彼の声151
2022年
7月31日「膠着状態」
無駄なことを語るには何が必要となるわけでもなく、特に必要でもないことを語ればそれが無駄に語っていることになり、それに関連するわけでもないが、ひと月の最終日が何か特別な日というわけではないのと同じように、ひと月の最初の日である明日も取り立てて特別な日にはならないだろうが、もちろん月末と月初が隣り合わせになっていることの何が特別というわけでもなく、それでも何か捉えようによっては激動の1ヶ月間が終わろうとしている今の段階で、以前とは様変わりしている状況もありそうで、それが何かというと、誰もが思い浮かぶ出来事もありそうだが、あえてそこには触れずに、その代わりに言及することもなければ、無駄に問うことも問われることもなく、何も思い浮かばないなら、避けては通れない件の話題について語るしかないだろうが、それが何かと言っても人によってはわかりきったことかも知れず、それにかこつけて現状の膠着状態を打開する機会が巡ってきたと思ってみても勘違いなのかも知れないが、それどころかまだまだこれからも膠着状態が長引いて、いつまで経っても物事が行き詰まっているように感じられるなら、それも勘違いな感覚なのかも知れないが、これまでにも延々と無理なことが行われてきて、それをこれからも延々と続けなければならず、すでに無理強いしているのだから、膠着状態をもたらしていて、それに伴って生きていくのに嫌気が差してしまう人がいくらでも出てきて、そんな人を無理強いさせる制度や慣習に縛られながら生きているから、何か行き詰まっているような感覚に囚われるのだろうが、そういう面ではそうだとしても、そうではない面があるかというと、それについては幻想を抱いていて、現状の行き詰まりを打開する方法を模索していると思い込めるわけでもないが、行き詰まりの中で行き詰まっている状態を延々と保っているように思われるから、現状を維持しているのであり、結局現状を維持することが行き詰まりを招いているわけだが、無理なことが現状を維持することであり、現状を維持することを無理強いしてきたわけだが、その無理強いしている実態がちょっとの期間垣間見られて、それを見た人々がこれからどう反応するかが見ものというわけでもないが、何の反応も示さずにこれまで通りであるならば、もはや見込みがないと見てあきらめるしかないが、誰があきらめるしかないと思うわけでもないだろうし、誰もあきらめているわけでもないのに、もはや見込みがないことが歴然としているようなら、見込みがない状況を見せているのが、現状を批判している人々であり、安易に現状を批判できるから、同調者も安易な気持ちで現状を批判しているとしても、それも安易に批判しているように見えるから、それが安易だと感じられるのだが、実際には安易にそうなっているわけではなく、むしろ批判を封じ込めようとする圧力にさらされていて、そんな圧力に逆らいながら批判していることになるだろうが、そういう成り行きも予定調和感を拭いきれないから、何かそうではないような話の展開になることを期待してしまうわけで、それが無い物ねだりであることも承知しているのに、なおもそういう幻想を抱いている現状があるのなら、それも現状でもたらされている膠着状態によってそう思わされているのかも知れないが、現状の中ではそう思っていても構わないような気がして、それも勘違いかも知れないし、しかも誰が勘違いしているわけでもなく、それも話の成り行きとしてそれを勘違いと見なすとしっくりくるわけだから、現状に惑わされて勘違いな幻想を抱いているように装いたいのだろうが、そんなふうに装うことが現状に対する戦略的な態度だと思ってみても、すでに現状の中で定着している風景に取り込まれているような気もするから、それを風景だと見なすのも現実から目を逸らしているようにも感じられるのだが、それが風景であることに変わりはなく、光景ではなく風景だと見なしておいた方が、やはりしっくりくるのだが、しかしなぜそんな風景を傍観するばかりとなってしまうのかというと、そこに直接介入できないから傍観するばかりとなってしまうのだろうが、もちろん介入できないのに介入しているふりを装うのは、何かみっともないように感じられるから、そこで起こっている成り行きを風景と見なすしかないのだろうが、風景としか見えないことに首を突っ込んで、何かこれ見よがしなことを語っている人についても、無駄なことを語っているようにも感じられて、それでもその語っている内容には納得できるから、その内容を知識として吸収しているつもりになれて、その知識が今後とも何の役にも立たないとしても、雑学程度のこととして現状の膠着状態の中では、現実から目を逸らす口実として機能しているのかも知れず、また誰もがそんな膠着状態にある現実から目を逸らして風景を見ているつもりになっているから、いくらでも膠着状態を長引かせることができて、長引かせている限りで現状を維持しているつもりになれるだろうが、それが現状の変化から目を逸らしていることにもなり、現状を動かない風景として眺めているから、現状の変化をやり過ごしているつもりにもなれるわけだが、意識してそうしているわけではなく、無意識の領域でそんな事態が起こっているといっても、現状ではそれを確かめるすべがなく、現状をそんなふうに語るのも空想や妄想の域を出ないことであり、それが本当にそうなっているのかなっていないのかを厳密に明らかにするわけにもいかないし、ただそんな気がするだけなら、それで都合が悪ければそんな空想や妄想は無視するしかなく、風景の中では何も起こっていないと思い込んでいれば済んでしまうだろうが、そんな現状の風景化を促進しているのが何かというと、人が風景の中に収まるには部分的な人間になることが求められていて、風景の中の一部を占めるように配置されるには、余計なことに口出してはその人が占める領域からはみ出てしまうからまずいわけで、そういう意味では余計なことには口出しせずにその人の分をわきまえた言動や行動が求められているのだろうが、日本というこじんまりした風景に収まるには人数が限られてしまい、少なくとも全員が風景の中で一定の領域を占めることはできず、一定の領域に収まりきらなければそこから弾き出されて、弾き出された人がどこへ向かうかというと外国へと向かうしかないだろうが、そんなことはただ風景を眺めているだけの傍観者たちにとってはどうでもいいことになってしまうが、果たしてそれが本当に風景なのかというと、無理矢理風景のように見せかけているに過ぎず、しかも誰が見せかけているわけでもなく、自然にそうなっているわけでもないとすれば、風景に収まるように無理強いしている何かが存在するはずだが、たぶん存在しているのではなく、そんな風景を思い描いている人がいくらでもいて、各々が別々に風景を思い描いていれば、特に問題はないのかも知れないが、それを何とかして人々の思い描いている典型的な紋切り型の風景に統合したいわけで、誰もが同じ風景を思い描くように持って行きたいという思惑が働いていて、そんな思惑を抱いている人たちが、現状に直接介入しているふりを装って、利いたふうなことを語って、それに同調する人々をその人の思い描く風景の中に取り込もうとするわけだが、その風景を説明するプレゼンテーションが巧みで多くの人々が納得できるような内容であれば、納得した人から風景に取り込まれてしまうのかも知れないが、それも風景に取り込まれた人が思い込む幻想に過ぎず、風景を説明する人と同じ幻想を共有しているつもりになっても、幻想を共有すること自体に致命的な欠陥があるように思われるから、それと共に日本という風景を説明するプレゼンテーション自体にもお粗末なほころびが目立ってくるのかも知れず、そんなほころびに気づいた人からその人の説明する風景から遠ざかってしまうのだろうが、それが入れ替わり立ち替わり誰かが説明する風景に興味を抱いてその中に入ったり、しばらく経って飽きてそこから出たりする度に、風景自体が変動を被って、あることをきっかけにして歪んでみたり亀裂が走ったりしながら変動し続けるから、結果的に現状が維持されず、いくら風景の中にとどまるように無理強いしても、描かれた風景がお粗末だと飽きてしまうわけで、多くの人々が飽きてしまえばそこで流行現象が限界を迎えて衰退するしかなく、それが流行り廃りの次元ではそうだとしても、果たしてそれを流行現象として捉えることができるかというと、それ以前に風景として捉えること自体にも無理があるから、そんな説明自体が無理なのが明らかとなってしまい、結果的に誰もが傍観していると思っているそれが風景などではなく、誰も傍観者にはなれない成り行きの中で現状が推移していて、誰もが直接関わっている現状の中で生きていることを実感する必要があるとしても、実際に介入できない領域がある限りで、それに関しては風景を眺める傍観者のように装うしかないわけだ。
7月30日「公然の秘密」
誰もがそれを知っているわけではないが、限られた人にだけ明かされる秘密の類いが、その限られた人から外れるような人にとっては何か興味深いものとなるにしても、何かのきっかけからそれを知ったところで、それが何の役に立ちそうもなくどうでもいいことのように感じられると、興味が湧いてこないだろうし、少なくとも何かしら利益を共有する身内以外の人には知られたくないような秘密の類いではなく、それを誰が知ってもどうということはないようなことなら伝えるメリットなどなく、それよりは伝えるなら何かしらためになるようなことを伝えようとするだろうし、あるいは知りたい人の好奇心をそそるようなことになるはずだが、それも好奇心をそそられるような気がするだけの場合もあるのかも知れず、一概に知的好奇心と言っても、こういうことには知的好奇心を抱くものだとメディアによって洗脳されている可能性もあるから、そうなるとどうでもいいようなハウツー本的な内容でも、それを伝える側と伝えられる側との間で事前の根回しのような意思疎通が暗黙の了解事項としてあれば、それを伝えられる側がこういうことを知りたかったのだと納得するようなことが伝えられて、そこに何か錯覚があるような気がするものの、それが具体的にどういうことかというと、例えばこういう人たちにはこういう習性があるという偏見や先入観でもあり、それがあらかじめわかっていることの範疇で確認作業を促すために伝えられているようにも思われて、別にそれがごく限れられた人たちの間で共有されている秘密であるわけでもないし、どちらかといえば広く一般に知れ渡っていることなのだろうが、それに関して気をつけなければならないことが何かといえば、そこで初めて耳にするようなことではなく、ある程度はわかっていることの再確認のようなことだと安心できるわけで、それを知ってどう思うかというと、やっぱりそうだったのかと思うわけで、そう思われるようなことを狙って伝えようとする人のあざとさが鼻につくようなら、だいぶその種のメディア的な手法のカラクリがわかってきたと言えるのかも知れないが、確かに世界には様々な謎や秘密があるとしても、中でもこの世界があること自体が最も興味深い謎だなんて知ったかぶって言い放つ人などいるわけもないが、〇〇業界の闇とか銘打って、特定の業界の裏話程度のことであるなら、そこで行われている理不尽な風習や慣習を告発するような手法をとれば、何やらやっぱりそうだったのかと頷けるようなことが次から次へと出てくるわけで、それが他人事に過ぎなければ興味本位の野次馬のようにして、批判や非難に便乗して言いたい放題言えるにしても、果たして当事者がどれほどいるかといっても、いくらもいるわけもなく、そういう話に気晴らしや暇つぶし目当てに興味を持つのは、大抵は業界とは無関係な一般大衆になるだろうから、当事者とは深刻さや大変さの程度に天と地ほどの落差があり、それが告発している人の本気度ともかけ離れていると、その気になって一般大衆にも危機意識の類いが浸透しているはずだとか思ってしまうと、何か当てが外れて梯子を外されるようなことになってしまうのかも知れないが、告発者に何やらカリスマ性の類いが生じてくればそれなりに長続きするかも知れないし、他のメディアも同調してくれば社会問題化しているようにも装えるだろうが、大元の理不尽な行為が悪習と見なされるにしても慣例化しているようなら、ある程度はそういうことが行われるについては必然性があり、そういうことをやるに至る経緯や事情などの面で切実さもあれば、やめるにしてもやめられない事情があるから続いていることにもなり、それがその業界の闇となるわけで、さらにそれに関連して違法行為まで絡んでくれば、場合によっては警察沙汰や裁判沙汰にまで発展するだろうが、そういうことまで含めてもなおありふれていることなのかも知れず、どんな業界にも程度の差こそあるものの違法行為や人道的に許されない行為などがついて回り、合法的なことをやっているだけでは業界の中で生き残れないなら、通常ならやってはいけない行為に手を出すことになり、誰かが手を出してうまくやっているようなら、その噂を聞きつけて他の誰かも手を出すようになり、次第にそういうことが頻繁に繰り返されるようなら、いつの間にか業界ぐるみでそういうことをやるのが慣例化してしまうわけで、そうやって放っておけば自然とエスカレートしてしまう行為について、どうやって歯止めをかけるかといっても、法律で禁止するのが通常で採られる手っ取り早い措置だとしても、元から違法であることを知りながらもやってしまうことであれば、すでに法律で禁止されていることをやっている自覚があるだろうから、それをやるにはそれ相応の覚悟が要るだろうが、法律で禁止されていることなら前科があって、誰もがそれに関して警察沙汰や裁判沙汰などの前例として知っていることが多く、そういうことがこれまでも倦むことなく繰り返されてきた経緯も知っているかも知れず、そうなるのが事ある度に断続的に繰り返されてきた恒例行事のような感覚を持っているなら、それが起こる度にやっぱりそうだったのかと思うしかなく、そう思うことが何か決定的な善悪の判断にも結びつかないし、またやっている程度の感覚で、違法行為をやってしまった人や団体に対して親近感さえ湧いてくるかも知れないが、それがその業界で主導権を握っている人や団体などであれば、なおのことそう思ってしまう一方で、業界内で劣勢に立たされている人や団体の方が、それに対する批判や非難の急先鋒であったりすると、どうしても大衆心理としては、大して悪びれていないような態度の主導権を握っている人や団体の味方となって、結果的に業界内で主導権を握ってやりたい放題やっている人や団体の方がさらに栄えて格差が広がってしまうのだろうが、そうならないようにするには何が必要なのかといっても、それを取り締まる側がそんな大衆心理に逆らうように動くしかないだろうが、取り締まる側までが取り込まれてしまうのが、よくある行政的な傾向だろうから、要するにそれを取り締まる側の人間も大衆心理に汚染されていて、そんな大衆心理がどこから生じてくるのかといえば、メディアから生じてくるわけで、メディアが大衆心理を作り出していながら、大衆心理がメディアを栄えさせるから持ちつ持たれつの関係となっていて、しかもメディアの中のジャーナリズム的な部分が業界の闇を暴き立てるようなことを売りにしているわけだから、まさにマッチポンプ的な傾向もあるにしても、そういうメディアの自作自演の自縄自縛的な傾向が何をもたらしているのかといっても、倫理観や正義感の欠如ぐらいしか思いつかないが、今まさに政治業界の統一教会汚染を暴いている最中で、誰もそれを邪魔するつもりはないだろうが、邪魔するつもりもないのに結果的に邪魔している人たちが何を言いたいのかといえば、それらの人たちの代弁者を気取って肩を持つようなことを言いたいわけでもないのだろうが、何を言いたいわけでもないのに被害者意識を持っているとすれば、彼らが何の被害者なのかというと、客観的に見れば被害者ではなく加害者なのだとしても、そんな加害者が言い訳として持っているのが被害者意識であり、これまでの経緯の中でうまく立ち回ってある程度は成功してきたのに、何でそのことを批判されたり非難されなければならないのか納得がいかないのは当然だが、それでも大衆心理を味方につけている限りは大丈夫であり、これまでの経緯の中ではうまく立ち回っているわけだから、その延長上で考えるならこれからもそれなりにうまく立ち回れるはずだが、うまく立ち回っていることが現状をもたらしているわけだから、時としてうまく立ち回っていることについて他から批判されたり非難されたりするのも、うまく立ち回っていることから生じてくる経緯に含まれるだろうし、またここからどんな経緯や事情が生じてこようと、結果的にうまく立ち回っている状態が崩れなければいいわけで、その状態が崩れないようにするにはどうすればいいかと問われているわけではなく、業界の内部では確かにそれらの勢力が主導権を握っているとしても、業界の外部にまではその主導権が及んでいないだろうから、その状態が崩れるとすれば外部要因として業界の外部から何らかの作用や影響を及ぼされて崩れる可能性があるのだろうが、それが現状ではコロナからくる要因であったり、世界経済からくる要因であったり、戦争からくる要因であったり、周辺国との力関係からくる要因であったりするのかも知れないが、その一方で内部でも内ゲバ的な主導権争いが絶えないし、今もまさに偶然の巡り合わせのような突発的な事件をきっかけにして、毎度お馴染みの主導権争いが再燃しているようにも感じられるが、それが毎度お馴染みの程度にとどまり、コップの中の嵐程度で済んでいるうちは現状の談合体制が崩れることはないだろうが、それも結果的にそうならなければ何らかの変化が起こったように見えるのではないか。
7月29日「批判をかわすきっかけ」
誰もが現状の成り行きに違和感を覚えていると思いたいが、知らないうちに置いてきぼりを食ってしまうような事態にはなりたくないから、何とかしてそこで生じている話題について行こうとするのだろうが、その一方でそれが何でもないことのように見せかけたい人たちも、必死になって何でもないことのように装っていて、そう装うことによってそれへの批判をかわそうとしているのは痛いほどよくわかるが、別にそんなことには興味がなく、それとは別の方面から興味深い何かが絡んできて、それが何なのかというと、冗談のような何かであれば拍子抜けしてしまうが、たぶん冗談でそんなことをやっているわけでもないのだろうが、本気でやるようなことでもなく、本気ではないのだから冗談で済ませられるかというと、本気でも冗談でもなければ何なのかといっても、どちらでもないと困るわけでもないが、実態としてもどちらでもないのであり、どちらでもないからどう捉えたらいいのかわからなくなってしまうかも知れないが、どちらでもないところに批判をかわすきっかけが潜んでいれば、是が非でもそれを利用したいところだが、そう簡単にきっかけになるわけでもなく、そうはならないどころか、逆にそれがきっかけとなってしまったから、それへの批判をかわそうとする事態となってしまったわけで、それが冗談では済まないようなことでもあり、実際に冗談では済まないから現状に至っているわけだが、今さらそれを冗談で済ませられるわけでもなく、冗談では済ませられないから、苦し紛れにおかしな陰謀論も出てくるのかも知れず、そこで何かの陰謀が巡らされていようといまいと、事実は事実として何らかの実態があり、そんな実態が問題となっていて、その実態をなかったことにはできず、なかったことにはできないからどう取り繕えばいいのかが問題となってくるのだと思いたいが、やはりそれもそうではなく、あたかも問題などなかったかのように装いたいわけだから、そこから先はいかにしてそれをフィクションに仕立て上げるかが問題となってくるのかも知れないが、依然としてそれが根も葉もない噂話ではなく、そんなフィクションの構成に駆り立てられている人たちの方がおかしいのはわかりきったことかも知れないが、そこでも無理にそういう成り行きに逆らってはまずいのかも知れず、そういうことをやりたい人たちにはやらせておくことが肝要であり、どうぞ気が済むまでやってもらえばいいとしても、それでは気が済まないわけで、事実をねじ曲げただけでは気が済まず、新たなそれらの人たちにとって都合の良い事実をもたらしたいわけだから、それがどんな事実なのかと問うまでもなく、捏造されたフィクションが事実であるかのように見せかけたいのだから、それもそれらの人たちにとっては都合の良い装いであり、そんなふうに装っている事実が、それらの人たちにとって都合が良ければ気が済むかも知れないが、気が済んだところでそれらの人たちの実態が変わるわけではなく、変わらないと思い込んでいるに過ぎないとしても、それも自分たちの実態が何も変わっていないように装いたいわけだから、どうぞ気が済むまで装っていればいいことでしかないが、いくら装っても正体がばればれなことも以前と変わらないだろうから、そういう意味ではそんなふうに装っていることに成功しているわけで、それが成功していると思っているかどうかは定かでないにしても、苦し紛れにそんなことをやっているとしたら、苦し紛れに成功していることになるだろうが、それがそれらの人たちの本分でないなら、ではどうなればいいのかといっても、どうにもならないからそんなことをやっていて、どうにもしようがないからそうなってしまっていると見るなら、たとえそんな装いに成功しているとしても、苦し紛れにやっているように見える限りで、それに成功していると見ていいのかといっても、それが苦し紛れの成功には変わりなく、本来の成功ではないわけで、しかも本来の成功などあり得ず、その装いも本来の装いではないから、それを偽装に過ぎないと見なすなら本物ではなく、本物のふりをしている偽物であり、だから絶えず本来の姿とは違う別の何かに見せかけなければならないのであり、その別の何かというのが、現状で装っている姿であり、それらの人たちが自覚なく装っている姿が本来のそれとはかけ離れているなら、本来の姿はどんな姿なのかと問わずにはいられなくなってしまうが、それが未だかつて現れたことのない未知の何かだとすれば、彼らが目指している理想像がそれであれば、何か話の辻褄が合ってくるように思われるわけだが、何を目指しているのかよくわかっていない可能性もあるから、本来の姿こそが彼らが構成しようとしているフィクションの中に隠されている可能性も捨てきれないが、彼らがどんなフィクションを構成しようとしているのかといえば、少なくともそれが現状からはかけ離れた内容を構成しようとしていて、それが彼らがメディアを通して語っている内容に端的に現れているとしても、未だその一部しか明らかになっておらず、全てが明らかになる機会など永遠に訪れないかも知れないが、その一部だけでも現状からはかけ離れていると感じられるのだから、そこに含まれている彼らの本来の姿も現状ではあり得ないような姿なのだろうが、すでにそれがフィクションなのだからいくら現状からかけ離れていても、それがいかに現実離れしていようと、そんなことはフィクションの内容など改めて見るまでもなく明らかなのは確かだが、それでも何とかして現状の中で現状とのつながりを確保しているように見せかけたいわけだから、現状の世界について語るしかないだろうし、実際に時事的な話題について語っているわけだが、しかも時事的な話題を無視して語っているわけで、少なくともそこでそんな装いでは駄目だということが示されていて、それらの人たちが自ら自分たちの駄目さ加減を公衆の面前で嫌というほど見せつけているにもかかわらず、一向に堪えていないようにも見えてしまい、逆にそれでいいのだと勘違いな受け取り方をする人まで大勢現れているようにも見えてしまうから、それが救いようのない愚かさの現前のようにも感じられて、呆れてものも言えないような心境となってしまうにしても、それでも何とか体裁を取り繕うには、そういう人たちの言い分にも耳を傾けなければならないだろうし、聞く耳を持たない態度にはなり得ないのだろうが、それも放っておけばそのままそうなってしまうから、体裁を取り繕う以前にそういう成り行きにならないように歯止めをかけたいわけだが、目下のところは歯止めがかかっていないどころか、かえってそれが促進してしまうような成り行きにもなっているから、人によっては毎度のことのように危機感を露わにして、そうならないようにするにはどうすればいいのかと無駄に思考を巡らせて、愚にもつかない思いつきに行き当たって、その思いつきが荒唐無稽で実現不可能なことだとは思えないから、その時点ですでに思考が現実離れしてしまっているわけだが、それが苦し紛れにそう考えているとは思えないし、むしろ冷静に事態に対処しているような気にもなって、それどころか周囲の反応によってはうまく立ち回っているような気にもなるだろうから、自分たちの見え透いたばればれの偽装がばれていないような錯覚にも囚われてしまい、それが思考が現実離れしている証拠だとしても、証拠として示されるような成り行きにはならず、逆にそんな錯覚を共有してくれる人たちに周囲を取り囲まれているから、偽装している方が居心地が良いわけで、そういう成り行きの中では批判をかわす動作などいらないばかりが、逆に批判を受け流すでもなくそのまま受け止めて居直っている方が筋が通っているように思われるだろうし、実際にそうなってしまうわけだが、それで都合が悪いわけでもなく、都合が悪いのはむしろ批判している側かも知れないが、そうすることによって批判をかわすきっかけを失ったところで痛くも痒くもなく、批判などかわす必要さえなく、元から批判が批判として機能しない成り行きの中で、その場の情勢に合うような装いとなっているわけだから、そうなっている限りでその身は安泰なのかも知れないが、安泰だとしてもその安泰の程度がみっともなく、自分たちのみっともなさを世間に見せつけながら生きていることになり、しかもそういうみっともなさに慣れきっていて、いくらみっともなくても何とも思わないような悟りの境地を獲得しているから、別にそれでも構わないし、そういうみっともない人の方がかえって堂々としていて、肩身の狭い思いなどする必要がないから、世間でも幅を利かせているわけで、逆に下手に策を弄して批判をかわすそぶりなど見せれば、大抵はかわしきれずに墓穴を掘るような結果を招くのではないか。
7月28日「ちぐはぐな対応」
単純に何かがおかしいと思う時、他の人々が気づいていない何かを自分だけが感じ取っているわけでもないのだろうが、むしろ他の人々もそのおかしさを感じ取っているかも知れないし、そう思うのだから他の人々とおかしさを共有していることになるはずだが、具体的に何がおかしいのかというと、例えば今かつてないほどにコロナが感染爆発しているこのタイミングで、厚生労働省の審議会がコロナ経口薬の緊急承認を見送る判断をしたことが、何か時宜を逸しているような対応に思われるのだが、せっかくコロナ禍に伴って創設した新薬を緊急承認する制度を活かせないわけで、承認申請してきた新薬の効果に疑問符がついたのだから、そういうことを判断する審議会なのだから、承認を見送る判断をするのも選択肢としてはありなのだろうが、外国の製薬企業が開発したワクチンは接種が原因で死者も大勢出ているのに、平気で接種を奨励しておいて、満を持して国内の製薬企業が開発した飲み薬の承認には待ったをかけるその態度は、それも担当する役所の部署が違うし、ワクチンと飲み薬では種類も使い方も違うし、ある意味でそうなって当然なのかも知れないが、ちぐはぐな対応のように感じられてしまうわけだが、もちろんそうなるに至る事の経緯を事細かに知る機会を得られるなら納得してしまう可能性もあるだろうが、それだけがおかしいと思っているわけではなく、他にもいくらでもおかしいと思わされる機会があり、例えば元首相が銃撃されて死んだ後から、生前の功績を褒め称えるようなことをやるのが、儀礼的な意味ではそういうことやって当然ではあるものの、自分がその気になれるわけでもなく、本気でそれが当然だと思っているわけでもなく、実際にその人がお粗末な人物であることは、その人の生前の言動や振る舞いから誰もが知っていて、しかもそれが政治家としてある程度の成功をもたらす要因でもあり、それはアメリカの前大統領にも言えることだが、世の中の一般大衆のひどい部分を代弁しているような人物が政治家として成功することが、衆愚政治という呼び方で言い表されることも、多くの人たちが承知しているだろうが、しかも元首相を銃撃して殺した人物が、詐欺的な宗教団体によってひどい目に遭わされたことを恨んで、その団体の広告塔のような役割を担っていると思った元首相を狙撃したわけで、それも誰もがある程度は知っていたことであり、さらにその詐欺的な宗教団体が隣国の韓国が総本山の団体であることも誰もが知っていたのに、元首相やその勢力や政党を支援してきたネトウヨと呼ばれる国粋的な右翼系の人々が、ことある度にその韓国を敵視して非難したり罵倒してきたことも誰もが知っていることなのに、同じ韓国が総本山の宗教団体のこととなるとだんまりを決め込んでいるのが、それも誰もがおかしいと思うのが当然のことだろうが、その宗教団体がこれもよく知れた反共組織と一心同体の関係で、その反共組織が国粋的な右翼系の人々とつながっているわけだから、その件に関してはだんまりを決め込まざるを得ないのだろうが、その韓国が総本山の宗教団体が詐欺によって長年にわたって日本の人々の財産をむしり取って多大な損害を出してきたのだから、そういう売国的な行為には敢然と攻撃を加えるのが愛国的な行為となるはずだが、そういうことをやっているのが彼らと敵対する左翼的な人々だと共闘できないだろうし、その辺の事情は察して余りあるところだが、どうでもいい時には調子に乗って勇ましく吠え立てるが、肝心な時には役に立たないのは、それもコロナ経口薬の緊急承認を見送るお役所と同じで日本的な傾向なのだろうし、それで構わないとは誰も思わないだろうが、それが日本的な傾向だと言えてしまうところが、ある意味では情けないわけで、もちろん日本以外でもどの国でもある程度はそんな傾向があるのかも知れないし、それも反日的な偏見に過ぎないのかも知れないが、それにしても日頃からメディアで利いた風なことを語ってきた識者の類いも、元首相の生前の功績を何の躊躇もなく語り出したところで、馬脚を露わしたように感じられてしまうところが、彼らが語ってきた時事的な内容にしても、それと同レベルで語られてきたことなんだと改めて実感させられたが、それもそう思うまでもなく、元から薄々勘づいていたのではなかったかと再認識する程度のことであり、そういうところで信頼できる権威的な存在を求めてはいけないのだろうし、メディア的な権威に頼るのではなく、まずは自分で考えてみることが肝心なのだろうが、それは現状で話題となっている韓国が総本山の詐欺的な宗教団体に関して、何か利いた風なことを語っている識者の類いにも言えることであり、現状では確かにそういう方面に関しては信頼できるとしても、それとは別の方面でも、何か万能的な力や影響力があるわけでもないだろうし、一過性の話題としてそれに関する流行現象が過ぎ去ってしまえば、たちまち現状の変革に対して弊害をもたらすようなおかしなこだわりが発覚するとも限らず、そういう意味では全面的に信頼できるわけでもなく、全面的に信頼できるような権威的な存在などいるわけがないのもわかりきったことだが、ある方面では信頼できるが、それとは別の方面では信頼できるわけでもないと思っておくのが無難であるにしても、そこに何らかの絶対的な価値基準を求めてしまうのも良くありがちな幻想なのだが、そういう信頼できる絶対的な価値基準が何かをきっかけにして脆くも崩れ去ろうとしている時にどう対応すればいいかも、たぶん現状で問われていることなのかも知れず、そこで大した実績も業績も残さなかったどころか、逆に様々な弊害や危害をもたらした元首相の生前の功績を讃えてしまうような人がいくらでも出てきてしまう事態が、何を示しているのかが特に問題となってくるわけではないが、それが現状で起こっている成り行きの途中経過として示されていることでもあり、またその種の人々がまさに歴史の篩いにかけられている最中でもあり、どうでもいい人々が歴史の篩いにかけられて忘れ去られていく過程を今まさに実体験していると現状を捉えておくことが、そういうジャンルの方面からは客観的に正当化できる認識となるかも知れず、そういう方面のジャンルにおいては確かにそうかも知れないが、それ以前に一般大衆に属する人々にとってはそんなこと自体がどうでもいいことであり、歴史の篩いにかけられるまでもなくすでに忘れ去られてしまう運命の人々にとっては、それがどうでもいいことであるというのが、むしろ救いでもあるだろうし、銃撃されて死んでしまった元首相を追悼する人々が、韓国が総本山の詐欺的な宗教団体によって財産をむしり取られた人々に同情するかというと、同情はするだろうが他人事であることに変わりはなく、どちらがどうだとも思わないし、それとこれとは切り離して別次元で考えるわけでもなく、何かしら因果関係は認めないわけにもいかないにしても、完全に割り切って物事を捉えることもできるだろうから、その程度の人々によって世の中の世論や民意が構成されていると捉えることもできるし、それが世論調査結果や選挙結果に現れるとも言えるし、それだけが判断基準とはならないとも言えるが、何がそういう方面での判断基準となったところで、すでに何十年も前から現状と似たような判断基準が形成されているわけだから、それが日本だけなく欧米でも他のアジアや中南米やアフリカでも、決して誉められるような判断基準によって国の代表者が選ばれるわけでもなく、中には選ばれもせずに独裁的な権力の座に何十年も居座っている人すら結構いるわけだから、そういう方面でもどうでもいいような結果がもたらされている現状の中で、それがどうでもいいわけではないと民主的な価値基準によって啓蒙して、現状を変革しようとしている人々もいくらでもいるものの、現状では多勢に無勢感がつきまとってくるのだろうが、そういう人々がいるだけでも何かしら進展があり、それが微々たる進展であっても着実に成果を上げている面もあると信じたいところだが、実際にそうなのかも知れず、日本で与党の政治家を中心として多数の政治家が件の詐欺的な宗教団体から支援を受けていた事実が発覚したが、フランスの19世紀末の第3共和制下でもパナマ運河疑獄事件に絡んで現職の6人の大臣を含む510人の政治家が賄賂を受け取ったとして告訴されて、80万人もの国民が詐欺の被害に遭ったのだが、賄賂を受け取ったとされた政治家の中には、後のドレフュス事件において無実の罪を着せられたドレフュスの味方をして、反ユダヤ主義に敢然と立ち向かった民主派の有名な左翼政治家も含まれていて、しかもその政治家が後に首相となってからは、ストライキに打って出た炭鉱労働者を徹底弾圧するような反動的な保守政治家に衣替えしていたというオチまでつくわけで、その種のわけのわからない紆余曲折の中に今の日本の政治状況もあると考えても構わないのかも知れない。
7月27日「メディアとの関係」
何か疑念を抱くようなことが思考している最中には真っ先に意識されることに違いないが、何に対して疑念を抱いているのかといえば、大抵はメディアを介して言われていることであり、誰かがそんなことを言っているから、それに対して疑念を抱くのだろうが、しかもそれを批判したくなるから疑念を抱くのであり、例えば人の善意につけ込んで食い物にしている人や団体などが、疑念を抱く対象となるだろうし、詐欺的なことを言って人を騙している人や団体を非難したいわけだが、都合良く悪者にしたい対象がメディアを通じて提示されてしまうから、そんな対象に向かって批判や非難の言説が構成されてしまい、それではメディアに誘導されるがまま操られているような気がするから疑念を抱いてしまうのだが、そうなってしまうことに疑念を抱いたところで、せっかく批判や非難の対象を示してくれたメディアに逆らっていることになり、こちらがメディアを利用しているのに、それに逆らってしまうことに関しては心苦しいわけだが、さらにメディアを利用していると思っていること自体がメディアから利用されている証拠だと言われると、そう言われてみればそんな感じもしないではなく、どちらにしてもメディアを利用することによって逆に利用されてしまうのだから、そんなのは当たり前のことだと思うしかなく、心苦しいと思うこと自体がお人好しの的外れなのかも知れないが、メディアに対して負い目を感じさせられてようで、できればメディアと対立するのではなく、共存共栄の関係を築きたいのだとしても、対等の関係になれるはずもなく、意識しすぎても相手にされていないことを考慮に入れておかないと、ますます勘違いの度を深めてしまうだろうから、その辺は曖昧なままにしておきたいわけだが、疑念を深めておくことは、意識してそうするように心がけておくのではなく、意識しなくてもそうなってしまうことに気づきたいのだろうが、大抵の場合は気づいておらず、メディアに対する批判的な論調に乗せられて、それに気づかないようにさせられているのかも知れないが、誰が意図的にそう仕向けているとも思えず、誰もが毎度おなじみのお決まりのパターンでそんな姿勢となってしまっても、それがその種の批判的なメディアに乗せられてそう思ってしまうことの証拠とはならないだろうが、何かがおかしいことは誰もが理解しているらしく、半信半疑な気持ちでいるのかも知れないが、それでも裏で糸を引いているような黒幕の存在を突き止められるわけでもなく、ただその場の成り行きに愚直に従うしかないだろうが、それがほどほどのところで幕引きとなるにしても、その程度が重かったり軽かったりすることに事の本質があるわけでもなく、結果がどうなるにしても、意図せずにそう振る舞ってしまうことに意義があり、何だかわからないが成り行きに従って動くと、自然とそうなってしまうのであり、誰から命令されたわけでもないのに、別に黒幕的な存在に操られているわけでもないのに、誰がそんなことをやるように促しているわけでもなく、誰かが合図を送って人々の行動を指揮しているわけでもないが、そんなふうに振る舞う機会が巡ってくるのであり、そうなってしまった原因や理由が何であっても、そうなってしまうのだから、切実な理由があるのではないかと疑ってしまうのだが、理由があろうとなかろうとそうなってしまうことに関しては、そういう成り行きに従って動くしかないだろうし、実際に動いていて、特定の誰がそうなるのではなく、まるで何かの歯止めが利かなくなってしまったかのようにして、そういうことが行われて、しかもそれで気が済むわけでもなく、次から次へとそれをやるように促されているわけでもないのに、延々とそんなことが行われて、タガが外れたようにして歯止めがかからなくなってしまうのであり、それを止める手立てが見当たらず、手の施しようがなく、もはやお手上げ状態となっているわけだから、何もしなくてもそうなっていること自体が疑わしいのであり、普通は何かがあるはずだと思うだろうが、そうなるきっかけがあったはずでも、そのきっかけをどう捉えたらいいのかに関しては、誰もそれを正当化することはできず、それがただのきっかけでしかないのに、そうなってしまった責任がそこにあるかのように言うことはできないのであり、責任があるのはそれとは別の行為に関してであり、それはそれでこれはこれだと割り切るしかなく、それとこれとは全く別の方面から起こっていることだとしても、それが事件としてつながっているのだから無視するわけにはいかず、そういう意味では責任逃れができないことであり、責任者が何らかのけじめをつけて辞任するなり何なりして体裁を取り繕ってみせるしかないだろうが、果たしてそれで済むようなことかというと、何かそれもこれとは違うような気がするのであり、それとこれとがどういう関係にあるのかと問われているわけでもないが、それ以前にそれが何でこれが何であるかが、それとこれとを結びつける動機もわかりきっているのに、当初はとぼけていて、まるで悪あがきのようにしてしらばっくれてみせるかも知れないが、それが見え透いた演技であることも、そんなことをやっている当人にはわかりすぎるくらいにわかりきったことだろうが、それでもやらないよりはやってみた方が、悪あがきの感じが出ていて、ひょっとしたらそれを見た人が勘違いしてくれることを祈りながら猿芝居を打っているわけでもないだろうが、それが芝居だとは見えないようなら、では一連の成り行きがどんなふうに見えているのかと訝しく思うかも知れないが、不審感を覚えることに関しては以前からそう思われていたはずで、無理なことをやっているとも思えないのに、やはりどう見てもおかしい光景に見えてしまうわけだから、そこに必然的な理由があるわけでもなく、それを理由だと認めたいわけでもないから、では何がそうする理由だったのかと問う隙も与えずに、そういったどうでもいいことをごり押ししてきたわけでもないのだろうが、今もその種のゴリ押しが継続しているように装っているわけでもないが、何かその事件をきっかけとして視界が開けてしまって、まるでたわいないままごと遊びのようにして大の大人たちがその種の詐欺団体から金を巻き上げられていた実態が白日の下に晒されているのだろうが、それが信じられないことの全てではなく、信じていた内容が何か子供じみているとしても、それを今も信じている人がいくらでもいるらしく、実際にツイッターなどのSNSでも幼稚な金儲けの勧誘が毎日のように送られてくるわけだから、そんな詐欺まがいの人たちを大量にフォローしている自分がおかしいのは百も承知だが、別にそんな人たちと持ちつ持たれつの関係を築いているわけではなく、そうかといって事務的な関係というわけでもないが、浅く触れる程度にとどめて、そうしていることに何を期待しているわけでもなく、なぜか成り行きにまかせることを心がけると、それで構わないような気がするのであり、それが何でもないことの一部始終というわけでもないが、さらに他にもいくらでも何でもない物事に取り囲まれながら日々を暮らしているのであり、その中の一部が文章を連ねるための材料となる場合もあるから、それをいかにゆとりとして確保できるかが、勝手気ままに生きられるかどうかを決めるための条件だと思うこと自体も勘違いかも知れないが、逆にゆとりのない人たちは無駄を省くことばかりを気にかけて、それが将来において必要となるかも知れないものまで捨ててしまうのかも知れないが、その代わりに無駄どころか害悪をもたらしかねないものにこだわって、それを効率性や功利性などに絡んで一時的には肯定できるかも知れないが、肯定できる期間が限られていることに気づけばよく、そして期限切れになるまでに処分できれば後腐れなく、何事もなかったかのように振る舞えるのかも知れないが、それが処分しようとしても簡単にはできないから、時限爆弾のようになり、ある時何の前触れもなく爆発して、それを保持していた当人に災禍をもたらすにしても、それが爆発するとは思えないような代物であれば、爆発するまで気づかないわけで、そして爆発して実際にそれなりの被害を受けてから後悔するのだろうが、中には後悔する間もなくあの世に旅立ってしまう人もいるから、そんな成り行きになってしまえば、それに関して何を考える余裕もないだろうが、そうなった時にはすでに手遅れだとしても、たぶんそうなるまでの間に気づかなければならないことなどいくらもないだろうが、それに気づいただけでもマシだと思うわけもなく、かえって気づかないまま死んでしまうことが、その種のこだわりに囚われた人にとっては幸いなことなのではないか。
7月26日「情勢の変化」
それが世界情勢であっても国内情勢であっても、情勢の変化が何を意味していると解釈してみても、解釈するだけ解釈にとって都合の良い意味を得られるから、そんな解釈を真に受けると、場合によっては勘違いな結論を得て、そんな結論に基づいて行動してみると、何か思っても見なかった反応に出くわして戸惑うことになるかも知れないが、果たして行動した結果が良かったのか悪かったのか、それもすぐに結論が出るようなことにもならず、そこからある程度時が経って、それを後から冷静に振り返ると、当時に出した結論からだいぶ隔たった成り行きに導かれていたことに気づき、そんな結論など嘲笑うかのようなわけのわからない状況に陥っていたことにも気づいて、それに気づくだけまだマシなのかも知れないが、気づかないこともいくらでもあるから、都合の良いことだけに気づいたわけでもないだろうが、現状で体験しつつある情勢の変化が何を意味するのかもすぐにはわからないし、すぐにわかることもあるかも知れないが、わかったことだけが全てではなく、わからないことも含めて現状が構成されていて、しかもそれが意味のある物事だけから構成されているわけではなく、自身がそれに気づいた物事だけから構成されているわけでもなく、もちろん気づかないことも含めて現状が構成されているから、そこから勘違いな結論を得て、そんな結論を踏まえた行動に出てしまうとしても、そうした結論も結論を踏まえて行動した結果も現状を構成していて、自らが情勢を外から見ている傍観者ではなく、見ていると思い込んでいる情勢に自らも含まれていることを自覚できるかどうかが、その場の情勢にどんな程度でどんな傾向を伴ってどんな方面から関わっているかで決まってくるわけでもないが、一概には決まらないのかも知れないし、絶えず関わり方の程度や傾向や方向性が揺れ動いていて、それをどう捉えてみても釈然としない事態にも囚われていて、それが今も自身が囚われていて現在進行形で揺れ動いている情勢だから、それをうまく言葉で表現できずに焦っているわけだが、そんな情勢の中でもわかっている方面ではその程度や傾向について何か言えることがあり、その言えることについては何か言えるだけの情報を得ていて、伝えられている情報や調べてわかった情報などから考えて、その時点でわかったとりあえずの結論を導き出そうとして、それが自らの活動に関わることなら、結論を踏まえて行動して、さらに行動してみた結果として、言葉で言い表せるような何らかの情勢の中にいることにも気づくわけだが、気づいてそこで立ち止まることも、立ち止まってこれまでの活動を振り返ることも、立ち止まらずにさらにその先へと歩を進めることもできるだろうが、歩を進めたところで何がわかるわけでもわからないわけでもなければ、それが現状でわかっていることと関わりがあるかないかは、歩を進めただけそこから遠ざかったことぐらいなことかも知れないが、実際にそうなってしまえば、果たしてそれだけ前進したことになるのか、また前進したことに何の意味があるのかなどと考えても埒が明かないし、それが意味不明な逡巡に過ぎないのかも知れないが、自身がそうなっただけでも情勢が変化したと考えれば、そんな情勢の変化に対応してきたことを示していて、そこで無駄で無意味な逡巡をさせるだけの何かが変化したことになるのかも知れず、そのかも知れないという不確定な表現も気にかかるところだとしても、たぶん部分的にしかわかっていないのだから、かも知れない程度の曖昧な表現に留めておくべきなのかも知れないが、少なくとも情勢の変化をどう捉えているのかという問いでは、それに対する答えが満足のいく内容にはならず、では情勢の変化に対してどのように問いかけるべきなのかといっても、問いかけようのないことかも知れず、情勢の変化に対応する完璧な問いなどわかるわけもないだろうが、情勢に通じているように装う事情通の言っていることをそのまま真に受けるわけにもいかず、事情通の言っていることはいつも希望的観測に過ぎず、その希望的観測に基づいてこうなるだろうと予想することが、現状の中で都合の良い部分を見て言っていることに過ぎないとしても、そこにもある程度の真実が含まれているにしても、そこからその人にとって都合の悪い面を推し測ろうとするのも、ちょっと違うのかも知れず、都合の良い面がそのまま都合の悪い面と裏腹の関係とはなっていない場合もあり、どちらとも言えない面もいくらでもあるかも知れないから、都合の良い面が部分的に過ぎないとしても、都合の悪い面も部分的に過ぎず、それらとは関係があったりなかったりするどちらとも言えない面というのが、情勢の中では結構な割合を占めている場合もあり、しかも事情通がこうなるだろうと言う予想が当たったところで、その場の情勢の中では大した要素でもなく、むしろ情勢を変えるような決定的な機会は、それとは全く関係のない方面からもたらされる場合もあるから、そこに事情通が知り得ないような何かがあることは確かかも知れないが、それが隠された秘密というわけでもなく、ありふれているからかえって気づかない場合もあるとしても、それもどちらとも言えないような、あえて取り上げる必要もないような無視しても構わない物事であったりするなら、そこで唐突な情勢の変化が起こったところで、だから何なんだと言いたくなるようなどうでもいいことでもあれば、誰もが興味を引くような物語性とは無縁の出来事であったりして、そういうところでいちいち反応するのも憚られるような些細なことが起これば、そんなことは無視するしかないだろうが、無視しているうちにあれよあれよという間に情勢が変化して行ってしまえば、何が原因で変化したのかもよくわからないまま、まるで狐につままれたような感覚に陥ってしまうかも知れないが、そこへ至るまでには権謀術数を弄して巧みに民衆を欺きながら政治的な独裁権力を手中に収めたような言われ方をされても、ひとたびそんな体制が瓦解してみると、そんな誰もが感嘆するような大それたものでもなかったことが明らかとなるわけではないが、その代わりに何がわかるかというと、何かの間に合わせに一時的な措置としてそういう体制が束の間維持されていただけで、その束の間というのが十年単位であれば相対的にかなりの長さだと思われるだろうが、それも百年ともたなければほんの数十年のことに過ぎないし、それでも人の一生分の長さと比較してだいぶ長いと実感するだろうが、そうだとしても現状でコロナ禍やウクライナ戦争がいつまでも続いていくような気配を感じている中で、日本では誰もが目障りに思い、時として目の敵にしていた元首相が銃撃されてあっけなく死んでしまうし、それに伴って数十年間放置され続けてきたいかがわしい宗教団体の悪事も改めて蒸し返されて暴露され、何やらそういう方面では情勢が変化したように感じられるのだが、果たしてここからが何かの正念場なのかどうかも何とも言えないところだが、もしかしたら何の重要性もないことが世間で騒がれているとは誰も思っていないだろうが、意外とここからさらにおかしなことが連続して起こっていくような気配を感じているとすれば、それこそが希望的観測であり、そうなることを願って期待しているのだろうが、一方でそんな期待が思いっきり裏切られて、何事もなかったかのように事態が収束して一段落しまうのではないかと恐れてもいて、どちらにしてもそうなってからそれに関連して起こった物事の辻褄合わせが行われて、それに関する権威のような立場を担う人物などによって、誰もが納得するような見解や解釈などが示されるにしても、そのことに自体に興味があるわけでもなく、そこに至る道筋の中で見逃されている何かが、後になって利いてくることにも期待しているのであり、それも現時点での希望的観測に含まれることだが、そこで納得してしまうようなことに未来を変える力はなく、逆に納得し難いことの方が目立ってしまうとしても、そういうことには気づいてしまうわけで、気づいてしまうから、気づいてしまうことについては、それが都合の悪いことであれば何かしら対処されてしまうだろうし、対処されてしまうとそこで力を失って何の効力もなくなってしまう可能性があり、そうなってしまってはまずいわけで、だからなるべく気づいてほしくないし、気づかなくても気づかないまま対処されている場合もあるだろうから、そうなればなったで仕方のないことだが、誰も気づいていないことに自分一人が気づいているわけでもなく、自分も気づいていないことに期待するということ自体が、何かおかしいのだろうが、期待は忘却と共にあり、忘れた頃にやってくる期待が最大の力を発揮する時であり、誰もが忘れた頃に不意打ちのようにやってきて、そのついでに誰かの命を奪うことも稀に起こるにしても、それが期待と関係のないところで起こっているわけではなく、期待と共にそういうことが起こってしまうのがアンビバレントな現実と言えるのではないか。
7月25日「取引の実績」
何かをやればすぐにそれに対する反応が起こり、そんな反応に対応して何かをやることになれば、何かやっているような気になるかも知れないが、全てにおいてそうなるとは限らず、何をやっても無視されることもあるだろうし、何もやらなくても向こうから何かやってくることもありそうだが、何かやってきてもこちらが気づかなければ、あちらのやりたい放題となるわけでもないが、寄生虫などにたかられて、後からひどい目に遭ったことに気づく場合もありそうだが、日本にとって統一教会が寄生虫のようなものだとすれば、ではそれと似たような団体である創価学会も寄生虫の類いなのかというと、そうとも言えない面もあるのかも知れないが、昔は信者となって高い仏壇を買わされた話ぐらいは聞いたことがあったが、今では創価学会員専用の仏壇がネット販売されている時代となり、高いものなら数十万円だが、安いものとなるとコンパクト仏壇で数万円で買えるものまであるらしく、果たしてそれで間に合うのかどうかは部外者にはよくわからないところが、創価学会関連の被害についてはネットで検索すればいくらでも出てくるようで、例えば学会員が密集して住んでいる地区に引っ越すとひどい目に遭うらしく、引っ越した先の近所に学会員がいたり、学会の施設があったりすれば気をつけなければならないのかも知れないが、それも実際にネットに書かれているような被害に遭ってみないことには実感が湧いてこないだろうが、学会にしろ何にしろ、直接経済活動を行なっていない宗教法人が活動していくには、信者を食い物にするしかないだろうから、そういう面は構造的にも必要な面でもあり、宗教法人などの職員がどういう人たちだろうと、良い人でも悪い人でも関係なく、そうする以外には活動が成り立たない構造となっていることは認識しておくべきだろうし、もちろんそれは国や地方自治体の行政機構にも言えることであり、税収によって活動している限りで、税を支払ってくれる人たちから税を徴収することによって活動経費を賄うしかないだろうが、それに関して国には通貨発行権があるから、通貨を発行して賄えばいいじゃないかと思う人もいるかも知れないが、実態としては通貨を使って実際に商品と交換したり貸し借りした実績がないと、通貨にも信用が生まれないだろうし、通貨が世の中に流通して通貨を介して売買や貸借などの取引が行われている限りで、その通貨の信用が維持されるのであり、そういうことまで考慮に入れると、たとえ通貨発行権があっても、その通貨が売買や貸借に利用される範囲内でしか発行できないわけで、その範囲を超えて余計に発行すれば、その分だけ相対的に通貨の価値が下がるしかないだろうし、理屈としてはそんなことが言えるものの、実際には各国の政策金利に応じて通貨価値も上がり下がりするし、それに伴って各国の国債の金利も上がり下がりするからややこしいことになるが、国債は発行時に利息が決められているから、国債が売られて価格が下がれば金利が上がり、買われて価格が上がれば金利が下がることになり、日銀のように政府の国債を大量に買っていると、市場で国債が売られて価格が下がってしまうと損失が膨らんでしまうから、国債の価格を維持するには大量に買い続けるしかないが、それ以前に基軸通貨のドルを発行しているアメリカが物価高に苦しんでいるから、物価高を抑えるために政策金利を引き上げるしかなく、金利を上げればドル高円安になるしかなく、円安になれば輸入品の価格も上がって、日本でも物価高を抑えるために政策金利を引き上げられるかというと、政策金利を引き上げるとそれにつられて国債の金利も上がってしまうし、国債の金利が上がってしまうことは、それだけ国債の価格が下がってしまうと考えるなら、国債を大量に買い続けている日銀の損失も膨らんでしまうわけだが、結局国債を大量に買い続けている日銀には政策金利を上げることができないという理屈で良いのか悪いのか、その辺のところが今ひとつわからないが、そういう理屈で良いのなら、そこからも一方的に通貨を大量に発行すれば良いだの国債を大量に発行すれば良いだのの政策など、現実にはあり得ないことになるわけだが、たとえ通貨や国債を発行する権限が政府にあるとしても、政府が一方的にそれらの発行量を制御できるわけではなく、ここに来て政府が国債を大量に発行し過ぎて、それを日銀が大量に買い過ぎていることの弊害が出ていることになるのかも知れないが、少なくとも市場での売買によって価値や価格が決まってくるのだから、経済情勢を見極めながらそれらの発行量を調整するしかないのだろうが、アメリカなら景気が悪くなれば金融緩和を行なって、物価が上昇してくれば金融引き締めを行なうことになるのだろうが、日本の場合だとそれさえもできず、金融緩和しっぱなしになってしまうことが何を意味するのかが、その意味に関して色々な解釈がありそうで、それが日本の金融政策の行き詰まりを示していると解釈しても、何か的外れな印象を受けるわけだが、行き詰まりなどではなく、それ相応の成り行きを示していると言うと、それも何か無責任なことを言っているようにも思われて、政治情勢や経済情勢に絡めて否定的なことならいくらでも言えるにしても、そういう人には政府や日銀がうまく対応しているとは口が裂けても言えないところだが、実際にそれ相応に対応しているから現状が保たれていて、そんな現状では不満な人たちが、現状をもたらしていると思われる政治勢力に向かって批判を繰り返しているとしても、該当する政治勢力が現状をもたらしているというよりは、現状に対応しているからそんな政治勢力になっているわけで、それが現状の経済情勢に対応していることになり、市場の成り行きに従っていることになるのだろうが、それ以上に何ができるわけでもないが、できるわけもないことをやろうとしているのが、批判を繰り返している人たちになるだろうが、実際にできるわけもないことをやろうとしないと、現状に対応するだけの現状を打破できないわけだから、しかも現状を打破しようとしてさらなる困難な状況をもたらすのかも知れず、それもそうしない限りは現状を変えられないとすれば、現状をさらに悪化させることによって現状を変えようとするわけだから、そういうやり方では支持や賛同は得られないだろうが、実際に支持や賛同を得られないことをやらないと現状が変わらないとすれば、そういう仮定自体が間違っていると思われるだろうし、だからといって誰からも支持や賛同が得られるやり方が行われた例しがあるかというと、たぶんあるにはあるのだろうが、無条件でそうなるとは限らず、脅されたり強要されたりして、また誰もが同調圧力に屈する成り行きを経て、結果的に誰からも支持や賛同が得られたように装われた場合がほとんどなのかも知れず、それが日本政府が主体となってどうこうできるような世界情勢とはならないこととリンクしていて、結果的にうまくいっているように見せかけようとするのだろうが、そう見せかける努力が報われた例しがあったかというと、それもあるにはあるのだろうが、それも報われているように見せかけようとする限りで、そう見える程度のことであり、そういう方面ではそうなるのが当然の成り行きになって、それがそれとは違う方面で行われていることとの間で落差を感じさせて、それが見せかけに過ぎないことを悟られてしまうのだろうが、それの何が見せかけに過ぎないのかというと、実質を伴っている部分が見せかけとは別の方面からもたらされているからだが、そういう虚栄や虚飾の部分がサービス産業全般からきている部分であり、その部分だけ強調しているからそこへと視線が固定されることによって、それ以外の部分が見えていないというか、見えているのに見ていないような気になってしまうわけで、それに気づかせないような工夫が凝らされているというと聞こえは良いが、それに気づいていても気づかないように装うのが紳士淑女の身だしなみとして定着していれば、見せかけに過ぎなくても構わないわけでもないが、構わないわけでもないのに構わないことにしてしまっていると解釈しても、まだ見え透いていて、その見え透いていることを利用して、統一教会や創価学会などが好き放題やりたい放題やっていることになっているわけでもないものの、たとえそうなっていても世の中が平静を保っているように装われているわけだから、どこまでも見せかけの平和が維持されているように装われていて、そんな偽りの平和が時折破綻を見せるところに、何やらおかしな光景が唐突に出現して、たとえばそれが週末の埼玉辺りの高速道路で暴走族が群れをなして走っている光景であったりするだろうが、果たしてそれが日本の真の光景なのかといっても、部分的にはそうなのであり、それも高速道路で見せかけられた光景であり、そうなっているように装われているわけで、何か実質が伴わない演技としてそういうことが日々のサービス業の中で行われているように思われて、それに関してあえて嘘をつくなら、暴走族ですらがサービス業として定着しているように見えるわけだ。
7月24日「結果と途中の違い」
宗教に絡んだ詐欺被害の惨状を見せられても何とも思わないわけではないが、ピケティや山本太郎が統計的なデータから簡単に言えてしまう答えに疑念を抱いていることと、マルクスやフーコーが難儀して導き出そうとして果たせなかった解答との間に、どんな違いがあるのかと考えても、考えるだけ意味のないことかも知れないが、もちろんメディアに従事する人々が飛びついてしまうのは、統計的なデータから簡単に言えてしまう答えの方だと決めつけて、彼らを見下して馬鹿にするわけにもいかず、霊感商法の際に法外な価格で売りつけられた壺などの詐欺商品が、統計的なデータから導き出される疑わしい答えと同じとも思えないが、難儀して答えを導き出そうとする際に踏まえておかなければならないことは、答えそのものではなく、答えから逸れて行ってしまう不可解な道筋に興味を抱いているのであり、それがピケティや山本太郎がキッチュのまがい物であることの証拠となるわけでもなく、逆に難儀して答えに至れなかったマルクスやフーコーが本物であることを裏づけているわけでもないだろうが、それらの間に明確な違いがあるわけでもないのだが、うまくやった方の成功例が統一教会や創価学会で、失敗例がオウム真理教や大本教などになるかも知れないが、まだピケティが成功例で山本太郎が失敗例となるわけではなく、将来において山本太郎が総理大臣になれば、一応は成功例になるだろうが、マルクスやフーコーは難儀して答えに至れなかったのだから失敗例には違いないのだが、歴史に名を残すことが彼らの望みというわけでもないが、少なくとも失敗することに成功していると言えるのかも知れず、それが映画作家のゴダールなどにも言えることかも知れないが、世の一般大衆を味方につけるには意識してキッチュのまがい物であることを受け入れなければならないだろうし、それがヒトラー的な戦略であり、程度の差こそあれ政治家の類いなら誰でも意識しなくても勘として身についているはずだが、それが詐欺には違いないのだろうが、政治的な次元では許されて、経済的な次元では許されないが、宗教的な次元では全てが詐欺になりそうで、宗教的な救いには詐欺的な要素が100%含まれていそうだが、それでも信じていられる間は救いを得られて、信じられなくなってくると地獄の所業が待ち受けていて、それ相応の修羅場をかいくぐって生き残った者だけが悟りの境地へと至れるのかも知れないが、そんなことを想像しても何か確からしいことがわかるわけではなく、自身も含めて経済的な豊かさに安易な幻想を抱いてしまうのが、愚かな行為へとはまり込む原因になるにしても、そういう行為へと誘導しておいて、実際に失敗してひどい目に遭った人を叩こうとは思わないし、何かそこから教訓じみた説教を垂れるのは、それこそ胡散臭い詐欺師の所業であり、誰もが成功できるわけではないのは、そんなことをやる前から誰もがわかっていることであり、失敗した大多数の人たちの屍を踏み越えて、ごく一握りの成功者となりたくてそんなことをやっている自覚があるかどうかはわからないが、何かうまくいくような予感がするからやり始めてしまう人が大半なのではないかと思うものの、まだそんな予感を抱いているのだから、果たしてそれが成功する途上にあると思っても構わないのかといっても、失敗する途上にあるのかも知れないし、どちらとも言えないようなよくわからない事態の中で戸惑い続けているというのが、目下のところは偽らざる心境なのかも知れないが、成功でも失敗でもないような、そういう判断がつかない状況の中で、確実に言えることに依存して誰もが納得できるような見解を導き出そうとしても、それこそつまらないことを指摘するにとどまってしまうから、そういうことをやりたい人は他にいくらでもいることが、何を意味するわけでもないと高を括るつもりもないが、少なくとも現状を説明するには、現状では知り得ない未知の何かが必要となり、すでにわかっていることからだけでは説明がつかないような現象や出来事に遭遇しているから、安易に答えを導き出してしまう成り行きには疑念を覚えるのだろうが、答えを導き出してしまう当事者にとっては安易でも何でもなく、それなりに試行錯誤した結果として導き出された答えなのだろうから信用に値するとしても、答えを出せない人にとっては依然として試行錯誤を繰り返している最中であり、その差が何なのかといっても、さらにそこからそれ相応の歳月が経過すれば、そんなことはどうでもいいようなことになってしまうのかも知れないが、現状でこだわっていることがそうであっても、こだわらせるような何かに囚われていて、それが今のところは何だかよくわからないのだから、現状では知り得ない未知の何かが作用してそうなっているとしても、それがいい加減で根拠のあやふやなことにしかならず、それ自体が全く信用に値しないが、逆に信用に値することというのが、何かが起こった結果から言えることであり、しかもそれが起こっている途中の段階で言われることと、結果から言われることが食い違っていると、後から言われることの方が辻褄が合うから、結果から言えることが合っていて、途中の段階で言われたことが間違っていたような印象を拭えなくなり、そうなることによってそれが起こった結果から言われることの方が信用できるというよりは、結果がそうだからその結果を受け止めるしかなく、そうなった結果を否定しようがなく、しかも途中の段階で言われていたことを覆すような結果となれば、途中の段階で言われていたことが間違っていて、結果がそれを証明していることにもなってしまうわけだが、それが途中の段階で信じられていたことを否定するような結果なのだろうが、そうだとしても可能性としては、途中の段階でそれが信じられていたからこそ、それを覆すような結果に至ったとも言えるわけで、要するに途中の段階で信じられていたことに対して、それに疑問を抱いたり反発するような作用が起こったから、それを覆すような結果に至ったと考えるなら、途中の段階で信じられたことがそれに反する結果をもたらしたとも言えるわけで、だから結果がそうなったから、途中の段階で信じられていたことが間違いだったと結果から言えるにしても、そう言ってみても、そこに至る途中の段階ではそれとは違うことが信じられていた事実は覆せないわけで、それに関してピケティの事例で考えるなら、途中の段階では経済成長することこそが経済活動にとっては欠かせないと信じられていたからこそ、経済政策として経済成長することを何よりも優先してきたわけだが、それを結果から見るなら経済成長よりも利子や利息を求める活動の方が割が良いことが、統計的な結果としてわかったとしても、誰もが利子や利息を求める活動に加われるかというとそんなことはなく、経済活動を活発化させて経済成長しないことには利子や利息を求める金融活動も生じてこないわけで、経済成長を優先させても初めから利子や利息を求める金融活動によってその富を奪われてしまうことがわかっているなら、それでも経済成長させようとするかというと、それも実際にそうなってみないことには何とも言えないが、事前にそうなってしまう結果がわかっているなら、途中で別の対応が取られて、そういう統計結果にはならない可能性があり、そういう意味ではそうなった結果から確からしいことがわかっても、それを活かせるとは限らないわけだが、さらに山本太郎の事例からも考えてみると、当初は直接税に偏った税制では諸外国との比較で、あまりにも累進課税率が高すぎて富の蓄積が生じてこないから、さらに財政再建という観点からも間接税として消費税の導入が検討されて、社会保障の観点からも高齢化社会になって所得税収が少なくなってしまう事態に対応するためにも財源を確保しようとしたのだろうが、途中の段階ではそれが信じられていたからこそ、税率をどんどん上げて行っても政策への支持が一定程度は得られていたわけだが、結果的に大企業が優遇されて金持ちに有利なことが統計的にわかってきたから、消費税が格差社会をもたらした諸悪の根源のような主張もある程度の支持を得られて、山本太郎も国会議員となってそれなりに活躍できるようになってきたわけだが、では途中の段階で信じられていたことが間違っていたかというと、結果的には間違っていると主張されても、途中で人々が信じてくれないとそういう結果にはならないわけで、途中で多くの国民が消費税率を上げることに反対して政権交代が起こって、消費税率が据え置かれていれば、山本太郎の主張も今とは違っていたかも知れないし、それもそうなってみないことにはわからないわけだが、それらとは事情がだいぶ異なるが、例えばフーコーが精神病について何を言っていたかというと、それを病だと認めることによって、人道的な見地から精神病患者を犯罪者から分けて監獄から解放したのだが、それを人道的な見地から行なったのに、そこから精神病患者に対する差別や抑圧が始まったわけで、実際にも精神病患者を社会から排除して病院の中で監禁するような制度が強化されて、また治療と称して言うことを聞かない患者を虐待するようなことも、そのやり方が苛烈な傾向へと次第にエスカレートして行ったのだが、果たしてそれが本当に病なのかというと、多くの人々が医学の権威の言うことを聞いてそれを病気だと信じたから、患者に対する虐待行為が社会的に容認されてきたわけで、要するに途中の段階で人々が医師と共にそれを病気だと信じて、犯罪者と同じ監獄に入れられた人物を精神病患者として人道的に救うことが目的であることを信じて疑わなかったわけだが、果たしてそれが病気なのかというと、結果的には今も多くの人々が病気だと信じている現状があるわけだ。
