彼の声151999年11月29日幻滅を伴う脱神秘化の過程に接続する運動の現実を直視し、現実的変革と実践的行動の可能性を模索する。また、ある種の理論から導き出される帰納的意味を演繹し、内面における心理的動揺を現象学的還元を施しながら理解しようとする。その基礎構造に横たわる様々な問題群は、戯れとは無関係に文化的地平の彼方から自動制御され、個人の諸行動に制度的拘束を設ける。それが客観的な意味作用を常に持つとは限らないが、時間的成長のある時点で、突然、器官的徴候群の心因的な原因として神経症的構造と結びつくことがある。それは個人の諸行動と制度とが交錯する瞬間でもある。そのとき潜在的な情動テーマが自動制御の対象となる。共感、感情的融合によって求心力を持ち、現代的課題として情動テーマの強度が次第に増してゆく。そして、もはや後戻りができなくなったところで、集団による自律的神経反応となって劇場の場が誕生する。そのような劇場では、各人は場の雰囲気としての超自我に身を委ねることになるが、ヒステリー性麻痺の支配権は心地よい夢の雰囲気と常識感覚との落差を忘れさせ、一時も理性の介入を許さない。そして、良心との葛藤のない脅迫は、無条件で場に制御された様々な先入観を各人の頭脳に刷り込み、抵抗や摩擦のない純粋な指揮命令系統を劇空間に実現し、結果として強靱な組織的人間機械が場によって生み出されることとなる。ヴァーチュアル文書とはざっとこんなものです。難しい言葉を多用することで、なんとなく深刻な意味がありそうな感じを装っていますが、意味などはじめから想定していません。ようするにでたらめな文書です。言葉のサンプリングというやつです。 11月27日おー、とうとう浦和レッズが2部リーグへ降格かあ。夕方のニュースを見てちょっとびっくりしました。浦和は残るような気がしていたんですけどねえ.......。でも、1部リーグの下位2チームが自動的に2部の上位2チームと入れ替わる制度そのものは、1部では2部落ちの恐怖で緊張感が持続してだらけたゲームが減るだろうし、2部リーグのチームにはそれだけ1部昇格への希望が膨らむからやる気が出るでしょうから、入れ替え戦なんかをやるよりはよっぽど良いし、すべてのリーグのチームに対して公平な制度(入れ替え戦は、よりレヴェルの高いところでやっている上部リーグのチームに有利)だと思うから大賛成ですが、よりにもよって浦和が2部落ちの憂き目に遭うとはね。こりゃ、神様がどこかの誰かさんに大いなる試練を与えたということかな。あなたは神を信じますか?ケースバイケースですか。しかしオノチンとかはどうするのだろうか、どこかへ移籍しちゃうのだろうか。まあ、誘いはそこいらじゅうからくるんでしょうけど。ま、どうなることやらですね。そういえば、名波のいるヴェネチアもこのままだと2部落ち濃厚ですね。でも名波にはあんまり誘いはこないような気がする。ジュビロに戻るか、まさかカズみたいに京都サンガに入ったりして。.......カモマジック? 11月25日先日久しぶりに今風のCD(今年の発売らしい)を買いました。どうも私は試聴ブースに置いてあるのを聴かずに買う癖があって(ブースで聴いちゃうと買わないことが多い)、今回もそのパターンなんですが、題名は「INCredible Sound of Gilles Peterson」で、内容は、DJらしきGilles Petersonという人が、CD2枚分いろいろ好みで選んだらしい曲が入っているんですが、CDジャケットの裏ページに、あんまり似合ってないようなだぼだぼジーンズにスノーボード風ジャケットのゲイ的坊主頭白人(ピーター本人)の横に、次のような文句が縦書き英語で記されています。Fuck acid house! This is acid jazz! The dance floor explodes and acid jazz, the belligerent bastard brother of rave, is bron. これを私のエ〜カゲンな英語力で訳してみると アシッドハウス(音楽ジャンル)なんてクソ食らえ!アシッドジャズ(音楽ジャンル)だぜ! ダンスフロアを爆破して、アシッドジャズはレイヴ(確かこれもひとつの音楽ジャンルだったような)のけんか仲間で混血兄弟として生まれたんだ。 こんな感じでしょうか。なんだかピーターちゃんは多分に過激な(笑)イデオロギー的思考の持ち主でちゅね(笑)。でもこれで、なんとなく今まで区別のつかなかったアシッドハウスとアシッドジャズの違いがわかったような気がしてきました。ようするにダンスフロアで踊るための音楽がアシッドハウスで、純粋に聴くための音楽がアシッドジャズということなのかなあ。そうだとすると、今、机の上のPowerBookに出力10WのYAMAHAのPC用スピーカーをつなげてピーターちゃんの選曲したアシッドジャズを聴いている私は、非常に正しい模範的な音楽鑑賞態度だということになるのでしょうか(爆笑)。 でも、2枚目の8曲目に、ジミヘンとニール・ヤングが共作した(ほんとか?)「オハイオ」が、アイズレー・ブラザーズのカヴァーで選曲されているところがなかなかシブい(じじクサい?)。でもなんでこれがアシッドジャズなの? 11月24日しかしL5linuxはよくわからないですね。ppxpでアプリケーションレベルでIPマスカレードができることを知り、こりゃFreeBSD(98)からL5linux経由でインターネットに接続可能かもしれないと思って、さっそく、ftp://ftp.linux.or.jp/pub/RPM/RPMS/i386-glibc/ から入手してインストールしたんですが、肝心のppxpが起動しないんですよね(疲労)。それでまたもやいろいろ選択アプリのパターンを変えてOS再インスト状態に突入しちゃったんですが、今のところ、ppxpはインストできても起動しないかエラーが出てインストできないかのどちらかなんです(超疲労)。やっぱ、カーネルそのものを修正しないとまともに動作しないのだろうか?それともすでにusernetでppp接続してしまったからppxpは受けつけないとかあるのだろうか? それで結局L5linuxはもうあきらめて、ハードディスクの全面にインストせずに800Mバイト弱にとどめてインストールしました。そして来週戻ってきたら残りの1.2Gバイト強に何か別のLinuxかFreeBSDをインストしてみようと思います(FreeBSDならIPマスカレードではなくNATを使えばいいのかな?)。しかし今回は疲れました(笑)。 11月21日例えば、禅についてその目的というものを設定すると仮定して、はたして禅の目的はなんだと思いますか?答は簡単です、禅の目的は禅を極めることにあります。それと同じように、今度は日本の伝統芸能の能についてその目的を設定してみれば、やはり、能の目的は能を極めることにあります。これと同じ手法でさらに続ければ、書道の目的は書を極めること、茶道の目的は茶を極めること、となり、その他以下同文でいろいろなその道を極めるヴァリエーションが思い当たることでしょう。つまり「目的」とは「〜を極める」と一対になって機能しているのです。昨日「ETVカルチャースペシャル」とかいう番組を途中からちょっと見たのですが、日本が誇る伝統文化である禅や能の世界では、腹で呼吸する丹田法という呼吸方法があり(腹式呼吸の一種)、それをやると、ある脳内物質が分泌されて脳味噌が活性化され、気持ちが落ち着く作用があるらしく、マウス実験でその脳内物質を人工的に抜いたマウスは攻撃性が増すことが証明されていて、現代の若者は腹ではなく胸で呼吸する傾向があり(実験で老人と中学生が比較されている)、胸で呼吸するから脳内物質があまり分泌されないので、落ち着きがなくすぐキレやすいんじゃないかと結論づけていました。実際高校の生徒たちに件の腹式呼吸を教えたら、簡単な算数計算のテストをやらせたとき、教える前より格段に計算能力が上がって、司会進行役の大学助教授は得意になっていました。 まあここまでは日本テレビの「特命リサーチ200X」と同じような内容です。驚いたのはその大学助教授の次のような発言です。要約すれば、我々日本人は日本古来の伝統である呼吸法を次の世代に引き継ぐことを怠ってきた、この伝統ある呼吸法を今こそ病める若者たちに広めなければならない、と真顔で言い始めたのです。......恐ろしいですね、実験で腹式呼吸をしていた老人よりもさらに古い世代の旧日本軍の兵隊さんたちなんか、日常的にすぐキレれて部下を殴り倒したりしていたわけでしょう。