彼の声147
2021年
11月30日「錯覚と混同」
何かをやる機会が到来していると自覚するようなことは稀にしか起こらないかも知れないが、実際に何かをやっていればその機会が到来しているとは思わなくてもそれをやっているわけで、それとは何かといっても人によってその場の状況や成り行きによっても、それに応じて行う行為や行動がその人やその場の状況や成り行きに特有な行為や行動になるだろうが、誰かが語りたいのはそういうレベルのことではなく、もっと何かその行為や行動の是非を問うようなところで、行いの正しさや誤りの加減や程度を云々したいのかも知れないが、誤りではなく偽りやごまかしの行為や行動もあるだろうし、さらにそういう判断や評価とは関係のないところで何か興味深いことが起こっている可能性もあるだろうが、たぶん何かが起こって、それに起因して人の判断や評価を揺るがし戸惑わせるような成り行きとなってくると、正しさや誤りの加減や程度などを無視して行うべきことが行われて、それを行うべきかどうかの判断がされる以前に行われていることが、行われるべきかどうかの判断を左右するようなことになると、結局は是非の判断も良し悪しの評価もないような行為や行動が行われた結果がうまく行けば、それに影響を受けて同じようなことがその後も続けて行われることにもなり、それを行う以前に下される判断や評価よりは、行なった後でうまくいったかいかなかったの判断や評価の方が重視されることになるのだろうが、行う以前の判断や評価と行なった後の判断や評価を混同しないようにすることが肝心で、意図的ではないにしても両者を混同していたり同等に扱っているような言説や主張には注意しなければならないが、中でも紛らわしいのは何かをやった結果に言及しつつも、だからこうしなければならないという言い回しであり、何かをやった結果が良かったの悪かったのという判断や評価は、結果に対する判断や評価であるのとは対照的に、だからこうしなければならないと主張する内容は、これから行うことについての内容であり、こうすればうまく行くとかこうしてはならないというのは、これから行なうことに対する判断であり、まだ行われていないことについて言及しているわけで、果たして何かが行われた結果を踏まえてこれから行なうことについて、その是非や良し悪しが言えるかというと、行われた時と行なう時の条件や状況が同じなら同じような結果になるだろうと思うから、妥当なことを述べていると思われるだろうが、必ずしも同じ条件や状況の中で行われるとは限らない場合もあり、それに関してよくありがちなことは、過去にそれを行なった当事者とこれからそれを行う当事者が同じではない場合があり、さらに怪しい成り行きとしては、過去に行われたことを失敗だった断じて、その悪い点やひどい面をあげつらって批判したり非難しておいてから、これから行うことについて自分たちならこうすると主張して、それを行うことの利点やうまく行く可能性について語る成り行きだと、条件や状況も全く違うし、それを行う当事者も別の人や団体が行うわけだから、果たしてそういう主張を信用できるかとなると、何となく言っている内容がもっともらしくて話に説得力があるとしても、実際にやってみないことには何とも言えない面が大きいだろうし、しかもその説得力を感じることの大半が、過去に行われたことを失敗だったと断じる時の歯切れの良さや、それを批判したり非難する時の論調に、それを行なった当事者への悪口が含まれるから共感を得やすく、他人の悪口にはつい無責任な立場で安易に同調してしまうのは誰にでも起こりうる社会的な傾向だが、それを話の説得力だと錯覚している可能性があり、そういった過去に行われたことに関してなら同調しやすいとしても、果たしてそんな批判や非難をしている人たちがこれからやろうとすることを支持できるかとなると、それとこれとは話が別のように思われるなら話の半分に関しては信用が得られていないことになるわけだが、それでも一定の同調や賛同を得られたなら、そこで行われた主張や演説に関してはある程度の成果を得られたことになり、それはその人たちがこれから行いたいことではなく、行いたいことを発表する演説会の類いが一定の成功を収めたと言えるわけで、そこでもそれとこれとを混同して行なっていることがうまくいっているような錯覚を生むのだろうが、全くそれとこれとが関係ないとは言えないだろうし、そういう方向での努力がこれからやろうとすることに結びつけばそれなりに関係があったことになるとしても、それがこれからやろうとすることの成否を決するわけでもないのかも知れず、やろうとすることをやる立場になるための手段として演説会を利用していて、当事者としてはそんなことは百も承知でやっていることだろうが、それがやろうとすることを主張する演説会で支持者を獲得することだけになってしまうと、見せ物としてパフォーマンスを披露して観衆を喜ばすことの繰り返しとなってしまうから、結局はやるやる詐欺のように見えてしまうわけだが、その一方でそういう演説会で批判や非難の対象となっている人や団体も同じようなことをやっているとしても、それとは別に批判や非難の対象となっていることも行なっていて、それが見せ物のパフォーマンスとは違うところなのだろうが、それが行われた結果として批判や非難の対象となるにしても、実際に行われていることだから、行なっている分では実態が伴っていて、口先だけのことではないところが演説会の見せ物とはレベルの違うリアリティが伴ってきて、批判や非難の対象となっても実績として信用されてくるところでもあり、それとこれとは違うということを実感させられるわけだが、そういう意味でもすでに何かを行なっている人や団体には有利な点があり、それと比較していつまで経ってもこれから何かを行うことを主張しているだけでは埒が明かないわけで、何とかして主張しているそれを行う立場にならないと、そのスタート地点にも立てないことになってしまうから、それが政治の領域で行おうとすることであるなら、これまでの実績を重視してこれまでに行われてきたことを踏襲するような成り行きになりやすく、全く新しいことを一からやるようなことにはなりにくいのだろうが、そうなるとこれまでに行われてきたことを批判したり非難する人や団体がこれまでに行われてきたことを踏襲するとは思われないから、いつまでも批判や非難を繰り返している人や団体には政治の領域で主張していることを行う機会がいつまで経ってもやってこないことになってしまう可能性が高いわけだが、それが批判勢力と見なされてしまう人や団体が抱え込むジレンマにもなるわけで、そういった境遇からどうすれば抜け出ることができるかといっても、安易に変節して現状で主導権を握っている側へと恭順するような態度を示すと、何か裏切り行為のように見えてしまうだろうが、これまでにもそうやって多くの人や団体が批判する側からされる側へと態度変更してきた経緯もあるにしても、それをなし崩し的に許してきたのがそういう成り行きを肯定的しないまでもうやむやにしてきた世の中の空気や民意であるわけで、別にそれが悪いことではなく、そうやってこれまで通りのことが繰り返されてきた成り行きの中でそれに対する批判や非難の材料も事欠かなくなり、いくらでも好きなだけ気が済むまで批判も非難もやりたい放題できるから、ますます批判や非難の見せ物としてのパフォーマンスが繁盛してしまう一方で、実際に政治を行う側の質が劣化し続けているのかも知れないが、果たして昔に比べて政治の質が劣化しているという評価が妥当なのかと言えば、そうではなく昔とは状況が変わってきていると捉えておくのが無難なところだが、少なくとも過去の経緯をいくら調べてもこれからのことはわからないという態度にならないと、過去の経緯から導き出した理屈に沿って未来について語るという主張ばかりとなってしまい、それが浅はかな人々にはそれなりに支持されて批判や非難の見せ物としても一定の成果をもたらすとしても、実際にはそういう見せ物のパフォーマンスを裏切るような状況や情勢の変化を捉えることが肝要なのかも知れず、そうした状況や情勢の変化に応じたことをやろうすることも重要であり、民衆の心をとらえる新しい政治的な主張というのは、現に今動いている状況や情勢に沿った内容になるべきなのは言うまでもないことだが、それが過去の経緯を引きずっていると、新しさよりも古さが目立ってしまって、しかも古いことの方が馴染み深いから余計に古臭く感じられて、新鮮味が感じられないわけだが、もちろんそうやってこれまでにない新しい主張をしたところで、それがうまく行くとは限らないところがややこしいところだが、そういう主張が実行に移されるか否かも、現状の状況や情勢次第で不確実で不確定なのは当然だから、依然としてこうすればうまく行くという確証など何もないわけで、今後世の中がどうなるにしても、絶えず伸るか反るかの博打的な何かにつきまとわれているのは確かかも知れない。
11月29日「架空の成り行き」
どのような状況下で誰がどうなることを望んでいるとしても、同じようなことを望んでいる人が大勢いれば競争となって、望み通りにはならないことの方が成り行きの大半を占めているように思われるかも知れないが、努力のしがいがあるとはそういう状態のことだと思えば、そこから努力して競争を勝ち抜いて思い通りのことができるような状態へと持っていきたいとなるのが、話の成り行きとしては都合よく想像しやすいが、競争して勝ち抜けられない場合にはそうはならないわけで、そういうことまで含めればすでに成り行きがそれだけではない可能性がいくらでもある中で、その場の状況や情勢に実態を合わせようとしていれば、何とか持ち合わせの資産や資源をやりくりしながらやっとの思いで自らの生活を維持しているのが、多くの人の直面している現状かも知れないが、そんなギリギリの状態から何としてでも抜け出して、思い通りのことができるような状態へと持っていきたいと常々思っているわけでもないだろうが、何かそういうところでどう思ってみてもしっくりこないというよりは、そういうことを思う余裕もなく日々を忙しなく過ごしている人が大半なのかも知れないが、そこであきらめて妥協するようなことがあってはならず、どんな状況下でも自らの信念を貫き通せるように、何か確信の持てることに取り組まなければならないのかも知れず、そのためにはどうすればいいかと問う前に、すでに取り組んでいることがあれば、それを続けるしかないだろうし、実際に取り組んでいることがある限りでそこから信念や確信が生まれてきて、それらが自らを助けてくれると思い込めればいいだろうが、そんな迷いのない心境にはなりづらく、どうしても自らが取り組んでいることに関して疑念や疑問を抱かざるを得なくなるようなら、そこでそれらの不信感や不安感を取り除くにはどうすればいいかと考えてもよくわからないだろうが、考えているだけではどうにもならなければ、さらに自らが取り組んでいることを突き詰めるしかないだろうし、実際に迷いを振り払って突き詰めて行けば、そこから何がもたらされるかというと、さらなる疑念や疑問がもたらされるとしたら、それが自らが取り組んでいることを突き詰めている証拠となるかも知れず、生じてくる疑念や疑問を振り払うことが取り組んでいることの全てであり、それが現状の努力から生じてくる試練でもあるとすれば、そんな試練を難儀しながら潜り抜けることが生きる目的でもあり、目的を持って生きることが生きがいをもたらすならそれで構わないような気がするかも知れないが、そこまでが作り話の中で架空の誰かが思っていることだとすれば、それに対して現実の自分が何をどう思っているのかといえば、たぶん面倒な事態に直面して何をどうやったらいいのかわからずに途方に暮れる毎日を送っていて、自らが取り組んでいることが積極的にやりたいことというわけでもなく、それがこれまでにやってきたことの延長上でやっていることでしかないとしても、それ以外には何もやりようがないから、現状でもなし崩し的にそれをやらざるを得ないような状況に追い込まれていて、やっていることに嫌気が差して何かそれとは違うことをやろうとしてもうまくいかず、しかも現状で取り組んでいることすらも必ずしもうまくいっているわけではないどころか、うまくいかないようなことを続けているわけだから、客観的には何をやってもうまくいかない状況の中で、うまくいかないことをやり続けている成り行きの中で、うまくいくということがあり得ないと思っているわけではないだろうが、たぶんうまくいかなくても構わないのであり、うまくいかないなりにも今の状態が続いていれば、多少の不満には目を瞑ってさらにそこから取り組んでいることを前進させなければならず、そんな自らの意志とは関係なく否応なくそんな成り行きになってしまうのだから、できればそういう否定的な現状の解釈ではなく、もっと肯定的に現状を受け止めたいのだろうが、それが紛れもない妥当な現状の評価であり解釈であるとすれば、たとえ自身がそれを受け入れられなくても、そうなっていることを前提として、果たしてそこから肯定できるような成り行きへとやっていることを持ち込めるかというと、それもさらに続けていく過程で明らかになってくることかも知れず、現状でうまくいっていない面に関しては確かにそうかも知れないが、全ての面でうまくいっていないわけではなく、それでも続いているのだからそういう面に関してはうまくいっているのかというと、続いているからこそ現状がうまくいっているように思い込めるかと問うなら、そういう面に関しては普通にうまくいっているように思い込めるだろうが、それの何がうまくいっているのかといえば、続いていること以外はうまくいっていないと言えてしまうところが、逆に無意味なことのような何でもなさを想像してしまうわけだが、それがそこから脱出する糸口を見せているようにも思われて、かろうじて続いていることをやめてしまえば全てがうまくわけではないとしても、肩の荷が降りる可能性もあるだろうし、そんな誘惑に駆られながらも惰性で続けているのがうまくいかないことの原因であり、その原因をなくせばそれだけ負担が軽くなるはずだが、それが何の負担なのかというと、惰性でやり続けていること以外は何でもないような無意味さに耐えていることが精神的な負担となっているのだろうが、それが生きていることの無意味さにも通じる堪え難さをもたらしているとしたら相当の重荷となっているはずだが、そこまで大げさに考えるまでもないことであり、そんなことには遥かに及ばないような軽さの領域で続けられていると思いたいのかも知れず、負担というからにはそれに相応しく事を重く考えがちになってしまうが、大した負担でもない負担と事を捉えてしまうと、そういうのは負担とは言わないのではないかと疑念を抱くとしても、それが続けていることのややこしいところかも知れないが、事をややこしく考えないと現状をごまかせないような気にもなっていて、そういう方面では事をうやむやに済ませてそれ自体を忘れていたいということなら、そういった方面に言及が及ぶのを避けている印象を受けるのだが、続けている現状以外には何でもないことであり、それに関してどう言葉を捻ってみてもうまく表現できないような状態なのかも知れないが、それが現状維持の空疎さであり、現状を維持していること以外に特に意味がないということだろうが、そこから肯定的な内容を求めようとするのは虫のいい話だろうから、普通に考えて否定的な傾向の評価となるのが妥当なところで、それは仕方のないことだとあきらめるしかないにしても、それでも現状を維持していることから何かしらもたらされていることがあるとすれば、それが退屈で無意味な何でもなさとは違うことであれば、そこに肯定的な意味や意義があり、自然な成り行きとは違う虚構性に付きまとわれているとしても、自らの想像力が示す通りの未知の状態や状況を目がけて突き進んでいる最中だと事を捉えるなら、そこから取り組んでいることの可能性が見えてくるわけだが、それが冗談で述べていることとは違う本気で考えていることでもあり、それを示さなければならないと思うのだろうが、それがなかなか示せないまま、怠惰に流されて惰性の継続に至っているからおかしな成り行きになっているわけで、なぜ示せないのかというと、すでに示されているそれがよくわからないのかも知れず、完全には示せないような何かを感じていて、その何かというのが現状の継続から生じていることだから、それを安易に否定するわけにはいかないような気がするのと同時に、現状への否定や批判も同時並行して行われるような成り行きにもなっているから、どちらの方面でもそうなってしまう成り行きを安易に否定するわけにはいかないのだろうが、どちらか一方に偏ってしまうと、それなりにわかりやすくなってしまうわけだが、わかりやすくなってしまうと現状から遠ざかって、虚構の世界でもっともらしいことを述べて、それによって恣意的で都合の良い意味や意義を獲得できるかも知れないが、果たしてそれでいいのかというと、それでも構わないからそこに物事の真実が提示されているような装いが生じてくるのだろうが、そういう架空の成り行きになることを目指して言説の類いが構成されると、語るのに都合の良いところだけで成り立っているようなフィクションが語られているように感じられてしまうわけだが、それが現状の全てではないことはわかっているとしても、わかっていることだけしか語れないのかというと、実際にはわかっていないことまで語られている現状もあるのかも知れない。
