彼の声148

2022年

1月31日「社会に蔓延する同調圧力」

 そこへと現実に及ぼされている圧力の類いが、例えば国境付近に軍隊を集結させていればわかりやすいが、また特定の政治勢力が一人の人間へと非難の集中砲火を浴びせているのも状況としてはわかりやすいが、それが圧力なのか何なのか定かでない場合があるようでないような場合があるわけではなく、何か他から圧力を受けていればそれを肌で感じているような気がするのかも知れないが、被害妄想というか自意識過剰というのもあるかも知れず、何か得体の知れない圧迫感を感じているのに、それが何だかわからない場合があるかというと、それもあるようでないようなよくわからない感覚なのかも知れないが、そこに何か守らなければならないルールや掟の類いがあるように感じられると、それが無言の圧力のように感じられて圧迫感を覚えるのかも知れないし、他の多くの人々がやっていることに倣わなければならないような気がしてくると、なぜそうしなければならないのかその理由を知りたくなってくるだろうが、あからさまにその理由を教えてもらえるわけでもなく、何も知らされていないのに周囲の人たちに合わせて同じように振る舞うように仕向けられてくると、そういう圧力に従うか反発して逆らうかの二者択一を迫られるわけでもなく、放っておけば特に何も言われないが、ただ毎日のように周囲から無言の圧力を加えられて、それに根負けするような成り行きになればわかりやすいが、実際にはそうはならず、そこからその人が死ぬまで放っておけば何十年もそうなるようなことになれば、それがその人の周囲に構成される村落共同体によってもたらされる同調圧力の典型的な特徴となるかも知れないが、今や日本全体がそうした村落共同体になりつつあると言ってみたところで、アメリカでもキリスト教右派などがそういった村落共同体を築いている可能性もあるだろうし、欧米諸国などで根強く極右勢力が台頭してくるのも、その種の村落共同体を地盤としている可能性もありそうで、そんなことを言えば世界中がそうなのではないかと疑いたくなってくるかも知れないが、それに関して例えばかつてのスペインのフランコによる軍事政権とチリのピノチェトによる軍事政権の共通点を同じスペイン語圏に属する問題のように扱えるかというと、ではそれと現代のエジプトの軍事政権やミャンマーの軍事政権やアフリカ諸国でここ数年の間にクーデターによって成立したいくつかの軍事政権などとの間にどのような共通点があるかというと、それらを全て極右勢力のせいにはできそうもないが、それを極右と言ってしまうとよくわからなくなってきて、さらにナチズムやファシズムだと言えばヒトラーやムッソリーニ個人へと責任転嫁しそうになってしまうが、では逆の左翼ならマシなのかといえば、極右がいれば極左がいて、それが国家の実権を握ればベネズエラやキューバのようなことになるから極右と同じようにも思われてきて、そこに北朝鮮や中国も含めてしまえば、まさに独裁政権となってロシアやベラルーシも含まれてくるだろうし、程度の差異を無視すれば他にもいくらでもその種の独裁的な傾向を伴った政権を並べることもできそうだが、それらが全て同調圧力を伴った村落共同体を地盤としているとも思えないし、一般的に言って右と左が対立すれば右も左も似たような構造になってきて、対立を煽れば煽るほど独裁化の傾向が強まり、そうなった段階では日々の日常生活のレベルで同調圧力を仕掛けてくる村落共同体などとは似ても似つかない極端な様相を呈してくるわけだが、潜在的な同調圧力が顕在的で直接の脅迫や恐喝へと変わってくる契機がどこから生じてくるのかといえば、対立を煽り立てることから対立がエスカレートしてきて、同調圧力など生ぬるいと判断すれば直接の暴力へと発展するのだろうが、それも自作自演的に暴動を誘発させてからその暴動を鎮圧するために止むを得ず強権的な権力を発動する成り行きに持っていきたいわけで、香港の民主派などはかつての日本の全学連などと同じように若者たちがまんまとその手の挑発に乗ってしまったわけだが、そこから全権を掌握した上でナポレオン三世などもやったようにサン=シモン主義などの中道的な政策を推し進めることも選択肢としてはあるのだろうが、日本の自民党や立憲民主党などが推進しようとする中道的な政策も、その種のサン=シモン主義の亜流だと解釈してもそれほど間違っているわけではないだろうし、そうなったところでまた世の中に同調圧力が復活して蔓延してくるのかも知れないが、極右勢力としてもそれと対立する過程で生み出される極左勢力としても、対立をエスカレートさせて潜在的な同調圧力を顕在的な暴力へと移行させないと世の中の主導権を握れないわけだから、自然とそれを自覚していなくても攻撃する対象と激しく対立することしかできないわけで、それも対立相手から攻撃を仕掛けられてそれに対する反撃を実行する形にしないと正義が生じてこないわけだから、アメリカのトランプ政権末期に起こった連邦議会襲撃事件に加担した極右勢力も対立する極左勢力が暴動を起こしたように見せかけたかったわけだが、もちろん不正選挙に対する抗議の意味も込められていたのだろうが、歴史を遡ればそもそもアメリカの植民地が本国のイギリスに対して独立戦争を仕掛けるきっかけとなったテロ事件のボストン茶会事件においても、襲撃したのが先住民だと見せかけようとして先住民に変装して行われたわけで、そんなふうにして起こる過激な行動が一見村落共同体的な同調圧力とは無縁のように感じられるだろうが、どちらもそういうことをやる側の都合に他の人たちも従わせようとする意図や思惑を感じざるを得ないようなやり方ではあるだろうし、それが公的な法律の遵守などとは異なる方面から及ぼされる圧力を伴ってくる限りは、非合法的な手段となってくるだろうが、公的な法律を守っているだけでは成し遂げられないことを行おうとしているわけだから、言葉ではうまく正当化できないし、だから無言の圧力となったり直接の暴力を伴ってくるわけだが、そこで気をつけなければならないのは、そういうことをやってその場の主導権を握ってしまえば、今度は自分たちに都合のいいルールや法律を作って、それを誰もが守るべき公的なものとするわけだから、そういう意味では現状の公的な法律の類いも元は非合法的なやり方を伴って作られていて、もちろん形だけは正式な手続きを経ていることになっているだろうが、例えば日本の憲法も占領軍の統治下で暗黙の武力による威嚇がないと帝国憲法からの移行ができなかったわけで、実質的にはアメリカの脅しに屈してそうなったと判断すればその通りなわけだが、先に攻撃を仕掛けたのが日本であるわけだから正義が通る条件も満たしていて、そういうところでうまくしてやられたと思っておくしかないだろうが、それに我慢がならなければ正式な手続きを経て憲法を改正してしまえばいいと思うのも無理はなく、何とかして押し付けられた憲法を改正しようと目論んでいる勢力もいて、そんな勢力が議会で多数派を占めて憲法の改正を狙って活動している最中なのかも知れないが、そんな勢力の全てが暴力に訴えかける危険性のある極右勢力だとも言えないだろうし、それよりは同調圧力を強いる村落共同体を味方につけているから多数派を構成しているわけで、そういうところでも極右勢力による暴力的な脅しに屈して憲法が改正の危機に瀕しているとか訴えかけるようだと民衆からの支持を失って当てが外れるだろうから、多数派による同調圧力から逃れるためのやり方を模索しなければならないのかも知れないが、果たして憲法改正を訴えかけているのが一部の極右勢力であると言えるかというと、危機を煽るような典型的なやり方に依存している人たちとしてはそんなふうに情勢を見せかけたいのは山々だろうが、同調圧力によって中道的な姿勢の人たちを巻き込もうとしていると捉えておくのが妥当な解釈かも知れず、それがかつてナポレオン三世も行なった中道的で実質的には社民主義的な政策になるだろうし、もちろんそれを社民主義的な政策だとは口が裂けても言えないから、新しい資本主義だとか意味不明なことを言うしかないわけだが、もちろん元から社民主義的なことを主張していた勢力がいてはまずいから、それらの勢力を排除すべく、新たな保守勢力を組織しながらそこに中道的な人々を取り込もうと画策しているわけで、そういうやり方が功を奏して日本では実際に社民党という名称の政党が消えつつあるわけだが、果たして本当に多数派が中道的な勢力として形成されているかというと、どちらかと言えばそういう政治的な方面には無関心を装っている人の方が多いだろうし、もちろん無関心であってもそういう人たちが投票に行かなければいいわけだから困らないわけだが、そういう意味では同調圧力を強いる村落共同体というのも次第に形骸化してきたのかも知れないし、それに伴って従来の意味での国家的な統治形態も限界を迎えつつあるのかも知れないが、それが日本だけでなく世界的にそうなってきているから、アメリカなどでも盛んに民主主義の危機が叫ばれてその種の懸念が解消しないのだろうが、そこが狙い目だと言っても狙って何を画策するというよりは、そういう画策や目的を外れて何かが起こることが期待されていると言っても、誰もそれを意識しているわけでもないだろうが、結局はなるようにしかならず、そうなってから誰かがそれに気づいたり誰も気づかなかったりするのかも知れない。


1月30日「人を信用するという錯覚」

 何の脈絡もなく唐突にそれについて語っている状況がおかしいことは確かだが、それをおかしいとは思わせないようなやり方があるにしても、それが何について語っているのかは明らかだとしても、範囲を狭めて特定の分野に関する部分的なことなら、その分野で通用している専門の論理や理屈にも信憑性が増してきて、その分野内での人の行為や行動もその人を拘束している制度やルールの範囲内であれば、そこでもその制度やルールに則った範囲内であれば、制度やルールを構成する論理や理屈に行為や行動が従っているはずだが、それが何かの目眩しだとは思えないし、そういった特定の制度内やルール内で通用する論理や理屈が、制度外やルール外で通用するかというと、中には通用する場合もあるだろうが、少なくともそれが他のどこでも通用する論理や理屈ではないはずだが、その制度内やルール内で通用する論理や理屈を声高に主張されると、それが他のどこでも通用する主張であるかのように錯覚してしまうわけだが、そうした錯覚を利用している自覚は当人にはないだろうが、実際に特定の分野内では正しく通用している論理や理屈を用いて、その特定の分野に限って正しい主張を見せられたり聞かされると、その人が正しいことを言っていると思ってその人を信用してしまうわけで、そういう制度的な人間が幅を利かせているのが現代社会の特徴であることは確かで、それらの部分的に正しいことを主張する人々を寄せ集めると全体で正しい集団になるかというと、そんな状態をどう解釈すればいいのかよくわからないのだが、少なくとも専門的に正しいことを主張する人が専門外でも正しいことを主張しているかといえば、何か首を傾げざるを得ないような言ってみたり、疑念を抱かされることもあるかも知れないが、その専門的な信用度の確かさも、その裏付けとなる専門的な知識を支えている土台そのものが疑わしく思われる場合もあるだろうから、そういうところで専門家の主張や意見に騙されるなと注意を喚起できるかというと、そんなことを主張する人がいるとは思えないが、逆に専門家の主張や意見を聞くように促されるのが普通の成り行きだろうし、そうやって様々な分野の様々な専門家の主張や意見に耳を傾けているうちに総合的な判断力が失われるとも思われず、そういう人たちの言うことを鵜呑みすることの危険性をどう表現すればいいのかわからないが、それが全般的な事なかれ主義を招いていると言ってもピンとこないだろうし、専門家を装った詐欺師の集団にSNSを占拠されているわけでもなく、大抵は専門家を装った素人集団でしかないから、言っていることを真に受けるわけでもなく、ただ今日も大勢で馬鹿なことを言っているレベルで右から左へと聞き流しているわけでもないが、それがどうというわけでもなく、何か肝心なところで物事の本質から逸らされているような気もするわけだが、本当のところはよくわかっていないのかも知れず、しかもよくわからないままでも構わないわけで、やるならどうぞ勝手にやっていればレベルで行われていることだとも思われて、なるようにしかならないと高を括っていられるほど自信があるわけでもないが、ロボットアニメの中で繰り広げられる戦争に巻き込まれている人々の台詞からその心理状態を脚本的な目的論に沿って解説してみせる専門家ふうの業界人が話す内容が、確かに論理的にも理屈的にも的確で正しいように思われることが述べられているのだが、それが例えばフーコーが過去の歴史を語る時のように現代的な問題に突き刺さってこないわけで、現代よりも遥か未来の出来事を語っているにもかかわらず、それが昭和的な古びた風俗のように思われたり、18世紀から20世紀にかけての欧米や古代ギリシア・ローマの歴史をなぞっているだけのように感じられたり、そんな学校の世界史で習うような歴史の内容に疑念を抱いているのに、そういうことには答えてくれないから、そういうものだと思うしかないわけだが、その種の内容には何が抜けているのかといえば、それがわかっていればあえて語ることもないわけだが、その答えの出ない語り得ないことがこれだと示されるはずもなく、その何だかわからず示すことのできない何かの周囲をぐるぐる回りながら語られていくことが、フィクションとしてのリアリティを感じさせるというと、何かもっと気の利いた言い表し方がないものかと苛立ってくるが、そういうわけのわからない思いから逃れるために、件のロボットアニメならロボットそのものの機能や性能の詳細な解説へと向かうのが普通の成り行きだろうし、それが現代的な言説空間の中で流行っている専門家的な言説にも通じる内容でもあり、その手の解説ならSNS上に腐るほどあるわけだが、果たしてそういう安易な傾向に逆らうことができるかというと、普通に考えてそういう傾向が流行っているのだから逆らう必要もないわけだが、それに逆らわずにその手の解説動画などを暇にまかせて眺めていると、次第にその手の解説が避けている何かが見えてくるかというと、見えてくるわけでもないが、その手の解説が語っていないことがその何かではないかと思われてくるわけで、それが何なのかといってもそれをうまく言い表せないわけだが、それに関してロボットアニメならすぐに戦いに向かってしまうが、現実の世界ではそうはならないところであったり、専門家の類いが世の中で何らかの出来事が起こる度にそれを後出しジャンケンのようにもっともらしく語る内容からは外れる別の何かであったりするのかも知れないが、それらの人たちが思い通りに語っていると、絶えずそれに逆らうようにして起こる何かでもあり、そうしたことが起こるとその手の専門家の言っていることが信用できなくなるだろうが、またそこからすぐに専門家の類いも失われそうになっている信用を引き寄せるために言説を弄して、後追い的に新たに起こった出来事についてもっともらしく語ろうとするのだろうが、そうやって専門家の類いが持ち合わせている論理や理屈を裏切るようにして起こる出来事がその何かであると言ってしまうと、たまには論理や理屈通りのことも起こるから、それも起こった後から予想通りのことが起こったと言いくるめるのだろうが、そこでもその言説の対象とはなっていない何かがあるというと、ただ単に無い物ねだりをしているようなことになってしまうが、絶えず何かがその種の思考を逃れ去っているように感じられるのは気のせいに過ぎない可能性もありそうで、そういうところもよくわかっていないのだろうが、その全てを語り尽くせるはずもないのは誰にとっても同じであり、その中で自身の専門領域に関して詳しく語ろうとするのが良心的な対応だろうし、それで構わないはずだが、その手の解説を飽きるほど見てもなお疑念が晴れないようなら、それに関して語れる可能性もあるかも知れず、実際にそれを語ろうとしてうまく語れずに困っているのだろうが、それが過去について語りながら現代を通り過ぎてしまったり、未来の出来事について語りながらも、それが過去の通俗的な歴史の二番煎じになっていたり、そこで現代を取り逃しているように思われることが、現代の中に現代人の思考を逃れ去るような何かがあるのかも知れないが、それが幻想に過ぎなければ単なる取り越し苦労となってしまうわけだが、実際に世の中でおかしなことが起こっていて、それについても飽きるほど語られているのに、またそんなおかしな光景も飽きるほどメディアを通じて見させられているのに、そんなことをやって弊害をもたらしている人や集団に何か欠陥があることが明らかなのに、そんな人や集団を多くの人たちが支持して支援していたり、それをどうすることもできずに、そんな光景をただ伝えているだけのメディアが無力であることも明らかなのに、それを放置するしかない人々の方が圧倒的多数派を構成しているように思われたり、そこにもそう思わせる何かがあるのにそこから目を逸らさせるために、何かあからさまな工作活動が行われているわけでもなく、そんな事実をねじ曲げようとして無理な何かを仕掛けている集団が思惑通りのことができているかというと、たぶんその思惑通りだと思ってしまうことが、後出しジャンケン的な論理や理屈の辻褄合わせであったり、そうしたことを仕掛けて何らかの都合の良さそうな出来事を起こしているつもりなのだろうが、それもロボットアニメの中では簡単に起こってしまう事件なのかも知れないが、果たしてその出来事が現実の世の中にどんな影響をもたらしているのかとなると、圧倒的無関心をもたらしているように感じられるとしても、何らかの影響をもたらしていることも確かで、しかもそれが他の何かによってその集団に対して事件を起こすように促した結果として生じていることも確かなのかも知れず、その何かというのが混乱に乗じて起こされる何かであり、また混乱そのものを起こそうとして仕組まれたと思い込ませたいような何かでもあるだろうが、それが全て空振りに終わっているとは思えないものの、実際には空振りなどではなく、思考を逃れ去る何かに当たらずともかすっているような幻想をもたらしているのかも知れず、そのかすり具合が大げさに騒ぎ立てられるようなことでもないのだろうが、その当事者や関係者としてはかすり傷程度は負わせていると実感したいのかも知れない。


1月29日「集団の特性」

 人は自分が何を目指しているのかを知っているつもりにはなれるだろうが、自身が目指している何らかの状態から外れつつあることにも気づいているかというと、気づくこともあるだろうが、気づいたからといってそれに抗って元の目指していた状態へと軌道修正できるかというと、それもそんなことをやりながら目指している状態があるのかも知れないが、それがその人だけの力で調整できる範囲も限られていて、知らず知らずのうちに周囲の風潮に染まって、気がつけば他の人たちと同じような傾向になってしまっていることに大して違和感も覚えないまま、それが自身が目指している傾向だといつの間にか思っていることにも気づけるかというと、それに気づかない人たちが意気投合して、仲間同士の連帯を確認し合って気分も昂揚してくれば、何やら徒党を組んで集団で組織的に動いている実態があるのだろうが、そんな成り行きで集団の活動が成り立ってる自覚もないだろうが、あえて説明するならそんな説明も可能かも知れず、全ての成り行きを説明できるわけでもないが、集団で行う活動が必ずしも集団の指導者的な人物の意図や思惑に従っているとはいえないとしたら、指導者的な役割を担ってしまうと、それに相応しい意図や思惑を抱いて、それが集団としての活動内容を反映した意図や思惑になってしまうから、結果的には指導者的な役割を担っている人物がそういう意図や思惑を抱きながら集団を率いて活動していることになるのだろうが、そうした活動が何らかの弊害を引き起こせばその指導者的な人物のせいにされて、やれ独裁者だのポピュリストだのと非難されるのかも知れないが、そうした集団を支持している人たちの願望を体現しているのがその人物であるなら、実際にそうした多数の民衆の支持を背景にして独裁的な権力や権限がその人物に生じていることになるだろうし、そうなると多数の民衆の心の中にそういうことをやりたいという願望があるから、それがその人物やその人物が率いている集団への支持につながっているのであり、安直に事態をそう捉えるとその種のポピュリズム的な衆愚政治には何の歯止めもなく、そういったやり方で政治を推し進めて行けば、いつかは必ずそうなるしかないように思われてしまうだろうが、では必ずしもそうならないための歯止めがあるかというと、それが実際にそうなった歴史的な事実であり、実際にそうなってひどい目に遭えばそれが教訓となって、またそうなりそうな気配を感じ取ると民衆が警戒するのであり、それがアメリカではトランプ前大統領の再選を阻んだのかも知れないが、日本ではどうなのかというとそこまで行かないうちに、そうなりそうな人がその立場を降りてしまい、まだ究極の存在が登場してないのかも知れないが、もしかしたらこれからも登場できない宿命にあるのかも知れず、そうした人物の登場を阻んでいるのが、誰もが知っている天皇制であって、究極のゼロ記号である天皇の存在を斥けない限りは、絶対的な独裁者とはなれないのかも知れないが、それも迷信の一種だろうし、国が地政学的に中途半端な場所に位置しているから、その場所に特有の条件や事情があり、その条件や事情を満たすには、絶対的な存在であるよりは程々のところで妥協せざるを得なくなるような中途半端な存在となるしかなく、それが災いしているか幸いしているかはどちらとも言えないところかも知れないが、少なくとも世界の主流からは半歩下がった立ち位置で活動するようなことになり、それが程々の成功を収めているうちはそれなりにうまく立ち回っていることになるだろうが、もちろんそれでは気に食わない人もいくらでもいるだろうから、その手の人の大洞吹きの大言壮語が時として炸裂することもあるものの、そんな人が一過性の流行に乗っかって次から次へと現れては消える過程においては、所詮はその程度のことだと高を括る人もそれなりに現れてくるから、それとの兼ね合いで中途半端な均衡がそこで保たれているのかも知れないし、そういうところで世界的には大して興味を惹かない出来事になってしまうのかも知れないが、そこに日本特有の問題があると言えば言えないこともないだろうが、問題など何もないと言っても構わないような中途半端さでもあり、それが問題だと言えば言えるようなことであるにしても、良心的なことを言いたがる人に言わせれば、せっかくその程度で済んでいるのだから、その気になればもっとうまい具合に事を運んで、現状をさらに良い状態へと持っていくこともできるはずだと言いたくなるかも知れないが、現状が果たして程々の状態なのかというと、そうではないどころかむしろ危機的で深刻な状態だと騒ぎたい人もいくらでもいるだろうから、そういう煽り立てをやっている人たちが主流派になれば状況も変わってくるとしても、そういう人たちに賛同する人が少なければそうはならないだろうし、実際に現状で主流派を構成していると思っている人たちにしてみれば、そんな人たちが主流派にはなってほしくないから、事ある度ごとに手を替え品を替えてそういう人たちの活動を妨害しているのかも知れないし、もちろん妨害しているつもりなどなく、ただ単に無視しているだけであれば、そういう人たちとの間で争いも諍いも起こっていないはずだが、それもその手の人たちはそういうことを言うもんだ的に事なかれ主義的な態度で情勢を達観している気でいる人もいるだろうし、そういうゼロ記号的な人が多ければ、そういう態度をとっていられるだけ心身に余裕があり、それが心身というよりは経済的な余裕であっても同じことかも知れないが、そういう人たちから発せられる言動の端々に他の人たちに対して同調を強いるような傾向があれば、それが世の中の空気を支配する同調圧力と言えるだろうが、そういう言動の中身が何なのかと言っても、戦時中の欲しがりません勝つまでは的なあからさまな表現ではなく、その場その場で積極的に動こうとする意識に絶えずブレーキをかけるような言動となり、それがあれも駄目だがこれも駄目だ的な否定的かつ消極的な言語表現になるわけで、その中でまずはあれも駄目だという内容がその場で主導権を握っている勢力に対して批判しているように装われるのだが、そうやって一見ありふれた通常の批判を装いながらも返す刀で、主導権を握っている勢力を批判している反主流派的な勢力をこれも駄目だと駄目押しするわけで、こちらの方が現状を維持するには効果的なのであり、そのこれも駄目だという駄目な理由に恣意的なこじつけや重箱の隅をつつくような無理矢理感が漂っているようなら、前半部分のあれも駄目な理由として挙げられる実際に行われている駄目さ加減との間で釣り合いが取れないわけだが、その言い回しにおいて両方の駄目さ加減の比重が均等になっていることから、どっちもどっちだとか、批判している側にブーメランが突き刺さっているとかの印象を植え付けることに成功して、何とか事なきを得るのだろうが、果たして本当にそれで事なきを得ているのかというと、結局駄目な主流派に入れ替わって新たな主流派を構成する勢力が現れないことになるから、実質的にはジリ貧となるわけだが、実際にそれを批判している勢力がここ数十年間経済成長も賃金の上昇もないと批判しているわけで、果たして現状で多数派を構成する人たちがそんな批判を真に受けて、主流派の交代を実現できるかというと、あれも駄目だがこれも駄目だという言動の呪縛に囚われている限りでそれは難しいだろうが、たぶん実現できなくても構わないのかも知れず、いつの時代でも多数派は滅びる運命にあり、多数派が多数派ではなくなる時が時代の転換点であり、その時代において主流を占めている多数派が次の新たな時代では生き残れないのはよくあることかも知れず、その生き残れないということに関しては、単に生物学的な寿命が尽きて死んでしまうことも含まれるが、ある日突然これまでに主導権を握ってきた勢力を見限って、別の勢力を支持する態度になれるかというと、表面的にはそうであっても実質的には何も変わらないこともあるわけで、果たしてそれで本当に時代が転換したのかというと誰もそうは思わないだろうし、実際にそれまでに主流派を批判してきた勢力が主流派になるわけではなく、ただ単に主流派が衣替えをしただけでごまかされてしまう場合もあるだろうが、なぜかそれで時代が変わったかのようにメディアなどで煽り立てられて、狐につままれたように民衆も納得するしかない可能性もあるかも知れず、果たしてそれで事なきを得られるのかというと、それもそういうものだと事なかれ主義に押し切れられてしまうのかも知れないが、そんなことをやっているうちに自然に中身も変わってくればうまくやったことになるのだろうが、中身が全く変わっていないことに誰も気づかない場合もあるかも知れないが、実質的には気づいている人が多数派から無視されるだけかも知れないし、それをどこまでごまかせるかがメディアの腕の見せどころであったり、ごまかしていることがばれてもいかにそれをうやむやにして押し切れるかも思案のしどころとなるかも知れないが、そうやっている人たちの気づかないところに時代の転換点があり、そういうことをやっているのとは関係のないところから時代が変わっていってしまうのかも知れない。


1月28日「ヒトラーとニューディール政策」

 どうということはない枝葉末節な問題に絡んで何か気になる出来事が起こっているわけでもなく、それだけでは大して気にならないのにそれに関して執拗に言及されると苛立ってくるわけだが、どうでもいいようなことに言及しないと他に言及できる内容が見当たらないのかも知れないが、それに関して言及したいがために大げさな煽り立てを仕掛けられると、それ自体が気になる出来事になるかというと、気に引こうとしてそんなことを仕掛けているわけだから気になる人も出てくるのだろうが、それがどうということはない枝葉末節な問題でしかないことには変わりなく、そうであるから余計にそれを誇張して騒ぎ立てたいのだろうが、そうやって注目を集めることによって目を逸らしたい別の何かがあれば、その別の何かに注目が集まってそれについて言及されると困るのかも知れないが、すでに困った事態に陥っているのを強引に虚勢を張って騒ぎ立てていることと相殺しようとしているだけかも知れないし、それも見当違いな方面に因縁をつけて八つ当たりしているだけかも知れないが、それ以前に何に困っているのかもその自覚がなければ、実質的には困っていないに等しいわけだが、困っている素振りを見せてしまうとそこをつけ込まれてしまうだろうし、それにかこつけて騒いでいないとごまかしきれない状態というのもあり、しかも何をごまかしているかもその自覚がなければ、騒ぎを起こしてそのどさくさに紛れて何をやっているとも気づかれないうちに、そこで問題となっていることをうやむやにしたいわけでもなく、それ自体がどうということはないただの空騒ぎに他ならないのだから、そこに何らかの実質的な要素があるのかといえば、それがよくわからないのが政治活動の取り止めのなさなのかも知れず、果たしてそれを政治活動だと言えるのかといえば、実質的に何をやっているわけでもなくても何かに言及していて、それによって世の中に何らかの影響力を行使しているような気になれるなら、それがその人の政治力だと言えるのかも知れず、実質的にそれが何なのかといえば、何でもないようなことだろうが、それによって世の中が治まっているわけでもなく、それどころか絶えず空騒ぎのような人騒がせなことしかやっていなければ、それに対して批判や非難が集中しているはずなのだろうが、それでもそういう人騒がせな政治が民衆の支持を得ているなら、それがまさに衆愚政治だと言えるだろうが、そういう政治を批判したり非難している人たちもそれに巻き込まれていて、それと一緒になって騒動の只中にいるわけで、その騒動の只中にいる人たちが気づいていないことが何なのかといえば、それを簡単に言うならそれらの政治勢力が行なっていることを象徴する政策というのが、ニューディール政策であり、それが本家のアメリカでニューディール政策が行われていた頃にナチスドイツでもドイツ版のニューディール政策を行なっていて、それが全国津々浦々にアウトバーンと呼ばれる高速道路網を張り巡らすことであったわけで、公共インフラへの多額の投資という面では巨大なダムを多数建造したアメリカのニューディール政策と似ているわけだが、もちろんナチスドイツは再軍備を念頭に置いて軍需産業へも巨額の投資を行っていたはずだが、それはアメリカでも第二次世界大戦へ参戦する過程でやっていたことであり、それが現代ではバイデン政権が再びニューディール政策を真似て巨額の予算を組んでEVや再生可能エネルギーや老朽化した公共インフラの補修を行おうとしているし、大阪でも維新が都市の整備に多額の予算を使おうとしていることでもあり、ヒトラーも建築家のシュペーアに命じてナポレオン三世によるパリの都市再開発を真似て、ベルリンを帝都にふさわしく作り替えようとしていたのと似ているところだが、そういうところまで考慮するなら、ヒトラーに演説が似ているどころではなく、画家の佐伯祐三が自身の寿命を縮めてまで見に行ったパリの光景というが、大衆煽動政治家の元祖でもあるナポレオン三世が独裁的な権力に物を言わせて強引に行なったパリの都市整備によって出現した光景であり、そこで何度も万国博覧会が行われたし、ヒトラーの命を受けて行われたベルリンの都市整備では、ユダヤ人街が容赦なく取り壊されたことが悲劇の象徴のように扱われるが、パリの都市整備で同じようなことが行われていても、そうは受け取られないだろうし、それが19世紀のパリであれば万国博覧会も肯定的に受け取られて栄華を象徴するイベントとなるのだろうが、20世紀にベルリンで開かれたオリンピックとなれば、悪名高いヒトラーの国威発揚のためのイベントとなるだろうし、それと同じように21世紀の東京で開かれたオリンピックや大阪で開かれる予定の万国博覧会も悪名高いイベントにしたい思惑が批判的なメディアにはあるのだろうが、結局大阪で維新がやろうとしていることは、ナポレオン三世がパリでやったことがお手本になるわけだが、パリに観光客目当ての歓楽街があるように大阪でもカジノをメインに据えた観光客目当ての歓楽街を作りたいかどうかは、それを争点の目玉にしたい反対派がいることは確かだが、パリの再開発で行われたような、ごちゃごちゃした狭い路地や密集した街並みを取り壊して、見通しの良い広い道路を縦横に配置するやり方は、他のどの都市でも再開発の際には行われることだろうし、20世紀の東京オリンピックの前にも中途半端に曲がりくねって高速道路の体をなさない首都高を整備したり、環状道路なども整備しようとしたのだろうが、それが今もやりかけのままになっている区間もあるものの、パリを賛美する人の中には街中に小さな個人営業のパン屋が点在していることなど挙げて、どうせ昔ながらのパン屋組合が政府の保護で存続されているだけかも知れないが、それが大企業的な画一的なやり方とは対極に位置しているような好意的な幻想を抱かせるのかも知れず、それが東京の街中で大企業のイオン系の小店舗であるマイバスケットが点在していて、どこへ行っても同じ商品の品揃えであるのとは違った印象を抱かせるのだろうが、何かそういうところでヒトラー的な粗野で温もりのない冷徹な印象を、比喩的にヒトラーの印象を纏わせたい人物の中に見出したいのだとしても、たぶん本質はそんなところにはなく、本質はニューディール的な国家的な計画経済にあるわけで、それが現代では中国に典型的に現れているところでもあり、しかもそんな中国政府を批判しつつも、大抵のファシズム的な批判を浴びている政治勢力もそういうことをやりたがっているどころか、アメリカのバイデン政権などは反ファシズムを標榜しつつもやりたいだろうし、実際にルーズベルトのニューディール政策は、世界的なファシズムの風潮に抗う形で行われたことになっているはずだが、当時のハリウッドで製作されたルーズベルトへの個人崇拝を呼びかけるようなプロパガンダ映画を見る限り、ルーズベルト自身がファシズムを体現しているような印象を受けるわけで、北朝鮮の歴代の指導者への崇拝を呼びかける宣伝映画がスターリンへの崇拝を呼びかけるソ連の宣伝映画から影響を受けているとすれば、そのスターリンへの崇拝を呼びかける宣伝映画のお手本になったのが、ハリウッドで手掛けられたルーズベルトの宣伝映画だとしたら、そういうところで見かけ上の対立軸が融合して、わけのわからないことになっていて、それを裏づける証拠として象徴的な事例を挙げるとすれば、イタリアの元祖ファシストであるムッソリーニが、若かりし頃スイスでレーニンの指導を受けていたことが有名だが、レーニンとしてはイタリアの共産主義の将来を背負って立つ有望な人物としてムッソリーニに目をつけて、熱心に指導したのだろうが、日本でもれいわニューディールという政策を掲げて政治活動を行なっている山本太郎が、ファシストのような人たちから左翼呼ばわりされながら盛んに攻撃されている実態もあるだろうが、結局そういうところで見かけの対立とは裏腹に全てが渾然一体となって出現しているわけで、それをどう見るかというと、果たして見かけの対立や敵対を真に受けてもいいのかというと、疑念を抱かざるを得ないわけで、そんな見かけ上の対立に惑わされていると本質的な何かを見失ってしまうのかも知れないが、その本質を体現するのがニューディール的な計画経済だと言ってみても誰もピンとこないわけだが、それが現状でアメリカのFRBが盛んに経済情勢に口先介入して金利を上げるだの金融支援を縮小するだの言って、市場を混乱に陥れている最中だろうが、政府や中央銀行などの機関が体現する国家が経済に介入する時の仕方が何を招いているかといえば、それが大した危機でもないのに危機を誇張して大げさに騒ぎ立てているというと、絶対にそんなことはなく、逆に危機が大きくならないように取り返しがつかなくなって経済が破綻する前に、それを未然に防ぐために対策を講じているのだと反論されるだろうが、実際にそれが破綻した後から何が出てきたのかというと、ニューディール政策が出てきたわけで、そのニューディール政策が破綻を防げたのかといえば、現実に第二次世界大戦が起こったわけだから、より大きな破綻が起こったと解釈するしかないわけだが、それでも世界が存続していることも確かな事実ではあるわけだ。


1月27日「違和感の理由」

 自らが直面している出来事に関して何かがおかしいと感じられるのは、関わっている物事に違和感を覚えるのと同じことのように思われるが、論理的に考えて妥当に思われるならそれで構わないはずだが、どう考えても理屈が合っていないのに、それでも構わないように思われるなら、それがどういうことなのかといえば、論理的に考えて納得できれば安心はするだろうが、安心できるからといってそれでうまくいくとは限らず、逆にどう考えても理屈が合っていないようなことがうまくいくと、それはおかしいと思うだろうが、うまくいった事実は動かしようがなく、そんな納得し難い結果が示されているから不安になってくるのだろうが、なぜそうなってしまうかと考えても、論理的に考えると辻褄が合わなくなってしまうわけだから、そんなことをいくら考えても納得できるような結論を得られるわけもなく、おかしいとは思いながらも、それはそういうことだと納得できないままにしておくしかないわけだが、それに関して簡単に言うなら論理や理屈が不完全だからいくら考えても納得できないわけだが、何かおかしいと感じているのだから、おかしいままにしておいても疑念が募ってくるばかりなら、それに関して違和感を覚える限りで考えているわけで、できればその出来事に関して納得できるような論理や理屈を導き出したいのだろうが、世の中には論理や理屈では説明できないような物事もいくらでもありそうで、もちろんそれがありそうだとしても、実際に説明するとなると論理や理屈を持ち出して説明しようとするから、不完全な説明では納得し難くなるわけだが、果たしてそれに違和感を覚えているのかといえば、説明だけなく説明の対象にも違和感を覚えるわけで、果たしてそんな物事に論理や理屈を適用して説明することができるのかと疑念を抱くなら、それが何なのかというと、物事の原因や結果ではなく、そうなる過程を説明するなら、確かにそうなる過程に適合する論理や理屈が持ち出されてきても違和感を伴わないが、その原因や結果についてそれを導き出せる論理や理屈があるかとなると、ある場合もあるだろうが、その一方で偶然にそうなったとしかいえないような原因や結果もあるわけで、もちろんそれもその原因を導き出すための論理や理屈や、結果を説明するための論理や理屈もあるわけだが、そうやっていくら論理や理屈を駆使して説明してみても結果を覆すことはできず、そんな結果が出てから結果に合うように説明しているだけで、それとは別の結果が出ればまた別の説明をせざるを得ないところにそうした説明の限界があるとしたら、その限界を超えるにはどうすればいいかといえば、結果を予想したり予測すればいいということになり、もっともらしい論理や理屈を用いて予想や予測をするわけだが、それが思うようには当たらないとそこで用いた論理や理屈が間違っているのかというと、予想や予測を行う上では間違っていないが、結果には常に誤差が伴ってくるということにしておきたいだろうし、中には予想や予測が的中した場合もあるわけだから、そうしたケースがある限りは間違っているわけではなく、それなりに妥当な論理や理屈だと思われるわけで、そうなっている限りで説明に納得してもらいたいのだろうが、実際に自身にとって不都合な結果に直面して当惑していれば、いくら説明されても納得できないだろうし、説明では納得できないのに説明されるとおかしいと思うしかなく、確かに説明の中ではそこで用いられる論理や理屈も合っていて、説明自体には納得できるだろうが、その説明の対象となっている出来事に納得できるかというと、それに納得できなければ何がおかしいのかというと、その納得できるように思われる説明自体もおかしいような気がしてくるわけで、何かがそこに絡んでいて、それがよくわからないから納得できないのだろうが、しかしそこで納得できるような説明をされると、説明には納得できるが、そんな説明をされていること自体には納得できないわけで、説明によって何かをごまかされているような気がするのだが、それがよくわからないから説明がおかしいように思われて、要するに納得できるような説明をしてほしくないわけだが、ではどうしてほしいのかというと、どうしてほしいわけでもなく、納得できないままでいたいわけで、納得できない結果がもたらされたことに納得したいというわけのわからない心境に至りたいわけだが、説明する側としてはそれでは困るわけで、納得できる説明によって納得できない結果に直面している人を納得させたいわけで、説明する側とその説明を受ける側とで思惑が異なるといえばそういうことになるだろうが、なぜそうなってしまうのかといえば、両者の間で立場が異なるから直面している事態についても捉え方が異なってきて、そこで見解の相違や食い違いが生じてくると共に、利害も異なってくるのかも知れず、そうなっていることに関して双方が納得できるような見解や利害の一致を得られるかというと、それもその場の情勢次第な面もあるだろうが、逆に見解や利害が一致しない状況がもたらされているといえる面もあるだろうし、一致しなくても困らないならそのままとなってしまうかも知れないが、一致させようとすれば双方の歩み寄りが実現すればいいということになるだろうが、そうなると歩み寄りを実現させるような出来事を起こさなければならなくなり、そうした行為によって納得できない結果をずらしていってうやむやにするような成り行きになってくるのかも知れず、そういうことをやればやるほど事態がこじれてくるかも知れないし、何とかして事態に介入して、介入する側の都合や意向を情勢や状況に反映させたいのだろうが、それが思うようにいかないところが、介入する側の論理や理屈をうまくその場の情勢に合わせられないところでもあり、うまく合わせられないから事態がこじれてくるわけだが、そういった論理や理屈によって理論の類いを構築しようとしていれば、実際に事態がこじれていることなど考慮に入れないだろうし、それも誤差の範囲内で起こっていることだと受け止められて、混乱の只中で起こっている見解の相違とか利害の対立とかは説明の範疇には入らないことかも知れないが、そうした途中で起こるこじれた成り行きなどの紆余曲折を経由しても、理論に合うような結果がもたらされるなら、その理論が示す論理や理屈に適合していることになるのだろうが、途中の面倒なごたごたを実際に体験してきた当事者にとっては、結果的に辻褄の合う理論を提示されてもそんなのは何でもないことであり、納得がいかないわけで、途中の面倒なごたごたを何とかしてほしかったのに、そんなごたごたの中では理論に合う論理や理屈など何の役にも立たず、実際に困った事態に直面していたのに、理論が助けてくれたわけでもなく、そんなごたごたがこじれにこじれてわけのわからない紆余曲折を経てようやく一段落ついてから、いくらそうなった経緯を辻褄が合うように説明されても後の祭りで、納得し難いのはもちろんのこと、いったい何のためにそういう説明が必要なのかもよくわからないし、何かそれが責任逃れのごまかしのように思われるなら、やはりそこで見解の相違や利害の対立があるわけだが、それを解消できないからこそ、そうなっていることについての説明も必要となってきて、なぜ説明するのかといえば、やはりそこで見解の相違や利害対立が起こっていることを示すには必要となってきて、説明をする側とその説明を聴く側の間でも見解の相違や利害対立を引き起こすような思惑の違いや温度差があるから、説明に納得するかしないかでも立場の違いが際立つように説明する必要もあり、そんなふうにしてその場で起こっていることにはそれについての説明も含まれてきて、それを説明すること自体がその場で起こっていることを説明することによって説明する側をその場で有利に導こうとして説明を使って事態を動かそうとしているわけで、だから説明を聴く側が納得してしまうと説明する側に主導権を握られてしまうから、そうなると自分たちが不利になってしまうと思えば、そんな説明に納得したらまずいと思うだろうし、それを自覚していなくてもその場の情勢からそういう雰囲気を察知できるわけで、だから説明に抗うようにして納得するのを拒むわけで、そういうレベルでは説明に要する論理や理屈以前の説明自体に拒否反応が出るわけで、それを論理や理屈の問題にすり替えるのはごまかしには違いなく、もちろん説明している当人にごまかしている自覚もないだろうが、そんな成り行きそのものがその場で起こっているごたごたの続きでもあるから、説明と同時並行してそうしたごたごたが続いているともいえて、その場で起こっていることの説明だけではその場で起こっていることの全てを説明できないというややこしい事情もあり、それが説明の不完全さを感じさせて同時に違和感も覚えるのだろうが、たぶんそれがおかしいとは思うだろうが、おかしいのが当然でもあるから、逆におかしくないと思ってしまうと説明に騙されていることになるかも知れないし、百歩譲って騙すつもりがないのだから騙されているのではないとすれば、説明によって負かされていると言えるのかも知れない。


1月26日「価値のあるなし」

 他人がやっていることならまだしも、自分のやっていることが無駄で意味がないとは普通は思わないが、少なくとも価値のあることをやっているつもりであれば、無駄であるはずがなく意味もあることだと思いたいが、価値があるからといって意味があるとは限らず、無駄なことにも価値があったり、意味のないことでも価値があった方が何かのバランスが取れているような気がすれば、その何かというのが何だかわからなくても構わないわけではないが、価値があるかないかというのが、自分のよくわからない勝手な勘に基づいていたり、判断も何も目眩しのような意味合いもあるようなら、何か自らが積極的かつ主体的にやっていることに価値がないはずがないと思いたいのかも知れないが、それを他人から無駄で意味がないと言われようと、実際に何かやっている実態があれば、それをどう捉えても否定できないわけで、そのやっていることの理由づけとして真っ先に思い浮かぶのが、価値があるかないかという判断基準かも知れず、本当のところは何だかわからないが、とりあえず何かやっているのだから価値があるはずだと思いたいわけだが、そういう意味で価値のあることをやっているような気がしているだけでは、やはり本当のところはよくわからないが、価値の不明確な物事に価値の尺度である価格や値段などつかないし、たとえ勝手に価格や値段をつけてみても、実際に売買がされてみないことには信用できないどころか、売買がされてその価値を信用してみたところで、いつまでも同じ価格や値段で売買が成り立つとは限らず、価値も価格も値段も絶えず変化していて、価値があるかないかも、ある時には確かに価値があっても、別の時には価値がなかったりしてもおかしくはなく、その場所によっても位置によってもその時の状況によっても価値が変わるようなら、今ここで価値のあるなしを判断してみたところで、その価値に何の意味があるのかと問うなら、何の意味もない状況もあるかも知れないし、そうであるなら価値のあるなしを判断すること自体が無駄なことかも知れず、そういう意味で価値があるからといって意味があるわけでもなく、価値があると判断しても無駄な場合もありそうだが、もちろん意味もあり無駄ではない場合もあるだろうから、意味があるように思われているうちに、その機会を捉えて価値があると言ってみたり、無駄ではないと思われているうちに、その機会を捉えて売買を持ちかけて、今後値上がりが見込めるなら安い価格や値段のうちに買ったり、現状で値上がりしていると判断するなら高い価格や値段で売れるうちに売り抜けたりして、できるだけ多くの利益を得ようとする場合もあるだろうが、そういうことがやれる機会が誰にでもあるかというと、ごく限られた少数の人にしかそんな機会はやってこないかも知れないし、機会がやってきても気づかなかったり、売買する対象の物事を持っていなければ売買できないだろうし、そんな限られた機会をものにすることができれば、やっていることの価値を実感できるだろうが、それが誰もがそれと実感できる希少価値という価値になるのだろうが、それも自分一人が実感できても、他の多くの人がそれを価値だと認めてくれないと価値にはならないし、しかも多くの人が価値があると認めても、それに関する権威を伴った誰かが、価値などないと言い放てば、その権威を崇めている多くの人たちもそれに従うかも知れないし、そうやってどこかの大学教授のような権威者ぶった誰かが、別の誰かの言っていることを価値がないと攻撃しているようなら、その価値を貶めようとしていると解釈できるが、価値がないと攻撃しているのではなく、間違っていると攻撃している場合がほとんどかも知れないが、普通は正しいことに価値があり間違っていることには価値がないように思われるとしても、果たして間違っていることに価値があるかというと、間違っていることに希少価値が生じるのはどんな場合なのかと考えれば、確かに現状では間違っていると思われるが、そこから時が経って場所や位置を移動してみると、正誤が逆転する可能性がある場合などに価値を期待できそうだが、それが具体的にどういうことなのかというと、現状で主流の物事が衰退して、それと入れ替わって将来において主流となるかも知れない物事の萌芽を現状の中に認められれば、今のうちにそれが将来において主流となることを予言するようなことになるだろうが、そういうことを言っても大抵の場合は無視されるだけだろうが、世間でそれなりに注目を集めている人が、その注目の集め方も反主流派的なものであることが多いだろうが、現状で主流となっている風潮に逆らいながらそんなことを予言すれば、たちまち現状で主流を構成する風潮の中で権威者ぶっている人から反発されるだろうし、また両者の力関係や権力関係において権威者ぶっている人の方に分があると思われるなら、他の多くの人たちもそれに倣って現状の風潮に逆らうようなことを言う人を攻撃するかも知れないし、そうなれば現状の中で生意気な野党指導者のような立場の人が、いわゆる受難者的かつ殉教者的な役割を担うことが特に求められているわけでもないにもかかわらず、そんな成り行きからそういう人物に仕立て上げられてしまうようなことが起こると、将来において過去に遡ってその人に対する崇拝が生じてくるかも知れず、そうなればそうなった時点でその人に希少価値が生じることになるのだろうが、果たして現状でそうなることを予想できる人物がいるかというと、誰もいないわけではないだろうが、実際に権威者ヅラして弱い者イジメのようにその手の生意気そうな実体がそうでなくても新進気鋭と称される人物に対して執拗に攻撃を仕掛けている実態があるとすれば、知らず知らずのうちにそんなことをやらなければ何でもないかも知れないのに、いつの間にか攻撃対象の人物に希少価値が生じるように、その基礎固めや土台づくりに加担していることに攻撃している当人が気づいていない場合もあるかも知れず、そんな成り行きが意図して仕掛けられているわけでもそう仕向けられているわけでもなく、誰がその手の希少価値を担う受難者やら殉教者やらの出現を求めているわけでもないし、社会がそういう人物が出現しやすい構造となっている可能性もあるかも知れないが、中には狙ってそういう人物を作り出そうとする思惑もあることも確かで、大抵はそういう思惑が裏切られる傾向があって、そうやって鳴り物入りで大げさな後光をまとわせて出現させようとする大人物ふうの人の脇から、見すぼらしい小人物が大人物ふうの人に取り入りながらも、結果的にその人を裏切って退けて小人物の身の丈に合った見すぼらしい権力を手中に収めるわけだが、そんな存在の代表格がスターリンなのかも知れないが、現状でスターリンに希少価値があるかどうかはさておき、普通に考えてその人の業績などに興味がなければ、他の何に興味があるのかといえば、そういう成り行きに興味があって、できるならそういう成り行きに介入して思い通りに成り行きを制御したいと思うだろうし、現実にそれが起こらなければフィクションとしてそういう成り行きを構成してみたいと思えば、そう思う人が架空の話の構成者になるわけだが、それが現実に起こったとして、そこで問題となるのが誰が実際にそういう成り行きの渦中にいられるかということであり、そういう成り行きの渦中で実際に成り行きに沿って生きていくことができれば、自身が希少価値を担えるような気がするのだろうが、そう思ってしまうこと自体がすでにそういう成り行きの渦中にはいないからそう思われるわけで、そういう成り行きを外から見ていると、それが手に取るようにわかり、外から見ている限りで自身はその渦中にはなく、渦中にいないということは担いたい希少価値を担えなくなっているということであり、そうなっている時点で、その種の価値からは見放されていると思っておけばいいのかも知れないが、そもそも担おうとして担えるような価値ではなく、担おうとも思っていない人に希少価値が生じるから希少価値だとも言えて、もちろん人に価値が生じるのではなくその人のやっていることに価値が生じると見なすなら、その人自身の価値などないも同然でいいのかも知れないが、そういう意味で現状では無駄で意味のないことをやっていると自覚するのもありかも知れないが、そこに価値を付け足しても無駄で意味のないことかも知れず、価値は自分でつけるのではなく他人がつけるのが普通であり、他人からどう思われようと確かな感触を得ていれば、その感触の意味がわからなくても、意味を見出そうとすること自体が無駄で意味のないことであり、それが自身のやっていることに価値を見出そうとすることでもあれば、それ自体も無駄で意味のないことかも知れないが、何か言葉では言い表せない感触を得ているようなら、そういったわけのわからない感触を糧としてやっていることを継続していくしかないのかも知れず、それが価値があるなしとは無関係な成り行きの中で感じていることであれば、他人からどう思われようと確かな感触を伴っていれば続けていられることでもあり、それが確かな感触であっても意味も価値もわからないことであれば、無駄だと思うのも早計な判断なのかも知れないし、もしかしたら時や場所を隔てれば、あるいは何かの偶然から何らかの意味や価値が生じてくるようなことをやっている可能性もあるわけだ。


1月25日「思考の及ばない地点」

 それが過去の人物ではなく、語るに値する現代的な固有名が言説空間に登場し得ない場合には、なぜか誰でもない架空の誰かを登場させなければならなくなるわけでもないだろうが、誰かがどこかで何かを語っていると状況を設定しておけば、その人の考えていることとは別の何かを語っていることを、語っている本人が気づいているわけでもないが、また語っているのではなく言葉を記している際にも、その内容が言葉を記している当人と無関係ではないのもわかりきったことだが、少なくとも語っていないことを考えていて、考えていることの全てを書き記しているわけでもなく、それどころか考えていないことまで書き記していて、考えている以外のことも語っているのかも知れず、そういうところでそれなりに重なっていない部分があって、考えている内容と語っている内容と書き記している内容が一致しているとは限らないわけだが、それらが一致していると錯覚しているわけではないにしても、よく考えてみなければそれがわからないし、何もなければそれらが一致していることが暗黙の前提となっている場合もあるだろうから、それらが一致していることを前提に自らの考えを語り、それを書き記していると思ってしまうのだろうが、書き記す場合にはできるだけ話し言葉に近づけようとして、それが言文一致体と呼ばれる表現形態になるにしても、それは内容よりは形式を一致させる傾向があり、もちろん内容が一致していることを前提として形式も一致させようとするわけだが、少なくとも語っている内容でもそれを書き記した内容によっても、その語りや記述の対象となっている出来事や現象の全てが表現されているわけではなく、それがその場で行われていることの効果とか成果からずれていれば、何か的外れなことを語っていたり記述していることになってしまうだろうが、そういった語りや記述が見落としている効果や成果に関して、それが人為的な出来事や現象であるなら、語り手や書き手の考えが及ぼない方面にそれがあり、そういうところで自らの考えに基づいて語ったり書き記したりしているだけでは、その対象となる出来事や現象の全てを語り尽くせなかったり、書き尽くせないことになってしまうのかも知れないが、果たして考えている以外のことを表現できるかというと、それを考えている自身にはよくわからないことであり、思考では把握できないことかも知れず、表現しようとしてできるようなものでもなければ、そんなことまで考える必要もないだろうが、そういった思考から外れる要素から成り立っている人為的な出来事や現象について思考を巡らせたところで、それが的外れな内容になるのは火を見るより明らかだとはいえないが、的外れなことを述べているのに当人が気づかない場合もありそうで、その人の思考からすれば枝葉末節なことであっても、思考を外れたところで重要な効果を発揮して功利的な成果をもたらす場合があるとすれば、それが何なのかといえば、思考の網にかかりづらい物事であり、それに関してすぐに思い浮かぶのが慣習や風習の類いかも知れず、そういう慣習や風習に基づいて行われる行為としては、それを行う目的が不明確な催し物となるにしても、慣習や風習と一体化した行事を執り行うことがどんな効果を発揮してどういった成果をもたらすのかといえば、例えば桜を見る会に地元の住民を招いて盛大な宴を催す行為が、目的論的な見地から考察すれば買収行為になるにしても、それを事件として立件して主催した人物が罪に問われなければ、そういった目的論的な思考が通用していないわけだが、買収目的でやったと考えている人にとっては、自分が的外れなことを考えているとはこれっぽっちも思っていないだろうし、立件しない検察当局に対して不信感を募らせるかも知れないが、そういう結果をもたらすことが慣習や風習の効果であり、慣習や風習を守っている人や集団が、その慣習や風習がまかり通っている社会の中で有利な立場や地位を占めている事実が、慣習や風習がまかり通っていることから生じている成果でもあるわけだが、そういった状況が不都合であるなら、どうやればそういう慣習や風習を改められるかとなると、それもすぐに安直に思い浮かぶことになれば、功利的な見地から改めた方が利益になるような成り行きへと持って行ければいいということになりそうで、実際に明治維新以後においては文明開花というスローガンを用いて、江戸時代の慣習や風習や風俗を西洋風に改めた経緯もあるだろうが、改めたり折衷的に中途半端な状態になったりした状態が、また新たな慣習や風習となって、それを守っていれば利益を得られるようなことにでもなれば世の中にそういった慣習や風習として定着することになるだろうが、そんなふうに物事を考えるのではなく、その場で行われている成り行きに従っていれば何とかなるような状況がもたらされていれば、それが何なのかというと、そこに何らかの階層秩序が定着していて、その秩序内で秩序を壊さないようにして行われることなら許されるが、その一方で思考を巡らして秩序を出し抜いたりその裏をかいて秩序に従わずに利益を得るのは許されないことになれば、当然のこととして何の違和感もなく行われているのが、秩序内で秩序を壊さないようにして行われていることになるはずだが、そうなっていることに違和感を抱けないこと自体が、すでにそこで当たり前のことのように定着している慣習や風習に意識を支配されて、その場で構成されている階層秩序には逆らえない精神構造となっているわけで、そんな精神構造が頭の中で定着しているような人がどんなに思考を巡らせても、自らが自覚なく守っている階層秩序を出し抜いたりその裏をかいて利益を得ようとする発想など思いつくわけがないだろうし、それに関してはそうだとしても、桜を見る会が世間の注目を集めて話題とならなければ、そこで盛大に催された宴に招かれた人々の誰もが自分が買収されているなんて夢にも思わないだろうし、主催している側も買収目的という意図も思惑もなく会を催していたかも知れないが、ただそういうことをやるのが慣習や風習に則っているとは思われるだろうが、それも意識してそう思うというよりは、そんな感じがする程度のことであり、日本で総理大臣になればこういうことをやるもんだ程度の軽い気分で行われるようなことでもあり、要するにその場に居合わせた誰もがそれが枝葉末節な大して重要でもない催し物に過ぎない程度の認識でやっているだろうが、その一方で礼儀作法や儀礼的な面でそれを専門的に執り行なっている方面ではそれが主要なイベントであり、失礼のない心のこもったおもてなしを心がけて誠心誠意尽くさなければならない行事となるわけで、そういったところでもそこでの立場や地位やそれへの関わり方に伴って階層秩序的な見逃せない差異や落差が生じてしまうのだが、それらが思考の中でごっちゃになって区別がつかなくなると、目的論的な傾向に頼って客観的に判断できているような錯覚が生じてしまうのかも知れないが、そういうところで総合的に判断できるわけでもないのだろうが、一度いちゃもんがついて世間でも不謹慎なのではないかと嫌疑がかけられると、その後はそういうイベントにおいて交通整理的にやっていいこととやってはいけないことが区別されて、そんな応急処置的に定められたルールの範囲内でやっていればお咎めなし程度なことへと落ち着くのだろうが、要するに意識して買収するためにそんなことをやっているわけではなくても、それと自覚することなく慣習や風習に従っていれば、自然と他人を買収するためにおもてなしをしてしまうわけで、それが日本的な空気を読んでいることの証しだとも言えるかも知れないが、逆に理性的に思考してそれをやってはいけないことだと主張する輩には反発して敵対感情を募らせるわけで、実際にこれまでに周囲の人々のやっていることを見習い同調しながら身につけた慣習や風習を守って生きてきたのに、その延長上で行なっている行為にいちゃもんをつけられると理不尽に思われるし腹が立つわけだが、それに対して思考を巡らすことは疑念を抱くことであり、それがおかしいのではないかと思うことになるわけだが、それもそれとは別の方面で教えられた論理や理屈と、実際に多くの人々が従っている慣習や風習との間で整合性が取れないから疑念を抱くわけで、そんな地点から思考を巡らしていくと、建前として教えられた論理や理屈が実態と合わない事態に遭遇できるにしても、だからといって論理や理屈と慣習や風習との間でうまく整合性の取れる論理や理屈を生み出せるかというとそうもいかないのかも知れず、そこでやれることは建前としての論理や理屈に合うように慣習や風習を改めることになるわけだが、論理や理屈の方もそれが建前として機能している限りですでに形骸化を被っていて、それを実質的に機能するように改められるかというと、それもうまく世の中の実情に合うようにはできないのかも知れず、その邪魔をしているのが慣習や風習でもあるわけで、どちらからでもどちらを優先させるかでその場の状況や情勢も変わってくるようなら、その場で主導権を握っている人や勢力としては自分たちが有利となるように、それらの論理や理屈や慣習や風習を自分たちの都合に合わせて調整したくなるから、何やらそこから改革だの変革だのと大げさなスローガンが持ち出されてくるわけだ。


1月24日「野党的な批判」

 メディアから批判する対象を得る際には、メディアがそれを批判する対象であるように見せかけている面があるから、それを真に受けるとメディアを味方につけて一緒になって批判できるような気がするだろうが、そうやってメディアが主導する仕掛けに安易に乗っかって批判していると、いつの間にか梯子を外されて、気がついてみれば自分たちの方が当のメディアから追及が甘いだの足りないだのと批判にさらされてしまうのが、日本で野党と呼ばれる政治勢力がメディアから攻撃される際に生じる典型的な成り行きだろうが、要するに政府や与党勢力と一体化したマスメディアが仕掛けてくる罠にハマって自滅してしまうわけだが、そうなるのを避けるにはマスメディアが提供する話題には安易に同調せずに、自分たちで独自に調査してそれを基にして議会などで議論する内容を構築すればよく、実際に多くの場合はそうやっているのだろうが、そういうことをやっているとメディアからは無視されて、野党は批判ばかりして何もやっていないというレッテルを貼られてしまうわけだが、結局はどうやっても不利な状況に追い込まれてしまうのだから、そういった方面のメディア勢力とは距離を置いて活動していくしかないだろうし、そういう意味で主流派から外れた勢力が日本の政治状況など変えようがないわけだが、それとは別の方面から変えようとして何が変わるわけでもなく、むしろ積極的には変えようとしない方が自然と変わっていってしまうかも知れないし、何が変わっていってしまうのかといえば、人々の関心が政治とは別の方面へと向かって、それにつられて政治も従来のあり方とは別の傾向へと変容していけば、従来のメディアも勢力としては衰退していってしまうかも知れず、それが現状では新聞やテレビなどに依存しているメディアの実態かも知れないが、それと比較してSNSなどのネットメディアが繁盛しているともいえないだろうし、そこでもメディアそのものの社会との関係や在り方が変容しつつあるのだろうが、そういう変容が直接政治と関わってくるわけでもなく、むしろ脱政治的な方面でメディアとしての在り方を模索しているように感じられるかも知れないが、脱政治とは何かといえば、従来の公共的な政治との関わり合いをできるだけ排除した形態で政治的な活動を模索するようなことかも知れず、そういうところで企業や各種の団体や個人などが人の生活に関する情報を発信して、そうした情報を活用しながら政治の助けを借りずに一般の人々が生活するような成り行きになってくれば、公共の政治を経由する必要もなく人々が生きている状態となり、そうなれば従来の意味や在り方を伴って存在する政治も不要となってくるわけだが、それで構わないのかというと、そういう成り行きをもたらすのがメディアの活動であるなら、実際にその種の公共の政治とは無関係な話題や情報を提供する新しいメディアの活動によってそういった世の中が形成されつつあるのだろうが、それが従来の政治からしてみれば政治の形骸化をもたらしていると状況を捉えられるかも知れないが、政治がやるべきことを他の分野が肩代わりしているというか、政治の分野を他の分野が侵食しているような状況がもたらされて、それと共に政治の活動できる範囲がだんだんと狭まっているのかも知れず、一般の民衆の側でも公的な行政の側でも政治に介入されたくないような傾向が出てきているとすれば、なるべくその種の政治を経由せずに自分たちの活動に伴って生じてくる問題を処理しようとするだろうし、それがうまく行くようならそれだけ政治家の出番が減ってくるはずだが、実態としてはどうなのかというと、人々の政治への無関心が顕著になっていればそういうことなのだろうし、それで不都合がなければそれでも構わないわけだが、それでは何が不都合なのかといえば、政治に関する話題を取り上げるメディアの方で不都合を感じているわけで、だから従来通りの政治的な話題に人々が関心を持ってくれるように盛んに情報発信を仕掛けてセンセーショナルに疑惑や不祥事の類いを煽り立てたいのだろうが、そういった話題の内容がいつものように政治批判を装いながらも、そんな誘いに乗っかってくる野党勢力を罠にかけて、逆に野党はだらしないとか言い放って叩いて、結局は現状維持へと持っていきたいわけだから、もうそういう予定調和の筋書きの三文芝居には民衆も飽き飽きしていて、商売としても興行収入の面で先細りとなりつつあるのかも知れず、そうであるなら産業としても衰退の一途を辿っていると見なしておけばいいようなことでもあり、そんな惨状を果たして立て直す必要があるのかというと、確かに昔の活況を懐かしんでいる老人の類いは、かつてのテレビや新聞のようにネットメディアにも精神的に依存したいのかも知れないが、そもそもメディアに依存することの危険性を説いていたのが当のメディア自身だったのかも知れず、そういう逆説的な人とメディアの関係を素直に受け取るなら、ネットメディアごときに心理的に依存するようであってはまずいわけで、人として自立するにはメディアとそれなりに距離を置いて活動していかなければならないだろうし、それは野党勢力と呼ばれる政治集団の類いにもいえることであり、その手のメディアがこれみよがしに政府や政権の疑惑や不祥事などをセンセーショナルに騒ぎ立てても、我関せずを貫いているぐらいでも構わないのかも知れず、そういうところで世論が動かなければ検察なども動かないようなら、直接疑惑や不祥事の捜査を担っている検察も怠慢の只中にあるわけで、それを野党勢力が国会で追及する必要もないとしたら、メディアが勝手に騒いでいるだけでも構わないだろうが、野党勢力にしてみればメディアの誘いに乗ったばかりに逆にメディアから叩かれるのは御免だろうし、そういうのは無視して自分たちの政治活動を優先させるようとするなら、その政治活動の内容とは何なのかとなるかも知れないが、果たしてそれがメディアから政府や政権の疑惑や不祥事の追及を要求されて、それを国会で追及して逆にメディアから追及が足りないだの迫力不足だのと批判されて自分たちの支持率を落とすことが役目なのかというと、そんな結果を目の当たりにすれば何かおかしいのではないかと思うのが普通の感覚だろうし、実際に支持率が低いわけだから民衆からそれを求められているわけではないと判断するのも普通にそう思われるところであり、そういうところで政府や政権やマスメディアが一体となって仕掛けている罠だと思うのも当然の成り行きだと思うだろうが、実際にはそうは思わせないように操作されているのが世の中にもたらされている空気なのかも知れないが、もちろん誰が操作しているわけでもないだろうが、実際にそういう成り行きになっているのならそれに応じて活動していくしかないだろうし、それがメディアから要求される無い物ねだりに応じることだとは思われなければ、それとは別の方面で自分たちの活動を構築していくしかないだろうし、そうやって活動を実践していった上でまだ勢力として一定の範囲で政治的な影響力を行使できていれば、それなりに民衆から支持を得られていることにもなるし、逆に支持を得られなければ議会で議席を獲得できずに社民党のように政治勢力としては消滅してしまうわけで、そういう意味ではマスメディアからの挑発に乗るべきではないと共に、さらに従来からあるマスメディアを利用して支持を拡大させようというのではなく、自分たちで直接民衆の意見を聞く機会を増やして行って、そうやってマスメディアを介在させない形で民衆との間で直接のコミュニケーションの機会を構築していかないと、途中でメディアによって情報が操作されてしまう危険性があり、それがメディアが行う世論調査であり、世論調査結果に一喜一憂しているうちにメディアの意向に従わざるを得なくなるような支配に屈してしまうわけだが、そういうことにそれなりに逆らえるようになってきたのがネット環境の活用であり、それを活用しながらそこに活路を求めるしかないとしても、そういうことを通して自分たちも変わっていく必要があると同時に否応なく変わって行ってしまうのだろうが、そういう成り行きが現状では主流の成り行きなのかも知れず、それにひきかえ政府や政権の疑惑や不祥事の類いが大して重要でもないとはいえないが、なぜ疑惑や不祥事の類が出てくるのかといえば、それも結局は政治システムの問題であり、そんなことをやらざるを得ないようなシステムになっているわけだから、人を替えてもシステムを変えない限りは同じような疑惑や不祥事が繰り返されるわけで、しかもそういうシステムに乗っかって政府も政権もそれと一体化しているマスメディアも成り立っているわけで、野党勢力に疑惑や不祥事の追及を要求してくるマスメディア自体が、その疑惑や不祥事を生み出すシステムと一体化しているともいえるわけだから、やるならお前らが勝手にやれ!と言い放っても構わないわけで、しかもそんな疑惑や不祥事を生み出すシステムと一体化しているマスメディアが世論調査をやって、自分たちの延命にとって都合の良い結果を出そうとしてくるわけだから、何から何まで管理している自分たちが有利となるようなシステムとなっていて、そんな八百長のようなシステムの中でいくら努力してもどんなに踊らされても勝ち目がないことは一目瞭然だろうし、端から勝ち目のない戦はやらないに限りるのが妥当な判断かも知れない。


