれを理解することがそんなに重要なのかと言えば、理解していなくても普通に暮らしていれば、それほど困っているわけでもないだろうし、実際にも理解していないからといって、特に不都合が生じるわけでもないのかも知れず、その程度のことであれば、理解する必要のないことだと認識しておいても構わないかも知れないが、それでも世の中の人々に何を理解させなければならないかというと、それが義務ではないということであり、もちろんそんなことは誰もが承知しているだろうが、頭では理解していても、行動や行為として動作が伴ってこなければ、それを理解したことにはならないとは言えないし、それでは大げさなことになってしまうから、そんなことはいちいち意識して確かめるように理解することではないと思っておいても構わないだろうが、意識していなくても無自覚であっても理解していることになれば、理解したつもりがなくても理解していることになってしまうだろうが、それを理解していることを前提として話が進められていることであって、それが何かといっても、誰もが見て見ぬふりをしていることかも知れず、暗黙の了解事項としても、誰もそんなことを理解しているとは思っていないわけで、それを理解している自覚のない人にとっては、理解の範疇を超えていることかも知れないが、理解とは無関係に動作や行動や言動が伴ってきてしまうことであれば、そんな活動の経過の中で自ずから理解されてしまうことなのかも知れず、実際にその自覚もないのに理解しているとすれば、そんなことは何の問題にもなっていないことなのだろうが、実際にそれを理解していない人が、何やら文句を言うことがあっても、理解していないから文句を言うのではなく、理解して上で文句を言っているつもりなのだろうし、誰よりも理解しているつもりの人などは、述べている内容に関して理屈の上でも説得力が伴っているはずだが、そんな主張をしている人に限って、本当のところはわかっていないのかも知れず、わかっていないからこそ、ことさらにこれでもかと文句を言ってくるわけで、ではそれを理解しているなら文句など言わない方がいいのかというと、文句を言わないと理解していると見なされて、場合によってはその他大勢の中の一人としてその存在を十把一絡げに扱われてしまうから、理解していることを他人に知ってもらうには、わかっていることをことさらにアピールしたくなるわけで、だからわざわざ自分はそれを理解していると主張したくなるのだろうが、果たしてそんな主張をしなくても他人がそれをわかってくれるかというと、わかっているからこそ、それを理解している人を無視して事を進めようとするわけで、要するに事を進めるには理解している人は邪魔なのであり、逆にそれはその人が不利な立場になっていることを理解していないのを前提としてやるようなことなのではないか。


4月22日「自業自得な結末」

 現時点ではそれが何なのかがわからないし、誰がそんなことを問うわけでもなく、それの何が自業自得なのかと問われているわけでもないが、唐突にそんな問いを投げかけられても戸惑うばかりかも知れず、そんなことがわかるわけがなく、わからなくて当然だし、それで構わないのだろうが、それがわからなくても構わないからこそ、そんな問いの意味がわからない人たちが自業自得な結末に至るのかも知れないし、ならば自業自得な結末に至るのが嫌なら、その問いの意味をわかる必要があるのかというと、たぶん現時点ではわかろうとしてもわかるわけがないし、わかることができなければ、自業自得な結末に至るのを避けられず、実際にそうなったところで、それも運命だと思ってあきらめてもらうしかないが、何をあきらめる必要があるのかもわからないだろうから、そもそも自業自得な結末がどういう結末なのかもわからないし、そんなのは嘘だと思っておいても構わないだろうが、それでは埒が明かないなら、もっとわかりやすい方面から語るとすれば、過去に自業自得な結末に至った人がいるのかというと、歴史上の著名人ならその種の結末に至ってしまった人などいくらでもいそうで、それに関して多少の知識を持ち合わせているなら、そういうことだと認識しておけばいいのかも知れず、それは歴史上の著名人でなくても、何か調子に乗ってやりたいことをやりたい放題やり過ぎてしまって、その結果として反動がきつかった経験でもあれば、そういうことだと認識しておけばいいのだろうが、そうであるなら自業自得とはそういうことであり、現状で調子に乗ってやりたい放題やり過ぎている人がいれば、その反動がキツくなると予想しておけばいいことでしかないが、その程度のことなら大したことはないし、もちろん程度の差こそあれ、誰もが調子に乗って痛い目に遭った経験などいくらでもありそうだが、そんなありふれた話ではないとすれば何なのかというと、それが多少なりとも誰もが経験するようなことではなく、現時点で今まさに取り返しのつかないことが起こっている最中であり、しかも多くの人々がそれに加担しているから食い止めることができず、その結果として近い将来において自業自得な結末が待っているはずだと予言したくなるというなら、それもそんなことをメディア上で述べている人もちらほら見かけるはずだが、その種の自業自得な結末というのを真に受けて、そんな結末がやってくるのを信じてしまうと、別にひどい目に遭うとも限らないが、いくら待っても最後の審判の日がやって来なければ、待ちぼうけとなってしまうだろうし、そんな根も葉もない噂など信じない方が身のためかも知れず、実際に誰も信じていなければ、思いがけずそうなった時の衝撃もそれなりに大きいだろうから、現状で欲に目が眩んで悪事を働いているつもりなどないどころか、むしろ世のため人のために善行に勤しんでいるつもりであれば、なおさら自業自得な結末などに至るはずもないだろうから、そんなのは信じるに値しないことになってしまうが、その世のため人のためにやっているつもりのことが、誰のためにやっていることなのかがはっきりしないようなことなのかも知れず、それどころか誰も望んでいないことをやっているとしたら、それに対してそれなりに反発もあるはずだが、実際に反発が暴力的な行為として顕在化すれば、それなりに衝撃を受けるはずだが、衝撃を受けたとしても、大抵はそれをそのままの衝撃とは受け取らず、そのつもりもないのに都合のいいように解釈してしまうわけで、だからこそより一層これまで以上に善行に勤しまなければならないと思い込んでしまうとすれば、そう思い込んでいるように装う演技だとしても、それが自業自得な結末を予感させるわけでもないが、誰がそうなることを予感しているわけでもなくても、それもそうならざるを得ないことを予言してしまう人が次から次へといくらでも現れる傾向となれば、なるほど世の中の状況がそうならざるを得ない成り行きになってきていることを実感できるかも知れないが、そうなることを期待しているからそんな予言が出てくるのだろうし、しかもそんな期待が裏切られて落胆してしまう結末もいくらでも繰り返し経験してきたのだろうから、今度こそはとより一層強く期待してしまうわけで、結局は強く期待すればするほど、その期待が裏切られた際の落胆もより強く落胆してしまうわけだから、その反動でさらにより一層強く期待してしまい、それが期待と落胆の悪循環を生じさせて、強い落胆からあきらめの心境に至ってしまうと、やはりそれも自業自得な結末となり、次第に無関心を装ったり、落胆をもたらした対象を逆恨みしてみたりしながら、そんな心境が高じてくると、それなりに精神もこじれてくるわけで、そうやって精神をこじれさせると、それに伴ってこじれた精神に囚われた人の傾向というのも、それもよくありふれたねじれ具合を示してくるわけだが、それについての紋切り型的な傾向となると、現状で自業自得なことに関わっている人たちが、まさにその種の紋切り型的な精神状態や心境となっていて、そんな状態を反映した言動もよくありふれた傾向を示しているわけで、それが具体的にどんな傾向なのかというと、メディアを経由してその種の言動を実践している人が示している傾向となるわけだが、実際にそれに関連して不快な支持や賛同を集めている著名人の言動がどれも似たり寄ったりであれば、そういう言動に接した誰もがその傾向に気づくはずだが、それも気づいているのに、それに対して同調したり支持している人も大勢いるとすれば、それについてもそれらの人たちが大なり小なり程度は違うとしても、その人なりの自業自得な結末へと導かれていると解釈しておけばいいのではないか。


4月21日「誤解の原因」

 現状で何を誤解しているとも思っていないが、たぶん誤解していることに気づいていないだけで、何を誤解しているのかわからないから、何を誤解しているとも思っていないのかも知れず、それがわかるきっかけがいつやってくるとも限らないが、少なくとも現状では何を誤解しているのかもわからないのに、誤解の原因などわかるはずもなく、それでもそれを誤解だとは思っていないわけだから、それが誤解の原因となってしまうことは容易に想像がつくはずだが、そういうことではなく、他人の誤解を解かなければならないとしたら、それが誤解だとは思わないことが誤解の原因となると、何やらそれでは循環論となってしまいそうで、そんな理屈では他人の誤解を解くことなど不可能かも知れないが、誤解の原因を探る以前に、まずは何が誤解なのか、具体的に誤解の内容を明らかにしなければならず、それが誤解だと論理的に証明できればいいのだが、証明する以前にいったい何が誤解なのかというと、それがわかっていないわけで、誤解の原因を探る以前に話が破綻しているようだが、誤解とはそういうことであって、何が誤解なのかがわかっていないことが誤解の原因であり、そんなことはわかりきったことだが、それが誤解だとはわかっていないから、相変わらず誤解が解けず、誤解が解けないまま話が前に進まなくなってしまうが、誰もそれが誤解だとは思っていないのかというと、それを誤解だと指摘する人には、それが誤解だとわかっているはずだが、それを誤解だと指摘すること自体が誤解だとしたら、それを誤解だと指摘する人がそれが誤解だとわかっていないことになり、そうなるとさらに話がややこしくなってしまいそうだが、例えば経済を回すとはそんな単純なことではないと主張したいのなら、そう主張することによって誰かの誤解を解きたいのだろうが、その誰かというのが、何やら経済について講釈を垂れている人らしく、経済の専門家と見なされている人が誤解していて、また誤解を招くような主張を盛んにしているから、それを正したい意図があって、だからそんな主張に反論する形で、経済を回すとはそんな単純なことではないと主張しているわけだろうが、それが単純に政府の経済政策が失敗したか成功したかを、現状をその結果として判断したいわけだから、そんな単純なことではないと主張したいのだろうが、それがそういうことではないとすると、ではどういうことなのかと問われる必要がありそうなのだが、政府の経済政策が失敗しても成功してもどちらでも構わないわけではないが、まだその結果が出ておらず、現状がその途中の段階だとすれば、ではいったいいつになったら経済政策の成果が出るのかというと、とりあえず経済状況が好転し出したら、それが政府の経済政策の成果だと主張したいのだろうし、だから経済情勢が好転するまで判断を待ってほしいということにでもなれば、そんなのはまやかしだと言われるのが関の山だが、それでもたぶん実態としてはそうであり、政府の経済政策だけで事態が好転するわけではなく、経済そのものが景気循環の中で不況から好況へ状況が移行しないと、経済が上向かないわけで、要はタイミングの問題なのかも知れず、政府の経済政策が間違っていたから不況になったわけではなく、不況だから政府の経済政策がうまくいかない面があり、そういう意味で経済政策についての主張が誤解を生む可能性があると言うと、それもまやかしのようなことを主張していることになってしまうが、そうであるなら不況になったら政府の経済政策を批判するのが効果的だと思われるだろうし、政府を批判するには不況時にその経済政策を批判すればいいと言うことになりそうで、それも何やら誤解を与えかねない主張だが、逆に積極的に誤解を与えて戦略的に立ち回るには、そう主張するのが効果的だと思うなら、それこそが誤解の原因なのかも知れず、結果的に経済が思わしくなくなっても、道理を優先させるべきで、誤解を与えるようなことを主張するのは間違っていて、ごまかしやまやかしを伴うような主張を批判するのは当然であり、何よりも不正を正すことを優先すべきだと主張するなら誰もが納得できそうだが、それができない代わりに、結果が思わしくないなければそれを批判するようなことをやってしまうわけで、それと不正行為を批判するのとはわけが違うことを理解できないかというと、戦略的にわざと両者を混同するというか、どちらも批判に活用できるから倫理観の欠如を招いて、それ自体がごまかしやまやかしだとは言えないし、そんなことまで言ってしまったら、何を批判すればいいのかわからなくなってしまいそうで、もちろんわからなくなってしまうのではなく、実際にはそれとこれとは区別がつくはずで、まともな批判の対象となるのは道理に合わないことや不正行為となるはずだが、そういうことをやっているからうまく行かなくなると批判すると、ではうまく行っていれば批判するなということではなく、結果良ければ全て良しというわけでもなく、どうもそういうところで、何を批判すれば良いかで誤解が生じているのかも知れず、結果的にうまく行くならごまかしでもまやかしでもどんどんやったら良いというわけではないのも、わかりきったことではあるにしても、結果的に行われているのはそういうことであり、実際にそういうやり方が横行しているから、うまく行かなくなるというわけではないところが、やはり誤解があるわけで、ごまかしやまやかしをやってうまく行ってはまずいから、それを批判することによって正さなければならないと言うと、何かそれが間違っているように思われてしまうとはならないはずだが、実際に行われていることがそうだから、結果的には正しいと思われることが行われなくなってしまうわけだ。


