彼の声150

2022年

5月31日「信仰の誤り」

 現状で信じていることは、その場の状況や情勢によって信じられることも変わってくるのは確かだが、状況や情勢が絶えず揺れ動いているから半信半疑なのは言うまでもなく、その際に自分に都合が良くなることを期待しながらも、そうなることを信じて行動するのだが、行動した結果として期待が裏切られたり期待外れに終わったとしても、自己責任の自業自得でそうなったと思うなら、あきらめきれなくてもあきらめるしかないとしても、あきらめたところでそうなることを信じていることには変わりなく、疑いながらも自分を信じようとしてしまうわけで、もちろん信じる者が救われるわけでもないのは、漠然とそう思っていて、別に救われなくても、自分を信じないことには行動に結びつかないような気がするから、たとえ信じられなくても期待が裏切られたり期待外れに終わった場合も想定しながら行動していて、そう思っている時点で自己への信仰が揺らいでいるのだろうが、実際に信仰が揺らぐような事態に陥っているのに、それでも信じないことには何も始まらず、間違っているのではないかと思いながらも、自分を信じろと自分に言い聞かせながら行動しているわけで、だから間違うように仕向けられてしまうのかも知れず、実際に度々間違って痛い目に遭っているのに、それが間違うような成り行きなのだとしたら、間違ってしまっても構わないのかも知れず、間違ってしまって後悔しても、それも後悔するように仕向けられているのかも知れないが、ある意味では期待通りに間違えて、期待通りに後悔しても構わないのかも知れず、そうなる成り行きなのだから、そうなってから考えてみるしかないのかも知れないし、すでにその時点で取り返しのつかないことになっているとしても、やはりそこで後悔するしかないのかも知れず、そんなふうにして自分を信じることの誤りに気づきながらも、相変わらず自分を信じているのであり、自分自身に裏切られても自分を信じているのだから、自分を信じていること自体が誤っていると思うしかないが、それでも自分を信じているわけだから、たぶん自分への信仰が正しいとも思っておらず、信じていながらも半信半疑なのはおかしいのだろうが、矛盾しているのを承知で自分を信じているわけで、信じていることに疑念を抱きながらも信じていることがどういうことなのかうまく説明できないわけで、ただ信じているとしか言いようのない心境になりながらも、一方ではその信仰が誤りなのではないかと疑っていて、しかも実際にうまくいかなくなってしまい、自分を信じて行動した結果が間違っていたことを認めながらも、それでも自分を信じているわけだから始末に負えないわけだが、そんな自分を正当化するわけにもいかないし、間違っているのが明らかになっているのだから、自分のやっていることも正当化できないわけだが、すでにやってしまっていることが取り返しのつかない過ちであることも承知するしかなく、そんなことは百も承知でやっているのではないにしても、それも始末に負えないことだが、そうなってしまう成り行きというのが、やはり自分では制御できず、自分で自分をコントロールしている面も少しはあるはずだが、制御できない面というのが、自分で自分を裏切るように行動してしまう面なのかも知れず、そういう面は制御しようとしても否応なくそうなってしまうわけで、しかも結果的にはそれで構わないようなことになってしまうと、何か拍子抜けすると共に唖然としてしまうわけで、事前にそうなることを想定できれば、少しは安心できるわけだが、想定外なのだから安心できるわけもなく、逆に何か恐れていたことが起こったなら、それも少しは深刻な気分になるだろうが、それが取り返しのつかない過ちだと思っても、結果オーライであれば取り返しがついたことになるはずだが、恐れていたことをわざと外すようなことが起こってしまうと、どう反応すればいいのかわからなくなり、しかもそれが期待も外すようなことでもあり、期待を外れて期待が裏切られているのに、少なくともその時点では想定外なのかも知れないが、それにしてはうまくいっていないのにそんな結果を肯定するしかないようなことになってしまうと、それが納得できないにしても、そうなるしかないようなことを認めざるを得ないし、それがわざとではないにしても、自らが明らかにしくじっているのにそれで構わないような結果がもたらされて不条理感を覚えるのだから、確かにそれ自体が想定外なのだが、結果的にもそうなるべくしてなったようにも思われてしまう面もあるとすれば、やはりそれで構わないところが納得がいかないのだが、自分が納得しようがしまいが、それもどうでもいいことになってしまい、そんな自分を置き去りにするようにして事態が進展して行ってしまうと、もはやついて行けなくなってしまっているはずだが、そうなってもなお構わないわけで、かえってそこで置き去りにされてしまった方が都合が良かったりするのかも知れず、その都合の良さというのが、事前に思い描いていた都合の良さではなく、結果的に実感する都合の良さであり、もたらされた結果を追認するしかないようになっているわけで、自分としては確かに都合が良くても、そんな都合がその場の状況の中で考慮されることもないし、自分の都合などは無視して事態が進行して行って、進行して行った先で何が起こっているのかというと、大したことはないと思わせるようなことが起こっていて、それが自分としては大騒ぎするようなことでも深刻に受け止めるようなことでもなく、自分以外の他の誰かにとってそれが何でもないことであるはずもないにしても、自分にとっては何でもなくても構わず、実際にその場に置き去りにされているのに、それが何でもないことなのだから、何でもないような状況の中に置き去りにされているのだろうが、そんな状況自体が自分を必要としていないようにも思われて、そこで居心地の悪さを実感しているのだろうが、別にそこで居心地の良さを感じたいわけでもなく、そんなところで安住したいとも思わないし、さっさとその場を立ち去りたいわけだが、立ち去ったところで当てなどないし、そこからどこへ行くかもはっきりしないまま、その場でどうしていいのかわからず焦ってくるとしても、誰が何を教えてくれるわけでもなく、何か指図したり命令を発するわけでもなければ、ただその場に立ち尽くすばかりとなれば、手持ち無沙汰となるしかないだろうが、それで構わないのだから、それが始末に負えないわけでもないだろうが、それでも何かそこから行動を促されているように感じられるから、何かしら自然と動き回っているふりでもしたいのかも知れないが、実際には何もやっていない現状があるわけでもないが、何か拍子抜けするような結果を前にして呆然と立ち尽くしているわけでもなく、自分の勘を頼りにしながら活動している実態があるのだろうが、それが何かふざけた振る舞いのようにも思われるわけだから、自分で自分の振る舞いをふざけていると感じてしまうところが想定外なのかも知れないが、他にもいくらでも想定外の事態に直面していて、そればかりに関わっているわけでもなく、それよりは多方面にわたって思考を巡らせて、絶えず現状を正確に把握しようとしているのだろうが、もちろん把握しきれていないから、何度も過ちや誤りを繰り返して、その度に当てが外れて、自分の勘を信じられなくなってしまうのだが、勘だけで動いているわけでもなく、少なくとも論理的に考えながら判断しようとしていて、それが正しい判断であるような気がするからそんな判断にまかせて行動すると、やはり当てが外れて窮地に陥ってしまったように思われるのだが、そこからわけのわからない紆余曲折を経た挙句に、窮地でもなくどうというわけでもないことになってしまうと、さらにややこしい事態に陥っているのだろうが、ややこしいからといって、窮地でもピンチでもないわけだから、そんな状況をどう捉えたらいいのかわからないのかも知れず、ただ戸惑うばかりで、自らの想定の上を行くような事態に遭遇しているにも関わらず、それが何でもないことのように思われるところが拍子抜けであり、しかも状況から相手にされていないような成り行きになっているから、それが罠だとしても自らがその罠の標的になっているわけではなく、実際に他の誰かを陥れるために罠が張られていて、そこで相手にされていない自らが罠をすり抜けてしまうこと自体が、悲劇の主人公にも喜劇の登場人物にもなれないことを思い知らされることになるのではないか。


5月30日「機械とシステム」

 人をある一定の方向へと動かすという面で、機械とシステムは同義な部分もあるが、システムの方がより広汎に作用して、その中で機械仕掛けな部分も含まれて、機械を包摂したシステムとして社会の中で機能していると言えるだろうが、人が機械を操っているのに最終的には人がシステムに操られながら動作させられてしまい、もちろん意識の中ではシステムを利用している気でいるのだが、機械を操作してシステムを利用しながらやりたいことをやっているつもりでいられるところが、システムの術中にはまっていると言えるのだが、そうしないと活動できないからそうせざるを得ないとは思わないだろうが、そう思わせないように動作するのがシステムの巧妙な仕掛けだとも思えないだろうが、実際に機械にもシステムにも巧妙な仕掛けが施されていて、そうした仕掛けを施しているのが機械やシステムの設計者だとしても、そういう機械やシステムを作るように依頼した者もいるはずで、そんな設計者や依頼者も機械やシステムを利用しながら機械やシステムを設計したりそれを作るように依頼しているわけで、そうなっている時点で機械やシステムに依存しながら活動しているわけだが、それ以前に自身の生物としての生体システムを使って活動しているわけだから、その延長上に機械や社会システムがあると思っておけば納得できるだろうが、もちろん自身の生体システムとそれ以外の機械や社会システムとは別物であることもわかりきったことだが、すでにそこに形成されている社会システムに取り込まれていれば、実際に誰もがシステムに取り込まれているのだろうが、システム内で思考している内容がシステムに依存しながら思考している内容となっているわけで、そうなるとシステムの外部からの呼びかけには反応しなくなっている可能性もあり、その心身がシステムに組み込まれている度合いに応じて、システムへの依存度にも違いが出てくるだろうが、それに関しては〇〇に意識が囚われた人の脳を〇〇脳と呼ぶ場合もあるが、その〇〇を何らかのシステムだと意識しているわけではなく、批判の対象としたり皮肉を込めてそう呼ぶことになるはずだが、その虜となっている対象が何らかのシステムを伴っていれば、確かに思考形態がその〇〇に依存している場合があり、そうなることによってシステムの機能が円滑に働くなら、そうなっている人はシステムにとって有用な人材になっているはずだろうが、心身がシステムにはまりすぎると、そのシステムに組み込まれた機械のように動作していることにもなるだろうから、そういう人はシステムの中でロボットのように動作していることにもなるだろうが、人の動作が一つのシステムの中だけで完結するわけでもないから、当然のこととしてシステムにとって余分な機能が人には備わっていて、その機能がシステム内で発動すると、それがシステムが要求する動作とは相容れないと、エラーとなってしまうだろうし、それをヒューマンエラーと呼ぶ場合もあり、何らかの人為的なミスによって社会を支える基幹的なシステムがダウンしてしまうと、そのシステムに依存している方面で混乱がもたらされるわけだが、その余分な機能が具体的に何かといっても、すぐに思い浮かぶわけでもないが、そのシステムが導こうとしている方向とは違う方向を示すような動作となるなら、システムに逆らう動作となるだろうが、なぜシステムに逆らわなければならないのかというと、理由があればわかりやすいが、理由がない場合もあるかも知れず、なぜ理由もなしにシステムに逆らわなければならないのかといっても、逆らっている当人がそれに気づかない場合もあるかも知れないし、根本的に理由がなくてもシステムに逆らうことができるとすれば、それが理由なき反抗となるだろうが、システムが人に課す動作がその人に負担を強いるような動作であれば、負担に耐えきれなければ自ずから逆らってしまうわけで、それを簡単にいうなら肉体的にも精神的にも疲労をもたらすシステムであれば、疲労が限界に達すればシステムが課す動作を継続できなくなって、そこで動作をやめてしまうことが、システム側からすればシステムに逆らうような動作に見えてしまうわけだが、逆らっているのではなく、システムが課す動作ができなくなっているだけで、システムそのものに心身がついて行けなくなっているわけだが、そういう意味では人に負担を強いるようなシステムであれば、必ずヒューマンエラーが起こる可能性があるのだろうが、逆に人に負担を与えないシステムがあるかというと、それが人為的なシステムである限りは必ず何らかの負担がかかってくるだろうし、人に何らかの動作を要求するからそれがシステムだと言えるわけで、何も要求しないなら自然でしかなく、ただの自然であれば他の動物と同じような動作しか必要ではないわけだが、人が他の動物と違うところが何かというと、複雑な道具としての機械を使うところだとすぐに思い浮かぶが、機械自体がその内部に人為的なシステムを内蔵していて、それが電子回路であったりするわけだが、では自然ではなく人為的なシステムを用いて人が何をやっているのかというと、自然から利益を得ようとしていて、それが自然から食料や養分を得ようとしているだけの動物とは違うところなのだろうが、利益を得るには何が必要なのかといえば機械が必要となり、機械を作り動かすには資源が必要になってくるのだろうが、それが人自身が活動するためのエネルギーだけでなく、機械が動作するためのエネルギーとなるわけだから、自然から利益を得るにはそれだけ莫大なエネルギーが必要となるわけだが、そもそも利益とは何かというと余分な何かであり、余剰にあってそれを蓄積しておいて必要な時に使えるものであり、それを人の直接の動作以外にも余計にエネルギーとして貯めておきたいわけで、それがあればあるほど安心感を得られるわけだが、利益が残っているだけでなくできれば有り余っている状態を維持しておきたいわけだから、それだけ余計にエネルギーを使って利益を貯め込みたいわけで、そういう利益の貯め込みに役立てたいのがシステムであり、利益を得るためのシステムを構築して、それを活用することによって利益を貯め込みたいわけだが、世の中で動作しているのがそんなシステムばかりではないことも誰もが承知しているだろうし、利益を貯め込むシステムがあれば利益を消費するシステムや流通するシステムもあり、貯め込まれただけ消費されていれば、その収支がゼロになってしまうだろうが、貯め込まれた時期と消費される時期とに時間差があれば、少なくとも消費されるまでは貯め込まれていて、貯め込まれた額が多ければ多いほど安心できるわけだが、貯蓄と消費の間には流通の期間もあって、利益を流通させることが投資活動になるわけだが、貯め込んで静止状態となっている期間をできるだけ縮めて、絶えず利益が流通状態となっていることが、利益の活用としてはより効率が良いわけで、絶え間なく利益を動かすことによって、活動が停滞するのを回避しようとしているわけだが、それが現代的な利益を活用するシステムだと言えるのだろうが、そのために何をやっているのかといえば、いわゆるデジタル化を推進しているわけだが、世の中にある利益を金庫の中に眠らせておかないようにしたいわけだから、絶えずそれが情報として行き交っていれば、それだけ活用されていることにはなるわけだが、その活用の仕方が何かというと、マネーゲームとしての活用になる一方で、人々の実際の生活に活用されているかというと、活用されている面は確かにあるのだろうが、金額としては株や債券や通貨そのものの売買や貸借に活用されている面でも莫大な量が流通していて、そちらの方が多くなってしまうと、では何のための利益の活用なのかというと、金融システムを効率的に動作させるための活用となっている面もあるわけだから、それが人々の生活のためではないような気もしてくるわけで、果たしてそれでいいのかという疑問を抱いている余裕などなく、とにかくシステムを有効に機能させるような成り行きに人も企業も行政も巻き込まれていて、そのためには何をやるべきかという要求に応じてしまうと、本末転倒なことにもなってしまうのだろうが、そうなるのを阻止するには、人々の生活を防衛するような経済政策が求められることになるのだろうが、それがまともに論議されているのかというと、そうでもない実態もあるのかも知れない。


5月29日「思い過ごし」

 何か周囲から圧力を感じているなら、それが自らの勝手な思い込みに過ぎなくても、周囲というのが物理的な近さを示す周囲ではなく、ただ漠然と周囲だと感じられるだけであれば、この世界のどこにいてもどれほど離れていても周囲だと感じられて、周囲という表現ではしっくりこなければ、では何なのかと問うまでもなく、よくわからないことには変わりないが、よくわからないからこそ、何か得体の知れない圧迫感を感じていて、それが自らの周囲のどこからか力を及ぼされていると勝手に思い込んでいるだけだとしても、それを圧力だと感じている限りで、自分の思い通りにはさせないように圧力をかけられていて、そもそも思い通りということがどういうことなのかもよくわかっていないにしても、思い通りの思いというのが、自身が囚われている状況によってそう思わされているに過ぎなければ、思い通りになろうとなるまいと、その場でそうしたいと思うことが自らが抱いているつもりの自発的な意志だとしても、それが自らを取り巻く周囲の状況に対する反応として生じているだけで、たとえそこで自らの意志を貫き通そうとしたところで、周囲の状況との相互作用によってそう思わされているに過ぎなければ、そんな状況の中で自発的な意志を優先させる必要があるのかといえば、必要があろうとなかろうと、それが意志なのだからそうしたいと思うわけだが、そんな思いを圧力をかけることによって阻んでみても、思いの中身が大したことでなければ、阻まれたところで一向に構わないのかも知れず、それ以前に自らの意志が何をしたいのかといえば、それもよくわかっていないのだとしたら、意志も何もあったものでもないような気もしてくるだろうが、今さら意志などないと思ったところで、それも嘘のような気もしてくるなら、圧力などかけないで、もういい加減に放っておいてもらいたくなるが、放っておかれるほどの自由を与えるのは危険というわけでもないが、放っておかれても自由にはならないだろうから、別に放っておかれても構わないような気もするだろうが、なぜか圧力を感じているのだから、現状でも放っておかれてはいないのかも知れず、そうであるなら何か利用価値でもあるから圧力をかけているのかも知れないし、そんなことをいい加減に想像してみたところで当たるわけでもないが、社会の中で生きていて何の圧力も感じられないというのはあり得ないことであるなら、そこに何かしら人間関係があることになり、しかも直接の関係でなければ、関係していることすら意識できないような薄い関係も想定できるだろうから、現状で感じている圧迫感というのも、特定の誰が標的になっているわけでもなく、誰でも構わないからそう感じている人がそう感じている限りでそう感じられるような圧力でしかなければ、誰が標的でもないような圧力をかけている側でも、自らが圧力をかけていることすら意識していない可能性もあるわけで、そうであれば圧力を感じているのが思い過ごしだと思っても構わないようなことなのかも知れず、表立っては誰も圧力などかけておらず、誰が圧力をかけているのかを特定できるわけでもなくても圧力を感じるなら、それが思い過ごしには違いないのだろうが、だからといって圧力がかかっていないわけではなく、それに関しては社会全体から同調圧力の類いがかかっているとかの認識でも構わないのだろうが、認識したところで何がどうなるわけでもなく、それよりはただの思い過ごしだと思っておいた方が気休めにはなるだろうが、気休め程度のことなら深刻ぶる必要もないだろうし、実際に深刻な事態に陥っているわけでもないのだろうから、気休めとしての思い過ごしに違いないと思い込んでおけば何事もなく、万事が丸く収まるほどのことでもないが、うやむやのままに事態が推移して、ただ漠然と圧力を感じながらも日々を送っていれば済んでしまうわけで、それによって何が済んでしまうのかといえば、そんな現状について異議や不快感や嫌悪感などの否定的な気持ちを表明しなくても済んでしまうわけで、要するに我慢していればいいということになるわけだが、我慢できなくなればどうなるのかといっても、人それぞれに程度の差があるだろうから、一概にこうだと言えるわけでもないだろうが、我慢できなくなった人がある日突然気が狂い出すこともあるかも知れないが、気が狂ったところで何かそれらしい理由をつけて始末してしまえば済んでしまうことかも知れず、始末するというのが具体的にどういうことかは、気が狂ってどこかの病院に押し込められたり、事件を起こして有罪となって刑務所に服役したりするなら、始末の程度もわかりやすくなるだろうが、そういうわかりやすい始末のつけ方というのも珍しくはないが、全てがそうなるわけでもないだろうし、中には始末を免れて平然と暮らしている人もいくらでもいたりして、そういう人たちは圧力に耐えられていることになるのだろうが、表面上は耐えられているように見えても、何かしら心身に負担がかかっていれば、そのうち体が耐えきれなくなって、病に罹ってしまう可能性もあるだろうし、それがストレスから癌を発症したり、気を紛らすための暴飲暴食が祟って糖尿病をなどに罹ってしまうなら、それもわかりやすい始末の部類に入るだろうが、それでも始末に追えない人も中にはいて、そういう人は憎まれっ子世に憚ると陰口を叩かれながらも長寿を全うできるのかも知れないが、そういう水準で圧力に耐えるのは誰にでもできることだが、耐え切ってしまっても圧力をかけている側の思う壺かも知れないし、耐え切れるような程度で圧力をかけていて、多くの人々が圧力に耐えている状態が社会が統治されている状態でもあり、誰が圧力をかけているのでも、何が社会を統治しているともいえないレベルで圧力がかかっていること自体が、集団意識による社会の統治が実現していることを示していて、集団意識といってもその中に含まれる個々人の意識が完全に集団意識に操られているわけでもないだろうが、どうでもいいようなところで集団として統率が取れているように感じられるなら、そういう面では集団となって操られている可能性があるだろうが、それも意識しなくても誰もが同じようなことを考えながら同じような動作に囚われているなら、改めて指摘するまでもなく、指摘されることを必要としない動作でもあるなら、そうなっていても何の問題にもならないだろうが、そこに異邦人などが紛れ込んでくると、そういう人が外国人として指摘したくなってくるのかも知れないが、外国人であればそれで納得できるわけで、むしろ外国人でない人から指摘されるようなことがあからさまに無視の対象にもなるだろうし、そんな人など全くいないかのように装われて、その存在が抹殺されていることになるかも知れないが、もちろん実際に殺されるわけではなく、社会的に抹殺されているように装われるわけで、そういう人がいないことを前提として、物事が進行していくなら、社会に適応できない人など全くいないことになってしまうだろうが、現実にはそうもいかないわけで、では社会に適応できない人がどうなるのかというと家の中に引きこもるしかなく、そうなると家族の負担が増して、家族全体で社会からかかってくる圧力に何十年にもわたって耐え続けることになるのだろうが、果たしてそうなってしまってもそれが思い過ごしに他ならないかというと、それも思い過ごしでしかなく、本来なら引きこもる必要のない人が引きこもっているわけで、それを圧力だとは思わなければ引きこもらずに生きていけるはずで、それを圧力だと感じてしまうからその圧力から逃れるために引きこもってしまうのだろうが、社会が必要としない人間を引きこもらせてしまうほどの圧力が社会からかけられていることに誰もが気づけるかというと、普通の人なら気づいていても気づいていないふりを装うだろうし、実際に誰も面と向かっては圧力などかけていないわけだから、圧力などかかっていないと思っていればそれで構わないわけだが、なぜそういう人を社会が必要としないのかといっても、理由などなく、理由もなしに何十年間も家の中に引きこもっていられるかというと、理由がないということ自体が嘘なのかも知れず、実際に引きこもりの理由などいくらでもあるだろうが、理由を挙げてもそれでは納得してくれないから、引きこもらざるを得ないわけでもないだろうが、実際に引きこもってしまうわけだから、引きこもらせるような圧力がかかっていることを引きこもっている当人が感じているわけで、それを思い過ごしに過ぎないと指摘したところで納得し難いのではないか。


5月28日「重要ではない何か」

 世界の現状についてどう考えようと、考えるだけでは何がどうなるわけでもなく、そこに何かしら行動が伴って、思考と行動が組み合わさって噛み合ってくると、何か活動している実感が湧いてくるかも知れないが、その際に考えていることをどう行動に結びつけるかが重要になってくるとしても、それもそう思っているだけでは何がどうなるわけでもなく、思いを行動の中でどう具体化するかも重要になってくるだろうが、その際にも普段は特に重要だとも思っていないことの重要さに気づいていない可能性があり、何が重要だと思われても、自分にとって重要なことが他の誰にとっても重要だとは限らず、人によってもその立場や境遇によっても重要さの程度に差があるとすれば、それが各人の相対的な偏差になるだろうが、そうではなく誰にとっても重要な何かが現状の中にあるとすればそれが何かというと、例えばそれに関して反戦平和を訴えている人が世の中が平和な状態であることの重要性をいくら説いても、実際に平和な状況の中で暮らしている人にとっては、それが当たり前の状況となっていて、そんな前提の上で日々を送っているのだから、何とも思わない人もいくらでもいるだろうし、その重要さに気づかないのも無理はないだろうが、その一方で戦争に巻き込まれて住み慣れた祖国を離れて、見知らぬ外国で避難生活を余儀なくされているような人なら、社会が平和であることの重要性やその大切さを身にしみて実感することになるだろうが、そんな状況を想像してみれば確かにその通りであることを理解できるにしても、頭では理解していても、実際に戦争を起こしているロシアに抗議するために、日本のロシア大使館まで押しかけて抗議の意志を示すかとなると、それとこれとは話が別で、どこかの政治団体や左翼系の労働組合でもない限りは、個人でそんなことまでやる人はまずいないだろうし、それが各国の政府レベルやマスメディアのレベルとなると話が違ってくるかも知れないが、平和な状況の中で暮らしている一般市民のレベルでは、ロシア政府に直接抗議することが重要だと思っている人がそれほどいるわけでもなく、実際に抗議しに行く人もそれほどいるとも思えないが、もちろん一般の市民が抗議したところで何がどうなるわけでもなく、個人の抗議活動が重要だと思われているわけでもなく、抗議しに行ったところで無視されるようなことにしかならないが、ではそれが重要であるかないかというよりは、何かもっと効果や成果が上がるようなことをやれるかというと、平和的なやり方で目に見えて効果や成果が上がるような方法があるわけでもなく、それ以前に果たして効果や成果を上げることが重要なのかといえば、ある面ではそうかも知れないし、それが功利的な面でそう思われるのも確かだろうが、活動の全てを功利的な価値基準で判断できるわけでもなく、特に判断しようのないことをやっている現状もあるだろうし、それが自分にとっても他の誰にとっても何でもないようなことをやっている現状があるとしたら、重要だとも効果や成果が上がるとも思えないだろうが、ではどうすればいいのかといえば、重要だと思っていることをやっているうちにそうではなくなったり、その逆になることもある一方で、効果や成果を求めて何かやってみたところで当てが外れて、かえって逆効果となって何の成果も得られないどころか損失まで被ってしまうと、判断を誤っているのではないかと思うかも知れないが、重要であるとかないとか、効果や成果が上がるかどうかとか、そういう判断をしようとしてしまうことの何が間違っているわけではないとしても、自分にとって特に重要ではない何かによってそう判断するように仕向けられているのかも知れず、しかもそう判断をするように仕向けている何かの存在に誰もが気づいているわけではなく、それに気づくことを重要視しているわけでもなければ、ただ単に気づかないだけかも知れないが、その重要ではない何かというのが、誰にとっても重要ではないから気づかないとしたら、何かをやった結果として効果や成果が上がることが重要なのではなく、ただ何の効果も成果も期待できなくても、例えば大勢で集まって戦争反対と叫ぶことがそこでの申し合わせとなっていれば、反戦平和集会の中でそんなことをやるわけで、またそれとは別の方面では、戦争に備えて防衛力を整備しようとして、そのために軍事費を増やそうとするわけだが、どちらかといえば功利的に効果や成果を期待できるのは戦争に備えて軍事費を増やすことだが、それとこれとを比較できるかというと、普通は比較しないし比較しようがないわけだが、抑止力としても効果的なやり方が軍事費を増やすことだと思われる一方で、反戦平和集会で戦争反対と叫ぶことがどんな効果や成果をもたらすのかといえば、平和を願う人たちの数の多さと団結力を確認し合うにはそういう集会を定期的に開催することが必要だと思われるし、実際に必要に応じてそんな集会が催されると見ておけばいいのかも知れないが、どちらもそんなことを推進している人や団体はそれが重要だと思うから推進していて、そう思うだけではなく戦争に巻き込まれて困っている人たちを助けたり支援するようなこともやっているはずで、どちらかといえばそちらの方が直接的な面では重要だと思われるだろうが、ではそれらの人や団体などにそんなことをやるように仕向けているのは何かというと、直接には戦争そのものであり、実際に戦争が起こったから周辺の各国が軍事費を増やそうとしたり、市民団体が反戦平和集会を開いたりするわけだが、それが重要ではないどころか、それこそがそれらの人や団体にそんなことをやるように仕向けている直接の原因であり理由でもあるわけだが、ではそれとは違って重要ではない何かとは何なのかというと、そういった戦争によって引き起こされる真っ当な反応や活動に対して無関心や無理解を示しているように思われるその他大勢の人たちの存在は、確かに重要ではなく、場合によっては無視しても構わないような空気のような存在だろうが、それと同時にそれらの人たちがそれらの活動のターゲットになっていることも確かで、それらの人たちの関心を惹きつけたいと思っているわけではなくても、実際に関心を抱かせて味方に引き込みたいから、それらの人や団体が日々プレゼンテーションのような活動をメディアを通して行なっているわけで、そういうことが行われている限りはその他大勢の人々が全く無関心になるわけではないとしても、依然として多くの人々が直接関わろうとはしないことも確かだろうし、そうなると表向きには無関心に見えてしまうから、そう見えてしまう状況を変えようとして、現在進行形で行われている戦争に関心を持ってもらうために、日々メディアを通じて戦争に関連する話題が伝えられているのだろうが、日々伝えられているからこそ内容が陳腐化して無関心となってしまうことも事実で、そうなるとメディア報道に飽きてしまうわけだが、もちろんそういう成り行きが重要というわけではなく、多くの人たちが無関心となるように仕向けられているわけでもなく、逆に関心を持つように仕向けられているはずなのだが、そこから無関心が生じてくるのも逆説的な成り行きであり、しかもそういう成り行きも特に重要というわけでもないだろうし、何でもないようなことでしかないだろうが、なぜかそれがボディーブローのようにじわじわと利いてくるのかも知れず、何が利いてくるのかというと無関心が利いてくるのであり、利いてきたからといって状況が悪化するわけでもないし、特に何がどうなるわけでもないだろうが、大して重要でもない状態が世の中に蔓延していることが平和を意味していて、それが大して重要でもないからこそ焦って危機感を煽りたくなるのであり、それを何とかして変えたいから人々が真摯な態度で関心を向けるような何かを示したくなってくるのだが、その関心を向けてほしい対象が、現状では戦争であり、そこでひどいことが行われていることに関心を向けてほしいわけだが、しかも大勢の人たちがそれに対して無関心を装っているように見えるから、なおさら関心を抱いてほしいわけだろうが、実際に誰もが関心を抱いていることは確かで、そうなっていることを疑う者も誰一人としていないはずだが、なぜかそれが関心を抱きながらも飽きていて、飽きているからこそ他のどうでもいいような話題にも関心を向けるのだとしても、それだけに関心を向けているわけではなく、同時に他の様々な話題にも関心を向けているから、相対的に重要と思われる話題への関心が薄くなっているように見えてしまうわけだが、メディアから伝えられる話題には重要なものもそれほど重要ではないものも含まれているだろうから、また人の立場や境遇によっても重要度に差が出てくるから、そうなっているのが当然の状況でもあるわけで、そんな状況が何か特におかしいわけでもないのだろうが、それが大して重要だとも思われないから伝える側は焦ってくるわけだ。


5月27日「行動した結果」

 チャンスをものにすることが、機会を逃さず行動した結果としてもたらされるのは確かだが、一概に機会を逃さないといっても、果たしてその時がその機会だったのかが、結果を見てみないことにはよくわからない場合もあるから、機会を逃したのか逃さなかったのかが、行動した結果からわかるとすれば、機会を捉えたと思った瞬間には、そう思ったことは確かだが、そう思って行動してみると、そうすることによってうまくいけば確かに機会を逃さずに行動できたと思うだろうが、うまくいかなければ機会を捉えたと思ったのは思い違いだったのか、あるいは機会を捉え損なったのかも知れないが、たとえ機会を逃さずに行動したと思ってみても、結果がうまくいったりいかなかったりするのは、機会を捉えたか否かとは別に、行動内容や行動の仕方もその成否に絡んでくるだろうから、もちろん機会を捉えること自体も行動の内容や仕方に含まれるにしても、それ以外の要因も絡んでくるなら、機会を捉えるだけでは不十分で、せっかく機会を捉えたのにやり方がまずくてしくじってしまう場合もあるだろうから、それに関しては例えばロシアがウクライナへ軍事侵攻したのは、確かにその機会を捉えて侵攻したのだとしても、結果的にうまくいかなければ、作戦の進め方や作戦自体に無理があったのかも知れないし、無理があったとしても結果を都合のいいように捉えて、うまくいっていると強弁するようなことにもなるだろうから、結果自体も捉え方によってはいくらでも行動した側の都合を反映させられて、そういう意味では行動した側の主張など全く信用できないが、行動した側が行動したことによって窮地に陥っているように見えるなら、行動したことが失敗に終わったのだろうが、それを失敗したとは口が裂けても言えない事情があるから、失敗を成功だと強弁したとしても、なお強弁している人がその立場や地位を維持している限りは強弁し続けるだろうから、結果的にはその立場や地位を失った時点で失敗が明らかになるかも知れないし、実際にそうなるまでは断じて失敗したことを認めないかも知れないが、それはその時点での結果であり、長い目で見ればその時点での失敗がその後の成功に結びつくかも知れないし、また誰かが失敗したことが他の誰かにとっては良いことのように感じられる場合もあるから、必ずしも失敗すること自体が悪いというわけでもないのだろうが、失敗したことを断じて認められないのなら、認められない人にとっては、失敗することが悪いことだという認識があるわけだが、それよりもさらに悪いのが、失敗を成功だと強弁して失敗を認めようとしない姿勢であれば、実際に最悪の事態を招いていることになるのだろうが、さらにそれより悪いことがあるとすれば、他国に軍事侵攻してそれに成功してしまうことかも知れず、それが成功しても悪いことになる場合であり、行動に成功するか失敗するかとは別に行動の良し悪しがあるなら、成功したから良くて失敗したから悪いとは言えない場合も想定できて、さらにそこに損得の関係があれば、一方が得すればもう一方が損するような関係が成り立っていることになるなら、普通は行動に成功すればそれが良いことでしかも得することだと考えられるだろうが、必ずしもそうではなければ、成功したからといってそれが悪いことであって、しかも損するようなことになれば、成功してはまずいと思うだろうし、ではなぜ行動するのかというと、何か目的があって行動していて、目的を遂行する上で悪いことや損するようなこともやらなければならず、しかも目的を遂行したところで何も得られないことがわかっていれば、では何のためにそんな目的があるのかといえば、それがその人の目的ではなく、その人を利用する側の目的であれば、その人を犠牲にして成功しようとしていたり、利益を得ようとしているのかも知れず、そうなるとその人がその人を利用する側に騙されていることになりそうだが、もちろん何も得られないことがわかっているのに騙されるはずがなく、何かを得られるとそそのかされて目的を遂行していると見ておけば良さそうだが、何かそういう理屈が当てはまらないような成り行きがあって、別にその人が騙されているわけではなく、他の誰がその人を利用しようとしているわけでもなく、本当に何も得られないことがわかっていて、わかっているのに何かしら目的があるとするなら、それがどんな目的なのかというと、例えば世界の中で彷徨うことが目的であれば、何も得られなくても特に問題はないような気がしてくるわけで、それに関しては確かに放浪者は放浪することが目的であり、世界中を当てどなく放浪したところで何も得るものがないのはわかりきったことかも知れず、それでもわざわざ放浪する理由があるのかというと、一か所にいつまでも留まっているのが嫌だから放浪せざるを得ないのかも知れないし、放浪した結果として何ももたらされないはずがないと思えば、何かの気休めとして達成感を得られたような気になりたいのだとすれば、放浪ではなくなって、達成感を得るために放浪しているような矛盾に直面してしまうかも知れないが、達成感を得たいのならもっと何かはっきりした目標を設定しなければならず、例えばそれが大陸横断とか世界一周とかになってくるわけだろうが、それが旅をするという目的と共に達成感を得るための目的となると、さらにそれだけではなく、困難なことを成し遂げて世間の注目を集めたいという下世話な目的もその後に続いて、それに成功して金や名誉を得て有名人になりたいとかいう野望まで抱くようになれば、途端にわかりやすくなってしまうと共に、果たしてやろうとしていることの困難さと下世話な目的との間で釣り合いがとれるのかというと、釣り合いがとれようがとれまいが、そういうわかりやすい目的は、大抵は後付け的にほんの付け足し程度に後から付け加わってくることであって、それが本来の目的ではなく、ただ旅がしたいという願望を合理化するための口実に過ぎない場合がほとんどであり、そういう意味で最初から金や名誉や社会的な名声を得たいがために困難なことをやろうとするわけではなく、その人の行動や活動自体が目的であるから、それをうまく合理化も正当化もできないのかも知れず、それでも自らのやっていることを言葉で説明する過程で、それをやる理由や動機として自分でも納得できて説得力のありそうな目的が付け足されてくるわけだが、そうだとすると自らの行動を言葉で説明する際に頭の中で目的に関するフィクションを構成していることになり、それが実際に行動していく過程で実現しようと思うことにもなり、目的を達成した時の光景を思い描きながら期待に胸を膨らませているようなら、目的を達成することが良いことであり、成功することが良いことだという理屈を信じて疑わなくなるだろうが、結局そうなっている段階で世間を意識しているわけで、世間体を気にすれば何の目的もなくただ世界の中で彷徨っているだけでは体裁を取り繕えないわけで、そうではなく何か周囲の人たちに向かってまともなことをやっているまともな社会人であることを見せつけて、認められたいという願望が心の中に芽生え始めると、それと共にわかりやすくてありふれた目的意識も育ってきて、そういう目的意識に合わせて行動した結果として、社会的な成功がもたらされるという物語を思い描いていて、それがその人の願望であると共に他の大勢の人々の願望でもあり、そんな願望を抱かせているのが世間であり社会そのものだと考えるなら、世間や社会がその中で暮らしている人々にそんな願望を抱くように仕向けていると言えるわけだが、そうなると目的が自分のためだけに課す目的などではなく、社会がその人に目的を課していることにもなり、それがその人に課せられた社会的な使命にもなるのだろうが、果たしてその社会的な使命が自身の成功を目指すだけの利己的な目的となるかというと、それに関して例えば新自由主義的な原理から言えることは、各人が利己的に成功を目指して行動すれば、経済的な競争が盛んになって自ずから社会全体が豊かになるという理屈なのだろうが、それを信じられない人たちが社会主義的な理想を掲げて、利他的にみんなで力を合わせて社会を豊かにしようとするのだろうが、それも理想主義に染まった人たちの間では納得できて説得力のありそうな理屈を伴ってくるわけだが、そういう目的意識も社会そのものが人々に抱かせるのだとすれば、果たして世間や社会が抱くように仕向けてくる目的意識を受け入れる必要があるのかと言えば、もちろんそういった目的意識を抱いている人たちにはその必要があると思われるから、それを受け入れているのだろうが、もしかしたらそれも本来の目的とは別に、ほんの付け足し程度に行動した結果を正当化したり合理化するために、後から付け加わってくる目的なのかも知れない。


5月26日「こちら側の言い分」

 世の中では絶えず何かしらトラブルの類いが起こっていて、それに関して興味があれば、トラブルに対処するにはどうしたらいいかなどと考えてしまうのも確かだが、トラブルが何も起こらないというのはあり得ないし、実際にトラブルになってしまったことについては、起こった後から振り返るなら、そうなるのが当然の成り行きのようにも思われて、それが必然的にそうなってしまったなら、かえってそうならないと世の中が回っていかないようにも思われてくる場合もありそうだが、何が起こるにしてもそれが自らに関わってくるなら対処しなければならなくなり、対処することによっても新たな出来事を誘発して、それも自らに関わる出来事となるなら、それへの対処も必要になってきて、そうやって自らに直接関わってくる出来事には絶えず対処し続けているわけだろうが、そんな状態が維持されていることが生きていることそのものだと言えるかも知れず、生きている限りは自らに関わってくる出来事に対処し続けることになるだろうが、向こうから関わってこないなら、こちらから積極的に関わろうとする場合もあるかも知れないが、それもそうなる成り行きがあって、積極的には何をしようともしていないのに、否応なく何かに関わってしまう成り行きになってしまうと、それに対処しているつもりが、あらかじめ向こうから対処されている場合もあり、しかもこちらからは手も足も出せないような仕掛けになっていて、そうなると直接には対処しようがないわけだが、それを避けてそれとは別の方面から何か仕掛けることになる場合もあり、何を仕掛けるといっても、まずは手も足も出せない状態を何とかしたいわけで、そのために何を仕掛けるかが重要となってくるとしても、すでにそんなことを考える以前に仕掛けていて、考えより先に勝手に身体が動いてしまっているわけだが、それがどのような動きなのかというと、それとは別の方面に逃走していて、一刻も早くその場から立ち去らないと、ただでさえ面倒なことになっているのにさらに事態がこじれてきて、身動きが取れないような状態となってしまうから、そうなる前にそこから逃げなければならず、そう思うより先に身体が勝手に動いて、逃げている最中にそんなことを思っているわけだから、事後的に自らの動作を追認しているわけだが、果たして逃げ切れるかというと、大抵はそうはならず、逃げて行った先でも面倒な事態が待ち受けていて、そこでもこちらからは何の働きかけもせずに向こうの言い分を全て呑んでしまうと、向こうの言いなりになったまま身動きが取れなくなってしまい、そうならないためには、こちらが利用価値のない人間になるしかないだろうが、元から利用価値がなければ利用しようがないが、逆に価値のある人間に見られてしまうと、向こう側がいいように利用するだけしまくった挙句に、その価値を消耗し尽くして無価値になったところでお払い箱にされてしまう場合が考えられるが、では今の時代において利用価値があるのはどんな人間なのかといっても、利用の仕方もその用途に応じても様々なケースが考えられるだろうが、価値があるというよりは、自身に価値がありそうに見せかけている人も多いだろうし、自己顕示欲が強ければ自らに価値があるように見せかけたいわけだが、そんな人にも何かしら利用価値があるかも知れず、見せかけているように見えるのなら、利用しようとする側もそれを逆手に取って、見せかけている面を利用したいだろうし、そうなると外見で騙すような浅はかな方面で利用価値がありそうで、しかも騙す側も騙される側も相手を騙そうとしていれば、お互いに相手を欺こうとして騙し合いの化かし合いのようなことになってきて、そうなっても騙されていることを承知で相手を騙そうとするような入り組んだ様相を呈してくれば、それだけ事態がこじれてくるだろうが、そうなってもそんな非生産的な駆け引きを行なっている最中でも、そんなことやっているだけでも生きがいを感じるなら、その人がそういうことを通して何か懸命に生きていることを実感させるような効果がもたらされるかも知れず、そんなふうにして事態がこじれてくればそれをどちらも制御できないような物事の成り行きになってきて、そんな成り行きの中でこじれた事態に対処しているつもりになれるなら、そこで自分が主導権を握って事態を改善させるために主体的に尽力しているというよりは、その場の成り行きに翻弄されている割合の方が大きくなってきて、そうなると事態に対処しているのではなく、その場の状況に囚われながら状況に動かされて、そこから受動的に作用や影響を及ぼされながら、自らの意思や意志とは無関係に動かされているような状態に陥ってしまうかも知れず、それでもうまく行っているように感じられるなら構わないだろうが、何かに誘導されてそれがもたらす欲望に突き動かされながら行動しているようなら、それを外から別の誰かが観察しているなら、何か欲望の対象に操られているように見えるわけだが、欲望の対象が一つというわけではなく、それが複数あれば、複数の対象の間で相互作用も生じてきて、それだけ複雑で複合的な動きとなるだろうが、もちろんそれだけがその人の活動の全てではなく、他にも自身の趣味や仕事や家族や交友関係などに関連して動いている面もあるだろうから、その中で何か特徴的な傾向が出ているとしても、何かを利用したり何かに利用されているだけではなく、利用したくても利用できないし、その人に特有の性格や経緯や事情などに起因して利用しようがない面もあるなら、それがその人の個性だと言えなくもないが、それが個性だろうと何だろうと、その人をそこから動かしようがなく、その場に固定されている状態が尋常な程度でなければ、その場と一体化しているような部分もあるわけで、まるで座敷童子のようになって梃子でもそこから動かないような状態となっているなら、その場だけでしか利用価値のない存在になっているわけだろうが、何がそうさせるのかといえば、そこに動かしようのない様々な関係が張り巡らされていて、そんな関係によってその人がその場に固定されていることになるのだろうが、なぜそういう関係が生じるのかといえば、そこに構成されている社会がそういう関係を必要としていて、いったんそこに出来上がった社会構造を壊すわけにはいかない事情が社会の中に生じていれば、そんな社会構造を支えるような社会的な立場や地位も形成されていて、しかもそんな立場や地位が世襲によって代々受け継がれているようなら、そんな立場や地位を先祖代々受け継いでいる一族も存在していて、そんな一族に生まれてくれば、その中の誰かがそういう立場や地位などの社会的な役割を担う存在として、その場に生涯にわたって固定される場合もあるだろうし、そんな役割が多い社会になるほど変化に乏しく、安定した状態になる一方で、社会の中での役割分担が固定していると共に、各々の役割の間での格差も固定していて、それが身分制のような制度を慣習としても備えていることにもなり、そうなっていても平和な状態であればそれほど文句は出てこないはずだが、実際にはそこで血みどろの権力闘争が起こっている場合もあり、対立し合う部族の間でもそれらの部族の内部でも、ちょっとした利益配分に関係する感情のもつれから暴力沙汰が起こったりすると、結局は公共的な統治機構が組織されるに至る可能性があるわけで、そうなると社会が現代的な統治形態に近づいてくるのだろうが、もちろん現代的な統治形態でもその種のトラブルは多発しているし、暴力沙汰や殺傷沙汰もより頻繁に起こって深刻化しているといえる場合もあるだろうから、その良し悪しを云々するわけにはいかないだろうが、それでも成り行きとしては歴史的にも否応なくその種の部族社会から現代的な法治社会へと状況が推移しているわけだから、今さら後戻りが利かないことも誰もが承知しているはずだが、その一方で部族社会的な世襲性が完全になくなったわけではなく、実際に財産を相続することが可能なのだから、私的な方面では家族や一族の中で、財産と共に既得権益として社会的な地位を保全するような試みも出てくるわけだが、それを社会の公共性を守ろうとする側がどれほど許容するかで、その社会の存在形態も変わってくるだろうが、もちろんそれだけが社会にとって重要なことではなく、他にも様々な方面で社会の現状を変革しなければならない事態も出てくるかも知れないが、それに関しては実際にトラブルが起きてそれが社会問題になっているところを変革したいわけだが、変革されては困る人たちもいて、それがそうしたトラブルの被害者ではなく、現にトラブルを招いている人や集団でもあるわけだ。


5月25日「現状でわかっていないこと」

 そこで何かをやると、やっていることが間違えるべくして間違えるような成り行きになってしまえば、事前に間違えることがわかっていて、わざと間違えているわけでもないのだろうが、わざと間違えるような成り行きに巻き込まれているといっても、実際に間違えている人が自らの間違った行為を正当化しているに過ぎないことかも知れないが、それが何のたとえになるかもわからなくても、わかっていないこととわかっているつもりのことが同じことだとは思えないし、そこに微妙な差異があるような気がするなら、わかっているつもりにはなれないことをわかっていないことだと認めるしかないが、では現状で何がわかっていないのかといえば、それがわかっていなかったことが実際に明らかになった段階でわかるようなことかも知れず、何がわかっていないのかがわかることが、わかっていないことがわかることとは少し違うこともわかるはずだが、そこで単純にわからなかったことがわかるようにはならないから、何か面倒でややこしい事態に巻き込まれているようなような感じがして、どう考えても事態がこじれるような成り行きにしかならないなら、そこに関与している様々な人や集団の意図や思惑や意向や直接の利害などがぶつかり合っているように感じられるだろうが、それが実際にどうなっているのかなんて当事者にはよくわからないわけで、そんなことがわかっていたら誰も揉め事の類いには関与しようとはしないだろうし、こじれてしまった事態を何とかしようとして揉め事の類いに介入すれば、介入してきた人や団体もいつの間にか揉め事の当事者になってしまい、そうやって揉め事が様々な人や集団を引きつけながら拡大して行き、拡大していくと共に拡散して薄められて、いつの間には雲散霧消して忘れ去られてしまえば、そうなるに越したことはないのだろうが、世間では忘れ去られても揉め事の当事者はいつまでも根に持っていて、それがいつまた何かのきっかけから蒸し返されてぶり返してくるとも限らず、そうなった時に復讐心に凝り固まった人や集団が攻撃を仕掛けてきても、何かそれが的外れなことをやっているような気がするとすれば、過去に揉め事があった時からだいぶ時間が経過していて、その間に世の中が様変わりしていれば、今さらそんなことをやられても場違いに感じられて、時代錯誤なことをやっているように感じられるからかも知れないが、それでも当事者にとっては、それが過去から連続している成り行きの中で、そうするのが当然のことのように思われるかも知れず、そうなると揉め事の当事者と部外者とでは、そこで起こっている揉め事に対する見方や考え方や立場や姿勢などが違ってくるのだろうが、それのどちらが間違っているかなんて何の前提条件もなければわかりようがなく、見方や考え方や立場や姿勢に応じてそれが正しく思われたり、間違っているように思われるのだろうが、実際に揉め事の当事者が間違ったことをやっているように見えるなら、それは当事者ではないからそう見えるのかも知れないが、だからといって当事者の身になって考えなければならないかというと、当事者の身を想像してみても当事者にはなれないわけだから、想像するだけ無駄かも知れないが、そうであるなら現状でわかっていないのは、当事者が間違ったことをやる事情や理由などになりそうだが、わかろうとする気になれない場合もあるだろうし、それに関しては部外者にも部外者なりにそんなことをわかる必要のない理由や事情があるのかも知れず、それも現状ではわかっていないことになるだろうが、何だかわからないが、何かに導かれるようにしてわけのわからない成り行きに巻き込まれた挙句に、不条理な事態に直面して唖然としているうちに、おかしな揉め事の当事者になってしまえば、やっていることが間違えるべくして間違っているようにも思われてきて、そうなった結果から考えればやる必要のないことをやってしまったことになるのだろうが、それをやるに当たってはそんなことをやらざるを得ない事情や理由があるようにも思われて、そんな釈然としない事態に陥っているところから抜け出す方法もわからなければ、何か八方塞がりになっているようにも思われてくるかも知れないが、実際にはそうではなく、八方のどこも塞がっているわけではなく、そこからどうとでもやりようがあるのだろうが、逆にいくらでもやりようがあるのになぜかその中でも一番面倒でこじれるようなことしかできないところが、そんなことをやっている人や集団がいかにおかしなこだわりに囚われているかが明らかになっているところかも知れないが、しかもそれが誰の目にも明らかになっているのに、そこに関わっている誰もがそれに気づかないような不条理なことにもなっているとすれば、何か救い難い愚かさのただ中に誰もがいるようにも思われてくるだろうが、それもそういうことに気づかなければ誰もそうは思わないだろうし、実際に誰もがそうするのが当然だと思うようなことをやっていれば、そうすることによって事態がこじれているのだから、明らかにやっていることが間違っているのかといえば、それが間違っているとは思えないようなことでもあり、その場の成り行きがそう思わせるのであり、そういう成り行きに誰もが囚われているから、そうするのが当然だと思われてしまうのだろうが、そこから何かをきっかけとしてトレンドが転換してしまうと、それまではそうするのが当然だと思われていたことが間違っているとされて、今度はそれとは真逆なことをやるのが当然だと思われてしまえば、そこに関わっている誰もが黙ってそんなトレンドに従うかというと、そこに利害が絡んでくればそうせざるを得なくなり、利益を得るためにそんなことをやっているなら、そうしないと損することがわかっていれば、それを無視するわけにはいかなくなり、そうなると利益を得るためにはそうせざるを得ないということになるはずだが、それがそう単純に割り切れるわけではなく、そこからまたトレンドが転換すればやるべきことがまた違ってくるわけで、結局は誰もがその場のトレンドに従いながら右往左往していることになり、それで本当に利益を得られるのかというとそうでもないわけで、時と場合によっては逆張りをしないと、他の大勢の人たちを出し抜くことはできないだろうし、しかも出し抜くために逆張りをしていることを知られてはまずいわけで、誰にも知られずに逆張りをしておくと共に、表向きには他の多くの人々と同じようにその場のトレンドに従いながら動いているように装っておかなければならないとしたら、何かそういうところで他の大勢の人たちがわかっていないことをわかっている人がごくわずかにいることになり、そんな人がわかっていることを利用して大きな利益を得られるようなシステムになっているのかも知れないが、それを普通はシステムとは呼ばないだろうが、現状でも大勢の人が何らかのシステムに従いながら動いているのなら、それらの人たちはそうすることによって実際にシステムによって生かされているのかも知れないが、それによって他の人たちを出し抜いて多額の利益を得られているわけでもないだろうし、それどころかそういうシステムを運営している機構か何かに利益を奪われている可能性まであり、もちろんシステムの利用者が多ければ多いほど、一人から奪う利益はごくわずかになるが、塵も積もれば山となるような仕掛けとなっているわけで、またシステムの利用者の中でもごくわずかにそのシステムの広告塔となるような人がいて、その人には多額の利益がもたらされているなら、そういう人になりたくて大勢の人たちがそのシステムに群がってきて、そこで大勢の人たちが参加して利益を獲得する競争が行われて、競争に勝った人に多額の利益がもたらされるシステムになっていれば、そうなるのが当然のことのように思われるわけだが、果たしてそれが当然のことなのかというと、利益を求めて群がってきた大半の人たちには大して利益がもたらされなければ、利益を求めて群がってきたのに大して利益が得られないのだから、そんなことをやっていること自体が間違っていることになるはずだが、もちろん誰もそうは思わないだろうし、自己責任でそんなことをやっているのだとすれば、たとえ利益を得られなくても納得するしかなく、それを納得するしかないように仕向けられていると解釈すれば、そんなふうに解釈すること自体が間違っているように思われるかも知れないが、それを間違っていると思うような人がシステムに囚われた人たちの大半を占めているなら、それがそのシステムが世の中に受け入れられていることを示しているのではないか。


5月24日「ねじれた対応」

 たぶんそれでいいはずがないのに、なぜかそれを何とも思わないような心境の変化が起こり、そこで起こったことについては何の感慨も抱けないようになってしまうと、それが何でもないことだと思われるかも知れないが、ではそこで何が起こったのかといえば、直接目的を達成しようとしているのではなく、なぜか意に反してそこから迂回しようとしているわけで、自らがそうしたいわけでもないのに、結果的にそうせざるを得ないような成り行きになってしまうとしたら、何がそうさせているのかといえば、それが自身の置かれた状況だとすれば、状況に沿って何かをやろうとすると自然にそうなってしまうのかも知れず、それが目的を避けてそこから迂回することになるのだろうが、何となくそうすることによってその場で思考と行動の辻褄が合うような気がするのだが、思考に合わせて行動するのではなく、行動に逆らって思考するわけで、行動に逆らわないと思考できないのかも知れず、行動と共に思考すれば、目的を達成しようとしてしまい、それの何がおかしいわけでもなく、逆にそうならない方がおかしいのだろうが、自らの行動に疑念を抱いていること自体が、行動に逆らって思考することになるかというと、自らの行動が疑念を抱かせるわけで、実際に行動してうまくいかなかったり道に迷ったりすれば、自身の行動が間違っていたのではないかと疑念を抱くが、自身の行動が正しいことを信じて疑わないと、実際にやっていることがうまくいかなくなったり道に迷ったりしておかしなことになっているのに、自身の行動が正しいことを前提として物事を考えてしまうから、対応に困った挙句に他から無理矢理こじつけのようにしておかしくなってしまった原因を探し出してきて、それが捏造された偽りの原因だと承知しているわけではなくても、結果的にはどう見ても屁理屈のようなおかしな口実を持ち出してきて、それを他人のせいにしてみたりして、おかしくなったことの責任を他に転嫁しようとするから、何かそれがねじれた対応のように感じられてしまうわけだが、だからといってその程度が大したことでもなければ、笑い話のようなことにもなるだろうが、そうかといって何がおかしくて笑うわけでもなく、笑えないからおかしいわけで、自らの行動の正しさを信じて疑わないと、自らのおかしな行動を笑えなくなって、おかしなことをやっているのに、そのおかしな行動に逆らって考えようとしてしまうから、ますます行動がおかしくなって事態がこじれてくるわけだが、それに気づいていないのかというと少しは気づいているはずで、気づいているから他人がそれを見て笑い出しそうになるのが気に入らないわけで、そう思っている自身が自覚のない裸の王様というわけではなく、自分が裸の王様であることをわかっているから、自らが裸の王様であるという公然の秘密を暴露しようとする人を先回りして粛清することになるわけだが、それも正直者を始末するようなねじれた対応だと言えるだろうが、ではどうすればいいのかといっても、立場上自らが間違っていることを認めるわけにはいかないから、そうなるのを避けるにはそこから迂回しなければならなくなり、自らが正しいことをやっている立場を維持することが目的であれば、実際には間違ったことをやっているわけだから、その時点で正しいことをやっている立場を維持できていないわけで、そうなるとどうすればいいのかというと、自らが正しいことをやっているように見せかけようとするわけで、それが迂回の実態となるのだろうが、しかも周囲の人々もそれに気づいていて、王様は裸だとは言えない態度を維持しなければならず、それを言ってしまうと粛清されてしまうわけだから、そこでも裸の王様に対して裸の王様だとは気づいていないふりをしながら接しなければならないわけだから、やはり演技を強いられてしまうわけで、そうなるとそこにいる誰もが正しいことをやるという目的があるのに、それを迂回して正しいことをやっているふりをすることになり、そんなふりをしている人が世界中にいくらでもいる状況というのが、現状でもたらされていると見ておけばいいのかも知れないが、しかもそんなふりをすることが正しい行為だと思うなら、そう思うこと自体がおかしいかというと、世間の同調圧力に従ったり世の中のしきたりや慣習に従うことが、従っているふりをしていることになるなら、たぶんおかしいとは思わないだろうし、ふりをしているわけだから、ふりをせずに心から従うことを回避することになり、心から素直に従うという正しい行為を迂回していることにもなるだろうが、果たして従っていることと従うふりをしていることを側から見て見分けがつくかというと、従うこと自体に従うふりをすることも含まれている可能性があるわけで、だから従うことも従うふりをすることも混同しても構わないのかも知れないが、もちろん裸の王様も家来や部下が本当に従っているのか、従っているふりをしているだけなのかに関してはよくわからず、大抵は疑心暗鬼に陥っていて、家来や部下などに絶えず疑いの眼差しを向けているわけだが、家来や部下の忠誠心を試す意味でも、わざと自らが裸の王様であるかのように振る舞いながらも、それでも裏切らずに黙って付き従ってくれる下僕のような家来や部下を求めているのかも知れないが、周りをイエスマンばかりで固めた独裁者がどうなるかは、フィクションの中でそんなカリカチュア的な人物たちの集団がよく出てくるが、ただの馬鹿ではないから数十年にもわたって独裁的な地位を占めているのだろうから、そんなことは百も承知なのかも知れず、時には勇気を奮って自らの死を覚悟しながらも諫言してくれる家来や部下でないと信頼できないだろうし、それもフィクションの中ではよく出てくる人物像になるわけだが、現実の世界ではそれが演技なのか演技ではないのかなんてわかりようがないから、そんなことは気にも留めずに全ての成り行きが進行中であり、そんな中では何か他人の振る舞いが気になっても、いちいちそこで立ち止まって疑念を抱く暇や隙などありはしないし、他人がどうというよりは自分がどう振る舞うかで手一杯となっていれば、自分が他人の振る舞いに対して疑念を抱いていることすらも気づかず、それでも何か気にかかるから、そのわざとらしい振る舞いのおかしさにも気づいているのだろうが、それを意識して考えようとするレベルまで至らないうちに、次から次へと畳みかけるようにして新たな振る舞いが連続して目の前を通り過ぎていけば、改めてそれらを言語表現を使って解釈してみるような暇やゆとりなどなく、解釈が追いつかないから解釈しているうちに解釈しようとする出来事が過去の出来事となって、もう済んでしまったことについてあれこれと反省的な考察を付け加えているうちに、現状でやっていることに思考が追いつけなくなり、思考が直接の行為には活かされない代わりに、そういった逡巡的な考察自体が迂回路そのものを形成して、直接現状の中で行なっていることではなく、もう済んでしまったことについて考えているわけだから、いつまで経っても現在から半歩下がった過去の時空に思考が留まり続けて、それが絶えず現在を迂回しながら済んでしまった過去へと視線を向け続けるというずれを意識できればいいのだが、それを現在の中で起こりつつある出来事について考えていると錯覚してしまうと、現状の中で自分の置かれた立場に関しても意識がずれていることに気づけなくなり、現状の中で起こっている出来事に対応しているつもりが、もうすでに起こってしまった過去の出来事に対応していることになり、そこでもずれが生じてくるとしても、そうしたずれが何をもたらすのかといえば、現状の中で起こっている出来事を理解したつもりが、もう済んでしまった過去の出来事を恣意的に解釈している過ぎず、そうなるといつも対応が後手に回ってしまい、それについて考えている時間だけ現在から遅れてしまうわけで、その程度の遅れなど大したことはないと思うかも知れないが、そこにずれが生じていることに気づかないと、場合によっては致命的な過ちを犯してしまうのかも知れず、それが過去の延長上で思考しながら行動しているうちに、突然の場面転換や突発的な出来事によって過去のしきたりや慣習に則った動作が通用しなくなっていることに気づけなくなるわけだが、そういう時にはその場で機転を利かす動作が必要になってくるのだろうが、そういった瞬発力や反射神経が伴う動作が過去の出来事を思考することによって養えるかというと、よくわからないところであり、それもそういった出来事を何度も経験しているうちに身につくことかも知れないが、経験とは違う何かが作用して瞬間的な動作がもたらされる場合もあるかも知れず、そんなことはその時になってみないことにはわからないなら、対処のしようがないことかも知れないが、そこで突然の心境の変化が訪れて、今まで入念に準備してきた手順を全て放棄して、それでもなぜか冷静になって事態に対処できたなら、なぜそうなったのかについて後からいくら考えてもわかりようがないことなのかも知れないし、たとえ何の準備もなくそんな対応ができたとしても、ただたまたまそうなっただけで、大して驚きもせず、それについては何の感慨も抱かないかも知れない。