1月23日「支配的な影響力」

 世の中に広く知れ渡っている過去の出来事や事件などに関係する人や国や勢力など、様々な存在が組み合わさって歴史が構成されていて、それらがお互いに全く似通っていなくても、それどころか対立する概念や陣営として世間で広く認知されていても、それらが複合的に結びついた現象として同時代的な一定の期間にわたって世の中に支配的な影響力を及ぼしていたように感じられるなら、それらの物事に何か共通の傾向があるような気がしてくるかも知れないが、そんな同時代的な傾向の中から否定的な面だけ抜き出して批判などに利用すれば、それでは印象操作になってしまうし、批判している当人がそれに気づいていなければ、その人が持ち合わせている知識や経験が一面的かつ一方的に偏っていて、同時代的な傾向の全般を網羅していないから、批判に都合の良い部分だけ利用しているような印象となってしまい、それ自体も歴史の一面的な理解から影響を受けてそうなっているような印象に感じられてしまうが、そういうところでそうではない面までも含めて知識や経験として持ち合わせていれば歴史の一面的な理解を免れるわけだが、その人にしてみればそれが知識や経験として身につかなかったのだから仕方がない面もあるにしても、それが時としてその人に対する批判材料として持ち出されてくることにもなるだろうし、そうであれば自身が何か意見や主張を述べる際には、自分がどれほど世の中の支配的な傾向から影響を被っているかを前もって認識して、それを自覚しておく必要もありそうだが、普通はそこまで考慮できないわけで、結局は自覚なく軽はずみなことを述べてしまい、それを逆手に取られて批判している相手やその味方となっている人や勢力から揚げ足を取られて言い負かされてしまうようなことにもなりかねず、そうならないためにも他の誰もが言えるようなことは軽はずみに言わない方が身のためなのかも知れず、それも当人の置かれた立場や境遇やその場の状況にもよるだろうが、では何事も世間並みに言われているような水準を避けて、それとは一線を画した自分独自の意見や主張になるように工夫を凝らすべきだと言ったところで、その人がそうしようとしてもそれを受け止める側がそうは思わなければ、その人の独自性などたかが知れていて、その人がそれまでに身につけてきた知識や経験や勘などが、他の人と比べて大して違いが認められない程度であれば、独自性も何もあったものではなく、そうであるならそういう面にこだわってみても仕方がないだろうが、批判の対象にしても、世間並みに批判しやすい対象というのがあって、それに関してもメディアなどでよく批判されている内容に影響を受けて、その批判と同じように批判すれば何か安心できるようなことにでもなれば、それ自体が世間で流行っている批判に便乗しているだけで、批判している内容の独自性など全く期待できないわけだが、そんな批判など意味がないわけではないが、そういう批判内容が流通している状況そのものが、それ以外の批判が無視されている一方で、流通している紋切り型的な批判も無効化されているような事態となっているわけで、そうやって批判と批判者が封殺される成り行きが普通にまかり通っているようなら、そういう封殺されているのとは別の方面から批判を構成するしかなく、そうやって絶えず工夫を凝らさないと批判が無効化された状況から抜け出られないわけだが、もちろん抜け出そうとして抜け出られるようなものでもないだろうし、それが批判だとは受け取られないような批判も繰り出すべきかも知れず、そういう意味では歴史上の人物として否定的に取り上げられる典型例を持ち出して批判に利用するようなことをやってしまうこと自体が、典型的な批判であると同時に無効な批判でもあるわけだが、それを無効だとは思わないように仕向けているのが世の中の支配的な傾向でもあり、一定の期間にわたって有効だと思い込める流行現象に伴って感じられる錯覚なのかも知れず、そういう錯覚に惑わされて使われてしまう素材としての典型的な人物がヒトラー的な存在なのかも知れないが、果たして現代的な言説空間の中でヒトラー的な存在に当てはまる人物に対して、ヒトラーの名前を使って批判を試みたところで、それが何を意味するのかといっても、世間で流通しているヒトラーに関する印象がそのまま連想されるだけだろうが、それが典型的なイメージである限りで誰もが思い浮かべる最大公約的なイメージには違いないが、そんなのは批判でも何でもないとは思わないが、その程度の批判には違いなく、それが取り立ててどうだというわけでもないが、そういうイメージを抱かせる典型的な人物を使って何か軽はずみなことを言ってしまう人の世間並みの愚かさに関しては、誰もがそう思うところかも知れず、それが意味のないことではないし、誰もが承知していることをその人も承知していて、それをうっかり口に出したりそんな内容を文章として記して公表してしまい、そう言われた当人やその味方や取り巻きから激しく非難されているに過ぎないわけだが、何かそれによって影響を被る方面というのも、取り立てて興味をひかない方面であれば、それ以上の追及など必要だとは思われないだろうが、ヒトラー的な存在というのが、果たしてそれに当てはまると思われる他の様々な人物に関してどれほど重なる面があるかとなると、人それぞれにかなり違った印象を伴ってくれば、そもそもヒトラー的な存在そのものが千差万別であり、それらが互いに全く似通っていない面も出てくるようなら、ヒトラー的な存在そのものが虚構の存在だと言えるような代物でもあり、何かのついでに適当な出来事にかこつけて便利に使い回しが可能な表現だとしても、いくらでも使い回しが可能であること自体が典型的な紋切り型として世の中に定着している表現であることには違いなく、そうなっている時点でたとえその人がヒトラーに喩えられてもどうということはないが、喩えられた当人やその味方や取り巻きやそれを伝えるメディアからも、それも典型的な反応を引き出すこともできるだろうが、そういうことをついうっかり口にしたり文章に書いたりしてしまう人の愚かさも世間並みの愚かさであるから許容の範囲内でもあり、それがどうだと改めて何か表現する対象とはならないだろうが、何かヒトラーその人を肯定するわけにはいかない公式的な評価基準とは違った方面から語る必要があるかというと、ヒトラーを20世紀を代表する独裁者だと規定するなら、ヒトラーと同時代において本来なら肯定的な意味でヒトラーと並び立つどころが、ちょうどぴったり同じ期間にわたってヒトラーと対立する存在として生存していた歴史上の人物について語らないわけにはいかないはずもないが、なぜかその超有名な人物が独裁者であった事実が都合よく忘れ去られていて、しかもヒトラーと同じ独裁者であったにも関わらず未だにその肯定的な評価が揺るがないわけだから、何かそこに現代でも有効なイデオロギー的なバイアスが働いているのではないかと訝ってしまうわけだが、その人物を代表者として行われた政策や、もちろんヒトラーが率いるナチスドイツの政策や、そこからさらに時代を遡ってプロイセンにおけるビスマルクの国家社会主義的な政策などを批判する過程で生じてきたのが、いわゆる新自由的な経済政策だというと、何かかなり時代的にずれていて、新自由主義は1980年代のレーガン政権やサッチャー政権から始まったと思っている人が、今では世の中の大半を占めているはずだが、そこにもイデオロギー的なバイアスが掛かっているようにも思われて、そういうところで歴史がねじ曲げられていると見なすと、誰かが意図的にねじ曲げるようなことではなく、現代から見ると都合の良いように歴史が捉えられて、それが現代に固有で現代という一定の期間でしか通用しない特徴的な傾向を示しているのかも知れず、そんな傾向に基づいて世の中に支配的な影響力が及ぼされているから、誰かがうっかり使ってしまうヒトラー的な存在にもそんな傾向が含まれていて、その人にとっては表現としてしっくりくるから思わず使ってしまうのだろうが、使うと使った人が愚かに見えてしまうわけだから、その人にとっては罠のような躓きの石のような役目を果たして、なぜそれを使ってはいけないのか理解できなくなってしまうのかも知れないが、それが全くデタラメな判断基準に基づいているわけではなくても、何かそう感じるのがもっともらしいような世の中の空気があるわけで、そんな根拠も理由も定かでないような空気に従っている人たちが世の中で主流派や多数派を占めているなら、それらの人たちにとってはもっともらしく思われる判断基準というのも、現代から時代や時期が遠ざかれば遠ざかった分だけ全く信用のおけない判断基準となってくるかも知れず、そういう意味では現状で主流派や多数派だと見なされる人たちが信じていることをそのまま真に受けることが、確かに現状の中ではそれなりに妥当だと思われるにしても、その妥当だと思われる期間や時間が永遠には続かないことは承知しておくべきなのかも知れないし、その妥当性が何かのきっかけから簡単に覆されてしまう事態も想定しておくべきなのかも知れない。


1月22日「社会民主主義」

 わかっているようでわかっていないという意味で政治的な主義主張とは何なのかという問いが、いつの時代でも同じような答えを得られるわけでもないだろうが、それに関する世界の潮流というのが見せかけだけで中身が伴っていないように感じられるのが、簡単に言えば社会民主主義的な傾向なのかも知れないが、その社民主義がどんな傾向なのかというと折衷的な傾向であり、貧富の格差をもたらす資本主義経済と誰もが生きていく上で必要最低限の生活が送れるような環境を両立させるやり方といえば、それを政治の場で行政に働きかけながら実現しようとする政策になるだろうが、実際にはその両立が難しいから貧困に苦しむ人がそれなりに出てくるわけだが、果たしてそれだけで構わないのかというと、もちろんそうではなく、誰もがある程度の満足感を得られる社会を実現したい一方で、不満を抱いていても政治や行政のせいにはできないような成り行きへと持って行きたいのが本音だとしても、そうであるなら政治や行政が何のためにあるのかという問いに答えるのが困難になってくるだろうが、少なくとも現状で成り立っている社会の状態を維持するのが政治や行政の役割となっていることは確かであり、それだけでは民衆から支持を得られなければ、より良い社会を実現するために政治や行政があるという建前で構わないはずだが、そのためには何をどうすべきかというところで、なかなか折り合いをつけられなくなってくるわけで、何と折り合いをつけられないのかといえば、資本主義的な経済活動との間で折り合いをつけられないことが政治や行政の面で課題となってくるわけだが、現状を維持することが大前提となってくると、こうすればいいということが言えなくなってくるわけではないが、すでに現状を維持していることが現状を変えるわけにはいかなくしていて、現状を変えるということが現状の中で主導権を握っている勢力を変えようとすることになってしまうと、実際に現状の中で主導権を握っている勢力としては受け入れられないだろうし、より良い社会を実現するために現状を変えようとすることが、現状の中で主導権を握っている勢力を別の勢力と交代させることになってしまっては困るわけだが、それに対する折衷策としては政権交代しても政治でも行政でもやっていることの中身がそれほど変わらなければいいわけで、そうなると何のために政権交代したのかわからなくなってしまうが、現状を維持するにはその方がいいわけで、そうやってやっていることの中身までは変えさせないようにするための戦略が発動して、ごまかしやまやかしや無い物ねだりなどを並べて、現状を維持するために自分で自分の墓穴を掘ったり自分で自分の首を絞めるような自業自得なジリ貧状態に陥ってくるのだろうが、具体的には何がどうなっているのかというと、一方的なことはできないから、絶えず相反する力や作用が及ぼされては相殺されるように持って行く成り行きになるわけだが、それが結果的にそうなれば現状が維持されるが、そうなる過程において一時的には一方方向に事態が向かう局面も出てくれば、そこでは確かに何かをやっている感を得られて、何か一波乱が起こっているような事態がもたらされて、そんな紆余曲折に心を奪われているうちに、そうした過程が過ぎ去って一件落着してみれば、そこには以前と変わらぬ現状が維持されていれば一安心するのだろうが、そういった現状を維持しようとする意図や思惑があからさまには打ち砕かれないとしても、絶えずそれが無効となるような方向で現状が変わり続けているのかも知れず、そうした否応のない変化をもたらしているのが功利的な経済活動なのだろうが、それに対して抗っているのが行政活動であり、具体的には政治的な独裁体制を築いて経済活動によって国家が解体される事態を防いでいるわけだが、しかしそうなると民主主義が成り立たなくなってしまうわけで、社民主義的な折衷策もそこで行き詰まってしまうわけだが、果たして資本主義的な経済活動が活発化することが国家の解体をもたらすのかというと、確かに貧富の格差が顕著に現れてくれば不平等感を募らせた貧困層が何も救済してくれない政府に対して不信感を募らせて国民の団結を保てなくなってくるし、それと共に富裕層による課税逃れや優遇税制などの実態もメディアやジャーナリズムなどを通じて明らかになってくれば、企業だけでなく政府も富裕層の味方であることがはっきりしてくるだろうし、どう考えても自分たちの国家ではないことがわかってくれば反政府的な闘争を行う成り行きになってしまい、そうなれば国家が解体する危機が到来するかも知れないが、政府としては国家を解体させるわけにはいかないから、反政府的な闘争を抑え込むしかないだろうし、そのためにも民衆の意向を無視した強権的な政治体制を構築するしかなく、そうやって国民のためではなく政府のための国家となるような結果をもたらすのかも知れないが、確かにそういう説明が当てはまる国もあるかも知れないが、その一方で日本などの実態を見る限りはそうはなっていないわけで、それも長い目で見れば日本もそうなる過程の途上にあるのかも知れないが、少なくとも現状ではそうはなっておらず、そこに現状の政治と経済と行政とメディアなどの各勢力による談合体制で乗り切っている面が顕著に現れていて、ヨーロッパ諸国ほどはっきりとした傾向となっているわけでもないが、社民主義的な傾向もそれがあからさまな社民党を排除した上で、それなりに出ているのかも知れないが、欧米諸国や隣国の韓国や台湾などと比較して日本が失敗している点を挙げるとすれば、あまりにも民衆のお行儀が良過ぎたり分別がつき過ぎて、結果的に現状維持に落ち着く途中で起こる紆余曲折や小波乱を招けないことにあり、それがここ数十年における政治や経済の停滞を招いているといえるかも知れないが、それも大同小異的なことだと見なすなら、大した差にもならないだろうが、もっと気休めになるような事態になることを期待したいのなら、現状の停滞した状況に対して激しく揺さぶりをかけるような勢力を支持したり、そうした勢力に入って積極的に政治活動をすればいいわけだが、根本的なところでは社民主義の徹底によって現状の停滞を打開できるわけでもなく、それは欧米諸国の実態を見れば明らかであり、現状の政治や行政の形態でできることは、停滞の打開を図ることよりは現状の状態を維持することの方がその割合が大きいのかも知れないが、それに関してはあまり現状からかけ離れた幻想を抱かないことが肝要だとしても、そうだとしてもあまりにもお行儀良過ぎたり分別がつき過ぎても、ひたすら現状の維持に加担するばかりで、何の紆余曲折も小波乱も起こらなければジリ貧を意識するしかないだろうが、そうならないようにするには何をどうすればいいのかと問いかけるよりは、単純に現状を維持する傾向に抗うしかなく、それが無駄な悪あがきになるような成り行きが現状の中で支配的な談合体制からもたらされているのかも知れないが、抗うつもりがなくても結果として多くの人たちが現に抗っているわけで、それが社会の先細り的な傾向を示す少子高齢化となって現れているし、現状に抗っているのではなく現状に対応しているからそうなっているのだとしても、実際に物理的にも経済的にも抗えないから結果的にそうなっているとしても、その結果が社会の現状を維持できない傾向として示されているわけだから、現状を維持しようとする意志に抗うような結果が出ているわけで、そんな結果に抗えなければ従うしかないわけだが、そうであれば現状の維持に抗うような成り行きに従わざるを得ないことが、自動的に社会の現状を維持しようとする勢力に抗っていることになるわけで、それが自然の成り行きに従うことでもあり、そうなっている限りで人は自然の成り行きに従うことしかできないわけだが、そんな否応のない成り行きをどうやれば覆せるかと問うこと自体が愚問であり、そんな成り行きに囚われている人が自力でそこから抜け出すことは不可能かも知れないが、自力でなければ何なのかというと、安直には他力ということになるだろうが、実際にそこから抜け出すような結果に至れば、それが自力だろうと他力だろうとどちらでも構わないわけで、そうなるきっかけが巡ってくればそういう成り行きに乗っかって行動すればいいだろうが、そんなきっかけを起こすのも、現状の維持に汲々として小手先のごまかしやまやかし無い物ねだりなどを駆使している勢力ではなく、現状を直接ぶち壊そうとしている勢力であると、それも安直にそう思ってしまうところだろうが、そこでも安易にそう考えないで、できるだけ用心深く回りくどくひねくれながら思考を複雑に込み入らせることが肝要だとも思われないが、何か停滞の只中に思考が留まっているように感じられるなら、そこで考えるしかないわけで、考えたところで何の結論にも至れないかも知れないが、そうなっていること自体が何らかの事態に至る途中で思考する余裕があることになり、余裕がある限りで考えていればいいわけではなく、行動が促されていることに鈍感なのかも知れず、結果的に手遅れを招いてしまうのかも知れないが、とりあえずはそうなる途中の段階で紆余曲折や小波乱を体験している最中だと認識しておくしかないわけだ。


1月21日「嘘の効用」

 嘘を真実のように語るのが、嘘を語る上ではありふれた語り方になるだろうが、物事を単純に捉えて、真実を語るか嘘を語るかの違いで何がわかるのかと言ったところで、嘘を語るにも語りようがあり、語りようのない嘘などないかも知れないが、もちろん真実を語ろうとしても、語り方を誤れば真実が真実でなくなるわけでもないが、人を騙すために嘘を語るのではなく、人に真実を伝えるために嘘を語る場合もあるだろうし、逆に嘘を伝えるために真実を語る場合もあるかも知れないし、さらには人を騙すために真実を語る場合までありそうだし、嘘を伝えたからといって騙そうとはしていない場合もあるだろうが、騙すのではなく惑わそうとする場合もあるかも知れないし、それが嘘だとも真実だとも判断がつかないように語る場合さえあるなら、では何を伝えようとしているのかといえば、嘘なのか真実なのかよくわからないようなことを伝えたいのかも知れず、判断がつかないからそれを受け取る側に判断してもらいたいという意図があるなら、それを受け取る側が判断しなければならないとしても、判断しようがなければ判断しないし、判断できなければ判断を保留するしかないだろうが、何をどう判断すればいいかということが果たして判断する側にまかされているかというと、それは伝わってくる内容にもよるし、伝え方にもよるだろうが、試験のような判断を強制するような仕組みの中で事の真偽を判断しなければならない事態となれば、判断せざるを得なくなるとしても、伝わってくる内容が嘘っぽくてもそれを世の中に拡散することが自らを利すると判断するなら、嘘を承知でメディアなどを使って世に広めようとするかも知れず、そういう功利的な判断が時としてそう判断した人を有利な状況へと導くかも知れないが、それがすぐにバレそうな嘘であると、その人が期待する有利な状況というのも、嘘がバレるまでの一時的な期間に限られて、実際にすぐに嘘がバレてしまえば、たちまち有利な状況も崩れ去って、そうなった時点でその人の判断が誤っていたことが明らかとなってしまうだろうが、そんな嘘やデマを拡散する怪しげなメディアというのも、SNSにはありふれているだろうから、普通の良識を持ち合わせている人なら端から信用していないだろうが、それを面白がっている人ならやはり嘘やデマであることを承知で拡散しようとするだろうし、そうやって世の中に嘘やデマが蔓延している状況をもたらして面白がりたいのかも知れないが、そういう判断が間違っているかというと、それも一般的には間違っているのだろうし、間違ったことをやってはいけないと思うのも普通の心理状態だが、おふざけや愉快犯程度のことなら許されるような気がしてしまうも普通の心理状態であり、そのどちらがどうというわけでもなく、嘘やデマを拡散するメディアというのもその程度の存在であり、そんな成り行きを面白がっている程度であるなら、大目に見てもらえるような状況となれば、それが取り立ててどうということはないのかも知れないが、そういったグレーゾーン的な領域がどれほど世の中で許容されているかについても、その実態を誰が正確に掴んでいるわけでもなく、中には本気で嘘やデマを信じてしまう馬鹿どもの存在を想定してメディアを利用しようとする詐欺師のような輩もいるだろうし、何でもありだと思えばある程度の無理は承知で嘘を真実のようにでっち上げようとするだろうし、その無理がどの程度の水準で無理なのかといえば、そんな人たちの悪意がまかり通る範囲内で無理が利くように思われるだろうが、意外とそれが世間でも普通に通用するようなら、つけ上がってやりたい放題やりたがり、それが限度を超えてやってしまうと禍根を残すだろうが、それのどこまでが限度で、その限度をどこまで引き上げようとするかも、そういうことをやっている輩を許容している側の都合に応じて上がったり下がったりするのかも知れないが、それがどうでもいいような些細なちょっとしたきっかけから人気が出て世間の注目を集めたり興味を持たれたりして、後には引けなくなってくると開き直って正々堂々としてきて、胡散臭さを取り払ってもっともらしい装いを整えようともしてくるだろうし、そうなると権威のような肩書きを重視して、そういう人を信用させるに足る肩書きのある人たちを取り込みながら、正式なメディアとして成長を図ろうとするのかも知れないが、そういった社会的な権威主義と下世話な嘘やデマが結びつきやすいとしても、それ以外に何があるかといっても何もなければメディアとはそういうものだと見ておくしかなく、そういうメディアは信用できないといっても、実際に多くの人々が信用していないわけだから、今さら改めてメディアは信用できないと言い放っても無意味であり、昔からそうなのであり、それはすでに一般通念として織り込み済みになっていて、誰もが普通の感覚で信用できないことを前提にしてメディアと接しているわけだが、メディアとはそういうものだという固定観念や先入観を抱いているからそれほど気にしているわけでもないが、メディアが人々に何かを信じさせようとしていることは確かで、伝えていることを真に受けてほしいのだろうが、実際に真に受けているつもりなのかも知れないが、その真に受け方というのがそれなりに程度や傾向があるなら、それが真偽を区別するような水準では真に受けていないのかも知れないし、それ以外にも面白いかつまらないかの区別もそれほどつけていないのかも知れないし、また興味があるかないかの区別も定かでなければ、ではそこにどんな区別があるかというと、例えば社会の慣習や世の中の風習に配慮していればどんなに嘘やデマを撒き散らしても許されて、逆に慣習や風習を変えようとしていればいくら真実を語っても無視されるなら、そこにはっきりとした区別があることになり、そういう区別が真偽の区別よりも優先されているようなら、果たしてそれを誰もが認めているかというと、そこには本音と建前の使い分けがあり、建前として真偽の区別を優先しているように装いながらも、本音の部分では慣習や風習に配慮した嘘やデマを許容していて、それでも建前を崩そうとはしないわけだから本音の部分は暗黙の了解事項であり、よそ者の前では隠している部分でもあり、みんなで嘘やデマを撒き散らしている身内の者たちを守らなければならず、そうやって慣習や風習が通用する社会を守っているのだろうが、それはそうなっている結果から見ればそう見える程度のことであり、結果的に嘘やデマを許容している人たちにはその自覚がなく、感覚としては建前でもある真偽の区別を優先しているように感じられるわけで、その一方で身内とよそ者の区別は自覚しているだろうし、身内の味方をする一方でよそ者と敵対していることはわかっているはずだが、身内が嘘やデマを平気で撒き散らしていることについては自覚がないわけで、そういう面ではそれらの人たちの精神的な欠陥が露呈しているのかといえば、そういうわけでもなく、それがごく普通の精神状態なのだから、頭がおかしいわけではなく、普通の一般人の精神構造がそうなっているわけだから、それ自体が何か社会的に問題となることはないだろうが、果たしてそういう精神状態を変える必要があるかとなると、変えようとしなければ変わらないのかという問い自体も無意味なのかも知れず、そういう人たちはそのままであっても構わないとは言えないが、実際にそういう人たちが社会の中で多数派を構成していればそれを利用しない手はなく、そういう人たちを味方につけることによって政治的な主導権を握っている勢力もあり、そういう勢力にとっては社会の状態がそうなっていることの方が都合が良いわけで、そういう意味では政治的にできることは、そんな社会の状態を変えることではなく、逆にそれを利用して政治的な主導権を握ることであり、実際にそれを実践してみせたのがアメリカのトランプ前大統領など世界にはいくらでも前例や事例がありそうだが、もちろん日本でもある程度はそういう面もあるだろうが、全面的にそうではないところが微妙なのであり、それをただ利用するだけでなく、そこから別の利用法を見つけ出さなければならず、もちろんそんなのは嘘に近いが、嘘にも何かしら効用がありそうで、それがありそうだとしてもあからさまに利用しようとするのではなく、結果的に利用できていればいいということであれば、嘘をどうやって利用するのかと考える必要はなく、それよりは嘘を真実のように語るありふれた手法を実践してみるしかなく、いかにも本当のことであるかのように嘘を語ってみせれば、別にそれが真実を語っていることになるわけでもないが、嘘を真実のように語る手法の嘘っぽさを表現できるようになるかも知れず、それを表現してみせること自体が重要というわけでもなく、重要なのはあくまでも真実を語ることになるわけだが、それが嘘の真実を語ることであるよりは、真実が嘘の中にあることを表現できればいいわけで、そうやって真実が嘘と共に成り立っていることを示せれば、特に嘘と真実を区別して示して嘘に騙されるなと注意を喚起する必要もなくなり、嘘は嘘として使い道があることがわかってくるのではないか。


1月20日「戦略的な抗い方」

 自分がどんな物事の成り行きに囚われているかは、わかっている面もわかっていない面もありそうだが、自分だけが単独で固有の成り行きに囚われているわけではなく、自分と様々な程度でつながりのある人や物事との関わりから成り行きが構成されていて、しかもそれらとの関わりも絶えず時の経過や場所の移動と共に変化し続けているから、いくら自己中心的に自分が囚われている物事の成り行きに注目したところで、それが世の中で起こっている主流の成り行きからずれていれば、自己中心的な意識の水準から下す判断や評価も世間的な水準での主流の成り行きの中では意味をなさなくなることもあり得るが、それも絶えずメディアなどから及ぼされる影響力によって平準化作用を被っていて、自分の判断や評価が世間的な水準での判断や評価に近づくように修正や補正を強いられるのだろうが、そうなる過程が自身が囚われている物事の成り行きにも含まれていて、独自の判断や評価では通用しないことを思い知らされるから、そういう成り行きに対処していく過程で、世間的な意味での主流の判断や評価に従うように促されているわけだが、果たしてそういう同調圧力にどこまで抗えるかといっても、意識して抗っていても、抗っている気でいることすらが、すでに世間的な意味での主流の抗い方をなぞっているだけかも知れないし、他にもいくらでも同じような抗い方で抗っている人や勢力がいる限りで、そういう抗い方が世の中の主流となっているわけだから、そうなれば自分も世間的な意味でのその他大勢に含まれてしまい、そうなっている時点で世間の同調圧力に屈していることになって、ただそれに気づいていないに過ぎなくなってしまうのかも知れないが、実際にその他大勢の中の一人として振る舞っていることを自覚できるかといっても、自分の中ではそうは思っていないだろうし、自意識がある限りで、自尊心も同時に生じているから、自身が世間的な水準では何でもないちっぽけな存在であることは受け入れ難いのだが、受け入れ難くても客観的には把握していて、それが自己中心的に思っている独自の判断基準から下される自己評価と、世間的な意味での常識的な範囲内から下される自己への評価との間で感じている落差として認識されるなら、その食い違いがアンビバレントな思いとなって自己を苦しめている場合もありそうで、それ自体が自己中心的な判断基準を放棄せよという同調圧力でもあるわけだから、苦しいと感じていることがその苦しみをもたらしている対象に抗っていることにもなり、そういう意味では何かに抗うのは苦しいわけだが、抗っているのに苦しくなければ圧力を感じていないか、あるいはみんなで一緒になって抗っているから苦しみよりは楽しさの方が勝っているのか、しかもそのみんなで一緒に抗っていることが世間的な同調圧力に屈していることになるのかは、どう判断してみてもよくわからないかも知れないが、それも客観的な事実としては、抗うならみんなで一緒になって大勢で抗えばより強力に抗えるような幻想を抱いているとすれば、世間的な意味での主流の抗い方であるような気がするかも知れないし、そういうところから民主的な抵抗運動のあるべき姿のような形態が出てくるわけだが、そうなれば独裁的な強権勢力としても警察や軍隊を動員して弾圧しやすくなるにしても、実質的な効果や成果をもたらすにはそれではまずいように思われるなら、やり方を変える必要が出てくるのだろうが、求めている効果や成果が何なのかというと、世の中を変えるということであるなら、これまで通りのやり方では効果や成果を期待できないということがはっきりしてくれば、どう考えてもこれまで通りのやり方ではまずいように思われるはずだが、そうかといって一般大衆レベルで大勢で戦略的に振る舞うことができるかというと、意思疎通がうまくいかなくなるわけで、そうなると効果や成果を度外視して、みんなで集まってデモ行進をやったり集会を開いて抗議の意志をアピールするようなことしかできなくなってしまうわけだが、体制側でもそれに対応して投入する警察や軍隊を事前に用意していれば事なきを得るわけで、そういう成り行きになってしまえば、ただの不満のガス抜きのようにして定期的にその種のお祭り騒ぎを開かせておけばいいようなことになって、それも一つの効果や成果の表れでもあり、民衆の抵抗を抑え込むための有効な手法に含まれてしまうだろうが、そういった先回りして準備万端整えておくような発想の裏をかけるかといっても、それもそういうこととは違う方面へと物事の成り行きを持っていきたいような思惑が生じてくるかというと、思惑が生じても個人がそう思っているだけではどうにもならないと思われるかも知れないが、戦略的に意図や思惑を抱いて何かやろうということではなく、特定の形式や形態を伴わないようなやり方を模索できるわけでもないが、それでも戦略的な抗い方にこだわるなら、それを具体的に指し示さないことが肝要かも知れず、何だかわからないが結果的に抗っていることが重要だと思えば、その抗い方が事前にわかってしまったら、抗う対象に対処されてしまう可能性も出てくるから、事前にこうするべきだと示すようなことはしない方がいいのは理解できるところだが、それでも大勢で組織的かつ計画的に効果的な成果を求めるような成り行きになってしまえば、そういうやり方に対して待ち構えている勢力と同じになってしまい、そういうやり方に抗おうとしているのだから、抗う対象と同じやり方になってしまうとまずいわけで、そういうところまで考慮に入れるなら自ずからそれとは別のやり方を模索する成り行きになりそうだが、何かを模索するという行為が集団で何かをやるとなると、組織的な集団を同じようなやり方へと導いて、結果的に同じようなやり方とそれに対する同じような抗議活動の繰り返しとなってしまうのだろうが、それについて語り、それとは違うやり方を具体的に示すことも、それをやる以前に事前に示すことになってしまうから、行動よりも言説の方が先回りしていることになり、やはりそれでは同じことの繰り返しとなりかねず、そういうやり方では思うような効果を得られないばかりか、思うような効果を得ようとすること自体が、思うこと自体が言葉に依存している限りで言説の先回りを招いてしまい、そういうやり方ではまずいとなると、思わないような効果や思いがけない効果を期待するような意味不明なこととなってしまうだろうが、実際にも計画通りに事が運んで安堵するよりは、思ってもみなかったような結果に直面して愕然とすることの方が多いのかも知れず、そうなっているのだからそういう面ではやっていることがうまくいっていないはずで、実際に思わないような効果や思いがけない効果がもたらされているわけで、そうなっていればやっていることがどちらかと言えば失敗していることになるのだろうが、それでいいとは思わないにしても、思いがけない結果がもたらされているのだから、そこで思い通りに事を運ぼうとしている勢力の裏をかいていることにもなるだろうし、もちろん誰が裏をかいているわけでもなく、結果的にそうなっているだけであり、ただ偶然にそういう結果がもたらされているだけだと客観的に状況を捉えておけばいいわけだが、要するにそんな結果を否定的に捉えるのが普通の感覚なのだろうが、それを逆に肯定的に捉えろとは言わないが、絶えずもたらされた思いがけない結果に対応して何かをやらなければならないと心がけることが肝要なのかも知れず、思いがけない結果を利用して何かをやらないと行動で先手を打てずに、絶えず何かをやらなければならないと行動を催促する言説に先回りされてしまうわけで、そんなふうに言葉で行動を規定するような成り行きに持ち込まれてしまうから、言葉の呪縛から逃れられずに言葉が示す通りの行動を促されてしまうと、やはりそんな行動を嘲笑うかのような思いがけない結果がもたらされて愕然としてしまうわけで、そんな成り行きが繰り返されてしまうからやっていることがうまくいかないのだろうが、それでも構わないわけがないが、ある意味はそれで構わない場合もあるのかも知れず、やっていることがうまくいかないことの繰り返しの末に現状があり、それが思いがけない現状でもあり、そんな思いがけない現状の中で自身が生きているのだから、そうした失敗の連続によって構成されている自分が失敗の構成物であることは火を見るよりも明らかであり、やってきたことがうまくいかなかったからこそ今の自分が存在していると思うしかなく、それを成功したから自分が存在していると言い換えたい気持ちもかなりの割合であるだろうし、実際に自身の世間的な意味での成功を実感している人はそう思うだろうが、結果的に自己肯定的な認識や実感を得たいならそう思っていても構わないだろうが、そうした実感に反して思いがけないことに遭遇してきた記憶の方が鮮明に残っているようなら、そんな今までに繰り返してきた数々の失敗の経験が自身の態度や姿勢の謙虚さをもたらして、思惑通りや計画通りに事を進めることを躊躇させるのかも知れないが、それと共に思いがけない結果がもたらされることを内心期待している自らにも気づいて、複雑な心境に至るわけだ。


1月19日「戦略的な倒錯」

 言葉が無力な時には、何に対して言葉を弄してどんなことを述べても、言葉を弄している対象が起こしている現象や出来事をどうすることもできなければ、その現象や出来事に対して言葉の方が負けている状況があり、その現象や出来事が一過性のものであるなら、それに対して言葉を弄して全面的に戦おうとするよりは、一過性の現象や出来事が通り過ぎるまで黙って待っていた方が得策の場合もありそうだが、逆に言葉を弄して騒いでいるうちに災禍の類いが通り過ぎてしまえば、その間は無駄に言葉を弄していたのかというと、災禍の類いから人々の気を逸らす目的で騒ぎ立てている場合もあるだろうし、意図して戦略的にそんなことをやっている限りで、言葉の有効活用ができているような気にはなれるかも知れないが、それの何がおかしいのかといえば、無駄だとわかっているのに相変わらず言葉を弄していることが戦略だと思っていれば、それで気が済むようなことであるなら、それ自体が戦略的な倒錯なのかもしれないが、それを戦略的な倒錯だとも気づいていなければ、客観的には空騒ぎの最中なのだろうが、それが空騒ぎだと気づかないことが重要で、気づいていないふりを装うのは気づいていることになるのだろうが、空騒ぎをやっている連中が空騒ぎをやっている自覚があるわけではなく、それが自覚なき演技であるとしても、何かやっている感がそこから滲み出ているように見えれば、迫真の演技だとも感じられなくても、当人たちが演技ではなく何か実質的に効果があるようなことを実践している気になっている限りで、戦略的な倒錯であるはずもないのだろうが、その自覚がないことが結果的に戦略的な倒錯として効果を上げるようなことになれば、それが戦略的な倒錯だと自覚しているとまずいことになるだろうから、普通に自覚なき戦略であることが倒錯として機能するのだろうが、そうであるならあまり事を難しく考える必要もなく、災禍の類いがもたらされている原因や理由を誰か特定の批判したい人や勢力のせいにすればいいということになるわけだが、その対象となりやすい人や勢力が存在しているということであり、しかもそんな人や勢力が自覚なき演技としてやっている感を出しているように見えるなら、何の効力もないようなことをやっていると批判できるわけで、そうなっていれば批判自体は有効に機能しているような気がするのだろうが、肝心の批判の対象となっている行為自体も災禍の類いから人々の気を逸らすための空騒ぎでしかなければ、果たしてどうやれば災禍の類いに対処していることになるのかというと、空騒ぎを批判している人たちにわかるわけもないだろうし、空騒ぎは批判できるがそれ以外に何をやればいいのかと問われるなら、それ以外に有効な対処法があるわけではなく、もちろん空騒ぎ自体は無効な対処法だと批判できるが、批判以外に何ができるかというと、何もできなければ批判するしかなく、それが無駄で無効な空騒ぎを演じている人たちへの対処法になっているとしても、そうなっている時点ですでに無駄で無効な空騒ぎをしている人たちによって対処法を限定されてしまって、批判する以外にやりようのない状況に追い込まれているわけで、それが無駄で無効な空騒ぎをやっている人たちの戦略的な倒錯の効果であり、そうやって批判する以外に何もできないようにされてしまうことがまずいと考えるなら、それらの人たちが仕掛けてくる戦略的な倒錯の罠にかからないようにしなければならず、そういったわざとらしくやっている感を出しながらそれを批判するように誘い込むやり方への有効な対処法を編み出さなければならなくなるわけだが、それも編み出す必要もないことであるなら、編み出さなくても構わないことかも知れないし、それを真に受けて素直に対応するのを躊躇ってしまうようなことであるなら、そんなふうに事を込み入らせて難しく考えるのが面倒になり、それよりは素直に向こうの誘いに乗って、無駄で無効な空騒ぎを批判すればいいということになり、それを実際にやっているのではなくやっている感を出してやっているように装っているに過ぎないと批判しておけばいいのだろうが、そういう批判をしておくと共に他にもやらなければならないことを模索したければ模索しても構わないだろうが、それを模索することもそこでの対処法に含まれてくるなら、他にも対処法がありそうにも思われて、ただ一つの対処法だけで済ますわけにはいかなくなってくれば、そこでは様々な対処法を模索することがそれ自体への対処法ともなるのかも知れないが、そうなってくることがどうでもいいような無駄で無効な空騒ぎを批判するだけに止まらない成り行きをもたらすわけで、要するに大したことでもないことを批判するだけに専念させられないように自分たちの状態を別の次元へと持っていくことが、人を煙に巻いて気を逸らせようと企む倒錯的な戦略に抗うには重要になってきて、しかもただ抗うだけでなく向こうの誘いに乗って罠にかかっているようにも演じる必要も出てくれば、ややこしくて面倒な対応となってくるだろうが、それも演じていることを自覚する必要もなく、素直に向こうの戦略に応じるがままに、その気になってそんなやり方ではダメだ的に批判すればいいのかも知れないが、そこでもあまり事を込み入らせて難しく考えることはせずに、戦略的な倒錯に引っ掛かっているがままに誘導されていれば、それが一過性の現象や出来事としてやり過ごされて、そんなどうでもいいような成り行きが過ぎ去ってしまえば、それでもまだ性懲りもなくやっている感を出して戦略的な倒錯が継続されているようなら、そうなっている時点ですでにネタ切れとなっていて、それ以外にはやりようがないことが次第に明らかとなってくるわけで、それはそうなる以前からそうだったのであり、そんな空騒ぎの状態をそれを批判する人や勢力と一緒になって継続させてきた経緯があるからそうなっていて、そこへと人々の関心をつなぎとめてきた実態があるにしても、それが全ての人の関心の的となっていたわけではなく、一部の人々の関心をメディアという増幅装置を使って拡大解釈して、関心があるように装われてきたわけだが、大して関心があるわけでもないのを関心があるように見せかけることも、戦略的な倒錯行為には含まれていて、関心がないふりをしながらも、そんなやり方ではダメだ的な批判を装いながら、それについて熱心に語り続けるという逆説的な手法を使って、結果的には人々のそれに対する関心をつなぎ止めようとするのだろうが、そういうところで予想や予測を用いて、先回りしてそれへの対処法を考えてしまうから戦略的な倒錯の思うつぼにハマって、そこから結果的にそんなやり方ではダメだ的な批判が出されて、そういう批判に人々の関心を集めようとすることがそれへの関心を継続させてしまうから、それによって戦略的な倒錯も延命して、さらに性懲りもなく実質的には事態を放置しているのに何かやっている感を醸し出すようなごまかしが行われてしまうのだろうが、果たして本当にそんなやり方ではダメなのかというと、ダメというよりは他に何もなければ否応なくそうなってしまい、それ以外には何もやりようがないから、なし崩し的にそうなってしまう成り行きに従わざるを得ないのかも知れないが、そこでもそんなやり方ではダメだと内心思っていても、そんなやり方のただ中に留まるべきかも知れず、そんなことをやっている人や勢力にはそれ以外のことはできないと見なしておけばいいわけだが、下手にそれ以外のことがやれるような幻想を抱かせられてしまうから、そんなことしかできない人や勢力を惰性で支持してしまい、それと共にそんなやり方を批判している人や勢力に反発するわけだが、それ自体が無い物ねだりであることはわかっているのだろうが、そんなジリ貧状態から何十年も抜け出られない現状があるなら、それも戦略的な倒錯の罠にハマっている証拠であり、そんな状態になっていることを当然視している意識がおかしいのだろうが、もちろんそれを当然視しているわけだからおかしいとは思っていないだろうし、おかしいとは思っていないのだからそこから抜け出すことができないわけだが、抜け出せないから困っているわけでもなければ抜け出す必要もないが、それでは困っている人は抜け出したいはずだが、そんな状態を批判する人や勢力を支持する気にはなれないのだろうし、それがそこから抜け出せない原因であれば、支持する気にはなれない人や勢力を支持すればいいわけで、支持できなければ支持できるようにそれらの人や勢力を変えてゆけばいいのだろうが、それが戦略的な倒錯の罠にハマっているから支持できないようにされていることになっていればわかりやすいにしても、そういうわかりやすさが信じられないのであって、それが事をややこしく込み入らせて考えさせようとする戦略的な倒錯にハマっている証拠でもあるわけだが、果たして今後そういった解くのが困難な呪縛から人々の意識が解放される成り行きになるのかというと、そうなることに先回りしてそれを予想したり予測しようとすると、たちまち現状を構成する前提条件から考えてしまうから、そうはならないような気がしてきて、それがそんな前提条件に抗いながら現状と格闘している現状に批判的な人や勢力への支持を阻んでいるわけだ。


1月18日「道理と功利」

 道理が全て疑わしいわけでもないが、時として道理に適っているように思われる主張の中身が胡散臭く感じられるのは、主張する人の自己正当化が顕著になってくる時にそう思われて、実際に自己利益を優先させるようにして道理を持ち出すと、それが利己的な主張となって道理と矛盾しているように思われるのであり、何よりも自己保身が優先されると道理に適っていないように思われるかも知れないが、自己保身を連想させないように道理を持ち出さなければならず、利己的なことを述べているとは思われないような主張の仕方を模索する必要があるというと、自己保身そのものが悪いように思われるが、結果的に自身の主張の正当性が保持されるなら、それこそが自己保身につながるのではないかと思われるかも知れないが、それが直接自己保身を連想されてしまうと、道理より功利の方が勝って、道理に適っていないように思われるなら、まずは自分よりは他人を利するようなことを述べながらも、それが結果的に自身を利することにつながればいいと考えれば、ちょっとは合点が行くかも知れないが、果たして本当にそんな主張ができるかというと、それよりはもっと単純に自分を犠牲にして他人を助けるようなことを主張してしまうわけで、それが偽善者の安易さを連想させて、何か裏があるような胡散臭さを感じさせるわけで、要するに主張するのではなく直接自分を犠牲にして他人を助ければいいわけだが、そうなれば道理を語るのではなく道理を実践していることになり、自身の行動によって範を示していることになるだろうが、それはやろうとしてもできないことかも知れず、逆に事前にやろうとは思わなくても否応なくやってしまうことであり、時として自己犠牲的な行動は自らの利己的な意志に反して行われることでもあり、主張してできるようなことではないのかも知れず、事前に自己犠牲的な行為をやろうと主張すれば、結果的には意志に反してその主張を裏切るようなことをやってしまって、自己保身とは逆の窮地に陥ってしまうのかも知れないが、そういう意味ではあまり道理に適うようなもっともらしいことは主張せずに、功利的で利己的な主張をすればよく、しかも主張はそうであっても実践している内容が道理に適うような行動になっていればいいわけで、それが具体的にどういうことなのかといっても、個々の事例を当てはめられるようなことではないのかも知れず、他人から好意的に思われるようなことをやるようなことでもなく、むしろ不条理で理不尽な結果をもたらすことにもなり、果たしてそれが道理に適うような行動になるかというと、道理に適うもっともらしい主張が取り上げるような内容とは相容れない行動となり、時として批判や非難されるようなことをやらなければならず、他からの批判や非難に打ち勝つ結果をもたらすようなことをやれていれば、批判や非難を繰り返している人たちにとっては道理に適っているとは思われないかも知れないが、それを実践している人にとっては道理に適っていて、やっていることが成功していることの証しとなるだろうが、そうであるならその人にとっての道理とは万人が受け入れ可能な道理などではなく、その人の活動が成功するための道理には適っているが、それを批判したり非難している人たちの道理には適っておらず、人の活動内容や主張内容に応じてそれに適合する道理も異なってくるのだろうが、果たしてそれを道理と言えるのかというと微妙になってくるのかも知れず、道理とは万人に当てはまる道理でないと道理とは言えないとなると、それが道理でなければ何なのかと言えば、その人の活動にとっての利己的な功利であり、それがその人にとってというわけではなく、あくまでもその人の活動にとってということであるなら、場合によってはその人の主張とも相容れない行動となる可能性もあるのだが、そうなると言っていることとやっていることが違ってきて、それに気づいた他人から言行不一致を批判されたり非難されたりするわけだが、たぶんそれがその人の行動にとって道理に適っていて、道理に適うような活動を行なっていれば、しばしばそういうことが起こり、そういう言行不一致なことをやっているから、それを他人から批判されたり非難されることになるだろうが、そういう批判や非難に打ち勝ちながらそれをやり通すことができれば、その人の活動がうまくいっていることになるだろうし、うまくいっている限りで道理にも適っていることになるにしても、それを批判したり非難しているような人から見れば間違っていることになるわけだから、少なくともそれは万人に受け入れ可能なことではないし、逆に万人に受け入れ可能なことをやっているだけでは、他人を出し抜いて成功できるはずもないだろうし、そういうところで万人が賛同することができるはずもなく、逆にそれを巡って対立や敵対が起こるようなことなら、いくらでも行われている現状もあるだろうし、実際に世界各地で対立や敵対を伴うようなことが行われているから紛争が絶えないわけだが、そうであるなら道理に適うような活動に伴って紛争が起こっているとも言えるだろうし、それが万人に受け入れ可能な活動ではないから紛争が起こっているとも言えるわけで、実際に紛争を起こしている当事者に対して批判や非難が浴びせられていて、そんな活動は早くやめてほしいと多くの人たちが思っているのだろうが、それが当事者にとってはやめられない活動でもあり、そんな活動を正当化するなら、活動が道理に適っているからやめられず、実際にそれが続いていれば、続けられる限りで道理に適っているとも言えるだろうし、割に合わなければさっさとやめてしまうだろうし、やめられない限りで割に合っているはずで、やめてほしいと思っている人たちからすれば、何で批判や非難に晒されながらも、場合によっては憎悪や嫌悪の対象となりながらも、そんな割に合わないことをやっているのか理解できないと思うかも知れないが、立場が違えば割に合うか合わないかの判断も違ってくるし、道理に適っているかいないかの基準も違ってくるのだとすれば、それを簡単に言うなら、利益を得られていれば割に合うし、被害や損害を被っていれば割に合わないが、利益と不利益を同時に得ていれば、何を利益と見なして何を不利益と見なすかでも、その利益や不利益の額や量や大きさも、それへの距離や関わり具合によって変わってくるから、割に合うか合わないかの判断基準も変わってくれば、そこから憎まれっ子世に憚ると言われるような、他人から憎まれる人ほど世間で幅を利かせるような状況も生じてくるだろうが、それを自身の主張に利用したい人が都合のいいように捉えてもっともらしく語ろうとすると、何かそれが胡散臭く感じられて、他人の言行不一致を突いて批判するような人ほど、有言実行からはかけ離れて実行しないのに言いっ放しに終始しようとして、言うは易し行うは難しを地で行くような人になり、そういう人は信用できないのが普通だろうが、それがメディア的な遠近法を施されると正義の味方のような役割を担っているかのような錯覚も生じてきて、それが増長してくるとご意見番のようなことをやりたがるのだろうが、結局そんな人の言い分を真に受けていると、実践の困難さが言い落されていることに気づけなくなってしまうわけで、そこから言うは易しの割合が増えていって、万人に妥当する道理のような内容も信じられてしまうのだろうが、そういう人の言説の中で対比的な言い回しが出てきた時が要注意で、要するにあれもダメだがこれもダメだ的なことを言い始めたら、実際にはあれもこれもダメではない面があると思っておいた方よく、できればあれもこれもダメではない面を探し出して、その人への反論として用意できればいいのだろうが、そういうダメではない面をその人が故意に言い落としているように感じられるなら、それがその人の悪質な面だと言えるだろうし、自身の主張を正当化するために批判の対象を貶めていると見なしておけばいいのだろうが、なぜそうなってしまうのかと言えば、その人が万人に妥当するような道理を信じている場合があり、そういう道理に批判の対象を当てはめて、その道理から外れる面を批判したいのだろうが、実際にあれもダメだがこれもダメだと言えるようなことがあれば、そのダメだと言っているあれやこれやの対象には、その人が信じている万人に妥当するような道理が通用しないから、あれもこれもダメだと言わざるを得ないだろうが、しかもあれもこれもそれなりに社会の中で影響力を持っているような勢力を形成しているなら、その人が信じている道理以外にもあれやこれやに当てはめても妥当に思われる道理が他にあって、その道理には適っているから、あれもこれも社会の中でそれなりの影響力を持っていることになり、そうなっているからそのご意見番ふうの人の言説の対象にもなり、安心してあれもこれもダメだと批判できるのであり、それ自体もある意味では道理に適った批判の仕方でもあるわけだが、果たしてそんな批判を真に受けたところで何がどうなるのかと言えば、その人の言説商売が成り立つ範囲内で世の中が平穏無事に推移しているとしか言えない程度のことなのかも知れない。


1月17日「成り行きの不可逆性」

 世の中で当たり前のことが当たり前のように起こっていることが何の不思議にも感じないのは、起こっていることが当たり前のように起こるための前提条件というのを誰もが把握しているわけでもないだろうが、少なくともそれが起こる仕組みや理屈を知っていれば、それが起こったところで大して驚かないだろうし、メディアを通じて専門家などの解説からそれを知ることも結構あるわけだが、それが仕組みや理屈というよりは、理由や原因と言った方が一般的には納得できるかも知れないが、仕組みや理屈と理由や原因がどう違うのかというと、改めてそれがどう違うのかを説明するのは、それに関する専門家でもない限りは難しいかも知れないが、それが起こる理由や原因がわかっていないにも関わらず、それが起こる仕組みや理屈がわかっている場合もあるだろうし、例えば現状で世界的に流行しているコロナウイルスに関しては、ウイルスが人から人へと伝染していく仕組みや理屈は科学的に解明されているとしても、ウイルスの感染爆発が起こった理由や原因に関しては、今のところははっきりしていないはずだが、そういう事情であれば疑問を抱くのは、それが起こった理由や原因になるわけだが、少なくともインフルエンザウイルスの感染爆発なら、それが毎年冬になると当たり前のようにして起こってきたわけで、起こったところで何の不思議にも感じないだろうが、そこに新たにコロナウイルスの感染爆発が起こったから、起こったことに関しては誰もが不思議に感じるだろうし、しかもまだ起こった理由や原因が特定されていないわけだから、それに関しては様々な憶測や推測が噂されていて、少なくとも当たり前のようにして起こったわけではないことは確からしく、それも今後インフルエンザのように常態化して行けば、当たり前のことが当たり前のように起こっている感覚に近づくかも知れないが、そうなれば起こったところで誰も大して驚かなくなってしまうのだろうが、そういう成り行きが不思議に感じられるかというと、そう言われてみれば確かにそう感じるかも知れないが、改めてそう言われてみないことには不思議には感じられないかも知れないし、そういう意味では人の感覚など大して当てにはならないわけだが、そうなる過程において徐々に感覚が慣らされていくわけで、同じ出来事が起こっても慣れていなければ驚くが、慣れてくれば驚かない場合もあるだろうから、それが当たり前のように起こっていると感じるなら、感覚が起こった出来事に慣れているからそう感じられて、同じ出来事でも何度も経験すれば慣れてきて、それが日常茶飯事のように起こっていれば、大したことでもないと思うだろうが、そういった感覚の慣れがかえって危険な場合もあるとしても、そういう意味での異常事態の常態化というのが起こり得るかというと、意図してそうなることを狙って目指しているわけでもないのだろうが、事態をどうすることもできずに放置するしかなければそうなってしまうわけだが、世の中全体にそういう空気を蔓延させることも、自覚なき戦略としてメディアを通してなし崩し的に行われていると見るなら、そんな気がしないでもない感じがしてくるかも知れないが、何がそうなのかといってもよくわからないことでもあるわけで、そこでどんな出来事が起こっているかもよくわからないというわけでもなく、確かに様々な方面で様々な出来事が様々な傾向を伴いながら起こっているとしても、その全てをいちいち把握しているわけでもなく、実際に全ては把握しきれないわけだが、そんな中で起こっている様々な出来事のうちで何と何とが関連しているといっても、その関連の程度や傾向も強弱や濃淡を伴ってくれば、その関連性をこれと言ってはっきりと断定したり断言してみても、それが心に響いてこなければ、大して驚きもしないし、あるいは真に受けることもなければ、ただ単に当たり前のことが当たり前のようにして起こっているに過ぎず、結局は起こっていることをそのまま受け流したり、大して抵抗もなく受け入れていることになり、そうなっていれば激しい拒否反応など起こりはしないし、目に見えるような社会的な混乱など起こっていないことになるわけだが、それの良し悪しが問題となることがあるかというと、何事も平穏無事に済んでいる方が都合が良いと思われるならそうなるわけだが、それがどんな方面でそう思われるかというと、普通に考えて世の中を統治している方面では都合が良いわけだが、逆に騒ぎになった方が都合が良い方面があるかというと、騒ぎが世間の注目を集めると商売になるような方面では、できるだけ騒ぎが大きくなってほしいのだろうが、それが世の中を統治している方面とどう関連してくるかといっても、世の中を統治している方面に迷惑をかけない程度や傾向の騒ぎになれば都合が良いことになるかというと、それを迷惑をかけない程度に騒ぎを調整できるようなら、騒ぎの捏造のようなことになってしまうから、そんな騒ぎを仕掛けて捏造が発覚すれば、一緒になって騒いだ人々から不信感を買うだろうが、捏造が常態化していて誰もが承知しているような騒ぎであれば、そういうのがカーニバル的なお祭り騒ぎの類いになり、世の中を平穏無事に統治しようとしている方面からも公認されている騒ぎになるわけだが、そういう騒ぎであれば人が大勢で騒いでいてもその期間であればそれが常態化していて、そこに限っては騒いでいるのが当たり前のような状態になっているのだろうし、そこから行政当局が世の中を平穏無事に統治するには人々の不満をガス抜きするために定期的なお祭り騒ぎを催す必要が生じてくるという逆説的な論理が導き出されはするものの、本当にそんな論理が通用しているのかというと半信半疑な面もあるだろうし、そんなお祭り騒ぎを実際に催してそれを成功させれば、そういった論理が通用していることになるのだろうが、果たしてどれほどの人々がそれを真に受けて一緒になって騒いでいるかといってもよくわからなければ、それが通用していることを証明してみせるようなことまでやらなければならなくなり、それが多くの人々が騒いでいる光景を映像にでも記録して、それをまた多くの人々に見せるような試みにまでつながってくるのだろうが、そんなことをいくらやったところで真に受けない人もそれなりにいるだろうから、本当のところはよくわからないのかも知れないが、そんなことが行われている世の中が平穏無事に治まっている限りで、うまくいっていることが証明されていることにもなるのだろうが、そんなことをやる理由や原因として挙げられるのが民衆の統治に対する不満のガス抜きということになると、根本的なところでその種の不満が解消されていないわけで、もちろんあからさまにそんな理由や原因を掲げてお祭り騒ぎを催すわけではなく、表向きにはもっと肯定できて誰もが協賛できる八方美人的で玉虫色の理由が提示されているわけだが、それを誰もが信じているかというとそうでもないから、そんなのは建前だと誰もが思っている限りで、どうせ協賛企業や団体の金儲けのためにそんなことをやっている程度の認識で、それももちろん周知の事実として承知した上で憂さ晴らし目的で一緒になって騒ぐ程度の民衆の不埒な本音も透けて見えるかも知れないが、そういうどちらかというと不健全で理性的には正当化するのが難しいのがその種のお祭り騒ぎにはつきもののやましさになるのだろうが、そこでもやらないよりはやった方がマシ程度の空気が世の中を覆っている状態がもたらされていれば、多少の不満はあるがなし崩し的な惰性のようにしてその種のお祭り騒ぎが定期的に催されて、それによって世の中が丸く治まっているような気になるわけで、それもそんな気がする程度の状態であり、それをあからさまに全面的に肯定できるかというと誰もそんな気はしないだろうし、やるならどうぞ勝手に迷惑がかからない程度で、といっても多少の迷惑は多めにみられる程度でやってほしいのかも知れないが、そういったお祭り騒ぎを日常レベルで常態化させるようになってしまうと、要するにそうなっているところでは観光地化されてしまって、完全に商売目的でそんなことが行われていて、それがその種の観光地に住んでいる人たちにとってどうなのかといっても、観光地商売の関係者であればそういう状態を肯定的に受け入れているのだろうが、もちろん世の中の全てが観光地化するわけでもないし、観光地としての条件を満たしていないとそうはならないが、現状では満たしていても何かのきっかけから満たさなくなってしまえばさびれてしまうだろうから、観光地化しようとしてできるわけでもないところが微妙なのだろうが、そういうところで何らかの成り行きが常態化していて、そうなっていることに誰も疑念を抱かないような状況となっていると、そんな織り込み済みの状況というのが、当たり前のことが当たり前のように行われている状況でもあり、その織り込み済みの裏に不都合な真実が隠されていると見ておいた方がいいのかも知れず、それを隠すために人々の気をそこから逸らすためにも何かが煽り立てられたり騒ぎ立てられている場合もあるから、実際にそういう煽り立てや騒ぎ立てに直面したら、その裏に何が隠されているか、あるいはその裏で何が行われているのかを見極める必要も出てくるわけだ。


