彼の声153
2022年
11月30日「おかしなこと」
やっていることがうまくいっている時には、割に合っているかとか、正しい方向性が示されているとか、色々とやっていることを正当化する理由には事欠かないだろうが、それがうまくいっていないにも関わらず正当化するとなると、苦しい言い訳や言い逃れに終始して、うまくいっていないことを否定すればするほど、かえってそれが見え透いた嘘であることが明らかになるならわかりやすいが、どうもそうではなく、ある面ではうまくいっているとしても、うまくいっていると思う人の気づかないところでおかしなことになっていると、それが人によって判断が分かれてきて、ある人がうまくいっていると主張すれば、別の人がおかしなことになっていることを指摘して、それが気に食わなければうまくいっていない理由となるだろうが、そのおかしなことというのが、人によっては好意的に受け取られると、逆にそれがうまくいっていることの理由となり、こんがらがった事態となってしまうのかも知れず、そのおかしなことが何なのかがよくわからない場合もあるから、おかしいかおかしくないかがうまくいっているかいっていないかの判断の対象とはならず、人によってはそれがおかしいとは思えないなら、そんなことは何の問題でもないことになってしまいそうだが、なぜおかしいとは思えないのかというと、注目する点が違っていて、その注目すべき点と比べると、おかしさは些細な程度に過ぎず、それよりは別の注目すべき点の方が遥かに重要に思われるなら、他の誰かが指摘しているおかしな点など無視できて、注目している点が良ければうまくいっていることになるが、誰にとっても共通の判断基準が定まっていればそんなことにはならないだろうし、こういう時にはこういう判断をしろと教え込まれていれば、その教えに従っている人なら共通の判断基準を信じられるだろうが、もちろんそんな教えに従ったばかりにひどい目に遭えば信じられなくなるだろうが、教えに従うか従わないかも、都合が良ければ従うが、都合が悪ければ従わないこともあり得るし、時と場合によって従う時と従わない時があれば、それほど信じていないことになり、他人の言うことを信じたばかりに馬鹿を見るような光景を目にすれば、やばいなと思うだろうし、それ以前に実際に痛い目に遭って、他人の言うことを鵜呑みにすることの危険を身にしみてわかっているようなら、何事にも用心深くなり、ちょっとやそっとでは信用しない態度や姿勢になるはずだが、それと共に自分独自の判断基準が身につくようになり、単にこういう時にはこう判断すべきではなく、どんな時にも曖昧さを残しながらとりあえずは暫定的な判断を下しつつも、いざとなったらあっさり態度を翻して、それまでとは違う判断を厭わない柔軟さも必要なことに気づくかも知れないが、そのいざとなる機会がいつやってくるかもよくわからず、それまではやっていることが順調にいっていたのが、ある日急に何の前触れもなくおかしくなると、何が原因でそうなったのか俄かにはわからず、おかしくなったのはわかったにしてもその原因がわからないから、対処しようがないまま、やっていることがどんどんうまくいかなくなってしまうと、何をどう判断したらいいのかわからず途方に暮れてしまうかも知れないが、そんな時にどうすればいいかなんて自分でもわからないのだから、ましてや赤の他人にわかるはずもないと思ってしまうだろうが、そう判断するのが正しいとしても、意外と自分にはわからないことが他人ならわかる場合もあり、果たしてそれがわかった他人から助言を受けられるかというと、それもその時の運次第で、たまたま偶然の巡り合わせで通りすがりの他人から助言を受けて助かる場合もあるのかも知れないが、万が一にもそんなことが事前にわかるはずがなく、実際にそんな体験をすれば、九死に一生を得たような気になるだろうが、そこから自分の強運を確信してみたり、守護霊や神の存在を信じてみたりと、勝手に妄想を膨らませて結果を都合のいいように解釈しがちになってしまうにしても、それがおかしなことだとは思えないし、そういう成り行き自体がやっていることがうまくいっている証しだと思われるようなら、何かこれといって確からしい根拠や理由や原因があってうまくいっているのではなく、たまたま何かの巡り合わせでそうなっているだけなようにも思われるわけで、そうなっている時点でやっていることの何が正しくて何が間違っているかなんてよくわからず、その場の流れにうまく乗っている程度の認識しか得られないかも知れないが、その程度のことを取り立てて重要視するわけにもいかないだろうし、そうなっていることに関して納得できる根拠や理由や原因がこれだと特定できるようなら、その根拠や理由や原因が自分にとって重要な何かだと思うしかないだろうが、そういう物事に簡単に巡り会ってしまうことが、フィクションの中ではよくあることだとしても、それも簡単に巡り会えるのではなく、大抵は苦難や試練を乗り越えて巡り会うことになるのだろうが、果たして現状の世の中で暮らしていて、誰もが命がけの大冒険の果てに自身にとって重要な何かに巡り会うような成り行きになっているかというと、そんなストーリーのフィクションには嫌というほど巡り会えるかも知れないが、その種の漫画や映画を見飽きているなら、別にそれがおかしいことだとは思わないし、自分ではなく漫画や映画の登場人物がその種の大冒険に挑んでいるだけで、あるいはネットゲームでそんな冒険に挑んでいる人もいくらでもいるかも知れず、さらには世界の紛争地帯から命からがら逃げ出してきた避難民の姿をニュースで見かけることもあるが、少なくとも世の中の大半の人たちはそんな体験とは無縁の生活を送っていて、それがおかしなことだとは思えないし、そのおかしさに気づいているはずもないが、だからといってやっていることがうまくいっているのかといえば、それとこれとは次元や水準の違う範囲内や範囲外でそれなりにうまくいっていたりいなかったりしている程度のことでしかないだろうが、そういう次元や水準では取り立てて何を重視しているのでも重要視しているのでもないのかも知れないが、それでもあからさまにこれにこだわることが重要だと説いて回るような輩を信用できるかというと、それもその場の状況や情勢次第で信用したりしなかったりするのかも知れない。
11月29日「違和感を覚える理由」
よく言われることの典型例として、何かそれが気に入らないからそう思われるのだとしても、それでも世間一般でよく言われていることのほとんどに偏見が含まれているわけではないとは思いたいが、それを偏見や迷信だと決めつけたくなるのは、実際に言われていることと言われていることの実態が合致していないように思われるからで、それを固定観念に囚われた認識だと言えばその通りには違いないが、固定観念がどうやって生じてくるのかと言えば、そう見なすとわかりやすいからで、なぜわかりやすいのかと言えば、それをこうだと断定すると何となくその場の状況に合っているように思われるからだろうが、その種の断言には何が含まれていて、また何が欠けているのかというと、まず第一に否定的な決めつけとしてよく使われる言葉があり、それが偏見に基づいているとしても決まり文句のように定着していて、それをこうだと決めつけても他の誰も否定しないと思われるから好んで使われるわけで、その言葉の意味が広く世の中に行き渡っていることが、そんな言葉が使われる上で前提となっていて、そんな紋切り型的な言語表現を回避して何が言えるかというと、回避する理由に説得力がないと、回避すること自体に肯定的な意義がなくなってしまうが、理由もなく紋切り型的な言語表現を避けようとしているわけではなく、それを使うことに嫌悪感や違和感を覚えるのだが、それだけでは積極的にそんな表現を多用している人々に対してアドバンテージが生じてこないようにも思われるが、たぶん不利になることを承知でそういう表現を避けたいわけで、そこにある種の倫理観があるというと、それ自体にも違和感を覚えるかも知れず、倫理とは何かということに関してうまく説明できなければ意味不明となってしまうが、それも世間的な意味での倫理とは違う意味合いで倫理という言葉を使っているとすれば、それがどんな意味なのかというと、わざと世間的には否定的な意味合いを伴うような言葉で表される概念を使って逆説的なことが言いたいわけだが、なぜそんなことをやるのかといえば、少なくともそれが世に広まった当初においては肯定的な意味合いを伴っていたはずだが、そういう意味合いを伴った概念を使って言い表される行為によってもたらされた結果が否定的な結果だったから、その概念も否定的な捉え方をされるようになったわけで、その否定的な結果がそういうことをやれば否定的な結果がもたらされると決めつける理由となっているわけだが、しかもそれが現状で行われていることの主流となっているのに、それを否定的な結果をもたらしたと決めつけているわけだから、違和感を覚えるのも無理はないと思いたいのだが、実際にはそうではなく、違和感を覚えるどころか、それを否定的に捉えて、積極的にそういう行為をやっている主体を批判しているわけで、要するに現状で主流となっている行為を否定して、それを積極的に批判するのが当然のことのように思われるわけだが、それに関して何かおかしいとか狂っているとか思われて当然なのに、誰も表立ってはそんなことは表明しないし、むしろ本音と建前の使い分けのようにして、口先では否定しているが、実際にやっているのはそれそのものだと言われても誰も反論しようがないだろうが、なぜかそういう実態には言及しないわけで、それに関しては言及しない申し合わせが広く世の中に行き渡っているかというと、そんなことは誰にもわからないだろうし、誰かがそれをうっかり口にして周囲の人々から反感を買う場面に遭遇するわけでもなく、それが暗黙の了解事項だと承知しているわけでもないだろうが、それを批判している人たちは批判するのが当然のことのように批判している一方で、そんな批判されていることが当然のことのように行われている実態があるから、そんな実態に違和感を覚えるのも当然かというと、そういうわけではなく、批判されながらも行われていることがあり、実際にそういう行為に携わっている人たちによって社会が構成されているわけだから、いくらそれが批判されても、普通に考えてやめるわけにはいかないだろうし、それによって日々の生活が成り立っているのだからやめる理由などないどころか、それ自体がそれらの人たちの活動そのものであり、そうすることによってそれらの人たちが存在していると言っても過言ではなく、それを批判する人たちもそれに関わっていることは確かで、関わっていながらもそれを批判せざるを得ないというか、無理に批判しているわけではなく、批判するのが自然の成り行きとなっていて、それを批判していること自体に何の違和感も伴わないとすれば、何かに逆らって批判しているわけではなく、逆にそれを批判するような成り行きに沿って批判しているわけで、そうなると批判しているというよりは批判させられていると捉えた方がしっくりくるかも知れないが、それらの人たちにしてみれば、案外自分たちが何かの抵抗勢力であることを自覚しているかも知れないが、具体的に何に抵抗しているのかが、それも意外とその人たちが思っているようなこととは違う方面から作用や影響が及ぼされていて、それを及ぼしているのが当の批判しているつもりの対象となる行為である可能性も捨てきれないが、彼らが紋切り型の言い回しで断言している内容が、彼らを苦しめながらも生かしている理由を説明するには、少しずれているような気がするから、何か違和感を覚えるとしても、それを違和感と言うか、それよりはもっと強く嫌悪感と表現できるかが、微妙に彼らの立場をこちら側かあちら側かを分ける指標となるわけでもないが、たぶんそういう表現に嫌悪感を覚えるとすれば、それは彼らが自分たちの微妙な立場をわかっているのに、それを隠しながら批判していると解釈できるから嫌悪感を覚えるわけだが、その一方で違和感を覚える程度で許容できるなら、違和感を覚えている当人もそれと自覚することなく彼らと共犯関係にあるのかも知れない。
11月28日「中国の失敗」
それを大げさな予言や予想や予測などに結びつけるまでもないことかも知れないが、ある意味で毛沢東的な傾向がある中国の習近平政権のやっていることがなぜ失敗に終わるかというと、鄧小平的な新自由主義路線に逆らっているからだが、そうせざるを得ないのもある意味では当然であり、その国家的な官僚主義に基づいたやり方が、古くは世界四大文明の地で行われた灌漑農業にまで遡るにしても、もっと手前の近代の入り口付近で起こったことが教訓として生かされないのは、フランス革命などから影響を受けた国家主義的な傾向に囚われているからかも知れず、要するに高邁な理念に基づいた壮大な計画というのは、その大抵が失敗に終わる一方で、短期的な目先の利害に囚われた複数の経済活動による競い合いから地域的な発展が起こり、それが政府が主導する国家的な発展とは相容れない面があるからだが、実際に新大陸のイギリスの植民地が多種雑多な移民による無計画な経済活動によって大いに栄えたのとは対照的に、フランスの植民地では国家主導の計画的なやり方が仇となって大した経済的な発展が起こらなかったことが、後の時代において教訓として生かされたかというと、逆に国家主導の計画的なやり方が優勢となって、それが数々の失敗をもたらしたとしても、今もなお国家主導の計画的なやり方が世界各国で盛んに行われている現状があり、そのどちらが良くてどちらが悪いかとか、どちらが正しくてどちらが間違っているかということよりも、優先せざるを得ない事情があるわけで、それが政府の存在や、政府の官僚機構の存在に起因して出てくる事情なのだが、少なくとも現状の中国で共産党による指導体制を維持するには習近平政権のようなことをやらざるを得ず、また日本で自民党政権を延命させるには安倍政権のようなことをやらざるを得なかったわけで、その良し悪しや正誤よりも優先順位の面で判断するしかなく、実際に現状では主導的な立場を占める政治勢力によって行われていることが優勢となってしまうわけで、それがたとえ失敗に終わろうとも、どういう面で失敗しているとしても、主導的な立場の勢力にとっては自分たちの主導的な立場が維持されるなら、そういう面ではうまく行っていることになり、失敗している面をあげつらって批判したい人たちにとっては批判し放題となっても、政府や政府の官僚機構が立てる大げさで大規模な計画が失敗に終わるから、その間隙を突いて民間の企業が活躍する余地が生まれることもあり、例えばそれがアメリカでいえばNASAの計画が度重なる各種のトラブルや事故が災いして遅々として進まないから、民間のスペースX社が活躍する機会が巡ってきたことになり、また民間の企業の間でもトヨタの企業活動が重厚長大化して、コストの面でもシステムの面でも容易には内燃機関車から電気モーター車へと完全にはシフトできない間隙を突いて、テスラ社が世界的に活躍する機会が巡ってきたことになるだろうが、中国でも政府のコロナ対策が政府による民衆への統制の強化という面では成功しているとしても、それによって迷惑を被っている民衆の方では、それにかこつけて政府批判のデモ活動をする口実となったわけで、政府批判をしている民衆やその様子を嬉々として伝えるメディアにとっては政府の政策が失敗したから全国各地で大規模なデモに発展したと解釈したいところだが、民衆への統制を強化したいという政府の目論見は政府批判のデモの発生という副作用をもたらしはしたが、それを取り締まるための口実となったわけだから、デモの取り締まり活動をやっている部局にとっては活動の機会を与えられて、実際に派手に治安担当の人員を大量に動員してデモ参加者を拘束する機会を得たわけだから、それが一応の成果となるだろうし、そういう面ではそれを一方的に政府の失策だと断じるわけにもいかず、その場の状況に応じて活動の機会を得る人や団体が現れることは確かであり、それをある特定の立場から成功だの失敗だの良し悪しや正誤を言い募ることはできるが、そういうことを言う立場にそれほど正当性や普遍性があるとも思えないなら、そこで活動している人や団体にとって活動するのに都合がいい状況や機会が到来しているから、結果的に活動が成り立っていると判断するしかなく、もちろんその活動の良し悪しや正誤を判断するのに都合のいい結果が出てくるからそんな判断をしてしまい、制度的にも仕組みの面でも政府には民間の企業のようには小回りが利かないから、何事にも大げさな計画を立てて大規模で大ざっぱなことをやる傾向になってしまうのだろうが、それがうまくいかないのはある程度は事前にわかっていることであり、しかもうまくいかなくても政府そのものがなくなるわけではなく、かえってうまくいかなくなって民衆から非難や抗議の声が上がった方が都合がいい場合もあって、政府の理不尽なやり方に反発して抵抗してくる民衆を弾圧して痛めつけることによって、政府の権限や権力を強化するようなことが行われるから、そんなひどい政府はなくなった方がいいと思うかも知れないが、そう思って政府とあからさまに敵対する人々を勝手な理由や口実をこじつけて取り締まることが政府の活動そのものとなっている面もあり、もちろんそれだけが政府の活動の実態を示しているわけではないものの、そういうやり方に対して民衆がどう振る舞うかも、今後の世の中の情勢を左右することになるだろうが、政府と敵対するよりは政府をうまく利用して利益に結びつけたい人や団体の方が多いかも知れず、それも自己の利益だけではなく公共の利益に結びつけられれば、民主主義の理念にも合致してくるだろうが、そのためにはどうしたらいいかと問う以前に、まずは公共の利益とは何なのかを理解していないと、勘違いな理由や根拠をこじつけて政府を利用したくなってくるのかも知れない。
11月27日「専門的な傾向」
人は誰でも自身の認識や活動に限界があり、世の中で起こっていることや存在しているものの全てに興味を持つわけにはいかないことはわかっているつもりだろうが、その中のどれか一つの物事だけに興味を持っているとも思わないものの、一応は感知し得る限りで様々な物事に興味を持っている中で、どれか一つに突出して強い関心があるように見える人もいくらでもいて、それが趣味や仕事として関わりを持っていれば、そればかりを念頭において活動しているように見えるわけだが、それに対するこだわりが他の物事への関心の薄さを露呈させて、それが日々の何気ない態度や姿勢に表れていると、周囲からは特定の物事にこだわりを持っている人だと見られて、他の物事は考慮に入れないで、ただそのことだけに特化するような傾向を示すと、そういう方面の専門家のように見られて、それが時として他の物事を無視していられるずるい人間のように思われるだろうが、そう思われていることに当人が気づいていないと、他を顧みない傲慢な態度が目立ってしまい、周囲の人々から煙たがられる存在となってしまうかも知れないが、それがSNSなどで年がら年中一方的な体制批判に終始するような人にも当てはまりそうで、そうした首尾一貫性をどう取り扱うべきか悩むところだが、そうなるのを回避しようとしても簡単にできることではないのは、その人の日頃の言動からも窺い知れることで、いったんそっち方面へと意識が振り切れてしまうと、なぜかそれしかできなくなってしまっているようにも見えて、別にそれでも構わないような心境に至るのかはよくわからないが、それが他にも趣味や仕事に没頭しているように見える人にも当てはまりそうで、そういった方面のアピールに磨きをかけているように見えてしまうだけで、本当の実態はそうでもないのかも知れないが、それが取り立てておかしな傾向だとも感じられないし、そんな人が他にもいくらでもいるように見えてしまうから、そういう人たちはそういうことに夢中になっていれば済むような世の中になっていると割り切って状況を捉えるしかないとしても、では他にどんな態度や姿勢があり得るのかと考えてみるまでもなく、誰もがそういう成り行きになってしまうわけではなくても、その種のメディアから得られる印象がそういう傾向になってしまうと、そういうところではそうなっていると思うしかなく、何か主張したいことがあってそれしか主張できないわけでもないのだろうが、だからといって自分がそういう成り行きにはまり込んでいる人たちとは一線を画すようなことにはならず、その種の人たちがお互いにお互いを褒め合ったり貶し合ったりしながら、それらを伝えるメディアが成り立っている光景を目にするだけで、そんな人たちの部分的な凝り固まり具合をどうすることもできないような無力感が募ってくるわけでもなく、回避すべきはそういう人たちではなく、そういう人たちを無理に嘲笑う強がりな態度を装いたいわけでもなければ、ではどう振る舞えばいいのかと問うわけでも問われるわけでもないのだから、どうにもこうにも全てのしがらみを振り切って自由に振る舞えるわけでもないのだから、誰もがそれらの現象と何かしら関わりを持っていることは確からしく、関わりを持っているからこそ気にかかるわけで、気にかかるからといってそれをどうしたいわけでもなく、そんな人たちが19世紀に始まった欧米の大衆市民社会の到来以降いくらでも出てくるような世界になってしまったわけで、それ以外はあり得ないような世界の中で、どう振る舞ってもそうなってしまうような成り行きにただ従うしかないのだろうが、そう思ってしまうことが自らの限界を悟ることになるかというと、そんなことにまで思い至る余裕もないだろうし、それよりは社会の中で他の誰からも認められるような自らの立場や地位を確立したいと思うわけでもないが、その立場や地位が自らの可能性や限界の全てを構成しているとも思い至るわけでもなく、恒常的に不動の立場や地位を占められるわけでもないから、時には絶えず流動的に立場や地位が揺れ動いているような実感が得られるわけでもないが、そこから自らの可能性だけに活動の全てを賭けようとしているわけではなく、それだけが思っていることの全てではないのもわかりきったことだが、そんなことよりは自らの利害に関わる部分的に通用しそうな狭い範囲内での確らしさを事実に基づいて判断しようとするわけで、その事実が誰かが何かを言った事実や行なった事実やそれに関して記述した事実であり、さらには特定の団体が集団で組織的に動いた事実やそんな集団の活動によって他の誰かが被害や損害を被った事実などがありそうだが、そうやって何かを行なった結果として何かが起こって、その起こったことに否定的な傾向があれば批判の対象となったり、逆に肯定的な傾向があれば賞賛の対象となるかというと、一概にそうとも言えず、単純にそうなるわけではなく、そこにも自身の社会的な立場や境遇や主義主張に照らし合わせて補正が入って、気に入らない人たちが批判していれば、場合によっては逆にそれが擁護の対象となったり、気に触れば逆ギレして、屁理屈を伴ったいちゃもんや反論の機会となったり、さらには気に入らない人や団体の落ち度が指摘されれば、ここぞとばかりに執拗に非難や糾弾の対象となるだろうし、結局はやられたらやり返すようなことが行われている限りで、それが相対的な水準で小波乱を巻き起こすだけで、大勢には大した作用も影響も及ぼすこともなく、時が経てば治まるようなことでしかないわけだが、それが予定調和というわけではなく、それなりに小さな変化や変更をもたらすとしても、世の中の構造全体を揺るがす事態にはならないと思いたいところだが、逆に世の中の構造全体が揺らぐようなことが起これば、そんな人々が一斉に騒ぎ立てるかというと、そうはならなければ、もしかしたらそれと気づかずに以前とは全く違うことを平然と述べている可能性もあり得るのではないか。
11月26日「不用意な問いに対する不用意な答え」
何か行動するに当たってこうだと決めつけて、それが行動している途中から、こうだと決めつけていたことが違っていることに気がつけば、それを改めなければならないのはもちろんのこと、今度はそれとは違う方針を立てられるかというと、すぐにそうなるわけではなく、もやもやした心理状態で迷った挙句に、どうするか決めかねてしまうこともあるかも知れないが、それも行動の程度や深刻度によっても違ってくるのだろうが、何が違っているかもよくわかっていなければ、さらに勘違いな思い込みに拍車がかかってしまうかも知れず、暗中模索の中でそんな心理状態となってしまえば、正しい判断などできなくて当然だろうが、他にも気づいていないことがいくらでもありそうで、もちろん気づいていなくても無視できる程度のことであれば、特に気づく必要もなく、行動に当たって気づく必要のあることだけ気づけばいいとしても、その必要があるかどうかも、方針が定まっていなければよくわからないだろうから、早く活動の方針を決めなければと焦るわけでもなければ、自らが囚われているらしい現状の中で、根本的なところで何をどうすればいいかが問われていないのかも知れないし、それが見え透いた嘘だと思い込んでいるわけでもないが、誰に何を問われていないのもわかりきったことではあるにしても、自らに問うことができるかといっても、何を問われるまでもなく行動しているわけで、それが自らには問えないことなのかも知れず、何をどうすればいいかと絶えず自らに問いかけながら行動しているわけでもなければ、理由や根拠がはっきりとは定まらないまま、見切り発車で行動していて、行動している途中で不安になってきて初めて、どうしたらいいのかと自らに問いかけているわけで、問いかけながらもなかなか答えが出てこないのだが、答えが出ないままでもそのまま行動を続けていて、とりあえず何か区切りがつくまでそんな状態が継続するわけで、それでいいのかと問うわけでもなく、うまくいかなければそれでいいとはならないのも当然だが、よくなくても続けざるを得ない状況に追い込まれていれば、そうなるしかないのだろうが、何とかなっているならうまくいかないなりにも何とかなっているとしか言えないし、そうなっても自らのやっていることを正当化できるかというと、案外気づかないところで正当化しているのだろうが、そんな自己正当化に気づいてしまうと、今度はそれを否定しにかかるわけで、そんなことはやっていないと言い張りたいわけだが、そんなことはやっていない自らを誇示したいわけだから、それこそが自己正当化になってしまい、不用意にそんな自分を演じてしまっている自らの自己矛盾をわかっていないわけで、しかもそれに気づかないまま行動を継続しているわけだから、当人としては不満だらけかも知れないが、結果的にそうなってしまう面ではそれで構わないのだろうが、そんなふうにして自らの思い通りにはならない状況の中で、自らの思いを裏切りながら行動が成り立っているようなら、それは当人が意図しない方向へ導かれているわけだが、それでも何とかなっているように感じられるなら、そんな状態をどう解釈してもしっくりこないだろうが、不本意としてもそれで構わないと思うわけでもなくても、そうなってしまう結果を受け入れられなくても、実際にそうなっていることに変わりないから、それを無理に正当化する必要はないのだろうが、そんな不満がつきまとうような状況にいつまでも耐えられるかといっても、それも実際に耐えている自覚がなくても、耐えていることになっているのかも知れず、それをわざわざ自らが望んでそうなったかのように装わなくても見せかけなくてもいいだろうし、自らに都合のいいように語る必要もないだろうが、では都合が悪いのかというと、それほど都合が悪いわけでも、そうかといって取り立てて都合がいいわけでもないような状態をどう表現すればいいのかといっても、それも取り立てて言い表す必要もなければ、それについて特に語らなくても構わないのだろうが、語り得ないことについて語っているわけでもなければ、語らなくてもいいことまで語る必要がなくても語っている現状があるなら、それを続けるしかないのかも知れないが、続けなくても構わないのに続けてしまうわけで、そういった行為や行動の持続性に関して、何かそうなる理由や原因を無理に探し出そうとしなくても導き出そうとしなくてもいいのもわかりきったことかも知れないが、それについて言及し始めるとそうなってしまうような事態になってしまうなら、それについて言及するという行為自体にそんな成り行きも含まれてくるとしかいえないようなことなのかも知れず、それがいつ自身にとって都合の悪い方面へと向かってしまうとも限らないから、用心するに越したことはないと肝に銘じたところで、自然とその行為や行動自体が求める方面へと向かってしまうわけで、そして向かっていった先に待ち構えているのが、自身にとって都合の悪い事態だとしても、それを避けて通ることができなくなってしまえば、それがそれについて語るという自己言及的な行為であれば語らざるを得なくなり、そんな語りの中に自らの行為や行動に対する正当化が含まれてくれば、それがどんなに理不尽で不本意な正当化だとしても、とりあえずはそんなことをやってしまったことを正当化して、それに対する周囲の反応を伺いながら、場合によっては反省して自らの言動の傾向や内容を軌道修正するなり、あるいはどう考えても言い逃れが難しければ開き直ってひたすら自己正当化に徹するなりして、そうやって何とかその場を取り繕うことになるのだろうが、そんな場当たり的な対応が吉と出るか凶と出るかはその場の情勢次第な面もあるだろうが、少なくとも苦し紛れにいいわけじみたことを述べている時点で、結果的にうまくいかないことが予想できるだろうし、それでも構わないと強がってみてもどうにもならないのが明白であるなら、あとは黙ってその場の成り行きに従うしかないだろうが、たとえ自らの意思や意向がその場に反映しなくても、それが自身にとっては都合がいい場合もあるから、それが思い通りとは無縁で、思いからはほど遠く、思いがけない結果であるほど、自らが気づかないところで何かの機会が巡ってきている可能性も捨てきれないから、たとえ往生際が悪くみっともないいいわけに終始しようと、ひたすらその場の成り行きの中で状況の打開のための活路を見つけ出そうとするのではないか。
11月25日「等価交換と競争原理」
人や団体の活動の実態が何か変だと思われるような場合には、たぶん根本的なところで違和感を覚えるようなことが行われていて、例えばそこで理不尽な支配や隷属の人間関係が明らかになれば、誰もがそれを否定的に捉えることができそうだが、それを覆い隠すような利益や利点が強調されるようなら、少なくとも利益を得ている人や団体としては、否定的な面には目を瞑って、継続的に利益を得ようとする傾向になるだろうが、それによって被害や損害を被る人が大勢出てくれば、社会問題としてメディアや政治の場で取り上げられることになり、そういうことはやめさせることになればいいが、利益を得ている側が政治的な権力や権限を握っていると、簡単にはやめさせることができないばかりか、それと関係する社会の様々な方面でこじれた状態が長引くことになるだろうが、それが一方的にそうなのではなく、何かと引き換えにして利益を得られるとしたら話は別で、しかもそれが等価交換を装っていれば、対等の立場で取引が行われているような体裁が整えられて、表立っては誰もそれを拒否できなくなってしまうかも知れないが、本当にそれが等価交換なのかというと、実際にはそうではない場合が多く、すぐには気づけないところで権力関係が張り巡らされて、大抵は力のない側が不利な取引を持ちかけられて、結局は不利な条件で契約を結ばされてしまうのだが、そういう成り行きにならないようにするにはどうすればいいかと問うなら、それに対する当たり前の意見としては、世の中で生きている誰もが法的に平等な立場や境遇になれば、対等な関係を構築できて、ではそうなるには何が必要かとなると、政治的な面では民主的な理念の実現が望まれているだろうが、経済的な面ではそうはいかず、貧富の差がそのまま財力の差に結びついて、財力が権力関係においても物を言うようになるから、確かに公正な選挙が行われて、一人一票の原則が守られるなら、法的には政治的な面での平等が実現しているわけだが、その一方で政治的にも経済的にも競争原理に支配されていて、競争に勝てば有利となって負ければ不利となって、特定の人や団体が一方的に勝ち続けると競争自体が成り立たなくなってしまうから、ただ単に競争への参加の機会が平等になるように条件を設定しても意味がなく、特定の人や団体が勝てば勝つほど勝つことが難しくなるようにルールを調整しないと、勝ち負けが特定の人や団体に偏って、そこから力関係の強弱が固定される方向へと収斂していってしまうわけで、だからルールとしては競争に勝った者が不利となるような傾向が望まれるわけだが、それが部分的には累進課税制のように、収入の多い人ほど重い税を課せられるような制度が実現している面もあるが、全ての面で完全にそうなっているわけではなく、だから世界的にも貧富の格差が広がり続けていて、そんな現状を変えるべく、富の平等を重視する社会主義的な左翼政権が世界各地で次々に誕生している実態があるとしても、それも中国のように共産党の独裁下で自由を奪うような強引な政策を推し進めると、かえって人々の反発を買うから考えもので、政策の目標や目的の範囲を狭めれば辻褄の合うようなことが実現するとしても、その範囲を外れると途端に矛盾が露呈することになるだろうから、一つの政策だけで完結させるようなことにはならず、政策の矛盾点を補完するような別の政策も必要となり、複数の政策が同時並行して遂行されるが、政策のそれぞれが同じ傾向や方向とならないような配慮が求められて、場合によってはマッチポンプのような非効率が露呈するとしても、全体としてバランスが取れて、特定の方面へと利益が偏らないような状態になればいいのだろうが、それが具体的にどんな政策になるかは政権を担う当事者の実態にもよるだろうが、経済的な面から言うなら富を循環させることが重要となってくるだろうし、しかも経済活動に誰もが参加できるようにするには、人や物や情報を絶えず流動させて、一箇所に留まったり固まらないようにすることが求められるだろうが、そうなるには具体的にどうすればいいかといっても、それも一概にこうすればいいと言うだけでは済まないし、世の中の様々な方面で様々な人たちが百家争鳴的な主張を戦わせるような状況から、具体的な方策や政策が抽出されてくるのかも知れず、それが権威者のような特定の一人の人物の意見とはならないことも、十分条件としては妥当なのかも知れないが、果たして一人の意見よりも複数の互いに相容れないような異なる意見を尊重できるかというと、そんなことをやっていては何も一義的に方針が決まらないではないかと思うかも知れないが、それを多数決のように同じ意見に収斂させなくても構わないと言っても、何か違うような気がするだろうし、そんな状態が実現するとは思えないだろうが、現状のメディア状況としては実際にそうなっているわけで、多種多様な様々な方面から意見や主張が寄せられる状態を保持していた方が無難で、その中にはどう考えてもおかしいものも、そんな意見や主張には絶対に賛同できないようなものまであるだろうが、それが実現することもないだろうから、放っておかれるがままとなってしまい、さっさと忘れ去られてしまうかも知れないし、それでも構わないと思っておけばいいのだろうが、現実には誰もが顔をしかめるようなおかしなことが世界各地で行われていて、それが人々にひどい仕打ちをもたらしていれば、抗議活動や反対運動が巻き起こって、その国の政府を困らせるわけで、実際にそうなってからそれをどうにかしなければならないと多くの人々が思い、関係各方面が実際に尽力することになるわけだが、結局はそういった人や団体の尽力を人々が支持して支援するしか、おかしな行為をやめさせることができないわけだから、そういうことの繰り返しの中で民主的な理念が実現していることになるのではないか。
11月24日「心理状態の良し悪し」
世の中にわかっていないことはいくらでもありそうなのに、わかっていることだけから信用できる論理や理屈が構成されるわけでもないが、わからないことを考慮に入れて言動や行動に及んでいるかというと、何か確からしいことが言動や行動の指針となっていて、確実にそうだともいえないが、予想や予測としてはそうなるのではないかと思われるから、それに基づいて言動や行動に及ぶのだろうが、絶対にそうなると確信できることは稀で、逆に絶対にそうはならないという思いに逆らって、危ないからやめておけという心の叫びにも逆らって動いてしまうことも稀にあるから、しばしば自分で自分の思いを裏切ってしまうのだが、なぜそうなってしまうのかと自問自答してみても納得できる理由に辿り着けるわけでもなく、何だかわからないが、結果的にそうなってしまうとしか言いようのないことをやってしまって、たぶん思わしくない結果に至れば後悔するにしても、それも仕方ないという思いも含まれているから、ある程度は思わしくなくても結果に納得しているのかも知れないが、そのある程度という程度もあやふやな程度で、それを突き詰めて考えるわけにもいかず、どちらにしても確実なことが言える心境には程遠いわけだが、不確実のままでは安心できないし、不安に駆られてさらに自らの墓穴を掘るような言動や行動に及んでしまうかというと、それもたぶんある程度はそうなってしまうのかも知れず、そうやって自らの墓穴を掘りながらも、その墓穴から必死に這い上がろうとして、それも結果的にもがき苦しんでいるのだろうが、一方でそんなもがき苦しんでいる自分から距離を置いて冷たい眼差しで見下しているもう一人の自分も想像できるとしたら、意識がそこで二つに分裂していると思いたいところだが、実態としてはそうではなく、はっきりと陰と陽の区別ができるような太極的な分かれ方をしているわけではなく、それよりはどちらとも受け取れない中途半端なグレーゾーンを意識していて、どちらにも振り切れないように心がけているわけでもないが、それも結果的にはどちらにも振り切れない限りで正気を保っているようにも思われるから、意識がグレーゾーンに留まっている限りで安心できるわけでもないが、不安に慣れ親しんでいられるだけの余裕が必要なのかも知れず、ことさらに安心しようとしてはまずいわけでもないが、安心したいという思いにつけ込んで何かを仕掛けてくる輩もいくらでもいるだろうから、不安と安心が程よく混じり合っているような心境を保つべきかも知れないが、そんな都合のいい心境になれるような状況の中で生きているわけでもなく、不安と安心の間を心理状態が絶えず揺れ動いているのが、普通の心理状態だといえばその通りには違いないが、何かこれといって救いがないのも普通の成り行きなのかも知れず、だからといって救いを求めてはいけないともいえないし、救いを求めるような絶望を経験していないからそんなことが言える程度の中途半端さに留まれるなら、その通りだと思うしかないとしても、それ以上の良い状態を求めようとしてしまうと、何やら詐欺的な被害に遭ってしまいそうで、そうならないためにはどうすればいいかということではなく、程々のところで我慢しろと自らに言い聞かせても聞く耳を持っているとも思えず、どうしてもそんな状態から逸脱してみないと気が済まないなら、実際に痛い目に遭ってから反省するしかないだろうが、反省できるような余裕があるかというとそうでもなければ、そのまま自らが掘った墓穴の中に転落するしかないとも言い切れず、誰が掘ったわけでもないのにちゃんと墓穴が用意されている場合もあるだろうから、罠にはまったつもりでそんな墓穴ならぬ落とし穴に落ちてしまっても、誰も助けてくれないならそれっきりとなってしまうだろうが、できればそれっきりとならないように、保険をかけながら石橋を叩いて渡るような慎重さを身に付けなければならないとしても、誰もがそんな都合のいい癖が身につくとも思えず、身につけたとしてもそれを遥かに凌駕する災禍に遭えば運が悪かったと思う暇もなくどうにかなってしまい、そのどうにかなってしまう災禍の中でも、運が良ければ生き残る人も出てくるのだろうが、それも運の良し悪しではなく、理に適った行動によって災禍を切り抜けたと主張したいなら、そのついでに自らの有能さもアピールしていることになるだろうが、そんな主張やアピールにも誇張が含まれていて、たまたまそこで運良く難を逃れたとしても、別のどこかで自らの力量を超える災難に巻き込まれてどうにかなってしまうかも知れないし、そのどうにかなってしまった程度や具合が大したことでもなければ、そんな経験が自慢話に結びつくこともないのだろうが、それを無理に自慢話に結びつけようとすれば、そんな話の中でも大げさな誇張や強調が含まれてきて、それもできれば自慢話だと悟られないようにしたいなら、謙遜や卑下も程よい配分で含まれてくるだろうが、それ以前に話をおもしろおかしく構成しようとする意図まで悟られてしまうと、それだけリアリティーが失われて、何かとってつけたようなわざとらしいことがこれ見よがしに語られて、浅はかな人でないと引っかからないようなお粗末な内容となって、その浅はかな人というのが世の中の多数派を構成する一般大衆となれば、人気が出てメディアで話題となるというか、人気が出るような作り話をフィクションとしてでっち上げたいのだろうが、そんな話をでっち上げる過程で何かとってつけたような感動を誘う内容が盛り込まれるとしても、感動したい人にとって心地よい内容というのが定型のようにあらかじめ決められているわけではなくても、自然とそういう話に収斂していくような成り行きがあり、そんなとってつけたような感動話では飽き足らない少数の人たちが何を求めているのかといえば、求めているのとは違う何かに思いがけず出くわしてしまう瞬間を求めているわけではなくても、実際に思いがけないところで魔が差して、自分でも思ってもみないことを自分でやる羽目に陥ってしまうわけだ。
11月23日「過去に語られたこと」
語られたことは過去のことであり、それが今後の予想や予測であっても、すでに語られたことになるわけだが、今ここで語りつつあることが、時が経てば過去に語られたことになり、それが確実に過去に語られたことになると予想できるのは、実際にそうなってしまうからで、予想するも何もそんなことはわかりきったことだが、過去に語られた内容が誤りだったと気づくなら、予想や予測が外れたとわかったからで、それが予想や予測でなくても、語られた後から新事実が出てくれば、語られたことが誤っていたことが明らかになるだろうが、こうだと断言口調で語られたことに関して、それを裏切るような、そこから外れるような成り行きになってきたとしても、さらにそこから解釈を加えて、これはこういうことだとさらなる断言を付け足せば、過去に語られた断言を改めることなく済ませられるかというと、その断言の中身にもよるだろうが、そんな断言を延々と繰り返す識者の類いの言っていることを信用できるかというと、その人の信奉者ならどこまでもついていくかも知れないが、信奉者や追従者が現れるようなら、人を惹きつける魅力がその人にあるからという理由もありそうだが、何よりも語っている内容に説得力があれば信用できると思ってしまうところだが、語り方やプレゼンテーションの仕方にも工夫が凝らされている場合もありそうで、その場の雰囲気作りなどに手間がかけられていることに気づいてしまえば、信者を募る系の商売だと警戒するだろうが、手間暇かけて信者を募って何をやるかというと、その種の信者を食い物にすると相場が決まっていて、そういう勧誘には乗らない方が身のためだろうが、中には引っかかってしまう人も結構いるからその種の商売が成り立つわけだが、引っかかっても食い物にされても教祖様の類いにつき従う人が大勢出てくれば、人心の掌握というマインドコントロールに成功していることになりそうだが、その種の勧誘に引っかかってしまう人が何を求めているかといえば、心の安らぎとかいう微妙に抽象的な心理状態からあからさまな金銭的な利益まで幅広い帯域で欲望の充足を求めていそうだが、それもたわいない遊戯や娯楽の程度から深刻な支配や隷属に至るまで振れ幅がありそうで、その全てを一律に否定したり批判するわけにもいかないが、勧誘の際に語られた内容だけに基づいて良し悪しを判断できるわけでもなく、そこに至る過程で何かしらごまかしやまやかしが含まれてくるから、それに気づくことができれば苦労はしないだろうが、騙すつもりがなくても騙したり、騙されることがわかっていながら騙されてみたりと、それ以外の要因に魅力を感じてしまうと、騙すとか騙されるとか、あるいは支配するとか隷属するとか、そういう次元とは別にその場の成り行きにまかせて行為や行動が伴ってしまうと、赤信号みんなで渡れば怖くない的なことが行われて、後から振り返れば、なぜそこでわけのわからない馬鹿げた熱狂に大勢の人々が囚われていたのか理解し難く、それについてその種の専門家によって説得力のありそうな解説がなされる場合もあるが、それをありふれた流行現象として捉えてみても、当時の熱狂の渦の中で何かに憑かれたように踊っていた人々にとっては、それ以上の何かに囚われていたのであり、それを狂気の魅力と呼ぶならその通りかも知れないが、今から思えばたわいない何かに狂わされて人や物や時間や金銭を浪費した挙句に、今さら人生を台無しにしたとは思えないだろうし、それが青春のほろ苦い思い出程度に軽く思わされるなら、その程度のことでしかないが、何によってそう思わされていたのかといっても、歳月の積み重なりが感性の劣化や消耗を通して、感傷と共に二度と戻ってこない過去を飾り立てるか打ち捨てるかの二択を迫っているわけでもないだろうが、だんだんと時が経つにつれてわかってくることがあり、しかも今となっては言い逃れができないような誤謬が過去において語られていて、それをいつまでも根に持って覚えている人も結構いるから、ことさらに過去の馬鹿げた行為を糾弾しつつ、それを現状の否定的な傾向につなげてさらに倍返しの勢いで非難したいわけで、そうやってそれと自覚せずに歴史の連続性を保とうとするわけだから始末に負えない面があるとしても、実態は過去から延々と否定的な歴史が累積して現代に至っているわけではなく、それが持続しているように感じられてしまうこと自体が錯覚なのかも知れず、確かにわけのわからない妄想に囚われている人ならそう思うところだが、実際には忘却の彼方から蘇ってくる過去の記憶にも限度があり、その人の言説の中で都合のいい過去を辻褄の合うようにつなぎ合わせて、思い出される限りで記憶を取捨選択してその人なりの物語を紡ぎ上げて、それを言説として提示しているわけで、それをどう捉えようと受け止める人の勝手だが、他人の勝手にはさせたくないから、時折強い調子で煽り立てたりまくし立てたりするわけだが、そんな調子で必死に訴えかけている人の信者たちも一緒になって煽り立てやまくし立てに参加しているとしても、なぜか心に響いてこないなら、何がそう感じさせているのかといえば、主張している以外にも彼らが語らずに済ませている過去の出来事を知っているからかも知れず、それがわざと意図的に語らずに済ませているわけでもないのだろうが、それが断言口調になればなるほど辻褄の合うことしか言えなくなってしまい、話の辻褄が合わなくなれば断言そのものが成り立たないから、それがその種の断言の限界でもあり、それを限界と捉える必要もなく、その種の断言自体が辻褄の合うことを勢いよく言うための言い方なのだろうが、ならば辻褄の合わないような意味不明なことを主張して支持や賛同を得られるかといえば、普通はそんなことは言わないが、用途に応じて言い方にも向き不向きがあり、より多くの人々から支持や賛同を得たいならそうなるのが当然だろうが、不透明で矛盾に満ちた歴史を語るにはそういう語り方は適さないのかも知れない。