5月23日「途中の感覚」

 そこで何かが起こっているのに、ちょっと考えただけでは何が起こっているのかよくわからないような感覚でいると、それからしばらく時が経って、何かのきっかけからそこで起こっていることがはっきりしてくるようなら、はっきりしてきた時には何かしら単純な理屈を当てはめるとそれが何だかわかるようなことになり、それが後から振り返るとそういうことが起こっていたのだとわかるようなことであり、そこでまだ何が起こっているのかよくわからない時には、その単純な理屈が当てはまらないからよくわからないのだろうが、そんな時期から単純な理屈を当てはめるとよくわかってしまう時期へと物事の成り行きが移行したと考えられるが、それがその時点ではっきりしてきた結果から振り返って、それ以前の段階ではよくわからなかったことを単純化して物事を捉えようとしていることの表れなのかも知れず、それによって何を見失うのかというと、成り行きの途中で何が起きているのかよくわからなかった時期の感覚や感触なのだろうが、はっきりした結果が出た後ではそんなことはどうでもよくなってしまうのかも知れないが、果たして結果がはっきりしてきた時点だけの印象から物事の成り行きの全体像を捉えても構わないのかというと、それでは成り行きの途中で何が起きているのかよくわからなかった時点での感覚や感触を無視してしまうことになるだろうが、結果がはっきりした時点では無視しても構わないようなことでしかないが、今がその時期なのかというと、そうでもなければ無視できないわけだが、もちろん全てがはっきりしていないわけではなく、すでにはっきりした結果が出ていることなど他にいくらでもあって、それらに関してはすでに決着がついているはずだが、それに関しても今後何かのきっかけから問題が蒸し返されてきて、そこからわけのわからない紆余曲折を伴って再燃してくるかも知れないものの、現時点ではそんなことにまでいちいち付き合っていられないから、すでに決着がついていることに関しては、いったん意識が離れてしまうのだが、その一方で今でも割り切れず、絶えず疑念を抱き続けていることに関しては、はっきりした決着からは程遠い状況だから、未だに何が起こっているのかよくわからず、それに関してはっきりした結論を得るに至っていないわけだが、そのどちらがどうというわけでもないが、まだ途中の段階であるならそれをこうだと断言するわけにもいかないし、断言できないからそれについては絶えず疑念を抱き続けているわけで、もちろんいつまでも疑念を抱き続けている状態の中で安住しているわけにもいかないだろうから、何かの機会を捉えてこれはこういうことだと断言したくなるわけで、それも絶えず断言したくなる誘惑にさらされていて、できればこうだと断言して決着をつけたいわけだが、それが実際に決着をつけるべく断言しようとすると、そこで思いがけない出来事が起こって、そこから思わぬ方向へと事態が脱線して行ってしまい、断言しようとする気がはぐらかされると共に、またわけのわからない紆余曲折に巻き込まれて迷走が始まってしまえば、まだ迷路の中で右往左往している段階にとどまっていることを思い知らされるわけだが、果たして現状がどうなのかというと、世界各地で迷走状態のただ中で右往左往している人や集団ならいくらでもいるだろうが、そうなっているからといってそうした人や集団が自分たちの活動の決着をつけたいのかというと、そこで戦いや争いの類いが生じているなら、争っている相手の人や集団との間で決着をつけたいだろうし、決着をつけるために争っている最中なのだろうが、争いのただ中で起こっていることが思いがけないことであったり、しかも事前の嫌な予感が的中したような驚くべきことであったりすれば、そんなことが起こる度にそんな出来事に関わっている人たちが、それに関わっている度合いに応じて一喜一憂する度合いも強かったり弱かったりするかも知れないが、出来事に意識がのめり込んでいる度合いが大きいほど、それに対して心が依存している度合いも大きくなるだろうが、依存したところでその対象がメディア経由で間接的に関わっている状態でしかなければ、客観的に見て直接関わっているわけではなく、どちらかといえば観衆や傍観者や野次馬的な立場でしかないだろうし、そうなると対象との関係が非対称であり、一つの対象に対して自身も含めてメディア経由で接している人が大勢いることになり、メディア経由で対象に関わっているつもりの大勢の人たちは力関係において劣勢に立たされていて、しかも個々に分断されて団結できないようなら、それらの人たちが決着をつけようとしてもその主導権がないことにもなり、メディアによってそういう間接的な関係の中に囲い込まれている人は決着をつけようとしてもつける権限のない不利な立場を強いられている一方で、直接戦ったり争ったりすることからも排除されているなら、決着がつくことによって負けて損失や損害を被るリスクも回避しているわけだが、果たしてそれが不利な立場なのかというとある面ではそうだが、別の面では不利どころか有利なのであり、実際に負けて損失や損害を被るリスクを回避している面では有利なのだが、負けるリスクを負わないと勝つこともできないから、決着をつける戦いや争いに直接参加していないことにもなり、有利も不利もないと思っておいても構わないが、そこに参加する必要があるのかというと、参加しようとしてもさせてもらえないかも知れないし、参加するには何らかの資格があって、その資格がない人は参加できないかも知れないが、参加することに意義があると思うなら、参加資格を得て参加すればいいだろうが、その資格を得るために右往左往している最中なら、まだ参加するに至っておらず、そうであれば自身で決着をつける段階にも至っていないわけだが、すでにメディア経由で興味を抱いた対象へと間接的に関わっているつもりになること自体が、わけのわからない紆余曲折に巻き込まれていて、直接関わっていないこと自体が関わっているとも言えないような状態でもあり、それは例えばメディアが行う世論調査の世論に自ら意見が含まれているかどうかがよくわからないような状況と似ているかも知れないが、そこでも自分が世論調査に直接応じて答えたわけでもないのに、世論調査結果に自らの意見を同期させたり同調できるかというと、そうする以前に違和感を覚えるかも知れないが、直接調査に応じて答えたとしても、あらかじめ決められている設問事項に沿って素直に選択肢の中から回答を選べるかというと、そこから外れるような意見を持っているなら違うような気がするだろうし、うまく合わせられないなら回答を拒否するしかないだろうが、そうなれば決着がつかずじまいになってしまい、争いや戦いを回避したことになるかというと、こちらから回避したのではなく、回答しないわけだから、相手にされていないことになってしまうだろうが、回答しないという選択肢があるわけだから、それを使わない手はなく、そういう選択肢があること自体が有利だと思うなら、戦わずして逃げていることにもなるだろうが、どこまで逃亡できるかといっても、沈黙を守っている限りで逃げていることになるかも知れないが、中には沈黙を守れずに抗議してしまう人も出てくるだろうし、メディアの方でも抗議するように仕向けるような罠を仕掛けている場合もあるかも知れず、そうなればメディアの術中にはまっていることになり、抗議する人向けのコンテンツをメディアが提供して、そうしたコンテンツに依存するように仕向けているのかも知れないし、そうなってしまうこともわけのわからない紆余曲折に含まれてくるとすれば、ではメディアが避けなければならないような都合の悪いこととは何かというと、メディアが提供するコンテンツを通さずに人が興味を抱いた対象と直接関わることであり、そうなるとメディアが中抜きや中間搾取ができなくなって、メディアそのものが衰退してしまうかも知れないが、果たして現状がそうなりつつあるのかといえば、もちろんそうではなく、逆に人々がメディアが提供する安易なコンテンツの虜となって、メディアに対してヤク中的な依存体質を深めているようにも感じられるだろうが、逆に人々が求めているものをメディアが率先して提供していると言える面もあるだろうから、人とメディアとが相互依存状態にあると言えるなら、そんなメディアに対して抗議したいのなら、まずはその相互依存状態から脱却しなければならないのかも知れないが、脱却しようとしてできるわけではなく、しかもメディアを通してメディアに依存しながらメディアからの脱却を目指すというかなり無理で矛盾したことをやろうとしていることになり、実際にそうなっているからこそ、現状でもわけのわからない紆余曲折が延々と続いているのではないか。


5月22日「実用性と汎用性」

 実用的な観点からすれば、実現しそうなことを実現しようとすることにそれなりの説得力があるような気がするが、実現しそうにないことを主張するのは、実現しそうにないから主張するにとどめているわけではないにしても、実現させるために尽力するというよりは、無い物ねだりの理想主義にも感じられてしまうと、そういった主張は支持が得られなくなる傾向にあるのかも知れないし、実際に実用性が高い産業技術などはすでにそれが実現しているから、何かそれが重要な技術であるかのように感じられるわけで、それに関して例えば半導体技術などは、それなしでは現代文明が成り立たないぐらい重要な技術となっているだろうから、その実用性の高さは誰もが承知しているところであり、また実用性が高ければ汎用性も高いと言えるかも知れず、様々な機械の制御機構には電子回路が組み込まれていて、そこで半導体技術が使われているわけで、そこまでは誰もがわかっていることだが、微小で複雑な電子回路の中をどのように電気信号が通過するかなんて専門家でなければ知りようがないし、半導体の原理も専門書でも読まない限りは理解できず、知識が不足している人には本を読んでも理解することが難しいし、実際にそれを理解している人もごくわずかしかいないだろうし、また莫大な設備投資をして工場を建設しないと、市場で流通できる品質の半導体チップを製造することもできないし、その方面ではごく限られた数の大企業によって市場が独占されていて、新規参入してくる企業もそれほど多いわけでもないだろうが、そういう意味で技術の実用性や汎用性が高くても、その技術を使って利益を出せるかというと、それとこれとは話が違うわけで、以前馬鹿なテレビタレントが金儲けのやり方を学校で教えろという趣旨の発言をしたらしいが、誰でも金儲けのやり方をその種の専門学校や怪しげなセミナーなどで習うことはできるだろうが、そこで金儲けのやり方を習った人が実際に金儲けに成功できるかというと、やはりそれとこれとでは話が違うことも誰もが承知しているだろうし、それに関して客観的に考えるなら、金儲けのやり方を教える専門学校や怪しげなセミナーで金儲けのやり方を習う人が大勢出てくるなら、その専門学校を経営する学校法人や怪しげなセミナーを主催する団体が金儲けに成功していることになり、そうした専門学校やセミナーで金儲けのやり方を教えている講師なども、メディアに数多く露出してその言動や立ち振る舞いが大衆の心をつかんで人気が出てくれば、多くのメディアから引っ張りだこになって、出演料や講演料や原稿料も高くなって、ユーチューブのチャンネルを開設していれば登録者数や視聴回数も上がって、その著作も売れるようになれば、金儲けに成功していることになるだろうが、そこでも誰もがそうなれるわけではなく、実態としてはごくわずかの限られた少数の人たちが金儲けに成功しているわけだが、そういうこととは逆に、実用性や汎用性がないようなことであって、多くの人が一生のうちで学校でしか習わず、しかも実社会に出ても何の役にも立ちそうにない古文や漢文などが不要だと思うのは、浅はかな人ならそう思うのも無理はないが、古文や漢文ならそれを通して言語の成り立ちが歴史的にどういう経緯で変遷してきたのかを知るだけでもためになり、またその内容を学ぶことによって文学的な素養が身につくかも知れず、例えば源氏物語の作者で有名な紫式部は漢文を学ぶことによって文学的な素養が身についたとされるのだが、さらには文章の文法的な構造を理解することによって、それと現代文との比較からその差異を認識できれば、現代文を記述する際に知識の引き出しが増えて、用法や表現の幅が広がる可能性もあるだろうし、そういうことを考慮するなら、学校では実社会に出てすぐに役に立つことだけを教えろと短絡的に考えてしまうのは、実社会では職業や趣味や生活様式も多種多様に細分化されてしまっているから、学校で習ったことの何がすぐに役に立つかもわからない状況があり、学校で教える内容に実用性が伴うのは、少なくとも実社会で働く時期が間近に迫った各種の専門学校や商業高校や工業高校などのレベルで教える内容になるだろうが、その一方で小中学校や普通高校や大学の教養課程などでは、できるだけ汎用性の高い内容を教えることになり、汎用性といっても学んだ内容を何に活用できるかがすぐにわかるようなことではなく、それも学び方にもよるだろうが、一般に考えて学べば学ぶほど知識や教養の深さや幅が広がる可能性があり、それが実社会に出てから自分や他人や集団の意図や思惑や意向や行動などの生態を知る上で役に立つかも知れないし、また社会や世界の成り立ちや成り行きなどを知る上でも役に立つかも知れないが、そうであるならある科目を単体で取り出して、その科目で教えている内容が実用性があるだのないだの汎用性が高いだの低いだのと論議しても意味はなく、複数の様々な科目が有機的に結びつき組み合わさって、総合力として実社会に出てからの自身の活動の役に立ったり立たなかったり、またそれが社会の役に立ったり立たなかったりすることもあるだろうし、それらの中で何と何が直接結びついて個々の活動の中で有効に作用したりしなかったりするのかは、マクロ的な視点からいくら考えてもわからないのも当然であり、もちろん専門家でもない限りはミクロ的な視点から考える必要もなく、それは機械を操作するのにいちいち機械に組み込まれている電子回路の中で行き交っている電気信号の伝達経路を知る必要もないことと似たようなことかも知れないが、専門知識としてそういうことを知っているつもりの人は、知識のひけらかしとしてそういうことを他人に伝えたくなるだろうし、自分はこういう細かいことまで知っていて実際に細かいことにまで気を配っているのだと自慢したくなるわけで、専門外の人がそういう自慢話を真に受けても何の役に立つとも思えないだろうが、それが役に立つことだと主張されると何となくその気になってそう思われてしまう場合もあるかも知れず、特に雑学として何でもかんでも片っ端から吸収したがる傾向のある人には、そういう内容も興味深く感じられるだろうし、何かの機会を捉えて知ったかぶりになってその種の知識をひけらかして悦に入りたい気になれば、実際にそんな機会を得られた際にはそんな役に立たない雑学のひけらかしも気休めの余興としては役に立ったことになるだろうが、そういう意味では仮に何かの役に立ったとしても、その役に立った程度や傾向において、人によっては大したことであっても別の人にとってはそれでほどでもなく、また同じ知識でもある人には役に立つが他の人には役に立たないこともありそうで、その知識が専門的な傾向になればなるほど、役に立つ範囲が狭まってくると共に汎用性も低くなってくるだろうし、中には役に立ってもその副作用として弊害も大きくなってくるようなものもあれば、果たして役に立つことが良いことなのか悪いことなのかがよくわからなくなってくるわけで、それに関して例えば地方自治体が地域経済の振興を目的として大規模なホテルに併設してカジノ施設を誘致することが何の役に立つのかということに関して、ホテルやカジノ施設の建設を請け負う業者の金儲けには確かに役に立つだろうし、またできあがった暁にはそのホテルを利用してカジノを楽しみたい観光客の役に立つことも確かであり、もちろんホテル業者やカジノ業者としてもそれらを利用する観光客が大量に押し寄せてくるようなら金儲けの役に立つだろうが、それが地域経済の振興に役立つと見込んで推進している政治勢力の役に立っているのかというと、結果的にホテルもカジノも業績不振で経済振興の役に立たなかったら、それらを推進していた政治勢力が選挙で勝てずに首長の座や議会での多数派の地位を追われるとすれば、カジノ施設の建設に反対していた勢力の役に立ったことになるかも知れないが、そこでも実用性と汎用性という観点から見るなら、カジノ施設にはカジノをやるだけの実用性しかないかも知れないが、実際には社交の場としてカジノがあるのだろうが、ホテルには他にも様々な目的で人や団体が宿泊しにやってくるし、ホテルに併設したレストランで食事することが目的でやってくる人もいるだろうし、また多くの人を収容できるイベント会場があれば、冠婚やセミナーや会議などのイベントも開かれるかも知れないし、そういう意味でホテルそのものは極めて汎用性が高く、その多目的の中の一つとしてカジノも付け足し程度に小規模で併設されるなら、カジノだけを強調して反対運動をやっている勢力としても、その運動に共感して建設の是非を問う住民投票の実現に協力している人たちにとっても、何か話が違うのではないかと思うかも知れないが、そういうことも含めて、現状で進行している事態がどういう成り行きを経てどういう結果をもたらすのかが興味深いところなのではないか。


5月21日「期待外れとは違う何か」

 世の中の先行きがどうなるかは現状では何とも言えないところだが、自らの先行きも定まらないように感じられるとしても、何がどうなろうとそうなった結果から振り返れば、そうなって当然のようなことになっているのかも知れず、これから先に何が起こるかも事前に予告されていて、予告通りのことが起こるのを楽しみにしながら生きているのかも知れないが、それが起こったところで何がどうなるわけでもないと、あらかじめ驚くことを拒否してもつまらないし、何が起こったところで、それが期待外れであればがっかりするしかなく、何か拍子抜けするような落胆を覚えるかも知れないし、それの何が期待外れだったとしても、期待していたこと自体が勘違いなのではなく、期待させるだけさせておいてから、それをわざと外すようなことが起こるのだから、それも毎度お馴染みのはぐらかしには違いなく、期待を外すようなことばかり起こるから、それが期待外れだと思うしかないのだろうが、勘違いしているからそう思うわけではなく、勘自体は合っていて、何かが起こるかも知れないと予兆を感じるのはそれなりに合っていて、そう思っていると実際に何かが起こるわけで、しかも期待を外すようなことが起こるわけだが、それが起こることを期待するから、その期待を外すようなことが起こると考えれば辻褄が合うかも知れないし、辻褄が合ったところで、期待を外れたことが起こって心が動揺しているわけで、期待したのは誤りだったのではないかと疑念を抱かせるわけだが、そこまで事前にわかるようなことではなく、そこまでわかったら期待などしないだろうし、そこまではわかりようがないから、何かが起こるのではないかと期待してしまうわけで、そういうところは心理状態としても辻褄が合っていて、この先どうなるかわからないから、都合の良いことが起こることを期待してしまい、その時点では何が起こるかわからないのだから、期待外れのことが起こる可能性も十分あり得るわけで、その十分あり得ることが起こったわけだから、期待外れのことが起こったところで、その可能性が十分にあったことが起こったのだから、それが取り立てておかしいわけではないのだが、おかしくはないとしても、それが期待外れであることには変わりなく、期待外れであるだけに落胆するしかなく、そうなって当然のことのようにがっかりして、都合の良いことが起こるのを期待していた自分が馬鹿だったことを思い知るわけだが、それを思い知ること自体も事前に想定されていたことであり、ある意味では予想通りの結果がもたらされたわけで、恐れていたことが実際に起こったわけだが、そういう意味では期待外れのことが起こることも期待の内に入ることであり、それが起こってしまって落胆した以外は、何がどうなったわけでもないはずだが、果たしてそれ以外に何を見出せるのかというと、期待外れなことが起こったのだから、そこからもたらされる否定的な印象についてならいくらでも語れるかも知れないが、期待外れなことが起こった後で肯定的なことや好意的なことを語れるかとなると、普通に考えてそんなことは語れないし、がっかりしているのだから否定的なことを語るしかないようにも思われるのだが、では否定的なことを語って何か得することがあるのかというと、何の得にもならないし、語るなら肯定的なことや好意的なことを語った方が前向きな気持ちになれるし、できれば夢や希望について語って良い気分になりたいわけだが、それが幻想に過ぎないとしても、現状ではあり得ない幻想を抱くことが、期待外れに終わった代償としてもたらされた結果であり、そんなことの繰り返しの中で、ちょっとしたことが期待通りだとか期待外れだとか思って一喜一憂している自らが愚かなのはわかりきったことだが、愚かだと思うことでさえも前もって予想していたことの範囲内で起こっていることだから、そういう方面では何も驚きはしないし、何もかもが予定調和の範囲内で推移していることでしかないが、そういった予定調和から外れるきっかけとなるのが、期待通りとか期待外れとかいった範囲から大きく外れる何かが起こることだとすると、果たして実際にそんなことが起こるかとなると、何かしら身の回りでも起こっていても、それに気づかなければ意識が予定調和の範囲から出られないのかも知れず、それが気づく必要のないことだとすれば、予定調和の範囲内で生きていられるだけで十分であり、大抵の人はその範囲内で間に合ってしまうのかも知れないが、それで間に合っている人が多いほど大して変化のない世の中になり、本当は絶え間なく変化し続けていて、人々が感じている予定調和の範囲外でも様々なことがひっきりなしに起こっているのに、意識がそれに反応しないわけで、反応せずに気づかないから、大して変化のない社会の中で暮らしている気になれるのだが、それが人々の思い描いている幻想と入り混じりながら、意識の中で内的な世界を構成しているのかも知れず、内的な世界があればその外側に外部の世界もあるような気にもなるだろうが、果たして予定調和の範囲内で思い描いている世界とその外側に広がっている外部の世界との間に境界があるのかというと、内的な世界を思い描けるのだから確かに境界があるのだろうが、これといってどこが境界なのかに関して、これだとはっきりと指し示すことなどできないだろうし、何かが起こってそれが期待通りか期待外れかのどちらかを感じている限りは、それは意識の内部で思い描く内的な世界の延長上で起こっていることだろうが、そのどちらでもないことが起こっているのも感じ取れるとしても、何かそうではないことが起こった時に、意識がどう反応するかで、自身の思い描く内的な世界の境界を越えたかどうかがわかってくるのかも知れないし、それに気づかなければ境界を越えていないことになるだろうが、果たしてそれに気づくことがあるかというと、まれにあるかも知れないが、たとえ気づいたとしても、急いでそれを内的な世界の基準に則って解釈し直して安心しようとして、それが意識の合理化作用だといえるかも知れないが、どんなことが起こってもそれを自分の都合の良いように解釈したくなり、その際にたとえ都合の悪い面も考慮に入れているとしても、思考によって対象を言語化して、言語によって表現できるように加工することによって、言語化できない事物は視聴覚化されたイメージとなり、さらには嗅覚化されたイメージも触覚化されたイメージもありそうで、そうやって意識の内部に対象を取り込むのだろうが、対象が物質であれば対照そのものは取り込めないが、対象のイメージは取り込めるから、内的な世界の中ではイメージが存在していて、その延長上に物質としての対象が存在しているわけだろうが、そうしたイメージと実物との結びつきが切れたところから外部の世界が始まっていて、イメージ化できない何かがそこには存在しているような気がするかも知れないが、何もないかも知れないし、何もなければ外部の世界をイメージできず、イメージできなければイメージできる事物だけで内的な世界が構成されるのだろうが、果たしてこの世界にイメージできない事物が存在しているかというと、イメージできなければ気づかない可能性があるとしても、そこには何かがあると漠然と思うことはできるし、出会う事物を片っ端からイメージしながら取り込んで内的な世界を拡大していけば、外部の世界を全て内的な世界へと取り込めるかも知れないが、出会えない場合もあるし、言語化も視聴覚化も嗅覚化も触覚化もできない場合もあれば、内的な世界にも限界があることになるだろうから、そういう事態を経験することによって、期待通りとも期待外れとも違う何かがそこに存在していることがわかるかも知れないし、わからなくてもそれがあることに気づかなくても、何不自由なく生きていけるならそれに越したことはないが、逆に外部の世界があることに気づいて、それがイメージできない事態にも直面してしまうと、何不自由ないどころか不自由なことがいくらでもあり、外部の世界が内的な世界の中でイメージできるようなものではないことにも気づいてしまうだろうが、そんなことは内的な世界をイメージする以前からわかっていることかも知れないが、世界のイメージ化とは関係のない方面から作用や影響を及ぼしてくる事物が確かにあり、それがメタバース的な内部世界を破壊しようとしているのでも侵食しようとしているのでもないが、何か意図や思惑や目的を持って作用や影響を及ぼそうとしているわけではなく、内的な世界のイメージ化が期待外れに終わることを告げているとも言えないものの、そういったイメージ化とは違う何かがあることを告げていて、それが外部の世界の存在を明らかにしているなら、そんなことも世界の内部化が始まる以前からわかりきっていることかも知れないが、わかりきっていることを改めてわかる必要も感じなければ、相変わらず内部の世界で自足していることになるのかも知れない。


5月20日「正常と異常の程度」

 現状で事態が正常化に向かっているとすれば、落としどころを探っている状況かも知れないが、どこで妥協できるわけでもなく、妥協したくないのに妥協させられるようなら、不満を抱くのも当然だが、すでに不満が残るような結果となっているなら、妥協してもしなくても不満が残ることには変わりなく、どちらにしても不満が残るなら、ここはいったん妥協しておいた方が得策なのかも知れないが、それができないとなると、ますます事態がこじれてくるだろうが、事態をこじれさせた方が有利になると考えるなら、今よりさらにこじれさせようとするかも知れないが、これ以上こじれると今よりさらに状況が悪化する危険を感じるなら、泥沼にはまって身動きが取れなくなる前に、この辺で妥協して何とか事態を収拾しようするのだろうが、収拾しようとしてできるならそれに越したことはないが、もうすでに収拾不可能なほどに事態がこじれているようなら、このまま事態を放置しておくのも選択肢としてはあり得るかも知れず、後は自然の成り行きにまかせて、行き着くところまで行き着いてもらうしかないと覚悟を決めて、腹を括っていれば、自ずから道が開けてくる可能性もあるかも知れないが、それが紛争の当事者や関係者が思ってもみなかった結果をもたらすなら、その時点で何かが解決したことになるのかも知れず、何も解決していないように感じられても、解決からは程遠い状況であっても、事態が何らかの進展をみせて、しかもその進展の仕方がわけのわからない紆余曲折を伴ってくると、ただでさえ面倒な事態に巻き込まれているのに、それに輪をかけて面倒なことになって、関係者の心身の消耗も尋常ではなくなれば、疲れから普段では考えられないような判断ミスも度々犯してしまい、そうなるとすでに泥沼にはまって身動きが取れなくなっていることを自覚するかも知れないが、それも自然の成り行きだと思うなら、あきらめの心境に至って、結果を受け入れる気になれるかも知れないが、そんな作り話を想像してみたところで何がどうなるわけでもなく、自身の粗雑な体験談に何かもっともらしく思われるような脚色を加えたところで、その気になれるような現状でもなければ、そこに至る成り行きと自身の感覚との間にずれが生じていて、そのずれた感覚がその場の状況やそこに至る成り行きや至った結果に関して納得できなくさせているのかも知れず、納得できなくても不満が残っても、その場で起こっている出来事に関わっている限りは、その場の成り行きに合わせないとうまく対応できないし、対応したところで思惑通りに事態が進行するわけでもなく、絶えず感覚をずらされるような思いがけない成り行きに困惑させられながらも、その度ごとに対応を修正していかないと、出来事に関わっていられなくなり、意識がそこから外れていってしまうのだろうが、そうなればなったで、無関係になれるに越したことはないわけだが、そこから逃げようとすれば出来事の方が追いかけてきて、巻き込もうとしてくるようなら、何かの引力によって引き寄せられて、出来事に誘惑されていることになるのかも知れないが、逆に関わろうとしても自然に外れていってしまうようなら、向こうから関わることを拒んでいることになるのだろうが、逃げようとすれば追いかけてきて、こちらから向かっていけばはぐらかされてしまうようだと、何をしたいのかどんなことをしてほしいのかよくわからなくなるわけで、勝手に巻き込んでおいて、用がなくなれば捨てられてしまうような出来事に関わっているようなら、使い捨ての消耗品扱いだと言えるだろうが、そうではなく、何かそれと特定できる意図や思惑など感じられないような出来事に巻き込まれているのだとしたら、成り行きには筋も脚本もなく、ただ行き当たりばったりで事態が進行しているだけと言えるかも知れないが、そこに何かしら人や集団が介在していれば、それなりに意図や意向や思惑もありそうで、関わっている人数が一人や二人ではなく、多くの人や集団が関わっていれば、各々の意図や意向や思惑も違ってくるようなら、関わっている人や集団の間の力関係にもよるだろうが、その中で有力者でもない個人の意図や意向や思惑通りになるはずもないだろうから、その場の成り行きと自身の感覚がずれてしまうのも当然だろうし、自分の思い通りにならないからといって、思い通りに事態を動かせるような力がなければ、そうなるのはわかりきったことだが、その場の成り行きに意識や行動を合わせられるなら、ある程度は成り行きがどうなるかについて予測や予想が可能かも知れないが、予測通りや予想通りの成り行きになったとしても、それが自分の意図や意向や思惑通りだと思えるかとなると、それとこれとは違うことかも知れないが、予測や予想をすること自体が目的なら、自らの予測や予想通りの結果を得られて満足するだろうし、また予測や予想をする上で何らかの理屈や理論の裏づけがあるようなら、その理屈や理論の確かさに納得するだろうから、それが自分の意図や意向や思惑通りの結果だと思い込めるだろうが、それでも自分の力でその場の成り行きを制御しているわけではなく、たまたま予測通りや予想通りの結果が得られただけだから、自らの力を過信するわけにはいかないだろうが、その場の成り行きに自身の感覚を合わせることに関しては自信を持てるだろうから、そこで自分の思い通りのことができているような感触を得られて、それに伴っておかしな錯覚を覚えるのかも知れず、それがその場の出来事に直接関わっている当事者の感覚とその場の成り行きがどんな結果をもたらすかを予測したり予想したりする人の感覚の違いとなるのだろうが、もちろんその場に直接関わっている当事者も自らで今後の成り行きを予測したり予想しながら行動するだろうし、場合によっては成り行きを予測したり予想したりする人に助言を求めるようなこともするかも知れないが、直接関わっているわけでもないのに傍観者的な立場から勝手に成り行きを予測したり予想したりする人を信用できるかというと、信用できるような理屈や理論に基づいて予測や予想をしているなら信用してしまうわけだが、またその場で起こっている出来事がそこに関わっている誰もが制御不能であるなら、それに関して予測や予想を専門にやっている人を信用するしかないだろうが、信用したところで誰もが制御できないことがわかっていれば、意識や行動を成り行きに合わせようとしても、それなりにずれが生じてくることも承知しておかなければならず、そのずれが大きいほど異常事態が起こっているような感覚になるかも知れないが、逆にずれが小さければ予測通りや予想通りのことが起こって安心するだろうし、予測や予想の裏づけとなる理屈や理論から事態を捉えるなら、正常な成り行きで物事が推移しているように感じられるだろうが、そこで見落としていることがあるとすれば、それが何かが起こった結果からそれに合う理屈や理論を当てはめていることであり、それも事前に予測や予想をしているにも関わらず、事後的にそういうことをやっているから、それなりに予測や予想と起こった結果との間でずれが生じているとしても、事後的にそれについて語る中ではうまく言語レベルで調整が行われて、予測通りや予想通りのことが起こったように説明されてしまえば、そういう説明を聞いて安心してしまい、何か正常に物事が推移しているように感じるなら、説明に騙されているわけではないにしても、出来事から覚えるずれとか違和感などが説明からもたらされる好印象によって覆い隠されていることに気づけなくなっているわけだが、結局は出来事に直接関わって途中でわけのわからない紆余曲折や思いがけない不意打ちや落とし穴のような罠にかかって動揺したり困惑したり苦悩したり右往左往しながらも、やっとのことで結果らしい結果に辿り着いて、それでもかろうじて生き残っている自らがやってきたことに関して、事後的に理路整然と理屈や理論通りに説明されるようなら、しかもそうなったのが予測通りであり、予想通りの結果を得られたに過ぎないことであれば、何か違和感を覚えるのが普通だろうし、それまでやってきた死に物狂いの努力や労苦はいったい何だったのかと拍子抜けしてしまいそうだが、そうなるべくしてなるようなことが起こるなら、それが正常な成り行きだと思うしかないが、仮にそうならずに思いがけずおかしな方向へと逸脱していってしまっても、そうなった結果が何とでも説明できるようなことであれば、それも正常な成り行きの範囲内で起こっていることになってしまうのかも知れないが、そこに至る成り行きが正常であろうと異常であろうと、誰もその成り行きを制御できないことであれば、事前にどんなに信用できそうな予測や予想をしてみたところで、それ自体が言葉で説明していることに過ぎなければ、事後的にもどうとでも説明可能なことになるのかも知れない。


5月19日「利益の獲得」

 それに関しては多少はわからないことがあっても、わからないままに行動している実態もあるが、それがどんな行動なのかといえば、何でもないようなことをやっていて、やっていることが空回りしているような感じになってしまうのかも知れないが、それが何なのかということが相変わらずわかっていないわけで、わかっていないにも関わらず、それに関して何か語ろうとしているのだろうが、相変わらずうまく語れていないような気がするから、そうではないような気がしながらも、そうではないようなことを語るしかないのだろうが、何がそうではないのかというと、それもわからなければ意味不明のままになってしまいそうだが、それでもやっていることに意味があるのかというと、意味を見出そうとしているのではなく、実質的な成果を得たいわけで、その実質的な成果が何なのかというと、それも成果が得られてみないことには何もわからないのかも知れず、何だかわからないまま相変わらずの暗中模索でしかないのだから、狭い範囲内で派閥争いをやっているような人たちとは無関係なことなのかも知れないが、直接には無関係であっても、間接的に何らかの影響を被っているから、何やら他人のやっていることが気にかかるのだろうが、その他人のやっていることの大抵が功利的な仕掛けであって、利益を得ようとして結果的には逆に損失を被るようなことを仕掛けているわけだが、それも大半の人が損失を被っている中で、損失を被った分を獲得できれば、その分が利益となるわけだから、中には利益を得ている人もごくわずかにいて、そこでゼロサム的な原理が成り立っていれば、多くの人たちが被った損失の総量が甚大な額に上れば、途中で生じるロスもあるから、それをそっくりそのまま得られるわけではないものの、ごくわずかな人が得られる利益もそれ相応に大きいわけだが、その利益というのが幻想に過ぎなければ、被った損失も物質的には大したことはないのだろうが、それを自然破壊や環境破壊のような深刻な被害だと騒ぎたい思惑もあるなら、何か莫大な損失を被ったような気になれるのだろうが、単なる数値情報でしかなければ幻想ではないとしても、大して痛みも感じないわけで、それによってどこかで誰かが得をしたことが別の誰かが損をしたことになるとしても、そこで生じた損と得を直接結びつけられなければ因果関係や相関関係もわからないままとなり、自らが利益を得ようとして何をやったのかよくわらないような紆余曲折の果てに感じるのは、小さなところでちょっとだけ儲けようとしても、世界がそれを許してくれないのであり、せこく振る舞おうとして事細かに段取りを決めたのに、いざそれを実行に移してみると、なぜかそれを全てご破算にするようなちゃぶ台返しが待っていて、お前はそんなみみっちいところでみみっちいことをやる必要はないという神のお告げまで下されれば、呆気にとられて、では何をやればいいのかと自問自答するかも知れないが、答えはいつも風の中にあるわけでもなく、やる必要のないことをやるしかないように世の中ができていることにも気づくかも知れないが、それだけでは済まないのであり、それも大抵は自身の気づかないところから利益がもたらされて、それを使ってかろうじて食いつないでいくことになると、それによって自分の力で生きているわけではないことにも気づいてしまえば、では今まで苦労して積み重ねてきた努力は無駄だったのかと思って落胆してしまうのかも知れないし、何かそうではなく、少しは努力が報われたことを知らせてほしいような気休めまで求めてしまうかも知れないが、そんなことにはお構いなく、どこからともなく富がもたらされて、それを消費するだけ体力も消耗させられて、消耗した分だけ老いて、誰もが自らの天寿を全うするように仕向けられてしまうから、中にはそれに逆らって自殺したくなる人も出てくるものの、それも大抵は外的な要因や内的な損傷が祟って、病によっても寿命を縮められるから、自殺する暇も与えられずに、病と格闘しながらも心身を消耗させられてしまうだろうが、そうなるのを避けなければならないわけではなく、それを誰もが体験しなければならない通過儀礼となるように社会ができていて、それが人の通常の生態となるように自然環境が構成されているから、それを自然破壊や環境破壊に結びつけて考えるのも間違っているように感じられるのだが、ではどのように考えればいいのかというと、自然破壊や環境破壊が起こっている最中で、それらを利用して利益を得ようとしているわけで、そこから利益が得られると考えるなら、それらの破壊がもたらす損失や損害が利益となると考えるしかなく、例えばその最たる破壊的な自然現象として戦争が思い浮かぶかも知れないが、もちろんそれが自然現象などではなく、人為的な破壊現象だと思われるだろうが、破壊によって損失や損害がもたらされるのだから、それと同時に利益ももたらされて、その利益が武器や兵器を提供する軍需産業の利益である他にも、そこで何らかの事態を進展させていて、それが幻想や気休めとは違ったリアリティーをもたらしているのかも知れないが、果たしてそこから感じているリアリティーがそう感じている自らに利益をもたらしているのかというとそうでもないような感じもして、そう感じている自身に直接利益がもたらされているのではなく、世界全体に利益がもたらされているようにも感じられて、そんな利益の全体からすれば自身にはほんの少しの利益しかもたらされていないから、それを直接自分に向かってもたらされた利益だとは感じ取れないのかも知れず、それよりは破壊が直接もたらす損失や損害の方が遥かに刺激を受けるから、心が動揺するわけで、何か遠くでとんでもないことが起こっているような実感も得られるから、それが深刻な事態だとすぐにわかるわけだが、それも部分的にしかわからないから、それらの全体が自らに何をもたらしているのかが、自分には理解できないのかも知れないが、それが大規模なリセット現象だとは想像がつくものの、そのリセットによって誰が得をするのかもよくわからないし、果たしてそこでリセットする必要があったのかも、戦争をしている当事者にはその必要がなかったのかも知れないし、その必要もないのにそれまでに各方面の努力によって構築されてきた利害関係がいっぺんにリセットされてしまうわけだから、何かそれが不条理のように感じられるかも知れないが、すでにその時点でそれらの関係が飽和状態に達していたから、ある時点で不意にリセットが作動する機会がやって来たのかも知れず、そういう意味ではそこで戦争が起こるのは必然的な成り行きなのかも知れないが、当事者にとってはこれまでに築き上げてきた信用や信頼関係が突然無効化してしまうわけだから堪ったものではないが、そうなった時が新たに利益を獲得するチャンスと言えるわけで、リセットが起こった機会を逃さずに行動して、新たな関係を構築する過程で自ずから利益が生じてくると考えておけばいいのだろうが、もちろん利益だけが生じてくるわけではなく、関係によっては損失も損害も生じてくるから、そこからリアリティーを感じられるのだろうが、そう都合良く利益だけを取り出せないところが厄介なところでもあり、絶えず利益と共に不都合な関係もまとわりついてくるから、それを振り払おうとすればトラブルとなり、関係もそれに伴ってこじれてくるから、そこからも不条理な思いが生じてきて、良かれと思ってやったことが手のひら返しのような反応を招くと、それをネガティヴに受け取るとますます事態がこじれてくるから、そこでそういった作用をかわすには、無視するなり適当にあしらうなりして、なるべく直接反応しないように心がけておく必要があるのかも知れないが、それも間接的な影響にとどめておくための技術的な作法に含まれてくるかも知れず、そこで思い通りに事が運ぶように機転を利かせようとしても、それ以前に思い通りにならないようにされてしまっているわけだから、その時点ですでに何かの術中にはまっているように思えばいいのだろうが、その何かというのが、特定の相手がいるわけでもなければ、自らが巻き込まれている成り行きがそうなっていて、そこでもややこしい事態に遭遇しているような気がするとしても、それも勝手な思い込みかも知れないし、そう思い込んでしまうこと自体も勘違いかも知れないが、そこでは勘違いであっても、後から勘が働いて勘違いを修正してくれることを期待するしかなく、そこでわざと失敗しているように思われるなら、それも都合の良い勘違いだとしても、やはり失敗することに成功しているような思いを実感してしまうわけだ。


5月18日「当然の成り行き」

 特に意表をついているわけではなく、何と格闘しているとも思っていないが、結果的には言葉と格闘しているような気になりながらも、言葉ではなく現実に起こっていることについて語りたいのだろうが、語ることと格闘するのは違うことだが、言葉と格闘しているように思われるなら、語りたいことをうまく表現できないから、まともな内容が伴ってこないのかも知れないが、語れることならいくらでもあって、ニュースネタならいくらでも語れるはずで、例えばふざけるのではなく大真面目に世界情勢について語ってみれば、そういうことを語っているつもりの識者の真似事になってしまうだろうが、つもりなのではなく、直にそれを語っているつもりになれるかというと、今もそのつもりになっていることは確かだが、やはりまともな内容が伴ってこないから、まともではないことになりそうだが、それでも単純なことならいくらでも言えて、例えばウクライナ情勢に関してなら、ロシアがウクライナへ軍事侵攻したのを目の当たりにして、北欧のフィンランドとスウェーデンが自国がロシアに攻め込まれた時に守ってもらうためにNATOに加盟しようとしているのは当然の成り行きだが、それをトルコが阻止しようとするのは、トルコがクルド人組織を弾圧していることに抗議して北欧二カ国が武器の輸出を制限したことに反発しているわけだが、北欧二カ国としては中国がウイグル族を弾圧していることにも抗議しているわけだから、トルコがクルド族を弾圧していることにも抗議するのは当然だろうし、それだけ人権意識が高いわけだが、そうであるならウクライナでも民族主義者によってロシア系住民が弾圧されていることには抗議しないのかといっても、それとこれとは成り行き上同等に扱うわけにはいかないだろうから、それに関しては今回の戦争が終わってから対処すべきことになるだろうが、アメリカでも白人至上主義者が黒人を無差別に銃撃した事件が発生しているから、それに対して人権意識の高い人たちが抗議するだろうし、もちろんアメリカ政府にとっても人道主義的な観点から白人至上主義は認められない主義主張になるわけだが、ウクライナでもロシア系住民がウクライナからの分離独立を目指しているから、それに呼応して民族主義組織が活動を活発化させる口実になっているわけで、それ以前に親ロシア系勢力と欧米寄りの勢力との対立が表面化していて、ロシアとしてもウクライナを自国の勢力圏に留めたい思惑があるから、欧米寄りの大統領候補を毒殺しようとした事件もあったし、何かとウクライナに対して圧力をかけていて、そんな成り行きの延長上で今回の軍事侵攻が起こったわけだろうが、国家的な思惑からすれば自国の勢力圏だと認識していた国が対立する陣営へ行ってしまうのは全力で阻止したいだろうが、その原因が自国の覇権主義にあることまでは国家的な指導者気取りの政治家には考えが及ばないことかも知れないし、何よりも国家的な統治形態の傾向が民主主義をどう扱うかで、統治される立場の民衆の意向も変わってくるし、民衆からすれば言論の自由も制限されるような強権的な傾向のロシアや中国よりは、言論の自由が尊重される欧米諸国の仲間入りがしたいだろうから、ウクライナがロシアの勢力圏から離れて欧米寄りになるのも当然の成り行きだが、それとは反対に独裁的な政治体制のベラルーシやシリアがロシアと親密な関係を維持しようとするのも当然の成り行きになるが、それはまた東アジアでも言論の自由が尊重される台湾の住民が言論の自由が制限される中国に併合されたくないと思うのも当然だろうし、国家的な統治形態として民衆が許容できる最低限の基準が、言論の自由が尊重されることだとすれば、そういう基準を満たしていない国には住みたくないと思うはずだが、言論の自由を政府が認めてしまうと、中国ではウイグルやチベットが独立しようとするかも知れないし、ロシアでも少数民族が独立を画策する可能性もあるだろうから、また言論の自由が尊重されているスペインでもカタルーニャやバスク地方がスペインからの独立を画策したこともあるから、政府に対して反抗的な態度をとる住民には抑圧的な姿勢で臨む傾向になるのも当然の成り行きであり、そういう傾向がエスカレートすれば強権的な独裁体制になってしまうだろうが、その顕著な事例としてトルコもあるだろうし、過去にはアルメニア人を百万人単位で虐殺した経緯もあったが、最近ではトルコからの分離独立を目指すクルド人勢力に対して弾圧を繰り返していて、クルド人勢力の方でもトルコとイランとイラクとシリアに勢力圏が分断されていて、それらを一つにまとめて統一国家を作りたいという思惑があるだろうから、各国で独立運動を起こせば当然のことながら各国の政府から弾圧されてしまうわけだが、その一方で政府が国家の統一を維持するには言語や宗教などの文化的な一体性を通じて民族意識を鼓舞してきた歴史的な経緯もあり、一つの国家の中で言語や宗教が異なる複数の民族が共存していると、それが紛争の原因となりやすく、紛争が起これば政府に対して反抗する住民の言論を抑圧する傾向となりやすいし、武装蜂起などが起これば言論弾圧どころか武力弾圧を行なって多数の死傷者を出すことにもなるだろうから、そんなことを繰り返している強権的な政府に対して、人権意識の高い他の国の政府が、その国の世論や民意を意識して何らかの制裁を加えるのも当然の成り行きとなるだろうが、そうしたことの延長上で今回のウクライナ紛争も起こっているわけだから、何かうまい解決法があるわけがなく、他国の領土に軍事侵攻したロシア政府を非難することは簡単にできるものの、それに対して経済制裁してウクライナへ武器を供与している欧米各国のやり方を支持することも批判することもできるだろうが、一方的に支持したり批判している人に同調できるかとなると、紛争の原因となっている国家的な矛盾をどうすることもできないわけだから、うまくいかないことがわかりきっているのにそれを無視するわけにもいかないし、そういう意味では安易に同調することはできないが、アメリカのやり方がまずいとか批判している人に対して何か言いたいことがあるわけでもなく、そうかといってロシアの肩を持っている人を馬鹿にしたいわけでもなく、どちらにしてもそういうことが言えるということであり、それらの何が正しくて何が間違っているかを決めつける気にはなれないが、そこでも簡単に言えることは、そういう方面での言語や宗教などの生活習慣の違いや外見から生じる人種的・民族的・文化的な異質性を解消しようとするよりは、違うことを認め合う許容度を高めるためにも時間をかけて経済格差をなくす努力が必要となるかも知れず、それも現状ではできないことに含まれてくるだろうが、どちらかと言えば他者を許容するよりは対立していた方が楽だろうし、倒すべき敵がいて競争する相手がいないと味方同士で連帯できないし協力し合えないから、その倒すべき相手として格好の攻撃目標となるのが、現状では独裁的な強権体制をとりながら民衆を弾圧している国の政府となるわけで、それが中国やロシアやその衛星国家として北朝鮮やミャンマーやシリアやベラルーシなどがある一方で、グレーゾーンの国としてもトルコやイランや専制体制の中東の王国などもあるし、アフリカ諸国なども含めてそれらの国々が民主化されれば敵がいなくなるかというと、今のところはそうはなっていないわけだから、絶えず敵を作り出すようなシステムも作動している可能性があるだろうし、それが経済的な面での競争関係であり、何らかの原因で国内経済が苦境に陥ればそれに連動して政治的にも混乱が起こって、そうした混乱状態を収拾するには独裁的な強権体制が必要になってくるわけで、ロシアにしてもソ連の崩壊の後に経済的な苦境を乗り越える過程で民主派勢力が駆逐されて独裁的な強権体制が構築された経緯があり、そういった過程を何度も繰り返さないと民主的な政治体制へと移行できないのかも知れず、これからも長い年月をかけて徐々に民主派勢力が形成されてくるのかも知れないが、そうなる期間というのが欧米諸国の事例から考えても百年単位の時間が必要となるなら、まだこの先も現状のような世界情勢が延々と続いていくのではないか。


5月17日「経済規模と人口」

 ちょっとふざけたことを述べるなら、その真偽のほどは定かではないが、何となくそう思われるようなこととしては、資本主義経済は働く人と働かなくてもいい人を作り出すシステムであり、働いて賃金を得て生活する人が人口の大半を占めるわけだから働く人が要るのは当然だとしても、金融資産の増加によって働かなくてもいい人を増やす効果もあり、どれほどの人が働かなくても済むかは、富裕層の人口増加が示しているはずだが、基本的には経済の発展によって人口増加をもたらすシステムであり、人口が減少する国も中にはあるわけだから、一概には人口増加をもたらすとも言えない面もありそうだが、一応は経済成長に伴って人口が増える反面、逆に経済成長が鈍化すれば人口増加も頭打ちになると共に、経済がマイナス成長になれば国力の衰退が始まると共に人口減少も起こりそうだが、それも経済が衰退したから人口が減少したのか、人口が減少したから経済が衰退したのかについては、どちらが先でどちらが後というわけではなく、同時並行して起こっていることだと見ておけばいいのだろうが、一時的で一過性の減少なら経済の衰退がそれほど顕著には起こらないだろうが、長期的に人口が減少の一途を辿っているようなら、明らかに経済成長はそれほど見込めないと思われるものの、長期的な視点で考えるなら、経済の持続的な発展に伴って、その経済を支えている主要な産業も移り変わっていく傾向があるだろうし、昔は主流だったが、今では衰退してしまった産業などもいくらでもあるわけだから、産業の特徴に合わせてその産業に従事する人の人口も変化するなら、果たしてどれほどの人口が現状で主流となっている産業にとって必要なのかということが、はっきりとわかっているわけではなく、結果的には現状で生存している人の数だけ資本主義経済が支えていることになるだろうが、それが経済規模に見合った人口であるならそれで構わないようにも思われて、さらに言えば経済がプラス成長であるにも関わらず人口が減少しているなら、一人当たりの富がそれだけ増えることになるだろうから、より豊かになっているはずだが、そんなことがあり得るかというと、理屈の上では労働生産性が上がればそうなるのだろうが、また自らが住んでいる地域がそれほど経済成長していなくても、経済成長が高い他の地域に投資して、投資に成功すれば資産が増えて豊かになれるかも知れないが、それには投資する資金がなければ投資そのものができないわけだが、もちろん現状の日本で労働生産性が上がっているわけでもなく、また預貯金を投資に回したところで、必ず投資に成功するとは限らないし、投資する人が豊かになるというよりは、投資を専門に行う金融機関の食い物になってしまう可能性もあるから、長期的に人口が減少の一途を辿っている日本で暮らしている人の全てが豊かになれるわけでもないのはわかりきったことだろうが、だからといって昔の高度経済成長期には誰もが豊かであったわけでもなく、どちらかと言えば貧乏な人の方が今より遥かに多かったかも知れないし、今と昔とでは比較の対象にならないというなら、現状の世界で日本がどうなのかといっても、比較対象を恣意的に選べば、日本の衰退を強調できたりできなかったりするだろうが、では他と比べてどうということではないとすれば、求めているのは経済成長でも資産の増加でもなく、例えば現状で困っていることを何とかしてほしいということなのかというと、それよりは誰もが余裕を感じながら生活できればそれでいいのかも知れないが、必ずしもそうはならないところが昔も今も変わらないところであり、いつも生きられるぎりぎりのところで生活しなければならないとしたら、何がそうさせるのかといっても、そうなるようなシステムになっているとしか言えないのかも知れず、それが余裕のない競争社会の特徴かも知れないが、必死になって生きている限りで生きられるという実感が誰もが抱いているわけでもないとしたら、余裕のある人とない人との間でそれなりに格差があって、その格差が余裕のある人への羨望の眼差しとなって、それが競争を激化させると見ても、それも誰もがそんなことを自覚できるわけでもなく、若い頃に忙しなくあくせく働きながら日々を過ごしているうちに、富を蓄えられるなら、老後に蓄えた富を使って余裕綽々の日々を過ごせるかも知れないが、現実にそういう日々を過ごしている老人が多ければ、そういう老人は現状の維持を望むだろうが、そういう日々を過ごす見込みのない人が多ければ現状の変革を望むかというと、それが現状ではわからないのかも知れず、それが政治の力でどうにかなるような問題だとは思えなければ、やはり政治的にも現状の維持を望むのかも知れないが、望んだところで、維持しようとして現状が維持されるのではなく、否応なく現状が維持されていて、現状を変えようとしても維持されるような現状であるなら、確かに政治の力でどうにかなるようなことではないのだろうが、それでも政治に対して何か幻想を抱かなければならないとしたら、現状で何か困っていることがあるから、政治に期待するのだろうが、そうであるなら政治に対して困っていることをどうにかしてほしいと要望を出すべきであり、それが実現不可能なことであっても、そうした要望を出す対象が政治なのであり、実際にそれが無い物ねだりとなってしまうとしても、無理難題のような要望を出して要求し続けないと、政治の方でも現状維持にとどまってしまって、民衆の方でもそれ以外には何もできないことに納得してしまうと、政治そのものの存在意義がなくなって、司法と行政だけで間に合ってしまうわけで、そうなると政治家や政党が存在する分が無駄に費用がかかっているだけとなって、その分が経済的には損失でしかなく、人々がその分で負担を強いられていることも無駄となってしまうから、どうなるにしても政治を利用して何かやらせようとしなければならず、現状を変革する方向で何かしらやってもらうしかないだろうし、そういう意味でも現状維持はあり得ないし、政治家や政党の存在意義としては現状の維持ではなく、絶えず現状の変革を促すのが政治の役目であり、それとは真逆の現状の維持ならそれは行政の役目となるだろうが、現状でうまくいっている面もあるにも関わらず、現状を変革しようとするのは余計なことのように思われるかも知れないが、それも現状を変革しようとして変革できるとは限らず、逆に変革に失敗した時が真の意味で現状の変革になるかも知れないし、変革の失敗をもたらすことが政治の役目だとは思えないだろうが、失敗しないと変革がうまくいかないとしたら、そんなことには誰も納得できないだろうが、思い通りに現状を変革すること自体が現状維持につながるというのも不条理かも知れないが、現状を維持していること自体が、長期的には経済の衰退を招いていることだとすれば、衰退し続けていること自体が現状維持でもあり、何かそこで思い違いがあるのかも知れず、それを思い違いだとは思えないような成り行きがあり、それが現状の変革に成功している現状だとは感じられないだろうが、そんな衰退のただ中にいれば、現状の経済規模に見合った人口になっていることがわかるのかも知れないが、それとは違って経済成長のただ中にいることがどういうことなのかというと、絶えず過剰な人口を抱えているから、その過剰な分が経済成長をもたらすといっても納得し難いかも知れないが、人口が過剰だからこそ、その過剰な人口を労働力や商品の購買力として利用することで経済成長が実現するわけで、経済規模に見合った人口では余分な部分がないから、成長の余地がなく、結果的に現状の維持にしかならないのだろうが、普通に考えて過剰な在庫を抱えているのはそれだけ経費がかかってしまうから損だとしても、過剰な在庫を生み出すだけの過剰な労働力と、過剰な在庫を買えるだけの過剰な購買力を想定できるわけで、そんな過剰性から利益が生まれるとするなら、絶えず資本主義経済へと過剰な人口が供給され続けなければ利益も生まれないことになるだろうが、どこからかその過剰な人口が供給される必要があるとするなら、それが社会に適応できずに失敗した人々の存在であり、実際に政治の変革に失敗したから、その地域では人が余分には暮らせなくなって、どこか他の地域へと移動しなければならなくなるわけで、その原因が経済改革の失敗であったり、さらにそこからこじれて戦争にでも至れば、そこからよその地域へと避難せざるを得ない人も出てくるだろうし、そうなるとその地域の経済規模に見合った人口にも変動が生じて、それが過剰な人口であれば、その過剰な人口を利用して経済成長が実現するのかも知れない。


