彼の声152
2022年
9月30日「危機的な惨状」
何か煽動的な物言いの人が世界が危機的な事態に陥っていると騒ぎたいのは毎度のことで、それをメディアを通じて知らせたいのだが、知らせてもわかってくれないというか、それが危機ではないと主張したいわけでもないが、たとえ危機が到来しているとしてもその程度や傾向は多種多様で、大して深刻だとも思わなければ、思うも思わないも、実際に危機に直面していなければ、危機だと思ってみても実感が湧いてこないし、他人から知らされてそう思うのと、自分で直接実感するのでは、感じ方も受け止め方もその深刻度も違うのは当然で、他人から知らされるだけでは、たとえそれを真に受けたとしても、危機意識が間接的なレベルにとどまるから、それほど情勢を深刻に捉えていないわけでもないだろうが、意識の中では大変なことが起こっていると思っても、それが直接の行動を伴わなければ反応としては大したことはなく、全くスルーするわけでもないが、頭ではわかっていても身体が反応を示さないというと、ではどうすればいいのかというと、被災地に赴いて人助けのボランティア活動をするとか、現地の惨状をメディアを通じて伝えるとか、そんな人も中にはいて、そうなればわかりやすいが、そうはならず、それどころか部屋の中でソファーに寝っ転がりながら、スマホで現地の危機的な情勢を伝える動画を見ているだけでは、何の危機感も伝わっていないわけではないが、伝わっているとしても、伝わった人がそれに反応して何か行動を起こすわけではなく、危機的な情勢に陥っている現地というのが、部屋の中でソファーに寝っ転がっている人が住んでいる地であれば、それだけでは危機の程度や傾向がわからないが、別に危機のただ中であってもソファーに寝っ転がっていられる時もあるかも知れないが、例えばそれが災害や戦争というわけではなく、経済危機であるなら、もちろん災害や戦争に連動して経済危機も起こるが、経済危機のただ中でソファーに寝っ転がっていられることが、ことさらにおかしいわけでもなく、ソファーに寝っ転がっている状態と経済危機を結びつけるのも意味のないことだが、比喩としてそんな状態を思い浮かべることはできるだろうし、それがどんな状態なのかといえば、経済危機が起こっても大して痛手を被っていない状態とでも想像しておけばいいが、人それぞれで境遇が異なるから、自分と異なる境遇の人のことをどう思ってもその人の勝手だが、そうではなく社会全体をどのような状態に保つべきだとか、そういう方面へと思考を働かせるなら、それが人為的にやれることなのかどうか疑問に思うだろうが、公的な制度や法律などを整備して実現できる状態を思い浮かべて、それを政治活動や市民運動などに結びつけて考えるなら、それを実現すべきこととして政治目標に掲げる場合もありそうだが、なぜそれを危機的な状態から考えようとするのかといえば、危機に陥ればその原因と共に問題点が顕在化してくるわけだが、現状では経済危機が政治危機でもあり、政治危機が経済危機を招いているが如くに事態を単純化して捉えている場合もありそうだが、政治と経済が連動して危機をもたらしていることは確かだとしても、連動しているように語らないとそうはならず、政治を批判する目的でそう語っている場合もあるから、微妙に経済情勢とずれてきて、何か政治に主導的な役割があるかのように錯覚してしまうかも知れないが、政治を批判する人がそれを錯覚だと思うわけもなく、経済危機の中で苦しんでいる人々を政治が助けなければならないと考えるなら、そう考えることが当然視されているとしても、それが政治に課せられた使命となるはずで、経済危機に政治危機を結びつけて語ろうとするから、そうやって政治が率先して行わなければならない課題が浮かび上がってくるわけだが、何もやらずに済むならそれに越したことはないが、何もやらないことを批判しても構わないどころか、積極的に批判すべきであり、そこから両義的な解釈が可能となってきて、例えば政治の怠慢のせいで経済危機がより一層深刻化したと主張しながら、経済危機を利用して政治的な主導権を握りたいという思惑が透けて見えるとしても、危機的な事態となっていることを煽り立てて、それを真に受ける人々の賛同を得ながら政治的な主導権を握りたいわけだから、戦略的な物言いとしてやはりそんな思惑が透けて見えるなら、何か微妙に白々しく感じられて、どうも実態としてそうではない面を強調したくなってしまい、要するに経済の発展が経済危機をより一層深刻化させて、経済の発展が経済的な不平等や格差をより一層拡大させていることに着目するなら、経済は経済危機を招いてそれを乗り越えることによって発展してきた経緯があり、経済は危機的な状態を経ないと発展できないような仕組みであり、一方的に右肩上がりに一直線には発展できないから、途中で必ず危機的な時期が訪れるわけで、そんな時期を狙って行動を起こしているわけではないものの、それを政治利用して主導権を握ろうとする試みも想像できるだろうが、それを利用したい側はそうは思わないわけで、政治の無策やひどい政策が経済の停滞を招いたとする主張を何とかして信じさせたいわけだが、そうなると循環的にやってくる経済危機とは別に、あるいはそれと連動して、政治がおかしな政策を推進してしまったから、より一層の経済的な悪化を招いたと説明したいわけだが、現状に照らし合わせてそういう説明で納得できるかというと、納得する人も少なからず出てくるとしても、それよりは経済危機は政治情勢と関わりなく、あるいはそれと連動することもあるものの、周期的にやってくるものだから、それに応じてやるべきことがあるという程度で済ませても構わないが、成り行きとして政治ではどうにもならない面もあり、経済危機を狙って何かを仕掛けるとさらに事態をこじらせる場合もあるから、そうなった結果から事の良し悪しを云々するとしても、それ自体が直ちに情勢の理解に結びつくとは限らず、それどころか微妙に的外れなことを述べている可能性が高いのかも知れない。
9月29日「制御の矛盾」
現状でわかっていることは誰も現状で起こっている事態を制御できていないということではなく、その人の立場や地位やそれらに伴って生じてくる権限や能力に応じてある程度は制御できて、制御できる範囲内でその人の活動が成り立っているように見えるかも知れないが、その人の権限や能力を超える力が他から及ぼされている場合もあるから、その人自身が他から制御されている面もあり、他から制御されながらも自らも制御しているから、制御しているのに制御されているという状態で、制御自体が制御という言葉の意味を裏切っていて、その場を仕切っている人がいても、仕切っている範疇から外れる面は仕切れていないわけで、何かをやっていても同時に何かをやらされていて、やっている面とやらされている面が同じ行為の表裏を構成していれば、能動的にやっているのに受動的にやらされていることにもなり、当人が自主的にやっている気でいても、その場の情勢にやらされていて、それをやるように仕向けられているから、それを結果から見れば、その人がこれこれこういう環境下や条件下に置かれると、特定の行為や行動を起こすようにあらかじめプログラミングされているように見えてしまう場合もあるかも知れず、それは人や集団だけでなく、物や情報の動きや価格の変動にも言えることだが、そういう条件反射のような行為や行動を他の多くの人たちも無自覚にやっていながらやらされている状況の中で活動していることが心地良いなら、逆にそういった条件反射に従わない人や集団が疎ましく感じられて、そんな規則に従わない人や集団を攻撃したくなってくることも、その種の条件反射には違いないわけで、その種の条件反射的な行為や行動に関して納得できるような理屈があるかというと、俺たちがやっているのだからお前たちもやれと同調圧力をかけてくるということであり、それが有形無形の威嚇や脅しなどにつながるとしても、なぜそれに従いたくないのかといえば、道理に反していると思われるからだが、その道理というのが両義的に受け取られて、同調圧力をかけてくる側も自分たちのやっていることに道理があると思う一方で、それに抵抗して逆らう側にもそうすることに道理があると思われるから、どちらの道理を優先させるかということではなく、どちらの道理も優先されるから対立や争いが起こることでさえも道理に適っていると言えるが、それをどう捉えても同調圧力や威嚇や脅しを加えている側が無理強いやごり押しをしていることは明白であり、道理に適っていないからそんなことをやらざるを得ないと言えてしまうが、それでも条件反射としてそんな行為や行動を起こしてしまうわけだから、そんなことをやることに関しても切実な事情や経緯があるように思われて、それが何なのかを明らかにしたいわけだが、そこに理性では抑えきれない衝動があり、その衝動が人や集団を一定の傾向や方向へと駆り立てると言えるかも知れないが、それがそうした傾向や方向に駆り立てられている人や集団を制御して、それを体現する行為や行動を行わせているのだろうが、それをやっている人や集団にしてみれば自主的にやっているわけで、そうすることが自明の理であり必然だと思うかも知れないが、実際にはそんな条件反射の傾向や方向に逆らうことが、人類の社会の発展を促していて、それが現状でも起こっていることだから、それと自覚することなく条件反射に従いながら社会に同調圧力をかけている側としては不条理感を覚えるのかも知れず、自分たちの行為や行動がそれに逆らうように仕向けているわけだから納得がいかず、しかもそれが社会の発展を促していて、条件反射に逆らうことでしか社会の多元性や多様性が実現しないわけだから、それ自体が社会を間違った傾向や方向へと導いているように思われて、条件反射としてそういう傾向や方向へ逆らうようにプログラミングされているのではないかと思うわけでもないが、そうはならないように同調圧力や威嚇や脅しを加えざるを得なくなるのだろうが、それがどんな理屈や論理に従った行為や行動になるのかというと、社会の現状を維持するような理屈や論理になるわけで、しかもそうすることが社会を維持するどころか衰退を招いてしまうわけだから、もちろんそんなことは信じ難いし、自分たちの行為や行動が社会の衰退を招いているとは断じて認められないわけだが、それが保守派と呼ばれる人たちが抱え込んでいるジレンマであり、それをジレンマだとも思っていないし、そんなことは産業の発展が解決してくれると思いたいところだが、その一方で自分たちが制御できない傾向や方向へと産業が発展していくことに気づいているのかというと、気づいていないから科学技術の発展に関しては手放しで賞賛しつつも、それが自分たちを利することを信じて疑わないわけだから、自分たちの頭の中が能天気でお花畑だとも思わないだろうが、だから保守派が駄目なのではなく、そんな保守派がいないと困る面もあるわけで、逆らったり乗り越える対象として保守派には利用価値があり、絶えず社会の発展の邪魔をして、これまで通りのしきたりに従えと同調圧力をかけてくる保守派がいないと、そういう圧力に逆らい、それを跳ね除けて社会を発展させようとする動機が生じてこないわけで、だからその種の条件反射に従わせようとする保守派の力が増してくると、それに抵抗して対抗する力も増してきて、その力を絶えず拮抗させていないと、保守派に押し切られて社会が衰退してしまうから、そんな衰退に歯止めをかけるには抵抗勢力の力を増強させる必要に迫られるのだろうが、それを理解していない人が多すぎることが現状で衰退を招いている原因なのだとしても、そういうことは理解させようとしてできることではなく、実践として社会の同調圧力に逆らうことでしか実現できないことであり、それが人為的な制御が利かないことでもあるわけだ。
9月28日「無根拠なこだわり」
懲りずにまた何を狙っているわけではなく、それも物は言いようなのだろうが、不意を突いてそうなるのはいつものことで、出し抜かれたと思ったらもう乗り遅れているのであり、そんな時でも気休めに自分を信じろと言い聞かせて強がってみせるのだろうが、前もって物事のわかりやすい構図が提示された時が罠にかかっている時であり、知ったかぶりの識者がこうだとばかりに講釈を垂れて、得意になってもっともらしい解釈を示してきたら、そんな講釈や解釈に騙されてみた方が身のためで、そんな態度で構わないのかといえば、騙されていることを自覚できないのだから、その通りだと思うしかなく、すでにその種の識者の言うことを信じきっているのであり、愚かさのただ中で理路整然とその場の成り行きを説明できるような気がして、それが事後的に辻褄が合うように調整されたフィクションであることに気づいていないわけだが、そこで何か見落としていることがあるなら、それがその場で否定的に捉えられた説明の対象に関する込み入った事情であり、説明のわかりやすさと引き換えにしてそれが無視されているわけだが、無視しても構わないようなことだから、無視されてしまう事情なのだろうが、果たしてそれを無視した上で成り立っているフィクションが、信じられるような代物なのかというと、信じても構わないのであり、フィクションを語る識者の類いを信用して騙されていれば、その場で起こっている物事をやり過ごせるのかも知れないが、絶えずその種の識者が物事の本質から外れた枝葉末節な方面へと人々の関心を誘導していて、そこで起こっていることの無根拠さを感じ取れないようにしているというと、そんなことはないと思うかも知れないが、それが何か根拠のあることだと信じているわけではなくても、その根拠を当然視していて、それを前提にして説明のわかりやすさへと導かれているから、そんなフィクションが本当に起こっているかのように思い込まされているのであり、それで構わないから、無根拠な何かが偶然に起こっている現実から目を背けていられるのであり、どうして構わないのかというと、それに気づいてしまうと説明の対象となっているフィクションが信じられなくなってしまい、そうなってしまっては困るから、そこで起こっている無根拠な何かから目を背けずにはいられなくなっていて、目を背けていることにも気づいていないわけだが、目を背けていること自体がフィクションかも知れないが、何から目を背けているつもりもなく、目を背けずにはいられなくなっていることを認識しておらず、それを認識していないのに目を背けているなどあり得ないが、それが近視眼的に関わっていることしか眼中にないわけだから、その関わっていることに目を向けていれば、当然それ以外のことには目を向けていないように見えてしまい、その近視眼的に関わっていることが枝葉末節なことであれば、木を見て森を見ていないことになり、別に見えていない森が目を背けている対象とはならず、それが見えていながらその全体が見えていないだけなら、見えていないからといって致命的な過ちを犯しているわけではなく、その一部を構成する木そのものが見えているだけでも安心できそうだが、識者も煽動者も自身が関わっているつもりの枝葉末節で些細なこだわりや差異へと人々の目を向けさせたいわけで、それが木を見て森を見ない事態を招くわけだが、そうすることで物事の本質を捉えたつもりになれるかというと、識者や煽動者の言っていることを真に受ける人の中には、そのつもりになっている人も少しはいるかも知れないが、それが枝葉末節で些細なこだわりや差異に過ぎないことに気づいた人にとっては、取るに足らないみみっちい物事へと興味や関心を向けさせられて、それを大げさに捉えるなら、洗脳されそうになっていると騒ぎたいかも知れないが、そこへと興味や関心を向ける全ての人が洗脳されてしまうかというとそうでもないし、その程度や傾向も人によってまちまちで、そこへと興味や関心が向かない人も結構いて、逆にそんなふうにどうでもいいようなことに興味や関心を抱くように仕向けてくる識者や煽動者を馬鹿にしたい輩もいくらでもいるから、そういう輩がアンチな層を形成していくわけだが、そのアンチな層の言い分に当の識者や煽動者が理解を示すかというと、理解を示すどころかもちろん馬鹿にしたがるわけで、実際に文句を言ってくる浅はかなアンチを小馬鹿にして話のネタに使うわけだが、そういうやりとりも含めて取るに足らないみみっちい領分でやっていることであり、それ以外の広大な領域の中で行われていることが話の中では無視されていて、そんな無視されている領域で行われていることが、何か識者や煽動者とそのアンチな人々や信者たちの間で行われているやりとりに絡んでくれば、無視できないことになってくるのだろうが、いったんそれにこだわったり関わってくれば、どうでもいいことでも枝葉末節なことでもなくなってくるわけで、それにこだわったりそれに関わることがその人にとっては重要なことになり、そこからその人にとっては切実な事情や経緯も生じてくるわけだが、そうなるとそれが取るに足らない些細でみみっちいことだと思っている人には見えてこない物事が見えてくるのだろうが、その見えてきたそれが興味深くて魅力的に見えるなら、その物事の虜になってしまったことになり、そういう物事を煽り立てたりそれに関連して騒ぎ立てるような行為も出てきて、そういう物事に関心を示さない他の人々の姿など眼中にない事態にもなってくるだろうが、そこまで事態が進展してしまえば、そういう方面の専門家になったと言えるかも知れないが、果たしてそういう成り行きを嬉々として語っている人たちを信用できるかというと、そんなことには興味がなければ無視できるだろうが、他にもそんな人などいくらでもいることを考慮に入れるなら、無理して無視する必要もなく、その他大勢の見物人の如くに接していれば済んでしまうことでしかないわけだ。
9月27日「亡霊の仕業」
人によっても立場によっても時と場合によってはどうでもよくはないのだが、どうでもいいような空疎な儀式に何の意味があるのかはわかっているつもりであっても、気づいていないところで思いがけない意味や経緯や事情がまとわりついてくると、人によっては驚き慌てるかも知れず、そんなことまで気にする必要はないと思いつつも、面倒な人たちが面倒なこだわりと共に面倒なことを仕掛けてくれば、それに呼応してくだらない想いに囚われている人々が、執拗に馬鹿げた動作を押し付けてくる場合もあり、そんなことにこだわってしまっては、動作を押し付けてくる人や集団の思うツボだと思っても、無視するに越したことはないが、中には無視できない事情もあって、中身のない空疎な人ほどそれに従おうとする傾向もあり、過去の亡霊に取り憑かれた人々がまるで夢遊病者のような動作で儀式空間を共有しているように見えて、それが身勝手に思い描いた印象というよりは、それを伝える映像からそういう印象を受け取ってしまうから、妙にリアリティを感じさせ、空疎に飾り立てられた儀式空間が嫌な印象をさらに増幅させるのだが、それ自体はそうだとしても、それだけでは意味をなさないから、法律だの制度だのの存在を当然視した上で、それが当たり前のようにして行われて、それをどうするにしても理由づけとして利用されて、それに関する理屈と共に正当化されるわけだが、行われていること自体ではなく、それをやるに当たっての理由や理屈の是非を判断材料にしようとするから、それ自体の空疎でどうでもいいような儀式の内容を問題視せずに済んでしまうところが欺瞞なのであり、法律がどうたらこうたら言っている人たちにはそういうところがわかっていないのであり、結局はそれに対する単純化された賛否の論理を押し通すことによって、そんな理由づけでうやむやにされて、肝心なところがスルーされてしまうのだろうが、それが肝心なところだとは思われないし、実際にも肝心でも何でもなく、ただの空疎な儀式の内容に過ぎないのだろうが、そんな形骸化された無内容だとしてもやる意義を見出すなら、浅はかな人なら儀式の対象者の神格化だとかもっともらしく主張したいのだろうが、実態としてはそんなことでさえも枝葉末節なことであり、そんなことを執り行っている当事者でさえもそれを理解していないかも知れないが、それが何でもないことであるのを受け入れ難いから執拗に儀式を執り行うことにこだわってしまうのだろうが、儀式を執り行うこと自体も何でもないことでしかないのを理解できないから執り行うわけで、結局は無駄に予算や経費をかけて人を大量動員して、それが意義のあることだと見せかけたいのだが、見せかけているだけで中身が空疎なのだから、意味も意義もない空疎な儀式でしかないのだろうが、そこに参加する人たちは相変わらずそうではないように装いながら、何か意味や意義があることのように見せかけながらも、そんな装い自体が空疎で無意味な儀式でしかないことを隠そうとして、何やら意味あり気にその場を飾り立てて、その空間の雰囲気を何か重みがあるかのように取り繕うのだが、それ自体が意味や意義のなさを物語っていて、何でもないところに意味づけや理由づけをしているだけで、要はその何でもないということをひたすら認めるのを拒んでいるに過ぎず、それが何でもないことがわかってしまうとまずいから、そこでやっていることに意味や意義があるように見せかけようとしているだけで、もちろんそれを意識してそうしているわけではなく、それをやった結果からわかることでもなく、それをやっている当事者にはわからないのであり、自分たちがどうでもいいことをやっているつもりもないだろうし、結果的にどうでもいいことになってしまうのをそれをやっている最中には知り得ないから、その場では平常心を保っていられるのだが、しかもそれをやることによって達成感も得られるだろうから、やった者勝ちな勝利者の気分にもなれるし、敗者と見なした儀式を執り行うことに対して反対する者たちに不快感を与えられたのだから、それだけでも意義や意味のあることになるだろうから、してやったりな気にもなれて、そういう面ではやった方が良かったことにもなるだろうし、そうした勝利者気分に浸っていられるのも、歳月の経過と共に高揚感が薄れていくから、次なるイベントを仕込まないことには気が済まなくなり、その機会を狙って空疎な儀式を執り行おうとして手ぐすね引いて待ち受けているわけだが、それをやるに当たって周囲の迷惑を顧みずに、それどころか周囲の人々に迷惑をかけて嫌な思いをさせながら強引に儀式を執り行うことに意義や意味があるわけだから、そんなことをやること自体がそれをやっている当事者たちの権力や権勢を誇示することになるわけで、それが真の目的だと言ってしまうと、その通りには違いないのだが、もちろん誰もそれが真の目的だと自覚しているわけでもなく、それが真の目的だと認めるわけでもないが、もっともらしい口実を挙げてそれを執り行っていること自体も、それが口実などではなく、それ自体が真の目的なのだと信じて疑わないだろうが、それも結果からわかることであるにしても、それがわかった頃にはもうそんなことは忘れているわけだから、真の目的など明らかになることもなく、それを執り行っている当事者が自分たちの真の目的を自覚できないうちに、この世から消え去ってしまうこと自体が、別に不条理というわけでもなく、それこそ自覚なき勝ち逃げとも言えなくもないが、果たしてそれで勝ち逃げが成立するのかというと、結局は後の時代から振り返ってみると、それも振り返る価値もないことでしかなく、そこでどうでもいいような茶番劇の当事者たちが自らの行為や行動の真意すら知らぬまま右往左往していただけのことであり、そんなことに意味や意義を見出すのも憚られるような無意味なことをやっていたに過ぎないことになってしまうのではないか。
9月26日「負の連鎖」
比喩表現としての警鐘を鳴らすとは、何かの前兆を察知したつもりになって鳴らすものだが、それが何の前兆なのかが微妙なところだが、すでに前兆どころではなく、その現象の真っ只中で鳴らしているとすれば手遅れで、時すでに遅しとなるはずだが、元から警鐘など鳴らす必要もなく、杞憂に過ぎなければ手遅れでも何でもないのだろうが、その必要もないのにやたらと警鐘を鳴らしたがるのはオオカミ少年の所業で、的外れなことを警告したがる識者の類いも迷惑極まりないわけではなく、絶えず危機的な状況が襲来していないと商売あがったりには違いなく、的外れだからこそ危機が襲来して、警鐘を鳴らすタイミングを逸してしまうからこそそれが危機なのであり、危機を事前に察知したところで防ぐ手立てなどなく、かえって的外れなことを警告してしまうから、さらに危機の度合いが高まってしまえば、役立たずなどころか害悪さえもたらしていることになりそうだが、それも杞憂に過ぎないとすれば、では何のために警鐘を鳴らしているのかといえば、危機が過ぎ去ってからそらみたことかと言いたいがためにやっていることかも知れず、事前に危機の襲来を言い当てたことを吹聴したいがために、何かというと警鐘を鳴らしたいのかも知れないが、それこそが的外れなやっかみに過ぎなければ、彼らが本当に間近な危機の襲来を察知していて、実際にこれから危機的な状況がやってくるから、彼らの言うことを素直に受け止めて、危機の襲来に備えなければならないのだろうが、本気でそう思っているわけではなく、逆に耳を貸しているように装いながらも、隙を突いて攻撃を加えたいのであり、ここぞとばかりに調子に乗って警鐘を鳴らしているつもりの勘違い野郎を叩きのめしたいのだろうが、そうなるとそもそも戦う相手を間違っているような気もするのだが、率先してそういうことをやりたい輩も世の中にはいくらでもいて、滅びの前兆がそういう輩の存在や言動と共に感じ取れるわけで、それがそういうことやりたがる輩が滅びる前兆として、攻撃が行われていることになれば、では攻撃の的となっている人や集団は滅びないのかというとそうとも限らず、両者が共倒れとなるような結果を見れば、なるほど危機の襲来とはそういうことだったのかと納得できるかも知れないが、危機を前にして危機を煽り立てる人や集団が内ゲバを招いて共倒れとなってしまう結果が前もって仕組まれていたとは思えないし、そうなるのを狙ってそれらの輩がわざと警鐘を鳴らしていたわけでもないだろうが、内ゲバの兆しが見え始めた時点ではまだ共倒れとなると決まったわけでもなく、誰にとっても不確実な予兆から何を感じ取れるかが、彼らのその後の命運を左右するとも思えない時点で、どんなに警鐘を鳴らしてみたところで聞く耳を持ってくれるとも思えず、たとえ聞く耳を持ったところで、彼らの能力を超える事態であれば対処のしようがなく、聞く耳を持つだけ損だと思うわけでもないが、連鎖反応としてそうなるわけで、それが否定的な結果をもたらせば、そうなった結果から負の連鎖が起こったと判断されるところだが、内ゲバの様相を呈している時点では、そうなるとは誰にも予想がつかないから、実際にそこで争いが起こり、争っている当事者としても、自分たちが内ゲバの最中だとは夢にも思っていないのかも知れず、要するに似た者同士で争っている感覚ではなく、主張や意見がお互いに対立し合っていると勘違いしているのかというと、それを勘違いだとは思えないから対立しているわけでもなく、そもそも勘違いではないわけで、逆に主張や意見が似通っているから、それが対立する原因となると思っておくのが無難なところで、危機を前にして似たような主張や意見を戦わせて自滅してしまう人や集団がいつの世でも現れるのだろうが、それが危機なのかというと、結果的に自滅してしまう人や集団にとっては危機なのだろうが、争っている最中では結果がわからないわけだから、争い自体が危機を招いているとも思えないだろうし、もっと何か危機が別のところにあると思いたいわけではなくても、結果的にはそう思っていると仮定すると辻褄が合ってしまうから、内紛を招いて自滅した人や集団がそれを判断するわけではなく、結果的に無用な争いを避けて自滅を免れた人や集団がそう判断するしかなく、それもそう思ってしまう人たちの勘違いなのかも知れないが、事の真相は藪の中というか、藪の中だと思いたいだけかも知れず、わかりきったことをわかりたくないだけで、わかりきっているのにあえてわからないふりを装いたいのかも知れないが、そういう配慮が何に対して配慮しているのかも謎だと思い込みたいのかも知れないから、相変わらず真相は藪の中だと思っておいても構わないが、対処しようのないことに対処させようとして、間近に迫った危機の到来を告げているわけではなく、中には対処法を示している人もいるわけだから、そういう人の言うことを聞いて対処してみればいいことだと割り切ればよく、そういう方面ではそうだとしても、相変わらず危機が到来するぞと煽っている人の言うことに聞く耳を持つ必要はないのかというと、すでにそういう方面でも対処がされていて、その対処法というのがその種のオオカミ少年を叩いて攻撃することになるのだろうが、聞く耳を持たないことがすでに攻撃の一種だと受け止められているとも思えないが、そういう煽り立てや騒ぎ立てに対してわざと間違った解釈を施すことも攻撃の一種かも知れず、もちろん攻撃しているとも間違っているとも思えないのだから、勘違いしているとも思っていないだろうが、ひねくれた解釈を施しながらも、そうではないかと薄々勘づいているわけだが、そういうところまで考慮に入れても何が明らかになるとも思えないが、広い意味でスポーツに関係する競技というのがそうした内ゲバを象徴していて、似た者同士の争いに興奮している人たちが、それと意識せずに団結して守ろうとしている物事が、政治に関する争いにも現れていると解釈しておけばいいわけではないが、それが間違った解釈だと指摘できるわけでもなく、それ以前に無視されてしまうことでしかないが、無視されても一向に構わないわけだ。
9月25日「道具的な思考」
それがどんな装置なのかはケースバイケースだが、一つの目的から一つの装置が生じると考えれば、そう考えた時点では何か合点がいくような気がするのだが、それは道具的な思考と言えるだろうが、もちろん多目的な装置もあるだろうから、一概に言えることでもないのだが、何かを行うのに便利な道具があって、その道具を使えばそれを簡単にできたり効率的に行うことができれば、少なくともその道具の有用性は認識できるはずで、それが何に対しても有用で万能な道具というわけではなく、ある一つの目的だけに有用であるなら、その目的を遂行するにはその道具の使用が必要不可欠になるわけだが、その目的だけに有用であるのに、いつの間にかそれが万能であるかのような印象を獲得してしまうと、何かおかしな事態を招いてしまい、その良い例というか、実質的には悪い例なのかも知れないが、例えば監視カメラに万能性があるかというと、街中が監視カメラだらけになっているとすれば、確かに監視するには監視カメラが必要不可欠なのだが、それによって個人のプライバシーが侵害されているなら、実質的には害悪となっているわけだが、その一方で絶えず監視されていると思い込んで、悪事を働いても監視カメラの映像からすぐにばれると思わせることによって、犯罪を予防したり、犯罪者を特定するのに有効活用されている面もあるだろうから、そういう面が強調されると街中を監視カメラだらけにすることが正当化されて、実際にも監視社会となっている面があるだろうが、果たして監視カメラが犯罪行為だけを監視しているかというと、他の行為もカメラに映し出されるから、悪意を抱いて他の目的に悪用されたらたまったものではないと思うわけで、そういう意味では監視カメラが万能であるはずがないのだが、自分たちが社会を統治する側だと思っている治安機関の一員であるなら、刑務所の看守のような役割を念頭におきながら、絶えず社会に暮らす人々の動向を監視していたいだろうし、もちろん監視するだけでは飽き足らず調査する目的もあるなら、世の中の動向を調査する目的でメディアが世論調査を行なったりするように、監視するだけではわからないことを調査によって明らかにしたいのだとしても、監視したり調査する目的が、世の中の動向を知りたいだけで何の利害も伴わないかというと、そういうことをやっている人や団体の目的によってそれが明らかになるだろうが、目的だけのためにそんなことが行われているとは限らず、目的そのものが明確でなければ、惰性で行われていたり、慣例に則って行われているなら、それが慣習と化していて、確かにそれをやり始めた当初においては明確な目的があったにしても、それをやり続けているうちに次第に目的意識が薄れてきて、何のためにそんなことをやっているのかよくわからなくなってくるようなら、やっていることが形骸化しているわけで、それにはっきりした意図や思惑や目的などがあるかのように見なすと当てが外れてしまい、そうなると目的が本来の目的として意味をなさないようなことにもなりかねず、何のために監視しているのかというと、ただ監視するために監視していたり、何のために調査するのかというと、ただ調査するために調査していて、監視すること自体が目的であり、調査すること自体が目的となってしまえば、そうすることに何か意味があるのかと問いたくなってしまうが、何も問われなければ惰性で続けられるようなことであり、そうなってしまうことに逆らって何か主張したいなら、利害関係からもっともらしい理由を推測したくなるのだが、それが後付け的な理由の捏造であり、もちろんもっともらしい理由を挙げて批判の言動に及んでいる人にとっては捏造でも何でもなく、本気でそういう理由でやっていることだと思い込んでいるわけだが、そういう理由をこうだと断言してしまう人にとってはそうだとしても、それをやっている当事者にしてみれば、その自覚がない場合もありそうで、しかも何らかの機構が組織的にやっていることであれば、個人的な理由づけなど受け付けないだろうし、それを強引に批判しやすいような理由を決めつけて批判している場合には、そうしないと批判が成り立たないからそうせざるを得ない事情が推測されてしまうと、そんな理由づけや批判を真に受けるわけにはいかなくなるわけだが、実際に街中に様々な装置が仕掛けられていれば、それらの装置を機能させる目的が推測されるだろうが、そんな装置と共に何らかの組織的な集団が活動していると、組織を機能させるために装置が仕掛けられているのとは裏腹に、装置自体の目的がそのままダイレクトに組織の活動目的とは重ならない場合もあるかも知れず、確かに装置も組織が抱えている人員も、組織が活動するに伴って組織の道具として機能しているとしても、その一方で様々にある組織の目的の一つが組織自体を維持するということであれば、組織が抱え込んでいる様々な道具の中の一つがたとえ機能しなくても、組織を維持するという目的にとっては、それほど支障をきたすわけでもなければ、それが組織にとっては枝葉末節な役割でしかないのだろうが、意外とそれが組織の中で指導的な役割を果たしている人の意志であったり思惑であったりするわけで、その人の目的でどうであろうと組織が社会の中で一定の機能や役割を果たしているなら、その人の目的とは関係のないところで機能や役割を果たしている場合があり、そうなるとたとえその人が組織の中で不祥事を起こして失脚しようと、組織にとっては大して痛手を被るわけでもないことになり、組織の外部から不祥事を起こした人をいくら批判しようと、さらにその人の意図や思惑の愚劣さをいくら糾弾しようと、組織としてはトップをすげ替えればいいことでしかないわけで、組織としてはたとえトップの地位にある人でさえも、組織が抱え込んでいる道具の中の一つにすぎないわけだ。
9月24日「神経過敏症」
行政が予算を使って何かをやる代わりに他の何かを削らなければならないとしたら、その削られた何かに関わっている人や団体が損失や損害を被る可能性があるだろうが、それも何を削るかにもよるだろうが、たぶんそれに関して単純なことを言ってしまうと、それに付随する多元的な要素や要因や価値観などが見失われて、一方的な物言いになってしまい、それがわかりやすいから、浅はかな人たちの支持や賛同を得られるとしても、そんな浅はかな人たちが社会の中で多数派を構成しているわけでもないが、それでも物は言いようで、それほど浅はかでない人でも、単純な良し悪しの結論へと巧妙に誘導する話術や文章構成術に引っかかってしまうかも知れないが、そうなったからといって、それが全てではないから、他のことに気を取られていれば、そんなことはすぐに忘れてしまうかも知れないし、それをすぐに洗脳だ何だと大げさに決めつけて深刻に受け止める必要もなく、ちょっとした常識の否定でも敏感に反応したい人も中にはいるだろうから、そういう神経が過敏な人の騒ぎ立てや煽り立てを真に受けてしまう場合もあるが、それもその時の世の中の情勢次第な面もあるから、何事にも冷静な精神状態で対峙することなどそう簡単にはできないにしても、後から冷静に振り返って人それぞれだと割り切れるなら、その人の言語的な誘導をある程度は許容しつつも、それほど真に受けていないことも自覚していて、他人の言動に染まりやすい自らの心理状態も割と突き放して捉えながらも、その種の言動とは距離感を意識しているわけだが、それが語っているに過ぎないことなら、語る以外に何を実行しているわけではなく、他の実践を伴っていなければ、それだけのことに過ぎないとも思えないなら、意識が何らかの影響を受けていることになるだろうが、他の実践を伴っていれば、その実践に関わっていると、語りを聞いたり文章を読むだけでは済まなくなり、それが自らの活動にも被ってくるようなら、そういう面では距離が縮まってきて、距離を介さずに接しているようなら、直接の作用として相手の力を意識せざるを得なくなり、場合によっては無傷ではいられなくなって、それが直接の損害や被害をもたらすようなら、戦いが避けられなくなってくるかも知れないが、逆に利益や喜びをもたらすようなら、相手との間で信頼関係の構築につながるかも知れないし、その信頼関係がいつ何かのきっかけから裏切られて猜疑心などに暗転するとも限らないが、その人との間でどのような経緯や事情が生じても、一方的に単純に割り切れるようなことにならない限りで、たとえ地位や役割の上下関係などが絡んできても、それなりに複雑で入り組んだ感情を伴ってくるだろうから、理性的に捉えて何とかなるような一筋縄ではいかなくなると共に、相手から舐められていなければ、知性や技術を駆使して対峙することになるだろうし、それがどのような状況の中で対峙することになるかでも、別に勝ち負けを決するような関係でない限りで、意識や視線が決して同じ傾向や方向には向いていない場合があり、それがねじれの位置にあるとすれば、お互いにわかり合えず理解していなくても、言葉を交わす機会も出てくるだろうから、そうなるとこちらの一方的な思い込みだけでは通用しないわけで、もちろん通用しなくても構わない場合もあるが、そこで何を通用させたいかにもよるだろうが、相手の存在を前提とする限りは、こちら側の言い分が一方的に通用するわけでもなく、そこに暴力や権力を利用した脅しなどの抑圧が実質的な効力をもつ限りで、反抗的な態度の相手を従わせることができるだろうが、さらには金銭などの報酬と引き換えにした契約関係によっても従わせることができるとしても、嫌々従っているだけで、心から支配に屈しているわけではなく、憎んでいれば機会を捉えて隙あらば下剋上を実行したいわけで、憎んでいなくても利害が絡んでくれば、割と簡単に薄情になって、義理人情を捨てて利己的に行動できるかも知れず、薄情にならなくても義理人情を重んじているつもりでも、その場の情勢がその人の意思や意志を通すことを許さない場合もあり、何を優先させていても、たとえ功利的に振る舞おうとしても、結果的に自らの利益など吹っ飛んで、茫然自失となって途方に暮れてしまえば、何のために行動したと思う以前に、ただ無駄に右往左往していただけで、その割には結構その場の情勢に合わせてうまく立ち回っていて、利己的に振る舞ったつもりもなかったのに、棚からぼたもちのようにして漁夫の利を得ていたり、また気づかないところで自分と直接は対峙していない無関係な誰かに利益をもたらしていたりすれば、それが自分にとってはどうしたわけでもないが、いちいちそんなところにまで配慮できないから、勝手にそうなっているとしか思えないわけだが、誰の勝手でそうなっているとしても、誰の勝手にもさせないように圧力や縛りが加えられている場合もあるから、融通を利かそうとしてもできなければ、不義理なことになってしまい、場合によっては反感や逆恨みを買ってひどい目に遭う場合もあるだろうから、たとえ間抜けな事態を招こうとも、それが運命だと思ってあきらめるしかないが、自分はさっさとあきらめたつもりでも、それを根に持って偏見や憎悪に囚われた相手が許してくれるわけではなく、相手にしたわけでもないのに、いつの間にか相手にしたことになってしまえば、それが不条理だと思うしかないだろうが、自身も相手にしたつもりもない相手にしても、そんな思いを抱いていることさえ気づかない場合もあるから、何が何だかわからないところから何らかの作用や影響が及ぼされていて、それをふとした拍子に顕在化していることに気づいてしまうと、引き剥がそうとしても絡みついて離れないこともある一方で、いつまで経っても潜在的な領域にとどまりながらも、絶えず得体の知れない謎の力を及ぼしてくるから、何に邪魔されているのか守られているのか定かでないが、そんな力がどこかへと自らを誘導しているような気がするのだが、誘導されていった先で何が起こるのか皆目見当がつかず、ただ薄気味悪さだけが感じられて、それ以上は何を思う気も起こらず、そういう方面では全くのお手上げ状態となっているのかも知れない。
9月23日「経済対策の必要性」
一般的に言って政府の経済政策が、何か直接の効果を期待できるかというと、やらないよりはやった方がマシ程度のことだという認識があるが、要するに大して効果は期待できないが、経済危機などの局面では気休め程度と受け取られるような対策を講じてくるのだろうが、それよって例えば貧困世帯を救うことになるかというと、少しは生活の足しになる程度のことであり、貧困世帯が貧困から抜け出すには政府の助けが必要だとしても、それだけではどうにもならないということであり、貧困のまま生きていけるような状態を作り出すことが、政府には求められているとあからさまに言うわけにはいかないが、実態としてはそうなっているわけで、何かそれとは別の要因によって貧困から抜け出す人や世帯が出てくるとしても、全ての貧困世帯が貧困から抜け出せるわけではなく、逆に貧困ではない世帯が貧困に陥るのを防ぐような効果を発揮できれば、経済対策が一定の成果を上げたことになり、そうなるには具体的に何をどうすればいいかと言っても、その場の情勢にもよるだろうが、実際に後から統計的な調査によって成果が上がったことが示されるなら、経済対策が功を奏したことになるのだろうが、それが目に見える効果となるかというと、大して効果が上がったわけでもなくても、何らかの効果が上がったように装われるのだろうが、それが物価の安定とか失業率の低下とかに結びつけば、それが経済対策の成果として受け止められて、景気循環が維持される限りは、いずれはそういう局面が巡ってくるわけだから、それを成果と見なすのもおかしいような気もするだろうが、そういう意味では政府の対策も世の中の景気循環に連動していると言えて、物価が上がれば物価を抑え込むために金利を上げるようなことになり、また景気が悪化すれば各種の税率を引き下げるとか、公共投資を増やすとか、公共料金を引き下げるとか、そういったことならわかりやすく、誰もが納得せざるを得ない範囲内でそういうことが行われて、それ以上にできることがあるかというと、それ以上は求められていないとは誰も思っていないだろうが、何かしらそういうことの延長上でできることがあるとしても、突拍子もないことがやれるとは誰も思っていないだろうから、そういう面では世論調査の設問などによってメディアが事前に常識の枠をはめてしまう場合もあり、人々が固定観念として政府がやれることを決めつけていれば、その決めつけている思い込みから外れるようなことを少数派の政治勢力がやれると主張しても、まともに取り合わない可能性もあるから、そうなると多数派にとっては非常識な主張をしている政治勢力への支持も一定以上には広がらず、結局は政府が景気循環に合わせて常識的な範囲内で経済対策を講じていれば、多数派の支持を一定程度は得られて、それによって政府の経済対策も一定の効果が上がっているように装われて、それ以上のことはやる必要がなくなってしまうわけでもないが、やれることは限られていて、少なくとも突拍子もない非常識なことをやらない限りは、それ以上のことを行う機会など巡ってこないはずだが、それが余程のことがない限りということであって、可能性は低いものの、何かのきっかけから想定外の事態となって、世の中が混乱状態となれば、稀に体制がひっくり返るような事態が引き起こされるかも知れず、そうなって初めてそれまでは非常識と見られていたことを行う機会が巡ってきて、それをやったところでさらに混乱に拍車がかかって、国全体が非常事態となってしまうかも知れないが、そんな非常事態の中で行われるのが、ほとんど成功する見込みのないような無謀なことになるかも知れず、そんな事態になるのを防ぐためにも、普段から常識の範囲内で大して効果が期待できないようなことが恒例行事のように行われている限りで、常軌を逸しない状態が保たれているのだろうが、そんな状況の中でも主張するだけなら少数派の政治勢力が突拍子もない非常識なことを主張していて、そんな主張を支持する人々も一定の割合で存在しているわけだが、それを一定数以上に増やす方法があるかというと、方法などあるわけがないが、それも世の中の情勢次第な面があるとしても、現状でもおかしな情勢になっていることは確かであり、何がおかしいのかといっても、それが常軌を逸したおかしさであることに多くの人々が気づいており、それに伴って政府のやっていることが信用できなくなっているかも知れず、それが今に始まったことではないとしても、その度合いが日に日に増してくるような事態となっていれば、近い将来において体制がひっくり返るような事態が起こるかも知れないし、そうなるとこれまでの常識もひっくり返って、これまでは非常識と思われていたことをやる機会も到来するかも知れないが、それが政治のレベルで行われることであれば、現状で行われていることの延長上で行われることになるだろうが、それ以上のレベルで行われる可能性があると、場合によっては世の中がひっくり返ることになるかも知れず、それがどういう意味でひっくり返るのかが、例えば社会全体をひっくり返すとかなると、かなり大げさになってくるだろうが、それが昔ながらの革命幻想なのかも知れないが、幻想ではなく、現実にそうなってしまえば、現状ではそんなことは想像もできないことだが、誰も口には出さないが、本気で革命を起こそうとしている勢力が果たして存在するかというと、それが極右や極左の暴力革命を目指す集団でない限りは、あり得ないことかも知れないが、それも何か非現実的な妄想の中でそう思っていることであり、やはり実際には現状の延長上でこれまでと代わり映えのしない勢力が形式的なレベルで政権交代を目指す程度にとどまるのではないか。