11月28日「自然の成り行き」
自分が平穏無事に過ごしている限りで身の回りでは大したことは何も起こっていないどころか、それが大したことではないと思うのは、他のどこかで起こっている大したことと比較してそう思ったりそれとは関係がないからだろうが、自身がそれに直接巻き込まれてしまえば大したことになる可能性もあるが、巻き込まれなければ大したことではなく、巻き込まれるまではそう思っていられて、いったん巻き込まれると大変なことになってしまうこともあるだろうが、現状で何に巻き込まれているのかといえば、それに巻き込まれているとは思っていない人にとっては大したことではないことに巻き込まれている可能性もあるだろうし、巻き込まれていることに気づいていなければ大したことではなく、これから自身が不治の病にでも罹っていることに気づいたところで大したことになってしまう可能性もあるだろうが、巻き込まれていると感じるのは何かの事件である可能性もあり、事件に巻き込まれてそれによって大変な苦労や苦痛を強いられるようならそれが大したことだと思うだろうが、大した事件に巻き込まれても苦労も苦痛も伴わないような立場でいられたら、その人にとっては大したことにはならないかというと、その人にとってはそうかも知れないが、他の多くの人々が大変な思いをすればその人も大したことだと思うだろうし、自分はたまたま軽傷で済んだり九死に一生を得たりして運が良かったと思うかも知れないし、自らの状態と他人の状態に天と地ほどの落差があれば、そうなったこと自体が大したことだと思われるのだろうが、世の中では大したことでもないのにそれが大したことであるように思わせる仕掛けというのも制度的には確立されていて、例えば著名人が軽犯罪を犯して現行犯逮捕されるようなことが起これば、それが大々的に報道されて、世間的に見れば大した役職に就いていたのを辞任しなければならなくなれば、一般大衆的な目線の多くの人にとっては、一連の出来事が大したことであるかのように感じられるだろうが、その一方でただの一般人が軽犯罪を犯して逮捕されたところで、それとは無関係な他の一般人にとっては大したことではないだろうし、感じ方の程度がそれがどのように伝えられるかやどんな経緯から知るかによっても違ってきて、何でもないことが大げさに伝えられると奇異に感じられたり違和感を覚えるかも知れないが、それを伝える人や機関や媒体を信用すると、自分の方がおかしいのではないかと疑念を抱くかも知れないし、そうなるとそういうことが大したことなのではないかと学習してしまい、大したことか大したことではないかの判断の基準が自分の中で変わってきて、それまでは大したことだとは思わなかったことが、大したことだと思うようになったりすれば、そういうことを強調して伝える人や機関や媒体などによって洗脳されてしまったことになるだろうが、そんなふうにあからさまにはっきりとした経緯からそうなるわけではないにしても、ちょっとした経緯の積み重なりによって次第に感覚が馴致されていって、他の多くの人たちと共に同じような感じ方や価値観に染まっている場合もあるだろうから、何か自分の感覚がおかしいと思うようなちょっとしたきっかけがあれば、そこから多くの人々が囚われている偏見や迷信に気づくこともあるだろうが、そこで自分の方がおかしいと思ってしまうと、反省してまた偏見や迷信を信じる態度に戻ってしまうかも知れないが、それがなぜ偏見や迷信なのかに関してはっきりとした理由を見つけ出せれば、自らの信念が揺るぎようがなくなってくるはずだが、何に関してそう思っているのかといえば、それをうまく提示できれば他の人にも信用してもらえる可能性も出てくるだろうが、果たして他の多くの人々が抱いている偏見や迷信を打ち砕くことがどうやればできるかとなると、自分一人では難しいような気もしてくるだろうし、自信が持てなくなってしまうところかも知れないが、他人の偏見や迷信を打ち砕こうとしたり論破しようとするよりは、何かそれとは違う方向のやり方を模索する方がいいような気もするわけで、そもそも何が偏見であり迷信なのかについてそれを直接示すことができなければ、そういう試み自体が始まらないような気もするわけだが、いったい何が多くの人々が抱いている偏見や迷信なのかということが、うまく表現できないわけで、それが決定できるようなことでもないとすれば、様々な物事に対する認識や解釈などが寄り合わさってうまく言い表せないような複合的な偏見や迷信のような観念を形成していると言ってもよくわからないままとなってしまうが、何かおかしいと思うようなことを平然と言い放っている人がいるとすれば、それが論理的な単純化のように思われるようなことであれば、例えば山本太郎の主張のようなものだと言えるだろうが、ああいうことを言わせてしまう現状があるのだから、それだけが偏見や迷信ではなく、それが氷山の一角のようにたまたま顕在化しているだけで、ああいうことを言わせるだけの何かが水面化にあると考えると、そこに様々な認識や解釈が絡みついてきて、何か確信めいたことを断言できるようになるだろうが、わかりやすいことを主張しなければならないという思いを裏切っても構わないなら、それでは主張として体をなさないような主張となってしまい、多くの人々から支持を取りつけられなくなってしまうだろうが、果たして支持されないようなことを主張する意味があるのかとなると、もちろん意味などなくても構わないのかも知れないが、それでは政治にならないわけだから、どうしても主張したければああなってしまうと解釈するのも間違っていそうだが、主張できるようなことではなく、それに関しては偏見や迷信が含まれないと主張としては機能しないのかも知れないが、ああいう主張が行われている一方で、わけのわからない政治が実際に行われているわけではなく、そうなるのが当然の政治が行われていて、別にそれで構わないと思っている人が世の中の大多数を占めているわけでもないだろうが、成り行きとしてはそうなって当然なのだから、それが自然の成り行きのように思われてしまうわけで、実態としては自然の成り行きでそうなっているわけではなく、それに関係する様々な方面から様々な作用や影響が及ぼされた結果としてそうなっているわけだから、人為的な力が及ぼされてそうなっていると解釈できるはずだが、それが同時に自然の成り行きでもあるわけで、人々に偏見や迷信を抱かせないとそれが自然の成り行きには思われないようなことが行われていると解釈しておけばいいのかも知れないが、そんなふうには思われないから普通に自然の成り行きでそうなってしまうと捉えるしかなく、そこに偏見や迷信が介在しているとは思われないわけだが、その自然な成り行きというのが例えば憲法を改正するしかないと思われてしまうことであれば、何か現状とは関係のないところからそういう思いが生じてくるとしか思えないわけだが、捉え方によってはそれが狂気の沙汰のようにも感じられるとしても、そういうことを優先させなければならない事情が生じてくるのが、そういうことを優先させようとしている人々が抱いている偏見や迷信だと思っておけばいいのだろうが、ではそんな思いに至ってしまう原因となる偏見や迷信がどんなものかというと、それがよくわからないところであり、そういう成り行きになってしまうことが偏見や迷信のなせる技だと主張するなら、その証拠を提示しなければならないとなると、そこで行き詰まってしまうわけで、もちろんそれに関してもっともらしいことを言おうとすれば言えないこともないわけだが、そこにも偏見や迷信が含まれていることがわかってしまうので、別に偏見や迷信を抱くことが悪いことではなく、逆に人々が抱いている偏見や迷信を取り除くにはさらに強力な偏見や迷信が必要になってしまうと、どうにもこうにも偏見や迷信から逃れられなくなってしまうようなことにもなりかねないから、できればよりマイルドな偏見や迷信で済ませておきたいという意図があるわけでもないが、そういう意味では何かおかしな内容を信念を伴いながら主張している人がいれば、そこには大なり小なり偏見や迷信が含まれているからおかしいと思われるにしても、そのおかしいことの背後にはそういう認識や解釈や見解に至るだけの筋道の通った論理が介在している可能性もあり、おかしいと感じられるからといって、筋道の通った論理がおかしいわけではなく、そこから導き出される結論がおかしいようにも感じられてしまうとすれば、その人が抱いている偏見や迷信とこちらが抱いている偏見と迷信が一致しないからそう思われるのかも知れず、もちろんこちらでも自身が抱いているそれを偏見や迷信とは思っていないし、あちらでもそうなのだろうが、それをはっきりとは示せないところが確信が持てないわけだ。
11月27日「合理的な嘘」
世の中の大半の人たちが避けているのは政治の話題というよりは、それに関して合理的に考えたり理性的に振る舞うことかも知れないが、そんなことができるかというと、そのための条件さえ整えばできるかも知れないが、その条件とは何かというと、よくわからないとしかいえないところが、実際には条件も何もなく、そんなことがいえる程度のいい加減な認識しか持ち合わせていないが、では何がそれを阻んでいるのかといえば、これといって具体的な何かが思い浮かぶわけでもないが、そうならなくて当然の世の中に住んでいることは確かなような気はするわけで、得体の知れない何かに阻まれて、多くの人が物事を合理的に考えたり理性的に振る舞うことができないというよりは、阻んでいるそれの得体は知れているのだろうが、それが何かというと、それをうまく説明できないような困難に直面しているわけでもないのだが、それは困難ではなくあえて説明するまでもないことかも知れず、合理的に物事を考える上では通用しない何かに阻まれて、結果的にそれを指摘できないようなことになっていて、そうなっているから理性的に振る舞えないようなことにもなっていて、振る舞えないのではなく、振る舞えないようなことになっていることが、振る舞えるのに振る舞えないふりをしているようなややこしいことになっているわけで、それが何だかわかっているのに、それを指摘することを避けながら物事を考えると、何か現状の世の中ではもっともらしく振る舞えるような気がするわけで、それだけ面倒でややこしい事態に陥っているつもりにはなれるだろうが、それは振る舞いとしての装いであり、そんなふうに振る舞うつもりもないのに、そう振る舞うように強要されているわけでもなくても、できるだけその場で波風を立てたくなければ、そんなふうに振る舞う必要を感じてしまうのかもしれないが、誰がそれを感じているわけでもないのに、自然にそうなってしまうとすれば、その自然さとは何なのかというと、それに関しても回りくどくわかりにくいことを言う必要もないのに、自然に回りくどくなってしまうような成り行きになり、結局は避ける必要もないことを避けながら物事をわざと込み入らせて考えようとしたり、そう振る舞ってしまうとぎこちなく見えておかしいのに、わざわざそう振る舞う必要を感じてしまうのは、それとわかっている何かに邪魔されてそうなってしまうのであり、それが何だかわからないわけでもないのに、それについてはあえて指摘することを回避して回りくどいことを言おうとしてしまうわけだから、かなり心理的にも状況としてもこじれていると言えるだろうが、勝手に事態をこじれさせているのが現状の世の中であり、何がこじれさせているのかといえば、それも簡単に指摘できるところを指摘しないから勝手にこじれてしまい、どれほどそれがおかしなことかもわかりすぎるほどわかっているのに、そのおかしさを執拗に無視しようとしているのであり、おかしいところを直せば合理的に物事を考えられたり理性的に振る舞うことができるのに、あえてそれを直そうとはせずに、おかしなものの考え方に固執しているといってもその自覚があるわけではなく、直接そのことを指摘されると自身の愚かさを認めなければならなくなるから、それは是が非でも避けたいわけでもないのだろうが、そうならないようにするにはどうすればいいかと思案しているわけでもないのに、なぜかそうならないような方法を模索しているように見えてしまい、そう見えてしまうところが焦りをもたらしているのかも知れないが、それでも合理的に物事を考えたり理性的に振る舞う人々を許せないと思う気持ちを隠しながらも、それを拒否する理由自体が自身の愚かさに起因しているとなると、やはりそれを避ける理由としても自身を不利に導いてしまうから、そんなみっともない思いがどこかで渦巻いているとしたら、どこで渦巻いているのかというと、どこかにその渦中があって、そこではそういう成り行きがそうなって当然だと思われているわけでもないだろうが、そこから事態を良い方向へと前進させることが躊躇われてしまうわけで、良い方向とは普通に合理的なものの考え方が受け入れられるような世の中を目指すことになるのだろうが、現状の世の中でうまく立ち回っている人々からすれば、それを目指すのは自殺行為だとも思われるから、何としてでもそういう成り行きは避けなければならないこととなり、実際にそれを避けているから、物事を合理的に考えたり理性的に振る舞うことが、周知徹底してあからさまに禁じられているわけではないとしても、何となくその場の空気としてはそうすることが嫌われている傾向にあるわけで、そういう態度が本当に世の中で通用しているのかというと自信が持てないだろうが、信じられないようなことが起こっているわけではなく、何を信じているのかもよくわからないまま、何が合理的な考えかについてもこれだと明確に示せるわけでもないだろうし、理性的な振る舞いがどういうことなのかについてもどう振る舞うのが理性的なのかがよくわからず、それらは例として示せるようなことではなく、現実の行為や行動の中で実際に考え振る舞う時にわかることもわからないこともあり、わからない時の方が圧倒的に多いかも知れないが、その時にはそれがわかるとかわからないとか思わないわけで、そういう考えがおかしいとかそういう振る舞いに違和感を覚える時に、それは合理的な考えではないとか、そういう振る舞いは理性的ではないと感じるわけだから、逆に合理的に考えるならこうだとか、もっとこんなふうに理性的に振る舞うべきだとか、そういう指摘が面と向かって行われるわけではなく、そうなっていないように感じられることがあるとしても、そうなっているように感じられることはほとんどないから、世の中では合理的な考えが通用しないとか、多くの人が理性的に振る舞っていないとか言えるかも知れないが、その逆はほとんど言えないし、それは実現困難な理想のようなものだと解釈しておけばいいのかも知れないし、そうなっていない状態や状況を嘆いて、そうではない状態や状況を目指すべきだと思われるとしても、あからさまにそんなことは主張しないし、そんな状態や状況が実現するとも思っていないようなことでもあり、何かメディアからもたらされるその種の事件や事故に関連して世の中でひどいことが行われているように思われて、そんな状態や状況が嘆かわしいことになっているように感じられると、合理的なことが行われない代わりに否定的な感情や不合理な慣習に囚われたことが行われているように思われるから、そして何よりも目先の損得勘定に囚われた功利的な経済活動が行われているように思われるから、倫理的にも道徳的にもおかしいと思われるかも知れないが、思うことと行うことには差異があり、思ったことを行えるわけではなく、そんなことは行う前からわかりきったことだが、思う前からわかってはいないわけで、思うことはできるが思ったことをそのまま実行に移せるかというとそうもいかず、それも行う前からわかりきったことではあるわけで、思うだけなら合理的に考えたり理性的に振る舞えるように思われるのだが、いざそこから現実の社会の中でそうしようと思っても、そうはいかなくなることもわかりきったことなのだろうが、それが自らの行為や行動となって現れると、思い通りには考えられずに思い通りには振る舞えずに、何か不合理でみっともないことをやってしまって、思っていたことが全く通用せずに、やることなすことのことごとくが失敗しているような感じになってしまうと、気が動転してしまって、何が合理的な考えなのかも何が理性的な振る舞いなのかもわからなくなってきて、そんなことなど思っているだけで全く間違っているのではないかと思い知らされるわけだが、だからといってそこから世の中の状況や情勢に応じて考えられるようになれるわけでも振る舞えるわけでもなく、絶えずそれらからはズレたことを考えているし、ぎこちなく挙動不審のような振る舞いしかできないとなると、やはりそう思われるだけでもおかしいのではないかと疑念ばかりが膨らんでくるから、何か被害妄想のような気分に至ってしまうのだろうが、実際のところは世の中の情勢や状況に合わせて的確なことができているのはほんの少数の人たちであり、そういう人が成功者的な存在である一方で、他の大多数の人たちは大なり小なりうまく情勢や状況に合わせられずに折り合いがつかずにギクシャクしているわけで、そういう意味で成功者的な基準からすればほとんど大部分の人たちが不適格であり不適合であるにもかかわらず、それなりに生きている状態を保っているのではないか。