5月16日「都合の悪さ」

 都合が悪いことをあえて明らかにする理由がなければ、わざわざそんなことを暴露する必要もないはずだが、何に関して都合が悪いのかといっても、それがわかってしまうのも都合が悪ければ、それも明らかにするまでもないことであり、では何も語らないのかというとそうでもなく、些細な感情の行き違いに執拗にこだわって言い訳じみたことを言って、そんなことしか言えない自らの不甲斐なさを正当化してみせるのも、自己顕示欲の強さを物語っていることになりそうで、そういう次元で何を語ってみても、自意識過剰である以外には何の意味もないことになってしまいそうだが、確かめようとしているのはそんなことではなく、例えばそれが個人的な都合の悪さとは無縁の社会的な都合の悪さや、場合によっては国家的な都合の悪さになるかというと、個人にとって都合が悪いことが社会にとっても国家にとっても都合が悪い場合もあるはずで、そうなるなら個人と社会と国家とが都合に関して利害を共にしていることになるはずだが、それに関して例えば社会や国家が何らかの理由から瓦解しつつあるのはその中で生きている個人にとっては都合の悪いことかというと、少なくとも国家に関しては国家を統治する政府にとっては都合が悪いことになりそうだが、社会や国家の混乱に乗じて何かやろうとしているなら、願ってもない機会が到来したと感じる人や集団が出てくるかも知れないが、現状で混乱していなければ、その中で何不自由なく平穏無事に暮らしている人たちは、どちらかといえば社会や国家と利害を共有しているはずで、世の中の安定が何よりも優先されてほしいだろうが、その何不自由なく平穏無事の程度に満足できるかというと、各人で個人的にはいくらでも不満があるかも知れず、それが個人的に抱いている不満だとしても、果たして他の人たちと共有できる不満なのかどうかも、そういうところで他の人たちと意思疎通が図れなければわかりようがないだろうが、そういう不満が政治への要望となって政治家や政党を巻き込んで政府に働きかけるようなことになれば、それなりに不満を解消するために何らかの方策を施す成り行きへと持っていけるかも知れないし、そんな他の多くの人々と共有できる不満となると、例えば今よりもっと暮らしやすい社会にしてほしいといった漠然とした要望になるにしても、そんな思いの中で具体的に現行の制度や法律を改正してほしいといった要望へと意見を収斂できる要素があるなら、さらにそれが議会を通じた政治的な要求となるなら、政党や政治家にとってはそういうことを実現するための活動に結びつけられるだろうし、そういう方向で行う活動が通常の平穏無事な情勢の中で行われるなら、それに関しては何の不都合もないはずだが、それとは違って都合の悪い面が出てくるなら、どう見ても世の中の情勢が平穏無事だとはいえない危機的な状況だと、当然のことながら平穏無事な感覚で主張するわけにはいかなくなり、絶えず社会や国家の状況が危機的で深刻な事態に直面しているというようなことを主張しなければならなくなって、そうなるとこのままでは社会も国家も大変な事態に陥ると警告したり、さらに深刻さを煽るなら、もうすでにそうなっていることを多くの人々に実感してほしいと思うような成り行きになってくると、現状で平穏無事な状況下で暮らしているつもりの人たちからは違和感や疑念を抱かれると共に、場合によっては支持も得られなくなってしまうかも知れず、そういう意味では危機感を煽り過ぎになってしまうと、多くの人々からそれを真に受けてもらえなくなるから、そういう主張をしている政治家や政党にとっては都合が悪くなるだろうが、それがどの程度なら真に受けてもらえるのかといっても、そういうことをやっている政治家や政党がどの程度の人たちから支持されれいるかがわかれば、そういった程度の目安がわかってくるかも知れないが、それについてはメディアが行う世論調査の結果や実際の選挙結果が示す通りだと思っておけばいいのかも知れず、また他の国との比較において、自国の状況や状態がどの程度なのかがおおよそ見当がつくだろうし、現状で危機的な状況に陥っている国と比べて自国の状況が大したことはないと思われるなら、危機を煽っている政治家や政党の主張を多くの人が真に受けないだろうから、実際にそういう面であまり支持を得られなければ、危機を煽る程度や傾向を変えなければならなくなるのかも知れないが、それまでの経緯や成り行きや事情もあるから、そう簡単に姿勢を変えられるわけでもなければ、そういう政治家や政党への支持があまり広がらないだろうから、それ自体が社会や国家の状態の安定を示していて、政府や政権政党にとってはその方が好都合だろうが、それも人々が自国の状況や状態をどう感じているかで変わってくるはずで、実際に危機感を煽っている政治家や政党が多くの人から支持を獲得するようだと、それだけ多くの人々が危機感を抱いている証拠となるだろうが、危機感を抱いていることと本当に危機的な状況に陥っていることとは違う場合もあるかも知れず、それが誰が見ても一致しているようなら本物の危機が到来しているはずだが、多くの人々が気づいていないところで危機的な状況となっているなら、そんな気づかない程度の危機というのが本当の危機なのかというと、危機に陥っていることを気づいてもらおうとして危機感を煽っている人たちにとっては、本当に危機的な状況なのかも知れないが、そういう煽動の類いを真に受けず、それに気づいていない人たちにとってはどうなのかといっても、危機や深刻さの程度に強弱があるのかというところが、危機であること自体が深刻な状況になっているわけだから、その程度が甚だしいのも当然だろうし、実際にそうなっているのに多くの人々がそれに気づかないというのはあり得ないわけで、だから現状で多くの人々が危機感の煽り立てを真に受けないなら、まだ危機には陥っていないと思っても構わないのかも知れず、そういう意味では危機感を煽っている政治勢力が議会で多数派を占めない限りは、真の意味で危機的な状況ではないと見ておいても構わないだろうが、逆に本当に危機的な状況に陥ってしまった時にはもう手遅れなのかも知れず、手遅れというのがどういう状態なのかというと、例えば議会そのものが機能しなくなった時が真の意味での危機的な状況なのかも知れないが、それに関しては現状でも議会がまともに機能していないと主張している人たちにとっては、今がまさに危機的な状況だと感じているはずで、そう感じているなら危機感を煽らざるを得ないのも納得できるところだが、それも人によっても立場によっても感じ方の程度が違うのかも知れないし、確かにある勢力にとっては危機的な状況であっても、それとは別の勢力にとっては好都合な状況かも知れないから、そもそも全ての人にとって危機的な状況というのがあり得ないのかも知れず、そうであるなら危機を煽っている政治家や政党にとってもそれを真に受ける人々にとっても危機的な状況だとしても、それとは別の政治家や政党にとってはそうではなく、むしろ好都合な状況かも知れないし、また危機感を煽るような煽動を真に受けない人々にとっても危機的な状況ではないのかも知れず、そんな政治家や政党が議会で多数派を占めていて、しかもそういう政治家や政党を支持している割合も世論調査でも選挙でも多数派を占めているなら、実際にそれらの人たちにとっては危機的な状況ではないのだろうし、逆にそれらの人たちが危機感を抱く時には、現状で危機感を煽っている政治家や政党への支持率が高くなってきた時であり、そうならない限りは現状で多数派を占めている人や勢力にとっては何ら危機的な状況でもないはずだが、要するにそれらの人や勢力にとって何が都合が悪いのかといえば、現状で危機感を煽っている政治家や政党が多数派になってはまずいわけで、それがそれらの人たちにとっては危機的な状況となるわけだが、逆に現状で危機感を煽っている人や勢力にとっては、それらの人たちが現状で多数派を占めていること自体が危機的な状況であるわけで、だから実際に危機感を煽っているわけだから、そうであるなら現状で多数派を占めている人たちにとっては現状が何ら危機的な状況でもないのは当然のことであり、危機感を煽るような煽動を真に受けないのも当然のことになるわけだが、そのどちらが正しくてどちらが間違っているということとは別に、現状で何が都合が悪いのかに関して、現状が危機的な状況であるか否かとは違った方面から考えるなら、多くの人々がそういった危機意識には無関心でいられることがそれらの人たちにとっては都合が悪いのはわかりきったことなのではないか。


5月15日「矛盾とは違う成り行き」

 人の行為や行動に関して、何が良くて何が悪いということが簡単に言える場合もあるし、良いことをやって悪いことはやらないと簡単に言える場合もあるだろうが、良い面と悪い面の両面があるようなことをやるかやらないかとなると、簡単には言えなくなるだろうし、悪い面を強調してそういうことはやってはいけないと主張することはできるのだが、それが合法的に行われていることであるなら、少なくとも良い面があるから行われているのだろうから、それを悪い面だけを強調してやってはいけないと主張しても、そういう主張に対しては反発したり反論する人も必ず出てくるわけで、反論してくる人が逆に良い面だけを強調しながら反論してくるようなら、悪い面だけを強調する人の主張と良い面だけを強調する人の反論が、どこまで行っても噛み合わずに平行線に終始するのはわかりきったことだが、どちらを支持するかとなると、どちらかを支持する人もどちらも支持しない人も出てくるかも知れないが、どちらも支持するようなことが可能かといえば、それでは矛盾しているように思われるかも知れないが、それを支持するとかしないとかとは別の面から判断せざるを得ない場合も出てくるかも知れないし、それが何だといっても、具体的な個々の事例に関しては、そこに至る経緯やその場の事情が絡んで来れば、どう判断しても釈然としなくなってくるかも知れず、それでも現状で批判にさらされるようなことが行われていて、しかも批判されながらも行われていることを基にして人や集団の活動が成り立っているとしたら、それを行う必要があり、それを行うのが必然であるように思われて、それに関して改めて理由を持ち出さなくても、当然のこととしてそれが行われていて、そうした必要性や必然性をどうすることもできなければ、ただそういうことが行われていることに関しては、そのまま行われ続けるだろうから、結局は絶えず批判にさらされながらも当然のこととしてそれが行われることになるわけで、それが通常の状態となっている限りで、批判している側を支持したり、逆に批判されるようなことを行なっている側を支持しても、それを支持していること自体が何でもないことになるわけではないにしても、少なくともそれを支持したりしなかったりするだけでは状況は変わらず、そういう方面では膠着状態となっていると言えるだろうが、そこから事態が動くとすれば、それを批判するだの批判している人を支持するだのとは別の方面から、何かしら理不尽な形で事態が動くきっかけとなるような出来事が起こらないと、なし崩し的に延々とそのままの状態が続いていくような成り行きになってしまうかも知れないが、現状の世の中で何がそうなっているのかと考えてみても、そんな事例はいくらでもあるかも知れないが、なぜか具体的な事例について言及を避ける理由があるわけでもなくても、そうかといって避けられない理由があるわけでもなく、それが矛盾とはならないような成り行きになっていれば、それを強引にわかりやすい論理に当てはめて語る必要もないわけだが、果たして論理的に語る必要のないことが具体的にはどんなことなのかといっても、そんなことがすぐに思い浮かぶわけでもないだろうが、実際に起こっていることが説明を要しないことでもあり、ただそうなっていることを改めて説明するまでもなく、それが取り立ててどうということはないのだが、それを行なったからといって良いわけでも悪いわけでもなく、そうかといってそれを行うのが当然だとも思えないし、行うのが必然的な成り行きでもなければ、何なのかといったところで何でもないわけだから、何か理由があってそうなるわけではなく、ただ何となくそうなってしまうのだとしたら、避けようとも思わないし、避けられない成り行きなのかも知れないが、必ずそうなるとも限らず、そうならない場合もあれば、そうなるのを避けようとしたからそうならなかったわけではなく、人の意思や意志や意向などが作用してそうなるわけではなく、ただそうなってしまうだけであり、そういう成り行きがあるということでしかなく、時にはそうならないかも知れないが、時にはそうなることもある程度のことであり、必然的にそうなるわけでもないのだから、たまたまそうなったところで、それを避けようとして避けられなかったわけでもなく、そんな気を起こさせないようなことでもあり、その気になって積極的にそうなることを願っているわけでもないのだろうが、成り行きとしてはそうなってしまうことでもあり、またそうなったからといって、運が良かったり悪かったりするわけでもなく、そうなってしまったことを悔やんでも仕方がないとも思えないし、悔やむようなことでもなく、たまたまそうなってしまったのだから、あきらめるようなことでもなく、あきらめきれないとも思わず、そうなったことが何か強烈な印象をもたらすわけでもなく、そうかといって何も感じないで淡々とこなしていくような成り行きでもないだろうが、それが通過儀礼というわけでもないだろうし、社会的に重要なイベントでもなく、社会というよりは生きていればそうなってしまうことであり、それを社会に絡めて語る必要も感じられないかも知れないが、中には社会のせいにしたり、場合によっては国のせいにしたりして、そうなっていることに関してそれなりに理解できる必要性や必然性を求める場合もあるかも知れないが、特に求めなければ取り立てて意識できるようなことでもなく、成り行きに沿って行動していれば意識しなくてもそうなってしまうようなことでもあるから、成り行き自体がどうとでも思われるようなことなのかも知れないが、そういう成り行きの中でわざわざ論理的な必然性を求めるのも、感覚がずれているように感じられるのかも知れず、そうなった結果からそれなりに特徴的な傾向がわかるにしても、それがわかったからといって結果を変えられるわけでもなく、結果からわかることと、わかったことを利用して結果を変えようとすることが直接結びつくかというとそうでもなく、そうではなく絶えずそうなった結果から何らかの傾向がわかるのであり、そのわかった傾向を語ることができるわけで、それを語ることと、それを思い通りの結果になるようにしようとすることとは違うだろうし、語ることによってはそこまでには至れず、語るだけでなく行動しなければならないのは誰もが簡単にわかることだが、行動したところで思い通りの結果に至れるとは限らないのも、誰もが承知していることだろうが、思い通りの結果には至らなくても、そんな結果からそうなった成り行きの傾向を語ることはできるわけだから、それとこれとが矛盾しているわけではないにしても、直接結びついているわけでもないのに、それを語ることはできるものの、語った通りの結果が必ずもたらされるわけでもなく、そこにはそれなりに誤差やずれがあるだろうが、それが許容の範囲内だと思っても、そう思えるだけで、必ずそういう結果に至れるわけでもないから、そういう成り行きを結果から語ることと、実際にそれを体験することが直接結びつくとは限らないわけだが、では間接的には結びついているのかというと、結びついているなら直接結びついていて、間接的であれば直接は結びついてはいないわけだが、それを語ることができるだけに、直接結びついているように錯覚してしまうのかも知れず、そんな錯覚が何をもたらすのかというと、語っていることと体験していることが同じ一つの成り行きから生じているように錯覚してしまうわけで、それの何がおかしいわけでもなく、そう感じるのが当然のことのように思われるのだが、そうなった結果から語っていることに変わりないわけだから、もう済んでしまったことについて語っているわけで、それを体験しながら語っているわけではなく、それを実況しているわけでもなく、しかも直接語っているわけでもなく、それを文章として書き記しているわけだから、全く違ったことを行なっていると捉えておくのが客観的には正しいのだが、書き記すことと語ることとそんな成り行きを体験していることが、直接結びついているような錯覚を覚えるわけだから、それ自体が恣意的に構成されたフィクションだと見なしてみても、自意識の中ではそうは思っていないわけで、もっと何か実際に生きていることから生じるリアリティを感じられるような現実だと思いたいわけだ。


5月14日「競争と独占」

 競争というとイメージとしては複数の人や集団が互いに競い合う光景が思い浮かぶが、競争するのではなく協力し合う場合もあるだろうが、競い争うわけだから戦う場合もあるだろうし、競争において勝者が出るなら、その煽りを食って敗者も出るだろうし、競争する人数よりも目的を達成できる人数の方が少なくなるような仕掛けであれば、競争に参加する全ての人や集団が目的を達成できるわけでもなく、たとえ協力し合っても目的を達成できなければ協力し合う意味がないだろうし、そうなれば目的の達成を巡って争うしかなく、争いの中でも比較的穏便なやり方が競争となるだろうが、直接の目的が争う相手を倒すことになれば競争ではなく闘争になるが、相手ではなく、例えば利益を得ることが目的となれば利益を得ることを目指した競争になるだろうし、競争に際して複数の人や集団が同じような技術とシステムを使って活動していれば、成り行きとしては競争が続けられている限りで、使っている技術とシステムの絶え間ない進化と革新が起こるかも知れないが、各々の人や団体の使っている技術とシステムが全く同じというわけではなく、一応は一つの分野で括れるような同じような傾向の技術とシステムがあり、しかもそこにわずかでも差異があれば、その差異が競争している人や集団の間で優劣を決める可能性もあり、そうなった時に劣勢になった人や集団が優勢になった人や集団に追いつくには、劣勢をもたらす差異をなくして、優勢となっている人や集団との差を縮める必要があり、できれば差を縮めるだけでなく、逆に追い抜いて差をつけないと劣勢から優勢へと転換できないなら、劣勢を挽回するためには技術やシステムを革新して進化させなければならなくなるわけだが、その一方でその時点で優勢であってもいつまでも安泰でいられるわけではなく、絶えず劣勢になっている側からの巻き返しが予想されるなら、優勢になっている側でも差を縮められたり追い抜かれないように、絶え間なく技術とシステムの進化と革新が求められるだろうが、そうなっている限りで競争が維持されるとしても、競争すること自体が多大な労力と出費を伴うなら、できれば競争しないで安泰でいられるならそれに越したことはなく、そうなると競争相手が生まれてこないように、あらかじめその萌芽を摘み取るようなことをやろうとするかも知れないし、そうやってその分野で得られる利益を特定の人や集団で独占できるなら、そういうことをやる際には利益を独占するための技術とシステムが必要となるかも知れず、競争する上で欠かせない技術やシステムと利益を独占するために必要な技術やシステムを比べてどちらがどうだとは言えないが、競争から生じてきた技術とシステムを利益を独占するために活用する場合もあるだろうし、ある分野で競争が盛んに行われている一方で、それとは別の分野では何らかの勢力によって利益が独占されている状態となっているようなら、競争が盛んに行われている分野の技術とシステムが、それとは別の分野では利益の独占状態を維持するために使われている場合もあるのかも知れず、それが利益の独占状態ではないにしても、例えば政治分野で権力の独占状態を維持している中国やロシアなどでは、産業分野での競争から生み出された高性能の監視カメラや監視システムを政治面での権力の独占状態を維持するために活用しているし、そんな中国やロシアにしても国家単位ではアメリカやEUやインドなどと競争状態にあるのだが、警察や軍隊などの力が及ぶ国内では暴力の独占状態を維持しながら、国外では軍事力の競争にさらされているのも、国家統治の面ではよくありがちな状態だといえるが、競争相手のいない国内では独占状態を維持していることが、競争相手のいる国外での競争において有利に働いているかというと、もちろん独占状態といっても中国でもロシアでも政府や政党の官僚機構内での権力闘争や出世競争もあるだろうし、独占と競争がうまく組み合わさった体制になっているわけだから、単純に有利不利を云々するわけにもいかないが、少なくとも中国においては国際的な面での産業競争力を高めることが、国力を強化することにつながり、国力が強化されれば国内の政治的な独占体制も安泰となるはずだが、実際にはどうかというと、産業の国際的な競争力を高めた企業経営者などが国内で政治的な発言力が強まらないように、言論統制を強化するようなことを中国政府が行なっているわけだから、産業の競争力を強化すること自体が諸刃の剣のような効果を及ぼす場合もあるわけだが、そもそもの技術とシステム自体が、特定の技術が通用する範囲内ではその技術が独占的な支配力を及ぼす場合もあるだろうし、システムにしても人をシステムの中に拘束して行動の自由を奪うような作用があるわけだから、それらを効果的に活用すれば独占的な力を得られる可能性があるわけだが、ではそんな技術とシステムを特定の人や集団が独占できるかというと、過去でも現状でもそれらを特定の人や集団が独占して支配力を行使してきた場合などいくらでもあるだろうが、その一方で人には他人のやっていることを真似ることができるわけだから、他の多くの人や集団が真似ることによってそういう技術とシステムが世の中に広まると共に、ただ真似るだけでなく改良できる可能性もあり、そうなると他人の技術とシステムを真似て、しかも改良できれば、そちらの方が優勢となってくるわけで、そういうことが競争の中で行われて、特定の人や集団による技術とシステムの独占支配体制が崩れて、それを改良して優勢となった人や集団へと活動の主導権が移る可能性もあるわけだが、そういう成り行きが頻繁に起こる地域では競争によって人や集団の活動が絶えず活性化されて、結果的にその地域が繁栄するだろうが、逆に特定の人や集団による技術とシステムの独占支配が盤石だと、他の人や集団の活動が抑制されて沈静化したままになり、結果的にはその地域が停滞したままとなったり衰退する可能性もあるわけだが、どちらがどうだというわけでもなく、一般的な価値観からすれば停滞や衰退よりは繁栄していた方が良いに決まっているだろうが、それも繁栄の裏で何が起こっているかについて、否定的なことを言いたい人もそれなりに出てくるだろうから、諸手を挙げて賛同するわけにもいかないとしても、世の中で盛んに行われている活動を行政が規制したり制限すると、その方面で関連する人や集団の活動も抑制されることは確かだろうし、そういった面では何を規制して何を盛んに行わせるかによって、人や集団の活動をコントロールすることになるだろうが、それに関して新自由主義的な傾向となると、経済活動を活発化させるために競争を促進させるのが、政治的なお題目としてもよく言われることだが、その一方で特定の人や集団が利益を独占する傾向に対して規制を強化すると共に、さらに計画経済のような経済活動の自由を奪う傾向となりやすい行政による経済のコントロールを極力抑えると共に、経済活動に伴って生じる契約違反や損害賠償などの訴訟を扱う司法権力の強化を図る傾向があるだろうが、その良し悪しはさておき、人や集団が否応なく競争に直面することが経済活動に伴って生じる必然的な成り行きであることは、そうなる傾向を抑え込むよりは逆に競争によって勝ち負けが決まってそこで競争が終わって、勝った側による社会の恒常的な支配体制が構築されてしまうのを防ぐにはどうすればいいかという問いへと変形させることによって、その答えとして、競争を終わらせてはならないという結論に達してしまうところが、新自由主義の特徴でもあり、競争を終わらせないためには、競争だから一時的には勝ち負けが決まってしまうにしても、絶えず競争を持続させるための行政的な措置が必要となってくるのであり、それが直接的かつ強権的な措置ではなく、間接的かつ法的なやり方となり、さらには新自由主義とは真逆の社会主義的な社会保障なども温存させなければならないところも、全てが新自由主義では社会が成り立たないことを示していて、また国家の中で政府が政治権力の面で独占的な立場を占めているのは誰もが承知していることだが、その一方で行政と司法と立法の三権分立と中央銀行という形態で分権体制が構築されて、それらの間で権力の分権が成り立っている限りで独裁的な強権体制になるのを防いているのだろうが、そこでも複数の権力が分立することによって競合状態となっていて、それらが互いに争っているように見えるなら、そこでも競争が起こっていることになるのではないか。


5月13日「パラドックスの意味」

 パラドックスに関して、どういう例を持ち出せばわかりやすいというわけでもなく、一般的に言ってわかりにくいのがパラドックスという現象であり、例えば事前に状況がおかしくなると予想したのに、結果的に予想が裏切られたわけでもないのだが、そうかといって予想通りにおかしくなったわけでもなく、予想を裏切るようなおかしなことになっているように思われるなら、元の予想がどうだったのかといえば、予想を裏切るようなおかしなことが起こるという予想だったのかも知れず、果たしてそれでパラドックスを体現するようなことが起こっているのかといえば、納得し難いがそうとしか言いようのないことが起こっていて、予想を裏切るようなおかしなことになっているのに、それが予想通りのおかしさなのではなく、だからと言って予想を超えるおかしさというよりは、予想を裏切るようなおかしさであるのに、予想を裏切るようなおかしなことになるという予想を裏切っているようにも思われるわけで、果たしてそんなことが実際に起こるかというと、実際に現状の中でそう感じるような成り行きに囚われているのかも知れず、それに関してこんなはずではなかったと思うほどには予想を信じていたわけではなかったにしても、何か正常な感覚をはぐらかされているような感じがするわけで、では感覚が狂っているのかというと、確かに感覚が狂っているようにも思われるのだが、自分の感覚だけが狂っているというよりは、現実の世界そのものが狂っていて、狂った状況の中では正常な感覚でいられないように思われるから、実際に体験しつつある現状の中で感覚を狂わされているような感じがするのだが、それも狂った状況に感覚を合わせようとすると、合わせようとしているのにそれがはぐらかされているような感覚となり、感覚を合わせようとしてもうまくいかずに断念させられてしまい、狂った状況に感覚を合わせられるほど器用ではないことを思い知らされるわけだが、世の中が狂っているのだから狂った状況に感覚など合わせなくてもいいのであり、それで構わないのかといっても、実際にそうなってしまうのだから、それ以外にはやりようがないわけで、そういう面ではあきらめるしかないと思ってみても、何をあきらめるのかといえば、感覚が狂うのをあきらめるわけだから、それで構わないことになるだろうし、自らの感覚の正常さを装うならそうなるしかないわけで、そんな感覚で狂った現状の中でうまく立ち回ることなどできないかも知れないが、感覚をはぐらかされていることに変わりはなく、はぐらかされたままでも構わないような気がするなら、無理してうまく立ち回ろうとしない方が良さそうにも思われて、無理してうまく立ち回ろうとすればするほど、さらに感覚がはぐらかされておかしくなってしまうのかも知れず、まともに考えて、狂った状況の中ではうまく立ち回ることなどできないと思っておけば良いのかも知れないが、狂った状況自体がまともな考えを受けつけない状況なのだから、まともに考えても無駄かも知れず、無駄に考えるのはやめた方が良さそうにも思われるのだが、考えるだけ無駄なのに考えざるを得ないのであり、要するに無駄なのは承知で狂った現状について考えているわけだが、いくら考えたところでどうなるわけでもなく、実際にどうにもやりようがないから、どうすればいいのかと考えてしまうわけで、結局は無駄に無駄なことを考えているのだろうが、そんな考えとは別に何かをやっているのかも知れないが、それがうまくいくはずもないところがおかしいのだろうし、実際に狂った現状の中で感覚をはぐらかされておかしくなっているのだから、やることなすことうまくいかなくて当然なのかも知れず、しかもそれで構わないような気がするわけで、感覚を狂わされているからそんな気がするのだとしても、果たして感覚が狂わされているままでも構わないのかといっても、構わないのも何も、狂った現状に感覚を合わせようとする限りで、感覚を狂わされてしまうのだから、そのまま狂った感覚を受け入れるしかなく、実際に今も感覚が狂ったままになっているのだろうが、いったん狂ってしまった感覚が元には戻らないのかというと、狂った状況が元に戻らない限りは感覚も元には戻らないのかも知れず、状況が狂っているのだとすれば、感覚も狂っていても構わないのかも知れず、状況に合わせて感覚も変化するのだとすれば、状況に合わせた感覚でいても構わないのかも知れないが、果たして感覚を状況に合わせられているのかというと、はぐらかされているような気がするわけだから、感覚が状況と合っているわけではなく、絶えず疑念や違和感を覚えているわけで、状況によって感覚が狂わされていること自体が状況に感覚を合わせられないことを示していて、そういう意味では状況が狂っているほどには感覚が狂っているわけではなく、感覚がそれなりに正常だから、狂った状況によって感覚が狂わされているのだろうが、そんな感覚を状況に合わせてさらに狂わす必要もなく、感覚が状況に合わないままでも構わないのかも知れないが、そんな感覚のままでは狂った状況下でうまく立ち回ることができないだろうし、立ち回ろうとしても感覚をはぐらかされてしまうのだから、その必要があってもできないわけで、逆に狂った状況の中でうまく立ち回れるような人は、通常の状況の中ではうまく立ち回れなくなってしまうかも知れず、中には狂った状況下でも通常の状況下でもうまく立ち回れる人もいるかも知れないが、現状の狂った状況の中で感覚をはぐらかされてうまく立ち回れていないのだとすれば、少なくとも自分にはそんな器用なことはできないと思うしかなく、不器用だからできないというよりは、感覚をはぐらかされているような気がするわけだから、狂った状況から何らかの作用を及ぼされてそうなっているとしか思えないのであり、そもそも現状を狂った状況と見なすこと自体も勘違いかも知れないが、実際にうまく立ち回れない人たちが自殺している状況もあるわけで、それもうまく立ち回れないから自殺するという理由でいいのかといっても、それ以外にもっともらしい理由がそれほどあるわけでもないだろうから、その程度のもっともらしさ以上の理由を部外者が見つけられるわけでもなく、無理に見つける必要もないだろうが、何かが起こった後からそれについて語るなら、それなりに納得できるようなことを語れるはずだが、それを真に受けてはならないともいえないが、正常な感覚でも時には疑念を抱くことも違和感を覚えることもあるだろうが、納得できればそれを真に受けてしまうわけで、真に受けてしまった時点で感覚を狂わされていることに気づかずに、それが事後的に起こったことについて語っていることだと承知していることの延長上で、これから起こることも予想してしまい、それが予想通りにはならずに何か当てが外れているように感じられるのに、事後的には予想通りのことが起こったと説明されて、それに納得できるわけでもなく、何か狐につままれたような感じになりながらも、うまく論点や争点をはぐらかされた上でなし崩し的に説得させられてしまうかも知れず、論争的な次元ではそうなることもいくらでもあるかも知れないが、それによって現実に感じている疑念や違和感が解消するわけでもなく、それに関して論争しているのに、それとこれとは別問題のような気がして、論争的な次元ではなく、現実に起こっていること自体に関して抱く疑念や違和感を論争によってどうにかしようとするのは、何か違うような気がするわけだが、気がするだけでは何の説得力もなく、気がするだけでは他人を説得できないのは当然だとしても、なぜかそんな気がするだけのことにこだわってしまうのもおかしいが、何か感覚をはぐらかされて納得できないことに同意させられてしまうという成り行きにならないようにしないとまずいわけで、まずいといってもなし崩し的にそういう成り行きに巻き込まれてしまわないためには何をどうすればいいのかと問うまでにも至らずに、そういう成り行きに対して疑念や違和感を抱くだけで済ましている現状もあるとすれば、負け続けていることにしかならないが、何に負け続けているのかといえば、その対象がわからなくても何となく負け続けているような気がしてしまい、またしてもそこでそんな気がしてしまうわけだが、気がするだけなく、少しは論理的に筋道の通ったことを語らなければならないだろうが、すでに起こってしまったことではなく、これから起こるかも知れない未知の何かを感じ取っているような気がする限りで、それについて語るとなると、論理とも筋道とも無縁な内容になってしまうのかも知れず、それもかも知れないではなく、こうだと断言しないと責任逃れのように感じられるかも知れないが、なぜかそれについてはあやふやで曖昧なことしか語れないのかも知れない。


5月12日「知り得る知識」

 知りたくもないことに関して意味不明を装うなら、それを知っているつもりになりたいわけでもないが、知っていることは知らないことでもあり、その全てを知っているわけではなく、部分的にしか知らないこともある一方で、知らない面があるからといって、ある程度は知っている面もあるなら、全く知らないことにはならないのはもちろんだが、その一方で知っていることはそれなりに知っていることであり、また知らないことも全く知らないわけでもないが、それが不完全に知っていてその全てを知っているわけでもなければ、どちらにしてもそんなのは知ったことではないと言い放つのも、知らないことと知っていることの境界を曖昧にしているようにも感じられて、確かにそんなことには関心がなければそんなのは知ったことではないで済んでしまうが、知ったことではないのに部分的には知らないことについて言及したいわけで、それが知っていることについてだけ言及しながら、全てを知っているかのように装ってしたり顔になるのを避けるには必要なことかも知れず、ではそれの何が知らないのかというと、世の中には知っているようで知らないことがあり、知っているつもりなのに知らなかったことについて言及したいのだろうが、何を知らなかったのかといっても現状でも知らなければ実際に知らないわけだから、知らないことが何かといってもそれを知っているわけではなく、果たして知らないことについてまともに語れるのかというと、そんなことができるはずがないと思ってしまうだろうが、思うだけならそんなふうに思っていればいいわけで、実際に誰もが不完全にしか知らないことに言及していて、それを知っているつもりで語ろうとするわけだから、そういうところで過ちや誤りを犯すのも納得できるだろうが、心の中では納得していても、それについて言及している限りで、言及している自らを正当化したいわけで、実際に語らざるを得ないことについて語ろうとしているような気がするから、それについて得意げに語るいるわけでもないが、それなりに語る必然性を感じているから語ろうとしていることは確かで、それが自分にとって必要もないのに語っていることになれば、勘違いでしかないが、それも勘違いするように仕向けられているのかも知れず、語っている対象がそう仕向けているのだとすれば、そう仕向けている何かが仕掛けた罠にはまっているとも言えるが、少なくとも語るように仕向けられているのだから、それについて興味があるのだろうし、興味があるからそれについて語るように誘導されても悪い気はしないが、しかも過ちや誤りを犯すように誘導されている可能性までありそうだから、そういう成り行きに導かれている最中で、自身が過ちや誤りを犯すことは知り得ないだろうし、果たして過ちや誤りを犯してしまうのを知らないのに、そこで自らが過ちや誤りを犯しつつあることを語れるかというと、そんなのはあり得ないことだろうが、そんなことは語り得ないのに実際に過ちや誤りを犯している最中なわけだから、そうなってしまう人にとってはそれが思いがけないことであり、自らがそうなってしまうのをその最中では感知できないわけだが、それを感知しようとしているわけでもないし、そういう意味ではその時点で知り得ないことを知ろうとしているわけでもなく、果たしてこれまでに自らが過ちや誤りを犯すことを事前に予言できた人がいるかというと、これまでにも数えきれないほどの過ちや誤り犯してきたのだから、これからもそうなってしまうことを予想することはできるだろうが、誰もそんなことを予言したいとは思わないだろうし、それが予言の対象とはならないのはもちろんのこと、予言というのは予言したいことを予言したいのであり、できればその際に自らが過ちや誤りは犯したくないわけだから、当然のことながらそれによって自身が不利益を被るようなことは予言したくないわけで、そこから窺い知れるのは、例えば誰かが嬉々としてホラを吹くように予言しようものなら、きっとその人はそうなってほしいから、そんな自らの願望を言い放っていると推測できるが、それとは違ってその時点で知りたくもないことは何かといえば、自らの願望通りにはならず、自信満々でこれ見よがしにホラを吹くように言い放った予言が大外れになってしまうことであり、確かにそうなってほしくないことは知りたくもないだろうが、そうなってしまうのを避けるには、あまりこれ見よがしに大げさなことは予言しないようにすればいいだろうし、つい目立ちたいからこうなるとばかりに大げさなことを大胆不敵に言い放ちたくなり、それがホラ吹きにありがちな習性だとしても、漫画に登場するやられキャラではないのだから、現実の世界にそんな人はまずいないと思いたいが、それほど極端ではないにしても、気づかないうちにそんな傾向になってしまうのかも知れず、できればそうならないように心がけていても、その場の成り行きからそう仕向けられてしまうなら、おだてられていい気になって大口を叩きたくなるのかも知れず、お世辞や社交辞令でもない限りは、あからさまに他人からおだてられるようなことはあまりないだろうが、その場の状況としてはついその気になって隙だらけになって油断してしまうような状況というのも結構想定できて、しかもそうなっていることを自覚できないようにされている可能性まであるから、そうなると飛んで火に入る夏の虫のように誘い込まれるようにして大きなことを言い放ってから、それとは真逆なことが起こって面目が丸潰れとなってしまうのかも知れないが、そんな絵に描いたような大どんでん返しがそう頻繁に起こるはずもないのだろうが、何かそんな予感がするようなことが近々起こるのかも知れず、そうであるなら現時点でその種の大ボラ吹きの予言が何なのかを知らなければ、それの逆張りができないはずだが、それに関して知らないことがすでに知っていることでもあり、その全てを知っているわけではなくても、部分的にそんな感じがしないでもないことを知っているのに気づていない可能性まであるのかも知れず、何かそういうところで注意深く辺りを見回してみれば知り得ることを知らされていないような、損な境遇の中で暮らしているなら、知りたくもないようなことが逆に知らなければならないことであったり、その逆に知っていて当然のように思われることが、知るための障害となっているから、知らなければならないことを知り得ない状態となっているのかも知れず、その知っていて当然に思われることが迷信であるなら、そこまでの話の辻褄が合いそうに思われてくるのだが、そんなうまい具合に話ができているとも思えないし、大抵はうまい話には裏があって、裏事情を知ったからといってすぐに得をするわけでもないだろうが、たぶん話の辻褄合わせと自らの都合を反映した恣意的なこじつけを組み合わせると話の筋が通ってきて、それと同時にいつの間にか話の内容の論理的な整合性も妙に信じたくなるような範囲内で整ってくれば、そこからリアリティも感じられるようになってくるのだろうが、果たしてそれがリアルな現実なのかといえば、リアリティを感じられる面では確かにそうだが、その一方で辻褄合わせやこじつけを行なっている面では自身の都合を反映したフィクションでもあり、それが自分の都合を反映している限りで信じられることになり、信じきってしまうとフィクションでしかないという不都合な真実が含まれていることに気づけなくなるのだが、そうなると知りたくもないのは不都合な真実になるのだろうが、それが果たして自身にとって不都合な真実なのかといえば、知らない方がかえって都合がいいのは言うまでもなく、不都合な真実を知ってしまっては都合が悪いわけで、知らない方がいいからこそ、それが不都合な真実だと言えるわけだから、知らない方がいいに決まっているだろうが、そうだとすれば不都合な真実を知り得ないように自らの状態を保つことが肝要となってくるのかも知れず、そんなことが果たしてできるのかといえば、それについては自分を信じることができれば、自分を信じている限りで、何でもかんでも自分に都合のいいように解釈したくなってくるのかも知れないし、そうすることが自分を信じることになるかというと、ある面ではそうだとも言えるし、中にはそうだとも言えない面もあるかも知れないが、そうだと言える面では、どのような事態に陥っても自分を信じている限りで、それを肯定的に捉えることができて、そこから例えば逆境はそれを乗り越えて自らを成長させる試練になったり、また何かに躓いて転んだ拍子に妙案がひらめいたりすれば、災い転じて福となすようなことが起こったと思うかも知れないが、逆にそうだとも言えない面では、自分を信じろと念じすぎることが過信につながり、そんな過信にまかせて後戻りが利かないところまで行ってしまってから、取り返しのつかないことをやってしまったと後悔するかも知れず、それが国家的な指導者のような立場を担っている人物なら、例えば戦争を遂行した挙句に自身の破滅を招くような成り行きも想像できるが、現実の世界でそんな絵に描いたような事態がもたらされるかどうかはわからないが、フィクションとしてならそういう話に持っていくのがわかりやすい成り行きとなるのではないか。


5月11日「立ち止まる気配なし」

 なぜか頭の中で何かが暴走しているみたいな気分だが、まだ何か書き足りないような気がして、また少し書き記してみたくなり、かなり心身を消耗させながらも、書き記しているようだが、内容が伴っていないのだからやめた方がいいのは分かりきっているはずだが、記述の暴走が止まる気配がないようにも感じられて、もしかしたら狂気に囚われているのではないかと心配になってくるが、正気なのか狂気なのか、境界線など何も定まってはいないだろうから、今さらそんなことはどうでもいいのかも知れず、このまま暴走しすぎて死んでしまったら悲惨な気もしてくるものの、それ以前に自らの限界が近づいてくれば、自然と眠くなって寝てしまうだろうから、心配も杞憂に終わる公算が高いのかも知れず、それよりも果たしてそこで公算が高いという表現を使っても構わないのかもよくわからず、表現としては間違っているような気もしないではないが、投げやりな気分が続いているからそんなこともどうでもいいことに含まれるかも知れないし、何か頭の中がすっきりせず、どんよりとした曇り空の下でもやもやした気分に包まれながら、おかしなことを書き散らしたい気分でもあるから、それをどうにもこうにも止めることができずに困り果てているようで、そんな困り果てている状況も利用しながら文章を書いているみたいな感じかも知れないが、実際にはみたいな感じなのではなく、本当に文章を書き記しているようにも思われてくるのだが、気分がすっきりしないことには変わりなく、それが文章を記す理由にはならないような気もするが、そんな心理状態を自己言及的に語るならそういうことなのであり、何かそこで気持ちの持って行き場がないのだろうが、それも冷静になってみればそれで構わないことかも知れず、書きたい時に書いていれば済むようなことでもあり、書きたくないのに無理やり書くようだとストレスが溜まって健康を害してしまうだろうし、死なない程度に心身をセーブしながら文章を書き記せるならそれに越したことはないが、それを越してしまうようだと、果たして気が狂っていることになるかというと、それにも程度の差があるだろうし、文章を書く程度のことで気が狂うのはおかしいだろうし、おかしいから気が狂うのはわかりきったことであっても、それがわかりきったことであるからこそ、何か変な感じがしてしまうわけで、いつもなら何も思い浮かばずに、大したことは何も書けなくて、そんな自らの不甲斐なさに腹立たしい思いを募らせているところで、いったんつまらなくてもくだらなくても構わないから強引に書いてしまうと、何かたがが外れたようになって、止めどもなく記述が進行してしまい、それを止められない自らが狂ってしまったように感じられて、恐ろしくなってしまうわけだが、それでも眠れずに起きて文章を記そうとしてしまい、何か喜怒哀楽の感情が生じているわけでもないのだが、無表情で画面に向かい合って黙々と言葉を記して続けているが、こんなことをやっている場合ではないようにも感じられるのだが、こんなことしかできないようにも感じられるから、こんなことしかやりようがない自らが情けなくなってくるが、そんな思いなどお構いなしに無情にも記述が止まらなくなって、それが何やら機械的な動作のような自動記述システムといったらおかしいが、おかしいのは元からおかしいわけだから、気休めにもならないことなのかも知れず、それどころか何かが自らの頭の中で弾けて、爆発しているような感じもするのだが、それも不発弾が弾けるわけもないだろうから、本当は何も弾けてはいないのだろうが、何が不発弾なのかといえば、自らがやっていることがことごとく不発弾なのであり、何もうまくいっていないような気がするのに、それでもなぜか前進していて、何が前進しているのか現時点ではうまく言い表せないが、何かが前進しているのであり、その何かがよくわからない何かで、本当はわかっているのにわかっていないとしか言えないような何かでしかないわけだが、そんな言い回しではおかしいのは当然だが、それを自らの狂気のせいにはできないし、何も狂ってはいないのに狂っているように装うのも気が退けてしまうが、もはや演技にもならないようなわざとらしさを漂わせながら、今さらそれを狂気の沙汰のように言い表すのも気が退けるだろうから、もっと普通に感じられる言い回しにならないものかと、妥当な表現を模索しているのかも知れないが、何かそれが狂気の沙汰でも構わないような気がしてしまうから、そんな狂言を多用しながらも、しっくりこない感触を覚えながらも、そんな妥協的な言い回しで我慢しているわけで、それも半分が嘘の部類になってしまうのだろうが、半分どころか全てが嘘なのかも知れないが、だからといって画面を見ながら無表情であるのに涙をぼろぼろ流しながら言葉を記しているはずもないが、何かふとそんな光景が思い浮かんで頭から離れないのであり、さっきから泣きながら言葉を記しているように装いたいのかも知れないが、そこから急に笑い転げて床を這いずり回るわけにもいかないだろうし、そんなふうになってしまってもまだ自体が急変したわけでもなく、至って正気を装いながらも蝶番が外れた扉の開け閉めを断続的に繰り返しているのが強靭の動作だとも思えず、そんなことを語る必要も必然もないところもわざとらしく語っているつもりなのだが、どうも本気になれるわけでもないのは本心では薄々感じ取っているようで、それが本意でないのもわかりきったことだと言い放てるほどの自信はないのだろうが、小心者の汚名を返上したくてそんな演技を続けているわけでもなく、虚構が生み出すある面では至って真面目ぶって、それとは真逆の方面からもっとわかりやすく語りたいのであり、ここに至る事情が事情だから、そうなる手前でひねくれて、こじれにこじれた言語表現を多用しているつもりなのかも知れないが、実態としてはたわいない部類に入るのかも知れず、何となくそれが意味をなさない次元で別の背景へとつながっているようにも思われるから、微妙に感性を刺激するのであり、それが鈍感な感性なのか敏感な感性なのかということでもないが、それとは判断基準がほとんどずれていて、そのほとんどというのが全くなのではなく、だからといって少しというわけでもなく、ほとんどずれているのにほとんどずれていないような、そうかといって両義的な意味を想定したいのではなく、想定しているのはそれとは真逆な状況なのでもなく、状況ともいえないような微妙な印象を与えたいのでもなく、では何なのかといっても、よくわからないわけで、よくわからないのに何かを語っていて、語っているのではなく文章を記しているわけだが、そんなわかりきったことを今さら述べる必要もないのに、それでも述べているというよりは文章を記している比重の方が大きいようにも思われるから、何かというと文章を記していることにこだわりたいのかも知れず、誰がこだわっているわけでもないのだろうが、記述している自身のこだわりとは関係のないところで、架空の誰かが語りよりも記述にこだわっているのかも知れないが、それを無視されて途方に暮れているわけでもないだろうから、少しは無視されている状況を真に受けているとしても、それほど堪えていないように装いたいわけでもなく、どちらかといえば画面を見ながら涙をぼろぼろ流したいのかも知れないが、別に涙と感動の一大巨編を構成するような内容でもないし、それよりは読んだ人が床の上を笑い転げ回るような文章を記したいと嘘をつきたいのかも知れず、それが嘘でしかないなら本意はどこにあるのかというと、本意などどこにもないのかも知れないが、もとから嘘をついているのだから、嘘が本意なのであり、言いたいことが嘘の中にあるといっても過言ではないというわけでもないだろうが、言い過ぎになってしまうのを嫌う傾向にあるとも思えないし、そうかといって何から何まで過剰に語りたいわけでもないが、自然な発露として述べている内容が過剰に振れてしまうのは致し方なく、何かを語るとはそういうことだと思ってみても、それが間違いの場合もあるだろうが、ともすれば間違っていても構わないような成り行きになってしまうから、それを大目に見てほしいわけではなくても、なぜかそうなってしまう成り行きの中で言語表現の過剰さを抑えるようには意向が働かないわけで、だから無駄に無意味なことを語りすぎる傾向となってしまうのだろうが、それを今さら矯正するわけにもいかず、そんなことをやろうとしてもできないだろうから、そういう面はそのまま放置するしかないわけだが、それとは違う方面でも過剰さが目立ってくるようなら、頭がおかしくなったと受け止めても構わないのではないか。


5月10日「立ち止まらずに進んでみれば」

 何か予感がするということが、それが良い兆しなのか悪い兆しなのかそれともどちらでもないのかはよくわからないが、どちらにしても適当なことを語るなら、どちらでも構わないとも思えないが、それに関して何か付け加えることもないだろうが、何を付け加えようとしているわけでもないし、そのつもりもないのに適当なことを記すなら、ここは立ち止まらずに先に進んでしまった方がいいような気がするから、構わず進んでみれば、進んでみた先に何があるわけでもないだろうが、何もないからさらに進もうとしているわけでもなくても、自然に足早にその先を通り過ぎてから、別に後ろを振り返るわけでもなく、後から何が追いかけてくるわけでもないだろうが、前を向いて歩いて行けば、その先に袋小路が待ち構えているとも思えないし、遮るものが何もないわけではないとしても、その先に橋がかかっているわけでもなく、かかっているのは橋ではなく、空に虹がかかっていれば、少しは驚くかも知れないが、他の何に関心を持つまでもなく、他に大して関心を得られるような事物に出くわすわけでもないだろうが、そこにどんな事物があるのかといえば、何の変哲もない建物と舗装道路があるだけで、他に何を見つけられるわけでもないが、それ以上の想像力を必要としないような光景が目の前に広がっているつもりかも知れないが、面倒なので思い浮かんだ光景を全て語る必要もないだろうし、語れるだけの語彙力を持ち合わせているわけでもないが、何か他に興味深い光景が思い浮かんでこないから、建物と舗装道路だけで他には人も動植物も存在しないような世界を思い浮かべたつもりになって、それについて言葉を記してみれば、他に何が語られるわけでもないだろうが、語るのではなく文字を記す作業の最中のはずだが、文章の中では誰かが何かを語っている気になりながらも言葉を記している最中なのだろうから、そんなことはどうでもいいことでしかないわけだが、それがわけでもないような理由が別にあるとしても、それによって意識が投げやりな態度を改められるわけでもなく、それを改められないうちに道がその先に続いていることを確認していて、文章の中の誰がそれを確認しているわけでもないが、たぶん登場人物を特定する暇がないほど忙しなく記述作業に没頭しているわけでもないのだが、余裕がないほど忙しなくそわそわしながら動き回るわけでもないだろうし、他に無い物ねだりするほどボキャブラリーが豊富なわけでもなく、相変わらずわけでもないのだが、それでもわけがないというよりはわけでもないところが肝心で、とりあえず政治的な話題を書き記すとアメーバブログでもツイッターでも弾圧されるみたいだから、他に何も書きようがないのかも知れないが、他に何も書きようがないところから書かなければならないところが、妙に精神的に追い込まれているみたいで、そんな追い込まれた精神状態から突発的に前進を試みてしまうところも何かおかしいわけで、おかしいと思っているからその先を目指してしまうのだろうが、では中身のないことならなんでも書けるかというとそうでもないはずだが、それが自己言及パラドックスに近いと思ってみても、何かそこからずれているような感じもするし、嫌な感じがするから面倒なことを避けようとすれば、勝手に前進が始まってしまい、気がつけばもう後戻りができないほど書き進めてしまったわけだが、それにしてもかなり前進してしまったみたいで、橋の代わりに道端でかかっていた虹も遥か後方に退いていて、振り返って眺める余裕もなかったから、もうそれがどんな光景だったのか思い出せず、思い出す必要も必然もないのに思い出すことはないのだろうが、それでも不意に過去に見た光景の記憶が脳裏に蘇って来れば、それがトラウマをもたらす光景だと思わず叫び声を発して狼狽えてしまうだろうが、そんな動作が連発すると何か精神障害が発症したような気になって、より一層狼狽えて怯えきってしまうだろうが、それ以前に想像でそんな成り行きを語るのもいい加減さを通り越して呆れかえってしまうわけでもないが、そしてさらにわけでもないことには、わけがないのだからそんなことを語る理由もわからなくなってパニック障害の兆候も出てくるようなら、気が動転していると見なされても構わないだろうが、たぶんそれも冗談の範囲内で語っているのだろうし、別に冗談を語る必要も必然もないが、わざとつまらない内容を書き記しているつもりもなくても、自然とそうなってしまうのだとすれば、何か被害妄想も発症しているように思われてきて、そうなっていること自体が取り止めのない記述内容をもたらしているのだろうが、それが何をきっかけとして始まっているかというと、何でもないような勘違いなのであり、何を勘違いしても当人は勘違いだとは思っていないわけだが、そんな勘違いの連鎖が思わぬ方向へと向かっていってしまえば、恐慌状態に陥ってしまい、そこがチャンスなのだろうが、何のチャンスなのかはそうなった結果からわかることであり、その結果を把握できなければみすみすチャンスを逃したことになってしまい、後でチャンスを逃したことを悔やんでも悔やみきれないような悔しい思いをしてしまうのだろうが、今はそれで構わないともいえて、さっさとそこを通り過ぎないとその先へと進めないから、チャンスをスルーしながら悔しい思いを置いてきぼりにしなければならないわけで、勘が働いているのはそこであり、うまく立ち回って利益を得ることよりも大事なことがあるから、わざとチャンスを逃してしまうわけで、その大事なこととは何かといえば、面倒なことを避けて通ることだとすれば、そんなのはあり得ないと思いたいのだろうが、それがあり得ないからこそ、チャンスを逃して、実際に目の前に転がっているチャンスを逃すなんてあり得ないと思いながらも、実際にチャンスを逃している現実の中で悔しがっていて、まるでポンコツでガラクタのような自身の無能さを呪っているわけだが、それは呆れを通り越して笑うしかないような成り行きであり、笑って済むような問題ではなく、致命的な欠陥なのかも知れないが、成り行きとしてはそうなるのが当然のことのようにそうなってしまう成り行きなのであり、そんな成り行きの中で思うように立ち回れない自らの不甲斐なさに愛想を尽かしてしまうわけだが、自分で自分を見捨てても、得るものは何もないだろうし、何も得られなければ今までの努力が水泡に帰すほど努力してきたわけでもないのに、何となく何かが水の泡になってしまったような気になるのだが、それもそうなったように装っているだけで、演技には違いないのだが、がっかりしたように装ってみても、本当にがっかりした気になれるかというとそうでもないだろうし、それでも少しはがっかりしたような気にはなれるにしても、何かそれが本気でそう思っているわけでもないような気分になっているとすれば、そこがつけ入るチャンスというわけでもないだろうが、なぜか自らが自らにつけ込まれて、つけ込まれて動揺した隙をついて自らの言うことを聞かせようとするのだろうが、それが元々がポンコツな無能でしかないから、思うように自らを操れずに、途中で自らを投げ出して、結局はその場の情勢に流されて、場当たり的な成り行きまかせに落ち着いてしまうわけで、そういう意味では努力が足りないどころか努力そのものが欠如している一方で、一つの動作に全神経を集中する気力も根気もないのだろうが、だから中途半端に軌道を外れて当てもなく辺りを彷徨っているつもりになりながらも、そんな光景を部屋の中で妄想するにとどまっているのだから、引きこもりもいいところで、そんな嘘をついている余裕もなしに、他の誰かが自分の代わりに辺りを徘徊している様子を部屋の窓から眺めているふりをしているわけでもないのだが、要する記された言葉の連なりを一定の長さに引き伸ばすことができればそれでいいわけで、それ以上は何も望まないわけでもないが、他に何を望んでいなくても、また演技の中で何かを望んでいるように装うのだろうし、それが本心から望んでいなくても、一応は何かしら自らの願望を実現すべく努力しているつもりになりたいのであり、しかも努力することが嫌いなのだから、努力しようとすること自体が言行不一致をもたらす危険性があり、その危険を事前に察知できれば、演技の範囲内で適当に手を抜いて、だらしなくぶざまな挫折感を醸し出すこともできるのかも知れないが、果たしてそこまでやることが念の入った演技に結びつくのかといっても、面倒くさくなって途中で演じていることをばらしてしまうのかも知れず、だから何を演じようとしても中途半端な存在感しかもたらせないのかも知れない。


5月9日「立ち止まってから考えること」

 それがなぜだか知らないが、今ここで立ち止まらなければならないとしたら、別にここで誰が歩いているわけでも走っているわけでもなく、乗り物で移動しているわけでもなければ、そういう仮定自体が意味をなさず、どんな理由で立ち止まる必要があるわけでもないはずだが、なぜか理由がなくても立ち止まる必要があるなら、立ち止まる必要とは何なのかと自問自答してみても、一向にその必要性を感じられないようなら、必要性に気づいていないのかも知れないが、現状ではその理由も必要も感じられないとしたら、感覚が麻痺しているのかも知れないが、それがどんな感覚なのかといっても、例えば間近に迫った危機を感知する感覚が麻痺しているなら、感覚を麻痺させるような何かに意識が取り込まれているのかも知れないが、それに気づかないから立ち止まる必要性にも気づいていないとなると、それが自体が自らに危機的な状況をもたらしていることになるが、実際に歩こうと思えば簡単に歩けるし、現に今もそこから移動しようとしているわけで、そことはどこかといっても、どことも言えないような場所で立ち止まるように促されているわけでもないし、ここに立ち止まる場所などあり得ないから、立ち止まれないのかも知れず、立ち止まれないのに立ち止まることができるかというと、不可能を可能にするような装置があれば立ち止まれないところで立ち止まれるかも知れないが、フィクションの中ではそんな装置を空想できるかも知れないが、現実の世界ではあり得ないのはわかりきったことだが、どうもそういう水準や次元で立ち止まるか立ち止まれないかを考えているわけではなく、例えばいったんやっていることを中断して、立ち止まってこれまでやってきたことを振り返る必要があるのかも知れないが、振り返っている余裕を感じられなければ、それも感覚の麻痺を示しているのかも知れず、何かの感覚が麻痺させられているから過去を振り返る余裕もなく、そこからひたすら闇雲に前進しようとしているのかも知れないが、前進しているつもりが実際には後退を余儀なくされているのに、自身が後退していることにも気づいていなければ、それだけ感覚の麻痺が重篤化していると言えるだろうが、自身のそんな状態をいくら想像してみても、それが勘違いの想像であるなら、全く当てが外れているのだろうが、自身が何をどう想像しようと危機が間近に迫っていることには変わりなく、そんな危機感を予兆として感じ取っているとしたら、そうなると何か一大事なような気がするが、他の何かに影響されてそんなことを想像させられているだけで、それ以外では何を想像しても、意味のない無駄な想像になってしまうのかも知れないし、実際に危機的な状況に陥ってみないことには、本当の危機感を直接には感じられないし、危機的な状況をくぐり抜けてみないことにはそれを実感できないわけで、そういう意味では事前に何をどう感じていても、実際にそうなってみないことにはわからないわけだが、事前の心構えとして危機的な状況に耐え得るように準備が必要なのかも知れず、そのためにも今ここで歩みを止めて立ち止まって、過去を振り返る余裕も必要となるのだとしたら、そんな必要に応じてここで立ち止まって、これからどう歩むべきかなどと考えてみなければならないのだろうが、それもそんなことを想像しているだけで、結局は想像を巡らしながら考え続けるようなことになってしまうわけだが、果たしてそれでいいのかといっても、それもこれから何かをやってみた結果から良いか悪いかを判断するような機会が巡ってきたら、そこで判断するようなことだろうし、それをやる前からどうのこうのと考えを巡らすこと自体が無駄で無意味なことなのかも知れないし、それ以前にこれまでにもいくらでも過ちや誤りなどを犯してきたわけだから、そうしたことの延長上で想像するならこれからもいくらでも過ちや誤りを犯してしまうだろうし、どうせ自らのあやふやな勘に頼っておかしなことをやってしまうわけだから、それも自業自得でしかないわけで、それをいくら後悔してもやってしまう時にはやってしまうし、やってしまった後から反省してやらないように心がけても、忘れた頃にまた性懲りもなく誤りや過ちを繰り返してしまうわけだから、そうなってしまうのはある程度は仕方がないことであり、そう思う時には思うとしても、何とかしてそうなる成り行きに陥らないようにも心がけていて、それが時には功を奏してうまく行く時もあるのだろうが、やっていることの全てがうまく行くとは限らないし、全てがうまく行くはずがないから、毎度のことのようにやってしまった後から反省するしかないわけだが、それを悪循環だと思ってみても、そこから抜け出られずに現状でも悪あがきの最中でもあるなら、そんな悪循環の中でも生きて活動している実態があり、それこそが現状で体験している危機的な状況かも知れず、今まさに危機を体験してそれを実感している最中なのかも知れないが、そうであっても何とかなっているわけで、その何とかなっている状態がいつまで続くとも限らないだろうが、そんな状態が続かなくなったらどうなるのかも、その時になってみなければわからないわけだから、実際にその時になってみてからそれを体験するしかなく、それを体験している限りで、そうなっている状態の中で何かしら悪あがきのようなことをやっているのかも知れず、そんなことを事前にいくら想像してみても取り止めのないことだが、心の備えとしてそんなことをいくらでも想像できてしまい、それを想像できるだけに、想像している間はそれだけの暇や余裕があるわけだが、そういう意味ではたとえ現状が危機的な状況であろうとなかろうと、何かしら今後に備える意味で、これまでにやってきたことを振り返って、そこから教訓のような何かを導き出そうとしているのかも知れないが、そんなことにはお構いなしに現状が絶え間なく揺れ動いていて、今後何かのきっかけからさらに危機的な状況に陥るとしても、それもそんなことにはお構いなしに、性懲りもなく自分で過ちや誤りを犯しながら、少なくとも死ぬまでは生きていることになるだろうから、とりあえずは悪あがきでも何でも構わないから何かしら活動することになり、その場その時の情勢や状況に応じて心身がそれなりの状態になっているわけで、それが老いながら死につつある状態だとしても、そんな状態を維持していくだけで精一杯かも知れないが、何とかしてそういう状態を体験しながら思考を巡らして、それが活動の糧となるような方法を模索しなければならないだろうが、それが方法というよりは、何かしら模索すること自体が未来へと至るには必要であり、何を模索しているのかがそれを模索している自身には気づかないようなことなのかも知れず、それとは何かと問うようなことでもなく、何も問われないのに何かしら模索していることが、そのまま未来へと至るやり方でもあれば、それ以外にも何をどうやっても生きている限りは未来へと至れるのだろうから、そんな模索を繰り返すこと自体がそれを否定的に捉えるなら無駄で無意味な悪あがきとなってしまうかも知れないが、そうなった結果から判断してそれを悪く評価するならそうなるだけで、しかもその時の心理状態や自身を取り巻く状況によっても判断が異なるだろうから、その時だけの判断に良し悪しを左右されても意味のないことかも知れないし、たとえ意味があっても一時的な意味であれば、そこからまた状況が好転すれば、悪い判断が良い判断に変わるかも知れず、そんなことを事前にいくら予想してみても、予想が裏切られるならそうなった時にそれが良かったり悪かったりも変化するだろうから、それだけの材料でいくら判断してみても絶えず判断材料が足らない可能性もあり、自身が気づかないところで何かしら判断材料を見逃していて、見逃してしまうからそこで判断を誤ってしまい、しかも見逃していることにも気づかなければ、どこで判断を誤ったかにも気づかないし、結果的には判断を誤ったことにも気づかなければ、判断を誤ったことから生じる自身の状態の悪化にも気づかないかも知れず、そうやって状態の悪化に気づかないうちに手遅れとなってしまえば、それが致命的な結果をもたらすのだろうが、現状でまだ生きているならこれまでにいくら過ちや誤りを繰り返してきたとしても、まだそれが致命的な判断ミスにはなっていないことを示しているはずだが、現状ではそうだとしてもこれから自身の状態を悪化させるような何かがもたらされるのかも知れないし、実際にもたらされているのにまだそれに気づいていないだけかも知れないが、最後までそれに気づかなければ死ぬまでそれに気づいていないことになってしまうのではないか。