11月22日「知ることと考えること」
いつもながらの逆説的な物言いとなってしまうが、知り得ることの限度として、誰が何を知ろうとしても、知らないことを知ろうとしていると思っているだろうが、それがすでに知っていることだと確認して安心したいがために知ろうとしている場合があり、自分が知っている範囲内で知ろうとする内容が収まるように、絶えず無意識の自己調整を行なっている可能性があり、他人からそんなことを言われるはずもないが、そらみたことかが言いたいがために、知り得た内容を知っている範囲内に引き寄せて、自らが知っていることの延長上に位置づけた上で解釈したいのであり、それが都合のいいように受け止めようとしているだけで、都合の悪い面を無視しようとしているのではないかという疑念が募ってくれば、そういう恣意的な解釈が破綻することもありそうだが、それも無意識の自己調整の範囲内で逡巡しているに過ぎず、拭い難い疑念をそのままにしておくわけにはいかないから、疑念を払拭しようとして、わかりやすいたとえ話にはめ込んで、込み入った経緯や事情を含んだ話の内容を解消しようとしたりして、それでも確証がつかめなければ疑念の範囲内に留まるしかないが、そうやって疑念を抱き続けながらも、知り得たことを自らが理解できるような形に変えていく過程で、解釈を絶えず微調整するのだろうが、しっくりこなければ抜本的に考えを改める機会を求めて、知の対象となる物事のより詳細な情報を知ろうとしても、やはりそこに知り得ることの限界が立ち塞がってきて、どうあがいても知るのではなく考えてしまうわけで、しかも知識が足りなければ考えあぐねて、考える糸口を探し出そうとして知識を求めてしまい、そこから知ることと考えることが切っても切れない関係にあると思い当たるわけでもなくても、実際にそうなのかも知れないが、そんな当たり前なことを悟ったとしても何がどうなるわけでもないが、それを活用して自らの行為や行動に結びつけようとして、自らの思考と行動の整合性を取ろうとするのだろうが、実際には知りもしないで考えもせずに拙速な行為や行動に及んで痛い目に遭った挙句に反省して、今度は充分に知って事前によく考えて活動の方針を固めてから行為や行動に及ぼうとするのだろうが、実際に行為や行動に及んでみると当てが外れて、何か思いがけない事態に出くわして事前の準備が破綻してしまうわけで、その場で即興的な行為や行動が求められてしまうと、それを意識して考える以前に身につけた経験や勘が物を言って、考えるのではなく感じ取れないとうまくその場で振る舞えないから、その場で論理的な思考が吹っ飛んで、何かわけがわからない行為や行動に及んでしまえば、自業自得気味に自ら墓穴を掘って失敗してしまうのかも知れないが、そうした失敗を繰り返しながらも場数を踏めれば、場数を踏む前にその場から脱落してしまう人も大勢出てくるとしても、それもその場で行われていることの程度や傾向や度合いにもよるが、結果的に思い通りのことができたりできなかったりすることが、自身の能力に対する過信や不信をもたらして、それなりに思い通りのことができれば能力の高さを実証したことになるのだが、偶然にそうなった面も考慮に入れなければならないとしたら、自分の力もさることながら、場合によっては他力をどう利用できるかもうまく立ち回るには重要となり、他にも様々な要素や要因が絡んでくる中で、果たして自身の意向がその場にどの程度反映されるかもよくわからないし、それはそれ以前に行なってきた試行錯誤の経験からある程度は推測できることだが、経験や勘が物を言う面でもそれなりの限界があるのは誰もが承知していることだから、いくら考えたところで実際にそれを行なってみないことにはそれを確かめられず、行なってみたところでわからないことも出てきて、それを行う度に新たにそれに関する知見が深まればいいのだとしても、いくらでも知見が深まるわけでもなく、また知見が深まったところでそれを行動に活用できるとも限らないだろうから、無駄に知見を深めても雑学のような役に立ちそうもない知識となってしまえば、では何のために知ろうとしているのかという目的意識をはぐらかされて、ただ知りたいがために知ろうとしているような無目的な知的好奇心を満たそうとしているだけで、何のためにという問いをあらかじめ禁じた探求となってしまいそうだが、それも自身が知り得ないところに自分にとって重要な目的が隠されていると思い込めるなら、それを探し当てて目的を知ろうとすることが目的となるような自己言及的な問いを得られるかも知れないが、それが目的に囚われた愚か者が夢想するたわいない知的遊戯だと馬鹿にされるようなことであるなら、そういう解釈も成り立つ程度のことだと軽んじておけば済んでしまうことでしかないが、そんなふうに性懲りもなく延々と続く無駄な知的探求をやめるには、ただ断言あるのみというわけでもないが、こうだと断言することが、その断言が本当に合っているか合っていないかはどちらでも構わないわけではないが、それをこうだと断言したところで、その断言が効力を持つかどうかは、断言している人の社会的な信用度に左右されそうで、断言している方面で権威を担っているなら、そんな権威を崇めている人たちには通用しそうだが、断言している人が何の権威でもなければ、その種の断言が依存している論理の信用度が物を言ってくるかも知れず、どちらにしても断言するに足る根拠や理由が示されないと信用できないだろうし、それを示すために説明がなされるのだが、どんなに説得力のある説明がなされても、説明した通りのことが実際に起こらないと最終的には納得できないし、言葉で語られたことと実際に行われたことが一致しないと信じられないわけだ。
11月21日「成り行きに沿った目標と目的」
それが何なのかは人それぞれだろうが、何らかの意志を持った人間であれば、その意志がどこから生じてきたのかと自問したくなるかも知れず、自らの意志を自覚できればそういう成り行きもあり得るが、果たして自覚なき意志というのがあるかどうかは何とも言えず、特定の意志など持たずに、その場の成り行きまかせで行動しているように見える人が、何か目標や目的があるかというと、その人なりの目標や目的を持っているかも知れないが、それがたわいないものであっても、そこから目標を達成したり目的を遂行するという明確な意志が表明されればわかりやすいが、それがその場の成り行きに沿って表明されるとりあえずの目標や目的であり、他に真の目標や目的を隠している場合もありそうで、表向きには周囲の人々を安心させるような月並みな目標や目的を表明しておくという戦略的な態度なのかも知れず、果たしていつの日にか真の目的や目標を表明する機会が巡ってくるかといっても、そんなのは誰の知ったことでもないかも知れないが、誰にも知られたくない秘密が自身の目標や目的になるかというと、それもフィクションの中ではありがちな成り行きだとしても、現実の世界の中で生きている身としては何か違うような気がして、大抵はこれ見よがしに目標を掲げて目的を大っぴらに表明するというのは、他の人々に同意や賛同を求めていると受け取るしかないだろうし、誰もが同意できそうな目標を掲げて他の人々と同じような目的を持っている自分を認めて支持してくださいと言っているようなものだろうが、それに関してわかりやすいたとえ話を持ち出す気にはなれないが、逆にそんな誰かの隠された目標や目的を想像してしまうことが、誰かの戦略的な振る舞いに対して警戒心を募らせることになり、そこから誰かの真意を探り当てて、誰かが関わっているらしい企みや陰謀の類いをこれ見よがしに暴露したくなるわけだが、なぜそんな成り行きになってしまうのかといえば、誰もが安心するような月並みな目標や目的を表明するという行為に疑念を抱くから、そうした人の言動や行動や行為の裏に隠されたよこしまな意図や思惑を推し測ろうとすることが、疑念や邪念や誤解を抱かせるのもよくあるパターンかも知れないが、当人は至って無自覚な可能性があるから、自身の勝手な思い込みがその人を通して鏡面反射のように自身に向かってはね返っているだけの場合もあり、そういった自身の意志とは関係のないところから他人の存在に起因して目標や目的が生じてきて、そうなると他人の企みや陰謀を探り当てることが目標となり、それを暴露することが目的となってしまうのだろうが、それを当人は自発的にやっていると思うかも知れないが、他の大勢の人たちもそんな振る舞いに及んでいるから、それに倣っていることさえ自覚できず、そんな成り行きに巻き込まれていることも自覚できずに、まるで素人探偵のように謎解きゲームに興じることになってしまう成り行きが、フィクションの中で語られるとそれなりに興味深いかも知れないが、フィクションの中で行われている謎解きゲームに対して現実の世界から推理を働かせる場合もあるだろうから、それ自体が誰もが安心して受け入れられる娯楽になってしまい、リアリティという面では感性の劣化を被ってしまうとしても、疑似体験としては許容の範囲内となり、人畜無害といえば聞こえが悪いが、現実に起こっていることからフィクションの中へ後退したところで自己満足を得るという安全なやり方に心を奪われているふりをすることによって、目の前の現実への関与を回避しているつもりになれて、そうやって幾重にも張り巡らされた安全装置を纏うことが、現代的な成り行きに沿った目標や目的に対して有効に機能しているかというと、目眩しの効果はある程度期待できるものの、その種の目眩しが通用しないところではかえって弊害をもたらすかも知れず、それがどこで通用しないのかといっても、目眩しに興じている人々がそれに気づくとも思えず、目が覚めるようなことがいつ起こるかは誰にもわからず、逆に目が覚めないような配慮が世の中の方々で施されていて、それが娯楽的な行為や行動に付随して施されているのだろうが、これといってはっきりとわかるようなことではないから、誰もが見逃してしまい、そんなことを問題視すること自体が意味不明に思われてしまうのかも知れず、それに関して何をどう述べても誰からも相手にされないようなことかも知れないが、それとは対照的にわかりやすいたとえ話を持ち出して煽り立てる人ならいくらでもいるのだが、そういうたとえ話に実感がこもっているのかというと、実感がこもっていると錯覚したいのであり、それが極端な事例である限りで、そのままの姿では実現しないような状況について語っているのだが、そう言われてみるとそんな気がしないわけではない程度の話としては信じられて、だからといって本気になって真に受けるようなことかというと、たとえ話としてはその通りでも構わないが、現実の世界では通用しない話なのかも知れず、それでも真に受ける人が世論調査における少数政党の支持率程度にはいるから、それを大げさな口調で語っている人にはそれなりの自己満足を得られて、少しは報われた気がするとしても、実際にそんな話を持ち出して支持や賛同を得ようとする目的には合致しないような散々な結果がもたらされて、目標からは程遠いわずかな支持や賛同しか得られないから愕然とするかも知れないが、それでも気を取り直して少しでも体裁を取り繕うために自分たちの行為や行動を正当化する算段を立てるのだろうが、それとは対照的に現実の世界で起こっていることが、わかりにくく込み入った経緯や事情から、何か割り切れないようなすっきりしない結果をもたらしていて、それをどう捉えてみてもしっくりこない状況の中で、当初に設定していた目標や目的がはぐらかされているような気がして、それが誰の目にもわかるようにはっきりと目標に達しないようにされていたり目的を遂行できないようにされていれば、それに対して反発のしがいがあるし抵抗のしがいもあるだろうが、どうも実態としてはそうではなく、絶えず目標や目的をずらすように作用や影響が及ぼされてしまうから、それに対する対応や対処としてのやり方が一義的には確定できないような困難が待ち受けているのではないか。
11月20日「日本的な特徴」
従来から言われていることのよくあるパターンとして、現状の政治状況に関して日本に特有な否定的な傾向を指摘して、それが日本の政治批判や日本人批判となる場合がよくあるが、日本に特有な否定的な傾向というのが、日本の歴史的な経緯から説明されると、何となくそんなものかと納得しがちにはなるだろうが、それと同時にそれを日本的な特徴と見なすこと自体に違和感を覚えるのだが、日本と呼ばれる地域が地政学的には何か中途半端な位置関係にあるのは確かで、そこから社会学や民俗学的なアプローチによって日本的な特徴を導き出すこと自体が、その種の専門的な学者の類いならそういう傾向になりそうだが、それも例えば韓国的な特徴とかブラジル的な特徴とかオーストラリア的な特徴とか、確かに韓国人やブラジル人やオーストラリア人にとっては各々で自国民の特徴としてそれを重要視することもあるだろうが、日本人がそれらの国の特徴的な傾向を重視するかというと、中には特に隣国の韓国に対して嫌韓という表現を用いて敵対心を煽り立てるような人たちにとっては、韓国人の特徴を否定的なことを言うために利用する場合もあるだろうが、それを現状の政治状況と絡めて批判的な言説を構成するとなると、何か話の次元が違うような気もするわけで、果たして現状で問題となっている政治状況が過去の一時期に原因があると指摘したくなることは確かだが、それが全くの的外れではないものの、それほどダイレクトに過去の一時期と現代とが地続きだとも思えず、もっと何か現代の中で同時代的に問題となっている経済現象や政治的な枠組みや構造がありそうで、それが直接の原因だとも言えないが、それが経済的な利害関係や心理的な抵抗感を形成して、どうしても保守的な現状の維持へと人々を導いているようにも思われて、それで構わないなら何の問題もないのだろうが、構わないでは済まないから何かそこに問題があり、その問題に取り組む姿勢を見せる政治勢力やジャーナリストなどが問題の解決を担う当事者として現れるのも当然の成り行きだが、今や日本で起こっていることは程度や傾向の違いこそあれ世界中で起こっていることであり、専門家や学者の類いが指摘する日本的な特徴よりはそちらの方が強く状況に作用して影響を及ぼしていると考えた方が、現状を説明する上ではしっくりくるかも知れず、それがとりもなおさず世界中で猛威を振るっている資本主義経済の影響であり、また国家的な枠組みで統治権を行使する政府の存在となるのだが、その中で人々が生活しているのだから、資本主義経済には嫌でも参加せざるを得ないとしても、政府の統治に参加している気になれるかというと、政治的な方面には無関心だと参加している気にはなれないだろうが、国家の統治に国民が参加する根拠として民主主義の政治理念があることは確からしいし、自身が国家の統治に参加している気になれない人には民主主義の政治理念など眼中にはないのかも知れず、それが無意識のうちに慣習に従うのではなく、意識して理性的に行動しなければならないことを理解できるかといっても、それよりは自身の感覚の中でそれに関する知識を身につけていないと行動できず、行動することが投票行動として政治的な選択を行なうことになるとしても、そうなるに至った歴史的な経緯を知る機会に恵まれないと、世界中で今もなお同じような過程を通過しつつあることを感じ取れないのだが、それが同時進行的に自分が生まれ育った国家を守ることには結びつかないことも、たぶん理解できないところだが、むしろ国家間の差異をなくして国境の壁を取り払うような作用をもたらすことも信じ難いだろうし、民主主義の政治理念に従うことによってそうなるのなら、そんなものに従うつもりもないと拒否したくなる人もいるだろうが、方便としては逆説的に作用するのであり、それを矛盾と受け取るかあるいはそれが必然的な成り行きだと理解するかは、どちらでもあってどちらでもないのかも知れないが、どちらか一方を選択できるわけでもなく、そうなることは選択の対象ではないのかも知れず、逆に国家の独自性を守ろうとすれば民主主義的な政治理念を捨てなければならず、隣国や他国と同じような政治理念を選ぶわけにはいかないわけだが、それがある意味では現状の中国やロシアが陥っている罠であり、国家自体が罠に陥るという表現も比喩的なフィクションでしかないだろうが、実質的にはその地で暮らしている民衆が罠に陥っているとしても、それが民衆のせいではなく、国家の官僚機構が強制していることであり、日本でも官僚機構が危機感を募らせるとそういう傾向になってしまうだろうが、もちろんその官僚機構に政権政党も含まれてしまうところが日本的な特徴だと指摘したくなるところだが、それが日本だけでなく他のアジア諸国でも軍事独裁体制となっている国などは総じてそうなっていて、そうでなくても例えばシンガポールなどでもそうなっているはずで、そういった世界各国が陥る国家的な独自性の罠というのが、国家統治に関わっている政府の官僚機構の権限や権力を維持する上では欠かせない政治的なスローガンでもあり、それが官僚機構を事務処理専門の装置として無色透明化することによって解決できるのだとしても、慣習としての宗教がそれを阻んでいて、宗教と慣習を同じ概念と捉えても意味をなさないが、変化を嫌って過去から連綿と継続しているように思われる慣習や慣例を守ることによって宗教が生じてくるといっても、それが宗教だとは気づけないし、現状を維持するためにそれを守っていることには変わりないから、現状で保持しているつもりの権限や権力を維持するには、それをなるべく変化させないようにしなければならず、そのためには大した理由もなく民衆に強制している慣習や慣例を守らせなければならず、それが民衆の恣意的な都合や判断によって変えられては困るから、それらを守る機構にとっては民主主義が実現してはまずいわけで、しかも民主主義の実現を阻むには彼らにとって都合の良い別の民主主義が必要とされて、それが民衆の恣意的な判断を許さない非民主的な政治体制によって実現されるわけだ。
11月19日「敵と味方の論理」
安易に誰かを敵として設定してしまうと当てが外れて、そんな敵がどこにいるわけでもないことになるなら、では味方として設定すればいいのかといっても、味方だと思っていた人には裏切られて、誰も敵でも味方でもなく、ただ周囲から無視されているだけかも知れないが、言説の対象を敵と味方とに選り分けるのではなく、特定の人物や団体が言説の対象となることもなく、何と戦っているわけでもなければ、戦わされているわけでもなく、では実際に戦っている人たちが空回りしているのかといえば、確かに戦っている人や団体には戦う対象としての敵がいて、もちろん敵となる人や団体にとっても、戦う対象として敵となる人や団体がいるのであり、そういう面では空回りしているわけではないのだが、それ以前におかしな論理に囚われて、そのおかしな論理に従って他の人や団体を敵と味方とに選り分けて戦う羽目に陥っていると解釈すればしっくりくるかも知れないが、そんなふうにして戦うきっかけを作ってしまった人や団体も、そういう意味ではおかしな論理に囚われた被害者と言えなくもなく、それがおかしな論理ではなく、信じられるような経緯を経て、納得できる事情を抱え込んでいるわけだから、そんな論理に囚われてしまうのも無理はなく、それをおかしな論理だと見なす者の方がおかしいと思い込めるだけの理由があり、その理由が何かといえば、そうした論理に囚われている人や団体と敵対しているように感じられるからで、それを単純化するならその通りなのだろうが、単純化できるということがおかしいのかも知れず、おかしな論理に基づいて人や団体を敵と味方とに選り分けられるのだから、それがそこで起こっている事態をわかりやすく説明するには欠かせない論理となるわけで、敵と味方とに分かれて人や団体が戦っていると見なすとわかりやすいわけだが、それがモノローグ的な思考であり、そこで起こっている事態を閉じた構造と捉えるとそうなるのだろうが、そうではないとすれば、例えばモノローグに対してダイアローグを持ってくれば納得できるかといえば、それも込み入った話をわかりやすく取り扱うための論理であり、事はそう単純に反対概念を対置すれば済むようなことではなく、モノローグもダイアローグもうまく噛み合わない面を含んでいて、それ以前におかしな論理がモノローグ的な思考から生じてくる理由は単に対話を拒否するからだが、対話を拒否すれば自動的に敵対することになるわけだが、中には対話を装いつつもけんか腰で論戦を挑んでくる場合もあり、それが果たして対話と言えるかというと、対話にも建設的な対話と決裂を前提とした対話があり、対立を煽り立てて聴衆を味方につけようと画策して、相手を言い負かして聴衆に向かって自らの勝ちを宣言したいのだろうが、そういう浅はかな思惑に未来があると思い込めるところもモノローグ的な思考であり、その種の思考にもおかしな論理が絡んでいて、論破という表現を好んで使う人にそういう傾向があり、そういう輩を相手にしない態度でいられるかといっても、その場の状況次第だろうが、対立に至った経緯や対立を煽りたい事情がある人や団体としては、建設的な対話よりは論戦に勝利することを優先させるだろうから、そういう人や団体とまともに対話しても無駄かも知れないが、時間稼ぎをしたい事情があればわざと論戦の誘いに乗って、のらりくらりと逃げの姿勢に終始すればいいのかも知れないが、対話を通して関わっている物事を進展させたいのなら、場合によってはわざと相手を勝たせて相手が勝ち誇って油断している隙に、こちらの言い分も通すようなやり方が通用すればいいのだろうが、それが交渉術として取引には欠かせない要素となるかも知れず、そうやって交渉や取引がまとまったからといって、何の利害も生じないわけでもなく、何かしら事前と事後で変わった状況が出てくるとしても、そこに関わっている人や団体にそれがどのような作用や影響を及ぼすかは、事前の想定を超えるところでは未知数な面もあって、対話したからといって何がどうなるわけでもない面も含めて、モノローグ的な思考では計り知れない経緯や事情も生じてくれば、そこから生じるおかしな論理が、身勝手な妄想の域を出ない単純明快でたわいない中身に落ち着いてしまっては困るのだろうが、それをどう捉えればいいのかといっても、それで構わない場合があるなら、例えばゲーム的な水準ではそうかも知れず、娯楽としてゲームに興じるならそんな論理でも通用する程度のことであり、それが敵として設定した人や団体の立場や境遇を考えなくても済む場合であるのとは対照的に、生身の人間がある一定のレベルで集団を形成しているなら、社会に及ぼす作用や影響も、それなりにそれとは関わりのない人や団体にまで及んでくる場合も出てくるから、そうなれば当初は関わりのなかった人や団体も関わらざるを得なくなったり、また当初に関わっていた人や団体を押し退けて別の人や団体がしゃしゃり出てきて、我が物顔でその場を仕切ろうとして、結果的に主導権を握ってしまうかも知れず、そうなってしまうことが、当初に抱いていたモノローグ的な思考からは予想できない事態であり、実際に当初に設定していた敵とは別の敵に遭遇することになるわけだが、そうならないようにその場を制御したいと思うかも知れないが、それはそんな結果を目の当たりにして思うことであり、そう思っている時点でもうすでに時遅しな状況となっているわけで、それが事後的にそう思うことなのに、話の中では予定調和気味に事前にそうなることを考慮に入れて行動しているように語られてしまうから、それに伴って話の中で通用している論理がおかしくなってくるわけだが、そのおかしさに気づけないと、いつまで経ってもモノローグ的な単線思考から抜け出られずに、実際に起こってしまった思いがけない成り行きを、事前にそれが起こるのを予期していたことを事後的に語ってしまうな辻褄の合わないことになるわけだ。
11月18日「理屈の不確かさ」
理屈ではわかっていても理屈通りにはいかないと理屈を疑うしかないが、その一方で疑いを抱きながらも理屈を信じるしかない場合もあるから、それが完璧ではないとしても信じられる限りで納得できるような理屈を信じているのだが、それが確率的な理屈であると確実にそうなるとは言えず、そうなる確率は高そうだが、そうはならない場合もあるから、理屈に基づいた予想や予測が外れたところで、理屈の確かさは確率的な確かさであり、常に100%そうなるとは言えないから、予想や予測が外れても逃げ口上として確率論を持ち出せばいいのだろうが、理屈を信じきってしまうと墓穴を掘る場合もあるから、いざとなったら理屈に見切りをつけて、その場の情勢に従ったり逆らったりするような行為や行動となる場合もあり、そうなると総合的な判断が迫られるのだろうが、そこで複数の異なる傾向や程度に応じて複数の理屈が競合していて、その中でどの理屈を優先させるべきか判断を迫られて、ある理屈を優先させれば別の理屈とは相容れない判断をしなければならないようなことになれば、結局自身の立場や境遇から考えて都合のいい理屈を優先させる傾向になって、それが判断を誤らせる原因となってしまう可能性もあり得るが、果たして自分にとって都合の悪い理屈を優先させられるかといっても、それも確率的な偶然性に囚われてしまう面もありそうで、都合のいい理屈を優先させて都合のいい結果を得られるならそれに越したことはないわけだが、都合のいい理屈を優先させて都合の悪い結果となってしまったり、逆に都合の悪い理屈を優先させて都合のいい結果を得られたり、さらにわざと都合の悪い理屈を優先させたのに都合の悪い結果となってしまえば、泣きっ面に蜂だが、そういうところは自分の都合で判断するよりは大局的な見地に立って物事を判断できれば、何やら理性的な対応となりそうなのだが、そう判断したところでそれが自らの利益に結びつくとも限らず、そんな判断をしてしまうと世のため人のために自らが犠牲になるようなことになって、それが良いことなのか悪いことなのか俄かには判断がつかないだろうが、短期的な目先の利害については損だが、長い目で見れば自分にとって利益となるようなことになれば願ったり叶ったりだとしても、それが自身の生きている間は不遇であるなら、また死後も忘れ去られた存在となってしまう可能性もあるかも知れないとなると、では果たして世のため人のために尽力するとはどういうことなのかという疑問に突き当たるかも知れず、普通はそんなところにまで先回りして考えるような立場や境遇にはなれないし、単に短期的な目先の利害だけ考えていれば済むような人が大勢暮らしているのが大衆市民社会という現代の傾向であり、だからそれに対する逆張りとして長期的な目線で物事を判断できるような人が成功する可能性が高くなると言えそうだが、それも自分だけが成功するのではなく、何か世のため人のためになるような業績を残せれば、他の大勢の人々から尊敬を集める存在となれるかも知れないが、逆に余計なことをしてくれたと憎まれたり、それによって損害を被った人たちから恨まれたりする場合もあるかも知れず、必ずしも世のため人のためになるようなことが特定の人々や団体などに利益をもたらすとは限らず、逆にそれらの人々や団体が独占的に利益を得ているのを妨害するような行為となれば、下手をすればそれらの人々や団体から抹殺されてしまう可能性もあるわけで、そうなれば世のため人のためという大義を感じて行なう妨害行為が、独占的な利益に与っていない他の大勢の人々から支持されて応援されるようなことになれば、そういう行為を行なっているつもりの政治家や政党にとっては願ったり叶ったりだろうが、世の中そんなに甘くないというのがよくありがちな成り行きで、独占的な利益を享受する人々や団体などを社会全体で支えるような構造となっている場合があり、そうなると妨害活動を行なうこと自体が社会の敵と見なされて、爪弾き者となって誰からも相手にされなくなってしまうのかも知れないが、そこでも実際には全面的にそうなるわけではなく、ある面では利益の独占を妨害しているが他の面では社会を支えているような傾向となり、一方的にそうはならないから立場や境遇などが微妙な曖昧さを伴ってきて、それをどう判断してもしっくりこないような状況となってしまうわけで、そうなっているのをこうだと単純化して白黒をはっきりさせるわけにはいかないから、それに関する言説や言動の中に歯切れの悪さが残ってしまうのだろうが、逆にはっきりこうだと断言してしまえば、そういう方面とは関係のない立場や境遇の人たちからは、複雑で込み入った事情や経緯を知らないから、主張がわかりやすい分だけ安易な支持や賛同を得られて、そう言い切れるだけの根拠となる理屈にも、それだけ確かで肯定的な感触を覚えるだろうが、他の大勢の人々が支持や賛同を示したとしても、そんな理屈に支持や賛同を示すこと自体が流行現象である可能性もあるから、それが本当に信用に値する理屈なのか、あるいはその時期に一過性の現象として流行っている迷信の類いに過ぎないものなのかは、そこからさらに時間が経ってみないことには何とも言えない可能性もあるだろうし、また理屈自体も恒久的に社会の中で成り立つようなものでもなく、社会の変化に従って絶えずそこで成り立つ理屈も変化して行くと考えれば、その場では信用できそうな理屈も、同じ場でも別の時間帯では信用できなかったり、何か理屈が成り立つ条件があって、その条件を満たさないと成り立たない理屈であれば、そんな条件が成り立つ時だけその理屈を適用できるようなややこしい事態となってしまうから、少なくとも理屈に万能性が備わっているわけではなく、時と場合に応じて複数の互いに相容れない理屈を使い分けるようなことになってしまえば、どういう時にどのような理屈を適用して行動するかが、その人の腕の見せ所となるだろうし、そうなるとそういうことが臨機応変にできる器用な人が、その場で優位な立場を占めることになるわけだ。
11月17日「直接関われること」
それに関してはわだかまりという言葉が適切かどうかはわからないが、わだかまりがあるから素直に受け止めるわけにはいかず、それをどう解釈するつもりもなければ、何か他にいちゃもんをつけて批判したいわけでもないが、改めて何をどう理解させようとしているのかといっても、その中身がたわいないことのように思われて、それをわざと批判させようと企んでいるわけでもないらしく、またここぞとばかりに著名人のおかしな発言を非難せよとSNSで煽り立てているわけでもなく、どちらかといえばあちらが伝えたい内容から強調されている部分や誇張されている部分を取り除いた上で、できるだけ差し障りのない穏当な表現に修正しておいた方が無難だが、そういう操作とは無縁な明らかにおかしな主張というのは、些細なことではなく大抵は大げさな方面で主張されていて、例えばアメリカがどうしたとか中国がどうしたとかロシアがどうしたとか日本がどうしたとか、そういった方面で行われれいることに関して世界的な規模で陰から操っている黒幕的な存在を仄めかすようなら、そんなマンガチックなことを主張している人が直接関われるようなことではないはずだが、では直接には何に関われるのかといっても、例えば飼い犬や飼い猫なら、それらを飼っている人は直接関われるだろうが、だからといって世界を陰から操っている黒幕的な存在と隣近所で吠えたり鳴いたりしている犬や猫とは何の関わりもなく、そんな対比が言説の中で成り立つわけもないが、世界を陰から操る黒幕的な存在について語る人の言説の中では、隣近所で飼われている犬や猫が黒幕的な存在と直接関わることはなく、もちろん犬や猫について語る人の言説の中でもそれは同様に言えることだが、直接には関わっていなくても言説の対象としても構わないし、それについて語ることは普通に可能だが、語っている内容に多くの人が興味を引く要因としては、他でも同じようなことが語られていることが重要となり、世界を陰から操る黒幕的な存在については陰謀論的な方面では多くの人々によって語られていることであり、また犬や猫の飼育に関する言説でも実際に多くの人々が犬や猫を飼っているから興味を引く話題となるのだろうが、では世界を陰から操っている黒幕的な存在が直接関われないことは、隣近所で飼われている犬や猫の他に何があるのかといっても、そんなのはいくらでもありそうで、例えば現状のアフリカで起こっている飢餓や旱魃や人口爆発については、それも陰謀論的には陰から操っていることなのかといえば、陰謀論者ならもちろんそうだと言いそうなものだが、実際にアフリカの北東部では旱魃が起こって飢餓が蔓延しているのとは対照的に、中部の熱帯雨林帯に隣接する地域では人口爆発が起こって乱開発が加速して環境破壊の脅威にさらされているわけで、それは南米のアマゾン地域でも同じことかも知れないが、飢餓や旱魃や人口爆発が何をもたらすかというと、移民を増やすわけで、移民となった人々がどこを目指すのかといえば、欧米などの経済的に豊かな地域を目指すはずだが、ヨーロッパでは社会が飽和状態だから居場所や働き場所がそれほどないかも知れないが、アメリカでもそれほどあるわけもないにしても、相対的な程度となるとアメリカの方がまだ受け入れる余地があり、移民を受け入れる余地がある分だけ経済が発展する可能性もあるなら、単純に考えるなら人口が増え続けてその人口を養える分だけの物資が供給される限りで経済が発展することになるのだろうが、もちろん人口がそれほど増えなくても一人一人が豊かになればその分だけ経済が発展する可能性もあるが、資本主義経済の中では経済の発展に伴って経済格差が広がる傾向にあり、社会的な役割分担や職種などの希少性の面で、その地域に暮らしている誰もが平等に豊かになれるわけではなく、他より余計に所得や収入を得られる人と他より少ない所得や収入しか得られない人との間で格差が広がるから、希少価値の高い職種であるほど多くの所得や収入を得られて、希少価値が低く誰でもできるような職種であるほど少ない所得や収入しか得られないが、希少価値の高い職種となると誰でもなれるわけではなく、なるにはそれ相応の厳しい競争を勝ち抜かないとなれないから、自ずからなれる人が限られてきて、また誰でも競争に参加できる社会であるほど、人も余計に集まってきて経済も発展するわけだから、相対的には縁故主義や世襲制などに基づいて社会の中に既得権益を握る特権階級などが形成されてしまうと、競争が成り立たなくなってしまうから、そんな社会に行っても希少価値の高い職種には就けないし、魅力がなくなってしまうから人が集まらなくなり、またそんな社会の中で希少価値の低い職種の家庭に生まれたところで、経済的な豊かさを求めても、成功する可能性は低いだろうから、競争する意欲も減退するだろうし、そうなると経済の発展も阻害されてしまうわけで、鶏が先か卵が先かという議論になるかも知れないが、実際に経済発展が阻害されている地域では既得権益を握る特権階級によって世の中が支配されているわけで、逆に経済発展している地域では移民やその子孫の中から成功者が現れるわけだが、それが移民を排斥する力に打ち勝って成し遂げられるわけで、厳密には既得権益を握る特権階級との闘争が絶え間なく起こっていて、そういった勢力に打ち勝つことが経済発展につながると解釈するしかないわけだが、果たして現状で既得権益を握っていることを自覚している人々が、そういう理屈を理解して、握っている既得権益を手放すかというと、そんなことはないわけで、だから折衷的な方針としては自分たちが握っている既得権益を手放すわけにはいかないが、その一方で経済発展も望んでいるという無い物ねだりな態度や姿勢となるしかなく、そういう傾向が行動や言動などに滲み出てくると、何やらその種の人物からアンビバレントな雰囲気が漂ってくるわけだ。
11月16日「生きている状態」
成り行きにまかせて何をやってもうまくいくようなことになれば、そういう成り行きに従って動いていればいいだけだが、いつもそうなるとは限らず、うまくいかなくなることもいくらでもあるようなら、平均的な程度でうまくいったりいかなかったりして、それでも生きていけるなら、その人が生きていける程度でうまくいっていることになりそうだが、果たしてやっていることがうまくいかないと生きてはいけないのかというと、自然の中で生きている生物なら、やっていることがうまくいかなくなると死んでしまいそうだが、人が社会の中で暮らしていればやっていることがうまくいっていなくても生きていけるとしたら、うまくいくいかないとは関係なく生きていることになりそうで、では自身のやっていることとは関係なくその人を生かすような仕組みが社会に備わっているかというと、社会とは言えないが、政府が管理する国家的な制度としてすぐに思い浮かぶのが生活保護制度だが、誰もがそれを利用しているわけではないし、他にも現状ではまだ実現していないが、構想としては全ての人に生きていけるだけの金銭を供与するベーシックインカムというやり方が議論されているが、そういうやり方も実際にやってみないことにはうまくいくかいかないかわからないだろうし、理屈の上ではうまくいくと主張している人はいくらでもいるが、実際に試してみると事前に想定していなかったことが結構出てきて、事前の想定が机上の空論に過ぎなかったことがわかるかも知れないが、そういったことを考慮すれば、実際にこれまでに行われてきた中で、うまくいったことの延長上でやるべきことが決められる公算が高そうで、しかもうまくいったからといって、ある面ではうまくいっているが別の面ではうまくいっていない可能性も高く、うまくいっていない面では対策を迫られて、うまくいくように工夫を凝らさなければならなくなるのだが、実際にやってみないことにはうまくいかない面が出てくるかどうかもわからず、絶えず試行錯誤を繰り返しながら問題が出てくればその都度対応することになるだろうが、そうなると試行錯誤を繰り返しているうちにそこではたまたまうまくいったとしても、別の機会や別の条件下や別の時期にはうまくいかなくなることもありそうで、またうまくいく機会といかない機会が交互に現れて循環するような成り行きも想定できて、そこで法則のような傾向を見つけられれば、うまくいく機会だけを狙ってそれをやるとかの戦略を立てられそうだが、そんなふうに考えるなら、単にうまくいっている状態を保っていれば生きていけて、逆にうまくいかなくなってくると次第に生命の危機に直面するようになるだけではなく、うまくいかないことを何とかしてうまくいくようにすることがやっていることになってくるわけで、それをやっていられる限りで生きている状態を保っていられるなら、やっていることがうまくいくとかいかないとかではなく、そのままではうまくいかないから、それを工夫を凝らしてうまくいくように持っていかなければならないわけで、逆に言うなら何事も工夫を凝らさなければうまくいかないとなると、何か他でうまくやっている人や団体がいるとしても、それをそのまま真似てもうまくいくとは限らず、自身でそれなりに工夫を凝らさないとうまくいかないだけではなく、たとえ工夫を凝らしてもうまくいくとは限らず、工夫が足りないからうまくいかないだけでもなく、うまくいかなかった結果から工夫が足りないという結論が導き出されるとしても、結果的にうまくいけば、そんな結果を肯定的に捉えて工夫を凝らしてうまくいったことにしてもいいだろうが、それと同じように工夫を凝らしてもうまくいかない結果となってしまえば、さらにそこでうまくいく機会を捉えていなかったり、うまくいく条件が整っていなかったり、うまくいく時期を逃していたりするかも知れず、そうやってうまくいかない要因を挙げていけばきりがないようなことになれば、ではどうやればうまくいくのかわからず悩んでしまうかも知れないが、それは事前と事後の違いによって導き出される言説的なバリエーションでしかなく、それをやる前からでもやった後からでもいくらでも言いようがあり、都合のいいようにも悪いようにも言えて、ただ事前の段階では結果を知り得ないから、結果を都合のいいようにも悪いようにも予想したり予測しておいてから、そんな予想や予測に応じて結果を都合のいいようにも悪いようにも解釈すればよく、だからたとえ結果的に予想や予測が外れても、今度は結果を都合のいいようにも悪いようにも解釈できるわけだから、予想や予測が出る度ごとに、さらに結果が出る度ごとに、それを都合のいいようにも悪いようにも解釈しておけば、言説的な水準では均衡を保っていられるわけで、そういった言説的な水準で言われていることと実際にそこで行われていることを混同しないことが重要であり、やっていることがうまくいっているとかいっていないとか言っても、それが言説的な水準で言われていることであるなら、ただそれが都合のいいようにも悪いようにも言われているだけで、言っている人の立場や主義主張が違えば、うまくいっていないことがうまくいっていることかも知れないし、逆にうまくいっていることが実際にはうまくいっていないことかも知れないから、実態としては誰かがそこで何かをやっている状態が続いている限りで、少なくともその誰かがそこで生きていて、やっていることがうまくいっていてもいっていなくても、何かをやっている状態には変わりなく、それを言説的にどう評価してどう解釈しても、その良し悪しをいくら言い募ってみても、そこで何かをやっていられる状態が続いている限りは、その人の味方であればうまくいっていると評価する一方で、その人と敵対していればうまくいっていないとけなして、うまくいっていない理由や原因をあげつらって盛んに批判しまくるかも知れないし、そうやってその人のやっていることを妨害してやめさせようとするかも知れないが、結果的にやめさせられなければ、その人のやっていることがうまくいっていることになるわけだ。
11月15日「軽はずみな言動と民度」
