彼の声149

2022年

3月31日「賢さと愚かさ」

 何もなければ特にそう思うこともないが、人がどうしようもなく愚かなのは、自分が他人より利口だと思うからかも知れないが、利口だと思っている限りで愚かだとは思っていないはずだが、時として愚かさと利口さを兼ね備えていると思ってしまうと、たとえ自らが利口だと思ってみても何の気休めにもならないが、何か日々の生活の中で思い当たる節があるからそう思うのだろうが、単純に利口なのではなく、愚かであることの反対は賢くあることだと思う時もあり、利口であることと賢くあることの違いは何なのかと言えば、利口であることとは弁舌が巧みで口先がうまいことであるのに対して、賢ければ利口である場合もあるだろうが、必ずしも利口でなくても賢い人はいるだろうし、弁舌が巧みでなくても口先がうまくなくても賢い人も世の中にはいるだろうから、そういう意味で賢いとは頭が良かったり知能が優れているのとも少し違って、世渡りが上手かったり機敏に立ち回れる人が賢く見えるはずだが、それと比較して頭が良くても知能が優れていても、世渡りが下手で何事にも鈍重な対応や対処しかできなかったり融通が利かなかったりすると、どちらかと言えば愚かな部類に入るだろうが、利口な人が一見賢く感じられるのは、弁舌や口先の巧みさに関してはそうだが、その内容に知性が感じられなければ愚かさと重なる面も出てくるだろうし、弁舌や口先だけで行動が伴わなければ賢くは見えないし、口先や弁舌だけの人を賢いと感じてしまう人もどちらかと言えば愚かであり、そんな人は賢さの意味を履き違えているのかも知れないが、そういう意味で賢さの意味を誤って理解していても、実際に賢さと愚かさの両方を兼ね備えている場合もあるなら、賢いからこそ賢さの意味を誤って理解している可能性もあるかも知れず、そうなるとそれを誤って理解することが正解となってしまう可能性までありそうだが、普通はそんなのは屁理屈で、賢さと愚かさとは真逆の意味で、また賢ければ利口であり頭が良く回り知能も優れていると普通に思われるはずだが、賢い人も利口な人も頭が良く回る人も知能が優れている人も、大きな失敗を犯したり過ちを犯してしまえば自分が愚かだと思うから、結果的にそう思うことはあるわけで、それが一時的にそうなのか全般的にそうなのかが、愚かな場合はどちらでも言えることであり、そういう愚かさはいつでもそう思われることなのかも知れず、何かしら過ちや誤りを犯し続けるからその度に愚かさを実感するのかも知れないが、その一方で自分が賢いと思ったり利口だと思ったりすることも思い上がりであるように思われるなら、そこでも少しは愚かさを自覚していて、なるべく愚かな結果に至らないように慎重に事を運ぼうとする時もあるだろうが、時には大胆な行動に打って出て、愚かさにまみれながらも強引に事を運ぼうとして大失敗を犯してしまう時もあるかも知れず、そうなってから自分が愚かであることを再認識するのだろうが、そうなってしまうと取り返しのつかないことをやってしまったことになり、そんな深刻な事態になってしまってもまだ生きていられて、実際に危機をくぐり抜けて今に至っていれば、愚かであってもその一方でそれなりの賢さや利口さや頭の良さや知能を兼ね備えているから、深刻な危機をくぐり抜けて今に至ることができたと思えばいいだろうが、それが深刻な危機とは言えない可能性もあるから、人によって感じ方も捉え方も差があるということかも知れず、大したことでもないのに深刻な事態だと思って身構えてしまうこと自体が愚かさの表れなのかも知れないし、大したことでもないことを大したことだと思うことが愚かなのだとしても、結果的に危機だと思っている事態を切り抜けられたらそれが大したことではなく、危機を切り抜けられなければ大したことだというのなら、どちらにしても愚かさを実感できるだろうが、そんなに愚かさにまみれていることを必要以上に卑下しなくても、その反面で少しは自信を持って自らの賢さや利口さや頭の良さや知能が優れていることも実感しているなら、それが両義的で曖昧な程度や範疇の中に自らの資質や能力や器量などを位置付けていることになり、それを矛盾と思ってみても構わないのだろうが、何かをやった結果に当てはめる言葉の意味や傾向によって何かをやった結果の良し悪しが左右されるとしても、何かをやった結果からその時の自らの判断が正しかったか間違っていたかを知ったつもりになったところで、そこからそんな判断をした自らの愚かさや賢さや利口さや頭の良さや知能の高さや低さなどを実感してみたところで、それはその時に思うことであり、時がそこから経過してみればまた違うことを思うかも知れないし、その時々でどう思ってみても、そう思ったことに関して、さらに別の思いを付け加えられるかも知れないが、それが自身にとって何でもないことだとは思えないにしても、思うなら思っていればいい程度のことでもあるなら、そんなことを思う余裕があるからそう思うのだろうし、思うこと自体が大したことでもないのかも知れず、要するに自らが愚かだと思うことも賢いと思うことも、そう思うこと自体が大したことなのではなく、思うなら勝手に思っていればいい程度のことだと捉えておけばよく、それとは違って何を実践できるかが重要なのかも知れないが、それが思いとは裏腹にあるいは思いなどとは無関係に行動しているなら、思いが置き去りにされているのかも知れず、要するにその時々で自分のことをどう思っているとしても、それが自身の活動に大して影響を及ぼさないようなことになっていれば、何か他の事物からの影響の方が圧倒的に大きく、それに囚われて依存しながら活動が成り立っていて、そうした活動そのものが自らの意志ではどうにもできない制御不能な状態となっていて、特定の個人が一時的にも全般的にも愚かであっても賢くても利口であっても頭が良くても知能が高くても低くても、そういうこととは別次元で動いている物事があり、そういう物事の成り行きに巻き込まれていれば、他にも様々な程度や傾向の人たちも巻き込まれていて、その中で何かが行われていることは確かなのだろうが、そのやっていることの役割分担の中でその人の愚かさや賢さや利口さや頭の良さや知能の高さや低さが決まってくるとすれば、それに含まれている人が自身のことをどう思ってみても、その思いが合っていてもいなくても、何か勘違いな思いを抱いていてもいなくても、そんなことを含んで成り行きが進行中なのだから、そこで何を思っても成り行きをどうすることもできないのかも知れず、もちろん思うだけでなく行動が伴わなければどうすることもできないが、その行動も成り行きに含まれていれば、どう行動したところで成り行きの範囲内で成り行きに依存しながら行動していることになり、それがその場で進行中の成り行きに囚われた思いであり行動となっているのだろうが、そんな成り行きに囚われているから、その場の成り行きに沿って、時には自らが愚かだと思わされたり、賢いと思わされたり、利口だと思わされたり、頭が良いと思わされたり、知能が高いと思わされたり低いと思わされたりしながら、そんな思いを抱かせる成り行きの中で何かその場の状況に合わせて適当なことを思いながら行動していることになるのだろうが、果たしてその内側から成り行きに囚われた個人が成り行きそのものを変えることができるかというと、それが個人の力なのか複数の力を合わせた集団の力なのかはその場の成り行きにもよるだろうが、成り行きの中で何かが起こった結果から振り返ってみれば、誰かがそれまでの成り行きを変えるきっかけを作ったと言えるような場面や局面を特定できるかも知れないし、またある程度の集団を構成する特定の勢力が同様な役割を担っていたと言えるような場面や局面も特定できるかも知れないが、それもそういうことも含めた成り行きだとその場の状況を捉えておけばいいのかも知れず、結果的に誰が愚かで別の誰が賢かったと言えるにしても、そういうことも含めた成り行きだと思っておくしかなく、できれば自分が愚かだと言えるよりは賢いと言えるような結果になることを期待したいところだが、その結果がどうなるかが自分の力を超えたところで決まるようなことなら、とりあえず最善を尽くしたと言えるようなことをやってから結果が出るのを待つしかないわけだ。


3月30日「人物評価の怪しさ」

 ちょっと考えればすぐにわかるようなことであれば、他人との間で生じる認識のずれや感覚の違いなどをそれほど考慮することもないだろうが、簡単にそう思われてしまうようなことも、よく考えてみればそうではないような可能性もあるなら、思考する時間や程度によっても人によって見解が異なってくるかも知れないし、そうなると考えている暇やゆとりのない人が総じて浅はかに思われるわけでもないが、それも人によっても状況によってもその人の能力や資質によっても差が出るところだろうが、人と人との違いをどう捉えればいいかとなると、人を他の人を区別する上で何が指標となるかが問題になってくるかも知れず、例えば人格の違いによって人を区別することになれば、一般的にその人を取り巻く環境がその人の人格を作るといっても、環境そのものが時の経過と共に変化してくれば人格そのものも一定しているとは言えず、時の経過や経験する内容によっても変わってくるかも知れず、環境の急激な変化から以前とは人格が一変してしまうようなことがそう頻繁に起こるわけでもないだろうが、特定の人物について一定の評価基準や判断基準に照らし合わせて、どう評価して判断しようとしても、それなりに確からしいことが言える場合もあるだろうが、それがその人の関わっている特定の分野で言えることであるなら、その分野で通用する言説というのが、その分野内で行われていることに関する言説になるのは当然のことであり、そうなるとそれが特定の専門分野に関する言説となり、そこにその分野に関わっている特定の人物の評価なども含まれてきて、その分野で通用する評価基準に照らし合わせて良し悪しの程度や傾向などが言説の中で語られるだろうが、そういう内容に興味を持つことがその分野に関わるきっかけになるにしても、そういった範囲内であればその人の人格がどうであっても、その人が関わっている専門分野とその人の人格とは別の話になるはずだが、そういう意味でその人の人格に絡めてその人の行動や言動を語ることが、その人が関わっている専門分野に関係して語られる内容に含まれてくると、語り方によってはそれでも特に違和感を覚えることもないだろうが、興味本位でそういう話を好む人もいくらでもいて、その人の専門分野との関わり方に依存してその人の性格や人格も形成されている面もあるにしても、その人の人格から専門分野内での行動や言動を説明するような内容になると、それは少し違うような気がすると共に、それだけでは説明し切れないのも当然だろうが、もちろん人格だけから説明の全てがなされるわけでもないが、そういったところからそれとは別に人物評価という専門分野があるかどうかは定かでないが、人の性格分析や人格分析などをそれ単体で語るような言説の怪しさも類推して指摘したくなってくるし、人の評価に関する様々な要素や要因の中の一つにその人の性格や人格などに言及する面も出てくるから、他の様々な要素や要因も語られることで、その人に関する言説やその人が関わっている分野に関する言説などを合わせて総合的に評価したり判断することになる場合もあるだろうが、それもその人がどこにでもいるような普通の一般人であれば、何かメディアで騒がれるような事件や災害にでも巻き込まれない限りは、その人に関する言説そのものが生じてこないし、その人を評価したり、行動や言動の良し悪しを判断したりする機会など、その人と関わりがなければまずないだろうから、普通に考えるならその種の言説は著名人についての言説になるわけだが、それもその人を著名にした分野に依存して語られる内容となるから、その分野で成功したから著名人になったのであり、成功した面については普通は肯定的に語られるものの、悪どいやり方が批判されているようなら悪名を轟かせていて、それに伴って性格も人格も否定的に語られるわけだが、そもそも良い性格や人格が評判となっているようなら、その人の行いや言動も肯定的に語られるし、性格や人格が良いと評判となっている人が悪どいやり方でのし上がって社会に悪名を轟かせることもないし、結局はその人の行いや言動によってその人の性格や人格も定まってしまうわけだろうが、そこから言い方を逆転させて、悪どい性格や人格だから悪事を働くような語り方がもっともらしく感じられてしまい、もちろんそういう語り方に納得したところで、原因と結果が逆転していることも百も承知で納得しているわけだから、それもちょっと考えればわかるようなことではあるにしても、他にも様々なことが多面的に語られている中で、印象づけといった意味合いでそういった内容がちょっと挿入されていると、その人の印象が否定的な傾向に傾いてくるかも知れず、そういうところで印象操作が行われていると指摘するのも、それもあえて指摘するようなことでもなく、普通に意識に残らない程度にスルーされてしまうようなことでもあるのだろうが、そういうちょっとしたことの積み重ねによって言説が構成されてくると、何かそれらしい性格や人格が説得力を伴う形で浮かび上がってくるような感じがするかも知れないが、それもよく考えてみれば世間的な水準で流通している紋切り型の性格や人格に近づけようとしているようにも感じられるから、言説に誘導されていることは確かなのだろうが、もちろん誘導されていった先で深刻な事態に陥るわけでもなく、この人はこういう性格で人格なんだと思って納得させる程度のことを目指して言説が構成されているなら、興味本位の娯楽だと思っておけばいいことでしかないが、世間的にもそれ以上の成り行きは求めていないだろうし、それ以上の成り行きが何なのかもよくわからないところだが、そういうこととは別に人や団体などが行なったことに関して何か語ろうとすると、その行いに興味を持ったからそれについて語ろうとするのはわかりきったことであるにしても、それに関して簡単にその良し悪しを判断してもいいものかと疑念を抱くようなら、良し悪しの判断とは別の方面に興味を抱いていることになるのだろうが、それを語る人がそれを判断できるような立場ではないと判断するなら、当然のこととしてそうした判断を避けて語ることになるかも知れないが、それ以前に語っている自身がそれを判断できる立場であるか否かを自身で判断できるかというと、そんなことまでわかる必要もないのかも知れず、自分がどんな立場でそれについて語っているのかをうまく説明できなければ、言説の内容に説得力がなくなるかというと、それは他人が判断することであり、語っている人がそれについて語ることの権威のような存在としてメディア上で扱われていれば、そのメディアを信用できる限りでその人にはそんなことを語る資格があると思うしかないだろうが、その言説の内容に疑念を抱くようなら、その人を権威のように扱っているメディアにも疑念を抱くだろうし、その種のメディアを信用できなくなってしまうわけだが、自分が信用していなくても、他の大勢の人が信用しているからメディアがメディアとして成り立っていて、そのメディア上で権威のように扱われている人もその道の権威として振る舞っていられるだろうし、そうなるとそれを信用できない自分の方が、そのメディアが影響力を及ぼせる範囲内では少数派ということになるだろうが、そのメディアが影響力を行使できる範囲というのも、それ以外にもいくらでも似たようなメディアが乱立して存在している限りで、それほど広範囲に影響力を及ぼしているわけでもないのだろうが、その他にもいくらでもある似たようなメディアの中でも、その人と似たような権威者が似たような言説を弄して似たようなことを語っていれば、もはやその権威というのも相対的に大したことはなく、どこのメディアでも似たようなことが行われている実態があるということであり、それを取り立てて問題視して批判するようなことでもないだろうし、その程度のことに疑念を抱くような人も自分の他にいくらでもいると想像しておくしかないわけだ。


3月29日「機会の到来」

 現実の世界では必ずしもそうはならないかも知れないが、フィクションの中では誰かが決意を固めて行動を起こすことが、行動としては普通に行われることのように感じられるだろうが、決意を固めるという言語表現が、決意と固めるで意味が重複して、同じ意味の言葉を二度使っているように感じられて、言語表現として微妙に間違っているように思われてしまうのだが、何かのきっかけから何かをやろうと決心することが、その機会を捉えて行動を起こすことになるかというと、普通にそう思われて当然だろうが、やろうと決心した時点で機会を捉えたつもりが、結果的にうまくいかなければ、そこで機会を捉えたと思ったのが勘違いだったことになるかというと、機会を捉えたこと自体は正しかったかも知れないが、ただやったことがうまくいかなかったのかも知れないし、たとえ機会を捉えて何かやったとしても、事の成否はその時の運に左右されるかも知れないし、あるいはその場でのやり方の良し悪しにもよるだろうし、結果的にうまくいけば機会をうまく捉えて正しいことをやったと思うしかないが、うまくいかなければその機会を捉え損なったと思われても何ら不思議ではなく、果たして本当に機会を捉えて行動できたか否かが、行動した結果の成否に左右されることになれば、その機会を捉えたか否かも結果からしかそうは思われず、しかもたとえ機会を捉えたと思っても、行動した結果がうまくいかなければ、本当に機会を捉えたかどうかも怪しいようにも思われるから、本当のところはわからず、それでもフィクションの中では登場人物が機会を捉えて行動して、結果的にうまくいったりいかなかったりするように語られるかも知れないが、それはあくまでも語られることであり、実際にはよくわからないことであり、現実の世界では何かの機会を捉えたと思っても、本当にその機会を捉えたかどうかは何とも言えず、実際に機会を捉えて行動した結果としてうまくいけば、機会を捉えて行動できたように思われるだけで、その機会を捉えたとしてもうまくいかなければ、機会を捉え損なったと思われるかも知れないし、また後悔先に立たずで、あの時行動していればと後悔するなら、その機会を逃してしまったと悔やまれるだろうが、それもそう思われるだけで本当のところはよくわからないのかもしれず、果たしてそんな機会があったかどうかもその機会が過ぎ去ってしまえば、何とでも言えるようなことになれば、その場での自身の都合に合わせてそう思っているに過ぎず、本当にそんな機会が巡ってきていたかどうかもよくわからず、実際に機会が巡ってきたと思って行動した結果としてうまくいったと思われるなら、機会を捉えて行動できたと思うしかないだろうが、それも結果良ければ全て良しと思っていればいいことでしかなく、思うだけなら何とでも思っていられるようならそう思っていられる人には好都合なことなのだろうが、それもそんな思いが思い違いでしかなければ、油断していると痛い目に遭って、そうなってからそれが思い違いだったことを思い知らされて、そんな思い違いのバリエーションとして、何かの機会を捉えて行動した結果としてうまくいったような気になっていると、思わぬところから思わぬ災難が降りかかってきて、そんな思いが打ち砕かれる時がやってくるのかも知れず、そんな機会に遭遇してみれば、何かそれが今まで抱いていた思い上がりを反省する機会が到来したような気がして、そんな機会の到来を実感するのかも知れないが、実際に痛い目に遭えば反省せざるを得なくなるだろうが、では痛い目に遭わなければ反省しないのかというと、日頃から謙虚な気持ちでいることを心がけていれば、うまくいっても反省するかも知れず、どんな時でもどんなにやっていることがうまくいっても、何かしら反省材料がないと気が済まなければそれを探そうとするだろうし、ちょっとしたことでもすぐに反省するような癖がついていれば、まるで完璧主義者のように絶えず反省し続けるかも知れないが、そうやって反省する機会を逃さないように心がけていても、自らの行動の全てを反省に結びつけられるかというと、そんなことはなく、反省しなくてもいいことなどいくらでもあるだろうし、反省してもしなくてもどちらでも構わないようなことなら、反省するだけ無駄かも知れないし、反省する機会を逃しても取り立てて不都合を感じなければ反省しないというよりは、ただ単にその場の状況から、また行動した結果から反省したりしなかったりするだろうが、その場の状況次第で反省する余裕があったりなかったりもして、忙しければ反省する間もなく次から次へと目の前の作業に追われる日々を送ることになるかも知れないし、自分で反省するかしないかの選択ができなければ、自らが囚われている状況の中で反省させられたりさせられなかったりするだけで、自分から積極的に反省するような成り行きが生じない場合もあるだろうから、反省するかしないかとか、そんなことまで気を回す必要もない人もいるだろうが、その機会が反省する機会かどうかもよくわからなければ、それがよくわからない人には反省する機会など巡ってこないかも知れず、実際に自身の行動を反省する必要のない立場や境遇や心境もあるなら、その中でも心境としてそういう無反省な態度や姿勢を頑なに守り、どんな苦境に陥っても絶えず自己肯定や自己正当化を優先するように自身を仕向けて、何があっても絶対に反省しないように心がけるようなことになれば、反省とは無縁の人生を送れるかも知れないが、それもフィクションとしてそんな立場や境遇や態度や姿勢を想像できるだけで、現実の世界でそんな状態を実現できるかというと、実際にそんな人にお目にかかれたらそれを信じるしかないが、少なくとも自分がそうでなければそうは思わないし、そうなっていることに気づかない可能性もあるかも知れないが、それも程度の問題であり、比較的そういう傾向が強い人と弱い人とが相対的な程度や割合で世の中に散らばっていて、人が極端な状況や境遇に置かれるとその程度も極端に強くなったり弱くなったりするだろうが、世間並みの状態や境遇の中で暮らしているなら、その程度も世間並みとなるだろうし、それもそういう状態になる機会が巡ってこなければ、大して目立つような傾向にはならないだろうし、それが偶然の巡り合わせではなく、そうなろうとしてそういう状態へと持っていこうと努力する機会があるかといっても、自らが積極的にそうなろうとしなければ、そんな機会も到来しないのかも知れず、そういうところで結果的にそうなってしまうのを受け入れるか、逆に積極的にそうなろうとして努力するかも、何かの巡り合わせが作用して否応なくそうなってしまうとしか言いようがないだろうが、その程度や傾向を自分の都合で制御したいと思うのも、フィクションの中で勝手に想像することでもあり、それが高じて都合の良い状況を想像しながら、意識が現実の世界からフィクションの中へと移動して、自身の都合が実現するような話を空想するなら、その中でやりたいことができるような妄想に囚われてしまうのだろうが、そういう妄想が現実の世界へと滲み出てくると、必ずそれを阻むような障害にぶつかって、その障害というのが自分と競合する他者であったり、無関心な他人であったりするかも知れないが、結果的にやりたいことができないからストレスを感じて、そんなストレスを解消するにはどうすればいいかと考えるなら、機会を捉えて何かを仕掛けるようなことを画策してしまうのかも知れず、そんな計画を立てている時点ですでに当てが外れているのだろうが、それでも勘違いしてその機会が巡ってきたと思ってしまう瞬間が訪れると、実際に機会を捉えて計画を実行に移せば、そこでやりたいことをやっているつもりにはなれるだろうが、結果的にそれがうまくいけばいいが、うまくいかなければ反省したりして、そこから教訓を導き出すようなことまでやってしまうと、そんな成り行き自体がその機会を作っているようにも思われてきて、果たして自身に反省する機会が巡ってきたことをどう捉えたらいいのかよくわからなくなってくるわけだ。


3月28日「批判を避ける理由」

 それが昔からそうなのだから疎外感が昔より一層強まったわけではなくても、依存しつつも疎外されている対象から伝わってくる圧迫感が意識されると、自分が何に抵抗しているのかもはっきりしてくるはずだが、嫌な感じがするのだからそれを意識していないはずもなく、被害妄想としては理不尽な同調圧力をもたらす世間を嫌っていることになっているのだろうが、それが漠然としていて掴みどころのない世間ではなく、具体的な組織や団体となってくると、政権政党や野党と呼ばれる不快な呼び名のひとかたまりの存在や否定的にはマスコミと呼ばれて中立的にはメディアと呼ばれる一般的な存在になってくるだろうが、それらの全てが否定されるわけでもなく、ただ漠然とした圧力と抵抗感を感じるから、批判の対象としてはそういう呼び名で批判する気になるのだろうが、それらをあからさまに批判してしまうとまずいような気もしてくるし、それこそがそれらに依存しながら批判することになってしまうから、罠にかかっているような感じになってしまうわけで、直接の利害関係もなければ、そういうあからさまな批判は避けなければならず、できればそういうのとは違う方面から言説を構成しようとするわけだが、それができなければ批判するのを断念して、何やら批判にならないような意味不明な内容となってしまい、批判するにしても何を批判しているのか定かでないような対象をフィクションの中で捏造してしまうのだが、それが何なのかと問われても具体的な事物に行き着くわけでもなく、何か空気のような雰囲気を纏った実態の定かでない虚構となり、それが世間で力を持っている何かを暗示しているように装いながらもそれに関しては何も語っていないような回りくどさを感じさせるようなら、実際にも具体的なことは何も語っていないのかも知れず、そうやって批判を避けていると言えばその通りかも知れないが、それを正当化する気にはなれず、否定もされないし今まで通りに無視されたままだろうが、それが長続きさせるコツだと言えるわけでもなく、客観的には何でもないことだが、そうやって絶えず批判を避けながら意味不明となるから、実質的には批判を封じられていると解釈しておけばいいのかも知れないが、そうだとしても相変わらず批判の対象が定まらないわけで、世間からの同調圧力によって多くの人々が批判を封じられているのに、それでもなお誰かが批判しようとしているわけだから、その批判の対象となっている物事が不明確であるわけがなく、実際に具体的な事物を批判している人も多いし、それが事物というよりは特定の人物や組織や団体なのだろうが、なぜそうやって実際に存在している人物や組織や団体を批判できるのかといえば、それらの人物や組織や団体の行動や言動などが批判の対象となるのは当然のことだが、その行動や言動によって他の人や組織や団体を痛めつけたり不快な思いをさせているから、それに対して抵抗せずにはいられなくなって、それが言動を伴ってくれば批判になるだろうし、行動を伴ってくれば抵抗運動になったり、どちらかが攻撃しているなら攻撃の応酬となることもあるだろうが、直接の攻撃を迂回しつつも、何かしら意思表示をしてそれに対する態度や姿勢を明らかにしたいとなると、それが批判となって表れるのだろうが、そういった批判となるような意思表示をされると困るのであれば、人が大勢集まって構成される社会的な共同体としての体裁を取り繕う上で、批判を封殺するような成り行きになってきて、世間という一体感を伴って構成される空気や雰囲気を乱すことがないように、同調圧力を加えてその構成員を共同体の意向に逆らえないようにする成り行きがあり、それも直接あからさまな攻撃を仕掛けてくるのではなく、批判している人に関わらないようにその人から周囲の人たちが離れていったり、批判が無駄で無効であることを無言の圧力によってわからせようとするのだろうが、そういう周囲からじわじわと浸透してくる集団の和を乱さない姿勢や態度が批判を躊躇させるわけだが、なぜ批判してはいけないのかというのなら他にどうしろというのかと誰が問うわけでもないだろうが、批判するのが心苦しければ、批判することを避けながらも、批判なしで済むような方法を模索する必要があるかというと、意識してそうするわけでもなくても、無意識の態度や姿勢の中にそんな傾向が滲み出てくるかも知れないし、それが気づかないところで作用や影響を及ぼしながら、回りくどい言い回しで直接の表現とはならないまでも、間接的に批判の対象となる人物や組織や団体の非を難ずるような表現となるだろうが、そういう表現が実際に効果を上げるとは思われないし、思われなくても構わないわけで、それも気づかれないようにして効果が上がればいいというとそんなことはなく、目に見えるような効果が上がってしまうと相手に気づかれてしまうから、どちらかと言えば何の効果も上がっていないように装われる一方で、それも実際にはじわじわと間接的に効果が上がってきて、批判の対象となる当事者が気づかないうちに周囲を包囲されているような状況となってしまうのかも知れないし、そうなっても気づかないかも知れず、結局は何でもないことになってしまうかも知れないが、効果が上がれば微妙に状況が変わってくるかも知れず、それも効果が上がっていることにも気づかないから、感覚としては何でもないことに変わりなく、それで構わないわけがなくても、気づかないのだから仕方がないだろうし、気づけないことに気づく必要もないわけだが、気づくということが特に重要でもなく、誰も気づかないからこそ効果が上がるわけで、それが誰も気づかないような変化に結びつくから、無理に事を荒立てる必要もなく、自然に世の中が変わっていくことになれば、その方が面倒なことにはならないはずだが、その逆に事を荒立てたい人たちがこれ見よがしに騒ぎ立てて、自分たちが騒いだからこそ世の中が変わったと主張したいわけだが、そういう人たちの批判となると何やらわかりやすい批判になってしまうだろうが、わかりやすいから共感も賛同も支持も得やすい反面で、封殺されやすく、うまくあしらわれて骨抜きにされて何でもなかったことにもなりやすく、そんなふうにして変化の芽が摘み取られてきたわけだが、そういうわかりやすい批判をする人たちが囮となって世間の目を惹きつけているうちに、その裏で誰にも気づかれないようにして回りくどくてわかりにくいやり方が人目を忍んでひっそりと行われている光景を想像できるかというと、それも勝手な妄想に過ぎないだろうが、それが人目につかないわけではなく、むしろ周知のこととして堂々と行われている可能性もあり、それが批判だとは受け取られていない可能性も高く、実質的には単なるこれまで通りの経済活動であり、周知の事実として金儲けをやっているとしか見えないのに、しかも貧富の格差を広げることとなり、それがわかりやすい批判の的となっているのに、気づかないところで世の中の状況を一変させる可能性も秘めているとしたら、それが何なのかと問いたくもなってくるだろうが、もちろん周知の事実なのだからあえて問う必要もなく、何でもないことなのであり、単なる経済活動が世の中を変えるといってもその通りでしかないのだろうが、そういう活動が批判されながらも行われている事実に気づかないのかといっても、誰もが普通に気づいていて、気づいている限りでその通りのことでもあり、その通りだからこそ普通に批判されているのだろうが、普通に批判されている経済活動によって世の中が変わっていくのだから、その変化を批判によって止めることはできないだろうし、逆に多くの人々からそれが批判されることによって変化が早まるのかも知れないし、実際に変化が早まってしまうから中にはその変化についていけない人も出てくるわけだ。


3月27日「違和感を覚える機会」

 いつも何か違うと思っているとそう思うのが癖になってきて、たぶん違っていないのに違っているような気がしてくるのだろうが、何が違っているのかがよくわかっていないのに、ただ違っているような気がするから、違っているような気がすること自体が間違っているのかも知れないが、間違っていても構わないような気がしてくるのだから、デタラメのような気もしてくるが、デタラメな気分で人が動き出してもどうなるわけでもないだろうが、それ以外に人が何によって動くかというと、経済的な利益を求めて動く場合もあるだろうし、政治的な野心を抱きながら動く場合もあるだろうが、そういう動き方ではなく、理由もわからないままにその場を律する規則に従いながら動くとか、その場の成り行きに合わせて動くとか、なぜそうするのか理由がわからないのに動いていると不安になってくるかも知れず、それと共に自らの意志に反して動かされいるように思われるから苛立ちも覚えるかも知れないが、それが動かされているのを自覚できればそう思われるということであって、その自覚もなければ何とも思わないだろうが、それが自身が動かされていることに起因して感じていることだとは思えなければ、ただ漠然とした違和感ばかりが募ってくるだけで、何か理由があってそう感じているわけでもないと思われるなら、何かが違うのかも知れず、違うのだが何が違っているのかわからないから、自信がを持てないし、その違っている何かがわかればいいのだろうが、それをわかろうとしていないような気もするし、わかっているのにそれを明らかにしようとせずに、ひたすらわけがわからない心境にとどまろうとしているのかも知れず、そういうところでどう考えても違和感を覚えるのだが、違和感を覚えていないと不安になってくるから、違和感を覚えていられる限りで安心できるのかも知れず、相変わらずわけがわからないままだから、そういう面では不安感を拭えないわけで、いずれにしても中途半端な気持ちでどっちつかずな心理状態でいられるわけだが、それでいいのかというといいわけがなく、何か態度や姿勢が間違っているようにも思われるが、それがわけのわからない安心感と引き換えにして、そういう間違った態度や姿勢になっていること自体にも違和感を覚えるのであれば、そんなふうに違和感を覚える状態を維持していること自体が意味不明だが、別にそれをうまく説明する必要もないのかも知れず、うまく説明しなくても済むように言葉を組み合わせて文章を構成しようとしていて、そんなことをやっていること自体も違和感を覚える原因かも知れないが、確かなことは何もわからないのだから、原因でも何でもないのかも知れず、それが自らの心身の状態に起因することではなく、周りからじわじわと浸透してくる同調圧力のような嫌な感じがするなら、そういう作用には抵抗しているような気になれるわけだが、そこで感じている違和感の原因がどうもそういう類いの圧力ではなく、そんな慣習や風習に囚われた村落共同体が強いてくる同調圧力などに逆らっているように装われる行為だけを取り上げて、それに賛同するつもりもないのだろうが、それがこれ見よがしな演技になることだけは最低限の嗜みとして避けているような気がするものの、そういうことではなく例えば強権体制のような外国の政府や独裁政治家のような存在には他人事のような態度で反対の意思表示ができるだろうが、それ以上に何を表明するわけでも主張するわけでもなく、現状でやり過ごされている世の中の不具合から目を背けているわけでもないだろうが、それをどうにかしなければならないとは感じているものの、それが結果が伴ってくるような行動には結びつかず、絶えず現状維持を心がけているわけでもないが、その途中の段階にとどまっているようにも感じられるとしたら、そこから一歩外へ踏み出して、何か事態がそれとは違う方向に行くように何らかの作用を及ぼすことができればいいのだろうが、果たしてそういうことを現状の中で行なっているつもりになれるかというと、それも明確にこれといってやるわけにもいかないところかも知れないし、特に何をするつもりもないのだろうが、何をしているつもりもなくても何らかの行動や思考に結びついてくるようなら、自分でも気づかないうちに行動しているのであり、その行動がその場の状況に沿っているのか沿っていないかは定かではないが、結果的に行動する以前より事態が変化しているなら、行動したから事態が変化したことにしたいだろうし、もちろん自らが積極的に行動したつもりがなくてもそうなってしまえば、自らの行動とは関係なく事態が変化したことになるだろうが、そうだとしても構わないわけで、そこで事態の変化に合わせて何かやっているつもりになれるなら、自らの思惑とは関係なく勝手に動かされていることになるかも知れないが、そうなっていても構わないかどうかはその後の状況次第かも知れないが、自分ではそんなことにも気づかないまま、勝手に動いているような感覚を抱きながらも、現実には周囲の状況によって動かされている面もあるだろうから、どちらが主でどちらが従であろうとなかろうと、それが動いた結果だとわかるまでは、自分で動きながらも周囲から動かされていることにも気づかないまま、何やらそこで迷いながらも戸惑いながらも右往左往しているのかも知れず、そうなっている最中にその動きが思い通りにはいかないから違和感を覚えて、何か違うのではないかと疑念を抱くのだろうが、そこで性急に答えを出そうとするのではなく、わけがわからないままの状態にとどまっていた方が、何かと行動の方向や範囲を限定してしまうような過ちを避けられるかも知れず、それも性急に過ちだと気づけるわけでもないが、そこで焦って性急に判断しようとすると、物事を単純に解釈してしまうわけで、それも不用意な過ちなのかも知れないし、そうとも思えないような気もするのだろうが、どちらとも言えないようなどっちつかずな状態にとどまることに耐えられずに、焦って物事を不用意に単純化したくなる罠にかかって、目の前にぶら下がった人参に飛びつくようにしてこれだと断言したくなってしまうだろうが、それを断言したからといってどうなるわけでもなければ、断言する対象となっている物事が人畜無害なのであり、そうであれば断言も空振りに終わって事なきを得ると共に、断言した人も人畜無害な存在であることが証明されるわけでもないが、そこで断言してしまう人からその場から退場させられるわけでもないとしても、その人の存在が人畜無害だと感じられてしまうこと自体が、不用意な断言をすることによってそうなってしまうようなら、単純化の罠にかかるとはそういうことなのかも知れず、もちろんそれが罠であるかないかなど、どうとでも言えることだろうが、別に罠でなくても構わないし、罠にかかったと感じられても、その人がどうなるわけでもなければ、何でもないことだろうが、それが勝手な思い込みに違いないと思われるとしても、そうなるのを避けようとするから違和感が伴ってきて、何か現状に関してはっきりこれだと断言する人に対して覚える違和感もそれと同じような感じかも知れないが、その人の方が正しく、違和感を覚えることの方が間違っているとしても、どちらかと言えば間違っている状態にとどまりたいわけで、何かすんなりとこれだと断言できるようなことの方が正しいのはわかっているが、それがすでに変わりつつある状況であり、その断言が織り込み済みになろうとしているからこそ、そんなことをこれ見よがしに断言してしまえるのであれば、もう済んでしまったことであり、しかもそれが済んでしまったことだからこそ、こうだと断言できるわけで、そんなふうに断言している間にも刻々と情勢が変化し続けているとすれば、その断言が無効となるように変化し続けているかも知れないし、そんな断言をさせてからそれを裏切るように状況を変化させたいのかも知れないが、誰がそうしようとしているのでもなければ、人々の行動や物事の動きの中で偶然に変化するきっかけが生じつつあり、そのきっかけを与えるのがその種の断言であれば、断言した甲斐もあったことになるだろうが、その種の断言をスルーする成り行きが生じているとすれば、断言を置き去りにするような成り行きが生じていることになるのではないか。


3月26日「自分への信仰」

 他の何を差し置いても自分を信じろと思うことが、何か違っているような気がするなら、それが何の根拠もない勝手な思い込みというわけでもなく、では他に何を信じればいいのかと問いたいわけでもないが、本当は自分を信じていないから、だから自分を信じろと自らに言い聞かせていて、信じなければ駄目だという思いを自らが裏切っているからこそ、自らを信じることに疑念を抱いてしまう自分に対して負い目を感じているのかも知れず、それが自らが抱え込んでいる矛盾のようにも思われて、自分を信じる以外に何も信じられる物事がないわけではなく、物事ではなくても例えば特定の人物を信じられるかというと、ある程度は信じられるかも知れないが、自分以外の誰かを信じたからといってひたすら信じているはずもなく、時には疑問を感じながらも信じている場合もあるし、全面的に信頼しているわけではなく、特定の分野や方面に関することだけは信頼している反面で、それが全面的な信頼ではないからこそ、信じている対象の不完全さも信じていて、かえって全面的に信頼できる対象がある方が危ういのかも知れず、それが勘違いの幻想に過ぎないからこそ、そういう面では信じているのであって、信じているからこそ信じていること自体が間違っているような気もするわけで、それが自分にも当てはまり、自分を全面的に信頼しているわけではなく、時には間違ってしまうことも含めて信じていて、自らが全面的に正しいことを信じて疑わないわけではないところが、自分を信じろという内なる声に従うことには躊躇が伴ってくるわけだが、そういう微妙なところをどう判断すればいいのかよくわからないところも、その場の状況や情勢に沿うような行動を許容する余地を生むのかも知れず、それを過去の歴史などの付け焼きの知識を援用して自らの主張の正しさを信じてしまうと、とんでもない勘違いをもたらすわけでもないが、その勘違いというのが微妙にもっともらしくも確からしいから始末に追えないわけだが、例えばウクライナのナショナリストにとっては、中世のキエフ大公国が全盛期だった頃は、ロシア帝国の前身だったモスクワ公国などはまだ地方の弱小勢力に過ぎなかったのが、モンゴル人に征服されてタタールのくびきが二百数十年間続いていた頃に、モンゴル帝国のキプチャクハン国に巧みに取り入って勢力を拡大して、モンゴル人が去った以降にロシア帝国となって、ウクライナの地もロシアに征服されてしまったのだから、そういう歴史的な経緯をそこから紐解けば、ウクライナの方がスラブ民族の本家であって盟主にふさわしく、それと比べてモンゴルの血が入った混血民族のロシア人などに大きな顔をされるのが腹立たしいわけで、だいたい数年前にロシアに併合されたクリミア半島は以前にはタタール人が住んでいて、一時的にはタタール人による王朝まであったのをソ連のスターリン時代にタタール人が強制移住させられた後にロシア人が入ってきたわけだから、現状でロシア人が多いからといって勝手に併合してしまうのもご都合主義でしかなく、もっともタタール人が住む前には紀元前の数千年前に多数のピラミッド群が建造されていたわけだから、その時期には別の民族が住んでいたのだろうが、そもそもその種のナショナリズムを人々の意識に植え付けたのが、19世紀初頭のナポレオンの侵略戦争であったり、20世紀のナチスドイツによる侵略戦争であったわけで、民族自決の国民国家自体が18世紀末のフランス革命がもたらした発明品でしかないわけだから、そこから派生したナショナリストがそれ以前の歴史を持ち出して自民族の自決権を云々言うこと自体がおかしいわけだが、ロシア帝国はロシア皇帝の持ち物であり、果たしてロシアの農奴が自分たちをロシア民族だと自覚していたのか怪しいだろうし、他国から攻め込まれると急に民族意識に目覚めてしまうのが典型的なナショナリズムなのだから、侵略戦争がなければナショナリズムも生まれない思っておくのが無難なところであり、何もないところから積極的に民族意識を煽るようなことをやられるとそれは違うのではないかと感じるわけで、そういう成り行きの中で歴史的な経緯を援用して自らの立場を正当化するナショナリストやナショナリズムを信用しろと言われても、疑念を感じるしかないわけだが、もっと短いタイムスパンで範囲を限定して自分を信じようとする際には何が心の拠り所となるかというと、普通に考えるなら自分が生まれてから今までの間に体験してきた数々の出来事から感じる肯定的あるいは否定的な感触であったり、また注意を喚起するきっかけとなる過去の失敗から学んだ教訓の類いなのかも知れないが、そういう方面で自分を信じろと内なる声が促しているのは、自分の勘を信じろということかも知れず、今までの経験によって培われてきた勘を信じて行動するしかないと促されているわけだろうが、勘といっても自らの限られた経験の中で培われてきたものでしかないわけだから、少なくとも世界のどこでも通用するような普遍性はないわけで、せいぜいがこれから直面する事態を過去の経験に照らし合わせて、過去との共通点を探ろうとして、過去にも似たようなことを経験したことに気づけば、その時の対応や対処を思い出して、どうすればうまくいくかを推測しようとするのだが、それが勘として身についていることなら、思考する以前に行動が伴ってきて、勘に頼ってうまく立ち回れるように自動的に心身が動作するわけで、それが結果的にうまくいけば自らの勘の確かさを実感するだろうし、うまくいかなければ勘違いであったことがわかるわけだが、うまくいったところでたまたまその時の運が自らに有利に働いただけであればそれも勘違いなのかも知れないし、もちろんそれを勘違いとは認識できないだろうし、結果的にうまくいけば正しい動作を行なったと思うしかないわけで、そうやって何度もうまくいく経験を積み重ねれば、どう考えても正しいことをやっていると思うだろうし、その度に勘違いが蓄積していくとは思わないはずだが、それが自身の勘だけではなく、成り行きとして自らが利用している社会の制度や慣習に助けられてうまくいっている面もあるだろうし、また家族や親戚や交友関係の中で助けられたり、職場の仕事関係の中でも助けられている場合もあるかも知れないが、そういう場合はその人を助けないと制度的にも慣習的にもまずいことになったり、家族や親戚も体面を保つには助けざるを得ず、友人を助けないと友人ではなくなってしまうから助ける成り行きになるかも知れないし、仕事がうまくいくにはその人を助けることが必要であれば助けるだろうから、そういうところで成り行きとしてそうなってしまうなら、その場の成り行きに従って動いていれば自ずからうまくいく場合もあるかも知れず、そうなるとそこに及ぼされるそれらの様々な要因や要素からうまくいったりいかなかったりすると結果から状況を捉えられるだろうが、その中で自身の勘に頼ることによってうまくいったりいかなかったりする割合がどれほどあるかなんて一概には言えないし、自分の勘を信じようと信じまいとそんなのは気休め程度のことでしかないと言い放ってみても、それはその通りだと言える面もあるだろうから、強がりで言い放つ人には言わせておけばいいことでしかないだろうが、たとえ気休め程度のことであってもないよりはあった方がマシな気がするなら、内なる声が自分を信じろと心の底から湧き上がるように響いてくれば、現状で不安感に苛まれているから、そういう声に励まされるような状況に直面していると思っておくしかないわけだ。


3月25日「安易な言葉遣い」

 安易に正義という言葉を使いたくないのと同じようなことでもないだろうが、安易に倫理という言葉も使いたくはないし、それよりは安易に慣習に従うことがそれだけですぐに是非を伴うようなことにはならないはずだが、その安易ということがどの程度なのかがわかりづらく、正義の安易さも倫理の安易さも慣習に従うことの安易さも、それらの言葉を対象となる行為や言動に当てはめて、それと感じ取れる材料が何もないわけではなく、少なくとも意味不明ではないはずだが、意味の定かでない言葉の組み合わせが意識の中では何らかの状態や状況を示していて、それが気づかないところで意識と共に消えてしまえば、そこから人の意識とは言えない集団の意向から形成される共同体の意識となって、何やら集団催眠のようにしてそれに従うのが当然の成り行きへと持っていけるのだろうが、そういうことではまずいと思うなら、では他に何があるのかということになるだろうが、たぶん何でもありではないのだが、これと言って何があるわけでもなく、そこでも安易に理性という言葉は使いたくはないのだが、理性を働かせれば一定の態度や姿勢を取り繕うことができるような気がするとと共に、それ以前に理性とは何かという問いに躓いてしまい、そうなると正義とは何かという問いにも倫理とは何かという問いにも躓いてしまうが、躓いて転ぶほどのことでもなく、比喩としてそんな表現が適当であるかどうかも怪しいところだが、それ以前に自覚することなく世の中の慣習や世間を構成する多数派に従うことが、正義とも倫理とも理性とも無縁なのかと言えば、場合によってはそうだろうが、それらをケースバイケースでうまく使い分けて、その場その時の状況や情勢に応じて妥当な振る舞いや態度や姿勢に組み込めるなら、それでも構わないような気がするわけで、そんなことが果たして可能かといっても、何かしらそれを満たす条件があり、その条件を満たしているように見えれば、正義や倫理や理性などを体現しているような振る舞いに感じられるのかも知れず、それが具体的にどのような場合にそう感じられるかといっても、それもケースバイケースなのかも知れず、その場その時になってみないことにはわからないが、どのような場合にも当てはまるようなことではなく、それらに普遍性を求めたくなるだろうが、何かこう振る舞っておけば大丈夫だという模範例などがあるわけではなく、そう見えることを念頭に置いて意識してそう振る舞おうとしても、そうは感じられない場合もあるかも知れないし、あまりそういうことは気にしない方がいいのかも知れないが、どうしても慣習とか世間に同調するような態度や姿勢に見えてしまうと、倫理とか理性に反しているようにも感じられて、また正義を主張するようなことになってしまっても、倫理とも理性とも相容れない態度や姿勢に見えてしまい、それが良いとか悪いとかいう判断を強いられると、それも少し違うような気がするわけで、そういうところが煮え切らない曖昧な態度や姿勢になってしまうかも知れないが、態度や姿勢を鮮明にしなければならない機会があるかというと、鮮明にしなければならない立場や境遇になってしまえば、実際にそういう立場や境遇になっている人はそうしているだろうし、そうしないと立場を保てなかったり、否応なくそういう境遇に追い込まれている人もいるだろうが、強いられてそうなってしまうなら自らの意思とは関係なくそうなっていて、それを自ら進んでそうしていると思い込むこともできるかも知れず、正義を主張しながら倫理的にも理性的にも振る舞おうとするのだろうが、正義は一方的に主張できるが、倫理的な振る舞いや理性的な態度や姿勢を保つとなると、他者との相互関係の中で場合によっては相手に譲るような損な役回りも引き受けなければならず、また痛みが伴うようなことにも耐える必要が出てくるかも知れず、しかもそれが筋の通った一貫性も保たれなければならなくなると、何か面倒なことになってきて、関係がこじれて事態が込み入ってくると矛盾をきたすのだろうが、それに関してドイツのメルケル前首相が在任期間中には、ロシアのプーチン大統領とも中国の習近平首席ともアメリカのトランプ前大統領とも、また日本の安倍元首相とも良好な関係を保っているように見えたが、それが現状でロシアがウクライナへ軍事侵攻したからといって、中国政府のウイグルでの人権弾圧が明らかになったからといって、トランプ前大統領の支持者が連邦議会への襲撃事件を起こしたからといって、別にメルケル前首相が批判されることも好印象が損なわれることもないのだろうが、それが安倍元首相となるとトランプ前大統領にもプーチン大統領にも媚びを売っているような印象を与えてしまったので、今さらロシアに戦争を仕掛けられて窮地に陥っているウクライナのゼレンスキー大統領を支援して「私たち日本はウクライナ国民とともにある」と述べたところで、プーチンに媚びていたのはどこのどいつだと批判されてしまうのは仕方がないところだが、時代を遡れば、日本の中曽根元首相が当時のアメリカのレーガン大統領と会談するために訪米した際に「日本列島を不沈空母のようにして、ソ連の爆撃機の侵入を防ぐ巨大な防壁を築く」と発言して物議を醸したらしいが、そうやって相手に対して下心丸出しで媚びを売るような態度や姿勢を平気で示してしまうことが、人としての軽薄さが露わとなって、それが相手を油断させるためにわざと軽薄な小物臭を漂わせるという戦略的な態度である可能性もなきにしもあらずだが、もっと正々堂々と対等な立場で外国の首脳と接してほしいと普通の一般人なら思うかも知れないが、だからといって常日頃から正々堂々としているように見えるから例えば山本太郎が日本の総理大臣にふさわしいかとなると、そうでもないわけで、もっと普通の事務職員ふうの人でも日本程度の国の首相は務まるような気がするだろうし、実質的には現状の与党でも野党でもどちらから首相が出ても構わないだろうが、もちろん誰が首相になったところで大したことは何もできないという半ばあきらめムードが漂っているからそう思われるだけで、そんなしらけた諦念を打ち破って思いがけないところから思いがけない機会を捉えて大方の評価を覆して意表を突くようなことをやってのける人物が今後出現するかも知れないが、誰からも期待されていない人が首相になるというのも現状の岸田首相も菅前首相も日本ではよくありがちなことだとしても、そういう夢も幻想も抱けない現状があるから、より一層の停滞した世の中になっていることは否めないが、それでも構わないと言ったら嘘をついているのではないかと疑念を抱かれるかも知れないが、そこに暮らしている誰もが内容が空っぽのただのエコノミックアニマルように見えてしまうこと自体が、それを正当化できるわけでもないだろうし、むしろそれを下手に正当化しようとすると事態がこじれてくるような気がするわけで、だからこそ安易に正義を主張することも、また経済的な正義や国家的な正義の浅はかさを批判するために公共の倫理や理性を持ち出してくることも、何か単純すぎるような気もしてくるわけだが、そこへと至る前にそれ相応の紆余曲折を経ないと中身や内容が伴ってこないから、そういう意味では当たり前のことだが、中身や内容が空っぽの人たちに必要なのが中身や内容になるわけで、それも簡単にその人にふさわしい中身や内容を詰め込むことはできないだろうし、自分なりに試行錯誤を繰り返しながら、その過程で自然にその人の経験に応じた中身や内容が蓄積するのを待つしかないのかも知れず、だから現状の世の中で中身や内容の空っぽな人が目立って多いのは、これからその空っぽな容器の中に経験が蓄積する機会がやってくる可能性を予感させるわけで、実際に世界各地で起こっている内戦や戦争の中で経験が蓄積されている最中なのかも知れないが、それが比較的平和そうに見える日本でも蓄積が可能ならば、そこでもあからさまな内戦や戦争が起こっているようには見えないとしても、何かしら経験をもたらすような出来事が日々の日常の中で起こっているのではないか。