5月8日「立ち止まる手前でやるべきこと」

 別にそこで何か不思議なことが起こったわけではなく、ただの偶然の巡り合わせに違いないと思いたいわけでもないが、それにしてはタイミングが合いすぎているようにも思いたいわけで、タイミングが合ってしまうのを避けようと思えば避けられないこともないのだろうが、避けられるなら避けた方がいいのかも知れないが、それでもタイミングが合いすぎているように思われるのだとしたら、タイミングをずらす算段を巡らそうとしてもいいような気もするのだが、実際にこちらからタイミングをずらして動いたつもりでも、なぜか不思議とタイミングが合ってしまうとしたら、どういう原因でそうなってしまうのか理解できないわけでもないが、それを理解したところで納得できるわけでもなく、実際にタイミングが合ってしまったのだから驚くしかないのかも知れず、それでも驚く手前でかろうじて踏みとどまって、タイミングが合ってしまう原因をあれこれと考えようとするのだが、なぜ驚く手前で踏みとどまれるのかといっても、それも理解の範疇から外れているようにも思われて、何のことやら状況がさっぱりわからず、困惑するばかりかも知れないが、それも困惑するのではなく、困惑しているのかも知れないと自身の心理状態を推測できるだけで、本当に困惑しているかどうかは、はっきりした実感が湧いてこないのだが、困惑しているというよりも、驚いているというよりも、意外と冷静に自らが巻き込まれているつもりの事態に対処できているようにも思われて、その対処というのが何なのかと問われるわけでもなく、何をどう対処しているのかが自分ではよくわかっていなくても、結果的に何とかなっているとも思えないのに、それでも普通に生きている現実があり、何とか自らの死から逃げ果せているという確かな感触があるわけでもないが、実際に生きているのだからそれは仕方のないことでもあり、現状ではかろうじてそうだとしても、最後まで逃げ切れるわけではなく、誰もが最後には死んでしまうのだろうが、死んでしまうことが最後ではない場合もありそうで、それが現状で起こりつつあることだとも思えないが、少なくとも偶然にしてはタイミングが合いすぎるくらいに合っているような気がする限りで、そのことについては驚きたいのだが、やはり驚く手前で何かが邪魔をして驚けないようにも感じられて、その手前で立ち止まって自身が驚かない原因を考えたいのだが、考えられるわけでもなく、実際には立ち止まってすらいないのかも知れず、立ち止まらずに何をしているのかといえば、何もしないで曇り空を眺めているわけでもないのは、部屋の中にいるからわかりきっているはずだが、偶然にそうなるタイミングが合うわけでもなく、そうなるとはどうなるのかがわからなければ、そこで何と何のタイミングが合っているわけでもなければ、何かと何かのタイミングが合いすぎると思いたいのも、その対象がわからないのなら嘘に決まっているわけでもないだろうが、それを知りたいとも思わないのだとしたら、タイミングが合う以前に話が破綻しているのかも知れないが、何かと何かのタイミングが合いすぎていると思われるから、それについては驚いたつもりになりたいのだが、なぜかそれが驚いたことにはならず、驚く手前で立ち止まって、なぜ驚かないのかその原因を考えるのではなく、なぜこうもタイミングが合ってしまうのかその原因を考えたいわけだが、それも考える手前で立ち止まってしまうわけで、立ち止まって思い出そうとしていることが、そもそもタイミングが合ってしまうのは何と何なのかということであれば、かろうじて話の辻褄が合いそうなのだが、それを思い出せなければそもそも話が成り立たないような気がするが、思い出せないどころか思い出すまでもなくわかっているのに、なぜかそれを語らないのであり、語れないのではなく語らないのであり、誰もそれをわかっているのに語らないとはどういうことでもなく、わかっているのにそれを語ろうとしないわけで、別に語ってはいけないとも思えないのに、なぜそれを語らないのか不思議に思われるかも知れないが、語ってしまってはまずいのかも知れないし、なぜまずいのかといっても、語ってしまってはまずい理由を語らなければ、ただ語らずじまいになるだけで、ただ単にそれについては語らないのであり、だからタイミングが合いすぎているのに何と何のタイミングが合いすぎているのかを語らないとなると、やはり話になっていないように思われてしまうわけだが、話にならないのなら何なのかと問われるわけでもなく、話にならないまま話にならないようなことを語るしかないだろうが、それも何とかしてタイミングが合いすぎることを語らずに済まそうとしていることの表れなのかも知れず、何かしらタイミングが合いすぎることは実際にそうなのだが、それを語らずに済ますにはあまりにもタイミングが合いすぎて、なぜそうなってしまうのか理解できないのはわかりきったことであっても、何と何のタイミングが合いすぎているのかが語れないのはどういうわけなのか、そのわけを知りたいし、それを知ってタイミングが合う理由や原因を理解したいのだが、理解できないところが、それをどう捉えたらいいのかわからず、わからないのだから納得できないし、納得しようがないのだが、納得できる説明など未来永劫もたらされないだろうし、実際に説明など未だかつてされたためしがないのは、納得できない現状が示しているところだが、それでも現状ではなぜか知らないが何とかなっているわけだから、そんなことは気にする必要もないことかも知れないが、そうであればタイミングが合いすぎるのも気にする必要もないことかも知れず、タイミングが合いすぎると思ってもそれについて語る必要もないのかも知れないが、納得がいかないなら語らざるを得ないだろうし、語らざるを得ないのに何と何のタイミングが合いすぎるのかは語らないわけで、肝心なところを語らないわけだから、話になっていないのは百も承知で語らざるを得ないわけだから、何かおかしな事態に巻き込まれていると思うしかなく、それがおかしな事態なのではなく、極めて当たり前のことだとすれば、それの理由を知りたくなってくるが、誰がそれを教えてくれるわけでもないだろうから、自分で理由を考えなければならず、実際に考えながら今に至っているわけだが、しかも今に至ってもなお納得できないし、納得する必要もないことならそんなことは考えなくても構わないのかというと、納得できるまでさらに考えるしかなく、納得する必要がなくても納得できるまで考えようとしているわけだから、考えるだけ無駄なのかも知れないが、考えている限りで納得する必要があるから考えようとしているわけだが、その一方で納得できないこともわかりきっているから、納得したふりをしたいのかも知れないが、それは考えるだけ無駄だとわかっているのに考えようとしていることが、考えているふりをしたいだけなのと同じことかも知れないが、ふりをしたいというのが演技以外の何ものでもなく、それはSNSでコミュニケーションしているふりをしている人たちと同じ動作なのかも知れないし、ただの言葉の一方通行でしかないのに、あたかもそれがそこに参加している人たちが互いに意思疎通を図っているように見せかけるツールでしかないことを証し立てているような様相を呈しているわけだが、なぜそうなってしまうのかといっても、そこに参加しているふりをしている人たちには答えようがないわけだが、答えたくても答えられないのではなく、それもただ単に答えないのであり、そこに意思や感情などが入り込む余地などなく、その状態を簡単に表現するなら、人がロボットのふりをしていると言えてしまうのだが、AIが人のふりをするような受け答えをするのとちょうど逆の動作が起きていると言えるのかも知れず、それとは対照的な動作をなすかのように、SNSでは人がロボットのふりをすることによってコミュニケーションならぬディスコミュニケーション的な状態を再現しようとしているわけで、それも自覚なき演技としてそうなるから、わざとそうしているわけではなく、自然な成り行きとしてそうなってしまうから、そうなっていること自体には特に問題や障害を感じないわけで、逆にそうなっていないと煩わしいのであり、見ず知らずの他人からいきなりメッセージの類いを伝えられても、共通の価値観や対話の前提となる意識や感覚の擦り合わせがないと、どう返答していいのかわからないし、実際に無視しても構わないわけだから気軽に無視してしまうわけだが、それが差し障りのない対応だと思われるとしても、演技の中では他者とコミュニケーションをしているように装いたいから、つい他人と調子を合わせているようなことになってしまうわけだが、それが演技として調子を合わせているだけだから、本当にそうではないのだが、それでも何とかして見せかけとしてコミュニケーションが成り立っているように装うには、他人の話題について行くために、そこで立ち止まる手前で他人と調子を合わせるために絶えずタイミングを同期させようとしているわけだ。


5月7日「単純作業の実態」

 それが駄目なのを承知で、差し障りのない内容にするには政治的な話題を避けなければならないが、どう考えても日本と呼ばれる地域において問題となっていることについて語るなら、それが政治でありそれに連動する国民性だといえてしまう方面では、政治と国民性に関して語らざるを得ないだろうし、それを避けるようだと、保守的なサイレントマジョリティが強いる同調圧力に屈したことになってしまうわけだが、そういう意味では政権批判を繰り返す少数派とも敵対してしまうのかも知れず、単独で多数派とも少数派とも違うことを述べる必要があり、そのどちらも批判しなければならず、それによって多数派と少数派が演じる予定調和な二項対立を克服できるわけでもないが、何かというとすぐに単純な肯定否定の価値観を掲げる連中とは違う方向性において未来への可能性があると思うしかなく、可能性があると思っているだけで、実際には何の可能性もないとしても、できる限りそういった方面で語れることに関して自らが納得できる内容にしたいのだろうが、実際に納得しているかどうかはともかく、ほとんど誰からも無視されるようなことしか語れないとも限らず、結局無視され続けるしかないような内容になるとしても、それで構わないわけではないが、社会の現実としてそんな社会の中で自身が暮らしている現実もあり、しかもそれでも普通に生きていけるわけで、それも自らが気づいていないだけで、これと同じようなことを語っている人など他にも世の中にはいくらでもいるかも知れないし、自分でさえもそれに気づいていないようなサイレントマジョリティの一員となっている可能性もあるかも知れず、そうなると勘違いも甚だしいと言える可能性まであるとすれば、世間からもたらされる同調圧力に屈して多数派と少数派によって構成される二項対立の内部に収まらないように心がけている感覚自体がサイレントマジョリティを構成している人の感覚なのかも知れないが、それの何が問題なのかといってもはっきりとこれだと示せるわけでもないだろうが、はっきりしないところがうまく言い表せないところでもあり、逆に何かをはっきりと言い切れるようなことを提示する人の限界がその辺にあり、その限界を真に受けることが、彼らが語っているフィクションの限界でもあるわけだが、そんなフィクションの支持者も彼らの商売を支えるほどには存在していて、そこで需要と供給の均衡が保たれているから、そういった支持を背景として彼らも手応えを感じていて、それが自分たちのやっていることについて自信を深める結果を招いているわけだが、果たしてそれで構わないのかといえば、構わないような成り行きが形成されながらも、それが日本的な状況の継続を可能としているのだろうが、そうなるとそんな現状を維持しようとする人たちと絶えず現状から批判の材料を探し出そうとする人たちの利害が一致して、結果的に現状を維持しようとする人たちにとっての利益が現状を批判しようとする人たちにとっての不利益であり、そんな利益と不利益が同じ物事のように思われる限りで、彼らによる共同作業の成果として現状で続いている状況がもたらされていると捉えればいいように思われるわけだが、果たしてそれが勘違いの認識なのかというと、現時点ではよくわからないとしか言いようがないが、よくわからないままでいいわけがないとしても、何かそこではっきりしたことを言い切ってしまうと、批判の対象をこうだと決めつけることになってしまい、それでは批判派と同じになってしまうわけだが、結果的に同じことを語っていると見なされても構わないが、できれば何を批判しているのかわからないようなことを語りたいわけで、そうすることが何を意味するわけでもなくても、できるだけ回りくどく説明しながら意味が定かにならないようにして、何でもないようなことを語っているように装いたいわけだが、そうしないとならない事情があるわけでもなく、事情がないならこのままでは日本が危ないだのと危機を煽るような毎度お馴染みのやり方で現状の政治や経済について馬鹿の一つ覚えのような批判を繰り返し語ることになるわけでもないだろうが、そういう馬鹿が世の中にはいくらでもいることを認めたいわけでもなく、必ずしもそう語ることが馬鹿の証しともならないはずだが、そう語らざるを得ないような理由が出てきてしまう立場の人が世の中には少なからずいて、実際にそういう内容の批判を繰り返している人にとっては、それが切実に感じられるような事態を目の当たりにしているわけだから、そんな批判になってしまうのもやむを得ないだろうが、それがその人の抱いている幻想だとも思えないのは、今までにその人の他にもそんなことを繰り返し語ってきた人がいくらでも存在した事実によって明らかになっていることだとしても、そんな人たちにしてみればすでに政治が駄目になり経済も駄目になっているはずの状況の中で暮らしている自らが何を実感しているかといえば、そう語ることこそが単純作業の繰り返しでしかなく、そんな単純作業しかできない人たちによって日本の政治と経済が支えられていると見当違いな妄想を抱いてしまうわけだが、実際に日本の政治状況も経済状況も安泰なのは彼らの日々の作業のおかげだと思うのもそんな勘違いの延長上でそう思われてしまうのだろうが、そう思わせるような圧力が世の中にかかっているから、実際に政治も経済も安定しているわけで、その安定が停滞だと感じられると政治も経済も衰退しているように感じられるのだろうが、それは安定を否定的に捉えているだけで、それを肯定的に捉えるなら安定していて安泰だと感じられるわけで、別にそれの何が悪いわけでもないのだが、それは政治や経済の分野だけではなく、例えば音楽や映画などの娯楽産業の中でも過去の意匠を飽きもせず繰り返すような単純作業が蔓延しているだろうし、別にそこでこれまでにない革新的なアイデアが活かされるわけでもなく、過去にヒットした内容をいかにして現代の流行現象に合うように組み合わせられるかが競われていることからも明らかだろうが、それも過去から延々と繰り返し行われてきた作業の延長上で行われていることであり、そうすることの何が新しいことでもないのだろうが、そうやって飽きもせず繰り返される単純作業の中でこれまでにない革新的な発明や発見があるかというと、まれに突然変異のような事件が起こるかも知れないが、突然変異した内容がその後も継続するかというと、結果的に新たな意匠として定着する場合もしない場合もあるのだろうが、定着する際にはやはり模倣として定着するわけで、それがいったん社会に定着してしまえば、それを馬鹿の一つ覚えのように繰り返す単純作業労働者のような人たちによって模倣されて、それが社会に受け入れられる限りは馬鹿の一つ覚えのように延々と繰り返されるわけだが、そんな単純作業労働者ふうの人たちの中に、このままでは日本が危ないだの日本が滅びるだのと馬鹿の一つ覚えのように繰り返し煽動する人たちも含まれるのだろうが、そうすることがその人たちにとっては切実に感じられる単純作業であり、その人たちには実際に今まさに日本が滅びかかっているように感じられるわけだから、深刻に現状を捉えざるを得ないわけで、もちろんそんなふうに現状を捉える姿勢も過去から延々と模倣され続けてきた意匠であり、そんな煽動者も過去から延々と出現し続けていて、それが一種の伝統芸だとも言えるだろうし、ひょっとすると能や歌舞伎などと似たような形態を形成しているのかも知れないが、そんな煽動を繰り返している当事者にしてみれば、まさか自身の活動が伝統芸能の能や歌舞伎などと比べられるとは思いもしないだろうが、何がそうさせるのかといえば、型にはまった動作がそうさせるのであり、それが心身に馴染んだ動作でもあり、そんな人たちには長年の鍛錬によって身についた動作と共に自らが信じている論理や信念は動かしようがなく、そういった動作や信念に凝り固まっているわけだから、そうなっていることを外部からどうこう言っても無駄であり、いったんそうなってしまった人は死ぬまでそんなことをやってもらうしかなく、実際に死ぬまでそんなことをやっている人も世の中にはいくらでもいて、そんな人が世の中に多ければ多いほど、それだけ世の中が安定していることになるわけだが、そうした安定状態が気に入らない人たちが、やれ停滞しているだの衰退しているだのと批判したくなるのだろうが、その一方で安定してそんな単純作業を続けられるならそんなことをやっている人の立場は安泰なわけで、しかもそんな安定して安泰な立場の中には、延々と飽きもせずこのままでは日本は危ないだの滅びるだのと煽動し続けられる立場もあるわけだから、まさにそんな人は自家撞着に陥っていると言えるだろうが、状況によってはそんな作業も必要になるから続けてもらわないと困る場合もあるわけで、社会の安定に寄与する限りでそういう人たちの存在も欠かせないのかも知れない。


5月6日「壁の向こう側」

 人工的に作られた壁は文明世界のどこにでもあり、建物があればその内部が壁で仕切られ、壁によって内部が外界から隔てられて、壁の向こう側に何があるかは外に出たり中に入って確かめればわかることだが、それが何かといっても、それに関して誰が何を知っているわけでもなければ、知らないことに関して何か言えるわけでもなく、知らないからといって、誰も知らないことに乗じて、人の気を惹くようなデタラメなことを語ってはいけないとも思えないし、思うことをそのまま語れば済むようなことであるなら、思わないことまで語れるかというと、語りたければさっさとそれを語ればいいだろうし、誰も何も語っていないのであれば、それを語りたいのに、何らかの理由が邪魔をして語ろうとしないわけではなく、それは誰にも語れないことではないが、それが何かと問われるまでは語りようのないことかも知れず、実際に何も問われていないのなら、問いに先回りして答えをあらかじめ用意しておく必要などなく、そこで壁の向こう側には何かあるのかと問われているのであれば、それを知っているならさっさと教えてやればいいのだろうが、知らなければ教えようがないし、ならば知らないと答えればいいことだが、答えようがないなら、それを知っていても表現しようのない事態に直面しているのかも知れないが、それを知っていて、しかも壁の向こう側にあるのが誰もが知っている何の変哲もないごくありふれた光景であれば、それがあえて教える必要のないことだとは思わないが、教えたところで何がどうなるわけでもないようなことかも知れず、だからあえて教える必要もないことだとは思えないが、教えないとまずいのかといっても、何がまずいのかわからないし、それだけでは教える必要のない理由にはならないような気もするだろうが、教えないとわからないようなことでもないだろうし、知りたければ壁の向こう側に行って見ればいいのであり、それができない理由があるならそれを知りたいところだが、知っていても教えないなら、教えられない理由も知りたくなってしまうが、誰もがそれを知りたいわけでもなく、そんなことには興味がない人もいくらでもいるのかも知れず、では壁の向こう側に行けない理由も、その理由を教えられない理由も知りたくなければ、そんなことには興味がないと思っておけばいいのかといっても、それも少し違うのかも知れず、教えるのではなく語ることができて、教えることと語ることが同じではない面があるとすれば、教えることに対しては習うことができるのだが、語ることに対しては聞くことしかできないわけでもないが、少なくとも聞くだけでは習ったことにはならず、習わずに聞き流すだけでは、何の理解にも至らないわけではないが、理解したくもないのなら聞き流すだけでもいいだろうし、なぜ理解したくないのかといえば、真に受けるわけにはいかないからであり、それは教えてもらうようなことではなく、自分で確かめなければならないことであり、壁の向こう側へ行って何があるのかを実際に自身の目で確かめてみないと、体験として身にしみて感じられないからであるが、それが身にしみて感じなければならないことだとは思えなければ、それを誰か他の人に教えてもらって、それを真に受ければいいかというと、別にそれで構わないような人は世の中にはいくらでもいるかも知れないが、それで構わないような人が何の役に立つのかというと、果たして何かの役に立たなければならないのかといっても、やはり何の役にも立ちそうにない人でも構わないなら、知りたいことは何でもかんでも他人から教えてもらえば済んでしまうかも知れず、それが気休め程度のことであれば、それ以外には何の役にも立ちそうにもないだろうが、確かにそれ自体としてはそうかも知れないが、それ以外のことに関連して何かの役に立つ場合もあり、しかも役に立ったことに気づかない場合もあるかも知れず、だから教えもらったことが役に立つか立たないかはその時点ではわからず、忘れた頃に気づかないところで役に立っていれば、そんなことなど知る由もないだろうが、それでも構わないなら、教えてくれるなら教わっておいた方がいいとは思わなくても、それを真に受けずに聞き流しているだけでも構わないとも思えないだろうが、実際にそんなことばかり日々の日常の中でメディアから何かしら伝えられていて、それをどう受け止めようと自分の意志や意思とは関係のないところで、何かしら影響を被っているのであり、だからといってそれでは気に入らないから、何とかして自分が受け取るべき情報だけを受け取れるようにしたいと思っても、気づかないうちに情報に接してしまうわけだから、そういった方面の制御など完全にはできないと思うしかないが、それほど深刻に受け止めるようなことでもなければ、やはりメディアから伝えられる情報など聞き流していれば済んでしまうようなことであり、それでは済まなくなるようなことにでもなれば、そうなった時に改めて対処したり対応するようなことになるが、そうなる時が果たしてやってくるかというと、すでにそうなっていて、対処や対応として聞き流しているわけで、聞き流すだけでは済まないと思うなら、実際に情報を役立てようとしていて、役立てなくても構わない情報と役立てようとする情報を選別しているわけで、それが対処や対応となっているわけだが、中には役立つか役立たないかではなく、有害な情報が入ってこないようにブロックする場合もあるだろうし、そうなると防御壁としての壁が必要になってくるわけだが、壁を築くこと自体が防御や防護として自らに害をなす何かから身を守るために必要となってきて、そうなるとあらかじめ壁の向こう側に何があるのかがわかっているから、それから身を守るために壁を構築するという理由がはっきりしてくるわけで、壁を身を守るための防御や防護として役立てようとしているわけだが、また身を隠すためにも役に立つだろうし、見られたくない物事を見られないようにするための障壁として壁を構築する場合もあるだろうが、何か用途があるから壁が構築されるわけだから、その用途を満たすためには壁が構築されるに当たって壁の向こう側に何があるのかを前もって知っていることが重要となってくるわけで、少なくとも壁の構築者にはそれがわかっていることが必要であり、何のために壁を作るかで、その用途に合わせて壁の材質や形状や厚さや高さや長さなどが決まってきて、それによって壁の強度も違ってくるだろうし、一般的には最低限の条件として風雨に耐えられるような壁でないと困るだろうし、また地震で崩壊しても困るし、他にも費用や耐用年数など様々な条件から壁の強度が決まってくるだろうが、そうやって壁で仕切られた内部で人が何をやっているのかというと、壁の外にいる人がそれを知りたいわけだが、なぜそれを知りたいのかといえば、そこに壁があるからで、壁に遮られて壁の内側の様子を伺うことができないから興味が湧くわけで、わざわざ手間暇をかけて壁を構築したのだから、何か壁の向こう側で重要なことが行われているのではないかと思うのは自然な成り行きだろうし、逆に何もなければなぜ壁が構築されるのか不思議に思うし、必要もなければわざわざ壁など作らないだろうから、そこから壁が作られた理由をあれこれと推測したくなってしまうわけだが、果たしてそう思うことが壁への対処や対応になっているかというと、壁によってそう思わされているような気もするわけで、そう思わされている限りで壁の術中にはまっているのではないかという疑念も湧いてくれば、何か壁に向かって身構えるような姿勢となってしまうわけだが、それと共に自らが果たして壁を構築する理由の対象となっているかというところでも疑念が湧いてきて、もしかしたら壁の相手にされていないのではないかと思うなら、自らの存在を自分で過小評価していることになるのだろうが、それもそう思わせるように人一人が押しても叩いてもびくともしないように頑丈な壁が築かれているのかも知れないし、そういうことまで考慮されていると深読みしたくなるわけでもないが、壁について改めて思考を巡らすならそんなところまで考えが及んでしまうとしても、日常生活の中で壁などに関心が向く機会などほとんどないし、それよりは遥かに関心を持っている物事など他にいくらでもあるから、建築家や壁を専門に作る業者でもない限りは、優先順位としては壁自体への関心などほとんど最低レベルでしかないだろうが、それでもそこに壁があると、壁の向こう側に何があるのか関心を抱くだろうし、そうであるなら壁が関心を抱かせていることも確かなのではないか。


5月5日「罠にはまる」

 罠にはまっている感覚が何からもたらされるのかと言えば、それがわからないから嫌な感じがするわけだが、実際に罠にはまっていると思われて、何か嫌な感じがしていて、その嫌な感じというのが、何かに誘導されて何かをやるように仕向けられている感じなのだが、それがあからさまに誰かが仕掛けた罠ということではなく、世の中から自身に及ぼされる様々な作用や影響が組み合わさってある種の力が生じているように感じられて、その力が作用して自分に何かをさせるように仕向けてくるから、誰が罠を仕掛けているとも思えないが、実際に様々な人や団体が罠を仕掛けているのかも知れず、しかもそうした罠に自分が直接はまっているとは思えないのだが、間接的には何かに誘導されて何かをやるように仕向けられているように思われるから、何か嫌な感じを覚えるわけだが、それが気のせいで済ませられるなら大したことではないが、何かをやるように仕向けられているように思われても、それを実際にやるとなると現状でできる範囲内でしかやれないことだから限界があり、果たして現状でできる限界を打ち破ってまでやれるかというと、限界があるなら限界の範囲内でしかやれないし、やろうとしても無理なら実際にはやらないわけだが、無理を承知でやろうとすれば途中で挫折してしまうかも知れないし、実際に挫折してしまえば失敗したことになるから、やはり嫌な感じを覚えるのだろうが、何かそれが嫌な感じを覚えさせるように仕向けられているような気にさせるから、やはりそこで罠にはまっているような気にもなってしまい、もちろん勝手に自分がそう思っているに過ぎず、単なる被害妄想だと思えばそれで済んでしまうことかも知れないが、被害妄想を抱くこと自体が、被害妄想を抱くように仕向けられているように感じられて、それも罠ではないかと疑念が募ってくるわけだが、それ自体も被害妄想であり、勝手にそう思うならいくらで思ってしまうことなのかも知れず、そうなると被害妄想の無限循環に陥っていることになるのかも知れないし、何かそれが心の病なのではないかと疑心暗鬼にもとらわれているような気もしてくるだろうが、それ自体も気のせいでしかなければ、何でもかんでも思っていることは全て気のせいになってしまうが、そんなはずがないとは思うだろうが、依然として嫌な感じを覚えているわけだから、それ相応に世の中から何らかの圧力が加わっていると思うしかないだろうし、その圧力を特定の誰かがかけているというよりは、様々なところから圧力がかかっていて、そんな圧力に押しつぶされないように自身も押し返そうとしているから、その押し返そうとする力も他のどこかへの圧力となって、別の誰かを圧迫するような作用を及ぼしているなら、そんな圧力を感じている多くの人が疑心暗鬼となって、何か嫌な感じを覚えつつも互いに見知らぬ人同士が圧力をかけ合っているから、それが否応なく他人に圧力をかけるように仕向けられているような被害妄想となって、自分も他人もそんな罠にはまっているような嫌な感じを覚えるのかも知れないが、圧力に屈せずに抵抗すれば、その抵抗が他の誰かへの圧力となってしまうにしても、では圧力に屈すればいいかといっても、圧力が止むことはなく、屈すれば屈するだけさらに余計な圧力をかけられるから、そんな圧力に押し潰されて自殺に追いやられる人まで出てくるから、死にたくなければ抵抗せざるを得なくなり、しかも抵抗すればするだけその抵抗が他の人への圧力となってしまうわけで、そうなるにしても互いに圧力をかけ合うしかないわけだが、もちろん他人へと圧力をかけるだけなく、他からかけられた圧力を押し返すだけでなく、圧力をいなすようなことまでやろうとするだろうし、その圧力をいなすということがどういうことになるかは、いなすというよりは何とかして逃れようとしてもがいているうちに、稀に圧力を振り切って、圧力がかかってくる方向とは別の方面へと移動できれば圧力をかわしたことになるのだろうが、いつでもそれができるわけでもないところが、それなりにそういうやり方にも限界があることがわかる程度のことでもあり、単なる一般人でしかない自分にだけ圧力をかわせるほど圧倒的な力があるわけでもないだろうし、人一人の力などたかが知れていて、他人と連携することによって個人を凌駕する力を発揮できるようになるのはわかりきったことだとしても、他人との連携がうまくいくかというと、時と場合によってうまくいったりいかなかったりするにしても、連携の仕方が友情とかいうきれいごとなどではなく、互いの利害によって結ばれているなら、時には相手を騙したり裏切ったりする場合もあるだろうし、そうなるとそこで関係が壊れるから一時的に連携に過ぎなくなるわけだが、それが嫌なら恒常的な連携を構築できるかとなると、例えば契約に基づく連携であるなら契約が続く限りである程度は強固な連携が可能となるだろうが、それは契約を交わした範囲内での連携となり、その範囲外では連携しなくても構わないかとなると、大抵の契約は仕事絡みの連携となるから、そういうビジネスライクな連携であるなら後腐れがなく、仕事以外で連携が負担になってくることもないだろうが、契約違反などが発覚したら面倒なことになるだろうし、そういう意味で他人と連携して力を得るにはそれなりのリスクも伴ってくるだろうが、それなりに他人との間で信頼関係を築いたとしても、一度その信頼を裏切ったり裏切られてしまうと、その他人に対して疑心暗鬼になってしまうだろうし、そういうところでもいつ裏切ったり裏切られるとも限らないから、ある程度はびくびくしながら絶えず相手に疑いの目を向けながら悶々とした日々を過ごすことにでもなれば、単なる小心者でしかないわけだが、そういった猜疑心自体が相手から圧力を感じていることの証拠となるだろうが、そうなっていること自体も何か罠にはまっているような気がするだろうし、心の中であらぬ疑いやいらぬ心配が生じていること自体も我慢がならないことでもあり、できればそういった煩わしさから解放されたいと思うなら、下手に他人と連携関係や協力関係など築かない方がいいように思われるだろうが、社会の中で生きている限りは自分一人では何もできはしないことも事実として痛感させられるようなことを日々の日常の中でいくらでも体験していれば、下手にではなくうまく他人との間で連携関係や協力関係を構築しようとするだろうし、そのためのノウハウも社会の中で暮らして他人との共同作業などを通じて自然と身についてくるかも知れないが、それもはじめからそういう目的として連携関係や協力関係を模索するのではなく、活動していくにつれて自然生成的に連携関係や協力関係が築かれていくようならそれがネットワーク的な結びつきにもなって、ある特定の人物だけと深く濃密な関係となるわけではなく、様々なジャンルの人々と軽い関係を築ければ、それだけ疑心暗鬼や猜疑心などをもたらすような心理的な負担も軽くなるかも知れないが、そういった連携や協力の関係が何の役に立つのかは、何とも言えないのかも知れず、たぶん何の役にも立たなくてもいいような関係もあるだろうし、その方がかえって気楽かも知れないが、そういった関係の功利性を突き詰めようとすると、大抵は関係が壊れてしまうだろうから、つかず離れずぐらいの距離感を保っておくだけでも気休め程度にはなるかも知れないし、何とかして他人から迫ってくる暑苦しさや恩着せがましさやお仕着せがましさなどからは逃れたいだろうし、それも他人から及ぼされる圧力の類いとなるだろうから、そういった圧力をできるだけ軽減させたいのは誰もが思うところかも知れないが、圧力をなくそうと思えば関係を解消しなければならないから、他人から及ぼされる圧力を受けつつも、その圧力を自らのために利用するようなことをやろうとすれば、ただ他人を利用しようとしているだけかも知れないが、他人を利用しながらもその他人から利用されているならウインウインの関係だと思いたいところだが、どちらがどうというのではなく、それもその場の成り行き次第でそうなったりならなかったりするだけだと割り切ることができれば、割と心理的な負担も少なくて済むかも知れず、そういう関係を目指そうとして目指せるわけでもないだろうが、何らかの偶然の巡り合わせからパズル合わせのパズが合わさるようにうまくいくこともある一方で、関係がこじれにこじれた末に関係が壊れても、不快な感情的なしこりが残ってしまう場合もあるだろうから、そういったことをいちいち気にするなとは自分に言い聞かせるにしても、うまくいかないなりに生きている現状を肯定的に受け止めている限りで何とかなっていると思うしかないわけだが、それでも周囲から及ぼされる圧力を絶えず感じながら、生きている現状を何とかしたいと思っていることも、否定できない現実としてあるわけだ。


5月4日「表裏一体の関係」

 表裏一体という状態が何を意味するかは、辞書で調べてみなくても大抵の人は理解しているだろうが、この世界では常に何かと何かが表裏一体の関係にあるわけでもないが、中には肯定的に捉えられる状態と否定的に捉えられる状態が一体化している関係があり、それが表か裏かのどちらに転ぶかわからないような脆い均衡を保っているわけでもないだろうが、それが一見安定しているように感じられても何かのきっかけから均衡が簡単に崩れるような成り行きを繰り返し経験してきた経緯があり、その場合は脆い均衡を保っている状態が肯定的な状態で、どちらか一方に崩れてしまった状態が否定的な状態なのだが、そのどちらか一方のどちらかというのが政治的には右か左かということになるのだろうが、それが極限にまで振り切れてしまえば、極右か極左ということになるわけだが、そうならないように歯止めをかけているのが経済的な安定であり、経済が安定せずに世の中が混乱状態にある時には極右勢力や極左勢力が躍動するのだろうが、そうなった時に極右と極左が表裏一体の関係にあるように感じられて、どちらが政権を握っても政敵を処刑したりする恐怖政治のようなことが行われるわけだが、そうなると政権に従わない民衆を大量虐殺したりもして、世の中が大変な状態になってしまうのだろうが、それが程度の差こそあれ民主主義の時代と言われるここ二百年余りの期間にわたって繰り返し世界各地で起こってきたことだろうが、今もそんな状況が続いているのかというと、地域によってはこれからも断続的に続いていくのかも知れないが、一応は収まって安定しているように見える地域もあるだろうし、逆に未だに激動のただ中で人々が苦しんでいる地域もあるのだろうが、それがその地域の経済情勢と連動しているかといえば、そうとも言えるだろうが、経済というよりは政治情勢そのもののように見える地域もあるわけで、そこで政治と経済に密接な関わりがあることは誰もが感じ取れるだろうが、なぜそうなってしまうのかといっても、それを論理的に説明するとなると、うまく言い表せるとも思えないが、歴史的に語るならそれなりのことを語れるにしても、それが今後の変革に役立つとも思えないし、過去の経緯や事情など現代では通用しないことばかりかも知れず、ただの語るのに都合のいいところだけつなぎ合わせた辻褄合わせになってしまうかも知れないが、中世末期にモンゴル軍がヨーロッパに襲来した際には、騎士同士による一騎討ちの戦いなど通用しないことが明らかになっていて、それは日本の鎌倉時代にあった元寇においても明らかになったことかも知れないが、そこからルネサンスや大航海時代を経るにつれて産業の発展が進んで行くと共に、政治的な中央集権も進んで行って、貴族などの領主階級が没落するのと入れ替わって国王による絶対王政がヨーロッパ各国に広まって行くのが、産業の発展に伴ってそうなるような成り行きとなり、産業の発展自体が集団による協業と分業化の発達であり、それが工場制手工業と呼ばれる形態となると共に、社会のあらゆる方面で集団による協業と分業化が浸透して行くにつれて、国家行政を担う官僚機構も発達してきて、もちろんその中には軍隊もあって、集団で組織的に動く軍隊が編成されてきたわけだが、そうなった時に民衆を集団に束ねて組織的に働かせるにはどういう理念や信仰を吹き込めばいいかという課題が出てきたわけで、そうなった時に民衆は王の臣民だから王のために働くのが当然だという理屈ではない理屈も出てきて、そちらの方が時代状況の中で都合が良かったからそちらの方が次第に優勢になっていったのだろうが、それ以前にヨーロッパではキリスト教が浸透していたわけだから、王よりも教会よりも上に神がいて、王に従うよりも教会に従うよりも直接神に従えばいいという理屈のプロテスタントの教えも広まったから、王も割と簡単に退けられやすかったのかも知れないし、王がいなくても国家行政を担う官僚機構があれば国家統治ができるわけだから、官僚機構の官僚と企業経営者や資本家などの有力者たちが結託して国家統治を行う形態が世界的に定着したのだろうが、もちろん表向きには選挙によって議会の議員や行政府の長などが選出される形態をとっていて、それらを政治家という肩書きの職種が担うのもどこの国も事情は同じなのだろうが、民主主義の理念からすれば議員や行政の長などは普通の一般人の中から選ばれるのが理想だろうし、有力者が政治権力を握るようなことがあると、有力者に都合のいいように行政がねじ曲げられて、それでは王と変わらなくなってしまうわけで、そういうことがないように様々な制限や制約を講じることが民主的な政治体制を維持するには必要なのだろうが、そうであっても有能な人物が議員や行政の長になってほしいだろうから、その有能さというが普通の一般人のためになる有能さかというと、果たして普通の一般人のためになることをやろうとすることが直接の有能さに結びつくかといえば、何か疑問を感じざるを得ず、現状でも例えばロシアのプーチン大統領が有能であることは、実際に何十年も独裁的な権力を維持しているわけだから、そういう方面の有能さは認めざるを得ないとしても、その強権政治によって弾圧されている人々にとっては害悪しかもたらさない有能さであり、政治家が有能であってほしいと思うのも、そう思う人の願望通りの有能さとはならないことの典型例かも知れないが、日本でも最近の政治情勢の中では安倍元首相の在任期間が突出して長かったが、安倍元首相が有能であるかというと、逆に無能呼ばわりする人も多いにしても、それも人物としての個人的な有能さというよりは、安倍政権を支える人や集団の連携プレーによって政権が長期間にわたって維持されていたと見なすしかないような成り行きだったのかも知れず、それに関していくらでも批判を浴びせることはできるのだが、批判を浴びせていた人たちが有能だったかというと、結果的に見れば自分たちが有能ではなかったから長期政権となってしまったと反省するかというと、誰もそんなふうには思わないだろうし、もちろん反省できる人が有能であるとも限らないが、プーチン大統領にしても安倍元首相にしても、彼らをいくらでも批判可能なところが罠なのかも知れず、罠といっても誰が罠を仕掛けているわけでもないだろうが、少なくとも政権を長期間にわたって維持するような仕組みが政府の中で機能しているわけで、それは政府の中だけではなく、政府と一体化したメディアの中でも機能しているだろうし、メディアだけでなく社会の中でも機能しているのだろうが、さらには社会の中で暮らしている人々の意識の中でも機能しているから、その機能が有効である限りは政権が維持されるわけで、そうした機能が何なのかといっても単純には表現できないだろうが、それが民主主義を機能させる人々の意識と表裏一体の関係をなしているとしたら、それが何かと言えるかとなると、人々の意識に取り憑いているのが、絶対王政期にどこかの国王が言ったとされる、朕は国家なり、という台詞なのかも知れず、自身を国家と一体化させることによって、各人の間で生じている利害対立を無視できるという勘違いであり、果たして国家の利益を優先させるために各人の間で生じている利害対立を無視できるかというと、それとこれとは別問題で、次元や水準の異なる問題を同列に扱うことなどできないし、むしろ各人の間で生じている利害対立をできるだけ解消する方向で調整して行く延長上に社会問題や国家的な問題も介在してくると考える方が、より民主的な傾向になるように感じられるだろうが、その逆にまず国家的な利益を第一に優先させて、人々の行動様式や思考形態を国家的な利益に合わせて再構成するようなやり方は中国でも行われていることだろうし、そうなると人民のための国家というよりは、国家のための人民になるわけだが、それが民主主義と国家主義の違いだと簡単に言うことはできるにしても、果たして両者の間に違いがあるかというと、たぶん違いを際立たせると国家と国民の関係が成り立たなくなるから、それよりは両者を合体させたいわけで、それが民主主義と国家主義の表裏一体化だと言えるかも知れないが、そうなると民主主義の裏では国家主義が機能している一方で、国家主義の裏では民主主義が機能しているという表裏一体の関係を構築しなければならなくなるわけだが、そうなるには両者をつなぎ合わせる接着剤が必要となり、その接着剤の役割を果たすのがナショナリズムであり、ナショナリズムを体現しているのが民族や宗教などの慣習を主体とする集団を伴った幻想の共同体となるのではないか。


5月3日「活動の偶然性と論理の必然性」

 何かに躓いて転びそうになったところで、よろめきながらふと思い浮かんだ光景が何なのか、といったことに誰もが興味があるわけでもないだろうが、問いとして有効に思われるのが、それとは別の方面から同じことを問おうとすることなのかも知れず、そんな問いが何を意味するとも思えないだろうが、偶然に起こった出来事を味方につけるとはそういうことかも知れず、味方につけたところで何がどうなるわけでもないが、それを利用して何ができるのかと問うなら、そこで何か重要な事実を見逃していて、それを重要だとは思えないから、それとは真逆の確かな論理の必然性に頼って物事の良し悪しを判断しようとするのだろうが、どこから確かな論理が導き出されてくるのかといえば、偶然の成り行きから必然的な物事の生成を見つけ出そうとする意志によって、確かな論理を導き出してしまうのだろうが、そこで意志が欲望に媒介されている限りでそうなる成り行きを受け入れざるを得ないにしても、その一方で偶然にそうなった成り行きを味方につけようとする意志もそうした欲望に媒介されて、偶然に起こったことに乗じて何かやりたいことをやろうとする一方で、何とかしてそんな行為を正当化したいから、そのために必然的な論理の裏付けが欲しいわけだが、そうなるとそこで利用しようとする偶然にしても必然にしても、どちらもやりたいことをやろうとするのに利用したいという欲望に基づいていることが、そんな自覚のあるなしに関わらず欲望に導かれてそうなってしまうことが、そういうことをやろうとする活動の欺瞞性を感じさせるとしても、もちろんそんなことをやっている当事者がそれが欺瞞だとは思わないし、それがどんなことであっても、利用できるものは何でも利用しようとするのは、誰もが普通にやっていることであり、それが偶然に起こったことであっても、必然的にそうなったように思われることであっても、それを実際に利用することが功利的な活動となるわけだから、何かしら利益が見込まれるからそんなことをやろうとするのだろうが、別に結果的に利益を得られなくても構わないとは、少なくともやり始めた当初の段階では思わなくても、それをやっていくうちに、当初の見込みからだいぶ外れてくれば、それが悪く受け取られるようなら見込みが甘かったと反省しながらも、逆に良い方向での見込み違いもあるだろうから、いったんそれをやり始めてしまうと次第に後戻りが利かなくなって、どうなってもそれが活動の形態を維持している限りで、その場の成り行きまかせで利益を得られたり得られなかったりしながらも、当初からどれほど逸脱していようと活動していることに変わりなく、意識の中ではそれで構わないわけではなくても、結果的にはそうなっているのであり、そうなっていることの良し悪しをどう判断してみても、そうなった結果が示している通りのことであるから、そうなっていることを前提として、どこまでそれを続けて行っても、それ以上でも以下でもないようなことをやり続けることになるのだろうが、そういう活動の実態が示していることが偶然の成り行きのように感じられることが、そこから何とかして自らの活動を正当化するために必要だと思われるもっともらしい論理とは相容れない傾向も示しているわけで、実際に起こっているのは偶然の成り行きであるとしても、そうなった結果の必然性を説明するには論理が必要となるわけだから、どうやってもやっていることとやっていることの説明との間で不整合が生じてくるわけだが、その二つを何とかしてつなぎ合わせて、一連の連続した成り行きに見せかけたいわけだから、何かそこで無理が生じていると見た方が妥当な認識だと思われるのだが、それがどんな無理なのかというと、自らの活動を自らが正当化するという無理であるなら、では無理ではない成り行きがどんな成り行きなのかというと、自身の活動が他の誰かから認められるということであり、他人から共感されて好意的に受け取られるような活動なら、あえて自分で自分の活動を正当化する必要もなく、活動についてのもっともらしい説明すら必要ではなくなるだろうが、逆に他人から批判されたり非難されるような活動だと、それを否定的に受け止める人や団体と争ったり戦わなければならなくなる場合も出てくるから、争いや戦いに備える意味でも活動の支持者や賛同者を集める必要も出てくるのだろうが、そういう意味でも他人から共感されて好意的に受け取られるような活動にしていかなければならなくなり、そのためには他人を納得させるような活動内容にしなければならないだろうし、他人から支持してもらえるように活動の実態を説明するというよりは、宣伝する割合が大きくなってきて、支持者になってくれるように勧誘するようなことまでやるかも知れないが、そういった宣伝や勧誘が活動の主体になってくると、活動自体が虚業化してくるというと、その種のサービス業全般が悪いかのような印象を与えてしまうが、活動の分業化と部分的な特化が起こることが現代的な活動の傾向であり、中には宣伝や勧誘に特化した活動も出てきて、それもそうなることの論理的な必然性を求めるなら、他との競合や競争状態にある活動が、他よりも功利的に利益を追求する必要に迫られて、活動の効率化を促されるから、否応なく分業化と部分的な特化が起こるのだろうが、そういった傾向は活動が連続的に継続していく過程で起こることであり、連続的に継続していくには偶然にそうなるよりは必然的にそうなる成り行きが必要になってくるだろうから、そういう面では活動が継続していく上での論理的な必然性が求められるだろうが、それとは対照的に活動の偶然性がどこから生じてくるかというと、連続性よりは突発的に起こる事件や事故などによって、それまで継続してきた活動が中断されたり予期せぬ方向へとずらされたりするわけで、なぜそうした事件や事故が突発的に起こるのかといえば、連続的に行われてきた活動に天変地異などの自然現象が作用することもあるし、また複数の活動がある時点でぶつかり合うからそこで突発的に事件や事故が起こることもあるわけで、それらは外部からもたらされる作用や影響だと言えるだろうが、多くの人や集団などが絡んでくる規模の大きな活動なら、その内部で派閥や党派などが形成されて内紛が起こる可能性もあり、そうなるのもそんな争いが起こった後から説明される際には、そうなるのが必然的な成り行きであったかのように説明されるだろうし、そういったことが突発的に起こるのは偶然に過ぎないが、いつ起こるかはわからないが、いつかは必ず起こると予想することはできるわけで、そんな予想にもそうなるのが必然的な成り行きであるような論理が語られることになるから、そこでも出来事の偶然性と論理の必然性が説明の中で結びついて、そういった説明の中では偶然性と必然性の間で論理的な整合性があるように思われるわけだが、そう何でもかんでも事後的に必然的に起こったかのように論理的に説明されると、相対的に偶然性が軽視されて、それが事後的にしか説明できないことが忘れられる一方で強調されるのが、これから起こることが論理的に予測できたり予想できるかのような思い上がりとなるのだろうが、もちろん予測や予想をしている人が思い上がっているわけではなく、ただ単にそれが起こる論理的な必然性を信じるに足る根拠を示しながら説明しているに過ぎないのだろうが、それも起こった後でしか予測や予想が当たったか外れたかがわからないところが、当たり外れが事後的にしかわからないことを証しているわけだが、そんな事後としての結果に至るには、途中で暗中模索を余儀なくされることを考慮しないと、予測や予想が成り立つ範囲内での計画的な活動を重視するしかないだろうし、もちろん計画的に活動が進行中であっても、予期せぬ事件や事故によって突然活動が中断されたり、それによって当初の計画から著しく進捗が遅れたり、また当初には想定していなかった新たな問題が生じて計画の変更を余儀なくされたりしながら、そんな途中の紆余曲折が暗中模索を強いるのだろうが、結果から説明される言説の中で、途中で起こった偶発的な出来事が重視されるかというと、説明自体が論理的な筋道に則って説明されなければ説明とはいえないだろうし、いちいち不慮の事故や事件が起こったところで立ち止まって、それが起こった原因究明が行われるにしても、計画の論理的な筋道が否定されるわけでもなく、計画は計画としてその正しい方向性が強調されて、実際に計画が想定した範囲内に結果が収まれば、それで計画の正しさが証明されたことになるわけだが、途中で起こった突発的な出来事が何を意味するのかは、計画にとって誤謬である以外には何を意味するわけでもないのかも知れない。


5月2日「断末魔の叫び」

 断末魔の叫びというと死ぬ間際に大声を上げるような場面を想像してしまうが、本当に人が死ぬ前に大声を上げるかどうかは、死ぬ時の状況によって異なるだろうが、それについて確か昔読んだ小説の中では、主人公に執拗につきまとって悪さをしたり、主人公を陥れるために陰謀を巡らせていることを匂わせる小男が、私は生きているぞ!と大声を上げながら死んでいった場面が思い出されるが、もちろん小説だからそんなのは作り話には違いないのだが、それが叫びであるにしても、断末魔の叫びであるからには、意味をなさない絶叫を上げるのが本来の意味での断末魔の叫びなのだろうが、そんな叫び声を上げている時点でその人は終わりには違いなく、もうその人には用がないとも言えるだろうし、それについて今さらどうこう言っても手遅れには違いないだろうから、それ以上は何を語る必要もなさそうだが、人は誰でもその場の状況に応じて思わず叫んでしまうこともありそうで、叫んだからといって、いつもそれが断末魔の叫びだとは限らず、絶望的な状況に直面して上げる叫び声が断末魔の叫びであるにしても、それとは逆に歓喜の瞬間とかに思わず上げる叫び声とか、勝利の雄叫びとか、肯定的な意味で上げる叫び声もあるだろうから、思わず叫び声を上げたからといって、その場の状況にふさわしい叫び声ならそれほど違和感は覚えないだろうし、だから誰かが唐突に叫び声を上げたからといって、そこで起こっている成り行きを把握できれば、それほど驚かないのかも知れず、例えばその人が何か叫び声を上げて間もなく死んでしまえば、それが断末魔の叫びであったことを理解できるだろうし、スポーツか何かの競技で嬉しそうにガッツポーズをしながら叫んでいれば、その人が試合に勝ったことを理解できるし、また叫びと共に怒りに震えて周囲に当たり散らしていれば、何かミスでも犯したのかと理解できるが、そういう叫びではなく、その場の状況とは無関係に思われる叫び声を耳にすると、大抵の人は困惑すると共に、その人がなぜ叫んだのか理由や原因を推測しようとするだろうが、それもその場の成り行きに応じて思考が働くからそうなるのであり、そうやって耐えずその場の成り行きに応じるように心身が動作するから、それが状況への対応や対処となるわけだが、しかしそれではその場の状況や情勢と一体化するばかりで、果たして状況や情勢に逆らうことはできないのかというと、逆らう必要があるのかというと、無為自然な姿勢を貫くなら逆らう必要はないどころか、逆に逆らってはまずいだろうし、なるべく逆らわないように行動しようとするのだろうが、その場の成り行きに従おうとすると、逆にその場の成り行きに逆らうような役回りをあてがわれて、その場の成り行きに逆らうような損な役回りを引き受けざるを得ない事態に直面してしまう場合もあるかも知れず、そうなるとその場の成り行きというのが、その場の成り行きに従う役回りと逆らう役回りの二種類の役回りに人や集団を分割するような成り行きになっていることになるが、ではその場の状況や情勢に従うとどちらか一方の役回りを引き受けることになってしまうのかといえば、その人のそれまでに辿ってきた経緯に従って行動すれば、自然とどちらかの役回りを引き受けることになってしまうなら、それがその場の成り行きに従った結果だと思うしかないだろうが、それもそうなった結果からそんなことが言えるだけのことであり、そうなる成り行きの途中経過の中では、その場の成り行きがどうなっているのかなんてよくわからないし、成り行きの渦中に自身が巻き込まれているとその全体を見通せないだろうし、見通すことができないと、例えば自身が絶望的な状況に追い込まれるまで、そうなる成り行きに従いながら進んでいってしまう場合もあるだろうし、果たしてそれが無為自然な姿勢を貫いた結果としてそうなったと思えるかといえば、断じてそうは思えないから、最後にこんなはずではなかったと思いながら断末魔の叫び声を上げて死んでしまうかも知れないが、もちろんフィクションの中ではそんな場面が目立つとしても、話の進行が自然な成り行きとしてそういう成り行きに持って行きやすいのかも知れず、何かそうなる理由を安易に付け加えるとすれば、そうなってしまう人が主人公の敵役でしかも悪に染まっていれば、悪行の限りを尽くした挙句に、最後に主人公との対決に敗れて、断末魔の叫び声を上げながら死んでしまうのが自然な成り行きになりそうだが、もちろんそんな単純な勧善懲悪的な話の筋では今どき誰も興味を示さないだろうし、現実の世界情勢に照らし合わせてそれなりのリアリティを持たせるような工夫が凝らされるだろうから、話の結末が典型的な紋切り型を踏襲するとしても、途中で陥る紆余曲折が複雑に入り組んでこじれていて、それが話の面白さをもたらすのかも知れないが、死ぬ前に、私は生きているぞ!と叫ぶ小男が登場する小説はそれとは違って、勧善懲悪的な兆候は何もなく、ただ主人公が次第に病的に衰弱し続けるだけの話の内容なのだが、小男がどこから登場するのかといえば、主人公の周囲が次第に水浸しになってゆき、辺りの壁一面にカビが生え広がると共にやってきて、役所から派遣された心理カウンセラーのような役回りだったのかも知れないが、そこから主人公に執拗に付きまといながら、お互いに不条理のようなコミュニケーションの応酬となってゆき、主人公が原因不明の病で心身が衰えていくと共に、小男も同じように原因不明の病に罹って心身が衰えていって、小説自体はその後も続いていくのだが、その途中で小男の叫び声が遠くから、私は生きているぞ!と聞こえてきたところで、そこでぷっつりと直前までの湿った咳き込みも止んで、その後はもうストーカーまがいの小男は登場しなくなってしまうのだが、本当にそこで死んだかどうかは最後までわからずじまいなのは言うまでもなく、その場の状況証拠的にはそこで死んだと見なしておいた方が妥当に思われる程度のことであり、その小男の態度というのが、執拗に商品宣伝やアンケートメールを送ってくるヤフーメールのような感じで、絶えず機先を制して先回りしながら、お前が最近どこどこのサイトでこの商品の広告を見たのはわかっていると言い放つような商品広告メールや、お前がこのアンケートに答えればポイントを獲得できるというメールを頻繁に送ってくるのと同じようなことをやると説明しても、ちょっと小説の内容からはずれるかも知れないが、主人公が行く先々で監視の目を光らせているように装いながらも、ふとした拍子に繰り出される言葉の応酬となると、絶えず会話が成立しないような行き違いような平行線を辿りながらも、それ以上は何が進展するわけでもなく、その男の目的も最後まで明かされないし、主人公がそれを男に向かって問う隙も生じずに、お前は誰だ?何のために自分に付きまとってくるのか?と訊きそびれてしまうような成り行きが延々と続いてゆくわけだが、そこで主人公が何に逆らっているのかといっても、実感としてはよくわからないのだが、何かに逆らっていることはひしひしと感じられて、主人公も自分が何に逆らっているのか最後までわからずじまいなのかも知れないが、何かに逆らい続けているから、まるでそれに対する嫌がらせのように周囲の空気が湿り気を帯びながら澱んできて、カビだらけの壁に圧迫されながら、それと共に原因不明の病も次第に重篤化してくるように感じられるのだが、そういった逆らう気力を打ち砕くような無言の圧迫感が具現化したのが執拗に付きまとってくる小男になるのだろうが、街の隅々に監視カメラが設置されている中国のウイグル族地区や至るところに盗聴器が仕掛けられていた20世紀の社会主義国のイメージを連想させるといっても、そんな感じがするだけで、小説の世界が現実の世界と直接つながっているわけではなく、そんな印象を抱かせるのが何かといっても、社会そのもののある種の一面としか言えないが、簡単にそれが社会の否定的な面だと言ってみても、それを簡単には取り除くことができないわけで、しかもそれが肯定的で好意的に感じられる面と一体化しているようにも感じられると、どうやってもやましさを覚えながらごまかしやまやかしを駆使しながら、そういった面と時には嫌悪感を覚えながらも付き合っていかなければならなくなるから、そこで心身をすり減らして消耗してしまうのだろうが、そんな慢性的な疲労感と共に生きて老いていくしかないのかも知れない。