何を批判するにしても批判している対象の良し悪しを言わないと話にならないし、もちろん批判しているのだからそれが悪いに決まっていると思いたいのだが、批判に値するようなおかしなことを語るにはちゃんとした理由があり、語っている人が自身では筋の通ったことを語っているつもりなのだろうが、それを批判している人にしてみれば、筋の通らない理由を見つけ出してきて、そんな理由をつけて批判しているのであり、その筋の通らない理由というのが、批判の対象となっている人が考慮していないことであり、批判の対象となっている人が主張している理由とは違う理由を持ち出してきて批判しているわけだが、それを批判の対象となっている人が考慮に入れる必要があるのかというと、大抵はそれとこれとは話が違うと感じて、何か筋違いな理由を持ち出していちゃもんをつけているではないかと思いたいところだが、もちろん批判している人にしてみれば筋違いではなく、いちゃもんであるはずもなく、自身では筋の通った批判をしているつもりなのだろうが、批判に値するようなおかしなことを主張している人にとっては、そうではないところが意見の相違となり、それを巡って両者の間で対立軸を形成しているわけだが、果たして国会議員や大臣などの公的な役職に就いている人が、世間的に見てそれほど常識から外れたおかしなことを主張したり発言しているのかといえば、そう思うこと自体が常識的な先入観に囚われている証拠であり、そうした先入観を捨てなければならないようなおかしなことを主張したり発言しているから、非難を浴びせられていると考えなければならないとしたら、そんな常識外れな人を国会議員や大臣にしている有権者が悪いということになりそうだが、そんな人に非難を浴びせている批判者がそこまで言っているわけではなく、逆に国民の方がその種の国会議員や大臣に騙されていると主張する場合も多いが、さらに逆にそういう批判者に騙されていると主張する人もいるかも知れないし、そういう水準で物事の良し悪しを言うのではなく、主張や意見や批判の内容をよく吟味した上で自分で良し悪しを判断すればいいとしても、面倒だからそこまで深く考えもせずに、安易に同調したり反発したりして、軽はずみな言動に及んでしまえば、今度は自身が批判される番になるかというと、それは人にもよるだろうし、大して発言力や影響力のない一般人なら批判にも非難にも遭遇せずに無視されるだけかも知れないが、軽はずみな言動によって他の多くの人々から共感を呼んで注目を浴びてしまう人も中にはいて、そういう人がSNSなどで多数のフォロワーを獲得して人気者になる場合もあるだろうし、そういう人が人気者になる程度のことが世間的な常識の範囲内では許容されるレベルであるなら、それが民度と呼ばれるその社会で暮らしている人々の平均的な良識の程度となり、それを意識高い系の人が見下そうと馬鹿にしようと、その程度で済んでいるうちは特に問題とはならないだろうが、絶えず批判者が公的な役職に就いている人の良識の程度を監視して、事ある度にその非を難じていないと、どんどんその程度が下がってきて、その人に割り振られている権限や権力を振りかざして横暴を極めるような成り行きになってしまえば、結局は弱肉強食の自然を掟を受け入れるしかなく、そうなってしまっては公的な役職を私利私欲のために利用しているのと変わらなくなってしまうから、もちろん当人にしてみれば国家のため国民のために奉仕しているつもりでいるのだろうが、それによって世の中がひどい状況に陥っている現状があれば、勇気を奮ってそれを批判しなければならなくなり、その人やその人が所属している政党や関係している各種団体の非を難じなければならないだろうから、そういう事態や状況が認められる限りで、批判者の主張や意見に正当性が生じることになり、それに関してよく言われる批判の定型としては、例えば民衆が日々の暮らしにも困窮しているのに税金をさらに余計に取ろうとするとは何事だとかいう主張に落ち着くだろうが、それに対して妥協や譲歩を促す物言いとしては、まずは行政機構の改革を行なって、無駄に税金が使われているところを検証して改めなければならないし、また税の徴収についても不公平とならないように配分を見直さなければならないという意見や主張が生じてくるかも知れないが、それも建前上は主張できることであり、実際には既得権益を持っている様々な方面から抵抗や横やりが入って、検証も見直しもうまくいかなくなってしまうのがオチだが、それをやらないと税率を上げることは正当化できないと世の中のどれほどの人が思っているかといっても、それも世論調査などで質問項目や内容を調整して誘導尋問的なやり方を駆使すれば、多くの人々がそういう意見や主張に支持や賛同を示しているように装えるかも知れないが、そうなると技術的に世論や民意を作り出すようなことになって、誰も直接にはそうは思っていないのに、なぜかそれらしいことに支持や賛同を示す世論や民意が捏造されて、それを真に受ける人がどれほどいるかも何とも言えないところだが、そんな成り行きが現に起こっているかどうかも、誰もはっきりとはわかっていないだろうし、そう思われるような雰囲気を感じ取って、それに対して抵抗しているように装えるかといっても、装うとか装わないとかのレベルではなく、はっきりとそれとわかるような兆候が出てくれば、それに対して抵抗できればいいのだが、現状ではそれもよくわからないのであり、そんなことが起こっているかどうかもよくわからないのに、それに関して何をどう語っても憶測の域を出ないなら、大して重要なことでも深刻なことでもないのかも知れないが、そういう面とは違うところで何かが起こっていて、それが重大で深刻な事態だと主張したいのがジャーナリズム的なやり方なのだろうが、それも誇張表現を駆使した煽り立てに過ぎないと言うつもりはないにしても、何かこれ見よがしに行われる批判を真に受けない鈍感さが身についてしまうと、何に対しても疑いの眼差しを向けるのが癖となり、そこから何かを主張するとなると、大抵は面倒で回りくどい言い回しとなってしまうわけだ。
11月14日「批判の限度」
世の中の現状をどう語っても、ひどいところやおかしなところがいくらでも出てくるから、それを簡単に批判できてしまう現状がそんな事態を否定的に見てしまう意志によって捉えられていることは明らかだが、いくら批判しても相変わらず否定的な傾向に現状が覆われていることには変わりなく、だから焦ってくると共に余計にそんな現状を批判する言動に及んでしまうのだろうが、実際にひどいところやおかしなところに関わっている人や団体を批判することも簡単で、しかもそんな人や団体を批判したところで、それらの人や団体が依存しているシステムが改まらないと、まるでモグラ叩きのように同じような人や団体が性懲りもなく現れて、また同じようなことをやりかねず、ではそんなシステム自体がおかしいからそれを改める必要があるといっても、そんな現状をもたらしているシステムが一つだけではなく、複数のシステムが複雑に絡み合っているから、その中の一つのシステムが単体で不具合を生じさせていると捉えるわけにもいかないし、一つのシステムがおかしいのではなく、複数のシステムが絡み合ってそれらが相乗効果をもたらしておかしな事態を引き起こしているから、そのシステムがおかしいと批判したところで、そのシステムに絡み合っている他の様々なシステムにまで批判の矛先を向けてしまうときりがなくなってしまい、確かにそんなシステムに依存して利益を得ている人や団体を批判することは簡単にできるのだが、批判したからといってシステム自体はなくならず、システムが作動している限りはいくら批判してもさらにいくらでも批判することができて、それを批判していること自体がその批判を成り立たせているシステムに依存しながら批判を繰り返していることになり、すでにそうなっていること自体が複数のシステムの複雑な絡み合いの中に囚われていて、批判している当人には批判していることがおかしいとは思われないが、批判させられていることに無自覚でいると、その批判自体が次第に枝葉末節で些細などうでもいいような傾向へと誘導されていることに気づけなくなってしまうわけで、そうやってどんどん細かなことにこだわるように仕向けられてしまうなら、それもそんなシステムに操られながらそうなっているといっても、そんなことは批判している当人にはあずかり知らないことであり、自身がそれと自覚することなくシステムに絡め取られて、そのシステムに依存しながら活動しているから、それなしでは活動が成り立たなくなってしまい、そんな批判を成り立たせるシステム自体も批判の対象としなければならなくなると、自己矛盾を意識せざるを得なくなるわけでもないだろうが、そういうところはうまく取り繕って、自己矛盾を起こさないように批判の範囲を限定しておけばいいのだろうが、それが意識して限定しているわけではなく、システムに絡め取られている限りで批判が取り扱う領域をシステムによって限定されているわけで、ではシステムによって自己矛盾を起こさない程度の範囲内で批判するように仕向けられているのかというと、批判している当人には自覚できないことであって、自覚する必要もないのだろうが、逆にそれを自覚してしまうと自己矛盾をきたして批判できなくなってしまうわけでもないが、少なくとも自らの欺瞞を意識せざるを得ないだろうし、それを意識したところで批判をやめるわけにはいかず、結局は批判の虜となって批判以外にはやることがなくなってしまうのだろうが、そんなふうにして批判だけとなってしまった人々の成れの果てがメディアに巣食って批判を繰り返す言論人と呼ばれる人々にも当てはまるかというと、そう見えなくもない程度のこととして、それを肯定的に受け止める必要があるかも知れず、そこでもそれを肯定的に受け止めるようなシステムが作動していて、そのシステムに依存している限りで欺瞞もやましさも意識せずに批判を繰り返せるのかも知れないが、果たして彼らがそこから離脱する必要があるのかというと、評論家的な立場から政治家的な立場になれる道があるにはあるのだが、政治家となっても批判を繰り返すような立場に活動を限定されている人も多く、逆にそれ以外でどんな役割を担っているのかといえば、政権与党に入ることができれば批判される側に回れるのだが、批判される側に回って何をやっているのかといっても、そこでもシステムに依存してそのシステムに逆らわないように動いている限りで批判される側に回れるわけだが、そこで批判される以外に何をやっているのかというと、批判されるようなことをやっているわけで、実際に批判されるようなことをやっているから、批判する側にとってはそれがひどいことやおかしなことになるのだろうが、そこで作動しているシステムによってそういうことをやるように誘導されているから、そう仕向けられている限りでそういうことをやらざるを得ず、ではシステムがやるように仕向けていることをやるのを拒否すればどうなってしまうのかといっても、システムの動作に従順な他の人々から疎まれて、その任に適さないことが明らかとなるだけで、そういう任には就かせないようにさせられるのだろうが、だからといって他の人々から適任だと認められてその任に就いたところで、批判の対象となるようなことをやっているわけだから、場合によってはそこを責められて辞任したり解任させられたりすれば、それを批判するシステムにとってはそうした役を従順に演じたことにもなるわけで、それが批判されて辞任したり解任させられるような役割分担だったことになるわけだが、果たしてそうしたシステムの操り人形的な役割から逸脱することができるかというと、たぶんあからさまにそうなろうとするのではなく、システムに依存した役割を演じながらも、偶然に巡ってくる機会を捉えて不意打ちのようにしてシステムから外れるようなことができるとすれば、それを実際にやってみせた人が世界のどこにいるのかといっても、それに気づいていないだけで、誰もが日々の日常の中で絶えずシステムから外れかかっていて、実際に外れてしまうから様々な事故や不具合が発生して、システムに依存している人々を困らせるわけで、それが目に余るような許し難い行為に見えると、そこで批判システムが作動して、システムから逸脱した人を懲らしめるような動作が発動するのではないか。
11月13日「反発と反感」
何か批判と共に正論らしき内容を唱えている人の何かがおかしいと思うのは、それが何かではなく具体的におかしいところがわかっていて、そのおかしいところを直接には指摘する気にはなれず、直接指摘しても意味がないような気もするのであり、だから曖昧にそれとわからないように指摘するでもなく語ろうとして、それでは意味がないような気もするのだが、直接指摘できない理由が何なのかがよくわからないまま語り始めているとも思えないが、それがわからないように語りたいわけではなく、逆にわからせたいのであり、わかってほしいわけだが、それを直接指摘してしまうとわかってくれないどころか、反発されたり反感を買うことになり、なぜわかってくれないのかといえば、わからせようとする対象となる人々を批判していることになってしまうからで、彼らのおかしいところを直接指摘すれば、大抵は反発されたり反感を買うのだが、なぜそうなるのかというまでもなく、指摘している内容が図星となってしまうからだと思いたいのだが、その図星となっている内容を受け入れようとせず、それを打ち消すために他の関係のない方面から反論してくることもあるだろうが、大抵は無視しようとするわけで、指摘などなかったことにしたいわけだが、では具体的に何を指摘したいのかといえば、それとわからないように指摘するなら、彼らの立場が消費者的な立場であり、それが生産者にはなれない立場であり、また生産と消費の間を取り持つ流通業者の立場でもあるわけで、そうやってうまく立場を選んで自身の言い分を正当化しようとしていると感じられるのだが、もちろん何を言っているのかよくわからないわけではなく、そういう立場に固執することによって責任逃れに成功しているといってしまうと、そんなことはないと反論してくるわけでもないが、何かそれも違うような感じもして、ますます言っていることの意味不明度が高まってしまうかも知れないが、物事の生産と流通と消費が一連の行為であるにもかかわらず、消費者の立場だけにこだわるなら、生産者や流通業者のごまかしを容易に指摘できて、それを批判することも容易にできるのだが、生産と流通と消費の全般に関わっていることを自覚できるような立場からだと、生産者や流通業者がごまかしざるを得ないところがわかってきて、それを改めようとすれば、自身の力を越えるような方面にまで働きかけなければならないこともわかってしまい、ごまかしを改めるには自らの立場では力不足であることもわかってしまえば、それでも勇気を出してごまかしを指摘できるかというと、大抵は躊躇してしまうだろうし、そうなるとごまかしがうやむやのままに続いていってしまうようなことにもなりかねないが、それが生産や流通とは直接関係のない消費者の立場からなら、容易に指摘できそうなものだが、指摘したからといってごまかしがすぐに改まることはなく、それも大抵は指摘しっぱなしとなって、そういった指摘自体が放置されたまま、何事もなく生産と流通と消費の循環が続いて行けば問題ないような気にはなるだろうが、実際にはそうはならず、そういった構造の外から唐突に改革者が現れて、しかもそこで慣例となっているごまかしを指摘することなく、勝手にごまかしの循環構造を破壊し始めるわけで、その格好の事例が広告戦略なしに自動車を販売するテスラになるのだろうが、だからといってテスラを賞賛したいわけではなく、自動車の生産→流通→販売→消費の循環とは全く異なる分野で、しかも経済分野でさえないところで、そういうことが起こっているかというと、普通はそうは思われないようなところでそれを指摘しても、にわかには信じてもらえないだろうし、別に信じてもらえなくても構わないのだが、一方でうまく自身の立場を都合のいいように区切って、それを批判に結びつけるようなことをやっている人たちがいて、そういう人たちの批判は確かにもっともらしく感じられて、説得力もそれなりに備わっているのだろうが、だからといってそれが世の中の変革をもたらすかというとそうでもなく、中途半端に消費者的な立場の人たちの支持や賛同を得て、それがメディアで脚光を浴びることもあるが、そういう人たちにはそれなりに力の限界があり、それどころか逆に変革の芽を摘み取るようなこともやってしまい、結果的に現状の維持に貢献してしまう可能性もあるから、それらの人たちの主張には支持も賛同もできないというか、逆に支持も賛同も装いながらも、一定レベルでは支持や賛同を装っていることが、結果的に逆効果を及ぼすように作用させたいとも思わないが、それが矛盾しつつも意味不明なところだが、その辺が回りくどくも不可解に思われるかも知れないが、できればそれらの人たちを直接には批判したくないし、おかしいところを指摘するつもりもないわけで、では何が言いたいのかというと、あからさまな批判とはならないようなことを示そうとしているのかも知れず、本当のところはそうではないのかも知れないが、実質的にはそういった方面で指摘されていないことを指摘しようとしているのだろうが、指摘できているとも思っていないし、実際に指摘できていないのかも知れないし、肝心なところが指摘しきれていないのかも知れないが、それでも構わないのであり、それを指摘することが目的ではない可能性もあるわけで、始めから明確な目的など示していないのだから、そうなった結果から後出しじゃんけんのようにこれだとばかりに目的が示されることはなく、それが目的とはならない代わりに、何かそれとは違うことが示されていて、それがそういった成り行きに対する反発や反感とはならないようにしたいわけで、結果的にそうなっているかどうかはともかく、一見そうなっていないように装われながらも、少なくともあからさまな反発や反感とは違う何かが示されているならそれで構わないわけだが、そうした物事の良し悪しや白黒をつけないグレーゾーンで語られている内容が、紛れもなく現状の本質を捉えているともいえないが、本質ではなく枝葉末節な内容が示されているのだとしても、それ自体に限界が見えていることが、限界や限度のないあからさまな批判の虚構性とは違って、それなりにリアリティを感じさせる内容となるのではないか。
11月12日「批判者と批判の対象となる人物」
民度という言葉にどのような意味があるのかはわかっているつもりだが、一般的な民度の意味とは関係なく、自らの民度がどのような程度だとしても、特におかしな傾向に凝り固まっているとも思えないのだが、他から見ればおかしいと感じられるかも知れないし、特定の人物に対してどうたらこうたら言ってみても、その人にはその人なりの経緯や事情を抱えているから、そうした経緯や事情を知らない人がその人に対してああだこうだと批判することがあるとしても、それも批判する人にとっては批判するに値するだけの切実な経緯や事情があるのだろうが、批判マニアと呼べるような人がSNSなどで批判の対象となっている人物に対してああだこうだと批判しているのを、ちょっと抵抗感を覚えながらも毎度のことだと少し距離をとりながらも、別にそれに対して何をどうするわけでもなく、特に反応を示す気も起こらないのだが、批判は批判として批判するだけの理由があるようにも思われるから、それがもっともな理由だと思うなら、批判に反発することもないのだが、個々の事例に関して具体的に良し悪しを論じようとも思わないところが、その種の批判を真に受けているわけでもないことを、批判している人が知るよしもないとしたら、何か批判が空回りしているようにも思われてきて、その種の批判に同調しているわけでもないと共に、むしろ批判者の方が批判の対象となる人物を餌と見なして、それに食らいつくことによってうまく誘導されてしまっているのではないかと疑念を覚えてしまうわけだが、それが悪いことでも愚かなことでもなく、極めて普通の成り行きだと思われるところも、別にそんなことを取り立てて論じる必要もないのだろうが、そういう意味では批判の対象となっている人物の立ち回り方にも安心できるわけで、批判者がうまく批判できるようにアシストするような言動に及んでいるのだから、やはりそういう意味では批判者をうまく誘導する役割を果たしていると言えるだろうし、そんな誘導に乗ってなるほどそうおっしゃるのはごもっともだと思われるようなことを言ったり語ったりしているわけで、そういうところまで考慮に入れるなら、その種の批判もメディア的な予定調和だと捉えるしかないが、何かそれによって有利不利が生じているわけでもないのかも知れず、もちろん批判されている側が不利な状況に陥っていて、公的な役職を辞任したり解任されている現状があるにしても、それによって批判している側が有利な立場になったとも思えないところが、批判している側がうまく誘導されている証拠だと言えるかどうかはよくわからないところだが、批判している人たちがそうおっしゃるのはごもっともだと感じられてしまうのだから、特に差し障りのないことをおっしゃっているんだなとも思われて、もちろんだからどうしたと思うわけでもないのだが、それがどうしたと茶化すつもりもないし、嘲る気もさらさらないのだが、彼らがそういう成り行きに乗せられていることは確かであり、それとは対照的にそんな成り行きを第三者的な視点で眺めている自らの心が揺り動かされるわけでもなく、それよりはうまくしてやられているような気がしなくもなく、何にしてやられているのかといえば、もちろん批判の対象となっている人物を取り巻く状況にしてやられているというと意味不明となってしまうだろうが、してやられているにしても、それによって何がどうなっているのかといっても、批判している当人や批判されている当人がそのしてやられていることの被害者となっているとも思えず、被害に遭っているというよりはそれを利用して活躍している面の方が目立っているわけだが、彼らが活躍しているように見える舞台を提供しているのがメディアだとしても、メディアに関わっている人たちがそのような舞台を演出していることになるかというと、そういう面もあるにしても、それによって何が達成されているわけでもないような気もしてしまうのは、何かにうまく乗せられて操られているように見えるからそう感じてしまうのかも知れず、だからといってそういった方面で批判者や批判の対象となっている人物がどう立ち回っても、何かの手のひらの上で踊らされているに過ぎないことになってしまい、その何かの手のひらの上という表現自体が具体的に何を指しているわけでもないのだが、そうでなくとも物事の関係というのは偶然の巡り合わせによってどうとでも様相が変わってくるから、その偶然の巡り合わせというのもその場の情勢次第でどうとでもなる程度のことであり、日本という同じ地域で暮らしているのだから、批判者と批判の対象となっている人物の間でどのような違いがあるとしても、それまでに生きてきた経緯に従って動いている限りで、批判する側と批判される側とに立場が割り振られた結果が、それほど決定的に重大なことなのかというと、批判している人たちにしてみれば、その差が天と地ほどにかけ離れていると思われるから、事態を深刻に受け止めているのだろうが、ちょっとしたきっかけから急に批判される立場となってしまった人からすれば、それなりに高い公的な地位や役職に就いたのだから、社会的にも世間的にも成功している部類に入ることは自覚しているだろうし、自らがその地位や役職にふさわしい人物だと認められていると思っていたはずだが、実際に認めてくれた人や組織には認められたのだろうが、それなのにここぞとばかりに非難の集中砲火を浴びてしまうこと自体が納得がいかないはずだが、何かのきっかけからといっても具体的にそれに関しては誰もが承知していることであり、そのことがきっかけとなってこれまでは許されていたどころか、普通にまかり通っていたことが許されなくなって、それがきっかけで非難の集中砲火を浴びせられている人物にとっては不条理以外の何ものでもないところだろうが、その人が築き上げてきた社会的な信用というのもその程度のことで脆くも崩れ去ってしまう程度のことだと認識するしかないだろうし、またここぞとばかりに非難の集中砲火を浴びせている側にしても、自分たちに正義があると思ってしまうのも当然だろうが、その正義にしてもちょっとしたきっかけからどうとでもなってしまう程度の正義でしかないことも、当事者となると知るよしもないことかも知れないが、そんなふうにしてその場に一時的に出現している批判する側と批判される側の関係も、そこから少し時が経過すればたちまち雲散霧消してしまうような相対的なたわいない関係だと理解しておいても構わないことなのではないか。
11月11日「宗教と民主主義」
世界的に宗教がらみで問題となっていることは日本でも問題となっていて、それが宗教の保守派による民主主義の軽視であり蔑視でもあるわけだが、元々民主主義がどこから生じてきたのかといえば、いわゆる宗教改革からであり、宗教の戒律主義に端を発した身分や地位や役割や生活習慣の固定化に抗う形で、自由を求める運動として民主主義への期待が高まったのだろうが、それが戒律主義を支える宗教教団内の官僚制への反発からも読み取れるとしても、日本で官僚制と言えば政府の官庁などに巣食う官僚制であり、もちろん中国などでも日本以上に官僚制が発達して、それが共産党の官僚制とも重なって、民主主義の実現を阻むように機能していて、世界的にも様々な公的機関や巨大企業などの官僚制とも重なってくるかも知れないが、官僚制の全てを否定することはできず、それが程度の差こそあれ官僚制がないと人が大勢集まって集団として機能できないから、集団による組織的な活動には官僚制が必要不可欠な面もあるが、それも度が過ぎると戒律主義に堕して、人をモノ扱いするから人権が軽視されてしまい、モノ扱いされた人の不満が鬱積すれば官僚制の打破へと動きそうだが、それに関して日本で問題となっているのは、政府や企業における官僚制の運用コストが嵩んで税負担を伴って、結果的に社会に停滞をもたらしているように感じられるが、単純に人を減らして機械化すればいいというわけでもなく、機械にも運用コストが生じてくるから、組織を効率的に機能させるためにはシステムの見直しが必要となってくるだろうが、それと民主主義がどう関係してくるのかといっても、一見関連がないように思われるだろうが、逆に選挙運動に多大な労力と費用が費やされたり、議会で与野党対立から議事進行が停滞して議案が何も決まらないような逆効果として、民主主義の維持にはコストがかかり過ぎるとも言われる面もあるにしても、効率やコスト面だけから考えるなら民主主義などいらないと言えそうだが、だからといって官僚制が蔓延すれば組織が硬直化して停滞をもたらすから、何か一つの論理や理屈だけでどうにかできるわけではなく、互いに矛盾し合う複数の制度やシステムの間で調整が欠かせないのだが、どう調整してみてもしっくりこないかも知れないし、こうすればいいとは一概には言えなくても、それに関して何か主張したい人がいれば、こうすればいいとかこうすべきだとか言わなければならないから、そんなふうにして様々な人たちが様々な立場から言う意見がどれほどその場の情勢に反映するかも、その後の成り行きに響いてくるかも知れないが、それらの調整がうまくいかないから、結果としてもたらされるどっちつかずで中途半端な事態に嫌気が差して、独断専行して権力を行使しながらやりたいことをごり押ししてくる人や勢力が現れると、それに反発して抗議する人や勢力も現れるわけで、そういった対立と抗争の過程でも民主主義を維持しなければならず、それが維持しきれなくなると独裁体制が構築されて、官僚制と連携しながら人々の活動の自由を奪うような強権政治が行われるわけで、そういった独裁体制や強権政治に至らないようにするには、民主的な政治手続を守らなければならず、世の中の様々な方面から主張される意見を戦わせる場を確保する必要に迫られるわけで、それが議会の場であり、面倒ではあるが議会で議論を重ねながら何をやるべきかを決定することになるだろうが、そこで決定された内容が誰にとっても納得できるとは限らないし、不満を抱く人や勢力もいくらでもいて、不満があればさらに議会で議論を重ねて決定されたことの修正や撤回を迫るようなことになるだろうし、政府が行政に関わる方面で行われることに関してはそんな成り行きが繰り返されるしかなく、その内容がどうであれ、民主的な政治手続きが守られている範囲内であれば、一般の人々にとってもそれほど不利益を被るわけでもないと判断してもよさそうだが、それを衆愚政治だとか煽り立てる人や勢力がいても不満があるから煽り立てるのだろうが、そんな勢力が多くの人々の支持を得られて多数の議席を獲得して議会で主導権を握ったところで、何ができるわけもないと高を括るのも愚かなことかも知れないが、たぶんそういった手続き論ではなく、具体的に何をどうすればいいかという問いに対して、何か納得できるような主張を持ち合わせているかとなると、それに対してなされる主張のどれもが、それを主張する人としては一理あるようなことを主張するわけで、確かに一理あるかも知れないが、反論も可能なように思えることしか主張できないなら、主張としては完璧ではないと見なしても構わないかといっても、神のような立場などあり得ないから、その人が世の中の全ての人々の意見を集約するような立場を占めるのは不可能であり、実際にその人の部分的な立場を反映するようなことしか主張できないから、その人の立場に沿うような主張となれば、そういう方面では一理あるようなことを主張するしかないだろうから、それがその人の主張の限界となり、その人が占めている立場の限界でもあり、その主張への支持や賛同が多ければ、それなりにその主張を反映するようなことが議会で決められて、それが行政を通して実行される成り行きになるだろうが、だからといってそういう限界や制約のありそうなことが行われてはまずいわけではなく、そういうことが行われてから、それに対して不満や不利益がある人や勢力でも対抗手段として、そういった方面で意見を集約して、それに応じた主張を掲げながら人々の支持や賛同を募るしかなく、それが議会内の抗争に打ち勝って反対派を制して、そうした主張に沿った内容の決議が行われて、行政を通じて行われるようになれば、それなりにバランスがとれるだろうが、そうなる過程の中で多大な時間と手間と経費がかかるから、もっと迅速に物事を決定できるような制度や仕組みを求めてしまうと、独裁体制への誘惑に抗し難くなるのだろうが、そうした誘惑につけ込んで宗教勢力が跋扈することになるわけだが、それが世界的に見るならユダヤ=キリスト=イスラム的な一神教的な勢力となり、仏教でも大乗仏教系にはそうした傾向があり、その中でも教団の幹部や指導者に絶対服従を迫るような盲信を強要してくると、そういった傾向が集団で組織的に活動する官僚制とも親和性が高くなり、それらが連携してくればそれなりの程度で合理的に機能しているように見えるわけだ。
11月10日「人の生産性」
あえて微妙なことを語るなら、人が人の役に立つか立たないかが、あるいは人が誰かの役に立つか立たないかが、さらには人が他人の役に立つか立たないかが、もっと具体的なことを言うなら人が国の役に立つか立たないかが、何かの判断基準となることもあるだろうが、功利的に考えるなら何らかの経緯からそんな判断がもっともらしく思えるような時も出てくるかも知れないが、結果的に誰の役に立ったところで、あるいは何かの役に立ったところで、それとは別の方面では役に立たないかも知れないし、別に役に立たなくても困らない場合もあるかも知れず、そんなことは誰の知ったこともでもないが、他の誰かにとっては知ったことでもあり、何かの役に立たないと困った事態に陥る場合もあるかも知れないが、たぶんその場その時の情勢の中で役に立ったり立たなかったり、どちらでも構わなかったりするのかも知れず、どちらにしても単純な価値基準から人が役に立つか立たないかを判断する場合もあるだろうが、そうだからといって、その場ではそう思うかも知れないが、別の場ではそうは思えない場合もあるかも知れないから、その場では軽はずみなことを言い放つような軽率な人であっても、それをその場だけで軽率な奴だと判断できるものの、別の場ではそんな人物でも何かの役に立つ場合もあるだろうし、特定の人や特定の部類に入る人を何らかの基準から生産性がないと言えるだろうが、だからといってその人が役に立つか立たないかは、それとは別の基準から言うなら、生産性があっても役に立たなかったり、生産性がなくても役に立つ場合もあるが、では生産性がなくて役に立たない人は要らないのかというと、誰にとっても要らない人が存在していてはまずいのかと誰が判断しようとしまいと、実際に存在している人がいるかも知れないし、その人が存在していては多くの人が困るのに存在し続けることもあるが、何かそういうところで簡単には否定できないこともあり、その存在を否定的に判断しようとしまいと、否定されながらも存在している人はいくらでもいるだろうから、憎まれっ子世に憚るようなことになるだろうが、安易な価値基準から軽はずみなことを言ってしまうと、ただ単に知性がないだけでは済まないようなことになってしまい、そんな知性がない人たちが憎まれっ子世に憚るような人をカリスマとして崇め奉るようなことになるわけだが、知性がないことに居直るにはそれなりの理由があり、それが人権意識の欠如となって功利性を追求する人に顕れる傾向となるが、本当に人には生まれながらに人権があるかというと、多くの人々が人権があることを信じていないのかも知れず、功利的な観点からは人権を説明しづらく、頭ごなしに身体障害者にも精神障害者にも後先短い老人にも末期癌患者にも植物状態の人にも生きる権利があると主張されてもピンとこないだろうし、そういう人たちでも生きていけるような豊かな社会を築かなければならないと主張されてもピンとこないかも知れないが、自身が身体障害者や精神障害者や後先短い老人や末期癌患者や植物状態となった時に生きる権利がないと言われたらどうするのかと問われても、実際にそうなってみないことには何とも言えないし、それ以前に目先の利害から判断を迫られるような境遇の中で生きていれば、それらの役立たずに思われるような人々よりは、まずは自分の利益を優先するのが当然だと思うだろうが、そんなふうに想像してみると、世の中で心理的にも経済的にも余裕のない人が多くなると人権意識が希薄となってしまうと考えられるが、実際には貧乏でも余裕がなくても人権意識が高い人もいるだろうし、金持ちでも余裕があっても、セコく小狡く立ち回って他人を押し退けて世間的に小さな成功を収めた人ほど人権意識が希薄なのは、実際に他人を利用してのし上がってくる過程で、時には騙したり罠に嵌めたりしながら、多くの人を部下としてモノ扱いしてこき使ってひと財産を築いたなら、世間体を気にして紳士づらを装うところでは、人権がどうのこうのといっぱしの講釈を垂れそうなものだが、その人がそれまでにやってきたことを知る人なら、人目を気にして建前を語っているだけだと思うかも知れないし、そういう意味では建前として人権を語る人と本気で語っている人との区別がつくかといっても、人生経験の短い若者なら建前を語る人の口車に乗せられてその人のいいように利用された挙句に、場合によって駒としてこき使われてその人のさらなる成功のための道具にされてしまうかも知れないし、そういう意味でもあからさまな対立軸を設定して、極端な事例を持ち出されて、どちらか一方の選択を迫られるような事態に直面させられた時に、これは罠なのだと気づくだけの知性が求められているわけでもないが、そんな人の信奉者気取りで差別的な煽り立てを擁護してしまう人には人権意識が欠如していると見なされてしまうとしても、そういう人たちを説得できるだけの背景が現状の世の中には備わっていないような気もするのであり、そんな人たちが調子に乗って人権派と呼ばれる人や団体を小馬鹿にしたり罵ったりするのも、それはそれで時代状況としてはありふれているわけだから、そこでも単純に対立軸を設定するなら、人権派と差別主義者たちのどちらの味方をするのかと問われてしまい、返答に窮して差別主義者だと見なされては困るから、建前としては人権の尊重を擁護するのが無難な態度になるだろうが、結構多くの人々が人権の何たるかを突き詰めて考えているわけでもなく、あからさまに人には生まれながらに人権があると主張されると、実生活の中でそうでもないような現実に直面していて、絶えず疑念がつきまとってくるわけだ。
11月9日「現状認識の更新」
何か胸騒ぎがしている時が何かを感知した時なのかも知れないが、その何かが何なのかがわからないから不安に駆られて、そわそわして平常心ではいられないから、そういう時には判断を誤ってしまうかも知れず、少し頭を冷やして冷静になるまでは動かない方が身のためだと思っているうちに、好機を逃して落胆してしまうのもよくあることかどうかは何とも言えないが、その何かが何なのかがわからないわけではなく、薄々は勘づいていて、それをあえてわからないように装うのもわざとらしいが、それについてうまく語り得なければ、語っている中ではわからないように装うしかないのかも知れず、結局は自分自身にも嘘をついているような気分で何かをごまかしていて、その何かもわからない何かではなく、行為や行動の対象となっている具体的な物事なのだが、それについて具体的に語るには躊躇が伴い、そんな自らの都合を優先させるなら、うまく言い表せないことにしておきたいのだが、別に自分に関する事情を明らかにしようとしているわけではなく、その種の私小説的な告白はなるべくなら避けたいところで、避けたところで何を語りたいのかといっても、世の中の公的な水準で問題となっていることについて語るのが無難なように思われて、そうなると安易な気分で語るには、政治的な方面での批判が格好の題材となってしまい、それが他人の問題であると共に自分の問題でもあるようなつもりになれるかというと、薄められた善意のような共感は可能かも知れないが、他人事の部分の割合も大半を占めている可能性もあるから、薄められた善意の部分では批判派の論調には賛同するとしても、その程度にとどまる限りで、何とか心身のバランスを保っていられて、バランスを保ったところで何がどうなるわけでもないと思うなら、さらに無責任な態度で何か適当なことを語りたくなってしまうが、いずれにしても全面的には賛同できないことを自覚するしかなく、そういうところでは批判一辺倒の主張とは袂を別つ部分も出てきてしまうわけだが、批判だけでは世の中が成り立たないことを感じ取っているから、批判一辺倒の主張には抵抗を感じるのだろうが、それを感じたところで、ではその種の政治的な問題を起こしている対象を賞賛できるかというと、それとこれとは話が別で、賞賛に値しないから批判されていることは事実であり、中には賞賛すら通り越して、礼賛する人までがいる現実が、どうかしていると思ってしまうのだろうが、そういう人たちが崇め奉っている対象がいかにお粗末な人物であるかを、批判一辺倒な人がこれでもかとSNSなどで吹聴しまくっている現実も、それほどまでしてやることかとも思われるにしても、そういった偽りの対立を作り出している煽り立てからは一歩退いて、言動的にインフレしている部分は割り引いてみないと妥当な現状認識に至れないのはわかっているつもりだが、妥当な現状認識に至ったところで、そこから何をどうすればいいのかわからないわけではなく、結局は自らが納得できるような妥当な現状認識を言説で示すしかないわけだが、どうもそういうところでも躊躇があるようで、自らの現状認識に疑念を覚えていて、絶えずそうではないのではないかと思われるような要素や要因を求めて、それを他人の言説や言動から知って、そこから自らのお粗末な現状認識を改められるかというと、実際に日々認識を改めているのかも知れないが、それが他人の言説や言動だけなく、誰も言わず語らず気づかないような世の中のちょっとした雰囲気の変化から読み取っているのかも知れず、そうやって世の中の変化を感じ取ろうとしているのだろうが、自らの感性を疑いつつ感じ取っているのだから、確かなことは何も言えない代わりに、自分でも間違っているように思われることを語ろうとしているようで、結果的には間違っていても構わないようなことを語ろうとしているのだが、それがどんな結果なのかというと、自らの認識を改めざるを得ないような結果が出ることを内心期待しているわけで、そんな結果がどこから出てくるのかといっても知るよしもなく、たぶん自分にとって都合の悪いことが起こる度に奮起しなければならなくなり、そうやってより一層の困難に直面しながらも、それに立ち向かう姿勢を維持しつつも、そうなったからには現状認識では納得できないという心理状態にとどまりたいのかも知れないが、果たしてそんな思惑が世の中で通用しているのかもよくわからないところだが、それも他人の言説や言動と比較して相対的な差異を読み取ろうとしていて、そこから他人の言説や言動の粗探しのようなことが自然の行為として生じてくるのだろうが、それを実際に主張として言説化してしまうと、批判一辺倒の主張となってしまうのだろうが、果たしてそんな成り行きに応じても構わないのかといっても、その良し悪しを語りたいわけでもなく、何かそうなる手前で踏みとどまって、熱く語るのではなく冷静に物事を判断できるようになりたいのかも知れないが、それも本気でそう思っているわけもなく、逆にそんなことができるわけもないような切羽詰まった事態に陥るから、そこで痛い目に遭いながらも認識を改めざるを得ないような成り行きに巻き込まれてしまうわけで、そこで自分の都合が通用しないから相手の都合を受け入れざるを得なくなって、その相手が特定の人物であるとは限らず、さらには特定の団体であるとも限らず、それらの人や団体を取り巻く状況の中に自身も取り込まれていることを感じ取って、自分の力ではどうにもできないような成り行きに翻弄されながらも、できる限りうまく立ち回ろうとするのだが、そこでうまくいったりいかなかったりするから、うまくいかないなりにもできる限りのことをやろうとするのだろうが、それが現状で実現している自らの状態でもあるから、そんな状態を維持するつもりもないのに維持せざるを得ないような事態にも直面しているわけで、そこでも結果的に維持できなくなれば、認識も改めざるを得なくなるわけだ。
11月8日「好機を逸した後に」
自らの勝手な都合を反映した希望的観測のような予想を立てても、当てが外れるのはわかりきったことだが、利益を得たいと思えば、そこに自らの欲望が投影されてしまい、利益を得たいから利益を得られるにはどうしたらいいかと考えて、利益を得られるように行動した場合に起こる結果を予想して、そうした予想に基づいて行動しようとしてしまうから、大抵は欲に目が眩んで隙が生じてしまうから、しくじって落胆することになるとしても、もちろん当てが外れることも前もって予想していて、当てが外れてもそれほど困らないような範囲内で行動しようとして、当てが外れた場合も見越して保険をかけるようなこともやりたがるわけで、それ自体が身勝手なご都合主義で、結局はなるべく冒険を避けて中途半端に打算的なやり方で妥協してしまい、ちょっとだけ成功したような結果を得られた反面で、あの時もっと思いっきりやっていたらと後悔するわけだが、実際に思いっきりなことをやってしまうと、大失敗が待ち受けているかも知れないが、失敗を恐れて躊躇していると、みすみす絶好の機会を逃してしまうだろうから、どちらにしても何もやらないうちからいくら結果を想像してみても埒があかず、実際に行動してみてから結果を受け入れる必要がありそうだが、そんなことを想像しているのだから、できることならひどい結果にならないようにしたいわけで、だから結果を予想しながら行動する前にあれこれ考えを巡らすのだろうが、やはり考えを巡らせているうちは行動を躊躇しているわけで、そして何もやらないうちに好機を逃しつつあるような気がするから焦ってくるのだが、できればそんな焦った連中が混乱のただ中で利益を求めて右往左往しているのを眺めながら高みの見物を決め込みたいところだが、そんな無責任でお気楽な傍観者ではなく、当事者になって実際に苦楽を経験しないと、そこで起こっていることの真実を知り得ないのだろうが、当事者となってそこで起こっていることに関わって真実を知ってしまったからには、もはや手遅れで後戻りが利かなくなってしまうから、関わる前に関わってしまった後のことまで予想したいわけで、そんな逡巡を繰り返しているうちに、他の何かに巻き込まれて、そちらの方にかかりきりとなっている間には、そんなことなどどうでもよくなっていて、取らぬ狸の皮算用的な心境へと至ってしまえば、それでうまく立ち回って利益を得たいという欲望をやり過ごしたことになり、ちょっと利益を得られたぐらいでぬか喜びすることの愚かさと引き換えにして何か大事なことを忘れているような気もして、それが何なのかがわからないのは毎度のことだが、いくら思い出そうとしても思い出せないなら、元からわかっていないだけで、何かしら理由をつけて思ったように利益を得られなかった結果を正当化したいのかも知れず、その正当化という言葉の意味自体にも疑念を覚えるようなら、正当化しなくても構わないのかも知れないが、それがわだかまりのようなものと感じられて、いつまでも心の中でつっかえて取れないような気がするなら、確かに何かがあり、その何かをつかみ取ることの方が、目先の利益にこだわることより重要なのかも知れないと思ってしまうと、それも勘違いの類いだと切り捨てるわけにもいかず、いつまでもそんなことにこだわっていると、そこから先へと進めなくなってしまうような感じもしないではないが、何かそこで感じ取らなければならないことがありそうで、それがそこで明らかになっていない何かを見つけるために必要な鍵であるとか、事を大げさに考えてしまうと、それだけ勘違いにも拍車がかかっているのだろうが、そんなことではないとしたら、では何なのかというと、それはそうなった結果からわかることであると共に、そうはならなかった予想からもわかることかも知れず、結果的には予想が外れたことがわかり、予想が外れていなかったらどうなっていたかなんて、結果を知った時点ではどうでもいいことになってしまい、無駄に考えを巡らせて結果的に当たらなかった予想を抱くに至ったことが、好機を逸する結果を招いたのだろうが、それで構わないわけで、それとは別の方面で何かに関わっている現実の方が、今となっては重要となっていて、以前には何とも思っていないようなことにこだわってしまうことが、以前の意識の中ではあり得ないことであり、今もそれに関しては不可思議に感じられるかも知れないが、それだけ心身のあり方が以前とは異なっており、その異なり具合が現状の意識を構成しているのだろうが、それと利益を得ることを避けたかったわけでもないのに、結果的に避けられたことと何か関係があるとも思えないし、利益を得る機会を逸して残念がっているのは今も以前も変わらないが、それでも構わないような心境に至っていること自体が、以前にはないことであり、それが以前の心境ではあり得ないことだとは断言できないが、利益を得られるとは思ってもみない機会が、それとは別の機会を捉えて巡ってくるような事態に遭遇してしまうと、意識して利益を求めようとしていた時とは違う事情が生じていると認識するしかないが、それを自分で予知していたわけでもないのに、現実にそうなってみると、それ以前に利益を求めて行動していた中で、意志に反して何か引っかかるものを感じて利益を求めるのを躊躇したから、思わぬところでそれとは別の機会が巡ってきたと解釈するしかないのだろうが、それが結果的にうまくいったことになるかというと、そうではなく、それ以前の利益を求めようとしていた機会を逃してしまったのだから、結果的にはうまくいかなかったのだが、それとは別に関係のない方面から勝手に利益を得られる機会が巡ってきて、しかもこちらから積極的に利益と求めようとしたわけでもなかったのに、結果的に利益を得られたことになってしまえば、何か腑に落ちないのはもちろんのこと、これは何かの罠で、詐欺か何かに騙されているのではないかと疑ってしまうのも当然の成り行きだろうが、今のところは何だかわからないが、現にそういう成り行きに巻き込まれてしまっているのだから、それをどうする気も起こらないまま、黙って成り行きに従ってついて行くしかないわけだ。