9月22日「ゴキブリ並みの生命力」
人や物が密集している街中では何でもないようなところで何でもないような人々がうごめいていて、それが物陰でうごめくゴキブリの群れのように見えるかも知れないが、そこに活動するための糧があるからうごめいていると考えれば、ゴキブリが活動している範囲と人が活動している範囲が重なる部分もあるから、その尺度が違うことも踏まえておかないと、ゴキブリの擬人化や人のゴキブリ化などの想像力が働いて、わざとそんな方向へと関心を誘導しておいて、どんな目眩しを披露したいわけでもないが、何か皮肉をこめてそんな比較を語りたいわけでもなく、人の扱いがゴキブリ以下だと嘆いてみせる理由もないだろうし、人の活動一般から何を導き出そうと、人に関する範囲内で言えることが、ゴキブリに関する範囲内で言えることとどのように結びつこうと、そこに何か思惑が絡んでくる限りは、ゴキブリに関して何か述べたいわけではなく、具体的な事例の中で、特定の人や団体の活動に関して述べたいことがあり、それが皮肉な言い回しを多用していようと、否定的に語りたいことであっても、例えばゴキブリ並みの生命力を称賛することが、好意的に語っているわけではないのは明らかで、害虫と見なして根絶やしにしたいからそんなことを述べている場合もあるから、敵対関係にある人や団体に向かってそんな喩えを使っているなら、その意図がわかってしまい、実際にイランのシーア派の指導者の衣装が黒っぽいのをゴキブリの黒い外観に見立てて、放っておくとどんどん増殖してしまうから、シーア派勢力を駆除しなければならないと訴えかける宣伝動画を見かけたことがあるが、それがイスラム教内の宗派間で争われているサウジアラビアとイランの対立関係から派生しているなら、そこから遠く離れた日本に住んでいる人には無関係だと思いたいが、宗教はアヘンだと単純化して否定できない面があると言いたい人なら、信教の自由が人の精神の自由を奪っている矛盾に関して、何か納得できる見解を持ち合わせているかも知れず、またそこから個人ではどうにもならない宗派間対立をどう説明するのか興味深いところだが、それとこれとは別問題だとして、現状で問題となっていることを信教の自由とは別問題だと主張したいなら、せいぜいが宗教を隠れ蓑に使って詐欺的な商売をやっていると事を単純化したいところだが、事を単純化するとゴキブリ並みの生命力が生じると考えるなら、それは政治力から導かれる問題にも還元されてしまいそうで、昆虫並みの単純化された動作を人の活動を通して実現したいなら、宗教的に単純化された論理を使う必要が出てきて、例えば神の国を実現するためにやっていることであり、それがどう考えても割に合いそうにない活動を正当化するために使われる口実になるにしても、それが直接には金集めをする口実であるなら、洗脳を施されていない大抵の人なら、詐欺的な手法だと気づくわけだが、そこに金や権力が絡んでくると、それが宗教的な行為である以前に政治的な行為だと気づくわけで、それも行なっている全てを政治と経済に単純化することにつながり、オイルマネーがアラブのイスラム教と非民主的で専制的な王権体制を支えていると言えてしまうところが、部分的には正しい先入観を形成して、それが偏見だと言える範囲内では、イスラム教の根本教典を持ってくる必要があるかも知れないが、そんな事情とは関係のない範囲内で、金と権力と政治を絡めて下世話な問題へと人の興味を誘導できて、そこからもっともらしくもありふれたフィクションの論理も導き出されてくるから、それを政治宣伝に利用しながら信者を募っていると非難したいわけで、何かそういうところでごまかしやまやかしの臭気を嗅ぎつけているつもりになりたいのだろうが、建前としては善意を期待しながらやっていることで、人々の温かい支援の賜物として今の立場があると感謝しているふうを装い、そういう次元では金権腐敗的な政治の実態を忘れていられて、それで問題となっていることに関して片付くとは到底思えないとしても、物は言いようで、印象操作が見え透いていることは承知でそんなことを述べてしまうのは、やはり何かを単純化していることに気づいていないのかも知れないし、気づいていてもわざと気づいていないふうを装っているのかも知れず、どんなに知性を言説の前面に押し出しても、最終的には金集めに奔走していることがばれている段階では何の説得力もなく、それを真に受ける人には知性が足りていないことを意味するまでもなく、宗教の虚構性に汚染されていると言うと、宗教がアヘンであることと何か関連がありそうに感じられるわけでもないが、その一方で宗教がゴキブリ並みの生命力を保ちながら人の心を捕らえて離さないことと、果たしてゴキブリにも心があることを信じて疑わない人がいるかというと、そんな話自体が荒唐無稽だと思われて、何かごまかされているのは確からしく、人を煙に巻くために言説をこじらせていることが明らかになりつつあるわけだが、そういう成り行きに人を導きたいのは、たぶん単純に知性のなせる業なのではなく、これだと断言できないような結果へと情勢が導かれていることを示したいのかも知れず、そんな成り行きを通して人々に知らせたいことがあるとは限らず、何もないからそんなことを述べていると受け取っても構わないようなことでもあり、実際に信仰に心を囚われてしまった人が自らの欲望を捨て去っているとは言えず、むしろ欲望の権化だから集金にこだわっているのであり、執拗に金銭を集めてそれを利用して現世に神の国を作ろうとしているから、そんな欲望を隠すための教義を捏造できるかというと、隠そうとしても実際に贅を尽くした神殿や寺院の類いを建ててしまっているのだから、しかもそれをどうだとばかりに見せびらかしているのだから、隠しようがないことは明らかで、それはイスラム教の聖地のすぐ目と鼻の先に聖地に建っている粗末な神殿を見下ろすように地上六百メートルを超える豪華なホテルを建造してしまったことからも明らかなのではないか。
9月21日「システムの罠」
社会の現状や先行きに関して懸念を抱くことが、誰にとっても取り立てて興味を惹く内容となるわけでもなく、政治的な主義主張を構成する言説の中では決まり文句のようにその種の懸念が語られるとしても、経済活動などに伴って集団で組織的に行なっていることが、時として限界や弊害を生じさせるから、それを政治的な言説の中で問題提起のようにして取り上げて、問題の解決を装う政策の提言に結びつけようとするだろうが、その一方でそんなことを主張する政治勢力が選挙で候補者を当選するためのシステムを構築することにしのぎをけずっている中で、何を達成したいのかと言えば、それ以前に何としのぎをけずっているつもりになっているのかということに関して、企業や宗教団体や労働組合などに対抗する勢力となりたいらしく、それはそれでその必要に迫られてやっていることであり、それが切実に感じられるところでもあり、その必然性を痛切に感じられるから、そういうことをやってもらうしかなく、誰に頼まれたわけでもないのに自らの信念に従う限りで、そんなことをやっていられるのかも知れず、確かに個人ではそう思うとしても、それが集団となるとそうもいかず、集団でやらざるを得ないことに関しては、ある程度は犠牲者を必要として、実際に犠牲者になってしまうと割を食うことになり、できれば損な役割を担うのは勘弁してほしいわけで、しかも集団内で誰も犠牲者とならないような集団に魅力があるかというと、その中で搾取される人がいないとその分だけ利益を得られないなら、ひどいことになってしまいそうだが、そうなるのを避けるために集団外に犠牲者を見つけることになるなら、それでは盗賊団と変わらなくなってしまうが、それを犠牲者とは呼ばずにもっと何か肯定的な呼び名にすれば、気休め的な効果を得られるかも知れないが、一方的にそうなるのではなく、戦略的に自ら進んで犠牲者の役割を引き受けているように装いながらも、結局のところはそれと引き換えにして利益にありつければしめたもので、そうなることを狙ってそんなことをやっているわけではなくても、結果的にそうなってしまう成り行きを目の当たりにすれば、大抵の人は疑念を抱くかも知れず、そこで何かがおかしいとは思うにしても、具体的に何がおかしいのかがよくわからないのであり、わからないように巧妙な仕掛けが施されているわけでもないのだろうが、誰が犠牲となることもなく、全ての人が平和に暮らせるシステムを構築したいと訴えかける分にはそれで構わないとしても、それが万人に向かって訴えかけるための専用の主張であるなら、確かに訴えかける分には誰も被害や損害を被らないのだから、それで構わないのだろうが、そんな訴えかけが実際に万人から支持を得られて、主張するだけでは済まなくなってくると、そうもいかなくなってくるわけで、実際にはそんな訴えかけを裏切るような成り行きが待ち構えていて、それが犠牲者を必要とする社会システムである限りで、各々が努力した結果として犠牲者になってしまった人たちには納得してもらわないと、システムを正当化するわけにはいかなくなるだろうが、正当化するも何も、いったん犠牲者となってしまえば、被害妄想に囚われてしまうから納得したくないわけで、なぜ自分がひどい目に遭わなければならないのか、これまで一生懸命努力してきたのに、納得できる理由など何もないと思いたいだろうが、理由を思い至らないのは、それが全ての人が平和に共存できるシステムだったのではなく、その中で他人を蹴落とすためのシステムだったのであり、実際に蹴落とされてしまった人が納得がいかないのであり、被害者面してそんなはずではなかったと思いたいのだが、そう思いたいだけで、実態としては被害者ではなく犠牲者なのであり、思いがけず被害に遭ったのではなく、犠牲者としての枠がある程度見込まれていて、それなりの犠牲者を出しながらも、組織が維持されていればそれで構わないようなシステムが構築されているのであり、しかもそんな犠牲者として蹴落とされて納得できない人たちを糾合して、それを一つの政治勢力にまとめ上げて、さらにそれを利用した政治システムも構築されようとしているわけだから、それがまるで産廃業者のような手法だとしても、ごまかしやまやかしなどではなく、合理的な理屈に基づいてそうなっていると思いたいのだが、別にそんな思いが裏切られることもないだろうが、それが何らかの政治的な達成を見ることになるかというと、実際にそうなってから何かが明らかになったりならなかったりもするだろうし、これまでのようにシステムの犠牲者が勘違いして被害妄想を抱くようなことにでもなれば、そこでも他人を蹴落とすための競争が繰り広げられている実態が明らかになるだろうが、システムとしてはそれも構わないわけで、システムの犠牲者たちが思い思いに被害妄想を抱きながらも、納得がいかない理由や原因を突き止めようとする限りで、それと気づかずにシステムそのものに逆らいながらも、その内側からシステムを瓦解させようとして、何かを企てていることにはならないものの、システムが瓦解するきっかけを絶えず見つけようとしているわけで、その機会が巡ってきたタイミングを捉えて、行動を起こすつもりもなく行動している人が結構いるわけだが、それがうまくシステムの瓦解と同期できれば、結果としてもたらされるのが利益なのか損害なのかどちらでもないのかは、その時々の情勢にもよるだろうが、そこで何かしら爪痕や痕跡などを残すことができれば、それがシステムに逆らった証しとして、その人の心に刻まれることになるのではないか。
9月20日「回りくどい誤解」
あえて誤った見解を示してみせるのには理由があって、わざと誤った解釈を披露しながら、それとは別に知らせたいことがあり、あからさまに正しいと思うようなことを語ってしまうと、その正しさをなかなか認めてはもらえずに、かえって腹立ち紛れに無用な反発を招く恐れがあるなら、まずはこちらから囮の疑似餌として故意に誤った見解を示して、その見解がこれ見よがしに誤っているから、向こうもその見解が的外れであることに気づいてくれて、しかも誰もが気づくような愚かで馬鹿げた見解であるから、こちらを馬鹿にしたくなるだろうから、そんな気になったのに便乗して、それに併せて知らせたい内容を示せば、そのついでに真に知らせたい内容にも興味を持って、しかもそちらの方には利用価値があると思ってくれるならしめたもので、愚かで的外れな見解は嘲笑する一方で、利用価値がありそうな内容の方は素知らぬふりして盗み取ろうとするかも知れず、もちろんそんな狡いやり方がうまくいくとは思えないし、それに気づいてくれなければその程度のことだが、とりあえずそうやって知らせたい内容を示しておけば、それで構わないわけで、後はそれを利用したい人が利用してもらって結構だが、わざわざそんな回りくどく語る必要はなくても、少なくとも知ってもらいたい内容は知らせておきたいから、たとえ回りくどくなろうと、何も語らずにおくより幾分マシな事態になればしめたものだが、そうすることによって何がどうなるわけでもなくても、それとは無関係な方面から思わぬ反響があれば、そちらの方面へ何か貢献したことになってもならなくても、それに気づかなければ誰にとっても知ったことではないかも知れないが、そういう意味では世の中がどうなろうと構わないわけではなく、それがなるようにしかならないのが世界の現実だとしても、そんな現実の中で生きている限りは、少しは世界の役に立ちたいと思っているわけではなくても、実際に役に立っている現実もありそうで、それが自身も含めて誰の役に立っているとも思えないような配慮を示しておくことが肝要で、勝手に役に立っているつもりで語っているわけだが、そんなことも誰の知ったことでもなく、誰の役にも立ちそうにないことを語ろうとして、結果的に役に立つかどうかもそれを語っている当人にわかるわけもなく、そんなことよりも他に優先すべきことがあるとも思えず、それが役に立つか立たないかなんて気にするようなことでもないだろうが、ではそれが全く役に立たないと言い切れるかというと、何かしら役に立っていると思いたければ、勝手にそう思っておけばいいだろうし、何の役にも立たなくても誰の知ったことでもないが、たぶん役に立たない政治ほど無駄に腹立たしく思われるものはないと利いた風に語るなら、それこそ勘違いのなせる業で、無駄なのに必要だと強弁したいわけでもないが、そんな役に立たない政治の話をしたいわけではなく、それが政治ではないとすると何なのかというと、たぶん国家の話がしたいのであり、そこで政治と国家がどう結びつくのかといえば、必要もないのに強引に結びつけようとするから、誰もが勘違いしてしまい、それに関して例えば直接の軍事力を誇示して国防族を気取った政治家が国を守っているつもりになりたがるのだが、では軍隊や兵器の類いが国を守ることに関してどんなふうに役立っているのかというと、必要な予算をかけて軍備を増強することによって、国を守っている体裁を取り繕いたいのではなく、逆に必要以上に強大な軍隊の存在が国を危機にさらしているとすれば、確かに隣国の軍隊がいつ自国へ侵攻してくるとも限らず、そんな隣国の軍隊から自国を守るために自国の軍隊を増強する必要が出てくるわけで、そんなのは改めて考えてみるまでもなく当たり前の認識だが、そうなる以前に外交努力があり、外交交渉の場で政治的な駆け引きが行われて、そこで役に立つのが政治家の手腕であり、それが政治そのものだと言いたい人もいるだろうから、国を守るには役に立つ有能な政治家が必要で、交渉力があって政治的な手腕のある政治家が必要なはずだが、表向きにはそんなことを語っておいて、政治家に交渉の主導権があるかのようなおとぎ話を誰もが信じているとも思えず、それ以前に政府の官僚機構があり、果たして政治家が官僚機構を操れるかというと、大抵は制御しながら取り込まれていて、政治家の手腕とは別の次元で働いている制度的な力学があり、そんな制度に基づいて機能している仕組みに政治家が操られている現状を変えられるかというと、仕組みを変えれば機能も変わるという幻想も抱くわけで、仕組みを変えてどうするのかということに関して、どんな意図や思惑が生じてくるわけでもなければ、制度や仕組みをわざわざ大胆に変えようとするのではなく、まずは制度や仕組みを利用しなければならないわけで、機構を変えるのではなく今まで以上に機構を利用することが肝要であり、それが機構に対して誤ったシグナルを送ることに結びつけばしめたものだが、それに関して例えば、消費税を廃止すると息巻いている少数勢力を尻目に、政権政党ともなれば消費税という制度を利用し尽くすつもりで、従来からある消費税についての常識を覆すような活用法を導き出せばいいとしても、具体的にそれがどんな活用法となるかというと、あからさまに誤った活用法になれば、それが目眩しとして機能させることができるかも知れず、それに関して労働人口の減少と共に低下傾向にある所得税とは反対に、所得のない人からも徴収できる安定した財源を確保するために消費税を導入しているのだから、それを所得のない人のために優先的に活用すればいいのはわかりきったことで、もちろん本当はそうはいかないのだが、実質的にそういう建前を有効活用しなければならず、そうやって誤った活用法を囮として示しながらも、実質的にどうなっているかが問題となるわけだから、何も人道的な正義をこれ見よがしに示す必要はないが、逆にあからさまに誤っているように感じられる建前を捏造して、それを有効活用する必要があるのだが、それが普通に理解できない活用法となればしめたものなのであり、実際に誤った活用法によって国家が成り立っている事実に気づくべきなのだが、世の大半の人たちがそれに気づかないからこそ国家が成り立っている現状もあるわけだ。
9月19日「批判対象の単純化」
それを偏見や迷信だと決めつけて、安易に批判してしまうと、それを難儀して肯定しようとする振る舞いから解放されるかも知れないが、何を肯定しようとしているのかといえば、現状で批判の対象となっている物事に違いないのだが、実際に批判されているのに無理に肯定する必要があるかというと、たぶんそんなことはなく、それどころかそれを批判すること自体が、物事の安易な単純化だと決めつけるのも、偏見や迷信に囚われている証拠かも知れないが、では偏見や迷信に囚われながらも、現状で批判されている対象を肯定することができるかというと、誰もそんなことはやりたがらないはずだが、あえてそんなことをやってしまう誘惑に駆られるとしたら、安易な批判に逆らいたいから、批判対象を無理に肯定したくなるのかも知れないが、批判することが安易だと決めつけるからには、それが批判対象として単純化されていることを示す必要がありそうだが、批判している人からすれば、安易に物事を単純化して批判しているつもりもないだろうから、それを批判する人とは見解が対立することになるだろうが、少なくとも時流に乗って批判している人が気づいていないことに自身が気づいていると思っていて、それを自らの主張の中で示そうとして、示すことに難儀しているようなら、それが苦し紛れの反論のように感じられて、屁理屈のようなことを主張していると受け取られてしまうかも知れないが、あえて時流に逆らうことが何を意味するわけでもなく、そんなことをやるのはただのひねくれ者だと決めつけるなら、それこそが単純化そのものに違いないが、言説の対象を全面的に否定すべき対象や罵倒すべき対象だと決めつけることも単純化だと言えるだろうが、そうせざるを得ない事情や経緯があるわけで、それを考慮せずに一方的に単純化だと決めつけるのも単純化には違いなく、どうしても主張の中で強調せざるを得ないことが出てくるから、それを強調して、しかもそれが否定的な強調となれば、そればかりが言説の中で目立ってしまうわけだが、そうした強調を用いた批判に安易に同調してしまう人々が多いから、そんな批判が世の中で流行してしまうのだろうが、だからといって批判の流行が良くないわけではなく、批判されて当然の批判されるべき物事として、実際に批判対象があるわけだから、それが違法行為であったり人道的に許せない行為であったりするわけで、それをどんな理屈をつけて擁護したり肯定しようと、屁理屈としか受け取られないわけだが、確かにそういう面ではそうだとしても、それとは別の方面から、何とかして肯定すべき要素を見つけてきて、それを利用して批判に対抗して語るべきことがあるように装いたいわけで、そうやって装われた姿勢から何が言えるのかというと、批判されている面を無視して強調したいことが出てきて、それを主張するとなると何か無理に強弁しているように見えてしまうのだが、そういうやり方が功を奏して無用な対立や争いを誘発して、論争のような体裁を取り繕うことに成功するなら、一方的な批判や非難にさらされている状況から脱して、うまく失地を回復できたことになるのだろうが、果たして現状でそうしたやり方がうまくいっているのかというと、まだ判断するのは時期尚早だが、そうやって無理に批判に対抗しても、一時的な失地回復にしかならず、すでに大勢が決しているなら無駄な悪あがきにしかならないわけだが、安易な批判に安易な反論を被せながら論争を装うのではなく、安易な批判にもそれに対抗して繰り出される安易な反論にも便乗しない代わりに、何か他に指摘しなければならないことがあるわけでもないとしたら、それに関して語ることが何もなくなってしまうだろうが、何も語らなければ無用な論争を回避したことになるわけでもなく、ただ無視されているに過ぎないだろうが、それで構わないわけで、そこで流行っている風潮に介入できなければ、無理に関わろうとする必要もなく、ただやり過ごすわけにもいかなければ、それ相応のやり方で批判にも反論にも便乗せずに語ることができるかというと、なるべく批判対象を単純化せずに語るしかないが、単純化しないと批判する対象とはならなければ、それについて語らなければならないだろうし、しかもその内容を批判するわけでもないなら、何を語っていることになるのかというと、批判することに行き詰まっているわけで、批判しても無駄だと思っているわけではなく、批判を回避しながら、その対象について語ろうとしているのかも知れず、それが批判対象を批判するわけではなく、他人が批判対象を批判する内容について語ることになり、結果的にその内容を批判していることになるとしても、その内容に反論しているのではなく、ただそれについて語っているだけで、批判の対象とはならないように語っていることになるのだろうが、果たしてそれで批判を回避していることになるのかというと、そうでもなく、たぶんその内容に何らかの批判を加えていることになるのだろうが、批判を肯定するような内容にしたいわけで、しかもそれが偏見や迷信に基づいて批判しているようにはならないようにしたいわけだが、ではどうすればそんな批判ができるのかといえば、単純化を避けなければならないと同時に何を強調したいわけでもなく、その途中で何かを単純化してそれを強調しながら批判に利用してしまうとしても、そこに留まらずに単純化していることも強調していることも認めなければならず、それを単純化して強調しないと批判には結びつかないことも指摘しておく必要があり、そうしないと批判の言説を構成できないことも指摘しておかなければならないわけだ。
9月18日「無自覚な衝動」
何かがおかしいと感じていても、そのおかしさが理解できず、何がおかしいのかがわからないのに、何かがおかしいと思われて、そのおかしさをうまく表現できず、それをわかりやすく説明できないのだが、相変わらず何かがおかしいと思っていて、それがわからないから焦ったいのだが、たぶん何かに駆り立てられていて、突き動かされていることは確かなのだが、その自覚があってもなくてもそうなっているから、そんな衝動が生じている原因を突き止めようとしているわけでもなくても、衝動に身をまかせて行動している最中であっても、果たして行動している理由を理解できるかといえば、理解しているつもりでも、その理解が行動と釣り合っているかというと、そんなことまで考えているわけではなく、釣り合っていないからどうだというわけでもないだろうが、それが行動する理由となっていないことを理解していないのかも知れず、もっと大げさな理由がないと、行動できないような気がするわけでもないが、実際に行動しているのだから、それ相応の納得できる理由があるような気がするわけで、別に理由なき行動ではまずいわけでもないだろうが、それなりに納得できる理由があれば、その理由と行動が釣り合って、理由がよくわからずに行動していることのおかしさから解放されるかも知れないが、果たしてそんな理由で納得できるかというと、納得できる理由を探し出して、それを行動にこじつけようとしている自覚があるわけでもないが、実態としては事後的にはこじつけているのであり、納得できる理由が行動した後から導き出されるような成り行きになるなら、事前に理由があって行動したわけではなく、行動した後から理由をこじつけたわけで、だからといっておかしいわけではなく、逆に納得できる理由を行動した後からこじつけた方が、理由もわからずに行動していることから感じる不安やおかしさや不自然さから解放されるから、事後的に導き出された理由を信じたくなるわけだが、信じれば救われるかというと、救われたいから理由をこじつけているつもりがなくても、実際に救われたかどうかを自覚できなくても、納得できる理由を後からこじつけて、行動したことを正当化したいわけで、もちろん正当化しているつもりがなくても、実際に行動した理由を誰かに向かって語っているとしたら、おかしな理由では誰かを納得させられないから、万人が納得するような理由を提示できる自信があるから語っていると解釈できるだろうし、そうなると理由のあるなしではなく、理由を語る必要があるから、その必要に応じて納得できる理由を導き出さなければならない事情が生じているとも言えて、ただわけがわからず衝動にまかせて行動しただけでは、そんなことを語っても誰も納得してくれないから、それを後から語るには、誰もが納得できる理由があって行動したことにしたいわけで、だから行動するには理由が必要というよりは、行動したことを語るには納得できる理由が必要になってくるわけだが、そうやって語られる内容が、何か辻褄が合い過ぎて話に説得力があり、でき過ぎた話になっていると、逆に疑わしく思われてくるわけで、それが一見本当らしいが嘘っぽいフィクションのような矛盾した感覚に囚われる話になるが、それを嘘だと見破れるかというとそんなことはなく、清らかな心の持ち主や浅はかな人なら信じてしまうだろうし、たとえそれが嘘ではなく本当の話だとしても、日頃から胡散臭い方面で詐欺すれすれのとても表立っては正当化できそうにないことを生業としている人なら同業者ではないかと疑ってかかるところだが、それが語っていることである限りで、話の内容が嘘か本当かよりも、納得できるか説得力があるかで判断が分かれるところで、どうしても納得できる理由とか説得力のある物事の成り行きを求めてしまうから、内容がフィクションに近づいてきて、行動自体よりも行動について語られる話の内容に興味が移ってしまうと共に、何か語り手の話術や聴衆を導く技術によって本質をはぐらかされているような気がしてくるわけで、それが何の本質なのかというと、語っている内容が触れていない方面からもたらされる物事の本質であり、何かに突き動かされて行動していることが、行動している人の思惑とは別の方面からその人を操って導いているとしても、必ずしもその人の思惑を無効化するためにそうしているわけではなく、また行動していることを正当化したいという思惑を裏切るような結果をもたらすためにそうしているわけでもなく、ひとたび結果がもたらされると、思惑などどうでもいいと思わせるような結果へと導かれていて、それがそんな結果に導きたいという思惑が他の誰から巡らされているわけではなく、初めから正当化する必要のない行動へと導かれていて、その人が自らの行動を正当化しようとしまいと、そんな正当化などもたらされた結果の前では偏狭で些細なこだわりに過ぎず、そんなこだわり自体が物事の本質から外れていて、そんなことにこだわっているから、そのこだわっている姿がおかしな雰囲気を漂わせて、何かおかしなことをやっているように感じられると共に、その人にとってはおかしさが似合っていて、自らもおかしさから抜け出せないから焦りを覚えるにしても、何に焦っているのかよくわからないから余計に焦ったくなるのかも知れないが、自らの行動のおかしさから抜け出られなければ自らの行動を正当化できないだろうから、自らの行動について自信を持てないし、だから余計に自らの行動を正当化するための理由を求めて、行動を正当化するための話術や聴衆を導くための技術に磨きをかけようとするのだろうが、それが行動の本質から外れた余計な付け足しに過ぎないのだろうが、そうしなければ気が済まないのなら、そういう方面で努力を尽くすしかないわけだ。
9月17日「どうと言うことはない深刻な事態」
どうと言うことはない事態に直面して危機感を募らせているわけではなく、メディア上で語られる大変な事態というのが、例えば勢力の強い大型の台風が接近中というジャンルで語られるなら、気象情報に関する内容になるわけだが、それをどうと言うことはないとは言えないにしても、住んでいる地域が台風の通り道から外れていれば、少なくとも直接の被害は免れるだろうし、それは地域紛争などで、戦闘が行われている区域から遠く離れていれば安心だと思うのとは程度も傾向も違うはずだが、直接の被害は免れて、一応は身の安全が確保されていることを実感するかも知れず、それが世界的な経済危機ともなればさらに程度も傾向も違ってきて、そうなれば被害が特定の地域に限定されるとは言えず、世界のどこで暮らしていようと何らかの影響を被ってしまう可能性が高くなり、だからといって危機意識を募らせたところで対処のしようがなければ、無闇に怯えているに過ぎないことになって、怯える必要がないわけではなく、必要があるから怯えているわけでもなく、メディア上でこれから未曾有の危機が到来すると煽られて、実際にはそれが未曾有ではなく、毎度お馴染みの成り行きであり、そんな危機的な状況を利用して何かやれと促されているのであり、人々の行動を促す目的で、毎度お馴染みのようにして煽動や宣伝が繰り返されているとしても、それを真に受けるとか、面倒だから真に受けずにスルーするとか、そういう戦略的な態度や姿勢を自主的に選べるような状況ではないとしても、そうなった際に何をやれるかが、行動を促されているつもりになっている人たちの課題となっているわけではないが、そんな気がする程度のこととして現状をおもしろがってほしいわけで、危機なのにおもしろがるのは不謹慎極まりないが、そんな気がするということが、これから深刻な事態に直面してしまうことを期待させて、すでにコロナ禍で深刻な事態なのに、これからさらなる深刻な事態が到来するとしたら、それがどんな事態なのか、それを想像してほしいわけで、本来ならそんなわけがないと思いたいところだが、冗談でならとことん付き合って、何かそれが自身の将来を左右するような成り行きに導かれているように思ってほしいわけだが、何がそんな気にさせると問いたくなるにしても、冗談抜きでなら本気になるしかないにしても、この期に及んで何かやれることがあること自体が、奇跡的に恵まれた境遇にあると言えるわけでもなく、偶然の巡り合わせとしてそんな機会が巡ってくるわけで、それが誰に巡ってくるかは、結果的に機会を捉えて行動した人の中から偶然に選ばれる人が出てくると、そんないい加減な成り行きになるわけがなく、各人の努力や才能によって選ばれる人が決まってくると信じたいだろうが、誰が信じるのかというと、後からそれを伝えるメディア経由で成り行きを知った人の中から、人の努力や才能に関する幻想を信じてしまう人も出てくるかも知れないが、それ以上のことがそこで起こっていると信じたい人も出てきて、それが事の成り行きに関する世間的な評価や評判につながるとしても、すでに起こってしまった後からならある程度は何とでも言えるし、今まさに起こっている最中であるなら、そこに関わっているつもりの誰もが暗中模索の中で行動していて、今何かが起こりつつあることを予兆として感じ取っているつもりであっても、それが起こることをいくら予想してみても、実際にどうなるかは、そうなってみないことにはわからず、事後へと先回りできなくても、先回りしたつもりになって、これから何が起こるのかを予想して、予想することが行動の助けになると思いたいのだろうが、その一方で予想が外れることを恐れているわけで、予想が外れたらどうしようと思うわけだが、予想が外れた際の対処法についても事前に決めておきたいし、それを前もって決めておけばいざという時に冷静に行動できると思いたいのだが、果たしてそんなことまで事細かに計画を立てて行動できるかというと、行動しようとすると予想外のことが起こり、計画通りに事が進まないことを思い知らされて、その際に試されているのが、計画通りに事を進めるための計画遂行能力であるよりも、予想外のことが起こった際の危機回避能力であることも思い知らされるかも知れないが、想像上で思い浮かべる仮想の現実の中でそう思うことでしかなく、実際にはそんなことを思う余裕も暇もない状況の中で、何かを思うより先に行動を迫られるような緊迫感を覚えているとしたら、充実した時を過ごしていることになるだろうが、そうなるように努力するとか、そうなるように自らの状態を持っていくとか、そういう状況を先回りして思い描いている時がお楽しみの時間帯であり、思い描いているだけで何もやっていないなら、怠惰な時間の中で退屈紛れにそんなことを思っているに過ぎず、それ自体が時間の無駄遣いとなってしまうだろうが、そんなことを思い描いている余裕があるということでもあり、満ち足りた生活を送っている証拠だとしても、それでも現状が危機的な状況であることを忘れていて、それを忘れていることが深刻な事態だと思うわけでもないが、すでに事の深刻さを感じ取れないわけで、だから冗談抜きで破滅してしまう危険があると思いたいが、それが思い違いのような気もするわけで、確かに誰かが破滅の危機に直面している可能性は捨て切れず、その誰かにとっては深刻な事態に直面しているとしても、その誰かが自分ではない可能性も捨て切れないとしたら、ではいったい誰が破滅の危機に直面しているのかといえば、少なくともメディアで報じられている予想の中でその種の人物が特定されるのだろうが、予想が外れる可能性も捨て切れないから、冗談半分でそんな成り行きをおもしろがって見ていられる余裕もあるわけだ。
9月16日「安倍晋三と山本太郎の共通点」
そこで何を利用しようと、利用できるものは何でも利用できるわけでもないが、それを利用するに当たって目的があるかというと、あるに決まっているだろうが、それを何に利用したいかといえば、何か定まった目的があって、目的に利用したいのは当然であり、何の目的もなくそれを利用できるわけもなく、それを利用することが目的であり、それとは何なのかというと、その場の状況であり、その場の状況を利用して何かをやることになるわけだが、例えばここ数回のアメリカの大統領選挙で、民主党の左派陣営から出てくる有力な候補者としてバーニー・サンダースという人物がいるが、大統領選挙の時だけ民主党の予備選挙に立候補するが、基本的には無所属であり、元々小さな地域政党から上院議員選挙に出馬していて、草の根の市民運動や市民からの寄付に支えられて選挙戦を戦うところが、山本太郎や宇都宮健児などが見習っていて、政策や主張も似ているし、世田谷区長の保坂展人も称賛する人物だが、民主党の執行部からは煙たがられていて、大統領選挙の予備選挙でも序盤ではかなりの数の州で勝利するものの、最終的には候補者に残れずに終わっていて、そういう傾向は、山本太郎にしても宇都宮健児にしても保坂展人にしても、日本の野党第一党の立憲民主党の執行部とは距離をおいているところが似ているだろうが、そういう意味では山本太郎と共通点が指摘されるのは、リベラル勢力の中でも左派的な政策や主張になり、そういうところは安倍晋三とは政策も主義主張も真逆になるだろうし、むしろサンダースがバーリントン市の市長時代に掲げた政策が、価格を抑えた住宅の供給・累進課税制度の導入・環境保護・エネルギーを100パーセント風力発電と太陽光発電にする・児童ケア・女性の権利・若者のための施策・LGBTの権利の支持など、山本太郎が党首のれいわ新選組の政策と瓜二つで、保坂展人が世田谷区で推進している政策と重なる部分もあるだろうし、またサンダースがノーム・チョムスキーとトーマス・フランクから「ニューディール主義者」と評されていて、山本太郎も「れいわ ニューディール」という政策を掲げているから、共通点だらけと言ってもよさそうだが、では安倍晋三と山本太郎の政策面での共通点は何かといえば、積極財政という点であり、少なくとも「アベノミクス」と呼ばれた経済政策は大胆な金融緩和と積極的な財政出動と民間投資を喚起する成長戦略を三本の矢としていて、そういう面は山本太郎も一定の評価をしていたはずだが、ただ財政出動の規模と投資先が違っているということであり、そういう面で違いや対立点が生じてくるのだろうが、どちらも国家を利用するという面では共通点があり、その国家には政府という統治機構が含まれていて、その中には官僚組織として軍(日本では自衛隊)や警察(治安機関)も含まれてくるわけで、それが安倍晋三が言うところの「我が軍」につながってくるわけだが、そこで安倍晋三においても山本太郎においても理解していないことがあり、それが国家を統治し過ぎてしまう危険性であり、国家を統治し過ぎると経済を活発化させる基となる市民社会を抑圧してしまい、その行き過ぎた事例として挙げるなら、ヒトラーやスターリンや毛沢東などの過剰統治に行き着いて、市民社会を殺してしまう事態となってしまうわけだが、彼らに国家と市民社会の区別がついているかと言うと、疑念を抱かざるを得ないが、そこでも両者の間で対立点を挙げるとすれば、安倍晋三が統一教会の思想に洗脳されて、市民社会を家族や親族の問題に還元して、それを国家統治へと結びつけようとしていたのに対して、山本太郎は市民社会を法律の問題へと還元して、それを国家統治へと結びつけようとしていて、両者ともにそれと自覚することなく市民社会=国家という枠組みで国家統治の対象にしようとしていて、市民社会を統治し過ぎると経済の面で活力が失われて、国家も衰退してしまうわけだが、両者ともに社会と統治を混同していて、社会は人々の必要によって産出されるが、統治は人々の弱さによって産出されて、社会は関係を奨励するが、統治は差異を作り出し、社会は人々の保護者であるが、統治は人々の処罰者となり、あらゆる状況において社会は天恵となるが、統治はせいぜいが必要悪に過ぎず、その最悪の場合には耐え難いものとなり(『ユートピア資本主義』ロザンヴァロンの著書、『コモン・センス』トマス・ペインなどを参照)、どうしても「市民社会に対する統治」という問題に還元されたり、「市民社会に対する国家」という問題にも還元されてしまい、そうなるとそれらを制度や法律の問題として扱わざるを得ないだろうが、実態として例えば人権を巡る実践が、法権利の問題として取り扱われるのを当然視していても、実際には取引、保証、選挙システム、世論などによって獲得され、保存され、拡張されて(フーコー)、どちらの側からもどちらかへと偏り過ぎないようにしなければならないと同時に、実際にそれについて何か言う分には単純化して、一方的な言い分になってしまうから、言うは易しなのだが、実践の中ではやり過ぎないようにしなければならないから、安倍晋三が実践の面でひどいことをやっていたとしても、山本太郎はまだ言うは易しの段階でしかないから、安倍晋三よりはだいぶ好印象だとしても、果たして今後実践する機会がやってくるかどうかは何とも言えないだろうし、下手をすると共産党の人々のように、言うは易しの段階で何十年も足踏み状態となって、そのまま寿命が尽きてしまえば、好印象だけの人になってしまうわけだが、そうならないようにするには、やはり多くの人々が山本太郎の政治的な実践を支援して後押しするしかないわけで、そうなるには山本太郎の主張を人々がどこまで信用できるかにもかかってくるだろうが、意外と山本太郎には安倍晋三のような実践の機会が巡ってこない方が、支持者の山本太郎に対する幻想が長続きする可能性は高まるのではないか。
9月15日「政治の現状と主張の乖離」
政府の政策に期待できないのに政府を支持する理由はなく、政治家や政党の主張を信用していないのに選挙の際に投票できるかというと、他にも投票する理由があれば投票するだろうが、立候補者が投票するに値することをやっていると思えばその人に投票するかも知れないし、その一方でわざわざ投票しなくても構わないと思ってしまう場合もありそうで、投票するかしないかの判断がその場の状況や情勢に左右されるとしても、一人の有権者の意志が選挙結果に及ぼす影響など微々たるものでしかなく、それが投票しなくても構わないと思わせるのだろうが、その人が世論調査などで示される多数派の民意に囚われていれば、多数派が支持する政党やその政党が推す候補者に投票するように仕向けられてしまうだろうから、そうなると個人の政治に関する意見や意志など、その人が著名人で多数の信奉者でも抱えていない限りは、大して世の中に影響を及ぼさないだろうが、だから政治には興味を持てないというわけでもなく、そういう面から政治に興味を持っているわけではなく、ではどういう面から興味を持っているのかと問われても、納得できる答えを持ち合わせているわけでもないが、現状でまかり通っている政治を批判したいなら、現状の政治体制を変えたいとは思っているだろうし、どうやれば変えられるかといっても、方法があるとは思っていないし、こうすれば変えられると思ってしまうこと自体が間違っていて、そんな思いを裏切るような変わり方をしてしまうのかも知れないが、世の中を変えたい人がこうすれば変えられると主張することがおかしいわけではないが、そんな主張に納得するわけでも、それを支持するわけでもなく、逆にそれを批判しようとして、なぜ批判しようとしてしまうのかといえば、それも間違っているような気がするからで、気がする程度では何の説得力もないが、こうすれば変えられると主張する人を信用できないのは、主張の内容に納得できないからだが、だからといって自らが納得できる主張や意見を持ち合わせているわけではなく、ただそんな主張では納得できないから信用できないのは当然だとしても、そこから自らが納得できる主張や意見を模索することになれば、考えていることの辻褄が合うはずだが、そうはならないからおかしな成り行きに囚われていて、自らはそんなことは考えもしないのに、他人の主張や意見を誤りだと決めつけてしまうのだから、そんな決めつけにも説得力がないのだが、それ以前に世の中で何かおかしなことが行われているから、それを変えなければならないと主張せざるを得ないわけで、そこまでは納得できるとしても、では具体的にどう変えるのかというと、そこからが納得できるようなことが主張できなくなってしまい、変えなければならないと主張しているのだから、そんなことを主張している勢力に主導権を握らせて変えさせればいいわけだが、そこまでは行かせないように、様々な方面から妨害工作が仕掛けられるわけでもないが、実際におかしなことが行われている現状が変わらないことには、どうにもならないと思われるのに、そのどうにもならない現状が延々と引き延ばされていて、そんな現状の中で、こうすれば世の中が変わると主張する人が、世の中の広範囲な支持を得られず、逆に批判されるような成り行きも延々と続いているのかも知れず、それが現状の行き詰まり感を覚えさせるわけだが、そういうわけで、ではどうすれば世の中の現状が変わるのかといえば、とりあえず政治の方面では、現状で主導権を握れていない勢力の中で、こうすれば世の中が変わると主張している勢力を支持するしかなく、選挙でそんな勢力に投票すればいいわけだが、それが実際には世の中の広範囲な支持を得られていないから、なかなか選挙でも支持を得られずに主導権を握れない現状があり、そうなるとどうすれば世の中を変えることができるのかと問う以前に、どうすれば主導権を握れるのかという問いに直面して、さらには選挙で勝つにはどうすればいいのかという問いにも直面してくると、そこから安易な答えとして、宗教団体などの組織的な支援に頼らざるを得なくなり、それが現状で主導権を握っている勢力がやっていることに行き着くわけだが、そんな現状を変えるにはどうすればいいのかと問われているわけで、そこで問いと答えが循環してしまうことになり、そういうやり方では駄目だから、そんな現状を変えなければならないと問わなければならなくなってしまうわけだが、現状を変えなければならないと訴えている勢力を信用しているわけでも支持しているわけでもなく、そんな勢力が実践していることにも協力したくないわけだから、現状を変えようがないと思われるかも知れないが、実際にはそんな思いを裏切るようにして現状が変わろうとしていて、そんな変わりようにも納得がいかないのは当然だが、そこで現状を変えようとしている人たちの思い通りにも変えようとしている人たちを批判している人たちの思い通りにもならず、どちらの人たちの思い通りにもならないような変わり方をするのが、現状の変化そのものかも知れないが、そんな現状の変化を肯定しようと否定しようとそのどちらでもないとしても、少なくとも現状を変えようとしている勢力を批判せざるを得ない人の言い分が共感できるような内容でもなく、もちろん現状を変えようとしている勢力の主張にも納得できないわけだから、そんな勢力を批判せざるを得ない人の立場が否定されるわけでもないが、ではどうすればいいかという問いに直面してしまうと、答えに窮するわけだから、そんな自らの存在や立場を正当化するわけにもいかないわけだ。