4月20日「現実の世界で起こっていること」

 政治に関しては何の根拠もないことを述べていると思われても、勝手な思い込みに基づいて勘違いなことを語っているわけではなく、そう思われても構わないとも思えないが、できれば勘違いのついでに、さらにわけのわからない妄想に基づいたフィクションを構成したくなるわけでもなく、そうしなければ気が済まないとは思えないとしても、それよりは現実の世界で起こっていることの方が遥かにおかしいと思えなくもないが、たぶんおかしいのではなく、ただ単にそういう成り行きになっていて、そんな成り行きに沿ったことが起こっていると考えておけばいいのかも知れないが、それが思いがけないことだとは思われないなら、そうなって当然のことが起こっているのかというと、それが起こって当然だと思うなら、それが起こることについては、それが当然のことのように起こってしまう根拠や理由がありそうで、それを示せないとなると、起こって当然だと思わないだろうから、何やら思いがけないことが起こっているのかというと、それが思いがけないことだとは思われないと、そう思わない方がおかしいのではないかと思ってしまうわけだが、それがそう思わないことと矛盾しているわけでもないのだが、どうも実感としては思いがけないことが起こっているのに、成り行きとしてはそうなって当然のことが起こっていて、それが起こった後からそう思われるなら、後追い的に起こったことを合理化しているのかも知れないが、起こった時には思いがけないことが起こったと思っても、そこからそれなりに時間が経過してくると、意識の中で起こったことの辻褄合わせをやってしまい、結果的にそれが驚きを減じる作業となってしまうから、そうなって当然のように思われてくるのだろうが、そうなるのが当然と言えば当然であるにしても、それが当然だとは思わないなら、やはり何かおかしいと思うしかなさそうだが、それをおかしいと思うのではなく、そう思うことをあらかじめ自らに禁じるような縛りを自らにかけているのかというと、そんなことまで自覚していないだろうし、自らに何を課しているのか意識できないわけで、意識しなくても構わないというか、それができないから、そうなって当然のことが起こっても、普通はそれが思いがけないことのように思われてしまうのだろうが、なぜか思いがけないことが起こって驚くという動作が欠如している人が世の中には大勢いて、思いがけないことが起こっても、どうにかして驚かずに済ませたいのかも知れず、驚かない代わりにどうするというか、その代わりだとも思っていないのだろうが、屁理屈をこねながら驚くべき事態から目を背けようとして、なぜそこで屁理屈をこねるのかといえば、他にやりようがないからといっても理由になっていないし、その屁理屈が何かの根拠にもなっておらず、逆ギレしながらデタラメな理屈を持ち出して、その理屈に沿った物事の解釈を披露しながら、それで事が済んだことにしたいわけで、それが受け入れ難い事態への対処として世の中で通用していることになっているかというと、強引に通用させているつもりなのだろうが、実際には通用していないわけで、通用していないからこそ逆ギレしてしまい、その逆ギレの仕方がみっともないのだが、それが逆ギレして当然のネトウヨ系の議員やメディア関係者であれば、最近では小西議員のサル発言に逆ギレしてみたり、元議員で選挙に立候補している有田氏の下関が統一教会の聖地発言にも逆ギレしたり、そうなった時には確かに思いがけないことのように思われるとしても、それを後から振り返ってみれば、単に屁理屈をこねながら見当はずれな因縁をつけてくるといういつものパターンであるから、そうなって当然のことではあるにしても、どうもそんな出来事に人々の関心を引きつけておいて、それとは別の方面で起こっていることに気づかせないようにしているわけでもないのだが、実際にそれとは別の方面で起こっている成り行きに関して誰かが辻褄合わせをしていているわけではなくても、なぜか結果的にはそう解釈しても構わないようなことかも知れず、それがコロナ禍というここ数年にわたって世界を席巻しているパンデミックに起因して、またロシアのウクライナへの軍事侵攻という出来事にも起因して、それらが偶発的に起こった出来事にしては、相変わらず毎度おなじみの陰謀論としても扱われやすい話題でもあるのだが、それらに起因して何を画策しているのかというと、特定の誰が画策しているわけでもないのだが、例えば日本の現状を世界経済の景気循環に組み込もうとしているわけでもなくても、元から組み込まれているのだから、組み込もうとすること自体が演技であって、フィクションの中で演じられる動作でしかないだろうが、成り行きとしてはそうなってしまうわけで、これからしばらくして世界的に景気後退が到来した時に、日本もそれに合わせて景気後退に陥ったことにしておけば、世界の景気循環のサイクルに日本の状態を合わせられて、そこから世界が緩やかに景気回復するのに合わせて、日本も景気回復ができれば、日本経済だけが世界から取り残されることもないわけだが、それが何か現状ではフィクションのように思われるとすれば、実際にそうなった時には思いがけない出来事のように思われるかというと、そうではなく、誰にも気づかせないようにそうなることが求められているわけでもないのだが、たぶん結果的にはそうなってしまい、しかもそうなった後から人々の意識の中で辻褄合わせの作業が行われると、そうなって当然のような事態となってしまうのだろうが、そうなるには何が必要なのかといっても、それが今わかってしまうとまずいわけで、だから誰にも気づかせないようにする配慮が求められていて、そのためには人々の関心を引く出来事となるべく、例えばネトウヨの逆ギレを格好の目眩しとして機能させようとしているわけでもないのだが、結果的にはそうなってしまう可能性も否定できないわけだ。


4月19日「比較対象となる人選」

 人と人を比べれば、その言動や行いについての評価が何かと不公平になるのは、人と人を比べること自体が、一方の人を批判したり貶したりする意図がある限りはそうなって当然であり、その人を批判したり貶したりするのに都合が良くなるように比較対象となる人物を選んできて、その人を貶めるためにそんな比較を持ち出してくるわけだから、公平な比較となることは期待できないわけだが、そうではなく、特に比較対象となる人物が固定されているわけでもなければ、それほど比較する意図などなく、もちろん批判したり貶したりするのに都合が良い人物を言説の対象にして、何かもっともらしいことを述べようとするなら、それなりに偏向した内容にならざるを得ないが、その際の語り方としては、その人について語るのではなく、何らかの出来事に関して語るついでに、その出来事に関連した人についても語るなら、その人について語ることがメインではなく、その人が関わった出来事について語ることがメインになるはずだが、そんな内容の言説の中で語られる人物が、これ見よがしに貶められることがあるかといっても、そうしたい意図があればそうなるだろうが、出来事が事件や事故などとは性質の異なる現象の類いであれば、その現象に関わって登場する人物が取り立ててどうということはなければ、ことさらに貶められることもないかも知れず、それ以前に批判することと貶めることが同じというわけでもなく、批判することが貶めることとは違う場合、批判対象となる人物が、その人と比較して語られる他の人物に比べて特に劣っているとか、そういうことではなければ、何かそれが優劣とは違った傾向から語られるようなことになるなら、ではそれがどういう傾向なのかといえば、例えばただ単に名前が似ているだけであれば、確かに優劣とは関係ないだろうし、それに関してヨシフ・スターリンと有田芳生が同名だとしても、二人の何を比較したいのかもよくわからないが、安易に想像するなら、ヨシフ・スターリンのヨシフという名前にあやかって、有田氏の両親が自分たちの息子に芳生という名前をつけたと想像したところで、有田氏の何を批判したいわけでもないだろうが、有田氏を批判したいのではなく、かつて有田氏を除名処分にした共産党を批判する意図があり、共産主義という前世紀に流行った現象について語る上で、共産党のスターリン体質を批判するには有田氏が格好の人選になりそうだが、その共産党がまた最近になって党執行部を批判した古参の党員を除名処分にしたことで、一部のメディアで話題となっているようだが、その共産党のスターリン体質という表現が、スターリンという人物にまつわる印象が、党員を大量に粛清した過去からも、どちらかといえば否定的な傾向を伴ってきて、共産党の評判を貶めるには格好の宣伝材料となるだろうから、メディアでそういう表現が好んで使われることになるわけだが、そういった印象操作の実態と共産党の実像に関して重なる部分があるかというと、共産党はスターリン体質だから怖いというイメージを用いて、反共が売りの勝共連合が有田氏を攻撃しているとすれば、逆に有田氏はスターリン体質の共産党から除名された人であって、何かその辺がおかしなことになっているはずだが、その一方で有田氏は勝共連合が別働隊である統一教会と敵対関係にあるわけで、そうやってわざと事態をこんがらがらせて語りたいわけはないのだが、しかも勝共連合が別働隊であるはずの統一教会の方も、一応は共産主義国の体裁を整えている北朝鮮と裏でつながっているとなると、さらに事態がこんがらがってきて、お互いに共産党や共産主義と敵対関係にある勝共連合と有田氏がさらに敵対関係にある一方で、勝共連合を別働隊として組織している統一教会の方は共産主義国の北朝鮮とは裏でつながっていて、さらに北朝鮮の政権を担っている朝鮮労働党と日本共産党とは敵対関係にあるというこんがらがりようで、確か日本共産党はベトナムの共産党とは友好関係にあり、ベトナムの共産党と中国の共産党とは、過去に中越戦争をやった頃にはいがみあっていたのだろうから、現在は仲直りをしたかも知れないが、それほど友好な関係ともいえないだろうし、もちろん中国共産党と朝鮮労働党は友好関係にあるわけで、さらには中国共産党と仲が良いのは、日本では自民党や公明党になるが、自民党内のネトウヨ勢力は公明党や中国共産党を敵視している一方で、朝鮮労働党と裏でつながっている統一教会とは勝共連合を通じて友好関係にあるわけだから、たとえ日本共産党がスターリン体質であろうとなかろうと、そんな悪意のこもった印象操作を真に受けようと受けまいと、そんなことは枝葉末節などうでもいいことのように感じられるはずだが、それでも共産党や共産主義を否定する口実としては、日本共産党が党執行部を批判した古参党員を除名処分にするような批判を受けつけない独善的なスターリン体質であるということが、それなりにネガティブ要因となって、選挙で得票数を減らして議席を失うようなことになれば、印象操作が効果を上げたことになるだろうし、そのついでに有田氏も地元山口のネトウヨ候補に敗れて衆院補選で落選すれば、印象操作が大成功という結果になるかも知れないが、それがどうなのかといっても、有田氏の対立候補であるネトウヨ候補や、同じ山口の別選挙区でも衆院補選が行われていて、そこで世襲候補のポンコツぶりも話題となっているようだが、有田氏が山口の地を統一教会の聖地と言ったことが槍玉に上げられて、それが批判材料となっているとしても、その有田氏と比較対象となっているネトウヨ候補や別選挙区の中身の空っぽな世襲候補がまともなのかというと、情勢分析から言えることは有田氏が落選してネトウヨ候補や世襲候補が当選する可能性が高いらしいということが、それらの人物たちがまともでないということではなく、そうなってしまう選挙結果が何か恥ずかしいような印象を覚えてしまうわけだが、恥ずかしいということとまともでないということが同じではないのはわかりきったことだが、少なくともかなりこじれた成り行きとなっていることは確かで、それが日本の現状の奇妙なこじれ具合を示しているような気がするわけだ。


4月18日「無関係の関係」

 どう考えても腑に落ちないことが、たぶん偶然の巡り合わせでそうなっているのに、そう考えると納得がいかなくなるのは承知のはずだが、そうだとしても何かわかっていないような気がするのもわかりきったことで、そんなことはわかっていなくて当然なのだが、そんなふうにそれについていい加減に述べてしまうことが、何か責任逃れの言い逃れのように受け取られてしまうなら、たぶん何がわかっていないのかをわかっているような気がするわけで、しかもそのわかっていることについて語らなければならないような気がするなら、さっさとそれについて語ればいいのであり、実際に語っていくうちに、何を語りたかったのかがわかってくるなら、それについて語ることに意義があったような気がするのかも知れないが、逆にいくら語っても何を語りたかったのかさっぱりわからないようなら、それについて語ることに意味などなかったのかというと、すでに語りかけているのだから、そのことの意義を認めたくなり、いったん語ってしまえば後からいくらでも意味などついてくるだろうし、いくら語ることの意義を強調したところで、それとこれとが結びつくわけでもなく、それがそれでありこれがこれであること以上に何がわかるわけでもなければ、それとこれとが直接結びついているわけでもなく、それに関しては何か腑に落ちない事故や事件が立て続けに起こっていることと、それらが起こった後から納得がいくような事故や事件についての解説が必要とされることとは、次元の違う話になるだろうが、もちろんそれについて語ろうとするのだから、関係があることを前提として語るのだろうから、関係があることは自明のこととして受け入れなければならないだろうし、その関係が無関係の関係だと言うなら、屁理屈を述べているに過ぎなくなってしまうかも知れないが、できればそんな意味のよくわからないことは述べるべきではないのかも知れないし、それでも屁理屈を承知で語るべきなら、そのことの意義も明らかにしなければならないが、しかも語っているうちに何を言いたいのかよくわからなくなってきて、何か奥歯に物が挟まったようなことしか言えなくなってしまうとしても、何を言いたくないのかはわかっているはずで、それとこれとが関係があるのが明白なのに、まるで関係がないように語るのではなく、結果的に都合の悪いことにはなるべく触れないようにしていることがわかってしまうかというと、そこまで配慮しているつもりはなくても、それも結果的には配慮しているかのように受け取られて、要するにメディア総出で隠蔽工作に余念がないような意図が感じられるから信用できないのもわかりきったことであるにしても、そう受け取られても仕方がないような報道のされ方をそれを受け取る側が想像してしまうから、それを隠蔽するような配慮を意識せざるを得ないわけで、意識して隠蔽しているわけではなくても、白々しく見えてしまうわけだから、そういう意図を真に受けるわけにはいかないし、真に受けてはまずいのだろうが、それでも結果的には真に受けてしまい、そんな意識がメディアと共犯関係を想像させて、メディアから都合の悪いことを隠蔽しているという意図を受け取っているのに、それがそう受け取るべきこととして人々に認識されてしまうから、そんな意図などまるでなかったかのように世論が形成されながら、そんな世論には逆らわないようにしなければならないという意識も生じてきてしまうところが、救いようのない翼賛体質なのだろうが、そういう同調圧力に逆らうようなことを語っている人たちも、暗黙の了解として、自らの領分をわきまえているわけで、そうやって自粛を受け入れている限りは、何か予定調和となっているような、あらかじめ角が丸まった雰囲気を纏いながら活動しているように見えてしまうから、なるほどと思われて、こいつらもグルなんだなと理解せざるを得ず、世の中にそういうグルな人や勢力が多すぎるような雰囲気が蔓延しているから、何事も起こらず、誰もが何も起こさないように振る舞っている中で、誰かが突発的に暴発してしまうから、それがことさらに目立ってしまって、何やらより一層の自粛を強いるような締めつけが人々の間で自主的に広まってしまうのだろうが、そんな中途半端な煮え切らない態度を愚かだと斬って捨てるわけにはいかないだろうから、その代わりにそれとこれとは無関係なふりをしたいというか、まさか次元の違うところで両者を結びつけるわけにはいかないのだろうし、実際に誰もが結びつけるわけにはいかない姿勢を保っているわけで、それが示し合わせてそうしているように見えてしまうから、そこでそんな関係が生じているように見えてしまうのが無関係の関係なのであり、あたかも無関係であるかのように振る舞いながらも、実際には関係しているわけだから、その種のいやらしさが際立ってしまい、かえって何があっても絶対にそこには触れないという強固な意志が感じられてしまうのだが、それを隠蔽しようとすればするほど、そんな明白な意図が示されていることが明らかになってしまうわけだから、それでも白々しくもわざとらしくもそこに触れようとはしない姿勢を意図せずに見せつけているわけで、そんな姿勢を保ち続けている限りで、すでに終わっているというと、そんな表現では言い足りなすぎるかも知れず、もっと何か意図しない邪悪さに世の中の全体が覆われているような気もするわけだが、そんな意図しない邪悪さが時折垣間見られるのが、その種の宗教団体の活動に伴って明らかになる人々の見て見ぬふりをする反応なのではと思いたいが、それが何も宗教団体の活動ばかりではないところが見えすいたところなのかも知れない。