7月23日「回りくどい理屈」
そこで何がなるようにしかならないとしても、なるようになるには何が必要になるかといっても、必要なことが起こらないからなるようにはならないわけで、それに関して安易なことを言いたくないのは、主張しているそれが安易だと思われてしまうと、それを信じてもらえなくなってしまうからかも知れないが、安易にそんなことを言おうとしているわけではなく、安易なことは何も言えないような事態に直面して、要するに深刻な事態に直面しているように装いたいわけだが、深刻な事態とは大変な事態であり、世の中で大変なことが起こっているのは、いつの世でもその大変なことについて語りたい人がいるからというわけでもないが、実際に大変なことが起こっていると語ることによって、それが大変なことだと思わせたいわけで、確かにそう語る人にとっては大変なことであるかも知れないから、嘘をついているとは言えないが、それが他の誰にとっても大変なことになるかというと、そうなればいいわけでもなく、それよりはその大変な事態を利用して何かやろうとしている人たちがいると語りたいわけで、実際に何かを画策していて、それによって大変な事態が起こると主張したいわけだが、すでに大変な事態が起こっている上に、何か良からぬ人たちがその大変な事態を利用して、さらに大変な事態を引き起こすと予言したいのだから、実際にそうなれば二つの大変な事態が掛け合わさることになるはずだが、それがなるようにしかならないこととどう関係してくるのかというと、なるようになるにはまずは大変な事態が起こって、しかもその大変な事態に乗じてさらに大変な事態を引き起こさなければならないとなると、誰かがそんな大それたことをやらなければならなくなり、結局それがなるようしかならなければ、事の成否がなるようにしかならないということであり、それで話の辻褄が合うかどうかは何とも言えないところかも知れないが、なるようにはならないということが、大変な事態を利用して何かやろうとしても、それがうまくいかずになるようにはならないということであり、しかもそうなってしまうことがなるようにしかならないことだとすれば、なるようにはならないこととなるようにしかならないことが同じことなってしまうかも知れないが、そうなった結果が大変な事態でも深刻な事態でもないとすれば何なのかというと、普通にそうなっていると見ておくべきなのかも知れず、それを深刻で大変な事態だと大げさに騒ぎ立てることが、何かおかしいことだとは思えなければ、普通の成り行きが深刻で大変な事態をもたらしていると見ておけばいいのかも知れないが、その普通の成り行きというのが革命だとすれば、まだどこでも革命など起こっていないことになるが、かつてはそれなりにどこかで革命が起こっていて、その続きとしてこれからもまたどこかで革命が起こるかも知れず、実際に最近スリランカで起こったのが革命だと見なしても構わないような成り行きだったが、要するにあれが普通の成り行きであり、スリランカで起こった程度の革命であれば、これから先にもいつどこで起こっても不思議ではなく、しかもスリランカに暮らす現地の住民からしてみれば深刻で大変な事態であったわけで、実際に物価高騰という深刻で大変な事態を利用して革命が起こったと考えるなら、確かに革命も深刻で大変な事態であり、そうなるのが普通の成り行きであるとしても、誰も革命という大それたことはできないと思うのも、普通に考えてそう思うのも無理はないが、平時であればそう思うところだが、非常事態であれば場合によっては革命も可能となってくるのだろうし、革命の他にクーデターなども可能となって、それが軍事クーデターとなるのも普通の成り行きであり、どちらにしても暴動や戦争などの非常事態を発端として革命や軍事クーデターが起こるわけだが、その普通の成り行きが日本でも起こるかというと、そういう先回り的な問いが無効なのかも知れず、誰もスリランカで革命が起こるなんて予想などできなかったし、今もあれが革命だと認識されていないだろうから、革命の定義そのものがきっちりとこれだと決められているわけでもなく、何かどこかの国で政変のようなことが起これば、その場の成り行きによってはそれが後から革命と呼ばれることもあるかも知れないという程度のことなのかも知れず、そういう意味では革命にもその程度や傾向に応じてピンからキリまであり、ちょっとした政権交代のようなことであっても、新たに政権を取った側が、自分たちのやったことを大げさに宣伝するようなことになれば、それを革命だと言い放つかも知れないし、それをメディアや人々がどう受け止めるかにもよるだろうが、その必要がなければ革命という大げさな表現など使わないだろうし、政変を起こした側の都合に応じて、革命であったりなかったりするとしても、後世の人たちがそれをどう呼ぶかにもかかってくるだろうが、そういう意味ではそれが革命と呼ばれるか呼ばれないかが問題となるわけでもなく、それよりはそこで行われたことが何なのかが問われるなら、政治の中身が問われることになるはずだが、問われるほどの中身などなければ、革命など起こらないだろうし、革命が起こるほどのことでもなければ、比較的平穏無事に世の中の治安が保たれていて、深刻で大変な事態となっているわけでもない社会情勢となっているはずで、それがどんな情勢なのかというと、少なくともスリランカのような深刻で大変な事態とはなっていないということになりそうだが、それでも深刻で大変な事態が起こっているとメディアなどで騒ぎ立てることはできるだろうし、その騒ぎ立てるための材料を世界中から寄せ集めてくるようなことをやれば、それなりに集まるだろうが、それは騒ぎ立てるためにやっていることであって、深刻で大変な事態が起こっている最中にそれに乗じて騒ぎ立てるというよりは、事前に騒ぎ立てるための材料を寄せ集めてきてから、その材料を使って騒ぎ立てるようなことをやるなら、それらの程度や傾向については差異があることになるだろうし、騒ぎ立てるために寄せ集めてきた材料が直接結びついているのではなく、騒ぎ立てるための言説の中で間接的に結びついているに過ぎず、それが言説の中だけの結合であるなら大したことではなく、その騒ぎ立てる材料に直接関係のある人や団体にとっては、それが深刻で大変な問題となっているにしても、それを騒ぎ立てる材料に使っているだけの人たちにとっては大したことはないという差異も生じてしまうから、騒ぎ立てているだけの人たちの周囲で革命が起こることもなく、そういう人たちが住んでいる地域では比較的平穏無事に世の中の治安が保たれていて、そんな地域に住んでいる人たちが対岸の火事のような深刻で大変な事態を眺めていることになり、確かにそんな地域では革命など起こりようがないだろうが、果たしてそれが本当に対岸の火事なのかというと、たぶん騒ぎ立てている人たちはそうは思わないし、対岸の火事などではなく火の粉がこちら側にも飛んできていると騒ぎ立てたいわけだが、実際にこちら側で起こっていることを材料にして騒ぎ立てていて、このままでは大変なことになるどころか、もうすでに深刻で大変な事態に陥っていると騒ぎ立てているのだろうが、それが本当にそうなのかどうかが騒ぎ立てている人たちに問われていて、実際にこれから革命やクーデターのようなことが起こればそれが証明されるとしても、未だそんな事態に至っていない段階で騒ぎ立てているとすれば、先走り過ぎていて、騒ぎ立てが空回りしていることになっているのかも知れず、普通に考えてそんな事態に陥ってから騒ぎ立てればいいのだろうが、メディアが先走って騒ぎ立てるのはいつものことであり、その先走りに実際の出来事が追いついて来れば、メディアによる騒ぎ立てと実際の出来事がシンクロしてきて相乗効果を発揮して、それが世の中を変える原動力となる場合もありそうなのだが、実際には騒ぎ立てが空回りのままに終わってしまった事例もいくらでもあり、これまでにも何度もそんな事態を経験してきたのかも知れず、それがいつまで経っても必要なことが起こらないから、なるようにはならない結果をもたらしてきたのだとすれば、そこで何が必要とされるのかといえば、出来事としての革命そのものが必要となってくるだろうが、しかもそれ以前に革命の発端となる出来事も必要となるだろうし、それがこれまでは革命の発端とはならなかったわけだが、別に革命を起こしたいからその発端となる出来事を必要としているわけではなく、それがただ単にメディアが騒ぐための材料に過ぎなければ、革命など起こる必要もないし、要するに必要に応じてそうなるわけではなく、それが必要とされなくても、そんなことが起こってほしくなくても、起こる時には起こってしまうのが革命なのかも知れない。
7月22日「趣味とは違う何か」
人が職業としてやっていることの他に何がやれるかというと、例えば趣味があり、趣味でやっていることも、その人にとっては重要な場合があるかも知れないが、重要だとは思わなければ、たぶん重要ではないのかも知れないし、重要でなくてもやっていることがあり、実際に大して重要でもないのだろうが、それが趣味を継続させるコツでもあり、割と気楽にできることでもあれば、重要ではないにしても、様々なことをやっている中では、そんなこともやってもいい程度のことなのかも知れないが、それがその人にとっては重要ではなくても、その趣味に関わっている他の誰かにとっては重要であったり、またさらに別の誰かにとっては無視しても構わないようなどうでもいいことであったりするのだろうが、関わりの程度や傾向に応じて重要だと思われたりそうとは思われなかったりするとしても、その人が思っているほど重要ではなかったり、逆に思わぬところから重要性が増してきたりするから、それがその人の思惑を外れるような成り行きとなって、その人がそれをやることから遠ざかって無縁となってしまったり、逆に向こうから近づいてきてやりたくなくてもやらざるを得なくなったりもするかも知れないが、その人の都合や事情など無視してそうなってしまうなら、そういう成り行きに巻き込まれていることになり、その人がそれについてどう思ってみたところで、そんな思いなど全く考慮されなければ、その人の意向とは違うところから、その人がそれをやるように仕向けてくる何かがあるのかも知れないが、それが人とか何らかの集団や団体や組織ではない場合もあるのかも知れず、そうなると陰謀論的な推論が通用しなくなってきて、場合によっては人為的な意向などとは無関係にそれをやらざるを得ない成り行きになってしまい、それこそ気候変動の類いがそれをやる引き金となってしまうようなら、人や集団の行動が自然に支配されていることの証しとなってしまうだろうが、それが自然といった広範囲に作用や影響を及ぼす概念ではなくても、それよりは遥かに限定的な範囲内で作用や影響を及ぼす構造のようなものとして、例えば近代的な国家形態があり、その国家形態を利用して似たような独裁者が世界各地に現れたり、軍事独裁政権が誕生したりするのは、国家形態やそれに伴って成り立つ制度などの構造的な特性から生じることであり、特定の組織が裏で暗躍しているとか、そういうことではなく、世界を支配する闇の組織があるとか、フィクションの中ではありふれた妄想だろうが、人や集団の意図や意向や思惑などを超えて、それらの人や集団などが無自覚に従っている制度や慣習があり、しかも様々な制度や慣習が互いに干渉し合って複雑に入り組んでいるから、そこに特定の人物や集団の意図や意向や思惑などが介在しているとしても、それが一つの支配的な意図や意向や思惑にはならず、絶えず複数で存在していて、しかも各々の程度や傾向も違っているから、それが一人の人物や一つの組織や集団へと収斂することはなく、それなりに分散しているから、それについて思考を巡らせても焦点が一つに定まらず、それを一つの意図や意向や思惑だけから成り行きを説明しようとすれば、それが陰謀論的なフィクションになってしまうのだろうが、そういう意味で世界を裏から支配するような人物や集団や勢力を想定してしまうこと自体が、国家的な形態に囚われた思考から生じる妄想であり、しかもそういう人物や集団や勢力の存在を想定すると辻褄が合うような成り行きがあり、それも世界中で起こっている様々な出来事の原因を一つの傾向から説明しようとするから、当然その一つの傾向を担った人物や集団や勢力を想定したくなってしまうわけで、そうやって話の辻褄を合わせる代わりに、遠近法の消失点を想定するような成り行きになってしまい、それが権力関係などの構図としてはすっきりしていて、説明としてもわかりやすくなり、それについて語る分には理路整然と語れるにしても、実際に起こっていることの紆余曲折的な意味不明さからはかけ離れた説明内容となってしまうから、それにしてはなぜやっていることがそれほどうまくいかないのかについてはうまく説明できないわけで、そういう成り行きを客観的に言い表すなら、要するに世界が何かに支配されようとしているのではなく、世界についての説明が論理的な単純化によって説明されようとされていて、そんな説明の中ではうまくいくのだが、実際に行われていることがうまくいっていない状況をうまく説明できないわけで、なぜうまくいかないのかといえば、世界を支配していることが想定される人や集団や勢力の意図や意向や思惑とは違う意図や意向や思惑が介在してくるからうまくいかないのは当然のことだとしても、そんな意図や意向や思惑がなぜ介在してくるのかというと、世界の支配がうまくいっていないからであり、実際に一人の人や一つの集団や勢力によって世界が支配されているわけではなく、またこれから支配されようとしているでもなく、そこには支配から逸脱してしまう何かがあり、それが世界の支配を目指すなら、目指している過程で支配を目指すという目的をずらしたり逸らせてしまう紆余曲折が絶えず生じてしまうわけで、もちろん誰も世界の支配を目指しているわけでもなく、意識して誰が支配を目指しているのでもなく、ただそういうことを語る人には、そう語ると辻褄の合うような出来事が世界の方々で起こっているように見えてしまうということであり、実際にはそれ以外の出来事もいくらでも起こっているのだが、それを理路整然と語る分にはそれ以外の出来事を無視すると話の辻褄が合ってしまうから、それを語るには話の辻褄を合わせる必要が出てきて、辻褄の合う数々の出来事をまるでパズルのようにつなぎ合わせてみると、そんな出来事を起こしている世界の支配者やこれから世界を支配しようとする人や集団や勢力を想定すると都合が良いことがわかり、それがその人が語る目的とも一致してくるわけで、語る目的が何なのかといえば、それを簡単に言うなら、世界の秘密を暴露したいわけで、それが誰もがよく知っているフィクションの内容となるわけだが、誰もがよく知っているのだから、ある意味では周知の事実であり、客観的には秘密でも何でもないわけだが、ではその人が気づかないことが何なのかといえば、人知を超えた神秘的な作用がその人に影響を及ぼして、そんな説明をする羽目に陥らせているわけではなく、ただ人や集団や勢力の活動が、その活動について説明するのに都合が良い方面では一つの傾向へと収斂しつつあると同時に、説明しようとしてもその内容が一つの傾向にまとまらずに説明するには都合が悪い方面では、様々な方向へと分散する傾向にもあり、その分散傾向に気づかずに、あるいは説明するのに都合が悪いからあえて無視しているとしても、それらの活動の中で説明するのに都合が良いところだけ理路整然と語ろうとすれば、自ずから誰もがよく知っている陰謀論的なフィクションになってしまうわけで、そこで起こっている成り行きの全てを語れないと言うジレンマに直面しているとしても、それに気づいていない可能性があり、話の辻褄が合うように理路整然と語っているつもりなのに、それを聞いている人には誰もがよく知っている陰謀論的なフィクションになっているわけで、しかもわざとそういう方面の話を真に受ける人々からの支持を得ようとして、その需要を当てにして、自らが語っている内容が陰謀論的なフィクションであることを重々承知しながら語っている人までいるわけだから、趣味の範囲内であればそれでも構わないのかもしれないが、その趣味を実益に結びつけようとすると欲が出てくるだろうし、そういう人たちがいったいどこまで本気なのかがわかりづらいところでもあるが、わかってしまえば飽きられてしまうから、そういうところで尻尾を出さないような工夫が凝らされているのかもしれないし、そういうことの延長上で政治について語られると、それと似ているようでいて似ても似つかないことを語っている人たちとの区別をどうつけるかも、微妙に迷いが生じてくるが、おおざっぱにいうなら区別などつけなくても構わないし、誰もが勝手にジャンルや分野を横断しながら言いたいことを言っていればよく、それをどう判断するかも自分の都合に合わせて勝手に判断すればいいだろうし、そうやって一つの判断に囚われないから、各々の主張や見解や意見に差異が出てきて、そうなっている限りでその種の分散力が価値観やそれに基づいた判断を一つに収斂させようとする力との間で一定の均衡が保たれるわけだが、果たして現状がどうなっているのかというと、何とかして人々の主張や見解や意見などを一つの傾向にまとめようとする力の方が勝っているのかも知れず、そうやって一つの価値観に基づいて世界を支配しようと意識しているわけではないのだろうが、意識しなくてもそういう傾向に従ってしまう人がかなりの数にのぼっている現状があるのではないか。
7月21日「信じられない嘘」
たぶんそれが馬鹿げた冗談に過ぎないとは思わないが、陰謀論的な傾向で世界情勢について大げさなことを語るなら、今まさに敵対し合う二大陣営によって世界が二分割されつつあるとか語りたくなってしまうかも知れないが、現状でわかりかけているのはそんなことではなく、そんなふうにメディアが見せかけようとしているわけでもなく、それに関してこれまでに何となく漠然と信じられてきたことが信じられなくなってきたとかいうことでもなく、潜在的な領域で活動している何らかの勢力が世界の変化を押しとどめようとしていて、それが例えば表面的には戦争を起こすことによって押しとどめようとしているかのように見えるかも知れないが、逆に戦争に乗じて変えようとしていることもあり、さらには戦争によっては変わらないこともあるだろうし、それが何とでも言えるようなことではないとしても、それに関してまことしやかに語られてきたことが、誰もがそれを信じていることを前提として語られてきたかというと、本当はとんでもなく的外れな認識に基づいて語られているとは誰も思わないはずだが、またそんな的外れな認識をこれだと指摘して回れるほど、確かな証拠を持ち合わせているわけでもないが、とんでもない妄想を信じさせようとして、ある程度は現状認識に関する確かな知見を示しながらも、その知見と妄想を巧妙に結びつけながら語って、自身が抱いているとんでもない誇大妄想に説得力を持たせようとしている人もいるかも知れず、それが誰だと示すこともせずに、何を語りたいのかというと、信じられやすいフィクションを基にして世界情勢について語ると、何となくそれが真実であるかのように思われるとしても、ではその逆に誰もが嘘だと思われるようなことを冗談抜きで語れるかというと、嘘がばればれのようなことを語りたいわけではなく、大抵は語っている内容が真実であることを示したいわけで、そういう意味では語りたいことには真実の縛りがあり、もちろんそれが真実だと信じているからそれを語りたいわけで、またそれに関連して自身とは敵対関係にある他人が語っている内容に嘘が含まれていることを指摘したいだろうし、他人の嘘をばらすことによって自らが真実を語っているようにも装いたいわけだが、そういうことを語る際の格好の標的となるのが、カルト的な宗教団体に関する嘘であり、それこそが誰もが暴きたい嘘の宝庫でもあり、宗教団体に関する嘘ならいくらでもありそうで、しかもその宗教団体が特定の政治家や政党とつながりがあるなら、その政治家や政党が主張している内容に含まれる嘘もばらしたいだろうし、そうやって他人の嘘をばらすことによって、逆説的に真実を語っているように装いたいと思っているわけでもなくても、嘘をばらしているつもりの当人が意識してそこまで計算しながら語っているわけでもないにしても、またその中に誰もが簡単に信じてしまう嘘と真実のパラドックスがあるとか言いたいわけでもなく、安易に信じられやすい嘘と俄には信じられない真実の間に主張したい内容が収まるなら、その主張にある程度の真実が含まれていることが期待できるわけでもないが、別に俄には信じられない真実など無理に信じなくても構わないし、また安易に信じられやすい嘘の方が信じるには都合の良い嘘なのかも知れず、真実ではなく嘘を信じている方が、それが後から嘘だとばれるにしても、嘘を信じて行動した方がうまく立ち回れる可能性があるのかも知れず、もちろんそれを信じているのだから、信じている間は嘘だとは思っていないだろうし、実際に宗教団体から多額の財産を巻き上げられて破産した人には、それが嘘だとは思われなかったのだろうが、破産したのだからうまく立ち回れたわけでもないし、逆に嘘を信じてひどい目に遭ったことになるはずで、もちろん騙す方は嘘をついてうまく立ち回ったことになるだろうし、そういう面では嘘を信じるとひどい目に遭うという当たり前のことが起こったわけだが、そういう嘘ではなく、嘘も方便と言われる程度の嘘になるなら、嘘だとわかっていながら信じてみるのも一興であり、具体的に何が嘘なのか、それが俄には信じられない嘘なら、かえって真実になる可能性も拭い切れないが、例えばそれが、消費税の廃止を唱える政治勢力であれば、消費税の廃止などできるわけがないと思うのも、その政治勢力が議会で少数の議席しか獲得していなければ、そう思うのも無理はないことかも知れないが、その政治勢力の支持者が消費税を廃止できると信じることが、果たして嘘を信じていることになるのかというと、信じている時点ではわからないことであり、実際に遠い将来に消費税が廃止されることにでもなれば、何か信じられないようなことが実現したと思う人もいないだろうが、少なくとも現時点では信じられないことかも知れず、実際にその政治勢力を支持していない人には、消費税が廃止されるなんて信じられないだろうし、それが嘘というわけでもないにしても、消費税の廃止を訴えている政治勢力が、議会の多数勢力となる未来など信じていないはずだが、そういうところで嘘も方便というと、何が方便になるわけでもなく、たぶんそこだけに焦点を当ててもそれ以外には何も出てこないし、消費税の廃止については不問にできるわけでもないが、消費税の廃止に関しては、そういうことを延々と主張させておいて、それとは別の方面から何かやりようがあるなら、そのやりようがある方面から方便としての嘘を構成したいのかも知れないが、しかもこれから新たに嘘を構成したいのだとすれば、どんな嘘がつけるかが問われているような気がするわけだが、それが嘘だとは俄には信じられないような嘘をつければ、その嘘が今後真実に転換する可能性など信じられるわけでもないとしても、これまでにまことしやかに語られてきた嘘を今さら思い出そうとしても、誰も覚えていないかも知れないし、さっさと忘れ去られてしまうような嘘なら、いくら嘘をつきまくっても、嘘をついたことを責められるわけでもなく、それが嘘のつきどくになるわけでもないものの、これまでにも方便としていくらでも嘘がつかれてきたのかも知れず、それが嘘をついているという自覚もなければ、何か希望的観測のようなこととして語られてきたことがあり、それがバラ色の未来のようなこととして実現することを誰もが信じて生きてきた挙句に、実際には地獄のような現実に直面しているといったような現状認識になるなら、現状でも世界各地でそんな状況に陥っているはずで、確かに政治も経済も破綻した新興国では、かつてそうではないバラ色の未来が語られていた時期があったのだろうが、程度の差こそあるものの、日本でもかつてバラ色の未来が語られていたし、今もそんなことが語られている方面では、どこかの審議会や公聴会などで飽きもせず延々と語られているだろうし、果たしてそれが嘘も方便の嘘になるかどうかは、将来に明らかになることかも知れないが、現状もかつての将来なのであり、現状がひどい状況だと認識するなら、かつて語られていたバラ色の未来が嘘だったことになるのだろうが、将来が今よりもっとひどい状況になると脅されて、前向きに生きられるわけもなく、何か希望のあるようなことを信じないと前向きには生きられないだろうし、嘘も方便という意味では、いつの世でもバラ色の未来が語られて、それなりに信じられてきたのだろうが、果たして現状の日本でバラ色の未来を信じている人がどれほどいるかというと、それが出生率によって示されていて、出生率が高ければ、生まれてくる子供に託すような希望のある未来がやってくることを信じる人が多いことになり、逆に出生率が低ければ、未来に希望を持てないことがその低さに反映していると言われることが、果たして嘘も方便の嘘かどうかは何とも言えないところだが、それに関して信じられない嘘というのが、それが嘘だとあらかじめわかっているから信じたくても信じられないのかというと、そういう嘘もあるにはあるだろうが、それとは違って俄には信じ難い真実というのもあるにはあって、そんな真実を実現させることが政治的な課題となるわけでもないが、実際に消費税の廃止を頑なに訴えているように見える政治勢力が、俄には信じ難い真実として、消費税の廃止を実現させることができるとは多くの人たちがそうは思っていないはずで、例えば世論調査の設問としてそんな項目を加えるなら、実際に世の中の大多数の人が消費税の廃止が実現するなんて信じていないことが明らかになるだろうが、たぶんそうなっている現状にそうなる可能性が含まれているというと、嘘も方便の嘘になるわけでもないが、誰もが忘れた頃にそんなことが実現すれば、誰もかつてそれが信じ難い真実になるなんて予想だにしなかったことになるのではないか。
7月20日「必要性の程度」
黙っていてもただ時間が経過するだけで、時間が経過する間に何をやっているのか定かでないにしても、何もやらないうちにチャンスを逃しているような気がするのは、実際にチャンスを逃しているからそう思われるのかも知れないが、それとは別の方面ではやるべきことをやっているような気もするから、チャンスを逃しているのに平然としていられて、逆にチャンスを的確に捉えて行動してはまずいのかも知れず、そうだとしてもわざとチャンスを逃していると思い込むのもご都合主義でしかないが、それで構わないような気がするのだから、そういうことに違いないと思い込んでいればいいのだろうが、現実にはそうは思えないし、せっかく巡ってきたチャンスをものにできなかったことを残念がることしかできず、たとえチャンスをものにしたところでわずかな利益しか得られないことがわかっていながら、そのわずかな利益にこだわらないと、そんなことをやっている意味もないのに、実際に意味もなくチャンスが巡ってくるのを待ちながら、実際に巡ってきたチャンスを逃して残念がっているわけだから、意味不明な成り行きに身をまかせて何をやっているのか定かでないようなことになっているわけで、それもそういうことをやっているふりを装いながらも、意識して何かから気を逸らせているのかも知れず、気を逸らせる必要のある何かがそれとは別にあって、その何かに気づいてはまずいから、それに気づかないようにするために、わざとそんな意味不明なことをやっていて、しかもそのやっていることに成功してはまずいのだとしたら、それでやっていることの辻褄が合うような気がするのだろうが、なぜそんな回りくどい屁理屈を捏ね回しながら、実際に何かをやっているのかといえば、それが目下のところはやるべきことであり、やるべきことだと思っていても、実際にやってみるとうまくいかないことでもあり、うまくいかないのに延々とやり続けていることであるから、それがうまくいっていないと思うのも誤った思い込みなのかも知れないが、たぶんそういうことの延長上になすべきこととして何かがあり、それと気づかずに今もやり続けているそれが何かになればいいのだが、現実にはそうではない可能性が高く、なすべきことをやっていないどころではなく、やる必要もないことをやっている可能性の方が高いのかも知れないし、必要があるかないかということ自体がわからないのであり、必要だと思っても必要でなかったりするのはよくあることかも知れないが、必要なことに気づかないのもよくあることで、それが必要であるかないかが、実際に必要になってから気づくとしても、気づいた時にはもう手遅れとなっていて、それを取り逃してからそれが必要だったと気づくこともあるだろうから、もちろん気づくこと自体が勘違いかも知れないから、それを取り逃したという事実が、必要だと実感させる可能性もあり、取り逃していなければ特に必要だとも思われず、いったん手に入れてしまうとすぐに飽きてさっさと手放してしまうかも知れず、そういう意味で必要であるかないかがそれほど重要なことではなく、その場の状況に応じで必要だと思ったり思わなかったりするだけで、必要だと思う何かが手に入らなくても困らないような事態まで想定できて、さらに必要なものが手に入らずに困ってしまっても、それでも構わない状況まであるとするなら、それでも構わないと思うのも、本当は構わないはずがないのに構わないと思っているようなわけのわからないことになってしまい、自分で自分に嘘をついているような心理状態となって、それ自体が心の病が示す症候かも知れないが、そんな現状を何とか受け入れようとしているから、自らに嘘をついてでも現状を肯定せざるを得ないような心理状態に陥っていて、それが例えば戦時中の欲しがりません勝つまでは的な言い回しと通じる傾向があり、非常事態の中で生きていることを実感させられているのかも知れないが、もちろん現状が非常事態だなんてこれっぽっちも思っていないわけで、それを実感させられているのにこれっぽっちも思っていないのだから、そんな実感すらも嘘なのかも知れず、そんなふうに書き記すとそんなことを実感しているように表現できるが、それを記述して表現したところでこれっぽっちもそうは思っていないという逆説に戸惑うわけでもなく、書き記している内容と実際に感じている内容が違っているのに、それでも構わないような気がしてしまうわけで、どちらにしてもそんなことを書き記しながらもそれとは違う実感も抱いていて、矛盾しているような気もするのだろうが、それでも構わないような気もするわけだから、矛盾していることですらもどうということはなく、矛盾をことさらに問題視する必要も感じられないし、それ以前に何を問題視しようとそんなことも眼中になければ、問題視すること自体も何でもないことになってしまい、また何でもなくても構わないような気もして、しかも何でもないのに何かしら不安になってきて、別にそれが不安感に押し潰されそうになっているわけでもないだろうが、軽い不安でも構わないから、安心して気が緩んでしまうのを防ぐためにも、少しは不安感を抱いていた方がいいような気がするのかも知れないが、そんな不安感も本当の不安感だとも思われないし、そんな不安を不安だと感じるのにも、何か嘘をついているようなやましさがつきまとってくるのかも知れないが、何をどう思ってみても、本当にそう思っているのかどうかも疑わしいようなら、身の回りの状況に応じてそう思わされているにしても、別に騙されて思うほどのことでもないし、何かそれとは別のことに気を取られている可能性があり、その気を取られていることというのが、気を取られていることに気づかない何かであり、その何かによって心身を制御されている可能性さえあるのだろうが、世の多くの人々の心理状態がそうなっているとすれば、そうなっている時が自分だけが気づいているのだからチャンス到来だと早合点してしまってもまずいのだろうし、そう思っている自らも何かよって心身を制御されている可能性まであるわけだから、誰もがそう思っても、誰もがそうなっている可能性がある限りで、誰にとってもそれがチャンス到来だと思われるだろうし、もしかしたら誰もがチャンス到来だと思ってすでに動いている可能性まであるわけで、そんなことを思っている自らがそのチャンスに乗り遅れている可能性もあるから、そんなことを思っているだけではまずいわけで、さっさと到来したチャンスをものにするために動かなければならず、そう思っている自らもすでに行動を開始しているとすれば、他にもいくらでも行動を開始している人が大勢いる中では、いったい誰がそのチャンスをものにできるかというと、我先に動いた人たちが失敗するまで待っていた方が身のためかも知れないが、必要もないのに動くのは危険極まりないとしても、虎穴に入らずんば虎子を得ずという諺もあるように、成功するには何かしらリスクを冒さなければならず、それ以前にそれが何のチャンスかもわからなければ動きようもないだろうが、実際に動きようのない人たちが動いていて、動いていないと不安が募ってくるのかも知れないが、そんな不安感こそが思い違いであり、その必要もないのに不安感に苛まれているなら、そんな不安感がどこからくるのかというと、どこからくるわけでもなく、自分で勝手に不安感を抱いているだけかも知れず、特に何もしなくても自然に心の底から不安感が湧き上がってくるようなら、例えばなすべきことが何もないという自らの空虚さに耐えきれずに、心が悲鳴を上げていることになるかも知れず、そうであるならなすべきことの必要性を求めているのだろうが、それでもなすべきことをなせという意味不明な命令がどこからくるのかを知らなければ、そんな命令の無根拠さも同時に感じていて、誰が命令しているわけでもないのに、自分勝手に命令が下されていると状況を解釈していて、そう解釈することも自分勝手な解釈なのだから、自分で自分に無根拠な命令を下していることになり、それ以前になすべきことなど何もないと思うことでさえも、自分勝手にそう思っているに過ぎず、誰もなすべきことが何もないとは思っていなければ、なすべきことを自分で探すしかないだろうし、そのチャンスというのがなすべきことを探すチャンスだと受け止めて、誰もがなすべきことを探し回っているのだとすれば、少なくともなすべきことが見つからないうちは動き回っていて、動き回っている人はなすべきことを探していることになるはずだが、探し回っても一向になすべきことが見つからなければ、なすべきことを探す必要がないことに気づき、探し回らなくても自然になすべきことが心の底から湧き上がってくるようなら、それがなすべきことだとわかるはずだが、もしかしたらそれがわかる必要のないことであり、なすべきことが何なのかがわからなくても、実際になすべきことをやっている人が世の中にはいくらでもいて、何かしら活動している人がいれば、その活動こそがなすべきことをやっている活動となるのではないか。
7月19日「人として許されない行為」
人について語ることが、個人ではなく人一般について語ることになれば、表向きには特定の誰かについて語っているとしても、例えば事件を起こした特定の個人について語る際に、出来事との関連でその人がやったことについて語ることが、その人自身について語っていると共に、それ以外の何について語れるわけでもないが、それでも何かしら語っているとしたら、それがその人に関連することであるのは確かだろうが、人一般について語れることをその人にも当てはめて語っていることになり、そうなるとその人について考えていることが人一般について考えていることになり、その人がやったことが人一般がやったことになるかというと、完全に重なるわけではないが、一般的にはそんなことが言えて、その人のやったことが人としてどうかと判断したところで、客観的にはその人に特有な事情があるからそういうことをやってしまったのに、人一般として考えるとそんなことをやっては駄目だとか、人として許されない行為だとか言えるわけだろうが、そんなことを言っている人たちはその人に向かって言っていると共に、人一般について言えることを言っているわけだが、もちろん他にも人として許されない行為をやった人はいくらでも無数にいる中で、その人も人としてやってはいけない許されない行為をやってしまったのだろうが、他にも許されない行為をやってしまった人がいくらでもいることをやる前から知っているわけでもないが、少なくとも自分だけがそんなことをやってしまったわけではなく、他にも許されない行為をやってしまった大勢の人たちの事例に後押しされて、自分だってやっても構わないのではないかと思ったわけでもなくても、特に何の自覚もなくやってしまったことが、他にも同じようなことをやってしまった人が大勢いることに気づくわけでもなくても、別にそれで救われた気持ちになるわけでもないだろうが、それなりに数多くの人たちがやってきたことをやってしまったことは自覚できるはずだが、数多くと言っても例えば政治家の類いを暗殺した人物の方が暗殺現場に設けられた献花台に献花する人たちよりは圧倒的に少ないことも事実だが、生前にひどい政治を行なってきた政治家を支持する人々がいかに多いかが、献花台に献花する人々の多さを物語っているかというと、それも意図的に動員されている可能性もあるからよくわからないことだが、献花台に献花する行為が人として許されない行為であるはずがなく、それが人を殺すことが人として許されない行為であることと対比されているわけでもないが、人一般として事故現場や殺害現場などに設けられた献花台に献花することが当然の行為のように見せかけることが、人として許されない行為だとは誰も口が裂けても言えないだろうから、それを利用してやりたい放題献花しまくっていると解釈するのも憚られることだが、献花台に爆弾を投げつけて、それを報道するテレビ局にミサイルをぶち込むとか考える人もまずいないだろうから、そういうところであらぬ想像を膨らませても、何かそれが勘違いのなせる業としか受け止められず、そんなことをやってみたいのは山々だが、それをやれるだけの実質が伴っていないのも承知しているところだから、想像するだけ想像しておいて、そうした想像が実践に結びつくには、それ相応に個人的な事情が関与してこないとできないことであり、それが人一般からは出てこない個人的な事情でもあるから、人一般から言えるようなことなどはフィクションに過ぎないとわかるわけだが、そこまで考える人などまずいないし、そこまで考える人が事件など起こすわけがないとも言えないが、暗殺された元首相を国葬することが、成り行きとしては自然に思われるとしても、そんな成り行き自体に不自然さを感じる人も多いだろうし、かつて皇帝ナポレオンの甥であるだけで、他には何の取り柄もないどころか、数々のみっともない失敗を重ねて、鳴かず飛ばずだった人物が、時流に乗ってポピュリズム的な人気も博して大統領になってから、さらに機会を捉えてクーデターを決行して政治の全権を掌握して、その後国民投票で9割の賛成票を得て皇帝となったことがあったが、その際にクーデターに逆らって市街戦の中でバリケードを築いて抵抗勢力に加わりながらも、なすすべもなく呆気なく鎮圧されて、国外逃亡して皇帝が失脚するまで19年間も亡命生活を余儀なくされた、19世紀のフランスを代表する作家で政治家でもあるヴィクトル・ユゴーという人物がいたのだが、なぜその人物が死後国葬されることになったかについても、その人物に特有な事情や経緯があるだろうし、その人物が文学的な権威ではあったにしても、体制側ではなく、どちらかと言えば反体制側だったのに、もちろん体制側だった時期もあったから死後に政府の主導で国葬される成り行きになったのだろうが、歴代最長の在任期間を誇る暗殺された元首相と、大統領時代も含めると二十数年間も権力の座に君臨した皇帝が、どちらも国民から圧倒的な支持を得ていたことになるのが、それが否定的な意味でそう思われるところが、何か不可思議で皮肉なシンクロ関係を連想させて、近代から続く国家形態を嘲笑するような意味合いを伴って、それとは違って馬鹿で単細胞な人がすぐに持ち出してしまうヒトラーやナチスとは、似ているようでいてちょっと違う未来への可能性があるのではないかと勝手に妄想してしまうわけだが、要するにその時には確かに国民から圧倒的な支持があったにしても、時が経つにつれてそれが浅はかなポピュリズム的な人気でしかなかったことが明らかになってきて、化けの皮が剥がれてきたわけだろうが、それが紛れもない国民の体質なのであり、国家によって作り上げられた国民が、そういう人物を支持してしまうのが当然のことであるのが理解できないかというと、理解する必要はないとしても、時が経てばそれが恥ずかしいことだと思われるわけでもないだろうが、それ以前に寿命が尽きて亡くなってしまうわけで、その時代にポピュリズム的な人気を博していた政治家を支持していた国民も、いつの間にかいなくなってしまうわけだが、いなくなっても次から次へと生まれて来れば国家も長続きするのだろうが、そういう国民がいくら生まれてきても、何がどうなるわけでもなければ、自然と出生率も下がってきて、人口減に苦しむようになるのかも知れず、その何がどうなるわけでもないというのが、そういう国民に支持されてしまう人物でもあり、馬鹿の一つ覚えのようにして事故現場や殺害現場に設置された献花台にひっきりなしに献花してしまう人々の実態なのかも知れないが、それの何が実態なのかといっても、それと政治の実態が関係あることなのかということも、よくわからないところかも知れず、何かそれが肯定的な意味を担うのかというと、現状で行われている空疎で何かやっているふりをするだけの政治に何の意味があるのかと問われるわけでもないのと、同じことだとは思われないにしても、そんなことしかやりようがないということに関しては共通点があり、それが意味不明だとは思わないだろうし、献花台に献花することが意味不明であるはずがないと思う人もいないのと同じように、現状で行われている政治が意味不明であるはずがないと思う人もまずいないだろうが、それらをひとまとめにして意味不明な行為だと言い放つ人もいないだろうから、そんなことをやっているからといって、何がどうなるわけでもないわけで、政府の意向として国葬を行いたければ行うしかないが、少なくともヴィクトル・ユゴーを国葬した当時のフランス政府は、現代の日本政府とはちょっと違う事情や経緯を伴って、かつてポピュリズム政治に反旗を翻して反体制派の代表格となった国民的な作家の国葬を執り行うことになったわけで、何かそれがフランスの民主主義を駄目にしてしまった二十数年間に対する懺悔や罪滅ぼしのように思われるのは、後世に生きる一般人の勝手な解釈でしかなく、今もそんな解釈など誰も支持してくれないだろうが、だからといって暗殺された元首相を国葬しようとしている日本政府が当時のフランス政府と比較して駄目だというわけではなく、それぞれの政府にはそれぞれの事情や経緯を伴った成り行きに支配されている面があるだろうから、現状の成り行きに従うなら、日本政府がやろうとしていることが、それほど間違っているとも思われないだろうし、国葬をやれば外国からも多くの参列者がやってきて、儀礼上は各国の政府関係者もそれなりの地位や役職を伴った人が参列するし、それなりに盛況なイベントになるのは当然のことだが、もちろんそんなことをやったからといって、それが後世に語り継がれるわけでもなく、別に後世に語り継がれるようなことをやれと言われているわけでもないし、ただ淡々と儀式を執り行うのが当たり前のこととして政府のやるべきことになるわけだ。
7月18日「避けきれない事情」
社会の中で人が生きていく上で避けられないことが、自分の身にも毎日のように降りかかってきていることに気づくことはあるし、気づかなければそれがどうということはないかも知れないが、避けようとする限りでそれに気づいているはずで、避けようとしても避けきれなければ、ぶつかってしまうのだろうが、何にぶつかってしまうのかといっても、そんなものにぶつかっている気にはなれなければ、ぶつかっているそれを無視しているのかも知れず、本当にぶつかっているなら、何かしら感じているはずだが、感じているどころか、ぶつかって怪我でもしているなら、痛い目に遭っているはずだが、一向に何も感じていないのだとすれば、ぶつかっていないのかも知れないが、ぶつかるのが嫌なら避ければいいのだとしても、ぶつかってくるそれを避けられるかというと、避けなければぶつかってしまうのに、ぶつかるにまかせているようなら、ぶつかっても構わないと思っているのかも知れず、ぶつからないように避けるのが面倒くさいなら、やはりぶつかるにまかせるしかなく、ぶつかることが何を意味するわけでもないと思っているわけでもないが、避けようとしても向こうからぶつかってくるなら、時には避けきれないし、避ける動作が間に合っていないのかも知れないが、避けようとしても向こうがぶつかろうとする意志を抱いてぶつかってくるから避けられないのかも知れず、だからぶつかるしかなく、実際にぶつかっているのだろうが、その程度や傾向によってはぶつかっても一向に気にする気配もなく、ぶつかるにまかせていて、ぶつかられて困っているそぶりを見せるわけでもなく、ぶつかるならどうぞ勝手にぶつかってくださいと言わんばかりの不遜な態度になってしまうわけでもないが、それも勝手な思い込みには違いなく、実際には何もぶつかってくるわけでもなく、何かがぶつかってくる幻影に苛まれているだけかも知れないし、それが幻影だからこそ避ける必要もないのかも知れず、逆に避けるそぶりを見せてしまうこと自体がおかしな動作なのであって、何がぶつかってきているわけでもないのに、必死になって避けているように見えるなら、何をそんなに怖がっているのかと不思議がられてしまうだろうが、それでもそれを避けようとしてしまう人には見えてしまうものがあり、何か幽霊でも見えているのかも知れず、大抵の人はそれを幽霊だと認識できないのかも知れないが、では幽霊でないなら何なのかというと、ただの人であり、しかも人の影かも知れず、本物の人ではないのに、人の影を恐れているのであり、人影が襲ってくるような恐怖に囚われているのかも知れないが、それがパニック障害などであれば、原因がその人の心にあるのは確かだが、幻影に怯えているのだとすれば、その人を取り巻く社会が幻影を見せていて、見えているつもりの社会そのものがその人の心のありようを映す鏡のような役割を担っていて、人を恐れさせる幻影がその人自身の真の姿である可能性まであり、その人が他人をこうだと決めつける時が、決めつける対象の他人にその人の都合が反映した幻影を被せていて、その人は他人を見ているつもりなのだが、実際には他人を都合の良いように歪ませて捉えようとする自分自身の心の内を覗いていて、それが他人への対処法であり、他人を否定的に捉える人にはよくありがちなやり方なのかも知れず、もちろん人によって捉え方にも差があって、捉え方が粗雑な人ほど、他人を世間のありように照らし合わせて見てしまうわけで、他人を見る以前に世間を見てしまうから、世間一般的にカテゴライズされた人物の典型例のような形態をその人に被せてしまい、そうすることによってその人の個別性が著しく減じられて、場合によっては個別性が皆無となり、こういう人はこうだという分類上の存在としてしか他人を見ないで、それが個人としての他人ではなく、世間一般で言うところの人物評価的な基準に当てはまる他人となってしまうわけだが、そんな他人を個ではなく類の中の一人としか見ない態度が何をもたらすのかというと、ビジネスライクな関係をもたらし、他人に対してそれ以上の関心を持つことを自らに禁じているといっても、それを自覚しているわけでもないだろうが、仕事上の付き合いを優先させればそうなるのが当然だとしても、どこまでが仕事上の付き合いなのかが、自分ではよくわかっていないわけで、下手するとプライベートでも家族の中にビジネスライクな関係を持ち込んでいる可能性もあるだろうし、もちろん友人との関係でもそうかも知れないが、果たしてそれ以上の関係があるかというと、以上でも以下でもなく、例えば他人を公的な存在と見なすと、ビジネスライクで功利的な関係では済まなくなってくるというと、済まなくなってくるといっても他にどう扱えばいいのかわからなくなってくるかも知れないが、他人を自分に対する時と同じように扱えと言われても、自分を優先している限りは他人は二の次となってしまうし、時には自分よりも他人を優先させなければならない場合があるかといっても、その時が来てみないとわからないところだが、それもその時の自分の立場や境遇から個々の場合に応じて異なってくるかも知れず、一概にはこうだとは言えないことであり、そうなるとこういう人はこうだと言えなくなってきて、世間一般では確からしい人の分類分けでは通用しなくなってくるのだろうが、実際にはそんなことは言われなくても対処していて、それについて語るとなると、世間一般で言われている人の評価基準の方を優先して語ってしまうから、そこまでその種の言説が及ばないだけで、実際の他人への対処や対応とはかなりずれたことを言説の中では語っているのだが、中にはそう言われていることを鵜呑みして、それを実践に当てはめてしまう浅はかな人も出てくるわけで、そんなお粗末な対応しかできない人が世間で通用してしまえば、それがまかり通っているように見えてしまうし、ますます他人に対する誤解が拡散してしまうのだろうが、それが言説的な水準では誤解だとは思われないから、言説的な水準ではそう述べていれば済んでしまうわけで、実際の他人への対応となると、言説的な水準から逸脱するようなことも行わなければならず、それも時と場合によって程度や傾向が異なってくるから、それをわざわざ言説に反映させる必要もないだろうし、そういう意味でそれに関して言われていることと実際に行われていることの間にはそれなりのずれが生じているのだろうが、そこで何と何がぶつかっているのかというと、言説と実践がぶつかっていて、どちらを優先させるかは、言説の水準では言説を優先させるだろうし、また実践の水準では実際に行なっている実態を優先させるのだが、それらを同じ水準に統合するわけにはいかないし、統合することはできないが、しばしば実践の水準で見えてしまうのが言説の水準で語られる幻影であり、しかもそれを幻影だと実感できないから、言説の中で言われていることを優先させてしまい、結果的にその人自身を見ないで、その人に関して言われていることを基にして対処しようとして失敗してしまうのだろうが、それを失敗だとも自覚できないのかも知れず、言われていることとはかなりずれているのにも関わらず、そのずれを実感しているのに、その人に関して言われていることを信じてしまうから、対処や対応がずれたままになって、それが取り返しのつかない関係の悪化や齟齬をもたらしてしまい、お互いにお互いのことを誤解に基づいて解釈していることにも気づかず、終始その人に関して言われていることを基に判断して、その良し悪しをさらに言おうとするのであり、そうやってその人に関して言われる度に誤解が雪だるま式に増えていってしまうと、その人が伝説の人となってしまうわけだが、もちろん言われていることの全てが誤解であるはずもないだろうが、憶測に基づいて伝聞形式で言われているならその可能性が高まるだろうし、それ自体がその人への言説的な水準での対応となるが、それが生身のその人自身への対応にも影響を及ぼして、またそんな対応をされたその人自身にも勘違いが生じてくるだろうし、場合によっては何か自分が偉くなったかのような思い上がりも生じてくるだろうから、さらにそんな伝説を信じてしまう周囲の人たちにも、言説的な水準での対応が影響を及ぼしてきて、その人に関する言説から生じてくる幻影を生身のその人に投影して、それをその人の真の姿だと誤解してしまうわけで、さらにメディアがその人の存在に利用価値を見出すなら、故意に人を誤解させるような対応を仕掛けてくるわけだが、しかもメディア自体は仕掛けていることを自覚できないから、悪質な人物礼賛の典型例のような効果をもたらすわけだが、そういう成り行きを避けるにはどうすればいいかといっても、その人に関して言われていることの中身を吟味してみるしかないだろうが、それも人の伝説化に関してなら、そういった対処に関しては型にハマったやり方があることを認識しておく必要があるし、古今東西の歴史上の偉人に関して言われていることがどれも似通っているなら、そこには人の礼賛に関する共通のフォーマットがあることを理解できるし、それが紋切り型的な対応を形成していて、こういう時にはこう言うものだという申し合わせがあることを知るに至るのではないか。
7月17日「危機が迫っている感覚」
今さら言っても仕方のないことかも知れないが、この後に及んで何を避けようとしているのかは、自分ではわかっているつもりだが、わかっていても避けられないことがあり、意味を検索してわかったことについては、何かがいよいよ差し迫っているという意味で、この後に及んでという表現を使うようで、今がそんな表現を使うのにふさわしいかどうかは何とも言えないが、とりあえずこの後に及んで嘘はつきたくないし、率直に現状について語りたいと思うのは嘘偽りではなく、本心からそう思っているはずだが、現状で起こっている危機をうまく言い表せないのは毎度のことで、気がつけば世界中でかつてないほどの頻度で異変が起こっていて、それが気のせいだとは思えないというと、嘘をついているような気がしてきて、そんなはずはないと誰が反論してくるわけでもなく、世界の秩序が壊れかけていて、元から秩序などなかったと思われてしまうのは、現状がそうだからかも知れないが、ある程度は秩序と言えるような何かが保たれていたはずで、それが今まさに崩壊しつつあるというと、毎度お馴染みの表現になってしまって、そんなはずがないというと嘘になってしまいそうだが、たぶん嘘をついていると思っていても、自らが嘘をついていると表明しているわけだから、それがパラドックスには違いなく、嘘をついているかどうかなんて自分ではわからず、そんなのは嘘だと思われるかどうかが気にかかるわけではないし、危機が間近に迫っているなんて嘘に違いないわけだが、それもある面では本当であり、危機の程度や傾向に応じて、それに該当する危機が間近に迫っていて、その危機に直面してしまう人や団体もそれなりに出てくるのだろうが、それを真に受けるかどうかが、その危機からの距離感に応じて、人それぞれに違ってくることは確からしいのだが、大げさに危機意識を煽り立てる癖がついてしまうと、そういった感覚が麻痺してしまって、何でもかんでも騒ぎ立てていればいいような気がしてしまうのかも知れず、その辺の案配がよくわかっていないから、危機の程度や傾向に応じてそれに関する言語表現が適切であったりなかったりするので、人によっては大したことでもないのに大騒ぎしているような違和感を覚えるわけで、それが騒ぎ立てている人にはわかっていないのだろうが、もちろんわかっているつもりだから、大した危機でもないと思っているように見えてしまう人たちの方がおかしいと思ってしまうわけで、そういうところから分断が生じていくのだろうが、そうなってしまうことがおかしいわけではなく、分断が生じたところで一時的なことでしかなく、そこから何がどうなるとも思われず、一時的な分断や亀裂が絶え間なく生成しては埋まっていく過程が繰り返されているに過ぎず、果たしてその程度のことが危機なのかどうかも疑わしいし、しょぼそうな危機を言葉で大げさに誇張して伝えようとすることが、かえって危機を真に受けることに対して警戒感を生んで、それが本当の危機なのかどうかについて判断がつかず、判断がつかない程度であるなら、少なくとも自身に災禍が降りかかっているなんて自覚していない限りで、それが危機だとは実感していないわけで、現状が危機だろうと何だろうと、自身が生きている状況には変わりなく、その一方で生きていけば身の回りの状況が絶え間なく変化していく中で、時には危機に見舞われることもあるだろうが、それが言葉や映像で伝えられる危機などではなく、自身がその中で活動している危機であり、それが今もある程度は危機なのかも知れないが、そのある程度というのがその中で活動している分には必要な危機でもあり、絶えず危機感を抱きながら事に当たらないとまずいような気がする程度の危機だから、危機意識と共に活動していて、危機に遭遇していないと困るのであり、危機を糧として生きているような成り行きに囚われて、活動する理由が危機に対処することになると、危機に直面していないと活動できなくなるわけでもないが、一般的に言って冒険家の活動にそういう傾向があることは推測できるが、危機管理ばかり声高に叫ぶ警察官寮出身の政治家などもその典型例だろうし、それが商売になってしまうと警備会社になるわけだが、そういう意味では危機と共に世界が構成されていて、世界には危機がつきものなのであり、危機がないと世界そのものが成り立たないのかも知れないが、世界や社会が崩壊する危機に直面していることが、世界や社会を成り立たせている要因でもあるから、そこに両義的な意味合いが含まれていて、その中で危機を煽る役割を担わされている人や団体が危機と共に存在しながら、危機の程度や傾向に応じて、その活動が活発化したり沈静化したりするわけで、その活動が部分的で一過性である限りで、持続性や継続性などの面で制限や制約を受けて、危機が起こっている期間は一時的な主導権を託されているものの、危機が過ぎ去ってしまうと用なしとなって、平和な時期においてはかえって邪魔者扱いを受けるから、そんな人や団体は絶えず危機を煽っていないと商売上がったりで、積極的に危機をもたらそうとする場合もあるだろうし、意識して故意に危機をもたらそうとしているわけでもなくても、活動そのものが危機を招くような傾向があり、それらの人や団体が活動を活発化させるだけで危機が間近に迫っているような感覚を醸し出してしまうわけだから、世の中には危機を避けたい人や団体が存在していると同時に、危機を招きたい人や団体も存在しているわけではないが、少なくとも何もないところから危機を煽っているわけではなく、火のないところに煙が立つわけでもないのは誰もがわかっていても、火が出て煙が立ってから行動を開始する消防隊のような活動もある一方で、故意に火を出して煙を立てるような放火魔のような活動も場合によっては成り立ち、危機を煽り立てる人や団体がその手の放火魔なら、自作自演となるわけだが、もちろんそれが自作自演であるだけに、本物の危機というよりは、危機を演出しているような傾向があり、嬉々として危機の中でうまく立ち回りながら、自らが主導権を握りたいわけで、主導権を握って危機に対処して、その対処に成功して、自らが危機から社会や世界を救った英雄として振る舞いたいのだから、自作自演もいいところだろうが、それが詐欺やペテンだと言いたいわけでもないし、やれるものならさっさとやってほしいが、危機を煽っているだけならまだそこまで至っていないわけで、そこから先へと危機が発展していく成り行きがほしいところだが、現状で危機を煽っているなら、その危機が未然に防がれては商売が上がったりだろうし、たぶん危機が本当にやってこないと危機を煽った甲斐がないわけで、だから危機を煽っている段階はまだその序章に過ぎず、ここから本編が開始されないと、いくら危機を煽っても空振りに終わってしまい、結果が空振りでは危機を煽ることに失敗したことになり、成功するには危機を煽った上で、本当に危機がやってこなければならず、そうだとすればでは何のために危機を煽っていることになるのかというと、これから危機がやってくることを知らせているのだろうし、別に危機がやってこないように何か画策しているわけではなく、未然に危機を防ぐための方法を模索しているわけでもなく、どうやれば危機を回避することができるのかを説いているわけでもなく、このままでは大変なことになると危機の到来を煽っているのだとしても、いつまで経っても危機がやってこなければオオカミ少年となってしまうし、そういう意味では微妙な立場なのかも知れず、今後がどうなるにしても事態が進展していかないと手の打ちようがなく、停滞が長引くほど行き詰まりも深刻化するだろうから、目下の停滞を何とかして動かしたいのだろうが、もしかしたら停滞していること自体が危機的な状況なのであり、そうであるならすでに危機が到来していて、そんな危機の中で危機的な現状を動かしたいのだろうが、果たして危機的な現状を動かすことが危機を煽ることになるかというと、そこでも微妙に認識がずれていて、停滞した危機的な状況だからこそ危機が煽られていると言えて、そんな停滞状況に応じて危機が煽られていると解釈すれば納得できるかどうかはわからないが、たぶん出来事の順序からすれば、そんな経過を辿りながら危機的な状況が進行中なのかも知れないが、もうすでに危機的な状況に突入している中で、未だに危機の間近な到来が叫ばれていることをどう捉えればいいのかというと、現状で囚われている危機的な状況を真に受けない態度に固執しているのかも知れず、まだこんなのは序の口でこれからさらに深刻な状況がもたらされると恐怖を煽っているわけで、それが危機に対処していることになるかというと、実際に対処している人や団体が他にいるとすれば、それらの人や団体などが危機的な状況の中でうまく立ち回っていて、しかもうまく立ち回るには、恐怖を煽る人に人々の注意を引きつけておく必要があるのではないか。
7月16日「呪詛と暗殺」