11月7日「大英帝国の虚構」
大英帝国と言えば19世紀の数十年間は今日のアメリカのような世界一の覇権国だったはずだが、その内情はと言えば、経済規模においてはアヘン戦争に負けにもかかわらず、19世紀の大半において中国の清王朝の方が上だったらしく、軍事力においてはアメリカに抜かれるまでは世界一だったかも知れないが、産業革命のイメージからすれば世界の工場と呼ばれた時期もあったにしても、それも重工業などの分野でドイツやアメリカに抜かれるまでの間であって、意外とその覇権は長続きしなかったようで、しかもその絶頂期であっても、栄華を極めたといった内情ではなく、確かにインド全土を植民地化した後には中国にもアヘン戦争で勝利したことは事実なのだろうが、清朝に対して戦争で勝利して、多額の賠償金を払わせて、鎖国状態から強引に開国させて、自由貿易ができるようにして、輸出攻勢を仕掛けたにもかかわらず、アヘン以外の商品が全く売れず、多額の負債を抱えてイギリス企業の多くが倒産して、数多くの資本家が破産して没落したらしく、当時の惨状を『資本論』の中でエンゲルスが語っているが、そうでなくても石炭の煤煙などによる公害被害で労働者やその子供が長生きできず、その当時の平均寿命が30代だったらしく、大人になる前にどんどん死んで行ってしまい、その惨状が漫画の『ワンピース』でもトラファルガー・ローの生まれ故郷の町で起こった事件として比喩的に取り上げられているが、さらに当時イギリス領だったアイルランドでは主食のじゃがいもが伝染病によって壊滅的な被害を受けて、100万人が餓死したと言われているし、生き残った人たちも生活が成り立たないから、移民となって大量にアメリカへと渡っていくしかなかったようで、それは植民地化したインドでも、イギリスへと綿花を輸出するために、多くの小麦畑を綿花畑に転作してしまったから、食糧難から100万人の餓死者が出たと言われているし、同じく植民地化して流刑地としても活用されたオーストラリア大陸では、先住民のアボリジニが住んでいた土地を奪われた挙句に大量虐殺されたし、また植民地のカナダでも先住民をキリスト教に改宗させて、親から強引に子供たちを引き離して寄宿舎に入れて、そこでも慣れない生活や虐待によって大量の死者を出したらしいし、さらにイギリス本国でも北部のスコットランドの高地に住んでいた先住民のハイランダーと呼ばれる高地人を住んでいた土地から追い出して、海岸の湿地帯へと強制移住させて追いやって、そこで慣れない生活を強いられてハイランダーたちは民族としては絶滅してしまうのだが、彼らが元々住んでいた土地はといえば金持ちたちの娯楽のための狩猟場としてしまったり、覇権国だった数十年の間で世界中に多大な迷惑をかけて数多くの人々の命を奪ったり不幸のどん底へと叩き落としたわけだが、それを大英帝国の栄華と呼ぶには内情がかけ離れ過ぎていると言えるだろうが、実際に当時のイギリスに渡って産業社会の凄まじい現実を目の当たりにしたマルクスは、それまでに唱えていた労働者階級と資本家階級との階級闘争によって革命に至るとかの絵空事が幻想に過ぎないことを思い知ったのか、『資本論』の中では一言もそのことには触れていないし、資本家でさえも周期的に巡ってくる経済恐慌に直面した際に機械設備の更新ができずに、その多くが競争に敗れて廃業して没落するしかなく、もちろん労働者も工場の機械化によって職を失って最後は金持ちの召使いぐらいしか職がなく、そこでも職にあぶれて食えなければ、移民となってアメリカへと渡っていくしかない状況を語っているわけだが、それから百数十年経った現代でも、世界中の食えなくった人々が現状よりもっとマシな暮らしを求めて、移民となってアメリカへと渡っていく状況は変わらないし、そこからさらに食えなくなった人々が月や火星の植民地へと渡っていくような未来がやってくるかどうかは今のところはわからないが、そうやって資本主義経済が結果的に人々の生活基盤を破壊して大量の移民を作り出すシステムであることを考慮するなら、どこかの政党の代表者が日本で二十数年間不況が続いていると事ある度に決まり文句のように訴えかけているが、日本で食えなくなったら移民となってアメリカへと渡っていくかというと、食えなくならなくても観光旅行か何かでアメリカへ行くことはできるだろうし、今の日本人に不法移民となる選択肢などほとんどありはせず、まだそこまで切羽詰まっていないだけで、これから果たして多くの貧しい人々が日本から逃げ出さなければならない状況となるかどうかは何とも言えないが、そこに至る過程で食糧難で大量の餓死者が出たり、あるいは巨大地震に原発事故が絡んだりして避難を余儀なくされたり、さらには戦争に巻き込まれて逃げざるを得ないような状況となったりすれば、嫌でも住んでいる地域から遠く離れる必要に迫られるかも知れないが、そういう直接的な原因ではなく、多くの人々は資本主義経済が大量の移民を作り出すシステムだなんて思いもしないし、それよりは産業技術の進歩によって今より生活が豊かになる未来を思い描きたいところだが、行政による社会保障制度が機能していれば、たとえ失業して職がなくなっても、生活保護制度によって必要最低限の暮らしが確保されることにはなっているはずだが、行政がちゃんと機能していない国などから不法移民や難民などが生じてくることは事実で、日本で不法移民がほとんど出ない実態があるなら、それなりに行政が機能していることになるのだろうが、それも資本主義経済の中で国家間競争に敗れて国内の産業が衰退すれば、情勢も違ってくるかも知れないが、それでも国土が土壌汚染や表土流出などによって荒廃していなければ、農業で食いつなぐような選択肢も出てくるのではないか。
11月6日「政治力と経済力」
世の中の何が矛盾しているかといえば、例えばツイッターというメディアを使って、日本の大企業の内部留保がどうたこうたら、政商の竹中平蔵のやり方がどうたらこうたらと批判している人が、ツイッターを買収して新たに経営者となったイーロン・マスクが容赦なく一気に従業員の半分を首にしようとしていることについてどう思っているのか、と問おうと思えば問えないこともないし、それに対していくらでももっともらしい返答が可能だろうが、制度が違うからそういうことがやれて、また世界中で電気自動車の普及を推進するテスラを称賛する一方で、未だ内燃機関車にこだわってEV化に出遅れているトヨタを批判する人が、実際テスラの経営者でもあるイーロン・マスクがやりたい放題やれる新自由主義的な経営手法についてどう思っているのか、とも問えるものの、さらにそれについてグリーン・ニューディールを称賛する人がどう思っているのか、とも問えるものの、それとこれとを絡めて論じようとすれば辻褄が合わなくなり、そういう人たちの主張が破綻してしまうとも思えないが、そういう人たちが都合よく立場を取捨選択しながら自らの主張の辻褄が合うような範囲内に収まるように配慮していると批判するわけにもいかず、ただ単にそこまで考えが及ばないだけかも知れないが、そういうところで日本国内で通用するような対立軸を構成できないから論点も噛み合わなくなってしまうのだろうが、便利なメディアとしてツイッターやユーチューブを利用しているだけに、そういったメディアを成り立たせている容赦のない新自由主義的な企業経営について、批判的なことが言えるにしても、そういうことは言わない代わりに、攻撃の矛先が日本政府や自民党や日本の大企業に向かってしまうのは致し方のないところだが、それを矛盾と捉えたり辻褄が合わないというのも、それ自体が屁理屈かも知れないし、確かに日本では官僚主義や縁故主義などが邪魔をして、新自由主義的なやりたい放題なことができないから、テスラのような企業も生まれないし、ツイッターやユーチューブなどの自由な雰囲気のメディアも育たない、と単純化するのも誤りであり、やはりそこでも対立軸を形成できず、アメリカでも官僚主義や縁故主義が蔓延っているにしても、日本とは風土も制度も違っているから、日本で通用することがアメリカでは通用しないし、アメリカでは通用することが日本では通用しない面があるのは仕方のないことだが、どちらかというと政治的にも経済的にもアメリカの方が力が上だから、アメリカで通用する論理に押し切られてしまう傾向があり、日本的な官僚主義も縁故主義も新自由主義もアメリカどころか世界でも通用しない代物となっていて、もちろんアメリカや世界の基準に合わせている面では、日本企業も日本の政治や官僚主義に囚われている人たちもそれなりに通用しているから、アメリカからも世界からも相手にされていないどころか、場合によっては西側の味方として好意的に見られているはずだが、日本国内で批判的な論調を駆使して活動している人としては、それらの日本的な風土から生じている慣習や因習などが世界で通用していない面を強調して批判を展開するしかないし、そういう批判にそれなりの説得力が感じられるから、多くの人々から支持や賛同が得られているにしても、それをいったん脇においてから根本的なことが言えるかというと、何が根本的なことであるかについても、あまり説得力も賛同も得られないかも知れないが、日本にとっては、というか日本に暮らしている人々にとっては、何か敵と味方とが渾然一体化しているようなアメリカ的な、といってもこれだとひとまとまりのものとは捉えられない矛盾に満ちた多種多様な価値観の担い手から、政治的にも経済的にも無視できない有形無形の力を行使されている現状があって、それが日本だけでなく世界中がアメリカ的な価値観に政治と経済の両面から侵食されつつあるから、それに対する反動としてわかりやすいのが、中国の習近平やロシアのプーチンなどがアメリカの軍門に下るのを嫌がって盛んに反発していて、もちろんアメリカの国内でもトランプなどが我こそが真のアメリカを体現していると主張しながら反発しているわけで、そういうところがアメリカ的な価値観なのだといっても、決して一枚岩となって世界に影響力を行使しているわけではなく、アメリカ国内の党派的あるいは思想信条的ないがみ合いも含めてアメリカ的な価値観を形成しているといっても、単純にこういうことだと理解できるわけでもなく、そんな価値観に照らし合わせて日本の駄目なところを指摘しても、それなりの共感を得られる面もあるのだろうが、納得がいかない面も多々ありそうで、それも一概にこうだとは言えないが、それらから都合の良い面だけ抽出して、リベラルとか民主的な価値観とかが肯定的に取り上げられることもあるだろうが、実質的には世界中から富や資源や人材をかき集められるような力の源泉として経済力があり、それが弱肉強食的な資本主義の力だとも言えるし、それを利用しながらもそれとは違う夢を見るのがリベラルや民主主義を信奉する人々の流儀なのかも知れず、そうした流儀をトランプも習近平もプーチンも欺瞞だと思っているだろうし、だからといって力こそが正義だとあからさまに主張しているわけではないが、その辺は彼らにも彼らなりの欺瞞があり、それを自覚できているか否かは何とも言えないが、どんな独裁者も民衆の支持を背景として権力を行使しているように装わなければならず、それが統治の原則を構成しているところは世界的に共通しているのだろうが、どのように装われなければならないのかに関して、できることとできないことがありそうで、誰が見ても日本的な事例が中途半端に見えてしまうのも仕方がないにしても、少なくとも日本の現状を批判的に見ている人を抑圧したり弾圧したりしない限りで、日本と呼ばれる地域にもそこに住んでいる人々にもそれなりの可能性があるのかも知れない。
11月5日「願望の成就」
現状で何を優先すべきかがわかっているようでいてわかっていないなら、わかっているつもりでもそれが間違っている可能性もあるし、優先すべきではないことを優先させている場合もありそうだが、それが自らの願望を成就させようとしていることであるなら、なぜそうなのか疑問に思ってしまうのも当然かも知れないが、果たして願望を成就させようとすることが優先すべきことなのかといえば、いうまでもなく、誰もが自らの願いを成就させるために生きているといえるはずで、それ以外に何か目的があるはずがなく、例えば目的を遂行することが生きることと死ぬことを一致させるようなこととは無関係で、なぜそんなわけのわからない目的が唐突に思い浮かんでしまうのかといえば、初めから何か生きる目的や死ぬ目的があったわけではなく、おそらく生きていく過程で何かのきっかけから目的が生じてきて、それが目的だと自覚できなくても、目的とは自らの願いを叶えることだと悟れるわけでもないが、それが理解できなくても、それ以外に何があるのかと自身に問うわけもないが、何かが問われているように感じられる場合もあって、それが何のために生きているのかという問いであれば、少なくとも死ぬために生きることが目的とはなり難く、何か他にやりたいことがありそうで、そのやりたいことをやるのが目的だと短絡的に思い至るわけでもないが、何かを思いつかないように配慮しながら生きているわけでもないし、それが自らにとって重要なことだと思い至るなら合点がいくだろうが、実際はそうではなく、そもそも何が目的なのかはっきりしないから迷い、不意に巡ってきた願望を成就させる機会にも戸惑ってしまい、元から何を実現させようとしていたわけでもなく、特に死ぬこと以外に成就すべきことがないとは思われないものの、せっかく生きているのだから、誰にでも死ぬまでにやってみたいことがあるはずで、普段はそんなことは思ってもみないし、目先の利害に汲々としながら打算的な損得勘定を強いられて、そんな成り行きに則って動いていないと世間体を取り繕えないのも仕方のないところだが、そんなことをするのが願望を成就するには効果があると世の中の慣習によって思い込まされている可能性もあるから、そうでなくてもそんなことまでは思い至らず、それほど遠くまで考えが及ぶこともないだろうし、狭い範囲内で右往左往している分にはその程度で構わない状況だと割り切るなら、せいぜいがセコく小狡く立ち回るのが精一杯なのかも知れず、そうやって絶えずそれ以外に何ができるかと問い続けるほど余裕のない立場や境遇であるなら、そんなことは問うまでもなく、問う以前に自身の身の丈に合っているような気がする程度の願望を抱きながら生きていくことしかできないのかも知れず、それを意識しない方がかえって自由に生きているつもりになるのかも知れないが、たぶん狭い範囲内でセコく小狡く立ち回っているように見える人が何に囚われているのかを、身につまされるほど理解できるなら、少しは広い視野で物事を考える余裕が出てきたといえそうで、誰もがそういう立場や境遇になれるわけでもないから、大抵の人はあまり高望みせずに自らの分をわきまえた態度を強いられて、そういう成り行きに則ってできることが自ずから明らかになってくるだろうが、そのできることというのが、場合によっては周囲の人々を巻き込んで厄介な事態に直面させるわけで、一般人のレベルではその範囲が許容限度内に収まるにしても、中には国家規模で面倒な事態を引き起こす事例も出てくるから、それが塵も積もれば山となるような事態をもたらしているのかも知れず、具体的に何がそうさせているのかといっても、その元凶となっているのが現状の世の中を成り立たせるには必要不可欠な要素や要因であるなら、それを取り除くのは困難を極めるだろうから、できればそんなことなど考えずに放置しておけば済むことだと思う機会もないだろうが、もちろんそれで済ませている限りで考えもしないことになってしまうが、誰もがそんなふうに考えを巡らす余裕などありはしないから、考えなくても済むならそれに越したことはないし、実際に考えなくても間に合ってしまう立場や境遇などいくらでもあって、そういう立場や境遇になろうとしてなれるわけでもないところが、願望の成就とは関係のない方面からそうなってしまうから、それが思いもよらない事態を招いて周囲に驚きをもたらすことがあるにしても、そんなことがそう頻繁に起こるわけでもなく、それよりはすでに社会的な人間関係や仕事関係などから生じるしがらみによってがんじがらめになっている面の方が大きいと、いざとなっても身動きが取れないから出遅れてしまい、そういう面では何も起こらなければ安泰でいられるが、いったん予期せぬ何かが起こってしまうとそういったしがらみが足かせとなって不利な立場や境遇を招きかねず、そういうところは痛し痒しなのだろうが、そういうところで勝手に想像を膨らませて考え過ぎてしまうと机上の空論しか出てこないし、だからと言って逆に考えるな感じろという戒めの言葉に頼り過ぎても、時として勘違いな空回りの自己への過信に行き着いてしまうから、実際に自らがセコく小狡く立ち回っている程度というのを冷静に自覚し反省しておくぐらいが無難な態度であるとしても、そういう立ち回りが通用しなくなった時に身の振り方を考える事態にも直面するのだろうが、そうなった時にどうするかはそうなった時に考える以前に、自分でも思いもよらぬ行動が伴ってしまい、そんな予期せぬ行動が何をもたらすかも、実際に自分でそんな行動に及んでみないことには、結果を知るには至らないわけで、すでにそんな行動に及んでいるなら、少なくともそれが日頃からそうなりたいと望んでいる願望とは全く別の方面で行動していることになり、そうなることを望んだわけでもないのに、そうならざるを得ないような事態に至ってしまえば、自分でも気づかなかったきっかけから自分とは無関係な成り行きに囚われていることを思い知るだろうが、そうなったことに関してそれほど後悔が伴わないなら、それをきっかけとして自らの都合を反映したセコい願望から離れられる限りで、それなりの意義があったことになるのではないか。
11月4日「回避されつつある危機」
間近に迫りくる危機を回避したいとは誰しもが思うものの、一般的なメディアを通じて伝えられる危機とは真逆の内容を語っている人が、何からそんな情報を知り得たのか興味深いところだが、それも一般的に言って、大げさな内容であるほどデマ臭が漂ってきて、信用できない曲解を語っているように感じられるのだが、それが何かの典型例だと気がついて、陰謀論的な定型に当てはめて解釈したくなるのを我慢して、それ自体が誤解であることを承知で、わざと騙されたつもりになっていいように解釈した方が、それだけ興味が持続するような気がするのだが、そうせざるを得ない事情が自らにあるとは到底思えないが、事態がもっとたわいない状態で、すでに危機の最中にあることを実感しているのだから、危機的な状況というのが世間で騒がれている程度とはちょっと違うことも承知しているのかも知れず、それを自身で実感しているのに、なぜそれを信じられないのかといえば、メディアから伝わってくる危機感の方を信用したいのだろうと思ってしまうが、それが思い違いだとは思えないが、なぜ自らの実感を信じないで、メディアから伝わってくる感触の方を信じようとしてしまうのか、疑問を感じていることも確かで、もっと自らの実感に自信を持った方が身のためだとは思うものの、今ひとつ自信を持てないから、何か引っかかるものを感じているのだろうが、それが身の回りの状況の中ではどうということはなく、世界情勢から伝わってくる危機感とは違う感触を得ていて、別に自身の感覚がバグっているとは思えないのだが、たぶん今も危機のただ中にいて、頭で考えている危機とは少し違う感覚に囚われているのだろうが、その少し違う感覚というのが、それほど深刻にならない範囲内に自らが位置していることによって感じ取れる感覚であって、そんな自らとは対照的に、実際に深刻な事態に直面している人も大勢いて、そんな人なら世界情勢から伝わってくる危機感と同期できて、自身が危機のただ中にいることを切実に実感できるのだろうが、もちろん自分が切実に危機感を実感できる立場になりたいとは思わないし、むしろ危機に気づかないままでいられる方が気楽なのだが、気づくも気づかないも、実際に危機に直面すれば嫌でも危機感を抱くことになるのだろうが、それを曖昧に回避しつつあるのだとしたら、現状の中でうまく立ち回っていると思いたくなってしまうのだが、それが思い違いであるなら、実際にこれから危機に直面して、嫌というほど大変な思いをするはずだが、なぜかそうなっていることに鈍感でいられて、今がその危機の最中であるのに、全く感じ取れないことを不思議に思っているわけでもなく、果たしてそれで本当に危機が回避されているのかといっても、それも後から都合のいいように解釈してしまい、自分で自分の感覚をごまかしていられるだけ余裕がありそうにも思われて、果たしてこのまま危機に直面していないかのように装っていられるのかというと、危機の矢面に立たされるほどの社会的な役割分担をまかされていないのであり、誰がそうした役割を担っているかはわかっているつもりだが、自ら進んで危機の矢面に立ちたいとは思わないし、何かそういう役割を引き受けることによってそれ相応の報酬を得られるなら、希望者が殺到するかも知れないが、あからさまに役割が決まっているわけではなく、それがどんな役割であっても危機に陥る可能性はあり、むしろそれを一定の役割だとは理解しなくても構わないのかも知れず、確かにそれ専門の職種があるのだが、専門の職種に就いているからといって直ちにそうなるわけはなく、危機というのはそういった職種から外れたところから思いがけず到来するのであり、こちらから危機がやってくるのを手ぐすねを引いて待ち構えているような状況の中では危機はやってこず、忘れた頃に不意打ちのようにして襲ってくると考えておいた方がいいとしても、そうやって絶えず意識をはぐらかされるような事態を想定してもきりがなく、危機に備えておくだけでは不十分なのかも知れず、危機を回避しようとすること自体が間違っていて、積極的に危機を利用して何かをやる必要に迫られるわけで、そこで何をやるかが問われているわけでもないが、問われるまでもなくやっていることがあるから、実際に危機を利用して利益を得るような行為が世の中でまかり通っている中でも、それが火事場泥棒のような喩えとしてこれ見よがしな危機感の煽り立てにも使われながら、返す刀でちゃっかりそういった行為に便乗しているわけで、要するに自ら利用したいがために危機が起こってほしいと思う人がインフレ気味に待ち構えている中で、危機の方はそんな思惑をはぐらかすように人々の期待の間をすり抜けながら、不意打ちの対象となる者に狙いを定めて襲いかかると解釈すれば、当たらずとも遠からずな実感を得られるにしても、それも勝手な願望混じりの思い込みに過ぎず、そういうエンターテイメントとしての飼い慣らされた危機の類いに危機感を募らせること自体が娯楽の対象でもあるから、多くの人々が危機を目前にして全く備えができておらず、それでも危機に備えたつもりになっていれば待ちぼうけを食らうしかなく、危機はそんな人の前を黙って通り過ぎ、もっと幸運に恵まれた人の前に立ち止まって、危機を利用して更なる幸運に恵まれてほしいと懇願するわけでもないが、幸運を掴み取ろうとしても不運な人の手からは逃れ去ってしまうような傾向があるから、なかなか危機を利用して利益を得られないどころか、危機に陥った大半の人は実際に不幸な目に遭って、悲惨な思いをするのだろうが、実際にそんな危機が今まさに回避されつつあるのだとしたら、大した利益を得られないうちに過ぎ去ってしまいつつあるのではないか。
11月3日「言っていることの意味不明具合」
国会で野党側の質問に正面から答えずに、意味不明な逃げの答弁を繰り返す自民党の政治家たちとは違って、バイデンも習近平もプーチンも何かを言っていて、しかもそれが意味不明ではなく、自らの意志をそれを聞く人々にわからせようとしていて、そこで何が通用して何が通用しないかが明らかとなっていて、その明らかとなっていることについて良し悪しの評価を下したいわけでもなく、ただ単に自民党の政治家たちは損得勘定からそんな答弁を繰り返しているのに対して、バイデンや習近平やプーチンは自らの信念に基づいて語っていると解釈しておけば事足りるだろうが、下手な小細工が通用しない状況の中で発言しなければならないからごまかしが利かないのは当然のことであり、そもそも彼らは国家元首的な立場上ごまかしようがなく、ごまかす必要もないのだろうが、それに比べてごまかしようのある立場とはどんな立場なのかというと、要するに中間管理職などの中途半端な立場を連想してしまうが、もちろん情けない醜態をさらしているのが自民党の政治家たちで、それでも選挙になれば当選してしまうのだから、そんな情けない政治家たちに投票している人々の情けなさも察して余りあるところだが、別にそれが悪いとも言えないし、身の丈に合った政治家と言えるだろうが、そういう面では取り立てて不都合や不具合が生じているわけではなく、自民党の政治家たちの方が与えられた職務を全うしていると言えるのかも知れず、それに引き換え、例えば消費税の廃止を真正面から主張してしまうれいわ新選組の政治家たちの何がおかしいのかと言えば、言っている内容が技術的に拙いと評しても意味不明かも知れないが、一方では国家間の経済競争の中で自国の企業を優先的に保護したい思惑から、世界的な法人税率の引き下げ競争にも直面していて、消費税率の引き上げと法人税率の引き下げの相関関係を指摘しながら法人税の引き上げを安易に主張できない事情も出てくると共に、もう一方では課税に関して、物や情報の売り買いと人の労働そのものであるサービスの売り買いを分けて考えないと、消費税などの間接税と所得税などの直接税の兼ね合いに絡んでおかしな面が出てきて、雇用契約などに関しては制度的に労働者を保護している面があるとしても、労働者を事業者と見なして、物や情報の売り買いに消費税を課税するように、労働者の労働をサービスの売り買いと見なして消費税を課税するとなると、事業者が労働者との間で労災や年金などの保険料を含む面倒な雇用契約など結ばずに、労働そのものを外部発注してサービスを買った方が費用がかからなくなると共に、労働者を派遣する事業が繁盛することになるのだろうが、さらにはインボイス制度の導入に伴って、個人事業者が免税業者であるよりも課税業者にならないと、取引先の事業者との力関係の上でも不利な状態となるから、零細の個人事業者や労働者の味方を装いたい政治勢力としては、反対運動をせざるを得ないわけで、またそういうことの反動で有利な立場の大企業への課税の強化を訴えかけるわけだが、社会で様々な立場や境遇が複雑に絡み合っている中で、誰の味方をして誰と敵対しなければならないかという面を強調してしまうと、特定の支持層には受け入れられる一方で別の支持層からは目の敵となってしまうから、社会全体から広範な支持を得られなくなってしまうのは仕方がないとしても、結局は部分的な利害関係や損得勘定から限定的な判断を優先せざるを得なくなり、そういった狭い範囲内では通用するものの、全体的な状況に関して総合的な判断が求められているわけでもないだろうが、それでも普通に考えてうまく立ち回るには、できるだけ敵を作らないような戦略的な配慮が必要となってくるのだが、現状ではむしろ積極的に敵対することが優先されなければならないだろうから、それが少数派にとっては有効な戦術になるにしても、結果的には少数派にとどまっているだけではできないことが多すぎるわけで、その辺の長期的な戦略と短期的な戦術の兼ね合いも世の中の情勢次第な面もありそうだが、零細事業者や労働者の味方となるような人道的な配慮から言うなら、消費税は物や情報の売り買いへの課税にとどめて、労働そのものとなるサービスへは課税しないことが望ましいのだろうが、その一方でバイデンなどが脅しとして口にする、大企業の儲け過ぎに対する懲罰的な課税というのも、日本の現状ではあり得ないことかも知れず、むしろ税制の簡素化という点で考えるなら、国際的にもコンセンサスを得られやすい限度としての法人税率は例外条項いっさいなしで一律15%にすべきだと主張するなら、ふざけるな!と言われそうで、大企業を利するような主張など受け入れ難いし、現実問題としてもそんなのはあり得ないし、たぶん実現不可能だとしても、主張するだけなら主張できて、もちろん誰からも支持されないだろうが、理屈で考えても意味不明で矛盾するような主張ができるかどうかが、今より広範な支持を得るには必要だとも、今のところは思いもしないだろうが、そんなことは思わなくても、思いがけないきっかけからどう考えても解きほぐし難い矛盾を孕んだ選択を迫られて、そのつもりもないのにおかしな経緯から善意で味方となってくれた人々を裏切って、昨日の敵は今日の味方だとか敵の敵は味方だとか言いたくもないような人々と嫌々共闘せざるを得なくなってしまうのかも知れず、そうなった時にかつて必要以上で敵対感情を煽っていた経緯が邪魔をして、うまく立ち回れなくなってしまうと、せっかく巡ってきたチャンスをみすみす逃してしまうような後悔先に立たずな事態に直面してしまうのかも知れないが、そうならないように今から何をしなければならないとか考えが及ぶような余裕もないだろうから、現状の中ではそんなのはどうでもいいことだろうが、たぶんそれが今後どうでもよくはならなくなることが期待されているのかも知れず、もちろん現状では誰も期待していないようにも思われるが、それも後から意味不明で不可解な紆余曲折を経た末に、おかしな経緯から期待する人々が大勢現れるのかも知れない。
11月2日「終わりの言葉」
予兆というのは良い兆しと悪い兆しとが入り混じっているのが毎度のことで、それをどう受け止めるかも人それぞれだと思いたいものの、それに引き換え誰もが予想したいのが現状で到来している災禍の類いがもうすぐ終わるということであり、終わりの兆しを我先に感じ取ってその遠くない終わりの時期を予測したいのかも知れないが、現状ではそれがなかなか終わらずに思いのほか長引き、いつまで経っても終わらないから、終わりの兆しを誰もが感じ取っているのに、現状ではまだ災禍が過ぎ去っていない情勢の中で、それをどう受け取ればいいのかわからないという焦ったい心境に陥りやすく、そこからだいぶ時が経っていつの間にかその種の災禍が過ぎ去っていることを誰もが確認できれば、しかもそれがメディアを通じて公式的にアナウンスされようものなら、災禍が過ぎ去ったことを終わったという断言口調で誰もが得意になって宣言したいかというと、それは実際にその時になってみないことにはわからないが、現状で誰もが囚われている慣習に盲従することしかできない人々が何を繰り返しているのかといえば、いつ終わるとも知れない災禍のただ中でちょっとした情勢の変化を捉えてはその都度下される識者の託宣を真に受けて、一時的にぬか喜びするが、それもしばらく経つと悪い兆候がぶり返してくるから落胆して、そんな小康状態の一喜一憂が飽きもせず繰り返されている一方で、新たな危機の到来にも備えなければならないと警鐘を鳴らす識者の毎度おなじみの危機感の煽り立てにも嬉々として反応できるかといえば、意識高い系の人ならその都度同調するかも知れないが、もういい加減にそんなことの繰り返しには嫌気がさして飽き飽きしながら、そんなことの繰り返し自体を終わりにしたい心境になれるかというと、ではどうすれば終わりにできるのかといっても、そんな成り行きに囚われている者が自身の力を遥かに凌駕する現象を自らの力で終わりにできるはずもなく、気休めならまだしも、あらかじめ用意されている終了宣言を先取りして、今日にも明日にもとひっきりなしに観測気球の類いを上げている暇もないなら、何かもっとそれとは違う方面から情勢を捉えて、何かの終わりが間近に迫っているような期待とは関係のないことを語ってみた方が良さそうだが、その良さそうだと思うのも勘違いのなせる業で、良いか悪いかを判断できないから、とりあえず間近に迫っているように思われる終わりの予兆を感じ取るしかなく、それも勘違いでしかなければ、取り立てて現状が終わろうとしているのでもなく、新たな時代の幕開けが近づいているのでもないとすれば、では何がどうなっているのかといえば、そんな雑な問いでは答えられないような複雑に入り組んだことが起こっていると捉えておけばいいのかも知れず、それが安易な答えを求めない態度をもたらして、何かが終わるだの始まるだのとは関係のない方面で終わりも始まりも定かでないようなことが起こっているから、それを性懲りもなく飽きもせず間近な終わりを前提としながら苦し紛れに終わりへの期待を語ってみたり、あるいはさらに何も始まっていないのに意味深気味にそれが終わりの始まりだとか語ってみても当てが外れて、終わりようのないことをすでに終わったと断言したくなったり、もうすでにそれはオワコンだと流行を先取りして言い放ってみるが、では他に何があるのかと問われるわけでもなく、ただ終わった終わったと断言しているだけでは何を語っていることにもならず、他に何か真摯な態度で語らざるを得ないことを見つけ出さないと間が持たないわけでもないのに、それを必死になって探しているふりを装いながらも、それがなかなか見つからず、見つからないことに焦って、苦し紛れに出してくるのが、誰かが言ったことに対する別の誰かの反応や反論になるかも知れないし、そうでなければ言い訳まじりにお茶を濁すような誰かの揚げ足取りになるかも知れないが、そんなメディア的なセーフティネットに引っかからないようなことが言えるかというと、別に言ったとしても興味を惹かなければ無視されるしかないが、誰も何も言っていないと見なしておけば事足りるようなことかも知れないし、誰もが何かを語っているのに、実際に現状でも多くの人々が色々な方面で様々なことを語っているとしても、まだ誰も語っていないことがあり、それが語り得ないことではなく、結構安易に語ってしまえる内容なのかも知れず、しかもそれを語ってしまうとまずいようなことかも知れないから、誰もそれには触れようとしないわけではなく、語っている内容が大なり小なりそれに触れていて、しかも中にはあからさまに真正面からそれについて語っているのに、なぜかそこを素通りしてそれとは関係のない方面へと語っている内容が自ずから向かってしまうから、それについては誰も何も語っていないと言えて、そんなことをわざわざこれだと指摘するようなことでもないのだろうが、指摘しても無視されてしまうようなことかも知れず、これだと指摘するには大げさにこれだと指摘しないと誰も注目してくれないわけでもなく、それよりは世間の注目とは無縁の言葉には違いないが、そうだからといって流行遅れの言葉であるはずもなく、流行とも無縁であるはずもないが、執拗にそれについては語られていて、延々と繰り返し語られているものの、もう飽きたとは言えないわけで、気が済まないから延々と語られているのだろうが、一向に埒が明かないのであり、埒が明くはずもないことだが、それで構わないのであり、それで構わないようなことだと思っておいて差し支えないことだが、少なくともそれが現状で起こっている全ての不具合を終わらせるような最後の言葉とはならず、そんな言葉があるはずもないのも承知の上で、それが口にされているわけでもないだろうが、それが最後の言葉にはならないから、いつ終わるとも定かでない何かの流行現象を体現する言葉として誰もが口にしても構わない言葉となっているのだろうが、一向に言われる気配もなく、誰も言わないからあえて言い放つような向こう見ずな気概をもって言わなければならないほどの大げさな言葉でもないのだろうが、やはりそんな言葉をいくら想像しても、結局どこからも出てこない言葉なのかも知れない。
11月1日「自己防衛」
自分の身が何かに守られているなら、自らの境遇が現状のようになってしまっていること自体が何かに守られていることの証しだと解釈したくなるが、守られているのだから当然の結果として安泰であるはずだが、解釈するまでもなく理解して納得している現状もあって、果たしてそれが守られていると自覚できるほどの安泰なのかといっても、そうは思わなければそれなりの危険にさらされているはずで、その自覚があるからそうなってしまうわけでもないが、それが今ひとつ信じきれないなら、まともに信じられるようなことではないから素直な実感として信じられないのだろうが、たぶんそれでも自分が何かに守られているような気がするなら、根拠も理由も定かでないのに漠然とそう思うしかなく、別にそれが神だの守護霊だのの存在を信じるか信じないかの問題ではなく、そんな大げさなことにならない程度でそう思っていればいいのであり、それもどう思っても埒が明かないことで、そう思うことが何か矛盾しているようでいて、その言行不一致的な矛盾を保持していないと困った事態に陥ってしまい、言行を一致させようとすると死ぬほどの苦労と心身の消耗を強いられるのであり、世の中では実際に苦労や消耗を強いられて死んでしまった人や病に罹って寿命を縮めてしまった人が大勢出ているのかも知れず、現状で言っていることと行なっていることが一致しているとは到底思えなければ、そういう状態を無理に変えようとはせずに、それらが自然に一致するのを待つしかなく、いくら待っても一致しなければあきらめるしかないが、一致しないままでも生きていける状況となっているのであり、一致しないからこそ何かに守られていると解釈しても構わないが、それも気のせいであっても構わない程度のことであり、本気になって信じ込むようなことではなく、それよりはもっと優先して考えなければならないことがあるなら、それを優先させればいいのだろうが、他に考えることがないからそんなことを考えてしまい、実際に考え込んでしまうから思い悩んで疲弊して心身が消耗してしまうのかも知れず、それが自らの能力や力量を超えることをやろうとしてできないことに気づかせるための過程で起こるのだとしても、それを悟れないうちに消耗してしまえば道半ばで倒れるしかないが、倒れたからといって誰が救いの手を差し伸べてくれるわけでもなければ、そのまま野垂れ死の運命となって、他の誰からも見向きもされない結果となるなら、何か骨折り損のくたびれもうけのような気がするかも知れないが、死ぬ間際にそんなことを思うはずもなく、そうなることに関しては自己責任でやってもらうしかなく、社会的な申し合わせなど一切なく急速にそうなってしまえば、誰が助けようとしても間に合わず、実際に間に合わないから死んでしまうのだろうが、そうやって死なないうちに考えておかなければならないことがあるかというと、誰もがそうなるとは限らず、人それぞれで状況も状態も条件も違ってくるから、疲労や消耗の度合いも違っていて、その疲弊具合の差異がその人の命運を左右することもあるかも知れないが、それよりも大事なことがあると思うならそれが何かというと、その人が後生大事に抱え込んでいる独自のこだわりだとすぐに思い浮かぶかも知れないが、意外とそうではなく、要らなくなったらさっさと捨て去っても構わないような些細な何かかも知れず、その何かが本人には気づかない物事であり、それがいつまでも執拗に保持しようと意識している物事ではないところが、当人の言行不一致を生じさせているのであり、赤の他人にしてみればそんなどうでもいいことにこだわっているから言っていることとやっていることが食い違ってしまうのだと言い放ちたくなってしまうのだろうが、それをやろうとしてもできないような事情や経緯を抱え込んでいるから言行を一致させることができず、自らの思うような活動ができていないと解釈してみても構わないだろうが、果たしてそんなわかりやすい解釈で構わないのかというと、機会を捉えてそんな活動の現状を見直そうとすると、なおのこと物事が複雑に入り組んできて、より一層事態がこじれてくるようなら、そういう見立てでは不正確であったことを悟るしかないのかも知れず、もちろん不正確だからといって、より正確に自らが巻き込まれている事態を把握できる立場にはない場合もあるから、不正確な事態の把握で我慢しなければならない境遇にあるなら、無理にそれ以上正確に事態を把握しようとしても徒労に終わるしかないだろうが、できないことをやろうとすることも言行の不一致を生み、何かを宣言してその通りのことをやろうとするのは愚の骨頂で、それよりは後出しじゃんけんのように絶えず自らがやったことを正当化したがるのが無難なやり方であると共に、そんなことばかりやっているから他人から信用されないと言われるものの、逆に同じ穴の狢として他人から暗黙の共感を得られるわけだが、それ自体が方便としての言行不一致であり、できないものは仕方がないという無責任な開き直りがないと、人としての弱さを見せながらもそれを逆手に取れないわけで、しかもそんなことをやってしまっては社会通念上まずいから、やらないで済ませられるならそれに越したことはないのだろうが、否応なくそんなことを強いられてしまうから、そこで思い悩むことになるのだろうが、自己防衛を優先させるなら思い悩んでいる暇もなく、さっさとやってはならないことを済ませて、後は野となれ山となれとなってしまえばしめたものだが、それが公的な立場にある者ならそうはいかず、後から不正や不祥事を暴露されて責任を追及されることになるのだろうが、そうなればなったでのらりくらりと言い逃れに終始するしかないのかも知れず、そんな状況の中でうまく立ち回るのは至難の業であるにしても、意外とうまく立ち回らなくても構わないような成り行きが待ち受けていれば、運が良かったと思うしかないのではないか。
10月31日「愚か者の理屈」