3月24日「ずらしとはぐらかし」

 何事も結果から都合良く解釈するなら事前に予想可能な事態に遭遇していることになるだろうが、もしかしたらそうではなく、予想外の事態のただ中にいるのではないかという疑念にも付きまとわれてくるなら、当然のこととして疑念を抱いている理由を知りたくなってくるが、まともに理由を知るような成り行きにはならず、知ろうとする意識をはぐらかされたり横へずらされるようなことになれば、何か知られてはまずいようなことを知りたがっているのではないかとさらに疑念を深めてしまうかも知れないが、それが外部から力を加えられてそうなるのであれば、何かそこに陰謀の類いが張り巡らされていて、知られてはまずいような秘密を守るために妨害工作が仕掛けられているような状況を想像してしまうが、それがまさに陰謀論の虜となっている証拠となり、それと共に被害妄想も膨らんでくるかも知れないが、そこまでが妄想の中で想定できることで、そう頻繁に都合良くそんなことが起こるわけでもなく、現実の世界ではそうだがフィクションの中では頻繁に起こることでもあり、現実とフィクションを混同するまでもなく、混同せざるを得ない心境にもならなければ、まだ退屈にやられて錯乱状態となっているわけでもないだろうが、わざと精神錯乱を楽しんでいる余裕もなければ、そうではない通常の成り行きに囚われていることになるかも知れないし、実際には何でもないような日常の中で暇を持て余しているから空想のただ中であり得ない成り行きに巻き込まれていて、もちろん現実に巻き込まれているのではなく、都合良く奇怪な事件に巻き込まれて謀略を巡らして攻撃を仕掛けてくる謎の組織との戦いの中で手に汗握る攻防を繰り広げている自身の姿を思い描いていて、それも思いつきのフィクションの中で架空の誰かが妄想していることには違いないが、そうやって次から次へとあり得ない事態が付け足されて、なかなか実際に体験しつつある現状が見えてこないのだから、それこそが現実の世界について思考しようとすることのへのはぐらかしであり、意識を現実からフィクションへとずらされているのだが、なぜそうなってしまうのかと誰に問われているのでもなく、自身に問いかけているのでもなく、自分で勝手に空想しているわけで、空想しながらそんなあり得ない空想から抜け出すための打開策を模索しているわけだが、そんな模索が打開策へはつながらず、それどころか逆に意識がさらなる空想へとのめり込む口実を与えていることにもなり、それが現実の世界の中で過去に起こった出来事をうまく取捨選択して、現実を物語るのに都合の良い事実の組み合わせを模索するための予行演習のような役割を果たしていると想像してみても、実際には何かそれとは少し違うような印象を感じているのだが、現実に起こっていることから意識がずらされて、現実に起こっていることを正確に捉えられないようにはぐらかされているような感触を得ているなら、そんな感触をもたらしているのが何かと問うわけにもいかないのかも知れず、それがメディアからもたらされている作用や影響だと安直に責任転嫁しようとしても、それも少し違うような気がするのであり、メディア自体がそれを利用する人々の意識の有り様を写す鏡のようなものだと考えるなら、人々が思い描く空想の世界と現実に存在している世界を融合させるのがメディアの役割や機能であり、そういう役割や機能を果たしているのだからメディアに責任転嫁するのは自家撞着そのもので、人々の願望を実現しようとしてそういうことが起こっていると考えるのが妥当なところでもあり、しかもそれをメディアだけではなく他の企業や政府などの各種団体も行なっている現実があるようなら、それ自体が現実の世界で行われていることになるわけだが、それを安直な言い方で言うなら夢を実現する行為というのが、誰にとってもどんな立場や境遇にある人にも好意的に受け取られるようなことばかりではなく、場合によっては面倒くさがられたり、不快な思いをもたらすようなことまで実現しなければならないとしたら、そんな行為をいかにしてやり過ごすかが人々に課せられた使命になるはずもないが、嫌な思いをすることが予想されるようなことに対しては否応なくやり過ごそうとするだろうし、それに関してはそこに至るまでの経験から事前にそう思われるわけで、何か嫌な感じがするようなことがこれから行われようとするのを事前に察知できるから、それが到来する直前にはすでに身構えていて、後はさっさと厄災の類いが通り過ぎるのを祈るしかないが、やる方はやる気満々であり、いつまで経っても引き下がろうとしないだろうし、延々と人が嫌がるような行為をこれでもかと見せつけながらやりたがるわけだが、確かに誰にでもわかりやすい方面でならそういうことが簡単にわかるはずだが、中にはわかりにくい方面もあって、それとわかるようなことはあえてやりたがらない成り行きもあり、それもそういうことをやる気でやろうとするわけではなく、それが意図したわけでもないのに結果的にははぐらかされたりやっているうちにやろうとしていたことからずらされてしまうことになるわけだが、それを予想外だとか想定外だとか思うのが普通の感覚だろうが、意図的に外しているわけでもなくても自然に目的や目標から外れてしまうのだから、事前の目的や目標に不都合な面が隠されているから、それを遂行していくうちにそういう面があらわになると共にそこから外れていってしまうわけで、それを予想外だとか想定外だとか受け止めても構わないだろうが、そんな成り行きに逆らわない方が身のためでもあるから、自己防衛本能が発動して当初の目的や目標から外れるように行動したと結果からいいように解釈してみてもその通りなのかも知れず、そうであるなら何か外部要因が作用して、目的や目標をずらされてはぐらかされてしまったとしても、それをいいように解釈することが肝要で、それでは都合が悪くても当初の都合がそうだとしても、すでにそこから時間が経過して場所も移動した現状の中では、そんな現状から導き出される新たな都合に自身の都合を合わせる必要があるわけで、そうすることがサバイバルの極意というわけでもないだろうが、結果的に生き残っているなら、生き残っている現実をいいように捉えるしかなく、そうでなければそれが自殺する理由にもなりかねないが、もちろんそんな深刻な事態に陥ることも滅多にないから、そこまで思い詰めることも滅多にないだろうが、なぜか知らないが深刻な事態になる手前で、意図しない思いがけない方面から思いもよらぬはぐらかしやずらしが入って事なきを得るようなら、まだ運が自分に味方してくれていると思っておけばいいにしても、そういうところで取り立てて何を有効活用しなければならないと意識しなくても、周囲の状況から活用できる何かが見つかるようなら勘が冴えていると思うしかないが、それに気づかなくても意識せずにそういうことをやっている場合もあり、それも結果的に生き残っていれば数々の苦難や困難をくぐり抜けて今に至っていると思ってしまうのかも知れず、それも自らの現状をいいように解釈していることになるのだろうが、努力してそうなったとか困難に立ち向かう勇気があったからだとか都合良く解釈するだけ自惚れが強まって、そういう思いが自己正当化的に強まれば強まるほど逆に勘が鈍って、結果的に取り返しのつかない過ちを犯してしまう可能性もあるだろうから、それも事前にはわからないこととして受け止めるしかなく、そういう意味でも事前に立てた目標や遂行すべきと思われる目的に囚われてしまうのは仕方がないとしても、そんな目標や目的をはぐらかして事前には予想だにしなかった事態へとずらされてしまっても、そうなってから柔軟に対応する機会やきっかけが得られる限りでそうするしかないと思っておくべきなのかも知れないが、それも事前にそう思っていると、そんな思いがはぐらかされたり、思わぬ方面へとずらされてしまう事態にもなるわけだ。


3月23日「不安と杞憂」

 事態の急変に心が動揺すると、自らの意志とは無関係に文字が記されて、勝手にその場の状況を物語る文章が構成されるわけでもないだろうが、少なくとも文字を記そうとしているのだから、それが記述する者の意志に従った行為であり、そういう水準では意志が働いていて、意志とは無関係に文字が記されるわけでもないが、それに関してあり得ない妄想を抱きながら、大して興味のない内容が記された文章を後から読み返してみると、その無内容に愕然とするわけでもないが、驚くべき内容が何一つ記されているわけでもないこととは別に、何となくわかってきたこともあり、それが未知の何かであり、未来に関して何か語ろうとしているらしいのだが、それが過去の延長上にある既知のことであるなら、当然のことながら未知ではなくなり、既知のことが起こるのだから、誰もが知っていることが起こるわけで、しかもそうならざるを得ないこととして断言されるようなことが起こるとなると、未来に起こることがこれから起こるかも知れない何かだとわかるのだが、それを読んだ時点でわかることだから、まだ起こるかどうかは未定であり、それが起こる予定だとしても必ず起こるとは限らず、予定が未定なのは決定的なことではないが、そうなると断言しているのだから一応はそこで決定していて、そんな決定が覆って断言が外れてしまっても、そんなことがわかる頃には、断言された内容などとっくの昔に忘れられていて、誰もそんなことが断言されていただなんて思い出せないはずがなく、中には覚えている人も一人や二人はいる程度ではなく、意外と大勢の人が覚えているはずなのだが、覚えていてもスルーされて、そういうことだと織り込み済みになってしまい、これから起こることが必ず起こると断言されていたとしても、そんな断言が外れたとしても大して驚かないのだが、真に驚くべきなのは断言がその通りになって当たった時でもなく、事前の予想を遥かに超える事態となった時であり、それが外れとしての予想外であるよりは、当たり外れを無効にするようなことが起これば誰もが驚くはずで、そうなると事前の予想を吹き飛ばすようなことが起こるわけだが、それが現状で起こっていることだとすれば、確かに驚くべきことが起こっているのだろうが、実際に驚くべきことが起こっているのに誰も驚こうとしなければ、なぜ驚かないのか不思議に思うはずだが、驚かない理由を知りたいのではなく、未だかつて起こらなかったことが起こっているのだとすれば、誰もそれに気づいていない可能性があるわけで、誰もそれが起こっていることに気づかなければ、確かに誰も驚かないのも当然だろうが、それが起こっていることには誰もが気づいているのに驚かないとなると、何か理解を超えることが起こっているとしか思えないが、起こっていることは誰もが理解しているとすれば、では何が起こっているのかといえば、それは過去に起こったことの繰り返しではなく、新たに起こっていることであり、新たに様々なことが起こっているのに、それを何とかして過去に起こったことに絡めて語ろうとするから驚くべきことではないような気がするわけだが、それで安心できるかというと、逆に不安感が増してきて、過去の出来事とは何か違うのではないかと感じるから不安になって、それが未知の何かであり、これからかつて経験したことがないような大変なことになるのではないかと思うから不安感が増してくるのだが、そんな不安を打ち消すようにして何が行われるのかというと、断言が行われるわけで、現状で起こっているのはこういうことであり、これからそれがこうなると断言するわけだが、もちろんそんな断言によって不安が打ち消されるかというと、そうでもなく、逆に不安を煽るために断言が行われる場合もあるし、不安感を抱いている人たちを批判するために不安が杞憂に過ぎないと断言される場合もあるだろうが、断言の中で強調されることが多くの人が抱いている不安感を攻撃する目的で強調されるようなら、不安感を抱いている人々と敵対しているわけだが、敵対的な断言以外に何が行われるのかというと、励ましたり勇気づけたりすることも行われるだろうが、それが不安感を抱いている人々の味方を装うような行為であるなら、過去にもそういうことが繰り返されてきたのを思い出して、なるほどそれが過去の延長上にある既知のことだと気づくわけで、何かこれまでにない新しいことが起こっていることに不安を感じることが、過去から延々と繰り返されてきた人々の反応であり、そしてそんな不安を煽り立てるようなことも過去から延々と繰り返されてきたことであり、また不安を感じている人たちを励ましたり勇気づけたりすることも過去から延々と繰り返されてきたことであり、そうやって何かこれまでにない新しいことが起こっていることに素直に驚くのを、何とかして回避したいわけだが、もちろん回避しようと思ってそうするわけではなく、それと自覚することなくそうしているわけだが、そうやって過去との連続性を維持しようとしているわけだが、それも自覚することなくそうしているわけで、そうだとすれば何か多くの人々が不安感を抱くようなことが起こって、しかもそんな不安感を煽り立てたり、不安など杞憂に過ぎないと断言したり強弁するような人まで出てきて、その一方で不安感を抱く人々に寄り添って励ましの言葉をかけたり勇気づけるパフォーマンスを行う人や団体まで出てくれば、そんな不安感を向ける対象として、何かこれまでにない新しい未知のことが起こっていると思えばいいわけで、その際に過去から延々と繰り返されてきた人々の反応を真に受けて一緒になって踊らされてしまうと、何かこれまでにない新しいことが起こっているのに率直に驚けないことになり、驚くよりはそれに対する反応として驚くのを打ち消すような行為に加担してしまうわけで、しかもそれが過去から延々と繰り返されてきたことだから、そんなことをやっているうちに出来事が織り込み済みになってしまうのにも気づかず、素直に感動することを恐れるあまり不安感に駆られるという過ちを犯していることにも気づかないままとなってしまうのだろうが、その代わりに何を持ち出してくるのかといえば、過去との連続性を強調するために、過去に起こった似たような出来事を持ち出してきて、それと今回起こった出来事が同じことだと主張したくなるのだろうが、そんなことを主張したところで何がどうなるわけでもないどころか、それが未来への予想や予測や予言などに役立つような気がするわけで、そんな主張には不安を打ち消したり煽ったりする断言も含まれてくるわけだが、実際に何を打ち消したり煽っているのかといえば、それがこれまでに経験したことのない未知の出来事であることを打ち消したり、過去に起こった似たような出来事と同じであることを強調して煽り立てているのだろうが、そうやって打ち消したり煽っている行為自体が過去から延々と繰り返されてきた同じような行為であり、そんな行為によってかつて経験したことのない未知の出来事を織り込み済みの既知のこととして葬り去ろうとしているのだが、果たしてそういうやり方がうまくいっているのかというと、自覚することなくそんなことをやっているわけだから、やっている人たちもその出来事に含まれていると共に、そういう人たちを糧として消費しながら未知の出来事が進行している最中なのではないか。


3月22日「入口と出口の違い」

 そこに至る説明が長すぎて、途中でそこまでの説明内容を覚えていないことに気づいたところで、また始めから丁寧に説明してくれるわけでもなく、結局何をやればいいのかわからず途方に暮れて、だからといって入口から入ったばかりですぐに出口を見つけようとするのも性急すぎるが、貴重な時間を無駄にしている余裕がなければ、無駄な余裕を持て余して苦し紛れに仕掛けているのが、何に対する攻撃となるわけでもなく、直接攻撃という危険を冒して賭けに出なければ何をもたらすこともできないと思うのも、勘違いには違いないが、そこに至る成り行きの中で見逃している一瞬があるとすれば、それが何かの拍子に垣間見えた出口だったとしても、それもこちらの都合を反映した幻影に過ぎないのかも知れず、現状で出口が見えないから困っているのもわかりきったことであり、解決の糸口をつかめないからといって、人を困らせるようなことを仕掛けても、逆にどこで攻撃の矛を収めたらいいのかきっかけがつかめなくなってしまうのもわかりきったことだろうが、困っているからといって、困っているなりに誰もが生きていて、生きていない人はすでに死んでいるから、生きていた頃には困っていたとしても、困りながら死んでいった人たちが、死ぬ間際に救われた証拠があるわけでもなく、果たして死ぬことによって出口に辿り着いたかどうかも、死人に口なしだからよくわからないが、安易な喩えとして死ぬことが人生の出口だなんてわかったふうには思わない方がいいのかも知れず、死ななくても出口が見つかるに越したことはないが、出口が見つからずに迷走の最中に息絶えた人も中にはいるだろうから、現状でも出口が見つからずに焦っている人もいくらでもいるのだろうが、たとえ出口が見つかったところで困った状況から抜け出せるとも苦境から抜け出せるとも限らず、また入口から入れば出口があると思うのも早合点であり、間違って入口ではなく出口から入ってしまった人も中にはいるだろうし、さらには出口と入口が一緒であれば出口を探す必要すらないはずだが、それ以外にもどんなケースを想定してみても想定外のことが起こる可能性があると思えば、事前に何を想定してみても無駄な場合もありそうだが、すでにここまで来てしまったのだから、自分ではよくわからない何かに導かれながらここまで来てしまったと思ってみても、思うだけ無駄に思っているに過ぎず、本当は導かれているのではなく、偶然に何かのきっかけから自分のために用意されたわけでもない他人の迷路に迷い込んでしまっただけかも知れないし、誰のために迷路が用意されているのでもなければ、そこで迷っているつもりの迷路すら思い込みの幻影に過ぎず、端から見ればただ独りよがりなことをやって他人に迷惑をかけているだけで、そんな行為を無視している人も含めて誰にとっても何の利益にもならないことをやっているだけだとしたら、客観的に見てそこで何をやっているのかといえば、入口と出口の間で右往左往しているだけなら、その場を行ったり来たりしているだけだろうが、果たしてそれが入口から入って出口から出ていく行動の途中の段階なのかというと、どうもそうではないのかも知れず、入口と出口で何か違いがあるわけではなく、そこに入ったりそこから出たりすることが実際にその周辺で活動している人や集団にとっては重要なことなのであり、その入ったり出たりしている場所が何なのかはどうでもいいことではないのだろうが、その場所で道に迷うような迷路が構成されているわけでもなく、入口も出口もはっきりこれだと指定されているわけでもなければ、人工的に造られた構築物でもなければ何なのかという問い自体が不問とされるような場所なのかも知れないが、それを村落共同体と言ってみても地縁血縁共同体と言ってもしっくりこないかも知れず、自然にそんな場所ができあがるわけでもなければ、人が寄り集まって構成される社会と呼べばその通りだと言うしかないが、その場所に公共性があるかというと、少なくとも誰もが利用できるわけでもないところがそうとは言えないところでもあり、それでも実際にそれなりの社会的な立場や地位を有した人たちが出入りしている場所なのだから、ある程度の公共性がないとそういう成り行きにはならないだろうし、完全に私的で全く公共性がないということにはならず、何かしら公共の利害が反映された場所なのだろうが、そこに入るにしてもそこから出ていくにしても、その前段階で何らかの選別が行われて、入る人も出る人も一時的に足止めされる関所の門があるなら、何か塀のような障壁に囲まれた場所だと言えるだろうが、それが目に見えない障壁であるはずもなく、ちゃんと誰の目にも見えているから、その場所が他と区別されて内部も一定の区画で区切られているはずなのだが、いったんそこに入ってしまえば二度と外へ出られないということにはならないとすれば、人を強制的に拘束するための施設とは違うのだろうが、その資格を有さない者が入ってこれないように結界が張られていて、その場所を囲う障壁にそんな力があると信じられているわけでもないはずだが、要するに国境がそこにあり、少なくとも無国籍の人が出入りできないようにされているのだろうが、入口と出口に違いがあるかというと、入国と出国の違いはあるにしても、出国すれば入国しなければならず、入国すれば出国しなければならないとは言えず、出国したままになることはなく、ほとんどの場合は出国すれば他のどこかの国に入国することになるだろうが、入国したまま死んでしまえば、自力でそこから出国することはできなくなってしまい、他の誰かに手伝ってもらって遺体や遺骨となって搬送されるようなことはあるだろうが、少なくとも死んでしまえば後はどうなろうとその人にとってはどうでもいいことかも知れず、遺族がどうにかしようとするだろうが、それはその人の意志には関係のないことかも知れず、そういう意味で入口と出口で違いがありそうなのだが、だからといって国境でなければ他にそんな面倒な境界があるのかと問われるわけでもないし、制度や慣習として境界線がはっきりしていないとその国の政府が困ってしまうから、便宜的にも国境ぐらいは決めておかないとまずいのだろうが、その程度を弱めて人や物流を活発化させるような工夫が凝らされることもあり、例えばそれがEU域内で行われていることであり、北米のカナダとアメリカとの国境などでも出入りの制限や制約が緩められているかも知れないが、日本と周辺国の間でそれをやろうとすると領土問題が絡んでくるから微妙になってくるだろうが、ロシアでプーチンの独裁体制が終了するタイミングを見計らって、北海道とサハリン州や沿海州などとの交流を活発化させたり、九州と韓国と台湾などとの交流を活発させるようなことをやれば、そういうところから経済が活性化する可能性も出てくるかも知れないが、果たして政府が絡んでこないレベルでそういうことができるかというと、なかなか縦割り行政の障壁を打ち破ることが困難となってくるかも知れないが、日本の行政形態を連邦制のような緩い形態にできれば、国と国の関係以前に異なった国の隣り合う地域同士の交流の方が前面に出てくるような形態もあり得るかも知れず、そうなることをあからさまに目指すというわけでもなくても、自然にそうなるように持って行ければ、それが国のレベルでの経済的な困難を解消するきっかけとなるかも知れないが、そうなることがベストだとか、そうなるべきという主張より先に行動が伴ってくることが肝要なのかも知れない。


3月21日「ロマンと虚構の逆説」

 戦場で刹那的に生きられるわけでもないのは、それを実際に志願兵の類いが証明して見せようとしなくても、戦場自体が遠くで起こっているロマンあふれる光景のような出来事である限りで、そんな嘘を想像するのも勘違いのなせる業であり、何かそれに関して中途半端な幻想にこだわっている気がするようなら、そこにロマンの持続的な可能性の条件があるとは思わない方がいいのかも知れないが、そうかといって現状で安定して絶え間なく利益を求められるようなことができているわけでもなく、普通に考えて戦争の当事者でなければどうすることもできない直接性があり、それが傍観者の間接性からは出てこない答えを伴っていて、それとは無関係な人を惑わせることになるのだろうが、実際にそれを遠くから眺めている人が体験するわけでもないのだから、そんなことは空想の域を出ないことであり、そこで誰が死傷しようと知ったことではないが、それが理不尽に思われるようなら、死傷した原因よりはそこに至る経緯の中で起こる成り行きの方に興味を覚えるかも知れないが、他人の行動や活動にいくら興味を惹かれても、それが自身の行動や活動に結びつくわけでもなければ、それに関して言説を弄することにもならないだろうが、そんな自身の存在の耐えられない軽さを実感したくて刹那的な暴力の発動を求めているわけではなく、そんなのは漫画などのフィクションの中で楽しめばいいと思うところだろうが、実際に傍観者が体験できるのは嘘にもならない別物の体験かも知れず、だからといって直接にはそれを体験したくないだろうから、嘘であることを承知で疑似体験したつもりになればいいというわけでもないし、何かそれが魅力を感じるような出来事として体験したいわけでもなく、なるべくなら直接には体験したくないわけだが、何を体験したくないのかというと、それが自らの生死をかけた危険な遊戯となってしまうとまずいわけで、そうはならない範囲内で虚構の遊戯を本当らしく自身の感情と同期させようとしていて、画面の上で揺れ動く人や物の動きから現実に起こっている出来事の一部始終を想像しているわけだろうが、そんな想像から何を知ることになろうと、それを書き記してみればただの言葉の連なりにしかならないわけだから、それを読んだ人が受け止める印象が何を意味するわけでもなければ、それをどんな出来事として自身が把握しているわけでもなく、何かがそこで語られていることは確かなのだとしても、一向にそれを理解する気にはならないわけで、それでもそこで何が行われているかは誰もが承知しているはずだが、それを恣意的に解釈しようとすると、その人が得意とするジャンルに合わせて、実際にそこで行われていることとは無関係な何かを語っていることになり、それがその人が語りたい何かである限りにおいて、その人の願望に結びついた虚構を構成するのだろうが、その願望がそこで行われていることとは相容れない内容となれば、それが願望への批判として機能して、その人の願望が嘘に過ぎないことを証明しようとするのだろうが、どうやってそれが証明されるのかといえば、そこで行われていることをその人の願望がねじ曲げようとする限りで、願望よりもそこで実際に行われていることの方が確からしく見えてしまい、実際に行われていることが事実であるのは誰の目にも明らかなのに対して、それに反して願望を語ろうとすることが明白な嘘に過ぎないことも明らかとなってしまうから、その人が自身の願望を交えながら語っていることがそこで行われている事実に反する内容となってしまうのだろうが、なぜそれがその人の願望なのかといえば、事実を恣意的にねじ曲げて語ることがその人の望みであり、事実を事実とは認めたくないからそんな嘘をつくのも当然の成り行きだが、そうである限りにおいてその人の願望とは違ったことがそこで起こっていて、結果的には願望が実現していないわけだが、願望が実現していないからこそ事実に反した虚構を語らざるを得ないのも当然といえば当然の結果なのだが、その人の願望自体がその人にとっての理想の姿を表しているわけだから、それがその人のロマンを語っているのであり、それがロマンである限りで現実にはあり得ない理想像でもあり、だから虚構でしかないのだろうが、そうなっている時点でありのままの現実を語るわけにはいかなくなっていて、その代わりに現実にはあり得ない虚構を語るしかないわけだが、それがその人の望みでもあるわけだから、その人の語りたいことを語っている限りでそれは現実ではないということになり、そうやってその人の願望が嘘に過ぎないことが証明されるわけだが、自身の願望を語る人がありのままの現状を語ることができないということが何を意味するかというと、その人の願望の中に現実にはあり得ない虚構が含まれていて、その虚構を使ってありのままの現実をねじ曲げようとしているわけだが、それが事実をねじ曲げようとしているとは思っていないわけで、それがその人の思い違いでもあるのだろうが、客観的に見るなら現実に起こっていることを認めない代わりに、願望の通りのことが現実に起こってほしいわけだから、まだそこでは願望が成就していないことを認めていて、できれば願望した通りのことが起こるように現実を作り変えたいわけだが、そのために何をやっているのかといえば、現実と戦っているわけで、現実を望むように作り変えるために現実と戦っているのだから、それこそが戦争そのものなのだろうが、戦争自体が現実の恣意的なねじ曲げに他ならず、ありのままの現実をねじ曲げようとしているわけだから、実際に現実の破壊が起こっているのも当然の成り行きであり、自らの理想とする世界を実現するためにはありのままの現実を破壊する必要があるわけだが、現状の世界を破壊することと理想の世界を実現することが行為として一致するかというと、それも願望としては一致してほしいのだろうが、破壊と創造は真逆の行為だから一致せず、破壊された後には残骸が残るだけで、そのままでは何が創造されるわけでもないのだが、願望が成就することはなく、望んだ結果とは逆の事態となっていて、その人の抱いたロマンが裏切られているからこそ、なおのこと理想を追い求められて、より強く願望を抱くようになり、それが高じて理想の世界を創造するという使命感に駆られるようになり、それが悪循環に陥っていることを示しているとしても、当人はそうは思っていないだろうし、困難に陥るほど思いを強く抱くという逆説的な事態を客観的に理解することができないわけだが、それが捉えようによってはそんな思いを強く抱くためにより困難に陥ることを求めているとも受け取れるから、そんな逆説的な事態になること自体が望むところでもあり、そうやって世界の荒廃が進行すると共に理想主義もより強く求められるようになるという悪循環に陥るわけだが、そういう理屈を理解している人がどれほどいるかというと、理解したところで理想主義の強まりを押しとどめることができるわけでもないのだから、取り立てて理解しようとも思わないのかも知れないが、理解しない方が理想に燃えて使命感に忠実に行動できて、より世界の荒廃に貢献できると解釈することも理解する必要のないことであり、理解しなくてもいいことを理解する人も少ないと見ておけばいいのかも知れず、そんな世界の現状を理解できない人たちが何を思うのかというと、それが自分では理解できないことを願望として実現しようと思うのかも知れないが、そんな願望の実現こそが、それが実現する可能性から現状が遠ざかるほど願望が強くなるという逆説的な効果を伴っていることを理解できないわけで、自らが望んでいることが実現してほしいと強く思えば思うほど、絶望的な状況の中でそう思っていることになるわけだ。


3月20日「ややこしい道理と理屈」

 関係ないと言えばその通りかも知れないし、自分に関係のないことに興味を持つとは思えないが、果たして全く関係がないと言い切れるかというと自信はないが、一概に関係といっても関わりの程度や質や内容にもよるだろうが、関係がなくても邪魔が入り、直接何を邪魔されているわけでもなくても、何となく邪魔な気がすることもあるかも知れないが、それに関して想像力を働かせれば偽の関係を空想できて、自身で勝手に思い描いているフィクションの中ではそれなりの関係を構築しているつもりになれるが、それが何と何との関係なのかがよくわからないわけで、これからそれを探ろうとしているのだとしたら、嘘をついているのであり、元から関係などありはしないのだろうが、ただの傍観者でしかない立場から関係のなさを嘆いてみても意味がなく、下手に関係がある方がその関係に心身を絡め取られているから面倒なことになっている場合もありそうで、そういう意味では関係がない方が気楽なのかも知れないが、それでも何と何とが関係ないのかもよくわからないままだと、そこでも嘘をついていることになるのだとしたら、関係があったりなかったりすること自体がありえないのかも知れないが、関係など何もないのにそれについて語ろうとすれば、語ることによってそれと関係があるかのように装いたいということでもないはずだが、そもそも無関係であれば語る必要もないわけで、何かを語ること自体がその何かと関係があることの証拠となればわかりやすいはずだが、特にその証拠があるわけではなく、関係があることに関して証拠を求めているわけでもなければ、語ろうとしているそれと関係がなくても構わないと思ってしまい、直接的にも間接的にも関係があると思うからそれについて語ろうとするわけではなく、むしろ無関係だからそれについて語れるとしたら無責任この上ないことだろうが、そんなふうにして語る内容を信用できるわけでもなく、信用されなくても構わないと思えば気楽な立場からそれについて語ることになってしまうが、面倒だから信用されなくても結構だと思っている程度で、わざと信用されないようしているわけではなく、どちらかと言えば信用するかしないかはそうしたい側の自由であり、実際に信用されていないわけでもなければ、相手から信用されるということが何を意味するのかがわかっていないのと共に、相手にされていなくても構わないわけで、信用されたところで何の利益も期待できなければ、下手に信用されない方がマシというわけでもないが、利益と信用が結びつかなければ関係がないことになるかというと、そういうわけでもないと思っておいた方がいいのかも知れず、たとえ利益に結びつかなくても、信用されていた方がいいような気がするわけで、信用されることが何でもないことだとは思えないわけだが、それが利益と結びつく信用というのではなく、そうかといって他の何と結びつけばいいのでもなく、またそれが何と何との関係ならその関係を信用できるということでもなく、たぶん利益と信用とは無関係でも構わないが、その代わりに必要な何かがあるわけでもなく、その何かについて語ろうとしているわけでもなければ、では何なのかということになってしまうだろうが、それを語ろうとしても語れなければ、そこから利益も信用も生じてこないのだが、たとえそれを語れたからといって他の何が生じてくるとも限らず、何も生じてこなければ語るだけ無駄骨に終わる可能性もあるかも知れないが、確かにそこではそうだろうが、それとは別の時間と空間の中では別の何かが生じてくる可能性もあるようなら、それを知ることができれば無駄ではなかったことがわかるかも知れないが、知ることができなくても構わないといったら嘘になるが、わかることになるのがいつになるかが現状でわかるとも限らず、現状の中では相変わらず何もわからないのであり、そもそもわかるきっかけを掴めないわけだが、それがわからないからといって途方に暮れているわけではなく、少なくとも途方に暮れて他には何もできない状況というわけでもなければ、他には何もできないという他が何なのかに興味があるのかも知れないが、それについて語る以外に何をやっているわけでもないということはあり得ず、語る以上の何がもたらされているわけでもないから、当然のこととして利益も信用ももたらされてはいないわけで、だからそれらとは無関係だとも言えるわけだが、無関係であってもそれらとは無関係に生きているわけではなく、何かしら気づかないところでそれらに代わる何かがついて回るようなら、そのついて回っているそれが何かというと、それがそれについて語っている内容であり、その語っている内容からそれを推察できるかというと、それが見当違いなことを語っているようなら、そもそも内容自体も間違っていることになるだろうが、わざとそうすることによって何かを避けているわけで、その避けようとして避けられない何かについて語らなければならないとは思えなければ、実際にそれについて語ることを避けているわけだが、それでも何かの拍子にうっかり語ってしまいはしないかと内心怯えているのかも知れないが、今のところそんな心配は取り越し苦労の杞憂に終わっているようで、実際に何も語らずに済ませている代わりに無駄に空疎な文章を構成するにとどめているわけだが、それ以上に何ができるかとなると、現状に照らし合わせて何を思考できるかということになるのだろうが、現状が人の思考を直接受けつけない現状なだけに、その代わりに誰もが間接的に部分的な言説を弄して、自分の関心を些細な現状の範囲内に限定することによって、現状の何もなさから目を背けているのかも知れず、空疎な虚無から目を背けることによって、それ以外の事物が言説を弄する目標となり、実際に空疎でも虚無でもないような世界のありとあらゆる事物について語ろうとしているわけではなく、ただの部分的なこだわりに該当する事物が実際に存在すると思わないことには、もちろんそんな自覚もなしにそれについて語ることしかできなくなってしまうのだろうが、語ることしかできなくなってしまっている人が実際に沈黙しているわけでもなく、沈黙を守らない人がいくらでもいる現状の中で、なぜ沈黙を守らないのかといってもそれは愚問であり、沈黙を守る道理もないわけではなく、そんな道理を意識できないから道理そのものを無視する気もなく無視しているのだが、そんな沈黙を守れない人たちが何を語っているのかといえば、やはりただの部分的な興味にまかせて語るしかなく、それ以上に何を語れるわけでもないのだから、そこにせこいこだわりがあるとみておいても構わないが、せこくて部分的なこだわりを共有できる人が他にもいくらでもいる限りで、そんな部分的な言説が世に流通しているわけで、それを今さら肯定したり好意的にそれへの同調を装ってみたりするのが、わざとらしくも見苦しい演技とならない範囲内でかろうじて自己の尊厳を取り繕っているはずだが、そうまでして沈黙を守れないことの言い訳を正当化できるかというと、それも正当化しているとは自覚できないから、正当化しているわけでもないとも思わずに、そんな範囲内でのこだわりもスルーして、ではどんな範囲内や水準で何にこだわっているのかといえば、自らの力量をわきまえないレベルで部分的な興味の対象から逸脱しない範囲内で自らのこだわりを押しとどめている自覚もなく押しとどめているのだろうが、そんなことが果たしてその人の力量の範囲内で可能なのかというと、それもそんなことを自覚するまでもなく実際にそうしているわけで、そんなことができている限りで沈黙を守らなくても済んでいるはずなのだが、それもそういうことを意識したり自覚した上でそうしているわけではなく、意識しなくても自覚できなくても普通にそんな芸当ができている現状があるわけだ。


3月19日「前提の違い」

 議論の前提が違うことが、何かそれとは別のことを意味すればいいのだろうが、どんな前提が信じられているのかが、よくわかっていないのかも知れず、それ以前にどこで何が議論されているのかもわかっていないが、議論の内容も知らないのにそれについて語ることができるわけでもなく、無理に語ろうとすれば想像で語るしかなく、想像力にまかせていい加減なことを語れば、議論とは全く違った内容となってしまい、なるべくならデタラメな内容にはしたくないところだが、何の前提もなしに議論が交わされるわけでもなければ、議論を成り立たせる前提が何かしらあるのだろうが、それが何の議論なのかといえば、政府や政治の役割に関する議論なのかも知れないが、そこから方向がずれてくれば経済に関する議論も加わってくるのだろうが、まず政府の役割というところで踏まえておかなければならない前提が、国家や民族などの形成に関する歴史的な経緯を抜きにはできず、それがあるから事態がややこしくなり、場合によっては問題がこじれてくるかも知れないが、そういう歴史的な経緯を抜きにして考えるなら、ただ単に公正な選挙が行われた結果として議会の多数勢力を構成した政党から政府の代表者が選出されればいいということになるが、それでもおかしな理屈や前提を持ち出しているとは思っていないのだろうが、言語や宗教や生活習慣などの同一性からある一定の範囲で構成される集団にアイデンティティが形成されて、それが〇〇人であることの精神的な拠り所となってしまうと、他の集団と対立したり争ったり戦う口実となってしまい、それを利用して強権的な政治体制が構築されることもあり、政治の場でそういった類いの対立が煽り立てられているようなら、それを煽り立てている政治家の類いが独裁的な権力を握っている場合も多く、果たしてそういう前提を取り去ることが可能かというと、なるべくならそれなしで済ませられるような政治勢力や政党を支持すればいいということになるのだろうが、そこにも地域差や地域事情が絡んできて、日本でも世界的に見てどちらかといえばそれを無視できない事情や経緯がある方だろうし、実際にそういう事情や経緯に合わせて政治勢力が形成されている傾向もあるわけで、そういう事情や経緯に囚われた人々の支持を背景として政治的な実権を握って議会でも多数派を構成している面もあるだろうが、それが表面的には問題視されないようでも、地域的な慣習や地縁血縁などの面で排他的な傾向を見せているとすれば、足枷となって人々の行動や思考の自由を奪って、社会が停滞している原因を形作っている可能性もあるだろうが、そういう面が顕在化することはないだろうから、はっきりとそれだと断定するわけにはいかないだろうが、無理に改める必要もないのかも知れないし、改まらないからその分だけ社会が停滞しているとしても、それも織り込み済みの前提条件となっていて、日本はそういう傾向の社会であり、それを受け入れた上で人々が暮らしていると見ておけばよく、それが他の欧米諸国に比べて見劣りするような面もあるとしても、民族的あるいは国家的なアイデンティティとしてそういう傾向を肯定したい勢力もいるだろうから、そういう勢力にとってはそれが好都合なことでもあり、そういう傾向をネガティヴに捉えている勢力にとっては、是が非でも改めたいのかも知れないが、それがなかなか改まらないから、そういう勢力が多数派を占めることができない原因ともなっているのかも知れず、もちろん日本ではあからさまにそういうことが問題視されているわけでもなく、相対的には世界の中でも程度が弱い方かも知れないし、だからはっきりした独裁体制にもなっていないのだろうが、そういう状況の良し悪しは別にしても、それはそれとして割り切って捉えておくしかなく、そういうところへと真正面から批判を加えるようなことはやらない方が身のためだろうし、実際にどんな勢力もあからさまにそれを問題視しているわけでもないだろうが、逆に考えるなら世界各地の紛争地域で何が起こっているかといえば、それを巡って対立や争いが起こっているから、それがそのまま紛争へと発展しているわけで、そういう方面へのこだわりがそのまま経済格差にも結びついてくれば、さらに問題がこじれるわけだから、なるべくなら表面化させずに済ませられるならそれに越したことはないだろうが、それでは済まなくなるような成り行きになってしまうから紛争に至ってしまうのだが、なぜ済まなくなってしまうのかといえば、自己が個人として確立されていると同時に〇〇人としてのアイデンティティも確立されているから、他の〇〇人と対立して争い、実際に紛争へと発展するのだが、日本の場合は自己が個人として確立されている程度が弱いから、その分で集団に精神的に依存している面も強まって、そんな集団内で除け者にされて、集団を追われてしまうと、自己責任で争う気力もなくなって、そのまま孤立して何もできなくなってしまうわけで、要するに集団から除け者にされた個人を同じ〇〇人が助けてくれないわけだが、自己が個人として確立されていないから、他の〇〇人と争うこともしない代わりに、同じ〇〇人同士で助け合うこともできないという中途半端な精神状態にあるのかも知れないが、日本の軟弱な社会学者の類いが自己責任論を否定的に捉えるのとは逆に、自己責任で他の〇〇人と争うことも同じ〇〇人同士で助け合うこともできるということが良いか悪いかは何とも言えないところだろうが、さらには自己責任で他の〇〇人を助けることもできるようになれば、例えばロシアとウクライナの戦争に別の国から参戦する義勇兵のようなことにもなってしまうだろうが、民族や国民という集団としてアイデンティティが確立されていると個人としても自己責任で行動できて思考も働くという逆説的な傾向が意味するところが、それを矛盾と捉えると何か間違っているような気がすると共に、そういう傾向を肯定的に捉えるのも、その種の紛争が実際に起こっているわけだから、少し違っているような気もするし、そういうところがどう捉えてみてもしっくりこないところでもあり、焦ってその善悪を判断したり、無批判にそれを真似る必要もないだろうが、そんな傾向も織り込み済みの前提としてそれを受け入れるわけにもいかなければ、それとは別の方面からそういう傾向とは距離を置いた姿勢や態度を模索してみるのもいいのかも知れず、そういうところでこれまでにない状況がもたらされる可能性があり、その気があればそれも自己責任で考えてみればいいだろうが、もちろん何でもかんでも自己責任に結びつける必要もなければ、無責任な態度や姿勢でいても構わないし、そうした態度や姿勢でいられる限りはそのつもりでいればいいが、考えるのは個人で考えることしかできないとしても、議論することは一人ではできないし、複数の人が個人の考えを持ち寄って議論すれば、何かうまいアイデアを思いつくかも知れないし、そういう成り行きを通して個人同士の結びつきや協力関係も生じてくるのだろうが、それが良いか悪いかというよりは、日本のように集団主義的な傾向が強すぎて個人の力がうまく発揮されないような状況となっているところでは、それなりにやり方を変えることによって、現状で生じている停滞を打開する契機も生じてくる余地があるのかも知れない。


3月18日「全体的な視点」

 社会の中で誰かが語っている内容と別の誰かが考えている内容が一致することもあり得るかも知れないが、同じ社会の中で生きているのだから同じような価値観を共有している面もあると考えても、それを一定の価値観を共有するように仕向けられていると考えても構わないが、全体的な視点から社会の中に住んでいる人々が共有すべき価値観のようなことを語っている人がいるとすれば、それを特定の個人が語っているということが何か違和感を覚えるのは、果たして一人の個人でしかない存在が全体的な視点に立てるかということに関して疑問を感じるわけだが、そもそも全体的な視点とは何かというと、例えば社会はこうあるべきだとか語ってしまう時に生じてしまう視点であり、それはその人の妄想だと片付けてしまえば話が早いが、大真面目にその妄想を語っている人も中にはいて、それがその人の力では実現不可能なことを語っているように思われるが、政治の力によって実現しようとしていると考えると、社会全体を変える試みのように感じられるが、政治によって変えられることは何かといえば、政府が管理運営している公的な制度を変えるとか政府の予算の使い道を変えることになるだろうが、それによって社会が変わるかというと、多少は変わるにしても、それが制度的な変化や予算の変化にとどまらずに、その影響が社会全体に波及して社会がその人の都合のいいように変わったことになれば、その制度的な変更や予算の変更が社会はこうあるべきだという内容を反映していることになるはずだが、そうやって結果的に社会を変えたことになるかも知れないが、その社会はこうあるべきという内容が示していることが具体的に何なのかというと、それがその人の妄想の内容になるのだろうが、実際に政治の場で行われていることが、制度や予算の変更でしかなければ、普通に考えても部分的な変更でしかなく、それによって社会全体が変わるということが、何かおかしいような気がしてしまうわけだが、それが単なる政治的な宣伝でしかなければ納得できるかも知れないが、制度や予算を変えたぐらいで社会が変わるということが、その程度で変わってしまう社会という概念自体が大したことでもないと受け取っても構わないのかも知れず、そういう意味では社会を変えるということの中身が、それほど大げさな程度ではないと見ておいても構わないが、それだけ政治の力も大したことではなく、大げさに社会全体に関わるような視点から語ることでもないと考えれば、取り立てて深刻な事態にはならないのかも知れないが、そう考えることから何が言えるかとなると、政治の陳腐化というか、矮小なものと捉えた方がいいということになると、何か世界の実態からかけ離れているようにも思われてくるかも知れないが、逆に政治が大げさで深刻なものとなるにはそこに何が加わらなければならないかというと、それが否定的な要素であって、汚職や金権腐敗であったり、独裁者による強権政治であったりするわけで、そういう否定的な要素が政治から取り除かれると、大したことではなくなって、政治の存在意義も薄れてくるように思われるかも知れないが、ではなぜそれがなければ何でもないようなことなのに、そういう否定的な要素がつきまとってくるのかといえば、それが経済的な方面から生じてくるといえばわかりやすいが、政府という公的な組織が税収から得られた予算を使って民衆の要望に沿うようなことをやっていればいいのだろうが、それだけでは済まなくなる事態が起こるわけで、そうなると政治の在り方が大げさになってくるのだろうが、民衆の要望自体にも賛否があれば、何かをやれば反対する人も出てくるような面倒なことにもなるから、そこから民衆との関係もこじれてきて、そういうことをきっかけにして行政の民衆に対する態度にも強権的な傾向が出てきて、それがエスカレートすれば民衆に対する弾圧などが起こったり、民衆の側でも暴動を起こしたりするわけだが、その直接的な原因が経済恐慌であったり天変地異や気候変動による場合もあるかも知れないが、それが政府という組織の成り立ちや在り方が原因となっている場合もあるだろうし、何よりも税を民衆から強制的に徴収することでしか成り立たないわけだから、すでにそこに強権的な傾向があるわけで、それが政府という組織の根本的な欠陥だと言ってみても、そんなことは当たり前のことなのだから、それを直しようがないわけで、全ての強権的な傾向がそこから派生してくるとしても、それなくしては政府自体が成り立たないということになると、では政府をなくすにはどうすればいいかとは誰も問えないし、逆にそういうむき出しの欠陥を隠蔽したり、そこから民衆の目を逸らして欺くための意見や主張ならいくらでも言うに事欠かず、やれ税の公平性を高めるだの、金持ちから多く徴収して貧乏人から少なく徴収すればいいだのと言えば、それで誰もが納得するわけでもなくても、そういう水準でコンセンサスを形作りたいわけだが、それが欺瞞だとはほとんどの人が思わない現状があるなら、誰もが政府に騙されていることになるわけでもないが、それなりの歴史的な経緯を伴って今日的な政府という組織が成り立っているわけだから、それを一朝一夕で変えられるわけでもないし、社会を変えるとは政府をなくすことだと主張するような人がいれば、気が狂っているとしか見えないだろうが、全体的な視点から見るならそういうことを言っても構わないとも思わないにしても、論理的にはそういうなのかも知れず、誰もそんなことは口が裂けても言わないし、実際に現状に照らし合わせてもあり得ないことだろうが、それでも政府のない世界を空想することができて、太古の昔には政府など存在しなかったわけだが、そういうことの延長上で何を言っても真に受けてもらえないが、その代わりに政府の存在を前提とする空想やら妄想やらをその人の主張や意見に盛り込めば、何かもっともらしいことを述べているように感じられるわけで、それが税の徴収に伴って発動する強権的な傾向から目を背ける行為でもあり、それを欺瞞だとは感じないわけだから、そうなっている時点ですでにその種の欺瞞が織り込み済みとなっていて、そんなことを問題視すること自体が非常識で狂気の沙汰のようにしか思われないわけだから、そういう方面で世間的な常識がいかに真っ当に感じられようと、それが錯覚だとは断じて言えないし、そういう狂気や非常識と見なされる面をを抜きにして、社会はこうあるべきだとかきれいごとを言う人たちが、民衆から税を強制的に徴収することによって成り立つ政府の存在を織り込み済みの前提にしていること自体が、それが世界の不条理を体現しているとも思えないし、そんな大げさなことではなく、常識的に考えても極めて当たり前のことを主張しているように感じられるのだから、それで何の問題もないわけだが、では社会はこうあるべきだとかいうこと自体が、政府が存在することを前提としない限りは言えないのかというと、政治自体が政府ありきで行われていることであるから、それも当然のことであるにしても、結局は政府を社会を管理運営するための組織として認めていることになり、政府なしには政治もあり得ないことになるわけで、そんなことも当たり前のことなのだが、そういう前提を問題視する必要がないかというと、政治の水準では問題視できないわけで、政府がないと政治そのものが成り立たないのだからそんなことも当然だろうが、それを逆に言うなら、政府なしには成り立たない政治そのものが、社会の全体を見渡すような視点を獲得できないのは明白であり、政治はあくまでも政府に依存して行われる部分的な行為にとどまり、政府の力が及ばないところでは政治も無力なのかも知れないが、それでも社会全体を見渡す視点を維持しようとするなら、政府によって社会全体を管理運営するしかないわけで、それが全体主義的な視点だと言ってみても、もちろん政治に携わっている人たちからすれば、積極的にそうなってほしいと思うのではないか。


3月17日「問いと答えの関係」

 自身が様々な物事に依存しながら生きていることは承知していても、何に依存しているかがわかっている場合もわかっていない場合もありそうだが、何に依存しているとしても、他の誰もが依存しているなら同じように自分も依存していても、それが弱みにはならない可能性が高そうだが、自分だけの特殊な事情があると、そこを突かれると困る場合もあるかも知れず、時としてそういう事情が弱みになるのだろうが、他人に弱みを握られないことが肝心だとしても、すぐにはそれが弱みだとはわからないかも知れないし、むしろそれが自分の強みだと思っていたら、その強みがかえって油断を生んで、自らの強みを生かしているつもりが、その強みをうまく利用されて、他からいいようにこき使われているような状況があるなら、こき使っている側にまんまと踊らされていることになるだろうが、こき使われるだけもまだ利用価値があるということだから、それが致命的なことではないとしても、利用するだけしておいて、要らなくなったら捨てられてしまうようなら、捨てられる前に何とかしなければならないだろうし、その何とかしなければならないということが、自らをいいように利用している団体や組織への依存から脱却しなければならないという思いに結びつくなら、その団体や組織からいいようにこき使われている実態があるということになるだろうが、そういうわかりやすさが簡単に理解できる形で顕在化しているようなら、誰もが他から利用されないようにするにはどうすればいいかという課題に取り組むように仕向けられてしまうかも知れないが、それがあからさまにはなっていないから、他からうまく利用されていることになるのだろうし、あからさまにならないように工夫しているわけで、もちろん意識してそうしている面もあるだろうが、その場の成り行きに身をまかせていれば自然とそうなってしまう面もあるようなら、そういうことが意識できないようにされているわけで、それが自らが依存している組織や団体の意向であるとしても、誰もそんなことは意識していない場合もあるだろうし、結果的に多くの人が所属している組織や団体にいいようにこき使われながら、要らなくなったら消耗品のように捨てられてしまう実態があり、そういう成り行きを当たり前のように受け入れている実態もあるとすれば、別にそれが大してまずいことでも悪いことでもなく、そういう成り行きを受け入れた上で、その先でどう振る舞うかが問題となってくるかも知れないが、それも問題だなんて思っていない人が大半を占める限りで、そんなことが重視されるわけでもなければ、そうなって当然だと思うしかないだろうが、そればかり強調しても世の中の実態からかけ離れてしまうから、そんなことを取り立てて重視するような成り行きにもならず、もっと他に重視すべきことが山ほどあるような気がすると、それとは別の方面で関わっている物事がいくらでもあるのかも知れないが、それがあったところで、そんなことに気を取られているうちに、何か他にも肝心なことを忘れているような気もしてきて、それを思い出すようなことにはならず、元から忘れていることでもないのかも知れないし、そもそもそんな気がする程度では大して重要なことでもないはずだが、一見何でもないことが妙に気になって仕方がないような気もしてくることもあるかも知れず、それに関して確実なことは言えないとしても、雰囲気としてならそれらしいことが言える場合もあるだろうから、時にはそんな大して重要だとも思われないばかりか、むしろツッコミどころがありすぎてほとんどデタラメに近い主張にも耳を傾けてみた方が、そこから世界のありのままの実態を正確に感じ取れるかも知れないが、それに関しては反面教師のような素材が提示されるとわかりやすいだろうが、わかりやすいところがかえって曲者で、わかりやすくても構わない反面でわかりにくいところも捉えておかなければならず、なぜそうしなければならないのかと問われても、納得できる答えが未来永劫示されなければ、問いに対して納得できる答えが何も示されないところがわかりにくいわけだが、元から何が問われているわけでもなくても、逆に納得できる答えになるようにもっともらしい問いを構成しようとしていることに気づかない場合もあるわけで、それが問いの捏造になるわけだが、必要もないのに問いを捏造するわけでもなく、すでに答えが出ているからこそ、それに合うような問いを捏造しなければならなくなるわけで、ではなぜ問いもしないのに事前に答えが用意されているのかといえば、誰もが安心するようなもっともらしい答えを提示したいから、そんな答えが導き出されるような成り行きを作り出したいわけで、ちゃんとした答えが出る過程を人々に見せて安心させたいから、ちゃんとした答えが出るような問いが作られると解釈しておけばいいのだろうが、ならばそういう成り行きの中で何が問われているのかというと、答えの出ない問いをどう取り扱えばいいのかが問われていると早合点してしまうと裏切られるしかなく、むしろそういう問いをできるだけ排除するような傾向が求められていると状況を捉えておいた方が、それがありのままの世界に近いかも知れないが、それを語るとなると逆にありのままの世界からできるだけ遠ざかった方が、納得できる答えを提示しやすくなるわけで、要するに問いに答えるにはありのままの世界であってはいけないのかも知れず、ありのままの世界の中で問いに答えようとすれば、答えることに挫折するしかなく、挫折するのが嫌なら無理に答えようとすればいいわけだが、それが誠実に答えていることになるかというと甚だ疑念を感じざるを得なくなってしまうかも知れないが、それでも答えに窮するよりは答えた方が真っ当に見えるわけで、真っ当に見えるようにするためには、問いに答えている姿を見せる成り行きになるだろうし、答えている姿を見せるには、答えられる問いを作成するしかなくなるわけで、それが問いの捏造と受け取られるなら、どちらかと言えば不誠実な態度に見えてしまうわけだが、では誠実さを装うには答えられない姿を見せなければならないのかというと、問いに答えられない以前に問いがなければ答えようがなく、それを問いだと認識できなければ、そもそも答える必要さえないわけだが、では問いでなければ何なのかというと、何を問われているわけでもないのに答えているわけで、ただ答えている姿があって、しかも答えているだけではおかしいから、答えた後から問いを捏造している実態があり、要するに答えが先にあって、その答えに合わせた問いが後から捏造される成り行きになっていると状況を見ておくのが無難かも知れず、もちろんそれが世界の現実の姿であるはずがなく、答えに合わせた問いを捏造すること自体がフィクションの構成に他ならないわけだが、それがたとえフィクションだろうと、問いを作り出す過程において現実の世界から影響を及ぼされているわけだから、現実の世界から全くかけ離れたフィクションを構成できるわけでもなく、多少なりとも現実の世界に似せたフィクションが構成されるのだろうが、それが出来の良いフィクションであるほど、答えと問いが一致せずに、答え自体が答えにならないような問いが発せられて、問いに対する答えでないような答えにリアリティが感じられるから、問いそのものが問われていないような問いでもあると同時に、答えの方も問いに対する答えとも思えないような答えになってしまうかも知れないが、そうなるとそこで何が問われているとも感じられなくなると共に、何に答えているようにも感じられなくなるから、逆に問いや答えが定まってくるような成り行きに違和感を覚えるわけで、要するに本当は問いも答えもないのに、そこへ人為的に強引に問いや答えをこじつけようとするから違和感を伴うわけだが、フィクションとしては問いと答えが必要なら一応の問いや答えが用意されるとしても、それがフィクションを構成する上で最低限必要な間に合わせの問いと答えである限りにおいて、そんな問いや答えに価値も重要性もあまりないのかも知れず、ただそれがフィクションであることを示すには、申し訳程度でも問いと答えが必要になってくるから、さしたる重要性もないが、一応の形としてはもっともらしく問いと答えが用意されているのだろうが、それを真に受ける必要もない代わりに、いったい何を真に受ければいいのかというと、人為的にわざとらしく構成された問いと答えを伴ったフィクションの背後に現実の世界が存在しているというよりは、現実の世界から抽出されたフィクションが問いと答えを無効化するように構成される限りで、フィクションが現実の世界を表象していることに驚くべきかも知れないが、誰も驚きもしなければ、そこで表象された何を真に受けているわけでもないことになるのかも知れない。


