彼の声155
2023年
3月31日「当事者の言い分」
普通はそれを勘違いとは言わないが、少なくとも何か見込み違いがあったかも知れず、言葉の使い方によっては勘違いも見込み違いも似たような脈絡から生じる意味かも知れないが、事前に勘違いを犯していたわけではなく、むしろ冷静な態度で誠実な取り組みに終始していたのだが、それが結果的には仇となってしまうわけだから、当事者としては不条理な思いに囚われて、こんなはずではなかったと思うだろうが、その場の成り行きに応じた結果となっている面では、当事者を困惑させたにしても、それで構わないとは思えないが、結果が出てしまえばその程度のことなのであり、真っ当なやり方に終始していたのに、それが報われないような結果を目の当たりにしてがっかりするだろうが、やはりその程度のことなのであり、その程度というのがどの程度なのかと言えば、当事者の見込み違いを招く程度のことであり、それがどのような見込み違いなのかと言えば、事態が何の進展ももたらさなかったばかりか、かえってますます事態を悪化させたような印象を伴うから、事態の進展を促すために問題提起した当事者にしてみれば、それが見込み違いだったということであり、もちろん何の進展もなかったというのが嘘で、何の進展もなかったかのように装われただけで、実際には何かしら新事実が明らかになって、新たにわかった事実に基づいて、何らかの追及が行われたことは確かだが、結果的にはその追及を逃れたような結果がもたらされたのだが、それも追及を逃れたように見せかけられているだけで、責任を追及されて、それも実際に責任を免れないことも明らかになったはずだが、それも結果的には責任を問われて辞任したわけでも更迭されたわけでもなく、何のお咎めもないように装われて、逆に責任を追及した当事者の方が、それとは別の方面で思わぬところで揚げ足を取られてそれなりの痛手を被って、それが当事者にとっては不条理極まりないと見えてしまうわけだが、それもその程度のことだと結果を捉えるなら、何も深刻で大げさに思われるようなことでもなく、そんなことよりも別に取り上げるべき問題もありそうなのだが、別の誰かが指摘する別の問題というのも、それを実際に取り上げてみると、大して問題視されるようなことでもなく、それもその程度のこととして処理されてしまうから、それがメディアで話題となるようなことでもないところが、毎度おなじみのこととして、メディアにとっては無視しても構わないような些細なことでしかないのだろうが、では何がメディアにとって深刻に受け止めるべき問題なのかといっても、何もないわけではないのだろうが、それを深刻な問題だと伝えること自体も、その程度のこととして処理されてしまうような話題でしかなく、それをどう伝えても、メディアで取り上げられるような問題自体が、たとえ大げさに身構えて、深刻に受け止めるべき問題なのだとしても、他のどうでもいいような話題のついでに伝えられてしまうと、その程度のことだと感じられて、本気になってどうにかしなければならないと思うようなことではなくなってしまうから、その程度で済んでしまうわけだが、要するにそれを受け止める人にとっては当事者意識が希薄なのかも知れないが、実際に当事者として問題提起した人がどうなったのかといえば、理不尽な扱いを受けてひどい目に遭って、しかも提起した問題に絡んでひどい言動に及んだ人の責任を追及したのに、それも毎度のことのようにはぐらかされて、何をやっても無力感を味わうような結果がもたらされたように見えるのだが、それもそんな結果を大げさに捉えて深刻に受け止めるようなことでもないとすれば、やはりその程度のことなのであり、それをどう捉えてみても深刻な事態には至らず、何を問題提起してみても、そのことごとくが空振りに終わるような結果がもたらされているように見えてしまうわけで、それではまずいのかと言うとそういうわけでもなく、確かに問題提起した当事者にとっては最悪の結果がもたらされて、それが深刻な事態であることを他の多くの人々にもわかってほしいのだろうが、それが由々しき問題で深刻な事態であることをわかっている人もそれなりにいるかも知れないが、当事者から責任を追及されても、しらばっくれてはぐらかすばかりの人たちにとっては、多くの人々に深刻な問題だと認識されてしまうと困るから、何とかして追及を逃れようとして、まともに取り合わずにひたすら大したことはないようなこととして、執拗にはぐらかそうとするのだろうが、本当は何が深刻な問題なのかというと、その問題を追及したい人にとってはそうかも知れないが、実はそれほど深刻な問題でもなく、それが当時はそれなりに深刻な問題だったのだろうし、それをここにきて蒸し返した当事者にとってもかなり深刻に事態を捉えたからこそ、ここぞとばかりに過去の問題を蒸し返したのだろうが、それが全くの空振りに終わったわけでもないとしても、現状ではもう済んでしまったことであり、今さら問題を蒸し返されても都合が悪いだけだから、はぐらかすしかやりようがないのだろうが、実際に当時はひどいことが行われていたにしても、そんなことが行われていた当時においてもそれが問題視されていたにせよ、そういうことが行われた挙句に今に至っているわけだから、すでにそれが取り返しのつかない事態を招いていると受け止めてほしいのかも知れないが、実際にこんな事態を招いているのに、その当事者や関係者は何も懲りてはおらず、相変わらずこうなっていることの延長上で現状を維持したいし、今も維持しているのであり、こんな現状が維持されている限りは、昔の醜態が暴露された程度でうろたえるような状況にはなっていないし、こうして今も醜態をさらし続けている現状があるわけだ。
3月30日「自らの意向」
何がそうなるのかというと、特に何によってそうなるとも限らないが、もちろん政治によってそうなると思いたい人もいくらでもいるかも知れないが、世の中が間違った方向へと誘導されているような気がする時には、たぶんそれが気のせいだと思っておいた方がいいのかも知れず、実際にはそれが間違った方向なのではなく、逆に正しい方向なのでもなく、ではどんな方向へと誘導されているのかと言えば、どこかへと誘導されているというよりは、自らがどこかへ向かっていて、何に誘導されているのでもなく、自らの意志でどこかへと向かっていると状況を捉えることができれば、それが正しい方向であるか間違った方向であるかではなく、向かった先でそう思われるのであり、例えば実際に向かった先で何か悪いことが起これば、間違った方向へ来てしまったと思われるかも知れないし、逆に良いことが起これば正しい方向へ来たと思われるかも知れないが、向かっている途中ではまだそうは思われないし、途中で不安になってくれば、それが悪い予感かも知れないが、それも実際に悪いことが起こってから、途中で嫌な予感がしていたと思うわけで、そういう意味では人は絶えず結果に惑わされていて、向かっていく先が大して行く気もない方向であるなら、そうなった時に何かに誘導されているのではないかと疑うかも知れず、そう思った際に何か心当たりがあるなら、例えば政治が人々を間違った方向へと導いているとか、自らの意向とは別の方向へと向かっているなら、それが自らの意志に反して向かわされているような気がするのかも知れないが、それが気のせいであれば、自らが意識せずに勝手に向かっている方向があり、その方向で何かのイベントが待ち構えていれば、そうしたイベントを行なう主体に誘導されて来たような気がするわけだが、そこでも自らの意向がどうであれ、そこへ行きたいと思ったから実際にやって来たとも思えなければ、実際にそこで何か嫌なことが起こって不快な思いをした後から、場合によっては被害妄想に囚われて騙されて連れて来られたような気になって、誰かの罠にはまったと思ってしまったり、それが自分のせいではなく、他の誰かの陰謀が巡らされていると決めつけてみたりと、何やら責任逃れのような無責任な態度となってしまうかも知れず、そこで忘れているのは、自らの意向でそこへとやって来たことであり、自分で主体的にそう思い思ってそこへ来たことを忘れているわけだが、それよりは何か得体の知れないものに導かれてそこへやって来たように思っておいた方が、楽な気分でいられるというか、それも責任逃れの一種かも知れないが、自らの意向というのが内発的に生じていることに気づかず、そんな主体性のなさを自覚できずに他の誰かの意向に従いながら受動的に行動しているつもりになれると、その方が謙虚な態度でいられるような気になり、また自己中心的な傲慢さを逃れているつもりになれるかも知れないが、それが罠というわけでもなく、そこで何やら強烈な個性を伴った指導者のようなカリスマ的な人物につき従いたいと思うわけでもなければ、そんな人物に騙されてはいけないと思うような機会がいつやって来るとも限らないが、そんな自らと対立関係を伴う敵を想定できない場合は、やはり自らの意向を最優先に考えるようになるだろうし、そんな意向に沿いながら何をどうしたいのかと言えば、自らの好きなようにやらせもらえるなら言うことなしかも知れないが、果たしてそんな機会がいつやって来るのかと言っても、周囲の人々の意向も尊重しなければならなければ、少なくとも好き勝手なことはできないし、社会の中で生きている限りは、大なり小なり自らが行く先々でまるで障害物のように立ち塞がって来る人や集団に出くわすかも知れないし、そんな中で自らの意向が通らないような事態に遭遇すれば、自らの行動を邪魔されているような気になるし、場合によっては嫌がらせを受けていると思われるかも知れず、実際に何らかの形で攻撃されていれば、否が応でも攻撃して来る人や集団と何らかのやり取りを経験することになるだろうが、そんな時にも自らの意向を意識できるかといえば、否応なく意識するだろうが、それが攻撃して来る相手との関係の中で生じて来ることに気づかなければならず、初めから自らの意向があるとは限らず、相手とのやり取りの中で自らの意向が定まって来るなら、相手との共同作業によって自らの意向が生じて来ることに気づかなければ、それ以前から自らの意向が内発的に生じていたように思われるだろうが、それもそれ以前から意識していたわけではなく、相手が攻撃して来て、それに応対した後から、そんな相手との関係から自らの意向が生じて来ることを感じ取る必要があるわけで、それは自らが先に攻撃する場合でも、何かのきっかけがあってから相手の存在を知って、何やら嫌な奴がいて、そいつの存在がおもしろくないから、ちょっかいを出そうとしてしまうわけだから、攻撃の目標となる相手の中に攻撃しようとする衝動を生じさせる原因があるような気がしてしまうのだろうが、果たしてそうなる以前に自らの意向があったかどうかは、そうなった後からその時に遡って想像されてしまう可能性があって、それがそうなった結果から原因を導き出そうとする限りで、原因よりも結果の方が時間的に先行していることに気づく必要があり、相手を攻撃したり相手から攻撃されたりすることが、攻撃したりされたりした後からその原因を導き出そうとするのであり、それより先に攻撃したりされたりする原因があって、だから相手を攻撃しなければならないと思ったり、だから相手から攻撃されると思ったりすることは確かなのだが、それをどう考えても、まずは相手から攻撃されたり相手を攻撃したという出来事や事件があってから、それに対して自ら攻撃したり相手から攻撃されたりするわけだから、いつもそんなことをやろうとする自らの意向が、出来事や事件の後から構成されてしまうことに気づかないと、自らの意向の内発性を疑うことができなくなってしまうわけで、そうなると何かが起こる前から自らの意志が定まっていたかのような錯覚が生じてしまい、原因と結果を取り違えてしまうわけだ。
3月29日「物事のややこしい部分」
取り立てて何に言及する気にもなれないというのは嘘で、メディアで話題となっていることをあえて無視するようなやり方として、それとは無関係な差し障りがなくたわいないことを取り上げれば、それに関してまともに言及する事態を避けられるわけでもないが、語りたくないのに無理して直接それについてまともに言及してしまうと、そこに絡みついているややこしい要素が抜け落ちてしまい、それでは言説の対象となる物事の本質を見逃してしまうことになるわけではないものの、やはり枝葉末節な部分まで含んでその物事が成り立っているなら、それを単純化してわかりやすく伝えては駄目なのかも知れず、そうではなくあえて誤解を招くような表現を用いないと、それについて言及できないわけでもないのだが、やはりややこしい部分を伝えたいなら、正論とはならないような内容にとどめる必要もないにしても、どうしてもややこしい部分まで取り上げないと伝わらない面があるわけで、だからあえて搦手から物事の本質からずれたことを語りたくなるわけだが、そうなると正論とは言えないようなことを語る羽目になってしまうのだが、それが具体的にどういうことなのかというと、誰もが意識して語りたがらないことをあえて真正面から語ることになれば、その語っている内容が語りたがらない人々から無視されて、そういう人々からは相手にされなくなってしまうから、まずはそれについて語らないふりをしながら、その代わりにそれとは無関係なことを語りながらも、語っている途中から徐々に誰も語りたがらない内容へと近づくような手法を取らざるを得ないというわけでもないが、きっかけをつかめれば機会を捉えて、その前々から知りたかったことを思い切って質問するような成り行きになってしまえば、誰もが薄々は知っているのに触れたがらないことについて直接質問していることになって、まともな返答など返ってこないのは承知の上で問い質しているような成り行きになってしまい、それに対しては当然のこととして返答をはぐらかされて、結果的にまともな問答としては成り立たなくなってしまうのかも知れないが、それを実践しているつもりはないのだろうが、結果的にはそういう成り行きに見えてしまうから、何かそこで気まずい空気が漂ってきて、触れてはならないことに言及してしまったことを察しなければならないだろうが、それに気づいているのかどうかはよくわからないが、気づいていて、しかもあえてそこに触れている可能性もありそうだが、元からそれが触れてはならないことだとはわかっていない可能性もあるわけで、その辺のところは部外者には何とも言えないが、本質的には誰が部外者というわけでもなく、それどころかこの国に住んでいる誰もが当事者であるはずで、しかも当事者であるのに、あえて部外者を装っていた方が無難な場合もあるから、そういうところがややこしいと言えばその通りには違いないのだが、それが真正面から当事者づらができない事情でもあるかも知れず、だから表面上は無関心を装いながらも、それについて直接言及してしまう人を迷惑がって無視しようとして、たぶんそれでも無視し切れずに逆ギレして罵声を浴びせかけるようなことまでやってしまうわけで、それが罵声を浴びせかけている自覚のない人も結構いて、人によってはちゃんとした反論の如き内容を語っているつもりなのだろうが、それが何に対する反論なのかが今ひとつ不明確であり、もちろん意図して不明確を装っておく方が、かえって語っている内容がうやむやになるし、その方が好都合であるから、わざとそうしていると受け取られても構わないようなことでもあって、それを責任逃れと言ってしまうと心外だろうし、むしろそうすることによって、この国に住む者としてちゃんと責任を果たしていると自負したい気になってくるとしたら、心の中で共同幻想の類いを温存していることの証しとなるとも思っていないとしても、結果的にはそうなのかも知れず、こう述べるとまたずいぶんと回りくどい言い回しとなってしまうが、そこで語られている内容が何に触れているのかというと、それを誰もが触れたくないことに触れていると述べてしまうと、具体的にそれが何なのかが示されていないような気もしてきて、なぜかそういうところでは居心地が悪くなってしまうわけだが、この居心地の悪さというのが全てを物語っているわけではなくても、自ずから押し出されてくる何かを感じ取らなければならず、それが何かというと、それがだいぶ前に済んでしまったことでもあり、かなり前に終わってしまったことでもあって、現状ではすでに無効となっているのだろうが、それが無効であることに気づかない人たちが、それについて騒ぎまくっているわけでもないのだが、少なくとも言及したくないことでもあるから、触れたくないことであるのも当然だろうが、語りようによっては陰謀論的な調子で語ることもできるとしても、たぶんそんなふうに語ってしまってはまずいわけで、もっとスマートに語ることができれば誤解を与えることもないはずだが、問い質している当人にそれを求めるわけにもいかないだろうし、それがその人の独特の語り方だとも言えないし、そういう語り方をしてしまう人も他にも結構いるかも知れないし、どこかで聞いたようなことを語っているわけだが、いつまでもそれをそのままにはしておけないから、それを指摘したくてしょうがない人も結構いる中で、それらの代表というわけでもないにしても、その人がそれを指摘することに正当性があるように感じられる限りで、それを真に受けることも可能なのだが、そうだとしてもこれまでにも直接それに触れないようにする慣習が何十年も続いてきたわけだから、今さら唐突にそれに触れられると困惑してしまうはずだが、もちろん表面上はすっとぼけて、何を問われてもはぐらかすばかりの問答となってしまい、議論にもならずに平行線に終始するしかないのだから、そうやって何かがごまかされている現状が今後も続いていく気配も感じられるわけだ。
3月28日「商品の格差と人の格差」
世の中で売っている商品に関して、なぜ人が商品を買うのかというと、まずは必要だから買うというのが当たり前の理由になるだろうが、他に買う理由があるかというと、その商品に魅力があるからという理由に納得できるかというと、それよりは欲しいから買うと言えるだろうし、なぜ欲しいから買うのかというと、そこでもまずは必要だから欲しいわけだろうが、それほど必要でもないのに買いたいと思うなら、やはりその商品に魅力を感じるから買いたくなると言えるだろうが、ではなぜその商品に魅力を感じるのかというと、こういう言い方だと否定する人もいるかも知れないが、他の多くの人々も欲しがるような商品に魅力を感じることがあるわけで、社会の中で生きていると、人気が出る商品というものに出くわすだろうし、それが売れているからヒット商品になるのだろうが、その商品を多くの人が欲しがるから売れるし、実際にヒット商品となるわけだが、中にはたとえ多くの人が欲しがっても、金持ちでないと買えない高価な商品もあるだろうし、貧乏人には値段が高すぎて買えなくても欲しいと感じる商品があり、やはりそうなると、なぜ欲しいと感じるのかといえば、その商品に魅力を感じるから欲しがるのだろうが、同じ用途で使う商品なのに、値段が安いものと高いものがあるなら、そこに格差が生じて、そこから安い商品しか買えない人と高い商品も買える人とで格差が生じるのだろうが、そうだとすれば、世の中でなぜ人と人の間に格差が生じているのかと言えば、高い商品を買えるかどうかで格差が生じていると言えるだろうが、それが経済格差ならそう言えそうだが、それ以外にどんな格差があるかと言えば、例えば男女間で生じる格差と言っても、やはり賃金格差という面で経済格差に含まれるだろうし、それ以外で住んでいる地域の利便性などで格差が生じることもありそうだが、たいがいは格差と言えば経済格差に関連した格差になるだろうし、世の中で問題となっているのも経済的な貧富の格差が主な格差になるだろうが、そうなると人がなぜ格差を意識するのかというと、それが商品の価格が高い商品と安い商品とがあり、高い商品を買える人と買えない人との間で格差が生じているとは、普段はそんなことまで思い当たらないし、ほとんどの人は商品を買えるか買えないかで格差が生じているなんて思いもしないかも知れないが、なぜ高い商品に魅力を感じるのかと言えば、その場では誰もが買えるわけではないから魅力を感じるとは思わないだろうが、実際に買える人と買えない人が出てくる時点で、誰もが買えるわけではないという希少価値に魅力を感じているわけで、ただ単にその商品に魅力を感じるか感じないかという基準で判断するなら、必ずしもそうではないはずで、実際に誰でも買える安い商品にも魅力を感じるはずだが、同じ用途で使う複数の商品に価格の安い高いで値幅があれば、しかもその値幅が大きいほど、高い商品により魅力を感じる可能性があり、そうなると価格が安いか高いかで感覚が惑わされていることになるだろうが、惑わされているかどうかは、高価なものほど良いという先入観を信用できるかどうかにもよるだろうし、詐欺でなければ、良いものほど高価だという認識は概ね正しいわけで、そうでないと価格自体を正当化できないわけだが、それが機械であれば価格の高さがそのまま性能の高さに直結する場合が多く、そうであれば納得できるだろうし、単に入手困難で希少なものほど高価であっても納得できるが、それ以外に判断材料があるかというと、やはり魅力を感じるという数値で表されないあやふやな表現が加わってくると、人それぞれで感じ方も違ってくるから、それほど格差も感じられなくなるのかも知れないが、その魅力が単に価格が高いか安いかによって、高いほど魅力を感じるなら、そこから格差を意識せざるを得ず、本当に格差がそのまま価格差に反映されているとしても、その商品の魅力にも直結しているとは思えないにしても、気づかないところで格差を意識してしまうとすれば、それが資本主義経済からもたらされた先入観であり、実際にそんな経済環境の中ではほとんどの人がそう思わされてしまうのかも知れず、それが資本主義の力なのだと言えばその通りなのかも知れないが、そうだとすれば資本主義経済が人と人の間に格差をもたらすという当たり前の現実が導き出されると共に、では格差をなくすにはどうすればいいのかというと、資本主義経済でなくなればいいと単純に言えるわけでもなく、少なくとも現状で資本主義経済をなくせないし、なくならないから現に資本主義経済であり続けているわけだが、その一方で格差社会では駄目だと思っている人も多いだろうし、できるだけ格差をなくすような努力をしなければならないと主張する人も多そうだが、そういう方面ではそれとは別の格差をなくすような努力も行われていて、例えば格差ではなく差別をなくさなければならないという主張もよく耳にするだろうし、具体的にLGBTQへの差別をなくすような努力も行われているし、格差と差別がどう違うのかと言えば、格差はある程度は正当化できるものの、差別となると不当な差別である場合が多く、より否定的な意味合いを伴うのが差別だと言えるが、資本主義経済の中では必要悪として貧富の格差がつきものではあるものの、まずは格差よりも不当な差別をなくすような努力が行われる過程の中で、果たして貧富の格差が正当なものだと言えるかというと、誰も正当だとは言わないものの不当だとも言えないような微妙な格差なのかも知れず、政治的な課題としては貧富の格差をなくす方向で努力がなされるだろうが、その一方で資本主義経済の中では、絶えず商品の間で高いか安いかの値幅が生じて、高い商品を買えるか否かで、人と人の間で経済格差が生じてくる現実があるわけだ。
3月27日「架空の出来事」
大して気にならない水準で述べていることが、なぜか大げさに受け取られると、それが思いがけない結果を招くかも知れないが、果たして個々の人々が抱いている情念が何に反映するのかというと、世の中の情勢に反映すると思いたいのだろうが、誰がそう思いたいわけでもなく、何となくそう思いたい人がいるような気がするだけで、実際にはそうはならず、個人がいくら大げさな妄想を抱いても、それがその人の情念となって心の中でいくら増幅されても、その人が何か事件を起こさないと、そしてその事件がメディアでセンセーショナルに取り上げられて社会に衝撃を与えないと、それが世の中の情勢に影響を及ぼすこともないと思いたいが、成り行きとしては逆で、世の中の情勢から影響を受けて、個人が大げさな妄想を抱いて、そんな妄想を抱いている人々の中から、大それた事件を起こす人が現れると思いたいところだが、そうなるにしても事件を起こすきっかけがほしいわけで、もちろん意識してきっかけを求めているわけでもなく、何かのきっかけから暴発する人が出てくるのかも知れず、そのきっかけが個人的な事情や経緯になるのだとしても、それが事件に発展するような事情や経緯ではなければ、怒りが暴発するようなこともないだろうし、心の中で一時的に情念が増幅されても、何も起こさないうちに、時の経過と共に静まってしまう場合もあるだろうが、意識して怒りを覚えるのではなく、大して意識しなくても静かに降り積もるようにして、だんだん怒りの強さが増してくる場合もあるだろうから、何に怒っているのかその対象があれば意識できるが、ただ漠然と怒りの持って行き場のない場合は、突然何かの拍子に怒りが爆発してしまう場合もあるかも知れず、そういう場合はいったい何に対して怒っているのかもわからず、むしゃくしゃして気が収まらず、そんな時に怒りをぶつける対象がタイミング良く現れると、待ってましたとばかりに突然怒り出したら、怒りをぶつけられた人にはわけがわからないだろうし、なぜ怒っているのか理解できずに困惑するかも知れないが、その程度のことで済むなら他に何がどうなるわけでもなく、何も起こらないうちにすでに怒りが発散して治まってしまうわけで、そうではなく、それが怒りとしては現れないような成り行きがあるとしたら、では何なのかというと、たぶん何でもないわけで、表面上は何も意識できず、何事も起こらないような状況が続いていくだけだが、目立ったことは何も起こらないから、それを意識できず、それが本当に何でもないことなら、取り立てて何が問題となることもないわけだが、それが水面下では徐々に進行していて、その水面下という表現が何を意味しているとも思えないわけだが、人々の意識の中で怒りには結びつかないような心の動きがあるというと、具体的にそれが何かと問われても答えようがないだろうが、それでも何やら進行中であるらしく、それが世の中の情勢に反映しているように思われて、たぶん後になって何かしら顕在化してくるかも知れないが、もうすでに統計的な数字には顕れないところで起こっていることかも知れず、それに関してどう表現すればわかりやすいかというと、腐食とか錆とかいう現象が当てはまるのかも知れないが、目に見えているわけでもないから、そうとも言い切れないような現象であるかも知れないし、何かしら社会の中で人目についていても、それを見たところで何とも感じなければ、言葉として表現されず、今のところは言語表現には結びつかないような現象なのかも知れないが、逆に気づかれてしまうとまずいようなことかも知れず、今のところはほとんどの人が気づいていないから、水面下で進行中なのであり、それが何の水面下なのかもわからないし、目下のところは架空の出来事だと思っておけばいいようなことでしかないのかも知れないが、実際に何も起こっていないわけだから、誰も気づかなくて当然なのだろうが、このまま気づかないうちに手遅れになってしまい、結果的に取り返しのつかない事態となってしまえば、そんな出来事を起こしている人がいるとしたら、まさにしてやったりなのだろうが、意識して誰がそんなことを起こしているわけでもないから、誰もしてやったりだとも思っていないだろうし、実際にしてやったりな出来事など何も起こっていないわけで、そういう意味では確かに現時点では架空の出来事には違いないのだが、誰も積極的には何もやらず、何も起こさないわけではなく、実際には積極的に何かを起こしている人たちもいて、それらの人たちが起こしていることに多くの人々が目を奪われているうちに、何もやらず何も起こさないことがじわじわと効いてくるとしたら、それが何なのかと言えば、誰が不気味な静けさを求めているわけでもないが、静かに徐々に地殻変動を起こしているつもりもないのに、結果的には起こっているわけで、その地殻変動と表現できるようなことが何かといっても、それが顕在化してみないことには誰にもわからないようなことかも知れず、もしかしたら顕在化するわけでもなく、本当に何も起こらないままとなってしまうのかも知れないし、それならそれで何の問題もないと思うかも知れないが、たぶん何の問題もないことが後々になって問題となってくるわけで、逆にここでは誰もがはっきりと意識できるような問題が起こらないと、そのままとなってしまうのかも知れないから、そうなると手遅れとなって取り返しのつかない事態となってしまうのだとしても、そうなったところで手遅れだとは意識できないし、それが取り返しのつかない事態だとも思われなければ、やはり何でもないようなことであり、何かそこで出来事が起こっていたなんて誰も思わずに済んでしまうような情勢であるから、今もそんな情勢の中で多くの人々がそれとは全く関係のないことに心を奪われていて、それが一部の人々の怒りを呼ぶような腹の立つ出来事でもあるわけだ。
3月26日「ナショナリズムをどう捉えるか」
たぶんそれについてはっきりとは理解していなかったには違いないわけだが、わかっているようでいてわかっていないこともあり、ナショナリズムを単純に国家主義と捉えても構わないかというと、どうもそうではないような気がすると共に、果たしてナショナリズムが国家に直結するのかというと、国家のない民族というのもあるだろうから、少なくとも国家主義と民族主義は微妙にずれてきて、どちらもナショナリズムに含まれるかというと、単純化するならそう言えてしまうし、両者を合体させて国家主義に統合してしまう考え方もあるだろうから、そういうところが多民族国家では通用しなくなるとしても、例えばある面ではナショナリストの代表格である山本太郎が、日本政府が日本国民を犠牲して国の内外の大企業を儲けさせていると主張するなら、そういう面でのナショナリズムとなると、国家主義ではなく国民主義となるだろうが、果たして現状の日本政府を構成する政権政党の政治家たちがナショナリストに値するかというと、国民を犠牲にして大企業を儲けさせているなら、ナショナリストにはあらずと言えそうだが、ではナショナリストではないとすると彼らのことを何と呼ぶかいうと、グローバリストという呼び方を用いて批判することになるのだろうが、果たしてナショナリズムとグローバリズムが対立する概念になるかというと、もちろんそういう構図を用いて成り立つ主張がある一方で、どちらも悪い意味で使いたい思惑があり、しかもそれらと対立する概念として民主主義などを持ってくると、ナショナリズムやグローバリズムを否定してデモクラシーを擁護するという何かウルトラCのような論理になってしまうが、一方にグローバル経済としての世界経済があり、もう一方に政府が行政権力を及ぼす範囲として個々の国があり、個々の国は世界経済に浸されていて、経済に国境があるわけではないが、ナショナリズムというと国家単位で民衆が幻想の共同体を形成しているように感じられて、それがグローバリズムに侵食されることに抵抗するための基盤と捉えると、ナショナリズムとグローバリズムとが互いに相容れない対立する概念として浮かび上がってくるわけだが、すでに世界各国はグローバル経済に浸されているわけだから、対立するも何もなく、否応なく侵食されているのだから、鎖国して拒否できるわけでもないわけだが、ナショナリストとしては政府がグローバル経済の脅威から国民の暮らしを守ってほしいわけで、もちろん経済の脅威だけなく、外国の軍事的な脅威からも国民を守ってほしいわけだが、それが国民を守るという言い方ではなく、国を守るという言い方になると、国家主義的な物言いとなり、国を守るために国民に犠牲を強いるような論理も生じてきて、そうなると民主主義の理念からも逸脱してきて、場合によっては強権的な独裁体制を容認するような主張となってくるわけだが、国というのが民衆を収容するための中身のない空っぽの容器であるはずがなく、何らかの肯定できる共同幻想をもたらせるような理念が必要となってくると、安易に文化や伝統やそれに付随する民族や宗教などが伴ってくるように思われるわけだが、少なくともそれが政府の行政権力に関係する物事になるかというと、直接には関係はなく、それよりは直接政治に関わるような物事になってくると、民主主義そのものとなり、政府が民衆の自由な活動を保障してほしいとか、何から自由になりたいかというと、家族や地縁血縁などの社会的な束縛やしがらみから自由になりたいだろうし、また自由に活動するには人としてまともに生きていけるだけの状態をもたらしてほしいだろうから、そういうことをやるのが政府の役割となれば、民主主義の理念に合致するわけだが、実態としてはそうではないとなると、では政府が存在する意義は何なのかということになるが、必ずしも答えがすぐに出てくるようなことにはならないと、それが特定の主義主張が求めるような存在ではなく、歴史的な経緯や成り行きが政府という存在をもたらしたと言えなくもなく、これといって誰もが納得できるような存在とはならないなら、存在する意義や意味も一義的には定まらないのだろうが、少なくともナショナリズムやグローバリズムが求めるような存在ではなく、それらの主義主張が求める意味や意義を満たすような存在へと政府を変えて行かなければ都合が悪いなら、そういう要請に従って政府を変えようとする作用も生じてくるのだろうが、それよりは自明の理として、それらの主義主張が求める以前に政府が存在していて、逆に政府が存在しているから、それに合わせて政府の存在を肯定できるような主義主張が生じてくるのであり、その中でも政府にとって都合の悪い主張というのも、民衆の側から出てくるから、そういう主張をする人々を場合によっては弾圧しなければならない理由も生じてくるだろうし、そういう意味では政府にとって都合の良い主張をしてくれる民衆の存在が必要となってくるわけで、それが民衆の利益よりも、国家の利益を優先させる主張となってくると、いわゆる国家主義的な主張となるわけで、そうなると民衆の利益と国家の利益が必ずしも一致するわけではないことも明らかとなってくるわけだが、政府にとって都合の良い主張というのが、民衆にとって都合の悪い主張となるかというと、そういう条件が満たされるなら、少なくともそれは民主主義に反する主張となるだろうから、それが民衆にとっては都合の悪い主張となるはずだが、民衆の方がそういう主張に対して鈍感であると、そこから政府のいいように事態が推移し始めて、民衆にとっては苦難の歴史がもたらされてしまうのだろうが、現状がどうかというと、民衆の側についているナショナリストが政府のやり方を批判しているとすれば、そんな傾向になっている可能性があるわけで、そういう意味ではナショナリストが民衆の側についているか、あるいは政府の側についているかで、現状がどうなっているかがわかるかもしれない。
3月25日「嘘で塗り固められた現実」
何か違っているような気がするのは今に始まったことではなく、相変わらず何が違っているのかがわかるわけでもないのに、ただ勘違い気味に違っているように思われるだけで、本当は何も違っておらず、ありのままの現実があるだけだと思っておいた方が無難なのかも知れないが、その現実というのが、ある方面では嘘で塗り固められた偽りの現実であるから、そんな現実など全く信用できないわけだが、それが誰も信じていない嘘の現実であるのも誰もが承知していることであり、嘘がばればれなのに、そのばればれな嘘をついている人を支持している人たちがいるから、そんな嘘がまかり通っている世の中がおかしいのではないかと思う人も大勢いるはずだが、なぜかそういう人たちの思いが世の中の大勢を占めてはいないような気がするから、そんな気がすること自体も嘘なのではないかと思う人も大勢いるはずだが、それが違っているのかも知れず、たぶんばればれの嘘をついている人を大勢の人たちが支持ているわけでもないとしても、その大勢という程度がどの程度なのかも微妙なところだが、その一方でそんなことなどどうでもいいと思っている人も大勢いて、それが嘘をついている人をのさばらせている原因とまでは言えないものの、実際にばればれな嘘をついている人とその支持者たちがのさばっているわけだから、それが紛れもない現実だと受け止めなければならないし、そんな現状が受け入れ難いなら、そんな現実を変えなければならないと思っている人も大勢いるはずだが、現状では変わる兆しがないどころか、ますますひどい状況になりつつあると思っている人も大勢いるはずだが、それもそう思っている人が大勢いるどころか、その大勢という程度がそれほどでもないとすれば、そこが違っているわけで、何かその辺で勘違いが生じていて、誰もそうは思っていないのに、そう思っていると思い込んでいる人が大勢いると思っている人も大勢いると思っているなら、ますます勘違いの程度が増してしまうわけだが、それが嘘というよりは勘違いであるところが、そんな勘違いをするように仕向けられているとすれば、何によってそう仕向けられているのかといえば、それがメディア的な錯覚なのかも知れず、一部のSNSではそんな人が大勢いるように装われているとしても、それがSNSの機能に惑わされてそう思い込んでしまうから、自分の他にも大勢の人がそう思っていると思い込んでしまうわけで、実際にはそう思っている人の数がそれほどでもなければ、それ自体がおかしなことでも何でもなく、一部のその種の傾向に凝り固まった人の方がおかしいのであり、そうであるなら世の中がおかしいのではなく、世の中がおかしいと思っている人の方がおかしいことになり、ではおかしいとは思っていない人はおかしくないのかというと、そういう面ではおかしくはないとしても、それとは別の面ではおかしい面もあるかも知れないが、少なくとも大勢の人が同じ傾向のおかしさに凝り固まっているわけではなく、おかしい人も中にはいるにしても、そのおかしさが同じ傾向ではないから、世の中がおかしいというのも同じ傾向でおかしいわけではなく、それとは違う方面でおかしいところもあるとしても、同じ傾向のおかしい人が大勢いるわけではなく、他人とはちょっとずつおかしい人が少しずついるから、それらが寄り集まって一つのおかしさに結集するわけではなく、どちらかと言えばばらばらに分散していると見た方がしっくりくるのかも知れず、そういう意味では世の中がおかしいことは確かなのだとしても、それが大勢の人が思うようなおかしさとは違って、それよりは全体から見ればごくわずかの人がちょっとずつおかしいものだから、そのおかしさが全体へは波及せずに、おかしさのことごとくがマイノリティを形成しているから、それが世の中の全体を覆うようなおかしさにはなり難いと思っておいた方が無難であって、その種のおかしさに多くの人が同調できずに、おかしさの共有が起こらず、絶えず少数の人々の間でおかしさが共有されるにとどまるかことによって、そう思い込んでいる人が大勢いるという思いが裏切られて、何か違和感が伴うわけで、そんな違和感が伴うから世の中がおかしいのではないかという勘違いを抱いてしまうと考えるなら、何かしっくりくるような気がしてしまうのだが、それもそんな気がしてしまう限りで、大勢の人が勘違いしているわけではなく、ごく一部の少数の人が勘違いしているかも知れないが、その勘違いが大勢の人の間で共有されることもなく、一部の少数の人々の間でその種の勘違いも共有されていると思っておくのが無難なのかも知れず、それも正しい認識というわけではなく、そう考えておけばそれほど勘違いとはならない程度のことであって、正しい認識と言えるような認識など元からないと思っておいた方がよく、誰もが納得するようなことではなく、それも自分一人が納得できるようなことでしかないとするなら、大勢の人が納得できるようなことでもないと思っておいた方が無難なのであって、そこから類推して何か正しい認識に至れるわけでもないから、逆に大勢の人がそう思っているのではないかと類推してしまうこと自体が勘違いを生み出すと思っておいた方が無難なのかも知れない、と思っておけば、何やら他の大勢の人々から共感を得られることを期待してしまうわけだが、もちろんそれも勘違いなのであって、誰からも共感を得られなくても構わないようなことでしかないと思っておいた方が無難なのかも知れないから、少なくとも大勢の人がそう思っているわけではないと思っておくべきなのかも知れない。
3月24日「理屈では済まないこと」