11月26日「思考より先に起こる動作」
それが人でなくても何かに反応して行動を起こすのが自然な物事の成り行きになる場合、人でなければ何なのかというと、動物や生物の活動になるのかも知れず、あるいは何かのセンサーに反応して動き出すロボットや機械かも知れないが、人や動物や機械が何に反応して動き出そうと、病原菌やウイルスの動きは食い止めようがないのかも知れないが、人為的に食い止められる範囲内ではそれらの動きが抑制されて、思ったほどではないにしてもそれなりの効果を発揮していることになるのだろうが、そこで何かがおかしいと思うのもその人の勝手な思い込みの中では自然な成り行きのように思われて、その大半は思い過ごしに過ぎないとしても、ふとした拍子にそう思われるのだから、意識がそう思った時には気づかない何かに反応しているのだろうが、後からそれに気づく時もあるだろうが、気づいた時にはもう手遅れで、完全に行動が後手に回ってしまい、慌てて動いたとしても無駄に動いて効果のないことをやっただけに終われば、何かに反応して行動を起こすだけでは駄目で、絶えず先の状況や情勢を読みながら行動しなければならず、たとえそうやっても予想が外れて見当違いなことをやっていれば、それもやるだけ無駄であるどころか、かえって余計なことをやって事態を悪化させていることになってしまいそうだが、何かに反応して動こうとしても身体が言うこと聞かず、なぜか気が進まずに一向に動こうとしなければ、やはりそこでも意識には気づかない何かに身体が気づいている可能性があり、結果的には動かない方が正解であったと実感できるようなこともあるわけで、そういうところで焦って無理にでも動いたばかりに酷い目に遭うこともあるわけだから、それも動いた後からそうなれば後悔するわけだが、すでにおかしな状況となっているところで、それに輪をかけてさらにより一層おかしくなってしまうようなら、算術の規則でいえばマイナスとマイナスを掛け合わせるとプラスに転じるような成り行きもあるだろうから、現状の動向と算術の規則を恣意的に結びつけて状況を都合の良いように解釈するのも、勝手な思い込みには違いないだろうし、それ以前に身体が意識の思うように動いてくれないのだから、否応なく身体に従うしかないだろうが、何かを感じるのは意識で感じるよりは身体で感じている割合の方が大きい場合もあるかも知れず、そこで何を身体が感じているかは身体に尋ねても意識にはわかりようがなく、おかしな状況の中でも特に嫌な予感がしないからといって、それが良い兆しというわけでもないだろうし、良し悪しとは違う次元で何かを感じているとしたら何の兆候でもなく、兆候でさえもなければ、ただの怠惰や疲労に過ぎないのかも知れないが、動きたくない身体を無理に動かして何をやろうとしても、そこに何か当てがあればそれに向かっていくしかないだろうが、当てが外れればそれが予想外だったわけではなく、身体が言うことを聞かなかった理由がそこでわかったことになるのかというと、身体がそうなることを予知していたから動こうとしなかったと解釈するのも、そんな結果から判断した勝手な思い込みかも知れず、何でもかんでも結果を都合の良いようにも悪いようにも解釈するだけが解釈というわけではなく、まだその続きがあると解釈しておくことが無難な場合もあるだろうから、それを解釈する余裕がある限りで、その後の時空に意識があり、そこで終わりではなかったことを示しているような気もするなら、その後も何かが続いていて、例えば気まぐれに身体が意識に先行して迫り来る出来事に備えていると解釈しても、それも勝手な思い込みをさらにその先まで延長しているに違いないが、そこからさらに思い込みを延長させようとして何をやっているのかといえば、言葉を組み合わせて文字を記す作業を行なっている場合もあるだろうが、そういう方面では身体が動くとしたら、それがそこでの目的であり、それが身体の目的というよりは意識と身体の相互作用として続けられていて、勝手な思い込みを何の当てもなく延長させようとしているのではなく、それが確かな思索の道筋となるように工夫を凝らしている最中かも知れず、意識の中では勝手にそうなっているとは感じられないようにしたいから、何か筋道の通ったもっともらしいことを述べているように装いたいのだろうが、難儀しているのはどうやってそれを文章としてまとめるかというところで、何か身体がそうではないような兆候を感じているのかも知れず、それが意識ではうまく感じ取れないところでもあり、意識より先に身体が感じ取ってしまうから、意識の意向とは合わない身体の動作となって困惑をもたらすわけだろうが、意識がその都度その場の状態の良し悪しを判断しようと、そんなことにはお構いなしにその場の成り行きに沿って状況や情勢が動いているから、身体もそれに反応して動いていて、意識も身体の動きに置き去りにされたくないから黙ってついていくしかなく、意識としては何の了解もなく身体が勝手に動いていってしまうから不平不満があるだろうが、思うように言うことを聞いてくれないことに対して不平不満を言ってもそれに返答してくれるわけでもないから、制御できない身体の動作にはどうすることもできないわけで、そういう意味では自らが宿っている身体が意識とは無関係に動作するようなことになれば、意識には手の打ちようがないわけで、そうなってしまえばただ身体の動作に付き従うしかないわけだが、そこでも思考が働いて、何とかして自分の身体を手懐けようとしてあれこれと画策するかも知れないが、そういった画策が破綻をきたすとさらに関係がこじれて、ますます頻繁に身体が暴走することになるだろうから、そういう行為はかえって逆効果かも知れず、意識と身体のどちらが主人でどちらが従僕というわけでもなく、平等な立場で一心同体ともならないだろうが、そういった傾向へと意識を向けようとするのではなく、どちらもどちらの飼い主でもないような水準や次元の違う方面で動作している可能性もあるだろうから、それが許容の範囲内となるような均衡を維持しなければならないのかも知れないが、それは維持しようとしてできるわけでもなく、維持しなくてもそうなっている可能性がある限りで、放っておいても現状が示す限りでそうなっているわけで、自身が維持しようとしても周囲の状況がそうさせない場合もあるわけだから、自分の心境や体調次第である面と周囲の状況や情勢次第な面もあり、それらが折り合いのつく範囲内でまとまっていれば、それなりに平静を保っていられるのかも知れないが、別に平静を保っていられなくても、流動的な情勢に沿うようにして流動的に心身のさまざまな面も揺れ動いている場合もあるだろうし、そうであるなら別にいつ何時でも冷静でいられるわけでもなく、情勢の変化に応じて焦ることもあるし取り乱すこともあるだろうから、そうなった時にはそうなった状態を修正する必要もないのかも知れず、そこで何か画策して平静を装うような演技をしてみても、すでに挙動がおかしくなっていて、意識がそう思う以前に身体がその場の状況の変化に反応してしまっているわけで、そこから意識して平静を装う演技をしても対応が後手に回っていて、そういう演技自体が取り乱しているように感じられてしまうから、平静を装おうとする意識の当てが外れていることが明らかとなり、周囲の誰が見ても挙動不審に見えてしまうのかも知れないが、そういった誰が見てもおかしい身体の動作というのも滅多に起こらないだろうし、滅多に起こらない限りで通常とはかけ離れた異常事態だと解釈しておけば済むことかも知れないが、そんな状態を基準にしてその人を評価するのはおかしいだろうが、異常事態に直面した時がその人の真価が問われるというもっともらしい解釈もできるだろうし、果たしてそう度々滅多に起こらない異常事態に直面することがあるのかというと、度々起こっていればもうそれは異常事態などではなく通常の状態だろうが、その種の異常事態が売りの映画や漫画の中では超能力などの助けを借りて活躍する人物がインフレ気味に多数登場するのがよくあるパターンとなるにしても、現実の世界ではどうということはないただの人間しかいないし、運動能力や思考力などに関して多少の個人差はあるだろうが、それもそこで起こる出来事の規模の大小や程度の強弱に応じて人が取り扱えるレベルでどうにかなるだけで、人力ではどうにもならないところでは自然の力や機械の力などが作用してどうにかなったりならなかったりするのだろうが、それと比較して身体の動作が作用を及ぼせる程度も範囲も限られているから、意識がいくら身体を飛び越えて何を操作しようとしても、その過程で身体の動作に邪魔されたり意識とは違う動作に及んだりしても、そういった意識に抗う動作を無視して思考を自在に働かせようとしてしまうこと自体が、意識の勝手な思い込みや妄想が絡んでそうなっていることを示しているわけだ。
11月25日「構造の力」
自身が効果も効力も定かでない根拠の怪しい何かに頼っていたり依存しているとしたら、それが迷信の類いなら話が早そうだが、単純にそう考えてしまうとそれだけの話の内容になってしまうだろうが、それでは納得がいかないようなことになってしまうと、何かその人が依存している物事の構造に実質的な効果や影響力があり、それによって人々の存在が構成されるようなことがあり、例えば集団で構成される組織や団体などの構造自体からその組織なり団体なりに特有な特徴を持った人物が現れて、その構成員になるとそういう人物になってしまうというと、後天的にそうなったことになるのだろうが、その人が何らかの組織や団体に入ると、その集団内の構造や体質に心身を合わせようとするからそうなってしまうと考えれば、その人にそうなったことについての責任はないということにはならないとしても、そうなってしまった人をどう批判してもその人自身に非があるから批判の対象となっていると解釈すると、その人のせいだけでは収まりがつかないようにも思われて、その人が所属している団体の組織的な構造や体質からその人が作り上げられたのだから、たとえその人が排除されていなくなっても、また新たな似たような人が出現してくるようなことになってしまえば、結果的にはその人のせいというよりはそんな人物を輩出する組織や団体の構造や体質に問題があるようにも思われてきて、そういう組織や団体をどうにかしないと問題を解決できないような感じになってしまうかも知れないが、そんなことをいうなら今度はそんな組織や団体が生じてしまう社会が悪いだの世の中が何だのと、社会や世の中のせいにしてしまえば、さらに責任の所在が拡散してはっきりしなくなってしまうだろうが、そんなことを言い出すとキリがなくなることは承知しておかなければならないとしても、社会や世の中でそれなりに力を持った組織や団体があり、そんな組織や団体に所属して守られている人がいるとすれば、守られている分で有利な立場になっている面があることは確かであり、もちろん組織や団体がその人を守ることによっても何らかの利益がもたらされるから守っているとも言えるなら、その人と所属している組織や団体との関係がウインウインの関係にあるとも言えるだろうが、もちろんそういった組織や団体の庇護を受けながら社会の中で有利に立ち回っていれば対等の力関係ではなく、その人が大した人物だと思われなくてもそうなっている限りで、そんな人を守っている組織や団体の力の方が圧倒的に優っているのだろうが、そういう意味で大して有能だとも面白いとも思われない人物が組織や団体のトップに立っている社会や世の中では、そういう社会や世の中自体が人としての魅力に乏しいように感じられても仕方のないことであり、そこに何らかの利害関係が生じてそういう成り行きや結果に至るとしても、つまらない人物をもてはやすような社会や世の中は魅力がなくなって遠からず衰退してしまうと思っておいても差し支えないだろうが、すでに衰退しているのだからつまらない人物をもてはやしているとも言えるわけで、そういうところは鶏が先か卵が先かの話になってしまうだろうが、それに関してすでに日本の命運が尽きていると見なすなら、大して有能でも面白いわけでもない人物が日本のトップに立っているからという理由を挙げても構わないのかも知れないが、もちろんそういう単純な理屈ではうまく説明できないような面も探せばいくらでも出てくるかも知れず、そういう材料を寄せ集めてまだ日本の命運が尽きているとは言えないと主張することもできて、うまく工夫を凝らせばむしろそちらの方がもっともらしく思われて、それなりに説得力が出てくるかも知れないが、そういう面倒なことはせずに冗談や気休め程度の世間話レベルでは単純明快でわかりやすい方が好まれるだろうし、根拠の怪しいいい加減なことを言うなら、そう言えるだけの明確な理由がなくても、そんな主張に魅力を感じられるだけの何かが作用してそうなってしまうわけで、それが何だかわからなくてもそう思っておけばいいだけのことであり、それも社会や世の中の状況や情勢から、その中で力を持っている組織や団体などの間の相互作用によって不可解でよくわからないことが起こっていて、その起こっていることの中で日本の命運が尽きるような成り行きも進行中かというと、果たしてどうなれば日本の命運が尽きるのかといっても、肝心の命運が尽きる対象としての日本とは何かとなると、誰かが思っている日本ではなくなることが、その誰かが思っている対象としての日本の命運が尽きることになるのだろうが、そういう日本であれば、その誰かとは異なる意味や概念として日本を定義している人にとっては、命運が尽きようがどうなろうが知ったことではないようなことにもなるかも知れないし、逆に誰かが思っているような日本という組織の構造的な力から生じてくるようなつまらない人たちの命運が尽きてしまう方が、従来の日本とは違う新しい日本が生まれるチャンスが巡ってくるかも知れないから、その方が都合のいい人たちも少なからず存在していることを念頭においた成り行きがごく少数の人たちの間でおもしろがられている可能性もあり、それが具体的にどのような経緯から生じている成り行きかといえば、古代ギリシアで生じた犬儒派的な成り行きだといってもわかる人は少ないかも知れないが、そういう自然発生的な成り行きというのが、ごく少数の人たちの間でおもしろがられているとしても、それがより多くの一般大衆を巻き込んだ一大ムーブメントへと発展する可能性はないのかも知れないが、そういうことの影響が少なからず社会全体に及ぼされている可能性もあり、どうやっても揺るがないように思われる構造としての翼賛体制にごく少数の人たちが野良犬のように咬みつく姿勢というのが、一見無謀にも思われるところが、実はそれなりに利いていて、それが都市や国の命運が尽きる時には決まってその種の人たちが現れるわけでもないだろうが、歴史的な経緯からすれば新たな時代の幕開けにふさわしい先駆け的な存在に思われてしまうのも、あながち勘違いでもないのかも知れず、その一方で構造としての力がだいぶ弱まっている気配も感じられないだろうし、逆に弱まっていると感じられてしまうとそれを再強化するような作用も生じてくるだろうから、特に弱まっているとは感じられない方が犬儒派的な存在には好都合なわけだろうが、少しでも危機感を持って対処するなら、野良犬が生存できる余地もなくなってしまうだろうが、その余地がなくなるような仕掛けを講じればどうなるかといっても、それとは別の方面から新たな何かが生じてくるかも知れず、それが野良犬などとは比べ物にならないほど強力であれば、ますます都市や国家の命運など風前の灯となってしまうだろうが、それが何かといってもそうなってみないことにはわからないことだから、そうなってみるまではまずは野良犬の駆除に乗り出すしかないのかも知れないし、駆除する必要も感じられないほど勢力が脆弱だと判断されれば、そのまま放置しておくという選択肢もあるだろうが、少なくともそれらの人たちが組織や団体の庇護の下でつまらない遊戯を繰り返しているようでは、もはや命運が尽きていると思われるのも当然かも知れないが、そうであっても構わないような状況や情勢の中でも平然としていられるようなら、そんな危惧も杞憂に過ぎないようなことにもなっているだろうし、すでに命運が尽きた後で現状が継続中なのかも知れないし、誰も気づかないうちに世界が新たな時代に突入中であれば確かにそんなことは杞憂に過ぎず、これみよがしに権力に噛みつく野良犬的な行為自体もそれを演技だと捉えるなら、過去の幻影を見ているに過ぎないことかも知れないし、そんな過去の時代を思い起こさせるような茶番な行為とは別の方面へと目を向けないと、新たな時代の全体像が見えてこないようなら、そんな行為も意味のないことかも知れないが、時代の中から時代の全体像を把握できるわけでもないだろうし、それも幻想だと思うなら、構造の力によって生成されるつまらない人たちの行為を無視するか黙認するしかないだろうが、ゴミクズみたいな人たちの横暴に耐えかねて、しかも退屈で死にそうだから、構造が軋むとか崩壊寸前だとか思いたい気持ちもわからないではなく、実際にそうなっているとしてもそれに気づく必要はないのかも知れないとしても、少なくとも犬儒派的な行為に及ぶ無謀さが自身になければ、権力の番犬どもに逆らうのはやめておくべきなのかも知れないが、番犬などどこにもいなくても問題のない社会がこれから構成されつつあると思えば、それも杞憂に過ぎないことかも知れない。