3月16日「強調とはぐらかし」

 取り立てて何を選んだつもりもないのに結果的に何かを選んでいることになるなら、気づかないところで何かを選んでいることになるはずだが、それについて語るとなると、気づいたことについて語ろうとする一方で、気づかないことは語らないというか、気づかないのだからそれについては語れないはずだが、語る以前には何に気づいているとも思っていないのに、語っていくにつれて何かに気づいてくるなら、語ることによって何かに気づくことになるが、そこで何に気づいてくるかというと、語る際に言葉を選んでいることに気づくかも知れず、もちろん意識して気づいているわけではなく、言葉を選びながら語っていることを意識できるわけでもないが、実際にそうやって語っていて、語る際に言葉を選びながら語るのが当たり前のことだとは言えるが、改めてそんなことは強調するまでもないことでもあり、強調するのは主張したい内容であり、相手がわかってほしいことを強調したいだろうが、それも少なくとも自身で気づいていないことを強調するはずもなく、強調する際には強調したいことを意識するわけで、ここを強調したいと思うことを強調すると捉えておけばいいだろうが、そういう意味では強調したいことを意識しているはずで、強調したいことを意識しているのだから、それに気づいているのはもちろんのこと、語りたいことと強調したいことが一致していて、それを強く意識して語りたい内容としてそれを選んでいるはずで、それが伝えたいことでもあり、伝わってほしいことでもあるし、理解してほしいことでもあるはずだが、伝わるかどうは理解してくれるかどうも含めて相手次第でもあり、何とかしてこちらの言いたいことがこちらの意図した通りに伝わってそれを相手が理解してほしいから、それを強調するのだろうが、そうであるなら何かを強調して伝えようとしている側の意図が強調する内容に込められているのは当然だろうが、それを逆手に取るなら、なぜ逆手に取るのかは様々な理由や事情が考えられるにしても、逆手に取ろうとするなら、それをはぐらかすような解釈をしようとするかも知れず、なぜはぐらかそうとするのかというと、伝えようとする側の意図した通りには理解したくないからそれをはぐらかそうとすると考えるなら、とりあえず伝えようとすることがそのまま伝わってしまうと都合が悪いから、そうならないように逆らいたいと解釈すればいいわけだが、それ以前に何かを強調すること自体が、それに逆らってほしくないから強調するわけで、強調すればするほど、それが強調しなければ伝わらないことのように思われて、実際に強調しなければ伝わらないようなことであれば、伝わりにくいことであるかも知れず、伝わりにくいからこそ強調しなければならないと解釈すれば納得できそうだが、本当にそうなのかというと、それはその場の状況から判断しなければならないことでもあり、こちらの事情からすればこちらが伝えたいことをあちらに理解させたいから伝えたいことを強調せざるを得ないということになるが、あちらの方では強調されたことをそのまま受け取ってその通りには解釈したくない事情があれば、どうにかしてそれをはぐらかしてねじ曲げて都合のいいように解釈したくなるかも知れず、そうなるとこちらの都合とあちらの都合が一致していないことが明らかになると共に、それを利用するとなると、逆らいたい側からすれば伝えたいことが伝わらない方がかえって好都合であり、そうなれば伝えたいことや強調したいことをそのまま受け取ってはもらえないことにもなって、それに伴ってこちら側とあちら側との関係もギクシャクしてくるのかも知れないが、それが伝えたいことの強調が原因でそうなってしまうのかというと、それ以前にすでに語気を強めて伝えたいことを強調しなければならない事情が、伝える側にとってもそれを伝えようとする側との関係から生じているなら、その関係が伝えたいことを伝えようとする以前からギクシャクしている可能性もあるだろうし、それを相手に対して念を押すようなことを言わざるを得ないということ自体が、そこでの関係の微妙さを物語っているとも言えるかも知れないが、強調したいことをはぐらかそうとする時点で、伝えたいことを理解しているから、それをあえて伝わっていないようにはぐらかそうとすると考えるなら、そうなっている時点で伝えたいことが伝わっていて、それを理解しているからこそ、かえってそれに同意できないからこそ、はぐらかそうとすると解釈すれば、双方が争いのただ中にあるとも言えて、対立関係にあることを想像できるが、そういう関係の中で相手に伝えたいことがあるとすれば、当然のこととして相手にこちら側の言い分に対して同意を促そうとしていると同時に、それに対する返答として相手が同意を拒否してくることも容易に想像できて、しかもこちら側の言い分が理解されるからあちら側から拒否の返答が返されることも普通に想定される中で、それをはぐらかそうとしてくるわけだから、それも当然のこととして悪意が込められているだろうし、しかもそういうやり取りが延々と続いて行けば、双方共に相手の意図や思惑がわかり過ぎるくらいわかってくるはずで、そうやって議論が平行線に終始している限りで双方がわかり合えるという皮肉な状況がもたらされて、お互いに相手の言い分を理解しているのに理解していないように装いながらとぼけたりはぐらかしたりしながら理解し合っているというおかしなことになってしまうわけだから、そうした逆説的で回りくどいコミュニケーションの形態というのが、時として必要になる場合が出てくること自体が何を意味しているのかというと、それが何かを回避するには有効であり、その回避していることが戦争であれば、戦争が回避されるにはその種のコミュニケーションが交渉の場で有効に機能していることになるのかも知れないが、現実の国際的な交渉の場でどのようなやり取りが行われているかは一般人にはよくわからないし、その場でわざとらしくとぼけてみたりはぐらかしてみたりすることが通用するのかというと、誠実な対応を心がけるなら、まずやらないだろうし、実際にもそんなことは行われていないと見ておくのが無難かも知れないが、そういう言語的なレトリックの水準ではごまかしようがないから、実際に戦争が起こると見ておいても構わないが、果たしてごまかしようのないことというのが具体的に何なのかというと、国家間の経済格差であったり領土や国境の問題であったりするわけで、そういう物や土地などの物質的な配分の問題が絡んでくると、言語的なやり取りではごまかしようがないと思われるかも知れないが、物質的な確かさと言語表現的な曖昧さを比較して何が言いたいのかとなると、物資的な確かさが直接の行動を促すのに対して、言語表現的な曖昧さが思考を促すと考えればわかりやすいが、行動を選ぶか思考を選ぶかを選択する機会がはっきりと区別できるような状況があるとは考えられず、大抵の場合は行動しながら思考も促されて、思考しながらも行動を促されることが多いだろうし、どちらを選ぶかを意識できるわけでもないから、気づかないところでどちらか一方を選んでいるとしても、それも気づかないところで補完作用が生じて、行動の足りないところを思考で補い、思考の足りないところを行動で補おうとしているのかも知れず、そうであってもあからさまな直接行動によって言語表現が置き去りにされてしまえば、力づくの暴力がはびこり、逆に言語表現に伴う曖昧さをごまかしやはぐらかしに利用することが常態化すれば、詐欺がはびこるようにもなるから、どちらか一方に偏らないようにするには、両者をうまく組み合わせて効果的に時宜をとらえて使うことが肝要だとしても、さらに暴力と詐欺が組み合わさって相乗効果をもたらして世界がますます荒廃してしまうかも知れないが、そうならないようにするには何をどうすればいいかと考えるだけでなく、逆に気づかないところで配慮していることが重要となる場合もあるわけで、それが何に配慮しているのかというと、一般的には他者に配慮しているわけだが、他者といっても人ではない場合もあるわけで、それが人であってもなくても配慮がされている限りで、意識が配慮していることに気づく必要もないのかも知れない。


3月15日「喩え話の壊れ具合」

 大抵の喩え話は実際にありそうなフィクションとなっている場合が多いだろうが、頭の中で構成してみた話の内容がわかりやすくても、実際にそれを自分で体験してみないことには実感が湧いてこないし、それに関してよく言われるように、知識や理屈ばかり持ち合わせていても行動が伴わないことの喩えとして、頭でっかちな姿を想像できるが、現状に照らし合わせても的外れな知識や理屈ばかりで、実践では役に立っていない可能性もありそうなら、もはや頭でっかちですらもなく、それに関してうまい喩えがないのかも知れず、果たしてそういう状態を頭でっかちという喩えとして適切なのかどうかも、部分的には合っているとしても、そこからずれる要素があれば、そのずれを利用して何か新しい喩えを表現できるかも知れないが、求められているのはその種の喩え話などではなく、それについて直接語ることであり、誰にでも理解できるようにそれについて語ることができれば、わけのわからない喩え話など不要で、そうなれば言文一致のような錯覚さえも許されるようなことになってしまうかも知れないが、直接それを語ることができないから喩え話になってしまえば、現実に起こっている事態にはそぐわないフィクションになってしまうかも知れないが、現実に起こっていることとそこから何らかの影響を及ぼされながら語られるフィクションとの間のずれを感知できれば、それが実際に感じ取っている差異になるのかも知れないが、それがあくまでもずれであって、感じ取っている現実そのものではないとすれば、そういうことを表現するには比喩的な喩え話を差し挟むしかないのかも知れず、そうやって現実に起こっていることとフィクションとの間で違いを感じ取れるなら、そこから間接的にでも現実に起こっていることを窺い知れると思っておいても構わないだろうが、なぜそんな回りくどく考えないと現実を感知することができないのかといえば、現実に起こっていることから連想されるフィクションが邪魔して意識がずらされてしまうと思っても、どうもそれでは違うような気がするなら、そこでもそう単純に解釈できないような回りくどさがついて回ってきて、そう思うこと自体が勘違いのなせる業だとしても、何か物事を簡単に理解したり解釈した方がわかりやすくて手間が省けることは確かなのだろうが、現実にはそれでは済まないことばかり経験したり体験して今に至っている経緯があるようなら、実感としてその手の単純化を信じられないわけで、別に信じられなくてもある一定のレベルでそれも確からしいことではあるのだろうが、確からしいからといって信じられるわけではなく、もちろん信じられることが確からしいかといえばそうでもないことも多いわけだが、要するに勘違いなことを信じていて、信じているからこそ裏切られることも多ければ、信じるよりは疑っている方が確かな感触を得られるのだが、疑い続けるには精神が耐えられず、疑うことに疲れて信仰への誘惑に屈して根負けしてしまえば、割と簡単に根拠の定かでない怪しげでいい加減な思い込みを信じてしまうのかも知れないが、なぜ信じてしまうのかといえば、安心したいから信じてしまうと言うと身も蓋もないが、その安心感がどこからくるのかというと、物事が起こった結果から自身の都合を考えるという当たり前の思考作用からくるのであり、自分にとって都合の良い結果がもたらされるにはどうすればいいかという考えにも行き着いてしまうのだろうが、そこで思い違いをしていることがあるとすれば、自分にとって都合が良いと思われることが本当に都合がいいかということに関して、そう思っていることが正しいと信じられるなら、それが思い違いだとは思えないはずだが、都合が良いと思っている面についてはそうだとしても、物事を多面的に捉えるならそうともいえない面も出てくる可能性もあり、都合が良いと思ってみても必ずしも全ての面にわたって都合が良いとは限らないということであり、中には物事の全ての面を把握することができないと思っておいた方が良いケースもありそうで、その場その時だけに限れば確かに都合が良くても、そこからしばらく時が経ったり場所を移動してみると、必ずしも都合が良いとはいえなくなってくれば、その場その時だけの都合の良さが、一過性の過渡的な都合の良さに過ぎなかったことに気づかされるわけだが、それがその場その時には思い至らないことであり、そこで思い至ることなどあり得ないから、そういう事情を考慮するなら、何らかの結果が出た時点での都合の良さが、それとは別の時や場所で別の結果が出た時点での都合の良さと一致するかというと、そうでもないことの方が多ければ、その場その時だけの都合の良さを信じること自体が間違っていることになってしまうわけだが、そうであれば結果から物事を考えると間違える可能性があり、それがその場その時だけの結果でしかなければ、他の場所で他の時間帯で出てくる結果に対しては、その場その時だけの都合の良さが通用しなくなり、それに関して自らを取り巻く周囲の状況がその場その時から様変わりしたのに、いつまでもその場その時だけの都合の良さを信じていれば、それが思い違いであることに気づけなくなってしまうのかも知れないが、それが何の喩えとして語りたいのかとなると、例えば経済成長に関して、これまでは経済成長ばかり追求してきたから貧富の格差や環境破壊などの負の側面ばかり顕著になってきた結果を踏まえれば、これからはひたすら経済成長を目指すようなことはやめて、脱成長戦略に舵を切るべきだと主張することが、一見もっともらしく感じられるだろうが、それがそうなった結果から都合の良いように考えてしまうことの典型例だと言えるかとなると、確かにそうだとして、そう考えるのがもっともらしい面もあるだろうから、正しいことを主張しているような気にもなってしまうわけだが、経済成長自体が経済活動の結果であり、人や企業などの経済活動の結果として、経済成長があったりなかったりして、時にはマイナス成長であったり、プラス成長であっても成長率が大きかったり小さかったりするわけで、人や企業にとって死活問題なのは経済成長するかしないかではなく、経済活動が成り立つか成り立たないかであって、しかも経済活動を行なった結果であるよりは、経済活動を行なっていること自体が、その人が生き続けていることであり、また企業が存在し続けることにもなるはずだが、経済成長をし続けていれば、それに伴って豊かさを実感できるから、活動を行う上でのモチベーションを保つには経済成長が欠かせないかも知れないし、そちらの方に注目が集まるのは当然だろうが、それに対する反対や反論としてもっともらしい理由を示して、脱成長戦略を掲げて、経済成長至上主義に対するアンチテーゼとすれば、それも注目を集めることになるはずだが、そういう主張をこれ見よがしに提示すること自体が結果に先回りしていることになり、経済活動の中身を結果から都合の良いように規定することにも結びついて、そうすることが机上の空論であることを忘れさせて、結果的に知識や理屈ばかり持ち合わせているが、行動が伴わないことの喩えとして、学者特有の頭でっかちな姿を想像してしまうわけだが、それに関しては極めて当たり前のこととして、経済活動を行なっている人や企業の実践を通して、その実態や内容が定まり、定まらないようなら流動的に活動の形態が変化し続けるかも知れないが、またそうした活動が都合が悪ければ政府が活動の規制に乗り出すだろうが、活動した結果がどうなるにしても、活動している最中に当事者である人や企業が工夫を凝らすわけで、もちろん当事者も活動した結果がどうなるか予想や予測を立てるだろうし、そうした予想や予測に基づいて計画的に物事を進めるだろうが、それも計画通りに事が運ばない場合も結構多いだろうから、絶えず予想や予測が外れて、計画の修正や変更を迫られるかも知れず、そんな成り行きの中で活動の継続が保たれて、うまくいかなければ継続が断念される場合もあるかも知れないが、そういった紆余曲折を経ている最中では、結果的に経済成長するかしないかなどとは関係のないところで活動の実態があり、そういう活動のレベルで学者がこれをやれば良いとかこれをやったら駄目だとか指図すること自体が空想の域を出ないところであり、経済成長をもたらさなくても構わないから貧富の格差を是正するような活動を推奨したり、環境破壊に結びつかないような活動を強制する権限がどこから生じてくるのかといえば、政府にその権限があるということになるかも知れないが、何でもかんでも政府が決められるかというと、それでは20世紀の失敗した社会主義国になってしまうし、どうしてもそういうところが机上の空論の域を出ない話となり、お粗末な内容になるしかないわけだ。


3月14日「立ち向かうことと逃げること」

 たぶん世界中で何かがおかしくなっていることを実感しているかというとそうでもないのかも知れず、例えばSUV車のタイヤを大きく太くするとかっこいいから、車体を改造してまでタイヤを取り付けることになるとしても、それがおかしいとは思えないのとは違った意味で、気候変動がどうのこうの言われても大して気にならないといったら嘘になってしまうが、確かに夏の暑さにはうんざりさせられるものの、それを地球の温暖化と関連づけて暑いと思っているかというと、そう言われてみればそう思うかも知れないが、気候変動や周囲の森林伐採などの乱開発によって滅んでしまったと言われる古代の都市文明の遺跡などが今も世界各地にあることを考えれば、過去においてもその種の現象が起こっていたことを想像はできるわけで、過去のそれと現代の世界で起こっていることを関連づけたいわけでもないが、そんな想像が間違っているとしても、想像してみるだけで済ましてしまう手軽さ自体がいい加減な想像でも構わないとは思わないが、そうやって現状の成り行きを深刻に受け止めたところで、実質的にはその程度の深刻さであって、実際に深刻な事態に直面している人たちが世界の方々にいるのは確かだとしても、その程度で済ませている自分がそうではないという確かな実感もあるだろうし、何らかの被害を被っている当事者でないと深刻さを実感できないと思っても構わないが、実際に被害を被っている当事者に同情できるかというと、同情したくないわけではないし、同情する時もあるかも知れないが、何か引っかかるものを感じる場合もあるだろうし、同情したところで何もしなければ何の役に立てるわけでもなく、別に被害の現場で起こっている成り行きに介入したいわけでもないところが、深刻な事態に陥るのを避けていると受け取られてもその通りかも知れず、そういう成り行きには巻き込まれないように心がけているわけでもなくても、自分から積極的に何をどうしようとしているわけでもないなら、それについて気が向けば語る程度にとどめられる限りで傍観者的な立場を占めているのかも知れず、もちろん積極的にそんな立場を占有しようとしているわけではなく、成り行きとして強いられているとも感じられるし、誰がそれを強いているわけでもないが、そこに介入する気のない者が否応なく巻き込まれてしまうような成り行きにはなっていないだけで、それも他の何かに巻き込まれている時もあるし、現状でも何らかの成り行きに巻き込まれている面もあるだろうが、その程度が今のところは深刻な事態にならない程度で済んでいるような気がして、現状をそんなふうに思っていても本当のところはよくわかっていないかも知れないし、本当は気づかないところで深刻な事態になっていて、それが気づいた時には手遅れになるような成り行きに巻き込まれているのかも知れないが、それが実際にそうなっていてもわからないのかも知れず、それに気づかないままになってしまう場合もありそうだが、気づかなければどうなるかというと、気づかないまま死んでしまうこともあるだろうが、そうだとしてもそうなってしまえばそれで済んでしまい、それで構うも構わないも気づかなければ、そんな心配すらしないだろうから、世話ないことになりそうで、できればそんなふうに死ねれば気楽かも知れないが、気楽に死ぬ前に気楽に生きている方が気分がいいだろうし、現状で気分が良ければ気楽に生きていることになるのかも知れないが、気分など良い時も悪い時もあるのが普通だろうから、気楽であろうとなかろうと、そんなことは世界情勢とは何の関わりもないかも知れず、関わりがあったところで大したことではないだろうが、大したことがあるのは深刻な事態に陥った時であり、実際に深刻な事態に陥っている人々の境遇をどうにかしなければいけないのだとしても、すでに深刻な事態に陥っていることが、どうにもならないからそうなっている面が大きく、それを個人の力でどうにかできるようなことではないから深刻な事態となっていて、お気楽な部外者や傍観者がどうにかできるとも思えず、その時点ですでにそうなっているからこそ、深刻な事態に陥っている人とそうではない人との間に埋めようのない溝が生じていて、お気楽な部外者や傍観者には事態の深刻さがわかっていないし、それを感じ取れないからお気楽な部外者や傍観者でいられて、いられなけれ深刻な事態に陥っている人を助けようとするかも知れず、事態に介入して同じように深刻な事態に陥ってしまうかも知れないが、だからといってそうなってしまうのを意識して避けようとするからお気楽な部外者や傍観者でいようとしているわけでもないとすれば、やはりお気楽な部外者や傍観者といえども、それとは別の面では何らかの事情を抱えていたり面倒なことに首を突っ込んでいたりして、そちらへの対処や対応で手一杯だから、深刻な事態に陥っている人を助ける余裕がない人もいるだろうし、結局はそこへと介入する余裕がないと介入できないとなれば、介入して助けようとする人が偉いとしても、介入する余裕がなくて事態を傍観することしかできなくても、それが事態から逃げていることにもならないはずだが、逃げていなくても避けられているようなら、そんな事態とは別の成り行きに囚われているのかも知れないし、そういう意味では様々な人や団体が様々な成り行きに囚われているから、世界で様々な事態が起こっていて、その中には深刻な事態もある一方でお気楽な気分でいられるような状況もありそうで、運が悪ければ深刻な事態に陥ってしまい、運が良ければお気楽な状況で済んでいると思われるなら世話ないが、そこにそうなっている当事者の努力や尽力が反映する余地があるようなら、積極的に事態が改善するように努力したり尽力するだろうし、そんな努力や尽力が実って深刻な事態から逃れることができれば、そうなった結果としてお気楽な状況の中で生きていられるのかも知れないし、そういう意味では深刻な事態になるのを避けられたこと自体が、その人の努力や尽力の賜物であるとすれば、別にお気楽な状況の中で生きているとしても、やましさや負い目を感じる必要はないだろうし、むしろその人の力でそういう境遇を勝ち取ったと言えるようなことにもなれば、何ら恥ずべきことでもないはずだが、その人がそういう境遇になっていること自体が、その人の気づかないところで気づかない人たちに負担をかけているとすれば、そんなことなど知る由もないことであると共に、その人にはどうにもできないことでもあるのかも知れず、そういうことまでどうにかしろ言っても言う方がおかしいだろうし、そういう面ではどうにもできなければ、そのどうにもできないところから深刻な事態が生じている可能性もある限りで、それは誰にとってもどうにもできない事態になっている可能性があり、そうやって世の中で様々な成り行きが回り回って深刻な事態に陥っている人たちがそれなりに出てきてしまうところが、そうなってしまう成り行きの捉えどころのないところでもあり、その中で何が原因で何が結果であるとしても、それ以外にも原因や結果がいくらでもあるようなら誰も成り行きの全体像を捉え切れていないことにもなるだろうから、たとえそんな事態に外部から誰が介入したところで介入し切れないような余地も出てきて、そうなれば何をどうやってもうまくいかないようなこじれた事態に直面していることにもなり、そんな事態に実際に陥ってしまうなら、そこに介入して関わってしまう誰にとっても事態を深刻に受け止めなければならなくなってしまうかも知れないが、事を深刻に受け止めたところでどうにもならなければ、果たしてそんな事態に関わるのを避けられたり、そこから逃れることができれば、そうなっている限りでそれを深刻に受け止めなくてもよくなるかというと、実際にそれを避けたりそこから逃れる人が出てくること自体が、逆に避けたくても避けられなかったり逃げたくても逃げられない人を生じさせてしまうかも知れないが、そうなるとなぜそうなってしまうのかという理由がどうであれ、実践としてそれを避けようとしたりそこから逃げようとすればいいことになり、結果的に避け切れなかったり逃げ切れなかったりする危険もあるだろうが、そういう成り行きの中でやるべきことがそうであるなら、そうする以外に方法がないのかも知れない。


3月13日「孤独な状態」

 今後世の中の情勢がどう転んだところで自分がどうなる可能性もあまりないだろうが、自身が何を考えあぐねているのか理解しかねるとか、何をどうすればいいとも思えない時に思い浮かぶのは、何か悪あがきの最中なのではないかという疑念かも知れないが、疑念ではなく実際に悪あがきの最中なのだろうが、確かに大したことは何もできていないことからくる焦りから、ただ闇雲に現状で遂行可能な目的を求めたり、できることをやっていればいいという投げやりな態度から簡単にできそうな目標を定めても、普通に空回りするだけかも知れないし、それでも一通り空回りしてみないと気が済まないとしても、そうなる可能性としてはゼロでないことを期待していて、何かが起こることを願っているとしたら、それが何なのかというと、大抵はあり得ないことであったり、そんなことなど絶対に起こらないとは言えないが、ほとんど起こらないことも承知しているのに、それでもそれが起こった時のことを想像しているのだが、それが馬鹿げたことだとわかっているのに、やはりそれが起こってほしいわけで、馬鹿げたことが起こって世の中の常識がひっくり返ってほしいわけだが、そんなことを望んでいるわけだから、普通に考えてそんなことが起こるはずもなく、起こるはずもないことが起こってほしいと思うわけだから、馬鹿げたことなのは自身でもわかっているはずだが、そんなことを思っていないと現状の世界と折り合いがつかないような気がするなら、そう思っていること自体が自分が世界の現状から見放された境遇にあるという証拠かも知れないが、それが勘違いであってほしいと思いたいわけではなく、むしろそれが勘違いでも構わない程度の感覚で、気づいていないところで世界情勢と自らの行動がそれなりにつながっていて、世界情勢の一部として自身も動かされているような気がすれば、それによって気が済むとか救われた気持ちになるとかならないものの、世界との一体感という面で孤独とは無縁の境遇にあるような気がするかも知れないが、誰もが一人でいることを意識できる限りで孤独を覚えるが、その一方で自身が世界の一部を構成する存在でしかない限りで実質的には孤独ではないわけで、そんなことを改めて理解する必要もなければ、孤独という心理状態が虚構の思い込みであることに関して、身の回りの状況から感じ取れるのが孤独という状態であることが、他の人とのつながりや関係の程度や傾向から、それなりに孤独さを認識できるということであり、それとは別の孤独が意味するところの深刻さや大げさな悲壮感などは、そんな状態に至る過程で生じてくる勝手な思い込みが起因してそうなるのだろうが、どんなに孤独でもその存在が世界の一部でしかないのだから、それが物質世界ではなく精神世界となるとさらに思い込みの程度が重篤になってくるかも知れないが、孤独と向き合うにしろ向き合うのが嫌だからやり過ごそうとするにしても、孤独そのものは社会と自身との関係が変化しない限りは心から追い出すことはできないし、よく考えてみれば孤独ではないにしても、精神的に孤独感を味わうに至れば、孤独の真の意味を取り違えて、偽りの孤独ではない孤独などあり得ないような気分となってしまうかも知れず、そうなったところで真の孤独ではない孤独感に苛まれている気になっているとしたらそれが勘違いなどではなく、孤独であると思い違いを抱いてしまうこと自体が普通の精神状態なのかも知れず、孤独だと思うことに関しては正しさなど期待しない方がいいだろうし、実態としては孤独ではないのに孤独感を抱くのだから、そういうものだと思うしかなく、思い違いではない真の孤独などあり得ないと思ってしまっても思い違いを免れることはできず、孤独という言葉そのものが虚構を含んでいて、孤独ではないのに孤独感を覚えること自体が思い違いなのだとすれば、真に孤独である状態などあり得ず、孤独でないのに孤独感を抱くことしかできないのだから、孤独を覚えること自体がすでにフィクションの中に意識が入り込んでいることの証拠かも知れないが、それが孤独について考えることによって理解できることである一方で、感覚としては孤独感を抱くことができて、思考を巡らすことによって捉える孤独と感覚として覚える孤独との間で不整合が生じていると事態を捉えることもできるかも知れず、孤独であるとかないとかの状態が対立する正反対の状態などではなく、絶えず互いに入り組んで混じり合った状態だと捉えておいてもそれほど間違ってはいないだろうが、そうだとしても感覚として覚える孤独感を真に受けるわけにはいかず、孤独でないのに孤独感を覚えるわけだから、それこそがつまずきの石なのだろうが、つまずいて転んでも構わないし、孤独であると錯覚したところで実際には孤独ではないと思っても間違っていることになってしまうから、嘘でも構わないから孤独だと思っていればいいとしても、それが両義的な状況だと考えてもよくわからないし、そこに二つの定義が分離してあるのではないからややこしいと思ったところで、何かしっくりこないわけで、孤独であることと孤独ではないことが対立していなくても構わないと思ってもそんなはずがなく、実際に孤独に耐えられないから人が群れている状況を馬鹿にする必要もなく、感覚として孤独にはなりたくないと思うのが普通の心理状態である一方で、人間関係そのものもわずらしいと思えば孤独でいたいとも思うし、そういうところが孤独に関しては両義的な意味合いがあるわけだが、その場の都合の応じて孤独ではいたくなかったり、逆に孤独でいたいと思う時もあるとしても、世の中がその人の都合通りの状況をもたらしてくれるわけがなく、孤独ではいたくなくても孤独を強いられたり、孤独でいたいと思っても孤独ではいられなかったりするから、どちらの場合でも不都合や不満を感じて、ともすれば否定的な感情に囚われてしまうかも知れないが、そもそもが孤独でなくても孤独感を覚えるわけだから、その人の都合自体もフィクションである可能性まであり、都合が悪いと思っていても実際には都合が良かったり、その逆の場合もあるかも知れないが、そう思っても思い違いな面もあり、どちらも部分的に裏切るような両義的な状態となっているから、都合の良し悪しのどちらとも受け取れるような状態であることを踏まえておかなければならないといっても、そんなことはできない相談であり、どちらか一方であることしか感じ取れず、本当はどちらの面もあるのに、その場の気分次第や状況次第で都合が良かったり悪かったりすると思い込んでしまうのだろうが、それも自らが勝手に思い描いているフィクションの中でそう思っていることに過ぎないのであれば、それが思い違いであると同時にそう思うのが普通の心理状態でもあり、そこでも思い違いであっても構わないと共に、構わないでは済まない場合もあるとしても、そのそれだけでは済まない状況の中で何とか対応するしかないわけだが、それがどうやってもほどけないがんじがらめな束縛のように感じられるとしても、そこで自分が生きていることには変わりなく、しかも自分以外の他の人たちも生きている限りで実質的には孤独ではないのに、なぜか孤独感を抱いているとするなら、そんな状態が孤独の意味を裏切っていると思うしかないが、そこまで思い至らなければ勝手に孤独だと思っていても構わないし、大抵の人なら普通にそう思うだろうが、そこで暇にまかせて思考を巡らせればそうではないことに気づく場合もあるわけだ。


3月12日「奪われた何かを取り戻す方法」

 人が何を想像しようと想像している人の勝手であるとしても、それを想像させている何らかの媒体があって、そんな媒体によって特定の何かを想像するように誘導されていれば、誘導している媒体を信用してもいいのかどうかが、何かを想像するように誘導されている人にとっては、微妙に考えさせられる事態にもなってくるかも知れないが、それに関して例えば何か心奪われるような光景が目の前に広がっていて、それを眺めるしかないように仕向けられていれば、眺めるしかないだろうが、光景を眺めているだけでは何がどうなるわけでもないと思っても、眺めているだけでは済まなくなってくれば、それについて語りたくなってきて、目の前に広がっている光景について語っている人がいれば、どういう状況の中で語っているのかとは別に、その語っている内容が文章に記されていて、その文章を読んだ人がその語っている内容に心を動かされているようなら、その内容に感動していることになるだろうが、そうなるとそれを直に眺めているわけではなく、その人が文章の中で語られている内容を読んでその光景を想像していることになるわけだが、普通にその種の文章から好印象を得ているから感動していると考えるなら、それを信用するとかしないとかの水準とは別に、ただ文章を読んで心地良い気分となっているだけで、心地良い気分となるように誘導されているとしても悪い気はしないはずだが、そんな心理状態が取り立てて深刻な傾向を示していないのはもちろんのこと、他の何に浮かれているのでも浮き足立っているわけでもなければ、何か冷静な心理状態でいるような気がしてくるかも知れないが、それが幻想に過ぎないとは簡単には言い切れず、そこで自らが冷静さを失っているわけではない確固たる証拠があるわけでもないが、その証拠を必要とするような状況の中に身を置いているわけでもなく、状況としてはそんな気がする程度の心理状態でいても構わないと判断しているからそう思っているに過ぎず、冷静さを失わせるような何かに惑わされているからそんな気がしているわけでもなければ、他に取り立てて心を動かされるような物事に直面しているわけでもないとは言い切れないものの、実際に別の何かに直面しているとしても、その程度がそれほどでもないと思っても構わないような時と場合もありそうで、そんな時間帯や場所にいるような気がしているなら、そう思っていてもそれほどの勘違いではなく、そのそれほどそうではないという感じがそう思わせるのだとすれば、それがどうということはない状態なのだろうが、それを大げさに表現する必要もないだろうし、それでもただ無駄に言葉を弄してどうでもいいような心境や心理状態を文章に記して表現しているとすれば、暇を持て余しているとしか言いようがないが、言いようがないのに言葉を記している暇があるということが、何か矛盾を抱え込んでいるようにも思われて、暇があるから言葉を記していて、結果的には暇を持て余しているわけではなく、むしろ暇を有効に活用していると状況を捉えておけばいいのかも知れないが、そうやって記された文章の内容が何に対して有効だとも思えなければ、ただ無駄に文章を記しているに過ぎないことになるかというと、今はそう思っても構わないが、そう思ったところでいつかそれが思い違いとなって、将来において何かしら現状の体験や経験が活きてくる成り行きになるかも知れないと思っておいても構わないだろうし、それを活かすのが文章を書き記しつつある自分ではない場合さえあるかも知れず、自分のためだとも他の誰のためにやっているとも現状では思えないとしても、いつか何かのきっかけから自分を含めた誰かがそれを活かして、その人のためになるようなことにその文章を利用するかも知れないし、もちろん永遠にそうならない場合もありそうだが、そんなことまで文章を記している現時点では予想も予測もつかず想像もできないし、その必要さえ感じられない状況の中で、他にも何かをやっている誰かがいくらでも世界中にいると現状を捉えるなら、やっていることが無駄であろうとなかろうと、そんなことまで考慮しなくても配慮しなくても構わないだろうが、そういう成り行きがどこかへと収束していく場合も、逆にどこへも行かない代わりに発散して雲散霧消してしまう場合もありそうだが、どちらでもいいわけではなく、そこに目的や目標を定めようとすれば、それに沿って成り行きを恣意的に制御しようとするのだろうが、現に今もどこかで誰かが自身が囚われている物事の成り行きを制御して、その行き先が目的や目標と合致するように持って行こうとしているのかも知れないが、それが思惑通りや思い通りに収束できるかどうかがその人の腕の見せどころとなるにしても、いくらそんな物事の成り行きを制御したところで、制御した分だけそこで起こっている出来事のスケール感が縮こまってしまうと、それだけそこから外れる可能性を削っていることにもなり、結果的にその分だけお行儀よくこじんまりとまとまった努力の成果を示せるかも知れないが、そんな成果を求めていたと自らに言い聞かせようとしても、抵抗感を覚えるなら、その人だけでなくその人と関わりのある他の人たちも抵抗感を覚えている可能性もあるわけで、それが小さな成功と引き換えにして大きな失敗を避けた結果としてもたらされているなら、なおさらそれが残念な結果でもあり、そういう残念な結果をいくら積み重ねても、ある一定の範囲内では通用することにはなるだろうが、その域を越えるような人の振る舞いを容認するわけには行かなくなるのと同時に、そうした振る舞いからもたらされる結果が、小さな成功の積み重ねた成果をいとも簡単に凌駕してしまう現実にも直面してしまうと、何か小さな成功の積み重ねと共にある自身の人としての小ささや、その成功に伴って生じる範囲の限定された身動きの取れない自身の境遇などが見すぼらしく感じられて、それと比べて大きく失敗することの自由と共に生きている人のとりとめのなさをどう感じるかは、その人の身になってみないことには窺い知ることもできないかも知れないが、たぶん当初の出発した地点では大した差でもなかったことが、途中から気づかないうちに大きくなって行き、気づいた時にはもはや後戻りができなくなっていて、そこで取り返しのつかないことをやってきたことを思い知らされるのだろうが、それと同時にそれが取り返しのつかない過ちや誤りだとは認めたくないわけで、だから取り返さなくても結構だと自身に言い聞かせることしかできないのかも知れないが、そんな成り行きに囚われていたからといって、それと引き換えにして何かを奪われたとも思っておらず、それを今さら取り返そうとも思っていないのだろうが、実際に何を奪われたとも思っていないのだから、そう思っている限りで奪われた何かが何なのかを知る必要もないわけで、いったんそうなってしまえば死ぬまでそれに気づかず、気づく必要もないだろうが、何に気づく必要もないかというと、それも人によってその人が置かれた状況や境遇などによっても、気づく必要があるかないかが違ってくるわけでもなく、気づかないのだからそれで構わないというわけでもなく、できれば気づいて欲しいと誰が思っているわけでも願っているわけでもないのだろうが、それでもそんなことはどうでもいいと割り切れるわけでもないとすれば、ではいったい何に気づくべきなのかという問いがどこから生じてくるのかといえば、それが自身に問いかけてみてもわかることではなく、周囲の誰かが気を利かせて問いかけてくれるわけでもなければ、問いなどどこからも生じてはこないと高を括ることもできるかも知れないが、大抵の人は問いかけられていることさえ意識せずに生きて死んでいくとしても、まだそこには何かに気づく余地があると思っていても構わないし、これから死ぬまでの間に気づく機会が巡ってくると期待しても構わないのかも知れず、そんな期待を抱いていることすら気づかなければそれでも構わないとも思えないかも知れないが、問われるべき機会を奪われているとも思えなければ、それに気づく機会も永遠にやってこないのかも知れない。


3月11日「話の迷路」

 何事も極端なことを言うと奇異な印象を与えかねないが、特定の人物が個人的な事情で錯乱しようと正気を失おうと、そんなことでは何がどうなるわけでもないような次元で世の中や社会の混乱が生じてくる可能性も想像はできるが、そんな内容で危うくまともなことを語りそうになってから急に考え直して、冷静になるまでもなく想像で語ると何でも大げさに話を膨らませるから意味がないような気にもなってきて、心の中でブレーキがかかって、それがイメージとしては自動車か何かが動き出した直後に急停車してしまった事態を想像してみたところで、それを何らかの動作の比喩として他のどこかの文章の中で使用するはずもなさそうに思えてきて、すでに何を語りたいのかさっぱりわからないのはいつものことかも知れないが、その過程で何かが織り込み済みになりつつあることは確からしく、その何かが何だかわからないまま言葉を記さなければならないわけでもないが、自分が何を否定したいのか自分にもわからないうちに、自らが語りつつある内容が自らによって拒否されているとも思えないが、例えばその内容が、菅直人が維新の思惑通りには反応してくれない暴走ボケ老人であるように、バイデンもプーチンの思惑通りには反応してくれない暴走ボケ老人であり、彼らがその場の成り行きに応じているふうにも見えないのに、結果的には頑なな態度が筋が通っているような印象を伴って、それにつられて世界各国の政府や企業もプーチンとはロジックを共有しない方向で経済制裁に加担することで足並みを揃えることになったと解釈しておけばいいはずだが、そういう成り行きが事前に用意されたレールの上を何の障害もなく滑っていくのとは違う成り行きであることを誰もが承知しているだろうが、もちろんこれからも鉄道の線路を敷設して行くようにスムーズに事が運ぶわけでもなく、それも現状では通用しない意味不明な比喩となってしまうだろうが、通用するような比喩が他にあるわけでもなさそうで、ならば比喩ではなく直に現状で起こっていることを語ればいいかというと、まともに語ろうとすれば普通に語れるだろうし、実際にメディア上で直接的な表現を使って語られているはずだが、そんなことを改めてここで語る必要もなさそうにも思われるとしたら、たぶん語る必要がある人が他にいて、その人が現状をもっともらしく語る資格があるのだとすれば、その人が誰であるかは誰でも構わないというわけではなく、何かの権威のようなメディア上でもてはやされている識者の類いが語れば、それが誰もが納得せざるを得ないようなことでしかなく、しかもそういう語りの内容が一通り語られる側から忘れられて行き、将来また何かのきっかけからその種の語りに関する病いの傾向が忘れた頃にぶり返すように、何か似たようなことが起こったところで同じようなことが性懲りもなく語られるわけで、そこでもその種の人物がそんな内容を一通り語ればそれで済んでしまうようなことでしかなく、そういう成り行きはどうやってもそれ以上には事態が進展しない代わりに、それを進展させる契機が生じないというよりは、どうやってもそこからは何も進展しないようになっていて、そこから何を進展させたいのかもよくわからないが、そういう制度なのだからそれで仕方ないといっても、それが何の制度なのか誰にもよくわかっていないわけで、少なくともそこでは何も進展しないからそれとは別の方面から事態を進展させないとならないといっても、何かそれで不都合があるわけでもないのだから、そんな成り行きはそれ自体で話が完結してしまいそうになるのを、わざと完結させまいとする思惑が意識されるわけでもないだろうが、語っている途中からも語った後からも執拗に同じような話を蒸し返しながら、その中で恣意的な印象づけを伴った言葉の強調や誇張が繰り返されて、それを繰り返す度に虚仮脅しのような効果が増幅されて、結果的に話の継続を図ろうとする意図とは関係なく、それ以上には何も話が進展しないような固定した結論が元からあると捉えておいても構わないかも知れないが、その結論というのがもう済んでしまった過去の出来事について語っている内容に含まれていて、それを強引に現在進行中の事態へとつなげようとするから、話をつなげることができれば、過去からの連続性が意識されることによって話がもっともらしく思われるのと引き換えにして過去のしがらみを延々と引きずっていることが、そこから話が進展する余地がないというよりは、過去のしがらみそのものが話を進展させたくないという意思表示でもあり、語っている者が馬鹿の一つ覚えのようにして過去の経緯を持ち出すのとは対照的に、現在進行中の事態を直に見ようとしないのは今に始まった病的な傾向でもないだろうが、そんな傾向に触れようとせずに黙っていれば、いつまでも語りっぱなしになってしまいそうな過去のしがらみを真に受けていることになるわけでもないが、少なくとも今ここで起こっている現実に対して鈍感となるしかなく、単なるここ数十年で起こってきた経済的な事情に過ぎないことが、過去に起こった民族紛争などと同次元で語られてしまうことがそもそも錯覚でしかないわけだが、それをそのまま語ってしまうと、その場に居合わせた誰もが過去からの連続性を意識して納得したくなるのと引き換えにして、もうすでに済んでしまったことを、まだ過去から延々と続いていると思い込んでしまうしがらみと共に蒸し返そうとするわけで、もちろん中には納得しない人もいくらでもいるだろうが、納得せずにごねてその場の空気を乱しても何の利益にもならないと悟れば黙るしかなく、そんなことに逆らうだけ損になってしまうから、現状をもっともらしく語ることに関してはそれ以上の話の進展を期待しない方がいいという認識に従っておいた方が良さそうに思われるなら、過去から続くしがらみに異議を唱えるようなことはやらない方が身のためであり、そうなると予め決められた基準に該当するそれを語るにふさわしい立場や境遇に陥っている人たちに語らせておけばいいとしても、それが嫌ならそれとは別の方面から、それに逆らうようなことを語ればいいわけでもなく、例えばそれとは別の方面から、すでに米軍がアフガニスタンから撤退した時点でこうなることが予見されていた、と的外れなことを述べてみても何の説得力もないだろうが、それを絶好のチャンスと見たわけでもなく、別にそれが罠であったわけでもないだろうし、それとこれとを強引に結びつけて語れば、それも何かもっともらしく語ることができるにしても、それもフィクションの範囲内で語っているに過ぎないことかも知れないし、ごまかされたような気がするかも知れないが、結局はそういう話ではなかったわけで、事前にそういう話にしたかったわけでもなく、しかもできるだけそういう話にはならないようにしないと面倒なことになるわけでもないだろうが、面倒くさがらずに今までの経緯を少し整理してみると、結果的に単純明快な答えに辿り着けば一安心するかも知れないが、それが求めていた答えではないとすれば、逆に誰も求めていないような意味不明な答えに辿り着いたら、誰も安心できないかも知れないが、そこで何に答えようとしていたのかを改めて思い出してほしいと尋ねられるわけでもなく、誰がそんなことを尋ねてくるわけでもないだろうが、こちらから何か尋ねてほしいことがあるわけでもなければ、それが知りたかった誰の秘密でもないはずだが、取り立てて何を知りたかったわけでもなかったことに気づいてくれればいいわけでもないが、その代わりに何かごちゃごちゃと回りくどいことを語っているように思われるなら、そう思わせるように仕向けているのだと理解しておけばいいのかも知れず、要するに話の途中から成り行きがずれてきて、事前に想定してことが事後では想定していないことになってしまえば、事前と事後で何が変わったのかといっても、何も変わっていないわけでもないだろうが、その変わった何かを知り得ないのに、何かが変わったことには気づけるわけだから、出来事の前後で何が変わろうとそんなことはどうでもいいわけでもなくても、知り得ないことは知り得ないわけで、そういう意味では何かが起こった後から過去から続くしがらみや経緯などいくら持ち出されても、今ここで起こっていることに関しては、そんなことをいくら言われても知ったことではないとは言えないものの、少なくとも今ここで起こっていることを優先させないと事態が進展しないわけで、それが頭でわかっているとか意識しているとかではなく、実践として行動を伴ってくる限りで、現状で起こっている事態に何かしら進展をもたらすわけで、それが過去のしがらみや経緯など無視するようなことでも構わないわけで、実際にそうやって新たな出来事が加わることによって事態の進展を見ることになるわけだ。


3月10日「ゲームの流儀」

 力が有り余って、曲がりくねった坂道を強引に一直線に駆け降りたいわけでもないのだが、そんなうまく言い表せないような微妙な感情の行き違いを抜きにして、理性的な気分で何を語ろうとしているのかも定かでないまま、気分ではなく真に理性的に語るにはどうすればいいかを心得ているわけでもなく、もちろんそれに関しては皆目見当がつかないわけでもなくても、なぜかゲームの範疇に収まるようにその場の行動と言動を調整するように促されているような気がして、促されてそれに従っても結局はゲームでは済まなくなる事態に絶えず直面してしまうのも予想がつくのに、それもそんな予想を覆して実際に人が現実以外の何に直面しているわけでもないはずだが、なるべくならそれに直面しないようにその手前で折れ曲がって、何かに直面してしまうのを避けようとすることも事前に想定されているのを見過ごしているわけでもなくても、何とかして現実に直面したくないならゲーム感覚に頼ってしまうと考えても、そういう面も確かにあるかも知れないが、その場の現状に依拠して考える限りで、実際に囚われているしがらみや境遇などによって現実とは少しずれた粘着質のような感覚へと誘導されて、その誘導された先に待っているのが現実とは明らかに違う事態であるわけでもないものの、それも一つの現実には違いないのだが、現実と紙一重までに接近したヴァーチャルな感覚を味わえるのがゲームになるかも知れないが、意識がそれをゲームだとは気づかない場合もあり、自身がゲームのプレーヤーだとは思わなくてもそれを見ている観衆となってゲームに引き込まれてしまう場合もあるが、ゲームでは済まなくなる場合もあるとしたら、それがゲームを超えていると思えるわけでもないが、あくまでもゲームの範疇で現実の世界を捉えようとすれば、現実に起こっていることをゲームに置き換えることによって避けられるとも思えないし、そこでゲームのルールや論理に支配された現実の中で行動することになるだろうが、現実とゲームが区別できるわけでもなく、現実に融合した現実の一部としてゲームを実感できるはずだが、それがゲームでなければ何なのかといってもゲームには違いないのはわかりきったことであり、わかりきっていてもゲームだと思うことについて抵抗感があるとすれば、ゲーム以外の要素を感じているからで、それをゲームと見なすには納得できないから抵抗感を覚えるわけだが、ではそれが何なのかというと、普通に考えてゲームではなく、それでも現実には違いないのだが、その抵抗感が災いして、ゲーム上で自らが不利になるようなことをあえて語ろうとしてしまい、そうすることがゲームのルールとは思えないし、別にそれがゲームだと断られているわけでもないのだから、何かそこに感じ取れないルールがあるような気がするわけでもなく、逆にルールから外れるようなことを語ってしまうと罰を受けるようなシステムの中で、わざとルールから外れるようなことを語る羽目に陥っているとしたら、その罰というのも何だかその内容がよくわからないし、あからさまに罰せられるわけでもなく、それに関しては何か嫌な感じがするとしても、気のせいには違いなく、そんなのは無視して語りたいことを遠慮せずに語ればいいと思ってみても、実際に語っているつもりなのに、語りたいことを語っていないように感じられるとすれば、語っている内容の中にも抵抗感を覚えるような何かがあるとしか思えないが、もちろんそれがわからないわけではなく、それに関してわかっていることはいくらでもあって、実際にゲームのルールを熟知しているようなことを語っている人が他にいくらでもいて、そんな人が語っている内容にも抵抗感を覚えるのだから、そんな抵抗感から逆説的にゲームのルールを類推できる成り行きがあるような気がするのだが、なぜかそれが不快さと共に感じる疑念であるだけに、そこで行われているゲームのような何かにも否定的な感情と共に成り立っているルールがあるような気もしてくるわけだが、ゲームだと思っているそれが勘違いな幻影に過ぎないのかも知れず、いくら想像してみてもそれを直に見ているわけではなく、独りよがりな空想の産物としてゲームを想定しているのであれば、元からそんなのは勘違いでしかないわけだが、そうだとしても具体的な事例としてウクライナ紛争からその何十年も前に起こった太平洋戦争末期の東京大空襲に言及したり、ウクライナの原発施設へのロシア軍による攻撃から日本の原発がミサイル攻撃を受けた場合にどうなるかを想像してみたりする妄想が世の中に広がるのは、しかもそれがまともな論調のように感じられる人も中にはいるどころか、そんな妄想を抱くのが当然のことだと思う人までが世の中には大勢いるという現状自体が、それの何がおかしいとも思えないとなると、それがおかしいと指摘することがそこで行われているゲームのルールに違反することになってしまい、それが何か変な感じがすること自体がゲームのルールを熟知していない証拠となってしまうのかも知れず、どうも現実の世界ではそれとは違うゲームをやっている感じがするのだが、それがどんなゲームかというと、戦争を契機に世界が一体化するゲームであり、世界中が戦争を仕掛けた国に対して経済制裁を行うゲームであるかも知れないのだが、普通に考えてそれがゲームであるはずがなく、世界中が経済制裁に加わっているといっても、加わっていないそれなりに国もあるし、すぐには制裁に加わらないで様子見を決め込む政府や企業もあるだろうが、そんな政府や企業に対して脅しをかけるのではなく、あくまでも自主的な決断や選択を迫っているようにも見えるし、取り立てて急かしているようにも迫っているわけでもないように見えるとしても、自主性を重んじて周りから圧力をかけて強制する方式は表向きにはとっていないようにも見えて、それが見せかけて裏では強制力が働いていると見ている向きもあるかも知れないが、それもどう見ても構わないのかも知れず、重要なのは戦争を許さない立場や態度であってそれ以上でも以下でもなく、戦術とか戦略とか以前に一致結束した姿勢や態度を見せることに対して、自然発生的に世界中で共感や支持や同調が広がりつつあるように見ておけばいいのかも知れないが、そういうある意味では甘っちょろいガバガバな感じがゲームのルールであるはずもなく、それがゲームではないことを象徴しているような感じもするわけだが、ではゲームでなければみんなで一緒に何をやっているのかといえば、少なくとも表向きには経済活動を行なっていて、さらにその裏では人としてあるいは集団を構成する団体としてあるべき姿を模索していると言えるだろうが、それがあるべき姿であり、今ここにある姿ではないところが理想の姿でもあるのかも知れないが、しかもその理想像というのが、未だかつて存在した例しがなく、これからも永遠に存在しないだろう理想的な世界のあり方を求めているわけではないが、またそれを模索し続けることが重要でも肝要でもないのだろうが、これからも活動していくにはそうするしかないような模索を世界中で行なっていると見ておけばいいのかも知れず、それもあからさまにそんな状態を目指しているわけではなく、それらのことごとくが手探りの暗中模索を行なっているわけで、理想の姿がこれだと初めから決まっているわけでもないのに、だからこそ世界のあるべき姿がどんなものなのかを模索しなければならず、それだけ過去のどんな時期より今の現状の方が進んでいて、過去の繰り返しではない未知の状況や局面が訪れていると見るべきなのかも知れないが、だからといって参考になるのは過去の事例しかないわけで、今さら過去の事例など参考にならないと断言できるわけでもないし、誰も未来を知り得ないわけだから参考にするのは過去の事例しかないとしても、実際に過去の事例を参考にしながらも、過去とは異なる状況や局面に突入しつつあるという矛盾の中で活動しなければならず、それがどういうことなのかと問われても誰にも答えを導き出せないわけではなく、一応は過去の事例を参考にしながら答えを導き出させるにしても、その答えが合っているとは言えない面があり、それが答えを導き出そうとする試みの限界でもあり、その程度で答えを出す作業は切り上げて、そんな不完全な答えを携えて実践に向かわなければならないから、手探り状態の暗中模索を強いられてしまうわけだが、それで構うわけでもないが、そういうことしかできないとも言えず、何かそれとは違うことをやる成り行きになってしまい、そういう未知の成り行きを受け入れながら、あるいは場合によっては拒否しながら、人も団体も未知の領域で活動していくことになるのではないか。