理屈と論理とでどう違うのかといっても、どちらも同じような意味になるだろうが、筋の通った論理が理屈になる反面で、無理にこじつけた論理も理屈には違いないから、そんな否定的な意味での屁理屈ではない論理となると、筋の通った論理になるはずだが、いくら論理に頼って何かもっともらしいことを主張してみても、それが世の中の実態を無視した論理になると、屁理屈になってしまうだろうから、それでは筋の通らない屁理屈になってしまうわけだが、具体的にどんな理屈を持ち出すかで、筋の通った論理になるか、あるいは筋の通らない屁理屈になるかの違いが生じてくるだろうが、必ずしも屁理屈だとは言えない論理も、その場の状況次第で否定的な意味での理屈になる可能性もありそうで、それに関して現状で何を優先すべきかということが、果たして他の何よりも優先すべきことがあるのかどうか疑念を覚えるようなら、他よりも優先すべき物事があることに関して、何らかの理屈を持ち出してくる主張に関しては、何か信用できない主張だと感じられてしまい、それに関してもっともらしいことは主張できるのだが、世の中の情勢に照らし合わせてみると、それが屁理屈だとは言えないまでも、実効性は低いような感じがしてしまうわけだが、どうもそういう方面ではあまり論理的に物事を考えるべきではないような気がして、そんな気がするだけなら、論理を無視したいい加減な言い草になるから、理屈なしにそんな気がするだけで、それこそが信用できない主張になってしまうが、たとえ信用できない疑わしい主張であっても、なぜかそれが考慮すべき内容だと思うなら、その根拠が何かといっても、その内容が何なのかについてちゃんとした説明が伴わないと判断しようがないが、あえて判断材料など何も示さずに、全く信用に値しない怪しい主張を続けるなら、現状で何を優先すべきとも思えないから、政治を優先すべきでも経済を優先すべきでもない代わりに、他に何があるのかを提示したくなってしまい、それが倫理になってしまうと、そんなものを優先させても何の利益にもならないような気がするわけで、もちろん倫理を優先したいわけでもなく、ただ優先させなくても構わないから、理屈でも論理でもなく倫理を持ち出したくなってしまうわけで、時として倫理には功利的な判断に反するような判断が伴ってきて、論理的にもどう考えても間違っていると思うようなことでも、倫理的に通用するならそれを優先させれば、それが何となくもっともらしく思われるにしても、別に倫理を優先させる必要はなく、それよりは論理的な筋道を優先させた方が良さそうに思える時に、そのついでに倫理的な振る舞いになるように装いたいといっても、そう見えるだけではなく、実際に倫理的に振る舞って損な役回りを引き受けるようなことになれば、そこから信用が生じてきそうなものだが、確かに利益を優先させたい人には信用されないだろうが、逆に利益を優先させようとすると利己的に振る舞うから、利害の合わない人には信用されないだろうし、また全ての人から信用を得ることを優先させるのではなく、たとえ信用されなくても構わないから、信用されないことによって損な役回りになってしまうとしても、それで倫理的な姿勢や態度を保てるなら、それでも構わないが、では何かそれがこだわるべきことなのかというとそうでもなく、場合によっては他の何かを優先させても構わないが、なぜかそうした優先事項がある中でも倫理的に振る舞いたいわけで、それによって優先事項がうまくいかなくなっても、場合によっては構わないような気がしてしまうから、そうなると論理でも理屈でもないような感じになってきて、なぜ倫理的に振る舞うことによって、優先させていることがうまくいかなくなることを受け入れられるのかといっても、やはり理屈ではなく、では何なのかというと、人としての在りようがそうなってしまうのであって、時としてそれが非情な選択が伴ってしまうとしても、それでは人の道に反するとしても、なぜか倫理的に振る舞ってしまうなら、それでは道徳ではなくなるから、倫理自体からも逸脱してくるような気もしてくるだろうが、倫理的に振る舞うというのはそうなる可能性も受け入れなければならず、それが一般的な道徳にも反するから倫理ではないような気がするとしても、倫理的に振る舞うと結果的にそうなってしまい、その辺がわかりづらいところかも知れないが、そういうところで道徳とは袂を分かって、道徳に反するような振る舞いに及んでしまうとすれば、誰からも信用されなくなってしまうかも知れないが、倫理的に振る舞うとはそういうことであって、時として人から理解されないような行為や言動にも及んでしまうのだろうが、倫理的にはそれ構わないし、何よりもそういう行為や言動を優先させる必要はなく、他の何かを優先させているのに、その中で倫理的な振る舞いが出てしまって、その優先させていることがうまくいかなくなってしまうのだが、倫理的にはそれで構わないのだから、そこで優先していることに失敗しているわけで、失敗することに成功するような逆説が生じてくるのだろうが、それでうまくいくとは思えないのは当然のことだとしても、うまくいかないなりのことができれば、それが倫理的な振る舞いだと思われるわけでもなく、ただ単にやっていることに失敗しているだけで、それ以外の何ものでもないのだろうが、そこで倫理的に振る舞おうとしてしまうから失敗してしまうわけで、それをどう考えても否定的に受け取るしかないだろうが、倫理的な振る舞いとはそういうケースで露わになってくるのであり、それが物事を論理的に考える人にも功利的に考えるにも理解されなくて当然なのだが、倫理的な面ではそれで構わないようなことであり、やっていることがうまくいかないように配慮しているわけでもないとしても、結果的には倫理的に振る舞おうとしたからうまくいかなくなってしまい、それが損な役回りを引き受けているように見えるわけだ。
3月23日「知りたいことが得られない回答」
いつも何か肝心なことを忘れているような気がして、それを必死になって思い出そうとしているわけでもないが、例えば現時点で何がわかっていないのかというと、たぶん知りたいのはそんなことではなく、いったい何を知りたいのかと言えば、自分が知りたくないことが何なのかが知りたいというわけでもないはずだが、その反対に誰もが知っていることを自らも知っていることを確認して、安心したいと思っているわけでもないのに、世論調査の設問項目のような内容に答えたいとも思わないし、無理して答えるつもりもないのに、そんなことが問われていること自体が腹立たしく感じられるなら、やはり世論調査の類いとは無縁でありたいと思っているわけでもないのに、その種の問いに抵抗感を覚えるのかも知れず、抵抗感を覚える理由がわからないことが謎なのかも知れないが、以前はそれを知っていたような気がして、昔は何か理由があって抵抗感を覚えていたはずだが、たぶんその理由を忘れてしまっているのに、その種の問いに対する抵抗感だけは今でも残っているのが、自分でもよくわからないが、思い出してみれば大した理由でもないのだろうが、思い出せそうで思い出せないところが焦ったいのかも知れず、焦ったいついでに、その種の問いを投げかけているのが部分的な制度の問題ではないような気もして、制度よりも根本的なところで何を問わなければならないのかを知りたいわけでもないのだが、そうかといって制度的な問いのことごとくに拒否反応を示していては、ではどんな問いなら答えてくれるのかと言えば、その時々の気分次第で適当に答えてしまうかも知れず、そういうところではいい加減な態度に終始してしまうのかも知れないが、少なくとも大げさな問いにならないような配慮が必要なのかも知れないし、たわいない問いでも構わないから答えられる範囲内で答えられるようになりたいわけではなくても、知りたいのはどんな問いなら答えられるのかという問いに含まれていて、実際に問われている内容が何なのかも知りたいはずだが、その問いを今も思い出そうとしているわけだが、一向に思い出せない代わりに、それとは別の問いに反応しているわけでもないが、それが問いなのではなく、どちらかといえば問われていないことであり、問われていないことには答えようがないが、答えなくても構わないのは言うまでもなく、答えようがない問いなど意味がないだろうし、答えようがないのだから問いではないのかも知れないが、何を問われているのでもないのに答えようがないわけではなく、それが問いではないのだから答えられなくて当然だが、問いではないとすると何なのかと言えば、問われていないことであり、何も問われていないのではなく、答えなくても構わないことが問われていて、なぜかそれを律儀に答えようとしてしまうから無理になってしまうのであり、答えなくても構わないことを問おうとしているのだから、何を問われているわけでもないと思えばいいのだとしても、つい親切心から答えようとして、答えに窮してどうなってしまうのかと言えば、問われているのとは違う回答が用意されてしまうからおかしなことになって、それでは問いに答えているわけではないことになって、では何なのかというと、ただ答えになっていないのであり、問われていないことが回答として得られるから、おかしいと思われてしまうのだろうが、考えてみるまでもなくおかしいのが当然と言えば当然だが、そもそもの問いが何だったのかが謎であるわけでもなく、満足のいく回答が期待されていたのかというと、逆に答えに窮することが期待されていたのであり、答えに窮するような問いをいかに用意できるかが問われていて、答えようがない問いを投げかけて相手を困らせようとしていたわけだが、まともに答えてくれる相手など元から想定していないのかも知れず、答えられない問いを用意することが求められているのだとすれば、そんな問いに律儀に答える必要があるとも思えず、回答を拒否しておけば事足りるなら、そもそもそんな問いなど不要なはずだが、それが必要とされるのだから、だいぶ事態がこじれていて、もっと何か簡単に答えられるような問いを用意してくれるなら、面倒なことにはならないのだろうが、それが問う側からすればできない相談であって、相手を困らせるような問いを用意しないと、問う意味がないと受け取られているわけで、そうなると確かにまともな回答など得られなくて当然なのだろうし、まともな回答が得られることが期待されているわけではなく、むしろ答えに窮して困ってしまう事態が期待されているわけだから、そんな問いには答えようがなくても仕方がないのであり、それを無理に答えようとすれば、問いには直接答えていない回答を用意するしかなく、回答になっていないわけだが、回答する側からすればそれでも構わないようなことであり、素直に答えられない問いを投げかける方に問題があるわけだが、では素直に答えられる問いを投げかけてほしいのかと言えば、回答する側からすればその方が都合が良いだろうが、問う側からすればそれではまずいわけで、そんなことを問いたいわけではなく、回答に窮するような問いを問いたいわけで、回答に窮するような事態に相手を追い込みたいのだろうが、それが知りたいことが得られない回答となってしまっても構わないのだろうし、そうやって回答にならないような回答を引き出して、回答している側に非があることになれば、問いを投げかけた側の狙い通りの回答が得られたことになるとは思っていないにしても、実際にそうなってしまえば、してやったりな結果を得られたことになるのではないか。
3月22日「自分のあずかり知らない事情」
自身の言動が自らの知り得ないところでおかしな具合になっているとしたら、早くそれに気づいて何とかしたいところだが、その一方で知らぬが仏ということわざもあるから、全てを知り得ないことが案外自分を助けている面もあると理解しておいた方が都合が良い場合もありそうで、できれば全てを知りたいところだが、それが叶わないのはわかりきったことだと割り切れるなら、知っている範囲内で自らに関わりのあることを考慮する以外はやりようがないし、自らの知り得ないところで自身が勝手に判断しながら行動している面は理解できないとしても、行動した結果から良し悪しを判断できるし、後からそれを判断するわけだから、たとえ都合の悪いことをやってしまったとしても、それが取り返しのつかないことであっても、そんな結果を受け入れざるを得ないし、行いに比べて言うだけなら少しは言葉を選んでしゃべっていることを自覚できるかも知れず、さらには言うのではなく言葉を記すとなると、言うよりは強く意識して文章を構成しようとするだろうし、しかも記述と同時にそれを読み返しながら言葉を記すことになるから、より一層言葉を記していることを強く意識するはずで、そうであるなら自らが記述した内容を自らが理解できないなんて普通はあり得ないことだとしても、後から自らが記した文章を読んでみると、記した当時とはかなり違った状況の中に身を置いているなら、なぜそんなことを記したのか、そこからだいぶ歳月が経過した後となっては、理解し難い内容となっていることもあるかも知れず、そんなことまでいちいち考慮に入れて、自らが記した文章の良し悪しを判断する必要も感じられないし、その場その時の気分次第で勝手なことを書き記していたと思っておけば良いようなことであるなら、特に問題とはならないにしても、記した後からそれなりに都合の悪い事情が出てきたとしても、それもそういうことだと割り切って対処できれば、何とかなりそうなものかも知れないが、自分とは無関係なところで勝手に事態が進展して行ってしまい、それを自らのあずかり知らない経緯と相互作用を起こして、自身の把握している脈絡とは全く違った事情が生じてしまえば、そんなことまでいちいち考慮できないだろうから、それ以上は面倒を見きれないとさじを投げておけば済むようなことになるかも知れず、そうなれば自身の言動とは全く関係のないところで事態が推移していることになるだろうが、そこまで行かないまでも、自らの言動から逃げ切ることができるわけでもないが、そこから外れてくるような成り行きが生じてきたらしめたものなのかも知れないから、そうやって自身の過去の行動や言動に縛られずに済むようなら、その分だけ自由になれたことになり、そういった自分でも理解不能な成り行きが自らを助けることになる可能性を理解していれば、積極的に自らの過去には関わりなく無責任に振る舞えるかも知れず、もちろんうやむやにはできないものの、煙に巻くぐらい効果は得られるかも知れないから、それもごまかしの一種には違いないが、そんな成り行きが自らを自らとは関係のない方面へと押し出してくれるなら、それに乗らない手はなく、そうなるとそこで事態がこんがらがっていることは確かなのだが、誰にも事態を完全に把握できるわけでもないから、誰もがそんな事態に関わっているわけでもないのを利用しながら、その隙を突いて行動する以外にはあり得ないわけで、それが自分でも理解できない言動を自ら生じさせることにでもなれば、何か自業自得なのは承知でその場を混乱させているわけで、そんな事態をその場に居合わせた誰も想定していないから、もちろん事前に想定できないような事態になれば、混乱の収拾がつかないうちにその場から離れられる余地も生じてきて、何やらそれが思い通りとか狙い通りの成り行きではないにしても、逃げ果せた後から出来事を筋道立てて振り返ってみれば、意外と冷静にその場の事態を把握して対処していて、結構的確なことがやれている感じになっているから、無意識の勘が働いていたと思うしかなく、起こっていることの全てが自分に有利に働いていたわけでもないにしても、その中のいくつかを掴んでそれを足場にして、そこから脱出することができたと考えるしかないだろうから、果たしてそれで窮地を脱したと考えるかどうかは誰にもわからないことかも知れないが、実際にその後も自分が生き延びているようなら、運にも天にも見放されてはいなかったと、勝手に都合の良いように受け取るしかないだろうし、そんな経験を誰もができるわけでもないと思うなら、自らの強運に感謝すべきかも知れないが、一生のうちで何度も経験するようなことでもないのかも知れず、それを一度でも経験すれば、何も功を焦って今こそがその時だと思い込む必要もなく、さらに待つ姿勢を維持する余裕も出てくるなら、少しはその時の経験が自らを助けていることを自覚できるかも知れないし、たとえそれが自覚できなくても無意識が作用して、ここは拙速に事を進めるべきでないことを自身の意識に言い聞かせるのではなく、直接身体に歯止めをかけるように作用して、そこで深みにはまり込むのを回避するような動作が生じて、結果的に危機を脱するような成り行きへと自らを誘導してくれるようなら願ったり叶ったりだが、そんな虫のいい話などそうはないだろうから、何やら都合良く事が運び過ぎて気持ち悪くなって、これは何かの罠なのではないかと余計な勘ぐりまで生じてくるようなら、まだまだ危機が去っていないことを勘が知らせていると思っておけば、そんな勘違いも味方につけられるわけでもないが、それ以外に自らの把握できない方面から気がつかない作用を及ぼされていることを知り得ないのは仕方のないことだから、なぜかすでにそれを知ったところで杞憂に終わるような成り行きになっているわけだ。
3月21日「政治と経済の結びつき」
人は社会の中で物や情報やサービスの売買や貸借などの経済活動をしないと生きてはいけないが、人が生きていく上で政治が必要かというと、それなしで済ませているつもりの人も結構いるかも知れず、実際に政治には無関心を装っている人もいくらでもいて、公の政治には関わりたくない人もいるだろうが、国を統治する公の機関である政府がある限りは、政治を避けては通れないし、政府や政権政党に関わっている人としてはそれらを支持してくれる人は必要だが、支持せずに政府や政権政党を批判したり、それらと敵対する人や勢力は必要ないと思うかも知れないが、政府や政権政党が間違ったことをやっているなら、当然のことながら間違ったことはやめさせようとするだろうし、そうなる過程で否応なく政治に関わってしまう人も出てくるだろうから、そうなると生きていくには否応なく経済活動に関わらざるを得ないのと同様ではないにしても、否応なく政治活動に関わらざるを得ない人も出てくるわけだが、果たして政治と経済がどのように結びついてくるのかというと、経済活動が制度化する過程で政治が絡んできて、政治が経済活動に規制を加えたり、経済活動を促進させようとしたり、経済そのものをコントロールしようとする際に、法的な縛りをかけて、経済を管理しようとするだろうが、経済の全てを管理しようとすると社会主義になってしまうし、逆に全く管理せずに自由に任せてしまうと自由主義になるが、どこまで経済を管理するかで、政府の行政としての質が問われてくるが、政府が企業を助けようとする場合と企業に規制をかけようとする場合とで、政府の企業に対する立場が変わってきて、日本の場合は政府や政権政党を批判する人たちがよく口にする主張として、政府や政権政党が大企業の味方である一方で、中小企業や零細企業や国民の味方ではないという内容になるだろうが、本当にそうなのかというと、一般の有権者が投票する選挙で政権政党が勝利していて、もちろん投票に行かない人が全有権者の半数近くに達する場合もあるわけだから、その辺が微妙だとしても、少なくとも政権交代がここ十年以上も起こっていないわけだから、全ての有権者がそう考えているわけでもないのだろうし、そういう批判が多くの有権者から支持されていれば、政権交代が頻繁に起こっても不思議ではないが、結果的にはそうなっていないわけだから、そういう主張が政府や政権政党に対する批判としてよく口にされるとしても、必ずしも全ての有権者に支持されているわけではないと考えるより仕方ないが、実態として政権政党が大企業から多額の政治献金をもらっている現実があるなら、政権政党が大企業の味方であることの状況証拠となるだろうが、味方であるかないかで政党の企業に対する立場や態度が変わってくるなら、政治的な公正さが疑わしくなってきて、政治献金をもらっていても、政治的には公正な判断を下さなければ、場合によっては贈収賄と受け取られかねないから、その辺も微妙にはなってくるのだろうが、その一方で政府が外国の企業よりは自国の企業を優先させたいのは、国内の産業振興の観点からも当然の成り行きかも知れないが、場合によっては外国の企業を国内に積極的に誘致したい意向が出てくるのも、国民の雇用先として、また企業からの税収を期待していることの表れとなるだろうから、それも当然の成り行きだと考えられそうだが、税収を得るという目的に合致することを考えれば、政府は企業の味方であると共に、政権政党も選挙で勝ちたいなら有権者の味方を装いたいだろうから、企業と有権者とは敵同士なのかというと、企業としては国民の中から従業員を雇いたいし、また商品を買ってくれる消費者も必要だから、そういう面では必ずしも敵同士とはならないが、企業活動によって住民の暮らしが脅かされるようなことが起これば、そういう面では敵同士になる場合もありそうだが、要するに敵だとか味方だとかはケースバイケースとなるだろうし、これと言って価値観や利害関係が固定しているわけでもなければ、敵だとも味方だとも言えず、どちらでもないようなあるようなことになるかも知れず、そんなふうにこれといって決めつけられない関係となっていれば、それほど敵や味方としての区別など必要ないのかも知れないが、それでも政府や政権政党を批判する際には枕詞のようにして、政府や政権政党は大企業の味方だと批判したいわけだろうから、その一方で中小企業や零細企業や一般の有権者を味方につけたいという理由で、そういう主張になってしまうのかも知れないが、それが具体的な証拠を挙げながらそういう主張に及ぶわけだから、それなりに話の辻褄が合っていて、説得力もありそうなのだが、そういう主張に関して何か引っかかるものを感じるとすれば、それが何かというと、政府や政権政党が大企業の味方であると何かまずいのかということだが、それに関しても大企業を優遇しているから、その皺寄せが中小企業や零細企業や一般の国民に及んでいると主張されると、確かにそう言われるなら心当たりがありそうな気にはなるわけだが、ではどうしたらいいのかというと、そういう主張に納得できるなら、そういう主張に及んでいる政治勢力の候補者に選挙の際に投票すればいいわけで、その程度のことで済んでしまうなら、それに越したことはないし、そうやって選挙の際に投票してそんな政治勢力を応援しているつもりにはなれるだろうが、果たして今後それでは済まないようなことになるのかというと、実際にそれらの政治勢力が選挙で勝利して政権政党となってから、何か問題が起こるのかも知れないが、実際にそうなってみないことにはわからないだろうから、そうなってからその良し悪しを判断するしかないわけだが、現状ではまだそこまでには至っていないわけだ。
3月20日「情念と屁理屈の強度」
人が情念と屁理屈で立ち回れるのは、それへの賛同者が他にも大勢いる場合に限られるだろうが、では情念と屁理屈を用いて理性や悟性を退けられるかというと、それもどちらが多数派を占めているかにもよるだろうが、たとえ少数派に属していても強靭な意志の力で自らの情念を貫き通せる場合もありそうで、最後まで理性や悟性には屈しない姿勢を維持していられたら、それもある意味では立派に見えるのかも知れず、それが誤った姿勢には違いないのだが、情念に凝り固まった人に誤りを指摘しても、素直に誤りを認めてくれるはずがなく、誤りを認めるか認めないかで押し問答となって埒が明かなければ、なぜその人が情念に凝り固まってしまうのか、その理由を考えざるを得なくなるが、そういう人には何が何でも譲れない点があって、そこを譲歩してしまうと、その人の社会的な地位や立場の存立基盤が危うくなってしまうから、何があっても死守しなければならないところがあると考えるしかないが、それが何かというと、たわいないことかも知れないが、たわいないことだからこそ、それを多くの支援者と共に守っていて、もちろんそれを頑なに信じている人々にとって迷信ではないどころか、絶対に譲れない信仰となっているわけだが、その信仰の中身が何なのかといっても、簡単に言えば陰謀論的な信仰なのであり、それにルサンチマン的な被害妄想も加わって、こじれた様相を呈しているわけだが、それがさらにこじれると怨念のような感じになってくるのだろうが、そこに過去の歴史的な経緯なども絡んできて、そちらの方面にこだわっている人々にとって正当化すべき屁理屈が生じてくるだろうが、もちろんそれが屁理屈だなんて思ってもいないし、彼らにとって都合の良い真実が含まれているわけだが、それが誰にとっても都合の良い真実であるわけでもなく、理性や悟性を重んじる人にとっては誇大妄想のような代物となるわけで、彼らにはその妄想に従って実現したいことがあり、それを実現されてしまうと世の中が困った事態になる可能性が高いだろうし、少なくとも現状がさらに悪化してしまうような状態になるわけだが、彼らにとっては是が非でも実現したいのだろうから、それを実現するに当たって障害となる人や勢力や物事を取り除く必要が出てきて、その取り除くべき人や勢力や物事が何かというと、現状で彼らの妄想が実現するのを邪魔している人や勢力や物事になるわけだが、なぜ邪魔しているのかといえば、理性や悟性が通用するようなまともな世の中を保つには、彼らの妄想を実現させてはまずいのだろうから、彼らとは敵対せざるを得なくなってしまうのだろうが、彼らがこだわっている妄想がどんな内容なのかというと、彼らが信じている屁理屈がちゃんとした理屈として通用する世の中にしたいわけで、それが彼らの願望であり、妄想なのだろうが、屁理屈が通用する世の中になってしまうと、理性や悟性が通用しない世の中となってしまうわけだから、それらに基づいて行動している人々にとってはまずい状況となってしまうわけで、それらの人々にとっては屁理屈が通用しないように彼らの活動を邪魔する以外にやりようがなく、そういうところでは比較的わかりやすい対立関係が生じているわけで、それを世の中の多くの人たちが理解しているかというと、屁理屈を通用させたい勢力としては大半の人々が理解していないように装いたいわけで、そのためにも屁理屈を用いて理性や悟性を攻撃しているわけだが、具体的にはどんなふうに攻撃しているのかというと、デマを流して人々の間で誤解を生じさせて分断したいわけで、実際に彼らの流したデマを信じてしまうと屁理屈も信じるように誘導されてしまい、そうなると争点や論点をずらされて、まともな判断ができなくなってしまうのだろうが、それが彼らの狙いと言ってしまうと、他にも狙いがあって、どちらかと言えばそちらの方が彼らにとっては重要なのかも知れず、それが覇権的な願望なのだろうから、攻撃な衝動からそんな願望が生じていて、敵とみなした勢力をやっつけることが第一の目標であり、そのための手段として屁理屈を使って世の中の人々を惑わそうとしているわけだが、そこに悪意を見出すのも当然の感じ方だが、彼らは自分たちに悪意があるとは思っていないだろうし、逆に正義が自分たちの方にあるとも思っているだろうから、それが誤った考えだと言えばその通りなのだが、彼らの屁理屈から導かれるのは、もちろん自分たちの方が正しいと思っているわけだから、たとえ誤りを指摘されたところで聞く耳を持たないだろうし、むしろ彼らにとっては誤りを指摘するような輩は敵に違いないのだから、やっつける対象であり、現に攻撃を仕掛けているわけで、そういう人たちと戦って勝利することが彼らにとっての目標となっていて、しかも手段を選ばないから平然とデマを流してでも勝とうとするわけで、もはやそれは尋常ではないやり方を使ってでもやっつけなければならない対象となっているのであり、そういうことをやっていること自体がまともな精神状態ではなく、もちろん精神異常とは違った意味でまともではないわけで、そんな相手に対して理性や悟性を用いて説得できるかというと、説得できないまでも、そうすることによって彼らと同じようなことをやらずに済むわけで、彼らの仕掛けに乗って手段を選ばないやり方をやってしまうと、彼らの思う壺なわけだから、説得できないまでも、理性的に振る舞うしかやりようがないとなると、少なくとも彼らに勝つことはあきらめなければならないだろうし、何があっても絶対に負けを認めようとしない相手に対してどう振る舞うことができるかといっても、勝てないまでも理性的に振る舞うしかないわけで、勝とうとするのではなく、議論がいつまで経っても平行線に終始するしかない状態を受け入れる必要が出てくるわけだ。
3月19日「行動と言動の中身」
なるほどこういう人にはこういう行動や言動の傾向があって、似たもの同士でその人と近しい人もそういう傾向だったのかと合点がいくことがあるが、関心がなければそれがどうしたわけでもなく、行動や言動が中身のない人ほどそういう傾向が顕著に見られるわけでもないし、たぶん中身があるかないかということではなく、中身があるように感じられるか感じられないかということも肝心なのではなく、世の中の何に対してどのような行動や言動に及ぶかで、その人を判断したいところだが、判断したところで、結局は良し悪しの判断となってしまうなら、そんな判断自体にも関心がなければどうということはなく、そう判断している自分も他からどうということはない人でしかないと見られているわけでもないのだろうが、人として魅力があろうがなかろうが、そんなこととは無関係な方面で生活をしていると、全てにおいて無関心にならざるを得ないにしても、その人が良からぬ傾向を伴った集団に属していると、その集団の良し悪しに応じてその人の良し悪しも決まってしまうことにもなると、その人が人として魅力があるかないかなどとは無関係に、その人がどんな集団に属していて、その集団が何をやっているかで、その人を判断しがちになってしまい、またその集団が悪いことをやっていれば、その集団が悪いからその人も悪いと簡単に言えてしまうにしても、そういうことをやらざるを得ない背景があると、確かに悪いとは言えるものの、悪いことをやらざるを得ない状況というのをどう判断するかということになるわけだが、それを単純に悪いと判断して、悪いことをやっている集団を批判することも簡単にできるにしても、それで済むようなら大したことはないし、それでは済まないような状況が現状であり、悪いことをやっているのにその集団が世の中の主導権を握っているから、しかもそんな集団を批判している人たちの方が劣勢に立たされていて、批判している人たちが窮地に陥っているとしたら、もはや世も末だと思うしかなく、たぶんそんな世も末な状況をくぐり抜けて現状に至っているようなら、そんな現状の中では批判している人たちの中にも悪い人たちがいて、その悪い人たちが裏で暗躍しているから、悪いことをやっている集団が世の中の主導権を握っていられて、そうなると批判している人たちも悪いのは当然だろうが、その悪さの傾向が各々で違っているのに、それらを同列に扱うわけにはいかなくなるにしても、それらを良いとか悪いとか判断しても意味がなく、それらの人々の行動や言動に対して何らかの判断を下そうが下すまいが、重要なのはそこではなく、それに対して自らがどう反応するかも重要とは思えず、では何が重要なのかというと、それもその時々で変わってくるのかも知れず、しかも重要だとは思わないことでも、それが自らの行動や言動に結びつくなら、大して重要でもないことにも関わってしまうから、それでも構わないと思うしかなく、もちろん四六時中何が重要なのかを見極めるようなことをやっていられるわけでもないし、大して重要だとは思わないこともやりながら、そんなことをやっていられるだけの余裕が必要だと勘違いなことを思っていても構わないのかも知れず、要するに自らの行動や言動がある一定の傾向に収斂しなくても構わないような情勢の中で、何を深刻に受け止めているわけでもないことが、そんな情勢から外れていられることを示していて、外れていられると思っていること自体も、自らが思い込んでいる勝手な勘違いに含まれるのかも知れないが、その一方で批判に凝り固まっている人たちが思い描いているような世の中の深刻さとはかなりずれた認識となっていても、そんな認識となっている自らを正当化したいわけでもないが、正当化しなくても生きていられるならそれに越したことはないし、そうなっていることに特に責任を感じているわけでもないとしたら、何に対しても無責任な態度でいられるわけでもないが、自らが関わっていることについては責任を感じているのだろうが、それも責任を感じているとしても、それ以上に何がどうなっているわけでもなければ、現状のままに事態が推移してしまい、そんな現状の中で自身がやれることをやろうとして、それ以外のことにはできるだけ無関心になろうとしているわけでもないのに、実際には無関心となってしまうのかも知れず、その無関心の度合いというのが、他と比べて何がどうということもないのだが、自分なりに判断するとすれば、良くも悪くもないような状態を保っているつもりでいるのかも知れないが、本当のところはよくわからず、もっと他の何かに関心を持つべきだと思うこともあるかも知れないが、その時には確かに関心を抱いているとしても、それが特に言動や行動を伴わなければ、それっきりとなるより他はあり得ないのかも知れず、別に他の誰かがどんな団体や集団が、世の中の大半の人たちがそうなるように仕向けているわけでもないのだろうが、だからといってどこかで頭のおかしな人が人々に向かって目を覚ませと呼びかけているとも思えず、誰が呼びかけなくても大半の人たちはすでに目を覚ましていて、実際に何らかの行動や言動に及んでいるのだろうし、それをどう評価するとか判断するとかではなく、それに反応してまた自らも行動や言動に及べばいいのだろうから、実際に自らも行動や言動に及んでいるはずなのだが、それが他の大半の人たちからずれた行動や言動になっているとしても、そのずれを直すつもりにはなれないし、無理に直そうとしても直らないから今に至っていて、今に至っているから現状が維持されていて、そのずれが世の中の現状に反応した結果を示しているのだろうが、他の人たちもその人なりのずれを示しているから、ずれた人に特有の個性が生じているのではないか。
3月18日「世界の潮流」
何か現状で気づいていないことがあるのかも知れないが、それに気づいたところで、何か画期的な現状の理解につながるとも思えないが、ただ漠然としたことを言ってみたところで、何をどうすればいいのかわからないし、そうではなく、例えば部分的に具体的な主張をしている人がいて、それが政治の方面では消費税は廃止すべきとか、インボイス制度はやめるべきだとか、特定の制度に関して、何か批判的な主張をするわけだが、そういった消費税を廃止しないとインボイス制度をやめないと日本が大変なことになると主張されたら、現状で消費税は廃止されていないし、これからインボイス制度が始まれば、彼らの主張していることが正しいなら、日本が大変なことになるわけだが、実際に大変なことになったところで、それ以外の面ではこれまで通りなのかも知れず、それ以外の面というのが消費税やインボイス制度以外の面ということになるが、その一方で大変なことになる面では、果たして自らも大変なことになるかというと、現状では何とも言えないし、実際にそうなってみないことは、やはり何とも言えないが、そういうことを主張している政治勢力にはそんなことを実現するために頑張ってもらいたいし、応援したいなら選挙でそれらの政治勢力の候補者に一票を入れることはできるが、それ以外に何ができるかというと、そういうこととは別の方面から考えていることがあるとしても、それが何かと言っても、やはりただ漠然と考えていることがあって、それをうまく表現できずにいるわけだが、少なくとも現状で主導権を握って政権を担当している政治勢力も、世界の潮流に逆らうことができなくなるのではないかということであり、その世界の潮流がどんなものなのかというと、要するにそれらの勢力が現状で必死になって抵抗を試みていることに関係していて、それがそれらの勢力と敵対している勢力が主張している消費税の廃止やインボイス制度をやめることと関係があるのかというと、どうも直接には関係していないのかも知れないが、間接的に何らかの関係があるとしても、その関係性が誰もがはっきりと意識できるようなことではないかも知れず、別に意識しなくても自然とそうなってしまうようなことであるから、確かに現状では必死になって抵抗しているように見えるが、それも時の経過と共に世界の潮流に合うように仕向けられてしまうような成り行きが想像できるが、少なくともアフガニスタンよりは日本の方が先にそうなる可能性がありそうで、それも現状でそう思われるだけで、将来に関しては何とも言えないところだが、現状でも世界の潮流に従うように誰かしら何かしら圧力を加えていて、しかも圧力を加えている当人も、抵抗する勢力に向かって世界の潮流に従えと言い放っているわけでもないし、それとは別の方面から別の理由や経緯や事情を抱えながら、それらの抵抗勢力と対峙しているわけで、それがもしかしたら消費税の廃止やインボイス制度をやめさせようと主張している勢力も、やはり世界の潮流とは別の方面から別の理由や経緯や事情を抱えながら、それらの抵抗勢力と対峙しているのかも知れず、そういう意味では一見関係がないように見えるが、同時並行的に動いている事態に含まれてくるのかも知れないが、そういう主張が正しいとか間違っているとかいう判断基準とは別に、お互いに何の関係もつながりも意識していないのに、特に共闘しているわけでもなく、それどころか互いに対立している面や批判し合っている面もあるにしても、それらが一体となっているわけでもなくても、それぞれの成り行きがそれぞれに動いているわけだから、そういうものだと感じ取るしかないわけだが、さらに日本で起こっていることと同時並行して、中国でも北朝鮮でもロシアでもイランでもサウジアラビアでも起こっていることがあって、日本で抵抗勢力を形成している人たちとは全く違う人たちが全く違う程度や傾向を伴いながら、それらの国々でも抵抗勢力を形成しているはずだが、やはりそこでも直接世界の潮流に従えと言われているわけでもないし、そこでもそれとは別の方面から別の理由や経緯や事情を抱えた人々と対立したり敵対していて、場合によってはそれらの人々が政府から弾圧されているわけだが、弾圧されても政府のやり方を批判したり糾弾することをやめないだろうし、弾圧によって死傷者が出てもやっている人々もいるわけだから、それだけ世界の潮流には逆らい難いのだろうし、それが誰のためにやっているのかというと、民衆のためにやっていることであり、しかも金持ちや権力者たちのためにやっていることではなく、どちらかといえば社会的に弱い立場の人々を助ける目的でやっていることであるから、それが一方ではLBGTQの人たちであったり、また中央銀行がなぜ金利を上げるのかというと、インフレが起こって物価高で苦しんでいる貧しい人たちを助けるためであったりするわけで、それによって株価が下がって損失が出る投資家のためではなく、また経営難に陥っている金持ちが顧客のスイスの銀行のためでもないのであり、そういうところからつながってくるのが、日本でも一般の庶民の暮らしを助けるために消費税を廃止すべきだとか、零細の個人業者を助けるためにインボイス制度はやめるべきだとかいう主張につながってくるのだろうが、そういうところがわかりづらいのかも知れず、まさかアメリカやEUの中央銀行と日本のれいわ新選組が味方同士だなんて誰も思いつかないし、誰も理解し難いところだろうし、大抵は欧米の中央銀行がやっている金融政策が妥当である一方で、日本のれいわ新選組の主張が現実離れしていると思っているかも知れないし、当事者たちですらもそんなことは思ってもいないだろうから、直接にはつながっていないし、間接的なつながりなど想像できないところがわかりづらいのであり、しかもそれでも構わないし、どちらがどうだということでもなく、場合によっては敵同士になる可能性もあるとしても、それでも世界の潮流には従っていて、なぜかそれがアフガニスタンでタリバンの圧政に抵抗する人々やイランで反政府暴動を起こして死傷している人々や中国のウイグル人やトルコのクルド人を助けようとしている人々とも共闘していることになるのではないか。
3月17日「景気循環と政治批判」
リスク資産が株で安全資産が国債であれば、民間の銀行が破綻するような金融不安になれば、株を売って長期国債を買うのがプロの機関投資家のやることらしいが、そうやって長期国債が買われて金利が下がれば、株が今度が値上がりしやすくなって、短期的には株が上がるのかも知れないが、もちろん金融不安が解消しないと株は上がらないのだろうが、それだけが株高が期待される要因でもないだろうし、他にも様々な要因が絡み合って、株価が乱高下するのかも知れないし、その種の部分的な経済情勢とは関係なく、インフレを抑えるために中央銀行が政策金利を上げ続ければ多かれ少なかれ景気後退が現実のものとなるのだろうが、景気後退となれば普通はインフレが収まる可能性が高いといっても、インフレが収まらないと不況とインフレのダブルパンチでスタグフレーションとなるのだが、なぜそうなってしまうのかというと、中央銀行が金融不安に怯んで、金利の引き上げの継続を中途半端なところでやめてしまうと、そうなる可能性が高くなるらしいが、確かにアメリカやEUの中央銀行などは現状でそんなことをやっているわけだが、一方で日本の中央銀行の日銀は現状でそんなことをやっているわけでもなく、日本ではそういう理屈は通用しないのか、あるいはやろうとしてもできないのか、なぜかいつまで経っても金融緩和を継続中で、それで大丈夫なわけでもなく、日本でもインフレが進行中なのに表向きにはほとんど金利を上げられずに、現状維持の姿勢を保ち続けているから、政治批判をしている人たちは、このままでは日本経済が大変なことになってしまうと危機感を煽ったり、すでに大変なことになっていると騒いでいるのかも知れないが、たぶん政治的にはそれがどうしたわけでもないとしても、何事もなかったかのように事態が推移しているわけでもなく、景気循環程度のことというわけでもないのだが、見方によっては大変なことには変わりないとしても、その大変さに対して国民が部外者的な感覚でいられるわけでもないし、野次馬的におもしろがっているわけでもないのだろうが、それで事態を乗り切れるわけでもないとしても、別に経済的な苦境を乗り切る必要もないのかも知れず、乗り切らなくても政治の面で安泰でいられるなら、そんなことは考慮しなくても構わないわけでもなくても、何か対策らしい対策のような対策を講じているふうを装っておけばいいのだとしても、それが経済対策だと言えるわけで、それを批判する側からすればごまかしのような対策なのかも知れないが、それで効果を上げているように装われていれば、それで済んでしまうようなことかも知れず、それが具体的にどんな効果を上げているのかはよくわからないし、それに対して批判しようと思えばいくらでも批判することが可能な程度のことなのだろうが、それでも何かしら対策らしい対策を講じていることになっているから、それで済んでしまうようなことなのだろうし、もっと何か納得できるような対策を求められるような情勢でもないのかも知れず、そういう面では全てが後手に回っているというか、アメリカやEUのようなはっきりした対策というのは期待できないような成り行きが生じていて、そうなっていることによってどこがおかしいのかもよくわからず、もちろんそれを批判している人たちにとってはわかっているつもりなのだろうが、それがこちらには伝わってこないわけで、伝わってこないようにされているといってしまうと、誰がそんなことをやっているのかと問われるまでもなく、政府や政権与党がやっていることになるだろうが、そんなことしか可能でないことも重々承知していて、他にできることがそれを批判している人たちにはわかっているにしても、彼らはそれをやる立場にはなく、それをやる立場にある勢力がやれるとも思っていないだろうし、やれないことを要求しても、そんな要求が受け入れられるわけでもないから、批判するしかやりようがないとしても、対案ぐらいはいつでも出せるし、実際に対案を出しているわけだから、その対案が実行に移されることはないわけではなく、実際に政権交代が実現すればそれを実行しようとするだろうし、それがいつになるのか、いつになってもそんなことは行われないのかも知れないが、現状で起こっていることが単なる景気循環の範囲内で起こっていることなら、欧米の中央銀行がやっているようなことを日銀もやればいいことでしかなく、それと現状の政治批判とは分けて考えなければならないのかも知れないし、それとこれとをわざと意図的に絡めて考えてしまうとややこしいことになってしまうと共に、どうもそれでは勘違いの度を深めてしまうから、現状のいい加減な解釈になって、おかしな迷信を信じ込んで、的外れな批判に同調してしまうことにもなりかねないから、その辺は慎重に判断しなければならないにしても、今回の世界的な経済情勢からわかることがあるとすれば、現状の日本で主導権を握っている政治勢力が対処できるようなことではなくても、対処しなくても済んでしまうようなことでもあり、何もやらなくても大して文句が出てこないわけでもないのだが、それが選挙結果に直結しない限りは大丈夫なわけで、選挙結果に直結するようになるには有権者が現状に対してどう感じているかにもよるだろうし、情勢が今後どうなっても有権者の反応が鈍ければ、政治の現状が維持されるにしても、それで済むようなことであれば、大した問題ともならないのではないか。