5月1日「献身的な態度」

 身につけた知識や技術や経験を役立てることが、そう簡単にできるかというと、できる場合もできない場合もあるだろうが、役立てたいと思うだけなら、何かというとすぐにそう思いがちになるかも知れないが、利益を得ることに役立てたいと思うのも、役立てようとするなら役立てた結果として利益を得たいと思うのが当然だろうが、利益を得られるとは限らないことに知識や技術や経験を役立てたいと思うかというと、普通はそうは思わないだろうが、役立てた結果として何の利益も得られなかったことも経験としてはいくらでもあるだろうし、利益を得ようとしてやったことが結果的には何の利益にもならなかったら、当てが外れたことになるわけだが、誰もが利益を得ようとすれば利益の奪い合いになって、その結果として利益を得られた人もいれば、得られなかった人もいるだろうし、また利益を得られるどころか逆に損害を被る人まで出てくる場合もあるだろうから、そうなることも想定の範囲内だとしても、自分のために役立てようというよりは、自らが社会のために役立とうとすることが、何やら献身的な態度のように感じられるだろうし、それが社会という漠然とした概念ではなく、特定の人や団体のために役立ちたいとか、国家のために役立ちたいとか思うことが、本当にそう思っているのかというと、本心からそう思う人も中にはいるのだろうが、その一方で国家的な指導者などが私腹を肥やしていることがバレれば、当人は本心からそう思っているとしても、思っていることとやっていることが違うのではないかと見られるだろうから、当人の思いやその種の言動に配慮するなら、本心から国家のために役立ちたいと思うのは本当かも知れないが、その一方で自分のための利益も確保することも同時に行なっていると解釈すればよく、もちろん国家的な指導者ともなれば、その地位や役職に見合うだけの報酬をもらうのも当然だと思うかも知れないし、それを私腹を肥やしたと受け取られるのは心外かもしれないが、献身的な態度というのが自分の利益を顧みずに尽くすことだという意味に受け取るなら、何よりも私腹を肥やしていること自体が献身的な態度ではないし、かつて自分の利益を顧みずに国家に尽くした政治家がいたかというと、中にはいて、それが後世に美談として語り継がれている事例もあるかも知れないが、少なくとも私腹を肥やしていることがバレた政治家が美談の主人公となることはないだろうし、どちらかといえば国民が貧困に苦しんでいるのに贅沢三昧の暮らしをしている開発独裁国家の指導者というのが典型的な事例となるだろうが、そうなると確かに自身が国家に献身的に尽くしたことを後世に語り継ぐためのモニュメントとして、自身の巨大な銅像などを造って、それが完成した暁には国民を集めて盛大に祝う式典などを催すかも知れず、また子供たちが学校で習う教科書にも、自身が国家に献身的に尽くしたことを物語るエピソードなどを積極的に取り入れさせて、それが洗脳教育として成功すれば、洗脳された子供たちが大人となる頃には国民全体が自身に忠誠を誓う体制ができあがるだろうし、そんなことを積極的に行なっている国家が今も世界のどこかにあるのかも知れないが、そうなると実質的には国家的な指導者が自らの利益を顧みずに国家に尽くすのではなく、国民が自らの利益を顧みずに国家的な指導者に尽くすような逆転現象が起こってしまうわけだが、たぶん当初はそうなることを目的として国家が建国されたわけではないとしても、そうなる成り行きというのが世界各地で起こっていて、なぜそうなってしまうのかといえば、民主主義を実現する政治体制が確立されていないからそうなってしまうのだろうが、どうやれば民主主義的な政治体制が確立できるかといっても、何もないところからそんな体制が確立できるわけでもなく、それが確立できる条件があるのかも知れないし、実際に民主主義的な政治体制が確立されている国とそうではない国を比較すればその条件を導き出せるかも知れないが、では条件が成り立たない国は民主主義的な政治体制の確立をあきらめるしかないのかといっても、民主派的な政治勢力を組織して民主主義の確立を目指して活動している人々がいるなら、そういう人たちはあきらめずに政治活動を続けるだろうし、日本でも野党勢力が中心となってそんな活動を行なっている最中なのかも知れないが、日本が開発独裁国家だとは誰も思ってはいないだろうが、少なくとも欧米型の民主主義体制とは思われてはいないのかも知れず、では何なのかというと、明治維新後数十年間は確かに開発独裁国家のような体制をとっていたのだろうが、そこから世界情勢の変化に翻弄される過程において、典型例とは違う成り行きが生じてきて、それなりの紆余曲折を経て現状に至っていることは誰もが認めるところだろうが、そういうところが民主主義的な政治体制が確立されているように見える欧米諸国とは違う印象を伴うのかも知れないし、日本でさえそうなのだから、プーチンによる独裁体制となっているロシアとなるとさらにその種の典型例からかけ離れていて、どちらかといえば現状のロシアの方が開発独裁国家の典型例のような様相となっているのだろうが、近代的な国家体制自体が構造的にそうなる危険性があり、そうならないためには何が必要なのかといっても、それがわかれば苦労はしないだろうが、それもそうなった結果からそうなる理由や原因がわかるかも知れないが、現状ですでにそうなっているのをどうやれば民主的な政治体制へと移行できるかとなると、それも過去に独裁政権が崩壊した事例から何かもっともらしいことが言えるにしても、現状で起こっていることが未だかつてなかったことで、過去の典型的な事例が当てはまらないのも当然のことだが、何か新しいことが起こっているのに、それを似たような過去の事例と比較するのも歴史的な知識に偏重し過ぎなのかも知れないが、独裁政権がどんなきっかけから崩壊するかというと、戦争を起こしたことをきっかけとして崩壊するのも、過去の様々な事例を見れば歴史的な必然だと言えるだろうし、それ以前に独裁政権は戦争を起こしやすく、戦争を起こしてしまった独裁政権は崩壊の危機に直面してしまうのだろうが、それでもプーチン政権が崩壊を免れるとすれば、それこそ中国による後ろ盾が必要となってくるだろうが、中国もロシアが経済や軍事面で重荷となってくれば見捨てるかも知れないし、中国も台湾へ侵攻する際に政権の崩壊に直面するかも知れないが、現状で起こっていることが未だかつてなかったことだとすれば、プーチン政権が欧米諸国からの経済制裁にもよく耐えて今後数十年は続くかも知れないし、中国も難なく台湾を併合してこれまで通りの共産党による一党独裁体制を維持するかも知れないが、実際にそうなったところで世界情勢が現状とさほど変わらなければ、これまで通りの延長上で様々な物事が推移していくかも知れず、それが何を意味するのかといっても、実際にそうなってから考えるしかないが、現状維持の何が世界に貢献するのかという視点で現状を考えるなら、そういう視点自体がおかしいと思われるかも知れないが、現状で欧米諸国を中心として軍事予算の増額が図られているなら、現状の維持が軍需産業に貢献するだろうし、またロシアから石油やガスやニッケルなどの資源やウクライナも含めて小麦などの輸出ができなくなれば、それらの資源や農産物を輸出している国が資源高や農産物価格の高騰によって潤うかも知れないが、経済的な利益を顧みずに世界に貢献している国があるかというと、国としてはそんなことはあり得ないかも知れないが、国ではないとなると何が自己の利益を顧みずに貢献しようとしているのかというと、国でなければ人しかいないと思われるかも知れないが、果たして自らの利益を顧みずに世界に貢献することが人にできるのかといえば、実際に現状で大して利益を得ていない人々が、利益を大量に得ている人や企業による利益を追求する活動に貢献しているといえるかも知れず、それらの人々が競争相手となって利益を追求する活動に加われないから、あるいは加わっているものの競争に敗れているから、競争に勝った人や企業が大量の利益を独占していると言えなくもないが、新自由主義的な観点からすれば、競争に加われなかったり、加わったものの敗れてしまった人々を再度競争に参加させなければならないわけで、誰もが競争に参加できるような制度を確立して、実際に経済活動に参加させるのが、新自由主義的な経済を維持する上では必要なのだろうが、各国の政府にそれができているかというと、たぶん競争に加われなかったり、競争に敗れてしまった人たちをどのように扱うかで、国によって違いが生じていて、それがその国の経済成長率の違いにも表れているのではないか。


4月30日「危機感の煽られ方」

 現状で疑念を抱いていることがあるとすれば、それが政治や経済に関することなら、誰もが抱く疑念としては普通なのかも知れないが、それに関してすぐに思い浮かぶのが、危機感を煽っている人たちの言っていることは本当なのか、というありふれた疑念になるはずだが、今まで当たり前のように思っていたことが違うのではないかと考え始めるきっかけとなるのが、今まで当たり前のように主張されてきたことを依然として同じように主張している人たちの存在なのかも知れないが、それらの人たちが立場上主張して当然のことをもっともらしく主張しているのは確かかも知れないが、それが確かにそう思われるからこそ、その確からしい主張に納得できなくなるわけでもないとしても、では確からしい主張では駄目なのかというともちろんそうでもなく、確からしい主張とはその場の状況や情勢に照らし合わせて確からしいから、確からしい主張をしなければならないと思っている人たちが確からしい主張をしていると考えれば、それの何が駄目であるはずもなく、駄目であるはずがないのになぜかそれに対して疑念を抱かざるを得ないとすれば、疑念を抱いていること自体がおかしいわけではないが、それが危機感を煽っている人たちにとっては確からしいことであっても、それに対して疑念を抱く自身も確からしさを求めているとしても、例えばアメリカの株価が急落すれば世界経済が崩壊だとか、ロシアが戦争を起こせば第三次世界大戦に突入だとか危機感を煽られて本当にそうなのかと思うこと自体が、条件反射としてごく当たり前の反応なのであり、それは昔から何かが起こる度にいくらでもその種の危機感を煽られてきたのだろうが、果たしてその場の状況や情勢に反応して危機感を煽って世間の興味や関心を惹きつけるやり方が確からしいのかというと、たぶんやり方としては確からしいのだろうが、それに対して本当にそうなのかと反応するのも当然の反応であり、それ自体は何もおかしくはないが、危機感を煽られてそれを真に受ける感性に疑念を抱くのもごく当たり前の抵抗感を伴った反応になるはずだが、本当にそれだけで構わないのかと疑念を抱くわけでもないが、それ以外に何か付け足す必要があるかというと、何もないわけではないだろうが、面倒だからそれだけでもいいのではないかとも思うわけでもないが、では何なのかといえば、世の中の状況や情勢に惑わされているというのが確からしい実感なのだろうが、より正確に事態を表現するなら、惑わされているというよりは惑わされているふりをしているわけで、実態としてはその種の危機感を煽られてそれを真に受けるわけではなく、真に受けるようなふりをしたいのだが、疑念を抱いているのだから本当に真に受けるわけではなく、その辺のところが微妙なのだが、そんなことよりは優先していることがあり、それが何なのかといってもいくらでも優先させていることがあるのだろうが、そうであればそれを真に受けることが優先順位としては低いのかも知れないし、それで構わないと思っているわけではなくても、実際にそうなのであって、それに関して何を思うわけではなくても、実際にそれよりも優先順位の高い何かを優先させていて、それが何なのかといっても、人それぞれにそれなりの差がありそうだが、そうだとしても危機感を真に受けることの優先順位を上げる必要があるのかというと、それに対して本当にそうなのかと疑念を抱いているのだから、たぶん優先順位を上げることはしないのだろうが、実際に危機的な状況や情勢の中で深刻な事態に陥っている人々が世界中にいくらでもいることは承知しているだろうし、そういう人たちは危機感を煽られる必要がないわけで、すでに危機的な状況に陥っているわけだから煽ってもらわなくても痛いほど危機的な状況の中にいることを理解しているわけだろうが、そうだとすれば現状で危機感を煽られているのはまだ危機に陥っていない人々なわけで、そんな人々が危機を煽られてその気になるかといえば、まだ現状では危機に陥っていないのだから煽られてもその気にはなれないのは当然のことであり、だから本当に危機的な状況なのかと疑念を抱くわけだが、そうだとすれば危機的な状況に陥っていないにも関わらず危機感を煽られてその気になってしまうのは馬鹿げたことであり、そうなるとその種の煽動者に騙されていることになるかというと、あからさまにそうではなく、それでも少しは煽動者の肩を持つなら、もうすぐ危機的な状況がやってくるから危機に備えよと警鐘を鳴らされていると理解しておけばいいのだろうが、煽動者にしてみたらすでに危機的な状況に陥っているから騒いでいるのだから、今さら危機に備えてももう手遅れだと言いたいのかも知れないが、本当に危機的な状況なのかと疑念を抱いている人にしてみれば、まだ危機的な状況だとは思えない程度の状況でしかないわけだから、半信半疑な思いでいるのかも知れないが、それも人によって立場や境遇によってもどうとでも受け取れる状況なら、そんなもんだと思うしかないだろうし、そんなもんだと思っている限りで危機が差し迫っているとも感じられないわけだが、少なくとも危機を煽り立てている人にしてみればその兆候を感じ取っているわけで、その兆候というのが誰もが感じ取れる兆候であり、例えばロシアがウクライナで戦争を起こしたり、アメリカで株価が急落したり、中国でコロナの感染防止のために都市封鎖を行なった影響で景気が悪くなっていることなどがあって、そんな状況や情勢に乗じて誰かがメディア上で危機を煽り立てていることも当然の成り行きで、それと日本の状況や情勢もある程度はつながっているのだろうが、そのある程度というのがどの程度の影響があるかというと、何か影響あればそういうことだと思うしかないが、それに関して危機感を煽り立てたい人からすれば、すでに日本は数十年間も危機的な状況にあると言いたい人もいる一方で、さらに今回新たに危機的なことが世界中で起こっているわけだから、大変な事態に陥っていると言いたいわけで、それに乗じてさらにより一層危機感を煽り立てたいということであり、すでにそうなっているだけでも危機感の煽り立てがインフレ状態に陥っているわけだが、確かにアメリカでも物価がインフレ状態に陥っているが、そのインフレとこのインフレが連動しているのかというと、インフレによってアメリカで景気後退が起こればその影響を受けて日本でも景気後退に直面するはずだと言いたいだろうし、それもある意味では確からしいことだろうから、認識としても間違っているわけではないのだろうが、だからといってそれが危機的な状況なのかというと、これまでにも度々そうなってきたのであり、ここ数十年間でも何度かそうなったのだろうが、そうした危機を経て今に至っているわけだから、危機と言ってもその程度のことだという認識も一方にはあるわけで、そういう意味では現状でことさらに危機感を煽り立てても、それもこれまでにも何度もそうした危機感の煽り立てが行われてきた経緯がある中で、今回も同じような危機感の煽り立てが行われていると解釈できるだろうから、それが毎度お馴染みの危機感の煽り立てだと思えばいいことでしかなく、すでにそう思っている時点でその種の煽動者の言っていることを真に受けていないのだろうが、果たしてそれでいいのかというと、それでいいうちは本当の危機には陥っておらず、実際に本当の危機に陥ってしまえば、危機を煽り立てられるという段階ではなく、危機そのものに陥って深刻な状況のただ中にいることになるのだろうが、そうなると結局は危機感を煽り立てられてもそれを真に受けないし、実際に危機に陥ってしまえば危機感を煽り立てられるどころではないから、では危機感を煽り立てられるということが何なのかといっても、何の役にも立たない行為なのではないかと疑念を抱いてしまうが、要するに危機感を煽り立てられてそれを真に受ける人々が、危機感を煽り立てる商売に引っかかってしまうと理解するのも、せっかく善意から間近に迫った危機の到来を多くの人々に知らせようとしている人に対して申しわけないが、何か疑念を抱いている自らに正直でないとまずいような気がする限りで、それが挑発的な言動などによって煽られて、煽る人の都合のいいように意識を誘導されていると解釈しても構わないなら、それが煽動者の言うことを聞かずに自らの勘に従っていることの証しとなるだろうし、たとえ言うことを聞かずに酷い目に遭ったところで、自己責任でそうなると思えばいいわけだが、本当にそう思っているのかというと、ほとんどそうかも知れないが、可能性としてはそれが自覚なき演技である可能性も捨てきれないわけで、そんなふりをしている面も少しはあるのかも知れない。


4月29日「幻想をもたらす言葉」

 現状でわかっていないことについて確実なことは何を語ることもできないが、いい加減な予想や予測ならそれらしい根拠を挙げればもっともらしく語れるにしても、それがおもしろかったり興味深かったりすれば、そう思う人の期待していたことと重なる部分を語っているのかも知れず、そういう意味では多くの人が期待していることを予想や予測として語れば、そんなことを期待している多くの人々を喜ばすことができるわけだが、そういった人を喜ばすことを目的とした予想や予測には何が含まれているのかというと、それを語っている人の願望が含まれていて、その願望がそういう予想や予測をしてくれることを期待している人たちの願望と一致すれば喜ばれるはずだが、そうしたサービス精神旺盛な予想や予測に含まれていないことは何かというと、ポジティブな予想や予測を期待していた人たちをがっかりさせるようなネガティブな予想や予測となるかも知れないが、人々の期待に応えるようなポジティブな予想や予測を一通り語った後に、そうした期待が外れた時の逃げ口上として、ちょっとだけネガティブな予想や予測を付け加えておけば、それなりに攻守のバランスの取れた内容となるだろうが、大抵はそんなポジティブな予想や予測ともそれとは逆のネガティブな予想や予測とも少し違うような結果がもたらされて、それに関しては何かはっきりしない歯切れの悪い弁解をしなければならないようなことにでもなれば、想定外の何かが起こったことになるのかも知れないが、それが最近ではロシアによるウクライナへの軍事侵攻となるとしても、そういうニュースで話題となるような大きな出来事ではなくても、日々の日常の中で個人がちょっとした思いがけない出来事に遭遇してしまうのもよくあることで、それも些細なことに過ぎなければすぐに忘れてしまうだろうが、忘れたくてもいつまで経っても忘れられない嫌な思い出というのが、トラウマのように忘れた頃に脳裏に蘇ってくる過去の恥ずかしい失敗体験かも知れないが、それも思い出すだけでも体が熱くなるような恥ずかしい失敗体験ではあるが、その一方で勉強になり教訓を得られた貴重な体験だとポジティブに捉えるなら、何やら前向きに生きられるような気がするかも知れないが、気がするだけではなく是が非でもポジティブに捉えたいなら、そうするだけでも強固な信念に凝り固まっていることになるかも知れず、そこから逆境をバネにして生きていくために必要となるなにくそだましいとかいう座右の銘なども生じてくるかも知れないが、心のありようがそういう極端な方面まで行ってしまうと根性論や精神論になってしまい、嬉々としてそういうことを唱えていると、冷静な論理や計算を活用して賢く生きている人や、功利的な利害関係によって組織されている企業などの集団には歯が立たなくなってしまう可能性も出てくるだろうし、自身が何と対決しているつもりになれるわけでもなければ、いくら根性や精神を鍛えて強化しても空回りするばかりかも知れず、修行と称して身体や精神を自ら痛めつけることによってある程度の自己満足などが得られるにしても、そういった個の力と集団によるチームとしての連携動作などが結合しないとうまくいかないような作業もあるだろうから、何事にも可能性と限界があり、それを言葉で表すのと実践の中で活用するのとでは労力に雲泥の差があり、簡単に言えるようなことを実際にやろうとすれば大抵はうまくいかなくなるから、言葉の意味を信じると当てが外れてしまう一方で、言葉ではうまく表現できないことが実践の中で重要度が増してくるような感じがうまく伝えられないし、伝わらなくても大して気にならないのだろうが、伝わらなくてもわかってほしいからそれを伝えようとするわけで、そうなると何を伝えたいのかもわかっていないのに、わかっているつもりになっているのだから、それなりの勘違いも伴ってしまうだろうが、ある程度は勘違いな面も含めて理解しなければならないことだとすれば、実際に理解していることが何かといえば、一見矛盾しているように感じられる複数の動作を同時並行してやらなければならないのかも知れず、それが言葉ではよく理解できないから焦って強引に単純化してしまうと、おかしな傾向に凝り固まることになってしまい、それを実際にやってみるとおかしいことが明らかになってきて、それを失敗だと思うとさらに焦りが強く意識されてしまうのだが、失敗してみないとわからないことがそれなりに出てくるから、それも成り行きの過程で通過しなければならないことだと理解するしかなく、それが目的からかけ離れた無駄で意味のない寄り道だと思われるだろうが、そこを通らないとその先へと進めないなら通らないで済ますわけにはいかず、別にその先へと進むつもりもなければそれでも構わないのかも知れないが、構わなくても否応なくそういう成り行きになってしまえば、自らの意志とは関係なくその先へと進んでしまうわけで、そうなった時にどう対応するかが重要になってくるのだろうが、対応するも何も考えるより先に対応していて、対応した結果がその先へと進んでしまう成り行きになっているわけで、そうなっている時点で意識も思考も現状に追いついていないわけだが、そこから何かしら結果が出て動きが止まった時に、それまでに歩んできた過程を振り返って考えるゆとりが生まれるのかも知れないが、もう済んでしまったことをいくら考えても先を見通すことにはならないものの、過去からの延長上にあるらしい未来の姿を想像することはできるだろうから、その姿が自分としてはそれなりに都合が良かったり悪かったりするとしても、都合の良し悪しに関係なくそうなってしまう未来の姿を受け入れられるかというと、自らの都合が絡んでくれば、当然のことながら想像にも自分の都合が入り込んできて、その都合によって未来の姿が歪んでしまうわけだが、想像するというよりは推測しようとするなら若干客観性が増してくるかも知れないが、それも言葉の違いで、想像も推測も似たような意味として捉えているなら、どうしても自らの都合を反映した未来の姿を思い浮かべてしまうわけで、だからどうしたわけでもなく、未来に関して幻想を抱けるだけでもそれなりに心身にゆとりがある証拠だろうが、そんな証拠が何の自信に結びつくわけでもなく、未来を見通せない不安感に駆られてつい精神的に強くなろうとして、無理な修行に励んでしまうと、それが実践的なやり方だと勘違いしているつもりでなくても、達成感を求めて一生懸命努力してしまい、それが悪いことだとは思えないし、特に悪いわけでもないのだろうが、いくら努力したところで、気休め程度の効果しか得られないと思うわけでもないだろうが、実際に効果があるかどうかは結果が示す通りとも言えないが、何かしら効果があれば自信に結びつくだろうし、その自信が致命的な過ちをもたらすとも思えないし、うまくいけば自信過剰になっていることにも多少は気づくかも知れないし、自信過剰がもたらすちょっとした過ちからもっともらしい教訓を導き出すこともできるかも知れないが、まさかそういう成り行きが暇つぶしにやっているたわいない遊戯だとも思えないだろうが、そんなことをやっているうちに月日が過ぎ去って、そこから何十年も経過すると普通の老人が出来上がるというとその通りとも思わないが、実際に老人というのはそういう成り行きが終わりにさしかかった頃に現れる状態なのかも知れず、そういう存在を老人と表現してもそれ以外の何を暗示しているわけでもないだろうし、何を暗示させたいわけでもないのだろうが、未来の姿としての老人がどんな幻想を抱かせるにしても、老人以外の何者でもないのだから、人生の終わりが近いということはわかりきったことだが、そこでも無理して老人には見られたくなければ、若く見られるように努力するしかなく、その努力の甲斐あって周囲から若く見られて自己満足に浸れたら努力が実ったことになるのだろうが、そうした結果から死ぬまで努力するしかないと達観する人などあまりいないだろうが、普通はそれを達観とは言わないのかも知れず、何があっても動じない姿勢が達観していることの証しかも知れないから、それをあきらめの境地と結びつけるのもおかしいとしても、老人であるなら自らの老人性を受け入れることが達観していることになるかというと、それも少し違うかも知れないし、わざと達観という言葉の意味をずらして実践的に何かを伝えようとしているのかも知れず、それをどう受け取っても小細工程度の仕掛けとしか感じられないとしても、老人に特有な小細工が盆栽などの園芸に行き着くことが、箱庭のような縮こまった感覚なのかも知れず、それを日本特有の縮みの文化と見なしても勘違いにしかならないだろうが、たぶん老人には箱庭造りのような感覚が似合っているとしても、そこから肯定的な意味を導き出す必要もないのかも知れない。


4月28日「流行遅れ」

 流行に乗り遅れて悔しい思いをするのは、流行に乗ってうまくやっている人が羨ましいからだが、もちろんそれでも強がって流行に乗らない方がいいとも思っていないだろうし、乗れるなら流行に乗った方が良さそうな感じがするから、流行に乗ってうまくやっている人を羨ましく思うのだろうが、乗りたくても乗ろうとしてもなぜか抵抗感を覚えて乗れず、何か流行に乗れない理由があるのではないかと考えても、すぐにわかるわけでもないが、鈍感だから流行を察知できないというわけではなく、逆にある程度は世の中の流行を敏感に察知しているにも関わらず、乗るか乗らないかで迷っているうちに流行が過ぎ去ってしまえば、乗る勇気がなかったことになるだろうし、そうであるなら臆病だから流行に乗り遅れてしまったことになりそうだが、そんな理由でいいのかというと、自身が臆病か否かということなら、言葉の意味としては臆病者であるよりは勇気がある方がいいに決まっているだろうが、勇気といってもそれが蛮勇となると、何か猪突猛進のようにして流行に盲従することになってしまえば、下手をすれば流行に踊らされて身を滅ぼすような危険性も出てくるなら、流行の中身がどの程度のものかということになってきて、たわいない流行ならそれに乗ろうが乗るまいがどうということはないだろうが、流行に乗るか乗らないかで何か自身にとって重大な結果がもたらされるなら、そこで流行現象が起こっていること自体を深刻に受け止めるだろうし、しかも乗るか乗らないかの選択権が自らになければ、自らの意志とは無関係に勝手に否応なく流行に巻き込まれるか、あるいは幸運にも不運にも巻き込まれないかのどちらかになるかも知れないが、またいったん流行に乗ったところで、運が悪ければそこから振り落とされるような危険性もあるなら、その流行とは具体的にどんな流行なのかも、その中身が重要となってくるだろうが、流行にも様々な種類や傾向があるといっても、自らにとって何が重要な流行になるかと考えるような成り行きにもならなければ、気づかないうちに流行に巻き込まれているようなことにもなっていて、それに関しては実際に今でも世界的な感染症の流行に巻き込まれて、ワクチン接種を何回も受けるようなことにもなって、それで何がどうなったかといっても、感染症に罹って命を落としたり、助かっても重度の後遺症に悩まされている人も数多いだろうが、その中でも誰が流行に乗ってうまくやっているのかといっても、ワクチンや治療薬を製造販売している製薬企業の他にも関連する分野で利益に与っている人もいるにしても、そういうところでは流行に乗ってうまくやれる人も限られてきて、誰もが流行に乗ってうまく立ち回れるわけではなく、逆に流行に巻き込まれてひどい目に遭う人の方が圧倒的に多いだろうから、要するに人を羨ましがるということ自体が、そうなれる人が数少ないからそう思われるわけで、それを羨ましがっている自身の他にも、流行に乗りたくても乗ろうとしても乗れずに、悔しい思いをしている人がいくらでもいると思っておけばいいのかも知れず、世の中の大半の人たちが流行に乗ってうまくやっている人を羨ましがったり、その一方で自らは流行に乗れずに悔しがったり、どうして流行に乗れないのか不思議に思うかも知れないが、乗ろうとしても抵抗感を覚えて乗れないのではなく、そういう場合は乗ろうとしても乗れる人が限られているから、乗りたくても乗れないのであり、抵抗感を覚えて乗れないと思っていること自体が思い違いなのかも知れず、何かそこで危険を察知していて、その危険というのが流行に乗ろうとしても乗れないという危険であり、乗れる人がわずかしかいないのに乗ろうとすれば、乗ろうとした大半の人たちが乗れなくなり、結果的に乗れなかった人は、ただ単に乗れなくて悔しい思いが残るだけで、乗ろうとしただけ骨折り損のくたびれもうけとなって、その一方で流行に乗ってうまくやっている人を羨望の眼差しで見るようなことになり、そうやって多くの人から羨望の眼差しで見られるような人が現れること自体が流行現象そのものなのであり、それが人気商売のカラクリなのかも知れず、そこで乗ろうとしても乗れなかった大半の人たちが費やした手間暇が、乗れたわずかな人たちの利益となり、乗ろうとしても乗れなかった人が多ければ多いほど、乗れたわずかな人たち得られる利益もそれだけ多くなるというカラクリなのであり、そういう意味で流行に乗ってうまくやっている人を羨ましく感じるなら、すでにその時点で意識が流行現象の中に引きずり込まれようとしていて、いったん引きずり込まれてしまうと、自身も流行に乗ってうまくやろうとするから、しかもそう思う人の大半は流行に乗ろうとしても乗れずに、そこでうまくやっている人から利益を吸い取られる仕組みとなっているから、自身もそうなる危険を感じ取っているから、流行に乗ろうとすることに抵抗感を覚えるのだろうが、だからといって社会の中で生きている限りは流行現象を完全に拒絶することはできないだろうし、拒絶しても気づかないうちに引きずり込まれて、気づかないところで利益を吸い取られているのであり、それが社会の流行現象の中で生きている現状なのかも知れず、そうなると気づかないうちに引きずり込まれていることについては仕方がないとしても、なるべくなら引きずり込まれている程度を軽くしておきたいわけで、それがどういう状態なのかといえば、致命傷を負わない程度に痛い目に遭えばそれに対する免疫や抗体ができて、結果的にワクチン接種と同じように流行現象に対して抵抗力がつけばいいわけだが、すでに流行現象に対して抵抗感を覚えているなら、それなりに引きずり込まれないように身構えているのであり、引きずり込まれて利益を吸い取られる危険を察知しているから抵抗感を覚えるのだろうが、それと同時に誘惑に抗っていること自体が抵抗感そのものだが、抵抗しているだけで済むはずもなく、どうしてもそこから利益を得ようとする欲望に駆られてしまうから、それ相応に引きずり込まれて、大半の人が痛い目に遭う可能性があるとしても、それも流行現象の程度や内容にもよるが、程度が軽ければ痛い目に遭ったとも思わないし、むしろそれなりにいい思いをしたと感じる場合もあるだろうから、危険よりも魅力の方が勝ってしまえば、流行の中でそれなりに振る舞うことができて良かったと思うにしても、それでも大半の人たちはうまく立ち回って成功したとは思わないだろうし、それなりに出費を強いられて成功した誰かを羨ましく思っている限りで、少なくとそう思っている自身が成功しているわけではなく、逆に成功している人に好感を抱いて盛り立てるような役回りになってしまえば、その人のファンになったことになるだろうし、そういう人たちの中には例えば現状でウクライナに対する戦争を遂行中のロシアのプーチン大統領をロシアの英雄だと思って崇拝している人もいるだろうし、逆に侵攻してくるロシア軍に対して果敢に立ち向かっているウクライナのゼレンスキー大統領を英雄視している人もいるかも知れないが、そういう人が一方で戦争によってひどい目に遭っている人たちのことをどう思っているかといっても、それとこれとが別問題になってしまうわけではなく、成功している人を英雄視しているのと同時並行して悲惨な目に遭っている人にも同情しているわけで、その落差が大きければ大きいほど魅力を感じるのかも知れず、それはアメリカへ移民としてやってきて事業に成功したほんの一握りの大富豪を英雄視する一方で、同じ移民でも貧民街で極貧の中でギャング団に入って、ギャング同士の抗争に巻き込まれて殺されてしまった人に同情するかも知れないし、それも大半の人たちは両極端のどちらでもないような何でもない普通の一般人として扱われてしまうのだろうが、そういった現象に魅力を感じる余裕があるのも、外部からそんな現象を眺めることができる普通の一般人でもあり、メディアもそんな流行現象を普通の一般人に見せようとするわけだが、もちろんそれらの人たちを一般人として一括りにまとめることができるかというと、その中でもピンからキリまであるだろうから、それらの人たちがどういう現象に魅力を感じるかは千差万別であるなら、世の中の様々な方面から魅力を感じられる様々な現象を寄せ集めてきて、それを見せるメディアの数も現象の数に応じて需給を満たすだけ存在することになるだろうが、それを見せている媒体があるのだから、それを見て魅力を感じて引き込まれてしまう人もいくらでもいると思っていても、その中の一人として自分がいるわけで、自分が流行に乗ろうが乗るまいが、乗ろうとしても乗れずに抵抗感を覚えても、自分一人がどう思ってみてもどうということはないのはわかりきったことだろうが、自分と同じような人間がいくら出てきてもどうしたわけでもないと思っても、それだけで何がどうなるわけでもないと思ってみたところで、そんなことを考えているうちに流行が過ぎ去ってしまえば、そういう面に関しては流行遅れとなってしまったわけだが、一方で何かしら現状の中で流行現象に巻き込まれていることも自覚できるし、自身が気づいていない流行現象にも巻き込まれているかも知れないから、そんなことは改めて自覚しなくても、流行現象に囚われながら右往左往している自らをどうすることもできずに困惑しているだけなら、たぶんそれ相応に巻き込まれている流行現象から養分を吸い取られている最中なのではないか。


4月27日「用がある」

 誰でも何の用もないのに生きているわけではないと思いたいが、何か用があるということがどのような用なのかが、用があると思っていればその用を知っているはずだが、たぶん用がないとは思ってはいないだろうし、一応は生きているのだから何かしら用があるはずなのだが、それがなかなか思い出せないのなら、どこかに用を置き忘れてきてしまったのではないかと不安になる人もまずいないだろうが、なぜか用もないのに不安感に苛まれているとすれば、その用を思い出せない以外に何があるのかといえば、逆に用がありすぎてその全てをこなせる自信がないということかも知れず、忙しすぎれば不安感を抱いている暇もなさそうだが、不安感を抱く余裕のある忙しさというのもありそうで、例えば単純作業に明け暮れるような忙しさを想定できるだろうが、忙しくてもそれがやりたいことではなく、やりたいことをやっていなければ不安感が増してきて、こんなことをやっているうちに人生が終わってしまうのではないかという不安感に襲われるかも知れないが、当人はそれが贅沢な悩みだとは思わないだろうが、そういうことをやらせている事業者などからしてみれば、お前程度の人間にはそんな仕事がお似合いだと思っているわけではなくても、不安と共に不満を抱きながら仕事をやっていることはわかっていて、だからといって仕事内容を変えるわけにもいかないし、その余裕があれば福利厚生を充実させるとか気休め程度のことはやるかも知れないが、そんな不安や不満などよりも優先させなければならないことがあり、それが仕事そのものであり、仕事の成果となるだろうが、そうなると用があるということは仕事の用があるということになりそうで、不安や不満よりも優先させなければならないことが仕事の用となると、どこかに用を置き忘れてきたわけでもなく、実際に現状でやっていることが用そのものになってくるだろうが、それ以外にも家族や交友関係などの用もあるなら、その用をこなすには何よりも自身の生活を安定させなければならないだろうが、その中で自らを生かす用があるということになれば、絶えず自らの意向を最優先させて自己中心的な態度になれるかというと、全てにおいてそうなれるわけでもなく、自らと自らが関わっている人や物事との関係の中で、その相互的な力関係に応じて優先順位が決まってくるかも知れず、それらのうちでどの関係を優先させるかの判断が、その場その時の状況や情勢の中で求められている場合もありそうで、そこで判断を誤れば関係がギクシャクしてきて、対応や対処がうまくいかなければ関係が悪化したり壊れたりすることもあるが、逆にうまく対応して良好な関係を築いていても、自身と相手との力関係が劣勢であると、そのことが原因でストレスが溜まってきて、表面上はにこやかに装っていても、心の中では相手に対して不満や嫌悪などの否定的な感情が渦巻いている場合もあるから、そうであってもギブアンドテイクの関係のように否定的な面と肯定的な面との間で微妙なバランスが保たれて、否定的な面が心理的に耐えられる限りで関係が継続していくのだろうが、何かの出来事をきっかけとして他との関係の重要度が増してきたり、あるいはその関係の重要度が減ってきたり、また新たに別の人や物事が絡んできて、それとの関係が築かれてくるようなことになれば、不満を抱きながらも我慢して不利な関係を維持する必要性もなくなってきて、そうなると急に不満を隠さなくなって、あからさまに口に出すようなことをやってわざと関係を悪化させて相手から関係を壊すように仕向けさせるような高等戦術も場合によっては駆使して、結果的に関係が終わるように持っていこうとしているなら、自らが悪者となることで事を穏便に済ませようとしているのかも知れないが、実際には片方だけが一方的にそうするわけではなく、相互の都合に応じてどちらかがどちらかに向かって力関係の逆転を狙ったり、また対等な関係にしようとして何らかのアクションを起こす場合もあるだろうから、そういった仕掛けが意識してそんなことをやるわけではなく、日々のちょっとした何気ない動作や仕草からそういう意向が推測されてしまうなら、有利な立場を維持している側でも、やましさや罪悪感などの微妙で曖昧な感情を抱いている場合もあるかも知れず、それも一方的に悪い印象を抱いているわけではなく、何かアンビバレントな好意と嫌悪が入り混じっているようなら、それが何かのきっかけから好き嫌いのどちらにも振れてしまうことになるだろうから、その場の状況や情勢に応じて常に揺れ動いていて、それが悪い方に振り切れてしまえば、そこで関係が終わってしまうわけだろうが、人によっても状況によっても許容限度が変わってきて、心理的にも経済的にも余裕があるようならそれだけ度量が大きく、少しのことでは動じずに、何を仕掛けられても何とも思わないような態度でいられるかも知れないが、余裕がないと了見も狭くなるし、ちょっとしたことでも過敏に反応して騒ぎ立てるようなことになれば、そういう人は器の小さい小物だと思われるが、どちらにしてもそういうありふれた基準では計れないようなこともあるかも知れず、それが自らに固有だと思われる自己に関係したこだわりになってくると、他人にとってはどうということはないのに、何か特定の物事に特別な思い入れがあるとそれへのこだわりが尋常ではなく、周囲の状況がどうなろうと、それによって自身の体調や心理状態や経済状態がどうなっても、それへのこだわりを最優先するようなことになってきて、そうすることにのめり込んでくると、それをやることが他の何をさしおいてもやらなければならないことになってくるのだろうが、そういう意味や傾向で用があるのなら、それをやっていれば用が済んでしまうことになり、生きていられる限りでそれをやっていればいいのだろうが、いったんそうなってしまった人が、何かのきっかけから自らがやっていることが何でもないことに気づいて、その時点で急にそれをやめてしまうこともあるだろうが、中には死ぬまでそれへのこだわりが持続する人も出てくるだろうし、そんな人がどうというわけでもないが、そんなこだわりが周囲の人々を巻き込むことになってくると、巻き込まれた人々の方でもそれによって心理的な負荷が掛かってくれば、その人に対してアンビバレントが感情が芽生えてきて、何かしら精神的な葛藤なども覚えるようだと、場合によってはこじれたややこしい人間関係が形成されて、それが争いや諍いの原因となってしまうこともあるだろうから、そうなるとその人は何とも思っていなくても、周囲の人々がある時にはその人を好意的に見たりまたある時には嫌悪の対象としたりしながら、何やらその人に関する噂が世間話のネタになるようなことにもなってくるなら、その人の存在自体に社会性が備わっていることになるのだろうが、その程度のことも世間的にはありふれた部類に入るにしても、それ以上の存在があるかといっても、あったとしてもそれが興味の対象にならなければ知ったことではないし、そんな人がいてもいなくても何でもないことであれば、それで済んでしまうようなことになるしかないだろうが、その人に何らかの形態や程度や傾向などを伴って関わってしまうと、その形態や程度や傾向に応じて、場合によっては面倒で煩わしい動作や行為や行動や作業などが必要になってくれば、またその人に関連して多大な労苦や経済的な出費を強いられるようなら、何かその人に対して本腰を入れてそれなりの対処や対応を迫られたりするかも知れず、そうなってくるとどうにもこうにも避けては通れない厄介ごとを抱え込んでいるような気にもなって、アンビバレントな感情を抱くどころではなくなってくるし、ちゃんとした対話も交渉も取引までも必要となるようなら、結果的に強固な信頼関係なども築く必要まで出てくるかも知れず、そうなるとますます社会的な関係も深く強固になり、そうした関係を築くのも一苦労だが、そんな関係を壊すとなると、計り知れない損害を被ったように感じられるかも知れないし、そうなることを恐れるあまりどんなに感情的にもつれて険悪な関係になっても、ビジネスライクな関係自体は継続せざるを得ないようなことにもなってくるかも知れず、それが損得勘定だけの関係だと割り切れるかというと、心の中ではそういう割り切り方をしたつもりでも、身体的に受けつけないようなら、そのことが起因してストレスが長期間にわたってダメージとして蓄積していった末に、癌が発症したりするのかも知れないが、そうなったとしてもそれが原因だとは気づかないだろうし、本当にそうなるかどうかも因果関係もはっきりしないだろうが、そういう意味で用があるということが、安易に死ぬ用意があるということであるなら、死期を早める人間関係や社会関係というのも意外と世の中には多いのかも知れない。


4月26日「好都合なこと」

 今現在が何をやるのに都合が良いかというと、ざっと世の中を見渡してみて何かそれらしいことが行われていれば、それをやるのに好都合な時期が到来していると思われるのだろうが、自分がそう思ってみても思い違いの可能性もあるから、思うのと実際にやってみるのとではまた違った成り行きが伴ってきそうだが、何がやるのに好都合なのかといえば実際に現状の中で行われていて、しかもうまくいっていることであれば、それをやるのに好都合な状況となっているはずだが、誰がやってもうまくいくとは限らなければ何かうまくいくための条件があって、その条件を満たせばうまくいくが、それを満たさなければうまくはいかないとなれば、実際にそれをやってみてうまくいけば、うまくいくための条件を満たしていて、うまくいかなければその条件を満たしていないことになるのだとしても、うまくいくための条件が何なのかというと、ただ運が良いか悪いかでしかなければそんなのは条件とは言えないだろうし、もっと何かこれだとはっきりとわかるような条件があればいいのだろうが、果たしてそんな条件を見つけられるかというと、それも現状でうまくいっているやり方から推測するしかないが、何が現状でうまくいっているのかというと、大抵は誰がやってもうまくいくようなことではないだろうし、何かをやった結果から見れば、それをやってみてうまくいった人にとってはうまくいったことになるのだが、それと同時にうまくいかない人も出てくるなら、うまくいった人とうまくいかない人との間で何か違いがあって、その違いがうまくいくための条件に絡んでくるならわかりやすいが、そうとも言えない場合が出てくるとすれば、その場合に関してもうまくいくための条件が絡んでくるようなら、何やら複雑でややこしいことになりそうだが、具体的に何に関してそういうことが言えるのかというと、ゲームなどの中での戦術に関して言えるようなことなら、何か事例としてうまくいっている戦術があって、現状でうまくいっているやり方を他も真似てうまくいくようなら、それに関してはある程度のうまくいく確実性があると言えるのだろうが、それが戦術であるだけに、そうした戦術に対抗する戦術も出てくるだろうから、その対抗して出てきた戦術によって、うまくいっている戦術が打ち破られるようなら、そうなった時点でそれまでうまくいっていた戦術の賞味期限が切れてきたことになり、それ以降はあまりうまくいかなくなってくるようなら、すでにうまくいく戦術ではなくなってきたことになるわけだが、戦術といってもその場の情勢や状況に合わせた戦術でないと有効には機能しないだろうから、戦術がうまくいくかいかないかはその場の情勢や状況に左右されるとしても、今が何らかの戦術を使うのに好都合な情勢だと思われても、それがうまくいくかいかないかは戦術を使った結果からわかることであり、その場で好都合なやり方があるとしても、それを使った結果がうまくいくとは限らず、結果的にうまくいかなかったとしても、それがその場で好都合なやり方であることは確かだとすれば、好都合であることとうまくいくこととは別問題であり、好機を捉えて何かを仕掛けても、結果的にうまくいかなければ、その時点での情勢としては確かにそれを仕掛けるタイミングとしては好機だったのかも知れないが、仕掛けた時点で別の思いがけない方面から作用や影響がもたらされる場合もあるのかも知れず、それが仕掛ける以前には想定不可能な作用や影響であれば、仕掛けた時点では確かに好機が到来したから仕掛けたわけだが、仕掛けたところでそれに応じて別の方面から仕掛けたことから期待できる効果や効用を無効にするような作用や影響が及ぼされれば、結局は仕掛けても思い通りの成果が得られないことになるわけで、そんなことまでは事前には想定できないから、現状で何をやるのが好都合に思われるとしても、それをやったからといって必ずしも良い結果が得られるとは限らないのかも知れないが、では逆に現状で不都合なことをやれるかというと、何をやれば不都合なのかがよくわからないかも知れないが、普通に考えて不都合なことをやられると困る人や団体が出てくるかも知れず、そうであれば人が困るようなことをやれば、それが現状では不都合な行為となると考えるなら、人が困るようなことといっても、人によって困るか困らないかが違ってくるかも知れないし、果たして誰もが困るようなことができるかというと、それもやってみないことには困る人がどれほど出てくるかは何とも言えないとなると、それも事前にはどれほど困るか困らないかを想定できないかも知れないが、さらにその人にとっては人を困らせるようなことをやることが好都合な場合もあるかも知れず、そうなるとそういうことをやられると、困る人と困らない人が出てきて、困る人にとっては不都合だが、困らないどころか、そういうことをやってもらった方がかえって都合が良く、その人にとっては好都合な場合もあるとすれば、果たしてそれでうまくいったことになるのかというと、人によってどちらにも受け取れるような状況がもたらされたことになり、その人にとってはうまくいっても、他の人にとっては困るようなことと、その人にとってはうまくいかなくても、他の人にとっては困らないどころか、その方がかえって好都合な場合があることになれば、もちろん関係のない人には好都合でも不都合でもなく、困るも困らないも、そんなのはどうでもいいことかも知れないし、それら全ての可能性を考慮するなら、何かその人にできることがあって、できることがあるといってもそれをやってみた結果からそれができるかどうかがわかるのだが、やってみた結果としてうまくいったりいかなかったりしても、その結果がそれをやった当事者にとっては好都合であったり不都合であったりする一方で、そのやったことに関連する他の人や団体などもそれなりの作用や影響を被って、そこでも好都合であったり不都合であったり、そのどちらでもない場合やどちらでもある場合も出てくるとすれば、それらのトータルで果たしてそれがうまくいったことになるのかならないのか、あるいは人によってはどちらとも言えないことであったり、どちらとも言えることでもあったりするのか、ということになれば、少なくともそういうことが実際に行われた場合には、それをやれる可能性があったことは確かだとしても、やる前に好都合だと思ってやったことが、やった後では当てが外れたと思うことはよくあることで、やる前とやった後では状況や情勢が変わってしまうのであり、それをやったことによって状況や情勢が変わってくるとすれば、果たしてそれを事前に想定できるかといえば、かなり難しいのかも知れず、それでも事前にあらゆる可能性を考えるなら、それをやる前とやった後とでその場の状況や情勢がどう変化するかまで予測しなければならないだろうし、そういうところが例えばゲームの類いでは、ルールの範囲内でなら何を仕掛けても、それを仕掛けた後でルールそのものが変更されることは滅多に起こらないだろうが、もちろんゲームの類いでもあまりにもそれが効果を上げすぎると、後からそういう行為が禁止されたり制限を加えられるようなことも起こり得るだろうが、それに関するルールが厳格には設定されていない状況下では、それをやったことのインパクトが強すぎて、新たにそれをやることを禁止したり、規制するようなルールが設けられることになるかも知れないが、例えばそれが戦争に関することなら、原子爆弾や水素爆弾を使用した場合の被害が大きすぎるから、それ以後は実戦では使われない状態が何十年も続いている状況になってしまったわけだが、果たして戦争にゲームのようなルールを適用できるかといえば、ルールも何も戦争そのものがやってはいけない行為だと定めたい人々の意向があるだろうし、もちろんそんな意向など無視して戦争が行われている現状があるにしても、それを仕掛ける前と仕掛けた後では状況や情勢が大きく変わってしまう代表格が戦争であることは確かだから、戦争に関してなら、それをやった結果が誰の思惑通りにもならない場合が多いこともそれなりに予想がつくだろうし、そういう意味では戦争が起こった後から陰謀論のように話の辻褄が合うようなことを語ってみても、事前にそうなることを予測したり把握するのが難しいこともわかりきったことであり、たとえ事前に陰謀の類いが巡らされたとしても、戦争の規模が大きくなればなるほど、事前の陰謀など吹き飛ばすような思いがけない結果がもたらされるのではないか。


4月25日「不都合な未来」

 何か世の中で不条理や不具合などの困った事態が起こっていないと、それについて言及できないという困った性分の持ち主がどこにでもいるわけでもないだろうが、それだけでも世の中を否定的あるいは批判的に捉えている証拠かも知れないが、では逆に世の中で流行っている風潮を好意的に見たり擁護するようなことを語った方が世間的には良く見られやすいかというと、それもその場の状況や情勢にもよるだろうが、政治批判のようなことが行われる集会などでは、大抵は現状の世の中の状況や情勢を否定的あるいは悲観的に見て、それについては政治が悪いから世の中がひどいことになっているといった類いの内容の意見や主張が大勢を占めるだろうが、確かにそういう場ではそうだとしても、それがその場だけのことであれば、それとは別の場では世の中で流行っている風潮を好意的に語って擁護するようなことになっているかも知れないし、さらにそういう大雑把なことではなく、特定の狭い分野で起こっていることについてそれの何が良くて何が悪いのかを語るとか、またそれの良し悪しではなく、ただそこでどういうことが行われているかが語られるだけなら、その内容が詳しくてためになるとか、それに共感できるとかできないとか思われるだけかも知れないし、取り立ててそれがどうということはないはずだが、そうであってもそこから学ぶべきことがあるとか、語り方が巧みで感心させられるとか、自分も見習わなければならないとか思うようなら、人によって受け止め方が違うにしても、興味深いことが語られていることになり、特定の狭い分野について語るに際して、そこに意識が囚われていると他のことは大して気にならないような心境になれるなら、それでも構わないかというと、それも人によって立場や境遇によってもそれでも構わない場合があるにしても、また人によってはそれとは別に何か語らなければならないことがあるかも知れないが、それについて語るのもその人の自由であれば、何のことはないだろうが、果たして様々なことについて自由に語れるかというと、そういうわけではなく、中には特定の狭い分野にこだわっていて、それしか語ろうとしない人などいくらでもいるだろうから、そういう人に関してはそういう人だと捉えておくしかなく、その人はその人でそんなことを語っていればいい立場でしかないだろうし、それがその人の全てではないことも承知できるだろうが、少なくともそれが良いだの悪いだのと判断する必要のないことであるのもわかりきったことかも知れないが、そういうことが語られるメディア環境の中では、取り立ててそれで不都合だと思うわけでもなく、別に衝撃を受けるような不条理に直面しているわけでもないだろうが、では何も困ってはいないのかというとそういうわけでもなく、何かしら困っていることもいくらでもあって、それについては気が向くままにたまにはどうにかしようとして考えることもあるだろうが、考えてみたところで解決策を思いつくわけでもなく、思いついたところでその通りのことができるわけでもなく、やってみたところでうまくいかなくなって、さらに困ってしまったりして、そうなることに関しては何かコツのようなやり方があって、こうすればうまく行くというやり方が確立されていれば、誰もがそういうやり方によってうまく行くようなら、そういうやり方ができる人は困らないはずだが、中にはそういうやり方ができない人もいるだろうから、また不器用でコツがつかめない人もいるかも知れないから、なかなかそういうやり方が世に広まらない場合もあるかも知れないが、そういう方面では確かに解決策があるにしても、全ての方面で解決策が確立されているわけでもないから、確立されていない方面では相変わらず不条理や不具合が放置されている現状もあるのかも知れず、中にはそういう方面のことについて語るのが好きな人もいるのだろうが、全く解決策がないということではなく、解決策が見つかる過程を語りたい人もいるだろうし、また解決策を知っていて、それを他の人たちに教えたい人もいて、解決策を知りたい人がその人の話に興味を持つのも当然だろうから、解決策を教えたい人の話を解決策を知りたい人が聞きたがるわけだが、話を聞いて解決する程度のことなら、別にそれが不条理だとは言えないだろうが、話を聞いたぐらいでは解決できないようなことであれば、それが特定の分野内では解決不可能なことになるのかも知れず、様々な分野に股がって不条理や不具合が現れているようなことにでもなれば、関係する分野から専門家が寄り集まって、問題を解決するためのチームが編成される場合もあるかも知れないが、そういった問題解決プロジェクト的な話にも興味がある人もいくらでもいるのかも知れず、それも実際に問題を解決して目立った成果を挙げたことが世の中に知れ渡ってから、そういった話が何かの特集としてノンフィクション的な映像作品などにまとめられることもあるが、そういう意味では実際に何らかの問題が解決された話に多くの人が興味を持つわけで、あるいは未だに問題が解決されず多くの人がそれによって苦しめられているような話にも興味を持つだろうし、話に興味を持つ持たないのレベルでは、すでに何らかの結果が出て、それについて考えさせられるような話だと興味を持ちやすいのかも知れないが、それが全くの他人事ではなく興味を持っている自身にもある程度は関わってくるようなことだと、それについて真面目に考えなければならないような気もしてくるだろうが、その関わり具合というのが、関わっている対象と良好な関係を保っているか、あるいは険悪な関係なのか、さらには両方が混じり合った是々非々の立場をとっているかでも、関わり方の傾向が変わってくるだろうから、一概に話の内容の良し悪しということでもなく、また語っている人に批判的であったり、あるいはその人の支持者であったり、応援する立場というわけでもないとすれば、単純にそのことの是非を考えたいわけでもないような気がしてくるかも知れないが、では何なのかといっても簡単に思い浮かぶようなことでもないだろうが、それに関して例えば語られている内容に未来があるかないかということになってくるなら、語っている人自身の立場や境遇が未来へ向かってどう変化するとか、語られている内容がその場だけで済んでしまうようなことなのか否かということとか、そういうことまで考えていくと、そこで語っている人自身が未来のある時点で消耗品のように使い捨てられてしまう成り行きを想像できるなら、その人にはそういった方面では未来はないが、語っている対象にはそれを語る人を次から次へと使い捨てながら未来へと続いていく可能性を予感させるかも知れず、そうであればそれを語る人ではなく語られている対象に興味を持っていることになるだろうが、逆に語っている人が次から次へと多くの人が興味を持ちそうな題材を使い捨てながら語り続けているようだと、語っている対象ではなくその人に興味があると言えるかというと、もしかしたらどちらにもそれほど興味があるわけではなく、そういう語り方に興味を持っているからその人の話を聞きたがるのかも知れないが、普通は使い捨てるのではなく、何度も同じ題材を取り上げながら繰り返しそれについて語ろうとするから、話がある程度は持続するのであり、そういう話に興味がある人も、その人の語り方や話術の虜となっているのかも知れないが、ではその人やその人の語り方に未来があるかというと、あるにはあるだろうが、その未来が固定されていて、いつまで経っても同じような話題に終始するような未来があり、しかもその手の人とその手の語り方の人は結構多いかも知れず、何かそこで興味深いことが語られているように思われるのと同時に、ちょっと待てよ、何かどこかで同じような話を聞いたことがあるような気がするなら、何十年も前にもそれと似たような話を聞いた記憶が蘇ってくるかも知れず、実際に何十年も前にも似たような人が似たような語り方で似たような話をしていたのを思い出したのかも知れないが、それに関しては社会的な慣習に依存した職業的な立場や境遇として、そういうことを語る役割を担いやすい職業があって、そういう職業に就いた人の中から世間的な評判が良い人がそういうことを語るのに相応しいような成り行きが生じてくると、実際にメディアなどでそういうことを語る機会が設定されて、その際に語るのに相応しい題材が選ばれて、しかもその題材の中で取り上げられやすい社会的な問題とその解決法も一定の型にはまったフォーマットとして確立されていれば、後はその人がそれについて語って、それ相応の反応が世間から返ってくるようなことが、これまでにも延々と繰り返されてきたことにも思い当たるかも知れない。


4月24日「攻撃的衝動」

 機械の故障のように何かはっきりとした原因があるわけではなくても人がおかしくなることはあるかも知れないが、おかしくなるのではなく、通常の状態であってもおかしく見えてしまうこともあるかも知れず、それが通常の状態であれば普通はおかしくは見えないはずだが、身体障害者や精神障害者であればおかしく見えるのが通常の状態であり、それをおかしいと見ることが差別そのものだと言ってしまうと、それは違うと反論されそうだが、そう見えてしまうのだからすでにその時点で差別しているのであり、そういった人たちをおかしく見るように仕向けられているとすると、何が仕向けているのかと言えば社会が仕向けているというと、おかしく見ている人の責任逃れのように感じられるかも知れないが、社会という言葉では納得できなければ世間がそう見ていると思えば、何でもかんでも世間のせいにできるかというと、そんな気がしないでもなく、世間を味方につけるためにはそれらの人たちをおかしく見なければならないとあからさまに思っているわけではなくても、結果的に言うなら世間の同調圧力に従うならおかしく見なければならないということになるだろうが、同時にそれを口に出して言ってはならないということになるだろうし、確かにうっかり口に出してはならないが、そういう人たちをおかしく見るような差別意識は保持しておく必要があり、それが世間の同調圧力に従う態度なように感じられるわけだが、そういうことの延長上に容姿や肌の色の違いや性別や言語や生活習慣の違いや宗教の違いや所属している一族や団体や民族や国籍などの違いが続いて、その種の差別意識を挙げればきりがないようにも思われてくるだろうが、差別意識があるとしてもあからさまに差別してはいけないわけで、その辺が微妙なところであり、その微妙さがわかっていないと差別を通り越して攻撃を加えるようなことになって、少年がホームレスを襲撃して死傷させてしまうような事件が起こるのだろうが、少年でなくても心理的にも経済的に余裕がないと、アメリカでアジア系住民が襲撃される事件が頻発するようなことにもなるのだろうが、そんな差別を助長する攻撃的な衝動が人をおかしくさせる原因だとも言えそうだが、人が人を攻撃することがおかしいかというとそうでもなく、動物の機能や本能として他の動物を襲って捕食したり、餌の取り合いや生殖相手を巡って争うようなことも起こるだろうから、そういう次元で考えれば攻撃することはおかしくないだろうが、現実の社会の中で動物のように行動できるかというと、攻撃を抑制するための様々な制約やルールなどが邪魔をして本能の赴くままには行動できず、そういう意味で社会が成り立つには人や集団の攻撃的衝動を抑えることが必要となってくるのだろうが、その一方でスポーツやゲームなどの競技においてはルールに則った範囲内で攻撃することが認められて、そこでは攻撃するのはおかしくないどころか対戦相手に攻撃を仕掛けないとおかしいわけだが、そういう意味では攻撃するかしないかが何によって決定されるのかというと、社会的なルールによって決定されると見ておけばいいような気がするが、その社会的なルールが何なのかと言えば、普通に考えてそれが法律の類いだと解釈できるだろうし、もっと広く捉えるなら慣習の類いも入ってくるだろうが、法律や慣習を破るようなことをすると、社会的な取り決めに従わないことになるから、場合によっては攻撃されることになるだろうが、その社会的な取り決め自体が、特定の人や集団が有利になるような取り決めだと、そんな取り決めを守る必要があるかということになり、そんな取り決めをなくそうとするだろうが、それが人を容姿や肌の色の違いや性別や言語や生活習慣の違いや宗教の違いや所属している一族や団体や民族や国籍などの違いによって差別するような取り決めであり、そうした取り決めがある社会自体がおかしいということになるだろうが、もちろんそうした社会的なルールに従うことによって恩恵を受けている人たちは反発するわけで、客観的に見て何の恩恵も受けているようには見えなくても、何となくこれまでそうするのが当たり前だったことを急に変えようとすることに対しては抵抗を感じるし、これまで通りで何の不都合も感じていないのに大した理由もなくそれを変えられると腹が立つだろうが、それも合理的な思考では理解できない感情が絡んでくるとこじれてきて、話し合いなどの交渉や取引ではうまくいかないなら、暴力的な攻撃の応酬へとエスカレートするわけだが、そうなるのが自然の成り行きのように感じられるなら別におかしいことだとは思わないだろうが、果たして自然の成り行きにまかせていればいいのかというとそうもいかなくなってきて、外部から人為的に介入するようなことになってくると、さらにややこしいことになってしまうのかも知れないが、自然の成り行きだから良くて、不自然でおかしいから悪いとは言えないだろうし、自然から見れば不自然でおかしく見えるのが人類の文明だとしても、人類が文明を築くのが自然の成り行きのように感じられるなら、それがおかしいことだとは思われないわけで、それが自然の成り行きであるか不自然でおかしいことであるかで良し悪しを判断できないとすれば、では何を基準にして判断するのが妥当なのかというと、これと言って普遍的な判断基準があるとは思えなければ、結局は争いや戦いに勝った側の意向が優先されることになるだろうし、もちろんその場で妥当に感じられるような良し悪しの判断基準があったところで、争いや戦いに勝った側にとってそれが都合が悪ければ無視されたりねじ曲げられてしまうだろうし、時として無理なことがごり押しされて不合理で非合理なことがまかり通って、争いや戦いに敗れた人々を苦しめるわけだが、そうやって無理なことや不合理で非合理なことを社会のルールとして定めたり、慣習として暗黙の了解事項のように守らせることが横行する場合もあるだろうが、それがおかしなことかというと権力を握るとはそういうことであり、人を動かすということもある意味ではそうなのかも知れないが、やりたくないことを無理矢理やらせることによって自らに理不尽なことをやらせるだけの権力があることを誇示するわけで、そういうことに従う人が多ければ多いほど、そういうことをやらせる人や団体の権力もそれだけ大きくなるわけだが、そういった権力を誇示する上で典型的な行為が戦争となるだろうが、死にたくないのに戦争に参加させられる兵士となれば、命令に逆らうことができないだけに自らを死の危険にさらす権力の強大さを身にしみて実感できるはずだが、それとは違って経済的な行為として武器や兵器を生産する軍需産業の企業となれば、無理矢理武器や兵器を作らされているわけではなく、利益を出すために武器や兵器を生産していて、また職業軍人であれば労働として戦争に参加しているわけで、そうなると権力がどうこう言う次元とは違ってくるし、仕事としてそういうことをやるのが当然のこととなり、それもある意味では自然の成り行きなのだろうが、そういう成り行きから言えるのは、一方では無理なことがごり押しされるような不合理で非合理で理不尽な行為や行動が、もう一方では合理的で自然な行為や行動に見えてしまう面もあるということであり、それに関して何らかの判断基準に基づいて、どちらがどうだと言いたくなるだろうが、実際に何かおかしなことがまかり通っているようなら、そうすることが自然の成り行きのように感じられる領域も、もう一方にあると想像しておいた方がいいのかも知れず、それを自然の成り行きのように感じながら当然のこととして行なっている人や勢力が存在するとすれば、それをおかしいと思う人や勢力とは立場や境遇や価値観などが違うからそう思われるのだろうが、果たして両者の間で立場や境遇や価値観などを一致させることができるかというと、それがなかなか一致できないから争いや戦いが両者の間で起こるのは致し方のないことかも知れないが、そうした争いや戦いのとばっちりを食らわないように、仲裁に乗り出す第三者が出てくることがあるとしても、それもそうなるのが自然の成り行きのようにして、そうした仲裁者が現れたり現れなかったりするのだろうが、それが仲裁者自身の利益目的で仲裁に乗り出したように見えてしまうと、争っている当事者には何か不自然でおかしいことのようにも感じられて、そこで行われる交渉や取引も三者の利害が絡んでくるとそれ相応に複雑化して、それなりにこじれてきてしまうわけだ。