4月17日「現状でうまくいってること」

 何かの戯言として憂国という表現があるとしても、単純に国の衰退を憂う人は昔からありふれているが、そうではなく現状でうまくいっていることが人々の間で不和を招いて、それが将来において災いをもたらす可能性について、何かもっともらしく指摘できることがあるかというと、まずはそれがどんな災いをもたらすのかを指摘しなければならないだろうが、それ以前に人々の間で生じている不和が何から生じているのかというと、簡単に言うなら、人々の間で意見の食い違いを生じさせて、それが原因で分断が生じているなら、一方の意見ではうまくいっていることが、他方の意見ではうまくいっていないことになり、それが経済情勢に関することになれば、貧富の格差という毎度おなじみの表現に行き着くが、そういう意味での分断ではなく、例えば政治に関する面で分断が生じていることになれば、政治的な主張の中で何かを煽られていて、その煽られていることが、それほど説得力があるわけではなく、むしろ疑念を覚えるようなことなのだが、主張している方は強引にうまくいっていないと決めつけるから、それほど実感が湧いてこないとしても、そんな主張を真に受けるなら、政治が原因で国の経済がうまくいっていないことになるが、その主張を真に受けなければ、原因は政治とは別のところにあるどころか、それなりに経済がうまくいっていることにもなって、そのうまくいっていることが、政治とは無関係に景気循環の中でうまくいっていることになるなら、好景気がしばらく続けば、やがて不景気になるのも、大ざっぱな景気循環としては予想がつくだろうし、現状が必ずしも好景気とは言えないのは誰もが承知していることだが、それが単なる景気変動の中の状態でしかなければ、たとえ景気後退が起こっても、それは国の衰退とは無関係だろうが、もちろん現状で経済の状態をうまく景気後退しているとは言わないし、普通はうまくいっていないから景気が後退していると見なしたいわけだが、経済がうまくいっていないから国が衰退しているのではなく、確かに何かしらうまくいっていないことがあるとしても、それが景気後退の直接の原因とはならず、しかもそれとは別の方面では、政府がメディアを利用して世論をうまくコントロールしていることになるなら、そうすることによって国の衰退を覆い隠すことに成功しているわけでもないだろうが、世論のコントロールがうまくいっているなら、そういう面ではたぶん衰退しているわけでもなく、ではそれを衰退とは呼ばずに何と呼べばいいのかといっても、やはり衰退とは逆の発展であるわけでもないし、メディアを利用して政府が国の発展に貢献しているわけでもないし、もちろんそんなところでうまくいっているとしても、衰退とは無縁でいられるわけでもないが、衰退すると共に国の統治がうまくいっていると情勢を捉えるなら、衰退と国の統治が同時並行して進行していると受け止めるしかないが、国が衰退していようと逆に発展していようと、そんな衰退や発展に関わっていない人にはどうでもいいことかも知れず、それらとは無関係な方面で、現状でうまくいっていることに関わっているなら、それが国の衰退や発展とどう関係してくるとしても、そんなことなど眼中にはないのかも知れず、うまくいっているならそれで構わないと言えるようなことであり、衰退状況の中でも発展状況の中でもうまく立ち回ることに成功していれば、そんな状況の中でも主導権を握って活動していて、そういったことの範囲内ではうまくいっていることになるだろうが、例えば中には国の衰退を憂うことに関してうまく表現していて、そんな表現が多くの人々から支持されている人もいるわけだから、国が衰退しようが発展しようが、そんな状態の中で言動的な面で主導権を握れていれば、その人の活動がうまくいっていることになるわけだから、憂国の士気取りで何やら人気を博している人がいるなら、国の衰退を利用してうまく立ち回っていることになるだろうが、別にそういう活躍の仕方がまずいわけではないし、国がどのような状態であっても、活躍の場があれば、それを利用して活躍しようとする人や勢力が出てくるわけで、そんな人や勢力の主張を真に受ける人が世の中に多ければ多いほど、そんな人や勢力が世の中で活躍していることになるのかといえば、大抵は世の中というよりはメディア上で活躍しているように感じられて、その存在がメディアから外に出て、現実の世の中で活躍しているように感じられるかというと、それもそう思われるなら、そんな人や勢力が世の中で主導的な立場や役割を担っていることになるはずだが、その実態がどうかというと、たぶんそうなっているようには思われないから、それらの人や勢力の主張には疑念を覚えるわけで、単純に主張が信用できないから、主張を信じている人々との間で分断が生じていて、それらの人や勢力の支持者とそうではない人たちの間で不和が生じているなら、それがまずい事態であるような気がするだろうが、それが実際にはそうなっているわけではなく、逆に人々の間で意見の食い違いが生じていて、それに対する支持や賛同を表明する人たちと、そうではない人たちとの間で分断が生じていなければならないのだろうが、逆にそうではないからまずいのかも知れず、実感としては主張を真に受ける気にはなれないし、そんな主張を拒否したいわけでもなく、それらの主張に対して本気になって危機感を抱くわけでもなく、別にそれらの主張が将来において災いをもたらすとも思えないから、安心できるというか、安心して忘れ去ってしまえるような気もしてしまうわけだが、果たしてそれでいいのかというと、その良し悪しを論じる気にもなれないわけだから、良いも悪いもなく、その対象とはならないわけで、どうでもいいことの範疇に入ってしまうから、それが何かまずいような気がしてしまうわけで、ではそれがどうまずいのかといっても、支持や賛同どころか分断ももたらさないような主張でしかないというと、何かどうでもいいような主張となってしまうだろうが、やはりそれではまずいのだろうが、そんなまずい状態をどうすることもできないわけで、しかもそれが現状でうまくいっていることでもあるわけだ。


4月16日「疑いようのない現実」

 疑うことは不安になることと必ずしも一致するわけではないが、他の大勢の人々が信じていることを自分だけが疑っていると、確かに不安になってくるだろうが、何を疑っているのかにもよるが、疑うことによって逆に安心できるかというと、何か疑っている対象があって、それに対して疑念を抱いている自らに安心できるなら、それを疑いつつ、それに関して誰かが何かを言っている内容も疑っていて、そのもっともらしいことを言っている誰かに疑いの眼差しを向けている自らに安心したいのかも知れず、それが何なのかが相変わらず不明のままだが、疑いを抱いている自らを信じているから安心できて、たとえ世の中で自分だけがそれを疑っていても、その信念が揺るがなければ安心できそうだが、果たしてどんなことがあっても信念が揺るがないかというと、その信念に疑いを抱けば不安になっている証拠だろうし、疑いを抱くだけの根拠があれば安心できそうだが、根拠のない疑念というのも不信感の裏返しだろうし、信念を持っているということは、何かしら信じるだけの根拠があるから、それが信念となって、それへの信仰が揺るがなくなるわけだろうが、その信念や信仰に疑いを抱いているなら、不安を抱きながらも信じているはずだが、ではそんな不安感に駆られて信念や信仰を打ち捨てられるかというと、今のところはそうでもなければ、疑いつつもまだ信じていて、そんなアンビバレントな心理状態をもたらしているのが、疑いつつも、疑っている自らを信じるという信念だが、果たしてそれが自己矛盾をもたらしているかというと、ある程度は矛盾していた方がかえって信用できて、自らに言行の一致などの完璧さなど求められないし、その信念がどんな時でも揺るぎないわけではなく、逆にあまりにも考えていることと行為や行動が合致して、それらが論理的にも辻褄が合ってしまうと、それ自体が疑わしくなってきて、何か気づいていない矛盾点がどこかにあるのではないかと不安になってしまうが、では自らの内に行動や言動のなどの面である程度の矛盾を抱え込んでいる自らをどれほど信用しているのかというと、それも時と場合によっては信じられなくなるだろうし、実際に取り返しのつかない過ちや誤りを度々犯して今に至っているわけだから、そんな自らを信用している方がおかしいのかも知れないが、それでもまだ生きているわけだから、そういう面では信用せざるを得ないわけで、もちろん信用しているからこそ、そんな信用を裏切って度々過ちや誤りを犯して痛い目に遭ってしまい、完璧でない愚かな自らを信じてしまったことを後悔しているわけだが、その一方で後悔しながらも愚かな自らを信じないわけにはいかず、自分を信じられなくなったら終わりなような気がするから、度々自らのいい加減で根拠のない勘に頼って、裏切られて痛い目に遭いながらも、それでも性懲りもなく勘に頼って動いた結果として今に至っているわけで、果たしてそんな現状を肯定したり正当化できるかというと、それができるか否かではなく、実際に肯定しながらも正当化せざるを得ないから、結果的には裏切られて今に至っているわけだから、では否定して自らを卑下しなければならないのかというと、やはり時にはそうなってしまい、度々失敗を犯して、その度に後悔先に立たずな心境に至っているわけだが、そうなっていること自体が疑いのない事実だとすれば、もういい加減嫌気が差して生きて行くことに絶望して自ら命を絶とうとしているかというと、そうではなく、それとこれとは話が別であり、それはそれでありこれはこれだと思っているわけではなくても、結果的にはそうなってしまうから、そういう面では自らの力ではどうにもならない成り行きに囚われていて、そんな成り行きの中では自らの信念など簡単にねじ曲げてでも、自らが囚われている成り行きに身をまかせて行動してしまうわけだから、そういう面では矛盾しているのだろうし、その矛盾をどうすることもできないから、今に至っているわけで、今に至っているからこそ深刻な問題を抱えているのかというと、それを果たして深刻な問題だと感じているかどうかが、何とも言えないだろうし、実際に深刻な問題を抱えているからといって、それが疑いようのない現実かというと、微妙にそうではなく、現状では深刻な面とそうとは感じられない面とがあるから、そこでも自らの感覚に矛盾があり、それをどうとでも受け取れるわけでもないにしても、実際にその場の情勢次第でどうとでも受け取ってしまうから、そこからそれなりに過ちや誤りも生じてきて、それが高じてくると深刻な事態に直面してしまうわけだが、その深刻な事態というのが、現状ではどうとでも受け取れる程度のことである限りで、深刻さに関しても疑わしく感じられて、そこからもそれ相応の過ちや誤りも生じてしまい、それが取り返しのつかないことになってしまうと、実際に痛い目に遭って後悔するわけだが、それでもそんな成り行きを伴うような現実の中で自らが生きているわけで、それをどう捉えてみても、そんな疑いようのない現実のただ中で、疑念を抱きながら活動しているわけだから、そんな自らの信念を信じないわけには行かないし、信じながらも全てがうまく行くわけではないから、時には不安感に襲われて、一時的に自らの信念を信じられなくなってしまうわけだが、それが一時的なのかというと、絶えず不安になってくるから、その度に自らの信仰を試されているのだろうが、試されているからといって、それを自らがどうするわけでもなく、結果的には外部要因が作用して、自らのあずかり知らないところで、自らを取り巻く状況がどうにかなってしまうだけなのではないか。


4月15日「関連性のない出来事」

 人が何らかの意図や思惑を抱きながら何かを行うなら、普通に考えて何の必要もないことが行われるわけがないが、その必要もないのに無理に何かをやろうとして、強引に事を進めると、思いがけないところでおかしなことが起こるなら、無理に何かをやろうとするから、おかしなことが起こったと考えるのが妥当な感じがするだろうが、それが強引に事を進めているのとは何の関連性もなければ、思い過ごしに過ぎないことになるが、不可抗力でそんなことが起こると、何の必要もないのにそんなことが起こったことになるだろうし、そこで行うことと起こることはちょっと違うだろうし、何か事件が起こるとは、そこで何かが起こったことになって、そこで何かが行われたことも確かであるなら、二つの出来事が重なるから、そこで何かを行うことによって事件が起こったと考えられるなら、両者の間で関連性があることになるわけで、そう言われてみればそうだから、そんなことはわかりきっているとしても、関連性をあえて指摘しないなら、指摘すると都合が悪くなるから関連性を指摘しないように配慮していることになるはずだが、そんな出来事に関係する人たちに、果たしてそんな意図や思惑があるかというと、それが起こった後からそんなことを指摘すると、何やら話の辻褄が合うことになるから、素人探偵もどきのジャーナリストの類いがそんな推理を披露したくなるのだろうが、あえてそういうもっともらしい推理を疑ってみると、何かの不可抗力が作用して思わぬところから事件に発展するような成り行きがあっても、それが意外と関係者の意図や思惑を外れるような成り行きとなって、結果的に話の辻褄が合わなくなってしまうなら、そこで事件など起こす必要もなかったと考えた方が妥当な感じがして、その必要もないのに事件を起こしてしまった容疑者の犯行動機を推理しても、何か割に合わないことをやってしまったから、わけがわからず動揺するばかりであるなら、ただの衝動的な犯行で片付けてしまった方が手間がかからず、関係者も痛くもない腹を探られずに済むなら、そういうことにして一件落着としておいた方が都合が良いことになって、後はそんな事件が起こったことなどさっさと世間から忘れ去られてしまえばいいことにもなりかねないが、推理された事の真相はそれとは違い、事前に用意周到な計画を立てて犯行に臨んでいるなら、何か裏で糸を引いている黒幕が暗躍しているのではないかと推理した方が話がおもしろくなって、別に話をおもしろくしたくてそんな推理に及んでいるわけでもないのだろうが、世間の注目をその事件へと向けさせることによって何か得する勢力がいるとすれば、そんな勢力が意図して仕掛けたことにすれば話の辻褄が合うはずだが、それも普通に考えて話の辻褄を合わせるために事件を起こしたわけではなく、逆にその場を混乱させるためにあえて意味不明な行動に出たと考えた方が合点がいくようなら、なぜそんなことをやるのかと理由を合理的に考えること自体が馬鹿らしくなるようなことでもあり、そうであるならやはり特にやる必要もない余計なことをやってしまったと受け取っておくべきことかも知れず、何かむしゃくしゃしてわけがわからず過剰なことをやってしまうような成り行きに囚われてしまうなら、何かのついでにそんなことをやりかねず、それがたまたま暴発するようなことになってしまうと、それとこれとを関連づけたくなるだろうが、確かに関連づければ話の辻褄が合うとしても、誰もが納得できるような動機が導き出されてしまうこと自体が、よくできたフィクションと変わらなくなり、本当にそんな理由でそんなことを起こすのかというと、それが起こった後からそんなことを誰もが想像してしまいがちになるだけで、それが起こる以前には誰も想像もしなかった事態が起こったわけだから、結局起こった後から合点がいくような理由を求めてしまうと、それがよくできたフィクションを想像してしまいがちになってしまうということであり、それとこれとを関連づけて語りたくなってしまうわけで、要するにそう語ると都合が良いからそんなことを語りたくなると受け取っておけばいいわけだが、語るのに都合が良いことと実際に起こったこととがそれほど関連性があるのかというと、それとこれとを関連づけて語りたい意図や思惑があるということであり、そういうことを語りたいから語ってしまうわけで、語っている当人がそんなふうに語られる事件を起こしたかったわけではなく、それも要するに事件を起こしたかったわけではなく、思いがけず起こってしまった事件を話の辻褄が合うように語りたいわけで、それがよくできたフィクションの中で探偵という架空の登場人物が語りたい内容になるわけで、それ自体が事件が起こった後から語りたい内容なのだから、事件を起こした人とその事件を語りたい人との間で利害が一致しているわけでもなく、互いに時空が隔たった地点から話を進めている時点で、それとこれとはそれほど関連性があるわけではなく、それも後から関連性があるように語りたいという意図や思惑が生じてくると考えれば合点がいく程度のことである限りで、やはりあまり関連性があるとは言えないし、それほど関連性のないことを強引に結びつけて語ろうとしているのだから、それ自体がフィクションの類いだと受け取っておいた方が妥当なのかも知れないが、それも何か他のことが起こってから、そのついでにこんなこともあった程度に語ろうとすれば、何やら興味深い話の内容になるのだろうが、そう語ること自体が何か誰もが気づき難い隠された意図があるわけではなく、そんなことをわざわざ語るに至る途中で意図せずに省略されてしまった紆余曲折の挿話があったのかも知れず、それを忘れてしまって、もはや語ることができないから、その代わりに語るべき話を探さないと話の辻褄が合わなくなってしまうから、ちょうどそこに話すのに都合の良い出来事が起こってしまったわけだから、それがタイミング良く語る時空と重なって、実際に大した関連もないのにそれについて語る成り行きとなったわけだ。