3月9日「政府と国家と民族」

 国家と民族が一体ではないのはアメリカの事例を考えれば誰にでも分かることだが、政府と国家が一体でないのは分かりづらいし、政府と民族が一体でないも分かりづらいところかも知れないが、少し違うのは誰にでも薄々感じ取れるかも知れず、何かがずれていて、そのずれを利用して政府が国家と民族の範疇を超えて力を及ぼうそうとする場合もあるだろうが、そんなことも国家とも政府とも民族とも距離をおいてみるとわかってくることかも知れないが、わかっていてもそれらを一体化させようとする思考が国家に依存して生じてきて、それを結びつけないと正当化できない立場があり、その立場というのが妄想の中で強固な支配体制を築いていれば、場合によっては無理で強引なこともできるのだろうが、その場合というのが政府が特定の勢力やそれを代表する人物の思うがままに支配されている場合だが、支配されているといっても一応は民衆の支持を前提として支配体制が成り立っていることになるのだろうが、その支配体制と民主主義が一致しているかどうかがよくわからないところでもあり、それも場合によっては民主主義を無視して支配体制が構築されている場合があり、それが民衆にとっては悲劇のように思われてしまうところかも知れないが、元はと言えば民衆からの支持を背景にして支配体制が構築された経緯があるはずだが、そんなことはお構いなしに政府の官僚制が自動的に政府を構築している実態もあるだろうから、それに対して民衆が異議を唱えるべきなのかも知れないが、それを阻むのがメディアの役割であり、メディアが民衆の意向を無視して政府寄りの世論を構成しようとしている面が顕著になっているとしたら、メディアも政府の官僚制と一体化していることになるが、それ以前に政権政党が政府の官僚制と一体化しているのが日本で顕著になっている傾向かも知れず、そんな民意を無視した支配体制を打開しなければならないかというと、それも少し違うのかも知れず、民意を無視してないどころか、民意が積極的にメディアの意向に従うのが大衆市民社会において顕著な傾向でもあり、それとこれとは同じことのように感じられるかも知れないが、厳密には微妙に違うとしてもその違いをうまく説明できないわけで、何事も技術的な次元で語ろうとすればそんな差異など無視されて当然かも知れないが、実際に差異があるわけではなく、それどころか混同されている実態もあり、それが何と何を混同しているかもわからないような混同の仕方となっているようなら、それ自体が民衆にとっては何でもないことかも知れないが、その差異をどう表現すればいいかもよくわからないところでもあり、そうであるなら差異などないといっても構わないのかも知れず、実際に差異などなく、民衆の意向がメディアの意向でもあり政府の意向でもあって、また政権政党の意向でもあると考えておけば、政府の支配体制を翼賛していることになるわけだが、民衆といってもその中では色々な意見も主張もあるだろうし、一概には翼賛体制を誰もが支持しているとは言えないところだが、支持していなくても翼賛体制を利するような行動や言動となってしまうとしたら、それはメディア上で起こっていることであり、実際の世の中でもそれが世間の傾向としてそうなっているのかも知れないが、それも実態が定かではなく、何とも言えないところだろうが、民衆の中にいるつもりの個人として感じられる支配体制というのも、それが政府と政党とメディアと民衆が一体化している面を意識する限りでそう感じられるだけで、そういう前提を意識しなければ幻想だと思っておいても構わないのだろうが、そんな幻想こそが共同幻想となって社会の空気を形成しているように感じられるなら、事実としてもそう思っておいても構わないのかも知れないが、そういう政治的な方面での妄想には飽きていて、そんな妄想を無視して現状について考えたいわけで、それが現状を無視することになってしまうと虚構になってしまうが、虚構でも構わないと思うならそこにも真実が含まれていると思うしかなく、そんな真実と共にさらに妄想を膨らましていっても誇大妄想となるしかないが、そうなっても構わないと思うなら、政府と国家と民族を共有することによって生まれる妄想も人々の心を支配する力が生じてくるのかも知れないが、それが妄想である以上にそこからはみ出して現実の行為に直接結びついてくれば、何やら攻撃的なことをやらざるを得なくなって、政府による国土とそこで生活している民衆を支配する行為にも真実味が増してくるのかも知れず、それが人の妄想の中で生じていることだとは思えないだろうが、妄想ではないとしたら現実に世間で罷り通っている慣習の類いに結びついているのかも知れないが、慣習といっても宗教的な慣習から生活習慣に近い人畜無害なものまで幅広く人の行動を支配しているし、それらのどこからどこまで有害かといっても、全てが有害ではなく逆に社会にとっては有益なのではないかと思いたい人も出てくるだろうが、そこに一見何でもないように感じられても気づかないところで慣習に逆らうことに抵抗を感じている可能性もあり、それも絶えず感じているというわけでもなければ無視されてしまうところかも知れないが、何でもないことが何でもないと思わせるように作用しながら人の行動を縛っているわけで、その縛りから逸脱することが慣習に逆らう行為となってしまうと、慣習に従うことによって成り立っている世間への反逆行為になってしまうだろうが、そんなことも無視できるとしたら、それも空気のように意識できないこととなり、すでに慣習に従っているから意識できないわけだが、政府と国家と民族の一体化となると一般的には無視できることではないだろうし、それと慣習とは何の関係もないように思われるかも知れないが、慣習が民族に関係していることぐらいは誰にでも分かることであり、だから民族を否定的に語ることは世間的な利害とは相反するわけだが、否定的に語らないまでもそこに民主主義という綺麗事を差し挟もうとすれば、嫌でも民族的な慣習を取り去って無害化した純粋に政治的な次元での理想の姿を思い浮かべるしかなく、それが結晶化したのが日本国憲法だとか主張するなら世間から反発を喰らうだろうが、そういうことを言いたくなってしまうのが左翼的な小児病だと言いたい輩も政府と国家と民族の一体化に加担する勢力の中には少なからずいるだろうが、そういうことを突き詰めると戦争にならざるを得ず、もちろん今のところは空想上の戦争だと思っていたら、実際に世界の各地で戦争や紛争や内戦という形態を取りながらも、倦むことなく繰り返されている争いに関しては、それが空想から現実の世界へと滲み出てきているわけで、それに関して何をどう語ってみても、語っている内容を正当化しようとすれば、プーチンのような論理になってしまうかも知れないが、それが民主的な手続きを経てそういう論理の実践に結びついているのかと言えば、どちらかといえば政府の官僚から出てくるような論理であるかも知れないが、政府の機能という面から常識的な範囲内で考えるなら、ただ単に税を徴収する機能でしかなく、それだけに特化できれば何でもないことかも知れないが、そこに国家や民族の幻想が結びついてくると済まなくなってきて、そこから独裁者的な存在が抱くわけのわからぬ野望へと結びついてくると思いたいところだが、わけはわかっているようにも思われて、至って野望を抱いている当人には正気でそんなことを抱いているように思われるのかも知れないが、たぶんそこでも何かしら歯止めとなるような制度的な障壁が構築されていれば、そこから野望を実行に移すような進展とはならないのだろうが、そうした制度的な障壁が築かれているような政治形態がどこにあるのかといえば、民主的な選挙が正常に機能している限りでそうなってほしいのだろうが、そこにも程度の差があって、世界のどの地域でも通用するような制度が構築された例しがないのが現状でわかっている実情なのかも知れない。


3月8日「事実と真実の混同」

 何を避けているのかというと戦争の話題を避けているつもりだが、避けているとは思えないほど戦争へと関心が引きつけられてしまうのは、そこに語ろうとして語れない何かがあるからと思ってみても、それが何だかわからなければ話にならないが、それがすでに織り込み済みの事実であり、そんなことは無視した上でしか成り立たないことしか言えなくなってしまうだろうが、言うのではなく書き記すのであり、書き記すと言う表現では事態を正確に伝えていないような気がするとすれば、他にどう表現すれば良いのかよくわからなくなってしまうが、そんなことが問題なのではなく、実際に世界で起きていることに目を向けなければならないが、目を向けたところでそれについて語りたくなるわけではなく、実際にはそれ以外のことを語っているつもりになっている一方で、本当は文章を記しているはずだが、では真実がどこにあるのかと言えば、それは言わなくてもあからさまに示されていることであり、言おうとしていることも語ろうとしていることも全てが虚構だと見なしてみても構わないのかも知れず、そんなことは言うべきでも語るべきでもないのかも知れないが、ではそれば間違っているのかと言えば、それも言うべきではないことのように感じられるのだが、それも感じられることではなく、記されていることであり、文字を記す行為が行われていることは確かなのだろうが、それも行われていると言うよりは実際に文字が記されていて、その記された内容に満足できないのはもちろんのこと、何を語れば良いのかわからないから、その代わりに文字を記しているわけではなく、そんなことはお構いなしにただ文字を記しているわけで、それもわけではなく、理由がわからないと言ったら嘘になってしまうが、言うわけではなく文字を記しているのだから嘘に決まっているだろうが、そんな文章の内容にも飽き飽きするのかも知れないが、まだそこまで辿り着いていない実態があり、たどり着けないからその手前で苦労していると思っておけば良いのかも知れず、いいと記すと良いと変換されてしまうところも気に触るところかも知れないが、他に気に触るところがあるという前提でそんなことを記しているわけでもないだろうが、何かそのままで済まそうとしているようで、そんな文章をそのまま放置しておくのが無難に思われてしまい、そう言う対応から後戻りしようとしてもできないところも癪に触るが、自由に文字を記しているわけではなく、自由にならないのだから思い通りにはならないと状況を認識しておいても構わないはずだが、何かそういうやり方では不都合を感じているらしく、たぶんそうではないような文章の構成を目指しているのかも知れないが、どうしてもうまくいかないからそうなってしまうのだろうが、そこでも微妙なところでそこから逸脱した方がいいのかも知れず、その微妙さがよくわからず、さじ加減とは少し違うようで、そういう表現ではしっくりこないところだが、暫定的にさじ加減でも構わないのかも知れないし、そんな微妙さにつきまとわれているような気がするのだが、そこで起こっていることをどう表現してもしっくりこないだろうが、起こっていることと想像していることも微妙にずれているのかも知れず、起こっているのは確かにウクライナでは戦争が起こっていて、それについて誰かが想像を巡らして妄想を抱いているわけだが、果たしてその妄想の中身に真実が含まれるのかというと実際に真実が含まれていると思うのだろうが、それを言うのではなくそれを記そうとしている限りで、言うのが虚構で事実が記していることになり、そのどちらが真実なのかと言えば、それも言うのではなく記していることになり、どこまで行ってもそれを言うことができずに、その代わりに言葉を記していて、真実としては言葉を記していることになるのだろうが、記された文章を読めば、そこで何かが言われているように感じられるが、それが言われているのではなく、ただ文章を読んでいるのに過ぎないのに、そこで何かが言われているように感じられるのだとしたら、そこに次元や水準の上で差異があるような気がするのだが、それは次元や水準ではなく、重層的に文章上に重なり合っていることなのかも知れず、それも何か違っているような気がするのだが、事実としてはそうかも知れないが、そうであってほしいとも思われて、そんな認識で妥協したいのだが、相変わらず言いたいのはそんなことではなく、ウクライナで起こっている戦争について何か語りたいのだが、それがもっともらしいことになってしまうような気もするから、そうなってしまっても気に入らないのかも知れず、それが避けたい事態でもあり、それを途中まで書き記していたら、その内容が嫌になって勝手に自分で削除してしまう事態に見舞われて驚くしかなかったが、それでも構わないと思うしかないが、実際はそうは思っていないわけで、すんでのところで他の誰かと同じようなことを言う羽目に陥っていたのをかろうじて避けられてホッとしているのかも知れず、その代わりにどうでもいいようなわけのわからないことを記している最中なのかも知れないが、それも嘘であり方便だと思うしかなく、本当は嘘でも方便でもなく、言う羽目に陥るというよりは言葉を記していることになり、羽目ではないような気もして、羽目でなければ何なのかと言っても、それも言っていることではなくあくまでも記していることであり、記している文章を読みながらさらに言葉と文字を記しているわけだが、そこでも言葉と文字が一体化しているのは当然のことだろうし、何かそれが間違っているような気もするが、そんなことが問題でもなく、そこでも問題なのはウクライナ情勢でもないわけで、国家と政府の関係でもないところがよくわからないが、経済の問題でもないというか、それらが一体化しているのが事実としても真実としても問題なのだろうが、そんなこととは無関係な内容を書き記しているわけで、それが自由の問題でもないことも事実かも知れないが、人の自由を奪う国家の問題でもあり、そのついでに中国やロシアでは人権も奪われていると言うと、他の国でも大なり小なりそういう傾向があるだろうが、言いたいのはそんなことではなく命まで奪われている実態があると言うと戦争の問題に近づいてくるかも知れないが、人が持ち合わせていると感じている何かを奪うことでしか国家が成り立たないと見るなら、勘違いもいいところだと国粋主義者が憤るかも知れないが、たぶんそう言うことではなく、言うのではなく書き記されることであり書き記された文章が読まれている実態の中に憲法の解釈も含まれてくるのだろうが、実際に起こっている戦争にかこつけて憲法改正の是非を判断させたい意向もあるだろうし、それも言いたいところだろうが、言うのではなく、実際に言っている人も政治の方面でいくらでもいることは確かだが、言うよりは書き記すことでもあり、紙に印刷された憲法を読み上げれば言っていることになるわけだが、そういう次元や水準の問題でもなく、その内容自体を問題視したいわけだが、それが誰にとってもそういうことではなく、そこにはまだ誰も現れてはおらず、人が現れない代わりに画面が目の前にあるわけだが、ただ画面を見て何を語っているのかも明らかにはならないが、語っているというよりは画面上に文字を記す作業に没頭しているように装いながらも、頭の中ではそれとは関係のないことを妄想していて、それがいつ終わるとも思われない妄想であれば、無限に続く妄想なのかも知れないが、同じような妄想が無限に循環する妄想でもあり、その妄想の内容が書き記されることもないだろうが、そんな妄想に真実が含まれているとすれば、その一方で妄想について語っている事実もあるらしいが、今はそんな真実も事実も無視したい気持ちでいるかというと、それも少し違うような気もしてきて、いつかそれについて語る機会がやってくるような気がするものの、そうなっても相変わらずそれとは関係のないことを書き記しているのかも知れない。


3月7日「自由の程度」

 世界のどこかで何が起こっていようと、今さら事態がここに至ってまだ何も起こっていないと言ったら嘘になるが、それ以前に語り方を間違えると何を述べていることにもならないかというとそんなことはなく、たとえ現時点で世界が歴史的な転換期に差し掛かっていようと、それが正しい歴史認識か否かではなく、何かが起こるとそう思ってしまう人が出てくるのであり、そこ起こっていることに興味があるのは誰にとってもそうだが、それに対してできることがあらかじめ決められているわけでもないのも誰にとってもそうかも知れないし、それが個人ではなく国家や企業に何ができるかと問われている一方で、問われてるのは国家ではなく、各国の政府に何ができるかが問われているように思われるのも普通の現状認識かも知れないが、当然のことながら何もできないわけではなく、直面している事態に対して適切に対応しているように装われているはずだが、そんなことには誰も興味がないと言ったら嘘になってしまうだろうが、興味のあるなしに関わらず、それに関しての語り方云々ではなく現実に起きていることについて語ればいいかというと、一応はその通りだと答えておくしかないが、語るには何かしら抵抗感があるからその通りではない答えの方を優先したいのかも知れず、それがどういうわけでそうなっているのかを知り得ないまま、そこから意識が外れようとしていて、そこにすぐには至れないように無駄に回りくどい言い回しになってくるのも意味不明かも知れないが、語るべきはそんなことではないとしても、そんなことしか語れないような成り行きの中で実際に語っているわけで、そうやって興味のないことを語りながら直面している事態について語るのを拒否しているわけだが、どこまでも拒否し続けられるわけでもなく、いずれは語らなければならなくなってしまうのだろうが、語らされてしまいそうになったところで思い浮かぶのが、ではどうするべきかという問いであり、苦し紛れに場当たり的な問いへ逃れようとして、そんな問いに適当に答えて体裁を取り繕う気になっていると、さらに続けて人はどう生きるべきかという問いにも行き着きそうにもなってしまうが、問うまでもなく人は生きていて、すでに生きているのだからどう生きようとその人の勝手になればいいのかも知れないが、勝手には生きさせてはくれない事情や経緯があるから、どう生きるべきかと問うまでもなく、他から何を問われているわけでもなく、何らかの不自由と共存しながら誰もが普通に生きているのであり、どう生きようとどうしようもなく生きざるを得ないから、どう生きるべきかと自らが問われているわけでもはずだが、積極的に生きようとすればするほど、生きづらくなるわけでも生きられなくなるわけでもなく、少なくともその代わりに自由に生きられないように周囲の様々な方面から社会的な制約が課されているように思われると、それに対する抵抗感を抑圧するような作用も及ぼされると共に、自由にならない代わりに自らに課せられた制約を肯定するように促されているような気もするのだが、制約に従って生きることが普通に生きることでもあるなら、普通に生きている限りは自らの自由を奪うような社会的な制約に従うしかなく、それ以前にそれが経済的な制約でもあるなら、従わないという選択肢自体があり得ず、社会的な制約の管理下で個人の活動が制限されているのかも知れないが、活動そのものが成り立たないと生きてはいけないのかというと、活動自体が生きることそのものであればそうとしか言いようがないが、それが社会的な制約を課すことによって人を管理している側にそう思わされているだけだとしたら、そんな思い込みを打ち破れば自由を手にすることができるという安直な成り行きを想像したくなるが、それこそが社会が課す制約そのものでもあり、そうやって人が自由を手にするための制度が構築されていて、その中で制度が管理している自由を手に入れるための競争がそこに参加する大勢の人々の間で行われているはずだが、それこそが自由だという思い込みが社会的な制約を課す側の管理下で生きている人々の脳に刷り込まれていて、それが刷り込みでしかないことに気づかなければならないかというと、それに気づくことも社会が課す制約に従っている限りで気づくことだとすれば、制約に従わないなんてあり得ないことになってしまうだろうが、そうであるなら自由を手に入れるための競争に参加する必要もないような気がしてくるだろうが、そもそも社会が課す制約から逃れる必要もなく、また制約から逃れることが自由を手にすることでもなく、制約から逃れても何かしら不自由を感じるだろうし、かえって制約に従っていた方が社会の中では自由に振る舞えるかも知れず、その自由と不自由が何に関係して自由か不自由かがわかれば、その関係自体が社会から生じてくるのであれば、社会がその人と何かの関係として自由や不自由をもたらすのであり、そういった社会的な前提のない自由も不自由もあり得ないと考えるなら、それが自由な状態であるにしても不自由な状態であるにしても、人を自由にしておいたり不自由にしておいたりする社会的な対象がなければ、そもそも自由も不自由もあり得ないことになるから、自由であろうと不自由であろうと社会の中に存在している限りでそう思われるのであり、そもそも社会がなければ自由も不自由もないと考えておくのが無難かも知れず、そういう意味でも自由や不自由を感じていること自体が社会的な制約からの距離や隔たりの程度を示していて、距離が近ければそれだけ強い作用や影響を及ぼされるから不自由を感じて、その反対に距離が遠ければそれからの作用や影響も弱いから相対的に自由に感じられると解釈しておけばいいのだろうが、それが自由であるにしても不自由であるにしても相対的な程度に過ぎないと考えるなら、どちらにしても社会的な制約との関係から生じてくるわけで、それを簡単に説明するなら他人に制約を課すほど制約を課された他人と比較して自らの自由さを実感できるだろうし、逆に他人から制約を課されるとその制約によって自らの不自由さを実感すると共にそんな制約とは無縁の他人が自由に見えるから、自らが自由を実感するには他人に制約を課さなければならないとは普通は思わないが、特定の人々が社会の中で自由であるほど、逆にそれらの人々の自由な状態を実現するために不自由を背負い込まなければならない人が他に大勢出てくる可能性が高いわけで、それが普通に考えられる実態として浮かび上がってくるのが主人と使用人の関係だろうが、直接には主人と使用人の関係を結んでいなくてもサービス業に従事していれば、他人にサービスしている時間帯が使用人となっていて、そのサービスに拘束されている間はそれ以外は何もできないような不自由さに耐えていることになるにしても、それが仕事だと割り切っている限りでそうは感じておらず、しかもサービスに従事する見返りとしてそれなりの報酬が支払われていれば、不満を感じるどころか進んで仕事としてのサービスに従事することを選ぶわけだが、それが課された制約を受け入れる態度であり、そんな不自由な境遇をくぐり抜けないと自由が手に入らないと思うなら、そういう思い込みがその人の脳に刷り込まれていることになるわけだが、そうなっているからといってそんな成り行きに逆らうことができるかというと、それもその人のそれまでの経緯やその場での事情が許す限りで逆らうことができるかも知れないが、逆らったからといって自由を手に入れられるわけでもなく、それどころか失業してますます不自由な境遇になってしまうとしたら、逆にそんな成り行きに従うことによって、従った見返りとしてそれなりの報酬を得て、その報酬を使って束の間を自由を手に入れることができるかも知れず、そうやって自由が手に入ればそれが相対的な程度の自由となるのだろうが、それでは満足できなければ、もっと大げさな絶対的とも言える自由を手に入れようとするかも知れないが、それをその人が自由だと実感できるかというと、それまでに相対的な自由しか体験してこなければ、それが自由だとは感じ取れない可能性もあるわけだ。


3月6日「商品と資金の関係」

 人の心をとらえて離さない魅力がそこにあるのは薄々感じているものの、人心が囚われている物事が何なのかはわかっているつもりでも、それについて簡単に言えることがある一方で、それを語ってしまうと魅力が半減してしまうような気がするなら、あえて語らずに済ませようとしてしまうのかも知れず、簡単に言えてしまうのはわかり切ったことかも知れないが、それだけでは説明がつかないことがあるのかも知れないし、説明がつかないことを説明しようとしているわけではなく、こうして何かを説明しているわけだから説明できることを説明しているつもりなのだろうが、こういう説明では納得がいかないのだから説明がつかないことまで説明しようとしていることに気づいていないのかも知れず、それが何だかわからないということがなぜか説明の対象となっていて、実際にそれが何だかわからないのに説明しようとしているのだとすれば、すでにそうなっている時点で説明が破綻していて、説明している途中ではそれに気づいていないのかも知れず、だからすでに説明になっていないのかも知れないが、そうなっているのに強引に説明を続けようとするから説明している内容がおかしくなってしまうのかも知れず、実際におかしくなっていることに気づいていないのかも知れないが、そうであるならまだ何を説明しているのかわかっていないような気もするが、その辺が説明の限界であり、それ以上の説明を断念せざるを得なくなれば、そこから先はごまかしでしかないが、そんな説明では満足できるはずもないだろうが、それでも説明しようとしているのだから、これ以上説明を続けると気が変になってしまうわけでもないが、かろうじて説明の水準にとどまれるならそれに越したことはないにしても、これ以上は説明できないと思ってしまうとそこで説明を放棄することになりはしまいかと恐れているわけではなく、まずは何を説明しているのかを明らかにしなければならないと思いつつも、なかなかそれが明らかになってこないのだから、やはり説明になっていないのであり、説明すべきことを説明していないから説明になっていないというよりは、何を説明すべきかわかっていないのに説明しようとしているから意味不明となってしまうのかも知れず、もちろん何が意味不明なのかも理解していない可能性もあり、不用意に意味もわからずに意味不明という言葉を使ってしまうのがいい加減なのはわかっているはずだが、そういうところが意味不明なのかも知れないし、それでも何とかして説明の体裁を取り繕うつもりなのかも知れず、つもりであって結果的に取り繕えなければそれでも構わないわけでもないが、それが単純なことでもあるのに納得できないところでもあるから、うまく説明できないかも知れないが、うまく説明できたところで納得できるとは限らず、納得できなければおかしいと思うしかないが、例えば同じ機能を果たすものであっても、それが商品となると高いものも安いものもあり、高いものを買うには高い金額を支払わなければならないし、安いものを買うには安い金額を支払えばいいのは当然だが、実際に高い商品があるわけだから、そこでは高い商品を買うために必要な資金が用意されるわけで、実際にそうやって高い商品の売買が行われるわけだから、高い商品が高い金額で売買されることについては何の問題もないように思われるが、そのためには資金を用意しなければならず、実際に高い金額の商品を売買するための資金が用意されているはずだが、資金が用意されていることに納得できない人がいるわけで、なぜ納得できないかというと、その人には資金を用意できないからで、世の中には高い商品を買えるだけの資金を用意できる人とできない人がいることに納得できないわけだが、納得できないまでも合理的に考えて同じ用途の商品があるなら、高い商品を買えなければ安い商品を買えばいいということになるが、実際に安い商品を買えるだけの資金を用意できればそれを買えばいいわけだが、それさえも用意できずに買えない人までがいるとなると、そんな世の中はどうかしていると思うだろうし、そんな世の中の現状に納得できなくなってしまうわけだが、そういう面では納得できないとしても、商品を買う資金を用意するにはどうすればいいかということに関してなら納得せざる得ないだろうし、それも単純に考えるなら商品を買う資金を用意するには商品を売ればいいということになるわけで、商品を売ることによって商品を買うための資金を得ればいいわけだが、そこでも単純に考えるなら、安い商品しか持ち合わせていなければ安い商品を買うための資金しか得られないことになり、高い商品を買うには高い商品を売らなければならないと単純に考えてしまうが、そこからもっと複雑に考えるなら、安くても大量に売れば塵も積もれば山となり、高い商品を買えるだけの資金を得られるかも知れないし、また売買だけなく貸借を活用すれば、高い商品を買えるだけの資金を借りればいいということにもなってくるだろうが、安い商品を大量に売るには手間暇がかかり、とても個人でできるような範疇を超えてくれば、集団で手分けしてやることになるだろうし、また高い商品を買えるだけの多額の資金を借りるとなると、とてもそれをいっぺんには返せないなら、分割払いで返すことにもなり、さらに返す期間が長期間になると、返す金額と共に利息も長期間にわたって支払うことになるだろうが、そういうところから集団で作業をするためシステムや資金の貸借を継続的に維持するための社会的な制度が生じてくるのだろうが、実際に世の中で行われているのはそういう範疇でしかなく、それの何が納得し難いのかというと、そのようなシステムや制度を組み合わせると、高い商品から安い商品まで幅広い価格帯で商品の品揃えが可能となり、それらの中でどの価格帯の商品を買えるかで、商品を買う人の間で格差が生じてくると共に、それに加えて最も安い商品でさえ買えない人も出てくるとなると、その人はどうやって生きていけばいいのかという疑問も生じてくるだろうが、そういった商品の売買を伴う社会の中で生きていくには、絶えず売ることのできる商品を持っていないと生きていけないわけだが、個人が必要最低限持っている売り物とは何かといえば自分自身であり、それが自らの労働を売って生計を立てるとなると、労働が売れなくなった時が自らの死を意味する場合もあるだろうが、果たして労働が売れなくても生きていくことができる制度が実現された方がいいかに関しては、そういった制度を運営する主体が国になることを安易に考えてしまいがちになるが、国といっても実質的には政府になるわけで、その政府の中で主導権を握っている勢力がどんなことをやっているのかといえば、自分たちの勢力を強化して盤石な体制にするために国を利用しているわけで、それとこれとは関係のないことのように思われるかも知れないが、民衆から支持を取り付けるための餌として民衆の目の前に労働が売れなくても生きていける制度をちらつかせるようなことをやっているわけでもないし、実際に関係がないわけでもないのだろうが、元はと言えば商品の売買の範疇でそうなっていることであり、それを売買とは関係のないところで解決しようとしても筋違いな印象を受けるわけで、商品の売買から生じていることならその範囲内で何とかするのが本筋であり、労働を商品の売買に絡めることによってそうした売買に関係する制度内で人を生かすようなことが行われないと納得がいかないわけだが、そういう方面で何かできることがあるかとなると、結局は人を労働させて、そこから商品となる物事を生じさせようとするのだが、果たして商品の売買だけで人が生きていけるのかといえばそうでもなく、それ以外にもやっていることがいくらでもあるだろうし、そのやっていることを全て商品の売買に結びつけられるかというと、それも普通に考えて無理だろうし、実際に人の労働が商品であるとは限らず、賃金など伴わず売買もできない労働もあるだろうし、それは労働とは言わず活動全般の中で何かしら働いているわけで、商品の売買とは別にそういった面の割合を増やしていくことによって、相対的に商品の売買に伴った労働の割合を減らして行ければ、それも相対的に商品の売買から生じる問題の低減にも役立つかも知れないが、果たしてそういうことが実現可能かといえば、それも結局は商品の売買を経なくても生きていけるやり方を模索するしかないわけで、それが現状ではよくわかっていないのかも知れない。


3月5日「事なかれ主義の効用」

 見るからに現状に合わないことを言っているのは自身で気づいていて、そんな成り行きの中でも何がそれを逆説的に明かしているわけでもなく、事態を逆説的に証明しようとしているのは、それらに関わっているつもりユーザー自身であり、ユーザーが誰なのかといっても消費者一般なら誰でも構わないわけでもないだろうが、それらの人々が事態の進行を促進させている要因があるとすれば、その要因が思い違いだとは誰も思っていないだろうが、どんな思いが事態の進行を助けているのかというと、人それぞれに様々な思いを抱いて行動しているはずだが、その中でも事なかれ的な思いが多数派の心を支配しているなら事態が動かないはずだが、それでも事態が動くということがどういうことなのかというと、実際に事態が動いていて、事態が動いているからそれに反応して人も物も情報も行き交っているはずだが、誰かがそれを動かそうとしている面もあるだろうが、事態の一部を動かそうとして実際に動く部分もあるかも知れないが、動かそうとしても動かない部分もあるだろうし、動かなくても構わない部分もありそうだが、そんなこととは無関係に動いてしまう面もあるのかも知れず、そうやって動いている方面で何かが起こっているとしても、それが何を意味するとも思えないような情勢の変化であれば、放っておかれるだろうし、そこから何の利益も損害もたらされなければ経済とは無縁の変化となるわけでもなく、何かしら物事の生産と流通と消費に結びついてくればそれが経済活動になるはずだが、表面的にはそれがわからず、そんな広い意味での経済活動が世界の隅々にまで浸透しているのは今に始まったことでもないだろうが、経済活動に連動して世界が動いていると考えれば、たとえ戦争でもそれが経済活動の一環だと捉えるなら納得できて、例えばウクライナからウクライナ人を追い出してそこにロシア人が入ってくれば、小麦やトウモロコシなどの肥沃な生産地がロシアのものとなるような気がするが、人々が関心を持つのはそんなことではなく、そこで起こっている戦争の悲惨さに共感したくなり、現実に戦火を逃れて難民となってしまう人々に同情するしかないが、事なかれ主義に心が染まっていれば、そういう成り行きから目を背けて、何の反応も示さないと想像してしまうが、そうではなく、遠くの戦争は買いなのであり、この機に乗じて株式投資するのも事なかれ主義であるはずがなく、そうやって積極的に事態に介入しているつもりになることが、一見事なかれ主義とは無縁に思われるかも知れないが、事なかれ主義で悪いはずがなく、逆に何にでも首を突っ込んで関係を築く必要があるかとなると、関係を築けるのは興味を持っている範囲内でしかできないことであり、興味がなければそれについて発言しなくても構わないし、自分が関わっているつもりの専門分野に言及しておくだけでもスマートな対応に見えるだろうし、そういうところで下手に専門外の方面に口出して藪蛇となってしまうのを避けるには、世の中で共有されている世界的な関心事はあえて無視して、常日頃から関心を持っている専門分野だけに言及を限定しておくことが肝要なのかも知れないが、そういう対応を批判しようとするわけでもなく、むしろそれで構わないといったところで肯定も否定もせず、関心を持っても直接介入するわけでもなく、そうかといって無関心を装って事なかれ主義に徹していられるわけでもなく、どちらにも染まりきれないのが普通の感覚であり状態なような気がするが、どちらであっても構わないという余裕がいつ何時でもあるわけでもそんな態度が通用するわけでもなく、そんなことには無関心であっても、向こうから強制的に関心を持つように介入してくれば嫌でも関心を持つしかなく、そうなってしまうのが戦争なのだと言ってみても、それは実際にそんな状況に巻き込まれてから嫌というほど思い知らされて、巻き込まれなければ他人事でしかないが、巻き込まれたくなければ他人事でいられる状況を維持できるわけでもなく、事なかれ主義を貫ける力が個人にあるわけでもないことも思い知らされて、そんな思いを踏みにじりながら戦争がやってくるわけだが、だからといって現状で他人事でいられる人が関心を持つ必要もないとしても、それが思い違いであり、誰にでもその必要があるから関心を持たなければならないということではなく、必要がなければ関心を持たなくてもいいということでもなく、必要のあるなしに関わらず関心を持つように仕向けてくるわけで、その関心を持つように仕向けてくる何かから逃げる必要があるのかといえば、それも必要のあるなしに関わらず逃げられるなら事なかれ主義を保つことができて、逃げられなければ事なかれ主義ではいられなくなってしまうわけだが、逃げられるか逃げられないかの決定権がこちらにはなく、こちらがどういう事情を抱えてどういう境遇にいようと、事なかれ主義を貫いているように見えるなら非難されるだろうし、そのことに無関心でいることを咎めるような成り行きへと持っていかれてしまうわけで、世の中がそういうご時世であることを敏感に察知してそれ相応の態度を装わないと真っ当な人間とは思われないような風潮となっているかというと、鈍感でなければそういうことに気づかないはずがないと思われるようなら、それも思い違いなのかも知れず、気づかないふりをしているわけでもなく気づいていないわけでもなく、さらには気づいていてもあえてそれに言及しないということではなく、普通に気づいていて、しかもそれに言及しない場合もあるわけで、それがおかしいわけでも不都合なわけでもなく、自然の成り行きとしてそうなっているように感じられるなら、取り立ててそれに関して良し悪しの判断対象とはならず、中にはそういうこともある程度のことであり、それがどうしたわけでもなければそういう状態は放っておかれて、何の関心も払われないし、それで構わないわけではないが、何が構わないのかがわからないわけで、わからなくても構わないわけではないのだろうが、わからないままでも放っておかれて、放っておかれる限りで事なかれ主義を維持できるわけで、それが面倒なことにならないための秘訣というわけでもないのだろうが、一方で世間で話題となっていることに首を突っ込みたくなるのも、それをメディア的な誘惑と受け取っておけば事なきを得られるわけでもないだろうが、うまくそういうところで分別をわきまえていれば、ちょっとだけ世間的な話題にも触れる程度で済ませて、何やらそれで目配せができているように装えるかも知れないが、そういうごまかしができているうちはまだ事なかれ主義の範囲内の対応になるだろうし、それが対応として有効に機能するかしないかの分かれ目がどこにあるかということも、普通に自身にはわかりようがないとしても、そんなことに気を使っている暇がなければ、それもそのまま放っておかれることに過ぎないが、放っておいても大丈夫ならそれでも構わないわけで、その構うか構わないかの判断が自分で判断できるようなら事なかれ主義を維持できて、他人からそんなことでは駄目だと言われるようなら事なかれ主義を維持できず、結局他人事でいられるのは他人から干渉されない範囲内で可能なのかも知れないが、その他人が大げさな存在になってしまうと、何やら意見や主張を強制してくるような存在を想定できるだろうが、意見を求められて答える義務が生じるのは社会の中で限られた立場や地位を占めている人であるから、そうでなければこちらから積極的に意見や主張を発信する必要もないと考えるなら、そこでも事なかれ主義に染まってしまうとしても、それも時と場合によっては維持できなくなるかも知れず、そうなった時に自分独自の意見や主張を言うことができるかとなると、どうもそういうことではないような気がするわけで、そういう機会が巡ってくるのを見越して、あらかじめ身構えるとかの算段をする必要もなく、日頃から世間的な話題と浅く触れる程度にとどめておけば、それがどこまで行っても浅瀬にとどまっていられるわけではなくても、できうる限り浅瀬にとどまれるような体勢を整えておけばそれで済むようなことかも知れず、そういう意味ではそれを事なかれ主義と見なしても差し支えないが、自身でもはっきりとはわからないような微妙な心理状態を維持しておくことが肝要なのかも知れない。


3月4日「類似と相違と相似」

 それとこれとは別のことだとしても、それがそれであり、これがこれであることには変わりなければ、それとこれとがそれぞれに他の何かと関係し合っていても、あるいは互いに関連性があっても、それとこれとの間に類似点があるかも知れないし、逆に相違点があっても構わないはずだが、とりあえずそれとこれとの類似点を指摘したければ、似ていることを示したいのだろうし、相違点を指摘したければ、違うことを示したいのだろうが、類似していても相違していても関係性があったりなかったり関連性があったりなかったりしても、それ自体は何らおかしくはないはずだが、それとこれとが違うことであっても同じことであってもそれ相応の関係性や関連性があるとすれば、それとこれとで区別がつくいくつかの違う要素や要因が複雑に絡み合うことによってそこで何かが起こっているから、関係性や関連性が意識されるわけで、そうであればそのいくつかの違う要素や要因が互いに何かしら関係していたり関連していることになり、何と何が関係していて関連しているかによってもそこで起こる出来事がそれなりに変わってきて、たとえばそこで関係していたり関連している当の何かが人であったり企業であったり国であれば、そこで起こっていることを現実の世界で起こっている物事としてわかりやすく説明できるかも知れないが、いつまで経っても具体的な物事には触れないまま、固有名を伴わないそれとこれのままであれば、何を語っているのかもわからないままだが、わからないままにしておくことがそこでの狙いであったり、わからないままの方が都合が良ければ、それでも構わないどころか積極的にわからないままにしておきたいところだろうが、逆にそこに関係してきたり出来事や現象に関連する具体的な人物や団体などを持ち出せば、本当にその場で起こっている出来事をわかりやすく説明できるかというと、そうするはずだが、中にはわかりやすく説明したいからそうしているわけではなく、説明者が理解させたいことを説明の対象となる人たちに理解させるために特定の人物や団体を持ち出してくる場合もあるだろうし、それが仕掛けられた罠というわけではないにしても、躓きの石であったりして、そこで持ち出される象徴的な固有名に惑わされて、そこで何が起こっているのかを理解できなくさせられてしまうこともあり得るかも知れず、しかもそれを持ち出すことによってそれとこれとの類似性を指摘したい輩がメディア上に大勢ひしめいていれば、何かというと似ている点を持ち出して、人を安心させようとするわけで、そんな輩の口車に乗ってしまってはいけないということではなく、それによって安心したければ積極的にそういう言説を真に受けて安心しても構わないのかも知れず、なぜそうなのかといえば、不安になると動揺して物事の正常な判断ができなくなってしまうと思えば、まずは心を平静を保つためにも安心したくなるのであり、そんな需要に答えて人を安心させるために安心材料を持ち出してくるわけで、そんな安心材料に関してはとりあえずそれとこれとの間で相違点や類似点がはっきりすれば安心するだろうし、それがこれまでには起こらなかった全く新しい出来事ではなく、何かしらこれまでに起こってきた出来事と同じような類似点を含んでいるとすれば、その点に関しては安心材料となる一方で、これまでには全く見られなかった新たな動きや傾向が見つかれば、これまでに起こってきた出来事とは違う相違点となり、それが未知の不安をもたらす懸念材料になるかも知れないが、そこで何を強調するかで、そこに説明者の意図や思惑が含まれてきて、強調されるのが安心材料であれば、人を安心させようとして類似点が強調されることになり、逆に人を不安に陥れようとしたければ相違点を強調して危機感を煽り立てることになるだろうが、それとは逆に懸念材料が類似点になる場合も安心材料が相違点になる場合もあり、過去の悲劇が繰り返されるならそれが懸念材料となり、災い転じて福となすような相違点があればそれが安心材料となるだろうし、そうなれば逆の強調が効果的に語られるわけだが、それが言説を弄する側のテクニックの範囲内でその意図や思惑や都合に応じて語られる内容となり、何が説明されているのかといえば、そこで起こっている事実そのものであるとしても、その事実をどう判断するかが語られているのも当然のことだとしても、事実そのものを真に受けるか、説明者の判断を真に受けるかといえば、そこで説明者の判断を真に受ければ、説明者の術中にハマってしまうのも当然だとしても、その術中にハマって安心したり不安になるのが、説明を聞く醍醐味だといえばそれも当然のことではあるわけで、そこまで理解できれば、娯楽の対象としてそんな説明があると思う人など一人もいないだろうが、説明している側が意図してそんな印象操作を心がけているはずもなく、心がけていなくても結果的に印象操作となってしまっても、それをあからさまに自覚することもなく、少なくとも誠心誠意率直な気持ちで自らが思ったことをそのまま語っているはずだが、それが意図的な戦略だと思われてしまうと、説明者の意図や思惑を超えて説明を受ける側が気を利かせて理解しようとしていて、説明者の説明よりは説明の対象となっている物事を理解したいから、ともすれば説明自体が邪魔になってくるわけで、そうなってくると説明者を見下すような傲慢な態度も露わとなってくるかも知れないが、説明者に取って替わって自身が新たな説明者になろうとしているのであり、そういう説明者の予備軍たちが今やSNS上に溢れかえっているのかも知れないし、そんな中では我先に世間の話題となっている出来事や現象を説明しようとする一方で、隙あらば競争相手に見定めた説明者の説明をこき下ろしたいだろうし、実際に何か隙を見つけてはその隙を突いて攻撃を仕掛けているつもりなのだろうが、そこから戦いが始まっているのだから、それと比較して本物の戦争が何を意味しているのかが、理解の範疇を逸脱しているわけでもなく、戦いの延長上で本物の戦争が行われているということではなく、大抵はそれとこれとは別のことだと思っている限りで成り立つ範疇で、それらの戦いが行われているのだろうが、要するにそれらが比較の対象とはなっておらず、それどころか比較するまでもないことでもあり、関連性も関係性もないと判断しておけば済むことであり、実際にそれで済ませているわけだが、それに関してどこまでがやってもいいことであり、どこからがやってはいけないことだとわかっているはずで、本物の戦争がやってはいけないことだと判断するのは当たり前のことだとしても、果たして本物ではない偽物の戦争があるかといえば、ネットなどで行われている画面越しの戦争も、戦っている限りで偽物の戦争ではなく、実際に人を殺傷したり建物や設備を壊していなくても、一応は戦争をやっていて、中にはモデルガンの類いを使って野原で行われることもあるが、それらが現実の戦争との間でどのような類似点や相違点があるかは誰もが承知しているところであり、たとえ娯楽の割合が高くても、やる時には本気になっている限りで、臨場感や緊迫感を体験することができるわけだが、それが同時に娯楽の醍醐味でもあるから、そこに類似や相違では表現できない何かがあり、それが何かというと、できるだけ相似になるように擬似体験を突き詰めたいわけで、要するに本物に見せかけるための工夫が必要になってくるわけだが、それが説明などの言語表現にも関わってきて、現実と相似になっているように見せかけるための工夫が意識されると、実際にはそれをあからさまに自覚しているわけではないにしても、現実の戦争と同じようなことを言説の効果として再現しようとするだろうし、具体的にそれがどんな効果なのかといえば、言説を繰り出しながら戦っているように装いたくて、攻撃的な文句を多用することになるだろうが、それが側から見て空回りしているような印象を受けるなら、言説の対象となる出来事と言説自体が実際に噛み合っていないことになるのかも知れず、要するに攻撃が空ぶっているわけだが、果たしてそもそも噛み合う必要があるのかというと、むしろ戦争を賛美しているわけではなければ噛み合う必要はないのかも知れず、それどころか的外れな印象さえもたらした方がその場の状況に効果的に作用するのかも知れないし、そうなるとそんな言説を弄する人の意図や思惑とは関係や関連のない方面にまでその内容が届く可能性も出てくるのではないか。


3月3日「言葉の障害物」

 現状で何に邪魔されているとも思えなければ、邪魔されているような気がするはずもなく、逆にそんな気がするようなら邪魔されていると思うしかないが、気のせいでしかなければ大したことではないし、実際に大したことでもないのに、何を語るにも差し障りがあるような気がすると何も語れなくなってしまい、それでもそれについて語らざるを得なくなってしまうとしたら、どうしてそうなってしまうのか、その理由を知りたくなってしまうが、それが何なのかをまずは明らかにしなければならなくなるとしても、実際に明らかにすべくそれについて語ろうとすると、それが前方に立ち塞がってくる障害物を押しのけて語るような煩わしさを感じさせて、いったい何に邪魔されてそんな気になってしまうのか定かでないが、何かに取り憑かれたように延々とそれについて考えてみても、それがわからなければ話にならず、話にならなければ語ることもできないはずだが、それが何だかわからないのにそれについて延々と考えているとしたら、考えている内容からそれを知ることができるはずで、考えていることがそれなのだから、その時点でそれが何なのかわかっているはずだが、それが何だかわかっているのに、あえてそれを明らかにせずに語ろうとしているのではないかと推測してみても、話の辻褄が合うわけでもないが、相変わらず考えているそれが何だかわからないまま話を進めようとして、そこから話が一歩も前に進まないまま、立ち往生している気がしないでもないが、それについて語るのを避けなければならないとしたら、実際にその通りの成り行きになっているはずで、そうであるなら何かに邪魔されてそれについて語れなくなっているはずだが、本当に語れなくなっているとしたら、何も語っていない状況が実現しているのかというとそうでもなく、何かに邪魔されているような気がすると語っているわけで、何に邪魔されているのかわからないままそんな気がしているだけなのに、現にそれを語っているわけだから、確かなことは何も語っておらず、確かなことを語ろうとするとそれを邪魔されているような気がするから語れなくなってしまうのだが、では何がそれを邪魔しているのかというと、それを語るのを阻まれているような気がするわけで、それを簡単に被害妄想だと言ってしまえばその通りには違いないが、妄想を抱かせる何かがあると考えるなら、今もそれについて考えているのかも知れず、それが何なのかを知ろうとしているのだろうが、考えてわかるようなことではないとすれば、いくら考えてもわからないままとなってしまうかも知れないし、それでも構わないとすれば、いくらでも好きなだけ考え続ければいいということにはならないが、そんなことを考えながらも機会をうかがっていて、それが何の機会なのかがその時になってみないとわからないとすれば、何かずいぶんといい加減な話になってしまうだろうが、たぶん今がその機会なのかも知れず、何の機会なのかもわからないのにその機会が到来してしまっているから、その機会を捉えて世界中で何かが行われているのであり、その行われていることに連動して世界がそれを行なっている人や集団と共に動いているのであり、その動きに翻弄されて右往左往している人もいくらでもいて、そんな人の動きに惑わされて気分がハイになっている人まで大勢いて、そんな人たちが世界の方々で何かおかしなことを口走ったり言い放っているのだろうが、果たしてそれらの人たちに邪魔されてまともな意見が言えなくなっているのかといえば、そうでもないと思っているなら、では自分が言っていることや書き記していることがまともなことだと自信を持って言えるかというと、それもそうでもないと思っているなら、では自分もそんなふうに感じられる人たちと一緒になっておかしなことを口走ったり言い放っているのかというと、それもそうでもないと思っているなら、では何なのかというと、何でもないでは済まないように思えるなら、それなりにまともだと判断できるようなことを語ろうとしているのかも知れないが、それが誰にでも当てはまることであれば、何かおかしなことを口走ったり言い放っている人たちもそう思っているはずで、それらの人たちにとってはまともだと判断できるようなことを口走ったり言い放っているはずなのだが、それがおかしいと思うなら、そう思ってしまう自分の方がおかしいのか、そうでなければそれらの人たちの方がおかしいかのどちらかになればいいのだろうが、それもそうでもないと思うなら、どちらもおかしいかどちらもおかしくはないかのどちらかになるとも思えなければ、どちらであっても構わないのかも知れず、誰もが疑心暗鬼になってしまうような情勢になっていて、そこで何かを口走ったり言い放つこと自体が、他の人には奇異に感じられるような情勢なのかも知れず、そんな中で確実なことが何も言えないわけではないが、誰もが不確実なことに気を取られていて、しかもこぞってそれについて言及したくなるのであり、不確実なことを口走ったり言い放とうとするから、それが奇異に感じられて、それについて口にする全員が浮き足立っているような印象を受けるのだろうが、それだけ日々の情勢が目まぐるしく変化しているわけでもなく、逆にありふれた出来事の繰り返しのようなことが延々と起こっているにもかかわらず、それも少し前まではありふれたことではなかったのに、それが延々と繰り返されるうちにありふれてきて、今や日常の一部の光景として世の中に定着しているのだとしても、それがある種の人々にとっては受け入れ難い光景でもあり、絶えずそれに対して不満や反感や嫌悪感を抱いているのだろうが、そういうネガティヴな感情が世の中で渦巻いているから、それがちょっとしたきっかけから暴発するようなことが起こるにしても、それとこれとでは話の辻褄が合わない方面にまで影響が及んでいるのかも知れず、そういう方面で機会を捉えて誰かが何かを仕掛けたのだろうが、機会を捉えたつもりであってもそれがその機会であると同時に他の機会でもあるなら、そんなふうにして様々な機会が複合的に絡んでくれば事態がこじれるしかなく、その結果としてどうにも収拾がつかない事態となっているのかも知れないが、そんな事態が何かをやる機会なのだから、そこでかねてからやりたいと思っていたことを仕掛けてしまうとますます事態がこじれるしかなく、そうやって今や世界中が紛争地帯に陥ってしまったのだとしても、そんな混乱と動乱のただ中でも誰もがうまく立ち回ろうとしているわけで、もちろんそう思っていることを自覚しているわけでもなく、本能に従って行動しているような人がおかしなことを口走ったり言い放ったりしながら混乱に拍車をかけているのかも知れないが、それがここぞとばかりに煽り立てるような習性に結びついているから始末に負えないとしても、そういう煽り立てに呼応して飛びついてしまうと混乱の渦中で踊らなければならなくなり、そこでおかしなことを口走ったり言い放つことの繰り返しに加担してしまうわけだが、果たしてそんな混乱や動乱がいつまで続くのかに関して、何か確実なことが言えるかとなると、何かしら見通しが立つ頃には、ひと通り始末がついていて、そんな終わりが見えてきた頃に何をやってもその終わりを動かしようがないだろうが、現状がそうなのかといってもまだそこまでは至っていないような気がするわけで、さらに収拾のつかない事態に拍車をかけるようなことが起こらないと収拾がつかないのかも知れず、その拍車をかける役割を担ってくるのが、現状で収拾のつかない事態を静観している勢力かも知れないが、もちろん拍車をかける役割を担ってしまうと自滅する危険を引き受けなければならないから、静観するしかないのだろうが、いくら静観を装っていても火の粉が飛んでくれば払わなければならないだろうし、向こうからわざと火の粉を飛ばしてくるかも知れないし、実際に火の粉が飛び火して大火事となればきれいさっぱりして、リセットしてデフォルトとなるわけだから、誰もがそうなることを狙っているわけでも望んでいるわけでもなくても、自ずからそうなる成り行きが待ち構えているのかも知れないし、ここ数年で顕在化している世界的な問題の解決に向けて世界自体が動き出していると解釈しておくのが妥当なところかも知れないが、果たしてその種の大掃除が誰によって行われるかは誰でもいいのかも知れず、誰も積極的には名乗り出なくても自ずからそういう成り行きの中で頭角を現す人が出てくるのかも知れない。


3月2日「困難からの逃避」

 何をやるにも何かしら面倒なことになるのは避けたいところだが、こちらが避けたいと思っても向こうから面倒なことを仕掛けてくるかも知れないし、思っているだけでは何がどうなるわけでもなくても、できれば面倒なことには関わりたくないと思ってしまうところだろうが、それがこちらの勝手な思い込みであり、面倒なことを嫌らがずに進んで面倒なことを引き受けて面倒な事態をくぐり抜けないと、道が開けてこないとしたら、嫌でも面倒なことに取り組まなければならなくなるかも知れず、逆に面倒なことを嫌って安易な気持ちで何事も安易に済ませようとする態度が自堕落な生活を呼び込み、自然と気持ちも態度も投げやりになって、隙だらけな物腰や心理状態に見えてしまうと、そこを他から突かれてかえって面倒な事態を呼び込んで痛い目に遭ってしまうかも知れないが、何でもかんでもそうなってしまうわけでもなく、やることなすことが思い通りにならないことばかりの中で生きているような感じがすれば、身の回りの状況が面倒なことになっているような気がしてしまうわけで、実際に面倒なことになっている面とそうではない面とが一体となっているなら、表裏一体の関係を形成している可能性もあるわけだから、どちらか一方だけで済むはずがなく、もちろん気に触る面ばかりが気になってしまうから、面倒なことばかりが起きているような気がしてしまうだろうが、よく考えてみればそうではないことに気づくなら気休めになるかも知れないが、それが気休めになろうがなるまいが、日々の出来事を体験し続けて今に至っているわけだから、その日々の日常の中で様々なことが起こっていることにいちいち気づくこともなく、それについて考えることもなく日々を過ごしているなら、そんなことに気づく必要もないから気づかないわけでもないが、実際に気づいていないわけだから、気づいていないなりに日々を過ごしている限りで、別にそれでも構わないはずだが、それも構わないなりの日常となっていて、それで良い悪いの判断もなくそうなるしかないような成り行きになっている限りで、他に何もやることがなく、退屈で死にそうになっているわけでもなく、退屈にやられて死ぬわけでもないだろうが、中には死ぬ以前に気が狂ってしまう人もいるかも知れないが、大抵の人は正気を保っている気でいて、しかも普通に生きているわけで、そうなっているのが当然のような日々の日常を過ごしているのだから、それが面倒な事態だとしても苦になるとしても、それを普通にくぐり抜けているのだから、そういう面では道が開けているわけだが、特に困難な問題を解決したつもりもないのに、自然と面倒な事態が過ぎ去ってしまえば、困難を解決するとかそういうこととは別の方面へと自身が移動したことになるかも知れず、そういう意味で道が開けているとすれば、その道を通って移動したわけで、そうやって人は移動するしかなく、その場に留まって困難と向き合う必要がなければ、そこから離れることになり、離れた人々がどこへ行くかはどうでもいいことであるはずもないが、行き先がなければ彷徨うしかないが、現状でも世界中で彷徨っている人が大勢いるかも知れないが、それだけ現状で直面する困難から逃げる余地があるともないとも言えないところだが、逃げることと問題の解決とは別問題だと普通にそう思われるはずだとしても、普通ではない非常事態であるならそこから逃げるに越したことはないだろうし、実際に戦火の中で逃げ惑う人々もいるはずだが、非常事態でなければそんなことは起こらないと思いたいが、現状で逃げなくても済むようなら特に困った事態に陥っているわけでもないはずだが、困った事態というのが逃げたくても逃げらない事態であれば、それが窮地に陥っていることにはならないとしても実際に困っているわけで、何か気に入らないことがあって微妙に気分を害している程度であれば我慢するしかないし、その程度のことなら耐えているだけで済んでしまいそうだが、耐えているだけで一生を終わってしまうように思われると、何とか機を見て事態を打開しようとするかも知れず、機会が巡ってこなければ耐えているだけとなってしまうかも知れず、そうなってしまうのも気に入らなければ、自然と耐えている現状と戦っているわけで、その戦いが次第に激化して耐えられない戦いと化すようなら、そこから逃げようとするかも知れず、耐えている当人とすれば特に戦っているつもりもなく、戦う相手も定まっているわけでもないのに、だんだんとその場に居づらくなってきて、何かのきっかけをつかんでそこから離れてしまうようなことが起これば、自身に幸運が訪れたと思うかも知れず、いったんそんな幸運を手に入れてその機会を活かして何か新たに取り組む成り行きになってくれば、なぜかそこから視界が開けて希望の持てる未来へと道が開けて行くように感じられるだろうし、そんなことまでが自身に訪れた幸運に含まれるのだろうが、普通はそこまで見通しが利くわけでもなく、例えば戦禍を逃れて移動する人々を悲劇のように語るのが自然に感じられるが、実際にその場面ではそうだとしても、そこから先に道が続いていくとすれば、その先での成功例を語ることもできて、もちろんそんな成功が誰のもとにもやってくるわけでもなく、稀な成功例が語られることになるだろうが、稀でない成功例があるわけでもなく、稀に成功することがあるからそんな成功に希少価値が生じてくるにしても、稀ではなくありふれた成功例となればそれが興味の対象とはならず、そんなことをいくら語ったところで無視されるだけかも知れないが、無視されても構わないような些細な成功を手にすることができて、それによって自己満足に浸れるようなら価値などなくても構わないのかも知れず、そんな他人と価値を共有できないような些細な成功を目指すように仕向けられているとすれば、何がそう仕向けているのかといえば、平和な状況の中で生きていると自然にそうなってしまうようなら、そこで退屈を持て余していることになるかも知れないが、平和であれば退屈であっても構わないとは思えなければ、自然とそこから追い出されるようにして戦いの中へと移動して行ってしまうのかも知れず、しかもそうなってしまった人々が退屈で死にそうだから戦って死のうとしているわけでもないだろうが、実際に死んでしまえば戦って死んだことになるだろうし、それが勝利と栄光に包まれれた死になるか敗北と屈辱にまみれた死になるかはその場の状況次第かも知れないが、戦いたい人のすべてが平和を嫌悪しているとも言えないが、平和な状況の中で退屈で死にそうになっているなら、自然と戦火のただ中へと引き寄せられて移動して行ってしまうのとは反対に、そんな戦禍を逃れて平和な地帯へと逃避しようとしている人々も大勢いるだろうし、どちらがどうだとも言えないが、中には平和をもたらすために戦っているのだと自負する人も出てくるから、その辺から屁理屈のような論理や理屈も生じてくるわけだが、そんな人にその場の状況に応じた判断ができているかというと、状況に逆らって判断したいのであり、さらには状況を無視して判断したくなり、どんな状況下においても自らの信念を貫き通すようなことを誰もがやりたがるわけで、しかも信念だと思っているそれがただ単に自分の都合を優先させたいだけであったりすると、他の人々から共感を得られず支持も賛同もされないから孤立してしまうわけだが、それを下世話な人たちが理解できない孤高の孤立だと自画自賛することもできるなら、その人にそう思わせるだけの権力や権限があるのかも知れず、何の裏付けも後ろ盾もなくそんなことを思っているようならただの狂人に過ぎないのかも知れないが、それも普通はそんなことを思わせないように事態が進行して行って、そんな人物が何でもないありふれた普通の存在になるように、周囲からその人の自信を打ち砕くような作用や影響が様々に及ぼされて、そういった特異点を形成する人の存在を打ち消すような成り行きが形成されるなら、平和な世界を実現するために様々な物事が動いていることになるのだろうが、果たして現状がどうなっているのかと想像してみたところで、実際に結果が出てみないことには半信半疑なところでもあり、それまではその場の状況に応じてどうとでも思っていればいいことに過ぎないのかも知れない。