可能性として起こる確率が極めて低い例を挙げて、そんなことは起こり得ないと主張する論法に騙されるのも愚かだが、そんなことはまず起こらないから別の無理なことをやっても大丈夫だと主張するのも何か違和感を覚えるわけで、そういうありそうもない仮定の話よりは、もっと別に優先しなければならないことがあるなら、誰もそんなまやかしの主張には引っかからないだろうが、主張している人がまやかしだとはこれっぽっちも思っておらず、本気で実現可能なことだと思い込んで主張しているのなら、何かもっと信じられるような論法があればいいのにと思わずにはいられないが、それについては避けては通れない現実があり、それがある一定のレベル以上には主張への支持が広がらないという現実がありそうで、そうなっている限りで現状では実現しそうもないことを主張していられるわけだが、果たしてそれで構わないのかというと、構わないも何も、果たして他に主張すべきことがあるのかということに関して、そういう主張を行なっている限りでその主張が障害となって、他に可能な主張が見当たらなくなっているのかも知れず、しかもそんな主張に囚われているからそれ以上の勢力拡大は望めないが、それと引き換えにしてある一定レベルの支持を獲得できているから、その主張が一定レベルの支持を繋ぎ止めるには必要不可欠ともなっていて、それがその種の勢力を維持する上では欠かせないのだが、それと同時にいつまで経ってもそれ以上の支持拡大は望めないから、いつまで経っても主張が実現することはなく、そうなっているからこそ一定レベルの勢力を保っていられるというジレンマに直面しているわけだろうが、そうであるならその主張には良い面と悪い面があり、しかもそれが表裏一体を形成しているから、悪い面を削って良い面を伸ばすわけにもいかず、どちらも勢力の維持には欠かせないから、延々とそんな主張を繰り返して支持者を繋ぎ止めていかなければならないわけだが、果たしてそういった勢力が支持者を裏切ることができるかというと、意識してこれ見よがしに裏切るわけにはいかないだろうが、なし崩し的に裏切るような成り行きになってしまうかも知れず、そうなるとより広範囲な支持を得られる可能性もあるだろうが、活動の初期から急進的で実現不可能な主張を支持してついてきてくれた支持者を切り捨てることによって、より穏便で妥協的な主張を支持してくれる世間の一般大衆に受け入れられることを意味して、そうなることの良し悪しは別にして、実際にそうなった時に戦略的に振る舞えるかどうかが、今となっては実現不可能に思える初期の主張を、初期とは別の形で実現できるどうかが決まってくるのかも知れず、現状のそれが愚かな支持者を繋ぎ止めるためのまやかしの主張だとは思えないものの、そんなふうに見られていることは自覚している可能性もあり、世間からは馬鹿で愚かなことを主張して過激派を装っているに過ぎないと見られているかも知れないが、それが戦略的にわざと装っているか、それとも愚かな支持者と一緒になって騒いでいるに過ぎないかが、どちらとも受け取れるような曖昧さを残しつつも、芯のところでは愚かな支持者を裏切らない信念のようなこだわりを見せていれば、現状の支持者もそれなりについてきてくれるだろうから、微妙に正気と狂気の均衡が保たれているような状態となっているのかも知れないが、その一方で世間的なレベルで通用しているように見える大衆的なまやかしの方がマシなのかというと、どちらかといえばそちらの方が馬鹿げていて、そんなまやかしを信じる方が愚か者に見えてしまうだろうが、信じる者は救われるという宗教的な迷信も一定レベルで多数派の心の中で安心感や連帯感を伴って共有される傾向があり、それ自体が中身のない空疎な過信に過ぎないが、それでも何かを信じているつもりになって、少数勢力が抱いている実現不可能な妄想の類いを冷笑的な態度で小馬鹿にできるだけの根拠もないのに、実際に心の中では小馬鹿にしているように見えてしまうわけで、果たしてそれほどの自信がどこからくるのか自分でわかっているのかと誰に問われるわけでもないだろうが、それも想像の域を出ないことだから、何とも言えないところだが、どちらにしても現状の行き詰まりを部分的には感じ取れるだけの感性があれば、冷笑的であるよりは、できもしないことを必死になっているように装いながら訴えかける少数派の方に未来への可能性があることを感じ取れるはずだが、それが装っているのではなく、本気で実現できると信じている限りで支持者の心に届くと思いたいだろうし、支持者を騙す自覚もなく戦略的に暑苦しい演技を演じるように心がけているわけもないだろうが、たぶんいずれ勢力の拡大に伴って初期の支持者を欺くようなことをやらなければならない時期が到来して、それと引き換えにして政治的な主導権を握る機会がやってきて、これまで通り愚かなままでいるか、それともさらに愚かな大衆に媚びてより広範な支持を獲得するかの決断を迫られる機会が本当にやってくるかどうかは、現時点ではよくわからないが、できれば愚かな選択ではなく賢い選択をする機会がやってくればそれに越したことはないが、その賢い選択だと思われる選択が実は愚かな人々を味方につけることだとは、誰もそうは思われないことかも知れないが、そこでも賢さと愚かさとが表裏一体を形成している可能性があり、賢くあろうとすることが愚かな状態へとより一層近づくことになっていると、どちらにしても誰もが否定したくなるような愚かさから逃れることはできず、その代わりに愚かさにまみれることによって賢くなろうとすることを断念できるわけでもないことを自覚するしかないような面倒で込み入った状態を保つしかなく、そういう成り行きを承知しているなら、現状の中でできもしないような愚かなことを主張している少数派を心から支持するわけでもないが、冷笑的な態度で小馬鹿にすることは避けようとしなければならないのかも知れないし、避けられなくても避けているように装っておいた方が無難なのではないか。
10月30日「行政のスリム化とシロアリ国家」
一般的に言って新自由主義的な思考の持ち主なら比較的規模の小さな政府を目指す傾向がある一方で、ニューディール的な思考の持ち主が主張するような政府の仕事を増やして規模を大きくすることには拒否反応を示すかも知れないが、ただ闇雲に政府の規模をでかくしたり、また闇雲に政府の規模を小さくしたりするのではなく、支配政党や官僚機構に富を食い尽くされるようなシロアリ国家にならないようにしたいということなら、それがどの程度の規模になるかということについては意見が分かれるものの、規模の大小に関わらず新自由主義派もニューディール派もシロアリ国家になるのは避けたいだろうし、実際に政治家や公務員などの間で腐敗や汚職が蔓延しているようならもうすでにシロアリ国家となっているのだろうが、日本がどの程度かというと、新興国などと比べればまだマシな方かも知れないが、日本の場合は特徴的なのが官僚の天下りがあり、天下り先の企業が官僚を受け入れることによって出身官庁と癒着して利益を得ているなら、それだけ国家予算が余分に吸い取られて無駄に使われているということになるだろうから、もちろん天下った元官僚や天下り先の企業にとっては無駄ではないが、小さな政府を目指す新自由的な行政のスリム化を目指す観点から言うなら、議会がチェック機能を高めて、政府と天下り先の企業との癒着によって余分に予算が使われていないか絶えず調査するしかないだろうが、それ以前にあからさまな天下りではないものの、議会の多数派を占める政党に元官僚出身者が多数在籍している実態があるから、果たしてそれで議会のチェック機能が働くかというと、少数派の野党に期待するしかないところだが、そもそもシロアリ国家という比喩自体が、国家に見立てた家屋が政治家や官僚などのその内部に巣食うシロアリによって食い尽くされて倒壊することの喩えとなるから、そう言われてみればそういう面ではある程度の真実味を帯びているような気がするが、自然界に生息するシロアリの生態としては、倒木や枯れ木などを自然に還して豊かな土壌を作る作用があるわけだから、害虫と益虫の両面があるはずで、人が木材を使用して家屋を建てるからシロアリの害がもたらされるのと同じように、人が国家を形成するから、その中に巣食う政治家や官僚が腐敗や汚職もたらして、国家を内部から食い荒らすシロアリとなってしまうと捉えるなら、自業自得な面もあるのかも知れず、公的な制度とは別に政治家が自らの一族で利益を独占するために世襲制という勝手なルールを構築したり、官僚が出身官庁の利益を確保するために天下り先の企業と癒着したり、政治家に転身して出身官庁の意向を政治に反映させたりとやりたい放題やっている実態もあるから、そんな政治家や官僚の言いなりになっている国民が愚かだと言うならその通りだが、では誰が国民の味方なのかといっても、国民の味方を装う政治家や官僚の言いなりになること自体が愚かなのかというと、言いなりになることも言いなりにならずに反発したり反感を抱くことも、どちらからでもそれ相応に愚かさが生じてくる原因となるのかも知れず、そういう意味では政治家も官僚も害虫と益虫の両面があり、それらの役割を担っている人々を害や益から判断するのも愚かさの顕われであり、ではどう判断すればいいのかといっても、俄には判断し難いが、まずは対立する関係を当てはめること自体が間違っていて、両面があるのだから表裏一体をなしていると理解しておけば良いと共に、政治家も官僚も議会や政府の中で活動している限りで、国民から税を徴収してそれを使って何かをやりたいわけで、大前提として税を徴収しないなんてあり得ないわけだが、そういう単純な判断基準からも敵か味方かを区別するわけにもいかないし、それよりは敵でも味方でもないと見なしておいた方が下手な幻想など抱かなくても済むかも知れないし、それに関して逆説的なことを言うなら、政治家や官僚を活躍させないことが国民の税負担の軽減につながると解釈しても構わないが、彼らの活動が盛んになるほど国民の税負担が増えるとするなら、ではどのようにすれば彼らの活動を抑え込むことにつながるのかというと、彼らの味方にはならないことが肝要で、単純に言うなら彼らを支持しなければよく、彼らの言っていることを真に受ける必要はなく、しかも敵か味方かの二項対立の一方に与さないことが肝心で、絶えず敵でも味方でもないような曖昧な態度を保持しなければならないと同時に、絶えず彼らの動向に関心を持つ必要もあるわけで、敵か味方かのどちらでもないと無関心となってしまいがちだが、そうなると関心を示さないのをいいことに権力や権限を使ってやりたい放題となってしまうからそうなってはまずいわけで、積極的には支持しないが積極的に反対の意志を示しておかないとなめられてしまい、現状でも国民がなめられているから、実際にやりたい放題なことが行われていることに気づくべきなのだろうが、それも気づいたからといってすぐに反対勢力の味方を装う必要もないが、反対勢力を積極的には支持しなくても選挙になれば反対勢力に投票しておかないと、現状で主導権を握っている多数派のやりたい放題を招いてしまうから、その辺はつまらない感情抜きで割り切って、そういうところではとことん愚直にこだわるべきで、下手に策を弄して皮肉な結果になるような甘い期待を抱くとひどい目に遭うだろうし、斜に構えていないでまっすぐな行動が必要とされて、それが政治家や官僚の活動を抑え込むような行動につながればいいと言ってみても、では具体的に何をやればいいのかといえば、それはその場の情勢に応じて各々の立場や境遇が違ってくるだろうし、一概にはこれだと言えないようなことかも知れないが、絶えず彼らの言動や活動に目を光らせて疑いの眼差しを向けていれば、自ずからやるべきことが見えてくるのではないか。
10月29日「現実的ではない」
少しひねくれたことを言うなら、現実の世界で他より秀でた人物に世間の注目が集まることは普通にありそうだが、果たしてそれが現実の世界で起こっていることなのかというと、現実の世界でなければ何なのかというと、例えばフィクションの中でも他より秀でた人物がいくらでも登場するだろうが、話の中で秀でていることを強調するなら、現実の世界よりも秀でている度合いがいくらでも高められるはずだが、それがインフレ気味に現実ではあり得ない漫画のような話というのもよくあることで、現実の世界で漫画のようなことが実現するかというと、実現すればそれが驚くべきことになるのだろうが、逆に漫画の中で現実に起こっていることが実現するかというと、それがフィクションなのだから、現実に起こっているような話にすることもいくらでもできそうだが、たぶん漫画には漫画特有の効果があり、そういった効果を活用しないと魅力に欠けるつまらない話になってしまうなら、現実の世界で起こっていることに近づけるよりは、漫画特有の効果を活用しようとして、そうすることで現実の世界で起こっていることと漫画の世界で起こっていることの違いが実現すると考えれば、それが漫画でなくても、現実の世界で起こっていることを語る中で、より魅力的に語ろうとするなら、ただ現実の世界で起こっていることをそのまま語るよりは、語る用途に合わせて肯定的な印象をより強調したり、逆に否定的な印象をより強調したりしながら、話を聞いてくれる人々の要望に応えようとしてしまうかも知れず、そんなまやかしに騙されてはならないと警鐘を鳴らしたところで、語っている当人も話を聞いている聴衆も意識がそんなところにまで及んでいるはずもなく、また文章を読んでそんな印象を抱くかというと、それも意識して読まないと気づきにくいし、文章を記す方も直接には意識して記しているわけでもないだろうが、何をやるにしても他人より秀でようとする意識はあって、それは語るにしても文章を記すにしても言えることであり、それが印象操作の類いに結びつくのは仕方のないところだが、そんなことを意識せずにやっている当人も気づいていないのを外部から指摘できれば、指摘できた人の方が、意識せずに印象操作を行なっている人より優れているような印象を得られるかというと、それもそんなところを比較して優劣をつけるのもおかしいような気はするが、浅はかな人ならそう思うかも知れず、そんなふうに思ってしまう人が他人の印象操作を指摘して回るメディア関係者のファンになるかも知れないが、そういう面での優秀さと、そういう面で優秀な人物が指摘している物事自体がもたらす効果とが、同じ次元で語られることかというと、そこでそんな人物のファンになってしまう人々が、それらを同一の次元で評価してしまうような錯覚に陥っている可能性があり、そこで指摘されている印象操作に関してはその通りだとしても、自分でも気づかずに結果的に印象操作のような内容を語っている人物が実行しようとしていることが、それを指摘する人物にとっては批判されるべきことであるのは明らかだが、それも批判している次元と実行されようとしている次元が違っていて、批判しても印象操作を指摘しても阻止できないようなことが行われようとしていて、そんな現実に直面した人がこのままでは大変なことになると警鐘を鳴らす場合もあるだろうが、それも警鐘を鳴らしている次元と実際に警鐘を鳴らす対象となることが行われようとしている次元が違っていて、意識してそういうことに気づくなら、批判したところで印象操作を指摘したところで警鐘を鳴らしたところで、それが行われること自体を止める効果が得られるわけもないことにも気づいてしまうだろうが、そういう意味では漫画とは違って、それらが直接にはつながっていないわけだが、そんなふうに現実の世界で起こっていることが、それについて語っていたり文章に記されている内容と直接つながっているわけでもないことを考慮するなら、そこで語られている内容自体が現実的でないことにも気づいてしまうかも知れず、現実に起こっていたり起こりつつあることについて語っているのに、その内容が現実的でないことについて、それをどう考えればいいかといっても、今ひとつピンとこないかも知れないが、過去に実際にそれを実現しようとして大変な事態を引き起こしてしまった事例などいくらでもあり、しかも今もそれが現実の世界で実現されようとしていて、それが実現される上で原動力となっているのが有言実行という誰もがやりたがる行為だが、それも有言実行している次元と、有言実行している人物の有言の中で語られる印象操作を指摘して批判する人物が語っている次元が違うことにも気づくかも知れず、さらにそんな有言実行によって大変なことが起こると警鐘を鳴らしている次元が違うことにも気づくかも知れないが、実際に現実の世界で起こっていることが有言実行されていることであり、その反対にまだ起こっていないことが、その中で語られる印象操作を指摘してそれを批判している人物やそれが実行されると大変なことが起こると警鐘を鳴らしている人物が語っている内容となり、有言実行を批判する人物がそんなことをやっていては駄目で、こうしなければならないと言っても、その人物にはそれをやる機会が現実の世界ではないだろうし、また有言実行されたら大変なことになると警鐘を鳴らしている人物も、そんなことをやっていては駄目でこうしなければならないと言っても、その人物にもそれをやる機会が現実の世界ではないだろうから、少なくともそれらの人物たちがこうしなければならないと言っている内容に実現性があるかどうかは何とも言えないところで、今後それらが実現されないままとなってしまえば、こうしなければならないという内容が今のところは実現すべき現実的な選択肢にはなり得ていないことになってしまうのではないか。
10月28日「理に適った行為」
言うだけなら簡単だが、理に適ったことがやれるかというと、結果的にそうなればいいとしか言えないが、やっている途中でそれがわかるわけではなく、やろうと意識してやれるわけでもないとしたら、ではなぜそれをやれるのかといえば、たまたまそうなったような気がするだけかも知れないし、そんな気がするだけで、実際にはそうではないかも知れず、何か勘違いしていて、理に適ったことをやっているような気がするのだが、本当に理に適ったことをやっているかどうかは、それをやっている人自身では判断できず、他の誰かがそれが理に適っているかどうかを判断することもあるが、大抵は判断するも何も他人のやっていることなど気にも留めないだろうから、他人からは無視されて当然のことをやっていて、誰からも評価されないようなことをやっている場合がほとんどだから、自らのやっていることが理に適っているかどうかなんてわかるわけもないような境遇の中で、取り立ててやるべきとも思えないようなことをやっている実態があり、成り行きとして自ら進んで理に適ったことをやろうとするわけではなく、他人からそう言われる場合がありそうで、その人のやっていることに対して批判の意味を込めて、もっと理に適ったことをやれとアドバイスするような成り行きが想定できるが、それがその人の事情を考慮せずに言っている場合もあり、その人が無駄で非効率で意味のないことをやっているように見えるなら、誰もがもっと理に適ったことをやれとアドバイスしたがるかも知れないし、そうやって上から目線で他人に指図するような立場というのが、集団の中ではよくありがちな立場だとしても、個人で勝手に独りよがりなことをやっている場合だと、他の誰からも見向きもされない場合もありそうで、果たしてそんな助言してくれる人が誰もいない中で理に適ったことができるかというと、そんな場合を想定してみたところで、実際にそうなっているかどうかなんてはっきりとわかるわけでもないのかも知れず、やっていることが合理的かどうかの判断が誰によって下されるのかといえば、集団の中で指導的な立場の地位に就いている者が判断する場合が多いだろうから、自分で自分のやっていることが理に適っているかどうかなんてわからず、絶えず他人から良い評価を得られていることが、そんな気がする程度のこととして、理に適っているような気がするのかも知れず、もちろん自分で合理的な判断ができていると思われる確固とした信念があるなら、そう思うに際して信じられる理屈があって、その理屈に適合するようなことができていれば、そう思うしかないだろうが、しかもその理屈を自分で導き出して、実際に思うような結果が得られていれば、なおのこと合理的なことをやっていると思うしかないが、そんなふうにして確かな根拠があるなら、理に適ったことをやっているはずだが、自分でそう思っていることと他人がどう思っているかが違っている場合があり、絶えず他人のやっていることを批判的な立場から検証したがる人もいくらでもいて、そういう批評的な立場というのが、自分では何もやらずに他人のやっていることばかりあげつらう傾向があるから、それがずるい立場のように思われると、理に適っているかどうかをそういう立場の人が判断するというのも、違うような気がしてくるかも知れないが、そういうことを専門的に判断する立場というのがメディア環境の中で作られやすく、それがやっていることの中で言うことが先行する傾向をもたらすから、社会の中でメディアが主導的な立場を占めるようになるわけだが、主導的な立場が指導的な立場とどう違うのかといえば、目下の者をあからさまに指導するような直接の上下関係や師弟関係がないにも関わらず、外部から何か文句を言ってくるような間接的な関係であるにしても、それが何かしら影響を及ぼしてきて、目障りな存在となるのだろうが、社会的な影響力がある限りで無視できない存在にもなるから、そういった存在を政府などの当局者が直接弾圧できない限りで、社会の中で一定の主導権を得られて、言論の場で主導的な役割を果たすことになるのだろうが、果たしてそれが理に適った傾向かというと、メディアに信頼を寄せている人にとっては欠かせない存在となって、メディアが人々を一定の傾向へ導くことも理に適っていると思われるかも知れないが、目障りな存在だと思っている人にとっては、直接の上下関係や師弟関係でもないのに外部から文句を言ってきて、しかもその文句の方が世間から支持されるとなると、何か不合理なことのように思われるかも知れず、そういう意味で指導的な関係と主導的な関係のどちらが優先されるべきかといえば、直接指導したりされたりする関係の中に身を置いている人からすれば、指導的な関係の方が優先されるのが当然のことのように思われるだろうが、その指導自体がカルト宗教などの教義に則っていて、社会的な良識の範囲内では合理性を欠いていれば、メディアが主導的な役割を担ってその不合理性を暴露して非難することによって、結果的に指導自体をやめさせるような成り行きになれば、そんなメディアを支持する人たちにとっては、メディアが理に適った行為をやったことになるかも知れないし、またそれが議会や政府などの公的な機関を巻き込んで、そういった行為をやめさせるような法整備が行われて、また裁判などの訴訟を通しても違法行為と認定されるようなことにでもなれば、世間的にも公的にもなおのこと理に適ったやり方になるだろうが、そこまで事態が進展すれば確かにそう思われるにしても、そういった方面ではそういう成り行きになる場合もあるだろうが、世の大半の行為がそんな大げさな成り行きを経ずに、様々な人や集団の間で関係する各々が勝手に判断しながらやっていて、その勝手にやっていることが合理的であるかどうかよりもその場の状況に照らし合わせて妥当であるかどうかが優先される場合もあるだろうし、中にはたとえ理不尽で不合理な行為であっても、その場の情勢の中では優先されてしまうこともあるわけで、それがしばしば功利的な行為に結びつくわけだ。
10月27日「おかしいことは良いこと」
そんなことには興味がないといったら嘘になるが、特にそれが興味深いとも思わないのに、また別に気になって仕方がないわけでもないのに、それに関して何か思うところがあるのは、気に入らないなら無視しても構わないのに、ちょっとだけ引っかかっている程度のことなのかも知れないが、それ以前にそれが何なのかがよくわからなければ話にならないが、よくわからなくても別に問題はない程度のことであり、少なくともその程度のことにかかりきりになってしまうのはもったいないような気がするものの、立場上かかりきりにならざるを得ない人も世の中には大勢いて、しかもかかりきりになっている各々が違った立場や境遇になっていて、それらの人たちが共通の認識や価値観を共有していることにもならず、さらにはそれをかかりきりになっているように装っているに過ぎないと見なすと、そう見えるように振る舞っているに過ぎないことになるが、そう見えてもそれが取り立てておかしいとは感じられず、他の多くの人たちも同じように特定の何かにかかりきりになっているように見えるなら、おかしいのはお互い様というわけにもいかなくても、自身がおかしいとは感じられなくても特に問題はないわけで、それがおかしいかおかしくないかが問題なのではなく、たとえおかしく見えてもそれにこだわっているのだから、おかしく見えることもおかしいことを正当化できる範囲内でそう見えるのだと思っていれば済むようなことであり、むしろおかしいことを誇ってみせるようなことでもあるのだろうが、そうやっておかしいことに居直ってみせることに何か肯定できる面があるとは思えないが、それを狂気に囚われていると見なしてみても、当人にとっては何でもないことなのかも知れず、その種のおかしさを気にしない限りで成り立っている活動があり、それが無理なことをごり押ししているような活動であれば、普通は無理なことをやっているのだから活動が行き詰まることにもなるだろうが、それが無理ではない限りで活動が成り立っているわけだから、活動を成り立たせるために無理なことをごり押ししようとして、そのためには公的な政治権力や行政的な権限が必要とされるなら、実際に議会や政府に働きかけてその中で主導権を握ろうとするわけで、そういうことをやっているのがカルト的な宗教団体であれば話がわかりやすくなるだろうが、それをやっているのがカルト的な宗教団体の活動を阻止しようとする勢力になってくると話がややこしくなってきて、もちろん当事者はそれが無理なことだとは思っていないわけで、それが無理なことなのかどうかが実際にやってみないことにはわからなければ、たぶんやってみるまでは何とも言えないことかも知れず、その場の情勢が無理なことをやらせるような成り行きになってくれば、実際に行われて無理なことなのかどうかがわかれば話がわかりやすいだろうが、現状ではまだそこまで事態が進展していないから、やはり何とも言えないことかも知れず、それが何とも言えないままに終わってしまえば、無理なことを試す機会がやってこないまま、うやむやになってしまうのだろうが、彼らが何を試そうとしているのかは、彼らの主張を聞いてみればわかることで、そんなのはすでに周知の事実かも知れないが、少なくとも現状ではそれを試す機会を得られていないわけだから、それについては何とも言えないにしても、もちろんやる前からそんなことは無理だと言われているかも知れないが、現状でも無理なことがごり押しされている面もあるわけだから、それができるできないというレベルではなく、試してみてから判断するようなことになるだろうし、しかも現状でも無理なことがごり押しされているから、そんな現状が変わりつつあり、それはこれまでもそうだったのであり、これからも現状を変えるために無理なことがごり押しされるということではなく、ただ単に無理なことがごり押しされるから現状が変わると情勢を捉えておけばよく、それをやろうとする人たちは無理なことだとは思わないからやろうとするわけだが、逆にそれが無理なごり押しだと思う人たちがをそれをやめさせようとして、それをやろうとする側とやめさせようとする側とで認識が異なるのはわかりきったことだが、実際に現状の中でもごり押しされているから、やっている側とやめさせようとする側とで対立や争いが起こっているわけで、そのどちらの味方をしてどちらと敵対するのかといっても、それもどちらでもあってどちらでもないような立場になれるわけでもなく、どちらか一方へと加担してしまう限りで、加担すること自体が無理なごり押しを伴うようなことになれば、いったん加担してしまうと後戻りが利かなくなって、もちろんそこで無理なごり押しをしているとも思わないだろうが、やるとなったら自然にそうなってしまうわけで、そんな成り行きに否応なく巻き込まれてしまう人が多いほど、それが現状を変える原動力となって、場合によっては対立や争いが激化して、世の中が騒乱状態となることもあり得るだろうが、そんな状態がおかしいかというと、ある意味ではそうなって当然の状態なのかも知れないが、社会の秩序を維持する側としてはそうならないように絶えず治安を強化したいわけで、しかもそれ自体も無理なごり押しを伴ってきて、強権的な取り締まりが日常茶飯事となってくると、そういうやり方に対する反感や反発や抵抗を招いて、それもそんな現状を変える原動力となる可能性があり、そういう意味でも現状を変えるには無理なごり押しが必要となってくるのだが、そこでもそんなことをやっている当事者は、やって当然のことをやっている感覚でそういうことやっているわけだから、それが無理なごり押しだとも思っていないわけだ。
10月26日「疑わしい成り行き」
何かが起こりそうで何も起こらないのは毎度のことだが、何も起こらないとは言えないのも、今のところは当てのない可能性を求めているようでいて、何でもないような予兆に期待しているのかと言えば、期待しているのではなく懸念していて、その何でもないようながことが、後になって効いてくるような気がするから、そこで何かが起こりそうな予感がしてしまい、そのほとんどが気のせいに過ぎないだろうが、万が一予感が的中してしまうことを恐れると共に、そんな予感を信じてしまうわけで、もちろんそれが事態が悪化する懸念には違いないが、いったん悪化するからその後事態が好転するわけで、悪化しないと好転しないとも言えて、悪化と好転がセットになっているとも言えそうだが、では悪化と好転で差し引きゼロなのかというと、そうではない場合が多く、延々と悪化し続けてからちょっと好転したり、逆にちょっと悪化してから大きく好転したりする場合も多そうだが、そんなことはこの際どうでもよくはないが、気にしているのはそんなことではなく、そんな経過とは違う方面から感じられる予兆があり、それに関しては相変わらず先行き不透明なのはわかりきったことかも知れないが、政治的な方面で言われていることなら、明らかに近視眼的な対応がまかり通っているように思われて、それを利用しない手はないようにも感じられてしまうから、今が先手を打つチャンスなような気もして、そこに先見の明がありそうな予感もしてしまうわけで、まさにそう思ってしまうことこそが罠にかかっている証拠かも知れず、そうやって物事の都合のいい面ばかり強調して調子に乗っていると、思わぬところで落とし穴が待ち受けていたり、信じられないタイミングで大どんでん返しが起こって、今まで曲がりなりにもかろうじて保たれていた状況や状態が瞬く間に暗転してしまい、そんな絵に描いたような成り行きはフィクションの中でしか起こらないものだと思っていると、実際におかしなきっかけからおかしなことが起こった後から、辻褄が合うようにもっともらしい説明がなされて、そうなるのが当然のことのように解説されても納得がいかず、そこに誰も知らない裏事情があるのではないかと疑ってしまうわけだが、裏事情があったところでそんなのは枝葉末節で些細な要素や要因でしかなく、偶然にそんな出来事が起こったのを信じられないだけで、それが必然的に起こる理由や原因であるような気がするから、そういった裏事情というのが拡大解釈されて強調される限りで、事の真相究明が盛り上がるわけだが、それも実態としては真相究明を口実にして、それに絡んで批判の対象となっている人や団体を攻撃したいだけかも知れないが、事件が起こったことについて責任の所在がどこにあるかとか、それが起こった後からならいくらでも言いたいことや問いただしたいことが出てくるわけでもないが、その種の問いただしが何かの時間稼ぎに使われているとも思えないし、それが事件を忘却するための儀式とも言えないだろうが、それも後から振り返れば枝葉末節な紆余曲折となっているように思われて、そこで起こってしまったことを何とかしてなかったことにはできないにしても、我田引水的な物言いを駆使して、事件に起因してその延長上で起こる一連の成り行きの中で主導権争いが繰り広げられるわけだが、それ自体が事後処理的な性質のいざこざには違いなく、もう済んでしまったことについて後から付け足される蛇足に過ぎず、いつまでもそんなことに関わっていては、その後に続く情勢の推移の中で周回遅れとなりかねないから、急いでそこから身を引き剥がして、すでに進行中の新たな成り行きの中へと身を投じる必要があるとしても、納得できないことがあるといつまでも尾を引いてしまい、それをうやむやにしたまま突き進んでいく気にはなれないから、その前にやらなければならないことがあるような気がしてしまい、それが今までやってきたことの総括といった類いの過去を振り返るための業績の評価や点数づけとなってしまうと、いつまでもそんなことをやっている人たちの命運が尽きているとも言えないが、少なくとも先手を打つチャンスを逃しているようにも思われて、そういう人たちと行動を共にしていると、一向に未来が見えてこないと共に、自分でも気づかないうちに棺桶に片足を突っ込んでいるような心境になってしまうわけでもないが、そういった可能性の先細りが世の中の停滞感を醸し出しているのだとしても、誰もがそんなことにこだわっているわけではなく、大抵の人は置いてきぼりを食わないうちにそこから離れて、新たな可能性を求めて歩み出してしまうのだろうが、その新たな可能性というのが没落の可能性ではないとは言い切れず、実際にそこから歩み出した誰もが希望を手にすることが叶うとは限らないが、意外とそこから歩み出さずにそこへと執拗にとどまった人たちの中から、未来への可能性を手にする人も出てくるなら、ただ何もせずにそこへとどまっているように見えたこと自体が疑わしく思われて、とどまりながらいつまで経っても粘り強く動こうとしないことが、そこで誰もが見逃してしまった真実を発見するには必要だったことにでもなれば、灯台下暗しような状況だったことになるだろうが、要するにそこで何かを探していたからそこへ執拗にとどまっていたわけで、意味もなくそこへとどまっていたわけではなかったことになるのだろうが、それが誰でも気づくことでもないから、周回遅れとなるのを承知でどうでもいいような枝葉末節に思える何かにこだわってしまうわけで、その何かというのが大抵の人が見逃してしまうような些細なきっかけに過ぎないが、その前を素通りして離れて行ってしまう人が多ければ多いほど、かえってその些細なきっかけに希少性が生じて、それが何か重要なアイテムのように感じられてしまうかも知れないが、それも後からそのきっかけを通じて起こった誰もが無視してしまう出来事の重要性が世間に知れ渡るにつれてわかるようなことかも知れない。
10月25日「それ以外の何か」
理屈ではわかっていても実感を伴わないようなことが、理屈への不信感を抱かせるとしても、そうかといって理屈をないがしろにしたいわけではないが、どうしてもこれまでの経験から身につけたように感じられる勘に頼って物事を進めようとしてしまう傾向もあり、それがともすれば超能力などの神秘主義的な迷信に過ぎない可能性もあるから、それも信用できない面があるわけだが、そうやって絶えず不信感を抱きながらも、時と場合に応じて都合よく理屈を並べてみたり勘に頼ってみたりと、その場で直面している事態に対応しているつもりが、うまく対応できずにかえって事態をこじらせている面もありそうだが、どう対応していいのかわからない時には、下手に動かない方がいいと思っても、なぜかその場の成り行きで動かざるを得なくなれば、その先に待っているのは暗中模索の日々になりそうだが、そこからも経験上ある程度は予想がついて、その予想が当たろうと外れようと、予想に基づいて動いてみないことには気が済まなくなり、その結果として予想が外れれば事態が悪化してあきらめがつくかというと、そうなればなったで後悔先に立たずな心境となって、あの時こうやっておけばよかったと自身の誤った行為や行動を悔やむことになるのだろうが、たぶんそうなっても構わないと思うわけでもないが、実感としてはそれで構わなかったのであり、そこで何事も理屈通りには行かなかったことが証明されたように思われる限りで、それでも勘の正しさが証明されたわけでもないのだが、結果が思わしくなかったのだから、勘に頼って物事を進めたところでうまく行かないこともあるわけで、勘も理屈も跳ね返されるような事態に直面して、自身の愚かさを再認識させられるのだろうが、それが再認識というからには、それ以前に愚かさを自覚させられていたはずだが、失敗すれば失敗した自分が愚かだったと反省して、そこから教訓のような認識を得られたはずなのに、それが性懲りもなく過ちや誤りとして繰り返されてしまうような結果を伴うから、懲りずに何度も過ちや誤りが繰り返された末に、自分独自の勘が身についたように思われるのだが、その勘がいざという時に頼りにならなければ、何か裏切られたような気持ちになって、自信を持てなくなってしまうのだろうが、それも自分への過信を戒めるには必要な経過となり、勘に頼り過ぎないで時には理屈が必要となる場合もあることに気づかされるわけで、もちろん勘と理屈が相反して対立する概念というよりは、相補的に自身の助けとなるように活動を持って行ける範囲内で、勘も理屈も必要に応じて活用できれば活動がうまく行くように思われるわけだが、それも実際にやってみた結果から言えるようなことであり、やる前からこうだと決めつけてみても当てが外れて、やっている途中で思いがけない事態に直面すると、そこで勘が働いてうまく難局を乗り越えることができれば自信となり、また理屈通りの結果が得られるなら理屈の確かさも実感できるだろうから、それなりに勘も理屈も信頼できるわけだが、たぶんそれだけでは心もとないなら隙あらば絶えずそれ以外の何かを求めていて、それが外部から自身に及ぼされる作用や影響となれば、それが何らかの意図や思惑を込めて自分に向かって直接及ぼされる場合もあるが、そうではなく情報となってメディアを通じて不特定多数の人々に伝わってくる場合もあり、その情報を活用してうまく立ち回ろうとして、それが結果的にうまく行ったり行かなかったりすれば、外部から伝わってくる情報の大切さを思い知ることになり、それも経験として身につけば、役に立つ情報を得るための検索行為なども、自身の活動の中で重要な行為として組み込まれるわけだが、絶えずそれだけが全てではないことに気づかされて、それ以外の何かを求めるように促されていれば、それが情報を伝えている人の意図や思惑とは違う方面から促されていることになるかも知れず、それを促されていると思うのも自分の勝手な思い込みかも知れないのだが、そんな自分の意図や思惑とも関係なく、そうかといって情報を伝えている人の意図や思惑とも関係なければ、では何なのかというと、それらの意図や思惑とは関係のない方面へと誘導されていて、そうした誘導に促されて向かって行った先に待ち受けている何かというのが、意外と期待を裏切ったり裏切らなかったりするような物事ではなく、何かを期待させるようなことではなく、むしろ思考や行動の対象をずらされて、気持ちをはぐらかされるような何かであると、妙に合点がいかないような気がするのであり、それがなるほどそうだとも思わないし、何かを理解できたり何かに納得するわけでもないのだが、何に合点がいかないのかというと、今までの勘を養うための経験や努力が打ち消されたように思われるから合点がいかないのであり、そんなことをやらなくても済んでしまうような状況になってしまうことが、そんなはずがないと思われるところなのだが、絶えずそうやって状況が更新されることに気づかなかったわけではなく、気づいてはいたのだろうが、気づいているのとは違う方面に関心や興味が向けられていて、それが日頃から自分がこだわってきたことであり、それにこだわっている限りで、自らの経験や努力が何かの役に立つような幻想を信じていられたわけだが、そういう方面から視線を逸らすように促されてみると、それとは違う方面では全く役に立たないとは思いたくなくても、役立てるにはそれ以外の何かが必要なことに気づくわけで、気づいた時にはもう手遅れならそこであきらめるだろうが、何事にも往生際が悪くあきらめきれなければ、そこからまた新たな経験や努力に身を投じる気になるだろうが、何かそれがそういうことではないことにも気づいてしまうと、戸惑いを覚えて、たぶんそれが情報を伝えようとしてくる人の意図や思惑とも、その情報を活用して何かをやろうとする人の意図や思惑とも違う何かであることを悟る手前で起こる戸惑いなのかも知れないが、それが理屈でも勘でも理解できないことであれば途方に暮れてしまうが、それでも構わないようなことなのかも知れない。
10月24日「権力関係と力関係」
触れてはならないことに触れると何かの祟りがあるのは、迷信としてはよくありがちな思い込みだが、実際にそうなるかどうかは、何か悪いことが起こると祟られているのではないかと思うところだが、自身が自業自得気味にちぐはぐなことをやっていれば、自分の中で何かが壊れていると思うかも知れず、それが自身に起因していることではなく、例えば年金などの公的な制度が破綻しているところでは、世の中の実情を反映していない制度となってしまっているから、政治が何とかしなければならないと思いたいところかも知れないが、それを自分で何とかしなければならないと思うなら、他人事としては自助努力がどうのこうのと屁理屈を唱えながら、その人の怠慢のせいにしたいところだが、自分の身に起こっていることだと、公的な制度に助けてもらいたいと思うかも知れず、実際に助けられている面を実感できれば、公的な制度を管理運営している行政や政府に働きかけて世の中の実情に合わせた制度の改善を怠らない議会政治に信頼を寄せるかも知れないが、実際には必ずしも制度を利用する人々の利便性や利益をもたらす改善とはならず、逆に管理運営する行政の都合を優先させた改善ならぬ、利用者側からすれば改悪と受け取られかねないことをやろうとして、それが行政や政治に対する不信感を生む要因となり、そうなると制度を利用する側と管理運営する側とで利害が異なることが明らかとなるわけで、そのどちらを優先させなければならないかが政治的な問題となってくるが、そういうところでごまかしやまやかしの余地が生じてくると共に、それをごまかしやまやかしだとは感じさせない政治的な手腕が必要になってくるというと、もちろん政治の側でも行政の側でもそんなことはないと否定するしかないが、それに関して日本の現状の中では、議会で少数派に位置付けられるれいわ新選組なら、国民の利益を最優先に考える政党だと言えるだろうし、また議会で多数派を占めながらも長年にわたって行政や大企業と癒着してきた自民党なら、表向きは国民の利益を最優先させると言いながらも、実態としては行政や大企業の利益を優先させていると言えるだろうが、果たして国民の利害と行政の利害と大企業の利害が一致しないかというと、一致する面と一致しない面があり、ある程度は共存共栄が維持されている面もあるだろうから、一致しない面を強調するなられいわ新選組の政治的な主張に近づくだろうし、共存共栄な面を強調するなら自民党の政治的な主張に近づくだろうが、れいわ新選組を応援している人たちに言わせるなら、自民党の政治的な主張がごまかしやまやかしだと言いたいわけで、それがある程度は当たっているように思われる限りで、れいわ新選組を支持する人たちが増えていく傾向になればいいのだろうが、もちろんそれだけがれいわ新選組の主張ではなく、他にも世の中の様々な方面に向かっておかしいところを問題提起していて、それは他の野党勢力も問題提起しているところであり、れいわ新選組に限ったことではないが、そこにごまかしやまやかしだと思われている面と、国民と行政と企業とが共存共栄しているように見えるグレーゾーンがあり、そこが不明瞭なところでもあり、中には行政や企業に関わって利益を得ている国民も重なってくるから、一概にそれらが対立関係とは捉えられず、同じ企業でも大企業と中小企業を分けて考えて、大企業を批判して中小企業の味方を装ったり、企業の従業員でも弱い立場のパートタイム労働者の味方を装う野党政治家もいるだろうし、そうやって権力関係や力関係において弱い立場の生活弱者の味方を装うことによって、良識ある国民から支持を取り付けたいのだろうが、それがある意味では政治家に求められる理想像だとしても、その一方で社会の中で歴然と成り立っている権力関係や力関係の中に身を置いて活動していれば、それだけでは済まなくなって、そこから言行不一致などの矛盾が生じてくれば、否応なくごまかしやまやかしをやらざるを得なくなって、そこをジャーナリストなどに取り上げられてメディア上で非難や糾弾にさらされると、結局は自身が囚われている権力関係や力関係を利用して不正行為を隠したり、隠しきれなくなれば力で押さえ込もうとするしかないだろうし、そうした権力や権限を利用した政治弾圧が成り立たないようにすることが、民主的な政治制度には求められていて、そういうところでアメリカのバイデン大統領が言うような民主政治が成り立っている国と専制政治に支配されている国との間で区別がつけられて、政治弾圧が行われている国を専制国家と呼んで敵対しているわけだが、そうは言うものの、民主政治には欺瞞や偽善がつきものであり、社会の中で主導権を握っていて権力関係や力関係の中で強者の立場にある人や団体を動かさないと物事が動いて行かないだろうから、そういう面で弱者の味方を装っているだけではうまく行かないことも誰もが承知していることだが、表向きはそういうポーズを装っていないと政治的な体裁を取り繕えないような体制となっていれば、それなりに民主的な政治体制だと言えるだろうが、そういうところでも部分的に正義を装える面があり、例えばアメリカのFRBが政策金利を上下させたり債券を買ったり売ったりしながら、金融緩和をやったり金融引き締めをやったりしながら、物価を低く抑え込めれば、生活弱者の味方を装えて正しい政策を行なっていると言えるだろうし、それに引き換え日本の日銀が一方的な金融緩和しかできなくなっていれば、もはやそういう面での調整能力を失っているような印象しか持たれないわけだが、そういうところから政策の失敗を指摘されると、何か日銀だけが、あるいは日銀と表裏一体を形成している日本の財務省だけが一方的に悪いかのような印象となってしまうわけだが、それもアメリカと日本の間の力関係の中でそういう成り行きになってしまっているわけだから、アメリカだけが主張できる部分的な正義を一方的に持ち上げたところで、沖縄の米軍基地問題も絡んでくればそうも行かなくなり、そういうところでそれを欺瞞や偽善と捉えるなら、それも部分的な批判となってしまうのだろうし、少なくとも全面的かつ一方的に特定の国や政治勢力を称賛したり非難するわけにも行かないわけだ。