また、例えば禅によって呼吸法を会得した禅僧にすぐそのまま政治家が務まりますか?あるいは能役者が土木作業員をやれたりするのでしょうか?現実の様々な立場にある人間について、一元的に呼吸法だけでそれぞれの抱えている問題が解決したりするわけはありません。 呼吸法はそんなたいそうなものじゃないでしょう。それは健康法と同じようなもので、その道を極めるのが目的の伝統芸能や宗教とは別のものです。ようするに、庶民には難しいことはわからないだろうから、ただ念仏やらお経やらを唱えていれば良い、という浄土宗系仏教と同じように、難しいことはわからないだろうからとりあえず呼吸法だけマスターしてくれということです。 さらに今話題のライフスペースに絡めれば、超能力だけですべてを解決できるわけはない、となりますか。実際にいちやく時の人となった(笑)全能とされているグルちゃんは、マスコミに追いかけ回されて、それが解決できずに(マスコミを超能力で追い払うことができずに)困っているじゃないですか(笑)。 11月20日どうも私は「青春」という言葉についてギャグ以外の使い方を思い浮かべることができないんですが(笑)、いったい、いつの頃から「青春」がギャグになってしまったのでしょうね。もしかして昔から「青春」は笑いの対象だったのかなあ。そういえば「ヤング」という言葉も同じようにギャグ以外では使えません。まあこれらについては、具体的にいえば、「青春」については森田健作の一連のくさいテレビドラマ、「ヤング」については西条秀樹がド派手な衣装と変な振り付けで歌ったヴィレッジ・ピープルの「YMCA」をカヴァーした「ヤングマン」という曲、これらをお笑い芸人がギャグの対象として取り上げてからだとは思いますが、いつのまにやら、これらの言葉に出会うと反射的に、中高年のおじさんがまじめな顔して「青春」とか「ヤング」とかいう言葉をちりばめながら演説を打っていて(熱弁を振るっていて)、それを聴衆が陰でクスクス笑いしている光景がすぐ思い浮かびます。つまり「青春」や「ヤング」が笑いの対象であることを知らない世代と知っている世代が存在しているわけです。これが世代間の断絶とでも言われるものでしょうか。で、そうだとすると、さらに自分たちよりも後の世代になると、いつの日か、これらの言葉がギャグの対象であることが忘れ去られ、まじめな意味や意義を伴って復活する時代が再び到来したりするのでしょうか。もしかして今どきの若者(ナウなヤング(爆笑))たちの間では、もうすでにそういう形でこれらの言葉が流通していたりして(笑)。そういう私もすでにダサイこと書いている旧世代の中高年に属しているかもしれませんね。11月18日それにしても、超能力が売りで宗教商売をやっちゃうとあとが大変ですね(笑)。自分の超能力で病気が治せると自信満々に断言して、現実にはその人の病気が治るどころか死んじゃったりしちゃうと、もう引っ込みがつかなくなりますからね。あとはもう、腐ってウジが涌いてミイラになっても、この人はまだ生きている、と言い張り続けるぐらいしか方策はありませんか(笑)。しかしホテルの人も警察も、死体を看病している部屋に踏み込むのがちょっと早すぎたかなあ。あのまま放っておいて、死体が骨だけになるまで見守らせてやれば良かったのに(それは酷か?)。そこまでやったらどうなっていただろうか。たとえば、君のお父さんの肉体は滅び去ったが、魂はまだ生きている、不滅の魂となって君の心の中で生きているんだよ、なんちゃって青春メロドラマに突入したりしちゃいますか(爆笑)。11月17日やばい、ゲートウェイをルータのIPアドレスで設定すると、プロバイダのネームサーバを探しにルータにアクセスしようとして、シリアルポートからモデム経由でインターネットにアクセスできなくなるようです。なぜ突然そうなったのかよくわからないんですが(前日までのファイルをFTPでプロバイダのサーバに送ったときまでは大丈夫だったのに)、もしかして、KDEに未練があったからFreeBSD(98) 3.2R Rev1にまた変えたのがいけなかったのかもしれませんが、すでに2.2.2Rのときに、なぜかある時期からFreeBSD(98)からLinuxにtelnetが受けつけられなくなったのも謎です。それでいろいろまた繰り返しOSインスト状態になってしまったのですが、今度はまたどういうわけか、ゲートウェイを設定しなくてもpingもtelnetもできるようになってしまいました。まあ、実際に使っているのはルータのHUBの部分だけだから、ゲートウェイは必要ないといえばそうなんですが、なんだか何がどうなってこうなったのかまるで一貫性がなくて、頭の中がこんがらがっています。まったくネットワーク設定はわけがわかりません(笑)。【補足】 L5linux6.0で、rootにならずにユーザーのままでCD-ROMドライヴが制御できて、なおかつCD-ROM内のシェルスクリプトが実行できる設定がやっとわかりました。製品版付属の「ユーザー活用ガイド」の62ページに載っているんですが(今まで気がつきませんでした)、本の設定はちょっと間違っているかもしれません。そこには/etc/fstabのなかでcdromの項目を次のように書き換えればいいとなっているんですが、 /dev/cdrom /mnt/cdrom iso9660 usr,exec,dev,ro,noauto 0 0 このなかのusrはuserの間違いじゃないかと思います。実際userで動作しました(もしかしたらどっちでもいいのかなあ)。それから、なるほどexecはそこに入れればよかったわけですか(笑)。こりゃ設定ファイルの書き方がわかってないと、どこにexecを入れるかなんて簡単にはわかりませんよ。 11月16日やりました、なんとかFreeBSD(98)とLANがつながりました。なぜか去年の暮れに買ったWin95/NTでしか使用説明のないルータ(NetGenesis4 マイクロ総合研究所)が役に立ちました。なるほど、LinuxマシンとPC9821Xsの間にルータをつなげて、LinuxとFreeBSD(98)の双方でゲートウェイとしてルータのアドレスを設定すればよかったんです。でもまあ、つながったといっても、/etc/hostsにそれぞれのマシンのアドレスを加えただけですから、結果的にみればそれほど難しいわけではなかったんですが、そこに至る過程で何度も何度も躓いて試行錯誤の繰り返しでした(笑)。たとえば、Linuxはインストール時にネットワーク設定をすると、必ずOSの起動が途中で止まったりしてずいぶん苦労しました(ネットワーク設定の自分の設定自体が怪しかったみたいです)。最終的には、インストの時には検出されたネットワークカードの名称だけを確認するにとどめて、そこでいったんインストをやめてから、もう一度最初から今度はネットワーク設定をやらないでインストしてから、あらためてlinuxconfでネットワーク設定を行いました。一方、FreeBSD(98)のほうは、結局わけがわからなくて3.2Rev1はやめて、元の2.2.2Rに戻してしまったんですが、/stand/sysinstallでネットワーク設定してから更にファイルをごちゃごちゃ修正したら、なぜかうまくいきました。 でも今のところ、pingとtelnetしか使えません(笑)。やっぱ、FTPやNFSを使うためにはさらなる設定が必要なんでしょうね。はぁ〜、たいへんだなあ〜。また、将来インターネット常時接続とかなった場合、DNSでBINDの設定とかしなければならないのかぁ〜。はぁ〜、むずかしそうだなぁ〜(笑)。まだまだこれから難関が控えているということか。ま、どうなることやらですね(紋切り型)。 11月15日それにしても、神奈川のポリ公は次から次へといろいろな種類の不祥事が明るみに出て大変ですね(笑)。しかし、こうも次々に、もみ消したはずの事件が発覚してしまうところを見ると、誰か組織の上層部に内部告発者でも存在していて、過去において、神奈川県警はその人に何か相当恨まれるようなことでもしたんですかね。まあ想像の域を出ませんが、これだけ多くの事件が発覚し続ける状況は、なんだか思いっきり不自然ですよ。ま、裏で(警察組織内で)毎度おなじみの派閥抗争や主導権争いや権力争いがあるにしても、これじゃあ自分で自分の首を絞めているようなものだと思いますが、どうなんでしょうか。こりゃ「噂の真相」の出番かな(笑)。来月号あたりが楽しみですか。がんばれ!!「噂の真相」特別取材班(笑)!なんちゃって、私も今回は「〜の陰謀」症候群ですね(笑)。