それとこれとが一見似ているようでいて全く似ていないのは、似ているもの同士の比較から推測してそう思われるのかも知れないが、何と何が似ていることを強調したいのではなく、逆に全く似ていないもの同士を比較して、両者の隠れた共通点を指摘したいわけでもなく、たぶん似ていなくても構わないのであり、似ていないからこそ比較したいのであり、共通点など考慮に入れていないのかも知れず、ではなぜ比較するのかといえば、比較する理由がないようなものを比較したいのであり、場合によっては比較すること自体が意味のないようなものを比較したいのかも知れず、そうすることによって何を語りたいわけでもなく、比較することによって比較とは無関係な方面から語りたいのであり、それでは具体的に何を語りたいのかわけがわからないが、それを語るにはまず比較しなければならず、いったん比較しておいてから、そんな比較など意味がないことを示したいのかも知れないが、なぜそんな回りくどいことをやるのか意味がわからないが、とりあえず比較してみないことにはその先へと進めないのかも知れず、だからそれとこれとを比較せざるを得ないのだろうが、では実際に何と何を比較しているのかといえば、それもはっきりと示さなければ、そもそも比較していることにはならないが、比較する気もないのにそれについて語っていくうちに、何かと何かを比較していることになり、語っていくとそれが明らかになればわかりやすいが、いくら語っても一向にそれがわからなければ、比較していないことになるかも知れないが、それでも語り得ないところでその違い示すことができれば、それが何なのかわかってくるかも知れず、そこで何と何を比較しているのかがわかったところで、比較していることとは別に語りたいことがあるなら、比較よりも重要な何かを語るきっかけとして意識している可能性があり、それを語るための前段階として、それよりも一段低いレベルで語っておかなければならないことがあり、それが何かと何かを比較することになるとしたら、それが何なのかということになりそうだが、それに関してはわかりやすい例を示せるとは思っていないが、例えば恨みや憎しみの感情が何をもたらすのかについて、誰もが想像できることが、それが行動に結びつくと、直接の行動となるか間接的な行為となるかによって違ってきて、直接手を下さずに間接的に恨みや憎しみを抱いている対象へと災いをもたらそうとする行為が呪詛になるのだろうが、その災いがどの程度になるかで、呪詛に効果があったかどうかがわかるわけでもないが、ちょっとした不幸でも呪詛の対象者に降りかかれば、呪詛の効果があったと思うかも知れないし、本当にそれが呪詛の効果かどうかは客観的には疑わしいが、呪詛を信じるか信じないかはその人次第な面もあるだろうし、自身で命を削るような激しいことをやった結果として何かが起これば信じるしかないが、大したリスクも引き受けずに、その種の霊能者などに呪詛を依頼するようなことをやれば、それが安易なやり方のように思われるかも知れないし、それ以前に世の中で呪詛を商売にしている人も今どきあまりいないだろうが、呪詛が商売になるほどの効果があること自体が、世の中では信じられていないかも知れず、アフリカなどではまだ信じられている地域もあるようだが、日本では呪詛を生業としている人などまずいないだろうし、裏社会ではまだいるかもしれないが、裏社会とは無縁の一般人にとってはフィクションの中で語られる話になってしまうし、いざなぎ流や陰陽道などではまことしやかに囁かれていることかもしれないが、そんなに呪詛に興味があるなら、まずは自分でやってみてその効果を検証してみればいいだろうし、のめり込んで逆に祟られて心身に異常をきたすようなことになるのが怖ければ、やらないに越したことはなく、何よりも呪詛に頼るほど精神的に追い込まれていなければ、そんな危ない橋を渡るような発想も出てこないだろうし、怨恨や憎悪が絡んでくるような面倒な事態とは無縁に生きていられたら幸いだが、安保法制に対する反対運動が盛んだった頃、確か国会議事堂の近くの公園で、修験道の行者のような格好をした集団が国会議事堂に向かってお経のような何かを唱えていた光景に出くわしたことがあったが、あれが呪詛の類いだとは当時は思わなかったが、最近起こった政治家の暗殺事件と勝手に結びつけて考えるなら、当時唱えていた呪詛の効果がそんな事件として結実したかのように思いたくなってしまうが、あれは呪詛などではなく、平和への願いを込めてお経か何かを唱えていたのだと思っておく方が、それについての真っ当な解釈になるのはわかりきったことだろうが、そこから勝手に妄想を膨らませて、オカルト的な力によって世界が動いているような話に持って行ければ、より世界情勢が魅力的に感じられるのも確かであり、フィクションではその種の話はありふれているのだろうが、ありふれているからこそ、多くの人々がその種の話に興味を抱いているのも確かで、現実の世界でもフィクションのようなことが起こってほしいのだろうが、逆にそう思っているからこそ、現実にはほとんど起こらないことでもあり、現実にはほとんど起こらないからこそ、それが稀に起これば興味深い事件になるわけで、そしてそれが興味深いからこそフィクションで取り上げられて、さらに興味深い話としてでっち上げられるわけだが、そんな現実に起こった出来事と、それにインスピレーションを受けて構成されたフィクションとの間で、何か共通する性質があるかというと、人々が抱く不謹慎な願望がそこで実現していることであり、普段は社会の法律や慣習に縛られてやりたくてもやれないことが、それらを破って行われてしまうことが、普通に考えて犯罪行為なのだろうが、呪詛が犯罪になるかというと、それ自体はだいぶ前に形式的には犯罪ではなくなったらしいのだが、それが脅迫だと受け取られるようなら犯罪として立証されるかも知れないし、相手に知られないようにこっそり行えば、知られない限りで犯罪でも何でもないだろうが、例えば藁人形などを神社の神木に打ちつけているところを見つかってしまうと、不法侵入とか器物損壊などの容疑で訴えられるかも知れないし、やり方にもやる場所にも工夫を凝らす必要がありそうだが、そんなハウツー的なことよりも、根本的なところで怨恨や憎悪の対象が生じてきてしまうこと自体をどうにかしないと、場合によっては悲惨な体験をする羽目に陥ってしまいそうで、それも気晴らし程度で収まれば、暇つぶしの娯楽と同じだと割り切れて、それがある意味では奇妙な体験となり、また面白半分でやっている分には罰当たりな行為となり、呪っているつもりが逆にそんなことをやっている人に神罰が下るようなことにでもなれば、やはり悲惨なことになるだろうが、そんな結果も含めて何かやらないと気が済まないような心理状態になってしまうのかも知れず、それが直接の行動ではなく、間接的な行為となるところが、回りくどい成り行きだが、そうなってしまう理由としては社会の中での力関係から窺い知れることがあり、直接には手を出せないから間接的な行為へと落ち着くわけで、そういうことの延長上で言霊的な言葉による攻撃も仕掛けられて、それがメディアを介して流行する傾向であり、呪詛が無害化されたところで言語表現が成り立っていると考えれば、なるべく怨恨や憎悪を連想させるような表現は避けようとするだろうし、できるだけ論理的かつ理性的に対象を批判しているように装うのだが、そこに悪意がこもっていると受け取られると、何か取り繕い方を失敗しているように思われて、それが非難の対象となってしまうだろうが、実際に悪意がこもっていることを意識させたいわけで、それが呪詛的な傾向となって、批判や非難の対象となる人々に不快感を覚えさせるわけだが、本当の呪詛ではないとしても、呪詛的な傾向としては相手に心理的な否定作用を及ぼしていることになり、そうなるように凝った遠回しな言語表現を駆使して、そこでもなるべく直接的な言い回しを避けて、間接的に揶揄したり皮肉を言いたくなるわけで、暴力的であるよりは嫌がらせ的なことを言いたいのだろうが、そういう意味では呪詛とは間接的な嫌がらせに過ぎないのかも知れず、そこに取り繕いとしてハッタリを利かせる意味でも神秘的な雰囲気をまとわせたいわけで、何かそれが効果があるように装うには、霊験あらたかであることを相手に信じさせなければならなくなり、そうなると迫真の演技で大げさに振る舞う必要も出てきて、場合によっては誰も見ていないところでそれをやるわけだから、自分に自分のやっていることに効果があると言い聞かせながらやっているわけで、それを自己暗示だと見なすなら身も蓋もないが、そういう行為が直接手を下すことと同等以上の効果を発揮するには何が必要かというと、結局は社会的な申し合わせが必要となり、効果や効用があることを信じる人が多ければ多いほど、しかも深刻で致命的な効果を及ぼすことを信じてもらえないとプラシーボ効果にもならず、そういうところが宗教的な効果と同根であり、実際に宗教的な効果が直接の暗殺事件にも影響を及ぼしているわけだが、そのどこまでが直接的でどこからが間接的なのかが、金銭などが絡んでくればわかりやすくはなるものの、感情的な範囲内にとどまるなら、終始曖昧なままとなってしまうのではないか。
7月15日「言行一致」
それに関して認識に違いがあるのは一目瞭然で、どんな違いがあるのかというと、語っている水準が違い、同じようでいて結論の部分で明確に違ってくるのだろうが、そこが興味深いところでもあり、何か共闘しているわけでもないのは一目瞭然だが、冗談半分で共闘と言っても構わないような気がするが、それが本気ではなく冗談半分であるところが、今ひとつ信用できないにしても、冗談半分で済むなら気楽になれる分、割と無責任になれて、無責任なことを実際に語っているのであり、本気で語っているようには感じられないところが、冗談半分と見なしても構わないような気がするわけで、語っている分には確かにそうだとしても、実際に世界中で起こっていることが冗談半分では済まないようなことだとしても、人が大量に殺傷されて財産も奪われてひどい目に遭っているのに、果たしてそれを冗談半分で語っても構わないのかと問うなら、構わないはずがないことだが、語っている分にはそうなってしまい、言っていることと行なっていることの間には天と地ほどの落差があるとしても、それを倫理といったらそれの何が倫理なのかと疑念を抱かれるかも知れないが、冗談半分で語るしかないような成り行きに身をまかせているはずもないのに、戦略的な観点からすればそうせざるを得ないと見ておくしかなく、何を見ておくのかというと、例えばそれがアメリカの大統領の立場であったり日本の首相の立場であったりするはずもないところだが、冗談半分でそう見ているわけでもなく、何かが微妙に違っていることは意識しているのだが、その微妙な違いが誰かの言動に表れているかというと、そんな配慮が微塵も感じられないような言動が誰によってもたらされているかが、誰とも言えないようなことでもあり、単純なことを述べている分には、愚かな識者がメディアを介して言いふらしていることでもあり、それをデマだと断定しても構わないだろうが、その種のデマゴーグなら勇ましいことをいくらでも言い放っているし、腹が立つほど権力にすり寄って人間のクズのようなことを言えば済んでしまうことには違いないが、そうはならないようなことを語っているなら、それ相応の信用が生じてきて、何やらそれらしい雰囲気をまとって時事的な話題について月並みな意見を言っていれば済むようなことでもあり、それが何だか見え透いていて、真に言うべきことを言っていないような、言うべきことを言えない代わりに差し障りのないことを言っているだけのような、それを言わせないように圧力がかかっているような、そんな勘違いな妄想を抱いてしまっても、取り立ててどうということはないのも、その程度に過ぎないことだと思うしかなく、そのどうということはないことにこだわらなければ、それらの人たちが人としての存在価値がなくなってしまうわけでもないだろうが、存在価値を云々する機会など永遠にやってこないような状況の中で活動しているなら、そんなことを考慮に入れる必要などなく、それで構わないと言ってしまうとそれっきりになってしまうだろうが、それっきりとなってしまった人がいかに多くても、それっきりとならないようにしたいなら、果たしてどうすればそれっきりとならないようにできるのかがよくわからない状況の中では、ただ偶然にそうなったりならなかったりするだけだと割り切れるかというと、そんなことは誰にもわからないし、そもそも誰もそこまで考えていないだろうし、考えなくても済んでいるうちはそれで構わないのだろうが、それでは済まなくなる時がやってくるかというと、そんなことはないとたかを括っていれば、それで済んでしまうような現状であってほしいのかも知れないが、現状がどうなっているかなんてよくわからないし、よくわからない現状の中で暗中模索の手探り状態となっていて、何か行動の指針となるようなはっきりした価値観を持ち合わせているわけでもなければ、確かなことは何も言えなくなってしまうわけでもないが、特に言うべきことがなければ黙っていても構わないし、黙っている権利も義務も知らず、黙っていろと同調圧力がかかっているわけでもなく、実際に黙らない人たちが何か言っているわけで、その言っていることをどう解釈してみても納得がいかないなら、それについて何か意見する成り行きになってしまうが、その際に避けるべきことが意見の衝突なのかというと、むしろ沈黙を守ってその場を丸く収めようとすることの方が、後々になって決定的な断絶をもたらすかも知れず、別に将来に禍根を残すとも思えなければ、禍根となったところで気づかないふりをしていればいいのかも知れないが、大抵は禍根を残すなんて思わないから、その場を丸く収めようとするのであり、必要に応じて妥協や譲歩を重ねて、何とか取り組んでいることを前進させたいのだろうが、それが仕事であればそうするしかなく、仕事でなければわざわざ面倒で回りくどいことなんてやる気にならないが、しかし仕事でなければ趣味なのかというと、趣味でもなければ、では何なのかと問われるわけでもないが、仕事でも趣味でもなければ何でもないことなのかというと、何でもないことではないから、それについて言及しなければならず、言及する限りで言及している対象に関わっているような気がするのだろうが、気がするだけで、実際にその対象へと影響力などを行使できるかというと、対象との間の力関係にもよるだろうが、こちらが一方的に言及しているだけなら、大抵の場合は相手にもされていないだろうから、言論統制や言論弾圧が行われている国に暮らしているわけでもなければ、一般人レベルでは公的な存在に対して何をどう言及したところで大したことにはならないはずだが、世の中を支配する制度や慣習が滞りなく円滑に機能している限りで、一般人には手も足も出ないとしても、何かのきっかけからうまく機能しなくなれば、実際に困った事態に陥って、制度の被害に遭って困った人たちが抗議の声を上げるような事態となれば、その被害の規模に応じてそれに言及する人もそれなりに出てくるだろうし、そんな成り行きの中でしか言行が一致する機会はやってこないのかも知れないが、誰も困っていないところでいくら不平不満を言っても誰からも相手にされないし、そこで何か困った事態が起こっているから、それについて言及するしかなくなり、困った事態を何とかしようとして行動している中で、それに言及するわけで、そういう面では言行が一致していて、行動が伴った言動となれば、それ相応の実質も伴ってきて、言葉だけでは収まらない活動となってくるのだろうが、その一方で言葉だけで完結する活動となると、何を言っても実質が伴わなければ、その実質が何なのかにもよるが、そんな活動の実態がわかってしまえば、その中身も空疎であることが知れて、誰からも信用されなくなってしまうのかも知れないが、信用されなくても困らない場合もあるだろうし、かえって周囲から過大な期待をかけられて、期待の重圧に押し潰されてしまうことも避けられるなら、信用されない方が都合が良いかも知れないし、そういうところで言葉と実質の混同が起こるわけでもないだろうが、人々の活動を円滑に動作させるために必要な制度を作るのはわかりきったことであると共に、活動が円滑に動作してしまっては困るなら、面倒な制限や制約を設けて円滑に動作できなくさせるわけで、制度にはどちらの面もあり、ある方面では動作を円滑にすると共に、別の方面では動作に制限をかけるような制度を定めるなら、円滑に動作する方面で活動している人や団体が有利となる一方で、動作に制限をかけられている方面で活動する人や団体が不利となるのは明らかだが、実際にそんな制度のせいで被害に遭っている人や団体から文句が出てくるのもわかりきったことであり、そんな制度では困るから制度改革を訴えるわけだろうが、制度の恩恵を受けている方面の人や団体であれば、逆に制度がなくなってしまうと困るわけで、そこから制度を巡って対立が起こり、場合によっては争いに発展するわけだが、果たしてそれが制度を巡る対立や争いかというと、直接にはそれに関わっている人や団体の間の利害対立であり、その中で主導権を握っている人や団体が自分たちに利益をもたらすような都合の良い制度を作って、他の人や団体に対して制度を守るように脅しをかけてくるというと、あからさまにそうするのではなく、同調圧力をかけて文句を言ってこないように黙らせようとする場合があり、そう仕向けるに当たって言葉を弄して、何やら宣伝や煽動を仕掛けている場合も多く、果たしてそういった方面での言行が一致しているかというと、それが逆説的な意味で一致しているのであり、中身のない空疎なことを言っているのに、それに伴った行動にも中身がなく、言葉や行動に中身があるように装っているのであり、それが儀式化された活動の実態を構成しているわけで、そういう儀式を重視する人や団体に主導権を握られると、それだけ中身も内容も伴わない儀式に膨大な手間暇をかけられてしまい、それが宗教的な儀式であればわかりやすいが、〇〇の祭典のような活動が頻繁にメディアを通して宣伝されているようだと、そんな空疎なイベントの類いをやりたがる傾向が世の中に蔓延している証拠となるのかも知れない。
7月14日「異を唱える機会」
当たり前のことに異を唱えるのも気が引けるが、こういうことかと急にひらめいてしまうわけだから、それが当たり前のことなのにおかしいと思ってしまうわけだが、それに関連してチャンスをわざと逃しているような気がして、実際にそうなって面食らっているふりをしているわけでもないが、いくら考えてもよくわからないことがあり、考えるだけ無駄かも知れないが、無駄に考えたからといって結論に至れるわけでもなく、もちろん結論を求めているわけでもないのだから、考えるだけ無駄なことを実践していくしかないわけだが、チャンスを逃したのはわざとではなく、単に寝過ごして株を買うタイミングを逃したに過ぎないとしても、そんなことに関連して異を唱えているのではなく、そこが当たり前のことに異を唱えるタイミングなのであり、異を唱えるべき時に唱えないと、その機会を逸してしまうのはもちろんのこと、たとえ異を唱えたところで無視されるのが関の山で、無名の一般人が何を言ってもメディア上では何でもないことなのだが、そういうこととは無関係に異を唱えるのだから、当たり前のことが行われようとしていることに反応しているのだろうが、反応しても何の効果もないことを見越して躊躇ってはまずいわけで、意識は気づいていないが、他の何かが気づいているのであり、他の何かといっても意識の他に何があるわけでもないが、反応していることは確かなのだから、その限りで何かに気づいて反応していると思うしかなく、何に反応しているのかは明らかで、当たり前のことが行われようとしていることに反応しているわけで、それがおかしいと感じるから異を唱えているのだろうが、当たり前のことが慣習に従うことなら、当たり前であるにしても、その場の状況の中ではそうではなく、当たり前のことが行われようとしているのに違和感を覚えているわけで、逆に違和感を覚えずにそれを当然視するような人がいるとすれば、その人は鈍感なのであり、その鈍感さが慣習に従うことによって補強されるのだろうが、自身の鈍感さを補強する慣習が、自らを社会的に有利な立場へと導いているとも思えないにしても、自身の立場を守るには慣習に従わざるを得ないのかも知れず、それもあからさまにそう思うわけでもないだろうが、そんなことは意識しなくても行動や言動を伴って示されることであり、そうやって示されることが紛れもない現実なのだから、そんな現実を受け止めた上で何か語ることがあれば、実際に語られている中で示されている内容が、慣習に応じて行われた動作と結びついているのは当然だが、語られていることが慣習に従って語られたわけではなく、慣習に応じて行われた動作に違和感を覚えるわけだから、どちらかといえば慣習に逆らって語られる内容になるはずだが、たぶんあからさまに逆らうようなことを語ってはまずいのであり、そんな語り方になってしまうと反対派の紋切り型的な言動になってしまうから、それも紋切り型である限りでその種の反対派が守っている慣習に従っていることになり、そんな言動になってしまうと違和感を感じられず、違和感を感じられない限りは、当たり前のことに感じた違和感とは違う言動に結びついて、それでも異を唱えていることにはなるだろうが、それが慣習に則って異を唱えるような動作になり、そういう異の唱え方自体が慣習に回収されてしまうから、異を唱えているのに違和感を伴わなくなって、心に響いてこないのであり、そういうところでいわゆる反対派と呼ばれる人たちが、自分たちが守らされている慣習に敗北していることになるのだろうが、敗北感など微塵も感じられないなら、それらの人たちも慣習を守ることによって感覚を鈍らされていることになり、もちろんそんな自覚もないだろうし、それらの人たちが自覚することなく守っている慣習が、まさか自分たちが異を唱えている慣習的な動作と地続きだなんて思いもよらないところだろうが、慣習を守るために行われる動作が、それに対する反対派の抗議活動を伴った動作であると、抗議活動とセットになった動作となっていて、それに対する抗議活動ですらもそこで行われている慣習的な動作に含まれてしまい、そこで活動が様式化してしまうから、それが大して効果を上げない抗議活動となり、活動自体が形骸化してフェードアウトしていってしまうのであり、近年においてその顕著な例となったのが、シールズなどが絡んだデモ活動であり、確か安保法制に抗議して国会議事堂へと市民が大挙して押し寄せた時が、盛り上がりが最高潮に達した時であり、今となってはそれらの活動の何が悪かったのかよくわからないだろうが、デモ活動が次第に様式美を求めてしまうのは成り行きの必然だとしても、だからといって無秩序な抗議活動をやろうとしてできるわけでもなく、仕組まれた暴動もいくらでもあるだろうが、それが暴力を排した平和的な抗議活動になる限りで、そんな活動を支える社会的な秩序が保たれていて、そこで慣習による社会の支配が成り立っているから、統制の取れた抗議活動になるわけだが、統制が取れている間はそうだとしても、統制が取れなくなってきて社会が混乱状態となれば、慣習による社会の支配も破綻して、行政当局が治安を保つこともできなくなって、暴動や略奪などが社会の至るところで発生してしまうわけだろうが、社会の秩序が乱れて暴動や略奪が起こればいいというわけではなく、むしろ社会の慣習を守りながら統制の取れた人畜無害な抗議活動が行われている状態の方が、そこで暮らしている住民にとっては生活に支障を来さないからありがたいわけだが、どういう活動になれば良いか悪いかではなく、その場の社会情勢に応じて活動の形態も自ずから変わってくるわけで、それ自体をどうこう言うのも意味のないことかも知れないが、そこで異を唱えるやり方に工夫を凝らすのにも限界があり、効果的なやり方になるようにしなければならないわけではなく、そこで何かしら機転を利かす必要があるとしても、それ以前に思考や動作が慣習に支配されている面もあるから、意識して何かやろうとしても感覚が鈍っていて、なかなか慣習的な動作から逸脱できずに、しかも意識して逸脱しようとしているわけでもないし、逸脱できずにいることに気づくわけでもないから、そんなこととは関係なく自然に振る舞っている限りで、結果的に慣習に則った動作となってしまうわけで、それをとやかく言うのは言いがかりもいいところなのだろうが、そうだとしても時にはそんな動作に違和感を覚えて異を唱えてしまうわけで、それが慣習自体の寿命が尽きようとしていることの証拠となるわけでもないが、何かそこで慣習に則った動作をしてしまうとまずいような気がして、敏感な人ほど頭の中で警報が鳴っているのかも知れず、だからといって鈍感だと不利になるわけでもないし、むしろ鈍感であるほど慣習に馴染んでいて、馴染んでいる人同士でも馴れ合いが生じて、それらの人々が連帯して慣習を守りながら、社会から慣習を守れない人を注意深く排除している実態があるなら、慣習を守っておいた方が有利なのだが、そんな社会の中で暮らしているなら有利不利とも損得勘定とも無縁になれるわけでもないだろうし、そういうことは織り込み済みの守るべき前提として、無意識のうちに守っていることでもあるわけで、そんなことも気にせず生きている人が大半だとしても、そこでも自らが不利なることも損することも厭わずに、異を唱えようとしてしまうなら、そういう動作を回避する手立てはないのかも知れず、そういうことをやってしまったからといって、個人が無名の一般人としてやる分にはどうということはないのかも知れないが、やらないよりはやった方がマシな場合があり、やってしまう成り行きに身をまかせていれば、日頃は囚われている慣習から自然と逸脱できる機会を得られて、そのタイミングを逃さずに的確に動作することが肝要であり、それが的確であるかどうかは自分ではわからないだろうが、その機会だと思ったらさっさと異を唱えてしまえばいいわけで、唱えた後は何事もなかったかのように以前と変わりなく自然に振る舞っていればいいのだろうが、違和感を覚えた時がそれを行う機会だから、そんな機会が到来したらそれをやったら不利なるとか損するかも知れないとか、邪念を抱いてしまうと躊躇いが生じて、せっかくやってきた機会を逃してしまい、やらなかったことで後悔するわけでもないだろうが、その後悔するわけでもないところが、強いられてやらされるわけでもない自由を感じるだろうし、そこで常日頃から慣習に従うように周りから同調圧力をかけられていることに気づくわけでもないだろうが、そんなことにも気づかないから、無理して慣習から逸脱しようとせずともできることになるのではないか。
7月13日「漠然とした感覚」
この世界について考える上で、何と何を結びつけて考えるかは、これまでに何を重視して考えてきたかにもよるが、ここ数日でだいぶ化けの皮が剥がれてきたようにも思われて、といっても誰の化けの皮が剥がれてきたわけでもなく、全般的に以前から薄々わかっていたことが、改めて確認できた感じがしないでもないという程度のことだが、誰の化けの皮が剥がれたと思ってみても、化けの皮が剥がれた程度ではびくともしない信念もありそうで、それを信念と呼ぶのもちょっと違うような気がするのだが、自身を何らかの立場に固定しないと言えないことがあるのかも知れず、しかも自分で勝手に立場を固定していることにも気づかないし、立場を固定しているから焦点が定まって、逆に絶えず視線が揺れ動いているから世界が揺れ動いているように見えるわけでもないが、固定した立場から固定したことを主張しても、それでは世界の揺れ動きを無視していることになるだろうが、世界そのものについて語っているわけではなく、その中のごく限られた狭い分野の範囲内で語っているから、世界の揺れ動きなど無視していられるのだろうが、そもそも世界の揺れ動きとは何なのかというと、そんなことには興味がなければ語る必要もないだろうし、世界情勢が日々揺れ動いているからといって、メディアが日々伝えるニュースなどから実感できることであれば、それがいちいち自身の主張に反映されなくても、特にどうということはなく、それとこれとは別のこととして割り切って考えれば済むような気もするだろうが、世の中で何が起こっても主張を変えなかったわけではなく、逆に何か人生を変えるような出来事が起こって、その出来事を境にしてそれまでとはものの見方や考え方ががらりと変わったから、そこから主張が生じてきたのだろうが、それと共にそんな主張に応じるように特定の立場も生じてきて、さらにそこからそんな主張を頑なに守ろうとする強固な意志も生じてきたのなら、それが何があっても動じない頑なな態度や姿勢となって、そんな態度や姿勢に伴って信念も強化されてきたのだろうが、そんな経緯を想像してみても、肝心の主張の中身がどうなのかというと、そこに触れるのが躊躇われるような代物かも知れず、主張だけがそうなのではなく、主張に合わせた特有の態度や姿勢から強固な信念も窺われて、それらが合体して眼前に迫ってくるから、それらを併せ持っている人物の主張を信じたくなってくるのだが、そんな人物を応援している人々にもそれ相応の雰囲気があり、そんな人々の態度や姿勢にいちいちいちゃもんをつけるのも気が引けるし、むしろそんな人々と一緒になって、それらの人々が批判している対象について批判的に語った方が、よりまともな態度だと思われてしまうだろうが、それをやらない理由があるとすれば、まともな理由になっていないかも知れないが、何か漠然とした抵抗感を覚えるのであり、そうではないような気がするというと、では何なのかというと、深く関わってはならないのであり、関わる必要ないことなのかも知れず、それとは違う方面で関わらなければならないことが他にあるのかも知れないが、それがすでに関わっていることであるなら、この世界について考えていることでもあり、それがメディアから伝わってくるような世界情勢ではないとすれば、やはりでは何なのかと問わずにはいられないわけだが、改めて問わなくてもわかっていて、それもただ漠然とわかっていることであり、何だかわからないがそう思っているに過ぎず、定まった答えなど元からないから、問いたくても問えないことなのかも知れず、そんな問いにならないような問いに答えくれるお人好しが他にいるわけでもなく、それらの人々にそんな問いになっていない問いをぶつけてみても無視されるだけだろうが、何か違っていると思うのだから、深く関わる気にはなれないのだろうし、だからといってそれらの人々の存在を無視したいわけではなく、共感できる部分については軽く触れる程度に共感を示しておけばいいのであり、それ以上でも以下でもないと思っても、それ以上の共感を示す時もあるだろうし、全く共感を示さない時もありそうだが、それが首尾一貫した姿勢というわけでもなく、その時々で態度も姿勢も変わってしまうのかも知れないが、それを自覚しているわけでもなく、その場の状況や情勢に合わせて態度や姿勢を変える時もあるし、そうは思えない時もあるから、首尾一貫していないのだろうが、それが強固な信念に凝り固まっていることを示すわけでもないはずだが、それとは別の面では、そこから強固な信念が生じてくることもあるかも知れず、それが何なのかといっても、実際にそうなってみないことにはわからないが、それも時と場合によりけりなのであって、しかも同時に時にも場合にも依存していないのかも知れず、それだけでは何とも言えず、他に何かこだわっていることがあるのかも知れないが、それに自分でも気づいていないから、首尾一貫していないように感じられるのだろうが、気づかなくても構わないのであり、気づかなくても何かに導かれるようにして言行が一致している面があり、それが他人に気づかれないことも肝要なのかも知れないし、実際に首尾一貫していることが他人に知れてしまうと、行動や言動がわかりやすくなって、そのパターンが読まれやすくなり、そうなると割と簡単に対処されてしまうのであり、そういうことに関して弱点をさらけ出している政治勢力を挙げるなら、日本では伝統的に社民党や共産党などがそうだろうが、そうした政治勢力と関わりを持つことが危険だとは誰も思わないだろうが、逆に人畜無害だと舐められてしまうし、確かにわかりやすい主張を掲げるのは多くの人々から理解してもらうには必要なことだろうが、政権を握って行政を取り込むにはそれだけでは足りないのもわかりきったことで、行政から協力を得られないと政治にならない面があり、時には行政と共に官僚機構の弊害を共有する必要も出てきて、それが何を意味するかは、実際に行政に携わる機会を得ないとわからないだろうが、そこへ至る成り行きから外れてしまうと、ある一線を超えて行政を批判しているだけで事足りてしまう領域に入ってしまうから、批判することに特化した政治勢力を形成して、時には譲歩したり妥協したりするような政治的な交渉を伴った活動が形骸化して、政治活動の傾向がわかりやすく単純化してしまうのだろうが、そういう傾向になっていることを当事者が自覚できるかというと、自覚できないから現状の政治的な停滞がもたらされているというと、それも少し違うのかも知れないが、そういうことに連動して日々の情勢が揺れ動いていて、そこでどんな勢力が政治的な停滞を打開しようとしているとも感じられないし、実際に停滞を打開するために政治活動を始めた人たちもいるはずだが、それが今のところは打開するには至っていないから、しかも打開するどころか主導権を握っている勢力からいいようにあしらわれている現状もありそうだが、その一方で政治から背を向けて特定の分野へとのめり込んでいる人たちの方でも、それと自覚することなく停滞した現状を打開しようとしているのかも知れず、それもそれと自覚していないことが重要なのかも知れないし、そう言える根拠がどこにあるのかと問われるわけでもなく、そうかといって誰が政治的な停滞を利用してうまく立ち回っているわけでもないだろうし、それどころか誰も政治を回避できていないわけで、回避できないから多くの人たちがひたすら無関心を装うのだろうが、無関心を装った結果が自業自得な自滅をもたらしているわけでもないと思うなら、そうではないと思っておけば事足りるかも知れないが、それで済んでしまうなら、政治といってもその程度で済むようなことだとたかを括っていればいいかというと、いったいどれほどの人たちがたかを括っていられるかが、現状で問われているわけでもなく、他に何も問われているとも思えないわけでもないが、現状で問われていることが現状からずれていれば、的外れな問いになってしまい、自分たちの現状に対する問いが的外れになっているかどうかが、自分たちにわかるかというと、自分たちにはわからず、自分たちとは全く関係のない現状から遠く離れた後の時代になってみないとわからないようなことであるなら、自分たちには手の打ちようのないことかも知れないが、それらの人たちを含めて自分たちと言えるような連帯感を感じていなければ、自分で勝手に抱いている勘違いな妄想に過ぎないだろうが、どこの誰がただ漠然とそんなことを思っているわけではなく、そういう思いを書き記していくとそういう感慨に至るわけで、もちろんいつもそんな感慨を覚えるに至るわけでもないだろうが、何かの偶然が作用してそうなるとも思えないなら、何かしら作用や影響を及ぼしてくる物事があるのかも知れず、それが今のところは何だかはっきりしないが、いつかそれがはっきりする機会がやってくるとも思えないわけだ。
7月12日「因果応報」
世の中で何かが狂っているように感じられることが、なぜかそうなってしまったのが当然のことのようにも思われて、それが不思議でならないのだろうが、そうかといってそうなった結果から振り返れば、そうなるのもある意味では当然のことのように感じられるなら、そこで結果に騙されていることになるのかというと、そうなる過程の中ではおかしなことが起こっているのに、そうなった結果からそこに至る成り行きを説明しようとすれば、途中で起こっていたおかしなことがうまく説明できなくなってしまうなら、それが不思議でならないのだろうが、ではそのおかしなことが何なのかというと、それが数日前の元首相が射殺されてしまったことであるなら、確かにそれがおかしなことなのだろうが、それが結果ではなく途中のエピソードであり、まだ結果に至っていない段階で、そこから結果がどうなるかを予想しようとしているのだとしたら、これから先にさらにいくらでも思いがけないことが起こりそうなら、まだ材料が出尽くしていないのかも知れず、そんな中途半端な段階で何を予想しても当たるわけがないだろうが、現状で確かなことが言えるわけでもなければ、そんな結果から振り返ってそうなるのが当然のことのように思われるかどうかは、現時点では何とも言えないし、結果が出るのがまだだいぶ先のことになってしまうのなら、それが因果応報の結果だと感じられるようになるまでには、さらにわけのわからない紆余曲折が待ち構えているかも知れないが、それが思いがけないことになるなら、現状では予想もできないことになるかも知れず、それを結果から振り返って当然のことだと思うなんて、現状では信じられないことだろうが、実際に統一教会とかいう韓国で生まれたおかしな宗教団体が霊感商法とかいう詐欺商法によって金儲けをしている一方で、そんな詐欺商法の広告塔として利用されていた与党政治家が恨みを買って殺されたという事件において、たまたまその政治家が元首相だったという事実が驚きだったわけではなく、他にも関係が取り沙汰された詐欺商法があったはずで、それが磁気ネックレスなどを売りつける詐欺商法であり、そんな詐欺商法をやっていたジャパンライフの広告塔にも利用されていたわけだから、詐欺商法の被害に遭った人から恨まれる危険性があったことは確かであり、結果として実際に銃撃されてしまったのだから、身から出た錆というと酷だろうが、当人だけではなく父親や祖父の代からの付き合いであり、避けられないしがらみだった可能性もあるから、そうなってしまうのも世襲政治家の宿命なのかも知れないが、それが奇怪な銃撃事件に至ったことは確かで、誰もがそうなった結果に着目していることは確かだが、それも成り行きの途中の紆余曲折の中で起こったエピソードのうちの一つでしかないとしたら、他にも様々なエピソードがあるかも知れないし、これから新たに何らかの事件が起こるかも知れないが、これまでも様々な事件が起こる度に、疑惑が囁かれては揉み消されてきたわけだから、きっとこれからも何かが起こると予想したくなるが、それも何らかの結果に至る途中で起こるエピソードのうちの一つでしかないなら、果たして今後何らかの結果から振り返ってそうなるのが当然だと思うようなことになるかというと、それもこれまでにもいくらでもそんな機会があったのかも知れないし、いくらでもその度にそうなるのが当然だと思ってきたのかも知れないが、客観的に考えて、そう思ったところでまだその先があるわけだから、その場ではそう思ってもそんな思いがいつまでも持続するわけではなく、また新たな出来事が起これば、それが起こった時点から過去を振り返って、そうなるのが当然だと思うように関連する出来事を取捨選択して、それらを結びつけてそうなるのが当然だと思うような事の成り行きとして頭の中で構成してしまうわけで、それを出来事のフィクション化と呼んでも、現実に起こった出来事が成り行きとして構成されているのだから、フィクションとは言えないはずだが、フィクションとは言えないまでもノンフィクションというジャンルもあるわけだから、それを物語る上で説得力のある事の成り行きとして構成したいわけで、それがたまたま偶然にそうなったわけではなく、そうなるに至る理由として納得できて、必然的にそうなったように語りたいわけだから、そうなるのが当然のことのように語ることができれば、語っている内容に説得力が伴うのも当然のことだろうが、説得力を得られなければ信用されず、嘘を語っていると思われるだろうから、霊感商法で一般市民から金を巻き上げる際にも、それなり説得力のある嘘をついて騙すのだろうし、過去にその人が不幸になるのも当然の行いをしたから不幸になり、その不幸を逃れるには不幸を払い除けるような何かを手に入れなければならず、結局はそれを高額で買わされる羽目になるのだろうが、そこまで持っていく過程の中でうまく信者を誘導するマニュアルが確立されていて、結果的に多くの人々が霊感商法の餌食となり、今もそんな宗教団体が活動しているわけだから、依然としてその種の被害が出続けているのだろうが、人の不幸を商売に結びつけようとすれば、すでにそれが否定的な行為なのだから、恨みを買う可能性も高まるだろうし、しかもそんな商売に引っかかった人がさらなる不幸に遭うのだから、恨まないはずがないだろうし、そんな結果から振り返れば、そうなるのも当然ことのように思われるが、それでもそうなる途中の段階では、不幸から逃れられると思うだろうし、そんな淡い期待を抱くからそれを逆手に取られて無理して高額な商品を買わされてしまうわけで、それが詐欺商法の思う壺なのかも知れないが、それは政治に関しても言えることかも知れず、現状の内閣や政権政党を支持している人たちも、無理して高額な商品を買わされているわけでもないだろうが、メディアから誘導されて消極的に信じ込まされていることがあり、またそれは他の政党や政治家を支持している人たちにも言えることかも知れないが、その際にいつも騙されているわけでもないのだろうが、何かを結果から振り返って何やら説得力のあることを主張されると、どうしてもそれを信じたくなってしまうだろうし、そういう意味で各政党が説得力のある主張を競い合っていて、それによって選挙結果が左右されるなら、誰も文句を言えないかも知れないが、実態としてはそうではなく、どの政党も胡散臭いことを主張していて、説得力のある主張や意見など皆無だと思っているなら、それも思い違いだろうが、たとえ主張に説得力がなくても特定の政党や政治家に投票してしまうとすれば、では投票するに当たって何か納得できる判断基準があるかというと、そうでもなく、主張に説得力があるとは思えなくても、投票することに納得がいかなくても、勝手な義務感を抱いて投票してしまい、果たしてこれでよかったのかと後悔することもあるだろうが、これと言って納得できる理由や原因もなければ、必然的にそうなったとも思えないことが、世界の方々で起こっているのに、それが起こった後からそれが必然的に起こったように言いくるめられてしまうと、騙されたような気持ちになって、それでもそれに対して反論する気にもなれないし、それで気が済むなら言わせておけばいいと半ば諦め気味になって、下手に食い下がって論争になるを避けようとしてしまうかも知れないし、論争にもならずに無視されてしまうのが現状で起こっていることの大半だとしても、何だかよくわからない中途半端な心理状態の中で粘り強く疑念を抱き続けることが肝要なのだろうが、これだと決めつけて納得できる結論を求めて、無理に結果を出そうとしてはいけないのはわかっていても、決断を迫られて理由や原因のわからないことを合理的に考えて拙速にこうだと判断してしまうと、大抵は思いがけないことが起こって、合理的に考えて判断したつもりが、それを裏切るような結果に至って、愕然としてしまい、そんな結果から振り返れば、判断するのに都合のいい要素や要因だけを考慮に入れる一方で、それ以外の要素や要因を無視して、それが合理的な判断だと勘違いしていたことに気づくかも知れないが、それと共にそうなっても構わなかったことにも気づくわけで、そこで失敗しないとその先へ進めないから、その先に進もうとしていたわけでもなくても、なぜかその場の成り行きの中で拙速な判断をして痛い目に遭ってから、それが取り返しのつかない失敗だったとしても、そうなったことによって心的外傷を負いながらも、その先にたどり着いているわけで、しかもそうなったところで何がどうなるわけでもないのに、大した利益も得られないどころか、負債の方が膨らんでしまったようにも思われて、それだけ寿命を縮めてしまったのかも知れないが、何はともあれそこがゴールではなく、まだその先があることに気づけば、徒労感や疲労感しか残っていないことにも気づいてしまうのではないか。
7月11日「実践への配慮」
誰かの身の上話に感銘を受けるのはその人の勝手だが、勝手では済まなくなってくると、それについて考えなければならなくなり、考えたとしても何がどうなるとも思えないなら、そんな話に感銘を受けている場合ではなく、それとは別の何かに興味があるのかも知れないが、それが自身に関係してくることであれば、それに関わろうとして自分が行動した結果として、何かがもたらされることに期待して、実際に行動して期待するような結果を得ようとしているのかも知れず、そうなってくるとそんな実践が、誰かの身の上話とは一見無関係に思われるが、誰かの身の上話に感銘を受けて、自分も行動してみようと思うなら、その話に感化されていることになるだろうが、そう単純に誰かの身の上話と自身の行動が結びつくとも思えなければ、それとこれとは別問題で、自分で勝手にやっていることだとしても、他の何かから影響を受けながらやっていることで、しかもそれが特定の何かだと意識しているなら、少なくとも誰かの身の上話程度のことではなく、何かもっと高尚な思想などから影響を受けているのかも知れないが、一概に思想といっても哲学的なそれっぽい感じではなく、特定の理屈や論理では割り切れないような錯綜したものになるかも知れず、それを矛盾と捉えなければ、世の中には様々な傾向や程度を伴った実践があり、そんな実践の中に自らの実践も含まれてくるなら、他と比較して自分の実践がどのような傾向や程度を伴った実践なのかを知りたくなり、それを比較してどうするのかといえば、自らの実践を正当化したいのであり、また他の実践が気に入らなければ批判したいだろうし、それが自身の実践と噛み合って同期しているならそれを認めたいが、相容れない傾向を伴っていれば否定したいだろうし、それも単純にそう思うわけではなく、他の実践との兼ね合いから、他の人や集団に迷惑をかけるようなことをやっている人や集団の実践を容認できないとしても、そんなことを思っている自身も、他人に迷惑をかけながら実践していることがあるなら、お互い様なのだろうが、それを矛盾と捉えるわけにはいかず、様々な人や集団の実践が錯綜している中から、ある特定の実践を選び出して、それを一方的に称賛したり非難するわけにはいかないのであり、そうだとしてもその程度や傾向が受け入れ難ければ、何かしら否定的な反応を示すしかなく、反応を示したところでどうなるわけでもなければ、それっきりになってしまうのだろうが、自らの実践がうまくいかないのを他人のせいにできる限りで、他人の実践を批判することができるだろうが、その実践の内容が他人の実践を褒めたり貶したりすることに特化してしまえば、そういうことにかかりきりとなってしまうこと自体が、他人の実践に依存した実践となり、自分で勝手にやっていることではなく、勝手に褒めたり貶したりしていると思っていても、世の中の慣習に囚われていることにもなるだろうし、例えば著名人が亡くなれば、その人の生前の功績を讃えることが、その人の葬儀の際に行われる慣習と化していて、そんな慣習の延長上で語っていることが、メディアを介して垂れ流されていることであったりして、そうなると誰もその種の慣習に逆らって故人を貶すことができなくなってしまい、その人が生きている間は延々と貶していた人も、同調圧力で抑え込んで黙らせるような効果があり、それが一時的な期間で有効に作用するのだろうが、もちろんそこから時が経って、そんな効果が薄れてきた頃には、その種の慣習に依存して他人を褒めたり貶したりしていた人も、その対象となっていた人も、世の中から忘れ去られているようなら、他人を褒めたり貶したりするのにも有効期限があって、その期限を過ぎれば効力がなくなって、その頃には別の人が別の人を褒めたり貶したりしているだろうが、他人を褒めたり貶したりする程度ではどうにもならないことがあり、そういう実践にも限度や限界があるのはわかりきったことだが、そればかりにかかりきりとなっているわけでもなく、逆にそんなどうでもいいことにかかりきりとなっている人が哀れに見えてしまうのかも知れないが、あまりそういうことに敏感に反応するのも不自然な印象を与えるし、そういう実践が慣習に囚われているなら、そのまま放置しておくのが自然な対応のように感じられて、そんなことをいちいち問題視して、とやかくいちゃもんをつけること自体がうざく感じられるし、慣習は慣習として受け流すような態度でいる方が無難だろうが、世の中の大勢がそういう傾向に対して鈍感になっていること自体が、ある種の病的な兆候を示していると言うと、事を大げさに捉えすぎているのだろうが、感覚の麻痺といえば他にもいくらでもその兆候があるし、選挙で何の主張も伝わってこない政権与党のテレビタレント候補に投票する人たちも問題視されていたが、また選挙が政権与党の大勝で終わったことに対して、いつもながらの野党の力不足をメディアで指摘する人たちも、そう指摘することが慣習となっていることに鈍感なわけで、そんな感覚の麻痺が世の中に蔓延しているわけだから、それはそれとして多くの人々にとっては許容の範囲内なのだろうが、それで構わないのかというと、今は構わないと述べておくしかなく、今は構わないがいつかそんな傾向が変わっていくことに期待したいだろうが、実際にそうなってみないことには何ともいえないわけで、無理にそうなるように仕向けなくても一向に改まらなくても構わないが、ただその種の慣習に従った実践が、多くの人々がそれを自覚することができず、まるで催眠術にかかったかのように無意識のうちに行われていることが、後々になって大変な事態を引き起こすとは限らず、むしろ大変なことになるぞと警鐘を鳴らすこともありふれた慣習的な動作であり、慣習的な動作に従うのも逆らうのも慣習的な動作に収斂するしかなく、どうやっても慣習的な動作から逃れられないことが、社会の中で活動する人間の限界を物語っているのだろうが、そんな限界を前にして何をやればいいのかといっても何もやりようがないのかも知れないが、絶えずそういう慣習に対して自覚的に行動しようとしても、すでに大多数の人々が慣習に囚われている中では無力であり、誰もわかってくれないと自らの無力感を嘆くことしかできないかというと、そうでもないと無理に反論するわけにはいかないが、自身では自覚することができないにも関わらず、しかも周囲の人たちもそのことに気づいていないにも関わらず、なぜか人知れず慣習に従いながらも逆らうでもないことをやってのける人が出てくるかというと、その従いながらも逆らうでもないことというのがどういうことなのかよくわからず、戸惑いを覚えるしかないが、たぶん死んで故人となった後に生前の功績を讃えられながらも、そこから一定の期間が過ぎ去ってしまえば世間から忘れ去られてしまう人がいくらでもいる一方で、世間が忘れ去っても誰かが覚えていれば、その覚えていること自体が慣習として覚えているのではなく、その人の業績と共に覚えているわけで、その人の生前の実践から業績が生まれるのだろうが、そんな実践の内容が誰もが従う慣習ではなく、その人の思想や論理や哲学などに基づいて構成されていると、後世の人が慣習に従ってその人を覚えているというよりは、その人が生前から著名人であったり、死後に名声を獲得した面では、大半の人々はそうした社会的な著名や名声などの慣習に従いながら覚えているわけだが、その人が実践した内容となると、慣習に囚われた大半の人々はそこまで踏み込まず、歴史的な著名人という水準で覚えているわけだから、歴史的な著名人を覚えるという慣習に従って覚えている限りで、慣習が許容する限りのその人に関するありふれたエピソードや著書名と共にその人の名前を覚えているに過ぎないだろうが、しかも慣習によってその人の慣習に従っているのとは違う面が隠蔽されたり改竄されている面まであれば、あえてそういうところまで踏み込まないだろうし、ありふれたエピソードや著書の世間的な解釈を鵜呑みにする限りは踏み込めないだろうが、なぜその人が死後の慣習的な功績の賞賛などの一定の期間が経過した後も忘れ去られずに残っているのかということが、ただ慣習に従っているだけでは他の大多数の慣習に従っているだけの人々と同じになってしまうから、そういう人は忘れても構わないの対して、慣習とは違う方面で実践して業績を残すと、その業績を説明するにはただ慣習に従って功績を賞賛するだけでは説明し切れない面が出てくるわけで、しかも慣習に従っているだけの人にはそういう方面での説明ができないし、それがいわゆる紋切り型的な説明になってしまうわけだが、要するに政権与党が大勝に終わった選挙結果を説明するのに、野党の力不足という紋切り型程度のことしか言えない人にはそれが説明できないわけだ。
7月10日「計算ずくの結果」
事前に計算した通りの結果を得られるなら、計算可能な結果を得られたことになるが、それが計算できるということでもあり、そんな結果に釈然としないわけではないが、とりあえず受け入れざるを得ない計算結果であり、計算結果が合っていれば済むことであれば、それに越したことはないが、計算が合わなくなれば、どこかで計算ミスがあったのかも知れないし、計算を何度もやり直して答え合わせをして、ミスを修正すればいいとしても、それがわからなければ計算できるという前提が間違っていた可能性もあり、そこに計算できない何かがあるということになれば、それが何なのかというと、計算では導き出せない答えがあるのかも知れないが、ではそこで何が問われているのかといえば、計算が成り立たないような答えを求める問いがあるということになると、少なくとも答えの求め方が算術的でも論理的でもなく、何かその場の偶然に左右されるようなことがあり、そんなことが問えるかというと、答えの出ない問いなら納得できるかも知れないが、そんな問いがあること自体が納得できないのかも知れず、また答えが出ないのではなく、答えのない問いというのもありそうで、両者の違いが微妙にわからないところだが、そこで何が問われているわけでもなければ、答えなど元からなかったのかも知れないし、計算以前に計算して求める答えとは違う答えを求める必要などないような気もするが、必要でもないのに答えを求めようとしているなら、では何のために答えを出そうとしているのかと問われるかも知れないが、何も問われていないのに答えだけがあるはずがなく、問いと答えがあるから問答が成り立つのであり、問答のないところで単独で問いと答えを導き出そうとすれば、何か無理矢理感が半端ないが、それでも問いたいことがあるような気がして、計算して答えを求めるような問いではなく、取り立てて何が問われているわけでもないのに、急に答えがひらめくようなことなのかも知れず、そして答えがひらめいてから、そこで何が問われていたのかを知ろうとするわけで、求めるのが答えではなく問いであり、答えが出てからそんな答えに合う問いを求めるという本末転倒なことをやろうとするのであり、それ自体が問答の捏造なのだろうが、なぜそんな問答を捏造しなければならないのかに関して、それ相応の経緯や事情があるのだろうし、例えば計算通りの結果が出るような成り行きへと持って行こうとして、その場に居合わせた人たちが示し合わせて、あらかじめわかっている答えを導き出すために、誰もが安心できる問いを求めようとしていて、それがどんな問いなのかと言えば、例えばなぜ日本ではバブル崩壊以降二十数年間ものデフレ不況が続いているのかと問うならば、もうすでに世界的なインフレに巻き込まれているから、デフレ不況ではなくなってきて、問いが成立しなくなってきたのかも知れないが、インフレが一時的なものに終われば、また以前と同じような問いが蒸し返されるのかも知れず、さらにいつの間にか二十数年間が三十数年間にもなって、いつまで経っても性懲りもなく同じような問いになってしまうのかも知れないが、実際にそうなるかどうかは今後の成り行き次第だが、それが根本的なところでは無意味な問いであり、答えを言いたいがための問いになってしまうと、答えを言うにはどういう問いにすればいいのかが問われていて、問われていること自体が当初の問いたかったことからずれてしまっているのだろうが、では元々何を問いたかったのかと言えば、どうすればバブル崩壊で落ち込んだ日本経済を立て直すことができるのかということだったのだろうが、それに関してはすでに答えが出ていて、実際に導き出された答えに則って経済を立て直している最中なのであり、それが税の直間比率の見直しであり、所得税や法人税などの直接税を減税する代わりに、新たに消費税を導入して間接税の比率を増やしたわけで、それが結果的に二十数年間にも及ぶデフレ不況をもたらしたと批判したい人の出現をもたらしたわけだが、税の直間比率の見直し自体が政府の財政再建を目指して行われたのであり、しかも結果的には財政再建どころか、さらなる赤字国債の乱発によって財政悪化を招いてしまったわけで、そうなると問いどころか答えも無意味なのかも知れないが、では捏造された問いや答えを無視しながら何が進行中なのかというと、その地域に見合った経済状態になっているのであり、そんな経済状態に応じた政治情勢にもなっていて、それ以上でも以下でもないというと身も蓋もないわけだが、問いや答えに沿った問題設定がなぜ無意味になってしまうのかといっても、そんな問いを発すること自体も無意味なのかも知れないが、現状を都合のいいように捉えようとして絶えず問いや答えを捏造しては、結果的に現状に跳ね返されてしまうと情勢を捉えるなら、問うまでもない問いを発して答えるまでもない答えを求めていると捉えておけばいいのかも知れないが、たとえ問いや答えが無意味だとしても、問わないわけにはいかないし答えないわけにはいかず、問いや答えを政治や経済の現状に結びつけて活動しているわけだから、そういう意味で問いや答えが活動の原動力になっているわけで、そういう意味では無意味にはなっていないわけだが、活動する目的に合わせて問いや答えを捏造しているのだとすれば、活動そのものが答えとなるような問いを発し続けているといえるだろうし、それが活動の正当化につながり、活動によってもたらされた結果がこれでいいのだといえる結果をもたらしているのかというと、必ずしもそうだとは言えなければ、答えが問いからずれていて、結果が答えとなるように問いを再調整する必要に迫られているのだとしても、再調整しようとしているのかというと、どうもその気配など感じられなければ、意識して再調整しなくても自然にそうなるように仕向けられてしまうのかも知れず、現状に合わせないと活動が成り立たなければ、嫌でもそうならざるを得ないわけだが、果たして本当にそうなるのかというと、現状に活動を合わせられない人や団体は、現状で行われている競争から脱落していってしまうのだろうが、そこで競争することが活動そのものなら、確かにそうならざるを得ないが、活動のある面ではそうだとしても、競争から脱落することも活動に含まれているとすれば、競争から脱落する者も出てくれば、それと入れ替わりに新たに競争に参加する者も出現して、そうやって競争が維持される限りで、競争が行われている方面では現状が維持されるのだろうが、現状が維持されない面もあるだろうし、維持されなければ現状が変化して新たな状況が出現するわけだが、新たな状況となったとしてもそれに合わせて活動する人や団体が存在する限りでそうなっていて、そこでも活動を正当化する理由として、活動が答えとなるような問いが捏造されて、そんな問いを発することによって絶えず現状に働きかけることになるのだろうが、その活動が現状と適合する限りで維持されることになり、それに伴って問いにも意味や意義があることになるのかも知れないが、中には問いに意味や意義があることを信じられない人もいて、問いとその答えとなる活動自体の無意味さにも気づいてしまえば、無意味な活動から遠ざかってしまうのだろうし、それが競争からの脱落も意味して、脱落という否定的な意味を伴って、その人の転落人生もスタートしてしまうのかも知れないが、それを転落人生だと否定的に捉える必要もないのかも知れず、捨てる神あれば拾う神ありで、必ずしもそれが神である必要もないのだろうが、神でなければ何なのかというと、その場の情勢といってしまうと曖昧になってしまうが、様々な要因がその場の情勢に関わっているから、一概にそうなっている原因を特定するわけにはいかないだろうが、情勢がそうなっている理由を問うと、何か一つの答えが導き出されてくるかというとそうでもなく、もしかしたらそうなっている理由などいちいち問わなくても構わないのかも知れず、その理由や原因を特定することだけが答えとなるわけではなく、さらに答えにならなくても構わないのかも知れないが、では答えにこだわらなくても活動が成り立つのかというと、活動が答えになるように持って行かなくても構わないのだろうが、それでも何かしらこだわりがないと活動としての体をなさないのかといえば、体をなさなくても構わないのかと問いたくなってしまうが、絶えずその種の問いからずれるような活動となってしまえば、それが計算ずくでやっていることだとは思えないだろうが、意識していなくてもそうなっているようなら、その場の情勢に合わせることが、自身の活動からずれてしまうことにつながり、自身の活動からずれることによってしか、その場の情勢に合わせられないと捉えればいいのかも知れないが、意識しなくても絶えずそれを自覚することなくずれていってしまうのかも知れず、そうなっている限りで自らの活動を自らが裏切っていることになるのではないか。
7月9日「人の死」
人が死ぬことが何でもないはずがないが、時と場合によってはそうでもなく、実際に戦争によって多くの人命が失われていて、その死んだ人に関わりがあるなら、関わり方にもよるだろうが、それなりに重く受け止めるかも知れないが、関わり方次第では、例えばウクライナに軍事侵攻したロシアの大統領のように、自国の兵士や隣国の兵士や市民が大量に死んでいるのに、平然としているように見えてしまうところが、何か感覚が狂っているように感じられるが、そんな無慈悲に見えるロシアの大統領でも、自身の近親者が亡くなれば悲しむかも知れず、また戦争に伴って自国や隣国の経済的な損害も莫大な額に上ることについても、平和であれば何よりも優先されるはずの経済的な利益が、戦時下ではどうでもいいことではないにしても、それよりも優先させなければならないことがあり、それが敵国に与えなければならない経済的な損害であり、自国も損害を被りながら敵国にも損害を与えるのだから、消耗戦になっているわけだろうが、そんな中で人も物も消耗していくと共に、自国や敵国以外でも、世界中が迷惑しているにも関わらず、それでも戦争を継続させているのだから、もはや止める手立てがなくなっているのかも知れないが、人の死は戦争の継続と停止の両方に関係することかも知れず、殺せる人がいる限りは戦争が継続して、人が死に絶えて戦争に関わる人がいなくなれば戦争も終わるだろうが、そこまで戦争が継続するかというと、大抵はそこまで行かずに終わるかも知れないが、そういう意味では人の死が戦争では重要なファクターになっているとしても、それと共に物的損害や経済的な損失なども重要なファクターになっているだろうし、人を壊して物も壊すことが戦争の中で行われていることであり、そんなことの中で戦死者の数や民間人の犠牲者の数などが、戦争の規模を決める要因とも言えそうだが、戦争に関してはそうかも知れないが、人の死に関しては、何人死のうが、そんなこととは関係なく、それが他人の死ではなく、自分と死となると、何か特別なことになるわけではなくても、誰が死のうが関係ないとは言えず、そこに計り知れない差異があるようにも思われて、少なくとも現状で生きているのだから、そのまま生きていても構わない状況であれば、わざわざ死のうとは思わないし、死にたくなるような事態にならない限りで、自らの死を避けようとするだろうし、そういう意味では人の死というよりは、自分の死に特別な意味があるわけではないが、自分が生きていることにはそれなりの意味があるような気がするかも知れず、その意味が人の死を考えることができる程度の意味なのかも知れないが、考えてみたところで自分が生きていることには変わりなく、自分の死も人の死に含まれるのだろうが、生きていることと死んでいることに違いがあるのは確かだが、他人が死んだとしても、それと自分が生きていることが比べられるわけでもなく、比べること自体がおかしいだろうが、人の死には他人の死も自分の死も含まれているが、それと自分が生きていることが関係があるわけでもないところが、自分が生きている限りで、他人の死に無関心になれるわけでもないが、それが論理的にどうなっているわけでもないとしても、他人の死は他人事であるかも知れないが、ある意味では自分の死も他人事かも知れないし、自分の死を想像している限りで他人事ではないが、実際に自分の死に直面してしまえば他人事となってしまうのかも知れず、そういう意味では人の死が他人事であっても構わないだろうが、死に関して想像を巡らしてしまうと、たとえそれが他人の死であっても他人事ではなくなるのであり、他人の死をまるで自分のことのように思って涙を流す人も出てくるかも知れないが、それが想像を巡らす限りでそうなるのだから、フィクションであるのかも知れず、他人の死を現実のことだと受け止められなくなっているのであり、他人の死を悲しんでいる人がいるとしても、その悲しんでいる対象が現実の死であるとは限らず、少なくとも死そのものではないのだとしたら、微妙にずれていて、それは自分の死に当てはめてみるとわかることであり、自分の死そのものではなく、自分の死を想像しているわけで、死の現実ではなく死を想像しているから感情移入ができるのであり、死を想像して都合のいいように解釈しているというと、ちょっと違うのかも知れないが、自分の死も他人の死も人の死として想像しているのであり、その想像力が死を死として受け止めないようにして、死というよりは生の延長が中断された事態として捉えようとするわけで、それが死ではないのかと思うだろうが、死そのものではなく想像上の死であり、それが死だと思い込んでも構わないが、出来事としての死ではなく、死という出来事を想像しているわけだから、死がフィクション化していて、それを本当の死だと思い込んでいると、死のフィクション化に気づかなくなり、他人の死を飾り立てる言説を受け入れて、死んだことの事実を見失ってしまうのだが、それが具体的な形を纏うなら、死の葬儀化だといえるだろうし、死のフィクション化自体が死の葬儀化でもあるわけで、葬儀自体が人の死をフィクション化する試みであり、死を飾り立てると共に、その人の生前の行いを美化したいわけだが、それが死の現実を受け入れようとせずに、あたかも架空の出来事のように装うのだろうが、それが死をやり過ごそうとする姑息なやり方だとは誰も思わないはずだが、死の儀式が死そのものであるはずがなく、葬儀は葬儀として死とは別の行為として、死に関わりながらも、葬儀が死に関わっているように見せかけるわけだから、それが関わっていることには違いないのだが、葬儀を執り行っている頃には死が過ぎ去っていて、死の後始末をしていることになるかも知れないが、死というよりはその人の生の後始末をしていることになり、葬儀をすることによってその人の生に区切りをつけていることになるのだが、その時点で死を通り過ぎていて、死んでしまっている事実はどうすることもできないから、その代わりに生前の行いを言説の対象とするしかなくなり、葬儀の際に生前の行いを貶すわけには行かないから、ひたすら美化するしかなく、そんな美化された言説を葬儀に参加する人たちが貶すわけにも行かないだろうし、葬儀に参加する人は葬儀の対象となる人の美化を受け入れざるを得なくなり、そうなっている時点で同調圧力に屈しているわけで、葬儀という儀式に参加している時点で、すでに同調圧力に屈して参列しているわけだから、当然のこととして参加することと引き換えにしてその人の美化を受け入れざるを得ないわけだが、儀式というのは形だけ従えばいいというと、本心から従っているわけではないとしても、儀式に参加している限りは従っているように見えてしまうわけで、それを同調圧力に屈していると受け取っていいのかというと、参加している当人がそうは思わなくても、儀式を見ている人たちがそう受け取ってしまうのであり、また儀式を執り行っている側でもそう見なすことができるから、より多くの人が葬儀の対象となっている人の美化に加担するように仕向けているわけで、そこにマスメディアも加担しているなら、そうした葬儀を大々的に報じるだろうし、葬儀の対象者に対する美化をより多くの人々に受け入れさせようとして、ひたすら葬儀の光景を伝えようとするだろうが、すでに葬儀を行う前からその下準備として、その人の生前を美化する報道をひっきりなしに伝えていなるなら、それ自体が葬儀に連なる儀式と化していて、生前のフィクション化がすでに進行中なのだろうが、それが死のフィクション化と言えるかというと、フィクションなのではなく、死はすでに既成事実として織り込み済みなのであり、生前のフィクション化と死のフィクション化は違い、死のフィクション化である葬儀において生前のフィクション化が行われるわけで、しかもまだ葬儀に至っていない段階で生前の美化であるフィクション化がメディアによって前倒しで報道されているわけだから、念には念を入れて、その人の死の意味を考えさせないように仕向けていると捉えるなら、その人の生前の行いに関して隠そうとしていることがあり、それを人々が思い出せないようにするために、生前の美化を仕掛けているといえるだろうし、それが何かといえば、その人の汚点であり、生前に行なった数々の悪行三昧であり、生前にひどいことをやった著名人ほど、メディアがこぞってその人の生前の行いを美化しようと仕掛けてくるのであり、そんなメディアが何かというと翼賛メディアだと言えるだろうし、それを多くの人々に知られては困るから、隠蔽工作として生前の美化であるフィクション化が大々的に行われるわけだ。