10月23日「現状のおかしいところ」
たぶん何かがおかしいのではなく、おかしいところを具体的に指摘できるからおかしいのであって、そのおかしいところが現状をもたらしていると解釈できて、だから現状がおかしいと言えるのだろうが、ではおかしいところを改めれば現状が現状ではなくなるかというと、確かに現状のおかしいところを改めればそうなるのだろうが、改めることができないとは言えないだろうし、改めようとしているのだろうが、なかなか改まらないからしぶとく現状が維持されていて、そのしぶとさが現状を変える上で障害となっているのは誰もが理解しているところだろうが、それだけではどうにもならないのかも知れず、現状を変えようとしている人や団体が現状を変えるために行動しているわけで、どうにもならない現状を変えようと行動することによって現状が変わるのだろうが、やはりそれだけではどうにもならず、それ以外のところでどうにかなっている面があり、そのどうにかなっている面が現状を維持するように作用していたり、また現状が変わるように作用していたりするのだが、現状を変えようとしている人や団体の行動と、それ以外の面で現状が変わるように作用している何かが噛み合わないと現状が変わらないと言えるかも知れないが、その現状が変わるように作用している何かがよくわからないわけで、それに関しては過去の歴史的な成り行きから誰かが推測して、現状が変わるのではないかと予想するのだが、その予想が当てになったりならなかったりして、予想は予想でしかなく、実際に現状が変わってみないことには確かめられず、少なくとも現状では確かなことはわからないわけだが、もちろん何もわからないわけではなく、わかっていることもそれなりにあるわけで、それに関して現状が変わろうとしている確かな兆候を指摘している人も中にはいるわけだが、それが現状を変えようと尽力している人や団体の意向とは違う方面で指摘している場合が多く、それとこれとが直接結びつくわけではなく、では全く関係ないかというとそういうわけではなく、それどころかむしろ現状を維持しようとしている人が現状が変わる兆候を指摘していたりするわけで、現状を変えようと尽力している人や団体は、そこで指摘されている変化の兆候とは違う方面の現状を変えようとしていて、それとこれとが噛み合っていないわけだが、果たしてそれらを噛み合わせることができるのかというと、できないとは言えないが、時と場合によっては噛み合わさることもあるが、今後それらが噛み合わさるかどうかは何とも言えず、実際に噛み合わされば噛み合わさったことが確かめられるかも知れないが、そうなってみないことにはわからないことであるから、現状が変わることを期待している人々は、ただその時が来るのを待つしかないわけではなく、現状を変えようと尽力すればいいのだろうが、たぶんそれらの人々が尽力している方面とは違う方面から現状が変わりつつあるのかも知れず、それはいつの時代でも言えることかも知れないが、そうなった結果から都合のいいように解釈するなら、実際にそれらが噛み合わさったから現状が変化したと言えて、それが歴史的な解釈であり、実際にそうなった結果から都合のいいように歴史が解釈されてきたわけだが、現状の中で生きている人にとっては、過去の歴史なら知識として知っていることがあるとしても、自身が囚われている現状の成り行きを自身の都合のいいように解釈できるかというと、できるとしても知らないことが多すぎて、それが後から歴史的にわかることであれば、その人が生きているうちに知り得ることではない場合も多いから、たとえ都合のいいように解釈したとしても、それが後の時代になって定着する歴史的な解釈と一致するわけでもなく、そこでも解釈する方面が違っていて、全く噛み合っていない場合もありそうで、そもそも分野も範囲も違うとすれば一致させる必要もないことかも知れないし、後の時代の歴史的な解釈などその時代に生きている人々には全く関係がないとは言えないが、それ自体が知り得ないことなのだから、知り得ないことを知ろうとしても徒労に終わるだろうから、知る必要もないことかも知れないが、それは江戸時代の幕末に尊王攘夷を唱えていた当時の人が数年後から続く明治維新後の世界を知り得なかったのと同じことではないものの、また太平洋戦末期に一億総玉砕を唱えていた人がそこから数ヶ月後から続く戦後の世界を知り得なかったのと同じことではないものの、それほどの劇的な変化が起こるのは稀だろうが、意外と終わりの始まりが始まっている中で多くの人々が後の時代の兆候を感知していない可能性があり、別に感知できないことを知ろうとしても無駄だろうが、そんな状況の中でも未来への可能性を語っている人を多くの人々が無視しているわけでもないだろうが、それが現状ではあり得ない未来の姿であれば関心を惹かないかも知れないし、それよりは現状の延長上でそうなる確率の高そうな未来の姿であれば、言い尽くされるほど言い尽くされているような傾向があっても、意外とそんな未来がやってくることはないかも知れず、それが楽観論であろうと悲観論であろうと、現状の中で語りやすいことが好んで語られる傾向があるから、多くの人々がそんな耳触りのいい内容に耳を傾けて納得しようとするわけで、それがそういった人々が期待したり悲観したりしながら、到来することを望んでいたりいなかったりする未来の姿であり、しかもそれがいつまで経っても到来しない未来の姿となるかも知れず、しかも後の時代に主流となる歴史的な解釈とは相容れない尊王攘夷や一億総玉砕の達成とかいう実現しなかった願望になるかも知れないが、果たして今の時代にその種の願望が人々の間で共有されているかというと、そんなことはないとは思いたいが、それも後の時代となって都合のいいように現状の時代が解釈されて、おかしな願望を抱いていた人々がその時代の主流を占めていたように解釈されて、それがネトウヨとか統一教会の人々とかが抱いている願望となってしまえば、何かお笑い草のようなおかしさが現状で生きている人々にも感じ取れるかも知れない。
10月22日「現状の物足りなさ」
何かを指摘しなければならない態度が質問をもたらすのだとしても、その質問に回答してしまうと回答した者が不利になってしまうなら、回答を避けるのが当然の振る舞いとなり、質問する者は回答する者が不利となるような質問をしようとして、回答を迫られている者は自身が不利となるような回答を避けようとするが、真摯な態度で誠実な対応を心がけているように見えないと心象が悪くなるだろうし、そこで論戦が行われているように装われるなら、議論が噛み合っていないと論戦にはならないだろうから、質問をのらりくらりとかわすばかりでは論戦が成り立たなくなってしまうが、別に論戦となることが求められているわけではなく、ただ質問に答える行為が成り立っていれば構わないなら、絶えず質問者の期待を裏切るような回答をひねり出そうとするのかも知れないが、そんなことには興味がなければ何を期待しているのかというと、真実が語られることが期待されていると思いたいが、その真実の中には質問者が質問をしくじったり、回答者が回答に窮してしまうことも含まれるなら、そこで何が明らかになろうと、質問者や回答者を応援している人々の期待を裏切らないことが求められていて、質問者と回答者のどちらが勝ったかが応援している人々の判断に任せられているなら、そこでのやりとりがそういうゲームとなっていると理解しておけばいいのかも知れないが、そんなゲームに参加しているわけでもなく、それを観戦しているとも思えないなら、部外者の立場から何が言えるかとなると、何を言うつもりもないのに言わせられてしまうなら、部外者でないことが明らかになってしまうだろうが、少なくとも関心があるからそれについて何か述べようとしていて、それでも応援団にはなりたくないから、居心地の悪さを覚えながらも、かろうじてそこから離脱できる機会を探っているのかも知れず、そういうこととは違う方面で行われなければならないことがあり、それがそれを含めて全てではなく、それを悪く言うならやれることのことごとくが部分的なことになってしまうから、絶えずそれだけが全てではないことを自覚するから、物足りなさを感じてしまうわけだが、それで構わないのかというと、全てをやれるわけがなく、物足りなさに耐えなければならないとも思えないが、そんな成り行きに耐えられなくなった者が全てを支配しようとして、身の程知らずな野望を抱いて無理なことをやろうとするわけだが、そうならないようにするには部分的な物足りなさに耐える必要があるのかといえば、耐えなくても耐えられなくても支配を阻む者が必ず現れるから耐える必要がなくなるのが、競争原理に支配された社会空間で実現している成り行きになるわけだが、そんな競争状態を維持しようとして、競争状態を安定させる制度や仕組みを構築できるかというと、それも絶えずそんな制度や仕組みを構築し続けながら、それと競合してくる競争を阻害する制度や仕組みと格闘し続けることになるわけで、結果的には安定を求めながらも不安定な状態の中で様々な競合者と部分的な方面で競い合うわけだが、そういう意味では目指している状態と置かれている状態が違ってくる中で、しかも目指している状態を実現してしまうと、それが目指している状態ではなくなり、そこでも絶えず現状で置かれている状態から別の状態を目指して歩んでいる最中になるから、現状の物足りなさを自覚することが、現状から離脱する動機となってくるわけで、満ち足りた気分からは程遠い状態を保っていないとそうはならないから、チャレンジ精神やハングリー精神を求めるなら、物足りない気分を保っている必要があるのだろうが、表面的にはそうだとしても、それが絶えずモチベーションを保つことに目的化してしまうと予定調和となってしまうから、そんな目的化を回避する上でも先行きの不透明感を求めて、それを意識して理解する前に行動が伴う必要もあるわけだが、そう述べてしまうと絶えず言葉が先行して、行動に先回りして述べているような感じになってしまい、今度はそう述べてしまうこと自体がモチベーションの低下をもたらすので、それを避けるためにも考えるより先に感じなければならないが、何を感じたのかを理解する前に行動しなければならないから、それが先行きの不透明感をもたらして、正気を保つのにも寄与するかも知れないが、行動しながらそれを理解してしまうから、さらに理解するより先に行動する必要が生じてしまうと、そんな先回りの限界を迎えたところで行動が破綻してしまうかも知れず、そうなる手前で思考も行動も抑制する必要に迫られて、それが疲労の蓄積によってそうなるか、心身の消耗によってそうなるかは、各々で成り行きが異なるかも知れないが、そんなふうに行動からの脱落が必要だからそうなるわけではなく、自分が死なない程度に行動を抑え込むためにも自己防衛本能が発動するわけでもなく、そうはならないように自身で行動を制御しているわけでもないとするなら、実際に行動し過ぎて死んでしまう人も中にはいて、死んでしまえば行動が勝手に停止するから、自ら行動を自粛しなくても済んでしまい、そうなるように仕向けられているから、そうなる兆候を敏感に察知しなければならず、それがどういう経緯から察知できるかは、実際に生き残った人がそれを察知できたことになるかも知れないが、意識して察知できるわけでもなく、そうなった結果からわかるようならそれを察知できたことになるだろうが、察知した結果だと自覚できなければ、そんなことは意識しないまま生き続けることになるだろうから、生きている限りは絶えず自らが置かれた現状の物足りなさと向き合うことになり、それが思考したり行動する動機となる限りで、絶えず現状では手に入れていない何かを求めているような気分でいられることになるのではないか。
10月21日「問う必要のないこと」
何か考えているのだから、考えてもわからないことを考えているとは思わないが、考えてもわからなければわからないなりに、わからないことの傾向があるような気がするから考えても無駄だとは思えないのだが、それがどういうふうにわからないのかがよくわかっていないと、やはり考えるだけ無駄なのかも知れないが、その一方でわからないから考えるのは当然のことであり、わかっていれば考えなくても済んでしまい、それが考えるまでもないことになるのだろうが、それとは何かと問うなら、何が問われているのかを考えていることになり、それをどう問えばいいのかを考えていることになり、それについては何も問えないのではないかと疑っているなら、問う必要もないことかも知れないが、問われるまでもなくそんなことはわかっていて、いちいち問わなくても構わないようなことを考えているのかも知れず、そうであるなら考えるだけ無駄かも知れないが、迷っているのは確かであって、戸惑いを隠せないような事態に直面して、それについてどう考えればいいのかわからず焦っていることも確かで、それでもたぶん考える方向性としては同じような傾向があり、何かそれが間違っているように感じられるから疑念を抱いているのだろうが、何に対して疑念を抱いているのかがよくわかっていないのだが、それでも複数の人たちが似たような傾向の言葉遣いで現状を否定的に捉えているから、どうもそれがヒステリックな様相を呈しているように感じられて、それに対して疑念と共に懸念も抱かざるを得ないのだが、果たしてそれが考えるまでもなく杞憂に過ぎないかも何とも言えず、杞憂なのではなく憂慮すべきことだとしたら、取り越し苦労ではなかったことになるのだろうが、それが制度的な範囲内の問題であり、その制度に関わっている人たちが考えていればいいことであって、直接には関わっていない人までが考えることではなく、どうでもいいことだと思っていても差し支えないことであれば、何の問題もないことになってしまうだろうが、それを制度だと見なしても大なり小なり誰もが影響を被ることであれば他人事ではなく、気休めにでも考える必要があると思っておくだけでも、何かの足しになるとも思えないが、何の足しにもならなくても暇つぶしにはなりそうなら、それについて考えても構わないだろうし、何を考えているのかも定かでないのにそんなことを言えるはずもないことだが、それでもかろうじてその種の話題には触れないようにしたいから、あえて無駄に言葉を弄してここまで文章を構成してきたわけで、それがタイミングを捉えているかどうかも定かでなく、何のタイミングかも定かでないが、世の中には杞憂に過ぎないことについて論じなければ商売にならない人もいて、それが杞憂に過ぎないからこそ論じなければならず、逆説的に論じているからこそ憂慮すべき問題となって、現状で問題が生じているからこそ懸念しなければならず、大変なことだと騒がなければならないのだろうが、確かにそうなってみれば大変なことではあるわけで、何がそうなっているのかといえば、これからそうなるかも知れないことであり、まだそうなっていないなら現状では大変なことにはなっていないのだろうが、もちろんそういう方面ではそうであっても、それとは別の方面では大変なことになっていると言えるだろうから、それに絡めて論じたいことがあり、実際に誰かがどこかで論じていて、それについて何か言いたいことがあり、実際に言っている内容が問題となってくるわけで、そうなればその問題についても何か言いたい人がどこかで何かを言っているわけで、それをどう捉えるかで現状についての判断も変わってくるわけだろうが、言うだけなら何とでも言えそうで、言える範囲内で言っている対象へと影響を及ぼそうとして、それを言っている当人が気づかない場合もありそうだが、その言っている人に対して何が言えるかといっても、大したことを言えるとも思えず、言うだけではなく何かしら行為や行動に結びつくかといっても、それが現状に対して有効に機能する行為や行動になるかどうかは、実際にそれをやってみないことには何とも言えないが、言うだけ言って時間稼ぎをやっているつもりであれば、案外当てが外れて思わぬ結果がもたらされるかも知れず、言っている内容がそもそも想像力を駆使して当て推量で述べていることであり、もちろんそれを言っている当人はそうは思わないし、確かな根拠があると思って言っているはずだが、少なくともその中で比喩的な物言いとなっているところが妄想に基づいているように感じられて、それも否定的な現状の否定性を誇張するために比喩表現を使っているところが、比喩的な物言いを用いたフィクションとなっているわけで、そういうところを真に受けてしまうと、その人が誇張したい現状の否定性に感染して、さらに真に受けた人の心の中で比喩的な誇張表現が機能してフィクションの度が強まり、その人もまた同じ比喩的な誇張表現を使って利いたふうな意見を言う機会を求めて、SNSなどでそれを拡散する機会を得ようとするわけで、そうやって現状に関する否定的な印象を伴ったフィクションが人から人へと伝播するわけだが、それがフィクションだとは思わないし、実際に起こっている現実だと思うことによって、そう思っている人の自尊心が保たれるわけだから、そういう人にはそう思わせておけばいいのかも知れず、それによって何がどうなるわけでもないとは思わないが、その人の言っている内容にその種の表現が含まれていたら、その人が身勝手な妄想の虜となっているわけでもないだろうが、少なくともその人の言うことにはそういう内容が含まれていることは理解しておく必要があるわけで、それを直接あからさまに問う必要もないのかも知れないし、その人の言っている内容の虚構性は現実に起こっていることの勝手な解釈から生じていることになるのではないか。
10月20日「逃げ足の速さ」
なぜか誰かが主張している内容を理解していないのだが、たぶん理解する気がないのであり、わざと理解しようとしていないのだろうが、理解してしまうとまずいのかというと、理解しないように心がけているようにも見えてしまい、それが頑なな態度に見えるから、余計に反感を買ってしまうのだろうが、批判的な主張や意見には聞く耳を持たない態度が身についている一方で、自身にとって都合のいい主張や意見にだけ耳を傾ける態度も身についているなら、そうなって当然なのだろうが、果たしてそんな態度を貫いているように見える人を信用できるかというと、その人と利害が一致しているなら信用するかも知れないが、信用しているわけではなく、たまたま利害が一致している間は調子を合わせていて、ひとたび利害が噛み合わなくなれば、途端に仲違いすることにでもなれば、功利的な思惑から一時的に徒党を組んでいただけだったことが明らかとなって、恒久的な信用ではなく、利害が一致している間だけで成り立つ一時的な信用であり、そういう意味で信用とはその場の事情に応じて得られたり失ったりするものだと理解しておけばいいのだろうが、それに対してもう少し持続力がありそうな信用として何があるかというと、恒常的に成り立っているように感じられる道理のような論理に頼って物事を判断したいところだが、それもその場の事情に応じて何を優先させるかで判断が分かれるなら、何を優先させたところで結果的に判断が正しかったり誤っていたりするわけで、何が信用できたり信頼できるかではなく、信用したり信頼した結果としてどうなるかが問題となってきて、しかも一時的な結果に一喜一憂しても長い目で見ればどうということはない場合も想定できるようになれば、自分にとって都合のいい結果を求めると裏切られるなら、自分の都合よりも優先すべきことが他にあるらしく、それが何かといえば統計的なデータを信じるように持って行きたい人がいて、より多くの人たちがそれを信じてくれれば、多くの人たちが統計的なデータに基づいて物事を判断して行動するから、統計的なデータにより確実性が増すのだろうが、そうなるとデータをより詳細に調べ上げて判断した人が有利となってくるから、手間暇かけてデータの分析をすればするほど競争の類いに勝てるようなことになってきて、それが努力した者勝ちな公平な競争だと主張したいのだろうが、そんな幻想を信じるのにも限界がありそうで、データを詳細に調べたり分析するのが苦手な人や根気が続かない人などに不利な事態となってくるなら、そういう人たちにとってはそうなってしまっては都合が悪いわけで、勘が働いてヤバいと感じるなら、そんな成り行きにはできるだけ乗らないように心がけるだろうし、心がけたところでAI的な分析手法が確立されてしまえば歯が立たないから、そういう分野にはなるべく近寄らないようにしておくのが無難な戦略となるにしても、果たしてそんな戦略が通用する世の中なのかというと、通用しなくても構わない範囲で生きていられるならそれに越したことはないわけだが、誰にでもできるようなことが判断の決め手になるとは思えず、逆に何をどう判断すればいいのかわからない時に偶然が作用して思いがけない結果が得られることになって、それが自身にとって都合がいいのか悪いのかもよくわからず焦ってしまうかも知れないが、焦って判断して誤ってしまうぐらいで構わないなら、それもそれに越したことはないだろうが、運だけで全てが決まるようなことがあってはまずいのだろうし、少しは努力が報われるような結果がもたらされないと困ってしまうわけだが、どうしても期待が裏切られるような結果がもたらされてしまうとしたら、期待した自分が馬鹿だったことになるのだろうが、幸運に恵まれるとはそういうことであり、せいぜい無駄な反省をして、それによって何か教訓を得られたような幻想に浸っていられるならしめたものだが、いつまでも幻想に浸っていられるわけではなく、そこからまた運試しのようなことをやらなければならないなら、たぶんそこでも運が良かったり悪かったりして、そんな結果に一喜一憂することになるわけで、それが嫌なら良くなる確率を上げるために努力しなければならないことがあり、面倒なことをやらないと確率が上がらないのだろうが、そこでもできれば努力せずに済んでしまうような成り行きを期待しているわけで、要するに確率を上げるようなやり方を信用していないわけだが、信用していなくてもなし崩し的にそういった努力をせざるを得なくなるにしても、信用していないわけだから、やる気がないし期待もしないから身が入らずにうまくいかず、そういう努力をしなければならない競争の類いから脱落してしまうわけだが、それが競争だとも感じられないなら、はなから参加しているとも思わないし、何に参加しているとも思っていないわけだが、それでもなし崩し的には何らかの競争に参加させられているのだろうが、その種の競争そのものを信じていないわけだから、最初から逃げ腰で対応していることになり、いつでもそこから逃走する準備を怠らずに事態に対処しているつもりなのかも知れないが、対処ができていないからすぐに準備不足が露呈してそこから逃げ出してしまうわけで、逃げ出しているつもりもないのに、気がつけばどんどんそこから遠ざかっているなら、どう考えても逃げているわけで、本人が気づかないうちに自然と身体が反応して逃げ出しているわけで、果たしてその場の状況のヤバさを感じてそうなるのかどうかは何とも言えないところだが、結果に至らないうちにそこから退散したいわけだから、それが逃げ足の速さを示しているといえばその通りかも知れないが、逃げ足の速さに自信があるとも思えないなら、本当にそこから逃げ切れているのかどうかも疑わしいところであり、逃げているのではなく、逃げている先が見知らぬどこかへと向かっていると見なすなら、納得できるわけでもないが、逆に逃げずにそこへ留まっている人たちに魅力を感じられず、一刻も早くそこから立ち去りたくなってしまうから、逃げているように見えてしまうのかも知れない。
10月19日「狼狽を装う演技」
誰かが急激な情勢の変化に狼狽えているのを見て、それを演技だと断定したいわけでもなく、断定したところで見当違いであるのはわかりきったことだが、なぜわかりきったことなのかといえば、必死に狼狽を隠そうとしているように見えるからだが、そうなるまではそんなつもりもなかったのに、実際にそうなってみると、そら見たことかと言い放ちたくなるのであり、それ以前からそんなことを言い放ちたくてうずうずしていたように装っているように見えて、それも演技だと見なしたいわけもないが、そう思われても仕方のないような立ち回りなのだから、そういうことだと思っておいても差し支えないのかも知れず、もちろん実際にそら見たことかと言い放っている人が、自分が演技していることを自覚できるわけでもなく、それが演技だとも思っていないだろうが、たぶん狼狽えている人の演技に合わせて、そら見たことかと言い放つ人を演じてしまい、それがどちらも演技だとは当人たちは思わないし、思うはずもないことだが、実際に書き記された文章の中からそんな印象が漂ってくるのだから、狼狽えている人に向かってそら見たことかと言い放つような効果を文章表現を駆使して醸し出しているのであり、現実にはそんなふうに装われているに過ぎず、そこで狼狽えているように見える人が批判の対象となっている一方で、それをそら見たことかと批判しているわけだから、そういう文章表現をどう受け止めればいいのかといっても、やはりそれらは演技だと見なしたいわけで、もちろん演技であるはずもなく、ただの文章表現に過ぎないことであり、文章の中でそら見たことかという趣旨の内容が記されているわけだが、それを真に受けるなら、そんな内容の批判を支持する側に回りたいのだろうが、ではそれと一緒になって狼狽えている人たちに向かって、そら見たことかと言い放ちたいのかというと、どうもそれは違うのかも知れず、どちらかといえば狼狽えている人と一緒になって狼狽えているふりを装いたいわけでもないが、そこではそう装っておいた方が無難なような気がして、それもどちらかといえばそら見たことかと言い放つのは控えたいし、そういうところで調子に乗って、そら見たことかと言い放つ人たちが何かの罠にかかっているわけでもないが、狼狽えているように見える人たちも、その程度のことで本気で狼狽えているようには見えないから、それが演技ではないかと疑念を覚えるわけで、どちらの演技にも騙されないようにしたいわけでもないが、当人たちは自分たちが何を演じているのかもわかっていないだろうから、それらの人たちにしてみれば何が演技であるわけでもなく、誰がそれを演技だと見なしているとも思えないだろうし、客観的には演技でも何でもなく、それを演技だと感じている方が勘違いでしかないのだろうが、たぶん勘違いであっても構わないのであり、それらの人たちが自覚することなく何かを演じていると思っておけば、そういう人たちの態度や行動や言動を真に受けなくても済んでしまい、そんなふうにしてわざと勘違いを犯しながらその場を乗り切るようなやり方であっても構わないような気がするのだが、なぜそう思うのかといっても、取り立てて納得できるような理由もないが、納得できなくても構わないとなると、やはり真に受けていないのであり、誰かが狼狽えているの見てそら見たことかと言い放っているようではまずいわけで、そういう水準で何かをやっているように見せかけられても、そんな些細などうでもいいことには気を取られずに自らの信念に基づいて行動しなければならないわけでもないが、何か確固とした信念があるわけでもなく、そうかといって信じられるような論理に基づいて行動しているわけでもなければ、他人が狼狽えているのを見て、何かそこで大変なことが起こっていると思っても構わないのだろうが、またそれに対してそら見たことかと狼狽えている人々の非を難ずるのも、何かそれが後出しじゃんけんのように思えるなら、それに同調することもそれを支持することもせずに、そんな人たちとは一線を画するように振る舞えるわけでもないが、少なくともそこに何かしら限界があることを感じ取っておけばいいのかも知れず、狼狽えているように見える人たちにもそれなりの見込み違いがあったからそう見えるのであり、それに対して間髪入れずにそら見たことかと言い放つようなら、それらの人たちが狼狽えているように見えるから、すぐに反応してそんな言動に出たのだろうが、それが浅はかな態度かどうかは何とも言えないが、その狼狽えているように見えること自体が、それを都合のいいように見ていることの証しであり、それが勝手な解釈だとしたら状況を見誤っている可能性もあり、それに安易に同調してしまうとそれらの人たちの道連れになってしまうとも限らず、それらの人たちというのが、狼狽えている人たちとそれを見てそら見たことかと言い放つ人たちとが、意図せずにお互いに連携しているのではないかと疑って見えるほど、何かあうんの呼吸で連続した動作を行なっているように見えてしまえば、さらに疑念が深まってくるわけだが、そういう見せかけのやり取りに引きずり込まれないようにしなければならないわけではなく、引きずり込まれてどちらか一方に与して合いの手のような言動や行動に及んでしまうと、確かにそういったやり取りに介入しているつもりになれるのだろうが、それが本気になってやるようなことだとは思えなければ、やはり距離を置いて見ておいた方が身のためなのかも知れず、そういう意味では勘違いだと承知しながらも、それらのやり取りを演技だと見なしておくのが無難な対応になってくるのではないか。
10月18日「八方塞がりの嘘」
できないことをやれと言われて、できないとは言えないのは、できないことをできるとは言えないことの他に、何か言いようがあるわけでもなく、できないことをやれと言っていることに気づいていないのかというと、全く気づいていないわけでもないはずだが、できないことをやれるとも思っていないだろうから、無理強いしていることは確かで、やっていることがうまくいっていないのは、言う方も言われる方も把握していて、だからといってやれることがわかっているわけでもなく、もちろん時間稼ぎとしてやっているふりはしているのだろうが、やれることがやっているふりをすること以外に何があるのかといっても、元からやるのを拒んでいることをやれるかというと、やっているふりをやるぐらいだからやれないという意思表示であり、それも見え透いた嘘なのだろうが、嘘をついているのがわかっているのに嘘をついていられるのがおかしいと思うのは当然だが、果たしてそれがやっているふりをしているだけなのかというと、少なくともできないことをやっているわけではなく、できることをやっていることにはなるはずだが、見え透いた嘘をつくことしかできないのかというと、そうではなく、見え透いた嘘をつきながらもできることをやろうとしていて、それをやれるような環境を整備していると受け取っても構わないのかというと、意識してそうしているわけではなく、おのずから環境が整ってきてしまうのを待っていると解釈した方がしっくりくるようなことかも知れず、要するに機が熟すのを待っていると好意的に受け取っておいても構わないのかも知れないが、誰が待っているとも思っていないのに、勝手に機会が到来して、そんな成り行きの中でやろうとしているわけでもないのにやってしまうことがあるわけで、それが思いがけないことかどうかは、それをやってしまう当事者にとってはそうなるだろうが、誰がそれをやることになるかは、そうなってみないことにはわからないのであり、案外それをやってしまう当事者以外の人たちは、やって当然のことをやったと思うかも知れず、それも誰かがやってしまってからそう思うわけで、やる前から思っていたわけでもないから、それをやって当然のことだと気づいていたわけではなく、誰かがそれをやったのを確認してから、なるほどやって当然のことをやってしまったのだと認識するわけで、そこで誰かがそれをやらざるを得なかったことに気づくわけだが、誰がやるかはその時の情勢次第な面もあるものの、それも誰かがやってしまってから、誰かがやらざるを得ない情勢だったことに気づくわけだから、それ以前の段階では、誰もそれに気づかないのだろうし、気づいたところで無視されて、誰も関心を示さないようなことかも知れないが、いったんそれが行われた後では誰もが気づいてしまうわけだから、それに気づいたところで時すでに遅しで、すでに誰かがやってしまった後から同じことはできないわけで、それに気づいた時点で、しまったと思い、自身がやれなかったことを残念がるかも知れないが、それが大事件となるような犯罪行為であれば、実行犯とならなかったことに安堵するだろうし、まかり間違えば自分が犯人となってしまった可能性を考えればゾッとするかも知れないが、誰もがそう思うわけでもないだろうが、その全てがテロ行為といった類いの犯罪となるわけでもないにしても、結構テロリストの予備軍に自身が入っているかも知れないと思うだけでも、何か世の中の不条理を実感できるかも知れないし、もちろんそんなのは身勝手な妄想の域を出ないことであるにしても、そうなってしまうのを社会のせいにするような安易さに同意せざるを得ないような境遇というのが、可能性としては誰にでも当てはまりそうに思われてしまうから、実際にそうなってしまう人の自業自得だと思ってしまう人にとっては、自身がそうならなかったことについては運が良かったと思われるかも知れないし、他人がそうなってしまったことについては、そうなるのが当然だと思うかも知れないから、実際にそうなってしまったことについて何を思ってみても、何か釈然としないかも知れないが、他人に関してならその人の自業自得で済ませていられるが、自身がそうなってしまえば自業自得では済まなくなるだろうし、その程度によっては被害妄想が膨らんで、他の誰かのせいにしたくなってしまうし、誰かがあるいは何らかの団体が特定できなければ、社会のせいだとか国のせいだとか思い始めるかも知れないが、それ以前に何でもかんでも自助努力でどうにかなるとも思えない場合は、何か仮想敵のような対象を設定して、それに向かって攻撃を仕掛けるとか思いつけば、その攻撃の対象というのが、他の誰にとってもリアリティを感じられるような物事でない限りは、その人があり得ない妄想に囚われているように感じられて、その人の主張や意見などにも同調できなくなってしまうだろうが、何かを一方的に批判したり非難したり糾弾している状態というのが、そういうことをやっている人にとってはそれをやることに意義や意味が切実に感じられるとしても、その人がそういう成り行きに囚われていることについて疑念を抱いているなら、まさかそれがやっているふりを装っているとも普通は思わないだろうが、たぶんそれだけでは無理な水準というのがあって、その水準に現状では届いていないからそうせざるを得ないような境遇となっていると見なせるかというと、少なくとも批判や非難や糾弾に囚われている人がそう思うはずもないことなのはわかりきったことだが、そうなっていることに疑念を抱いている第三者がそう思う可能性があるわけで、そこに八方塞がりとはなっていない可能性があるとも思えないだろうが、そうなっている当事者にとっても、そこから他に何ができるかが、その後の可能性という点では重要となってくるのではないか。
10月17日「違和感の可能性」
わかりやすいことを述べるなら、わりと単純な論理を使って誰もが納得できるような内容に落ち着きそうだが、それに対して違和感を持たせようとするなら、すぐには納得できないようなわざと疑念を抱かれる内容にしたいわけではないとしても、違和感を表明するのは他の大勢の人々も自分と同じように違和感を抱いていることを期待して、それらの人々から共感を得たいがために違和感を表明する場合がある一方で、すぐには共感を得られないような回りくどいことを述べたいわけではなくても、他人から共感されたくない理由があって、他の大勢の人々がおかしいとは思わないようなことをあえておかしいと表明するのは、自分だけがそのおかしさに気づいていて、自分だけがわかっているという優越感から違和感を表明して、そう述べることも違和感を抱かれる可能性がありそうだが、そこで説得力のあることを述べて他の大勢の人々から支持や賛同を取り付けようとするわけで、そうやって自らの主張や意見によって他人の主張や意見を変えさせることができれば、確かに優越感に浸れるだろうが、別に優越感に浸りたいからそうするわけではなく、他の大勢の人々が抱いている偏見や固定観念を正そうとして善意からそうする場合もあるにしても、大抵はその善意が報われることはなく、逆にそれが仇となって他の大勢の人々から叩かれて、その人が窮地に陥ってしまう場合もありそうだが、たぶんそうなることも計算の内というわけでもないのだろうが、そういう成り行きから多くの人々に向かって悔い改めよと説いて回った挙句に、ついには全人類の罪を贖って磔にされた救世主の物語というのも過去にはあったかも知れず、それが狙ってできるようなことではなく、誰かがそうなってから都合よくそんな作り話がでっち上げられたと解釈しておくのが無難なところで、フィクションの中でならそんな奇跡も起こり得るかも知れないが、現実の成り行きとフィクションを一緒くたに論じるのもまやかしの類いには違いなく、そういうところでつい信用してしまいがちな単純な論理を駆使しても気づかない盲点を突いて、現実とフィクションの違いを論じたくなってしまうわけでもないが、詐欺的な勧誘話の中では確かに話の辻褄が合い過ぎて違和感を覚えるとしても、普通に辻褄が合わないから違和感を覚える場合もあり、フィクションの登場人物の方でも何か辻褄の合わない話に違和感を覚えて、そこから推理を働かせて謎を解き明かすことによって、辻褄が合わない理由や原因が明らかにされるのがよくあるパターンではあるが、現実の世界で実際に体験する成り行きの中で何を実感するのかいえば、理由も原因も定かでないまま絶えず違和感に付きまとわれて、なかなか疑念を解消できない場合もあり、現に今もそんな違和感に付きまとわれているとしても、もちろんフィクションでもそういう成り行きは想定できるし、それでも話の終わりの方で誰もが納得できるような結末が用意されていれば、そこで話の辻褄が合わない理由や原因が明かされて、疑念が解消されるのだろうが、そういうことなら違和感を覚えた誰かが推理を働かせて辻褄が合わない謎を解き明かして、周囲の人々を納得させるような話の展開に持っていきたいわけだが、それが現実の世界でもそんな役割を担いたい誰かが推理を働かせてそういう話の展開へと持って行きたいと思うかというと、なぜかそういう成り行きには持っていけないのであり、謎を解き明かすのではなく、あらかじめ答えが提示されていて、その答えが出るように行動する必要があるわけで、それがこうしなければならないという主張や意見であり、あなたはこう行動しなければならないと促されて、その通りに行動すれば答えに辿り着くはずだと諭されるのだが、本当に答えに辿り着けるかというとそうでもなく、なぜ答えに辿り着けないのかというと、言う通りに行動できないからで、今度は言うことを聞かないから答えに辿り着けないのだと諭されるわけだが、果たして自身の行動を批判されて、はいそうですかと自らの非を認めるはずもなく、それを非難や糾弾と受け取るなら、まずはそれに反発したり反感を抱くしかなく、それが自然な反応なのだから、そんな反応に基づいて行動するしかなく、しかもそれがあらかじめ提示されている答えであるなら、それに対して心身の自然な反応に基づいて行動せよと事前に命令されているわけではないが、すでにそんな反応を示すことによって答えに辿り着いているのに、それを批判されたり非難されたり糾弾されたりするわけだから、ではどうしろというのかというと、それを批判したり非難したり糾弾する人たちの言うことを聞けと諭されるわけで、そこで謎なのが、鶏が先か卵が先かという解き明かすことのできない謎であり、まずは批判されたり非難されたり糾弾されるようなことをやったはずだが、すでにそれが批判されたり非難されたり糾弾されたことに対する反発や反感に基づいた行動や言動なのであり、要するにあらかじめ反発せよと促されて、反感を抱くような批判や非難や糾弾にさらされて、そこからどう反応するかと問われるまでもなく、自然な反応として反発したり反感を抱くように仕向けられて、その通りの反応を示すわけで、すでに始まりの行動からそうなっているのだから、それに対してどう反応するかという選択肢などなく、単純に反発したり反感を抱いていればいいわけで、もちろんそれを批判されたり非難されたり糾弾されたりするわけで、そういった負の連鎖の成り行きの中で他にどう振る舞えるわけもなく、すでに提示されている答えに辿り着くように行動するなら、それに対して反発したり反感を抱いていれば済んでしまうわけで、そんな応酬の連鎖を断ち切れるかといえば、断ち切る必要もないことかも知れないが、埒が明かないのは言うまでもなく、しかも埒が明かないなりにもそこに関わっている各々が自然な反応を心がけていれば、自ずから答えに辿り着けるのであり、それが辿り着く以前から提示されている答えなのだが、果たしてそれが正しい答えなのかというと、たぶんそこでは正しさが求められているわけではなく、あくまでも自然な反応が求められているのではないか。
10月16日「言説に逆らう要素」
一見全く関係がないように感じられる複数の物事に共通の傾向を当てはめて言説の中で結びつけるのは、それ自体は何の意味もないことかも知れないが、共通の傾向というのがそれを基にして言説を構成できるから、それらの物事について語る上では必要なことであり、そんなアナロジー的な効果によって何か意味があるように見せかけることに成功したとしても、さらにそれとは関係のないところで語り得ないことを語っているように装いたいのかも知れず、それが直接には語り得ないことであるから、アナロジーを駆使して語り得ないことに近づこうとするのだが、一方でそれとは何かという問いに答えられないだけに、語っている対象が曖昧なままに終始して、何を語っているのかよくわからないという印象を拭いきれず、語っている内容に意味がないような感じとなってしまうのかも知れないが、それでも構わずにそれについて語っているように装いながら、それとは何かという問いを置き去りにしたまま、相変わらず不確かな言説の対象について語り続けようとするわけでもなく、機会を捉えて唐突にその対象を明らかにしてしまう場合があり、それとは何かという問いに答えて、それを真正面から語ろうとすると、たぶんそれが語り得なかったそれではなく、それとは全く無関係な別の物事について語っていて、そうなってしまうと念頭に置いていた語り得ない何かなどなかったことになり、その代わりに当初の言説からすれば的外れな何かについて語っているわけだが、果たしてそれがパラダイムシフトと呼べるのかというと、当然そんな大げさなことではなく、ただの妄想が勘違いをもたらしたに過ぎないのだろうが、アナロジーとしてはそれでも構わないわけで、そこで今まで考えていたことから遠く隔たった物事へと唐突に言説が移行しているのだから、途中で言説の連続が断ち切られて、それまでに語っていた内容が意味をなさなくなってしまったのだろうが、それが語っていた内容であると共に、例えば何らかの技術について語っていたのであれば、その技術が廃れてそれとは別の技術が突然言説の対象となってくれば、そこで脚光を浴びていた技術がある時期を境にして様変わりしてしまったのだろうが、その技術が例えば蒸気機関から内燃機関を経て電気モーターへと移行してしまえば、まさにその節目節目でパラダイムシフトが起こってきたはずで、果たしてそういった産業の技術的な変遷に従ってものの見方や考え方も劇的に変化してきたかというと、そうとも言えない面もあり、パラダイムシフトが起こるのはそういうところではなく、そういった技術を制御する面で、それまでは当然視していたことが劇的な変化を被っていることに気づかないわけで、それが当のパラダイムシフトを起こしている担い手でさえも気づかないところで起こっているのであり、それとは全く関係のない分野で学術研究をやっている学者の類いが研究論文か何かの中で指摘するようなことであり、それ自体では一般のメディアを通して世の中に知れ渡ることもないのかも知れないが、それでは真の意味でのパラダイムシフトとは言えないのではないかと疑念を抱かれるかも知れないが、単なる学説にすぎないような概念を現実に起こっている事象に当てはめて何か語ることにそもそも無理があって、常識に照らし合わせてあってないような微細な変化を大げさに強調しても、誰もピンとこないだろうし、それよりはその種の学術研究にとってはどうでもいいような表面的な流行現象に誰もが心を奪われて、何も変わっていないのに何かが変わっているかのような見せかけの変化に敏感に世間が反応するわけで、それとは対照的にそれまでは当然視していたことが劇的に変わったのにそれに気づかないこととは、果たしてどんなことなのかといっても、具体的にはこれといって何も指摘できないようなことであれば、何でもないことになってしまいそうだが、なぜそれをあえてパラダイムシフトと呼ぶのか理解に苦しむだろうが、一般的にはもっとわかりやすい現象に使われる用語となり、本来の使われ方とは別に、使う側の勝手な解釈に基づいて別の事象に関して便利に使われて、例えばパソコンやインターネットの普及からスマートフォンの普及に至って、商品の売買などに伴うクレジットカードの決済などに関して、それまでの手続きからは考えられないほど劇的に便利になったことなどが、そうした用語を使って説明されるところだが、果たしてそんな用語の使われ方でいいのかといっても使う側の勝手だろうし、最近ではここ数年のコロナの世界的なパンデミックによってパラダイムシフトが起こったと言われるところだが、確かにそうした具体例を提示されると、それまでは当然視していたことがパンデミックによってできなくなったように思われるかも知れないが、それでもパンデミックがやがて収束すればできなかったことができるようになるから、そんなのはパラダイムシフトでも何でもないことなのではないかと疑念を抱くかも知れず、では何がパラダイムシフトなのかといっても、すでにそうした説が提唱されてその説が世間的に有名となってからだいぶ時間が経過していて、今となっては最初の提唱者が何を主張していたのかなんて誰も覚えていないだろうし、そんな用語自体に大して重要性が伴わなくなってしまったのは今も昔も関係のない人などいくらでもいるから変わりないことだろうが、そうであえばそんな言葉を使って大げさにパラダイムシフトが起こっただのと主張してみても、誰も驚かないのも今も昔も変わりないことであって、人を驚かすためにそんな用語を持ち出すわけでもないにしても、語り得ないことを語ろうとすると、何かこれまでは使わなかった用語を使って説明したくなってしまい、そういう説明に合うような用語を探し出してきて当てはめると、意外にしっくりくることもあるから、割と不用意にカタカナ用語を使って、それが目眩し効果となることを期待しているわけでもないだろうが、ついついそうやって言説の体裁を整えようとするわけで、そういうまやかしの類いに騙されてはいけないと警鐘を鳴らすつもりもないが、たぶんそんな用語が語り得ないことを語ろうとする際にそれについて語る言説に逆らう要素として出現してしまうと、何か語っている対象の核心を突いているような錯覚も伴ってくるのかも知れない。