9月14日「話の単純化と辻褄合わせ」
それをどの程度単純化すればわかりやすい話になるとも思えないが、話をわかりやすくできない事情があるなら単純化する必要もないだろうし、単純化すること自体が大して重要とも思えなければ、単純化することにこだわる必要もないだろうが、こだわっているわけではなくても、説明する過程で話を単純化していて、場合によっては何か深刻な誤りが単純化によってもたらされるかも知れないが、単純化しているのに気づかない場合もあるだろうから、気にしない人にとってはどうということはなく、その辺は人によっても立場によっても認識に差異が生じて、単純化する対象が何になるかでも、その対象が自身の専門領域と被る人にとっては、重大な何かが省かれていることに気づいてしまって納得できなくなってしまうかも知れないが、例えば格差社会を説明するに当たって語りたいことが、人々の間で生じている所得の格差であったり、社会的な地位や立場の格差であったりすれば、その格差を否定的に捉えればわかりやすい話になってしまうが、話をわかりやすくする必要があるかというと、単純化するに際して強調したい内容にもよるが、単純化の意図が何だかわからなければ、わかりやすくなるどころではないが、何か思惑があって単純化しているつもりもなくても、単純化によって話の辻褄合わせがうまく行くようなら、単純化がそれを語っている人の都合を満たす限りで功を奏していることになるにしても、辻褄合わせをしたくて話を単純化しているわけではなく、意図せずに単純化することによって煽動文句や宣伝文句を作りたいわけでもなくても、単純化によって話の内容がわからなくなってしまうかというと、逆に話の内容がわかりやすくなるはずだが、意図せずに話のややこしい部分が省かれていれば、省かれた内容がわからなくなってしまうとしても、何を省いているのかも気づかなければ、何を単純化しているとも思わないし、意図して省いているつもりもないのかも知れず、そうやって話の単純化を気にすることもなく、当然のことのように話を単純化している実態があるのかも知れず、そこで噛み合わない議論の応酬が繰り広げられているなら、対立するどちらもが自分の都合に合わせて話を単純化しているから、お互いが受け入れ難い話の前提を相手に認めさせようとしていて、そうであれば議論が平行線に終始するしかないが、それで構わないなら、相手の主張を理解したいがために議論を交わしているわけではなく、相手にとって認め難い議論を吹っかけて困らせようとしているだけなのかも知れず、そんな人たちが屁理屈を弄んでいる実態もあるなら、それを無理に真に受ける必要も感じられなくなってしまうが、そうやって語っている内容を自身の都合に合わせて故意にねじ曲げることができるにしても、故意でなければ何なのかというと、その場でまかり通っている慣習に合わせていることに気づいていない場合もあり、そこで行われていることを肯定的に語るには、屁理屈を持ち出さなければならなくなるとしたら、無理なごり押しが常態化していることになるだろうが、それが違法行為になるのであればわかりやすいにしても、違法行為を取り締まることができない事態が生じていて、取り締まろうとする側に圧力が加えられている実態があるなら、その圧力が何かのきっかけで突然かからなくなってしまうと、堰を切ったようにその場のパワーバランスが崩れて、それまで権力によって守られてきた違法行為が取り締られるようになってくると、そこで悪習が改まったことになるだろうが、どんなきっかけからそうなるかといっても、偶然が作用してそうなるとしか言えないようなこともあり、偶然に起こったことを利用して誰かがそれを仕掛けるのだろうが、その仕掛けが成功してもそうはならない場合もある一方で、逆に仕掛けが失敗に終わったことが、後になってさらなる偶然の巡り合わせから、誰も予想もしなかったような結果をもたらす場合もあるから、たとえそうなった結果から話を単純化してわかりやすく説明できても、そんなよくできた話を真に受けると、そこで起こった出来事の本質を見失ってしまうかも知れず、そうした偶然に起こる突発的な出来事が起こらないようにするために、さらには起こってもそれを無視するように仕向けるために、そこで主導権を握っている人や団体が示し合わせて、自分たちの活動にとって都合の良い慣習を他の人や団体に対して守るように圧力を加えている実態があり、それを守らせるために用いる理由や圧力を加える根拠が、何かもっともらしくも胡散臭い屁理屈のような理屈を用いて語られる場合があるとしても、そういった悪習が改められる際にも、改める理由や根拠についても妙にきれいごとが散りばめられた建前論のような内容が語られる場合があり、どちらにしても話の単純化や辻褄合わせが見苦しいほどに目立ってしまうと、何か信用できない話になって、事態の収拾を図る目的でそういう成り行きになるのは仕方のないことだが、実際には誰もが納得できるようなもっともらしい理由や根拠に基づいてそうなるわけではなく、そうならないようにあらかじめ対処や対応が行われている中で、そういった対処や対応を打ち破って事件が起こるわけで、そんな出来事が起こるに当たって、それを起こす側には正義も正当性もなく、それが誰もが称賛するような英雄的な行為とはならず、逆にどちらかと言えば非難されて批判される行為によってそんな出来事が起こり、しかもそれを利用して今までまかり通ってきた理不尽で不公正な慣習が改められるわけだから、どう考えても納得がいかなくても当然の成り行きになるだろうし、実際に納得されては困るのだが、それを納得できるように後からもっともらしく説明されてしまうと、それが欺瞞だと感じられてしまうのであり、だからそんな出来事に対して、それを利用して何か仕掛けている人たちがある程度のやましさや後ろめたさを覚えるのは仕方のないことなのではないか。
9月13日「方法の確立」
何をやるにも、事前に方法が示されているなら、示された通りの手順に則ってそれをやれば、示された通りの結果を得られて、それでいいならそれに越したことはないはずだが、事前に方法がわかっていれば、その結果もある程度は予想がついて、それ以前に行われたのと同じ条件でそれを行えば、普通は高い確率で求めようとする結果が得られるはずで、そういった方法はそれなりに試行錯誤を経た末に方法として確立されているから、方法で示された通りのことをやれるなら、一定の結果が出ることが予想ができて、それも方法というからには、他でも同じような方法が試されていて、それが確かな検証を経た結果としてある程度の信頼を得ているなら、方法として世に広まっているわけだろうが、そういう意味で方法とは、それなりに多くの人々が関わって確立された方法であれば、それだけ信頼できる方法になるだろうが、実際にその方法を試してみてうまくいくような結果を得られる限りで、方法として認められるのだろうから、うまくいくならその方法で構わないが、うまくいかないなら方法に修正を加える必要が出てくるだろうし、絶えずその方法が試されていないと、顧みられなくなって忘れられてしまうわけでもないが、方法が巷で流行っていることもその方法を試す動機にはなり、そういう方法であれば、うまくいく方法として多くの人々から認められているだろうが、果たしてそんな方法が簡単に見つかるかというと、方法にもよるだろうし、やろうとしていることにもよるだろうが、それが何をやる方法なのかがわかっていれば、皆目見当がつかないわけでもなく、根気よく粘り強く探せばいくらでもそんな方法が見つかるかも知れないし、用途や目的に合わせてうまくいく方法が、多くの人々の間でまことしやかに信じられている場合もありそうで、事前にその方法を知っていれば、これからやろうとすることも、その方法を利用できればうまくいく確率がそれだけ高まるだろうが、その方法というのが、やっていることをはぐらかす方法となると、やっていることをうまくいかなくさせる方法だと言えるかも知れないが、やっていることを妨害する方法となると、なぜそうしなければならないのかに関して、その理由が果たして正当化できるかどうかも、そんな方法の是非を判断する上では重要となってくるだろうが、それが確立された方法というわけではなく、その場の即興で行うことであれば、その場の思いつきとなり、その場では何も確立されておらず、事の成否はやってみなければわからない程度のことでしかないだろうが、なぜそうしなければならないのかという問いの立て方では、そんなことをやる理由を導き出せるわけでもなく、わざわざはぐらかす理由があるとも思えなければ、理由なき行為だとでも思っておけばいいことでしかないだろうが、事前に確立された方法を用いて何かやろうとすることが、計画的なやり方だと言えるが、それに対してそんなやり方をはぐらかして、やっていることがうまくいかなくなるようにすること自体が、そういうやり方が気に入らないから、邪魔しようとしていると考えるなら、それを妨害するに当たってもっともな理由となりそうだが、なぜ気に入らないのかといっても、そうするに当たってもっともらしい理由が必要でないなら、ただ何となく気に入らないとしか言えないが、それ以上の理由を詮索するまでもなく、そこで何らかの方法が確立されようとすることが、それを阻まなければならないもっともらしい理由を導き出せるかというと、それだけでは何とも言えないし、他に納得できる理由があるなら、それを阻むことが正当化されそうだが、そうなってしまうのを阻もうとするに際して、何か理由が必要かというと、実際にそれが阻まれた後から、それを阻んだ行為を正当化するには、確かに納得できる理由が必要となってくるだろうが、それを正当化する必要もなければ、納得しなくても構わないだろうし、果たして自身がやっていることややろうとしていることについて、その全てが納得づくでやっていたりやろうとしているのかというとそうでもなく、理由などわからなくても、その場の成り行きでやっている場合があり、そのやっていることも事前にやり方がわかっているわけではなくても、なぜか知らないが他の誰に教わったわけでもないのにやっていることもあるわけで、そうなると方法が確立されていないことを暗中模索で試行錯誤を繰り返しながらやることにもなり、そんなことをやりながら何らかの方法が次第に確立されていく場合もあるにしても、やる度にやり方が違ってしまう場合もあるだろうし、何も確立されないままに、一定の結果にも至らなければ、それが失敗しているのかというと、それでも構わない場合もあるかも知れず、それが何かの暇つぶしでやっていることに過ぎなければ、逆に成功してその気になってしまうこと自体がまずいわけで、そうであれば何でもないような結果にさえ至らないようにしている可能性もあり、そうなると何の結果ももたらされなくても構わないのかも知れず、結果に至る成り行きが途中ではぐらかされていることにもなり、それが結果に至るのが気に入らないからそうしているわけでもなく、別に道に迷うのが目的というわけでもないが、計画的に事を進めてしまうと、逆に計画が台無しになるように仕向けられてしまうということでもなく、それ以前に行き詰まっていて苦し紛れになっていることを隠すために、何かもっともらしい計画を立ち上げて、目的を達成するために努力しているように装いたいわけでもないのだろうが、そうなってしまった後からそうなった理由を挙げればきりがない状況というのも、事前の想定から外れていること示しているのかも知れない。
9月12日「是非を問われる問題」
現状の世の中で行われていることについて、その中で何が深刻な事態を招いているのかを全く知らないわけではないが、もちろんそれが人によってもその人の立場によっても深刻であったりなかったりする場合もあるにしても、たぶんそれへの是々非々の対応というのが、それだけでは何のことやらさっぱりわからないとしても、対応した後に、それがその人の生活や活動にどう響いてくるのかを予想できるわけでもなく、対応そのものもさることながら、何に対応しなければならないかが問題となってきて、何が是々非々の対応を強いているのかが、よくわかっていないとしたら、それが微妙に気づかないところであり、好き勝手にそう思えるわけでもないが、そう思うことが慣習に囚われているからとも思っていないだろうが、そうするのが当然だと思っているなら、それがそれに関連する制度や慣習に則っていたり、あるいは論理的に考えて、さらには理屈の上でそうするのが当然だと思えるようなことがあるとしても、そうは思わずにそんなことをやるのはおかしいと思われるようなことがあれば、そうするのが当然視されるような制度や慣習がおかしいと言えるかというと、またはそれが論理的に考えておかしいとか、理屈に合っていないとか言えるかというと、それが単純にそうは言えない場合があるとしたら、そこに込み入った事情が絡んできたり、そうするに至るまでの経緯の中で、妥協や譲歩が必要になってくると、たとえおかしいと思っていてもやらざるを得ない成り行きに従うしかなかったりして、それがそうなる過程で誰にも制御できない紆余曲折を伴いながら、おかしなことが行われている実態をもたらすわけだが、それがそうなっている過程の中の部分的なところでは、何やら制度的な合理性が感じられたり、また慣習として肯定できる面が強調されるから、何となくそれが良いことのように思われたり、論理的にも理屈としても、特定の立場の人や集団にとってはそうするのが好都合だから、継続して行われていて、もちろん都合が悪い人や集団がいるなら、反対運動も同時並行して行われている場合もあるだろうが、それが誰にとっても好都合でも良いことでもないから、人によって立場によって是非が変わってくるわけだろうが、そういう意味で是々非々の対応を強いられることが、そんな対応を強いられている人や集団を他の人や集団が支持できるか否かも、人によって立場によって是非が変わってきて、すでにそれが大っぴらに行われていることであると、それに反対する人や集団をどう取り扱うかが問題となってくるだろうが、もちろん反対する人や集団に主導権があれば、それを禁止する方向へと持って行こうとするから、対立や争いが避けられない場合も出てきて、それにどう対応するかが問題となってくるが、そこでも他の行為や行動との兼ね合いから是々非々の対応がとれるかというと、大抵はそうはならず、何やらこだわっている特定の党派性や思想や宗教などに絡んで、偏見や先入観や固定観念に基づいて単純化したがる人々が出てきて、そこからおかしな論理や屁理屈のような理屈を持ち出して、そこで起こっていることを故意に捻じ曲げて解釈するようなことを平気で行い、それを自分たちのこだわりを貫き通してごり押しするようなことに結びつけてやってしまうから事態がこじれてくるのだろうが、そうせざるを得ない成り行きに囚われてしまう理由や原因が何かといえば、自分たちの行為や活動の継続性に利害や優劣も絡んできて、最終的には何を優先させるかとなると、勝ち負けを優先させる必要が出てくるわけで、もちろん負けるわけにはいかないから、勝つためには手段を選ばないことになると、勝つためには何でもやるから、無理なことでも違法なことでも率先してやるようになり、そんなことをやるのを正当化する必要も出てくるなら、そこからも正当化する理由としておかしな論理や屁理屈のような理屈も持ち出されてくるのだが、いったんそんなことをやり始めて、それをやっている人や集団の仲間になってしまったり配下になってしまうと、そういうことをやっている勢力から抜けられなくなってしまい、集団内の同調圧力にも屈してしまえば感覚や理性が麻痺して、集団内で行われているおかしな儀式や風習に慣れてきて、次第にそれが慣習的な動作として馴致されてくると、意識の中でも何とも思わなくなってしまうのだろうが、そうなればそれをやることの是非など問わなくなるし、やるのが当然だと思い、しかも実際にそれが行われている実態があれば、少なくともできないことや不可能なことが行われているわけではなく、できることや可能なことが行われていて、それがどんなに理不尽で許し難い行為や行動だろうと、実際に行われていることが優先されてしまうわけで、そうなると理性や悟性や感性を要する行為や行動よりも、現にそこで継続して行われていることの方が勝ってしまうわけだが、しかもそれが行われることによって不利益や被害や損害を被る人や集団も出てくるとなると、やはり対立や争いが避けられない成り行きになるのだが、そうなるからそれが是非を問われる問題となってくるわけだが、それをやることの是非を巡って対立や争いが繰り広げられて、そういう成り行きの中でも勝ち負けが伴ってくるだろうが、そこで単純に勝ったから良くて負けたから悪いとは言えない場合も出てきて、たとえそこで勝利を収めたとしても、それが恒常的な勝利ではなく、一時的な勝利であることに気づかない場合が結構あるわけで、無理な論理や屁理屈のような理屈をごり押しして一時的に勝った場合には、長い目で見ると様相が違って見えてきて、それが長期的な視野で行われていることだと、短期的には勝ったが長期的には負けてしまう可能性があり、それが直接そこで勝った人や集団には気づくことができず、将来において負けたことに気づく前に寿命が尽きて、負ける前にそこからいなくなってしまうなら、そんなことなど知る必要もないわけだが、実際に勝ち逃げのようにしてそこからいなくなり、そのまま世の中から忘れ去られてしまった人や集団などこれまでにいくらでもいるのかも知れないが、実際にその存在が忘れ去られた後では、存命中に行なったことの是非など問われず、それが問題視されることもないのではないか。
9月11日「嫌な予感が的中した時」
何か胸騒ぎがして、それが嫌な予感であれば、これから何か嫌なことが起こる予感がしているわけだろうが、すでに起こってしまったことからそれを類推してみても、わかるはずがないような気がするとしても、予感が全く当てにならないわけでもなく、日頃の自らの行いに関わることであるなら、過去の行いから類推して、何か将来に禍根を残すようなことをやってしまったのかも知れないが、それを思い出していちいち挙げればきりがなく、すでに忘れてしまっていて覚えていないこともあるだろうし、何かしら無数の過ちを犯しながら今に至っていれば、何もないはずがないだろうが、身から出た錆程度が原因であれば、大したことではないと思いたいが、それが塵も積もれば山となったり、雪だるま式に増えて行くようなことにでもなれば、過去の悪行が累積して大惨事を起こすような成り行きになるかも知れないが、それも実際にそうなってみてから思い当たるようなことかも知れず、今すぐにわかるようなことではなく、これから様々なことが起こってから、それらの出来事の関連性を考えてみれば、何か思い当たることが出てくるとしても、それではあからさまに嫌な予感が的中したことにはならないだろうし、何かが起こった直後にすぐにそれだと気づくようなことでなければ、予感が的中したとは思わないはずだが、そう考えてみると、過去の記憶を振り返って、あからさまに嫌な予感が的中した時のことを思い出せないなら、予感が的中したことがあったとしても印象が薄く、それどころか災い転じて福となすように物事を考えようとして、何か嫌なことが起こると、それを利用できれば何か自分にとって良いことが起こるのではないかと期待してしまうから、嫌なことが起こった機会を捉えて、それに合わせて行動しようとして、行動した結果として、ますます災禍の泥沼にはまってしまうなら、期待が裏切られたことになるのだが、実体験としてはそうではなく、本当に災いを転じて福となすような展開に持ち込めたかというと、実感としてはどちらとも言えないような結果がもたらされて、嫌なことが起こったことと、その機会を捉えて何かやろうとしたことを関連づけてしまうこと自体が、浅はか極まりないご都合主義であり、直接には関係がないことを関係があるかのように思い込もうとして、それが思考として誤っているのはもちろんのこと、うまく行かない場合が実際にも多かったようにも思われるが、それはそれでありこれはこれという感覚がしっくりくるのであり、何か嫌な予感がした後に、確かに災いがもたらされて予感が的中したことと、そこから今度はそうなったことをバネにして、何かやろうとすることが、それとこれとは無関係だと思うわけでもないが、梃子の原理でこちらが下がればあちらが上がるように想像してしまうこと自体が、それとこれとがどうつながっているのかが、よくわかっていないのかも知れないが、何かをやるきっかけとしては、何か嫌な予感が的中した時に、ひどい目に遭って落ち込まないように、自らを奮い立たせるために、そこで何かをやろうとしてしまうのかも知れず、それが浅はか極まりないと思うわけでもなく、やったことがうまく行かなければ反省してそう思うかも知れないが、実感としては何とも言えない結果がもたらされるわけだから、後から考えてもそういう成り行きだったと思うしかないだろうし、悪い予感が的中したことはそうであるにしても、そうなったことを何かをやる機会に転嫁できるかというと、それもそうなってしまったことでしかなく、それを後からどう思ってみても、実際にそんなふうに思ってそれを実行してそうなってしまったのだから、確かにそれをどう思ってみても後の祭りには違いなく、しかもそう思っているわけだから、嫌な予感が的中したとその時のことを振り返る余裕があるわけだが、その余裕がそんな機会を利用して何かをやったことから生じているのだとしたら、やった結果がどうであれ、結果的には嫌な予感が的中してしまったことを忘れるために、何かをやろうとして、それを夢中になってやっている間は、確かに一時的には嫌な予感が的中したことを忘れていられるのだが、そんなことがうまく行くのかというと、後から冷静になって振り返ってみれば、何か恥の上塗りのような傷口に塩を塗るような余計なことをやっているだけで、うまく行かなくて当然のことをやっていただけなのかも知れず、それを無駄な悪あがきと捉えるか、それとも気休めでしかないと言うべきなのかはよくわからないが、否定的に捉えるならそう言っても構わないのだろうが、それが何とも評価できないような結果なら、わざと自らの行いを卑下する必要もなく、ただその場の流れに乗って何かをやっていただけだと思っておいても差し支えないなら、その程度のことだと思えばいいのだろうし、特に大した結果ももたらさなければ何とも思わなくても構わないのかも知れず、結局はそうやって嫌な予感が的中したことの衝撃を弱めようとしているわけで、そんなことをやっているから印象が薄くなってしまうのだろうが、そうしようとしてそうやっているわけではなく、そんな意図や思惑があることをそれをやろうとした時には気づかないことが肝要なのかも知れず、それがそれと自覚することなくやっていることであり、意識しなくても自然にそんなことをやる成り行きへと持って行こうとしているわけで、そうなった後から振り返って考えればそんな経緯や事情がわかってくるものの、振り返る余裕がなければ忘れてしまい、自身がそんなことをやっていることさえ気づいていないわけだ。
9月10日「店晒しの仕掛け」
現状の世の中で起こっていることに関して、誰が説明を求められているわけでもなければ、特に何も語る必要はなく、語る必要もないのに無理に言葉を絞り出そうとしても、何も思い浮かばなければ、何も語れないはずだが、実際にまだこの時点では何か内容のあることを語っているわけでもないが、たぶん何も語る必要がないという思い込みが間違っていて、今はなくても時が経てば、何か語る必要が出てくるかも知れないが、では何か語る必要が出てきた時に語れるかというと、その時になってみないことにはわからないが、その時には語れなくても語れる時に語ればいいとしても、実際にはそんな都合のいい成り行きにはならず、大抵は何も語る必要がないのに無理に語ろうとして、語りたいのにうまく語れないから、歯痒さを感じるわけで、そんな歯痒くもどかしい感覚が何かを語らせるのだとすれば、では何のために語っているのかというと、何のためでもなく、特に理由もなく語っているわけで、しかも語りたいそれを直接語っているわけではなく、それとは関係のないところから語るべき内容が出てきて、それが思いがけない成り行きだから驚くのだろうが、それでも実際には直接は語らずに文字を書き記しているわけで、それが現実の世界とは無関係なフィクションである必要もないが、実際に書き記してみなければどんな内容になるかもわからないし、まるで見当がつかないことを語ろうとしているわけでもないが、事前に内容を決めずに、その場の思いつきに従いながら何を書き記そうとしているわけでもないのに、すでに他人が語っている内容を聴いたり読んでいたりして、それを理解しようとする過程で、他人が語っている内容に対する反応として、何を語るかが決まってきて、それも大抵は聴いたり読んだりした内容に対する批判になってしまうのだが、そうやって他人の言説を批判しながら、その他人の言説に依存してしまい、しかも安易に批判しやすい対象を選んで批判することになるから、安易な批判となってしまうわけだが、では安易な批判でも構わないのかというと、その安易に批判できる対象というのが、批判の的となるように仕掛けられた罠かも知れないが、罠であっても構わないわけで、批判するように誘導しているわけだから、そんな誘導に素直に従って批判しておけばいいわけだが、実際に今メディア上で盛んに批判されている対象というのが、その種の批判してもらうように仕掛けられた批判の的だとしても、果たして的を射るような批判が行われているのかというと、批判している側はそれを目がけて批判しているわけだから、的を射た批判をしているつもりになっているのだろうが、たぶん批判が的を射ているのであり、的を射た批判が語られて、それを聴いたり読んだりして納得しているから、的を射た批判だと思っているはずだが、そこから語るとなると、当然のこととして語る必要もないのに無理に語ろうとするから、それに対する反論となって、それが批判となり、それを語ろうとして、実際に語ってしまうとメディアが仕掛けた罠にはまっていることになるかも知れないが、罠にはまったところでどうなるわけでもなければ、罠でも何でもないのかも知れないが、それが罠とは気づかない程度のちょっとした罠であり、はまったところで痛くも痒くもない罠かも知れず、そんな罠など罠でもないが、では罠でなければ何なのかというと、それについて語る機会を提供しているのであり、メディアが語る機会を提供しているわけだから、素直に応じれば、それについて語ることになるわけで、果たしてそこで語る必要があるのかといえば、必要があるかないかではなく、それに反応するとなると、それについて語らなければ反応とは言えないのかも知れず、黙っていると無反応と見られてしまい、伝えられた内容に無反応だと、果たして伝わったのかどうか怪しくなって、なるべくなら反応してほしいわけで、だから反応しやすいことを伝えようとしていて、その反応の中には批判も含まれていて、事前に批判の的として設置しているのなら、それに対する素直な反応としては批判してほしいわけで、要するにそれを批判することも、批判するように誘導されて批判しているわけだから、それを批判するのもメディアの誘導に屈していることになり、もちろん誘導に屈しても構わないどころか、素直に批判の的に反応して批判しているわけだから、そうすべきことをやることが悪いわけではなく、誘導に屈することは良いことだと思ってほしいわけで、だからメディアの意図や思惑通りに批判してもらえれば、批判の的としては十分にうまく機能したことになるだろうから、批判の的を設置した側としては満足できる成果が上がったことになるわけで、それがメディアの機能としては成功だったはずだが、果たしてそううまくいくのかというと、大半はうまくいっているのだろうが、それが目論み通りには行かない場合もあるかも知れず、では何が目論み通りには行っていないのかというと、安易に批判できてしまうからすぐに飽きてしまうわけで、しかもメディアの目論み通りに批判している側が、飽きていることに気づかないまま、同じような批判を延々と繰り返して疲れてしまうという弊害が起こってきて、同じような批判を繰り返すほど飽きを通り越して疲れてきて、疲れてくると次第に反応が鈍くなり、いくら批判の的を設置したところで面倒だからいちいち反応してくれなくなってしまうから、手を替え品を替えて、絶えず興味を引くように批判の的を新調しなければならないのだろうが、その手を変え品を変えるほど種類が豊富にあるわけではないどころか、いつまで経っても同じ批判の的を使い回して間に合わせているようなことにもなってしまい、それがマンネリ化を加速させてネタ切れを招いてしまうから、そうなると批判の的としては機能しなくなって、もはや廃棄するしかないのだろうが、実際にはいつまでも廃棄されずに店晒しとなっている批判の的が多く、批判の的としては使わない方がいいような代物が多すぎて、そうなると大半の人が反応しなくなり、無関心となってしまうのだろうが、今度は無関心へと誘導するような対象がメディアが仕掛けた罠として機能しだすのではないか。
9月9日「正当化を免れるには」
どこかで誰かが狭い了見に囚われながら、何にこだわって何を正当化したいのかというと、もちろんその何かにこだわっていることを正当化したいのだが、当人は正当化しているつもりでも、結果的には何も正当化しているように見えなければ、何でもないことになってしまうわけでもないが、何も正当化できないはずがないと思っているわけでもないだろうが、そんなことを思っていなくても、それに関して何か主張すればそれを正当化していることになるわけで、正当化しているという自覚があるわけでもないのに、理屈じゃないというごり押し自体が、理屈では正当化できないことを正当化していて、理屈では正当化できないのだから、他の何を持ってしても正当化できるわけがないとも思えないだろうが、正当化できるはずがないことを強引に正当化しているわけだから、確かにそうなると理屈ではなく、実際に理屈抜きに正当化しているわけだが、果たして正当化していると言えるのかというと、正当化しているとは言えない代物を正当化していて、そんな正当化などあり得ないと思う代物を正当化しているとも思っていないだろうが、実際にそうなってしまうと、そんな正当化が無効な理由をいくら理路整然と説いても、そんな正当化をどこまで否定しても、どこまで否定されても正当化しようとするのだから、どんな理屈を用いて理屈抜きの正当化を否定しても無駄で、そんなふうに論争の相手に頑なな態度をとられると、論理や理屈に訴えかけるやり方ではお手上げだが、そうでなくてもそれを意地でも正当化しようとしているのだから、何を言われても突っぱねられる限りで、強引にそんな態度を通用させて、その場を乗り切るつもりだから、それ自体がそんな態度を貫き通そうとする裏で守ろうとしている何かがあることを暗示させるかも知れないが、それが案外何もない場合もありそうで、裏で何かを守っていることを匂わせながら、そんなことをやっている人たちの常套手段として、騙しやはぐらかしのテクニックがあるのかも知れないが、何か知られてはならない重大な秘密を隠しているように装いながらも、本当に隠しているとしてもそれが大したことはなく、秘密ともいえないようなしょぼくみっともない醜聞を隠していたりして、ばれたとしても大して痛手を被らないどうでもいいような醜聞を隠すために周囲にどれほど迷惑をかけようと、一向に構わないような無責任な開き直りが、かえって周囲に恐れを抱かせて、そう振る舞うことがそれらの人や勢力にとっては権力を行使する絶好の機会を与えているとすれば、何かそれが本末転倒のようなことかも知れないが、そんな経緯や事情の全貌が明らかにならない段階では、誰もそうなっていることなど知る由もなく、その種の無責任体制に乗っかって主導権を握って権力を行使しているように見える人や集団の力を過大評価してしまい、もちろんそれを過大評価だとは思っていないから実質的にも過大評価なのだろうが、またそんな評価を十分に正当化できる根拠があるとは思っていなくても、かえって無根拠な自信に支えられながら権力を行使しているから、変に自信に満ちていて、そんな自信が思い違いや勘違いでしかないとしても、自信があるから堂々としていられて、そんな態度を真に受けて怯んでしまうと、その人のペースに巻き込まれてしまうのかも知れず、そういう意味ではその種のはったりが利いているように見える人には注意してかからないと、酷い目に遭うかも知れないが、意識して偽装しているのであれば、どことなくぎこちないから、勘の鋭い人には簡単にばれてしまうかも知れないが、はったりを利かせている自覚のない人になると天然であり、それが根拠の定かでない強気な態度であるなら、他人を騙すつもりもなく騙している場合もあるだろうから、何かややこしい事態を招く危険性がありそうだが、どんな状況下でもそんな態度を貫けるわけでもないだろうから、必要もないのにそんな態度をとっていること自体も怪しいが、もっと自然な態度や対応を心がけるなら、その場の状況に応じて態度を変えればいいとしても、態度を変えたところで、その場の状況に態度を合わせようとしたところで、どうなるわけでもなければ無駄なのかも知れず、相手から態度を見透かされていて、どんな態度をとってもその場の状況を動かせないなら、その人の態度をどうこう言うような問題ではなく、そんな態度でいること自体も正当化できない状況であり、それでもなお見え透いた態度でその場を乗り切ろうとしているなら、そんな態度でいることを正当化しているとしても、それを周囲が認めようとせず、認められなければ、その場で交わされる議論や交渉も平行線に終わるしかなく、それ以上は手の打ちようがなければ、そこで行き詰まってしまうのだろうが、そうなってからが真の試練が開始されて、たぶんそこから道が開けるのかも知れず、しかも偶然に思いがけないことが起こるのを期待してしまい、そんな期待が裏切られて、誰の思い通りにも行かない成り行きがもたらされるとしても、実際にそうなるわけで、実際にそうなってしまうから、それが思いがけないことになり、思いがけないことが起こるが、期待を裏切るように起こるから、それが真の思いがけないことなのだろうが、そうなると誰もそんな成り行きを正当化することができず、しかも正当化しなくても構わず、期待を裏切る結果になるからそれを正当化できないわけだが、誰の都合も反映しないような結果がもたらされるなら、それが誰にとっても平等な結果であり、誰の思惑も外れることによってそうなり、誰にとってもそうなっては困るから、そんな結果にならないようにしたいところだろうが、誰にとっても思い通りにならない成り行きになってしまえば、都合の良い結果になるはずがなく、しかもそうなってしまうから状況の行き詰まりが打開されて、誰もがそこから平等に出発できるスタート地点に立てるかも知れないが、もちろんそんな都合よく事が運ぶわけもなく、実際にそんな結果がもたらされているのに、実際にそうなっていることに誰も気づかないわけだ。
9月8日「安倍元首相と御用文化人のシンクロ具合」
蓮實重彦の『凡庸な芸術家の肖像』によると、フランスの第二帝政時代にナポレオン三世に取り入って、自身二度目のレジオンドヌール勲章を受けたマクシム・デュ・カンは、今で言えば安倍元首相に取り入って御用文化人となった三浦瑠麗や古市憲寿などの上位互換みたいな存在だが、ナポレオン三世が失脚して第二帝政が終わった後も、保守派の論客として保守系の雑誌などで活躍していたのだが、そんな保守派の支援を受けて、フランスの学問芸術の最高権威団体である、日本で言えば日本学術会議みたいなものかも知れないが、アカデミーフランセーズに入って、そこから数年後に、ナポレオン三世が大統領時代にクーデターを起こして皇帝になろうとした際に、それに反対して抵抗勢力に加わりながらも敗れて国外逃亡を余儀なくされて19年間も亡命生活を送りながらナポレオン三世を糾弾し続けたビクトル・ユゴーが亡くなって、ユゴーを国葬することが決まった時に、ユゴーもアカデミーフランセーズの会員だから、その時のアカデミーフランセーズの議長だったマクシム・デュ・カンが慣例に則って弔辞を読むことになったから、左翼系の新聞が一斉に反発して、暴力に訴えてまでも阻止すると脅しをかけてきて、やむなく弔辞を読むことを断念させられたわけだが、なぜそれほどまでにデュ・カンが左翼に嫌われていたのかといえば、もちろん第二帝政時代から御用文化人として活躍していた経緯があったことも要因の一つだが、第二帝政が終わった直後に発生したパリコミューンに際して、パリ市民の武装蜂起を悪質なデマを用いて罵倒した二流作家が弔辞を読むことなど許されないという世論が国民の間に広がって、ユゴー自身もパリコミューンが敗北して亡命を余儀なくされた左翼系の人々を親身になって支援した人道主義者という評判だから、なおさら反発を招いたのだろうが、その時の左翼系新聞雑誌の反対大キャンペーンというのが、今の日本で安倍元首相の国葬に反対する世論が広まっている状況にシンクロしているかも知れず、その武装蜂起した労働者が数万人も虐殺されたパリコミューンに対してデュ・カンが著作に書き記した悪質なデマというのが、コミューンの側にいた三人の半裸の女たちがパリの街々に石油をかけて火をつけて回ったという、関東大震災の時の在日朝鮮人たちが井戸に毒を入れて回ったというデマを流されて虐殺されたこととシンクロしていて興味深いが、そのパリコミューンから遡ること数十年前の1848年の6月にパリコミューンと同じように労働者による武装蜂起が軍によって鎮圧された際に、友人に送った手紙の中で「わが軍は、ほぼ敵を制圧したといってよい」と書かれてあったそうだが、それが安倍元首相が自衛隊を「わが軍」と呼んだこととシンクロしているように思われないこともないが、デュ・カンにとって敵とは武装蜂起した労働者や市民たちであることと、そこから150年以上経ってなお、フランスから遠く離れた日本において、保守派を気取った自民党の幹事長が共産党が極左暴力集団とつながっているとか妄想を抱いているところが、やはり不思議とシンクロしているように思われて、保守派にとってのいわゆる左翼によって起こされる暴力革命への恐れというのが、実際に1917年に起きたロシア革命のはるか以前から抱かれていたことになるわけで、そういった革命妄想というのが保守派を自認する人々がかかる一種の感染症なのかも知れず、もちろん左翼と言われる人々の方でも絶えず革命を起こすという願望があったから、それが保守派への圧力となって、保守派が左翼革命を恐れるという妄想を抱く原因となっているのだろうが、他にもナポレオン三世が大統領時代に、憲法違反を犯して「わが軍」である国軍を動かしてローマ教皇を助けるためにローマに進軍させたことを巡って、憲法違反に抗議して蜂起した左翼勢力を武力鎮圧して壊滅的な打撃を与えたことが、2015年に安倍政権の安保法制が憲法違反だと抗議して左翼系の12万人が国会前に押し寄せたとされるデモと、どちらも憲法違反という理由でシンクロしているように感じられるが、ルイ・ボナパルトはクーデターを起こして皇帝にまで上り詰めることができたが、安倍元首相はクーデターを起こす前に暗殺されてしまって、クーデターなど起こすつもりもなかっただろうし、大した事態にも至らずに済んでしまったが、暗殺されずに日本国憲法が統一教会の家訓のような憲法に改正されていたとなると、左翼にとってはゾッとする話かも知れないし、もっともそのナポレオン三世にしてもクーデターを起こさざるを得なかった事情というのが、大統領就任以来毎晩のようにパーティーを開いて贅沢三昧な生活を送って、借金が膨らんで返済の目処が立っていなかったというしょぼい理由があり、クーデターを起こしてそれまでは年間六十万フランだった年棒を一挙に千六百万フランにまで増やして借金の返済に充てたという、とんでもない陰謀劇なのだが、一方安倍元首相も桜を見る会を盛大に開いて問題視されたが、それがマルクスのいう笑劇ではなく、蓮實重彦がいうにはオペレッタ・ブッファという喜劇らしいのだが、素人には笑劇も喜劇も似たようなものとしか感じられないが、またマルクスによればナポレオン三世が右翼の下層階級であるルンペン・プロレタリアートを味方につけた二代目「ナポレオン思想」の体現者であることと、安倍元首相が同じく右翼の下層階級であるネトウヨを味方につけた三代目の何と呼べばしっくりくるのかわからないが、そういうところもシンクロしていると言えるだろうが、そういうところから少なくとも安倍元首相を典型例とするイメージが日本をオリジナルとするものではなく、欧米由来の何かであることが窺い知れて、それが明治維新以降の文明開花と共に日本に入ってきて定着した保守思想の悪き事例といってしまうと、ネトウヨの皆さんに申し訳ないが、あまりそういうところを感情的に否定してみても意味のないことなのかも知れない。
9月7日「知るための制度」
自分が知らないことを他人が知っていて、それを自分も知りたければ、それを知っている他人に興味を示すかも知れないし、状況によってはその他人に教えを乞う機会を得ようとするかも知れないが、それがその人しか知らないことであれば、俄然その人の存在に希少価値が生じてくるだろうが、他にも知っている人がいくらでもいれば、教えを乞う対象が必ずしもその人である必要がなくなり、そうなればその人に対する興味も失せて、その人でなくても他の誰でも構わないようなことになってしまうだろうが、そもそも他人に教えを乞うことがそんなに重要かというと、それもその時の状況にもよるだろうが、例えば企業が提供する何らかのサービスに関して、契約の内容を詳しく知りたい場合には、その企業に直接問い合わせることになるだろうし、コールセンターなどに電話して担当者とやりとりすることになるだろうが、別にそこで電話口に出た担当者に希少価値が生じることはないが、知りたいことを知ろうとする目的にとっては必要な人であるわけで、その人から聞き出した内容が役に立てばそれで構わないわけだが、他にも何人もコールセンターに勤務していれば、電話口に出たのがたまたまその人であっただけで、別の人が電話口に出たとしても特に問題はないだろうし、システム上そういう仕組みになっているのだから、そこに勤務している誰が電話口に出たとしても問題が生じないような体制になっているはずだが、その人の役職がコールセンターの担当者というどちらかと言えば組織の末端に位置付けられるような低い地位ではなく、組織の代表を担うような役職だと、そんな地位の高い役職に就いている人に直接問いただす機会を得られるなら、やはり俄然重要性が増してくるような気がするだろうし、たとえ問いただす内容がコールセンターの担当者に問い合わせる内容と変わらなくても、内容の重みが違うような気がするだろうが、葬儀の費用を全国でチェーン展開している葬儀会社のコールセンターに電話して聞き出す程度のことであれば、確かにどうということはないが、国葬と呼ばれる大げさな葬儀の費用に関して、国会で総理大臣に直接問いたださなければならない状況というのも、何か事態がこじれていることを窺わせる成り行きになっていて、そういった観点から考えてみればおかしなことには違いないが、国費から費用を捻出しなければならないことについては法的な根拠の有無が問題となり、葬儀の対象者に関してはそんなことをやるに値するかに疑念が生じていることは確かだが、費用がどれくらいになるかに関しては、誰がそれを明らかにするにしてもさっさと明らかにすれば済むことには違いないが、その額をなるべく少なく示して批判をかわそうとしていると受け取られるようなことをやるから疑念を持たれるとしても、そんな姑息なやり方が似合ってしまっていることが、何を意味しているのかといえば、端的に言うなら疑惑の隠蔽体質を窺わせるのだが、それが葬儀の対象者となる人物の生前のイメージとして世の中に定着している茶番体質も思い出させて、亡くなった後からもその葬儀に至るまでイチャモンがついてしまうところが、どこまでもその人物がまとっていたまがい物風のキャラクターにふさわしいような成り行きになっているわけだが、政治を真面目な方向へと軌道修正したければ、さっさとその存在を忘れ去るような成り行きへと持っていかなければならないのだろうが、どこまでも執拗につきまとって離れようとしない粘着質な事態の推移があるようで、そういう面でとことん人々に見せつけなければならない醜態と呼べるような惨状があるかも知れず、今がそれを見せつけている最中だと情勢を捉えておけばいいのかも知れないが、そんな醜態を見せつけられてもなお現状の維持に賛同する人や勢力が多数派を占めるなら、そんな穿った見方も見当違いとなってしまうだろうが、それだけ今までの経緯の中で強引に無理なことが行われてきたのかというとそうでもなく、それを醜態だとか惨状だとか、否定的に受け止める必要があるかというと、そうは思えないから誰もがそんなこじれにこじれた事態をおもしろがって見ているわけでもないだろうが、事態をこじらせている人や勢力に何かこれといって注目すべき思惑があるようなら、事態をこれ見よがしに解説してみせる人がそれについて語ろうとするはずだが、そういった解説者の勇み足にも期待をかけていて、現状で批判的な立場をとりながら物申す人たちがやり過ぎて、飽きられて呆れられるのを待っているとしたら、これまでの延長上で実際にそうなりかけているのかも知れず、それが特定の人や勢力がそうなるのを狙ってそうしているわけではなく、ただそういう成り行き乗っかって多くの人たちが騒ぎ立ててほしいわけだが、ただしそれが現状で成り立っている制度の根本的な変更に至らなければ、それで構わないわけで、誰が構わないということではなく、制度的にそういう成り行きになっているというと、それも怪しいところかも知れないが、何かそういうなることに気づいているわけではないが、そういう成り行きに対して違和感や疑念を抱いて、逆にそういった違和感や疑念を表明したばかりにそれを攻撃材料にされて批判されている人も一人や二人ではないが、そういうところでうまく立ち回るには何をしなければならないかとか、どう振る舞わなければならないかとか、それに関して納得できるようなマニュアルの類いが示されているわけでもないが、少なくとも調子に乗って、浅はかな人たちがここぞとばかりに騒ぎ立てているように感じられると、意外とそういう人の末路もそれ相応に否定的な傾向に定まってきて、それもこれまでにも同じような人たちが泡のように生まれてはブームが去った後においては跡形もなく消え去ってきた経緯がありそうだが、それもそれで構わないような成り行きが同時並行して続いている現状があるのかも知れない。