しかしこれが氷山の一角にすぎず、よその道府県警や警視庁(東京都)も同じようなことをやっているとしたら怖いですね。でも、神奈川県警がよそに比べて特に悪質だなんて、幹部が定期的にいろいろな県警を渡り歩いている現状を考慮すれば、ちょっと考えられませんから、同じような体質である可能性は十分ありますよね。やっぱポリは国家公認のやくざなのかなあ。ポリにたてつくと怖いぞ〜、ということを今回の事件は暗黙に示しているということか。そして、ポリは国家を支配する官僚組織の親衛隊であり、組織防衛のために絶えず人々を恫喝して回っているということか。結局、暴力を行使できる立場になるとみんなやくざ体質になるということですか。いずれにしても、今回の様々な不祥事がたまたま偶然に発覚が重なった、なんていう説明ではちょっと納得できないですね。 11月13日ひぃ〜らせ大活躍っ!!2ゴール1アシスト!!しかし、あんまり調子に乗りすぎて後半キーパーと1対1になったときに足がつってやんの(爆笑)。ひぃ〜らせまぬけだぜ〜!!まあ、タイ戦は消化試合だからそんなに力まなくてもいいのにねえ。こりゃ、誰かさんに下手だと言われたのがよっぽどカチンときたのでしょう(笑)。それで、だ〜れだ〜、ぼくちゃんのぷれえをけなすやつは〜、ぼくちゃんだってほんとはうまいんだじょ〜、と思いっきりプレーで自己主張してましたね。しかし2点目のゴールは、ディフェンダーとキーパーを振りきってカッコつけてもったいぶって余裕くれて華麗にゆるいボールでちょこんと蹴ってそのままゴールに転がる予定が、雨でぬかるんでいて、途中で止まりそうになってあわててボールを追いかけていって(笑)、しかしボールに追いついたときはすでにゴールマウスの中でした。ひぃ〜らせぶざまだぜ〜!!北嶋のゴール欲しさの空回りも笑えましたけど、やっぱ今回も主役はひぃ〜らせでしたね(笑)。11月12日1990年代を総括したりして、いったい何が言えるのかなあ?......やっぱ、つまらないからやめておきましょう(笑)。じゃあ、90年代がつまらないから80年代でも総括しますか?この時期に?まさに90年代が終わろうとしているこの期に及んで?あほらしいですね。それじゃあ大げさに20世紀でも総括しますか?でも20世紀はあと一年残っているし中途半端ですね。結局何も言えませんね(はじめからそう思っていました、予定調和です)。年代を10年や100年で区切って何やらもっともらしく時代を語っちゃうサブカルチャー系の人ってダサイよね(なんじゃそりゃ!)。だって社会科の先生みたいじゃん(そうか、社会科はサブカルチャーだったのか(爆笑))。今を生きている自分にとっては、10年前だろうが20年前だろうが100年前だろうが、すべては過去に属する領域なんだよね。そして10や20や100という数字は過去という座標軸の単なる目盛りにすぎないし、単に何年前に何が起こったかを示す目印でしかないよね。そこに取り立てて数字以外の意味や意義は見いだせません。例えばこの10年間で何か残ったかといえば、10年分の過去が蓄積されただけでしょう。今後の10年間でまた10年分の過去が蓄積されるのと同じことです。90年代や80年代に変な思い入れをしている人って、ようするに数字フェチなんだよね(意味不明か?)。もしかして学生時代に数学が大の苦手で、その体験が数字に対して変なコンプレックスを抱かせることになり、それが高じて「なんとか年代教」という宗教にまで発展したんじゃないのか(さらに意味不明か(笑)?)。いや、「なんとか年代病」とも言えるかな?今ではそういう宗教や病気自体が時代遅れを象徴していますね。 昔NHKで「70年代われらの世界」なんていう番組がありましたが、〜年代とか〜時代とか言ってそれを顕揚する態度というのは、お国自慢と同じ種類の年代自慢や時代自慢であり、実際に自慢している奴らは自分がその時代や年代の主人公(あるいは作者)だと勘違いしているにすぎないのであり、過去という座標軸の中で区切りの良い目盛り(10とか100とか)と目盛りの間に勝手な物語を挿入して、それを自分の時代だとか年代だとか自慢しているわけですが、その自慢している対象が80とか90とかいう単なる数字でしかないところが超間抜けです。いったい数字を自慢してどうするのでしょう、まったく空虚な物語ですね、しかも自分が数字を自慢しているという自覚がないんだから哀れだよ。もっとも、当の本人は、何か雰囲気みたいなものを自慢しているつもりなのでしょうけど。 11月11日しかし「批評空間」の巻末に載っているジャック・デリダの「弔鐘」は圧倒的だよね。こりゃ、単行本になったら絶対に買いますね。これを読むと、これのすぐ前に載っている阿部和重の連載小説「プラスティック・ソウル」なんか読む気がしなくなるんだよね。それは、阿部の「プラスティック・ソウル」が小説としてつまらないとかそういう次元ではなく、昔ながらの小説という文学形式そのものに、デリダの「弔鐘」が圧倒的に勝っている感じなんだよね。たぶん他のどんな小説をもってきても、小説そのものの形式がハンディとなって「弔鐘」の前ではかすんでしまうような気がします。強烈な最先端芸術の前では伝統的なものは総じて色あせて見えるものなのでしょうね。阿部の小説だって、普通の文芸誌に掲載されてその道の権威の批評家が絶賛すれば、それなりに話題作になるような気もしますが、いかんせん掲載されている場所が悪いよね(笑)。デリダの前じゃかわいそうだよ。しかしデリダって大学で哲学とか教えている人なんですよね。そういう人がこんなものを書くところが日本の常識からは思いっきり逸脱していますね。......あっそうか!日本でも変態おやじが東大の学長とかしてましたっけ(爆笑)。11月9日なんだ、よくわかりませんが、LASER5 Linux 6.0で日本語でgEditが使えるようになりました。今、gEdit+ATOK12を使ってこれを書いているんですが、結構きれいに見えますね。ワープロソフトのdp/NOTEより良いかもしれない。でも、なんで半角スペースがEnterみたいに改行されて表示されちゃうのだろうか(これについては設定項目の単語の次行送りをonにしたら解決しました(11/10))。それに、なんで最初はgEditでこのファイルが表示できなかったのだろうか。もしかしてアップデートパッケージを入れたから表示できるようになったのだろうか。それとも、今日ワークステーションインストールで再インストールし直したからなのだろうか。まあよくわかりませんが、とりあえず使えるようになったからいいか(笑)。しかし、今だにFreeBSD(98)とLANがつながらない(笑)。両方ともネットワークカードは認識できるんですが、pingが通らないんですよね。どうもまだ設定がわかっていないみたいです。はあ〜、むずかしいなあ〜。もう一台サーバ用にちゃんとしたマシンを買おうかな〜。ま、どうなることやらです。 また、どうやらgEdit+Wnn6では、かなが漢字に変換できなくて使えないようです(もしかしたら何か設定したら使えるのかな?)。今のところWnn6はdp/NOTEでしか使い道がありませんね。ATOK12のほうはそのままでNetscapeでも使えそうです。それでも、デスクトップでATOK12を有効にしておいてもdp/NOTEはWnn6で、またemacsはCannaで固定されていますから、gEdit+ATOK12またはdp/NOTE+Wnn6またはemacs+Cannaで棲み分けができているので別に不都合はないですけどね。 11月8日今ちまたで話題の商工ローンの日栄に関するニュースを見ていると、昔(ほんの数年前)バイトをやっていた警備会社を思い出しますね。日栄では無理な営業ノルマを課して社員を奴隷同様にこき使って、ノルマを達成できなかった人は次から次へと使い捨てていたようですが、警備会社でも無理な仕事(日勤夜勤5連チャンとか)をやらせてバイト(現場の警備員はバイトだけ)を使い捨てにしていたんですよね。まったく奴隷のような扱いでした。そして当然のようにそういう扱いに嫌気がさして次から次へとバイト(正確にはパートタイム労働者とでもいうんですかね?)はやめていきました。しかし、警備会社には次から次へとまた新たなバイト志願者が面接にやってきました(笑)。たぶん日栄でもそんな扱いを受けていても、高収入を目当てに次から次へと新人が入ってくるんでしょうね。これが労働の現実なのか。それでも私は3年ぐらい続けたのかな。ほんの数年前の出来事なのに、今では遠い過去の記憶になってしまいました。