11月24日「イメージの効果」
そんなことは別に確かめるまでもないことだが、人が何らかの形で社会と関わっていることは、その人が社会の中で生きているという自覚があれば、確かな感触を伴って意識していることだが、その関わりの痕跡が何によって示されているかとなると、それに関連して様々な出来事が起こっているはずだが、その出来事の中でも人と人とが接触すれば言葉による意思疎通が行われて、言葉を通して出来事の内容が人から人へと伝わり、それが他の多くの人にも伝わる機会がメディアを通じて得られるわけだが、それを知ってその出来事のついて何か思うところがあれば、その思ったことからも言説が生じてくるだろうし、そういった言説の類いが人と社会との関わりを示す痕跡になるのは確かだが、言葉で何かを表現するという行為自体が普通に行われていることだとしても、人が意図して表現しようとすることと、意図せずに意図をすり抜けるようにして人から人へと伝わってしまう言説の内容や雰囲気もあるわけで、それが人から人へというよりは、より増幅作用や拡散作用を伴うように意図的に加工されながら、メディアからメディアへと伝えられる内容もあるだろうし、それが伝わる過程で伝わりにくい部分が削ぎ落とされて、誰にも理解しやすい紋切り型的なイメージを伴いながら伝わって、実際に社会全体へと広く拡散するような状況となれば、多くの人々が同じような固定観念を抱くように洗脳するためにそんなことが行われていると捉えても構わないが、そんな紋切り型的なイメージを抱いている人たちの存在そのものが、無知で無能で軽薄な大衆のイメージそのものであったりして、そんな有害なイメージを連想させる言表の類いをメディア上で見かけるだけでも、それが多くの人々を無知で無能で軽薄な一般大衆へと作り替える病原ウイルスの類いだと認識しておいても構わないが、それこそがイメージのイメージであり、疑わしい偽りのイメージには違いなく、誰も意識してそんなことは思っていないし、思いもしないようなことかも知れないが、何かの冗談でならそう思っておいても構わないし、思いもしないようなことを思っておくのがそうなるのを避けるための演技かも知れず、それをわざと物語るのが言表的な偽装でしかないとしても、そんな病原菌のような紋切り型的なイメージを拡散させる装置としてのメディアに対して、どのような防衛策を講じておけばいいのかといっても、俄には妙案など思いつかないだろうが、それがイメージでしかなければ実質を伴っていないかというと、言語表現の実質がイメージそのものである可能性もあり、言語表現の実質的な効果というのが人に都合の良いイメージを連想させる効果であり、それを連想させようとする意図や思惑を感じ取れば、すぐにそんな意図や思惑に抗えるわけだが、それがその種の病原菌を寄せ付けない抗菌作用だと思っておけばいいのかも知れないが、もちろんその種の意図や思惑を連想してしまうこと自体が、そういう意図や思惑を連想させようとする意図や思惑に引っかかっている可能性もあるわけだから、用心にしてかからなければならないだろうが、なぜそう思わせようとするのかという理由を考える上で注意しておかなければならないことは、都合の良いイメージを拡散させようとしている側もはっきりとそんな意図や思惑を抱かずにそういう行為に及んでいる可能性もあるわけで、そんなことをやっているつもりではないメディア関係者自身が、メディアそのものに操られながらそんな行為に及んでいる可能性まであるわけだから、それ自体がメディアという装置の機能であり、そんな機能によって社会全体にイメージの効果が波及して、そんなことをやっている人たちの意図や思惑とは関係なく、メディア自体に備わっている機能やそこから及ぼされる効果によって、そんなイメージを抱いてしまう人々がメディア自体に意識を支配されることにでもなれば、それが社会の中で普通に起こっている出来事だと言えるだろうし、別に黒幕のような影の権力者的な存在が意図してそんな行為に及んでいるわけではなく、メディアに関わっている人々の意図や思惑とは関係なくメディアという装置そのものからそんなイメージが自然に伝わってくると捉えておいても構わないだろうし、それは誰が伝えようとしているイメージでもなく、メディアという装置自体から生じてくるイメージだと思っておいても構わないだろうが、そんなイメージに心を満たされている人々が実質的にどうなっているかといえば、その種のイメージから作り出されたフィクションと現実の融合体の中で生きていることになるだろうが、それが人々の意識を介して構成された社会そのものなのかも知れず、人々が抱いているイメージによって現実の社会が構成されているわけだが、普通にその種の社会の現実を信じていると思うわけでもなく、むしろ信じられないから多くの人が疑う気持ちから離れられないこと自体も、社会そのものが現実と虚構の融合体なのだから、それもそうなって当然のことだろうし、むしろ社会に対して絶えず疑いを抱いていないと、そこから抜け出せなくなってしまうような恐怖を抱くわけでもないが、メディアからもたらされる紋切り型のイメージによって人と社会が一体化しているような現状も、それが社会を管理運営しているつもりの機構にとっては都合の良いことかも知れないが、機構そのものも人と違って意図や思惑を抱いているわけでもないだろうが、それを一つの機構と見なすこと自体もおかしな見方かも知れないし、社会にとって都合の良い存在というのが人々にとっても模範的な存在であり、人がそういう存在であっても構わないと思うことが、同時にその中で生きて暮らしている人の意識に疑念や疑問を抱かせるわけで、そうやって絶えず自身の存在形態に関しては両義的に捉えておかないと、すぐにでもメディアの洗脳に心身を支配されるようなことになるわけでもないだろうが、別に洗脳されているわけでもないだろうし、特に洗脳の恐怖と戦っているわけでもなく、それを洗脳と捉えること自体も事を大げさに捉えすぎていることの表れでしかないわけだが、では何なのかというと、うまくメディアとの距離感をとっておくことが重要でもないとしても、何となく距離を意識しておくぐらいが無難なところでもあり、本気になれないのに無理にメディアに対して怒っているふりを装うこともないだろうし、メディアからの洗脳に対して怒って抵抗しているのではなく、それを洗脳だと思い込んでいるふりをしていること自体が演技の延長上でそう思っているわけで、それを疑っているから自然にそれが演技となって心身から心理的な動作として滲み出てくると解釈しておいても構わないだろうが、そうした偽りの動作が洗脳装置としてのメディアに関するありふれたフィクションを作り上げるわけだが、それをさも本当のことのように語ろうとしても、どうしてもそれに対する疑いが残ってしまい、本気でそんなことを語っているわけではないと一方では思い込もうとしているのかも知れず、そうは思っていないのに、思っていることとは関係なく自然に滲み出てくる内容が社会の真実を物語っている可能性もあるだろうが、そうはいっても何とかして社会の現状を維持しようとして、メディア的な傾向が現状の価値観や評価基準を頑なに保持するようなことになっていれば、やはりそれに対して疑いを抱くのが普通に感じられることであり、その一方で社会の不条理や不具合をこれでもかとメディアを通じて見させられているのだから、何か世の中がおかしくなっているのではないかと疑念を抱くのが普通の意識なわけで、そういうメディアからもたらされる両義的な作用のどちらを信じればいいということではなく、どちらにも疑念を抱くのが自然に感じられることでもあり、実際に疑念を抱かせるようなイメージが社会全体に広められていて、そういうイメージというのが具体的に人の意識にどんな効果や作用をもたらしているとしても、結果的には社会に対してもメディアに対しても疑念を抱くように仕向けていて、何かおかしいと思わせるようなイメージが振り撒かれているのだから、素直におかしいと思っておいても構わないだろうし、おかしいと思わせられていると思っておいても構わないが、メディアという装置自体からメディアを通して情報を伝えようとする人たちの意図や思惑とは関係なく、メディアを通じてもたらされる情報の内容を疑えというメッセージが送られていると解釈しておいても構わないだろうが、それが人の意図や思惑ではなく、装置自体の機能としてそういう機構が備わっていると捉えておいても構わないのではないか。
11月23日「非と利」
社会の中で誰か敵対する対象となる相手がいて、その相手と敵対することに関して合理的な理由があるかというと、相手に非難すべき点があれば、それが敵対する理由となるだろうが、敵対したいから相手の非を探すのではなく、普通は成り行きの順序としては相手に非があるから、それを理由にして敵対することになるだろうが、確かに相手に非があるとしても、非がある以上に利があると、相手を非難することによって自分が利を得ることになれば、場合によっては喜んで相手を非難することになるかも知れないが、その人が利益を得たくて相手を非難していることがバレてしまうと、その人の人としての信用が低下するだろうし、そういうことまで考慮に入れるなら、建前上というか表向きには、相手に非があるからそれを難じているように装いたいだろうが、それに対して穿った見方をするような第三者的に視点に立ちたい人からすれば、自らを利するために相手を非難するような人がいれば、それも格好の非難対象となるかも知れず、そういう意味で非難することが非難している側の利益に結びついているかどうかで、非難の正当性の評価も変わってくるかも知れないが、建前上あるいは表向きには、非難することの合理的な理由としては、利益よりは人としての倫理とか人道上とかの非功利的な判断が重視されることが多いとしても、それと並行して功利的な面が全く無視されることもないし、経済的な面での功利性と人道的な面での倫理性が他の様々な面も含めて多面的に作用や影響を及ぼし合いながら、その中で一つの面だけを意図的に強調するわけでもなく複雑に絡み合って、それらの複合的な作用が人の個人的な言動にも集団的な活動にも微妙に響いてきて、特定の傾向へと一方的に振れることを許さないような状況となっていると、ある面では膠着状態となっていても別の面では流動的にも事態が推移していて、そういう状況の中では何か軽はずみに単純明快なことは言えないような空気に包まれているのかも知れないが、そんな中でも表向きには人道的な見地から非人道的な行為を非難するのが正解と見なされるだろうが、その一方で功利的な方面では変わらず経済活動が行われていて、どちらも同時並行して行われているから難しい対応が迫られているように感じられるが、実態としては普通にそうなっていて、是々非々で対応すればそれでよく、何かそういうところが矛盾しているように感じられるのだが、やはり実態としては矛盾でも何でもなく、当たり前のようにそうなっているに過ぎず、できる範囲内で非人道的な行為への非難と功利的な経済活動を両立させているわけで、それらを両立させているからといって同等に扱っているわけではなく、その場の都合に合わせて時には一方を優先させたり、また別の時にはもう一方を優先させたり、さらに別の時には他の何かを優先させたりしているかも知れないし、その場で成功している人や団体は結果的にうまい具合に立ち回っていることになるだろうが、それが何を意味するのかといえば、複合的に複雑な意味合いを伴って、一概に一つの意味や傾向には収斂せずに絶えず微妙に判断や評価が揺れ動いていて、一つの意味や傾向に固定しないような状態を維持していると捉えておけばいいのかも知れないが、そうなっているからといって優柔不断な態度にはならないようにしていて、表向きは人として毅然とした態度でいるように見せかけられているところが、その人の能力の高さや器量の大きさだといえるだろうが、それも時と場合によってはそこに至るまでの経緯やその場の事情にも微妙に影響されてうまく行かないような事態となってくるだろうし、都合よく見せかけられないような事態の中ではなりふり構わず意地汚いことをやっていることがバレたり、時にはそれが暴露されて自ら墓穴を掘るようなことになるだろうが、もしその人が代表者などとなって関わっている機構が大掛かりだと、組織としてその人の個人的な事情の巻き添えを食うわけには行かなから、何としてでも組織の代表者を庇うような成り行きに至り、それに伴って個人の暴走行為なども事後的に抑制されて表現されるから場合によっては事なきを得て、うまくいけばどのような事態に至っても毅然とした装いが維持されるかも知れず、そんな見せかけの姿に騙されるなと言っても、政府などが関わって国家的な規模でそういう見せかけを保つようなシステムとなっていれば、騙されていなくても従わされてしまい、従わされている自覚がなくても従っていることにされてしまうわけで、果たして国家的な環境がそういう傾向になってしまってもいいのかというと、日本でも中国的な官僚制が幅を利かせるようになってしまえば、権力や権限に物を言わせた非人道的な行為や活動が蔓延するかも知れないし、政権政党などの政治家のメンタリティとして法治国家を維持しようとする気があるかどうかとなると、法治国家という概念自体もそれをどう解釈するかにもよるだろうが、もちろんこれが正解だと断言できるような解釈があるわけでもなく、何とでも都合のいいように解釈した者勝ち的な傾向もあるかも知れないが、それに関して事を大げさに捉えたい人もいるかも知れないし、なるようにしかならない面もあるから、それがどうしたわけでもなく、全体的な傾向として現状から窺えることはいい加減で中途半端なことをやろうとしているように見えるだろうから、実態としてもそうなりつつあるかも知れないが、それ以前に国家的な規模で大げさなことをやる体制にはなっておらず、やろうとしている人たちの思惑も空回りしている状況かも知れないが、それがいつか空回りしなくなって、主張と行動がそれなりに噛み合ってくるかというと、そうならないようにしなければならないとは言えないだろうが、何かいつまで経ってもそうはならないと楽観したくなるわけで、それがある意味では困った状況なのに、なぜ楽観したくなるのかといえば、それを避けるような雰囲気が世の中の傾向としてあるのかも知れず、世の中の傾向がそうであるから、そんな自堕落な傾向を何とかしなければならないと思う人たちが現れることは確かだろうが、そういう人たちが笛吹けど民踊らずな傾向が定着しているから、より一層国家規模で大げさなことをやろうとする人たちの誇大妄想も膨らんでしまうという悪循環に陥っているのかも知れないが、少なくともメディア的な言説の中では昔からそういう傾向があったわけだから、それが今に始まったわけでもないだろうが、そういった脅し文句を含んで警鐘を鳴らしながら危機感を煽る主張も、年中行事から除外して一段落させないとさらに情勢が悪化するとも思えないが、その一方で根拠の定かでない将来への楽観視という妄想も、危機感を煽る言説と表裏一体化している面で現状の変革の妨げとなっている可能性もあるから、どちらにしてもそれらの妄想は実態としての不透明で不可解な現状への不信感から生じていて、現状がわけがわからないような様相を呈しているから、その反動からわかりやすい状況を妄想することになり、そうなってほしいという願望の表れとして将来の展望が無自覚に示されてしまい、それが将来を漠然と楽観視するか、あるいは危機的な状況となることを恐れるかのどちらかの傾向となって、それが人々の深層心理に作用してよくありがちな妄想を構成するのだろうが、そうなっている限りで、またかと思われて、そういえば以前にも同じような心理的な傾向になっていたようにも思われるから、それを踏まえればそんな心理状態が周期的に巡ってくると捉えておけばいいのかも知れず、それに輪をかけて不安感を煽るような決まり文句もいつの時代でも流行っていたようにも思われて、放っておくといつも定期的にそんな心理状態へと至って、それに伴って現状への反省が促されて、それまでの経緯の延長上で惰性で回っているような自堕落な現状に危機感を抱いて、そんな現状を何とかして変えなければならないと思うのと、これまでにも何とかなってきたのだからきっとこれからも何とかなるだろうという将来への漠然とした楽観視が絡み合って、どちらへも予想を延長させようとして、結局はどっちつかずで中途半端でわけのわからない思いに囚われてしまうのだろうが、それがそのまま現状で感じている実感なのだから、現状が不透明で不可解であるのは当然と言えば当然かも知れないし、そうなって当たり前の思いをどう捉えてみてもどうなるわけでもなく、結局はどうにもならずに持て余す他ないだろうが、それをどうにかしたいと思うのも政治的な妄想に結びついてきて、それに加えてメディア的に問題視されるような社会の不条理や不合理がすぐに思い浮かぶようなら、それらをどうにかしてつなげて自らの主張として提示したくなるのではないか。