1月16日「記憶と想像」

 過去の記憶が曖昧なのは、思い出そうとしているそれがあまり印象に残っていないからかも知れず、他にも様々なことを記憶していて、似たような記憶がごっちゃになっていて、思い出されるのは必ずしもそれだけではないからかも知れないが、思い出そうとしたところで何か肝心なことを忘れているような気がするのは、それを詳しく思い出そうとしているからそう思われるのだろうが、そんなことをいくら想像してみたところで、想像の域を出ないことであり、そこから外れて何を想像できるわけでもなく、記憶していないことを思い出せるはずもないが、記憶していないことを想像することはできて、過去を思い出すのではなく、記憶にないことを想像しているのだろうが、実際には記憶を組み合わせて想像していて、記憶している知識を基にして想像を巡らせているはずだが、想像していたことを思い出すことはできるし、そこで何を想像していたのかを思い出せれば、思い出したそれが想像していた内容の記憶であり、過去に何かを想像していたことを思い出しているはずで、そうであれば想像していた内容も記憶に含まれるが、これから新たに想像する内容は過去の記憶ではなく、過去に記憶していた知識と現に体験しつつある出来事に触発されながら想像を巡らせているはずだが、そういう意味で何に触発されて想像しているのかといえば、現に今体験しつつある現実の何かに触発されて何かを想像しているのであり、そこに過去の記憶も介在していて、過去の記憶から想像の糧を得ているとも言えるし、そういう意味では過去の記憶と現在の想像には何かしらつながりがありそうだが、現状の世の中で想像を巡らせていると過去の記憶が呼び覚まされることになれば、過去に起こった何らかの出来事や現象と現代の世の中で起こっている似たような出来事や現象を重ね合わせながら想像を巡らせていることになり、それに関してよくあることとして現代の世の中で話題となっている人物を過去の歴史の中で活躍していた人物の再来のような捉え方をするわけだが、もちろん過去の人物が活動していた頃の歴史状況と現代のそれとはそれなりに状況が異なるから、完全に重ね合わせられるわけでもないのだが、似ている要素を選んで重ね合わせれば印象として同じように思われて、例えば過去の人物に起因して惨劇の類いが起こっていれば、これから現状の世の中で話題となっている人物に起因して同じような惨劇が繰り返されることを想像したりもするわけだが、それが警鐘を鳴らす意味で想像を巡らすことになれば、悲劇が繰り返されるのを阻止しなければならないという主張に結びついて、話題となっている人物を押さえ込むような行動を呼びかけることにもなるだろうが、それが人物であるというよりは国家の類いになると、過去の大きな戦争を招いた国家と現代において戦争を招きそうな国家を重ね合わせてその戦争を起こしそうな国家を抑え込むための包囲網を敷こうとする成り行きになるだろうし、それが昨今話題となっているインド太平洋何やらかんやらという防衛構想となると、その対象となっている国が特定されてしまうが、過去に起こったことが事実だとしてもそこから想像する内容はまだ事実にはなっておらず、これから起こりそうなことを想像して、想像した通りのことが起こってはまずいから起こらないようにしたいのなら、それに成功すれば想像したことが起こらないから事実ではなくなってしまい、そうなれば想像が実現せずに想像のままに止まってしまうのだが、逆に実現したいことを想像することもあるにしても、実現を阻むにしても実現させようとするにしても、想像に基づいて行動しようとしているわけで、それが全面的に事実に基づいて行動しているわけではないことは確かで、そうなる危険性があるからとかそうなってほしいから、過去に経験した事実と現状で起こりつつある事態を照らし合わせて何かしら確からしいことが起こりそうだから、それに対応するために行動することになるのだろうが、それが確からしいにしてもそうなるとは限らないことも事実であり、過去にその種の予想が外れたこともいくらでもありそうで、その確からしいが確かではない推測や憶測に振り回されて結果的には誤った行動ばかりしてきた事実も結構あるだろうし、だから実際にはその種の想像とはそれなりにずれた現実の中で誰もが生きているわけで、そうした想像から外れた事実も記憶の中に蓄積されているから、安易に自らの想像力を信用しないことが教訓として身についていて、想像力を働かせて現状の自分にとっては都合の良い自身の未来像を想像してみるものの、そうはならないような気がするなら半信半疑となり、そんなことをいくら想像してみたところで虚しさが募ってくると共に、逆に都合の悪い最悪の事態も想像してしまい、何もやらないうちから悲嘆に暮れるような心理状態となれば鬱の傾向となっているのかも知れないが、それも自らの現状や自らが直面している事態を都合の良いように捉えたり都合の悪いように捉えたり、そうやって想像を巡らせている限りで、それがその場の事実や現実というよりは、その場から受け取る印象に頼って想像してしまうことだから、想像している分には事実や現実からかけ離れたことを想像していて、そんな想像に基づいて行動してしまうと、実際にとんでもないことをやってしまって、それがその場でその人の行動に起因してもたらされたとんでもない事態や事件になってしまえば、悪い意味では惨劇や悲劇となり、良い意味では快挙の類いになるかも知れないが、そういう意味で人の想像力がその場で起こる出来事にとっては印象の増幅装置のような効果をもたらすこともあるだろうし、現状で起こりつつある出来事や現象に絡んで人の想像力が作用してくるところでは、どちらかといえばその場の印象を鎮めるよりは煽り立てる傾向の方が強く働いて、想像を上回るようなことが起こるのが期待されるから、実際に事前の想像を上回るようなことが起これば、それが良い傾向で起これば喜ばれるし、逆に想像を下回るような傾向であればがっかりするだろうし、たとえ想像通りであっても、それが褒め言葉としては機能せずに、つまらないことだと受け取られる場合もあるから、その場で起こっている事実や現実そのものがどうであるかということよりは、それを体験する人がどう感じるかということが重要になってくると、どちらかと言えば良い印象を抱いてもらえるように装飾を施す傾向となり、そういった飾り立てに心を奪われてしまうと、その場で起こっている事実や現実を見逃している可能性も出てきて、そういう心理状態が極端な傾向で顕在化してくると、宗教的な自己陶酔と言われるような現象も起こり得るのだろうが、それが具体的にどんな状態なのかといっても、実態としては何でもない日々の日常の中で黙々と同じ作業を繰り返しているに過ぎないのに、それが修行のようなことだと信じられている場合があるだろうし、そういうことに関しては大規模な寺院や修道院などで大勢の僧侶の類いがやっていることがそれに当たるだろうが、やっている当人たちはそれを日常の装飾的な飾り立てだとは思っていないだろうし、飾り立てるどころかむしろ質素や倹約を心がけていて、それが金持ちや王侯貴族などがやる物質的な飾り立てとは違う精神的な飾り立てであることに気づかないわけだが、それに気づいたのが仏教の始祖であるブッダだとされるのだろうが、ブッダ自身はそれに気づいて悟りに至るために行う難行苦行の類いには意味がないと悟ったわけだが、宗教としての仏教そのものはその種の修行を奨励しているし、実際に大規模な寺院などにおいて大勢の修行僧を集めて修行の類いを行うことによって宗教としての体裁を整えているわけだが、そうした寺院や修道院の大規模化そのものが、宗教が実現している人の心に響くような印象の増幅装置そのものでもあり、精神的な飾り立てが物質的な飾り立てへの移行に伴って、当の寺院や修道院の中に飾られている絵画や壁画や彫像などによって具現化されているわけだが、普通はそれが悪いことだとは誰も思わないし、むしろそうした大規模建築が街の中心に聳え立っている光景が社会の繁栄を象徴しているようにも思われるわけだが、宗教を否定したソ連などでも宗教とは無縁であることを装った大規模建築が盛んに建てられたし、ソ連とは社会体制的に対極に位置しているアメリカなどでもニューヨークの摩天楼などが社会の経済的な繁栄を象徴しているように感じられるし、その手の超高層ビルの類いが現代ではアメリカと覇権を競っているつもりの中国などでも国内各地の中心都市でその高さを競うようにして建てられているから、そういう傾向から人の想像力が何を実現しているかというと、人の心に響くような印象を精神的に実現化する試みが芸術の類いを生み出したとしても、それを誰の目にもはっきりと印象深く刻みつける目的で物質的な飾り立てが実現されて、それが絶えず精神的な飾り立てから物質的な飾り立てへと移行する過程で建物の類いの大規模化をもたらす傾向があると言えるのかも知れないが、果たしてそれを見て誰もが社会が繁栄していると感じられるかというと、ほとんどの人がそういう印象を抱くだろうが、それをみた仏教の始祖とされるブッダがどう思うかは想像の域を出ないところだが、何かそれとは違う印象を抱いたから独自の悟りへと至ったのではないか。


1月15日「政治への嫌悪」

 現状の世界でどんな分野が人々の主要な関心事となっているかといえば、少なくともそれを避けては通れないという意味では、政治や経済の分野で起こっていることが、大抵のニュースでも真っ先に取り上げられる話題となるだろうが、他にもスポーツや科学や文化や娯楽などの分野も普通に関心事となっているが、そういった分野にも結構な割合で政治や経済が絡みついていて、特に日本ではなるべく政治的な方面への無関心を装うために意識してそれらの分野が主要な関心事として取り上げられる傾向も強いかも知れないが、それが逆説的な意味での政治性の表れであり、そうやって政治色を抜いているように見せかけながらも、その中で取り上げられている話題の中身といえば、そういった分野内での争いや諍いなどに関連して、それ自体が政治的な党派性や勢力争いのような面が色濃く出てくるから、結局それ自体が政治的な関心事そのものであり、政治に関する話題を意識して避けるような傾向の強い人ほど、逆にその態度や姿勢そのものに政治性が強く表れているという嫌な感じになってくるわけだが、それが日本に特有な逆説的な政治性と言うと、さらにその手の人たちへの嫌悪感も増してくるかも知れないが、日本だけに特有なことではなく、人種や民族や宗教や言語や性別や国籍などに関して差別を助長するこだわりの全てが政治的な傾向に含まれてくるから、そういった分野内で党派的な勢力争いが起こっているところでは、やはりそれが政治的な関心事そのものになってくるわけだが、それらに関して差別を助長する表現を避けようとする動きに対しても、そうした動きに無関心を装う態度や姿勢にも政治性が強く表れていて、無関心を装いつつも絶えずそういった方面への関心が高まるのを抑え込もうとして、あわよくばそういった方面への関心を別の方面へと向かわせようとして、他のスポーツや科学や文化や娯楽などへの関心が煽り立てられると解釈できるかというと、どうもそれも直接そうなるわけでもなく、それらよりもさらに根源的な関心事として経済的な分野があり、より根源的なところで経済的な貧富の格差があって、そこから目を逸らさせようとする目的で、人種や民族や宗教や言語や性別や国籍などの違いによって差別があることに目を向けさせようとするのだが、逆にスポーツや科学や文化や娯楽など分野では、人種や民族や宗教や言語や性別や国籍などの違いによっては差別が生じさせないようにする取り組みが世界的な統一組織があるところでは積極的に行われているので、そういうところでは暗黙裡に経済的な貧富の格差だけが目立ってくるわけだが、そうなると日本で政治的な無関心を装いながらも暗黙裡に人種や民族や宗教や言語や性別や国籍などに関しての差別を温存させている人たちの立場がなくなってくるような成り行きになりそうなので、そういった世界的なポリコレの風潮を本音と建前の使い分けのダブルスタンダードだとして馬鹿にして見せる態度や姿勢にすがりつきたいのかも知れないが、そうなるとそれ自体が日本と同じような暗黙裡のポリコレ差別のある隣国の韓国やウイグル族への弾圧で世界的に非難されている中国などと敵対しなければならない立場上、自分たちが温存させようとしている態度や姿勢を論理的には正当化できなくなってしまいそうなのだが、そうなると公然の秘密とも言えないレベルであからさまに開き直るわけでもないにしても、ダブルスタンダードであることと折り合いをつけながらも、それを織り込み済みの周知の事実として無視しながら現状の維持を図っていくしかないわけだが、そんなふうに現状を捉えられるかというと、表向きには無視されていることとして理解しておけばいいのかも知れないが、もちろん無視し切れるわけでもなく、本音と建前の使い分け程度に微妙な状態を維持しているようなしていないようなところで何かの均衡を保ちながらも、その何かというのがあからさまに特定されないようにしておくのが、微妙な均衡を保つ秘訣といっても、秘訣も何もありはせず、均衡を保っている自覚もないのに結果的には保たれているように装われているように見える程度のことであり、それが政治的な問題化を避けていることの証しだとしても、全く問題化していないわけでもなく、避けているように装っている態度や姿勢をなし崩し的に認めてほしいといった水準でそうなっている程度のことであり、そうやって何から何までモラトリアム的に装われているのかも知れないが、果たしてそうした猶予の期間が未来永劫続いていくのかといえば、誰もそうは思っていないだろうが、とりあえず現状では続いているように表向きには装われているのだろうし、水面下では誰にも気づかれない程度に見せかけられながらも微妙な変化が起こりつつあるのかも知れないが、気のせい程度の変化なら容認されるのかも知れないとしても、そういうことだけが政治の分野で行われることではなく、それよりも根源的な経済の分野で功利的な傾向が推し進められているから、そこで問題となってくることが、経済的な貧富の格差をどうするかということになるのだろうが、そこでも貧窮している人々に直接何の見返りもなく金銭的な援助するとなると、政治的な無関心を装う多数派から同意など得られないのはもちろんのこと、政治的な関心を持っていることを公言する人々から同意を得ることも不可能となってくるから、労働して賃金を得る成り行きを人為的に作らなければならなくなるのだが、そうなると政治的にどうにかする水準を超えて、経済的に働いて賃金を得られる機会が生じなければならないわけだから、それが政治的にはどうにもできない世界経済の動向に左右されるだけに、無理な面が出てきて、どうにもこうにも人が労働して賃金を得られる機会を政治的には作り出せないから、思うように賃金を得られない民衆の不満が爆発して暴動などが起これば、警察や軍隊を動員してそれを武力で抑え込むことしかできなくなってしまうわけだが、そんなことが繰り返される過程で世界各地に独裁政権が誕生するのだろうが、それも独裁政権に加担している側が国内の富と権力を独占しているから、それに与れない多くの人々が貧困に陥っているような印象もあるだろうし、そういった成り行きが同時並行的に進行するから対立や敵対している双方で自分たちの立場を正当化するような言い分が成り立つのかも知れないが、それも根源的なところで全ての人に平等に富を分け与えられないのが経済的な論理であり、平等に富を分け与えたらそれは富ではなくなってしまい、富を求めるという経済的な動機自体が成り立たなくなってしまうから、経済活動が成り立っているところではそうはなり得ず、絶えず貧富の格差が生じていないと現状で成り立っている経済活動そのものが継続不可能なのかも知れないが、そういう経済の論理も現状で成り立っている経済活動から導き出される論理であり、何かのきっかけから現状で行われている経済活動が成り立たなくなってしまえば、そんな論理も論理ですらなくなってしまうのかも知れないが、そういう意味では何か現状の中で信用できる論理があるように思われるとしても、それが現状に合っているからそう思われるのであり、現状に論理が合わなくなってしまえば、それは論理ですらなくなり、ただの屁理屈に過ぎなくなってしまうのかも知れないし、そんなふうにして世の中から消えた論理も過去にはいくらでもあったのかも知れないが、それと同じようにして現状の日本でも世間で通用しているように装われている論理があると見なすなら、その代表格としてはポリコレの類いに抗う論理として機能している面があるかも知れないが、それが世界のどこでも通用する普遍的な論理ではないことは誰もが承知しているだろうし、だからこそ日本だけで通用する論理を地域的かつ国家的に守っていかなければならないと自覚しているわけではなくても、世の中を支配する空気としてそれとなく漠然と意識していて、それがあからさまになってしまうと建前と矛盾したりダブルスタンダードであることが曝け出されてしまうから、あくまでも暗黙裡に保持しているような感覚になっていて、あからさまにそれを認めるわけにはいかないし、公には認められていないことが是認されているような感じになるが、誰も是認していることを認めようとしないから、公式的には認められていないとしても、わかる人にはわかる程度で是認されているように感じられて、とりあえずよそ者に対しては否認の態度をとるだろうが、その一方で身内の者たちの間ではそれとなく目配せしながら共有している態度や姿勢があり、そういう態度や姿勢が共有されている限りで成り立つ論理があり、その種の論理に従っている限りで身内であることの証しとなるようなことでもあり、そういう身内意識に照らし合わせるともっともらしくも納得できるようなことが現に行われているわけで、それがよそ者にとってはつんぼ桟敷で村八分となっているような印象を受けるわけだが、そうであっても日常生活に支障をきたさない程度では放っておかれるわけで、だからその手の人たちへの嫌悪感もなかなか表沙汰にならないわけだが、それでも水面下ではそれとなく関係者の間で暗闘が行われていて、そうした暗闘によって気休め程度の変化がもたらされている印象もあるのではないか。


1月14日「動機に抗う要因」

 誰もがよく考えてみれば理解できる程度のことについて改めて語るのが心苦しいわけでもないが、そこで起こっていることについては疑問の余地がないほどはっきりしているのに、それについて語り出すと途端に不明瞭となってくれば、それが言語の魔術的な作用だと指摘したくなるわけでもないが、そこで起こっていることを理解してもらおうと思って、結果的に人を煙に巻くような回りくどく難解なことを述べていれば不審に思われて当然だろうが、意図してそういう効果をもたらしたいわけではなくても、その場の成り行きから否応なくそうなってしまうようなら、そうなることを狙ってそうしているような気になって、さらに調子に乗って説明のための説明へと思考を埋没させながら、混沌として複雑に入り組んだ言説的な構成に磨きをかけようとするかも知れないが、そんな言説の元となっている出来事が大してわかりにくいことでもなければ、それに関する言説よりそれ自体を直接体験した方が容易に理解できるかも知れず、直接体験する機会がなければそれに関する言説からそれを想像するしかないにしても、もちろんそれが言語表現だけでなく音声や映像や図解を伴って表現されるならより理解しやすいように思われるかも知れないが、理解しやすいかしにくいかということよりは、表面的な浅い理解にとどまるかより理解度が深まるかといった傾向や程度の違いとなって現れる場合もあるから、それに関して何をどのように理解させたいかといった思惑まで介在してくると、それに応じて言説的かつ表現的な工夫も伴ってきて、理解させたいことと理解させたくないことがあるようなら、特定の傾向へと読む者の意識を誘導したい意向が透けて見えるような内容となってくるだろうし、果たしてそんなことまで考慮に入れながら言説を構成しているかとなると、伝える側の意図や思惑に関してこちらが勝手に想像を巡らせているに過ぎないことかも知れないが、そういった想像上の意図や思惑に惑わされて、その裏をかいて逆にあちら側へ効果的な打撃を喰らわせるようなことができはしまいかなどと妄想しているようなら、それに伴ってその種のメディアでまことしやかに囁かれている陰謀や謀略などを信じやすくなっているのかも知れず、それが高じてただ受動的に起こっていることを理解してほしいというよりも、こちらの都合の良いことが起こっていることを多くの人々に理解させたくて、こちらの都合の良いことを起こしたいような意図や思惑から、実際にこちらにとって都合の良い事件を起こすような成り行きになってくると、それがテロ活動などの動機となるのだろうが、人の意識を思うように操作したり誘導するために何かを起こすということが、普通に考えて本末転倒だと思われるなら、何らかの意図や思惑を伴って人為的に起こされることと、何かの偶然から起こってしまうようなこととの間に、それと区別できるような差異があることを意識しているからかも知れず、この世界で起こっていることを理解したいということは、誰かがあるいは何らかの勢力や団体が人為的かつ計画的に起こそうとしていることを理解したいのではなく、そうした人の意図や思惑を外れて起こるようなことを理解したいわけで、それがたとえ人為的かつ計画的に起こそうとするようなことであっても、そうしたことが起こされる過程や成り行きの中で思いがけないことが起こるから、それがどうして起こるのかを理解したいということであり、そういう意味では何かを起こそうとする人や勢力や団体などの動機となると改めて考えてみなくても容易に理解できるのだが、その動機とは相容れないようなことが起こってしまうと、なぜそんなことが起こってしまうのか理解し難くなり、それについて思考を巡らす動機となってくるわけだが、そんなことを改めて考えてみても、そこで起こっていることの理解が深まるとも思えなければ、それは謎解き的な興味に過ぎないのかも知れないが、そこに理解が深まるのとは違った傾向があるとすれば、やはりそれは戦略的な意図や思惑となってきて、その出来事を利用して自身がその場で有利に立ち回るにはどう振る舞ったり行動すればいいかといった功利的な傾向なのだろうが、そのためにはその場で主導権を握っている人や勢力や団体などの裏をかく必要が生じてきて、その突破口となるかも知れないことが、それらの人や勢力や団体にとっての思いがけない出来事であり、その出来事を利用してうまく立ち回りたいわけで、だからそこで起こっていることを理解したくなるのかも知れないが、そういう成り行きがそう頻繁に起こるわけでもないだろうし、自身がそんな立場や境遇に置かれているわけでもなければ、そもそもそんなことをやる必要もないわけだが、フィクションの中で人が興味を持つ成り行きとなるとそういうことになるのかも知れず、実際にもしばしばフィクションの中でその手の戦略的な登場人物に出くわすことがあり、果たしてそれが現実の世界で応用が利くかというと、実際に自身がそんな出来事に出くわしてそれが利用できることだと気づいてみないことにはわからないだろうが、そういったフィクション自体がその製作者や制作団体などによって計画的に作られたものであり、その中で起こることだから実際には思いがけないことであるはずがなく、思いがけないことが起こったように見せかけたいわけで、しかも都合よくそれを利用して行動する人物も登場させて、その人物こそが物語の中では主人公であったり重要人物であったりするわけで、そうなると何から何まで人為的かつ計画的に練られた成り行きとなり、それを利用して行動したり活躍する人物の動機も容易にわかってしまうわけで、思考を巡らして考えるまでもないことになってしまうわけだが、それが出来の良いあるいは出来の悪いフィクションとなってくると、実際に製作者の意図や思惑とは関係のない、場合によっては相容れないような出来事がフィクションの中で起こっている場合もあり、それが謎な部分であり、魅力を持ってくると一部の熱狂的なファンを獲得してカルト的な作品となるかも知れないが、なぜそういう部分に魅力を感じるかというと、それが現実の世界でも稀にもたらされるからかも知れず、理解し難いような謎な出来事に遭遇すれば、それを体験した多くの人にとっては謎解き的な興味が湧いてくるのだろうが、もちろん容易には解き明かすことができないから思考を巡らす対象となるわけだが、稀ではなく頻繁に起こるようなことだと、それが不具合やバグの類いであり、それが欠陥となって計画を狂わすわけで、年がら年中その手の不具合に悩まされていると、計画が思うようには進まずに途中で頓挫してしまうことにもなるだろうし、なるべくそうした不具合をなくすようにしなければならないわけだが、そうなるとそんなことは想定内のこととして計画を進めなければならなくなるし、計画にはその手の不具合がつきものだと思うなら、思いがけないことでも何でもないわけだが、そういう些細な不具合などではなく、計画そのものを別の何かに変質させたり変貌させるようなことが、計画そのものを乗り越えてしばしば起こるのかも知れず、それが当初の計画からは想定不可能な成り行きでもあり、計画を遂行している過程で出てくるような思いがけない変化であり、そうした想定外のことを利用して世界そのものが変貌するわけで、現状でも世界を覆っている通信のインターネットなどは、始めからそれを目指して計画的に作られたものではなく、利用している過程の中で世界中の通信網がつながってきたわけで、それ以前に市場経済などにもそういった傾向があり、そんな何かの過程や途中から自然成長的に生じてきたものを人為的かつ計画的に整備して、より扱いやすいようにしようとする思惑も当然のこととして生じてくるわけだが、そうした人為的な計画性と偶然に出てくる自然成長的な成り行きの間で起こる相互作用やせめぎ合いの中で現実の世界が構成されていると考えるなら、人為的な計画性の裏をかこうとする戦略的な意図や思惑も物事の自然成長的な過程の中から生じてくると考えてもそれほど間違ってはいないのかも知れず、そういう意味ではその場の成り行きに従って行動することが、そのまま戦略的な行動につながるようなら、それが物事の自然成長的な成り行きにも逆らうことなく動作していることにもなれば、その場でうまく立ち回っていることにもなるだろうし、その場の成り行きを味方につけている限りでそういう行動が伴っている人の成功をもたらすとも言えるかも知れないが、それがその人にとっての思いがけない結果であれば、当初からそんなことをやろうとしていたわけではなく、それが何かのきっかけから思いついたようなことであれば、そのきっかけをもたらしたのがその場の偶然から生じた思いがけない出来事となるかも知れないが、それがその場で遂行中の計画にとっても思いがけない出来事でもあれば、そうした計画を練ってその計画の中で主導的な役割を担って動いている人や団体の裏をかいたことにもなり、それがその場に居合わせた誰にとっても思いがけない出来事となるから、それを利用できた者がその場の主導権を握ることにも成功するのかも知れない。


1月13日「疑念の正体」

 世の中でごく当然のことのように行われていることの何がおかしいのかということが、それが本当におかしいかというと、おかしいというよりはそれが行われていること自体が疑わしく思われるのかも知れないが、そうだとしても世の中の何が疑わしく思われるのかを、これといって特定できるわけでもないのだが、日々の日常の中でただ漠然と疑念を抱いているような気がするにしても、では具体的に何について疑念を抱いているのかというと、様々な物事についてとしか言えないところが、何か漠然とした感じになってしまうわけだが、それが具体的に特定の何について疑念を抱いているのかを明らかにできれば、疑念を抱いている対象の正体がはっきりするのだろうが、疑念を抱く対象が一つではなく複数あり、しかもその複数の物事が互いに様々な程度で結びついているようにも思われると、特定の何に対して疑念を抱いているのではなく、それらが全体として奇妙な形で結びついているから、そういう結びつきの状態が疑念を感じさせるわけで、個々の何かが疑念を抱かせるわけではなく、それらの関係性が疑念を抱かせるわけだから、疑念の対象となる何かが他から区別されてはっきりと見えるわけではなく、それと特定できないような何かと何かの関係に疑念を抱いているということが、そこに視線を向けても何があるわけではなく、何らかの関係性が浮かび上がってくるだけで、疑念をぶつける対象がはっきりしないようなもどかしさを覚えて、それに伴って実体が定かでないような掴みどころのなさも感じられてしまうのだが、そういう物事の結びつきから想像される関係性というのが何なのかというと、複数の物事が互いに力を及ぼし合いながら絡みついている交錯した状態と言えばしっくりくるわけでもないが、ただそれを単純化して対比できるような対立関係や敵対関係として提示したり説明しようとするから疑念が生じてくるわけで、実態はそんな単純でわかりやすい関係ではなく、もっとわかりにくく複雑で込み入っていることは確かなのだろうが、わかりにくい関係をわかりやすく提示したりわかりやすく説明することと関係を単純化して捉えてわかりにくい部分を省略して説明することが同義ではないのはもちろんのこと、むしろ単純化したり省略することが関係を誤って捉えていることになるなら、特に疑念を抱くようなことではなく、単純化したり省略せずにできるだけ詳細に提示したり説明すれば済むことかも知れないが、実際にはそういう提示の仕方や説明の仕方がまかり通っていて、むしろ積極的に偏向した印象や先入観や固定観念を人々に抱かせたいという意図や思惑を想像してしまうから余計に疑念を感じるのだろうが、偏向した印象や先入観や固定観念を世に広めようとしている側がそうした意図や思惑を意識しているとも思えなければなおのこと疑念を感じるだろうし、もしかしたら彼らは彼らなりに自分たちが信じている真実をそのまま伝えようとしていて、結果的にはそれが真実とは思えないような誤った認識や解釈や分析に基づいた偏見だと思われてしまうから、そうなってしまう成り行き自体も疑わしく思われて、ますます疑念の正体を掴めなくなってきて、元から実体があるようなものでもないのかも知れないが、それに対して疑念を抱くこと自体が勘違いや思い違いになってしまうとすれば、ただ単にその場の状況や情勢に惑わされているだけかも知れないし、惑わされているだけならまだしも、惑わされながらも事態を正確に捉えている面もあるようなら、そこで何を正確に把握しているのかといえば、対立したり敵対しているように装われているどちらもがあまり信用のおける代物ではなく、どちらの敵にも味方にもなるべきではないことも、疑念を抱いている意識の中では薄々勘づいているだろうが、その理由が何なのかということが今ひとつはっきりとは把握できておらず、ただよくはわからないが信用していないわけだから、信用できないことははっきりしていて、信用していないにもかかわらず、どちらかというとその場の状況に応じて敵対を装ったり味方を装ったりしながら、そんなはっきりしない優柔不断な態度でその場を切り抜けようとしていて、実際に切り抜けられているかどうかも疑わしく思われるなら、切り抜けようとしているつもりが、向こうからは全く相手にされていなければ、そもそも切り抜ける対象ともなっていないのかも知れないし、自身とは全く関係のない方面で行われていることが、自身にとっては興味を惹かれる対象となっていれば、ただ単にそれを見ているだけの傍観者に過ぎず、見ているだけだとは思っていなければ介入しているつもりになっているのかも知れず、しかもその介入の程度が直接介入しているわけでもなければ、メディアを通して間接的に介入しているつもりになっているだけかも知れないが、それを介入していると捉えてしまうのも勘違いや思い違いとなる程度の軽くて薄い介入でしかないとすれば、どう考えても介入しているというよりはごく浅く触れている程度のことであり、それでも傍観しているだけではなく、言説を弄して自らの主張として取り上げているつもりになれるのだろうが、それによって言説の対象となる物事にどんな作用や影響を及ぼせるのかというと、何も及ぼしていないとは言えないものの、向こうから何か感じ取れる反応が返ってくるようなこともないだろうし、そんなことも言説の対象として取り上げている時点では予想がついているだろうが、言説の内容としても特に対立や敵対を煽るようなものでもなければ、何か反応を期待して言説を弄しているわけでもないのかも知れず、では何のためにわざわざそれについて語っているのかというと、普通に興味を持ったからそれについて語っているに過ぎないことだと捉えるなら、それなりに納得がいくはずだが、納得がいかないから疑念を覚えるのだとすれば、なぜ納得がいかないのかというと、そこで装われている表面的な対立や敵対の関係が疑わしく思われるのであり、しかもそうなっていないとそういう成り行きが生じてこないことも、わざとそういう成り行きを生じさせようとしているわけでもないのに、結果的にはわざとらしく見えてしまうような対立や敵対の関係を信じさせようとしていると感じられてしまい、そういう成り行きをどう見ても納得がいかないのはある意味では当然のことかも知れないが、それを当然視してもなお疑わしく思われてしまうのだから、おかしな状況であることは確かなのだろうが、逆におかしくない状況などあり得ないとも思われて、そういう意味ではおかしいのが当然の状況なのかも知れないが、そのおかしさが疑わしいのではなく、おかしいのが当然なのに、平然とそこで対立や敵対を装っていること自体も疑わしく思われて、それも本来なら対立も敵対もしていないような人や勢力が対立や敵対を装っているのではなく、逆に対立や敵対していないとお互いに困るから、双方が協力し合いながら対立や敵対が可能な条件を模索しているのではないかと疑われるようなことが行われていると解釈すれば、それもこじつけのような屁理屈を捏ね回しているようなことにもなりかねないが、そんなふうに状況を捉えておいても構わないような体たらくなのかも知れず、要するにその場で行われている対立や敵対の茶番劇を馬鹿にしたいわけだが、それを茶番劇だと馬鹿にしたところで何がどうなるわけでもなく、それ以後も平然とそんな見え透いた対立や敵対の演技が繰り返されていくことを前提として、それに相応しくその場の状況や情勢が装われていると解釈したくなってしまうわけだが、果たしてそう解釈することが正しかったり誤っているのかというと、そういう判断そのものが必要とはされていないのではないかと疑っているわけで、それをどう解釈しようとそうなっている成り行きを変更できないことも織り込み済みになっている上で、そんな茶番劇が行われているわけだから、その場の状況をどう解釈するかということ自体も興味や関心の対象とはなっておらず、それをもっともらしく解釈しようとする以前から、すでに定型の解釈の型が提示されていて、それが途中の経緯や事情がどうであっても解釈の定型の型から外れるわけにはいかず、定型から外れた解釈がどんなに説得力を伴っていてもそれは無視されなければならず、そういうもっともらしくも信用できそうな解釈を無視した上で、事前に用意された定型の解釈が提示されて、そんな解釈に沿うように物事の経過や途中の成り行きが都合よく無視されたり省略されたり、場合によっては解釈に都合の良い虚実が捏造されたりするわけで、だから何を言われても聞く耳を持たない態度に終始しながら、事前に用意された定型の解釈をひたすら起こってくる出来事や現象に当てはめようとして、結果的に難儀なことになってしまうのだろうが、それを難儀だとも思わずに言説を弄する流れ作業のような工程に従事している人たちが作り出している現状について何を思ってどう考えているかなんて、そんなのはどうでもいいことだとも思わないにしても、それがメディア的なロボット技術として結晶化している様子が、世界の中でどの国に顕著に表れているとしても、国ごとに傾向の程度や内容も若干の違いが観察されるにしても、果たしてそうなっていることに関して疑念を抱かないような人がいるかと言えば、普通に考えるなら誰もが疑念を抱くべきことのように思われてしまうわけだが、たとえ疑念を表明しても定型の解釈を伴っていないと無視されてしまうから、そんな疑念自体に誰もが関心を持つような成り行きにはなり難いわけだ。


1月12日「言葉の理不尽な用途」

 何か特別な事情が生じてこない限りは、どこで誰が何を語ろうとしているのかが取り立てて重要となるわけでもないが、その事情というのが誰にとっても自身が納得できるような必然的な成り行きの中で生じてくるわけでもなければ、偶然に何かについて語らざるを得ない事情が生じてくるような成り行きの中で、その事情に従って語ればいいだけだろうが、その場の事情やそこに至るまでの経緯がその人物にとって重要であったり、何か興味深い内容を語らせる契機となることもあるだろうが、その人にとっての利害関心から功利的な思惑を抱いて意図的に記された文章の中で、それを書き記している人物が持ち合わせている知識と他から調べてかき集めた情報から言説が構成される以外でも、その場の状況や情勢がその人に何を語らせるかは、その場の偶然に左右される面もあるが、語る必然性が特に生じて来なければその必要もないのに無駄に意味もなく語っている場合もあるかも知れないし、それがそれを書き記した当人も含めて他人にも読める文章として構成されていれば、そこで語っているつもりの人格から生じる意図や思惑から外れて、それとは無関係の何かが語られている可能性もありそうで、それがそこで語っているつもりの人格が勝手に設定した目的や目標とも関係なく語られていれば、語っている当人がそんなことに気づくはずもなく、気づかなければそれに注目することもないだろうが、その何を目指して語られているのでもない箇所にその場の状況に関する真実が含まれていれば、普通はそんなことはあり得ないと思うかも知れないが、その真実を利用して何をやれるかということでもないが、そんな意図からも思惑からも目的からも目標からも外れてしまう真実を念頭におきながら、その真実との距離感を絶えず意識しながら語られた内容を読んでいくと、そこからそんなことが語られる経緯や事情がわかってきて、そんなことは取り立てて重要とも肝要とも思われなくても、たとえそう思うことが重要でも寛容でもなくても、そういった経緯や事情を気に留めておいた方が良いような気がするならそう思っておくに越したことはなく、そう思っておくことが記された内容の中で何に関係してくるのかといっても、すぐにわかるようなことでもないだろうが、そんな気がするようなことから思い至るちょっとした配慮が、文章を理解するコツのような役目を果たして、それに気づくこともなければ無理に気づく必要も、気づかせようと仕向ける必要もないかも知れないが、それについて自身が意識して語ろうとしなくても自然に出てくるようなことがあれば、当人がそれに気づかなくても実際にそれを記しているのだから、それを後から読み返してみると気づくかも知れないが、気づいたところですぐにそんなことは忘れてしまうかも知れないが、そうなればなったで今度はそれをいったん忘れてしまうことが、後からそれに気づくきっかけとなったりして、そこでも気づくことが大したことでもないのに気になってくるわけで、何かそんな自身の考えていることの実態を掴めないような成り行きが自身を突き動かして、それに伴ってさらに語るべきことがわかってくるようなことになれば都合が良いとしても、実際にはそうはならず、いつまでも経ってもただ漠然と語るべきことを探しているような心理状態のままであれば、それが目的でもないような気もしてくるが、たぶんそれに気づくことが目的で語ろうとしているわけではなく、普段は気づかなかったことが、文章を書き記している途中で気づくような仕掛けとなって、そこで自身が気づくべきことを言語化しているような気がするのだろうが、それが前もって意識されているようなことではないのはもちろんのこと、意識しようとしてもできないようなことが書き記している途中で思い浮かんでくるわけでもないのだろうが、実際にそれを書き記してみれば、それが知りたかったことだと確信できればそういうことだと思い込んでしまうだろうが、大抵は半信半疑のままに止まり、さらに書き記そうとも思わなかったことを書き記してしまえば、何かその場で奇跡が起こったようにも思われるだろうが、そんな文章の中で語られていることが、その文章を書き記している自身とは全く関係のないことだとは書き記している者には思えないにしても、むしろそうなっていることがその人のためになる場合もありそうで、その人にとっては何でもないことが、他の誰かにとっては深刻に受け止めなければならないことであれば、別にそうなることを狙って書き記したわけでもないだろうし、それを書き記して文章の中で語っているつもりの人格とは関係のないところで、その内容が重要性を帯びることが、あるいはそれを読んだ誰にとっても重要でも深刻でもなく、全くの他人事に過ぎない内容となることが、書き記された文章の目的でも目標でもないだろうし、しかも書き記そうとする者の目的でも目標でもなく、そんなのは意図してそうなるようなことでもないはずだが、目指すのは目指していることから外れることになるのかも知れず、それが誰によって目指された状況でもない限りで、書き記された文章の他者性が生じてくるわけでもないだろうが、文章を書き記している途中でそんなことを想像していれば、想像してみるだけ無意味なことかも知れないが、それが書き記された文章から生じてくる真実でもあり、そんなことまで理解する必要もないにしても、そうなることを意図せずに実現しようとしているわけでもなく、意図も思惑も不在である限りで文章が無内容となるわけでもないが、実際に何の内容にも至れなければ、苦労して書き記したことも無駄骨に終わってしまうにしても、何かそこから得るものがあったかのような幻想に浸るわけにもいかず、その惨状を深刻に受け止めるべきかも知れないし、そんな経験を活かしてさらにもっと無内容に磨きをかけて、あわよくば無から有を生じさせるような結果へと持って行くべきなのかも知れないが、それができればの話であることがすでにそんなことも幻想に含まれていて、そんなことが可能であるかのようなフィクションについて語っていることになり、話の方向性としては語り始めから無理を承知で語っていることであり、できないことをできるかのように語りたいわけでもないのに、自ずから吸い寄せられるようにして無意味や無内容へと向かってしまうわけだが、何かを語ろうとする誰もがそうなることに抗うようにして意味を求めているわけでもないが、一般的な傾向としては語るには語る動機が求められて、動機を意識しなくても理由や原因にこだわりたいのであり、そこから語る必然性へと導かれてくれば安心できるのだが、その途中で軌道を外れて道なき道へと話が脱線して行ってしまえば、それが常軌を逸しているように感じられると、狂気を意識するのかも知れないが、すぐにそうなるわけでないだろうし、しばらくはそれに気づかないわけで、道から外れていることに気づかないことが道を失うことにもなり、それが迷路の類いであればまだ路としての体をなしているはずだが、路と道の違いに着目するのもおかしいし、路も道も同じ意味で使われていると思い込んでおけば済むことだとしても、路とは何か特定の目的のために整備された道だと解釈すれば、それに対して道とは汎用の通行道だと言えるのだが、それを比喩として利用するなら、文章を何か特定の目的のために使うことと、ただ何となく書き記しているだけの使用目的のない文章との間で区別が生じてくることになるはずだが、何か明らかな目的を伴って書き記された文章に対してその目的とは違う意味や意義や内容を読み取ろうとしても徒労に終わるわけでもないが、意識して無意味な傾向を読み取ろうとしなくても本来の目的とは違う何かが読み取れてしまうようなら、それが読み取ってしまった人の思い違いや勘違いでもなければ、そこに書き記した人には気づかれなかった真実が記されていて、それを意識してそういう真実を探し出してやろうと思って探し出そうとすれば、徒労に終わる公算が高くなるだろうが、そういうところでなるべく先回りして自らの意図や思惑を設定せずに、ニュートラルな姿勢で文章と向き合えば、自ずからわかってくることがあるかというと、それこそ怪しげな神秘主義になってしまいそうだが、そういった神秘主義に触れるか触れないか程度に浅く触れておくことも肝要というわけでもないが、そこでそういう微妙な状態を乗り越えようとして実際に向こう側に振り切れてしまうような人が、悟りの境地に達したような勘違いへと至って、それが高じて狂気と正気の対比とは違う次元で、ブレーキの利かないようなことを語り出してしまうと、何か痛さが感じられるような気がしてくるのかも知れないが、少なくともそんな人が正気であることは事実としてそうなのだが、正気でそんな類いのことを語り始めてしまうことが痛ましく感じられて、何かそれを元いた軌道に戻す方法がないものかと思う以前に、どこで道を踏み間違えたのかと想像を巡らすことも、たぶんフィクションの中でそう思っていることであり、実際にはすでに後戻りが利かない時点まで至ってしまったから、平然とそんなことを語り出すのであり、しかも正気で語っているわけだから、それを間違っていると指摘する気にもなれないほど堂々としているようなら、こちらの中途半端さを認めざるを得なくなるわけだ。


1月11日「批判への反論」

 メディアを通して普通に知り得ることとして、それを直接体験したわけでもなくても知っていることが、いかにあやふやでいい加減な先入観や固定観念に基づいた偏見として理解されていても、それを当たり前のことのようにそう思っている限りで、普段からそれに関しては大して疑問を感じていないだろうが、それが誤った思い込みであることを指摘されるような機会がなければ、そのまま何の疑念も抱かずに信じ続けているのかも知れないが、それでは済まなくなるような事態が起こるかというと、その偏見を使って何かしら語る機会が自らに直接の関わり合いが生じるようにして訪れない限りは、たとえそれが誤りだと気づいたところで大したことにはならないだろうが、誤りだとも思っていなくても後からそれに反するような内容がメディアを通して伝えられると、そんな自らの思い込みを否定するような見解や解釈に反論を試みるかというと、大抵は気に障ったり気に食わないと思いつつも無視すれば済んでしまうようなことになるかも知れないが、実際にそこでは誰もが知っている特定の対象について語られていて、しかも印象としてはその対象への批判的な解釈に対して反論しているようにも装われているものの、実際にはそれが反論になっていなければ、では何を言おうとしているのかというと、たぶん反論を試みているのだろうが、結果的には反論になっていないと解釈するしかなく、反論になっていなければ何なのかというと、批判されている内容を大筋で認めていると解釈するしかないが、確かにそれに対して反論を試みているものの、反論しようとすればするほど、批判されている内容を認めていることになってしまい、なぜそうなってしまうのかというと、実際にそこで批判されるようなことが行われているからに違いないが、そうであるからこそ行われていることへの批判に対して反論しなければならないとなると、普通は批判されるようなことはやっていないと反論することになるはずだが、現に批判されるようなことをやっているわけだから、そういう反論では嘘偽りになってしまうことを自覚しているなら、できればそれが苦し紛れの言い訳と受け取られかねないような事態になることは避ける意味でも、しかもそんなことはやっていない式の反論にはならないような反論の仕方があるかというと、意識してそうならないように工夫を凝らしている自覚はないにしても、うまく言葉を選んで言い逃れにならないような細工を施そうとするなら、その細工というのが批判そのものをわざと単純化して解釈しつつも、実際に行われていることはそんな単純なことではないと語るわけで、しかも批判されるような点を巧妙に避けつつ、むしろそれを肯定的に受け止めて、場合によってはこちらが見習うべき点まであると言いたいわけだが、そう語ればいつの間にかそこで行われていることが否定的に受け止められるようなことではないという趣旨の論調へと移り変わって行き、そう語ることによって批判的な論調を受け流して、あわよくば逆に好意的に受け止められるような方向へと誘導しようとしている思惑まで透けて見えてくれば、そこまで意図してそんなことを述べているわけでもないのだろうが、そういったそこで行われているのは多くの人たちが思い描いているようなことではない式の語り方にしても、そこで多くの人たちが思い描いているようなことというのが、大抵はメディアが世間に広めているそれに対する最大公約的な印象に過ぎず、そういう紋切り型的かつレッテル貼り的な印象を抱いている人々へ向かって、実態はそんな単純なことではない式に語るやり方というのも、そう言われてみればよくある常套句的な語り方でもあるわけで、そういう語り方や語り口の技術に惑わされて何を見逃しているのかといえば、そこで語られている物事に対する批判的な面だろうが、それが木を見て森を見ない的な単純な論理で括れるようなことかというと、逆に木も森も見ないことにはわからないようなことかも知れず、もちろんそれがわかったところで何なのかという事後的な評価基準まで持ち出されてくれば、お前らにはそんなことがわかったところで何もできはしないという脅し文句まで含まれてくるかも知れないが、そこで木から森を見て、また森から木を見て、実際に何が行われているかを把握しないことには、そこから先に起こる事態への対処の仕方にも影響が出てくるかも知れず、だからこれまで繰り返されてきた過ちや誤りの数々をできる限り知っておくことが肝要であるにしても、時と場合によってはそれが過ちでも誤りでもなくなる可能性もあるから、そうすることが妥当とされたり正しいとされるような事態についても考慮しておく必要もありそうで、それが具体的に何なのかと言っても、多くの人たちが割とはっきりと拒否反応を示すようなことでもあり、それを避けて通れなければ多くの場合は拒絶を伴うような対象となるだろうが、しかもそれが公式的には建前として拒絶できないことでもあるから、本音と建前の使い分けのような体裁や体面を取り繕う態度へと落ち着くだろうし、そうやって誰もが現状の不都合な面を隠しておきたいわけだが、もちろんそれを隠し切れるわけでもなく、隠しているように装うことで体裁や体面を取り繕っているだけだから、誰もがすでにわかっていることでしかないのだろうが、それでも何が不都合なのかというと、人としての公式的な体裁や体面が保たれるには、本音が曝け出されてしまっては不都合な程度のことであり、その程度で済んでいるうちは大した事態には至らないだろうが、時として大した事態へと至ってしまうことがあるとすれば、実際にその批判の対象となる人物に政治的な権力が集中している実態がある場合などに限って、建前としての公式的な体裁や体面を取り繕っているだけでは済まなくなり、状況によっては死に物狂いでそういった権力者的な人物に対して非難の声を上げなければならなくなるわけで、それが隣近所の住民と和気藹々と笑顔で世間話を交わしながらも、裏では隣人の容姿の欠点や悪癖をあげつらいながら小馬鹿にしたり嘲笑しまくるような世間体の取り繕い方とは次元が異なる点なのだろうが、果たして両者の区別がつくかといっても、実際に独裁者的な人物が現れてみないことにはよくわからないわけで、大抵の民主的な政治体制が維持されている国ではそんな大げさなことにはなり得ないと思われるし、そうであっても絵に描いたような凡庸さを纏って口先だけは他人に調子を合わせられるのが取り柄のうだつの上がらない人物が平然と政府を代表する役職などに就いてしまう場合には、多くの人が大して支持しているわけでもなくても世間体を気にして支持するふりを装ってみたり、政策も内容が空疎で効果など全く期待できなくても、世論調査では政策が支持されているよう装われてしまう背景として、もちろん世論調査の設問の選択肢に政策を支持するように仕向けるための誘導尋問的な傾向があるにしても、世間の慣習や一般常識として行き渡っている人の公式的な体裁や体面の取り繕い方も無視できない影響を及ぼしていて、その一方でそういう人物やそういう人物が代表者となっている政権に対して批判的なスタンスでもの言う識者やジャーナリズムなどに対しては、あからさまにならない程度に拒否反応を示しておくような態度も暗黙の了解事項として身だしなみ程度に世間に行き渡っていると考えておいても構わないが、そんな慣習の類いが社交辞令的な程度で世の中に蔓延している状態が、空気を読むことが同調圧力として機能している社会の特徴的な傾向だろうが、少なくとも日本ではそうなっているように、どこまでも未来永劫そういう状態が保たれるかとなると、そうとも言い切れないような事態も予想されて、それが日頃から煽り立てられてもはや慣れっこになっている危機感を遥かに超える事態の到来となるのだろうし、いつまで経っても性懲りもなく警鐘の類いを鳴らし続けたい輩にとっては、何とかしてそういう状況に持ち込んで自らがオオカミ少年ではなかったことを証明したいだろうが、その機会がいつまで経ってもやって来ずに、そういう人たちが次々に老いて寿命が尽きて世の中からの退場を余儀なくされる事態となってもそういう事態とならなければ、結果的にはそれまでに行われてきた全ての警鐘を鳴らす行為が空振りに終わったことが証明されるだろうが、たぶんそういう残念な結果に終わることを見越しているわけでもないのに、ごく普通の一般人がどうでもいいような体裁や体面の取り繕いにこだわっていることが、すでにそうなることを見越して行われる行為として社会に定着していると見ておけばいいのかも知れず、そういう意味では退屈な日常生活の延長上で自らを死の危険に晒すような危機的な事態が突然起こるわけもないと高を括っていることを誰もが自覚していないわけだが、それ以前に死の危険自体が自身にとっては危機的な事態とはなり得ず、死んでからそれに気づくわけでもないから、死ぬ以前には感知できないことかも知れないが、現実には生きながら感じていることがその人にとっての全てなのかも知れず、もちろんその人以外にとっては全てではないのが分かりきったことであるにしても、実際に生きながら感じている苦痛の程度が感覚を麻痺させているわけで、それが何の感覚なのかと言えば、批判を真に受ける感覚であり、それを真に受けている人にとっては危機感を真に受ける感覚でもあってほしいのだろうが、そのことごとくが危機感を抱く以前に無効化されるような反論にもならないような慣習の類いに晒されているのかも知れない。


1月10日「嘘のような本当の話」

 それに関してはっきりしたことは何もわかっていないと言ってしまうと嘘になってしまいそうだが、何を解決したいのかも本当のところはよくわかっていないのに、果たして解決できるのかというと、とりあえず現状の世の中でおかしなことが行われているのを批判せざるを得なくなるとしたら、批判している対象を何とかしたいのだろうが、その何とかしたいということが問題の解決にはなっていないような気がするなら、どうもそれは違うのではないかと疑いたくなるのだが、問題など他にいくらでもあるが、それが解決を必要としない問題であり、もちろんそれでも問題を解決しようとしているのであるが、要するに必要のないことをやろうとしていると言ってしまっても嘘になってしまいそうだが、そこから何かわかりやすいことが言えるかとなると、実際にわかりやすいことを言ってしまうと、そういうことを言っている人たちが疑わしく思われるわけだが、疑わしいからといってそれを批判したいわけでもなく、むしろそういうことを言ってしまうのも無理はないと納得しつつも、言ってしまうことについては納得できるが、果たしてそれが納得できるようなことかというと、逆に疑念を抱かざるを得ないとなれば、何が疑わしいのかと言えば、納得できるようなことを言ってしまえること自体が疑わしいのであり、それらの人たちがそんなことを言ってしまうことについては納得できるだけに、逆に納得できないようなことを言えば疑いが解消するかというと、そもそもそんなことは主張できないわけで、主張するなら主張している自身が納得できることを主張せざるを得ず、そんなところもどうもよくわからないと言ってしまうと、やはりそれも嘘になってしまいそうだが、そもそもが何に関してはっきりしたことは何もわかっていないのかと言えば、例えばそれが経済に関してなら、経済成長を促すために積極的な財政出動による経世済民を主張したくなってしまい、そんな主張に疑問を投げかけるような人に対しては、緊縮財政派のレッテルを貼って批判する成り行きになってしまうのだが、そういう主張が説得力を伴わないのはどうしてなのかというと、どう見ても政府の財源が徴税を基に構成されていて、国債などの公債を発行するのにも限度があり、しかもすでにその限度をはるかに超えて国債を発行しているのだから、それこそが問題の解決を不可能にしているように見えてしまうのだが、果たしてそれが解決する必要のない問題なのかと言えば、実際に解決していない現状の中で事態が進行中で、それがどんな事態なのかと言うと、限度をはるかに超えて国債を発行している状態を維持していて、そうなっている限りで実質的に積極的な財政出動によって経世済民を行なっている最中なのだろうが、思ったほどには経済成長にも結びつかないから、そんな状況を批判している人たちが、経済成長を促すためにさらなる積極的な財政出動による経世済民を主張していて、財政出動の額が足りないということであり、その根拠となっているのがインフレ率が2%を超えない限りで財政出動の額を増やせるということだろうが、その一方でインフレ率が2%を超えたら金利を上げる措置を講じるわけだから、入口と出口で対処法が異なるのはどういうわけなのかと疑念を抱かざるを得ないが、それと共に財政出動の内容にも問題があり、普通に効果的な財政出動となっていないのではないかと批判されている面もあるのだろうが、どちらにしてもそういうことを実際に行なっている当事者ではない人たちが批判していることだから、それらの人たちが実際に当事者になってから、果たして効果的なことができるかとなると、現状では当事者にはなれないような人たちが批判しているわけだから、嘘のような話でしかないと言ってしまうと、その実現を目指している人たちには何とも対処しようのないことだが、とりあえず今のところは机上の空論の域を出ないことの実現を目指すしかないだろうし、そういう意味では現状では不可能なことを実現させなければならないというジレンマに直面していると言ってみても、実際にそうならなければ世の中が変わらないわけだから、主張していることや批判している内容と実際に行う内容にそれなりの落差が伴ってくると予想しておくのはもちろんのこと、言っていることとやっていることの間で整合性が取れなくなってくるのも仕方のないことであり、主張にしても批判にしても言っていることの内容を額面通りには受け取れず、そんな主張や批判に対する反応でさえ、恣意的な演技や演出が講じられているような感じがして、そんなところまで真に受けるわけにはいかないとなると、そういった成り行き自体が嘘のような話に思われてきて、それら全体がどこかの舞台上で演じられている猿芝居でしかないのではないかと疑いたくなってくるが、それだけが全てではないどころか、氷山の一角に過ぎないようなほんの一部分しか見せられていないような気もするから、騙されているとも思えないわけで、騙そうともしていないだろうし、見たまま聴いたままの実態を見せられていると思っておいても差し支えなく、演技者のような役割の人も含めてそこに居合わせた誰もが自分たちがかかわっている全てを把握できず、それを見渡すことも見通すこともできないわけだから、何を主張しようと批判しようと不完全なままに留まり、雲をつかむような話の内容となってしまっても、何かしらはっきりと断言しないわけにはいかず、その断言の対象となっている人や団体が自分たちはそんなことはやっていないと言い張っても、そういうことをやっていると断言するしかないだろうし、批判されるようなことをやっていることにして話を進めないわけにはいかず、だから批判せざるを得ないはずだが、そういう成り行きの中で語られる内容だから嘘のような話であり、だからといって信用できないわけではなく、嘘のような話の内容であっても信用しても構わないだろうし、実際に映画や漫画などのフィクションを信用している人も世の中には大勢いるわけで、もちろん現実の世界で行われることはそれらとは違うと思いたいし、何事も優柔不断ではっきりしたことは何も決められないようなことばかりだから、それを批判しようと思えばいくらでも批判が可能なようにも感じられるのだが、その一方でこれでいいのだと開き直ることも可能で、懐が深くちょっとやそっとなことでは土俵を割らない二枚腰のような印象を与えたいという意図や思惑も見え隠れするにしても、そんな印象を真に受ける人々の浅はかさも批判の対象となるのも計算のうちであると思えば、やはりそういうことも含めて嘘のような話が成り立っていると見なすしかないだろうし、見えすいた嘘を信じているように装いながらも、本当は全部お見通しだと主張したい人も中にはいるにしても、実際にそんなことを言って人々の気を引こうとしているのだから、そういう話を信じても構わないと思うだけの心にも経済的にも余裕があればいいということではなく、そうした余裕を人為的に作り出したいから今以上の積極的な財政出動が必要だと主張しているわけでもないだろうが、何か一本調子でそうなるような幻想を抱く気にはなれないから、その途中でわけのわからない紆余曲折が待ち受けていることも十分に予想できるだろうし、実際にそんなことの果てしない繰り返しの末に現状に至ったようにも思われて、今後もそんなことの絶え間ない繰り返しが待ち受けているとすれば、いつまで経っても嘘のような話は嘘のままであり、本当にはならないとも予想したくなるだろうが、実現しようとしていることが実現しなくても構わないはずがないとしても、実際にも一向に実現しなくてもそれが批判の糧となって、現状では嘘のような話の実現を目指して、現状で実現されている優柔不断で焦ったい状態をもたらしている人や勢力を批判しているわけで、そういうところでこれでいいのだと居直ってみせるか否かの判断が人や勢力によって分かれるとしても、当事者として居直ってみせられて、それを懲りずに支持するような愚は避けたいと思うなら、それを真面目に批判する側を応援しておいた方が良心的に見えるだろうし、そう見えそうだからそういう態度でいたいわけではなく、実際には実現するはずのない嘘のような話が実現することを願っているから、優柔不断を放置する居直りよりは、現状を批判する方が数億倍もマシに思われるわけで、果たしてそうなることを本当に心から願っているのかというと、ほとんどそんなふうに装っている演技に過ぎないかもしれないが、ほとんどの人は何を演じている自覚もないだろうから、実質的には演技に過ぎないとしても、それが演技だと見破られる心配もなく、見破られたとしても嘘のような話を信用しているから困らないわけだが、それも嘘のような話だと思っているわけだから、話自体を信用しているというよりは、そんな話で批判を構成している人たちを信用していると言っても過言ではないが、そうだとしても自分が積極的にはそんな話をしようとは思わないし、もっとマシなことが言えるのではないかと幻想を抱きながらも、なかなかそれも実現しない現状の中で、結局語っているつもりの内容が嘘のような話になってしまっているのかもしれない。


1月9日「解釈の多面性」

 現実の世界でそんなことまでいちいち意識しながら生活している人はまずいないかも知れないが、フィクションの中で登場人物が何か考えがひらめく際には、その人物が見聞したり体験する何らかの出来事に触発されてひらめくことがよくあるが、一つの出来事から複数の意味が連想されるなら、その出来事には多面的な解釈が可能だと思われるかも知れないが、その出来事に興味がなければ元から意味など考えはしないし、なぜ出来事の意味を考えるのかというと、その出来事にはそういう意味があるから、それがその場所や時期においてそういうタイミングで必然的に起こったのではないかと逆説的に推理したくなり、そういう理解の仕方の全てが誤っているわけではないとしても、そこから今後その出来事に起因して、あるいは連動したりその影響を受けて、周囲で様々な似たような出来事が起こる事態を予想することもあるだろうが、実際に今まさに世界の方々で何かが起こりつつあることから、そういう出来事が起こりつつある世の中の風潮や傾向を読み取ろうとして、時にはそれが現状の世の中を象徴するような出来事だと見なしたりして、それをさらに敷衍すればその出来事の名称を冠して、今まさに〇〇の時代が到来していると言い放ってみたりするようなら、それによって現代という時代を理解した気になってしまいそうだが、それが全くの勘違いだとは言えないが、それによって現代という時代の一面的な理解に至ったように思われると共に、そこにその出来事の多面的な意味も含意されているなら、その〇〇に現代という時代の意味も込められていると解釈しておけばいいのかも知れないが、そこからも逆に時代の意味とはその程度のことだと理解しておいても構わないが、そうなると意味自体に大した意味はないという逆説的な認識まで可能となってしまいそうで、わざとそういうひねくれた解釈へと無理やり持っていっている感もなきにしもあらずだが、解釈の途中でその出来事の重要性から意識が外れてしまえば興味も失せてしまうし、そこから連想される意味がこれから起こるだろう何らかの出来事においても引き継がれるようなら、時代の意味こそが重要だと思われるにしても、出来事と出来事が象徴する時代とその意味とがどう結びついているかというと、その意味を通して出来事と時代状況を理解できるということであれば、例えば現代が地球温暖化の時代であるなら、それが意味しているのは脱炭素であり化石燃料への依存からの脱却を目指していると受け取っておけばいいとしても、それだけでは一面的な解釈に過ぎないから、もっと多方面にわたってどんな影響があるのかと言えば、地球温暖化によって熱帯地域で海水温が上昇して珊瑚が死滅の危機に直面しているだの、極地の氷が溶けて海水面が上昇して沿岸地域が水没の危機に直面しているだの、高緯度地域でツンドラの永久氷土が溶け出して二酸化炭素よりさらに温室効果が高いメタンガスまで放出されてさらに温暖化が加速するだの、北極海の海面が凍りつかなくなるから白熊が獲物を獲れなくなって絶滅の危機に瀕するだの、低気圧や台風などの勢力が強くなるから風雨で土砂崩れや河川の氾濫や高潮や竜巻などによる気象災害も深刻化するだの、他にも様々な悪影響を挙げることができるなら、何としても地球の温暖化を食い止めなければならないと主張できるだろうが、そういう気候変動的な解釈が現代を象徴しているかというと、ある方面では確かにそうだが、それとは別の方面ではまたそれとは異なる解釈も導き出せそうで、例えばそれが政治的な面ではポピュリズムの興隆による民主主義の危機であったり、独裁体制が世界各地に生まれつつあることもそれに伴って一般の人々の人権が脅かされていたり、経済的な面ではごく一握りの富裕層への富の極端な集中によって中間層が減って大多数の人々が貧困化の危機に直面しているとか、そういう方面でも危機意識が蔓延してきて、それは現状で世界的に流行っているコロナ禍でも言えることだが、現代を危機の時代と捉えることがごく当たり前の認識として多くの人々が共有していることかも知れないが、それも危機的な方面という一面的な解釈として括られる分野に過ぎないと言うと語弊があるが、事を深刻に捉えるならその種の懸念材料を挙げて行けばもっともらしく思われて、それなりに誰もが納得するしかないだろうが、そうだとしてもそれとは別の方面では多くの人々が平穏無事に暮らしている現実もあり、それも日々の日常の延長上で感じることだから実感が伴っていて、そうした実感の中には地球温暖化も政治的なポピュリズムもニュースで話題となる外国の独裁体制や国内外の人権侵害も経済的な貧困化の問題もそれほど影を落としていないのかも知れず、それでもさすがにコロナ禍に関しては深刻に受け止めざるを得ないのかも知れないし、それも全ての人たちがマスクを着用したり給付金やワクチン接種などの対象となったから実感が伴っているわけで、直接の作用や影響を及ぼされると身近な関心事として受け止めることになり、そういうことが自身の生活や活動にかかわってくるからそう思われるわけだが、それはそういうことの意味を知ろうとする以前に直接かかわってくるからそれについて考えるより早く感じられてしまうわけで、それが考えるな、まずは感じろ、という直接性なのだろうが、だからといって直接感じられることが他の何よりも重要とは思えないし、何が重要であるかは考えてみないとわからない場合もあり、しかも自分にとって何が重要であるかを考えてしまうと、それが往々にして勘違いや思い違いとなりやすく、そこで論理的に考えてみたり利己的な損得勘定を働かせてみたりしながら、結局取り返しのつかない過ちを犯してしまうわけだが、要するに自分にとって何が重要であるかと考えても、それが自身にはわかっていない場合があり、自分にとって重要であることが一つや二つではなく、自身を取り巻く様々な状況の中で、その場の状況に応じてあるいは状況の変化に伴って、様々に重要性や重要度が移り変わっていく可能性まであり、その中で自身がかかわっている何らかの物事が、その時には重要に思われても、それがその時だけであったり、その時だけなくそれ以外の時も重要に思われたり、他にもそれと同等の水準で重要に思われることも、やはり一つや二つではない場合もあるかも知れず、そういう意味で物事の重要性というのは、自分が思っている範囲内では自身の勝手な思い込みでしかないと思うしかない場合もあり、そういうところで安易に考えて自分にとって自分の命が一番重要だと客観的に判断してみても、確かに命は重要だと思うにしても、時には自身のせこい意地や都合を押し通すために自分の命を危険に晒していることに気づいていない場合もあるだろうし、例えばそれが宴会の席で周囲に煽られて酒を一気飲みして急性アルコール中毒になって救急搬送されて死亡してしまった人に当てはまるだろうが、そうなれば冗談では済まないことになるにしても、その場の状況から自分が直面している事態の意味やその重要性を考えてみても、それを考えるだけの暇や余裕があればの話であるにしても、そこで何が重要であるかの判断を誤っている可能性があるからといって、やはり何が重要であるかを考えて、その優先順位をつけている間に行為や行動の機会を逸して、つまらない結果をもたらして意気消沈してしまえば、自らの無能さを思い知るのだろうが、その一方で何事においても計画性を重視して、事前に用意周到に計画を立ててからでないと動こうとしないような用心深さが重要に思われる場合もあるだろうし、それも用意周到な計画が必要だと思うからそういう方向で考えを巡らすのだろうが、世の中にはそうしないと物事が動き出さない方面もあることは確かで、それに関しては自身の活動に組織的な集団がかかわってくればそんな成り行きになる場合が多いとしても、そこでも時には個人的に勘を働かせて、組織内での自身の立場や地位を優位に持っていこうとする上でちょっとした気配りが重要に思われてしまう場合もあるだろうから、そういうところで周囲の人間関係や他人が何をやっているのかを誰もがそれとなく観察していて、そんな観察を基にした経験が勘として身について、その人の立ち振る舞いなどに現れて、それがその人を組織内で他の人々から信頼される人物にして、結果的にその人の立場や地位などの面で有利に働くようなら、そんな成り行きを身近に感じている人にとっては、そういったことも事前の用意周到な計画性とともに重要に思われてきて、そういうことの意味をその人がどう捉えているとしても、そういった立ち振る舞いや他人へのちょっとした配慮が自らを組織内で優位に導くように思われるのも当然かも知れないが、それが組織内での公式的な事業計画の類いを成功に導くことよりも重要とは思われないとしても、実質的にそうした計画の立案者や責任者などが計画の成功に伴って立身出世の機会を得るのと同じではないにしても、そんな組織内的な人間関係の中でうまく立ち回るためのコツや秘訣などとして、非公式レベルで暗黙の了解事項として重視されている面もあるとしたら、そういった組織内的な仕事などの面でも多面的な傾向が伺われることになるのではないか。