3月16日「貧富の格差が縮小する条件」
当たり前のことだが、売買によって利益を得るには安く買って高く売れば良いにしても、逆に高く買って安く売れば損失が出てしまうから、普通の売買では誰もがそんなことはやりたくないわけだが、それをやらざるを得ない状況になってしまうと、損失が出るのを覚悟の上でそういう行為が行われるわけで、どういう場合にそうなるのかと言えば、金融恐慌が起これば、株や債券などで資産運用している投資家たちが、持っている株や債券などをこれ以上の資産の目減りを防ぐために損切りせざるを得なくなるから、短い時間間隔で定期的に金融恐慌が起これば、それだけ貧富の格差が縮小する可能性もありそうで、たとえ銀行の預金などの通貨で資産を持っていても、インフレと景気後退が同時にやってくるスタグフレーションが起これば、通貨の価値そのものが目減りしてしまうから、そうなっても貧富の格差の縮小が起こりそうだが、金融恐慌とスタグフレーションの両方が起こっても貴金属の金を持っていれば、ある程度の資産の目減りを抑えられるかも知れないが、全資産を貴金属の金に換えている投資家などまずいないだろうし、貴金属の金には持っていても利息はつかないし、高金利の時にはかえって損だろうから、結局は景気循環の中で好不況の経済状況に応じて絶えず資産配分を変えながら、うまく資産運用ができれば、資産の保全に成功するどころか、かえって資産を増やすこともできるのだろうが、それを完璧にこなせる投資家もそれほどはいないだろうから、そういう面では貧富の格差は資本主義経済の状態次第で拡大したり縮小すると考えてもよさそうだが、もちろん世の中が不況になった時こそ株安になるから、その際に積極的に安い株を買い増すことができれば好景気になってから買った株が値上がりして、それだけ資産を増やすことができるわけで、実際にそうやって莫大な資産を築いた投資家も数は少ないかも知れないがいるわけだが、その一方で資産を持たない貧困層は、経済状態が好景気になれば多くの人が職にありつける度合いも高まるだろうから減るだろうし、貧困層が減ればそれだけ中間層が増えることになり、それだけ貧富の格差が縮小しそうだが、それも単純にはそうは言えず、国全体が農業国でしかも大土地所有の大地主によって土地を買い占められていれば、人口の大多数が貧しい小作農民で占められて、貧富の格差が縮小する余地など生じないだろうが、日本の場合は戦後の農地改革によって農地を大規模に所有できなくなって、しかも工業製品の輸出に特化した産業構造となったから、そこから高度経済成長によって中間所得層が増えて、結果的に諸外国に比べて貧富の格差が縮小した状態が相対的には長続きしたのだろうが、やがて人件費の安い新興国諸国が台頭してきて、工業製品の輸出にも陰りが出てきたところで、20世紀末の情報革命が起こり、それまでの輸出産業に支えられた成功神話では立ち行かなくなってきて、それに伴って次第に貧富の格差も拡大する傾向になってきたのかも知れないが、単純に農業国から工業国を経た後に来るのが、例えば金融産業に特化した国になれるわけでもなく、そうかといって観光産業に特化できるわけでもないし、小国ではないのだから金融産業や観光産業だけで国全体の人口を賄えるわけでもなく、特定の産業に特化するような戦略もあり得ないし、そうかといってアメリカのように絶えず大量の移民が押し寄せてくるわけでもないから、現状で貧富の格差が縮小する条件などないかも知れないが、少なくとも20世紀末の情報革命後であれば、日本だけでなく世界的に貧富の格差が拡大したはずで、インターネットの普及とコンピューター技術の飛躍的な進化によって、金融商品の取引額が飛躍的に増えたから、金融商品の取引を活発に行なった人とそうでない人との間で貧富の格差が拡大したというか、金融商品の取引で成功した人とそうでない人との間で貧富の格差が拡大したとも言えるだろうし、さらには情報革命に伴って発展した産業に関わった人とその産業に関われなかった人との間で貧富の格差が拡大したとも言えそうだが、そうであればこれから発展しそうな有望な産業に関われる人とその産業に関われない人との間でも、これから貧富の格差が拡大するかも知れないし、成長産業に起業家やその株主として加われる人とそうでない人との間で貧富の格差が拡大するのは火を見るよりも明らかかも知れないが、もしかしたらそうした起業ブームというも一過性であって、今後は産業の成長分野というのも、それほどあるわけでもないような時代に突入してしまえば、意外と世界的に一時的に拡大した貧富の格差も徐々に縮小する傾向になってくるかも知れないし、それも実際にそうなってみないことにはわからないが、18世紀に起こった産業革命以来、その時代に主流となった産業の形態や性質に応じて、貧富の格差が拡大したり縮小する傾向があるとすれば、20世紀末の情報革命後においては、確かに一時的にはその時代に主流となった情報産業に伴って貧富の格差が拡大する傾向が生じてきたが、それ以前の20世紀中頃の日本やドイツなどの機械産業や石油産業などが主流だった時代では、中間所得層が増えて貧富の格差が縮小した時期だったはずで、それがこれから主流となる産業が何になるかは、今のところはよくわからないが、実際に情報革命後に巨大企業に成長したGAFAMなどの成長が現状で止まりつつあることは確かで、果たしてそれらの巨大企業のように、今後巨大企業に成長する企業が出てくるかというと、何やらAIやら量子コンピューターやら宇宙産業などがその候補に挙がっているかも知れないが、それらの産業に関われる人が全世界でどれほどいるかといっても、また関わったところで果たして貧富の格差などと関連性があるかどうかも何とも言えないところだが、案外AI技術などの進展によって人の才覚や努力などがどうでもよくなって、それに伴って貧富の格差自体が大して重要な価値基準でもなくなってしまう可能性もあるかも知れない。
3月15日「絶好の機会と不都合な結果」
何をやるにもそれをやるには絶好のタイミングがあると思っているわけでもないが、絶えずタイミングを見計らって何かを仕掛けようとすることが、人の行為や行動にはついて回る悩ましい問題でもあるわけで、何かをやらなければならない理由や根拠が事前に示される場合もあるにしても、それが本当に信用に値するかどうかということもそこで判断しなければならず、結局はそんな自身の判断が正しかったのか誤っていたのかが、何かをやったりやらなかったりした結果として示されれば、納得しないまでも受け入れざるを得なければならない場合も出てくるから、結果を目の当たりにして、釈然としない気分となることも一度や二度ではないはずだが、実際には事前に全てがわかるわけでもなく、そこが絶好のタイミングだと思っても、その時点ではわかっていないことがいくらでもあるから、その場の決断が裏目に出る可能性もあるのを承知の上で、行為や行動に及ぶことになり、そういう意味では何をやるにも賭けの要素を取り除くことはできず、確実なやり方がわかっていれば、誰もがそれをやろうとするから、そこから大して成果が得られるわけでもなく、大勢の人々が気づかないやり方を自分だけがわかっていれば、それをやることによって多大な成果を得られる場合があるにしても、そんな都合の良いやり方が見つかるはずもないから、うまくやっている人の真似をしようとするのだろうが、他の大勢の人たちも真似をしようとするから、そこで競争となって、結局は競争に勝ち抜いたごく一握りの人が成功することになるだろうが、そういう成り行きとなることぐらいは事前に予想できるだろうから、そうなったところで多大な成果にありつける可能性は低いだろうし、それでもここが絶好のタイミングだと思うところで仕掛ける人が後を絶たないのだろうし、実際にそんな賭けに出て、誰かしら賭けに勝ってうまく行った人が出てくるとしても、それが自分である可能性は低いだろうから、それ以前に確実なやり方を見つけて努力することが、誰もが納得できる真っ当なやり方になるとしても、そこでも多くの人たちが努力を続けられなくなってきたところで、それでもごく一握りの人たちが努力を続けられる成り行きとなれば、努力を続けた人たちが成功することになるだろうから、そういう意味でも誰もが納得できる真っ当なやり方があるとしても、結果的にそれができる人がごく少数に限られてくれば、その人たちだけがうまく行くことになるのかも知れないし、全ての人がうまく行くやり方などないということが、どんなやり方でもうまく行く時と行かない時があるなら、それが誰もがうまく行くわけではないことの真相となってくるのかも知れず、だからたとえそれが絶好のタイミングだと思われても、結果から見るならそのタイミングが誰にとっても絶好のタイミングになるとは限らず、結果的にうまく行った人にとってはそうであっても、うまく行かなかった人にとってはそうではなかったことになるのだろうが、それもそうなった後からなら、いくらでも言い訳ができて、確かに仕掛けるには絶好のタイミングであっても、やり方がまずかったとか言われると、そういう説明によってはそうだったと納得せざるを得なくなったりする場合も出てくるだろうが、そこで錯覚してしまうのが、事前にはわからなかったことであり、事後的に説明がつくからといって、いくらその説明が納得できてもっともらしいとしても、それが事前にはわからないわけだから、事前にはその説明を活かせず、絶えず事後的に納得できる説明をいくら信じて理解できたとしても、次の機会に活かせなければ理解が無駄となってしまい、そういう意味では何かが起こった結果からいくら納得できて、もっともらしい説明や解説を導き出せたとしても、実際にそれを教訓の類いとして活かせないことにはうまくは行かないわけで、活かせるとしても、そこでもうまく活かせるケースとそうではないケースが出てくると、そんな結果からもうまく活かせなかったケースに対して反省点や改善点などが導き出されてくれば、それが納得できてもっともらしく思われるのだが、そこでも教訓をうまく活かせなかったこと自体を事後的になしにできるわけではなく、そこから反省点や改善点が導き出されてくるとしても、それを活かすには次の機会がやってこないことにはどうにもならないわけで、そうやって絶えず反省を活かす機会が先送りにされて、いつやってくるとも限らないその機会がやってくるのを待ち続けることにでもなれば、その機会に備えて準備しておかなければならなくなって、それだけでも準備の内容によっては相当な手間暇を要する場合も出てきて、そういう準備をするにも物理的な限度があるだろうから、なかなか準備万端整えてその機会がやってくるのを待ち受けるような成り行きにはならない場合も出てくるだろうし、そういうことからも人は何とかしてそれを仕掛けるタイミングというのを捉えたくて、その機会がやってくることが事前にわかっていれば準備万端整えて待ち構えていようとするだろうが、大抵の場合はその機会が思いがけないタイミングで思いがけないところからやってくるから、不意をつかれてうまく対処ができずに、結果的にひどい目に遭ったりするのだろうし、結局そうやってひどい目に遭ってから反省したり教訓を導き出そうとしたりするわけだから、事前にそんな成り行きになるのがわかっていないからそうなると理解するしかなく、それを後からいくら反省してみても、そこから教訓を導き出しても、後の祭りであることには変わりないわけだが、それでもやらないよりはやった方がマシに思われるなら、面倒でもやるに越したことはなく、やったところで反省や教訓を活かす機会がやってくるとは限らないが、そういうことも含めて後始末として事後処理ができるだけでも、まだ救いがあったと思うしかないのかも知れない。
3月14日「アメリカに関する問題」
アメリカといえば世界中から人や物や金をかき集めることで成り立っている国と見られているが、今やそのアメリカに対抗する国として中国が存在しているわけで、それが昔の米ソ対立のような様相を呈しているとしても、あと十年もすればそこにインドが新たな覇権国として台頭してくるかどうかで、世界情勢もだいぶ現状とは違ってくるかも知れないが、目下のところはアメリカという超大国が存在しているおかげで利益を得たり割を食っている国があるかというと、そういう前提がそもそもあり得ない仮定の話へと導かれてしまうから、アメリカが存在している事実は動かしようがないわけだが、ではアメリカに関してどう語ればいいのかといっても、特定の論理に頼って語ってみても埒が明かないように思われるなら、現状で起こっていることをそのまま語ればいいのかも知れないが、現状で起こっていることの全てを把握しているわけでもないから、部分的に把握している範囲内でしか語れないが、日本からの視点でいえば在日米軍基地問題がある一方で、中国やロシアや北朝鮮などの脅威や、世界各地で起こっている紛争を解決するには、アメリカの力が必要だという先入観に囚われている人も結構多いのかも知れず、実際にはアメリカの力をもってしても紛争の解決には至っていないわけだが、中国やロシアや北朝鮮などの横暴に対抗するにもアメリカの力が必要だと思われるにしても、それも現状からもたらされる先入観かも知れず、そんな先入観に頼った感覚から導かれるのが、たとえ周辺で暮らしている人々にそれなりの迷惑がかかるにしても、日本には在日米軍基地が必要だという現状維持の結論になるわけだが、果たしてそれはそれこれはこれとして分けて考えることができるかというと、できないことはないが、政治的な問題であるから、日本政府や政権がどう対処するかにかかっていて、現状を変えるにはまずは政権交代が前提ではあるものの、たとえ政権交代が実現したところで、そこから先には様々な困難が待ち受けているだろうから、少なくとも現状ではすぐにどうにかできるような問題でもないわけだが、その一方でアメリカの成り立ちに関しては、少なくとも政治的に独裁ではなく、権力が分散していて、大統領にすべての権限が集中しているわけでもなく、議会は議会として行政府からは独立していて、必ずしも大統領の言う通りにはならないところが、国家として一枚岩とはなっていないわけで、それが奇異には感じられず、他の国々との違いを際立たせているわけでもないのだが、むしろ他の国々の中で、大統領や首相などの行政の長に権力や権限が集中しているような国というのが特殊というわけでもないのだが、例えばアメリカ国内では連邦政府と州政府の間でも独立がある程度は保たれているように感じられるし、それらの行政機関の間で距離があるところが中央集権的な構造にはなっておらず、各州の独自性もある程度は保たれている一方で、国家が別でも隣国のカナダやメキシコとも一体感があり、さらには中米諸国や南米諸国とも、政治的に対立している国があるにしても一体感があるところが他の地域にはない感覚なのかも知れず、もちろんヨーロッパ諸国のEUとしての一体感とはかなり質が違うだろうが、国家的あるいは行政的な統一感よりは普遍性があるように感じられて、それが地域的な普遍性と言えばしっくりくるかも知れないが、それに比べて例えば東アジアの国家的なバラバラ感の方が特殊なのかも知れず、少なくとも経済的にはそれなりに一体感があるのに、政治の面での対立が際立っているから、そちらの方に目が行ってしまい、どう考えても中国と北朝鮮と韓国とモンゴルとフィリピンと台湾と日本とロシアの間では、南北アメリカ的な一体感など感じられないし、そういうところで日本が外交の面でうまく立ち回れていないことが際立っているのかも知れず、そうでなくてもアメリカ一辺倒な政治姿勢というのが災いしているのかも知れないが、それも日本で政権交代が起こらないことには改善など期待できないし、それ以外にも中国の政治姿勢というのが受け入れ難い頑なさを示しているわけだから、現状の日本の政治力では太刀打ちできない面があるものの、現状で日本の国益が損なわれている原因が日本側にあることも言うまでもなく、国益といっても日本の政府が公式的に示すような国益ではなく、地域的な普遍性に沿った人や物や金の流通という面でそれなりにスムーズな出入りがあれば、その後から文化や思想などの交流が続いて、そこから政治的にも解決の糸口が生じてくれば、中国やロシアや北朝鮮などの政治的な頑なさも、それなりに解消して行く兆候も出てくるのかも知れず、もちろんそういう考えが甘いことは百も承知で述べていることだが、むしろ現状では政治的に対立していた方が日米の同盟関係を強固に保つにはメリットがあるのだろうが、その代償として日本の民衆が肩身の狭い思いをしているような気もするわけで、アメリカに隷属しているというやましさや後ろめたさが、東アジア諸国との間で距離感を生じさせていて、そういうところをつけ込まれて中国や北朝鮮やロシアが日本には政治的に容赦ない態度に出られる余地も生じているのかも知れず、日本の方で勝手にアメリカに依存しないと成り立たない国だと自己規定や自己制限を課しているようにも感じられて、そういったアメリカの呪縛を脱しないと、東アジアでも対等な国家間の関係を構築できずに、経済の面ではそれなりに交流があるのに政治の面ではギクシャクしたままとなってしまうのかも知れないが、それによって得をしているのがアメリカであり、日本側が経費を負担してくれるからいつまでも米軍基地を維持していられて、日本政府はいつまでもアメリカに甘えていられる気でいるのだろうが、それが日本国民の政治的な自立や政権交代を阻んでいるのではないか。
3月13日「ネトウヨの起源」
ネトウヨというと日本独自の現象だと捉えがちになってしまうが、政府に批判的な民衆を分断するために時の政権政党が同じ民衆の中から裏切り者を募って組織した集団といえばしっくりくるかも知れないが、というよりは特に近年になってそれが顕著になってきたのが安倍政権においてであり、政権を批判する野党やジャーナリズムをSNSなどを利用して攻撃するために組織されたと言えるだろうが、それがマルクスの著作である『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の中では、後にクーデターを起こしてナポレオン三世になる大統領のルイ・ボナパルトが、パリの最下層階級の労働者たちであるルンペン・プロレタリアートと呼ばれる人々を募って組織した私兵集団が、現代のナポレオン三世である安倍晋三の私兵となって暗躍していたネトウヨ集団と似ているわけだが、もっと広範囲なカテゴリーとして、産業革命以降に実現した大衆市民社会において、民衆が起源や素性の定まらない根なし草的な精神状態に置かれたところで、そうした民衆の精神の拠り所となる概念として、国家や民族や人種や宗教などを提供することによって、それらに忠誠を誓わせることによって集団化して、それを時の政府や政権が利用する形態が生まれたわけで、そうした集団がハンナ・アーレントの『全体主義の起源』においては、社会のありとあらゆる階級脱落者からなる集団として「モッブ」と呼ばれているわけだが、アーレントによればモッブはカリカチュアされた民衆であり、あらゆる暴動の際に自分たちを指導し得る強力な人間の後について行くのだが、その強力な指導者というのが、後の時代になるヒトラーやムッソリーニなどの独裁者となるわけだが、なぜ独裁者が現れるのかというと、選挙によって選ばれた首相なり大統領などが独裁者となるわけで、要するに民主主義がそうした独裁者を生み出す成り行きがあるわけだが、なぜそんな成り行きが生じるのかといえば、資本主義経済の進展によって富の集中と貧困が顕在化してくると、貧困に陥った民衆の間で不満が高まってきて、その不満の矛先が時の政府や政権へと向かうと、政府や政権としてはその不満を逸らそうとする際に、他に不満が向かう矛先を設定しなければならず、ヒトラーはそれをユダヤ人に設定したわけだが、要するに敵として設定した勢力のせいで世の中がひどいことになっているから、その敵を攻撃して打ち負かせばいいという論理になるわけだが、それがれいわ新選組や山本太郎になると、敵は政府であり自民党政権になるわけで、そうなると話の辻褄が合ってしまい、政府や政権側からすればそれではまずいだろうから、ネトウヨを使って絶えず反日勢力という偽の打ち負かすべき敵に攻撃を加え続ける必要があり、そうした行為がここ十年余りの期間においては滑稽な茶番劇となっているわけだが、それがヘーゲルがどこかで述べているような、「すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度現れるものだ、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」の茶番なのかどうかはわからないが、どう考えても二度目に現れる茶番においては、世界史的な大事件や大人物が現れるのではなく、どちらかと言えば滑稽な小人物たちがみっともない醜態をさらけ出してしまっているわけで、与党の政治家や大臣たちがしらばっくれて見え透いた嘘をつきまくっているのをネトウヨたちが擁護したり応援している姿が、どう見ても茶番劇以外には見えないわけだが、その一方でありとあらゆる屁理屈を総動員してそれらの政治家や大臣たちを批判して追及の手を緩めない野党の政治家やジャーナリストを攻撃しまくっているわけで、それも茶番の続きではあるわけだが、時代的にはもうすでにヒトラーやムッソリーニの時代に悲劇は終わっていて、もちろん今でも独裁体制が維持されている国や地域では悲劇が続いているわけだが、少なくとも日本でも、現状が悲劇の続きだと見なしたい人もいくらでもいるだろうが、程度の違いだと言ったら馬鹿にしているようで反感を買うかも知れないが、それでも何かユーモラスで間抜けな感じが拭えないし、しかもどう見てもお粗末な言動と共に出来事が推移していて、現状を正当化すればするほど馬鹿げたことを口走るような状況になってしまうわけで、それ以前に論理的に破綻しているのも言うまでもなく、そんな状況を正当化しながらさらにそれを続けなければならないわけだから、無理に無理を重ねながら今に至っているわけで、これ以上やっても何がどうなるわけでもないと言うと、まだこの先があって、さらにここから狂ったことをやらなければならないとしたら、本当に世の中がどうにかなってしまうような恐怖に囚われてしまうかも知れないが、たぶんもうすでにどうにかなっていて、行くところまで行っているわけで、それでも現状が現状のままに続いているわけだから、それが意味するのが茶番劇なのかも知れず、まだまだこの先があって、茶番な現状をとことん突き詰めるような成り行きが待ち受けていて、日本の現状でさえこうなのだから、独裁体制となっている中国や北朝鮮やロシアなどでは、まずは悲劇から茶番劇への移行が実現しなければならないから、いったいいつになったら世界全体が民主主義のもとに正常化するのか全く見当がつかないが、少なくとも今のような政治が必要とされるのは、資本主義経済が続いている間であり、資本主義経済に起因する問題が解決されない限りは、その解決が政治の課題として絶えず意識されて、しかも実際に解決できないから、それに対するごまかしの手段としてネトウヨ的な集団も必要とされて、状況が行き詰まりを見せ始めると、何かわけのわからない責任転嫁のようなことが絶えず行われる中で、安易に偽りの敵が設定されて、その敵を打ち負かすような演技を続けていれば、茶番な現状が維持されるような仕組みとなっているのかも知れず、そんな現状に合う人材も政治家として登場するわけで、そんな人材が実際に茶番劇の中で滑稽な言動に終始しているわけだ。
3月12日「二者択一の不可能性」
現状で何をあきらめているとも思えないのだが、何かをあきらめることによって他の何かを得られる可能性が高くなれば、どうしてもそれを得たいなら、その何かをあきらめる決断を下さなければならなくなるだろうが、果たして現状がそんな二者択一を迫られるような状況となっているかというと、それをあきらめることによって得られるものが何なのかが明らかにならないことには話にならないだろうが、では現状の中で人々が何をあきらめているのかというと、そんなのは人ぞれぞれで違うような気がするが、意識せずにあきらめている何かがあって、しかもそれをあきらめることによって得られている何かがあるとすれば、やはりそれが何なのかを明らかにしたくなってしまうが、それがわからないのに話を進める理由も今のところはよくわからないが、それについては話を進めていくに従っておぼろげながらわかってくるかも知れず、わかってこなければ話にならないまま話が終わってしまうかも知れないし、人々がそれを意識できるかというと、それが何なのかがわからないのだから意識できるわけもなく、そんなことも今のところはよくわからないままだが、わかりたくはないというよりは、わかろうとしているのに今のところはわからないといった方が現状に近いかも知れず、しかも何をわかろうとしているのかもよくわからなければ、わかろうとしていること自体が嘘になってしまいそうで、それに関してわかりやすい表現を使うなら、求めているのは幸福だとか利益だとか、そういったありふれた表現で示される何かを求めているなら、大して納得しないまでも、そう言われてみればそんな感じがしてくるかも知れないが、ではそれを求めようとすれば、何をあきらめなければならないかというと、それに関しても単純にそれらの反対概念を持ってくるなら、幸福になりたいなら不幸になることをあきらめなければならないとか、利益を得ようとするには損失を出すことをあきらめなければならないと言えるかというと、どうもそうではなく、人は不幸にならないと幸福のありがたみがわからないし、利益を出すにはまず投資しなければならず、投資した時点で金銭的には損失を被る可能性があるわけで、損失を被る可能性があること覚悟しないと投資できないわけだが、そうだとすると求める物事の反対概念を持ってきても二者択一とはならず、それらを意識して選ぶことはできないわけで、結果的にどちらか一方を得られるとしても、それは自ら選んだ結果ではなく、もたらされた結果になるわけだが、たとえ自分で勝手に特定の何かを選んだつもりでも、都合良くそれだけを得られるわけではなく、大抵は余分な何かがついてきて、幸福には不幸もついてくるし、利益には損失もついてきて、何かを得られたのと引き換えにし何かを失う場合もあるものの、確かにそこで何を選んだはずだが、それ以上の何かがもたらされて困惑するかも知れず、しかもそれが選びもしないのについてくるから、それが起因して後から面倒な事態が引き起こされるかも知れないし、それが思いがけない事態であり、場合によっては不幸な事態であったり損失を被る事態でもあれば、やることなすことうまくいかないと思われるかも知れないが、そういった困難な事態を何とか切り抜けた先で、思いがけず幸運が転がり込んできて、結果的に利益を得られるなら、試練を乗り越えてうまく行ったと思うかも知れないし、そうなれば何をあきらめたとも思えないどころか、逆に最後の最後まであきらめなかったから幸運を掴み取ることができて良かったと思うかも知れないが、それもそうなった結果から言えることであり、誰かがそんな体験をすることもあれば、他の誰かにはそんな幸運は訪れずに悲惨な体験となる可能性もあるだろうから、そこであきらめなければならないことは、必ずしも万人に等しく幸福が訪れるわけでもなく、平等に利益がもたらされるわけでもないということであり、逆に多くの人々が幸福になることをあきらめて、さらに利益を得ることをあきらめるように仕向けられるなら、それによって何がもたらされるかといえば、結果的に競争相手がそれだけ減って、粘り強く辛抱強くあきらめずに幸福になろうとしたり利益を得ようとした人に、幸福や利益がもたらされやすくなるなら、そんな人の粘り勝ちな結果がもたらされることになるかも知れないが、それが誰もが幸福になれるわけでも利益を得られるわけでもないことの真相なのかも知れず、もちろんそれも、ものは言いようのバリエーションの一つでしかなく、そうなった結果からそうなる成り行きを都合のいいように解釈しているだけかも知れないが、そういう意味ではどちらか一方を選ぶ二者択一の機会というのが、絶えずあきらめるかあきらめないかの二者択一を迫られていると状況を捉えておけばよく、そうなるとあきらめることによって得られるものというのが、不幸であり損失となるのだろうが、実際には必ずしもそれだけではないというところが一種の救いとなる場合もありそうで、いくら粘っても得られそうにないなら、そこではさっさとあきらめて、別の機会を狙って何かを仕掛ければいいということになるかも知れず、そういう場合はあきらめが肝心と言われるような成り行きになるだろうが、確かにそこではあきらめるものの、別の機会を得るためにそこではあきらめるということであって、そこではあきらめるが、それとは別の機会が巡ってくるのを辛抱強く粘り強くあきらめずに待ち続けることになるから、あきらめたのにあきらめていないという矛盾した態度や姿勢になるわけで、やはりそうなるとあきらめるかあきらめないかの二者択一にはならないわけだ。
3月11日「嫌な感じ」
メディアを通して伝わってくる政治や経済の情勢に惑わされて、世の中の否定的な面ばかりに目が行っていると、それとは逆の肯定的な面を見逃してしまうとも思えないが、ありのままの現状が肯定とも否定とも違った様相を呈しているように感じられるとしたら、それがどうなっているのかといえば、ただ単にそこで起こっている出来事や成り行きに応じて人が活動している姿が思い浮かぶだろうが、その活動が思い通りに行っていないと否定的に感じられる一方で、思い通りに行っていれば肯定的に感じられるかも知れないが、それを肯定するでもなく否定するでもないような状態になっていると、それを特に意識せずに、その場の成り行きにまかせて人が動いているに過ぎず、取り立ててそれについて何を思うわけでもなければ、その活動が何を意味するとも思えないだろうし、ただ淡々と行動しているだけで、それでもその人にとってのやるべきことをやっているなら、それなりに自身の活動を好意的に感じているかも知れないが、そのやるべきことというのが、他から見れば否定されるようなことだと、それをやっている人とそれを見ている人とで、それについての見解や評価が異なってくるだろうが、それをやっている人からしたら、もうなりふり構わず、他から否定されようが批判されようが、聞く耳を持たないような状況の中で強引なことをやっているようなら、それを見ている多くの人々が否定的な嫌な感じを覚えながら見ているはずだが、それが多くの人々に見られているわけでもなければ、勝手なことをやっていられる可能性もそれだけ高まるだろうが、メディアを通じてそれを報道されるような立場になっていると、嫌でも他人の目を気にしながらやることになるだろうし、結局はメディアを通した印象が否定的に受け止められてしまうのを、何とかして避けたいなら、それ相応に世間の常識の範囲内に収まるようなことをやろうとするかも知れず、そうなれば可もなく不可もないような人畜無害なことをやっていれば、それほど人目を気にするようなことにもならないだろうが、そうではなく他人から賞賛されたいとなると、多くの人々が好感を抱くようなことをやろうとするはずで、逆に何も好き好んで他人から嫌がられるようなことはやらないはずだが、それでも他人が嫌がるようなことをわざとやろうとする人がいれば、他人から嫌がられても構わないような状況になっているだろうから、そうであるならそこで他人との間で敵対関係ができあがっていると考えるなら、話の辻褄が合いそうで、そういう意味では他人が嫌がるようなことをやっている人がいれば、そのやっていることの対象となっている人との間で敵対関係が生じていると言えそうだが、もちろんその対象が集団となる場合もあるのだろうが、それとは逆の視点から見るなら、他人がやっていることが嫌な感じがすれば、そういうことをやっている人とは敵対していると考えればいいのかというと、普通はそう思いたいところだが、それが単純に敵対しているわけではなく、できれば敵対したくないのに、それでも他人がやっていることが嫌な感じがするとすれば、それに対してどう振る舞えばいいのかというと、目を背けるだけで済むようなことであれば、それほど深くは関わっていないことになるだろうし、実際に目を背けるだけで済んでしまえば、かなり楽な部類に入る対応となるだろうが、他に対処すべきことが出てくるような場合には、その他人がやっていることにそれなりに関わっていることになるだろうから、目を背けるだけでは済まなくなってしまうわけで、逆に目を背けるだけで済むようなことを意図して仕掛けることができれば、そういう面では誰も面と向かって文句を言ってこないだろうから、その程度の範囲内で好き勝手に振る舞えるわけで、そうなるとそれが嫌な人は見て見ぬふりをしていれば済んでしまう程度のことをやろうとすることになるわけだが、その辺が微妙なところであり、そういうことがエスカレートして嫌な感じ程度では済まなくなってきて、実際に暴力などの物理的な攻撃を仕掛けるようになれば、世界の中でも独裁体制や専制政治が横行している国や地域のような状態となってしまうわけで、そこで起こっていることは、多くの人々が自由を奪われて政治的な弾圧によって死傷してしまうような悲劇が繰り返されているわけだが、では日本の現状はどうかというと、戦前や戦時中などの過去においては、実際に治安維持法などが施行されて、そういうことが行われていた時期があったにしても、ここ十年余りの安倍菅岸田政権において何が行われてきたかというと、どちらかといえば悲劇ではなく、今も続いているような滑稽な茶番劇が繰り返されてきたと言えるのかも知れず、たとえ不快なことがゴリ押しされても、それに対して目を背けたり見て見ぬふりをしていれば済んでしまう程度のことが行われてきたのであり、そういう面では日本はもはや暴力的な独裁体制や専制政治の段階を卒業して、情勢が滑稽な茶番劇が繰り返される段階へと進化してきていると言えそうだが、そんな程度を維持することに貢献しているのが、ネトウヨと呼ばれる人たちであり、現状でも盛んにSNSなどで不快な言動を垂れ流しながら、多くの人々が目を背けたり見て見ぬふりをするようなことを仕掛けているわけで、それに対抗している意識があるかどうかはわからないが、れいわ新選組の山本太郎などもある種の人々にとっては目を背けたり見て見ぬふりをしたいような言動に及んでいるだろうが、果たしてそうやって敵対関係にある人や勢力がやっていることが滑稽な茶番劇に含まれるのかというと、当人たちはそんなことは思ってもいないだろうし、意外と真面目になって真剣に取り組んでいることだと思いたいのだが、たぶん彼らとしても世の中の大多数の人々が目を背けたり見て見ぬふりをされると困るかも知れず、ちゃんと自分たちの主張に耳を傾けて真剣に受け止めてほしいと思っているだろうし、もしかしたらそれらの主張を真に受けてくれていると思い込んでいる可能性さえあるかも知れず、そうだとすると、いつか彼らの主張を真に受ける人の方が世の中の多数派になるようなことでもなれば、その際には日本の情勢も滑稽な茶番劇のように感じられる時期を脱して、真の意味で民主主義が実現されたことになればいいのだろうし、今後そうなるかどうかの鍵を握っているのが、日本の現状に対して目を背けたり見て見ぬふりをしている人たちの存在になるのかも知れず、実際にそれらの人たちを振り向かせるようなことができればいいのだが、どうも現状から窺い知れる感触としては、そう単純に言えるようなことでもないような気がするわけだ。
3月10日「現状で起こっていること」
果たして現状で起こっているそれが、自らに関わってくることなのかどうか、関わってくるにしてもどの程度の深刻さで関わってくるかにもよるだろうが、それがすぐにわかるわけでもないのかも知れないが、ある程度は事前に何が起こるか予想がつくことに関して、それが起こってから予想通りのことが起こったと思えるようなら、それも起こった内容にもよるだろうが、自身に有利に働くようなことが起これば、安心できるどころか、場合によってはうまくいったと思うかも知れないし、その有利さというのが、どの程度有利であるかも、自分で勝手に有利だと思っている程度で、案外それが独りよがりでそう思っているだけであれば、大したことはないのだろうし、むしろ勘違いの可能性さえありそうだが、そうではなく、それが自身に関わりがあるのかどうかもよくわからないが、とりあえず何かが起こっていて、その起こっていることがどう考えても自分とは無関係の他人事だと思えるようなことなら、関心を向ける必要などないと思うかも知れないが、こちらが無関係だと思っても、あちらから執拗につきまとってくるようなことなら、どう考えても自身と関わりのあることになって、独りよがりに勝手に都合の良いように考えてみても、そんなのはあちらの知ったことではなければ、こちらの思いなど全く通用せずに、こちらの都合など無視して否応なく巻き込まれてしまうようなことが起こっていると考えるしかないが、実際に自分が巻き込まれているかどうかもよくわらないようなことが起こっていても、いちいちそれに関心を向ける気など起こらなくても、それが自分ではどうにもならないことであるならあきらめるしかないだろうが、あきらめたところで、それも自分の勝手な思い込みであるなら、そんな自らの思い込みなど知ったことではないようなことが起こっていて、あきらめようが何しようが、勝手に起こって、関係がないと思って無関心を装う人たちまで巻き込んで、勝手に進展してしまうようなことが現状で起こっているわけで、そうであるなら無関心を装ってみても無駄なのかも知れず、無関心を装うこと自体が無駄な悪あがきとなって、実際に多くの無関心を装っている人たちも巻き込んでそれが起こっているわけだが、いくら自分は巻き込まれていないと言い張っても、そんなのは知ったことではなく、そこで生きて存在しているだけで巻き込まれていることになっているから逃れようがなく、そんなことが起こっていること自体に気づいていないわけでもないし、誰もが気づいていることなのだろうが、それでも無関心を装っている人がいくらでもいるだろうから、そんな無関心を装う人たちを利用することによって、それらに関わっている人や勢力が世の中で主導権を握ることになって、実際に主導権を握っているつもりの人や勢力が、見苦しい言い訳や筋の通らない屁理屈を主張しながら事実を歪めようとしているわけだが、そんなことをやっていること自体が無関心の対象となっているのかも知れず、人々に対して無関心になるように仕向けていると言えるだろうが、くだらないことには関わらないように誘導している人や勢力が、そんなくだらないことをやっているわけだから、そこから目を背けたら思う壺なわけで、そんなふうにして必死になってくだらないことをやっている人や勢力を無視したり無関心を装わないで、嫌でもそれに関わろうとしなければならず、しかもそれほど大げさに関わらなくても構わないのだとしたら、ただくだらないことをくだらないと言っている人や勢力を支持したり応援したりするだけでも構わないのだろうし、その程度の関わり方で構わないのなら、それほど深刻な事態とは言えないのだが、それでもそんな事態にかこつけて大げさに危機感を煽り立てている人たちが鬱陶しく感じられると、嫌気が差して無関心を装いたくなってしまい、それが危機感を煽り立てている人たちの思う壺だとは思わないだろうが、そういう人たちは自身が意識することなく自爆営業のようなことをやっていると見なしておけばいいのであって、人の関心を引こうとして大げさに危機感を煽り立てるのだが、それが逆効果であることに気づかないどころか、煽れば煽るほど無関心となってしまうことが理解できないのだろうが、しかもそんな無関心を利用して主導権を握っている人や勢力としては、多くの人々が無関心を装っているから、それを利用して主導権を握っていられるとは思っていないのかも知れないが、結果的にはそうなっているから、しかもそのことにも気づいていないとは思えないが、ではそんな現状に対して危機感を抱いている人たちが言うように、本当に世の中の大多数の人々がそこで主導権を握っているつもりの人や勢力が事ある度に繰り出す見苦しい言い訳や筋の通らない屁理屈を真に受けているのかというと、メディアが多くの人々がそれを真に受けているように見せかけているというと、それも違うような気がしてくるのだが、大げさに危機感を煽っている人たちの言い分を真に受けると、そんな陰謀論を信じているつもりになれるかというと、それもちょっと違うような気がするのだが、それよりはただ単にそういうことには無関心だから、あえて意識して深刻に受け止めるようなことにもならないのかも知れないが、そんな成り行きに本当に巻き込まれていれば、SNSなどでそれに対して真面目に反応しているように装いたくなり、実際に自らも気が向けば反応しているように装っているわけだが、そこで重要なのは、軽い気持ちでそんなことをやっているのであり、そうすることが重要だと思っているのとは裏腹に、大して事を深刻には受け止めないように装いたいわけで、だから軽い気持ちで大げさに危機感を煽り立てている人たちの言動に対して真面目に反応しているふりを装いながらも、実際にはやり過ごしていて、果たしてそうすることが本当に重要なのかというと自信がないわけだが、たぶん辛抱強く粘り強くそうすることが肝要なのかも知れず、それが大して支持もしていないのに選挙で投票する政党や候補者がいるのと同じようなことではないにしても、軽い気持ちでそうすることが、それに対して無関心や無反応を装うよりは、幾分マシなのかも知れず、そこでもできるだけ深刻ぶらずに、気軽に見苦しい言い訳や筋の通らない屁理屈を繰り出すような人や勢力を批判したり非難する人や勢力の支持者や味方を装いたいわけだ。
3月9日「正しい行為に因縁をつける」