3月1日「達人の言語運用術」

 政治に目的がないとは言えないが、明確な目的があるとも言えず、戦争の延長として政治を考えなければならないとかつて誰かが語っていたが、それが全くの見当違いではなかったことを誰が思い知っているわけもないが、それを実感すること拒否したいのかも知れず、誰もが政治がこじれると戦争に発展する事実から目を背けているわけではなく、今この時期の現状が物語っている現実が、物語るべき内容とは別の何かだと示したいわけでもなくても、実際にそれとは関係のない別の何かを語りたいわけで、戦争が行われているのをどう見るかというよりは、そこで政治が何に利用されているのかを考えなければならないとしても、政治の予行演習として人を殺傷したり建物を破壊しているのだとしたら、政治とは何なのかと問うことが、戦争と絡めて問われている現状の中で、その予行演習として実際に行われている戦争が目指すところに明確な政治的な目標も伴ってくると主張したくなるが、戦争が政治の予行演習などではなく、政治的な実践そのものだと捉えておくのが真っ当な現状認識だろうし、実際に政治的な駆け引きを行う中で、自分たちの陣営にとって有利な条件を引き出すために戦争を仕掛けていると現状では説明できるはずだが、それが果たして戦争を仕掛けた側の自滅をもたらす危険と隣り合わせでやっていることなのかと言えば、そういうことだと見ておくのが現状認識としては妥当なように思われるわけだが、それが政治の予行演習でしかないとすれば、そんな現状認識では甘いのかも知れず、戦争を仕掛けている側にも仕掛けられている側にもまだわかっていないことがあり、そのわかっていないことを利用して仕掛けている勢力も中にはいて、例えばそれを仕掛けているのが企業であれば、企業がこの機に乗じて何を仕掛けているかが、仕掛けている当の企業やその最高経営責任者などが、完全に把握しているわけでもなく、とりあえず機会を捉えて敏感に反応したのが、今回の戦争ではまずはイーロン・マスクとスペースX社であり、戦争によって通信網が遮断されても衛星を利用した通信が可能であることを宣伝したいから、通信端末を提供したわけでもないだろうし、結果的には自社の衛星通信ネットワークの宣伝に戦争を利用していることになってしまうが、実質的に戦争を仕掛けられて窮地に陥っている側を助けようとしているのであり、そんな両義的な効果が上がることを意図して画策しているのではなく、結果的にそうなるように状況を持っていきたいわけでもないだろうが、その機会を捉えて反応することによって事態を打開するというよりは、利用できる物事を運用するわけで、それを運用する目的が明確にあるということではなく、運用すると共に活動の幅を広げるようなことをやっていると解釈すればいいのかも知れず、そういう活動に伴って後から意図や思惑も想像されるとしても、それを事前にそういう意図や思惑を抱いて目的を定めてからそれを遂行しているようなことだと受け取ってしまうと、原因と結果を伴った因果関係を物語るフィクションとなってしまい、事態をわかりやすく説明するためにそう解釈するわけでもないが、込み入った成り行きをわかりやすく説明したいという誘惑に屈してしまうと、頭の中で物事の単純化が起こって、現実の物事を材料にしてフィクションを構築することになってしまうが、その方が実際にわかりやすく、多くの人がそういうフィクションを信じようとするのだろうが、確かにそんなふうにして物語られるフィクションの中では、登場人物がはっきりした意図や思惑や目的や目標を抱いて、そんな思いと共に行動しているように語られるのだろうが、それはフィクションが構成された結果として明らかになることであり、構成される前にはわからないことであるから、フィクションの構成と共に明らかにされるわけだが、フィクションの構成者がその中に登場する人々の意図や思惑や目的や目標などの思いを想像しているわけで、そのフィクションの題材となっている現実の中で進行中の物事に囚われて動いている現実に存在している人や集団などに、そういう意図や思惑や目的や目標が絶対にないとは言えないだろうが、少なくとも現実に進行中の事態を物語っているフィクションの構成者がそれらを想像していることは確かであり、もしかしたらフィクションの構成者の想像が当たっているかも知れないし、当たっていればそれがフィクションではなく実際にそれらの人たちがそう思っていることになるわけだが、それを自身がフィクションの構成者だなんて夢にも思っていない当人が、状況証拠を基にして推し量ることができるというわけだから、それを人の心理を読む達人のような技術を持ち合わせているのではないかと感服してしまう人もまずいないだろうが、そうやって高度な技術的な達成として出来の良いフィクションが構成されるとしても、それとは別次元で現実に進行中の成り行きが何を示しているのかと言えば、思考や想像によって推し量られた登場人物たちの意図や思惑の当てが外れて裏切られて、それに応じて絶えず目的や目標の修正が迫られている実態を示しているなら、現実がフィクションの上を行っていて、フィクションの構成者には捉えきれない物事の成り行きが進行中なのだろうが、なぜ状況を把握しきれないのかといえば、何かが起こる度にそれが起こった原因を突き止めてその都度原因と結果の因果関係を物語ろうとしている間に、物事の成り行きが勝手に進行してしまうから、結果的にフィクションの構成が現実に起こっている経過に追いつかなくなってしまうのかも知れないが、そうやって言葉を繰り出すタイミングが後手に回ってしまうから、それを挽回するには、今度は現実に先回りして前もって結果を予想したり予測したり予言する必要に迫られるわけで、それがこうなるはずだとかこうなるべきだとかこうならざるを得ないとかの主旨を伴った言葉の運用になるわけだが、そうなるとまだ起こっていないがこれから起こることについて語らざるを得ず、それ以前にすでに起こった結果について物語るのにもフィクション化を被っているわけだから、これから起こることについて語るとなるともはや完全にフィクション化してしまい、それを語っている当人が自覚してしまうと、こうなると断言するわけには行かなくなり、あくまでも予想や予測だと前置きした上でこれから本当に起こりそうなことを語るわけだから、そうなっている時点で語っている内容が当たるか外れるかの賭けの要素も伴ってきて、当たれば信用されるが外れれば信用されなくなるという危険を自らの責任で引き受けることになるのだろうが、予想や予測や予言が外れた場合には本当に世間から信用されなくなるかというとそうでもなく、実際には予想や予測や予言と共に結果が出たところから語る方面でも言説の技術を磨いているから、仮に外れた予想や予測や予言があったところで、それについては都合よく忘れるというよりは、外れたところでどうとでも言い逃れができるような語り方をしている場合もあるだろうし、その一方で当たった予想や予測や予言については、当たった事実とそれを当てた自らの予想や予測や予言の確かさや、そのために活用した理論や理屈が十分に信用に値するということも、事ある度ごとに繰り返しこれでもかと強調するだろうし、そういった印象操作に成功すればそれなりに世間的な信用も一定の水準で保たれて、それ以前にその手の世間的な信用がその人だけの信用ではなく、その手の予言者全般を権威として崇め奉っている世間全体の信用にも直結するようなら、場合によってはメディア総出でその手の予言者を擁護する成り行きにもなるというと大げさ過ぎるにしても、何かそういうところでわけのわからない事態が起こっている可能性もあり、そうなっている原因を突き止めて、そういうことについての原因と結果の因果関係からもっともらしく言説を構成できれば、それも比較的出来の良いフィクションとなるかも知れないし、もちろんそれを語っている架空の人物がフィクションではなくありのままの現実について語っているのは、フィクションの中では言うまでもないことかも知れないが、果たしてそれを真に受ければ現状の世界で起こっていることを正確に実感できるかというと、少なくともそういう趣旨とは違う方面で、その種のフィクションが語られることになるのではないか。


2月28日「欲望と妄想」

 やっていることに関して何か見込み違いがあると思うなら、見込み違いというよりは何か当てが外れていると思ってみても差し支えないが、見込み違いも当てが外れているのも似たようなことかも知れないが、何の当てが外れたのかといえば、普通は予想外のことが起きて予想が外れたぐらいに思っておくのが妥当なところかも知れず、予想が外れたぐらいで何をうろたえているのかと、訝しむかも知れないが、そんな事態をいくら詳しく想像してみたところで、具体的な内容の説明がなければ何に関して見込み違いがあったのかもよくわからないままだが、想像するだけでは想像の範囲内で勝手に妄想するだけに終始するから、自己の心身が実際に直面している不測の事態にはたどり着けず、記述の進め方としても意味不明な語り方としても具体的な事物にたどり着く必要がないとも思えないが、たどり着かなければならないとも思えなければ、もしかしたらたどり着く必要がないのかも知れず、たどり着かなければどうなるのかと想像してみても、想像の域を出ない範囲内で妄想の続きを書き記すことしかできないが、それが妄想の続きであるにしても、書き記して行けばいずれは現実の困難に直面して、妄想だけでは物足りないことに気づくかも知れないが、妄想が妄想を抱いている者の都合を反映しているとは限らず、普通は自身にとって都合の良いことを妄想しているはずだが、都合が良いと思うことが本当に都合が良いかというと、そこに思い違いがあるようなら、逆に都合が悪いことを妄想しているとも限らず、自身にとって都合が悪いことを妄想しているようなら何なのかといっても、妄想しているだけでは大したことはないような気がするだろうが、それが心理的に悪影響を及ぼしている可能性もあるものの、都合が良いか悪いかがすぐにその時点でわかるはずもなく、それよりはただ自身が抱いている欲望に従って妄想しているだけかも知れないが、それが現実にやっていることに連動して抱いている妄想であるなら、やっていることに影響を受けて妄想を抱いているのであり、そのやっていることに自身の都合がどれほど反映しているかで、妄想の内容がどれほど自身の都合を反映しているかも、その度合いが違ってくるかも知れないが、それが自身の都合の他にも反映している何かがあるとすれば、それに関してすぐに思い浮かぶのが社会情勢などが妄想に反映していると思われるだろうが、自身の都合にも自身を取り巻く社会情勢が反映しているだろうから、それが妄想にも反映しているのは当然のことであるとしても、もちろん自身の欲望を刺激しているのも社会情勢だろうから、自身と社会情勢とは切っても切れない関係がありそうだが、自身を取り巻く社会情勢を反映している限りで、社会情勢を反映した妄想に囚われながら何を予想しても、それほど見込み違いにも見当違いにもならないはずだと思いたいところだが、自意識が社会情勢を見誤っていれば、見込み違いや見当違いな妄想を抱いて、的外れな予想をしてしまうのかも知れず、しかも社会情勢に影響されて社会情勢を見誤るようなことにでもなれば、社会情勢に騙されていることにもなりかねず、それがどういうことなのかといえば、人々が自身を取り巻く社会情勢を見誤ることによって、社会情勢そのものが変化していく成り行きに囚われているのかも知れず、その際に見誤るように仕向けられているというよりは、社会情勢に意識を囚われていると、容易には感じ取れないような変化の兆候や傾向があり、逆にそれを感じ取ってしまうと変化に自意識が抵抗しようとしてしまうから、社会情勢が変化しにくくなってしまうのかも知れないが、そもそも変化しようがしまいが、誰かが抱く社会を変化させようとする意志などとは関係なく勝手に変化していってしまうのかも知れず、そういうところでは社会を変化させようとする人の意志自体が、その人が抱いている見当違いな妄想でもあり、また社会が自身の都合の良いように変化するだろうと予想するのも、そんな都合とは無関係に社会情勢が変化して行くとすれば、見込み違いもいいところだが、必ずしも都合とは無関係というわけでもなく、自身の都合とは無関係になるように社会情勢が変化するとすれば、自身の都合を裏切るような変化が起こっているのかも知れないが、裏切ることと無関係とは少し違い、期待が裏切られるとすれば、自身の勝手な妄想が期待を抱かせて、その期待が社会情勢によって裏切られるわけだから、無関係とはいえないはずだが、自身の都合から社会情勢が離れて行ってしまえば、結果的には無関係になってしまうわけで、社会の中で活動している人の中には、そうやって徐々に世の中の主流を構成する層から離脱して行ってしまう人も出てくるのかも知れず、それをドロップアウトと言えるかどうかはその成り行きの内容によっても違うかも知れないが、実際にそうなってしまう人もいる一方で、逆に周辺から徐々に社会の中心へと移動してくる人もいるかも知れず、それがその人の思惑通りの成り行きなら、その過程で立身出世のような妄想も抱くだろうし、世間的な価値観からすればそちらの方が好意的に受け取られる妄想でもあり、社会の繁栄している面を意識すれば、そんな妄想に囚われることによって社会の繁栄と同期しようとするわけで、そういった方面ではその人の都合と社会情勢が重なってくるのだろうが、社会の繁栄と自らの境遇を同期できるのではないかという期待が裏切られると、それが見込み違いや見当違いとなり、しかも結果的に社会の繁栄とは無関係な境遇となってしまえば、果たしてそれが社会情勢を見誤った結果としてそうなったのかというとそうでもなく、逆に社会情勢を反映した結果として社会の繁栄とは無関係な境遇になってしまったとしたら、要するに社会が繁栄できる範囲が限られていて、その範囲に入れる人数も限られているとすれば、繁栄からあぶれた誰かを社会から弾き出さないとその繁栄を維持できないような社会構造となっていて、結果的にそれを体現する競争の類いに負けて、社会の繁栄から無関係な境遇へとドロップアウトしてしまうこと自体が、社会の繁栄と無関係ではなく、限られた範囲内で限られた人数と共に社会が繁栄するには、それとは無関係な範囲外や無関係な人数を必要とする社会になっていると社会情勢を捉えておけばいいのかも知れず、そういう社会をもたらす上で必要なのが人々が抱く欲望やそれに基づいて意識の中で構成される妄想であり、それも誰がどんな組織や集団がそういう社会をもたらそうと画策しているわけではなく、人々が欲望や妄想を抱いた結果としてそういう社会がもたらされるのであり、そういうところが誰かが抱くような特定の組織や集団が世界征服を企んでいるとか、すでにそういう体制となっているとかの陰謀論などによって示されるの誇大妄想とは無関係なのかも知れないが、たとえ無関係ではあっても陰謀論の中では確かに関係する物事の辻褄が合っているように思われてしまうのも、辻褄が合うのに都合の良い証拠や材料が世界の各地に散らばっていて、それらの証拠や材料を恣意的に妄想している者の都合の良いように組み合わせると、それなりに辻褄の合う物語が作成されてしまい、それが妄想を書き記すことの醍醐味でもあるわけだが、なぜそんな妄想を書き記すのかと言えば、書き記している当人が社会の主流から弾き出されて繁栄とは無関係な境遇となってしまったからかも知れず、そうなると自らの見込み違いや見当違いよりは、自身を見捨てた社会に対する復讐心の方が強く意識されて、成功して繁栄を謳歌するという当てが外れて見込み違いや見当違いを犯した自身の非を認めない代わりに、世の中の主流のただ中で繁栄を謳歌している人や集団や組織が陰謀を巡らせて、自分を罠にはめて陥れたのではないかという被害妄想を抱くようになって、実際に他にもその人と同じように社会から弾き出されてしまった敗残者をいくらでも見かけるようなら、俄然そんな陰謀論にも説得力が増してきて、ますます被害妄想に拍車がかかるようになってしまうかも知れないが、確かにそんな境遇の人たちがいくらでも存在することが状況証拠としては本当らしく思われるだろうが、それがそうなってしまった理由として簡単に理解できるような、単なる出世競争の類いに負けてそこから脱落してしまったというありふれた結果に納得できないから、それとは別に誇大妄想のような陰謀論の物語を構成せざるを得ないということではないのかも知れず、そういう陰謀論が出てくること自体も世の中が部分的に繁栄している結果でしかなく、世の中の繁栄と共にその繁栄を飾り立てるようにして大げさな物語も人々の意識の中で構成されて、そういう誇大妄想を実際に書き記した内容が現実の社会情勢を反映しているわけで、例えば古代ローマ末期の社会情勢を反映した物語が新約聖書の最後を飾るヨハネの黙示録であったり、イスラム帝国絶頂期の社会情勢を反映した物語が千一夜物語であったりするわけだ。


2月27日「勘と知性」

 事前に何の前提も条件もなく、物事の良し悪しをどう判断すればいいかと問われたところで、判断に至る経緯やその場その時の事情が絡んで来れば、ケースバイケースになり、一概にはこうすればいいとは言えないが、何が良くて何が悪いかが、気軽にその場その時の気分次第で良いか悪いかを断言できれば、断言の対象となる良し悪しがそれほど深刻で重大な結果を伴うとも思えないから、そうなれば割と簡単に良し悪しを断言できるかも知れないが、では良し悪しを断言した結果が深刻で重大な結果をもたらす場合があるかと言えば、事前にそうなることが予想されるようなら簡単には断言できなくなり、それでも強引に判断を迫られたり促されたりすれば、ちょっと待ってくれとなるだろうし、現状でそうなることが予想されるような判断をしなければならない事態に直面しているわけではなく、そうなるケースとは何かと問われてもすぐには思い浮かばないが、できればそんなケースには至らないようにしたいところだが、事の深刻さや重大さもわからずに良し悪しを簡単に判断して断言までしてしまってから、そこから取り返しのつかない深刻で重大な事態に陥ってしまったら、何か罠にハマったのではないかと恐れ慄くかも知れないが、事前に予想もつかない事態に陥ることは人生の中で何度も起こるかも知れず、実際に何度も経験して今に至れば、少しはそれ相応に勘が身について、物事の良し悪しに関しても、気軽に判断できるケースと慎重にならざるを得ないケースの区別がつくかも知れないが、その人の経験の範囲内では確かにそれが可能かも知れず、実際に勘が働いて事なきを得る場合もありそうだが、その人がそれまでに全く経験してこなかった未知の事態に陥ってしまえば、自身の経験に裏打ちされた勘では通用しないかも知れないし、実際に通用しなければうまく勘が働かないことになるかも知れないが、勘が働かなくても、それが社会の中で人が関係して起こる事態であれば、自身のそれまでの経験に照らし合わせてある程度は類推することができるかも知れず、そうなると知性を働かせることになり、それを勘だと勘違いしてしまうかも知れないが、勘と知性が相容れないとも限らず、それらを組み合わせて足りない面を補い合うことによって、よりきめ細やかで柔軟な対応ができればいいが、それがどういうことなのかというと、一度決めたことが二度と覆らないような決定とはせずに、その場の状況や情勢の変化に応じて変更が可能なように配慮すればいいのだろうが、それも事前にそう決めておいても、実践して行く過程の中で、それでは済まない事態になってくれば、事前の決定を覆すことになってしまい、何かを決めると必ずそれに反するようなことをやる羽目になってしまうと、決めること自体を決められない事態になってしまって、何も決められなければ何もできないのかというとそうでもなく、物事の順序としては何かを決めて決めたことに忠実に行動していくと、それに反することをやるように促されて、今度はそれに反することをやってしまうわけで、そういうことを繰り返していくとどうなるかといっても、そうなってから判断したりしなかったり、しようとしてもできなかったりしながらも、それに応じて行動すればよかったりよくなかったりするわけで、言葉で表現すればそういうことだとしても、言葉では表現しきれないことをやっている面もあるかも知れず、感覚としては良かれと思ってやることがうまくいけばいいのだろうが、そうなるとも限らないことも事前に承知していても、実際にそうなってから焦ったり困ったりしながらも、それなりに判断して行動している実態があり、そんな行動から何がフィードバックしてくるとしても、それを言葉で表現したりしなかったりできなかったりしながらも、頭で考えてもわからなければ、感じるしかなく、感じ取っていることが全てではないが、感じられないことまでどうにかできるわけでもなければ、感じても考えてもどうにもできないことまであるわけだから、それなりに無理を承知で行動していることもあるわけだが、事前にいくら考えても無意味なことをやろうとしているのかも知れないし、実際にやってしまってから失敗したことに気づいて後悔することもあるだろうし、後悔したところでどうにもならないからそんなことは早く忘れようとして、忘れた頃にまた思い出しては不快な気分となるから、なるべく不快な気分となることが予想されるようなことは避けながら生きていきたいのだろうが、それが事前にはわからないからやってしまうと後悔するしかなく、そんな失敗を繰り返しながらも徐々に賢くなろうとして知識を身につけて、知識を身につけた分で頭でっかちになって勘が衰えないようにもしたいだろうし、そういうところでこうすればいいというハウツー的なアドバイスを安易にSNSなどのメディアから仕入れて手早く安心したいだろうが、どうやってもうまく行ったり行かなかったりする限りで、そんなことばかりにいくらこだわっても時間の無駄だと思えば、適当なところで妥協するしかなく、手間隙の許す限りで知性や勘を磨こうとするのは誰もがそうする傾向になってしまうかも知れないが、それも相対的にその程度の優劣で判断されるようなことになるだろうし、絶対的に固定した基準というのもそうはないわけで、そういう意味で何が良くて何が悪いかに関しては、その場の状況や情勢に応じてもっともらしく思われる判断基準があればそれに沿った判断をすればいいとしても、それがいつでも正しいとは限らないことも誰もが承知していることであるから、大抵は世間的に認められるような妥当な範囲内で標準的な基準に沿ったことをやる成り行きになってしまうとしても、それでも稀に突拍子もないことをやってしまうなら、自身がそういう成り行きに囚われていたわけではなく、何かの特異点のような機会が偶然に巡ってきたと判断するしかなく、それが何の予兆も兆候もなくそうなってしまうとすれば、その際には知性や勘ではどうにも対処しようがない事態に直面していると判断せざるを得ないのかも知れず、では他に何を頼りに判断すればいいのかといっても、判断する以前に行動が先行していれば、判断するまでもなく、自らの知性や勘にも頼らずに動いていれば、本能の赴くままに動いているような感覚となるかも知れないが、全ての行動においてそうはならないこともわかりきっているから、非常事態のような時だけ本能の赴くままに動くのかも知れないが、なるべくなら非常事態に陥らないように行動したいわけで、そうなると知性や勘が通用する範囲内に留まりたいのかも知れないが、それらすら働かせるのも面倒であれば、社会の慣習に従っていれば済むような生活を望んでいるわけではないだろうが、慣習から及ぼされる作用や影響が強力に働いている状況の中で暮らしていればなし崩し的にそうなってしまうわけで、そういう作用や影響が強いか弱いかは、伝統的な宗教に帰依する人の割合によってもわかることかも知れないが、社会の中で暮らしている人々に一律な行動をもたらすような慣習と共に宗教が根を張っていれば、それが誰もが当然視するような成り行きをもたらしながら一定の傾向を伴ってきて、そういう傾向に同調している限りで周囲の誰も文句を言ってこないだろうが、ひとたびそこから外れるような行動を起こしてしまうとその社会に根を張っている共同体から爪弾きにされてしまうようなことが起こるのかも知れないが、果たしてそこまで同調圧力に支配された共同体的な社会が、現状の世界で成り立っているように感じられる現代的な傾向と両立できるかといえば、たぶんほとんどの地域でそうはなっていないだろうし、それも程度の差こそあるものの、世界の標準的な許容できる範囲内では、慣習によって思考や行動を支配されるよりは、個人が持ち合わせている勘や知性を働かせれば、それで駄目なら集団を形成して企業活動などの中で何とかなるようなレベルで成り立つ社会状況の方が、健全な部類に入るかも知れないし、そこでもそれらが様々な水準で絡み合ったり混じり合った結果として、何らかの傾向を示していたり示していなかったりするわけだが、普段からそういうところまで考えているわけでもなく、大抵は自らの勘や知性を働かせながら直面している事態を何とかしようとしているわけだが、その何とかなっている状態が自らが生きている状態そのものなのかも知れない。


2月26日「ファシズムの平和」

 一般的に言って、力は分散している状態では弱く、一点に集中させることによって強くなるはずだが、一箇所に集中している力を分散させるにも力が必要で、分散している状態を保つのにも力が必要となるから、そこに何が集中しているか分散しているかでも、そこに加えられている力の種類や性質が異なってくるはずだが、感覚として集中力はすぐに思い浮かぶが、分散力となるとすぐには何を意味しているのかよくわからないわけで、わかりやすいのは意識を集中させることであり、何事にも功利的には集中力を養おうとするだろうが、逆に分散力を養えるかというと、そんな表現は聞いたことがなく、普通に考えて養う対象には入っていないだろうが、バランス感覚を養うという観点からすれば、集中力があるなら分散力もあるはずで、そこまで考えが及ばないのも普通の感覚であり、気がつけば意識をそこへと集中しようとして、意識だけなく力も集中させなければならないと思うだろうし、物事を動かすにはそこへ力を集中させなければならず、気がつけばそんなことばかりやろうとして、そんなことばかりやろうとしてしまうから、それとは裏腹にそんな思いが空回りして、やっていることがうまくいかなくなってしまうのかも知れず、それもそこで何をやっているかにもよるだろうが、雰囲気としては集中と分散がバランスよく按配されていることが何をやるにも必要なのかも知れず、それだけでは何に関して必要なのかがわからないとしても、何となくそんなことを述べるとそんな気がしないでもなく、気がするだけでは何の証明にもならないが、何を証明しようとしているのでもなければ、ただ力の集中と分散が程良く配置されるような状態を夢想できるにしても、相変わらず何に関してそんなことを述べているのかよくわからないままだが、それが集中と分散ではなく、例えば陰と陽なら陰陽道のような呪術や占術などの技術体系を想像させるが、集中と分散の技術体系があるかというと、例えば株式などへの投資に関してそんなことを唱える専門家がいるかも知れず、それも専門的な領域にまで踏み込まない範囲内で、イメージとしてそんなことを述べるにとどまるなら胡散臭さを覚えるかも知れないが、相場の状況に合わせて攻めの投資だと集中的に投資して、守りの投資だと分散的に投資するとか言い始めると、何やら素人的にはそれを真に受けてしまうわけだが、その程度を超えるような確かなレベルで力の集中と分散に関して論理的に当てはまる事例があるかとなると、それが論理的に証明できるとも思えないような現象なら、やはりオカルト的な胡散臭さが漂ってくるだろうが、現実の世界が様々な力の集中と分散によって成り立っているとしても、そんなことはわかっていると思える水準ではそうだとしても、具体的にそんな状況を利用して何をどうしたいのかがわからないと、役立つようなことではないのはもちろんのこと、それを何に役立てたいのかもよくわからないようなら、ただ漠然とそんな世の中の状態を眺めているだけの傍観者のような立場にしかなり得ないが、そこから何かしら肯定的あるいは否定的な意味や意義を得ようとしても、得られるのは気休め程度のことになりそうで、気休め程度に考えていることが肯定的あるいは否定的な意味や意義を担えるとも思えず、気休め以上の何かを得たいと思うなら傍観者から離脱して、何かを行う成り行きの中へとその身を投じて、積極的に活動するようになれば、やはりその活動へと力を集中しようとして、その反対の傾向を持つ分散力が思考の対象とはなり得なくなってしまうかも知れないが、分散力が果たして何の役に立つのかと問うこと自体がおかしいような気するなら、もちろん普通はおかしいとも思う以前にそんなことなど考えないわけだが、それを分散力として積極的に自らの主張や意見の中で使う必要などなく、それよりは結果的に力が分散している状態へと持っていきたいわけで、しかもなぜ力の分散を実現したいのかが思考した結果としてわかるようなことではなく、例えば活動した結果として力の分散が実現するとしたら、それを特定の個人がいくら考えてもその理由や意味や意義などが定まるようなことではなく、様々な意図や思惑を抱いて人や集団などが世界中で動き回っている状態が、ある程度の力の分散をもたらしていることは確かだとしても、その中で果たして誰が世界中の力が分散している状態へと持っていきたいと思っているわけでもないだろうし、結果的に力が分散している状態へと持っていきたいと思っている人は誰もいないわけで、むしろ何かを実現したいと思っている人々は、実現したいと思っている目標に向けて力を集中したいと思ってしまい、その結果としてみんなの力を合わせて平和を実現するなどという逆説的な無理を当然のことのように考えてしまうわけだが、それがなぜ駄目なのかよく考えてみればわかることかも知れないが、一つの目標に向かってみんなの力を合わせるのはファシズムの原理であり、むしろ逆に力が分散していることが平和が実現するためには必要不可欠なのだが、それが反戦平和を訴えて一箇所に集まって奇声を発する群衆にはわかっていないのはもちろんのこと、ある意味ではわからなくても当然なのだろうが、ではどんな意味でわからないのかといえば、自分たちの力で平和を実現しようとする意味ではわからないわけだが、力による平和の実現には何が必要なのかと言えば、当然のことながら軍事力が必要であり、軍事力を持っていない平和運動の活動家が言葉を使って平和が実現するように訴えかけるのは普通に考えれば無謀な試みであり、それに比べれば軍事力を使って力による平和を実現しようとする国粋主義的な右翼活動家の方がまともな思考の持ち主かも知れないが、合理的に考えるならそうだとしても、考えてもわからないことがあるわけで、実際に誰が考えてもわからないことが誰の考えをも裏切る形で実現しているのがこの世界の現実であり、それを結果的に考えるなら力の分散が成り立っているから平和が実現していて、しかも誰かが掲げる主義主張や論理や理屈とは無関係に成り立っているようなことでもあり、人知を超えた成り行きを通して結果的に平和が実現すると状況を捉えればいいのかも知れないが、それをどこかの交差点に集まって反戦平和を訴えている群衆に向かってわかれと言っても無理なのであり、それらの群衆が頭で考えてもわからないことが実現するには、せいぜい彼らが無力な言葉で武装するように持っていけばいいわけで、もちろん実質的には武装していることにはならないわけだが、勘違いや見当違いな行為として多くの若者を人畜無害な平和運動に身を投じさせて気力や体力を消耗させておけば、そのうち何の成果も得られないことを悟ってフェードアウトしていくだろうという思惑で誰がそんなことをやらせているわけでもないだろうが、彼らの活動が結果的に世界平和をもたらすとしたら、努力が実ってそうなるわけではなく、何の成果も得られないからこそ世の中が平和になるという逆説的な成り行きを経なければならないわけでもないが、結果的には世の中で行き交っている様々な力が相殺されることによって、誰の思惑をも裏切って、うまくいかない結果をもたらしながらも束の間の平和が実現すると考えるしかなく、そういう意味では平和がもたらされたからといって気分がいいわけではなく、むしろ目標に向かって努力している方が高揚感を得られるから、多くの人々が目標に向かって努力している現実があるとしても、その目標の一つが世界平和を実現するのであるなら、しかも武力によらずに平和を実現することにあるなら、誰もが思っているようなバラ色の未来とは違う成り行きになることを覚悟しておいた方がいいと言っても、そんな忠告に耳を傾けるような平和活動家など誰一人いないだろうし、普通に考えてみんなの力を合わせて世界平和を実現しようとするのが、方便としては理に適っているわけだが、もちろん誰もそれを方便とは思わずに、本気でそう思っている限りで平和運動も持続するわけで、そういう意味でも本当に世界平和が実現するなら、彼らが頭で考えているような主義主張や論理や理屈などとは無関係に実現するのではないか。


2月25日「パンダの溺れ芸」

 どこかの国で誰かが行政の長のような役職に就くと、国家という概念に伴って生じてくるその役職にふさわしい観念に囚われて、その観念から導き出される使命感まで抱くようになると、その役職が付与する権限や権力を使って国家に関係する行政組織を動かして自身に課せられたと思い込んでいる使命を果たそうとするのかも知れず、それが国家に関係するだけに内容によってはより広範囲にわたって面倒な事態を引き起こす場合があり、今回のロシアによるウクライナへの軍事侵攻という事態にしても、そういう成り行きに伴って起こる典型的な事例に過ぎないとしても、できれば行政の長といった類いの役職を担う人物にそういう面倒な事態を引き起こすような権限や権力が生じないような仕組みを作りたいのかも知れないが、どうしても国家があるだけに国家を統治する行政機関の長が国家を代表する役職にふさわしい妄想を抱くのも成り行きとしてはよくありがちなことかも知れないし、その使命感として抱く妄想の類いが国家や民族などの集団的な勢力争いの延長上で抱くわけだから、当然のこととしてそれが覇権的な妄想となってくるのだろうし、普通はそれを妄想とは言わずに野望と言うのかも知れないが、また妄想に囚われているのはその人物だけではなく、その人物を支持している民衆も同じような妄想を抱いているのかも知れないし、その人物を含んだ政治勢力の中でも行政機関の官僚や軍関係者の間でも同じような妄想を抱いて使命を果たそうとする思いが生じてくるのかも知れず、そうやって国家的な妄想が国民的な一体感をもたらした結果として、軍事侵攻など厄介な出来事を引き起こすと解釈しておけばいいわけではなく、そんないい加減な解釈で今回の軍事侵攻をまともに説明し切れるわけもなく、それ自体が今回の事件に触発されて抱いたいい加減な妄想に過ぎず、誰もが事件に触発されて本当らしいことを語りたいのかも知れず、それが想像にまかせて、伝えられている報道からも、歴史的な経緯からも、地政学的な因果関係からも、経済的な事情からも、いくらでも知ったかぶりの意見を述べられるにしても、さらには人道的な反戦平和を訴えることもできるにしても、何かそれが社会的な役割分担に基づいた使命感や責任感に駆られた意見や主張になってしまうと、そういうことを言わせられているような気がしてくるわけで、何がそういうことを言わせているのかといえば、世間が言わせているのかも知れないが、そういう言わせられている感を覚えると、それに対して抵抗したくなってくるわけで、誰に言わせられているのかも何に言わせられているのかも定かではないにしても、それに対する抵抗感を覚えることが、何か自然な成り行きのように感じられるなら、特に納得できる理由がなくてもそれに従うしかなく、軍事侵攻しているロシアにしても、侵攻されているウクライナにしても、共感するところが何もないとは言えないが、例えばそれが白浜アドベンチャーワールドで飼われているパンダの溺れ芸に似ていると思うのは、的外れもいいところかも知れないし、実際に戦争が起こって多くの人々が死傷しつつあるのに不謹慎極まりないかも知れないが、現代的な感覚からすれば戦争が溺れ芸の一種だと思うのが、世界の人々の注目を集めたくてわざわざそんなことをやっているわけでもないのは、誰もが承知していることだが、しかもそれが溺れるふりをしているわけではなく、芸事でもなく、本気で生死を賭けて真剣に戦っているのに、もちろん芸事に真剣に取り組んでいる人がいれば、命懸けでやっている人もいるから、真剣という表現を使うなら、それに続けて命懸けという表現を使ってもしっくりくるだろうし、そんな言語表現を用いて戦争について語るのも当然のことのように思われて、それと比べてパンダの溺れ芸が場違いに感じられるのも、それが命懸けや真剣とは似ても似つかない行為だからだが、たぶん例えが間違っていて、もっと戦争の現実に即した例えが他にいくらでもあるかも知れないが、なぜかロシアとウクライナが協力して世界に向けて溺れ芸を披露していると見るのが、実際の戦争とは違う次元で正解なような気がするのは、別にそれを嘲笑しようというのでもなく、皮肉っているわけでもなく、もしかしたら戦争の裏で進んでいる深刻な事態を知らせるためにあえて戦争という溺れ芸を披露して、世界の人々にその真意をわかってほしいと推察することの荒唐無稽さも、かなり馬鹿げたことだが、事の真相を知らせたいなら直接それをありのままに提示すれば済むはずで、そこをあえて隠して比喩的な表現を使うのはおかしいだろうが、そのわかってほしい真意というのが、誰もがわかってくれないことでもあり、直接それを伝えているのに、相手がそれを曲解してしまうようだと、伝えようとする内容を信じてもらえないから、遠回しな表現を使うことで、それを受け取った人が間接的に推察してもらいたいのかも知れないが、実際にやっているのは間接的なことではなく、直接戦闘を行なっているわけで、悠長に比喩などを用いているはずもなく、武力によって決着をつけるためにそんなことをやっているわけだが、それが結果的に遠回しな比喩表現となってしまうようなら、戦争では決着できないような成り行きとなり、戦争しても事態の改善が図れないとどうなるかというと、要するに経済的な成り行きの中で徐々にその効果が現れてきて、時が経ってみればその時点で戦争をやった当事者たちや当事国が内ゲバのような自滅をもたらしたと解釈される事態を招くのかも知れず、それが戦争という溺れ芸の裏で進んでいる成り行きだとすれば、現時点ではまだそこまで至っていないから、誰もがそうなることを察知できないわけで、そこまで考えが及ばないからこそ、当事者も戦争に踏み切ったのだろうが、もちろん溺れ芸をやっているつもりもないだろうし、実際に溺れ芸ではないはずだが、比喩としては溺れ芸に見えてしまうとしたら、そんなことは当事者には預かり知らないし、誰もそうは思っていないわけだが、そういった誰にも知るよしもないことが事態と共に進行中であるのは、知らないからこそやってしまうことでもあり、そうする以外に方法がなく、アメリカやヨーロッパ諸国などが足並みを揃えて経済制裁をする成り行きになっているのも、事態に対処するにはそうする以外にないからで、国家としての行政的なまとまりが瓦解しつつあるからそうなっているわけではなく、絶えず国家が国家化を突き詰めると溺れ芸に至るわけでもないとしても、必要悪として国家の国家化の過程で溺れ芸としての戦争を他の国々に見せつけないと、国家の国家化を信じもらえないという焦燥感も、当事者や当事国の誰も意識できないことかも知れないが、それに対して何かしら他の国々が反応してくれないと困るわけで、その反応として現状でできることが経済制裁しかないわけだから、要するにいくら溺れ芸を見せても直接には戦争に参加してくれないという意思表示であり、それが溺れ芸でしかないことを当事者の誰もわかっていないのだが、結果的には溺れ芸の仲間に入って戦争に参加する代わりに経済制裁しかできないという事実が明らかになるにつれて、そんな溺れ芸に付き合うほど手間も暇もかけられないという各国の事情も明らかになってきて、実際にそうなっていることが現状の世界の中で何を意味するかなんて誰も知りようがなく、知るよしも知る必要ないことかも知れないが、溺れ芸では事態の解決は図れないし、それに対する反応として経済制裁でも解決できないことであり、そもそも何を解決しようとしているかもわからないままそんなことをやっている実態を、誰も把握していないのかも知れず、それが解決できないことなのではなく、解決する対象がないわけでもないが、その対象に対して解決策を講じること自体が的外れなのかも知れないという意味不明な事態に直面していることを、誰もわかっていないのかも知れないが、わからなくても構わないのかも知れないし、現状ではわかる必要もなく、そこからさらに事態が進展してくれば、新たにわかってくることもさらに謎が深まることも出てくるのかも知れず、それもそうなってからそこで判断するしかなく、判断したところでそれによってどうにかなることとどうにもならないことが出てくるのかも知れない。


2月24日「勘への信頼と勘違い」

 何を偽装しているのか偽装している当人がわかっていない場合には、意識してわざと勘違いを装っているわけではなく、実際に勘違いしているのに、それを勘違いのまま放置していて、自身でも勘違いだとわかっているのに、なぜかその勘違いをすぐには改めようとせず、もしかしたらそれが勘違いでなくなるまで待っている可能性もあるわけだが、果たして勘違いが勘違いでなくなる可能性があるかというと、それも勘違いしている内容にもよるかも知れないが、少なくとも現状では勘違いなのだから、それで何か不都合が生じているならすぐにでも改めた方がいいのだろうが、その気が起こらないとすれば、やはりそこから時が経って、それが勘違いではなくなる時が来るまで待っているのかも知れず、果たしてそんなことがあり得るのかと疑念を覚えるかも知れないが、実際に勘違いを改めるのに抵抗を覚えるなら、改めるのを思いとどまるように勘が歯止めをかけている可能性もあり、とりあえず今は勘違いしたままでいた方が、後々何かいいことがあるような気がするようなら、現状で勘違いからもたらされる弊害よりは、将来に期待される利益の方が上回る可能性に賭けているのかも知れず、将来に賭けるといってもどんなリスクを背負って何を賭けている自覚もないだろうが、意識にはわからないが勘としては何か期待しているのかも知れず、その期待に賭けてみた方がいいような気がするなら賭けるしかなく、何に賭けているのか現時点ではわからないとしても、期待感を覚えるような気分を感じ取っている限りで、その気分が何らかの予兆を察知していると思っておいた方がいいのかも知れず、それこそが現時点で抱いている勘違いそのものかも知れないが、勘違い自体がその中で様々な要因や要素が複雑に入り組んでいて、それの何が勘違いなのかうまく意識が捉え切れていないのかも知れないし、正確に捉えることはできないのかも知れないが、それを勘違いだと思っていても改めるのを思いとどまるような成り行きを感じていれば、要するにそれを100%勘違いだと思ってしまうことが勘違いであり、たとえ勘違いな面も多少はあるとしても、その全てを勘違いだと見なして完全に否定してしまってはまずいのかも知れず、完全に否定してしまうと勘違いではない面まで否定することになってしまうなら、そこまで否定するのは勘違いであり、勘違いな面を改めようとすると、それに連動して勘違いではない面まで改めることになってしまってもまずいわけで、そういうところで改めるにしてもどこまで改めればいいのかに関して調整が必要となってくるかも知れず、しかも調整しようとして調整できるわけでもなく、調整できる機会を捉えて調整しなければならず、改めることが可能な機会を捉えて改めないと、改めることに失敗してしまう場合もあるだろうから、そのタイミングを見極める必要もあるのだろうが、それがこれだとわかるようなことでもなく、絶えずそこには賭けの要素が入ってきて、勘違いを改めることでさえも、それを改めることに成功するか失敗するかの賭けが伴ってくるとすれば、そう簡単にはいかないことを考慮せずにはいられないわけで、だから何か勘違いしているような気がするとしても、それをすぐに改めようとするとかえっておかしくなってしまう可能性を感じるなら、おかしくなったことをわかった時にはもう手遅れとなる可能性まで考慮せずにはいられず、実際におかしくなって痛い目に遭えば、次からは少し慎重にならざるを得ないだろうし、たとえ自身が勘違いなことをやっていると思われても、それを続けられる限りで続けようとしてしまうかも知れず、そうなると改める機会まで逸して、そうなっても手遅れとなる可能性もなきにしもあらずだが、どちらにしても結果的に勘違いを改めることに成功すれば、機会を捉えて勘違いを改められたと思うだろうし、逆に失敗してしまえば、勘違いを改められずに失敗したのか、あるいは勘違いではないところまで改めてしまって失敗したのかは、どちらとも言えるかも知れないが、さらに失敗したと思ったのが実は勘違いであって、そこで失敗したことこそが、後になって成功の証しとなるかも知れず、それも実際にそうなってみないことにはわからないし、そうなってもわからない場合もあるだろうし、結局は何だかわからないまま一生を終えた後から、その人の死後に評価が定まってくる場合もあるから、自分が生きている間に知る必要もないことも結構あるのかも知れず、それでも大半の人は評価の対象にもならない一生を送ってしまうから、そんなことにも無縁かも知れないし、それで構わなければ成功しようが失敗しようがどうしたわけでもないのだろうが、そんなことにまで考えを巡らす必要もない人が世の中の大半を占めているとしても、それでもうまく立ち回って誰もが成功を目指すだろうし、失敗していいわけでもないが、失敗を避けようとすれば成功できるわけではなく、多くの人々が失敗を恐れずに果敢に挑戦した結果として、その大半が失敗した中からごくわずかの成功者が現れるとしたら、失敗すること自体が当然の結果であり、逆に成功すること自体が、大半の失敗した人たちからすればおかしいようなことであれば、勘違いな人が成功するような事態も起こり得るのかも知れず、その人が勘違いなことをやっていると大半の周囲の人々から思われるようなことがあれば、それは神から天啓を授かって巨大な箱舟を造ったノアのようなケースが考えられるだろうし、それ自体はフィクションでしかないが、神話としてそんな伝承が残っていれば、そんなフィクションを連想させるようなことをやった人が実際にいたのかも知れず、それを何かの教訓と受け取るとわかりやすくなってしまうが、それをわかりやすく解釈しようとしてしまうと、そんなことをやっている人の意味不明さが抜け落ちてしまい、何か違和感を覚えるようなことをやっている人が、実際に周囲から浮いた存在でいたり、煙たがられていたり、変人扱いされて、快く思われない人が、何らかの方面で成功を収めると、そこからその人に関する数々の伝説が生じてくるかも知れないが、大した成功もなく死んでしまっても、後の時代に見直される人も出てくるとしても、そんな人は氷山の一角に過ぎないのかも知れず、そういった世間に馴染めないおかしな人が無数にいる中から、たまたま何かのきっかけから単なる偶然の巡り合わせによってメディアなどの脚光を浴びてしまう人がごくわずかに出てくるとすれば、それらの人たちのほとんどが勘違いなことをやっている可能性があり、それをやれているだけでもすごいとも言えないが、勘違いなことをやれるだけの余地が世の中に多少なりとも残されていて、誰ともなくその余地を利用して勘違いなことが行われているから、それを標準偏差の中央値に近い人から見れば、かなり奇異に見えるわけだろうが、だからといってそれを勘違いなことをやっていると見なしても、実際にそれをやることができるという事実を、それをやっている人が証明して見せているわけだから、勘違いな行為や言動にもそれなりのリアリティーが伴っていて、そうであればいつ何かのきっかけから標準偏差の中央値が、勘違いなことをやっている人の方へと近寄ってくる可能性も捨て切れないし、そうなるための条件が偶然に整ってしまうとそういうことが実際に起こるのかも知れないが、それを人為的に起こそうとする試みも中にはあるのかも知れないし、そんな常識外れな行為をごり押しのように繰り返す人や集団が実際に世の中で目立ってくれば、その常識外れな行為を新たな常識だと世間に認めさせようとしているのかも知れないし、それがわかってやっているふうもなければ、それらの人や集団の意識の中でそんなことをやっても構わないのではないかと思わせるような勘が働いている可能性もあるわけだ。


2月23日「トリックスターへの感情移入」

 人を買い被るもいい加減にしてほしいという表現は、実際に買い被られたと思った人が使う謙遜の表現かも知れないが、現実と真正面から向き合えないから特定の人物を買い被り過ぎて、それがその人物が敵対しているつもりの勢力への過小評価へと結びつくのも、買い被ることと過小評価することが相まって起こるえこひいきのような心理現象から生じている症候なのかも知れず、そんなふうにして起こる症候が一部で集団発生しているとなると、そこで感染爆発のようなことが起こっていると錯覚してしまうかも知れないが、それが社会全体には広がらずに一部の方面にとどまっているようなら、社会全体に普及するような価値観を伴っておらず、一部の人々の間でしか通用しないえこひいきでしかないことを証し立てていて、他の多くの人々がそんな現象とは無縁でいられることが何を意味するわけでもないとしても、それを取り立てて問題視する必要もないと思うなら、そもそもそれについて語る必要もなくなってしまうかも知れないが、必要のあるなしとは関係のないところで、そんな心理現象のただ中にいる人たちが真正面から向き合えない現実とは何なのかと問うなら、それが現状の世の中を覆っている空気のような集団意識からもたらされている現実だとすれば、あることをきっかけにしてそんな集団意識によって抑圧された感情が特定の人物を買い被る心理現象となって現れていると見ておけばいいのかも知れず、そのきっかけとなった出来事というのが、集団意識で構成される空気を読まない態度から生じる行為であり、空気を読むという同調圧力に屈する姿勢から醸し出される世間という抑圧装置に対峙して、それへの忖度を拒絶する態度を貫くことになるわけだが、実際にそうやって世間と対峙して敵対しているのだとすれば、現実と真正面から向き合っていることになるはずだが、そんな現象を通じて対峙して敵対しているつもり世間から生まれてくるのが、いわゆるトリックスターのような役割分担の人物であり、それ自体が集団意識から構成された空気の一部なのであって、さらにその種の人物の行為や言動に感銘を受けてしまうような人々も、同じように世間によって生み出された人々であるから、そんな人物や人々が演じる三文芝居に騙されてはいけないと思って、三文芝居を拒絶する必要もなければ、ではどうすればいいのかというと、わざと騙されたふりをしなければならないとなると、それも三文芝居の演技者に入ってしまうから、そんな演劇空間から遠ざかろうとしても、すでにその中に自身が含まれてしまっていることを認める必要があるかというと、たぶんそれを実感しようがしまいが、無理に実感しようとしなくてもいいのかも知れず、それに対して素直な言語表現で応じてしまうと三文芝居の演技者に含まれてしまうのであり、だからといって無視する態度になってしまうと、それも世間から認知されるためのしらけた対応に含まれてしまうだろうから、その種の現象に出くわしたら、それを避けようしても避けられないことを自覚しながらも、そんな現実とは真正面から向き合えないことを認めるしかなく、無理に向き合おうとすればその種のトリックスターを買い被るような事態に陥ってしまうだろうから、そこで三文芝居の観客になるか、そこからさらに深入りして観客から端役へと昇格するかはその場での立ち回り次第になるだろうが、そうなるのが嫌だからといってその種の三文芝居を観せられても動じないように精神修行の類いをやる必要もないだろうし、そうかといって偶然に避けられるような成り行きになることを期待するというよりは、実際に避けるには虎穴に入らずんば虎子を得ずといった大げさな危険を冒す必要もなく、世間の一般常識程度の範囲で対応できるかも知れないし、それに関して簡単に言うなら、そういう行為に感銘を受けた人々が繰り出す誇張や強調を伴った言語表現を注意深く取り除いて、その種の三文芝居が物語るみすぼらしい世の中の実態を意識の中で再構成して、その再構成されたフィクションを現実の世界に当てはめてみれば、その種の人々が擁護するトリックスター的な人物とは関係のないところでも、そんな行為がありふれた日常の中でもごく普通の一般人の間で行われている実態を発見できるかも知れず、そういう作業を通してトリックスターの仕掛けた魔法が解けるなら、トリックスターとその取り巻きたちが仕掛けてくる三文芝居もその程度のことでしかないだろうが、だからといってわざわざその種の魔法を解くのに面倒な作業をするのも面倒臭いなら、やる必要もないことを強制される義理もないわけだから、そのまま魔法にかかってトリックスターの三文芝居に感銘を受けていればいいのかも知れず、実際に感銘を受けることが騙されているとか欺かれているわけではなく、日常の延長で娯楽を必要とするなら、その中の一つとしてトリックスターによる三文芝居も含まれてくるわけで、しかもそれによって世の中の真実や実態を知ることができれば、少しは得した気分にもなれるだろうから、それもその程度のことになってしまうだろうが、その程度だからといって、それを超えるような出来事に出くわすこともそう頻繁にあるわけでもないだろうし、だからよくあることの一部に含まれるようなこととして受け止めておけばいいのだとしても、それにしては取り巻きたちが大げさに騒ぎ過ぎのように思われるなら、本来の程度でそれらの騒ぎ過ぎな言語表現の中で使われている誇張や強調の程度が妥当ではないから、騒ぎ過ぎだと思われるのであり、彼らにはそれが妥当だと思われるから誇張や強調の表現を使っているはずだが、そうなっているからこそ、それらの言語表現でいくら出来事を大げさに騒ぎ立てても、それが社会全体に伝わらないのであり、それを彼らにしてみれば、彼らが悪いのではなく彼らの言うこと聞いてくれない世間の方が悪いと受け取ってしまうと、そこからも三文芝居に特有な錯覚がもたらされて、反体制的な紋切り型にふさわしい政治姿勢に陥ってしまうかも知れないが、そうなることも三文芝居の中に登場する役割を担うことになってしまうから、気をつけなければならないとしても、そこから視線を反対の方面に向ければそんな政治姿勢と対になったそれとは逆の政治姿勢に囚われた人々の存在も目に入ってくるだろうから、そういう人々の存在が目に入ってくるような場所にいること自体が、三文芝居の現場に足を踏み入れていることの証しとなって、それが棺桶に片足を突っ込んでいることにならないのを祈るばかりの状況でなければ幸運かも知れないが、自身がそこから脱出を試みている最中であるとしたら、なぜそんな状況に陥ってしまったのか事情を飲み込めずに困惑するだろうが、知らず知らずのうちに三文芝居の中に引き込まれてしまった経緯を思い出せないのは、その場に居合わせた誰にとっても同じかも知れず、そこに至る途中のどこかで進むべき道を間違えてしまったのだとしても、果たして彼らに進むべき道があったのかというと、それが進むべき道ではないとしたら何なのかと言えば、普通に考えてそれは人を迷わせる道であり、道に迷った挙句に出くわすのがその種のトリックスターとその取り巻きたちが仕掛けてくる三文芝居であり、世の中にはそんな三文芝居に感銘を受けてトリックスターの主宰する劇団に入ってしまう人たちも大勢いるのだろうが、大勢いるとしてもその程度が社会全体には広がらないところが、そこに彼らには超えることのできないハードルがあることの証拠でもあり、そんな彼らの行手を阻むハードルや壁の類いを形成しているのが同調圧力を伴った世間そのものなのかも知れないが、果たしてそういうわかりやすさを真に受けてもいいのかというとそうでもないのかも知れず、そうではないとしたら何なのかというと、やはりその種のトリックスターやその取り巻きたちにしても、それらの存在を含んで構成されている世間そのものであり、それらの存在に騙されてはいけないと思ってしまうと、騙されてはいけないと言う人々の主宰する劇団から勧誘を受けることになるわけだから、その辺のややこしさに関しては世間とはそういうものだと受け止めるしかないわけだ。