4月23日「政府の対応と民衆の反応」

 たぶん政治に関して何か勘違いしていることがありそうなのだが、それがわからなければ実際に勘違いしているとしても、今も勘違いしている最中のわけだからわからなくても当然なのかも知れず、現状でもメディアを通して誰かが世界情勢の変動に乗じて危機感を煽っているのは毎度のことであり、実際にここ数年来続いている新型コロナウイルスによる世界的な感染症のパンデミックの最中に、ロシアがウクライナに対して戦争を起こしてしまったのだから、欧米諸国を中心としてロシアに対して経済制裁を行なったことによって経済的な混乱に拍車がかかってしまったと考えるのが妥当なところだろうが、それに対して各国の政府がそれなりに連携して対応していることも確かであり、日本政府だけが取り立てて特殊なことをやっている可能性もあるだろうが、世界の他の国々の政府と協調しながら似たような対応をとっている面もあるだろうし、他の国の政府が何か効果のある対応をとっているかどうかは何とも言えないところだが、少なくとも現状で日本政府としてはできる限りの対応をとっているつもりだろうが、その対応を支持するとか支持しないとかの世論調査の結果をメディアが公表しても、概ね支持する意見が多数派を占めるのは予想がつくだろうし、そうなっていることについても危機感を煽るような意見や主張が出てくるも毎度お馴染みのことである限りで、大して危機感を共有しているわけではなく、実際に危機感を抱いていない現状があるわけだが、それとは対照的に危機感を抱いているのは現実にロシア軍の侵攻に直面しているウクライナの政府関係者やウクライナ国民であるのも明らかだが、一方で戦争を起こしてしまったロシアの政府関係者やロシア国民も、欧米諸国を中心とする経済制裁に対して危機感を抱いているだろうし、ウクライナでもロシアでもそれ相応に深刻な状況に直面していることも想像に難くないが、その深刻さをウクライナから遠く離れた日本の地に住んでいる人たちも、戦争の惨状を伝える日々のメディア報道に接している限りで危機感を共有しているつもりにはなれるが、だからといってそれが日本政府の対応への批判や非難に結びつくわけでもなく、戦争を起こしているのはロシアなのだから、日本政府に責任があるわけでもないだろうし、そういう面では日本政府が欧米諸国と足並みを揃えて同じような対応をとっている限りで、それほど対応が間違っているとは思われないだろうが、対応自体が効果が上がっているのかといえば、それは結果から言えることであり、戦争がどのような結果に終わるのか、あるいは延々と終わることなく何年も続いていく場合もあるだろうから、結果がわかるのはまだ先のことになるかも知れないが、結果が出たところでそれが戦争なのだから、すでに被害も甚大なものになっていて、改めて戦争の悲惨さを実感するしかないが、だからといって戦争を起こさないようにするにはどうすればいいかなどという原則論ではなく、戦争にどう対応するかといった戦術論や戦略論しか出てこなければ、それが良いか悪いかというよりは、その場の対応を根本的に問い直すようなことはせずに、悪く言うなら場当たり的な対応に終始するしかないだろうし、これまでにやってきたことの延長上で、これまでにやってきたことと整合性の取れるようなことをやろうとするわけで、そこで経済面での損得勘定なども考慮に入れながら、できるだけ被害を最小限度に食い止めようとする思惑も働くから、戦争を起こしたロシアとの経済関係では、欧米諸国と付き合っている面ではロシアへの経済制裁に加担しつつも、ガス田などの権益は守ろうとするから、どっちつかずな都合の悪い面も出てきてしまい、そういう面では自国の勝手な都合で侵略戦争を起こすような独裁国家は許さないという政治的な建前を、日本政府を支持している民衆がどこまで真に受けているかがわかってくるかも知れないが、経済的な面といっても、目先の短期的な利害と長い目で見た時の長期的な利害で違いが出てくるかも知れず、どちらが大事かと言えば短期的な利益にこだわると長期的な面での利益が損なわれる傾向となってしまうかも知れず、だからといって長期的な利害が何なのかが、今ひとつよくわからないところでもあるから、短期的には経産省や大手商社などが関わっているサハリンのガス権益などを守る傾向となってしまうのだろうが、それが今後どのような事態をもたらすかも、何かしら悪い結果をもたらせば批判される材料となるにしても、そこでも日本政府が一丸となって権益を守っているような印象を与えないように経産省だけが前のめりになって権益を守ろうとしているような印象に見せかけたいのだろうから、短期的な戦術だと見えてしまうが、そんな日本政府に長期的な戦略があるのかというと、全くないわけではなく、それが政権批判派が危機感を煽っているような今回の戦争を利用した憲法改正や原発再稼働などならわかりやすいが、本当にそうなのかというと、本当な部分もあるからこそ政権批判派が危機感を煽っているのだろうが、それとは別に現状では誰もわかっていないような政府関係者や政権政党でも把握していないような長期的な戦略があるかというと、それもひょっとしたらあると見ておいても構わないが、どこの誰がそんな戦略を携えて行動しているのかというと、誰かといえば該当する人物がすぐに頭に浮かぶ人もいくらでもいるだろうが、本当にその人物がそうなのかといえば違うとは言わないものの、その人物だけが長期的な戦略を立てて行動しているとも言えないし、その人物とは別に、あるいはその人物が代表を務める政党とは別に、さらに誰も知らないような人物や政治勢力が出現してくるかといえば、今後そんな人物や勢力が新たに出てくるかも知れないし、出てこないかも知れないが、たぶん長期的な戦略とは結果的にそんな戦略があったように説明すると、何やらもっともらしく感じられるようなことであり、実際にそういう戦略がとられている中では誰も気づかないようなことかも知れず、そうであるなら現状では誰もそんな戦略があることなど知らなくても当然であり、逆に戦略がバレてしまうと対応されてその戦略がうまくいかないようにされてしまうから、誰にも気づかれない方が好都合なのだろうし、実際に誰も気づいていないのだろうが、それに関しては日本政府がどうこうというよりは、世界の現状の中で成り立っている国家体制を今後どのように変貌させていくかに関して、それに対応してとられる戦略程度のことだと見ておけばいいのかも知れず、それはアメリカ政府も前世紀末の湾岸戦争や今世紀初頭のアフガン・イラク戦争などから教訓を得ているから、直接的な軍事介入を控えるようになっていることからも何となくわかってくることかも知れないが、EUも旧ユーゴスラビアの内戦で空爆を行なったことから同じような教訓を得ているだろうし、ロシアにしても今回の軍事侵攻から同じような教訓を得られるかどうかは、今のところは何とも言えないが、果たしてウクライナがシリアのような惨状になってしまうかどうかも、今のところは何とも言えないし、部分的にはそうなってしまうとしても全体としてどうかは、今後の情勢次第な面もあるにしても、もしかしたら今が18世紀末のフランス革命以来の歴史的な大転換期に差し掛かっていると妄想を抱くなら当てが外れるかも知れないが、ある面ではすでに何かが一昔前とは様変わりしていて、それが政府の制御が利きにくいグローバル企業の出現であるいったところで、中国ではそうならないように政府が企業を抑え込もうとしているし、日本では未だに政府に助けられて企業活動が成り立っている段階に過ぎないし、今のところはそれが取り立ててどんな傾向を意味するわけでもなく、たかだか世界で数社がグローバル企業と見なされているに過ぎないが、そうなっているからといって政府と企業が対等な関係になったわけでもなく、依然として政府の方が圧倒的に優位な立場であるとしても、企業が政府を倒す目的で活動しているわけでもないだろうし、逆に政府を利用して利益を上げたいわけだし、政府と企業の関係が一昔前とは様変わりしたわけではなく、もちろん民衆と政府と企業の力関係も様変わりしたわけでもないが、では何が様変わりしたのかといえば、それも民衆の政府に対する反応が様変わりしたとは思えないだろうし、政府の民衆への対応が様変わりしたわけではなくても、政府の対応とそれに対する民衆の反応がそれほど直接に結びついているわけではなく、それが政府に対して暴動などが起こって戒厳令が敷かれるような国では昔ながらの反応が起こっているはずだが、そこでも何かがずれているのかも知れず、それが世界的な傾向となっているのかも知れないが、今はまだ誰もそれに気づいていない段階なのかも知れないから、当然のことながら国家的な形態を至上の存在だと思っているどこかの国の独裁者もそれに気づいていないのかも知れない。


4月22日「感覚と錯覚」

 物事を単純に考えて、人が何から刺激を受けるのかというと、その人の周囲で現実に起こっていることであり、人以外の動植物も刺激を受けるだろうし、現実に起こっていることから直接の力を及ぼされて行動を起こすこともあるだろうが、現実には起こっていないことから刺激を受けている場合があるかというと、それが起こっているように見せかけられている物事から刺激を受ける場合もあるだろうし、見せかけるということが現実に起こっていることになるから、それも現実に起こっていることから刺激を受けていることになるだろうが、画面から刺激を受けることと実際に何かが起こっている現場で刺激を受けることが同じではないことは誰もが承知しているはずだが、画面上もそこで何かが起こっている現場には違いなく、画面上に映し出された映像や画像や記号を見たり、文字を読んだり、それと同時にスピーカーから聞こえてくる音声を聞くことから刺激を受けていることになるわけだが、見ることと読むことと聞くことが一体化した感覚に欠けているのは、味覚や嗅覚や触覚などがありそうだが、また画面を見ていることによって身体がその場に固定されていれば、画面がそこに固定されているから画面を見ている間はそこにとどまっていることになるが、画面が持ち運び可能なら、例えば歩きながらスマホの画面を見ていると注意力が散漫になって事故の原因となってしまうが、他を差し置いても画面を見ることに夢中になっているなら、それだけ画面を見ることからより大きな刺激を受けていることになるはずだが、見るだけなく画面上で操作が可能だとさらに画面の中へと引き込まれるだろうし、それが画面上で操作するゲームの類いになるわけだが、そうなると見るだけでなく指先の操作も加わってきて、操作に応じて効果音やBGMまで聞こえてくればより臨場感も高まってくるから、何かをやっている感覚に囚われることになるだろうが、それが機械を操作する感覚であり、例えば自動車を運転している感覚なども、前方を見ながら時折横や後ろも確認しつつ手でハンドルを操作したり足でアクセルペダルやブレーキペダルなどを踏みながら、機械を操作している感覚になるわけだが、それが自らの身体を操作している感覚に近いかというと、機械を手足のように操れる技術をマスターできれば近いと言えるかも知れず、他にも楽器を演奏したりPCのキーボードを叩く際などにも言えることだが、特に意識して操作しようとしなくても自然に手足が動いて、その延長上にある機械を思い通りに動かしている感覚になるだろうが、それと同じように他人を思い通りに動かさせるかというと、他人にも意志があって、それが自らの意志と同調できなければ言うことを聞いてくれないし、言うことを聞いてくれても言った通りには動いてくれない場合もあるだろうし、それが他人にとっては当然のことのように思われるかも知れないが、自分でさえも自分の思い通りには動いてくれない場合があるだろうから、動こうとしても何かに怖気付いて動けない場合もあるだろうし、それとは逆に自らの意志に逆らって身体が勝手に動いてしまうと、驚いて動揺するだろうが、動いたことが最悪の事態を招いてしまえば、その後でも生きているなら、何かに操られていたのではないかと疑ってしまうかも知れないが、それを悪魔や悪霊にせいにできるかというと、状況によってはそう思われる場合もあるかも知れないし、それが最悪の事態ではなく、何でもなければ何も思わないかも知れないが、それによって何か良い結果がもたらされたなら、神か守護霊などが気を利かせたと思い込んでしまう場合もあるかも知れず、それほど信心深くなければ無意識に身体が動いたと思っておくだけでも納得できるかも知れないし、後からなら何とでも言えるようなことかも知れないが、何か勝手な思い込みに突き動かされて行動しているような場合もあるし、そんな思い込みがメディアから得られる情報からもたらされる場合もあるだろうから、それが他から作用や影響を及ぼされて動いたことがわかれば納得するだろうし、そういった因果関係がわかればそれで済んでしまうことだが、因果関係がわからないと不思議がって、そうなった原因や理由を探そうとするかも知れず、納得できる原因や理由が見つからなければ疑いが晴れず、いつまで経ってもすっきりしないでもやもやした気分となってしまうだろうが、そんな気分から無理に抜け出そうとしなくても済んでいるうちは、取り立てて何がどうなるわけでもないだろうが、果たして強引に原因や理由を設定しなければ気が済まなくなる場合があるかというと、そこから何かしら行動や行為などを促されるような成り行きに囚われている場合がそうかも知れず、それをやるに当たってもっともらしい理由づけや動機づけが必要となってくると、それを言語化しなければならなくなって、他人の同意を必要とするような行動や行為になってくるとそういうことが必要だと思われるだろうが、そうなる場合はそれ相応に自分の身の回りで何かが起こっていて、それに自身が巻き込まれたり自分から関わろうとしたりしながら、その過程で他人や他の集団や団体などと交流や交渉が必要となってくると、それに伴って意思疎通を図るために言語的な説明も必要になってきて、そういうところで他人を納得させるためにプレゼンテーションなどをやる機会を得るなら、ますます他人が納得できて共有できるような理由や動機が必要になってくるだろうし、果たしてそれが本当の理由や動機なのかというと、本当か嘘偽りかが重要なのではなく、他人を納得させたり説得できるような理由や動機にならないとならなくなるだろうから、結局は他人を動かすために必要な内容となってしまうだろうが、そうなると他人を動かすにはどう説明すればいいのかという目的も生じてきて、自分だけでなく他人も共有できて共感できるような理由や動機などを導き出さなければならなくなるなら、もうすでにそうなった時点で自分だけが勝手に動くのに都合の良いような理由や動機では済まなくなってきて、いつの間にか他人を巻き込んで行う行動や行為になっているわけだが、それが自分にとってはそうだとしても他人にとっては、誰かに説得されて協力させられるような成り行きになってしまうだろうし、そうなってもそこで因果関係がはっきりしているなら、そういう面では特に疑わしいことはないはずだが、それとは違ってよくわからないのは、何をどうしろとも言われていないのに、何となく気がついたら何かの成り行きに巻き込まれていて、自らの意志とは関係のない方面へと誘導されて、結果的に意志に反したことをやらされるようなことになってしまうと、はめられたとか騙されたとか思うかも知れないが、そうなってしまったことに関して何か錯覚があるとすれば、自らが望んでそんなことをやる羽目になったわけではなくても、社会的な状況の中でそんなことをやるのが当然の成り行きのような立場や境遇になってしまうこともあるわけで、それがそれをやることになる原因や理由だと言える場合もあるだろうが、中にはそんな立場や境遇になってしまっても、それをやらずに済んでしまう場合もあるだろうし、それもそれをやるかやらないかは偶然の巡り合わせだと言ってしまえばそれで済んでしまうようなことかも知れないが、特に原因や理由を必要としなければそれらをなしで行為や行動に及んだり及ばなかったりしても構わないかというと、自分は構わないが周囲の人々の中にはそれでは納得しない人も出てくるかも知れず、それでも原因や理由にもこれだと特定できるようなものがあるとは限らず、やっていることが大したことでもないのに、それをことさらに強調しなければならない場合もある一方で、やっていることは大したことだと思われるのに、それをやるに当たっては大した原因も理由も見当たらないような場合もあるかも知れず、必ずしもやっている内容とそれをやるに当たって必要とされる理由や動機などが釣り合ってはいない場合もあるから、そういうところで違和感を感じるとすれば、例えば大げさな大義名分を掲げてどこかの団体がやっている内容が、何かしょぼいと感じられて、そう感じることの方が掲げられた大げさな大義名分よりもっともらしく感じられるのであれば、大げさな大義名分を掲げてやるようなことではないかも知れないし、やるに当たって大げさな大義名分を掲げることになる過程の中で、それ相応の紆余曲折があって、その中で本来ならやるべきではないことをやる羽目になってしまったから、それをやるについてはそれ相応の理由や動機がないと組織として動けないようなことになってしまえば、そこで持ち出されてきたのが不自然に大げさな大義名分となってしまったのではないかと想像してみたところで、必ずしもそれが合っているとは限らないが、そういうところからも誰もが納得するようなもっともらしい因果関係が破綻するような事態が起こるのではないか。


4月21日「予知能力」

 何か得体の知れない予兆を察知したつもりになってから、しばらくして何かが起こると、それが察知した何かだったのではないかと自らの予知能力を信じたくなってしまうのだが、起こったことが何なのかというと、大抵は地震や災害などになるだろうが、地震であれば地球上では毎日のように地震が起こっているそうだから、大規模な地震が起こった後から、そういえばあの時感じたのがその予兆だったのではないかと思うのはよくあることなのかも知れず、地震が起こらなければそんなのはすぐに忘れてしまうから、それを予知能力だと思ってみても気のせいでしかないだろうが、そういったあやふやなことではなく、科学的に計算が成り立つ予知であれば確かなことだと思うのだろうが、それも例えば今後30年以内に80%の確率で大規模な地震が起こるとかいうことであるなら、確かではあるにしてもいつ起こってもおかしくないようなことになるから、予知が当たったところで何のありがたみも驚きもしないようなことになるだろうし、そういう意味では誰も知り得ないことが起こる日時を当てるといった通常ではあり得ないことではなく、天気予報のように誰もが知ることができる程度の内容に過ぎないわけだが、自らに予知能力があると思い込んだところで、何が起こるのかを前もってはっきりとわかるわけでもない限りは、何が起こったところで予知が当たったことにはならないだろうし、何も起こらなければ気のせいでしかなかったことになるのだから、その程度のことでは予知能力があるとは言えないのだろうが、どうしても何かが起こってからあの時感じたのはそういうことだったのかと思いたくなってしまい、そうやって自らが何かを感じ取れる力があることを信じたくなってしまうわけだが、何かが起こった後からそう思うわけだから、どう考えてもそれは事後的な感覚なのであり、事前ではなく事後にそう感じるのであるから、事前に何を感じていたかも事後から構成されるわけで、それは事前に感じる能力ではなく事後的な構成力だと解釈しておいた方が妥当かも知れず、事後的に辻褄が合うように過去に遡って物事を結びつけようとして、そうすることによってその人の知りたい物事の因果関係が明らかになったり、その人にとって都合の良い物事の成り行きや成り立ちが言語的に構成されるのだが、そうやって過去の歴史が構成されてきたのだから、それはその人に特有の能力というよりは、学校などで習得した多くの人が持っている後天的な能力であり、そういった事後的な物事の再構成をもっともらしいと思うなら、構成した人と価値観や思考する上での知的風土を共有していることになるかも知れないが、それらを共有しているからといって、他の多くの人たちも学習によって共有しているのだからどうということはないが、逆にそういった事後的な物事の再構成がフィクションであることを見破れるかというと、誰もフィクションだとは思わないだろうが、果たしてそれが事実なのかというと、事後的には信じられやすいことであるとしても、事前には知り得ないことであり、実際に何かが起こってみないとわからないことであるから、起こらないうちは知り得ないことでもあり、起こってから知ってももう遅く、取り返しがつかないことが起こってからわかるわけだから、そういう意味では現状ではわからないことがいくらでもあって、それを事前に知りたいから多くの人が誰かの予測や予想や予言に耳を傾けて、それがその人にとって都合の良いことなら信じたくなってしまうわけだが、しかもそんな予測や予想や予言を行う人が、事後的な物事の再構成もやっていると、事後的な物事の再構成がもっともらしく思われて信じられるから、そう思われることの延長で事前の予測や予想や予言ももっともらしく思われて信じられやすくなり、それが過去の延長上で起こる未来の出来事になり、そうやって過去から現在を経て未来へとつながる連続的な物事の因果関係が構成されてしまうわけだが、それをフィクションだとは誰も思わないだろうが、そういうことを語りたい人ならいくらでもいるだろうし、メディア上にはそんな言説があふれかえっているのかも知れないが、もちろんそういう言説が多くの人に好まれていることも確かであり、そういう言説内容がもっともらしく思われて誰もが信じやすいということが、学校のなどの教育機関における学習効果の表れだとしても、それの何が本質なのかというと、やはり事前には知りたいと思っても知り得ないことがあるわけで、別に知りたいとも思わないことが起こってから、それに驚いたり気づかなかったり、知っても気に入らなかったり都合が悪ければそれを無視したりするわけだろうが、その都合が悪いことを無視した上で成り立つのが、事後的な物事の再構成であったり事前の予測や予想や予言なのだが、事後的な物事の再構成にも事前の予測や予想や予言にも都合良く無視されて省かれているいる要素や要因があると、何か不完全な言説のように思われてきて、そこに言い足りない要素や要因があるような気がしてくるのであり、そういった要素や要因を加えてしまうと物事の辻褄が合わなくなって因果関係が成り立たなくなるから、意図的に言い落されているわけでもないのだろうが、知ることができるのはいつも全てではなく部分であり、知ろうとするのは辻褄が合って因果関係が成り立つことだけなのかも知れず、そうなると事前に物語の台本を用意しておいて、その台本に合う事実だけを寄せ集めるようなことになってしまうわけで、それがそこで起こっている物事の全てを語るのではなく、語りたいことに合う事実だけ選んで語るようなやり方になり、語りたいことを事前に用意できるかというと、部分的に語りたい分野を限定するわけで、それが事前に知りたいことでもあれば、そういった目的に合う出来事を寄せ集めると共に、集めてきた出来事の結びつきや関係を構築しようとするわけだから、それがフィクションの構成とならないはずがないし、そうした操作や処理が語る上で必要となるからそういうことをやっているはずだが、現実の世界ではそういうこととは関係のない出来事もいくらでも起こっているし、関係があってもそれを加えると辻褄が合わなくなって因果関係が成り立たなくなるから、それについては語らないのかといえば、そこまでは知り得ないのかも知れず、辻褄が合って因果関係が成り立つ要素や要因だけ選別して集めるわけだから、そんなことまで考慮に入れる必要がなく、逆に考慮に入れてしまうと、いくらでも関係のない要素や要因があるから、いちいちそんなことまで語ろうとすれば言説が無限大の長さになってしまい、そうなると物理的に語るのも書き記すのも不可能となってしまうから、そんなことはできないわけだが、そうだとすればそれがフィクションであろうとなかろうと、そういった制約の上で言説を構成することしかできないわけで、別にそうなっているからといってそれでは駄目だということにはならないし、可能な範囲内で語るにはそうならざるを得ないと状況を捉えておくしかなく、そういった限界を受け入れた上で言説が構成されているわけだが、だからと言ってそれが信用できないとか信じられないなら別に信じなくても構わないわけだが、そういった言説が構成できてしまう事実は事実として受け止めるしかないだろうし、しかも多くの人にとって興味深いことが語られていて、真に受ける人も多くいるわけだから、一定の支持や同調を得られていると思うしかないわけで、そういうことが前提となりながらも物事の成り行きの中で人や物や情報が行き交っているのだから、それ相応に人心もその種の言説から影響を及ぼされながら一定の傾向にまとまろうとしていたり、何らかの方面へと誘導されているわけで、それらが世の中の世論や民意などの集団的な意志や意向も形成するのだとすれば、辻褄が合って因果関係が成り立つようなことを行おうとするだろうし、実際に予測や予想や予言通りのことが起こるように、世の中に作用や影響などを及ぼそうとして、特定の組織や集団や団体などが何やら画策したり陰謀を巡らそうともしているのだろうが、それがうまくいっているかというと、うまくいっていると宣伝したいだろうし、実際に部分的にはうまくいっていることにしたいのだろうが、たぶんその種の陰謀論などで語られているほどにはうまくいっていないのかも知れず、そういったところで宣伝したり主張している人たちと現実の世界との間でずれや齟齬や軋轢などが生じているのではないか。


4月20日「勘に逆らう」

 痛い目に遭わないと身につかないことがあるとすれば、それは自らの勘に逆らうことかも知れないが、果たして自らの勘に逆らえるかというと、それがよくわからないところでもあるのかも知れず、勘に従って痛い目に遭っているのに、しかもこれまでに何度もそんな目に遭っているのに、未だに性懲りもなく忘れた頃に勘に従っては痛い目に遭っているとすれば、実際に勘に逆らえていないわけだが、結果的には未だに普通に生きているわけだから、その普通というのが取り立ててどうなっているわけでもなく、少なくとも勘に従うことによってそれほどうまくいっているわけではなく、しかも痛い目に遭った記憶ばかりが思い出されてくるのに、それでも普通に生きているとなると、少しは痛い目に遭ったことが教訓として活かされているのかも知れないし、中にはうまくいったこともあったはずだが、勘違いの方が苦い記憶として忘れた頃に何かのきっかけから突然脳裏に蘇ってきて、不快な失敗体験として同じ過ちを二度と繰り返さないように痛みを感じさせるのだとしても、どういうわけか気がつけば勘に頼ろうとして、実際に性懲りもなく同じような失敗を繰り返すわけで、もう十分に懲りているはずなのになぜ同じようなことをやってしまうのかというと、懲りていると思っていても、慣れた動作が身体に染み付いていて、病みつきになっているということかも知れないが、実際に痛い目に遭っているのだからやめた方がいいということなのだろうし、懲りてしばらくはやらなくなるわけだが、ほとぼりが冷めた頃にまた性懲りもなくやって失敗するとなると、痛い目に遭っている程度が致命的ではなく、繰り返し失敗してもまだ何とかなっている程度の痛さであり、痛い目に遭うことも承知の上で失敗を繰り返していると受け止めるしかないのかも知れないが、何度も失敗を繰り返していればそのうち成功するのではないかという淡い期待もあるのかも知れず、実際に何度も失敗を繰り返しながらもいつの間にかできるようになることもあるわけで、そういう経験が勘として身についているから、勘に従って何度も痛い目に遭っている最中だと考えるなら、これから先も性懲りもなく何度も痛い目に遭い続けるような気がしてくるだろうが、そうであればいつか成功する可能性を勘が察知していて、失敗を繰り返しているうちに成功するように仕向けているのかも知れないが、いつまでそんなことをやり続けていられるかもよくわからないところであり、失敗し続けているうちに寿命が尽きて死んでしまえば、骨折り損のくたびれ儲けで無駄骨に終わることになりそうで、成功したところで大した成果も得られないようなことなら、なおのこと無駄な努力に終わる公算が高そうだが、どちらにしてもそうなってみないことにはわからないし、そうなったところで大して感慨も湧いてこないかも知れず、そうであるなら何のためにやっているのかというと、失敗して痛い目に遭ったり成功して束の間の満足感を得るのとは違う方面でやることの意義や意味を見つけようとしているのかも知れないが、結果として感じられる意義や意味ではなく、生きている限りは何もやらないわけにはいかず、生きていることそのものが試行錯誤の経験となり、試行錯誤の中で生きていて、もちろん試行錯誤した結果として成功を求めていて、成功すれば満足感を得られるのだろうが、試行錯誤すること自体が目的だとは言えないだろうし、あくまでも結果としての成功を求めているはずだが、試行錯誤の過程で数々の失敗を経ないと成功できないところが面倒な成り行きを実感させて、見込みがあると思われるから試行錯誤を繰り返すわけだが、実際に成功してみなければわからないところが賭けなのだとしても、途中で行き詰まったからといって撤退するわけにもいかなくなれば、失敗に終わることを覚悟しながらも試行錯誤を繰り返すしかないわけで、それをどこまでやっていられるかで成功するか失敗に終わるかの分かれ目になるだろうが、それも人によっては大して試行錯誤を経ずに簡単に成功してしまう場合もある一方で、逆に何度も失敗を繰り返した挙句にそのまま成功せずに終わってしまう場合もあるにしても、そのどちらがどうだといってみても、そうなった結果からそういうことがわかるだけで、そんな結果がわかることにいくら貢献したところで、成功せずに終わってしまえば無駄な努力にしかならないが、それでも生きていられるなら気休め程度の救いが得られて、何を以って成功と見なして何を以って失敗と見なすかを、成功と見なすハードルを下げて失敗と見なすハードルを上げれば、生きてるだけで丸儲けという言い方が気休めになるだろうから、試行錯誤をやってみた結果として生きていられるならそれで構わないようなことになるだろうが、それだけでは気が済まないならさらに試行錯誤を繰り返すことになるだろうし、生きていられる限りで試行錯誤の繰り返しになるしかなく、そうなると結果ではなく過程の中で生きている状態をいかに持続させるかということが目的のような気もしてくるかも知れず、試行錯誤をやめた時が終わりの時であり、果たして終わりが死と重なるかどうかは、その人の生き方にもよるだろうが、それを終わりだと見なすかどうかも、物は言いようで、そんなふうにして何をどう見なすかということになってしまうと、言語表現の問題となってきて、結局は大した成功でもないのに恣意的かつご都合主義的に屁理屈のような理屈をつけてそれを成功と見なしたり、その逆も色々な見なし方が可能となるかも知れないし、中には格好をつけて死ぬことこそ目的だとか言い放つ人も出てくるかも知れないが、そういった言語表現的に工夫を凝らすこと自体が、自らの現状を何とかして肯定的に受け止めたいという願望の表れかも知れず、それ以前に言語表現によって自らの状態を正当化していること自体が、その人が生きているからそういうことができるわけで、そういった言語表現的な試みも試行錯誤の類いと見なすなら、絶えず結果を成功に見せかけるために工夫を凝らしていると言えるだろうが、そうやって結果をどのように言いくるめても、社会的な範囲では他人が同意しないことには独りよがりなことをやっているに過ぎないわけで、そこで浅はかな人たちが徒党を組んで、徒党の中では合意できるような無理な屁理屈を世間に向かって宣伝するようなことが行われて、その中では絶えず世間的には失敗だと見なされるようなことを成功だと言いくるめたいわけだが、それが場合によっては陰謀論の類いにも結びつくとしても、政治的にもそういった宣伝攻勢によって撤退や退却を転進と見なすような言い換えが蔓延ってくると、現状が末期的な状態だと悟る人も増えてくるだろうが、まだそこまでは至っていないとしても、何かを主張したり語っている人の言語表現がおかしいと思うのは、状態としては混沌としてはっきりしていないようなことを一方的なことを断言しながら決めつけるようだと、それが客観的にそう見なすのが妥当な状態というよりは、言語表現のレベルでそういう状態だと見なしたいから、そういう一方的なことを言い放っていると受け取りたくなってしまうわけだが、そういうことを言い放っている人が必ずしも成功しているとは言い難い境遇にあるようなら、それもそんなことを公衆に向かって言い放つような立場になっているだけでも、世間的にあるいは社会的にはある程度の成功を収めているからそんなことを言い放てるのだろうし、それに対して一定の支持や同調や反発や批判が起こるなら、それもそれなりに成功していることの証しとなるだろうが、その人の目標がまだ道半ばで、その途中で試行錯誤を繰り返している中でそんな発言を延々と繰り返しているようなら、その人の勘に従ってそんなことを言い放っているのか、あるいは言語表現に工夫を凝らして自身の都合のいいように状況を言いくるめようとしているのかは、そのどちらでもあるかも知れないが、それとは違って勘に逆らうことがどういうことなのかというと、言おうとしていることが言いたいこととは真逆になってしまったり、主張したいことがあるのにそれを主張しようとすると、主張している途中から主張とは別の方面へ逸れていってしまったり、どうしても言いたいことや主張したいこととは違うことを語る成り行きになってしまうと、何か自分が勘違いしているのではないかと自らの勘を疑いたくなってきて、それが他人とのコミュニケーションによって自らの勘違いに気づくこともあるだろうし、またそれについて自分で思考することによって気づく場合もあるのだろうが、疑念を抱いている時点で外部から何か勘違いを改めさせるような作用や影響が及ぼされている場合もあるのかも知れない。


4月19日「本当のこと」

 そうなるしかない成り行きというのは、放っておけば自然にそうなってしまうからそうなるしかないように思われるのだろうが、そういう成り行きに抗うことができるかというと、それもそうなるのが自然の成り行きのようにして抗うとすれば、作用反作用の法則のようなことが起こっていると見るしかなく、押す力があればそれに対して押されまいとして抵抗する力が働くわけだが、それだけで一連の現象を説明できれば単純なことになってしまうだろうが、それでだけでは説明できないとなれば、では何をどう説明すればいいのかというと、そんなことがわかるわけでもなく、説明する必要すらないことを説明するまでもなく、それもなるようにしかならないことなのかも知れないが、果たして逆らう必要もない成り行きに逆らっているのかというと、たぶん逆らっているのかも知れないが、逆らっているつもりのことでさえも、そうなるしかならないような成り行きに含まれていて、それが取り立ててどうということはないのであれば、それに関して何か語るようなこともないのかも知れず、語らなければそのままになってしまうようなことでもあり、それが誰も語らないような成り行きなのだろうが、それを語ることができるわけでもなく、実際に誰も語らないままに済ませているわけで、その語らないままに済ませていることを誰が語っているわけでもなく、語らなくても構わないような成り行きなのだろうが、そんな成り行きの中で何が語られているのかといえば、そこで語らなくてもいいことが語られているとは思えないだろうし、それどころか語りたいことが語られているような気がするわけで、その語りたいことを語っている人たちが、メディア上で何かを語っている人たちなのだろうが、その語っている内容を真に受けるようなら、語ってほしいことが語られているような気がするかも知れず、そう思うならそれで構わないのかも知れないが、本当にそれで構わないのかというと、別に本当でなくても構わないならそういうことなのであり、本当でなくても構わないようなことが語られていると思っておいても構わないのだろうが、なぜそれが本当でなくても構わないのかというと、逆に本当であれば困るから、できるだけ本当ではないようなことが語られているなら、では本当のことは語らなくても構わないのかというと、それが語られてもなぜか聞こえてこないわけで、なぜ本当のことが聞こえてこないのかといえば、聞こえてこないようにされていると思われるなら、誰がそんなことをやっているのかとなるわけだが、もちろん誰もそんなことをやっているつもりもなく、それどころか本当のことを語ろうとしているし、実際に本当のことを語っているつもりなのだろうが、それが本当のことではないとすると、では本当のこととは何なのかという疑問が湧いてくるだろうが、たぶんそれが本当だと思うことが本当のことなのであり、本当でなくても本当だと思っている限りで本当のことであるとすれば、本当のことが本当ではないというパラドックスが生じてくるだろうが、その人が本当だと思っていれば本当のことであるということが、信じる者は救われるといった類いの迷信に導かれて、誰もが本当だと思う迷信が世に広まる成り行きを生んで、それを本当だと思っていれば救われた気にもなるだろうが、それも本当に救われるのではなく、救われた気になれば本当に救われたようなことになってしまうなら、それで構わないようなことになるかというと、救われるとはそういうことだと定義されるなら、そうだと思うしかないが、本当に救われることと救われたような気になることのどちらもが本当に救われたことになるなら、そんなのは嘘だと思いたいだろうが、実際にはそういう比較ができないような成り行きの中で救われたような気になるわけで、それが本当に救われたのだと思えば、そう思うしかないような成り行きの中でそう思っているわけで、それが本当の救いだと思うならそういうことであり、そういう成り行きの中では救いとはそういうことだと思うしかなく、実際に窮地に陥って他人に救われるようなことを体験しても、そんなふうにして救われることとは別の成り行きの中で救われた気になることの方が、本当に救われたように思われるなら、そちらの方が真の救済を体験したことになるかも知れず、それがある意味で宗教的な救いとなるのだろうが、それもそういう成り行きとして経路が確立されているようなところでは、何かに導かれるようにしてそうなってしまうのかも知れず、それをありふれた表現で言い表すなら神の導きによって救われたことになるのだろうが、そうやって救われることと火事や災害などの際に消防隊などに直接救助されるのとでは、救われる際の救われ方の形態が違うのは誰でもわかることだが、果たしてどちらが本当に救われたことになるのかと問われるわけでもないだろうし、救われる際の状況が違うのだから、比較すること自体が無意味であることも誰もが理解できるはずだが、実際に天変地異などが起こった際にはどちらにも救いを求めるかも知れないし、それが矛盾したことだとも思わないだろうが、本当の救いとは何かと問われるような成り行きになれば、宗教的な救いの方が本当の救いのように思われてしまうだろうし、その場その時だけ救助されても、それが本当の救いとはならないと説かれると、それを真に受けるならそんな気になってしまうわけで、それも信心深さの度合いや傾向にもよるだろうが、それを矛盾しているとは思わずに、レベルや次元の違うことだと思えばいいとしても、真の何かとか本当の何かという表現を使うと、それとは反対の嘘や偽りの何かがあるように思われてしまうところが、それと比較して真の何かや本当の何かが尊いものだと思ってしまうと、その真の何かや本当の何かという表現自体に騙されているとは思えないだろうが、少なくとも言葉に誘導されていることは確かだろうし、それを肯定するように仕向けられていて、それを信じることが良いことだと思うように誘導されているわけで、そういう言葉による誘導に従うことが何を意味するかというと、言動に従って行動するような成り行きに囚われていて、それが直接命令に従うことと同じだとは思えないだろうが、実質的には同じように促されていて、それが直接の命令でなくても、真の何かや本当の何かを信じることが、その何かに従って行動することになり、行動することによって救われることになる場合もあるだろうが、それも救われるのではなく救われたことになるのであり、本当は救われたわけでもないのに救われたことにされると、そんな救いは嘘偽りであり、まやかしの救いでしかないだろうが、言語表現によってもたらされる真の救済や本当の救いとはそういうことかも知れず、例えば熱心な信徒が迫害されて殉教するような成り行きになれば、死んで天に召されて救われたと言い表すわけで、それは異端審問にかけられて棄教して死を免れたこととは正反対の結果になるわけだが、どちらが助かったことになるのかといえば、普通は棄教して死を免れた方になるだろうが、言語表現としては助かったことと救われたことが同じ意味を表して、それが真の救済や本当の救いになれば、例えば最後の審判が到来するなら、殉教者は救われて天国に行くことになる一方で、棄教者は信仰を捨てたことを罰せされて地獄へ落とされることになるはずで、もちろん本当のキリスト教では異端審問自体が異端者を炙り出すことにあるわけだから、異端審問の際に異教や邪教を捨てて真のキリスト教に帰依すれば死を免れると共に、改心したのだから、死んでから天国へも行けることになるわけだろうが、当時の異端派にしてみれば、異端審問を行う正統派自体が間違っているわけだから、信心深ければ信仰を捨てないだろうし、棄教せずに火炙りの刑になってしまえば、殉教して天国へ行けることを信じながら死んでいくのだろうが、後の時代になって教皇庁が火炙りの刑にした非を認めて聖者に列せられると、さらにそこで立場が逆転して最後の審判の際に天国へ行ける権利を獲得することになるだろうが、果たしてそういう成り行きが自然の成り行きと言えるかというと、世の中の情勢や状況に応じた辻褄合わせの感を免れないだろうが、そういう意味では言語表現上で信じられている真の何かとか本当の何かというのは、社会的な意味合いでそれを信じた方が都合の良い何かだと言えるのかも知れず、それとは違って直接の行動や行為によってそうなったことであれば、信じるだの信じないだのの次元やレベルでそうなったわけではなく、実際にそうしたわけだから、それを信じないという選択肢などあり得ないわけだが、それと比較して言語表現上でそれを信じるようなことであれば、そういうことにしておくということであり、そうなると本当はそうではないように見えることでもそういうことだとされると、そういった言語表現に従うか否かという選択肢が生じてくるわけだ。


4月18日「富と権力の集中」

 現状の世界で問題となっていることが、それが誰もがわかっていることであるなら、まずは国家的な政治体制が民衆を弾圧するような独裁体制であってはまずいということであり、またそれと同時に経済的な面では、資本主義的なやり方が世界中で幅を利かせている中では、経済活動に伴って生じる民衆の貧困化を何とかしなければならないということだろうが、それらが連動して絡み合っている面もあり、政治的な独裁化が起こると経済的な民衆の貧困化が起こるのか、あるいは逆の過程となるかは、両者が同時並行して一体となって起こっていることだと状況を捉えても構わないわけだが、放っておけば自然にそうなってしまうことであれば、放ってはおけなくなれば、政治的にも経済的にもどうにかして問題を解決しようとする一方で、実際に政治的な独裁体制を維持している側では、それに対する解決策としての民主化を頑なに拒否する傾向にあるわけで、もちろん権力を手放せば立場が危うくなるから、権力を握っている側が自ら政治的な主導権を手放すはずがないが、政治的な権力の独占と経済的な富の独占が一体となって進められる傾向に歯止めをかけるにはどうすればいいかという問題に関して、有効な解決策があるわけではなく、放っておけば自然にそうなってしまうことであれば、政治的にそうなってしまう傾向に歯止めをかけなければならないと考えるなら、司法と立法と行政の三権分立が保てるような制度にしなければならないとすぐに思いつくところだろうが、どうやって三権分立を実現するかで、すでにそうはなっていない状態からどうすればそういう状態を実現することができるかに関して、少なくとも平和的に民主的な三権分立体制を実現することが困難となっている場合が多く、日本のように戦争を起こして敗戦をきっかけとして、一時的に三権分立体制が制度的に構築された例もあるが、それも放っておけば徐々に政府の官僚機構と政権政党などが癒着して、結局は三権癒着どころかそこに産業界やマスメディアなども癒着してきて、さらには最近では労働組合まで癒着した大政翼賛体制になりつつあるから、少なくとも自然な傾向としてはそうなる傾向の方が強いのかも知れないが、その一方でそれとは逆に考えて、政治的な独裁体制も民衆の貧困化も必要だからそうなる面もあると考えるなら、そうなる理由として国家としてのまとまりを保つには政治的な独裁体制が必要となる場合があり、例えば国家から分離独立を目指す勢力を力で抑え込むために軍事力や警察権力を強化することが必要となったり、また富国強兵を推進するにあたって、民衆を貧困状態にしておけば嫌でも働くようになるかも知れないが、それも度が過ぎると民衆の不満が爆発して、暴動などが起こって治安面で収拾がつかなくなるから、程々の状態を保つことが求められてくると、ちょうど良い加減というのがどの程度であればうまくいくかという話になってくるだろうが、現状でうまくいっているとすればそれがちょうど良い加減ということになるだろうし、もちろんうまくいっている面もあれば、そうはなっていない面もあるだろうから、うまくいっていない面では常に民衆の不満が鬱積していて、そういう面の割合が大きくなってくれば、それが政治的にも経済的にも治安などの面でも不安定要因となってくるだろうし、うまくいっていない面でいかにして民衆の不満を和らげたり散らしたりごまかしたり、場合によっては力で抑え込んだりしながら、政府による国家統治が行われることになるのだろうが、何かこうすればうまくいくという手法が確立されている面もあるだろうが、それが人道的にどうなのかというと、人権侵害のようなことが行われていれば、それがメディアなどを通じて明らかになれば国際的にも非難されるだろうし、そういう面では政府ができることにも制限が加えられつつあるのかも知れないし、実際に政府が無理なことをごり押しするようならすでに末期的な状況なのかも知れないが、それも状況がどこまで進展すれば国家的に破綻するのかが、個々の事例によって異なってくるだろうし、国家的に破綻してもなおも独裁的な強権体制が維持されている国もある一方で、破綻に至らないように定期的な政権交代が平和な状態で実現している国もあるだろうから、できれば全ての国で平和な状態で政権交代が実現してほしいのだろうが、それに関しても政府の官僚機構の内部で軍隊や警察などの武力で国内を治安を維持する傾向が強くなるほど強権的な傾向になるが、それも経済的にうまくいかなくなれば民衆の不満も鬱積してくるだろうし、そうした不満が爆発して暴動でも発生すれば警察や軍隊を使って力で抑え込むしかなくなるわけで、そういうことが頻発するような国では自然と強権的な独裁体制となってしまうから仕方がない面があるものの、それ以前に強権的な独裁体制であれば、政治的な自由を求めて民主化運動なども起こってくるから、それも独裁体制にとっては脅威となるから武力で抑え込まなくなるだろうから、どうやっても独裁体制を維持しようとする側ではそれ以外にはやりようがなくなってくるわけだが、独裁体制の中では国内の経済を一部の特権階級が独占的に支配している状態となってしまうから、そこからも民衆の不満が生じてくるし、そこでも富と権力の集中が国家統治の弊害として意識されるだろうが、もちろんそれを意識できるのは体制側に属していない側が意識できるのだろうが、逆に体制側に属しているなら富と権力の独占こそが国家統治には欠かせないと思うだろうし、実際に富と権力を独占しているからこそ国家統治をする側でいられるわけで、その富と権力を独占することによって可能となる国家統治というのが独裁体制なのだろうが、では独裁体制ではない統治がどのような形態になるかというと、三権分立的な民主体制になるわけだろうが、民主体制になると一部の特権階級が国内の政治や経済を独占していることが弊害となってきて、富も権力も平等に分配されるわけでもないとしても、少なくとも誰もが政治に参加できるような制度が構築されなければならないし、それが誰もが国会議員や大統領などに立候補できて、誰もが平等に一票を投じることができる選挙制度となる一方で、経済の面では誰もが必要最低限の暮らしができるような最低賃金の維持や生活保護などの制度が構築されることになるだろうが、それがこれまでに行われてきたことであり、そういうことが行われている前提の上に、さらに何を行う必要があるかとなると、現状でも様々な方面で様々なことが議論されているのだろうが、実際に日本の現状も含めて世界の各地で起こっていることがどうなのかというと、誰もがわかっている問題がそのままの形で解決できるわけではなく、解決するというよりは作用や影響を及ぼそうとしていて、例えば政府や企業などの強引で理不尽なやり方に対して抵抗したり、それを避けようとしたり逸らそうとしながらも、被害を最小限度にとどめようとしているのかも知れず、それが何かこれまでのやり方からずれるような傾向になってしまうから、結果的にやっていることが有効に働いていないのではないかと疑念を抱くかも知れないが、それがすでに行き詰まっているからそうせざるを得ないようなことになっていて、行き詰まりを打開するのではなく、打開しようとしてもできないから、何やらごまかしのようなまやかしのようなことをやって、何とか対処しているように装っているわけだろうが、そういうことしかできないからそうなってしまうわけで、そういうやり方を批判しようと思えばいくらでも批判できるから、批判に関する言説ならインフレ状態なのかも知れないが、その批判の対象となっている行為や言動自体も部分的には批判可能であるにしても、批判されたところでどうということはないようなことが行われていて、いくら批判されても構わないような水準で行われていることであり、結果的にはうまくいったりいかなかったりするとしても、うまくいったからどうだとかいかなかったからどうだということではなく、うまくいくようなことならそれを真似ればいいし、うまくいかないことなら真似る必要もないわけだが、もちろんそれを真似たからといってうまくいかない場合もあるだろうから、真似るかどうかは自己責任で真似るようなことになるわけだろうが、ただ偶然にそうなっているとは言えないから、何かしら理屈が必要になるとしても、その理屈が信用できたりできなかったりするとしても、実際に理屈通りのことができるかというとそうでもなく、やろうとしてもやれることが限られた中で確からしいことが行われている実態があるのは誰もが承知していることかも知れないが、そんな中でも絶えずそれに関する宣伝文句や煽り文句などによって視野や思考を遮られながら部分的な分野で有効なやり方を探るように仕向けられてしまうから、それが全体としてどうなっているかは、結局のところは誰にも知り得ないことなのかも知れない。


4月17日「自然体という罠」

 特に意表をつくわけでもなく、そうかといって強引に事を進めたり、ごり押しするようなことはせずに、何に対しても自然体で接しているように見えるなら、何かそれが肯定的な状態のような気がするだろうが、自然体という表現で言い表される物事が、それが肯定的に感じられるからそういう表現が使われるとしても、何かに魅入られるようにして自然にそうなっているように感じられるなら、魅入られていること自体が普通は悪い意味で魅入られていることになるだろうが、その何かというのが何にでも当てはまるわけでもないとしても、心を奪われている対象がたわいない物事だとは思えないはずだが、まるで何かに取り憑かれているようにしてやっていることが、結果的には何の成果も得られないなら、何でもないことをやっているような気がして、それが無駄で無意味なことのような気がするかも知れないし、それでも構わないとは思わないとしても、果たしてそれが自然体でやっていることなのかというと、魅入られていたり取り憑かれているという表現の対象が、自然にそうなっているようには見えなければ、それが自然体なのではなく、逆に不自然な印象を伴うからそういう表現が当てはまるように見えるのだろうが、ではそれを自然体と言い表すことが表現としては不適切なのかというと、ある意味ではそうなのであり、それとは別の意味では何かに魅入られていたり取り憑かれているように見えてしまうとすれば、それがその対象となる物事の二面性を捉えているのかも知れず、ある方向から見れば自然体のように見えるかも知れないが、別の方向から見れば何かに魅入られていたり取り憑かれているように見えるとすれば、自然体のように見える面では肯定的に見えて、魅入られていたり取り憑かれているように見える面では否定的に見えると解釈しても構わないかも知れないが、それが本当に自然体なのかというと、そう見えるように装われているからそう見えるのかも知れず、そう見えている面を強調しておかないと、それを肯定的に捉えられないわけで、逆に自然体であることを強調したいから、そういう表現を使ってそう見えるように装っているのであり、自然体という表現を使っていること自体が宣伝の類いであれば、それを真に受けると自然体のように見えて、そうは見えなければそれが宣伝の類いであることに薄々勘づいているかも知れないが、勘づいていること自体が誰もが勘づいてしまうことであり、しかも誰もが勘づいているとしても勘づいていないふりをするようなことになれば、それが何かややこしい状況となっているように見えてしまうかも知れず、例えば岸田首相が何事にも自然体で取り組んでいるように見えるなら、たぶん岸田首相自身も自分が自然体を装っていることを自覚しているわけでもないのかも知れず、またそう見えてしまう人も岸田政権を支持しているならそう見ようとしていることを自覚しているわけでもなく、誰もが自然体を装いながらも自分でそう装っていることを自覚しているわけでもないとすれば、果たしてそれが本当に自然体なのか、あるいは自然体を装っているに過ぎないのかは、そんなふうに自然体を装っている誰にとってもよくわからないことなのかも知れず、それが何かに取り憑かれたような心理状態だとしても、それに気づかなければどうということはないだろうし、自身が自然体という状態に魅入られていることも、それ自体が空気のような何も感じないようなことであるなら、そんなことにいちいち気づく必要はなく、もしかしたらそれが自然体そのものなのかも知れないが、それに対して中国の報道官などが、例えば安倍元首相が軍国主義の亡霊に取り憑かれているという趣旨の非難をすれば、毎度お馴染みのわかりやすいことを述べていると感じるだろうし、また誰かが大阪の維新が新自由主義に取り憑かれているという趣旨の非難をしても、それも毎度お馴染みのわかりやすいことを述べていると感じられて、軍国主義なら中国政府自身もミャンマー政府もエジプト政府も、現状で戦争中のロシア政府にも当てはまるだろうし、また新自由主義もフランスのマクロン大統領やイギリスのジョンソン首相やブラジルのボルソナロ大統領にも当てはまるだろうから、別にそれだけで非難が有効になるわけでもなく、個々の事例において軍国主義的な行動や言動が非難の対象となり、また新自由主義的な政策が非難の対象となるわけだが、それと比べて自然体でいることが非難の対象となるかというとなるはずがなく、岸田首相については国会で何を質問されも同じような気のない返答しか返ってこないというおざなりな答弁が非難されているはずだが、それが自然体であることから生じてくるかというと、そう感じるなら自然体とはそのようなものだと理解できそうな気もするかも知れないが、自然体であることにも様々な自然体があり、その場の環境によって自然体のあり方にも違いが出てくるなら、環境の変化に応じて自然体の状態も変わってくるかも知れず、ある環境下ではそれが自然体だとしても別の環境下では自然体ではないことになり、その場の環境に合わせた自然体というのも、各環境ごとにそれなりの偏差が出てくれば、いつまでも同じような態度や姿勢ではいられなくなってくるなら、環境に変化が生じていることになるだろうが、その場で自然体の対応を心がけている人が、果たして環境の変化に応じて態度や姿勢を変更できるかというと、変更できなければ環境の変化に対応できなくなって、そこから脱落するなり逃亡するなりするかも知れないが、逆に態度や姿勢を変更したくないなら環境に変化が生じないようにしたいだろうし、それが保守派の発想でもあるわけだが、もちろんそれが自分たちにとって有利な環境であれば変えたくないわけで、保守派であっても自分たちにとって不利な環境であれば変えようとするだろうし、絶えず自分たちにとって有利な環境に作り替えようするのは、保守派であろうとなかろうとやることは一緒かも知れないが、現状で主導権を握っているなら、その主導権を手放したくないから現状を維持しようとするだろうし、現状を維持しようとするから環境の変化に抗って無理なことをやろうとして失敗して自滅を招いてしまうこともあるだろうが、実際に自滅してみないことには、そこで環境の変化が起こっていたことがわからないし、実際に何らかの勢力が現状を維持しようとしてうまくいかずに自滅することが環境の変化そのものでもあるとすれば、そこでの成り行きの中では全ての変化が同時並行で起こっていると見るしかないだろうが、そんな認識を抱いている者ですらもそういった変化の成り行きに巻き込まれていれば、その場の変化に応じて態度変更や姿勢変更した末にそういった認識に至るのかも知れず、そんなふうに認識を変えなければならなくなった時点ではそれ以前の自然体を保っていられなくなり、だから新たに変化した環境に合わせて認識も新たにしなければならなくなって、そうやって絶えずその場の状況や環境下ではどのような態度や姿勢でいれば自然体となるのかを探っている状態なのかも知れないが、もちろんそれと同時並行してその場の状況や環境を自身に都合の良いように作り替える試みも進行中であるかも知れないし、その場の状況や環境に合うように自身の態度や姿勢を変更することとその場の状況や環境を自身の都合の良いように作り替えようとすることが同時並行して進行中であるなら、矛盾した二つの行為が同時並行して進行中であるように感じられるかも知れないが、それを矛盾と捉えるのではなく、折衷的な試みだと捉えるなら、それなりに妥協や譲歩を伴っているとも感じられるだろうし、そこで矛盾が顕在化しないようなごまかしやまやかしも織り込まれているとも言えるかも知れず、そういうことも同時並行して含まれてくると捉えるなら、結果的にそれを肯定したり否定する前に、あるいは称賛した賛美したり批判したり非難したりする前にも、それに関して何とでも言えるような様々な作用や影響が複雑に絡み合っていて、すでに一筋縄ではいかないようなややこしい事態になっていることは踏まえておかなければならないし、簡単に批判できるようなことでもないのも明らかになっているとしても、それを批判しなければならないように仕向けられているなら、それ相応に批判しなければならないのだろうが、少なくとも批判するように仕向けられているとなると、それに対して何やら逆らいたくなってくるわけだが、しかもまともに逆らうのもそう仕向けられているように感じられるなら、その種の批判するだのしないだの二項対立には加わりたくはなくなるわけだ。


4月16日「地獄のような未来」

 現状で取り立てて関心のある物事が見当たらないはずがないとしても、すぐには思い浮かばないなら世間的な方面では関心が薄いのかも知れないが、例えばメディアでいつも話題となるような日本の未来に関して関心が薄いとなると、それがどうでもいいことの部類に入ってくるわけではなくても、日本の未来がどうなっても世界的な水準からすればそれほど問題はないのかも知れないし、世界的には問題はなくても日本に住んでいる人にとってはどうでもよくはないだろうが、それよりも他に関心があれば、日本の未来よりはそちらの方により強く関心を抱いていることになり、それと比べれば日本の未来などそれほど関心がないのかも知れないし、日本の未来がどうなってもいいわけではなくても、それよりは他の関心のあることについて語りたくなるかも知れないが、では逆に日本の未来について語りたい人がいるとすれば、果たしてその人は日本の未来について関心があるのかというと、たぶん日本の未来について関心があるから日本の未来について語りたいと思っているはずで、関心もないのにわざわざ日本の未来について語りたい人がいるかというと、そんな人はまずいないと思っておいて構わないだろうが、それでもまれに日本の未来などには何の関心もないのに、さも関心があるように装いながら日本の未来について語っている人がいるかも知れないし、ではなぜその人が関心もないのに日本の未来について語りたがるのかといえば、日本の未来について語らざるを得ない立場というのがあれば、その立場になれば語らざるを得なくなるかも知れず、それが日本に関係する職種となると、すぐに思い浮かぶのが国会議員かも知れないが、国会議員になれば、あるいは国会議員選挙に立候補すれば、否が応でも日本の未来について語らざるを得なくなり、実際に選挙演説などでは立候補した誰もが日本の未来について語っているはずだが、その場ではそれを語るのが自然な成り行きのように感じられるだろうし、実際にそういう立場になった人が日本の未来について語っていても、誰もおかしいとは思わないだろうが、確かにそれについて語る立場の人が語るのが当然だと思われる一方で、語る立場にはない人が語るとおかしく感じられて、なぜ必要もないのにそれについて語っているのか不自然に感じられるような光景に出くわすことがあるかというと、あまりないのかも知れず、何かを語るにはその人の社会的な役割分担に応じて語るような成り行きになっていて、そんな役割分担に応じて語っている限りで不自然には感じられない一方で、中には身の程をわきまえずに語ろうとする不届き者がいて、そういう人は無視されるか、無視できなくなれば黙るように圧力をかけられるだろうが、どうしてそうなるのかというと、その人か語っていること自体が、あるいはその人の語っている内容が、世の中の秩序が乱す危険性を孕んでいるから、それを押しとどめようとする力が働くわけで、そういう意味ではその人が分不相応な立場から日本の未来について語っているように思われたり、語っていること自体に抵抗感を覚えたり、語っている内容が腹立たしく思われるようなら、語る立場でない者が語る内容としてはふわしくないことを語っていることになるかも知れず、果たして日本の未来について語ることがそういう事例に該当するかというと、そうは思わないなら、誰が語っても構わないような人畜無害な題材かも知れず、誰にとってもどうでもいいことだからこそ、誰もが気軽に日本の未来について語れるなら、誰が語ったところでどうということはなく、そんなのは聴き流していれば済んでしまうようなことである限りで、誰もが日本の未来について語れるかというと、内容によってはそうでもないかも知れないが、その内容が具体的にどんなことなのかといっても、語ってみないことにはわからないだろうが、語る立場に関しての分相応な役割分担を意識するなら、分不相応なことを語ってメディア的な権威から叩かれるような役割分担でさえも、そうなるのにふさわしい人がそういう役割を引き受けてほしいわけで、現状でそういう役割分担を担っている人が誰かというと、多くの人がその人物の姿を思い浮かべるかも知れないが、その人の周りでも何とかしてその人物がそういう役割分担を全うできるように盛り立てていて、まるで反体制の救世主のように宣伝している面もあるだろうが、現状でそういう事態になっていること自体が、果たして日本の未来を語る上で重要な判断材料を提供しているかといえば、宣伝している側にはそんな思惑があって、そう思わせたいのは山々だろうが、そうはならないのかも知れず、その人に日本の未来を決定する力があるわけではなく、そうかといって別の人に決定権があるわけでもなく、誰も日本の未来を都合の良い方向へと導けないのはわかりきったことかも知れないが、どちらかといえば誰にとっても都合の悪い方向へと持っていくような力が働いていて、それが日本の外部からもたらされる作用や影響となるだろうが、内部からも日本が日本でなくなるような作用や影響が生じてくるかも知れず、それが特定の人物の尽力によってそうなるというよりは、それによって特定の人物が動かされると解釈しておけばいいのかも知れず、それがどういうふうに動かされるのかというと、その人に課された役割分担を全うできないように動かされるのであり、役割分担そのものが変質を被るのだろうが、どのように変質を被るのかといえば、それが世界中で起こっていることであり、未来を変える役割分担を課したつもりが、そんな役割分担を裏切るようなことを行わせるわけで、確かにそれによって未来が変わったと思い込めるが、少なくともその人の都合のいいようには変わらず、逆に絶えず不都合な真実が明らかにされて、その人を窮地に陥れるのはわかりきったことかも知れないが、なぜそうなるのかといえば、その人の役割分担自体が元からそういう役割分担であって、民衆の期待を一身に背負えばそれを裏切るように動くことしかできなくなり、実際に裏切ってしまうからそれによって未来が変わるのであり、それが未来を変える役割分担であり、そういう役割を担わされていることを自覚できないようにされているから、それを自覚することなく期待通りに動いているつもりなのに、なぜか期待を裏切るような結果に直面してしまうわけだが、しかもそれによって未来が変わるわけだから、ある意味では期待通りの役割を全うしたことになるのだろうが、思い通りとはならないわけだから、当人としては不本意な結果がもたらされているわけで、それを肯定的に捉えるわけにはいかないだろうが、そうなるのが未来を変える役割を担わされた者が直面する不条理なのだから、結果的にはそれで構わないのかも知れないが、誰もそれで構わないとは思わないわけで、現実に誰にとっても不都合な未来となってしまったのだから、そう思うのは当然のことだが、未来を変えてくれることを願う人々の期待を裏切らないと未来を変えたことにはならず、いつの時代でもどこの世の中でも裏切り者の汚名を着せられた者が未来を変えることになり、そんな未来が悲惨な状態になるのもわかりきったことであり、それがここ数十年でも世界の各地で顕著になってきた傾向なのかも知れないが、もちろん数十年とは言わずに数百年や数千年のタイムスパンでも言えるようなことかも知れないし、人々の期待が地獄のような未来へと帰結するのはある意味で必然的な成り行きかも知れないが、果たして日本の未来がそうなるかというと、部分的にはそうなるかも知れないし、部分的にはそうはならずに、そうなっている部分を犠牲にすることで地獄のような未来を逃れられる人や地域も出てくるかも知れないが、それが日本ではない可能性もあるだろうし、日本が日本でなくなれば、地獄のような未来から逃れられるかも知れないとしたら、では日本でなければどこなのかといえば、実際にそうなってみないことはわからないだろうが、日本ではなくなってもなくならなくてもどちらでも構わないのかも知れず、それを日本と呼んでいる可能性もあるだろうし、現状で日本ではない地域が未来の日本になる可能性もあるかも知れないが、現状でも日本の中で地獄のような生活環境や職場環境が実現しているかも知れないし、そんな地獄のような生活環境が未来へ向かって広がる傾向があるとすれば、そうなるのを阻止するために人々の期待を一身に背負って、未来を変えるために救世主のような人物が登場したことになるだろうが、そこでも未来を変えるにはそうした期待を裏切ることが必要になるのかも知れない。