4月14日「空想民主主義の正体」

 何かというとすぐに結論ありきになってしまうと、物事を単純化して性急に結論を求め過ぎている可能性がありそうだが、それについて考えているうちに疑念に突き当たるなら、それまでに考えてきたことを改めて考え直すべきかも知れないが、いったい何について考えているのかと言えば、すでにそんなことは忘れていて、何について考えていたのか思い出せなくなっていれば、実際には何も考えていなかったのかも知れず、そんなことがあるはずもないが、例えばそれを空想民主主義と呼ぶなら、何か実態が伴っていないような印象を思い浮かべてしまうが、何がそうなのかと言っても、俄には思い当たることもないかも知れないが、たぶん正しいことを主張している気になっていて、もちろん自信満々で述べているわけでもないだろうが、それでも自分たちの行為を正当化していることに関しては、何の迷いもなさそうに見えてしまうなら、そういう態度には疑念を覚えるのだが、言っていることが論理的に正しくても、結果的には何の効果も成果ももたらさないことであるどころか、かえって害悪しかもたらさないことに気づかないとなると、その害悪が何なのかについてはわかりやすく示す必要があるだろうが、具体的にそれが何かといっても、結果的に無意味な行為にしかならないのに、それがさも正しいことのように主張しているわけで、それが実態の伴わない空想民主主義の正体だと指摘するなら、まだその正体については何も述べていないことになりそうで、それについては直接の言及を避けているのかも知れないが、避ける理由を思いつかないのだから、実際に何が空想民主主義なのか、それがよくわかっていないのに、それについて述べようとしているのだが、空想ではなく、ちゃんと実質が伴った民主主義が実現されている状態とは、いったいどんな状態なのかというと、果たして現状の日本でちゃんとした民主主義が実現されているのかという疑問に対して、どう考えても実現していないように思われるなら、ある意味ではそれが正しい認識なのかも知れないが、そのある意味というのがどんな意味なのかもよくわからず、何かの逃げ口上として、ある意味ではという意味不明な但し書きを付け加えているにすぎないことかも知れず、要するにどんな意味でも、日本では真の意味での民主主義が実現されていないと述べてしまうと、それが空想民主主義に囚われていることの証拠となってしまい、そんな民主主義など世界のどこでも実現されておらず、何か民主主義に関して、理想主義のような無い物ねだり的な幻想を抱いているにすぎず、現実の民主主義から目を背けているから、日本ではまだ本物の民主主義が実現していないかのようなことを言いたがるのかも知れないし、例えば選挙に行かない人や行っても白票を投じるような意味のない行為を行なってしまう人たちが、民主主義を踏みにじっていると責任転嫁してみても、それも無い物ねだりの延長上の主張となってしまうし、また特定の宗教団体や業界団体などが組織票を駆使して、政権交代を阻んでいると述べてみても、制度そのものがおかしいと主張するのも、大手メディアが大政翼賛化していると指摘しても、何かそれが苦しい言い訳となってしまい、それが紛れもない日本で実現している民主主義の現実だと認めるなら、そういうことでしかないわけだが、それ以上に何がどうなっているわけではなく、そうなっていることをだらしのない野党のせいにしたいなら、ただ単に野党と与党を入れ替えて、現状の与党を野党にすれば、だらしのない野党ではなくなるはずだが、果たしてそう主張しても正しいのかというと、誰も正しいとは思わないかも知れないが、民主主義が実現しているならそうなっても構わないはずで、そういう意味でも民主主義という主義自体が空想の産物に過ぎないのかも知れないし、別にそれでまずいわけでもおかしいわけでもないと考えるなら、空想民主主義でも構わないはずだが、実際にはなかなかそうはならないから、そんな空想に抗うような実態を伴っているわけで、そんな実態が気に入らないから、日本ではまだ真の民主主義が実現していないと無い物ねだりのようなことを言ってしまうわけだが、それで構わないわけではなく、できれば実態を理想に近づけたいのだろうが、少なくとも民主主義の理想に実態を近づけたいなら、それなりにやるべきことが決まってくるかも知れず、それに合わせてメディアを活用して啓蒙活動を行えばいいだろうし、実際に多くの人や団体が啓蒙活動を行っているはずだが、もちろんそれを快く思っていない団体が組織を駆使して啓蒙活動の邪魔をしている実態もあるだろうから、なかなか実態が理想に近づく兆しを感じられないのかも知れないが、それを感じられないからこそ危機感を抱き、焦って必死になってより一層啓蒙活動にのめり込んでしまう人もいるだろうから、そういう人の存在が民主主義の実現には欠かせないわけで、そんな人たちが性急に結論を求め過ぎているとしても、それを批判する筋合いもなく、今まで通りに焦って必死になって啓蒙活動をやってもらえば構わないわけだが、そんな活動の邪魔をしている団体も、モグラ叩きのようにいくら叩いても、次から次へと新たな啓蒙活動の担い手が登場するから、焦っているかどうかはわからないが、どちらにしてもそんなに焦らなくてもいいのかも知れず、まだ道半ばで、これから先に思いがけない紆余曲折の類いがいくらでも待ち受けているから、そんなどうでもいいと思われるような寄り道や回り道を延々と経由しながらも、結局はこれといって定まった地点には、どこにも行き着かないところが、その種の人々が思い描いている空想民主主義の実態となるのではないか。


4月13日「反対する理由」

 また性懲りもなく延々と同じような主張が繰り返される事態となっているわけだが、他に主張することがないからそうなってしまうとは言えないし、他にもいくらでも主張があって、実際に主張しているつもりになれるはずだが、誰がそんな主張を繰り返しているのかというと、誰もがそうなってしまうと言えるなら、その内容が何なのか知りたいところだが、そんな主張が出てくること自体が世の中の情勢を反映していて、それについては安易に反対できるから、反対していること自体が主張となり得る限りで、性懲りもなく何かに反対する主張が出てきて、それが反対している対象に依存した主張となってしまい、果たして反対する対象がないと何も主張できないのかといえば、そうなっている時点ですでに先手を打たれていて、反対するように仕向けられていて、さも反対されるようなことを行おうとするから、それに対して誰もが反対できるようになってしまい、実際に多くの人々が反対しているのに、それを押し切って行おうとすること自体が、まさに権力を行使する醍醐味になっているわけで、権力を行使するには反対意見を封殺することが必要条件となっているわけでもないのだが、わざと意識してそういうことをやろうとしているわけでもないとしても、実際にもっともらしい反対意見が出てくるようなことを行おうとするわけで、逆に考えれば多くの人が納得できるようなことは行えないから、何かを行おうとするには、必ず反対されるようなことしか行えない現実があり、もちろんその逆に賛成する人もいるから、それを行おうとするのだろうが、全ての人が賛成できるわけではないどころか、強硬に反対する人や勢力が出てくるようなことをやりたがるわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、それなりに弊害が出てくるから強硬に反対するのだろうが、また特定の主義主張を持ち合わせている人が反対しやすいことをやろうとする場合もあるから、それが強硬な反対意見が出てくる理由でもあるのだろうが、それも逆に言うなら、それに反対することによって特定の主義主張が生じてくる場合があり、しかもなぜ弊害を伴うようなことをやろうとするのかといえば、利益を得られるからやろうとするのだろうし、それも何のリスクも伴わずに利益を得られるわけでもないから、リスクを伴うようなことには反対する人が出てくるわけだが、それをやるには常に危険と隣り合わせとなるなら、実際に危険な目に遭うのは御免だと思うだろうから、それがそのまま反対する理由となるわけだが、要するにそれに反対する理由がもっともらしいから、反対することを支持したり、それに賛同する人もそれなりに出てくることになるわけだが、そもそも何かをやろうとすること自体が、もっともらしい反対意見を押し切ってやるような成り行きになりやすく、それをやること自体が一種の賭けになってしまい、そうであるならやめておいた方が無難なのはわかりきったことだとしても、そこをあえてやらないと前進できないというか、前進する必要があるかどうかということ自体にしても、是が非でもやりたい側にとっては、前進することが必要不可欠だとしても、それをやりたくない側にとってはそんな必要がないというか、それをやってしまうとかえってひどいことになるから、やめておいた方がいいと思われるからそれをやることには反対するわけで、しかも反対する理由の方がもっともらしいと思われるなら、普通の感覚でも反対するだろうし、それを押し切ってやろうとするわけだから、やろうとすること自体が狂気に囚われていると思われても仕方ないわけだが、そもそも合理的な理由でやろうとすることには大した利益も伴わず、むしろ不合理で無謀な情熱に突き動かされないとやれないようなことが世の中にはあるわけで、側から見て正気の沙汰でないことをやろうとするから、それをやり遂げれば莫大な利益がもたらされると妄想を抱きながらやろうとするわけだが、だからこそそんな危ないことはやらない方がいいと思われて当然だろうが、周囲から反対されればされるほど、やる気が湧いてくるようなことになれば、それだけ妄想も膨らんできて、そんな狂気に囚われながらやれば、大抵は悲惨な結果をもたらされると相場が決まっているはずだが、実際にそれをやり遂げて悲惨な結果をもたらした事例も過去にいくらでもあるだろうが、そうやって無謀な挑戦を繰り返しながらも前進したいわけで、それが自家撞着のように見えるなら、その種の反対運動をやっている人たちの方が、かえって無謀な賭けに挑んでいるように見えてしまうという逆説的な事態となってしまい、要するに周囲の反対を押し切って無謀な反対運動をやっているような事態となっているのだが、果たしてその種の反対運動をやっている人たちがそれに気づいているのかというと、たぶん気づいていないからこそ無謀な反対運動に挑戦しているわけで、しかもその反対運動の標的となっているのがカジノとなると、何やら無謀な賭けとしてやっている反対運動がギャンブルそのものに反対するという自家撞着を招いているところが興味深いところだが、結果としてカジノを誘致する側に押し切られてしまえば、それが無謀な挑戦だったことが明らかとなるわけだが、反対運動そのものはそうであっても、実際にカジノ事業が失敗に終われば、カジノ事業自体も無謀な挑戦だったことが明らかとなり、反対派の見識の確かさが証明されるだろうが、それはカジノ事業を実際にやってみてから明らかになるわけで、やってみるまではわからないから、やろうとする情念や情熱や狂気の方が勝ってしまうのも、成り行きとしてはそうなって当然だろうから、そこで合理的な判断は通用しないわけで、実際にそんな経過を伴って事態が進行中である限りで、それがありふれた成り行きの一部始終を人々に見せているのに、それを見ている大半の人々の方は、まともな理解に至らないところが皮肉な雰囲気を醸し出しているわけだ。


4月12日「共感と偽装」

 他人の言っていることを真に受けるのではなく、真に受けているように装う態度が、いったいどういう経緯から出てくるのかといっても、そんな態度に至る途中の紆余曲折を理解できないと、それが悪意に基づいた偽装のように思われて、心証を損ないかねないが、共感するよりは疑念の方が勝っているから、真に受けるわけにはいかないのはもちろんのこと、それでも心情的にはあからさまに否定するわけにはいかない事情があるなら、その事情がどんな事情なのかにもよるだろうが、一応は好意的に受け止めているようなふりをしておいてから、なぜ疑念を抱いてしまうのか、その理由を自分でも納得できるような説明と共に示したいとなると、それなりに難易度が高くなってしまうのかも知れず、それがうまく表現できないところでもあるのだろうが、部分的には正しいということが、全面的に間違っているわけではないということと同じではなく、むしろ部分的な正しさに固執してしまうと、それが取り返しのつかない過ちに発展してしまうわけでもないが、少なくとも部分的に正しいことを全面的に正しいと錯覚してはまずいのだろうが、果たして部分的に正しいことを正しいと見なしても構わないのかというと、そこに引っかかるものを感じているから、疑念を拭い去れないわけだが、しかもそれ以上にその種の正しさを信じられない事情もあると、正しさの側につきたくはないわけだが、そもそも何が部分的に正しいのかと言えば、それもよくわからなければ、部分的に正しいという表現自体が間違っているのかも知れず、何も正しくもないのに、部分的に正しいと見なすこと自体がおかしいのはわかりきったことだが、ではどう表現すればいいのかというと、やはり部分的に正しいと表現せざるを得ないというと、何かそれがごまかしのように思われてしまうのだが、要するに正しいとは思っていないから部分的には正しいと見なしたくなるわけで、それが具体的に何なのかを示せない事情があるというと、それも一種のごまかしになってしまうわけだが、それを真正面から批判したり非難したくないから、どうしてもためらいや戸惑いが伴ってきて、それが何なのかを具体的に示せなくなってしまうのだが、ではそれに関しては言及を避ければいいのだろうが、やはりどうしても言及せざるを得ない事情が生じているように思われて、何とかその辺をうまく処理しようとして四苦八苦することになるわけで、それをどう言い表せばいいのか決めかねていて、思い悩んでいる最中かも知れず、だから煮え切らない態度に終始しているつもりで、それが苦渋の選択に及んで、その結果として中途半端にそれについて語らざるを得なくなって、何を語っているのかよくわからない言説の内容を招いているわけだが、はっきりとこうだとは言えないから、その辺を察してほしいのだろうが、少なくとも全面的には支持や賛同を示せないし、だからと言って逆に否定したいわけではなく、どちらでもないようなことを言説として示せる自信もなく、その辺を振り切れている人が羨ましいと言ってしまうと嘘になるが、政治的な面で言えるのはそういうことになる一方で、経済的な面ではそうではなく、当たり前の論理に基づいたことしか言えず、物や情報やサービスの売り買いや貸し借りから集団的な社会活動が生じているわけで、それを肯定するとか否定するとかではなく、現にそこで行われていることであり、それを政治的なレベルで禁止を含んでどうにかできるわけではなく、政治的にはその程度を調整することしかできないわけで、その調整の仕方が部分的に正しいと言えるかというと、正しいかどうかはわからないが、強引に調整しようとすれば経済がおかしくなり、そのおかしさの度合いに応じて、人々の生活がそれなりに影響を被ってきて、そこから不満が生じてくれば、政治的にどうにかしようとするのだが、そのどうにかしようとするやり方に関しても、何やら部分的な正しさが問題となってきて、本当にそれが正しい認識なのかどうかも疑わしく思われてくるから、そのやり方には支持も賛同もできないわけで、どうもそういうところで全面的にこれだと決めかねている事情もあって、それらの何が正しくて何が間違っているかも決めかねているから、政治的にこうすればいいとは言えず、どうやってもうまくいかないわけではなく、状況に応じて何かしら対策を施さなければならなくなるのが、政治的な方面では苦渋の選択を強いられるのだろうが、果たしてそれが苦渋の選択だと言えるかというと、日本の有権者が政治に関して何か苦渋の選択を行った結果として現状がもたらされているようには思えないから、そういう面での部分的な正しさというのも幻想に過ぎないのかも知れず、それに関して何が正しくて何が間違っているかをはっきりと示す人たちがいることは確かで、そんな人たちの言っていることを真に受けているように装っているのだが、しかもその言っていることが部分的に正しいと思いたいわけだが、少なくとも全面的に正しいとは思わないし、全面的に支持しているわけでも全面的に賛同しているわけでもないことも確かで、それでも全面的な正しさに振り切れている人たちの言っていることを真に受けているように装わないと、それを全面的に拒否して、平然と屁理屈をこねくり回すような人たちと同類になってしまう危険性も感じるから、その辺が悩ましいところなのだが、それを真に受けて全面的に正しい方向へと振り切れる勇気は持ち合わせていないから、その結果として中途半端なことを述べることしかできなくなり、それがごまかしのような不快な感触を覚える原因なのかも知れない。