2月22日「思考の矛盾」

 人がどうやってそこまでやって来たかが謎というわけではないが、何か一見論理的に筋が通っているようなことが、よく考えてみると単なる気まぐれに過ぎないような気もして、偶然にそこを通りかかっただけのように思われるなら、ただそうなった結果から合理的に考えて納得がいく論理的な筋道を探っているだけかも知れないが、自身が納得するだけではなく、自分の思い通りのことがやりたいわけで、結果に納得するか、納得できる結果をもたらしたいのかで、やり方が違ってくるのはわかるが、両者を結びつけて考えようとすると、うまくその前後で思考の整合性が取れないようなことになってくるかも知れないが、もたらされている現状に納得する必要もないのに納得しようとして、またその必要もないのに自身が納得できる結果をもたらそうとするが、本当にその必要がないのだとしたら、では他にどうすればいいのかと言えば、そういう問いには答えようがなく、納得できない結果を前にして、それに納得しなくてもいいとしても、そこから何をどうすれば納得できるかと考えるのではなく、また納得できない理由とは何なのかと問うのでもなければ、やはり他にやりようがなければ納得しようとしてしまい、納得しようとするから結果がそうなった理由を求めてしまい、その理由を求めることが自身にとっての納得できる結果であり、そんな結果を求めることが納得できる結果がもたらされることになるわけだから、そこで結果に納得することと納得できる結果をもたらすことがつながって、それによって思考の整合性が取れているように錯覚してしまうわけだが、本当にそれいいのかと問うなら、何となく自信を持てないし、考えている途中で何かをごまかしていることになるのではないかと疑念を覚えるのだが、果たしてそれを疑う必要があるのかというと、世の中の大半の人はそんな疑いなど抱いていないだろうし、人の思考回路が疑いを抱けない構造になっているのかも知れず、それの何がおかしいのかわからない人が大半を占めるだろうが、もちろんそれがおかしいと思うこと自体もおかしいのかも知れず、別にそう考えることが特におかしいわけでもなく、逆にそう考えることの方が正しいように思われるだろうが、何か腑に落ちないのがそう思ってしまうことであり、しかも腑に落ちないままでも構わないのではないかとさえ思ってしまい、それと同時にそういうことをあまり深く考える必要もないとも思ってしまうが、すでにそう思っている時点で何かをごまかしていて、ごまかしていることに気づかない方が賢明だとまで思ってしまうわけで、そうやって何とかして思考の辻褄が合っていないことをごまかそうとするわけだが、ではごまかしを正す必要があるのかというと、ごまかさないと納得できないのだから、納得するにはごまかすしかなく、納得できないままでいることに耐えられなけば、納得できるような答えを導き出そうとしてしまうわけで、別にそうすることがごまかしだとは思わないだろうし、普通に納得できる答えを導き出せれば、それで一件落着となるはずで、それで納得できる結果をもたらしたことにもなるわけだから、そうなることに何の不都合も感じないはずだが、それで納得できない結果が出ていることをごまかしたことになるかというと、ごまかしたのではなく問題を解決したことになり、納得できない結果を納得できるように変えたことになるのだとしても、それがただ単に思考上の辻褄合わせをしたに過ぎなければ、何かそこでごまかしたような気がしてしまうわけで、それが結果の合理化作用であり、結果を肯定するために、思考上の辻褄合わせを正当化することにもなるわけだが、そうやって結果を都合のいいように解釈してしまうことが、やましい感触も伴うようなら、そういう思考上の辻褄合わせはやめた方がよく、無理に結果を肯定する必要もなく、不合理のままの結果を肯定も否定もせずに受け止めるしかないだろうし、自らの辻褄合わせ的な思考作用を疑わしく思っていればいいのかも知れないが、疑わしく思っている状態に耐えられないと、合理化作用に屈するしかないだろうし、屈したところで大して不都合を感じなければ、それが当然のことのように思われてきて、しかも絶えず辻褄合わせをしていないと気が済まないようになってしまうかも知れないが、果たしてそんなことをやっている自分に気づけるかというと、気づかない方が普通の精神状態だろうが、まれに何かのきっかけから気づいてしまうこともあるだろうし、それが何なのかといっても、気づいていることにすら気づかない場合もあるから、無意識に思考上の辻間合わせを避けながら思考を巡らして、辻褄合わせをする以前の真の結果に辿り着こうとするわけで、そうなるとどうやってそこに辿り着いたのかが意識の中では謎となるが、実際に辿り着いてしまえば、辿り着いた先に見出された真の結果を真実だと認めざるを得なくなって、その反面で思考上の辻褄合わせによって導き出された答えとしての結果が偽りだと認めるしかなくなると、結果に納得するために合理化作用をもたらす思考の過程が信じられなくなってきて、考えることの疑わしさの中に留まりながら思考を巡らすしかなくなってくるわけだが、そうなると納得できないことをどう処理することもできなくなってくるから、納得できないまま疑念を抱き続けるしかなく、絶えず疑念を抱きながら納得しようとするのを思いとどまってしまうわけで、それが結果まで辿り着く途中の感覚で、しかも辻褄合わせをせずに結果に辿り着こうとするから、そういう結果には納得できないし、疑念や疑問が含まれた結果がもたらされて、それを疑念や疑問として受け止めるのだが、そうなることを考慮するなら、すっきりした納得できる結果には何かしら思考上のごまかしがあるのではないかとも思われて、そういう結果に出くわすと、待てよと疑念が思い浮かんできて、容易には納得できず不条理だとも思われる結果がもたらされているのに、それをわかりやすく関係する物事を交通整理して理路整然と説明するような言説に納得できるかというと、それに納得するなら説明に騙されているのではないかと疑いを覚えると共に、騙されている方が賢明だと思われるようなら、他の多くの人たちもそんな説明に騙されているから、騙されるのが当然であり、賢明な人たちも騙されているのではないかとも疑ってしまうわけで、そうなると騙されているのではなく、それらの人たちが納得できるような解答をもたらした人を信用しているのであり、思考上の辻褄合わせがうまい人の言語構成術に感動して、その技術を賞賛すると共に、そういうことができる人が賢人であることを認めていると解釈すればいいのかも知れないが、人を騙すのがうまい人が賢人であるということがおかしいとは思わないのが世の中の常識であるなら、そんな常識を信用できるかというと、意外と信用しておいた方が賢明なのかも知れず、世の中がそうなっていることを織り込み済みの前提として、そんな賢明な人たちが信じている結果をそういうものだと受け止めておけばいいのだろうが、それでも否応なく心の片隅で疑念を抱いているとすれば、誰もが認めるような常識的な結果に納得していないから、そこで条件反射のように思考を巡らして、それらの人たちが納得できないような結果に辿り着こうとしてしまうわけだが、その際にわざと事態を込み入らせて考えようとしているわけではなく、すっきりしないことをすっきりさせるような思考上の辻褄合わせをできるだけ避けながら思考を巡らすのだろうが、だからといって思考上の辻褄合わせを否定しているわけではなく、思考作用としてそうなるのが当然なのだから、そうなることを前提としてそれ以外の結果にも辿り着く必要があるかというと、逆に辿り着く必要があるのは賢明な人たちが求めるすっきりしたエレガントな解答の方であり、要するに辿り着く必要のない結果に否応なく辿り着いてしまうことが、不条理そのものでもあり、何かのきっかけから偶然にそうなってしまうと言えばその通りかも知れないが、それが思考的にはすっきりしない真実の結果かも知れないが、そこに辿り着こうとして辿り着けるような結果でもなく、辿り着こうとする意識に逆らって、あるいは辿り着こうとする意志を裏切って、否応なく偶然に辿り着いてしまうから、かえって思考上の辻褄合わせからもたらされた解答とは、時として比べ物にならないほど強烈なリアリティーを覚えるわけだ。


2月21日「弱者救済と自家撞着」

 共産主義や社会主義の伝統的な傾向として企業を敵視する風潮があるが、それの派生バージョンとして現代的な傾向としては、大企業を敵視して中小企業を擁護する紋切り型も左翼的な傾向として根付いているが、それを嘲笑するのも度が過ぎているような気もするものの、経営者が企業を私物化する度合いが高いのも中小企業の特徴と言えるだろうし、家族を役員にして高給を取ったり会社名義で買った高級車を乗り回すのが典型的な私物化のやり方になるだろうが、その程度のことは許容の範囲内だとしても、では真に擁護すべきは低賃金で働いている中小企業の従業員やパートタイム労働者になり、会社を私物化する中小企業のワンマン経営者は糾弾されるべきなのかと言えば、果たしてそういう企業内の役割分担による区分けや差別化によって良し悪しの言説を構成して、自身の政治的な主張とすることに何の意味や意義があるのかと問うなら、それ自体を偽善や欺瞞の主張だと批判したくなってしまうのを思いとどまって、何とかその辺のところをうまく整理整頓するなら、彼らはどうにしかして社会的な弱者を救済するという大義名分を掲げるのにふさわしい勢力を作り出して、それに組みしたいのであり、そのためには社会的な強者という枠組みに入る人や勢力と敵対したいのだが、そういうわかりやすさに騙される人が世の中にどれほどいるかというと、実際に彼らが少数派に留まるなら騙される人も少ないと見るしかないが、彼らに見込み違いや勘違いがあるとするなら、それは弱者と強者が必ずしも敵対しているとは限らず、逆に弱者と強者の連帯や協力や共生や補完によって企業が成り立っていて、逆に対立や敵対を年がら年中繰り返しているようだと経営がうまくいかなくなって、場合によっては倒産してしまうから、経営がうまく行っている企業であれば、わざわざ外部の政治勢力から企業内の弱者が救済されなくても済んでしまい、逆に経営がうまくいかなくなってくると、真っ先に企業内の弱者が切り捨てられようとするから、それ自体が政治的にも社会的にも問題視されるわけだが、そもそも同業他社や競合する異業種の企業と競争することが企業の経済活動そのものであるわけだから、経営がうまくいかない企業がさっさと淘汰されないと、業界内の新陳代謝が起こらずに産業全体が停滞してしまうわけで、そうだとすると経営が順調に行っている企業が多ければ、弱者救済を掲げる政治勢力はいつまで経っても主流派にはなれずに少数派に留まり、彼らが主導権を握れるようになるには国全体の経済が停滞したり衰退して、社会全体がひどい状況になる必要があり、実際に彼らが政治的な主導権を握れるようになるには、例えば日本がベネズエラのようなひどい経済状態になればいいのかも知れないが、そうであるなら彼らが一生懸命政権批判を繰り返しながら、このままでは日本の経済が壊滅状態になる、あるいはもうすでに壊滅状態になっていると危機感を煽っているまさにそんな状態になれば、彼らの政治的な主導権が確立することになるのであれば、現状でいかに自分たちの主張の自家撞着に気づいていないかが明らかになっているはずだが、実際にそうなればなったで、ベネズエラの事例を見るまでもなく、経済が壊滅状態の中で主導権を握るのが独裁政権になるわけだが、しかも当初は社会的な弱者救済を掲げて活動していた勢力が結局は独裁政権を樹立することになるわけで、そうなるのが嫌なら、社会的な弱者救済を掲げる政治勢力がいつまで経っても少数勢力に留まっている状態が維持される限りで、経済もうまく行っていることになるのだから、経済活動を活発化させて企業間の競争が成り立つように工夫を凝らさなければならないことになるが、それもある意味では別の自家撞着も明らかにしていて、経済活動が進行して大企業による寡占状態になってしまうと競争が阻害されて、そうなっても経済が停滞してしまうから、独占禁止法などによって寡占状態になるのを阻止するわけだが、その際には弱者救済を掲げる政治勢力が市場を独占しようとする大企業を敵視するのはわかるが、ベネズエラでは実際に石油系の大企業による市場の独占的な支配体制ができあがってしまったから、それに対抗して弱者救済を掲げる左翼系の政治勢力が貧困層の支持を得て政治的な主導権を握ることになったわけで、その結果としてさらなる経済の混乱が加速して現状の経済的な壊滅状態がもたらされたわけだが、そういう経緯から言えることは、弱者救済を掲げる政治勢力が主張している内容の良し悪しを言ってみても無意味であり、経済の進展に伴って必ずそんな勢力が出現してきて、貧困層を救うために国家権力を利用しようとするわけで、実際にそんな勢力が議会の多数派を占めて政権を握るような事態となれば、その時にはすでに経済がひどい状態になって、取り返しのつかない事態になっていて、そうならないように事前に手を打つといっても、それらの勢力を抑圧するのは筋違いであり、経済状態が良ければそれらの勢力が多数派となることはなく、全般的に企業業績が良くて、少なくとも業績の良い企業で働いている従業員の生活がまともな水準で成り立っていれば、それらの従業員とその家族は企業の味方であり、弱者救済を掲げる政治勢力による救済の対象となることもないし、社会の多数派がそれらの人たちで構成されていれば、弱者救済を掲げる政治勢力も少数派に留まるしかないわけだから、そういう意味では弱者救済を掲げる政治勢力はいつまで経っても他力本願でしかなく、自力で政権を握る力などなく、その勢力の盛衰はただ単に経済状態に依存しているだけで、もちろんそれらの勢力だけでなく、民主主義の制度内では全ての政治勢力は民衆の支持がなければ原理的にも政権を掌握することはできないルールになっているはずだが、主張としてはそういうことは言わないわけで、例えばそれが体制批判的な内容となれば、体制側の圧政によって民衆が苦しめられているといった内容になるだろうし、それを真に受ける民衆が多ければ、実際にそういうことを主張している勢力が選挙で勝利して議会で多数派を占めて、政権交代が実現するはずだが、実際にそうなっていないとなれば、そんな主張を真に受ける民衆が少ないことになるだろうし、それよりは現状で成り立っている生活が維持される限りで、その延長上で成り立っている政治体制を支持することになるだろうから、それが世論調査結果や選挙結果とも一致するはずだが、それらの勢力がいくら言葉で現状がひどい状態になっていることを力説しても、世論調査結果や選挙結果と一致しなければ、言葉や政治的なパフォーマンスが空回り状態となっていて、そんな政治活動も無駄に浪費されていることになってしまうだろうが、政治勢力としてはそういうことをやらざるを得ず、実際に経済状態が悪化していることを民衆が実感するだけでなく、多数派が貧困層に陥って日々の生活も立ち行かなくなれば、嫌でも弱者救済を掲げる政治勢力を支持するしかなくなるだろうし、政治勢力としてはそうなるまで活動を続けるしかなく、このままでは経済が壊滅状態になると危機感を煽っていれば、いずれそうなった際にはそんな政治勢力が主導権を握って、政権を担うことになるかも知れないが、ベネズエラのようにそうなった時にはすでに手遅れとなって、民主的な政治体制も立ち行かなくなって独裁政権となってしまうとしても、実際にそうなったからといって、そうなった責任を彼らのせいにするのは酷だろうし、彼らにしてみれば、今まで散々このままでは大変なことなると警鐘を鳴らしていたではないかと思うだろうから、まさにそうなったのは民衆の自業自得だと思うかも知れないが、民衆の方でもただ単に自分たちの生活が成り立っている限りで現状を維持している政権を支持してきただけだろうし、どちらにしても責任をなすり合う必然性もないが、では現状を維持して経済悪化を招いた政権が悪いのかといえば、もちろんそれに対して批判を繰り返してきた勢力はそうだと思うし、それが正しいように思われるだろうが、現状を維持しようとする勢力にとってはそうするしかないわけで、そうすることでしか自分たちの勢力を維持できないわけだからそうやってきたわけで、どちらにしてもそんな成り行きを客観的に見るなら経済情勢に左右されてそうなったとしか言えないが、誰も客観的な立場から傍観者のような責任逃れ的な視点になど立てないし、誰もが程度の強弱があるものの、多少なりとも現状に関わっているのであり、関わっている限りで現状に対する責任がそれなりに生じてくるわけだ。


2月20日「無為無策の信用度」

 それに関してもっともらしい根拠や理由を示されても、何か騙されているような気がするのは、人やメディアを信用していない証拠かも知れないが、実際には大して騙されているわけでもなく、別に甚大な被害を被っているとも思えないのも、逆説的な意味でも人やメディアを大して信用していない証拠かも知れず、それほど深く関わっているつもりもないのだろうが、一方で信用しているつもりになっているのが世界の現実かも知れず、世界の何を信用しているのかと言えば、現実の世界そのものを信用していて、その世界の中には人もメディアも含まれているはずだが、人もメディアもこの世界の一部を構成していることは事実だが、一部でしかないから部分的には信用している一方で、全面的に信用しているわけではないのはもちろんのこと、全面的に信用できるものなど何もないなら、それでも構わないだろうが、では何を全面的に信用したいのかというと、この世界があることを全面的に信用してもよさそうな気がするものの、疑わしく思われるのも事実で、この世界など本当は存在していないのではないかと世界の存在そのものを疑うこともできそうで、疑いつつも信用しているのかも知れないが、信用自体に疑いが含まれていて、信用しつつもある程度は疑っていないと安心できないが、安心しきってしまうとまずいから、絶えず疑いを抱きながらも暫定的に信用もしていて、では部分的に何を信用しているのかと言えば、例えば昨今のコロナ騒ぎにかこつけて行政の対応を批判する人たちの無能さは信用に値するかも知れず、批判する人たちの無能さを信用する前に行政の無能さも信用に値するはずだが、行政の無能さはそれ以前から織り込み済みであり、そこではただ単に行政の無能さを批判する人たちに行政の無能さが伝染しているだけのような気がするわけだが、それがコロナ感染に対応して無能さも伝染していると捉えておけばいいかも知れないが、果たしてそういう状況の捉え方を信用できるかというと、何か騙されているような気がするのは、それに関して言説を弄する人やメディアを信用していない証拠かも知れず、もちろんそうであっても信用できるようなことを伝えてほしいのかと言えば、別にそんな気もしないわけで、これまでもこれからも疑わしいことを伝えてくれるだけで構わず、それでも構わないからメディアから伝わってくる情報の疑わしさなら信用しているわけで、結局は批判者の無能さも批判者が伝える内容の疑わしさも信用しつつも、批判者が批判している対象の存在を疑っていて、果たしてそれが批判に値する存在なのかと言えば、批判者が批判せざるを得ないようなことをやらざるを得ないのであり、それが誰もが承知していることでもあり、そんなことをやるのがわかっていることをやっているわけだから、批判されるようなことをやらざるを得ないのも事前にわかっていて、それがわかっているから安心して批判できるわけだが、そういう意味では批判される対象となる人や勢力が批判者たちに信用されているわけで、安心して批判されるようなことしかできないから信用されているわけだが、批判者たちから信用されているのだから、民衆からも市民からも信用されていて、それが批判者にとっては否定的な信用であっても、支持している民衆や市民にとっては安心できる信用でもあり、もちろんそれを安心して批判できるという面では批判者にとっても安心できる信用でもあるが、そのいつでも安心して批判できる対象であること自体が、批判者の批判力を劣化させると同時に、批判者の無能さも促進させて、結果的には批判者が批判している対象から飼い殺し状態にあると言えるだろうが、もちろん批判している対象に飼われていることを批判者が自覚できるわけもないが、自分たちの批判者を自分たち専用の批判者に仕立て上げることに何の意味や意義があるのかというと、そうなることによって自分たちの立場や権力基盤が安定すれば意味や意義があったことになるだろうし、そういう意味では無能な批判者に自分たちの批判を独占させておけば、他の批判者に批判されても無能な批判者の批判の方が優先的にメディアに取り上げられるから、そうなれば権力者御用達の無能な批判を適当にあしらっているだけで済むから、ますますそれらの人や勢力の立場や権力基盤が安泰となるはずだが、果たして批判者の方は自分たちが権力者たちに利用されていることを自覚できるかとなると、自分たちが批判すればするほど逆に批判している対象が増長してくれば、自分たちの批判が無効だと思うのが普通の反応かも知れないが、それでも批判を繰り返している現状があるとすれば、否応なく批判せざるを得ないのかも知れず、そういう状況は批判しているのではなく、批判させられていると解釈すればいいのかも知れないが、それができることなら批判したくないのに批判せざるを得なくなっているとは言えないものの、何かそういうところで感覚が麻痺しているのかも知れないし、批判が有効に機能していると思われて、実際に批判の支持者や賛同者もいくらでも集まってきて、それに伴って批判が盛況を極めるわけだが、いつまで経っても同じように盛況を極めているなら、それが批判によってその場が盛り上がることを求めて批判者の元に多くの支持者たちが集まってきて、みんなで批判対象を批判しながら騒いでいれば楽しいという批判のイベント化が生じているわけだが、そうなってくると批判イベントを永続させることも目的化して、批判対象がいつまでも批判される対象であってほしいとは思わなくても、結果的にそうなってきて、いつまで経っても批判するのに都合の良いことをやって、無能な批判者から同じような批判を浴びながらも、いつまで経っても批判の対象であり続けるという状況が続いていくわけで、そうなっている限りで批判の対象となる立場や権力基盤も安泰であり続けられるわけだから、自ずから批判されやすいようなことをやって批判の対象であり続けるという成り行きに身をまかせるだろうし、そうであれば批判される対象にとって安心できる批判とは、無害化された不活化ワクチンのような批判だと言えるわけで、ワクチンではなくウイルスであればそれに感染すれば身の危険に晒されるかも知れないが、ワクチンであれば批判に対する免疫がついて身の安全がもたらされて、免疫が切れそうになる度に無能な批判者から批判されやすいことをやっておけば、それにタイミング良く反応してワクチンを接種してくれるなら、他のウイルスのような危険をもたらす批判を遠ざけて身を守ってくれることになり、そういう意味では無能な批判者たちが有効に機能していることになるわけだが、もちろん無能な批判者たちにとっても自分たちの批判が盛り上がるためにも、自分たちが批判しやすいようなことを批判の対象となる権力者たちがやってほしいわけで、そんな期待に自身が応えているとは思っていないだろうが、批判の対象となる権力者たちの方でも頃合いを見計らって無能な批判者たちが批判しやすいようなことをやって、批判者たちの批判イベントを盛り上げることにも貢献しているとなると、まさにそれはウインウインの相思相愛の関係になってしまうわけだが、もちろん批判イベントに集まってくる馬鹿な民衆を欺くためにも、建前上は対立や敵対を装っているだろうが、果たしてそれらの現象に関わっている人や集団が、自分たちのやっていることをわかっていてそんなことをやっているのかというと疑わしいわけで、結果的にそう見えるだけなのかも知れないし、そう見えるような成り行きの中で誰もがその場の意向に従いながら、自分たちの役割分担を理解していないにも関わらず、振り付け通りに踊らされていると解釈しても構わないのだろうが、そういう意味ではそこで踊っている誰もがその場の状況に対して無為無策であることを自覚していないだろうから、それらの人々の行動や言動に騙されているわけではなく、彼らはそれなりに信用に足る存在なのであり、何が信用できるのかというと彼らの無能さや無邪気さが信用できるわけだが、果たしてそんな彼らに有能さを期待できるかとなると、できないことまで期待するのは無い物ねだりとなってしまうから、それを自覚することなく上から目線で見下してしまうと、ミイラ取りがミイラになってしまうから、自分も愚かな人々と変わらないことをわきまえながらも、その程度で構わないと思っておくしかないのかもしれない。


2月19日「新自由主義的な政策」

 政策に関して実現可能性の有無や民衆からの支持や賛同を期待できるか否かを無視するなら、無茶苦茶で荒唐無稽なことをいくらでも主張できるかも知れないが、思いつく限りでそんな主張を試してみると、例えば昨今の流行から消費税の廃止や税率を引き下げることの理由がもっともらしく語られることが多くなってきたが、そうではなく消費税は10%に固定して、他の個別に課税されている間接税を廃止する方が公平な税負担の観点からは正しいように思われるが、具体的には酒税やたばこ税や石油関連の税や自動車関連などの間接税を廃止すれば、目に見えてそれらの商品や製品の売上や消費が増えるから経済効果が大きいはずだが、もちろんそれができないもっともらしい事情や理由があるだろうし、それよりは消費税の廃止や税率の引き下げを主張した方が妥当なように考えられるから、そちらの主張の方が流行っているわけだろうが、個別に課されている間接税に関連する商品や製品以外の価格を下げるには、輸入関税を一律ゼロにすれば、より広範囲に商品や製品の価格を下げることができるし、それによって売上や消費を増やす上で波及効果が大きくなるはずで、またそれらの価格に添加される国内の輸送コストを下げるには高速道路料金をゼロにすればいいだろうが、もちろんそれもそんなことができないもっともらしい事情や理由があるからできないわけで、例えば輸入関税をゼロにできない事情や理由としては、国内の農業を守るために食料品に高い関税をかけて保護しているわけだが、それに関しては社会主義的なやり方を利用して、採算の取れない事業は国有化すればよく、国営の農業公社を作って、公務員に農業をやらせればいいだろうが、また最低賃金を一律に上げることによって消費を促すという主張も流行っているようだが、それも新自由主義的な観点からすれば政府が規制をかけて賃金をコントロールしていることになるから好ましくないと判断するなら、そうではなく企業が賃金を上げやすい環境を作るという意味で、例えば法人税率を引き下げて国際的に許容可能な水準である一律15%すればいいとなると、逆に累進課税という観点から考えるなら、利益が出ている企業ほど税率を上げるという発想も出てくるわけだが、その点に関しては法人と個人の違いに着目するなら、個人に課される所得税という観点からでは確かに累進課税が妥当なように感じられるだろうが、法人としての企業は個人のように生きて生活しているわけではないし、企業の消費と個人の消費とは全く別で、個人が生活を消費しているとすれば企業は個人の労働を消費しているのであり、何よりも個人が賃金を得るには企業に就職しなければならないわけだから、企業への税負担を増やして企業活動を阻害してしまえば、それが回り回ってその企業で働いている個人に負担が降りかかってくるわけで、そうであるなら企業などの法人への税負担はなるべく軽くしておいた方が個人のためでもあり、そういう意味で法人税は例外規定なしで一律15%が妥当に思われるわけだが、もちろんこういう考え方が一方的に正しいわけではなく、企業の内部留保の増加などを挙げて反論を行えば、そちらの言い分の方がもっともらしく思われるわけで、企業の方でも税負担が軽くなって利益が出れば、株式会社であれば自社株買いや配当金を増やしたりして、従業員への賃金よりも株主への利益還元を優先するわけだが、結局はそれでも企業が生産した商品や提供するサービスを最終的に消費者が買ってくれないと商売が成り立たないわけだから、そういうところで主張する側やそれに反論する側の都合に応じて強調したり誇張する部分が変わってくるだろうが、その辺の調整はアダム・スミスの言う神の見えざる手に委ねられていて、利益配分の全てを見通せないところが資本主義的な経済活動の特徴となってくるが、では以上に挙げた新自由主義的な政策が実現可能かというと、普通に考えて無理だろうし、現状では誰の支持も賛同も得られず、場合によっては机上の空論どころか、無茶苦茶で荒唐無稽な暴論だと見なされてしまうかも知れないが、ならば消費税の廃止や最低賃金の引き上げを主張する勢力はどうなのかと言えば、それなりに一定の支持や賛同を得られているわけだから、そういう勢力に政権を取らせて実際に政策をやらせてみればいいわけで、それでうまくいくならそれに越したことはないが、うまくいかないなら彼ら自身で自分たちの政策が駄目なことを自分たちで証明したことになるから、反対する手間が省けて助かるわけで、そうなった時点でそれらの勢力の政策に代わる代替案として、彼らとは真逆な新自由主義的な政策を試してみる余地も生じてくるかも知れず、そういう成り行きへと持っていければ、それに応じて定期的な政権交代も実現して、そうなることが政治的な分野での健全な新陳代謝を保つには重要となってくるだろうし、それが滞ってしまうとファシズムなどの独裁体制を招いてしまうかも知れないが、そうなってしまっても最終的にその責任を引き受けるのは民衆の側になってしまい、それについてはミャンマーやアフガニスタンや北朝鮮やシリアやベラルーシなどで悲惨な状況がもたらされているわけだが、それらの国々では資本主義経済が未発達だから日本の事例と比較するわけにもいかないが、日本の事例の特殊性を強調して居直るするよりは、民衆の側で政治的にうまくいかなくなるリスクを引き受ける気概がないと民主主義など社会に定着しないし、その定着の度合いも国によっても地域によってもまちまちだろうが、現状で困らないならそれでも構わないが、現状で成り立っている政治体制では気に入らない人たちが反体制的な政治活動を行えばいいとしても、その際には暴力的なテロなどではなく平和的な範囲内で民主的なルールを守って政治活動をしている人たちを嫌う理由はないだろうし、自分とは考え方の違う人たちに政治的な主導権を握られてしまうのは困るだろうが、その困った状況を何とかするにはそれらの人たちを利用するしかなく、それらの人たちに主導権を握らせて実際に彼らの政策を試す機会を作らないと物事が前進しないし、もちろん前進させたくない人や勢力が盛んに妨害工作を仕掛けてくるだろうが、そういった妨害工作の類いを支持したり賛同できるかといえば、民主的なルールの範囲内では許容されるのだろうが、積極的にそういったことをやっている人や勢力の側に組みするよりは、事態を進展させる方向へと進ませたいわけで、そういう意味で一過性の流行でも何でも構わないから、民衆から一定の支持や賛同を得られている勢力にはさっさと政権を担ってもらって、それらの人たちが主張する政策を試してもらいたいわけで、そして政治的にはその政策が正しいか間違っているかではなく、うまくいくかいかないかでその人たちが主導権を握っていられる期間も違ってくるから、うまくいかなくなればさっさと見切りをつけて、政権交代させればいいのだろうが、それもあまりにも期間が短いとまだ途中の段階かも知れないから、拙速すぎてそれが失敗を印象付けてしまうのはまずいなら、ある程度は許容期間を設けて静観しながらやっていることが一区切りつくまでやらせた方がいいのだろうが、その期間がどれほど必要なのかもその場の状況や情勢に応じて変わってくるだろうが、それにしてもかれこれ十年は時間が経過しつつある今この時期において、何がどうなっているのかというと、誰がどう見ても政治的には行き詰まりに直面しているようにしか見えないのではないか。


2月18日「予知夢の中の未来」

 これといって顔もないのに能面のような無表情という喩えが何を意味するかは、まだ明かす必要もないことだが、仮面に覆われた素顔が何を告白するわけでもなく、何を後悔しているのかもよくわからないまま、嘲りと共に発せられる台詞に出てくる自ら招いた過ちといっても、何のことやらさっぱりわからず、その辺の事情に疎く、記された文章の断片の中で、文字がところどころで欠落しているからなのか、何かおかしいような気がする箇所も多々あるし、そもそもそんなことが語られる経緯や背景もよくわからないが、さらに文章を読んでいくと、これといって興味深い内容に出くわすわけでもなく、ただ淡々と身の上話のような内容が語られていくだけで、それ以上の進展がないのが退屈なところだが、そんな話の最後であっと驚く秘密の暴露など起こりはしないし、別にそれで何の問題もなく、急転直下で何が解決するわけでもないが、そこで起こっていた事の顛末を完全には思い出せず、睡眠中に見た夢の中では思い出していたはずだが、目が覚めてみると全く覚えておらず、それでもあやふやな記憶をたどりながら思い出そうと試みるが、他のことに気を取られているうちに次第に後回しとなって、今ではその微かな記憶も遠い過去へと追いやられてしまい、当時のことを全く思い出せなくなってしまったわけだが、そんな作り話を即興で捏造してみても、なかなか思い出せない過去の挿話の再現とはならないし、それが過去ではなくこれから起こる未来の話ならいくらでもあることないこと付け足して、もっともらしい話の内容に仕立て上げる自信があるわけでもないが、これから語ろうとしているのは語りかけて失敗した過去の作り話でなどではなく、実際に起こりつつある出来事であり、今にも起こりそうな事件について語りたいのかも知れず、それが眠っている間に見る夢に出てくるはずもないが、予知夢というジャンルもあるにはあり、実際に視霊者の夢というのがそれを予知したものだとその種の出来事が起こった後からこじつけられることもあるだろうが、思い出そうとしているのがこれから起こることであれば、未来の記憶というのも過去に記された文章の断片の中に残っているかも知れず、それが典型的な予言の書の内容になるとしても、これからその予言の書を記そうとする際に何が参考となるかといえば、自らが眠っている最中に見た夢の内容になるのもよくあることかも知れないが、そこから何を導き出したいわけでもなく、夢が未来を予知していることを証明したいのなら、夢の中で下されたお告げの類いが未来に起こる出来事を言い当てていることを示さなければならないはずだが、どうもそうなることを望んでいるわけではなく、逆に戯れにその種の予言を信じるふりをしながらも、それが外れた際のリアクションを想像して、想像した通りのリアクションが本当に起こるか否かを実際に確かようとしているのかも知れず、それが作り話の中で起こることとどうつながってくるのかよくわからないが、夢の中でその種の作り話を想像していて、それが予知夢に対する批判として機能することを望んでいるとすれば、途中で話がかなりこんがらがってしまっているようで、いったいそこから何を導き出したいのか、という問いに対する答えにはなっていないようにも思われて、それは問いに対する答えというよりは、問いを変形してねじ曲げるための戦略なのかも知れず、そういう意味で答えられない問いにどう対処すればいいのかが、戦略的に求められる問いでもあり、端から問いに答えるつもりなどなく、問いにはさらに問いを裏返した問いで対抗しなければならないのであり、そういうところが素直に問いに答えようとすると面食らってしまうところでもあるだろうが、それに関してたとえ統計的な数値をグラフ化して示して事実を語っているように装ってみても、そんなグラフなど無視して夢を語ろうとすることが、すでに戦略的な振る舞いに入ってしまうわけだが、なぜそういったねじ曲げが横行するのかといっても、それもなぜという問いには答えられないのであり、答えてしまうことが問いに屈したことになる限りで、問いを無視して別の問いを発しながら、その問いに答えられない相手に対して優位を装いたいわけで、答えるのを拒否する代わりに別の問いを発して反撃に転じているつもりになりたいわけだから、そんなことを問いただそうとすればきりがなくなるのはもちろんのこと、たぶんそこで答えが返ってくることを期待できない無限の問いに直面するしかなく、そうなることを予知できればわざわざ遠回しに夢など持ち出さなくても、はじめから相手に先駆けて問いを用意しておけばいいのだろうが、当然答えてくれる相手など事前に想定できないわけだから、先回りして問いを発してみても無視されるだけで、空回りすることを受け入れなければならず、それ以前に顔のない無表情な壁に向かって誰かが問いかけていて、そんな答えてくれる相手を想定できない問いが壁から跳ね返ってすでに他の誰かの耳に届いている中で、改めてそれと同じような問いを誰もいない空間に向かって投げかけることに何の意味があるかというと、普通は何の意味も見出せないだろうが、だからといってすでに答えの出ている問いを執拗に繰り返し問うことにも何か意味があるのかといえば、そういう問いを執拗に繰り返している人や勢力にとっては、意味のあるなしではなく、そういう人や勢力の存在意義を賭けて問いを発しているのかも知れず、そこに存在意義があると思っているのか、という問いには絶対に答えたくはないだろうが、絶対に口が裂けても答えないことによって自分たちの存在意義を見出していると解釈してみても、そんな解釈も無視されるだけだろうが、自分たちの存在意義を否定するような答えなどには絶対に辿り着けないように、あらかじめ退路を塞いでから、そんな退路があることなど忘れたふりをしながら、執拗に答えの出ている問いを答えるべきだと想定している人たちに向けて訴えかけるのであり、そんなわざとらしくも不愉快な問いが世の中で横行している中で、果たして答えを導き出すことに手間暇をかける必要のある問いに巡り合う機会があるかというと、そんな問いなどあり得ないと断言することはできないが、ではこれから手間暇をかけて答えを出す必要のある問いを導き出すべきかと問うなら、夢の中でそんな問いを投げかけられて答えに窮していた記憶があるなら、たぶん過去にそんな問いに出会って答えようとしていたのかも知れず、そして実際に答えられたかというと、その辺の記憶が曖昧で、確かその時には答えられていたかも知れないが、それがその時には正しく答えられていたような気がしたのだろうが、そこから時が経ってみると正しいかどうかがよくわからなくなってきて、時と場合によっては答えられるかどうかも、たとえ答えられたとしてもその答えが正しいかどうかも怪しくなってくるような問いなのかも知れず、実際にそんな問いに直面してみれば、安易に正しい答えに辿り着くわけにはいかない事情も出てくることも、そうなることを想定しないわけにもいかなくなり、そういった前提条件を考慮すると、そこから戦略的なねじ曲がりも選択肢としては有効に思われて、実際に答えに窮する事態を避けるために卑怯なやり方を取らざるを得なくなれば、そうやっているのにそれに関しては不問になるように周囲に根回しすることにもなって、そこから派生するねじ曲がり具合にもより一層のこじれがもたらされて、そういった面倒な紆余曲折を経ることが多いから、問いに対して素直に答えようとする良心を腐らせるような成り行きにもさらなる不快さの拍車がかかってくるのではないか。


2月17日「変化の兆し」

 結果的には良くも悪くもどちらでもないとしても、その結果がいつ出るかも現時点では何とも言えなければ、良くも悪くもどちらでもないなんてそもそも嘘かも知れないが、危機感を煽り立てる目的で世間の関心を呼ぶには、悪くなる方へと印象操作したいのかも知れないし、人が世界と共に変わっていく先に何が待ち受けているわけでもなければ、そんな良くも悪くもどちらでもないような変化など放っておかれるだけかも知れず、それでも世の中の変化に対して人々が無反応ということはあり得ないような気がするが、変化に気づかなければそれに対して反応しようがなく、反応しなければどうなるわけでもなければ、誰にも気づかれずにそのまま変化が進行していくだけで、それが取り立ててメディア上で話題になることもないだろうが、世の中が変わって行った先でも今までと変わらない生活が維持されているなら、その今までと変わらない生活というのが、何の変化も伴っていないように感じられて、それを変わらないと思っているわけだから、変化そのものの実態がどうなっているかなんてわかりようがないが、それでも人それぞれで感じ方も違ってくるだろうが、現状の中で人が何をどう感じ取っているかは、感じ取っている当人にも把握できていないことがあるにしても、実際に何かしら抵抗感を覚えるとしたら、抵抗を覚えるような変化に直面していて、それが変化だと気づかなくても、何だか嫌な感じがするようなら、状況の変化が嫌な感じを伴っていて、それに対して抵抗感を覚えていること自体が、世の中の変化に抵抗していることの証しなのかも知れ得ないが、変化だと実感できなければ何に抵抗しているのかよくわからず、変化そのものを感じ取れないような状況の中で暮らしているのかも知れず、実際に世の中が変化しつつあるのに、それに対して抵抗しているということが、それを変化だと認めるわけにはいかないから抵抗しているのか、認めるわけにはいかないからそれを変化だと実感できないわけでもないだろうが、根本的なところで何に対して抵抗しているのかがよくわかっていないから、ただ漠然と何だかよくわからないが嫌な感じがする程度の感覚に留まっていて、それ以上は実感が伴ってこないのかも知れず、大して実感が湧いてこないうちに後戻りができないようにされてしまえば、いくら変化に対して嫌悪感を覚えてみても仕方がないわけだが、すでに後戻りできないほど変化が進行しているなら、今さら危機感を煽り立てたところで手遅れのはずだが、危機感というのは手遅れになってから感じるものかも知れず、これから深刻な事態に直面して危機感を覚える頃には、現実に危機の只中でどうすることもできずに、襲ってくる不安感や焦燥感に耐えるしかないような状況に追い込まれているのかも知れず、実際にそうなってからやっと世の中の変化を実感できれば、なぜもっと早く手遅れにならないうちに手を打てなかったのかと悔やんでしまうだろうが、そうならないと変化を阻まれてしまうのかも知れず、そうしないと痛みを伴うような変化を避けようとして、変化の芽を摘み取ろうとしてしまうから、そうならないようにするためにも、人々が変化の兆しを感じ取れないような成り行きに持って行こうとするのかも知れないが、誰がそんなことを画策しているわけでもないとすれば、自然とそうなってしまうのかも知れないが、果たしてそんなことがあり得るのかというと、実際に変化が起こったことが明らかとならない限りはよくわからないわけで、しかもいったん変化が起こったことが明らかとなれば、そういう言い方はされないだろうし、そうなれば原因と結果の因果関係が打ち立てられて、もっともらしい変化の経緯や事情を伴って説明されるから、人々が事前に変化の兆しを感じ取れないことなど何の問題にもならず、それよりは変化の原因を突き止めて、変化に至る経緯や変化をもたらした事情などが明らかになれば、それで一件落着となってしまい、あとは後付け的に後出しじゃんけんのようにして、変化が起こるのを事前に予言した人などがこれ見よがしに名乗り出てきて、その人がメディア上で脚光を浴びることもあるだろうが、そんな成り行きの中では変化の本質など何も問われないばかりか、逆に変化をやり過ごすための儀式としてそんなことが行われる一方で、儀式を行うことによって変化そのものを忘れ去ろうとするわけで、実際にそうやって一通り儀式を済ませば、何事もなかったかのようにして元通りの日常が戻ってきて、今までと変わらない人々の日常生活が維持されていることにしておきたいのだろうが、何かそこに変化の痕跡が残っているかも知れず、それが犠牲者の供養塔の類いであればわかりやすいだろうが、痕跡そのものが日常生活に溶け込んでいる場合もあるわけで、それが物質化していれば新商品や新製品となって一時的に世間の話題となっていた時期もあるだろうし、制度化や慣習化していればその制度や慣習を伴った動作として日常生活の中で定着しているだろうが、その一方でそれらと入れ替わりに使われなくなった商品や製品があるかも知れないし、利用されなくなった制度や廃れてしまった慣習もあるかも知れず、それらが入れ替わりつつある過渡的な時期というのが現状で進行しつつある変化を体現していて、それを人々が実際に体験しつつあるのに、結果的には良くも悪くもどちらでもあるようなないような、どちらか一方であっても困ったり困らなかったりするようなことでもあり、実際に使われなくなりつつある商品や製品や制度や慣習に関わっている人や集団からすれば、場合によっては死活問題となる反面で、これから使われるようになりつつある商品や製品や制度や慣習にも関わっていれば食いっぱぐれがないわけだが、もちろん使われなくなりつつある商品や製品や制度や慣習に対して、いかに見切りをつけるかについて、そのタイミングをどう見極めるかがよくわからないところでもあるだろうし、本当に廃れてしまうのかどうかがよくわからない時点に常にいるようなら、どう判断すればいいのか迷ってしまうだろうが、そういうところで沈みつつある泥舟にいつまでもしがみついていると、手遅れになってからパニックに陥るかも知れないが、実際にそうなってみないことにはわからなければ、これから多くの人や集団がそれを体験することになるかも知れず、そうなった際になるべくなら犠牲者の供養塔に自身の名前を刻まれるのは避けたいところだろうから、さっさと見切りをつけて沈みかかった泥舟から降りるに越したことはないわけだが、そうなると今度は何が沈みかかった泥舟なのかがよくわからないわけで、できればそれが何なのかがすぐにわかる方法を知りたいわけだが、それも知らない人が大勢いるから沈みかかった泥舟になるのかも知れず、多くの人々を道連れにして沈まないと泥舟の喩えとして話が成り立たず、そこで泥舟にさっさと見切りをつけて難を逃れた少数の人たちがうまく立ち回った成り行きにならないと、話としてはどうでもよくなってしまうから、そんな成り行きになるようなこと自体が危機的な事態だろうが、実際に変化が起こる前後で人々の変わらぬ日常生活が維持されるようなことであれば、大したことはないわけだが、その過程で多くの人が入れ替わっていれば、途中に生死を分ける分岐点があり、そこで実際に命の選別が行われたことになるのだろうが、今もそれが行われつつあるとすれば、何かのきっかけからある日を境にして見かけなくなった人も大勢いるのかも知れず、それが伝染病の類いに罹るか罹らないかならわかりやすいが、まさか商品や製品や制度や慣習などによって選別が起こるとは誰も思わないだろうが、それらが複合的に絡み合っているようだとわかりづらく、誰もその変化に気づかずに日常生活を送っているうちに、ある日何気なく犠牲者の供養塔に目を向けると知っている人の名前が刻まれているのを発見して愕然とするかも知れないが、自分がそうなってしまえば、気づくも何も名前が刻まれた時にはもうすでにこの世からいなくなっているわけだ。


2月16日「地上の楽園」

 求めている物事に対して抱く好意的な幻想が、同じ物事の否定的な面を覆い隠してしまうのはよくあることかも知れないが、その際に不可能なことをできるかのように夢想しているわけではなく、意識がその種の幻想や夢想からなかなか離れられないのは、あるがままの現実を見ていないからではなく、そんな現実の中にイデアとして物事の理想像を見出そうとしたり、現実が自分の都合のいいように変化する姿を想像してしまうからだが、実際には自らの都合のいいように現実が変わるわけではなく、求めている物事を思い通りに変形できるわけでもなければ、すぐに期待が落胆へと変わってしまうわけでもなく、いつまで経っても一向に実現しない期待を胸に抱きながら、思い通りにならない現実の中でひたすら耐え続ける自らの姿を不憫に思うわけでもないが、それでもまだ期待を裏切られるような出来事に遭遇できないばかりか、あからさまに期待が裏切られるというよりは、求めている期待値には遠く及ばない中途半端な現状がもたらされているように思われること自体が、そもそも勘違いなのかも知れないが、何をどう感じてみてもその感じ方自体に自信を持てないのは今に始まったことではなく、自信を持ってこうだと断言できないようなことばかりを体験しながら今に至って、そんな自らの感覚や感じ方やそこからもたらされる認識に疑念を抱きながらも、疑念を拭い去れないからこそ、慎重に事を運ぼうと強く意識しているわけでもなく、それ以前に未だ目標へ向かって出発さえできない現状に苛立つこともなく、ただ無為に時を過ごしている事態に慣れきってしまっているようにも思われるが、そんな状況から一歩も外へ踏み出せないからといって焦りを感じることもなく、それが現実の自分にもたらされている状況だとは夢にも思っていないだろうが、そんなふうに言葉で構成されたフィクションに自らの境遇を当てはめようとすると、思いつく限りで想定される現状の可能性がことごとく裏切られてしまうわけで、気まぐれに書き記しつつある言葉の連なりから読み取れる状況が現状から逸脱して、その内容がそれほどあらぬ方向へと暴走しているわけでもないが、その想定をわざと当てが外れるように仕向けているわけではなくても、自らの意向を無視していい加減なフィクションが勝手に構成されてしまうはずもないにしても、事前に求めている期待値からすれば、そうなって当然のような現実に遭遇したいわけで、それだけにある程度の落胆がもたらされるのも想定内であるとしても、その落胆に中途半端な刺激を受けるから、それに反発してあり得ない現実の理想像が想像されてしまい、そんな想像上の現実の理想像の周囲を旋回しながらさらに言葉が繰り出されるから、そういう内容で言説が構成されるのが当然のことのように感じられる言葉の連なりから受ける印象としては、また馬鹿なことを言っている程度の内容で妥協しなければならなくなって、何かそれが現状の世界について語っているようには感じられないのと同時に、現状の世界から受ける刺激がそれに対する落胆とも憤りとも受け取れるような言説の内容をもたらすのだろうが、そんな言説を弄して何か述べているつもりになっている人たちが現実に存在している世界と、今ここにある世界が地続きであることを疑っているわけでもないだろうが、かつて誰かによって地上の楽園が海を隔てた北朝鮮の地で実現されていると言いふらされていたかも知れないが、誰が自らの住んでいる国を地上の楽園に作り変えようとしているわけではなく、少なくとも楽園だとは思っていないわけで、楽園でなくても構わないが、地上が楽園のようになった姿を思い描くことはできるし、それが身勝手な夢想に過ぎないこともわかっているはずだが、どう考えてもそうではない現状の中でそんな夢想を抱くことができるわけだから、夢想が実現困難であることも承知しているだろうし、夢想している地上の楽園と現実の世界がかけ離れていることもわかっていて、何とかしてそのどちらかをどちらかへと近づけようとしているわけでもないこともわかりきったことかも知れないが、中には地上の楽園への夢を捨てきれない人もいるかも知れないし、あわよくば自宅の庭程度の範囲内を地上の楽園に似せて作り変えようと画策している人もいるかも知れないが、それが京都の南禅寺辺りの地面の上で実現されているなら、ハイテク企業のオーナーでもある世界的な富豪の夢想が実現されていることになるのだろうが、果たしてそういう下世話な成り行きから自らの発想を解き放つことができるかというと、無理に解き放つ必要もないだろうし、地上の楽園とはその程度の発想で済むような代物でもあり、そこから発想を飛躍させる必然性などありはせず、もっとそれとは別の方面で発想の自由度を求めた方がいいにしても、それが個人的な夢想に留まらずに、誰もが共有できる公共の夢になってくれば共産主義的な夢想となってしまうだろうが、それを共産主義的な枠内に留めさせようとしても勝手に人々の意識がそこから逸脱していくようなら、もっと何か自由な可能性が想像されて、その自由が経済的な自由主義とは違った方面へと向かうようなら、そこから離れて行ってしまう経済的な自由主義とは違った可能性を模索することができるかも知れず、それが集団的ではないが集合的な実践によってこれまでとは少し違った経済の実現可能性を垣間見せるようだと、それを今流行りのグリーンニューディールなどの流行語と同列に扱うのが妥当かどうかはともかく、場合によっては扱ってみても構わないのかも知れないが、そんなことよりは遥かにかけ離れていると共に、結局は産業技術の可能性の次元に留まるなら、現状の企業活動から出てくる発想になってしまうだろうが、それが技術そのものではなく技術を活かした活動になるように恣意的に持っていくわけには行かないだろうが、自ずからそうなっていくとするなら、少なくともそれが地上の楽園を作るような夢のプロジェクトなどではなく、そういう誰もが共感できるような安易な夢想とは無縁のありのままの現実をありのままにもたらすような成り行きになるかも知れず、それでは現状と何も変わらないように感じられるかも知れないが、現状の変化を体験しつつある意識がその変化を変化だと感じ取れないような変化が現にもたらされていて、それとは違う通常の技術革新やそれに伴って実感する世の中の変化のような変化を変化と認識することが、その変化に伴って生じる好意的な幻想や夢想と共に実感していることだとすれば、それとは違ってありのままの現実をありのままにもたらすような成り行きからどんな実感がもたらされるのかといえば、見かけ上の光景や映像などを美しく見せたり感じさせたりするためのマニエリスムなどのデフォルメとは違い、現実を現実だと実感させるために必要な技術的な工夫となるわけで、それが人が感じ取れる五感の正常化をもたらすなら、目眩し的な幻想や夢想を抱かせるやり方とは真逆なことをやろうとしていて、そのために産業的な技術革新が果たして必要かどうかということも疑わしく思われるだろうが、普通はそれとは逆にその人にとって都合のいい幻想や夢想を見せる方向で技術革新が進んでいるようにも感じられるだろうが、それが感覚の進歩や進化への幻想につながってしまう限りで、やはりそういった目眩しの幻想を打ち破る必要も出てくるわけで、そういう意味でも幻想や夢想とは違った、それを正確に幻想や夢想だと認識できるような技術革新が求められているわけで、あからさまにそれを求めているとは誰も意識できないだろうし、それよりは欲望としても願望としても夢の実現を求めていると思ってしまうわけだが、それがなぜか思っていることを裏切って実践されてしまうではないか。