7月8日「言論と暴力」
抵抗感を覚えることにはなるべく触れないに越したことはないが、それはそれとして何か語ることがあれば語らざるを得ず、確かに国によっては言論の自由が法律で保障されている場合もあるが、その一方で言論と暴力には相関関係があり、口は災いの元であるのは、気をつけるべきこととしてあり、それが人災となって暴力を伴うのもよくあることだが、許されるべきではないとしてもやってしまうわけだから、それをやるに際しては、当人がやる必然性を感じているのはもちろんのこと、周囲のそういう雰囲気を敏感に察知しているから、それが行動を起こす動機となり、そういう雰囲気というのが、言葉にするなら恨みを晴らす機会になるとしても、また別の時には神からの指令となる場合もあるだろうし、果たして神からの指令を受けて行動に及んだわけでもないだろうが、宗教団体に恨みがあるというのは、それが神の裁きという形でそうなったと曲解したくなるし、曲解には違いなく、解釈を強引にねじ曲げたくなるわけだが、実態としてはそんなことではなく、その種の宗教団体が人の心を弄んでねじ曲げてしまうのもよくあることで、そこには経済的な要因も絡んできて、信者の財産をむしり取って経済的な損失を与えることによって、宗教団体が肥え太る傾向もあるわけだが、それが宗教団体なのか政治団体なのか区別がつかない場合も両者が融合している場合もあるから、そういうところから出てくる言論というのも、何の色もついていない純粋な言論とは言えず、もちろん純粋に理性的な動機から出てくる言論などあり得ないし、言論から恨みつらみの感情を抜き去ることなど不可能かも知れないが、そこから恨みつらみの感情が出てくるなら、そんな感情を抑えきれなければ、時には感情がエスカレートして暴力へと結びつくこともあるだろうし、実際に宗教に関係した者が暴力によって悲惨な最後を遂げるのもよくあることであり、今でも世界の至るところで宗派対立によって多数の死傷者が出ている実態があり、そういう意味でも宗教が恨みつらみの感情と無縁ではないわけだが、人の心を操ることが最終的に暴力へと逢着するのは、うまく操れないから、操る対象となる者から反感を買い、それが一時的にでも心を操って弄んだ者への恨みや憎しみをもたらすとしても、宗教が直接人の心に介入して指導するような傾向となる限りは、避けられない成り行きであり、そうなるのを避けるには心ではなく物に働きかければいいということになれば、物とは何かとなると、それが身体になれば、今度は直接身体を痛めつける暴力になってしまうわけで、身体ではない物となると、身につける物であったり、所有する物であったり、獲得する物であったり、さらには買う物や売る物になってくるわけだが、それらの物を巡っても争いは起こるし、手に入れて支配するような物となる限りは、物の奪い合いに発展する可能性があるわけで、それが人が活動する動機になり得るし、争うために活動していることになるだろうが、争いを鎮めるためにあるのが宗教だといえる場合もあるから、それらに関連して起こっている事態も複雑に入り組んでいて、一筋縄ではいかない成り行きとなっていて、争いを鎮めて平和をもたらすのが宗教だと宣伝する宗教団体が別の宗教団体と争っていれば、その実態が平和どころではなく、平和をもたらすには争う必要があるなら、戦争と平和とが表裏一体の関係にあると言えそうで、争いそのものは容認するが、それが暴力のない平和な争いであれば良いという妥協的な解釈もあるかも知れないが、では平和な争いとは何かというと、争っている双方が言論を戦わせることだと言いたい人まで出てくるかも知れないが、実際に選挙戦ではそういうことが行われていて、舌戦が繰り広げられているように装われるだろうが、制度的にはそうだとしても、制度を外れたところでは不正行為や違法行為も行われるだろうし、場合によってはテロも起こるだろうから、票の買収は許されないだの暴力は許されないだのと、制度の範囲内では言えるが、では制度を離れて倫理としてそういうことが言えるかとなると、紳士的に振る舞うような社会規範の類いを守れということではなく、何か一線を越えたところでテロなどの暴力を行使して、膠着した事態を打開しようとしてしまうわけで、そんなことをやる者が必ず現れるわけではないものの、やれることは何でもやるという目的意識に忠実に行動するなら、違法行為も辞さないという決意を固めて、実際に決起するわけだが、これまでにもそういう暴力を伴ったテロが歴史を動かしたことになるのだろうが、果たしてテロが報われるかというと、たぶんある程度は報われているのかも知れず、またある程度は失敗に終わっている可能性もあり、そのどちらがどうだというわけでもないが、やればやっただけの効果があり、その効果が誰に味方するともわからないが、それも結果から振り返ればもっともらしいことが言えるにしても、単純にテロは許さないと言えてしまえるところが、そんなことを言ってしまう人たちにとっては、何か居心地の悪い成り行きとなるのかも知れず、別にそれを言うことが免罪符として機能するわけでもないだろうが、何かを逃れていることは確かであり、それとは違って絶えずテロへの誘惑に直面している人の方が、その種の暴力の魅力に関してリアリティーを感じていて、誘惑に抗しきれずに稀にテロを実行してしまう人や団体が出てくる限りで、自分がやらなくてよかったとほっとするだろうし、今回はたまたま自分の番ではなかったことが、一時的には安堵させるだろうが、いつかやる番が自分に回ってくるとも限らず、その時が来たら果たしてテロへの誘惑に抗し切れるかどうかも怪しいところかも知れないが、誰かが引き受けてやらなければならないような状況というのが、追い込まれた状況であり、そんな追い込まれた感じを醸し出しているのが、現状でもたらされている政治情勢なのかも知れず、しかもテロを実行する人や団体の目的や動機が、必ずしも現状を正確に把握しているとも言い難い背景から生じくるなら、そこに何かしら誤解が伴っていて、その現状に対する誤解からテロが引き起こされると言っても、誤解をもたらすのも無理はないと言えるような込み入った事情もありそうで、誤解しないとテロにはならないかというとそうでもなく、テロの標的となる人が真の標的であることは、あるレベルでは確かだとしても、それがテロリストやテロへの誘惑に駆られる人や団体にとっても確かではあるのだろうが、標的になりやすい立場というものもあり、そういう立場を担っている人が氷山の一角として目立っているわけで、その人を代表と見なしても構わないような傾向が世の中全体を覆っていると見なすのも少し大げさ過ぎるが、テロリストにはそう見えてしまうとすれば、それが誤解なのだろうが、誤解であっても全くの的外れではなく、的の中の目立つ場所に、テロの標的となる人物が配置されているから、その人を目がけてテロを起こすように仕向けられてしまうわけで、実際に目立ってしまう人の方でも、目立ちたいから煽動的な言葉を弄んでテロを起こすように誘惑していて、もちろんその自覚がない方がより煽動的になれるし、そういう意味では注意力が欠けているわけで、こんなことを言ってしまってはヤバいと思うなら、少しは躊躇してより穏便な表現にとどめようとするだろうが、そんな人は活動の先頭に立てないだろうし、誇張や強調を駆使したどぎつい表現を多用していれば、それに過剰反応する人たちを引き寄せるし、その中には熱狂的な支持者もいるにはいるが、逆に熱狂的な批判者も引き寄せて、そうした行為に対して苛烈な非難を浴びせる人たちの言っていることを真に受けるなら、非難の対象となる人がまるで極悪人のように感じられるわけで、そこから正義の鉄槌を下そうとする人も現れて、その正義の鉄槌がテロとなる場合もあるわけだが、テロを許さないと言っている人たちが別に生ぬるいわけではなく、テロの連鎖を引き起こさないためにも、制度的な範囲内の言論の水準で批判や非難をしている限りで、歴史を動かすには至らないとしても、テロに訴えてまで動かすような歴史かというとそうは思えないだろうし、そうは思えないならそれでも構わないし、歴史を動かすといっても暴力で動かすのとは違った動かし方もあるだろうから、そちらの方面で模索している気になるなら、何もテロに訴えかけなくても済んでしまうだろうが、どちらがどうだという立場にはないが、相対的な水準で考えるなら、それがテロになろうとなるまいと、何かしら行動に訴えて世の中に対して作用や影響を及ぼそうとするなら、多少の誤解や勘違いがないとその気にはなれないし、蛮勇を振り絞ってやらなければならない大義のような大げさな意志が伴わないと、そういうことはできないのかも知れないが、意外と実態は違い、些細で矮小な個人的な恨みつらみから思いがけず大それたことをやってしまう場合もあるから、そういう意味でも誤解や勘違いが思わぬところから歴史を動かすきっかけとなるのではないか。
7月7日「物事の正しい順序」
自身の活動に関して、自分が把握していることが部分的な把握にとどまるなら、そこでやっていることがうまくいかないと思っても、それが思い違いであって、本当にうまくいっていない部分と共に、気づかないところでうまくいっている部分もあって、それが自分ではよくわかっていない可能性がありそうだが、例えばうまくいかない理由として、やっていることの順序が間違っているなら、それをやるに際して正しい順序が決められていて、順序通りにやらないとうまくいかなくなってしまう場合がありそうだが、ではなぜ間違った順序でやってしまうのかに関して、何かもっともらしい理由があるにしても、うまくいかなくなるに至る過程のどこかで、誤った操作をしてしまい、それによって正しい順序に沿って行われた場合とは違う結果がもたらされてしまうなら、すでに誤った操作をしてしまったことについては、取り返しがつかなくなっていて、今さら正しい順序で正しい操作をすることができなくなっているなら、正しい順序に沿って行われた場合とは違う結果を受け入れざるを得ないだろうし、しかもその結果が自分の生存にとって何か取り立てて問題を生じさせているわけでもなければ、それでも構わないと思ってしまうかも知れず、それも思い違いであるなら、何か気づかないところで問題を抱えているのかも知れないが、すでにそうなっていることが前提となって、そこからさらに事態が推移している中では、それ以前に問題を生じさせてしまったらしい誤った操作の順序などはどうでもよくなっていて、そもそもそれとこれとでは程度や傾向の違いがあり、操作の正しい順序を守らなかったとしても自らの生存を脅かすほどのことにはならず、それが取り返しのつかない事態を招いているとしても、その取り返しのつかない事態というのが、自らの生存とは無関係なところで取り返しのつかない事態を招いていて、それが取り返しがつかなくても、やっていることの順序を間違ってしまった面で取り返しがつかなくなって、正しい順序で操作した結果とは違う結果をもたらして、そんな結果が出たことを前提として、それ以降も活動を継続しているとすれば、正しい順序で操作を行なった結果には二度と巡り会えないのかも知れず、それ自体がもはや幻の結果でしかないわけだが、実際にそうなってしまったのなら、今さら操作の正しい順序にこだわる必要もないだろうし、そんなこととは関係なく事態が推移している中では、それとは別の面に関心が移っていて、その関心というのが、それまでの操作の過程とは別の方面での操作になってくるとすれば、もうすでに過去の間違った操作の順序などは知ったことではなくなっているわけだが、そうやってまた新たな操作をする事態に直面していれば、そこで絶えず何かを操作していることが自身の活動であり、具体的に何を操作しているのかといえば、大抵は機械や器具の類いを操作していて、すでにその機械や器具に関しては操作の手順がマニュアル化されていて、その用途に合わせて正しく操作すれば、それらが機能して求める結果が出るように設計されているなら、途中で操作の順序を間違えても、また始めからやり直せば済むはずだが、それも使っている機械や器具にもよるだろうし、その使い方でも、それを使って何をやっているかにもよるが、始めからやり直すわけにはいかない状況というのが、取り返しのつかない状況であるわけだが、それが取り返しのつかないことに気づいていなければ、何度でもやり直しが利くと思っているかも知れないし、特に機械や器具などから得られる効果を過信していると、手遅れになっても気づかないということがあり得るかも知れないが、取り返しがつかなくなっても手遅れになっても、まだその先があれば、果たしてそれでは取り返しも手遅れもどうということはなかったのかというと、やはり取り返しにも手遅れにも、その程度や傾向に違いがあり、取り返しがつかなくなっても手遅れになっても、それをやり過ごせるようなら、それをどうやってやり過ごすかにもよるだろうが、それをやり過ごしている最中にそんなことを思うのかも知れず、それに関しては、そんなことをやっていると取り返しがつかなくなるぞ、手遅れになってしまうぞ、と脅し文句を浴びせかけられるような状況というのが、まだ生ぬるい状況であり、出来の悪い三文漫画ではないのだから、誰もそんなお節介な忠告をかけてくれるわけではなく、他人が取り返しのつかなくなる事態に陥ってしまったことが、別の他人にはチャンスであり、その他人が自分であればしめたものなのだが、手遅れとなって脱落間近の他人とは何の関係もない立場や境遇であるなら、その他人がどこから脱落間近であるかにもよるだろうが、少しはそんな境遇に同情して、かわいそうな人を何とかしてあげたいと思うかも知れないが、そんなことを思っているほど自分に余裕があるとも思えないなら、不幸な他人よりまずは自分を何とかしなければ、と自分に専念したいと思ってしまうかも知れず、それが取り返しのつかない過ちだと誰に諭されるわけでもなく、そこに利害関係や権力関係も生じてこなければ、関わりのないことになってしまい、他の誰とも無縁でいられるとも限らないが、何かそこに関わりが生じてくると、黙ってはいられなくなってきて、場合によっては他人に向かって忠告せざるを得なくなってくるのだろうが、それがそんなことをやっていると取り返しがつかなくなるぞ、手遅れになってしまうぞという忠告であるなら、事の順序としては関わりが生じてそれなりに親密な関係となってから、友人となった人がおかしなことをやっていることに我慢ができなくなって、思わずそんな忠告をしてしまうという成り行きを想像できるが、またどこかで師弟関係が結ばれて、師が弟子に向かって忠告する事態も想像できるが、そんな想像自体も自分が勝手に思い描くフィクションに過ぎなければ、そんなことには興味がない赤の他人にとっては何でもないことになるだろうが、実際に起こるのはそんなことではなく、誰に向かって他の誰が忠告するわけでもないが、誰かしら自身とは関係のない方面に向かって忠告を発しているように見えて、それが何の忠告にもならないなら、忠告自体が空振っているようにも思われるが、元々誰が何のために忠告しているわけでもなければ、それで構わないわけで、そんな状況の中では何が正しい順序というわけでもなく、忠告を出すに関して、事前にどういう経緯でどんな条件に適合するなら、それに対して忠告を出すべきという申し合わせが事前に決められているわけでもなく、誰にそれを決める権限もなければ、そんなことを決める筋合いも生じてこないが、何も決まらなければ忠告も発せられないのかといえばそうでもなく、誰彼ともなく忠告したがるような状況となっていて、そんなことをやっていては取り返しがつかなくなると言いたい人がいくらでもいる反面で、実際にそれをやっている人がそれほどいるわけでもなく、むしろ誰もが上から目線で愚かなことをやっている人に向かって忠告したいのであり、まずは愚かなことをやっている人が大勢いる状況とならないと、それに対する忠告が有効に機能するような成り行きにはならないにも関わらず、まずは誰もが先回りして愚かなことをやっている人を探し回って、やっとのことで探し出してきたその人に向かって忠告したいわけだから、確かにそうなれば事の順序がおかしいことに気づくはずだが、要するに忠告される人よりも忠告したい人の方が圧倒的に多い状況というのがあり得るのかというと、普通に考えてそんなことはあり得ないのだろうが、メディア的なヒエラルキーを信じてしまうと、忠告される人より忠告する人の方が立場が上であり、そんな逆説的なヒエラルキーに影響を受けて、忠告される立場を吹っ飛ばして、いきなり忠告する側に回り込むような成り行きへと自身の立場を持っていこうとするなら、それ自体が実質を伴わないような立場になってしまうのかも知れず、そうすることが正しい順序だとは誰も思わないだろうが、忠告して効果を上げた実績もないのに、そういう立場を装っている人たちの忠告の中身がどれもこれも似通った中身になってしまうのも、よくありがちなメディア的状況なのだろうが、果たしてそんな忠告を真に受けている人が世の中にどれほどいるかも怪しいところだが、メディアがこしらえた世の中の状況や情勢の全てがフィクションだと言うつもりもないが、それがフィクションなのではなく、実際に忠告したい人たちが忠告する対象となる人や団体というのが、架空の人や団体というわけでもないのだろうが、それらが忠告するほどのこのまま取り返しがつかなくなるほどの苦境に陥っているかというと、それとは別の方面からそんな忠告をはぐらかすような介入がもたらされて、いつの間にか情勢がうやむやのままフェードアウトするような成り行きになってしまうのかも知れない。
7月6日「新しい民主主義」
愛国心が民主主義を阻害しているというと、何か間違っているような気がするが、中国政府が推し進める新しい民主主義が、国に忠誠を誓う愛国心をその基盤に据えていることは、政府高官の言動からも窺えるところであり、もちろん中国以外では、愛国心を掲げる政治勢力を利用することによって政治的な主導権を握ろうと政治勢力には、同時に新自由主義も利用する傾向にあり、主義主張として矛盾しているように思われるかも知れないが、矛盾というよりは様々な傾向を伴った複数の主義主張を功利的にひとまとめに束ねて、愛国心だろうと民主主義だろうと新自由主義だろうと、利用できるものは何でも利用したいわけで、そうなると主義主張が意味する主義主張が主義主張としてちゃんと機能するわけではなく、何かそこで主義主張が形骸化してくると共に、それらの主義主張の中で都合の良い部分だけ強調される一方で、都合が悪かったり矛盾している面が無視されるから、それらの主義主張に関してちゃんと考えている人にとってはまやかしの主義主張だと感じられても、その上っ面だけ真に受けて、それに関する宣伝や煽動や洗脳などからもたらされる好意的なイメージを思い浮かべてしまう人にとっては、それで間に合ってしまうわけで、そんな人にとっての主義主張とはそういうものでしかなく、それがそれらの勢力を支持する口実となるなら、ちゃんとした主義主張でなくても構わないわけで、もちろん政治的な主義主張にちゃんとしたものがあるかというと怪しいわけだが、大抵は自分たちの勢力にとって利用できる部分だけ利用したいわけだから、ちゃんとしているなんてあり得ないのかも知れず、それが主義主張としてちゃんとしてしまうと、政治的なやり方とは相容れなくなって、使い物にならなくなってしまうのかも知れないが、そういう意味で政治家の言動から推しはかられる主義主張の内容が、そのままその政治家の行動や言動と一致するわけでもなく、それを言っていることとやっていることが違うと見なすなら矛盾と受け取っても構わないが、逆に言行不一致でないと功利的には活動できないし、それでもさすがに限度や程度もあるだろうから、あからさまな言行不一致ではまずいだろうが、後からよく考えてみないとわからないレベルでの言行不一致であれば、何とかごまかしが利くだろうし、その場の状況に応じて強調すべきポイントがあり、どういう場面ではどういうことを強調すればメディア受けがいいかがあらかじめわかっていて、それに関するマニュアルのようなものをスピーチライターなどからレクチャーされているわけではなくても、それまでの経験から勘として身についていれば、談話や質疑応答などの面では無難にこなせるだろうが、そういう成り行きの一部始終に誰もが注目しているわけでもないし、それを無難にこなしている光景を見せられると、その際に発言の内容などをいちいち気に留めて吟味するわけでもなく、滞りなく言葉を発していればそれで構わないわけでもないが、重要なのは実際に行われたことであり、それを重要だと思わせないようにするために言葉を発して、行われたことの否定的な面を隠そうとしたりごまかそうとするわけで、要するに愛国心を鼓舞する裏で隠したい売国的な不祥事があり、また民主主義の推進を宣伝しながら民衆に対する弾圧や取り締まりを強化したり、新自由主義を容認しながらも独裁的な国家体制を盤石なものにしたいわけで、そういう一見矛盾する傾向が今や世界中で顕在化しているわけだが、政治家の言葉に騙されたふりを装う民衆の方でも、そんなことはわかり過ぎるくらいにわかりきったことであっても、騙されたふりを装うことに慣れてしまって、政治の被害者の立場でいる方が都合が良く、真の民主主義が実現してしまうと自分たちが加害者になってしまうから、それは是が非でも避けたいだろうし、どちらかといえば虐げられた弱い立場で救いを求めている方が無責任でいられるのであり、そういう人たちにとっては国民主権など幻想に過ぎないだろうが、暴動を起こして専制君主を処刑して主権を勝ち取る儀式に民衆が参加していた時代はとうに過ぎ去り、今や直接の暴力と共に制度の暴力としての独裁的な政治体制が強化されようとしているわけだから、制度に則って制度的な独裁体制に加担したいとは思わなくても、それを独裁体制だとは思わないように装っていれば、制度的に責任を逃れられるわけでもないが、形式的には民主的な選挙によって代表者が選ばれているのだから、それを消極的に容認しておけばいいわけで、それが実質を伴わないように配慮されていることが重要であり、実質が伴ってしまうと投票した民衆に責任が転嫁されてしまうから、それを避ける口実として選挙自体が実質を伴わない茶番だと非難しておけばよく、また非難できないように政府が民衆を弾圧したり言論を取り締まってくれれば、なおのこと被害者面ができて都合が良さそうだが、そこまで至れり尽くせりでは、いかにそれが民主主義だと強弁してみても、自国民を黙らせることはできても、相対的に言論の自由が確保されている度合いの高い他国の民衆からは民主主義が形骸化していると見られても仕方がないから、そこからどうやって制度を取り繕うかが課題となってくるかも知れないし、当局者はそれが課題だとも自覚していないかも知れないが、民衆の方でも政治家の方でも、あるいは国家官僚の方でも、今やババ抜きのババとしての制度的に破綻している国家をつかまされたくないわけで、といっても誰もそんなことは自覚していないかも知れないが、とにかく民衆は政治家へと政治家は国家官僚へと国家官僚は民衆へと、国家の主権者としての責任を転嫁したいとも思っていないどころか、逆に自分たちが主導権を握って政治を執り行いたいと思っている勘違いな人たちが徒党を組んで、政党を結成している実態があるのかも知れないが、それが権力という言葉から派生する勘違いだとも思っていないだろうし、特定の人や集団に権力があるのではなく、そこには権力関係しかないとかつてフーコーが述べていたかも知れないが、大衆としてひとまとまりになっているわけでもない個々の民衆から毛細管状の管を通って力が上へ向かって上がってくるとしても、逆に上から降りてくる弾圧や横からじわりと浸透してくる同調圧力などの圧力からしか権力関係を捉えられなければ、ろくでもないような人材しか政治家として成功できないのが不思議でならないだろうし、ろくでもないような人物により多くの得票数が集まるのも納得し難いわけで、実際に個々の民衆がろくでもない人材なのであり、自分たちと同程度のろくでもない人物に親近感が湧いてくるから、それが下から毛細管状に上ってくる力となり、そういう人物を結果的にその国を代表する政治家へと押し上げるのであり、それに関して日本の勘違いな人たちは、上級国民だとか格差社会や政治家の世襲制などを強調して、普通の人が政治家になれない不幸を嘆くが、それもろくでもない民衆にしてみれば、自身が上級国民になりたいし、格差社会の中では上位の層に属したいし、自分が政治家になれば子供に後を継がせたいし、そんなろくでもない民衆の願望がまさに現状の日本で実現しているわけだから、当然のこととして現状で主導権を握っている政治勢力への支持が高いのも頷けるし、実際に民衆の中の多数派の民度に応じた民主主義が実現していることになるわけだが、そこでも当然のことながら、そんな現状に不満を抱いている人も少なからずいて、そんな不満を糾合して何とか政治的な主導権を握ろうとしている人たちもいるにはいるだろうが、結果的には多数派が勝利するわけだから、そんなろくでもない多数派の民衆をどうやって味方につけるかが思案のしどころだろうが、いくら思案したところで、それが人知を超えたところから作用や影響を及ぼされてそうなっているとは思えないし、人為的に何とかなるのではないかと思わされるから、思案のしどころなのだとしても、それに関してどちらかと言えばろくでもない人たちが動くのは、理性であるよりは功利で動く傾向にあり、しかも浅はかな利害心から動くわけで、そして浅はかな利害心から動けば痛い目に遭う可能性が高いし、実際に痛い目に遭っているはずなのだが、痛い目に遭って少しは懲りるかも知れないが、日本の現状が示している状況が、どちらかと言えばひどい状態なのだとすれば、大して懲りていないからそんな状況となって、そんな状況が何十年も放置されているというなら、民衆の自業自得だと言えるだろうし、そういう状況の中で困っている人にとっては自業自得では済まないし、そうなってしまった責任を現状で主導権を握っている政党や政治家に転嫁したいのだろうが、果たしてそう思っている民衆がどれほどいるのかというと、客観的に考えるなら選挙結果や世論調査の結果が示す程度のことになるだろうが、責任転嫁してもなおそれらの政党や政治家たちを支持しているなら、それがろくでもないことになるかどうかは、普通は自分たちをろくでもない奴らだとは思わないから、一向に懲りる気配もないということになるのではないか。
7月5日「変わらない意志」
諸行無常というと万物流転と同じような意味で、変わらないものはないという意味だが、諸行無常でも万物流転でもそこで何かが起こっているからそうなるのだろうが、何が起こっても変わらないものがあるかも知れないし、変わらないからこそ価値があるものまでありそうだが、どんな世の中になっても希望があれば絶望もある状況は変わらないと思うなら、そう思いたければ思っていればいい程度のことだが、本当のところはよくわからないだろうが、まだそこには足りないものがあり、それも足りないものがあると思い込んでいるだけかも知れないが、何が足りないのかと問われるなら、安易に自分の意志が足りないと答えても、思いつきで適当に答えていることにしかならないが、それが具体的に何をやっていることにも結びつかなければ、空想でそんな状況を思い浮かべているに過ぎず、何もやっていないから空想しているのかも知れず、空想しているだけで意志が生じるとも思えず、意志を示さなければならないと感じるなら、意志に逆らうような成り行きに囚われているから、それに逆らう意志を示さなければならないことになりそうだが、果たして現状で囚われている成り行きがそういうことなのかというと、どうもそうではないらしいと思うなら疑念を抱いていることになるが、安易に自らが囚われている状況に逆らってはならないのかも知れず、そこが意志を示す時ではなく、意志に合致するような状況となった時に行動を起こすべきで、そうなればその場の状況を味方につけながら行動できることになるのだろうが、そんな都合の良い状況になるかというと、実際にそうなってみないことには何とも言えないが、果たしてその場の状況が自分に味方してくれる機会がいつやってくるのかといえば、ただ機会が巡ってくるのを待っているだけではなく、自らが積極的に動いて味方となる仲間を募って、仲間となった人たちの協力を得て、力を合わせてそういう状況に持って行こうとする場合もあるだろうし、それも行動の目的に応じてそうすることの程度や傾向も変わってきて、その際に自らの意志を示す必要に迫られるなら、その対象となる他人や集団の存在が前提となるだろうが、必要もないのに自らの意志を示すことはないだろうし、逆に時と場合によっては意志を隠して行動するかも知れないし、他人に悟られてはまずい意志もありそうで、例えば他人を裏切るつもりであれば、それを悟られないように行動するだろうし、それも初めから裏切るつもりで仲間になったわけではなく、何かのきっかけから不満が生じて、そんな不満につけ込んで誰かから裏切るようにそそのかされたなら、その人に関しては変わらない意志などないことになりそうだが、どんな時にも変わらない意志を持っている人に価値があると思うなら、その人に対して好感を抱いていて、それが好感を裏切らない意志であるなら、その意志を信じていることになりそうだが、そんな意志を保つことが、他人に好かれたくてそんな意志を持っているわけではなく、自らの信念として他人を裏切らないと強く思っていても、良かれと思って行動したのに、結果的に他人を裏切ってしまえば、それが自らの意志に反した行動となってしまい、時としてそんな不条理な結果に直面して愕然とするかも知れないが、自らの意志を貫こうとしても、状況がそれを許さない場合もあり、そこで初志貫徹しようとするか、その場の状況に応じて意志を曲げるかで、判断に迷うことになるかも知れないが、状況に応じて態度がコロコロ変わるようなら、元から意志などないことにもなりそうだが、意志というのはどんな状況になっても貫き通すことになれば、意志があると思われて、そうなった時にその人の意志を確認できるわけだが、その人に意志があるかないかは、その人の態度や行動から窺い知れるわけで、わざわざ意志があることに言及しなくても、無言でも意思表示ができるが、そんな意志を曲げてまでやらなければならないことや、あるいは逆にその場の状況に逆らってまで貫き通さなければならない意志というのが、なぜ生じてくるのかといえば、その場の状況が変わったからそれに応じるか逆らうかの選択が迫られてそうなってしまうことを想像できるが、想像してみたところで実際にそんな状況に直面してみないことには、そこで自らがどう動くかわからないだろうし、そこで都合の良し悪しが判断材料となってきて、そうした方が都合が良いから、あるいはそうしないと都合が悪いから、そういうことになってしまうと、自らの意志よりはその場の都合を優先させているようなことになり、結局はそれもその場の情勢に応じてそんなことをやっていることになり、それも自らの意志とその場の情勢との間で折り合いつけながら、結果的に自らの態度や判断が決まってくることにもなり、そうやって複合的な要因が作用して自身の行動が定まってくるのだろうが、その態度や判断がその場の情勢に適合するかどうかも、意志を曲げても、逆に意志を貫いても適合しなければ、どちらにしてもその場の情勢とは合わない立場や境遇だった可能性もあるだろうが、その場の情勢とは相入れない存在形態というのもあるかも知れず、それがどんな存在形態なのかというと、簡単に想像できるのが時代遅れということになるが、あるいはその時代より進み過ぎていることになるかも知れないが、遅れていたり進んでいたりするだけではなく、別の場ではうまくハマる存在というのもあるかも知れず、そんなことをいくら想像してみても、実際にそういう状況になってみないことには対処しようがないだろうが、対処できなくても構わない場合もあるだろうし、自らの意志で対処したりしなかったりする以前に、意志とは関係のない方面から対処されていたり、対処されていることに気づかない場合もあるだろうが、そうなると自らの意志ではどうにもならないことになり、意志があろうとなかろうと、そんなことには関係なく、その場の情勢に介入することすらできず、ただ情勢の推移を見守るばかりの部外者のような立場や境遇となってしまうのだろうが、そこに自らの意志を介在させるにはどうすればいいかとなると、結局は行動しなければならなくなり、自身が行動することによってその場の情勢に何らかの作用や影響を及ぼすようなことになれば、少しは自身の存在にも力があることを確認できるだろうが、他にもいくらでも介入してくる人や集団がいれば、それらの人や集団との力比べとなってくれば、その中で力の強い人や集団の意志や意向がより強くその場の情勢に反映されることになるだろうが、単に力の強弱だけでなく、力を及ぼそうとする際の技術的な傾向やその程度によってもその場の情勢が変わってくるかも知れず、そういう面まで考慮に入れるなら、そこに介入してくる各々の個としての単体の力だけでなく、他の人や集団との連携の仕方やその形態によってもその場の情勢が左右されてきて、そうなると個人の意志だけではどうにもならない面が出てくるのはわかりきったことだが、初めから自らの意志だけでどうにかなるようなことだとは思っていないなら、しかも自分の意志がどうこう思う時点で自己中心的な態度となっていることも自覚していれば、それが自らを取り巻く情勢の中では、大して問題となる要因でもないことにも気づいているのかも知れないが、その反面で自らの気持ちの持ちようでどうにかなるようなこともあれば、そういうところでは自らの意志を貫こうとするかも知れないし、それもその場の情勢次第でそう思ったり思わなかったりすることでもあり、絶えず情勢の推移と自らの意志を天秤にかけながら、場合によっては自らの意志を曲げてでも情勢の推移に行動を合わせようとするかも知れないし、逆に情勢に逆らってでも自らの意志を貫こうとするかも知れないから、そういう判断が単純に損得勘定などの功利的な判断ではない場合もあるから、自分が判断しているつもりでもよくわからないのだろうが、その他にも他人の言動や行動に同調したりしなかったり、他人の意見に賛同したりしなかったりして、結果的にそれがうまくいったりひどい目に遭ったりする場合まで考慮に入れるなら、もちろんそれもその場の情勢に含まれてくるとしても、実際にそうなってみないことにはよくわからないのはわかりきったことだが、しかもそうなってからでもよくわからない場合もあるから、自分の意志だけが最優先すべき判断材料とはならず、その場で何を判断してもしなくても、それとは別に相変わらず自らの意志を頑なに信じようとして、そんな自らの意志を自分では制御できず、捨てようとしても捨てられない意志に囚われているなら、それは神の意志であり天の意志かも知れず、それを自らが自発的に抱いている意志だと勘違いしている場合もあるのかも知れない。
7月4日「始まりの不都合」
そこから何を始めるかはその場の事情やそこまでの経緯が絡んでくるとしても、何を始めようとしても何も始まらず、始めようとするから何も始まらないのかも知れないが、始まらない理由があるわけでもなく、すでに始まっていることはいくらでもあり、いったん始まってしまうとなかなか終わらないこともいくらでもあるわけで、始められない理由を知りたいわけではなく、理由など後からいくらでもついてくるかも知れないが、それを後からもっともらしく説明できたとしても、すでに始まっていることを押しとどめる理由になるかならないかも、そんな機会が巡ってきてから考えてしまい、それが無駄に回りくどく考えていると思われるなら、それもすでに後ろ向きに考えていることであり、そんな考えはさっさと捨てて、物事を前向きに考えないと時代に取り残されるわけでもないが、トレンドという時代の趨勢に従うことが時流に乗ることでもあるから、後から理由を考えることが、トレンドに乗ることとどう結びつくのかはよくわからないが、過去の時代において誰かがその時代のトレンドに乗って上手く立ち回った結果として何がもたらされたとしても、それが今の時代のトレンドに乗ってうまく立ち回っている誰かと直接関係があるわけでもないだろうし、過去の時代のトレンドと今の時代のトレンドがどう関係してくるとしても、それが一過性の流行現象である限りで、その流行現象が過ぎ去った後からもっともらしく批判的な傾向を伴った言説が構成されるにしても、現状の中ではその場の流行に乗っかってうまく立ち回った者勝ちな面もあり、それも流行の内容にもよるだろうが、別に何が今のトレンドなのかと考えている余裕などなければ、その場の情勢を見極めた上でさっさと目星をつけたトレンドに乗ろうとする方が無難なのかも知れず、それが見当違いであれば痛い目に遭う場合もありそうだが、それに関連して結局は政治や経済も理屈よりはトレンドの方が優先される傾向があり、もちろんトレンドに乗ってうまくいったかいかなかったかの理由として後から理屈がついてくるだろうが、その場の情勢に合わせるために持ち出される理由と、後からそれをもっともらしく語るに際して持ち出されてくる理由や理屈が一致するとは限らないのかも知れず、その場ではいかがわしい損得勘定から流行に乗ろうとしても、それでうまくいけば後からもっともらしい理由や理屈がついてくればしめたものだが、それは実際にうまくいった者がこれ見よがしに自慢することであり、すでに流行が最高潮に達した時に乗っても儲かるわけでもないのは、その方面の識者がもっともらしく指摘するところだろうが、政治に関して言えることも、そんなトレンド現象に当てはまることだとすれば、現状でどこかの政治勢力が流行させたがっているトレンドが何かと問われるまでもなく、大手マスコミや政府や政権政党や官僚機構が食い止めようとしていることだと理解するなら、もちろん本気でそう思っているわけでもないにしても、ここからしばらく時間が経過すればその成否が自ずからわかってくることであり、そんなトレンドに関連して持ち出されてくる理屈が稚拙に思われるのも、トレンド現象としてはそれで構わないのであり、いかにももっともらしい理屈が伴うようなことが流行するわけがなく、最初は怪しげな説であり、まだそれが社会現象を巻き起こすほど流行しているわけでもないが、流行の萌芽のような兆しを肌で感じ取っているなら、何やら新し物好きな人たちが注目しかかっているのかも知れず、それを怪しげな兆候だと感じている人が実際にいるとも思えないし、当事者が意識して流行現象を作り出そうとしているのではなく、わざと怪しげな雰囲気を醸し出そうとしているのでもなく、それよりは真面目な動機に基づいてどちらかと言えば正義感に駆られてやっていることだろうし、そんな傾向が時代のトレンドになるわけがないと思うかも知れないが、それも実際にそんなことを思っている人もまずいないだろうが、フィクションとしてはそう語らざるを得ないのが矛盾を感じるところだが、今後それらの試みが時代のトレンドになりかけてくれば、そんなものが時代のトレンドになるわけがないと思う人がそれなりに出てくるかも知れず、そんな抵抗感を抱く人と共にトレンド現象が起こるのだろうし、そんな表裏一体感がないとトレンド現象とはならないのかも知れないが、山本太郎を初めとする政治勢力としてのれいわの人たちやその関係者や応援している人たちの言っていることが、理屈としての確かさよりは時代のトレンドになり得る萌芽のような感触を覚えるのは、他にも様々なトレンドの萌芽になり得る可能性のある物事のうちの一つに過ぎないことかも知れないが、かつて産業革命に対抗するトレンドとして共産主義革命という大げさな大義名分を伴った思想があったかどうかは、それもフィクションとしてそういうことが言える程度のことであり、またそれへの否定的な傾向を伴った反応として、それらの対する反革命的な揺り戻しのトレンドとして、ユダヤ陰謀論や優生学的な人種主義などがあり、今も尾を引いているそれらのトレンドを代表する人物がヒトラーとなるだろうし、ヒトラーほど有名でないにしてもその亜流のような傾向を伴った人物は星の数ほどいるが、別にトレンドに乗ることが偉大さの証しとなるわけではなく、それよりは成功すれば流行に乗ってうまく立ち回ったことになるのだろうが、明らかにそういった傾向とは違う何かがあるかというとそうでもなく、もちろん幻想を抱くなら、そういった他とは明らかに違う価値の類いを心情的に求めたいのだが、成り行きとしては似ているが、傾向として違うのは火を見るより明らかだと言えてしまうところが、危ういところであり、微妙なところなのかも知れないが、それらを一緒くたにしてまとめて攻撃できないこともないにしても、そこにわかりやすさを求めるなら強調したいところかも知れないし、どちらかと言えば反体制的な共産主義革命に連なる系譜に見られてしまうにしても、そこがヒトラー的なトレンドと袂を分つところでもあり、また弱点でもあるにしても、明らかに反革命的なトレンドに対する揺り戻しのトレンドなのであり、昔ほど、あるいは昔のフィクションほど、革命か反革命かが明確な争点となっているわけではないし、そういう大げさなレベルではなく、日常の生活レベルでよりマシな状態を求める程度のことであり、しかも政治的なトレンドである限りで、経済的なトレンドとは違って、政治と経済を分けては考えられないのは当然だとしても、政治の側から経済をどうにかしたいと考えることが、昔ながらの困難さが伴うにしても、昔はこうだったと言いたい人もいくらでもいるだろうし、またそれしか言えないし言うことがない人もいくらでもいるかも知れないが、気休めとしてはそれでも構わないわけで、政治に気休め程度のことを求めているわけでもないし、誰もがそれ以上のことを政治に求めているわけでもないにしても、そんな成り行きが一段落ついた後からそれに関する伝説の類いを大げさに語りたい人がいくらでも出てきてしまうのも、それが気休めとしてそうなっているとしても、語っている当人が本気でそう思うから大げさに語ろうとするわけで、それに関しては気休めも伝説もいらないなら、現状で起こっていることに素直に反応すればよく、後からそれが大げさな伝説になっている頃には全てが済んでしまっている可能性もあり、そうなってからその是非や欠点や欠陥などをこれ見よがしに言い募る人は、それが商売だから仕方がないだろうが、トレンドがどうこうというよりは素直な反応しかできないし、できることが限られている中で、できる範囲内で反応しておくしかなく、トレンドに巻き込まれている当事者がトレンドに逆らうのも、自らの思考や行動にブレーキをかけているに過ぎないことかも知れないから、トレンドに乗っている感覚があるなら素直に乗っておけばよく、そこにのめり込んだり、逆に軽く触れる程度に済ませておくことも、その制御が利くと思うなら制御しているつもりになれるかも知れないし、制御しているつもりなっても、思うようにいかないこともあるかも知れないが、そうする理由と共に後付け的に納得できる理屈を付け加えたいなら、少しは冷静になってそこから適当な距離をとって思考を働かせようとしているのだろうが、それを考える上で安易に頼ろうとしてしまうのが、その起源を探ろうとする傾向であり、実際に起源を突き止めてから何をやるのかというと、起源となることと現状で起こっていることを相似的に同一視して、それを単純化するなら〇〇はXXだと決めつけて、XXが〇〇の起源だと見なして、〇〇からXXまでの距離を短絡して、そこに至るまでの経緯や事情を無視してしまうわけだが、それがとりも直さず歴史の無視であり、今もそこに至るまでに辿る面倒な紆余曲折の迂回路を歩んでいる最中であることを忘れているわけだ。
7月3日「違う要因」
今さら何を傍観しているとも思えないにしても、何かの光景を眺めながら、何かが違うと思うのは毎度のことだが、その違っている何かというのが、その度ごとに違っているとしたら、確かに何かが違っているのだが、その違っている何かが同じ何かではないことになり、実際に違っているからこそ、何かが違うと思わせるのだろうが、しかもその違っていることを利用して、こちらから何かを仕掛けなければならないとしたら、果たしてそんなことができるかというと、実際に仕掛けているそれがそうなのであり、何を仕掛けているのかというと、今現に仕掛けているそれであり、それを仕掛けているわけだが、それが何かの謎かけのようなことなのかも知れず、何に向かって謎かけを仕掛けているのかは定かでないものの、それに対してうまい具合に答えを出せれば、一応は成功したことになるのだろうが、そんなことではないと思うようなら、答えを導き出せず、謎かけがうまくいかなかったことになるのかも知れず、うまくいかなければやはり何かが違っていて、謎を仕掛けてそれに答えるという成り行き自体が違っているのであり、そんなことではないと思われるなら、謎かけなどではなく、それとは違う何かだと思うしかないのだろうが、それが毎度のことなのだから、それ自体が違っていて、それが毎度のことだと思うこと自体も違っているとすれば、毎度のことではなく、その度ごとに違う何かに遭遇しているのであり、しかも遭遇していない時もあって、何に遭遇しているわけでもないのに、勝手に何かに遭遇していると思い込んでいるのだとすれば、それが勝手な思い込みに他ならず、何か勘違いを誘発しているのであり、絶えず何かに遭遇するものだと思い込んでいるとすれば、そんな思い込みをはぐらかされているのかも知れず、何によってはぐらかされているわけでもなくても、そんな固定観念が何かによってはぐらかされているのであり、もちろんはぐらかされていることにも気づけないなら、何か違うのではないかと思いつつも、それが何だかわからないままかも知れず、何かを疑っているのだろうが、そんな疑念を抱く癖がついてしまっているから、絶えず疑っていないと不安になってきて、疑う必要もないのに疑ってしまうから、そこから勘違いが生じてしまって、謎かけの答えに辿り着けなくなり、答えを導き出せないことに焦りを覚えつつも、疑うことはやめられないのであり、絶えず疑っていないと気が済まないから、それが毎度のことになり、毎度ではないにも関わらず、自意識の中では毎度のことのように何かに遭遇しては、その遭遇している何かを疑ってしまい、本当は何も遭遇していないのではないかと疑ってしまうから、その何かを取り逃しているのであり、そんな疑いの堂々巡りの中でも疑っているから、ありのままの現状を受け入れることができず、それがありのままの現状だとは思えないのであり、そこに何かの罠が仕掛けられているのではないかと疑い、その罠を仕掛けている何かを知ろうとすれば、そこに仮想敵のような存在を想定するしかないだろうし、仮想敵のような何かによって仕掛けられた罠にハマっているから、何でもないことにも疑いを抱かなければならなくなり、疑いを抱いている限りはありのままの現状を受け入れることができず、その代わりにありのままとは違う理想を求めて、現状を理想の姿に変えようとしているのであり、そうであるならわかりやすい成り行きになるはずだが、それも疑わしいわけで、なぜ疑わしいのかというと、現状とは違う理想の姿を思い描けず、理想がどんな状態なのかがよくわからないから、現状とは違う理想の状態を追い求める姿勢にも疑念を抱かざるを得ず、その一方でそんな単純なことではないと思いながらも、どう単純ではないのかがうまく説明できないのであり、だから現状が理想を追い求めるような状況ではないとしても、他にどうすればいいのかがよくわからないから、そんな現状を維持することぐらいしかやれることがなくなり、その一方では安易に理想を追い求める者たちが目障りだから、それを叩こうとするのであり、現状がそんな安易に変わるとは思えないから、理想を追い求めようとする者たちを叩いて現状を維持しようとするのだろうが、そんな自分が現状を維持しようとしていることにも気づかず、自分では自分なりの理想を追い求めていて、そんな理想とは違う別の理想を追い求めている者たちの存在が受け入れ難いのであり、そんな者たちと敵対しているつもりなのだろうが、もちろんつもりではなく、本当に敵対しているはずなのだが、敵対している者同士が似た者同士だとしたら、どちらもが自身の信じる理想を追い求めながらも、それとは別の理想を追い求める者たちと敵対して、そんな者たちを叩くことによって、現状を維持していることになり、それが現状の袋小路の中で起こっていることだとすれば、何やら自業自得で自滅するような成り行きとなってしまうだろうが、それもそんなわかりやすい状況ではなく、もっと何か思っていることとは違い、それとは違う要因があることにも気づかず、それに気づかないから現状を辻褄が合うように単純に捉えられるのかも知れず、そういう意味では誰もが単純化の罠にハマっていて、しかもそれが単純化だとは思っていないのであり、現状を説明しようとすればそうなるしかないのだろうが、では説明するのを断念すればいいのかとは言えないし、少なくとも現状の世の中を変えようとするのだから、単純化して捉えないと変える気が起こらないのであり、そういう意味では現状を変えようとするには現状を単純化して捉えることが必要不可欠なのかも知れないし、そうしないと現状を変えようがないことに気づいて、気力が萎えてしまい、その気になれなくなってしまうのかも知れないが、そうであっても現状を見守るだけのただの傍観者では不満なら、何かをやろうとするだろうし、もちろん誰もがただの傍観者であるはずがなく、何かしら積極的にしろ消極的にしろやらなければならないことに直面して、やる必要もないのにやらなければならないと思い込んで、そんな自らが生きている限りで否応なく関わってしまう物事があり、何もなくても自分自身には関わっているわけだから、無の境地には至れず、気に食わない何を傍観視していようと、他の傍観できない何かには関わっているわけで、そんな傍観できない物事の中には、自分を変えるきっかけが含まれているのかも知れず、それが自分にとって好都合なのか不都合なのかは、その場の心理状態にも自らを取り巻く情勢にも状況にもよるだろうが、それが自分を変えるきっかけであると共に、世の中を変えるきっかけだと思うなら、それが身の程知らずな誇大妄想だと思うわけでもないだろうが、世の中を変えるきっかけと自分を変えるきっかけがつながってくると、別に自分を中心として世の中が回っているとも思えないだろうが、世の中を変えることの中には自分を変えることも含まれていることに気づくかも知れず、しかも自分が世の中を変えようとして世の中が変わるというよりは、世の中が変わっていくと共に自分も変わっていってしまうのなら、自分が世の中を変えようと思うこと自体が、世の中の情勢の変化に伴ってそう思わされていることに気づいているとしても、そんな成り行きの中で世の中を変えなければならないという使命感のような感情が芽生えてくるのかも知れず、それも自身の勝手な思い込みというよりは、実際に何かに関わっているからそう思わされているのだろうが、その何かというのが目に見えて実感できる特定の物事であるならわかりやすいにしても、それだけではないからわからない部分もあり、何がわからないのかというと、それがわかればわからないことにはならないし、たぶんわかっていないと言っても信じてもらえないだろうが、微妙なところでそういった使命感から逃れるすべがあり、逃れたところで何の得にもならなければ、逆にそこから逃れられない人に特有の思考的な傾向というのもありそうで、そんな思考的な傾向に支えられて使命感を強く意識しながら、現状の中で物事に直接介入している人もいくらでもいるかも知れないし、その良し悪しを云々するような立場でなければ、その種の使命感とは無縁でいられるわけでもなく、そうした使命感があろうとなかろうと、世の中の変化に合わせて何かしら自身にできることをやろうとして、できると思ってもできなければできないことに気づいて、自身の力ではできることとできないことがあることを思い知るとしても、たとえできなくなくても思い知らない場合もあり、今回は何かに邪魔されてできなかったのかも知れないし、またその機会が巡ってくれば今度はできるかも知れないと都合よく思っている場合もあるだろうから、その機会が巡ってくるのをひたすら待つわけでもなく、他のことをやりながらもその機会が巡ってくるのを待っている場合もあるだろうし、そう思っているうちはまだ使命感を捨てていないわけで、これから先にいつ何かのきっかけから眠っていた使命感が呼び起こされるとも限らないから、安易に物分かりが良くなる成り行きに応じるわけにはいかないと誰もが思うのかも知れない。
7月2日「言葉の共鳴現象」
人がそこで何かを体験していて、多くの人々が同じような体験をすれば、それを体験して誰もが同じようなことを思い、同じようなことを言うのかも知れず、同じような程度や傾向に合わせて言うことが同じような程度や傾向になり、実際に多くの人々が同じようなことを言っていれば、そこで人々の間で言葉が共鳴現象を起こしていて、その言葉の共鳴現象自体が、多くの人々が体験する同じような体験となってしまうだろうが、本当に同じような体験なのかというと、多くの人々の間で同じような程度や傾向の言葉が共有されていることが同じような体験となっている限りで、それが同じような体験となっているのであり、個々の人が体験する個々の体験にはそれなりに程度や傾向に差異があるとしても、その体験を表現する言葉の程度や傾向が、同じような程度や傾向で表現されるなら、そんな言葉の共鳴現象によって同じような程度や傾向を伴った体験として共有されるのであり、要するに言葉の共鳴現象によって多くの人々が同じような体験をしたと思い込まされているのだが、そういった共鳴現象を広く世の中に拡散させる役割を担うのがメディアであり、マスメディアとしてはそうであるとしても、パーソナルメディアやソーシャルメディアとしては、同じような体験の共有とは少し程度や傾向が違ってきて、メディアを利用している各々が別々に別々の体験をしていることを確認し合う面もあるのかも知れず、もちろんそれらにはマスメディア的な傾向もあり、リツイートとかいいね!とか、他人の体験を共有しているように装う面もあるだろうが、そういう面での言葉の共鳴現象が、どちらかというと世の中に出回っているありふれた紋切り型的な言葉や言い回しを共有しているように見えてしまうから、愚かで浅はかな人たちが大勢で寄ってたかってたわいないことに共感を示すような馬鹿さ加減が強調されてしまい、ともすれば集団の白痴化が連想されて、それがネガティヴな感触を覚えるにしても、ちゃんとそれに対して反論できる人も少なからずいて、そういう人の存在がそれらのメディアの良識を担っているのだろうが、そうした浅はかな共鳴現象を抑え込もうとするバイアスが働いて、個々の人々の体験が個々人において程度や傾向が違うことを確認し合うような成り行きになってくると、それだけ世間からの同調圧力が減じられると共に、生き方や生活の多様性が顕在化してくるはずだが、それもその手の同調圧力に対する抵抗感が個々人の中でも程度や傾向において差異を伴うから、明確な反発の共鳴現象とはならず、同調圧力も大したことはないが、それに逆らう反発力も大したことはなく、どちらかというとそんなことには無関心となってしまう人の方が多いかも知れないが、そもそも共鳴現象を起こしている人の数がそれなりにいるとしても、それも騒ぎ立てて煽り立てているから目立っているだけで、騒ぎ立てたり煽り立てたりしている人の数も、実際にはほんの一握りの人たちであり、それに対して愚かで浅はかな共感を示してしまう人の数もそれほど多いわけではなく、もちろんそれらの全てが愚かで浅はかに感じられるわけでもなく、中には良識を持ち合わせているように感じられる人々による共鳴現象もあるのだろうが、SNSなどに関与する集団の組織力としては、愚かで浅はかなデマを拡散させる力の方が勝って、悪貨が良貨を駆逐するようにして、醜悪なメディア状況がもたらされて、そこからそういったメディアに対するネガティヴな心象が増幅されるわけだが、それが枝葉末節な面でもあり、そういう成り行きからネガティヴな心象が得られてしまうと、それにこだわる余り客観的な事実を見落として、そういう成り行きを推進する側とそれに反発する側による対立や争いを大げさに捉え過ぎて、他の物事との間の釣り合いが取れなくなり、偏ったものの見方や捉え方となってしまうのだが、客観的な事実とは何かというと、現状の中で人が生きている状態がそれなりにバランスが取れている状態なのであって、確かに不平等で不均衡な状態が経済においても政治においても顕在化していることは確かだが、それが世界のどこでも同じ程度や傾向を伴っているわけでもないのもわかりきったことだが、そんな中で絶えず現状でもたらされている不平等や不均衡を、是正しなければならないこととして問題点として挙げ続けるのも、政治的な姿勢としては正しいことだが、それを利用している人や企業としては、他の人や企業に差をつけるにはそれを活用するしかなく、それが政治活動や市民運動などによって是正されてしまうと困るわけで、困るといっても実際にはそれらの活動や運動を軽んじていて、甘く見ているのかも知れないが、それよりも優先したいことがあり、優先させている場合が多いわけだが、何を優先させているのかといえば、絶えず他の人や企業との間で差異をもたらしたいわけで、実際にもたらされた差異が不平等や不均衡をもたらすから、それを利用して利益を得たいわけだが、またそこでも差異を生じさせようとする側とその差異を埋めようとする側とのせめぎ合いの中で活動が行われている実態があるわけだから、どちらか一方の敵や味方を装うこと自体が偽善や欺瞞を呼び込み、それに伴って覚えるやましさにも抗いながら活動している実態があり、それが嫌なら政治的には中立を装えばいいのかというと、それでは何もできずに無能の証しとなってしまうだろうから、絶えずどちらか一方の敵や味方を装いながら、時としてそれとは逆の方面からもアプローチするような矛盾も抱え込まないと、うまく立ち回れないのかも知れず、うまく立ち回ったところで敵や味方の両方を利するようなことになるかというと、それもやってみないことにはわからず、未だにやるに至らなければわからないままとなってしまい、その方が面倒なことにはならず、いつまで経っても批判する側にしか回り込めなければ、それだけ気楽な立場となってしまうだろうが、そうなると批判される側も劣化してきて、批判する側とされる側が絶えず入れ替わっていないと緊張感が生まれてこないわけだが、それもそうなろうとしてなれるものでもなく、そうはならない方が何かと都合がいいから、絶えず敵と味方が入れ替わるような面倒な事態は避けて、気楽な状態を維持できるかというと、実際にそれが維持されているような状況がもたらされていて、果たしてそういう甘やかされた状態のままでいられるかというと、現状でもそうなっているのかも知れないが、そんな状態を招いている責任が誰にあるのかといっても、誰も責任など取ろうとしないだろうし、責任を取ったからといって何をどうすればいいかもわからなければ、責任など取りようがないが、なし崩し的に停滞した状況となっているわけだから、そうならざるを得ない面があるのだろうし、そんな状態をかき乱そうとして何やら仕掛けている勢力もあるものの、無理に撹乱しているつもりになっても実際にそれがどんな結果をもたらすかが現状ではよくわからず、わかるとしてもまだだいぶ先になると予想したくなるが、そんなことを予想しても何の得にもならないだろうし、予想している暇があったらさっさと現状に介入しなければならず、実際に介入しているつもりの人も結構大勢いるはずだが、それらの人たちの介入の仕方というのが、半身の姿勢でいつでも逃げられる準備を怠らずに口先介入程度にとどまるようなら、結果は目に見えていて、そうでなくても結果が目に見えているとしたら、何がそこには足らないのかというと、それがこれから明らかになってくればわかりやすいが、もうすでに明らかになっていることもありそうで、しかもそれがそれらの勢力を支えている何かだとすれば、現状でそれが足らないからこそ活動が成り立っていて、それが足りてしまうとそれらの勢力の批判対象としている政治勢力と変わらない実態となってしまうから、それは避けなければならないことになってしまうが、避けようとしても避けられない成り行きに囚われているからこそ、そのことで絶えず批判を浴びせられるようなことをやらざるを得ないような立場と引き換えにして政治的な主導権を握っていられるとしたら、そこでも矛盾を抱え込んでいるのかも知れないが、たぶん結果的に支持者を裏切るような矛盾を抱え込まないと政治的な主導権を握れないのかも知れず、そういうところが歯痒いところでもあり、結局はそうなることがわかっていながらそうなってしまうというよりは、それについては絶えず沈黙せざるを得ないのだろうが、沈黙しても批判を浴びせられてしまうわけだから、批判を浴びせている方でもそのことについては薄々勘づいているのかも知れず、だから資本主義的な経済活動を全否定するわけにはいかないのであり、そうなっていることを踏まえながらも、それを批判しながらそれと共に歩んでいかなければならないところが、正々堂々とした立場にはなれないことを前もって示しているわけだ。
7月1日「人たらしとしての政治家」