9月6日「場所の聖地化と自我の形成」
その場にもたらされている情勢の中で主導権を握っているように見える人物が、その場では重要人物のように思われるとしても、場の範囲をさらに広げて、他の場との相互関係などを考慮に入れると、必ずしもそうではなくなって、その場では確かに重要人物であっても、他ではそうでもなければ、その人物に大して重要性はないように思われるはずだが、その人物が重要人物に思われてしまうその場の特殊性がどこから生じてくるのかというと、その場でまかり通っている慣習などに、そう思っている人の意識が囚われているからと考えれば納得できるかも知れないが、ではそう思わせるその場の慣習とは何なのかといえば、それが他との関係を考えると、その場が他と比べて何ら特別な場ではないのが明らかだとしても、その場を世界の中心に据えると、もちろん何か正当な理由がなければそんなことはできないが、そうすることによってその場が何か他とは違う特別な場であるような気がするわけで、そうであるならその場を支配している慣習とは、その場を特別視する慣習だと言えるだろうが、それが慣習なのかというと、他でも自身が囚われている場を世界の中心であるかのように思ってしまう慣習があるかも知れず、そんなのは世界のどの文明にもあることで、その場だけに特有な慣習とは言えないだろうが、そこに他とは違う何かがあることを強調すると、そうすることによってその場が特別であるかのように思われるのだから、その場が何かの聖地であるのは明らかだが、そういう場合の慣習とはその場を聖地たらしめる慣習となるだろうが、そんな慣習に囚われた人が、慣習に従っているとは意識していないとしても、結果的に慣習に従っているように見える人々が、自分たちの存在や自分たちが行なっていることを正当化していて、しかもその正当化に無理があるように感じられるなら、その場でまかり通っている慣習に助けられてそういう正当化が可能となっていて、では慣習がなければ自分たちの立場や行為を正当化できないかというと、そんな仮定自体があり得ないことであり、その場を中心にして情勢を捉えないと、自らの立場や行為を正当化できないという表現では、実際にはそんなことは思っていないわけだから、そうは思わなくてもそうしないと自らを正当化できないところが矛盾しているのかも知れないが、それが当然のこととして情勢を捉えていて、当然視していること自体を意識していないわけだから、そんなことを意識して思うわけでもなく、単なる当たり前のことであり、そんな前提があることにも気づかずに、それを当然視している自らを正当化しているわけで、その辺がわかりづらいところなのだろうが、そういうことを当然視している人に何を言っても無駄かというと、そんな正当化自体がおかしいと言わざるを得ないだろうし、無駄かどうかではなく、おかしい理由を挙げてそれがおかしいことをわからせなければならなくなり、結果的にわかってもらえなくても、そういう成り行きになってしまうわけだが、たとえわかってもらえなくても、自分たちが当然視していることに異議を挟む人たちが大勢いて、それらの人たちが自分たちがやろうとしていることに反対していることには気づくはずだが、そこでやるのが当然だと思うことに反対している人たちがおかしいのではなく、それをやるのが当たり前だと思っている自分たちの方がおかしいとは思わないだろうし、それがその場ではそう思うが別の場ではそうは思わないことが理解できないのではなく、そこがたとえ同じ場所でも時が経てばそうではなくなってくる可能性があることは誰もが理解しているが、それを自身で直に体験してみないと思い知らないのであり、現状の中で思い知らせられる成り行きが生じていて、そういう成り行きに抗って、何とかして思い知らされないように情勢を持って行きたいわけで、だから当然視していることを絶対に改めるわけにはいかないのだが、それに関して慣習に囚われていることの全てが悪いことではないどころか、逆に慣習に囚われていないと社会の中でうまく立ち回れないのだが、それでも慣習に囚われていることを当然視してしまうことがおかしい場合があり、その当然視していることがおかしいと言われると、それに対して反発しないわけにはいかなくなり、しかもそれに反発して何か反論すれば、それを批判材料に利用されてしまい、それ自体がおかしいことなのだろうが、そうなっている時点で当然視していた慣習が通用しなくなっているわけだが、もちろんそれが慣習である限りで意識できないし、それを当然視していることも自覚していないから、それが通用しないといっても、何が通用していないのかもわからず、とりあえず何だかわからないが、とにかくこれまではうまくいっていたことがうまくいかなくなっているわけで、そうなっている時点でその場が聖地ではなくなっていること意識できないとしても、実際にその場を中心として物事が回らなくなっていて、だからといって他に中心と言えるような場所があるとも意識できないとすれば、その場がカオスな状態となっているわけだが、全てがカオスなわけではなく、これまで通りの秩序が維持されている面もあるなら、カオスな状態でさえも一過性で、やがて新たな秩序が形成されて、そんな秩序に支えられてこれまでと似たような慣習が復活するかも知れず、一時的にそうなっているとしても、その一時的な状態を利用しようとしてくる人や勢力もいるから、そんな人や勢力がそこで主導権を握って新たな秩序を作り上げて、それらの人や勢力にとって都合の良い新たな慣習に従うように仕向けてくるとしても、そうした秩序の中で主導権を握って中心的な役割を担っている人物が重要人物だと誰もが思うだろうが、やはりそれもその場では確かにそうだが、その場から遠ざかるに従ってその人物の影響力も徐々に薄れていくだろうから、それが相対的な重要性でしかないこともわかりきっているはずだが、それがその場を支配する慣習に従うことによってもたらされる幻想に過ぎないとは思わないものの、気づかないうちにそれを当然視してしまうと、自らがその人を重要人物だと思っていることにも気づかずに、なぜかその人物を軽んじて扱っている他の人や勢力が感情的に許せなくなっているわけで、何かそういうところで自らの自尊心が傷つけられたように感じるのだろうが、慣習に囚われている限りは、その理由までは思い至らないのではないか。
9月5日「解決策の有無」
対症療法とは、原因を突き止めるのではなく、症状を和らげることが優先されて、それが何の喩えになっているかに関してしっくりくるなら、少なくとも説明のレベルでは納得できるかも知れないが、果たして何の喩えとして対症療法的なことを言っているのかというと、根本的な解決策がない分野に関して、対症療法的なやり方しかできないことを理解させたいのだろうが、理解してくれない人が世の中の大半を占めているかも知れず、それが何の喩えというわけでもないが、例えば政治や経済の分野で問題となっていることが、根本的な解決策などなければ、対症療法的なやり方が当然のことのように行われているはずだが、そういうやり方を批判する人たちが、その対案として根本的な解決法があるかのようなことを仄めかすかも知れないが、宣伝や煽動の中ではそういうことを主張できるとしても、政策を実行する立場にない人や勢力がそんな主張をして、それを理解できない人たちを宣伝や煽動によって味方につけることができるにしても、根本的な解決策がないことを理解していないわけだから、やはりそういうことを主張している人や勢力が抱え込んでいる根本的なおかしさも理解しておらず、何かそういうところでそれらの人たちには気づかない勘違いや見込み違いがあるかも知れないが、それに関して最近ドイツ政府が物価高への対応として日本円にして9兆円を支出して、経済弱者の年金生活者や学生に現金を支給して、また児童手当を引き上げるなどの経済対策をやることになったが、それに対して日本の人々が、ドイツ政府はちゃんと弱者救済をやっているのに日本政府は何もやっていないと批判できるとしても、一方でウクライナに軍事侵攻したロシアに経済制裁をやったツケが回ってきたのだから自業自得だと揶揄する人のコメントも見受けられるが、ドイツ政府はドイツ国民への対応としてそういうことをやっていて、普通に考えて物価高への対応が無策だと国民が政府を支持してくれないから、国民の政府への支持をつなぎ止めるためにやっていることであり、ドイツ政府としてはやって当然の対応だと言えるはずだが、その一方で日本政府が同様の措置をとらない理由としては、日本ではドイツほどには物価が高騰していないか、あるいはそんな対応をとらなくても国民の政府への支持をつなぎ止められると踏んでいるのか、どちらか一方かあるいは両方なのかも知れないが、それ以前に日本では物価の高騰を抑え込むためのシステムがある程度は機能していて、原材料高を製品の値上げにできるだけ転嫁させないように、企業が自主的に損失を被るようなバイアスが働いているのかも知れないし、もちろん損失に耐えられない企業は倒産することになるだろうが、それでも倒産したくなければ商品となる製品やサービスを値上げするだろうから、価格転嫁ができない下請けなどの弱い立場の企業から先に倒産することになるかも知れないが、それは国民の側にも言えることかも知れず、政府の無策を批判して抗議活動を行うのは主に左翼活動家であり、そんな反日系の人や集団に感化されないようなシステムが機能していて、物価高は日本政府のせいではないから、文句を言わずにひたすら耐えろと同調圧力がかけられているかも知れないし、政府としても効果が限定的な直接の現金給付はなるべくしない代わりに、原発を稼働させることによって、電気料金の高騰を抑え込むための努力をしているし、節電に協力してくれる国民にはポイントやクーポンを付与して、それを使うことによって少しは家計の助けになるはずだと言いたいわけでもないだろうが、ドイツ政府のようにわかりやすいことをやれないようにされていることは確かかも知れず、その理由や原因が部外者には謎だろうが、部外者ではなく政府や政権与党の関係者であればわかっているかというと、彼らにしても現状でやれることをやっていて、やれることをやっている現状がこんな現状なのだから、彼らにしてはできる限り精一杯のことをやっているわけで、彼らを批判している人たちには何もやっていないように見えるとしても、彼らにも譲れない点があり、それを引っ込めてわかりやすいことをやってしまうと、日頃から彼らを何かと助けてくれる関係各方面からの支持や支援を失ってしまうと考えているかどうかは、部外者には窺い知れないところだが、たとえ窺い知れなくても、部外者ではない点では、選挙で投票できる有権者であることは確かだろうから、わかっている範囲内でわかっていることを判断材料にして、世論調査で賛否の意思を示したり、直接には選挙で投票することによって自分の意思を示せばいいことでしかないはずだが、その際にも根本的なところで自分の思いの全てを政治に反映できるわけでもないことは承知しているだろうから、対症療法的にどのような勢力に投票すればわかりやすい状況になるかを考えながら投票するしかなく、できれば誰にとっても謎で不可解な面は少ない方がいいはずで、政治が良くなれば全てが片付くとは思えないにしても、経済的な傾向とは直接関係のない宗教的かつ思想心情的に不合理なこだわりに引きずられて、合理的な判断ができないようにされていては、それが誰にとってもわかり難く、そこからどう考えてもおかしな偏見や先入観に囚われているカルト集団に誘導されて、面倒で鬱陶しい事態に巻き込まれてしまうと、そういう方面で無駄な労力を使い果たして、政治とは関係のない方面にまで悪影響が及んで、何かしら必要のない負担を強いられてしまうわけで、そういう意味で心身や金銭の面でも必要のない負担を強いられるような事態にはなりたくなければ、常識的に考えてわかりやすいことをやってくれる政治勢力に政権を託すことが、それが必ずしも最善ではないとしても、次善の策としては手間が省けるかも知れないし、それ以前にすでに面倒なこだわりに染まって洗脳されているようなら、根本的に世の中の全ての問題が政治によって解決可能だと主張するような勢力を支持しているつもりになって、その種の全体主義的な思想の虜になっているのかも知れないが、たぶんそうではなく、少なくとも先進諸国では無関心を装える余裕のある人たちが政治に関わるような成り行きになっているのではないか。
9月4日「今後の世界情勢にまつわる個人的な期待」
人がなぜ秘密を持つのかといえば、何かの拍子に他人に知られてはまずいことをやってしまうからという理由で納得できそうだが、その一方で知られてはまずいのにすでに周囲に知れ渡っていて、そうなっていることをその人だけが知らないという公然の秘密になっている可能性もあり、その人だけが知られてはまずいと思っているだけで、他の人にとっては秘密でも何でもなければ、その人の思い違いになってしまいそうだが、知られては困るのはそんなことではなく、まだそれを知らないから当人は困っていないが、その人がそれを知ってしまうと、周囲の人々が困った事態になるのかも知れず、そうであれば周囲の人々がその人をはめていることになるが、それが必ずしも悪いことではなく、中には周囲の人々からおだてられてその気になって仕事に励んで成功するような人もいるだろうから、それも仕事の内容によりけりだが、それがその人の実力を過大評価することになれば、それはそれで後になって厄介な事態を招く場合もあるかも知れないし、それが災いしたり幸いしてその人が把握していないところで事態が良い方向にも悪い方向にも向かっていれば、何かのタイミングでどちらかが露呈して、それが急にそうなったかのように感じられるかも知れないが、実は水面下で徐々にそうなって行った可能性もあり、後から振り返れば、過去のどこかの時点で調子に乗って出過ぎた真似をしていて、当人にはその自覚がないから知らぬが仏なのだが、それが周囲の人々からおだてられてその気になってやってしまった過ちだと言えるようなら、それが反省すべき点になるだろうが、それが今となっては取り返しのつかない過ちであり、今さら反省しても手遅れであり、それが災いして周囲の人々にはめられたわけでもないのに、その人が破滅してしまった時点で、事態がはっきりしたのだろうが、そこで終わりとはならず、そんな経緯を伴いながらもそれで一件落着とはならずに、そこからさらに誰も予想もしなかった事態になって、その事態が悪い方向だけではなく良い方向にも向かっていることが徐々に明らかになってくれば、そんな事態をどう捉えればいいのかわからなくなってしまうかも知れないが、今がその途上で誰もが右往左往している最中であり、現状で起こっている事態をどう受け止めてもしっくりこないようなら、それが良い方向にも悪い方向にも向かっているからであり、そんな中でも得てして悪い方向に向かっていることばかりが強調されるだろうが、それで構わないにしても深刻ぶって真に受ける必要もなく、おだてられてその気になってやり過ぎてしまった人が、すでにそこからいなくなってしまった現状の中では、邪魔者が消えて風通しが良くなったと思っている人も結構いるかも知れないが、内心はそう思っていてもそれをあからさまに口に出す人もいないだろうから、表面上はその人がいなくなってしまって寂しいとか、これからが全盛時だったのにとか残念がっているように装うだろうが、それとは対照的にその人の周囲でその人をおだてながらその人に媚びてその人の威光からもたらされるおこぼれに与っていた人たちは、実際に困ってしまったのかも知れないし、その人がしばしば調子に乗って出過ぎた真似をするのを内心苦々しく思いながらも、それを諌めるどころか、逆に調子を合わせて一緒になって囃し立てるようなことをやっていたから、本人もますます図に乗ってとうとうある一線を越えてしまった結果として今回の事態がもたらされたと判断するならその通りかも知れないが、それが直接の反作用としてそうなったわけではなく、当人にはあずかり知らない方面から作用が及ぼされて思いがけない事態を招いてしまったのだから、しかもそうなるまでには様々な偶然が重なってそうなってしまったのだから、単に運が悪かったと言えばその通りだが、運が悪いだけではそうならないわけで、周囲には当人の行き過ぎた行為を諌めて歯止めをかけるような人がいなかったから、取り返しがつかなくなる段階まで至ってしまったように見えるが、しかもそれを取り返しがつかない行為だとわかるわけではなく、あくまでもそうなった結果からしかわからないことであり、もし偶然が作用してああいう結果には至らなければ、誰もそれを取り返しがつかないことだとは思わないだろうし、実際にあの事件さえなければ、あるいはあの事件が未遂に終わっていれば、今も憎まれっ子世に憚るが如くに健在であったはずで、そうなればなったで今とはだいぶ状況や情勢が様変わりしていたはずだが、実際にはそうはならず、その代わりに現状がもたらされたわけで、こんな現状がもたらされていることに関して何か必然性があったかといえば、行き過ぎに歯止めをかけて是正するようなことが起こっていると解釈しておくのが妥当なところかも知れず、しかもそれがそうした行き過ぎに待ったをかけると宣言した人や勢力の尽力が実ってそうなったわけではなく、ただの偶然が作用してそうなったことについては多くの人が納得できないだろうし、そんなはずがないと思いたいから、当初は何かの陰謀なのではないかとつぶやく人が続出していたかも知れないが、今でもそうだと頑なに信じている人もいくらでもいるかも知れないし、その種の陰謀論者に格好のネタを提供したように思われるだろうが、結果的にはそれで構わないようなたわいないことかも知れず、そうだと信じてしまった方が、かえって今後の成り行きをおもしろがれるかも知れないから、そう思うことに関してはその通りだと思っておいても構わないが、実際にそうなってしまったことに関しては、信じられないことが起こってしまったと思うしかないが、そこで個人的に今後の期待を言わせてもらうなら、自らが現時点で何を期待しているのかよくわからないが、今回の出来事を遥かに上回るような衝撃的なことが起これば、なぜか期待していた通りのことが起こったと思うかも知れず、場合によってはその出来事が起こることを過去に予想して、すでに予言までしていたと言いたくなってしまうかも知れず、その予言をこれから書き記そうと思っているわけではないにしても、それも偶然の巡り合わせが作用して、今後自らがそんなことを予言してしまうことを期待しているのかも知れない。
9月3日「謎解きの妙」
現状でわかっていることが限られている中で、そのわかっていることから推理して、それなりに妥当だと思われる結論を導き出せるとしても、現状ではわかっていないことがあり、それを不可解な謎として強調すれば、それが究明すべき謎となり、フィクションに登場する探偵の真似事をしているように装いながら、謎解きへと聴衆や読者を誘導するのが興味を惹きつける手法になるが、もちろん聴衆や読者が謎解きをするわけではなく、語り手が謎を解いてみせて、あるいは話の始まりから終わりまで謎を謎のままに保ちながら、結局その謎が解き明かされないままとなる場合もあるだろうが、視聴者や読者の興味を持続させるには、途中で隠された秘密が明らかになったり、新たな謎が出てきたり、それが飽きさせないための工夫になるだろうが、その種の謎解きエンターテイメントの目論みがそうであるなら、そんな目論み通りの代物を見せられて、それの何が興味深いわけでもないが、謎解きの題材が実際に起こった有名な事故や事件であれば、いやが上にも多くの人々の興味を惹きつけるだろうから、多数の犠牲者を出した航空機事故や著名人の暗殺事件などに絡んで陰謀が巡らされていれば、その陰謀が当時の国際情勢を辻褄が合うように説明するには格好の手がかりを提供していて、そういう陰謀が巡らされていたからそんな国際情勢になったと説明できるようになれば、何やら説得力が生じてくるのだろうが、そんな陰謀論者を小馬鹿にする人たちにしてみれば、少々話ができすぎていることになるのだろうが、小馬鹿にする人もいれば信じてしまう人も結構出てくれば、その種の謎解き話も一定の成功を収めたことになり、今でもまことしやかにその種の話が信じられているから、有名な事故や事件が起こった日に近づいてくると、その種の話が蒸し返されて、それが視聴者や読者の興味を惹きつける謎解きエンターテイメントとして機能するわけだが、それを機能しないようにするにはどうすればいいかというと、別に機能しないようにする理由も何もありはしないのだが、謎を謎として機能しないようにするには、それが興味深い謎ではなく、偶然にそうなったとは信じられないだろうが、そこで信じられないことが起こったとするなら、偶然の巡り合わせでそうなったと認めるしかなく、国際情勢は偶然にそんな国際情勢になったのであり、それに絡んで起こったように思われる事故や事件も偶然に起こったことにしておけば、謎解き話にはならないが、そこに裁判沙汰などが絡んできて、いやでも事故原因などを特定しなければならなくなれば、それが陰謀論を招くような突拍子もなく奇想天外で荒唐無稽な原因などではなく、極めてありふれていて月並みな原因が特定されるかも知れないが、それも偶然にそんな原因が生じて、それが原因でそんなことが起こったことになれば、大して世間の関心を惹かない原因になるだろうが、そうなってしまうと興味深い謎がなくなってしまうわけで、そんな偶然を信じられない人が、それが偶然なのだから信じられなくて当然だが、そんなつまらないことが原因で多くの人々が衝撃を受けた大事故や大事件が起こるはずがないと思うかというと、意識してそうは思わなくても、そんな大事故や大事件に見合うだけの信じられる原因や理由を求めてしまい、そこに大きな事故や事件と釣り合うだけの大きな原因や理由があるに違いないという確信に至ってしまえば、それが錯覚に違いないとしても、そんな都合に合わせて大きな原因や理由を求めてしまうと、そこに大げさな国際情勢なども絡んできて、結局は憶測や妄想を膨らませるだけ膨らませて、そういう経緯や事情を伴っている人は信じられるが、そんな経緯や事情とは関係のない一般人には到底信じられないような突拍子もなく奇想天外で荒唐無稽な作り話になってしまうのかも知れず、それ自体が全くバランスを欠いた話だが、その原因となっているのが大きな出来事とは不釣り合いに小さな原因や理由であり、大きな事故や事件とは不釣り合いな小さな偶然が重なって、そんな事故や事件が起こるから、そんな原因や理由では信じられないから、何とかして衝撃的な事故や事件に見合うだけの衝撃的な原因や理由を求めて、それなりに分別をわきまえた大の大人が謎解き探偵や真実を究明するジャーナリストのような立場や境遇になろうとしてしまうのかも知れず、しかもそんな人たちが探し求めている隠された秘密を知って、それを暴露しようとすると、国家権力から妨害工作が仕掛けられて命の危険にさらされるような境遇になってしまうから、俄然そこから話が盛り上がって、その種のサスペンスドラマの主人公になったような気になれるから、それが謎解きの妙であり、役者冥利に尽きるだろうし、意識してそんなことを思っているわけでもないだろうが、そういった類いの小説や映画やテレビドラマなどから影響を受けていて、そこで実際に秘密を知ってしまったばかりに命を狙われて殺されてしまったとされる人が、それも未だ真相が解き明かされぬ伝説の事故や事件の中に登場するから、なおのこと興味が尽きないわけだが、事の真相がそんな大げさなことではなく、ちょっとした不注意や間抜けでみっともなく恥ずかしい癖が原因でそんなことが起こっていたら、何やらユーモラスで滑稽な笑劇と化してしまい、それに関してかつてマルクスがナポレオン一世が悲劇の主人公ならナポレオン三世が笑劇の主人公だと評したかも知れないが、もっと矮小な範囲内で例えば吉田茂や岸信介が日本に悲劇をもたらした張本人たちではないにしても、孫の麻生太郎や安倍晋三がバブル崩壊後のお笑い小劇場の中で踊りに踊って日本を駄目にした張本人たちとは言えないにしても、事を大げさに捉えたい謎解き探偵たちや真実を究明したいジャーナリストたちにとっては、そういう構図がしっくりくるのかも知れない。
9月2日「価値観の相違」
それなりにメディア上で権威があるように感じられる人が部分的には説得力がありそうなことを語っていて、それが語っている内容の全体に及んでいるわけではなく、あくまでも部分的には説得力がありそうに思われるところが微妙なのだが、故意に肝心なところを言い落しているわけでもないだろうが、何か意図的に都合の悪いところを避けながら語っているようには感じられないとしても、勘の鋭い人なら気づいてしまうかも知れず、そんな何か腹に一物あるような雰囲気が感じられるようなことを語っている人に特有の傾向があるかというと、少なくとも総じて話術や弁論術に長けていることは一目瞭然であり、しかも聴衆の味方を装っているように感じられながらも、聴衆を言葉巧みに誘導して説得しようとしていて、自らの主張を語りながら、その主張の味方をしてくれるように聴衆を説き伏せて口説き落とそうとしているようにも感じられるわけだが、そんな人の言っていることを真に受けて、その人の味方となってしまう人々の姿が目に浮かぶようなら、なるほどサイレントマジョリティーを構成するような人たちが、そんな人の主張を支持してしまうのかも知れないが、そういう多数派狙いのメディア関係者が世の中の一般大衆を味方につけて、一定の支持や賛同を得られていることは確からしいのだが、一般大衆の方でもその人が自分たちの代弁者だと思っているかというと、あからさまにそうは思わないだろうが、たぶんその人に良い印象を抱いていれば、特にこれといって意識することはなくても、何かしら価値観の類いを共有しているはずで、それもそれが価値観だとはっきり意識しているわけでもないだろうが、果たしてそれに価値があったりなかったりすること自体も信じられないかも知れないが、それが肯定できることであったり好意的に思われることであったりすれば、少なくとも悪い気はしないはずだが、それに関してSNSのコメント欄でよく見かける差し障りのない好意的な内容が、ありふれていてしかも儀礼的な印象を伴っていれば、そう感じてしまう人にとって、そういう印象を伴ってしまう人に対して何かしら肯定できる価値を感じているかというと、特に価値そのものを意識していないのかも知れず、では価値を意識できるものが何かというと、普通は価値の対象となるものがあり、しかもそのものが物自体である限りで、それに金銭的な価格がついてくるようなら、直接的に価値を意識できるはずだが、中には意識しなくても実質的に価値を伴うものがあり、それが価値があるものを生み出すものであり、それが何かというと、資本主義経済が何によって発展してきたかを考えてみれば自ずからわかってくることかも知れないが、経済の発展が産業の発展によってもたらされるとしても、産業の発展が何によってもたらされるのかといえば、機械技術の発展によってもたらされるのは言うまでもないことだが、そういうことの延長で価値があるものを生み出すものとは何かと言えば、価値がある商品を生み出す機械であり、機械そのものに価値の源泉があるような気がするが、そこで思考を止めずに、機械が材料となる資源から作られていて、人のアイデアと資源が融合して機械が作られると考えると、そんな機械を活用して価値があるものを作り出す人間に価値があるように思われるだろうが、いくらアイデアがあっても資金がないと機械を作れないから、資金にも価値があるように思われるだろうし、それらのうちで何が価値の源泉と考えるかというと、大抵の人は直接的に金銭に価値があると考えてしまうし、また人道的な見地から人間に価値があると思い込もうとする人もいて、金と人があれば何でもできるわけでもないが、そう思う人たちの思考の中で何が欠けているのかといえば、価値がある商品を作り出す機械の存在と、商品や機械の材料となる資源が欠けているのだが、機械と人と資金がなければ資源を掘り出せないし、人と資金と資源があっても機械がなければ価値がある商品を作り出せないし、商品が商品であるためには売買や貸借が実際に行われないと商品ではなく、売買や貸借を通して価値を感じられて、また実際に使って消費する過程でも価値を感じられるから、何の前提条件もなしに価値がある商品がもとからあるわけでもないが、価値がある商品を生産して流通して販売するにも機械が必要であり、もちろん商品を流通させる以外にも、人が移動するにも歩くだけでは間に合わずに機械が必要だが、歩く以外でも他人と意思疎通をとるにも直接の意思疎通だけでは間に合わなければ通信端末などの機械が必要となり、何かにつけて機械なしでは生活がままならない現状があるなら、実際に機械文明の中で暮らしているわけだから、機械に価値の源泉があると考えるのが妥当なところだが、もちろん大抵の人はそうは思わないし、それに気づいていないわけだが、中には気づいていなくても身体で理解している人がいて、身体で理解するという表現ではおかしければ、頭で理解するのではなく、体で覚えると言えばいいかも知れないが、意識しなくても身体が自然に動作して機械を活用しているわけで、それに関して現状でも一時的かも知れないが世界一の資産を持っているイーロン・マスクが何を活用して資産を築いたのかといえば、EVやロケットや人工衛星や太陽光発電システムやリチウム蓄電池などの時代の最先端となる産業技術を活用したことは、そう言われてみれば当然のことかも知れないし、他にもそれらに目をつけた人や企業がいくらでもいる中で、そういう産業技術がたまたま様々な事情や経緯を伴ってこの時代に流行したから、それを利用して巨万の資産を築く人も出てくるということでしかないが、確かにそう言われてみればそうだとしても、何に価値があるかと直接問われると、金銭に価値があると思ったり、貴金属の金そのものに価値があると思ったり、宝石のダイヤモンドやエメラルドなどに価値があると思ったり、しかもそうした物欲を戒めるために精神を持ち出して、哲学や思想や宗教などに価値を見出そうとしてしまうのかも知れないし、さらには文系よりも理系に偏れば、数学や物理やそれらを応用した科学技術こそが価値の源泉だと思い込もうとする人までいるかも知れないが、何か一つの分野を強調すれば他の分野がおろそかになるわけでもないだろうが、様々な分野を結びつけて横断的に利用できれば、何か価値の面でバランスがとれるような幻想も生じてくるかも知れないが、個人でも集団で連携しても、やれることが限られてくるから、自身が関わっているそこに価値があるように思われても、他にも価値があったりなかったりする物事がある限りで、自身が強調したい物事の価値が他の全てに勝るわけではないことはわかっているつもりだが、他人が気づいていないように思われる価値に気づけば、自然とそれを強調しがちになってしまうのではないか。
9月1日「水泡に帰す」
結果を見れば何のことはないのに、その何のことはない結果に至るまでが面倒な紆余曲折を伴うと、結果に至る途中の段階では、そんな結果に至るとは誰も思ってもいないだろうし、実際に現状でもそうなるとは誰も思っていないはずだが、ではどんな結果に至るのかといえば、そうなって当然の何のことはない結果がもたらされて、そんな結果に直面して誰もが拍子抜けしてしまい、それまでの労苦が水の泡となって、ただのリセットを経験するのかも知れないが、何がリセットするのかといえば、現状では思いもよらない何かがリセットして、現状では思いもよらない何かとは、思いもよらないのだから、誰もが予想だにしない結果になるわけだが、結果を結果として受け止められない人も出てくるから、誰もが認めたがらない結果となってしまうのかも知れないが、認めたがらないというよりは結果が出ていることに誰も気づかない可能性も高そうで、直視すべき結果に誰も気づかないとなると、では誰が結果に気づくのかというと、誰もが忘れた頃に結果には直接関係のない誰かが気づくのであり、あの頃は、あるいはあの時代の人たちは、という感じで何か見下したような態度で、どうということはない人たちがどうということはないことを巡って揉めていたように語られて、みみっちいことに囚われた人たちが、それらの人たちにとっては分相応に面倒な事態に直面していたのだが、時には対立関係にある人たちが侃侃諤諤の議論を戦わせたりしながらも、結果的にそれ相応にそれらの人たちにとっては深刻な事態となったのだろうが、そこからそれなりに歳月が経過した後では、そんなことは世の中から忘れ去られていて、そこに至った経緯でさえもまともに覚えている人もいなくなり、うやむやのうちに闇に葬り去られた経緯も一つや二つではなく、それをそこから時を隔てて後から知った人たちによって、おもしろおかしく興味深い出来事として恣意的に話が再構成されることもあるだろうが、当時の雰囲気や印象を覚えている人にとっては何か嘘っぽく感じられる場合もあるだろうが、それをそこで初めて知った人にとって興味深く感じられるなら、何やら真実を語っているようにも思われるだろうから、そこで当時の人たちには出来事に近すぎて気づかなかったことが、そこから時間的に遠く離れて見ると気づくようなことが起こるのかも知れず、それが起こってからの時間的な経過に応じて新たに気づくことがあり、それを加味して新たに構成されるそれについての解釈というのが、当時においてそれを肯定的に受け止めた人たちにとっては受け入れ難い解釈であるなら、それが当時の人たちにとっては思いもよらないことであり、当時の人たちにとっては認め難いことかも知れないが、後からそれを語る人にとっては都合の良い内容となるかも知れないし、その時点で得られた経緯をその人が語りたい内容に合わせて都合の良いように再構成すればそうなってしまうのかも知れず、それが当時の人たちが肯定するのに都合の良い内容とは相容れないなら、どちらの内容が真実に近いかという話になってしまうが、どちらもフィクションなのではなく、少なくともどちらかが真実でもう一方が虚構だと言い切れるかというと、語られる全てが事実だとは言えなければ、それを解釈する人にとって都合の良い内容が構成される余地があり、それをフィクションだと決めつけるのではなく、推測でそういうことが言える余地があるなら、それをそんなふうに推測することが後から語る人にとってはその方が都合が良くなるわけで、当時から時間が経つにつれて、そう語る方が都合の良い情勢に変わってきたとも言えるだろうし、その場その時の世の中の情勢に合わせて、それについて語られる内容の本当らしさや嘘っぽさも変わってきて、当時の情勢の中で迷信のように信じられていたことがあり、それがそこからだいぶ時間が経過したどこかの段階では信じられなくなってきたから、その段階でもまたその場の情勢に合わせてまことしやかに信じられている迷信の類いもあるかも知れないが、世の中の全ての人たちが信じているわけでもないことなら、何か特定の政治的あるいは思想的な傾向に凝り固まった人たちの間では信じられていることかも知れないが、もちろんそれを信じている人たちにとっては迷信ではないから、それを迷信だと決めつける人がいれば、無視するか無視できなければそれを巡って対立するかのどちらかになるにしても、なぜそれを迷信だとは思わないのかというと、世の中の儀礼的な慣習に囚われているから、その儀礼的な慣習に囚われている限りで信じられることがあり、それが経年劣化のようにして儀礼が形骸化して顧みられなくなると、霧が晴れるようにしてその出来事の真の姿がくっきりと見えてくるようなら話がわかりやすいのだが、そうなった頃にはそんな出来事など誰も覚えていないわけで、覚えている人もそのほとんどが寿命が尽きて亡くなっていればなおのこと誰の知ったことでもないが、それを執り行うのが当然のことのようにして執り行われたり、これから執り行われる行事に関して、いい加減に単純化して語るなら、昨年の東京五輪の開催にこだわっていた人々も、今年の安倍元首相の国葬を執り行うことにこだわっている人々も、この時代の儀礼的な慣習がもたらす迷信に取り憑かれているとは誰も思わないかも知れないが、そんな人たちがもっともらしい理由を持ち出して関係各方面を納得させて根回しして了解を取り付けて、苦労しながら儀式の開催に漕ぎ着けたとしても、それがどうなるわけでもないとは言わないが、そのどうなるわけでもならないところが、その種の儀礼的な慣習の実質を延命させていて、それが空疎な儀式ではなくちゃんとした内容を伴っていると信じたい人には信じられるとしても、信じられない人は無理に信じようとしなくても構わないが、少なくともその種の儀式に世界から集まってくる人たちがどんな人たちなのかを知る機会を得るはずだが、それを知ったところで鈍感な人たちには気づかないことが、そこから時間が経過するに従って、それに気づく人が増えてくるなら、その種の儀式を行うのにも何らかの意義があったことになるかも知れないが、それが肯定的な意義であるだけではなく否定的な意義もあるなら、それが今後儀式を形骸化させる要因となるかも知れず、それを実際に毎度お馴染みの反対派の人たちが世に広めている最中でもあるわけだ。
8月31日「無駄と余裕の関連性」
誰が何を見ているのか今のところは定かでないが、見ているうちに何か思いつくこともあるだろうが、見ているものと思いついたことに関連性があるとは限らず、何を連想してみても、ちょっと見ただけでは気づかないことが、ふとした拍子に重大に思えることに気づいてしまうことがあるが、それに気づいたきっかけが、それとは直接関係のないことであったりするから、きっかけは偶然のきっかけに過ぎず、それに気づいた後からそれとの関連性をいくら考えてみても、実際に関係ないのだから考えるだけ無駄かも知れず、たとえ関連がなくても、考えればまたさらに関係のないことを思いつくかも知れないから、ただ無駄に考えているだけかも知れないが、無駄に考えるだけ暇つぶしになって、その暇つぶしがまた別の無駄な暇つぶしに結びついても、その暇つぶしとこの暇つぶしとの関連性も薄いだろうし、そうやって無駄に思考が継続されて、やがて飽きて考えることをやめてしまうかも知れないが、やめたところで時が経てばまた無駄に考えていて、そこで無駄に考えていることに気づいていないのだが、何か重要なことを考えているような気がする時もあるから、考えることをやめるわけにはいかず、いったん考え出したらきりがないとしても、とりあえず飽きてやめるまでは考えているわけで、考えるだけの暇があるということだろうが、果たして暇が無駄なのかというと、無駄がないと余裕がないのかも知れないし、余裕があれば無駄もあるから、無駄に考える余裕があるということだろうが、そうなると無駄と余裕には関連性があることになるかも知れないが、そう考えると確かに無駄に金を持っている人は余裕があるから、贅沢な方面で金を使って奢侈品を取り扱っている企業や業者を無駄に肥えさせて、経済活動に貢献していることは確かだが、そういった活動に直接関わっていない一般の貧乏人には関係のないことのように感じられるだろうが、貧乏人は金持ちに憧れて、稀に貧乏人の中から成り上がって金持ちになる人が出てくるから、貧乏人と金持ちにもそれ相応の関連性がありそうで、貧乏人が金持ちに成り上がる経緯も、宝くじでも当たらない限りは大抵はあくせく働いて、他人の何倍も働くから、その分だけ資産が蓄積して金持ちになる成り行きがあるにしても、もちろんただ単純に働くだけでは駄目で、それなりに創意工夫を凝らして戦略や戦術を駆使しながら競争相手を出し抜くようなことをやりながら、そんなことをやっている中で実際に競争に勝ち抜いたごくわずかな人が金持ちに成り上がれるような成り行きがあるのだろうが、もちろんいったん金持ちになれれば相対的に有利な立場や境遇になれて、金持ちになった人の家族も労せずして金持ちになれる場合もあるから、苦労知らずで金持ちになれば慢心が生じて隙だらけとなって、その隙を突かれて詐欺的な商売や宗教の食い物になってしまう場合もあるとしても、そうした詐欺的な商売や宗教にしても、一般の貧乏人にはあまり縁がなく、金のない人を相手にしても金にならないから、金目当てで他人を騙そうとする限りで、一般の貧乏人には関係ない商売や宗教でもあるわけで、それは奢侈品を取り扱う企業や業者にも言えることだが、金銭的に余裕があるからそういった金食い虫や寄生虫にたかられて、無駄に金を掠め取られて痛い目に遭うのだろうが、そういう意味でもそれらの企業や業者や詐欺的な商売や宗教などが活動できる余地が、経済的な余裕から生じることになるとしても、そんな成り行きも一般の貧乏人には縁のないことには違いないのだが、金持ちには金持ち特有の問題も生じてきて、金持ちな状態を維持するのも至難の業というか、金持ちな状態に慣れていない人が身を持ち崩す可能性が高いのかも知れず、金持ちになってからもそれなりに競争があって、真の大金持ちになるのはそういう方面での競争に勝ち抜いたわずかな人に限られるのかも知れないが、そういう成り行きも一般の貧乏人には縁がないことのように思われるかも知れないが、それでも宗教的な詐欺が世間で話題となれば、直接の関係がなくても関心を抱くだろうし、それに関連して誰かが数億円もの大金を宗教教団に貢がされてひどい目に遭ったと騒ぎ立てられても、数兆円もの資産を持っている人にとっては数百億円を慈善事業に寄付したところで痛くも痒くもないどころか、逆に感謝されて社会的な名誉欲を満足させることができるだろうから、そういうところが真の大金持ちとにわか小金持ちとの間で生じる財力の差となり、そんな財力の差が心理的な心の余裕やゆとりの違いとなるのだろうが、真の大金持ちにとっては数百億もの大金を慈善事業に注ぎ込むことが資金の無駄遣いとはならないのとは対照的に、小金持ちが数億円を詐欺的な宗教団体に貢がされて破産したり家族が自殺したり自殺未遂を起こせば、一般の貧乏人にとってどちらが身につまされる話に感じられるかといえば、大抵は後者になるだろうし、それだけに小金持ちにもなれないが貧乏人とも言えないような中途半端に資産を持っている人が世の中にはそれなりに多いことを示しているのかも知れないが、それとこれとが関係があるかというと、程度の違いといってしまえば身も蓋もないことには違いなく、何かを強調すれば、その強調表現にとって邪魔な何かを無視する場合もあるだろうし、そんな言語表現を駆使して利点と欠点に同じ程度の重要性があるかの如くに言いくるめようと仕掛けてくる輩も、メディア関係者の中にはいくらでもいるわけで、それが詐欺的な煽動だと気づかなければ真に受けて騙されてしまうのだろうが、例えば特定の人物に関して功罪半ばするような評価を下そうとする言説には引っかからないようにしなければならないし、そういう場合には功と罪が比較対象として適さないわけで、その人の罪の部分を強調して多くの人たちが批判しているのを逆手にとって、その人を擁護したい立場の人たちは、ひたすら功績を強調して、妥協的な言い回しとして功と罪の比較に持ち込みたいわけで、そういう意味で利点と欠点を比較するような言説には注意しないとならないわけで、致命的な欠点があるのに利点を強調しながら、最終的には致命的な欠点のある人を褒め称えたり、致命的な欠点のある行為をやり続けようとするわけだから、それが人によっても立場によっても程度の問題であるにしても、その程度に耐えられない人たちにとっては、致命的なことになるわけで、それが致命的なことにならないためには、無駄なことができる余裕が必要となってくるのではないか。
8月30日「思いが実現する予兆」