そういえば阪神大震災の時も、会社が火事場泥棒よろしくどさくさに紛れて大阪支社と神戸支社を開設して(笑)、バイトを派遣してタコ部屋に監禁して(爆笑)、現地の復興工事現場で交通誘導をやらせていたんですよ。私はうまく立ち回って3日で帰ってきましたが、なかには大型ダンプを誘導していてそのダンプカーが近所のおばあさんを轢き殺してしまい、車両誘導責任を問われて刑事被告人になってしまった悲惨な人もいました。そうだ、もう一人刑事被告人になった人がいて、その人は崩れた高速道路の高架で通行止めをやっていて、工事関係車と間違えて一般車を通してしまい、その車はしばらくして高架から真っ逆さまに落ちていったそうです。しかしそういう悲惨なことが、陰ではバイト仲間の間で笑い話になっていました。ばあさんがダンプに轢かれたとき、プチプチプチと音がした、とか言ってはみんなで大笑いしていましたね。まったくひどい奴らです(笑)。 そうですね、私がそういうやばい仕事をやめた理由は、まあいろいろな要因が重なったことではあるんですが(日勤夜勤の連続で疲れていたことやある程度お金が貯まってきていたことなど)、直接のきっかけは、山手線の田端付近で列車見張り員(黄色い服を着て旗をもって線路の横に立っている人)をやっていたとき、列車が間近にきていて私がメガホンで警笛を鳴らしているのに、一人の作業員が鉄骨を担いで線路に重なる位置で列車に背を向けて歩いているのです。そのときは間一髪列車がくる前に作業員が線路から離れたので事なきを得たんですが、その人は私に向かって、あぶねーじゃねーか!ばかやろう!とぎゃーぎゃー怒鳴るのです。そのとき、こりゃあ、いつかは自分も刑事被告人だな、と思って、それから程なくしてバイトをやめました。たぶんそのときやめて良かったんでしょうね(笑)。 11月6日おお、シドニー五輪出場決めちゃいましたね、サッカーの日本代表は。1点ビハインドから巻き返せるところが強いよね。終わってみれば3−1でカザフに勝っちゃいました。前半にセットプレーから1点取られたときは、実況の人が悲壮感を漂わせたりして、正直言ってこのままズルズル行っちゃうような気がしましたが(でもこれに負けても次のタイ戦に勝てばいいので大したことないような気もしたんですが)、後半の最初から本山を投入したとき、ああそうか、この手があったのか、と、TVを見ていた私は平常心を取り戻しました(笑)。そうだよね、うまい奴を後にとっておけるチーム状態なんだよね、今の日本は。それで、ちょっとうまい奴が出てきてカザフの守備にも迷いが出たような感じがしました。それで、あんまりうまくない平瀬に立て続けに決められちゃったんじゃないんですかね(笑)。まあ、中田のヒデや中村のパスが正確だからあんまりうまくなくても背もある程度高いし、ゴールが決まっちゃうのかもしれませんがね。でもそれなりにいい動きをしていたんだから平瀬もほめなけりゃいけないかな(笑)。ま、FWはあんまりうまくなくてもとりあえずゴールを決めればいいんだよな。それが得点感覚と言われるものなのかな?こうなると、ちょっとうまいけど得点感覚のない柳沢はたいへんですね(笑)。それにしてもカザフのキーパーは、点を取られる前と取られた後では、まるで別人のように動きが悪くなっちゃいましたね。点を取られるまでは素早い飛び出しで確実にボールの飛んでくる方向に反応していたのに(中田のフリーキックを止めたときはかっこよかった)、平瀬にやられてからはなんか精気が感じられなくなりました。そしてトドメのトドメの中村のフリーキックのときは、ただただ呆然と立ちつくすのみでしたね。もしかして、ゴール前で中田と中村がにやにや笑っている態度に衝撃を受けたのかな。弱冠18歳の若者には、あのような状況での東洋人の笑い顔は初体験だったのかも(笑)。11月4日驚くべき体験、そんな体験とは無縁だ。物事は移り変わって当然だろう。そこで罵りの言葉を吐くべきなのか。もう誰も歌わない。すべてのしがらみを断ち切って放浪の旅に出たいものだ。安易な願望だ。それは歌われる物語だろう。汚れた真実の道だって?そこで君の勇気を試す。そんな安易に勇気が試されるのか。歌の中ではすべてが安易だ。そんな安易な断言。現実と断ち切れているのだろう。まさに放浪の旅のかわりに美しい歌がある。愛と冗談が倒置される。岩のように動かない。どういうふうに?なにが?ただ岩のように動かないだけだ。なにもない。川の蛇行から道の蛇行が生まれる。途中でとぎれることもある。それが汚れた真実の道ということか。地平線上の太陽はありきたりだ。だが水平線上の月には滅多にお目にかかれない。もしかしたら難破船で漂流すれば出会えるかもしれない。それに意味はない。ただ月が見たいのだろう。太陽に目を焼かれて盲目となった晩年のガリレオを思う。砕け散った炎と盲目の光、それが神からの報酬だったのだろう。それが美しいロマンの正体だろうか。ガリレオ本人ではなく、彼が盲目となった物語が美しい。彼ではなく物語がロマンなのか。ただ「神からの報酬」という表現にロマンを感じるのかもしれない。盲目となることは美しい。それは、そう言う人が現実の盲目ではないからだ。実際に盲目にはなりたくない。だから「美しい」と言って「盲目」という言葉それ自体の現実を突き放す。しかしロマンに対する信仰と情熱には盲目的につき従う。「美しい」という価値判断が彼を盲目にする。驚くべき体験とは、盲目ではないのに盲目となることかもしれない。目が見えるのに盲目となる。11月2日いや〜、5年ぶりに運転免許証の更新に行って来ました。そしたら、なぜか受付の人が私にだけ電話番号を聞いてきたので、不意をつかれて自分の番号を思い出せずにしどろもどろになってしまいました(笑)。自分で自分の電話番号にかけることって滅多にないから普段はまるで自分の番号なんて忘れていますよね。しかしなんで私にだけ電話番号を聞いてきたのでしょうか。やっぱ、怪しい奴と映ったのかなあ(爆笑)。でも視力検査で一番小さい記号がよく見えずに間違えたときはもう一度チャンスを与えてくれたから、それほど私に対する不信感や不快感はなかったみたいですけどね。しかし、あらためて新しい免許証の顔写真を見ると、5年前と比べてずいぶん老けた感じです。まあ、5年前は5年前で、さらに3年前の免許証の顔写真と見比べてずいぶん老けたと感じたものですが、そうなると、あと5年後の41歳目前の顔写真はどうなってしまうのか考えただけでも憂鬱な気分になってしまいますね。こうやって、気がつかないうちに着実に年を取っているということですか。10月31日どこからかメッセージが届く。何のメッセージなのだろうか。どんな内容なのか。はっきりとはわからない。いつもぼやけている。しかしどこからかやってくる。これはひとつの指令なのだろうか。でも命令にしては強度がない。強制も感じられない。しかしこれは指令というほかないメッセージだ。だが伝言を伝える使者が見えない。誰が使者なのかわからない。しかし何かを伝言しているらしい。使者もいないのに何かが伝わる。何かを促されている。やらなければいけないらしい。何を?わからない。しかし、やれ、という指令だ。どうやるのか。ただの、やれ、だ。そうとしか認識できない。本当は別の内容だったりするのだろうか。わからない。しかし、やれ、以外感じ取れない。自らの受信能力に欠陥があるのだろうか。それもわからない。他人がこのメッセージをどう受け取っているのか想像できない。そもそも自分以外にもこれを受け取っている人間が存在するのだろうか。いや、人間だけではない。例えば、石とかはどうなのだろうか。石が転がる時に、この、やれ、という指令を受けているのだろうか。しかしこれも想像の域を出ない。だが感覚的には石が転がるようにやらなければいけないらしい。なぜ石は転がるのだろうか。地面に傾斜があるから自然と転がる。地上の石は絶えず地球の中心方向に引き寄せられる。だから高い方から低い方へ自然と移動する。しかしこれでは自発的な、やれ、ではない。ただ単に重力の力で動かされているだけだ。ではそれが、やれ、の正体だとすると、自分は何か勘違いしているということか?自発的だと思っていた行動が、実は見えない何かによって動かされていただけだったのか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。指令によって動くのだから、受動的であることは免れ得ない。しかし、やれ、と命令されて、やらなかったら?それは、やらない、をやったことになる。それもひとつの、やれ、に従ったことになる。それが重力の本質だろう。命令に逆らえないのではなく、逆らうことも命令に従ったことにされてしまう。どちらでもいいわけだ。