ある種の人たちが世の中のおかしいところばかり言い立てるのは、おかしくないところに気づけないわけでもないのだろうが、彼らにとっては道理に合わないところが目立ってしまうのは、道理に合っているところにいちいち文句をつけること自体がおかしいからというわけでもないだろうし、逆説的に道理に合っていることを問題視したいわけでもなく、政治や行政が道理に合わないことばかりやっているから世の中がおかしなことになってしまうという理屈が正しいように思われるかも知れないが、現実にはそうはなっていないわけで、おかしなことをやっている人たちは、自分たちが道理に合ったことをやっていると思っているわけでもないだろうが、少なくとも功利的には正しいことをやっているように思われるから、側から見ればおかしなことを推進しているわけだろうし、その功利的には正しいことが資本主義経済の中では正しいことになるかというと、何かをやった結果として利益を得られたら、それが正しいか間違っているかという判断基準とは別に、結果的に利益を得られたのだから、そのこと自体は良かったと思うだろうし、そういう意味では正しいか間違っているかではなく、良いか悪いかという判断基準となり、その一方で道理に合致したことをいくらやっても利益を得られるとは限らず、不正なことをやらないと利益を得られないなら、結果的には利益を得るために不正なやり方に手を出すわけで、しかも不正なやり方で利益を得ようとするわけだから、その利益を得られた分の損害を被る人たちも出てくると思いたいところだが、必ずプラスとマイナスで差し引きゼロになるとも限らないが、利益を得られるか得られないかという判断基準では、利益を得られたら良かったと思うし、得られなかったら悪かったと思うかも知れないが、不正な行為自体は悪いことだと認識されるだろうから、それ自体は道理に合わない間違ったやり方で利益を得ようとすることになるだろうから、そういうやり方で結果的に利益を得られるようなら、それが発覚すれば犯罪行為と認定されてしまうから、やったことは公にはできないし、利益を得られた事実は隠しておかないとならないわけだが、必ずしもそれが不正行為だと認定されるわけでもなければ、不正行為だと認定されないようにできればいいわけで、そうなると政治力を使って行政や司法に圧力をかけて、認定されないようにしたいわけで、また不正行為をやっている疑惑がメディアを通じて表沙汰にならないようにするには、メディアにも圧力をかけて、それを報道されないようにする必要も出てくるだろうし、やはりそうなるとジャーナリズムに携わる人たちの道理としては、政治や行政が隠そうとする不正行為を暴き立てることが、彼らにとっての道理に適った行為となるわけだから、当然のことながら不正行為を隠そうとする政治や行政とは対立するしかないわけだが、また同じ政治に携わる者でも、政府に関わっている政治勢力とは対立関係にある野党勢力となると、ジャーナリズムに携わる人たちと利害を共有して、政府が隠そうとする不正行為を暴き立てようとするわけで、それがジャーナリズムに携わる人たちと野党勢力の政治家たちにとっての道理に適った行為や行動になるはずだが、その一方で政府や与党に味方する報道機関としては、政府や与党が関わる不正行為に関しては見て見ぬふりをすることが道理に適った行為や行動になるかというと、それも表向きには不正行為を許さない姿勢を見せないと、社会的な信用や信頼を失いかねないから、その辺が微妙になってくるのだろうが、本当に社会的な信用や信頼を失いかねないかというと、それが世間を構成する民衆の判断に任されているのが、民主主義の理念が社会の中で通用している国や地域ではそうなっているはずだが、表向きにはそうなっているように見せかけたいとなると、しかもそうなっているように見せかけているのがマスメディアなどの報道機関であるなら、それらの報道機関が政府と癒着している可能性が高いだろうから、表向きにはそうなっていても、実質的には違う場合がありそうで、その典型例が日本であるなら、日本では民主主義の理念が通用していないのかといえば、ある程度は通用している面もあるとしても、全面的に通用しているとはいえない程度なのが日本の現状に近く、それに関して何がまずいのかといえば、政府や行政が経済的な利害関係に絡んだことをやり過ぎているから、不正行為が絶えない原因となっていて、そういう面では行政の透明性を高めなければならないのだが、政府や行政が社会の様々なところに関わり過ぎるのも良くないといっても、関わり方自体に問題があるように感じられるだろうし、それに関しては民衆が政治に関わることが求められていて、そこでも関わり方自体に問題があって、多くの民衆が何を勘違いしているのかといえば、国家と政府とは別の存在であって、国=政府ではないことがわかっていない民衆が多過ぎるのかも知れないし、それを理解したところで何がどうなるとも思えないなら、やはりそこに勘違いがあり、政府に関わっている政治家や官僚たちも経済的な利益を求めていて、経済的な利害関係の中で活動していることと、その活動内容が世の中の道理と一致するわけではなく、道理に合わないことをやっていても、経済的な利益にありつけるなら、その人の私的な部分では良いことになるだろうが、公的な部分では道理に合うような行為や行動が求められていて、それが政府に関わっている公的な部分でも道理に合うような行為や行動が求められているのだろうが、果たしてそれが国のためにやっていることなのかというと、政府のためにやっていることが必ずしも国のためになっているとはいえない面もあって、政府といえども経済的な利害関係に関わる部分では、政府という組織に属する人々の私的な利益を追求せざるを得ない面も出てくると共に、それが国のためにはならないことになってくるわけで、国のためにならないことがその国に住んでいる民衆のためにはならないことにもなってくるわけだ。
3月8日「屁理屈への加担」
たぶん的外れなことを信じているわけでもないだろうが、信じているように装うことが、その人を有利な立場に押し上げるとも思えないし、それが屁理屈であることに気づけないとなると、あるいは気づいているのに屁理屈であることを承知で、多くの人々が屁理屈を主張する勢力に加担しているようなら、そんな人々が世の中にはうようよいることになるだろうが、もちろん本当にうようよいるわけではなく、うようよいるように見せかけているのかも知れないし、それが下手な小細工だと感じられるわけでもなく、誰かが意図してそれを仕掛けているわけでもなく、なぜか世の中の空気を読んでしまうと、そんな方面へ加担してしまうことになるなら、世間が的外れな屁理屈を許容しているから、それが信用できるまともな理屈だと多くの人々に思われているわけでもないのに、メディアが印象操作のような手法を駆使してそんなふうに見せかけているなら、誰もが意図的にそういうことを仕掛けていると思うだろうが、特に意図しているわけではないのに、それが印象操作だと思われているわけで、メディアが屁理屈を屁理屈だと伝えているわけでもないだけのことなのだが、それだけでも印象操作のように感じられてしまうのだから、そうやって結果的には屁理屈を主張している勢力を擁護していることになってしまうのだろうが、それ以前にそれが屁理屈であるか否かということが議論の争点となっているわけではなく、屁理屈を主張するならどうぞ勝手に主張してくださいと仕向けられているわけでもなく、詭弁を弄して屁理屈を擁護しまくることが誰の利益にもならないとは言えず、そういうところでは誰も屁理屈も詭弁も真に受けているわけでもないのだろうし、それが紛れもなく屁理屈であり、さらには詭弁を弄して屁理屈を主張する側を擁護していることも自覚していて、そうすることが誰の利益にもならないことも、誰もが承知しているどころか、害悪しかもたらさないことも承知しているのかも知れないが、それでもなお屁理屈を屁理屈だとは言わないわけで、なぜそれが屁理屈でないのかに関して、それを誰が証明できるわけでもないし、もちろん屁理屈ではないとは言わないわけで、ただそれを屁理屈だとは言わないわけだから、それが屁理屈であることは明言を避けながらも、では屁理屈ではないと言いたいのかというと、そうは言わないわけで、だからそれが屁理屈であるか否かの判断を保留したままにしておきたいということだが、そこでは議論が平行線に終始するとしても、誰もがそれが屁理屈であることは自覚していて、しかも詭弁を弄して屁理屈を主張している側を擁護していることにやましさや罪悪感を覚えている人が一人もいないとは言えないだろうが、立場上は擁護するでもなく、直接擁護はしない代わりに、それとは別の方面から議論が平行線に終始していることを批判したい人もいて、そうやって何とかして論点や争点を逸らせて屁理屈を主張している側を間接的に助けたいわけで、だからといってそうすることによって屁理屈を主張してしまったことをなしにはできないものの、屁理屈を主張しているというマイナスな印象を薄めたいわけだが、それもそういう意図を自覚しているわけではなく、自身が屁理屈を擁護しているつもりもないのだろうが、結果的には屁理屈を擁護してしまうことになるとも思っていないだろうし、そこまで考えが及ばないのではなく、考えが及ばないように配慮しているというと、そんなことはあり得ないと思うかも知れないが、実際にそこまで考えが及ばないから、自身が何とかして論点や争点を逸らせようとしていることにすら気づいていないのかも知れないが、なぜそうなってしまうのかと問われているわけでもないから、そんなところまでいちいち配慮する必要も感じていないだろうし、実際に配慮など全くせずに、何かに魅入られたようにして屁理屈を有効に機能させるような成り行きへと加担しているわけで、側から見ればそんなふうに見えてしまうのだから、そんな印象に対して危機感を募らせるようなことにでもなれば、それも何とかして執拗に屁理屈を主張している側をやり込めなければと思うだろうし、実際に低レベルな詭弁を弄して事態を乗り切ろうとするのを阻止しようとするのだろうが、やはりそうなってしまうと、枝葉末節な方面へと議論をずらされている感を否めず、そうならざるを得ないところが、相手のペースにハマってしまっていることを示しているわけだが、それがそう仕向けられているのではなく、そういう方面へと事態が向かうように誘導されているわけではなくても、実際にそうなってしまうのだから、何かの偶然でそうなっているわけではなく、そこへと至る必然的な成り行きがあるように感じられて、それが屁理屈の勝利を証し立てているわけではないとしても、どちらの勝ちを判定する主体など存在せず、その場の成り行きがどちらが勝ったり負けたりするような勝負となっているわけでもなく、そこで行われている抗争から何らかの結論を得られるわけでもないところが、それが用意周到に仕掛けられた罠でも仕組まれた陰謀でもなく、事前に何かが仕掛けられていたとしても、そこまで想定されていた結果とは全く違う方面へと事態が波及して、誰もが思ってもみなかったような結末がもたらされることを期待しているわけでもないのに、もちろん期待が裏切られるわけでもすっぽ抜けるわけでもないだろうが、そういう期待とは関係のないところから別の何かがもたらされて、その何かというのが、大抵はもたらされていることにすら気づかないような何かとなるのかも知れないし、それが誰もがわかるような形で判明するのも、まだここからだいぶ先のことになるのかも知れない。
3月7日「根拠のない自信」
大した理由もなく日頃から感じている疑念とは違うありふれたことを述べるなら、この世界には何の謎もないが、この世界があること自体が謎だと断言したいとも思わないし、何の謎もないどころではなく、謎だらけなのがこの世界の真の姿だと断言したいわけでもないが、何も断言したくないと述べるなら嘘になってしまうかも知れないし、内容によっては断言できるだけの自信がなく、例えば現状の世の中がこうなっている原因はこれだと断定したい人が、自信に満ち溢れているように自らを見せたいと思っているわけではないとしても、実際に自信に満ち溢れているように自身を見せながら、人前でこうだと断言している人の述べている内容が信じられないのは、単純にその人が断言している内容に疑念を感じるからだろうが、そうであるならその人が自信に満ち溢れているように見えること自体には疑念を感じているわけではないはずだが、なぜかその人が断言している姿が自信に満ち溢れているように見えてしまうなら、それは錯覚かも知れないが、実際に錯覚してしまう人は、その場の雰囲気に呑まれてしまっているのかも知れず、たとえ筋の通らないデタラメなことを述べていても、自信たっぷりな口調で正々堂々と正論を語っているように見えると、その人が述べていることを信用してしまうかというと、すでにその人の支持者になっている人なら信用するかも知れないが、そんなデタラメなことを述べている人を信用してしまう人の存在が謎だとは思えないし、世の中にはそんな人など掃いて捨てるほどいると思っているわけでもないが、信用しているのはその人の述べている内容がデタラメであることではなく、その人と主義主張や価値観や態度や姿勢を共有しているなら、戦術や戦略としてデタラメなことを強弁していること自体も許容の範囲内であるから、たとえそんな人が大勢いる世の中が狂っていると思っても、そうなっていること自体が至って普通のありふれた世の中の状態であるから、それが狂った世の中の状態だと断言したくなってしまうのだろうが、そんなことを断言したくなってしまうのもありふれた心境なのかも知れず、できればそこで断言するのを思いとどまって、思考を働かせる必要があるかというと、そんな必要を感じない人が、世の中が狂っていると断言したくなってしまうのかも知れず、その狂っているわけでもないのに狂っていると断言したくなるような感性に自信を持ってしまうと、それが根拠のない自信だとは思えないだろうし、そう思ってしまう自らがまともな感性の持ち主だと思っている自覚がなくても、果たしてそれが感性なのかというと、理性であり知性でもあり悟性なのかも知れず、それに対して情念に囚われた人がどう振る舞うかというと、たとえ筋の通らないデタラメだろうと何だろうと、使えるものは何でも使って、手段を選ばないゴリ押しに訴えてでもなりふり構わず自らの行為や行動や言動や主張を正当化しようとするだろうし、そういうやり方が通用してしまう世の中が狂っていると思うのは至極当然のことであるが、それが普通のありふれた世の中の状態でもあるから、それを両義的に受け止められるかといっても、狂っているか狂っていないかのどちらか一方の状態だと思うしかないだろうが、そう思うなら情念に囚われて俄然狂っている方を選んでしまうのも、当然の成り行きであるから、別にそうなってしまうことが謎でも何でもなく、狂っていて当然の世の中だという認識を抱きながらも、それを理性や知性や悟性の力で変えて行きたいとも思ってしまうわけだから、狂っている状態から何とかしてその人が考えるような正常な状態へと変えて行きたいのだろうが、何によって変えようとするのかというと、自らの行為や行動や言動や主張によって変えようとするわけで、そういう変え方が情念に囚われた人に通用するかというと、通用しなければ世の中が狂った状態であり、世の中が狂っているから理性や知性や悟性が通用しない状態となっていて、しかも狂っている状態を正常な状態にするには理性や知性や悟性が通用しなければならず、ではどうやって理性や知性や悟性を通用させるのかというと、筋の通らないデタラメだろうと何だろうと使えるものは何でも使って、なりふり構わず手段を選ばないゴリ押しに訴えてでも、現状の狂った世の中を変えなければならないかというと、そんなことをやってしまったから狂った世の中になってしまったのだろうから、普通に考えて理性や知性や悟性を通用させるにはその手は使えないわけで、そうなるとまともな人たちが考える正常な世の中よりも、現状の狂った世の中の方がそうなりやすいと考えなければならないし、そういう意味でも狂った世の中になっているのが、普通の状態だと考えておかなければならず、その一方で理性や知性や悟性が通用するようなことはあり得ないかというとそうでもなく、人為的にそういう状態を構築しなければならず、普通ではない状態を人為的に構築しなければならないのだが、どうやってそういう状態を構築すればいいのかが謎なのかも知れず、それが初めから多数決は望めないし、いつも始まりは少数派が理性や知性や悟性を用いて、情念に支配された自然状態の世の中に戦いを挑むわけで、しかも理性や知性や悟性を世の中で通用させようとする情念に囚われながら、なりふり構わず手段を選ばないゴリ押しをしてしまう情念を抑え込みながらも、結局は情念の誘惑に負けて強引なことをやらざるを得なくなって、当初の目論みが失敗に終わってしまうのだろうが、それでも世の中が狂ったままの状態になっていることに精神が耐えられないから、結局は理性や知性や悟性に頼った行為や行動や言動や主張にならざるを得ないと言ってしまうと、実際には情念に支配された現実を現状の中で嫌というほど突きつけられているから、そんなのはあり得ないと思いたいのだが、現状の世の中でそれらのせめぎ合いが続いていると解釈しておくしかないだろうが、そういうところがこの世界の謎な部分なのではないか。
3月6日「高度な政治判断」
普通に考えるということがしばしば何かの逃げ口上として使われるかも知れないが、それでも普通に考えて政治判断に高度も低度もないだろうが、言い方としては高度な政治判断というのがありそうで、具体的にそれがどのような判断なのかといえば、例えば仮想敵国扱いの中国の目と鼻の先にある石垣島に、アメリカからどう考えても向こうの言い値の割高な価格で購入した先制攻撃用のしかも時代遅れのトマホークミサイルを迎撃用に配備することが意味するところは、それを高度な政治判断に基づいていると穿った解釈を施してみれば、自ずからわかってくるとも思えないが、中国に対してはそんな時代遅れのミサイルをわざと配備しているのだから、あなた方に対して攻撃する意志はありませんよと暗黙の意思表示をしていると共に、アメリカに対しては大量のミサイルを割高な価格で買ってアメリカの軍事産業に貢献していますよという、これも暗黙の意思表示をしていると受け取っておけばいいとしても、果たして本当にそうなのかといえば、多くの人々は信用してくれないだろうが、不信感を覚えようが疑いの眼差しを向けようが、実績としてそういうことをやっておけば事を無難に収めることができると捕らぬ狸の皮算用をしているわけでもないだろうが、意識して戦略的にそういうことをやっているとは思えないような成り行きまかせな事の顛末が何を意味しているとも思えず、大して本気ではないのに多額の費用をかけて張子の虎にもならないような防衛力の整備ならぬ、かえって防衛力の劣化を招いていると批判されるようなことをやって、何を狙っているとも思えないような意味不明な結果を招いていること自体が、特に何も意味していないというのはあり得ないと思いたいところだが、結果的に無意味なことをやっていると見なしても、そういうわけのわからない姿勢に取り立てて説得力が生じるわけもなく、敵からも味方からも疑念を抱かれるようなことをやることによって、何らかの隠された意図や思惑があるのではないかと穿った見方や考え方をされることを狙っていると解釈してみても、さらに意味不明度が増すばかりかも知れないが、そういうところを批判されても別に構わないわけで、他にも色々と批判されるようなことをやっているだろうから、いちいちそれらを批判されながらも、さらにどうでもいいような枝葉末節なことをやりながらも、それら以外には大して重要だとも思えないようなことをやろうとするから、それも批判の対象となるのだが、それらがことごとく論理的かつ理性的に考えると筋の通らないことであり、だからいくらでも批判しようがあるだろうが、結果的に行われていることがそうなってしまうのだから、それでも構わないわけではないとしても、現状でやれることがそうなってしまっている結果については、そうならざるを得ないわけではなく、もっとまともで筋の通ったことをいくらでもやりようがあることであっても、実際にはそうはならないのだからどうしようもなく、それがどうあがいてもそうなってしまうのではないとしても、他にもいくらでもやりようがあることをなぜかやらない代わりに、いくらでも批判されるようなことを延々とやっているわけだから、何か別に意図や思惑があってそうやっているわけではなく、何かしら意図や思惑があるにはあって、その意図や思惑に適うようなことをやっているつもりが、結果的にはそうは受け止めてもらえない事態となっているわけだから、それに関してもいくらでも批判しようがあり、実際に批判されているのだろうから、それで構わないとは言えないだろうが、それを批判する側にとっても批判される側にとっても、双方の直接の利害とは関係のないところで物事が動いている場合があり、それが何かというと経済情勢が動いていて、敵基地攻撃能力とかいう絵空事の嘘っぽさとは無縁のところで物や情報やサービスの売買や貸借などが行われているから、それと対比すると余計に政治の空虚さが目立ってしまうのだろうが、空虚であるだけでなく無駄に政府の予算を使っているようにも感じられて、もっと他に優先して予算を使うところがありそうに思われてしまうのだが、それが無駄に予算を使わないとうまくいかない場合もありそうで、しかも無駄に予算を使ったところでうまくいくとは限らず、かえってこじれてしまうから、そのこじれ具合に応じて批判や非難される度合いも強まって、何やらやっていることがうまく行っていないような印象も強まってしまうのだろうが、それがわざとうまくいかないようにしているわけではないだろうし、どうやってもうまくいかないところで、うまくいかないことをやっているから、余計に批判される度合いも強まってしまうから、やる前から批判されることを覚悟の上でやっているような成り行きになっているわけで、だから批判されて当たり前のことをやっている限りで、それを批判されたところで想定内であり、批判されながらもやっているのだから、それで構わないとは思っていないだろうが、では批判されないようなことができるかというと、成り行き上はできないと見ておいた方がよさそうで、それだけやれることが限られていて、限られている中でやれることをやろうとすれば、それを待ってましたとばかりに批判されてしまうわけで、では現状で批判されていることとは違うことをやるにはどうしたらいいかといえば、選挙で有権者が現状で主導権を握っている政治勢力とは別の政治勢力に投票して、政権交代を実現させない限りは、現状の延長上で批判されるようなことが今後も行われ続けると見ておけばいいのではないか。
3月5日「人とAIという対立軸」
例えば人とAIを比較して何かを語ることが、人の人としての限界を示しているわけでもなく、逆にAIの限界を示しているわけでもないが、比較してどちらが優れているか劣っているかについて語るのではなく、また人の活用とAIの活用の違いを語りたいわけでもなく、さらにはAIが人類にとって脅威となりつつあると危機感を煽り立てたいわけでもないが、AIも文章を構成できるし、会話もできるし、プログラミングもできるが、そういうことを人がやらせている限りで、AIが自ら意志を示しながら率先してそういうことをやっているわけではないし、人がAIを活用してそういうことをやらせていると解釈するしかなく、たとえAIが示した将棋の詰み筋を人が見逃したとしても、人の不完全さが示されたわけでもないし、逆にAIを超えるような指し手を人が発見したとしても、その人の非凡さや天賦の才に驚嘆するかも知れないが、そんなAIを開発したのが人であり、そこからさらにAIが自己学習によって性能が向上したり進化するとしても、そんなAIに対抗して人が何をやれるかを議論したところで、その議論している内容を知ろうとしているのは人であり、AIがそれを知って何か対策を立ててくるとしたら、そんな内容のフィクションを語りたいのも、それを知って動揺するのも人の方であるから、人が自作自演気味に興じているに過ぎず、それをAIの知ったことではないと想像してしまうのも人の方である限りで、妄想の域を出ない話となってしまうだろうが、人がAIに関して何かを語るとしたら、そんな話に終始してしまうとも限らないが、フィクションとして語るのではなく現実に起こっていることとして何か語るとしたら、AIを擁護するのではなく、人とAIという対立軸から、AIの脅威を前にして人がどうAIの脅威に対応したり対抗すべきかを語るようなら、やはりそこからもフィクションの内容が導き出されてしまうかも知れないし、どうして現実に起こっていることがフィクションに結びついてしまうのかといえば、そういう内容を語っていること自体が、語っている人が自らが語っているフィクションの中でAIに対抗しようとしてしまうから、それ自体がフィクションの中で語られる内容となってしまうのだろうが、それに対して現実に起こっていることはといえば、人がAIに対抗して何かをやろうとしているのではなく、ただAIを活用して何かをやろうとしているのであり、それ以外ではないところが、人とAIという対立軸から語るフィクションとは相容れない現実が生じていて、道具や機械の延長上でAIを活用する以外にあり得ない現実を受け入れ難いわけではなく、実際にあり得ないフィクションを語りながらも、そんな現実を受け入れているのだが、それがどんな現実なのかといえば、AIを活用できる人と活用できない人とで差がついてしまうことを恐れている現実であり、そういう意味で人とAIという対立軸から語る人は、現実にはAIを活用できる人と活用できない人という対立軸から語っているわけで、AIを恐れていると共にAIを活用できないことを恐れているわけだが、もっと具体的にAIを活用できないことが社会の中でその人を不利な境遇に陥らせることを危惧しているといえば、結局はパソコンやスマホを使えないと時代から取り残されてしまうという功利的な恐怖感の延長上で、これからはAIを活用できないと時代から取り残されてしまうという功利的な恐怖感を覚えているわけで、それが杞憂というか、杞憂であることに気づいていないのかも知れないが、それも結局は誰もがAIを使える時代の到来と共に忘れ去られてしまう杞憂に過ぎないのかも知れず、産業技術というのは絶えず誰もが使いこなせるような方向で世の中に普及していくのだろうし、逆に誰も使いこなせような技術は衰退して行くのかも知れないし、それに関して示唆的な例を挙げるとすれば、太陽光発電や風力発電は規模の大小はあるにしても一般家庭でも導入できるだろうが、原子力発電は無理であり、原発は誰もが使いこなせる産業技術ではないから衰退して行くと考えるなら、果たして遠い未来にはロケット技術なども一般に普及するのかというと、現状では考えられないが、SFの類いではそんな空想もありかも知れず、それもフィクションになってしまうだろうが、そういう意味ではフィクションの中で語られるAIとなると、世界を支配してコントロールするような大げさな内容になるが、現実に使われているAI技術となると将棋や囲碁の解析に使われたり、ネットでの活用となったり、どうしてもフィクションの中で語られる大げさな内容とは違って、身近なところでちょっとしたことに使われる傾向にあるのだろうが、その辺の落差が人とAIという対立軸から語る人が見落としているところなのかも知れず、何事も対立軸から語ると危機を煽り立てるような大げさな内容となるのとは対照的に、現実に活用されている方面では大げさに対立していてはそもそも活用できないから、そうはなっていないわけで、それを使うことによって人と人とが対立するように仕向けられる技術が発展するかというと、軍事技術がそれに当たるだろうし、実際に軍事技術の発展が人々に危機感を抱かせて、大げさに人類を滅亡に導くような技術は要らないと訴えかける人道主義者も中にはいるだろうし、それと同じでAIも人を危険にさらすような方面には活用しないようにしたいのだろうが、必要に応じてそうなってしまうから、そういう傾向は押しとどめようがないことなのかも知れず、必要とあらばどんな方面でも活用されることになるだろうし、活用された結果として世の中に普及すれば、次第に誰も何とも思わなくなってしまうのかも知れないが、そうなるのはまだ先のことだと思っているうちに、気がつかないうちに社会の隅々にまでAI技術が活用される未来が間近に迫ってきているのかも知れない。
3月4日「成功にも失敗にも至らないこと」
この先において想定していることが何も起こりようがないとも思えないが、何が起こるにしても、たとえ思いがけないことが起こったところで、前もってそれに備えることができれば、そうなった時に慌てずに済むかも知れないが、ではどうすれば今後起こるかも知れない思いがけないことに備えることができるかといえば、予想が的中すれば前もってそれに備えている可能性が高くなるとしても、前もってそれが起こることを予想できる時点で、思いがけないことが起こるわけではなく、逆に予想が裏切られたり、思ってもみなかった事態に至れば、思いがけないことが起こったことになるわけで、しかも思いがけないことが起こった時点で、それに対する備えができていない可能性が高いだろうし、そういう意味で思いがけない出来事には備えることはできないと言えそうだが、実際に想定外の思いがけないことが起こって、どうすればいいのかわからずに慌てて焦って対処に失敗してしまった経験も一度や二度ではなく、そんな数限りない失敗の経験を繰り返した挙句に誰もが今に至っているかも知れず、そう考えると対処に失敗すること自体が思いがけない出来事であり、しかも対処に失敗してしまったこと自体が思いがけない出来事への対処である可能性もあり、実際に対処に失敗したのに今も平然と生きているなら、失敗したからこそ、その失敗から学んで今に至っている可能性さえあり、その際には失敗してみないとわからないことや、失敗そのものが貴重な経験となっている可能性もあるかも知れず、それが場合によってはうまく行くことよりも重要である可能性さえあるとすれば、うまく行って成功することが期待通りの想定内のことであるのとは対照的に、うまく行かずに失敗することも想定内である場合もありそうだが、失敗すると思っていたら思いがけず成功してしまったり、その逆もあるとしても、中には果たしてうまく行ったのか行かなかったのかわからない場合もありそうで、成功する場合も失敗する場合も想定していたのに、どちらとも言えないような結果となってしまうと、確かに想定を外れるような事態であり、それが思いがけずうまく行ったのか行かなかったのか判断できないような場合なのかも知れず、なぜそれが判断できないのかというと、結果らしい結果とはならないからそれがまだ途中経過でしかなく、しかもどこまでやってもどこまで行っても終わりが見えてこないようなら、それが思いがけない事態だと言えるのかも知れないが、そこで何をやっているかもどこへ行こうとしているかもわからなければ、目的も目標も見失っている可能性も否定できないし、なぜそうなってしまうのかといえば、いつの間にか行為や行動の当事者ではなくなってしまい、何もできなくなっているわけで、何かをやったりどこかへ行ったりする必要がなくなってしまえば、目的も目標も見出せず、何をやったらいいのかもどこへ行ったらいいのかもわからず途方に暮れてしまうだろうが、それでも当初は自身で定めた目的や目標があったのかも知れず、それが目的を遂行しているつもりで目標に向かって努力しているうちに、途中でよくわからなくなって、当初の目的も目標も放棄せざるを得なくなってしまえば、果たしてそこからすぐに気を取り直して新たな目的や目標を定められるかというと、簡単にそれらを定められるようなら、その安易さがかえって不信感を覚える原因にもなりかねず、途中でよくわからなくなった時点で迷いが生じていて、果たしてこんなことをやっていても構わないのか、また当初に定めた行き先へ向かっても構わないのかという理由や原因の定かでない迷いだとすれば、何か途中で引っかかるものを感じていて、目的や目標に逆らうような成り行きへと導かれている可能性もあるから、そうなってからがそこに至るまでの経験が活かされるかも知れないし、それが経験を活かそうとして活かされるのではなく、思いがけず活かされるような成り行きとなれば、それが真の意味でのその人の活動となればわかりやすいというわけでもないが、意味に真も偽もなく、意味もなくそうなってしまうようなら、実際にそこで何かの成り行きに巻き込まれていて、それがその人の意思や意志とは無関係に巻き込まれている成り行きであれば、確かにそれが思いがけないことであると共に、意図せぬ行為や行動まで伴ってくれば、もはや完全に当初に定めていた目的や目標とはかけ離れたことをやっているわけで、そうなるとやっていることがうまく行くとか行かないとかとは全く違う行為や行動となっていて、しかもそれがその人の経験や勘が活かされるようなことであれば、その人が巻き込まれている成り行きの中でそれなりに機能していることにもなるだろうから、その人の意思や意志や意図や思惑とは無関係に思いがけずうまく行っていることにもなるだろうし、それがそうなることを目指してそうなったわけではなく、たまたま結果的にそうなったに過ぎないことであって、偶然の巡り合わせからそうなったと解釈してみても構わないが、それがその人にとってのこの上なく貴重な経験なのかも知れないし、生きている間で何度も味わうようなことでもなく、一期一会のようなことが起こっているとも言えるのかも知れないが、むしろ大切にしなければならないのはそういう機会であって、そういう機会に巡り会えたことに感謝しなければならないのかも知れず、もちろん意識して感謝する気にもなれないだろうが、そうなって初めて当初に定めていたつまらない目的や目標から自由になれたことを実感できるかも知れないが、それもほとんどの場合は実感していることさえ意識できないのかも知れない。
3月3日「世の中のおかしさ」
誰かがそれを意識して狙っているわけでもないのだろうが、不可抗力という作用もあるから、結果的にそうなってしまえば、そんな結果をもとにして辻褄の合うような説明をする人も後から出てくるのかも知れないが、少なくとも今はそんな時期でもないだろうから、まだそこまで至っていないのかも知れないが、実際にそこまで至ってしまうとまずいことになって、世の中がおかしな事態となってしまうのかも知れないが、果たしてどうなってしまうと世の中がおかしなことになってしまうのかといえば、現状のようなことになってしまった時に誰もがそれに気づいてくれるとわかりやすいだろうが、現状の中で誰がそれに気づいているわけでもなければ、取り立てて世の中がおかしなことになっているわけでもないことになるのだろうが、そうでなくてもこんな世の中になってしまったことを政治が悪いからだと主張したい人がいくらでもいて、具体的な出来事や事件を例に挙げながら現状の世の中がおかしなことになっていることを説明したがるわけだが、そういう説明とは別の方面から現状の世の中がおかしなことになっていないと主張できるかといえば、当たり前のようにして当たり前のことが起こっていると説明できれば、特に世の中がおかしなことになっているわけでもないと言えるのかも知れず、その当たり前のことというのがどういうことなのかも、人によっても立場によっても色々と言いようがあるかも知れないが、世の中の様々な方面から説明されている中で、例えば農林水産業などの第一産業と工業や鉱業などの第二次産業と非製造業やサービス業などの第三次産業との人口構成比が日本も含めた先進諸国では圧倒的に第三次産業の人口が多いのはわかりきったことだが、日本の場合は政府が人口比の少ない第一次産業と第二次産業を延命させようとして、第一産業については耕地面積や牧畜面積の広い国との国際競争力の面で太刀打ちできないし、漁業や林業の面でも人件費の安さで新興国には太刀打ちできないから、一部の高級食材や高級木材や産地と消費地が比較的近いという地の利が生かせる方面で細々と続けられる以外は衰退するしかなく、第二次産業についても人件費の安さや地の利がある他に技術力においても日本を凌駕し始めた新興国との国際競争力に敗れた方面では衰退したのだろうから、後は人口の多い第三次産業において対応を迫られたのだろうが、そこで第一産業と第二次産業を延命させようとした皺寄せが第三次産業に及んでしまい、具体的に派遣業などのピンハネ業界の勃興を許して、非正規労働者を大量に生んで賃金の安い労働者を確保しようとしたから、賃金が上がらない事態を招いたわけだろうが、それがおかしなことかというとそうでもなく、そうなって当たり前の事態に至ったのだから別におかしなことではないのだろうが、それが今ごろになって第一次産業の酪農業界が苦しいことになっているのを取り上げて、欧米の酪農先進国から乳製品を輸入しているのに、国内の牛乳を大量に廃棄しなければならないことを問題視して、それを政府に対する批判に利用してくる人たちが多いわけだが、それ以前に数十年にわたって価格競争力のない零細業者を延命させるために補助金の類いを交付し続けて、どうにもならなくなったから行き場のない牛乳を大量に廃棄するしかなくなったのだろうから、もはやそういう方面ではとっくに手遅れとなっているわけで、本来なら廃業するしかないような零細業者を延命させるために無駄に予算を投じてきたのが、ここに至ってどうにもならなくなったから、実際に今後その種の零細業者が続々と廃業することになれば、事態が正常化するのかも知れないが、少なくともヨーロッパなどでは農民が政府の政策に反発してデモや道路封鎖などの大規模な実力行使に出ることが度々あるから政府と農民の間でそれなりに緊張関係があるわけで、その一方で日本の場合は農民が農協共々政府に手なずけられて生かさず殺さずの補助金漬けで飼い殺し状態を強いられてしまったから、農民の自業自得な面もあるだろうし、そういうことが現状では第三次産業の非正規労働者たちにも言えるだろうし、安い給料に甘んじているのが不満なら、政府に対して抗議活動をやったり、選挙に行って政府に批判的な政党の候補者に投票するなりして、何らかの意思表示をやるぐらいしかやりようがないだろうが、そういうことを怠っている人の割合が多いから、それらの人たちが弱い立場に追いやられていると状況を受け止めるしかなく、それ以前にメディアを利用してそれらの人たちを分断して団結させないようにしている面もあるなら、政府の方が一枚も二枚も上手に立ち回っていることになるだろうが、民主主義を維持するには民衆が絶えず政府と戦い争わなければならないことに気づいていない人の割合が多すぎるから、民衆が利用しなければならない政治家が政府の味方となってしまい、政府の官僚機構の方でも無能な世襲議員が自然に増加するような政治体制へと持って行っていると事後的に解釈することも可能だが、それも意図してそんなことを考えている官僚集団がいるわけでもなく、何事もそれに関わっている当事者が利害対立を最小限に抑えて談合することによって戦わないように争わないように持って行こうとすれば、自然とそういう方向や傾向になってしまうから、結果的にそう解釈すると辻褄が合うように思われるだけで、何か意図してそう仕向けられているわけではないところがわかりにくいし、下手にわかりやすく理解しようとすると勘違いの素となってしまうのだろうが、そうなってしまうことがおかしいのではなく、実際にそういうことをやっていると、そうなるのが当たり前のように感じられてしまうから、そういうやり方が苦になるどころか、惰性としてそういうやり方を続けて行った方が、実際に楽なのだろうし、人は通常の状態でも、どちらかと言えば怠惰で楽なやり方の方を選んでしまいがちになってしまうわけで、そうなってしまうとまずいとは思わない限りでそういうことをやってしまうわけだが、なぜそうなってしまうとまずいと思うのかと言えば、結局は物事を理性的に考えるとまずいと思うしかなく、それが面倒でも正さなければならないと思うわけで、そういう意味ではいかにこれまで続けてきた慣習に頼った惰性に陥らないかが求められているのだろうが、そう考えると何がおかしくて何がおかしくないかについての解釈が従来の感覚とは違ってくるのではないか。
3月2日「影の部分」
たぶんそれに関して何を知っているとも思っていないが、まことしやかに囁かれている内容は知っているし、もちろんそんなことはないとも思っているわけだが、真相が明らかになっているとも思わないし、今後明らかになるとも思っていないが、真相を知りたいとも思わないというわけでもなく、噂されていることの真相を知ったら驚くかも知れないが、現状では憶測の域を出ないことでしかなく、憶測に基づいて何を推測してみても、正確さを欠いてしまうのもわかりきったことだが、それでも勝手に想像を膨らませて、何かありふれた妄想のような内容でも語ることができるかというと、できそうに思われるのだが、その気もないのにそんなことを語ることもないとは思うが、何かそれに関して語るのを避けられないような事態となれば、語らざるを得ないのだろうが、そんな事態が今ここでやってきているとも思えないし、詳しいことは何も知らないのに、なぜそんなことを語りたがるのか不思議に思われるかも知れないが、実際には不思議でも何でもなく、そのまことしやかに囁かれている内容がネットでも国会でも話題となったのだから、それについて語る機会が到来しているのかも知れないが、なぜかその話題を避けながら、それとは別の話題について語る必要もないのに、全く違うことを述べるとすれば、日本の産業構造に関して特徴的なのは、下請けや孫請けなどの立場の弱い中小企業が多いことであり、そうした中小企業が元請けの大企業からの値下げ圧力に屈して、消費税分を製品に全て価格添加できないから、その分の皺寄せが給与が上がらないことの要因となっていると誰かが主張しているが、それが消費税を廃止する理由になるわけではなく、消費税分を全て価格に添加できるように制度を改善すべきだと言っているわけだが、それとまことしやかに囁かれている内容が重なる部分があるかといっても、何もなければ無関係なのだろうが、そういった日本に特有な事情というのが、それとは別の面でも言われていることであり、それが軍事に関してまことしやかに囁かれている内容なのだろうが、なぜその内容に触れようとしないのかというと、そこから先は憶測になってしまうからだろうが、別に憶測だとしても関心があるなら取り上げても構わないはずだが、そういうことについて国会で別の誰かが取り上げているから、興味がある人はそちらの方を見ればいいだろうし、大して興味などなければ無視していれば済むかも知れないし、実際にほとんどのメディアが無視して取り上げようとしないか、取り上げるにしても意図的にその部分を除いて取り上げているようだが、なぜその部分を隠さなければならないのかといっても、そんなのはメディアの判断だから、当事者ではないからよくはわからないが、国会で取り上げている議員はその部分を強調したいのに、それを部分的に報道するメディアの方は主旨をずらして取り上げるから、結果的には議員の言いたいことが伝わらなくなってしまうのだろうが、それで構わないかというと、少なくともそれを伝えるメディアは構わないだろうし、そんなメディアの報道を真に受ける一般の民衆も、そんなことには大して関心がなければどうということはないだろうが、その議員の支持者や信奉者はそれでは収まらず、SNSなどで盛んにそのことを騒ぎ立てていて、よくぞその話題を国会で取り上げてくれたと狂喜乱舞しているわけでもないだろうが、それほどのことなのかと違和感を覚えている人も結構いるのかも知れないし、全ての面でそうなのではなく、戦争などの緊急事態となった際に何らかの取り決めがあるらしいということでしかなく、それも本当にあるかどうかも疑わしいのだろうが、仮にそういう取り決めがあったところで、現状では別に緊急事態でもないわけだから、それとは関係のない成り行きの中で政治や経済が回っているから、そういう面では特に気にするようなことでもないのだろうが、何かというとそれを強調したい人たちにとっては、日本がおかしなことになっている理由の全てがその問題に凝縮されていると主張したいわけで、それが本当にそうなのかどうかも憶測の域を出ないことだから、果たしてそういう事態になったとしても真相は藪の中かも知れず、確かなことは何もわからない可能性の方が高そうだが、できればそういう方面へと凝り固まったりせずに、もっと通常の制度的な面からそうなっている理由や原因について考えた方が、何か普遍的なことに触れているような気がするのだが、性急に答えへ辿り着こうとする人々にとっては、語っていることに普遍性があろうとなかろうと、そんなことにかまっている暇も余裕もなく、一直線に日本の特殊事情という理由や原因を語りたくなってしまうのかも知れないが、それらの人々としてもできればはっきりした答えに辿り着きたいのだろうから、そうなるのも無理はないし、それらの人々が望むようなはっきりした理由や原因などないとは思いたくはないだろうし、自分たちが納得できる答えに到達したいのかも知れないが、ではそれが本当に納得できるような答えなのかというと、それも憶測の域を出ないことである限りで、そういうことも言える程度の理由や原因でしかなく、それでもそれらの人々がそうなっていることを信じて疑わない理由があるかといえば、そうではないような気がするわけで、それも気がするだけであれば確証も何もないわけだから、それらの人々を納得させられるとも思えないが、少なくとも疑念を抱かざるを得ないのだから、政府に対して資料請求しても黒塗りの部分がなくなるような制度にしていかないと、本当のところは明らかにはならないのではないか。