メディアを通して語られる世界の現状と現実に体験しつつある世界から受ける印象がかけ離れているのは、現実に体験しつつある世界がメディア経由で語られる誇張や強調を含んだ言語表現の内容とは無縁ではないが、どちらがどうだと言いたくなってくるのだから、語られる現実と体験しつつある現実が違うと言えばその通りには違いないが、語られる現実を真に受けることによって期待や願望を抱くのだとしたら、この後に及んで何も起こらないでは済まないだろうし、すでに何かが起こっているから、さらに期待や願望が実現するような何かが起こってほしいと思うはずで、そんな事態が間近に差し迫っていることを実感しているつもりになりたいわけで、実際にそんなことが起こる兆候を感じ取っているのかというと、メディア経由で語られる内容を真に受けるなら、そんな気がしてならないように感じられて、すでにそんなことが起こっている現実の世界と地続きの中で生きていることを実感しようとしていて、しかも期待や願望を実現するような何かがすでに起こりつつあることも感じ取ろうとしているから、そんな気になることによって何かの兆候を感じ取っていると思い込みたいのだが、実際にそれが起こってみないとそれを確かめられないから、もはや予想や予測などでは満足できず、いくらメディア上でそれが起こるだろうと予想されても、そんな予想を聞いた時点ではまだ起こっていないから、焦ったいわけだが、その一方で予想が外れた場合も想定して、そんな事態にも備えていて、もし予想が外れたらどうしようとも思うのだが、そんなことを思っているうちに予想が外れることも期待や願望に含まれてくると、どちらが実現しても構わないような気持ちになってくるかというと、それとは別に自分独自の予想や予測を自分の都合を織り込みながら導き出したくなってきて、そうなると勝手な妄想の域を出なくなり、現実に体験しつつある世界からもメディア経由で語られる現実からも認識がかけ離れてしまうのだろうが、それが自分独自の世界観だと思うなら、そんな妄想をいくら語っても他の誰からも相手にされなくなってしまうかも知れないが、そうなっても平然としていられるなら、そんな妄想の中にも何かしら世界の現実と重なる真実が含まれているのかも知れず、それが世界の中に自分が存在していて世界に含まれていることの証拠であり、そう思い込むこと自体が妄想の域を出ていないことになるだろうが、導き出したいのは妄想ではなく、これから起こることを予想したいはずだが、予想が当たることを目指すなら、それが自身の勝手な思い込みではなく、現実に体験しつつある世界に寄り添わなければならず、自身の外部で起こっていることの延長上で、これから起こることを予想しなければならないはずだが、それがなぜ自分独自の世界観から導き出されなければならないのかも謎だが、自らの世界観が他の誰の認識よりも世界の真実に近いなら、自らの予想が他の誰の予想よりも当たる確率が高いかというと、それも勝手な妄想に違いないだろうが、実際に何を予想しているわけでもなく、予想など何もしていなければ、世界観と予想とは無関係かも知れないが、世界観から導き出される予想というのが、世界観を実現するようなことが起こるのを予想したいのなら、やはり自身が勝手に抱いている期待や願望が実現することを予想したいということであるから、その期待や願望を抱かせるような何かに影響を受けてそう思っているのであり、それがメディアを通して語られる世界の現状認識であるなら、それを真に受けているからそう思われて、その現状認識が現実に体験しつつある世界から受ける印象とはかけ離れているとしても、想像力によって距離を縮めようとしていて、それが実感とかけ離れているほど、余計に想像力を働かせなければならないから、それだけ妄想の度合いも強まってくるわけだが、妄想の度合いが強まるほど、それによって形成される世界観も独自性を帯びるように思われて、そんな世界の現状認識に魅力を感じるなら勝手に妄想を膨らませて、それと共に期待や願望が実現すると予想したくなってくるのだろうが、それが自分独自の世界観を実現したいから、その世界観が実現されることを予想したいということなら、その世界観を自分独自に導き出したように思われること自体が勘違いなのであって、それがメディア経由でもたらされた世界の現状認識を真に受けていることに過ぎず、その世界観が自分独自ではないことを悟らなければならないが、メディア経由でもたらされた現状認識と現実に体験しつつある実感を一致させようとするから、その落差を埋め合わせるための妄想を必要として、それがすぐに妄想から自分独自の世界観になるわけでもないが、やはり自身の事情や経緯や都合をそこに反映させなければならないから、反映させる過程で独自性があるように思われてきて、一致させることができれば、世界の現状認識に自身の事情や経緯や都合を反映できたように思われるだろうし、そうやって自分独自の世界観を自身の頭の中で構成したことになるのだろうが、世界に自らの妄想を反映させたところで頭の中で思い描いているに過ぎないことだから、勝手な思い込みに違いなく、世界の中で実現していることではなく、頭の中で妄想していることだとすると、勝手にそう思っているに過ぎないことであるのはわかりきったことで、そう言われてみれば確かにそうだが、では自らが思い描いた世界観が実現することを予想したいという願望がどうなったのかというと、そんな願望を実現させるには実際に予想すればいいわけで、そうなってほしいと思うことが起こると予想すれば、それを予想したいという願望が叶ったことになるから、願望を叶えるにはまずはそうなると予想しなければならないわけだ。
8月29日「制度に囚われた人々」
法律と慣習に違いがあることは誰もが承知しているだろうが、慣習から人と人の間で立場や境遇に応じて不平等が生じてくるのに対して、法律は少なくとも万人に同じ法律を守らせることによって等しく同じ条件となるように配慮されていて、法の下での平等を実現するために法律が作られて、それが法治国家の建前であり、慣習から生じる不平等を法律によって是正するというのが、法治主義の主旨だが、では制度が何を意味するのかというと、慣習に基づいた制度と法律に基づいた制度と慣習と法律とが入り混じった制度がありそうだが、法律に基づいた制度というのは、法律を制定してその法律を活かすための仕組みを作り、その仕組みが制度となるのに対して、慣習からも制度が作られるかというと、それが自然発生的な制度となるだろうが、例えば物を売買するとか貸借するとか、税を取り立てるとか、そういった行為を後から法律によって厳密に規定すると制度となるのだが、行き過ぎた慣習を法律によって規制するという意味合いもあるだろうし、例えば慣習として人身売買が行われていたのを、売買される人が奴隷となってしまい、それでは法の下での平等という趣旨に反するから、人身売買を禁止する法律が作られて、人身売買という慣習に基づいた奴隷制度が廃止された経緯があるのだろうが、宗教法人という制度も、宗教団体が自然発生的に組織されて、他の利益目的で組織された企業などと同じように法人と見なして課税できるかというと、寺院や神社などの施設やその社屋が建っている土地や景観などに文化的な価値がある場合に、それらの文化財を保全する目的で税制的に優遇措置を講じて、宗教団体が金儲けを目的としない限りで、税が免除される仕組みが作られたわけだろうが、税が免除されることを悪用して金儲けをやっている宗教法人は制度の趣旨に反することになるだろうし、その程度が甚だしいと懲罰の対象となるだろうが、金儲けの定義としては物や情報の売買や貸借を通じて利益を得ることになるが、それが寄付であれば金儲けには当たらないかというと、多額の寄付によって教団の資産が飛躍的に増えている実態があれば、信者と教導者という立場や地位の上下関係を利用して寄付を強要している疑いもあるだろうし、一部の裕福な信者が多額の寄付をしているなら納得もできるだろうが、一般の信者が寄付し過ぎて生活苦に陥っているような実態があれば、宗教団体の側に問題があることになるだろうが、それも程度の問題で、特定の宗教団体が強引な勧誘によって信者を増やしてその勢力が拡大するような成り行きになれば、裏で何か尋常でないことをやっている可能性があるだろうし、信者と教団の間でトラブルが多発して裁判沙汰になっている事例も多ければ、果たしてそんな団体を税制面で優遇される宗教法人として扱っても構わないのかというと、政府としても何らかの対処や対策を余儀なくされる成り行きになりそうだが、その宗教団体が政府や政権政党と癒着してやりたい放題なことをやっているとすれば、今度はそういう問題を放置している政府や政権政党を支持している国民の側に責任が転嫁されることになるだろうから、選挙の際に国民が審判を下さなければならなくなってくるわけだが、すでにそうした宗教団体が政府や政権政党と癒着しているようなら、すんなりとはいかず、そういう方面では事態がこじれているのだろうが、そこに違法行為が絡んでくれば、違法行為をやっていたりその疑いがある人や団体を批判したり非難できることは確かなのだが、また人道的な見地からも許されない行為を糾弾することができるが、それが法律に違反したり慣習に背いたりする行為であるなら、やってはいけないことになるにしても、やってはいけないことが常態化しているなら、今度はそういうことをやること自体が慣習化してきて、それに基づいて後追い的にそういうことを正当化するような法律ができて、制度としてもそういうことをやるのが当然となるような仕組みができあがってくる成り行きがあり、実際に新しい省庁の名称や教育行政や憲法改正において、宗教団体の意向に沿ったことが行われたり行われようとしていたのだろうが、それに関しては衝撃的な事件がきっかけになって、やってはいけないことが常態化していることが明らかとなって、今度はそれを改めようとする気運が高まっている最中なのかも知れないが、表向きはそうだとしても、そういう成り行きを通してそれらに関連する人々がどう振る舞ってきたか、あるいはどう振る舞っている最中なのかを注意深く観察してみると、何かわかりやすい構図が浮かび上がってくるわけでもないのだが、制度に囚われた人々が自分たちの行動や言動の拠り所となる慣習や法律に照らし合わせて、言説の対象となる人や団体の良し悪しを理由や根拠を挙げながら語っていて、それがもっともらしく思われると納得したり、そうは思われないと納得しなかったりするわけで、その中で慣習に背いたり法律に違反しているから悪いことをやっていると主張するのはなるほどもっともなことだが、また法的な根拠がないことをやろうとしているから非難されるべきであり、建前としてはそれで構わないとしても、それが建前上のことでしかないとは思っていないだろうし、本心からひどいことが行われていると思っているだろうが、その一方で自分も含めて全くそうは思っていない人もいるわけで、そういう理不尽な人の心には一向に響かないことを主張しているとは思っていないだろうことも想像できてしまい、理不尽だからといって、それも建前上は無法者ではなく、真っ当な市民の皮を被った極悪非道な人でもなく、たぶん法律よりも慣習よりも制度よりも優先していることがある人にとっては、カルト宗教だろうとそれを利用している政府や政権政党だろうと、全く意に介さず、そうなるのがごく当たり前なことだと思っているわけではなくても、自分が直接の不利益を被らなければ、直接の不利益を被っていることにも気づかなければ、そんな政府や政権政党だろうと一向に構わないような態度でいられるのではないか。
8月28日「信仰の不自由」
どのような経緯や事情を伴ってそうなるのかは定かでないが、神社の映像を見てその中に隠れている神からのメッセージを探せと言われても、恣意的に自らの願望を読み取っているに過ぎず、それが神からの啓示のように感じられるとしたら、自らの内に神が宿っているというよりは、神と一体化する願望を抱いているわけでもないだろうが、何かの信仰に束縛されているわけでもなく、信仰から解き放たれて、人為的な慣習の虜となっているというよりは、ありのままの自然から目を背けているだけかも知れず、それが自然に対する信仰だとは言えないのもわかりきったことだが、ありのままの自然では信仰の体をなさないから、そこに社屋の類いを建てて人為的な取り繕いを施さなければならず、なぜ自然のままでは駄目なのかといえば、信仰自体から人為的な人間社会が生じているからであり、それもわかりきったことだが、そこまで思い至らないようにしておかないと、やはり信仰の体をなさないから、それがごまかしだと気づかないうちに、わかりやすく単純なメッセージとしての神の意志や意向を信じさせなければならず、信じるには何が必要なのかと問われるわけでもないが、それも問われる以前に信じさせなければならず、信じてもらわないと話にならないというわけでもないが、信じる者は救われるはずで、救われたいから信じるはずだが、救われる以外に別の理由があれば、例えばそれが信じなくても構わない理由となり、それが信仰ではなく信仰とは別のやり方になるとすれば、そのやり方を試すことによって信仰から抜け出られるはずだが、信仰が自由とは反対の束縛をもたらすから、信仰からは自由が生まれないのであり、信仰することからは信仰することの強要しか生まれてこないと思うなら、そうした強要を逃れるには、信仰の自由ではなく信仰しないことの自由を勝ち取るべきで、特定の宗教を信仰しないことによって、不幸になる自由を確保すべきだと考えるなら、それが信仰から抜け出る方法となるはずだが、実際にはそうはならず、誰もが信仰とは別の方法によって幸福になることを目指してしまい、それが偽りの信仰だと言えるわけでもないが、信じることではなく疑うことも必要で、信じるだけでは生きていけないから疑うわけで、もちろんそんな理由ではなく、理由のわからない疑念が先行して、信仰が疑わしいことを自覚しなければならないわけでもないが、根拠や理由の定かでない疑念を漠然と抱いているから、それが信じられないことの証しとなっているわけではないが、信仰を逃れるには疑うことが必要で、さらに必要でもないのに疑っているうちに疑心暗鬼となってしまい、不安感に苛まれることになるだろうが、疑念に囚われている限りで信仰から逃れられるのだから、誰もが疑うことによって幸福になれるとは思わないだろうが、幸せになろうとするから宗教に騙されるわけで、宗教は人が幸福になるために必要なのではなく、他人の不幸を利用するには宗教が必要なのであり、また政治も他人の不幸を糧として活動する傾向があり、政治と宗教は人の不幸を利用しながら活動するわけで、不幸を幸福に変えられると主張することが詐欺以外の何ものでもないが、不幸は不幸として保持しておかなければならず、大抵の人は自らの不幸を糧として生きているわけだから、そのことの延長上で政治と宗教も不幸を糧にして活動しているわけで、不幸であるからその不幸を何とかしようとして活動が行われているとしても、不幸をなくそうとするだろうが、不幸をなくすことが幸福につながるわけではなく、ただ不幸を糧にして活動を行なっていて、不幸がないと活動する理由や動機を見出せず、生きていくことが自身が活動している状態を継続することだとすれば、生きていくには不幸な状態に留まり続けることが必要となり、逆に幸福を実現することが何をもたらすのかというと、思い通りに活動しているという幻想をもたらすだろうが、自らの活動に不満を抱きながら活動することが不幸そのものであると同時に、思い通りに活動できていることが幸福感を伴うわけだから、同じ活動でも時には不幸だと思ったり時には幸福感を覚えることもある程度のことのであり、活動が生きていることそのものであれば、生きている中では不幸になったり幸福になったりするが、幸福になるために政治や宗教を利用しようとする魂胆がそもそもおかしいわけではなく、そう思うのが普通の感覚だろうが、利用できるものの中で政治や宗教があるにしても、他にも利用している物事があるはずで、利用できる選択肢が他にもあることが重要となるわけでもないのだが、時には重要となるかも知れないし、他に選択肢がなくても構わない場合もあるにしても、例えば全面的に宗教に頼って不幸になる場合もあり、それが犯罪行為を伴ったカルト宗教であれば、その被害に遭って不幸になったのだろうが、また詐欺商法の被害に遭って不幸になった人も大勢いるはずだが、そういう場合は不幸から安易に逃れようとしてさらなる不幸を呼び込んだことになるだろうが、それが政治にも当てはまるかというと、果たして政治が幸福をもたらすと思っている人がどれほどいるかというと、アンケート調査でもやれば、何やらもっともらしい結果が出てくるかも知れないが、その大抵は幸福を求めているのではなく、政治に対して不満を抱いているわけで、不満があるから政治批判を繰り返していて、その不満が一向に解消しないから、それも不幸のただ中にいると言えて、それが批判活動を行なう動機となり理由となっていて、そこでも不幸が活動を行なう糧となっているのではないか。
8月27日「思考と疑念と執念」
他人の言動に違和感を覚えると、違和感を覚える理由を考えたくなるが、考えてもわからなければ、ただ違和感を覚え続けて、いくら考えてもその違和感が解消しなければ、いつまで経ってもその理由を考え続けるわけでもないが、忘れた頃に思い出されるなら、結構執念深く考えていて、頭の片隅に違和感が残ったまま離れなくなれば、暇にまかせていつまでもその理由を考えていることになりそうだが、それが何なのかを明らかにしなければ気が済まないと思うものの、いくら考えても明らかにできないと思うわけでもなく、考えていればいずれは解答にたどり着けると楽観しているわけでもないが、気にかかっているのだから、それを思い出しては考えながらも、徐々に答えに近づいているような気になれば、さらにひたすら考えることになるが、たまに何を考えていたのか思い出せなくなってしまうこともあり、さっきまで執拗に何か考えていたらしいのだが、ふとした拍子に思い出せなくなり、何がきっかけでそうなってしまったのかもよくわからず、それを思い出そうとしながらも、次第にそれ以上は考えないようにさせられているような気がするなら、神か守護神の類いが忘れるように仕向けているのではないかと疑ってしまうが、忘れたままになってしまうかというとそうでもなく、忘れた頃に突然何かが閃いて、急に過去に考えていたことがその答えと共に思い出されてしまうこともあるから、それが意識の中では忘れているのに、考えていることを意識せずに考えているような状態になっていて、意識から切り離されて頭の片隅で他と同時並行して考えているのかも知れないが、思考作用のそういうところが謎であるにしても、疑念や違和感がそれについて考えることに結びつくのだから、考える理由としては疑念や違和感を覚えるから考えるのだろうが、疑念や違和感を覚える理由というのが、うまく言語化できないのであって、それについて考えているつもりになっているのだが、何をどう考えているのかがうまく表現できないと、考えていることは確かなのだが、それをうまく表現できないから、考えているうちに次第に苛立ち焦ってくるが、表現しづらいこととして、絶えずそれについて考えていて、それを言葉で示そうとしてもうまく示すことができずに、考えているうちに示そうとしていることから微妙にずれたところで、何をどう考えればいいのかわからず逡巡していて、要するに考えあぐねているわけだが、何を考えあぐねているのかが示されないと、言語表現として意味不明であり、ただ考え過ぎていることになるが、何について考え過ぎているのかも明らかにできなければ、言語表現としても内容を得ることができず、それに関して空疎なことを書き記していることになるだろうが、たとえ他人の言動に違和感や疑念を覚えるとしても、納得できないのは立場の違いであることは確かで、立場や境遇が違えば、その立場や境遇からそれに応じた言動が出てきて、それが別の立場や境遇にある人には、そういう言動が出てくる事情や経緯や背景がすぐに理解できるわけでもないから、その理解できないところから、違和感や疑念が生じてくると理解するしかないが、戦略的には理解していないように装いながら、理解できないことをことさらに強調して煽り立てるようなやり方もできるから、そこから他人に理解できないような言動を弄する人を非難したり批判するような成り行きへと持っていくこともあり、そうやって疑惑をもたれるようなことをやる人を言論の場で吊し上げて、どうだと言わんばかりに勝ち誇ってみせるようなことをやる人が現れると、なるほど煽動者の戦略とはそういうものだと納得できるかも知れないが、そういうやり方に違和感や疑念を覚えるなら、何か他に真っ当なやり方があると思っているのかというと、納得できるような心当たりがあるわけでもなく、逆にそういうことをやるのが真っ当なやり方だと思っても構わないのだろうが、他に良い見本となるようなやり方がない中で、誰もが納得できそうなやり方が見つからなければ、功利的な見地から効果がありそうなことがこれ見よがしに行われて、そういうやり方が効果的にその場で作用を及ぼしているように感じられるなら、他の人たちもそれを真似て似たようなことをやるだろうから、そういうやり方がその場で優勢となって、結果的にそういうことをやるのが真っ当であるようなコンセンサスができあがるのだろうが、だからといってそういうことをやられて不利になったり不利益を被る人が出てくれば、その人は納得できないだろうし、その人だけでなく他にも納得できない人もいれば、それらの人たちが違和感や疑念を覚えることになるのだろうが、そういう人たちにとってはそういうやり方が真っ当だとは思えないわけだが、それと共に真っ当なやり方を他に思いつけなければ、それが真っ当なやり方ではないとしても、効果的なやり方であることは認めざるを得ないだろうから、そういうやり方を駆使してその場の主導権を握る人が現れるとしても、それと同時にそういうやり方の犠牲となって不利益を被る人も出てくるわけだから、それがその場にもたらされる人間関係の優劣となるわけだが、その場ではそうなるとしても、その場の優劣が他へと波及するわけでもないのかも知れず、その場が閉鎖的な言論空間であれば、たとえその場で不利になったとしても、他では平然としていられて、それもその人と連携している人や団体にどれほどの力があるかにもよるだろうが、その場だけが全てではないことを他の人たちも承知していれば、そういうやり方を駆使してその場で主導権を握って特定の人や団体を罵倒するようなことをやっている人が、井の中の蛙やお山の大将の如きに映るようなら、他から大して信用されているわけでもなく、下手をすれば頃合いを見計らって、下克上のようなことが起こって、その場から追放の憂き目に遭う可能性もあるのではないか。
8月26日「伝統の軽さ」
例えば家族の中で夫婦別姓で構わないのは、他ならぬ世界平和統一家庭連合=統一教会の創始者である文鮮明と韓鶴子の夫妻が夫婦別姓であることからも明らかだが、それをなぜか自民党で統一教会に汚染されている議員や幹部や大臣が選択的夫婦別姓に反対していることが解せないが、他にも解せないことがあるわけではないが、厳密には族と氏と姓の関係で正しいとは言えないが、日本でも源頼朝と北条政子も足利義政と日野富子も夫婦別姓であるといえるだろうから、夫婦同姓という慣習も明治維新後に作られた欧米の猿真似と受け取られかねないみっともない制度でもあるわけで、日本の伝統を重んじるとかいう建前を掲げる自民党の保守系の議員が隣国のカルト宗教に染まったり、皇室と関係が深い伊勢神宮とは別系統の朝鮮半島が由来だと噂がある靖国神社に参拝したりして、日本の伝統自体が中国や朝鮮半島や欧米が由来の猿真似文化でしかないことが、それも知っている人には昔からわかっていたことだけに、そういう方面で薄っぺらい偽りのアイデンティティを誇ること自体が恥ずかしいことなのだろうが、そういう伝統として根拠の希薄な慣習を信者と見なした国民に押し付けて強要することが権力の行使だと思っているわけでもないのだろうが、そんな自覚もなくやっていることがそういうことなのだから、そうなってしまう経緯を無視する人にとっては滑稽に感じられるのだろうし、それを説得力のないお粗末なフィクションだと馬鹿にするのは、やはりちょっと違っていて、自分たちの存在の耐えられない軽さを自覚できるわけでもなく、何でも構わないわけでもないのだろうが、集団がまとまるにはもっともらしい口実が必要となり、それが伝統の重みを感じることだと信じたいわけでもないとしても、実際に根拠の定かでないそれを信じられるかどうかが、その人を仲間と見なすか敵と見なすかの分かれ道となり、そんなのは馬鹿げた迷信だと相手にしない人たちを許せないと思うことで、一致団結して集団としてのアイデンティティを確立できるような逆説があり、敵と見なした人たちが合理的な判断から選択的夫婦別姓の法制化を推進していることと、自分たちの教祖様が夫婦別姓であることは別問題だと思っているわけでもないだろうが、しかもそれが自分たちが尊崇すべき皇族だと姓自体が定かでないことも問題外だろうし、それとこれとが思考の中で結びつかず、とにかく敵と見なした人たちが自分たちが守っているつもりの慣習を変えようとしていることが許せないと思っていることは自覚していて、そんな思いを敷衍して日本の伝統を守らなければならないという使命感も抱いているはずだが、それが過去の一時期に捏造された伝統だとも思っていないはずだが、自分たちが常日頃から慣れ親しんでいる生活習慣や生活様式の延長上にある家族や近所付き合いや町内会などの安心できる自己同一性を育んだ集団から逸脱したところで、勝手に異質なLGBTQなどのコミュニティやサークルなどを築かれてはたまったものではないという感覚があるだろうし、もちろんそれは仲間内や身内意識の強い集まりの中で思うところであり、そこでは仲間同士で気を許してざっくばらんに本音を言っても差し支えないが、公の場で公式的な見解を言う際にはそんなことは口が裂けても言えないことであり、その一方で仲間内では差別意識丸出しで例えば共産主義者に対する紋切り型的かつ否定的な固定観念や先入観を共有していたいわけで、そう思い込んでいるというよりはそういうものだと決めつけて見なしたいということであるから、共産党の議員が鉄道マニアであったり同性愛者であったりしても、そんなこととは関係なく、共産主義者はこれこれこういうことを考えていて、こういうことをやろうとするから危険だという偏見を公式見解として守っていきたいだろうし、何としてでもそういうところは絶対に譲れないのだろうが、そういう決めつけが自分だけなく、自分独自で考えた見解ではなく仲間内で共有している固定観念だから、その範囲内で言っていることなら、敵と見なした人たちからいかにその無根拠さや荒唐無稽さを指摘されようと馬鹿にされようと、仲間内で共有していることだから、仲間がそれを正しいと言ってくれる限りで安心して信じられることであり、そうやってわけのわからない偽りの伝統を日本の伝統だと信じられるはずだが、果たして本当にそう思い込んでいるのかというと、それも当人たちに確かめてみたわけでもない限りで、推測や憶測に過ぎないことでしかないが、仲間意識や身内意識を抱いて馬鹿にされない限りで成り立つような符牒や合言葉に過ぎないことを、他の誰もが共有できるとも思っていないだろうが、社会の中で主導権を握って権力を行使できる立場になれば、それを他の人たちにも政治力や権力を行使して守らせたいわけだが、できればそれを誰もが守らなければならない制度や法律として制定したいだろうし、そんな期待や願望が自主憲法制定というこれまた符牒や合言葉として事ある度に主張し続けていることになるのだろうが、その内容が左翼系の憲法学者の人たちからすれば、憲法にすら値しない噴飯物だと受け取られようと、そんなことはお構いなしに統一教会の下部組織である勝共連合から姿形を変えたわけのわからない団体の主張が盛り込まれた内容を憲法に盛り込みたいような成り行きになってしまうのだろうが、そうなってしまう紆余曲折に巻き込まれている中では確かにそういう成り行きにリアリティを感じられるとしても、憲法と言えば左翼的な憲法学者が論理的に導き出すような解釈の範囲内に留めておくことが、欧米の立憲的な憲法の伝統でもあり、それを日本の軽薄で根拠の定かでない伝統に取り込む過程で、おかしな要素が入ってきてしまうとしても、そこになぜ韓国のカルト宗教が推進する内容まで盛り込まなければならないかというところが、さらに根拠が希薄で意味不明だが、しかもそのカルト宗教が欧米のキリスト教由来であることが、例えばアメリカのキリスト教右派の伝統とも重なる余地もあり、そこからトランプ前大統領とのつながりも出てくるのだろうが、そうなると日本の皇室や天皇とは全くの無関係になってしまって、神道がユダヤ教由来だとか信じているわけでもないだろうが、憲法改正にこだわっていること自体が、その理由づけとして未だにGHQがどうたらこうたらという感情論や陰謀論まで出てきてしまうところも、ただの口実に過ぎないとしても、そういう方面でいくら議論してもまともな結論に至るわけでもなく、たぶんそんなどうでもいいことに気を取られているべきではなく、ただ現状で生活していく上で選択的夫婦別姓の必要性を求めている人たちがいるから、その種の法整備をした方が良い程度の議論に留めておくことが無難なのは、誰もがわかっていることなのではないか。
8月25日「嫌悪感を催す人々」
メディアを通して特定の人や団体にとって都合の悪いことが明らかになると、その都合の悪い内容に沿って批判しやすい対象としてそれを批判しているだけの人には戦略が欠けているように思われるが、そうかといって戦略が必要なのかというと、戦略を意識するような状況でも立場でもないのかも知れず、そんな人たちの言動に惑わされてはいけないと思っても、誰が惑わされているわけでもなく、そんな人が条件反射のように何を批判しても、それが実際に批判できることなのだから、その種の批判に踊らされている人たちを憐れむわけでもないが、それでも批判するならそれ相応の思惑があって批判しているのだから、その思惑が批判している内容から透けて見えるようだと、何か嫌な感じを覚えて、その種の批判を意識から遠ざけようとするのだが、ユーチューブやツイッターだと、執拗にそんな不快な人たちの批判を見せようと仕向けてくるから、何か嫌悪感が増してきて、そんなSNSの思惑通りに不快感を募らせて、批判派の内ゲバに巻き込まれるわけでもないが、結局は現状の中で主導権を握っている勢力の思う壺にはまって、不快な現状の維持に加担させられてしまうのかも知れないが、いつまでも現状が維持されるわけでもなく、今も現状が変わりつつあるのを実感しているのであれば、そんなのは気のせいに過ぎないことかも知れないが、現状が変わりつつあるのかというと、現状が変わっても意識が変わらない人たちがいて、そんな人たちの妨害工作によって現状の変化が阻まれてしまっているわけでもないが、意識が変わらない人たちの思い通りには現状が変わらないだけのことであり、そうなってもそれが取り立てて不快なわけでもないのだが、別にそれがざまあみろと思われるわけでもなく、だからといって現状を批判している人たちの思い通りに現状が変わっていけばいいわけでもないが、そんなわけにもいかない現状があり、誰の思い通りにも思惑通りにもならないところが、現状が変わり続けていることの証拠となるわけでもないとしても、少なくとも現状が変わらないようにしたい人たちの思惑が外れていることは確かであり、その全てが変わらないようにしたいのではなく、変えたいところは思い通りに変えようとしていて、しかも不都合なところを変えようとすると共に、変えられてほしくないところは変えさせないようにするわけだから、そんな思惑自体が良し悪しの対象となるわけではなく、現状の中で変えて欲しいと思われることとそんな思惑が一致すればいいのだろうが、世の中を一定の傾向に導くことは宗教に囚われた人たちがやろうとすることであり、宗教と政治が相容れないかというと、宗教を利用して政治や経済を支配しようとすることも昔から度々行われてきたのだろうが、宗教が社会を支配するために利用したのが昔ながらの慣習であり、人々に慣習を守らせることによって世の中を支配しようとすることも、それをあからさまに意識させずに結果的にそうなるように仕向けてきたわけで、宗教が従うべき慣習を作り、その慣習が人々の自由を奪い、慣習として受け入れられる固定した身分や地位を伴った社会の現状を現状のままに保とうとするから、かつてはそんな慣習の支配から人々を解き放つためにイエスやブッダなどの宗教そのものを変えようとする改革者が現れたが、そんな改革の試みも社会に受け入れられるに従って、当の改革的な宗教が人を社会に縛り付ける新たな慣習を作って、そうやって宗教自体も慣習に取り込まれる形で社会に許容されるようになってきたわけだが、その一方で社会には慣習と共に制度や法律も必要で、社会が国家的な枠組みを伴ってくると国家を統治する機構と共に制度や法律が整備されてきて、それが慣習よりも利用されるようになってくるから、宗教によって社会を支配するには制度や法律も宗教の影響下に置く必要があり、そんな宗教の求めに応じて憲法を改正しようと目論んでいたわけでもないだろうが、それが宗教と国家を結びつけるには必要なことであり、そういうところはアフガニスタンのタリバンやイランのイスラム保守派などとも共通点があるのだろうが、それがよりにもよって隣国で誕生したカルト宗教に汚染されてしまうところがお粗末というよりは、汚染されるべくして精神が汚染されてしまう土壌が元からあり、それによってわりと簡単に根付いて長年にわたって大金を巻き上げられてきた経緯がありそうだが、それがパチンコ産業などから巻き上げられている分から比べれば微々たる額かも知れないが、実態としては宗教によって金が巻き上げられているわけだから、そういう宗教は拝金宗教だと言えるだろうし、それが現状の経済情勢を反映しているとも言えて、むしろ資本主義から生み出された宗教としては、現状に程よく適合していると言えるかも知れないが、そういうところはタリバンやイスラム保守派も見習って欲しいわけでもないが、実際にアラブのイスラム教はオイルマネーによって支えられているとも言えるし、信者から金をむしり取らなければやっていけない宗教というのも悲惨この上なく、そのむしり取り方や取られ方が慣習として許容の範疇を外れているなら、ある方面では慣習を守っているとしても、別の方面では慣習から逸脱する行為をおこなっているとも言えるから、宗教の都合に合わせて信者に慣習を守ることを強要する面と、逆に慣習から逸脱させようとする面の二面性があると言えるだろうが、すでに他の様々な宗教によってある程度の棲み分けができている地域に、新たに新しい宗教を入り込ませようとするには、その地域の慣習に従っているだけでは無理だから、そういうところで詐欺などの違法行為を行なう必要が出てくるのもうなずけるところだが、結果から見れば政治力に物を言わせて支えられていた面が大きく、果たして今後政治の後ろ盾を失ってその宗教が衰退するかどうかが、世間の関心を引くかどうかもよくわからないが、そういう宗教が流行る土壌が変わるかどうかも、他にも似たような宗教がいくつもあるだけに、特に注目されるわけでもないのかも知れない。
8月24日「本物と偽物とまがい物」
それに関してはあえて嘘をつくまでもないことだが、例えば音楽や効果音で飾り立てられた自然の映像を眺めても大して感動を覚えないのは、そういう手法を施された映像を見慣れていて、人為的な装飾を施されていることを意識してしまうからだが、もちろん映像によっては感動するものもあるから、一概にそうだとも言えないが、先入観として映像を見る前からこんなものだと決めつけている場合もあり、騙されないぞと身構えてから映像を見て、やっぱりそうだとたかをくくってそら見たことかと思いたくなるわけでもないのだが、何かまがい物特有の傾向を感じ取って、得意になってそれを指摘したくなるような先回り感を改める必要があるのだろうが、何とかしてそれを退けたいという思いが先走り過ぎていると、知らないうちに物事の単純化が意識の中で起こっていて、それに関して右翼と左翼が表裏一体化しているような認識に頼り過ぎているような気もするが、差異を際立たせて対立を煽るようなやり方も見え透いているから、他人がやっているそんな批判を真に受けないことが、それも事前の決めつけとしてそう思っている限りで、真に受けていないふりを装っているに過ぎないことだが、実際には真に受けて心が動揺していて、他人がこれ見よがしに批判している内容に関して、それでは駄目だと思いつつも、こういう人はこういう批判をするものだと決めつけて、そういう批判を批判の紋切り型のカテゴリーに押し込めて、馬鹿にしようとしてしまうわけだが、それがメディアの罠だとわけ知り顔的に指摘するのも、知ったかぶりな先入観に囚われていることになりそうで、似たようなことをやっている人がいくらでもいることを馬鹿にしてはならず、それを馬鹿にしている自らも似たような認識に囚われていることを自覚したいのだが、実際には自覚していないわけで、それが気にするまでもないことであり、そんなことをいちいち気にしていたらきりがないから、自分と同じようなことをやっている人たちを馬鹿にしたいのは近親憎悪のようなものだと勘違いしておけばいいのかも知れないが、そうなっていることを自覚しないことがおかしいのでも悪いのでもなく、逆にそうならないとおかしいのであり、似たようなことをやっているから意識して、それに気づいて反感を抱くのであり、そうではなく全く違うことやっていたら気づかないかも知れないし、気づいたとしても興味が湧いてこなければ無視しても構わず、反感を抱く必要もなく、社会の中で住みわけが成り立つ限りで争いも起こらないが、似たようなことをやっているから、競合してやっていることが被ってしまい、それが争いの原因となると考えるなら、似た者同士でいがみ合ってこともうなずけるが、それを似た者同士と見なすのも差異を無視していることになるから、自身の言説的な都合に合わせて、似た者同士で対立していると馬鹿にしながら、その似た者同士に自分も含まれていることを都合良く忘れていて、そのことに関しては自覚がないわけだが、その一方で似ていることと似ても似つかない代物であることにも着目して、似ていることが否定的な印象を伴いながらも、似ても似つかない代物であることには肯定的な価値があるかのように見せかけたいのかというと、確かに強調したいのは後者の方だが、では何と何が似ても似つかない代物なのかといえば、それが現状で行われていることと、それを批判しながら新たに行わなければならないと定めた行為や行動となるなら、新たにそれを行おうとすると、それに向けて様々な方面から妨害工作の類いが及ぼされて、思うようには行かなくなってしまうから、結果的には現状で批判されているような行為や行動になってしまうと考えると、どちらにリアリティを感じるかというと、現状で批判されているような行為や行動になるわけで、それが現状で対立しているように見せかけられながらも、対立を装っている双方で行われている似たような行為や行動となり、それが批判の的となっていると見なすと、何かそれに関する批判的な言動の内容にも説得力が生じてきて、別にそれが音楽や効果音で飾り立てられた映像と同じようなものだと意識されているわけではないだろうが、自身がそんな批判とは関わりがないことをやっているわけではなく、それを批判しているつもりが、逆に批判されていることに気づかないから、これ見よがしに批判する立場を占めようとするのだろうが、どうしても批判している内容が相手にしたくない内容となって、そんな批判者を遠ざけたくなってくるのだろうが、そういう駄目な批判者を遠ざけることが何を意味するのかというと、それとこれとは似ても似つかない代物だという認識に至ってしまい、それらを似た者同士だと見なしてはいけないこともわかりきっているが、どうしてもグーグル的な仕分けやツイッター的な分類分けだと、同じ人たちにカテゴライズされてしまうから、本物と偽物とまがい物の区別がつかなくなって、まがい物がはびこる原因となっているのかも知れないが、それをどうやればまがい物だと見抜けるのかといっても、まがい物に分類された人の言動で判断するしかないが、まがい物であるが故にその人の言動が執拗に意識の中に絡みついてくるなら、やはりグーグル的にもツイッター的にもより頻繁に表示されるような仕組みとなっているようで、まがい物同士で連携があるのかも知れないが、それも意識して連携しているわけではなく、相似的な連携なのかも知れず、似ても似つかない物が似ているように錯覚させる作用がそれらのシステムの中で作用して、言葉の使い方に関して微妙なニュアンスの違いがあっても、その言葉を使えば同類だと見なしてしまうのだとすれば、確かに似ても似つかない物が似た者同士だと判断されて、その中にまがい物が入り込む余地が生じるのだろうが、そうだとしても何がまがい物であるかについてはっきりとした区別ができるわけでもなければ、同じカテゴリーの中からまがい物を取り除くことなどできないし、それらの人たちを似た者同士として一括りにすること自体が、倫理的には違うのではないかと疑念を抱くようなら、そもそも分類分けなどせずに、一人一人を別々の人物として取り扱えばよく、逆に似た者同士としてまがい物だけを他から区別するのに、そういった分類分けが役立つとすれば、似た者同士として他から区別されるような人たちが肯定的な価値を担うことなどないのかも知れない。
8月23日「あり得ない奇跡」
誰かがあり得ないことが起こるのを願って、それが実際に起これば奇跡が起こったと思うだろうが、またあり得なことを起こそうとしたわけではないのに、意図せずにそれを起こしてしまえば奇跡を起こしたことになるだろうが、それが奇跡だと思うからには滅多に起こらないことには違いないが、思っただけで実際には奇跡が起こったわけではなく、では何が起こったのかというと、それが起こった時点では奇跡が起こったと思っても差し支えないようなことが起こったのかも知れないが、それを誰も奇跡だとは思わなければ、それが起こったことに気づいていないのかも知れず、気づいたとしても奇跡だとは思わないなら、ありふれたことが起こったと誰もが思ったのかも知れないが、実際には何が起こったとも思っていないのかも知れず、何も起こらなかったわけではなく、そこで何が起こったかは誰もが知っていて、起こったこと自体はわかっているが、あまり関心がなければ無視しても構わないようなことが起こったのだろうが、起こった後から冷静になって振り返るなら、起こるのが当然のことが起こったように思われるが、起こった時点では何かあり得ないことが起こったと思うなら、起こった直後の段階ではそれが起こった経緯や事情がわからないから、わけがわからないことが起こったと思うのだろうが、わけがわからないでは済まないなら、わけを知ろうとして、それが起こったわけを知ってしまえば、なるほどそれが起こるべくして起こったと思えるのかも知れないが、そう思うと共に関心がなくなってしまうようなことなら、すぐに関心が薄れてしまうようなことが起こったのだろうが、誰かが世間の関心が薄れるように仕向けているとすれば、そう仕向けている人や団体にとっては都合の悪いことが起こったのであり、実際に関心が薄れるように仕向けても、関心が薄れるどころか逆に関心が高まるようなことだとすれば、世間の関心が薄れるように仕向けた人や団体の思惑が外れるようなことが起こったのだろうが、またそれに関して世間の関心が高まっている状態が持続しているのなら、逆に関心が高まるように仕向けている人や団体もいるのかも知れず、そんな人や団体の尽力のおかげで世間の関心が持続しているなら、そこで世間の関心を巡って利害の異なる人や団体の間でせめぎ合いが起こっていることになるのだろうが、そんなことをやっている人や団体の思惑がどれほど世の中に影響を及ぼしていようとも、大抵はそんな思惑とは無関係というわけではないが、そんな思惑を遥かに凌駕するような何かが世の中に作用していて、その何かが大衆心理の類いなら、それを思い通りに制御しようとして、メディア上でも街頭でも制御しようとする思惑を秘めた人や団体によって煽動行為や宣伝行為が行われるのだろうが、それが当てが外れているとすれば、何か無駄な悪あがきのような気もするわけで、当てが外れているかどうかはそんなことをやった結果からわかることかも知れないが、結果がいつ出るとも限らず、結果がいつまで経っても出ないまま、それらの人や団体の活動がフェードアウトしてしまうかも知れないし、当てが外れてしまえばそんなことをやっている人や団体にいつまでも肩入れするわけにもいかず、結果的に煽動や宣伝が不発に終わった人や団体が世間から見捨てられて忘れ去られてしまうのだろうが、現時点ではそんなことまで見通せるわけでもないから、それに関して世間の関心を高めようとする方向でも関心が薄れるようにする方向でも、各々の目的に応じて煽動や宣伝が行われている最中だろうが、それを部外者の立場からどっちもどっちだと我関せずを装うことができるかというと、関心があるならそうはならないだろうし、関心があるからそれに言及せざるを得ないわけだが、関心があるからといってどちらか一方に与するわけでもなければ、ではどちらにも与しないならそれがどんな立場になるのかというと、関心がある限りでどちらか一方に与しないわけには行かないから、どちらかと言えば関心が薄れるように仕向ける側ではなく、関心を高めようとする側に興味を持っているから関心があるのだろうが、しかも関心を高めようとしている側と一緒になって、自らもメディアを利用して煽動や宣伝の活動をやっているのかといえば、そう受け取られても仕方のないような行為に加担している可能性があるにしても、意識して積極的にそんなことをやっているわけではなく、ただある種のメディアの機能を利用してそうなるがままにしているというと、何やら無責任な印象を伴ってしまうだろうが、別にそう受け取られなくても構わないような程度でそんなことをやっているというと、ちょっとしたことでしかなく、あからさまな煽動や宣伝とは違い、間接的にそれを利用している程度で済ませているわけで、あからさまにやっている人や団体と比較すれば微々たる程度でやっているに過ぎないなら、果たしてそれによって世間の関心が高まるのかというと、それだけでは何とも言えず、ほんのちょっとだけ部分的に引き受けているに過ぎず、そんなことをやっている人が他にも大勢いれば、それなりに世の中に影響を及ぼすことができるのだろうが、どれほどいるかはよくわからなければ、よくわからないままに事態が推移するしかなく、それが効果を上げているのか上げていないのかもわからない程度のことであれば、そんなことにはそれほど関心がないのかも知れず、そのそれほど関心がないということが、どれほどなのかもよくわからないわけで、その程度をわかる手立てなどなければ、何か困るのかというとそうでもなく、それがわからなくても困らない程度の関与でしかないわけだから、たとえそんな思惑の当てが外れても痛くも痒くもなく、確かに当てが外れたら、ちょっとはがっかりするだろうが、そのちょっとはがっかりする程度のことであれば、そのことで世間から見捨てられても忘れ去られても構わないわけで、それ以前にほとんど誰からも無視されるようなことをやっている気でいるとすれば、何の効果も効用も求めないようなことをやっていることになり、無駄で無意味なことをやっているのかも知れないが、それが誰にとってもそうであっても、それでも根気強く粘り強く続けている行為となっていれば、それもあり得ない奇跡が起こるのを願ってやっていることになるかも知れず、しかもその程度のことであり得ない奇跡を起こそうと思っているわけでもないのだから、意図せずにそれが起こってしまえば、自らが奇跡を起こしたような勘違いを抱いてしまうのかも知れない。
8月22日「避けられない成り行き」