どっちにしろどうあがこうと、やれ、を遂行する仕組みになっている。それが重力場の時空間なのだろう。もうただやるしかない、ではなく、すでにやってしまっている。取り返しがつかない。10月29日例えば、素朴さが美徳であったり、簡潔で明快な表現が売りであったりすることって、結局何を主張したいのだろうか。要するに中身は不問にしてほしいということなのかなあ。わかりやすいということは、どのような意味でわかりやすいのだろうか。誰もが容易に理解できて、その内容に誰もが安心するという意味でわかりやすいのだろうか。では、具体的にどのようなものがそれに該当するのだろうか。一言で言えば、毎度おなじみということなのか。でもそれはかっこわるいよね。毎度おなじみじゃなくて、なおかつわかりやすさを追求できないものかなあ。わからないね、それに中身と表現形式を分離して考えるのはちょっと虫が良すぎるかな。同じものを別の側面から見て間接的に述べているだけかもしれないからね。でもその中身と表現形式に反映されているもの自体を直接述べることはできないのだろうか。結局それについて言及することは、ある時はそれの中身(意味)について述べたり、またあるときはそれの表現形式(記号)について述べたりしているだけで、単に言葉によってそれ自体の周りをぐるぐる回ることしかできないような気がします。それを直接述べるのは技術的に不可能なのかなあ。まあ、すべてを技術(テクニック)の問題に還元するのはちょっと抵抗があるけど、でも技術は重要だよね。それがないと中身を表現できないものね。しかしそれを表現して公表しようと決断するときは技術とは関係のない次元で決断しなければならないけどね。なぜこんなものを表現して公表しなければならないのか自分ではよくわからないよね。はたしてこんなものに自分自身が明確に断固として表現し公表しようと決断しているのか自分ではよくわかりません。自分はその時々でどのような判断を下しているのだろうか。これについてはまったくの謎です。わかるのは判断を下した結果でしかありません。やはり自分は自分をわかっていない、自分を知らないということなんですかね。しかし今まで自分は様々な状況で、その二度と取り返しのつかない様々な選択や判断や決断をやり続けて今に至っているわけです。考えてみれば恐ろしいことです。しかしその恐ろしいことを今まさに執り行っているわけで、しかもそれが死ぬまで続くのです。やはりこれはどうしようもないことです。10月27日おかしいね、数年前のペルーの武装勢力による日本大使公邸占拠事件の時も、いわゆる「危機管理」が盛んに叫ばれていましたけど、今回のキルギスの武装勢力による邦人誘拐事件でも同じような論調でしょう。じゃあ将来また海外の日本人が同じような事件に巻き込まれたら、国内で「危機管理」が叫ばれちゃうわけですか。これでは、海外の邦人は、まったく事件から何の教訓も導き出せずに、今後も同じような事件に巻き込まれ続けるような気がしますね(笑)。それでも通用するからいいのか、何かが起こるたびに国内で盛んに「危機管理」を叫んでいれば、それで「危機管理専門家」がつとまるなら楽なものです。こんな調子では、実際に戦争などが起きてみても、今、有事がどうたらこうたら煽って商売している「なんとか専門家」のみなさんは何の役にも立たないんでしょうね。しかしまあ、「なんとか専門家」のみなさんは、何かの役に立つ立たないの基準で評価してはいけないのかもしれませんね。彼らは、すでに起こってしまった出来事について、自らの専門分野内の知識に基づいて分析して説明するのが主な仕事なんだから、その説明がいかに説得力を持つか否かで評価すべきなんでしょう。占い師や預言者じゃあるまいし、未来に起こるかもしれない予測不可能な未知の出来事までは責任持てませんか。その意味で、安易に予想や予測を多用する(それを商売にしている)専門家は信用できないと思います。当たり前ですが、専門家は万能ではないし、彼らの言うことは参考意見程度のものでしかなく、あくまでも最後は自分で判断しなくてはいけない、となりますか。所詮コンサルタントはコンサルタントでしかない、です。おやおや、今回はまっとうな結論に達しました(笑)。 10月26日見果てぬ夢に押し流されて、現実を見失い、夢破れて落胆し自暴自棄になり、何もかも捨て去ったつもりで、その打ち拉がれた喪失感から甘美な陶酔を得る。しかし現実はそんな状況にない。夢に陶酔する暇がない。そして大人には夢の代わりに趣味道楽がある。その夢の代用品で我慢する。趣味は去勢された夢だ。酔狂な道楽は夢の後退した姿だろう。有限の手に届く範囲内での慰みや気晴らしや憂さ晴らしとなる。見果てぬ夢からはほど遠いみすぼらしい掘っ立て小屋だ。そして、今度はそのこじき小屋の中から夢を馬鹿にしにかかる。見果てぬ夢とは何だろう。世界征服か?それはギャグだ。子供ではないから夢など必要ない。これは楽だ。ところでこんな嘘八百はおもしろいだろうか。リアリティなど端から期待していない。もうこれ以上夢に関するバカ話にはつきあいきれない。酔いとは無縁である。したがって夢は見ない。恐ろしい断言、脈絡がない、筋もない、必然性などない。しかし覚醒しているわけでもない。夢を見る自己がないのと同様に覚醒している自己もない。自己など存在しない。自分など知らない。では何がある?何を知っているのだ?何もない。何も知らない。何とでも言えるだろう。やめるさ、飽き飽きだ。誰も知らない夢に制御されている。ゼロ点からのコントロールを誰も感知できない。空っぽの夢だ。虚ろな目をしながら空っぽの夢に操られ漂う人々。夢遊の人々。何を追い求めているのか誰もわからない。ただ右往左往するだけ。そんな人々を夢見る。 10月24日まあ、ここで何をどのように書いても別に誰にとがめられるわけでもないでしょうし、書きたけりゃ勝手に書けばいいのだけれど、とりあえずは読んでわかるような文章にしたいと思ってはいるんですけど、なかなか現実にはうまくゆかず、思いとは裏腹に訳の分からない変な表現に行き着いてしまうことが多々あります。抑圧された感情が思いもよらぬ時に吹き出す瞬間を想像し、そんなメロドラマ的帰結に退屈しつつ、そのような瞬間を招いた原因としての厳密には語り得ぬ無意識の内容を知ろうと試みる。それは不可能なのか、知り得ることは意識的に制御された言動のみなのだろうか。いや、それすら不完全にしか知り得ない。ただ、功利的なディベート術として、時と場所を選んで効果的な発言を行使する方法を模索することは、ある程度は有意義だろう。そんな妥協策が存在するだけだ。 無限の選択肢の中から自己が認識可能なものだけを選び出す。それがありふれた方法であり、そこから月並みな分析・解析が行使される。そのような日常性から容易には抜け出せないだろう。それどころか、そこから抜け出そうと試みることが、これまた退屈な「自分探しの旅」へ逢着してしまう。結局これもメロドラマ的帰結になる。日常性からの遊離を試みることがまた新たな日常性に出会うことになる。 非日常的体験に自分からは決して近づき得ない。それに近づこうとすることは、自意識の馴致を経て非日常性を日常性に近づけることになるだろう。そしてその周りをぐるぐる回りながら、つかの間中心方向をかいま見る程度しかできない。常に決定的な体験を回避しつつ、間接的に非日常に触れたつもりになるだけだろう。直接体験には狂気が伴う。狂気の世界には自意識が耐えられない。真の世界は、様々な制御装置を通して観察することが可能なだけだ。それを直接体験した者は狂う、そんな世界でしかない。別に体験するには及ばない、それは観察対象でしかない。それ以上を望む者は狂う、ただそれだけだ。 10月21日はははは、自由党の“さぴおクン”が防衛政務次官を辞任しちゃいましたね(笑)。なんでも普通の一般人にはまるで興味がなく、相手が強姦者じゃないと本気で自己主張できない、という変わった性格の持ち主で、また、国会議員として無人島の尖閣諸島に視察に行って、日の丸掲げて英雄気取りだったりして、でも結局は西洋かぶれの民族主義者らしいですが、なかなか支離滅裂なおさわがせ野郎で得難いキャラクターでしたね。オブチンソーリも惜しい人材を亡くして、さぞやお嘆きになっていることでしょう。自衛隊も故人を偲んで彼を栄誉礼で送り出したそうです。え?まだ死んでいない?いいじゃないですか、ちょっとした間違いなんて気にしない気にしない、彼を故人と見なした方が文章がおもしろそうなのでそうしたまでです、別に他意はございません。しかし「核武装発言」がそんなに問題なのかなあ。タカ派(ホークスファンじゃないよ)の防衛族議員なんて、みんな日本は核武装すべきだと思っているんじゃないの。