3月1日「影響力の行使」
社会の中で暮らしていれば、大なり小なり何かしら外部の物事から影響を受けながら生活しているはずで、それに気づかないというのもあり得ないが、特に意識して何から影響を受けているとも思わなければ、気づこうとしていないだけかも知れないが、四六時中他からの影響を気にするわけでもないだろうし、何かそういうことを気にするきっかけがないと、そんなことは思わないかも知れず、それが他から指摘を受けてそう思う場合がありそうだが、特に指摘を受けなくても、他からの影響を意識せざるを得ない場合があるとすれば、それが何か直接の作用を伴っていれば、間接的な影響よりは強く意識するだろうし、他者との間で直接のやり取りから何か影響を受けるところがあるとすれば、他者のやり方に共感したり、それが魅力的に感じられると、そんな他者の真似をしたくなったりする場合があるだろうし、それが利益を得られるやり方であれば、それを真似て自身も利益を得ようとするかも知れないが、それが必ずしも利益とは言えないが、例えば何か同調圧力のようなものを感じているなら、同調圧力に逆らうと不利益を被る可能性があるなら、従わざるを得なくなるだろうし、場合によってはそれでも嫌なら逆らおうとするかも知れないが、そういう場合の影響を受けるというのは、何か悪い影響を及ぼされているように感じられるだろうし、それも圧力の強さにもよるだろうが、自らの意志や力で振り切れる程度であるなら、たとえ逆らって不利益を被っても、耐えられる程度であれば大したことはないかも知れないが、それによって自らの生活や体調に影響が出たり、例えば生活が立ち行かなくなったり、体調を崩して病にかかってしまうようなら、深刻な悪影響を受けていることになるだろうが、そこまではっきりした影響が出てくるなら、自分が何から影響を受けているのかわかりそうなものだが、中には原因不明という事態もありそうで、何から影響を受けているのかわからないが、身の回りで不幸な出来事が立て続けて起こったり、自分自身が不幸に陥ってしまえば、そうなった原因を知りたくなってしまうだろうし、できれば原因を突き止めて、自らを不幸に陥れている原因を取り除けるものなら取り除きたいと思うかも知れないが、それが自分の力を遥かに超えるようなどうにもならないものなら、あきらめるしかないだろうが、そういうところから宗教の魔の手が忍び寄ってくる場合もあるだろうし、それも何か超自然的な怪しげな力に頼って不幸を取り除こうとすること自体が、真の不幸の始まりとなる可能性もあるかも知れないから、他力本願となるにしても自分が理解できない力に頼るのはやめた方が良さそうで、頼るにしても自身が理解可能な常識が通用する範囲内に収まるような力の助けを借りたいだろうし、それが具体的なところでは、例えば体調が悪ければ病院や医師の力に頼るしかないし、法律的な揉め事の範囲内であれば弁護士などの助けが必要となるだろうし、犯罪が絡んでくるようなら警察に助けてもらうしかない場合も出てくるとしても、そういった具体的ではっきりした対処の当てがあるようなことではなく、何だかわからないが理解不能な成り行きから理不尽な影響力を行使されている気がするようなら、これと言って有効な対処法が見つかるわけでもないが、大して実害を被っているとも思えなければ、気にはなっているが、対処しようがないから今のところは放置するしかないように思えるだろうが、それでも何か執拗に嫌な感じがしていて、それをどうしたらいいのかわからないが、いずれは何とかしたいと思っているが、対処法が見つからないと、焦ったくなってしまうだろうが、たぶんそういう状態でいる時が、必要以上にそれを意識しながらも、得体の知れない何かから影響力を行使されていることになって、その影響力というのがどんな影響を及ぼされているのかもわからないと、こちらが気づかないうちにその得体の知れない何かから力を及ぼされていて、何かいいようにこちらが操られているような、疑心暗鬼に陥ってしまうかも知れないが、もしかしたらそんな状態が現状の世の中で起こっている不気味さなのかも知れず、特定の誰が、あるいはどんな勢力が影響力を行使しているわけではなくても、それでも特定の誰かが、あるいは誰もがよく知っている特定の勢力が悪だくみのような思惑を抱きながら意図的に何かを仕掛けていると主張する人もいくらでもいて、それも具体的にニュースなどで話題となっていることなら、特定の当事者がいるから、その当事者が何かを仕掛けて、結果的に何らかの事件となったりする範囲内では、そこから社会に向かって何らかの影響が及ぼされていることになるのだろうが、そうではなくニュースを伝える当事者が他の何かから影響を受けて、特定の傾向を伴った報道姿勢になっていると、そんな報道姿勢によって印象操作のような効果が指摘されて、影響を及ぼしているのが、ニュースの題材となる特定の人や勢力ではなく、ニュースを伝える側がそれを受け止める側に影響を及ぼそうとしていて、それがニュースを伝える側にとって都合の良い受け止め方になるように仕向けているのなら、意図的にそういうことをやっているのかというと、その種の事情通に言わせるならそういうことになるだろうが、果たしてそういうことを言ってくる事情通のような人の意見を信用できるかというと、それも信用するように仕向けてくるのだろうから、信用してしまう人も結構多いかも知れないが、そうやって様々な方面から影響を及ぼそうとしてくるわけだから、特定の人や勢力からだけ強力に影響力が行使されているわけではなく、各方面からちょっとずつ影響力が行使されていて、それら重なり合って、何らかの傾向になってくると考えた方が妥当なのかも知れず、その傾向というのが現状では掴みどころがないようなものとなっている可能性があり、これといってはっきりと断定できるような傾向でもないのなら、原因探しや犯人探しのようなことを焦ってやるべきではないのかも知れないし、そんなことをやったところで誰もが知っているような陰謀論のような結論しか出てこないのかも知れないが、それに関して何か言いたい人にとっては原因や犯人を断定したいわけだ。
2月28日「秘密の無効化」
この世の中に何か隠しておきたい秘密があるとしても、秘密の内容が明らかとなってしまえば、それが秘密ではなくなってしまうわけだから、秘密があるということが明らかになるだけでも、その秘密が暴かれてしまう危険と隣り合わせとなってしまうわけだから、秘密を秘密のままにしておきたいなら、秘密があるなんて言わない方が賢明だろうし、そういう意味では隠された秘密を明らかにしようとする試みには、秘密を秘密のままにはしておきたくないという意志や思惑が働いているのだろうが、誰かの尽力によって隠された秘密が暴かれたとしても、その秘密を知りたかった人には朗報だが、暴かれた途端秘密ではなくなってしまうわけだから、秘密を暴く行為は秘密を知りたいという情熱に突き動かされているとも言えるだろうが、秘密をなくしたいから行動しているわけでもなく、秘密があるという前提から秘密を知ろうとする行動が生まれるわけで、そこに秘密があるという前提がないと、それが秘密を暴いたり解き明かそうとする行動にはつながらないわけだが、果たしてこの世の中に暴きたくなったり解き明かしたくなるような秘密があるかといえば、それがありそうには感じられなくても、それ以前に誰もが隠しておきたい秘密が一つや二つはありそうな気もするだろうし、そんな他人の秘密を知りたいと思うのも、良く言えば知的好奇心を満足させたいと受け取っておけばいいのだろうが、悪く言えば他人の弱みを握って有利な立場になりたいと思うことの表れなのかも知れないが、その他人が公的な役職に就いていて、しかも不正なことをやっていたり嘘をついていたりすれば、それをメディアで暴露されてはまずいと思って、隠そうとするだろうが、果たしてそうやって隠している秘密が暴露されることによって、秘密を隠していた当人が公的な役職を辞任したり、下手をすれば刑事告発されて罰せられることになるかというと、たぶん過去にはそうなったケースがかなりあっただろうし、〇〇事件として歴史的にも有名になったケースもあるだろうが、最近の十年ぐらいの期間でも、誰かしら辞任したり罰せられたケースもありそうだが、また辞任もせずに罰せられず不起訴になって、それがおかしいのではないかと不信感を抱かれて、法治国家の体をなしていないのではないかと問題になっているケースもありそうだが、そういうことではなく、嘘がバレバレで見え透いた嘘をついているのに、それでも構わないようなことになってしまえば、もはや何も秘密ではなく、それが隠しておきたいような不都合な真実でもなく、おかしいことが平然とまかり通っているようなら、秘密にしておきたいようなことでもないだろうし、実際にそうなっていることが公然の秘密でもなく、全てが明らかとなっているわけでもないが、わざわざ不正を犯さなくても大丈夫な情勢になりつつあり、おかしなことをそのままごり押ししても、誰も文句を言わないどころか、多くの人々が批判したり非難しているのに平然と行われていて、何か世の中が狂っているのではないかと思われるような状況になっているとしても、それが当然のことのように行われているわけで、それに対抗して見え透いたパフォーマンスと受け取られかねないようなことも平然と行われているから、さらに狂気の度が強まっているようにも感じられて、実際には狂気でも何でもなく、それが当たり前のように感じられてしまう世の中の情勢なのだろうから、もはや正気の沙汰でないと思ってしまう人の方が戸惑っていて、隠された不祥事などを暴露するようなジャーナリズムのやり方が無効化された世界に暮らしていることを実感せざるを得ないのだが、そんな情勢の中でもやはり何か隠された秘密を探り当てなければならないのかというと、むしろ逆に剥き出しのまま誰の目にも明らかになっている現実を直視する必要に迫られているのかも知れず、それを直視できないから、嘘がバレバレとなっているような現実を平然とやり過ごせるわけで、できればそこで立ち止まってすぐにバレるような嘘を平然とついている人たちに向かって抗議しなければならないのだろうが、実際に抗議している人たちが少数派にとどまっているように装われているから、それに対して多数派を構成する人たちは安心して見て見ぬふりを装えるわけで、それがおかしいと思われるどころか、逆に抗議している人たちの振る舞いが滑稽に見えてしまい、何か無駄な悪あがきのようなパフォーマンスを繰り返しているようにも見えてしまうから、そういった立ち振る舞いが嘲笑の対象にもなっている現実があるのかも知れず、そうであるなら平然と見え透いた嘘をついている人々に抗議する人たちの方が戦略を誤っているのかというと、それが戦略的な行動なのではなく、誠実な対応を心がけているようにも見えるわけで、戦略的な行動と誠実な対応の何が違うのかといえば、戦略的な行動の中には必要とあらば敵や味方であっても欺くような行動も含まれてくるのだろうが、誠実な対応となると支持してくれる人々を裏切らないような心がけが感じられて、そういう面では好感が持てるのだが、むしろ平然と見え透いた嘘をついてみせる側が戦略的に振る舞っているつもりなのだろうが、果たしてそれが戦略的な振る舞いに感じられるかというと、苦し紛れの感が否めないとすれば、戦略どころではないのかも知れないが、たぶんそれで構わないわけで、戦略的に振る舞っているわけでもなく、そうかといって誠実な対応を心がけているわけでもないところが、愚かに見えてしまうのだとしても、そんな愚かな人たちを支持せざるを得ない人たちも大勢いるところが、いわゆる制度的な成り行きなのかも知れず、それも法律に則った制度ではなく、慣習に従った制度であるだけに、思考を巡らす必要もなく、ただ何となく制度に従っていると、同じように制度に従っている大勢の人々と幻想を共有できるような気がしてくるのかも知れず、しかも共有している幻想の中身が論理的な構築ではなく、何か情念の世界で生きているような感覚に支配されているようにも感じられて、そうした情念が現状の世界とは一致していないから、それが世界情勢からは取り残された時代遅れのような傾向も見せているのではないか。
2月27日「耳障りな真実」
耳障りな雑音に耳を傾けても雑音しか聞こえてこなければ、その雑音が何を意味しているかなんて、恣意的に勝手な意味を当てはめてみても、意味を当てはめている者の都合が反映するばかりで、その都合とは別の都合を優先させている他人には知ったことではないかも知れないが、比喩ではなく、果たして社会の中で多くの人々が雑音を共有することができるか否かということではなく、そんなのも意味不明となってしまうかも知れず、それ以外に何が言いたいのかわけがわからず、言いたくもないことを書き記す気もないのに、雑音について何か述べているように装いたいのかも知れず、なぜ装いたいのかもわからないまま、次第に装えなくなってきて、ふとした拍子に何かの真実が明かされてしまえば、それが雑音ではないことが明らかとなってしまう可能性も捨て切れないが、それ以前にそもそも何が雑音なのかを明らかにしないことには話にならないような気がすると共に、それが雑音であることの根拠を示さないと話の内容に説得力がなくなってしまいそうだが、雑音とは何かといえば、知りたいことを知られては困るから、雑音を出すことによって知ろうとするのを妨害する意図があるならわかりやすいが、果たして誰かが意図的に雑音を流して、人々が知りたいことを知られないようにしているのかというと、意図しなくても雑音を撒き散らしながら、しかも人々が知りたいことを知られないようにしたいわけではなく、逆に知らせたいのかも知れず、知りたいことが雑音に紛れ込んでいて、それを雑音だと感じるのではなく、それが多くの人々が知りたかった情報だとわかってほしいのかも知れず、わかってほしいから訴えかけているのに、聞く人には雑音としか聞こえないとしたら、知りたいのはそんなことではないと思う以前に、ただの耳障りな雑音でしかないから、その内容まで聞き取ろうとする以前に、雑音だと決めつけてしまい、結果的にそれを知ってほしいから訴えかけている人の試みが失敗に終わっているのかも知れず、それを聞き取るにはまずは関心を持たなければならないのだろうが、雑音だと感じた時点で、関心を持つ人などまずいないだろうし、果たして雑音を雑音だと感じさせないようにするにはどうすればいいのかという課題を克服しなければ、いつまで経っても雑音のままにとどまって聞く耳を持ってはくれないだろうが、なぜそれが雑音になってしまうのかといえば、聞く人の方がそれ以前に培った都合の良い先入観や固定観念や偏見などに囚われているから、その種の雑音には聞く耳を持ってはくれないのだろうし、それを雑音としか思わないように訓練を受けているわけでもないにしても、日頃からその種の雑音にはレッテル貼りなどの決めつけによって慣れ親しんでいるから、ちょっと耳にした瞬間から拒否反応を起こして、それ以後は雑音だと決めつけられてしまい、そんなレッテル貼りの決めつけをかいくぐってその人の脳にまで内容が届くことはなく、その種の内容を聞いた途端、意識の中で自動的に雑音に変換されてしまうような条件反射が身についていて、そんな人々に何を訴えかけてみても馬耳東風で、それがその種の人々のありふれた反応になっていること自体が、現状では何の問題にもなっていないのかも知れず、しかもそれらの人々だけがそうなっているのではなく、人々を取り巻く世の中の空気がそうなっていて、そんな空気を換えないと、空気を吸い込んだ人は皆その種の決めつけに感染してしまうと主張するようなら、それでは完全に比喩的な表現にしかならないだろうが、果たしてそれが比喩ではないと言えるのかというと、比喩でしかなく、直接にはうまく語れないような状況の中で、何とかして比喩を使ってでも危機的な状況を人々に理解させたいのだろうが、たぶんそれが危機的な状況であること自体が人々の理解を阻んでいて、実際には危機でも何でもなく、極めて楽観視できるような状況であるなら、やはり何の問題もないはずなのだが、それがなぜ危機的な状況だと理解させたいのかといえば、もういい加減目を覚ましてもらいたいから必要以上に危機感を煽ってしまい、危機感を煽るからなおのこと舐めてかかられて、もういい加減そんなたわごとは聞き飽きたと思われてしまい、彼らが雑音だと感じている内容に真実が含まれていることを理解したくなくなってしまうのかも知れないが、果たしてそれを真に受けたところで、何か良いことが起こるのかといっても、彼らにとってはそれが良いことだとは思われず、逆に都合が悪く隠しておきたい真実がバラされてしまうから、そうなってもらっては困るのだろうが、困るといっても、真実が明らかになると困るわけだから、現状で明らかになっていることが真実でないはずがなく、実際に現状で明らかになっていることも真実には違いないのだが、それが彼らにとっては都合の良いことだけを明らかにしておきたいわけで、しかもそれが都合の良いことだけとは限らず、都合の悪いことが雑音となって世に知れ渡っているから、それを嘘で打ち消そうとしているのだろうが、それが打ち消すまでもなく、耳障りな雑音として拒否反応を起こしているわけだから、たとえ世に広まっているとしても雑音は雑音でしかなく、人々は耳障りな真実の雑音よりは耳触りの良い嘘の方を信じているふりを装っているわけで、しかも嘘であることを百も承知で信じているふりを装っているわけだから、そうなっている時点で嘘をついている者と共犯関係にあるといっても構わないだろうし、嘘であること承知で嘘をついている者を支持していると同時に、嘘で塗り固めた土台の上に権力基盤を築き上げているのだから、これからも嘘をつき続けてもらわないと権力基盤を維持できないわけで、だから嘘をついていること自体は許容の範囲内だと思っておけばいいのだろうが、それが真実を無視しながら嘘をつき続けているわけだから、いつまでもそんな見え透いた嘘が世の中で通用していると、嘘を許容している人たちがいつかは困った事態になるのかも知れないが、今まさに彼らはそのいつかというのを無限遠の未来へと先延ばしする算段に追われている最中なのかも知れない。
2月26日「現状で肯定できること」
現状の政治を変えることが現状の世の中を変えることになると思うのは、その種の政治活動に関わっている人の思いになるかも知れないが、そもそも現状の世の中ではまずいのかというと、まずいも何もすでに現状の世の中で暮らしていて、現状の生活が苦しいから政治の力で現状を変えてほしいと思っている人たちが、現状の政治を変えることが現状の世の中を変えることにつながると主張する政治勢力を支持したり応援しているかも知れないが、もっと直接的に現状の政治に不信感を抱いている人たちが、現状の政治を変えようとしている政治勢力を支持したり応援している場合もあるだろうし、そういった人々は現状の世の中に対しても現状の政治に対しても否定的な印象を抱いている可能性が高そうだが、それに対して現状の世の中を肯定することが現状の政治を肯定することにつながるかというと、必ずしも世の中の範囲と政治が力を及ぼす範囲が一致しているとも言えないだろうし、少しは重なっている部分はあるにしても、政治が扱う範囲が世の中の範囲に完全に含まれてしまうとしても、政治の力ではどうにもできないところが世の中にはあるかも知れないし、その政治の力ではどうにもできないところが政治そのものである可能性もなきにしもあらずだが、もちろん政治を変えようと主張する政治勢力にとっては、現状の政治を変えられないはずがないと思っているだろうし、それももっと直接的に政治がひどいから世の中がひどいことになっていると思っているはずで、だからまずは政治を変えなければならないという使命感に燃えているはずだが、そういう意識の持ち主が現状を肯定できるかというと、もちろん変えなかればならないと思っているところは肯定できないだろうし、それに関しては否定的に感じる理由や根拠も納得できる理由や根拠として明確に示せるし、少なくともそういう意識の持ち主には現状を肯定できないと思っても構わないが、そんな人たちでも現状の全てを否定的に見ているわけでもないだろうし、何よりも自分たちの政治活動は肯定せざるを得ないし、せざるを得ないではなく、積極的に肯定しないと活動などできないだろうから、そういう部分では現状を肯定していると見ても構わないだろうが、要するに世の中の全てを肯定するわけにもいかないし、政治の全てを肯定するわけにもいかないが、中には肯定できる面があると見なしても構わないわけで、その肯定できるものの中に現状のある面が含まれているなら、現状の全てを肯定するわけにもいかないが、肯定できる面もあると見なしても構わないはずだが、果たして現状の中で何を肯定したいのかと言えば、現状の政治を変えようとしている政治勢力を肯定したいわけで、それが今のところは直接にはそれほど政治を変えられてはいないかも知れないが、彼らが活動することによって、しかも彼らの気づかないところで、間接的には政治を変えている面があるのかも知れず、それが何かといえば、政治に無関心な人々の意識を変えている可能性があるわけで、それが本当にそうなれば、選挙での投票率に表れるはずだし、実際に投票率が上がれば、しかもそれによって少しでも議会内での彼らの勢力が拡大すれば、少しは彼らの活動が報われたことになるかも知れないし、そうなればそうなった現状を肯定せざるを得ないだろうし、それもせざるを得ないというよりは、積極的に肯定することになるだろうが、そうであるなら現状を肯定するには、彼らの活動が報われる必要がありそうだが、果たして現状で報われているかというと、少しは報われているかも知れないし、そうであれば少しは現状を肯定できるのだが、それが少しでしかないところが肯定できないところであり、少しでは不満があり、その不満が解消されるには、彼らの活動が全面的に報われてほしいわけだが、そうなるためには何をやらなければならないかというと、それが何をやればそうなるということではない場合があり、少なくとも彼らが何もやらないはずがなく、彼らが現状を変えるためにやっている活動が必ずしも直接には現状を変えるわけではないとすれば、他の何かと組み合わさって現状を変えることになればわかりやすいところだが、それもそうだとは言えない面があるのかも知れず、それが彼らの活動とは直接には関係のないところで起こる事件や出来事であり、その事件や出来事を彼らが利用することによって現状が変わるかも知れないが、そこでも直接そうなるわけではなく、なぜか彼らとは直接には関係のない人々の尽力によって、彼らにとっては都合の良い世の中の状況となってくるかも知れないし、そうなると自力でも自助努力でもない、皮肉な成り行きとなってくるかも知れないが、そういうところでは結果的に誰もがそれと感じるはっきりとした変化が起こった後から、例えば陰謀論者の類いが事の経緯や経過として、話の辻褄の合うようなフィクションを提示してくるかも知れないし、それがフィクションであっても構わないかというと、たぶん人によっては構わないだろうし、世の中の大半の人々はそんなフィクションなど信じようとしないだろうが、人によってはフィクションを肯定的に受け止めた方が都合が良い場合が生じて来れば、実際に肯定的に受け止めているように装うわけで、そんな肯定的に受け止めているふりをする人々が何を肯定するのかと言えば、世の中の現状を肯定的に受け止めているわけではなく、むしろ否定的に受け止めていて、それを否定的に受け止めるために必要なのがフィクションであるわけで、フィクションと共に世の中の現状を否定的に受け止めながらも、そんな現状はメディアが伝える都合の良い嘘で塗り固めたフィクションであり、実際にはそれとは逆に本当の現実を物語っているのが、彼らが肯定的に受け止めているフィクションとなるわけだが、もちろん彼らはそれをフィクションとは思っておらず、そちらの方が真実だと主張したいわけだが、果たして彼らが真実だと主張しているフィクションを肯定できるかというと、それを信じたい人は肯定しても構わないが、信じられない人にとっては、その内容が面白ければ好意的に受け取っても構わないかも知れないし、つまらなければ否定しておいた方が無難な代物なのかも知れない。
2月25日「見えている光景と感じている印象」
世の中の現状をいくら否定的に捉えて政治を批判してみても、何の権力も権限も持たない一般人が何ができるわけもないと思うかも知れないが、それなりに権力や権限のある役職に就いている人でも、その権力や権限が及ぶ範囲内で何かできるかも知れないが、例えばロシアでは絶大な権力や権限を持っているように思われるプーチン大統領が、戦争を仕掛けて占領しようとしたウクライナでは、予想外の抵抗に遭って、もうすでに一年も戦闘が続いている割には、当初の目論み通りの成果は上がっていないように思われるし、また安倍元首相が銃撃されて亡くなってから、岸田首相が強引に国葬を強行してから半年ぐらい経つが、もうすでに国葬を強行した意味や意義などほとんど忘れられているだろうし、今ではひたすら国会で何の誠意も感じられないおざなりな答弁を繰り返すしかないような状態となっているが、それでも岸田首相が何か政治の主導権を握っているように装われているかも知れないし、思い通りのことをやりたい放題やっているわけでもないが、逆に大して成果など期待できないようなことをやっているかのように装うばかりで、それに対しても野党や批判的なメディアから延々と批判されているのが現状なのだろうが、もちろん野党側がいくら批判を浴びせても、国会の議席数が少ないから、大して中身のない骨抜き法案や予算案などが可決されるのは当然の成り行きだとしても、それで国内の政治情勢や経済情勢がどうなるとも思えないし、そういう成り行きから大して影響も受けずに世の中の情勢が揺れ動いているのだろうが、それでも政治を批判している人たちは、政治が駄目だから日本が衰退しつつあると主張したいわけで、そういう主張をどこまで真に受けるかは、その人の置かれた立場や境遇に応じて変わってくるかも知れないし、例えばSNSで政治批判を繰り返している人たちには、日本が悲惨な現状の中にあると思っているかも知れないが、その一方で外国から日本へやってくる訪日観光客にとっての日本は、それなりに魅力に満ちた国のように感じられるから、好感を抱きながらやってくるのだろうし、両者の間で見えている光景や感じている印象が違うのは当然のことかも知れないが、そこまで極端な立場の違いではなくても、日本に住んでいる人たちの間でも、経済的に豊かな人と貧しい人の間では、当然のことのように見えている光景も感じている印象も変わってくるかも知れず、他にも住んでいる地域や環境の違いによって、見えてくる光景も感じられる印象も違ってくるだろうが、それを客観的に判断できるような立場など考えられないかも知れないが、現状では政治も行政もやっていることが本来の役割からはだいぶ逸脱しているとしても、意識してそうなっている面よりは気づかないうちにずれて行ってしまうことの割合の方が多そうで、しかもそれがその場での活動の成り行きである限りで、その渦中にいる人たちにはそうなるのが当然のことのようにも思われてしまうのかも知れず、それが部外者や批判者には狂っているようにも思われるかも知れないが、彼らの活動を狂わせているのが、彼らが囚われている経済情勢や社会情勢であるのは、彼らの活動が狂っているようにも思われる部外者や批判者にもわかっていることだろうが、少なくとも批判者には経済情勢や社会情勢を狂わせているのが彼らの活動であるように感じられるのだろうし、彼らが主導権を握って経済情勢や社会情勢を狂わせていると感じられるから、それを批判しなければならないと思って、実際に延々と批判を繰り返しているわけだが、その一方で彼らには狂った経済情勢や社会情勢をどうすることもできないとも思われているのかも知れず、だから政権交代を求めていて、しかもそれが有権者の賛同をなかなか得られないから、焦っているのかも知れないが、たぶんそれなりに賛同を得られていて、批判もある程度は支持されているから、批判者としての立場をメディアの中で確立している人も少なからずいて、そういう面では批判としての活動もそれなりにうまく行っているわけで、それで何が悪いとも思っていないのだろうが、何も悪くはなくても、やはり思い通りの結果や成果は得られていないわけで、またそういう面では政治的な主導権を握っているつもりの政治勢力にとっても、思い通りには行っていないわけだが、何かを画策したり仕掛けたりすることがあっても、絶えずそこから逸脱するような成り行きが待ち構えているから、思い通りにはならないことを痛感するしかないのだとしても、そうであるなら必ずしも主導権を握っているとも言えないだろうし、もちろんある程度は主導権を握っているから、政権を担っていられるのだろうが、それがどこかの国の独裁者のように、強権政治ができるほどの力を得られているわけでもないから、何かと中途半端で大した成果も結果も伴わないようなことになってしまい、歴史に名を残すような輝かしい業績からは程遠い惨めな状態に甘んじるしかないのだろうが、しかもそうなっているからこそ、割と長期的に政権を維持していられて、それが批判者には御用マスコミや御用学者や御用文化人や御用経済人などと渾然一体となった、大政翼賛会のようなひどい状態に見えてしまうのかも知れないが、そんな状態を比較的長期間にわたって維持しているわけだから、そういう面ではうまく行っていることになるのだろうし、そのうまく行っている状態というのが、批判者に言わせれば日本が衰退して駄目になって行く過程なのだから、それがあながち勘違いだとも思えないだろうし、うまく行っているどころか、やることなすことことごとくうまく行っていないと見なしたいのだろうし、それを批判しているのだからうまく行っているはずがないのだろうから、何か腑に落ちないのかも知れないが、それも立場や境遇によって見えている光景も感じている印象も違うと言ってしまえばそれまでだが、その違いを他の多くの一般の人々とどれほど共有できるかで、批判の成果や結果も自ずから変わってくるかも知れず、まだ思い通りの成果や結果が得られていないのなら、やはり批判している内容への一般の人々の共感がまだ少ないと思うしかないのではないか。
2月24日「反戦平和というメッセージ」
それに関する直接の理由として何がどうなっているのかを示すには至れないかも知れないが、現状でも反戦平和というメッセージが社会の中で有効に機能すると信じるなら、実際に今でも世界の方々で戦争が起こっているだろうから、それに対して反戦平和を唱えたいと多くの人々が思えば、その思いを実現するために何やら大勢で集まって反戦平和集会のような催しを開いて、そこで反戦平和のメッセージを発することになるかも知れないし、さらには国家間で軍拡競争が起こっていて、それを放置しておけば間近に戦争が起こる危険性が高まると思えば、同じように反戦平和を唱えたいという思いが多くの人々の間で生じてくるかも知れないし、しかも過去に悲惨な戦争を経験していて、もう二度と戦争を繰り返したくはないという思いから、そこでも同じように反戦平和を唱えたいという思いが人々の間で生じてくるかも知れず、そんなふうに多くの人々がそう思うことが戦争を阻止するのに有効に機能するかというと、民主主義国家であれば、戦争を起こす危険性の高い政治勢力が政治の主導権を握らないようにするために、多くの人々が選挙で戦争に反対する政治勢力に投票することによって、国内では戦争への成り行きに歯止めがかかるかも知れないし、実際に戦争に反対する政治勢力が政権を取って、武力にはよらず外交努力によって戦争に至る成り行きを回避できれば、民衆の反戦平和の思いが、戦争を回避する成り行きをもたらしたことになるはずだが、果たして現状で選挙で投票する際に、反戦平和に賛同する政治勢力に投票することが、他の何よりも重要に思われるかといえば、多くの人々が必ずしもそうは思わないなら、それよりも優先すべき判断基準が他にあるということになるだろうし、それが何かといっても、他にも様々な判断が絡み合ってくれば、反戦平和に賛同する政治勢力が政権を取るとも思えないだろうから、そういう面では必ずしも反戦平和というメッセージがそれほど有効には機能していないのかも知れないが、誰も全く無効だとは思わないだろうし、実際に戦争になれば大変なことになるのは火を見るより明らかだから、そんなことは誰もがわかっているはずだし、そういう意味では誰も表立ってはその種のメッセージを発することには異を唱えないかも知れないが、異を唱えないからといって重要だと思っているわけでもなく、反戦平和のメッセージを発すること自体は許容できるというか、やるならどうぞご勝手に、という程度の受け止め方でも構わないだろうし、実際にも夏の終戦記念日が近づいてくれば誰かしらその種の催し物に関心を抱くだろうから、その際に大勢で反戦平和のメッセージを世界に向けて発信すれば、何やらその時期の雰囲気にフィットしているように思われそうで、その種の行事としてもそういうことが行われることについても、誰も異議を挟まないはずだが、果たしてそうではない成り行きがあるかというと、その際に反戦平和という趣旨に沿った何らかの作品を世に広めたがったり、それを反戦平和を象徴する作品だと宣伝したい意図があるなら、その作品にそれとは違う趣旨が含まれていると、そういう内容はあえて伝えないというか、それが無視しても構わないような枝葉末節な箇所ならそれで問題ないだろうが、その作品の中心となる主題が受け取り方によっては反戦平和という趣旨にはそぐわない内容を含んでいるなら、そういう内容は隠そうとするかも知れず、しかもそれを隠そうとしている人たちに、隠そうとする意識に欠けているなら、何かそこから違和感を覚えて、実際にそこには平和な時には露見しなかった人の醜悪な意識が描き出されていて、戦争中だからそれが露見したとしても、平和な時でもそれが目立たないだけで、大抵の人はそういう意識を保持しているし、実際に平和な時でも持続しているわけで、しかも反戦平和を訴えている人や団体の内にもそれが巣食っているから、それが彼らの欺瞞や偽善として目立っていて、それによって彼らが発するメッセージ自体も信用できないものとなっているとしたら、しかもよりにもよってそれを暴き立てているのが、他ならぬ彼らが反戦平和のメッセージに利用している作品であるなら、何か微妙に思われてきて、果たして彼らがそれに気づいているか否かは何とも言えないが、実際に彼らはいっさいそういう部分を取り上げようとはしないわけだから、それに気づいているから取り上げないのか、それとも意識せずに彼らの粗雑な感性には引っかかってこないところなのか、その辺が興味深いところで、少なくとも作品を制作した人には気づいていてほしいし、実際にそれに気づいたから、それを作品の主題として取り上げているのだろうが、なぜその作品を賞賛する人たちがそれに気づいていないように感じられてしまうのかといえば、実際にその箇所に言及せずに、他の枝葉末節などうでもいいような箇所ばかり取り上げて、その作品を賞賛するわけで、それが気づいてはいるがあえてその箇所を無視しているように感じられると、やはりそれがその作品を賞賛する人々の欺瞞であり偽善だと見なすしかないが、しかもそうすることが反戦平和のメッセージを他の多くの人々にも許容してもらえる条件のようにも思われてしまうと、何か腑に落ちないのだが、そうだとするとそれ抜きの反戦平和のメッセージなど人畜無害で何の中身もない空疎なものだと思わざるを得ないとまでは言えないが、彼らがあえて無視しているように感じられるそれがないと、反戦平和という言葉自体が、何でもないような無意味になってしまう気がしてきて、要するに彼らが唱える反戦平和などには関心が向かないし、逆に関心が向かってしまうのが、彼らがあえて無視しているのか、あるいはただ単に見落としているだけなのか、その辺はよくわからないのだが、彼らの価値観とは相容れない経緯や事情を含んだ作品そのものに自然と関心が向かってしまうわけだ。
2月23日「理屈とは違う面」
経済活動や政治活動に関わって生じてくる物事から導き出される理屈をあまり単純に考えない方がいいとは思うが、それが政治の場で主張される内容となると、単純でわかりやすいことが求められて、誰がそれを求めているのかといえば、誰もそんなことは意識して求めていないだろうが、たぶん何かを強硬に主張していると、自然とそうなってしまうと考えた方が妥当かも知れないが、何を強硬に主張するのかと言えば、対立している点を強硬に主張するのであり、そこで利害が対立しているからこそ、それが敵と味方という区別を可能にして、敵を批判することも可能となるわけだが、そういう意味では経済の分野で単純に資本家と労働者という区分けができるかというと、それを主張している中で対立しているように語るなら、そんなことが言えるが、誰が資本家で誰が労働者なのかと言えば、労働者も株を買っていれば、額の多少によるだろうが、少ししか買っていなくても、株を買っている企業に資本を提供しているのだから、そういう面では資本家だろうが、何かしら資産を持っていて、その資産を投資目的で運用しているなら、資本家と言えるかも知れないが、普通は資本家と呼ばずに投資家と呼ぶ方がしっくりくるだろうが、また投資目的ではなくても単に資産を持っていれば、それも額にもよるだろうが、資産家と呼ばれるだろうし、もちろん普通は多額の資産を保有しているから資産家と呼ばれるのだろうが、その一方でそういった資本家の類いと対立する概念としてよく使われるのが、労働者と呼ばれる概念だが、労働者が資産や資本を何も持っていないのかというと、何もなくても労働者として働いているなら、自身が人的資本として活動していることになるだろうが、それも普通はそういうことではなく、金持ちと貧乏人を対比して、金持ちが資本家で貧乏人が労働者というイメージで主張を構成したいのだろうし、しかも金持ちや資本家と敵対する立場で何かを主張するなら、貧乏人や労働者の味方を装いたいのだろうが、当の貧乏人や労働者が誰の味方かというと、意外と金持ちや資本家の味方であったりするから、金持ちや資本家と敵対して貧乏人や労働者の味方を装う立場というのがはっきりしなくなってしまうのだろうが、どうしてそうなってしまうのかというと、それとは別の概念として、例えば国を守るとかいうイデオロギーを真に受けて、何から国を守るのかというと、共産主義から国を守るとかいうことになれば、たとえ貧乏人や労働者といえども、貧乏人や労働者の味方を装う共産党とは敵対することになり、さらにその延長上に定義される反日左翼から国を守るというイデオロギーに洗脳されると、同じく貧乏人や労働者の味方を装うれいわ新選組とも敵対することになるかも知れず、そうなると何かとややこしい事態になってくるはずだが、そこからさらに言うなら、労働組合は労働者の味方だと普通は思われているはずだが、なぜか連合という労働組合が資本家の手先だと批判されているから、その連合が支持母体の立憲民主党とも敵対することになってきて、ではいったい貧乏人や労働者の真の味方は誰なのかということになれば、国を守ることを最も重要な政治課題と位置づけている自民党や維新の会が貧乏人や労働者の味方ということになってくるかというと、もちろんそうなると冗談であり、誰もが出来の悪い作り話だとバカにするはずだが、そもそも果たして国を守るということがどういうことなのか、それを真面目に考えたことがある人などそうはいないのかも知れず、真面目に考えたところで、まともな答えに辿り着くとも限らないし、何か偏ったイデオロギーに洗脳されてしまうと、考える以前におかしな偏見を信じ込まされてしまうから、考える暇などないのかも知れないが、そうでなくても矛盾だらけの作り話を理由にして防衛費を倍増させようとしたり、それも出来の悪い口実に過ぎないのだろうが、実際に何がどうなっているのかに関しては、うまく理路整然とは説明できないようなことが起こっていて、しかも説明に納得されては困るようなことなのかも知れないから、元から説明では不十分なのであり、それについては説明している以上のことが行われていて、また説明を外れるようなことも行われているから、それをいちいち納得できるようことは説明できない可能性まであり、元から話の辻褄が合っているわけではないのかも知れないが、そういう意味では単純に、国を守るとか、資本家と敵対して労働者の味方を装うとか、そういう主張の中で言われていることが、実際にはどういうことなのかが、主張している人にもよくわかっていない可能性があるから、そういった主張自体を真に受けるのは愚かなことなのかも知れないし、それに関してわかりやすい論理や理屈を用いて単純な内容を信じさせようとする意図や思惑を感じ取れるなら、そういう主張ではうまく説明できないことが世の中では起こっていて、そこで誰が誰の敵で誰の味方だとしても、それが実際の利害関係には反映されていなかったりすれば、場合によってはたとえ味方であっても裏切ったり切り捨てなければならなくなったりするわけで、そうなると国を守っている人たちが売国奴のようなことに加担していたり、労働者の敵は資本家でも企業でもなく、味方を装う政治家や政党や政府であったりする場合もあり得るだろうから、もちろん敵であろうと味方であろうと、実際の利害関係とは別であったりするかも知れないから、敵とか味方とかいう区別ではなく、活動していく上で協力関係を築けるなら、敵だろうと味方だろうと、そこから共同作業をやれる可能性が出てくるだろうから、そういうところでおかしな先入観や偏見を抱かないようにしておかないと、やれることが限られてきて、みすみす得られる利益を取り逃しかねないことにもなってしまうから、そういう意味でも大して信じられる理屈でもないのに、初めから敵と味方とをはっきり区別するようなことはやらない方が、活動の柔軟性を保つ上では必要になってくるかも知れない。