11月22日「気づくべきこと」
そこで何に気づいたのかといえば、何に気づいたとしても気づいたことは、少なくとも気づいていなかったことに気づいたわけだが、気づいたことにはさらに気づくことはできず、一度それに気づいてしまえばもう二度と気づけないかというと、気づいたことを忘れてしまえば、また再度同じことに気づく可能性もありそうで、それに気づいたままでは気づけなくなってしまうと思っておいた方が良さそうだが、気づいたままでいられるかといっても、そういつまでも気づきっぱなしではいられないとすれば、いずれは忘れてしまうようなことに気づくわけで、しかもすぐに忘れてしまいそうな些細でどうでもいいことならいつでも気づくことができて、実際にそんなことに気づいたとしても、すぐにそんなことは忘れてしまうからまた気づき、いつまで経っても気づいたり忘れたりを繰り返していれば、生きている間中気づいたり忘れたりしているのかも知れないし、その一方で気づいて欲しくないような都合の悪いことまで気づいてしまうと気まずくなり、そんなことまで気づかなければよかったと後悔してしまうだろうが、こちらが一向に気づかなくても向こうから気づくように仕向けてくる場合もあるだろうし、執拗に気づくように仕掛けてきても、なぜか気づかないようなこともあるかも知れず、なぜそんなことに気づかないのかよくわからないのだが、なぜか気づくべきことに気づかないわけで、致命的なことに気づかないとまずいわけだが、それでも気づかないのだから、気づかないままでは恐ろしいことになると警鐘を鳴らしても気づかないようなら、あからさまに気づくべきことを指し示したくなるだろうが、なぜそれを普段は指し示さないのかというと、たぶん指し示してしまうと差し障りがあるからそうしようとはしないのだろうが、逆にそれに気づけと指し示したところで無視されてしまうかも知れず、無視されると気分が悪いから積極的には指し示そうとはしないのかも知れないが、それが何なのかといってもよくわからないようなものなら、指し示そうとしてもうまく指し示せないようなものかも知れず、そんなものに気づけといっても気づかないのが当然のようなものに気づかなければならないのかというと、たぶん気づかなくても構わないだろうし、気づくのが無理なのかも知れないし、無理に気づく必要がなければ気づかなくても構わないだろうが、それが制度や法律に関することであれば、気づかなくても示されていて、示されているのに気づかないのだから、それに気づかないで不利益を被ったところで、気づかない方が悪いことになってしまうかも知れないが、それに関する情報が不足していると実際に気づけないわけで、示されていても周知徹底されていないことには気づかないだろうし、意外と気づかれてしまうとまずいことまで普通に示されているかも知れず、そういうことが気づくべきことなのかも知れないが、そうではなく誰もが気づくようなわかりやすいことではなく、誰も気づかないようなわかりにくいことに気づくべきだとすれば、そんなことには気づかなくて当然だろうし、実際にほとんどの人が気づいていないことに気づくべきだとすれば、それに気づける人は限られてきて、気づいたとしても理解できないかも知れないし、果たして理解できないことに気づくことがあるのかというと、それを理解できないことに気づくわけで、理解できないからそのままとなってしまい、気づいたからといって理解できないわけだからどうにもならないわけだが、そうであればそれに気づいたからといってどうなるわけでもないし、それに気づかなくても構わないのかも知れず、そんな理解できないことではなく、理解できるようなことに気づいた方がいいのかも知れないが、それに関しては世の中には理解できることと理解できないことがあることに気づくべきであり、気づいたからといって理解できるわけではないことに気づくべきなのだろうが、そんなことに気づいたからといって何がどうなるわけでもなければ気づかなくても構わないと思っても、気づいてしまう時があるわけで、気づいたことが自身にとって何の得にも利益にもならないことであっても、気づくべきことがあるとすれば、それは気づくべき理由がないのに気づくべきことであるかも知れず、そんなわけがわからないような気づくべきことまであるとすれば、では気づくべきこととは何なのかといえば、その中には何でもないようなこともある一方で、何か重要で重大で深刻で致命的な何かに気づくべき時もあるのかも知れないが、その一方で何でもないことにも気づくだけの心の余裕がある方がいいだろうし、四六時中精一杯の努力を強いられるような精神的に追い込まれた状態でいると身が持たないから、何でもないようなどうでもいいようなことまで気づける余裕が必要な場合もありそうで、また自らに都合が良いことだけ気づいていればいいというわけでもなく、都合が悪いことにも気づいていないと、何でもかんでも自身に都合がいいように受け取って、自己中心的な心理状態となり、それが高じて身勝手な振る舞いが目立ってしまうと、周囲との関係がうまくいかなくなる原因となるかも知れず、都合が悪いことにも気づいていれば、都合が悪い方面では用心するだろうから、そこが自らの弱点であることを踏まえた上で、少しは謙虚な態度で周囲の人たちと接することにもなり、そうなれば人間関係も無難な状態を保っていられるかも知れないし、それだけ人として懐が深く奥行きが出てくることにもなり、柔軟な対応もできそうな感じもするだろうが、それが気づかなくてもいいことまで気づいていることの証しとなるかどうかは何とも言えないが、気づくべきことが気づかなくてもいいことまで気づくべきかどうかは、気づこうとしても気づけない人もいるだろうから、それも人それぞれにその人の領分があり、どこまで気づくかは人によって能力差が出るだろうし、何でもかんでも気づけばいいというわけでもなく、場合によっては気づかない方がその人のためになることもありそうで、余計なことに気づいてしまったばかりにひどい目に遭う場合もあるとすれば、気づいたことによって降りかかる災難の類いに対処しきれなければ、その人にとっては分不相応なことに気づいてしまったことになるのだろうが、逆に分不相応なことに気づいてそれに対処することによって、自らの能力を向上させようとする人もいるだろうから、そんな態度になれば意識して積極的に自らの能力を越える分不相応なことに気づこうとするだろうし、それがその人にとっての心身の鍛錬であり修行となるわけだが、そういう成り行きに自らを追い込んでいる人たちが、そういった目的に囚われた同じような人たちと共に競争を繰り広げているのは理解できるが、果たしてそれだけで世の中が回っているかというとそうでもないような気もするわけで、そういう成り行きと共にそれとは逆に自らの分をわきまえた態度も求められている場合もあり、それらが混ざり合って同時並行して成り行きとしては進行中だから、どちらの態度も求められると同時にどちらか一方の態度に凝り固まる必要も出てきて、その場の状況や情勢に応じてそれ以外の様々な態度も含めて態度を使い分ける必要も出てくるかも知れず、それらを臨機応変かつ柔軟に使い分けることが求められているというか、誰もそんなことは求めていないかも知れないし、その人の領分に応じて様々な態度が自然に出てしまい、それがその場の人間関係の良し悪しや都合や事情や経緯を作るのだろうが、そんなことに気づくべきでもなく、気づかなくてもそれなりに良くも悪くも切り抜けられたり切り抜けられずに行き詰まるようなこともあるかも知れないが、そうなったらなったで都合が良くなったり悪くなったりして、その程度や傾向に応じてうまい具合に事が運んだり険悪な雰囲気になって困った事態に陥ったりしながら、それでも時が経過して関係がほぐれてきたり逆にもつれてさらにこじれてきたりしながら、その人の力ではどうにもならないような成り行きに導かれながら自身の老化と共に心身もすり減ってしまうのだろうが、そういう面では救いなどないにしても、救いがないことに気づくべきとも感じられなければ、そのまま気づかずに死ぬまで救いを求めて試行錯誤を続けることになるかも知れないし、それに気づいて悟りの境地のような心境に達したところで、それ以外にも様々なことに気づいているだろうから、それだけが取り立てて重要だとも思えないのかも知れない。
11月21日「ギャンブルと賭け」
わかっているようでわかっていないことが、それとこれとは違うということだが、具体的に何と何が違うことなのかというと、それがうまく説明できないようなことだと焦ったくなるのだが、それとこれとを同じようなことだと考えると、何か不都合があるような気がする時がそう思われるわけだが、それとこれとが違うことだと強調しなければならない時がなぜあるのかというと、放っておけばそれとこれとが同じようなことだと考えてしまうから、それをあえて違うことだと強調したくなるのだろうが、何が違うことなのかというと、一見同じようなことだと思われるから、惑わされてはならないと注意を促していて、その惑わされそうになっている同じようなこととは何と何なのかというと、それが思いつかないようではそれとこれとの違いを指摘できないわけだが、それもこれもうまく説明できないようなことかも知れないし、例を挙げて簡単に言うなら、同じ賭けでも当たる確率がほとんどゼロに近い宝くじを買うのと値上がりする可能性がそれなりにある株を買うのとでは、天と地ほどの違いがあるということは分かりきったことだが、そうなると買い方や買う額にも違いが出てきて、株を買う額と同じ額ほど宝くじを買う人などほとんどいないだろうし、実際に買う人にとっては比較すること自体が意味のないことになってしまうが、それが競馬の馬券を買うとなると、少しは宝くじを買う時の買い方や買う額と似てくるかも知れないが、コアな競馬ファンから言わせればそれとこれとは全く違うと言えるだろうし、実際に当たる頻度に天と地ほどの違いがあるのだろうが、宝くじも株も馬券も買わない人にとってはどれもこれもギャンブルというカテゴリーに括って遠ざけている人もいるかも知れないし、対象との距離感や興味の度合いや、持ち合わせている知識の情報量や習熟度によって、それとこれとは違うということが、真に受けるか受けないかの違いとなって表れるから、それとこれとは違うと言われてもピンときたりこなかったりして、確実に計算できることをやるという習慣が身についている人にとっては、機会をとらえて何かに賭けるという行為がそれなりの危険を冒していることだと受け取られるのは当然であり、行為や行動の全てにおいて石橋を叩いて渡るわけには行かないだろうが、どこまで不確実なことに挑戦できるかも、その人の置かれた立場や境遇から違ってくることも確かだろうが、人をそういう行為や行動に誘惑したり誘導しようとする人に言わせれば、それに関する知識量や習熟度が高ければ確実に儲かるようなことを言いたいわけで、そういうところで誘惑や誘導や勧誘などに使われる文句の中で、それとこれとは違うということが言われがちだろうが、そこで騙されるなと注意を喚起する意味で使われる内容と勧誘として使われる内容とを混同することも普通はないだろうが、言葉巧みに誘導されてしまうこともあるかも知れないし、そういう意味でも同じそれとこれとは違うという表現でも、使われる時の状況が異なれば意味合いも違ってきて、同じ賭けでもそれはギャンブルだがこれはギャンブルではないような意味合いで使われると、偶然とその場の成り行きまかせだけのギャンブルではない、知識と経験に裏打ちされたある程度は計算が成り立つ賭けの方へと誘導されていることになるだろうが、そういった方面の詐欺的とも受け取れる勧誘文句としてはそんな傾向になってしまうとしても、人を信用させるにはそうならざるを得ないわけで、それと同じような傾向が何の政治的な実績もない少数政党の党首の主張からも窺えるわけで、ともすれば確実にそうなるようなことを主張しがちになってしまい、それが詐欺師の勧誘文句と一致してしまうものだから、なかなか民衆の幅広い信用を得られないような成り行きとなってしまうのかも知れないが、その一方で逆に政権を担っている大政党が掲げる政策となると、確実なことは何も言えないような曖昧模糊とした表現になりがちだろうし、実際に経済政策の類いとなれば否応なくそうなってしまい、後から何とでも言い逃れができるようなことしか言わないし言えないだろうが、言うことはそれでも構わないわけで、言うこととやることが違うのは、言うは易し行うは難しということを承知していれば、実際に何かが行われた結果から判断するしかなく、しかも判断すること自体が結果的に何かを言うことになるわけだから、何とでも言えるような結果となる可能性も高く、そういうことを言えること自体が政治的な実績をもたらしている可能性もあるから、言っていることと行なっていることが連動して互いに絡み合いながら、うまい具合に言うこととなすことが補完し合うような成り行きへと持っていきたいとしても、実際にそうなっているかというと、そうなっているように見せかけているというのが実態なのかも知れないが、何もかもがうやむやのままに済んでしまうわけでもなく、当然のことながらうまくいっていない面に関してはそれ相応に批判を浴びるだろうが、批判自体も言うことであり、批判が行われることが言われることだから、うまくいっていない面を強調したり誇張して批判しているのは誰の目にも明らかであり、それが言うは易しの批判だと受けとめられてしまうわけで、そうなると確実に言えてしまう批判などと不確実で不透明な行われていることとの比較において、それとこれとは違うという印象が増幅されて、批判が思ったほど効果を上げないような結果がもたらされて、それがそのまま政治的な実績となるから、現状維持的な成り行きがまかり通って、その実態がどのようなものであっても、そこで主導権を握って何かを行なっている側が信用されて、その不透明で不確実な行われていることの中からうまくいっていない面を批判材料として取り出して、それを強調したり誇張しながら糾弾するようなことを行なっている側が信用されない成り行きとなってしまい、それがそれとこれとは違うという効果であり、言うは易し行うは難しを信用することから生じる錯覚かも知れないが、実際にもそうだからそういう成り行きの中ではそういう傾向になってしまうと事態を捉えるしかないだろうが、そうであるなら言う方はあまり人を信用させようとして確実なことは言わない方がいいと思っても、言うことが仕事になってしまうと、なるべく確実なことを言いたくなってしまうだろうし、自らが言っていることを信用してもらいたいだろうから、また言うことによって多くの人の気を惹きたいだろうから、それがともすれば詐欺的な勧誘や誘惑の言葉遣いとなってしまうわけで、そうなることがわかっていてもそうなってしまう限りで、甘い言葉には騙されないぞと用心深く身構えている人にとっては、その手の言うだけは言えるような言うことの確実さでは信用できないわけだが、ではどう言えば信用されるかといっても、言うことしかできない人たちにはどうすることもできないだろうし、信用されるための確実な方法が確立されていれば、誰もがそんなことをやろうとするから、多くの人や団体がそんなことをやっても成功するのはほんの一握りの人たちとなってしまうわけで、結局は何を言っても結果が伴って来なければ信用されず、逆に言っていることが信用されるような機会をとらえれば、何を言っても信用されるような成り行きになるとも限らず、そういう機会をとらえて言った者勝ち的な風潮に乗って言いたい放題言って主導権を握った人もいるだろうし、そういう人は詐欺師だ何だのと陰口を叩かれながらもうまく立ち回って、言うだけでなく行える側に回っているから、いったんそうなってしまえばしめたもので、あとは軽薄な一般大衆の支持を背景にしてその地位を万全なものとしている場合もあるだろうし、何をきっかけとしてそうなるかは実際にそうなってみなければわからないことであり、そうなった後からそれを批判したところでびくともしないようなことにもなれば、何かそれが不条理に感じられるとしても、もちろんそうなった顛末の一部始終を見渡せるような視点には誰も立てないわけだから、常に部分的な視点から不十分なことしか言えないから、確実にそういうことの真実を暴露するのは不可能であり、それを自分は全て知っているような口調でその人の非を断言するのはおかしいし、その手の傾向の批判が信用されないのは当たり前といえば当たり前のことなのだが、そんな何を言っても許されるような安泰の立場というのもあまりないだろうから、そういう面でも言うは易しといっても、安易に言えばそれだけ信用されないということであり、そうかといって行なっていることの実績がないと何を言っても信用されないということにもなるわけだ。