2月15日「文句が出る事情」

 特にその人が個人的に込み入った事情などを抱え込んでいるわけでもなければ、ある種の社会的な慣習などに囚われた傾向が人の行動や言動を律しているように感じられる限りで、それが弱肉強食というありふれた自然の掟などとは違って、人の社会に共通する傾向を伴いながらその行動形態や思考形態を拘束していて、具体的に何がそうなのかというと、言葉ではうまく言い表せないとなると、それに関する説明がそこで破綻してしまうが、要するに人や集団が何かのきっかけからこれまでとは違うことをやり始めると、それが気に入らない他の人や集団から文句が出てくるのだろうが、文句を言ってくる人や集団にとっては、そんなことをやっていられると困るから文句を言ってくるのだろうが、それがこれまでとは違うことをやれていることの証しでもあり、他から文句を言われるようなことがやれているということが、人の行動や言動を律しているように感じられる社会に特有の傾向からの逸脱を示していて、それが必ずしも個人的な特殊事情から生じるわけでもないとすれば、そういうことをやれること自体が自然にはない人の社会に特有な傾向に含まれるのかも知れず、そう考えること自体も人の勝手な思い上がりに過ぎないとすれば、ただ偶然にそうなっているだけのことでしかないだろうが、それを人がどう感じようと、そんなことはお構いなしにこれまでにはやってこなかったことをやっていられるようなら、そういうことをやっていられるだけの余地が社会に生じていることの証しでもあり、そうであればやれる限りでやっていればいいのだろうが、それに対しては当然のことながら、これまでと同じようなやり方を繰り返している人や集団からは文句が出てくるだろうし、そういうところでは何かと波風が立って風当たりが強いだろうから、折り合いがつく範囲内でそういった文句にも対応しようとしても、無理に対応する必要もないと思われるところが、これまでとは違うことをやれる余地でもあり、これまでと同じようなことを繰り返している人や集団から出る文句に全て対応しようとすれば、何も新しいことができなくなってしまうから、対応できないところがある方が新しいことができる可能性を保持していることになり、その点に関してこれまでと同じようなことを繰り返している人や集団と何かこれまでにない新しいことをやろうとしている人や集団との違いが出てくるわけで、そういう意味では旧守派的な人や集団から文句が出るようなことをやる必要がある限りで、そういう面での改革への可能性があり、それをやることが必要だと思われるところがそこで改革しなければならないところにもなるわけだが、旧守派的な人や集団がそれをやらせないように妨害してくると、そこがやろうとする側とやらせないように妨害してくる側とで利害が対立しているところとなり、そこで妥協や譲歩の余地がなければ直接戦うことになってしまうだろうが、戦わなくても済む方法を見つけられるなら、対立する双方が歩み寄って妥協や譲歩の余地を模索することにもなり、しかもそれが現状を改革する余地でもあれば、必ずしも戦わなくても妥協や譲歩によっても改革が可能であることが明らかとなってくるかも知れないが、それを改革とは言わない場合もあるだろうし、これまでにも同じような妥協や譲歩を繰り返して代わり映えのしない現状に至っていれば、それこそが同じことの繰り返しのように思われて、そういうことを繰り返す成り行きが慣習として社会に定着しているなら、それが社会の中で人や集団の行動や言動を律している傾向だと言えるだろうが、実際にそういう成り行きを通して現状の改革が阻まれてきたのかというと、そこに同じことの繰り返しだとは言えない面もあるなら、そういう成り行きを通して少しずつでも現状の変更が行われてきたのかも知れず、それがはっきりとわかるような変化とは認識できないから改革とは言わないのかも知れないが、そうやって妥協や譲歩によってでも対立を乗り越えた時点で何かが変わっているとすれば、そういう意味でまずは対立を回避するのではなく、実際に対立してみてからその対立を乗り越えるような試みが求められていて、それが誰によって求められているわけでもなくても、世の中が変わるにはあえて対立を避けないこととその対立を乗り越えることが求められていると解釈しておけばいいのかも知れないが、そういう成り行きへと持っていくにはまずは対立を表面化させないと対立自体が起こらないわけだから、他から文句が出るようなことをやらないとそこで何と何が対立しているのかもわからないわけだが、それがわかるのがやっていることに対する不平不満でもあり、その不平不満をどうにかしようとすることが現状の改革に結びつけばいいわけだが、逆に不平不満を抑え込むことが一見改革に逆行するように思われるかも知れないが、それが抑えきれなくなるまで不平不満を増幅することにつながるなら、実際に抑えきれなくなって不平不満が一気に爆発する機会を狙って改革を断行するような戦略も可能かも知れないが、そうなると単なる改革ではなく革命になってしまうだろうし、それに起因して暴動などが起こって社会全体が取り返しのつかない痛手を被るようなら、もはや改革どころではなくなってしまうかも知れないが、改革には成功も失敗もつきものであり、成功している面と失敗している面との差し引きがプラスであってもマイナスであっても、そういう成り行きが繰り返されながら現状に至っているとしたら、絶え間ない改革の繰り返しによって現状がもたらされていると解釈できて、別にそういう成り行きが変わらぬ慣習として社会に定着しているのではなく、変わらないのではなく変わり続ける社会の流動性を示していて、一方に変わらないことの象徴として慣習があるなら、もう一方には変わり続けることの象徴として改革があり、どちらの面も社会には備わっていることになるはずだが、結局はその場の状況や情勢に合わせて、またそこに関わってくる人や集団の立場や境遇に合わせて、ある時には改革を断行しようとしたり、またそうした成り行きに抵抗して慣習を守ろうとしたりするのだろうが、その際の人や集団の都合に応じて対立がもたらされて、対立するどちらの陣営につくかの選択を迫られたり迫られなかったりするとしても、そこで対立の争点となっている物事が何なのかがどうでもいいことであれば、対立などにリアリティーを感じられないわけだが、それが実際に対立している当事者たちにとっては重大で深刻なことであるなら、その重大さや深刻さ自体がフィクションに基づいている可能性があるわけで、その最たる事例として宗教的な信仰が挙げられるだろうが、それが実生活の中で深く根付いているような慣習を伴っていると、部外者には想像できないような力や影響力も生じてきて、そこから社会全体がこじれてくることにもなり、それが高じるともはや修復不可能な対立が生み出されるわけだが、そこまで行かないうちに何とかしなければならないとしても、すでにそうなってしまった国や地域ではそうなっていることが織り込み済みの現状がもたらされているから、そうなっていることを前提として人も集団も活動しているわけで、そういうところを改革しなければならないと思っても、実際に改革しようとしている人や集団もいるだろうが、簡単にできるようなことではないのは当然であり、そういった改革に取り組むこと自体が重大で深刻な事態をもたらすわけだが、そういった不条理にも思われる傾向が顕在化しているとも思われないとしても、そんなこととは無縁な国や地域の中で暮らしているつもりであっても、すでにそれが織り込み済みの当然視されているような物事の中に、それに関わっている人や集団の気づかないところで、その人や集団の行動や言動を律している何かがあるのかも知れず、そこに改革が困難な慣習の類いが絡みついていて、思考や意識や動作がそれに囚われている限りで、それに関わっている人や集団も信仰というフィクションに操られているような事態を招いているのではないか。


2月14日「理解できるという思い込み」

 世の中で理解可能なことが起こっているから、それについて語ろうとしているのではなく、逆にわからないことがあるからそれについて語りながら理解しようとしていて、理解しようとする思考と言説を構成する作業が連動しているわけだが、だからその途中ではそれを理解していることにはならないばかりが、語り終えても理解したとは言えず、言説を構成しながら理解しようとしている途上にあるわけで、言説の中で語っている対象を理解し切れていないから、さらにそれについて考えているはずだが、それの何がわからないのかというと、そもそもそれが何なのかがわからないのであり、言説の対象自体を思考が捉えきれていないわけだが、しかも捉えきれないまま、見切り発車的に言説を構成する作業を進めてしまっているわけで、それが何だかわかっていないのにそれについて語っているという矛盾に満ちたことを行なっているから、いくらそれについて語っても理解するまでには至らないのかも知れず、完全には理解できないから言説を構成する作業にも終わりがやってこないし、未完成のまま途中で打ち捨てられて、何を語っているのかよくわからない内容になってしまうわけだが、ではそれが何なのかがわかればいいのかというと、わかったところで語っている対象がそれとは違うかも知れないし、それについて語っているつもりがそれとは違うことを語っている可能性もあり、的外れなことを述べているようなら、自身が何を語っているのかよく理解していないことになってしまうのかも知れず、そういう意味では自身が理解していない物事について語ることができるわけで、それについて語れるからといって理解しているとは限らないことになってしまい、それを理解しようとする思考と言説を構成しようとする作業との間に背離が起こっているにもかかわらず、それについて語っていることには変わりないわけだから、それについての理解とは関係なく言説が構成されても何ら不思議ではなく、理解できないからこそ、疑念を抱いている当のそれについて語ろうとしてしまい、そうやって語っているうちに、逆に自身に理解させないように言説を構成していることにも気づかなくなってしまうのかも知れず、それに気づいていながら意識してそんな言説を弄しているならもはや確信犯だが、そういった言説を真に受けると誤った理解へと導かれてしまうから気をつけなければならないとしても、そこで何を理解させないようにしているのかといえば、もちろん語っている対象を理解させないようにしていて、簡単に言えば巧みな弁舌で人を煙に巻いて物事の真の理解を妨げているわけだが、そうなると真の理解とは何かといえば、少なくとも巧みな弁舌によって誤った理解へと導かれていることに関して、それを自覚できないようにされているということであり、それを自覚できないから物事の真の理解に到達できないと考えれば納得できるかも知れないが、果たして本当にそうなのかといえば、それが怪しいように感じられて何かごまかされているような気がするなら、とりあえず真の理解などない代わりに、偽りの理解ならいくらでも可能となり、それを言説による説明を通して理解しようとすると、たちまちフィクションの要素が入り込んできて、偽りの理解へと誘導されてしまうと考えれば、そこで何が偽りになるのかというと、言説を弄する人の意図や思惑であり、その人の都合がその意図や思惑には含まれていて、その人の都合が他の人たちの都合と合わなければ、それがその人だけを利するための都合であり、そうなるとその人だけを利するために他の人たちを利用することになるから、他の人たちがその人に騙されていることになるのだろうが、その人にも騙している自覚がなければ、その人自身が自らが語っていることの意図や思惑を理解していないことにもなり、良かれと思って他の人たちを言葉巧みに導いているのに、それが結果的に他の人たちを利用してその人を成功に導くようなら、別にその人が自覚なき詐欺師というわけでもないだろうが、なまじ他人を利用していることを自覚してしまうと良心の呵責に苛まれて思い切ったことができなくなってしまい、それがその人の成功を阻んでしまうようなら、人が良すぎるのも考えものだと言えて、そういう意味では人に利用されてしまう人はお人好しであるばかりか、真の成功者は人を利用して自分がのし上がってきたことを自覚できない鈍感さを持ち合わせている必要がありそうだが、そうやって他人を踏みつけたり踏み台に利用しながら成功した人が、それを批判されたり非難されると、そんなつもりはなかったと反論したくなるのもよくわかることでもあり、そうであるなら何でもかんでも理解すればいいということではなく、自分にとって都合の悪いことはあえて理解しない方が身のためだと言えるだろうし、そういうことが勘として身についていれば、たとえ他人に対して配慮の欠ける振る舞いを度々やらかしても、不思議とうまく立ち回っていることになり、そういうことを平気でやっている人の方が、他人を気遣って遠慮ばかりしている小心者よりは出世できる可能性が高くなるかも知れないが、そういった傾向の立身出世という成り行きが世間的には必ずしも好意的に受け取られるわけでもなく、むしろ憎まれっ子世に憚る的な否定的な受け取られ方をされるとしても、成功した者勝ちであることに変わりはなく、他人を気遣って遠慮ばかりしている小心者には自己肯定感が欠けているから、そんな人は世の中にいくらでもいるのにそれらの人たちが一致団結して人を踏み台にしてのし上がってきた成功者に歯向かうことなどしないばかりか、逆に成功者の口車に乗せられていいように利用されて、さらにより大きな成功を収めるための食い物にされてしまう場合もありそうで、そうであるならその種の成功の裏には無数の食い物にされてしまった愚かな小心者の屍が堆く積み上げられていることになるわけだが、果たしてそんな比喩が現状の世の中で活躍している成功者の誰に当てはまるかは、誰の想像にまかせられているわけでもないが、たぶん理解できないことは他にもいくらでもありそうで、それが理解する必要のないことであるのはもちろんのこと、理解されてしまうとまずいことであるなら、無理に理解する必要もないわけだが、それを理解しておいた方が身のためだと思うなら、理解したくなってしまうだろうから、そんなことを理解されてはまずいから理解させないように仕向けられていることであるとしたら、少なくともそれを理解しておいた方が身のためだと思っている人がいれば、その人はそれを理解しているつもりになっているはずだが、その理解しているつもりになっているそれこそが、たぶん勘違いの原因になっていて、そんな勘違いに基づいて世の中を理解しているつもりなっているからこそ、逆に理解しているつもりの世の中に騙されているのではなく、その人の都合のいいように世の中を理解していて、そんな都合のいい世の中の理解に囚われていると、それと同時に都合の悪い世の中の理解に関しても理解しているつもりになれて、その人の理解の中では世の中には都合のいい面と悪い面があることになるわけだが、それがその人にとっての判断基準であり、その人にとっては都合のいい面と悪い面を境にして世の中が真っ二つに割れていると思われるわけで、それがその人にとっての世の中の理解できる特性であり、そういう思い込みに囚われている限りで世の中にはいい面と悪い面とがあることになり、どちらでもあったりなかったりする曖昧な方面の理解が欠けていると共に、人によっても状況や情勢によっても良し悪しの判断基準が揺れ動いていて、その程度の強弱なども変化していることに気づけなくなってしまうのかも知れず、そういう意味ではその人の良し悪しの判断基準こそが世の中を理解する上で妨げとなっている可能性があるわけだ。


2月13日「認識のいい加減さ」

 それを切実に感じるかどうかという点に関しては出来事が起こっている地点からの距離に比例して感じ方の程度が違ってくるかも知れないし、唐突になぜそんな話題について語るのかは謎だが、例えばウクライナ情勢と日本の情勢がどうつながっているのかも、事情通でもない限りはうまく説明できないだろうが、最近の世界情勢が以前とは様変わりしているとも思えず、以前がいつなのかもはっきりしなければ、その辺がいい加減な認識なのかも知れないが、世界を覆っている資本主義市場経済の中で、金銭的な利益がどこへと吸い寄せられているかといえば、世界中で商売を展開している大企業へ向かって吸い寄せられているはずで、それに関連して日本で賃金が上がらないのは、大企業が金銭的な利益を吸い取っているから中小企業で働いている人の賃金が上がらないと単純に考えても構わないような気がするのだが、穀倉地帯のウクライナでも日本と同様ではないにしても賃金が上がらないのかというと、ウクライナ情勢に関してはそういう問題ではなく、ロシアから支援を受けたロシア系住民がウクライナから分離独立を目指していることに関連して、ロシアからの軍事侵攻の危機に直面していることになっているはずだが、それも単純に考えるとロシア系のファシストとウクライナ系のファシストが対決している構図が浮かび上がってくるが、それとは全くの無関係に見えるが日本にも大阪方面には維新系ファシストがいる一方で、全国的には自民党系のファシストもいるから、ファシズム流行りなのは世界共通かも知れず、もちろんアメリカにもトランプ系ファシストがいるし、ヨーロッパでもネオナチのようなファシストが各国に一定の水準で蔓延っていて、さらにアジアやアフリカなどで最近頻発している軍事クーデターなどもファシズム的な傾向を伺わせて、それらが世界を覆っている資本主義市場経済と連動しているように感じられるかも知れないが、それと共に政府の官僚制とも連動しているように感じられるのは、今の中国と共に戦前の日本帝国を思い起こせば納得できるかも知れず、日本帝国が経済的には数個の財閥支配と共に成り立っていたことが、現在の世界では経済的にはアメリカのGAFAMなどの巨大企業による寡占支配の脅威に直面していることからも、似たような構図を想像できるが、経済的に貧富の格差が広がれば自動的にファシズムの勢いも増してくると状況を捉えると合点がいくように思われるだろうが、果たしてそんないい加減な認識で構わないのかといえば、ある程度の歴史的な類似性はあるものの、流行った時期においても地域情勢などに関してもそれなりの違いがあって、一概に全てをファシズムのせいにはできないというよりは、全てを大企業による経済的な支配のせいにもそれと結託したファシズム政党や政府の官僚制のせいにもできないにしても、それら全てが連動して世界的な政治や経済の流行を作り出しているとも言えるかも知れず、それを日本だけの問題として、しかもさらに部分的に日本の中小企業で働いている人やパートタイム労働者の賃金を上げることができるかと問題を切り取って考えているわけだから、そういう問題の切り取り方自体がかなりの無理を生じさせていると思われてしまうが、そこで政治的にやろうとしていることが少数政党の机上空論に基づいたままごと遊び程度に捉えられているなら人畜無害なことであり、どうぞ勝手にやってくださいと無視されながら放置される対象にしかならないかも知れないが、結局は部分的かつ限定的に応急処置程度のことしか政治の場ではできず、根本的な解決など不可能かも知れないが、応急処置程度のことをやりながらここまでやってきたのであり、しかもこれからもやり続けなければならない宿命であれば、それを少数政党の机上空論だと馬鹿にするわけにもいかないだろうし、政治だけに期待するのではなく、政治の場だけでやり遂げられるわけでもないと考えるなら、それと連動している各方面への働きかけも同時並行して行なっていかなければならず、いかに人件費を削って利益を上げるかを競い合っている企業に向かって賃上げをお願いするだけでどうにかなるとは思えないのはわかりきったことだが、他から及ぼされる様々な作用や影響を受けながらそんなお願いが出てくるわけで、それも氷山の一角として顕在化している部分的な出来事の一コマだと事態を捉えておけばいいわけだが、なぜそこで根本的な解決が不可能なのかといえば、人為的にできることを遥かに超えて自然から作用や影響が及ぼされているからで、そんなふうにして作り出されている物事の成り行きの中では何をどうすればいいのかという問い自体が無効だろうし、問うのではなく実践へと向かうわけで、そういった根本的な解決にはならないにしても部分的で限定的な実践だともいえないような試みが、ファシズムの側から出てくる実践としては戦時統制経済があり、実際に戦争すればそうなるより他ないわけで、それを戦争を回避しながらやるとなるとケインズ主義やニューディール政策になってくるわけだが、それもかつては第二次世界大戦の進展と共に戦時統制経済へと合流して、ファシズムと表裏一体化していた面もあったわけだが、そういった統制経済的な傾向を含む試みとしてベーシックインカムの実現を訴えるような主張もあるにしても、それも現代的なファシズムの一環だと見なせばファシストがベーシックインカムの実現を主張するのも頷けるわけだが、本来ならそういった統制経済的な実践への批判として出てきたのが新自由主義であったわけで、それも統制経済的な実践が一方にあるからそれへの批判として主張できることであり、統制経済にしても新自由主義にしてもそれ単体で成り立つようなことでもないわけだが、それを一方的に批判する側に立つなら、どちらか一方だけ批判できるというご都合主義も成り立っているように見えて、そうした偽善的な態度を維持するには政治的な主導権を握っていない反主流派的なスタンスも維持する必要もあるだろうが、そんな反主流派が何かのきっかけから主流派に転じて政治的な主導権を握ってしまうと、それと自覚することなく自分たちがそれまでに批判してきたことをやる羽目になり、そうなるとまさにブーメランが突き刺さるわけだが、そういう成り行きを循環的に繰り返してしまうから、そういう意味でも根本的な解決は不可能なわけだが、不可能であってもそれをやる順番が巡ってくればやるしかなく、主流派へ投げつけた批判のブーメランが自身へと戻ってきて突き刺さりながらも、主流派として実践する順番が巡ってくれば統制経済的な試みを政府の官僚機構を利用しながらやろうとして、それが行き詰まればそこから反転して新自由主義的な規制緩和へと舵を切って、またそれに行き詰まれば性懲りもなく統制経済的なことをやろうとして、そんなことやっている過程で主流派と反主流派が入れ替わって政権交代が度々起こればごまかしが利くかも知れないが、日本や中国のように一党独裁的な体制になってしまうと、うまくごまかせずに政治的にも経済的にも慢性的な停滞に陥ってしまうのかも知れず、時期的にも時代的にも今の日本がそうなっている最中かも知れないが、中国でも今後そうなる可能性が高く、何が何でもそうなるのを回避するには政権交代が必要なのかといえば、そういうわけでもないのが日本の今の現状を示しているだろうし、日本程度の国であればファシズムの程度も他の国に迷惑をかけない程度に済むかも知れないが、かつては大日本帝国として東アジアの覇権を一時的に握っていた時期もあったわけだから、夢よもう一度とファシストが野望を抱くのも無理はないのかも知れない。


2月12日「用法の違いと目的の変化」

 以ってと持っての違いに用法の違いがありそうなのは薄々わかっているはずで、その間違いやすい用法としては利用することに近いだろうが、わざと使用する漢字を間違えながらも、目的意識を以って何をやろうとしているわけでもないが、それを知らないはずがないのだから、ただしらばっくれているとも思えず、その取っ掛かりの段階では意味を知っているはずなのに、きっかけと同じ意味で取っ掛かりがつかめないのは、それをどう捉えたらしっくりくるのかよくわかっていないからだが、目的を以って取っ掛かりを掴もうとしていると解釈すれば、目的を持つこととその目的を利用することが違うとは思えないが、混同しているのはそういうことではなく、意味の混乱を用法の混同に移行させながらも、たぶんそれが間違っていることを自覚しつつあり、間違いながらもそれで構わないような成り行きへと持っていきたいのかも知れず、それが何を意味するわけでもないだろうが、気になるのは語っている内容が空疎であるからに違いなく、首をひねらざるを得ないようなことを語るには、すでに語りつつあることの無根拠さを自覚することが肝要なのかも知れないが、そこに記されたわけのわからない言葉の連なりから類推するなら、うまく道を踏み外したつもりになって、実際には階段から転げ落ちてしまうようなことかも知れず、そういう成り行きを比喩として伴いながらも、語りたいことはしっかりと把握しているわけで、言葉の用法の違いと共に顕在化してくるのが、戦略の違いでもあり、それを戦術の違いだと勘違いしないようにするには、直接戦争を起こそうとすることとは違う方面で戦略が発動していると情勢を捉えておいた方がいいわけで、それを意に解さず実際に直接武力を用いて戦闘を開始してしまえば、そうやって暴力に頼っている側が戦略など無視していることになるが、それでも戦略が発動していることに変わりなく、そんな戦略的な振る舞いが何を招くかというと、それが後々わかってくれば、わかってきた段階でわかってきた内容に沿ったことを指摘すれば済むはずだが、それをその段階で言い当てようとしても当てが外れてしまい、実際に戦略を発動している側でも自らの意図や思惑を完全には理解していないわけで、それが何だかわからないが、とりあえず戦略的な姿勢や態度で事を進めているつもりではいるのかも知れないが、はっきりしたことはその段階では言えないから、現状で言えることだけ言うことになれば、不完全で不確実なことしか言えないはずで、今の段階ではそれで構わないと思うしかなく、逆にはっきり言おうとしてしまうと、あらぬ妄想を伴った陰謀論となるしかないだろうし、またざまあみろとかそら見たことかとかブーメランが突き刺さるとかのルサンチマンに囚われた言動を弄する愚かな人たちは蚊帳の外で相手にされていないと見なしておけばいいわけで、そういう意味で目的が事前に形成されることもあるだろうが、その場の成り行きの中で当初はよくわかっていなかった目的が徐々にピントが合うようにしてはっきりと見えてくることもあるだろうし、さらにいくら事態が進行しても全く見えてこなかった目的が、成り行きの最後の方になってから事後的に見えてくる場合もあり、そうなると事前にわかっていた目的と途中の成り行きの中で見えてくる目的と一通り事態の収拾が図られてから見えてくる目的がそれぞれに違っている場合もあるかも知れず、それらの中でどれが真の目的なのかといっても、その場の状況や情勢や成り行きに応じて目的も変化すると捉えておいた方がいいのかも知れず、そこで戦略としてはっきりとした目的を定めていない場合もあり、特に目的もなくその場の状況や情勢や成り行きに沿って事を進めていくと、その時の状況や情勢や成り行きに応じた目的が事後的に見出されてくればそんな気がしてしまうわけで、それが必ずしも事前に抱いていた目的と一致しなくても結果オーライな感じがする限りで、後から出てきた目的と共に活動してきたような気になってしまうから、そうなれば事前に抱いていた目的などどうでもよくなるわけでもないが、事前の目的と途中の目的と事後の目的が一致しないまま矛盾を抱え込んでいるように見えるとしても、当事者にとってはそれで構わないわけで、現状の活動が成り立っている限りで織り込み済みの経緯や事情があり、しかも一見現状の活動実態と矛盾しているような目的が過去の活動の中に盛り込まれていたから、その反動として現状があるようなことになっている場合もあり、そんなふうに過去との隔たりが大きければ大きいほど、過去との訣別によって生じるインパクトも強烈に作用してきて、それだけ過去から現在へと進化してきた度合いも凄まじくなり、余計に現在の成功を物語る挿話として打ち捨てられた過去の目的が要石として機能してくるのかも知れないが、それを過去の失敗から得られた教訓だと見なせばわかりやすいものの、実際に痛い目に遭って絶望のどん底に突き落とされてそこから這い上がってこないと実感できないようなことになれば、実際にどん底から這い上がってこれなかった人もいくらでもいるような状況の中で、唯一その人だけが這い上がってきたような凄まじい感じになるかも知れないが、そんなふうに事を大げさに捉えたところで当てが外れる場合もあるだろうから、そういった過去の経緯は眉唾程度に見ておいて、いくら過去と現状との間に整合性のつかない矛盾が横たわっていても、そこから過去を必死な思いで乗り越えて現在があるわけでもなく、現状の活動が成り立っている限りでそういった矛盾をことさらに強調する必要もないのかも知れず、それに関して妥協的な捉え方をするなら、過去のある時点と現時点とでは目的でもその用法が変わってきていると見ておけばいい程度のことであり、事前に抱く目的と途中で出てくる目的と事後的に見えてくる目的とでは、その用法が違うわけで、それが事前に抱く目的であれば、行動を起こすきっかけとして必要であり、取っ掛かりになるような目的がないと何も始められないから、とりあえずこじつけ気味でも構わないからいい加減な目的を設定しておいて、その目的に向かって努力しているような体裁を整えたいわけで、それが後になって活動内容との間で矛盾をきたすとしても、その時点ではとりあえず目的が必要だったから、それを目標に掲げながら努力しているように装っていた時期もあったのだろうが、やり進むにつれてそれだけでは済まなくなってくると、新たな目的が必要になってきて、それと共に軌道修正も伴ってくれば、だんだんと当初の目的から逸脱してくるわけで、しかもそういう逸脱や軌道修正が伴わないとうまくいかなくなってくるからそうせざるを得ないわけだが、そうなってしまった時点でいったんは当初に抱いていた仮の目的を捨て去る必要に迫られるわけで、そこで目的にこだわってしまうと失敗するしかなく、失敗を回避するには目的を捨て去る必要があるから、当初の時点で大げさで高邁な目的を掲げてしまうと、それを捨て去れずに目的と共に自滅するような事態を招いてしまうかも知れないが、実際にそうなってしまう人や集団もいくらでもいるのだろうが、中にはうまく軌道修正ができて当初の目的から逸れてしまう人や集団も出てくるのかも知れず、それも逸れようとして逸れるというよりはその場の状況や情勢や成り行きに沿ったことをやっているうちに自然と逸れてしまうようなことになれば、それこそが結果オーライだと言えるかも知れないが、そんな成り行きを経て結果的に成功する人や集団が出てくると、成功したという事実に基づいて事後的に目的が導き出されて、それが成功するためには何をやればいいかという結果から求まるような正解にも結びつくわけだが、それが同時に原因と結果の取り違えも含んでいるから、そんなふうに結果から語る言説がもっともらしく思われるにしても、それを真に受けるのも浅はかなことかも知れず、そういうところで大抵の人が納得してしまうのを尻目に、待てよと疑いの眼差しを向けておくことも肝心であり、それが間違っているとか騙されてはいけないということではなく、その用法として事前と途中と事後では目的にも変化が生じていることに着目して、それに応じて目的の用法ごとの使い分けにも配慮しておくことが肝要なのではないか。


2月11日「途中経過」

 何か目的があってそんなことをやっているなら、その目的に応じてやっていることが他から共感を呼んだり賛同を得たり批判や非難を浴びることも興味も関心も引かなければ無視されることもあるかも知れないが、目的が定かでないまま、まるでジグゾーパズルのように何かと何かを組み合わせて何かを構成しているつもりになってみたところで、そうやって構成された何かが何らかの効果を発揮していることを確認できれば、それが意図しなかったことだとしても、パズル合わせの類いに取り組んだ甲斐があったと思うかも知れないが、得るものが何もなければただの無駄骨に終わったことになるかというと、そこへ至る過程や成り行きの中で何かを掴んだ感触を得られるなら、それがそこで得られた収穫だと思っても構わないのかも知れず、少なくとも何かをやればやった分だけそこから別の水準や次元へと移動したことになり、同じ場所でそれをやっていても、やっている間に時間が経過している分だけその場の状況が変化しているはずだが、何をやっても何も変わっていなければそれに気づいていないか、あるいは本当に何もやっていなかったことになってしまうかも知れないが、外部からそこへ作用や影響を及ぼしてくる様々な力が打ち消し合って相殺されて、互いの力が拮抗している中で何かのバランスが保たれていれば、そこで何らかの均衡状態が出現している可能性もあるだろうが、そう都合よく諸力のプラスマイナスがゼロになるわけでもないだろうし、探せば反応の過程で出てきた残り滓や痕跡のような残存物などが見つかるはずで、それを探し出してそれを基にしてそこで起こっていた現象を推測したり想像して、それを言説の中で表現して提示することができれば、それが何かそれらしい結論のように思われて、得られたそれが何を意味するとしても一概には言えないような内容であれば、それを無理にわかりやすく表現しなくても構わないのかも知れず、何だかよくわからない結果を得られたことにしておけば、そこから何とでも言い逃れができそうな気がする分だけ都合が悪ければ後から修正が利くかも知れないし、逆に一方的にわかりやすいことを言ってしまうと、引っ込みがつかなくなって、後からそこでは言及されていない方面から一方的な言説内容にとって都合の悪い物事の多面性や矛盾などが出てきてしまうと、それについての説明やそれへの言及が不完全で不十分であったことが明らかになって、さらにそこから言葉を付け足す羽目に陥ってしまうかも知れないが、そういった言説を弄する作業も含めてそこで起こっている現象であり、それについて何か言いたいことがあるなら、まだ解き明かされていない謎があるからそれについて言及しなければならなくなり、それを謎だと気づいていなくても、言いたいことを言っているつもりでいても後から言い足りないことがいくらでも出てくるようなら、まだその現象がその先へと続いていて、それを説明する言説にも続きがあると思っても構わないはずだが、そこからどう続けるかでその後の成り行きも変わっていくだろうし、物事の途中の段階でその行く末や行き先が決定しているように思われても、それが思わぬところから覆される可能性を信じないと、その先に続けられなくなってしまうかも知れないが、信じたところでどうにもならなければそこで諦めるしかなく、一般的には諦めたらそこで終わりとなってしまうだろうが、そんな自らの思いとは関係のないところで事態が進行中であるなら、それが思わぬ結果をもたらして、そこで起こっている現象を説明しようとしても、その現象が起こった結果から結論を出そうとする成り行きに意識が囚われてしまうこと自体が、自らが繰り出そうとしている言説そのものから生じている罠なのかも知れず、その罠にハマって何やら利いたふうなことを語ってしまうと、それを覆すようなことが後から起こって、そこで利いたふうなことを語ってしまった当人に復讐を果たすわけで、そんなざまあみろ的な嘲りの言葉が他の誰の口から出てくるにしても、条件反射的にそういうことを口走ったり書き込んでしまう浅はかな輩というのも、その場の現象に囚われていて、まだその続きがあることを知り得ない連中に他ならないわけだが、そこから否応なく事態が進展して、現象の途中の段階で何やら結論めいたことを口走ってしまった連中を置き去りにしながら更なる思いがけない展開がその先へと続くなら、そうなるのが当たり前のこととして不確実な未来へと続く成り行きに心身が囚われていると思うしかないだろうが、場当たり的に次から次へと何か事態が進展する度ごとに、その途中経過を結果と見なして、その結果と見なした途中経過に基づいて利いたふうなことを語る輩も次から次へと出てくるかも知れず、そんな輩の主張には論理の一貫性が欠けているとしても、それを真に受けて右往左往しているうちに心身を消耗して財産を消尽してしまう愚かな人も大勢出てくるかも知れないし、そういう浅はかな人たちを食い物にしながらも事態が進行したり、それらを嘲笑いながらも思わぬ展開を見せるわけだから、それも途中の挿話に含みながら事態が進行中だと見ておくしかないが、肝心なのは現象には終わりがないということであり、結果や結論がその途中経過の中で示される限りで、それが本当の結果でも結論でもなく、それらを含みながらも時にはそれを裏切るようにして現象が続いていくと見ておけばいいだろうが、だからといって無限の可能性が未来に向かって開かれていると見なしてしまうと、取り止めがないように感じられるから、その場その時の状況や情勢を見ながら機会を捉えてとりあえずの結果を仮設して、そこで一区切りつけて結論を示さなければならなくなるだろうし、それがその先のある時点で覆されたり裏切られるとしても、そうなればそうなったでその時点で下した結論を修正するしかないだろうし、実際にそうなればそうなったで後出しジャンケンのようにして、そら見たことかと批判や非難を浴びせかける輩も出てくるかも知れないが、そういうこともそこで続いている現象に含まれていると見ておくしかなく、いくらでも次から次へとそれらに合わせて言葉を追加できるだろうが、そうやってその場の状況や情勢に合わせて言葉を繰り出すことが、そこで続いている現象に沿って後追い的にできることであると共に、そこから先回りしてその先に起こる出来事を予想や予測や予言する誘惑にも囚われると、そうした誘惑に屈した輩によってそれに対応した言説も出てくるだろうが、それが結果的に当たろうと外れようと、それも途中経過としてそうなったことでしかない限りで、可能性としてはいくらでもそうなる可能性があり、要するに予想や予測や予言に合う結果が出てくるまで待っていれば、何かしらそれに似たような状況や情勢になることがあり、そうなった機会を捉えて、過去に示した予想や予測や予言が当たったと吹聴すればいいわけで、そういう意味では言説の内容を調整して当たる確率を上げるような予想や予測や予言を目指すことも可能かも知れず、そういうことまで考慮するなら、誰かがこれ見よがしに示す予想や予測や予言が当たったところで何ら驚くには当たらないわけだが、それよりも注意しなければならないのは、その種の当たる確率の高そうな予想や予測や予言を信じたところで疑ったところで何のメリットもない可能性もありそうで、仮に当てた人を信用してみたところで、その人が繰り出す言説の巧みさに惑わされているに過ぎないのかも知れず、百歩譲ってそれが騙されていることにはならないとしても、少なくとも言説の水準でそうなっていることは実際に起こっている現象とは違うことであり、その違いに気づいておくことが肝要なのかも知れない。


2月10日「差し障りのない対応」

 そんなことに疑念を抱くこと自体がおかしいのかも知れないが、世の中で起こっている出来事や現象に関して何が事実なのかと言えば、そこで起こっていることが事実だが、それをメディアが伝えようとしていることも事実であり、メディアを通して誰かが何かを伝えているわけだが、事実を言葉によって伝えることができるかと言えば、実際に伝えようとしている人は普通に伝えているつもりになっているのだろうが、誰かがメディアを経由して伝えた内容に反応して他の誰かが何らかの言説を構成したところで、その内容が何を示しているかは伝えられた内容にもよるが、言説の構成具合によっては伝えられた内容を変形することも覆すこともできるかも知れないし、それでは内容の改ざんになってしまうから、内容はそのままにしておいて、普通はそれに対する見解を述べることになるだろうが、それが何を意味するとしても、伝えられた内容に対する反応になってしまうだろうが、その内容が反応した対象に依存していることも確かで、反応した対象というのが実際に起こった出来事や現象であり、それに反応して何かを述べるとしても、その述べていることに対してさらに反応して何かを述べるとなると、出来事や現象に直接反応しているわけではないから、間接的な反応になってしまうわけだが、そういった反応が議論や論争を巻き起こすにしても、間接的な反応であることには変わりなく、それがさらに跳ね返って直接出来事や現象に作用や影響を及ぼすこともあるだろうが、そうなると言論というか言葉の力が現実の世の中で出来事や現象を起こしていることになるわけだが、それに対して誰が何を述べているかによってもその作用や影響の強弱が違ってくるだろうし、それを語っている人のネームバリューを信用する人が多いか少ないかでも、そうした言葉の力の強弱や傾向にも差異が生じるかも知れず、その人の存在に対して幻想を抱けないとしたら、述べている内容で判断するしかないだろうし、できれば公平を期す上でもそうした方がいいのだろうが、何を述べたかではなく誰が述べたかに関心が向かうようなら、その述べた誰かの存在に対して幻想を抱いていることになるのだが、それに関して何かしら社会的な地位や公的な役職が伴ってくると、その人の存在自体ではなく地位や役職に対して幻想を抱いている可能性もあり、そうやって言葉の力よりも社会的な役割に依存して信用力が生じてくる場合もあるから、何らかの地位や役職に就いている人がその地位や役職にふさわしいことを述べていれば、そういうことを述べるのが当然のことのように思われる限りで、そう思っている人がその地位や役職を信用していることにもなり、そうやって述べている内容ではなく、述べている人の地位や役職に見合ったこと述べていれば済んでしまうようなら、その地位や役職を汚さないような差し障りのないことを述べているだけで構わないようなことにもなってしまうかも知れず、それがどんな内容になるかはその時の状況にもよるだろうが、普通に考えてその地位や役職に伴って生じている権限を逸脱しない範囲内でそれが担っている役割に応じたことを述べればいいように思われるかも知れないが、それ以外に何か言うべきことがないのかというと、例えば人としてあるいは社会人として何か言うべきことがあるような気もしてくるが、それがそう言われてみないことにはよくわからないようなことかも知れず、言う前からわかっていれば苦労はしないかも知れないが、何か常識から外れたことを言うと、そんなことは言うべきではないと思われるから、何が常識なのかもよくわかっていないのにそんなふうに思われてしまうから、それについてはうまく説明できそうもないが、それが社会的な地位や役職に応じた言説内容であれば、それ自体が重要なのではなく、それよりはその地位や役職が関わって起こっている出来事や現象に注目して、そこで何が述べられているかというよりは何が起こっているかに関心を向ければ、その起こっていることに関係する地位や役職を担っている人が、それに関して何か言及せざるを得なくなっていれば、実際に何か言うわけだろうが、その言っている内容が何かというと、例えばその地位や役職にふさわしいことを言うとなると、実際に起こっていることよりも、自らが担っている地位や役職を守るために何か言わなければならないようになっているなら、そういう意味で起こっていることに対処していることにはなるだろうが、起こっていること自体をどうにかしようというよりは、そこで何か言わないと自らの地位や役職が危うくなってしまうから言わざるを得ないような雰囲気が感じ取れるなら、自らの保身に汲々としているように見えてしまうわけだが、そんなわかりやすい成り行きになることも滅多にないだろうが、実際に問われたことに対して直接応えていないように感じられる内容になってくると、その地位や役職を守る都合上、追及をかわす責任逃れの事なかれ主義のような対応に終始していると受け取るしかなく、そんな態度に出られるとその人の言っていることを信用するわけにはいかないのはもちろんのこと、その地位や役職がそうさせると思われる限りで、その地位や役職の実質がどんなものなのかが否定的な傾向を伴って理解されてしまうが、果たしてそんなことまでその地位や役職を担っている当人が対応せざるを得ないのかというと、そもそもそういった地位や役職が機能しているということが、その地位や役職を利用して責任逃れができるということであれば、何かそれが本末転倒のように思われてしまうわけだが、実質的に機能するために働いているのがその人の部下に当たる地位や役職を担っている人であれば、ではその上司に当たる地位や役職が何を担っているのかと言えば、その配下の複数の部下を監督するようなことになっていれば、それが何を意味するかといっても、実質的には神輿に乗せられているだけのような名目上の地位や役職というのもあるかも知れないし、そうなっていると居ても居なくても構わないわけではないが、まずい事態が起こっていざとなれば責任を取らされるならまだマシな方かも知れないが、そうなった時には逆にトカゲの尻尾切りのように部下に責任を押し付ける役目である可能性もあるわけだから、そうなると普段は実質的には何も機能していないが、非常事態のようなことが起こった時だけその場をうまく収めるのが役目だとしても、その起こったことよりも起こったことに対して自らが所属している組織や団体を守るために動くような成り行きとなり、それが直接起こったことに対応しているわけではなく、起こったことについては放置しながらも、しかも口先では対応すると言いながらも、巧妙にそれを避けるようなことをやりながらも、その人が所属している組織や団体へと責任が及ぶのを全力で阻止するような対応となれば、それがそういうことをやるために動作する地位や役職だと解釈するしかないだろうが、何かそういうところでうまくごまかされているような気がするなら、やはりそういった地位や役職に関して見当違いで勘違いな幻想を抱いていたことになるかも知れず、そんな幻想が好意的な傾向であるほど、そういった地位や役職を担っている人に騙されていることになるわけでもないだろうが、もちろんあちらでも騙している自覚などさらさらないはずだが、実際にそういう成り行きの中でその種の不条理に直面してみると、そういった地位や役職を抱えている組織や団体に依存しても割に合わないことを実感させられるだろうし、それでも確かにあちらの都合に合わせられる範囲内でなら一応はそれ相応の対処や対応をしてもらえるかも知れないが、そこから外れるような事態に直面すればお手上げ状態になると想定しておいた方がいいのかも知れないし、そういうところで必要以上のことをやらせようと画策しても当てが外れると思っておいた方が無難なのかも知れない。


2月9日「当然視することの魔力」

 焦ったくなるのは求めている結果に辿り着けずに、関係のないところで道草を食う羽目に陥った時かも知れないが、急がば回れという諺の信憑性を検証したいわけでもなく、目的とは無関係な遠回りの最中に巡り合うのが意味のよくわからない交通標識であり、そこからどこへ至ろうとしているのかも定かでなければ、どこへも辿り着けずに途中で息絶えるような危険を冒しているわけでもないのに、知らず知らずのうちに山奥深くに分け入ってしまい、次第に道も細くなって藪の中へとその道も消えていくように見えると、道に迷ってしまったことを自覚するかも知れないが、比喩表現としてそれが意味している真実を探り当てられるとも思えず、何が真実なのかわからないから迷っているわけで、迷いながらも手探りで手繰り寄せようとしているそれが探し求めていたお宝の類いであれば幸運を掴んだような気になれるだろうが、その代わりに掴まされるのが何の価値もない紛い物であるなら、その模造品やイミテーションのような代物が何を意味するかなんて考えるまでもなく、騙されたような気になってしまうわけだが、それが求めている当の物であれば騙されているわけではなく、実際にそれを求めていたわけで、似たようなものなら他にもいくらでもありそうな何でもないような製品に価値があると思っているわけだが、なぜそう思ってしまうのかといえば、実際に価値があると思われるような価格で売買されていて、例えばただのステンレス製品が貴金属の金を使って作られた製品と変わらない価格であれば、普通は何かおかしいと思うはずだが、そこにブランド信仰が付け加わってくると惑わされてしまい、数年前の価格の何倍も高くなっている製品を平気で買えるようなら、それだけ買う人に財力があることの証しとなるだろうが、果たしてそんなわかりやすい状況になっているのかというと、そういう面も確かにあるにしても、そうではない面もあるはずで、実際にそうではないから迷いが生じていて、それが原因と結果の取り違えから生じる錯覚だと思ってみても、何か釈然としないものを感じているなら、釈然としないのが普通だと思うしかなく、逆に釈然としているように思ってしまうこと自体が錯覚に囚われている証拠となり、釈然としてはまずいわけだが、何がそうなのかと言えば、釈然としないところに根拠の定かでない差異や格差があり、それがあることの理由や根拠が釈然としていないことを利用して、その差異や格差が当然視されるような状況や情勢が作り出されていると言えば、どうやってそれを作り出しているのかがわかっているような言い回しになってしまうが、それを作り出している当事者にも本当のところはよくわかっていないわけで、当事者と言えるような人や団体がやっていることは差異や格差がもたらされる過程で生じる些細なきっかけに過ぎず、そのきっかけを利用して差異や格差が生じるとしても、その大して理由も根拠も定かでない差異や格差を真に受ける人が多ければ多いほど、そこに差異や格差があることが当然視されるような状況や情勢がもたらされるのだから、そういう意味ではそのきっかけを与える人や団体とそれを真に受ける人々との共同作業によって理由も根拠も定かでない差異や格差が生まれて、多くの人々がそれを当然視することによって世間で差異や格差が受け入れられて定着するのだろうが、それを当然視することに何のメリットがあるのかといえば、何の疑問も抱かずにそれを当然視している人たちが価値観を共有することができて、そこに差異や格差があることを自明のものとして受け入れることがその価値観を共有している勢力に入ることの条件となり、それがその勢力に入っている人々と入っていない人々との差異や格差になれば、当然のことながらその勢力が支配している領域内であれば、それらの人々が当然視している差異や格差が有効に働いて、その勢力に入っている人々の方が入っていない人々より優位に立てるわけだが、それが差別意識が生じる端緒でもあり、そうなるきっかけが些細なものであっても、いったん価値観を基にしたヒエラルキーなどの階層構造が社会の中で成立してしまえば、多くの人がそこから生じる優劣や上下関係を当然視してしまうわけだから、実質的な強制力も働いて、そこで原因と結果が逆転した倒錯的な認識も生じてくるわけで、そこに差異や格差が歴然とあるからそれを基にして物事の優劣や上下や高低や正誤を決定しようとしてしまい、そうなるとそんな価値観の基となっている差異や格差の無根拠さが隠蔽されて、もちろんそれを自明視しているのだから隠蔽するつもりもないのだろうが、都合よく忘れている自覚がないわけで、そういうのを集団健忘症と言えばいいのかどうかはよくわからないところだが、それを指摘することができるかどうかも怪しいだろうし、いったん出来上がってしまったその種のヒエラルキーを覆すのは容易なことではないが、それを特定の人や団体が反対運動などを繰り広げながら覆そうとする場合もあるだろうが、その種のヒエラルキーに取って代わるような新たなヒエラルキーを構築しようとする人や団体が現れる場合もあるだろうし、そうやって世の中では様々な差異や格差を基にした価値観の競合やせめぎ合いが起こっていると解釈しておくのが妥当なのかも知れないが、果たして人々にそういった競合する価値観やヒエラルキー同士の抗争に巻き込まれている自覚があるかと言うと、たぶんほとんどの人が自覚していないだろうし、実際にそれに起因して差別的な発言をしても、それを他から咎められなければ気がつかないわけだが、しかも何をもって差別的な内容とするかどうかも、それに関するヒエラルキーがあれば、差別とは受け取られないような差別的な発言も可能かも知れず、ただ単に差異や格差があることを示すだけでは差別でも何でもなく、日常茶飯事として物事の良し悪しが大した根拠もなく言われている現状もあるだろうし、それがすでに織り込み済みになっていることであれば、そこで生じている差異や格差を前提として決まり文句のようなことも言われているし、その決まり文句の中で無根拠に思われるような差異や格差が含まれていれば、そんなことをいちいち問題視することはなく、そこを通り過ぎた先に言いたいことや示したいことがあり、そこでいちいち立ち止まってそれを問題視して場合によっては揚げ足取りに使うような輩がいれば、一応はその種の言説のヒエラルキーに逆らっていることになるのだろうが、そこで原因と結果をあえて逆転させてもっともらしいことを言うなら、例えばヒトラーという歴史上の人物がある時期に存在していたことは事実なのだが、そのヒトラーという歴史上の人物が存在していた当時は熱狂的に多くの人々から支持されていたわけで、支持されていたということはその人物の主張にも多くの人々が共感していたわけだから、ある意味でその主張内容が支持されやすく当時の世の中では当然視されていた内容を含んでいたわけで、そういう意味ではヒトラーなる人物は人々が望んでいたことを行おうとしていたはずで、他にも大勢のヒトラー的な人間がいる中からたまたまその人物が何かのきっかけから多くの人々の願望を実現する役職に選ばれたと考えるなら、別にヒトラーだけが特異な存在だとは言えず、他にも大勢のヒトラー的な人間が存在していたから、ヒトラー自身も他の多くの人々からその主張が共感されて支持されたと言えるわけで、今でもヒトラーだのゲッベルスだのヒムラーだのに喩えられる人物がいるとすれば、当然のこととしてその種の人間も大勢世の中に存在していて、当の人物が実際に著名人として世の中で活躍しているようなら、他にも大勢その種の人間が存在している中から、たまたまそういった人物に喩えられるような人材が何かのきっかけから著名人になったと解釈しておけばいいのではないか。