2月22日「デジタル化の目的」
行政のデジタル化というと現状の日本ではすぐにマイナンバーカードが思い浮かぶかも知れないが、その管理システムに絡んで特定の企業や官僚の天下り目的で設立した行政の外郭団体などと行政とが癒着する利権構造が問題となっているのも容易に想像がつくところで、健康保険証から運転免許証まで何でもかんでもマイナンバーカードに集約させたいという思惑も、そんな行政の都合を反映しているのかも知れないが、その一方で民間で進んでいるデジタル化がどういう傾向を見せているのかというと、例えば銀行が紙の通帳をなくしてスマホのアプリなどで残高を見たり振込ができるとか、あるいはクレジットカードでも利用明細がスマホで見ることができるとか、そういうことだけをデジタル化というわけでもなく、そういうのはペーパーレス化とも呼ばれるだろうが、そのペーパーレス化ということだけであれば、何もマイナンバーカードなど必要なさそうで、住民票や印鑑証明などの紙を交付する手続きをなくせばいいだけで、もちろんネットにアクセスできない人のために今まで通りの手続きも残さなければならないだろうが、ネットにアクセスできる人にはスマホのアプリや役所のホームページ内で手続きすれば済んでしまうようなシステムにすれば、だいぶ役所の業務も効率化や簡略化できるだろうし、それに伴って窓口業務も縮小できそうだが、もちろん現状で行われているのはそんな面だけではなく、役人や官僚にその自覚があるかどうかに関わらず、行政の権限や権力や縄張りをいかに拡大させるかという目的が意識されているわけでもないとしても、結果的に出てくるのはそういう傾向になってしまうわけで、放っておけばそんな傾向が顕著になってしまいがちになるから、それを食い止めるためにも国会などでの審議を通じておかしな点を指摘したり追及しなければならないのだろうが、そうだとするとデジタル化自体が問題となっているのではなく、デジタル化にかこつけて政府が良からぬことをやろうとしているから、それを阻止しなければならないという理由が、反政府的な批判者たちの側で生じてきてもおかしくはないわけだが、実際にもマイナンバーカードの普及率が思ったほど伸びないから政府が焦って、あの手この手で半ばゴリ押し気味にマイナンバーカードを取得するように民衆に圧力をかけるようなことをやってくるから、そらみたことかと批判のボルテージを上げている人たちもいるだろうし、そんな結果になっている時点で誰の思う壺というわけでもないが、それが政府の統治能力のお粗末さを表しているというか、かえってそうなっている方が政府としては都合が良いのかも知れないし、なぜその方が都合が良いのかといっても、毎度のことながら政府が行うことがうまくいくような事例などほとんどなく、大抵はやり始めると事態の収拾がつかなくなるわけで、そうなると普通は都合が悪いし、もちろん事業に関わっている誰もその方が都合が良いなんて思っていないはずだが、もちろん担当大臣も表向きはマイナンバー事業を成功に導きたいだろうが、それも事態がこじれてしまうことを狙っているわけではなくても、結果的にはそうなるわけで、それがわざとではないにしても、うまく行きそうにないことをやってみたり、暴論や暴言を言い放ってみたりと、そうやってからそれに呼応して批判してくる人たちをあぶり出しておいて、うまく行きそうにないのに味方してくれる人たちや、暴論や暴言を言い放っても擁護してくれる人たちと一緒になって、それに対して批判してくる人たちを迎え撃つという成り行きに持って行きたいわけで、要するに批判を封じ込めるにはまずは批判されるようなことをやってから、それに対して批判してくる人たちを撃退する手法をとるわけで、それに関してはスラップ訴訟とかいうのもその種のやり方の一つになるかも知れないし、政府や与党の幹部が時折ひどい暴言を吐いたりするのは、その自覚がなくても、それでも平然としていられることをアピールしていると受け取っておけばいいのかも知れないが、それによってメディアや民衆を試していると言えるだろうし、そんなことをやっても平然と支持してくれる人々が現にいるわけだから、ある程度はそういうやり方がうまく行っている証拠となるだろうし、それが大阪で維新勢力が盤石な理由でもあるだろうから、誰でも簡単に批判できそうなことを言ったりやったりすることによって、あるいはうまく行かないようなことをやって事態をこじらせて、それを批判したり非難してくるような人や勢力に言いがかりなどの難癖をつけたり、バカっぽい屁理屈を並べたりしながら、逆に撃退しようとするわけで、それが意図して行われているようにも思われていないだろうし、実際にそれを批判している人や勢力はそうは思っていないのかも知れず、その証拠にSNSなどではムキになって毎日のように四六時中政府与党や大阪維新や場合によって立憲民主までも罵倒しまくるような人たちがいくらでもいるわけだが、そういう人たちは自分たちが罠にはまっているとは思っていない限りで、延々と罵倒しまくっているのだろうから、それが熱くなっていない人には奇異に感じられるわけだが、たぶんそうなっていることに関して納得できるような原因や理由があるわけでもなく、むしろ批判している人たちの方がまともに思われると、そう思ってしまうことから独善的な傾向が表れてきて、なぜこんなに批判しているのに世の中が良くならないのか、それでも政府与党や維新を支持する人たちが大勢いるのか不思議でたまらないだろうが、そう思うように仕向けられているのだからそう思うより他ないわけで、しかもそれが特定の誰が、あるいはどんな勢力が仕向けているわけでもなく、その場の空気として、あるいは雰囲気としてそうなっていると、空気を読めていないわけではなく、雰囲気を感じ取っていないわけでもなく、むしろその場の空気を読めているからこそ、その場の雰囲気を感じ取っているからこそ、より一層そうなってしまうわけで、果たしてそういう傾向にどうやれば抗うことができるかといっても、抗う理由のない人が抗わないわけだから、抗えなくて当然の成り行きだと思うしかないのではないか。
2月21日「三島由紀夫の自決と一般人の自殺」
三島由紀夫は割腹自殺の直前に、自衛隊の市ヶ谷駐屯地のバルコニーの上から自衛隊員に向かって何を訴えかけていたのかといえば、このままでは自衛隊がアメリカの軍隊となってしまうから、クーデターを起こすように呼びかけて、自衛隊を天皇の軍隊に戻さなければならないと主張していたのだが、それが聞き取れなかったり、聞き入れられないことを悟ったのかどうかわからないが、クーデターの呼びかけが失敗に終わったから、これ以上生きていく意味がないと思ったのかどうかも当人が明らかにしないまま自殺してしまったのだから、自殺した理由など推測するしかないが、クーデターを起こすという明確な動機があって、それが果たせないことを悟って自殺したと解釈するしかないし、そこから考えるなら、三島由紀夫には明確な動機や理由があって自殺したのであり、それと一般の老人に向かって自殺しろだの自決しろだの言うのとは全く次元の違う話だろうし、それを何かの冗談で結びつけて、笑い話のように語った人がいるとしても、寝たきり老人などの無名の生活弱者に自殺や自決を迫るのと、三島のようにどちらかと言えば著名人で自殺や自決する自由のある生活強者が自ら決断して自殺や自決するのとはわけが違うと考えないと、話の整合性が取れないことになってしまうわけで、海外の例で言えば、フランスの著名な哲学者のジル・ドゥルーズは、病院の5階の窓から飛び降りて自殺したらしいし、同じく著名な映画監督のジャン=リュック・ゴダールもスイスで自殺幇助団体の助けを借りて自死したらしいが、誰もがそういう死を選べるわけでもないし、それらの人たちは山本太郎の言うような、これ以上生きていると家族や社会に迷惑がかかるから死ななければならないなんてこれっぽっちも思っていないわけで、むしろ身勝手に周囲に迷惑をかけながら死を選んでいると解釈した方がしっくりくるし、ゴダールの場合は勝手に生きて勝手に死んだわけで、それが別に悪いわけでもないだろうし、その一方で生きているだけで家族や社会に迷惑がかかるなどというやさしい理由で死にたいなんて、それで本当に自殺したらただの弱者の死になるだけで、社会に対して負けを認めたことになるだろうが、それに対して三島由紀夫の方は社会に迷惑をかけて世間をお騒がせして、自身の他にも後追い自決で一人の死者と、自衛隊の幹部を拉致した際に数人の負傷者も出して死んだわけだから、また中には巻き添えを食って刑事被告人になった仲間まで出したわけだから、全く真逆の死に方だと言えるだろうし、そもそも自分が死ぬ理由に家族や社会に迷惑がかかるからなどという理由を挙げられるかどうかも、その人の状態にもその人を取り巻く状況にもよるし、それとは違う理由でただ生きているのが嫌になって死んだり、死ぬのが嫌だから生きようとしたりする状況もあるかも知れないし、一概に死ぬ理由も生きる理由も一つに限定すること自体がおかしいわけで、そういう意味で頭がちょっといかれた煽動者の口車に乗って、死ぬ理由を家族や社会に迷惑がかかるからという理由に限定されてしまっている時点で、言葉巧みに誘導されていることに気づいていないわけで、しかもその煽動者が老人に死ぬことを勧めているとしても、あくまでも死の決断は自分でしなければならず、さらには全ての老人が同じ理由で死を決断するなんてあり得ないし、三島由紀夫も別に社会のために死んだわけでもなく、客観的にはクーデターに失敗したから死んだわけで、もちろん常識的に考えて三島が呼びかけたところで自衛隊員がクーデターに賛同するとも思えないが、少なくとも三島の事例が煽動者が限定する理由で老人に自死を勧める根拠となる例ではないわけで、そうだとすれば煽動者の巧みな話術に多くの人々が騙されてひっかかっていると言えるから、それが煽動者にとっては愉快でたまらないのかも知れないが、さらにはその煽動者に対する批判を口実にして、人間の尊厳とか生命の尊厳とかいうもっともらしいヒューマニズムのイデオロギーを語りたい人も大勢現れるわけだから、その種の人々に語るきっかけを提供してくれる煽動者がメディアで引っ張りだこなのは言わずもがなで、メディアの期待に応えてくれる便利で使い勝手の良いアジテーター程度の浅知恵と大げさなヒューマニズムのイデオロギーが釣り合いが取れるような比較対象として機能するかどうかもよくわからないが、たとえ寝たきり老人や重度の身体障害者が家族や社会に迷惑がかかるから自ら死を決断したとしても、それで得をするのは葬儀業者ぐらいなものだろうが、そういう人々を生かしておくのに費用がかかるということは、その費用をあてにしている医療機関もあるだろうから、その種の医療機関にとっては金づるにはなるだろうし、そういう医療機関で働いている人も大勢いるから、結局は医療技術の進歩によってその種の人々をなるべく効率良く低コストで生かし続けるシステムを構築するしかないだろうし、実際にそういう方面へと医療技術が向かっている可能性もあるわけで、それに関してはロボット技術などが有望なのだろうし、何よりもそれらの人々が生きたいと願って粘り強くしぶとく生きようとする限りで、周囲もそれらの人々の情熱に引きずられて、それらの人々を生かすような方向へ技術革新が起こる可能性もあるから、ヒューマニズムのイデオロギーも捨て難いかも知れないが、そういうきれいごとではなく、憎まれっ子世にはばかるような戦略的に狡賢く振る舞うような図々しさが求められている可能性があるのかも知れず、実際に老人に向かって自決することを勧めるアジテーターも戦略的に狡賢く振る舞いながら図々しく活動しているのだろうから、死ぬことを勧められた老人たちもそういう煽動者を見習って、自分が生きていることによって家族や社会に迷惑がかかるのだとしたら、より一層今まで以上に迷惑をかけながら生きようとした方が世のため人のため科学技術のためになるのではないか。
2月20日「『はだしのゲン』について思うこと」
何か違うんじゃないかと思うことが確信に変わる時、それが自分の勝手な思い込みに過ぎなくても、たとえ勘違いであったとしても、そこでこだわらないと、他のどこでこだわればいいのか、こだわるべき機会を逸してしまうのがしゃくだから、こだわるべき時はそこだと思って、結局は勘違いなこだわりに囚われたまま身勝手な振る舞いに及んでしまうのかも知れないが、そうなっても何かやりたいことや言いたいことや表現したいことがあるのを意識しているはずだが、その一方でできればやりたくないのにやらざるを得ないことや、できれば言いたくないのに言わざる得ないことや、できれば表現したくないのに表現せざるを得ないことがあると、自らの意志を超えてそれをやらざるを得なくなったり、言わざるを得なくなったり、表現せざるを得なくなったりするのかも知れず、そうなった時に自らの勝手な思い込みとは違う世の中の真実が明らかとなるかどうかはよくわからないが、少なくとも自身の思い通りにはいかない何かが作用して、そうなることによって自らの意志や言動や行動がずらされてしまうから、結局思いがけないことを自らやってしまって、実際に思いがけない結果がもたらされると、愕然とするしかないのだが、それが何かの表現であるなら、少なくとも表現したかったことを表現しているとも思われず、もちろん表現したいことを表現しようとするだろうが、その一方で表現せざるを得ないことが障害物のように立ちはだかってきて、まずはそれを表現しないことには自身が真に表現したいことを表現できない状況に陥ってしまうなら、それを優先してやらざるを得なくなってしまうのかも知れず、そこで自らが表現したい内容と、成り行き上表現せざるを得ない内容との間で、せめぎ合いのようなことが起こって、結果的に自らの意志に反して表現せざるを得ない内容の方が勝ってしまうと、そこから苦悩が生じてきて、結果的に表現の内容にもその苦悩が影を差して、当初にやろうとしていたのとはだいぶかけ離れた内容にならざるを得ないのだろうが、そういう出来事がその人の活動の中で起こってしまうと、時にはその人の能力を遥かに超えた何かが表現されてしまうのかも知れず、そうした表現に感動できればいいのだが、そこで何か違うんじゃないかと思ってしまうのだから、それをきっかけとして自らの勘も働いてきて、それに関して最近発見してしまったと思ったのが『はだしのゲン』ついての人々の反応なのだが、作者が描きたかった内容よりは、描かざるを得ない内容の方が勝ってしまい、そちらの方がその作品を読んだ人々に衝撃を与えたはずだが、なぜかその作品を賞賛する人々は、人々に衝撃を与えた内容には一切触れず、作者が伝えたかったと思われる内容の方ばかりを盛んに賞賛するわけで、そうやって作品を賞賛する人々が、意識して避けているわけでもないのかも知れないが、実際に人々に衝撃を与えた内容に触れていないわけだから、それらの人々は避けていることを自覚していないのかも知れず、しかもそれと自覚せずに日本共産党の街頭演説の内容のようなことを述べながら、誰もが同じような賞賛の内容になっているわけで、果たして彼らの目は節穴なのかと疑ってしまうのだが、たぶん節穴ではなく、作品を賞賛するとそうなってしまうのであり、彼らも衝撃を受けているのだろうが、それを言語化すると日本共産党の街頭演説みたいになってしまうのかも知れず、彼らの使う言葉が作品の内容とは合っていないのかも知れないが、では作品の内容と合致することを述べようとするとどうなるのかというと、目を背けたくなるようなおぞましい場面について語らなければならず、そうなると賞賛の言葉では語れなくなってしまうのかも知れず、実際に作品を賞賛する人々には、それを読んだ人々が目を背けたくなるようなおぞましい場面を賞賛できないわけで、賞賛できないから他の場面を賞賛しなければならず、結果的に共産党の街頭演説のような場面を賞賛しなければならなくなり、賞賛の内容も共産党の街頭演説と瓜二つとなってしまい、それが作品そのものの中では枝葉末節な部分だとは作者自身も思っていないだろうが、むしろ作者が伝えたい部分がそこなのかも知れず、案外作品を賞賛する人々と意見や主張を共有している可能性さえあるのかも知れないが、肝心の作品をどう読んでもそうはならないとは思わないが、作者に作品を描かせたのはそういう部分ではなく、作者の意思や意志や意図や思惑を超えて、別の何かではなく、それそのものが作者に作品を描かせたのだろうが、それについては作者も作品を賞賛する人々も意識していないのかも知れず、気づいているからそれを描かざるを得なかったのだろうが、気づいていながら、それとは違う、あえて言うなら差し障りのないメッセージの方を読者に伝えたいのだろうし、作品を賞賛する人々もあえて差し障りのないメッセージを含んだ賞賛の言葉を好んで使うわけで、そうやって作品そのものを貶めるわけでもなく、何か別の内容のように装いたいわけで、それがどうあがいても作者を超える作品とはなり難く、もちろんそれを賞賛する人々の身の丈に合った作品のように装われているわけだが、それに対して何か違うんじゃないかと思うのは自分だけだとは思いたくないが、今のところは誰からも賛同を得られていないわけだから、勝手な勘違いであり、自分の妄想の中で勘違いな解釈をしているに過ぎず、それでも構わないのだが、件の作品自体は今後もそれなりに多くの人々に読まれるかも知れないし、実際に読んだ人々が思わずを目を背けたくなるようなおぞましい場面に遭遇すれば、もしかしたらそれが作者ができれば描きたくはなかった場面で、しかも描かざるを得ない場面であったことに気づく人もそれなりに出てくるかも知れないが、そうなった時にその作品を賞賛する内容に違和感を覚える人もそれなりに出てくるのかも知れない。
2月19日「資本主義と民主主義の関係」
世界は現状では全て資本主義市場経済だと見なしても構わないだろうが、20世紀には数十年間だけ社会主義経済が実現していたといっても、資本主義経済と完全に分離していたわけでもなく、相互に輸出入が行われていたわけだから、実質的には資本主義市場経済の延長上に社会主義経済があったわけで、両者の間にそれほど大きな違いはないと考えるなら、通貨を用いて物や情報やサービスなどの売買や貸借などの取引ができるところでは、資本主義市場経済が機能していると考えてもそれほど間違ってはいないはずで、経済の面では世界が一つの制度で統一されていると言えるが、その一方で政治体制となると、欧米では一般的な議会制民主主義体制が機能していない国も結構ありそうで、政治体制が民主主義でなくても資本主義市場経済は機能するだろうし、独裁的な専制体制の国でも機能しているわけだが、少なくとも現時点で世界経済の主導権を握っている欧米諸国では曲がりなりにも民主主義が機能しているわけだから、経済の面での資本主義と政治の面での民主主義がセットで機能している国が、世界の中で主導的な役割を担っているように見なしても構わないような気がするわけだが、それに対して真っ向から挑戦してきているのが中国だと見なされているわけで、果たしてそういう対立的な見方で世界の現状を捉えてみても構わないのかというと、ではそれとは別の面から世界の現状を捉えることが可能かというと、それに関してすぐに思い浮かぶのが、貧しい国と豊かな国との間で起こっている経済的な搾取の問題であり、それをいわゆる南北問題と呼んでいた時期もあったかも知れないが、それ以前に20世紀の中頃では西側の資本主義陣営と東側の社会主義陣営との対立という冷戦構造が世界情勢の中での主要な問題となっていて、それに対して南北問題が持ち出されてきた時期もあったのだろうが、東西冷戦構造も20世紀末になるとなくなってしまったのだが、その続きとして新たな脅威となってきた中国やロシアなどの民主主義が機能していない国と西側の民主主義諸国との対立が世界情勢の中で脚光を浴びてきたのだろうが、それに関しては国内の政治体制が民主主義であることの証しとして、民主主義が機能していれば国民の人権が確保されるという点が挙げられるだろうが、実際に中国ではウイグル人の人権がなかったり、エルドアンの独裁体制下のトルコではクルド人が弾圧されているし、そういう面では民主主義国とそうではない国との違いがわかりやすいだろうが、ではどのようにすれば民主主義が実現するかとなると、歴史的な経緯や地政学上の問題点などを無視するなら、国内の経済状態が豊かになれば民主主義が実現するかのような幻想もあるだろうが、逆に経済状態が悪くなって貧しくなると、生活弱者が切り捨てられるなどの問題が日本でも発生していると貧困問題に取り組んでいる人たちが主張しているかも知れないが、果たして民主主義が実現すれば経済的にも豊かになるのか、あるいは資本主義経済が好調で経済的に豊かになれば民主主義も実現するのかということが、現状の中国やインドなどで確かめられるのかどうかが今後明らかとなってくるかも知れないが、とりあえず現状ではどちらもありなような気もするのだが、少なくとも日本での最近の数十年間からわかることは、経済状態が悪くなってきて人々の間で余裕がなくなってきたから、民主主義が顧みられなくなって、独裁的な傾向も強くなってきたように感じられるわけだが、それに関しては民主主義国の中で一番の有力国であるアメリカが世界中の富を独占しているから、他の国々の民主主義が脅かされているとも言えるだろうし、世界中がアメリカから経済的な富を搾取されているような妄想を抱きたくなるだろうが、それが妄想ではなく真実なのかというと、一概にはそうとも言えないような面もあるだろうし、現に日本はアメリカへ工業製品を輸出することによって経済的に豊かになった面もあるが、政治の面では政権交代を阻まれている可能性も指摘されているし、実際に今後政権交代が実現してアメリカによる支配から自由になれば、日本でも真の民主主義が実現するかというと、そういった経緯から民主主義が実現するとも思えないが、形の上ではすでに民主主義が実現しているが、ただ政権交代がなかなか起こらないし、人権に関しても欧米諸国と比較すると遅れているように感じられるし、そういう面では民度が低いように思われて、民主主義を軽視する日本国民の自業自得だと思われている面もありそうだが、実態としてはそう単純に言えるようなことではないのかも知れず、もっと資本主義と民主主義とは複雑に絡み合っていて、資本主義経済が民主主義を破壊することもあるが、民主主義の方は資本主義経済に依存しながらも、行き過ぎた資本主義を抑制しないと民主主義を保てなくなってしまい、資本主義経済の進展によって競争に敗れて貧しくなってしまった人々を救わないと、民主主義が機能しなくなってしまうだろうし、そういうところでは日本の民主主義の制度はまだ未熟なのかも知れないし、もっと制度的な整備が必要となってくるのかも知れず、最近では逆に民主主義を破壊するような方向へと向かってしまい、それが経済を優先させた結果としてそうなったと見なしたいところだろうが、経済を優先させたのに逆に貧しくなってしまう人々も増えてきたわけだから、それが資本主義経済の進展によって現れた副作用でもあるわけで、資本主義経済の進展が人々の間で貧富の格差を広げた結果なのだろうが、そこで経済を優先するか人権を優先するかという二者択一などあり得ないように思われるだろうが、それが対立する概念とはならないように思われるにしても、経済を優先させると人権が無視されて、人権を優先させると経済を抑制させなければならず、その人権というのが人が人としての尊厳を保てるような生活を送れる権利だというと、そんな権利などあり得ないように思われるかも知れないが、制度としてそういう権利を認めるようなシステムを整備しないと、民主主義が実現しているとは言えなくなってしまうのかも知れない。
2月18日「政治と経済の食い違い」
世の中で起こっている出来事に対して何かしら言動や行動が生じてくることに関して、納得できるような理由が元からないわけではなく、言動や行動の当事者が意識している範囲内では明確な理由があって、その理由に基づいて言動や行動が生じてくるはずなのだが、なぜかそうした言動や行動がその人が関わっている物事の本質から外れるような枝葉末節な方面に向かって行われて、そうなった結果として物事の本質を直視したり本質に直面する事態が避けられて、そういう言動や行動を担う当事者の立場や主張が保たれるようなことになっているのだが、その立場や主張が何か納得し難いのは、彼らが避けようとしている物事の本質とはいったい何なのかという根本的な問いに対する答えが、それらの言動や行動から見つかるとは到底思えないから、そんなことが行われている現状の納得し難さが生じてくるように思われて、それが不条理だと簡単に言ってしまうとそれまでだが、彼らの言動や行動からその不条理が生じてくるかというと、不条理な事態を避けようとしてそうした言動や行動が生じてくると現状を捉えた方がしっくりくるわけで、だから彼らの言動や行動の中に不条理を避けるための方策が見受けられるわけだが、その方策というのが一方向からしか自分たちが直面している事態については説明しようとしないやり方であり、そこで具体的に何が説明されているのかと言えば、一応は説明の対象について説明しようとしているのだが、説明するに当たっての方針というのが、自身が避けようとしている物事の本質については頑なに語ろうとしない方針を貫こうとしていて、しかもそんな方針をとっていることに彼ら自身が気づいていないところが致命的な過ちだと見なしたいところだが、彼らにしてみればそうすることによって自分たちの立場や主張を守ろうとしているわけだから、当然のことながら致命的な過ちでも何でもないし、むしろそうしないと自分たちの立場や主張を守れないわけだから、そうするより他ないわけで、さらにはそうせざるを得ないことについても気づいていないわけだから、なぜそうなってしまうのかに関しては、自分たちが納得できるような理由など見当たらなくて当然だろうが、しかもそれに気づいていなくても彼らは執拗にそうしようとするわけだから、そうすることによって彼らが現状の中で有利な立場になるのかと問いたくなってくるが、実際にはそんなことはないわけで、つまり彼らは功利的な観点からそう振る舞おうとしているわけではなく、そこで自分たちの利害が意識されるとしても、実際に行われる言動や行動が利益をもたらすわけでもなく、しかも場合によっては自滅をもたらす危険性もあるわけだから、そこで自滅してしまえば、そうした言動や行動が彼らにとっては致命的な過ちであったことが証明されるわけだが、まだそこまで至っていない現段階では、そんな結果を予測できるわけもないだろうし、もしかしたらそうはならない可能性の方が高いとしたら、致命的な過ちでも何でもなく、むしろ正しい判断に基づいた正しい言動や行動になっているはずだが、それが本当にそうなるか否かは、現状では予測がつかないことかも知れず、彼らにしても先を見通せない中では暗中模索となるより仕方がないのだろうが、それにしてはひたすら一方的な説明に終始していて、まるで馬鹿の一つ覚えのようにして、来る日も来る日も同じ説明に固執しているわけだが、その説明の内容がそれほどまでに重要かというと、彼らにしてみれば自分たちの立場や主張を貫くにはそうせざるを得ないわけだから、彼らにとってはなくてはならない説明となるのだろうが、大してこだわりのない人にとってはそれでほどのことでもないわけで、それどころか他にも様々な立場や主張がある中では、その中の一つに過ぎないことにだけ、それほどまでにこだわっている姿が奇異に映るかも知れず、何かそれが一点突破を目指しているようなあり得ない戦略にも見えて来るなら、果たしてそんな立場や主張に対して支持や賛同を表明すべきかどうか迷いも生じて来るかも知れないが、それが戦略的な過ちなのかどうかは、今後の結果が示すところかどうかも現時点ではよくわからないが、彼らがそんな立場や主張に固執する明確な理由とは違う理由として明らかになっているのが、現状で彼らを取り巻く環境の中で行われていることのとりとめのなさなのかも知れず、それが彼らの信念を打ち砕こうとしているわけではなく、逆に信念へと固執させようとしているわけで、そんな態度や姿勢が致命的な過ちであるかのように感じられるところが、目下のところは彼らの不利な状況を物語っているのかも知れないが、それが目下のところである限りは、ここから情勢の変化次第では、彼らの立場や主張が世間から脚光を浴びる可能性もあるわけだが、その可能性があるかないかではなく、むしろ信念に凝り固まるような頑なな態度や姿勢を改められるかどうかが、今後の成否を決める鍵となるなら、もはや手の施しようのないくらい実際に取り返しのつかない事態を招いているわけだが、それも現状では間違った解釈の一つとなるかも知れず、そうなっていること自体が物事の本質に直面する事態を避けるために編み出された苦肉の策であるからには、そういった言動や行動を生じさせている物事が何なのかがわかってこない限りは、彼らとしても対処しようのないことかも知れず、そういう意味では彼らが避けようとしている物事の本質を知りたくなってくるのだが、それが彼らの言動や行動からでは窺い知ることができない物事であり、彼ら自身もそれに関わっているはずなのだが、なぜかそれを避けるための言動や行動に駆り立てられているのだから、それがわからなくても当然なのかも知れない。
2月17日「思惑と想像」
それを陰謀と言ったら大げさすぎるだろうが、何か思惑があってそうなっていると考えれば辻褄が合うことが、果たしてそんな思惑を想像しても構わないのかというと、想像したい人はいくらでもいるかも知れないが、他人の思惑を想像してしまうことが、それを想像している人の都合の良いように想像していることは確かで、自分の都合の良いように他人の思惑を想像してしまうことがわかっているなら、本当にそんな思惑なんだろうかという疑念を抱いてしまうのだが、そこからもしかしたら他人はそんなことは思っていないのではないかという疑問も湧いてきて、よくフィクションで出てくるような物語の筋に沿った合理的で納得できる思惑など他人は抱いてはいないのではないかと想像してみると、なぜかそちらの方がリアリティを感じられる場合もあるかも知れず、状況証拠的にはそういう思惑を抱いている方が辻褄が合って納得できるのだが、その一方で現状が納得できるような状況なのかというと、そうでもない場合の方が多いなら、他人がそういう思惑を抱いていれば納得できるとは思わない方が、少しは現状の納得できなさ加減を維持できるかも知れないから、すぐにはそうは思わない方がいいような気がするわけでもないのだが、もっと状況は錯綜していて、特定の他人の思惑通りにはなっていないような気がするから、現状には絶えず謎な部分が含まれていて、それを納得できるような他人の思惑を想像することによって理解したつもりになってはまずいような気もするわけで、それも考え過ぎなのは承知の上で、あえて納得できないままの心境を保っていたいと言うと、それも自分の都合でそう思っているわけではなく、逆にそう思う方が自分にとっては都合が悪いようなことを想像したいと述べると、単なるひねくれ者のように思われてしまうかも知れないが、ひねくれたものの見方や考え方をわざとしているとも思えず、自らが囚われている状況がそうさせるのかも知れないし、少なくとも特定の誰がその場を仕切っているわけではないし、様々な方面から力が加わっていることは確かだとしても、その中で特定の力がその場を制圧するまでには至っておらず、それなりに膠着状態が保たれていると認識しておいても、当たらずとも遠からずな状況なのだろうが、そうだとしてもそれなりにはっきりした言動や活動もある限りで、そこから何らかの兆候が窺い知れるのだろうが、その兆候が良い兆候なのかというと、たぶんそうだとは思いたいのだが、今はそんな思いが裏切られても構わないのかも知れず、まだその時期ではないとすれば、その時期がいつやってくるのかもわからないのに、それがどうなる時期なのかもわからないのでは、やはりまだ謎があると思うしかなく、解こうとしても解けない謎があるわけではないが、積極的には謎を解こうとしていない状態を維持したいわけで、しかもそんなのは自分にとっては関係ないことかも知れないから、首を突っ込む義理もないようにも思われて、だからと言って事態を静観できるような偉そうで余裕綽々な立場でもないし、その辺が微妙なところなのかも知れず、それが何でもないことであってはまずいとは思わないし、人によっては何でもないことなのかも知れないが、その何でもないことが、他の誰かにとっては深刻で場合によっては致命的な事態をもたらすようなことだとしても、それはその人が深刻に受け止めなければならない致命的な事態なのであって、他の誰にとってもそうであるとは限らないところが、世の中の非情な面なのだろうが、そこからそんな境遇に同情して、人助けの余地も生じてくるとしても、そういう人助けの対象には引っかかってこない人も中にはいるだろうし、助けてもらわなくても大丈夫というわけではなくても、なぜかそこから外れてしまう成り行きに囚われてしまうことの方が、どちらかと言えばありそうな世の中の情勢かも知れず、誰もそんな人たちの仲間になろうとは思わないだろうし、放って置かれる方がまだマシな状況というのは、それが何の対象ともなり得ない状況なのかも知れず、孤独というのはどこからも忍び寄ってきて、連帯感を覚えるのは、人に対してではなく、人の行動や言動に対してでもなく、その人の印象や雰囲気に対してであると思うなら、そんなのは思い違いではないのかと疑われてしまうかも知れないが、自らにとってはそうではない場合の方が多いように思われても、他の誰かにとってはそうかも知れないから、そこまでは想像が及ばないのであり、他人の思いもしないところまで想像が及んでしまうと、それが嘘になってしまいそうだが、嘘でも構わないから勝手に想像を膨らませて妄想してしまい、それが取り返しのつかない過ちになるとも思えないが、それが当たらずとも遠からずな妄想だと思われてしまう限りで、他人の思惑を当てたように思われてしまうのかも知れず、それが特定の他人ではなく、その場に漂っている不特定多数の人々の思惑だと、それなりに大勢の人々が幻想を共有していることになるのだろうが、そんな幻想が誰かの妄想と結びついて、それが誰もが納得できるような思惑とも合致してしまうと、その場の成り行きについてのありふれた解釈をもたらすことにもなって、そこで言語的な単純化が発動してきて、多くの人々にとっての共感できて妥当に思われる解釈として受け入れられてしまい、それ以上に事態が進展しなくなってしまうのだが、果たしてそういう解釈に共感してしまう人たちの共同幻想が何を意味するのかといえば、マンガチックな意味としては受け入れ可能な意味ではあるにしても、そうなると謎な部分が意識の中から洗い流されると共に、それだけフィクションの度合いも強まってしまうのだが、そんなフィクションで満足できるかというと、満足できるか否かではなく、安心できるか否かにフィクションの内容がいつの間にか移り変わっていることに誰も気づけないわけだが、たぶんそういう現実の単純化が世の中でフィクションとして蔓延しているのを感じ取らなければならず、言語では表現できない謎が世界には含まれていることを感じ取らなければならないのかも知れない。
2月16日「左翼の可能性」
自らが巻き込まれている状況が自分の力では手に負えなくなっているなら、少なくともその場の成り行きに逆らってはいけないと思うだろうが、それでも何か工夫を凝らそうとしているなら、その場の成り行きに応じて工夫を凝らそうとしていて、自分の力ではどうにもならないとしても、なおのこと工夫を凝らす必要を感じているとすれば、何か矛盾しているような気もするだろうが、それが無駄な悪あがきだとも思えないなら、その場の成り行きに逆らうのではなく、その場の成り行きに従いながらも、下手に立ち回るのではなく、うまく立ち回りたいのかも知れず、その場にかかっている力を利用して、何かをやれるような気がするから、その場の成り行きを利用してうまく立ち回ろうとしていて、そう思うのだから、その場の状況を自身では制御できないまでも、利用することはできるような気がするのだろうが、人が囚われている世の中の成り行きというのは、その人の力だけではどうにもならない状況が多いかも知れないが、その人の活動もその場の成り行きの一部を構成しているから、それが集団で連携して行われる活動ならわかりやすいが、個人で活動している時でも、全てを自分勝手に制御できるわけでもないだろうし、何かしら制限や制約がかかってくるところがあれば、それが自分の力ではどうにもならないところだろうから、そういう部分ではその場を支配している成り行きに従わなければならず、従うとしてもただ盲従するわけでもないだろうし、何かしら自らの技量を用いて工夫を凝らしながら従いたいのかも知れず、だから従うか逆らうかの二者択一ではなく、従うにしても逆らうにしても、単純な成り行きにはならず、その場の状況や情勢に応じた対応を迫られて、それがその人がその場で担っている役割に応じて活動するような成り行きになるから、結果的には他の誰とも違う活動になるかも知れないし、その人の独自性がその場の成り行きの中で活かされるなら、そういう面ではうまく立ち回っていることになるのだとしても、そういった対応の中で、ごまかしが利くような対応によって切り抜けた経験があると、そういう経験をすればするほど、ごまかし癖が身についてしまい、真正面から物事に取り組めない体質になっていくのかも知れないが、それも真正面から取り組めるような事態にはなっていなければ、いなしたりかわしたり避けたりよけたりごまかしたりと、そんな癖が身についてしまうのかも知れないし、場合によっては平気で嘘をついても構わないというか、しかも嘘をついても怒られないような経験も、その人を堕落させるのかも知れないが、それでも必死になって死に物狂いで手段を選ばないような狡く卑怯で悪どいやり方に訴えてでも、成し遂げなければならないことがあるような状況というのを、どう受け止めても馬鹿正直にはなれないだろうし、そういう事態に直面してしまうのが、現状で起こっている成り行きなのかも知れず、そういうことをやっている人や団体を批判したり非難したり糾弾するようなことは容易にできるのだが、そういうことをやってしまう立場や境遇というのがあること自体が、現状の救い難いところであるなら、世の中には救われない人がいくらでもいる状況なのかも知れず、要するに誰もが納得できる正義というのが存在し得ず、それが絶えず後ろめたさや疚しさにつきまとわれるから、誰もが偽善や欺瞞を抱え込むことになって、他人がそんなことをやっているのを正義の味方ヅラして批判したり非難したり糾弾するような人や団体には好感を抱けない状況となってしまうのかも知れず、それがいわゆる左翼への支持の少なさに直結してくるのだろうが、そんな正義の味方ヅラした左翼に対して、自らがどんな立場や態度や姿勢を貫けばいいかといえば、それも人それぞれだろうが、自らの偽善や欺瞞やごまかし体質を隠しながらも、表面上は左翼の味方や支持者を装うのも恥ずかしいかも知れないが、もっと正直に何の疚しさも抱かずに本心から左翼を支持したり支援することができるかというと、できなくても構わないが、逆に左翼の偽善や欺瞞を暴き立てるようなことはやらない方がいいのかも知れず、左翼には正義の味方ヅラして権力の不正を正す役割がある限りで、それをやってもらえばよく、それを邪魔するようなことはやらない方がいいと思っておいた方が無難であり、しかも自分は左翼とは違うと思うのも良くない態度であり、誰にも左翼体質が少しでも備わっていた方が世のため人のためだと割り切っておいた方が、何かとややこしい事態にはならないとは言えないかも知れないが、逆に変にこじれて自分は右翼だ保守だとカッコつけない方が身のためであり、また右翼でも左翼でもないと言いたい人もいくらでもいるだろうが、何のためらいもなく平然と自らを左翼だと言える人が世界にはいくらでもいること自体が、逆に日本の駄目さ加減を際立たせていて、しかも日本では金持ちは左翼嫌いだと相場が決まっているだろうが、世界では金持ちこそが左翼なのであり、そんな世界がどこにあるのかと疑ってしまうかも知れないが、世界で人助けの慈善活動家のようなことをやっている金持ちがいれば、そういう人たちの十中八九は左翼活動家だと思っておけば良く、自身が金持ちであることが偽善でも欺瞞でもなく、正当なやり方で金儲けをして大金持ちになったのなら、後ろめたさや疚しさなどとは無縁に生きていられるのかも知れないが、そういう面で日本ではあり得ないと思われているのが、資本主義と左翼との結合となるのではないか。
2月15日「公私混同のすすめ」