4月11日「誰にも知り得ないこと」

 当たり前の認識として、すでに知っていることは、直接には過去の記憶から思い出されてきて、間接的にメディア経由で知ることもあるだろうが、それが知識として利用価値があったりなかったりするとしても、それは過去に知ったことであり、もちろんこれから知ることも利用できるだろうが、少なくとも知ってから利用できるようになるはずだが、これから知ることを前もっては知り得ないし、それを予想することはできるかも知れないが、ではこれから自分が何を知ることになるのかというと、例えば誰かの予想が当たったり外れたりする現実に直面して、それが自分にとって都合が良かったり悪かったりすることを知り得るかも知れず、そして都合が良ければ得したと思ったり、都合が悪ければ損したと思うかも知れないが、それが損得の問題ではなく、運が良かったり悪かったりすることだと認識するなら、それも損得の問題に還元して、運が良ければ得をして、運が悪ければ損をすると思いたいところだが、その場では強運に恵まれて都合良く得をしたと思っても、後からそれが都合が悪くなって裏目に出て、それをきっかけにして思いがけず災難に遭えば、運が悪かったと思うかも知れず、それがその場での都合の良し悪しとは違う結果に後から変容するようなことになれば、確かにそれが思いがけない成り行きになるだろうが、そんなことを前もって予想できるわけでもなく、大抵の場合は予想するのは複雑で込み入った成り行きではなく、単純でわかりやすいことを予想しがちになってしまい、しかも予想が当たること自体が、予想した人にとって都合の良い面だけを強調することによって、必ずしも予想が当たったとは言えない面を無視して、強引に予想が当たったことにしてしまう場合も多く、予想した範囲外では予想とは無関係なことも無数に起こっているのに、果たしてそれを後から考慮に入れるかというと、わざわざ予想から外れるようなことまで結果に付け加えるようなことはやらないだろうし、そういう面では都合の良い結果だけ予想が当たった範疇に含めるだろうから、逆に予想が外れたことを認める場合には都合が悪い結果に終わったことを認めざるを得なくなるから、運が悪かったと思うかも知れないが、運の良し悪しでは済まなくなるなら、合理的な理由に基づいて物事を判断しなければならなくなり、たまたま運が悪かったのではなく努力が足りなかったとか、自分のせいで都合の悪い結果に至ってしまったことを反省したりするようなことにでもなれば、何やらそれに関して責任を取らされて、例えば担ってきた役職を辞任せざるを得なくなったりするなら、運が悪かったでは済まない事態となってしまい、それが思いがけないことであるなら、その人には事前に知り得なかったことになり、それはそうなってから判断するしかないようなことになるだろうが、前もってそうなることを予想していたと誰かがこれ見よがしに言い放つなら、そんなことを自信たっぷりに言い放つ人には、それなりの勝算があって、悪い結果に至った責任を取らされて辞任を余儀なくされた人に成り代わってその場の主導権を握りたいから、わざわざこれ見よがしなことを言い放つような行為に打って出たと受け取られるようなら、その場で権力闘争の類いが起こっていることになるだろうし、そんなことが起こるのも誰かの予想の範囲内であれば、その人がそんなことが起こる前からその場の主導権を握っていたことになるかも知れないが、そう見せかけたいからこれ見よがしなことを言い放ってその場の主導権を握ろうとするのだろうし、何かが起こった後からその場の経緯や事情をもっともらしく解説したくなる人というのが、果たして事前にそれが起こることを予想していたかというと、予想していたかも知れないが、むしろどんな結果に至ろうと、もっともらしいことが言えるように用意周到に準備していた可能性もあるわけで、それがそれまでの経験や場数の積み重ねから生じる態度になるわけだろうが、そんな後出しじゃんけんを駆使してマウントを取ろうとする人に特有な態度が、そらみたことかとか、だから言わんこっちゃないとか、それなりに場数を踏んだ経験者に特有な言い回しになるだろうが、そうではなく、そういう人には知り得ない未来というのが、今まさに現状で起こっていることであって、それが未知の事態に突入しつつある証拠なのかも知れず、いくらこれまでの経験に照らし合わせてみても何かが違っているような気がするとすれば、何かこれまでに経験したことのない成り行きへと向かっているから、不安感が募ってくるだろうし、人によっては勘違いな期待感も高まってくるかも知れないが、そんな人たちが何を勘違いしているのかといえば、たとえそれが予想通りの結果になろうと、あるいは思いがけず予想外の驚くべき結果になろうと、実際にこれから何かが起こってから、その起こったことを自身の事情や都合や経緯や経験などに照らし合わせて、起こったことの良し悪しを判断しようとするなら、必ず前もって知り得たことの範囲内で判断を迫られて、その結果として未知の何かを取り逃してしまうわけで、それがその人にとっては何でもなく、いつもの日常の延長上で起こっていることだと判断できるなら、大抵は安心できるし、そんな安心と引き換えにして何を見失っても、安心感を得られるだけでも都合が良いだろうし、運にも恵まれているとも思いたいだろうが、それが何が起こってもその程度で済むなら、そういうレベルで生きていることになるから、そういう人には感じ取れない何かが現状の世の中に含まれているとしても、そういう人にはその程度で済むような制度やシステムが人工的に構築されていると思っておけばいいのだろうが、それが誰にとっても驚きのない世界だとも言えないが、そうなるとすでに全てが起こってしまった後の世界に暮らしていることが証明されてしまうのではないか。


4月10日「当事者の強み」

 別に世の中で矛盾した主張が蔓延しているわけでもないだろうが、主張だけではなく活動も矛盾しているとしても、その場の成り行きに沿って活動すれば、自然と矛盾したことをやってしまうのであれば仕方のないことかも知れないが、それでもやっていることがうまくいっていれば、さらにはそれほどうまくいっているわけではなくても、都合の良い結果が伴ってくれば、それで構わないわけではなくても、うまくいっている面といっていない面とで矛盾が露呈している程度のことかも知れず、それをどう捉えてみても、現状で行われていることには違いないわけだから、そんな結果を肯定的に受け止めても、あるいは否定的に受け止めても、それは結果に対する評価として現れるだけであり、要するに否定的に受け止められて、それがやっていることに対する批判や非難に結びついても、都合の良い結果が伴ってくる限りは、いくら批判や非難を浴びせられても、やっていることをやめずに済んでいるなら、そうした批判や非難の声に打ち勝っていることになるだろうから、それがそこで活動している当事者の強みとなって、そこで行われていることの主導権を握っている証拠となるだろうが、それに対して批判したり非難の声が上がっている限りで、それが言いがかりなどではなく、正当な批判や非難となっていれば、それなりにまずいことやひどいことをやっていて、それでもやっていることを続けていられるなら、やっていることがまずいなりにもひどいなりにも、うまくいっている面がないとそうはならないわけで、それを批判したり非難している人や勢力にとって、そのうまくいっている面をちゃんと把握できているか否かで、批判や非難の程度にも違いが生じてくるかも知れないし、その結果として、ただ一方的に批判したり非難しているだけでは済まないようなことになってくると、そこで行われていることに対してどういう態度や姿勢で臨むべきか、改めて戦略や戦術を練り直す必要も生じてくるかも知れないが、それなりに批判されたり非難されているにもかかわらず、何やら成果が上がっているような活動となってくると、その活動に対していくら批判してみても、あるいは非難を浴びせても、そうした批判や非難が通用していない面があると認識せざるを得なくなってくるから、やはり単純にその否定的な面だけを煽り立ててもうまくはいかないことを理解するしかないし、批判や非難を執拗に繰り返すだけでは駄目だとしたら、他に何かやるべきことがないか模索するような成り行きになってくるかも知れず、そういうところから迷いや戸惑いなどの分岐が生じてくるのだろうが、その種の試行錯誤がないと、批判するのも非難するのも活動には違いないから、それなりに成果が上がらないとリアリティが感じられなくなってきて、またやっていることが単調になって紋切り型の対応になって、それが退屈でつまらないように感じられるなら、魅力がなくなって飽きられてしまい、そうなると信念や情念だけではどうしようもなく、いくら根気強く粘り強く活動を続けて、それなりにもっともらしい理屈に基づいていても、魅力がないことが致命的な欠陥となって、そういった活動に対する支持や賛同も一定以上は広まらなければ、次第にフェードアウトして行ってしまうかも知れないが、それに対して物事を逆説的に捉えるなら、何かしら批判や非難を伴うような活動であるなら、それが特定の主義主張を伴うような批判や非難であるほど、そういう主義主張を目の敵にしている人や勢力から支持や賛同を得られる可能性が出てくるから、わざとそういった方面から批判や非難を受けるようなことをやりたがるようになるわけで、それが日本の現状で言えば、維新と呼ばれる政治勢力の躍進に結びついていると言えるかも知れず、もちろん当事者にしてみればわざとそんなことをやっているつもりはなく、自然の成り行きとしてそうなってしまうとも感じられる範囲内でやっていることかも知れないわけだが、それにしては絵に描いたような批判や非難のされ方をしているわけだから、そんな勢力に対する支持や賛同も、さもありなんと言えるような人や勢力から絶大な支援を得ながら勢力を拡大している最中なのだろうし、しかもそうなっている現状を憂う人たちにも反感を抱いている人や無関心を決め込んでいる人も大勢いることが明らかになるにつれて、それがある種の社会現象として世の中に定着しつつあるのだとしたら、まさにそういった勢力によって世の中が分断されていることになり、そんな状況の中でますますそれに対する批判や非難を糧にしてそれらの勢力が膨張していくことになれば、何やら願ったり叶ったりな状況になりつつあるのだろうが、それが誰にとって願ったり叶ったりな状況なのかというと、ことさらにそれに対して敵対的な批判や非難を浴びせかけている人物がいれば、その人にとっては否定的な意味で願ったり叶ったりな状況となってしまうが、それが逆説的な状況であることには変わりなく、その逆説的な状況ということが何を意味するのかというと、肯定的であったり好意的であったりするのとは逆の意味でそうなっている限りで、世の中がまずい方向へと導かれているように感じられるのだろうが、それが本当にそうかというと、本当はそうではないと言うと嘘になってしまうが、それも逆説的に言えることの延長上で考えるなら、安易に真に受けてはいけないことかも知れず、ではそれを真に受けないなら、どう受け止めればいいのかと言えば、どう受け取ってみても、それを逆説的に受け取っては駄目なのかも知れず、ひねくれて冷笑的に考えないで、そのままの現実として素直に受け取る必要があるのではないか。


4月9日「知られてはならない秘密」

 他人の秘密を知ったところで、それを使って何かに利用できなければ何の価値もありはしないだろうが、中には利用できなくても価値があったり、利用できても価値がなかったりする秘密もあるかも知れないが、その価値というのがそれを利用できることだと考えるなら、例えばそれが人ではなく、政府に何か国民に知られてはならない秘密があるかというと、そういう前提も何か思わせぶりなフェイク臭が漂ってきそうで、知られてはならないのだから、秘密があるかどうかも知られてはならないことになるから、秘密があるかどうかも一般人には知り得ないだろうし、そんな秘密を知っていること自体が、何か危険なことかも知れないが、少なくとも政府に関して一般人レベルで知っていることは秘密でも何でもなく、誰もが知り得ることを知っているはずで、政府とは直接関わっていない一般人が知り得ることなど周知の事実であり、大抵は秘密でも何でもないことになるだろうが、それが秘密と言えるかどうかは、一般的には秘密でも何でもないことかも知れないが、それに関して何やら最近になって、国債は政府の負債であって国民の借金ではないということが、それを強調したい人にとってはさも重要なことであるかのようにSNS界隈では喧伝されていて、それがどういうことなのか今ひとつピンとこないわけだが、そういうことを強調する人たちにとっては、そんな解釈を利用して何かをやりたいわけで、そのやりたいことというのも、これまでに政府がやってきたことの延長上でやりたいことがあるのかも知れないし、それが今まではやりたくてもできなかったことになるというなら、解釈をこれまではとは変更することによってできるようになるということであり、そうであるならその種の解釈変更に価値があるということになりそうだが、果たしてそれが今までは知られてはならなかったことだったのかというと、それも解釈を変更するだけのことだから、取り立てて真新しいことでもなく、そう言われてみればそういうことだったのかと納得する程度のことであり、別に知られてはならなかったことだとも言えないし、もちろん今までは隠されてきたわけでもないから、実質的にも秘密でも何でもないだろうが、それとは違って国民に知られてはならない秘密について、何かそれを知って公にしようものなら命の危険にさらされるようなことであるなら、国会議員が過去に殺害された事件に関して、知られてはならない秘密を暴露しようとしたから殺害されたのではないかと、一部の事情通の間ではまことしやかに囁かれていて、それが特別会計の闇だとか言われていることになるはずだが、政府に関係する問題が、秘密を暴露すればどうにかなるようなことなのかというと、どうもそうではなく、もっとあからさまに国会などで追及されているようなことをどうにかする方向で、何かをやらなければならないのだろうが、たぶんこのままでは大変なことになると言われているのなら、実際に大変なことにならないと現状が変わらないだろうし、その大変なことというのが、例えば明治維新が起こったりアメリカとの戦争に負けたことであったりして、結果的にはそうなってから現状が変わったわけで、そうだとすれば、またそんな出来事と同程度のことが起こってから現状が変わると予想しておけば、それが当たる確率が高い予想となりそうだが、では実際にそうなった時に、何か知られてはならない秘密が暴露されたかというと、過去に何かそんな出来事があったかも知れないが、それよりは周知の事実として知られているのは、誰もが薄々気づいていたことが実現化したと解釈できるようなことの方であり、そうであるなら現状でもそんな出来事をきっかけとして、誰もがおかしいと思っているようなことが改まる可能性があり、誰もがおかしいと思っているのになかなかそれが改まらずに、困っている人たちが世の中に大勢いるとすれば、それが改まるにはそれ相応の出来事が起こらないと改まらないと予想できるわけで、それが現状の政府が頑なに拒んでいることであるのは言うまでもなく、そういうことが多ければ多いほど、これから起こる出来事の程度や規模もそれ相応に大きくなることが予想されるだろうし、政府がそれをやろうとしないから、あるいはやろうにもやれない事情があるから、民衆の間で不満が蓄積してきて、それが何らかの出来事をきっかけにして、それをやらざるを得ないようなことにでもなれば、実際に世の中が変わることになるはずだが、そうなると少なくとも政府の都合よりは民衆の都合が世の中に反映することになるだろうが、果たしてこれまでの歴史の中でそんなことが起こってきたのかというと、それが日本の歴史というよりは世界の歴史の中で起こってきたことであり、そうだとすればどこかの国の政府が世界の趨勢に逆行するようなことをやっていると、それを改めさせられるような出来事が起こるわけで、今もそれが戦争や動乱の中で起こっていることだとすれば、それに関して誰もが思い当たるはずだが、それが誰もが薄々気づいているようなことであるならば、そうした出来事をきっかけにして、その出来事に関与しているどこかの国の政府が、現状で貫いている頑なな態度を改めさせられることになるかも知れないが、その一方で戦争や動乱の当事者でもない日本政府が今後何か改めさせられるようなことが起こるかというと、例えばアメリカでは50万人の戦死者を出した南北戦争によって、奴隷解放宣言が行われたが、それと同程度になるわけではないが、例えば二万人の犠牲者を出した東日本大震災によって原発推進政策がつまずいたことは確かだが、またここにきて強引に原発を推進しようとしているし、さらにはここ数年来のコロナ禍で数万人の犠牲者が出ているにもかかわらず、それをきっかけにして政府の姿勢が改まるどころか、逆にさらに頑なな態度に固執するような傾向が強まれば、より一層今後に起こるかも知れない出来事の程度や規模が大きくなるのではないか。