それがたまたま表に出ただけで、なんでそんなに感情的になって彼を非難するのだろうか(広島や長崎の被爆者までかり出して)。中でも「非核三原則は日本の国是」なんていう原則論を持ち出して批判している人って、なんか変だよね。だってその国是が在日アメリカ軍には適用されないのは周知の事実でしょう。何か大事なことを「たてまえ論」にスリかえているような気がしてならないんだよね。 問題なのは、国会議員が強姦するしないといった水準でしか物事を思考できないアホさ加減にあると思いますけどね。貿易や通商交渉をすっ飛ばして、いきなり軍事力(暴力)の行使しか頭にない馬鹿をこのまま国会議員にしておいていいのかなあ。彼が敵視している中国や北朝鮮に対する政策だって、経済抜きには何も有効な政策は考えられないと思うけどなあ。防衛族議員は軍事的な国土防衛のことだけ考えていればいいなんて、いったいいつからそうなったんですかね。ま、穏便な紋切り型を使うなら、国会議員はもっと広い視野で物事を考えて一般人からも尊敬されるような発言をしてほしいよね。また、ウルトラ右翼的発言をすると、てめえ!今、神国ニッポンを属国扱いにしてやりたい放題のヤンキーの白ブタ野郎(鬼畜アメリカ)の悪行三昧は放っておいて、チンピラチャンコロやバカチョン相手ににケンカ売っていきがっているんじゃねえ!てめえなんか右翼の風上にもおけねえゲス野郎だよ!となりますか。え?こういうこと書くとちょっとやばいか? 10月19日寒いなあ、先週まではまだ夏だったのに、今週はいきなり冬だよ、秋がないよ秋が(笑)。おかげで風邪を引いてしまいました。なんだかここ数年の関東周辺は変な気候になっちゃったなあ〜。やっぱ世紀末だからか?ま、それとこれとは関係ないかな。しかしもうすぐ西暦2000年なんだよね。だからって別に何が起こるわけでもないみたいだけどね。ちょっと退屈ですね。ノストラダムスの大予言には思いっきり裏切られたし、あとはせいぜいコンピュータの誤作動だけが残されたかすかな期待ですか。しかしそれも期待はずれに終わったら、大事故大災害を期待しているイベント好きな人はいったい何を糧にして生きていけばいいのだろうか。まあ、あまり変わり映えのしない退屈な21世紀の日常を生きていくためには、とりあえずは電車の中にある週刊誌の大げさな中吊り広告や、スポーツ新聞の誇大妄想記事程度でお茶を濁すしかないですか(笑)。そうですねえ、あらためてこの二千年という時間について考えてみると、ジーザスだとかイエスだとか呼ばれる人が生きていたとされる二千年前には、すでにメソポタミア文明は約三千年続いて滅び去ってから数百年たった後だったし(インダス文明に至っては滅んでから千年以上たっていた)、エジプト文明も約三千年間続いた最末期だったんですよね。そういえば、そのころにはギリシアもローマに占領されちゃっていたし、これらの地域ではもうすでに「世界の終わり」であり、いわゆる「末法の世」を体現していたということですかね。それはローマの圧政に苦しむパレスチナの地でも同様だったみたいで、ユダヤの人々は乱れた世の中を救うとされる救世主の出現を待ち望んでいたわけですか。それで煽動者のイエスがキリスト(救世主)に祭り上げられちゃうわけですね。そんなことがあってから約二千年経過して、かつてのそういう脈絡とはほとんど関係のない日本で、西暦2000年についてぐだぐだこんなことを書いているわけです。まるでリアリティがないです(笑)。やっぱ今の日本でくらしていると、歴史の傍観者でしかないですかね。まあそういう無責任な立場は気楽であることは確かですけど。 それでこの間、雑誌広告で見かけたんですけど、サピオとかいう雑誌は、中国を仮想敵国に見立てて、日本・韓国・台湾それにインドを加えた新たな「大東亜共栄圏構想」をブチ上げているようでしたが(爆笑)。まったく、外ではアメリカの顔色ばかりうかがっているくせに、国内ではこういう誇大妄想によって歴史の主人公になる夢を抱いているんだから、なんだかおめでたいというか、こういうおそまつな人達っていつの時代でも存在するということなのかな(笑)。 10月17日サッカーの五輪代表はタイにも勝っちゃったね。タイはちょっと格下だったね。これを言っちゃまずいのかもしれないけれど、選手の背が低いのが致命的だったような気がします(昔の日本みたい)。前半はよく守ったけど、後半開始早々日本に1点取られてからは疲れがどっと出たみたいで、立て続けに点を取られちゃいました。その時点でゲームオーバーだったね。その後のゲーム展開は付け足しみたいなものでした。それが引き気味に守る引き分けねらいの格下チームの悲しいところですね。タイってそんなに攻撃力がないチームなんだろうか。ちょっと過剰に守りすぎだったような気がしました。まあ、それが最後まで通用して0−0で引き分けたら、それはそれでおもしろかったですけど(笑)。ま、現実にはそれが通用せずに均衡を破られちゃったわけだから、やっぱ歴然とした力の差があったということかな。しかし、中継は日本テレビで見ていたんだけれど、解説のセルジオさんは前半は日本の出来が悪いと散々文句を言っていたけれど、日本が1点取ってからは態度がガラッと変わって、今度は一転ほめ始めたのには笑いました。そりゃあどんなサッカーチームだって、長く続いた0−0の均衡が破れた時点で選手の動きも変わって当然でしょう。まあ、点を取った方はやったと思って動きがはつらつとしてきて、取られた方はガクッときて動きが鈍くなるということでしょう。しかもタイの場合は、引き分けねらいで点を取られたんだから、そうなるのは必然なんじゃないかな。 10月15日近頃の話題といえば、パキスタンの軍事クーデターですか。昨年からの、核実験とかやって自国の軍事力を隣国のインドに誇示したり、カシミールで武力衝突したりした挙げ句の果てが自国内でクーデターですからね。結果的には他国に向けた自衛のための軍事力が国内に向かって発揮されたわけで、まあ自業自得なんですかね。ところで、憲法改正して日本も正式に軍隊を持つべきだとか叫んでいる人たちは、今回の事態にはどのような感想を持っているのでしょうか。日本は民主主義が発達した先進国だからパキスタンのような事態は起こらないってか?でも起こらないはずの放射能漏れ事故もありましたね(笑)。 そういえば日本国内では、相変わらずの防衛庁の燃料調達にまつわる大手石油会社の談合疑惑がありましたね。ようするにこの間の機材調達の時と同じく、納入価格を水増して税金の無駄遣いに貢献しちゃったわけで、まあ国民無視の姿勢はパキスタンの軍部とそれほど変わりませんね。まったく誰のための自衛隊なんですかね、まさか石油会社にも天下り先を確保しているんでしょうか。 もっとも一概に国民無視の姿勢といっても、パキスタンの場合は、正確には民主的な議会制度の無視であって、ニュースに出てくるパキスタンの一般市民の声は、政府がだめだからクーデターが起きてもしょうがない、といった声が多く、パキスタン人自身が民主的な議会制度自体をあまり重視していないようなのですが。もちろん意図的に軍部の支持者だけがインタビューに答えているのかもしれませんがね。 それで、今回のパキスタンの場合や、あるいはミャンマー(ビルマ)の軍事政権、また、古くは韓国の軍事政権とかスペインのフランコ独裁政権などから考えると、民主的な議会制度なんかなくとも国家そのものは維持継続されるものなんですね。ミャンマーの場合は軍部独裁になってからもうかれこれ十年ぐらいになるし、スペインや韓国に至っては数十年続きましたからね。その間一般市民も独裁政権にたてつかない範囲内でとりあえずは普通の生活を送っていたわけで、国民の意思を国政に反映させるための議会制度は、国家側から見ると必ずしも必要とはいえないものみたいです。 国家にとって必要なのは、人々を支配するための官僚機構と、制度としての官僚機構を円滑に機能させるための法律です。実際今度の石油会社の談合も、納入業者が談合して一定価格で燃料を安定供給してくれた方が防衛庁や自衛隊にとっては好都合だったから黙認していたわけで、そこに税金を搾り取られている一般市民の意志など入り込む余地などないわけです。その意味で、防衛庁と自衛隊が守っているのは断じて国民などではなく、彼らは国家そのものを守っているのです。 10月13日ついに先週PC9821XsからWin95を消してしまいました(Hページのアドレスもいっしょに消してしまって、かなりもったいないことをしてしまった(爆笑))。