世の中の現状に関して素直に語ることができないのは、何かそこに引っかかるものを感じているからだが、その何かというのがこれだと指摘したり、うまく表現することができないようなことであり、知らないことはいくらでもあるのだろうが、といっても全くの世間知らずというわけでもないが、知っていることは限られていて、大して詳しいわけでもないし、何に関して専門知識を持ち合わせているわけでもないが、それが専門知識とは言えなくても、それなりの分量を語ることができれば、それについて書き記した文章としてはある程度のまとまりを伴うのだろうが、まとまりというよりは支離滅裂になってしまった方が、無責任にいい加減なことを語れそうで、それで構わないわけでもなく、時としてそうなってしまうこともあるにしても、それが無責任でいい加減なことだとは思えないとしたら、何かそれらしい言説の虜になっている証拠であり、それが言説の虜というよりは、特定の人物が主張している内容に共感を覚えるなら、その人物の人たらし的な面に惹かれているのかも知れないが、人たらし的な宣伝のされ方にハマってしまうのも、政治家としてはよくありがちな成り行きになるにしても、当人は大真面目に主張している政策を支持してほしいのに、戦略としての人たらし的な面だけがクローズアップされてしまうのも心外だろうが、意識してそんな面を強調しているわけではなくても、傾向としてそうなってしまうとしたら、何がそうさせているのかと問われるわけでもないが、問われているのは他でもなく、政治家としての資質になるだろうが、主張している政策以前にそうだとしたら、何かそれが本末転倒のような気がするかも知れないが、何かの冗談でそうなっているわけではなく、そういう方面からあえてネガティブに語るのは、人として性根がねじ曲がっているとも言えないが、不可能なこととして現状を打開するために主張せざるを得ないことがあり、それを主張したところで何がどうなるわけでもなければ、現状ではそれを実行することができなくても、それを政策として主張するしかないということでもなく、それが絶望的な状況をもたらしているわけでもなく、それどころか実感としても現状が何でもないような状況だとは言えないが、たぶんそんなことは主張したいこととは違って、枝葉末節なことかも知れないが、そういうところがうまく表現できないところでもあり、そうかといってうやむやにするわけにもいかず、それに関して何を語りたいのかはっきりしないところだが、はっきりさせたくないのであり、何をはっきりさせたくないのかといえば、これから語られることであり、それが主張している内容を無視して我関せずの態度につながるのかというと、それもはっきりしないのだが、中には無視しようとしてもできない主張がありそうに思われるとしても、なぜそれが無視できないのかに関して、その理由を求めているわけではなく、無視しようとしているのであり、何とかして無視したいのだろうが、実際に無視しているのに執拗に絡みついてくるような粘着質を伴った主張というのもありそうに思われるのだが、それが何なのかというと何でもないことかも知れないし、実際に何でもないことなのだろうが、ともかく適当にあしらって遠ざけておきたいようなことを主張していて、それを意識して軽んじて、あたかもないことのように取り扱いたいわけだろうが、まだそれがじわじわと利いてくる段階にまで達していないように思われるかも知れないが、あとひと押しという状況にもほど遠いわけでもなく、ほど遠いということにしておきたいのかも知れないが、実際にはどうなっているのかと問いたくもないだろうし、問われることもないだろうが、全ては結果に至ってからその結果に合わせて都合良く語るわけにもいかず、だからといって実際に都合良く語っているつもりになれる人にその自覚があるわけでもなく、その人の都合とは無関係に何かが起こり、その起こったことに気づかない場合もあるだろうから、自らの自覚なき感情の発露や自制して思考や行動を抑え込んでいることに関しては自意識が気づいていないのであり、それが抑え込むように仕向けられているというと、そんなことはないと反発するのは当然だろうが、それに関してつまらないこだわりや意固地な感情に邪魔されて、行動を抑え込まれているから、やるべきことをやろうとしないことに関しても、多くの人たちがそんなことはないと反発するわけで、そんな反発心が駄目にしている状況があるとすれば、それを改めない限りは現状を変えることはできず、もちろん現状を変えるつもりなどないとしても、放っておいても現状が変わっていってしまうから、そんな現状の変化に対して反発心が湧いてくるのだろうが、現状の何が変わってくるのかというと、まずは思い通りにならない部分が変わってきて、それが思い通りになるなら言うことなしだが、そこからさらに状態がねじれてくれば、今までが比較的にスムーズに事が運んでいた面でもうまくいかなくなってきて、何か焦りを覚えて、そんな焦燥感に突き動かされて、さらに余計なことをやってしまって、始末に追えない結果がもたらされて、今まで安泰だった立場も追われて、そこから押し出されて別の方面へと向かわざるを得ないとなれば、それが状況の変化そのものであり、そうなることを欲していたわけでもないのに、煙に燻り出されるようにしてそこから退場させられるような嫌な感じを覚えると、ひょっとすると逆上して自滅を招くのではないかと不安になってくるかも知れないが、そこが狙い目だというと、狙ってそうなっているのではないのだから、負け犬の遠吠えのようなことを叫びたくなるわけでもなく、それとこれとは関係ないような状況へと逃避したくなるのかも知れず、それの何が狙い目なのかも前もって示されているわけでもないのはわかりきったことだが、何かの途中から狙い目が見えてくる場合もあるだろうし、狙っているのではなくても、それを狙わざるを得なくなる成り行きになってくるなら、それがその場の状況に応じた行動に結びついて、それが別に窮地を脱したとも思えないとしても、そんな自覚もなくそこから移動している実態があり、それが当初に語ろうとしていた内容からどれほど遠ざかっていようと、そこから強引に照準を定め直して、あくまでも当初に語ろうとしていた内容にこだわるなら、文脈の整合性が取れなくなってきて、語っているというよりは書き記すことの難しさを思い知るわけでもなく、当てが外れていることをどうやってごまかすかに関して妙案が思い浮かぶわけでもなく、そこで立ち往生してしまっているのかも知れないが、実態としてはそうではなく、すでに狙い目を狙って、そこに照準を定めながら語っていて、語っている内容が狙い目と一致していると思い込めるのだろうが、それが思い込みだとは言えないわけで、もちろん他の誰の思い込みでもなく、自らの思い込みには違いないのだろうが、そう思い込んでいることを自覚しているわけでもないのだから、意識できない思い込みでもあり、それに関して疑心暗鬼となることもあり得ないし、他人からそんなふうに思われているわけでもなく、他人に対してそんな思い込みを抱くように仕向けているわけでもないはずだが、それが何かの罠だと思いたければ思っても構わないことなのだろうが、実態としてはそんな単純なことではなく、それに関係する物事が複雑に絡み合っていて、その中で誰が故意に罠を仕掛けても、そんな罠にかかるほど恣意的に情勢をコントロールすることなどできはしないし、そんなことにはお構いなく、誰もが勝手な思惑を抱いているから、すでに思惑の当てが外れていることを前提として情勢が動いているのであり、それを結果から都合良く説明しようとする愚かな人たちがいくらでも出てくるのだから、そこに罠があるだのないだのと語ること自体が妄想の産物に過ぎないわけだが、そうなった結果として誰かを味方につけてうまく立ち回った人物の存在が浮かび上がってくるのも、他にも大勢のうまく立ち回れなかった人たちの存在やそれらの人たちの行動と比較してそう思われるわけだから、もうすでにその時点でそういう人物を好意的に語ろうとするバイアスがかかっていて、そういうバイアスに従って実際に好意的に語られている状況の中では、そんなことを語っている人がそれを自覚できないような空気が形成されていて、そんな空気の中で語っているのだから、そんなことを語っている人自身が罠にかかっていると指摘するような成り行きにもならず、そういう人も他にも似たようなことを語る大勢の人たちも含めて、その場の風景に絡め取られているように見えるとしても、風景画として描かれているのが、それらの人たちを背景として従えた特定の語る対象としての人物であればわかりやすいのだろうが、風景画には特定の人物など描かれない場合もあるのだから、それを描いている当人が好意的に語られるべき人物である可能性まであるわけだ。
6月30日「のらりくらりのしどろもどろ」
別にここからが何の正念場というわけでもなく、うまくいけば機会を捉えて面倒な事態から抜け出すことができると思っているわけでもないが、それについては自身が何を思っているのか定かではなく、思うのではなく何か考えがあるのだろうが、その考えが浅はかなのかも知れず、粘り強く用意周到に回りくどく考えようにも、根気が続かずにすぐに考えることを放棄してしまい、後はなるようになるまでと投げやりなるほど後先が短いとも思えないが、今は動くべきではないと思っても、単にものぐさだから動こうとしないだけで、動こうにも現状では身動きが全く取れない事情があるのかも知れないが、そんなのは嘘で、嘘だからといって本当は動けるわけでもないが、何か目的があって動こうとしないのだろうが、その目的というのが全く当てにならないことであり、何かその目星がついているとも思えず、それが目的でさえないのかも知れないが、自分について語っている気もしないなら、他の誰かについて語っているのかも知れないし、その誰かというのが実在しない誰かであれば語っている内容はフィクションでしかないだろうが、誰がフィクションを語っているわけではなく、現実の世界について語っているつもりで、その実態は現実の世界については何も語ってはおらず、まだ語り足りないことが山ほどあって、それについて一通り語らないと現実の世界について語ったことにはならないのかも知れないが、実際にはよくわからないのであり、わかろうとしていないのだろうが、わかろうとするつもりもなく、わからないままでも構わないとさえ思っているのかも知れないが、何をわかりたくないのかといえば、それが真実であるはずもないだろうが、事の真相というのが、メディアからそれを知るパターンでは満足できないなら、自分で考えて真相を推し測ろうとするのだろうが、推測していることが果たして真実に近いのかどうかがよくわらず、的外れなことを思い描いているのではないかと疑念が募ってくるが、その的外れに思われるようなことが何なのかというと、それが陰謀論的な世界情勢や日本の政治情勢などかも知れないが、その中でも興味の対象とはなっていない部分もあって、それに関して疑問を抱いているのに誰もその疑問には答えてくれないし、答えられない部分かも知れないが、だから疑問にはなるべく答えないようにしながら、あらかじめ予防線を張っている部分でもあるのかも知れず、その代わりと言っては何だが、付け焼き刃的に世界経済について何か利いた風なことを語りたい部分もありそうだが、今はその時期でもないような気もするし、無理に語っても的外れになってしまうような気もするから、今は語らずにおく方が賢明なのかも知れないが、では何も語れないのかというと、疑念を抱いていることについて語ればいいのだろうが、それが政治的な配慮から語れないというと、そんな立場でもないはずだが、そんな配慮など無視すればさらにデタラメなことを思う存分語ることができそうだが、それがデタラメにならないように語りたいなら、もっと慎重に情勢を見極めて、語っても構わない機会を探る方が賢明なのかも知れないし、すでに語る機会を逸している可能性もありそうだが、その機会を捉えないと語れないのかというとそうでもないだろうし、恒常的に正しいと思うことを語れば、語る機会にとらわれずに済みそうだが、果たしてそれが現状の中で有効に機能するかというと、元から無効なことを語っているわけでもないが、何を語っても無効な境遇というのもあるだろうから、どのみち無効ならもっと自由にあることないことデタラメに語っていればそれで構わないはずだが、それが無効か有効かを決める立場にはないし、誰に決められるわけでもないだろうが、決定権を握っている人が誰かを知っているわけでもなく、そんな権限を有した人物がいるとも思えないから、やはりデタラメに語るのが最も精神的な負荷がかからない語り方になるだろうが、それにも限度があり、なるべく節度を守って語らないと、それがどんな節度なのかもよくわからないし、身の程をわきまえた語り方というのも意味不明な感じがしてしまうが、たぶんデタラメに語ってはいけないような時期があり、その時期には倫理観を意識せざるを得ず、誰がそんな倫理観を抱いているわけでもなく、それを倫理といってしまうと違うのかも知れないが、それ以前に現状が何かしらおかしいのであり、そのおかしいことに直接言及できないところが歯痒いのだが、それをおかしいと断定してしまっても別に構わないが、それがおかしいからといって、そのおかしさに同意してくれる人も同調してくれる人も限られてくるだろうから、それをおかしいと断定すること自体が空振りに終わる公算が高く、だからおかしいと思っていても、あえてそこには触れずに、これまで通りに素知らぬ顔して振る舞っていればいいとしても、果たしてそれをおかしいと断定できる機会が巡ってくるかどうかは今のところはよくわからないのだが、それでもいずれは自らの態度を決めなければならないと思っておけば、それもそんな気がするだけで勘違いのなせる業かも知れないが、態度を明らかにしないまま、うやむやになってしまうかも知れないから、そんな機会など永遠に訪れないかも知れないが、それでも絶えずおかしいことをおかしいと言える機会は窺っておいた方が、用心に越したことはなく、何を用心しているのかもよくわからないが、実際におかしいのだから疑念を抱いておいた方が自分に正直で、それだけ精神的な負担も軽減されるだろうから、それも自らの勝手な思い込みには違いないのだが、何はともあれそうやって方針が定まってくれば、自ずから行動の目的も生じてくるだろうし、そんなとりあえずのきっかけを求めて行動していけば、後からまた新たな目的も生じてくるかも知れないし、別にそんな目的など現状ではどうでもいいことかも知れないが、現状が変化してくればその目的に応じて行動する機会も巡ってきて、その機会を捉えて何をどうすればいいのかがわかってくるかも知れず、それも現時点ではよくわからないことだが、たぶんそんな妄想を抱いているのであり、その妄想を実行に移すきっかけを求めて、偶然に巡ってくる機会を窺いながら、現状に対して打診しつつ、機を逃さないように心がけているのかも知れず、それも空振りに終わる公算が高ければ、何でもないことには違いないのだろうが、なぜか知らないが、それも勘違いのなせる業であるにしても、そんな気がするようなことが立て続けに起こっているような気がするわけで、実際にちょっとしたことであっても、それを利用して何かをやろうとするから、大抵は空振りに終わり、それが空振りに終わると自信を失くして、自らの勘を信じられなくなってしまうのだろうが、そうやってセコくみみっちい方面に関わり合っているうちに、木を見て森を見ずという具合に物事を全体から見る視点を失い、日本人に典型な人格のタイプに収斂して行ってしまうのかも知れないし、そういう人たちが世の中にいくらでもいるのが、現状の中ではありふれた状態なのかも知れないが、社会の構造がそういう人間を求めているわけだから、それ以上の人間なんているわけもなく、それもフィクションの中に登場する架空の人物には違いないから、もちろんここで馬鹿にしたい日本人に典型な人格の方も架空の人格であり、人格が千差万別であるのはわかりきっているが、何か万人に共通する人格の傾向があれば、そういうことを語る説明の中で捏造された傾向となるだろうから、その種の説明のどこからどこまでが現状の世の中を反映しているわけでもなく、世界そのものを反映しているとしても、フィクションとして反映している限りで、全体としては架空の傾向を伴ってきて、それを真に受ける人に勘違いをもたらすのだろうが、そうやって誰かを煙に巻いて何をもたらしたいわけでもなく、世の中の現状を文章の中に定着させることの困難さを示したいわけでもないのだろうが、たぶんそれでも嘘としての現状を反映しているわけで、そんな現状の中でメディアを通じて伝えられる情報から何か影響を及ぼされているとしても、それもこれだとは特定できないことであり、何かのついでに得られるわずかなポイントを溜め込むためにそれ相応の努力が費やされても、それが何になるとも思えなければ、泰然と無視していても構わないが、わずかな利益が気にかかって無視できなければ、そんなことにも汲々とするような経済状態を強いられているからそうなるわけで、多くの人たちがそんな気になってしまうことを狙ってそんなことが行われているとも限らず、それを疑い出したらきりがないが、実際にそうなってしまうのだとしたら、自らのセコさに嫌悪感を抱くのも無理はないにしても、それが生まれ持っての資質というわけではなく、自らを取り巻く状況がそうさせると思っておくだけでも、気休めにはなるかも知れないし、そんな気休めなど何の足しにもならないと思っているなら、それだけ心に余裕があることの証拠かも知れない。
6月29日「戦略的な意図」
この世界で今後どれほどの人間が誕生して、どれほどの人間が死に絶えようと、そんなことには関わりなく主張される内容も決まりきって、今日も明日も昨日と同じようなことが主張されているが、そこで何が問われているとしても、それが大した問題でもないようなことだとすれば、特に支障はないことになってしまいそうだが、それで問題ないと言ってしまうと何か釈然としないが、たぶんそれで問題ないのであり、釈然としなくてもそんなことが主張されている現状の中では、そんな主張に基づいて言説が構成されているのだから、有り体に言えば技術的な問題となることは避けられず、それに関して例えば数字を何%にすればいいということになってくると、具体的に消費税率を何%にすればいいのかという議論になって、何かもっともらしい理由をつけてそういうこと語り始めると、途端にそういう方面へと誘導されてしまうから、それに抗うにはそうならないようにするにはどうすればいいのかと問いたくなってしまうが、そんなことはどうでもいい問題ではなく、どうでもいい問題ではないから、それについて馬鹿正直に議論してしまうと、そういう方面へと誘導されて、前提として消費税ありきの議論になってしまうのが厄介なのだが、印象づけとしてまともなことを語っているように装うには、消費税率を何%にするのが妥当かということを計算から求めればいいのだろうし、それが戦術的には有効であり、専門的な領域へと議論を誘導して、その方面の専門家たちに語らせればそうなるとしても、普通に考えてそれでは興味のない話になってしまうから、興味がなくてもそれで構わないわけだが、体裁を取り繕うにはそういう方面へと議論を誘導してしまえばいいのだとしても、中にはそれでは納得しない人たちもいて、納得しない人たちに引きずられて、そもそも論を持ち出してしまうと、話が振り出しに戻ってしまい、そもそも論を狂信的に展開している人たちにしても、それが戦略として機能している限りで、一見戦術としてそもそも論を持ち出しているように感じられるとしても、戦略としてそんな態度を貫いているように伺えてしまうところが、そうすることの意図や思惑として、わざとそんな意固地な態度を貫いて、専門的な議論に持ち込もうとしている人たちを困らせる戦略なのではないかと想像してしまうのだが、それがある程度は成功していて、それなりの成果を上げているから、そういう人たちが存在できる余地も生じているのだろうが、主張している人たちは本気でそんなことを主張しているはずで、それが戦略だと感じられる限りで、そんなことを想像してしまうから、想像している方は本気ではなく、その辺に微妙な認識の違いがあるわけだが、そういう次元ではそうなのだとしても、それが戦略であるなら、そんな戦略など根本的に間違っていると言いたい人はいくらでもいるかも知れないが、戦略などではなく本気でそう思っている人がいるとすれば、やはりそういう人は厄介なのかも知れず、そんな人たちを利用して戦略的にどう振る舞えばいいかと考えているわけではなく、それが考えるまでもないことであるのはわかりきっているかも知れないが、すでにそう振る舞っていて、振る舞っているからといって本気でそれを信じている人たちを裏切っているわけでもなく、振る舞い自体が勝手な振る舞いであって、それによって世の中にどんな作用や影響を及ぼすこともなく、ただ単に面倒な人たちから相手にされないように振る舞っているに過ぎないことで、もちろん相手にされるような立場でもないし、取り立てて何もしなくてもどうなるわけでもないのだが、わざと戦略的にそう振る舞っているというよりは、何かしら無意識の勘が働いてそうなるのであり、それが自意識には理解できないことであり、それに関して物事を単純化してわかりやすい解釈を施してしまうと、かえってそれが勘違いのもととなってしまうのだろうが、そういう方面からアプローチしている人たちの方でも、それらの人たちに特有の勘が働いてそうなっている面もあるだろうから、それを意図的で戦略的な振る舞いだと決めつけてしまっても、それも勘違いでしかないのだろうが、それに関しては様々な人々が様々な立場や境遇を伴いながら動いていることは確かで、それを特定の傾向としてひとまとめにする必要もなく、行動や振る舞いの正しさというよりは、その根本的な誤りを利用してでも、それよりははるかに大きな誤りへと立ち向かわなければならず、その大きな誤りが現状の世の中で世界的に顕在化しているように見えるかも知れないが、そう見えるだけで、それは今に始まったことではなく、元から大きな誤りを利用しながら文明が発展してきたのであり、その誤りを今さら正せと主張しているわけではなく、そんな大げさなことではない比較的狭い範囲内で、小さな誤りを活用しながらそもそも論を展開している分には、そんな主張をしていればよく、それもそれが小さな誤りだとは思っていないだろうし、それらの人たちに言わせれば、それらの人たちの批判対象となっている政治勢力が政策を誤ったから大変なことになっているという論法で自分たちの主張を展開していて、それが全くの誤りだとは言えない現状となっているから、それはそれとしてそういう主張が誤りであるわけでもないのだが、大きな誤りなのではなく比較的に小さな誤りというのが微妙なところかも知れないし、そういう表現自体が不正確なのは承知しているが、小さく誤るのではなく誤るなら大きく誤った方が後々になって好都合な場合があるかも知れず、それが現時点では小さな誤りであるかも知れないが、それを大きな誤りへと発展させて行けば、それによって誤りそのものは将来に禍根を残すかも知れないが、小さな誤りのまま中途半端に現状の延長上で事態が推移していくよりは、大きな誤りに伴っていったんそんな現状がリセットされる方が、その後の対処がやりやすく、その大きな誤りと共にそれに加担した政治勢力も滅んでしまえば好都合であり、そうなることを狙って現状の中で誰が戦略的に振る舞っているわけでもないのだろうが、それを意識しなくても自覚なき行為や行動がすでに生じてきていると感じるのも勘違いのなせる業かも知れないが、威勢のいい人たちはそうなる成り行きの中ですぐに騒ぎ立てて短命に終わるかも知れないが、そういう人たちを利用して漁夫の利を得ようとしなくても、結果的にそうなってしまうのかも知れず、そうなった時にどんな立場でいるかが重要となってくるわけでもないが、現状でも大して有能だとも思われないような人たちに主導権を握るチャンスが巡ってきた時が、真の意味で世の中が変革する機会かも知れず、そうなることを目指そうとしても目指せるわけでもなく、誰もそんなことを目指して活動しているわけでもないが、将来のどこかで何かしら紆余曲折が起こり、そんな意味不明な回り道の途中で脱落してしまう人もいくらでも出てくるだろうが、そうなるに至る途中で脱落するには惜しい人がいくらでも退場を余儀なくされてしまうのも、その種の競争の残酷な一面なのだろうが、それを競争だと割り切れるわけでもなく、結果的にはかっこいいことを言った人負けな状況となってしまうかも知れないし、欺瞞と偽善の塊のような人が政治的な勝利を得るのも目に見えているのかも知れず、そういう意味ではがっかりするようなことが起こるのを前もって予想しておくのが無難なところだろうが、そういうことを踏まえるなら、現状の中でその言動や挙動が目立っている人に未来があるとは思えないが、それも確率的なことだから、誰が将来において政治的な主導権を握ろうと、大して問題とはならないのだろうが、意外と大逆転のようなことが起こって、急転直下で誰かの願望が実現する確率もゼロとは言えないし、そうなった時に将来に禍根を残すような大きな誤りが実行に移されて大変な事態となるのかも知れず、それを期待しているわけでもないが、それ以前に一筋縄ではいかない状況となっているわけだから、現状で辻褄の合う主張を信用しているわけでもなく、正義が実行されることを期待しているわけでもなく、では何を期待しているのかというと、思いがけないことが起こってほしいわけで、すでにそんなことはいくらでも起こっていて、思いがけないことによってもたらされた紆余曲折のただ中に現状があるわけだから、それに輪をかけた思いがけないことが起こっても、少々のことでは驚かないし、実際に大して驚きはしないわけだが、それに関して少なくとも、政敵の命を奪わないとうまくいかないような政治体制を支持するわけにはいかないし、日本に関してはそういう最低限の条件はクリアしていると思いたいが、それが欧米の民主主義国の基準というわけでもないが、そんなことよりも大事な何かを忘れている人が多すぎるような気もするわけだ。
6月28日「改革への挑戦」
別にわざとそうなっているように装っているのでもないだろうが、それに関して悪戦苦闘というと何か苦しくて厳しい戦いを強いられているような状況が思い浮かぶが、安易な気持ちでそんな言葉を使っているわけでもないとは思うものの、実態としてはそうなのかも知れず、それは例えば死に物狂いという表現とも類似していて、そこから実態がかけ離れているような状況であっても、何となくそういう大変な状況を示す表現を使って、大変なことをやっているように装わないと、わざわざそんなことをやっている自身の気持ちと釣り合いが取れないような気がするのかも知れず、だから悪戦苦闘とか死に物狂いとかいう表現を使うと、本当はそうでもないのにそんな大げさな表現を使って体裁を取り繕っているような胡散臭さを感じてしまうが、逆に表向きには大したことでもないように装いながらも、その裏では苦労して大変な事態と格闘しているような状況の方が、何となくリアリティを感じられて、どちらにしても言葉による表現とその実態がかけ離れているのを察知した時の感触が、そら見たことかと得意になって真実を突き止めたような気になってしまうと、そこから勘違いの慢心が生じて、その場の情勢を見誤ってしまうのかも知れず、そういう意味では妙に筋が通っていて辻褄の合う批判というのが真に受けてはならない典型例のように思われて、そういう批判はいつも負け犬の遠吠えのようにしてその場の主導権を握れなかった少数派から出てくるわけで、逆に筋が通らず辻褄の合わないやり方によってその場の主導権を握った勢力がいるなら、それに対して筋が通って辻褄の合う批判が浴びせられるとしても、民衆の中の多数派はいつも矛盾を抱え込みながらもその場の主導権を握ったいかがわしい勢力を消極的に支持することになるかというと、必ずしもそうとも言えない情勢になるなら、何かそれが虫のいい話になってしまうのかも知れないが、そこに世の中が良くなる可能性があると思えば、そんな可能性に賭けてみたい気になるかも知れないし、そう思う人が多ければ多いほど、筋の通った辻褄の合う批判を繰り出す少数勢力への支持や賛同が集まるかも知れないが、大抵はそれも限定的な範囲内にとどまり、結局は大半の人たちが長い物には巻かれろ式に現状維持の政治体制を消極的に選択することになるだろうが、それを現状維持とは言わないし、絶えず現状の改革を推進しているから多くの民衆から支持や賛同が集まっていることになるわけだが、そうなる過程で急進的な批判派の意見も可能な限り聞き入れる姿勢を示せば、その姿勢を示すだけで、最終的には改革がうやむやに終わるにしても、絶えず政治改革や経済改革に挑戦し続ける姿勢を維持していれば、そんな政治体制を支持している多数派の体面が保たれて、事なきを得るのだろうが、どの程度の水準で事なきを得るかで、世の中の情勢も変わってきて、それが現状で事なきを得ている水準となり、果たしてそれで本当に事なきを得ているのか疑問に思うかも知れないが、事なきを得ていなくても事なきを得ているように装われて、まるで口裏合わせのようにして事なきを得ていることにしておけばいいわけだが、その一方でその場の都合に応じて、未曾有の危機に直面していると危機感を煽るようなこともやるかも知れず、それが他国から侵略の危機にさらされているから防衛力を強化しなければならないという面では、未曾有の危機というのが戦争に直面していることになるわけだが、また夏場の電力需給が逼迫しているから原発を再稼働させなければならないと煽ることも、さすがにそれが未曾有の危機とは言えないが、それなりの危機に直面していることにはなるだろうし、そういう面では事なきを得てはいないわけで、そういう面で何を改革しなければならないのかというと、防衛力の強化に関しては防衛費をGDPの2%にまで引き上げて、諸外国並みの水準にすることが改革だといえるかも知れないし、電力の安定供給という面ではベース電源としての原発を有効活用して、夏場や冬場の電力の需給が逼迫する時期でも、余裕を持って電力を供給する体制を構築することが改革となるかも知れないが、そんな改革を望んでいるのはもちろんそれを改革と呼びたい勢力であり、そういうことをやるのがそれらの人たちにとっての政治改革であり経済改革となると、少なくとも危機感を煽っている方面では改革を推し進めたいわけで、そんな改革を推進することが自分たちの勢力を利することになるはずだが、それと共にそれらとは別の方面でも改革を推進したいだろうし、それがなし崩し的な国民の意識改革につながるのかも知れず、そのきっかけとなるのが日本では憲法改正だと一部の人々の間では信じられているのかも知れないが、そんな期待とは裏腹に何が起こるかを予想する気も起こらないが、何かの囮として憲法改正が取り沙汰されているわけではなく、他にも様々な方面で改革の可能性が模索されているなら、それらの中の一つとして国民の意識改革が模索されているかも知れず、といってもどこの誰がそんな改革を模索しているとも現時点では言えないが、少なくともそれが憲法改正などとあからさまに結びついているわけでもないなら、どうもそれが政治改革とか経済改革とかいった特定の方面から求められているというよりは、それらを含んでもっと大きな改革のうねりが到来しているように装いたいのかも知れず、それに関して特定の誰がその改革の旗振り役になっているとも現時点では言えないが、誰かそれに該当する人物がすでに登場していることを仄めかしたい人も中にはいるようで、何かしら特定の人物がその中心となって改革を推進することを期待する声もネット上では目立っているのだろうが、今はそれが稚拙な論理を用いて煽り立てていることでしかないとしても、それがそのまま持続するとも限らないだろうが、いずれはそうなることのきっかけとなることが期待されていて、直接そういうことに結びつくのではなく、そのきっかけとしてそんな現象が起こっているとするなら、ではいずれ起こることになる国民の意識改革とは具体的にはどんなことなのかというと、たぶんその時が来ればそんな名称では呼ばれないだろうし、そんな大げさなことではなく、もっとたわいなく何でもないような些細な出来事がそれをもたらして、しかも大抵の人はそれに気づかないばかりか、現状が維持されていることを信じて疑わないというよりは、そんなことでさえ気にならないし、いつも通りの日常が何の変哲もなく続いているだけで、何が改革されたかも意識できないだろうが、それを改革と呼ぶのもおかしいのかも知れず、ただの意識の変化に過ぎないことが改革であるわけでもなく、意識改革という表現からはかけ離れたことになるのかも知れず、例えばそれを感性のリベラル化と言うと現状では反発する人も出てくるかも知れないが、逆に現状ではそうなることに反発する人たちが世界中で危機感を煽っていて、そうなってはならないようにするために、絶えず人々が現実に発生している利害にこだわるように仕向けているわけだが、なぜそれが感性のリベラル化をもたらすのかといえば、現状で発生している目先の利害にこだわると対立を引き起こして、逆に暴力や暴動などによって損害を被るから報われることがなく、時として利害にこだわっている自身の愚かさを思い知るのであり、何かそれがしっぺ返しのようにして自身の心身や財産を損なう結果をもたらすから焦り、焦燥感に駆られてさらに目先の利益を求めて何かを仕掛ければ、さらなる厄災の類いが自身に降りかかってきて、それがやることなすことうまくいかないような悪循環に陥ってしまうから、そうなると自分では手に負えなくなってきて、自分よりももっと大きな力を振るうことができる国家などに助けを求める人も出てくるわけだが、国家を統治している政府がその人をどう扱っているかに関して、必ずしもその人を助けるようなこととは無縁であるなら失望するだろうから、そうなって初めて民主主義のありがたさに目覚めるわけでもないだろうが、目先の利害にこだわっている人は総じて社会民主的な政治傾向を馬鹿にする風潮が現状では優勢であるにしても、その傾向が世界的に見ればごく一部の地域でしか通用していない可能性があるわけで、要するに目先の利害にこだわれる地域ではそうなのだが、どの地域でも目先の利害にこだわれるかというとそうでもなく、すでに利益を得られないことが確定してしまった地域では目先の利害どころではなく、しかも国家自体が破綻の危機に直面すると、我先に破綻する前に国家から脱出しようとするのだろうが、脱出できる人も限られていて、大半の人たちは脱出できずに取り残されてしまい、破綻しかかった国の中で生きていくことしかできないから、しかも目先の利益などないも同然の状況の中ではどう振る舞えばいいかとなると、国家以外には頼ることができなくなるわけでもないだろうが、それでも相対的にはごく一握りの金持ちに支配されるよりは、人口の大多数を占める貧乏人が団結して国家の主導権を握ろうとして、その結果として左翼政権が誕生するわけだが、それと感性のリベラル化とがどう関係するのかというと、貧乏人の憧れとして金持ちなリベラルになりたいわけで、それに伴って誕生した左翼政権に期待していることも、無い物ねだり的にはそれに対応した期待となってしまうのではないか。
6月27日「夢と現実」
夢といっても何を夢見ているのかと誰に問われるわけもなく、フィクションでもないのだから、そんな状況を体験した記憶もないが、それでも睡眠中に見た夢ぐらいは覚えていることもたまにはありそうで、実際に見た夢の中で夢見る人が何かを求めているらしいのだが、目が覚めてみるとそれが何だか思い出せず、自分が夢の中で何を探し求めていたのか定かでないことが、自分にはわかっていないことを探し求めていたとも思えないのだが、求めているのではなく探し求めているということが、その微妙な違いをどう表現すればいいのかわからないが、それに関してあえて自らに嘘をついているわけではなくても、求められるはずのない物事を求めているなら、暇な時にでも現状ではあり得ないことをいくらでも夢想していて、そんな夢想から逃れるには、その代わりに安易なフィクションでも想像してみればいいわけでもないが、すぐにそれが思い浮かばなくても、例えばそれが宝探しの大冒険であるはずもないが、試しに宝探しの大冒険というキーワードでネット検索をすると、馬鹿げた結果が表示されて、ネット検索のデタラメさを改めて思い知るわけでもないが、冒険が意味する内容が冒険とは無関係の的外れな内容となっているわけではなく、それが宝探しの大冒険となると、その語句を含んだ映画やゲームなどが検索結果としてヒットする仕掛けとなっていて、それも内容としては冒険には違いないのだが、知りたいのはそれらではなく、もちろん何を知りたいわけでもなく、宝探しの大冒険の意味を知りたいわけでもないのも、何のために検索したのかその理由や動機もわからないし、意味不明な検索結果が出たわけでもなく、宝探しの大冒険という語句がタイトルに含まれている映画や漫画やゲームなどが検索結果として表示されるだけでしかなく、宝探しの大冒険そのものが表示されるわけでもないのはわかりきったことだが、では探し求めていたのは、宝なのか冒険なのかということになると、冒険そのものを探し求めていたわけでもなく、普通は宝を探し求めているはずだが、そして今も探し求めているような気がするから、探し求めていたという過去形であるよりは現在進行形で探し求めていることになるのだろうが、それを現実の世界で具体化するとなると、何やら河原や海岸で石拾いをしている人に出くわすわけでもないだろうが、そんな動画を見る度に自分も暇ができたらやってみようと思うわけだから、そこで夢と現実の不整合を改めて思い知るわけでもないが、そんな大冒険とも言えない宝探しにどんな魅力があるかというと、気軽にできることが魅力なのは言うまでもないことだが、探しているのが石ではなく、昆虫とか小動物になってくると飼育する手間が増えて、かえって面倒なことになってしまうだろうが、何かを探している人が世の中にはいくらでもいることがそれほどおかしいのではなく、多くの場合はそれを売買や貸借によって求めようとしていることもそれほどおかしくはないが、おかしいことに着目したいわけではなく、そうなって当然のことに着目したいわけだが、もちろん当然だと思うことがおかしいと主張したいわけでもなく、それをおかしいとは思わないことが恐ろしいというわけでもなく、何かを求めるのも探し求めるのも当然ことであり、当然のことをやるのが不思議でも何でもないわけだが、逆に当然ではないことをやるのも不思議でも何でもない場合もあるかも知れず、おかしなことをやるのも不思議でも何でもなく、実際に世の中でおかしなことが平然と行われていると告発したい人もいくらでもいて、それを問題視したい人もいくらでもいて、何とかして当然ことが行われているのをおかしいと思わせたいのだろうが、そのおかしいと思わせたい当然のことというのが、政治的な決定から生じていることだと、それがおかしなことだと政治的に認めさせたいわけで、それも政治的な決定としておかしなことだと認めさせるには、議会か何かで多数決を採って、賛成多数としておかしなことだと認めさせなければならなくなり、選挙を経て賛成多数となるような議会構成を実現できればそうなるにしても、そこに至るまでの過程の中で世間に向かってそれがおかしなことだと必死になってアピールする姿が、滑稽に見えるわけでもないだろうが、多大な労力を費やす割にはなかなか結果が伴ってこないのであり、今のところはそれがおかしなことだと認めさせるまでには至っていないのだろうが、それが無謀なことだとは思わないだろうし、合法的な手順に則ってやっていることであり、手段を選ばずに非合法な手段に訴えているわけでもなく、そういうところで新たな手段を探し求めているのではなく、結果を求めているのであり、おかしなことをおかしなことだと認めさせたいのだから、結果がそうなることを求めているはずだが、いったいどれほどアピールすればそんな結果に至ることができるのかというと、そういう問いは愚問であり、答えの出ない問いでしかなく、現状の中で答えが出ることは期待できないが、近い将来において、何かが起こることを期待している人が大勢いて、そんな大勢の人たちの夢を叶えるために何かが行われている現状があり、その何かというのが、はっきりと表明されているにしても、それが夢を叶えることなのかということが、ちょっと見ただけはよくわからず、どうもそうではないような気がするのは、何かそれとは別に人を騙すような策略があるとも思えないのだが、騙されているのはおかしなことを当然視している人の方であり、それを当然視することがおかしいと主張しているのだが、当然視している人とは立場が違うとしても、立場が違えばおかしいことがおかしくなくなってしまうのかというと、それもおかしいわけで、立場の違いを超えておかしいことはおかしいことだと認めさせたいから、それがおかしいことだとアピールしているわけだが、それに関してはおかしいことをおかしいことだと認めるにしても、そのおかしいことをやらなければならない事情があり、そうした事情を無視するわけにはいかないのであり、だからおかしいことがおかしいこととして行われている現状があるのだろうが、もちろんそれをおかしいことだとは認めないし、おかしいことだと認めてしまうとそれを改めなければならなくなるから、それを改めるわけにはいかない事情がある限りは、おかしいことだとは認めようとしないわけだが、そうやっておかしなことが行われている現状があって、その現状をおかしいと主張して、おかしいことを改めさせようとしている人たちがいるわけだが、中には改めなくても構わない行為や行動もあるだろうし、河原や海岸で石拾いしている人も見る人が見ればおかしな行為であるし、大の大人が昆虫や小動物を獲って飼っていることもおかしいと思うかも知れないが、それによって迷惑を被らなければ放っておいてもらえるかも知れないが、それらとは違って、政治的な決定によって行われていることが実害をもたらしていると主張されて、その主張を真に受けるなら、実際に実害を被っているような気になれるわけだが、真に受けたからといってそれが改まるわけではなく、それとは別にやることがあり、それをやった上でさらに何らかの結果がもたらされて、その結果に基づいてまた別のことが行われて、そうしたことの積み重ねの結果として政治的な決定が下された末に、そのおかしいと思っている何かが改まるわけだが、そこまで辿り着けるかというと、現時点では何とも言えないし、現状では辿り着いていないから、そんなことはできないと思っている人もいくらでもいるだろうし、そんな人たちが世の中の多数派を占めている限りは実現不可能なことになってしまうわけだが、果たしてそうなったままでも構わないのかというと、どう思ってみても現状ではそうなっているわけだから、それ以上でも以下でもなく、これからどうなるかが決まってくるのだろうが、決まらなくても構わないなら、そのままでも構わないだろうし、おかしいままでも構わないなら、そのおかしいことが当然視されている状況が続いていくだろうし、もちろんそれを当然視している人にとってはおかしいことでも何でもなく、そうなっていることが当たり前の状況なのだろうが、それが当たり前だとも思わないとしたら、そんなことにわざわざこだわっているわけでもなく、それが制度や慣習として世の中に定着しているから、それに伴って自然な振る舞いの中でそんなことが行われていて、要するにそれが自体が是非の判断を伴うような対象とはなっていないわけで、そういう是非の判断にすらならないようなことを政治的な面で争点にしようとするなら、それを無視しても何とも思わない人も大勢出てくるのかも知れない。
6月26日「相関関係のある事例」
世の中で興味のない物事はいくらでもあるが、興味があるからといって、それが自分に関わりがあるとも限らず、逆に自分に関わりがあっても興味がないこともありそうで、興味のあるなしに関わらず、自分に関わりのあることが時として面倒な事態を引き起こす場合もあり、興味のあるなしと関わりのあるなしとの間で相関関係があるとも思えなくても、興味がないのに関わってこられると鬱陶しいと思いながらも、関わってこられると逆に興味が湧いてくるようなこともある一方で、当初は興味があったのに、自分には関わりのないことだとわかると、途端に興味を失ってしまう場合もあり、そうなると相関関係があることになってしまい、時と場合によって相関関係があったりなかったりするのかも知れないし、それを身近に感じていれば自分と関わりもありそうだが、身近に感じていなくても気づかないところで関わりがあるかも知れず、関わりがあったところでそれに気づかなければどうということはないと思うかも知れないが、気づいた時にはもう手遅れになってしまえば、それが何なのかというと、何かの病原菌のようなものに身体を蝕まれて、それと気づかずに死が間近に迫っているようなことにでもなれば、深刻な事態に至っているのだろうが、そんなはっきりしたことではなく、それとは少し趣が違い、かつて自身が小太りな体型であることを正当化するために、太り過ぎや痩せ過ぎであると短命に終わることが多く、それが統計的にも示されていて、小太りな人ほど長生きする傾向にあると言っていた人がその後どうなったかというと、最近六十五歳で亡くなった人がいて、その人がアルコール依存症に陥っていたらしいことも明らかとなっていて、小太りな体型であってもアルコールが祟って寿命を縮めてしまったことになるのだろうが、酒や煙草の過度な摂取によって死に至る場合と体型との間に相関関係があるかというと、煙草の吸い過ぎで肺癌になれば、最後は痩せて死ぬだろうから、相関関係がありそうだし、太っている人ほどアルコールの摂取量も多ければ、そこにも相関関係がありそうだが、それ以前になぜ酒や煙草を過度に摂取してしまうのかといえば、絶えず精神的なストレスにさらされていると、そのストレスから逃れるためについ酒や煙草に手を出してしまい、その結果として寿命を縮めてしまえば、根本的なところでは精神的なストレスとの間に相関関係があり、人が絶えず過度に精神的なストレスを受け続けると、ストレスから逃れるための暴飲暴食が祟って太り過ぎたり、逆に拒食症となって痩せ過ぎたりして、結果的に寿命を縮めて短命に終わる場合がありそうだが、中には統計的に長寿の傾向がある小太りな体型を維持していても、体質的には酒や煙草の許容限度を超えている場合もあるかも知れず、そうなってしまった結果から推測するなら、いくらでも辻褄の合いそうなことが言えるとしても、それらの要因を単体で取り出すなら、統計的な裏付けがあるから小太りな人ほど長生きできると安心していても、それとは別の方面では飲酒や喫煙から短命な傾向になることに関しても統計的には明らかになっているかも知れないし、また精神的なストレスをどれほど受けているかでその人の寿命が決まってくるという統計結果も出ているかも知れないから、安心はできないし、すでに太り過ぎであったり痩せ過ぎであったりして、このままでは短命に終わってしまうから、長寿の傾向が明らかになっている小太りな体型を目指して、食事や運動の最適量を求めるようなことも行われているかも知れないが、そんなことに気を使いすぎてかえって精神的なストレスがかかってしまう場合もあるかも知れず、それらの間でどのような相関関係があるかといっても、それらだけから長生きできるか短命に終わるかが決まってくるわけでもなく、また長生きしてもつまらない人生かも知れないし、逆に短命に終わっても充実した人生を送ったと思える場合もあるだろうから、一概に長生きが良くて短命が悪いとも言えないが、それらの中の一つの要因へ関心が向かうように仕掛けてくる場合があり、例えば酒や煙草を販売している企業なら、酒や煙草で爽快な気分を得られると宣伝したいだろうし、また健康食品やスポーツ用品を販売している企業なら、食事や運動に気を遣っている人向けに、それらの人たちを応援するような宣伝を仕掛けてくるだろうし、スポーツジムとかを経営している企業も、スポーツがいかに心身の健康に良いかを宣伝したいだろうし、また精神のストレスを和らげるには酒や煙草に頼らなくても、気晴らしに旅行を勧めたり、競馬や競輪やパチンコなどのギャンブルを勧めたり、遊園地や温泉施設へ行くことを勧めたり、それらが一体となった複合施設へ行くことを勧めたり、それに関連する企業の宣伝に乗って散財してしまって、かえってストレスがかかってしまう場合もあるかも知れないが、それがどのような行動に結びつくとしても、人の活動を活発化させることが経済を活発化させることに結びつくかというと、ある程度はそういう傾向が認められるにしても、そう語ることと実態が結びつくとは限らず、イメージとしてそう思われるだけで、逆に経済を活発化させるために人の活動を活発化させるということが、循環論の類いになってしまうなら、皮相上滑りなことを述べているに過ぎなくなってしまうだろうが、比喩表現が実質を伴うとは思えないとしても、実践として技術的な傾向を高めてしまっても、こうすれば良いと言いたい人がいくらでも現れて自身のやり方を宣伝したがり、そうやって自らがそれなりに成功している専門領域へと誘い込もうとして、これ見よがしな勧誘を仕掛けてくるわけだが、もちろんその一方で浅はかな勧誘に乗ってはならないと注意を喚起するような逆説的な勧誘も仕掛けてくるし、そうした宣伝合戦に巻き込まれてしまうと、自分でも気づかないうちに誰かのペースに乗せられて、当初には興味がなく関わりもないような方面へと引き込まれて、素人として格好のカモネギ的な攻撃対象となってしまうかというと、それにも程度の差があって、広く浅くちょっとずつ利益を搾り取られる面では、大した痛手も被らないが、塵も積もれば山となるなら、特定の誰かにだけ莫大な利益がもたらされるような仕掛けとなっている場合もあるかも知れず、そうしたことに気づいていても、別にその種の勧誘を拒否する理由がなければ、自分とはほとんど関わりのない特定の誰かを成功させるために微力程度の力を貸す気になる場合もあるわけで、その人が成功しようが失敗しようが自分にとってはどうということはないが、成功してもらえば少しは気晴らしとして愉快な気分になれるような気がすれば、できる限りで力を貸そうとするのかも知れず、力を貸したところで痛くも痒くもない程度であれば、その方が気分がいいだろうし、その程度のことだと割り切れるかどうかで、それとこれとの間の相関関係が関与してくるのかも知れないのだが、そこで割り切れない人が多いと、割り切れない理由として、一つの否定的な要因へと過剰にこだわらされている場合があり、それも皮層上滑りな傾向として夏目漱石あたりが百年ぐらい昔に指摘していたことかも知れないが、著名人や企業や政府などが一つの傾向へと向かうことを過剰に推奨している状況が、社会の不健康さを物語っているのは、今に始まったことではないものの、多くの人々がそういう傾向へと向かうように仕向けていることに敏感に反応して、それに逆らうように煽り立てている人たちが、果たして社会の主導権を得る日が今後やってくるかというと、それも実際にそうなってからわかることでしかないだろうが、少なくとも現状ではあり得ないことのように思われるなら、そのあり得ないことに賭けてみるのも、気晴らし程度の賭けとしてストレス解消に有効かも知れず、それも競馬や競輪やパチンコなどのギャンブルに比べれば、大して散財するわけでもないだろうし、それが根本的なところで何を意味してどんな意義をもたらすかも、いずれ誰もが気づくかも知れないが、無理に気づく必要はなく、現状では気づくにはどうすればいいかと問われているわけでもないから、気づくにはこうすればいいとしたり顔で言い放つ必要もないわけだが、逆にSNS上でしたり顔でこうすればいいと言い放っている人が推奨する方法というのが、目的のために一つの傾向に凝り固まることであったりするから、そういうところではわかりやすい状況となっているわけで、果たしてそのしたり顔でこうすればいいと言い放っている人がその後どうなるかは神のみぞ知るわけでもなく、忘れた頃に昔したり顔で何かを言い放っていた人のことを思い出す機会を得た時に、その結果がわかるかも知れないが、わかったとしてもその時の自分とは何の関わりもなく、興味の対象ともなっていなければ、したり顔で言い放った方法とは無縁であったことを知ることになるのかも知れない。
6月25日「知ることと見ることと考えること」
別に知りたいことを知ろうとしているわけでもないというのは嘘だが、なぜそんな回りくどく語ろうとするのかに関しては、その理由を知りたいわけでもなく、メディアを通して入ってくる様々な情報を組み合わせて、世の中についての認識を日々更新しているつもりで、実際にはそうでもないのかも知れないが、それに関して知らなければならないことなどありはしないと思うわけでもなく、それを積極的に知りたいわけでもないのに、メディア上で誰もが知りたい情報があるかのように装われていると、知っておいて損はないように思われて、それを知ることによって生じてくる欲望が求める方向へと誘導されているような気がしながらも、それを知ってそんな情報に基づいて自分にとって都合のいい論理を構成して、さらにその論理に基づいて物事の良し悪しを決めつけようとしてしまうことが、良いことだとは思わないが、気づかないところでそうなっているのかも知れず、それ以前にわかっていないこともいくらでもあるらしく、メディアが見せようとしているのに見たくないものの中にそれがあり、見るだけでわかるわけでもないもわかりきったことだが、それを見てわかったつもりになってほしいから、それを積極的に見せようとしているわけで、それを見て想像してほしいことがあるのだろうし、何を想像してほしいのかはすでに誰もが想像していることになり、見たくないものの中にわかっていないことがあるなら、それを見ないとわからないのであれば、見る必要があるはずだが、なぜか見たくないから見ようとはせず、見なければわからないのに見たくないなら、わからないままとなってしまうだろうが、では無理をしてでも見るべきなのかというと、見るべきではあるだろうが、なぜか抵抗感を覚えて見るべきものを見ようとはせずに、しかも見ようとしていないのに、それについて語っている現状があれば、なぜそうなってしまうのかよくわからないのだが、少なくとも自らが保持しているつもりの論理に照らし合わせて、恣意的に取捨選択してきた様々な物事を都合のいいように組み合わせて、言説を構成してはいけないと自分に言い聞かせながらも、実際に頭の中ではそう考えているのに、なぜかそこでもそれに逆らいながら考えようとしていて、それの何が間違っているとも思えず、実際に間違っているはずがないのだが、その間違っているはずがない正しさの方がおかしいわけで、おかしいわけがわかっていないのにおかしいと思うのもおかしいわけだが、それとこれとは区別して考えなければならず、区別して考えないと現状からかけ離れたことを正しいと思ってしまい、それが間違えていることの証しとなっているように思われて、そうなると自身が信じている論理に照らし合わせて、物事の良し悪しを判断したり、何が正しくて何が間違っているのかを判断することが、ことごとく誤った判断に導かれているようにも思われてきて、そう思うこと自体もおかしいのかも知れないが、おかしいかおかしくないかではなく、もちろん良いか悪いかでもなく、正しいか誤っているかでもないとするなら、では何が判断基準となるかというと、判断しないように仕向けられていて、思考が判断停止に陥っているのかも知れず、何か一つの信じられる論理に基づいて判断することを避けなければならず、信じられる論理を提供してその論理に従うように仕向けてくるメディア的な傾向には逆らわなければならないのかというと、意識して逆らわなくても構わないが、逆らうような成り行きになってしまうこともあるだろうから、それと意識せずに逆らっているなら、それを無理に意識する必要はなく、意識せずに逆らうにまかせていればそれで済んでしまうようなことであり、たとえそれによって不利益を被っていようと、そうなってしまうのだから仕方のないことであり、そうなっていることについて何か信じられる論理を持ち出して正当化する必要もないわけで、正当化できない状況に陥っていると思うしかないが、意識せずにそうなってしまうなら、わざわざそんなことを思わなくても済んでしまうわけだが、意識せずにそうなっていることについてはそうであっても、それを意識するように仕向けられているわけではなく、逆に意識しないように仕向けられていると考えてしまうと、そう仕向けている犯人探しをするようなことになれば、例えばメディアによってそう仕向けられているような気がしてしまうわけで、それもそんな気がするように仕向けられているのかも知れないが、何がそう仕向けているとかいないとか思うのも、これといって確かな証拠があるわけでもなく、そう思うならそんな気がする程度のことであり、そんな気がする程度のことをいくら重視しても勘違いの域から出ないことであり、それよりは他に重視しなければならないことがあるだろうから、そちらの方を重視してしまうわけだが、その重視していることに合わせて主張を構成するなら、単純で功利的な主張に落ち着くのかも知れないが、それをそのまま主張するわけでもなく、逆に積極的に主張することは控えながらも、そんな主張に基づいて行動するわけでもなく、では何なのかというと、あからさまにそれを主張してはまずいわけで、しかもあからさまに行動してもまずいのであり、まずいのにも関わらず結果的にはそうなってしまうのだとしたら、そうなっていることについては逆らえず、逆らえないからそうなってしまい、意識して逆らおうとしても逆らえず、そんな逆らえない成り行きに囚われているのが誰であるわけでもなく、誰もがそうなっていると語るわけにもいかず、そんなことは語り得ない成り行きに誰もが囚われていて、その代わりにそれとは関係のないところで憂さ晴らしのような行為を強いられていると状況を捉えるならそうだとも言えてしまうから、ますます自らの信じている論理から遠ざかってしまうわけだが、それと共にメディアを通して見させられている光景からも遠ざかっているようにも感じられるから、それだけ現実の世界の中で生きているようにも思われて、現実の世界の中ではそれらとは違った論理がまかり通っているようにも思われるのだが、それがどんな論理であるかに関しては、それをこれだと示すと違うようにも思われてしまうから、これだと明確には示せないわけだが、それは論理ではないのかも知れず、論理であるように感じられるが、その場の状況に応じて変更可能な論理であり、そうなった結果に合う論理をその都度持ってきて、これが論理だと示されるわけではなく、それを後から振り返って考えると、そんな論理がその場限りで通用していたように思われるのであり、それがその場限りのことだから、他の場では通用していない可能性もあるから、恒常的に通用する論理ではなく、その場限りでも通用しているとも言えず、それを後から振り返ると、かろうじて通用していたように感じられる程度のことであり、そんな論理を信用できるかというと、信用するまでもないことであると共に、それを事後的に説明するには便利な論理でもあるから、説明する分には好んで使われるとしても、論理に基づいて実践するようなことではなく、そういうことをやってしまうと原因と結果を取り違えていることになるだろうから、事後的に辻褄の合う説明など信用できないのはわかりきったことだが、説明自体がそういう説明にならざるを得ないから、過去の事例を説明するにはそうなるしかないと理解しておくしかなく、説明の延長上で未来への予想や予測が語られることになるのだが、間違ってもそれが現状を語っていると思ってはならず、現状が過去と未来の合成物であるはずがないが、現状を説明するならそうなるしかなく、説明では現状を捉えきれないから、絶えず過去を振り返ってそれを未来へと折り返そうとするのであり、そうする限りで説明には現状が抜けているのだが、現状が何なのかというと、説明しきれない世界の中に現状があり、説明しようとすればフィクションとなるしかないが、フィクションが現状を物語っていて、物語るから現状がフィクションとなり、フィクションと現状とは別物でしかないが、それは過去とも未来とも違って、過去や未来を物語る説明とは違う現状がフィクションの中に息づいていて、フィクションを物語ることでしか現状には近づけないが、現状に近づいたところで現状そのものではなく、それが現状とは別物のフィクションとなっているから、安心感を抱きながら現状とは違うフィクションを退けられるわけだが、フィクションを退けたからといって安心できるかというと、そこには過去や未来について語っている説明しかないわけだから、安心からは程遠い状態になるしかないわけだが、それに対して過去を振り返って事後的に辻褄の合う論理を導き出すことができるわけだから、しかもそれを未来へと折り返して過去と整合性の取れる予想や予測も導き出せるわけだから、安心材料には事欠かないわけだ。
6月24日「奇跡のパラドックス」
これから起こることに関して、あえて否定的な物言いをするなら、ここからどうなるとも思えず、予想通りの結果に終わるかも知れず、別に奇跡が起こることを期待しているわけでもないが、信じられないことが起こるならそれが奇跡のはずだが、信じられないことがどんなことなのかというと、それは信じられないことが起こってみないことにはわからないが、信じられないことだとしても、がっかりするようなことであれば奇跡とは言わないだろうし、驚きと共にそれが好意的な印象を伴って受け止められるようなこととして、信じられないことが起こるのであり、それも本当に起こってみないことには何が起こったのかわからないし、奇跡が起こるとすればあっと驚くようなことが起こって、それが信じられないことになるはずで、その信じられないことというのが、今まさに起こっていることだとすれば、それを信じられるわけでもないだろうが、実際に何が起こっているのかというと、全てのことが起こっているのであり、現状で起こり得る全てのことが起こっているのだが、果たしてそれが奇跡なのかというと、ある意味では奇跡かも知れないが、またある意味ではそれが起こるべくして起こっていることだから、奇跡でも何でもなく、起こるのが当たり前のことが起こっているのだが、それを奇跡と捉えるかどうかで、そう捉える人の立場や境遇に違いが生じてくるかというと、あからさまにはっきりとはわからないが、ある人にとっては奇跡であるが別の人にとっては奇跡ではなく、起こるのが当然のことが起こっているように思われるなら、それがどういうことなのかというと、起こっていることについてどのような知識や経験を持ち合わせているかで、それが奇跡的に起こったように思われたり、また奇跡などではなく、ただの起こるべくして起こった、当たり前のことのように思われたりするのかも知れず、それが現状で起こり得ることであり、実際に起こっている中の一つでしかないのかも知れないが、そこで様々なことが起こっている中で、どこかで奇跡が起こっていたり、またそれとは別の方面で起こっているのが当たり前のこととして起こっていると考えるなら、それらが連動して起こっている可能性もあり、連動して複数のことが起こっているのに、その中の一方は奇跡が起こっているように思われるが、もう一方は起こるべくして起こっているように思われるなら、それらの関連性がわかっていないからそう思われる場合もありそうで、では実際に何がそう思われるのかというと、これからそう思われることが起こり、奇跡が起こるべくして起こるから、起こったことに驚くわけだが、中にはもうすでに起こっていることもあるかも知れないし、何が起こったのか思い出せないわけではなく、例えば大規模な自然災害が起こって、その際に崩れた建物の瓦礫の中から、奇跡的に救出された人がいたかも知れないし、また大規模な戦争が起こって壊滅状態となった都市が、戦後奇跡の復興を成し遂げた事例もあったかも知れないが、たぶんこれからもそんなことが起こるのは想像に難くないし、実際に起こるのだろうが、それとこれから起こる成り行きが予想通りの結果に終わることがどう結びつくかというと、普通は予想通りの結果が奇跡なのではなく、そうなることが前もって予想されていたことであり、そうなる限りで奇跡でも何でもないわけだが、その一方で予想が当たること自体が奇跡だと思われる場合もあるだろうから、そんなことを予想した当人が信じられないと思う場合もあるだろうし、予想が当たるとは予想していなければ、当然のこととして予想が当たれば驚いて、信じられないと思うだろうが、そうなると予想通りのことが起こることが奇跡となるのだが、要するに当たるのが当然だと思うような予想が当たること自体は奇跡でも何でもなく、その逆に当たるはずのない予想が当たると奇跡だと思われるわけで、そう言われてみればそんなことは当然だと思われるが、そんなことが起こるのは当然だと思われるようなことが起こるのが奇跡となるなら、果たしてそれが信じられるかというと、信じられないと思うわけで、何かそれがまやかしであるような騙されているような気がするかも知れないが、予想通りのことが起こったのに、それが奇跡だと思われたり起こるべくして起こったと思われたりすれば、予想通りの予想が当たる確率が高ければ、起こるべくして起こったことになるが、逆に予想が当たる確率が限りなくゼロに近ければ、それが当たれば奇跡が起こったことになるのだろうが、その確率を信用に足る計算から導き出せるなら確かにそういうことが言えるが、果たして予想が当たる確率を計算から導き出せるかというと、予想の全てを数学の確率統計の分野に還元できるわけでもなく、大抵の予想はそうではないだろうし、確率計算から求められる予想と、はっきりした根拠もなくいい加減に推し計って予想することは確かに区別できるし、どちらの予想が信用できるかもわかりきったことだが、どちらも予想には違いなく、しかもはっきりした根拠もなくいい加減に推し計って出した予想が当たっても、別にそれが奇跡だとは思わない場合の方が多いだろうし、そこで予想した当人が思っている程度やニュアンスの違いなども押し計らなければわからないことになるだろうが、そんなことまで事前に厳密に考慮しているわけでもなく、たとえ当てずっぽうに勘にまかせて予想したことが当たっても、予想した当人は当たって当然だと思うかも知れないが、その人を信用していない別の誰かは、それが奇跡だと思うかも知れないし、そうなると予想した当人とその人を信用していない別の誰かとでは、立場が違うと明確に言えるかも知れないが、別にそれがパラドックスなのではなく、それ自体はそうなって当然の結果だろうが、もちろんそうなって当然である限りでそれ自体は奇跡でも何でもないことだが、当てずっぽうに予想したことが当たったこと自体は奇跡だと思われるわけで、それがややこしいわけでも込み入っているわけでもなく、極めて明快に説明できることなのに、予想した当人は当たるのが当たり前のことを予想したと思い、その人を信用していない別の誰かは予想が当たったこと自体が奇跡だと思うのは当然のことなのかも知れないが、そんな二人の思いが連動していることも確かであり、予想が当たったことに連動して二つの思いが生じているのに、そのうちの一方は予想が当たったのは当然のことだと思い、またもう一方は予想が当たったのは奇跡だと思うのも、別におかしいことではなく、パラドックスでも何でもないわけだが、では何が奇跡のパラドックスなのかというと、ただ単に予想通りのことが起こるのが奇跡なのであり、しかも予想外のことが起こって驚く際にも奇跡が起こったと思うわけで、予想通りであっても予想外のことが起こってもどちらも奇跡が起こったと思うなら、では奇跡以外のことは起こらないのかというと、起こって当然のことが起こるべくして起こっているわけで、それが起こったところで奇跡でも何でもないことが起こっていて、それが予想通りのことであり、かつまた予想外のことでもあるわけだが、そこで起こったことについては、予想通りな面もあると同時に予想外な面もあると説明されれば納得がいくだろうが、同じ出来事を同時に、しかも予想通りと予想外と奇跡と奇跡ではないという真逆の意味を持つ言葉によって説明できれば、二律背反でありパラドックスだと思われるのだが、だからといって不思議でも何でもなく、そう言われてみればそんなことでしかなく、奇跡でも何でもないような起こって当たり前の予想通りのことが起こっている一方で、その同じ出来事の中で予想外の奇跡が起こっているとしても、それはそういう面があるということで済ませてしまっても構わないだろうが、ものはいいようで、そういう言い方に騙されているわけではないのだろうが、誘導されている面があるわけで、同じ出来事の中で予想通りのことが起こったことを強調したい人にとっては、そこで同時に予想外の奇跡が起こっていることが都合が悪いわけで、だから奇跡が起こっている事実を無視しようとするだろうし、できればそれを問題視したくないわけだが、だが実際に奇跡が起こったことに驚いてしまった人が大勢いれば、その俄には信じられない奇跡を目の当たりにして、大勢の人がそれを奇跡だと信じてしまうわけで、それも想定通りの結果だと強弁してみても、もちろんその奇跡が起こったことを後から合理的かつ論理的に説明できれば、後付け的にはそれは奇跡でも何でもなく、起こって当然の、起こるべくして必然的に起こったことにしてしまえるだろうが、すでにそれが奇跡だと信じてしまった人にそんな後付け的な説明が届くまでにそれなりのタイムラグがあれば、少なくともそれらの人々がそれを奇跡だと信じている期間があり、その限りでその出来事が奇跡としての効力を保ち続けるのではないか。