4月8日「国家の衰退という誤解」

 そんな妄想を誰もが抱くわけでもないだろうが、国家的な呪縛が何に起因しているのかと言っても、まずは何が呪縛なのかということがわかっておらず、意識して物事を単純化したいとは思わないだろうが、それが呪縛だとは認識できないなら、意識が国家的な呪縛に囚われていることにも気づけないのかも知れないが、行政組織として政府があるということが、単なる一般市民でしかなくても国家的な思考を可能としていて、例えば日本がどうしたとかアメリカがどうなったとか、何やら国を主語として何か言えるようになるわけだが、そんな言い方を利用してよく言われることとして、例えば日本という国が衰退しつつあるかと問うなら、たぶん現状ではそうではなく、たとえ各種の統計結果が日本の衰退を裏づけているとしても、そんな統計自体が国家的な呪縛から生じていることだから、統計の取り方を国家とは別の指標を基にして構成し直せば、そうではないことが明らかとなるはずだが、しかし国別の統計以外にどんな統計の取り方があるかと言っても、その種の統計の対象が国家以外にあり得ないから、統計自体が国家的な呪縛を基にして成り立つようなものであり、それを虚構だと言ってしまうとさらなる誤解を招きかねないが、統計結果は虚構ではないとしても、統計の対象となる国家が虚構の産物だから、そこから微妙な意味合いを感じ取らないと、国家的な呪縛に囚われながら物事を考えざるを得なくなってしまうだろうが、それが誤解を招いているわけでもないだろうが、政府自体が税の徴収と国債を発行することによって予算を確保している都合上、いくらその一方で通貨の発行権があると言ったところで、実際に予算を組んでその範囲内で活動していることになっているわけだから、何でもかんでも行政の権限だけでできるわけでもなく、一応は国会もあって、おかしなことをやれば国会で追及される仕組みになっているはずだが、国家的な呪縛に囚われていると、例えば憲法を改正して政府が国民や国会の意向を無視して好き勝手なことができるようにしたいと妄想を抱く人が出てきて、その口実として非常事態になればそれができるようにしたいという思惑もあるらしいが、それに関してワイマール憲法で緊急事態条項があったからヒトラーやナチスが好き勝手なことがやれたとか、明治憲法があったから戦争への歯止めが利かなかったとか、原因と結果の取り違えを犯してしまうのも国家的な呪縛に囚われている証拠であり、政府にとって憲法は勝手に都合のいいように解釈したいし、場合によっては憲法を無視して勝手なことをやりたいだろうから、憲法が歯止めになってもらっては困るから、憲法を政府にとって都合が良くなるように改正したいのだろうが、それに関して愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶという格言があるらしいが、緊急事態条項を利用したヒトラーやナチスの歴史的な失敗に学び、非民主的な明治憲法が戦争への歯止めがかからなかった歴史的な失敗に学んで、現状の日本国憲法があると捉えるなら、確かに話の辻褄が合って論理的な整合性もあるわけで、そうだとすれば歴史に学ばない愚者たちが現行の憲法を改悪して緊急事態条項を設けて、戦争への歯止めがかからないようにしたいという思惑があると解釈したくなるだろうが、そういう解釈が正しいように思われるとしても、ヒトラーやナチスにしても、あるいはスターリン時代のソ連にしても、逆に当時としては民主的な憲法を変えたくなかったし、実際に変えなかったのであり、要するに憲法自体はそのままにしておいて、国家的な枠組みもそのままにしておいて、それらはどうでもいいものとして、それらを超えた枠組みを構築したかったのであり、そういう意味ではヒトラーもスターリンも国家的な呪縛から解き放たれて、国家というちっぽけな虚構など問題ではなく、世界全体を手に入れたかったのであり、そんな彼らからすれば日本というちっぽけな国の中で憲法改正がどうのこうのやっているちっぽけな連中などは問題外であり、彼らと同列に扱われては腹が立つだろうし、そもそもこころざしが違うということだろうが、要するに国家が衰退しては困ると考えること自体が、全体主義的な思考からすれば枝葉末節なことに過ぎないし、世界全体を手に入れるという野望があれば、そのためには国家など衰退しても構わないし、国民などいくらでも犠牲になっても構わないと考えていたから、夥しい数の犠牲者を出しても平然としていられたと解釈するなら話の辻褄が合いそうで、それとこれとを同一視して、日本で批判したい人物をヒトラーやスターリンに喩えるくらい荒唐無稽なことはないわけだが、そういう意味ではヒトラーもスターリンも国家主義者でも国粋主義者でもなく、どちらかと言えばグローバリストに近い存在なのだが、そうなると中国の習近平も北朝鮮の金正恩もどちらかと言えば国家主義者や国粋主義者に近く、またアメリカ第一主義を掲げるトランプも同様に国家主義者や国粋主義者に近くなり、少なくとも全体主義ではないというか、そんなのは元からあり得ないというか、逆にグローバリズムと言われる概念自体も誤解のもととなっている可能性さえあるわけで、そういう脈絡から考えるならグローバリズムが国家の衰退を招くと解釈した方が辻褄が合うし、実際に反グローバリズムを標榜しているのは国家主義者や国粋主義者だと言えそうだが、そうなると新自由主義=グローバリズム=維新の会という構図から批判を構成している人たちも、国家主義者や国粋主義者なのかというと、逆に維新の会=国家主義者=国粋主義者という面もあるだろうから、そういうところから微妙な解釈の食い違いが生じてくるのかもしれない。


4月7日「目的とは別の目的」

 果たしてこう述べることによって何を避けているのかが明らかになればいいが、誰かが何かを述べていれば、その述べていることが、一応はその人の目的となってくるはずだが、他にもその人の意識できないところで、述べている対象とは別に目的があると考えると合点がいくわけでもなく、その人が自身の目的に直接言及しているとしても、その目的とは別に誰にも知られたくない隠された目的があるなどと当人でもないのに勝手に決めつけるわけにもいかないが、誰にも知られたくないと思っているわけではなくても、自分の目的に気づいていない可能性があり、自分で自分の目的に気づいていないなんてあり得ないわけでもなく、実際に何かが起こった後から、それをきっかけにしてそれまでは気づかなかった自身の目的に気づくこともあり、その目的というのが偶然に起こった出来事から生じてくれば、偶然に気づくわけで、そんな出来事が偶然に起こらないと、自分の目的に気づかないなんて馬鹿げているかも知れないが、後から新たに目的がつけ加わる場合があるのかも知れず、当初の目的とは別に新たな目的が偶然に起こった出来事を契機として生じてきたと考えれば納得できるかも知れないが、だからといってそれが真の目的だと決めつけたいわけでもないし、当初の目的の他にも別の目的がつけ加わったところで、両者が共存可能であれば問題ないはずだが、たぶん共存が可能でなくても、矛盾する複数の目的を抱え込んでいる可能性もある限りで、目的の遂行に支障をきたして、目的に沿って行動しているつもりでも、やっていることがうまくいかなくなる可能性がありそうだが、それが必ずしも目的に沿った行動となるわけでもなく、その場の成り行きにまかせて行動しているうちに、当初には全く想定していなかった事態に遭遇したことがきっかけとなって、当初の目的からは完全に逸脱した行動を余儀なくされてしまえば、自らの目的を自らが裏切っていることにもなるだろうが、それに気づいていない可能性もあるわけで、それよりはその場の成り行きについて行くのに精一杯で、自らの行動が自らの目的を裏切っているかどうかを判断する余裕もなければ、それでも構わないとも思わないにしても、それと共に当初の目的を遂行するのが困難になってきたことになりそうで、そうなる過程の中で目的そのものが変質してしまったことにも気づいていない可能性もありそうで、現状で明確な目的を掲げて行動しているとしても、果たしてそれが当初から一貫して掲げてきた目的なのかどうかも疑わしい場合がありそうだから、改めて当初においてはどんな目的があったのかを検証してみる必要がありそうだが、そもそもいったいそれが何について述べていることなのかが明らかになっておらず、しかもそれ以前に目的そのものも明らかになっていないなら、どんな目的に沿ってそんなことを述べているのかもよくわからないわけで、だから目的など元からなかったとは決めつけられないとしても、その目的が必ずしも明確にはなっていないから、その言動や行動も目的に沿っているとも言えないし、何かを述べていること自体が目的だとしても、述べることによって何を狙っているのかもよくわからないわけで、目的を意図的に明かさないなら、明かさない理由を推測するしかないが、それよりも目的そのものを推測したいわけで、いったいどんな目的があってそんなことを述べているのかを明らかにしたいのに、どういうわけかそういう成り行きにはならず、その代わりに何が示されているのかというと、目的そのものがうやむやになる過程が示されているとは言えないものの、それもその通りだとも言い難いが、何か他に言い足りないことがあって、それに関して今もこうやって延々と述べているわけで、その述べている内容に目的が含まれていて、そこに当初の目的とは別の目的を当てはめてみると、何やら事態がこんがらがってくるわけでもないが、当初の目的というのが明らかにならないと、そこに別の目的を当てはめることも意味をなさないし、なぜ別の目的を当てはめる必要があるのかもよくわからないわけだが、たぶん当初の目的をすでに忘れてしまったのか、あるいは当初の目的など元からなかったのかも知れないが、そこに当初とは別の目的を強引に当てはめてみたところで、それ以前に述べている内容の辻褄を合わせるのも一苦労となるだろうが、そんなややこしいことを述べていないで、もっと簡単に自らの目的を明らかにできる条件というのが、どのような成り行きから出てくるかというと、そんな成り行きが今ここで生じているとも思えないし、こことは別のところで生じているとしても、そんな成り行きになってしまうとまずいのかも知れず、簡単に目的へと辿り着いているように装う人を信用できないわけではないが、実際に自分の目的を簡単に明らかにできる人が羨ましいわけでもなく、逆にそれが嘘をついているように思われるから、誰にも知られたくない真の目的を隠し持っているのではないかと邪推したくなるわけでもないのだが、どうしてもその目的が真の目的ではなく、とりあえずの活動に結びつけるための口実のように思われるから、そんな人を信用できないわけではないにしても、そんな人はまだ真の目的に気づいていないのではないかと疑ってしまい、もちろん真の目的などなく、何かこれから偶然の出来事に巻き込まれて、それをきっかけにして真の目的に辿り着くようなことが起こるとも限らないが、それも何かの思い違いや勘違いなのかも知れないし、目的など何もないまま生きて行くことができれば、それに越したことはなく、逆に目的を意識してしまうと生きづらくなってくるから、それを意識しないで生きていられる限りで、当初の目的を忘れていられる可能性も出てくるのかも知れず、その今ではすでに忘れ去られた当初の目的というのが、その人が何かというと簡単に明らかにする目的とは別の目的であることを期待してしまうわけで、それが選挙演説の類いから窺い知れる紛れもない真実なのではないか。