他人の不幸を身近に感じる機会もそうは頻繁にあるわけでもなく、他人のことよりは自分の心配をした方がよさそうだが、そうなるのが不可避な例として、身につまされる体験というのがあり、それを他人事ではないと感じるなら、そうなってしまう成り行きに同情していて、同情すると共に自分はそうはなりたくないわけだが、そうなってしまうのを避けたいのに避けられないと、何かに魅入られたようにそうなって、それをきっかけにして面倒な事態に巻き込まれて、安易に同情して相談に応じてしまったことを後悔することになるのだろうが、そんな経験が誰にでもあるわけではないし、例えば借金の保証人になってひどい目に遭うとか、ありふれた話でもないが、思いつく限りで他にそんな類いの話を捏造したいわけでもなく、そんな避けられない成り行きを避けたいわけでもないのだが、それを不幸だとは感じられないと、何か感覚が麻痺しているような気がするわけでもなく、至って普通の感覚で他人の不幸を見下して、他人の不幸に同情しない薄情者になりたいわけでもないが、現状がそうなることが避けられない成り行きなのかというと、別にそうは思わないが、では何が避けられない成り行きなのかというと、他人の不幸に関わっている暇はないということになれば、そんなに忙しいわけでもないのだから、暇がないわけでもないのに余裕がないことになりそうだが、避けられないのは他人の不幸を利用して、他人に不幸をもたらしている人や団体を攻撃する成り行きになりそうで、暇がなくても余裕がなくても、そういう成り行きに便乗したくなるのも人情であり、そうなってしまう人や団体を応援したくなるわけだが、そんな人たちを応援するふりをしながら、自分はそれをやらないのかというと、それが何か違うような気がすると共に、そんな風潮に流されてはいけないと思っているわけでもないが、それが人情ではないとしたら何なのかと問われることもないだろうが、たぶん理性的に振る舞おうとしているわけでもないのだが、倫理的に振る舞いたいわけでもなく、理性と倫理にどんな違いがあるのかわかっているとも思えないが、避けたいと思っていることは確かであり、避けられない成り行きに同調しながらも、それが他人事であることを自覚しているのであり、他人事には介入したくないのだろうが、介入しているつもりになっていることが愚かだと思っているわけでもなく、実際に介入しているつもりになっている人や団体を応援するふりをしているわけだから、それが応援しているわけではないのだとすれば何なのかと問われるわけでもないが、応援しているふりをしていると回りくどく表現するならその通りなのかも知れず、その辺で微妙に抵抗感を覚えるのだが、何かを感じ取っているからそうなってしまうのだろうが、それが何だかわかっているとは思えないが、たぶん応援するにしても深入りしないことが肝要で、だから他人事だと思ってしまうわけで、応援することに躊躇いを感じているのだから、何かそこにそういう成り行きを避けなければならない理由があると思ってはいけないのかも知れないが、理由とか原因があるわけではなく、それが理由や原因とはならない何かがあり、逆にそれがそうする理由や原因とはならないようにすれば、それを避けられるようなことなのかも知れず、そんな回りくどいことを考えても意味がわからないが、理由も原因もないのにそうなってしまう成り行きが、本質的な成り行きでも根本的な成り行きでもなく、何かのついでにそうなってしまうような枝葉末節な成り行きだとしても、深入りしてしまうと本気でそんな成り行きに身をまかせて我を失い、他人の失策に便乗しているつもりが、それが自分の実力だと勘違いしてしまうかというと、便乗している誰もそんなことは思わないし、便乗しているつもりもないだろうが、そのつもりもない人に特有な軽薄さを感じ取っているから、意識してそういう成り行きに便乗するのを躊躇ってしまうわけで、それが一過性の流行り廃りでしかないとしても、流行に乗った者勝ちだとしても、なぜか流行に乗れないわけで、流行に乗れずにどうするのかというと、そうは思っても結果的には流行に便乗しようとするのかも知れないが、それが流行に乗り遅れたり便乗し損なって、なぜかわざとそうなっている感覚に囚われて、しかもそれでも構わないような気になっているわけで、要するにうまく流行に乗り遅れて便乗し損なったような気がするわけで、それがワクチン接種と似たような効果を連想させて、流行に対する免疫を獲得しようとしていたことに気づくわけでもないが、それに対して流行に乗ってしまった人たちは流行に感染して、流行の病にかかっていることになるのだとすれば、合理的に考えてワクチン接種程度で済んだ方がうまく立ち回ったことになるのだろうが、果たして流行に便乗することが病の比喩で合っているのかというと、少なくとも流行に便乗している人たちはそうは思わないだろうし、実際に流行に乗ってうまく立ち回っている気でいるのなら、病という否定的な比喩では納得がいかないだろうから、もっと肯定的な意味合いを伴った表現を使いたいところだが、流行に乗ること自体は否定されるべきことではなく、そもそも流行がないと困るのもメディアとしては当然だろうから、世の中では流行に乗ってうまく立ち回っている人や団体が出てくるのも当然の成り行きだと認識しておいた方がいいだろうし、では流行に乗り遅れたり便乗し損なった人や団体を肯定する理由があるかというと、普通は肯定されるべきことではないはずだが、その流行の良し悪しを云々するなら、悪い流行には乗らない方が良く、良い流行には乗っておいた方がいいと簡単に言えてしまうが、いったい誰が流行の良し悪しを判断するのかといえば、それも判断したい人や団体が現れて、もっともらしい基準を提示して判断して、それに納得する人や団体が多ければ、その良し悪しの基準や判断が世の中に定着するのだろうが、そんな判断の良し悪しでさえも一過性の流行に左右されるなら、相対的なものであり、絶対的な判断基準などないと思っておいても構わないが、そう思うことが流行に乗り切れない原因だとすれば、そんな原因を放置することも流行に乗り遅れたり便乗し損なう原因だと思っておいても構わないかというと、それを問わないことが、そうすることの理由や原因を問わないことにも結びつくのかも知れず、そうやってうまく流行をかわそうとしているのかも知れないし、結果的には流行という避けられない成り行きに逆らっていることになるのではないか。
8月21日「知識の欠点」
それが運命だと思い知るまでは、何かを知る機会が必然的に巡ってきたとは思わないが、それに関して知り得たことが偶然に知ったことになるとしても、それまでに知らなかったことが何かのきっかけで知ったことになるわけだから、それが何の役に立つとも思えなくても、偶然に知ったのだから、その偶然性に関しては不思議な感じがするだろうが、それが大して重要だと思えないのも気のせいではなく、少なくともそれを知っていたのに忘れてしまったわけではないし、なぜか以前から知っていたような気がするのも、気のせいには違いなく、知らなかったことは確かで、だからといって知ったところで大して興味がなければ、すぐに忘れてしまうかも知れないし、それまでは知らなかったこと自体が大して重要だとも思えないはずだが、それでも何か気にかかるようなら興味があるのかも知れず、しかもそれに関してまだ知らないことがあり、これからそれを知って驚くかも知れないが、現状のままでは知り得ないことが、何かのきっかけから知ってしまうのだとしたら、そうやって知ってしまうことについては思いがけないはずで、それを知った後から筋道立てて、知るのが必然だったと説明できるわけもなく、その時点ではこれから誰もがそれを知ることになるとは到底思えないだろうが、ただの偶然から誰かがそれを知ってしまうのだから、知ってしまった際にはただの偶然だとは思えず、それが何かの運命だと思いたくなるのも無理はなく、偶然にそうなるから確かにそうなる運命だったのだろうが、その人だけが知っている間は誰もがそれを知っているわけではなく、中には知り得ないままになってしまう人も出てくるだろうから、それを知っていなかったことが不利となるわけでもなければ、これからそれを知ったところで有利となるわけでもなく、それを知るだけでは功利的な価値が生じてくるわけでもないだろうが、だからといって人によっては知らなくてもいいとは言えない限りで、それを知ろうとすることに効用があるとも思えなくても、誰かがそれを知っていることを利用して社会の中で有利な立場を築いたなら、そういう成り行きを目の当たりにした人も、それを知って有利な立場を築きたいと思うかも知れず、例えばそれが技術的なノウハウであれば、それを技術的に利用できる限りで功利的な価値が生じてくることになり、それに関して例えば英会話の類いが技術的なノウハウだとはすぐには思いつかないだろうが、ゲームの攻略法ならそれに近いと思うかも知れず、そういう意味では知りたいと思うことが功利的な価値に結びつけば、それが興味深いと思うだけではなく、実践で利用できる知識や経験や技術などに何らかの価値があると思いたいところだが、実際にはそのほとんどが見当外れで勘違いかも知れず、それを知ったところで何の役にも立たないと思っておいても差し支えないが、知るだけでなくそれを自らの活動に利用したいから、そこから自分にとって都合のいい結果を導き出そうとして、自らの活動に利用できることを知ろうとするわけだが、活動に利用できることだけ知っても意味はなく、それを知るには活動とは直接関係のないことまで知らないと、活動には利用できず、しかも活動に利用したところでうまく行くとは限らず、下手に知識に頼って活動しても、かえって知識が邪魔になってうまくいかなくなる場合もあるだろうし、中には知らないことが自らに有利に働くこともあり、知り過ぎているだけに肝心なところで身の危険を感じて尻込みしてしまうから、蛮勇を奮って思い切ったことができず、無知な愚か者に先を越されてしまう場合もあるわけで、そういう意味では知識や経験に頼って失敗してしまう者が後を絶たない一方で、勘にまかせて一か八かの賭けに出た者の中からわずかな成功者が現れる場合もあるから、世の中で何かこれだけ身につけておけば事足りるということはなく、無駄で無意味に思われるような知識や経験が何かの役に立つこともある一方で、合理的に考えて身につけておいて損はない知識や経験や技術や勘が邪魔になって、その人のそれ以上の成功が妨げられる場合もあるなら、その人の伸び代がそこで終わってしまったことになるだろうが、要するにその人の活動にとって必要な知識や経験や技術や勘を身につけるだけで、その人の才能が汲み尽くされてしまったわけで、その才能という概念もそうなった結果からそれを才能と表現できるだけで、はじめから才能があるかないかが決まっているわけでもないのだろうが、決まっていないのは運やその場の偶然が作用する面であると共に、偶然の巡り合わせをできるだけ必然になるように持っていくには、やはり知識や経験や技術や勘が必要となるから、それらを駆使して活動を囲い込み、その場の成り行きを何とか人為的に制御しようとするわけだが、完全に制御してしまうと活動がつまらなくなって魅力がなくなり、制御できない偶然の巡り合わせとなる面を残しておかないと、知識や経験や技術を利用した制度や慣習や法律によってがんじがらめとなって、身動きが取れなくなるから、そこで矛盾が生じてくるように思われるのだろうが、それを矛盾だと否定的に捉えるのではなく、活動が方向や傾向や程度の異なる多面性を持っていると解釈しておくのが無難なところだが、だからといって知識や経験や技術や勘などを身につけることが無駄ではなく、それらに頼りすぎると活動そのものがつまらなくなると考えるしかないが、その頼りすぎるという程度も活動の内容にもその場の成り行きにもよるだろうし、それらを身につけたと思ったことからくる慢心を覚えないようにする程度の意味でそんなことが言えるだけのことで、どんなに知識や経験や技術や勘を身につけたところで、それが人為的な制度や慣習や法律に守られていないところでは通用しない場合があるだろうから、そういうのは中年の登山家や冒険家の遭難死などが典型例として挙げられるところだが、そんな大げさな惨事に至らなくても、日常の些細な人間関係の行き違いなどからもわかるようなことなのではないか。
8月20日「目的の回避」
政治に関して何を目的とするのかというと、個々の政治家には何かその人のなりの目的がありそうだが、逆に根本的なところで政治に何か特定の目的があるわけではなく、政治を根本から問うこと自体が意味をなさず、政治には目的どころか意味がそもそもないと思うなら、少なくともそう思っている人は政治に興味がないのかも知れないが、それでも選挙があるおかげで、選挙で投票してくれる人たちの意向に沿った政治を行わなければならないと考えるなら、投票してくれる人たちが特定の宗教団体に属しているなら、その宗教団体の意向に沿った政治を行わなければならなくなるというと、宗教団体の意向がどのような内容になるかにもよるだろうが、その一方で政治が宗教によって空洞化するのは、ただ選挙で当選したいがために宗教団体の組織的な支援を要請するからというわけでもないが、そうでなくても政治に何を期待しても無駄で、政治にどんな目的があるのでもなく、政治が何を意味するわけでもなく、何かを意味しないと困るわけでもなければ、意味など必要ないのかも知れず、意味がなくても政治家は行動できるかというと、意味ではなく、目的がないと行動できないわけでもないが、とりあえず選挙で当選することが目的になれば、当選するために行動することになり、宗教団体の組織的な支援によって選挙で当選できるなら、支援を取りつけるために行動して、それが目的に沿った行動となって、それだけが目的ではないにしても、優先しなければならないこととして、宗教団体の支援を取りつけることになるのだろうが、その宗教団体が犯罪行為に関与しているなら、犯罪行為に関与するような宗教団体に支援を求めるのはやめるべきだと言えるだろうが、それで済むなら話が早いが、それとは別の方面からそれでは済まなくなってくると、たとえ犯罪行為に関与した宗教団体であっても支援を取りつけて、是が非でも選挙で当選して政治本来の目的を果たすべきということになりそうだが、その政治本来の目的とは何かというと、例えば国のために尽力することが政治本来の目的なのかというと、それでは気に入らなければ、国民のために尽力することが政治本来の目的なのかというと、そう言われてみればそんな気がしないでもないが、国とか国民とかいう存在では今ひとつ対象がはっきりしなければ、他に尽力すべき物事があるかというと、たぶんそんなことではないと同時にそんなことでもあり、何かそれに関してもっと具体的にやらなければならないことを設定しないと、それが目的としてインパクトに欠けるような気がするとすれば、それも何か的外れなような気がして、インパクトなどとは関係なく、それよりは部分的に関与すべきことがあり、それが社会の中で問題となっている個々の事例に介入して、その問題を解決するために尽力すればいいというか、問題の解決に向けて尽力すべきであり、政治家であってもジャーナリストであっても弁護士であっても憲法学者であっても、そういった問題に首を突っ込んで尽力してくれる人や団体を応援すべきだという社会的なコンセンサスがあると思っていると、そんな問題をもたらしているのが他ならぬ犯罪行為に関与している政治家や政党や宗教団体であったりして、それに対して単に犯罪行為を取り締まればいいと思っても、それを取り締まられないようにするのが政治活動となっているわけだから、何かが根本的なところでおかしいような気がするだろうが、それが根本的なところで取り締まる側と取り締まられる側が対立していないと困るわけで、対立しているように装いながら、しかも対立しないと目的が機能しないわけで、さらに対立するから問題が生じてきて、その問題をめぐって対立しなければならず、要するに対立することが目的であり、対立することによって世間の注意を引きつけることによって、問題から目を逸らさせようとするわけで、犯罪行為から目を逸らさせて、取り締まられないようにしたいわけだが、それでも犯罪行為が放置されていると、他の犯罪行為を取り締まっている都合上、示しがつかないから、できればそれが犯罪行為であれば、取り締まる側としては例外なく取り締まりたいわけで、そこでも取り締まりたい側と取り締まられたくない側とで対立するわけだが、対立することが目的であれば目的として達成されたわけで、しかもそこで対立していることが問題となっているわけだから、それが解決すべき問題として、そんな問題に首を突っ込んでくる人や団体が取り組んで、問題の解決に向けて尽力しなければならず、尽力している過程がそれらの人や団体の活動となり、その活動の実態を見せて民衆から支持を求めるような成り行きになり、そんな尽力が功を奏して、取り締まられないようにしていた人や団体が取り締まられることになれば、問題が解決して解決のために尽力していた活動も認められて、民衆から支持を得られることになればいいわけだから、それらの人や団体にとっても取り組むべき問題がないと困るわけで、そういう問題に取り組んで解決して民衆から支持を得ることが目的となるなら、それらの人や団体にとっては願ったり叶ったりとなってしまうから、それらの人や団体と対立する人や団体としては、そうはさせじとあらゆる手段を使って妨害工作を仕掛けてくるかも知れないが、実際にそうやって妨害してくるなら後ろ暗いことをやっている証拠となり、そういう妨害工作自体が後ろ暗いことだと思われるだろうが、もちろんそれとわからないように、あからさまにそうは見えないように陰湿な妨害工作となる場合も多そうだが、妨害工作に取り組んでいることも取り締まられないようにすることに含まれているから、目的としては辻褄が合うだろうし、たとえそれが後ろ暗いことであっても、それによって対立関係が維持されるなら必要な活動となるわけで、そういうところで対立関係を巡る役割分担が生じてくるわけだが、果たしてそうやって生じてくる一見もっともらしい目的を回避するにはどうしたらいいか、と問う必要があるかというと、それがそんなことをやった結果から生じてくるわけではなく、やっている過程や最中に、自らに割り当てられた役割や目的を果たさないことによって回避できるかというと、それも実践の中で試されていると思うはずもないだろうが、実際に目的を回避したところで誰が支持してくれるわけでもなく、逆に目的を果たさないと誰も支持してくれないわけだから、大抵の人は目的を回避するよりは目的を果たすために尽力してしまい、目的を回避する機会を逃してしまうのではないか。
8月19日「ニューディール政策と新自由主義」
1930年代にアメリカのハリウッドでルーズベルトの宣伝映画が作られたが、それを真似たのがヒトラーやナチスドイツの宣伝映画で、さらにソ連でも真似てスターリンの宣伝映画が作られて、それを中国や北朝鮮などでも真似て国策宣伝映画を盛んに作ったわけだが、もちろん日本の軍国主義時代でもその種の国策宣伝映画が作られたが、ニューディール政策も各国が真似て、ナチスドイツは大規模な土木工事でアウトバーンを作って、ソ連でもスターリンの主導で大規模な計画経済を押し進めていたはずだが、中国でも毛沢東がスターリンのソ連を真似たつもりが、結果的にはそれが中国版のニューディール政策となって、いわゆる大躍進政策をやって、それが大失敗となって数千万人が餓死して、毛沢東が一時的に失脚していた間に、新自由主義政策を行なったのだが、それを毛沢東が紅衛兵などの軍を使って巻き返して、文化大革命によってぶち壊しにして、国内の経済や社会を大混乱に陥れたわけで、それを毛沢東の死後に鄧小平が出てきて、また新自由主義政策に切り替えて、経済を立ち直らせて、以後数十年で世界第二位の経済大国まで押し上げたが、またそれを最近になって習近平が変えようとして、毛沢東の真似事をやり始めて反感を買っているようだが、ソ連でもスターリンの死後にフルシチョフが新自由主義をやろうとしたが、ブレジネフによって失脚させられて、計画経済の続きをやった後に二十年で行き詰まって、ゴルバチョフがペレストロイカによってやめようとしたのだが、時すでに遅しで、ソ連が解体して、ロシアではエリツィンが欧米を見習って新自由主義をやろうとしたが、道半ばで亡くなって、後を引き継いだプーチンが開発独裁体制を築いたわけで、一応はそれも新自由主義の延長上で貧富の格差が極端に開いた社会となっているわけだが、朝鮮半島では北朝鮮が建国以来延々とニューディール政策を続けていて、アメリカと敵対しているつもりが、やっていることがニューディール政策であることに気づいていないわけで、一向に経済が上向かないわけだが、その一方で南の韓国では建国以来延々と新自由主義であり、数個の財閥が経済を支配する格差社会になっているわけだが、本家本元のアメリカではどうかというと、ニューディール政策をやっているうちに第二次世界大戦が起こったから、そのまま戦時経済となって、ニューディール政策の成否がうやむやになってしまったが、戦後もはっきりとではないにしても民主党政権時代はニューディール政策の続きだったのだろうが、1980年代のレーガン政権の時にイギリスのサッチャー政権や日本の中曽根政権や、さらには1970年代フランスのジスカール・デスタン政権などと共にはっきりと新自由主義になったわけで、戦後復興を遂げた西ドイツの新自由主義の影響を受けたわけだが、レーガン政権以降は民主党でも共和党でも基本的には新自由主義だったのだろうが、オバマ政権になってから新自由主義の行き過ぎを是正しようとする気運が高まり、その後のトランプ政権では一時的にまた新自由主義へと揺り戻しが起こったが、バイデン政権になってから民主党の左派を中心にまたニューディール的な政策を行おうとしているわけだが、うまく行っているかどうかは今のところは定かではなく、今から数十年ぐらい経った後に成果があったかどうかが改めて評価されるかも知れないが、日本ではどうかというと、明確に新自由主義となった中曽根政権以前にニューディール的な政策が行われていたかというと、真っ先に思い出されるのが田中角栄の「日本列島改造論」であり、またそれ以前から大規模な国家プロジェクトとして新幹線の鉄道網や高速道路網の整備や原発計画などが、ニューディール的な政策となるだろうが、各省庁の国家官僚などが主導して行われる大規模プロジェクトなどにそういう傾向があるわけだが、それは中曽根政権以降も鉄道や電話や郵便などの公社の民営化といった新自由主義的な政策と同時並行して、脈々と受け継がれて続いて行ったから、行政改革も骨抜きにされて、財政赤字が膨らんでしまったのだろうし、表向きは新自由主義なのにニューディール政策もやめられないから、しかもそのニューディール的な政策が各省庁が予算を確保するためにわけのわからないプロジェクトを立ち上げては、無駄に予算を使ってしまうという悪循環をもたらしているというと、本当にそうならその証拠を見せてみろと言われそうだが、それについては最近も田園都市構想とか中身がよくわからないプロジェクトが立ち上がっているようで、そういう面ではオリンピックも万国博覧会も予算の無駄遣いと言われても仕方ないだろうが、明確にニューディール政策を行うなら、まずは新自由主義の行き過ぎを改めないとうまくいかないだろうし、逆に新自由主義をやるなら、行政改革を行なって各省庁の既得権益をなくしていかないと、またその既得権益を介した政治家や民間の企業との不明朗な癒着関係を正さないと、その分だけ非効率になって予算の無駄遣いとなってしまい、結果的に新自由主義としての成果が上がらないわけで、そういう中途半端な因習や慣習を温存してしまったから、失われた数十年を招いてしまったと言えるかも知れないが、誰もがその程度のことはわかりすぎるくらいにわかっているのに、それが現状の体制ではできないことだから、単純化して新自由主義では駄目だとか、ニューディール政策をやればうまく行くとか、その方面の政策を推進したい政治勢力が宣伝するぐらいしかできないわけだ。
8月18日「否定することの限度」
自分が否定できないことを自ら否定してみせることが、自らに逆らうことになるわけでもないが、それができれば何か矛盾しているような気はするだろうが、それで何を否定しているつもりになっているわけでもないのかも知れず、実際に何を否定しているのかといえば、否定しやすいことを否定していて、できないことをやってみせているわけでもなく、否定できないことを否定することなど造作もないことであり、否定できないという前提が、そもそも簡単に変えられる可能性があり、例えばその場の状況や情勢に応じていとも簡単に前言を翻せるわけで、そうなると否定できないことなどないというよりは、否定できないことがその場の状況や情勢に合わせて変わっていくことになり、以前には否定できなかったことが、何かのきっかけからそれ以後は否定できることになってしまうから、結果的には嘘をついていることになり、嘘をつくことができる人を信用できるかというと、その場の状況や情勢に応じて嘘をついていることになり、以前には否定できなかったことを現時点では否定していることになるわけだから、それが見苦しい言い逃れになるとしても、そんな嘘をついている人を信じる人も出てくると共に、たとえ信じていなくても支持することはできるだろうし、例えば見え透いた嘘をついている政治家を支持する人などいくらでもいて、嘘も方便どころではなく、嘘をつくことによってその身を守っているのだから、保身のために嘘をつく政治家を支持することが論理的におかしいわけではなく、そんな政治家を支持する人もまた自らの保身のために支持していることになりそうだが、それが必ずしも保身とはならないことを理解できるかというと、理解しなくても構わないし、自らの保身のためには理解したくないことを理解しないことになるかも知れないが、そうすることが結果的に保身につながると信じていれば、信じている間は理解しなくても構わないことになりそうだが、結果的にそうならなければ、いずれは保身とはならなかったことを理解するに至るはずだが、そんな結果に至るまでには途方もなく長い歳月を要するなら、結果に至る前にその人の寿命が尽きて亡くなっているかも知れないし、理解しないまま亡くなってしまう人もいくらでもいるなら、結果的に理解するに至らずに済んで、逃げ切れたことになるかも知れず、要するに保身のために嘘をつく政治家を支持する人たちは、逃げ切ろうとしていて、逃げ切れる自信があるから嘘をつく政治家を支持しているのかも知れないが、何から逃げ切れると信じているのかといえば、自らがそれを理解してしまう事態から逃げ切れると思っているわけでもないだろうが、薄々は勘づいていて、もしかしたら逃げ切れないことを理解しているにも関わらず、逃げ切れると思っている間は理解していないことにしているのかも知れず、それが演技であり、逃げ切れているように振る舞うわけで、しらばっくれるとはそういう心理状態を言うのかも知れないが、そうやってしらばっくれている人が世の中にいかに多くても、たぶんしらばっくれるにも限度があり、限度を超えてしらばっくれていると、嘘をついているのが普通の状態で、かえって嘘をつかないとおかしいような事態にもなってきて、正直な人が狂人扱いされるような事態ともなれば、世の中が狂っていることになるのだろうが、果たして現状が限度を超えているのかといえば、現状ではそれをわかる手立てがなく、それも途方もなく長い歳月が経ってみないとわからないことであれば、現状でしらばっくれている人も逃げ切れると踏んでいるのかも知れないが、しらばっくれていることが必ずしも嘘をついていることと同義ではなく、嘘をつかなくてもしらばっくれていられて、要するにその件については口をつぐんでいればいいわけで、自らの都合のいいように語ると嘘をついていることになってしまうなら、嘘をつくことを逃れるには口をつぐむしかなくなり、そうなってもひたすら逃げるしかなく、その件に関してはノーコメントを貫き通すしかないわけだが、その人の活動が起因してそうなってしまうわけだから、そのまま活動を続ける限りはその件につきまとわれるかというと、それもその場の状況や情勢次第な面もあり、これまでは周知の事実であっても見逃されてきたことが、何かのきっかけから見逃すわけにもいかなくなってきたから、結果的につかなくてもいい嘘をつくことを強いられたり、嘘をつくのが嫌なら口をつぐむしかない状況や情勢となってきたわけで、それ自体が状況や情勢の変化を物語っているわけだから、さらにそこから状況や情勢が変化して行けば、どんどん何もできない立場や境遇に追い込まれて行ってしまうかというと、一本調子でそうなるとも限らず、それも何かのきっかけから揺り戻しの機会が巡ってくれば、そんな機会を捉えて反転攻勢に出るような成り行きになるかも知れず、そんな機会がやってくるまではだんまりを決め込むのも戦術としてはありなような気がするなら、ひたすら口をつぐむしかないだろうが、少なくとも今が反転攻勢の機会であるはずがなく、すでにそれとは真逆の機会が巡ってきてしまったのだから、しばらくはそのままの状態で状況や情勢が推移するしかないだろうが、いつまでも膠着しているとも限らず、それどころか今後さらに状況や情勢が悪化の一途を辿って行くなら、成り行き的には負のスパイラルに巻き込まれて行くことになり、そんな負のスパイラルに巻き込まれてしまうからこそ、とりあえず今は口をつぐむしかない成り行きになっているのかも知れず、そうであるなら結果的にはやっていることの辻褄が合っているように思われるだろうが、そうやって何とかして体験しつつある成り行きに先回りして予想や予測を駆使して物事を結果から見ようとする限りで、意識せずに辻褄合わせをやってしまうわけで、何事も結果から言説的な辻褄合わせをして納得しようとしていると、いつの間にか結果に至るまでには途方もなく長い歳月がかかることが忘れられてしまい、それを忘れているから予想や予測としてそんな結果を織り込みながら活動しようとするわけで、そんなことをやっている一部始終を理解できるかというと、大抵は理解しないまま受け止めていることになるだろうが、そこでも理解したつもりになって、理解しているように振る舞いながら、そんな自らを演じていることになるのではないか。
8月17日「想像力の欠如」
例えばアイスランドの人口が40万人にも満たないという事実は、調べれば簡単にわかることだが、比較対象としては日本の地方都市と同規模程度ということで構わないだろうが、地方の中核都市となるとさらに人口の多い都市などいくらでもあって、それが中国ともなれば数百万人の人口を抱えた都市がありふれている状態だろうが、アイスランドよりはるかに面積が小さいルクセンブルクの人口が60万人を少し超えるぐらいだから、アイスランドで起こったことが、国家単位の比較対象として果たして適当なのかどうかということが、まずは考慮しなければならないことになりそうだが、結局はアイスランドで起こったことが、事例として比較するのに好都合であれば、人口や面積など関係なく取り上げたくなってしまうのだろうし、もちろん日本と比較する限りは国として比較したいわけで、日本の地方都市と同規模程度の人口の国と日本という国自体を比較することが、果たして適当なのかどうかが、そこに言及することが都合が悪ければ、そんなことには触れないだろうし、アイスランドにはアイスランドに特有な経緯があり特殊な事情があるというと、そんなのはどこの国にもあることだから、そんなことを言っていたら国と国を比較できなくなってしまうだろうが、少なくとも比較対象としてかけ離れた要素があるなら、比較としては説得力がなくなってしまうだろうし、比較するなら比較する対象となる物事の条件を近づけようとするだろうが、そんなことよりは何かを批判するには是が非でもアイスランドの事例が必要となり、それが日本の政治や経済の現状を批判するために持ち出されてくるとすれば、よくあるパターンとして、日本ではこんなことをやっているから駄目なのであり、他にも日本と同じようなことをやって駄目になってしまった国がある一方で、アイスランドでは日本とは真逆なことをやったからうまくいったのであり、日本もアイスランドと同じことをやればうまくいくかというと、実際には同じことはやれないからそういう方面ではうまくいかない現状があるわけだが、果たしてそんな批判で構わないかというと、ユーチューブでそんなことをやっている人を二人も見かけたので、なるほどそれが何番煎じだかわからないが、過去にも似たような批判をおこなっていた人がいたから、それを真似てユーチューブでもやっているのかと推測してみたが、その程度でも構わないメディア環境と言ってしまうと、別にそんなのでは通用しないメディア環境が他にあるわけでもなく、そんな批判でもありがたがって支持してくれる人が大勢いるのだから、そんな需要を満たすためにその種の批判が必要となってくると考えも構わないような気がするが、そんな批判に逆らって日本の独自性を主張したくなるわけでもなく、日本には日本に合ったやり方があると言いたいわけでもないが、その種の批判とは別に何か画期的なことが言えるかというと、そうでもないところが想像力の欠如を窺わせるところだが、例えば共産主義に勝つことを目的で作られた勝共連合を作った統一教会の文鮮明と共産主義国家である北朝鮮の金日成が盟友関係にあったことは、勝共連合に入ってその末端で日本共産党などと戦ってきた人々を裏切ることになるかというと、日本共産党が朝鮮労働党とは対立関係にあったわけだから、それなりに辻褄が合うのだろうが、そんなこととは無縁な一般人からすると、何か矛盾しているように感じられるだろうし、また20世紀を代表する独裁者として、ヒトラーやムッソリーニやスターリンや毛沢東までは、誰もが納得してその名を挙げることに異論の余地はないところだろうが、そこにルーズベルトを加えることには、かなりの人が違和感を抱いて反対するかも知れないし、どうしても歴史的な経緯としてルーズベルトがそれらの独裁者から民主主義を守った正義の人だという先入観を意識に刷り込まれているから、反共思想に染まっている人ほどそれこそスターリンや毛沢東なら悪の権化のように否定しつつも、ヒトラーやムッソリーニに関してなら、表向きには否定しつつも内心では好意を抱いているかも知れないが、ルーズベルトに関しては論外として取り扱うだろうし、さらには新自由主義を批判してケインズ主義やニューディール政策を持ち上げたい人たちには、ルーズベルトを20世紀を代表する独裁者として否定することなどあり得ない話だが、その種の批判者が対立する概念として煽り立てる物事こそが、同じ物事の表裏一体の関係を形成しているというと、単純化し過ぎてかなり粗雑な解釈になってしまうが、批判するには絶えず対立関係を提示してどちらか一方を批判するような手法となりがちになり、批判者が対立しているように見せかける二つの物事の似ている面を意図的かつ自覚なく無視していることに気づいた方がよく、それの何が良いのかというと、安易に批判に同調しないためにはそうした方が良いという程度のことでしかないが、そうだからといってどっちもどっちという結論に達したいからそうするわけではなく、その種の批判者が無理して批判している面を考慮に入れておかないと、バランス感覚を失って、対立するどちらか一方を心情的に擁護したり逆に非難したりする成り行きになってしまうかというと、それもちょっと違うのかも知れないが、何も批判者と立場を同じにする必要も批判者と対立する立場を取る必要もなく、立場が違っても軽い気持ちで批判に同調しておく程度でも構わないというと、何か命懸けでやっているつもりの人に失礼かも知れないが、立場が違うのだから命懸けとはいかないわけで、また批判者の信者になるのも面倒なら、それも軽い気持ちで同調するにとどめておくしかなく、また同調しつつも反論も用意しておけば、それほど同調しているわけではないことも自覚できるだろうから、たとえそういった方面の想像力が欠如していることがわかったとしても、それほど自らを卑下することにもならないのではないか。
8月16日「現状のまともさ」
昔からよくある言説の流行に踊らされて、それが目眩しであることを忘れていたわけでもないのだが、その渦中に身を置いているわけでもないのに、その気になって世の中で大変なことが起こっているような気になり、まさに今が時代の転換点に立っているような大げさな気分に浸かっているわけでもなく、それに気づかされるきっかけがあったとも思えないのだが、ふとした拍子に急激に熱が冷めるようにして、現状の何でもなさに愕然とするわけでもなく、愕然としたわけでもないのに驚いたふりをした方がしっくりくるかも知れず、要するに愕然とすることができないからしっくりこないのだろうが、それに関して何をどう表現してみても納得できないような気がすると共に、納得したくないのかも知れないが、ではその種の言説の中でフィクションの語り部が真実を語っているかというと、部分的にはそうかも知れないが、それがフィクションを通して真実を語るというやり方になっているわけでもなく、語っている全てが真実とはならず、虚実を織り交ぜて語っているにしても、その中でもそれなりに真実を語っている部分を感じられれば少しは信用できるのだろうが、当てが外れているように感じられる面もあるとすれば、語っている当人にとって都合のいいことを語っているつもりなのに、なぜか気づかないところで目論見が外れていて、余計なことまで語ってしまっているから、それが語っている当人にとっては都合の悪い部分であり、そういうところでその人の本性が出てしまっていて、要するに化けの皮が剥がれているわけだが、それがその人の気づかないところでそうなっているから、化けの皮が剥がれたことにも気づかないまま、相変わらず都合のいいことを語っているつもりなのだろうが、そうなっているからといって、取り立てて現状が危機的な状況や深刻な事態に陥るわけでもなく、それでも構わない範囲内でそうなっているから、特に不都合を感じるわけでもなく、平静を保っていられるのかも知れないが、元から自らがフィクションの語り部だという自覚がなく、現実に起こっていることについてもっともらしい解釈を付け加えているつもりなのだから、その辺の自覚が希薄なのだろうが、それが現実に起こっていることだとしても、起こっていることの程度や傾向の面で表現の誇張や歪曲が甚だしく、それを真っ当な解釈だとは感じられないからフィクションだと思ってしまうのだが、ではいったいそれがどういうことなのかというと、推測に基づいた意見でしかなく、そんなふうに推測できるのだから、そういう推測で良いのか悪いのかと判断するしかないが、悪いなら推測というよりは憶測になってしまい、そういう面をよく考えてみれば、自然の造形物に人為的な装飾が施されているに過ぎず、その装飾の具合が誇張や歪曲に感じられるなら、そういう部分がフィクションとなっていることが窺い知れるとしても、そんなふうに施されている人為的な装飾を取り去るわけにはいかず、すでに言説の面で一体化しているから、それなしでは言説自体が成り立たなくなっていて、そんなふうに現実を解釈しないと話にならないから、それが話を成り立たせるための前提条件となっているわけで、それが例えばある種の漫画が超能力の類いが使えることが前提となって成り立っていることと同じようなところで、現実に存在する何らかの組織や団体の仕業として話を都合よく構成できるとしても、それがなければどんな話になってしまうかというと、フィクションの装飾が取れて大したことはない出来事となり、現状の何でもなさが現れてくると共に、それが部分的で誰にとっても興味のある話ではなくなり、その出来事から生じる影響も限定的で、考慮する必要のない領域が世の中のほとんど全てを占めるわけではないものの、影響が出てくる方面でも深刻度や重大性の面で、その程度や傾向が話とは別の方面で考慮しなければならなくなり、その方面というのが話の中で強調されている方面とは異なってくるわけだが、それがどんな方面なのかというと、フィクションが目指すような世界の全体へと広がる汎用性とは違って、もっと範囲の狭い特殊で限定的な方面になってしまうから、それに関わっている人や団体の目論みがしょぼくみすぼらしい様相を呈してくると共に、実用的で技術的な方面へと縮まってくるから、フィクションが求めるような大げさな効果を得られなくなって、壮大な悲劇から卑小な笑劇へと滑落してしまい、やっていることの矮小さがそのままそれに関わっている人や団体の小物感を醸し出して、そんなことに関わっていることの気恥ずかしさを隠すためにフィクションが必要になるという逆説も生じてくるわけだが、その種のフィクションがないと大げさに騒ぎ立てられないかというと、実際に大げさに騒ぎ立てても構わないような出来事が起こったのだから、そういう面では実際に騒ぎ立てられているのだとしても、騒ぎ立てられているからといって、それを深刻に捉えたり重大に受け止めてもいいのかとなると、そういう面ではそうだとしても、それがそういう面での延長上で推測される大げさで世界的な出来事に結びつけられるかといえば、どう考えてもそうはならず、そこでもしょぼくみすぼらしい現実が結びついてきて、それが実用的で技術的な方面で語られる内容となり、戦術的なこととして語ってしまうと、そんな戦術によって実際の結果が決まってしまうことが、それとは別の方面で語られる高邁な理念とは相容れないくだらなさも伴ってきて、それに関係する人や団体がいかに現実を低い目線から見ているかが想像されて、そんな人たちと対峙しているつもりになっている自分の存在が情けなくなってくるわけだが、果たしてそこで自らの矮小さや情けなさも受け入れなければならないかというと、そういう面もあるという程度で済ますしかなく、それと共にそれとは別の方面では相変わらずカッコつけて理性的に物事を考えたくなってくるわけだが、そういうカッコつけが現状の世の中で通用するのかといえば、通用している面では通用しているように装うしかないわけだが、実際には通用していなくても、たぶん通用させるように身の回りの状況を持っていく必要があるわけだ。
8月15日「ピンチはチャンスという罠」
人が危機的な状況の中で何を考えるかと言うと、まずは身の安全を考えるはずだが、中には身の危険を顧みずに、危機的な状況から生じる世の中の混乱に乗じて、莫大な金銭や強大な権力などをせしめるために一か八かの賭けに出る場合があるかも知れず、フィクションの中では主要な登場人物や集団がそういった大勝負に打って出る時が物語のクライマックスとなるだろうが、現実の世界で生きていて、本当にそんな機会が巡ってくるのかというと、身に覚えがある人もいくらでもいるかも知れないが、大したことでもないのに事を大げさに捉えて、危機的な状況を切り抜けたと思ってしまう場合もあるとしても、各々で体験する危機の程度や傾向は違うだろうから、一概には言えないのはわかりきったことだが、一般的に考えて危機の程度が深刻で大変であるほど、危機を切り抜けたり困難を乗り越えた時には、それだけすごいことをやってのけたと思うだろうが、それが自身の力で切り抜けたり乗り越えたかといっても、その場の経緯や成り行きや事情もあるだろうから、たとえ他人の助けを借りたとしても、結果的に危機を切り抜けたり困難を乗り越えられるならそれで構わないと思うしかないだろうが、それが実際には大して危機でも困難でもなく、あるいはある程度は危機であり困難な事態となっていても、さらにはそうなっていることがそれほど苦にならないとしても、結果的にそれを切り抜けられなかったり乗り越えられなかった場合はどうなるのかというと、もしかしたら今がそうなっている最中なのではないかと疑念を抱くようなら、そんなことを思っているだけでもそれなりに危機感や危機意識を抱いているのかも知れないが、だからと言ってそれに伴って何かをやる機会が巡ってきているのかというと、そうとも思えなければ、現状がピンチでもチャンスでもないのかも知れないが、何もやる機会が巡ってこないというのも嘘には違いないが、何もやらせてもらえないということが果たして危機的な状況なのかといえば、たぶんそうではなく、逆に何かをやる機会が巡ってきていること自体が同時に危機的な事態であり、転機が訪れていることを自覚する必要がありそうだが、それが機会であり危機でもあり転機であるとすると、少なくともその機会を利用して何かをやる必要が生じていると思うしかないが、今までやったことがなかったことをやる機会が訪れているとしたら、やり慣れていることとは違って要領がつかめずに苦労することになるだろうし、それだけ失敗する可能性も高まるだろうから、失敗する危険が高いという意味では、危機的な状況だといえるかも知れないが、やり慣れていないことをやってうまくいくようなら、それだけ苦労して大変なことをやったように思われるから達成感もひとしおで、その過程で失敗しそうになったり、実際に失敗して痛い目に遭ったりすれば、そうなった時が危機的な状況でもあり、そこから何度も失敗してはその度に奮起して試行錯誤を繰り返しながらも、ついには危機を切り抜けて困難を乗り越えてやろうとしたことをやり遂げたなら、チャンスを物にしたことになるだろうし、そうなった時点でそうなる過程で直面していた危機が去ったことになるはずだが、それが危機を切り抜けたり乗り越えるチャンスを物にしたことになるのかというと、結果的にそれを実感したならそういうことが言えるはずだが、何もやらないうちからそんなことが実感できるわけでもなく、そんな事態を実際に体験してみないことには実感できないのもわかりきったことだが、しかもそれが実際にそれを体験してみないことには、自らが何を体験したのかわからないどころか、場合によって自らが体験したはずのそれを完全には把握できない場合もあるわけだから、それが危機だなんて自覚できない場合まであるのかも知れず、それを危機だとも思わずにそれと自覚せずに、危機を切り抜けたり困難を乗り越えたつもりもなければ、では何を体験したのかといえば、その気もないのに何か暇つぶし程度のことはやっていたのだろうが、それをやったからといって、何の達成感も満足感も伴わなければ、自らが生きている実感を得られないかというと、実感する必要もないのかも知れず、実感しなくてもいいことまで実感する必要はなく、危機を実感できないだけでもありがたいと思うわけでもないだろうが、実感できないだけに何のありがたみも感じられず、そんな境遇になったところで何に感謝するわけでもないだろうし、感謝しないからといってやましさや罪悪感を覚えるわけでもなく、取り立ててひどいことをやったという負い目もなく平然としていられるなら、その程度で済んでしまうことでしかないだろうが、そうなっている限りで目を覚ます機会を失っているというか、すでに目を覚ましているつもりでいるのかも知れないが、果たして現状で救世主を気取った人物が民に向かって目を覚ませと呼びかけるような機会が巡ってくるのかというと、少なくとも自らが救世主だと自覚するようなら気が狂っている証拠となるだろうし、誰が救世主でもなく、自分で自分を救わなければならないと誰が自助努力を呼びかけているわけでもないなら、宗教的な救いなど求める必要もないわけだが、そういった方面で危機感を覚えることとは別に、何とかして民衆の心に危機意識を植え付けたいと思っている輩が、メディアを通して必死になって危機感を煽っている現状があるのかも知れないが、そんな迫真の演技を伴った煽り立てが空振りに終わっているなら、今がそれをやる機会でないことを証し立てているのかというと、危機を煽っている当人はその機会が巡ってきていると思っているのだろうが、意外とそれが外れているわけでもないのに、民衆の反応が思いのほか鈍いと感じているなら、その人が焦っている証拠かも知れないが、焦っているということはやはり危機感を抱いていて、しかもいくら危機感を煽っても民衆の反応が鈍いという状況から危機感を覚えているわけで、そんな事態が何を意味するのかがその人にはわかっていない可能性があり、それがその人にとっての罠であり、罠だとわかっていないから余計に焦りを覚えているのではないか。