11月20日「均衡と不均衡」
何かが足りないと思うのは、その足りない何かが現状の中で居場所があるかどうかということまで考慮に入れてそう思っているわけでもなければ、現状で何が必要だと思ってみても、すでにそこで成り立っている物事にとってはそれだけで十分というわけではないにしても、それなしでもそこで何らかの均衡が保たれていれば、それ以上は新たに付け加えたところでそこで成り立っている均衡が崩れて、行われていることがうまくいかなくなってしまう危険性もあり、そうだとすればそこで足りないと思う何かが必要かどうかは、必要だとしてもそれを付け加えたところでその場がうまく治るかどうかまではわからず、実際にそれを付け加えてみてうまくいくようなら、確かに必要だったことになるだろうが、うまくいかなければ必要だと思ったことが余計だったと判断せざるを得ず、それが間違いではなかったことを証明してみせるには、それを付け加えてもうまくいくように調整しなければならないだろうが、何かが足りないと思うのも間違っているとは言えないとしたら、そこで成り立っている物事の均衡状態に不満があるということかも知れず、均衡状態ではなく不均衡な状態にならないと満足できないとしたら、均衡な状態を崩すために必要なのは何かということになるだろうが、それ以前に均衡が保たれているということは、曲がりなりにもそれがうまくいっている状態であるとすれば、それがうまくいかなくなるようにしたくて均衡を崩そうとするわけで、そうであればそこで成り立っている秩序を乱す行為が必要となり、そういうことを手っ取り早くしかも危険を伴って実際に行われている行為がテロになるのだろうが、では現状で足りないのはテロ行為かというと、すでに世界各地でさまざまな方法を用いてテロが行われていて、それによってそれなりに平和が乱されているのだろうが、果たしてそれが既存の秩序を乱す行為となっているかというと、例えば日本でもそれをやっている人が自らがテロリストであるとは自覚していないにしても、電車の中で無差別に乗客を襲うような行為をやる人が、見せかけの平和が成り立っている日本の秩序を乱すために凶行に及んでいるわけではなく、時折暴発してしまうそれらの行為も含めて成り立っているのが見せかけの平和であり偽りの均衡状態でもあり、過不足なくそういった行為が世界各地で行われている状態というのが、多くの人たちが不満を抱きながらもなし崩し的に保たれている均衡状態だとすれば、そんな不快な状態を崩すには何が必要なのかということになれば、どうもそれは現実に世界各地で頻発しているテロではないのかも知れず、そうだとすれば現状で行われているテロ活動では現状で成り立っている均衡状態を崩すことはできないということになるわけだが、では現状ですでに行われていることではない何かが現状で成り立っている均衡状態を崩すには必要となると、それは何なのかということになるだろうが、それがわかれば苦労はしないとも言えるだろうが、それがこれから行われる新たなことであるとすれば、何かこれまでには行われなかった新しいことがこれから行われることになるのかも知れず、それが何なのかを想像してみても、安易な想像を裏切るような予想外なことが行われないと、現状で成り立っている均衡を崩すことはできないと予想してもいいのかも知れないし、そうであれば何を予想するかということも、現状で成り立っている均衡を崩すことを予想するという安易な発想ではなく、絶えず予想外なことが起こると予想しておくのが無難なところであり、予想自体が裏切られないと現状で成り立っている均衡が崩れることはなく、さらには既存の均衡や秩序を乱そうとして実際に現状の中で行われている行為自体も、そういうことを意識してそういうことを行う限りで、それが予想通りの結果を招いているとすれば、逆に既存の均衡や秩序を保つためにそういうことが行われていると思っておいてもいいだろうし、結果的に現状の均衡や秩序が保たれている限りで、それらを乱そうとする行為が逆説的にしか動作しないとすれば、逆に既存の均衡や秩序を保つために行われていることが、逆説的に既存の均衡や秩序を乱したり崩す要因となる可能性もあるだろうし、乱そうとするにしても保とうとするにしても、どちらであってもどうとでも言えるような結果しかもたらされていないのなら、どちらにしても現状で行われている行為を信用するわけにもいかず、いい加減で信用できないことが行われていると思っても仕方がないことだが、どちらでもありそうでないことが実際に行われていれば、果たして既存の均衡や秩序も本当に保たれているのか乱されているかも怪しくなってくるが、それが均衡であっても不均衡であっても秩序が保たれていても乱されていても、どうとでも言えるような状態や状況であれば、均衡や秩序を保ったり乱したりしようとする行為自体が無効なのかも知れず、そんなことをやっているつもりの当事者としては、意識してそんな行為をおこなっている自覚がないのかも知れないし、自らが気づくことができない何かに操られながらやっていることであり、世の中の情勢や状況や風潮などに踊らされているだけとも言えて、そういったよくわからないことについては、どう考えてみても腑に落ちないのかも知れないが、直接的なところでは誰もが意識する利害関心に絡んで何かが行われるにしても、それに素直に従うにしても逆に抵抗を感じて逆らうにしても、実際に行われていることに影響を受けてそう思うわけで、そう思うのはそうだとしても、そこから何らかの行動に及ぶ過程で、思わぬところから気がつかない作用や影響も及ぼされて、もちろんそれに気づいているつもりになれる場合もあるだろうが、それに気づいたと思ったところで自らの力ではどうにもならない面もあるから、その場の状況や成り行きに流されてしまえば、自身でも当初に思っていたこととはかけ離れたことをいつの間にかおこなっていて、そんなつもりではなかったと思ってみても、それはおこなった後から気づく場合も気づかない場合もあるだろうし、気づいたところでそうなった結果からおこなったことを正当化したり合理化するような理由を求めてしまえば、それもいつの間にか意識してそういうことを行うつもりであったと思い込める場合もあり、自身の意識や心理状態さえも後から修正が可能だと思い込めれば、実際に都合のいいことを思い込んでいるつもりになれると、かつて思っていたことや今思っていることのどこまでが本当でどこからが嘘かの区別も自分でもつかなくなってきて、果たして自身の思っていることや他人が言っていることを自身の都合に照らし合わせてどう受け止めればいいかもわからなくなってくるだろうし、改めてそんなことを思う機会も考える余裕もなければ、自身の行動と共に現状の成り行きの中に埋没しながら生きているだけとなってしまうかも知れないが、果たしてそういう成り行きから外に抜け出ることができるかとなると、抜け出られないにしても外部の思考や外部の視点を想像することができて、そこから自身も含めて多くの人々が囚われている成り行きの全体像を把握しようとすることが、勝手な妄想や幻想を抱かせるかも知れないが、それも自分にとって都合の良い妄想や幻想を抱くのだろうが、その都合の良さというのもその場の成り行きからそう思わされてしまうことでもあり、しかもそう思わされてしまうのもその場の成り行きに含まれていて、それが外部の思考や視点から生じてくることではなく、むしろ自分が囚われている成り行きの内部からそういう思考や視点が生じてくると思っておいても構わないが、想像を裏切るようなことを想像できるわけでもないし、できないことを想像していること自体が想像の範囲内で想像していることだろうが、想像するだけではなく実際に行動してみれば、行動した分だけ新たなことがわかってきて、行動と共に思考や認識も活性化されて、それが新たな思考や認識に結びつけば、それ以前に想像していたこととは違った現実に出くわすかも知れないし、それが思いがけない現実であり、思いもしなかったことを実現していることになるかも知れず、できれば気休め以上の何かになってほしいのだろうが、その一方でそんな成り行きを想像してしまうことも、自らが囚われている成り行きの中で想像していることであり、そういう意味ではそこから外へ抜け出ているとは言えないわけだが、それが真か偽りかの均衡をもたらす成り行きなのか、あるいは均衡から不均衡へと移行する動作となるかは、自らが実際におこなう行動にかかっていると言えるのではないか。
11月19日「比較の罠」
比喩的なことと実際の傾向を混同するなら、視力が良いからといって未来を見通せるわけでも予知できるわけでもなければ、先のことがよくわからないのは視力の悪さとは関係のないことかも知れないが、視力ではなく思考力が優れていれば未来を見通せることができそうだとしても、未来を予知する能力と思考力とは関係がないことかも知れず、それよりは一般的に言えそうなのは勘の鋭さと予知能力とはかなり関係がありそうで、勘が鋭いと何かの兆候を敏感に察知できて、それが予知能力のような気がするだろうが、具体的に何を敏感に察知するのかといえば、それに関して普通に言えるのは、危険を察知して回避したことになれば、勘が鋭かったことになるだろうが、回避した後ではそこに危険があったかどうかわからない場合もありそうで、そこに危険があったわけでもなかったのに、危険を察知して回避したつもりになってしまえば勘違いであり、それでは勘が鋭いどころか、ただ単に愚かなだけかも知れないが、愚かといっても思考力が劣っているから愚かなのではなく、それとは違う傾向の愚かさもあるかも知れず、ある特定の方面では確かに思考力が優れていても、別の方面では愚かな場合もありそうで、それに関しては比喩としての視野の広さと狭さの違いから、狭い領域での賢さがその狭い領域でしか通用しなければ、そこから外れたところでは愚かだと判断される場合もありそうだが、具体的に何が愚かなのかというと、その比較対象に愚かさが現れている場合もあり、果たして愚かさと賢さを比較できるかというと、比較できるとしても両者が混ぜ合わされている場合があり、愚かでありながらも賢かったり、賢くありながらも愚かであったりして、そうなっている中で時には愚かさを強調してみたり、別の時には賢さを強調してみたりするから、愚かであり賢くもあるような状態が何かの比較対象となるかというと、それを比較してある基準においては優れていたり、別の基準においては劣っていたりするから、それをどう判断すれば良いのかわからなくなると、そこから愚かさが現れてきて、愚かであるのに賢さを強調することが愚かさが現れていることの証拠であったりして、そうやって何かと何かを比較することが、実践の手前で踏みとどまって、何もやらないことの言い訳として作用すれば、それも愚かさの表れなのかも知れないが、実際に何もできないから延々と取り留めもなく様々な物事を比較するばかりとなってしまい、比較しているうちに時が経って、そんな無為な時間からは何も生まれてこなければ、それも愚かさの表れなのかも知れないが、どうでもいいような物事を比較して、それの何が良いだの悪いだのと言うことが別の何かの暇つぶしとして機能すれば、それで構わないような状況の中でそんなことが言われているわけで、そんなことを言うこと自体が余裕がないとできないことであり、それがわざとでないにしても、そうやって無為に時間を過ごすことが愚かだと思われるようなら、逆にそれが賢さの表れであるような気もして、愚かでいられることが余裕を持って賢くあることの秘訣のようにも思われてくれば、それも愚かさと賢さが混ぜ合わされた状況となるだろうが、そこで何かと何かを比較していること自体が深刻な状況なのではなく、そこからそうした比較の結果として出された結論が深刻な未来の状況を見通しているように信じられていると、それと共に何かそこに冗談のような愚かさをもたらしているのかも知れず、そこで伸るか反るかという二者択一を迫られているように思わされているとすれば、そう思わせている側も思わされている側も愚かなのであり、少なくともそこで無駄な時間を使って延々と細かで詳しい比較が執拗に行われていること自体が、もちろんそうした比較を見せている側がそれが無駄だと思うはずもないことだが、比較を見せられている側にとっては、退屈紛れの暇つぶしとしてそんな比較を見ている可能性もあり、見せている側と見せられている側とで落差や温度差があるのは確かであり、実際にそれを実感しているわけだが、それを愚かさの表れだと見なさなくても構わないのだろうが、少なくとも相対的な比較対象がいくらでもあって、そこに絶対的な良し悪しの基準があるわけでもないとしたら、深刻に事態を捉える必要もなく、戯れの範囲内で比較されていることだと見なしても構わないわけで、そうであるにも関わらず比較結果を伝える側の熱意にほだされて事を深刻に受け止めてしまうのは愚かさの表れかも知れないが、愚かであっても構わないような余裕があればその程度のことで済んでしまうから、そこで愚かさを耐え忍んでいるわけでもなく、逆に自らが愚かであることを楽しんでいるような不埒さまで呼び込んでいるようにも思われて、それが愚かであるか賢くあるかの二者択一的な選択から逸脱する状態でもあり、それを真に受けなければ比較自体が比較になっていないようなしどろもどろな成り行きにも思われるし、そういったぐだぐださの只中で思考を働かせることを強いられると、将来の展望などとは違った方面へと興味が向かい、それが何かというと成り行きの不透明さを受け入れることで生じる賭けへの魅力であり、それが何でもないことだと割り切って行うならどうでもいいことになってしまうわけでもないが、そうなるとそれまでにおこなってきた詳細な比較自体が無に帰すわけでもないだろうが、逆に比較などやっている場合ではなく、比較する余裕が全くない状態で他に選択肢が何もない状況下で、目の前に置かれたものを取る以外に何もできなくなってしまえば、そこで愚かであるか賢くあるかの態度を選ぶこともできなくなるだろうし、そこでもそんな状態すらも何でもないことだと思われるようなら、そういった方面への成り行きの移行が意味するところは、余裕綽々で暇つぶしに詳細な比較を眺めていた頃とは比較にならないほど切羽詰まった深刻な状況となっていて、そうなれば俄然伸るか反るかの賭けに挑んでいる気にもなれて、そこまで追い込まれてしまったこと自体がそうなった自身の愚かさの表れでもあり、そうならないようにしたくて何かその途中でそれを回避する方法として比較検討が行われたはずだったが、それを見つける余裕があったわけではなく、それもそういう方面では否応なくそうなってしまうとしても、それとは別の方面では相変わらず余裕綽々な態度でもいられるような状況もあれば、それこそが装われた偽りの深刻さであり、そのどちらでもあるとすれば何かそれが両義的で多面的な入り組んだ傾向の状況に置かれていることだと解釈しておいても構わないだろうが、しかもそれが苦し紛れに特定の傾向の差異を強調するわけにもいかない状況であり、そういう状況の中では一般的には総合的な判断を迫られるのだろうが、面倒なら判断しなくても構わないはずがなく、意識して判断していなくても、結果的におこなっていることがその場の判断を反映していて、そこで何かを判断したからその結果が行動に現れたことになり、そう見なしておくのが無難なところだろうが、それは決定的な判断を迫られないような曖昧な状況へ持っていける限りで保っていられる状態でもあり、実際にそんな状態がそこで保たれていれば、その場の微妙な均衡も維持されて、それまでの延長上で事態が推移するような成り行きにもなるのだろうが、それを実現しようとしてそうなっているのではなく、なし崩し的にそうなっているような状態となっていれば、やはりそこで判断停止のようなことにもなってしまい、そうした状況の中ではいくらでもどうでもいいような比較対象が現れては消える一方で、明確ではっきりとした決定がいつまで経っても行われないのに、誰の同意を得たわけでもないのにいつの間にかそれまでの延長上で物事が決まっていってしまうようなことも起こり、そういう意味では何かを比較する余裕があるということは、それと同時に何も比較せず何も決定しなくても構わないようなことにもなり、比較する余裕があるから比較するのではなく、比較しなくても構わないから比較して、比較したところで何を決めるわけでもなければ、何を比較したことにもならないわけだが、しかもそういう無効な比較とは関係なく、いつの間にか比較対象とは別の方面から何の選択の余地もなく何かがなし崩し的に決められたことになってしまい、それを決めたことについては誰も同意したわけでもなくても、それもいつの間にかそういうことが織り込み済みの前提として物事が進行していってしまい、確かにその途中では様々な物事の詳細な比較を見せられていたのだろうが、それを見せられていても見せられている側には何の決定権もないことが明らかになってくるわけで、そうなる成り行きの中では比較する余裕を感じていたのだろうが、結果的には全く余裕のない状態へと追い込まれている事態に唖然とするしかないわけだ。