4月6日「無関心な誘惑」

 その理由を明らかにしないまま、またずいぶんと回りくどいことを述べるなら、そんなことには関心がないと思ってみても、実際に何について関心がないことになるかなんて、それが自分とは関係のない赤の他人の関心であるならわかるはずもないことだが、実際に関心がなければ何でもないはずだが、考えようによっては、自らに関係があることになるのかも知れず、その考えようによっては、ということがどのような考えようによってはなのかが、うまく表現できないわけだが、それについては関心がないからこそ、逆に向こうから関心を持つように仕掛けてきて、そうした誘惑に屈してしまうと、それについて関心を持つことが自分にとって重要なことであるかのように感じられてしまうこと自体が、まさにその種の誘惑に屈していることの証拠なのだろうが、では具体的にそれがどんな誘惑なのかというと、それほどあからさまに関心を持つように仕向けてくるわけでもないのに、どういうわけか知らないが、そのどういうわけかということもうまく表現できないわけだが、何はともあれ結果的には関心を持つように仕向けられてしまうから、何やらそれが罠のように感じられて、もちろん実際には罠でも何でもなく、関心を持つのが当然のこととして、日頃からメディアを通じて毎日のように宣伝されていることかも知れず、それが当たり前のように感じられてしまうから、誰もが意識して身構える隙も暇も与えられずに関心を持ってしまうのだが、なぜそうなってしまうのかと問われても、もちろんそれもあからさまには問われるはずもないことであり、なぜ問われないのかといっても、問うまでもないことだから問われないのだろうが、少なくともなぜという疑問が生じてこないから、それが問うまでもないことになってしまうのだろうし、そんなことは問うまでもないことであり、社会人なら関心を持つことが当然だと諭されるようなら、あからさまに関心を持つように仕向けられていると言えるだろうが、そうではなく、無関心でいても罪悪感など覚えないし、なら無関心でいればいいじゃないかと言われればその通りなのだとしても、そうもいかない理由が何かといっても、心当たりがあるわけでもなく、なぜだか知らないが、自然と関心を抱いてしまうようなことであれば、そういうものだと思ってあきらめるしかないが、関心を持たざるを得ない成り行きになっているとは思えないし、実際に無関心を装っておけばいいわけだが、本当に無関心であっても構わないのかというと、自信を持って無関心でも構わないと断言できるわけでもないのだが、たぶん無関心であるからにはそれ相応の報いを受けなければならないし、その報いが何なのかといっても、そんなのは知ったことではないだろうが、知らないふりをしておけば済んでしまうようなことかも知れず、実際に知らぬ存ぜぬで済ませてしまえることかも知れないが、やはり結果的にはそうはならないわけで、知っているのに知らないふりをしてしまうから、見て見ぬふりをしているようなやましさを覚えるのかも知れず、実際に何を知っているのかと言えば、人権感覚のなさを知っていて、人に人権などないから、人が物扱いされるのも致し方のないことかも知れず、そういうことに無関心でいる方が生きやすいというと嘘になってしまうが、世の中の制度としてそうなっていて、権利は主張しないと無視されてしまい、主張したところで無視できる限りは無視しようとするだろうし、実際に無視していた方が面倒なことにはならず、無視されている方は泣き寝入りとなってしまうわけだが、泣き寝入りするのが嫌なら戦わなければならず、戦うと嫌がられるし、戦わなければ無視されるから、どちらにしても面倒な事態となるわけだが、面倒なことになるのが嫌なら他人の人権には無関心を装えばいいわけで、果たしてそれが制度だと言えるかと疑念を覚えるだろうが、言えなくても暗黙にそうなっている場合があり、制度には無関心であれば、制度に従って行動しているとも思えないだろうが、逆に他人の人権を尊重することが世の中の制度として成り立っているかというと、たぶん民主主義を尊重するなら、それが制度として世の中に定着しているように振る舞わなければならず、振る舞う気もなければ、そんな制度などないかのように振る舞えばいいのだろうが、それが微妙な抵抗感をもたらして、その種の人の態度として何やらあからさまに目的意識が感じられると、わざとらしくも白々しい演技に及ぶ傾向があり、それがどんな目的なのかと言えば、これ見よがしに同じことを延々と主張する場合があり、それが結果的に他人の人権を無視するような主張内容になるのだろうが、主張している当人にはそれとは別の目的があるから、カモフラージュとしてそういう主張を延々と繰り返すわけで、それが見え透いた意図や思惑と共に主張していることだから、人権感覚のなさとして意識されるだろうし、それの何が人権を無視しているように感じられるかというと、他人の主張には全く聞く耳を持たず、しかもそれが理路整然とした内容でいかにも説得力のある主張であるほど、逆に聞く耳を持たないから、何を言っても無駄な態度をこれ見よがしに示すことになり、より一層その人の人権感覚のなさが露わになるわけで、そうやって他人の言うことには無関心を装いながらも、そんな態度の人の主張には何の中身もないとなると、ではそんな態度で何を主張しているのかというと、それとは別の目的が暗に示されているわけだが、直接には示さずに、もちろんそれを直接示しても何の説得力もないから、示すのはかえって逆効果であることも承知している一方で、それとは別の方面からも、全く説得力のない主張を延々と繰り返しながらも、ゴリ押し気味にその場を押し切ろうとする戦術なのはわかりきったことだとしても、実際に押し切ろうとするわけだから、人権も何も知ったことではないわけで、他人の人権を無視することによってそういう行為が成り立っているわけだ。


4月5日「救いのある未来」

 現状が大した状況でもなければ、安易に世の中の将来を悲観することもないはずだが、では現状で何か救いがあるとすれば、それが何なのかと言えば、現状がどうにもならないわけではなく、少なくとも経済が動いていて、経済の動きに沿って人も物も情報も動いているわけだから、人の活動が現状の経済情勢から何らかの制御を受けていることは確かであり、それがすぐに安易な救いに結びつくとも思えないし、時には救いよりは絶望に結びつく場合もありそうで、それに関しては例えば生活に行き詰まり、将来を悲観して自殺したくなる人も出てくるかも知れず、そんな人に向かって死にたいやつはさっさと死ねばいいと言い放つ人はまずいないだろうから、できれば死にたくなるような人が少しでも減ってほしいと願いたいところかも知れないが、たぶんそんな惨状の中でも何かしら救いがあって、それが現状の経済情勢の中から出てくることであれば、例えば一つの国だけで経済は完結しないし、経済情勢には絶えず外国との貿易が絡んでくるから、どんなにひどいことが国内で行われていても、外国から相手にされなくなれば、ひどいことが続かないと考えるなら、外国からの経済制裁などによって国内でひどいことをやっている勢力が打撃を受ければ、ひどいことが長続きしなくなって、それが政治的な弾圧などのひどい状況下で耐え忍んでいる民衆にとっての救いとなるかというと、では北朝鮮のようにどんなにひどくても中国やロシアが経済の面で支援してくれるから、何十年もひどいことが長続きしていて、それでは救いがないのかと言えば、今後北朝鮮が国家として立ち行かなくなれば、それが救いとなるかも知れないが、それが現時点での救いのなさを示していて、それでは救いがあるというのは嘘かというとそうでもなく、現時点では確かに北朝鮮国内では救いがないが、国外では救いがあるかも知れないから、脱国者が後を絶たない情勢があるのだろうし、北朝鮮では確かにそうだが、それが例えば日本ではどうなのかというと、少なくとも国内での政治的な弾圧を逃れて外国へと亡命する人などいないし、そういう意味では救いがあるから多くの人々が国内にとどまっていると考えるのが妥当なのかも知れないが、では日本国内ではどんな救いがあるのかというと、それが誰もが理解できるようなことでもないかも知れず、では多くの人々の理解の範疇から外れたところに救いがあるとするなら、それが何かというと、そこでも経済情勢が絡んできて、それが一見すると否定的に受け取られるようなことかも知れないが、実際に何かと批判材料に使われることが多いし、どちらかと言えば希望よりは絶望だと捉えたい人も多く、例えばそれが少子高齢化であれば確かにそうなるだろうが、働く人の労働人口が減って行くから、経済成長の面で将来の見込みがなさそうに思われるのは致し方ないだろうが、実際にはそれほど働き手が必要とされない未来が待ち受けている可能性があり、人手不足となるのではなく、将来は人余り状態となってくるというと、そんなのは嘘だと思いたいだろうが、要するに働き手を増やして人手不足を補うのではなく、自動技術などの機械化によって働き手が不要になるような世の中を人が意識して目指しているわけではなくても、実際にはそんな成り行きに沿って現代文明が発展してきたことは確かであり、そうでないと産業革命以降の機械の技術革新を説明できないわけだが、それが単に人口が減ると税収が少なくなるとか、社会保障の面で現行の制度を維持できなくなるとかの、行政的な要請から考えがちになってしまうから、短絡的に人口の減少を食い止めるにはどうすればいいかとかの、見込みのないその場しのぎをやろうとしてしまい、民衆の方でもそこまで考えが至らないから、冷静な判断ができなくなってしまうのかも知れないが、しかもそれで構わないというと、いったいそれはどういうことなのかというと、未来が現状で主導権を握っている保守的な政治勢力の思惑通りにもならない代わりに、そんな政治勢力の主張に惑わされている民衆の思惑通りにもならないから、神の見えざる手や自然の狡知が働くわけでもないにしても、論理的な思考ではなく、功利に惑わされた情念に人の行動や言動が左右されてしまうから、そういった情念から生じる意図や思惑が裏切られることで、その種の情念に囚われた政治家や企業家とは関係のないところで、論理的な思考が活かされる余地も生まれて、そこでポンコツ政治家などが口出しできない領域で未来への可能性も生じてくると情勢を捉えておくなら、まだそこに救いがあると言えるだろうし、実際にも救いとはそういうところから出てくるわけだが、それが現状で主流の政治とも経済とも少しずれた領域を形成していて、少しずれているとしても全く重ならないわけではなく、少しは重なる部分もあるから、そこから新しい考え方ができる政治家や企業家も生まれてくるのだろうが、そういう政治家や企業家が活躍し出すと、それまでに主流を形成していた層が時代遅れとなって、要らなくなってしまうのかも知れず、今がちょうど政治家や企業家も新旧で交代時期に差し掛かっているのかも知れないが、それが現状で主流の政治家や企業家には気づかないところでもあって、それが下手に気づいてしまうと世代交代を阻もうとしてしまうからまずいのかも知れず、だから新たに政治や経済の担い手となるような人たちにはある種の試練が課されている可能性も捨てきれないだろうが、その試練というのが現状で救いとなっている物事にいかにして気づくかが試されているというと、それもそんなことはあり得ないと思うなら、そう思う人には試練など課されていないし、新たな政治や経済の担い手にもなれないのかも知れない。


4月4日「信じられない現実」

 騙されてはいけないと思うことと、真実を知りたいと思うことが、同じ思いとは言えないが、その一方で騙されても構わないから、信じられる物事を信じていたいと意識して思っているわけでもないだろうが、なぜそれが信じられるのかといえば、それを信じている方が都合が良いからとか、それを信じないことによって周囲に波風を立てたくないとか、真実を知ってしまうと都合が悪くなるとか、それについて様々な理由が推察されるとしても、実際にはそれを信じられなくなってから、信じられないことについてのもっともらしい理由を導き出そうとするのだろうが、少なくとも信じている人にとって都合が良ければ、いつまでも嘘でもデマでも信じているだろうし、逆に都合が悪くなれば信じられなくなるはずだが、そうなるとそれが客観的に真実であるかどうかというよりは、信じている方が都合が良いか悪いかで、信じられるかどうかが変わってくるなら、そういう人は信用できないと思いたいところだが、自分自身がそういう人であるとは自覚できないかも知れないし、そんな信じられないことを信じているような自分を信用できなくても、また本心から信じていないことを信じているように装う自分を信用できなくても、その方が都合が良いということは信じているはずで、自分が嘘をついていることを肯定できる自分がどのような存在であるかを理解していると思っているはずだが、そんな自分に自分が騙されているとも思えないだろうし、そんな状況をどう捉えても、その種の自己満足や自己肯定や自己正当化の罠を免れることはできず、自らが仕掛けたわけでもない罠にはまっていると思うわけでもなく、それが罠であるとも思っていないのはもちろんのこと、実際にも罠などではなく、自らの心地良さを保ちたいだけで、それが取り返しのつかない誤りや過ちであるとも思っていないわけだから、そんな人が世の中にいくらでもいる現状を何とも思わない人もいくらでもいる限りで、だいぶ現状が信用できない状態となっているかも知れないが、わざと世の中がそんな状態になるようにしたいわけでもないだろうから、そんな信用のならない事態を招いていること自体が、信用のならない人たちにとっては状況が天国に近いとも言えないが、その一方で真実を知りたい人にとっては世の中の現状が地獄だとも思えないだろうし、では天国でも地獄でもないとすれば何なのかと言えば、ありふれた事態を招いているわけで、それが嘘やデマを信じているふりをするような人たちには因果応報で自業自得だとも思えないし、それどころがうまく立ち回っているつもりなのかも知れず、それで構わないのかと言っても、実際にうまく立ち回っている限りで構わないことになるだろうが、果たしてそういう人たちが本当に現状の世の中でうまく立ち回っていることになるのかというと、どうもそうではなく、逆にうまく立ち回れていないからこそ、苦し紛れに見え透いた嘘やデマを信じているふりを装わなければならず、そうなっている限りで、今はそれでも構わないとしても、ここから時が経ってみれば、現状が人として許し難いようなひどい人たちがいくらでもいた黒歴史の時代だと見なされてしまうから、もう現状でそんなふうに振る舞っている時点で手遅れなのだが、他人から尊敬されないことを受け入れているわけでもないが、そういうことを自覚できない人たちがそうなってしまうわけだから、それも時代を異にする人たちから見れば因果応報で自業自得ではあるにしても、当人たちはやがてどうでもいいような存在として忘れ去られてしまうような小物以上の何者でもないところが、身の丈に合った振る舞いになっているわけで、それが悲劇でも何でもない茶番劇の登場人物にはふさわしいとも思えないだろうが、当人たちにその自覚がないというのはある意味では救いともならないわけだが、それが功利的な価値観に囚われた資本主義経済の中では水を得た魚のように自由自在に立ち回れる特権に結びつくとも言えず、どう見てもそれが彼らの特権なのではなく、苦し紛れではあるにしても、わざと人間のクズみたいに振る舞っているとも思っていないだろうし、それが彼らにとっては自然な振る舞いであるからには、強いられてそうなっている自覚もないだろうが、そんなことしかできないからそうなっていると見なされても、では悔しかったら他人から尊敬されるような振る舞いができるかというと、それをやってしまったら同業者から仲間外れにされてしまうだろうし、ひどいことをやっている仲間を裏切れないから、一緒になってひどい振る舞いに至るしかなく、それが苦し紛れにそうなっていることを自覚できるわけもなく、できれば嘘やデマではなく、他人を騙そうとするのでもなく、もちろん騙しているつもりもないのかも知れないし、彼らにとってはそれが紛れもない真実であり、真実を述べているのにそれが嘘やデマになってしまうわけだから、なぜそうなってしまうのかなんて理解の範疇から外れていて、否応なくそうなってしまうのであり、そんなことしか言えない立場や境遇になってしまっているわけだから、それが彼らにしてみたら信じられない現実だと自覚できれば、少しはそこから反省の機会がやってくるかも知れないが、現実にはそうはならないどころか、逆にさらなる見え透いた嘘やデマで塗り固められた現実の中で振る舞うことが求められて、そんな求めに応じて振る舞っている自覚もないまま、時代の趨勢に従うしかないから、彼らにとっては憲法改正とかそれなりに重大事となり得るような物事に関しても、それが偽りの目的や目標だとも思えないから、いつまで経っても嘘やデマで何とかせざるを得ないようなことにしかならないわけだが、それが結局は時の経過と共に化けの皮が剥がされて、いつの間にかその存在自体が賞味期限切れとなって、その代わりに真実が語られるような時代状況の中で、過去にバカなことやった小物たちとして軽蔑の対象となってしまうわけだ。