普段自らが考えていたり述べていることの何が公的で何が私的なのかについては、具体的な例を挙げればわかりやすいかも知れないが、例えば国家や政府の存在なしで済ますわけにはいかないのが、公的な立場から何かを主張する場合で、それ以前に果たして人の立場というのが私的な立場と公的な立場とで使い分けが可能かと問うなら、そんな都合良く使い分けられるわけにもいかなそうだが、どちらを優先させなければならないかと言えば、やはり国や政府や政治や経済や社会などの自分以外にも大勢の人々が関わってくることについて何かを述べたりするような場合には、迷わず公的な立場から述べることになるだろうが、そんな場合でも私的な利害を優先させるとポジショントークと呼ばれる内容になるだろうし、もちろんそれを悟られないようにする配慮も込みでそういう内容を述べることになるわけだが、公的な立場から語っているように装いながらも、そんなことを語っている自らの有能さや優秀さをひけらかすような内容になっているなら、それだけではポジショントークとは言えないが、何かそこに胡散臭さを嗅ぎつけるとするなら、それが一般市民の代表を装いながらも、批判して然るべき対象となる公的な役職に就いている人物のご機嫌取りをしているように見える場合が、それに当たるかも知れず、それを忖度と呼べばしっくりくるはずだが、もちろんあからさまにそういうことをやっているとは悟られないようにするための話術も伴っていれば、そんなやり口に多くの人々が騙されてしまうのだろうが、すでにそんなやり口を度々使って政府側の人々の懐に入り込んで、その種の対談を報じるメディアからも引っ張りだこになっている人なら、その人自身も批判の対象となっているし、それでも多くの人々から好感を持たれているのなら、そういった方面でうまく立ち回っていることになるのだろうが、政府側のプロパガンダを世に広めるにはそういう人の存在が必要不可欠で、その人も自身の役回りを心得ているなら、その人も公的な存在なのかというと、たぶん公的な存在なのだろうが、その人が語っている内容がポジショントークになるのも当然の帰結で、それがその人の利益になると同時に政府にとっても利益になるからだが、なぜそれでは駄目なのかというと、その人や政府にとって利益になることが、必ずしも一般の民衆にとって利益になるとは限らないからで、政府にとって都合の良いことばかり伝えることが、なぜ一般の民衆にとってはまずいのかと言えば、その人や政府にとって利益にならないことや都合の悪いことを伝えないからだが、そうなると一般の民衆と政府との間で利害が一致しない場合があるらしいことがわかってくるのだろうが、では政府が必ずしも一般の民衆の味方ではないことが何を意味するのかと言えば、例えば一般の民衆の利益を徴税によって掠め取っていると見なせば、確かにそうなるだろうが、それが必ずしも掠め取っているわけではなく、掠め取ったそれを民衆のために使っていると解釈できるなら、政府は一般の民衆の味方になるかというと、民衆のために使っているのは確かだとしても、全ての民衆に取られた税分の見返りがあるかというと、そうでもないだろうし、人によっては他の多くの人よりかなり多額の税を取られているのに、大した見返りも期待できないような立場や境遇も想像できるし、それだけ多く収入もあるから多くの税を取られていることになるからだが、他の多くの人々より多くの収入があるということは、その分だけ社会の中で有利な立場や境遇となっていると見なせるなら、多くの税を取られるとしても、その分は我慢しなければならないと言えるかも知れないし、果たしてそれが公的な立場から言えることなのかと言えば、富の分配という観点から考えるならそうかも知れず、そういうところから私的な利害を超えた公益という概念が生じてくるのかも知れないが、そうだとすれば私的な利害と公益とが対立することにもなりそうだが、では逆に政府の利害と一般の民衆の利害とが一致することはないのかと言えばそんなことはなく、政府と一般の民衆とが持ちつ持たれつの関係となっている方面では利害も一致しているはずだが、そういう方面だけではないから、民衆の側が政府を批判する余地が生じてくると言えるだろうが、それが私的な利害に絡んで批判するのではなく、公的な立場から批判できるようなら、他の多くの人々からも支持や賛同を得られるはずだが、その一方で政府側の利害の代弁者のように振る舞う人が、公的な立場から言っているのかというと、当人は公的な立場から物申していると思っているだろうが、政府側と民衆側とで利害が一致していなければ、政府側の代弁者が民衆から支持や賛同を得られるはずがないとは思いたいが、それを伝えるメディアが政府側の立場に寄っているなら、そうは伝えないだろうし、大抵は民衆からも支持や賛同が得られているように装いながら伝える成り行きとなり、それを真に受ける人も大勢出てくれば、少なくともそんな報道を真に受けている人は政府側を支持しているだろうから、そこで政府側と民衆側とで利害が一致しているように装われるわけだが、そういう意味ではたとえ公的な立場から何か述べているとしても、それが必ず一般の民衆が支持や賛同を示すような内容とはならないのは当然のことかも知れないが、それに関して政府の利益のために民衆に犠牲を強いるようなことを述べる人が、民衆にとっては敵と見なされても当然だろうが、それが政府にとっては味方となるなら、やはり微妙な立場になるかも知れないが、果たして本当にそういうことを述べる人が公的な立場から述べていることになるかというと、政府に味方することがその人の利益となるなら、当然それは私的な立場から物申していることになるだろうし、では政府側に立って何か主張することが政府の利害とは一致しないかというと、そんなことはあり得ないと考えるなら、政府側について民衆の利害とは一致しないことを述べるような人は、私的な利害から物申していることになるのではないか。
2月14日「家系と家柄」
陰謀論で有名なロスチャイルド家は、一族の男は男系の純粋なユダヤ人の血統を残すために同じユダヤ人と結婚させたのに対して、娘は高額な持参金を用意して非ユダヤ人の貴族のところへと嫁がせて、ヨーロッパ各地の宮廷とのコネクションを築き上げて、ヨーロッパ諸国で民主主義が広まる以前には、宮廷ユダヤ人や金融ユダヤ人としての不動の地位を確立していたのだろうが、ロスチャイルド家はあくまでも金融業に特化してして、バクーの石油利権もあっさりとイギリスの産業界へ譲渡してしまったのに対して、アメリカのロックフェラー家については、石油産業によって莫大な富を築き上げたのだが、そうした莫大な富を築き上げたユダヤ人は全体から見ればほんの一握りの一族に過ぎないだろうし、ヨーロッパ各地でキリスト教徒の民衆とは交わらずに、孤立したユダヤ人コミュニティーを形成しながら、行商人などをやりながら生計を立てていたのだろうが、その男系の純粋なユダヤ人の血統を維持しようとするところが、日本の天皇家などにも通じるところがあり、日本の天皇家も古代ユダヤ民族の末裔なのではないかという説もあるわけだが、キリスト教の方でもイエズス会の入会条件が、昔は何世代前まで遡ってユダヤ人の血が混じっていないことであったりして、ユダヤ教と対立する面では同じような血統意識に支配されていたのだろうが、そういった前近代的な風習の類いが、日本では未だに根付いているところが微妙なのかも知れないが、19世紀に欧米から世界に広まった大衆市民社会という現象にはどんな特徴があるのかといえば、前近代的で封建的な風習を拭い去って、民主主義を基盤に据えた家系や家柄やそれに付随した身分に囚われない自由な社会が到来したと思いたいところだが、実際のところは産業革命以降に優勢となった資本主義経済の中で、富を蓄えて裕福となった市民階級が、以前の時代の支配階級であった王侯貴族に成り代わって、新たな支配階級として台頭して来た時代なのかも知れないが、彼らに世の中を支配するという意識があるわけでもないだろうし、民主主義の政治制度が機能していれば、民主的な法の支配が実現しているだろうから、世の中が特定の誰に支配されているわけでもないはずだが、少なくとも裕福な市民階級が世の中の主導権を握っていることは確かであり、日本ではそれに加えて封建的な世襲制もなし崩し的に政治の場では機能していて、大した抵抗感もなく、公的な役職である国会議員などの世襲が当然のことのように行われているわけだが、もちろん他の国でも代々政治家の家系というのもあるだろうし、親子二代にわたって大統領職に就いた人物もいるだろうから、それほど珍しいことでもないのだろうが、日本ではその割合が圧倒的に高いから奇異に感じられて、そういう面を見るなら民主主義が社会に根付いていない証拠となるのかも知れないが、根付いていないという表現ではなく、徹底していないという表現の方がしっくりくるかも知れないし、日本的な風土の中では何事も中途半端で不徹底になり、制度に対する姿勢がいい加減でも済んでしまい、大半の人々が民主主義の理念を信じていないことになるのかも知れないが、それが特に悪いことだとも思えないところが不可思議に感じられて、逆にそういう面を批判する人たちの方が世間的には印象が悪く、何かそういうところで通常の成り行きとはあべこべなことが起こっている感触も覚えるのだが、まだ真の意味で社会や家族の中での葛藤がなく、絶望も不足していて、もっと状況が悪化すれば、人々の意識も変わってきて、欧米のように何か気に入らないことがあると頻繁にデモを起こすような怒れる人々が作られる過程が待ち受けているかも知れないが、実際にもここからさらに絶望的な政治や経済の状況になれば、嫌でも人々が民主主義の大切さを思い知るだろうから、現状でもそうなりつつあるのかも知れないが、より一層の怒りや絶望を味わうような成り行きがこの先に待っているなら、それが良い兆候だとも誰も思わないだろうが、むしろそれが悪い兆候だと思われていた方が、誰もが怒り心頭に発して、そこからより徹底的なことをやろうとする人や勢力も現れて、結果的にヒトラーやスターリンなどが実現した虚無的な全体主義社会となってしまうかというと、現状ではどう考えてもそこまでは行かず、それよりは遥かに低レベルで稚拙な方面に多くの人々がこだわってしまい、実際に現状でもこだわっているのだろうが、それが何かといえば、少なくとも世の中の全体ではなく、部分的な方面にこだわっていて、それが誰もが木を見て森を見ないような感覚だと指摘しても納得がいかないだろうが、そんなのは昔からそうだったのであり、何も現代人に限ったことではなく、ロスチャイルド家やハプスブルク家やメディチ家などの人々もそうだったかも知れないし、とりあえず自らが所属しているつもりの家族や一族が安泰であれば、他の人々がどうなろうと、さらには自分自身がどうなろうと知ったことではないとは思わないし、そこまで考えが及ばないことが救いとして精神衛生上好ましいのかも知れず、それが個人にまとわりついてくる様々な社会的なしがらみを断ち切って、アトム状の孤立や孤独へと縛り付ける全体主義に抗うための方策だとも思えないだろうが、家族や一族との絆とは別に、社会の中で公的な立場から物事を考えなければならない成り行きが果たして今の日本の中で生じてくるのかといっても、それも現状への怒りや絶望から考えると全体主義の罠が待ち受けていて、そうなるのを回避しようとしてもできないような成り行きとなれば、社会の中からヒトラーやスターリンなどのような虚無的な人物が現れるかも知れないが、日本的な環境の中ではどう考えても、そこまで徹底的になれる人材など現れないのかも知れないし、もっと何かこじんまりとまとまった秀才タイプの人材に世の中を軽く引っ掻き回されて、中途半端な絶望感や虚無感に浸るぐらいが関の山なのではないか。
2月13日「目眩し」
何か世の中で目眩しのようなことが起こっていると考えるなら、それが政治や経済の方面で起こっていて、人を欺くために何かが大規模に仕掛けられていると疑うのが、陰謀論者の思考なのかも知れないが、実態としてはそうではなく、特定の誰かが何かを仕掛けているとしても、他にも様々な仕掛けが錯綜していて、それらが相互作用を起こしていて、それが誰の仕掛けなのか判別するのが難しい状況となっていれば、それが誰の陰謀かもわからないのに、特定の誰かが陰謀を巡らせて何かを仕掛けていると事後的に説明されると、何かそれで話の辻褄が合うように思われてしまうのだが、たぶんそれが話の辻褄が合うように構成されたフィクションなのであって、それをフィクションだと自覚することなく、誰かが現実に起こったことを話の辻褄が合うように語っているだけで、しかもそれがその人だけではなく、他にもいくらでもその種のフィクションを語っている人がメディア上には大勢いて、それが実際に起こったことについて語られているから、その大半が現実に起こったことだと信じられているのだろうが、確かに現実に起こったことには違いないのだが、語っている内容はそれに対する解釈であり、現実に起こったのはこういうことだと解釈しているわけで、そのこういうことだという解釈が、現状の世の中の状況に照らし合わせてもっともらしく思われるから、そんな解釈が妥当なような気がしてしまうわけで、その解釈の妥当性が目眩しだとは思えないわけで、本当にそうなっているとしか思えないようなことであっても、たぶんそれが解釈としてメディア上で流通しているフィクションなのかも知れないし、逆にそんなのはあり得ないと思われるようなことの中に真実が含まれていたりするのかも知れず、実際に驚くような矛盾を伴ったわけがわからないようなことが起こっているのに、それをわかりやすく理路整然と語られると、そんな解釈の方を信じてしまうわけで、解釈の方がフィクションで、わけがわからないように思われることの方に真実が含まれているのに、それを無視してわかりやすい解釈の方を信じてしまうから、そこで驚くべきことが起こっているとしても、そのこと自体には反応せずに解釈の方に反応して安心してしまい、そうすることによって安心と引き換えにして何かを見失ってしまうのかも知れないが、その何かが何なのかが理解できなくても構わないわけだが、それが理解できるようなことではなく、それについて思考するのではなく、直接感じ取るようなことなのかも知れず、感じ取ったからといってどうなるわけでもないが、そこで驚くべきことが起こっているのを目の当たりにするから、そのこと自体に感動したような気になるわけだが、感動する前に感じ取らなければならないことがあるとすれば、それ自体を感じ取らなければならないのだろうが、それを感じ取れずにそれについてのわかりやすい説明に納得してしまうと、そこで起こったことに驚けなくなるばかりか、恐れ慄くことも忘れて、それについて語るフィクションの心地良さに酔いしれて、結果的にその出来事に含まれる真実を取り逃してしまうのだろうが、だからといって無理にそこで起こっていることの真実に辿り着こうとしても、そういう意志が邪魔をして、かえってさらにわかりやすいフィクションを捏造しようとしてしまうのかも知れず、真実に辿り着こうとする意志が求めるのは、いつも決まって単純化された真実であり、そこで様々な物事が錯綜しているからわかりにくいのに、そこから単純な論理を導き出そうとするわけだから、その単純な論理がフィクションであることに気づかないわけだが、それでも物事を理解するには単純化せずにはいられないから、真実とはそういうものだと理解するしかなく、一つの論理から求まる真実が単体でそこで起こっている出来事の中に隠されているような気がして、錯綜している様々な要素を取り払った後に残るのが真実だと思い込んでしまうわけで、実は錯綜している様々な要素間の関係性自体がそこに含まれている真実なのだが、それらを取り払った後に残るある一つの単純な関係こそが真実だと見なすのだから、それこそが物事の単純化そのものであり、その一つの単純な関係からそこで起こっている出来事を全体を構成できれば、確かにそれがわかりやすくて安心できるフィクションにはなるわけで、そんなフィクションを信じられるかというと、わかりやすいのだから信じやすいと思うしかなく、もちろんそれがフィクションだなんて思うはずもなく、現実に起こっていることのわかりやすい解釈や説明に過ぎないわけだが、それだけでそこで起こっている出来事が構成されているわけではなく、無視しても構わないような取るに足らない枝葉末節な部分から全体が構成されているわけでもないのだが、無視しても構わない物事や要素の全てが、取るに足らない枝葉末節な部分だけではなく、真実も無視しても構わないような物事や要素に含まれているわけで、それを取り除くと単純な解釈に行き着くから、できれば取り除きたいわけだが、そうやって物事を単純化して捉えたい人には、あたかもそれらの真実が取り除くべき雑音のように思われるのだろうが、逆にそこで感じ取らなければならないのは雑音の類いなのかも知れず、その代表的なものが宇宙背景放射のような雑音なのだろうが、いくら取り除いても執拗にまとわりついてくるのが、そういった無視したい雑音の類いなのかも知れないが、なぜ執拗にまとわりついてくるのかといえば、それが現実に起こっている出来事に含まれる真実だからこそ、執拗にまとわりついてくるとしか言えないものなのかも知れないが、そういった雑音に耳を傾けてみれば、現状の中で起こっていることの真相がわかってくるということではなく、逆にこれが事の真相だと言えるようなこと自体が、話の辻褄合わせから生じたフィクションなのかも知れず、そういったフィクションに対する需要が大きいから、わかりやすくて安心できることを語る人々がメディア上で引っ張りだこになるわけで、実際にそういう人々が何を語っているのかといえば、他の大勢の人々が求めるような内容を語っていて、そういう内容から構築されるのが世間と呼ばれる目眩しの構成物になるのかも知れない。
2月12日「国債は国の借金」
たぶん国債はその名が示す通りで国の借金なのだが、そこからちょっとひねって、国債は国民の借金ではないと主張すれば、それもその通りなのかも知れないが、さらにひねって国債は国民の資産だと主張すると、それ以前に国民が国債を直接買っているのかというと、直接買って持っている人にとっては確かに資産になるだろうが、国債を保有していない国民にとっては資産ではないし、国民の誰もが国債を買って保有しているわけではないから、国債は国民の資産だという主張には、疑いの眼差しを向けざるを得ないが、国債という名称に惑わされているのかも知れず、国債を発行している主体は政府であるから、国と政府とを分けて考えることができるかというと、そこから話が微妙になってきて、果たして国=政府なのかということが、やはり厳密にはそうではなく、例えば国が内戦状態になっていれば、同じ国の中に異なる複数の政府が存在し得るかも知れないから、そうなれば国と政府とは分けて考えなければならないが、通常は一つの政府が一つの国の行政全体を掌握しているから、国=政府と見なしてもそれほど問題は起こらないだろうが、それでも厳密には国債はそれを発行した政府の借金になるはずで、名称が国債と呼ばれるのだから、普通に国債は国の借金と言っても間違いではないが、そういうところに曖昧さが残るわけで、そこからさらに理屈を進めて単純に国債は国民の資産だと主張するわけにはいかないし、国債も債券には違いないわけだから、それを直接保有して市場で売り買いできる人や団体でないと、その人や団体の資産だとは言えないわけだが、そこから比喩としておかしなことを言ってくる人が出てくるわけで、例えば国債の残高が一千兆円あってその国の人口が一億人いるなら、国民一人当たり一千万円の借金があると計算できるが、国民が債務として一人ずつ直接一千万円の借金を背負っているわけではなく、国民に借金を返済する義務も必要もないわけだが、比喩としてそういうことを言うと、それが比喩ではなく直接そうなっていると解釈したくなる人も出てくるわけで、中にはわざと比喩を真に受けるように工夫を凝らす人まで現れて、国の財政状況が深刻な事態になっていることを国民にわからせるために何かもっともらしいことを言いたいわけだが、それに対する反発として、またそれとは別の方面からおかしなことを言う人も現れてくるわけで、その中で積極財政派とかMMT派とかリフレ派とかが、国債をさらに発行して何かやりたいから、机上の空論のようなおかしな理屈を主張し始めてしまうのかも知れず、その中でリフレ派が机上の空論ではなく、実際に中央銀行による異次元の金融緩和を十年近くやって、日本の現状に至っているわけだが、それによって何がわかってきたかというと、国債を発行し過ぎて、金融政策においてインフレになっても金利を上げられず、そういう面で支障をきたしてきたから、政策の誤りが明らかになってきたはずだが、それでもまだ積極財政派とMMT派が残っているわけだから、両派の間でも主張が重なる部分があり、それらを一緒くたに取り扱っても構わないかも知れないが、とりあえず彼らの主張が今後試される機会がやってくるかどうかは、現状ではよくわからないが、それらの勢力が政治宣伝として、国債は国民の借金ではなく資産だとか言う奇妙な標語の類いを主張するようなら、何かおかしいと疑いの目を向けたくなるのだが、少なくとも政府が国債を発行し過ぎて、しかもその国債を中央銀行が買い取り過ぎて、国債を売り買いする債券市場がまともに機能しなくなっているのだから、それが国債を発行し過ぎたことの弊害だと言えるだろうし、現状ではまだ国債の買い手が市場にいるから発行しても大丈夫なのかも知れないが、どう考えても発行量には限度がありそうに思われるし、発行する側が主導権を握って好き勝手に発行し放題になってしまうのはおかしいし、それが売り買いの対象である限りは需要と供給が釣り合っていないと、値崩れが起こるだろうから、発行し過ぎればいつかは値崩れが起こって、その国の国債が紙切れ同然になれば、その国の通貨の価値も信用されなくなって、通貨安でハイパーインフレとなり、政府が財政破綻するのだろうが、それに対しても政府には通貨発行権があるからハイパーインフレなど起こらないと主張しているし、そういう主張を裏づける根拠や理屈自体はもっともらしく感じられるのかも知れないし、それがハイパーインフレなど起こらないという主張だけを裏づけたり根拠づける理屈である限りで、その主張の範囲内では確かにもっともらしく思われるのだろうが、それとは別の方面から何かが起こった際には、例えば今回はコロナ禍とロシアによるウクライナへの軍事侵攻が重なってインフレが高まったから、日銀が他の主要国の中央銀行のようには金利を上げられない弊害が明らかとなったわけで、そういう意味で一見もっともらしく思われる主張の中では十分に理屈の辻褄が合うとしても、主張の中で語られていないことが起こると、それが主張が想定していない事態となって、思わぬところから足元を掬われるようなことになりかねず、実際に政府が国債を発行してそれを中央銀行が買い取るような八百長を行うなら、そのことだけに限れば理屈の上では無限に国債を発行し続けられるのだろうが、他の要因も絡んでくるとそうも行かなくなるのかも知れず、しかもそれが理屈が想定していなかった要因であると、たちまち理屈自体の辻褄も合わなくなってきて、破綻してしまうのだろうが、だからといってそういうもっともらしい主張をしている勢力が駄目だとも思いたくはないわけで、実際にそれらの勢力が政治の主導権を握って、政策を実行する段階になれば、かつて主張していたことをそのままの形では実行できないことが明らかとなってくるのかも知れず、少なくとも現状ではその立場にはないわけだから、机上の空論を主張する以外にやりようがなく、だから机上の空論を真に受けて、そのことだけをもって批判したりしてはいけないのかも知れず、それよりは彼らがその理屈を利用して何をやりたいのかを汲んでやる必要があり、そのやりたいことをやるための手段として机上の空論を主張しているわけだから、今後彼らの勢力が国民の支持を受けながら拡大していく過程の段階で、次第に現状との間で妥協したり譲歩しながら、実現可能なやり方を模索する成り行きになっていくことを期待するしかなく、そんな期待を込めて彼らの主張を好意的に受け止めておくのが無難なところなのではないか。
2月11日「決断の時」
現時点で気づいたことは、それが手遅れに違いないことかも知れず、決断が必要な時はもうとっくに過ぎ去っているのに、今さら何を決断しようとしているのか、その詳細も今となってはよくわからないが、たぶん今は何を決断しても、その決断が遅すぎたことを後悔するしかないような時期に差し掛かっているのかも知れず、必要な時に決断せずに、手遅れになってから、渋々嫌々何を決断しようとしても、そんな決断など意義も効果も期待できないかも知れないが、そんなのは嘘だと思うなら、決断するのに遅過ぎることはなく、いつどこで何を決断しても、それを決断した時から、これまでとは違う至福の時がやってくる可能性があり、可能性があるということは、その時がやってこない可能性もあることだから、やってこなければ落胆するしかないが、がっかりしたところでこれまでの延長上の生活が待っているだけで、その方がかえって安心できるかも知れないから、期待していたことが何も起こらずに落胆した時が、案外至福の時なのかも知れず、そう考えれば今は何も決断しなくても構わないのかも知れないが、実際には社会の中で絶えず誰かが何かを決断していて、何か今すぐ行動を起こさなければならないと思って、行動を起こす決断をしているかも知れず、それがどんな決断でどんな行動だとしても、他人の決断や行動とは無縁でいられるわけでもないが、何か社会の中で他人と関わりがある限りで、その関わりの程度や範囲内で行動を促されている可能性があり、そこで行動を促されて実際に行動を起こせば、その際に行動を起こそうと決断したのだろうが、その行動がそれまでの行動とは違う行動となれば、何かそれまでとは違うことをやろうとしたことになり、それが決断を促されてそれまでとは違う行動に踏み切ったことになるのかも知れず、そうやって社会の中で多くの人々が、それまでとは違う決断を促されて、実際に決断して行動を起こせば、そこから社会が変わる可能性があるのかも知れないが、では果たして今が決断の時なのかというと、たぶん決断するのが遅すぎるのか早すぎるのかちょうど良い時期なのか、それを誰が判断するわけでもないだろうから、何か行動を起こすように促されているような気がしているなら、今が決断の時であり、自分でそれまでとは違う行動を起こすことを決断しなければならないと思うなら、実際に決断してみればいいのだろうが、決断したところで、実際には躊躇して行動を起こさなければ、自分で自分の決断を裏切ったことになり、それでは決断していないのと同じことになってしまうが、それでも自分が気づかないところで何か行動を起こしている可能性があり、意識が自らの行動について行っていない可能性もあるわけで、何かのきっかけからそれに気づいた時には、決断して行動を起こした時からだいぶ時間が経っている場合もあり、自分でも気づかないうちに、それまでとはだいぶ違う行動になっている可能性もあるわけだが、なぜそうなってしまうのかというと、決断したことに気づかなかったか、あるいは行動を起こしたことに気づかなかったか、さらに両方共に気づかなかったからかも知れないが、それが決断するまでもないことであったり、意識して行動を起こすまでもないことであったりした可能性もあり、なぜかそれまでとは行動を変える動作が、シームレスでスムーズな移行を実現していれば、意外とそのことに気づかない場合もあるかも知れないが、それではそれまでの延長上で行動していることになりそうなものだが、たぶん行動が変わっていることに気づかなければ、そうなっている可能性もあるのかも知れず、社会の中で誰もがそれまでの延長上で行動しているつもりであっても、実態としてはそうではなく、ある時期から慣習や制度が様変わりしていることに誰も気づかない場合があって、そうなると変わろうと決断したわけでもないのに変わってしまい、誰もがそれと気づくような変化ではなかった可能性があり、そういう変化だと変化に抵抗したくてもできないような変化になって、誰も抵抗する気も起こらないのかも知れないが、もしかしたら今がその時期なのかも知れず、誰も何も決断しなくても勝手に変わって行ってしまう変化を体験している最中かも知れないわけだが、それとは対照的に現状で意識して世の中を変えようとしている人たちがいるなら、それらの人たちが変えようとしているレベルや箇所とは別ところで、誰にも気づかれぬままに世の中が変わりつつあるのかも知れず、そういった誰も知らないまま変わってしまう成り行きが、世の中の本質的な変化となれば、何の苦労も抵抗もなく世の中が変わったことになるのかも知れないが、実態としてはそうではなく、それなりに多くの人々が苦労していたり、あるいは抵抗感や違和感を伴うような過程を経験しているのに、それが世の中の変化に伴って生じる苦労だとも抵抗感や違和感だとも感じないまま、何やら大変な思いをしながら世の中の変化を体験しているのに、それでもなお世の中が変わりつつあることに気づかないから、その代わりに何かわけがわからないような変な感触を覚えるのかも知れないが、その変な感触というのが気持ち悪いから、中には拒否反応を起こすような人や集団もいて、そうした人や集団の言動や行動が何か世の中の実態からかけ離れているように感じられるなら、そうした人や集団が実際に世の中の変化から取り残されていることになるのかも知れないが、それも世の中のほとんどの人には気づかないことなのかも知れない。
2月10日「対立からずれる視点」
例えば政治的な対立と経済的な対立とでは質も内容も程度も方向性も違うだろうが、場合によっては重なる部分もありそうだし、一概にこうだとは言えないようなことかも知れないが、政治の場で対立を煽り立てようとする意図や思惑があるなら、対立を強調した方が都合が良いから、対立を煽り立てるのだろうし、そうするのが都合が良いということが何を意味するのかというと、対立しているように装うと、対立している相手との違いをはっきりと示すことができるから、対立を煽り立てるのだろうが、もちろんそこで対立を煽り立てている側に善や正義があり、対立している対象を悪だと決めつけるようなことやるなら、そこで起こっていることを単純化しようとしているような作為を感じるかも知れず、また対立している両者にそれほど違いがあるようには思われなければ、対立自体がまやかしであり、見せかけの対立に過ぎないと思われるかも知れないが、実際に激しく対立しているのが一目瞭然であれば、誰の目にも違いがわかりそうなものだし、議会の場で論戦を通して激しくやり合っているような場合には、確かに対立している状態がはっきりと示されているはずだが、それでも疑念を抱くようなことがあるかというと、確かに対立は対立としてはっきりと示されているが、その対立がまやかしだとか見せかけだとか言いたいわけでもなく、そこには疑いようのない対立があるのに、対立点と共に類似点もあるようなら、その類似点の方に注目したくなってくるわけで、それが日本の政治情勢を見るなら、例えば自民党と共産党とれいわ新選組に類似点があるなんて、誰もそんなことは思わないはずだが、実際にこの三党の中で政府を利用できるのは自民党だけで、政府側が自民党であり、共産党とれいわ新選組は野党であり、野党の二党が国会で政府自民党に論戦を挑んで、激しくやり合っているのは誰もが認めるところで、両党の支持者たちも政府自民党の大臣や首脳たちを質問攻めにして、論戦で言い負かすことを期待しているのだろうが、そういう面では確かにそうなのだが、もちろん三党の支持者たちは政治の力で日本を良くしたいと思っているだろうし、それは他の政党の支持者たちも思っていることだろうが、それに関してはっきりとこれだとは指摘できないが、何となく世の中には政治の力では制御できない物事がありそうで、そういう状況がよく表れているのが、立民と維新との国会内で不透明な連携であり、熱心な野党支持者はそんなのはあり得ないと憤っているだろうし、裏切り行為だとも思っているかも知れず、しかもそれに追い討ちをかけるようにして、労働組合の連合が自民党にすり寄っているのもあり得ないことであり、それも労働者に対する裏切り行為だと思っている人も多いはずだが、それらの政党や団体にしてみれば、これまで通りの対立を装うことに限界を感じているから、そうなってしまうわけで、対立するよりは連携を模索しているわけだが、それの良し悪しは置いておいて、もちろんそういう連携を批判したい人たちにとっては、それが悪いと思うから批判するわけで、そんなのは当たり前のことだろうが、そのことの良し悪しを言わずに、他に何を言いたいのかわからないし、そういう悪しき連携は筋の通らない日和見主義だと批判したいところだろうが、筋を通そうとしてうまくいかないなら、逆に筋の通らないことをやらないと現状の停滞は打開できないかも知れないが、もちろん筋の通らないことをやると、なおのこと現状を打開できなくなるとも思いたいところだが、それもそう思うのは簡単であり、実際におかしなことが行われているのを見過ごすわけにもいかないだろうから、それに対する批判が先走ってしまうのだが、それでも構わないとは思えないことが行われていることが、現状のややこしいところでもあり、素直にわかりやすい対立関係とはならないところが焦ったいところでもあるわけで、そんなことをやっているから支持率が低迷してしまうのだと立民の支持者も憤っているかも知れないが、そういうところが枝葉末節なところなのかも知れないし、物事の本質を外れた意見かも知れず、ならば現状で何が物事の本質なのかといえば、そんなものが本質ではないと言われそうだが、もちろん物事の本質から外れたところに本質があるわけではなく、枝葉末節ではないところに物事の本質があるわけだが、現状で各党の政治家たちが取り組んでいることが、それらの政治家たちにとっての本質なのであり、彼らも本質的な問題に取り組んでいるつもりだろうし、それならそれで構わないわけだが、そこに政治では解決が困難な問題もあるかも知れず、解決できる問題に取り組むのが政治家の使命というわけでもないが、それに関しては、例えば政治が食い止めなければならないことが政府の暴走であることに、少しは気づいている政治家も中にはいるかも知れないし、しかもそれが政治の力では食い止められないことであるのも、少しは気づいている政治家も中にはいるかも知れないが、逆に政府を利用して何ができるかを模索している政治家ならいくらでもいて、そういう傾向が政府の暴走を許していると指摘してみても、政府を利用して国の状態をより良い状態へと導くことが政治家の使命だとも思いたいところだし、そう思うことも物事の本質に触れていることの証しだと思いたいところだろうが、逆に政府を利用して国を統治し過ぎると独裁政治のようなおかしな状態になってしまうと危惧することも、物事の本質に触れていることの証しかも知れず、では統治し過ぎない程度の程良い統治とはどういう状態のことを言うのかといえば、そんなことは実際に統治してみないことにはわからないだろうし、統治しているつもりになってみたところで、よくわからないことかも知れず、実際に国家を統治する側になってから、統治の仕方をあれこれと模索することになるとも思えず、それ以前に果たして国家の統治者が政治家なのかといっても、それもよくわからないところかも知れない。
2月9日「利益を得られる条件」
資本主義経済の中で物や情報やサービスなどの売買や貸借を利用して利益を得られる理屈に関して、これと言って納得できる理屈があるわけでもないが、実際に利益を得て資産や資本を増やしている人や企業が存在するわけだから、それなりに利益を得るやり方がありそうなものだが、それが恒常的に利益を得られるやり方なら、誰もがそのやり方を試してみるだろうが、試してみたところで実際に利益を得られるとは限らないとすれば、少なくとも誰もが利益を得られるとは限らず、実際に利益を得られる人や企業が限られてくれば、利益を得るにはそれなりにタイミングや条件が合う必要があり、しかも利益を得られる機会が巡ってきた際に、自らの資産や資本を投資しなければならず、さらには投資したところで利益を得られるとは限らず、投資した人や企業の中から、誰かが利益を得られる一方で、他の誰かが損失を被るとすれば、利益を得るにはそこで行われる賭けや勝負の類いに勝たなければならないということになりそうだが、その賭けや勝負というのが経済活動そのものであり、物や情報やサービスを売買したり貸借する過程の中で利益を得ようとする行為になるのだが、誰もがそうした行為に参加できるわけでもなく、また参加したところで確実に利益を得られるわけでもないなら、そういった行為の中で利益を得る機会やタイミングが巡ってきた際に、うまく立ち回る必要があるわけで、そこでうまく立ち回れないと、得られる利益を取り逃したり、逆に他人や他の企業などに利益を掠め取られたりするわけで、そんな成り行きの中では誰もが確実に利益を得られるとは限らず、結果的に誰かが利益を得られたとしても、それはその人やその企業が運が良かったと思うしかないか、あるいは利益を得られるための条件にたまたま適合していたと見なすしかないかも知れないが、少なくとも機会やタイミングをとらえて利益を得られた人や企業が存在するなら、利益を得るための理屈が導き出されてきそうだが、それはいつも利益を得られた結果から導き出されてくるわけで、そうした結果からこうすれば利益を得られるという言説を導き出すことも可能だが、それも利益を得られた結果から導き出されるわけだから、それをこれから利益を得ようとする経済活動に当てはめて、確実に利益を得られるやり方を発見したと称して宣伝することも可能だが、そこでも機会や条件が合えば、実際にそのやり方で利益を得ることに成功するかも知れないが、そういつもいつもタイミングや条件が合うとは限らなければ、利益を得られるかどうかは確率的な問題となってくるかも知れないし、そうなると利益を得られる確率の高いやり方を発見したと称して宣伝するような人や企業も出てくるかも知れないが、そんな成り行きをどう捉えても、少なくともそれが確実に利益を得られたり恒常的に利益を得られるやり方とはならないわけで、何かしら運が良かったり条件やタイミングが合ったりその機会を捉えたりしながら、利益を得ようとする人や企業の中から誰かが利益を得ることに成功する可能性があるだけで、誰もが利益を得られるとは限らないことには変わりなく、それが経済活動から導き出される真実だと見なしても構わないが、その一方で、政治の場で議論される経済政策の類いに関して、それも経済を相手にしているわけだから必ずうまくいくとは言えないだろうし、そこでも機会やタイミングが合えばうまくいくかも知れないが、逆に機会やタイミングを逸してしまえばうまくいかなくなる可能性があるかも知れず、どんな政策をやろうとしても、それをやろうと提案するわけだから、それをやればうまくいく見込みがあって、またうまくいく可能性が高いことについてのもっともらしい説明も伴ってくるわけだから、それなりに勝算があるから提案して実行しようとするのだろうが、そういう政策を提案するに当たって、都合の良い理由や要素ばかり挙げてくるのが、その手のもっともらしい説明となるだろうから、ネガティヴ要因とか失敗したらどうするのかとか、そういうことは事前には説明されないだろうし、だから政治の場で提案される経済政策の類いは信用できないし、それ以前に日本政府が提案するような経済政策となると、提案した途端に批判を浴びるような内容であって、事前に失敗することが確実視されるような政策だと思われていて、いくらでも批判できるようなことを提案してくるわけだが、それを逆に考えるなら、そういうことを提案しておけば済むような情勢なのかも知れず、特にうまくいかなくても失敗しても構わないという認識から提案しているわけではなくても、さらに言うならうまくいったり成功してしまうと困ってしまうようなことにはならないとしても、誰もが政策の恩恵を受けられるような結果にはなりようがないことが事前にわかっているわけでもないが、それを経済活動の成果と重ね合わせるなら、経済活動が行われている中で誰かが利益を得られるかも知れない一方で、他の誰かが損失を被るかも知れないということが、政治の場で提案される経済政策にも言えるのかも知れず、要するに経済政策の類いは、それを実行すれば誰かがその恩恵を得られる一方で、他の誰かが恩恵どころか損害を被るような提案しかできないと断言できるわけではないが、全ての人や企業に恩恵が及ぶような経済政策などあり得ないと考えておけばいいのかも知れず、それでも政策を提案する側がそんなことを事前に教えてくれるわけでもないし、それどころか気づいていない場合もあるかも知れないが、そういう意味で政治の場で議論されたり提案される経済政策の類いが信用に値するかというと、もちろんその内容にもよるだろうが、そこに利害関係が絡んでくるような内容である限りで、それによって利益を得られる人や企業以外にも、利益どころか損害を被るような人や企業も、可能性としては出てくることも事前に織り込んでおいた方がいいのかも知れない。
2月8日「家族の役割」
家族内の役割に関して歴史的に考えるなら、日本で伝統的な家族観だと思われているのは、男は外で働き、女は家庭を守るという役割分担なのかも知れないが、意外とそれは産業革命以降に主流となった労働者の家庭の中で、構成員が夫婦と子供だけの核家族化が招いた幻想に過ぎず、それ以前の農村などの大家族においては夫婦共働きが普通だったのだろうが、もっと歴史を遡って、例えば古代ギリシアのポリスの中で裕福な市民階級の家族となると、それに関して書き記したプラトンやアリストテレスやクセノフォンなどの著作の内容を真に受けるなら、男は外でポリスの政治に参加したり、有事の際には戦争にも参加しなければならないが、女は家庭を守り、奴隷たちに家事や農作業をやらせて、家計をやりくりするような役割分担があったのだろうが、それに加えて成人の男でポリスの有力者になると、他の有力な一族の子弟で美少年の庇護者になって、その子弟が成人になるまでの一時的な期間にわたって恋愛関係を築くという風習もあって、そうやって同性愛的な関係からポリス内のコネクションを築き上げて、ポリス政治の主導権を握ろうとする者が結構現れたらしいが、そういった有力一族の子弟の中から、いわゆる傾国の政治家が現れて、その代表格がアルキビアデスという政治家であり、アテネの衆愚政治を代表するデマゴーグとして有名で、ペロポネソス戦争でアテネを敗北に導いた人物だが、現代の日本で言えば、吉田茂の孫の麻生太郎や岸信介の孫の安倍晋三や、他にも河野太郎や小泉進次郎など、アルキビアデスに当てはまりそうになる人物には事欠かないだろうが、そんな古代ギリシアから時代を下って、紀元後の古代ローマ期になると、家族の在り方も変わってきて、エピクロス派とキュニコス派は原則的には結婚に反対していたが、ストア派は結婚には好意的で、都市国家の基礎的な構成要素として男と女は結婚して家族を形成して国家の礎となる子孫を残さなければならない、という今日の国家主義者にも通じるイデオロギーも生じてきて、そうなると必然的に国家の礎となる人員を生み出すには同性愛では駄目で、男と女が結婚して子孫を生み出さなければならないとなるわけだが、そうだとしてもいつの時代でも同性愛者は少数派であって、大多数は異性愛なのだから、同性愛者がいたとしても無視できる程度の割合しかいないから、統計的には問題とはならないはずだが、その後異性愛的な結婚観と共に禁欲的なストア主義もキリスト教に導入されて、ローマ帝国が崩壊した後も中世の暗黒時代を通じて、次第に快楽を求めるだけで生産性がないと見なして同性愛者を差別したり弾圧する傾向になってきたのかも知れないが、そんな傾向が現代でもキリスト教の保守派には根付いていて、どちらかといえば保守寄りのトランプやプーチンなどが同性婚には反対しているし、韓国のカルト宗教の統一教会も、安倍晋三と共にトランプも宣伝に加わっているし、キリスト教の中では保守的な部類に入るだろうから、昔から続いている伝統だと思い込んでいる家族の中での男女の役割分担を守りたいのだろうが、韓国といえば儒教的な伝統が根付いていることでも有名だが、果たして統一教会には儒教的な要素も入っているのかどうかはよくわからないが、江戸時代の武士が儒教を学んでいたことは確かであり、それが明治以降に一般庶民の間にも広まって、学校教育の場などで無視できない影響も及ぼしてきたのかも知れないし、祖先からの血脈の連続や生命の連続に最大の価値を見出す儒教的な生死観こそが日本人の家族の根本をなす思想だと、どこかのインチキ思想家もどきが語っていたかも知れないが、実態としては江戸時代の武士や商人の間では養子縁組が盛んに行われていて、血の連続など途切れ放題だったのかも知れず、結局そういうインチキな伝統が捏造されたのが明治維新以後のことであって、そこには儒教から仏教からキリスト教まで渾然一体となった、その時代の支配的な風潮に合うような都合の良いイデオロギーのようなものが形作られたわけで、それがどう考えても19世紀の欧米で主流となった大衆市民社会からの影響がかなり大きいような気がするのだが、それを否定的な面から語るなら、日本版の人種主義や優生学思想であり、日本人を世界でも誇ることのできる優秀な民族として捉えて、日本を欧米諸国と対等に渡り合える国家とすべく富国強兵と殖産興業に励んだ末に、破滅的な事態を引き起こしたわけだが、果たしてその延長上にまだ日本の伝統と呼べるようなやり方が残されているのかどうかもよくわからないし、大げさな思想にかぶれた人たちは、まだその夢を捨てきれないのかも知れないが、一般庶民の家族的なレベルではそんな大げさな願望など抱く必要も機会もありはしないだろうし、平和な世の中で人生を楽しんでいられるならそれで構わないとは思いたいところだが、それでも社会の中で理不尽なことが行われているなら、それに対して何かしら反応するようなことになってくるかも知れず、それが無視できないレベルになってきたから、一応は政治問題化しているわけで、それに対して知らんぷりを決め込むほど余裕のある人が多いなら、現状の政治体制が継続されていくにしても、何かしら反応を示す機会が巡ってきているなら、その機会を利用した方がいいだろうし、その際にはどちらかというと生活に行き詰まって全く余裕のない人たちよりは、経済的に余裕のある人たちに主導権があるのが、産業社会の中では当然のことであり、そうであるなら余裕のある人たちに世の中の方向を決める主導権がありそうなのだが、果たしてそれらの人たちが選択的夫婦別姓や同性婚を容認する政治勢力を支持できるかどうかが、今後の日本の方向性を決める可能性もなきにしもあらずだと言うのなら、そんな大げさなことではないとは思いたいが、その程度のことなら案外多くの人たちが支持してもいいとは思うかも知れないが、それ以外のところでおかしなイデオロギーが絡んできて、結果的には現状維持に世論が傾いてしまうと、さらに長期的な衰退の道が待っていると言われると、やはりそれもそんな大げさなことでもないように思われてしまうわけだ。