1月8日「依存体質からの脱却」

 気が小さいことは気が弱いことではなく、実際に小心者は気が弱いどころか、何事にも細心の注意を払うと言うと聞こえはいいが、細かいことにいつまでもこだわって、粘着質のような執拗さも併せ持っていて、それが何らかの依存体質であると言うとちょっとニュアンスが違ってくるかも知れないが、何かに依存していることがそれに依存していないと不安になり、それが切れると禁断症状のような兆候も出てきて、時折ヒステリックに感情が昂ってくれば、興奮状態を抑えるためにその何かが必要になってくるとしても、それが意外な何かであり、依存体質を招くような代物とは思われなければ、そんな症状が出てもそれとは気づきにくいのかも知れないし、覚醒剤や麻薬のようなあからさまな禁断症状が出るわけでもなく、脳内の神経伝達物質のセロトニンが不足すると情緒不安定になる程度の何かであり、それを軽度のカフェイン中毒とでも見なせばいいのかも知れず、コーヒーでも飲めば治まる程度であれば日常生活にも支障をきたさないはずだが、その手の物質的な依存体質なら原因が特定されやすくわかりやすいが、それとは違って精神的あるいは心理的な依存体質であると精神科医とか心理カウンセラーなどでないとわかりにくいかも知れないが、そのどちらでもないとなるとそんなのはあり得ないと思いたいが、どちらでもあるとなると、例えば言語に依存し過ぎると行動が伴わなくなってきたり、金銭に依存し過ぎると金で買えない行為が疎かになってきたり、金で買えない行為が何なのかとなると人によって見解が分かれるかも知れないが、言語そのものというよりは自身の考えや主義主張に依存し過ぎると、他人の考えや主義主張には一切耳を貸さないという弊害が出てきて、勝手な思い込みから生じる固定観念や偏見に囚われ過ぎたり偏向した思考や意見に凝り固まってしまうことにもなりかねないが、それが偏見だと思われたり偏向していると見なされることが妥当かどうかは、その場の多数決で決まるようなことでもないだろうが、その場にいる多数派がすでに偏見や偏向した思考に囚われていれば、では何が偏見でないか偏向していない思考と言えるのかがよくわからなくなってしまい、実際に大航海時代から世界各地で植民地争奪戦を繰り広げていた頃のヨーロッパ人は、数百年間にわたって他の有色人種に関して文化の程度や知能が低いなどの誤った固定観念や偏見に凝り固まっていたわけで、そんなケースに限らず自己中心的な偏見や価値観を信じるに足る理由などちょっとしたきっかけからどこからでも生じてきそうだが、そんなわけでもなくても、人が大なり小なり何かに依存しながら生きていることは、自身が何に依存しているのかをその人が知り得なくても、何かしら依存している物事がありそうで、それを知り得なければいちいち気にする必要もないことかも知れないが、いちいち気にしていたらきりがなくても、時にはその依存体質が仇となってみすみす絶好の機会を逸してしまうこともあるだろうが、それが何の機会なのかというと、その依存から脱却する機会だと言えば、それもその人の知ったことではないかも知れないが、その機会がいつやってくるのかと言えばすでに今この時がその時であれば、それが自身にとっては今が都合が良いか悪いかが脱却できる鍵となることもあり得るかも知れないが、その人が何らかの依存体質から脱却しようがしまいが、その人とは無関係な他の誰かにとってはどうでもいいことかも知れず、その無関係な誰かに出会うことがその人にとって自己中心的な偏見や価値観への依存から脱却できる鍵となることもあり得るわけで、自分の都合とは無関係に存在して活動している人が他にいくらでもいることを知ることが、自身が依存している偏見や価値観を否定することにつながるかというと、否定されると余計にこだわってしまうかも知れないが、偏見や価値観を異にする他者が自身に直接関わってきて、自身が信じている偏見や価値観を壊しにかかるようなら戦わざるを得なくなり、その戦いに敗れるようなことになれば、自身の信念が打ち砕かれて自己中心的な偏見や価値観を否定せざるを得なくなるかというと、たぶんそうなることを回避するために策を弄するような迂回が待ち受けていれば、そこからますます成り行きがこじれてきて、ねじくれた感情に心を支配されるようになってしまうかも知れないが、それが負け犬のような卑屈な劣等感になればわかりやすいだろうが、果たして現状の日本で支配的なメンタリティを形成している似非右翼的な対米追従路線がアメリカとの間で無謀な戦争をやって負けた結果として生じてきたものかどうかというと、それを認めたくないことの論点のすり替えとして、アメリカではなくGHQに押しつけられた憲法を変えればいいのだと強弁したいのだとしても、それがとんだお笑い草とはならずに、そうした憲法改正に反対する反日左翼という仮想敵を捏造してまで何をやるのかと言ってみても、それもフィクションの域を出ないいい加減な作り話になるだけかも知れないが、押しつけ憲法への依存から脱却するには何が必要かというと、国軍を持たないことを宣言している憲法九条の改正よりも緊急事態条項が必要となってくるらしいが、それも直接の問題点には踏み込まずにそこから迂回して、搦め手から民主主義の大前提である国民主権を有名無実化するような卑怯な戦法だと思われて、そういうことをやっている人や団体のねじ曲がった根性を世界に向かってさらけ出しているのにもかかわらず、そんなことは意に介さずに着々と目的に向かって前進し続けているように現状では感じられるかも知れないが、何かそういう成り行きに関して落とし穴や見逃している点がないかというと、実際に誰もが気づかずに見逃しているから落とし穴として今後の成り行き中で罠として機能するのかも知れないが、その罠が今メディアと連携して大掛かりに行われている猿芝居とどうかかわりを持ってくるわけでもなく、しかも今どんな猿芝居が大掛かりに行われているかもよくわからないわけだが、それは猿芝居をやっている当事者たちにもよくわからないことかも知れず、誰が芝居の筋書きや脚本を書いているわけでもなく、もちろんそんなのは芝居でも何でもなく、ただ現実に起こりつつあることを認められないだけかも知れないし、それも実際に行われることに対して抱く心情的に偏った思い込みも含まれてくるから、意識が実体を正確には捉えられないかも知れず、それに関しては何かしらまとまった結果が出てみないことには何とも言えないが、それがあからさまに自分たちの墓穴を自分たちで掘りながら自分たちの首を自分たちで絞めているようなあり得ない幻想に結びつくなら、それ自体が猿芝居をやっていることになるかも知れないが、実際にはつまらない結果がもたらされてがっかりするしかなく、本気でそんなことをやりたいのではなく、もっと別の些細でつまらない重箱の隅をつつくようなせこいことをやっていた方が、それらの人たちの性には合っているのかも知れず、それが具体的に何なのかといっても、これからそんな事態に遭遇した際にそれがわかってきたり、あるいはそれにも気づかなかったりするのかも知れず、まだそうなる手前の段階で煩わしくもややこしい横道に逸れるような紆余曲折を経験している最中かも知れないが、そういうこととは裏腹にこれから世界情勢に翻弄されるような事態と日本のある種の勢力がやろうとしている迂回的な搦め手とがリンクしてくれば、その時がこれまでには思いつかなかったことをそこで思いついてやる絶好の機会なるかも知れず、その時へと向かって世の中の情勢が動いていることを今この段階で誰が意識できるわけもないが、それもこれから新たに起こるだろう思いがけない事態からわかったりわからなかったりすることでもあり、すでに数年前には誰も思いもしなかった事態に現に世界が直面しているわけだから、これからさらなる出来事がもたらされて状況がさらにこじれてくることも、あるいはこじれやねじれが意外とすんなり解消されてしまうことも十分に考えられるかも知れないが、何かがさらにこじれてくる一方で、それとは別の何かがすんなりとまかり通ってしまって、そんな事態に誰もが呆気に取られているうちに鉄は熱いうちに打てとばかりに強引なことも行われて、そういう成り行きもこれから機会を捉えて明らかになってきたり、あるいは一向に明らかにはならなかったりするかも知れず、今この段階で何を予想したり予言しても無駄かも知れないし、そのことごとくが外れるだけかも知れないが、少なくとも現状の世の中で多くの人々が何に依存しているのかというと、言語的に作り出された先入観や固定観念の類いに自覚なく依存している実態があるのだろうが、それに似非右翼的な人々やそれに対抗して存在しているように装われた反日左翼的と見なされる人々が共有している幻想も含まれるかも知れないが、それらの人々が各々の攻防の拠点として利用しているつもりの憲法も、文字に記された幻想であり言語的なフィクションであることには変わりなく、そんな憲法を巡る攻防に人々の意識が集中している隙を突いて行わなければならないことが、これから何かしら出てくると予想しておくのが妥当なところかも知れないし、それがそれらのフィクションへの依存体質からの脱却となれば、そこから虚構とは違う具体的な達成すべき目標や遂行すべき目的も定まってくるのではないか。


1月7日「公式的な見解」

 それをどう表現すればいいかは、どう表現してみてもしっくりこないが、紋切り型というわけでもないが、同じような表現を使って同じような反応を引き出そうとしているように意図される表現と言えばいいのかも知れないが、そういった表現から構成される見解というのが、常套手段のようにしてメディア上で使われていることは確かで、そういうのをひとまず公式的な見解としておくと、メディア上で示される公式的な見解の裏に何が隠されているかを明らかにしたいわけではなく、そういう何かの裏に何かが隠されていると仄めかす手法も公式的な見解の中で使われることも多く、そうしたメディアが伝える見解を受け取る人々の意識の中でそう思うのが当然のような認識が生じて、それが意識の中で見解と共鳴現象を引き起こして、伝えられる出来事についての公式的な見解に対して違和感や疑念を覚えるのを抑え込んでいると解釈すれば、メディアが意図的にそういう効果を狙っているわけでもないとしても、そんな陰謀論的なことではなく、もっとささやかな親切心の発露のような懸念と言えばいいのかも知れず、それが人々の潜在意識に社会の秩序や制度の崩壊や破綻への恐れとして受け止めてほしいと意図しているわけではなくても、実際にその種の公式的な見解からもたらされるのがいつものようにそれらの終わりの始まりとしての兆候であり、それが日本のある種の識者が与党の政治家なら真面目に批判したり議論しようとする一方で、返す刀で野党の生意気そうな政治家に対しては小馬鹿にするような蔑みの態度を隠そうとしないのと似ているわけでもないが、それがその種の人物の公式的なスタンスだとしても、そういうステレオタイプにハマりそうな態度に敏感に反応してしまうところがある種の症候を示していて、そういった類いのメディアから伝わってくる公式的な見解を疑ってみないと世の中の真の姿が見えてこないというわけでもないが、その見えている世の中がマトリックスワールドのような感じがするようなら、現実に起こっている出来事を材料にしてそれらの出来事の公式的なイメージがメディア上で作られていることを意識が敏感に察知して、そこからメディアが伝えようとしている公式的なメッセージを読み取って真に受けているのだろうが、それがメディアと共に世の中の秩序や制度が崩壊や破綻の兆しを見せていることに対して懸念を表明しようということであり、これから大変なことが起こるかも知れないし、現に今起こりつつあるのではないかと心配してほしいわけだが、そうした懸念材料がメディアが伝えようとする出来事や現象が起こる度に示されることが逆に安心材料でもあり、それがいつ何が起こってもメディアが炭鉱のカナリアのように素早く懸念を伝えてくれる、というメディアを信じている人々の安心感につながっているのだろうが、しかし懸念を伝えることが安心もたらすという逆説的な事情そのものがおかしいわけで、人々を安心させるために懸念を伝えているのだから実質的には懸念になっていないわけだが、そういう意味でその種のニュースに登場するコメンテーターのような人物の役割として何らかの出来事や現象に対する懸念が表明されたら、それを疑ってみることを勧められるかというと、何かそれも疑り深いような態度で、それこそがメディア上で出される公式的な見解に対する公式的な態度や反応になってしまいそうだが、結論から言えばそういった公式的な何かに多くの人々の意識が囚われているほど、メディア報道の類いによって世論が操作されていると捉えておけばいいのだろうが、それが懸念点や懸念材料というわけではなく、世の中の情勢がメディアによって支配されているからどうしたわけでもなく、ただの当たり前のことに過ぎないと思っておけば、安心と心配とどちらでもない感覚が入り混じっていることになるかも知れないが、意識すべきなのはメディア上に登場する誰もが自覚せずにそういった公式的な見解や認識や態度や反応に囚われてしまうということであり、それを自覚せよと言っても自覚できないのだから、無理に自覚しなくてもいいだろうが、できれば公式的な見解や認識や態度や反応に囚われない見解や認識や態度や反応に注目してほしいと言っても、普通に多くの人が公式的な何かに囚われてしまうのだから、メディアが伝えている内容に対して安心感を覚えるようなら公式的な何かに意識が囚われていると思っておけばいいとしても、メディアと一緒になって懸念を覚えていることが安心感を覚えているとは思えないだろうし、その懸念が錯覚であるはずがないが、メディア上で誰かが懸念を表明していることに安心しながらその懸念を共有したりそれに同調するということが、一方では安心感を覚えていることの証拠だと言ってみても納得しないかも知れないが、それ自体がそう言われてみれば納得できないようなことなのであり、それを納得しろ言うのが無理には違いなく、納得できないことからくる不安を共有すべきだと言ってみても、誰もそれに同調する気にはならないだろうし、逆にメディア上で表明される懸念には素直に同調できるわけだから、そうなっている時点でメディアに意識を飼い慣らされていると述べてみても、実際に飼い慣らされている意識の持ち主が納得できるわけでもなく、納得してくれないことを承知で述べていることであり、それだけ多くの人の深層心理の中に公式的な何かが根深く食い込んでいるのだろうが、それが通常の状態なのだから懸念されるようなことではなく、逆にそうなっていないとメディアが社会の中で全く機能しないだろうし、すでにそうなっている時点で多くの人の意識の中でメディアから情報を受容する体制が整っているわけだが、一度できあがってしまったそういう体制に逆らうことはできないし、それが意識なのだから意識には逆らえないのは当然だが、思考を巡らすことによってそうなっている実態を認識することはできるだろうし、実際に懸念材料が出ていることに安心していることがおかしいと思われる瞬間がたまに訪れることもあるわけで、それをきっかけとして思考を巡らしてみると、特定の誰が操作しているわけでもないのに多くの人がメディアからもたらされる情報に踊らされて、当人たちはそうするのが当然のように思われるおかしなことをやっている実態があるわけで、それが誰かの陰謀によって踊らされているわけではないことは確かだが、それをメディア上で伝える人も含めて踊らされているわけだから、勝手にそうなっていると捉えてもいいのだろうが、それがわかってしまうと実際に自身も含めて踊らされている人たちが愚かなように感じられて、なるべくそういう事態には抗わなければならないと意識するだろうし、実際に気づく範囲で抗うように心がけるかも知れないが、それもそういう気にさせるように仕向けられている感じがしないでもなく、そんな気にさせられていること自体がメディアに振り回されていることになるように思われるなら、そういう意識をもたらすメディアと自身との関係全てを再検証してみたくなり、もちろんそんなことを全て検証できるわけでもなく、きりがないから途中で挫折して、結局そんなことにはかかわらないようにしたくなるのかも知れないが、否応なく日々の生活の中でメディアに接してしまうわけだから、いちいちそれを問題視するのもおかしいし、気にならない範囲内でなるべく平常心を心がけながら注意深くメディアからもたらされる情報を吟味して行けばいいのだろうが、それでも心の隙を突いて何かがもたらされて動揺してしまうこともあるだろうし、素直にメディアが伝えようとする意図を汲み取って、時には意図も思惑も謎であるような情報ももたらされるとしても、謎が解けなければ穿った見方や恣意的な解釈を避けて謎のまま放置しておけば、しばらくして不意に答えが閃いて謎が解けて確信に至るような場合もあるだろうし、そうなることを目指すと言うよりは、自然体で接している状態を維持していればいいことであり、それでも疑いが晴れなければ疑う理由をあれこれと考えてみることもあるだろうが、それがメディアに登場する識者の類いと見解の一致を見るようなら安心してしまい、そんな安心感が疑わしいからこんなことを述べているはずだが、そんな安心感とその手の公式的な見解が一致するようなら、それはどう見てもメディアと共に安心感を共有しているわけで、そんな安心感が悪いというわけではなく、見解の一致によって安心感をもたらすように仕向けられているとしても、メディアが伝えることだから誰もが安心するような見解が示されていると思っておくのが無難なところかも知れず、しかもそれが懸念の表明となれば何かおかしいと思うのも無理はないわけだが、メディアが懸念を表明しているのにそれに同調して心配や不安を抱くどころか安心してしまうのだから、おかしいことには違いないわけだが、そこから深読みしてそう思わせようとしているのではないかと疑ってみてもきりがない話であり、メディア上で表明される公式的な懸念と共に、それを受け取る人が同じような懸念を素直に抱くわけではない事態が、当然のこととして出てくるから、それが誰もが抱く懸念だとしても、大した懸念でもないと思っておいても差し支えないのかも知れない。


1月6日「自由と自由主義と新自由主義」

 人が自由に生きているかどうかはその人の実感に左右されるし、客観的にその人の境遇を見てみないとわからないだろうが、たぶん自由に生きていれば自由を求めることはないが、拘束されたり活動を制限されて自由を奪われると自由を求めたくなってきて、そうなって初めて自由を意識するのかも知れないが、そこから状況が変わって拘束から解放されたり活動の制限を解かれたりすれば、自由になったことを実感するだろうし、解放感に包まれた気持ち良さを味わうことになるだろうが、そういう成り行きになってみないことには自由であることのありがたみなどわからないし、それも程度の問題で、普段から勝手気ままに生きていれば、そうなっているのが普通の状態だから、改めて自由とは何かなんて考えないだろうし、自由を奪われて痛い目に遭った経験がないと自由の重要さなど意識できないだろうが、そういった自由そのものに関する認識と自由主義や新自由主義という主義主張のような概念を批判的に捉えることとは、全く違った次元で考えている問題のように思われるかも知れないが、肯定的な意味での人の自由な活動には制限を加えてほしくないが、行き過ぎた経済活動の自由には制限を加えなければならず、それが逆の方向に行き過ぎて社会主義的な計画経済のようになってしまってもまずいのだろうが、果たしてその中間の程よい制限が加わった経済の状態というのがあり得るのかというと、現状がそうであればそれで構わないのかも知れないが、実態から言えばそんな単純なことではなく、逆に経済活動における自由な競争を維持するために、競争を阻害する活動を規制するのが新自由主義的なやり方になるのだろうが、実質的に自由な競争が確保されているのかと言えば、全く規制していないわけではないが、競争を勝ち抜いた巨大企業がその分野で他社が参入できないような独占的な地位を確保している場合もあるだろうし、そこへ別の巨大企業が新規参入してくることもあるし、世界的に事業展開している分野では、分野ごとに数社から数十社の巨大企業が競争を繰り広げている一方で、各国の国内市場では無数の中小企業が活動していることも確かだが、大企業との間で共存や棲み分けができているかというと、垂直統合によって系列企業として大企業の傘下に組み込まれて自由な活動ができなくなってしまう場合もあり得るし、それとは逆の水平分業といっても、世界的に事業展開している欧米の巨大企業が人件費の安いアジアなどの企業に製造や組み立てを委託して、出来上がった製品を自社ブランドとして売り出すという狡賢いやり方となるから、どちらにしても自由な競争からは程遠い実態があり、そういう意味では新自由主義とは名ばかりの欧米の政治家が忌み嫌う専制政治のようなことが巨大企業を盟主として行われているわけだが、そういう建前と実態の乖離が実態の否定的な面を把握している人々にとっては我慢がならないところだろうし、だから新自由主義的なやり方には批判せざるを得ないのだろうが、中国やロシアなどの政治的な専制主義と欧米や日本などの経済的な専制主義とに違いがあるかといっても、どちらでも政治と経済が入り混じっていて、どちらかと言うと政治面での専制主義の方がメディア的には目立っていて、その代表例として中国やロシアなどの政治面での独裁体制の方が批判的に扱われる傾向があるにしても、経済面での専制主義もGAFAやマイクロソフトなどが帝国として揶揄の対象となることもあるだろうが、そういうところでも自由と自由主義に違いがあるように、帝国と帝国主義にも違いがあり、帝国が帝国内に暮らす各民族の自主権を尊重するのに対して、帝国主義の方は自主権を認めずに民族の同化政策をやろうとするから、かえって反発を招いて自民族で一つの国家を作ろうとする独立闘争に拍車がかかるという矛盾を抱え込むわけで、どちらかと言えば帝国が水平分業に近く、帝国主義が垂直統合に近いのかも知れないが、もちろん中国では清朝以前の帝国は昔ながらの帝国であるのに対して、現在の中国はチベットやウイグルなどの少数民族に対して同化政策を行なっているから帝国主義になるだろうが、それはパレスチナの地でも昔はオスマン帝国の支配下にあったから、ユダヤ教徒とイスラム教徒が平和に共存していたのを、欧米諸国の帝国主義が各民族に対して帝国からの独立風を吹き込んで、民族自立という帝国からの自由を求める戦いがかえって民族対立や宗教や宗派対立という不自由を抱え込むという矛盾をもたらして、そんな欧米の策略に屈してパレスチナの地を失ったオスマントルコの内部でも、民族自立という帝国主義の論理を吹き込まれたから、アルメニア人の大量虐殺が起こってしまい、ロシア帝国でも欧米に倣って近代化を急ぐ過程でユダヤ人の大量弾圧が起こり、日本でも明治維新以降に欧米に倣って近代化を急ぐ過程で帝国主義を吹き込まれて、アイヌ人の同化政策から始まって、新たに周辺地域との戦争によって獲得した台湾や朝鮮半島などでも、帝国主義的な同化政策をやって禍根を残したわけで、それは第二次世界大戦後でもインドネシアで中国系の住民の大量虐殺を招いてしまったし、アフリカでもルワンダで大量虐殺が起こり、今もエチオピアで同じようなことが起こっているのだろうが、どうしても政治の面で民族自立という幻想を吹き込まれてしまうと不幸な事件が起こってしまうのだろうし、それが同化政策という同化させようとする側の善意の押しつけと裏腹に起こる抑圧からの自由を求める解放闘争となるからややこしいわけだが、そこから奴隷解放運動とか女性解放運動とか現代ではLGBTとか色々な自由を求める解放運動も派生しているだろうし、単純化すれば社会の中で多数派から及ぼされる同調圧力に逆らうことになるだろうが、結局多数派から抑圧されていると思うことが不自由を感じさせて、そういった抑圧に逆らうことが自動的に自由を求めることになってしまうわけで、それは経済の面でも言えて、今では帝国となってしまったアップル社が、創業当時はIBMなどの巨大コンピューター企業に逆らって、個人でもコンピューターが使えるようにと願って作ったのがパーソナルコンピューターというPCであったわけで、その当時は創業者のスティーブ・ジョブズも自由を愛するヒッピーのような存在だったのだろうが、それはテスラ社のイーロン・マスクにも言えることであり、GMやフォードやトヨタなどの巨大自動車企業に対してEVを引っ提げて敢然と立ち向かう自由な社風の企業経営者として持て囃されたわけで、そういう個性を装うステレオタイプの起業家に自由なイメージがつきまとうのは、そういった人たちを生み出すのがアメリカの風土であり、自由を求めて世界中から移民たちが集う聖地だからそういう肯定的なイメージが連想されてしまうわけだが、日本も二千年ぐらい前は同じように移民たちが集う地だったのかも知れないが、自由を求めることが人間の根源的な欲求だと言ってみても、その反動として他人を抑圧して不自由にしてしまう危険性もあるから、それが表裏一体の関係にあると捉えるなら、経済面で成功した企業経営者のイーロン・マスクやスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツやザッカーバーグやジェフ・ベゾスなどと、政治面で独裁者として目立っている習近平やプーチンやエルドアンやルカシェンコなどは、一見全く違う種類の人物のようにカテゴライズされるとしても、経済と政治の両面で帝国主義的な役割を担っていることに関しては一致する面もあるだろうし、それも何らかの集団の代表者となっているわけだから、似た面もあっても当然のことだろうが、当初から独裁者になろうとしてなったというよりは、集団を率いるような役割を担ってしまうとなるべくしてそうなってしまうのかも知れず、そうなった結果から彼らを独裁者として批判することになってしまうのも、活動の過程で帝国主義的な成り行きがあり、それが彼らの思惑通りなのかどうかはどうでもいいことかも知れないが、集団を成功に導くにはその種の指導者が必要とされているような気がするのも、そうなった結果からそう思われることであり、そうなった結果を肯定的に評価するなら、それも典型的なサクセスストーリーとして構成できるかも知れないし、途中でその人物独自の一か八かの賭けなどのエピソードや紆余曲折があれば、トッピングとして成功談に魅力を付け加えることになるにしても、そういう装飾的な面に目を奪われていると物事の本質を見逃してしまい、では物事の本質とは何かといっても、成功を目指すために必要なモチベーションの維持とか、飽くなき探求心といった類いのありふれたことよりは、自由と不自由が入り混じった一つの論理や理屈には収斂しないどっちつかずの成り行きの中に物事の本質があり、それをわかりやすく一つの偏った論理や理屈で説明しようとすると、確かに理解しやすくなるのだが、それを肯定すれば否定的な面が抜け落ちてしまい、否定すれば肯定的な面が抜け落ちて、どちらの面も取り上げてもどちらでもない面が抜け落ちて、理解するのと引き換えにして不十分な理解にとどまってしまうような焦ったい心境がもたらされてしまうのだが、それが帝国主義的な自由と不自由の混合物であり、民主化の実現という善意の押し売りと同時に、新自由主義とは名ばかりの帝国主義的な経済支配にも屈しなければならないから、稀な成功例を除いて大抵はふざけるな!となって、結果的には民主主義とは真逆の独裁体制が築かれてしまうのではないか。


1月5日「格差の要因」

 人が人に使われる理由として、人と人との間で地位や階級などに関して格差が生じていることが挙げられるが、人が使っているというよりは企業や政府などの各種団体が人を使っている形態であれば、団体などの集団と個人との間で格差が生じていることになるかというと、格差というよりは集団と個人とでは初めから力関係に差があり、対等の立場ではないから格差とは呼ばないだろうが、集団の中に組織的な構成があれば、そこで階級や地位などの上下関係が定められて、上位の者が下位の者を使う関係が生じているだろうし、一般的にはそうやって人と人との間に格差が生じるわけだが、集団から離れて社会の中で格差が生じているかとなると経済的な面で貧富の格差ということがすぐに問題となるが、地域間でも交通や通信や電力や上下水道などのインフラ整備の面でその普及状況に格差が生じている場合もあるだろうし、さらに地縁血縁などの面では民族や人種や宗教などに絡んで格差が生じている場合もあり、そういうことまで含めれば世の中で格差社会を構成する要因が様々にあることが窺い知れるだろうが、そこでも社会の中で誰を優遇したり優先させるかという選択が生じると、必ずそこから格差が生じてくるとしても、ならばすでにそこで生じている格差によって不利益を被っている人を優遇したり優先させればいいという理屈も生じてくるだろうが、それでは元から生じている格差をなくすことには至らず、根本的な解決にはならないばかりか、政府などの公的機関がそういった格差の是正策を行なっていること自体が不公平だという反発も起こってきて、さらにそこから問題がこじれてくることになるわけだが、だからといって格差を是正する措置をやめる理由にはならないし、政治的にも行政的にもできるのは根本的な問題の解決というよりは、その場しのぎの是正措置程度のことに過ぎないと考えるなら、それに関して累進課税などによって貧富の格差を是正しようとすることにも同じ理屈が働いていると言えるだろうが、政治や行政は現状で成り立っている社会の中で機能しているから、社会の秩序を構成する格差そのものを人為的に変えようとすると、その格差を利用することで社会の中で優位を保っている人や集団から反発や抵抗に遭って支持を失い、それが政治や行政を弱体化させて政情不安や社会の混乱を招くと、国家の衰亡をもたらす恐れもあり、だから政治も行政も社会の現状を維持するような保守的な傾向にならざるを得ないのだろうが、だからといって現状を維持するだけでは何も変わらず、もちろん結果的には現状を維持できないから社会が変わっていくわけだが、そういった変化が社会の中で不利な立場や地位に甘んじていないで、政治や行政に対して何かしら働きかけを行なっている人や団体の尽力によって変わっていくなら、その種の市民運動などを行なっている人たちの努力も報われることになるだろうが、そういった行為が利己的ではなく利他的な傾向が強く表れているところが、その一方で社会の中で主要な活動となっている経済活動においては利己的な傾向の方が強く表れていて、どちらかと言えば経済活動によって社会が成り立っているわけだから、経済活動から生じる利己的な傾向に引きずられる形で社会全体も利己的な傾向になりやすく、それに対応して政治や行政も社会の中で不利な立場や地位を強いられている弱者の味方を建前上は装いつつも、実質的には社会の中で有利な立場や地位を占めている強者の支持を背景として成り立っていれば、もちろん政府自体が社会の中では強者そのものの立場や地位を占有しているわけだが、弱者の味方を装う市民運動も世の中の主流を占める人や勢力を味方につけることができず、その努力や働きかけも限定的な程度に過ぎなくなってしまうわけだが、それでいいのかとは誰も思わないし、誰も思わないとしても実際にその程度に押しとどめられている実態があるのだろうが、その中でも様々な人や団体が自分たちの社会的な地位や立場を上げようとして機会を捉えて社会の様々な方面で働きかけを行なっているから、そこで俗な言い方をするなら階級闘争が起こっていると情勢を捉えておくのが無難なところだろうが、それも昔からある共産主義的な意味での労働者階級が資本家階級と闘争を繰り広げているような単純な解釈は成り立たないだろうし、もちろんそれのバリエーションとして民族間や人種間や宗教や宗派間や国家間で闘争が繰り広げられているという解釈も粗雑極まりないが、実際にそのつもりで闘争を行なっている人や団体もいるかも知れないが、何か対立や紛争が起こればすぐにそれと結びつけて解釈したくなり、実際にそんな気がしてしまうわけで、それも気のせいでは済まないことだとしても、実際に攻撃する口実としてその種の論理を持ち出してくるとわかりやすく、それに納得してしまえばそういうことにされてしまうわけで、もちろん攻撃に対する抗議の意思表示もそういう方向で人々に訴えかけてまとまろうとするだろうし、それが民衆の抗議活動として大規模になるほどそういった面が全面に押し出されてきて一過性の盛り上がりを見せるだろうが、そこから何が進展するわけでもなく相変わらず格差やそれに基づいた差別が厳然とあるから、それに絡んだ何らかの事件をきっかけにして繰り返し民衆の大規模な抗議活動が行われるのだろうが、もちろんそんな結果を見て何の進展もなかったと見るのは間違っていて、昔と比べて少しずつでも格差が解消されつつある面もあると同時に逆に格差が開きつつある面もあると見ておくのが妥当なところかも知れないが、そうやってそれらの度合いや強弱の程度が様々な方面へと移動し続けていると解釈しておいても構わないだろうが、なぜそうなるのかといえば、人や集団や場所や地域の間で生じている差異を利用して、それにかかわっている人や集団がそこから利益を得ようとするからであり、なぜそこに差異が生じるのかといえばそこで格差が生じているからで、それが地域間で生じている賃金格差であれば、賃金の安い地域で商品を生産して物価の高い地域で売れば利益が大きくなるという理屈になるわけで、さらに賃金の安い地域から労働者を連れてきて安く働かせるということも、可能であればやろうとするだろうし、そういう単純な論理であれば誰にもわかりやすいから、そういう面ではそうなるのが当然だと思われるにしても、そこに様々な物事が絡みついてこじれた様相を呈してくると、何か釈然としない経緯や事情からどう見ても理不尽なことが罷り通ってきて、理解するのが困難で不条理な事態となっているようにも思われるわけだが、それが具体的にどんな事態かというと民族や宗教や国家などに絡んだ紛争となってくるのだろうが、それに関して例えば少し前の時点では、日本の右派的な宗教勢力がアメリカのトランプ政権を支持してロシアのプーチン政権を擁護しながら中国や韓国と敵対するようなことを主張していたのを思い出すが、今や中国とロシアは同盟関係にあるし、今でもトランプを支持しているとしても、アメリカのバイデン政権は中国やロシアと対立していることは明白であるにもかかわらず、そういった主張や立場を変えていないとすれば何か辻褄が合わないようなことを主張しているように思われるのだが、当人たちの理屈からすればそれで構わないようなことなのかも知れず、そういう傾向の内容を主張することで、他の敵対しているつもりの勢力との間で立場の違いを際立たせることによって、そこから何らかの利益を得られるような関係が現状でも成り立っているから、今でもそういう主張を変えようとしないのかも知れないが、それが功利的な思惑からそんな主張をしているとは当人たちが自覚していない可能性もあるだろうし、宗教の教義の類いからくることであれば、功利的というよりは正義として自らの信念を貫くような感覚でいるから、それが自らが信じる宗教や神に尽くすという意味になれば、そういう面では利己的な行為であるよりも利他的な傾向の方が強く出るわけで、もちろんそういう傾向に凝り固まっている限りで、自分たちが所属する宗派としての利己性は考慮に入れていないわけだが、それもそういう人々と距離や立場が近ければ納得できたり遠ければ納得できなかったりすることになるにしても、自分たちにとって都合の良い人種的・民族的・宗教的・国家的アイデンティティーというものをいかにして選ぶかによって、恣意的に都合の良い立場や在り方を構築できればそれで構わないようなことにもなりかねず、それらの要素や要因がいい加減で中途半端にごっちゃになっていて、建前上は何でもありであるのと同時に、本音の部分ではどれもこれもがとりあえずの水準に留まっている日本であるからこそ、そういう主張も可能なのかも知れないが、もちろん現状のバイデン政権の公式的な立場や主張も多分にご都合主義的に構成されている代物には違いないが、そういう意味では特定の政府や宗教教団などが公式的に出している主張内容をそのまま額面通りに受け止める必要もないだろうし、実際にそれを真に受ける人も少ないだろうが、そこには様々な方面との間で調整を施された上で出される玉虫色の表現となるような配慮がされているのだろうが、それと同じようなことでもないが、ただ漠然と格差社会というイメージを抱いていることが、自身の活動の中で遭遇する個々の場面や局面で感じる具体的な他者との格差を認識できない原因となっているかも知れない。


1月4日「人余りの条件」

 ある一つの傾向に凝り固まって発せられる一方的な物言いには、その物言いの対象となっている物事や人や団体に対する疑念や違和感を示す時に覚える否定的な感情が含まれて、中には一方的に賞賛する場合もあるから否定的な感情だとは一概には言えない場合もあるにしても、言及する対象への批判となって現れると、当然のこととしてその良し悪しや善悪の判断が悪い場合が多いだろうが、それが一方的な物言いだから良いか悪いかのどちらかの判断が強く出るのも仕方のないところだが、それが状況に照らし合わせておかしいからといって、良し悪しや善悪の両面があるようなことを言うために両義的な物言いにすればいいというわけでもなく、目的を伴って何かを主張する場合には、それが批判する目的であれば批判の対象を悪く言うのも、成り行き上はそうなって当然だろうが、批判しているわけだからそこで実害や実益が生じていればなおのことそれが批判する理由として説得力を得られるはずだが、例えば利害や功罪が相半ばするようであれば、良い面も悪い面も両方あるようなことになって、一方的な物言いでは済まなくなってくるわけだが、悪く言うのが目的となれば良い面などを言説の中で取り上げることもないだろうし、悪く言うだけでは説得力が弱いと感じるなら、比較対象を用意して良い対象と悪い対象を比較するような物言いとなって、そうなると良い対象を褒めて悪い対象と貶すような立場を取る場合もよくあるだろうが、どちらにしてもそんな物言いになるとわかりやすい反面、物事を批判している自身の立場に都合良く合わせて単純化して解釈しているような印象も伴ってしまい、恣意的に物事の良し悪しを判断しているような疑念や違和感が湧いてくるにしても、それで構わないような主張というのもその程度の内容でしかなく、それを真に受けるなら真に受ける人もその程度の主張で満足しているような人でしかないにしても、それの何が悪いわけでもないだろうし、実際に何に言及しているかはその内容にもよるのは当然のことだが、少なくともわざわざ何かについて言及しているのだから、それが興味のないことだとは思えないし、そもそも興味も関心もなければ言及するわけがないし、批判したいとなればそれ相応にその人のなりの意見を持っているわけだろうが、その内容が何でもないことであるはずがないと受け止めておきたいわけだが、そうであるにもかかわらず、受け止めている自身にとっては何でもないことであれば、その人と自分との間で立場の違いがあるということになるだろうが、その立場の違いというのがどのような違いであるかもさして重要だとも思えなければ、そんなこともどうでもいいと思うしかなく、そうやってその人の意見や主張に無関心になっていることに気づく一方で、そこから少しずれたところに関心を抱いていることにも気づけば、そこで生じているらしく思われる微妙な差異に関して言及したくなり、そういったこだわりに何の意味があるかも今のところは不明だが、たぶんそこで勘が働いて誰かの意見や主張の中で述べられている良し悪しや善悪の判断を疑っているのだろうが、なぜ勘が働いてしまうのかといえば、その意見や主張の中で述べられている判断基準から外れる要素を思いつくからだが、それが何かというとそこからどんどん遠ざかって考えを巡らすようなことでもあり、それを歴史的に考えれば有史以前の古代にまで遡らなければならないが、勝手に想像を巡らして思うことだから確たる証拠があるわけでもないし、そんな説を信じるか信じないかもまだどうでもいいことかも知れないが、少なくとも狩猟採集生活をしていた頃の古代人は動物を狩るために主に武器を使用していたわけだが、もちろん捕らえた獲物を巡ってそれを横取りしようとする別の古代人との間で諍いが起こって戦闘もあっただろうし、場合によっては相手を殺して食べるようなことも行われていたのかも知れないが、それが農耕時代に入ると養える人口も飛躍的に増加しただろうし、狩猟採集よりは農耕の方が生活の主体となったわけだから、獲物を狩るために必要な槍や弓矢などの武器の使用頻度も相対的に下がってきたはずだが、逆にそれが人を殺すための武器として使われることが多くなってきたことが古代遺跡の発掘調査などから明らかとなって、古代の都市国家が近隣の都市国家と頻繁に戦争を繰り返していたことも文献や遺物などからも示されているはずだが、なぜそこで多くの人たちがそんなことをやっていたのかといえば、ただ単にそれをやる余裕があったということであり、狩猟採集生活によって食っていくだけで手一杯なら、多くの人々を使って都市国家を築く暇も他の都市国家と戦争をやる暇などないし、巨石を積み上げて巨大なモニュメントの類いを建てる暇もないわけで、それだけ農耕によって食う以外の活動を行えるだけの暇ができたということだが、もちろん農耕以前に集落が形成されたこともトルコの古代遺跡から明らかとなり、狩猟採集生活からも集落程度なら築くだけの余裕があったわけだが、それを都市と言ってしまうと現代的な感覚からはかなりの飛躍が伴うが、都市が築かれてからその古代都市の中で農耕や牧畜や工業や商業や宗教や国家などの文明的な活動が発明されたというのが、近年の考古学的な発見から明らかになってきた新説かも知れないが、それらの文明的な活動から何がもたらされるかというと、養える人数が増えて人口の増加がもたらされて人が余ってくるわけで、余った人が何に使われるかというともちろん文明的な活動に使われるわけだが、その活動の中でも考古学的な発掘調査でひときわ目を引くのが戦争の痕跡だろうし、実際に集団で虐殺された人骨が結構の割合で出てくるのだろうが、それが平和に農耕や牧畜をやっているだけなら戦争する必要もないように思われるわけだが、なぜ戦争を行わなければならないかということが、その理由として人が余っていることを挙げるのは何かおかしいような気がするだろうが、例えば乾燥地帯などで川や湖などから水を引いて灌漑農業などを行うと、繰り返して同じ土地を耕し続けると次第に土地の養分が失われて痩せ細ると共に、塩害なども出てくればその土地を放棄してよその土地へ移住することになって、移住した先の土地にはすでに先住民が農耕を行なっていればそこで戦争が起こるという成り行きが想像されるが、それ以外にも寒冷化や旱魃や蝗害などの気候変動などによってもそういう成り行きが想定されるが、少なくとも新たに未開の土地を開拓することも行われるだろうが、そうやってなぜ人が大規模な集団で移動せざるを得ないのかは、それ以前に狩猟採集生活などを行うために小規模な家族集団などでの移動とは次元の違う要因が介在していることは確かで、それだけ人が地球の表面で増殖したから耕せる土地をめぐって戦争が起こり続けたという理由が妥当なような気がするわけだが、そこからさらに大幅に時代が下って産業革命以降になれば、機械化や工業化によってさらに人口の増加が加速して、ヨーロッパでは食えなくなった人々が新大陸へと大量に移民するようになると共に、その間にも革命や騒乱やらの内戦と共に国外では植民地争奪戦も繰り広げられて、それらの戦争の集大成として二度の世界大戦が起こったわけで、そこでも戦争へと大量に動員できるだけの人口が確保されて、移民と共にそれだけ人が余っていたことになるのだろうが、それが現代でも人余りというか、食えなくなった人々が途上国から先進国へと大量に移民している実態があるわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、直接には内戦や気候変動などによって国土が荒廃してしまった事例もあるだろうが、それ以外のことで間接的というと何か違和感が伴うからそれも直接的な原因と見なしても差し支えないような気がするわけだが、ここ30年余り続いている情報技術の飛躍的な発展によって、そういうことに関連する分野から生み出される商品の価値が相対的に高くなる一方で、そういう分野と直接には関係の薄い分野から生み出される商品の価値が相対的に安くなると共に、一次産業などのそういう分野ではコストを削減しないと採算が合わなくなるから、当然のこととして機械化などによって人件費を減らされて、そういう分野では人余りが発生するわけで、そうやって余った人々に働き先があるかというと、情報技術に関連する分野でもそれほど人材の需要が生じなければ行き場を失った人々がどうなるかというと、食っていけなくなければ移民となってそこから出ていかなければならなくなるから、結果的に今後も移民が増え続けることが想定されるのかも知れないが、そこで重要となってくるのが食っていけなくなってしまった人々に対する人道的な配慮であり、人々の人権意識を高めることがそれらの人々を生かすことにつながればいいのだろうが、それも功利的な利害関心には勝てないだろうし、それが昔であれば戦争をやって人減らしをやれば良かったのだろうが、現代では戦争においても味方の人員にできるだけ被害が出ないようにするために、ロボット技術や無線誘導技術などが使われる傾向となってきて、そこでも民間人が誤爆などによって大量に死亡してしまうと、その国が民主的な体制であれば国内で批判や非難が沸き起こることになって、結局はなるべく人を殺さない配慮が戦争でも主流となってくるとすれば、ますます人余りの傾向が顕著になってくるのではないか。


1月3日「デジタル化と民主化」

 例えば中国が国家規模で理に適ったことをやろうとすることが、それが民主主義とはあまり関係がないことであるのは、誰もが知っていることだろうが、もちろん行政的な意味で理に適っているということが民意を無視することではないが、中国で行われているのは民主的な手続きを無視して行政を推し進めることになり、例えばウイグル自治区に不満があるなら経済発展させればいいということになって、最先端分野の産業を持ってきて地域を経済発展させれば民衆の不満も和らぐ、という理に適ったことをやろうとするわけだろうが、もちろん中国のことだから民主化はやらないし、逆にデジタル技術を用いて監視や管理も強化して、それが民衆に勝手なことはやらせないという意思表示となり、そういう意味ではそこにデジタル化と民主化とが反比例するような相関関係がありそうだが、デジタル化によって行政による民衆への監視や管理を迅速かつ効率的に行うのは行政の性質上当然の成り行きだろうが、その一方で政治の面での民主的な手続きもやろうと思えばデジタル化できないわけではなく、選挙でもわざわざ投票所を設置して投票に行かずにネット上に投票サイトを設けて、そこに有権者がアクセスして投票させれば、コストが大幅に削減できるだろうが、もちろんそれによって選挙を管理する側の不正操作もやりやすくなり、投票結果の改ざんなど政府の思うがままにできるようになってしまうかも知れないが、結局そんな不正行為などをやる意味や価値がなくなるように政治的な行為を変質させない限りは、従来通りに投票所に行って紙の投票用紙に記入するようなアナログ的なやり方を続けざるを得ないのかも知れないが、そうであっても日本のやり方がすぐに消しゴムで消せるような鉛筆でわざわざ名前を記入させることが不正への疑念を抱かせるのだが、デジタル化というと一見物事を迅速かつ効率的に行うように思われるやり方が、それとは別の方面ではポイントだのクーポンだのスマホでの操作だのと面倒でややこしいことをやらせようとする口実を招く例を見るまでもなく、デジタル化を実現する上で欠かせない通信網などのインフラの整備や端末機器やその中で動作させるシステムやアプリなどの開発に莫大なコストがかかることが、トータルで見れば迅速でも効率的でもないのかも知れず、それは例えば電気モーター車の普及に充電設備や蓄電池の生産などの面で莫大なインフラ投資が必要なのと同じようなことかも知れないが、だからと言って現状で進んでいるデジタル化の流れを押しとどめることはできそうもないし、もちろんそういったデジタル技術も太陽表面で大規模なフレアの爆発が起こってそれが磁気嵐となって地球を襲えばいっぺんに崩壊してしまうようなことかも知れないが、デジタル化によって従来からある政治的な方面での民主主義の制度や仕組みが形骸化や空洞化を被っているかというと、実際に日本で政治的な無関心が蔓延していることがデジタル化の推進に伴ってそうなっているとは思われないし、ただ単に従来からあるアナログ的な書面でのやり取りなどを伴った窓口業務などをデジタル化してできるだけ省略したり簡略化したいということであり、それと政治的な形骸化や空洞化とは別次元で起こっていることだと認識しておく方が妥当に思われるだろうが、それがそのことが原因で起こる因果関係ではなくそれに伴って変化する相関関係という面では連動しているようなことかも知れず、印象としては投票用紙に書き込むような古いやり方に依存して行われていて、今のところはデジタル化していない立ち遅れた制度となっているが、それは手続き上の問題であり、内容が伴っていれば問題ないような気もするだろうが、逆にデジタル化というのが手続き上の問題でしかなく、世の中で行われている様々な事務手続きを迅速かつ効率化するだけであれば、それらは全て形式的なことに過ぎず、実質的な内容に関しては全く影響を被らないのかというと、それ自体はそうかも知れないが、それに伴って何らかの副作用が出てきて、それが幻想を抱かせるようなことだとすれば、それも大したことではないようにも思われるが、大したことではなくてもそこからちょっとした差異が生じてきて、それによってやっていることが進歩したり進化したかのように実感させられるのだろうが、それとは裏腹に実質的な内容が伴っていなければ、それによって実感したつもりの進歩や進化も幻想に過ぎず、確かに半導体技術の進歩や進化によって産業のデジタル化が進展して、機械の力学的な動作が電子的な動作に置き換えられて、それに伴って何事も迅速かつ効率的な動作が実現したわけだが、そこまでは18世紀に始まった産業革命の延長上で起こっていることなのだろうが、そこから先で錯覚のような幻想が生じていて、肝心の人の感覚や能力などが進歩したり進化したのかというと、別に漫画などで起こるような超能力が使えるようになったわけでもないし、もちろんスポーツやゲームなどの面では昔とは比べ物にならないほど戦術面での進歩や進化があり、また電子技術やデジタル技術の恩恵に与っている方面でも従来の技術では味わえないような感覚を得るに至ったわけだろうが、その反面でそれが人の精神面の進歩や進化には全く結びつかないばかりが、逆に憎悪や嫌悪の感情を煽り立てたり、それらの悪い面を増幅させるのにデジタル技術が関与している面もあるだろうし、社会の進歩や進化の傾向としての理想像は、戦争ではなく平和へと向かうことが一般的には求められているはずだが、実態としてもそうではないことがここ30年余りのデジタル技術の進歩や進化と共に歩んできた世界情勢にもあるわけで、そこでデジタル化の進展と世界情勢の悪化が相関関係にあるといえるかも知れないが、デジタル技術がそもそも0か1かがオンオフのどちらか一方の信号を送ることであるから、もちろんそれらを複雑に組み合わせて微妙な表現も可能だが、比喩としてやるかやられるかの攻撃的な傾向があり、それが殺伐とした世界情勢を連想させると共に経済的な貧富の格差の極端化などとも連動しているようにも思われるし、そういう意味でのネガティヴな印象を挙げればきりがないかも知れないが、それが政治の民主化にどのような作用をもたらしているかというと、人の意識を急かすような作用として何事も迅速かつ効率的に処理しようとする気を起こさせるようなら、反対派や抵抗勢力に対してまだるっこしい交渉や取引を持ちかけることなどせずに、急襲して殲滅してしまえば手間が省ける程度の気を起こさせるような成り行きを想像してしまうが、実際にそうなるかというと、米軍が武装勢力の殲滅に使っている無人爆撃機などがその代表格で、それがデジタル技術を使って作られていることも確かだが、中国政府なども香港の民主派に対しては有無を言わさずに逮捕するような徹底弾圧を実行しているし、コロナ対策としても人権を無視した都市のロックダウンを多用しているし、今後台湾に武力侵攻するようなことになれば、そういう傾向が顕著になってくるわけだが、ウイグル人に対する大規模な強制収用もそうだが、そういうことが結果的に攻撃の対象となる人や集団の人権を無視して行われることも確かだとしても、それに対して民主化というのは基本的には人権の尊重から成り立っているわけで、憲法にも記されている国民の主権を認めることが民主化の主旨なのだろうが、なぜわざわざ憲法に記す必要があるかというと、政府が非常事態宣言などの強権を発動して民衆の人権を容易に無視することができるから、それの歯止めとして憲法に主権が国民にあることを明記しなければならないわけだろうが、もちろん憲法などただの文章に過ぎないから政府が本気になれば簡単に破ることもできるだろうが、デジタル化の促進によって簡単にそれが破られるようなシステムになりやすく、途中の面倒で煩わしい民主的な政治手続きなどは吹っ飛ばして、迅速かつ効率的に事態に対処するには、よりスピーディーに事を進めるためのシステム構築が欠かせないと考えるなら、やはり行政手続きのデジタル化が欠かせないだろうが、そうだとしても実際に何をやるのかといっても、世の中が平和である限りは、ただ単に事務手続きの迅速化や効率化となってしまい、それ自体は政治とは無関係だが、デジタル化を推進しようとする勢力としては無理矢理にでも政治に絡めて何か目に見える成果を出そうとしているかも知れないが、そういう意味では政治の民主化を推進したいなら、そういった方面のデジタル化は事務手続きの迅速化や効率化に限定して、実践的な面では良く言えば粘り強い交渉という悪く言えば焦ったくなるような遅々として進まない循環的な話し合いを続けることを否定するわけにはいかないだろうが、もちろん議会などでの交渉術としてはそうであってはならない面もあるだろうし、話し合いが実りある内容でまとまるように尽力しなければならず、それが有無を言わせぬ強権発動によって採決をゴリ押しされるようなことであってはならないわけだから、こうすればうまく行くという答えなどないのかも知れないが、結局はできる限りで民主的な話し合いを伴った手続きを尊重しなければならないわけだ。


1月2日「恒例行事の意味」

 その場で起こっている成り行きに逆らわないことが、その時点では何を意味するかはわからないとしても、後から思いがけない意味が明らかになることもないだろうが、大晦日の夜に繁華街の交差点付近に群がっている群衆が、もうしばらく後にやってくる新年を祝福するために集まっていて、実際にそこからしばらく時が経って時刻が新しい年になったところで騒ぎが最高潮に達して、それからさらにしばらく時が経ってからそんな光景を映し出す映像を見ながら自身が何を思っていたのか思い出せないが、その場で起こっている空騒ぎのような成り行きに身をまかせている群衆が、そこでやっていることが無意味であるかどうかなんて気にするわけがないし、そこに隠された意味があると意味深なことを仄めかすつもりもなく、そんなどうでも良さそうなことの意味などわからなくても一向に構わないが、毎年の恒例行事のようにしてそこに集まって騒いでいる群衆がいるということであり、それが何を意味するわけでもなくてもそんなことが行われる限りで、そこへと多くの人々が引き寄せられてその恒例行事に参加すれば気分が昂揚するし、それが祭り気分というやつかも知れないが、祭り気分に浮かれて何を思うかは思う人の勝手であるにしても、何も思わなくてもその場の流れに乗って騒いでいれば群衆の中にいることから覚える一体感によって気分が昂揚して、そういう気分になりたくて多くの人がそこへと集まってくるのだとしても、それが詳しい説明を要するような現象とも思えないが、そういう現象が社会的な慣習となって定期的に行われるようになれば、そんなことが行われることに何か意味があるのではないかとお節介な思考を巡らすのも意味不明だが、行為や行動の当事者としての群衆は意味を求めているではなく一体感や高揚感を求めているとしても、その場だけがその人たちのやっていることの全てではないのも分かりきったことであり、そんなことはその場に居合わせた誰もが承知していて、人生の全てを賭けてその場に集まったわけでもなく、ほんのひと時の物見遊山の気晴らしとして何かのついでにやってきた程度のことであれば、それが何のついでかといっても初詣か買い物か、その程度のことに過ぎないのも分かりきったことかも知れないが、そういうことも含めてその場で起こっている何でもないような成り行きに従いながら行動していれば、それ以外の何を改めて考えるまでもなく、その場の成り行きに逆らうことなど誰の眼中にもないだろうし、逆らいようのない成り行きに身をまかせていることさえ意識することもなく、その程度の成り行きに逆らうことが何を意味するとかいう考えに至るわけもなく、そんな光景を眺めながらそういう成り行きに逆らうことの意義などを見つけ出そうとすること自体が愚かしい妄想に行き着くだけかも知れないが、そんなどうでもいいことに注目している場合ではないといっても、では他の何に注目しなければならないかという目的意識に至ろうとしているわけでもなければ、それと同時並行して進行中の別の成り行きに注目すべきというよりは、それとは何か違う物事に気を取られているうちに大変なことになっているという類いの脅し文句に気を取られる必要もなければ、大変でも何でもない別の成り行きにも身をまかせていることに気づいていないのかも知れないが、気づかなくても困らないような成り行きであればそんなことを気にする必要もないわけだが、逆に誰も困らないことが油断をもたらして、その油断から心身を害するようなことが起これば、それは防ぎようのないことかも知れず、実際にもその種の人の油断を突いた病原ウイルスの攻撃によって世界中が大変なことになっていると見ておけば、逆らいようのない成り行きに身をまかせることの危険性に気づいていることになるかも知れないが、それを逆らいようのないことだと意識できれば、実際にそのことの意味もわかっていて、そうなるとどうなるかがわかっているから、逆らいようのない成り行きに逆らう方法を思いつこうとしているのかも知れないが、思いつく以前にすでに何でもないような成り行きに心身を絡め取られていることも自覚していて、その自覚が危機感を募らせるのかも知れず、しかもその危機感が他の多くの何でもないような人々にも伝わっているかというと、そうでもないように思われるからより一層危機感だけなく焦燥感なども募ってくるのかも知れないが、さらにそれが口先だけはやる気満々な態度を装いながらも今のところは実態が全く伴わない空疎な雰囲気を漂わせているどこかの国の首相などにも通じるものがあり、何でもないのに何かあるような雰囲気を纏わせようとするやり方が世の中に蔓延しているように思われることが、それに伴って生じる行為や行動の無意味さを明かしているようにも思われて、何か薄気味悪い空気が社会全体を覆っているような感覚に囚われているのかも知れないが、そんな世の中の雰囲気に便乗して間近に迫った社会の崩壊を予言しまくる識者風の老人も少なからずいて、そういう人は昔からいくらでも絶え間なく出現してきたようにも思われて、逆にそれが安心材料でもあり、そういう人を痴呆老人呼ばわりして嘲笑の対象とする風潮も少なからずあるだろうが、何かが間近に迫っているとしてもそれほど分かりやすくはっきりした出来事に直面するわけでもないのかも知れず、大方の予想を覆すような大どんでん返しのような出来事などは期待できず、それが意表をついていることさえ意識できないような外し方で何が起こるわけでもなく、むしろ何も起こらないまま時が経過しているにもかかわらず、そこからしばらく経ってから忘れた頃に誰かがそれを指摘しても無視されて、何事もなかったかのように装われているのだろうが、何か変なことは誰もが薄々勘づいているのに、それを誰も言い出せないままに歳月がさらに経過して、それを自覚なく経験した人々が大方死に絶えたあたりで、やっと何かがその時期に起こったことを世間が渋々認めざるを得なくなるようなら、その時期の変化を多くの人々がうまくやり過ごしたことになるだろうが、それがすでに現在進行形で起こりつつあることでもあり、多くの人々がそれを自覚しないように心がけているわけでもないが、後から思えば結果的に後世の時代に生きている人々にとっては手に取るように一目瞭然の成り行きのように認識されるかも知れないが、少なくとも今の時代に生きている人々の活動がそれをもたらしているのであり、自らが自らを裏切るようなことをやっていながらそれに気づかないのはある意味で当然なのかも知れないが、それと自覚しないで装っている仮装の姿が何を肯定したり正当化しているのかといえば、何でもないような慣習的な物事の成り行きに従いながら生きていることであり、それに逆らおうともせずに逆らえない自分たちが惨めだとは思えないし、実際にそれなりにうまく立ち回っている気でいれば惨めさなど微塵も感じられないはずだが、そんな状態の何が悪いとも良いとも思えないとしても、実際にもそれを肯定したり正当化しているわけでもなく、ただその場で日々起こりつつある物事の成り行きに逆らえずに、そうかといって従うつもりもないのに従いながら暮らしていれば何とかなる程度のことに関しては、何を思うまでもなく、その程度のことにいちいち気を遣ってしまうと身が持たない程度のことでもあり、それよりも重要な何かに気づくべきというわけでもないにしても、何か気づくべき重要なことがあるわけでもないことが、世の中の何でもなさを感じさせて、自分たちの活動によって何でもないような世の中がもたらされていることを自覚できないことが、ある意味でそれが深刻で致命的な誤謬なのかも知れないが、実際に何でもないわけだからそういう意味では深刻でも致命的でも誤謬でもないわけで、そんな気にさせるのが毎日が恒例行事のような感覚なのかも知れず、実際に毎日が恒例行事化されていれば、後は黙って恒例行事化された行為や行動をこなして行けば退屈な日々もやり過ごせるわけで、それも実際には世の中の所々で破綻が起こって、その破綻に巻き込まれて気が狂うようにして何でもないような人々の突発的な暴走や暴発が起こる度に小波乱のような事件や事故も繰り返されるわけだが、それのどれもこれもが似たような事情や経緯を背景とした殺傷沙汰や詐欺事件や一家心中のようなことでしかないのだろうが、それ自体も恒例行事化しているとも言えるだろうが、果たしてそれらが恒例行事となっている事態をどうにかして変える必要があるかというと、現状の安定を維持しようとしているつもりの人や団体がそれを危機的な状況とは認識しているはずもないから、口先ではそれ相応の表現を使って誠心誠意な対応を装っているが、実態としておざなりな対応に終始しているように見えても、そういう成り行きも恒例行事化しているわけだからそれを見ている何でもない人々が何を思うはずもなく、実際に被害者や加害者となってひどい目に遭わない限りは何ともないわけで、それらはつまらないテレビドラマに続いてニュースで伝えられる他人事でしかなく、当事者が著名人であれば被害者であれば同情を加害者であれば非難を強要するような風潮になるだろうが、それも恒例行事化されていることの延長上で起こることだから、相変わらず何でもないことに含まれるわけだ。


1月1日「浅さと浅はかさ」

 思慮が浅いことに満足できるなら都合よく状況を理解しておくに越したことはないが、普通は思慮の浅い人が自身の思慮の浅さに気づくこともないだろうが、戦略として思慮の浅さに留まるようにしているなら、物事を深く考えることの欠点も理解しているから、わざと思慮が浅いように装っているのかも知れないが、ではなぜ物事を深く考えるのがまずいのかといえば、深く考えたところでその深さが比喩として何を意味しているのかがわからなければ、考えるだけ無駄なのかも知れず、深さと浅さの両面にわたって思考を巡らす必要を理解していれば、無駄に考えることの良し悪しなどとは別に、深く考えるのではなく、回りくどく面倒なことを厭わずに広範囲に思考を巡らした方が、思考の傾向としては物事の多面的な理解につながるだろうし、一つの傾向について集中的に深く掘り下げようとすると、周囲のことに気づきにくくなるかも知れず、それも必要に応じてその場の成り行きに従うように深く考えたり浅く考えたりすることの塩梅を掴めるかも知れず、一概にそう考えることの良し悪しなど言えないだろうが、一人で考えるのではなく役割分担して複数で連携して考えるようなことも可能性としてはありだが、普通は一人で孤独に考えることの方が大半であるから、物事を深く考えようとしてしまい、深さの罠にはまって、いくら考えても思うような結論など出てこないと、ただ無駄に考えていることになってしまうのだろうが、考えることだけ云々してみても何がどうなるわけでもなく、何についてどう考えるかが重要となってくるにしても、相変わらず考える対象がないと考えられず、考えるという目的で考えるわけでもなく、それが行為や行動の助けとなるように考えられるならいいと思うしかないが、では実践としての行為や行動につながらなければ考えるだけ無駄なのかというと、暇つぶしにはなったという意味では結果的には暇つぶし程度の役に立ったことになるだろうが、それも暇つぶしなどしている場合でなければ考えるだけ無駄なわけだが、どんな状況になってもゆとりがあれば都合のいいように受け取って、いくら考えても何の結論も出てこなくても暇つぶしになったと思えばいいわけで、そう思うことが思慮の浅さを感じさせるならそういうことでしかなく、それでは駄目だと思う必要も感じなければそういう状態に留まっていればよく、無理にそんなことではどうにもならないと反省する必要もないだろうが、そうやって自身が停滞した状況のただ中にとどまっていると感じられても、ゆとりがあればそのまま自然に状況が動き出すのを待っていればよく、実際に状況が動き出してから、動き出した状況に対応すべく思考を巡らしてそれが行為や行動に結びつけばいいのだろうが、そんな悠長なことをやっていられなければ、自身が積極的に動いて停滞した状況を打開しようとするしかないが、それも考える以前に行為や行動が先行していれば、その行為や行動の合間に、あるいはそれと共に考えながら行為の助けとなればいいのだろうが、そんなことは今さら考えるまでもなく実践していることであるにしても、そこでも考えることの浅さの領域にとどまることが、深みや泥沼にはまるのを回避するには必要だとしても、深みや泥沼という比喩表現が何を意味するかが考える対象が何なのかを特定しないとわからないわけではなく、はじめから考える程度や度合いとして一般的に考えが浅いと悪い意味で浅はかであり、深く念入りに思考することが良いことであるような印象を伴っていて、そうであるのになぜ考えることの浅さの領域にとどまることに固執するのかが謎に思われるのだが、それに関して思考を物事の表層にとどまらせることがどういうことなのかをうまく説明できていないのかも知れず、それとは違って一方的に凝り固まることが何か硬直した思考形態であるように感じられるのが、表現として何かに偏向することの弊害として理解できるなら、その反対の表現としてより柔軟な思考を心がけるようにしたいところだが、果たしてそれでいいのかと問う必要もなさそうに感じられるところで、さらにそこから一歩踏み込む必要もないところで一歩踏み込んでそれを言い表すとすれば、あまり深く考えずに浅い思考にとどめておくと言えるかどうかは微妙なところだが、たぶんそういうことを言いたいのであり、これ以上踏み込んで後戻りができなくなる手前で引き返す余裕をもって思考できれば、思考の深みや泥沼にはまるのを回避できると言いたいわけだが、具体的にそれがどんなことなのかが理解できるような事例があればわかりやすいのだろうが、それを示せなければ仮説や妄想の段階にとどまりそうだが、浅さの領域でならそれで構わないのかも知れず、大して説得力を必要とせずにいい加減に粗雑なことを述べているように思われても構わないのであり、それでも何とかなっているように取り繕いたいのだろうが、その辺が微妙なさじ加減でだとしても、はっきりした答えが出ることを期待すると、それが裏切られてしまうことにもなるから、言っていることが信用されなくても気にしないようにも装いたいわけだが、なぜそうしなければならないのかというのもそもそも愚問であり、それとは違って世間的にありふれた浅はかさとは、例えば成功した企業経営者の言っていること真に受ける浅はかさというのもあるだろうし、成功した企業経営者の言っていることを真に受ける一般人というのが、成功した企業経営者にはなり得ないという事実を思いつかない愚かさを避けるには、成功した企業経営者が成功すれば、自分が成功した秘訣は宮本武蔵の五輪書や孫子の兵法にあるとか自慢話をし始めると、たちまち成功した企業経営者の浅はかさが露見してしまうのと同じことではないが、それほど成功していなくても生きている事実を直視した方がいいとしても、そもそも宮本武蔵は剣術の修行や決闘をやっているうちに時代に乗り遅れた失敗者であり、孫子も実在したかどうか定かでなく、著したとされる兵法書が広く世間で読まれているにしても、それを読んで兵法書の内容を実践で活かして成功したと自慢する企業経営者がいるとしても、世の中で広く読まれているのだから、それを活かせずに失敗した人もいくらでもいるだろうし、読んでも活かしようのない立場や境遇の人もいるだろうから、成功したければ孫子の兵法を読めと勧めることはできるとしても、これを読めと勧める人が実際にどれほど成功しているのかを見れば、自ずから昔の兵法書を読んだぐらいで成功できるような世の中ではないことを実感できるだろうし、その種の浅はかな成功者の成功体験が参考になるとか言ってみても、成功した時の状況が個々の事例で違うわけだから同じように成功したわけでもなく、結局は競合する多数の事業者の中からその場の成り行きに乗じてわずかな成功者が現れることになるだろうが、その成功者の成功体験が著作などによって世の中に広まって評判になるようなら、それもその種の成功体験を著した多数の書物の中からごくわずかな成功例としてベストセラーとなる著作が現れるわけで、そうなっている時点でベストセラーとなった著作を読んでそれを活用して成功した人もそれなりに出てくるかも知れないが、ベストセラーであるだけにそれを読んだからと言って何百万人もの成功者が現れることなど実際にも理屈としてもあり得ないだろうし、ごくわずかな人が成功するから成功者と言えるわけで、宮本武蔵の五輪書を読んで剣術の達人になった人が数百万人も出てくるようならそれでは達人とは言えないし、達人とはごくまれにしか出てこないから達人なのであり、また現代において孫子の兵法を活かして戦争する人が何百万人も出てくるはずがないし、そういう不可逆的な傾向など誰もが承知しているはずだが、では実際にはどうなっているのかといえば、成功者の自慢話に五輪書や兵法書が使われると考えておくのが妥当なところだろうし、間違ってもそれらを実践で活かして成功しようなどと思うなとは言わないし、活かすなら活かしてみろとも言わないが、活かそうとする人の中からごくわずかに成功者が出てくるとしても、そんな書物など読まなくても成功する人も出てくるだろうし、成功者の自慢話の中でそれらの書物が語られることもあるわけだが、思考の浅さの領域にとどまるなら、そんなことを批判する筋合いにもなれないし、皮肉を込めて嘲笑するつもりにもなれないが、そこにそれとは違う物事の本質があるなどと考える必要もなく、成功者の自慢話という本業とは関係のない枝葉末節なエピソードを真に受ける必要性がそもそも薄いのではないかと思っておけばいいにしても、それが興味深い話なら気休めとして参考になる程度の受け止め方でも構わないし、そういう物事の本質とは関係のないエピソードの集合体として娯楽としてのエンターテイメントがあると言っても構わないが、だからと言ってそれを軽んじても構わないとは思わない方がいいのかも知れず、そういうことしかメディアを通して伝わってこないかというとそうでもないとしても、一見何でもないことが重要であるわけでもないが、たとえ重要でなくてもそれと軽く浅く接していれば、そこからわかってくることや、わかっていたと思っていたことがわからなくなって疑問に思われてくることなどが自然に出てくるわけだ。