4月15日「因果関係」

 人の思考や行動に少なからず影響を及ぼすのが物事の因果的な連続性であり、本当にそこに因果関係があるのかというと、因果関係を想像してしまうから、その想像に基づいて思考したり行動して、思考したり行動してしまうこと自体が、思考する対象や行動に関わってくる人や物事との間に因果関係があるような気がするから、すでにそうなっている時点で意識が因果関係の虜となっているわけだが、物事の因果関係を探るということがそれについて考えることになるのだろうが、そういった素人探偵的な推理から何が導き出されるかというと、例えば日本経済が低迷している原因やら、プーチンが戦争を起こした理由やら、思い浮かぶ限りでメディア的な話題に意識を囚われているから、そんなことを考えてしまうのだが、その原因や理由がないとは思わないし、原因や理由があるからそれについて思考したり、それを求めて行動する動機となるはずだが、そんな思い込みが打ち砕かれる時があるかというと、考えても原因や理由がわからないことはあるだろうが、わからないからといって原因や理由がないわけではなく、考えてもわからず、探しても見つからないからといって、それがないとは思わないはずだが、それがないのではなく、あるのに答えを導き出せないと思いたいだろうが、なぜそう思うのかといえば、他人が提示する答えに納得できないからそう思うわけで、探せばいくらでも答えが見つかるとしても、そんな答えでは納得できなければ、それについて考えることになるだろうし、考えたところでわからなければ、答えなどないとは思わず、答えそのものが納得できないような答えしかなく、他人がそんな答えしか提示できないから、そもそも問い自体がおかしいのではないかとは思わないだろうが、それ以前に原因があって結果があるような因果関係があることを前提として物事を考えてしまうこと自体が、間違っているというよりは、その関係自体にも強弱の程度や結びつきの傾向に違いがあり、それを言語的にうまく表現できないから納得がいかないのかも知れず、そればかりに気を取られていても、関係自体も時の経過や場の状態によって次第に変化してくるから、それについて考えた時点や語った時点や書き記した時点では、何かはっきりとした因果関係を特定できたとしても、そこから時が経って関係自体がその時点とはそれなりに変わってしまえば、その時点で提示された答えでは納得がいかなくなるかも知れず、そうなる可能性を考慮するなら、探せばいくらでも見つかる答えというのが、そんな答えでは納得できない時点で古くなっていて、答え自体が賞味期限切れとなっている可能性もあるわけで、そうであるならいつまでも古い答えでは納得できないことについて不満を抱いていないで、自分で新しい答えを導き出したり探し出さなければならないということになりそうだが、そんなことを考えている時点でも、そうなった結果から原因を求めようとしていて、そこに因果関係があることを信じて疑わず、疑わないわけではなく、疑ってしまうから新たに信じられるような因果関係を構築しようとするわけで、それについての因果関係を構築することがそれについて思考することになるわけだが、果たして思考がそうした因果関係の構築から脱することができるかというと、かつては脱構築という手法が流行った時代もあったはずだが、それも今となっては賞味期限切れの古い答えに含まれてしまうのかも知れず、かつて流行ったそれが本当に脱構築なのかというと、まやかしのような感じもしないではないが、原因と結果の因果関係を構築しているうちに、すでにその構築物自体が崩れつつあるような状況を考えるなら、原因も結果も絶えず変化し続けていると同時にその関係も絶えず変化し続けていて、しかもそれが連続的な変化ではない場合もあるなら、突発的な変化であれば突然変異のようなことも起こるだろうし、さらには爆発のような変化もあるだろうから、変化の進み方が急激であったり緩慢であったりするだけでも、因果関係を構築した時点ではすでにその関係が壊れているようなら、関係を疑うこと自体が無意味であったりして、関係自体も外部からの介入によって変質してくるようなら、その介入自体が関係について語ることであったり、しかも的外れなことを語ることによってそれを真に受けた関係者の勘違いを誘発して、それによって因果関係が変質を被るようなら、関係を変質させた原因こそが、その因果関係について語ることであったりするかも知れず、構築の担い手から構築する行為を引き継ぐふりをしながら、構築そのものを変質させるような行為になるかも知れないし、それが批評と呼ばれる行為になるかならないかは何ともいえないが、批評であろうとなかろうと、物事の因果的な連続性を信じてしまうのは、それについて思考する上で欠かせないことだが、信じているからといって、いったん構築された因果関係を疑ってしまうのも、別にもっと確からしい因果関係があるのではないかと疑っているのだとすれば、因果関係があること自体は信じているが、それがその因果関係ではないということであり、因果関係があることを信じて疑わないという信仰が揺らいでいるわけでもないだろうが、そこから安易に静的な構築から動的な脱構築へという対照的な関係を導き出すも都合が良すぎるようにも思われて、それに関してはまやかしのようなごまかしのようなことを述べてしまうかも知れないが、物事の連続性があれば不連続性も非連続性もあるだろうから、関係があったりかなかったりするだけで、それらの性質が絶えず変化していると捉えておけばいいとしても、意識や思考には捉えきれない何かも関係しているかも知れず、そういうわけのわからない関係を想像してしまうこと自体がいい加減で根拠のない妄想に過ぎないかも知れないが、そこに構築された因果関係に納得できなければそう思ってしまうかも知れず、そこから現実にはあり得ないような関係を妄想できるということが、そこに妄想している者には気づかない何らかの作用や影響が及ぼされた結果としてあり得ない妄想を抱かせて、妄想している者と妄想を抱かせる対象と妄想するように促している物事との関係を浮かび上がらせるわけだが、それが何なのかといっても、そんなことまでは妄想している者にわかるようなことにはならないだろうし、妄想している者は妄想しているだけで手一杯になってしまうから、その妄想について思考する分析者も登場してくるのだろうが、妄想の分析者が構築する因果関係に妄想している者が納得するかというと、それに逆らうのはよくあるパターンかも知れないが、なぜ逆らうのかといえば、妄想している者には都合の悪い真実が提示されるからだろうが、なぜ都合が悪いのかといえば、それによって妄想している者が妄想を抱いていることが明らかになってしまうから都合が悪いわけで、妄想を抱いている者にとっては、それが妄想ではないことが明らかになってほしいのに、妄想の分析者がそれが妄想に過ぎないことを証明してしまうと都合が悪くなるのは当然のことだろうが、そこからなぜ妄想を抱くのかが明らかになるかというと、意外とそれがわからないのかも知れず、ただ何かの偶然が度重なって、その偶然の度重なりが必然に起こったように思われるから、そこから必然的な成り行きを妄想するということはあり得るだろうが、なぜそれが偶然であって必然でないのかがわからないわけで、互いに無関係な出来事が偶然に同時多発的に起こったとは考えられず、それに関して考えるなら必ずそれらの出来事を結びつけて考えざるを得ないだろうし、その人には未だ気づかない何らかの作用や影響が及ぼされて、その場で複数の出来事が同時多発的に起こったと考えると、それなりに辻褄が合って納得できるのだろうが、その何らかの作用や影響が何なのかが、その場で起こった出来事だけでは説明がつかないから、外部から何か都合の良い要素や要因を付け足さなければならなくなり、そういう付け足しを促すのが、それについて納得のいく説明を強いるような言語的な要請なのかも知れず、それを特定の誰が要請してくるわけでもなくても、それについての納得のいく説明文を構成するにはそうせざるを得ないわけで、ただ偶然にそうなっただけでは説明する必要がなくなってしまうし、偶然でなければ必然的にそうなることを説明しなければならなくなって、その結果として辻褄が合うようなことを語らなければならなくなってしまうわけだ。


4月14日「わかっていること」

 わかっていることがわかっていないことでもあるのは逆説でも皮肉でもなく、たぶん部分的にわかっているのであり、また部分的にはわかっていないことなのかも知れないが、それに関してどの程度わかっているかで、わかっていると思うかまだわかっていないと思うかの判断の分かれ目となってくるだろうが、思うか思わないかであれば、本当にわかっているかどうかは何とも言えないところで、そう思う人の主観でしかなく、客観的にも厳密にもわかっているかどうかは、思うか思わないかではなく、わかっていることを証明できるかどうかになってくるが、それが数学的な証明なのか科学的な証明なのか、他の何らかの学問分野に特有な証明なのかは、わかっていることの内容にもよるだろうが、それが証明できることなのかといっても、証明できたところで門外漢には認めてもらえないかも知れないし、わかっていることを広く世間が認めてくれるかはその場の状況にもよるだろうが、誰も認めてくれなくてもそう思っている当人はわかっていると思い込めるし、当人がわかっていると思い込んでもそんなのは他人の知ったことではないかも知れないし、本当はわかっていないのにわかっていると思い込んでいても、そう思い込んでいる当人以外にはあずかり知らないことかも知れないが、その人に何らの形で関わっている他人がいれば、その関わり具合によっては、その人がわかっていないと困ることも出てくるかも知れないし、人と人とが関わり合っている限りで、関わっている人との間で、共有できるような認識や価値観の一致が求められることもあるだろうが、それが必ずしも一致していなければすれ違いが生じて、互いに相手のことが信じられなくなって疑心暗鬼となってしまったり、片想いなどの一方的に相手に対して好意や嫉妬や嫌悪などの感情を抱くといういびつな人間関係となってしまい、相手が自分のことをわかってくれないと思うのも身勝手な思い込みに違いないが、わかってくれないからといって特に支障をきたさない関係もあるかも知れず、無関係であれば他人が自分のことをどう思っていようが知ったことではなく、どう思われようと無視していれば済んでしまうことかも知れないが、それでも他人からよく思われようと思えば善人のように振る舞うかも知れず、それが振る舞う以前に善人であれば、振る舞いも特にぎこちなさなどの不自然な印象は感じられないだろうが、その人が善人であるかどうかも、常識的な水準で誰もがそう思うような状態がありそうだが、人によって接し方に差があるようなら、その人に関わっている人の中で、ある人には善人に感じられても別の人にはそうは思われない場合も出てくるかも知れないし、また人によってはその人が善人であるかどうかもよくわからない場合もあるかも知れず、その人が善人であるか悪人であるか、どちらでもないか、どちらでもあるかといった判断基準をその人に当てはめる必要がなければ、ではその人のことをどう思っているのかといっても、何とも思っていなければ判断そのものが必要ないかも知れないが、なぜ人を善悪で判断する必要がないのかといえば、それ以外の判断を優先させる場合もあるだろうが、例えば人を判断するのではなく、その人のやったことを判断すればいいとなると、その人のやったことの良し悪しを判断するというよりは、それに反応して自分がどう動くかということになりそうだが、どう動いたところでその人とは無関係なところで動いていれば、その人のことを自分がどう思っていようと、思っている対象の人とは関わりのないところで勝手に動いていることになるだろうが、何かしら影響を受けながら動いていることになるかも知れず、その影響がどんな影響なのかは、動いている当人には知る由もないことだろうが、知る由もないことだからこそ勝手に動いているつもりになれるのかも知れないが、その影響という概念自体が曖昧な表現でもあり、直接の作用であればそれなりに関わりが明らかになっているから、それを直接の作用だと認識できるわけだろうが、それが影響となると直接の影響もあるにしても、誰かに影響を及ぼしたからといって、直接手を下すようなことではなく、間接的に仕向けるような成り行きになるから、影響を及ぼした側にはそれによって直接の責任が生じてこないのだろうが、影響を及ぼされた側が勝手に何らかの行為に及んでしまうから、その原因として他から何らかの影響を及ぼされて、そんな行為に及んでいるように思われるのであり、それが何らかの影響を及ぼしたと思われる側に原因があるように思われるとしても、そんな行為に及んだ責任はあくまでも直接の行為に及んでしまった側にあるだろうが、それでも何か影響を及ぼした側がそれをやるように仕向けているように思われる限りで、直接の行為に及んでしまった側だけに責任があるようは思われないわけで、それもそう思うかどうかということだから、本当のところはよくわからず、勝手にそう思っているだけであれば、勘違いの可能性も十分にあるわけだが、人があるいは集団や団体などが何らかの出来事を起こした結果から、何から影響を受けてそんなことをやったのかについて、その影響を推測するわけだから、過去の似たような事例を挙げれば何とでも言えるようなことになりがちになり、そういう意味で影響という表現を使って何かを語ると、いくらでも話を膨らませることができて、実際に過去の様々な物事や出来事や現象から影響を受けてそんなことが行われたという話に持って行ければ、それだけ話の内容が不確かになって、そんな話をいくらされてもそれがどうしたわけでもなくなってしまい、実際に影響とはそういうものなのかも知れず、他の何から影響を受けて何をやってみたところで、それはやった当人や当事者が勝手にやったことで、当人や当事者に影響を及ぼした過去の物事や出来事や現象などには何の責任もないし、それらのせいにはできないのはもちろんのこと、実際にそれをやってしまった当人や当事者がやったことについては責任を持つしかなく、そういう意味では過去の事情や経緯などに囚われて何やら他から非難されるようなことをやってしまっても、そんな事情や経緯に囚われた者が悪いということになるだろうが、否応なく囚われてしまうのだとすれば、当人には抗いようのないことかも知れず、実際にそうなってひどい目に遭ってしまえば、そんな運命や宿命を呪うしかないようなことになってしまうとしても、そんなふうに過去の亡霊に取り憑かれた者が悪事を働くのが歴史の必然のように思われるなら、そうした悪事が何か大規模な惨事を招いているようにも思われるからそんな妄想を抱くのかも知れず、それが妄想なのではなく、実際に国家規模での戦争ともなければ、戦争を仕掛けた国家的な指導者の類いに過去の亡霊に取り憑かれているような印象を持つのだろうが、それが過去から連綿と続いてきて現状でも支配的な力を持っているような制度や慣習の類いであれば、直接そこに作用していることになり、そうした国家的な制度や慣習を守るには戦争を起こさなければならないという妄想に取り憑かれているようにも見受けられるなら、実際にそんな妄想に取り憑かれているから戦争を起こしたと説明できそうだが、現実にはそうではないのかも知れず、それは過去からの影響というよりは、現状で生じている作用であり、現状で何が生じているのかといえば経済的な格差が生じていて、その格差を現状の世界的な経済活動の中では解消できないから、政治的な活動の延長として戦争を仕掛けたのであり、その口実としてなら過去からいくらでももっともらしい理由を引っ張り出してこれるだろうが、それがあくまでも口実である限りで、真の理由でも原因でもなく、戦争を起こすことによってしか打開できない状況があるように思われたから、実際に戦争を起こしたのだろうが、それがある意味では罠であって、逆に戦争を起こすことによってますます経済的には損失を被るような罠でもあり、実際に経済的な損失を被っていて、それでも戦争を継続できれば経済的にも政治的にも構わないような成り行きであり、それに関してはこれまでの事情や経緯をある程度リセットできればいいわけで、実際に人的にも物的にも計り知れない損害を出すことによって何かがリセットされて、その何かというのが過去からの影響なのかも知れないが、戦争の口実として過去から引っ張り出してきた事情や経緯を、実際に戦争を遂行することによって消費して消尽している最中なのであり、そうした消費されて消尽されるの中に人や物や人の記憶や物の記憶なども含まれているのかも知れない。


4月13日「賭けと努力」

 意識してそれを避けたのはわかりきったことだとしても、それが利益を得るのを避けたように見えるなら、実際に利益の獲得に失敗していて、もちろん思いがけずにそうなったわけではなく、事前にある程度はそうなることが予想できたのに、予想通りに利益を得られずにがっかりしているわけだが、そこに賭けの要素が入り込んでいると、賭けに負ける危険を回避したことにもなり、利益を得られるか損害を被るかの賭けに勝てば利益を得られて、賭けに負ければ損害を被ることになるなら、損害を被る危険を避けることを優先させれば、同時に利益を得る機会を逃したことになり、そこで賭けるのをためらってしまったから、利益を得られずに落胆すると同時に、賭けに出るという危険を冒すことも避けられたわけで、果たしてそれが賭けに負けたことを意味するのかというと、賭けに負けて損したわけでもないが、利益を得られなかったのだから、戦わずして負けたことになるだろうし、そう解釈できるから落胆してしまうわけだが、落胆するのと引き換えにして危険を回避したことにもなるから、そんな成り行きを肯定的に捉えるなら、痛み分け程度に思っておけばいいとしても、今後また同じような機会に出くわしたらどうするのかといえば、その時になってみないことにはわからないが、それが今回と同じような機会だと判断すれば同じような結果が出ることを予想して、今度は負ける危険を顧みずに賭けに出てしまうかも知れず、もちろんそれが賭けである限りで、同じような機会であっても同じような結果が出るとも限らず、結果的に賭けに負けて損害を被れば、前回と同じような機会だからといって勝ちを見込んで賭けに出たことが失敗の原因となって、過去の経験が仇となったことになるだろうが、それも一度や二度ではなく何度も同じような機会を経験すれば次第にコツを掴んで、結果的に勝つ確率が上がる可能性もあるわけで、そこまで至れば伸るか反るかや一か八かの賭けの要素よりは、経験に裏付けられた戦術の要素の割合の方が大きくなってきて、そう何度も危ない橋を渡っているわけではないと思い込めると共に、実際に勝率が上がってくれば確実に勝てる勝利の法則のようなやり方を確立した気になれるかも知れないが、そこまで至るにはまずは賭けに勝たなければならず、賭けを避けていては戦術を編み出すに至る経験も積み重ならないし、勝利の法則を確立できないわけで、そうやって結局は賭けに勝った者の中から確実に勝てるやり方を確立する者が出てきて、そういう者が出てくる成り行きの中でゲームに参加している者の間でも強いや弱いかの格差も生じてきて、確実に勝てるやり方を編み出した者が勝つ確率が高くなると共に、その一方で未だ勝つやり方を確立できていない者が勝てる確率が相対的に低くなり、実際にそうなっているにもかかわらずゲームの参加者が増えないとゲームを主催している団体も儲からない事情があるようなら、当然の成り行きとして参加すれば誰でも勝てるかのような宣伝を仕掛けるかも知れず、そうやって絶えず射倖心を煽りながらそんな宣伝に引っかかる浅はかな者を引き込もうとすれば、そんなカモネギのような者から利益を奪うためにギャンブルがあるのは百も承知だと誰もが思うかも知れないが、それがギャンブルだとは気づかない場合もあるだろうし、大抵の物事は労せずして利益にありつけるわけでもないのはわかりきったことだとしても、世の中で苦労すれば確実に利益を得られるシステムが確立しているように思い込むのも勘違いなのかも知れず、確実に利益にありつけるとしてもほんの少額で、それが確実であるほど小さな利益にしかならず、大金を稼ぐには必ず賭けの試練を通過しないと得られないと思うなら、虎穴に入らずんば虎子を得ずという諺を信じることになるだろうが、そうしたリスクを引き受けた者にだけ、しかもその中で賭けに勝った者だけに大金が転がり込んでくるのは、ある意味で当然の成り行きだが、そうした賭けが一度だけのことではなく、何度もその機会が巡ってくるような成り行きも期待してしまうが、一度賭けに勝ってしまうと勝った経験が糧となって、次からは勝ちやすくなるという成り行きもあるかも知れないし、それも射倖心を煽る宣伝文句に含まれるだろうが、そうした宣伝文句の一種として勝つための必勝法を伝授するというのもありそうで、もちろんギャンブルに必勝法があれば、誰もがそれを身につけようとするから必勝法ではなくなり、必勝法自体が自己矛盾となってしまうが、誰もが身につけようとしても身につけるのが難しい必勝法というのもあるかも知れず、修行や学習などの鍛錬や訓練を積めば身につくような成り行きになれば、結局は努力すれば確実に利益を得られるという毎度お馴染みの紋切り型になってしまい、そんな努力幻想が才能のあるなしに関係なく信じられるかというと、努力してもうまくいかないことの言い訳として、才能がなければいくら努力しても越えられない一線があるような思い込みにも結びつくかも知れず、そうなると生まれながらに持っている資質として才能が備わっていることの他にも、その上に努力することで身につく後天的な技量や知識や戦術などもあるし、さらにまたその場の状況や情勢に応じて時には賭けに出る勇気も必要となるかも知れないし、さらに加えて時の運不運も事の成否を左右するとなると、そんなことは誰もが承知していることになってしまうだろうが、実際にそういう成り行きが起こった後からそういうことを言われてみれば誰もが納得することだとしても、その場に実際に身を置いて当事者となってみれば、そんなことにまでは考えが及ばないかも知れず、しかもそんなことを事前に理解していても、実際にそこへ参入してやろうとすることをやってみないことには結果が伴ってこないだろうし、傍観者のように見ているだけで何もやろうとしなければ、何の利益も得られないと同時に大した損害も被らないだろうから、知識としてそういう成り行きを知っていても実感が伴ってこないわけで、そうなると当事者意識が希薄で他人事としか感じられず、そんな輩が観客席からああだこうだと利いたふうなことを言い放ってみても、誰がそれを真に受ける義理もないし、そんな言いたい人には勝手に言わせておけばいいとしても、勝手に言うだけ言っている限りで何のリスクも引き受けていないから、何の信用も共感も生じてこないが、ある意味ではそんなわかりきったこと以外に何が言えるわけでもないのかも知れず、言えるとすれば思い違いや勘違いや的外れな意見の類いとなってしまいそうだが、賭けとしては何かの偶然の巡り合わせに期待して、あえて場違いに思われるようなことを言い放って、それが結果的には的を射るような状況へと持っていきたいのかも知れず、それが奇をてらったあざといやり方になるにしても、言っていることがおもしろおかしければそれで構わないようなことになれば、そういう意味ではそこで行われていることとは無関係になってしまうだろうが、目的が他人の気を惹くことに特化しているならそんなことを仕掛けてくるかも知れず、それも他人の気を惹いてそこから利益を得られるやり方が確立されている限りで、そういうことがこれ見よがしに行われるのかも知れないが、そうやって気を惹くために誇張や強調などの言葉を盛ってその対象となる行為をねじ曲げるような戦略もあるとすれば、そこでわかりきったことが行われているだけでは誰も魅力を感じないから、あえて意図的にそういう人を惑わすような仕掛けを凝らすわけでもないだろうが、直情的で功利的な欲望だけでは幻想を抱けないなら、そこにプラスアルファのような付加価値を纏わせたいわけで、もちろんあからさまにそうは考えていないにしても、人を幻惑させるにはそうした意図がなくても自然にそうなるように持って行く意向が働いて、それが日本の場合だと未来的な印象を伴うカタカナ言葉で表現されるわけだが、そんな言葉を多用して何か利いたふうな意見や主張を述べている人には、人を惑わす意図も思惑も自覚していないだろうが、わかりきったことでは物足りないから何かそれとは一線を画したことを述べたくなるわけで、そこからその種の言葉を使うと何かこれまでにないことを述べているような気がするから、大した罪悪感も抱かずにそれらの新鮮な響きを伴っているように感じられるカタカナ言葉を使って、世界の最新事情のようなことを語りたがってしまうのだろうが、そんな言説の全てが思い違いや勘違いや的外れな代物であるはずもないだろうが、その一方で誰もが承知していることを何かこれまでとは違う言い方で違うことのように装っている可能性もあるわけだ。


4月12日「待ちの姿勢」

 なぜ自らの意志に反して行動するタイミングを意図的に外してしまうのかは、自分でもわからないところだが、意図が一つに定まっておらず、相反する複数の意図が心の中で混ざり合っているとしたら、なぜ自らの意志に反する意図を自らが抱いているのかもよくわからなくなってしまうが、矛盾しているのであり、何かはっきりとした意志があって、その意志に従って行動するわけでもなく、頭の中で矛盾するような複数の意思や意志や意図や思惑が渦巻いていて、その中のどれを優先すればいいのかわからず、絶えず迷っているのであり、それらの何を優先させてもうまくいかないような気もしていれば、何をやろうとしても躊躇するばかりで、結局何もやらずに無駄に時を過ごして後悔することにでもなれば、確かに自らの意志に反して、行動するタイミングを見失っていることになるだろうが、わざとそうしているようにも思われるから、失敗するのを恐れて尻込みしていることにもなり、臆病風に吹かれていると見なしても構わないが、それも意図的にそうなるように自らの状態を持って行っているのかも知れず、それがどこまで本気なのかもよくわからないが、それでも構わないような心理状態を受け入れているのかも知れないから、根本的なところでやる気がしないのであり、そうではないような気がしていても、何がそうではないのかというと、積極的に動く必要が感じられないということでもあり、それよりはただ待っていればいいとなれば、消極的な待ちの戦術なのかも知れず、何かを待っているつもりになりたいわけだが、何を待っているのかと問われても皆目見当がつかず、何を待っているのかが自分ではわからないのだが、何かを待っているような気がしているのであり、いくら待っても何もやってこなければ、待ちくたびれてどうなるわけでもないだろうが、いつの間にか待っていることを忘れてしまうのかも知れず、そうなることが肝心なところでもあり、待っていることを忘れてしまうから、その後に残るのは何もできないことから生じる焦燥感であり、焦りを覚えてその焦りを紛らわすためにも何かやらなければと思ってしまうと、焦燥感に駆られた不用意な行為や行動を起こしてしまい、それが予定調和の如くに失敗へと至って結果的には自業自得気味に自滅をもたらすわけだが、そうなるのが嫌なら素直に待っていればいいかというと、それよりはその場の状況に応じて積極的に動くことを促されてしまうから、結局は失敗するような成り行きになっているのかも知れないが、失敗したくて失敗するわけではなく、普通に考えて成功したいから行動して、結果として失敗するのだろうが、そうやって大勢の人々が失敗する中からわずかな成功者が出てくるのだとすれば、それも普通の成り行きだと思われるだろうし、結果から見ればそういうことだとしても、失敗してしまう大勢の人々からすれば納得がいかないだろうが、成功者が出てくるにはその生贄として大勢の失敗者を必要とするわけでもないとしても、実際に大勢の人々が失敗してしまう現実があるなら、そんな結果をもっともらしく解釈するならそういうことになってしまい、成功者の糧となるような大勢の失敗者が必要に思われてしまうわけだが、失敗するのが怖いから行動するのを躊躇っていれば、臆病者の汚名を着せられてしまうような気がするから、勇気を出して、それが破れかぶれの蛮勇になってしまうわけでもないだろうが、カッコつけとしては向こう見ずなことをやりたくなってしまい、その場の情勢がそんなことをやるように促しているような気がしてしまうと、誘い込まれるようにそうなってしまうのかも知れないが、それが勘違いのなせるわざであれば普通に失敗するだろうし、その場の情勢が失敗するように仕向けているとすれば、そこからわずかな成功者を出すにはそうならざるを得ないと解釈してみたところで、何かそれがとってつけたような予定調和の成り行きの展開だと思われて、そういうあらかじめ仕組まれているような成り行きに騙されてはいけないと思って、情勢に逆らいたくなってくるとしても、まるで何かに魅入られたように行動してしまうと、その場の成り行きに合わせて正しく行動したように感じられても、そんな成り行き自体が大多数の敗者とごく少数の勝者をもたらすような成り行きだとすれば、結局は正しく行動した大多数の敗者が生まれる一方で、その中からごくわずかな勝者が出てくるわけで、もちろんごくわずかな勝者も正しく行動したわけだろうが、正しく行動したからといって必ず勝者になれるわけでもないところが皮肉な印象をもたらすのであり、それがゲーム的な成り行きだと割り切れるかというと、少なくとも正しく行動したのに敗者となってしまった大多数の人々は納得できず、納得するには行動を間違えたから敗者になったと解釈するしかないから、そこから勘違いがもたらされるといっても、実際に敗者になってしまったのだから勘違いするしかないわけで、もちろん勝者も成功した者が正しく行動して失敗した者が行動を間違えたと思うだろうから、それがその場で成功しても失敗しても勘違いするしかない成り行きなのかも知れず、厳密には勝者も敗者もある程度の割合で正しかったり間違っていたりするのだろうが、結果的には勝者が正しく敗者が間違っていると単純化して解釈するならそう思っておいた方がすっきりするわけで、それが勘違いでしかないと言われても、勝者となれば勝てば官軍負ければ賊軍という諺的にも自らを正当化しておけばいいようなことでしかなく、そういうことがその場の本質などではなく、勝敗は一過性の結果でしかなく、勝った者がいい気になってぬか喜びすればそこから隙が生じて、その隙を突いて逆襲すればいいだけのことであり、もちろんそう都合よくそんな成り行きになることも、そうはならないこともあるから、そうなるのもその場の情勢次第なのかも知れず、そこに攻撃できる隙があるように見えてしまうと、魅入られたようにして攻撃を加えてしまうかも知れないし、それが罠ならわざと隙を作って相手の攻撃を誘ってカウンターを食らわせようとしていて、そういう駆け引きをやっているつもりになっているだけでも、その場の情勢に引き込まれている証拠であり、すでにそこで行われているゲームの類いに誘い込まれているのだろうが、それをゲームだとは思わなければそんな気にもならないだろうし、他の人々が大勢で何かに興じているのが気になって仕方がないようなら、自分が相手にされていないような気になって焦りを覚えている時点で誘いを受けているわけで、そんな誘いに応じようか応じずに我慢しようかと迷っている時点で、すでに待っていることを忘れているわけだが、自分が何を待っているのかを思い出せなければ、何を待っていたわけでもないのかも知れず、もうだいぶ前から何かを待っていたような気がしても、いつからそんな待ちの姿勢だったのかも思い出せず、ただ待っているような気がすること自体が思い違いなのかも知れないが、それでも気になって仕方がないようなら、たぶんそれが思い違いなのだとしても、待つに越したことはないのかも知れず、そうやって待ちの姿勢を保っていれば、いずれ向こうから何かの機会がやってきたことを実感できて、それに合わせて行動を起こせばうまくいくような気がするとすれば、そんなあやふやで根拠の定かでない妄想に取り憑かれていることが自らの精神にどのような影響をもたらしているとしても、その何かの機会がやってくるまでひたすら待ってみればいいとは思えないだろうが、実際に待っている気がしていれば本当に待っているのであり、待っている間に他のことができる機会をことごとく逃しているとしても、やはり何かがやってくるのを待っていて、それを待ち焦がれているのであり、何だかわからない何かがやってくるのを待ちながら、期待に胸躍らせているような気がして、そんな期待が裏切られるとは到底思えず、期待を抱き続けられる限りは裏切られることもないのだろうが、果たして死ぬまで期待を抱き続けられるかというと、大抵の人はあきらめてしまうのかも知れないが、あきらめてしまっても裏切られたとは思えないのかも知れないし、勝手に抱いていることだから、自己責任で勝手な期待を抱いている限りで、それが裏切られることのない期待であるかのように思われて、実際に特定の何に期待しているわけでもなければ、期待していることにもならないだろうが、そういうわけのわからない期待では物足りず、期待の対象を特定の人物に狙いを定めてしまうと、何かそれがまがいもののような気もしてくるわけで、それが何のまがいものなのかと言えば、何かしらイデア的な人物の理想像を心の中に設定しているのかも知れないが、それが勘違いのもととなるような期待の対象であれば、それなりにわかりやすい解釈を伴って、物事の単純化へと誘い込まれてしまうわけだ。


4月11日「国家と経済」

 単純に民衆を救うには国家的な主導権を握らなければならないと考えるのは、政治活動をしている者であれば当然のことのようにそう考えるだろうが、逆に国家的な主導権を握っている勢力が民衆を弾圧している実態もあるから、弾圧されている側も当然のことのようにそう考えるだろうし、何かそういう方面で間違った方向へと導かれているように思われるわけでもないが、それを国家的な幻想というと少し違うのかも知れないし、国家ではないとすれば何なのかというと、政治的な幻想には違いないが、そこに経済的な実態も絡んでくると、政治的な理想が歪んできて、そこから一見正しそうな政治的な主張も何かおかしいような気もしてくるから、疑念や懸念を抱かざるを得ないわけで、それに関して否定的な意味でわかりやすいのが国家主義や国粋主義と呼ばれる極右的な形態なのだろうが、それとは正反対とされる経済至上主義的な新自由主義などのグローバリズムも一見わかりやすいが、どちらもわざと対立的な意味合いを強調するから、双方が敵対しているうちはわかりやすいが、両者が相補的に連携し出すと、対立や敵対を煽っていた論調が梯子を外されて、うやむやのまま双方の間で妥協的な利害調整が行われると共に、互いに手を取り合って政府の官僚機構と共に政治的な独裁体制の中で協力し出すわけで、それがロシアや中国などの政治体制では顕在化しているわけだが、その一方でフランスの大統領選挙などでわかりやすく提示される、グローバル資本主義のマクロンと国家主義的で極右のルペンの対立軸となると、同じ国家主義でも左翼陣営が忘れられてしまうし、どちらにしても民衆が偽りの対立に騙されることになるかというと、全てが騙されているわけでもないのだが、それを国家と資本とネーション(ナショナリズム)の三位一体から説明できるかといっても、それらが強固に結びついているわけでもないにしても、それなりに妥協や譲歩を伴いながら絡み合っているから、それらの中から一つだけを主義主張として単体で分離するわけにもいかないだろうし、三つのうちのどれか一つに狙いを定めて批判を繰り返すような輩は、自らの内に欺瞞を抱え込むことになるとしても、自身の政治信条の都合に応じてどれか一つを批判する一方で他の二つを擁護するようなこともやるかも知れず、また一つだけ擁護しながら他の二つを批判する場合もあるだろうから、欺瞞を抱え込んでいることに気づかない場合もありそうだが、それらが対立しているように見せかけたり、逆に合体しているように見せかけたりするやり方から、何かもっともらしい政治的な主張が生じてくることは確かなのだが、結局は民衆の側に立って、ある時は国家権力を体現する政府を批判したり、またある時は資本を体現する大企業を批判したりするのだろうが、民衆の側に立つという態度がナショナリズムに直結してしまうと、国家権力に取り込まれて国粋主義思想のような昔ながらのわかりやすさに安堵するかも知れないが、だからといって常に抑圧されたり弾圧されている側に立つといっても、それでは単なる少数派になってしまうだけだろうし、国家的な主導権を握るようなこととは無関係になってしまうだろうが、そういう認識や態度や姿勢の何が間違っているのかといえば、原因と結果を取り違えているというと、それも物事の単純化に結びつくだけだが、結果的に多数派を味方に引き込めばいいということだとしても、それが多数派と一括りにまとめられるような集団ではないのかも知れないし、様々な少数派を味方につけても多数派にはならないのかも知れないが、その場の成り行き次第でその度ごとに多数派と呼ばれる集団が構成されてくるのだろうが、別にその多数派が何らかの思想や主義主張を支持しているわけでもないだろうし、それなりに日々の暮らしが成り立っていれば波風を立てないような政治勢力を支持するのだろうし、もちろん日々の暮らしが厳しくても貧しくなっても、それでも消極的な理由を言い訳のように見出しながら国家的な主導権を握っている政治勢力を支持するかも知れないが、では現状で主導権を握れていない勢力が主導権を握る機会が永遠にやってこないのかというとそうでもなく、その日がいつやってくるかは誰にも予測がつかないことかも知れないが、実際に政治活動の中でできることをやっていれば、いつか何かの機会に国家的な主導権を握る機会がやってくるかも知れないし、そうなったらなったで、現状で主導権を握っている勢力と比べても、大して代わり映えのしないことしかできないとしても、役割分担としてはそういうことであり、何か国家的な主導権を握ることに関してできもしない幻想を抱きたくなるのも、現状で主導権を握っていなければそうなるのも当然のことかも知れないが、幻想など抱かずにありのままの現実を見据えて現状を肯定しなければならないとは思われないだろうし、幻想を抱きながらも政治活動の中でできることをやっていくしかなく、実際にそんなことをやっているとしか見えないが、それを批判したくなるにしても、実際にやっているわけだから、やりたいことをやれる範囲内でやってもらうしかなく、逆に政権批判をしている人たちから批判されるようなことをやっていないと、これまでの経緯からすれば、政権批判派に与しているだけでは政権を握れない状態が続いているのだから、彼らから批判されるようなことをやっていることが見込みがある兆候なのかも知れないし、それが勘違いでしかないとしても、いくら批判されてもやれることをやっていられる現状からしか活路を見出せなければ、それをやり続けるしかないだろうし、しかも現状でやっていることがそのまま政権を握る機会をもたらすとは限らず、それとは全く関係のない方面からチャンスがやってくるかも知れないし、そういった何だかわけのわからない紆余曲折を体験するまでのつなぎとして、現状でやっていることがある可能性もあるから、それが仮病や囮として役立つわけでもないとしても、ちゃんとした物事の筋道ばかりを辿ろうとすると、不意にやってくるちょっとしたきっかけを活かせない危険を孕んでしまう可能性もあり、実際にそんなことまで考慮できないのが普通の成り行きなのだろうが、そういうどうでもいいように思われることは無視して、これまで通りのわかりやすさに依存して、国家と経済を体現する政府や大企業を民衆を苦しめる敵と見なして批判するのも普通の成り行きだろうが、それもやっていられるならやっていても構わないにしても、まさかそういう批判が枝葉末節なことだとは思えないだろうし、それが何かの本質を突いているように思われるから、そういう批判が的を射ているような気もするのかも知れないが、政治経済に関係する言説としては、直接大げさな方面へと向かうと、実質的には何もやれないのに、批判だけは大げさなことを主張できる一方で、何かそれでは現状と折り合いをつけられないような内容になってしまい、主義主張が現状に合っていないことが浮き彫りになって、そういう方面では正しいことを主張しているのに政治的には支持を得られずに少数派にとどまってしまうという悪循環を繰り返してきたように感じられるわけだが、だからといってそれをやり始めてしまうとやめられなくなり、やめられなくなるような成り行きに囚われて、どんどん少数派に追いやられていつの間にか消滅してしまうのかも知れず、そういう方面でやっていられることがそれである限りで未来のない活動になってしまうのだろうが、それでも構わないというとそういう勢力の支持者ではないことになってしまうが、別に滅びゆく政治勢力を支持していても構わないだろうし、それとの間で利害関係がなければ無責任な支持でしかないが、できることなら未来がありそうな政治勢力を支持したいのかも知れず、誰がそう思っているわけでもなく、誰がそれらの政治勢力の未来を決めるわけでもないにしても、少なくとも偶然に未来が決まるのではなく、絶えず未決定のままそれらの成り行きが偶然に進行していくのかも知れないが、その中でも政治活動としてやっている内容を積極的に支持しているわけでもなくても、政治勢力を支持していること自体が欺瞞をもたらしているとしても、欺瞞を覚えながらも平然としていられる限りで、未来のない政治勢力が国家的な主権を握っていられるわけで、だからといってそういう実態を批判する気にはなれないが、少なくとも未来への可能性を感じ取れる政治勢力を支持したいと本気で思っているわけでもないところが、何とも言いようのないわだかまりを覚えるわけだ。


4月10日「安全地帯の中で起こること」

 わけのわからない紆余曲折を経ながらも、かろうじてその場に踏みとどまっていることが、そう感じている自身が助かっていることを意味するとしても、そんな意味が生じていることが意味に合わせた思考や行動に結びつくには、意味を理解していなければならないと思いたいが、自身の置かれた状況や状態を表す意味に応じて思考や行動が伴ってくるなら、その場の状況や状態に自身が囚われていることも意味していて、その場の状況や状態と一体化して自らが動いていることが何を意味するのかといえば、その場から離れられないことを意味しているとすれば、果たしてそれで助かっていると言えるのかと疑問を抱くだろうが、助かるということがその場から逃げることだとすれば、その場にとどまっていること自体が助かってはいないことを意味するはずだが、もうすでに他から逃げてきて、その場が安全地帯であれば助かっていることになるとしても、なぜその場に踏みとどまっているのかといえば、その場でやることがあるからとどまっていて、少なくともまだやることがあると思いたいのだが、そのやることが戦うことであれば、戦いに伴って危険な目に遭うなら安全とは言えず、そうであるならその場が安全地帯などではないことが明らかになるわけだが、戦いの場に踏みとどまっていることが危険と隣り合わせであるとしても、そこから安全地帯に逃れていては何もやることがないなら、まだやることがあるわけだから安全地帯にいてはまずいのかも知れないし、果たして戦うことがその場でやらなければならないことなのかというと、それもよくわからないことかも知れないが、成り行き上その場に踏みとどまっているのだから、実際にその場で戦っているようなら、それがその場の状況や状態に応じた行為であり、何と戦っているのかは定かでないものの、正体不明の何かと戦っているような気がするなら、それが勘違いではないことを祈るばかりだが、戦っているつもりの相手が存在しているわけではなく、それが架空の存在でしかなければ独りよがりに過ぎないわけで、そうした独りよがりな妄想に囚われているのが自分であれば、その場の状況や状態が危険でも何でもなく、安全地帯の中で独りよがりな妄想に囚われているに過ぎないだろうが、他の誰からも相手にされていないからそんな妄想を抱くのであり、安全地帯こそがその中で惰眠を貪っている者にそんな妄想を抱かせるのだとすれば、安全地帯の中にいると心を病んでしまうのかも知れず、その場が安全地帯だと思い込んでいること自体が勘違いなのかも知れないが、何と戦っているわけでもないのに何かと戦っているかのように思わせる何かと戦っているつもりなら、その何かが何なのかというと、それが自分自身であり、他の誰からも相手にされないから自分自身と戦いながら自滅するような妄想に取り憑かれてしまい、それが安全地帯の中で起こっていることだとは思えなければ、実際にもその場が安全地帯であるわけがなく、危険地帯の中にいるのにそこが安全地帯だと勘違いしていて、そこで精神の危機にさらされていることになるかも知れないが、それ自体も勘違いの類いであるなら、実際には何でもないことであり、大げさにそれを精神の危機だなんて思わない方が身のためかも知れないが、何もできなければそう思うしかなく、何もできないから精神の危機が訪れるのであり、精神の危機自体が何でもないことなのかも知れず、何でもないことを精神の危機だと大げさに捉えて深刻ぶってしまうのだから、それこそが心の病の兆候を示していて、何でもないことに危険を感じてしまうことがそもそもの勘違いには違いないわけだが、それの何がおかしいのかといっても何もおかしいわけでもなく、何でもないのだからおかしくはないわけだが、それを退屈に心が蝕まれていると見なそうと、何もしなければ否応なく退屈になってしまうのだから、他に対処しようがないわけで、ちょっとしたことでも未曾有の危機だとか大げさに騒ぎ立てるようなことをしていないと気が済まなくなり、そう思う感覚の程度や加減が狂っているのだろうが、狂わないと気が済まないし騒ぎ立てないと気が治らないのだから、そうやって一通り混乱状態やら狂乱状態やら狂騒状態を経れば、気が落ち着くのかといえば、気が落ち着いたところで元が何でもないことなのだから、落ち着く必要もなく、落ち着かなければどうなるのかというと、そのまま混乱状態やら狂乱状態やら狂騒状態が断続的に続いて行くのかも知れず、それも程度や加減を間違えてそう思っている限りで実際には何でもなく、ただの空騒ぎに過ぎないとしても、それを深刻に感じていないと気が治らないのだから、たとえ実質的には何でもないことであっても、そこで何かを積極的にやっているような気になっている状態を保ちたいわけだが、そんな心理状態をどう形容してみても元から狂いが生じているのを修正しようがないわけで、気持ちを修正できないままそんな状態が慢性化してしまえば、それだけ心の病も重篤化したことになるのだろうが、何でもないのにこじらせてしまうところがわけがわからず、なぜそうなってしまうのか理由も原因も謎なのだろうが、それを後から考えればそれなりにもっともらしい理由も原因も見つかるのかも知れないが、見つかったところでもう手遅れであり、見つかった時にはそんなことはどうでもよくなってしまった後から、それなりに納得できる理由や原因が出てくるのだから、それが後出しジャンケンのように感じられるとしても、成り行きとしてはそうなるのが当然なのかも知れず、そんなことはどうでもよくなってしまったのだから、それ自体がそんな成り行きの中でうまく立ち回ってそこまで辿り着いた結果でもあり、その途中で経験するわけのわからない紆余曲折や、程度や加減を取り違えることで感じる混乱状態や狂乱状態や狂騒状態にしても、それらが一通り過ぎ去ってしまえば何でもないことになってしまうのだから、過ぎ去ってしまえば拍子抜けするしかなく、実際に拍子抜けしたように感じられることがそれらが織り込み済みとなった後でそう感じるのだから、それがそこに至るまでに様々な取り返しのつかないことをやってきた末にそうなってしまうと捉えるなら、何でもないことであるはずがないのだが、結果としては何でもないことであり、その途中で何でもないことであるはずがないことが度重なるように起こっては相殺されて、結果的には無に帰すわけだから、それらの出来事に関わってそれに対する思い入れも半端なく強烈に抱いていた人にとってはいたたまれないことかも知れないが、結果が残酷に示していることが全てではないにしても、それが受け入れ難い苦痛や後悔を伴うようなことかも知れず、それをどう受け取ってみても納得がいかないだろうが、納得できないからこそ安易な幻想を抱くわけにはいかず、それだけ現実を深刻に捉えていることになるにしても、その深刻さも勘違いで、何でもないことを深刻に捉えているとは思えないだろうし、確かに結果的には何でもないことであっても、そこに至る途中の段階では何か大変なことが起こっていたように思えた時期もあったのだから、それを忘れようとしても忘れられないし、それが苦く苦しい思い出となるかも知れないが、そんな思い出もそこで起こっていた様々な出来事や現象が相殺された後に残った残りかすでしかなければ、得られたわずかな感慨に比べて、費やされた労力が大き過ぎて割に合わないことを実感させられて、そこで燃焼反応のようにして失われた事物がいったいどこへ行ってしまったのかということについても、やはり納得がいかないだろうが、それに関しては消耗や消尽を考慮に入れていないからそう思われるわけで、なぜそれを考慮できないかというと、そこでも意識の中で力の程度や加減を取り違えて、自身の気づかないところで自らの力を過大評価していて、自分にとっては多大な労力を使ったつもりなのだろうが、それを大局的な見地から客観的に見るなら微々たる微力に過ぎないのかも知れず、関わっている物事に情熱を傾けて献身的に働いたつもりでいても、それが報われたかどうかは、結果が示す通りのことであり、結果に納得がいかないなら不満が残っているのだろうが、それはその人だけでなく、他の誰にとっても不満が残るような結果かも知れないが、それに関わっていた誰も得をしないようなことも起こり得るわけで、そうなると損得勘定が成り立たないわけだが、もちろんそれが誰かが得をすれば他の誰かが損をするようなゼロサムゲームというわけでもないから納得がいかないわけだが、それでも身の安全が確保されているなら、それがそこに関わっている大勢の人たちの身の安全を確保するために何かが費やされたと捉えておいても構わないが、そこで何をやっていたのかというと、結果的には何でもないことをやっていたのではなかったか。


4月9日「真実を語ること」

 どうしてもそうしたいという切実な理由があるわけでもなければ、わざわざ人を騙すようなことを言いたくなるわけでもないだろうが、それよりは自分に対しても他人に対しても誠実であろうとするなら、なるべくなら真実を語りたいのだろうが、ではどこの誰が真実を語るかとなると、そういう問いが唐突に問われるのも不自然だが、特定の誰に真実を語る資格があるとかないとか、そんなことを誰が知っているわけでもなく、誰もが真実を語りたいわけでもないというのも、返答としてはずれていて、ちょっと違うような気もするだろうが、何かを語らなければならないという成り行きにならないと、語る理由もなしにわざわざ語る必要もないかも知れないが、ではどこの誰が取り立てて真実を語る必要もなければ、無理に語らなくても構わないのかというと、何の抑圧もなく他から邪魔もされなければ、真実を語るには特に勇気が要るとも思えないが、必要もないのにあえて皮肉を述べるなら、真実を語れば無視されて、嘘を語れば世間から注目されて、たわいない夢を語れば大勢の人から喜ばれるとも限らないだろうが、そんな状況から言えることは、この世に救いがないということが真実なのかというと、部分的にはそれも真実でもあり、またそれとは別の方面から言えることは、部分的には真実ではないかも知れないが、どちらでもあって、どちらでもないのなら、それが真実とは言えないのかというと、それも部分的にはそうかも知れないが、またその一方で部分的にはそうではないのかも知れず、では部分的ではなく全体ではどうなのかというと、誰も全体を把握することができないから、部分的にしか語れないのかというと、フィクションの中では全体を把握できるかも知れないが、現実の世界では全体を把握できないというわけでもないが、それを全体と見なすと、何かと不都合な面が出てくるとも限らないが、語ろうとする対象が部分であるか全体であるかを問われなければ、特に真実を語ることに関しては問題がないのかというと、問題などありはしないし、何が問題であるわけもないのだろうが、それが何であるかが、その何かが何かの部分でしかなければ、少なくとも全体を語ったことにはならないだろうが、それが部分であったり全体であったりするのかというと、それがよくわからないなら全体と部分を区別できないかも知れないが、それもまた真実ではないのかも知れないが、それに関して完全なことは言えないということであり、何を語ろうとしても不完全にしか語れないから、それが完全に真実というわけではなく、部分的には真実かも知れないが、部分的に真実であることが、全体的には真実ではないのかも知れず、部分的に真実でなければ真実とは言えないのかというと、それも部分的には真実であるかも知れないということであり、そう語ることが真実を語っていることになるかというと、それも怪しいかも知れないが、それでも善意で真実を語ろうとすれば、完全でも全てでもないかも知れないが、部分的には不完全ではあるものの、その全てが真実であるとは断言できないものの、何かしらそこには真実が含まれている可能性があるわけで、それが真実を語ることだと認めるならそれでも構わないだろうが、具体的にその真実が何なのかというと、それが示されないことには真実が何なのかがわからないわけだが、いったい何を語っているのかというと、どこで誰がどんな真実を語っているのかといえば、今ここで真実を語っていると主張したいのではなく、むしろ嘘を語っていても構わないのであれば、嘘の中に何かしら真実が含まれている可能性があり、そうであれば嘘と真実が対立することもないのだろうが、真実を語るには嘘が必要なのかというと、必ずしも必要であるわけでもないが、部分的には嘘の中に真実が含まれていて、それが真実を覆い隠すような嘘かも知れないし、あえて嘘を語りながらもそれが真実であるように感じさせるために嘘をついているのかも知れず、その嘘が嘘をついている人にとっての都合の良い真実であれば、それがフィクションとしての真実であり、その人にとって都合の良い真実を示すにはフィクションが必要となってくるわけだが、果たして真実が嘘を語る人にとって都合が良いのかというと、要するに都合の良い真実こそが嘘だと見なすならその通りであり、それがフィクションとしての真実であるから、その人の都合の良さを反映した嘘になるわけだが、そうなるとフィクションと真実と嘘が強く結びついているほど、その人の都合も最大限に良くなると解釈できるかも知れず、それがフィクションの真実であり、少なくともそれは現実の世界での真実ではないのかも知れないし、なぜかといえば、現実の世界での真実とは、その真実に関わっている人にとっては不都合な真実であり、できることなら隠しておきたい真実でもあるわけで、不都合な真実を暴露されると困るから、そういう不都合な真実を隠そうとするから嘘をついて、その嘘をつく行為がフィクションとしての真実を提示する行為となるわけだが、そういう意味では真実を語ることは、不都合な真実を隠すために嘘をつくことになり、それが真実を語る行為であるなら、真実を語ることが真実を語る行為そのものを裏切っていて、実際には真実を語らずに嘘をついていることになり、しかもそうやって嘘をつくことが、フィクションとしての真実を語っていることになるわけだから、確かに嘘をついているとしてもそこにはフィクションとしての真実が含まれていて、嘘には真実が含まれていることになるわけだが、そういう意味で語っている人にとって都合の良い真実を語っている限りで、その人は嘘をついていることになり、しかもフィクションを語ることによって、その人にとっては都合の悪い不都合な真実を隠していることにもなり、そういう成り行きを信じるなら、その人にとって都合の良いことを語っている内容に真実が含まれているなら、それがフィクションとしての真実であれば、嘘をついていることになり、不都合な真実を隠すために嘘をついていて、不都合な真実を語ることができないからその代わりに嘘をついているのであり、嘘の内容がその人の都合を反映したフィクションでもあるから、フィクションの中にその人の願望を実現する虚構の真実が含まれていて、そうなると真実を語っている人こそが嘘をついていることになるわけだが、それがその人の都合が反映した願望を語っていることになると、未だその願望が実現していないから、その真実がフィクションとして構成されていて、それが現実の世界の中にはないわけだが、真実が現実の世界にないとなると、そんな真実はあり得ないはずだが、その人が語る都合の良いフィクションの中にはあり、それが不都合な真実を隠すために語られているなら、その人が隠したい不都合な真実が現実の世界にあるということになるだろうが、真実を語っている人がそれを認められないとなると、真実を語るという行為が不都合な真実を隠蔽する行為でもあり、そうであるなら真実を語るという行為自体がフィクションだと思っておいても構わないが、その人にとっての都合の良いフィクションとしての真実を語っている人にはそれが理解できないとしても、それでも真実を語っていることになるわけで、もちろんフィクションではなく現実の世界にある真実を語っている人もいるだろうが、それも部分的に真実を語っていて、自身が語るに際して都合の良い真実なら語れるが、不都合な真実は語れないし、不都合な真実を語れない限りで、真実の全てを語ることはできないわけだが、ではその人が語ることができる部分的な真実が本当の真実なのかといえば、その全てを語れなければ完全な真実とは言えないだろうし、要するにその人が語ることができる部分的な真実は不完全な真実だと言えるわけだが、不完全な真実が真実ではないとは言えないし、そこには不完全ではあるにしても、ある程度の割合で真実が含まれているというなら、それは嘘をついている人が語るフィクションとしての真実にも言えることかも知れず、フィクションの中で語られる真実にも不完全ではあるが、ある程度の割合で真実が含まれていて、そうした内容を語っている限りで一応はその人も真実を語っていることになり、そういう意味では嘘をついている人もある程度の割合で真実を語っているわけだが、その真実を語っている部分というのが、現実の世界にある真実を部分的に語っている人と同じように、語っている人にとっての都合の良い真実を語っている部分になるわけだ。