10月15日「オウム真理教と統一教会」
何の足しにもならないようなわずかなポイントがちりも積もれば山となるかどうかはわからないが、どう考えても意味のなさそうな発言が後になって意味を感じ取れる機会がやってくるかというと、忘れてしまえば意味もないままとなってしまいそうだが、忘れたつもりになっていてもふとした拍子に思い出されて、過去の誰かの発言が現状の中で何かしら機能しているように思われるとすれば、その機能とは何なのかと問われるわけでもないが、例えば過去の何かが今ある現状を予言していたり予想していたり予測していたりする言説として機能することになるかも知れず、それが発言された際には特に何を予言しているとも予想しているとも予測しているとも受け止められたわけでもないのに、今となってはそれがはからずも現状を予言したり予想したり予測したものだったのだと理解されるようなら、それと意図せずにそんな発言がなされてから、それが現状の予言や予想や予測だったと受け取ると辻褄が合うようなことになってしまうのかも知れないが、その具体例として例えば20世紀末のオウム真理教事件の際に言われていたことが現在の統一教会による自民党を利用した間接的な日本支配を予言し予想し予測したものだったと言えるかも知れず、それがほとんど百パーセント一致した状況ではないどころか、全く違う様相を呈しているのに、それでも当時のオウム真理教の姿が現在の日本の姿を暗示したものだったと微かに言えるようなことであり、要するに現在の日本の縮図が当時のオウム真理教を取り巻く構図に重ね合わせられて、それも無理やりなこじつけと見なしても構わないようなことかも知れないが、何がそう思わせるのかというと、キリスト教会がローマ帝国に浸透して帝国が崩壊した後も、新たに勃興した王侯貴族を利用して中世のヨーロッパを間接的に支配していたこととつながってくることかも知れないし、現在でもそれがイスラム教による中東や北アフリカや中央アジアの国々の間接支配にもつながってくることかも知れないが、さらに言うなら一神教的なユダヤ=キリスト=イスラム教的な価値観が、基軸通貨のドルを唯一神とする世界の経済支配にもつながってくることかも知れないし、さらにはもっと矮小な範囲内で今まさに安倍元首相を神格化して唯一神とする新興宗教が自民党内に立ち上げられようとしていることにもつながってくることかも知れないが、一神教という概念がこうも世界中でアナロジーを形成している事態というのが、逆に支配という概念自体の希薄化を促進させて、一神教自体が廃れつつある傾向を示しているのかというと、廃れようとしているのではなく、希薄化しつつも執拗に様々な物事に絡みついてきて、それを支配とは呼べないような微細で間接的な関係を築いているから、それ自体が気づかれにくく思考する上で主題ともなりにくく、その代わりに枝葉末節な他の何かが主題となっているわけでもないのだろうが、枝葉末節な物事を強調することでかえって支配の強度を高めようとしているのかも知れず、もちろん強度など高まらないし、結果的にはそんな試みが破綻しているのだろうが、それでも執拗にチャレンジし続けるわけで、その悪しき例が執拗に繰り返される安倍元首相に対する追悼行事なのだろうが、それをやっている当人たちが自身の演技が空回りしていることに気づかないというおかしな事態を招いていて、傍から見ればたわいないことの繰り返しに過ぎないことだが、中身が空疎であることがかえって不気味で、それが中世ヨーロッパのキリスト教の修道士が修行として行なっていた日々の空疎な日課にも通じるものがあり、停滞に陥っていた世界ではそういうことが繰り返し行われるようになるわけで、日本でも中世において一心不乱に念仏を唱えていれば来世に救われるとかいう仏教が流行りもしたが、それらに共通していることは、人の創意工夫を削って活動を抑え込むことによって世の中の安定を図ろうとする後ろ向きのやり方になるのだろうが、もちろん中世のヨーロッパではペストが大流行したから嫌でも感染を抑え込むためにも人の行動を制限したわけで、それは現代でも中国政府がコロナの感染拡大を抑え込むためにやっている都市のロックダウンにも通じるところがあるにしても、果たしてそれが自縄自縛となって中国の衰退を招くかどうかは何とも言えないところだが、それが空回りしている限りで効果を上げていないことになると共に、空回りしているからこそ執拗にこれでもかと繰り返されて、結果的にはおかしな事態となっていくわけで、それをやめるわけにはいかないという意味では、アメリカのFRBが金融引き締めをやめるわけにはいかないことと似た面があるとしても、それだけ世界中が一神教に汚染されていると言えるかも知れないが、それの何が一神教なのかも理解できないところであり、一見宗教とは何の関係もなく、ただ立場上やらざるを得ないことをやっているに過ぎないことであるにしても、宗教自体が信者の集団が教祖や指導者の下にまとまって教団形態となると自ずから官僚機構が発達してきて、役割分担としてやらざるを得ないことが生じてきて、放っておけばそれを延々と繰り返すことになってしまうから、それだけ創意工夫が削られて行為や行動が形式化されて儀式ばかりが重視されるようになってしまうわけで、その結果として決まりきったことをやらざるを得ず、誰が決めたわけでもないのに、集団の中で決まりきった役割に合わせて行われる行為や行動も形式化と形骸化を被って、以前と同じ行為や行動を繰り返していないと集団としてのまとまりを保てなくなってしまうわけで、それを滞りなく行うためにも役割分担の世襲制が正当化されてくるわけだ。
10月14日「勧誘の実践」
人を誘導して何かをやらせたいと考えるのが、組織や団体の意向であれば、その中の誰がそう思っていることであっても、それ自体がその人が所属している組織や団体の意向に誘導されてそう考えていて、もちろん勧誘することがその人の仕事であれば、そう考えるのは当たり前のことで、営業職であればそうするのがその人の責務になるだろうが、それを強制できるかというと、勧誘の内容にもよるし、その人が所属している集団の形態や集団内の力関係にもよるだろうが、人が嫌がることをやれと勧めることになれば、半ば強制的にやらせるようなことになるだろうから、それが集団の力であり集団内の強制力であり、そうすることに何らかのメリットがあるなら黙って従うような成り行きになるだろうが、それ以前に生殺与奪権を所属している組織や団体などに握られてしまうと強制の度合いも高まるにしても、個人としてはできればそうならないように持っていきたいし、だから危ない集団にはなるべく近寄らないようにしたいわけだが、それが危ない集団かどうかなんてわかる場合もわからない場合もあるから、時と場合によりけりで、それらしい兆候を感じ取って判断したいところだが、人から勧誘されて素直に従ってしまう成り行きというのが、それなりに気の緩みがあるから心の隙を突いて勧誘が成功する確率も高まると考えるなら、その時点ではまだ深刻な事態になるとは思われないかも知れないが、そんな勧誘が度重なると、だんだん感覚が麻痺してきて、気がつかないうちに度を越した勧誘が常態化していて、そうなることを狙ってひたすら勧誘の回数を増やしていることが明白に感じられると、何か深刻な事態に近づいているようなヤバさを覚えて、そこから急いで身を引き剥がさないと泥沼にはまり込むような光景が脳裏を横切るわけでもないだろうが、そうしたイメージを思い浮かべたところで、自らの状況がどうなっているのかとこれまでの経緯を振り返りながら、その延長上で行われてきたことの中で、果たしてその種の勧誘に素直に応じた結果として現状があるかというと、少なくとも勧誘に応じるか応じないかの取捨選択がなされてきたのだろうが、自ら他人に対して何か勧誘したケースがあったかというと、何もなかったとは言えないだろうが、特に覚えていないなら、職業として営業職などをやらずに済んできたと言えそうだが、集団内での立場が固定して役割などが定まってしまうと、大抵の場合は嫌でも割り振られた役割を全うしなければならなくなり、それが何か重荷に感じられるようならストレスがかかっていて、それが耐えられる限度を越してしまうと心身にダメージを負うことになるだろうが、そういう面ではそうだとしても、自身に関しての心理的かつ経済的な面よりも、自身を取り巻く社会的な面で、他の人や団体に対して何か作用や影響が及ぶ度合いに応じて、その人の社会に対する力の程度を押しはかることもできそうだが、実際に政府の大臣などの然るべき役職に就いていて、国民に向かって何か勧誘するようなことを言う立場になれば、それなりに社会に対する作用や影響も大きいだろうし、言うだけなくそれに対して国民が何か実行しなければならなくなれば、それが嫌なことなら反発や反感も買うだろうし、政府に対する支持も減っていくだろうが、それだけならそういうことでしかないが、国民の側でも何か対抗策を講じる必要に迫られると、それがどれほどの深刻さを伴うようなことであっても、何か思うだけでも言うだけでも書くだけでもなく、何らかの実践を伴ってきて、言うだけでも書くだけでも実践には違いなく、それだけで済むならそれに越したことはないが、多くの人々がそれだけでは済まなくようなことになれば、やはりそこから世の中の変動を伴うようなことになるのかも知れず、そうでなくても世の中の情勢が絶えず変動し続けていることも確かで、それに加えて政府の大臣が何か言ったところで、それを個人の範囲内でどう受け止めるようなことでもないだろうが、それを国民への脅しと受け取るなら、ただごとではないような気がするだろうし、脅し文句を言ったつもりもなくても、そう受け取られるようなことを言ったと解釈するなら、やはりそれに対して対抗措置を講じる必要が出てくるかも知れず、対抗措置といったところで個人ができることは限られてくるし、違法な行為を避けるなら、さらに選択肢の幅も狭まってきて、そのせいぜいがSNSで批判を表明するぐらいが関の山だろうが、その程度で済んでしまうところが、大して影響も出ないことの証しとなって、その程度では大げさに騒ぎ立てるようなこととはならないはずだが、もちろん批判の内容となると大げさに糾弾することになるだろうが、批判の対象としての政府の大臣が、その人がいてもいなくても、別の人でも済んでしまうような人でもあって、しかも誰が大臣となっても言っていることが心に響かないようなことであれば、やはり政府としての組織の意向でその人が言わせられていることである可能性も高まるだろうから、そういう役職に就いている人がそうした組織の意向に逆らってどれほどものを言えるかが、その人の力量を示していることにもなりそうで、そんなことが果たして可能かというと、それ以前になぜ自らが所属している組織の意向に逆らわなければならないかも明確な理由などなく、理由もないのに組織の意向に逆らうはずもないだろうが、そこでその人に特有の経緯や事情があれば、それが逆らう理由になりそうだが、たぶん筋の通らないおかしな逆らい方をしている人がいて、理由があってそうしているとも思われなければ、人としてどこか壊れていたりイカれているから、自らが所属している組織に逆らっているように見えるかも知れず、そうなっている限りで何かからの勧誘に応じているからそうなっていて、その何かというのが誰もが思い浮かべるような国家とか民族とかのありふれた概念などではなく、ただ漠然と感じられるその場の雰囲気であったりすると、その人の壊れ具合も相当な段階に達している可能性も捨てきれないが、それも世の中の人々が発している批判や文句を敏感に感じ取っているからそうなっている可能性もあるのではないか。
10月13日「世界経済と地政学的な緊張関係」
現状で何を疑っているのかというと、それが根本的な疑いではなく、あくまでも表面的な良し悪しの問題であり、では表面的なことであっても何が良くて何が悪いのかといえば、良いことが世界経済の雲行きが怪しくなっていることで、悪いことは地政学的かつ軍事的な緊張関係が生じていることかも知れないが、普通はどちらも悪い兆候だと思われて、しかも両者が絡み合って負の相乗効果をもたらしながら事態を悪化させているようにも思われるが、それが表面的な兆候なのであって、世界経済の雲行きが怪しいのは単なる景気循環であり、好況と不況が交互に循環していて、好況がインフレなどによって不況の原因を作り出して、不況が金融緩和などによって好況の原因を作り出すような景気循環が回っている限りで、世界経済が保たれているわけで、しかも好況時には経済成長が持続するのに伴って軍需産業も発展するから、国家的な軍備増強をもたらして、その結果として地政学的な緊張関係も増してくるから、好不況の波が激しく変動すれば、経済状態が不安定となるに従って政治情勢も不安定となってきて、国家間で起こる経済競争が経済対立へと至り、それに応じて軍事的な緊張も高まってきて、実際に軍事衝突などが世界各地で起こって危機的な事態となるわけだが、それをそう説明するともっともらしく思われるが、実際のところはそうではなく、説明の中で何かが抜けているのであり、その抜けている何かがそれを体験する人々をおかしな解釈へと誘導して、実態を誤って認識させるのであり、その誤りが政治的な主義主張に関係してくるわけだが、それが実際に軍事的な緊張をもたらしている原因であって、何が誤っているのかといっても、すぐに政府や企業や宗教教団などによる強権的な支配体制が思い浮かぶが、それが経済的な動機に基づいている限りで、肯定できる要素や要因も出てきて、ただ豊かな暮らしを実現したいから経済的な利益を求めるのだとしても、その代償として強権的な支配を受け入れるかというと、誰もがそうは思わないだろうし、それとこれとは話が別だと思いたいだろうが、根っこの部分でつながっていて、なかなかそれが見えてこない構造となっていて、誰かの豊かな暮らしを実現して、それを維持するには、他の誰かの犠牲が必要になるとは思わないが、実際に豊かな暮らしを満喫しているごく一握りの上級国民による支配体制の下で、貧しく虐げられた境遇にあるその他大勢の下級国民の姿を想像してしまうが、そんな単純な構図を信じさせるような何かがそれらの支配体制にはあるわけで、それが何かというと、それもすぐに収入の格差や経済格差だとわかってしまうのだが、そこで思考を止めてしまうと従来からあるありふれた認識から一歩も外へ出られないことになってしまい、体制に支配されて自由な行動がとれなくなっているのは虐げられた下級国民の方だと思ってしまうわけだが、実態としてはその逆で、それに関して比喩としてペットの犬や猫と野良犬や野良猫の違いを思い浮かべてみれば、何不自由なく至れり尽くせりの生活を送っているように見える上級国民の方が体制に飼われているペットであり、逆に体制からは相手にされていない下級国民の方が野良犬や野良猫だと見なすことができるかというと、そうではなく、下級国民の方でも職に就いていれば経済的な支配体制に組み込まれていて、そういう面では管理されているはずで、管理されていないのは全く職に就いていないホームレスであり、もちろん支援施設の類いに入っていれば完全な野良犬や野良猫とは言えないだろうが、ホームレスでも公的なサービスや民間の市民団体から支援を受ければ、そういう面では何らかの管理体制に入っていることになるだろうが、その種の管理体制と支配体制に違いがあるかというと、管理されているだけでは支配されているとはいえず、自分から支配体制を支えようとしている限りで、その体制に支配されていることになり、管理されているとしても自ら進んで体制を賛美したり礼賛するわけでもなければ、必要に迫られて嫌々利用せざるを得ない程度で、身も心も支配されているとはいえず、そんな状態を保つことで管理から支配へと移行するのを拒んでいるのだろうが、そういうところで管理と支配を混同してはならないわけだが、そうであるなら支配体制の中で人や物や情報を管理している側が支配体制に支配されていると言えるわけで、自ら進んで支配体制を構築しようとしたり、そんな体制を推進しようとする人々が支配体制に身も心も支配されているから、支配されいる限りで自由な行動がとれなくなり、もちろん思考も支配されているから、体制に逆らえなくなっていて、そんな体制を賛美したり礼賛して、体制の言いなりになっているわけで、しかも体制を代表する人物であっても、体制の上に立っているわけではなく、体制自体に同化しているから、その人の意思や意志が体制の意思や意志となっていて、体制に意思や意志をコントロールされているのに、その人の意識の中では体制をコントロールしているつもりになっているから、体制の支配者になったような幻想も抱けるのであり、そういう意味では支配者のような立場であるほど、逆に支配されていることになり、それだけ勝手気ままに振る舞うことができない立場や境遇となってしまうから、それだけ精神的な苦痛やストレスに苛まれて老化が早まり、例えば若くしてアメリカの大統領になった人物が四年の任期のうちに容貌が白髪だらけで皺だらけとなるのを目にすることがあるが、それだけ体制に支配されることが多大な心身の消耗を伴うことを実感させられるが、それでも多くの人々が体制のトップに立ちたいだろうから、そう思っているだけでも体制に支配されている証拠と言えるだろうし、自ら進んで支配されたいとは思わないし、支配されるのではなく、金銭欲や所有欲が支配欲に直結するわけでもないだろうが、組織や体制を管理する側になりたいと思うだろうし、それが心に生じた隙だとも思わないだろうから、あからさまに支配したいとは自分からは言わないだろうが、自覚がなくてもそんな欲が心の中に芽生えている限りで、そうした欲に支配されていることになるのではないか。
10月12日「力の正義と法の正義」
この世の中で何が正義かと問うなら、バトル漫画の中では力こそが正義だと主張する登場人物も出てきそうだが、現実の世界ではあからさまには誰もそんなことは言わないものの、もっとスマートな姿勢を装って、法に照らし合わせて何が正義かを決めても構わないが、強者の論理で法が作られているなら、法の中で力の正義が実現しているはずだが、実際にはそんな単純なことではなく、力の正義を体現しているように見える政治勢力が民衆から支持を得られなければ、選挙で負けて政権を担えないから、選挙など行わずに強権政治を行えば、すぐに革命が起こってしまうわけでもないが、民主的な制度が機能しているなら選挙が行われて、国会で民衆から支持を得られるような法律を制定したり、国会で多数派を占める勢力の意向で法律を改正できるような仕組みとなっているはずだが、それも実際にはそれほど単純な成り行きにはならず、政情不安が絶えない国では民意や世論を無視してクーデターが起こったりするが、日本ではクーデターも革命も起こらない代わりに、選挙結果が民意を反映していないと主張されたり、また世論調査結果通りの選挙結果がもたらされて、それが民意や世論を反映していても、力の正義によって法の正義がねじ曲げられてしまうわけでもないが、果たしてそれが正義と言えるのか疑わしい場合もあり、では正義でなければ何なのかというと、形式的には多数決に他ならないが、果たして正義と言えるようなことをやる必要があるのかというと、それも時と場合によっては怪しいのかも知れず、確かに何らかの争いや戦いに勝った人や団体が自らの正義を主張するような場合があるかも知れないが、不正行為を駆使して勝ったのかも知れないし、またいつ何時でも民衆の側が正しいとは限らず、何が正しいかも民衆には決められない可能性もあり、そこで主導権を握った人や団体が権力や権限を行使して何が正しいかを決めてしまうわけでもないが、明らかに民主主義とは無縁な手続きがまかり通っているわけでもなく、そういうやり方に対して民衆の側が一致団結して反対したり抵抗できない場合もあるだろうし、民衆の間で意見や主張がまとまらずに分断されていれば、それも形式的には議会で多数決をとって決められてしまうことかも知れないが、そこでも正義か正義でないかが問題となるわけでもないし、正義であるよりは妥当である方が優先されるかも知れず、そうなると妥当であるかどうかを決められるかというと、それも妥当でなくても多数決で決められてしまえば、ただ単に多数決で決めることが妥当だと思われているだけで、他の何が正義だと言えるわけでもなそうだが、少なくとも民意を無視して議会を通さずに強引なことをやれば、それが正義だとは思われないだろうから、妥当であるはずもなく、成り行きとしてはおかしなことが行われているはずだが、おかしさを誰もが共有できるかというと、現状でも誰もがおかしいと思っていることに反応してほしいのだが、政治情勢の中では今ひとつ定かでない面もあるらしく、よく考えてみればおかしなことなど何もなく、現状でできる限りのことをやっていると受け取っても構わないが、そうした対応や対処も含めておかしな成り行きとなっていて、それをおかしいと思うか思わないかが重要なのではなく、何だかわからないが成り行きまかせでやってしまえることがあり、何かそこに真空地帯が生じているわけでもないのだろうが、権力の空白が生じているわけでもなくても、ありもしない隙を突いて推し進めようとしていることがあって、それがやろうと思えばできることだったのだろうが、これまでは少しは遠慮があったわけで、それがここにきて遠慮する余裕がなくなってしまったから、なりふり構わずに混乱のどさくさ紛れにやってしまうつもりかも知れず、それを後から振り返れば取り返しがつかなくなることだったとしても、やれるだけやって後戻りが利かなくなるようにしたいわけで、そう解釈すれば合点がいくはずだが、現状で行われていることが後になってどう響いてくるのかは、実際にその時になってみないことにはわからないが、それが個人では対処できないようなことならあきらめるしかないかも知れないが、おかしいと思っている人が少しでもいるなら今こそ団結して行動を起こさなければならないのかも知れないし、それがどんな行動なのかもよくわからないとしても、それが行動ではなく言動なのかも知れず、どちらも必要だから今さらそんなことを述べても意味不明かも知れないが、現状の中で行動や言動がどう絡んでくるかを見極める必要があるとしても、見極めようとしているうちに見失ってしまえば、何のことやらさっぱり見当もつかないままに終始して、それも後から振り返ればわかるようなことであるなら、まだ当分は暗中模索の日々を過ごさなければならないのかも知れないが、たぶんいずれそれでは済まなくなることを予感できないのかも知れず、予期せぬタイミングで突然その時がやってきて、それが誰にとっても思いがけないことであれば、そこでどう振る舞うかがその後の運命を決定するのかも知れないが、今がその時かも知れないから、そうであるなら誰もが機会を逃していることになり、手遅れとなっているはずで、それでも構わないと強がっていられるなら、全く見込みがないことになってしまいそうだが、ここからが本当の勝負だとさらに強がってみても、ほとんど終わっているかも知れないが、何が終わっているとしても、終わりが別の何かの始まりであるなら、その始まりに賭けてみるしかなく、そう思う以前にすでに伸るか反るかの賭けの最中であったりする可能性もなきにしもあらずだから、思っていることがその場の成り行きに乗り遅れていて、いつも後追い的に現状から遅れたことを思っているに過ぎないのかも知れないが、それでも絶えず思いが現状に追いつこうとして焦りを覚えているわけだ。
10月11日「いちゃもんをつける」
ただの勘違いにしては何かしら結果が伴ってきて、それを結果と呼ぶのも見込みがないような気もするが、当てが外れているのは毎度のことだから、別に驚きはしないが、単に勘の悪さが露呈していると思ってみても、それ以前にうまく立ち回るのも至難の業と解釈しておいた方が良さそうで、うまくいかないのが当たり前のことであって、性懲りもなく失敗を積み重ねながらも、何とかなっていると思いたいのだが、何ともなっていない面も意識せざるを得ず、その何ともなっていない面をどうにかしたいのだろうが、うまくいかないことを繰り返しているに過ぎないことであり、何をやっても空回りしながら、独りよがりなことをやっているに過ぎないと見なしても、それが何なのかが未だによくわかっていないわけで、たぶん何でもないでは済まないらしく、何かしら成果が求められているはずだが、成果といっても数値で示されるようなことでもないのかも知れず、数値で示されなければ測りようがなく、成果といっても実感できなければ信用されないから、成果などあってないようなものになりかねないが、それでも成果が上がっていることを強調したいのだから、結局は口先だけで成果を強調しながら当てのないことを推し進めている最中なのかも知れないが、やはりそれでもそれが何なのかが示されないと、成果を評価しようがなく、何をやっているのかさっぱりわからずにそんなことをやっているはずもないが、たぶん何かにつけていちゃもんをつけていて、いちゃもんをつける癖がついてしまうと、やっていることがそればかりとなってしまい、それしかできなくなってしまうわけでもないが、そればかりが主な活動となってしまうと、それ以上の進展が望めなくなり、そこから何を進展させたいのかもよくわからないが、自分でも何をやっているのかよくわからずに、何かに引き寄せられるようにしてやっていることであれば、納得できないにしても仕方のないことかも知れないが、多くの人々が引き寄せられているそれが罠でもないのだろうが、その対象となっている物事のひどさを表しているのだとすれば、それが大衆市民社会の実態を表しているように感じられるかも知れないが、そこで実際に行われていることに関して言及しなければならないだろうし、言及している対象の良し悪しを言わないことには何を言っていることにもならないから、それが批判の対象となるにしても、それに関しての言及となって、別にそれ以外のことを述べているわけでもなく、言及の対象となっているわけでもないのだろうが、それだけでは済まないとなると、なぜ済まないのかも説明しなければならず、それだけで済ませたいと思えば、それが済ませたい人の都合となってくるわけだろうが、実際に当事者となって何かを実践している身としては、それを外部からとやかく言われても変更できないようなことをやっていて、それ以外にやりようのないことをやっている限りで、それをいくら批判されようと非難されようと、やめるわけにはいかないから、実際にやっていることを継続するしかないわけで、だからといってそれを批判したり非難する方が悪いわけではなく、それどころか批判したり非難せざるを得ないことが行われているわけで、そんなことが行われていてはまずいと思うから、それを批判したり非難するわけで、どうあがいてもそこにそんな関係ができあがってしまい、どちらが勝つか負けるかが決しないことには収まらない事態となってきて、もちろん勝ち負けがはっきりしないままこじれてしまう場合も多いのだろうが、それが行われていることによって迷惑を被っている人や団体がいるのなら、誰かがそれをやめさせないことには事態が収まらないだろうから、やめさせる方向で動かなければならず、実際にそれに関わっている人や団体がやめさせようとしないことには、それをやめるような成り行きにはならないだろうし、もちろんやめさせようとすれば抵抗するだろうから、争いが避けられない事態となってしまうわけだが、実際に争いが起こっていて、その中で批判や非難の応酬となっていることは確かなのだろうが、そうした争いの中でも、権限や権力を行使してやっていることをごり押ししてくる強者の味方を装うよりは、そんな強引なやり方によって虐げられている弱者の味方を装う方に正義があるように思われるから、直接的な方面では弱者の味方を装いながら強者を批判したり非難した方が体裁を取り繕えるのだろうが、ただ漠然とそう思っているだけならまだしも、実際に活動するとなると、何やら功利的に立ち回るようなことが行われて、経済的な利益を求めるなら時として強者の味方を装わなければならないから、そんな思いが裏切られてしまうわけで、そういうところでしばしば言行不一致を生じさせて、欺瞞や偽善を見抜かれて体裁を取り繕えなくなってしまうのだろうが、そうなってしまうとしても、それが経済的な成り行きである限りで、政治的な方面でも辻褄が合ってきて、言うだけなら弱者救済を唱えられるが、それを実際に行うとなると困難が生じてきて、強者に富が集まるという経済的な成り行きに逆らわないとできないことだから、それなりに無理で辻褄の合わないことをやらないと実現できないことであり、それを辻褄が合うように説明してしまうと嘘が含まれてきて、そういうところを突いていちゃもんをつけられると返答に窮してしまうだろうが、なるべくならいちゃもんをつける隙を作らないように心がけなければならないとしても、それもやってできるようなことでもないのかも知れず、せいぜいが運が味方をするような機会を得られて初めてできるようなことかも知れないが、チャレンジしない手はなく、何か胡散臭そうな弱者の味方を装う人や団体などを応援しておく方が、それを言うだけなら一時的には体裁を取り繕えて、そんな機会が実際に巡って来れば、できれば化けの皮が剥がれないうちに弱者救済を実行する必要があるわけだ。
10月10日「何かがおかしい」
たぶん理屈に合わないことを主張しているわけでもないのだろうが、その一方で理屈に合わないのは承知でやらなければならないことがあるらしく、それが何か矛盾しているように思われると、やらなければならないというのも嘘になってしまうが、そこで何かがおかしいと思われて、その何かがわからない時に思考が働いて、思考を働かせなければならないと思うのだから、やらなければならないのは思考を働かせるというよくわからない思いつきになってしまい、それ以外には何も思いつかないわけではないが、やはり何かがおかしいと思うわけで、果たしてそこで議論を戦わせる必要があるのかと疑念を抱いたところで、聞く耳を持つような人々ではなく、大局的な見地に立てない人が小さな範囲内に照準を定めてセコく立ち回りながら毎度お馴染みの攻撃を仕掛けるという局地戦を展開していて、結局のところ何を言っているのかというと、原則論を用いて対立を煽りたいわけだが、それが原則論というと何か硬直した価値を掲げているように思われるが、それはそれで堅持していても、一方で与党の自民党の中にも創価学会やNHKを目の敵にしている小物議員がいて、ユーチューブでこれ見よがしにギャーギャーわめいているのだろうが、それが創価学会やNHKに対する脅しとして機能していて、今は何とか抑え込んでいるが、俺たちから離れたらこいつらを抑え込むことはできなくなるぜ、と脅しているわけで、それが何やらヤクザの論理みたいだが、そういう小物議員の売りとしては、創価学会やNHKを叩いているが、左翼じゃないということであり、左翼がサヨクとなって差別用語として世の中に定着させることには成功しているわけだから、左翼じゃなければ好印象を得られて、左翼アレルギーの人々を自民党の支持者として取り込めるという皮算用なのだろうが、実際に創価学会を支持母体とする公明党やNHKと自民党が癒着していることは明らかで、今のところは件の小物議員が自民党内で主導権を握ることはないだろうが、野党勢力への支持を少しでも削る用途としてはキープしておくべき人材であり、結局はその人が何を主張しているかが重要ではあるにしても、結果的に政治状況がどうなっているかに関しても、大局的な見地から物事を把握できるかが重要となってくるにしても、現状を継続させるために統一教会や創価学会などの宗教勢力やNHKなどのメディア勢力やそれを与党の内部から攻撃している小物議員たちが貢献していることも明らかで、そういう人たちが理屈に合わないことをやっているとは思えないし、あからさまに政権交代を阻止するために動いていると受け取っても構わないだろうが、別にそれが日本でしか通用しない論理だとも思わないし、それでも大抵の国では政権交代が日本よりは頻繁に起こっている印象だが、何が何でも日本でも政権交代させなければならないとも思わないが、その一方で考えていることはそれとはちょっと違って、他の国に比べて日本の現状が取り立てておかしいとは思わないし、日本のおかしさをことさらに強調するのもおかしいが、世界中がおかしくなっているのも今に始まったことではなく、昔からおかしい状況が常態化しているとも思わないが、それほど政権交代に期待しなくても構わないから、できればさっさと政権交代してほしいわけで、野党勢力に幻想を抱けということではなく、幻想など抱かなくても構わないから、さっさと政権交代して政権を担う政党を増やしていかないと、おかしな幻想や先入観や偏見を解消できず、いつまで経っても現状から変われないような気がしてしまうのだろうが、それでも何とかなっているのだから、国内の政治情勢など変わろうが変わるまいが大したことではなく、変わったとしてもただの気休めに過ぎないわけではないのだが、それが識者や政治家の類いが人々に向かって訴えかけている内容とはちょっとずれてしまうのであり、誰もが同じ価値観を共有しなくても構わないのは確かにそうなのだが、特定の何かに対して文句を言いたいなら言っても構わないだろうが、それだけでは済まないことになってくれば、何やら自分で活動することになり、その活動が金儲けに結びつけばそれでも構わないし、結びつかなくても構わないなら、別にそれで済んでいることになるだろうし、そんな成り行きが一定の傾向に凝り固まっているわけではなく、多種多様な傾向を示しているとしても、そんな状態をキープできるかというと、耐えず過渡的に移り変わっているはずだが、そんな成り行きの中でも政府の官僚などが天下り先を確保して金儲けしているだとか、行政と癒着した企業も金儲けしているだとか、現状を利用して金儲けしている人や団体がいるからおもしろくないと思っている人も結構いるだろうが、そんな中でも沖縄の米軍基地に反対している団体が反対運動の裏で金儲けしているだとか、これ見よがしに訴えかける輩までが出現してくるわけだから、何とかして悪どいことをやっている人や団体をあぶり出して吊し上げたいわけだが、果たしてそういう行為も結果的に現状の維持に貢献しているのかというと、そういう面もあるだろうがそうではない面もあるのかも知れず、そうではない面というのがどういう面かと問われても俄には答えようがなく、では嘘をついているのかというとそんな気がしてならない程度のことなのだが、結果的にはそれなりに現状が移り変わっているわけだが、その変わり方が自分の期待しているほどではないから、現状の維持に貢献しているように思われる人や団体に対して批判的な物言いになってしまうわけで、しかもそれが否定的な方面で現状の維持に貢献しているように思われるから、なおのこと非難したり糾弾する対象としてメディア上で取り扱われて、実際に多くの人がそんな対象に向かって非難や糾弾の言葉を投げかけているわけだが、そんな行為を後押ししている勢力が世の中の主導権を握ってほしいのだろうが、現状では非難されたり糾弾の対象となっている勢力が依然として主導権を握っているから、相変わらず現状が維持されているような印象を抱いていられるわけだが、果たしてそんな印象で合っているのかというと意外とそうではなく、そんな中でも何かがおかしいという疑念を拭えないから、思考を働かせる必要を感じているのではないか。
10月9日「米軍基地問題」
そこに至る経緯を無視して、現状だけを取り出して云々するわけにもいかず、そうかと言って原則論を持ち出しても、現状の行き詰まりをどうすることもできない事実は変えられず、どちらにしてもそうなっている現状についてあれこれ言うことはできるが、あれこれ言ってみたところで、それに対する反応が否定的な物言いとなり、そこで反対運動だけを取り出して、そのまずさを指摘してみても、原則論を唱える人々からしてみれば、反対派を弾圧する行為に加担していると思われて、拒否反応を引き出してしまえば、戦略的には失敗している面もありそうだが、それ以前に何が戦略とも言えないようなことをやっているなら、たとえそうなったところでどうということはなく、それに関しては様々な水準から言いたいことが言えて、部分的に強調したいことならいくらでも言えるから、優先すべきことが良識派を装うだけでは済まないなら、誰もが納得できる解決策を探るのではなく、そこに関わっているつもりの多くの人々が納得できなくても、しかも解決からは程遠いと思われようと、少しは物事が前進しているように感じられるやり方を模索すべきなのだろうが、すでに現状で進行している事態がそれに類する成り行きとなっていて、直接には関係がないようにも感じられるかも知れないが、それがいつの時代でも起こっていたことだと見なすのも大ざっぱ過ぎて、過去と現在と未来を同じように捉えてはまずいのかも知れず、現状で進行中の滑走路造成工事をやめさせるに至っていないことが、それに反対する運動もやめさせるに至っていないことを示しているわけだから、別にそれで構わないとは思えないとしても、解決に至っていないのだからそうなっているわけで、それに関して何か言えるとしても、言えるだけは済まないなら、実際に反対運動をやらなければならず、反対運動に参加しなければならないのだろうが、参加できる余裕のある人は限られてくるとしても、余裕のある人が参加する分には、その良し悪しを言う立場になれるわけでもなく、地元の住民でなくても参加するしかないのかも知れず、全国からも外国からも参加者を募って反対運動を盛り上げる必要があり、参加者が集まらなくて運動が盛り上がらなくてもやめるわけにはいかないだろうし、反対運動とはそういうものだと思うか思わないかに関係なく、反対運動を継続していかなければならないわけで、そういう成り行きを部外者がどう思ってみても、反対運動をやめる選択肢はないのだから、外部からとやかく言わずに、それでもとやかく言いたいのなら、まずは反対運動に参加してから言うしかなく、それが理不尽だと思うかも知れないが、すでに理不尽な事態に直面しているわけだから、理不尽な仕打ちには理不尽な行為で対峙するしかないわけで、論理的に物事を考えてみたり、戦略的に利口なふりを装ってしまうとまずいと思わないと、正気の沙汰ではいられないだろうから、その場の成り行きにまかせてこじれた事態の中でどう振る舞うかが勘の見せどころであるわけでもなく、現地が反対派以外に訪れる場所とも思われないなら、反対運動に加わりながら、成り行きの理不尽さを体験していればいいのかも知れず、そんな面倒なことをやるのが嫌なら、遠くから眺めていれば済んでしまうようなことかも知れないし、辺野古では駄目なら馬毛島があるとしても、馬毛島から数キロ離れた種子島でも反対運動が起こっているはずだが、そういうレベルではそうだとしても、そういう成り行きを通してわかってくることがあり、そういう成り行きと並行してやらなければならないことがあり、たぶんそれも理不尽で功利的には無意味に思われることかも知れないが、うまく言い表せないことでもあって、それを反戦平和運動と言ってしまうと軍事力の増強を推進している人々から馬鹿にされてしまうだろうし、そういう馬鹿げたことをやってみせるのが意味不明だとしても、そんなことを言うならお前がやって見せろと言われそうだが、そういうレベルで個人に何ができるわけでもなくても、成り行きとしては中国やロシアを経済の面で儲けさせるようなことをやれば、その分で中国やロシアが軍事力を増強するだろうから、それにつられて日本でも軍事力を増強する必要に迫られると考えても良さそうで、そんな成り行きとは関係のないところで反戦平和運動が成り立っているわけでもなく、同じように経済の面でそんなことをやっている暇や余裕のある人たちを増やしていかないと成り立たないことかも知れず、基地建設の反対運動や反戦平和運動にしても、昔ながらの労働組合や左翼政党などが加わって組織的に行えば、形としてはそれなりに見栄えはするのだろうが、そういうやり方にも限界があって、実際に行き詰まっているから、メディア的にも話題として盛り上がらないのだろうが、さらには世界的な軍備増強の連鎖を断ち切るためにも、中国やロシアの民主派を支援しなければならないと口では言うことも文章に書き記すこともできて、口で言うのも文章を書き記すのも無駄なことではなく、そうやって地道に賛同の輪を広げていくしかないのかも知れず、それも軍事力の増強を唱える人たちから嘲笑されるようなことであるとしても、個人でやれることはそんなことであり、そんなことを言っている暇も余裕もなければ無理してやる必要はないにしても、そんなことを言ったり書いたりしている人の中から、実際に基地反対運動や反戦平和運動に加わる人が出てくればいいわけだが、そんな悠長なことをやっているうちに、中国が攻めてきて日本が植民地化されてしまうと危機感を募らせるなら、それもそんなことを言ったり書いたりしていれば済むようなことなのかも知れない。
10月8日「信じられない嘘」