2021年

12月31日「必要な人間と不要な人間」

 社会にとって不要な人間などいくらでもいて、逆に必要な人間の方が少ないかも知れないが、なぜそう思うかというと、実際に自身にとって邪魔な人や目障りな人などいくらでもいるからだろうが、その人がそう思っていても、その人が邪魔だとか目障りだと思っている人にとっては、逆にその人の方が邪魔で目障りだと思われている可能性もあるだろうし、確かにその人が必要とする人間よりは必要としない人間の方が圧倒的に多いし、逆にその人とは無関係な人にとってはその人が必要であるわけでもなく、そんなことは他のほとんどの人にも当てはまり、そういうことから推察されるのは社会とはほとんど不要な人たちの集まりであり、その人が必要とする範囲内は社会のほんの一部に限られているわけだが、その人にとってはそうかも知れないが社会にとってはどうかといえば、社会には必要だとか不要だとかの概念は当てはまらず、人が集まって暮らしていればそこに社会が生じているということであり、必要か不要かは常に誰にとってあるいはどのような集団にとって必要か不要かの判断が生じるのであり、社会そのものは特定の集団の集まりではなく様々な個人や集団の集まりが社会を構成していると考えれば、社会は必要か不要かとは別の水準で成り立っている構成物だと言えるだろうが、では社会の全ての構成員にとって不要な人間が果たして社会の中にいるかというと、いるかも知れないし、いると仮定して、では不要な人間には社会の中で何もやることがないかというと、何もしないで生きていくのは難しいことかも知れないが、生きているだけで何もしていないわけではないのは分かりきったことで、そこにいるだけですでに何かしているわけで、死んでいない限りは何かしているはずだが、普通はそういう水準ではなく、働いているとか仕事をしているとか、あるいは遊んでいるとか、活動に社会的な内容を伴っている限りで何かしていることだと見なしたいのかも知れないが、その活動の内容に良し悪しがあるかとなると、どんな活動が良くてどんな活動が悪いのかの判断基準を決めなければならなくなるが、その場の成り行きから否応なく活動を強いられてしまうと、悪い活動だと見なされるようなことでも選択の余地なくやらざるを得なくなり、例えば放火によって多数の犠牲者を出すようなことでも、やるのを思いとどまる余地がなかったのかというと、やってしまった後から振り返っても手遅れで、取り返しのつかないことをやってしまってから後悔しても仕方ないが、そういう極端なことは通常の心理状態ではまずやらないだろうが、通常ではない心理状態の時には事の善悪の判断などつかないものだろうし、社会の一般常識や法律に照らし合わせてやって良いか悪いかの判断がつくようなら、あまり警察沙汰や消防沙汰や裁判沙汰になるような面倒なことはやりたくないはずだが、やはり精神的に追い込まれて衝動的にやってしまう限りで善悪の判断などつかないし、また違法行為だと知りながら倫理的にも人道的にもやってはいけないことだと自覚しながらも、覚悟の上でやる場合もあるだろうから、そういった方面では事前に様々な事情や経緯が絡んでくるにしても、そうなることをかろうじて免れて今に至っているようなら運が良い方かも知れないが、事の良し悪しの判断よりも優先させなければならないことがあるとすれば、ある意味でそれはその場の成り行きに従うか逆らうかの選択になるかも知れないが、それがどんな意味なのかというと、そこで自らの在り方をどう取り繕うかということよりは、自らに何らかの意志が生じているのをどう受け止めるかに関して、それと自らの活動とどう整合性をつけるかにもよるだろうが、その場の成り行きが自らの意志や意向と同じ方向であるなら、それでいいのかと疑問を抱いてしまうようだと、何か引っかかるものを感じているのかも知れず、まずは騙されているのではないかと疑ってしまうようなら、その場の成り行きに逆らいたいのであり、果たしてそれが自らの意志なのか、あるいは逆らうように仕向けられているのかは、どちらとも言えるところかも知れないが、どちらであっても構わないわけではないが、その場の成り行きに従うのも逆らうのも、その場の成り行きに囚われている証拠であり、ではその場の成り行きから逃れることができるかというと、果たして逃れようとすることが成り行きに逆らうことになるのかといっても、従うことや逆らうことがその場の成り行き介入することであるなら、逃れることは介入せずにその場から逃げることだと捉えるなら、逃れることと逆らうことは違ってくるだろうが、それがその場の成り行きとは違う別の成り行きに身をまかせることになれば、意味合いが少し違ってくるかも知れず、その場の成り行きに従ったり逆らったりしないようにすることが、自らの意志として意識されるようなら、自らの意志や意向がその場の成り行きとは方向性が異なることになり、しかもその場の成り行きを理解した上でそうなるなら、その場を通り過ぎようとしているのかも知れず、その場の成り行きに関わることを避けていると言えるだろうが、なぜそうなってしまうのかといえば、やはり自らの活動がそれとは別の方面で行われることを自覚していて、だからその場には関与せずに通り過ぎようとしているのかも知れないが、果たして何もせずに通り過ぎることができるかいうと、そうもいかなくなることの方が多いのかも知れず、こちらが関わりたくなくても向こうから関わってこようとしてくれば、それを振り切って逃げきれる自信があるかというと、結果的に関わってしまえば逃げきれなかったことになるだろうし、そうやって関わりが生じてしまえば関わりがある限りで何かしら必要があるから関わりが生じていることになるだろうが、逆にそういう関わりへの勧誘や誘惑を振り切って逃げきれてしまえば、その人は真の意味で不要な人間になってしまうのかも知れず、そうであるなら不要な人間になることは必要な人間になるよりも難しいかも知れないが、それに関して功利的な思惑からすれば、できるだけコストをかけずに経済的な損得勘定がつく範囲内であれば、不要な人間を必要な人間へと作り変えたいだろうし、もちろんそういう意味での必要な人間とは有用な人間になるだろうが、何に関して必要で有用な人間になるかは、経済的な思惑からすれば利益を出すために必要かつ有用な人間になるだろうし、それも従来からある基準から判断するなら、労働者として使える人間が必要かつ有用な人間になるはずだが、もちろん専門的には技術者として使えたり管理職や役員として使えたりすることも含まれるだろうが、誰がそれを使うのかといえば形式的には企業経営者が使うことになるが、企業経営者を誰が使うのかといえば、それも形式的には企業のオーナーや株主などが使うことになっているはずだが、実質的にはどうかといえば、使われる立場の人間が使われているのは企業そのものであって特定の誰かというわけではなく、そうなってくると企業が法人と見なされる理屈もわかってくるだろうが、そういうことの延長上に国家にとって必要な人間とは何かとか社会にとって必要な人間とは何かという論理が形成されてくるのだろうが、さらにそこから企業にとって国家にとって社会にとって不要な人間が定義される可能性も出てくれば、それの極端な事例がナチスドイツによるホロコーストになってくるわけだが、それほどまでにあからさまになっていないにしても、現代においては中国政府によってウイグル人を国家にとって必要な人間に作り変えるプロジェクトが発動していたり、北朝鮮やロシアなどにも政治犯を監禁したり強制労働を課す強制収用施設があったりするわけだが、一般的にいって刑務所の類いも表向きには社会にとって有害な人間を無害化するための施設であり、精神病患者や痴呆老人を社会から隔離する施設もあるだろうし、そういった措置を施しながら、社会にとって有害であったり不要な人間を社会から除去しようとしているのだろうが、果たしてそういった措置が有効に機能しているかというと、何に対して機能しているのかといえば社会に対して有効に機能させようとしてそういった措置が施されるわけだが、建前上はそうであっても実質的にはそういう監禁施設を稼働させるためにそこに監禁しておくための人材が必要となってくるというバラドックスも生じてくるから、それがどんな施設であっても両義的に解釈しておくことが肝要だろうが、そういうことをやる趣旨というのが、結局のところ社会自体を人間にとって有効に機能させるという目的にも収斂してきて、そうなると人間とはどの人間を指すのかということにもなってしまうと、社会にとって必要な人間と不要な人間をどう区別するのかということにもなりかねず、それについてどう考えてもはっきりとした答えなど出てこない問題設定となっていて、言語的に自己言及パラドックスに導かれるような構造となっているのかも知れないが、普段はそんなことまで考えが及ばない手前で思考を打ち切って、ただ単に邪魔者や目障りな者を社会から遠ざけておく目的でそういった施設が利用されているわけで、そういう意味では物事を深く考えてはいけない領域が社会の至るところに横たわっているわけだ。


12月30日「説明の必要性と理屈の必然性」

 何か理屈とは思えないような理屈があるとしたら、普通に考えてそれは理屈ではないかも知れないが、理屈でなければ何なのかというと、あり得ない理屈を捏造してみようと思い立って、あり得ない理屈とは何なのかと考えてみても、何か思い当たることがあるわけでもなければ、結局考えるようなことではなく、改めてそんなことを考えなくても、何か適当な対象に関して説明し始めれば、自然とそれに関する理屈を用いて説明せざるを得なくなり、説明そのものが理屈から構成されていることに気づくのだろうが、改めて説明とは何なのかと考えるなら、説明する対象に関して語ることだとしておけば納得できるかというと、それでは説明になっていないような気がするなら、語るだけではなく説明することだと言うしかないが、だから説明とは何なのかと問うなら、説明は説明でしかなく、説明以外の何ものでもなさそうで、それ以上の説明は不可能に思われてくるなら、果たしてそれで説明になっているのかというと、何かを説明していることは確かだが、言葉が循環しているだけで相変わらず説明にはなっていないし、不完全な説明に終始しているように思われて、説明し切れておらず、しかも肝心なことを説明していないような気がするし、説明の核心部分が抜け落ちているようにも思われるなら、何が抜け落ちているかといえば、それに関する理屈が抜け落ちていて、理屈については何も語っておらず、理屈のない説明は説明ではないということになるのかも知れず、説明には理屈が必要に思われるわけだが、理屈より先に説明の対象を決めなければならず、何を説明したいのかといえば、特になければ説明しようがなく、何も説明しないなら理屈についても語る必要もなく、それだけでは説明にも理屈にもならないのはわかりきっているが、具体的な何かについて語らなければ説明にならないわけだが、何かとは何なのかというまでもなく、すでに何かについて語っているはずで、例えば物語の構造分析においてどんな理屈が現れるかとなると、それが冒険の旅である必要はないが、とりあえず誰かが冒険の旅に出ると、他の誰かに出会わなければ物語そのものが成り立たないように思われるなら、主人公と出会う他者が必要になってくるはずだが、そうであるなら物語の必然的な話の流れとして、誰かが旅に出れば他の誰かに出会うという理屈が成り立つはずだが、果たしてそれが理屈と言えるほどのことなのかと疑問を感じるなら、もう少し複雑で込み入ったことを示さないと理屈にならないような気もしてくるが、理屈とは必然的にそうなるようなことだと定義するなら、偶然にそうなるようなことには理屈が含まれないかも知れないが、必ずそうなるということを言いたいなら、偶然にそうなってしまう結果は避けなければならないだろうし、しかも必ずそうなると言ったのに、実際にはそうならなければ、必ずそうなるという理屈が間違っていたことになってしまうだろうが、そういう意味では理屈はこれから起こることよりはすでに起こったことについての方がよく当てはまり、大抵の理屈がすでに起こったことについての分析から求められて、難しいのはそれをこれから起こることについても当てはめて、こうなるはずだと予想したり予測したり予言することだが、すでに起こったことについての分析だけではやめられずに、これから起こることについてもこうなるはずだと言ってしまうことが、果たして理屈の正しさを証明するには必要なのかというと、それ以前に理屈の正しさを証明する必要があるのかと問うなら、それもケースバイケースなのだろうが、これから起こることについては偶然要素も加味されて、必ずしもこうなるとは限らないと但し書きを付け加えておけば、大抵の場合はことなきを得るだろうし、そうであるならこれから起こることに関しては、必ずしも理屈の正しさを証明するわけではないが、予想や予測や予言が当たれば、それは理屈の正しさが証明されたと思うかも知れないが、そうはならない可能性もあったとすれば、たまたまそうなった程度のことだと思っておいた方が無難だろうが、理屈の正しさを信じている人にとっては、理屈の正しさが証明されたと思うしかないだろうし、逆にそうならなければ理屈が間違っていたと思うかも知れず、理屈は正しいが理屈とは合わない結果がもたらされたとは思えないわけだが、では理屈とは合わない結果がもたらされているのに、それでも理屈が正しいと言い張ることができるかというと、そう言う人は信用されないはずだが、過去の出来事に関してなら当てはまる理屈というのもあるだろうし、過去の状況と現在や未来の状況が違えば、当然のこととして理屈が適合する条件も違ってくるから、現在や未来に関して理屈に合わない出来事が数多く出てきたとしても納得できるかも知れないが、そうなれば状況に合わせて理屈も修正したり更新する必要も出てくるだろうし、その場の状況に合わせて理屈を修正したり変更する必要があるにしても、逆に理屈に合わせてその場の解釈を変えることができるかというと、それでは屁理屈となってしまうかも知れないが、自らが信じている理屈の正しさを強調したい人などはそういう傾向になりやすく、たらればや但し書きを多用するなどの工夫を凝らして何とかして理屈の正しさを堅持しようとするのだろうが、それが悪あがきと受け取られるようなら信用されていないことになるわけだが、そこで何やらもっともらしく信用できそうな理屈が提示されていても、それが過去の出来事に関しては都合よく当てはまるとしても、これから起こるだろう未来の出来事に関しては、どんなに確からしいと思ってみても仮説の域を出ないことであり、また現に今起こりつつあることであっても、起こった後から詳しく分析してみないことにはわからない場合もあるだろうし、さらには過去に起こった出来事であっても、理屈に合わないような新たな事実がいつ出てくるとも限らず、そういう意味で理屈の確かさは現時点での確かさに他ならず、それでも理屈に合うケースが多く見受けられるならそれが信じるに足る理屈だと思われるだろうし、例外的な事例として稀に理屈に合わないケースが出てくるとすれば、概ね正しい理屈だと受け取っておけばいいということであり、それ以上に理屈を信用する必要はなく、できれば理屈と心中するような愚は避けたいところだが、それが何を意味するかと言っても、そうなってからでないと実際のところはよくわからないし、理屈に惑わされないことが何を意味するかと言ったところで、それも実際にそうなった時にそれだとわかれば勘が冴えている程度のことであり、確かに機械装置などの内部構造の中では理屈通りの動作が行われていないと機械としては欠陥品となってしまうが、それでも大手銀行の大規模なシステム障害などは経費と手間暇がかかりすぎて根本からは直しようがなく、障害が出る度に応急処置的な対応しかできないかも知れないし、機械システムの類いでも構造が大規模で複雑になるほど理屈通りに動作してくれないケースが出てきて、それに伴って偶発的なエラーが頻繁に起こるようになるかも知れず、そうなると必然的な動作だけなく確率的な動作も理屈に含まれてきて、必ずそうなるというよりは確率的にそうなる可能性があるという表現で理屈が構成されれば、必ず予想や予測や予言などが当たらなくても、確率的にそうなったということにしておけば納得せざるを得なくなるわけで、それが必然性をかわす方便として役立つこともあるだろうし、実際に量子力学などでは全面的に確率的な表現が数式にも取り入れられて、そこでは予想や予言というよりは予測という面が強調されるだろうが、確率的な予測でも100%に近づけばそれだけそうなる必然性が高まり、逆に0%に近づいてもそうならない可能性が高まるだろうが、その中間の50%となるとどちらとも言えなくなり、予測の意味合いが急激に失われて、可能性としてはどちらとも言えないような微妙なニュアンスを含んできて、それが確率的な予測の曖昧なところとなるだろうが、果たしてそうなるかならないかの可能性が50%となる理屈が、理屈として体をなしているか否かとなると、もちろんいつも50%というわけではなく、状況によっては100%に近づいたり0%に近づく場合もあって、実際の結果もそうなれば信用されるかも知れないが、割合として50%前後の予測が圧倒的に多ければ、結果がどちらでもあっても構わないようないい加減さを疑われて、信用されなくなってしまうかも知れず、そういう意味でも確率的な予測と言えども、できるだけ精度として100%や0%に近づけるような確実さが求められるかも知れず、そういうところで理屈の必然性をかわす方便としてもそれなりの限界もありそうで、必ずしも確率的な予測が万能とも言えないのだろうが、そういうことを踏まえて理屈に関する妥当な解釈としては、過去の出来事に当てはまる理屈なら、今後その理屈に合わない要素が出てこない限りで、その信用度が相対的には高くなるにしても、そうだからといって、それを現在や未来の出来事にも当てはめようとすると、それなりに条件や状況などの面で合わないことが出てくることを考慮に入れおく必要が出てくるのかも知れない。


12月29日「精神に寄生する何か」

 人が求めている物事がその人の意識している物事とは無関係であるとしたら、何かその人には気づかない真の求めている物事が世界のどこかにあるわけでもなく、虚構の理想像のようなものを無意識に求めているのかも知れないが、そうだとしてもそれを意識していなければ、普通に世の中で出回っている商品の類いを求めているだろうし、それも必要だと思うから求めているのと必要でもないのに必要だと思い込んで求めていたり、必要だとも思わずに求めている物事もありそうだが、中には必要でなくても手に入ってしまう物事もあるかも知れないが、手に入れる必要がなくても手に入ってしまうのは、それが向こうから勝手に押し付けてくる物事となるなら、向こうとは何なのかというと、それを利用して利益を引き出そうとする企業の類いかも知れないし、またそこから税金を取ろうとする政府の行政機関かも知れないが、そんな求めているのとは別の何かが自身に由来しない物事であれば、異物であるから取り込もうとすると消化不良やアレルギー反応を引き起こすような成り行きの過程で、それが感染症の類いであれば病気になってしまったことを認識するだろうが、病気だとも気づかなければ、何かもっと肯定的で好感が持てる物事であったり、そういう物事を意識して求めていることが、それも肯定的で好感が持てる態度や姿勢であったりすれば、悪い気はしないはずだが、その人にとって異物であることに変わりなく、異物を好き好んで取り込もうとしているわけではなくても、向こうから勝手に心身へと入り込んでくるような物事なら、それは寄生虫の類いかも知れないが、そうやって人が何に寄生されているのかといえば、寄生されているのに気づかない何かになるだろうが、それが物質的な寄生ではなく、心理的な寄生だと言っても、何のことやらさっぱりわからないかも知れないが、精神が何かに寄生されていると言語的に特有の症状が出てくるとなると、それが吃音というわけでもないだろうが、もっと知性の面で顕著に表れる症状だというと、それが何なのか人によっては思い当たる節があるだろうし、それを簡単に言えば紋切り型的な言語表現だと言えるかも知れないが、それを使っている当人がそれに気づかず、そういう言語表現に好感を抱いていることにも気づかないとすれば、それ自体が何でもないありふれた普通の言語表現だと思われるだろうが、それの何が心理的な寄生なのかといっても、安心感を得られるなら別に悪い気はしないだろうし、安心して使える言語表現であれば繰り返し何度でも使いたがるだろうから、紋切り型になるのも当然だろうが、何度でも同じ表現を繰り返し使うと、しかもそれとは別の物事にも同じ言語表現を使っているなら、使っている別々の対象の物事が次第に同じ物事のように思われてくると言っても、それもそう思うことが取り立てて悪いとは思えなければそう思ってしまうわけだが、それが相似的な幻想なのかも知れないが、異なる複数の物事の間に生じている違いよりは似ているところばかり意識してしまい、何かというと似たような性質を見つけては複数の物事を一つのカテゴリーに分類してしまう癖がついてしまうと、それの何が悪いのかといってもピンとこないかも知れないが、物事の単純化とはそういう思考作用から生じてくると言っても、そんなことをやっている当人にはそういうことをやるのが当然のことであるから、それがどうかしたのかと訝しむかも知れないが、逆に単純化してみないことには理解できないこともあるような気もして、それが一概に悪いとは言えないのかも知れないが、それが行き過ぎると頭の中で物事に対する認識の精度がいい加減になってきて、例えば何でもかんでも攻撃するには同じ言葉を使って否定したり罵倒したり嘲笑したりする成り行きになってしまえば、それが単純化の否定的な面になるだろうが、そういう成り行きにならないようにするには、否定したり罵倒したり嘲笑したりする時に使っている同じ言葉を使って、逆の意味で肯定したり称賛したり、また中立的な意味合いでどちらとも受け取れるようなどちらでもないような微妙なニュアンスを込めて使えば、紋切り型的な言語表現から脱することができるだろうが、同じ物事をその時の状況に応じて様々な意味合いを込めて言い表すことが何か矛盾しているように思われるかも知れないが、安易な批判に使われる否定一辺倒の言い回しの方が時には不自然に思われる場合もあり、周囲の人々にとっては大したことでもないのに何かに憑かれたように強い調子で罵倒しまくって引っ込みがつかなくなってしまえば、精神に異常をきたしているとは思われないが、何か奇異に感じられることは確かで、パニクっているのと同じ意味で冷静さを欠いて暴走しているように思われて、それがその場の状況に応じた振る舞いだと思われるなら、その場の雰囲気がその人の精神に寄生して、そういう動作を引き起こしていると捉えても構わないだろうが、それとは逆の意味でその場の状況に応じる必要があるとすれば、パニックのようなその場の状況を落ち着かせる対応となるだろうし、そういう状況になるのを未然に防ぐ意味での対応となると防御的な言語表現を使うことになるわけで、その場の状況自体もそこに居合わせた人が使う言語表現から生じてきて、一方的かつ否定的な煽り文句を使って攻撃の対象を激しく非難するようなことをやっていれば、その場に居合わせた他の人たちにもその雰囲気が伝播して、そういう傾向でその場が盛り上がることもあるだろうが、そうやって煽り立てる側はその必要があるからそういうことを仕掛けているわけだが、果たしてそれと一緒になってそういう雰囲気に酔いしれていればいいのかというと、そうでなければそれとは一線を画した言語表現を使う必要も出てくるだろうし、それが冷静沈着にその場を分析するような言語表現となることもあるだろうが、そこから距離を置いて同じ対象を非難するのでも称賛するのでもなく、中立的な立場から対象の特性や特徴や仕組みやそれに付随する経緯や事情などを浮かび上がらせるような言語表現もありそうだが、そんなふうにしてその場に関わろうとすることが、物事の多面的で時には矛盾を孕むような複雑で錯綜した在り方や成り立ちを解明する上では必要となってくるのだろうが、解明する必要がなければ紋切り型の一面的な理解で済ませることもできるだろうし、そういった単純化に思考が寄生されてしまうことが、果たしてその人のためになるのかと言ってみても、実際にそうなってしまった人がそれなりに生きている現状があるなら、煽動などを利用して多くの人がそうなるように仕向けてそれを利用する制度やシステムがあって、それが政治や経済にまつわる制度やシステムでもあるだろうし、物事を単純化して捉えてそれに対する賛否を問うようなやり方に持っていくにはそういう成り行きが必要だといえば、何か心当たりが結構出てくるかも知れないが、そういうやり方がその場の状況に応じて良かったり悪かったりするかというと、それもそういうやり方が妥当だと思われるような状況に持っていくために、それにふさわしい制度やシステムが作られていると捉えておけばいいのかも知れず、それが国家的な統一体を作り出すための制度やシステムでもあり、そうした国家的な統一体にふさわしい人材を作り出すための教育制度やシステムも構築されているのだろうが、そういう意味では何事も紋切り型で一面的な理解にとどまるように仕込まれている人材もある程度は要るとしても、もちろんそんな人材だけで国家的な統一体が構成されているわけではなく、そういった単純な理解を越えてもっと複雑で錯綜した物事の在り方や成り立ちを理解するように仕向ける教育的なプログラムも大学教育などの中では用意されているはずだが、それが単に国家的な統一体にとって必要だからそうなっているわけでもなく、それも中国的な富国強兵路線であれば、必要だからそうなっていると言えるかも知れないが、そういうことをやっていること自体が逆説的にそれだけではないということを知らせているわけで、もっと多面的で入り組んだ世界の成り立ちがあるわけだから、紋切り型の一面的な理解だけでは到底間に合わないはずだが、それで間に合わせようとする意図や思惑も一方にはあり、要するに馬鹿で単細胞な民衆であるほど煽動者には扱いやすいから、その種のわかりやすく単純化された論理を繰り返し民衆の脳裏に刷り込もうとしてくるわけだが、そういう否定的な言い方も成り立つ面もあるにしても、そういうやり方に騙されてはいけないというよりは、そういう主張を信じても騙されているわけではなく、そういうことを信じ込ませようとしてくる煽動者の真意を汲み取って理解しなければならないと思っておけばいいのかも知れず、何か切実な事情があって必死に訴えかけているのであり、それを否定的に解釈する筋合いもなければ、そういった主張と対立したり無理に敵対して攻撃するのではなく、その必死な訴えかけを利用して、それと関わっている物事を良い方向へと持っていくような取り組みが求められていると解釈しておくのが妥当かも知れないし、そういう取り組みを行なっていく過程で自ずから物事の複雑で多面的な仕組みや成り立ちや在り方などが明らかになってくれば、それに関わっている人々の理解もそれ相応に深まってくるかも知れない。


12月28日「否定的な現状」

 現状を肯定するには何が必要というわけでもないだろうが、何をあきらめれば現状を肯定できるかというわけでもなく、否定したい気持ちをあきらめるとか、あきらめる理由を特に思いつくわけでもないが、現状を否定しなければ肯定できるかというと、否定も肯定もしなければ少なくとも肯定はしていないということになりそうだが、では否定も肯定もしない現状とは何なのかといえば、ただの現状に過ぎないが、否定したい気にはなれないが、そうかといって特に肯定する気にもなれない現状とは何なのかと問う必要もなさそうだが、現状とは何なのかと問われたら、現状とは現状であると答えておくのが無難かも知れず、現状が現状でなければ何なのかと執拗に問う気にもなれないし、現状が現状であることの意味や意義を改めて問う必要もなさそうで、意味や意義を問われるような現状でもなく、ただの現状に過ぎなければ、特に意味や意義のある現状でもなさそうで、そうなると現状の何を問題視しているわけでもなさそうだが、現状の範囲を広げれば、世界の現状の中にはいくらでも問題があるだろうし、どこかに人が困っている現状があれば、何かしら問題があるから困っているわけだが、その困っている問題を解決できるかとなると、容易には解決できそうもないから困っているのだろうが、困っている問題を伝えるメディアがそれを解決できるかというと、伝えることはできるが解決できるわけでもなく、誰かの尽力によって問題が解決されれば、問題が解決したことメディアが伝えるのだろうが、容易には解決できそうにない問題が解決されたことをメディアを通じて知った人々が何を思うかといえば、感動しただの勇気づけられただのの反応が期待されていると思ってしまうが、期待通りの反応でないと誰が困るのかということでもないだろうし、何の反応もなくても構わないわけでもないだろうが、それが興味深いことであれば関心を持たれて、関心を持った人がそれに反応して何か思うかも知れないが、それが肯定的な思いなのか否定的な思いなのかが重要だともいえないが、メディアが伝えるのだから肯定的な思いを抱いてほしいから伝えていると思いたいが、中にはそれがおもしろくない人もいるだろうし、否定的な思いを抱いてそれを批判したり、真面目に批判するならまだしも、皮肉を言ったり嘲笑したりする人も出てくるようなら、何とかして伝えている内容を貶めようとしていると解釈できるだろうが、そういうひねくれた反応を呼び起こす内容には、人の否定的な感情に訴えかける要素が伴っていて、それがあからさまに社会問題化していなくても、皮肉や嘲笑でしか反応を返せない人の心に問題があるようにも感じられて、その人の自覚なき劣等感の裏返しとしてそういう反応が出てくると言うと、そんなことはないと思われるかも知れないが、何に対して劣等感を抱いているのかといえば、それは人によって様々な物事に対して劣等感を抱くだろうが、執拗に他人の揚げ足取りのようなことを言う人に関してなら、損得勘定抜きに利他的な行為を行うことに関しては強烈な拒否反応を起こすかも知れず、それがメディアが伝えようとする困った人を助ける行為になればわかりやすいし、人助けには何かしらその人を利するような裏があることを言いたい人には、ただ何の見返りもなく他人を助けるような行為を見せられると我慢がならなくなるかも知れないが、そういう人は慈善活動を装った金儲けなどが暴露されれば、そら見たことかと納得するのだろうが、そんなわかりやすいことではなく、現状を否定できる面がないと困るようなことでもないとすれば、実際に否定的な現状の中で暮らしていることを実感しているのに、それを誰のせいにもできないことからくる焦りから、何かしら前向きに生きている他人を見ると腹が立つような気になり、それと自覚することなく攻撃的な言動になってしまい、それが何がともあれ皮肉なもの言いとなったり嘲笑的な言い回しを多用することにつながってしまうのかも知れないが、そんなことをやっても何も解決しないのはもちろんのこと、何かを解決するためにそんなことをやっているわけではなく、世の中が否定的な現状であることを世の中に広めたいと意識しているわけでもないのに、やっていることはそれを広めていることになり、結果的にはSNSなどのメディアを通じて否定的な雰囲気を拡散していることになるのだろうが、それ自体が否定的な現状そのものだから、そこに否定的な現状が出現しているわけだが、それ以外には何もできないことの鬱憤を晴らしているとも言えて、気晴らしの手段としては効用があり、利己的な行為でもあるから、他人の利他的な行為を貶めるためにそうするなら釣り合いが取れるのだろうが、それが何の釣り合いといっても、言葉の中でその場の釣り合いが保たれているだけであり、それが言説で構成されるフィクションなのかも知れないが、大して長い言説でもないだろうから、すぐに釣り合いなど消えてしまうから、ひっきりなしに次から次へと否定的な物言いでその場の釣り合いを保ち続けるしかなく、一度そんなことをやり出したらきりがないだろうが、実際にきりがないだけに延々とチャットなどで同じような物言いを繰り返しているわけだが、そんなことをやっていることが否定的な現状なのかというと、言葉と時間の浪費には違いないが、そんなことをやるだけの暇とエネルギーはあり、もちろん大したエネルギーも使わないような行為でもあるわけだが、それよりは利他的な行為をする方がそういう妨害工作の類いを跳ね除けながら行う行為であるだけに、行為の内容にもよるだろうが、場合によってはそれとは比べ物にならない桁違いの多大なエネルギーを使うことになるかも知れず、それだけ稀で貴重な行為になるなら、それを成し遂げた暁には賞賛されて然るべき行為となるかも知れないが、そうだとしても皮肉や嘲笑の言説を使って憂さ晴らしをやることも、別に他から賞賛されることを期待してやっているわけでもなく、自分が嫌われることも厭わずに他人を攻撃しているわけだから、それによって利することになるかも知れない何かに対して、自己犠牲的に献身していることにもなり、そういう面があるなら、それが立派ではないにしても他者のためにその人が嫌われ役や憎まれ役を買って出ていると解釈できる範囲内では、一応は利他的な行為になるかも知れず、もしそうだとしたらそれと意図しないで自身が嫌う行為を自身でやっていることに気づいていないことにもなるだろうが、物事の両義的な解釈が通用する面ではそうだとしても、その人の意識の中では他者を貶めるために言説を弄しているわけで、それがその人の意識できる限界でもあり、そこでは意識できないとしても、それを後から振り返って思考を巡らすことができれば、自らの行為の両義的な傾向を把握できるかも知れず、把握できないからやめられないのかも知れないが、把握できたところで党派的な意識の方が勝っていれば、自身の嫌っている党派を貶めるために献身的な行為を繰り返すしかないのだろうが、それでもそれが自己犠牲を厭わない多くの人たちの献身的な行為によって成り立っている現状なのだとすれば、皮肉や嘲笑などによって成り立つ現状というのが肯定される現状なのかといえば、どちらかといえばそれは否定的な現状に思われるはずだが、それもどう見てもしょぼい現状でもあり、しょぼい現状しかもたらされないからどうだというわけでもないが、元から否定的な現状だからこそ、SNSなどのチャットでそんなしょぼい行為が蔓延しているとも解釈できるかも知れないが、憂さ晴らし程度ならそれもありかも知れないが、もちろんそのしょぼい行為の対象となっていることがしょぼい行為などではなく、それとは比べ物にならないような立派なことをやっていれば、そういう方面では全く釣り合いが取れていないわけで、それもどちらかというとしょぼい行為をやっている人が自業自得気味にしょぼい人間のレッテルを貼られるような傾向となってしまうのだろうが、ではそんなしょぼい人が献身的に尽くしている党派があるとすれば、その党派からそのしょぼい行為に対してどのような見返りがあるのかといえば、あったとしても果たしてそれと釣り合うような見返りとなるかというと、そうではないような気がしてしまうわけで、もちろんそんなことまでお節介に心配してもらうような筋合いなど何もないだろうが、いずれにしてもそんなところでしょぼい人たちがしょぼい行為にうつつを抜かしている限りで、そんな現状を肯定できるとは思えないだろうし、それでも肯定したいなら、それも肯定しようのないことを無理やり肯定するような自己犠牲的で献身的な肯定だと言えば、そんな気がしないでもないが、無理に肯定する必要もないものを肯定するには、それなりの見返りが伴わないと損得勘定が合わないように思われるが、何の見返りもなく肯定するのなら、それも損得勘定抜きの利他的な行為だとも言えるかも知れないが、そもそも他人のそういった行為を見せられると我慢がならないから、それに対して攻撃を加えていると解釈するなら、そういう攻撃自体も割の合わない利他的な行為となってしまうのかも知れない。


12月27日「社会の閉塞感」

 誰もがそうであるわけでもないだろうが、ある種の人たちが漠然と抱いている社会の閉塞状況というのが、その種の人たちの言語表現から生じるありふれた思いだとしても、人によってはそれが何でもないはずがないと思いたいところだが、そんな中でも人が平然と暮らしていられて、状況の厳しさに耐え忍ぶにはフィクションのような宗教的な幻想に依存していないと正気を保てないかというと、日本では少なくともそんな大げさなことではなく、意外と多くの人が冷静に現状のおかしなところや駄目なところを把握しているだろうが、それがわかっているのにどうすることもできないということが、閉塞状況のような感じがする原因となっているとしても、確かに個人の力ではどうすることもできないかも知れないが、多くの人たちが協力して事にあたれば何とかなるような気もするところが、政治活動のつけ込む余地があるのだろうが、そういう方面へと視線を固定していれば確かにそうなのかも知れないが、視線が絶えず揺れ動いて、たまにはよそ見もしている限りで、世の中の全てがそうだとも言えないことにも気づいていて、閉塞状況こそが幻想に過ぎないのではないかという疑念も湧いてきて、そこから世の中の閉塞状況を強調してその打破を掲げている勢力に対する信頼も揺らいでくれば、そういう方面で活動している勢力としてはまずいわけだが、そんな成り行きとは別に、閉塞状況の打破を訴える煽動とは別の方面で起こっていることが、例えば世界経済を動かしているという捉え方によって、そこでは閉塞状況そのものが無視の対象となって、その政治的な閉塞状況を無視しているのが企業活動や経済の動きであり、政治と経済を分離させて状況を捉えるなら、世の中が閉塞状況であるはずがないことになってしまうと、そこから政治活動の無意味さも抽出されるかも知れないが、その一方で行政活動が政治活動を無効化しようとしていると捉えることもできるような傾向として、政府の官僚機構から及ぼされる行政圧力もあると捉えても、まだそこには何かが足りないのかも知れず、その足りない認識というのが都合よく忘れ去られていることでもあり、例えば日本から南北アメリカへと移民となって旅立っていった人たちがその後どうなったかといっても、それはその後の歴史が示していることであり、それは他のアジア諸国から世界中に移民となって拡散して行った人々にも言えることだろうが、閉塞状況の打破を強いられる人たちがその地では暮らしていけない社会的な弱者であることが、一般的な意味で弱者の切り捨てでしかないことは分かりきっているだろうが、普通に考えてそれが経済活動の活発化に伴って生じてきたことであり、経済活動の主役となっている人や企業にとってそれは閉塞状況でも何でもないわけだが、経済活動が活発化するほどそこでは暮らしていけず、その地からよその地へと移住を余儀なくされる人が大勢出てくるという矛盾が顕在化してきて、それも経済活動によって人口が増加すれば自然と人が余ってしまい、余った人を養えなくなれば、そこから出ていくしかないわけだが、要するにそこで暮らしていけなくなった人が閉塞感を覚えるわけだが、果たしてそういう単純な閉塞感とは違う閉塞感があるのかというと、それと似たような閉塞感だと思っておけばいいのかも知れないが、誰もが自身の活動が行き詰まってくれば閉塞感を抱くはずで、それが他人の活動に伴って抱くなら、そこで競争が起こっていて、その競争に敗れつつあるから行き詰まって閉塞感を覚えるのだろうが、そういうことが日々の日常の中で普通に起こっていることだとすれば、その上っ面だけを見れば社会が繁栄しているように見えるだろうし、実際にアメリカの社会が繁栄していて、逆に日本の社会が閉塞感に覆われているように感じられるのかも知れないが、それは弱者が切り捨てられるのと引き換えにして得られる繁栄であると共に、切り捨てられた弱者が救われる繁栄でもあり、そこに社会の矛盾があるとしても、矛盾がないと繁栄しない社会であれば、繁栄しなくても構わないのかというと、繁栄していないと生きていけなければ閉塞感を打破せざるを得なくなるだろうし、それを矛盾だとも思わずに移民へと駆り立てられる社会的な弱者が、今も世界中で移動している最中かも知れないが、死者となって忘れ去られるのが嫌なら、人は閉塞感の打破へと向かうだろうし、皮肉にもそれが世界の経済的な繁栄と引き換えに起こる悲劇だとすれば、閉塞感に覆われている日本社会が世界の繁栄から取り残されていることになるのかといえば、少なくとも世界で活動している人や企業は閉塞感とは無縁でいられて、もちろんそれは成功している人や企業に限られるが、そこでも競争を勝ち抜いた人や企業だけが閉塞感から解放されて繁栄を謳歌することになり、その一方で競争に敗れた人や企業は閉塞感に包まれているのかも知れないが、競争が一度で決するわけでもなく、絶えず誰もが競争への参加を強いられて、競争に参加して実際に競争している間は閉塞感を忘れていられるとしたら、閉塞感から抜け出るには競争に参加して勝たなければならず、競争に負ければすぐに閉塞感を覚えるわけではないものの、競争への道を閉ざされてしまえば否応なく閉塞感を覚えるだろうから、競争そのものが閉塞感をもたらしているとも言えて、では競争を回避すればいいのかと言えば、回避しても生きて行ければ閉塞感を抱かないというわけではなく、生きているから閉塞感を抱くのであり、ただ生きているだけでは心が満たされず、では生きがいを感じられるような活動を継続中であれば閉塞感を覚えることもないのかというと、大抵はそうだろうが、その活動そのものが閉塞感をもたらしている何かと戦っている活動であるなら、閉塞感と共に活動していることになるだろうし、それが生きがいを感じさせる活動であれば、閉塞感を覚えることも大して苦にならないどころか、逆にそれとの戦いから使命感さえ抱いているのかも知れないが、自らの使命が閉塞感をもたらしている何かと戦うことだと意識できるような状況とは何なのかとなると、それが反体制的な活動になるのだろうが、現代的な状況の中で果たしてそんな活動が成り立つかというと、世界各地の独裁的な政治体制に歯向かう人や団体などいくらでも存在するかも知れないが、その程度や傾向も各々のケースで異なるにしても、それが経済活動からもたらされる閉塞感である限りは、従来からある典型的な反体制活動の政治性からはかなりずれてくるかも知れず、そこに政治には収まりきらないような困難があるとしたら、それが政治では解決できないような経済性であり、分野としての政治経済から政治を取り除いたら経済しか残らないと思われるかも知れないが、逆にそこに政治ではない何かが付け加わっていると考えると、何が付け加わっているのかというと、政治性を除去した統治性が付け加わっていると捉えると、ただの屁理屈のように思われるかも知れないが、実際に政治的な無関心が蔓延している社会が形成されつつあると言えるのが、デジタル化の推進と言えなくもなく、政治という回り道を経ずに直接社会を統治するには、何が必要かというと、政治という意志決定の除去であり、ただ行政府によって機械的に統治されるのが社会の理想的な在り方だとは誰も思わないかも知れないが、そういう行政システムを作るには政治が障害物となっていることも確かであり、政治が体現している無駄で余計な紆余曲折を省けば、効率良く統治ができると考えると、実際にそれを体現しているのが異議や反対を許さないような独裁的な政治体制であり、それが議会の反対勢力などとの交渉や取引を経ない迅速な意志決定を可能としていることは確かだが、果たしてそういうやり方が政治なのかというと、政治ではなく行政そのものであり、もちろん行政も政治に含まれるが、経済的な効率化を優先するなら独裁体制の方が確かに効率的だろうが、別に独裁体制の国々の方が民主的な国々よりも経済発展しているかというと、逆の場合が多く、どちらかといえば経済発展が遅々として進まないから独裁体制になりがちで、その唯一の例外が現状では中国になるかも知れないが、古くはナチスドイツでもスターリンのソ連でも一時的には経済発展していたわけだが、もしかしたら現状の中国の経済発展も後から振り返れば、ナチスドイツやスターリンのソ連などと同じく一時的なもので、政治的な効率を高めるために独裁の度を強めるほど、その経済発展も短命に終わるかも知れないが、それに関してはコロナ禍における都市のロックダウンなどの中国の迅速で徹底的な行政措置が見事だと賞賛する人はまずいないことが、デジタル化の矛盾をも明らかにしている可能性があり、確かにデジタル化が経済的な効率を高めることは誰もが認めたいところだが、デジタル化自体が本当に効率だけを追求することになるかというと、ポイントやクーポンなどの面倒で煩わしい付加価値を挟んでそれによって経済的な利益を得ようとする姑息なやり方が横行している現実もあり、そうやって無駄で余計な紆余曲折を介さないとならないところが、効率化という宣伝文句の裏に隠されたごまかしに他ならないのかも知れず、それは遅々として進まない迅速な決定とは真逆の政治的な過程と似たようなことかも知れない。


12月26日「批判の在り方」

 何を批判したところでどうにもならないと思えば批判などしないだろうが、逆に批判することが求められていれば、批判してもらわないと困るようなことが行われていると現状を捉えておけばよく、もちろんそれも批判される側が有利になるような批判をしてほしいのだが、要するに行われていることを批判したり擁護することによって、それらが行われていることの宣伝となるような効果を発揮してくれるとありがたいわけで、意識してそれを狙っているわけでも、批判する側がそんな役割を担っているわけでもないだろうが、自然にそんな忖度がメディアの中から起こってくるのが、翼賛的な日本のメディア状況でもあるわけだが、そういうわざとらしくも演技くさい態度が透けて見えるようであっては本来はいけないのかも知れないが、そうならざるを得ないところが成り行き的な限界でもあるというか、それがメディア本来の役割だと言ってしまうと、人々のメディアに対する信頼を裏切っていることになるかというと、そうでもなく、そういう翼賛的なメディアの在り方を支持している人も結構多いだろうし、そういうことをやるのが本来のメディアの役割だと思い込んでいる人も多いのかも知れず、批判をしつつも社会を守っていくのがメディアの在り方としては妥当だと思われるのかも知れないが、果たしてそれで社会を守っていることになるかというと、それ以前に社会を守るのがどういうことなのかもよくわらなければ、さらにそれ以前に社会を守る必要があるのかということもよくわからないだろうが、意識してそんなことをやっているわけではないだろうし、そんなことを意識してわかる必要もないのかも知れないが、意識しなくてもそうなってしまうのであれば、そういう成り行きには誰も逆らえず、それも自然な成り行きだと見なすしかないだろうし、人為的に操作できるようなものでもないのかも知れず、そんな傾向が強いほど社会が安定すると共に停滞するのかも知れないが、それと比べて例えば独裁体制の中国やロシアのメディアはどうなのかといえば、政府に批判的なメディアが除去されてあからさまに翼賛体制なのであり、そうなると批判を装うような演技など不要となってしまい、日本でも愛国主義などの勢力はそうなることを願っているのだろうが、なぜそうならないのかというと言論の自由が認められているからだろうが、もちろん建前上は認められるにしても、実質的にはそうではないわけだが、だから演技が必要になってくるのだろうし、批判しながらも批判している対象への忖度が欠かせなくなるわけだろうが、それも権力的な力関係の表れであり、国民が批判している側を支持しないから批判する側の力が弱まって、批判しているだけでは済まなくなってきて、否応なく批判している側への忖度を強いられてしまうのだろうが、その気がなくても自然とそうなって、意識して忖度しているつもりがなくても、結果的に忖度していることになってしまうとすれば、システムとしてそうなっているとも言えるだろうが、そうならないようにするにはどうすればいいのかといえば、そうなってしまうシステムを変えるしかないが、一度できあがって安定して動作しているシステムを簡単に変えられるわけでもなく、こうすればうまくいくという方法がないからそうならざるを得ないわけだが、だからそれを批判するしかなくなり、一度批判すれば次から次へと批判材料が出てきて、批判するには批判に専念するしかなくなってしまうのだろうが、それもシステムだと捉えれば無限批判システムに取り込まれているとも言えるわけだが、もちろん社会のどこかで確固とした目に見えるシステムが稼働中というわけではなく、ただ単に延々と批判を繰り返している人がいるだけかも知れないが、そうなっている人がシステムを体現しているとも言えるわけで、システムがそれ単体で動作しているわけではなく、そこに批判材料を供給する役割の人や団体も存在するだろうし、それが批判の対象となっている人や団体であれば話が早いわけで、それらの人や団体も意識して批判材料を提供しているわけではなく、その活動から自然と批判材料が生成されて、批判する役割の人や団体がそれを使って批判を開始すれば、批判システムが稼働していることになるわけだが、日本の場合はそれに伴って批判を和らげるような忖度システムも作動するわけで、批判のポーズを装いながらも手心を加えて、批判が致命傷とならないような程度で済ますような機構も働いて、それが全体として予定調和の範囲内に収まるような配慮となって、結果的に行き過ぎにならずに事なきを得るのだろうが、そうやって保たれている消極的な社会の安定状態の中で誰が得して誰が損しているかといえば、そんな偽装工作をやっている側が得して、それをメディアを通じて見せられている側が損していればわかりやすいが、果たしてそれが損得勘定の範囲内で行われていることかというと、やはりそれもそうではないのかも知れず、そもそもシステムが損得勘定など考慮されていない可能性もあり、ただ単に批判する側もされる側も自滅するように誘導されるシステムなのかも知れず、実際にどちらもジリ貧に陥っているはずだが、ではそんな自己破滅型のシステムから抜け出すにはどうすればいいのかというと、抜け出すのではなくそこに留まり続ける必要があり、実際に双方共にそこに留まっているはずで、留まっているからこそ、そこでシステムが発動しているのだろうが、ではシステムの発動を防ぐ手立てはないのかというと、実際にシステムが発動しているのだから、誰も発動を防いでいるわけではなく、むしろ発動するがままにまかせている状態になっているはずだが、それが何を意味するわけでもなく、そうなるがままにまかせておけばいずれなるようになるのであれば、結局はそうなるしかなく、実際にそうなっている現状があるわけで、それで構わないはずがないのだろうが、それに抵抗できない人や団体がなすがままにまかせて、自然な態度で批判しつつも程々にとどめているだろうし、批判される側も批判に対して真摯な態度で対応しようとしていて、そうやって事を丸く収めようとしているのだろうが、それでは我慢できない人や団体は無限批判システムに従って動作し続けているわけだが、そうなっているのだからそれらの人や団体の利益に結びついているといっても、批判していることによってそれなりの利益を得ていることは確かだろうが、それによって批判している対象に勝利できるかというとそうでもなく、それでもそれらの人や団体が社会の中で生かされる程度には生きていられるわけで、細々とではあっても社会の中でその存在が保たれている限りで成り立つような程度で批判が行われていると捉えておけばいいのだろうが、それが社会の中で作用している様々な人や勢力の間の力関係をひっくり返すような力には結びつかない程度で許される批判でもあり、批判することによって社会をひっくり返すような力が得られるなら、とっくに現状の安定も崩れ去っているはずだが、実態としてそうはなっていないのだから、それらの人や団体が行なっている批判もその程度の力しかないと見ておいても構わないだろうが、そもそも批判自体がそうなることを目指して行われるわけではないのかも知れず、現状で行われていることに対する異議申し立て程度のことだと思っておいて差し支えないのだろうが、少なくとも批判が何かのきっかけになっていることは確実であり、そのきっかけというのが現状を変えるきっかけであり、実際に何らかの批判をきっかけとして現状が変わり続けていて、批判のことごとくが現状を変えるきっかけとなることを狙って行われるわけでもないが、そうなることを狙うとか、そんな意図で批判しようとすれば空振りに終わるだろうし、なぜ空振りに終わるのかといえば、その意図が批判する対象に見透かされてしまうからであり、見透かされて対策されてしまえば批判など簡単に無効化されて、そこから批判する側もされる側も予期せぬ紆余曲折を伴うこともあるだろうが、そうなることによって批判する側の意図や思惑とは違う物事の成り行きや展開へと導かれて、双方にとって何でもないような結果がもたらされるなら、何でもないことのように思われるだろうが、しかもそうなることによって現状も変われば、批判が現状を変えるきっかけとなったことになるだろうが、それが批判する側にとってもされる側にとっても予期せぬ思いがけない世の中の変化に直面するなら、そうなるから批判することによって世の中を変えようと意図しても、そんな意図は簡単に裏切られてしまうわけだが、それでも批判しないよりはした方がマシということとは別の何かが作用して、批判することによって誰の思い通りにもならない成り行きや紆余曲折を伴いながら、世の中が変わることもあるから、批判した方がいいということではなく、意図して批判しようとする理由や原因とは違う意図せぬ理由や原因を伴いながら、結果的に批判せざるを得なくなってしまうわけで、それがシステムとしての批判作用から生じてくる効用だと思っておけばいいのかも知れず、それも結果的にそうなればそう思うだけのことであり、そうならなければどんなに工夫を凝らして批判しても、批判する側にとっては無効のままとなってしまうのかも知れない。


12月25日「部分的な正しさ」

 別に論理的に無理があるわけでもなく、的外れなことを述べているわけでもないが、それとは別の論理からすれば無理があって、別の観点から見れば的外れなことを述べているとすれば、それが何を意味しているのかといえば、互いに相容れない複数の論理があって、ある論理に適った的を射たことを述べれば、別の論理に適った別の的を外れていることになるかも知れないが、実際に何がそうなのかというと微妙にそれとは少し違う事情があるのかも知れず、それを例えば積極財政と緊縮財政とかの対立軸を強調して語ると、何か相容れない二つの論理があって、水と油のような関係に喩えられるのだろうが、それらが同居している事実が重要で、あたかも相互に補完し合っているかのように両論併記的に扱われていて、片側の一方だけ一辺倒に追及してしまうとまずいような塩梅になっていて、それを矛盾と捉えるとわかりやすいが、実際には矛盾というよりは傾向や方向性が異なることを同時並行して進めなければならないと言えるかも知れないが、それも批判しようと思えばいくらでも批判できることであり、批判の内容がある一つの傾向に凝り固まった一つの論理に基づいて批判しているようなら、その批判自体はもっともらしく説得力があるだろうが、それが実際に行われていることに適合するかというとそうでもなく、批判に基づいて正しいことをやると必ず行き詰まるようなら、物事が一つの論理から成り立っているわけではなく、複数の論理がそれぞれに部分的に適合するようなことが行われていて、その中でもある論理が完全に適合するわけではなく、必ず論理とは合わない面があり、それも完全に合わないわけではなく、大体において適合するからそういう論理から説明すればもっともらしく思われるようなことであり、そこでもそれに対する批判が可能であれば、批判されている面に関してはその論理からは逸脱していて、そういう意味で何かしら批判されながらも行われていることがあれば、何か矛盾する面があるから、そこを突いて批判される余地があるということであり、それを批判している側に与していると、実際に行われていることに関して理解しているつもりでいても、なぜそれが批判されながらも行われているかに関しては、批判材料として否定的な理由や原因ならいくらでも挙げることができるだろうが、どうしてもそれだけでは実際に行われている理由や原因としては不完全であり、そういう批判が根本的に間違っているわけではないが、もっともらしく批判できるのだから批判が正しい面もある一方で、それが実際に行われていることの現実と比べて何かしら劣っている面があるような気がしてしまうわけで、そこに批判しているだけでは辿り着けない領域があると言うと、何か神秘主義のような胡散臭さが漂ってしまうが、批判しているだけでは駄目というわけではないが、批判する役割を担わされている限りで実践から遠ざけられている面もあり、そこで何かを行なっている側とその行なっていることを批判する側とで役割分担を固定されてしまうと、実際に批判する以外には何もできなくなってしまい、それが批判する側にジレンマをもたらしていることも確かであり、だからと言って安易に何かを行なっている側に与すれば、批判する側を裏切ってしまうことになるから、うまく自らの立場を正当化できなくなって、何か疾しいことをやっているような雰囲気になってしまうわけだが、ではどうするべきかといっても、役割分担を固定していることがそもそもの問題であり、長期間にわたって固定された立場にならないような配慮が必要なのだが、誰が配慮する必要があるのかといえば、民主的な政治制度が機能している国なら、国民が政党や政治家に対して配慮する必要が出てくるわけだが、特定の政党や政治家に長期間にわたって政権を担わせていることが問題となってくるとしても、それができていないからといって国民が批判されることはないだろうから、国民がメディアに甘やかされて政治腐敗を招いてしまうわけだが、国民も甘やかされていることを自覚できないし、メディア関係者も国民を甘やかしているとも思っていないだろうし、現状をそう捉えることも間違っているのかも知れず、論理的にも無理があって的外れなことを述べているのであれば、それが批判として機能することもないだろうし、何でもないことに過ぎないのだろうが、それとは別の観点から見るなら、逆に政党や政治家を甘やかしている国民の自業自得で、国民自ら自身の首を絞めているとも言えるかも知れないが、それも批判にはならないように配慮しなければならないとすれば、では実際のところは何がどうなっているのかというと、どちらでもあってどちらでもないような微妙なことを述べないと、それが批判としては有効に機能しないとしてもその場の状況には適合しないかも知れないが、適合したからといって理解されるわけではなく、むしろ批判として有効に機能するのは特定の論理に適う的を射た意見の方であり、その場に対立をもたらすにはそういう意見が必要なのであり、それが別の論理に適合する別の意見と対立するわけだが、対立することにメリットが感じられるからそういう意見が短期的な観点からはもてはやされるとしても、長期的にはそれが何かを行う側とそれを批判する側との間で立場の固定化につながってしまうとすれば、そうなってしまうと批判する側の敗北が確定して、その一方で真っ当で正しい批判を浴びせかけられながらも、批判の対象となる実践を行なっている側は安泰となるのだろうが、その安泰が長期的な停滞につながってしまうのは致し方のないところで、そんな停滞をなし崩し的に受け入れさせられながらも何もできない立場に追い込まれてしまうのが、それをもたらしている当事者を消極的に支持する人々であり、そんな状態を放置している人々でもあるわけだが、それを自業自得だと批判しなくてもいいのかというと、功利的な観点からはそんなお節介なことは言わない方が身のためであり、愚かな羊飼いに従う羊の群れなど誰も助けないのが自然の掟というわけでもないだろうが、羊飼いを愚かだと決めつけるのも間違っているかも知れないし、羊の群れが餌を得られなくなって全滅するわけではなく、むしろ群れとしては継続的に維持されて、羊飼いに延々と搾取され続けることになるのかも知れないが、人が羊飼いに飼われる家畜のように扱われることの方が問題だといえば問題なのだろうし、それも羊飼いに飼い慣らされることを自分たちが自ら選んでいるとは思えないだろうが、そういう羊飼いと羊の比喩が自分たちの境遇に当てはまるとも思えないはずだが、そうやっていい加減な喩えを用いればいくらでも否定的な表現が可能となるかも知れないが、それも全てが間違っているわけではなく、部分的には適合するようにも思われるだろうし、そうでなくても長期的に安定した状態が保たれていることが、役割分担が固定されていることを意味していて、それが搾取する側とされる側の関係が恒常的に維持されていることだとは思えないところが、それを否定的な停滞ではなく肯定的な安定だと受け止めている人々が思うところかも知れないが、どちらに受け止めても構わないのであり、どちらにも受け止められるのだから受け止めるだけであればそれで構わないとしか言えないところだが、そこからただ受動的に受け止めているだけでは済まなくなるとすれば、その長期安定が崩れかけていることの証拠となるだろうが、それに気づけない場合もあるわけで、気づいた時にはもう手遅れとなっていることも多いのかも知れないが、気づいたところでどうすることもできない場合もあるかも知れず、自分たちが消極的に受け入れてきた長期安定という名の飼い殺し状態が崩れ去ろうとしているのに、その崩壊を前にして何もできないことにも気づいてしまえば、安定していた期間の間に搾取され続けて、それと気づかないうちに自分たちの知力も体力も衰え切ってしまっていることにも気づいていなかったことを思い知らされるわけだろうが、そうならないうちに手を打っておけと今さら言われても、たぶんそれらの人たちには何もできないだろうが、そこがこれから新たに活動を開始する人たちにとっては狙い目だと言えるかも知れないが、現状が本当にそんな崩壊前の切迫した事態なのかというと、そう思える面もあるとしてもまだまだそんな事態ではないと思える面もあるだろうから、どちらでもありどちらでもなく、実際に現状の消極的な安定が崩壊してみてからでないと何とも言えないところだが、部分的にはすでに崩壊が始まっているとも言えるし、消極的な長期安定の中でもそれなりに変動があったとも言えるし、そこでも状況の捉え方によって何とでも言えるかも知れないが、実際にそういう世の中の大雑把な状況というのが、それを無視しても何ともない人々が大多数を占めているから、現状が現状のままに保たれているとも言えるわけで、実際にここ30年余りの世界情勢の中でも東欧やソ連の崩壊から始まって湾岸危機や同時多発テロやアフガンイラク戦争やスマトラ大地震やリーマンショックやシリア内戦や日本では東北大震災や原発事故などを経験してきても、またここ数年は世界中がコロナ禍に襲われている現状もあるわけだが、結局非常事態とは部分的にはこんなものでしかないわけだ。


12月24日「的確な判断」

 的確な状況判断ができているか否かということが、判断した結果がどうなるかによってその良し悪しが変わってくるのは当然だろうが、その場では的確な状況判断ができたとしても、その後から事情が変わってくれば、そんな状況判断を裏切るようなことが起こって、その場での的確な状況判断を台無しにするような結果がもたらされる可能性もあるのだろうが、そうなったとしても的確な状況判断をやらないわけにはいかず、状況を的確に判断した上でその場の事態に対処するしかないにしても、それが的確だったどうかは判断した結果からわかることだから、結果が思わしくなければ判断が間違っていたと解釈されてしまうかも知れないが、たとえ判断が間違っていたことになっても、その場での状況判断が的確だったとしたら、そこで不条理な事態が起こったと判断するしかないだろうが、それが不条理でも何でもないとすれば、ただ単に判断を誤っていたことになるはずだが、その場で的確な判断をしたと思った人にとっては不条理な事態なわけで、それをどう見るかは人によっても立場によっても変わってくるのは致し方ないところだが、その場での状況判断が的確か否かということが、その場とは全く関係のない遠く離れたところでその良し悪しが判断される場合もあり、果たしてそういう判断自体が適切なのかということも、判断する人がそんなことまで考えて判断するわけでもないだろうが、当事者でない人がそういう判断をやりがちなのは当然なことだが、当事者でも関係者でもない人が公平な立場から判断することが適切に思われるにしても、そんな判断が何の役に立つのかと訝しく思う人も出てくるだろうし、普通は当事者や関係者が自身の活動がうまく行くようにあれやこれやとその場の状況や情勢に応じて様々な物事を判断することになるわけだが、それが適切に思われても的確ではない場合もあるだろうから、役に立たなくても適切な判断になる一方で、それが実際に当事者や関係者の役に立てば適切である共に的確でもあり、たとえ判断を誤っているとしても役に立つなら、その場に限れば的確な判断だと言えるかも知れず、それ以外にも妥当な判断というのもあるだろうし、判断した結果がどうなろうと、そういう判断を下すことに関してその場に居合わせた誰もが納得できるなら、その場ではそれが妥当な判断になるかも知れないが、もちろんその後に思わしくない結果がもたらされると納得できなくなるだろうから、その際には妥当ではなかったことになるかも知れないし、その判断が的確なのか適切なのか妥当なのか、あるいはそれらのどれか二つか全ての基準を満たしているように思われる判断もありそうで、またそれらとは別の基準を満たしている判断もありそうだが、判断がどのような基準を満たしていても、それは判断した結果から言えることであって、判断したところで何の結果も出なければ、そこでの判断が空振りに終わったことにもなるかも知れず、さらにそこでどんな判断を下してどうしようと、同じ結果しかもたらされなかったと思われるなら、判断そのものが無効だったことになるかも知れないし、判断する前にそんなことをいくら想像してみても、とりとめのないことでしかないだろうが、意識して判断する以前に行為や行動が先行していれば、判断するまでもなく動いていて、動くのを迷えばそこで何かの判断を迫られているのだろうが、そこでいちいち判断を意識することもなければ、判断することなどさして重要だとは思われず、判断にも軽い判断と重い判断で違いがあり、判断を誤ってもさして被害や損害も少ないと思えば軽はずみに大して迷わずにその場の勘にまかせて瞬時に判断して、それが正しかろうが間違っていようが、大した痛手も被らなければどうということはないわけだが、果たして重い判断を迫られる機会があるかというと、できればそれが致命的な結果に直結するような判断は避けたいところだが、当初は軽はずみな軽い判断だと思っていたのが、後から事情が変わってきて、それが致命的な結果をもたらすような重い判断だったとわかることも稀にはあるだろうし、しかも致命的な結果をもたらしている途中でそれに気づかない場合もあるだろうし、それも人によっては致命的な結果にならずに済むようなことであれば、他人がうまくいっているからその真似をして同じようなことをやってみたら大変な事態になって、結果的に悲惨なことになってしまえば、確かにその人は判断を誤ったことになるが、判断を誤らせるような事態に引き込まれてしまったことにもなり、安易に他人の真似をするようなことが軽い判断でそうしたにしても、それが結果的に大惨事になってしまうという皮肉な結果がもたらされたことになるのだろうが、逆にその人にとって相当な覚悟や伸るか反るかの大きな賭けを伴うような重い判断であったとしても、その判断に見合わないしょぼい結果しかもたらさなければ、それも判断を誤っていたことにはなるだろうが、結果がしょぼいだけに致命的なことにはならずに済めば、結果的には判断を誤ったことが正解だったかも知れず、当人は判断を誤ったと思うだろうが、その人のためにはその方が良かったと思われる場合もあるだろうし、たとえ結果が失敗であっても、そこから後の成功につながる教訓を得られるだけでもありがたいことであったり、その結果がそこからさらに後の結果をもたらす可能性もあるから、その時だけの結果から早計に善悪や良し悪しを判断するのも間違っていることにもなり、それが何かしら結果を得た段階でそれをどう判断するかということと、その判断に基づいてそこからどうするかということに関しても新たな判断が伴ってくれば、さらにそこから活動が継続していくことになるだろうが、そこでどう判断してみてもしっくりこないようなら、何かそこで見逃されていることがあって、それに気づくにはそこからさらに活動を続けていかなければならなかったり、逆にそこで活動するのをやめてみれば何かわかってくるようなことも出てくるかも知れないが、どちらでもそれぞれ別の発見に結びつくようなら、そこが判断の分かれ目だったのだろうが、そうなると活動を続けるかやめるかのどちらの判断であってもそれなりに発見があるということになり、その発見がその人の役に立つかどうかも、その場の条件や事情によって変わってくるとしても、そういった二者択一的な選択のどちらであっても、そうなった後からそれが的確な判断だったと思われる可能性もあるから、その判断が的確であるかどうかもその人の思い込みに過ぎなければ、たとえそれが的確な判断だと思われようと思われまいと、結果的にはどちらであっても構わなかったことになるだろうが、知らぬが仏で、伸るか反るかの二者択一的な判断をした後にうまくいけば、当人はその場の判断が的確だったと思うしかないだろうし、しかもそこで判断を誤っていたら大変なことになっていたと後から想像してしまうのもよくあることで、そうなるとなおのこと自らの判断の正しさに自信を深めてしまうことにもなり、そういう自信が度重なると過信へとつながって、後に至ってとんでもない致命的な判断ミスを犯してしまうことにもなりかねないとそこでも想像してしまうかも知れないが、それも実際にそうなってからそれまでの経緯を振り返って気づくことであり、それもそんなことになるのではないかという思い込みの延長上で思うことでもあり、実際にはそんな絵に描いたようなうまい具合に成り行きがつながることなどそう滅多にないが、何事においてもそんな自らに都合に合わせた物語的な道筋を普段から想像力を膨らませて思い込んでいるようだと、どのような結果がもたらされてもそうなる運命だったようにも思われてきて、そうなる宿命に導かれながら人生を歩んできたような決定論的な認識にも至ってしまい、それが物事の偶然の成り行きや巡り合わせを信じられないことの理由にもなるのだろうが、それでも構わないなら別にそれ以上は何を言うまでもないことになってしまうが、果たして偶然にそうなってしまうようなことを信じられるかというと、何事も理由や原因を求める態度に固執するなら信じられないだろうが、そうなる理由や原因が定かでなくても一向に構わないなら、偶然にそうなったと思っていれば済むわけで、確かに何でもかんでも全てが偶然に起こったことにはできないはずだが、何かが特定の理由や原因によって必然的に起こることをどこまで信じられるかといっても、自身の都合の良い範囲内で信じるようなことになるにしても、それが理由や原因だと確信できればそう思うわけだが、自分の知識や経験や勘に照らし合わせて納得できるような理由や原因を導き出せればそう思うしかなく、そういうことからその場の判断の的確さも求められるだろうが、実際にそう判断するのが的確だと思って、しかもそれなりの結果も伴ってくれば、自らの判断の的確さに関して自信を深めるしかないわけだが、それがその場の偶然に左右されてそう思われる面もあるようなら、自惚れ気味に自信を深めている自らをあまり信用し過ぎないようにしている別の自分の存在もその場で意識していることにもなるのではないか。