2月8日「戦える条件」

 当てのない見込みなどあり得ないが、論理的にも功利的にもどう考えてもおかしいのに、なぜか割に合わないことをやっているとしたら、騙されているか自分で勘違いしているか以外では、その場の成り行きやそれまでの経緯に沿ったことをやっていると思うしかないが、たとえそれが世の中の時流に逆らうことであっても従うことであっても、それとは次元が違うもっと高邁さなどとはかけ離れた下世話なところで、虚栄心に囚われたり卑屈な感情に陥ってしまえばわかりやすく、世の中で普通に暮らしていれば誰にでも心の中にそういう面が形成されてしまうのだろうが、それとも違うとなるとでは何なのかよくわからなくなってしまうが、実際のところは当事者を介して世の中の様々な方面から及ぼされる影響や作用が表出されているわけで、それがその人の意識が把握しているつもりの限界を打ち破ってその人を動かして思いがけないことを行わせると言えばそんな気もしないではなく、果たしてそういう成り行きに従っていればいいのか、それが嫌なら逆らうべきなのか、逆らったところで何か良いことがあるのかないのか、そんなことまでその場で判断できるわけでもなく、判断材料も選択肢も限られている中で、何をどう判断してどうすればいいかなんてわかるわけもなく、その場でできそうなことをやってしまうわけだが、それがその場での最善の判断で最良の選択であるかどうかなんてわかりようがなく、そんな成り行きに否応なく巻き込まれている当人にはわかるはずもないことかも知れないが、それでも何かしら行為や行動の指針となるような判断基準を探そうとして、他人の言っていることや記している内容の中にそれがわかるためのヒントがあるような気がするから、そういうことに関心を抱いてしまうわけだが、そんな成り行きを通して何かわかったような気がすると、それに関して幻想を抱いていることになるのかも知れず、他人がわかったようなことを述べるから、それを聞いたり読んだりした自分もわかったようなつもりになり、それ以外にどう考えればわかったことになるのかわかりようがないし、数学や論理学の証明など普通は使わないだろうから、いい加減な理解で済ませていることが大半なのかも知れないが、それでも実際に行為や行動している中で確からしいことが感じられてくるから、その確らしさを頼りにしながらその場の状況に合うようなことをやろうとしているわけで、それが誤りだとか間違いだと気づくのは、うまくいかなかったり痛い目に遭ったような結果に直面してからそう思うわけだから事前にはわかりようがなく、それをやる前に誤りや間違いを直接指摘してくれる親切なお人好しに出会うこともまずないだろうし、稀に指摘されたところで大抵は聞く耳を持たず、可能な限りで身勝手に独りよがりなことがやりたいわけだから、そうなると謙虚さの微塵も感じられない傲慢な態度となってしまうが、それも痛い目に遭って苦労を重ねる度に自らの至らなさを痛感することにでもなれば、それ相応の謙虚さが身について、他人の言っていることにも都合がつく範囲内で耳を傾けることになるのかも知れないし、そうなるかどうかもその人がそれまでに歩んできた経緯やその過程でまとわりついてきたしがらみや事情にもよるし、また他人の言っている内容にもその人がどの程度信用できるかにもよるだろうが、それ以前に現状で直面している事態というのが、本当に直面しているかどうかも定かでないような微妙な事態だと、しかもその事態にかかわっているかどうかもはっきりしないなら謙虚な態度にも傲慢な態度にもなれず、はっきりしたことは何も言えない複雑な心境となってしまうのかも知れないが、別に何かの謀略に引っかかってはっきりしたことは何も言わせないようにされていると状況を捉えても被害妄想の域を出ないことにもなり、はっきりとした敵を作るのにも苦労するようなら、敵などいなくても構わないような世界の中で生きていると思っておいた方が無難かも知れず、敵を作らなくても対立や敵対に依存しなくても生きていけるようなら、その種の対立や敵対からはそれなりに距離を置いた立場にいることになるだろうが、なぜそうなってしまうのかといえば、直接の利害関係を見出せないからそうなってしまうと捉えるしかないが、そうであるにもかかわらず、無理やりこじつけのような理屈や論理を駆使して対立関係をでっち上げることができるかというと、それ以前にそうする必要も感じられなければでっち上げようもないだろうが、その対立が直接の対立とはならなければ、それだけ切実さが薄れると共に第三者的な比重も増えてきて、それでも無理に対立を装うようならいかがわしさも感じられてしまうのだろうが、そういう成り行きを利用できるかというと、そうする方が利益を得られると判断すれば、なし崩し的にそういう方向へと情勢や状況を持っていこうとするだろうし、その利益を得られるか得られないかの判断にしても、逆に被害を最小限度に抑えたいという思惑まで絡んでくれば、利益など得られなくても構わないから、その場を乗り切ることができればいい程度に成果や達成目標を下げてくるかも知れないし、そうなると派手に対立や敵対を煽るようなやり方ではなくなってきて、それよりはできるだけ事を穏便に収めるようなやり方になってくるかも知れず、そういう戦略が功を奏するようなら、派手に対立や敵対を煽って攻勢をかけてくる勢力をうまく抑え込んでコントロールすることにも成功できるかも知れないし、あからさまにそれを狙ってやろうとするのではなく、その場の成り行きに応じて対処していることが自然とそういう方向へやっている内容を収斂させていくことにでもなれば、それがそこで動いている物事の流れに沿っているようにも思われるから、そういうことをやるのが妥当なようにも感じられて、それがどのような結果をもたらすかはその時点では何とも言えないにしても、その場に関係する誰もが妥当に思われるようなやり方をやれている限りで、他からも賛同を得られる可能性も高まり、そういうところからどこまで行っても終始平行線を辿ろうとする対立や敵対などとは違って、うまくいけば事態を打開できる機会を得られるかも知れないが、そういった妥協の戦略を探る動きがどこから生じてくるかも、その場の成り行き次第な面もあるだろうが、世の中の風潮として派手な全面対決を嫌う傾向があるかとなると、普通に考えてそれとは全く逆なのではないかと思いたいところだが、それも関心を向ける対象によって使い分けている可能性もあり、確かにスポーツなどの対戦型の競技では派手な全面対決が盛り上がるし、プロレスなどでも意図してそういった対立や敵対の構図を演出してみせるのであり、それが演出であることも観客が心得ていて、そういうところでは演技として盛り上がりをみせているような様相を呈しているから、実質的には興行的な仕掛けを楽しんでいるわけで、本物の対立や敵対とは無縁でありたいとは自覚していないだろうが、態度や行動としてそういう傾向が表れている面に注目するなら、やはりそこで勘違いしてはならないのかも知れず、要するに直接には対立や敵対の当事者にはなりたくないわけで、そういうところが傍観者的な逃げの姿勢だと言うと反発されるかも知れないが、実際に多くの人々が面倒な事態には巻き込まれたくないだろうし、巻き込まれて被害や損害を被りたくないから直接の対立や敵対を避けたいと解釈しておくのが妥当なのではないか。


2月7日「脅しの効果」

 言語的に判断するなら常識から外れていることが非常識に感じられるはずだが、常識から外れていることを誰が判断するのかと言えば自身で判断しなければならないだろうから、すでに常識から外れたことを当然のことのようにやっている人や集団がいれば、そんな人や集団が非常識なことをやっていることになるはずだが、それを当然のことのようにやっているのだから、当の人や集団にとってそれは非常識でも何でもなく、やって当然のことをやっている気でいるだろうが、端から見ればそれが非常識に見えるとしたら、それを非常識だと見ている人とはそれらの人や団体とは常識が違うことになり、人によっても集団によっても国や地域によっても常識となる行為や行動が異なるという常識的な見解に落ち着くのかも知れないが、非常識なことをやってはまずいとは一概には言えないだろうし、時と場合によっては非常識なことをやってでも自身の立場を優位に持って行きたいという思惑があるなら、非常識だとわかっていてもそうしたことを仕掛けてくるかも知れず、それが一般的には恐喝や脅しの類いとなることが多そうだが、それも直接やるのではなく例えば国境付近に軍隊を配置して今にも越境して軍事侵攻してきそうな雰囲気を漂わせるとか、脅したい相手に対して訴訟を起こして裁判の場に引き摺り出して心理的なプレッシャーをかけるとか、やっていることが脅しには違いないのだが、表向きにはそうでないように装うのがわざとらしく思われるところで、そういうことをやっている人や集団にとっては効果があると判断するわけだろうが、果たしてそれが思うような成果を上げるかどうかは、実際にそういうことをやった結果からしか判断できないところだろうが、そこに賭けの要素も入ってきて、それが伸るか反るかや一か八かの賭けとなるかも、結果がどうなるかによって変わってくるところで、そういうことをやらざるを得なくなること自体が、他の正攻法なやり方が行き詰まっていることを示しているのかも知れないが、それが追い詰められて窮鼠猫を噛むという表現では比喩としては間違っているだろうし、国境で軍備増強するにもその費用を負担できるだけの経済的な裏付けがあり、訴訟を起こすのもたとえ負けても痛くも痒くもない程度の経済的あるいは世間的な信用の裏付けがあるかも知れないし、そういうところまで加味して計算づくで脅しをかけていると考えれば、それなりに侮り難く手強さがあると思われたいのかも知れないが、それが虚仮威しだと受け取られないようにするためにも迫真の演技が求められるとしても、結局はそれが演技などではなく本気であることが相手が脅しを真に受けるには必要で、そうなると軍事的な脅しをかけるなら実際に軍事侵攻することが必要となり、訴訟を起こすなら実際に裁判で争って、たとえそこで負けても、上訴して最高裁にまで持って行ければ、それだけ相手は煩わしいことにかかわらされて疲弊するだろうし、本気でやるならそこまでやる覚悟が必要となってくるだろうが、それも成り行き次第でそこまで行ったり行かなかったりするにしても、実際にそんなことをやっていくと、脅されている相手も本気で対応せざるを得なくなり、それが相手の力を増強させる要因ともなってくるなら、そういったやり取りの中で戦術や戦略の切磋琢磨が起こって、そうした試練を乗り越えて双方共に成長してしまう可能性もあり、もちろん乗り越えられなければどちらかが破滅するかあるいは共倒れとなるかは、それも成り行き次第だろうが、そういう成り行きを経ないと事態が進展しない場合が多いから、しかも進展しても相変わらず問題の解決からは程遠いというか、ただ膠着状態が長引いて争っている双方共に消耗するだけであったりすれば、双方共にそれが望んで求めていた結果からも程遠いことになるだろうが、成り行きとしてはそんな事態も想定内なのかも知れないが、世の中でそんな成り行きが多ければ、そんな世の中で暮らしている人々の間でもいつまで経っても真っ当なことが行われないことからくる虚しさや無気力感が漂ってきて、世の中が荒廃していくように感じられるかも知れないし、それが脅しや恐喝の類いが世の中に蔓延していることの証しとなるかも知れず、それでいいのかと言えばいいはずがないだろうが、どうやってもやっていることがうまくいかないような成り行きの中で次第にやることがなくなって追い込まれてくれば、あとはできることがそんなことしかなくなってくるのかも知れず、そんな情勢の中で何かの瀬戸際に追い詰められているように感じられるかも知れないが、それまでにも絶えずギリギリのところで踏みとどまってきた経緯があるなら、慣れっこになっている可能性もあり、そうであるならそれがそんなことをやっている人や集団の常套手段と化していると受け止めておいても構わないだろうし、そういうことまで判明してくると事態を深刻に受け止めるのはちょっと違うような気にもなってくるだろうが、本当のところはその種の争いが進行していくにつれて、その真相がわかってきたり、あるいはますますわからなくなってくるのかも知れず、そういう面では争っているつもりの双方共に気づいていない点もあるから、事態の全てを把握しているとは言い難く、案外誰にもわからないようなところがあれば、そういった成り行きを楽観視したり逆に深刻ぶって危機感を煽り立てるにしても、当てが外れる面が出てくるだろうし、それに関わっている人や集団の思惑を外れてわけのわからない紆余曲折を経た挙句にあっと驚く結果がもたらされれば、それで一件落着とはいかないまでもすっきりしてしまうかも知れないが、そうはならずにいつまでも執拗に尾を引くことも多いだろうから、結局どうなるかはその場その時の成り行き次第で運次第だと思っておいても構わないかも知れないが、すぐにそこからそうなった時に備えて何かやっておくべきことはないかと先回りの算段を巡らすのも、時期尚早なような気がするとしても、そういうことにまで考えが及んでしまうのも取らぬ狸の皮算用的な当てが外れる可能性の高い思惑なのだろうが、何も実践せずに思考だけ先行してしまうのもよくあることで、それだけ思考するのは安易だが実践するには手間や資金がかかるわけで、そういう意味では脅しでも恐喝でも実践している側ではすでに後戻りが利かなくなっていて、実践しているだけでもその本気度が窺えるだろうが、その否定的なやり方にしても他から非難されるのを覚悟でやっているわけで、それを相手が真に受けてくれないと困るわけだが、そんな行為にまで踏み込んでやらなければならない事情があると見ても、虚仮威しの類いであれば勘違いを誘うための罠であったりもして、そういうところでもどこまで脅しや恐喝として真に受ければいいのか困惑するかも知れないが、それに関する憶測や推測がいくらでも可能であるなら、単に気を引きたいがためにそんなことを仕掛けているとも解釈できるにしても、そういった危ない火遊びが本当の火事を引き起こすことも多いだろうし、どうなるにしても何かに魅入られるようにしてそういう成り行きに引き込まれてしまうなら、脅しや恐喝を仕掛けている当事者となっている人や集団としては、自身が破滅する危険を顧みずにやるだけの魅力を感じているだろうし、それが博打や賭け事の類いに魅入られた者に特有な思考形態や行動原理となっていると解釈しておくのが無難なところかも知れない。


2月6日「技術の可能性」

 それが産業であれば何らかの分野や部門で使われている専門的な技術が専門外の素人には身についていないことは確かで、その分野や部門の専門家だけが習得している専門的な技術を使って何をやるのかというと、その専門分野でその技術を使わないとやれないことがあり、それをやるために専門的な技術を技術者が習得するわけだが、そういう専門的な傾向が他の分野や部門への応用が利かなければ、それが一つの分野や部門だけで通用する技術となり、職人的な専門技術となれば、そういった技術を身につけた職人たちが職人組合のギルドなどを組織して、かつてはその技術を使う産業を独占して時代もあったわけだが、産業革命以降になると企業形態の中で機械に組み込まれて一体化した部分的な領域で専門技術が使われる体制へと移行すると共に、産業革命と共に形成された大衆市民社会の中では素人の習い事としても技術が一般に普及して、その程度で習得できる技術のレベルであれば専門家による技術の独占も崩れているわけで、そんな中でも機械に依存した技術であればその機械がないと技術を活かせないし、道具を使った技術であればその道具が手に入れば、誰でも名人芸とは行かないまでも、ある程度の水準で、それに関するハウツー本でも読んだり、受講料を払って教室にでも通えば、素人でも活用可能であるから、もちろんそれ以前に義務教育や高校や大学でも身につけられる技術もあるから、そうやって何らかの技術を身につけている人が世の中には大勢いるだろうが、長期間にわたる専門的な修業を積まないと身につかない技術であれば、誰にでも習得可能となるわけでもないが、その一方で機械が技術を再現している場合は、その機械を使えば技術がなくてもできることがあるだろうから、一概に技術といっても千差万別あるだろうが、技術的に何とかなるようなことであればその技術を使って何とかしようとするのだろうし、そういうことなら解決可能である一方で、果たしてそうではない場合があるかというと、解決できるかどうかわからない場合でも、技術を使って解決しようとしている場合もあるだろうし、世の中の様々な方面で技術的に解決できるようにするための模索が試みられているのだろうが、そうであるなら目下のところ解決されていない場合には、まだ技術的には解決できていないことになるだろうが、では具体的には何がそうなのかというと、要するに技術は進化したり進歩するかも知れないが、その技術に支えられた人間社会が一向に進化も進歩もしないわけで、それを象徴するのが例えばフィクションでいえばロボットアニメの機動戦士ガンダムシリーズなどでも言えることだが、そこで描かれる科学技術は進化したり進歩するのに、社会の状態や形態は一向に進化しないばかりか、現代から一歩も未来へと進まない代わりに、逆に時代が進むにつれて絶えず過去の時代へと退化していくわけで、現代から進化した社会形態を描けないのは宮崎駿などにも共通した傾向だが、それに関してはスターウォーズなどでも帝国だとか共和国だとか出てきて、キリスト教の修道士みたいな格好をした戦士が刀のような武器を手にして一騎討ちをしたり、西部劇のような銃の撃ち合いも行われて、そんな進化した科学技術や産業技術を使って過去の幻想を再現しようとする試みとしては、最近話題となっているメタバースとかいう仮想空間を利用したサービスなどでも、過去の自分の足で買い物に出掛けていた頃のノスタルジーを再現するようなことが行われているのだろうが、現状に対する文句のあるなしや快不快の感情を抜きにして、現状を前提としてその延長上で未来の姿を想像すると、なぜか過去の姿が思い出されてしまうという逆説に行き着くわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、人には過去の記憶しかなく、リアリティーを感じられるのは過去の記憶の延長上にあってしかも現在に近い幻想であり、未来の姿が現在の現状からかけ離れたものであれば嘘っぽく感じられて信じられず、そんな未来の姿にはリアリティーを感じられないわけだが、果たしてそんな過去の記憶に依存したリアリティーを信じるべきかどうかというと、実際にリアリティーを覚えるわけだから信じたくなってしまうわけだが、そうした過去への信仰をどうやれば断ち切れるかといっても、断ち切ろうとしているどころか逆にそれと自覚することなく過去へと回帰しようとしてしまい、未来を目指すという建前とは裏腹に過去の繰り返しのようなことをやってしまいがちになり、それをそうだとは自覚していないから始末に負えないのかも知れないが、中にはこれまでにないことをやろうとしていた試みもあるだろうし、それに関しては結局は保守派によってねじ曲げられてしまったが新自由主義的なやり方がそれ以前とは違うことをやろうとしていたのだろうが、それに対しては現代でもニューディールとかいう過去の亡霊を持ち出して立ち向かっているつもりの人たちもいるわけだが、そんなふうにして人々の意識が過去の亡霊に取り憑かれているとしても、実際には社会形態も過去の形態から徐々に離脱しつつあり、それが現状の中で否定的に受け取られるのも当然だろうが、現状の中で人々の意識の中ではメディアからの影響もあって、否定的に受け取られている現象や出来事などに未来への可能性があるとすれば、もちろんそれを積極的には誰も肯定しないばかりか、逆にそういう成り行きに対して抵抗を試みている人の方が圧倒的に多いのかも知れないが、そういった未来へと向かっている世の中の成り行きを推進しようとしているのではないことはもちろんのこと、それとは反対に現状を維持しようとしていて、何とかして現状が変わらないように世の中の様々な方面で変化を防ぐ防御体制を敷いているわけだろうが、そうなっているにもかかわらず現状が絶えず変化し続けているとすれば、そうなっていることに対して人々がどういう感情を抱いていても、その大半が否定的な感情であってもそんな感情を無視するかのように現状が変化し続けていると解釈しても構わないのかも知れず、だからといっていくら否定しても無駄だから変化を肯定的に受け止めた方がいいのではないかというのではなく、現状が変化するための糧となっているのが、現状を変化させまいとする変化に対する否定的な感情やそんな感情から生じる行為や行動ではないかと解釈しても構わないのかも知れず、そういう意味では何とかして現状の維持を図ろうと画策している勢力には今まで通りのやり方を貫き通してほしいわけでもないが、人々が現状の変化を望んでいるのは変化した方が都合が良い面ではその通りだが、その反面では変化してもらっては都合が悪いところは変化してほしくないわけで、そういうところまで考慮に入れるなら、それが技術的な進化や進歩を目指している方面であれば、そうする目的が社会形態の進化や進歩と連動している面を注意深く見ていかないと、その方向性を見誤ってしまうのかも知れず、それが過去のリメイクでノスタルジーを思い起こさせるようなことであれば、必ずしもその方向が未来へと向かっているわけではなく、むしろ過去や現在の際限のない繰り返しのようなことを目指しているようなら、そういった技術に未来はないのかも知れないし、逆に激しい抵抗を呼び起こすような技術に未来があると思っておいた方が良く、それも抵抗に打ち勝つことによって未来を切り開くような成り行きが期待できて、そんな技術が保守派による激しい抵抗を伴いながらも誰もが思ってもみなかったような未来を作り出すのかも知れない。


2月5日「きっかけと原因」

 世の中では何らかの出来事に乗じて誰かが行動を起こしたり、何かがきっかけとなってそれが世間の関心を集めるような話題となることもあるだろうが、そのきっかけが何であっても構わないわけでもないが、きっかけが触媒のように作用して何かの反応を強めたり早めるような効果を上げて、それがそうした反応が起こった原因であるかのように思われると、そうやって何かが起こればそれが起こったきっかけを探すことが、その原因を探すことと同じことのように思われるかも知れないが、きっかけと原因が同じなのか違うのかは微妙なところで、厳密には違うだろうし、それらと似たような使われ方をする言葉としては理由や根拠などもあるだろうが、それがきっかけであっても原因であっても理由であっても根拠であっても、その言葉の使った際に違和感を覚えなければどれでも構わないだろうが、少なくともそれが起こってからすぐにそれが起こった根本的な原因などわからないだろうし、すぐにわかるのはきっかけだろうが、原因が一つでなければ複数の要因が絡んでいる場合もありそうだし、原因がわかったところで何がどうなるわけでもなければ、原因を知ることが何かの役に立つわけでもないわけだが、それが起こった原因を一つ挙げて、それが根本原因であるかの如くに誰かが声高に叫んでいるような場合に、違和感を覚えるなら、その種の煽動の欺瞞に気づいているのかもしれず、もちろんそう言われてみればその種の煽動の方がもっともらしく思われる場合もあるだろうし、自身が抱いている違和感も疑わしく思われるようなら、勘違いしているのが自分である可能性も捨て切れず、そんなふうに心の中で葛藤があるようなら、その原因が何なのかを考えてみればいいにしても、葛藤にまで至れないことの方が多いのかも知れず、疑念や違和感を抱く前に煽動している側に丸め込まれてしまえば葛藤など生じてこないわけだが、誰もが無知であると決めつけるわけにはいかないとしても、関心を持っていることについては、それに関する情報をできるだけ収集しようとするかも知れないが、無関心なことまで知ろうとは思わないし、その無関心なことが関心を抱いていることとつながっていても、そんなことまで考慮できないし、知りたいことだけ知ろうとして、知りたくないことまで知ろうとするわけでもなく、知りたくなくても知ってしまえば不快感が募ってくるわけだが、なぜそれを知りたくないと思うのか、その理由や原因を探ろうとする人もまずいないだろうが、理由や原因を探ろうとすること自体を感性が受け付けない場合もあるし、不快な情報をメディアを通じて世の中に撒き散らそうとしている人や団体も中にはいるだろうから、そんな人や団体なら大抵の人が嫌がる内容を熟知しているだろうが、なぜそんなことをやりたがるのかといえば、それを攻撃的な衝動だと言ってしまえば、何となく納得できるかも知れないが、そういうことをやるきっかけというのもあるかも知れず、果たしてそのきっかけがそういうことをやる原因と結びついているかといえば、意外と全く関係のないことからそんなことをやるようになった経緯があるようなら、何かそれが不条理に思われてくるかも知れないが、きっかけと原因とが全く関係ない場合に何か起こるかというと、何か錯覚を覚えるのかも知れず、その原因を知り得ないのにきっかけさえつかめれば、誰もがそんなことができるようになる場合もあるだろうし、例えば自転車に乗れるようになるきっかけが自転車に乗りたいと思う理由や原因とどうつながっているのかといえば、他の人が自転車に乗っているから自分も乗りたいと思って、乗ろうとして度々転びながらも自転に乗る練習をしているうちに、ある日ちょっとしたきっかけからコツをつかんで乗れるようになれたとしても、どんなきっかけから乗れるようになったのかを説明できるかというと、ただ何となく乗ろうとしているうちにいつの間にか乗れるようになったと思うしかなく、それを運動生理学などから科学的に説明できる学者の類いもいるだろうが、大抵の人はそんなことには興味がないだろうし、人が自転車に乗れるようになる仕組みを詳しく知りたいとも思わないが、それが知りたくないことでもなく、何かのきっかけから説明を聞く機会を得れば、興味を惹かれるかも知れず、そういうことに関しては特に不快だとも思わないはずだが、何が不快なのかといえば、他の多くの人々がなし崩し的に容認していることに異議を唱えることが不快に思われて、しかもそれが周囲から及ぼされる同調圧力に屈しないことであったりすれば、同調圧力を及ぼしている側は不快感をあらわにするかも知れないが、さらにそれが勇気ある行動だと一部のメディアが報じれば、ますます反感を募らせるかも知れず、そういう成り行きの中でなぜ異議を唱えられるようなことがそれまではまかり通ってきたかといえば、誰もそうなっている原因など考えたこともないかも知れないが、たぶん何かのきっかけから徐々にその種のことを行うことが当然視されるようになってきて、いつの間にか誰もそれに逆らえないような空気が形成されてきて、それが不快だが避けては通れない儀礼のような慣習となって世の中に定着してしまった中で、ある日どこからかやってきた空気を読めないよそ者がそんなことをやっていることのおかしさや滑稽さや不合理さなどを実直に指摘しようものなら、それを長年にわたって嫌々渋々やり続けてきた人々が、自分たちが辱められたと思って怒り狂うかも知れず、それがそういう慣習の類いをやめるきっかけになるどころか、その空気を読めないよそ者が不審死を遂げるようなことにでもなれば、その不審死の原因が空気を読めないことと結びつけられるかというと、疑いはかけられるだろうが証拠が見つからずに事件としては迷宮入りとなれば、そういった経緯がメディアに取り上げられて話題となるかも知れないが、その種の不快さの原因が社会そのものから生じてくるものである限りで、そんな不快さを取り除く勇気のない人々にとっては、不快さを共有することが同じ価値観を共にする集団の中では団結の証しとなっていたり、それが例えばフリーメイソンへ入会する儀式などに含まれていれば、それとは異なる意味合いも伴ってくるかも知れないが、どうしてもそういうことが行われているという事実が、行われるに至った経緯や行われ続けている事情の重要さを印象付けるだろうが、それが何でもないことを重要だと思い込むことの原因であっても、重要さを実感している限りで何でもないことにはならないわけで、そこから儀式の類いの重要さが生じてくるのだろうが、どうでもいいような中身のない空疎な儀式であっても、それを大げさな身振りや多額の費用をかけてやっている限りで、そこにかかわってくる人や団体もそれなりに存在していて、そういうことを無駄で意味がないからやめようとすれば、それにかかわっている人や団体にも迷惑がかかるからやめられず、そういうことの最たるイベントがオリンピックや万国博覧会だというと、そういうイベントを楽しみにしている人々から反感を買うだろうが、逆にそれらのイベントが多くの人々から迷惑がられている実態もあるだろうし、そこに迷惑がっている人々と楽しみにしている人々との間で生じている対立軸があり、実際にどこかで直接対立して争っていればそれが重要なことであるかのように思われて、そういう対立に関して世間的な興味を持たれるかも知れないが、それとは無関係な人々にとってはどうでもいいようなことになるとしても、その関係の程度や無関係な程度というのが、それと直接対峙していなければ、その種の慣習的で制度的なイベントに対する心理的な距離感から生じてきて、その距離感に応じてそれに対して抱く葛藤の強弱も変わってくるのかも知れない。


2月4日「原因と結果の取り違え」

 果たして物事の成り行きの全てに原因と結果を見出すことができるかといえば、全てとは言わないまでも因果関係が特定できるような現象でない限りはそれらが不明確であることの方が多いかも知れないが、成り行きや関係がこんがらがっていて、簡単にはそうだともいえないことが、原因と結果を取り違えることによって容易に言えてしまうことがあるとすれば、実際に原因と結果を取り違えることが、こんがらがっていて分かりにくい物事の成り行きを単純化するには必要な操作となるかも知れないが、それを取り違えている当人が気づいていないどころか、取り違えている方が都合がいいからわざと取り違えている可能性もあるだろうし、それに気づかない方が都合がいいから気づかないわけでもないだろうが、物事の成り行きの中で何らかの結果を特定できて、さらにその結果から考察して、その結果がもたらされた原因も特定できたとしても、結果から考察して原因を突き止めようとする限りで、考察の順序からすれば結果から導き出されたのが原因であり、結果こそがそうなる原因が導き出された原因そのものであり、思考する順序の中では原因と結果が逆になっているわけで、それを原因と結果の取り違えとは言わないが、思考の成り行きとしては物事の成り行きの中のどこかの時点で得られた事態を結果と見なすことによって、そこからその原因を特定したに過ぎず、思考を巡らす最初の地点でそれを結果だと見なさなければそうなった原因も出てこないわけだから、まずはそう見なすことによって結果と原因を結びつけて、特定の結果と原因を伴った物事として成り行きを定義して説明するわけで、果たしてそれを物事の成り行きの単純化と言えるかどうかは、説明を受け取る側の判断にまかされているだろうが、その一方で一般的な意味で原因と結果を取り違えることが、不可逆的な成り行きの順序が逆になっていることであれば、それを簡単に指摘することができるとしても、果たして本当にそうかというと、何かそこで物事を単純化しているように思われるわけで、わざと原因と結果を取り違えた事例を示してから、そこで原因と結果を逆にすれば物事の順序や辻褄が合うという説明を、それを受け取る側に納得してもらおうとするわけだが、そこで原因と結果を取り違えた側とそれを間違いだと指摘する側が敵対していれば、何かはっきりとそうした物事の単純化が納得できて、それが結果的に敵対している双方の共同作業によって物事の単純化を人々に信用させようとしていると思われるのであり、そこで注意しなければならないことは、明らかに間違っていること主張している側とその間違いを指摘している側が敵対しているから、それに伴って生じている物事の成り行きを敵対関係に基づいて単純に理解したつもりになれるということであり、それを最近の事例で例えるなら菅直人と維新のトラブルから始まってそれに絡んで騒ぎ立てている人々が何を目指しているのかといえば、そこで演じられている敵対関係がわかりやすく単純なものであることを示したいわけで、簡単に言うなら政治勢力としての維新に新自由主義のレッテルを貼り付けた上で、それと敵対している勢力が社会民主的な中道勢力として世の中の多数派から支持を得たいのだろうが、簡単に言うならそういうことだとしても簡単にはいかないだろうし、実際に維新の側でも社会主義的なベーシックインカムや賃金の引き上げなどを政策として掲げていて、もちろん保守勢力としてはそれが社会主義的な政策だとは口が裂けても言わないわけだが、敵対する勢力としてはそれが嘘であり、まやかしなのではないかと指摘したいわけだが、一見矛盾しているように感じられる新自由主義と社会主義の両方を組み合わせて成功したのが第二次世界大戦後の西ドイツ経済であり、実際に新自由主義を掲げる社民党が政権政党となった時期もあるわけだから、維新が吹聴している政策が嘘やまやかしだと思われるとしても、実際に相矛盾し合うことを同時並行して行なっていけば、自ずから妥協や譲歩が実現される限りで中途半端な均衡が保たれる可能性もあり、それをおかしなことだと批判するのは簡単で、批判したければいくらでも批判しても構わないわけだが、批判されながらもその批判を跳ね除けて実践した者勝ちである限りで、政策を推し進めて行けばいいわけで、批判勢力としては維新が嘘をついていることを何とかして証明したいというか、嘘をついている政治勢力を民衆が支持してほしくないのだが、嘘も方便であり、社会主義や共産主義には統治形態が欠如していて、実際にファシズム的な統治形態でも新自由主義的な統治形態でもそれなりに馴染んでしまうから、その場の成り行きに合わせてベーシックインカムだの賃上げだのと、民衆の人気取りの材料としては事欠かないわけで、保守勢力としてはそれを利用しない手はなく、確かにそれを嘘やまやかしだと批判することはできても、政治には時として嘘やまやかしが付き物だからこそ、それを実施することによってうまく矛盾をごまかせるし、嘘やまやかしを活用してでも難局を乗り切ろうとするだろうから、それを批判する側が簡単に見抜いて簡単に批判することができるとしても、なぜかそうやって批判している側にはなかなか主導権を握る機会が巡ってこないわけで、結局その場で主導権を握るには批判している側も嘘やまやかしを活用せざるを得ないことにでもなれば、まさにブーメランが突き刺さることになるわけだが、政治には嘘も方便であり、利用できるものなら何でも利用するのが政治実践の実態であり、それに呼応して流行り廃りのイデオロギーの類いも絡んでくるわけだから、一時的な傾向としては新自由主義的なやり方が流行った時期もあっただろうが、そういうやり方にもケチがつけば、自らの間違いをあからさまに認めはしないが、ケチがついた事態に対応してそれなりに軌道修正してくるわけで、それに伴ってそれを批判する側もいつまでも同じ論理で同じような批判していると、当てが外れて梯子を外されて、批判をかわされて時代の流行に乗り遅れてしまうのだろうが、そんな時の流行に左右されるような政治に目を奪われていると物事の本質を見失いかねないはずだが、政治そのものがその場の情勢に応じて動いていて、その程度のことしか行えないのかというと何かそこに限界がありそうだが、そういう事態に対してどう考えて行動すればいいのかといっても、そこで何かしら信念を持ち合わせていればそれに従うしかなく、しかもその信念に基づいて導き出した主張が一見間違っているように感じられるとしても、そんな時代の流行に惑わされずに信念を貫き通している政治勢力を支持したければすればいいだろうし、それは民衆の側が判断することであり、実際に判断した結果が現状を構成していて、そんな現状に対して違和感を覚えるなら、その違和感の程度や傾向に応じた現状に対する意見や主張や実践が自ずから生じてくるのだろうが、それが時宜や機会を捉えた異議申し立ての類いになろうとなるまいと、そこでそんなことを行う動機や理由をはっきりと自覚してしまうと、その動機や理由がその種の行動や実践の原因であるかのように錯覚してしまい、普通はそれを原因と結果の取り違えだとは言わないだろうが、一般的に考えてもそうではないと考えるのが論理的な思考だろうが、その一方で論理的な矛盾という考え方とは違う方面から政治的な実践が構成されている現実があり、そういうところで何かはっきりと自覚できて意識できる動機や理由に基づいて行動していると思っていることが錯覚である可能性にも意識を向けておいた方が無難なのかもしれない。


2月3日「言語表現のまやかし」

 誰かに都合の悪いことを言わせないようにするためには何が必要かというと、その対象となる人物に対して何かしら圧力や脅しをかけることが必要となるだろうが、他にも状況によっては買収したり籠絡したりして言うことを聞かせる場合などもありそうだが、それ以前に理解できないことを述べている人がいる場合は、それが理解したくないことであるかも知れないが、理解できないことと理解したくないことの間にどんな違いがあるかというと、理解できないことは理解したいのにできないのかも知れないが、理解したくない場合は理解できるかも知れないのに理解したくないことだと言えるかも知れず、それ自体が都合の悪いことだとは言えないだろうが、理解したくないことを理解してしまっては都合が悪いだろうから、そうやって都合が悪くなる事態になるのを避けようとして理解したくないことが出てくるのかも知れないが、誰が聞いても明らかに偏ったことを主張している場合には、あからさまな偏見を基にして主張が構成されていることがわかるから、偏った主張だと感じられるのだろうが、誰が聞いても明らかに偏っているとなると、そんなことは主張している当人もそれを理解しているのにわざと主張している場合もあるだろうし、それが恐喝や脅し文句には含まれていて、脅している相手に無理難題を吹っかけていれば、明らかに脅していることを脅している当人も理解しているだろうが、その内容には脅し言葉が含まれていない場合もあり、それが慇懃無礼な要請という形をとって実質的には脅しとして機能するわけだが、そうやって脅されている方もそれを脅しだとは理解していないように装う場合もあるかも知れず、脅している側も脅されている側も表面上はそれが恐喝だとは理解していないように装いながらも交渉を装う形が取られて事態が進行する場合もあるかも知れないが、なぜそんな回りくどいやり方にしなければならないのかといえば、それが恐喝になってしまっては都合が悪いから、直接的な恐喝と受け取られる表現は避けながらも実質的には恐喝を行うわけで、そこに言語的なごまかしやまやかしがあるのは誰の目にも明らかなのにあえてそんなことをやる必要があるのかといえば、そういうことをやっている側に権力が生じていて、その仲間や支持者が大勢いる場合にはしばしばそういうことが行われて、そこで公正なことが行われているかのような体裁が取り繕われる場合には、自分たちの側に正当性が生じるようにしたいという思惑が働いて、直接的に恐喝と受け取られる表現は避けられているが、実質的にやっていることは恐喝そのものだと理解できるわけだが、それを理解しつつも言語表現の範囲内では理解していないように装われる場合もあり、そうなると言語ゲームのレベルで行われているやり取りと実際に行われている中身が背理しているような感じとなってしまうが、それを見ている人にはそこで実質的に何が行われているかを理解しているはずだが、それでも恐喝している側の仲間や支持者は言語ゲームの範囲内で行われているやり取りを実質的なものだと主張したいわけで、その種の背離が最大化されるのが裁判での言語ゲーム的なやり取りになるわけだが、そこでは被告も証人も真実を話せと裁判に関係する検事や弁護士や判事から脅されているわけだが、誰もそこで恐喝が行われているとは思わないが、嘘がばれると証人であれば偽証罪に問われるし、被告も情状の酌量の余地がないと思われるだろうから、罪に問われたり罪が重くなりたくなければ真実を話せと脅されているわけで、もちろんそれを恐喝とは言わないし、言語ゲームのレベルでも恐喝には該当しないのだから、普通に恐喝ではないということになるだろうが、実質的にもまやかしなどではなく、裁判で通用している論理に従っていることになるわけだが、それが証人であれば私は嘘をつきませんという宣誓をしてから証言するし、被告であれば何も言わない黙秘権を認められた上で裁判に臨んでいるわけだから、後はどうなろうと自業自得であり、嘘をつきたければつけばいいし、嘘がばれれば罪に問われたり裁判官や陪審員の心象を損ねるだけで、その人の利益にはならないように裁判自体ができているわけで、それを恐喝だとは言わせないようにするための制度的なまやかしだとも思わないだろうが、まやかしなのではなく嘘という言語的なごまかしを防ぐための制度的な防御手段と言えば妥当なのかも知れず、それも裁判という言語ゲームを管理する側に権力的な裏付けがある限りで成り立つことであり、何の権力的な裏付けもない勢力が人民裁判と称して勝手に罪を被せたい人物や団体を裁いても、権力側からすればそんなのは何の正当性もないことになるわけだが、その正当性がどこから生じるかというと、そういうことをやれる権力的な裏付けがどこから生じてくるのかということになり、最終的にはそれが暴力による脅しとなるわけで、その暴力が何によって可能となるかといえば警察や軍隊などになるだろうし、それを掌握しているのが政府になるわけだが、そんな暴力による脅しに屈するか屈しないかの選択を迫られる前に、言語ゲームの水準でかたをつける方が妥当に思われるように仕向けられているというと、それもそんなことまで思い浮かばないうちにけりをつけられるようにしたいわけだから、制度的には言語ゲームの水準で白黒をつけたいわけだが、そういうところがそういう方面へと考えが及ばないようにしたいわけで、それが言説的なまやかしであると共にそういうまやかしを共有している方がほとんどの人にとっては妥当に思われるから、何とかそれによって社会の秩序が維持されているような状態を保っていられるわけだが、それを保っていられないとシリアやミャンマーのように内戦に突入してしまうのかも知れないが、そういう意味ではどうやって言語的なまやかしやごまかしの水準で歯止めをかけられるかが、ファシズムになるかならないかの分かれ目になるかも知れず、そうなると言語ゲームから生じる幻想をより多くの人たちが共有できるようにしなければならないのかも知れないが、その幻想の中身が実態が伴ってこないと、多く人たちがそれを信じてくれない事態となるだろうから、では実態として何がどうなっていれば信じてもらえるのかというと、それに関しては一般的な言い方からすれば例えば持続的な経済成長が実現されていれば、多くの人たちが明るい未来を幻想できるかのように言われることもあるだろうが、そこにどんな実質が伴っているかとなると、そうした経済成長の恩恵に与っている人たちにしてみれば物心両面での豊かさを実感できれば、それ自体が幻想を抱いでいることになるはずだが、それと言語表現上のまやかしやごまかしとの間にどんな関係が成り立っているのかといえば、それらの人たちが囚われている現象の中で推移しつつある物事の変化をいかに肯定的な言語表現によって飾り立てることができるかが鍵となってくるのかも知れず、そういうところで現状を否定的に捉えるような言語表現に対して拒否反応が出てくるのだろうが、その拒否反応の対象となるのが現状で主導権を握っている人や勢力に対する批判的な言動となってくるわけで、批判によって幻想をぶち壊さないでほしいし、夢から覚めて現実を正視するのを避けるために幻想を抱いているとは思っていないだろうが、批判を真に受ければ幻想が言語的なまやかしやごまかしでしかないことがばれてしまうから、それは避けなければならないことだが、批判に直面すれば避けられないわけで、だから批判を封じ込めるためにも批判している人や勢力に対して何かしら圧力や脅しをかけて、批判をやめさせることができないまでも、その内容を理解していないように装いたいわけで、だからまるで批判などないかのように装うために、実質的には有形無形の脅しをかけているのに、直接脅していることにはならないような言語表現が使われるわけだ。


2月2日「棲み分けと平和共存」

 何をどう考えてもそれ以上はいくら考えても堂々巡りの循環論になってしまうようなら、そこで思考の限界に達しているのかも知れないが、そんな堂々巡りの循環を繰り返すのが一人の個人だけでそうなっているわけではなく、人から人へと似たような思考の循環が引き継がれながら、複数の人々の間でひたすら同じような経路をぐるぐると回っているような思考の循環に囚われていても、時折そこから弾き出されるように逸脱して、何か循環とは違う別の方向へとずれていくような成り行きが起これば、そこで循環を脱して新たな展開を迎えたかのようにも見えるわけだが、そうならなければおかしいというわけでもないだろうが、なるようにしかならないというのも言語的なごまかしであり、それでは納得し難いのであれば、ではそれをどう考えればいいのかと言えば、もはやそれ以上は何も進展できないジレンマに直面しているわけでもなければ、そこではそうなっているとしても、そこから時間や場所を移動すれば何かそれとは違うことを考えながら行動している人たちが他にもいて、そこでも堂々巡りの循環論やどちらへ行っても不都合なジレンマに直面しているかというと、そうなっている面も確かにあるだろうが、それとは別の面もあるようならそこに可能性があるように感じられるわけで、そこにどんな差異があるというと、差異があれば絶えずその差異を埋めるように働く同調圧力もあることは確かだが、差異を差異として維持できれば、異なる傾向の人たちの間で棲み分けが可能となっているように感じられるわけだが、もちろん完全に平和共存が可能となるわけでもなく、両者の間の境界付近で諍いが絶えない場合もあるだろうが、そこで諍いが起こって複数の人や勢力が争いを続けている状態が平和ではない共存が成り立っている状態になり、その平和ではないということがそこで競合や競争が起こっていることの証しとなるだろうが、それをゲーム化したのが競技などのスポーツ的な成り行きになり、ゲーム化と同時に儀式化も起こっているから一定の型にはまったことが繰り返し行われて、そこから慣習や慣例などの面で一定の動作の継承が延々と続けられると、そこで堂々巡りの循環が繰り返されているとは思わないだろうが、そういう面よりは高揚感を伴ってそこで繰り広げられている争いの方に目を奪われていて、争いにも抑揚があれば毎日のように新しいことが起こっている気分でいられるかも知れないし、それが錯覚だとは思わないにしても、何かのきっかけから錯覚だったと思い知らされないうちにその人の寿命が尽きて死んでしまえば、その人が生まれてから死ぬまでの間の活動期間からは時間的なずれを伴った成り行きに意識が囚われているのかも知れず、物事には人の生のリズムとは違うタイミングで繰り返される動作があり、もちろんそこで動作しているのは複数の人間なのだろうが、人だけでなくそれにかかわって物事も動くから、そういう物事の動きに意識が囚われていると、それが堂々巡りの循環とは違う進化や進歩などの肯定的な感覚を得られるのかも知れないし、それに関してどのような物事がそういう感覚をもたらすのかというと、人の入れ替わりを伴う新陳代謝や世代交代などの移り変わりであったり、いつまでも同じ顔ぶれではなく古い人がそこから退場するのと入れ替わって新しい人が台頭してきて、これまでとは少し違ったやり方やスタイルで争いや競争に参入してくれば、そこで戦っていることの本質が変わらないとしても、何か新鮮な感覚をもたらすのかも知れないし、そういう成り行きに心を奪われてしまうと、それが堂々巡りの循環であることが忘れられて、もちろん一般的に言ってもそれを堂々巡りの循環とは言わないわけだが、果たしてそういう表面的な目新しさに肯定的な価値を見出せるかと言ってみても、誰もそれを表面的な目新しさとは言わないで、例えば戦術や戦略の根本的な変革だと言っても構わないようなレベルが新たに定義されるような成り行きも生じてくれば、そちらの方に魅力を感じてしまうわけで、そういう成り行きが世の中の様々な水準で種類や傾向の異なる争いや競争が起こっていることの現実だと言えるようなら、すでにそれが堂々巡りの循環などではあり得ないわけで、果たしてそれがそれらの現象や出来事に対する言語表現上のごまかしやまやかしなのかと言ってみても、よくわからないことかも知れないが、感覚としては同じことだとは捉えられず、どうしても進化や進歩だと見えてしまうのだろうが、本当にそう見えるのだからそんなのは錯覚だと強弁してみても始まらないわけだが、実際に現状のロシアはかつてのソ連ではないし、かつてのソ連ならまだ左翼という印象で語れるような気がするだろうが、今のロシアはどう見ても右翼でしかなく、表面的には中身がそれほど変わっているようには見えなくても、左翼から右翼へと様変わりしているわけだから、それに応じて中身も様変わりしていると言えば、そういう面を強調すればそう見えてしまうわけで、そういう意味では未だに左翼だとか右翼だとか否定的な印象から語っているような人は時代遅れで、それが日本では通用するように装いたいわけだから、そういう言語表現の面でだいぶ無理が生じているのかも知れないが、そういう基準が成り立っていることを前提としないと語り得ないこともあり、そういうところで依存している言説の基盤そのものが崩れかけているのだから、何とかしてその種の自然崩壊を食い止めるべく、必死になって従来の価値観に沿った言説を弄してその手の人たちが抵抗している最中かも知れないが、そんな抵抗に効力があると思われる限りで、何とかして自分たちの居場所が確保されると思うしかないだろうし、そんな人たちの存在を確保するための必死の抵抗によってつかの間の棲み分けが成り立っていると考えても差し支えないが、果たしてそこで何と何の棲み分けが成り立っているのかというと、はっきりとこれだと示せるようなことではなく、何となくその種の言動が何かのついでに繰り出されては、繰り出した当人としては効果が上がっているように思い込みたいわけで、それが思い込みではなく実質的な効力のある言動であればひと安心するのだろうが、それを証し立ててくれるものが何かといえば、同じような言動を繰り出して励ましてくれる仲間の存在になるだろうが、そういった言動や言説の繰り出しが平和共存とは異なる競争的な争いを伴った共存である限りで、戦術や戦略の絶え間ない更新が必要となるだろうし、実際にこれまでにない新たな戦術や戦略が求められていると現状を解釈するなら、そういった方面での言語表現上の発明が期待されているのかも知れず、その種の新しい言語表現によって広く世の中の関心を惹くことができれば、そんな言語表現を駆使して言動や言説を繰り出す人や団体が脚光を浴びるかも知れないが、それもそういう言語表現が使い始められる当初は違和感を覚えられるにしても、それが広く世の中に浸透するにつれてだんだんと人々の意識に馴染んできて、それが市民権を得られるようなことになれば誰もがそれを普通に使うような状況ももたらされるのだろうが、果たして今後そうなるような言語表現が現状であるかといえば、実際にそうなってみないことにはわからないが、そうなってしまえばそれが新しい言語表現だとも思わなくなってしまうのかも知れないし、そうやって様々な言語表現の見かけ上の平和共存が達成されていることになるのだろうが、それはあくまでも見かけ上のことであり、新たな言語表現と入れ替わって使われなくなってしまう言語表現も出てくるだろうから、それが左翼や右翼という否定的なレッテル貼りを伴った言語表現だとは今のところは思われていないわけだ。


2月1日「官僚主義の効用」

 一見対立しているように見える政治に関する様々な主義主張は互いに相容れないのではなく、逆に互いに互いを補い合う相補的な関係を構築していて、例えば社会主義的な政権では顕著になってくる労働者の雇用を守る姿勢は、ファシズム的な政権でも新自由主義的な政権でも基本的なところでそういう姿勢がないと民衆の支持を得られないし、またどのような政権になっても政府の中で息づいているのは官僚主義となるから、社会主義や共産主義を標榜する政権が官僚主義に染まっているのも、中国政府などの例を見るまでもなく明らかだろうが、集団としての組織構成の規模が大きくなってくれば自然と官僚主義にならざるを得ず、それは政府だけでなく企業や宗教教団などに至るまで大組織になれば官僚主義が蔓延ってしまうわけだが、もちろん官僚主義が直接に政治に関する主義主張を伴っているわけではなく、人が集団として組織されると官僚体制が構築されて、その中で官僚によって一定の型にはまったなかなか変更の利かない硬直化した組織運営や管理体制を昔ながらの慣習や慣例などを頑なに守りながら永続化させようとするのが官僚主義となるわけで、そうやって融通の利かない改革を拒否したり骨抜きにしてなし崩し的に現状を維持する迷路のような組織形態が出来上がるわけだが、それを官僚主義の弊害だと指摘するのは簡単だが、その恩恵に与っている人や勢力からすれば効用以外の何物でもないわけで、官僚主義のそういう面に弊害を感じて実際にうんざりさせられる人が多いほど、そういう面が放置される限りでそれを既得権益としてその上にあぐらをかいて安泰となっている人も少なからずいることになるわけだが、確かにそういう面ばかり強調されるとそんな気がしてくるだろうが、実態としてどうなのかというと、そんな官僚機構を抱えている団体が何に依存しているかで、その団体の状態も変わってくるだろうし、企業などの他との競争が激しいところでは、硬直化した官僚体制が災いして活動が停滞してしまえば、たちまち他の企業との競争に負けてしまうから、組織自体が生き残れないわけだが、それが宗教教団などであっても組織の規模が大きくなるにつれてそれを支える信者も増やさなければならないから、他の宗教教団との競争にさらされると、信者の数が思うように増えなくなって、それでも教団の官僚機構が膨張し続ければ信者が支えきれなくなって崩壊の危機に直面するかも知れないし、官僚機構そのものから利益が生じなければ、結局は機構そのものの運用コストを他が負担しなければならなくなり、その負担が増えるほどそれを支えている側が苦しくなってくるわけで、そういう理屈を政府に当てはめれば、民衆の生活が以前より苦しくなっているとすれば、安直に税負担を減らさなければならないと思われるし、税負担を減らすには何が必要かと考えるなら、簡単に言うなら政府の規模を縮小するしかないと考えるしかないが、そういう簡単な理屈がなぜ通用しなくなったのかと言えば、政府には生活が苦しくなった民衆を助ける義務があり、民衆を助けるのが政府の役目だと考えるなら、利益を上げている民間の部門からより多くの税を調達して、それを生活が苦しくなっている民衆を助けるために使うべきだという主張がもっともらしく感じられるのだろうが、そういうことをやって多額の税負担を課している民間の部門が他との競争に敗れて衰退するようなことがあっては、今度はそこから税を徴収できなくなってしまうから、特定の部門に過度の税負担を課すわけにはいかず、なるべく公平な税負担を課すのが妥当なはずなのだろうが、それが税負担の面からではなく、税収が増えるように産業を育成すべきだという主張ももっともらしく感じられるだろうから、成長力のある産業を育成するには政府が民間に積極的に投資すべきだという意見ももっともらしく感じられるから、政府に投資分野の部署も設けるべきとなってくると、それだけ政府の官僚機構も大きくなってきて、さらには民間に投資する資金も公債などによって捻出しなければならなくなり、そんな成り行きから政府の運用コストがどんどん増えることになってしまうし、そうなってくると単純に生活が苦しい民衆を助けるのが政府の役目だとは言えなくなり、以上に挙げた主張や意見以外にも国を守るのが政府の役目であり、他国からの侵略に備えて軍備を増強すべきだという主張も出てくるだろうし、そうやって様々な主張や意見が入り乱れて収拾がつかなくなっている現状もありそうだが、それに輪をかけて特定の分野や部門だけの都合を優先させようとする視野の狭い制度的な意見や主張が幅を利かせてくれば、ますます各分野や部門間の調整がつきにくくなってくるだろうし、そんな自身のかかわっている分野や部門のことしか眼中にない制度的な人材が官僚や政治家になれば、議会や政府の運営もうまくいかなくなるのは当然のことかも知れないが、そんな制度的な人材も制度内では必要となってくるにしても、全体的な視点から各分野や部門の活動を調整する人材も必要となってくるだろうし、それが企業で言えば最高経営責任者的な存在になるだろうが、果たしてそれが政府や政党のトップに立つような人材と重なるかというと、ちょっと違うような気もして、そもそも企業自体が特定の分野や部門の企業であり、世の中の全ての分野や部門を統括するような企業は存在しないだろうし、では政府が世の中の全ての分野や部門を統括することになるかというと、それではナチスドイツになってしまい、実際にそういうことをやろうとするから世界各地に独裁的な国家が出現するわけだが、個人が勝手に考える限りで独裁者的な発想にならざる得ないわけで、それを避けるには世の中の全ての分野や部門を統括する役目など考えずに、せいぜいが各分野や部門の代表者が集まって話し合いで政治的な決定する以外にはあり得ず、それが議会で話し合われる内容になるだろうし、政府の内部でも名目上はトップに立つ代表者がいるにしても、その人物に全てのことを決める決定権があるように装われていても、実態としては各方面の主張や意見を聞きながら行うべきことを決めていかなければならないのだろうが、実際にそういう成り行きの中で何かしら決められることも決められないことも出てくるだろうし、そこで何が決められて何が決められないとしても、決めたことがそのまますんなり実行されるわけでもなく、また実行される過程でも何かしら問題や弊害が生じてくれば途中で決めたことが実行できなくなってしまうだろうし、そういうことを行う過程で官僚機構の意向が利いてくると、その意に沿わないことが行われるのが阻止されたり、途中の手続きなどが停滞してなかなか思うように進行しなくなったりして、そういうことが度重なるとその場が停滞して何も実行できなくなるような事態となるかも知れないが、逆に官僚機構の意向に沿うようなことをやろうとすれば何事もスムーズに事態が進展してうまくいっているように装われるなら、やるべきことをやるというよりはやりやすいことをやるような成り行きになってきて、そのやりやすいことをやれば官僚機構がうまく機能することにもなれば、それが官僚機構の思惑通りとなってくるわけだが、それが何かと言えば官僚機構を維持継続させるように仕向けるようなことになり、さらにそれが官僚機構の膨張を招くことにでもなればだんだん官僚機構の維持経費も増えていって、政府が栄える一方で民衆が貧しくなっていくようにも感じられるはずだが、果たして現状がそういう成り行きになっているのかというと、それに対しても様々な方面から様々な主張や意見が寄せられるようなら、全体としてまとまりの欠ける内容となってしまうだろうが、そういうところでも全体としてはっきりした見通しが立っているわけではなく、その一方で部分的に特定の分野や部門の範囲内ではもっともらしく思われるようなことならいくらでも言えて、そういう内容の主張や意見を聞いて納得させられてしまうようなら、そんな自分が物事の全体を把握できない制度的な人材でしかないと思うわけでもないが、実質的にそうなのかも知れず、そうならざるを得ないような成り行きの中に意識が囚われているからそうなるしかないのかも知れないが、逆に全体を見通せる人間がいるなんて思わない方がいいのかも知れず、実際にそんな人物を崇拝しているようなら、結局ナチスの総統を崇拝しているのと同じような心理状態になっているかも知れないし、誰も全体を見通せないから話し合いによって事を進めるしかなく、実際に話し合っても主張や意見が合わずに議論が平行線に終始して物別れに終わっても粘り強く辛抱強く話し合いを継続することしかできないとしても、それが嫌だから辛抱しきれずに独裁者の類いに決定を託してそれに従うようになってしまうのだろうが、そういうところでもどこまで話し合うかはその場の情勢次第な面もあるだろうから、ある程度の失敗は覚悟しなければならないし、調整がうまくいかないからといって、うまくいかないなりのことをやっていくしかないのかも知れない。