8月14日「技術革新の虚実」
産業の技術革新が何をもたらすかに関して、技術革新の恩恵を受けた人や団体の資産が増えるかというと、そういう面も確かにあるだろうが、もっと社会に関係する方面で、例えば人々の暮らしが便利なるとか、豊かになるとか、また人類の文明が進歩するとか、実際にはそうでもないかも知れないが、印象としてはそういった肯定的に捉えられる面が強調される場合があるだろうが、資本主義経済の中で何らかの技術革新が起これば、その恩恵を受けた分野や方面で活動する人や団体が他の分野や方面で活動する人や団体より有利になり、結果的に技術革新を利用することで有利となった人や団体が富み、その反面で技術革新の恩恵に与れなかった人や団体が不利となって貧しくなるかというと、単純にそうとは言い切れない面もあるだろうが、メディアを通してそういう面が強調されて、何やら大雑把な見解として正しいと思い込まされている人が多いかも知れないが、個々の産業技術にも傾向に違いがあり、確かに技術革新によって新たな産業分野が生まれると、その分野を利用して資産を増やそうと試みる人や団体が出てくるが、その産業分野に携われる人や団体の数や規模が限られてくれば、そういった分野に関わった誰もがその恩恵に与れるわけでもないし、しかもその分野と競合する他の分野から利益を奪い取る面もあるわけだから、競合する他の分野やその傾向にも依存する面も出てきて、その分野内での競争にも競合する他の分野との競争にも勝てれば、中には資産を増やすことにも成功する人や団体が出てくるかも知れないが、産業技術にも流行り廃りがあり、また産業を取り巻く社会情勢にも影響を受ける面もあるから、一概に技術革新の恩恵を受けた人や団体の資産が増えるとは言えないだろうが、物事を結果から説明するなら、特定の産業分野で成功した人物や企業が出てくるわけで、それがアメリカに関して言うなら、石油王のロックフェラーとか鉄鋼王のカーネギーとか自動車王のフォードとか発明王のエジソンとか、確かに成功して大金持ちとなった人物やその人物が経営した企業とかが出てくるだろうが、利用したのは技術革新だけではなく、どちらかと言うと奸計とかごまかしとか、いかに悪どいやり方を駆使して大金持ちになったかが語られる場合がほとんどで、真っ当なやり方では成功できないことが、20世紀末から起こった情報革命に際しても、マイクロソフトのビル・ゲイツとかアップルのスティーヴ・ジョブズとかの暗黒面などに関してもよく語られるところだが、そういった真っ当でない人間を学校教育で作り出すことなどできるわけがなく、どちらかと言えばそれも学校では教えられない社会の暗黒面に気づいた人が、それを悪用して政治や経済の分野で成功するという逆説的な成り行きになるだろうが、18世紀のフランスの重農主義者が自由主義経済にとって最もよく適合する国家統治の形態は、専制君主制だと語ったことが、21世紀の中国経済に当てはまるかどうかは、皮肉を込めてそんなことが言えるかも知れないが、それが社会によく適合するから、何らかの制度が社会の中で機能しているというよりは、制度の裏をかいて違法行為を行なって稀に成功してしまう人が出てくるような制度となっているというと、それもそんな結果から言えることでしかないが、またそんな結果から教育関係者が、世界で通用する企業経営者を日本から出すにはどうすれば良いかと問うなら、そんなことを問う教育関係者には無理なことだと答えるしかないかも知れないが、そんなことを言うなら、技術革新自体がこれまで慣習として行われてきた真っ当なやり方に逆らって行われることであり、現状でまかり通っている制度や慣習を壊すように作用するわけで、技術革新が起きる度に、これまで通りの真っ当なやり方に固執してきた人々が理不尽な思いを抱きながら退けられて、いかに悲惨な目に遭ってきたかが、マルクスの『資本論』の中でも詳細に語られていることだが、何らかの分野で成功を収めた人を賞賛するのは、勝てば官軍的な思考から建前論として通用する程度のことであり、慣例として世の中の体裁を取り繕うにはそういう儀式を行わなければならないということでもあり、そういうことの延長上でどこかの国の元首相が暗殺されて死んだから国葬を執り行わなければならないとなるのにも、一定のレベルで説得力が生じてくるにしても、果たしてその人物が真っ当なやり方で政治を執り行なっていたかというと、数々の疑惑や不祥事が明るみに出てくる限りでそうではないことは誰もが承知していることだろうし、それをそうなった結果から、そんな疑惑や不祥事だらけでしかも詐欺商法や詐欺宗教などから支援された人物を国葬するとは何事だと批判できるわけだから、そう言われてみればそうだが、それを理解してくれない人たちが国内に多数派として存在していることも、世論調査や選挙結果によって示されることなのだから、それ自体が多くの人たちにとっては理解できないことになるかも知れないが、言行不一致などの認められないことが実際に起こってしまうわけだから、そうなってしまう現状をどう捉えるかといっても、自身の都合に合わせていいように受け取るしかないだろうし、自らの言行不一致も他人の言行不一致も、自らが囚われている状況の中で、その場の状況に合わせて生じてくる都合に合うように行動や言動を繰り出すしかなく、それがどういうことなのかといっても、実際にそれをそうだとは自覚せずに行なっているわけで、それを後からそんな結果に照らし合わせて辻褄が合うように説明すれば、都合の悪い面を省いて説明するしかなく、それがさらに理不尽で納得のいかない行動や言動に結びつくのも仕方のないことなのかも知れない。
8月13日「適応力と対応力」
現状の中で受け入れ難いことが起こっていると思うなら、その受け入れ難い事態に対応できていないのかというと、その受け入れ難い事態を受け入れて、しかもその中でもうまく立ち回っている人がいるなら、少なくとも現状が受け入れ難いと思って何もできなくなっている人よりは、現状に対する適応力があることになり、現状に適応するという面では相対的に優れていることになるだろうが、何もできないのではなく、受け入れ難い現状の中で主導権を握ってうまく立ち回っている人や団体を批判する立場というのもあり、しかもその批判が現状の中で有効に機能しているなら、そうやって現状を批判している人も、受け入れ難いと思っている現状の中でうまく立ち回っていることになるだろうから、うまく現状に適応できていないから現状を批判しているわけではなく、現状の批判者としての役割を担うことによって、現状で起こっている事態にうまく対応しようとしているわけで、そういう意味では現状の批判者としてうまく立ち回っていることになるが、では何もせずにただ現状の中で起こっている事態を傍観するだけの人はうまく立ち回れていないのかというと、傍観するだけで痛くも痒くもなく、平然としていられるなら、現状の傍観者としての役割を引き受けることによって、現状で起こっている事態に対応しようとしていることになるのかといえば、さすがにそういう解釈は無理なような気がするが、現状の中で受け入れ難いと思っている事態にどれほど関わりがあるかにもよるだろうが、大して関わりがあるとも思わなければ、無視したり傍観するにとどまるのも無理はなく、そうではなく直接関わっているなら無視もできないし傍観することもできず、何かしら対応を迫られるのだろうが、関わろうとして直接関わっているなら積極的に関わって、人によっては受け入れ難いが人によっては好都合な事態の中でうまく立ち回ろうとするわけで、それが受け入れ難い事態だと思うなら、そんな事態を受け入れてしかもその中でうまく立ち回っている人たちを批判したり非難するしかないだろうが、そういう批判したり非難する風潮が現状で流行っているなら、そこでもうまく時流に乗ってメディア上で批判したり非難している人がいて、そんな人が現状の中でうまく立ち回っていることになるだろうが、そんな人も含めて受け入れ難い事態が現状の中で起こっているなら、それの何が受け入れ難いのかというと、そこに現状を現状のままに保とうとする思惑が透けて見えるというよりは、それらの人たちが現状の中でうまく立ち回ろうとするから、かえって受け入れ難い事態を招いていると言いたいわけでもないのだが、受け入れ難い現状を批判したり非難することも現状の中では受け入れられていて、それが受け入れられるようになってきたことが現状の変化を物語っているわけで、少し前までは無視されていたことが無視できなくなって、そこで見過ごすことができない何かが起こったことがきっかけとなって現状が変わったわけだが、それが現状を変えようとしていた人たちには思いもよらないことであり、また現状の中でうまく立ち回っていた人たちにとっても思いもよらないことだったのであり、その思いもよらない事態への対応として行われたことが、それに対する批判や非難を呼び起こして、火に油を注ぐような結果をもたらしたわけだが、果たしてそこまでが現状の維持を目論む側にとって思惑通りなのかというと、普通に考えて思惑通りであるはずがなく、むしろ思いもよらない事態をもたらしてしまったから、予期せぬ批判や非難にさらされていることになっているわけだが、実際には一過性の流行現象へと持ち込もうとしているわけで、もちろん誰かが裏から糸を引いてそう仕向けているわけではなく、誰ともなしになし崩し的にそうなるがままにまかせているわけだが、そんな中でもうまく立ち回るには、批判や非難の嵐が過ぎ去るのをただ身をかがめて待っていれば済むようなことかというと、それで済ますわけにはいかない人たちが批判や非難を継続させていて、それへの糾弾が鳴り止まないような状況へと持って行きたいわけで、そんな思惑を誰が意識しているわけではなくても、成り行きとしてはそういう方向へと事態が推移しているように感じられるとしても、いつまでも糾弾が鳴り止まないわけではなく、いつかは鳴り止むのであり、いつか鳴り止んだ時に情勢がどうなっているかが、そこでその顛末をもっともらしく語るチャンスが巡ってきたことになるかも知れず、そんな機会が巡ってくるのを待っている人もいくらでもいるかも知れないが、そんな枝葉末節なこととは無関係に、絶えずその機会を捉えたつもりになって関係者が仕掛けてくることもあり、その場の情勢の中で自身を有利に導くために仕掛けてくるのだろうが、それがその人の思惑通りの成果をもたらすかどうかは、仕掛けている最中にわかるわけでもなく、何かしらはっきりした結果が出てみないことには何とも言えないにしても、そんな仕掛けによっても情勢が動くようなら、情勢自体が流動的に推移しているからだが、それも情勢の中でどの程度のことがどう動いているのかもよくわからないような些細な変動に過ぎなければ、そんな仕掛けもたかが知れていて、それ以前に誰にとっても思いもしないような事態が起きたことが、それらの騒動の始まりだったことが、そんな仕掛けを弄して情勢を動かそうとしている人や団体にはすでに忘れられているわけでもないのだろうが、そんなことを仕掛けてくる人の目論見が、事の重大さや深刻さに比べてしょぼく感じられるようなら、そんな仕掛けも見込み違いだと言えるのかも知れず、そうやってそれに関係する人や団体が大して効果を期待できない策を弄しているように見えるなら、そういうことをやるきっかけとなった出来事が、それらの人や団体の事態への適応力や対応力が大したことはないことを明かしているわけで、しかもそんなことしかできないことをわかった上で、なおそれらの人や団体を支持するしか選択肢のない人が、日本には大勢いるのではないか。
8月12日「単純な思考」
たとえ結果から振り返ればそうなるのが当然のことが起こっても、それが起こった時にはあり得ないことが起こったと驚く場合もあるだろうが、実際にはあり得ないことが起こったわけではなく、正確にはあり得ないと思うことが起こったと解釈しても、あり得ないと思った時には実際にあり得ないことが起こったと思うしかなく、その場ではあり得ないと思っても、後からそれが起こった経緯やその場の事情がわかってくれば、起こるのが当然だと思う場合もあるわけだから、恒常的にそう思っているわけではなく、その場の成り行きに応じて思うことが変わってきて、思ったことが絶えず裏切られるような成り行きになってしまえば、そういう成り行きに応じて思っている内容がくるくる変わるようなことになってしまい、そんな思いにつられてやっていることにも一貫性がなくなってしまうかも知れないが、一貫性がなくても都合がいい場合もあるだろうし、逆に一貫性がないと困る場合もあるだろうから、それもその場の成り行きに応じて都合が良かったり悪かったりするなら、恒常的に同じ都合があるわけでもなく、都合もその場その時で変わってくるから、後からそれについて都合が良いだの悪いだのと言う時でも、そこで言う都合はその場の都合とは別にそう思うわけだから、その都合に一貫性がなくても、その時にはそういう都合が生じていると思うしかなく、後追い的にいくらそう思って都合の整合性を取ろうとしても、絶えず新たな都合が生じてくれば、そんな都合がどんどん生じてくる度に、その都合に対して思うこともどんどん変わってゆき、そんなふうに思っていることがどんどん変わってくれば、それにつられてやっていることも変わってくるなら、やっていることにも一貫性がなくなって、思いやそれに連動する行為や行動や言動の一貫性を重視できるような立場や境遇の人からすれば、信用できない人だと思ってしまうかも知れないが、一貫性を重視しなくても構わない立場や境遇の人なら、その人に特有の事情を察して、場合によっては信用するかも知れないし、それもその場でのその人の都合に応じて、信用するのに都合が良い時には信用するが、都合が悪い時には信用しないとなると、信用するしないに関しても一貫性がなくなってしまうが、その一方で社会の中ではその場の都合や事情とは無関係に一貫性が求められる場合があり、それが何らかの決まり事や申し合わせなどを守る場合にそうなるが、事前に決められたことを守ってもらわないと、決めたことに関しては一貫性が崩れるから困るわけで、不意の抜け駆けや裏切りを防止する意味でも、事前に決められた取り決めの範囲内で行動するように促されるわけだが、それが国の統治に関する取り決めであるなら憲法になるわけだが、例えば憲法九条があることによって得した面があるとすれば、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争にアメリカの同盟国として参戦せずに済んだことであり、戦争を放棄した憲法があることによって戦争せずに済んだわけだから、そういう状況証拠的な面を都合の良いように解釈するなら、憲法九条が戦争の惨劇から日本を守ったことになるわけだが、もちろんその後に起こった湾岸戦争やアフガン・イラク戦争などでは事情が違って、自衛隊を派遣せざるを得なくなり、直接の戦闘に巻き込まれたわけでもないが、自衛隊員の中から多数の自殺者を出して、実質的にそれなりの被害が出たわけだが、そうなった経緯から、規模や予算や装備の面からも実質的には世界でも有数の国軍である自衛隊を利用したい側からすれば、憲法九条が邪魔なのはわかるが、戦争に参加しない口実としては今でも十分に役に立っているし、歯止めとして機能していると思っても構わないのかも知れないが、果たしてそういう功利的な損得勘定から見てもいいのかというと、それとは根本的に違う高邁な世界の恒久平和を実現したい理念からすると、何やら日本国憲法が唯一無二の絶対的な価値を持っているかのような幻想を抱く人まで出てくるから、そんな人たちと議論してみても話が噛み合わないのは当然だろうが、それで構わないと思うのも無責任極まりないにしても、そういうことも含めて日本を取り巻く地域情勢が動いているのだから、その中で日本が中心的な役割を担うことはないだろうが、憲法が邪魔して中心的な役割を担えないと思う人たちまで出てくるにしても、また憲法を都合のいいように変えてしまえと主張する人たちもいくらでもいるとしても、実際に憲法を変える手続きが決められているから、その手続きまで都合のいいように変えてしまえと主張する人たちまでいくらでもいるとしても、実際にそういう手続きが進行していく中で、それに関係する人や団体があれこれと策を弄して、自分たちに都合のいいように状況や情勢を解釈しながら、それを宣伝材料にしてメディアを利用しながら世論の誘導を試みることになるのだろうが、そんな状況の中でそれらの何が良くて何が悪いと主張したくなる人が出てくるのも当然だが、少なくとも戦争に関われば生命や財産を失う危機に直面するのだから、事前の取り決めや申し合わせとしては戦争を回避する方向へと持って行きたいわけで、そう動くことの理由づけとして憲法九条が役に立っていると解釈したいだろうし、しかもそれが戦争の慣習に逆らっているから、慣習に従おうとする人や団体にとっては目障りで邪魔な存在であるにしても、憲法九条があるから積極的に動こうにも動けず、世界の主流から外れているようにも感じられて、劣等感に苛まれているような気にもなっているのかも知れないが、また左翼がそんな憲法九条を守ろうとしていることも腹が立つだろうし、そこから左翼に対する敵愾心も生まれてくるのかも知れず、そういう意味でも少なくとも日本の中では憲法九条が十分に機能しているわけで、それが抜こうとしても簡単には抜けない棘のような様相を呈しているのかも知れない。
8月11日「通過儀礼からわかること」
その気になってわざと反感を買うような言動に出ているわけではないにしても、実際に反感を買っているわけだから、反感を買うような記者会見の内容となってしまうことも事前に承知していた節もありそうだが、ある程度は予想がつく内容でもあり、大して興味を引くような内容とはならず、新たな事実が明らかになったわけでもなく、大方の予想通りに事が進んで、それが今も通過儀礼の如くに事態が進行中なわけだが、そういう方向で淡々と既成事実を積み重ねながら事態を乗り切ろうとしているのかも知れないが、それで乗り切れるのかというと、乗り切ろうとしているように見せかけていると情勢を捉えてみても、肝心の乗り切ろうとしている事態が、どうなれば乗り切ったことになるのかがよくわからず、事態の収拾を図るために記者会見を開いたにしても、ただ話題の渦中にいる団体の代表者が記者会見を開いてみた程度のことかも知れず、しかも意図的に世間の関心をそちらへと引きつけようとしていると穿った見方をしてみても、それ以上の何を知っているわけでもなく、その種のフィクションにありがちな黒幕が裏で糸を引いている気でいると、当てが外れてしまうような気がして、もっと何か根本的なところで事態が進展することを期待しているのだろうが、それが期待通りの進展とはいかず、思わぬところで情勢の転換が起こって、今回の出来事について批判的な立場の人たちの思惑を外れるような成り行きになってしまえば、事態がこれまでとは違う展開を見せることになるのだろうが、そうなることを期待しているわけではなく、期待外れに終わってしまうことを期待しているわけでもないが、ではいったい何を期待しているのかというと、何も期待していないといったら嘘になってしまうが、あれがきっかけには違いないのだろうが、すでに思わぬところからきっかけがもたらされているのは誰もが承知していることであるとしても、それが大方の期待を裏切るような出来事が起こるきっかけなのではなく、すでに起こっていることの続きとして起こっていることなのであり、しかも調子に乗ってやり過ぎなことをやってしまった人の身から出た錆のような結果をもたらしているが、やっていたことがことごとく的外れだったわけではなく、それがそんなことしかできないと思わせるようなことをやっていたと見なしても構わないようなことだとしても、それが一部のメディアをあげて応援するようなことまでやられていたわけで、もちろん同時に批判もされていたわけだが、批判というよりは馬鹿にされていたといっても過言ではないし、愚かなことをやっているのを愚かな人たちが応援していると受け取られていたわけで、それが今でも支持が揺るぎない人たちまでいるわけだから、馬鹿につける薬などないのもわかりきったことでもあるが、そうだとしてああいう人があれ以外にやりようがあったかというと、ああいうことをやって当然のことをやっていたわけで、それを愚かな人が愚かなことをやっていると馬鹿にしても、ではあれ以外に何をやれば良かったかといっても、ああいう人には逆立ちしてもできないことをやってもらうなんてあり得ないわけだから、ああいう人とは別の人たちにあれとは違うことをやってもらいたいわけだが、それが現状ではできないようにされてしまっているなら、行き詰まっているような感覚を覚えると共に、すでに取り返しのつかない深刻な事態に陥っていることを実感せざるを得ないかというと、意外とそうではなく、結構明るい未来が開けてくるように感じられるとすれば、前のめりになって批判しまくりな状態に陥っている人たちとは違う方面から、その可能性が開けてくることを期待しているのかも知れず、しかもそうなってみると、何かそれが拍子抜けのような杞憂に過ぎなかったことになってしまうのかも知れないが、実際にそうなるには、彼らが批判している対象と共に批判している彼ら自身をもお払い箱にしなければならないのだから、要するに共倒れのような結末へと持っていきたいわけだろうが、そんな虫のいい話があるかというと、現状ではまだ何も見当たらないとしても、一向に視界が開けてこないわけではなく、そうなる可能性は現状の中にもいくらでもあり、そうなる上で鍵となるさじ加減が、現状で馬鹿にされている方面の勢力にまかせられているとしたら、それが意外な成り行きを伴って思いがけないことを起こす可能性となり、その際に誰もが彼らを馬鹿にしているからといって、馬鹿につける薬などないというあからさまな馬鹿というわけではなく、彼らを馬鹿にしている人たちの方が馬鹿なんじゃないかと思われる程度の逆説的な馬鹿さ加減であり、それと共に馬鹿にしている人たちも馬鹿とハサミは使いよう程度の役割を担わせる必要があるから、現状の中では誰もが自分の馬鹿さ加減を把握できない状態となっていることが肝要であり、誰がどの程度の馬鹿だとしても、そんなことは大して重要でもなく、馬鹿であるからこそできることもあるわけだが、それが選挙で馬鹿な政党や政治家に投票することだと今までは多くの人々が教えられて実践してきたことであるとしても、依然として利口な人なら投票に行かないという選択肢もあるかも知れないが、利口な人ほどその必要もないのに政党や政治家を自分で選べるという錯覚に陥っていて、そんな錯覚を抱くことさえできない馬鹿な人ならもっと政治に関心を持つべきで、しかも馬鹿な人たちが馬鹿な政党や政治家に投票すればどうなるかというと、実際に現状がもたらされているわけだから、現状を変えるには馬鹿な人たちが馬鹿な政党や政治家に投票する慣習を変えていかなければならないが、そんなわかりきったことを変えたくても変えられなくなっているとすれば、これまで通りに馬鹿な人が馬鹿な政党や政治家に投票すればいいとしても、冗談でそう思っている限りで、そんなことを思っている自らの馬鹿さ加減をわかっていないのだろうが、自らの馬鹿さ加減と他の人たちや政党や政治家の馬鹿さ加減との比較において、その中で誰がどれほど馬鹿であろうと、それらの馬鹿さ加減から未来への可能性が開けるわけではなく、どちらにしても現状で抱いている偏見や先入観を捨て去る勇気がないと、いつまで経っても現状のありふれた日常の中で、メディアから伝えられる政治情勢や経済情勢の行き詰まりに直面するばかりとなってしまうのではないか。
8月10日「憲法の不都合」
どこかの地域で国が誕生する際には、大抵は何らかの武装勢力が武力でその地域を統一することから国が始まるのだろうが、それがその国にとっての不都合な真実というわけでもなく、その国の憲法にとっても都合が悪いわけでもないが、少なくとも憲法が最初からあるわけではなく、どちらかと言えば無法状態から国が始まるのであり、それは明治維新においても戊辰戦争や西南戦争などの過程で、武力による国内統一があったから国が始まって、またそれから数十年が経って戦争に勝ったアメリカ軍による占領があったから新たに国が始まったわけだが、まず憲法ありきではなく、武力による国内統一の後から付け足されたのが憲法であり、その過程においては憲法によって国が守られているわけではなく、その後も武力によって国が守られている状態が続いているのだろうが、しばらくして憲法が制定されて国内の平和が保たれている状態下では、多くの人々が武力によって国が守られている状態に気づかないからといって、それが取り立てておかしいわけではないし、平和な状況の中で憲法に対する幻想が生まれて、憲法こそが国の根本であるが如き勘違いが生じてくるというと、それが勘違いだとも思えないし、いったん憲法ができてしまうとそう思われるわけで、それが幻想なのではなく、そういうものとして憲法が制定されるわけだから、実質的には軍が国を守っているとしても、憲法によって国が守られているという申し合わせが成り立つわけで、それはそれとして実際にそうなっているのだから、それに関しては実質的にそういうことだと思っておけばいいわけだが、では実質でなければ何なのかというと、形骸化していると思っておいても構わないわけではなく、果たして憲法が形骸化して有名無実となっているなら、何がそうさせているのかと問わずにはいられないわけでもないが、それに関して簡単に考えるなら、憲法を実質的に機能させるには、憲法を尊重する政治勢力が政権を担わなければならず、憲法を蔑ろにする政治勢力が政権を担っていれば、憲法が形骸化するしかなく、それを憲法の力ではどうすることもできないし、ただ憲法があるだけでは何も起こらず、そこに暮らす人々が憲法を尊重しないと効力を発揮しないわけで、憲法を尊重するとはどういうことかというと、憲法を尊重する政治勢力に選挙で投票して政権を担わせることになるが、果たして選挙で民衆が憲法を尊重する政治勢力に投票しているかというと、投票している人も中にはいるだろうが、割合としては少なければ、それによって憲法が形骸化しているといえるだろうし、また憲法を尊重しているだけで民衆の支持を得られるかというと、そうではないのは誰もが知っていることであり、それ以外にも投票するに際して判断することがあり、それ以前にも選挙で投票に行かない人もいくらでもいるだろうから、それだけが憲法を尊重していることの証しとなるわけでもないだろうが、また憲法学者や人権派の弁護士や市民派の活動家やジャーナリストなどが政府のやっていることを憲法違反だと騒ぎ立てても、また裁判で違憲判決が出ても、それが直ちに何らかの効力を発揮するかというと、例えばそれに起因して実際に政権交代などが起これば効力を発揮したことになるのだろうが、日本でそうなった事例があるかというと、探せば何か事例が見つかるかも知れないが、それも憲法が効力を発揮してそうなったというよりは、憲法を尊重する人々の尽力があって何らかの成果が上がったということになるだろうし、それが宗教的な信仰の力とどう違うのかといえば、それよりは哲学的な理性の力に近いかも知れないが、実質的な経済力や軍事力と比べて弱いだの強いだのと比較できるわけでもないが、それらの力が複合的に組み合わさって社会の中で作用するわけだから、それらの力の中で憲法を尊重する人や団体の尽力もそれなりに効力を発揮することもあるのだろうが、それだけでどうなるわけでもなく、もちろん他の力であっても単体でどうなるわけでもない場合もあるが、憲法が法律の類いで、何よりも政府が守らなければならないこととして規定されているのだから、政府が違反しやすいことも規定されていて、それをどうやって守らせることができるのかといっても、政府にとって都合の良いことが民衆にとっては都合が悪いこともあるわけで、またその逆もあるなら、それを巡って政府と民衆との間で対立が起こるようなこともあるから、そういうことに関して憲法の中で規定されていて、政府に憲法を守らせるには民衆の力が必要だとしても、軍が政府の味方というか、政府と軍が一体化していれば、普通は一体化しているのだろうが、民衆には太刀打ちできないだろうし、そんな状況になってしまうと武力を持たない民衆の方が不利になってしまうことは確実で、そうならないような制度を憲法に基づいて構築しなければならないし、実際に構築されているのだろうが、シビリアンコントロールのようなシステムになっているとしても、政府の官僚機構の中では一体化しているわけだから、そういう方面では力関係の優劣がはっきりしているわけで、そうなると結局は経済力や軍事力にしても、また政治力にしてもそれらの力を直接利用できる人や団体の判断に委ねられていて、それらが制度として三権分立のような一つの力が他を圧倒しないような仕組みになっているとしても、絶えず諸力のせめぎ合いの中でお互いにしのぎを削っている状態が保たれる限りで、力の均衡も保たれるようなことになっているのだから、その中で憲法を利用する人や団体に他を圧倒する力があるわけではなく、逆に他から圧倒されがちになっているのかも知れないが、もちろん憲法だけを利用して何かをやっているつもりの人や団体も、他の力を利用しないわけではなく、政治や経済の力を利用するのが一般的な傾向だとしても、中には宗教の力を利用したり、科学や哲学や数学などの力も利用するだろうが、それらの力の中で憲法を利用して何らかの効果や成果をもたらしたい人や団体もいるわけだから、それを直接利用している人や団体にはそれ相応のスキルが備わっていて、そんなスキルが備わっている人をその方面の専門家と呼ぶこともあるが、果たして憲法を技術的に利用しようとすることが、具体的にどういうことなのかが素人にはよくわからないかも知れないが、例えば政府がおかしなことをやり始めるとすぐにそれが憲法違反だと叫ぶことが、それによってどのような効果や成果を得ることができるかも、それが戦略なのか戦術なのかどちらの面もあるとしても、そういう条件反射を逆手に取られて、民衆からの支持が限定的なものとなるように対策を講じられている面も否定できないのではないか。
8月9日「思う壺から外れる成り行き」
現状で起こっていることが誰かの思う壺のような成り行きであるなら、そんな成り行きの中では誰かの思い通りのことが起こっているはずだが、そうなった結果からそう思われるわけだから、それが起こる前には誰もそんなことは思いもしなかったし、そもそもそんなことが起こるなんて誰も知らなかったわけで、そんなことが起こるとは誰も思わないようなことが起こったとして、では果たしてそれを起こした人がそうなることを事前に期待してそれを起こしたのかというと、それが起こった結果からそうなることを画策して起こしたと考えると、何か話の辻褄が合うわけだが、画策して起こしたことだとしても、画策するまでにはそれ相応の紆余曲折が伴っているなら、その過程でそういう画策が出てきたことになり、何の理由も原因もなく唐突にそういう画策が練られてそれを実行に移したわけではなく、周囲から様々な作用や影響を及ぼされた結果、そんなことを画策するに至ったと考えるなら、それを画策して実行した結果としてそんな成り行きが起こったとしても、それがその人の思い通りの成り行きだとは言えず、逆に思いもしなかったことを成し遂げてしまったことにもなるわけで、事前にそうなることを予想していたわけではなく、またそこで一般に知られていないことをその人が知っていたというよりは、その人が知っていたことが一般に気づかれないことでもあり、そんなことはわかっていると何かが起こった結果から言えるようなことかも知れないが、それが実際に起こってみないと気づかないなら、起こる前には気づかれないだろうし、別に誰も気づかなくても構わないようなことでもあれば、気づく必要もないことになり、それが起こってから気づくことなら、気づいてからそれに気づいたと表明したり指摘すればいいことだろうが、それが誰かの思う壺なら、しかもそれに気づくことがそれを起こした人の思う壺なら、そんな人の思う壺になるのは嫌だと思うかも知れないし、では気づいていても気づいていないふりを装えばいいかというと、実際にそんなことをやっている人など誰もいなければ、何かを起こした人の思う壺なのかも知れないが、それを思う壺だと思うこと自体が、何か勘違いのような気がするなら、それも何かが起こった後からそう思うことであり、起こる前に思っていたこととはだいぶ見解が異なってくるだろうが、それが起こった後の状況の中では違和感なくそう思われてしまうことがあれば、起こったことに対応してそう思っているわけで、そう思っている自らが思いを起こった後の状況に合わせようとしているのかも知れず、それと自覚することなく思いを調整している可能性があり、そうであるなら自らが自らの思いに騙されているのかも知れないが、それが自らの思う壺であれば、それを起こした人の思う壺だと思うことも、自らの思いなのであって、そう思うことが自らの思う壺なのだから、自作自演でそう思っていると見なしておけばいいことなのかも知れず、要するに自らの都合でそう思いたいのだろうが、そんな人の思いと、そんなことを思うに至った経緯の中で、そんなことを思うきっかけをもたらした人の思いとがどうつながってくるかというと、利害が違っていれば思いが対立するだろうし、そう思うきっかけをもたらした人の思う壺にはなりたくなければ、思う壺にならないようにするために何か画策するかも知れないが、その画策が言説に関する画策であるなら、誰かの思う壺にならないように警鐘を鳴らす程度にとどまるかも知れず、果たしてそれがそう思うきっかけをもたらした誰かの思う壺にならないようにすることなのかというと、誰かの思う壺というのがそう思っている人の都合によってもたらされたフィクションであり、現状でもたらされている成り行きから外れるように仕向けたいから、警鐘を鳴らしていると考えるなら、今度はその人の思う壺になるように画策していると言えて、それが見え透いた浅知恵のように思われるなら、そんな警鐘を鳴らしたところで、警鐘を鳴らした人の思う壺にはならないだろうし、そんな警鐘など無視されるしかないわけだが、それ自体がすでにその人の思う壺から外れた成り行きでもあり、元から誰の思う壺でもなく、誰が思う壺になるように画策したことでもないし、誰の思い通りにもならない紆余曲折の中で、自らの思い通りの成り行きにならないことに業を煮やした人たちが、誰彼問わずひっきりなしにその人の浅知恵に応じて見え透いたことを画策しては、その画策がことごとくうまくいかないから、誰の思い通りにもならない紆余曲折の成り行きがもたらされているわけで、それが誰の思い通りにもなっていないとは言えず、それどころから何かが起こる度に、それが誰かの画策によってそうなったと思いたいわけだから、そんな画策に成功した人や団体の思う壺な結果がもたらされていると思いたいわけだが、そう思いたい人の中で、そんな成り行きが自身に不利な状況をもたらしていると思うなら、そんな画策に成功した人や団体の思い通りになっては困るから、現状のままではそれらの人や団体の思う壺だと警鐘を鳴らして、情勢をそんな成り行きから逸脱させようと試みるのかも知れないが、その人がそうしようとしまいと誰の思い通りにもなっていなければ、そこに居合わせた誰もが余計なお世話なような気がするだろうし、実際に警鐘を鳴らしてもその人とは利害が合わない人たちには無視されるわけだが、無視されたところでそれで構わないわけで、その人にとってはその場の状況に応じてそんなことをやってみた程度のことであり、そんなことをやってみたところで何がどうなるわけでもないことを承知しているわけでもないだろうが、その人にとっては精一杯の抵抗であり、そうすることによってその場の成り行きに逆らっているつもりなのだろうが、そういうみっともない無駄な抵抗を試みる人も含めてその場の情勢が推移していて、誰の思い通りにもならない紆余曲折の中ではそんな抵抗を試みる人もそれなりに出てくるから、それがその場の情勢に囚われた人の無力さを物語るエピソードとしてはよくありがちな部類に入ることなのではないか。
8月8日「部外者の立場」
大したことでもないのに大げさに騒ぎ立てても、それが一段落しようとしている頃には、大したことでもなかったことが明らかになってしまうのだろうが、何が大したことでもないのは、部外者にとってはそうだが、当事者にとっては大したことなのだろうが、部外者が当事者ならどうなのかといっても、その件に関しては当事者なのかも知れないが、その件に関しては人間のクズのような言い訳をしている国会議員をいくら馬鹿にしてみても、そんな人物に投票して当選させている人々がいるわけだから、その件に関してはどこまで当事者としての自覚を持てるのか定かでないが、選挙でどうでもいいようなクズみたいな人物に投票してしまうのだから、またそんなクズの代表格のような人物が銃撃されて死んだからといって、その死を悼んで国葬までしなければならないわけだから、そこでも部外者面ができる人にとっては大したことでもないのだろうが、立場上はそんなことをしなければならない立場というのもあるわけで、成り行きとしてはそんな結果がもたらされたところで何がどうなるわけでもなく、部外者にとってはそうだが、関係者にとっては大げさに騒ぎ立てるようなことでもあり、その人の立場に応じて大げさに騒いだり騒がなかったりして、部外者にとってはそれがどうしたわけでもないのだろうが、中にはみんなで騒ぎ立てないと気が済まない人も、それとの関わり具合によっては大勢出てくるにしても、騒ぎ立てることによって関わってくるわけで、それもメディア上で介入しているつもりになって、それと関わっているような幻想を抱くわけだが、もちろんそれが当事者意識を抱いている人にとっては幻想ではないから、それを問題視することによって直接関わっているつもりになれるだろうが、何を問題視しているのかといえば、他人がやっていることを問題視しているのであり、他人の対応にケチをつけているわけだが、それが部外者の立場からつけるケチであると、関係者からは相手にされないだろうが、相手にしたくないわけで、関係者以外の人たちをいちいち相手にしているときりがないわけだが、しかもそんな人たちからケチをつけられているわけだから、腹立たしいし鬱陶しいわけだが、それ以前に国会議員なのだから公的な立場でもあり、都合が悪くなると関係者以外の人たちを相手にしないでは済まないわけだが、それでも自身の対応にケチをつけてくる人たちを相手にしたくないだろうし、そういうところで公私混同しながら自らの都合に応じてうまく立場を使い分けたいわけだが、そういうご都合主義な対応が問題視されているわけだから、それに対してどう対応したところで何かしらケチがついてしまうのだろうが、対応の仕方によっては利害関係が絡んでくるなら、利益を共有している関係者の間でうまく根回しして事を丸く収めたいだろうし、これまでにもそうやって事を収めてきたのだろうが、そこでも偶然の巡り合わせが絡んでくると、思わぬところからトラブルに巻き込まれて、それが巻き込まれた結果からそうなるのが当然のことのように語られると無性に腹も立ってくるだろうが、そんな立場を作っている土台そのものが詐欺的な手法によって作られていることも考慮に入れるなら、どんなにケチをつけられたところで、元から正当化できないようなことが行われてきたのだから、正当化できないことにケチをつけてくる人たちを黙らせることなどできず、結局はそれに対する騒ぎ立ての嵐が通り過ぎるのをひたすら待つしかないのだろうが、当事者としてはそうだとしても、そんなことには関心のない部外者にとってはどうでもいいことであり、そんな部外者でいることのメリットとしては、どうでもいいようなことに首を突っ込んで関係者となってしまうと、どうでもいいようなことにこだわらなければならず、どうでもいいようなことにこだわってしまうとどうでもいいような人間となって、どうでもいいようなことをやらなければならなくなるから、部外者にはそれをやらなくてもいいというメリットがあり、それがどうでもいいようなことをやらないと関係者になれないというデメリットでもあるから、痛し痒しなところかも知れないが、どうでもいいようなことにこだわってしまうと、場合によっては人間のクズのようなことまでやる羽目に陥ってしまうから、それがどうでもいいようなことだと思っているうちは、まだ人間のクズにならずに済んでいることの証しとなるかも知れないが、そういう意味では人間のクズのような人にしかなれない立場や職業というのもあるわけで、それに政治家も含まれてくるなら、ロシアのプーチン大統領などはその代表格だといえるかも知れないが、それに比べれば現時点の日本で国葬の対象者となっている人などは、まだまだ政治家としては小物の部類に入る人だといえるにしても、そういう方面で大物になることを目指すのも、何か頭がおかしいような気もしてくるわけで、少なくとも人間のクズにならないと政治家として成功できないような成り行きを変えてゆかなければならないのだろうが、社会の中で暮らしている限りは全くの部外者としては生きて行けないだろうし、誰もが何かしら社会的な関係の中で生きていて、その社会的な関係によって人間のクズが生産されるわけだから、人間のクズにならなくても済むような関係を構築してゆかなければならないのだろうが、そこに金銭が絡んでくるなら、守銭奴として人間のクズになるような成り行きが待ち構えていて、守銭奴でなくても権力の虜となってしまうと、人間のクズになってしまうのだろうし、金銭にこだわったり権力にこだわったりすることが、社会の中でそれにこだわっている人を有利に導く成り行きがあるから、人を有利に導く成り行きと人をクズへと導く成り行きには相関関係がありそうで、そういう成り行きを変えてゆかなければならないと言ってみたところで、社会の構造としてそうなっているのだから、根本的なところでは変えられない可能性があるわけで、根本的なところで変えられなければ、枝葉末節なところで変えればいいのかというと、現状でも枝葉末節などうでもいいことにこだわることによって社会を変えようとしていて、それが現状でも部分的なところで問題視されていることなのかも知れず、どうでもいいようなことに賛成したり反対したりしながら、何とかしてそれが根本的なところで問題視しなければならない事態になるのを避けようとしているのではないか。
8月7日「そんな気がする程度のこと」