12月23日「聞く耳を持つ態度」

 世の中のどこかで誰かが一方的な主張を繰り返している分には、取り立てて何がどうなっているわけでもないが、そこに何が加わると問題となってくるかは、その場の状況やそこに至る経緯にもよるだろうが、一方的な主張を繰り返していられる条件とは、他人の主張に対して聞く耳を持たないことになるが、そもそも何かを主張すること自体が主張している自身の主張とは相容れない他人の主張に対して聞く耳を持ってしまうと主張できなくなってしまうから、そうなるのが当然なのだろうが、聞く耳を持った上で相手の主張に反論して相手を言い負かすことができれば、聞く耳を持つこととも両立できるが、反論したところでお互いの主張が相容れず議論が平行線に終わることも十分考えられるし、相手に言い負かされることもあるだろうから、聞く耳を持つことのリスクを考慮するなら、戦略的に聞く耳を持たないことが功利的には最善ではないにしてもベターなやり方になる場合が多いだろうし、どうすれば聞く耳を持たない態度を維持できるかとなると、権力を持つこと以外には考えられず、それも状況によっては裸の王様になる危険を冒しながらも権力者の地位を確保することになるにしても、ではそれ以外にやりようがないのかとなると、逆に聞く耳を持つ態度を徹底させればいいということになるだろうが、そうなると自分の主張が他人の主張になり、他人の主張に応じて自分も主張も修正するような態度にもなり、そうやって自身が聞く耳を持っていることをアピールするのだろうが、そういったアピールをしている人は意外と他人を主張を理解していない可能性もあり、または他人の主張を自身の都合に合わせて曲解している可能性もあるから、そういう態度の人は調子が良いが信用できないと相場が決まっているわけではないが、何か下心があって戦略的にそういう態度でいるような気がして、大抵は疑わしく思われるのだが、議論を戦わせる以前に聞く耳を持っているように装うのは、逆に何を言われても相手に調子を合わせられる反面、本当は何も聞いてはいないのではないかと疑われて、何か胡散臭さが漂ってくるわけだが、要するに聞く耳を持つだの持たないだのといったことは、それ単体では意味をなさず、主張や意見の内容を吟味した上で、それに対して聞く耳を持つだの持たないだのの判断を迫られたり、あるいはそこでは判断せずに放置して店晒しにしたりして、他にも色々な対応があるだろうが、言っていることのピントがずれていたり本質から外れていることが、言っていることとやっていることの落差から感じられるようなら、言っている当人にはその気がなくても自覚なき戦略的な態度であることが伺えて、それが自然に身についているようなら戦略として意識してやっているわけでもないのだろうが、その辺の微妙さがどちらとも言えないような曖昧さがあるにしても、意識しなくても戦略的な態度が身についていて、そういう人の言っていることを真に受けるべきではないような気にさせる雰囲気があり、それも真に受けているように装いながらも実際には真に受けていないのだからそれも戦略的な反応となってしまうのだが、そうやって戦略には戦略で対応するような姿勢や態度がその場で蔓延してしまうと、実質的には物事が何も進展していないことになるにしても、表面的にはそうであっても言っていることとは関係のない方面で実質的な物事の進展があるようなら、言っていること自体が囮として言っていることであり、表面的な装いとしては何やらその場を収めるために人の話を聞いてそれに対応するようなことを言うのだろうが、それはそれとは違う方面でやっていることがその場の話題にならないようにするための方便であって、その人にとっては本質から外れたどうでもいいようなことについては真剣に耳を傾けているように装いながらも、その人がやろうとすることに関しては有無を言わせないようなタイミングでさっさとやってしまってから、それに対していくら批判されても真摯に耳を傾けて場合によっては反省の態度も示すのだが、もうやってしまったことについては後戻りができない状況にまで至っているから、そこでいくら批判しても後の祭りの状態にまで持っていっているから、やり逃げに成功しているわけで、それが戦略的なやり方の一部始終だと言えるのだろうが、そのやっている内容も大したことはないというか、その場の状況を乱さない程度のことであり、その人としては思い切ってそれ相応に覚悟を持ってやっていることになるのだろうが、周囲の人たちにとっては拍子抜けするようなどうでもいいことであったりすると、今度は言っていることに対してやっていることがピントがずれていたり本質から外れるようなことであったりして、そうやってだんだんと化けの皮が剥がれていくようなことになってくるのだろうが、そうなっている最中でもその人の意識の中では順調にやっていることがうまく行っていることになるのかも知れず、そうなると聞く耳を持たずに強引なことをやる人の方がかえってわかりやすい分で計算が立つが、なまじ聞く耳を持っているように装う人が何かをやろうとすると、面倒で回りくどいことをやっている割には実質的には大したことは何もやっていないような逆説が成り立つのかも知れず、どちらにしても聞く耳を持つだの持たないだのの水準とは違うところで、言っていることもやっていることも微妙にずれていたり外れていたりするようなら、そこにその人の戦略的かつ的外れ的なこだわりが垣間見られて興味深いことになるだろうが、戦略的な振る舞いとは絶えず相手の裏をかいて意表をつくような行為や行動となって、それが相手の思い通りにはさせないことを目的とする戦略的なやり方となるにしても、やっていることがそればかりになってしまうと、それ以外には何もできないことになってしまうはずもないのだろうが、信念が何もないような中身の空っぽな人だと思われて他人から信用されなくなれば、反省すると共にやり方の変更を迫られるかも知れないが、そうなる以前にやっていることがそればかりになるはずもなく、それ以外には何もできなくなるほどまでには至れないだろうし、聞く耳を持って周囲の人たちに同調しているうちに、周囲の人たちに配慮したことを自然にやっていて、そういう方面では周囲の人たちの信頼も得ているような成り行きになるだろうし、それで構わないようなことになってしまうのだろうが、なぜそれで構わないようになってしまうのかと言えば、その人と同じような人が他にもいくらでもいて、そういう人たちの中からそれらの人たちの代表者として行為や行動の主体となる人が出てきて、それがそういう人たちの総意を受けて言っていることであったりやっていることであったりするわけで、だからそれがその人の戦略であると共に他の大勢の人たちの戦略でもある限りで、その場の雰囲気に馴染みやすく溶け込みやすいようなやり方となって現れているわけで、それが人の言うことに聞く耳を持っているように装いながらも、それとは別の方面でその場の状況を乱さない程度で勝手な振る舞いに及んでいるのだが、それがその人にとっては勝手な振る舞いであっても、他の人たちにとってはその程度の振る舞いなら許容の範囲内で、他の誰もがやっているようなことをその人もやっている程度のことであり、それが取り立ててどうということはなく、実際にもその場の雰囲気を乱すようなことでもなく、雰囲気だけなく、その場を根本から変えるようなことでもないのは一目瞭然だが、それでも当人の意識の中ではその場の変革に取り組んでいるつもりになれるほどの大したことをやっている気になれるとしたら、何がそんな気にさせるのかといえば、聞く耳を持っているように装いながらも他人を出し抜いている気にさせるような戦略的な振る舞いがそうさせるのだろうが、他の多くの人たちもそう振る舞っているような気になっていれば、それが集団幻想の類いになってしまうわけだが、それは多くの人にそういう振る舞いが自然に身につくような社会が構成されているとも言えて、そんな社会に暮らしていれば誰もがそうなってしまい、それが極めて自然な振る舞いとなっているからこそ、逆に聞く耳を持たずに強引なことを主張したりやってしまえるような人が新鮮に感じられて、そういう人がポピュリストとして人気を博すような成り行きにもなるだろうが、それも一時的にはそうなるものの、次第に化けの皮が剥がれてきて、次々にごまかしやまやかしが明らかとなってくるようなら、そういう人に代わって、誰もが安心できて聞く耳を持っている戦略的な振る舞いの人がリーダーになる機会も巡ってくるのだろうが、もちろんそれも一時的なつなぎ役程度の控えめさの水準にとどまっている限りで支持される程度のことであり、長くリーダーの座に留まられると次第に飽きられると共に目障りな存在となってくれば、また周囲から追い落としの対象にもなってきて、そうやってその種の閉鎖的な社会でも新陳代謝や世代交代が一応は起こるわけだが、それが外圧などの偶発的なきっかけから一変する可能性もないわけではなく、変わったところで大して代わり映えもしないだろうが、そこでも相変わらず聞く耳を持っているふりをしながら他人を出し抜いてうまく立ち回ろうとする人が必ずほとぼりが冷めた辺りに現れてくるのかも知れない。


12月22日「地政学的なリスク」

 地政学上のリスクというのは国家の地理的な位置関係からくるリスクと考えれば話が早そうだが、それに関してアジアでは中国リスクがヨーロッパではロシアリスクが安易に言われることの代表例かも知れないが、軍事や政治や経済や貿易や資源や環境汚染などの面で周辺国にもそれ以外の地域にも無視できない影響を及ぼすから、それがリスク要因となるのだろうが、もちろん中国やロシアだけなくアメリカやEUやインドや日本なども他の国からすればリスク要因となるだろうが、それが潜在的な危険なのか実際に危険が顕在化しているかといえばどちらもあるだろうが、両方を一緒くたにして脅威として誇張されて意識されている面もだろうし、例えば実際に軍事衝突が起こっていることと軍備増強などの軍事的な脅威とはレベルや段階が違うし、脅威の対象となっている国が軍備増強しても実際に軍事衝突が起こらなければその時点では被害や損害などは被ってはいないが、軍備増強すれば遠からず近い将来における軍事衝突の可能性が高まると受け止められるし、識者などがその危険性を指摘する頻度も多くなるだろうが、まだその段階では潜在的な脅威であり、それでも大型の空母などを建造している様子や大規模な軍事演習などの光景を見せられると軍備増強していることが顕在化されて、それが戦争の恐怖を煽る論調などにも使われると、確かにその国の周辺で地政学的なリスクが高まっていることを実感させられるだろうが、軍事衝突は他の様々な物事が国家間で解決できなかった場合の最終的な決着手段であるから、そこに至るまでの外交的な交渉や駆け引きが不調に終わった後に危険性が高まるわけだから、すぐに起こるようなことではないと普通は考えられるが、国境紛争などのようにちょっとした挑発行為から何の前触れもなく突発的に起こることもあり得るし、紛争の最前線での偶発的に起こる戦闘であれば規模の小さな衝突であっても割と頻繁に起こることかも知れないが、そうした直接的な戦争リスクなどよりは中東やアフリカなどの特定の国や地域に資源を依存していることから生じるリスクというのも経済的な面での切実さの度合いが高いだろうし、例えば石油を中東に依存している面とレアメタルをアフリカのコンゴや中国に依存している面とプラチナを南アフリカに依存している面とがあるが、自動車を内燃機関車から電気モーター車に切り替えることで燃料となる石油を産出する中東依存から脱却できるとしても、またディーゼル車を無くすことによって排ガス装置に欠かせないプラチナの南アフリカ依存からも脱却できるとしても、電気モーター車のリチウムイオン電池に欠かせないレアメタルのコンゴや中国への依存は断ち切れないし、レアメタルを使わない電池開発においても中国の電池メーカーの世界的なシェアが大きいだろうから、さらには石油や石炭などの依存から脱却する上で欠かせない自然エネルギーの活用においても、中国で生産される太陽光パネルの世界的なシェアも大きいだろうから、そういう面でも中国依存になってしまうと地政学的なリスクがあり、さらには天然ガスをロシアに依存しているヨーロッパなどに関してもロシアの軍事リスクと資源リスクの両面にわたって難しい対応が迫られているわけで、軍事リスクや政治リスクと資源リスクや経済リスクが密接にかかわり合っているところに独裁的な政治体制の国が存在していることの地政学的なリスクが生じているわけだから、一方的に脅威や恐怖を煽り立てても思うようには効果が上がらず、中国やロシアや中東などの独裁的な政治体制の側でも軍事面など共に資源の面で脅しをかけて強行姿勢を保てるわけで、しかも中国は産業面でも世界の中で支配的なシェアの確立を目指しているわけだから、そういう意味でも世界の全ての国を民主的な政治体制にすることの困難があり、実際にもうまくいっていないわけだが、欧米などの民主的な政治体制の側にも非がないわけではなく、欧米諸国が世界の経済を支配していることが経済的に搾取されている途上国の政治や行政の腐敗や民衆の貧困を招いて、それが民主化を阻んでいる一因となっているだろうし、その結果として政情不安となった途上国の民衆が難民や移民となって欧米に押し寄せるから、欧米諸国内でも社会不安を招いている一方で、それらが不法移民であることから違法であることと経済的な搾取を受けることの両面で二重に差別を受けて、悲惨な境遇となってしまうことも多いわけだが、結果的には欧米による経済的な覇権が途上国を搾取することによって成り立っているとしても、それを古くはソ連がそうであったように中国もまた経済的な覇権を確立するために利用しているわけだから、どうあがいても途上国の政情不安が解消することはなく、世界の全ての国をそんな対立の図式に当てはめるわけにもいかないが、経済や政治などの面での覇権争いとは違う道を模索しなければならないとしても、現状で主流の経済的な豊かさとは違う傾向を目指す上で、富の分配などの社会主義的な政治主張が国家主義と馴染みやすく、世界的な傾向として左翼的な政治体制になりつつあるのかも知れないが、その一方で貧富の格差を助長する資本主義経済を前提として、政府が企業を規制したり目眩し的に社会保障を充実させようとする限りで、付け焼き刃のような脆さと焼け石に水のような効果のなさが否定的な相乗効果を発揮して、うまくいかない面が顕著となってくるのだろうが、それも社会主義とも資本主義とも国家主義とも違う何か画期的なやり方があるわけではなく、それが自由主義というやり方で提示されているわけでもないが、何かをやった結果から〇〇主義と呼ばれる主義が出てくる場合もあるが、政治的あるいは経済的な実践の過程で妥協や譲歩を重ねて折り合いをつけていくしかないだろうし、それが決まり切った主義主張からは外れてくるとしても、〇〇主義的なやり方を貫くのとは違う柔軟性をもたらして、結果的に様々な主義主張が混ざり合って特定の主義主張とは無関係なことがやれていれば、それがそこでの妥当なやり方になることもあるだろうし、うまくいかなければ妥当ではないと思われるだろうが、うまくいかないなりにも批判されながらもやれていることが、そこで実際に行われていることになり、それを批判する人たちが主導権を握ってそれとは別のやり方を試すには、民主的な政権交代の可能性がないと容易にはいかないのだろうが、そういうところで軍事勢力や政府の官僚勢力や民間の企業勢力などが暗躍していると、功利的な思惑から民主的な政権交代の可能性が潰されてしまうわけだが、しかもそういった強権的な行為がまかり通っていると余計に民主的な政治の実現を熱望する勢力が民衆の支持を集めて政府と対立することになり、そういう勢力やその支持者の活動が過激化すると、それが強権的な政府に弾圧の口実を与えることにもなり、結果的に不幸な出来事が起こってますます強権的な傾向になってしまうと、欧米などの民主的な政治制度が確立されている諸国が制裁に乗り出すのだろうが、それを悪循環と捉えるかあるいは民主的な政治が実現される過程で起こる不幸な出来事と捉えるかは、どう捉えてみても結果が示す通りのことでしかないわけだが、たぶん日本でもその過程にあり、捉え方によっては結果的に現状がもたらされているとも言えるわけだが、その過程にあると捉える限りでまだ良くなる可能性があり、現状でも進歩的な地方自治体の首長が欧米並みに外国人の参政権の拡大を目指そうとして、愛国主義的な政治団体との間でいざこざを起こして話題となっている現状もあるだろうが、それもそうなる過程で起こっている紆余曲折の類いであり、それと同じとは思えない愛国主義が香港の民主派を痛めつけている現状をもあるだろうが、それだけ国家主義的な強権体制を目指す傾向も同時並行的に起こっていて、それと地政学的なリスクとどのような関係があるかといっても直接の関係などないように思われるかも知れないが、国家主義にとっては人も人口という資源の一部であり、いかにして人口の中身を同質化することも国家の強靭化に役に立つという発想もあるから、そこに不純物として外国人が含まれていてはまずいわけで、そういう意味では外国人が容易に国内に入ってこないような体制を整えることが地政学的なリスクの軽減となると考えれば、逆に容易に外国人が入ってこれるような国家体制だとまずいと思われるだろうし、それが地政学的なリスクが高いことにもなるとすれば、日本の国境が海で隔てられて地続きでないことが、地政学上は有利だと見なせるだろうが、その程度の有利さでは心もとないから日本の内部からも国民の同質化を目指すような活動を行なっているつもりなのだろうが、そういうやり方も立場や国情が変われば間違っているように感じられて、現状でも世界の中でどこが覇権国なのかといえば多民族国家のアメリカや中国が該当するだろうし、しかもアメリカの内部でも中国の内部でも愛国的な国民の同質化を目指す動きも相変わらずあるから、国家主義を信じている人々も安心感を覚えるだろうが、そういう人々も含めて様々な勢力が現状との間で矛盾を抱えながらも同居している実態があると捉えるしかないのかも知れない。


12月21日「甘い見通し」

 少し思考が先走りすぎているわけでもないのだろうが、安易に先を読むのをためらって、さらに読んだその先を読むのもためらって、それの何が安易なのかを考えてみると、あまり根拠の定かでないような甘い見通しを自身の都合に合うから信じようとして、未来についての誤ったイメージを思い描いているような気がするのだが、今のところは誤っているとはっきり断言できるとも思っていないし、まだ結果が出ていないから、この先において予感が的中することも十分にあり得るだろうが、それが嫌な予感ではなく、甘い見通しの通りになる予感だから、的中したらしたで悪い気はしないだろうが、その一方で本当にそうなればそんな都合よく事が運んでもいいのかと疑わしく思われるような甘い見通しであるから、またどうせそうはならないとも思いたいわけで、そう思って甘い見通しが予期せぬ出来事によって打ち砕かれた時に備えて身構えたいのだが、どうもその気になれずに甘い見通しを信じていても構わないような気がしてしまうから、気の緩みから隙だらけになっているような不安も心をよぎるが、予感など的中しなくても構わないのかも知れず、逆に厳しい現状を危機感を募らせながら深刻に語ることの嘘っぽさを嫌というほど味わってきたような気もするから、そこから覚える違和感の反動でそう思っていても構わないような気がするのかも知れないが、何が起こる予感もしないから将来を楽観視していれば予期せぬ出来事が起こって驚く可能性が高まるだろうし、驚きたいからそうなることを狙って将来を楽観視しているわけでもないが、それを待っていれば必ず何かが起こることを期待しながら、いつまでもそれが起こるのを待ち続けるようなことでもなく、待ち続けることが全てではなく、頭の片隅では待ちの姿勢を維持しているつもりなのだが、他のこともいくらでも意識しているわけだから、大してそれを重要視してはいないのかも知れず、それはそれとしてそういう姿勢は保っておくが、他のことも同時並行して進めていくような感じになっていて、その同時並行で進めている複数の取り組みの中で何を特に優先して行なっているわけでもないから、その中のどれか一つがうまくいってどれか一つがうまくいかなくなる程度でも一向に構わないわけで、もちろん全てがうまくいかなくなってしまえばさすがに困るはずだが、そんなことになるはずがないという確信があるわけでもないのだろうが、ただ漠然と将来を楽観視していて、実際に何とかなっているからそう思われるのであり、それだけ気持ちに余裕があると解釈しておいても良さそうだが、解釈するまでもなくそんなことを気にする必要もないような何の問題もない事態であるはずもないのだろうが、逆にあらゆる問題が山積していると事態を深刻に捉えた方が無難なのかも知れないが、なぜか楽観視せざるを得ない心境なのだから、その理由もよくわからないままそうなっていることについては何かおかしいと思われるのも当然だろうが、ここからさらに時が経過してみれば、そう思う理由が次第に明らかとなってくるかも知れないが、とりあえず今はその理由を詮索すべき時ではなく、それよりも優先すべきことがあればそちらに意識を集中させればいいのだろうが、何を優先させているわけでもなければバランス的な姿勢を取って何かが起こるのを待っているように装いながらも、隙あらばこちらから仕掛けたいのだろうが、すでにそれを自覚することなく仕掛けている最中かも知れないが、何を仕掛けているかはその結果が出るまではよくわからず、結果が出てもそれに気づかない場合もあるから、どちらにしても意識している範囲内では何も仕掛けていないのかも知れないが、その一方で意識して行なっていることもあるだろうからその結果はわかるはずだが、はっきりした結果が出るようなことをやっているわけでもなければ、やはり何かを行なった結果を重視しているのではなく、その最中にどう振る舞うかを重視しているとしても、振る舞いとしてはバランスを重視した差し障りのない態度で振る舞っているように見えるのであり、そう見えることを意識しているわけでもないのだろうが、意識しなくても自然にそういう振る舞いができるようになっていればそれでも構わないはずで、何事もソフトな感触で差し障りのなさそうな無難な物腰や物言いに終始していれば、その場が丸く収まるとも思っていないだろうが、実際に丸く収まっているように見せかけたいのであり、実態としては丸く収まっていないどころか、様々な方面で確執や対立が表面化しているとしても、態度としては丸く収まっているような感触を保ちたいわけで、そういうところが図々しいというか、何を言われてもそれが跳ね返らずに衝撃がスポンジのように吸収されて気のない返答が得られるなら良い方で、大抵は慇懃無礼を通り越して一見丁寧で差し障りのない対応に終始しているように感じられるにしても、だからといって実質的にはゼロ回答のような結果を伴ってくるとすれば、しかも結果さえ出ていない段階に留まっていて、いつまで経っても結果が出ずに途中の段階に留まっているようなら、さすがにしびれを切らして否定的な評価を下さなければならないのだろうが、その評価まで下させないような微妙なバランスを維持しようとしているのであれば、戦略的にそういう姿勢や態度を保ちながらどっちつかずな焦れったい状態を維持していると見なすしかないだろうが、それが意識して戦略的な姿勢や態度でそうしているのではなく、その場の状況を反映した自然な発露としてそういう態度や姿勢になっているとすれば、その人にとっては意外と何でもないことなのかも知れず、いつも通りの通常の振る舞いを保っていれば自然とそうなってしまうようなら、それがその人のかかわっている物事の自然な成り行きでもあり、そんなふうに状況が推移している限りでその人のその場での有利な状況が揺るがないようならわかりやすいだろうが、それが有利であるかも怪しいところで有利でも何でもないのに、その人だけはいつまで経ってもそういう態度や姿勢を保っていられて、他の誰が有利になっても不利になってもその人だけは変わらず自然な振る舞いに終始していられるなら、その場で起こっている物事の何にかかわっているのでもないことにもなりかねず、表面的には直接かかわっていても、まるで空気のようにその場に溶け込んで、情勢や状況がどう変わろうともなぜか主流派の中に生息していられて、何かしらその中で無難な役割を担っているようなら、単に世渡り上手だと思ってみてもその通りには違いないが、世渡り上手だと言えるような目立ち方でもなく、むしろ不器用で憎めないぐらいの程々のところに留まっていれば、誰から攻撃目標にされることもないだろうし、それが攻撃されないように身構えているようにも見えないし、むしろ隙だらけでどこからでも攻撃できそうな脇の甘さを見せていれば、いつでも好きな時に攻撃できるから、かえって攻撃の優先順位としては後回しにされてしまい、それも意図してそう装っているようには見えないところが相手の油断を生み、気がつけばその場でそれなりの地位を射止めているようなことにもなれば、まさに棚から牡丹餅的な結果がもたらされていることになるのだろうが、結果的にはそう見えてもその場の成り行きからすれば極めて真っ当な結果だと感じられて、可もなく不可もなくといった妥当なようでいて物足りないような感じもすれば、可もあり不可もあるような選択肢が避けられた結果としてそうなってしまったのであり、そういう穏当な結果がもたらされると変化の可能性も後退して、その代わりに退屈な停滞がもたらされることもよくありがちとなるだろうが、そうなることまで織り込み済みでそうなっているとすれば、その場の衰退傾向がまた一段と加速しているようにも感じられるかも知れないが、そういう面も伺えるとしてもそれとは別の面も伺えて、そんな傾向が抑圧しているところから変化の波が生じて、その波が増幅されるようなきっかけが起こるのを待っている期間において、しばしばそういった停滞傾向がもたらされるのだろうが、そんな停滞傾向を担っているのがその場の状況を象徴するような人物でもあり、そんな人物に心当たりがあるようなら、その人が現状の微妙なバランスを保つ上で重要な存在としてその場で機能していると捉えておけばいいのかも知れず、それも将来の楽観的で甘い見通しの中でそう思われる程度のことであり、確かにその場では重要な立場や地位を占めているとしても、その場が過渡的な状態の中でそうなっているなら、そこから状態が別の状態へと推移していく過程において、その重要度が次第に失われていくような傾向になるかも知れず、それもまだこれといって結果らしい結果が出ていない段階では何とも言えないが、これといって結果が出ていない状況の中でその人の立場や地位が保たれているわけだから、そこからいったん結果らしい結果が出てしまった後ではその人の立場や地位も失われてしまう可能性も十分あるだろうから、その人はそれを意識していないし意識できるようなポジションではないのかも知れないが、その人にとっては結果がはっきりと出てしまっては困るような現状となっているのかも知れず、だから結果が出るのを絶えず先延ばしにするようなことをやるしかその立場や地位を保つことはできないのかも知れない。


12月20日「経験の蓄積」

 記憶が曖昧なのは正確には覚えていないからだが、何を覚えていないかはその時の状況にもよるだろうし、そこで経験したことを正確には覚えていないにしても、全く覚えていないのではなく、逆に大抵のことは覚えているような気もするし、実際に多くのことを思い出して、それを振り返って自分が直接やったことに関しては反省したり悔やんだりもしているはずだが、うまくやったことに関しては自信にもなっているし、自身の技量や能力への信頼にも過信にもつながって、たまたま運に恵まれたに過ぎないにしても、それが自分の技量や能力を信じるに足る結果だったような気がするのだが、それを経験した後からそう思っているわけだからそこで経験したことを都合よく解釈していることは確かで、自身の都合に応じて良いようにも悪いようにも解釈しているのだろうが、解釈している時には気づかず、うまくやったと思っている限りで自信と共に自惚れも生じてきて、それが場合によっては相手から付け込まれる隙にもなってくるだろうが、その時にはもう実際に対峙している相手などいなければ安心し切っているだろうし、それを思い返している時にはすでに余裕も出て、安心して思い返す余裕が出てきた時に思い返すことができるわけだが、そうなればやったことを都合よく解釈できる状況にもなっていて、逆にその余裕がなければうまくやったとは思えないし、何かをやった後にそれを思い返す余裕があればうまくやったと思うし、余裕がなければうまくやったとも思えないばかりか、余裕がないことが不安を募らせる原因にもなり、うまくいかなかったから心に余裕がなくなり、その時のことを思い出すも嫌になって、嫌なことは早く忘れて心機一転して出直そうと思うのだろうが、そこで忘れずに踏みとどまって嫌なことを思い出して、なぜうまくいかなかったのかを考える癖をつけたところで、次からはうまくいく確率が上がるかは、やっている内容にもよるだろうが、技術的な学習や練習の方法としてはそういうことをやりたがり、技能の向上が見込める分野では確かにそういうことの繰り返しが効果を上げる場合があるにしても、中にはそうではない分野もあるだろうし、それも学習や練習の方法にもよるだろうが、いくらやっても効果が上がらなければ、方法が悪いか自身に才能がないか、そのいずれでもないかも知れないが、それだけではなく技術的な要素も全体の一部分を占めるとしても、それ以外の割合の方が圧倒的に大きければ、例えば政治力のような曖昧で掴みどころのない力がものを言ってくると、論理的にも感情的にも割り切れないようなおかしな雲行きになってくるかも知れず、結果的にうまくいかなければ自身よりも他の誰かのせいにしたがったり、自らの力が遠く及ばない領域で物事が決定するようなことが起これば、あきらめがちになってしまうかも知れないが、それが自身の活動に直接かかわってくれば自力ではどうすることできなくなり、余計に不安になってきて、精神的にも追い込まれてくれば、焦りから何か突拍子もない常識はずれなことをやろうとして、さらに自ら墓穴を掘るような成り行きにもなってくるかも知れないが、それも心理的に余裕がないからそうなってしまい、それが職業的な余裕のなさや経済的な余裕のなさとも連動してくれば、自分がどうこうというよりは人間関係や社会的な地位や身分などの自らを取り巻く社会状況が自身の生活や活動の在り方を決定しているようなことにもなってくるだろうし、そうなっているのが現代的には通常の状態なのかも知れないし、それが悪いとは一概には言えないだろうから、むしろそれが自分の置かれた自然な状況であり、自分という存在を成り立たせている前提条件にもなってくるわけだが、そいう状態になっている上で自身の心理状態が良かったり悪かったりどちらでもあったりなかったりしているわけだから、心に余裕があってもなくても安心していようが不安を抱いていようが、そんなことは言い訳にもならないようなことをやっている場合であれば、その人の心身の状態など全く考慮されない状況の中でやらざるを得ないことをやっていることにもなり、そういうことをやっていてうまくいかなければ、それなりに不平不満を抱いたりそれを口に出して言う機会も得られるかも知れないが、口に出して言ったところで愚痴としてしか受け取られなければ、何がら年中不平不満や愚痴をこぼしながら作業に追われる毎日を送っているようなことにもなるだろうし、そういう毎日を送っていてもそれなりの報酬が入ってくれば不平不満や愚痴と相殺されていることにもなり、そんな状況が他の多くの職場でも見受けられるようなら、それなりに社会に活気があることにもなるだろうが、実際にそういう労働者的な状況に誰もが満足しているわけではないのはもちろんのこと、不満があるから愚痴をこぼしながら作業しているのだろうし、隙あらば同僚をおちょくったりふざけ合いながらもたまには上司の悪口を言って鬱憤を晴らしても、それでも絶え間なく仕事があって賃金がもらえて、結果的に生活が成り立っていれば構わないようなことでいいのかと言うと、そういう時代もあった程度であれば、それは過ぎ去った時代を懐かしんでいる老人の思い出話かも知れないし、今も世界のどこかにそんな職場がいくらでもあるかも知れないが、それの何が不満なのかと言えば、簡単に言えば労働者的な職場環境が不満なのだろうし、しかも不満と同居しながら作業に追われる日々が安定的にもたらされていれば、不満ながらも生活が安定していて、そのことだけに専念していれば済んでしまうようなことだから、他は何も考えなくてもいいとしても、だから愚痴をこぼす余裕も生まれて、愚痴をこぼしながらもできる作業にありついていること自体も不満だろうし、もっと自分でその場を取り仕切るようなことをやりたいのかも知れないが、そういう作業員がいるからその場を取り仕切るような役割も生じてきて、そこで愚痴をこぼしながら作業に追われる労働者とその場を取り仕切るような中間管理職のような役割が分担される状況になっているわけだろうが、果たしてそういう作業形態でいいのかというと、そういう作業形態が適合する職場とそうではない作業形態の職場もあるだろうから、愚痴をこぼしながら作業に追われる職場に適応した労働者が何かのきっかけからそうではない作業形態の職場に配置換えとなれば、その場の要領がわからずに面食らってしまうかも知れないが、与えられた作業内容をただこなしているだけであれば、慣れて職人的な熟練が伴ってくれば自然と不平不満や愚痴を言う余裕も出てくるわけで、そういう作業にいったん適合してしまった人が、果たしてこんなことを毎日のように繰り返しているだけでいいのかと自問自答するわけもないだろうが、不平不満や愚痴を言う余裕があれば、自分も人を雇って指図する立場になりたいという野望を抱く余裕も出てくるだろうし、あるいは個人事業主のようになって、依頼された仕事だけ請け負っていれば生活が成り立つようになれば、面倒で煩わしい職場の上下関係などからも解放されて気楽に生きていけるぐらいの甘い夢を抱く余裕も出てくるかも知れないが、そんな甘い野望や夢を抱く人も他にもいくらでもいるだろうから、必ずそこで競争が起こって、成功できる人はほんのわずかとなってしまい、成功した人が企業経営者となって事業を拡大させることにも成功すれば、そこでも職場で不平不満や愚痴を言いながら作業をこなす労働者が出現してしまうのかも知れないが、そんな経験が社会に蓄積していくとある時突然変異のようにそういう成り行きとは全く違った職場を構築することに成功する事業者も出てきて、また職場という多くの人が寄り集まって作業する形態とは違ったやり方も模索されるかも知れず、現状でも職場ではないところで仕事している人もそれなりにいるかも知れないが、それは人が使用する道具や機械や設備や施設などの形態に応じて仕事の内容も違ってくるだろうし、またそういう道具や機械や設備や施設を作る職場もあるから、その全てが機械によって自動的に作られるのではない限りで、そこに人がかかわってきて複数の人がそこで働いていればそこで人間関係が生じて、そこで他人や自身への不平不満や愚痴が生まれるわけで、だからそれがどうということはないのだろうが、もちろん諍いや争いから深刻な事態に至れば、それ相応に事件や事故が起こるのだろうが、そうなったことを誰のせいにしても、その誰かに落ち度があれば場合によっては罰せられるかも知れないが、それはそれで人を罰する制度に従って行われることであり、できればそういうことにならないようにうまく立ち回りたいと思うかも知れないが、うまく立ち回るにも技術的な熟練が求められるとしても、その場の運不運も影響してくれば、結果的になるようにしかならない成り行きに巻き込まれて、自らの都合とは相容れないことをやらなければならなくなって、思い悩むかも知れないし、場合によっては思い悩むような余裕さえなく、なるようになってしまった結果を受け入れざるを得なくなるかも知れないが、そうなった時に何かそれまでの経験によって培ってきた技術とは違うことをやらなければならない機会が不意に巡ってくるのかも知れない。


12月19日「似たような経緯」

 事の経緯を誰から知らされているわけではなくても、そこに至る経緯がよくわからない成り行きの中で、何を根拠にそんなことが言えるわけでもないが、身が危険にさらされていることを感じるのは、その危険が深刻な程度でなければ危険など感じないだろうが、何かしら身の危険を感じているとすれば、今のところはそれが何だかわからないにしても、原因が何も明かされていない中で何か深刻な危険が間近に迫っているのではないかと不安を感じるなら、それが何の前触れもなく不意にやってきて、どうにも対処できないようなことが起これば確かに絶体絶命のピンチだと思われるだろうが、実際にそんなことが起こらないように日頃から気をつけていることの一つや二つは誰にでもあるかも知れないが、大抵はその中の一つとして自らの健康に気を使うぐらいがよくありがちな気休め的な心がけだが、それと深刻な危険が間近に迫っていることとどう結びつくとも思わないとしても、何でも構わないから安心したいと思えば、藁にもすがる思いでどうということはない安心材料を過大に評価したくなるかも知れないが、それと共に用心するに越したことはないという思いが結びつけば、何事にも注意深く慎重に対処しながら石橋を叩いて渡るようなやり方を心がけたくなるところだが、フィクションならそういうことやっている小物の人物があっけなく殺されてしまったりするわけだが、現実の世の中ではどうかというと、簡単にいうならそれだけで人の運命が決まるわけではないということになるだろうが、少しはそういうことも加味されるものの、もっと何かその人とは関係のないところからその人の責任ではないような出来事によってその人の運命が決まってしまうようなことも起こり、それが不条理に思われるのだろうが、時には逆に不条理を利用して自らに有利な状況へと持って行きたいと思うにしても、自らが直接手を下さなくても自然とそうなってくれればなおのこと好都合だろうが、本当にそんなことが実現できるかというと、意識して積極的に何をしたわけでもなくても結果的にそうなれば、なぜか知らないがそうなったと思うしかないだろうが、そのなぜそうなったのかを詮索しないことが重要に思われてくれば、あえてそうなった理由を知ろうとはしないかも知れず、何でもかんでも探ろうとするのではなく、知りたくもないことは知らずに済ませておけるかが、その後の成り行きの中でも微妙なさじ加減を保っていられるような気がするなら、あえて触れずに済ますことも戦略的にはありだろうが、別にそれを戦略だと意識しないでそういうことができれば、そういう態度や姿勢が自然に身についていることになるだろうが、そんなことをやった結果としてもたらされた状況が自分に有利だとも思わなくても構わないのかも知れず、何だかわからないがそんな状況の中でもそれなりに生きていれば、それで構わないというわけでもないが、何か自らの在り方に疑念を感じているくらいがちょうど良くもないだろうが、良くも悪くもあると同時に良くも悪くもないような状況というのが、生きていく上で決して最適ではない状態だとしても、最適な状態を目指すのではなく、ほどほどのところで我慢できるわけでもなく、それが何か一定の状態ではなく、それなりに起伏があり、その起伏が祟って思うようにバランスを取れないが、それで構わないというわけでもないとしても、その場の状況に従ったり従わなかったり従おうとしても従えなかったりするとしても、それでも構わないというわけでもないが、それなりに抵抗感を覚えながらも生きている実態があれば、そう受け止めるしかないようなことになってしまうわけで、それが特に肯定も否定もしないが違和感もそれなりにある状況なのかも知れないが、そういう感覚が何を意味するとも思えなくても、ただ漠然と生きている実感が湧いてくるなら、何かしら取り組むべき課題があるような気がするのかも知れないが、それが何なのかといってもよくわからないところであり、よくわからないまま生きていればそのうちそれがわかってくることもあるかも知れないと期待しながらも、そんな期待もいつの間にか忘れ去られて現状の取り止めのない成り行きの中でその場の流れに身をまかせていれば、それなりになるようにしかならないことを実感させられて、それが自らの運命だと思い知ることもあれば、何かしらはっきりした結果を得られたことになるだろうが、はっきりしなければはっきりするまで自らにとって課題だと思われる物事に取り組むことになるだろうが、そんな課題も何もありはしない状況となってしまえば、何か社会から見捨てられたような気になって、自暴自棄なことをやってしまう場合もあるかも知れないが、そうなったからといって、それで世の中の何が変わるわけでもなく、一向に何も変わらなければ、自らに何の力もないことを思い知るのだろうが、そうなるだけ精神的に追い詰められることになるかも知れないが、人が暴発したり暴走してしまう理由や原因がその人にあるはずだと思いたいだろうし、実際にこれみよがしに何か目立つことをやってしまえば、当然やった責任がその人に降りかかってくるのだろうし、そんなことはおかまいなしに他の誰かも似たようなことをやっていれば、そんなことをやる成り行きに他の誰かも囚われていたことになり、似たようなことをやる人たちの間で似たような境遇が共有されていたことがわかるだろうが、複数の人たちが似たような経緯で似たような境遇へと至ったとしても、同じような境遇になったからといって全ての人が同じように暴発したり暴走するわけでもないだろうし、実際にはほとんどの人が暴発も暴走も起こさずに耐えていて、心身に変調をきたしながらも通常のレベルで普通の生活を送っているのかも知れないが、そんな状態にも各々で程度の差や傾向の違いがあるだろうが、自らが関わっていると思われる物事について単純に良し悪しの判断を下してしまうと、わかりやすくなると同時にそれが単純な行動に至る理由や原因にもなってきて、結果的に行為や行動の単純さが判断や評価の単純さからもたらされるように思われるわけだが、そうやって物事をはっきりさせてしまうと、それに伴って下される判断や評価もそれに基づいて起こされる行為や行動も、何かマンガチックな嘘っぽさが伴ってくるのかも知れず、通常の状況や精神状態ではそんなことはやらないようなことをやってしまえるから、それが暴発だとか暴走気味にやっているようなことになって、それが単純さの罠にかかっているようにも思われて、そうなっている人は精神がわけのわからない曖昧な状態に耐えられないから、行為や行動として暴発したり暴走してしまい、実際に理不尽な仕打ちに耐えるように仕向けられたり不条理な成り行きを受け入れるように強いられても、そこで自身が一方的に不利益を被っていると被害妄想に陥らないで耐えられるかといっても、耐えられないから暴発したり暴走してしまうとしても、時としてそれとは直接関係のない方面から及ぼされる別の作用を利用することで難を逃れられるようなら、それこそが幸運に救われるようなことかも知れないが、たぶんそこに気休め的な救いがあり、それも理不尽で不条理なことかも知れないが、そうなる手前で危険が間近に迫っている予兆を感じられるなら、少しは勘を信用しても構わないだろうが、そうでなくても理より利の方が優先される社会状況があるわけだから、何事も利益を優先させれば、理不尽で不条理な結果がもたらされても、それが論理的におかしいと思われてもそうなるのが当然なことも出てくるわけで、しかもそうだとしても利益だけが優先されているわけでもないと言いたいわけだから、例えば正義が優先されているように取り繕ってみたり、公正なことが行われているように見せかけられたりすると、そんなのは嘘だと言い放つのは簡単だが、それをやっている側からすれば、嘘だと思われるのも承知の上でやっていることであるから、それも想定内のことであり、いくら批判されてもすでにやってしまったことを変えるつもりも変えられる可能性もないわけだが、逆に暴発や暴走を誘っていると受け取られてもその通りかも知れないし、とりあえず理不尽な仕打ちに対して憤りを隠せない人たちの堪忍袋の緒が切れることも想定してそういうことをやっているわけだが、しかもそういう人たちによる批判を利用して政敵の類いの勢力を弱めることを狙っている可能性もあり、もちろんあからさまにそうなるように陰謀を巡らせているわけでもなく、それらの人たちにとってもなるようにしかならない成り行きの中で、そんな成り行きに沿ってちょっとだけそれを後押しするようなことをやっているに過ぎないわけだが、そこで肝心なのはあたかもフィクションの登場人物のような役割分担を受け入れている人たちには、その場の成り行きから生じる物語の筋から外れるようなことは何もできないと見ておけば良く、それでも何か絵に描いたような典型的な批判や非難を展開している人たちに同調して同じようなことをやろうとしてしまうと、そんなことをやっている人たちと共にフィクションの登場人物のような役割分担を自身も担う羽目に陥ってしまうのではないか。


12月18日「デジタル革命の促進」

 特に信用しているわけではないが、信用するしかないのが、貨幣や通貨の価値だが、信用していなくても売買や貸借で使っているわけだから、人が現代文明の中で暮らしていく上で欠かせないものとなっているのだろうが、暮らしていく上で欠かせないものなど他にもいくらでもあるが、他の欠かせないものと比べてどうというわけではなく、必要なものを手に入れるのに欠かせない行為として売買や貸借があれば、その時に必要なものが貨幣や通貨となるわけで、それ自体が必要というよりは、必要なものを手に入れるために売買や貸借を行う時に必要となるからややこしいわけだが、売買や貸借を行わずに暮らしていければ必要ではないにしても、そんなことはあり得ない状況の中で暮らしているから必要となってくるわけで、日々の生活の中で否応なく売買や貸借を強いられているわけだが、もちろん大半は売買だけで済んでいて、貸借に関しては賃貸住宅に住んでいたりローンの支払いがある限りで必要なのだろうが、銀行に預金口座があれば銀行に金を貸していることになり、クレジットカードを使っていてもクレジット会社から金を借りていることになるわけだから、意識せずに貸借にかかわっていて、まんまと銀行やクレジット会社に利用されているといっても、それもそうせざるを得ないようにされているから、それがないと困るような状況の中でそうなっているとしか言えないわけで、それだけ社会の中に張り巡らされている制度に拘束されているとも言えるわけだが、そうなっていることに関して抵抗感をそれほど覚えているわけでもなく、意識してそういう制度に逆らって何をやろうとするわけでもないから、特に嫌悪感を抱いているわけでもないし、暮らしや生活が維持できている限りでそれほど気にしているわけでもないだろうが、収入が継続的に確保されている限りで成り立っていることであり、何かのきっかけから収入がなくなったり資金の蓄えが底をつけば、途端に借金地獄に陥ってしまったりするわけで、それなればなったでまた別の制度が助けてくれる仕組みになっていて、自己破産や生活保護などの制度によって一応は助けられることになっているはずだが、制度的にはそうだとしても、自分の身は自分で守らなければならないのは当然のことであり、そうならないようにそうなる手前で何とかしようとするのだろうが、それ以前に暮らしや生活を維持するために日々活動している現状もあるわけだから、すでにそういうことをやっているだけで手一杯となっているなら、他のことに気が回らなくても仕方がないと言えば言えるわけで、人がそうなるように強いているのも制度のせいにできるかも知れないが、そうなることを狙って様々な制度が人を拘束しようとしているわけではないし、そういった制度を維持継続させるために尽力している人たちも、それが日々の収入を得るために必要だからそうしていると考えれば、お互い様だとも言えて、優位な立場から人を思い通りに操るようなことなどそう簡単にはできないと認識しておいても構わないわけだが、それが思い通りなのではなく、誰も思い通りにならないようにされていると考えても合点がいくかも知れないし、誰かが意図してそんな制度を設けたわけではなく、他にちゃんとした理由があってちゃんとした目的に応じて制度が設置されているわけだが、様々な理由や目的に応じて様々な制度が競合状態となっていると、そんな制度に邪魔されて思い通りのことができなくなることも出てくるだろうが、もちろん制度を利用することによって思い通りのことができるようになると宣伝されている面もあり、夢を叶えるために金を借りてくれというのが金を貸す側の宣伝文句であるなら、真逆のことが宣伝されていて、それが金を借りてその金を使って叶えられる夢に限定されてしまうところが、実際に金を借りる人には理解できていないといっても、そんなことは百も承知で金を借りるのだろうが、よく考えてみればそういうことなのだが、よく考える暇も余裕も与えられていないわけで、すでにそんな状況に追い込まれていることが自覚できるわけでもなく、それが制度の虜となっていることの証しだとも意識するわけでもなく、ごく当然の成り行きとしてそういう状況を認識しているわけだから、それを制度だとも思っていないわけで、そういうことはすでに織り込み済みとなっていて、その上で何をやるかが問題となってくると共に、何をやるかも問題とはならなければ、すでに何かをやっている中で、それをやっていることを前提としてそれに伴ってあるいはそれに依存しながら思考を巡らせて、そこでいかにうまく立ち回るだとか、どう振る舞えば自らが有利な状況となるかだとかの思惑が働いていることにも無自覚なのかも知れず、そうなると自らの嗅覚に頼って本能の赴くままに活動していることになるかも知れないが、言葉で説明してもピンとこないのかも知れず、行動や活動の中で何をどう感じているかが、それを言葉で説明する内容と一致しているかとなると、言葉で説明している時には一致させようとしているから、そう思うしかないだろうが、実態としてはよくわからないわけで、意識できるのは金銭的な収入を得てそれを使って何をやるかが目的となっているはずだが、それ以前に金銭的な収入を得ること自体が目的となっている面もあり、さらに金銭的な収入を継続的に得られている実態を認められると借金をすることができたり、クレジットカードを作ることができたりして、そうなって初めて金を借りられて、その金を使って夢を叶えるという宣伝文句に合ったことができるにしても、そういった前提条件を作ることが目的となっている面もあるにしても、実際にそうなった時にはそうなるまでの過程が織り込み済みのことなって、そんな制度的な前提条件を通過しないと何もできないわけではないが、そうなる過程でややこしいことになっていることが意識できないわけで、しかもそんな制度を作ってそこから利益を得ようとする企業がいくらでも存在していて、デジタル革命によって社会の効率化を促進しようと宣伝される一方で、金融業的な面ではいくらでも事態をややこしくして、回りくどい制度を構築することによって、そこから利益を得ようとしているわけだから、たとえキャッシュレス社会になったところで、各種のクーポン券だのポイント還元だののアプリがスマホの画面にアイコンとして無数に表示されることになり、常時数種類のポイント残高を確かめながらどのカードを使うかの判断が迫られるようなことにもなってくれば、結局クーポンだのポイントの分だけものを高く買わされていることになるだろうし、いちいちこまめにチェックしてクーポンやポイントを使うことなどしないなら、使わない分だけ損をしていることになるかも知れないし、その分だけそうしたクーポンやポイント制度を管理している企業の儲けとなってくるのだろうが、そんな中抜き的な利益を得るためにデジタル革命やキャッシュレス化を促進しているなら、会員登録などをさせられて個人情報を活用された上に商品宣伝のジャンクメールをひっきりなしに送られて、便利さを装った面倒なスマポ操作を強いられるユーザーが食い物にされているだけの感じがしないでもないが、そういった制度の罠を出し抜くにはできる限り現金払いを心がけた方がかえって得なのかも知れないし、スマホもできるだけ機種変更などせずに使える限りで古い機種を使って、クーポンやポイントを使えば安くなるところではなるべく買わなければ損した気になるから、かえって意識して無駄な買い物はしなくなって、トータルでは安上がりになるかも知れず、そうやってセコくてケチなやり方を心がけること自体が情けないことかも知れないが、そういう面ではそれをやれている限りでそれを自覚できるから、身の丈に合ったことをやっている感覚になれるだろうし、そういうクーポンだのポイントだので儲けようとすること自体が、そもそもその自覚もなくセコいやり方で金儲けを企んでいるわけだから、クーポン集めやポイント集めに奔走すること自体もそのセコさがユーザーに憑依していることにもなるだろうし、みみっちいことにこだわるように仕向けられているといっても、仕向けている側は本気なのだからそれをみみっちいことだとはこれっぽっちも思っていないだろうが、要するに仕向けて仕掛けている側もそんな仕掛けに乗ってクーポン集めやポイント集めに奔走しているユーザーも、そういうことのみみっちさに気づいていないわけだが、もちろんそんなユーザーなどほんの一握りに過ぎず、大部分の人はクーポンもポイントも大して使わずにそれらが期限切れになってから残念がる程度に留まっているのかも知れず、そうなってしまうユーザーがいればいるほどそれらを使わない分だけそれを扱っている業者が儲かるのかも知れないし、だからひっきりなしにクーポンやポイント発行してそれを使うように促して、ユーザーが使い切れずにみすみす使う機会を逃して期限切れになってしまうことを狙っているのかも知れない。


12月17日「象徴的な意味合い」

 この世界で現実に起きていることの一部としてメディアを介して知ることができるのは、何かしら象徴的な意味合いを伴って理解できる面であり、それが何を象徴しているかというとメディアが伝える特定の事件や事故から連想される社会情勢の類いとなるだろうが、わかりやすいところでは民族対立を連想させる事件とかが、地域紛争に伴ってその紛争を象徴するような大量虐殺が起こると民族間の対立の根深さを想像させるわけだが、その事件や事故がどんな社会情勢を象徴しているかといえば、それとは別の例では高齢者が自動車の運転を誤って横断歩道を横断中の母子を轢き殺した事件において、高齢者に対する警察の取り調べの際にその身柄を逮捕もせずに特別扱いしておかしいということになれば、その高齢者が上級国民だのと言われて、それが本来なら法のもとでの平等な社会であるはずの常識が疑われるような象徴的な事件であったにしても、どちらも社会の中での人や集団の力関係から想像される不平等な扱いに対する憤りの感情から象徴的な意味合いが生じるのだろうが、そういうのはわかりやすいからそれが象徴的な意味合いを連想させるわけで、わかりにくければ象徴的な意味合いなど想像できないが、わかりやすさで言えば例えば貴金属の金が富の象徴であるのは誰もが理解できるところであり、それは意味合いというよりは直接富を意味していることになるだろうが、それとは違い核物質のプルトニウムはその精製コストなどからグラム当たりで金よりも高価かも知れないが、少なくとも富の象徴ではなく、それよりは人体に有害な危険物質であることから死を象徴しているだろうし、核兵器に使われることから核戦争なども想像させるし、原発の否定的なイメージを象徴する物質だとも言えるのかも知れないが、実態としてはそれを専門に取り扱っている業者や関連する団体などに多額の富をもたらして、それによって利益を得ている人や団体にとっては実質的に富の象徴だと言えるかも知れず、それが象徴的な意味合いの典型例でもないが、そうやって物事からわかりやすい事例を交えながら象徴的な意味合いを引き出せれば、もっともらしいことを述べているような気がするわけだが、果たして象徴的な意味合いを利用して何を述べていることになるのかと言えば、複雑で込み入ったわかりにくい物事の絡み合いの中から、それを利用してわかりやすいイメージを抱かせようとして、それに関する象徴的な意味合いが導き出されるのだが、その一方でわかりやすさと引き換えにして物事の本質から目を逸らせようとする意図や思惑も働いている可能性もあり、さらにそこに隠されたメッセージを忍ばせている場合もあるかも知れず、それについては特定の人や勢力を攻撃する目的で特定の意味合いを伴った言葉を声高に叫ぶ際などにそういう傾向が出てきて、声高に叫んでいる言葉に象徴的な意味合いが込められていて、例えば特定の誰かに向かってその人が二重国籍だといちゃもんをつけるような人や団体がいるとすれば、そういう人たちは決まって自分たちが愛国者の集まりであることを強調したがるし、自分たちの国を守る愛国者が二重国籍であろうはずがないという象徴的な意味合いが込められているのだろうが、実態としては逆に移民となって外国から渡ってきた人ほど祖国ではないその国に忠誠を誓う傾向があり、それに関して例えばアメリカの日系移民が自分たちがいかにアメリカのために貢献しているかをを示すために、第二次世界大戦において志願して最も危険な最前線で勇猛果敢に戦い続けた事例もあるし、ギリシャからイギリスに渡ってきたユダヤ人の子孫であるディズレーリがユダヤ人でありながら保守党の政治家となって活躍して、ついには首相にまで上り詰めて、ビクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させて、イギリスを名実ともに世界帝国に押し上げることに貢献した事例もあり、元からその国の国民でないというよそ者の負い目が余計に愛国心に結びついて、日本でも朝鮮半島から渡来してきた家系の保守系政治家が終戦記念日にこれみよがしに靖国神社に参拝するようなパフォーマンスに出ることもあったが、そういうところにアンビバレントで両義的な意味合いも伴ってくるから、それがわかりやすいイメージだと思われても、それとは逆の意味に解釈できる可能性もあることも踏まえておく必要があり、両義的な意味合いを念頭においてその種のメッセージを読み取っておくことが肝要で、それが片側だけの意味合いとして強調して使われると、わかりやすさと引き換えにして一方的で偏向した固定観念の類いになるが、誰もがそれを信じているわけではないのはもちろんのこと、それを宣伝や煽動に使って愚かな支持者や賛同者を集めようとするのだろうが、それも誰も愚かではないだろうし、そういうことが分かった上でポーズとして支持や賛同を装っていて、心底から信用しているわけではないことがそういった物事の本質的な面を表しているのだろうが、建前上とか表向きにはそういうことをやらないとそういう活動そのものが成立せず、そこに加わっている誰もが演技者としてそんな役割を演じていることになり、それがメディアを介して見せられると何かのフィルターを通過しているから嘘っぽく感じられてしまうわけだが、そんな偽りの演技に騙されてはいけないということではなく、誰も騙されてはいないし、誰もが承知している何かがそこで演じられていることも、ほとんどの人は気づいているのだろうが、誰もが気づいているにも関わらず、その種の演劇がメディアを介して世の中に広まっていくから、それが虚構ではなく現実に起こっていることにもなり、そういうことの延長上で民族紛争の類いが世界各地で実際に起こっていて、実際には経済的な利害関係に起因して始まってから政治的な権力争いに発展して泥沼の内戦に至る場合も多いだろうし、昔は特定の民族による軍事的な征服と帝国的な統治によって一定の期間は平和が保たれていたが、現代では民主主義が表向きには世界標準となっているから、経済的には貧富の格差があるにしても政治的には平等でなければならないという不合理を達成しようとするから、そこで均衡を保つのが難しく、仮に一時的には独裁的な支配体制を確立できても、民主的な政治体制を維持している国々から非難されて、経済制裁などを受けてしまうから、国内の情勢が安定せずに、それだけ紛争が長引いて泥沼化してしまうのかも知れないが、そんな政治的にも経済的にも混乱状態の国々から、民主的な政治体制を維持しつつも経済的な優位を確保している国々へと、移民が流れ込んでいる現状があるのだろうが、そこにどのような象徴的な意味合いがもたらされているかというと、昔ながらの南北間の経済格差だとか、これも昔ながらの少数民族を弾圧する独裁国家を象徴する存在として中国が世界的に目立っているわけだが、もちろん他にもロシアやトルコなどもあり、民主派を弾圧している事例としてはベラルーシやミャンマーなども目立っているだろうが、そうした比較的非難をしやすい独裁的な国家と、一方で民主的な政治体制を維持している国の中にいる愛国者たちが表向きには対立や敵対を装うことも比較的容易にはできるものの、愛国者たちが攻撃している対象が国内にもあり、そうした攻撃の対象となっている人や勢力も独裁的な国々が各々の国内で民主派や少数民族などを弾圧していることに対しては非難しているわけで、そんなふうにして物事が複雑に込み入った状況となっていることが、果たしてわかりやすい象徴的な意味合いを利用した意見や主張の中でちゃんと説明されているかというと、都合の良いところは説明に利用されている面もあるだろうが、何が都合が良いのかというと、部分的に説明するには都合が良く、全てを説明するには都合が悪いと言っても、全てを都合良く説明できるわけでもなく、当然都合が悪い面も出てくるだろうから、そういう面を省けば都合良く説明できるかも知れないが、それも何が主張や意見の中で都合が良く何が都合が悪いかを多くの人が理解している中で説明が行われている現状もあり、そこでも誰もがそれを理解しているにも関わらず、都合が悪い面を省いた都合の良い主張や意見を支持したり賛同しているふりを装っているわけだから、そういう方面での政治的な主張や意見にはそれがないと成り立たない現状もあり、それについても誰もが分かっているのだろうし、そういうことに対する民主的な政治体制を維持している国々の政治家たちが出す非難声明の類いには、微妙な意味合いが込められていると受け取るしかないわけだが、そういう面を中途半端に残しているから、それが世界の現状の維持には欠かせない要素となっていると捉えておけば良いのかは何とも言えないところで、実際に現状が破綻して大規模な戦争が起こってみれば、そうではなかったことがはっきりするだろうが、そうなってからでもまた新たな状況に適合するわかりやすい象徴的な意味合いが導き出されて、そんな意味合いを含んだ言説が世界的に流行するかも知れないが、そういう意味では象徴的な意味合いを利用した物事の説明によって誰もが現状をもっともらしく理解できるのだろうが、理解したからといってその理解とは矛盾するような面についても暗黙のうちに誰もが理解しているのかも知れない。