唐突に何かの途中から見え透いた嘘の説明が始まると面食らうかも知れないが、案外そこに誰もが知ろうとしている真実があるようでいて、結果的に煙に巻かれるようなことになれば、知りたいことはそんなところにはなく、もっと具体的ですぐにわかるようなことを知りたいはずだが、それがすぐにわかるようなことでは興味が湧いてこないから、途中で謎解きのようなそれなりに頭を使う工程を必要としていて、そういう作業が介在しないと、事の真相にまでは辿り着けないような気がするとしたら、事の真相など知る必要もない人々が素人探偵のような気分で実際に謎解きの最中に事の真相に辿り着いたところで、果たしてそれが事の真相なのかというと、そうでもあるがそうでもないようなどっちつかずな結果となってしまい、ではそれが真相ではないのかというとそうでもなく、知りたかったのはもっと興味深いことであり、つまらないことを知りたかったわけではないのだが、事の真相が興味が湧かないようなことであれば、つまらないことを知ろうとしていたわけで、それを知るまではつまらないかどうかなんて知るよしもないことだから、知り得た真相がつまらないことだとしても仕方のないことだが、それでは気が済まないからといって、何やらおもしろそうな偽りの真相を捏造するわけにもいかないだろうが、それがフィクションでならそうするところかも知れないが、果たして嘘をつくことが求められているなら、そんな求めに応じて嘘をつくべきかというと、それを求めている人たちが信じられるような嘘をつくべきと考えるなら、その良し悪しは別にして、そらみたことかと言えるような都合の良い嘘をつきたいのかも知れず、間違っても違和感だらけの信じられない嘘をつくわけにはいかず、人々の期待に応じた嘘をつけば、たとえそれが嘘でも信じてもらえて、喜んで騙されるわけで、それらの人々にとって都合の良い嘘をついて騙してほしいわけでもないが、できればそれが都合の良い真実であってほしいわけで、嘘か本当かという判断よりも都合の良さを優先させるなら、たとえ嘘であってもみんなで本当だと思い込んでいれば良いことになり、そんな嘘によってそれを信じる人々が一致団結していられるなら、それが宗教教団だろうと政治結社だろうと似た者同士の集まりであることには変わりないのだから、できればそんな嘘つきサークルを国全体にまで広げたいというなら、それなりに嘘にも誰もが信じられるようなもっともらしさが必要となってくるだろうが、事の真相としてはどうもそうではないような様相を呈していて、部外者にはどう考えてもそれが信じられない嘘だから、無理にそれを信じている人たちが奇異に見えたり、時として異様な集団に感じられてしまうわけだが、それを信じている人たちにとっては無理に信じようとしているわけではないようにも見えてしまい、何やらその辺から疑念が深まってきて、できればそんなつまらなくてありふれた真相などではなく、もっと興味深くて魅力的な事の真相を謎解きゲームのようなエンターテイメントとして提供してほしいのかも知れないが、誰がそれを提供したいのかといえば、たぶんメディアが提供することになるのだろうが、メディアに従事する人々がそんなゲームを考案しているわけでもなく、謎解き作業の最中においてそう思われるような成り行きが生じてほしいというか、誰もそんな願望をあからさまに抱いているわけではなく、淡い期待として何となく漠然と思っているようなことかも知れないが、本当にそう思っているのかと問われるなら、それも誰とも知れずに自然に捏造された嘘だと思っても構わないが、信じたい嘘とはそんなものなのかも知れず、それが信じられない嘘でない限りで、少しはもっともらしさを感じられて、信じたところでたわいない程度で済むなら、それほど大したことにはならないはずだが、そこに宗教団体や政治結社などの集団が絡んでくるとそれだけでは済まなくなってきて、そういった集団が活動する費用を捻出する必要に迫られるわけで、そこから無理が生じてくるのだろうが、それが信仰の問題でも思想信条の問題でもなく、主に経済的な問題であるだけに、それとこれとを同列に論じる必要はないのだとしても、やっている中身がそれに関係してくるから、それとこれとを切り離すわけにはいかず、結局は信じられない嘘を無理やり信じさせるような権力の行使を必要とするわけで、そういった集団内での無理やりの権力の行使を必要とする限りで、言っていることとやっていることが違ってきて、論理的には破綻をきたしてくるから、それをどうやって嘘で取り繕うかが思案のしどころとなってくるのだろうが、そんな嘘で塗り固められた偽りの真実というのが、誰もが知りたい事の真相となり、嘘を暴露するジャーナリズムが標的としている対象でもあり、それも謎解き作業を伴うような興味の対象となって、メディアを通じて世間の関心の的となるのだが、それが部外者にとっては信じられない嘘だとしても、当事者や関係者にとっては信じてもらうと都合の良い嘘でもあり、しかも信者にとっては信じたい嘘でもある限りで、もちろん嘘ではなく真実だと思っているわけだろうが、それを信じられるかどうかで利害が異なってくるようなら、経済的な損得勘定の対象ともなるわけで、それを信じたことにして信者には労働などの経済活動を行なって、宗教団体や政治結社の活動資金を捻出してほしいだろうし、場合によってはタダ働きをして活動に貢献してほしいわけで、そういう都合が生じているから無理で常識に照らし合わせても信じ難い教義の類いを集団内で権力を行使してでも信じさせようとするわけで、事態をそう捉えるなら、つまらなくてありふれた事の真相となってしまうわけで、それをことさらに興味深い対象へと飾り立てる必要もなく、単なる経済的な金儲けの問題に過ぎないのだろうが、それを宗教や政治と結びつけると興味深いメディア的な話題となってくるわけで、そうであるなら真実は金儲けであり、その一方で嘘で塗り固められているのが宗教や政治にまつわる活動内容となるわけで、果たしてそれが信じられない嘘となるかというと、部外者にとってはつまらなくてありふれた嘘でしかないわけだ。
10月7日「見せかけの動作」
たぶんおかしな論理に囚われている当人が何かを信じていることは確かなのだが、それが信じられるような理屈ではないこともあからさまな事実であって、そんな理屈を当然のことのように信じているのだから、何かに操られていることが想定されるが、それを洗脳という言葉で表現してしまうのも奇異に感じられて、言動のおかしさと共に挙動もおかしいというわけではないはずだが、それでもおかしさを感じさせて、その奇異な挙動や言動に触れると狼狽えてしまうかも知れないが、注目したいのはそんなところではなく、常識的な感覚ではあり得ない挙動がそこから生じてくるのかといえばそんなことはなく、それもたぶん常識的な範囲内でおかしいのであって、その辺で微妙に感覚がずれているとしか言いようのないことかも知れないが、少なくともそれを対立した概念として捉えるとおかしいのであって、たとえそれらの言動や挙動がわかりやすい対立を誘っているとしても、そんな言動や挙動に騙されてはならないと警鐘を鳴らしてはいけないどころか、警鐘を鳴らす動作でさえも、そういう動作に誘われて行われるわけだから、対立を促されて、そんな対立は見せかけの対立に過ぎないと警鐘を鳴らしてしまうことが、すでにそういう動作を促されて、それに応じてしまっていることになり、ついに日本でも十年ぶりぐらいに見せかけの動作として政権交代を促されているのだろうが、それがアメリカからの要請なのかどうかは、年末までの動向を見てみないことにはわからないが、現段階ではそうなるかどうかもはっきりしないところだが、そういう成り行きに乗りたければ乗ってみても構わないだろうし、結果的に何がどうなるかも今のところは定かではないが、結局何もどうにもならないことが明らかになったところで、それでも構わないと呼べるような状況ともならないだろうが、誰もそういう成り行きを押しとどめることはできないのかも知れず、ただ時計の針が進んで時代が移り変わって歴史が転換したように見せかけられるのだろうが、それは今までの経緯の中でも繰り返されてきたことであって、陰謀論的にはそれらしい黒幕に操られていることになり、そういう説がまことしやかに流布されるにしても、それを信じるか信じないかはあなた次第と言われるようなことでもあり、陰謀論など信じる必要のない人も世の中には大勢いるから、それがフィクションだと思っても構わないが、そういうこととは関係なく、従来通りの観点に立って考えるなら、警鐘を鳴らすような危機的な状況の中でも騒がず焦らず急がず準備万端整えて身構えておく必要があり、特にどう身構えるかもわかっていないのに身構えられるかといっても、その時が来たらわかるようなことかも知れないが、その時になってもわからないことかも知れず、わからなければわからないで大したことにもならないだろうが、それも人によってもその人の立場や境遇によっても違ってくるだろうし、わからないまま時流に乗ることができずに、時代から取り残されてしまう人もそれなりに出てくるかも知れないが、それも見せかけの取り残され具合に過ぎないことであり、見せかけの言動や挙動に騙されてはならないと警鐘を鳴らそうと思えば鳴らせるようなことであり、別に騙されても構わないのだろうが、騙されたところで何がどうなるわけでもなければ、そんな言動や挙動とは関係のない方面で活動していることになるだろうが、関係のある方面で騙されればそれなりの損害を被るにしても、それでもまだ生きているなら、少なくとも死ぬほどの悲惨な目には遭わなかった程度のことで、それによって多少の財産が失われて、腹立たしさや愚かさを実感できるかも知れないが、実感したところで一過性で、忘れてしまえれば大したことにはならないだろうが、いつまでも尾を引いて根に持ってしまうと面倒なことになるだろうし、損害を与えた人や団体に対して恨みを抱くようなことにでもなれば事態がこじれてきて、それがよくできたフィクションのような顛末を伴ってくれば、よくありがちなわかりやすい話の展開になってくるだろうが、大抵はそこまで至らずに済んでしまい、当事者はいつまで経ってもそれでは済まないと思いながら、恨みや憎しみの感情を持続させようとするだろうが、それがそういう面では当事者意識を伴うとしても、それとは別に大げさな陰謀を信じている人々が、必ずしも陰謀を巡らせている当事者でも陰謀の対象となっている当事者でもない場合が多く、大抵は部外者や野次馬が陰謀論を信じているのであり、そうであるからこそ安易なフィクションを信じていられるわけで、無責任な立場から事態をおもしろがって眺めていられるのであって、当事者にしてみれば死ぬか生きるか伸るか反るかの致命的で深刻な事態に直面しているのだから、そんな状況をおもしろがれるはずもなく、まさにギャングやヤクザなどがその場で抗争している最中であり、実際に謎の死を遂げる者も後を絶たないから、当事者となってしまえば死に物狂いで行動しなければならないのだろうが、そうならないように心がけてもなるようになるしかなく、大半の人々は抗争の部外者か野次馬の立場でおもしろがって事態を眺めていれば済んでしまうことだと思っておいて構わないだろうが、そういう面では確かにそうだとしても、中にはそうとも限らないことを感じ取っている人も少なからずいて、そういう人にとっては何かしら事態に介入してそれ相応に立ち回りたいのかも知れないが、誰もが介入できるわけでも立ち回れるわけでもなく、そういうことをやりたがる人がいくらでもいるとしても、実際にそうなる人がそんなにはいない現状があるから、相変わらず大半の人々は野次馬気分で面白がって眺めていたり、悲惨な目に遭った当事者に同情したりして、それが見せかけの動作としてSNS上などで見かけられるわけだ。
10月6日「依存体質」
この期に及んでわざと世界の現状について納得し難いことを語ろうとしているわけではないが、少なくとも世界各国の政府を代表する人物が誰の言うことにも耳を貸さない独りよがりな性格の所有者ばかりでないのは、誰もが承知していることかも知れないが、耳を貸さないのはある特定の方面に関してであり、それによって何に依存しているかがわかってきて、政府の官僚機構が自身を統括する代表者としてそんな人物を求めているわけでもないのに、結果的には政府の代表者となるのが、そんな傾向の人物だと決めつけることもできないが、なぜ時としてそんな人物が選ばれてしまうのかというと、これといって納得できるような理由があるとも思えず、政府の代表者がどんな人格であるかなんてどうでもいいことではないが、人格が問題なのではなく、代表者が誰でも構わないというわけでもないのに、誰かが選ばれてしまい、誰も選ばないわけにもいかないが、結果的にはどんな人物が代表者となったところで、いったん政府の代表者となってしまうと、そういう傾向が身についてしまい、政府の代表者という役職に特有の性格や人格が付与されてしまうと事態を捉えた方が妥当なのかというと、そんな説にそれほど納得できるわけでもないが、代表者自身が問題なのではなく、ましてや代表者の人格に問題があるわけでもないと思いたいが、人格や性格に難のある人物が政府の代表者に選ばれてしまうのはよくあることだが、そう思ってしまうのも錯覚なのかも知れず、そうなった結果からそう思わされてしまい、代表者が選ばれる過程でそんな人物が選ばれやすい制度となっていると考えると納得できるわけでもないが、実際に民衆の大半が望まない人物が民衆の大半によって選ばれるような皮肉なシステムになっているというと、しっくりくるかも知れないし、しっくりくるということがもっともらしいと思われることでもあるから、そこに錯覚が潜んでいて、何か重大な事実に気づいていないのであり、政府の代表者が何かに依存してしまうから、時としてその依存している何かとは関係のない部外者の言うことには耳を貸さなくなってしまうと考えると、それが何なのかがよくわかってくるかも知れず、実際に何に依存しているかで政府の代表者の人格や性格も変わってくるようにも感じられるわけで、その依存する対象というのが、ざっと見渡した限りでは、例えば国家に依存するか政府に依存するか政府の官僚機構に依存するかで、似たような傾向を示すかも知れず、それを最近の日本に事例に当てはめると、安倍元首相が国家に依存していたのに対して、菅前首相が政府に依存していて、さらに岸田現首相が政府の官僚機構に依存していることによって、国家>政府>政府の官僚機構といった具合に、だんだんと人物が矮小化していく傾向に見えるかも知れないが、依存している以外の人の言うことには耳を貸さない点では共通した傾向にあるから、そういう面ではわかりやすいとしても、それらとはスケールの違う人物も世界にはいて、例えば中国の習近平主席は毛沢東を真似て国家や人民の上に立とうとしているから、日本の代表者たちとはスケールの違う大物感が漂っているわけだが、何ものにも依存しない体質は危険極まりないだろうし、場合によって危険人物と見なされて、国家や政府や政府の官僚機構に依存する小物たちが団結して、排除の対象となってしまうかも知れないが、そういう点ではロシアのプーチン大統領がロシアという国家と共にロシア民族に依存しているように装っているのは、それらの上に立つ何もにも依存しない独裁者と見られるのを回避する戦略かも知れないが、他にもロシア正教会という宗教にも依存しているふりも装うから、戦略的にはうまく立ち回っているつもりなのかも知れないが、そんなことにまで気づかない大雑把な把握しかできない一般人にとっては、プーチンも習近平も似たもの同士としか見えないし、中国とロシアが同盟して西側世界と対峙しているようなわかりやすい構図しか思い浮かばないだろうが、その一方で何ものにも依存しない自由主義となると、習近平のように国家や人民の上に立つということではなく、国家や政府や政府の官僚機構などの間に立って、さらには民衆とも一定の距離を置いて、それらを功利的に利用しながら何かやることになるのだろうが、民主主義となると単純に考えるなら民衆に依存しながら政治を執り行うことになりそうだが、それ以前にポピュリズムが大衆の人気に依存しながら政治を執り行うことになるから、それが民主主義と似ているようでいて何か違うということが、大雑把な把握しかできない一般人にはわかりにくいところかも知れず、ポピュリストは功利的な戦略として大衆の人気を利用しようとするわけで、ポピュリストの中から独裁者が出てくれば、依存しつつも利用していたことが明らかになってくるだろうが、では民主主義が民衆を利用することを目的にしているのかというと、利用はするだろうがそれよりも優先すべきことがあり、民意や世論を尊重したいということであり、ただ尊重するだけでなく、民衆のためになる政治を執り行うつもりなのだろうが、それが結果的にはわからないのであり、民衆のためになると思ってやったことが、民衆を堕落させて国家的な災禍を招いてしまえば、政治がうまくいかなかったことになるのだろうが、そういうところで自由主義的な民衆との距離感も活用しなければならず、アメリカのFRBが物価の高騰を抑えるために金利を上げて民衆に苦難をもたらしていることも、物価の高騰を抑える面では民衆のためになっているが、金利を上げる面では住宅ローンの金利が上がって苦境に陥る民衆のためにはなっていないわけで、そういう政策を支えているのが自由主義的な価値観となり、日本の日銀や財務省が国債の依存体質となっているのとは少し違った様相を呈しているわけだ。
10月5日「信じることの困難」
それが単なる偶然の巡り合わせに過ぎないとしても、それを信じざるを得ないとすれば、信じたくなるような成り行きになるからだろうが、何を信じたくなっているのかといえば、自らの都合に応じた成り行きになることを信じたくなってしまうわけだが、意外と成り行きに応じて自らの都合を合わせようとしているのかも知れないし、しかも合わせようとしてもなかなか合わせられずに焦っているのかも知れないが、それを信じようとしているのに裏切られて、結局は信じられなくなってしまい、逆に信じられないからこそ余計に信じなければと自分に言い聞かせながら頑なに信じようとしていて、すでにそうなっている時点で、単純に素直な気持ちでは信じられなくなっていて、結果的には思い通りに行っていないのだから、都合の悪い結果を招いているはずなのだが、それでもかろうじて生きているわけだから、それで構わないわけでもないのにそうなってしまっている現実を受け入れざるを得ないわけで、受け入れられなくてもそうなっていることを前提とした成り行きの中で生きているから、目眩しのような世の中で見え透いたごまかしやまやかしに腹を立てながらも、それでも何とかなっているような気がするのだから、信じた通りの成り行きになっていないのに頑なに信じようとしても裏切られて、それでも信じようとするわけで、信じること自体が自身を欺いていることになりそうで、信じられないことを無理に信じようとすれば自己欺瞞に陥ってしまうのは当然だが、何もなくてそうなっているわけではなく、実際に利益を得られていれば信じていなくても信じているふりを装えるだろうし、そうであるなら自己欺瞞となっている原因が功利的な思惑からそうなっていることになりそうだが、それが自意識の中では試練を乗り越えて信じているつもりになれて、信じている人や団体や物事から裏切られているのに、利益や報酬を得られる限りで、信じているふりを装っても構わないと思うわけでもないが、そうは思わなくてもそう仕向けられているような成り行きの中で、なし崩しのようにして心ならずも信じているふりを装わなければならず、それが信者にとっての試練となり、信仰している対象から裏切られるという試練を乗り越えて信じるように仕向けられてしまうわけで、実際に裏切られても信じてしまうということが、信仰対象の思惑通りになるということでもあるが、果たして信仰対象に思惑があるかと問うなら、それが宗教教団の類いならわかりやすく、教祖や教団の幹部などにそれ相応の思惑があるはずだが、特に思惑があるとも思えないような物事となると、信じている人が勝手に信じているだけであって、たとえ信仰対象に欺かれても裏切られても詐欺的な成り行きからそうなるわけではなく、単なる偶然の巡り合わせによってそうなるに過ぎないことになってしまうだろうが、それを信じている人にとっては、自身の思惑通りにも思い通りにもならずに、損害を被ってしまったり苦境に陥ってしまえば、それでも信じたいならそれが乗り越えるべき試練だと思うしかないだろうし、試練に打ち勝った先に救いがもたらされるような結末を信じるしかないだろうが、その究極の成り行きが自らの死後に救われることになるのだが、死後に救われるという誰も自身では確かめようのないことを心の拠り所にすることが、果たして信仰として妥当なのかというと、生きている間は救われないことが常態化している世の中では、それが宗教の教義などに反映して、そんな宗教が人々の間で流行るわけで、現世で行われる努力や尽力が報われなければ、普通に考えるなら努力しても無駄だとあきらめるはずだが、努力することも尽力することもあきらめない代わりに、その努力や尽力が現世では確かめようのない死後の救済へと向かい、それが現世の中で行われる努力や尽力の結果とは直接には結びつかないなら、その努力や尽力に関して宗教の教義などの中で勝手な解釈を許してしまう余地が生じてくるわけで、そこから死後に救われるから教団の言う通りのことをやれと命令できるようになるわけだが、それを信じられる人が信者となるわけだから、たとえ外部から信者が教団に騙されていると指摘しても、それを騙されていると受け取るのは指摘する人の勝手であり、教団の外部の人がそう指摘しても信じてはもらえないだろうし、しかもそう指摘する人の述べている内容自体が信仰を捨てよとそそのかす悪魔の誘惑であり、そんな悪魔の誘惑に応じないことが信者にとって乗り越えるべき試練となり、悪魔の誘惑に打ち勝った者だけが死後の救済を得られると教えられていれば、信心深い信者なら悪魔の誘惑に打ち勝つことが自身に課せられた使命であり修行だと思うしかなく、実際に現世利益を求めて努力してもその努力が報われない世の中になっていれば、多くの人々が死後の救済を求めて、そんな内容を教義に掲げる宗教に帰依するしかないような成り行きとなり、そういう成り行きを阻止するには現世利益を求める努力が報われるような世の中にすればいいと考えるかも知れないが、そこに待ち構えているのが詐欺的な誘惑であり、大して努力しなくても利益を得られる仕組みに安易な人々が群がって、それが詐欺だとわかる頃には多くの人々が損害を被っているのだろうが、その一方で努力に絡んで出てくる問題となると、必ずしも努力した量に応じて利益を得られるとは限らず、それが努力の仕方にもよって、工夫を凝らさないと利益を得られないとも言えないが、そこに努力する時期やタイミングまで絡んでくれば、努力した上で、さらに運が良ければ利益も転がり込んでくるような偶然の要素や要因も考慮に入れなければならないとなると、単に努力するだけでは済まない成り行きになってきて、さらに努力している自分だけでどうにかなるようなことでもなく、他人と協力しながらも別の他人とは競いながら、さらには敵対する人や団体と戦いながら努力しなければならなくなると、現世利益を求めるのにもそれ相応の困難や試練を伴い、一筋縄ではいかないことになっているわけだ。
10月4日「日本への執念」
この世界の有様に関して疑念を抱く口実となるようなことを誰が知っているとも思えないが、抱くのは疑念ではなく幻想なのかも知れないし、疑念も幻想も似たようなことかも知れないが、少なくとも使い古されたネタとして疑念や幻想を抱いているとも思っていないだろうし、誰がそんなことを思うわけでもなく、疑念としても幻想としても、誰もが知っている陰謀論ぐらいしか思い浮かばないようなら、ニュースネタぐらいは新しいのを毎日仕入れておいた方が使い勝手が良さそうだが、それでも時事的な話題のどこが興味深いのかというと、特に思い当たる節もないなら、それが戯れというわけでもないが、例えば日本の将来を憂う仕草に関心があるかのように装いながら、何か語る口実を探してみたところで、大した口実も見つからないかも知れないが、日本とは関係のないところから世界がおかしくなっているような気がするなら、それがアメリカやロシアや中国やインドやヨーロッパやアフリカや中東や中南米やその他のアジアなどからおかしくなってきて、それらとは別に日本に特有のおかしさがあるかというと、探せばおかしなところがいくらでもあって、それをネタにして語り出せばいくらでも語ることができてしまうからきりがないかも知れないが、興味を惹かれるのはおかしいところなどではなく、曲がりなりにも日本という固有名が気になって、それを主語として何かを語り出せば、例えばそれが誇るべきことだとか称賛すべきことだとか、そんな方面で顕在化してくる物事や人物を好んで語りたい人たちにとっては、得意になって自慢したい日本的なアイテムがいくらでも出てくるかも知れないが、そうではなく逆に否定したいことや批判したいこともいくらでもあって、批判的な論調で日本政府や日本社会のおかしいところを指摘しようとすれば、むきになって反論してきたり、それを言わせないように圧力をかけてくる人や団体もいくらでも出てきて、そんな論調を好む人たちにとっては、それらの人や団体とはなるべく関わりたくはないだろうが、中には好戦的な態度で見え透いた討論番組やワイドショーの中で空疎な議論を戦わせている人たちもいるにはいるが、そういう態度が別におかしいわけではなく、そんなことをやってしまう人や団体も取り立てておかしいとは思えなければ、ではそれらの人や団体が何に含まれているのかといえば、それが直接日本に含まれているというと、そんなことなど当たり前すぎて思ってもみないかも知れないが、ならばそれらの人や団体が含まれている日本とは何かというと、それが日本のおかしいところを指摘して日本政府や日本社会を批判的な物言いで語りたい人たちが含まれているつもりの日本とどこが違うのかと問えるわけでもなく、それらが同じ日本であることは言うまでもないことで、しかもそこでは日本という固有名が問題となっているわけではなく、彼らが日本という言葉そのものに幻想を抱いているわけでもなく、では何に対して幻想を抱いているのかというと、日本と呼ばれる何かに対してであり、もちろん疑念を覚えるのも日本と呼ばれる何かに対して疑念を覚えるのだろうが、要するにそれを誇ってみせたり称賛の対象として捉える人たちが抱いている日本のイメージと、それとは反対にいつでも批判的な物言いの対象として捉える人たちが抱いている日本のイメージとが、必ずしも同じ対象として重なり合っているわけではなく、それらを同じ日本という言葉で括ってしまうとおかしくなって、時にはそれが対立や争いの原因となるのかも知れないが、同じ日本でも捉えている面や部分が違っているというと、何やらわかりやすくなってしまうが、そうではなく言説の対象そのものが違っているというと、俄には信じ難いだろうが、違う対象を同じ日本という言葉を使って表現しているから、それを混同してしまって誤解を生じさせているわけで、それが信じ難いことだとしても、その日本とこの日本は違う言説の対象であり、たとえそれが同じ日本政府であり、同じ日本社会だとしても、それを肯定的に捉えて誇ってみせたり称賛してみせる対象としての日本と呼ばれる範疇と、それを否定的に捉えて批判してみせる対象としての日本と呼ばれる範疇がずれていて、互いに重なる部分があるかのように思われても、実際には重なっておらず、にも関わらず同じ日本として言説の対象としてしまうと、真逆のことを語ってしまうから、そこで齟齬をきたして対立してしまい、結果的に空疎で噛み合わない議論を戦わせることになり、互いを理解できず誤解したイメージを抱いたまま仲違いしてしまい、いつまで経っても議論が平行線に終始するしかないとしても、それで構わない面もあるのかも知れず、実際に誇張や称賛の対象としての日本も、否定や批判の対象としての日本も、さらには議論の対象としても信仰の対象としても言説の対象としても、現実に存在しているらしい日本と呼ばれる何かからはかけ離れている可能性があり、それが疑念や幻想を抱く対象としての日本でもあって、フィクションの対象ともなっていて、日本が人々の意識の中で都合の良いように構成されていて、それが誇張や称賛の対象として都合が良かったり、また否定や批判の対象として都合が良かったり、さらに議論や信仰や言説の対象としても都合が良かったり、疑念や幻想を抱く対象としても都合が良かったりするわけだが、頭の中でその都度その用途に合わせて都合の良いように日本が再構成されるわけで、そうであるならその用途が違えば日本の構成も違ってきて、都合の悪い部分が省かれたり無視されてしまうから、各々で違う用途で持ち出された日本のイメージが違っているから、その違いを議論の中で戦わせても噛み合わないのは当然のことであり、それを理解しろと言っても無理な話なのかも知れない。
10月3日「批判しやすい人されやすい人」
何事にも面倒なこだわりを持ったひねくれた人よりは、何かと扱いやすくわかりやすい人の方が好まれる傾向にあるだろうが、それに類する方面で、例えば批判しやすい人にはどんな傾向があるかというと、一方的な物言いで主張をごり押しする傾向がありそうだが、そんな批判しやすい人を格好の標的にしてこれ見よがしに批判している人も、意外と一方的な主張をごり押しする傾向があるのかも知れず、それについてどっちもどっちだと言ってしまうと、それも批判しやすい主張に含まれてしまいそうで、そうやって一方的な主張がそれに対する批判しやすい批判を伴いながら人から人へと伝播していくわけだが、表面的にはそうだとしても、潜在的な領域ではある種の共同主観をそれらに関連する人々が共有していて、多くの人々が批判しやすい主張のレベルにとどまって自らの主張を展開していたいのであり、容易には批判できそうにない面倒なことを主張してしまう人をあらかじめ無視して排除した上で、誰もが簡単に批判しやすい人を格好の批判対象としてメディア上に温存しておいて、そんな批判対象として機能してしまう人が世間の注目を集めている限りで、その場の言論空間が成り立つような塩梅となっていて、そんな批判対象になることを厭わないで、わざわざそんな役柄を買って出る人まで現れると、大半の人はそれに気づかないかも知れないが、そうまでしてそういうレベルに固執して何か得することがあるのかと疑念を抱くかも知れず、またそんな状態を無理に維持すべきではないような気もするが、そこまでやる必要もないのに自覚なき演技を強いられてしまうことが、何によってそんなことをやらされているのかといえば、世の中の多くの人々が囚われている共同主観にその人も囚われているから、役割分担として批判の的となるように無意識の演技をするように仕向けられてしまっているのではないかと思いたいが、それが勘違いといえばその通りなのかも知れず、穿った見方や考え方の度が過ぎているようにも思われるものの、そう考えると何か愉快な気分になってくるから、たとえそれが勘違いに過ぎないとしても、疑念を抱きながらもわざと意識して感覚を間違った方面へと向かわせてしまうわけだが、その間違った方面というのが、人々が抱いている共同主観に身を委ねることになるのかというと、身を委ねている人が、それと自覚することなく批判されやすいことを言ってしまう人であったり、それを自覚なく演じている人であったりすると勝手に解釈してみても、誰からも同意を得られなければ、それが共同主観に基づいた解釈ではないことになるのだろうが、では多くの人々が共有している共同主観に基づいた解釈とは何かというと、批判されやすい主張が実際に批判されている中でそんな解釈がされていて、共同主観に基づけば納得できて妥当に思われる解釈となるだろうが、その自分が納得できて妥当に思われることが、自分以外の多くの人々も納得できて妥当に思われることであり、実際にも自分以外にも数多くの人々が納得していて妥当に感じているのではないかと思われるような解釈があり、それがもっともらしい解釈となるのだろうが、もっともらしい解釈というのが他の多くの人々も納得できるように思われる解釈であり、実際にメディアを通じて知れ渡っている解釈なのだが、そういう解釈の何がおかしいのかというと、何もおかしいわけではなく、それどころか常識に照らし合わせても極めて妥当なことを述べているように思われるのだろうが、実際にそれに基づいて批判がされていて、そんな批判されている中で言われていることであり、しかも言われていることが極めて妥当でもっともらしいのに、その批判の対象となっている人がおかしなことを言っていたりおかしな振る舞いに及んでいたりおかしなことを行なっているのであり、それが妥当でないおかしなこととしてまかり通っているから、それをもっともらしく批判することが真っ当に思われて、実際に真っ当な批判が行われているのに、それがなかなか改まらない状況となっているから、実際に批判している人たちが焦って余計に批判を繰り返すこととなり、そんな批判内容をこれまた数多くの人々が支持したくなるのであり、それらの人々は真っ当な批判によっておかしな現状が改まってほしいと思っているのだろうが、現実にはそうはならないし、相変わらずおかしな物言いや行為や行動がまかり通っているから、何か不条理感を覚えるのだろうが、おかしな物言いや行為や行動を強いられている人たちの方も自らの意志でやっているように感じられる限りで、それを正当化したいわけで、そうする限りでそれらの人たちの活動が成り立っているのだから、正当化しないと自らの非を認めたことになってしまい、そのまま活動を続けるには無理にでもそれを正当化せずにはいられないわけだが、それに対して真っ当な批判を行なっているつもりの人たちにしてみれば、それなりに説得力のある批判をものともせずに活動を続けようとしているのだから、それが一方的なことをごり押ししているように見えてしまうわけだが、無理なごり押しを強引に行なっているを批判するのは当然であり、批判の対象がおかしなことをやっているのだから、それを簡単に批判できるわけで、確かに批判できるとしても、一向にそれをやめさせることはできないから、そこで不条理感を覚えるのだが、なぜそうなってしまうのかといえば、容易に批判が可能な活動が世の中の主流となっていると言うと、多くの人々が納得し難いかも知れないが、逆に多くの人々が納得できるようなことをやろうとするとうまくいかなくなるのであり、それとは逆に相手の意表を突いたり隙を突いたり出し抜いたり脅したり騙したりしながら、それに対して当然のように批判されるのをものともせずに、真っ当な批判をかわしたり押し切ってやらないと、芳しい成果を得られないような世の中になっているのではないか。
10月2日「対立したい人々」
世の中で立場や境遇が違えば、一方の立場や境遇では間違っていることも、もう一方の立場や境遇では正しく感じられるならわかりやすいが、そうやって立場や境遇の違いで利害が対立しているように装われていれば、その装われた利害対立に基づいて主張を構成できて、その主張の中では何やら対立しているつもりの双方がお互いの立場や境遇を一方的に正当化できて、それが疑念を抱かざるを得ないとしても、とりあえずそういうことにしておかないと主張や立場を正当化できないからそうしているわけで、そんなとりあえずの利害に基づいたとりあえずの立場や境遇があり、それが定まった立場や境遇であり、その立場や境遇を占めていることを正当化したい人たちにとっては、自分たちの立場や境遇が強固に固定化されていると思っているはずだが、その場では確かにそうだとしても、長い目で見れば個々の立場や境遇が流動的に推移していると共に、その立場や境遇の人や団体も入れ替わりが激しくて定まっていないように見えるなら、それを長い目で見るような立場や境遇を正当化できるかというと、そんな立場や境遇も恒久的に定まっているわけではなく、確かに過去や未来に目を向ければ長い目で見ることができるとしても、現状の中で絶えず過渡的に推移する状況の中では、その場その時に利益を得ないとならないから、長期的な視点で身構えるわけにはいかない立場や境遇に囚われてしまえば、長い目で状況の推移を見ているわけにもいかなくなり、そうなると絶えずその場その時の範囲内で差異を作り出して、その差異を利用して利益を得るような成り行きとなり、そこで差異を作り出して、その差異をめがけて多くの人々が群がるように仕向けられてしまうと、他の人々も損するわけにはいかないから、利益を得るために差異を作り出すしかなくなり、そうやって利害心に囚われた人々が利益を求めて右往左往するようなことになれば、短期的に情勢が激しく揺れ動くことになるだろうが、それが具体的にどんな行動に結びつくのかといえば、例えば利益を得られる機会を求めて移動したり、また損害を被る危険から逃れるために避難したりと、その場に留まっていると損することが確実に思われると、態度変更や意見変更を迫られるわけだが、それが損得勘定に結びつけば確かにそうなるとしても、果たして政治的な主張によって態度変更や意見変更をもたらせるかというと、毎度おなじみのこのままでは大変なことになるから、あるいはもうすでに大変なことになっているから、今まで支持してきた勢力を変える必要があると促されて、実際に支持政党などを変更する機会がやってきているかというと、それが世論調査などによって明らかになることかも知れないが、主張だけではなく、情勢の変動に伴ってそれまで固執してきた態度や意見を変更せざるを得なくなれば、今までと同じ主張でも違った意味合いが生じてきて、それに応じて現状の態度や姿勢にも違う意味合いまで付け足されてくるかも知れないが、それが対立を煽られてそうなるなら、とりあえずの表面的な変更に留まるだけでは済まなければ、根本的な態度変更や意見変更を迫られるかというと、信念や信仰を動かされなければ、自己保存的な面では難を逃れたことになるだろうが、何がそうさせるのかといえば、単なる利害心からだけでは心を揺り動かされず、そういうところが対立を煽り立てる人にとっては当てが外れるところでもあり、利害より優先させなければならないことがあるとすれば、それが何かというと幻想であり、もちろん普通はそれを幻想だとは思わないのだが、逆に利益こそが幻想に過ぎないと思うわけもないだろうが、その場の成り行きでそうなってしまうというと、にわかには信じ難いだろうが、信じられないことが起こってしまうのが、実際にそれを体験してみても自覚できない可能性もあるから、信じられなくて当然だろうが、それが利害心を煽られて利益を得ることを目指したり、損害を被るのを逃れたりするのは当然だと思われても、実際に信じられないことを自らやってしまって、頭の中で辻褄が合わなくなって、何か矛盾したことをやっているような気がすれば、それが直接の利害心からかけ離れたことをやっているのを自ら自覚する時かも知れないが、利害心と言っても、一概にはこれだと言えないような様々な利害が複雑に入り混じっている場合もあるから、その辺で判断がつかないわけで、何を基準として利害と判断するかもままならず、ここでは確かに一時的には損害を被るかも知れないが、長い目で見れば得するように思われるなら、長期的な視点で利益を得られるように案配するかも知れないが、そう簡単にはいかない事情も抱えていれば、短期的な目先の利益を獲得しようとしてリスクを冒して行動に出て、結果的には勝ち目のない賭けに出て自滅してしまうとしても、今はそれでも構わなければ、果たしてどんな理由で構わないのかがよくわからず、それが後々になってわかってくるようなことであれば、何か理由もわからずに行動に駆られていて、それがどんな結果になるのかもわからないまま行動しているなら、自らの意志とは違った方面から作用や影響を及ぼされている可能性もあるだろうから、そういう面では自らの利害心とは無関係に行動していて、それでは納得できないし、やっていることがしっくりこないのは当然だろうが、それでも絶えず自信を得られず、疑念を抱きながら行動しているとすれば、結果がどうなるにしても、何らかの成り行きの途上にあることは確かかも知れないし、その成り行きが自身に何をもたらすとしても、その結果としてどんな立場や境遇になってしまうとしても、現状で先行きが不透明であるだけでも少しは未来に期待できるし、期待を裏切られることも覚悟しなければならないだろうが、それでも何かに導かれていることを信じて疑う気にはなれなければ、それを続ける以外にはあり得ないことになってしまうわけだ。
10月1日「面倒な事態」
人の感覚が捉えているその場の情勢と、その人自身が巻き込まれているその場の情勢が一致しているのは自明の理だが、それを意識の中で区別しているとすれば、何か他人事のようにして事態を観察しているだけでは、直接関わっているとは思えないが、そんな他人事に自身が巻き込まれていることには無頓着でいられても、一定の距離を介して観察者のような態度で接している事態に自身も巻き込まれていると思えないのは、観察するにとどまっている限りでそうは思えないわけだが、ではなぜそんな事態に巻き込まれてしまうのかといえば、それについて語ろうとするからで、語ろうとすることがそれに関わることになるかというと、他人事だと思えないから語ろうとして、確かに語ることと関わることは同じではないが、なぜそれで関わってしまったことになるのかというと、それについて語った分だけ関わったことになると言われれば、確かにそんな気はするだろうが、関わるつもりもなく語っているとすれば、意識の中では関わることと語ることを分けているはずで、少なくとも語るだけではそんなに深くは関わっていない程度の認識でいるかも知れないが、それはその人の勝手な認識であり、関わることなく語ることができるかというと、無責任に語っているつもりになれるなら、当人が勝手にそんな気になっているということであり、語る程度の関わりで済ませられるなら、直接事態に介入しているわけではなく、あくまでも語っているに過ぎないはずだが、例えばそれが名誉毀損に当たるとか訴えられて、裁判を起こされるような事態に発展すれば、否応なくそんな事態に巻き込まれてしまうことになるのだろうが、それが観察していた事態から発展した新たな事態なのだろうが、観察するだけではなくそれについて語ってしまったから、新たな事態に発展したことになり、それが当人にとっては思いもよらない事態であるとしても、すでにそれについて関心を抱いてしまった時点で、多少は関わってしまったのであり、それが語ることによってさらに観察対象との距離を縮めて深く関わることになり、そんな成り行きの中で、場合によってはとばっちりのようにして裁判沙汰となれば、観察してそれについて言及した事態の発展形態として新たな事態に当事者となって直接巻き込まれたことになるのだろうが、そうなるのは稀なことで、様々な条件や経緯や事情などが積み重ならないとそうはならないし、そうならなければ気づかないことでもあるが、大半はそうはならないから気軽に無責任にいい加減に言及できる対象があるように思われて、それが他人事と思われるほど安易に言及できて、直接には関わりたくはないが、興味を引くからつい言及したくなるのであり、その対象がフィクションであれば架空の物語の登場人物に関していくら言及しようと、どんなにおちょくってふざけた物言いで悪く言っても、架空の登場人物から訴えられて裁判沙汰になることもないし、せいぜいSNSなどでファン同士の罵り合いなどに発展するくらいなものだろうし、その程度で済むならそれに越したことはないわけで、それは現実に存在するプロスポーツの選手などにもある程度はその延長上でその専門分野から逸脱しない限りで言えることかも知れないが、さらには人物ではなく、商品などに関してもその機能や使い勝手や価格などに関して言えることが出てきて、その商品の専門分野から逸脱しない限りで良く言ったり悪く言えるわけで、さらにはその商品を製造したり売ったりする企業についても、その企業の代表者についても言及できるだろうし、そうやって何が良くて何が悪いかについて、あれこれと評価するに際しての判断基準を恣意的に設定しながら言えることが出てくるわけだが、そうしたことの延長上で政治に関しても経済に関しても言及している人が、メディア上にはいくらでもいて、世の人々がそういう方面へとの関心を向けさせられてそういう言説に囚われてしまうと、何か肝心なことに関して意識を逸らされているように感じられるわけでもなく、それが意図的に逸らされているとは思わないし、別に権威的な誰かが、あるいは黒幕的な組織や団体の意向でそうなっているわけではなく、誰もが気軽に安易にいい加減に関心を向けても構わない領域というのがあるように思われて、もちろん意識してそう思われるわけでもないが、そういう領域の中で言及している限りは世間的には許されるが、そこから逸脱してしまうと途端に無視の対象となってしまうわけでもなく、ただ単に世の中の多数派に属する人々の関心を惹かないだけかも知れないが、その世間の関心を惹くか惹かないかに関して、わかりやすい基準があるわけでもなく、それは人々の勝手な判断に任されていて、もちろん自由な判断というわけではなく、権力や利権関係などから様々なバイアスがかかっている中で判断するのだが、それも前もって言及が可能な範囲が権威的な機関や権限を持った役職の人物によって設定されているわけでもないから、それに関して言及するのは当人の勝手に任されているように見えても、少なくとも言及してみないことにはどんな反応が返ってくるかは、事前にはわかりづらいだろうし、それでもある程度は目星をつけて、他の人々が関心を持つようなことを語ろうとするだろうし、例えば現状で流行っている物事について言及すれば、好意的あるいは否定的な反応が返ってきやすいと思うから、それについて言及したがるのだが、そう思っている時点で現状で流行っている現象に巻き込まれていて、もちろん意識して巻き込まれていることを自覚できなくても、何となくそれがわかっていて、それが自身から言い出したことではなく、他人の言及に対する反応として語っていることであれば、それを自覚することなく他人が語る言説にも巻き込まれていて、そういうところから他人との一体感を感じられて、それも多くの人々が同じようなことに関して言及しているなら、それについて自分も言及しても大丈夫なような気にもなるだろうから、実際に他の多くの人々と同じようなことを語っている限りは、何か世間的に許される範囲内にとどまっているように感じられて、他の多くの人たちがそう言っているのだから、自分も言っても構わないような気になってしまうのだが、そこで当人に他の人々とは違う何かつけ込まれるちょっとした差異があると、場合によってはそこを突いて攻撃を仕掛けてくる人や団体も出てきて、それが裁判沙汰に発展する事態にもなるのではないか。
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