11月18日「社会の捉えどころ」
社会という概念が何を意味するにしても、社会に対して何をどう働きかけるかということが、政治的な行為として課題となってくると、社会という概念やその範囲や対象が何を指しているのかが、政治的な行為を行う上で明確にしなければならないだろうし、また行為が実効性のあるものかどうかを見極めるには働きかける具体的な対象を特定する必要もあるだろうが、社会とは何かと問うことはできるが、社会という言葉だけではそこに何があるかもわからないし、そこでどんなことが行われているかも明確でないわけだが、その中で何かを行う存在として人を語らなければならず、人といっても単独では社会を構成できないし、社会には多くの人が住んでいて、そこで各々が役割を担って活動している実態があるわけだが、各人の思惑としてはまずは利己的に振る舞い、社会を支え守るために活動している気でいる人も中にはいるかも知れないが、それも自らの利害と社会の利害が一致する範囲内でそういった活動に身を投じていて、少なくとも社会全体を支え守っているわけではなく、自らと対立したり敵対する方面は支えないし、そういった方面に対しては守るよりはどちらかと言えば攻撃を加えている割合の方が大きいだろうし、政治的な行為としても批判する対象となると、それを支えたり守っている感覚にはなり難いはずだが、そうなると支え守る範囲というのが都合よく切り分けられて、ある面は支え守っているが、別の面はそうではないようなことになってくるわけで、それが政治的な行為を行う上で働きかける対象として、敵と味方とで取り扱いの違いとなって現れると、政治的な使命としては社会を支え守るという大義名分を掲げている割には、実際にやっているのは社会の内部に亀裂を生じさせて社会を敵と味方とに分断していることになるわけで、そんなことをやっている勢力に属している人たちにそういう自覚があるかとなると意外とそうではなく、相変わらず建前として社会を支え守るような趣旨の発言をしているのなら、言っていることとやっていることが違うということになるだろうが、そこが微妙に認識がずれるところで、あえて矛盾した言い方になるのを承知で言うとすれば、社会を支え守るには社会には対立と分断が必要なのであり、絶えず敵対する勢力がいないと社会が成り立たないような矛盾と共に社会を支え守らなければならず、社会の内部で対立と分断に直面していないと政治的な主張も行為も成り立たないことになるわけで、もちろん内部の他にも外部にも敵と味方がいて、それらに対して敵対と同盟を煽り立てることによって政治的な活動が成り立つわけだが、そうであるなら社会の内部にも外部にも攻撃の犠牲となる標的が存在していて、敵を攻撃して打ち負かすことによって政治活動を継続させるわけで、活動を継続させるには敵が必要となるから、社会の内部でも外部でも敵を作るための対立と分断が欠かせず、攻撃目標としての敵を批判することが政治的な主張の大半を占めると共に、味方を支え守ることも必要になってくるわけだが、政治的な主張が欺瞞に満ちているのはそういうところであるにしても、実際に敵を批判して味方を擁護している人にその自覚があるかというと、そういった状況をゲームと捉えるなら、あからさまに意識してやっている感覚はなく、活動からその実態が浮かび上がってくる程度のことであり、当事者にその自覚があるなしに関わらず実質的な傾向としてそうなっているわけだろうが、それを単純化して敵から利益を奪って味方に分け与えるようなことをやっていると見なすのも間違いかも知れず、実態としては敵からも味方からも利益を得ているだろうし、また敵にも味方にも結果的には利益が分配されるだろうし、利益の分配がある限りで、敵と味方とに分かれた政治ゲームが成り立っているのだろうが、果たしてそんな認識で構わないのかというとそうでもないのかも知れず、あからさまにそう思うのではなく、そこに何かしら肯定的な幻想を挟んで、時には敵と味方との間で和解が可能であるかのような幻想を抱きながらも、敵と味方とに分かれて抗争を繰り広げるようなゲーム感覚も必要とされるとしたら、本気で戦っているのか疑念を抱かざるを得なくなってくるかも知れないが、地域によっては本気で戦って殺し合いの内戦となっているところもあるだろうし、そうならないようにするにはそれなりに地政学的な条件や歴史的な経緯などが絡んできて、単純な二項対立には持っていけないような社会の複雑さが生じているところでは、どっちつかずの微妙な状態となっていて、表向きには政治ゲームを装う上で必要最低限の対立や敵対があるように感じられるにしても、実態としては関係がこんがらがってこじれた状態となっているから、そういった対立劇を見せられてもそれを真に受けるわけにはいかないような中途半端な雰囲気も醸し出されて、そうなっていると始めからしらけきっているようにも見えてしまうから、無関心でいても大して困らなければ実際にそうなってしまうのだろうが、それで構わないような状況であれば社会の内部に対立も分断も生じていないかも知れないが、そうなると社会全体の活力が減退してしまうので、わざと敵対を装うような演技がメディア上で繰り広げられることもあるだろうが、そんなことをやってもそれを真に受けて踊り出す人も少なければ低調な状態となってしまい、見せ物としてはつまらない部類に入るのだろうが、それだけ政治活動そのものが社会の実情から遊離してしまっていて、それと共に使い古されて何の効力もなくなってしまった毎度お馴染みの主義主張を性懲りもなく引っ張り出してきて、それを批判のたたき台に乗せて、現状に無理矢理こじつけてもっともらしく語るという厚かましくも羞恥心のかけらもないことが平然と行われている一方で、少しは良心を感じさせるような配慮と共に語れることがあるとすれば、過去に行われたことの繰り返しとならないためにも過去の亡霊を引っ張り出してきてそれの焼き直しのような政策は避けるべきだと主張するしかないだろうが、その過去の亡霊というのがその焼き直しのような主張の中で語られるフィクションに潜んでいるようにも感じられるのだが、過去の経緯や事情を知らない人たちにとってはそれが新鮮に感じられるわけだから始末に負えないとしても、そんな主張に胸躍らされる人も今のところは少数派にとどまっているだろうし、大半の人たちは真に受けずにしらけきっているのかも知れないが、それも今のところはそれで構わないとしても、少しは地に足をつけたつまらない主張であっても構わないだろうし、大して興味を惹かないような主張であっても困るわけではなく、実際にそういうつまらない主張することによって政治にリアリティが生じてくるとすれば、政治を変えるにはそうしなければならないのかも知れず、それが政治の形骸化を促進させているように感じられるかも知れないが、政治そのものがその程度の中身となるような事態が進行しつつあるのかも知れないから、そういう面に関してはそう受け止めるしかないだろうし、おもしろいから良くてつまらないから悪いとは言えないわけで、逆におもしろそうな政治が過去に悲惨な結果をもたらした例など結構多そうで、政治がおもしろい時代というのがそのまま不幸な歴史であったりすれば、逆に政治がつまらない時代だと世の中が平和な状態に保たれていたりもして、そんなことまで考慮して現状を評価する必要もないのだろうが、否定的な感情と共に少しは人々の興奮を煽っているように感じられるあからさまな批判の言説や主張が何をもたらしているのかといえば、それを否定的に捉えるわけにはいかないが、手放しで賞賛するような内容でもないだろうし、その程度のことだと馬鹿にするほど上から目線で偉そうな態度になれるわけでもなく、好意的に見ておくのが無難なところなのかも知れないし、実際にそこから何らかの流行現象が起こって、一時的であってもこれまでとは政治が変わったような気になれる時期も到来するかも知れないが、それによって社会の状態が根底からひっくり返ると思うのは幻想に過ぎないのかも知れず、何よりもその主張が過去の亡霊を性懲りもなく引っ張り出してきていること自体が、何か限界を感じさせるわけで、それが幻想の類いでは終わらずに何かしら新たな事態をもたらすとしても、実現するのは現実からそれほどかけ離れたようなことにはならないことを予感させるわけだが、少なくとも政治だけでどうにかなるような社会の状況でないことは確かなのではないか。
11月17日「冗長な文章」
偶然に巡ってきた何かの機会をものにできたかどうかはよくわからないが、それは後から振り返ってそのことの意味や意義を考える余裕が出てきた時にわかることであり、そうなってもわからなければ何でもなかったということかも知れず、単なる無駄な回り道でしかなかったのかも知れないが、他に何か予定があったわけではなく、あったとしても何もかもが予定通りとは行かないものの、思いがけない偶然の出来事さえも前もって予定されていたことだとすれば、誰がそれを用意しておいたのかと言えば、神以外にあり得ないだろうが、そんな認識自体が勝手な思い込みに過ぎないとすれば、そこからさらに言葉を記して行っても、文章が無駄に長くなるだけで、それに関する記述が意味のない冗長さの中で無駄に言葉を循環させているだけかも知れないが、それが予定にはなかった逸脱であり、何事も予定通りにはいかないというのは、そこで神でさえも制御できない何かが働いている可能性もあり、それが必ずしも神が全知全能でないことを証し立てているような気もしてくるが、誰がそんなことを思っているのでもなく、架空の誰かがそんなことを思っているとしても、それを記している誰かが他の誰も思わないようなこと記そうとしているわけでもないだろうが、少なくとも文章として記されている内容をそれを記している誰かが思っているわけではなく、そうかといって誰も思わないことを記そうとしているわけでもなく、そう思っていると記したところで、そんなことを思っていること自体が嘘かも知れないが、予定通りとは行かないのは記そうとしている文章の中だけではなく、他にも何かが予定通りの進行から外れているのであり、予定通りの行程で進もうとすると途中で邪魔が入って、そこで道が行き止まりとなって立ち往生してしまうわけでもないだろうが、出鼻をくじかれて気分が乗らないから、わざとそこから逸れてしまうわけでもないが、わけでもないからといってわけがないというわけでもないが、知りたいのはそうなってしまったわけではなく、なぜそうなってしまうのかと思う以前には何もないことのわけであり、他に何もないということがあり得ないと思うなら、それが理由というわけでもないが、何とかして言葉の否定的な循環から抜け出そうとしているわけだが、そこから抜け出そうとしていること自体が、そうなっていることの否定そのもののように思われて、そんな否定的な状態をいくら引き伸ばしても否定の継続であることには変わりなく、結果的に意向に合わないことをやっているわけだが、そこで想定している意向とは何なのかとなると、たわいない理由づけとしての意向でしかないのだろうが、そのたわいない理由づけが利害心にとらわれた者の意識には思いのほか響いてきて、ちょっとした差異に敏感になることが行動の動機となり、その行動自体もちょっとした差異を伴った行動にしかならないわけだが、その行動の質や内容や程度が他と比べてどうということではなく、ただ単に行動が利益に結びつけばそれでいいのかも知れないが、功利的に考えるならそうかも知れないが、それが倫理的な価値をもたらせるかとなると、そんな価値など利益の前では知ったことではなく、唐突に倫理を持ち出すこと自体がおかしいわけで、目的が利益を求めることであれば倫理など二の次となってしまっても仕方のないことであり、はじめから倫理など眼中にはないとすれば、では他のどんな場合に倫理が求められるのかと言えば、心に余裕があれば倫理のことまで考慮するかも知れないが、心に余裕があるということ自体が経済的な余裕を前提としていて、経済的な余裕が実現するには利益を蓄積する必要が出てきて、利益を蓄積する過程においては倫理などにかまっている暇はなく、倫理にこだわるか利益を蓄積するかの二者択一とはならず、まずは利益を蓄積することに専念しないと経済的な余裕を実現することなどできず、それに成功してから他のことにも余裕が出てくれば、そんな余裕に伴って倫理的な行動も生じてくるかも知れないが、そこまで辿り着く途中の過程で競争となれば、そこからふるい落とされる人も大勢出てくるだろうし、そんな人たちが大半を占めていれば、倫理のことなど気にかけない人も大半を占めていることにもなり、そんな人たちにとっては倫理的な気遣いなど意味をなさない余計な贅沢品になってしまうかも知れないが、そこに価値があるかのように見せかけたければ、それを肯定的に語らなければならないだろうし、肯定的に語っている過程においてごまかしやまやかしが含まれてくれば、語るべき価値を裏切っていることにもなり、果たして価値を裏切らずに語ることができるかというと、元から倫理の意味などよくわからなければ、価値を裏切る以前に言葉が示す概念自体がよくわからないことになり、何か功利的な行動とは相容れない傾向があることは確かなのだろうが、そこに偶然が作用してくると捉えると倫理も何もあったものではないことにもなるかも知れず、偶然にそうなってしまったことに関して後から倫理がどうのこうのと言ってみても、そうなってしまった結果が揺るぎようがなければ、倫理がどうのこうのと言っている人が無理なことを通そうとしていて、もちろんそんなことは通らないだろうし、それに関して納得がいかないのもわかるが、偶然にそうなってしまうことについては納得できなくてもどうにもならないことであり、納得できなくてもそのままになってしまい、納得していない人が置き去りにされたまま、事態がその後も勝手に進展していってしまうだろうし、そうなればそこでの倫理など顧みられないことにもなり、倫理なき事態の進展の中で功利的な利益の追求が継続して行われることになるのだろうが、たとえそうであってもなお倫理を求めるような成り行きが生じるなら、敗者の論理として倫理観が肯定されることになるだろうが、そこで誰が敗者となるかは功利的に利益を追求する競争に負けた人たちが敗者となって、倫理なき無情な世界を呪うかも知れないが、そこで終わりとならないところが偶然の巡り合わせの意味不明なところかも知れず、捨てる神あれば拾う神ありとなるとも限らないだろうが、確率的にごくわずかな人たちが何の理由も根拠もなく救われたりすれば、その人たちが敗者であろうと勝者であろうと構わないことになり、そうなることを目指すわけでもなくてもそうなってしまうところが意味不明なのかも知れないが、その一方で当初の目的に忠実に行動して競争に勝って成功したのに、結果的にはそれがどうしたわけでもないところも偶然の巡り合わせの意味不明なところでもあり、その結果というのがその人の死と共に明らかになることもあるだろうが、明らかにならないままでも構わないわけで、人がどんな運命を辿ってどんな境遇に落ち着いても、そこで終わりとなっても構わないのだろうが、終わりとならなくても構わないわけで、偶然にそうなってしまえばそういうことでしかないわけだが、そうならなくても構わないわけだから、その構わないわけというのが、そうなってからわかることもあるだろうし、わからないままとなってしまうこともあるかも知れず、わけなどわからなくても構わない場合もあるが、そうなったわけを知りたくなることもあるだろうし、わけを知ろうとして何やらわけありの行動を開始してしまうのも、ちょっとしたきっかけからそうなってしまう場合もあるから、その気もないのにそうなってしまうのも、偶然にそうなったとしか言えないような成り行きなのだろうが、話をここまで引っ張ってきて何の結論にも至らないのも腑に落ちないところであり、求めていたのは結論などではなく、無駄に言葉を記している過程で出てくる何かであるとしても、その何かというのがそれなりに内容を伴っていればいいとも思えないが、それを内容だと思わなくても構わないなら、それが倫理的には受け入れ難いことなのかも知れず、最低でも何かしら内容のあることを語らなければならず、実質的には語っているのではなく言葉を記していることになるのだろうが、架空の誰かが架空の内容を語ろうとすると出鼻をくじかれて、他の用事が割り込んでくるわけでもないのだろうが、語りたいことが何もないというのも嘘であり、語りたいことを語れずに、その代わりに出てくるのが、倫理なき無情な世界が醸し出す荒廃した雰囲気であり、それでも神の見えざる手に導きかれながら、何かを語っているふりをしているのだろうが、それが何なのかと言っても大したことだとも思えず、そんなことを思っているうちに無駄に長い何かを記し終えているわけだ。