12月16日「思考のとりとめのなさ」

 普通は自分にとって良いと思うことをやって悪いと思うことはやらないのは当然だが、それが思うということである限りで、本当に良いか悪いかがわからない場合もあるが、それも普通は知識や経験や勘から良いか悪いかがわかるから、思ったことをやるしかないわけだが、もちろん思っていてもできないこともあるし、悪いと思ってもやらざるを得ない場合もあり、その場でできることをやろうとして、それに成功したり失敗してしまうわけだが、その一方で良いか悪いかの判断を伴わずにやっていることもあるし、やった後からそれが自分にとって良かったか悪かったかがわかったりわからなかったりすることもあり、さらに言えば心には良くても体には悪いことであったりその逆であったりすることもあり、良いことも悪いことも同時に起こるようなことも、その時は良くても後になって悪くなったりその逆であったりすることもあるだろうし、その場の条件や状況や経緯や事情によって良いか悪いかが違ってくる場合もあるかも知れず、一概には良いか悪いかあるいはどちらでもあったりなかったりも言えない場合もあるだろうから、そんなことを言い出したり考え出すときりがなくなってしまうだろうが、要するに単純に良かれと思ってあるいはできると思ってやってそれがうまく行ったり行かなかったりしても、そこで終わりとはならなければ、さらにそれ以降も継続して何かをやっていれば、それをやる機会が巡ってきているということでもあるから、それをやっている状況の中で色々と判断することもあるだろうが、やった後からそれを良かったの悪かったのと判断しても、すでにやってしまったわけだから、さらにそこからそういう前提の上にやっていることを積み重ねていくしかなく、それについて考える機会があればいくらでも考えて、それに関して何かしら認識や判断や結論などが出てくるかも知れないが、またそれに基づいてやることも変わってくるかも知れないし、それも思考と行為と行動が噛み合って何か目的を伴った活動へと発展したり、あるいはそれらが時と場所を隔てて分散してしまったり、相殺し合って特にまとまった活動にはならない場合もあるだろうが、それをどう評価することもなければ、そんなふうに生きているのであり、他にも様々な生きている形態があるとしても、誰がどんなふうに生きていようとそれをどう捉えてみてもそうなっている状態から何かわかることがあれば、それを肯定的に評価したり否定的に批判するようなことも行われるかも知れないが、自分ではそれを制御しきれないから、自分以外の何かと関わりを持つことになれば、自分だけの判断では行為や行動が完結できないようになってきて、そうなると他人に判断を仰いだり他人の意見も聞くことにもなるだろうが、それが自分の判断や意見と違ってくると、折り合いをつけなければならなくなったり、妥協や譲歩を強いられたり、その場の力関係や権力関係などから自分の判断とは違うことをやらざるを得なくなって、ストレスから心身に変調をきたすこともあるだろうが、そもそも自分が何も判断せず、どんな意見も持ち合わせていなければ、他人を信頼して他人に判断をまかせ切りにしたり、他人の意見を聞いてそれに従うだけの態度に終始していれば、自分には主張が何もないことになってしまうだろうが、それでいいのかといっても戦略としてそういう丸投げ的な態度を取ることも場合によってはあるだろうし、そうやって他人に責任を被せておけば自分は責任逃れができるかといえば、それもその場の力関係や権力関係からそういう狡いことができる場合もあるだろうが、それを他人の意見を聞くのがうまいだとかおだてて、その人に取り入るような成り行きがあるとすれば、その人に権力があるからそういう成り行きになるのだろうが、一見そういう成り行きになっているように感じられるとしても、そこで注意しておかなければならないのは、その人に心理的にも立場的にも余裕があるからそういうことができると捉えれば、その人の懐の深さを感じられて、その人に良い印象を抱けるとしても、仕事上の功利的な判断でそういうことをやっている場合は印象が違ってくるだろうし、その種の信頼関係から友情が芽生えて美談のような話に持って行きたい思惑が働くかも知れないが、そういう思惑も見せ物じみた話を語ることを生業としていれば、美談に見せかけようとする思惑があるのではないかと勘ぐってしまうわけで、それも状況や成り行きによっては疑い出すときりがないわけだが、他人に良く思われたくて、好印象を得られるようなことがやりたいと受け取られると、そんな下心を見透かされているようなことにもなり、別にそれでまずいわけでもない立場やそういうことに特化した接客業のような職種もあるだろうが、それのどこまでが演技でどこからが心のこもった本心の表れなのかの判断など普通はつかないだろうし、どちらでも構わない場合もあるし、こちらが気にならないように演じてもらえばそれでいいのだろうが、そういったことにまで考えを巡らすこと自体がはしたないと思われるかも知れないが、そこで何を素直に受け入れるかでも人としての懐の深さが窺い知れるかも知れないし、疑っているようなそぶりすら感じさせないことも演技に含まれてくるかも知れず、相手に疑念を抱かせないように振る舞うことが、果たして良いことなのか悪いことなのかも、相手が結果的にどうなるかにもよるわけだから、そこでも他人まかせな面もあるにしても、功利的な思惑と共に倫理的な思惑も伴ってくると、なるべく相手を騙したくないからありのままの反応や態度を理解してほしくて、あえて嫌われることを厭わない行為や振る舞いに及ぶ場合もあるだろうし、そういうことができる立場もあるだろうが、立場がなくてもそういうことをやってしまえば、場合によっては身に危険が及ぶこともあるし、そういった危険を引き受けながらそういった姿勢を貫くようなら、人によってはそれが感動をもたらすことにもなり、それも美談の商売ネタにもなりそうだが、そういう人を感動させるような演出が必要なのかというと、それも時と場合によっては必要だろうが、それとは矛盾するが、そうした感動を誘う思惑の一切ない状況下で感動できるかというと、それがないから逆にありのままの姿に感動することもあるだろうし、どちらがどうということもないだろうが、何かもっともらしく振る舞っているように装われていることと素直な振る舞いになっていることの見分けがつくかというと、それも見分けがつく時もつかない時もあるだろうし、その場の成り行きからそう思われたり思われなかったりするだろうが、そう思われても思われなくても、実際はどうかわからない場合もあるだろうから、気にならなければ無理にそんなことを気にして探りを入れるようなことは慎んだ方が良さそうで、それが演技であろうとなかろうと、その場が丸く収まればそこに居合わせた誰も悪い気はしないだろうし、逆に気を利かせてそういう演技に及ぶことの方が多いかも知れないが、その場でのやり取りや駆け引きがその後の成り行きや情勢にどのような影響を及ぼそうと、そんな気遣いや心遣いだけでどうにかなるような問題ではない場合もあるだろうから、そういうことだけに細心の注意を払ってもそれは表面的なことであり、本質的にはどういう事情でどういう経緯や経過を辿ってそういう気遣いや心遣いに及んだかが問題となってくることもあるだろうが、それでも見てくれやカッコつけ程度のことに気をつかえないようなら礼儀をわきまえていないことにもなるだろうし、そういう儀礼的な面を重んじる場所というのもあって、そういう場所ではそれが重視されて、失礼のない振る舞いが求められて、その度合いが強くなるほど空疎な演技が幅を利かせて実質的な中身のない儀式が行われる傾向も強まるかも知れないが、それが見せ物としての価値を高める場合もあるだろうし、鑑賞物的な価値というのがそれを観る人にどのような影響を及ぼすのかとなると、観る人の潜在意識に語りかけてそういうことをやるのが何か良いことのように思わせるのだろうが、それが見せ物であるだけに見る行為しか起こさせないのであれば、見る以外には何の価値もない成り行きでしかないわけだが、しかもそれが豪華な装飾が施されているようなものであれば、それだけ費用もかかっていて、多数の人員が動員させられていれば、誰かの命令に従わされて多くの人がそこで働かされている可能性もあるから、果たして見るだけのことにそれほど多額の費用をかけたり多くの人が命令に従うようなことが行われても構わないのだろうかと疑念を抱くようなら、そこにも権力関係が働いていることに気づくきっかけになるかも知れないが、それが多くの人を喜ばせるような娯楽として盛大に行われていれば、権威の誇示とは違う催し物だとされるのだろうが、その違いが何かといっても両方が入り混じっている場合もあるだろうし、その典型がオリンピックや万国博覧会などの公共機関が関与する催し物になるだろうが、人々にその違いを抱かせないように振る舞うのも政治家の演技などには含まれているのかも知れない。


12月15日「必要性の曖昧さ」

 自分に何が必要なのかは、必要だと思っていることと本当に必要なことが違っている場合もあり、自身が必要ないと思っても必要な場合もあるらしく、そうなった後からそうなることが必要だからそうなったと思われることがあれば、そうなることが必要だったと思うしかなく、それが勘違いでも間違っていても構わないと思えるようなことも必要な場合もあるだろうし、必要でなくても構わないと思うことも必要なら自らの必要であるかどうかの判断でさえあまり信じていないわけだが、そんな自分から離れて、例えば今の日本に何が必要かという問題の立て方が必要なのかといえば、日本の政治風土に問題があり日本の若者の政治意識が問題であるとしても、そうした問題意識が必要でない可能性もあり、必要性が問題なのではなく、それを問題視する必要もないということでもなく、普通に何が必要かと思うのは誰もが思うことだが、その必要性が間違っていたり見当違いであることも必要なのかも知れず、それが見当違いであるから必要だと思われる場合があり、誰もが身の程知らずな物事を必要だと思ってしまうから、理想と現実の落差を思い知るのであり、そしてそれを思い知ることも必要であり、それを思い知った上で、なおもそれを求める姿勢も必要であれば、身の程知らずにも拍車がかかって、身の程をわきまえない無謀なことに手を出して、大抵は大失敗してしまうのだろうが、中には何かの偶然が作用して、奇跡的に成功する人も現れて、そこから自分を信じることが大切だとか、勘違いな思いを抱くことができるわけだが、それが見当違いでは済まなくなれば、それについて真剣に考えるような成り行きになるのだろうが、それが勘違いで見当違いであるからこそ、世間の常識に囚われた人々を出し抜くこともできて、そうなる過程で多くの人が失敗して脱落しながらも、そこからわずかな確率で成功者が現れるのかも知れないが、他の多くの人もそんな成功の恩恵に与れる成り行きになれば、それが立派な社会貢献にもなるかも知れないが、そういうことを試みる全ての人がうまく行くわけではないことは事実であり、うまくいかなくても生きている人も大勢いて、成功したごくわずかの人よりはうまくいかなくても生きている人の方が圧倒的に多いことも確かで、そういう事実が動かし難くあるから、うまくいかない大多数の人々のために政治が必要であるのも当然なことかも知れないが、そこから社会主義や共産主義などの思想も生じてきて、多数派の利益を守ろうとする民主主義の主張も生じてくるのだろうが、建前上はそうであってもそれが政治の全てでないのは百も承知で、政治が世の中の全てを覆っているわけでもないのも分かりきっていることだが、例えば日本で識者が移民を受け入れるだの受け入れないだのと議論していることと、ナイジェリアからギリシャへと不法移民してきた一家の息子がバスケットボールの才能を開花させてアメリカのNBAでスーパースターとなったこととは次元の違うことであるのも分かりきったことだとしても、不法移民の中からわずかな成功者が出てくることと、移民をある程度は合法的に受け入れる必要があると提言することも別問題かも知れないが、それはそれでこれはこれであることが政治的には容認できないから、それが政治の限界であると同時に政治以外の可能性もあって、政治だけでは解決できないことがあり、それは政治によって解決する必要がないとも言い切れないが、成功を夢見て不法に越境してくる途中で命を落とす人が大勢出てくれば、それが政治問題化するのは当然のことで、対策を求められても有効な解決策が出てこないだろうが、実際に対処を迫られて批判されながらも対処している現状もあるわけだが、それと同じではないものの、日本では貧富の格差を是正すべく所得格差を縮める取り組みや貧困問題に関して政治が有効な対策を実行できていないことが問題視されているとしても、直接それに取り組むことができない事情があるなら、それとは別の方面から別の政策を推し進める必要があるとすれば、もちろんそんなことが必要であるとは誰も思わないような政策など推し進められるはずもなく、民衆から支持を取り付けられないような政策は推進できないし、また関係する各省庁などの政府の官僚機構から抵抗されても、形骸化を被ったり骨抜きにされてしまうから、どちらにしてもうまくいかないのかも知れないが、当面はうまく行く必要がないとすれば、では何のためにそんなことをやるのかとなるだろうが、わけのわからない政策を打ち出して困惑されたり、各省庁から抵抗されるような政策を打ち出して、かえって抵抗勢力の存在を際立たせたりしながら、そうした困惑や抵抗に対応することによって事態の進展を図ろうとしたり、そんな搦手を使ってでも行き詰まりを打開して事態を前進させることが肝要というわけでもないだろうが、それでは物事が前進している感じもしないかも知れないが、そういうことが政治にできることであり、問題の解決を図るというよりは事態の混乱を加速させたり、成り行きを捻じ曲げたりすることが政治には可能なのかも知れず、政治が直接問題を解決するのではなく、結果的に問題の方向を逸らせて議論の中身を別の問題へと移し替えたり、別の問題も解決できなければ新たな問題を捏造してそちらへと関心を向けさせたりしながら、いつの間にか様々な問題の中でどれを優先して取り組むべきかを決めることがそこでの優先すべきことになったり、それが決められなければさらに別の問題を提起するとか、そうやってそこに問題の迷路を築き上げれば、どの問題に取り組んでも他の問題が邪魔をして遅々として問題の解決に向かって前進していないことになってしまうかも知れないが、それだけ取り組むべき問題が山積していれば、少なくとも取り組んでいる間はその作業がはかどらなくても、取り組んでいる途上にはとどまれるわけで、そうやって政治の領域を拡大させながら可能な限り他の領域や分野も政治の領域へと引き込んで、様々な領域や分野で政治が取り組むべきことを増やしていけば、それが政治的な活動を活性化させることにつながり、政治に魅力を感じさせることにも成功するかも知れないし、実際にもこれまで政治に関連して行われてきたのはそういうことだったのかも知れず、絶えず自らの活動領域を広げることが政治には求められて、世の中の様々なことに首を突っ込むからそこで関わりもできて、そうやって人々の政治に対する関心を煽り立ててきたのであり、現状で政治に対して関心の薄い人が増えているとすれば、政治がそういう人が関心を抱くような領域へと進出していかないからで、その必要がなければ関心を持たれないのも当然だろうし、逆に政治の方ではその必要が感じられなくても必要を捏造しなければならなくなるような成り行きへと無理やり持っていくようなことをやるしか、そういう人たちには未来永劫関心を持たれないままとなるようなことでもないが、そういう意味では必要のないところに必要を作り出すのが政治の特性なのかも知れず、しかもそこで生じている問題を解決するふりをしながら、かえって事態をこじれさせてさらに面倒で厄介な問題を作り出すのも政治の特性なのかも知れないが、それも経済と共に現代社会の主要な構成部分であり、政治と経済によって現代社会が構成されているように感じられるわけだが、そうやって政治も経済も人の生活を侵食して行って、それらなしでは生活が成り立たないようにしたいわけでもないだろうが、そんな意志がどこから生じているわけでもないにしても、経済の方は今も執拗に食い込んでくるのに対して、政治の方は無関心であっても大丈夫なように次第に無力化されつつあるかも知れず、もちろん独裁体制の国々であればそんなことはなく、隙あらば人々の生活の隅々にまで監視の目を行きわたらせて支配体制を確立したいのかも知れないが、そうした政治の支配を逃れるには何が必要なのかといっても、それが民主体制の確立だと安易に思ってしまうと逆に支配の罠に嵌ってしまい、民主主義と独裁体制とは表裏一体の構造を成していると言っても誰も信じないだろうが、そこでも民衆の方が逆に政治へと関心を向けて、政治に介入しようとすることが肝心だとも思わないだろうが、その介入の仕方が問題となってくるわけで、無関心であっても構わないのにその必要性を感じなくても必要性を作り出すようなことをやらないと、関心がそこへと向かないわけで、政治の方でも必要がなくても必要を作り出さないと必要が生じてこないのと同じではないのだろうが、民衆の方でも介入への必要を感じなくても無関心を装っていても大丈夫なのに、功利的な観点からすれば何の必要性もないのに、それとは別の方面から余計なこととして政治に関心を向ける必要を作り出すようなことが求められているわけでもないのに、必要だからそうするというよりはそういう感覚が曖昧なままでもそうすることが面倒でも、それによってややこしい事態に巻き込まれて鬱陶しく感じられても、そういう必要を捏造しないと無関心になってしまうようなことかも知れず、そうは言っても誰もピンとこないだろうが、その必要性を強調してもピンとこないだろうし、関心を持たなくても困らなくても、政治の方から必要でないと思わされていると誤解しても構わないようなことなのかも知れない。


12月14日「説明の回りくどさ」

 単純なことを言うなら分かりやすく、物事を複雑に込み入らせて回りくどく説明するなら分かりにくくなり、複雑で回りくどい仕組みにもちゃんとした理屈があって、カオス理論のような複雑な仕組みで動作する機構であれば解析が可能となるだろうが、それが解析の対象となっているわけでもなければ、ただ単に乱雑な動きをしているようにしか見えないかも知れないが、見た感じが機械のような動作であれば、何を意味しているのかといえば、それとわかるような特徴的な動きをしていて、動いているそれを見ると外見が機械であれば、その動作も割とすぐに機械のカテゴリーに属する動作だとわかるだろうが、外見が動物のようで、見た目も機械だとは見えなければ、外見から判断して動物ではないかと認識するだろうし、例えばネズミが辺りを忙しなく動き回っていれば、餌でも探しているのかと想像してしまうが、それがゴキブリでも同じことだが、ロボット掃除機のルンバが部屋の中を動き回っていれば掃除しているのが一目瞭然だが、人が部屋の中を忙しなく動き回っていれば、何かそこで作業をしているのか、あるいは何もすることがないから手持ち無沙汰で考え事をしながらうろついているだけか、さらにはじっとしていると体が鈍ってしまうから何か運動している最中なのか、ただ動き回っているだけという情報からでは判断がつきかねるが、わからなければ判断する必要もないことかも知れないし、わかったところでそれが興味のないことであれば、判断するだけ無駄かも知れないが、そこでどんな判断をしているのかといえば、何もすることがなければ何も判断のしようがなく、何もしないことの是非を判断することになれば、そんなことは判断するまでもなく悪いに決まっているが、逆に何もしないことが良いと判断されるようなら、何かをやったことが悪いと判断したことと連動していて、それがなぜ悪いことなのかを説明した上で、だから何もやらない方がマシだと判断するなら、何かそれがもっともらしく思われるかも知れないが、なぜそこでそういう判断をするのかといえば、何かをやったことが気に食わないわけで、そんなことをやられたおかげで不利益を被ればなおのこと余計なマネをしやがってと憤っているのかも知れず、そういう事情や経緯が付け加えられるなら、そこでの物事の成り行きにリアリティが伴ってくるだろうが、その判断が問題なのではなく、実際に行われたことの是非が問題なのでもないとすれば、何も問題などありはしないとはならないが、何の問題もなければそこで是非を判断するようなことでもなく、判断が必要なのは物事の是非というよりは判断するタイミングであり、機会を捉えて判断しないと判断が無効となってしまうようなら、そのタイミングによっては判断の是非が逆になることもあり得るのかも知れず、同じ行為や行動でもその機を逸すれば有効には機能しないことになってしまい、何事も好機を捉えて行動するのが行動するに際して守るべき鉄則だとしても、今が行動を起こすのに好機か否かを判断するには何が必要かといえば、それに関する知識や経験や勘だと思われるが、そんな知識や経験や勘を養うのにも好機を捉えないと養えないとなると循環論になってしまい、言うだけならそんなことをもっともらしく言えるが、煙に巻くような言い方もできるだろうし、何とでも言いようのあることやないことであっても、実際に行為や行動を起こした結果からわかるようなこともわからないこともあるから、真に受けるようなことでもなくなってしまい、具体的にどんな行為や行動に及ぶかで結果がどうなるかが決まってきたり決まらなかったりする中で、それについてああだこうだとその是非を語る必要があるかというと、それについて語りたければ勝手に語っていればいいだろうが、それが放っておかれる限りで語っていられる状況なのかも知れず、実害をもたらすと判断されれば語るのを阻止されるだろうし、阻止されなければ語ることの是非とは関係のないところで語っているか、無視できる範囲内で語らせておくのか、あるいは語らせることによって利益が得られると判断しているのかは定かでないが、思い込みや思い過ごしでそんなことを想像してみても十中八九は的外れであり、それが語ることの自由度とも関係があるとさらに的外れなことを述べてみても構わないが、語る人の意識の中で何かが暴走していると捉えるなら、それが説明する対象にも含まれていて、それについて語ると言葉の暴走をもたらすような対象があるのかも知れないが、誰かが予想しているのはそれとは違い、語ることの利害に関する思惑から、好機を捉えてそれについて語りたいのであり、今がその好機だと判断したから延々と同じような内容を執拗にこれでもかと語っているわけで、それがその人の勘違いだとすれば的外れなことをやっているのだろうが、現状でもその公算が高いとしても、語らせておけば気が済むまでそれについて語っているのが現状であれば、いくら語っても気が済むはずがないから幾分暴走気味に語っているわけで、そんな暴走する語りが放っておかれることが何を意味するのかといっても、そんな語りには興味がないから放っておかれているわけで、当人は好機を捉えて語っているつもりであっても、それを端から見れば暴走しているようにしか感じられなければ、何か的外れなことをやっているだけなのだろうが、実際に放っておかれるにまかされているわけだから、その意味では当人の思惑とは関係なく好機を捉えて語っていると言えて、中には自動車を当てもなく運転していて、それが暴走状態に見える人もいるかも知れないが、それも暴走の意味するところに合致しているものの、語るのと自動車を運転するのとは動作が異なるにしても、何かが暴走状態であるのが都合が良いとか悪いとかではなく、ただ単に動作が過剰に表れていて、そんな過剰な動作を強いるような環境の中で活動しているのかも知れないし、強いられてそうなってしまうと言うよりは手軽に気軽に過剰な動作を行える環境なのかも知れないが、そんな環境下で活動していることが好都合なのかあるいは逆に好都合に思わせるような罠でもあり、実際には消耗させられて活動している媒体に養分を吸い取られている最中なのかは、どちらでもありどちらでもないようなことだろうが、それを無駄に過剰な活動を強いられていると判断してみても、嬉々としてそんなことをやっている人が大勢いるのを目の当たりにすれば、そんなことをやっているのがその人たちには似合っていると見えてしまい、そこにそういうことをやる専用の人たちとして存在していると捉えておけば、それはそういうことだと見なしておくしかなく、しかもそれを観ている人たちもそれよりもさらに桁違いに多いわけだから、まさにそれが一大産業となってそんな活動が行われているわけで、そうであればそれが過剰な活動というわけではなく、そこではそういうことを行うのが普通であり、逆にそうしなければそこでは生き残れない環境の中でそんな活動が行われているわけだろうが、その一方では放っておいてもそうなってしまう成り行きの中でそんなことが行われているとしたら、自然の成り行きでそうなっている面もあるだろうし、自然にそうなっているのだから過剰でも何でもないとも言えて、それが過剰だと感じられる人の方がそれが自然に感じられる人よりは、そういったことが自然な成り行きとなっている時代状況から遅れてしまっているとも言えるかも知れないが、そうだとしても人によって感じ方にも差があるだろうから、程度の差に過ぎないとも言えるだろうし、どちらにしても深刻に受け止めるようなことでもなく、それが良いとか悪いとかとは違うレベルでそうなっているに過ぎないことだとすれば、人が許容できる限度内でそうなっているに過ぎないことだが、少なくともそれらの全てにおいて暴走行為となっているわけでもなく、一部の過激な方面ではそうなっている分には、いつの時代でもそういう方面でそういうことが行われてきたわけで、そういう方面で活動する人たちがそうなっている分には、放っておかれるのがありふれた成り行きなのかも知れないが、具体的に何がそうなのかといっても、それを特定したり名指ししてどうのこうのと言うほどのことでもなく、それを明確にする必要もなければその程度のことだと思われても構わないことだが、実際に特定できるようなことでもなく、何となく雰囲気で語っているようなことかも知れず、そういう意味で雰囲気とか空気とかの形のはっきりしないことについて語り出すと意味不明になってしまうかも知れないが、それが機会を捉えて語るようなことでもないとすれば、無駄に無意味なことを語ってきたわけだが、今が果たしてそれを語るタイミングだったのかと言えば、今何を語っているわけでもなければそのタイミングでさえもなかったのかも知れないし、しかも機会を逸しているような気がするとすれば、それが別のことを語る機会だったのかも知れないが、それについて語るのが嫌だから、苦し紛れにそれとは別のことを語ろうとして失敗してしまったのかも知れないし、あるいは何も語っていないようでいて、しっかりとそれについて語っているのだが、それを語っていないように見せかけることに成功したから、一見何も語っていないような内容になっているのかも知れない。


12月13日「思いがけない光景」

 目の前で思いがけないことが起こっているのに、それを想定内のことだと強弁してみても、現実に体験しつつある物事の成り行きが事前に想像していたのとは違うのは当たり前のことだが、それでもこれまで通りのことをやっていられるなら、それが継続できている限りで安心感を得られる一方で、そこから好奇心の赴くままに未知の領域へとさらに一歩を踏み出すには勇気がいるだろうし、必要とあらばそうしたいだろうが、必要だからそうするのではなく、自らの意思と無関係にちょっとした不注意や外部的要因によって偶然にそうなってしまうようなら、事態が進んでいる途中で不安感が募ってきて、それ以上先へ進むのを躊躇してあともう一歩が踏み出せずに尻込みしてしまえば、そこから引き返してこれまでの範囲内に戻ってきて、そこで停滞感や行き詰まりに耐えながら妥協する選択肢も脳裏をかすめて、そんな状況から抜け出すことを常々願っていたのに、実際に抜け出すきっかけを掴みかけると怖くなり、なかなか踏ん切りがつかずに事態を進展させようとせず、みすみす機会を逃すようなことになってしまえば、後悔してしまうのはもちろんのこと、自らの決断力のなさに嫌気が差して、ますます自己嫌悪に拍車がかかって消極的な守りの姿勢へと自ずから収まってしまい、果たしてそれが目の前で起こっている思いがけないことかといえば、大したことは何も起こり得ない状況の中でそんな事態を想像しているだけで、他の誰かが何やら画策した結果としてそうなったわけではなく、誰も何も画策していないから手詰まり感を覚えるわけで、実際にもそこから抜け出そうと自ら画策しているわけではなく、あえて停滞した行き詰まりの状況の中に留まっているわけでもないが、できれば一刻も早くそこから抜け出したいのに、なぜそこへと否応なしに留まろうとしてしまうのかといえば、自らの意志で留まろうとしているわけではなく、抜け出そうとする度に逆にそこへと押し戻されてしまう成り行きに困惑するしかなく、結果的にそうなってしまうことが思いがけないことではあるものの、一方的にそうなっているわけではなく、ある程度は逆方向への力も働いて、そうなっている中でも徐々に何かが動きかけていて、意識してそれを動かそうとしなくても自然に動いてしまうような気がすることもあるが、そんな成り行きを意識の中でどう捉えたところで、実態はそれとは少し違うのかも知れないし、もしかしたら少し違うどころか全く違っている可能性もなきにしもあらずだが、少なくとも頭の中で想像しているのはそんなことであり、何の根拠もなくそう思っているわけではないが、ではそうなっている根拠を示せと言われてもうまく言い表せなくなって困ってしまうだろうが、目の前で毎日のように思いがけないことが起こっているとすれば、それは画面を見ているからで、ネット端末の画面を見ていれば絶えず思いがけないことに直面するわけで、それが日常のことなのだから大したことではないというのも、見ているだけだから大したことはなく、その思いがけないことが起こっている状況の中で、直接そんな事態に直面していれば、それらのほとんどが大したことであり、実際にそこで多くの人々が大した事態に直面してそれを実感しているだろうし、場合によってはそこで逃げ惑いながら右往左往しているわけで、そんな光景を画面越しに眺めながら動かずに留まっている自分がいるわけだから、その静と動の対比が滑稽と言えばそう言えないこともないが、たぶん滑稽なのではなく、場合によっては悲惨なのかも知れず、それの何が悲惨なのかと言えば、思いがけない光景に出くわしているのに、それを直接体験できずに画面越しに見るだけに留まってしまうことが悲惨なのだが、そんな悲惨さと引き換えにして、安全地帯からそれを眺めていられる特権を得られているはずなのだが、それが多くの人の日常で起こっていることなのだから特権でも何でもなく、誰でも手軽にそんな体験ができることが悲惨でもあり、それと同時にありふれていて、偽りの無感動や無感覚に囚われていて、それに普通は感動するのだろうが、実際にもそれを見て少しは感動しているはずだが、そんな感動の感覚に疑念も抱いていて、本当は感動しておらず、条件反射として感動しているふりをしているのではないかと疑っているわけで、そんな光景を見たらそこで感動しなければならないと決めつけるような世の中の慣習に従っているに過ぎないのではないか、と自らの感覚に疑念を抱きながらそんな光景を見ていて、さらに言えば実はそれが思いがけない光景でもなく、前にも何度も見た光景だったのかも知れず、もうすでに何度も画面越しに見させられて、そこに居合わせた観衆も驚き喜んで割れんばかり大きな歓声を上げていたから、それにつられて画面越しに見ている自らも驚いたふりをしているのではないかと思うのは、それを後から振り返って反省的にその時の状況を考察している最中だとすれば、本当にそんなことを考察しているわけではなく、それをフィクションとして構成しているわけで、実際にはそんなことを書き記している最中であり、書き記している最中でなければ反省的な考察などするはずもなく、そんなことは思い出すまでもなくすぐに忘れてしまうようなたわいない光景であり、あえてそれを思いがけない光景だと強調するようなことでもないのだが、目の前で思いがけないことが起こっているとすれば、そんなことを書き記していること自体が思いがけないことであり、そんなことを書き記そうとしていたわけでもないのに、なぜかその場の成り行きからその光景を思い出してそれを記してしまうわけだから、やはりそれは思いがけないことであり、著名なバスケットボール選手がこれまでにも何度もチェイスダウンブロックを決めて、それがその選手の代名詞のようにハイライトシーンには何度も出てくるから、そんな光景をそこで思い出してそれを不意に書き記しているわけだが、だからといって当初に思い描いていた光景がそれであるはずもなく、書き記している途中で不意に思いついたから後付け的にそれを書き加えただけで、辻褄を合わせる気なら書き始めの方でもそれに合わせたエピソードなども盛り込んだ修正を施さなければならないだろうが、そこまでやるのは面倒だからそのままになってしまうにしても、それ以前の途中で思い出していたのは竜巻の光景であり、災害に巻き込まれて逃げ惑う人々を想像していたから、それが悲惨な光景だと思ったわけで、確かに直接そんな災害に遭えば悲惨この上ないが、その被害の光景を画面越しに眺めることがそれと同程度に悲惨なのかと言えばそんなことはなく、それとこれとは全く悲惨さの質も程度も異なるだろうが、悲惨な光景を画面越しに眺めることの悲惨さというのが意味不明な悲惨さを想像させるわけで、普通はそれを悲惨だとは言わないところを無理に悲惨だと見なしているようにも感じられて、それがこじつけなような気もすればその通りだろうが、無理にこじつけて悲惨なことだと言いくるめることの何が悲惨なのかと言えば、悲惨の意味を取り違えていることが悲惨この上ないのかも知れず、それが滑稽にも思われる悲惨さであり、悲惨な光景を画面越しではなく直接目にすることができないことも悲惨の範疇に含めようとすれば、なおのこと悲惨さよりも滑稽さの割合が増加するかも知れないが、それを滑稽だと思うことも普通はそう思われず、多くの人が画面越しに見るのだからそれが普通のことであり、滑稽でも何でもないわけだから、それも無理に滑稽だと見なしているようにも感じられて、それもこじつけなような気もすればその通りでしかないわけだが、普通だと思われること自体もおかしいと思うなら、おかしいような気もしてくるかというと、わざとそういう言い回しを多用しているからそう思われてしまうのかも知れず、普通に思われることををわざと悲惨だとか滑稽だとかおかしいと表現すること自体がおかしいわけで、普通に思われるならあえてそこで立ち止まって問題視するようなことはせずに、そこを通り過ぎてしまえば済むことなのだが、通り過ぎずに立ち止まっていちゃもんをつけるところが思いがけないことであり、そんな思いがけないことが起こっているのに、それを想定内のことだと強弁するつもりもないが、そこでもわざとこじつけて当初の想定の範囲内に言説の内容を押しとどめようとしていて、そこから逸脱してしまいそうな部分を想定内へと引き戻す作用が自然と生じているのかも知れず、それを意図してそうしているのか、意図しなくても自然にそうなってしまうのかは何とも言えないが、ともすればそこから逸脱しそうになってしまう部分に関して特に興味があるわけでもなく、逸脱してしまうならそのまま逸脱していってしまっても構わないだろうが、果たして逸脱していった先で何が起こるのかといっても、実際にそうなってみないことにはわからないだろうが、その一方で文章をまとまった内容にすべく、ある程度は逸脱を自粛する配慮もされていて、そのどちらがどうというわけでもないが、それなりに両者の間で力のバランスが保たれている限りで、かろうじて読むに堪えないくだらなさを回避できているのではないか。


12月12日「語りの多重性」

 自らが夢想していることについて語るだけなら統計的なデータや数値など必要ないが、夢想だけで話を済ますわけにもいかなくなれば、何か説得力のあることを語る必要が出てきて、そうなると現実に起こっていることについて語らなければならなくなり、それについての情報を収集する必要も出てくるだろうし、調べていくうちに他人の言表に出くわして、それについて他で誰かが語っている内容を参考にしながら自らも語る成り行きになると、他の誰かが語っていることについて語るという語りの多重性が顕著になってきて、それが現実に起こっていることになってしまうわけだが、それも実際に起こっていることであり、それだけではなく語る以外にも様々なことが起こっているはずなのだが、語る以外の出来事や現象について語ることと、語っていることについて語ることに関して違いがあるのかというと、特に違いがあることを意識しているわけでもなく、語ることも文字を記すことも出来事には違いなく、出来事という面では違いなどないが、それについて語るとかそれについて記すということに関してなら、語っていることについて語るとか記していることについて記すとなると何か違いがあるというか、それ自体では何でもないことのように感じられて、何について語っているのでも何について記しているのでもないような気がしてきて、そんなことを語っているようでは何の内容もなくなってしまうが、語ること自体も何でもないことであり、文字を記すこともそれだけの動作では何を示しているのでもなく、語っていることに意味や意義があるのではなく、何をどう語っているかに興味があり、語っている内容が興味の対象となってくるわけだが、その内容がないのに語ることができるかというと、語っていること自体が何らかの内容をもたらすことができて、語ることによってそれに関して興味があったりなかったりする特定の内容を生じさせることができるかも知れないが、なぜ語る必要があるのかと疑念を抱くなら、疑念など抱く必要もなく、語らざるを得なくなるような成り行きの中で語っているなら、強いられて語っていることになるだろうが、それが語っている人が抱く勝手な思い込みであり、それを第三者が端から見れば、もちろんそれを端から見ている人などいなければ、それもその人の勝手な思い込みに含まれるだろうが、それでも端から見れば理由も必要もなく語っているとしか見えなければ、それ以外にも何か精神が錯乱しているようにも見えるわけでもなければ、ただ単に語りたいから語っていて、それについて書きたいから書いている場合もありそうで、何となくそうしていることの理由も必要もあるようなないような感じでそうしていることもあるだろうから、無理に理由や必要など求める必要もないのだろうが、そうする理由や必要などよりは、それについて語りたいとか書きたいと思うからそうすると状況を捉えるなら、それがそうする理由であり、そうしたいからその必要があるということになるだろうが、それではまずいのかというと、そうしているのを他の人や聞く必要があるのかとか聞く理由があるかというと、その内容に興味があれば聞くだろうし、記された文章に興味があれば読もうとするだろうが、内容がなければ聞く気もしないし読む気も起こらないはずだが、それが内容だと思うかというと、特にそうだと思うわけでもなくても聞いていたり読んでいたりする場合もあり、聞くよりも読むよりも見るだけだと、何気なしに何でも見ていて、興味のあるなしに関係なく見ている場合もあり、例えば動物が餌を食べている光景や人が掃除している光景でさえ、それに興味があるのかないのか意識しないうちに見ている場合があり、餌を食べている動物や掃除をしている人にとってそれが必要なことでありそうする理由がはっきりとあるが、それを見ている人も興味があるから見ているのだろうが、それが見る必要があるから見ているとか見る理由があるとか、そんなことまではっきりと意識して見ているわけではなく、ただ何となく見ているに過ぎないことであり、見なくても取り立てて不都合があるわけでもなく、見なくても構わないようなことでしかないかも知れないが、ただその場の成り行きで見ているのであり、その程度のことなら必要も理由もいらないわけだが、見るだけでなく読んだり聞いたりするにはそれ相応の意志が介在しないとそうならないだろうし、それだけそうなるためのハードルが高いわけだが、そのハードルを低くするには、読ませるにはなるべく短い文章にすれば読む手間が軽減するだろうし、話を聞かせるにも短く簡潔な話にすればそれだけ聞く手間がかからなくなるだろうが、それなら文章ではなく文にすれば章がない分、読む時間が短くなるだろうし、また話というより何かを一言発するぐらいにとどめておけば、聞く気がなくても耳に入ってきて理解も可能だが、それで済んでしまうようなことに興味を抱くかといえば、それを読んだり聞いたりすることが目的と一致すれば、興味を抱くとかそういうこととは違うレベルでそれを読まなければならなかったり聞かなければならなかったり、そうする理由や必要があるからそうしなければならない事情が生じていることになり、それが他人が語っている内容に反論したり批判を加えるような場合には起こるわけだが、そんな事情が生じてくれば語っていることについて語っているとしても何の違和感も覚えないし、反論する必要があるからそうしているわけで批判する理由があるから批判していることになるが、そういうはっきりとした必要も理由もなく他人が語っていることについて語っていたり、さらには自らが語っていることついても語っているとしたら、ただ何となく語っているに過ぎないとしか言いようがないだろうが、それでも構わないとすれば何のためにそうしているとも言えないようなことにもなるだろうし、そうならざるを得ないような語りや文章の内容があるとしたら、そういう仮定自体がおかしいのかも知れないし、語られたことや記された文章には必ず語る理由や必要や記す理由や必要があると見なした方がいいのかも知れないが、それもそう考えれば納得がいくから他人や自分を納得させるためにそう考えるわけで、納得しなくても構わなければ理由も必要も不要であり、何かのために語られるとか文章が記されるとか思わなくても、勝手に語ってしまうようなことや文章を書きたくなってしまうようなこともあっても構わなければ、そういうことにしておいて、それ以上は理由や必要性を追求しなければいいわけだが、なぜそうなってしまうのかといっても、それなりに事情や経緯があればそれが理由となってしまうわけだが、その理由の程度というのも、特に重視する必要のない程度であれば無視しても構わないし、そういうことに関していくらこだわってそれについて執拗に語ってみても言い訳じみてくるだけなら大したことはないわけだが、そうなることを狙ってそういうことを語っているわけではなく、ただ単に語り過ぎているからそうなってしまうのであり、語る理由も必要も感じられない内容を語っているとそう感じられて、語っている内容に興味がないからそう思われてしまうのだろうが、ではなぜ語る理由も必要も感じられないようなことを執拗に語っているのかといえば、その理由や必要を知らないからそう思われるとしても、それを知る必要があるのかというと、必要があっても知り得ないかも知れないし、必要がなくても知ってしまう場合もあるだろうが、その人が満ち足りていれば理由や必要から見放されていても困らないわけで、それが経済的に満ち足りているのか心理的に満ち足りているのか、両方共に満ち足りていればそれでも構わないわけだが、逆に何かを渇望するような事情や経緯が生じていればそれを求めることが目的となり、その理由や必要をはっきりと意識することになるだろうが、それが直接の行為や行動に結びついた理由や必要になれば、確かに理由や必要があって行為や行動につながるとしても、果たして語っていることについて語っていることがはっきりした理由や必要があって語っていることになるのかというと、中にはそうする理由や必要に迫られて語ることもあるだろうし、確かに討論や議論などの際にはそうならざるを得ないだろうが、そうした前提が取り払われた状況の中で語る理由や必要が生じてくるかというと、それが語るために語っているという自己目的化が伴ってくると、かなり疑わしてくなってきて、語る理由がないのに語る必要のないところで語っているように装いたくなってくると、それが倒錯的な語りになってくるのかも知れないが、そうなると語る理由を導き出すために語るとか、語ることから語る必要が生じてくるとか、逆説的なことも語りたくなってくるし、語ることによって語ることの切実さや語る必然性を追求するようになってしまうと、そうなること自体が本末転倒なことだが、虚構の領域でそういうことを語りたくなってくるわけで、それが語ることの自家中毒症状の表れなのかも知れないが、そこから病気になるために語りたいという嘘のような理由や必要が生じてくるとしたら、それが冗談でそんなことを語っていることの証拠となるのかも知れない。


12月11日「デジタル田園都市国家構想」

 簡単に言うなら世の中ではどこでも何かしら歪な社会構造となっていて、それに起因して人と人との関係や集団の内部や外部との関係がうまくいかずに何かしら問題を抱えているのだが、そういった関係を改善するために構造改革の類いが求められるにしても、一度できあがった構造を簡単には変えられず、そういった改革の類いもうまくいかないことの方が多いのだろうが、パズルのように組み上がった構造の所々に歪みや隙間や不整合が生じていれば、ちょっとしたことでもそこから揺らぎや亀裂が生じて、場合によっては崩壊の危機に直面することもあるだろうが、それが建物のような静的な構築物であるだけでなく、動的で機械的な駆動装置のようであれば、さらに構造が複雑になって動きまで加わってくることになり、集団としての組織内では各部門の力がうまく噛み合って動作がスムーズに進行中だとしても、集団の外の人々にとってはそれが脅威であり、歯止めの利かない暴走が起こっているように思われたり、そうした集団による暴走を阻止すべく、周囲の複数の集団が防衛体制を構築して連携を強化するような動きも出てくるのだろうが、それ自体が暴走していると受け取られる集団とそれを阻止しようと画策する集団との関係がうまくいっていないことを示しているわけだが、そうした集団と集団との関係が国と国との関係になれば、暴走を起こしている集団が独裁国家や覇権の野望を抱いている国家となるだろうが、安易にそうした比喩によって国際情勢を語るのも物事の単純化に他ならないが、社会の構造が合理的に設計されて構築されて何事も円滑に動作するようになればなるほど、その種の暴走が勢いを増すのかも知れず、逆に歪みや軋みが各方面にわたって顕著にあって、何事もどこかでつっかえて摩擦を起こしてうまく動作しないような構造だと停滞を引き起こすのだろうが、そのおかげで何らかの集団が暴走しようとしても事前に食い止められて、何事も活動の程度が抑制されて活気のない静かな社会となるかも知れないが、どちらが良いかといってもどちらも良くない面があるのだろうが、円滑に動作するが歯止めもかかるような構造だとうまく行くような気がするが、合理的に設計して合理的な仕組みを作るという発想が人為的にそうしようとすることである限りは、人の勝手な都合が含まれてきて、設計する側や構築する側には確かに都合が良いが、それを使う側には都合が悪いということが起こりうるのかも知れず、それと同じようにして社会を統治する側にとって都合の良いことが、社会の中で暮らしていて統治される側にとっては都合が悪いということも起こりうるのかも知れないが、そうなると社会を合理的に設計したり、合理的な仕組みを作って、そんな合理的な社会を統治するという発想自体に欠陥がありそうで、それが「デジタル田園都市国家構想」とかいう国家プロジェクトに潜む懸念点なのかも知れないが、それ自体が統治の行き過ぎや管理の徹底を目指すような計画でもないだろうが、効率の重視という安易で簡単に言えることが、その高い効率を実現するインフラを構築する上でうまく機能させることの困難をもたらしたりして、他の何かを犠牲にしないと求める効率が実現しないとなれば、その犠牲にした部分がその効率化されたシステムを使う上で障害となってくることもあり得るだろうが、どんな障害が出てくるかは使ってみなければわからない場合も多いだろうし、効率よくシステムが設計されて構築されてから、それを使い始めてからしばらく経って、その種の障害や弊害が起こってくると、もうその時点では後戻りが困難になっていて、それが使う人のメンタル面での障害や弊害だと、そうした障害や弊害に対するケアをすることになっても、その費用や手間が予想以上にかかって、結局は効率化との差引がゼロかマイナスまでになってしまえば、では何のために効率化を図ったのかよくわからなくなってしまうわけで、そういう意味では仕組みやシステムにデジタル技術を取り入れる程度の試みにしておけば、それほど深刻な被害は生じてこないのだろうが、そこにあれやこれやの余分で余計な人心を惑わすような宣伝目的の装飾を施そうとすると、そういうどうでもいいようなところから致命的な欠陥や不具合が生じてくるわけで、それ以前にも人が人為的にゼロから設計して構築した都市が自然発生的に生じた都市に比べてどんな欠陥や不便があるかを研究した著書なども有名なところではあるらしいし、そこでも簡単に言うなら、人が構築する指揮命令系統や管理技術が系統樹的なツリー構造になりやすいのに対して、自然発生的に生じてくる社会構造はリゾーム構造になりやすいとか、比喩的には対照的に示せるかも知れないが、果たして意識して人為的にリゾーム構造を実現できるかとなると、実現したと思われてもそれが効率的に機能するわけでもなければ、当初の目的と全く違ってきてしまうかも知れないし、結局は意識して構築しようとして構築できるのは全体から見れば、もちろん全体を把握するのは難しいから、全体を見ることが可能だと仮定すればということだろうが、構築できるのはほんの一部分であり、何よりも人工都市にとっては人自身が未知の異物であり、何をするかわからずどう動作するかも人がそこに住んでみないとわからないような代物であり、人の生体的な構造や動作自体が人知を超えている可能性があり、そんな人を人知の範囲内で構築した都市に入れると誤作動や暴走を起こす可能性があるから、人によって都市そのものが破壊される可能性もあり、実際に世界各地の都市が戦争やスラム化やゴーストタウン化によって破壊されている現状もあるわけだが、もちろんそういう目立った破壊行為でなくても、人の死や引越しに伴って、住んでいた家屋や土地が売買されて更地になってから、買い主や借り主によって家屋が新たに建てられることによって都市の外観が変貌し続けるわけで、その種の計画自体も過渡的でその場しのぎの応急措置になってしまうのだろうが、そんな計画によって中途半端に何かが構築され後に、すぐにそれが陳腐化して時代遅れの残骸を晒すようになってしまうこと自体が、都市の新陳代謝を示す良い傾向だと思われるようなら、そうなるきっかけをもたらしたことについては評価されるべきだろうが、そういう意味でもその計画の良し悪しというよりは、それにかこつけていかにしてそういう計画に関わっている人や団体がうまく立ち回るかが実質的な利益や成果につながるわけで、そういう計画に賛成したり反対したりして、反対している人や団体が計画の問題点をあれこれあげつらって、それにかこつけてメディア上で一時的に盛り上がってみても、それもそういう方面でうまく立ち回っていることにもなり、それがそういう人や団体の利益や成果に結びつくなら、そういう人や団体が批判しやすく反対しやすいような計画を提示して、それが世間で話題となって否定的な意味での宣伝効果をもたらせば、そういうことに関してもそれなりの意味や意義があったことにもなるだろうし、そんなふうにして何か社会が活性化するための起爆剤のような効果を期待してそんな計画が立ち上げられる成り行きになるのだろうが、自然発生的にそうなった面もあるにしても、それにかこつけて一儲け企むという利益目的の人為的な思惑からそういうことが行われる面の方が割合的には大きいわけだから、そういう計画が大規模であるほど、逆にそれが成功した場合の方が原発的な取り返しのつかない被害や弊害などが後から生じてくる可能性もあり、実害を極力少なくするには、中途半端で隙だらけのツッコミどころが無数にあるガバガバな計画にしておいて、計画を進めているふりを装いながらも、いつの間にか立ち消えになってしまう程度にしておけば、無駄に会議を重ねただけにとどまるだろうが、普通に考えてそうはさせないようにしたいだろうし、実際に計画が実行に移されて予算もついて、何かが建設されるところまで至れば、それに関わってくる業者や企業なども利益を得られて潤うことになり、実際に都市の類いが完成してそこに多くの人が居住して企業などの事務所や作業場も併設されて産業として稼働し始めれば、さらに人も企業も利益を得られて潤うことになるだろうが、そうなることを目指して計画が練られるのは当然のことだが、そういう計画自体が時代遅れとなるかも知れないし、わざわざ政府が計画しなくても民間で勝手に別の計画が進行中でもあり、例えば自動車企業のトヨタが東富士にそれに類する街を作っている最中でもあり、他にも都市をゼロから作るのではなく既存の設備や施設を利用してそれに類することを行なっている企業もあるかも知れず、わざわざ大げさに大規模な箱物を造るという発想ではなく、もっと小規模に既存のネットワークを利用してささやかなことを個人事業主などが大して利益も出ないことをやってもらった方が、人と人のつながりという面では狭い範囲で安定して行えることになるような気もするが、それでは産業として国家的な成果を得られないから、政府がやることに関しては大げさにならざるを得ないのかも知れない。


12月10日「戦争と平和」

 場違いな話というのは何か分不相応なところでその場に居合わせた人とは無関係なことが語られるのだろうが、それが専門外ということなら無関心であることの言い訳としては無難な部類に入るかも知れず、狭い範囲でなら通用するとしても、ただ漠然と居心地の悪さを感じる程度のことだと、そこで我慢して話を聞いているふりをしながら、それとは別のことを考えていたりもして、考えていることの中身も特に興味を抱くこともないとすれば、つまらないことを考えているのだろうし、自身の関わっていることとは全く別のとりとめのないことに思いを巡らしているのかも知れないが、そこで活動している複数の勢力の間で力の均衡を保っていられても、そこから遠ざかるにつれて徐々にそんな均衡とは関係のない領域が増えてゆき、そこにはそれとは全く別の複数の勢力による勢力圏が形成されていて、そこでも安定した情勢が保たれていれば、そこに介入している複数の勢力の間で力の均衡が保たれているのだろうが、それが何を意味するといっても何も意味しなければ、勢力とは何なのかという問いにも意味がなくなってしまうが、その場で話題となっている何かの勢力に関する話の中でそんなことが言われて、それが政治勢力だとすれば政党の類いではないかと想像されて、複数の政党がどこかの国で勢力争いをしていると捉えればよさそうだが、そうではなくそれが武装勢力の類いであれば、どこかの国や地域で実際に戦闘を繰り広げているのかも知れないし、そうでなければ他にどんな勢力があるかというと、何か適当な勢力を想像できるかも知れないが、そんなことにも関心がなければ勢力争いの類いにも興味がなく、別に何を争っているのでもなく、逆に勢力間の協調体制を確立しようとしているのだとすれば、どこかで何かの会合が開かれて、どの勢力がどの区域を支配地域とするかが決められて、各勢力の勢力分布を決める国際会議の類いが開かれているのかも知れないが、そうなるとそれはナポレオン戦争後のウィーン会議だとか、第一次世界大戦後のパリ講和会議などがそれに類する国際会議に該当するだろうが、そんな会議が今後開かれる可能性があるとすれば、世界のどこかで大きな戦争が起こってそれが終結した後になるだろうが、そうなることをここで予想したいわけではなく、またその種の戦争自体が今や過去の遺物になりつつあるというわけでもなく、実際には戦争によって混乱状態にある地域と平和な秩序が保たれている地域とが併存していて、それらが相互に補完関係を形成しながらどちらの状態も維持していると考えた方が合点がいくかも知れないが、実際に混乱状態にある地域や国を挙げるとすれば、例えばアメリカの周辺ではメキシコ国内の麻薬戦争や中米のハイチでの政情不安やベネズエラの経済混乱などがあり、中国の周辺では北朝鮮やミャンマーもそうだし、中国国内ではウイグルやチベットなどの民族問題や香港の民主派弾圧もあるし、台湾との間では軍事的な緊張も高まっているし、インドとの間でも国境紛争があり、南シナ海や尖閣諸島などでも緊張を高めているし、またロシアの周辺ではロシアがウクライナ国内の親ロシア派を軍事支援しているし、実際にクリミア半島を占領したり、ベラルーシの独裁政権を支援したり、内戦状態のシリアの政権も支援していて、他にもアフガニスタンやイスラエルとパレスチナとの紛争や、アフリカでも数多くの国が政情不安を抱えていて、実質的に内戦状態の国もある一方で、表面上は平和を維持していても、国内では独裁政権による民衆への弾圧が行われていたりもするから、世界的に見れば民主的な政府によって平和な状態が保たれている地域の方が少ないのかも知れないが、しかもたとえ平和な状態が保たれているとしても、例えば日本の現状を見ただけでも国内に様々な問題を抱えていることが窺えるし、その種の不安を挙げればきりがないだろうが、そんな中でも何が良くて何が悪いということとは別に、そんなことに関心を持つ必要のない状況の中で多くの人が暮らしていて、関心を持ったところで個人の力では何をどうすることもできなければそれで構わないわけだが、世間話のついでにそういうことまで語るのは場違いでおかしいと感じられても、そういった特に役に立ちそうにない見聞から何が連想されるのかといえば、知ったかぶりの雑学的な知識のひけらかしとは違った方面から嫌悪感や抵抗感が生じてきて、もっと何か差し障りの少ないスポーツや趣味の話をする方が無難に思われるわけだが、それも気が向いたらするとしても、差し障りがあるということが、なぜ差し障りがあるのかが問題だと思うのも、そこからそう遠くないところで疑問を抱くわけだが、それがなぜという設問に対して答えが見当たらないとしても、なぜと思われて、そういうことに興味を抱く人には、それに興味のない人に対して絶えずなぜという疑問を抱ける限りで、自身の興味の対象に対して疑念と共に自信も深める結果に至り、自信をもって絶えずなぜと問いかけて、興味を持たない理由を問いただそうとするのかも知れないが、逆になぜそんなことに興味を抱くのかと問われたら、それが全世界で共有されている問題であり、誰もがその問題に対して人類共通の課題として真摯に向き合うべきだとは思わないだろうが、冗談でならそんなことが言えるかも知れないが、卑屈な笑みを浮かべながらそれに対してどう返答すればいいのかを知っているわけでもないが、実際にそんなことまで考えているわけでもないとしても、いったんそこから遠く離れてそれとは別の方面から改めてそこへ近づくことができれば、そういったことに対する納得のいく回答が得られる可能性があり、そんな回りくどい経路を辿ってそれについて答える必要があると思っているわけではなくても、自然にそうなってしまうのかも知れず、実際にまだその途上で道に迷っていて、なかなか前進できず、うまい具合に迷路を抜けることができないわけだが、それでも現状でできることはと言えば、ただ回答を遅らせて、遅らせている間にそれについて考えていると状況を捉えるなら、そんなことをやっているような気がするものの、実態としてはそうではなく、すでに答えが出ているのに、そこから目を背けながら別の答えを探している状況であり、しかもそれ以外に答えなど見当たらないのに、すでに出ているその答えを無視しているわけで、そんな答えには興味がないと思っているわけでもないが、答えを探しているふりをしていないと身が持たないというか、そこで全てがおしまいとなってしまうわけでもないのだろうが、終わりではないのに終わらせられては困るから、すでに提示されている答えを無視せざるを得ないのであり、その答えをあからさまに提示しても何がどうなるわけでもないところが、逆に答えの無効性を想像してしまうが、果たしてそれが正しい答えなのかというと、果たして間違っている答えがあるのかというと、試験の類いならいくらでもありそうだが、別に試験を受けている最中でもなく、試験を行うこともある意味では間違ったやり方になるのかも知れず、それに関しては間違わないということ自体が困難なのかも知れないが、あえて間違った答えを提示するなら、中国政府などがすでに欧米の基準からすれば間違った民主主義の定義を提示しているはずだが、ああいうことをあえて行える背景があり、それが間違った印象を人々の頭に植え付けるきっかけとなるのだろうが、それをある一つの事象や現象へと結びつけるわけにはいかず、複合的に複数の要素や要因が組み合わさって、ああいう回答でも回答した当事者が胸を張れる状況がもたらされているのだろうが、さらにそこからも遠ざかることができれば、何か信じられないような考古学的な回答も導かれてくるかも知れず、それが知の考古学だとすれば過去に記された言表から得られるかも知れないが、それを人の経済行為の結果だと単純化するわけにもいかないだろうし、現状を肯定する上で避けては通れない自己正当化を回避できるなら、自ずから回答することが回答することにはならないことに気づいてしまうのかも知れず、要するにまだ答えが出ていないのに、すでにいくらでも答えが出てしまっていて、それらの答えの中からもっともらしいものを選んで回答すれば済んでしまうことだが、いったんそれに答えてしまうとまだ答えが出ていないことに関しては間違っていることになり、その答えではこれから出てくる設問には通用しない可能性があるわけで、だから絶えず回答を遅らせる必要があり、実際に回答するのを遅らせながら、すでに答えてしまったことについては現状に適合するように絶えず修正を施さなければならず、それでは答えが間違っていたことになってしまうのだろうが、実際に答えが間違っていたことがわかるような成り行きが答えた後から起こるわけで、そういう意味で何らかの問いや設問に返答しようとするのを躊躇うような世界の中で誰もが生きていて、しかも返答せざるを得ない立場になってしまうと否応なく返答することを強いられて、そこでは正しく返答したにもかかわらず、その返答が間違っていることになるような成り行きがその直後から起こってくるわけで、それが正しく返答した者を陥れる罠かも知れないが、誰が罠を仕掛けたわけではなくても、その人が他の誰かと敵対しているようなら自ずからそういう思惑が働いてしまうわけだ。


12月9日「きっかけと口実」

 目的が定まらないということは、そもそも目的が不要なのかも知れないが、意識して必要だからと思うことは本当は必要ではないかも知れず、中にはそれが本当でなくても必要な場合があるかも知れないが、虚構が必要なのは何かをやるためのきっかけや口実を作るためではなく、それが何のきっかけや口実になるかを考えている限りで、それに関する虚構が必要になってきて、しかも実際に考えていることはそれとは違い、考えることが虚構を生み出すきっかけや口実になっているのではないかと考えていて、それと共に虚構ではなく現実の世の中で実際に起こっていることについても考えているのだが、それが思い描いている想像上の未来とどう結びつくのかというと、想像上の未来の姿を実現するためには何らかの計画があった方がよく、そこからどうすれば計画通りに事が進むかを考えられて、そうなれば計画を実行に移すという目的に考えが合致してくるのだろうが、それが虚構の計画であればその中で架空の登場人物が考えていて、考えていること自体も虚構に含まれることになるが、そこで現実の世の中で実行に移されている計画と誰かの想像の中で練られている計画がどう違うのかと言えば、その段階が違っていて、すでに計画が実行に移されているかまだ想像の中にとどまっているかの違いがあるのだろうが、どんな計画を想像しているのかというと、金に困って安易に銀行強盗の計画を練っているわけでもないし、計画を練るまでもなく年末になると衝動的にそんな事件を起こして警察に逮捕される者も出てくるかも知れないが、現実の世の中で企業が進めている計画となればもっと格段に成功する確率が高いだろうし、かなりの精度で採算が見込めるか、あるいは宣伝としてそういう計画があることを発表して世間の注目を集めることを目的としているか、大抵の場合はその両方を兼ね備えているのだろうが、それが虚構となるとどうしても計画通りに事が運ばずに、途中でタイミング良く邪魔が入ったりするから、邪魔をしてくる者とのいざこざが興味深いエピソードを構成することになるのだろうが、果たしてそれが虚構の目的となるかというとそうでもなく、それが邪魔をしてくる者の目的であれば、計画の邪魔をすることが目的となり、それだけ話が単純になってしまうわけだが、普通はそれが主な目的ではなく、囮として興味を惹きつける目的で些細ないざこざが仕掛けられて、それをきっかけにしてさらに大きな事件が起こるわけだが、その大きな事件が計画の進行を狂わせたり破綻させるような事件であれば、場合によっては世の中に大惨事を引き起こすような事件や事故となるのだろうが、そんな都合よく話の成り行きが進展すれば、十中八九は虚構の作り話に過ぎないだろうが、実際の大事件や大事故でもそうやって都合のいい部分だけ話をつなぎ合わせて、何か興味深い事の成り行きとして話が構成されることもあるだろうし、それに関わっている人や団体が多ければ多いほど、それだけ無数のエピソードが生じてくるのだろうが、どれもこれもが興味深い話の内容として語られるわけでもなく、その中のほんの一部が語られるに過ぎないだろうが、そこで進行中だった計画の方はどうなったのかというと、うまくいかずに頓挫して打ち捨てられて残骸が廃墟として残っていたりすれば、未来の希望が過去の遺物へと変貌したことになるだろうが、時間の経過が過去と未来との親和性を高めて、結託して現在を置き去りにしてしまうようなことが起これば、過去と未来から置き去りにされた現在の世界で何が行われているのかとなると、相変わらず計画が練られているわけで、それが何の計画なのかというと、それがまだ頭の中で形を成していなければ計画そのものがないも同然だが、計画通りに事が進んでいれば、大した邪魔も入らずに順調に事態が推移していることになるだろうが、何の計画もなく行き当たりばったりでもうまくいくかというと、うまくいっていないから計画を求めていて、その計画を練っている最中であるように見せかけたいのだが、果たして計画が必要なのかというとそんなことはなく、必要であっても思いつかなければ、特に計画と言えるようなものを練っているわけでもなく、行き当たりばったりでうまくいかないなら、それでも構わないようなスタンスで物事に取り組んでいるとしたら、成功するはずもないことでもあり、成功しなくても構わないなら特に計画も立てないだろうし、何の見込みもないことをやっているわけだが、想像上でいくらうまくいくような計画を立てても、それを実行に移す段階でおかしくなってくるわけで、何の見込みもなしに計画を立てるわけではなく、ある程度は実現する見込みがあるから計画を立てるのだろうが、それが集団で行う計画になると、多くの人材や物資や費用をかけた計画となるから、途中でうまくいかなくなると引っ込みがつかなくなってきて、周囲にも多大な悪影響をもたらすことになるのだろうが、個人で勝手に妄想している程度の計画であれば、それを思い描いているだけでいつまで経っても実行に移さなくても何でもないことになり、それが実行に移すようなきっかけも掴めない場合もあって、何かそれをやるに当たって都合の良い口実が見つからなくて、なかなか頭の中から外へと出ていけないわけだが、そういうほのめかしを真に受けるべきかとなると、他人の妄想を真に受ける人もほとんどいないだろうが、その人だけがそう思っているわけではなく、それは計画の内容や規模にもよるだろうが、実現可能だと思うなら周囲に賛同者や協力者を探すだろうし、場合によって広く世の中に賛同や協力してくれる人を募るようなことまでやるかも知れないし、そんな成り行きを経ることによって計画が実現へと向かうこともあるだろうが、そんなことをやるきっかけや口実が世の中のどこかで生じて、そういう成り行きの中で多くの人たちが協力して計画を進めることになれば、それだけでも結果がどういうことになるにしても計画の進捗状況としてはうまくいっている部類に入るだろうが、結局は世の中の方々で人や企業や自治体などが多くの人々を巻き込みながらそういうことをやっている最中であることが活気ある社会を実現していることにもなるわけだが、そうなるには人と人との信頼関係が構築されていないと協力体制も構築されなくなってしまい、協力するには何が必要となってくるかというと、すぐに功利的な思惑に至ってしまえばそれと同時に利害で対立することにもなりかねず、それだけではうまくいかないことは分かりきっているだろうが、他にも様々な事情や経緯から集団が形成されて、それが形成されること自体が集団を形成しようとする計画に基づいていたりして、そんな計画を推し進めている最中にも利害対立から派閥争いや離合集散を繰り返すことにもなるのだろうが、そういったことが続いている最中を維持することが、その途中での経済活動のきっかけやそれを行う口実になるわけで、そういう意味で経済活動は建前としては利益を上げるという結果を目指すにしても、そこに至る過程の中で行われるのであり、結果的に貧富の格差が増大しただの二酸化炭素の排出量が増えただのと、その弊害を云々するならそれなりにもっともらしいことが言えるだろうが、そうなる過程の中で行われていることだから、それを止めることはできないわけで、そういう意味では覇権国の政府が何か実現可能なのか不可能なのかよくわからないような大げさで絵に描いた餅のような計画をぶち上げるとしても、要はそういうことを目指す過程で資金を供給するからそれを使って民間で経済活動をやってくれということであり、そういった計画となると結果的には実現しなくても途中で雲行きが怪しくなって破綻したり頓挫したりしても、そこまでの段階で民間で経済活動が続いていればいいのだろうし、実際に計画が破綻していつの間にか雲散霧消している頃には、また手を替え品を替えて新たな大げさで荒唐無稽な計画をぶち上げているかも知れないし、そうやって次から次へと絶え間なく計画を掲げては引っ込めるという作業を繰り返している間に経済活動が続いていれば、実質的にそれでうまくいっていることになるかも知れないが、もちろん計画がうまくいかなくなった段階で政権交代が起こるようなこともあるだろうし、そうやって表紙の掛け替えのようなことを行なって民衆を納得させるのだろうが、政府の官僚機構自体は継続して活動しているわけだから中身が代わったわけではなく、政権交代でさえもごまかしに過ぎないと捉えるのは酷だが、それさえも長期間にわたって行われないと表面的にも変化が起こらないわけだから、差異が生じないわけで、社会の中で変化や変動が絶え間なく起こり続けて、そこで差異が生じないと経済活動のきっかけや口実も生じないようなことにもなって、結果的に経済が停滞してしまうのかも知れないが、そういう意味では経済活動が活発に続いている状態とはどういう状態なのかというと、ただ単に物資や情報の流通が続いているだけではなく、そこに差異や格差が生じて、その差異や格差をを利用して利益を求める行為が成り立てば、それを求めて多くの人や企業などの団体が群がってきて、そこで経済活動が活発化するわけで、EVだのカーボンニュートラルだのと、人や団体はそういうことをやるきっかけや口実を絶えず求めているわけだ。