4月8日「勘の正しさ」

 自分で自分の行為や行動が理解できない時には、たぶん何かしら勘が働いているから、その時点ではわけのわからない行為や行動に及んでしまうのだろうが、果たしてその勘が合っているのか違っているのかはその時点ではよくわからないが、それが事前には想定していなかった思いがけないことであれば、納得し難いとしても、現実にそうなってしまったのだから受け入れるしかなく、そこで強情を張って受け入れずにいると、精神的にも実際の活動においてもこじれてきて、そういうところから心身のバランスが崩れてくるのかも知れず、何かにのめり込むとか没頭するとか、そうなると我を忘れていることになるのだろうが、そこから急に魔が差して、魔が差したからといって何か悪事を働くとかいうことではなく、気がついたらのめり込んでいることや没頭していることをやめて、そこから遠ざかっているわけでもないのだが、その途中でちゃんと自分の意思でやめようと思ってやめたことを自覚しているのだが、そこでそのままやり続けた場合とやめた場合とでどうなるかに関して損得勘定した結果として、やめた方が身のためだと判断したからやめてしまったのだろうが、そうなった後から冷静になって振り返ってみると、もっともらしくそう言えるものの、その場での判断となると、そんなことを考えている暇があるとは思えないわけで、何かとっさの判断でひらめくことがあり、なる時には急転直下のようにしてそうなってしまうわけだから、その時点ではわけがわからず、なぜ自分がそんな判断をしているのか理解できないわけではないが、その場の状況から何かを感じ取って、それがその場の空気とか雰囲気といえばそんな感じがしないでもないが、そうだとはっきりと断言できるわけでもなく、それを空気だとか雰囲気だとか表現することで、そこに働いている作用や影響を感じ取っているつもりなのかも知れないが、実際には目には見えないし感触も定かではなく、それとは違って何か物理的な力が加われば嫌でもわかるだろうが、加わってからではなく、加わる前に感じ取ろうとするわけだから、予知能力のような何かを感じ取れる気がして、それに関しては事前に嫌な予感がするからそこで心身が動くわけで、その動きが果たしてそこで動いてよかったのか、あるいはもうちょっと待ってから動いた方がよかったのかは、動いた結果から良し悪しを判断するしかなく、その時点ではわからないから、動くか動かないかは、ある種の賭けのような感触なのかも知れないが、それでも事前に嫌な感じがしたから動いたわけで、それが結果的に予感が的中して、自らの勘の正しさを実感できれば勘に対する信頼度も高まるわけだが、そういつでも嫌な予感が的中することもなさそうに思われるにしても、実際に嫌な感じがする時には、その場の状況からそういう空気や雰囲気を感じているから、それが嫌な感じを覚えさせるわけで、何もない時にはそうは感じないだろうし、すでに何かしら起こっていて、その起こったことへの反応として嫌な感じがするわけだから、それが自らにとっては否定的な感触なのだろうし、そうであればさらにそこから嫌なことを起こるのを予想できて、それが起こる前にやめなければならないことがあればやめようと思って、実際にやめるわけで、そんなふうに後からその場の成り行きを説明できる頃には、すでに結果が出ていて、その場の状況や成り行きへの反応として自ら判断して行なったことの良し悪しもわかっていて、それがそんな結果が出た時点での自分の状態や身の回りの状況なのだろうが、それを後からいくら詳しく説明してみたところで、実際にそうなってしまった成り行きや結果を動かしようがないのはわかりきったことだが、それでもそうなってしまったことに関して納得がいかないのかも知れず、うまくいけばいつまでもそんなことにはこだわらないのだろうが、うまくいったようには思えないから、うまくいかなかった原因を探ろうとするわけで、もちろんいつまでも原因の追求に没頭できるわけでもなく、その暇がある限りでそんなことにこだわっているわけだが、それが自らにとって重要なイベントだと思うなら、それへのこだわりも相対的に強くなって、それがうまくいかなかったと思われるような結果であれば、後悔となっていつまでも尾を引いてしまうかも知れないが、それほど重要視していないようなことならさっさと忘れてしまうのかも知れず、そうなれば後腐れなくすっきりするとしても、そうなるように事を進められるかというとそうもいかず、自分ではどうにもならないややこしい事情や経緯があるとそうはいかないわけで、そういう事情や経緯ときっぱりと縁を切れるわけでもないから、そこから何かしら自らの置かれた立場や状態や状況として前提条件が形作られて、そんな前提条件を満たす範囲内で行動や活動を続けていくしかないわけだが、それに関しては勘もそういった事情や経緯をあらかじめ察知しているのかも知れず、そうであればそういう事情や経緯を織り込みながら勘が働くのかも知れないが、勘に頼って心身が動けば、それなりにそれまでの行動との整合性や連続性が確保されて、動き自体には納得がいくかも知れないし、通常の自分ならこう動くと予想できる範囲内で動作すると思われるが、それを裏切るような形で思いがけないことをやってしまうと、一瞬わけがわからなくなるのも頷けるが、そうなると自意識が把握していないことを自らの勘が察知して働いたことになるかというと、何とも言えないところであり、そうとも思われるし、場合によってはそうは思わないかも知れないが、何かしら意識が感知していないところで勘が働く場合も想像はできるだろうが、実際にそうなったことに気づかなければ、特にわけがわからなくなるはずもないが、そうなった時に自らの勘を信じられるかというと、信じるか信じないかを判断する以前に心身が動いてしまえば、信じる間もなく動作すると解釈するしかないが、それを条件反射の類いだと単純に理解しても構わないだろうが、どんな条件で反射が起こるのかといっても、何の前触れもないわけでもないが、突然そうなってしまうわけだから、いつも同じ条件下で起こる動作とも限らず、自身に向かって及ぼされる様々な作用や影響などが複雑に絡み合って入り組んでいる中で、何かのきっかけから勘のスイッチが入って、唐突に心身が作動するのかも知れないし、それがいつどんな時に作動するかが事前にわかるわけでもないだろうし、作動するパターンを事前に把握できれば、思うように勘を働かせることができるかも知れないが、自らの勘を自在に操れるようなら、それこそ達人の域に達している証拠かも知れないが、そう都合よくそうなれるわけでもないのは経験上わかっていることであり、それに関して勘を自在に操れるようになる修行法が確立されていれば、どこかの道場でそんな修行が行われているのかも知れないが、その場その時の自身の心身の状態と自らの内外の状況や情勢に応じて勘が働くのだとすれば、道場などの人工的な空間の中で修行したところで、実践面では効果が薄れてしまうかも知れないし、人工的に整備された空間の中で働く勘と野生の勘では勘の種類も違ってくれば、練習や訓練など無意味で、ただ場数を踏んで実践の中で自らの勘を養うしかないのかも知れないが、その実践が他人との競争であるなら、そこには勝ち負けが伴ってくるし、競争の程度や傾向によっては、大多数が負けてごく少数しか勝てない競争もあるだろうから、そういう競争に巻き込まれてしまえば、ほとんど負けることを前提で競争に臨まなければならず、それも事前にはよくわかっていない場合があり、例えば誰でも勝てるような甘い勧誘を真に受けて競争に引き込まれた末に、身ぐるみ剥がされるようなひどい目に遭うかも知れず、そういうところでも甘い勧誘を受けた時点で嫌な予感がするかも知れないし、過去にその種の勧誘に応じて痛い目に遭っていれば、今度は勘が働いて難を逃れられる可能性も高いだろうが、過去の経験がそれほど痛い目だとは感じられないようなことであれば、しかも少しはうまく立ち回ったような気するほどの中途半端な額の利益が得られていれば、さらなる利益を求めて深みにはまってしまうのかも知れず、そうなると初めはビギナーズラックといえるような少額の利益を得られること自体が甘い勧誘そのものであり、少しの利益に味をしめて深入りしてしまうと、それこそ身ぐるみ剥がされるような多額の損失を被る仕掛けとなっている可能性も高いわけだ。


4月7日「説明するのを躊躇する理由」

 理由はよくわからないが、やろうとしたことを自分で制止してしまうと、なぜやめたのかその理由が単純なら納得するだろうが、そこに外部から様々な事情や経緯が絡んでくるように思われると、自分の意志で制止したというよりは、それらの事情や経緯によって制止させられたと思うしかないが、制止するという行為が自分で自分を止めるのではなく相手の動作を止めようとすることだから、自分で自分の行為を制止するとはならないはずだが、それでも自分で意志や思惑を抱きながらやろうとしたことが、それができないはずがないのにどうしてもできないとなると、なぜそれができないのか、わけがわからなくなるが、実際にできなかったのだから、それが現実だと受け止めておくしかないが、そこから何か自分に予知能力があって、そこでそれをやってしまうと後々まずいことになるから、今はやめておいた方がいいと自分の守護神か何かが判断していると解釈するなら、何やらオカルトめいた妄想を抱いていることになるだろうが、自身の外部からも内部からも様々な事情や経緯が入り組んで様々な作用や影響が及んでくる状況を単純化して、妄想の中で言語的にまとめればそういう表現でも構わないのかも知れず、そういう認識が正しいか間違っているかということではなく、その後から新たに様々な出来事が起こってくる中で、またそれとは違った解釈も可能となるかも知れず、それが現時点で信じられる認識や解釈でなくても構わないわけで、そういう意味では自らの守護霊が自分がやろうとしていたことをその寸前で押し止めたと解釈しておいても構わないが、そうであるなら今後適切な時期を見計って、守護霊の類いがそれをやるように促してくれるかというと、それも今のところはよくわからないわけで、もしかしたら今後の状況次第ではそんなことはどうでもよくなってしまうのかも知れないし、もはややる必要すらなくなってしまえば、確かにそうなればそこでやろうとするのをやる寸前で押し止めたことが正解だったことになるだろうが、そんなふうに連続して様々な出来事が辻褄が合うように結びつくかというと、それもそうでもないのかも知れず、確かにその中のいくつかは強引に結びつけようと思えば連続して起こった出来事だと解釈できるかも知れないが、別のいくつかは全く無関係でバラバラに起こっている出来事だと思われるかも知れないし、それがそう思えるか思えないかではなく、出来事と出来事が直接つながっていれば、否応なくそう思わざるを得ないにしても、それも直接には何のつながりもないような出来事が後から思えばつながっているように思われてくるからややこしくなり、それに伴って幻想や妄想が生じてきて、それが高じると守護霊や神の存在を前提としないと説明がつかないような妄想を抱いてしまうわけで、自身で勝手にそう思い込むぐらいならそれでも構わないのだろうが、それでは通用しないような世の中の現実もあるだろうし、そういう水準や次元で守護霊や神の存在を持ち出すと妄想に取り憑かれた人に分類されてしまうわけだが、そんな妄想によって自らの周囲で起こっていることが結びつくわけだから、それをフィクションの中での結びつきだと考えるなら実際に漫画や映画の中で起こっている出来事なのかも知れないが、結局はそうやって空想の中で様々な出来事の結びつきを考えているのだから、それが自身の経験から構成されるフィクションになるのも当然のことかも知れないが、その中でもどう考えても連続的なつながりを想像できない出来事に謎が含まれていて、なぜそんなことが起きるのか説明がつかなければ偶然の出来事だと見なすしかなく、偶然に起こったと片付けられるならそれで問題がないわけだが、それでは納得できなければ何かしら必然的に起こった理由を探すか導き出さなければならず、それが説明の中で辻褄の合うことなら納得するかも知れないが、少なくとも現代では神の仕業では納得できない水準や次元があり、それが直接的な作用や間接的な影響などの因果関係を伴った自然科学的あるいは産業技術的さらには政治経済学的な説明になるかも知れないが、その出来事に関係する人物や集団などの意図や意向や思惑などをその場の状況証拠を挙げながらいくら類推してみても、言葉で説明する限りで想像から生じるフィクションの要素を取り除くわけにはいかず、それを信じられる人が納得するだろうし、それに納得しようがしまいが、そういった憶測がメディア上で語られると、それに関連する他の様々な憶測も結びついてきて、そんな結びつきが多くの人が信じやすい言説の内容となってまとめられると、何やらそれが真実であるような気がしてくるわけだが、その一方で信じられないような妄想を語る人の存在は無視されて、現状に照らし合わせて多くの人々にとって信じやすく実際に信じられている言説から多数意見が生じるだろうが、そんな成り行きとは関係なく事態が進行するかも知れないし、実際に今も何らかの事態が進行中なのだろうが、それがメディア上で語られていることとは無関係なのかというと、そうでもないと思いたいだろうが、そう思いたい人がいるかいないかも誰の知ったことでもないが、実際に進行中の事態や成り行きの一部がメディア上で取り上げられて、それが誇張されたり強調されながら伝えられている一方で、誰も取り上げないような物事の成り行きもいくらでもあるだろうから、それに関して言説が生じることもないだろうし、言葉では説明されない成り行きも言葉で説明される成り行きと同時並行して進行中だと思っておけばいいのだとしても、誰もそんなことは思っていないわけで、それに関して何か思うのは言葉で説明される成り行きに限られるわけでもないが、実際に言葉で説明される成り行きからだけでは説明しきれないようなわけのわからない成り行きに直面していることに誰も気づけないのかも知れず、気づく必要もないのかも知れないが、それをおかしな事態や成り行きだと思わなければ実際に気づかないわけだが、そこでは気づかないから別の何かの機会に何かのきっかけから偶然の巡り合わせのようにしてそれに気づいたところで驚くわけで、それに驚いたところで驚く以外で何がどうしたわけでもなくても、それに驚いたという事実が、その驚きによってそれ以前に様々な憶測から構成されたもっともらしいフィクションを信じられなくさせて、誰もが信じていたらしいメディア的なフィクションの嘘っぽさを明らかにするのかも知れないが、もちろんそんな驚きに遭遇しなければいつまでもメディア的なフィクションを信じていて、それを信じている人が多ければ多いほど、言説が物語る必然的な成り行きでそうなったようにも思われてくるのかも知れないが、そういう内容を声高に主張するのが誰もが信じやすいフィクションに依存しながら権力を行使しようとする人や団体でもあると、その権力の行使が何なのかといえば、事実の抑圧になるだろうし、言論統制のようなことをやるわけだが、実際にそういうことをやるのが独裁体制下の政府であって、それ以外の国に暮らしている人がそういうことをやっているのをメディアから知ればわかりやすい成り行きになるだろうが、特に独裁体制下でなくても日常茶飯事のようにして軽い程度ならいくらでも行われていることかも知れないし、何とかして不都合な事実が伝わらないようにしたいと思っているわけでもなくても、誰かが何かを強弁する機会に遭遇すれば、その強弁する内容にとって不都合な事実から目を背けさせるために強弁しているとは思わないだろうが、そういう意味で語気を強めて必死になって何かを訴えかけている人がいれば、その主張内容にとって都合の悪いことがあるから、それを打ち消すために、あるいはそれに気づかせないようにするために語気を強めて何かを強調していると受け取っておけばいいわけでもないだろうが、それが何なのかといっても強弁している当人にもそれに気づいていない場合があるから、善意でそういうことをやっている人には気の毒だが、何かのきっかけから偶然にそれが明らかになってしまうと、強弁している内容がフィクションであることがバレて、しかもバレてもなお強弁し続けなければならないような成り行きになってくるといたたまれなくなってしまうが、そんな成り行き自体もフィクションである可能性もあり、実際に起こったことから信用できるような憶測がフィクションとして構成されてしまうと、そのどこからどこまでが事実でどこからが虚構の妄想が混ざってくるのかが判別不可能となって、結局それら全体を信じてしまうと何か的外れな認識に至ってしまうとしても、部分的な事実から部分的な認識に至るようなら、それなりに事実を正確に捉えていることになるのかも知れない。


4月6日「知ることと知ろうとすること」

 思いがけずに何かを知ってしまうことが、それが何かの役に立つことに気づけば、知ってしまったことを利用してさらに何かをやろうとする発想や思惑に結びつく場合もあるだろうが、それに関してどう考えてみても、勝手な想像をいくら巡らしても当てが外れるだけの場合もあるかも知れないが、知ってしまったことが何の役に立つのかと思うなら、何の役にも立たないような気がするからそう思うのかも知れないし、逆に何かの役に立ちそうだから知ろうとする時もあるだろうが、知ってしまったことが役に立つか立たないかいう思惑とは無関係に知ってしまう時もあるだろうし、思いがけず知ってしまうのではなく、何か目的があって知ろうとするなら、事前に何かしら目星がついていて、知りたいことを知ろうとするという期待や思惑に基づいているはずだが、少なくとも知識が役に立つということが、知るだけではなく行動に結びつくはずで、結果的に知識が行為や行動や活動の役に立つことになるのだろうが、確かに役に立った結果からそう思われる時もあるだろうが、もちろん全ての知識が役に立つわけでもなく、中にはそんなつもりもなかったのに思いがけず役に立つような成り行きを体験すれば、とりあえず将来何かの役に立つかも知れないから知っておいて損はないような思惑も生じて、雑学のようなすぐには役に立ちそうもない知識を記憶の中に溜め込んでいる人もいるのかも知れないが、それを知ったところで何がどうなるわけでもなさそうに思われることが、その後に何かの役に立ったところで、その役に立つ程度が大したことでもないのは事前に予想がつくかも知れず、サスペンスドラマのようには重大な何かを知る機会などそう滅多に巡っくるわけでもないだろうし、心理的に衝撃を受けるような誰かの秘密を知ったところで、それが何の役に立つのかと思えば、とりあえず何の役にも立ちはしないが、何かを知って驚くという出来事を体験したことになり、そこから直にその体験を今後に活かすという発想は生まれてこないだろうし、ただ単に驚いたこととして記憶に残るだけで、それ自体がどうしたわけでもないだろうが、そのどうしたわけでもないということが、気休めとしての安心感につながる場合もあるだろうが、そういうところで何かをしきりに強調している人がいれば、しかもそれが場違いで不自然な印象を伴うようなら、その人を焦らせるようなことがそこで起こっていて、それがその人にとって都合の悪いことであれば、それを打ち消すようなことをしきりに強調しているのかも知れないが、そんなふうに他人の心理状態を邪推したところで、他人が慌てている様子を見ておもしろがりたいのかも知れないが、その一方で自身を取り巻く状況がどうなっているのかといえば、それが自分にとって必ずしも好都合な状況でもなければ、そんな不都合な成り行きになっているのを隠すために、あえてそれとは関係のないことを強調しようとしている場合もありそうで、それも内心焦っている証拠だろうが、なぜ焦るのかといえば思い通りにはならないからだが、それが知ったことを役立てようとして当てが外れてしまって、結局焦ることになるわけだろうが、いくら焦ってみてもどうにもならなければ、体験しつつある全てを知ることができないから、部分的に知ったことをいくら自分の役に立てようとして焦って行動してもうまくいくはずもないのかも知れず、自分には知り得ない何らかの要因が自らの足を引っ張っていることに気づけないから、思い通りにはいかない事態に直面して焦ってしまうのであり、だから焦ってみても仕方がないと思っても焦ってしまうわけで、焦っていること自体がそこで起こっている成り行きや出来事に対する自然な反応なのかも知れず、何が自分を焦らせているのかその原因を知りたいし知ろうとするのだろうが、それもその全てを知り得ないから焦りを生むのだから、そこで焦りが意識の中で絶え間なく循環していることになり、その焦りを鎮めたり紛らわすためにも知りたいことがあり、それが自身の焦りをもたらしている原因を知りたいという自家撞着となってしまうとどうにもやりようがなくなり、知り得ないことを知ろうとしているわけではなく、むしろ大体のことはわかっているのに、肝心なところで何かはぐらかされているような気がするわけで、そこから疑念や疑問が絶え間なく湧いてくるから疑心暗鬼となってしまうわけだが、だからといって焦ったままとなってしまっても正常な判断ができなくなってしまうから、適当なところで原因の追求をあきらめて、わからないことや知り得ないことがあることを前提として直面している事態に対処するしかなく、その対処が必ずしもうまくいかないのは承知の上で、うまくいかないなりにもできることをやって、形の上では最善を尽くしているつもりになるしかないだろうが、もちろんそのつもりになっているとしても、実際には最善でも何でもないのかも知れず、そこでも当てが外れていて、思っていることとやっていることの間にずれがあって、それによって思い通りのことができていないのも当然なのかも知れないが、だからといってそれ以上に何をどうしようと思ってみても焦るしかなく、結局は焦りながらも試行錯誤を繰り返して、それが現状で行なっている活動となるわけだが、そうした活動の中で知り得ることや失敗から思い知らされることなどが、経験や教訓となってその後の活動の中で役立つ可能性もあるだろうし、あるいは全く役立たない可能性もあるかも知れないが、それがどちらであってもなくても、実際にそうなった時点でも、またそれとは別の方面から思い通りにはならずに焦ってくる可能性もあるだろうから、どうなってもどうやっても焦燥感からは逃れられないのかも知れないが、そんな焦りが行動のきっかけとなる場合もあるわけで、焦って行動するから冷静さを欠いて失敗を繰り返すのかも知れず、そうなると思い通りにならない原因が自らの焦りでもあるから、自業自得なのかも知れないが、その一方で今までやってきたこと自体が経験や教訓として役立つような気がするものの、逆にそれが先入観や固定観念を抱かせて、これまでに経験したことのない新たな事態に対処する上で障害となってしまう可能性もあるだろうし、真面目になって経験や教訓を生かそうとするあまり、その経験や教訓が仇となってかえって致命的な失敗を犯してしまえば、何か納得できずに不条理感を覚えるかも知れないが、それも思い通りにはいかない原因かも知れないし、結果的にやっていることがうまくいかなければ、その原因などいくらでも出てくるかも知れないが、もちろんその全てを知ることはできず、どんなに失敗の原因を追求しても、相変わらず部分的にしかわからなければ、それも焦りをもたらす原因だと言えるかも知れないし、そうやって焦りが循環的に巡ってくる度に行動を促されて、行動する度に失敗していれば自滅してしまうだろうが、それでも生き残っているなら、失敗しながらも生き残っているわけで、それを成功と捉えるなら失敗することに成功しているのかも知れず、そんなのは屁理屈でしかないだろうが、生きているという実感がその中である程度の失敗と成功とどちらともいえない結果などが混在しているとも感じられて、そういうところがはっきりせずに焦ったくなるところかも知れないが、そこでもはっきりした結果を得られずに焦りを覚えて、思い通りのことができていない感覚に囚われているのだろうが、そういう焦ったい感覚から抜け出してすっきりしたいのは山々だが、感覚をすっきりさせてしまうのも囚われている物事の単純化でしかなく、勝手に頭の中で物事の交通整理をやっているだけで、実態としては混沌のただ中にいることを忘れようとしているのかも知れないが、それを混沌のただ中にいるようには思わせないのが、自らの知識や経験や勘から裏打ちされた確固とした現状認識になるのかも知れないが、もちろん自分の認識だけでは心もとないなら、他のメディア的な権威から助けを借りて、権威だと思っている人物がそう言っているのだからそうに違いないと思い込もうとするのだろうが、それが時として裏切られて判断を誤ると、そこでも焦ってしまうのだが、そんなことの繰り返しの中でも生きていられるなら、そこでも信じられる確かな実感を得られるわけで、それが勘違いや思い違いの実感であるなら、それなりに取り返しのつかない失敗を犯した時点で自らの愚かさを思い知るわけだが、それでも懲りずに自らの実感を信じられるかというと、それが失敗していることに成功しているような屁理屈を抱いている実感になるのかも知れない。


4月5日「符牒としての固有名」

 何が違うのかといえば何も違わないわけでもないのだが、こういう表現を使うと「違わない」と「わけでもない」が否定の連続だとして、もう使っていない日本語の漢字かな変換ソフトではNGとされて、否定が連続しないように仕向けてくるわけだが、何となく印象としてそんな表現を使うとしっくりくるような雰囲気が感じられると、そういう表現を使いたくなってしまうわけで、それに関して何かが違うような気がするのだが、それほど言語表現的には間違っていないようにも思われて、そうかといって正しいのかといえば、ちょっと違うような気もするから、何も違わないわけでもないわけだが、ではそれが何に関してそうなのかといっても、それも微妙によくわからないわけだが、ただ何となくそんな表現を使いたくなってしまい、実際に使ってみるとそうでもないような気がするから、何に関してそうなのかがよくわからなくなってしまうのだが、それが何かの事例に関して感じてしまうことなのかというと、例えばそれが郷に入れば郷に従えといった功利的な配慮であれば、あからさまに規則や慣習に従うことで難を逃れようとするわけだが、確かに現状のアフガニスタンに行けば支配勢力のタリバンが課す規則や慣習に従わないと命の危険にさらされるのだろうが、そこまで危険ではないにしても日本でも程度や傾向は異なるが、地域的にはいくらでもその手の規則や慣習に心身を囚われている人がいるし、またそれはアメリカの大都会のニューヨーク辺りに巣食うある種の差別的で排他的な職業共同体の中でも守るべき規則や慣習があるらしいのだが、それを空疎で中身のない形式的で即物的なある種のマニュアルに則った構造だと捉えるなら、それが何となくわかりやすくなってしまうわけだが、そこで使われる物事の良し悪しを判断する指標というのが、それ自体には中身もあって文学的あるいは哲学的で学術的な傾向も含まれてくるのだろうが、それを思考の対象とするのではなく、軽い嗜み程度の通り一遍に触れておくことが求められるとなると、そこに出てくるアメリカを代表する文学的な固有名を伴った著作や哲学や経済学などの中で権威に含まれる学説などを研究するということでもなく、ただの知識としてそういうことを知っていればよく、それを面接や面談などの機会に符牒として身だしなみの服装などと同じように提示すれば、職業共同体の中で同類と見なされて、共同体の一員に加われることになると説明されると、そんなものかと一応の理解や納得を得ることにはなるが、それを俺は知っている程度に自慢げに暴露する人が又聞きとして語っているのであり、直接にはその共同体の一員ではないとなると、何か怪しげな雰囲気を感じると共に、本当にそうだとしてもそれに関してそんなことしか語れないということが、人としての限界を感じさせて、何か薄っぺらな人が薄っぺらな範囲内で薄っぺらなことを語っている程度のことであり、そんなこととはほとんど死ぬまで縁のなさそうな自分にとってはどうでもいいことのように思われてしまうわけだが、ならばそれとは対照的に自分にとってどうでもいいことだとは思われないこととは何かというと、そう問われると返答に窮してしまうが、少なくともそんな経緯や成り行きからは返答に窮してしまい、何かそれとは別の経路を通って答えに辿り着きたいのだが、どのような経路なのかもよくわからないから現状では何とも答えようがないが、それらの否定的な差別や区別を伴う規則や慣習とは違う方面から、別の肯定的な選別を想像できるかというと、選別そのものを必要としないやり方を模索したいのかも知れないが、利益をある特定の勢力が独占する上で、その勢力の一員になるための選別が必要となってくることが、功利的に利益を追求をしている限りでそうした選別から逃れられず、選別するにはそのための符牒が欠かせないわけで、その対象となる物事にどのような中身があっても、いったん符牒となれば中身などどうでもよくなって、単に符牒を用意できる者が選ばれて、用意できない者が排除されるしかなく、そうやって符牒を持っている者だけが利益を独占する共同体に入れることが、たとえ入れたとしても、符牒となっている文学的な固有名にも哲学的な固有名にも経済学的な固有名にもなれないのは当然だが、それらの固有名と共に構成される学術的な内容とも無縁の世界で生きていくことになり、そんな世界で生きている自身が中身のない空疎な存在とは思われないだろうが、それらをないがしろにしているような気がするのだが、できればそれらをないがしろにしないで、選別の符牒として使われている固有名の著作の中で語られている内容を真に受けてほしいような気もするが、そもそもそれらの内容を真に受ける者がそうした差別的で排他的な職業共同体の一員になろうと思うかというと、そうは思われないところが皮肉な印象も受けるわけだが、ではそれを真に受けるような者がどうなるのかというと、共同体から排斥されるような者がふさわしいようにも思われるが、そうなるとわかりやすくなって、その種の共同体と対立したり敵対するような立ち位置を安易に想像してしまうわけだが、少なくともはじめからそうはならないだろうし、人は誰でも何らかの利益を共有する共同体から生まれてきて、そこで利益を特定の共同体が独占してしまうことの不条理に気づいてしまうから、何とかしてそれとは違うやり方を模索するようになり、そこで社会の矛盾や不合理に直面して思い悩みながらも試行錯誤を繰り返す中から、その固有名を冠した著作が生まれてくるわけで、そうした著作を通り一遍に読んで済ませた上で、その著名な固有名だけ選別の符牒として功利的に利用しようとするのが、そうした職業共同体のやり方となるのだろうが、そういう成り行きを肯定できるかというと、肯定する以前に受け入れないと共同体に入れないわけだから、当たり前のようにしてそういう成り行きに乗っかって、それを利用して共同体の一員になれた者が、それらの固有名の思考や思想や哲学に同調するかというと、通り一遍の解釈にとどめている限りでそういう成り行きに乗っかれるわけだから、同調していることにはならないだろうが、それどころかそれと自覚することなくその種の思考や思想や哲学を敵視するようにもなるかも知れず、実際に保守的な傾向となればそうなりがちになってしまうだろうが、その一方でそれらの固有名が生きていた期間に何をやっていたのかといえば、ちょっと思いつく限りで、例えばスペインの内戦に左翼の義勇兵として参加していた者もいるし、労働者の味方となって共産主義勢力に関与していた者もいるし、その固有名を選別の符牒として使っている職業共同体とは全く正反対のことをやっていたと解釈しても構わないが、それが不条理であるわけでもなく、矛盾だとも皮肉だとも思わないが、それとこれの何が違うのかといっても、何も違わないわけでもないのだが、そういう符牒の取り扱い方自体がその種の職業の中では当たり前のこととして行われていることであり、そうしないと成り立たない職業でもあり、取り扱っている符牒の中身にまではいちいち立ち入らないことが、功利的には妥当なやり方になるだろうが、そんな職業集団がいるから成り立っている商売もあり、実際に企業として符牒の売買に関与しながら経済活動を行なっているわけだが、そういう成り行きを隠喩として語りながら何を暗示したいとも思わないが、隠喩ではなくあからさまに提示されている面ではわかりやすい事の顛末が示されているわけで、それが何かと言っても具体的には株や為替や債券などの金融商品の取引になるのだろうが、果たして経済情勢の喩えとしてそれらの取引結果を読み取ることができるかというと、そもそもそれを経済情勢の喩えとして語っているのかというと、それが経済情勢を反映していることは確かだろうが、経済情勢はそのものとして動いているのであり、経済の中で流通している商品の中の一部にそれらの金融商品も含まれていて、経済情勢を反映して商品の価格も変動していることも確かなのだろうが、それが経済情勢の全体に関わっているわけではないにしても、部分的な程度や傾向を伴いながら何らかの作用や影響を経済情勢に及ぼしていて、経済情勢に語る上では欠かせない符牒となっていることも確かであるところが、それを真に受ける人々の意識に支配的な誘導作用をもたらすと解釈しておいても構わないのかも知れない。


4月4日「戦術と戦略のなさ」

 戦術と戦略の違いを云々することに関して、やっていることがある程度は方向性が固定されているところでは、先入観として狭い範囲内で有効とされる戦術を活用できるように思われるとしても、そこからもっと視野を広げて見ると、今度は戦術ではなく戦略的なやり方を漠然と意識しがちになってしまうが、戦略そのものが間違っていれば、その中でいくら戦術的に効果を上げても、全体としてうまくいくはずがないような気がすると共に、そもそも戦略的な目的がはっきりしない場合には、戦略も戦術もあったものではないような気にもなるのだが、戦略的に目的をはっきりさせないというやり方も場合によってはありなのかも知れず、何と戦っているかもわからないのに、戦略も戦術もあったものではないのは当然かも知れないが、それに関して例えばロシアが戦術としてウクライナと直接戦っていることは確かだろうが、戦略としてはアメリカやEUなどの欧米諸国と戦っていることになるのかも知れず、ウクライナとの戦いでいくら戦術的な戦果を上げたとしても、欧米諸国との戦いでは戦略的に失敗していると見なしたいような気がするとすれば、誰がそう見なしたいのかといえば、ロシアの国家的な指導者がそう見なしたいわけではなく、欧米のメディア上で何か語っている識者の類いがそう見なしたいわけだが、また中国が世界の中で影響力を増していることについて、中国政府のやり方が戦術的にも戦略的にも効果を上げているからそうなっているように感じられても、その戦術や戦略の対象や目標が何なのかということが、それに関してメディア上で何か語っている識者の類いならそれらしいことが言えるかも知れないし、中国政府の高官なども何かそれらしいことを言えるかも知れないが、いくら戦術的にも戦略的にも目に見えて成果を上げていても、何か根本的なところで間違っているような気がするのは、日本に住んでいる者が抱く勝手な偏見かも知れないが、それは日本の現状の内閣支持率がいかに高くても、その内閣を支持している人たちが日本を駄目にしているような気がするのと同じことでもないだろうが、どちらにしてもはっきりとした目的も目標も定かでないのに、印象操作の範囲内で戦術だとか戦略だとか語るのは、ごまかしやまやかしの戦略なのかも知れず、それも戦略だとはっきりと意識しているわけでもないだろうが、狭い範囲でやっていることなら戦術的な目的や目標が定まってきて、何らかの戦術を使った結果としてその効果や成果もはっきりと現れる場合も結構あるだろうが、目的も目標もはっきりとは定まらない中では、戦術などあり得ないだろうが、それでも戦略を漠然とは意識するかも知れないが、それが何のための戦略なのかがよくわからなければ、戦略とは言えないし、目的や目標があるとしても、果たして戦略が目的や目標に結びつくかというところで、逆に当初の目的や目標から外れることが戦略的に意識されるとすれば、そこからやっていることの不透明感が増してきて、感覚や感触としてはその方がうまくいくような気がするという摩訶不思議な思いに囚われてしまうと、どうもよくわからないのはその時点に至るまでにもそう思ってきたことだが、いったん目的を遂行しようとして、何かしら目標を立ててその通りに事を進めていくと、そんな目的も目標もいったんは放棄した方がいいような成り行きに囚われていることに気づいてくるのかも知れず、そうなったところで戦略的に目的も目標も放棄すると共に、新たな目的や目標を設定した方がいいのかと自身に問うような成り行きにもならず、そうではないような気がするのは、目的や目標と共に戦術や戦略も意識しないように振る舞わなければならなくなるから、そんな気がするのかも知れないが、それも意識しないようにする戦略なのかも知れないから、そんなのは戦略の内に入らないのは承知でそんなつもりで振る舞っているのだろうが、そうやって機会が到来するのを待っているといえば、そんな気がしないでもなく、それが何の機会なのかもわからないのに待っているというのも嘘かも知れないし、そういうところまで考慮に入れるならそれもまやかしやごまかしの戦略の範疇に入ってくるのだろうが、何に対して戦っているのかはっきりしなければ戦術も立てようがないし、戦略を漠然と意識しているとしても、それをはっきりと特定されないようにしておくのが戦略の範囲内でそうやっているのであり、戦いの相手も定かでないのにこちらの意図や思惑を悟られないように振る舞うのも意味不明であり、それを簡単に言うなら面倒なことには関わりたくないという戦略となるだろうが、それが日本政府の戦略かも知れないが、戦略などあってないようなものだと言われると、そうではないと反論して、何かしらこれと特定できる戦略についてその方面の責任者が語るところでは、真正面からまともに答えることはせずに逃げの答弁を繰り返すことになり、結果的に質問に対する答弁の体をなしていないような印象となってしまうのだろうが、それが形式的な取り繕いとして通用してしまうのだから、何をやりたいのかはっきりしないのは、それをはっきりさせないようにしていると受け取られても仕方のないところだが、少なくとも質問してくる議員に批判されるようなことをやるのはわかりきったことであり、質問する議員もそれを批判したくて質問するわけだから、そんな批判的な質問に対してまともに受け答えするわけにはいかなくなり、当然のことながら質問をはぐらかす答弁に終始することになるのだろうが、そんな問答を繰り返しているうちに質問時間が過ぎてしまえば、それで戦術的には一定の成果があったことになるのだろうから、それが戦術としてのはぐらかしになるものの、戦略としてはどうなのかというと、結果的に内閣支持率が一定の割合で高止まりしているわけだから、戦略としても成果が上がっていることになるのだろうが、もちろんそんな内閣を支持している人たちも質問をはぐらかす行為など見て見ぬ振りを装う事なかれ主義に染まっているように見えるとしても、だからといってそれが日本が滅びる直接の原因とは思えないのも誰もがそう思うところだろうし、もちろん実態として誰もそんなことを思うような機会などありはしないわけだが、そこで日本が未来に向かってフェードアウトするように滅びようとしていると感じることでさえ、フィクションの中で架空の誰かが感じることであり、実際には誰もそんなことは思わないわけだが、誰も思わないようなことをメディア上で識者の類いが語るとそんな気がしてしまうのも、どうでもいいことかも知れないが、それをどうでもいいことだと思うこと自体が戦略的な態度や姿勢に思えてしまうとすれば、そう思う誰かが何かと戦っているつもりでなくとも、何か得体の知れない何かと対峙しているような気がするから、思わず身構えて戦略的な態度や姿勢になってしまうのかも知れないが、その何かが具体的に政府や国家だとも思えないにしても、社会と対峙しているような感じがするなら、ある程度は社会に対して違和感を覚えていて、その違和感が思い通りにはいかない自身のぎこちない振る舞いから生じているのだとしたら、他にも多くの人々が同じような思いを抱いているのかも知れないし、自身の振る舞いが周囲の人たちとの間で何らかの軋轢を生じさせている可能性もあるわけだが、仮にそうだからといって、それに対して誰もが戦略的に身構えていることを想定してみても、誰もがやっていることならそうしていることが織り込み済みとして認識されている可能性もあり、結局はそうなっていることが前提となって、その上でそれに対応して何らかの振る舞いを演じていることにもなり、そうやって戦略的な振る舞いが重層的に折り重なってくると共に、社交辞令的な演技にも拍車がかかって、誰もが本心から何を言っているわけでもなく、こう言っておけば無難に思われることを言いながら相手の反応をうかがって、それが社交辞令の規則に沿ったことであれば予想通りの返答が返ってくることを予想しつつも、その通りの返答が返ってきて安堵するのかも知れないが、そうやってお互いに規則に沿った会話を交わしていることを確かめ合いながらも、何か違和感を覚えているとしたら、それが戦略的な振る舞いから外れるようなことを口走る契機となるかも知れず、その違和感が何からもたらされているのかといっても、具体的に何がそれをもたらしているのでもないだろうし、ただ本心から違和感を覚えているかというと、違和感を覚えることでさえも戦略的な演技に含まれている可能性まであるのかも知れない。


4月3日「戦争経済」

 人が変わらなければ状況も変わらないのは、人間社会の中ではそう思われることだが、人が変わるのではなく状況が変わることと人も状況も変わることが、同じではないように思われるものの、状況が変わったことが人が変わったことにもなるのなら、状況が変われば人も変わらざるを得ないような成り行きも考えられるし、それも変化の程度や傾向によって成り行きが異なるだろうが、どちらが変わるにしてもどのようにしてどれほど変わるかで、その変化の良し悪しを判断したくなるかも知れないし、それに関しては昔と今とではどう変わったかが比較対象としてはすぐに思いつく比較になるだろうが、昔といってもどれほど昔かで印象も変わってくるかも知れないし、昔と比べて何が変わったかについては何を指標とするかでも違ってくるかも知れず、例えば戦争がいかに割に合わないかを今も続いているウクライナ戦争から実感できるかというと、実際に割に合わないから各国とも全面的には関わりたくないわけだが、それが昔といってもどれほど昔かなのはその程度や戦争の規模にもよるだろうが、昔は経済的に割に合うから頻繁に戦争が行われていたと解釈できるものの、何を解釈したいのかというと歴史的な傾向であり、戦争が頻繁に行われていた頃の社会状況の中で何がまかり通っていたかについて考えるなら、そのまかり通っていた行為から類推して簡単に定義するなら戦争は略奪行為であり、それを戦争と大げさに表現するからには国家的な略奪行為だと定義しておいた方がしっくりくるだろうが、今回のウクライナ戦争も基本的には略奪行為であり、何を略奪しようとしているのかといえば領土を略奪しようとしているのは明白だが、表向きにはロシアは違う理由で戦争を始めたことになっているが、それが口実に過ぎないことは誰もが承知していることであり、あからさまな侵略行為であることは誰の目にも明らかだとしても、そうではないことを主張する上でも何かそこで戦争を行う大義名分を掲げるなら、ネオナチ勢力の攻撃からロシア人を守るというもっともらしい理由が付け加えられるわけだが、その結果としてロシア人が住んでいる土地をロシアに編入したいということになるわけで、それがウクライナから領土を奪い取ることを正当化することにもなり、やっていることが侵略戦争そのものになってしまうわけだが、国家権力に取り憑かれた人物にとっては本気でそう思っている可能性もあり、ロシア人が住んでいる土地はロシアに編入する必要があると思われるから、やって当然のことをやっている感覚になるかも知れないが、本当にロシア人だけが住んでいる土地なのかといえば、ウクライナ人も住んでいるわけだから、微妙に論理的に破綻している面もあるとしても、いったん戦争を起こしてしまったのだから成り行き的には後には退けないわけで、欧米各国からの経済制裁によって国内経済が壊滅的な打撃を被ろうと、また戦費が膨大な額に達しようと、国家的な意向を優先するなら戦争を遂行するしかなく、それが実質的には消耗戦なのだから、国内の経済事情や国家指導者としての自身の権力基盤の維持なども図らなければならないから、戦況が泥沼化しないうちに妥協点を探っているところかも知れないが、戦争を仕掛けたロシア側としてはそうだとしても、仕掛けられたウクライナ側としては徹底抗戦するしかないだろうし、また直接の介入は避けたいアメリカやEUなども、ウクライナを財政的にも軍事物資などの面でも支援するしかなく、ウクライナに武器を供与し続ければそれだけ欧米の軍需産業が潤うわけで、さらには今回の戦争がきっかけとなって、戦争への備えとして各国の国防予算が増えれば、そこでも軍需産業が儲かるわけだが、その一方でロシアへの経済制裁によって資源や農産物をロシアからの輸入に頼っている産業では損失を被る面と国内の軍需産業や資源や農産物の輸出産業が儲かる面との差引がどうなるかは、各国の国内事情や産業構成にもよるだろうが、またそれによって資源価格や農産物価格が上昇して一般の消費者が損害を被る面も考慮に入れなければならないとしても、そういった経済的な損得勘定ではなく、根本的なところで戦争を起こして人を殺傷して土地建物や設備などを破壊する行為が許されるかということが、昔と今とでは人々の戦争に対する認識も暮らしている環境も様変わりしていれば、少なくとも戦争していない国々では戦争が割に合わないと考えている人が多いだろうし、もちろん戦争している国の住民も内戦状態に陥っている国の住民も、直接の被害や損害を被っていれば、そう思うのが普通だろうが、それは昔でもある程度はそうだったのだろうが、普通に国内の治安状態が内戦が起こらない程度には保たれていて、比較的平和に暮らしている人が大多数を占めている国では、戦争が割に合わないと思う人が大多数を占めているだろうが、そこから合理的に考えるなら戦争を起こさないためには何が必要かというと、戦争が割に合わないと思う人たちが支持する勢力が国家的な主導権を握っている状態が必要になってくるだろうが、それには民主的な国家体制の構築が不可欠になり、実際にも国家が強権的な独裁体制になると軍備を増強して戦争への道を突き進むような歴史的な経緯があったはずだが、なぜそうなってしまうのかといえば、国内の政治的な混乱につけ込んで武力によって国家的な主権を奪取するような勢力が生じてくると考えられるが、なぜ混乱するのかというと、その国を取り巻く地域的な情勢が不安定だとそうなりやすいし、そこにもそうなるに至る歴史的な経緯も絡んでくるだろうが、そういう事情や経緯を人為的に制御するのは難しく、そうなってしまう成り行きに巻き込まれてしまえば、否応なく戦争が起こる可能性が高まるかも知れないが、実際に今回のように戦争が起こってしまえば、それに対応してできることが実際に行われていて、それが現実に今のところは他国による直接の軍事的な介入にはつながらないところが、他の国へと戦火が広がらない状況を示していて、現状を第三次世界大戦と見る人もまだ少ないはずだが、戦争を仕掛けている当事国のロシアも昔のソ連時代から比べると相対的に国力が低下しているから、中国が加わらない限りは、世界大戦といった大げさな状況にはなりそうもないが、それが何を意味しているかといっても、昔と比べてどうこう述べても、それほど確実にいえることも少ないかも知れないが、現状を肯定的に捉えるなら、世界的には昔よりは戦争が大っぴらにやりにくい状況となってきたのかも知れず、それも一時的にそう思われる程度のことかも知れず、戦争の質も内容も昔ながらの惨たらしい状況も出現していることは確かだが、範囲も過去の二度の世界大戦と比較すれば限られていて、比較すること自体がおかしいかも知れないが、少なくとも紛争地帯が特定の地域に限られていることは確かで、その地域が今後だんだんと狭められてくれば世界から戦火を駆逐することができるかも知れないが、それには他の国が戦争に加わらないことが最善のやり方かどうかはまだわからないところだが、少なくともロシアに対して経済制裁しか行わなかったことが現状をもたらしていて、そのやり方が今回のウクライナ戦争で一定の効果を上げているとしても、ロシアに対するやり方がさらに経済規模の大きな中国に通用するかとなると無理かも知れないし、中国が戦争を起こした時が第三次世界大戦になる可能性が高まる時かも知れないが、中国の政府関係者も今回の事態から何らかの感触を得ているだろうから、その結果によっては中国の今後の出方にも影響を及ぼしてくるだろうが、それが根本的には国家統治の程度や傾向にも影響を及ぼしてくるのかも知れず、国家統治という形態が軍隊や警察などを使った暴力的な実力行使を伴う割合が少なくなって、お役所仕事などの事務的な割合が大半となれば、形式的で空気のような形態となるのだろうが、暴力的な実力行使を引き起こす原因というのが、究極的には人や集団の間で生じる経済格差になるのだろうが、それが経済格差だとわかる以前に横道へと逸らす仕掛けとして、人種や民族や宗教や性別などに関する迷信へと誘い込む罠が慣習として社会のあちらこちらに仕掛けられているわけでもないのだろうが、大抵は仕掛けられているというよりは慣習によってそう思い込まされていると言った方が妥当なのかも知れないが、それをなかなか認めたがらない人も大勢いるのではないか。


4月2日「思考の対象と信仰の不都合」

 その必要があるかどうかはよくわからないが、何とかして体験したことを言葉で説明しようとする際に、意識して頭の中で辻褄合わせをするつもりもないが、無意識の中ではやっているのかも知れず、それが何の辻褄を合わせようとしているのかが、うまく言い表せないところだが、その際に考えていることの論理的な整合性を保とうとしているのかも知れないが、では何を考えているのかというと、それが体験したことに関連して様々なことを考えているのだろうが、その大半が取り止めのないことであれば、何か漠然としていて、まとまりを欠いているのかも知れず、それを思考の産物とは言えなければ、それ以前に産物の定義から外れているのかも知れないし、一般的にはそれを産物とは呼ばないだろうが、では思考の産物とは呼ばずに何と呼べばいいのかといっても、それが何なのかを具体的に示せないまま、さらに言葉を記して文章を構成しようとすると、それ自体が文章体験となり、過去に体験したことについて考えていると共に、現に体験しつつあることも逐次的に考え続けていることに気づき、それらの体験が融合しながら文章が構成されることにも気づくわけだが、それ自体が何でもないことなのかも知れず、文章を構成する体験自体が空疎で中身のない体験のような気がしてくるが、それが今逐次的に体験しつつあることだから、そこに適当な意味を付与できずにいるわけだが、そこから過去や未来へと離れるほど、それだけ視野が広がってきて、それに伴って様々な意味や他の出来事もまとわりついてくるから、それがフィクションだとは思えないのだろうが、それを文章として構成すれば物語になってしまうのかも知れないが、物語のように語ると文章としても構成しやすいから自然とそうなってしまい、そういう物語的な文章の構成に魅力を感じるのだとすれば、それが日頃からフィクションに慣れ親しんでいることの表れなのかも知れないが、そういった物語的な印象に意識が騙されているわけでもないのだろうが、過去の出来事をことさらに重要視してみたり、未来に何か破滅的なことが起こるのではないかと恐れてみたりするのが、そういう物語的な幻想からくる思い込みなのかも知れないが、過去の出来事に関してはすでに起こってしまったことだから、改ざんでもしない限りは動かしようがないとしても、未来に起こるかも知れない出来事に関してはいくらでも勝手に妄想を膨らませるから、何か大変なことが起こるとか、もうすでに起こっているとか騒ぎ立てる分には好都合であり、そうやって何とかして大変なことが起こることを信じてほしいから、あるいはすでに大変なことが起こっていることを知ってほしいから、それに関して何かと大げさに騒ぎ立てたいのだろうが、そういう意図からすると何でもないことが起こっていることに関しては、それを取り立てて取り上げたり問題視する気にはなれないだろうし、何かを語るというという行為やそれについて書き記すということをやるについては、大変なことや大げさなことが起こっていないと、それについて語ったり書き記したりする必要を感じられないという逆説的な成り行きがあり、語るに値しないあるいは書き記すに値しない何でもない体験を語る必要も書き記す必要もないから、そんな体験しかなければ、それをあえて語る必要も書き記す必要もなく、ではそれ以外に何を語るべきで何を書き記せばいいのかとなると、他で大変なことが起こっていたり大げさな事態となっていれば、それについて語りたがり、それを書き記す気になり、メディアでもそんなことが頻繁に語られて、それについて書き記された文章を多くの人が読ませられるのだろうが、語られたり書き記されるのはそれだけかというとそうでもなく、興味深いことはそれだけではなく、それ以外にもいくらでも興味を惹かれる物事があり、それについても語られて書き記されるわけだが、そういう物事に刺激を受けながら日々を過ごしているわけだから、逆に興味を惹かず刺激を受けない物事については何も記憶に残らないわけではないが、少なくとも刺激を受ける物事よりは印象が薄く、刺激の強い物事だけを体験しているわけでもないのに、興味が自然とそちらへ偏ってしまえば、意識もそちらの方へと引きずられて、それに伴って自身の感覚にも偏りが生じてくると判断力のバランスを欠いて、興味を惹かれて刺激を受ける物事の方を重視するような傾向になってしまうのだろうが、その一方で当然のことながら興味を惹かれて刺激を受ける物事だけから世界が成り立っているわけではなく、興味を惹かず刺激も受けない物事などいくらでもあるから、そちらへの気配りがおろそかになってしまうと、そこから勘違いや思い違いが生じてくるのかも知れず、もちろん興味を惹かないのだから気配りなどできるはずもなく、そこから勘違いや思い違いが生じても、そんなことは直しようがないことだから仕方のないことかも知れないが、そういうところから勘違いや思い違いを抱きながら普通に暮らしている人がほとんどであれば、そうなって当然なのだからそれを取り立てて問題視するようなことにはならないだろうし、中にはそういう勘違いや思い違いが一生解消されないまま生きて死んでいく人もいるだろうし、果たしてそれが勘違いや思い違いかというと、それが迷信の類いならそうだと言えるだろうが、それを信じている当人は当然のことながら信じている限りは迷信だとは思っていないだろうし、何かしら世の中で問題となっていることが、その種の迷信に関連して起こっていることだとしても、それが迷信だとわからせるような物事には関心が向かなければ、いつまで経っても迷信を信じていられるわけで、それも時と場合によっては外部から無理やり目を覚まさせるようなことが起こって、迷信を信じられなくなる場合もあるだろうが、そういう機会が巡ってくることが、そもそも偶然の巡り合わせなのかも知れず、偶然にそうなってしまうことよりも必然的な成り行きのように思われることを信じられるわけで、それが必然的にそうなるように感じられることが、迷信の成せるわざであれば、たとえそれが迷信であっても信じやすいだろうし、そういう意味では意識して考えて筋道が通っていて、しかも辻褄も合っているようなことが信じられる一方で、目の前でわけのわからないことが実際に起こっているのに、それが思考の対象とはならず、もちろん偶然にそんなことが起こっていると思えば、考えるまでもないことになってしまうわけだが、それがよく考えてみなければわからないことであれば、考える余裕のない人には考えられず、そこでそれについて考えてみることをスルーしてしまえば、そこで起こった出来事から得るものが何もなく、その一方で他人によって物事の筋道を通らせて辻褄が合うように調整された語りの内容となると、よく考えなくてもわかりやすいから信じられるわけで、それが偶然の巡り合わせでそうなった面を排除して必然的な成り行きになるように調整された物語であると、それを信じることがそのまま迷信になりやすいと言っても信じてもらえないだろうが、そもそも興味深い話というのがそこから刺激を受けるような話でもあり、それも多くの人が興味を持つ内容であるほど、世間的な多数意識からの共感や同調を伴いやすく、それだけ世の中で信じられている内容そのものかそれに近い内容となっているわけだから、その全てが迷信に過ぎないと言うつもりはないが、迷信が多くの人々から信じられていたからこそ、それが後の時代になって迷信であることが明らかになると、そういう話が興味深く語られて世に広まるわけで、そこから類推するなら、現代と言われるこの時代であっても後の世になって迷信だと明らかになることが信じられている可能性が高く、それが多くの人にとって興味深いからこそ信じられていると考えれば辻褄が合いそうなのだが、ではその迷信が具体的にどのような内容なのかというと、たとえばそれが宗教的な方面でも人種や民族や国家に関する方面でも枚挙にいとまがないかも知れないが、そんな迷信に依存して国家的な権力を掌握している勢力も各国にいくらでもいて、たとえそれが民主的な政治体制であろうとあからさまに迷信が信じられている場合もあるだろうし、その迷信が人畜無害であればそれほど問題とはならないだろうが、迷信に経済的な利害や政治的な権力が絡んでくるようだと、それによって被害を被ってしまうような人や集団が出てきて、何かそこで多くの人が不条理を感じるのではないか。


4月1日「現状の説明」

 世界や日本の現状を肯定的に捉えたり否定的に捉えたりする前に、現状をありのままに捉えることができるかというと、現状を肯定的に捉えたり否定的に捉えたりしていること自体が、現状を言葉で説明する上で現状の肯定的な面や否定的な面に気づいてそれを説明しようとしているわけだから、それがありのままの現状になるかどうかは、それを説明しようとしている人がそう思うならそういうことだろうが、そうなれば現状をありのままに説明することが、現状の肯定的な面や否定的な面を説明することになり、果たしてそれでありのままの現状を説明しているのかといえば、そんなふうに説明することが現状を説明することだと思うならその通りかも知れないが、それとは違う説明の仕方があるなら、普通に考えられるなら肯定も否定もせずに現状を説明できればいいのだろうが、それがどういう説明の内容になるかというと、実際にそんなふうに説明してみないことにはよくわからないだろうが、果たして肯定も否定もせずに現状を説明することが何になると言うのなら、普通の説明以外の何ものでもなく、では普通ではない説明とは何なのかというと、現状を賞賛したり非難したりすることになるのかも知れず、それでは説明というよりは現状をどう思っているかということであり、またそこから現状をどうしたいのかとかいう方面の内容になってくるかも知れないが、それに関して例えば世界や日本のどこかに困っている人たちがいて、その人たちを助けたいとかどうにかしたいという思いを語るようなことになってくると、そんな困っている人たちが存在する現状を憂うようなことを語る成り行きになり、困っている人たちのことを語ることが、困っている人たちがいるような現状をどうにしかしなければならないという方面へと誘導する言説になるのだろうが、そういう目的を語っている人が自覚しているかというと、実際にそういう目的で語っている人もいるだろうし、そういう人にとっては、何か現状の中で困っている人たちを困らせている人や勢力がいて、しかもそういう人や勢力が世の中の主導権を握っているから困ってしまう人たちが大勢出てくるのであり、そうなるとそういう人や勢力を非難したり糾弾するために語っていることになり、そういう人を困らせているような人や勢力に代わって自分たちが世の中の主導権を握りたいから、人を困らせるような人や勢力を言葉で攻撃することなるわけだが、そうなると現状の否定的な面を強調したり誇張して伝えるような内容となって、そういう説明を真に受けると現状のひどさばかりが意識されて、暗澹たる思いに囚われてしまうのかも知れないが、そういう説明を全面的にその通りだと思うかというと、そう思う人たちがそういう説明をする人の支持者になるわけだが、多少はそういう面もあるにしても全面的にその通りだとは思わないのなら、そういう面ばかりではないと思いたいのだろうが、そういう面ばかりではない現状とはどんな現状なのかといえば、人と人との関係や集団との関係の中で確かに肯定される面や否定される面もあって、そこから賞賛や非難が生じてくるにしても、その一方で中には肯定も否定もできないような関係もあって、それがそうならざるを得ないような関係であれば、そうなっても仕方がないと思われてしまうし、そうならなくても構わないような関係であれば、他にもいくらでもやりようがあると思われるのだが、そうならざるを得ないような関係の中から人を困らせるようなことが起こると、困らせている人や勢力をいくら非難したり糾弾しても、そうなった結果を難じているわけだから、結果を動かしようがないのを承知で難じているようなことになり、もちろん非難している人にとっては他にいくらでも結果を動かしようがあると思われるから、そんなことをやっては駄目だと言いたいわけだが、その一方で人を困らせるようなことをやっている当事者にとっては、そういうことしかやりようがないとしか思われないとしたら、それは非難している人とは立場の違いがあり、それをやっている当事者としてはそういう行為を正当化したいなら、非難している人たちに向かって、お前らも自分たちと同じ立場になればきっと同じことをやっているはずだと主張したいのかも知れないが、結局非難されるようなことをやる成り行きになってしまうということが、それらの人や勢力が置かれた立場の危うさを物語っていて、そういうことができてしまうわけだからそれをやれる権限や権力があるということにもなり、現状でやれることをやるとなると、選択肢がそれなりに限られてきて、その中からそれをやるのが最善だと思ったことをやってみると、その思惑が外れて他から非難される羽目になって、立場によっては怒りを露わにすることにもなるかも知れないが、だからといって結果的にうまくいかないことをネタにして非難してくる連中の言うことを聞く気にはなれないだろうし、しかも場合によっては自らが破滅するまで現状でやっていることを続けざるを得ないような成り行きに囚われているとすれば、本当にそうなる可能性が高いことを実感しているだろうし、いったんやり始めると退くに退けない状況に陥ってしまうなら、そうなるしかない成り行きになっていて、そんな結果からわかることは事前に選択肢などなかったのであり、そうせざるを得ない立場になってしまった人や勢力がそれをやってしまえば、結果的に退くに退けない状況へと追い込まれてしまうわけだから、果たしてそれを非難している人たちがそうせざるを得ない立場になれるわけでもなく、実際にそうなっていないからそれを非難できるわけで、それも非難できる立場にいられる限りでできることであり、それを非難できない状況になるということが他から非難される立場になることかというと、その通りでもあり、場合によってはその通りでもなく、現状でそれを非難している人たちからしてみれば自分ならそんなことはやらないと思うだろうが、もしかしたら永遠にそんな立場にはなれないのかも知れず、どうやってもそんな立場にはなれそうもない人たちが、これ見よがしに他人の非をあげつらっているような光景に出くわすと、それは違うのではないかと思いたくなってしまうが、それが思い違いでもあり、そういう人だからこそ、そういうことしかできない立場になってしまい、それもそうせざるを得ないようなことでもあり、そこで非難する側とされる側とで立場が固定されてしまうと、状況が膠着状態となってどうにもこうにも動きのとれない情勢となってしまうのかも知れず、そういう状況を打開するにはどうすればいいかと考えても、なかなか打開する方法が思いつけないかも知れないが、思いつかなければ、自身が思いつけないような立場になっているとは思わないだろうが、それも膠着状態の中でそういう立場に自身が固定されている可能性もあるわけで、それを逆に考えるなら、延々と同じような立場から同じようなことをやっていたり、同じような主張を延々と繰り返している人や勢力がいれば、そういう人や勢力にはそれ以外のことをやる選択肢がないと見なしておくのが無難なのかも知れず、それ以外のことができないからそんなことを続けるしかないと考えるなら、そういう人や勢力が今後何かのきっかけからそれまでとは別の立場になって別のことをやろうとしても、果たしてそれがうまくいくかどうかはその時になってみないことにはわからないが、少なくともそれまでに延々と同じことをやり続けてきた経験が別のことに活かせるかといっても、同じことをやり続けてきたのだから、それによって別のことをやるためのノウハウが蓄積できたかといっても、それは違うような気がするだろうし、そういうところでその手腕を疑問視するのも当然だろうが、それが専門的な分野となってくると確かにそんなことはあり得ないと言えるわけだが、そういう意味でやっていることが専門化すると専門家にまかせるしかないような成り行きにもなってきて、それだけ部外者が参入する余地がなくなってしまうわけだが、その一方で専門家だけにまかせているとその種の専門家がその方面の利益を独占するような成り行きにもなって、そんな成り行きの中で専門家ではない人たちが専門分野の中での利益の独占によって損害を被るようなことになってしまえば、それが困った事態となるわけだろうが、専門家たちの専横によって困った立場に追い込まれている人たちを助けようとする人たちも、助ける専門家であり、また専門家たちの専横を非難する立場の人たちも、それを非難する専門の人たちであるなら、それこそが膠着状態そのものであり、何をやるにもそれをやる専門の人たちによってその分野が独占されていて、部外者の参入が阻止されているような状況となっていれば、そんな膠着状態を打開することが難しくなっているわけだ。