6月23日「利いた風な物言いから離れて」
それを世界とか世の中とか言ってしまうと、それとは別に自身が存在しているように感じられてしまうが、それでも世界とか世の中について語っている中には、語っている人の事情や経緯も含まれていて、それが何だかよくわからない事態に陥っているのは、それについて語っている人の事情や経緯とは違う方面からそうなっている可能性があり、それがその人とは関係のないことのように感じられることからも明らかだが、それについてはわかっていることも少しはあり、事態がここに至っても、なお意識が何かに導かれているような気がするのは、ただそんな気がしているだけではなく、よくわかっていない現状の中で、なぜか単純なことは語りたくないことからも、わからないことを踏まえた上で語ろうとしているわけで、その一方で他人の利いた風な物言いに出くわすと、何か少し違うような気がして、その人にとってはそれで構わないにしても、自身の置かれた状況を物語るには不適当に感じられて、それに関してはただ言葉を入り組ませてややこしく身の上話などを語りたいだけなのではないかと疑ってしまうが、他人からわかってもらえるように語る必要はないのかも知れず、ならばそんなことを語る必要も感じられなくなってしまうが、そういうことだとは思えないから、少しはその種の身の上話とは違ってきて、わかってもらえるようにわかりやすく語ることとは別の次元から、世界の現状が自分に直結してくる面があると仮定すれば、何かそういうところから語る必要が感じられて、そうなると逆に誰かの身の上話の延長上で語られる世界の姿が信じられなくなってくるから、もうすでにややこしいことを語っているつもりになって、利いた風な物言いとは違う方面から語ろうとしているわけで、それが具体的に何なのかと問われても、何かはっきりした傾向を感じ取っているわけでもなく、ただ漠然と関心が引き寄せられていく方向に何かがあれば、それについて語ろうとするのだろうが、そこから外れるようにして語る必要もないのに外れて行ってしまうなら、何について語っているのか意味不明になりながらも、そんな意味不明に合わせて何か得体の知れないことを語っているつもりなのだが、相変わらずわかりやすく語るのを怠って、結果的に意味不明になってしまう傾向に歯止めをかけられずに、ぐだぐだな内容になってから、慌てて修正を施そうとしても、もはや後戻りができないから後悔先に立たずとなり、そこから敗者復活とはいかないのもわかりきったことだが、それでも負け犬の遠吠えとはならないようにしたいのだろうが、そんな誰かの声がどこかの山や谷に跳ね返ってこだましている内容が、そんなことを物語っているとも思えず、物語っているというよりはそこで何かを演じているのであり、それが見苦しい演技とならなければ少しは敗者も安堵するかも知れないが、戦う前から負けていることに気づかなければそんなことにも気づかない自身の見苦しさにも気づかないのであり、そこで何を演じているのかは定かでないが、演じているつもりもなければ、演じているのではなく活動していると思っているのかも知れず、その活動の中で何を語っているのかといっても、何も語らずに行動していることになるわけでもなく、それは行動の中身にもよるだろうが、こだわっている内容がそれとは違って、それがわかりやすい行動にはならないようにしているのかも知れず、そこにずれが生じてきて、行動とは別の方面でもわかりやすいようには語らない傾向となってきて、無駄に言葉を入り組ませて煙に巻くようなことをやろうとして、それに失敗してしまうわけだが、果たしてそれで本当に失敗しているのかといえば、失敗に成功していればそれが屁理屈の類いとなり、結果的には屁理屈を弄して失敗しているのだろうが、それが何に失敗しているのかがわからず、わかりやすく語ろうとすることに失敗しているのは間違いないのだが、他にも失敗していることがあるようにも思われて、それがわざと成功することに失敗していることにならなければ、うまく立ち回っているような気になりながらも、絶えず疑念を抱き続けているわけだが、何に疑念を抱き続けているのかといえば、自身の信念を自分で裏切っていることに関して、意外とそうではないのではないかと疑念を抱いているわけだが、その疑念が当たっているかどうかはさておき、そんな疑念から微妙に逃れている思惑も一方にはあり、それが自分の身の上話とは関係のない方面で明らかになろうとしていることかも知れず、そこで何が明らかになろうとしているのかといえば、世界の現状が明らかとなっているわけだが、そんなのは身の上話をする以前から明らかになっているはずだが、何が身の上話をする以前とした後で違うのかといえば、世界の現状に自分の身の上話を重ね合わせようとするわけで、それに成功すれば、世界の現状に身の上話の中で語られている自身の行動が同期していることになるわけだが、それが自らが構成したフィクションだといってしまうと身も蓋もないから、できるだけそうならないように心がけるには、何が必要かといえば、今のところはそれもよくわかっていないわけだが、だから言葉を複雑に入り込ませながらも、語りが自身の身の上話に落ち込んでしまうを避けようとしているのだろうが、それをやろうとしてできるわけでもないから、その自覚のない人が世界の現状について語ろうとすれば、気がつけば延々と自身の身の上話を語っていることに気づかず、それ以外に何を語っているのかも定かでなければ、自身の身の上話以外には語りようがない事態に追い込まれて、ひたすら身の上話を語っているのが見苦しいかというとそうでもなく、類は友を呼ぶというとさらに見苦しくなるが、そんなことしか語れない人が他にも少なからずいて、そこから身の上話に共感するような成り行きになれば、結果的にはうまく行ったことになるのだろうが、うまく行ってしまうと何か弊害があるのかというわけでもなく、そういう水準で語っている人にはそれで構わないような事態がもたらされていて、それで構わないのなら、そればかり語っていればいいのかというと、そうでもないのだろうが、世界の現状について語っていけば、自ずからそうなってしまうのだから、それが避けようのない事態となっている限りで、そんな水準で語れる内容となると、やはり自身の身の上話以外にはあり得なくなってしまうわけで、そんな人は世の中にいくらでもいると言ってしまうと、やはりその通りのように思われてしまうのだが、そんな人が世の中にいくらでもいるのが世界の現状になってしまうと、それ以外に何が言えるのかと問われるわけもなく、自身の身の上話に絡めて世界の現状について語っている人がいくらでもいる事態となっているから、それだけ世界が身近に感じられるというとその通りなのであり、そうやって誰かの身の上話に共感したりしなかったりしながらも、何を錯覚しているわけでもないのだろうが、錯覚していることとは別に誰かの身の上話があるわけでもなく、身の上話の延長上で語られている世界の現状に欠けているのが何かといっても、身の上話をしている人にわかるはずもなく、では身の上話に共感している人にわかるかというとそうでもなければ、身の上話には共感できない人には何かそれとは違う世界が見えているのかというと、それとは別の身の上話に共感しているから、その身の上話には共感できないのかも知れないし、そうであれば大して変わらないのではないかと思うかも知れないが、どんな身の上話に共感するかで世界に対する見方や考え方が異なるなら、そんな身の上話に共感している人の意識にもそれなりに差異があって、それがその人が暮らしている地域的な差異や立場や境遇の差異などにも結びつくかも知れないが、それと同時にそれらの人たちが認識している世界の現状も部分的な現状となり、世界の全ての現状を把握しているわけではなく、それらの人たちが共感できる範囲内で世界の現状を把握しているに過ぎないことになるだろうが、では共感できない世界の現状というのがどこにあるのかというと、意外と目の前にある現状を見ていない可能性もあるのかも知れず、それが誰かの身の上話からはわからない現状であり、身の上話が意識して周到に避けている現状のあるのかも知れないし、身の上話の中では都合のいいことだけ語られていて、その都合がそれを聞く人の都合と合致する限りで、その種の身の上話に共感できるとすれば、それらの身の上話が周到に避けている現状が目の前に広がっているのに、それについては意図的に言及を避けているから、社会の中のある特定の層にはウケの良い話の内容となっていて、逆にそれについてあからさまに語ってしまうと、途端に退いてしまうような現状が、人目を避けて社会に根深く食い込んでいるとしたら、それについて語るには多くの人から共感を得られるような身の上話では無理であり、それとは違う方面から語らないと、その内容が明らかになるには至らず、それが明らかになったところで共感を得られない事態となれば、共感を得ようとして語る人には無理な内容となるのかも知れない。
6月22日「疑わしい主張への信頼」
誰かが主張している内容が疑わしいのは以前から気になっていたことだが、だから主張している人物がどうというわけではなく、たとえ疑わしいことを主張していようと、その人物への信頼が揺らぐわけではなく、信頼しているから主張している内容が疑わしいと思っているわけだが、世の中の情勢に合わせて導き出される言動がその種の疑わしい主張に結びつくわけだから、それが時流に合っているように感じられることも確かかも知れず、それがそう感じられることが、正しいとか間違っているとかいうのとは別にそう感じていて、使い古された論理に基づいて使い古された表現を用いてありふれたことを主張しているに過ぎないと断言できるが、そんなことは今や誰も信じていないわけではなく、それを真に受ける愚かな人もいくらでもいるだろうから、愚かで善良な人々を敵に回したくてそんなことを述べたいわけでもなく、逆に賢い人々の方が現状の世の中では害悪をもたらす役回りを引き受けている可能性もあるから、愚かであることが悪いことで賢くあることが良いことだと一概には言えないのかも知れず、その種の賢さに飛びついてしまう人が愚かなのはわかりきったことであり、それがどのような賢さなのかが、人によって見解の分かれるところかも知れないが、自身の言動や行動が時流と合ってしまうことが、まさか愚かさの表れだとは思えないだろうし、その人がそう思うわけではなく、他人がその人の言動が時流に合っていると思うのだろうが、他人がそう思うだけで、その人には自覚がないのかも知れないが、果たして自分の言動や行動が時流に合ってしまうことがまずいのかといっても、合ってしまうのは仕方のないことであり、時流に合わないように言動や行動を制御できるわけはなく、それに対してそんなことしか主張できないから愚かだと貶すのもよくありがちな反応になるだろうが、そこで主張の正しさが競われているわけではなく、逆に時流に乗っていかに愚かになれるかどうかが競われているというと、否定的な響きを伴ってしまうし、それでは間違った解釈となり、そういう成り行きを否定的に解釈してはまずいのかも知れず、できれば肯定的に受け止めておきたいわけだが、誰もが愚かになりきれないとうまくいかないことがあり、そこで多くの人たちが疑わしい主張を馬鹿にして賢くあろうとすると、愚かな人々が時流の犠牲となり、世の中がますますひどい状況になってしまうから、その種の愚かさには付き合いきれないにしても、それを馬鹿にしないで、賢さとその種の主張とは相容れないと思っておけばいいのかも知れないが、どう考えても疑わしいことを主張しているわけだから、その疑わしさを無理に解消しようとは思わない方がいいのかも知れず、疑わしいままでも構わないから、疑わしい心理状態を保ちつつ、そんな主張を繰り返している人を信頼する気になれるかというと、疑わしいのだから信頼できないと判断するのが普通にそう思うところであり、賢くあろうとするならそれでも構わないが、そう判断してはまずいわけでもなく、その場で感じる愚かさと賢さが後になって逆転するわけでもないが、いくらその場で賢くあろうとしても、結果的にひどい現状を追認することにしかならなければ、その賢さが無駄に賢いだけで、目先の利益に目が眩んでいるわけでもなく、目先の賢さに騙されているわけでもなくても、いつの時代でもその場の情勢に合わせてうまく立ち回って、それなりに活躍しているように見える人はいくらでもいるが、そんな人の味方になって、うまく立ち回れない愚かな人々を馬鹿にしたところで、そんなことをやっている人が賢く見えるわけでもなく、それを客観的に見るならば、愚かな人々同士でお互いにお互いを馬鹿にし合っているだけで、そういう愚かな人々が大勢いるから、相対的に賢い少数の人々がそんな情勢をうまく利用して立ち回っていると考えれば、それなりに説得力がありそうな情勢の分析になるかも知れないが、それも実際に賢く立ち回っている人自身になってみないことにはわからないことだが、だからといって愚かなままでいいとも思えないし、誰もが賢く立ち回ってうまくやりたいわけだが、たぶんそうなれる人がごくわずかにいるとしても、誰もがそうなれるわけではなく、それは統計的にも明らかになっていることであり、誰もが賢くなろうとしても実際になれないから、逆に愚かな人々の味方を装って愚かな主張を繰り返している人や団体の方が、愚かな人々には信頼できるはずだが、それでも愚かな人々が賢い人や団体の方を信頼しているなら、結果的に愚かな人々同士でお互いにお互いを馬鹿にし合うような成り行きとなって、まさにそれが愚かさの極みに達しているわけではないが、いくら賢く立ち回っている人や団体の方を信頼しても、賢い人々の仲間入りができるわけでもないから、愚かな人々は愚かなままになってしまうしかないのだろうが、その方が賢い人々にとっては好都合であり、自分たちの競争相手がこれ以上増えてしまうと大変だから、できるだけ愚かな人々は愚かなままでいてくれたに方が好都合なわけだが、そのことに愚かな人々が気づいているかというと、愚かな人々を味方につけたい人や団体はそういうこと主張して、そうやって愚かな人々を味方につけようとしているのだろうが、果たして味方につけられるかというと、誰もが愚かなままではいたくないなら、賢くなろうとするしかないだろうから、しかも賢くなれる人が限られているとなると、そこで賢くなるための競争が繰り広げられて、結果的にその競争に勝ち抜いた人が賢くなれるわけだから、相変わらず賢い人はごくわずかしかいないわけで、その他大勢の愚かな人々は賢くなれずに愚かなままにとどまっている現状があって、そんな現状の中で賢い人が何をやっているかというと、賢くなるための競争を煽っていればいいわけで、どうすれば賢くなれるかに関してそのやり方を伝授すれば、愚かな人々がそこに群がってきて、我先に賢くなるためのやり方をマスターしようとして、そこで賢くなるためのやり方をマスターするための熾烈な競争が行われて、競争に勝ち抜いたごくわずかな人が実際に賢くなるわけだが、そうやって絶えず愚かな人々が賢くなるように誘導されている現状の中で、愚かなままでもいいじゃないかとあきらめて開き直れるかというと、愚かさの中で居直っている人は味方など必要としないかも知れず、そういう人は自分だけが愚かであることに価値を見出しているかも知れないし、自らの愚かさを自覚できる者こそが真の賢人だという逆説的な正当化を持ち合わせている場合もあるだろうが、他にも自分と似たような愚か者が大勢いると不都合なわけで、だから愚か者同士でつるんで徒党を組みたくないわけだが、そうなると政治的には無力な存在となってしまうだろうし、他人から無視されても何とも思わないから、周囲から浮いて孤立しても、かえって自尊心を保つことができて、むしろ積極的に孤高の人になろうとするかも知れないが、そうやって自己満足を得る方法があるとしても、それでも大抵は他の大勢の人たちから無視されずに相手にしてほしいから、ツンデレ的に媚びるようになるのだろうが、そういう次元で何がどうなるわけでもなければ、それを政治的な次元で何とかしようとする場合もあり、それも大抵は経済的な次元で何とかならないのを政治的に何とかしようとするから、そこから無理なことを強引にやるような成り行きになってくると、結局は争いへと発展する場合も多いわけだが、そこまでにはまだ至らない段階で、無理なことを強引にやろうとする主張を支持するかしないかというよりは、表向きには支持を求めているのだとしても、実際にはそんなことを主張している人や団体を支持するかしないかということでもなく、支持するふりを装うか装わないかの水準まで判断基準が下がってきたところで、支持するふりを装う態度でいられるかどうかが問われてくると、そうなったところで愚かなままでいられるかとなると、そこでも大抵の人は賢くありたいから、現状では無理に思われる主張よりは、現状を肯定するような主張の方を支持することになって、それが現状への妥協や打算の姿勢に見えてしまうと、争いへと発展しないうちに決着がついてしまい、誰もが愚かなままではいたくないから、渋々賢くなるための競争に参加するように誘導されて、競争に参加した人のうちの誰かが実際に賢くなるかも知れないが、競争に負けて賢くなれなかった人も大勢出てくるような状況がもたらされるのだろうが、果たしてそれが多くの人々が望んでいる現状なのかというと、そんなことは改めて認識するまでもないことであり、そうなっているのが当然の前提として、その上で何をやるかが問われているのかも知れず、しかもそんな問いに答えている自覚もなく、何やら現状では行われていないことを行わなければならないと主張する人や団体がそれなりに出てくるわけだ。
6月21日「無意識の主体」
何かのきっかけから関わってしまう物事が煩わしいと思いつつも、そこから欲が出て、とりあえず目先の利害に囚われてしまうのは仕方のないことだとしても、そうなってしまう自分とは関係のないところで、引き寄せられている別の何かがあり、その何かを探し求めているのではなく、わざわざ探さなくても向こうから関わってくる場合があると、危険を感じて思わずそれを避けてしまうこともあるが、それが自分の利害とは無関係だと思われるようなら、浅く関わっているにまかせている現状もあるだろうが、なるべく深入りはしないようにしているのに、強引に関わってくるようなら、向こうから利益を得たくて関わってくる場合もあるだろうが、そうした利害とは別に囚われてしまう成り行きがあり、そんな成り行きに囚われていることを自覚できないから、自らが主体的に行動しているような気になって、関わってくる対象へとのめり込んでしまうと、それが飛んで火に入る夏の虫の如くに、罠にかかって向こうのいいように誘導されてしまい、誘導されて行った先に何が待ち受けているのかも、実際にそうなってみないことにはわからないだろうが、それが利害とは思えないようなことだと、それほど目くじらを立てるようなことでもなく、放っておいてもどうということはないように思われるかも知れないが、そんな何でもないようなことに意識してこだわれるかというと、こだわっているつもりもないのに、特に意識してこだわらなくても否応なく囚われてしまう成り行きがあり、そこでもこちらがこだわっていなくても、向こうがこだわってくる場合があるのだろうが、向こうが何なのかということが、自分の意識の中では今ひとつわかっていないわけで、それが特定の人物とか意識のある主体ではなく、それが制度であったり法律であったり、企業などの法人であったり政府などの官僚機構であったりすると、こだわっているように感じられるとしても、こだわろうとする意志の主体が定かでないから、それらに関わっている誰がこだわっているわけでもなくても、それらから何かしら作用や影響を及ぼされている人には、それらに絡まれているようで嫌な感じがするわけだが、そんなことをいちいち気にしていたらきりがないから、なるべく気にしないようにしていても、人がターゲットになっている限りで、向こうから人を囲い込もうとしてくるわけで、制度や法律や企業や政府などの管轄の中に人を囲い込もうするのは、ある意味ではそうしないとそれらが機能しないからだが、そうしたことに人が関わるのも自然の成り行きだろうから、社会の中で生きて行く限りは、避けては通れない物事としてそれらがあることに関しては、明確に意識していなくても誰もが漠然と承知していることになるだろうが、たぶんこだわっているのはそこではなく、それらとの関わりの中でどう振る舞えばいいのかというわけでもなく、それらの成り立ちや構造を知りたくても、都合の悪いことは教えてくれないだろうし、では何なのかというと、できればそれらとの関係を何でもない範囲内にとどめておきたいのだが、実際にはそうもいかないから面倒なことに巻き込まれて、そこから闘争のような成り行きが生じてくると、実際に闘争している人や団体としては、闘争に勝とうとするのだろうが、個人のレベルでは勝とうとしても勝てないから、多くの人の力を合わせて勝とうとするのだろうが、そういう方面での闘争とは別に、何かしら知ろうとしていることがあり、それがそれらとの闘争に役立つかどうかはわからないが、闘争に勝とうとする上で知りたいことではないのかも知れず、それよりは無駄に闘争しなくても構わないようなことにしておきたいのかも知れないし、それを知ってみないことには何に役立つのかどうかもよくわからず、知ろうとしていることが結果的には何の役にも立たなくても、知っておきたいことがあり、知ること以外には目的が定かでないような知的欲求に過ぎないのかも知れないが、安易に闘争に持ち込んでしまうと知り得ないようなことかも知れず、そういう意味ですでにそれらとの闘争を開始してしまった人や団体には気の毒だが、勝つ見込みのない闘争とはならないようにしたいというわけでもなく、そんなことはやろうとしてもできないことであり、それを知ることによって闘争を回避できるわけでもないのだろうが、それ以前にあらかじめ仕組まれた闘争というのも想定できて、いったんそれらと闘争する成り行きに囚われてしまうと、否が応でも闘争しなければならなくなってしまうから、そうなっている時点でそれらの人や団体が闘争のターゲットになっているわけだが、そうなってしまうと知りたいことはそこにはなく、それが闘争に勝つための戦略とも戦術ともならない代わりに、闘争に勝たなくても済むような知識というわけでもないだろうが、闘争になってしまうのは成り行きとしてはそうなるしかないのだろうが、またその闘争の中で全力で勝ちにいかなくてもいいというと嘘になってしまうが、実際に闘争に参加しているつもりの人たちは全力で勝ちに行っているつもりでそれらと戦っているはずだが、結果的にはそうはならないのであり、意識の中ではそのつもりなのだろうが、結果がそのつもりでいる意識を裏切って、そんな結果を目の当たりにすると、一応はそれが闘争ではあるが、その一方で闘争とは別の目的があったことを知るに至るはずだが、そう言われてみれば、そんなことは誰もが承知していることなのだろうが、それを承知していてもなお、それが闘争であることを強調したいわけで、それが闘争とは別の何かであることを隠そうとしているわけではなく、あからさまにそう見えてしまうことに関しては隠しようがないわけだが、それでもすでに闘争を始めてしまっているのだからそれを今さらやめるわけにもいかないだろうし、実際にやめようとはしないだろうが、闘争に関してはそのまま続けてもらっても構わないのだが、それだけが闘争の全てではないのも、すでにそれに気づいているというよりは、闘争している主体に関してそんなことが言える程度でわかるようなことかも知れず、そんなことに気づかなくても構わないし、何かそこで様々な人や団体が対立し合う二つの陣営に分かれて戦っていると理解しても、それなりに確かなことではあるのだが、そうは見えないようにしている何かがあるというわけではなく、勝手にそんなふうにはなっていないと屁理屈をこねながら指摘したいわけでもないのだが、何かそこで引っかかるものを感じていることも確かであり、それが偽りの闘争だと見なしたいわけでもないのだが、それを何とか闘争とは別の次元から説明したいわけで、それが意味不明な欲求からそう指摘したいわけではないとしても、実際にそう見えてしまうのだから、それを否定する理由はなく、そこで闘争に関わっている人や団体が設定したい争点とは別の何かが浮かび上がっていて、その浮かび上がっている何かが何なのかといっても、うまく説明することは難しいわけだが、それに関して争点はそこにないと言い切れるわけではないが、それに近い感触を得ているわけで、それらの人や団体がいくら自分たちの都合に基づいて恣意的に争点を設定してみても、そんなのはまやかしだと主張したいのは山々だが、では真の争点は何なのかと問われると、答えに窮してしまうから、主張するのを思いとどまるしかないわけだが、もちろん知りたいのはそんなことではなく、これからそこで繰り広げられる闘争とは無縁のところで知りたいことが浮かび上がっていて、それに関して明確な回答を持ち合わせている人など誰もいないだろうが、それ以前に唱えられている偽りの争点には賛同できないのだから、それを知ろうとする姿勢を崩すわけにはいかず、そういうところで明確なことが言えない状態を保ちながらも、明確に語っている人には同調せず、それがこれから明確になることを知りたいから、そういう姿勢を保っているのではなく、これからも明確には知り得ないことを知ろうとしているのかも知れず、だから安易に明確な闘争方針を求めようとしてはいけないのだろうが、要するにそれは政治的な態度ではなく、政治家となるとそれとは逆に主張を明確にしなければ支持を得られない可能性がある限りで、絶えず明確に語ろうとしてしまう傾向があるにしても、そうしたからといって民衆から支持や賛同が得られるわけでもないところが微妙なのかも知れないが、そんな政治姿勢とは無縁なところで考えているわけでもないのだが、それでも現状の中では答えに窮してしまうことがあり、そういう次元からはかなりずれたことが政治的な闘争の中で争点として浮かび上がっているから、それは違うのではないかと思ってしまうわけだ。
6月20日「セコくてみみっちいこだわり」
これといって何か画期的なことを主張しているわけではなく、主張内容に魅力を感じているわけでもなく、では何なのかというと、惰性でそうなっているとしか言えないようなことかも知れないが、その惰性というのがなし崩し的にそうなっていることであり、成り行きに逆らえないわけだが、それがちょっと考えればわかることであり、考えてわかるようなことであれば考えればいいのだろうが、その一方で考えてもわからないこともあるから、事態がややこしくなっていくわけでもなく、例えば誰が得して誰が損するかということであれば、得したいだろうから、得することをやりたいだろうが、それをやっても得するか損するかが、やってみるまではわからなければ、そこでやるかやらないかの決断を迫られることになり、得するか損するかと共に、やるかやらないかで悩むことになるが、さらに得したところで微々たる得であって、やるかやらないかの決断を迫られることに比べれば、何か拍子抜けするようなことでしかなく、そんな馬鹿げたことに賭けること自体が愚かに感じられるなら、情けなくなってくるかも知れないが、そうやって誰もがセコくてみみっちいことにこだわるように仕向けられてしまうのが、現状の世の中でまかり通っているありふれた傾向なのかも知れず、そんな傾向に逆らうか逆らわないかの決断を迫られるわけでもないのに、なし崩し的にそうなってしまい、何もやらなくてもそんな傾向に誘導させられてしまうのだから、そういう傾向には黙って従っておいた方が無難なのはわかりきったことだが、そんなことを意識しなくても従わされてしまうだろうから、従っているという自覚もなく従っているのであり、従っているからといってその自覚がないのだから、改めてそんなことの是非を問うことも問われることもなく、そういうことが織り込み済みとなっている上で、ちょっとしたことにこだわるのが当然のこととして了解されていれば、こだわるしかなく、実際に誰もがそんなみみっちいことにこだわりながら生きている現状があるのだろうが、そんなみみっちいことが具体的にどんなことなのかといっても、それがそう言われてみればわかるようなことではなく、そうだとも思わないようなことであれば、それがみみっちいことだともこれっぽっちも思っていないようなことかも知れず、実際にも別にセコくてみみっちいこだわりだなんて思ってもいないようなことであれば、そんなのは嘘でさえないわけだが、実際に人々が何にこだわるように仕向けられているかは、例えば商品の宣伝などを見れば一目瞭然だろうが、政治に関する主張の中でも言われていることであり、またスポーツなどの勝ち負けに関しても言われていることでもあり、それらの中でちょっとした差異にこだわるように仕向けられていれば、そういうことに言及している人がそれにこだわっていることも確かで、もちろんそれに言及している人が、自らのこだわりがセコくてみみっちいだなんて思ってもいないのもわかりきったことだが、そういう差異に言及しないと、他のどんなことに言及すればいいかなんて言えないだろうし、実際にそれに関して何か言及することがあれば、そんなことに言及するしかなく、他に差異が見つからなければ、それを言う以外にはあり得ないわけだが、他に言うべきことがあるかというと、それにこだわらなければそんなことに言及しなければいいわけだが、言及しなければ何も言うことがなくなってしまうなら、それに関してはそういうことしか言えないことが明らかとなって、そういうことを言うだけでそれにこだわっていることになるなら、それを言うことがそれにこだわっていることに直結して、それへの言及がそれへのこだわりと同義となってしまうのだが、差異とはそういうことであるならば、そこにもたらされている差異に敏感に反応することが、そこで求められている動作となり、その差異が人為的に作られているなら、意図的に差異を作り出して、そこに関わってくる誰もがそれにこだわるように仕向けていることにもなり、そう仕向けられてそれに素直に反応できれば、違いのわかる人間として認められるなら、認められることによって満足感を得られるから、誰もがそんな満足感を得ようとして、そこに違いがあることを指摘しようとするだろうし、それを指摘できれば褒められるなら、褒められたくて指摘しようとするわけだが、それをセコくてみみっちいことにこだわるように仕向けられていることだなんて指摘するのは、ひねくれ者の屁理屈でしかないかも知れないが、それを指摘するように競わされていることの表れなのかも知れず、誰もが他人と似たようなことを指摘したくてうずうずしているように感じられて、他人と同じようなことを指摘して、同じようなことを指摘している他人から共感を得たいと共に、他人とはちょっと違うようなことも指摘して、その違いを他人に感じさせて優越感に浸りたいのであり、その優越感というのもちょっとした差異でしかなく、五十歩百歩の大同小異でしかないわけだが、そうではなく、それとは全く違うことを指摘してしまうと他人から無視されてしまうわけで、だから似ているようでいてちょっとだけ違うことを指摘して、相対的にちょっとだけ抜きん出たいわけだが、それが競争として成り立つ範囲内で競わされるゲームであり、点数やポイントとして数値化されるとさらにわかりやすくなるはずだが、そんな成り行きの中でもそれなりに差異が見出されて、その差異を基準として優劣が決まってくれば、他人に勝るには差異をもたらすようなことをやりたいわけで、それが他人に勝ろうとする人の言説に表れるなら差異に言及することになるわけだが、そんな差異を差異として信じられるかというと、差異があることに着目して、それを利用して利益を得られれば、確かにその差異に実質的な効力があったことになるだろうが、それも他の多くの人々が差異があることを信じてくれる限りで効力が生じるようなことであれば、差異に対する信用によって利益が生じたことになるだろうし、そうなることによってしかそこで競われるゲームが成り立たないなら、そのゲームに参加するにはそこに差異があることを信じないとならないわけで、差異があることを信じることがゲームに参加できる前提となれば、その差異を信じられない人はゲームに参加しようとはしないだろうし、そんな差異など無視しても生きていける人にとっては、差異を信じることなんて、何かセコくてみみっちいこだわりに過ぎないから、そんなケチくさいゲームには関心を示さないだろうし、セコくてみみっちい連中が小さな差異の争奪戦を繰り広げているに過ぎないとしか見えないだろうが、そんなゲームに意識を囲い込まれてしまった人たちの方でも、ゲームに関心を示さない人のことなど眼中にはなく、ゲームに関心を示す人々の間で起こる共感を介した結びつきだけで生きていけるならそれに越したことはないわけだが、後はゲームに関心を示す仲間を増やして行けばそれで済むことであれば、それ以上に何がどうなるわけでもないだろうが、それでは済まない場合が出てくるかというと、それだけでは済まない方面でも活動していれば、その種のゲーム以外にも関心を持っていることになるだろうし、それだけ活動の幅が広がることになるのだろうが、ゲーム自体も趣味や仕事の範囲内での活動であれば、時には趣味や仕事から離れて意識が別の方面へと向かうかも知れないが、そこでもゲームの延長上で物事を考える傾向から脱却できなければ、相変わらずゲーム的な思考に意識が囚われてしまい、自らを有利に導くために利用できる差異を求めること以外にはやりようがない心理状態に陥るしかなく、果たしてそれ以外に何があるのかといっても、そういう思考に陥ってしまった人にはそれ以外はあり得ないのかも知れず、そういうことも含めて枝葉末節な何かに囚われていることになり、そういう枝葉末節な物事をいくら寄せ集めても枝葉末節こと以外にはならないのかも知れないが、本当にそれ以外には何もないのかというと、それを探そうとしなくても否応なくもたらされるかも知れないし、それが自分にとって邪魔で不快な物事であったりすれば、厄災の類いかも知れないが、そうだとしてもそれを経験しないとその先へと行けないなら、たとえその先へ行ったところで満足感を得られるとも限らないが、自分を有利な立場へと押し上げるかも知れない物事だけ求めようとしても、そう都合よく事が運わけにもいかず、必ずといってもいいかも知れないが、自身にとってどう考えても無駄で意味のないことのように思われる物事に関わり合うことになってしまい、それが功利的な価値観から外れるような物事であることは言うまでもなく、しかもそれがないと活動のバランスが取れないとなると、何か不条理なことのように思われてしまうが、そういう自身の利害とは無関係な物事と関わり合うことによって自己が自己として意識の中で構成されることになるとすれば、その際には後生大事にキープしているつもりのセコくてみみっちいこだわりについても、一時的には捨て去るような選択を迫られるのかも知れない。
6月19日「世の中の現状」
メディアを通して語られる世の中の現状が、実感とは違っていると思うのはいつものことだが、それとは関係なく世の中が絶えず危機的な状況となっているのもいつものことであり、そんな状況の中で人が生きているのもいつものことなのだから、少なくともそんな状態が現状の中で維持されていて、そんな現状が平和な世の中であるはずもないが、平和とはどんな状態なのかと考えても、現状も平和な部類に入っているような気がすると共に、現状の全てが平和であるはずもなく、部分的に平和な状況の中で暮らしているだけで、世の中を平和と戦争という単純な概念で割り切れるはずもないが、その中でも絶えず部分的に領域を区切って分野を限定して、うまく自分の都合のいいように世界を捉えるなら、それに関して何か利いたふうなことが言えるはずだが、それでは満足できないなら、自分の都合が反映しない世の中の真実を語る必要が出てくるとしても、それが冗談でそう思っているわけではなく、時には本気でそう思いたいのかも知れないが、そうは思わせないようにされているとしたら、何を根拠にそんなことが言えるわけでもなく、他人の言ったことを真に受けるなら、その他人に責任転嫁しても構わないが、それが自分の都合と無縁でないはずがなく、自分の都合に合わせて語っているに過ぎないことを自分が真に受けているとしたら、自分が自分に騙されているに過ぎず、自分に自己暗示をかけて自分で自分を操ろうとしているのだろうが、それがうまくいくとは限らないし、うまくいかないから強引に自分に向かってこうだと言い聞かせているに過ぎないことを、他人がそう言ったからそうだと強弁するのは、何か間違っているように思われてしまうのだが、そこで踏みとどまって間違いは間違いとして訂正できるかというと、たぶん訂正できないし、訂正する必要はなく、自分がそれを訂正するまでもなく、世界の現状がそんな自分を置き去りにしながら、誤りを認めざるを得ないように変化するのであり、そもそもその種の偏見を自分に信じさせたのは、一時的に現れた世界の変貌であって、世界がそう変わったのだから、それが真実だと思わせておいてから、さらにそんなのは真実ではないことも世界の変貌が見せてくれるのであり、そういう成り行きを自分で直接体験しないと偏見が改まらないのだから、状況の推移から置き去りにされてみないとわからないことがあり、信じていたことがそうではなかったのを目の当たりにして、初めて自分の間違いに気づくことになり、しかも気づいた時にはもう手遅れとなっていて、間違いを訂正する機会を失い、間違ったままの状態で生きていかなければならなくなり、それが負い目となれば、自らにマイナスの作用を及ぼして、それだけ活動が縮こまって制限が加わってしまうのだろうが、それが世界の現状の中で生きている自らの現状であれば、自分に当てはまることが他の誰にも当てはまるわけでもないが、それなりに相対的な差異を伴っているとしても、自分以外にも誰もが大なり小なり活動に制限が加えられた状態で生きているのかも知れず、それを制限だとあからさまに自覚しているわけではないだろうが、何かしらこだわりという重荷を背負わされて偏見に囚われていると、そんな偏見から自由になれないから、偏見からもたらされる傾向に導かれて、偏見にこだわっているのが間違いだとも言えないにしても、少なくとも偏見とは違う方面からもたらされる作用を感じ取れず、それが自らに恩恵をもたらす可能性があるのに、偏見に邪魔されてみすみす逃してしまっていることにも気づかず、小さな利益にこだわるあまり大きな何かを取り逃していることになるのだろうが、その大きな何かが利益だとは感じられないから、それでも構わないと思うわけでもなく、ただ単に気づかないだけかも知れないが、その大きな何かというのが自分ではなく世の中のためになることであれば、世の中のためになることが自分のためになることだとは理解できないわけで、別にそれが世の中のためになることだと証明できるわけでもなければ半信半疑というよりは、人によっては全く気づかないことになり、実際に多くの人がそれが世の中のためになることだとは思っていないから、無視されて当然のことかも知れないが、それがどんなことなのかが伝わってこないのかも知れず、日々のメディアから伝わってくることが、それとは似ても似つかないことであれば、メディアとは違う方面から伝わってくることかも知れないが、何が伝わってくるわけでもなければ、無視もされないだろうし、実際に感じ取れないことになってしまうのだろうが、その代わりに感じ取れるのが興味のないことであり、世の中が危機的な状況となっていることなど誰も知らないのではなく、危機的な状況となっている方面の現状が日々メディアを通じて伝えられているにしても、その一方でそんなことなど嘘のように感じさせる出来事が日々の日常の中で無数に起こっていて、それが平和だから起こっているというよりは、そんなこととは関係のない方面で何かが起こっているのであり、それが世の中のためになることだとは思えないようなことだとしても、自分の利益とは関係のないことでもあるなら、その大半が興味のないことになるのかも知れないが、自分には関わりのないことでもあれば、場合によっては無責任な立場から興味が湧いてくるかも知れないが、退屈に感じられることでもあれば、退屈だからこそ、自分の退屈な日常と重なり合ってきて、それが油膜のように執拗な粘着質を伴いながら心にこびりついてきて、そんな状態を放置していると心身共に堕落してしまうかも知れないが、それも世界の現状からもたらされる作用であれば、避けては通れない試練となるだろうが、別に試練だと思わなくてもよければ、実際に何とも思っていないのかも知れず、すでにそんな状態が長年にわたって放置されていて、身から出た錆が全身に回っている可能性があるなら、もう手遅れなのかも知れないし、今さらそんな状態から立ち直ろうとも思わないだろうから、そのまま気にならなくなってしまって、それ自体が織り込み済みとなって、心身に馴染んでしまえば、そんな傾向を伴った人物として存在していることになり、そんな人物が世の中のある方面で幅を利かせている現状があるなら、そういう方面ではそういう人物が主導権を握っていることになるのだろうが、それとは別の方面では別の傾向の人物が主導権を握っているなら、そちらの方面でも何かしら特徴的なこだわりが顕在化していることになり、そういうこだわりの顕在化が世の中の現状を構成していて、様々な方面で様々なこだわりが顕在化していることになるわけだが、そういったこだわりの傾向をどう捉えてみても、そこには言い訳としての効率性だとか経済性だとかの判断基準がついて回ってきて、何とかしてこだわりに価値判断の合理性をまとわせて、それにこだわっていることを正当化したいのだろうが、そうしたこだわりに説得力が生じてくるかどうかの判断の中で、こだわっている人の都合が優先されていることはわかりきったことであり、その人の都合をその人に関わっている周囲の人たちに認めさせたいとなると、それ相応にこだわりの合理性に関して説明する必要も出てくるのだろうが、何の説明もなくても多くの人々から共感を得られるようなことであれば、すでにそれは了解済みのことであり、その人に特有のこだわりというよりは、そうしたこだわりに共感する大勢の人々のこだわりとして広く世に認められていることになるのだろうが、こだわっていることすら意識していなければ慣習として社会に定着していて、そうなっていることを前提として世の中が回っていることになり、そんなことの中に何か理不尽に感じられることがあれば、それが理性を働かせると感じられることであり、心の中で理性が眠っている人には感じられないことになるだろうが、理性を眠らせておくには何が必要なのかというと、日々の退屈な日常の中で惰性にまかせて行動することが必要であるというよりは、必要なのではなく不要なのであり、不条理に慣れるには理性そのものが不要となってくるのかも知れないが、それも慣習に慣れてしまえば必要であるとか不要であるとか意識できないわけで、そんなことにも気づかずに暮らしていられるなら、そもそも何が不条理であることにも気づかず、そうしたことには鈍感となっていて、その代わりに惰性で活動していられるのかも知れないが、それが通常の状態であれば、惰性で活動しているとも思わないし、それについて大した自覚もなく日々を淡々と過ごしているのであり、そうなっていることが何とも感じられないようなことであれば、そのままそんなことには気づかずに、過ぎ去っていく毎日をそれなりに喜怒哀楽の感情を伴いながら体験し続けていることになるのではないか。
6月18日「危機的な状況」
状況がここに至っても、まだそれに気づかないのだとしたら、さらに状況が進展しても気づかないだろうし、気づく必要もないのかも知れず、実際に何に気づいているわけでもないし、すでに危機的な状況に陥っているのに、とりあえず危機だと騒ぎ立てながらも、それが何の危機なのかもわからないはずがなく、確かに何らかの危機だとしても、様々な要因が重なり合って危機が発生していて、ある面ではそうかも知れないが、別の面ではそれほどのことでもないかも知れないし、深刻な事態だとも思っていないわけではなく、それを騒ぎ立てる方面では未曾有の危機に直面していることになっているはずだが、それを真に受けている人がどれほどいるかは何とも言えないところであり、誰もがそう思っているわけでもなくても、誰も深刻な事態だと思っていないと断言できるわけでもないが、逆に誰もが深刻な事態だと吹聴して回っている現状もありそうで、少なくとも冗談で騒いているわけでもなく、そんな危機を乗り越えるにはどうすればいいかと喧々諤々の議論が交わされているわけでもないが、それをわかっているふりを装う人も少なからずいて、現実にそれを主張しなければならないわけだから、わかっているふりなのではなく、実際にわかっているつもりでそれを主張するわけだが、わかっているつもりなのでもなく、本当にわかっているはずで、わかっているからこそ現状の危機を察知しているわけで、現状が危機的な状況だからこそ、未曾有の危機を乗り越えるにはどうすればいいかと説いているわけだが、それは他の多くの人たちも説いていることであり、多くの人たちがそれをわかっているのに、現状ではそれが行われていないから危機的な状況となっているはずだが、それを実行するにはそれを説いている者の力ではどうにもできないことがあり、危機を乗り越えるには多くの人々の協力が欠かせないわけで、協力してほしいから協力を呼びかけるのも当然のことだが、果たして協力してくれるかというと、ある程度の人が協力してくれるだろうし、実際にそれなりの人たちが協力しているのだろうが、協力してくれる人の人数が足らなければ、危機を乗り越えるための方法を実行できない可能性があり、実際に協力してくれる人の人数が足らなくて実行できなければ、危機が続くことになり、そんな危機の中でこれからも暮らしていくことになるわけだが、そうなるとそれが暮らしていける程度の危機であることが判明して、結局危機の程度がそれほどでもないことが明らかになってしまうだろうが、それが危機の実態であり、危機を乗り越えるのを断念してしまうから危機が続いていくことになり、危機を乗り越える方法を試すには協力してくれる人の人数が足らないから、危機を乗り越えられないことになるのだろうが、それが乗り越えなくても構わない程度の危機というわけでもなく、実際に危機が継続していくなら危機の中で生きていくしかなく、それはこれまでもそうだったのであり、これからもそうなるのかも知れず、そうなれば危機を乗り越えるのではなく、危機を受け入れることになり、それで構わないわけではないが、致し方のないこととなり、危機感を煽っている人はこのままでは大変なことになると脅すのだろうが、大変なことになるから危機なのであり、このままでは大変なことになるのもわかりきったことかも知れないが、要するに危機的な状況であることがわかりきっているだけに、それが致し方のないことであり、これからも致し方のない状況が続いていくことになるだろうが、そんなことに気づいていないわけではなく、まだそれに気づかないのはそういうことではなく、もっと根本的なところで気づかないことがあり、それに気づいていないからいたずらに危機感を煽っているのであり、では気づいていないこととは何なのかというと、それがこれからわかることだとすれば、わかるまで待っていれば済むことであり、わからないことをわかろうとするから、わからないことから不安が募ってきて、わからないことからくる焦りから危機感を煽ってしまい、結果的に墓穴を掘ってしまうのかも知れず、要するに危機感を煽っている当人が自ら墓穴を掘っていることに気づいていないわけで、そんな成り行きの成れの果てとして思い当たる人も過去にいくらでもいたはずだが、過去も今も危機感を煽っている人が現状でどうなっているかというと、誰からも相手にされていないわけではないが、少なくとも危機感を煽っている対象の領域では主導権を握っていないことも確かであり、そうなってしまうことによって危機感を煽ることの戦略的な失敗を認めざるを得なくなるのかといえば、そういうことではなく、現状を維持するには危機感を煽るのが有効であることが明らかになっているにも関わらず、それに気づいていない人たちが危機感を真に受けている現状に気づいていないわけで、そんな結果から見ればそこに二重三重のトラップが仕掛けられていることになるわけだが、それもそうなった結果からそんなことが言える限りで、事前にはわからないことであり、まだそうなっていないと思っていないわけではなく、それに気づいていないわけだから、そうは思っていないわけで、実際にはトラップも何も仕掛けられてはおらず、それも現状に対する解釈次第で何とでも言えるようなことであり、そうなった結果からいくらでも恣意的に現状を解釈できるわけだが、逆説的に現状を維持するには常に危機感を煽っていなければいけないということが、現状が維持されている結果からそう解釈できることが、危機感を煽ることの有効性と無効性のどちらか一方を強調することによってはわからないわけで、そんな屁理屈をいくらでもこねられることが何を意味するのかというと、たぶん現状を変えようとして危機感を煽っているのだろうが、そんな現状が維持されているから危機感が煽られていて、現状が維持される限りで危機感を煽っていることができて、それが危機感を煽ることの無効性を証明すると共に、現状を維持するには絶えず危機感を煽っている必要があるという面では、危機感を煽ることの有効性も証明できて、結果的に現状が変わっても危機感を煽ったから現状が変わったのだと主張することもできるだろうから、そうなっても危機感を煽ることの有効性を証明できるだろうし、そうすることの有効性からも無効性からもそれなりの言説を構成できれば、そんな言説など意味も意義もないことになるかも知れないが、気づいていないのはそんなことではなく、すでに何らかの結果がもたらされていることに気づいているはずだが、それが結果の全てではなく、それ以外にも気づいていない結果がもたらされていて、別にそれに気づく必要もなく、必要もないのに気づこうとしても無駄な気遣いかも知れないが、少なくとも気づいたところから、その気づいたことを踏まえて行動するしかないだろうし、気づいているのにそれを考慮に入れないとまずいわけだが、気づいたことが自らに関わってくるようなら無視できないし、それが気に入らなければポーズとしては無視するふりを装うのだろうが、その裏ではしっかりと対応して、それに対する有効な対処法を探し出そうとしていて、それが行動へと結びつき、そうすることがこれまでにない行動となれば、そんな行動が世の中に影響を及ぼして、行動した結果として現状を維持するのとは違った結果がもたらされるかも知れず、それを狙ってできるわけでもないが、狙わなくても自然と心身が反応して動けば、それに結果が伴ってくる可能性があり、そうなることを目指しているわけでもないだろうが、目指さなくても自然と心身が反応するにまかせておいた方が身のためだと思うわけでもなくても、そうなった結果から自らの行動を振り返ってみれば、うまくいった時にはそんな行動となっていることに気づくこともあるかも知れないが、うまくいかなくてもそれなりに行動している状況もあれば、そうなっていることの延長上に現状があると思えば安心できるかも知れず、安心する必要も感じなければ、そんな好都合な現状認識など信じなければいいが、それもそうなった結果から都合のいいように現状を捉えている限りで、心理的に安心したいことの表れとなり、そう思ってしまうことが自らの心理的な限界を構成していて、それ以上に何をどう思っても幻想や妄想となってしまうだろうが、心理的に安心したくなければ危機感を抱くしかないだろうし、自らの現状が危機にさらされていると思うから危機感を抱くわけで、そう思うなら現状を維持したいから危機感を抱くわけだが、そう思っている限りで現状を変えるために危機感を抱くわけではなく、現状を維持するために危機感を抱いていることが証明されてしまうのではないか。
6月17日「不特定多数の切実さ」
誰かが不特定多数の人々に向かって何かを訴えかけるような状況が、訴えかけている内容から感じられる切実さとは裏腹に、そんな状況自体が何かの冗談なのではないかと思うわけでもないが、それを無視しても構わないようなことだとも思えなくても、実際に無視するように仕向けられてしまうとすれば、他のことに気を取られているから無視していることになるなら、ではその気を取られていることが何なのかというと、何でもないわけではなく、誰かが訴えかけている内容よりもそれを優先させなければならない事情や経緯があるなら、優先させるのは仕方のないことだが、優先させているのではなく、退屈紛れに他の何かをやっているのであり、しかも他の退屈な映像を見ていて、何かを訴えかけている映像の方は見ようとしないのであり、成り行きとしてはそんな映像に興味を持つように仕向けられているのに、なぜかそれを無視して別の何かに気を取られているふりを装い、実際に気を取られているのも何かの映像には違いないのだが、そこでは何の切実さも感じられないようなことが行われていて、そんな映像に気を取られているのであり、その種の映像に切実さなどいらないのではないかと思うわけでもないのだが、切実さとは無縁の映像を見ながら、気を取られているのは映像そのものではなく、その内容でもなく、どうやって他の映像を見ながら退屈な時をやり過ごせるかに気を取られているのかも知れず、もちろん退屈な時であるかどうかについては、時の過ごし方に応じて、それが退屈な時なのか、それとも何やら意味や意義のある時になるのかが決まってくるかも知れないが、不特定多数の人々に向かって何かを訴えかけている人が、その人にとっては切実な内容であると共に、そんな訴えかけを聞きに来た聴衆にとっても切実さを感じられるような内容だと思うなら、訴えかけるのは疑う余地のないことだが、別にそれが疑わしく感じられるわけでもないのだが、疑っているのではなく無視しているのであり、他人にとっては切実であることが、自分にとってはそうではないのではなく、それを無視できるだけの余裕があるわけでもないのだが、なぜか大して説得力のある理由もなく無視しているとしたら、果たして無視しようのないことを無視できるかというと、たぶん無視しているように装うことはできるだろうが、それでは無視していることにはならず、では少なくともそれについて言及せずにおくことが無視していることになるかというと、言及しないのにそれについて語っていることになるなら、それがどういうことなのかというと、無視しているわけではないだろうが、ではどうすれば無視していることになるのかという問い自体も無視していて、無視していると嘘をつくような語り方になってしまうのだろうが、それが切実な内容であれば、他の何よりも優先してそれについて語るのが本筋であり、それをやらなければ何を語っていることにもならないはずだが、相変わらずそれについては語らず、その代わりに何を語っているのでもなく、その代わりにはなり得ないようなことを語っているとしたら、何か退屈なことを語りながら退屈な時間を過ごしていることになるだろうが、そうすることが重要というわけでもなく、切実に感じられるわけでもないのだが、切実さとは無縁なことについて語る必然性などないのだが、それを語らざるを得ないというわけでもなくても、無駄に退屈なことを語っているわけでもなく、そこでは誰も語っていないのに、何か切実なことが語られているように装われているわけでもなく、ただそうなるべくしてならざるを得ないようなことがそうなるのではなく、ただの偶然の巡り合わせで何かが起こっていて、それについて書き記された内容から、そこで何が語られているのかを推測しようとしているのかも知れず、不特定多数の人々に向かって何かを訴えかけている様子がそこには記されていて、それを読んでそこで語られている内容を推測しているなら、それを無視しているわけでもなく、それどころかそれについて語ろうとしているのだろうが、なぜかそれを無視しようとしていて、そこで語られている内容を推測しながら、その推測した内容を無視しようとしているのであり、なぜそれを無視しなければならないのかということではなく、理由もなしにそれを無視しながらそれとは別のことについて語っているように感じられて、そうなってしまうのが何かの偶然が作用してそうなっているというよりは、意図的かつあからさまに無視しているのだろうが、無視する理由がないとすれば、では何なのかと思うかも知れないが、語るとはそういうことだと捉えておくのが妥当なのかも知れず、それが記された文章を読むと、そう語っているように感じられるのであり、何だかわけがわからないが、そうなってしまうのだからそれで構わないとしか言えないようなことでもあり、構うも構わないも、すでにそこに記された文章を読んでいるのだから、読んでいる者の事情など文章には反映されておらず、それが書かれた時の事情や経緯がその文章に反映しているだけであり、それを後からどう読んでどう解釈しようと、すでにそれが書かれた後なのだから、それを文章の内容に反映させることはできないはずだが、それについて語ろうとすればそういうことを目指していて、それも語ろうとしているのではなく、文章を構成しようとしているのであり、その構成された文章の中で誰かが語っているように装いたいのかも知れないが、そんなふうにして不特定多数の人々がそれを読んで、その内容を無視しながらそれについて語ろうとしているなら、それとは何かというと、少なくとも無視しているそれはなく、それとは別に何か文章の中で示したいことがあって、その示したいことについて語りたいのだろうが、それが読んだ文章を無視しながら示したいことでもあるとすれば、そこから何かインスピレーションを得ていることは確かなのだが、それを悟られたくないわけで、悟られたくない代わりに示されることが、語っている者がひらめいたオリジナルな意見や見解などであれば、語っている者がそこでの主役になれるはずだが、主役はまた別にいて、では主役はどこにいるのかといえば、文章の中にはいないのかも知れず、現実に起こったことについて語るなら、その語っている対象がそれについて語る言説の主役となるはずだが、それもそうならないような文章の構成を心がけるなら、文章の中で語っている者が文章の構成者であるように装いたいのかも知れず、そうなると自らが文章を構成しながらその中で自らが語っているように装えばいいのだろうが、そういった書き記すことと語ることの二重性が文章の中で成り立っているとすれば、何がそこにもたらされているのかといえば、文章を書き記しつつあり、さらにそこで語っている者が、その文章の主役であり、またそれがそこで語られていることの対象にもなっていて、そんな状況がそこにもたらされているはずだが、それ以外には何ももたらされていなければ、そこで語ることは何なのかというと、自分以外には何もないことになってしまうから、自分について語っていることになり、他人にはそんなことには興味がなければ無視されるしかないだろうし、実際に自分以外には何も語らない人間が無視されているとすれば、では逆に無視できないことが何になるのかというと、それが他人について語ることであり、しかもその他人というのが、それが記された文章を読んでいる人であるなら、嫌でも興味を持つだろうし、また誰かが不特定多数に向かって何かを訴えかけている対象が、それを聞きに集まってきた聴衆であるなら、聴衆について語っていることになり、しかも聴衆の何について語っているのでもなく、聴衆自身について語ることができるかというと、それらの聴衆が不特定多数の赤の他人であるなら、いったい何を語れるのかよくわからないが、聴衆の立場や境遇や事情などを推測しながら語るしかないだろうが、果たしてその推測が当たっているのかというと、要するにその推測が当たっていれば、その推測の内容にもよるが、それが聴衆にとって切実な内容となる可能性があるが、それが必ずしも当たっていなければ、聴衆にとっては興味のない内容となって、場合によっては無視されるかも知れず、しかもそれに興味がなく無視しているとしても、それを語っている人に伝えないかも知れないし、伝える術がないというか、わざわざそれを伝える必要も感じないのかも知れないし、実際に多くの人がそれを伝えていないし、それどころか積極的に伝えようとはせず、逆に興味があるように装い、それが自身にとっても切実なことだと伝えているのだとしたら、何か聴衆の方でそれを訴えかけている人に向かって演技をしていて、聴衆の役を積極的に引き受けて演じるような成り行きになっているのではないか。
6月16日「たぶんという言い回し」
たぶんというと、おおよそのことを語りたいのだが、たぶんの後に続けて語る内容が少なくとも正確ではなく、どちらかといえばいい加減であやふやなことかも知れないが、そうではないとすれば、では何を語るのかとなると、語ってみるまでは何もわからないわけではなく、あらかじめ見当のついていることを語ろうとしているのだろうが、その見当のついていることが、見当外れなことであれば、たぶんこうなると見当をつけてから語ろうとしていることが、思いがけず見当外れになるのだろうが、それでもたぶん見当外れであっても構わないとは言えないし、見当外れなままに語っているつもりで、何を語りたいのかというと、たぶんそれが語りたいことになるのだろうが、それでもたぶん語りたいことがわからないのであり、わからないからこそたぶんと前置きして、おおよその見当をつけてから語ろうとするわけだが、そうなった時に何を語りたいのかもわからないのに、何か語っているとしたら、果たしてそれが語りたかったことになるかというと、何も語ることがないのに苦し紛れに語っているような追い込まれた状況になってしまうだろうが、それでも何か語っているとしたら、その場の切羽詰まった状況によって語らされているのであり、しかもそれと共に自らをそんな状況に追い込まないと語れないようなことを語っているのかも知れず、それが語りたいことではなく、語らされることであり、何によって語らされるのかといえば、たぶんその場の状況によって語らされるのだろうが、それが何でもないことであるはずがなく、何かしら訴えかけてくるものがあるような気がするとしたら、それが気のせいであり、本当は何でもないことなら、やはり見当違いなことを語っているわけで、そんな見当違いなことを語らされてしまうのがその場の状況であるなら、その場の状況から何が読み取れるのかというと、何か語っているつもりになっている自身の焦りであり、その場の状況によって焦らされていて、焦りながら語っていて、何も語っていないかも知れないのに、ただ文字を書き記しているに過ぎないのに、そうやって文章を構成することによって、そこで誰かが語っているように見せかけているのであり、それがフィクションの内容となるわけだが、果たしてそのフィクションが現実の世界のことを語っているのかというと、少なくとも文章を構成している当人はそう思っていて、現実の世界から影響を受けながら文章を構成しているのだから、当然のことながら現実の世界で起こっていることを反映した内容がそこに書き記されているはずだが、それが疑わしいと思うなら、それ以外に何が記されているのかというと、例えば自らの願望や期待や不安や恐れなどの感情が記されているとも思われるが、それも現実の世界に感情が反応していることの表れであり、現実の世界の中で感情が揺れ動いているわけで、それが現実の世界で起こっていることなのだろうが、もちろん現実の世界の中で文章を書き記していて、それも現実の世界で起こっていることであり、たぶんそうなっているというよりは、確実にそうなっているわけだが、その確実に起こっていることの中に思いがけないことも含まれていて、思いがけないことに出くわして初めて自らの見当違いに気づくのだろうが、それに出くわしてみないことには気づかず、予想通りのことばかりだといつまで経っても自らの見当違いに気づけず、それどころか未来を予想する力や、それに伴って働く自らの勘の鋭さや確かさや、予想するに当たって行う情報収集能力の高さなどに関して、予想通りのことが起こる度に次第に自信を深めてしまうのだろうが、そうなっている間はそれで構わないにしても、果たしてそうはならないことが起こるのかというと、それが思いがけないことであり、それが起こって初めて、あれっ?と思うわけで、そこで何か情勢の読み違えをしているとすれば、それを修正しなければならないだろうが、それがよくわからなければ、何か見当をつけて、それに関して思考を巡らしたり情報収集したりして、そうなった原因や理由を探らなければならなくなるだろうが、そこでそれが何なのかについて見当をつけることが、それを予想することであり、勘を働かせたり思考を巡らせたりそれについての情報を収集しながら、そうなったことの答えに辿り着こうとするわけだが、そんなことをやっている過程で見当違いな方面へと進んでしまうと、思いがけないことが起こって、あれっ?と思うわけで、そうやって、あれっ?と思う度に自信を喪失していくなら、それと共に自らの未来を予想する力や、予想する際に働く勘の鋭さや確かさや情報収集能力などに関して疑念が深まってきて、だんだん自信も失ってくれば、それが自らの限界を超えた領域へと向かっていることの証しとなり、自らの限界を超えてくるから自信がなくなり、自信がないことに気づいてしまうことが、自身にとっては思いがけないことになるかも知れないが、そもそもそれほど自信過剰な人間が世の中にいるかとなると、中にはいるかも知れないが、またそれほど自信過剰になれるような状況があるかというと、フィクションの中で漫画などに登場する噛ませ犬のようなキャラクターであるなら、一時的にはそうなるかも知れないが、もちろんそれが一時的であり、主人公やその敵役などにやられてしまうとさっさと自信喪失してしまうが、現実の世界で生きている人間なら、絶えず自らの能力を疑いながら生きているはずで、実際に絶え間なく過ちや誤りや挫折などを経験しながら生きていれば、思いがけない体験の連続となるだろうが、驚くことに慣れてしまうと、何があっても大して動じなくなってきて、そうなるとその人の限界がそれだけ広がって、許容限度も高まったことになるのだろうが、動じないということは、それなりに予想の範囲内に物事が収まってきて、ある程度は見当のつくことを体験していることにもなり、そんな範囲内に安住してしまうと退屈になってくるのだろうが、たぶんこうなると思いながら活動している中では安心したいわけで、そしてたぶんこうなるはずだと思っていると、そんな思いが裏切られて思いがけないことが起こって驚くわけだが、もちろん思いがけないことが起こって驚きたいから、たぶんこうなるはずだと思うわけではなく、できれば思い通りになって安心したいわけだが、一方でそんな思いとは裏腹に驚きたいわけで、そういうところで自らの思いと行動が矛盾していることに気づくわけではなく、思い通りになって安心したいだけなら、自らの領分をわきまえて、見当のつく範囲内でセコく無難に立ち回っていればいいのだろうが、それができないとそこからはみ出て冒険心や野望を抱きながら、自身の限界を超えた領域へと踏み出して、そこで取り返しのつかない過ちや誤りを犯して挫折しながらも、何とかそんな苦境を乗り越えて成功しようとするだろうが、社会がそういうことをやってしまう人をどれだけ許容できるかで、その社会の自由度が決まってくるかも知れず、そんな蛮勇を振るう人が出てくる度に、周囲の人たちがみんなで寄ってたかってモグラ叩きのように叩いているようだと、出る杭は打たれるで、誰もがセコく縮こまって身を寄せ合いながらみみっちいことをやっているだけのつまらない世の中になってしまい、実際に現状の日本がそうなってしまっているなら、未来はないわけだが、もちろんそう思うのもフィクションの中で思っていることであり、現実の世界はそんな単純なことにはなっていないだろうし、もっと様々なしがらみでがんじがらめになっている一方で、そんなしがらみも完全には人を縛ってはおけずに、その場に作用や影響を及ぼす力がどこかでもつれあって絡み合い相殺し合って、そこから思いがけない方面へと逸脱して行くような成り行きに絶えずさらされていて、そういうところで意味不明な結果が待ち受けているなら、そんな結果に直面した人が茫然自失となってしまうのだろうが、だから現状で起こっている出来事に驚くしかないということはなく、何の変哲もないありふれた出来事であっても驚く要素が含まれていて、それに対する先入観や偏見を取り除けば、いくらでも驚く要素が出てくるのだろうが、驚くことよりも安心したいという思いが勝ってしまうと、先入観や偏見の殻をまとって、何があっても驚かない姿勢となってしまい、それでもその場の状況次第で冒険してしまう成り行きに巻き込まれたり、現状維持を心がけていても、偶然の巡り合わせで、何かのきっかけから思いがけない行動に出てしまうこともあるわけで、それが自身の意志とは関係なくそうなってしまうなら、やはりなぜそうなってしまうのかわけがわからなくなるだろうし、そういう機会に巡り合うことが自らの限界を突き破る契機となるのかも知れず、たぶん誰もがそういう機会がやってくるのを期待しているのではないか。