それが何かと問う必要も感じられないし、石にかじりついてもそれを成し遂げたいとは思わないが、それが大げさな喩えだと感じられるとしても、またそんな喩えを使うことに意味を感じられなくても、言葉を記そうとする時に感じる抵抗感が何を意味するのかわからないふりをしながら、それでも表現としておかしいのではないかと思って、そこで言葉を記すのをやめてしまいそうになるが、それしかやることがないと思えば言葉を記すしかなく、さらに言葉を記していくと次第にやっていることが無意味に感じられて、また嫌な感じもしてきて、言葉を記す作業を続けられなくなって、次第にやる気が失せてやめてしまうかも知れないが、実際にはやめていないのだから、やめようがないことをやっているわけではないが、果たしてそれで良いのかと問われるわけでもなく、問われるまでもなくやっていることだから、やるしかないのだが、たぶんやめても構わないし、やめようとしているのかも知れず、当人はそれに気づいていないのかも知れないが、気づかないふりをしているのかも知れないし、当人が無意識のうちに何を考えているわけでもないが、何かしら策を弄して動こうとしているのかも知れず、それが当人の知る由もないことだとすれば、当分は無意識にやらせておくしかないが、意識して何をやろうとしても限界が見えているなら、その限界を越えようとするなら無意識に頼るしかないのかも知れないが、意識が無意識に頼るようなことが本当に起こるかというと、そんな気がする程度のことであり、それもフィクションに含まれる内容に過ぎないが、他に何があるわけではなく、他には何もないということもあり得ないが、何かしらうまくいきそうになる時には、意識と無意識の連携によってうまくいくと思っておけばよく、それも気のせいに過ぎないにしても、うまく行った結果からうまくいく過程を振り返って何やら理由づけてみれば、そんな気がしないでもないといった程度でそんなことが言えて、それが言うまでもないことであろうとなかろうと、あえて言うならそんなふうに表現できるような気がして、気休めとしてではなく、実質的な効果や効用を伴ってくればいいのだが、その効果や効用が何を意味しなくても、そんな気がしていればいいわけで、果たしてそれで効果や効用になっているのかといっても、何でもなくても構わないというか、何でもなければ効果でも効用ではないはずだが、それもそんな気がする程度のことであり、そんな気がする程度にとどめておくなら、気休めに感じている程度のことになるかというと、気休めとそんな気がする程度のことを同一視する理由もなければ、それとこれとは違うことだと思っておいても構わないが、何が違うのかといってもうまく言い表せなければ違いなどわからず、わからなくても構わないようなことであれば、同一視しても構わないと思うかも知れないが、果たして何と何を同一視しているのかといえば、気休めと気がする程度のことでしかないわけだが、何が気休めで何が気がする程度のことかというと、例えば夢のお告げで言われたことを実行に移したりすることが、何か気がする程度のことかというと、実行しようとする内容によっては気休め程度では済まないことになったり、自らの霊感を信じることによって気休めとは次元の違うことをやるに至るなら、そんな気がするわけだから、それが人によっては気休め程度のことだと受け取られて、当てにならないことをやる羽目になったとしても、それをやった結果が気休めにはならないどころか、致命的なひどい結果をもたらしたり、逆に信じられないような強運をもたらしたりすれば、たとえそれをやる前には気休め程度のことだと思っていても、そんな思いを裏切るような気休めではあり得ない衝撃的な結果がもたらされたりするかも知れないが、そんな気がする程度だと思うことが、気休め程度になるかならないかは、気休めの程度をはるかに上回るような結果をもたらすかは、実際にやってみてからでないとわからないというわけではなく、やる前からある程度は予想がつくような場合もあるだろうが、事前に何か嫌な予感がするとしたら、それをやるのを思いとどまるか、そこに行く予定をキャンセルする必要も出てくるかも知れないが、事前に決められたことを嫌な予感がする程度で変更できるかというと、それも決められた内容にもよるだろうが、実際に変更しないでひどい目に遭えば、予感を信じなかったことが裏目に出たことになるだろうが、それがそんな気がする程度のことであるなら、気がする程度のことを甘く見ていたことになりそうだが、大した根拠もなく嫌な予感がする程度では変えられない予定があるなら、そんな予定を決めたこと自体が間違っているとも言えないだろうし、成り行きとして自身の意向が通らない場合もあるわけで、自身とは別のところで決定がなされて、そんな決定に従うしかない立場というのもありそうで、そんな立場になってしまえば運が悪かったとしか言いようがないが、その立場というのが運が悪いだけではなく、たまにはその立場を利用して有利になる場合もあれば、少しは気休めになるだろうが、それも気休め程度であれば大したことはなく、気休めにもならないようなことにしかならなければ、何の御利益もないことになりそうだが、それもそんな気がする程度のことであって、実際にはそんな立場や境遇に囚われていることが、その人の気づかないところでその人に多大な貢献をしていることになっていれば、それに気づかない方が愚かなのかも知れないが、そういう場合も気づかない方がかえってその人のためになっていたりして、その人の気づかないところでその人のためになるような作用がもたらされていることが、その人が社会の中で生かされていることの全てだとは言えないにしても、その人が生きていても死んでしまっていても、その人の存在や不在を利用して何かしら行われている可能性があり、それがその人のためになろうがなるまいが、その人とは関係のないところで何らかの効果や効用をもたらしているとしても、誰にとってもそんな気がする程度のことである可能性があり、それが何なのかといっても、それに絡んで因果応報のようなことが起こって、なるほどそういうことだったのかと気づくこともあるだろうが、たとえそうなっても誰もそのことに気づかない場合もあるのかも知れず、実際に今も誰にも気づかれないままとなっていて、それがそうなっている限りで、社会に何らかの効果や効用をもたらしているのかも知れない。
8月6日「辻褄の合うフィクション」
現状が物事の売買や貸借に絡んだ詐欺的な成り行きの中で推移しているとしても、それだけが現状の全てではないこともわかりきったことだが、それに絡んで騙される人が悪いわけではなく、騙す人の方が悪いのは確かだが、一般的にはそう言えるとしても、騙す人の言い分を真に受けるなら、その程度のことで騙されるなと言いたいことにも騙されてしまう人も結構いるだろうから、騙す人の思い通りにもならない代わりに、騙される人の思い通りになることもたまにはあるかも知れないが、現状で起こっていることをどう解釈してもすっきりしないし、他人の解釈が何かいい加減で怪しいと思うなら、それが気のせいで済む問題ではないと思いたいところだが、実際に現状を解釈してみないことには、考える手がかりすら手に入らず、どう解釈してみてもそんな解釈自体が嘘っぽく思われるなら、やはり気のせいに過ぎないことかも知れず、少なくとも解釈しているつもりの自らを中心にして世界が回っているわけではなく、もちろん他の誰を中心にして世界が回っているわけでもないはずだが、たまには部分的な現象として特定の誰かを中心にして世界が回っているような気になることもあるだろうが、勝手にそう思うと勘違いな実感へと解釈が行き着き、それが勘違いではないと思いたいわけで、実際にそんな恣意的な解釈を基にして何やら陰謀論的に関連する物事の辻褄合わせをやって、自らの勘違いな解釈を補強する証拠を集めて、辻褄の合ったフィクションを頭の中で構成してしまうわけだが、それが何と似ているのかというと、現状で示されている誰かの解釈と似ていて、浅はかな賛同者の支持を当てにして、そんなある意味では本当らしい解釈を披露してしまうのだろうが、そんな解釈をする人が他にもいくらでもいると思うなら、それが自分の勝手な思い込みから導き出された勘違いな妄想なのかも知れず、そんな妄想が信じられるかというと、もちろん信じられるはずもなく、いい加減で怪しいと思うなら、やはり気のせいで済むはずがないと思いたいところだが、たぶん気のせいで済ませておく方が無難なのかも知れず、世間の常識に照らし合わせて、本当らしいことを解釈として示すことが、解釈としては信用できる方だと思いたいが、それ以前に具体的に何をどう解釈するかが示されないと、信用できるできないの判断がつかないだろうが、とりあえず現状で起こっていることを現状を超えた水準で解釈するのはおかしいし、何か起これば宇宙人の仕業だと考えるのも、解釈としては冗談の範疇になってしまうが、何かが起こっている裏でスパイなどの闇の組織が暗躍しているとか考えるのも、やはりマンガチックな妄想となるしかなく、そういう嘘っぽい部分を取り除いて、できるだけ現状でわかっている範囲内で現状を解釈したいわけで、実際に宇宙人やCIAやフリーメーソンなどを考慮の外に置いて現状を考えてみると、現状の世界を陰から操っている支配者が誰になるかということではなく、またどの国が世界を支配する地位を手に入れようとしているわけでもなく、もっと低レベルなところで、例えばどこかの国の首相が疑惑や不祥事への批判や追及をかわす目的で、週明けにも内閣改造をやるらしいと現状を部分的に解釈すれば、何かそれが本当らしいことのように思われるわけだが、別にそれが面白いとかつまらないということではなく、本当にそんな理由で内閣改造をやるのかというと、実際に疑惑や不祥事の批判や追及をやっている人たちにとっては、そう解釈すると話の辻褄が合うように思えるのだろうが、内閣改造にはそれとは別の思惑があると考える人にとっては、それに関して辻褄の合う理由を導き出さなければならないだろうし、何か説得力のありそうな理由を思いつけなければ、それが別の思惑に結びつかないわけだが、そういうところで解釈の本当らしさをいかにして確保するかが重要となってくるにしても、実際に言っていることとやっていることの辻褄が合わなければ、それが言行不一致で信用できないとしても、そうなってしまうのだから、それをどう解釈したところで辻褄が合わないわけだから、本当らしくないわけで、要するに信用できないことをやっていて、信用できないことを言っているわけだが、それを矛盾と捉えても構わないのかというと、それでうまくいっているとなると、別に矛盾しているわけではなく、むしろそれでうまくいくなら意図的にわざと言行不一致にしている場合まであるかも知れず、そういうところでは辻褄を合わせる必要がないというか、逆に辻褄を合わせない方がうまくいく場合まであるわけだが、それを論理的に考えても合理的に考えてもおかしいとは思うだろうが、その論理性や合理性が狭い範囲内でしか成り立たず、その範囲を逸脱したところでは通用しない論理性や合理性であるなら、おかしいと思うこと自体が現状の中では通用していないことになるわけだが、中には強引に話の辻褄を合わせるために宇宙人やCIAやフリーメーソンなどを持ち出してくる陰謀論者もいるだろうが、果たしてそれで話が本当らしくなるかというと、一般的には信じてもらえない話になってしまうだろうが、話としては興味深く面白そうな内容にまとめて、それを信じるか信じないかはあなた次第だと責任転嫁してみても、あなたの範疇に入らない人にとってはどうでもいい話になってしまうだろうが、自分が辻褄の合わないことをやっていることを認めたがらないのは、自身の社会的な信用を保つためにそうなってしまうわけだろうが、そんな理由も話の辻褄を合わせるためにそういう理由を想像してしまうわけだが、辻褄の合わないことをやっている理由が、それをやっている当人にはよくわかっていない場合もあるから、何かをやった後からいちいちそれをやった理由を持ち出して、それをやったことを正当化する人など、そういるわけではなく、大抵はそういう成り行きにはならないだろうし、そういう意味で言行を一致させることが、どんな場合でも必要とはならず、むしろ一致させないまま放置しておく方が都合が良いのかも知れないが、そういう活動に遭遇してしまった人がそれについて語ろうとすると、どうしても話の辻褄を合わせようとしてしまうから、それを解釈すると、そこで行われている実態からかけ離れた解釈になってしまい、しかも話の辻間が合うからそういう話を聞いた人がそれを信じてしまい、そういう経緯で活動についての誤解が世の中に広まって、しかもその活動というのが身近なところで行われている活動だと、活動に対する誤解から生じた勘違いな先入観や偏見を抱いた人たちがその活動に関わってきてしまい、さらに活動自体がおかしな方向へとずれて行ってしまうのかも知れず、そんなふうにして活動そのものが変容して行ってしまうのだろうが、その活動が何かというと、それが誰もが現状で直面している活動となるのではないか。
8月5日「陰湿な狂気」
日頃からメディアを通して見聞している物事に魅力を感じたり感じなかったりすることが、信仰の面で何かしら影響を受けているような気がするが、そんな気がしているだけで、どのような影響を受けているかわかっているわけではなく、ただ何となくそう思っているに過ぎないことだが、それがそうは思っていないことでもあり、たとえ影響を受けているとしても、魅力を感じる物事を直接信仰するという単純なことではないような気もするわけで、それに魅力を感じているからといって、肯定的な面と否定的な面とが入り混じっているようなところから魅力を感じているわけだから、危うい魅力であると共に疑わしい魅力でもあり、素直に魅力を感じるから肯定できるわけではなく、不快な面を感じながらも魅力を感じるような複雑な感情を抱いていて、不快だからといって否定できるわけでもなく、そう感じる物事を単純に否定したくない程度のことでもあり、それが批判の対象となってくると、一方的に批判されている場合があるが、それに対して苛烈な批判を加えている人たちがわかっているらしいことが確かに納得できる面があるのだが、わかりやすい理由や理屈をつけて一方的に批判している人たちがわかっていないことをわかっているわけでもないのだが、いくら何でもそれでは単純過ぎるだろうと思われるだけで、そこから何が言えるわけでもないものの、そういう批判の仕方では何か足りないように思ってしまうわけで、しかもそれがそう思ってしまうこちらの勘違いである可能性も高いのかも知れないが、単純に簡単に言えてしまうことを、そういう否定的な単純さや簡単さに逆らって魅力を感じている人たちがそれを信仰していて、しかも単純に簡単に否定できる物事を信仰している人たちが世の中の多数派を構成しているとしたら、そういう人たちを頭がおかしいと否定できるかというと、確かにそこからかなり時間が経ってみれば、例えばかつてヒトラーやムッソリーニを崇拝していた人々が世の中の多数派を構成していたと言っても、何となくそうなるのが当然だと思うかも知れないが、果たしてその当時の渦中で世の中の多数派を構成している人たちが頭がおかしいと言っても、それが世間に受け入れられるかというと、そんなことはないと思うのも当然であり、もちろん現状の日本でそういうファシズム的な熱狂はないだろうが、依然として頭のおかしな人たちが世の中の多数派を構成していることを指摘してみたところで、誰もそれを真に受けないだろうから、たとえ世の中がファシズムとは違う静かな狂気に包まれていると感じられても、それをあからさまに口出したり文章の中で示す人はいないだろうし、もちろん多数派を構成している人たちがそんなことを感じているわけでもないから、そう感じている人の勘違いには違いないのだろうが、それでもそうした状況の中で、特定の物事に対して一方的に苛烈な批判を加えている人がいれば、何かその人が世の中を覆っている狂気に反応しているような気がするわけで、しかもそれが世論調査や選挙結果の欺瞞性を突いているほど、そこに世論調査や選挙結果が示している多数派の存在が浮かび上がってきて、その中に含まれる人々の狂気に反応しているから、それが一方的で苛烈な批判となって顕現化しているように感じられて、それが世の中を覆っている狂気に反応しているから批判の程度が激しいのかというと、そう感じることにそれほど説得力が伴うわけでもないが、それを狂気だとは思わない人たちの方が世の中の多数派を構成しているのだとしたら、狂気であるはずがなく、そこからかなり時が経ってみれば、ファシズムの狂気とは別の狂気が抽出されてくるかも知れないが、それも現時点ではわかるはずもないことであり、現時点では狂気だとは思われていないことが、将来にわたって変わらないかというと、現時点では断言できないことであり、その程度に過ぎないが、それが狂気であるかないか、狂気であればおかしいことなのか、狂気でなければ大したことでもないのか、ということが問われているわけでもないが、その一方で多数派が支持する政治勢力に苛烈な批判を加えている人たちが囚われている狂気というのも、狂気に反応する狂気といってしまうと、それが憎悪の感情にまかせて発せられるというよりは、理性的な平静さを装った批判である限りで、それなりの理屈を伴っているから、狂気などではないと理解しても構わないだろうが、それ以前に多数派が患っている狂気というのが、熱狂とは無縁の陰湿な同調圧力を伴った粘着質の静かな狂気であるだけに、それに対する苛烈な批判とは性質が異なり、いくら批判されようと執拗に絡みついてくる蛭ような特性があるから、相容れないばかりが批判される度に逆に強度や柔軟性や耐性などが増してくるから、負けるのはいつも決まって苛烈な批判を加える側になってしまい、もうかれこれ何十年も飽きもせずそんなことが繰り返されてきた経緯があるわけだが、果たして今回もそんなことが繰り返されて、多数派が支持する勢力を苛烈に批判している人たちが敗れるとなると、またかと批判勢力を応援する人たちがうんざりしてしまうだろうが、たぶんそうなっても構わないわけで、結果的にそうなるとしても、その過程が歴史として積み重なり、それに伴って多数派の狂気に汚染された人々をいかに取り込むかが課題となってくるわけで、それも苛烈な批判に囚われた人たちを除外した上で狂気に汚染された人々を取り込むとなると、苛烈な批判にこだわる人たちを背後から襲って黙らせて、闇に葬り去るようなことが行われるわけではなく、なし崩し的に全てがうやむやになるというよりは、いつの間にかそういうことがどうでもよくなってしまい、対立軸が雲散霧消するわけでもないが、どう考えても納得するわけにもいかないだろうが、多数派の狂気が勝利して、しかもその狂気に反応して苛烈に批判した人たちを取り込みながらさらに多数派が成長するわけで、それを肯定的な成長だとは断じて容認できないとしても、苛烈に批判する人たちがいつの間にか取り込まれてしまうから、それが懐柔されたと受け取っても構わないが、飼い犬のように手懐けられたとは認めないだろうが、その手の人たちが大衆消費財のような性質だと言っても、納得し難いだろうが、これと言って適切な表現が見当たらないほど、元から表裏一体の片面を構成していたと見なしておけばいいのかも知れないが、要するにそこに対立軸が形成されるようだと、すぐさまその対立関係が見せかけであり、それが表裏一体の構造物の一部分を見ているに過ぎないから、あたかも対立しているように見えてしまうとしても、本気で対立しているつもりでいる人には納得し難いところだが、メディアの中で対立関係が構成されている限りで、プロレス的な意味合いがあると思えば、その程度のことに過ぎないと思うことも、多数派の狂気に含まれる認識となってしまうだろうが、その程度の認識で済ますわけにはいかないから、苛烈な批判を加えていると言えるとしても、いつまで経ってもその種のたわいない言葉遊びの水準でしか語れないようなことであり、そんなふうに回りくどく中途半端に語ることに嫌気が差すようなら、苛烈な批判に加わって、多数派の狂気を糾弾するしかないわけで、しかもそんな多数派によって構成される社会の中で、そんな社会の状態を狂気として批判するしかないから、かなり無理な立場を強いられることになるのではないか。
8月4日「機会を取り逃す」
どうも語っていることの意味が終始ずれているようで、懸命に世の中の流れに逆らっている人たちが何の機会を求めているのかは定かでなく、それとは別の機会を逃している感じがしないでもないが、なぜ懸命に世の中の流れに逆らっているのか、その理由がわからないわけではないが、それが何の機会なのかも今ひとつわかっていない段階で、絶えず何かの機会が巡ってきているのに、それをことごとく逃しているような気がするのは、それが何なのかもわからないうちから、何もやらずに機会をスルーし続けているような気がするわけでもないが、何かに邪魔されて機会を逃しているのではなく、それが自業自得のような気もしないではなく、何かに邪魔されているどころか完全に無視されているような気もするのだが、何に無視されているのかもわからず、わかりもしないのにそんなことを指摘するのもいい加減極まりないが、それに関しては何もわかっていないわけではなく、そういう方面ではそうだとしても、別の方面ではだいぶわかってきたこともあるらしく、それに関して何か適当なことを語ればいいのかも知れないが、必ずしもそれが適当ではない可能性もあるから、結果的に適当ではないことまで語る羽目になってしまうとしても、そんなことまで語る必要はないのであり、必要もないのに無駄で意味のないことを語っているわけだが、それ以前にそれが何なのかを思い出そうとして、それに関して語るべきことが何なのかを思い出そうとしているらしいが、未だにそれを思い出せないようで、もちろん語ろうとしている当人には、思い出そうとしている自覚もなければ、意識して思い出そうとしているわけでもなく、思い出すべき何かを過去に経験したことも忘れていて、そういう意味ではそれを経験していないはずもなく、それを直接体験していなくても、それが他の誰かの経験として伝わっているはずだが、今それを改めて体験する機会が巡ってきたと解釈するのには無理があり、体験するには何かが足らないのであり、条件を満たさないわけだが、実際にそれを体験してみないことには、何を体験しているのかよくわからないはずだが、すでにそれを体験しつつあるのに、それが何だかわからないということもあり得るから、何を体験しつつあるのかを自覚する必要がありそうだが、自覚するまでもなくそれを覚えていないのかも知れず、自らが体験しつつそれが何だかわからず、それに気づいていないのかも知れないが、それでも絶えず機会が到来しているのであり、その機会が到来しているのに、体験しつつあるそれを理解できずにいるのかも知れないが、無理に理解する必要はなく、理解できなくても構わないような何かを体験しつつあるのだとすれば、それが何だかわからないわけだから、それを体験する機会を逃しているわけではなく、実際に機会を得ているのに、それに気づかないことになるのだろうが、気づかなくても構わないとなると、わざわざそんなことを語る必要もないだろうが、要するに無駄で意味のないことを語っているわけだが、そうやって必要もないのに語ることが何を意味するわけでもなく、無駄で意味のないことを語っているはずだから、それが原因で他の有用で意味のあることを語る機会を逸していることになるのかというと、それとこれとは無関係であり、はじめから有用で意味のあることが定まっているわけではなく、語っている途中でその有用性に気づいてそれを利用できれば、結果的に有用で意味のあることになり、それに気づかなかったり利用できなければ、語っているそれを聞いたところで無駄で意味のないことになってしまい、有用性に気づいたところで利用できなければ、それも無駄で意味のないことになってしまうとしても、少なくとも気づいた人は、それを利用している人の存在に気づいたから、それが有用で意味のあることだと気づくわけで、他人が利用しているのだから自分も利用できるのではないかと勘違いしているわけで、他人が利用できる前提条件やそれを利用するに至った経緯や事情を考慮に入れていないわけだが、それらの条件や経緯や事情を満たせば利用できるかといっても、実際に利用しようとしてみないことにはわからないわけで、全く同じ条件や経緯や事情となることはなく、人それぞれに違う条件や経緯や事情が生じてくるのは想像に難くないだろうから、それの何を利用するかにもよるだろうが、また利用する程度や傾向にもよるだろうが、その程度や傾向などが条件や経緯や事情に絡んでくるなら、言葉で説明するだけではよくわからない面もあるから、それも意識して利用しようとして初めてわかってくるようなことかも知れないが、意識しなくても利用している面ではわかっているのかも知れず、それを意識できなければわかる必要のないことかも知れないが、その必要がなくてもわかっていて、しかもわかっていることも意識していないわけだから、それ自体が何でもないことであり、自身にとっては何でもなくてもそれに関わっているわけで、そんなことに関わっていることが何になるわけでもなくても、実際に他の誰からも相手にされていないのに関わっているつもりになれるわけだから、関わっていると思い込んでいるに過ぎないのだろうが、それが関わりなのかというと、実質的には関わっていないことになるのかも知れないが、直接には関わっていないとしても、それが思い込みに過ぎないとしても意識しているわけだから、関わっている気になっている限りで、何らかの程度や傾向を伴いながら関わっていることになるのだろうが、意識させようともしていて、関わりがあるように意識させようとする媒体があり、それがメディアなのかも知れないが、そんな関わりなど無視しても構わないわけで、実際に無視しているつもりになっているのだが、執拗に付きまとわれている気にもなっていて、関わりを無視されるような立場なのだから、無視しても構わないわけだから、実際に無視しているつもりでも、やはり執拗に付きまとわれている気がするから、何とかそれを振り切ろうとしていて、それが世の中の流れに逆らう行為だとも思っていないだろうが、逆に世の中の流れに従うことが、メディアの中で提示されるような世の中の流れに従うことだと思われない代わりに、何が世の中の流れに従うことだと認識しているわけでもないが、案外世の中の流れから置いてきぼりを食っているのが、世の中で政治的な主導権を握っているように装う政治勢力なのかも知れず、彼らが自分たちで世の中の流れを作り出していると自負しているわけでもないが、世の中の流れがどうなっていようと、そんなこととは関係なく活動できるかといっても、いくら自前で入手したデータを基にして導き出した予測や予想を駆使して観測気球の類いを上げてみても、風に流されて向かっていく先に何が待ち受けているかを予測したり予想しているだけでは太刀打ちできないこともあるだろうから、それに対して逆に流れに逆らって抵抗している自分たちの姿を英雄視するような愚は避けなければならないわけではなく、それどころか積極的にそんな姿を自己宣伝に活用するようなことをやって、それが世の中の流れに従うことだと勘違いしたいわけでもないのだろうが、そこで積極的に意識して的外れなことをやろうとするなら、世の中の流れに逆らう機会を求めていることになるのかも知れず、実際に快楽を伴うような抵抗感を求めて反対運動の類いに同調しているわけではなく、世の中の流れに従うことがメディア上でもみっともなく見えてしまうから、そんなみっともない姿を肯定するわけにはいかないわけで、だから流れに逆らって抵抗しているつもりはないだろうが、自然とそうなっているから理由は問わないわけで、そうなってしまう理由など問う必要もなく、おかしいと思うことに対して異議申し立てをすれば、それが自然と世の中の流れに逆らってしまうことになれば、そんなことの意味を改めて問う必要もないのかも知れず、実際に意味も理由も問われずに、同調圧力に逆らっていればそれで済んでしまい、そういうところでは同調圧力に従う機会を取り逃している人が多いから、同調圧力に従うことがみっともなく見えてしまうわけだ。
8月3日「仕事とは違う何か」
それが何のためにといっても、例えば人が労働している理由が生きるためであれば、それなりに真っ当な理由となるだろうが、それを労働と言ってしまうと、何か受動的にやらされているような抵抗感を伴うなら、仕事と言った方が、やりたいことをやっているような印象を得られて、自尊心を傷つけられずに済むかも知れないが、生きるためというよりは、もっと具体的に報酬を得るためにやっていると言った方が、直接的には世の中の実情に合っているかも知れないが、世の中には報酬を伴わない仕事もあるだろうから、もちろん報酬を伴わない労働もあるにしても、必ずしも報酬を得るためにやっているわけはなく、成り行き上やらなければならないことをやっている感覚で仕事に取り組んでいる場合もあるかも知れず、それが具体的に何かといっても、うまく言い表せない場合すらあり、必ずしも生きるためでも報酬を得るためでもなく、特にそういうことを意識して仕事をやっているわけではない場合もありそうで、結果的には生きているとしても、また結果的に報酬を得ることに結びついていても、それよりも優先させていることがあるなら、金銭を得るとか報酬を得るとかが直接の目的ではなく、やりたいことをやっていると言っても、それをやるに至る経緯や事情の方が重要となってくる場合もあり、そうなると何のためにと問う必要もなくなり、それでも何でもないようなこととして仕事をやっているわけでもないだろうが、それが仕事ではない場合さえあり、とても仕事とは呼べないようなことに取り組んでいるとしたら、それが何らかの遊戯でしかないかというと、遊戯ですらなければ、例えば謎解きのようなことかも知れないが、謎解きが遊戯ではないとなると、何なのかといえば、例えば社会の制度やシステムを知ろうとする試みであり、それをすでに知っているのに、知っている以上のことを知ろうとすると、それが学問に結びつくかも知れないが、たぶん探求するとはそういうことであり、既存の学問ともあまり関係がないとは言えないが、初めから特定の学問に直接関係するわけではなく、特にジャンルを限定して探求するわけではなく、誰にもそれと認識できるような謎が提示されているわけでもないところが、何とでも言えてしまうと同時に何でもないような取り組みでもあるから、実際にも何でもないようなことになってしまい、それが一般的な意味で仕事とは言えず、そうかといっても趣味でもなく、誰もができるようなことではないと共に、そんなことをやる必要がないからやらないだけで、やる必要を感じられないようなことかも知れないが、理由づけができないのかも知れず、またそれはジャンルを限定しないとできないようなことをやりたいわけでもないのにやらされている人たちにとっては何でもないことであり、何をやっているとも感じられないだろうが、例えば生きるためにやっているのであれば、生きるという意味が生物的な生存とも社会的な生存ともサバイバル的な生き残るためでもないようなことであるなら、何でもないことには違いないのだが、生きるためには何でもないようなことをやる必要があるというわけではなく、必要もないのに何でもないようなことをやりながら、必要もないのに生きている感覚というのが、やはり何でもないようなことであり、それが世のため人のためというわかりやすい大義名分とも無縁であれば、やはり何でもなく、他人にとっては確かに何でもないことかも知れないが、それに取り組んでいる人にとっても何でもないことだとしても、何でもないことならやらなくてもいいかというと、そういうわけには行かないとすれば、その人にとっては何でもないわけではなく、普通は何かそれをやるに当たって何か切実な理由や動機などがありそうだが、相変わらずそれをやるについては正当化できる大義名分など何もなく、理由も動機も定かでないようなことをやっているとすれば、たまたま何かの巡り合わせでやっているようなことかも知れず、そうなると探求とも言えなくなってしまうが、それなりに理屈が伴ってくれば探究になってしまい、それがどんな理屈かというと、なぜそうなるのかということではなく、何がそうさせるのかということでもなく、どうやってそんなことをやっているのかについて、何かしらそれらしい理屈が伴ってきて、それが何らかの理論に従ってやっていることであれば、その理論の正しさを確かめようとしていることであったり、あるいは理論など何もないが、そこへと関わってくる経緯や事情があるから、そういう経緯や事情に従いながら行われていることであれば、それがその人の意思や意志とは関係のないことである可能性まであり、その人にとっても何だかわからないし、何かこれと言って納得できる理由や動機もないにも関わらず、成り行き上やらざるを得ないことをやっていれば、何かによってやらされていることなのだろうが、それが何だかわからないままそうなっている場合もあるわけで、そうなってしまうこと自体が謎なのであれば、謎解きとして理由や動機を探すことが、そこでやっていることになるわけだが、それらを探している実感が湧いてこないのかも知れず、しかもそれとは別に何かもっともらしい建前のようなことを語っているなら、例えばそれが理由も動機も定かでなく参議院議員に当選してしまった生稲晃子という人にとっての謎になるかも知れないが、それが単なる数合わせとしての存在であるはずがないが、何かそれらしいことをやっている感覚でいられるなら、世間体という意味でそれなりに成り立ってくることでもあり、その人が語っている内容に関して何の説得力も伴わなければ、議員としてそれ相応の役割を果たしていることになり、他にも意味不明なことを語っている議員がいくらでもいる中で、何だかわからないというのは嘘で、実質的には数合わせとして必要とされているのであり、党の指示に従って賛成したり反対したりしていれば、その役割を全うしていることになるのではないか。
8月2日「世襲政治の異常度と無能度」
自分が何を考えているのか自分ではわからないはずがなく、わかっていてもそれを忘れているわけではないのだが、意識していないのに、それが慣習として身についている場合は、理性的に考えてみるとおかしいのに、慣習がもたらす惰性に逆らうことができないから忘れていて、それがマインドコントロールの類いと似ているようでいて少し違う心理状態をもたらして、それが思い込みに過ぎないのに、思い込み過ぎないことだと思っていても、結果が伴ってくると信じるしかなく、その結果というのが、慣習的な作用としてそうなっていることになると、その慣習に従っている人たちの間で信じられていることになるのだろうが、それも慣習に従っているのだから信じている自覚などなく、ただ何となくそうなっているだけで、それが結果的に慣習に従っていることになるわけだが、慣習に従っていれば考えなくても済んでしまい、考えてしまうと面倒なことになるから考えないわけだが、いくら考えてもわからないから考えないとも言えるだろうし、面倒なことは考えたくないし、実際に考えるより先に周囲で起こっている成り行きに従って動くわけで、それが良くないというわけではなく、いちいち考えるだけ無駄に手間がかかり、しかも無駄に考えるだけうまく動けないから、考える動作が邪魔になってきて、考えずに動くことが慣習として身についてしまうわけだが、それではまずいというわけではなく、むしろスムーズな動作をもたらすから、その方が好都合なわけだが、自分にとって好都合だと思っていると、自分にとってというよりは自身が囚われている慣習にとって好都合なのかも知れず、それを自分にとって好都合だと思い込んでいるから、結果的には慣習に囚われていることになるわけだが、その結果が自分にとって好都合だと思えるようなら、少しはうまくやっていることになるのだろうが、うまくやっているように思えるから、それが慣習として自らが従う動作となるわけだが、意識して従っている自覚がなくても結果的に従っていることになる限りで、無意識の動作として慣習に従っていることになるのだろうが、それが政治的な面ではメディアが繰り出すマインドコントロールとしての世論調査が社会の中で有効に機能しているとしても、日本では多大な害悪をもたらしていると思ってしまうと、それも慣習の思う壺だと思っても、もちろん慣習が何を思っているわけでもなく、誰もが慣習に従っている自覚などないだろうし、それ以前に何が慣習なのかよくわからず、改めてそんなことが問われているわけでもないのだが、何が人々をおかしな慣習に引き留めているわけでもないにしても、何かの慣習に引っかかっていることが明らかになっているような状況を想像できてしまうのだから、そんなことを想像してしまうこと自体がおかしいわけだが、世論調査結果に一喜一憂してSNS上で騒いでみても、そのSNSこそが大掛かりなマインドコントロール装置なのだから、大衆の意識が何重ものマインドコントロールを施されていると嘆くこと自体が、嘘っぽい陰謀論に踊らされているような気がするから、それを単純に考えるなら、意識せずに慣習に従っていると思っておけばいいとしても、それでは状況を正しく把握していることにならないだろうし、また正しく状況を把握することが不可能に思えるなら、間違った把握でも構わないわけでもないが、何をもって正しい状況の把握と考えられるわけでも見なせるわけでもなく、それに関して世界的な基準というが定まっているわけではないが、民主主義を重視するなら左翼的に考えればいいと言い放つことが憚られるようなら、やはりそういう面でマインドコントロールを受けていると解釈しておいた方がよく、それも簡単に資本主義経済からマインドコントロールを受けていると解釈できるものの、実際に左翼的な概念に抵抗感を覚えるようにコントロールされているわけで、端的に民主主義を断念するように人々が洗脳されているわけだが、そういうことをあからさまに語ると反発されるか無視されるかどちらかになるとしても、それもそうは語らないようにすることが慣習に従うことになるわけだから、国民がそんな洗脳を受けていない国では自然と左翼政権に落ち着くとしても、何十年もの間当たり前のことのように行われてきたことが、政治の世襲に過ぎないわけだから、もはや民主主義どころではなく、誰もがその弊害に気づいているとしても、慣習が邪魔をしてマインドコントロールの呪縛から抜け出せないと状況を捉えることが、正しい状況の把握とは思えないとすれば、正確には把握できないようなことを把握しようとして、そうなった成り行きを単純化して捉えていると思っておけばいいのかも知れないが、しかも左翼政権となったところで何がどうなるわけでもないことは、実際に左翼政権となった国々の状況を見れば明らかだが、その何がどうなるわけでもないということが、どちらでも構わないということではなく、政治家の世襲が蔓延する状況よりは幾分マシな状況がもたらされていて、それだけでも左翼を支持する意味があり、政治家の世襲を防ぐには左翼を支持しなければならないわけでもないが、実際に政治家の世襲が蔓延している状況が異常事態だとは思えない人たちが、世襲を容認しているわけで、世襲することが慣習として定着している状況を変えない限りは、世界でも例のない日本の異常事態を変えることはできないわけだが、それを異常事態だとは思わない感性の持ち主がおかしいわけではなく、精神に異常をきたしているわけでもなく、世間的に見れば至って正常なのであり、むしろ左翼を支持する人たちの方が異常者扱いされている傾向もあるかも知れないが、左翼だからとって毛嫌いされるわけではなく、政策で政治家や政党を選んでいるなら、建前上は真っ当な神経の持ち主だと思われるにしても、果たしてそんな建前が世の中で通用しているかというと、建前ではなく本音として、そんなことには無関心でいても構わないばかりか、構わないどころか積極的に無関心を装うべきで、政治に関しては何も語らないことが慣習として定着していて、同調圧力としても何も語らないように仕向けられている現状もありそうだが、もちろん一部では紋切り型としての政治的な言動がいくらでも繰り返されていて、同調圧力には屈しないどころか、同じようなことを繰り返し語ることによって、それ以外の言動を排除する傾向があり、それも同じことを繰り返し語るように仕向けていて、それが同調圧力として機能しているわけだから、政治に関しては無関心を装うか、同じようなことを延々と繰り返し語るかのどちらかとなっていて、どちらからも同調圧力がかけられて、その結果としてもたらされているのが、世界でも例を見ない世襲政治家の蔓延状況となっていて、それが中身を失って慣習となり、儀式化された政治の無能さを改めて実感させる結果を招いているのではないか。
8月1日「権力と信仰」
よく知られた陰謀論というほどのことでもないが、典型的なレベルで何かが起こった後から辻褄合わせの思考によって導き出されてくるのは、自然と説明するのに都合の良い内容となってくるにしても、それを説明する人が何を考えているのかといっても、それを説明している対象から推察しようとしてもよくわからない場合がありそうだが、考えているというよりは、様々な状況証拠をパズルのように組み合わせる作業に没頭していて、その際に陰謀の類いが説明の対象となる人や団体から生じてくるのではなく、それらの人や団体が陰謀の類いを巡らせているように考えると辻褄が合うから、辻褄が合うように話を構成しなければならない都合上、その必要があるから陰謀を巡らせていると説明されるにしても、必要もないのに陰謀が成り立つかというと、客観的に考えてその必要もないのに陰謀が巡らされた結果として、何かが起こるのであり、そこが説明するのに難儀するところだが、結果として起こったことが、何を意味するわけでもなければ、それが突発的に起こった偶然の巡り合わせのように感じられて、陰謀などなかったことになってしまうかも知れないが、少なくとも説明するのに陰謀が必要となってくるから、陰謀が巡らされて計画的に何かが行われたことにしたいのだが、そうでなくても世の中では計画的に様々なことが行われていて、何もそれが陰謀などではなく、はじめから公然と明らかになっている場合も多く、しかも計画自体が途中で度々変更や修正を被って、計画通りには事が進んでいないのも周知の事実となっているから、やっていることの辻褄も必ずしも合っているわけではなく、その気になって探せば矛盾やほころびがいくらでも出てくるわけで、それを辻褄が合うようには説明できない場合まであるわけだが、そんなことまで考慮に入れるなら、実際に行われていることの実態に沿うほど、うまく辻褄が合うようには説明できなくなり、逆にフィクションになるほど説明している人の都合のいいようにうまく話の辻褄が合ってしまうわけだが、そういうことまで考えて辻褄の合う話を構成しているわけではなく、それよりは錯覚だと自覚しているわけではないにしても、説得力のある話にしたいから、より信じやすい話の内容にしたいわけで、その信じやすいということが、浅はかな人が信じやすい話になると、話の辻褄が合っているから本当らしいと錯覚してしまう人にとっては、確かに信じられる話になるのだろうが、実際には信じられないようなことがしばしば起こるわけで、浅はかな人には信じられないようなことが実際に起こるから、そういう面では話の辻褄が合わなくなり、辻褄が合わなくなるからそれが謎となり、謎解きに成功すれば辻褄が合うように説明できるにしても、いつも謎解きに成功するとは限らず、うまく説明できないことが謎のまま残ってしまう話もいくらでもあり、そんないくらでもある話が実際に起こっていることについての説明として機能するかというと、やはり話の辻褄が合っていないと説明にならないわけで、説明するには話の辻褄が合っているようにしないとまずいわけだから、説明には自然とフィクションが混ざってしまうといっても、浅はかな人には信じてもらえないだろうが、実際に信じてもらえないような話では、説明としては不十分だから、信じてもらえるような工夫が求められるのだろうし、信じてもらえるように工夫が凝らされた話を信じたとしても、信じれば救われるなら宗教と変わらないだろうから、それを信じる信じないに関わらず、たとえ疑わしい話でもその疑わしさの中に真実が宿っていると思っておけばいいとしても、確かに矛盾だらけの辻褄の合わない話を信じろという方がおかしいが、無理に信じてくれなくても構わないと思ってでたらめな話をする人もまずいないだろうから、信じてほしいからわざわざ話すわけで、話す限りは信じてもらえそうなことを話すはずだが、中には信じられないことを話したい人もいて、さらには信じられないことを信じさせようとしている人までいるだろうから、そんな中で何を信じればいいのかに関しては、信じるに足る基準といっても、その場の状況によって異なってくるにしても、信じられるか信じられないかよりは、それを信じることによって自分がどうなるかに関して思考を巡らせる必要があり、そうなればそれを信じたばかりに、信じた人がどうなったかに関しても知りたくなってくるだろうし、しかもそれを信じた人の成功例と共に信じられる話や信じられない話が宣伝される場合もあり、それが宣伝の類いだとわかれば、良いことばかり宣伝されるだろうから、かえって警戒されるが、信じたくないのに周りからじわじわと同調圧力を加えながら強引に信じさせるようなら、それが宗教の類いだと気づくはずだが、それに気づいたところで宗教教団の内部でそんなことが行われている限りで、もうすでに囚われの身となっていて、教団から抜けられない境遇となってしまえば、手遅れとなっているわけだが、手遅れにならないうちにその種の信仰の罠から脱出しようにも、他のところでも体質的に信仰の虜になっている可能性があり、それがあからさまな信仰だとは気づかないレベルで信じていることがあって、それが慣習的で制度的な偏見や先入観であることに気づけないわけだが、それをメディアや周囲の人々を介して信じさせられていたり、宗教とは無縁の集団に属していても、集団内で幅を利かせている派閥や組織的な上下関係などから、派閥や組織の上層部にとって都合の良いことを信じさせられているわけで、それを信じさせることによって有利な立場になろうとする人や団体まであるわけだから、それもあからさまにそう思っているわけではなく、成り行きとしては権力闘争などに勝利したり敗北する過程で否応なくそういうことを信じてしまうわけで、それがそうなった結果と共にそれを実感してしまうから、そういうことに関しては揺るぎない信念を伴って強固な信仰へと結びつくわけだが、それが何かといっても、実際にそういうことを経験してみないことにははっきりとは自覚できないだろうが、そういう機会に恵まれた人にとっては貴重な体験となるにしても、それを上下的な権力関係によって信じさせられている人にとっては、それを信じたところで自身の立場が有利となるわけではなく、逆に信じないと身の危険を感じるとしても、信じているふりをしているだけで済んでしまう場合もあるから、大抵は信じているように振る舞っていて、それが演技だとばれない程度で収まっているのかも知れず、その程度で済んでいる限りで、別に揺るぎない信念を伴っているわけでも強固な信仰へと結びついているわけでもないから、実際に権力関係が作用している中では、演技として信者のように振る舞っているとしても、いったんそこから離れてしまえば、そんなこととは無縁でいられて、そこでも無縁なように振る舞っていればそれも演技となってしまうだろうが、そういうところでオンとオフの感覚を使い分けられるかというと、実際に使い分けられる人ほど自由を意識できるわけだろうが、そこでも使い分けられずに片時も信仰に囚われていると、何か下僕のようなへりくだった人間となってしまうかも知れないが、分をわきまえているというと聞こえは良いが、権力関係が上の立場の人からいいようにあしらわれていると言うと、情けないような気分となってきてしまうだろうから、その種の闘争に勝利する見込みがなければ、なるべくなら信仰に囚われている割合を減らした方が、その分だけ心身への負担も減らせるのかも知れない。
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