2月7日「個としての存在」
人権に関して、人権感覚の希薄な人には個がないとは言えないが、では個があるとはどういうことなのかといっても、よくわからないかも知れないし、個がない人には他人の存在を認識できないわけではないが、同類としての他人と、同類以外の他人との区別はつくかも知れず、同類としての他人とは身内や仲間ならわかりやすいが、例えば自分が日本人であることが何を意味するかとか、普段は考えたこともないし、自分が日本人であることを当たり前のように思っている人も大勢いるだろうが、日本人であることに何かしらこだわりを持っている人がいれば、そこに肯定的な意味づけが伴ってきて、日本人ならこうあるべきとか、何か自身が日本人であることに肯定的な価値を見出していて、その価値観を他の日本人にも押し付けようとする人には、果たして個があるかというと、そんな人に出会うことも滅多にないが、例えばメディアで何か勇ましいことを言い放つような人には、その種の日本人観があるのではないかと想像したくなるが、そういう人には個があるかないかということではなく、何かのきっかけからそういう人には人権意識が希薄なのではないかと疑いを抱くような機会が巡ってくるわけでもないが、それ以前に果たして人権とは何なのかというと、人としての権利なのかも知れないが、要するに人間として扱ってもらえるか否かで、その人に人権があるかないかがわかるだろうし、人間扱いされないような場合に、その人には人権がないことになるだろうが、さらにそれ以前にその人には人権があることを何が保証するのかというと、それが政府が保障したり憲法が保障してくれるとなると、その人には国籍があって、その国の政府やその国の憲法の類いが、その人に人権があることを保証することになるだろうが、では国籍がなければ、その人を人間扱いせずに、場合によっては抹殺しても構わないのかというと、そういうことをやるのが人権侵害であり、そういうことをやったのが発覚すれば、普通の国では法律によって罰せられるし、法律違反を犯したことになるだろうが、人権派と呼ばれるような人や団体にとっては、人は生まれながらに人権があるとは思いたいところだが、憲法か何かでそういう条文がないと困るようなことになるなら、人は生まれながらではなく、憲法にそう記されているから人には人権があると言ってみたところで、屁理屈に聞こえるかも知れないが、憲法が保障してくれなくても、政府が保護してくれなくても、果たして人には生まれながらに人権があるかというと、他人がその人を人間として扱ってくれるから、その人には人権があるように思われるとなると、その他人がその人を個人として認めていることになるだろうし、単なる物ではなく、動物でも生物でもなく、人格のある個としての存在を意識することによって、物でも動物でも生物でもなく、人として扱わなければならない必要が生じてくるわけで、それが人間以外でもペットの犬猫に名前をつけると、犬猫一般ではなく、個別的な存在として扱うことになってしまうわけだが、もちろん名前をつけなくても、そういう存在だと認識することもあり得るだろうが、人権意識を持つには、その人が日本人というカテゴリーに入っているだけでは駄目で、もちろん他の国の人でも同じことだが、その人が日本人であるなら人として扱うが、例えば隣国の韓国人や中国人であれば、嫌韓嫌中の対象となってしまうと、やはりその人には人権意識が希薄に感じられるし、同じ日本人でも相手が左翼であったり右翼であったりすると、否定的な固定観念をその対象となる人や集団になすりつけるようなことをやってしまうかも知れず、そういった差別意識が人権意識を希薄化させることになるのだろうが、そういう意味では相手を個と見なす以前に、特定のカテゴリーに分類分けしてしまうことが、人権意識の希薄化を招いていて、そのカテゴリーが否定的な種類であれば差別の対象となるだろうし、また肯定的な種類であっても、〇〇人は有能だとか言って賛美するようなことになれば、それも〇〇人以外を差別することにはなるだろうが、その人が〇〇人だからどうだとか、またその人が同性愛者だからどうだとか、さらにはその人が未成年だから大人扱いしないとかなら、社会的には許容限度内であるとか、その辺が微妙なのかも知れないが、そういうこととは次元や水準の違うところで、その人を個として扱うとなると、自分が自分であることと同じではないにしても、一人の人格を持った個人として接しなければならないし、そうなると自分が不快に感じるようなことをその人にやっても構わないのかと問われるなら、やらない方が無難に思われるだろうし、しかも相手が自分に対してひどい仕打ちをしてきても、やられたらやり返すようなことをやってはいけないと思いたいところだが、もちろんそれにも限度があって、戦場で殺し合いのような最中であれば、相手の人権などにかまっていられるほどの余裕はないだろうから、そういう極端な状況にならないようにしなければいけないのだが、そうだとすればその場の状況次第で相手の人権に配慮できたりできなかったりすることになってしまうが、そういう方面から考えるなら、人は生まれながらに人権があるわけではなく、その場の状況に応じて人権があったりなかったりするかも知れないし、状況次第でどうとでもなるようなものなら、人権などに価値を見出すのも、ちょっと違うような気になるかも知れず、また人によってはそれよりももっと重要視している価値があって、それが人によっては日本人であることの価値であったりするのかも知れないが、少なくとも普段から差別されているような境遇にある人なら、周囲の人々に自らの人権を認めてほしいだろうし、周囲の人々と同等の存在として自らを扱ってほしいと常々願っているかも知れないが、そう思った時の自らの存在というのが、個としての存在となるのではないか。
2月6日「世界情勢と対立軸」
国家間の対立軸として、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻や中国やイランなどの独裁的な傾向の強い国の国内で行われている人権弾圧や民主派の弾圧などに対して、それらの国々との対立を強調する主張の中でよく使われる表現として、民主主義国と専制主義国との戦いという構図が、アメリカのバイデン大統領をはじめとして、自国が民主主義陣営に属していると思っている国の首脳の言説の中で見受けられることが多いだろうが、戦うといっても直接戦争するわけではなく、ロシアに軍事侵攻されているウクライナへは武器を供与したり、他の専制主義的な傾向の強い国々には経済制裁などを仕掛けることになるのだろうが、そういったあからさまにはっきりしている対立軸とは別に、経済面での覇権争いがあり、その中で結果的に独裁体制や軍事政権になってしまう国が、そうなる過程の中で政府と企業との間で汚職や腐敗が蔓延していたり、一握りの富裕層とその他大勢の貧困層との間で貧富の格差が極端なまでに開いていたりと、民主主義が機能しなくなっていることが原因でそうなってしまうことが多いわけだから、その種の経済格差がそのまま国家間の経済格差となって、経済が貧しい国では独裁体制や軍事政権となり、経済が豊かな国では民主主義的な体制が維持されるような成り行きとなり、唯一の例外が中国だと言えるだろうが、中国でも貧しい農村部と豊かな都市部との間で経済格差が極端に開いている実態があるから、他の独裁的な傾向の強い諸国とは人口や経済規模が違うだけで、そういう面を考慮に入れるなら典型的な独裁体制に当てはまりそうだが、中国で試みられているのは経済の面で豊かになっても共産党による独裁政権を維持できるかということになりそうで、果たして非民主的な政治体制でも経済的に豊かな社会を築けるかということなるだろうが、それに関しては中東地域の王権国家や首長国でも、一見すると経済的な豊かさを誇示しているように見えるだろうが、それが豊富なオイルマネーや外国人労働者の人権無視の過酷で奴隷的な労働力に支えられていたりするから、誰もが豊かさを享受できるような体制ではなく、他の専制主義国と同じく貧富の格差が甚だしいのだが、そういう意味では日本でも同じ政権政党がこの先何十年も変わらないと、持てる者と持たざる者との間で次第に経済格差が広がっていく傾向が顕著になってしまうのかも知れないが、なぜそうなってしまうのかというと、簡単に言うなら政府と癒着して富を享受できる階層が次第に限られてきて、一握りの富める階層が他の貧しい階層のことを考慮しなくても済んでしまうような体制が定着していくからだろうが、要するに貧しい階層の要望が政治の場に届かなくなってしまい、貧困層を無視しても構わないような事態となってしまうのだろうが、現状ではまだそこまで行っていないとしても、果たして経済と政治がそんなふうに直接連動するのかどうか疑問に思うかも知れないが、たぶん民主主義を維持するには逆に経済と政治を直接には連動させないような配慮が必要なのかも知れず、政治や行政の場に経済的な利権が絡んでくると、利益目当てで群がってくる勢力が出てくるわけで、そうならないようにするにはどうすればいいかと言えば、政治や行政に関して情報公開を厳密に行なって透明性を確保するしかなく、簡単には汚職をできないような体制にしていくしかないのだろうが、また経済政策自体が特定の業界や業者に有利になるような政策は極力控えて、やるにしても間接的なやり方に終始する必要があり、企業や業界団体に直接補助金を支給するようなやり方はやめて、消費者が商品を買いやすくなるような政策が求められるのだろうが、そうなると減税や家計の負担を減らすようなことをやらなければならないのだろうが、要するに公共料金や教育費や医療費などを安くすることによって、安くなった分で他の商品を買える余裕が生じてくるわけだが、商品を買えたとしてもその商品が外国から輸入した商品の比率が高いと、国内の産業が空洞化している証拠となるかも知れないが、必ずしも製造業だけが産業を牽引するわけではなく、非製造業などのサービス業などの分野で国内の産業を育成していくことも可能性の選択肢としてはアリだろうが、果たしてそういう産業を育成することが政治や行政に求められているかというと、必ずしもそういうわけでもないのかも知れず、成長分野の産業を政治力や行政力などによって直接生じさせようとすると失敗するのであり、それよりは社会の中から自由な発想を駆使して活躍できる人材を生み出さなければならず、そういう意味では学術や文化などの方面で自由度を高めて、一見役に立たないような人でも、これまでにない新しいことに挑戦できる可能性があるかも知れないから、そういう人材を活かすような配慮が求められるのだろうが、それが特定の政治勢力や政府の言うことを聞くような人材などではそうはいかないわけで、逆に国家権力に反逆するようなことを平気でやるような人材でないと、これまでにない新しい発想は生まれてこないのかも知れないし、そういう人材が生きられて活動できるような余地が社会にないと、社会全体が硬直化してきて、政府の言うことに従順に従い、国家が決める国家の役に立つような人材だけが一握りの支配階級として独裁的な権力を振るうような事態にもなりかねないが、政府の官僚機構にとってはその方が統治しやすいだろうが、統治しやすいということは、社会に多様性が欠如していることになるわけで、そうなると逆説的に産業が衰退していくことになり、産業の衰退に伴って国家自体も衰退の一途を辿ることになるのではないか。
2月5日「制度としての政治」
社会の中ではるか昔から当然のことのように行われている慣習として気づきにくいのが、経済活動そのものであり、具体的には物や情報やサービスの売買や貸借になるだろうが、もちろんそれが法律で保護されていて、制度としても整備されているから、それを慣習と意識することも普段はないが、売買したり貸借する他にも、盗んだり奪ったりするやり方も慣習には違いなく、ただそれが法律で禁止されていて、それをやると罰せられる制度となっているから、それも慣習だと意識することもないだろうが、中には奪うやり方でも法律で保護されていて制度としても整備されているやり方があり、それが徴税というやり方であるわけで、人が行政府から税として金銭を奪われることと引き換えにして、何か与えられる物事があるかというと、それが行政サービスだというと、果たして国民が税金を払って行政府からサービスを買っているのかというと、そんな自覚はないだろうし、実際に役所で行政サービスとして住民票や印鑑証明などの書類を受け取る際には料金を取られるから、そこでは売買が成立しているように感じられるにしても、それとは別に税金を払っていて、では税を払う見返りとして何か求めているのかといっても、例えば世の中の治安を維持するにはそれなりのコストがかかり、治安の維持に税金が使われているだろうし、また外国が戦争を仕掛けてこないように外交や軍事力によって国を守っていて、そこにも税金が使われていて、そういう広い意味で行政府が行なっている活動を行政サービスと見なせばいいわけだが、もちろんそういったサービスに関して、民間のサービスのように料金が設定されているわけではないし、一般的な物や情報やサービスの売買や貸借とは違って、支払う税率があらかじめ設定されていて、徴税を拒否できないし、税を払わなかったら罰せられるわけで、また税を払うことは慣習ではなく、それが民間の経済活動とは違うところなのだが、サービスの対価として税を払うわけでもなく、税を徴収してから、その税金を使って行政サービスを行うわけだが、そんなふうに税を強制的に徴収されることを前提として、そこから先をどうするかが政治的な課題となることが多く、国民が選挙や住民投票に参加して政治に介入しない限りは、ただ一方的に税を徴収されるだけで、不利な立場のままとなってしまうわけだが、そのことに気づいていない人たちが政治に無関心を装っているわけでもないのだろうが、果たしてそんな理屈から政治について考えても構わないのかといっても、何か違うような気がするわけでもないが、それ以前に当たり前のようにして物や情報やサービスの売買や貸借などの経済活動に参加しているのと、政治に参加するのとは次元の違うことかも知れず、何よりも政治に参加することが慣習とはなっていないことが、その必要性を自覚できない原因なのかも知れないが、それでも税は強制的に徴収されているのに、選挙や住民投票で投票することは強制されていないことが、一般の人々が政治を利用して何かやろうとする気が起こらない原因かというと、たとえ選挙や住民民投票で投票したところで、人々の意思や意志が直接政治に反映されるわけでもないと感じられるような情勢であれば、確かに選挙や住民投票の投票率は下がるだろうし、そう思わせるような雰囲気が社会の中で醸し出されていると、政治活動をしている人たちも無力感を覚えるしかないだろうが、制度として政治が社会の中で定着している度合いが、人々の政治に対する関心の程度から窺えるにしても、それが経済活動や生活自体への関心と同次元ではないことにも、誰もが気づいているかというと、そういうわけでもないのかも知れず、たとえ関心が低くても有権者としての義務感から投票に行く人もいる一方で、中には所属している団体や地縁血縁などのしがらみから投票に行く人も多いとしても、その種のしがらみを課している組織や団体などの思い通りにはさせたくないなら、たとえ関心が低くても、しがらみを課している組織や団体が推薦している候補者とは違う候補者に投票するしかないだろうし、そういう面で組織票を利用する勢力の好き勝手にはさせないと思う人々が多ければ多いほど、民主的な政治が実現する可能性が高くなるかも知れないが、そこまで思考が働く人がどれほどいるかということも、最近の統一教会や創価学会などの問題が、どれほど世間で深刻に受け止められているかで、結果がそれ相応に違ってくると思いたいところだが、そういう方面の話題だけが世の中に影響を及ぼしているとも言えないだろうから、その辺はどう考えてもなるようにしかならず、それ以外にも経済分野での日本の長期的な停滞傾向も、果たして民衆がそれをどれほど否定的に受け止めているかどうかも、意外と政府への批判勢力が思っているのとは違っている可能性も否定できず、現状でもそれほど苦にならない人の割合が多ければ、現状で政治的な主導権を握っている勢力の天下がこれからも続いていくだろうし、しかも現状ではそんな勢力と似たような勢力も支持を拡大していることになっていて、誰がそんな勢力を支持しているのかよくわからないところが、根本的なところで何かおかしいような気もしてしまうが、そこから陰謀論のような主張も出てきてしまうし、そういうことも含めて、世の中に悪意が渦巻いているような不安を抱いてしまうのだが、現状では何かわかっていないことがあって、それがわからないから世の中がおかしいような気がするのかというと、それも何か勘違いがあるのかも知れず、少なくとも世の中の現状に関して、自身に固有な立場や境遇から生じてくる偏見や先入観や固定観念を抱いている状態から抜け出すことは思いの外難しいと思っておくしかないのかも知れず、それだからこそ多くの人々が身勝手な妄想を抱きながら、政治に対して勘違いな思いや幻想を抱いてしまうわけだ。
2月4日「突発的な出来事」
何の前触れもなく、突発的におかしな出来事が起こった際には、その場に当てはまる論理や理屈から考えても、そこに至る経緯から考えても、よくわからない事情が絡んでいそうだが、そこから何か良からぬ陰謀が巡らされていると疑ってしまうのも、誰もが陥ってしまうよくありがちな妄想だが、そんな出来事の裏で何が仕組まれているとしても、果たしてその出来事以上のインパクトを得られるかというと、それを自分で勝手に妄想を膨らませてよくできた辻褄の合う陰謀に仕立て上げてしまうよりも、その場の表面に出てきている複数の出来事を辻褄が合うように結びつけないで、実際に辻褄が合わずに矛盾しているように思われる不可思議な成り行きを素直にそのままの形で受け止めた方が、より現実に起こっていることを正確に捉えられるかも知れず、それでもその場でおかしな言動や行動に出て勝手に自滅してしまった人物にまとわりついてくる謎を解き明かすには至らないだろうし、謎を無理に解こうとしないで、とりあえず謎は謎のままに置いておいて、それとは次元の異なる歴史的な経緯から考えてみると、それがおかしな出来事に納得するためにそうしているわけでもないが、そこへと至る経緯の中でちょっとぐらいおかしな出来事など過去にいくらでも起こってきたと想像はできるだろうから、そうやって突発的な出来事のインパクトを減じて相対化するには必要な作業かも知れず、その人個人がどうだというよりは、その人に少なからず影響を及ぼしたであろう世の中の風潮や傾向というのも無視できないし、それがそういう言動や行動に出てしまう原因とまではいかないものの、その人をそういう言動や行動に駆り立てる要因として、そういう風潮や傾向があることもある程度は理解した上で、何かそれが深刻さを欠いた茶番劇のようにも感じられてしまうところが、そういう成り行きに陥りがちな人や集団に特有な間抜けさも事の経緯から透けて見えてくるようなら、ある程度は相対化作業が完了したといえるだろうし、その程度のこととして、その出来事を軽んじるわけでもないが、突発的に間抜けなことをやらかしてしまう人の実力や能力がその程度だと捉えておけばよく、しかもその人が特におかしいわけではなく、その人と同じような人が他にも大勢いて、そんな人たちも条件や機会が整えば、その人と同じようなことをやらかしてしまう可能性がある限りで、その人だけが特殊なのではないばかりか、その人自体がそんな風潮や傾向の世の中ではありふれた存在であることを踏まえておいた方がいいわけで、まさに絵に描いたような紋切り型の愚かな言動や行動に出てしまう人が、世の中には大勢いることを、しかも自らもその気がなくても、まかり間違えばそんなことをやってしまう人のカテゴリーに入ってしまう危険性まであることを、肝に銘じておかなければならず、ではなぜそんな人が世の中にはありふれるほど多くいるのかといえば、それが世の中の慣習に従っていれば何事も問題ないという安心感と油断がそうさせるわけで、自らが世の中の慣習に従順なごく普通の分別をわきまえた常識人だという自負が、実はその慣習の弊害を理解していないことの表れであり、しかもその慣習自体も過去から変わることなく受け継がれてきて、未来永劫恒久的に守られるような決まり事なのではなく、歴史的にはごく最近に何かの偶然から生じて、誰も口には出さないが、それとなく匂わせる暗黙の了解事項のようなものでしかなく、それをうっかり口に出してはっきりと言ってしまうと、今回のような間抜けな惨事となってしまうわけで、そういう意味ではその種の慣習に従っていたところで何の利益にもならないし、むしろ弊害しかもたらさないと悟っておいた方が無難なのかも知れないが、しかしそれではその種の人たちには我慢がならないわけで、しかも我慢がならないことの攻撃の矛先に存在しているのが、慣習から外れている人たちの存在であり、自分たちが守っているつもりの慣習を守っていないように見えるわけだから、我慢がならないわけだが、実はそんなふうに見える人たちも意識して頑なに慣習を守らないように振る舞っているわけではなく、それらの人たちにとってはごく自然な成り行きにまかせて行動していたり、その行動に合わせて自然な発露としての言動が伴ってくるわけで、それをどう解釈すればいいのかといっても、何か論理的かつ合理的かつ科学的にもっともらしい理屈を弄して正論を吐いているように装ってしまうと、何かそれがその場の成り行きから外れるような不自然さやぎこちなさが伴ってきてしまい、自らが知性を持ち合わせた常識人であることを自負している人ほど、そういう屁理屈のような正論に頼ってしまうわけだが、そういう面では自分たちが当たり前のようにして守っているつもりの慣習を、また慣習に基づいて法律化や制度化を伴っているように思われる常識の類いを、あまり信用しないことが肝要なのかも知れないが、もうすでにそこから一歩を踏み出して、論理的かつ合理的かつ科学的な理屈を含んだ正論を基にして構成される集団に対する帰属意識が強いと、慣習を外れることが罪であり受け入れ難いような立場や姿勢に凝り固まっているから、強硬な態度で世の中の慣習の変化に合わせて法律や制度を変えることを拒否しようとするから、それが世の中の慣習の変化に対応して自然に振る舞おうとする人たちには滑稽に見えてしまい、何か時代遅れな迷信に取り憑かれて、その人の振る舞いや言動が現状の世の中の風潮や傾向に合っていないように見えてしまうのだろうが、そんな人たちだけなく他の多くの人々にもそう見えてしまうこと自体が、時代の変化を物語っていることになるのだろうが、本当に時代が変わりつつあるのだとしたら、最終的には法律や制度が変わることになるだろうし、現状でもその途上にあると捉えておくのが妥当な解釈かも知れず、今回の滑稽な言動に終始して自ら墓穴を掘ってしまった人についても、そうなる過程の中で世の中の空気を読めなかった哀れな人として、少しは人々の記憶に残るかも知れないが、どう見ても他にも同じような傾向の人たちが大勢いそうな中で、たまたま巡り合わせが悪くそんな役割を担う立場となってしまった運の悪い人として、さっさと忘れ去られてしまうような人物にしかならないところも、哀れさをより一層感じさせる出来事となってしまうのではないか。
2月3日「明るい兆し」
今後世の中の何かが良い方向へと変わる予感がするなら、現状の停滞にも気づいていることになるかどうかはわからないが、もちろん世の中には停滞している面とそうではない面もあるだろうから、自分にとって都合の悪い方面で停滞が起こっていることは懸念している一方で、都合の良い面が良い方向に変わりそうな予感がしているなら、何かそれではご都合主義的な感覚かも知れず、都合が良い面だけ都合の良いように解釈して、そこだけ強調したいなら、社会の現状が良い方向へと変わろうとしていると感じているのは、何かの勘違いかも知れないが、それではまずいとも思わないし、他の何がまずいのかはそれなりに把握しているつもりだが、それを把握しているとしても、自らの力ではどうにもならないところでまずいことになっている場合もあるだろうから、自分でできることに関しては努力しようとするにしても、もちろん努力が足りず、うまくいっていないこともあるから、またそんな至らない面とは別に、なぜか偶然の巡り合わせで、うまくいきそうな気がしてしまうのかも知れないが、そんなことまで考慮に入れてしまうと、世の中が良い方向へと変わる予感などただの気休めでしかないかも知れないが、そういうことではなく、ただ何となく漠然と最近の世の中の動静について好印象を得ているような気がするわけで、何かこれまでとは違う成り行きになってきた感じがして、それがはっきりとわかるような結果に結びつけば実感も湧いてくるだろうが、まだそこまでは至っていないのかも知れず、その途上にあると好意的に受け取っている程度のことかも知れないし、それも社会のほんの一部で起こっていることに過ぎず、世の中の大半の人たちはまだその兆候に気づいていないのかも知れないが、その良い兆候というのが自分で考えて発言している人が増えてきた印象があるわけで、それが端的に表れているのがSNS上で情報を発信している人たちで、わずかではあるかも知れないが、そういう傾向が出てきたように思われるのだが、それに関して紋切り型的な言動や言語表現が少なくなってきた感じがするのであり、その人が囚われている状況や情勢に合う表現を模索している印象を受けると、ちゃんと思考を働かせて言葉を選んでいることが窺い知れて、そこから独自の言い回しに結びついてくれば、マスメディアからの借り物ではない紋切り型から外れる表現になってくるのかも知れず、そうなってくればその人の思考と言動が噛み合ってきて、まともなことを主張しているように感じられるのだろうが、たぶんそうなるきっかけとなっているのがメディアに対する不信感であり、マスメディアが必ずしも自分たちの味方ではないことがはっきりとわかってきたことが大きいのかも知れず、では誰の味方なのかと言えば、すぐに政府の味方だと言ってしまうと、それこそが紋切り型の言語表現になってしまうだろうが、たぶんそうではなく、それも時と場合によりけりで、誰かの味方を装うことはあるかも知れないし、それが場合によっては政府の味方であったり政権政党の味方となることもあるかも知れないが、そうなった時でも、少なくとも自分たちの味方ではないことに多くの人々が気づき始めているのかも知れず、もちろん気づいていても、意識の中ではその自覚がない場合もあるから、それを気づいていると表現するのは不適切かも知れないが、それ以前に味方であるか敵であるかということではなく、商売でやっていることであり、商売相手が誰かとなると、広告主である限りで、それとは何の利害関係もない一般人の味方をする必要もなく、そういうレベルでは敵でも味方でもなく、広告を見て関心を持ってくれさえすればよく、要するに経済的な利害関係なのだろうが、それがその人の思考や言動に影響を及ぼしてくるかというと、SNSで情報発信している人には直接の関係がなく、もちろん広告収入を稼いでいる人にとっては、それとは違うレベルでより多くの人に関心を持ってもらうような内容を発信しようと心がけている場合もあるだろうが、そういう思惑や意図と発信している内容が直接結びついているかというと、そうでもないわけで、それよりは勝手に良かれと思うことを伝えようとする傾向の方が強く感じられて、そういうところがバイトか何かで上司の指示を受けながら粘着質な嫌がらせの内容を書き込んで、コメント欄荒らしのようなことをやっている、毎度おなじみのエセ右翼系の輩とは一線を画しているような感じとなっていて、そこから受ける否定的な印象とは全く違う何かを感じているのだが、もしかしたらここ半年ほどで何かがガラリと変わってしまったのかも知れず、その変わってしまった情勢について行けない人たちが、マスメディアから伝わる一面的な情報を鵜呑みにしているわけでもないのだろうが、何かの束縛から解き放たれたようなことを語っている人が増えてきた印象が、本当に現状から受ける正しい印象かどうかなどと疑っているわけでもないのだが、それが今は勘違いであっても、今後何かのきっかけから勘違いではなくなるかも知れないし、それが破れかぶれの空元気なのではなく、そうかといって情勢を達観しているわけでもなく、それでもどこかへと突き抜けた印象を受ける限りで、未来に希望を持てるような気がするわけで、誰もがそれに気づく必要はなく、それに気づかなくても、それを自覚していなくても、なぜか知らないが、そうなる時には、そうなってしまう成り行きに誰もが従わざるを得なくなってしまうのかも知れず、それがファシズムのような一面的な熱狂ではなく、ファシズムの二番煎じに直面した時のような冷笑的な落ち着きでもなく、素直な情勢の受け止め方ができる人が増えてきた印象があるから、希望を持てるわけで、今は何でもないことかも知れないが、やがて誰の目にも明るい未来を予感させるような成り行きになってくるかも知れないから、そんな予感がしているわけだ。
2月2日「政治と利権」
政治などに大して興味はないと言ったら嘘になるかも知れないが、なぜか知らないが気になるから、自然とメディアの中で政治に関連した話題から文章を構成するような成り行きにはなるのだが、そんなこちら側の事情とは一切関わりがないとも言い切れないが、世の中の公的な制度に対応して政治活動が行われていることも確かで、一市民として公的な方面に何かしら介入しなければならない義務などないにしても、政治に関連した文章を書くことが、多少は政治に関わっていることになるかも知れず、もちろん文章の題材にしているとしても、政治活動の担い手たちに好意的な印象を抱いているのではなく、どちらかといえば批判の対象となることの方が多く、実際にも議会の議席が利権として機能するようなことが顕著になっているから、それがメディアで批判されているのだろうが、それが利権であることの証しとして、現に世襲が公然とまかり通っていて、また政府の官僚たちの第二の就職先としても機能しているから、一般市民が民衆の支援を受けて選挙で当選して議員になるという民主主義の大前提が形骸化しているといっても、それ自体が有名無実化した建前でしかなく、実際には職業としての政治家が幅を利かせていて、決して素人ではあり得ないわけだが、現に世界中で主流となっている政党政治という形態も、政治家の職業化を助長していて、誰もそれが悪いことだとは思っていないだろうし、一般の職業と同じように政治家も一つの職業だと捉えても構わないだろうが、それによって何か弊害が生じているとも思えないし、そうであっては困ることなど何もなさそうに思われるだろうが、それでも制度的には選挙で選ばれることが、一般の職業とは異なるし、また一般の公務員とも異なるだろうが、そういう制度的な違いから政治家を職業としてはまずい理由や事情が生じてくるかといっても、そんなことに気づいている人もいないかも知れないが、それが公的な役割だから私物化してはまずいとは誰もが思うわけでもないし、もちろん何のためらいもなく自身の子供に世襲させようとする人やその人の取り巻きにとっては、公的な役割を私物化していることに鈍感なのかも知れないし、世襲を当然視して実際に世襲候補者に投票している一般市民も、そんなことなど微塵も感じていないのだろうが、実際に日本ではそれが恒常化しているのだから、まさにその辺の事情は、そんなことに関わっている人たちの自業自得だとしても、もちろんそれによってどんな報いを受けているとも思っていないだろうし、そういうことに関しては全くの無関心でいられること自体が異常事態だとも思っていないだろうが、そんな状態を改善するには政治家を世襲したところで何の得にもならない事態が実現しないことには無理かも知れないが、それだけ政治家と利権を引き離さないとならないし、もちろんそれと共に政府の官僚機構も利権とは無縁な状態へと持っていかないとならないわけだが、果たしてそれができるかというと、それができていない国が独裁国家や専制国家や王権国家だと言えるかも知れないし、ではそれができている国が民主国家だと言えるかというと、そんな国などどこにもありはせず、大なり小なり政府や議会には権力と共に利権もついてきて、その地位が金銭的な利益にも結びついているのだろうが、すぐにそれをなくすことはできなくても、少なくとも利権政治を批判する政治勢力に投票するしかないだろうし、もちろんその勢力が議会や政府の中で主導権を握ったところで、利権を生み出す構造が改められなければ、結局は制度的にもなし崩し的にも利権体質に染まってしまって、ミイラ取りがミイラになるように、昔は利権政治の根絶を掲げていた政治勢力が当の利権政治をやる羽目に陥ってしまうかも知れず、何が利権を生み出すのかというと、その役職に権限や権力が備わっていれば、それが利益をもたらす権限であったり権力であったりするわけで、それをどうやればなくすことができるかといっても、そういった権限や権力をなくしていくしかなく、果たしてそれができるかといっても、実際にそういう方向へと政治活動や行政活動が向かっていかないと無理だろうが、それに関してはこれまでに問題となった事例を参考にして、そういう事例が二度と起こらないような制度や仕組みにしていくしかないのだが、実態はそうではなく、同じようなことが繰り返し起こっているとすれば、そういうことが繰り返し起こるような制度や仕組みになっているとしかいえないし、問題が改善していないことになるのだろうが、むしろ利権政治を推し進めている勢力が改善を阻んでいるとも言えるだろうから、そういう意味でも定期的な政権交代が必要となってくるのだが、それを議員の世襲制や国家官僚の政治分野への天下りが横行している現状では不可能になっているのかも知れず、そういう意味では政治の停滞が日本の停滞を招いているとも言えて、しかも現状で世襲制や天下りを実現させている勢力としては停滞していた方が都合がいいわけだから、そこからすぐに野党がだらしないだとかの無い物ねだり的な意見を言う人たちも、そういった停滞に加担しているし、選挙で世襲候補者や天下り候補者に投票している人たちも、無関心を装って投票に行かずに、各種の組織票を有効に機能させている人たちも、日本の停滞に加担しているわけだから、それで構わないと言うならそういうことになってしまうわけだが、そういうところが自業自得だと言えばその通りだが、意外とそれでも構わないのかも知れず、現状がそれほど危機的な状況ではないと感じている人が多数派を占めている限りで現状が維持されるのではないか。
2月1日「わかっていないことの真実」
現状でわかっていないことはいくらでもあるような気がするのだが、その一方でわかっていることもいくらでもあるだろうから、普通はわかっていることから何らかの論理や理屈や主義主張が導き出されてくるのだろうが、ではわかっていないことから何がわかるかというと、それについてはわかっていないことがわかるのだろうが、そういうことではなく、果たしてわかっていないことから何やらもっともらしい論理や理屈や主義主張が導き出されてくるかというと、そんなのはあり得ないと思いたいだろうが、それが論理でも理屈でも主義主張でもなければ何なのかというと、オカルトや超能力的な妄想の類いなのかも知れず、そういうことなら信じても構わないかといっても、迷信を信じていることになるのだろうが、合理的に考えれば迷信だとわかっていながら、それでも勝手に妄想を膨らませて、あり得ないようなことを信じたくなり、そんな妄想に自らの願望が反映されて、自身の都合のいいような屁理屈と混じり合って思想として形作られてくれば、それを頑なに信じることによって精神の安定を得られるかも知れず、それも合理的かつ科学的に考えるなら、そんなのはまやかしだと斬って捨てることもできるだろうが、たとえまやかしであっても構わないから信じていたいことがあって、確かに合理的に考えればそんなのはまやかしには違いないのだが、まやかしであるのになぜかそれを信じられて、その一方で合理的な思考から導き出されてくる結論や結果の方が信じられないとなると、やはりその合理性に関してはまだわかっていないことがあって、そのわかっていないことがわかってしまえば、結論や結果も違ってくるかも知れないと思いたいのだが、そこにも不合理で根拠のない願望が含まれているのだろうが、勘としてはまやかしの方を信じたいわけだから、何か得体の知れない真理に勘づいているとも思いたいのだが、まやかしであるわけだから、もちろんそれをまやかしだと決めつけたくはないわけだが、自分は信じられるとしても、他人を納得させることも説得することもできないだろうし、それ以前にうまく説明できないかも知れず、そんな説得力のないまやかしを信じていること自体が、果たして心の支えとなっているかというと、たぶんそうなのであって、何の根拠もないのに、それが起こるのではないかと思っていて、しかも起こる時が間近に迫っているとも思いたいわけで、もう何年も前からそんな妄想に囚われているのかも知れず、それが起こることを期待して待てど暮らせど一向に起こらないのに、それでもその時が近づいているような予感がしているわけだから、勘も狂っているのかも知れないが、そんな妄想に囚われていると不思議と心が落ち着くわけだから、妄想から離れられず、そういう面では現実から逃避しているわけで、それでも構わないのかといっても、構わないわけではないのに、平静を保つには妄想に囚われている必要があり、そのあり得ないことが起こるのを期待しながら、ひたすらその時が来るのを待つ日々が続いていて、いくら待ってもその時が来ないから待つことに飽きていて、あるいは待つことに疲れてしまって、すでにあきらめかけている兆候も感じ取れなくはないが、それでもまだ自然と何かに引き寄せられているような気がするから、その引き寄せられている何かが何かもわからないのに、引き寄せられるがままになっていた方が気持ちが落ち着くから、そのままの態度や姿勢を保っているつもりなのかも知れず、そうなるとやはり理屈ではなく、理屈でなければ何なのかというと、オカルトなどの超自然的な力に導かれているような気がして、それを信仰と呼べばいいのかどうかもよくわからないが、人のそういう面を侮ってはならないのかも知れず、その一方で合理的な思考や科学的な論証を信じられないわけだから、それがややこしい事態を生じさせているのかも知れないが、そんな迷信の心地良さに身を委ねていると、とんでもない勘違いを引き起こしてひどい目に遭えば目が覚めそうなものだが、なぜか今のところはそんな気がしないわけで、もう十分痛い目に遭っているつもりなのに、それでもまだ信じているわけだから、その種の信仰の執拗さをどう捉えてみても納得がいかないのだが、逆に納得がいかないから信じられるという屁理屈を導入するなら、やはり理屈より屁理屈の方が魅力があり、真理よりもまやかしに惹かれて、本物よりも偽物や紛い物の方が安心できてしまい、それが自らの存在がどちらかといえば、偽物や紛い物に近い存在だからかも知れないが、何が本物で何が偽物かを断言できるほどの確信があるわけでもなく、世の中のどこを探しても本物など見つからないような気もするし、本物がどこにもないわけではなく、逆に存在するものは全てが本物だと言えるだろうが、それを語るとなると、存在しないものまで語れてしまうのだから、本物について語っている内容に嘘偽りが含まれていない保証はなく、それが存在するか否かではなく、それについて語れるか否かで判断を強いられてしまえば、そこから何をどう判断しても、ものの存在とは違う水準で文章を構成していて、その内容に含まれているのが、合理的かつ科学的な論理や理屈や主義主張とは違う何かから構成されていても、何ら不思議ではないのはもちろんのこと、むしろオカルトや超能力などのまやかしで構成されている方がより魅力的に感じられてしまうわけだから、それだけわかっている物事よりもわかっていない物事の方により興味や関心を惹かれやすいわけで、いくら理詰めで説得されても不快なだけで、何か相手からバカにされているように感じられて、言い負かされて渋々相手の主張を認めるとしても、その時はそうだとしても、そんなことは早く忘れて、また信仰の心地良さに身を委ねて、心を落ち着かせたいわけだ。
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