6月15日「屁理屈の意義」
自らの思い通りにはならない世の中の風潮に苛立って、いくらそれを批判するために屁理屈を並べてみても、それが屁理屈だとわかる程度の理屈であれば、世間から相手にされないのだろうが、それ以前に何が屁理屈なのかもよくわからなければ、理屈が何なのかもよくわからないかも知れないし、それでは理屈になっていないなら屁理屈でも何でもなく、ただのデタラメなこじつけの主張に過ぎないだろうが、一応は理屈になっているなら、それが屁理屈にもなるわけだが、実際に何らかの理屈がそこに示されているから、その理屈に対して否定的な反応が起こるのであり、その否定的な反応が屁理屈を伴った批判になるとしても、それが道理に合わない理屈だから屁理屈だと思われるのだろうが、それらの何が理屈で何が屁理屈なのかに関して、人によって見解が分かれるようなら、どちらにも受け取られるような理屈が示されていることになり、それをちゃんとした理屈だと思っている人がいれば、それが屁理屈だと思っている人から馬鹿にされて、しかもそんな馬鹿にされるような人が世の中の大半を占めているなら、屁理屈のような迷信が世の中に広まっていることになるのだろうが、もちろん実際には馬鹿にされるような人たちが世の中の大半を占めているわけではなく、それを馬鹿にする人たちが少数派を形成している一方で、馬鹿にされている人たちも少数派を形成していて、お互いがお互いを馬鹿にし合っていて、それらの人たちが騒いでいるからメディア上では目立っているに過ぎず、大半の人たちは我関せずで無視しているのかも知れないが、無視している大半の人たちにもよくわかっていないことがあるから、それがちゃんとした理屈だとも屁理屈だとも断言できずにいるのかも知れず、よくわからないことに関しては言及を避けておくのが無難なところであり、下手に言及して他人から馬鹿にされたら恥ずかしいし、自身の無知を公衆の面前でさらけ出すのも気分のいいことではないから、ヤバいと思ったらとりあえずは我関せずの態度でいる方が無難だろうが、では具体的に現状の何に対して我関せずなのかといえば、例えば選挙の争点について我関せずであれば、投票に行かない無関心層になり、下手に投票に行って、何かの拍子に口を滑らせて、共産党に投票したのがバレて、あいつは左翼だと後ろ指を指されるようなことがあってはまずいだろうし、世間体を気にするなら投票に行かないのが無難なところかも知れないが、そういう時にはこれ見よがしな理論武装を披露して、屁理屈をこねながら自らの投票行為がいかに世界平和と民主主義の発展に貢献しているかを滔々と説くことができれば、少しは知性があるような気になれるかも知れないが、世の中にはその種の知性を必要としない人もいくらでもいて、そういう人たちにはそんなのは屁理屈だと思われるのも致し方のないところだろうが、では屁理屈でなければ何が有効なのかというと、慣習が有効だと漠然と思ってしまうのも無理はないが、もちろん意識してそう思っているわけではなく、そう思っていることを自覚していないから、慣習が世の中で有効に機能しているわけだが、そうした慣習に抵抗感を覚えるとすれば、周囲が自らに慣習を押し付けてくるのを意識しているわけで、それを意識できる限りで、その種の慣習には馴染めないことを自覚できるのだろうが、なぜ馴染めないのかというと、意識が外部とのつながりがあるからで、慣習に支配された内部の世界がそれを取り巻く外部の世界の一部を構成しているに過ぎないから、何かのきっかけから慣習の限界に直面すると、外部の世界を意識せざるを得ず、外部の世界を意識してしまうと、慣習に囚われた内部の世界がちっぽけに見えてしまうわけで、ただ漠然と慣習といっても様々な慣習があるから、あからさまな宗教行事などの慣習ではない限りは、これといって意識することも自覚することもできないだろうが、外部と内部とを区別するには、そこに慣習の違いを設定しなければならず、内部の人たちが同じ慣習を共有することによって、外部の人たちとの違いを強調しながら、内部の世界の同質性を維持しようとするわけだが、それは取りも直さず外部の世界との戦いを前提としていて、外部の世界と戦いながら自分たちが管理する内部の世界を外部へと向かって拡張していこうとするわけで、それを内部の世界の人たちがあからさまに意識してしまうとまずいから、内部の世界の人たちを様々な慣習を用いて内部の世界に縛り付けておいて、内部の世界だけに専念するように仕向けているわけだが、もちろん内部の世界を外へ向かって拡張していくことも、それをあからさまに意識してしまうとまずいことも、内部の世界の誰が意識してそう思っているわけではなく、活動していくと結果的にそうなるようなシステムに囚われていることに気づかない限りでそうなるわけで、慣習のシステムにそれと意識せずに囚われていると、自然にそうなってしまうのであり、それが人によって構成される社会に特有のシステムだとすれば、意識するとしないとに関わらず、そうなるのが必然的な成り行きだと思うしかないが、それに対して抵抗感を覚えるのも人に備わっている自然な傾向だとするなら、ただ一方的にそうなるわけではなく、そうなることに対する歯止めとして何かが他にあるのかも知れず、その何かというのがはっきりとこれだと意識されるわけではなく、ただ漠然と慣習に対する抵抗感となって絶えず意識の片隅につきまとってくるわけで、それが世界平和や民主主義の実現だと思うわけでもないだろうが、実際に慣習に囚われた人たちを解放するためにはそれらが必要だと大真面目に唱えられているわけでもないとしても、逆に民主主義を否定するには世の中の慣習に人を縛り付けるのが有効だと考えている勢力もいて、その代表格としてすぐに思い浮かぶのがアフガニスタンのタリバンだとしても、もっと身近なところで人を慣習に縛り付けることによって組織を構成して、その組織を駆使して選挙に勝つ手法が確立されていて、そういう手法が内部から民主主義を蝕んでいるとも言えるかも知れないが、民主主義を形骸化させることによって何が実現するのかというと、それが中国やロシアで実現していることになるだろうが、それを全体主義と呼んでも大げさすぎてかえってピンとこないだろうが、そういうイメージよりもさらに身近なところで慣習に支配されている面があるとすれば、それは現状の社会を構成する上で根幹をなすような面かも知れず、それが売買や貸借の慣習だというと、それなしでは経済活動そのものがあり得ないわけだから、それこそ慣習を社会からなくすわけには行かないし、慣習によって社会が成り立っていることを否定するわけには行かなくなるはずだが、そうなるとどこまで慣習をなくせばいいのかに関して、その限度や限界をこれだと定めるのは難しいだろうが、少なくとも現状で社会のあらゆるところで慣習に逆らう試みが行われているのは、誰もが承知していることかも知れず、その代表的なものとしては例えばL G B Tに対する偏見を取り除こうとする試みがあり、それらを差別することが慣習として社会に定着している現状を変えようとして、何やら啓蒙活動をしている人たちがいるとしても、それらの人々が存在していると不都合な場合があるとすれば、社会の同質性を保つには性的な異質性を排除しなければならないとなるだろうが、なぜ現状の社会が表向きにはそれを排除しなくても成り立つようになってきたのかといえば、最低限の慣習として売買や貸借の慣習を守っていれば経済活動が成り立ち、経済活動が成り立つ限りで社会が維持できることがわかってきたからと考えるなら、そこに根本的な問題として人を生産しないと社会が成り立たなくなるということがあるわけだが、それに関しても偏見があり、それらは常に社会の中では少数派であることが、経験的にも統計的にも明らかになっているから、ことさらにそれを騒ぎ立てる必要がなく、それらが少数派である限りで尊重しておけばよく、それが多数派にならない限りは容認されることになるわけだが、それと共にそういう方面では同質化を断念しなければならず、それを断念できない人たちが容認の傾向に抵抗することになるのだろうが、断念できないことの理由として、それらの人たちが守っている慣習があり、慣習を守ることによって生じてくる偏見があるのだろうが、意識して守らなくても守らざるを得ないような慣習も世の中にはあり、それが売買や貸借などの慣習であり、そういった慣習を守らせるために法律が制定されていて、法律を守らないと罰せられるから守らざるを得なくなっているわけだが、そういうところから法律と慣習が連動して、逆に慣習から生じる差別を助長する行為を取り締まる法律も制定されて、法律によって慣習を抑え込むようなことにもなってくると、今度はそういった法律の制定に対する抵抗も慣習を守る側から生じてくるわけで、そこから法治的な試みの限度や限界が浮かび上がってくるのではないか。
6月14日「素人と業界人の違い」
必要に応じて何かに耐えている感覚が生じてくるのは、実際に何かに耐えているからだろうが、何に耐えているのかといっても、例えば空腹に耐えていて、それと共に貧困に耐えているなら、両者が連動して耐えていることのつながりが感じられるだろうが、貧しくもないのに空腹に耐えているとすれば、例えば健康のために食事制限しているなら、空腹に耐えることによって良い効果がもたらされることを期待しているわけだが、それも空腹に耐える理由としてはそれなりの必然性を感じられるが、食いたくても貧しくて食えないのとはわけが違って、同じ空腹に耐えているのでも感覚としては異なり、貧乏を耐え忍んでいるより希望があるだけ、前向きな気持ちを抱きながら耐えていることになり、それだけ耐えていることから感じる心身のストレスも少ないかも知れないが、その二つの境遇を比較すること自体が倫理的におかしいような気がするなら、そんな気がする人は例えば貧困に耐えている人を助けなければならないという使命感に駆られている政治家を応援したくなるかも知れず、逆にそれが偽善的な振る舞いに感じられるなら、食事制限しながら美しく痩せたいとかいう贅沢な悩みを抱えている人に親近感を覚えるかも知れないし、どちらがどうだというわけでもなく、両者を比較すること自体がおかしいのかも知れず、比較できないことを比較して、何か利いたふうなことを述べられると、それを真に受けて勘違いな論理を正当化したくなるかも知れないし、そういう詐欺的な手口に引っかかってしまうとひどい結果を招きそうだが、その種のあざとさに興味を抱いて、そういうやり方が他でも利用できないかと考えてみると、世の中で比較されている様々な物事に関して、比較する上で基準となる前提がおかしいことに気づくことができるかも知れないが、比較することの不当性や欺瞞性を見抜くことが正義であるような気になっても、それだけに固執すると、それもあざとい考え方になるだろうし、そうやって何か一つの傾向に凝り固まると無理が生じてきて、そういう凝り固まり方を正当化する論理にも綻びが見え始めて、それが見えてしまうと実際に凝り固まっている人を信用できなくなるわけだが、そんな凝り固まり方のわかりやすい例として誰もが挙げるのが、いわゆる業界人と呼ばれる人々の存在であり、そんな人に特有の習性になるだろうが、日本では素人であるよりは業界人である方が信用されるだろうし、素人と玄人としての業界人を比較することも、比較の仕方によってはあざといやり方になり、それに関して典型的に愚かな例として挙げられるのも、例えば業界人を信用してしまう素人の存在であり、そんな人の習性となるだろうが、業界人の胡散臭さをどう捉えるかが、素人が業界人に騙されるか騙されないかの分かれ目になるとしても、騙されるか騙されないかではなく、業界人の素行や言動からどう学ぶかが、素人が業界人を利用したり活用する上での鍵となってくることも確かで、それに関して一般的に言えるのは、素人であることを肯定的に捉えるには何が必要なのかというと、倫理が必要となってくるが、その一方で業界人は倫理よりも論理を優先する傾向にあり、その業界に特有な専門的な論理を持ち合わせていないと業界人とは言えないが、そこからさらにややこしいことを言うなら、一見対照的な論理を持ち合わせているように感じられる業界人の典型例として、政治分野であれば自民党と共産党を比較することができて、両者を比較するに際して誰もが連想してしまうのが、右翼と左翼という対立関係になるだろうが、それが日本では長年政権を担ってきた自民党の人たちが右翼の業界人と言うよりは政府の業界人である面の方が強く、そうなると同じ共産党でも中国の共産党の人たちも政府の業界人と言えるわけで、それに対して日本共産党の人たちは万年野党であるから野党の業界人と言ってもいいのかも知れないが、同じ野党でも左翼系だから左翼の業界人と言った方がしっくりくるのかも知れず、自民党と共産党とでは右翼と左翼の対立関係よりは、政府の業界人としての自民党と左翼の業界人としての共産党と捉えるなら、必ずしもそれは対照関係とはならず、しかもどちらも業界人として似たような傾向があるとすれば、それが組織的に官僚機構と融合していることになるが、その一方で共産党の人たちには何かしら倫理があるように感じられるだろうし、それが清廉潔白で政治腐敗とは無縁のように感じられることからくる肯定的なイメージとなるだろうが、その倫理が硬直した教条主義に凝り固まっているように感じられるなら、それは業界人特有の論理を優先させているからで、その論理がどこからくるのかと言えば、もちろん日本国憲法から来ているのは一目瞭然だろうが、それが憲法を構成している論理から民主主義の倫理が生じてくるところがわかりにくいかも知れないが、そうした論理的な倫理を守っていることが多数派から毛嫌いされて、結果的に長年にわたって万年野党の地位に甘んじているというと否定的に受け取られてしまうだろうが、業界人であることは自民党と変わりなく、両方とも党の官僚機構を伴った組織の論理で動いていて、そういう面では大企業と同じような傾向があるのだろうが、そういう組織的な面を嫌って何やら個人が賛同者を募って市民運動のようなことをやるとなると、今度は市民運動の業界人のような人たちが群がってきて、またそれにSNSの業界人のような人たちも加わってきて、それらの業界に特有のイメージに忠実な活動となってしまうと、素人を利用しながら排除するような排他的なグループ活動となってしまうのかも知れないが、それが嫌なら素人は孤立するしかないわけではなく、現状の世界で素人に居場所があるかというと、結局はイーロン・マスクのように素人が多数の業界人を従えて企業活動をやるような成功例もあるが、業界人による支配に屈しないためには素人同士で連帯する必要があるかというと、素人同士で組織的に連帯すると業界人の集まりになってしまうのかも知れず、素人のままでいたいなら、イーロン・マスクのように他人と連帯しないことが必要なのかも知れないが、それはトランプやプーチンやエルドアンなどの独善的な人物たちにも言えることであり、世界を動かしているのはそういう独善的な素人たちなのかも知れないが、そいう人たちには連帯ではなく自分を補佐してくれる多数の業界人が必要となってきて、そんな構造が素人を専制君主のような立場に追いやってしまうのかも知れず、それ以外には素人の立場などあり得ないのかというと、社会的に成功しなければ専制君主になる必要はなく、実際に多くの素人たちがそうならずに済んでいて、ただの一般人として世界中に無数の素人が存在していると同時に、職業に就いていればその業種の範囲内で業界人でもあり、その分野では業界人であるとしても他の分野に関しては素人であり、厳密には素人と業界人の間に明確な境界はないのだろうが、では何が素人と業界人とを分けるのかというと、一つの分野で思考や行動の傾向を特化してしまうと、どう見ても業界人としか言えないだろうし、そうした特殊化の程度に応じて業界人の度合いも高まるのだろうが、それを簡単に言うなら職人化と言えるが、では心身が職人化してしまうとまずいのかといっても、世の中にはそうなってしまった職人を利用する立場もあるだろうし、そういう意味では何が良くて何が悪いとも言えないだろうが、そうであるにしても素人では使えない可能性が高いから、素人のままで社会的に成功するには業界人を使う立場になる必要があり、実際に戦略的に素人のままであろうとすれば、企業経営者や政治家などになれるかも知れないが、それと同時に社会的に成功した業界人がそうした立場になる場合も多く、最初から企業経営者や政治家である人も少ないわけだが、そういう意味では一つの分野で成功して名声を得ると、その名声を利用して政治家などを目指すようになるわけだが、その業界の傾向に心身を特化してしまうと、応用が利かずに政治家には不向きになってしまう場合もあるだろうから、業界人としては二流や三流である方が、かえって政治家として有望な資質を持っている可能性もあり、その典型例が役者としてはパッとしなかったロナルド・レーガンなのかも知れないが、政治家として成功することが、そうした政治家の政治のせいでひどい目に遭った人からすればそれが厄災ともなるから、必ずしも良いこととは限らないところが、政治的な成功の両義的な面であり、その種の素人が政治家になることも、日本のように政治そのものが政治業界となってしまうのにも、一長一短があるのかも知れない。
6月13日「政治的な発言」
他人に向かってこれ見よがしに何を示しているわけでもないのだろうが、それに関してわざとデタラメなことをいい加減に語ろうとしているわけでもなくても、語っている内容のデタラメさに魅力を感じているなら、逆に正しいことを語ろうとしている最中に感じる居心地の悪さが、その場で正しいことを語るのは間違っているのではないかという疑念を抱かせて、そこが矛盾を感じさせるとしても、それ以前に何が正しいのかについての判断が間違っている可能性もあるから、正しいことを語ってはいけないと思わせるのではなく、正しいか正しくないかが問題なのではなく、正しくなければ間違っているのかということが、そうではないような気がするから、正しいと判断してはいけないのではなく、何が正しくて何が間違っているのかという判断から外れているから、何かデタラメなことを語っているように感じられて、それがうまく語っている対象を捉え切れていないからデタラメに感じられるのだとしても、それ以外には何をどう語ればいいのかわからず、それについてどう語ってみてもしっくりこないと、やはり語っていることが間違っているのではないかと思われて、そう思うなら正しいことを語らなければならないのだとしても、何に対してそんな義務を負っているわけでもないのに、そうしなければならないような義務感を覚えるのもおかしなことであり、自らに課せられた倫理として正しいことを語らなければならないと思い込んでいるのだとすれば、自らが自らにそんな倫理を課していることになるのだろうが、その一方で他人からこれ見よがしに間違いを指摘されるのが嫌だから、他人から指摘される前に自分で間違いを正さなければならないと思うのが、他人に向かって自分をよく見せたいことの表れだと理解できて、そう思うならデタラメなことをいい加減に語ろうなどとは思わないはずだが、ではなぜ語る内容のデタラメさに魅力を感じるのかといえば、デタラメなことを語っている方がカッコいいような気がするからかも知れず、他人に向かって自分をカッコ良く見せたいから、カッコ良く見せるには平然とこれ見よがしにデタラメなことを言い放つ態度が必要に感じられるのだとすれば、要するに他人に向かって見栄を張りたいのだろうが、他人の存在が気になるから自分の存在を目立たせるために何か変わったことをやろうとして、そんな思いが高じると、お笑い芸人のような滑稽な動作になってしまうのなら、そんな動作に表れる批評性を見逃さなければ、そんな動作に及んでいる人がただの目立ちたがり屋ではないことも理解できるわけで、他人が意識せずにそんな行為に及んでいるのを見て、それに対する皮肉を込めて意識してわざとそうしているなら、それが批評的な動作になるのだが、なぜそんな動作になってしまうのかといっても、意識せずにそんな行為に及ぶのは馬鹿で愚かなことなのではないかと主張したいのなら、何かそれがわかりやすいことを語っているように感じられるが、批評的な動作がそんなわかりやすさと共に演じられるわけでもなく、そこに至るまでにはそれなりに面倒なこだわりや逡巡があって、一筋縄ではいかないような感情や欲望のもつれ合いや絡み合いの中から、人目を引く滑稽な動作が出てきて、どう見てもわざとそんなことをやっているように見えるのだが、それが何を批評しているのかは定かでないが、その中でもわかりやすいところでは政治を批評していると見ておけばいいのだろうが、何か世相を反映するような人物が政治家として脚光を浴びて、民衆に向かってこれ見よがしにデタラメなことをいい加減に語ろうとしているわけではなくても、民衆の方が気を利かせてそう受け取っているなら、それがカッコいいことだとは思わないにしても、少なくとも正しいことを語っているようには感じられず、どちらかというと正しいとか間違っているとかではなく、イメージとしてはそんなことを語るのが典型的な政治家であり、それが政治家特有の言い回しでもあるから、特に違和感もなくそんなことを語るのが政治家だという先入観を抱いている人には何の疑念も湧いてこないのだろうが、それが何かといっても何かそこで行われていることがあり、それに伴って発言があるわけだが、それが典型的な発言であると安心感を得られる人もいるのだろうが、それもマスメディアの伝え方と連動して安心感を与えるのだろうから、その発言を単体で評価したりしなかったりするようなことでもなく、たとえそれに呼応して株価が上下しようと、結果的に株価が上下したことの理由としてそう受け止められるに過ぎず、そんな事後的な理由づけとして政治家の発言がメディアによって利用される現状があるのだろうが、実質的にそれが作用しているわけでもないのに、リップサービスとしてそんな成り行きがあるなら、それに関して幻想を抱いている人が少なからずいるはずなのだが、それによってもたらされる効果や成果に実質的な何があるようにも思われないなら、形式的な行事や催し物としてそういうことが行われているだけで、そうすることによって実質的な世の中の変化が起こるのを回避していると受け取っても構わないだろうが、それも本当にそうなってみないことには実質的な世の中の変化など実感できないし、現にそうはならないから、そうならない理由をどうでもいいような政治家の発言のせいにしたいのかも知れず、そうすることも現に行われている形式的な行事や催し物に含まれていて、その際に政治家が不用意な発言をする度に、そんな発言をするから駄目なんだという申し合わせを確認するために、そういう発言が必要になってくるように感じられるものの、それさえもそうなった結果からそう思われるに過ぎないことであり、そうやっていることまでも現状の駄目さ加減を追認する理由となるにしても、そんな現状から抜け出そうとはせずに、世の中の駄目な現状に対して否定的な態度でいられるのであり、そんな態度でいられること自体が、そんな世の中で生きていられることを確信させるはずなのだが、しかも自らが確信していることにも気づかないわけだから、何かそれが間違っているような気がするわけで、その間違っていることに関しては、間違わないことがあり得ないような間違いでもあるから、安心して間違っていられると共に、自身が安心していることにも気づけず、逆に世の中の現状を憂うような演技にも取り憑かれながら、不安感に囚われた態度を仮面として被っているから、それが何重にも安全装置を施された防御壁のように自己の殻を形成しているから、安心しているのを意識せずに不安感に駆られているような演技をしていられるのかも知れないが、自身がそうなっている時点でデタラメさといい加減さの極みに達しているように感じられてもいいはずだが、一向にそうは思わない代わりに、そういう空疎で儀式的な成り行きに囚われている限りで、そんなことにまで考えが及ばないのも、そうしないと空疎な儀式が成り立たないということに関して、そんな現状を物語っていることにもなるから、それが自然な成り行きと捉えるなら合点がいくのかも知れないし、もちろん誰も納得していないだろうし、納得しない限りで何かしら現状への批判も生じてくるのだろうが、そんな批判が無効だとは思わないし、無効だと思うなら批判などしないだろうから、批判している当人が批判している時点では、自身が抱いている否定的な現状を変えたいと思っているはずで、批判が一通り済んだところで、そこに何がもたらされるとしても、相変わらず空疎な儀式として政治的な会合や会議上で演じられる顔合わせ的なパフォーマンスとそれに付随する発言内容以外には何もなければ、それへの批判もそれに含まれていることが明らかになっているはずなのだが、それも批判している当人にはあずかり知らないところであり、一連の成り行きに自らが巻き込まれていることが、巻き込まれていることから抱く安心感と共に、それらの儀式が何の効力も効果もないのではないかという不安感に駆られた演技も必要になってくるから、そこで行われていることが、現に起こっている出来事に対してどのような影響をもたらすかについて漠然とした危機感を抱かせるのは、そう思うのは当然のことだとしても、だからといってそれなしで済ますわけにはいかないから、そういうことが起こればそれに伴ってそういうことが行われる程度の認識を疑うわけにもいかないし、しかもそういうことが現に行われていて、そういうことが行われていることを前提として、それに関わり合う過程で生じてくる疑問であるから、何もないところからそんな疑問が生まれてくるわけでもないということが、すでにそんな成り行きに巻き込まれている人々にとっては、自分たちが存在していることの前提条件ともなっているわけだ。
6月12日「言葉の用法」
メディアを利用して何を知ろうとしても、知り得ることが限られてくるなら、それは知ることに限界があるからではなく、全てを知るだけの機会も時間もないことが原因かも知れないが、知っていることや知り得たことを語るのではなく、知らないことについて語れるかというと、語り方によっては知らないことについても語れるかも知れないし、語っているうちに知らないことを知るに至るかも知れないが、何を知ろうとしているわけでもないのに、語っているうちに知ってしまうことがあるわけでもないが、語るのではなく書き記している際に、言葉の意味や用法を調べているうちに、まれに知ろうとしている意味とは別の意味を知ってしまうこともあるし、それが特に興味深いことでもないが、書き記すにはちょうど良い用法が見つかることもあり、それが表現としてはしっくりくることもあるが、そんな表現を用いたとしても、何を語っているのかよくわからない場合もあるから、その時点では理解できないことがあり、それがその後に起こる出来事と結びつけるとわかってきて、そんな出来事が起こるまではわからないことについて、それと気づかずに語っているなら、今はそれとは別のことについて語っているつもりでいても、後からそれについて語っていたことに気づくのかも知れず、現に今もそれとは知らずにそれについて語っていることになり、それがわかるのはまだここからだいぶ後のことになりそうな予感がしているわけでもないが、何か自分でもわかっていないようなことについて現状で語っているとすれば、語るにつれて次第に明らかになっていくようなことかも知れず、現時点ではその全貌を理解できないとしても、自らが何を語りたいのかをこれから少しずつ理解していかなければならず、その理解するためのヒントが自らが書き記しつつある内容の中にあり、それを読み返していくと次第にわかってくるようなら、まさに今もそれを書き記しながら読み返している最中でもあり、記された文章の中で自らが語っていることを読み返しているのだろうが、その際に自らが述べていることが自らが書き記している内容と一致していると思ってはならず、絶えず述べていることと書き記している内容の間にずれがあることを踏まえておかなければならず、そうしないと言文一致の罠にかかってしまい、それが何の罠なのかが現状では理解できないだろうが、現在進行形の現状の中では罠でさえないのかも知れず、結果的に語っている内容がおかしくなれば、何かの罠にかかってうまくいかなくなったことになり、うまくいかなくなった結果から原因を知ることができて、そういうことにしておくと因果関係の辻褄が合って、うまくいかなくなった原因が特定されてしまうわけだが、果たしてそれが本当の原因なのかというと、どうもそれがはっきりしないわけで、そうかといって本当の原因が別にあるわけでもなく、わざわざうまくいかなくなった原因を特定しなくてもいいのかも知れないが、語っていることと書き記していることの内容を一致させるには、原因と結果の因果関係を導入して辻褄が合うように説明しなければならず、果たしてそれが言文一致の罠と言えるのかといっても、そんな罠などありはしないのだろうが、そうなった結果から語っていることと書き記していることの辻褄を合わせるなら、そこに罠が仕掛けられている方が説明が楽になるわけで、要するに何かが起こったからそれが原因となって結果がもたらされたことにしたいわけだが、そう説明すればわかりやすく、それ以外にそこで起こっている現象をどう説明すればいいのかといっても、例えばそこに重力場とか電場とか磁場とかの力がかかっている場があって、その場に物質を置くと、その物質の性質から勝手にどこかへ引き寄せられたり逆に反発し合ったりして、それがそこで起こっている現象だと説明できるかというと、それも原因があるから結果がもたらされることになるだろうが、その原因というのが例えば絵画における遠近法の消失点であったりすると、平面に描いた絵を立体的に見せるために必要なのが消失点であったりするわけで、実際にはないものを技法的に導入しているわけだが、それをさらに複雑にしたのが言文一致的なイメージだとするなら、記された文章を読むとあたかも語っている内容がそのまま書き記されているような錯覚を覚えるわけだが、実際の因果関係としては書き記された文章の通りに語ろうとしているわけで、原因と結果が逆転していることに気づけないわけだが、それをカッコつけて遠近法的な倒錯と呼んでも誰もピンとこないだろうが、絵画において発明された遠近法的な作図手法が平面に偽りの立体感をもたらしたのと同じように、記された文章を読ませることによって、誰かが語っている内容がそのまま記されているかのような錯覚を覚えるわけで、それが当然なのだから錯覚だとは思えないのもわかりきったことであっても、実際に日本の明治政府が全国のどこでも読み書きが一致するような共通言語を日本語として作ったわけだから、それ以前には口語と文語が一致していなかったわけで、もちろん今でも厳密には話し言葉と書き言葉は一致していないし、書かれた文章ををそのまま話しているわけではなく、話し言葉は「」で括られた形で文章の中に記されているのだが、明治政府が作った共通言語を読み書きする人が日本人という民族であるなら、明治以前には日本人などいなかったことになるだろうが、それこそが原因と結果の取り違えであり、屁理屈もいいところだと思うかも知れないが、縄文人と弥生人が違う民族であるのは誰もが知っていることであり、沖縄は琉球王国時代には中国の明朝や清朝の属国だったのだから、日本ではなく中国に帰属するべきだというのも暴論だろうし、関西人と関東人は違う民族であるはずもなく、その種の屁理屈を言い出すときりがなくなるが、言っているのではなく書いているのであり、厳密には鉛筆やペンで書いているのでもなく、記していることになるだろうが、それも程度の問題で、言葉の意味や表現や用法を都合の良いように受け取るなら、言っているのでも述べているのでも語っているのでも書き記しているのでもキーボードを叩いているのでも、どれでも構わないことになるだろうから、枝葉末節なことでしかなく、何も大げさに日本の民族問題にまで敷衍する必要もないわけだが、そこで起こっている出来事を説明するに際して原因と結果を結びつけるにはどうすれば良いかということが、例えば日本のGDPを押し上げるにはどうすればいいかということに関して、防衛費を増額するにしても外国から武器や兵器や装備品を輸入するのではなく、なるべく国内の企業に生産させて納入させれば確かに直接にはGDPの押し上げに貢献するかも知れないが、それを政府が買い取るだけではなく輸出できればさらにGDPの押し上げに貢献するだろうが、武器の輸出は現状では無理だとしても、そういう直接的なことではなく、人材育成という面で防衛費の増額に予算を使う代わりに教育の無償化に使うなら、結果的にGDPを押し上げることになるかというと、直接すぐに効果が現れるわけではなくても、教育費に使う分を他の何かを買うことに使えばそれだけ経済効果が出るかも知れないし、使わずに銀行に預金するなら、その銀行がそれを個人や企業に貸し出せば、そこでも経済効果が得られるかも知れないし、また教育の無償化の恩恵を受けた人材が日本のGDPを押し上げるような人材に育つかというと、それも結果的にそうなれば教育の無償化に予算を使えと主張している人の思いが実現するだろうが、そうやって拙速に都合の良い因果関係を想像して、原因と結果を結びつける必要はないのかも知れず、防衛費を増額するかしないかと教育の無償化を実現するかしないかの議論を結びつけることが、そういうことを説明する上ではそれなりに説得力があるような気がするとしても、実際にはそれとこれとは無関係な方面で議論がなされて、国会で別々の審議として賛成多数や反対多数や継続審議となって、何らかの結果をもたらすわけだが、それが一時的に新聞などのメディアや選挙演説などで話題となるにしても、一般の人々の中でどれほど割合がそういう議論を真に受けて、それを選挙で投票するかしないかの判断にするかが、事前の世論調査などからわかってくるとしても、他にも選挙で投票するかしないかの判断をもたらす要因がいくらでもあるようなら、それらの中の一つの判断基準でしかなく、それだけが選挙結果を左右するわけでもなければ、様々な争点の一つとしてそういう議論もある程度のことになってしまうだろうが、防衛費の増額と教育の無償化の他にもさらに多くの議論を選挙の争点として一つに結びつけられるようなら、たぶん言われなくても賢い人がそういうことを仕掛けてくるだろうが、選挙という目的の中でそこで因果関係が構成されることになり、それが場合によっては遠近法的な倒錯のような錯覚を有権者に覚えさせることになれば、何らかの効果をそれなりにもたらすのかも知れない。
6月11日「戦闘の必要性」
人は誰でもただ漠然と行き当たりばったりで気の向くままに生きていけるわけでもなく、何をやるにも事前に何かしら計画を立てて事に当たりたくなるだろうが、計画的に事を進めるにあたり、何か気をつけなければならないことがあれば、それを肝に銘じながら事に当たろうとするだろうが、それがわかっているようでいてわかっていないのかも知れず、計画そのものがあやふやであり、事前に立てていた想定が、計画を進めていくにつれて外れてきて、それに伴って計画の修正を余儀なくされてしまえば、そこで計画の柔軟性が求められているのかも知れないが、果たしてそうすることによって計画の計画性が保たれるかというと、計画性とは違う何かが出現してきて、それに伴って計画通りに事が進んで行かないなら、計画を変更して別の計画を発動させる必要も感じられて、そうなるとAプランがあればBプランもあるということになれば話が早いが、そういう安直な成り行きにはならず、元の計画からその亜流のような感じで枝葉が分岐してきて、そこで縮小再生産のようにして同じようなことをやりたがり、そういうことをやるに従って次第にセコくずるく振る舞おうとして、それと共にあたかも計画通りに事が進んでいるかのように見せかけたくて、見え透いた小細工のようなことまで仕掛けてくるようだと、それがすでに遠からず計画の破綻を予感させるようなことでもあり、そうなっている時点で悪あがきのようなことになってしまっているわけだが、それがやっている当人には悪あがきだとは思えないから、逆に計画の確かさやその有効性を実感できるかも知れず、その実感が本当は確かではないし、しかも有効である面と無効である面とが隣り合わせになっていて、無効な面を無視する限りで有効性を実感できることでしかなければ、そういう思い込みにしかならないわけだが、それでも結果が伴ってくればうまくいったはずだが、うまくいったところで計画通りというわけではなく、元の計画など跡形もなく残っていないような惨状の中でも結果的には何とかなっていて、何とかなっていること自体が奇跡だとも思えないが、とりあえずは最初に計画らしき目論みなどを捏造しないと何もやる気になれないから、一応はそれらしい計画を立ててから、そんな計画に基づいて行動を開始するのだろうが、それが絵に描いた餅のような代物で、内容がいい加減でうまく行かないこともある程度はわかりきってきて、やっていく途中で行き当たりばったりで対処していくうちに、何かコツを掴んでくるような成り行きになってくると、次第にやっていることが軌道に乗り始めて、それなりのことができるようになると共に、元のいい加減な計画とは違う中身を伴った実質的な計画が構想されてきて、それも現状でやっていることの延長上で、できる範囲内でやろうとする計画となるのだろうが、そういう計画がないと世の中が回っていかないと考えるなら、やっていることの持続的な成長が期待される面で、その種の計画の必要性も切実に求められて、そういう方面での計画と個人が勝手に思い描くようないい加減な計画が同じであるはずがなく、政府や企業などで策定される計画が、ある一定の傾向を伴って、それなりの予算も伴いながら進められると、いったん動き出せば後戻りが利かなくなって、それも計画の中身にもよるだろうが、よほどの弊害が出ない限りは継続されるのだろうが、しかも計画に携わっている人からすれば、計画が中止に追い込まれてしまうと困るわけだから、途中で後戻りが利かない計画に携わってしまうと、計画の成否と共に自らの立場や境遇の成否も決まってしまうから、嫌でも計画を推進しなければならない状況に追い込まれて、場合によっては背水の陣のような切羽詰まった状態で事に当たることになってしまうと、正常な精神状態ではいられないわけだが、それもフィクションとしてそんなヤバそうな計画をいくら想像してみても、実態が伴わないから真に受けるわけにはいかないし、現状の世界でどのような計画が進行中だとしても部外者には関係のないことかも知れないが、かつてはナチスドイツによるユダヤ人の絶滅計画が進行中だった時期もあったし、今も中国ではウイグル人の矯正計画が進行中でもあり、それとこれとを同列に扱うわけにはいかないが、そういうヤバそうな計画ではなく、もっと何か誰もが肯定できるような計画が進行中であれば、それに対して多くの人たちが共感したり、余裕があれば協力する気になるかも知れないが、それが微妙なところかも知れず、何の前提条件もない計画などあり得ないし、何かそこに計画が持ち上がれば、必ず良かれと思われるような動機や目的が掲げられて、それに対して共感や支持が求められるにしても、それが良いこと尽くめであれば、確かに共感や支持が集まるのだろうが、現状ですでに人や団体などの活動が飽和状態であるなら、そこに新たに何らかの計画を携えて参入するとなると、すでに活動中の人や団体との間で軋轢が生じて、対立や争いが起こるのもある意味で必然的な結果であり、そうであるならその種の計画が良いこと尽くめであるはずがなく、すでに進行中の他の人や団体の計画を押しのけて、新たな計画をねじ込むような荒技を使わざるを得なければ、他の人や団体と戦いながら計画を推し進めるようなことになってきて、計画を遂行するにも成功に結びつけるにも、そんな闘争に打ち勝つことが必要になってくるだろうが、そんなことをやっていくに従って、計画の目的が他の人や団体に勝つことに変わって行ってしまう可能性もあるわけで、それが本末転倒な成り行きと言えるかも知れず、計画を遂行するために闘争するというよりは、闘争に打ち勝つための計画が求められるようなことにでもなれば、いつの間にか計画を推し進めている団体の中で武闘派的な派閥が主導権を握るようになって、他の団体を攻撃することがその団体の目的となってしまい、そうなれば終わりなき闘争へと活動の中身も変貌して、活動の内容もそれだけわかりやすくなってしまうが、それと引き換えにして何が失われるのかといえば、未来への希望だろうし、闘争するだけでは未来がなく、戦いに明け暮れてひたすら消耗するだけでは、そういう活動に協力している人たちも未来への希望が持てないから嫌になってしまうわけで、何かそういうところで希望が持てるような未来へのビジョンが示されないと、活動に対して幻想が抱けないだろうが、戦っている当事者はそんな甘っちょろい幻想など抱いている暇はなく、目の前の勝利を目指してひたすら戦うしかないだろうが、果たしてそういう戦いに計画性があるかというと、戦う前にはある程度は勝つ見込みがあったから戦うことになったのだろうが、実際に戦ってみるとそれよりは戦いそのものが泥沼化しそうな兆候も出てきて、見通しが甘かったことを思い知らされるとしても、それも戦ってみてからわかることであり、戦う前にそれがわかるようなら戦いはしないだろうし、戦ってみてからでないとわからないから、それが見込み違いをもたらすわけだが、計画にしても計画した段階ではわからないことが、計画を遂行中に出てきて、それが計画自体の変貌であり、戦うことなど当初の予定にはなかったのかも知れないが、計画を進めていくと思わぬところから邪魔が入って、邪魔をしてくる人や団体と戦う羽目にでもなれば、もはや計画どころではなく、計画を遂行するには邪魔をしてくる敵を排除することが必要になってくれば、まずは敵と戦うことが優先されて、戦うには武闘派的な集団が必要になってきて、そんな集団を味方に引き入れて敵と戦っているうちに、いつの間にかそんな集団に主導権を握られて団体そのものを乗っ取られてしまうことにでもなれば、もはや当初の計画などどうでもよくなって、ひたすら敵と戦うことが目的となってしまうだろうが、果たして現状の世界でそういうことが起こっているのかというと、今は計画と戦闘が同時並行して起こっている段階かも知れず、計画といっても何かにつけて各国の首脳や大企業の経営者などが半ば宣伝目的で未来への希望が持てるような計画を発表することがあるだろうが、それも表向きには特定の国や団体などを攻撃するような計画ではないことも明らかであり、攻撃するならそんな計画は事前に伏せられて、それと悟られないように不意打ちするようなことをやるのだろうが、そうしないと攻撃しただけの効果が得られないし、あからさまに準備万端整えて宣戦布告してから攻撃するようなことは、よほどの力の差がない限りはやらないのもわかりきったことだが、そういう意味での計画性というのは計画した段階で戦闘的な戦略形態をとっていて、敵と戦うことを前提として計画が練られているから、戦ってみるまではわからないような不確定要素も事前に計画の中に織り込まれているのかも知れない。
6月10日「逆説的な保守化」
何をやるにしても中途半端なことをやってしまうと後悔してしまうわけだが、やり過ぎてしまうのもよくあるパターンで、やった後からちょうど良い加減がわかってくることもあるから、結局は後悔先に立たずなことになって、心穏やかではなくなるのだろうが、後からああやっておけばよかったと思う状態がちょうど良い状態であり、それが結果的にわかる理想的な状態となるわけで、事前にそれがわかっていれば誰も過ちなど犯さないだろうし、それが過ちを犯してからわかるから、過ちを犯さないとわからないことになり、それがわかるには過ちを犯す必要があるなら、ちょうど良い理想的な状態がわかるには過ちを犯さなければならないわけだが、しかもいったん過ちを犯してしまうともう二度と理想的な状態へは至れないとなると、たった一度きりのチャンスを逃してしまったことになるだろうが、それも後からわかることであり、そうであれば事後的にわかることというのが、わかった時点では達成できないことであり、もう過ぎ去ってしまったことになるわけだが、いったんそうなってしまえば、そこから今さらそんな状態へと至ろうとはせずに、少々不満があっても現状を維持できる限りで妥協を強いられてしまうかも知れず、それも手間暇をかける余裕があれば妥協せずに理想状態を追求するかも知れないが、一度取り返しのつかない過ちを犯してしまうと、それがトラウマとなって、次からはなるべく注意深く慎重に事を運ぶようになって、石橋を叩いて渡るような姿勢になってくると、冒険とか一か八かの賭けに出るとかの大胆な行動をとれなくなって、また職業や家庭に縛られて生活するようになれば何よりも安定を好むようになるかも知れないし、誰もがそうなるわけではなく、中には冒険をしたり一か八かの賭けに出て、それに成功してしまう人も出てくるかも知れないが、成功する人もいれば失敗する人も出てきて、失敗する人が成功する人の何十倍も多ければ、多くの人が失敗して痛い目に遭ってそれがトラウマとなって、もう二度と冒険とか一か八かの賭けには出ないようになってしまうかも知れず、そうなった人が多ければ多いほど、人々の行動が縮こまって社会が保守的になるわけだが、失敗した人を周りの人たちが寄ってたかって叩くようなことが頻繁に起こるようなら、しかもそれをマスメディアが先導するようなことまでやると、より一層保守的になるだろうし、失敗して周囲の人たちに叩かれるのが嫌だから冒険できなくなれば、出る杭は打たれるような成り行きとなり、誰もが出過ぎた真似はやらなくなって、多くの人たちが横並びで同じようなことをやるようになるかも知れないが、そうなると差異がなくなって利益も小さくなってジリ貧に陥るのだろうが、そういう世の中になれば抜け駆けして自分だけいい思いをしようとする輩が出てきて、他人には出過ぎた真似はやるなと諭しておいてから、自分だけは出過ぎた真似をやってちゃっかり利益をせしめようとするかも知れず、それも他人に知られないようにやる必要があり、それこそが冒険であり、一か八かの賭けとなり、そんなことをやっているのがバレたら、それこそ周囲から袋叩きに遭ってひどいことになってしまうだろうが、そんな内ゲバをやらせておいて、それを遠くから眺めながらほくそ笑むような立場があれば、それこそがそういうシステムを管理する側になるわけだが、果たしてそんな都合のいい立場があるかというと、それは特定の個人が担うような立場ではなく、政府や大企業の官僚機構そのものであり、個人はその中で動く歯車でしかなくなって、集団意識として蜂の巣や蟻の巣ような構造そのものとなればそういう意識を構成できて、そういう集団意識に身を委ねていれば安心感を得られるとしても、そうなると絶えず出過ぎた真似をやる輩が出てくるのを監視していなければならず、個々人が連帯責任を負わされながら集団でモグラ叩きゲームをやるような状況を想像できるかというと、誰にもそんな自覚はないだろうし、意識することもないだろうが、誰ともなくおかしなことを仕掛けている現状が一方にはあるのかも知れず、それに関して例えば、何やらこれ見よがしに目立つ色やステッカーを貼った選挙カーをこしらえて、その前に置かれたビールケースの上に乗って、効いた風な演説を打っている人々が、SNSの動画で頻繁に見受けられるようになってきたとしても、それが何かの妨害工作だと感じられるなら、少しは勘が的を射ているのかも知れないが、妨害工作というよりは、冒険とか一か八かの賭けに出ている人のパロディだと映るなら、実際にそれが伸るか反るかの賭けに出ている人に対する妨害工作をやっているように思われるとしても、そういう思惑を外れて別の方面へと事態が逸脱しかかっているかも知れず、それが管理機構の歯車となって動いている人には理解できず、歯車の働きが効果を上げずに空回りしていることに気づかないのかも知れないが、それ以前に自身が歯車になっていることにも気づかないだろうし、自分で主体的に行動しているつもりなのだろうが、それが集団意志に操られていて、それに気づくこととそうなっていることを理解することが同じことにはならず、理解していても理解していることに気づいていなかったり、気づいていても自身がそれに気づいていることを理解できなかったりするかも知れないが、求めようとする結果がそこではない可能性もあるわけで、それが行動した結果だと思った先に、そんな思いを打ち砕くような結果が待ち構えていて、自身が意識していた結果が、そんな結果を招くための囮であるなら、求めていた結果が思わしくなくがっかりしても、まだその先にそれとは別の結果が待ち受けていることに気づいていないだけであったりするわけだが、そういうことを現時点では考慮に入れられないとしても、やはり現時点ではそれで構わないのかも知れず、誰もそこで起こっている成り行きの全てを把握することも見通すこともできないのは、誰もが部分的にしか出来事に関わっていないからだが、出来事が全てではなく、何も起こっていない面もあるから、そういう面は無視するしかないだろうし、何も起こっていなければそれを考慮に入れることができばかりか、そこで何かが起こってからしか、その起こったことに対処したりしなかったりすることしかできなければ、何も起こらなければ対処しようがなく、何も起こらないはずがないと思うしかなく、そう思っている時点でそれが思い違いであることに気づくはずもなく、思い違いであるはずがないのだろうが、たぶんそれこそが思い違いなのであり、何も起こっていないのに何かが起こっているように見せかけながら、そう見せかけているのが自覚のない演技であることにも気づけないわけだが、たとえそれが多くの人が騙されるような迫真の演技であったとしても、そこに実質が伴っていなければ、相変わらず何も起こっていないわけで、では実質とは何かというと、そこに至るまでに費やされた労苦が実質を伴ってきて、その実質がパロディのような演技からは滲み出てこないから、そこで本物とまがい物の区別がついてしまい、そんな区別が他の多くの人にもついてしまうとまずいから、実質が伴わないような小手先の技術で済んでしまうゲームの類いが世の中で幅を利かせているのかも知れないが、それでも何がその種のゲームだと見なしてもゲームの進め方によってはそこから実質が生じてきてしまい、たとえそれがまがい物であっても気を許すと実質がまとわりついてきて、結局はゲームでは済まなくなってくるのであり、実際にもそれが社会を管理する機構の歯車を狂わせて、歯車が勝手に暴走して交通事故の類いを頻繁に起こすのだろうが、それがアメリカなどでは銃の乱射事件となって社会問題化するのに対して、日本では周囲から叩かれるのを恐れるあまり引きこもりを起こして、事なかれ主義を助長するのだとしても、どちらにしても社会が病んでいることを象徴する出来事のように思われるだろうが、実質的にはそれほど病んでいるわけでもなく、機構の歯車が正常に動作しているから、たまにはエラーとしてそういう面も現れて、そういうエラーに対処する部門も機構の中には備わっていて、それをエラーと見なすのも立場によっては異なり、機構をより円滑に動作させるには、社会の様々な場所へと機構が入り込んで行かなければならず、そうなるには絶えず機構が社会に働きかけて、社会から返ってくる反応を見極めて、それに対処する部門を設けて、その部門を反応に対処させるようにする必要があり、そういう意味ではエラーを起こさせるのも機構の社会への働きかけの一環だと見ておけばいいのではないか。
6月9日「政治と経済の関係」
物事を単純化して考えれば、何かわかったような気になるのだが、考えるということが物事を単純化して一定の論理に当てはめるということと同じだとすれば、やはり単純化せざるを得ず、逆に事態を込み入らせて複雑に考えることがあり得るかというと、単純化では満足できなければ複雑化して考えようとするのだろうが、まずは単純に考えて、考える上での取っ掛かりをつかみたいわけで、では具体的に何を単純化して考えているのかというと、例えば政治と経済に関して単純化して考えるとすれば、政治が経済に対してどう働きかければ経済をコントロールできるかと考えがちになってしまうが、経済情勢にも固有の景気循環サイクルがあって、完全にはコントロールできないまでも、少なくとも景気の悪化には金利を下げるなどの金融緩和策をとって対処しようとするだろうし、失業率が上昇すれば雇用を維持するための策を講じたり、新たに雇用を生み出そうとして、逆に過度の物価上昇に直面すれば、それを抑え込むために金利を上げたりするのが、対策としては考えられるが、そういう対策はすでに方法として確立されていて、政治家というよりは行政が対策を講じなければならないことになり、行政も政治に含まれるから政治活動の範疇には入るだろうが、政治家が直接取り組まなければならないことではなく、逆に行政に働きかけて事態を悪化させるようなことをやってしまうのが政治家が絡んだ政治的な行為として、メディアなどで好んで取り上げられる話題となるわけで、それが無駄に公共事業などを増やして行政の規模を大きくして公務員の数も増やしてしまい、その結果として政府や地方自治体の財政悪化を招いてしまうようだと、財政健全化を図るために緊縮財政に追い込まれてしまった事例もあるだろうから、そうなると行政の予算の使い方や予算配分などに関して、政治が介入して行政改革を行わなければならなくなるのだが、そういう方面での財政健全化に絡んだ政策と、経済対策としての政策を分けて考えられるかというと、そういうところがごっちゃになって論じられているわけでもないだろうが、どこかで単純化して批判材料としてうまい具合に利用されて、それがいつの間にか緊縮財政と積極財政という二項対立へと還元されてしまうと、無駄に予算が使われている面がうやむやにされてしまうわけで、予算を削減すれば緊縮財政となってそれは悪いことであり、予算を増やせば積極財政となって良いことになるはずがなく、そう言われてみればそんなことはわかりきったことであり、たとえ政策として積極財政政策を打ち出したところで、その中身が問題となってくるのもわかりきったことであり、それに関しては直面している事態を都合のいいように曲解する癖がついてしまうと、恣意的におかしな解釈を用いて批判対象を攻撃しておいてから、自分たちの政策の良いところを宣伝するようなやり方がまかり通ってしまうから、始末に負えないところがあるのだが、例えばそんなことをやっている人の批判の中で、批判対象として新自由主義が利用される場合が多いのだが、それの何が新自由主義なのかということに関しては、それ以前の自由主義と新自由主義の違いとなると、自由主義が経済に対して政治が介入せずに自由放任にしておくのに対して、自由に任せているとやがて特定の企業による市場の独占支配が起こり、経済活動の自由が阻害されてしまうから、経済活動の自由を守るために政治が経済に対して積極的に介入するのが新自由主義であり、それが自由主義と新自由主義の違いから定義される新自由主義なのだが、新自由主義を批判する側にとってはそうではなく、なぜか行政を民営化するのが新自由主義であり、例えば国鉄が民営化されてJRとなり、その際に国鉄の組合員が不当な扱いを受けたから、新自由主義はけしからんとはならないだろうが、郵政民営化の際には国民の財産を外国に売り渡したから新自由主義はけしからんとは言われていたかも知れず、水道事業を民営化して外国の企業が参入してきて水道料金が不当に値上げされたから新自由主義はけしからんとも言われていたし、また新自由主義者の竹中平蔵がパソナという企業を作って大阪の行政を食い物にしているから新自由主義はけしからんとも言われているだろうし、何か新自由主義の悪名高い代名詞として小泉郵政民営化や政商として暗躍する竹中平蔵のイメージがつきまとい、そこから行政を効率化の観点からむやみやたらと民営化するのではなく、民間の企業では採算の取れない事業は行政が担うべきであり、資本主義経済では競争に不向きな分野を行政が担当するような棲み分けが目指さなければならず、その一方で観光誘致や企業誘致の失敗によって財政破綻した地方自治体などでは緊縮財政となった事例もあり、それとこれとは話が違うことになるはずだが、そういうところで財政破綻した地方自治体の惨状を伝えながら、だから緊縮財政では駄目なんだという結論が出てくるわけでもなく、それ以前の観光誘致や企業誘致などに伴って公債を発行して積極財政にしたから結果的に財政破綻して、そんな経緯から緊縮財政を余儀なくされている事情が出てくるのだろうが、なぜ財政的に裏付けのない地方自治体がそんなことをやるのかというと、過疎で人口減少に苦しんでいるから、起死回生の打開策として公債を発行して観光誘致や企業誘致をして人口を増加させて税収を増やして財政を立て直そうとしたのだろうが、それに失敗して負債が残ってしまえば自ずから緊縮財政になってしまうわけだが、それに関しては普通に人口が減って自治体として財政的に成り立たなくなれば、近隣の自治体と合併するしかないだろうし、実際に全国で市町村の再編成が起こっているはずで、そうなれば自ずから緊縮財政に伴った弊害が解消されるかも知れず、そういう経緯や事情から考えられるのは、緊縮財政になる前には積極財政の状態があったわけで、それに関して例えば国家的な財政破綻に陥ったギリシャなどでも、公務員の数が異常に増えて人件費が嵩んでいた期間においては積極財政であって、財政赤字が膨らんでいたわけだが、それもEUの中で産業基盤のない観光頼みのギリシャやスペインなどと、ちゃんとした産業基盤のあるドイツやフランスなどとでは同じ財政赤字でも質が違うだろうし、日本もどちらかと言えばちゃんとした産業基盤がある方だろうから、財政赤字が増えても耐えられるだけの余力があるのだろうが、民主党政権時代の首相だった菅直人や野田義彦がギリシャ危機を見て対岸の火事ではないと言ったことが、果たして的を射ていたかとなると、政治家の言動として当時の状況の中でそういう言い方になるのは仕方ないことだとは言えるが、政治家が緊縮財政を唱えてもそれが実現するはずもなく、様々な事情や経緯を考慮しながら組まれた予算規模が最終的には緊縮財政とはならなかったのは言うまでもなく、それが焼け石に水程度の効果しかないと言うのが、その後に政権交代した自民党政権の積極財政政策に表れているわけで、それがアベノミクスと呼ばれて今でも政権批判派が事ある度に批判の槍玉に挙げる呼称なのだが、政府の財政政策も循環的に緊縮財政と積極財政との間で行ったり来たりする可能性があり、それが景気循環に伴っていれば経済状況に応じてそうなると見ておけばいいのだろうし、世の中が好景気で税収が増えればそれだけ予算に余裕が出てきて積極財政になるが、世の中が不景気になって税収が減れば予算にも余裕がなくなって緊縮財政になると、それなりに論理的にも筋の通った成り行きにはなるだろうが、不景気になれば企業の倒産も増えて失業者も増えると、行政が失業して生活に困った人たちを助けなければならなくなって、その分で予算が必要になってくるわけで、そこから公債などを発行すればそれだけ財政赤字も膨らむだろうし、そうなれば緊縮財政とはならないわけだが、そんな不況の時期を耐えてまた景気が良くなって来れば、税収も増えてくるだろうし、そうなれば税収に合わせた予算規模にできて、公債の発行も抑制できるだろうし、公債を発行しなくても増えた税収分だけで積極財政が実現できるかも知れず、そうやって税収に見合った予算規模にとどめておけば、何も緊縮財政と積極財政の二項対立を煽る必要もないわけだが、実際には公債である国債の発行に歯止めがかからずに、予算規模がどんどん増えていって、結果的にそうなってしまった状況を何とかして正当化しなければならなくなったから、緊縮財政論者が巣食う財務省を攻撃する積極財政論者という構図が議論の前面に押し出されてきて、何やら変な事態に陥っているのかも知れない。
6月8日「認識の違いと解釈の曖昧さ」