それでその代わりに、ハードディスク全面に、以前買ったUNIX雑誌の付録CD-ROMからFreeBSD(98)3.2R-Rev01を入れてみました。そしてウインドウマネージャはというと、どうもFreeBSD用のGNOMEはちょっと腐っているようなので(ウインドウの上についているはずの、閉じるボタンとかがついているバーがない)、KDEにしてみました。で、結局見てくれはWinと大差ないですね(笑)。問題は使い方がまだよくわかっていないということです。ま、気長にちょっとずつ使っていくうちにだんだんわかってくるでしょう。また、今これを書くのに使っているLinuxマシンの現状はというと、いろいろGNOMEのデスクトップをいじってしまって、ふざけた起動音やら間抜けなクリック音がするようになってしまいました。まったく、結局Winを初めて入れた頃と同じような馬鹿げたことをやっています。ようするに使っている人間がアホだからこれもWinと大差ないですね(笑)。まあ、デスクトップをMacそっくりにも簡単にできるんですが、どうもLinuxにはMac風デスクトップは不自然に見えます。自分の先入観としては、どうしてもLinuxのデスクトップはWin風が似合って見えるんですよね。やっぱこれは、RedHat系のベンダーが、そろいもそろってみんなマイクロソフトの猿まねのOS商売をやり始めたことと関係があるのかも知れませんね(笑)。まあこれは、現実にそのOS商売の格好のカモになっている私自身の実感ですから、結構真実味があるような気がするんですが(爆笑)。 10月11日そういえば最近久米宏がニュースステーションに出なくなったんだよね。「噂の真相」の「週刊誌記者匿名座談会」によると、表向きは長期休養だけどそのままやめちゃうんじゃないかと推測しているようだけど、やめたほうがいいでしょうね。もうオピニオンリーダーみたいな奴はいらないよ。もう誰もテレビで政府自民党批判なんかしないでほしいね。ちょっと古い言い方だけど、テレビなんかすべてノンポリでいいんだよ。どうせTV局の上層部は放送事業認可の権限を持っている郵政省には逆らえないんだから、馬鹿な視聴者に、ニュースキャスターの一言で世の中が変わるかのような変な期待(錯覚)を抱かせないためにもノンポリに徹するべきだし、その意味で久米は必要ないね。だいたい政府自民党批判なんて「噂の真相」と「週間金曜日」だけでやってればいいんだよ。その他のメディアは、大体がひも付きだったり変なバイアスがかかっている場合がほとんどなんだから(自民党反主流派経由とか)、そういうのはいっさいやめてみんなノンポリにすべきだよ。それで、また前々から主張していることを繰り返すと、ちょっとしたことでいちいちぎゃーぎゃー騒ぎ過ぎなんだよ。例えば、自民党総裁選?そんなもん知らなねーな、民主党党首選?何それ、選挙?うるせー!一般市民はこんなんでいいんじゃないの。実際大多数の人はそんな感じだと思うけど(笑)、それを政治的無関心なんて憂えてみせるのはもううんざりだよ、もうワンパターンの予定調和はやめてくれよ。それに、通りすがりの訳知り顔の馬鹿がやる政治批判なんかいちいち取り上げるんじゃねえ!百害あって一利なしだよ。そんなもんを無批判に流すから、その程度でいいのかと勘違い(共感)する奴らが増殖して、全体のレベルが下がっちゃうんじゃないのか。寝た子を起こすな、馬鹿をさらに馬鹿にしてどうするんだ。だからそういう最悪なこと(中途半端な批判)はいっさいやめてノンポリにすべきなんだよ。やっぱ今のテレビじゃまともな批判をやる環境ができていないよね。10月9日へー、サッカーの五輪代表は結構イケてるじゃん。対カザフスタン戦を見ていてなんだか久しぶりに感動しちゃいましたよ。ふ〜ん、稲本ってあんなこともできるんだ。中田のコーナーキックをいとも簡単に合わせたように見えたのに、すごいゴールになっちゃったよ。確かに後半はカザフスタンに攻められっぱなしで、危ない場面も幾度かあったみたいだけれど、あんまり浮き足立たないで冷静にプレーしていた印象なんだよね。その結果が稲本のかっちょいいファインゴールにつながったと思いたいね。とりあえず、シロートの私には良いサッカーしているように見えました。まあ、結果が2−0で勝ったからそう思えるのかもしれないけれど。それに今の五輪代表は選手層が厚いよね。誰が出てきてもそれなりの仕事ができるような雰囲気がある。でも、その中でも中田のヒデは別格なのかな?こりゃあ中田が出ない試合がどうなるか楽しみだね(笑)。ま、中田抜きでもこんなゲームができれば今の五輪代表の強さはホンモノってことかな(アジアレベルでは?)。そして、このままシドニー五輪の出場が決まって、オノチンとかが復活したら本番でも結構おもしろいかな(笑)。10月8日今ここにある、あるがままの動かし難い現実は救いようがない。そのような受け入れ難い現実を拒否しようとするなら、残された道は、想像上の救済があるだけだろう。すでに過ぎ去った過去に対する恣意的な追憶で救われたつもりになるか、あるいは不確かな未来に向かって救済の可能性を勝手に見いだそうとするか、そんな偽りの解決法しかない。つまり、空想の力で、自分ではどうにもならない現在から逃れようとしているわけだ。しかしそれは、その空想力が現在に結びついていることの証しであり、今現在の追いつめられた状況の反映である。状況を打開しようと一生懸命がんばって必死に努力していることが、却って切迫し追いつめられた状況を如実に物語っている。まさに現実を忘れようと(変えようと)もがき苦しんでいるわけだ。しかし、そのようなヒステリー気味の過剰な悪あがきは救いようがない。ではどうしたらいいのか、自分の思いどおりにならない状況に絶望すること、現実に対して匙を投げること、あきらめること、これが一番楽な救済方法である。しかしそのような敗北では我慢がならないならば、打開の道がないわけではない。嘘をつくことだ。絶望したつもりになること、死んだふりをすること、もがき苦しんでいるふりをすること、ヒステリーを自覚的に演じること、これで救われたつもりになればいい。真の救済など初めからあり得ない。そんな幻想など打ち捨てることだ。演技としての救済があるだけだ。それでも満足できないなら、あとは宗教しかないだろう(笑)。10月7日視覚が一点に収束しない配慮から空間の奥行きが感じられるようになるらしい。全体を見通すことのできない状況が普通の現実となる。誰もツリーの頂点に立って鳥瞰しているわけではない。それは錯覚でしかない。ではそこからどのように行動すればいいのだろう。常に過ぎ去っていく現在に対して何をすべきなのか。過去と結びついた記憶と未来と結びついた期待の狭間で何を為し得るのか。与えられた現実からしか出発できない制限の中で、どのように思考と実践を展開できるのだろうか。たまには立ち止まってこんなことを思い浮かべてみるが、実際は考える暇もなく行動してしまっている。本当は立ち止まっているわけではない。立ち止まることなどできない。その瞬間瞬間が思考と実践の連続だ。現在には時間など存在しない。過去や未来を思い浮かべることで、その過去から現在、または現在から未来への隔たりを想像することで、意識の中で、その都度その想像上の過去や未来と現在との差異として時間という概念を空想しているにすぎない。しかし、便宜上人間は時間という概念が必要なのだ。自己の連続性を保つために、時間という固定した座標軸を必要としている。現在がゼロ点で、そのゼロ点上の自己が、過去というマイナス方向から未来というプラス方向へ連続して移動しているわけだ。また、その時間軸と垂直方向に空間軸なんかを設定すると、いわゆる時空平面とやらが構成される。しかしその時空平面上を自己がたどった軌跡を自分で眺めることはできない。他の誰かが勝手な偏見を通して観察しているにすぎない。つまり自己自体が他人の偏見の産物だ。せいぜい他人を通して想像上の自分を発見するだけだろう。その意味で、自己の確立などという妄想から抜け出さない限り、まともな思考には到達できないだろう。もちろん「まともな思考」という固定した思考は存在しない。便宜的にそう述べたまでで、その都度その瞬間瞬間で思考し実践しているだけだ。10月6日おいおいおい、オブチンソーリが放射能パフォーマンスをやっているじゃん(笑)。放射能漏れ事故現場で、周りの記者が怖がっているのにわざわざガイガーカウンターが振り切れるような場所まで近づいて視察しちゃったりして(15分だけ)、ボクちゃんも今回の事態を深刻に受け止めていて、今後二度とこのような事故が起こらないように、この問題に真剣に取り組んでいるんだよ〜ん、てなポーズを決めていらっしゃる。