4月3日「知っていることの価値」

 現状でわかっていることが、それを知っている人や団体に有利な結果をもたらすかどうかは何とも言えないところだが、いったい何を知っているのかと言えば、特定の人や団体の関係者が知っていることがある一方で、他の多くの人々が知らないことがあるとすれば、それが何なのかといっても、違法行為や不正行為であれば、是が非でも隠しておきたいことになるだろうが、中にはそういうこともあるだろうが、誰もが知り得ることなのに、意外と知られていないことがあるとすれば、それが気づきにくいことになるかも知れず、しかもそれを知ったところで興味を惹かないことであれば、誰からも見向きもされないような知識となりそうだが、そうなると知っていることの価値が低い知識となりそうだが、そうではなく、人によっては価値が高かったり低かったりすれば、誰からも見向きもされないわけではなく、人によっては知りたいことになりそうで、またそれを知っているからといって、特に有利にも不利にもならなければ、大して価値が高いとも低いとも言えないだろうが、価値が高いか低いかは、その価値に対して多くの同調者が出れば、価値が高いと言えそうだが、そういつも価値が高いわけではなく、価値にも相場があって、時と場合によっては価値が高かったりするものの、それとは別の時と場合によっては価値が低いとなれば、その場その時の情勢次第で、人気が出たり出なかったりすると言えそうだが、そういう面では常時価値が高かったり低かったりするわけではなく、時価相場と言えるような価値の移り変わりがありそうだが、やはりそうなるとその場で価値が上がる条件や下がる条件もありそうで、どういう場合だと価値が上がって、またどういう場合だと価値が下がったりするなら、どうなれば価値が上がったり下がったりするかの条件を知っていれば、それ自体の知識としての価値は高そうな気はするだろうが、たとえ価値が高くても、それを利用したい時に利用できなければ宝の持ち腐れとなるだろうし、価値が上がったり下がったりする条件を知っていても、その条件を生かして何かをやる立場になければ、いくら知っていても黙って指を咥えて見ているだけで、利益を得られるチャンスをみすみす逃してしまうことにでもなれば、知識としての価値が高かろうが、チャンスを生かせない人にとっては何の価値もありはせず、そうなれば確かに人によって価値が高かったり低かったりするケースとなりそうだが、果たしてすぐにそういうことに気づけるかというと、それ以前に気づく必要があるのかと問われるなら、現時点で自分がそういったケースに関わっているかどうかをどうやって知ればいいのかが問題となってくるかも知れず、それが気づきにくいことでもあり、現状でも世の中の大半の人たちがそれに気づかずにみすみすチャンスを逃している可能性がある一方で、チャンスを逃してくれた方がそれを知っている少数の人たちにとっては有利な場合もあるから、知っていてもなかなか他人には教えたがらないし、というかその種の知識を独り占めにできれば、その独り占めにしている人にとってはかなり有利な状況となりそうだが、逆に多くの人々が価値を共有しないと、価値が高まらず、多くの人々の賛同を得ないと価値が高まらないとすれば、その人だけ知識を独り占めにしていても、価値など一向に高まらず、むしろ知識を世に広めてなるべく多くの人々に知ってもらわないとならなくなり、そうなると知識を独り占めにしても意味がないことになってしまうわけだが、メディアを通して何かを知ってほしいと盛んにアピールしている人がいるとすれば、その人は自らの知っている知識の価値を高めようとして、そんなアピールをしているのかも知れず、それがその人の主張の賛同者を増やそうとする戦略となるだろうが、それが戦略というからには、その人が他の誰かや何らかの団体などと戦っていて、その人が戦っているつもりの人や団体なども、それらの人や団体が持ち合わせている主張の賛同者を募っていて、互いに敵対し合う人や団体の間で主張の賛同者の奪い合いが起こっていることになりそうだが、それに気づいている人が世の中にどれほどいるかといっても、大半の人たちは直接には気づいていないわけで、それよりはどう考えても理屈に合わないことや割に合いそうにないことを信じているふりを装いながら、そんな屁理屈や迷信の賛同者を募っているわけだから、タチが悪いというか、頭の悪い人が大勢いるような気がしてしまうとしても、それもわざと受け入れ難いことを受け入れさせようとして、それをキリシタンの踏み絵のようなものとして機能させようとするわけだから、何やらゴリ押しの強要となってくるのだろうし、慣習を強いるとは半ば脅しのような有無を言わせぬ同調圧力となってくるわけだが、それを人権侵害と受け取るなら、受け入れずに抗議したり抵抗しなければならなくなってしまうのだろうが、それを人権侵害だとは気づいていない人も世の中には大勢いて、それどころかそれと自覚することなく同調圧力を仕掛けていることにも気づかずに、妙に反抗的な態度に出てくる人を疎ましく思っていて、なぜ他の大勢の仲間たちと調子を合わせられないのか不思議がっている可能性もあるわけだから、善意からそう思っていることだと誤解している場合もあるわけで、そういうところがどうにもならないから、それが知識となる以前に情念が邪魔をして、知ることを阻んでいるようだと、たとえそういうことを知っていても、価値としては低く、それに同調したり賛同してくれる人も大していなければ、誰もが知り得ることではなく、意外と知られていないことというか、世の中の大半の人たちには知る必要のないことになってしまうかも知れず、そうなるとたとえそれを知っていても知識として生かせるわけでもなく、もちろんそれが宝だとも思わないだろうから、宝の持ち腐れとはならないだろうが、そういう知識の価値を上げるにはどうしたらいいのかと問うなら、世の中で人権意識を高めなければと思う人も結構出てくるのではないか。


4月2日「わかっていないふり」

 何かそれに関して語れば語るほど苦しい言い逃れになってくるようなことが、議論を進めていくと浮き彫りになってくるなら、わかりやすい成り行きにはなるだろうが、それがわかってしまうと都合が悪いかと言うと、わざとわかっていないふりを装っているわけでもないのだろうが、そうなることがわかっていても、またわかっていることを自覚しているとしても、それもわかっているのとは違う方面から、執拗に反論の機会をさぐっているように見えるなら、わかっていることにはなかなか触れたがらない理由というのが、わかっていることを認めてしまうと分が悪いからと推察したくなってしまうのだが、それが本当にそうなのかどうかは、それも想像の域を出ないことだが、それに関して何がわかっているのかというと、それに関してのそれがわかっているわけで、それとは何かというと、それがわかってしまうとまずいから、わざとわかっていないふりを装いながら、わかっていないことを前提とした議論を進めようとしているわけで、しかしそれがわかっていないのに、どうやって議論を進められるのかといっても、それに関してはいつものごまかしやはぐらかしを駆使しながら、それがわからないように装いたいのだろうが、実際にはどのような議論を進めているのかというと、それを大雑把に述べるなら、政治と経済の関係になるだろうが、個別的には政府の予算の使い方や、税の取り方や使い方になるだろうし、また国債の実態やその意味になるはずだが、果たしてそれが屁理屈にならないように議論を進められるかというと、議論を進めているつもりになっている人にとっては、自らが主張する理屈が屁理屈になるわけではないと思いたいところだろうが、それの何が屁理屈なのかというと、あらかじめ自身の主張に都合の良いような対立軸を決めておいてから、自身の主張に反する主張を述べる人たちを批判するようなことをやるわけで、その対立軸の決め方自体が屁理屈に基づいていると言うと、そんなことはないと反論してくるかも知れないが、それが対立するようなことではないと述べるなら嘘になってしまうかも知れないが、嘘でも構わないとも思えないものの、そんな対立点は枝葉末節などうでもいいこと過ぎないと述べても、そんなのはあり得ないとなってしまうだろうが、実際にあり得ないのはそんなところではなく、もっと別のところで対立してほしいとも言えないところだが、それ以前のところで対立する双方が合流してしまうから、そこから議論を進めて対立を強調してしまうこと自体が、無理に対立を装うようなごまかしやはぐらかしとなってしまい、そんな対立はまやかしだと主張したいわけでもないが、それでも例えば積極財政と緊縮財政とが対立点にはなり得ないような現状である限りで、世界中のすべての政府が積極財政となってしまっている現状がある限りは、そんな主張はまやかしだと主張したくなってしまうから、やはりその辺でどこかおかしいのであり、積極財政派がわざとらしく仮想敵と見なす日本の財務省という存在が、何か実態からかけ離れた冗談のような架空の存在に思えてくるわけだが、実際には積極財政の予算を組んでいるわけで、もちろん積極財政派にとっては見掛け倒しの偽りの積極財政になるかも知れないが、積極財政派が使うべきと主張しているところでは予算を十分確保しない代わりに、使うべきではないところで無駄で不要な予算を組んでいるから、そういうところが批判対象となっているわけだが、そうであるなら対立点となっているのは、積極財政か緊縮財政かではなく、予算の使い方が対立点となっているはずで、だからいくら積極財政を進めるべきだと主張しても、問題なのはそこではなく、ほとんど世界中の政府が国債を発行し過ぎて借金まみれとなっている現状では、わざわざ積極財政を推進しなくても現にそうなっているわけだから、そんな主張自体が意味がなく無効なのではないかと思わざるを得ないのだが、それでも積極財政を主張するのはなぜかといえば、政府の予算を使ってこれまでとは違うことをやりたいわけで、そのこれまでとは違うことをやるに当たって、その理由がたぶん積極財政とは無関係だと言いたいわけではないが、積極財政だと主張するからには今までの常識からすれば、かなり無理なことに予算を使いたいのかも知れず、だからしきりに積極財政であることを強調して、今までない大盤振る舞いをやりたいのだろうが、それがまだ実現化するか否かという段階ではなく、これから政府の予算を自分たちの都合の良いように使いたい立場にならないことには、主張している積極財政とはなり難いのはわかりきったことだが、主張するだけならいくらでも主張できて、また現状で実現している政府の予算を批判しようと思えばいくらでも批判できる立場でもあるわけだから、批判するには対立しないとならず、政府の予算案に同調したりそれを支持していたら対立できないし、実際に批判しているわけだから、それに同調したりそれを支持する気もないのもわかりきったことだが、ではそんな対立がごまかしでありまやかしなのかと言えば、彼らが対立しているつもりの緊縮財政には全くなっておらず、彼らが現に批判しているのは緊縮とは正反対のバラマキ予算でしかなく、バラマキ予算だからこそ批判しているのに、捉えようによっては彼らが主張している積極財政もある意味ではバラマキ予算だと受け取られかねず、だからこそ彼らが批判している政府のバラマキ予算とは違うことを強調しなければならないのだとしても、それは積極財政と緊縮財政との対立軸からは生じてこないところがごまかしでありまやかしなのではないか。


4月1日「惰性でやっている感覚」

 何をやるにも惰性で動いているうちはまだ何とかなっている気にはなれるが、それが惰性だと気づかないと、予期せぬ急激な情勢の変化に対応できなかったりして、もちろん惰性でなくても対応できない場合もありそうだが、では予期せぬ急激な情勢の変化が起こらなければ、惰性で動いていても構わないのかと問うなら、惰性で何かをやっていること自体が否定的に受け取られるのが普通の反応で、できれば惰性ではなく、日々向上心を持って創意工夫を凝らしながら活動すべきだと思いたいところだが、それが惰性だと気づかないから惰性になってしまうのであり、何か同じことを延々とやっている状態であれば、それも安定してやれているなら別に悪い気はしないだろうから、それで構わないと思っているかも知れないが、構うとか構わないとかの選択肢などなく、否応なくそうなってしまっているなら、それを続けざるを得ない状況に追い込まれているとも思っていないかも知れないが、結果的にはそんな状態へと追い込まれているのかも知れず、それも苦し紛れのようなことになっていれば、確かに追い込まれているような気がするだろうが、特に追い込まれている感覚でもなく、延々と同じようなことを続けていられるなら、それ以外にやりようがなくても、それほど苦しいとも思わないだろうし、たとえやっていることがマンネリ気味で退屈だとしても、それでも続けられているなら、結果的にはそれで構わないとは思わなくても、そうなってしまっている状態を維持していられて、それが惰性でやっていることなのに、別に否定するようなことでも卑下するようなことでもなければ、否応なくそうなってしまっているのであり、それ以上でも以下でもなく、何とも思わないような感覚でやっていられて、果たしてそれで構わないのかといっても、そうなってしまう成り行きの中では、そんなふうにしか振る舞えないから、そういう成り行きの中に動作がはまり込んでいるというと、そこから抜け出られなくなっていると状況を捉えてみても構わないが、そうなっている状態を否定的に捉えるか肯定的に捉えるかで、その場の印象が変わってくるだろうし、感じとしては好印象なら肯定的に状況を捉えるしかないだろうし、逆に苦しいなら否定的に状況を捉えるしかないが、そのどちらでもないのが惰性でやっている感じなのかも知れず、何かそうするのが当たり前のようにしてそうなってしまうと、それ以外にはやりようがないとしても、別にそれが苦しくも楽しくもないような感覚でいられるから、延々とそんなことをやれていると状況を捉えるしかないが、そうやって大して中身のないことを惰性で続けている人や団体が世の中に多いほど、社会全体が停滞感や閉塞感に包まれているかも知れないが、それを停滞感だとか閉塞感だとか否定的に表現すると、違和感や嫌悪感を覚える人も結構多いのかも知れず、それが追い込まれていたり苦しいと感じるのではなく、むしろそんな現状を肯定したいのであり、そうなっていることを正当化したくなるようなら、たとえそんなことを続けられている状態の中に心身の動作がはまり込んでいても、そうなっている状態を維持したいのであり、しかもそこから利益を継続的に得られているなら、他の誰かにそうなっている状態を変えられてしまうと困るだろうし、実際に変えようとする人や団体が現れたら、そんな人や団体とは敵対するしかなく、それらの人や団体がやろうとすることを邪魔したり阻止したくなるだろうし、現に黙っていれば済むのに余計なことをしてくれたと表立って非難しているわけではなくても、それとは別の方面から手を回して改革が必要だと騒ぎ立てる人を黙らせようと画策している人や団体もいるようなら、それに絡んで不穏な動きが窺い知れるはずだが、そうなれば惰性でやっている感覚から抜け出して、争いや戦いへと活動の中身が移行するかも知れないが、実態としてはそうではなく、惰性でやっているつもりはなくても、惰性でやっていることには変わりなくても、その一方で争いや戦いの最中でも惰性で動いているから、争いや戦い自体が惰性の産物であると共に、惰性で争い戦うようにしたいとは思わなくても、結果的にそうなってしまうと、やはり惰性でやっていることの延長上で争い、戦っていることになるだろうが、では惰性ではない争いや戦いはないのかというと、確かにあるにはあるだろうが、結果的に現状が変われば惰性から抜け出たことになるわけだから、争い戦った結果として現状が維持される限りで、惰性から抜け出られていないことになるわけで、実際に惰性から抜け出ようとするのを阻止するために争い戦っているのだとすれば、争いや戦いに勝てば惰性が続いて行くことになるはずだが、たぶん結果的にはそうはならず、どのような目的で争い戦うとしても、現実に争ったり戦ったりすれば、それを惰性では続けられなくなってしまい、争うこと自体が、あるいは戦うこと自体が、相手がいて成り立つことだから、しかも争いや戦いに勝とうとする限りは、いつまでも同じやり方で勝てるわけではなく、またいつまでも負け続けているわけにはいかないから、勝つためには、あるいは負けないためには、絶えず今までとは違ったやり方を試さないとならないはずなのだが、実際に片方が一方的に勝ち続けて、もう片方が一方的に負け続けるような結果に終わっても、双方とも困らないなら、それでは争っていることにも戦っていることにもならず、ただ単に争っているように戦っているように装っているに過ぎず、偽りの争いであり偽の戦いとなってしまうだろうが、惰性の中で安住しているような人や団体であるなら、それでも構わないかも知れないが、そんな予定調和の争いや戦いを見せられている方は退屈になって飽きてしまうだろうし、実際にそんな嘘の争いや戦いではつまらないから、無関心となっている人が世の中で多いなら、争いや戦いも惰性で行われていることになるのではないか。