事前に何を期待しているわけでもなくても、不意に起こる他人の思いがけない態度や言動にはっとすることがあり、なぜそこで驚くのかといえば、そこで示される他人の態度や言動からうかがえる現状認識が自分のとはだいぶ違っていて、それに関して何か自分が勘違いをしているのではないかという疑念を覚えるのだが、認識の何が違うのかといえば、世の中の状況や情勢についての認識が違っているように感じられて、それがどう違うのかといえば、簡単に言うならそれを認識する人の立場や境遇に応じて認識の傾向や程度が違ってくることになるのだが、つい最近のことで言えば、急にメディア上で誰かが今年の夏や冬の電力需給が逼迫するようなことを言い始めると、それが原発を再稼働するための口実でそんなことを言っているのかと想像してしまうが、それとは別の方面でも誰かが今度の参院選挙で政権与党が圧勝すれば、原発再稼働に向けて期待が高まるということをあからさまに言うと、なるほど本音がそういうところにあるのかと納得してしまうわけだが、その一方で原発の再稼働を阻止しようと必死に訴えている人たちの存在があり、そんな人たちの訴えの必死さと比べて、原発の再稼働を期待しているらしい人たちが、表向きには何を必死に訴えているわけでもないが、あからさまに原発の再稼働の必要性を直接訴えているわけでもないのだが、遠回しに今年の夏や冬の電力需給が逼迫すると言い始めるわけで、また自身が原発の再稼働を期待しているとは言わない代わりに、夏の参院選挙で政権与党が圧勝すれば、原発再稼働に向けて期待が高まると予想するわけで、直接そういうことを自覚しているわけでもないのだろうが、そういうことを言う人たちは、原発が再稼働することを前提として物事が動き出すような成り行きへと持って行きたい思惑があるのかも知れず、それに向けて原発の再稼働が当然であるかのような空気や世論や民意やコンセンサスをそれと意識することなく作りたいような意向が、その種の言動から滲み出てくるように語るのであり、わざと意識してそういう言動にしているわけではないのだろうが、あたかももはや原発の再稼働が既成事実であることを世間に織り込ませたいような語り方に感じられるところが、ある種の気持ち悪さを覚えるのだが、そういう気持ち悪さを他の人たちは感じないのかと疑念を抱いている自分に何か勘違いがあるとすれば、もしかしたら原発の再稼働を阻止したい人たちもそれについては何とも思っていないのではないかと感じられてしまうところが勘違いなのかも知れず、そうではなく、あからさまに原発を再稼働させないと今年の夏や冬の電力が逼迫するぞと脅しをかけるようなことをやるなら、再稼働に反対している人たちも、ではなぜ太陽光や風力などの再生エネルギーの活用を制限するようなことをやるのかと反発するのだろうが、そういう全面対決を煽り立てるようなことはやらずに、ただこのままでは今年の夏や冬の電力が逼迫するという予想を伝えるにとどめておいて、またそれとは別の方面から、夏の参院選挙に与党が圧勝すれば、原発の再稼働に向けて期待が高まるだろうと予想するわけだが、それが参院選挙では政権与党に投票して原発を再稼働させて夏や冬の電力逼迫を回避しようと訴えかけるなら、わかりやすくなるだろうが、もちろんそんなあからさまなことは口が裂けても言えないような空気が世の中を覆っているから、できるだけ回りくどく遠回しに言いたいことを分散させながら、サイレントマジョリティーを構成する多数派が暗黙の了解事項としてわかるようにしているのかと想像してしまうことも、そもそもの勘違いなのかも知れず、何かそうではなく、そんなことを言いたいわけではなく、それとこれとを結びつけるのが勘違いなのであり、片方では今年の夏や冬の電力需給が本当に逼迫するから節電を呼びかけているのであり、それだけのメッセージでそれと原発の再稼働へ向けた期待とは何の関係もないことであり、またもう片方では参院選挙では政権与党が圧勝するという事前の世論調査結果が出ていて、与党内からそうなれば原発再稼働に対する国民の理解が得られたことになるという認識が出てくるから、そうなることを予想して伝えているだけで、それを伝えている人が原発再稼働に期待しているわけではないと解釈できるわけだが、少なくともそれを額面通りに受け止めればそういうことになり、わざわざそこから深読みして恣意的に穿った解釈をすること自体が勘違いであり、実際に逐語的な水準で伝えられた内容を理解しておくだけで構わなければ、勘違いな深読みも回避できるのだが、果たしてそれで構わないのかというと、世の中の状況や情勢がそれを許さないような気にさせるわけで、それも勘違いなのかも知れないが、何でもかんでも勘違いで片付けるわけにもいかないだろうし、もっと事態を大げさに捉えるなら、現状が歴史的な転換点に差し掛かっていて、ここで原発の再稼働を許してしまうと後になって取り返しのつかない大惨事を招くと思うなら、みんなで力を合わせて全力で原発の再稼働を阻止しなければならないという主張に行き着くだろうが、果たしてそれが本当にそうなのか、それとも妄想と思い込みが空回りしているだけなのかが、実際にそんな結果になってみないことにはわからなければ半信半疑となってしまうが、半信半疑だからこそどちらか一方に賭けなければならず、しかも世論調査通りに選挙で政権与党が圧勝すれば、原発再稼働の阻止を訴えたところで無視されて、選挙後に粛々と全国各地の原発が再稼働されていくかも知れないが、そんなこともそうなってみなければわからないことであり、意外と何も起こらずに拍子抜けとなってしまう可能性もあるかも知れず、拍子抜けとなったところで思いがけないことが起こって、誰も想像もしていなかった事態に至って、誰もが困惑するしかないような状況となってしまえば、事前の予想など全くの大外れでしかなくなってしまうだろうが、今ここで何を想像してみても無意味なのかも知れないし、想像するだけでは駄目で、行動しなければ望んだ未来を手に入れることはできず、何も望んでいなくても、とりあえずは行動しなければならず、しかもその行動というのが行動ではなく、動かずにただじっと機会が到来するのを待っているだけになってしまう場合もありそうだが、それも人によって立場や境遇によって役割や成り行きが変わってきて、人によっては選挙や原発の再稼働なども枝葉末節なことに過ぎず、それ以前にやらなければならないことがあり、そのやらなければならないことというのが、これからやらなければならないことを見つけることであったりすれば、振り出しに戻るしかないだろうが、振り出しに戻って骰子を振り、出た目の数だけ進むことが双六のルールであり、それが何の比喩であるわけでもなく、人は絶えず骰子を振りながら前に進んで行くわけで、その骰子を振る動作が何かに賭けていることになり、その何かというのが、その人の希望となるわけで、希望が何なのかは、人によって異なるだろうが、異ならない場合もあり、同じ希望を抱いて多くの人たちが協力すれば、それが大きな力となって、場合によっては他の多くの人の心を動かす場合もあるだろうし、世の中を変える可能性もあるかも知れないが、今がその時なのではなく、そこへと至る単なる入り口に過ぎなければ、現状が振り出しの位置にいて、ここから新たに何かが始まるのかも知れず、その何かがまだ誰にもわからない何かであり、ここから各々が骰子を振って前に進んで行くにつれて、次第にそのゲームの全貌が明らかになるようなことであれば、各人の希望が叶うとかそういうことではなく、もっと何か別の、誰も想像しなかったようなゴール地点が待ち受けているのかも知れないが、あるいは元からゴール地点などなく、どこまでも延々と続く単調な道を進んでいるだけでしかなければ、それも誰も予想だにしなかった成り行きになるだろうが、そうだとしても自らの現状認識を都合のいいように解釈して、そんな解釈から自らの活動を正当化できるような論理を導き出せれば、そんな都合のいい論理に従いながら行動しているような気になれるかも知れず、実際に現状が歴史的な転換点であるなら、何がそれを示しているのかを見極めなければならず、例えばそこに対立軸や争点があれば、それを巡って争いが起こっているはずで、実際に対立しているどちらか一方が勝利するような兆候を感じ取れるなら、勝利した時点で歴史が転換しているはずだろうが、そんな誰もが簡単にわかるような構図が示されているわけでもなければ、誰にも想像できないようなあっと驚くようなことが起こると思っておいても構わないだろうが、そうであるならあらかじめそんな事態に備えて何を用意するわけにもいかなくなり、どんな現状認識も勘違いとなってしまうのかも知れない。
6月7日「財政政策」
何か勘違いしていることがあるとすれば、日本政府はここ二十数年間において、一度も緊縮財政になったことがないということであり、どちらかといえば延々と積極財政であり、だから国債の発行残高が千兆円に達しようとしていて、ほどんど年々右肩上がりで増えているのだから、緊縮財政とは無縁なのだが、そういう現状を踏まえて、緊縮財政を採るように訴える人が出てきているのであり、緊縮財政を政府が実行しているわけではなく、逆にどちらかと言えば積極財政となっているというか、そうならざるを得ない成り行きに囚われているわけだが、そういう現状になっている中で、果たして緊縮財政を採るように訴えている人を批判することに意味があるのかというと、実際に未だ実行されてもいない政策を批判しているわけだから、何かそれ相応の意図や思惑があるのだろうが、逆に緊縮財政を採るように訴えている理由は一目瞭然で、先進国の中では債務残高が対GDP比で日本が飛び抜けて高いということであり、実際に債務残高が対GDP比で250%を超えているのに、それでも債務超過の財政破綻に至っていないから積極財政を続けていられるわけで、要するに結果的にそうなっているから、このままではヤバいのではないかと危惧する人たちが緊縮財政を採った方がいいのではないかと訴えているわけで、逆に債務超過の財政破綻に至れば嫌でも緊縮財政を採らなければならず、結果的にそうなるのであり、積極財政にするか緊縮財政にするかの選択の余地はないわけだが、そうだとすれば国家財政というのは、債務超過となって財政が破綻しない限りは積極財政となり、債務超過となって財政が破綻に至れば緊縮財政となるわけで、ちょうど良いのは国債の発行残高が増えないようになればいいのだろうが、また増えて行っても債務残高が対GDP比で増えなければいいわけで、増えた分だけ経済成長して行けば対GDP比では増えなくなり、また金利をゼロに限りなく近づけておけば、金利の支払いによって財政が圧迫されるのを免れるわけだが、そんなふうにして日本の自民党政府が二十数年にもわたって債務超過の財政破綻に至っていないのを見て、アメリカの経済学者がMMT理論を編み出したわけで、しかもそれに影響を受けて、今度は日本の自民党政府を批判する側で、日本政府の財務省内で燻っている緊縮財政派を攻撃して積極財政を推進しつつ、それに加えて脱原発と自然再生エネルギーを推進するようなグリーンニューディール政策を掲げる政治勢力が出現したわけだが、そういうところでそうなった結果に対する理由づけや根拠づけを巡って、そこに関与する人たちの思惑がグルグル回りながらおかしな事態を招いていると解釈すればいいわけでもないのだろうが、少なくとも財務省としては国債の発行残高が右肩上がりで増えて行ってはまずいだろうから、できれば緊縮財政にしたいだろうし、経済成長もほとんどしてないのだから予算規模を膨張させたくないわけだが、その一方で自民党政府としては経済振興を成功させて景気を良くしたいわけだから、その結果として自ずから予算が膨らんで形の上では積極財政となっているわけで、そういうせめぎ合いの中で積極財政と緊縮財政を政治の争点や対立軸と捉えてどちらを推進するかの選択肢が生じているかというと、どうもそれは疑わしいわけで、場合によってはそれは偽りの対立軸だと見なしておいても構わないのかも知れないが、だからといって脱原発やグリーンニューディール政策を掲げている人たちを疑いの目で見る必要もなく、結果的にそうなってしまうのをひっくり返すことはできないから、そうなった結果を踏まえて活動を組織していかなければならず、すでにそうなっている時点で紆余曲折の過程に囚われてしまっていて、そんな過程からそれなりの経緯や事情も生じてきて、それらが活動を縛っているわけだろうが、そんな経緯や事情に囚われずに自由に行動できるわけでもなく、経緯や事情の許す範囲内でしか動けないといっても、結果的にそうなってしまうのだからそうなるしかないといってしまうと、そこでおしまいになってしまうが、少なくとも日本の自民党政府としても、債務超過の財政破綻とならない限りは緊縮財政とはならないだろうし、例えば自国で通貨発行権のないギリシャ政府が十数年前に財政破綻したことがあって、今年の4月になってようやくその時のIMFへの債務返済を完了させたようだが、財政破綻したところでギリシャ政府が消滅したわけではなく、それは何度も財政破綻を繰り返しているアルゼンチン政府にも言えることだが、財政破綻するかしないかが選択肢としてあるわけではなく、しなければしないでそれに越したことはないのだが、主張として自国に通貨発行権があるから国債をいくら発行したところで財政破綻しないと言えるのだろうが、少なくとも政府の官僚機構としては、諸外国並みの財政規律を維持したいわけで、先進国の中で日本だけが突出して対GDP比で債務残高が高いと、それについては危機感を抱くだろうし、できれば債務残高を減らしたいと考えるのも無理はないところで、それもどこまで債務残高が増えれば危険水域なのかに関して前例があるわけでもなく、とりあえず諸外国並みに財政規律が維持されている状態へと持っていきたいわけだが、そうすることに関して何か確かな理論的な裏付けがあるわけでもないだろうし、それも結果的にそうなっていることでしかないわけだが、その国の経済規模に応じて国際的な通貨の信用が生じていて、現状でもトルコの通貨が暴落している最中かも知れないが、トルコの経済規模と日本の経済規模を比較すれば、どちらの国の通貨の信用がより高いかがわかるということでしかないだろうし、そんな相対的な信用の高低の中でも債務残高の対GDP比というのも一つの判断基準としてあり、日本国内の銀行の現預金の額と国債の債務残高の額がちょうど釣り合っているから、今のところは貸借対照表の中で資産と負債の帳尻が合っているのだろうが、資本主義経済が成熟するにつれて、その銀行に預けている資金を融資して、そこから得られる利子で稼ぐ額の方が、経済成長によって得られる額よりも高くなるというのが、かつてピケティが指摘したことなのだろうが、現状で日本政府がゼロ金利政策を維持しているのだから、利子で稼ぐには海外の経済成長が著しい地域に融資して、そこから利子収入を得るしかないだろうが、それと同じような傾向を伴いながら資産運用するしか、日本の生き残る道はないように思われるかも知れないが、日本国内で経済の成長戦略を維持するとなると、資本主義経済が成熟しないようにしなければならず、そうなると絶えず成長分野を作り出さなければならなくなるのだが、それを現状では自然再生エネルギー分野にしたいという思惑を抱いているのが、グリーンニューディール政策を押し進めようとしている人や団体なのだろうが、成長分野を人の思惑に沿って恣意的に決定できるかというと、人の思惑としてはそういうことやりたいわけで、今までにもそうやって様々な思惑を抱いて様々な分野へと投資してきた経緯があるのは確かだとしても、それが結果的にどうなったかというと現状が示している通りであり、実際に人の思惑通りに事が運んできたかというと、それもそうなった結果からそういう思惑が導き出されるわけで、現状で成長分野として脚光を浴びている分野があれば、その分野の発展に寄与した人物やら企業やらがメディアに取り上げられて、あたかもその人物の思惑や企業の意向通りに事が運んで、多少の紆余曲折を伴いながらもそれらの人や企業による尽力が実って、そうした分野の産業が発展してきたように語られるわけだが、そうなった結果から語ればそう語ることが可能だとしても、絶えずそれが結果から構成される言説である限りで、未だにまだ発展途上の分野に関しては未知の可能性が残っていて、確かに成功例といえるような事例がいくつか出てきているのかも知れないが、それが成功例として定まっているとは言い難く、それだけに今後においてどう転ぶかわからないわけで、そんなどう転ぶかわからないような状態を維持することが未だ成熟に至らない状態だとすれば、どうやってそういう状態を維持すればいいのかという設問自体が意味をなさないようなことかも知れず、だからそうなった結果から言説を構成することによって、経済の持続的な成長に関して確かなことは何も言えないわけではないが、人の都合に合わせて成長分野を事前に決定したくなるのは仕方がないが、事前に決定したことと事後的に語られる内容が一致するとは限らないのも事実なのではないか。
6月6日「過去の出来事との比較」
現状で起こっていることを過去に起こった出来事と比較したいのは、過去に起こったことと似たような経緯や事情で似たようなことが起こっていると思われるからだが、実際にメディアでもよくその種の言説に出くわすから、そんな言説から影響を受けて自身の言説もそれと似たような言説になってしまうのも無理はないが、過去に起こった出来事に関しては何かしらわかっていることがあり、もちろん全てをわかっているわけでもないとしても、相似の図形を思い浮かべるように、わかっている範囲内では辻褄を合わせて、論理的に矛盾のない言説を構成しようとしていて、それを理路整然と語ろうとするのであり、それと共に過去の歴史的な経緯と現状で起こっていることの経緯との間の共通点なども持ち出して、それを現状の成り行きに当てはめて語るようなことも、よくありがちな語り方としては妥当に思われるのだろうが、それでも過去に起こった大げさな出来事を持ち出すのは、それほど大げさとも思えない現状の成り行きと比較すると、何か釣り合いがとれないようにも思われて、それに関しては、歴史は繰り返すが、同じことは二度と起こらないということが、現状について語る言説の中に反映されていればいいのだとしても、そういうことも知識としてわかっている人にはわかっているのだが、知識ではなく実体験としてわかっている人も結構いて、そういう人たちには歴史は繰り返す式の過去の大げさな出来事と現状の大したことはない成り行きとの比較に関して、あまり実感が伴わないのかも知れず、それが学校の教科書的な知識の詰め込みにとどまっている人との差となって表れていて、それも本当にそんな差があるかどうかもはっきりしないのかも知れないが、現状でも何かこれといってはっきりした傾向があるわけでもなく、それが言説としてはっきりしたことを語ってしまう人が犯してしまいがちな過ちに結びついてしまうのかも知れず、実感としては特にはっきりした傾向や兆候が明らかに感じられるわけではなくても、それに関して語るとなるとこれだとはっきりと断言するようなことになってしまい、そうなるとはっきりしない実感との間で整合性が取れないから疑念が生じてきて、はっきりと断言するような言説の内容が疑わしく思われてくるのだが、それがはっきりと断言する人たちにはわかっていないように感じられてしまうから、そうした断言から得られる効果であることに気づかなくなり、現状の実態と現状について語る言説との乖離をもたらしているのかも知れず、それに関して例えば実際にはもう何十年も前の第二次世界大戦後に起こった西ドイツ経済の成功例が、相矛盾し合う新自由主義経済と社会主義的な福祉政策や労働者保護制度との結合の成果だとしても、はっきりと断言する人は、未だに新自由主義を単体で取り出して批判して、社会主義的な福祉政策や労働者保護制度の必要性を訴えてしまうわけで、要するに実践としては相矛盾し合うことをやっているのに、それについて語るとなると論理的に矛盾しないように語るしかなく、そうなると言っていることとやっていることが違うのではないかという疑念が生じてきて、そういうことをはっきりと断言してしまう人が信用できなくなってしまうのだが、現状でもドイツの社民党政権は日本の社民党にはできないことをやろうとしていて、それがロシアによるウクライナへの軍事侵攻に対応して防衛費の大幅な増額を決定したことになるのだが、そんなドイツを日本が見習う必要があるかとなると、それもドイツがやっているから日本も見習わなければならないと断言してしまうとおかしくなるわけで、そういう断言の仕方が一見筋が通っているように感じられるのに、同時にそこがおかしく感じられてしまうところがよくわからないのだろうが、そういった実践の全てを論理的に矛盾のない言説を用いて語ろうとするとおかしくなってしまうのかも知れず、よくわからないところはわからないままでも構わないわけではないが、それが構わないわけではないとしても、うまく説明できないから実際にわからないままとなってしまう場合もあって、わかるようなことを語るとなると、例えばそこに新自由主義的な傾向や兆候を見つけては、そこだけ取り出して批判するしかなく、そんな批判を繰り返している人がそうならざるを得ないのは仕方のないことだが、実践として新自由主義的な傾向や兆候のある方面で活動している人には、そういう批判は通用しないと考えるしかないだろうし、その人が現にそういった方面で活動しているということが、そういうやり方がそれなりの効果や成果をもたらしていると解釈するしかないだろうし、そういう人が実践している内容がうまく言葉では説明できない面もあるとしても、それについて説得力のある説明が求められてしまうとそれがある意味でフィクションになってしまうわけで、だからそういう説明は信用できないとか駄目だというわけではなく、そうならざるを得ない成り行きの中で、言説の論理的な整合性を確保しながら語ろうとすれば、それがフィクションにならざるを得ないということでしかなく、そういうことを語っている人は嘘をついているのでも騙そうとしているのでもなく、それなりに誠実に語ろうとしていて、その誠実さが語っている内容の虚構性をもたらすわけだから、そういう面ではわかりやすいことを語っているわけで、そのわかりやすさが言説の論理的な整合性から生じていると認識しておけばいいのだろうが、わかりやすいからといって、それで言説の対象となっている物事の全てがわかるわけでもなく、それをわかりやすいと感じているのだから、そう感じている人の支持や同調を得られやすいことを語っているのであり、そういうところでは言説を通して共感し合っていると解釈できるだろうし、実際にそれについて誰もがわかっていることを語れば共感を得られやすいのだが、しかも誰もがわかっていることを語ることができれば共感を得られやすいのかというと、それプラスわかっているようでいて気づかないことを語るとさらに好意的な共感を期待できるかも知れないが、それもそういうことが語れる人は語れるが、語れない人には語れないだろうから、実際に論理的な整合性を求めたり、自らに誠実であろうとすると、他人に不快感を与えるような耳の痛いことまで語らなければならないだろうし、好意的に思われることや共感を得られそうなことを語る気にはなれないなら、それだけ誠実に語ろうとしていて、そういう自らの意思を裏切ってまでウケ狙いのようなことはやりたくないなら、それはやろうとしてもできないことになるかも知れず、そうなっている時点で語ることのできる内容が限られてきて、しかも語るだけでなく実践まで絡んでくれば、語ることが実践そのものだといえるようだと、さらにそこに責任感が覆いかぶさってきて、そうした責任感が仇となって、硬直した教条主義的なことしか語れなくなってしまうと、何か正しいことを語っているのにつまらない内容となってしまうのかも知れず、それもそうならないようにしなければならないとは言えず、そうなってしまった人はそういうことしか語れないと認識するしかないわけで、それはそうなってしまう人が悪いわけではなく、そうなってしまった人が語ることとは違う実践の機会に恵まれなかったから、そうならざるを得ないような成り行きに囚われてしまったわけで、そういう意味ではそうなるかならないかは外部的な要因が関係してきて、その人に語ることとは違う実践の場に引きずり出すような機会がやってこないと、いつまでも正しいことを語っているだけの存在となってしまうから、正しいことを語っている人にはその語っている内容が実践の場で試されるような機会を与えることが重要となってくるのだろうが、そういう機会を誰が与えるのかというと、それが政治に関することならわかりきったことになるだろうが、そのわかりきったことが実践の場で試されているわけで、実際に現状でも試されているわけだが、そこで何か矛盾するようなことが行われているなら、言説の論理的な整合性とは違うことが行われていると見るしかないだろうし、それが矛盾しているからこそ批判の対象となってしまうわけだが、しかも批判されながらも行われていることが、実際に世の中に少なからず影響を及ぼしていて、何かそれが不条理感を覚えるようなことだとすれば、何とかして不条理な状況を変えたいと思うわけで、だから不条理をなくして条理が通るようなことが行われる状況をもたらしたいのであり、それが大抵は言説の論理的な整合性にこだわった主張として示されることになるわけだ。
6月5日「信じられないこと」
現状で何か悩ましいことが起こっているわけではなく、逆にありふれたことが起こっていて、そのありふれたことが経済に関連して起こっていることであり、それが政治にも影響を及ぼすから、その中でも否定的なことが起こっていることに関して犯人探しをやってしまうと、それらしい犯人が特定されてしまい、そんな犯人に関連して様々なありふれた事態が起こっていることに気づかされて、そこから辻褄の合う因果関係が構成されてしまうから、そんな因果関係に関する言説を信用したくなってしまうのだが、別に信じても構わないし、本当らしいことが語られているから信用に値するのだろうが、そんな言説を信用したとしても、実際に起こっているのは信じられないことであり、信じられないことが起こるから驚いて、ただ驚いているだけでは何もできないから、実際に起こったことについて辻褄の合うような因果関係を求めて、それを言説に構成して語ろうとするのだが、それが何かが起こった後から、起こったことについて辻褄の合う因果関係を求めて、それについての信用できる言説を構成するという成り行きになる限りで、絶えず起こった出来事に関して後追い的に説明していることになるわけで、それで構わないのかといえば、そうなるしかないわけだから、そういう方面での説明は他にはありえないのかも知れず、そんな説明が信用できるのは当然のことなのだが、信用したとしても、それとは別に信じられないような出来事に遭遇して驚くわけで、それとこれとが同じレベルで起こっていることではなく、それはそれでありこれはこれなのだが、要するに全てを後追い的な説明で納得させることはできず、辻褄の合う因果関係を用いた説明で納得できるとしても、それとは別に驚くべき事態に遭遇してしまうわけだから、それとこれとの間にある埋めようのない落差を常に感じていないと、後追い的な説明だけで構わないような気になってしまい、何でもかんでも後から辻褄の合う因果関係を用いた説明をしておけばいいような勘違いが生じてしまうのだろうが、それが物事の片側だけの理解にしかならなければ、ではそれ以外に何があるのかといっても、そんなことがわかるはずもないが、実際にもわからないのであり、物事の片側だけからしか理解できないのだから、それはそういうことだと認識しておくしかなく、もう片側の面は絶えず謎に包まれていると理解しておくしかなく、それを無理に理解しようとしても後追い的な理解しかならないわけだから、そういう意味で理解が不完全であることは承知しておかなければならないわけだが、それでもなお後追い的で辻褄の合う因果関係を伴った説明を信用できるかというと、信用するにしてもそれだけではないことも両義的に理解しておかなければならず、それが悩ましいところであるにしても、そういうレベルでの理解にとどめておくことが、別に肝要だと思うわけでもないが、そういった説明に終始している人たちを否定的することはできないが、全面的に信用することもできず、あくまでもそういう理解のレベルでは信用しているわけだが、それ以上の全面的な信用や信頼には至らないことは承知しておくしかないだろうから、いくら信用できる面を寄せ集めてきて提示されても、それが信用できない面と共に提示されるようなら、不完全な信用という面では信用できるわけで、信用させたい側がそういう提示の仕方ができるかというと、相手を信用させたいわけから、信用できる面だけこれでもかと寄せ集めてきて提示することしかできず、そういうことをやられると、やはり何か裏があるのではないかと疑いを抱いてしまうわけで、だから信用の不完全さを認めるしかないだろうし、実際に信用が不完全であっても構わないわけだが、逆にあまりにも自分たちの清廉潔白さを強調するようなことをやってしまうと、かえって清廉潔白であるがゆえに、そうではない大勢の人たちから信用されない結果を招くのだが、そんな事態に陥っているのが日本では日本共産党であることも誰もが承知していて、誰もが承知しているから、少数派として安心できる存在となっているわけで、それを悪く言えば人畜無害な存在として一定の存在価値や意義がある一方で、無視の対象ともなっているわけで、では逆に腹黒い人たちを信用できるかというと、腹黒い商売をやっている面では信用できるだろうし、腹黒いことをやらざるを得ない面ではそういう人たちを利用して、そういう人たちと持ちつ持たれつの関係を築きながら商売をやらざるを得ないわけで、社会の中でそういう商売が成り立っている割合が大きいほど、そういう人たちが蔓延って幅を利かせていることになるだろうし、またそういう人たちからの支持や支援を背景として政治や経済も回っていくことになるだろうから、そういった否定的な信用によって日本という国そのものが成り立っていることになるだろうが、それも全てがそうなっているわけではなく、部分的には清廉潔白で肯定できる信用によって成り立っている面もあるだろうから、そういう面を伸ばしていけば、否定的な信用よりは肯定的な信用の方が優っていく可能性もあるわけだが、確実に信用できる面というのが、やましさや負い目を感じさせるような面であり、それが債務者意識であり、利用したい相手に債務を負わせることによって従わせるようなやり方が横行していて、具体的にはローンを組ませて資金を貸してから言うことを聞かせるわけだが、もちろんあからさまにそうするわけではなく、すでにそういう状態に陥っている人たちがやましさや負い目を感じて、自らの意志で進んで言うことを聞くように仕向けられているわけで、しかも特に誰の言うことを聞いている自覚もなく、ただ漠然と世の中の世論や民意などに表れてくるわけだから、そこに辻褄の合うような因果関係を当てはめるわけにもいかないだろうし、多くの人たちが納得できるような説明とはならないわけで、中にはそんなことが原因であるはずがないと思う人も出てくるだろうから、全く信用できないことを述べていると受け取ってもらっても構わないわけだが、それに関連するわけでもないのだが、あるいは根も葉もないことを述べてしまうことになるかも知れないが、現状で物価が上昇しつつあるといっても、日本では鶏卵やフィリピン産のバナナは値上がりしないだろうし、それに関しては別に政府が価格統制をしているわけではなく、鶏卵業者やバナナを輸入している大手商社や販売している大手スーパーなどが絡んで、低価格を維持しているわけだろうが、鶏卵に関しては養鶏から生産された卵のパック詰まで全ての工程を機械化した設備やシステムを独占的に提供するヨーロッパの機械メーカーに恒常的な利益がもたらされているとしても、バナナに関してもフィリピンでバナナを生産する農園が使う肥料や農薬を提供すると共に肥料や農薬を使う時期や量まで指定して販売価格や出荷先まで支配している日本の大手商社に恒常的な利益がもたらされているとしても、養鶏場の低賃金のパートで働いている労働者にとってはそんなことは無関係であるのと同じように、フィリピンで儲からないバナナ農園でバナナを栽培することでしか生きていけない貧しいバナナ農家にとってもそんなことは無関係でしかなく、それの何が無関係なのかというと、日本では安い卵とバナナさえ買えれば飢える心配はないということが当たり前のことように思われているわけでもないが、そのことで別に養鶏場の劣悪な環境下で働いている労働者が直接日本政府に対して反感を覚えるわけでもないだろうが、フィリピンでは貧しいバナナ農家が農薬の被害に遭ってその窮状を訴えるようなことも起こっているはずで、農園の近隣地区でも農薬の飛散によって被害に遭って反対運動なども起こったが、地元の自治体や警察などに抑え込まれて泣き寝入りな面もあるとしても、それらの経緯や事情を知ったからといって、日本で低価格で安定供給されているからスーパーで卵やバナナを買っていることが、消費者として直接やましさや負い目には結びつかないだろうし、そういうことが因果関係としても明らかになっているからといって、卵やバナナを買わないとはならないし、価格が安いから貧乏人にはそれを買うしか選択肢がない場合もあるだろうが、それらを買うことによってやましさや負い目を感じるのもおかしいが、買うように仕向けられているのに、後出し的に低価格であることのカラクリを知識として知ったとしても、だからといって直接にはどうしようもなく、そこから高い付加価値が謳い文句の高価な卵やバナナを買える人も経済状態が許す限りでいるにはいるだろうが、一部の人たちがそうすることによって問題が解決するわけでもないのも明らかなのは、誰もが承知していることなのではないか。
6月4日「危機的な事態」
誰も知らないうちに危機を脱しているような都合のいいことが起これば、それはそれで運がいいのかも知れないが、そう簡単に危機を脱したつもりになれるわけでもなければ、実際に危機のただ中で生きていて、それがウクライナやミャンマーやイエメンなどの戦争している地域で暮らしている人たちと同じ心境になるかというと、危機にも程度の差があり、それらの国の住民からすれば、危機とは言えないような大したことはない危機に直面している人も世の中には大勢いるだろうから、それがどんな危機なのかというと、例えばアメリカでは景気後退の危機に直面していて、現状でもインフレを抑制するために、FRBが政策金利の引き上げとQTの開始を余儀なくされているが、それが数年ごとに循環的にやってくる景気後退の危機であり、景気循環の範囲内で起こっている危機であれば、対処できる程度の危機であり、実際に対処している最中だが、それより大変な危機だとされる戦争の危機には、ウクライナ政府が対処しているし、アメリカをはじめとしてEU諸国もウクライナを支援しつつ対処している最中であり、またここ数年来世界的に流行中のコロナ危機にも世界各国が対処している最中だが、対処できる程度の危機的な事態が世界各地で起こっていて、もちろん対処しようがないところでは破綻しているのだろうが、経済が破綻している程度のことは日常茶飯事だろうから、大して珍しくもなく、現状でもいくつかの国では実質的に経済が破綻しているわけで、そんな国でも人がいくらでも暮らしているのだから、それに比べれば日本の現状などまだマシな方かも知れないが、マシな方だからこそもっとマシな状況にしたいのかも知れないし、それも比較対象が違ってくれば日本の現状が深刻だと言いたい人も出てきて、実際にここ二十数年間ほとんど経済成長がないということが、世界的に例がないほど深刻な状況だと言いたいのかも知れないが、果たしてそれが危機的な状況なのかといえば、それもそう言いたい人にとっては危機的な状況であり、そんな危機的な状況を何とかしなければいけないと思っているだろうし、実際に何とかしようとして政治活動に身を投じているいる人も少なからずいるわけだが、では経済成長している国がどうなのかというと、隣の中国では日本よりはるかに経済成長率が高いが、言論の自由が制限されていて、共産党政府によって不自由な管理社会が形成されているから、世界中から批判されているのだろうが、中国と同じく経済成長率が高いインドでは身分差別を象徴するカースト制が根強く残っていて、またイスラム教とヒンドゥー教の宗教対立も深刻化しているし、さらに産業の発展に伴って環境汚染もひどい状態となっていて、インドと同じように経済成長が著しいブラジルでも産業の発展に伴ってアマゾン地域の環境破壊が急速に進んでいて、世界中の環境保護派から批判されているし、そんなふうに比較対象を恣意的に選べば、日本の方がだいぶマシな状況だと思われてしまうが、日本の状況のひどさを強調したいなら他の先進各国と比較するのが都合が良く、それも欧米諸国や韓国と比べたいのだろうが、例えば日本で所得格差が顕著になっていると言っても、イギリスやアメリカではさらに顕著になっているし、実際にそれらの国では日本より富裕層が相続や税制面で優遇されていると言われていて、日本の駄目な点を挙げると確かにいかに日本の現状が危機的な状況にあるかを実感できるが、それが相対的な程度である限りにおいて、まだ改善の余地があると言えるのかも知れず、それに関しては改善に向けた具体的な政策を提示している政治勢力を支持すればいいとしても、そこに何をどうすれば日本の状況を改善できるかが示されているはずだが、もちろんそこにはわざと目を向けない人たちも相変わらずいて、そういう人たちは従来からある偏見に満ちた政治的な認識を頑なに信じているふりを装いながらも、現状を維持しようとする政治勢力を支持することしかできないかも知れないが、それも現状の維持ではなく、現状を改革しているつもりなのだから、やっていることと認識の間にずれが生じているのだろうが、そもそも政治活動によって現状で直面している危機を乗り越えようとしても、乗り越えるのではなく危機に対処することしかできず、実際に日本政府が対処していて、その対処の仕方を批判する人もいくらでもいると同時に、その対処の仕方を批判している人たちをさらに批判することしかできないと批判する人もいくらでもいて、そういう人は批判に対処しているつもりなのだろうが、日本政府を批判することが危機を招いているとも思っていないだろうし、それよりは現状を維持するには日本政府に対する批判を批判しなければならず、もちろん現状を維持しようとして批判に対する批判を行なっている自覚もないだろうが、結果的にはそうやって現状を維持しようとするのだとしても、現状を維持しようとしている意識も自覚もなくても、現状に対する批判に反発してしまうことが、現状の維持につながるのかというと、そこで現状を批判するかその批判をさらに批判するかの二者択一を迫られているわけでもなく、そういうせめぎ合いを無視しても構わず、実際に多くの人々が無視して無関心を装っていて、そんなこととは無関係に生きているわけだが、そういう無関係を装う無関心な人たちには危機感が欠如しているのかというと、その人なりに危機意識を抱いているとしても、それも程度の差がありそうで、現状に対する危機感を大っぴらに明らかにしている人とは違って、それには同調できない程度のレベルで危機意識を持っているのかも知れないが、危機感を表明することよりも、日本政府を無策だとか無能だとか批判することよりも、他に優先していることがあれば、そちらの方面で活動していると言えるだろうし、そうなっている人が多ければ多いほど現状で危機など訪れてはいないと言えるかというと、それも危機に直面している人もいる一方で、直面していない人もいる程度のことであり、実際に危機に直面している人が多ければ多いほど、危機感を大っぴらに表明している人への支持や賛同も増えるはずだが、そうなるには党派性が邪魔をして、特定の党派に対してアレルギー反応を起こすような体質の人が多ければ多いほど、その党派に属する人がいくら危機感を大っぴらに表明したとしても、その人への支持や賛同も一定数以上には増えないのかも知れないし、またそれとは別の党派への心理的な依存体質が強い人が多ければ多いほど、その党派に属する有力な誰かが無能だ馬鹿だと批判されているようだと、批判している人に対して反感や憎悪の感情を抱く人の数も多くなり、その度合いも強くなってくるわけで、それを逆プラシーボ効果とは言わないだろうが、そうした反感や憎悪を糧にして活動する人が多ければ多いほど、世の中が危機的な事態に陥るかというと、それだけではどうなるわけでもないだろうが、何かのきっかけからおかしくなっていく可能性もあるだろうし、すでに感情的にこじれてしまった人が世の中に大勢いると、そこからいわれのない差別や偏見も生じて、そんな人たちの間で通常の心理状態では信じられないようなデマが広がって、そんなデマを基にして行動や言動が形成されると、それが部外者の一般人にはおかしな行動や言動に思われるわけだが、デマを信じている人たちの活動に巻き込まれてしまうと、それが真実であるかのように感じられて、そんな人たちと共に活動している人が多ければ多いほど、世の中が危機的な状態となってしまうはずだが、そんな状態こそがチャンスだと感じられるなら、そんな人たちを利用して何かをやろうとするわけで、それが革命となるのだろうが、成功すれば革命であり失敗すればただの暴動に過ぎないだろうが、革命=暴動となってしまう場合もあるだろうし、実際に危機感を煽り立てている人はそれと自覚することなく革命=暴動を起こしたいのであり、そんな非常事態を利用して世の中の主導権を握りたいのかも知れないが、それも結果的にそうなった段階で事後的にそう思われるわけで、事前にはそんなことなどやるつもりもなかったのに、その場の成り行きに導かれるままにそうなってしまう場合もあるだろうから、そんなことが起こった後からもっともらしく全権を握った独裁者のような人物が、そうなることを狙って革命=暴動を仕掛けたと解釈されたところで、それが事前には誰も予想もつかない結果を伴いながら、そこで危機的な事態が起こるわけだが、そんな事態を引き起こした人物やその人物が率いている組織や集団が有能なのかというと、結果的に革命=暴動に成功すれば、成功したことに関しては有能なのだろうが、その統治がうまくいくかというとそうでもないだろうし、混乱の収拾がつかないのをチャンスと捉えて、別の誰かが成功を横取りしようとして、さらなる革命=暴動を仕掛けてくるかも知れないし、そうやって権力闘争や内部抗争の末に全権を掌握した独裁者的な人物が有能なのかといえば、それもそういう面では確かに有能だとしても、そういう人物が全権を掌握すること自体が危機的な事態でもあるわけで、そういう人物だと思われているのが、スターリンやヒトラーや、現状ではプーチンであるかも知れないが、それと似たような人物など世界中にいくらでもいるのかも知れない。
6月3日「国民の要望」
政治においてできることが限られているのは、ある意味ではわかりきったことかも知れないが、わかりきった中でも何かしら判断を迫られていて、それがどんな判断なのかと言えば、表向きには国民の要望に応えることになるはずだが、本当にそうなのかというと実際にやっていることはそうでもなく、それを悪く言えば国民の要望を捏造することになってしまい、良く言うなら国民に政策を示して支持を得ることになるはずだが、政策を実行できるかというと、何をもって実行していることになるかについて、曖昧な面があって、国民の方でもよくわかっていない可能性もあるだろうし、それに関して具体的な事例として例えば防衛費をGDP比2%に引き上げるのは国民の要望ではなく、アメリカ政府からの要望になるが、タカ派的な政治家の要望でもあり、日本では憲法九条を改正して自衛隊を日本軍にしたい政治勢力からの要望なのだろうが、それを国民からの要望だと言えるかとなると、タカ派的な政治家も国民の一人には違いなく、もちろんその支持者も国民なのだから、国民の要望に応えることになるだろうが、その一方で防衛力を増強するための予算を別の方面に使って欲しいと思っている国民もいるだろうし、またそんな国民が支持している政治家や政治勢力も別にいるなら、その種の政治家や政治勢力は防衛費の増額には反対するだろうが、選挙でそれらの政治勢力が勝てなければ、国民の中の多数派が防衛費をGDP比2%に引き上げることを了承したことになるが、それだけが選挙の争点ではなく、しかも争点自体に無関心な国民もいくらでもいて、それとは別の判断で投票したりしなかったりするわけで、そうなると表向きの国民の要望に応えるのが政治の使命だとかいう建前が有名無実となってしまうわけだが、もっと単純に現状で物価上昇に直面しているから、消費税率やガソリン税率などを引き下げて欲しいという国民の要望に応えられるかというと、税率を引き下げるわけにはいかないが、それとは別の方面から給付金やら補助金やらを支給するなどの対策をとるようなことになると、何かそれがごまかしやまやかしのようなことに感じられて、国民から不信感を買う事態になるだろうが、それでも内閣支持率や政権政党の支持率が高ければ国民から支持されていることになり、実際に選挙でも勝利するとなると、それで構わないようなことになってしまうわけで、そういうことの繰り返しや積み重ねによってそれが通常の感覚となると共に、多くの国民が政治には無関心になっていってしまうのだろうが、そんな情勢の中で何かが空回りしていて、それを象徴しているのが国内の政治情勢や経済情勢になるのなら、それとは違う方面で何かをやらなければ停滞した情勢を変えられないと思っても、それが思い違いだとすれば、情勢が停滞したままでも構わないのかというと、多くの国民にとってはそうかも知れないが、もちろんあからさまにそうは思っていないのだろうが、そうは思っていないとしてもそれも思い違いなのであり、そんな思い違いをしている人たちの中から停滞した情勢を変えようとする人たちも出てくるわけで、それらの人たちが直接には防衛費の増額に反対したり消費税やガソリン税の引き下げなどを要求しているのだろうが、そうした主張がサイレントマジョリティーを構成する多数派には響かずに、選挙でもそれらの人たちが支持したり応援している勢力が多数派を占めるに至らなければ、現状で主導権を握っている勢力がそのまま権力の座に居座ることになるのだろうが、その権力の座というのも実質的には大したことはなく、日本では行政の官僚機構の一部を構成する存在でしかないだろうが、そうした官僚機構に組み込まれている人たちにとってはそれが利益の源泉なのだから、既得権益として守らなければならない存在であり、他の何よりも最優先に取り組まなければならないのは、国民の要望に応えることと既得権益を守ることを合致させなければならず、既得権益を守るには税率を下げるよりは給付金や補助金を出す方がいいわけで、給付金や補助金であればそのための財源が必要となるから政府の予算が増えるだろうが、税率を下げてしまったら財源や予算そのものが減ってしまうからまずいわけだが、それと同じように防衛費を増やせば予算が増えて癒着している軍需産業も潤うだろうが、それを例えば別の教育の無償化などに予算を使うとなると、行政と癒着している産業が直接潤うわけでもなく、逆にその分で他の分野を節約しなければならなくなると予算も削らなければならなくなるなら、既得権益から得られる利益も減ってまずいのかも知れないが、何かそういう面で工夫を凝らす必要があるかといっても、行政の既得権益を守りつつ行政と癒着している企業の利益も守りつつも、なおかつ国民の利益になるようなことができるかというと、防衛費を増やして防衛力を強化することが他国からの軍事侵攻を抑止することになって、結果的に安全安心を得られて国民の利益になるといった論理を、国民が信じられるかということになるだろうが、それも信じられるかどうかが直接問われているわけではなく、選挙で現状の政権や政権政党が勝利すれば、そういった政策が国民から信任を得られたことになるだろうが、もちろんそれだけが選挙の争点でもないし、投票するに際しての判断基準となるわけでもなく、結果からそんなことが言えてしまうだけで、そんなことには無関心な人たちにはどうでもいいことになってしまうのだろうが、それもそういうことの繰り返しや積み重ねの中で、直接の賛否を問うようなことではなしに、なし崩し的にそういう政策が推し進められて行った先に、気が熟したところで、憲法改正などの国民投票で直接の賛否を問う成り行きへと持って行きたいのかも知れないが、現状ではまだそこへ至る途中の段階であり、その途中で既成事実を積み重ねている段階で何ができるかというと、防衛費を増やせばすぐに軍国主義になるだとかの短絡的な危機感の煽り方では、無関心な人たちには通用しないのはわかりきったことだろうが、それと似たような煽り方としては消費税を下げれば景気が回復するとかの単純な論理も今のところは通用していないだろうし、すでに政策を講じることによって直接の効果や成果をもたらすこと自体が信じられていない現状の中で、それ以外の野党はだらしないとか政権担当能力がないとかの根拠の定かでない消去法などによって、政権や政権政党が国民から消極的な支持を得られていることになっているわけだから、そういう世の中の空気を作っている勢力と共に政治が動いていると思っておけばいいわけで、そうなっている時点で何を言っても無駄なのだろうし、無駄なのを承知で何か言わなければならないが、逆に無駄ではないと思わないと世の中を変えることはできず、実際に世の中が変われば無駄ではなかったことが明らかになるわけで、そういう意味では国民の要望というのを国民自身がわかっていない可能性があり、それは実際に世の中が変わってから気づくようなことかも知れず、その世の中が変わるきっかけとなるのが、憲法改正の国民投票だと思っている人たちも、現政権や政権与党を支持している人たちの中にはいくらでもいるかも知れず、そうであっても構わないにしても、今までの歴史的な経緯から明らかになっていることは、誰もが思ってもみなかった出来事によって世の中が変わってきたということであり、現状でも変わりつつあるのに、多くの人たちがそれに気づいていない可能性があり、なぜ気づかないのかといえば、無関心だから気づかないのはわかりきったことだが、多くの人たちが無視して無関心を装っている出来事によって世の中が変わりつつあると考えればいいとしても、無視していることにも無関心を装っていることにも気づかないし、それと自覚することなく無視して無関心を装っている出来事が何かというと、それも世の中が変わってからわかることかも知れないが、では現状では誰にもわからないのかといえば、それが現に世の中を変えようとして政治活動に身を投じている人たちが気づいていることであり、しかもそれと自覚することなく気づいていることでもあり、自覚できないのだから気づいていることにはならないのではないかと思うかも知れないが、それが現にそれらの人たちが行なっている政治活動自体であれば、それを自覚することができるかというと、やはりそれも世の中が変わった結果からわかることであり、自分たちが世の中を変えられることを信じて政治活動に身を捧げているのだから、わかっているはずだと思いたいが、それも実際にそうなってみないことには確信を持てないわけで、まだそれが途中の段階であれば半信半疑でいるしかないわけだ。
6月2日「気づかない一歩」
ものの見方や考え方を変えれば、今までわからなかったことがわかるようになるというのは、よくありがちな願望としてはそうかも知れないが、そう簡単に見方や考え方を変えられるわけでもなく、わからないことではなく、すでにわかっていることの延長上で物事を見ようとして、またわかっていることがわからないことのヒントになる場合もあるから、わかっていることから類推して考えようとするわけだが、それが偏見に基づいたものの見方や考え方であるとは限らないが、偏見とは言えないまでも、つい無自覚に多数意見に同調してしまったり、少数意見を無視してしまえば、すでにものの見方や考え方がそういう傾向になっていることに気づいていないわけだが、そうなっているからといって特に問題などない場合もあるだろうから、そういうものの見方や考え方の全てが駄目というわけでもないのだろうが、その場の情勢に見方や考え方を合わせることができるかというと、長い物には巻かれろとなることが、否応なくそうなってしまう成り行きであり、そうなることには逆らえず、逆らえるほどの力がなければ、黙って従うしかなく、そうなっている限りで権力を行使されていることになるのだろうが、そこで安易に逆らう理由を探してしまうと、犠牲者となってしまうわけで、確かにその場の情勢に逆らったものの見方や考え方には魅力があって、魅力があるのだから、そうなれとそそのかされているような気がするのだが、そうなることもその場の成り行きに従っていることになり、その場の情勢に従うことのうちにはどちらもあるということであり、その場の情勢が権力の行使に従うか逆らうかのどちらの態度も求めているなら、従っても逆らってもその場の情勢に合わせていることになるから、そうなっている時点でその場の情勢に取り込まれていることになるのだが、果たしてそうならないように機転を利かせて立ち回れるかというと、機転を利かせるも何も、そうなればそこから逃げるしかないような気がするが、機転を利かせるということが、逃げずにその場にとどまって権力に従うか逆らうかのどちらにも与しない態度を求めていることになると、そんなことなどできるわけがないと思うだろうが、現状がどうなのかということが、権力に従いながらも逆らうような両義的で曖昧な態度が求められているようにも思えないが、またどちらにも与せずに傍観者のような態度でいられるわけでもなく、いずれにしても態度をはっきりさせられないのが焦れったいところでもあると共に、そんなどっちつかずなモラトリアム的な態度も、いつまでもそんな態度に留まっていられるわけでもないことも明らかなような気もするだろうが、ぐずぐずしていると時流に乗り遅れて置いてきぼりを食ってしまうような気がするなら、さっさと態度を明らかにして、どちらか一方へと向かって一歩を踏み出す勇気が必要なのかも知れないが、すでにそうなっていることに気づけないのかも知れず、現状でも時流に流されている最中であり、意識して決断しなくても決断など促されなくても、何らかの方向へと誘導されていて、事後的にそうなってしまっていることに気づいた時には、もうすでに後戻りができないほど事態が進んでいて、態度を明らかしたり自ら主体的に決断する機会などなかったことが明らかになってくるなら、否応なくそういう事態に巻き込まれていたことになるのだろうが、それがどんな事態なのかというと、少なくとも現状で起こっていることになり、その起こっていることに対して何らかの形で関与していることになるのだろうが、その関与の仕方が、特に主体的かつ積極的な仕方ではないにしても、成り行き的にそうなっていることについては、そうだと認めざるを得ない面もあるにしても、そういう関与が今後ともそのまま同じように続いていくとも限らず、ある日突然魔がして、何となくそこから離れていってしまうこともあるだろうし、その逆に今までつかず離れず一定の距離を保っていたのが、何かのきっかけから突然急接近するようなことがあるかも知れないが、それも実際にそうなってみないことにはわからないし、実際にそうなってから気づくようなことであっても、気づかないうちにすでにこちらから離れていったり向こうから近づいてきたりしていて、結果的にはすれ違いになっても、自分の力だけではどうにもならないところから何らかの力が及ぼされている可能性もあるから、その成り行きの全てを知ることはできないし、その全てを語ることもできないのも焦れったいところだが、そうなる機会を捉えるのは偶然の巡り合わせでしかないのかも知れないが、機会を捉えたところで何かそこで行動が伴うかどうかも、現時点ではわかりようのないことかも知れず、できればそこで機転を利かせて自らが有利な立場を占有したいのだろうが、また常にそうなる機会を狙って動いていることも確かかも知れないが、そういう願望や期待が裏切られて当てが外れてしまうと、何か取り残されたような気になって、心に隙が生まれると、そこをつけ込まれて向こうの有利な条件で事を進められて、後から気がついてみれば、向こうの言い分が通って、いいようにあしらわれてしまっていたことになるのかも知れず、そういう意味では何もやらないうちから勝手に都合のいい願望や期待を抱いている時点で、すでにそんな願望や期待を抱かせられている対象へと意識が引きずり込まれているわけで、それが罠にかかった状態なのかも知れないが、そんな罠の中で主体的に決断を促されているように思われるなら、相手の術中にはまっていることになるのだろうが、何かそこで二つの選択肢が用意されて、どちらかを選ぶように促されている時点で、どちらを選んだとしても罠の中で選ばされている限りで、相手の都合のいいような結果が待ち受けているわけで、それが権力に従うか逆らうかの選択肢であれば、もうその時点でどちらを選んだとしても負けが確定していて、何に負けているのか定かではないが、他にも知らないことがいくらでもある限りで、知らないことを利用していくらでもやりようがあり、自身が負けていることすら知らないことが、それを利用して何かを仕掛けられているのであり、その仕掛けられた何かによって、こちらでもあちらでも都合のいい願望や期待を抱かされて、願望や期待に従いながら行動していくと、まるで予定調和のように二者択一の機会が設定されて、どちらか一方を主体的に選んだつもりが選ばされていて、選んだ先に待ち受けているのが自らの敗北であり、さらにそんな自らの敗北を受け入れるようにも促されてしまうのだろうが、そこまでが予定調和のような成り行きだとすれば、そうなる手前で何かやれることがあるとすれば、うまく立ち回ろうとするのではなく、相手の虚をついてこちらから攻撃する機会を探るようなことでもなく、そんな成り行きに対して疑念を抱くことであり、疑念を抱けなければ、すでにあちらの都合のいいように誘導されている最中なのかも知れないが、疑念を抱いている限りでそこに踏みとどまっていることになるかも知れず、踏みとどまっているからといって、そんな成り行きから逃れていることにはならないだろうが、少なくとも疑念がブレーキとなって、そこで抵抗していることになり、何に抵抗しているのかといえば、例えば権力に従うか逆らうかの選択を促されていることに抵抗しているなら、まだどちらも選んでいないことになるかも知れないが、果たしてそのまま抵抗していられるのかというと、現状では抵抗している最中なのかも知れなし、しかも抵抗していることにもそんな選択を迫られていることにも気づいていなければ、疑念を抱いていることにも気づいていないのかも知れないが、現状ではそれで構わないのであり、それで構わないと誰が断言できるわけでもなくても、それでも構わないような現状が実際にもたらされていて、それとは違う現状が外国ではもたらされているとしても、日本では違うと認識しておいても構わないのであり、例えばロシアでナワリヌイ氏が陥った罠には、少なくとも日本で暮らしている人はその対象から外れていて、中国でもウイグル族や香港の民主派が陥った罠についても、その対象からは外れているかも知れず、外れているのにわざわざ罠にはまりにいくような奇特な人もそれほど多くはないにしても、日本ではそれらとは別の罠が張り巡らされていると思っても、やはりそれが何なのかを教えてくれるお人好しもそうはいないのかも知れないが、それが罠だと気づかないなら、疑念を抱く必要もないのかも知れないし、実際に疑念も抱かずに世論調査結果が示すような多数意見に同調している人もいくらでもいるのではないか。
6月1日「民主主義の現状」
明らかに強権的な政府によって民主派が弾圧されている他国の情勢ならともかく、自国の現状に関して、日本では多くの人が避けることとして、また政治レベルでは避けては通れないこととして、民主主義についてどう考えるかというと、それ以前に民主主義とは何かという問いに誰もまともに答えられないかも知れないが、現状でもたらされている状態を民主主義が実現された状態なのかというと、そうは思えないとすれば、では民主主義ではないとすると何なのかというと、政治レベルで主張されるただの理想主義が阻害された状態であり、そう見なすこと自体が民主主義を守る側にあるわけではなく、それ以前に民主主義には懐疑的な立場となってしまい、現状で理想とする民主的な政治状況が実現できるとは思っていないし、では何なのかと問われても、政治情勢が民主主義の実現を目指すような成り行きにはなっていないと認識しているのだが、現状ではそうであっても、いずれは民主主義が実現すると思っているわけでもないし、逆に永遠に実現しないのではないかとも思われてしまうが、だからと言って民主主義に対して否定的な意見を持っているわけではなく、むしろ世界的な政治目標としては民主主義が実現するように各国の政府に働きかけるべきであり、民主的な政治体制の実現が切実に求められているにも関わらず、その担い手が日本ではいないというと嘘になってしまうが、また誰も民主主義が実現することなど信じていないと言ってしまっても嘘になるが、民主主義の実現よりも優先すべきことが他にあり、それが職業的な使命であると言うと、そんなことはないと反論する人もいくらでも出てきそうだが、とりあえず制度的には誰もが選挙に立候補できて、誰もが自分の意志で投票できれば、民主主義が実現していることになるだろうが、立候補するには供託金の壁があり、投票するには地域ごとで一票の格差に違いがあることが、民主主義の理想の実現を阻んでいる要因なら、それは技術的な問題となり、制度改正をすればいいことになるだろうが、供託金をなくして誰もが自由に立候補できるようにして、一票の格差も格差が一定の水準を超えたところで、区域や定数の調整をできるような制度にすればいいことになるが、そうやって全てを技術的な問題に還元できればいいが、実際に日本に住んでいればそれでだけでは済まないことを誰もが知っていて、もちろん知っていてもとぼけて見せるのが空気を読んでいるふりをすることでもあり、空気を読まずに論理的に考えることができるわけではなく、それ以前に欧米流の民主主義につきものの欺瞞や偽善も知っているふりをしたいから、何かそういうところで引っかかるものを感じ取っていて、そういうところを強調したり誇張することによって、世界的な民主化の進行を阻んで、また左翼という概念を活用して民主主義を貶めたい輩も大勢いるのだが、それが偽りの自由主義と呼んで構わないのかというと、さらにはアメリカの自由主義陣営から相手にされているのかというと、それに対しても疑念を覚えるわけで、アメリカの自由主義でさえも地域的なナショナリズムの一変種であり、それに対して民主主義の全てを肯定的な価値として積極的に定義できるわけではないにしても、それを民主主義と呼ぶ以外に何か納得できるような呼び方があるわけでもなく、それもともすれば中身のない空疎な理想主義に陥ってしまうのだが、どうすれば民主主義に中身が伴ってくるかといっても、実際に民主派勢力が国の政治的な実権を握ってみないことにはわからないことだが、果たして日本で民主派勢力と呼べるような勢力が政権を目指す上で有力な勢力を形成しているのかというと、そこでも疑問を感じてしまうが、少なくとも形式的には保守とリベラルの2大勢力が数年ごとに交互に政権交代するような制度になれば、形の上では欧米流の民主体制が実現するのだろうが、そうさせないようなバイアスがメディア上でも世俗的な集団意識の中でも働いていて、それが日本の民主化を阻んでいる空気となっていて、それは日本だけでなく、欧米でも保守派による独裁体制が構築されれば、中国やロシアやトルコやイランなどのような政治体制となるだろうが、それらの国に共通する要素があるとすれば、政教一致の原則であり、その原型がヨーロッパの中世にあり、具体的にはキリスト教会による統治となるが、それは現代でもロシアではプーチンがロシア正教会を政治利用しているし、トルコでも表向きは政教分離の原則を守っているが、独裁者のエルドアンがイスラム教を重んじているし、イランでも宗教指導者が大統領の上に位置しているし、中国でも表向きには従来の宗教を遠ざけているが、共産党自体が宗教化していて、その一端が毛沢東思想に表れていて、アメリカでもキリスト教右派をトランプ政権やレーガン政権が利用していたし、日本でも自民党が神道を利用しているし、また公明党の母体は仏教系の創価学会であり、絶えず民主主義を脅かす存在として宗教が絡んでくるわけだが、それが宗教思想そのものではなく、宗教と結びついた慣習による社会の支配であり、現状の支配体制を維持するための手法でもあるわけで、慣習とは何なのかといってもすぐにはピンとこないかも知れないが、身近な例としては日本では全国津々浦々で町内会が組織されていて、町内会に会費を納めないとゴミの収集などに関して面倒なことになり、ゴミの収集を拒否されるとどうにもならなくなるわけで、表向きには地方自治体がゴミの収集を請け負っているはずなのに、町内会と対立してしまうとゴミの集積場にゴミを出すの拒否されてしまうわけで、そうなるとその土地に居られなくなり、それでもその土地から出ていけないなら、早朝にこっそり他所のゴミ集積場に捨てに行くか、ゴミが溜まって自宅がゴミ屋敷となるかの二者択一となるわけではないが、そういうところで圧力を感じながらも隣近所の目を気にして悶々とした日々を過ごすことになるだろうが、早朝に人知れずどこからともなく見知らぬ老婆が歩いてきてゴミ置き場にゴミ袋を置いていく光景に出くわすと、その人の近所では村八分になっているわけではないにしても、何かいたたまれない感情を抱いてしまうが、そういった町内会が保守派の根城になっていれば、その地域に慣習による支配のネットワークが張り巡らされて、町内会が主催する祭りなどのイベントを通してじわじわと支配力が浸透していくことになるだろうし、祭りには地域の神社や寺なども絡んでくるし、そこでも宗教の思想ではなく、慣習を土台とする宗教が地域を支配することになり、それと共に選挙においても地域的な根回しを通じて組織票が形成されて、保守派に有利な情勢をもたらすのだろうが、果たしてリベラル勢力が町内会的な保守の牙城を突き崩すことができるかというと、それも昔ながらの労働組合がリベラル勢力にとっての町内会になるなら、果たして労働組合がリベラル勢力かというと、中にはそうではない労働組合もあるだろうし、労働組合の中でも慣習による支配が蔓延していれば、リベラルという概念も形骸化していて、リベラルという名の保守になってしまうわけだが、結局はどうなるにしても組織が硬直化して柔軟性がなくなると保守化するわけで、それが組織の官僚化とも言えるが、官僚化はどんな組織にも起こり得ることであり、企業も大企業になるに従って官僚化が促進されて融通が利かなくなると共に衰退するのだろうが、行政は衰退しても倒産することはないし、絶えず官僚化が促進されるに従って変化を頑なに拒否する保守化も進行していくわけだから、それにつられて行政と癒着する政治も保守化するのも当然であり、そんな保守化と官僚化が何をもたらすかといえば、自分たちが握っている権力や権益を強化する方向にしか進まないわけだが、それが悪いことかというと、良し悪しの判断など無意味であり、それは人間社会の自然な傾向だと解釈するしかなく、しかもそういう方向へと一方的に進んでいくと、必ず行き詰まってくるわけで、それが放っておけば必ず行き詰まってくるから何とかしなければならなくなり、何とかしようとして組織的な改革を行おうとするのだろうが、そんな改革も大抵は抵抗勢力によって骨抜きにされてうやむやになってしまうから、さらに行き詰まりが顕著になってきて、そんな行き詰まりが顕著になっている状態が、ある意味ではアフガニスタンの状態なのかも知れないし、またロシアの状態でもあるかも知れないが、世界の至るところで行政の行き詰まりが顕著になっているから、それが民主主義の危機でもあるかのように思われていると同時に、改革の機会が訪れているとも思われるのではないか。
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