勇気ある行動ですか〜。いいよな〜、こんなみえみえのパフォーマンスをすれば、夕方のTVニュースで各局がトップでとりあげてくれるんだもんね。あーあ、こんな猿芝居のひとつでまたもやソーリの支持率がアップしちゃうのだろうか。もしそうなったら、ずいぶんとナメられていますね、コクミンのみなさまは。みんなあきれた人たちだな〜。どうやら、こういう事故が起きてみても原発の是非を問う論議には発展しそうにありませんね。そうだよね、チェルノブイリ事故の後もあそこの原発は稼働していたもんね。この程度のことじゃやめられないよね、利権もいっぱい絡んでいることだし。まあいいのかな(笑)。10月5日はははは、やはりレーザー5が説明しているWnn6の不具合に関する対処法のやり方がわからない(笑)。何をどうやればいいのか私にはまるでちんぷんかんぷんだ。それでまたもや自己流で、ようするに、rootにならないでユーザーのままでCD-ROMドライヴが操作できるようにしたらCD-ROM中のシェルスクリプトが動かなくなったそうだから、/etc/fstabの中で、ユーザがFDドライヴやCD-ROMドライヴを操作できるようにしたらしい記述を削除して、代わりにdefaultsと記入したらどうやらうまくいくようです。まあいいやこれで。それで、この間の#! /bin/shを#! /bin/bashに変更した件については、どちらの記述でもシェルスクリプトは動作するみたいで、結果的にはどうでもいいことでした(笑)。 10月5日例えば、インターネットで株取引とかをやる人ってどういう種類の人なんですかね。ニュースなんかを見ていると、いかにも、小金がたまっている管理職、といった風情のサラリーマンみたいな外見の人が、興味ありそうな口調でインタビューに登場しますが(サクラか?)、やっぱ証券会社のほうでもそういった人たちをターゲット(カモ)として設定しているのでしょうか。それで、株取引について前々から疑問に思っていたことがあるんですが、学校の社会科の授業では、株を買う目的は、その会社が発行した株を保有している量に応じて、その会社の利益を分配して払う配当金が目当てだと教わった記憶があります。つまり、結果として、業績の良い会社ほど高配当だからその会社の株を保有しようとする人が多くなり、需要と供給のバランスからその会社の株価が高騰することになる。と、ここまでが学校で教わった知識です。でも、どうやらニュースや特集番組等を見ると、実際の株取引の本質は別のところにあるようなのです。 実際の株取引は、長期的に少しずつ入ってくる配当金などが目当てではなく、短期的なハイリスク・ハイリターンの、値上がりしそうな銘柄を誰よりも早く見極め、いち早く買い、値上がりしたタイミングをねらって売る、そのようなバクチ的側面がことさら強調されているような気がするのですが、それが株取引の鉄則なんですかね。もしそうだとすると、株価が永久に値上がりすることはありえないわけだから、取引によって得をする人もいれば損をする人もいることになり、シロートがそのようなやり方で安易にインターネット経由の株取引を続けた場合、情報収集分析能力に長けた相場師の食い物にされちゃうのではないかという不安があります。もちろん損する人が多くなってくるとお客が寄りつかなくなってしまいますから、証券会社による儲けさせるための助言も多少はあるかもしれませんが、あくまでも自己責任で取引するのだから、絶対に儲かる保証はないでしょう。 そこで思い出されるのがパチンコ屋です。たまに大勝ちさせてくれるが、トータルでは必ず負けている。ごく一部のパチプロは儲かっているかもしれないが、パチンコ屋に利益が出てパチンコ屋が存続していく限り、大半の客はトータルでは負け続けなければならない。最低限機械の維持管理費や従業員の給料分は負けないとパチンコ屋が潰れちゃいます(笑)。どんなに取引の手数料が安くても、証券会社にもパチンコ屋のトータル負けの鉄則は適用できるんじゃないですかね。とりあえず手数料分はマイナスです。こういう考え方は間違っていますか?それともあなたには、インターネット株取引でバラ色の未来が待っている、というプロパガンダを素直に受け入れる勇気がありますか?未来のことは神のみぞ知るですか。 10月4日この間のWnn6のインスト不具合の件ですけど、オムロンのサポート窓口の人によるとOSの不備が原因だそうです。下記のアドレスで説明しています。http://www.laser5.co.jp/Product/L5Linux60/install.htm しかし、この対処法の説明は今のところ私にはちんぷんかんぷんだ(笑)。「エントリ」だとか「オプション」だとかいうカタカナが文章に入ると、とたんに意味がわからなくなります。ようするにexecとういう文字が抜けていたということなのだろうか?とりあえず明日自宅に帰ったら/etc/fstabというディレクトリを見てみよっと。 10月2日いや〜、危うく「彼の声14(voice-14.html)」を消してしまうところでした。今月から「彼の声15」になったので、メニューに新たに項目15を加えるために修正してサーバに送ったところ、これは前々からわかっていたことなんですが、Mac用のNetscape Composerがメニュー・ファイルの中にあるアクセスカウンターに関するCGIの記述を勝手に書き換えてしまい、アクセスカウンターを動作できなくしてしまうので、これをどうにかできないものかといろいろいじっているうちに、誤ってメニュー・ファイルをvoice-14.htmlにFTPしてしまったらしく、今日、Netscapeのブックマーク上で偶然に手をすべらせて自分のページをクリックして(別のページを見るつもりが)、さらにそのとき、偶然にも「彼の声14」を見ようと思い立って、メニューの項目14をクリックしてみたところ、またもやメニューが出現して驚いてしまいました(笑)。それで、いつまでもメニューだけWinのComposerで送るのもまだるっこしいので(すげー遅い)、今日ネット上でMac用のFTPソフトをゲットしました。もちろんフリーのソフトです(シェアは代金を送るのがまだるっこしい、別に買えないわけじゃないんですけど面倒くさいのです、カードを持っていないのがネックかもしれません。まさかPCショップにFTPだけのパッケージなんか売ってないよね(笑))。で、最初にゲットしたのはNetFolderというソフトなんですけど、それのreadmeを読んでいるうちに、NetFolderを動かすためには、さらにDialog DirectorとJons CommandsとmgrepOSAXとTEC_OSAXとFetchをゲットしなければならず、面倒くさいですが順にダウンロードしていったんですが、そしていろいろ設定していくうちに、なんと最後にゲットしたFetch自体がFTPであることに気づいてしまいました。で、いろいろ設定がまだるっこしいのでFetchを使うことにしました(爆笑)。使い方はLinuxやFreeBSDのftpコマンドと変わらないので私にとっては使いやすいです(ドラッグ&ドロップより便利じゃん)。ということで、このファイルをプロバイダのサーバに送れたら一応成功です(笑)。 ひ〜、おもいっきり文字化けだ〜。でも、転送するファイルの種類をいろいろ試しているうちに文字化けしないファイル設定がわかりました。よかった、ほっ。でもその度にNetscapeで自分のページにアクセスしてしまったので、カウンターをひとりで+5も上げてしまった(笑)。 10月2日放射能漏れ事故かあ、いったん事故が起きてあれだけ大騒ぎしてみると、改めてその危険性がわかるんだけれど(大騒ぎさせないように事故隠しなんかされるともっとヤバいけど)、とりあえず原発やその関連施設の周辺には住みたくないよね。やっぱそういう危険なところ(半径10キロ以内)には原発推進派の人たちを強制的に住まわせるべきでしょう(笑)。ま、推進派の人たちもいくら諸手をあげて賛成していようと、現実に周辺には住みたくないよね。入院した人たちは当然これから後遺症やガンが発病する不安におびえながら一生をおくらなけりゃならないわけで、入院していなくても近所に住んでいる人たちにはそういう不安があるもんね。やっぱ原発ってやめたほうがいいんじゃないの(笑)。エネルギー効率は抜群にいいんでしょうけど、常に重大な危険と隣り合わせだもんね。いくら厳しく管理していても、所詮人が操作しているものなんだから、いつかは気のゆるみから事故るような気がするけどね。現実に事故っちゃったしさ(笑)。 |