12月8日「信念を貫く機会」

 何かその人から信念の類いが感じられる時には、直接にはその人の言動や著作の内容から感じられるはずだが、ただ口先で何らかの思想信条を信じていると表明するだけでは、それをちゃんと理解していなかったり嘘をついている可能性もあるから、実際に行動で示してくれないと信じられない時もあり、その人自身も嘘偽りなく自らの信念を貫いていても、実際にやっていることがその人の信念を裏切ってしまう場合もあるかも知れず、そうなった時にその人がどのような態度を示してどう対応するかで、その人の信念がどれほど信用できるかが決まってくるだろうが、その人の信念を信用することとその人の実績や業績を高く評価して信用するのとでは、実績や業績を評価して信用する方が、実際に活動した結果で示されているわけだから確実に信用できるだろうが、それが活動している最中での運不運に結果が左右されることもあるだろうし、活動している環境やその場の状況や情勢でも結果が違ってくる可能性もあるから、実績や業績を評価するのは当然だとしても、それをそのまま信用したとしても、それ以降も同じかそれ以上の実績や業績を上げられるとは限らず、そういう面も含めると、信用したところで信用した通りの結果がもたらされるわけでもないだろうし、信用とはそういうものだと割り切ってかからないと、信用が裏切られた時の対応や対処にも差が出てくるかも知れず、普通に考えて信用というのは、それが裏切られるまでは信用するだろうが、裏切られたところでその程度にもその場の状況にもよるだろうが、果たして信用が裏切られてもその人を信じる姿勢を貫き通せるかといえば、信じている人の状況にもよるが、信じられなくなっても信じる姿勢を保っていれば、それでは偽りの演技となってしまい、それ自体が信用を裏切っていることになるだろうが、それが信念を貫いている姿勢であり、たとえ状況が変わっても何があっても信念を貫いているのは愚かなことかも知れないが、どんなことが起こってもどんな状況になってもその人を信じる姿勢を保っていれば、それが信念を貫き通していることの証しとなり、そういう態度でいられる人が信用できると思われて、何かそれが立派な態度なようにも感じられるだろうが、それはそれとしてそうであっても、損得勘定などの功利的な価値基準からすれば単なるお人好しであり、人を利用できるか否かで判断するなら、利用できる時には重宝されるかも知れないが、利用できなくなったらさっさと捨てられるようなことにもなりかねず、あからさまにそういうことをやってしまうと、そういうことをやっているのが周囲に知れ渡ってしまえば周囲から信用されなくなってしまうし、フィクションではなく現実の社会の中では、他にも様々な経緯や事情が絡んでくるからそうはなりにくいだろうが、当初はそんなことをやるつもりはなかったのに結果的にそう受け取られてしまう場合もあり、そう受け取られないようにするには、やはり少々のことではその人を信じる姿勢を崩さないようにしたいところだが、それにも限度があり、その人をお払い箱にしたければその口実を見つけることになり、その格好の口実になるのがその人の実績や業績の評価となるだろうし、他にも態度や素行の良し悪しもあるだろうが、そういうことに起因して何か難癖をつけて人を貶めるようなことをやると、普通は人を貶めるようなことをやる人は信用できないとなるだろうが、やり方にもよるだろうし、メディアを介してやる分には嬉々としてやっている人が大勢いるわけで、特に政治的な利害関係からそういうことをやりたがる人が多いだろうし、さらにはスポーツ選手や著名人などの実績や業績や態度や素行に絡んで何か言うことを商売にしている人や団体も多く存在しているし、中にはそういうことを言うのがジャーナリズムだと思っている人も少なからずいるかも知れず、そういうことに関して共感できるようなことを言う人は多くの人から信用されて、信用する人が多いほどその種の商売が繁盛することにもなるだろうが、そういう信用はメディアを介しての軽い信用であり、その人の言っている内容やその態度や素行が嫌になれば簡単に離れていってしまうし、支持者やファンが多ければ注目を集めて興味を持たれてより多くの人が集まってくるものの、嫌な噂がたてば途端に手のひらを返すように去っていく人も大勢出てくるだろうし、そういう成り行きがそのまま著名人の人気商売になっているわけだが、それがスポーツ選手なら本業の実績や業績で評価されるだろうが、口先だけというわけではないにしても、しゃべっていることがそのまま本業になってしまうと、信用もしゃべっている内容から生じてきて、何か多くの人が共感できる信念に基づいたことをしゃべっているように感じられるなら、それが多くの人から共感を得られる可能性もあるのだろうが、共感を得られるのは信念だけではなく、何についてどう語っているかにもよるだろうし、その題材や対象に興味がなければそもそも共感を得ようとする以前に関心を惹かないだろうし、しゃべるだけなく文字に記して文章を読ませたり映像を見せたりする場合もあるし、そうやって何とかして多くの人の気を惹きたいのだろうが、気を惹くためだけにそんなことをやっているとは限らず、他にも色々と意図や思惑もありそうだが、人の気を惹くことと自らの信念を貫くことのどちらが重要なのかといえば、信念を意識している人にとってはそちらの方が重要なのだろうが、その人が何を信じているのかが明らかにならない場合もあるだろうし、何かそこで独自にこだわっていることを表明することもあるし、そのこだわりをあからさまな態度や行動で示して実践していればわかりやすいが、何にこだわっているのか明らかにしないまま、ただ延々と言葉を使って述べていることがあるとすれば、そんな内容に共感を抱くかというと、それも人によってはおもしろがってくれる場合もあるだろうが、それを延々と続けていること自体が、そこに何らかの信念が作用しているのではないかと想像してしまう場合もあるにしても、当人は大してこだわりも感じていないし、特に信念と言えるようなことは意識していない場合もあるだろうし、それを第三者が信念だと捉えるならその人が勝手に思い込んでいることであって、逆にその人の信念を思い込んでいる対象の人に当てはめて想像してしまうのかも知れず、そういう意味では何が信念なのかに関しても明確には提示できない状況も考えられるが、その信念の中身が至ってシンプルで、それを続けていればいつか必ず良いことが起こるような気がする程度でやっていることかも知れないし、そんな軽い気持ちでやっていることが何か深刻な事態をもたらしているとすれば、その深刻な事態に直面しながらも行なっていることが、何か重大なことであるかのように受け止められて、そこにその人の信念が込められているのではないかと穿った見方をしたくなるような内容であれば、それもそれなりに重要なことのように思われてくるのかも知れず、そうなればその人が直面している深刻な事態と共にその人が貫いていると想像される信念も、人の心を打つような共感や感動を得られる信念だと思われても、成り行きとしてはそれなりにもっともらしくなってくるだろうが、それがそう思ってしまう人の勘違いでしかなければそれだけのことに過ぎないし、その人が直面している深刻な事態というのも想像力を巡らしている他の人にとってはそうであっても、その人にとっては何でもないことかも知れず、それがどのような状況であっても人によって受け止め方が異なるのは当然だろうが、それに関して何か言及する人によってもその言及の仕方によっても受け止め方が違ってくるだろうし、人によっては大した覚悟もなくやってしまえることなのに、それをやるに際して相当な覚悟がないとやれない人も中にはいるかも知れず、それがその人自身の置かれた状況にもよるところが、全面的にその人の責任とは言えないところだが、その人独自のこだわりや信念を貫くにしても、割と簡単に貫けるような環境の中で生きている人なら、それをこだわりだとも信念だとも意識しないで何かのついでに軽い気持ちにそうしているに過ぎないことであれば、何とも思わずにそういうことができていることになるだろうが、その一方で多大な努力と出費を伴わないと、それをやる地点までも至れないような環境の中で生きている人がいるとすれば、やはりそれをやるに関しては相当な覚悟と場合によっては命がけの冒険をするような思いで、その地点までそんなことをやるために出向いてくるようなことにもなるだろうが、それがそんなことをしないでもネット環境の中で手軽に気軽に何かができてしまうような世の中になっていることが、特に信念を持たなくても何でもやれるような幻想を生んでいるのかも知れないし、もちろんそれなりにやれることが限られていることにも多くの人が気づいていない可能性もあり、そんな中でも何か信念を貫く機会を得られるのは贅沢なことかも知れないが、その信念がたわいないものであればそれを信念だとも意識しないまま、それを貫く気もなく貫いている現状があるのかも知れない。


12月7日「敵対しないことの意義」

 関わっている物事に肯定的な意味や意義を求めても、同時に否定的な面も拭い難くあれば、両義的に捉えなければならないだろうが、関わっているとは言い難い他人事で済ませられるような物事となれば、軽い気持ちで嘲ってみたりして、皮肉を込めて小馬鹿にするような態度でも、それほど深刻なことにはならないような気はするが、それが野次馬的な立場からの攻撃であり、攻撃されている身となれば不快極まりないだろうし、立場上の不利や関係の非対称性を意識せずにはいられなくなり、他人の身になって配慮するならそんなことはやらないが、他人を攻撃する気になれば配慮しないわけで、配慮しなくても構わないと思われる対象というのもあり、それが攻撃対象となるだろうが、果たして世の中に全面的な敵対関係というのがあるかというと、それはその場の状況次第な面がありそうだが、敵を作るようなことは避けた方が身のためだと思うならその原因やきっかけとなるような行為や言動は慎むはずで、そうならないように心がけて細心の注意を払いながら活動していても、こちらがそうであってもあちらがその種の配慮に欠けていれば、こちらの思惑とは関係なく勝手に敵対関係が形作られて、向こうから攻撃を仕掛けてくればこちらでも応戦しなければならなくなって、否応なく攻撃の応酬となってしまうだろうが、そんな事態を避けるには攻撃を受けても大丈夫なように防御を固めるか、あるいはその場の覇権を握って攻撃されないようにこちらが圧倒的に優位な力関係になることを目指すか、どちらにしてもそうなる過程で攻撃の応酬を経験して、こちらが勝つことがそうなるための前提条件となるだろうが、攻撃を仕掛けている側の思惑としては相手を打ち負かして覇権を握ろうとしているのだろうし、大抵の場合は勝算があるからそういうことを仕掛けてくるわけだが、勝算がなくても攻撃を仕掛けているとすれば、無謀なことをやっているわけで、そういうことやっている側の味方になってしまうと巻き添えを食って酷い目に遭うだろうから、それも避けなければならないことになるだろうが、義理立てして味方になってしまうと、場合によっては負け戦を覚悟しながら戦いに参加する事態にもなってしまうし、そこで理を取るか利を取るかで悩む場合もありそうだが、確かにフィクションの中ではそんな場面に出くわすかも知れないが、現実の世の中でそんな事態に直面するかというと、たぶんそんな二者択一というよりは、もっと何か曖昧ではっきりしない状況の中で、何を選択したわけでもないのに結果的には選んだことになってしまって、自分の意志とは無関係な理不尽な事態に巻き込まれて困惑してしまうかも知れないが、それによって自分の敵かも知れないのに味方していたり、逆に味方と敵対しているようなことになってしまえば、かなり混乱した状況の中で生きていることになるわけだが、敵なのか味方なのかはっきりしない場合もあるだろうし、相手がその時は敵でも別の時には味方になってくれたりすれば、その後には友人関係となる場合もあり、終始何の縁もなければ無関係だと思われるが、それが何を意味するわけでもなく、別に攻撃を仕掛けているのでも仕掛けられているわけでもなくても勝手に向こうでもこちらでも敵対関係を装っていたり、そこに特有の事情や経緯が生じてくる限りで、通常ではあり得ない関係が想定されてしまうかも知れず、その種のフィクションを信じ込んでしまうとただでさえ事態が錯綜してこんがらがっているのに、それに輪をかけてわけがわからないことにもなってきて、そうなってくると意識しなくても勝手に意志とは無関係に行動や行為が伴ってきて、後はなるようにしかならないような、そんなことをやっている当人でさえよくわからない結果に直面して唖然としてしまうかも知れないが、そうなることを狙ってそんなことをやっているわけではないから、無責任な態度で投げやりな行動が目立ってくるとしても、それがその場の成り行きに従った行動になるなら、うまくいけば結果に納得できるかも知れないが、信じられない結果を前にして茫然自失となってしまうようなことにもなりかねず、それ自体もフィクションで扱われるような成り行きかも知れないが、はっきりしないような不透明さやわかりにくさが人間関係や集団の内部での関係にはつきもので、そうなっているところではあまり敵と味方とを区別しない方が身のためだと感じられる状況もあるだろうし、実際の世の中でも他人の行為や行動を一方的に非難するようなことをやってしまうと、もうそこから後戻りが利かなくなるばかりではなく、それが後からレッテル貼りの口実を与えることにもなり、そういうことが起因して敵と味方の固定化というフィクションも形作られるわけだが、それが行為や行動よりは言動に偏るような傾向があると、主義主張の違いで敵と味方とに分かれるのだろうが、主義主張が違っても敵でも味方でもないということがあり得るかとなると、それも状況次第で敵でも味方でもどちらにもなったりならなかったりして、主義主張を同じくする集団内でも内部抗争のようなことが起こるだろうし、そういう意味では何かをはっきりと区別するようなことを言うと、それを区別できないような事例が言った後から出てくるようであれば、そんな断言に逆らうような成り行きがそれに続いて生じてくるとその場の状況を捉えておけばいいのかも知れないが、それが現実の世界では普通に起こっていることであり、人の行為や行動や言動などに別の人や集団などが反応して、そんな反応自体がそれに従ったり逆らったり、あるいはそのどちらでもあると同時にどちらでもないような両義的な行為や行動や言動などに結びついたりつかなかったりするわけで、また中には自身の行為や行動や言動に自分で反応して、自分でも予期しなかったおかしなことをやってしまう場合もあるだろうし、それが原因で余計に敵を作ってしまうかも知れないが、瓢箪から駒のように幸運が転がり込んでくればしめたものだが、そんな都合よく事が運ぶとも思われなければ、信じている理屈や論理や道理などに忠実な行いを心がけた方が結果がどうなるにしても納得がいくだろうし、意識しているのはそんなことだとしても、それも状況次第で勝手に心身が動作してしまい、そうなっている最中では事前に心がけていたことなど忘れて動いているわけで、そういうところでは勘が働いている可能性があるかも知れないが、勘に頼って失敗することも結構あるだろうし、そういう本能的な動作を伴っていると、後から冷静になって振り返ればそれが辻褄が合うような動きだったとしても、それを辻褄が合うように説明しようとしているだけであれば、もしかしたら説明から漏れるような動作も行なっていて、それがそういう行いを批判したり糾弾するようなことをやっている人にとっても、批判や糾弾の主張とは相容れない動作であるかも知れず、そこに着目しろ言ってもそんなのは無視されて当然だろうが、そうやって自身の反省的な振り返りの中でもそれを批判したり糾弾する主張の中でも取り上げられない動作が見つかるようなら、たぶんそこにそこから説明したい対立や敵対や同盟や連携などの関係にとっては都合の悪い何かがあるのかも知れず、事の経緯を都合よく説明したい人はそれを省いて何とかして否定や肯定の評価を伴うレッテルを貼りたいのだろうが、そういうレッテル貼りに抵抗感を覚えるようなら、そこにも見逃してしまう心身の動作が潜んでいて、それに勘が反応して抵抗感となって思いが出力されるのかも知れないが、それを救いだとか付け入る隙だとか捉えてもあながち間違ってはいないだろうが、そこからそれを利用して批判や糾弾やレッテル貼りの逆手を取って大どんでん返しを企むとか、そういう大げさなことではなく、少なくともそういった敵対的な行為には全面的には同調し得ないようなちょっとした歯止めとして機能すれば上出来な方かも知れず、その程度のことであるからその場の状況を一変させるような力はないにしても、その渦中に深くのめり込まずに浅く接するだけにとどめておくには格好の口実になるはずで、それがその場で覚える違和感だと言えば、その通りだとも言えるだろうが、それもその通りだと言えるほどの自信はなく、気のせいに過ぎないと言ってもその通りだと言えてしまうほどの何でもないことなのかも知れないが、そういうちょっとした抵抗感を失ってしまうと、その種の批判や糾弾やレッテル貼りに同調してしまうだろうし、主張の中でそういう手法を使っている人に操られやすくなってしまうわけだが、中には操られているふりをしながら煽動者を攻撃するための材料をせっせと収集している場合もあるだろうし、さらには煽動者を増長させて煽り立てすぎてかえって反発を招いて自滅に追い込むために誉め殺しのような攻撃を仕掛けるやり方もあるとしても、そういう振る舞いにも思惑とは関係のない意味不明な動作が紛れ込んでいる可能性があり、たぶんそんなことをやっている人たちにはあずかり知らないことだろうが、その人たちも違和感を伴いながらもそういう疑念を振り払いながらそういうことをやっていて、それがそれらの人たちの存在の虚構性を表しているのかも知れない。


12月6日「考えるのとは別の成り行き」

 暇にまかせて絶えず同じことを考えていると、それしか考えていないように思われるが、別のことを考えているのを意識していない場合もあり、ふとした拍子にそれが思い出されると、それしか考えていなかったことが嘘だったとわかるわけでもないが、長時間にわたってそれだけをひたすら考えているように思われると、いくら考えても結論が出てこないからそればかり考えていることを忘れて、考え続けていればいずれ納得できる理解に辿り着くのではないかと期待してしまうこと自体がおかしいのだが、いくら考えても何の理解にも至らなければ、考えるだけ時間の無駄だったと思い知るしかないだろうが、確かに何の結論も出ないことを考えて時間を無駄に使ってしまったとしても、それだけが時間の無駄遣いというわけでもなく、他にもいくらでも時間を無駄に使っているのに、なぜその時だけ時間の無駄遣いを気にするのかわけがわからなくなりそうだが、そうではなく、いくら考えても何の結論にも理解にも至らなかったことが問題なのに、なぜかそこではなく、考えるだけ時間の無駄だったことが気になったように見せかけたいわけでもなくても、考えるだけ時間の無駄ということが思い浮かぶわけで、しかもそれがわかったからといって、時間の無駄だから考えないのかというと、そうではなく、気がつけば性懲りもなくまた何の結論にも理解にも至らなかったことを考えていて、それを考えるように仕向けられているのだとすれば、何によって仕向けられているのかといえば、それもわからないからそれも考えてしまうわけだが、いくら考えても何の結論も理解も得られるわけでもなく、確かに考えるだけ時間の無駄なのだろうが、気になって仕方がないからつい暇にまかせて考え込み、考えるだけ無駄だと思いながらも、それでも一向に懲りる気配もなく、さらに考えていることがあるわけで、それが何なのかというと、それをうまく言い表せないはずがなく、それについて考えているのだから思考の対象がはっきりと認識されているはずだが、それを直接語るのを避けながらも、それについて語るという回りくどいことをやらないと語れないようなことでもあり、語りたくないなら無理に語らなくてもいいのだろうが、それについて語らされてしまう成り行きに囚われて、否応なく語らざるを得ないようなことになれば、語りたくないからそれへの直接の言及を避けながらも語っているという二律背反したことをやっていて、それが語る対象の語りにくさを表していると共に、それについて考えていることを述べるという二重の試練をくぐり抜けている最中に、考えていることがいつの間にか語っていることに移り変わってしまい、考えるだけならまだしも、考えあぐねているのにそれを語るという困難を引き受けなければならなくなり、さらに無理な状況へと追い込まれて、考えるのも語るのも断念しなければならなくなりそうで、しかもそこに踏みとどまりながらも、考えると同時に語ろうとしているわけだから、語ろうとしていることが考えることの邪魔をしていて、それによって考えさせないようにしているのかも知れず、なぜそうなってしまうのかといえば、考えるだけ無駄で、いくら考えても何の結論にも理解にも至らないから、その代わりに語らざるを得ず、考える代わりに語っていると状況を捉えると、納得がいくかというとそうでもなく、実態としてはさらにそれに付け加えて文字を記しているわけで、文章の中で語らせようとしていて、そこでどう語るかを考えていると同時にどのような文を構成するかも考えているだろうし、結局文字を記しながら様々なことを考えていて、それが単純に一つのことを考えているのではないことを示しているから、それらを同時に言い表すことの困難も自覚していて、それをうまく言い表せないとしても納得するしかないし、その中のどれか一つのことを考えていることにして文章を構成すれば、それなりにもっともらしい内容になるかも知れないが、それが考えていることの全てではないのは分かりきったことであり、そんなことにまで気を使って文章を構成する必要もなく、ただ単に考えていることを述べているように装えば済んでしまうことであるとしても、絶えず考えるのとは別の成り行きの中で考えているという物事の重層的な重なり合いを示すには至らず、何かそれが単純な物事の進行のようにしか言い表せないわけで、もちろん言い表すのは文章の中で示されていることであり、実際に言い表しているわけではないから、それ自体がフィクションに過ぎないのだろうが、そういう意味では何かを記す行為自体がフィクションを構成しているわけだが、それが現実の世界を反映した具体的な内容になることを避けようとしている限りで想像に結びついて、あり得ないことを想像しているのかというと、それもそうではなく、何とかして現実にあり得るようなリアリティをもたらしたいから、わけのわからなさや意味不明な内容から遠ざかろうとして、述べていることの説得力に頼って無内容ではない内容をもたらそうとするのだろうが、内容があるように装いたいのではなく、実際に内容をもたらしたいのだろうが、その内容というのがうわべだけの取り繕いになってしまうと、無内容と変わらない内容となって、何かを述べているようでいて何も述べていないことになってしまうのだろうが、そんな状態が何に表れているのかというと、富の分配という矛盾した概念であり、分配できるはずもない富を分配できるかのように装いたいわけだが、富というのは分配して少量となってしまうと富ではなくなって、すぐに消費されてなくなってしまうものであるにも関わらず、富を分配すれば分配を受けた人が裕福になったかのような錯覚をもたらすとしても、そんなのは錯覚だとは言わないのが暗黙の申し合わせとなっているわけではないのだろうが、富というのは多量に溜め込まれて蓄積されているからこそ富だと言えることに関しては、誰もが承知していることであり、富が富として機能するには分配されないことが必要であり、富が蓄積されて保存されているからこそ、それが信用として機能するわけで、しかもそれが貨幣の蓄積であれば、数値の大きさとして蓄積されているから、その蓄積自体がフィクションなわけで、物質としては何が蓄積されているわけではなく、もちろん金の延べ棒や札束などとして蓄積されている分については物質的な蓄積だと言えるだろうが、それも全体から見たらほんの一部分を構成する象徴的な見てくれに過ぎなければ、その他の大部分は数値的な情報に過ぎないわけで、もちろん株や債券などの金融証券も数値的な情報に過ぎず、それも情報として蓄積されていることになっているわけだが、果たしてそれが蓄積と言えるのかというと、普通に言えるはずだが、実際の物資の物質的な蓄積とは別の成り行きの中で蓄積されていることになっているわけで、簡単に言うなら申し合わせとして蓄積されていることになっていると見なされて、それを蓄積と見なさないと物事の売買や貸借が成り立たなくなってしまうから、それらの取引を成り立たせるために、そこに数値的な情報が蓄積されているという申し合わせを取引に関わっている人や団体は守らざるを得ないわけだが、もちろんそんなのはフィクションであり、単なるゼロと1の数値的な組み合わせが半導体の記憶装置に刷り込まれたり、情報としてネット上を行き交っているだけだと言ってみても、それを使って実際に取引が行われている限りで、それを蓄積だと認められない人は取引に加われないし、場合によっては取引どころか社会からも除外されてしまうだろうが、果たしてそんな成り行きが実際に起こっているかというと、特に目立った形では起こっていないだろうが、少なくとも数情報の蓄積を持ち合わせていない人は取引ができない状態になっているだろうし、その人が数値情報の蓄積を富だと認識していないわけではなく、できれば自身も数値情報を蓄積したいのだろうが、うまくそうした取引を介したゲームを行えないから数値情報が蓄積しないのであり、ゲームを行うにあたって技術が未熟で勘が鈍いだけではなく、そこに参加するための条件において不利であった可能性もあるだろうし、その他にも諸々の要因が作用してうまく数値情報を蓄積できないのかも知れないが、普通はそういうことは言わないで、真面目に働いて稼げば何とかなるぐらいの単純なことを言っていれば、それがおもしろいか人の興味を惹くかどうかはさておき、その場の状況に応じて言っている分にはどうということはないのだろうが、そこから何をどう表現するかで、言っていることから連想される意図や思惑も当人の思っているのとはだいぶ違ったふうに受け取られる可能性もあるだろうから、言葉を慎重に選ばなければならないとしても、別に富の分配を疑っているわけでも、分配をしようと画策している人や団体を批判しようとしているのでもなく、そういうことが実際に行われた結果としてどうなるかを考えているのかも知れないが、それ以前に実質的に富の分配が行われるのか、あるいは掛け声倒れに終わる可能性も高いだろうが、やろうとしている勢力が何を意図してそういう宣伝文句を使ってきたかは、誰もがわかっていることなのかも知れない。


12月5日「常識を覆す行為」

 常識が覆されるとそうなるのが当たり前だと思われていたことが通用しなくなるわけだが、そういうことは滅多に起こらないから、実際にこれまでの常識が覆されると、それが誰もが当然視していた常識であるほど驚き騒ぎ立てられて、メディアで話題となるかも知れないが、中には常識が覆されても無視されることもあるだろうし、常識が覆されては困る人や勢力が無視したり、無視されても騒ぎ立てようとする人や勢力を黙らせようとするかも知れないが、そうした抑圧や弾圧などに打ち勝たないと常識が覆らないなら、常識を覆すのも並大抵な努力ではかえって常識を守ろうとする人や勢力に跳ね返されて、常識が覆ったことを世間に知らせようとする段階で頓挫してしまうだろうが、そんな常識を守ろうとする人や勢力が、必ずしも世の中で主導権を握っているつもりの体制側の人や勢力ばかりではなく、それと敵対しているつもりの批判勢力でさえ、批判するやり方に関しては常識を守ろうとしていて、常識に反する批判の仕方を無視したり、これまでの常識を打ち破るような非常識な批判を試みる人や勢力を抑圧したり弾圧しようとするかも知れないが、それらの人たちに何が足りないのかといえば自由が足りないわけだが、自分たちの立場が脅かされない限りでいくらでも常識を覆してもらっても結構だろうが、それによってそれらの人たちが行なっていることが世の中で通用しなくなっては困るから、そういう方面で常識が覆るような行為は是が非でも阻止しなければならず、それは世の中で主導権を握っているつもりの体制側にとってもそれを批判しているつもりの人や勢力とっても死活問題だと感じられるようなことでもあるだろうし、そういうことがあってはならないはずだが、実際にそういうことが起こるかというと、それらの人たちが知らないうちにいつの間にか常識が覆っている場合もありそうで、それ以前にそれが常識だとは自覚していない場合もありそうだが、自分たちが何を守っていて、何を守ろうとしているかもわからない間に、実質的に守っているそれが絶え間なく変化していれば、それが常識だとも思わないだろうし、常に揺れ動いているから常識として固定せずに、何か捉えどころのない慣習のようなものを守っているつもりになれる時もあるとしても、それでも他人が何か気に食わないことを述べているのが世の中に広まらないように、無視して黙殺しようとしているなら、そこに自分たちが守っている常識に反するような内容が含まれているのかも知れないが、そういう人たちが主張していることが、他の多くの人たちと共有している紋切り型の内容であれば、そんな内容とは違うことを述べている人がいれば、それがそれらの人たちにとっては気に食わない内容となってしまうから、そういう内容に共感を示すこともないだろうし、結果的にはそれを無視したり黙殺して、あたかもそれが存在しないかのごとくに振る舞おうとするかも知れないが、そんな振る舞いと共に自分たちが使い慣れたいつもと同じ紋切り型の主張をメディアを介して繰り返しているようであれば、そういう主張はすでにある程度は世の中に広まっているはずで、実際に自分たちと言えるほど複数の人たちが同じような傾向の主張を繰り返していることを自覚しているなら、そういう傾向がその種の人たちの間で常識となっていて、そういう傾向の内容だから安心して主張できて、実際にある程度の世間的な共感も得られているはずだが、そういった傾向の範囲内に収まってしまった主張であれば常識的な内容だと言えるのだろうが、それがくだらないことだとは言えないし、むしろ妥当で真っ当な主張だと思われるなら、そう思う人の意識も常識的な範囲内に収まっていて、取り立てて危険視されることもないが、それがあまりにもありふれた内容だと馬鹿にされたり嘲笑の対象ともなってしまうだろうし、逆にそんな安易で浅はかな主張を批判するために他の多くの人たちを巻き込もうとする思惑から、安心して嘲笑の対象となるような内容を求めている人たちもいて、そういう人たちがそれを煽動や宣伝に使ってやはり安易で浅はかな人たちの支持や賛同を集めたいわけで、そういう成り行きに巻き込まれてしまうと常識が覆るだの覆らないだのとは真逆の、主張や批判を使って敵対し合っている側のどちらが常識的なことを述べているかを競うようなことになるだろうから、どちらも世間に媚びを売るような態度となり、かえって世間から舐められてしまうような結果にもなりそうだが、それでも馬鹿にされたり嘲笑されるのと引き換えにして一定の支持や賛同も集められて、そういうことを行う活動が経済的に成り立っている限りで、一定の勢力としてその存在が世間的に認知されることにもなり、結果的に社会の中に居場所を確保することにもなるだろうが、それが常識的な成り行きだとも言えるわけだから、常識を覆すのとは真逆のことになるだろうし、そこで言われていることが常識を覆すような内容だとしても、そんな常識を覆すような内容自体が世間的に認められた常識の範囲内で語られていることであり、それが多くの人たちが安心して驚けるような常識を覆す行為となれば、常識を守ろうとする人や勢力から抑圧されたり弾圧されることもないだろうし、むしろそれらの人たちが守っている常識に抵触しない範囲内で常識を覆せれば、かえって歓迎される可能性もあるかも知れないし、意識してそういう傾向を目指さなくても、常識を守ろうとする人や勢力によってそうなるように仕向けられたりすれば、それらの勢力に誘導されながらそうなったことにもなるだろうから、そうなってしまう限りで対立や敵対とは無縁の活動となってしまうのだろうが、活動の方向性がそんなふうに途中からねじ曲げられても構わないような成り行きというのも結構あるとすれば、それが見せかけや偽りのウインウインの関係とも言えなくもないが、そういった懐柔工作が伴ってくれば、それなりにそこから利益が見込めるからそうなるのかも知れず、功利的な思惑から対立や敵対の関係がなし崩し的に変容してしまうこともあるだろうし、逆に大して違わないのに微妙なところで主張が対立して敵対関係を保っておいた方がより多くの支持や賛同が期待できる場合もありそうで、そういう思惑が見透かされていても安心して支持や賛同が得られるなら、逆に見せかけや偽りの敵対関係が装われて、それを期待している人たちから支持や賛同を集められるような成り行きにもなるだろうし、それも常識の範囲内でそういうことが行われている限りで世間的な安心感がもたらされて、かえってそういう状態を維持したい思惑も感じられて、表向きには対立しているが裏では談合しているような疑わしい雰囲気も醸し出されてきて、胡散臭い関係が想像されてしまうが、そういった関係の真相を暴露することが常識を覆すことになるかといっても、それも常識の範囲内で常識を覆すようなことが行われるなら、それがどのような関係だと思われても、その立場が安定していたものであれば、安定した立場を守ることが常識的な範囲内で行われていると思っておいても構わないだろうし、それが世間の常識を守る行為につながるなら、そこに安定した立場を築くことがそうした活動の目的にもなってくるだろうが、それを実際に行なっている人たちが自覚しているかというと案外そうでもなく、それを主張することが自らの立場を安定へと導くと自覚していなくても、自然と行なっていることがそういう立場をもたらして、当人にはその自覚はなくても、実態としては必死になって正しいと思うことや良かれと思うことを主張していて、多くの場合は悪意ではなく善意でそういうこと主張しているはずだが、それによって表面上は敵対しているつもりの相手には悪意を伴っているように思われたり、そんな主張によって自らが攻撃されていると受け取られてしまえば、その人は敵対しているつもりがなくても、勝手に敵対関係が作り出されてしまうような理不尽な成り行きにもなりかねず、そうならないように注意深く言葉を選んで主張しても、勝手に都合の良いように受け取られてしまうこともあるから、何をどう主張してみてもなるようにしかならないとあきらめるしかなく、そうやって当人にはあずかり知らないところで勝手に敵対関係や同盟関係などが装われてしまえば、そういう関係に見せかけることによって物事をもっともらしく説明できるようなことになっているのかも知れず、実際にそんな説明に惑わされて本当の敵対関係や同盟関係が結ばれてしまえば、虚構から現実が生じてきたような常識外れなことになってしまうが、そこでも依然として常識が覆されたわけではなく、常識的な判断から逆にそういう関係を想像してしまい、むしろそうならないと困るような説明の論理が導き出されて、そういう関係が成立していた方がそれを語る上ではもっともらしく感じられると、周囲がわざとそうなるように仕向けてしまう場合もあるだろうし、そうやって当初は複雑に入り組んだわけのわからない利害関係だったのが、だんだんと単純明快な二項対立へと変貌してしまうこともあるとすれば、そうやって国と国とが全面戦争に突入してしまった事例も過去にはあるかも知れないし、現状でもそんな成り行きの途上で地域的な紛争が世界の各地で起こっているのかも知れない。


12月4日「予想とは違う何か」

 何かこれから起こることを予想するとなると、普通は最も起こりやすい可能性のあることを予想しようとするのだろうが、絶対に起こらないと思われることが起こると予想する人はまずいないはずだが、あり得ないことが起こる場合も稀にあるだろうし、予想外のことや想定外のことが起こるのもよくあるパターンで、予想が外れるのは予想する分野によってはしょっちゅうあることかも知れないが、天気予報などの予想の精度が高い分野で行われる予想は信頼できるが、外れる予想が目立つ分野での予想が当てにならないのは当然だろうし、その場の状況や情勢によって予想しやすかったりしにくかったり、予想の技術が確立されていて精度が高そうな分野でも、予想が外れる時はあるだろうし、ギャンブルなどは予想が外れないと成り立たないだろうから、予想が外れることも必要な場合もありそうだが、何でもかんでも予想する必要はないとしても、人には想像力があり、どうしても自分自身や自分に関わりがある物事の将来の有り様や姿を想像してしまうから、気が向けば何かしら予想してしまうわけだが、そういう予想は天気予報などとは違って技術も精度も全く考慮されていないから、外れてもそれほど気にならないし、むしろ予想外のことが起こるのを期待してしまう場合もあり、そうなると予想というよりは期待の方が大きくなって、身勝手な願望を反映したあり得ない期待を抱いている場合もあり、そんなことは絶対に起こらないと予想しつつも、あり得ないことが起こるのを期待しているから、実際にあり得ないことが起こって驚く自身の姿まで想像して、そんなふうにして予想と期待と想像が絡み合って複雑な思いを形成してきて、そこから予想だけを取り出して云々しても意味がないだろうし、意識の中では予想が当たったり外れたりすることよりも重視している何かがあり、それがうまく言い表せないような様々な物事のバランスなのかも知れないが、それが危うい均衡の上にかろうじて保たれているのか、はたまた盤石な地盤の上で安定しているのかはそんなこともよくわからないのだが、どちらでもあるようなないような時として不均衡になれば心身のバランスが崩れてどこかしらおかしくなってしまうのだろうが、そうなってもならなくても、焦って何かを決めつけたり勝手に断言してみたりしても揺るぎようのない状態で、外界から何か作用を及ぼされて揺るがされても、余裕で持ち堪えてしまうような心身の柔軟性があるのかも知れないが、それも何かの偶然が作用してそうなっているようなことであり、外界から及ぼされる作用とそれを受けて動揺したり反発したりする自身の内部から生じてくる作用が程よい均衡を保っている限りで、自我の安定が保たれているのだろうが、時として不安定になって気分がおかしくなったり体調を崩したりするとしても、そうなることも後から振り返れば必要に感じられるようなら、そんな結果を自身の都合の良いように受け止めていることは確かだが、その反面で都合の悪い時もいくらでもあれば、そこでも都合の良さと都合の悪さとの間で心身のバランスを取ろうとしていて、どちらか一方に振れないようにしているわけではなくても、その中間の状態になるように絶えず自身の状態を持っていこうとしているのかも知れないが、果たしてそんなことが可能なのかといっても、絶えず都合の良さと都合の悪さとの間で状態が揺れ動いていると想像することはできるとしても、実際にそうなっているかどうかは定かでなく、ただそんなことを都合よく想像している限りで、ご都合主義なのではないかと疑ってしまうが、たとえそうなっていようと構わないような心理状態に否応なくなってしまうというと、それもそんな状態になっている自身の姿を想像しているに過ぎないことになってしまいそうだが、そういうところでも潔く物事を単純に割り切れるかとなると、なぜそうする必要があるのか意味がわからないが、その場の成り行きに応じて行動するには自身の抱いている固定観念やこだわりを捨てる必要があるかとなると、その場の都合でそうしなければならないと思うこともある一方で、なぜか知らないがその場の成り行きに逆らって、自身が抱いている固定観念やこだわりが邪魔をしてそれができないことにしておきたい場合もあり、一般的にはそうなるのは否定されるようなことかも知れないが、実際にそうなってしまった後から振り返っても自身のその場の行動が謎な場合もあり、それを単純に嫌だからそうなったと捉えてもかまわないのだろうが、当時を振り返ってみても何だかよくわからない成り行きの中で行動していて、結果的にそれが良かったのか悪かったのかどちらにも受け取れるようなことであれば、どちらであっても良かったのか、どちらか一方でなければ良かったのかもわからず、どちらであっても悪く、どちらか一方でも悪ければ、どうやっても悪い状況にしかならなかったのかも知れないが、それが何をどう予想してみたところでどうにもならなかったことだとすれば、予想するだけ無駄だったのだろうが、たぶんまだその時点では全ての結果が出ていたわけでもなく、実際に継続中の作業が残っていて、それが何かの後始末とも思えなければ、そこからどうにかなる可能性があると期待を抱くしかなく、実際にあり得ないことが起こるのを期待しながら行動していたのだとすれば、あり得ない期待に導かれて実際にここに至ったと現状を捉えるしかなく、ここからもさらにあり得ないことが起こることを期待しながら行動しているのかも知れず、その自覚がなくても何かの機会にそれが明らかになれば納得できるかも知れないが、それが絶えず意識の潜在領域にとどまっているようなら、それを自覚しないでそんな期待を抱きながら行動していて、それが期待感という漠然とした思いなのかも知れないが、そういうわけのわからない期待を意識してしまうと逆に馬鹿らしく思われて信じようとしなくなってしまうだろうが、それがわざとそうしているのではないものの、信じていることを意識していないから意識の潜在領域で期待感を維持していて、そんなことが起こるのはあり得ないと思いながらもそれが起こることを期待してしまうという両義的な態度でいられるわけだが、果たしてそれがそんなことが起こることを予想していることになるのかというと、たぶん予想とは違うのであり、予想であれば予想が当たることを予想したいのだろうが、予想が外れることを予想しながらも、その予想が外れることを期待しているわけだから、意識の中では予想とは違う何かが起こることを期待しているわけで、それがあり得ないことだとしても、あり得ないこととは具体的に何なのかがその時点ではわからないわけで、それが起こってからそれがあり得ないことだと気づきたいのかも知れないが、すでにそれが起こっているのに気づいていない可能性もあるわけだから、期待していたことが起こっているのにそれに気づいていない場合もあるわけで、そうであればそれがあり得ない状況である可能性もあり、当人はあり得ないことが起こって驚きたかったのに、実際にはそれに気づかなかったのだから、それが当人にとってはあり得ないことだったのかも知れず、それが起こることを期待しながらも、実際に期待通りのあり得ないことが起こったのに、それに気づかなければ、それが起こったことを知らないから、当人にしてみれば予想通りにあり得ないことなど何も起こらなかったわけだが、実際には当人の気づかないところであり得ないことが起こっていて、当人にしてみればそれが期待通りのあり得ないことなのに、それに気づかないばかりに期待を裏切られたことになるにしても、それが当人の期待を裏切るようなあり得ないことだとすれば、あり得ないことが起こってもそれを知り得ず驚くこともできないことが当人にとっては期待を裏切るようなあり得ないことであり、それと共にあり得ないことなど起こるはずがないという予想も当たったと思われるなら、当人の予想が当たったように思われると同時に期待も裏切られてがっかりするかも知れないし、実際にそうなってしまうことを単純にこうだと説明するわけにはいかないが、本当にそんなことが起こってそれを実際に体験したのかといっても、もしかしたら日常茶飯事のようにいくらでも体験しているのにそれ気づいていない可能性もあるかも知れないが、いちいちそんなことには気づいていないところが救いといえば救いなのかも知れないし、気づかなくて当然なのだから救いでも何でもなく、気づかなくて当然の意味不明なことかも知れず、そんなことにこだわって言及するまでもないことであり、自身の正気を保ちたいなら、そんな面倒でややこしいことを思うのはやめて、もっと素直に起こってほしいことを予想したり、大げさな大惨事が起こることを予言すればよく、そういうことなら世の中の風潮に意識を合わせられるし、余力があるならそれにかこつけてもっともらしいことを述べて、他の人々から支持を取り付けられるような内容を語ればいいのだろうが、それができないとなると、やはりそこにひねくれたこだわりが作用していることになってしまうのではないか。


12月3日「こじれた事態」

 それとは何かということがまずは問われなければならないような成り行きの中で、それに関して何か利いたふうなことを語ろうとすると、根本的なところでは変えようのないことが表面的なごまかしやまやかしによって変わったように見せかけられて、何やらもっともらしく装いも新たに再出発したかのように語られるべきではないし、そんな成り行きから何か良いイメージを連想させたいのかも知れないが、そこでさも変わったかのように演じられている内容とは全く異なることが裏では行われているのではないかと勘ぐりたくなってくるのだろうが、そんな邪推が当たっているかどうかはさておき、表面的な装いが変われば何も変わっていないどころか、これから様々な面で変化が起こるきっかけとなり、表紙を付け替えただけでも解釈の変更をもたらす可能性もあり、新たな解釈によって内容にまだ理解されていない面があったことが明らかになれば、それが全体の意味や意義の再検討や変更につながる場合もありそうだが、それが何について語られていようと、それが変わったから良いとか悪いとかではなく、変わっていく成り行きの中でその変化に応じた行為や行動が伴ってきて、それが良くも悪くも活動の実態となり、そこで実際に何かが行われて、行われていることから変化がもたらされたりもたらされなかったりするわけで、これまでにも何かが行われながら変わり続けてきたのだろうし、これからも何かが行われながら変わり続けることになるのだろうが、何かを行なった結果としておかしな事態がもたらされるようなら、そのおかしな事態に合わせてまた何かが行われて、それによって事態がまた変わる可能性もあるだろうから、わざとおかしな事態になるように何かを行なったわけではないにしても、何か目的があってそんなことを行なったのであれば、その目的から外れて思いがけない事態がもたらされたことになり、そこから目的の変更や修正を余儀なくされるとしても、そこでもこれまでとは状況や情勢が変化したと捉えるしかないだろうが、何かこじれた事態に陥っていることは確かなのだろうが、それがこじれた事態なのかというと、これまでにもいくらでも事態がこじれてきたのだから、それは今に始まったことではなく、事態がここに至ってさらにこじれてきたとも言えないわけで、そうなった結果からその結果に適合する理屈や論理を導き出しても、それは結果をもっともらしく説明するための理屈や論理となり、そうした理屈や論理がこれから起こることに適合するかというと、適合することもあるだろうが、適合しなければまた新たに適合するような理屈や論理を導き出すことになるだろうし、物事をそうなった結果から説明する度にその説明に適合する理屈や論理が求められるとしても、それはそういう説明に説得力を持たせるために必要な理屈や論理であり、説明に納得するための理屈や論理が実践で通用するかというと、それも通用したりしなかったりするのかも知れないが、これまでにもこれからもこじれた事態に遭遇する度に、それを説明するために必要な理屈や論理がその度ごとに求められるにしても、恒常的に同じ理屈や論理が通用するかとなると、それも通用したりしなかったりするのだろうが、何かもっともらしく納得できるような理屈や論理が導き出されたとしても、それはそうなった結果を説明する時にそう思われるわけで、それがこれから何かを行う上で役に立つかと問われるなら、それを行う度ごとに役に立ったり立たなかったりするのだろうし、そういった理屈や論理の信奉者の類いにならなくても、何か役に立ちそうな理屈や論理の一つや二つは持ち合わせていた方が何かと心強いだろうが、そうだとしても誰もが何かを説明する立場になれるわけでもなく、説明することによって利益を得られるわけでもないだろうから、説明する必要のない人にはそんな理屈や論理などいらないかも知れないし、その代わりにその人の活動に合わせた別の理屈や論理が必要になってくることもあるだろうが、それがどのような理屈や論理であるとしても、他の人には興味のないことであるなら、それを知る必要も感じないだろうが、そうであっても何かの時に役に立ったり立たなかったりすることもあるだろうし、それを知っていれば得をすることも損をすることもあるかも知れず、その場の状況や情勢に応じて誰かに興味を持たれるような説明がしたいなら、何やらもっともらしい説明をするのにそれに適合する理屈や論理を持ち出してこなければならなくなるのだろうが、そういう必要がどこから生じてくるかとなると、その場の成り行き次第で必要になったりならなかったりするわけで、いつどんな時に必要になるかはその時になってみないことにはわからないわけでもないだろうが、必要でないのに説明したくなる時もあるだろうし、また逆に必要であってもうまく説明できないようなこともあるから、必ずしもその必要に合わせて理屈や論理が導き出されるわけでもなく、必要でなくても導き出されてくれば、それを使って何かを説明したくなるわけで、そういった必要から見放された説明などいくらでもネット上にも書籍の中にもあるだろうし、それが雑学的な知識として堆積していて、その中から一部が必要に応じて活用されることもあるにしても、大半は放置されて風化作用に晒されて朽ち果てるがままになっているかも知れないが、それがこじれた事態をもたらしているのではないものの、こじれた事態になる度にそれをもっともらしく説明するのに都合の良い理屈や論理が導き出されてくれば、それだけ理屈や論理が増えてくるわけだが、もちろんそうなったからといってそれ以前の理屈や論理が使えなくなるわけでもなく、延々と同じような使い慣れた理屈や論理を用いて物事を説明している人もいくらでもいるだろうから、そういう人の説明でももっともらしく思う人がいくらでもいる限りで、そういうことを説明する人が世間でもてはやされるのだろうが、それがもっともらしく思われるとしても、その種の人に安心感を与えるような物事の説明というのが役に立っているかというと、そういった説明をする人に利益をもたらすには役に立っているとしても、その人に利益をもたらしている多くの人たちにとっては、安心感を得るのと引き換えにして利益を奪われている可能性もあるだろうし、それも直接奪われているのではなく、利益を得る機会を奪われている可能性もあるから、その時点ではよくわからないことだが、そういった成り行きの過程で説明に邪魔されて行動する機会を奪われている可能性があり、多くの人々が何もせずに行動しようとしないのはその場で動かない方が居心地が良いからで、居心地を良くするためには安心感が欠かせないわけで、そういう意味ではそのままでも大丈夫だと思わせるような物事の説明が必要となってきて、さらにはその場の居心地がそれほど良いとも感じられなくても、そこで今動いたら危険だと警告されたら動くのを躊躇ってしまうのだろうし、そうやって物事の説明によって人を操るようなことが行われている可能性もあると思うなら、世の中の安定に寄与するようなもっともらしい説明には注意すべきかも知れず、もちろんそうやって人を操ることによって世の中を安定させていると捉えるなら、そんな安定した世の中は居心地が良くなるはずだが、説明をもっともらしく思うような人にとっては確かに居心地が良いだろうが、それに納得できずに疑念を抱くような人にはあまり居心地が良いようなことでもないのかも知れないし、逆に説明を聞いて不快な気分になるようであれば、そういう説明で語られる状況とは違う成り行きの中で活動していて、もしかしたら説明をもっともらしく感じるような人たちとは敵対関係にある可能性もあり、説明に納得できるかどうかで敵と味方に分かれるようなことにでもなれば、そういう説明を介して世の中の分断が明らかとなってくるだろうが、実際にはそう簡単に物事の白黒がはっきりするようなことではなく、中にはそこから外れるような位置関係を保ちながら活動している人もいるだろうから、そんな人たちが説明とは無関係の方面からその場の物事に介入してくるようなことが起こると、何やらさらに事態がこじれてくるわけで、それがどういうきっかけで起こるかはその場の成り行き次第な面が大きいだろうが、それがそういう説明では予想も予測もつかないことであれば、実際にそういうことが起こった後では、その説明の中で用いられていた理屈や論理が、そういう出来事をきっかけにして通用しなくなることもあるわけで、それがその場の状況や情勢の変化となれば、その場を説明する上で通用していた理屈や論理が通用しなくなった時がその場の変化を感じる時になるわけだが、果たしてそれに気づくかというと、もっともらしい説明を聞いて安心感を抱いているような人は変化に気づかない可能性が高く、そういう人が変化に対応できずに悲惨な目に遭えば、それもその場の変化を如実に表していることになるだろうが、果たして現状がどうなっているかというと、実際にそんな場面に出くわすことも度々あるかも知れないが、それが明らかになる段階にはまだ至っていない可能性もあるかも知れない。


12月2日「日本の風物詩」

 見慣れた光景というのはそれを見てもありふれているように感じられて、それだけ同じような光景を何度も見ているから目が慣れてくることになるが、世の中で何かの流行が収束するきっかけとなるのも慣れてくるからだが、同じようなことを何度も体験すればそれに慣れてくるのは当然といえば当然のことだが、それに慣れてくるに従って興味もなくなってきて、大して気にならなくなってしまうのだろうし、そうなって飽きてきた頃にまた新たに何らかの出来事や現象が起これば、それが人の気を惹くような出来事や現象であれば、多くの人がそこに注目するのだろうが、それが流行現象の類いであれば一定の期間にわたって人々の興味が持続することになるわけだが、気を惹くだけならまだしも、その気もないのに勝手に体験させられてしまう現象だと、しかもそれが心身に悪影響をもたらすような現象だと嫌になってしまうわけだが、感染症の類いもそれが世界的に流行して実際に甚大な被害をもたらしている最中なのだろうが、被害だけでなく利益をもたらしている最中でもあるわけで、もちろん利益と不利益が同時にもたらされているのだろうが、何かが流行しているということは何かがもたらされていることを実感することにもなり、それによって何かが顕在化していて、その何かというのがはっきりと実感できるなら、何かが流行している最中であることを実感できるわけだが、それが慣れてくると気にならなくなって、それを実感できなくなってしまい、そんなことはどうでもよくなってしまうと、いつの間にか流行も収束して、いつまでもそんなことにかかわっている場合でもなくなってきて、まだそれがなくなったわけでもないのに、誰も気にも留めなくなってくると、実際にそれを無視しても大したことにはならなくなるのだろうが、今流行っているそれもだんだんとそうなってきている最中でもあるだろうから、それに慣れてきた証しとしてそれに対する抗体や免疫がついたことにでもなれば、流行にも終息の兆しが見えてきたことになり、不快な気分から楽観的な気分へと気持ちも切り替わって、ひと安心するのだろうが、実際にそうなって人々を油断させておいてから、また執拗に流行がぶり返してくると、またかと落胆して不快な気分へと逆戻りしてしまうのだが、人をがっかりさせるようなことを執拗に仕掛けてくる成り行きというのもよくあるパターンとして結構あるだろうし、しかも仕掛けているといっても何かがそこで空回りしていて、それが仕掛けている当事者にはよくわかっていないからそうなってしまうわけだが、見慣れた光景と共にそういうことが行われていると、何かの風物詩のような感じとなって、場合によっては世間に受け入れられて逆に安心感さえも覚えることになるのだろうが、そこでは嫌味な中身が抜け落ちて形骸化した意味の定かでない行為となるわけだが、そうなると仕掛けている現象にはすでに仕掛けている意図もなくなって、自然発生的に起こっているわけでもないが、意図的に仕掛けているとは思えないほど自然な成り行きでそういう現象が起こり、それに対してまたかと思いつつも、特に批判したり非難するでもなくスルーするしかないようなことにもなり、それでも仕掛けが不発に終わったわけではなく、何かしら人々の深層心理に影響を及ぼすことによって成果を上げたことになるのだろうし、そういう仕掛けに惑わされて何がどうなるわけでもなく、その代わりというわけでもないが、世の中の空気という得体の知れない何かに社会全体が覆われたように感じられるなら、そういう仕掛けが機能したことになるのだろうが、意識がそれに抗い逆らっているような気になっても、まんまとそんな空気の罠にはまっていると捉えておいても構わないのだろうが、気にするなと思っても気にしてしまうようなことであれば何となく気にしてしまうわけで、それが何かの幻想や妄想に囚われるというほどのことでもなく、そんな大げさなことだとは思えないし、普通に無視しても困らないようなことなのだから、無視していることになっているのだが、嫌な感じは常にするわけだから、無視しようとしても無視しきれていないわけで、それを仕掛けている方でもそうなることを意図して仕掛けているわけではなく、標的にする出来事に率直に反応しているつもりが、意図的に何かを仕掛けているように受け取られてしまうのかも知れないが、嫌な感じを出そうとしていなくてもそれが言説や主張から滲み出てくるようなイメージを連想させるわけだから、そういう感じを醸し出すようなことを行なっていると受け取っておいても構わないだろうし、それが何かの風物詩のようなことだと見なしてもピンとこないだろうが、風物詩の意図しない効果とはそういうことなのかも知れず、それによって何がどうなるわけでもないのだが、他の何かもどうなるわけでもなく、他の何もどうなるわけでもなければ結果的に現状が保たれて、なし崩し的にそういうことが執拗に行われる成り行きが続いていくことにもなり、それによって現状の中で主導権を握っている勢力の立場が盤石なものになるとも思えないのだが、そうなることを意図してそういうことが行われているわけではないとしても、結果的にそうなっているならそういうことだと思われてしまうわけで、そういうところで何かの辻褄が合っているようにも思われるから、その場の状況に沿ったことが行われていることになるのだろうが、それが何かといっても世の中の空気を作るようなことでもあるから、雰囲気作りの類いだと見なせばいいとしても納得がいくわけでもなく、そういう雰囲気作りに加担している勢力というのが否定的な意味で〇〇勢力と見なすもありふれたことではあるから、見慣れた光景の中でそんなことが行われていても見て見ぬふりをするしかないだろうし、多くの人が実際にそれに気づかないふりをしているわけだが、ふりをしていると自覚できるかというと自覚できる場合もあるしできない場合もあるが、どちらの場合がどうということもなく、それを自覚してもしなくても構わないような感じでもあるところが、それが何だかわかっているようでわかっていないふりをしてしまうところでもあり、たぶん他の国や地域でも大なり小なりそうなっているのかも知れないが、少なくとも日本の風物詩というと良い意味でそう見なしているのではなく、何か皮肉を込めてそれを日本特有の風物詩だと見なしたい気分なのかも知れず、誰もが知っていることが起こると、それに反応していつものようにいつものことが行われて、それをどう思ってみても仕方がないような気分にさせる効果が及ぼされて、またかと思いながらも嫌な気分となってしまうわけだが、もちろんそれが一過性の流行現象ではなく、執拗に毎度お馴染みのことのように続けられていることであり、そうやって何とかして惰性で世の中が回っているように思わせたいわけではなく、そんなことにまで関心を持たれないようにしているわけでもなく、わかる人には不快な気分になるような雰囲気作りをしていると捉えておけばいいのかも知れないが、わからない人には無関心でいても構わないということではなく、実際に無関心であれば構うも構わないもなく、ただ単にそんなことにはかかわりがないふりもできるだろうし、実際にかかわりがないのかも知れないが、かかわらなければ困るということではなく、かかわらなくても困らないと思ってもらえれば、雰囲気作りをしている勢力としてはありがたいということかも知れず、そういう雰囲気作りに好感を抱いて積極的に参加したい人がかかわってもらえれば、さらにありがたいのかも知れないし、みんなで好意的な気分となって雰囲気作りに参加すれば世の中も明るくなるぐらいの軽い気持ちで加わってほしいのかも知れないが、結果的にそれが何をもたらしているのかというと、何をもたらしているとも感じられないようなことになっていれば、どうということはないのだろうし、実際にもどうということはないわけだが、そのどうということのなさが否定的に受け取られるようなことでもないとしたら、本当にどうということはないのだが、それは人の意図していないことであり意図しない効果を発揮しているわけだろうが、その意図しない効果というのが世の中を覆っている空気として人を捕らえて離さないような執拗さがあり、そんな空気に包まれていると気にならないようなことであっても、本当は気にしてほしいところであったり、逆に気をつけた方がいいことであっても気にしなくても構わないようなことにもなってしまうのかも知れないが、それがその場の空気のなせる技なのかというと、意外と空気ではなく言動に従うように仕向けられていたりして、意識して従っているつもりもないのだろうが、空気に包まれていると感覚が麻痺して従っている自覚がなくなって、その気もないのに浅はかな言動に惑わされて肝心な何かを見逃しているわけで、その肝心な何かというのが、機会をとらえて決断して行動や行為に打って出ることであれば、誰もがその機会を見逃しても構わないような雰囲気作りに加担していることになってしまうのではないか。


12月1日「資本の理屈」

 資本主義経済の矛盾としてこれまで考えられてきたのは、絶えず余剰人口として高度に資本化されていない農村などから低賃金労働者の供給を受けることによって成り立ってきた経緯があり、資本主義経済だけでは成り立たない矛盾を抱えてきたわけだが、それが現代では低開発国からの不法移民などが低賃金労働者の供給源となっているわけだが、日本などでは不法移民の流入が比較的少ないから、低賃金労働者の供給源として中間層が落ちぶれて低賃金労働者となる例が増えていると言われているが、本当にそうなのかというと、そういうことを言っている人たちが統計的な数値で示している内容が説得力がありそうで、実際にそうであれば中間所得層が次第に減って貧富の格差が広がる傾向にあるわけだが、そういう指摘が正しいとしても現状で成り立っているのは資本主義経済であり、資本主義経済をやめさせることができないまま現状に至っているわけだから、さらに資本主義経済を続けていく成り行きの中で、政治の側で対策が求められているわけだが、直接的な貧困対策としては最低賃金の引き上げとなるわけだが、企業側も直接的には利益を確保するために人件費を抑制したい思惑があり、政府が国民ではなく企業に配慮しているとなかなか最低賃金の引き上げには応じられないだろうが、結局は国民が最低賃金の引き上げを目指している政治勢力を支持する成り行きになれば、その政治勢力が議会で多数を占めて政権を取るから最低賃金が引き上げられることになるだろうが、本当にそれで貧富の格差を縮めることができるかどうかはやってみなければわからないわけで、そういう政策を実施してみてから効果があったどうかを検証してみなければならず、国民の側でそういう成り行きへと持っていく意向が働かない限りは、そういうところまで至らないわけだが、重要なのはやる前にあれこれと結果を予想することではなく、やってみてから結果を検証することなのだろうが、前例主義に思考を縛られているとそうはならず、新しいことは何もできずにこれまで通りのやり方しかやらないようなことになれば、結局はジリ貧に陥るしかないわけだが、失敗を恐れていたら何もできないのは分かりきったことだが、絶えず自分達が有利な立場でいたいから、失敗した人を叩くことばかりに専念していると、失敗を恐れて誰も何もやらなくなってしまうだろうし、そんなふうに出る杭は打たれる式にモグラ叩きのようなことをやっていたら、やはりジリ貧に陥るしかないだろうが、なぜジリ貧に陥るのかといえば、失敗するのを恐れてこれまで通りのことをやって現状を維持しようとするからで、失敗がないと成功もないのが資本主義経済の中では当たり前のように起こっていることであり、数多くの失敗例の中からごくわずかな成功例が出てくるのがよくありがちな結果だろうが、それは政治にも当てはまるだろうし、政治活動も資本主義経済の中で行われている限りは、政治の場で貧富の格差を是正するためには最低賃金を引き上げるべきだと判断されれば、まずはそれを実施してみてからそれがうまくいけばそれで構わないわけだが、うまくいかずに失敗に終わればまた別の政策を模索しなければならず、別の政策を実施するには政権交代が必要なら実際に政権の交代が起こるだろうし、そういう成り行きを積み重ねていく中で何かを行なった前と後とで差異が生じれば、その差異から利益が生じてくるのが資本主義経済の理屈といえば理屈だと言えて、それに関して例えば日本でアベノミクスがなぜ株価を上げたのかといえば、それ以前の民主党政権時代の三年間は日銀を主体として真面目な金融政策を行なっていたから差異を作り出せなかったのを、自民党政権に戻って常識破りの異次元金融緩和という宣伝攻勢を仕掛けたから、それにかこつけてひと山当てようと世界から資金が集まって株価が上がったわけで、また小泉政権時代の郵政民営化でも、郵政事業という国の財産を切り売りしたわけだから、そこでもそれにかこつけてひと儲けしようとして世界から資金が集まって株価が上がったわけだが、そういう事例が政治の場での資本主義的な成功例となると、何かヤケクソなことをやっているように見えてしまうが、それ自体というよりはそれにかこつけて資金が集まるようなことが起きて、何か結果的に成功しているように見えてしまうわけで、それとは別の例で電気自動車で成功しているテスラ社にしても、それがテスラ社である必要はなかったのだろうが、たまたま電気自動車というのが目新しくて将来性があるように思われたからそこに多額の資金が集まって、大して自動車を生産していないにもかかわらず、株価の時価総額が世界最大の生産規模を誇る企業を超える事態となってから、本格的に自動車を大量に生産できるようになったという本末転倒のような事態が起こったわけだが、そういった常識外れのようなことが起こるのが資本主義経済に特有な現象でもあり、それを理屈と捉えると理屈では理解しかねるのが理屈のようなことでもあり、一見デタラメな成り行きに感じられるにしても、いったんそれが起こってしまった後では何やらもっともらしいことが言えて、そうなるのが当然のことだったと言いたがる人が大勢出てくるだろうが、また資本主義経済の矛盾だとまことしやかに囁かれている説なども、実際にそうなるまではわからなかったわけで、しかも矛盾や欠陥や行き詰まりを指摘されながらも実際にまだ資本主義経済そのものが続いているわけだから、まだこれから新たにわかってくることもあるかも知れないし、政治の場でやろうとすることも、これまでにわかっていることへの対処や対策と共に、これからわかってくるだろう未知のことにも、それが明らかとなってから対処や対策を施さなければならなくなるのだろうが、政治も経済に連動して行われている事業の一種だと捉えれば、経済活動に含まれてくるから経済とは切り離して政治を単独で行うわけにはいかず、そういうところできれいごとを言っていられないようになってしまうと共に、経済的な功利性を追求するような傾向になってしまうのだろうが、経済活動自体が活動の成功や失敗から格差をもたらす結果となるから、政治活動においても経済に連動して地域や国家規模で格差をもたらすことにもなり、さらに軍事力などでも経済活動が活発化して国家財政にも余裕が出て軍備を増強するようなことになれば、国家間で格差をもたらして地域的な不安定要因を作るわけで、そういった経済と連動する面では別にデタラメな成り行きとは思われないし、どのような経緯で経済活動が盛んになるにしても得られた富を国家的に利用するとなると、国家の官僚機構の増大やそれに伴って軍備の増強などをもたらして、周辺諸国にとっては脅威となってくるのだろうが、成り行きとしてまずは経済活動の活発化に伴って富の蓄積が起こるわけで、その逆ではないということは分かりきったことだが、経済規模とは不釣り合いに国家機構ばかり大きくなってしまうと、北朝鮮のように国民が飢餓に瀕しているのに軍事力ばかり誇示するような事態になってしまうが、国家財政の規模もその国の経済規模に連動していることは確かで、それも当然のことのように国債などの国の借金に関してもその国の経済規模に見合ったものになるだろうし、その国の経済が傾きかけているのに国債の発行額を経済状態が良好の時と同じように保つどころか、傾きかけた経済に刺激を与えて梃入れするためにさらに増額して発行するようなことになってしまうと、かなり危ういことをやっているように思われるだろうが、それもそういうことを実際にやってみた結果からどうなるかがわかってくることであり、やるに際してその場の情勢やその時の経済状態や民間でどれほどの富が蓄えられているかにもよるだろうが、政治的な成り行きとしては、すでにそういうことをこれまでにも繰り返しやってきた結果として現状がもたらされている可能性もあるから、これから新たにこれまでとは別のやり方で規模も資金の使い道も使い方も使う方面も変えてやろうとするのだろうが、それもそういうことをやった結果としてどうなるかで、そういうことを行なった政治勢力を支持するかしないか、それを失敗と見なしたならそれとは別の勢力に政権を任せるとか、さまざまなレベルで国民が判断しなければならず、一応は国民としての自覚があるならそういうことに関心を持ってそれなりに対応して政権を選択した方がいいのだろうが、それもその人の民度にもよるだろうし、そういうことも含めてそこで行われている経済活動もそれと連動して行われているように見える政治活動や行政活動にしても、絶えずそこで暮らしている人の生活に影響を及ぼしてくることでもあり、そういうことに無関心でいられたらそれなりに経済的にも心理的にも余裕があるか、あるいはそれに関しては無知で盲目にされている可能性もあるだろうが、どちらかというとそういうことに多くの人が関心を持たれると厄介なことになってしまうようなことが政治や行政の場で行われている可能性もあるわけだから、それにかかわっている人たちの好き勝手な振る舞いに文句が言いたいのなら、関心を持つべきことになるのではないか。