11月16日「不都合な危機」
まだ完全に危機が去ったわけでもないのに、ここからが真に危機的な状況になると予想したければ、では現状で感じている危機とは何なのかと言えば、それが危機ではあるが真の危機とは感じられないような何かになるかも知れず、これから本当の危機が到来するにしても、現状の真の危機とは感じられない大した危機でもない危機と比較してどうなのかと言っても、比較したところでそれは程度の問題でしかないし、どう表現したところで人それぞれで体験の程度も内容も異なるだろうから、同程度の体験とはならないとしても全く異なる体験とも言えないだろうが、確かにこれまでにも様々な危機が到来しては一定の期間が経過した後に去って行ったはずで、それを思い出しては真の危機はこんなものではないと言ったところで、この先にもっと凄い危機が到来すると予言したところで、その危機も一定の期間が経過した後に去って行くだろうし、危機とは総じてその程度の危機でしかないだろうが、その程度でしかないと表現すること自体が、たぶんまだ真の危機を体験していないから舐めてかかっているのかも知れず、危機に至る前に回避してきたから危機を体験していないのかも知れないが、どちらにしてもそれなりに様々な危機をかい潜ってここに至っているはずで、程度の強弱はあるにしてもそれなりに痛い目に遭ってきたのだから、まだ真の危機を体験していないと強がる余裕などありはしないだろうが、真の危機は事前に危機意識を抱く余裕など与えずに突然到来して、危機に陥った人を絶望のどん底に叩き落とすような経過を辿って、実際にその人を破滅させて死に至らしめれば、それが真の危機だったことがわかるのかも知れず、わかる前に死んでしまえばわかるはずもないことかも知れないし、嫌というほど絶望感を味あわせた挙句に死に至らしめれば、死ぬ前にそれが真の危機であることがわかるかも知れないが、逆に真の危機を切り抜ける可能性もあるだろうし、確かに切り抜けられないから真の危機なのではなく、危機というのは切り抜けられる可能性もあるから危機なのであり、実際に真の危機を切り抜けてここに至っていれば、自身の有能さを誇っても構わないはずだが、それと未曾有の危機の到来を予言することとは無関係かも知れず、これから世の中が大変な事態になってほしいから、危機の到来を予言したいというわけでもないだろうが、危機が到来することを信じてもらえなければ危機的な事態となるわけでもなく、では何なのかと言えば、すでに到来している危機に気づいていないとしたら、至って鈍感なのかも知れず、それが地球規模で起こっていることだとしても、実感できないような危機というのもありそうで、実感できなければ危機ではないということでもないだろうが、何となく危機とは無縁でありたいと願っているわけではないが、無視しても構わない危機であれば、無視しているうちに危機に陥って、どうにかなってしまうのかも知れないが、実際に多くの人がこれからどうにかなってしまい、そのどうにかなってしまったことに関しても無視したままとなってしまうのかも知れないが、それがどんな危機なのかと言えば、よく言われるような危機でもあり、誰もが実際に無視している危機でもあるわけだが、それが何かと言っても、言ったところで無視するわけだから、言うまでもないことかも知れず、多くの人が実際に無視する危機として日本でよくある危機といえば、民主主義の危機なのかも知れ得ないが、実態としてはそうではなく、危機でも何でもないのであり、至って民主主義が正常に機能しているにも関わらず、なぜか民主主義の危機が一部で叫ばれていて、しかも誰も叫んでいないのに叫ばれているような雰囲気も醸し出されてもいないのに、なぜか知らないが民主主義が危機に陥っているのだから、誰もそんなことは信じられないし、実際に誰も信じていないにも関わらず、なぜか民主主義の危機が一部で叫ばれていることになっているとすれば、たぶんそれは演技として誰かが危機を装っているのかも知れず、危機を偽装しているといえるかも知れないが、誰もそんなことは言っていないとなると、全くの嘘でしかなくなってしまうだろうが、ではなぜ民主主義の危機が叫ばれているのかといえば、何らかの疑惑が放置されていて、その放置された疑惑が民主主義を深刻な危機に陥れているといえるかなると、そうでもないのかも知れず、それよりは地球規模で起こっている本当の危機の方がヤバそうな気もしないでもないが、とりあえずは民主主義の方は危機感を感じさせるようなことでもなく、どちらかと言えば地球規模で起こっている危機の方が深刻さを増しているようにも思われるとしても、大事なのは民主主義の危機の方ではないとしても、そこに危機があるように装わないと気が済まないわけだが、何とかしてそんなことは無視したいのであり、実際に多くの人が無視しているのだろうが、それでも危機が叫ばれているように装いたいのだろうから、装わせておけばいいのかも知れないが、本当は装っているのではなく実際に危機的な状況となっているはずだが、あくまでもそれは装われた危機であり、装われた危機にしておかないと誰が困るわけでもないが、危機を装っておいた方が良心的に見えるのかも知れないし、どうしても装っていたいのなら、装わせておいても構わないのかも知れないが、それが目障りというわけでもないだろうし、一部には目障りな装いも目立っている面もあるだろうが、そういうところは大目に見てほしいのかも知れず、そうやって何とかして民主主義の危機がそこにあるようにしておかないと、何か格好がつかないというわけでもないだろうが、装いたいのなら勝手に装わせておけばいいというわけでもなく、できればそんな装いは取っ払ってすっきりしたいところだろうが、すっきりしてしまうと民主主義ではないことがわかってしまうわけでもないだろうが、それはわかる必要もないことであり、誰にわからせたいわけでもなく、誰もが承知していることかも知れないが、承知したところで装われた民主主義であることには変わりないだろうし、一応は装われていることも誰もが承知していることかも知れないが、中には本気で信じている人もいるだろうし、本気で信じている人ほど自らの偽装に無自覚なのかも知れないが、何を偽装しているのかといえば、それが民主主義でない何かであれば、それも無視しても構わないことかも知れず、偽装がばれないとも限らず、実際にばれているから本気で信じようとしているのかも知れないし、それがばれていなければ無理に信じなくても構わないことかも知れないが、ばれないようにいくら装ってみても、何か挙動がおかしいのは誰もが気づくことでもあり、しかもそれに気づいているからといって、信じることをやめるわけにはいかず、信じている限りで危機など無視していられるわけで、それを信じられなくなった時が真に危機的な状況となるかも知れないが、まだその時が到来したとは誰も思っていないのかも知れず、だから危機など無視して平然としていられるわけだろうが、信じていてもだんだん信じられなくなってくる場合もあるだろうし、そういう疑念を振り払って一心不乱に信じ込んでいる最中かも知れないが、何をそんなに信じているのかと言えば、それがわかってしまうとまずいのかも知れず、だからなるべく信じている当の何かを見ないようにしていて、そこから視線を逸らしている限りで信じられるような対象があり、それが特定の政党であったり政治家であればわかりやすいはずだが、やはりそれがわかってしまうとまずいわけで、なるべくわからないように装いながらも、しらばっくれているのがばれてしまってもまずいわけだから、その辺が微妙なところでもあり、誰が何を信じているかを明かさないまま、お互いに疑心暗鬼になっているわけでもないのだろうが、それをはっきりと表明している人がいるとすれば、そんな人は他から相手にされないわけでもないだろうが、少なくともかなり愚かに見えてしまい、愚かな人が愚かな何かを信じていて、その愚かな何かというのが民主主義であるはずもないのだろうが、それを信じられない人たちは密かにそうであってほしいと願っているのかも知れないが、たぶん実態としてはそうではなく、信じられないのではなく信じたいのであり、信じたいから信じているふりをしているわけだが、それが行動を伴っているかというとそうでもなく、それを信じているのがばれてしまうのが恥ずかしいことでもないのだろうが、それも実際にはばれているのだろうし、恥ずかしい人たちが恥ずかしい対象を信じていることがばれているわけだ。
11月15日「攻撃と防御」
自らが意識できることに関して確からしいのは、すでに世界の中で自らが存在していることの他にも、身の回りの様々な物事を意識しているはずだが、その中で何を守って何を放っておくかが重要というわけではなく、実際に守っているという意識がなくても守っている物事がある一方で、放っておいても自動的に動作して機能する物事もあり、結果的にそうなっていることに関しては意識が感知せずともそうなっているわけで、そういう方面では取り立てて何を意識するかが重要というわけでもないのだろうが、ではそれとは別の方面で何を意識しなければならないのかと言えば、バランスを意識することが重要だと思うなら、それが何のバランスなのかと言えば、例えばそれが心身のバランスであったりするのかも知れないが、それに関しては過度に心身に負担をかけるとバランスが崩れて、それが怪我や病気の原因になる程度のことは誰もが理解していることだが、それを自覚しないで心身に負担をかけている場合もあるだろうし、結果的に怪我を負ったり病気に罹れば、何かしら無理をしていたことになるかも知れないし、そうなりたくなければ意識して心身のバランスを保つように心がけようとするかも知れないが、自分でバランスを保とうとしても周囲の状況がそれを許さず、過度な負担を強いるような状況となってしまえばいやでもそうなってしまうし、守ろうとして守れなければおかしくなってしまうだろうが、守るのではなく攻めるという積極性を意識することもあるかも知れず、何を守って何を攻めるのかも、そういう感覚や認識が何を対象としているのかにもよるだろうが、自身を含んだ身の回りの状況の中で何かを抽象的に捉えていて、それに対して攻撃を仕掛けたり、それから身を守ろうとしたりすることが、実質的に何を意味するのかがよくわからなければ、意識が空回りしているような感触となってしまうのかも知れないが、実際に意識を向ける対象が具体的に存在していれば、話が分かりやすくなるのだろうが、それが漠然と世間であったり、それに対する被害妄想なのか攻撃衝動なのかその両方が入り混じっているのか定かでないが、無差別テロのようなことをやってしまえば何か攻撃を仕掛けたことになるのだろうが、メディアに話題を提供したことにもなるし、社会を防衛するための口実を与えたことにもなり、何を守っているのかもよくわからないまま、自らを防御しきれていないことにもなって、それも結果的には心身のバランスが崩れていることになるだろうが、何らかの攻勢に出るということが、その時点でおかしいのだが、その一方で守ろうとしても守れないものがあるから、守りきれない何かを放棄せざるを得なくなり、その何かというのが平静を保つことであれば、場合によっては大したことでもないのだろうが、また場合によっては難しいことでもあり、平静を保てないから勝手に暴発して暴れ出すのかも知れないし、暴れるように仕向けられていると勘違いしているわけでもなければ、何かの限界を超えるような心理状態があり、それが集団で暴走するなら気楽かも知れないが、一人で勝手に暴走するようなら気でも触れたことになり、いくら暴走しても世間に勝つことができず、実際には何に勝とうとしているわけでもなく、それでも何かに負けたような敗北感を味わうことになるのだろうが、その人が何の攻撃にさらされたと思うかはよくわからないとしても、暴れたことの巻き添えを食った人たちはその人の攻撃にさらされたと思うしかなく、少なくとも防御よりも攻撃が勝ってしまえば、それが暴力的な行為なら負傷したり場合によっては死亡したりするわけだが、暴力によらない攻撃もあるとすれば、それが何なのかが分かりづらいだろうが、言葉による暴力でもないとすれば、無言の圧力や同調圧力になるかも知れないが、人が何らかの圧力を加えられると耐えきれなければそこから押し出されてしまうわけで、そこからとはどこからかなのかと言えば、社会からということになれば社会から押し出された先に待っているのが自然の脅威になれば、それもある意味で分かりやすいかも知れないが、社会と自然の間に境界があるわけでもなく、社会から押し出された先にはまた社会があり、社会自体が自然に浸された状態で成り立っていて、社会からいくら押し出されても、人が生きている限りは社会の中で生きていることになり、中には大自然の只中で孤独に暮らしている人もいるだろうが、その一方で社会の中で孤独に暮らしている人もいるだろうし、どちらにしても孤立していれば、自身はともかく他人にとってはいてもいなくても構わないような存在となっているのだろうが、果たしてそんな状態から攻撃的な衝動が生じてくるかというと、社会と関わりがなければ何も生じてこないだろうし、何かしら社会から作用や影響を及ぼされているからそれに対応する形で何かをやらなければならなくなり、それが社会に対する攻撃になるか社会から身を守るための防御になるかは、その場での状況次第な面もあるのだろうが、どちらにしても穏便に済ませることができれば被害や損害も最小限にとどめることができるだろうし、それが攻撃や防御とは感じられないようなはっきりした対応や対処とは違う成り行きになれば、どうということのない平穏無事な状態でいられるのだろうが、いつ何時でもそんな状態を保てる確信は誰にもないだろうし、そこに何かしら利害を伴った人間関係や組織的な関係が生じていれば、人と人との間に立場の違いも生じてきて、それが対立や争いの原因となり、たとえそれが深刻な対立や争いであっても、ゲームの中でのルールに従ったやり取りであれば破綻をきたさない程度に保てるのだろうが、何でもかんでもゲームに見立てるわけにもいかないだろうし、ゲームでなければ何なのかというと、特にルールが定まっているわけではなく、結果的には可能な範囲内で行動や行為を伴ってきて、その行動や行為がぶつかったところで攻撃や防御などのやり取りが行われて、それが攻撃でも防御でもないやり取りになれば平穏無事な状態にはなるかも知れないが、そういう状態へと勝手に持って行けるわけでもなく、自身も含めて周囲との間の相互作用の中で状態が定まったり流動的に推移したりするのだろうが、そこに不調和が生じてくると事態の収拾がつかなくなって、時には混乱状態となり、その混乱に乗じて何かが仕掛けられると、そうした仕掛けが功を奏したり奏さなかったりして、仕掛けた側に何らかの利益がもたらされたり不利益がもたらされたりするかも知れないが、そういった仕掛けが何かの攻撃として機能することが多いとしても、長い目で見れば仕掛けている側が自らの自滅を呼び込んでいる可能性もあり、平穏無事な状況を乱そうとして仕掛けているのだから、強引に無理なことをやっていて、それに伴って自分たちの側にもそれ相応の負荷をかけているから、それと自覚することなくバランスも崩れてくるだろうし、何かしらそれがマイナスに作用すれば、仕掛けられている側にとっても仕掛けるだけ仕掛けさせておくのが得策だといえる面もあるだろうし、何もいちいち仕掛けに反応して行動を起こす必要もないわけで、仕掛けに対する対応としては無為無策に見せかけておくのが肝要なのかも知れないし、見せかけられることができるかというと、それ相応の困難も伴うかも知れないが、少なくとも現状の世の中で行われていることは、すべての面でルールが整っているはずもないことであり、もちろんルール無用のやりたい放題ができるわけでもなく、それなりに成り立っているように思われるルールを無視するわけにはいかないのだろうが、あからさまに主導権を握るべく何かを仕掛けているように感じられるなら、そういうことをやらせてからできる範囲内で反応したり対応するしかなく、無理なことができないという前提を守りながら、限られた資源を有効活用しながら活動していく中で、それと意識しなくても対応や対処となるように自身の状態を持っていこうとしていて、そういうやり方が功を奏しているとも思われなくても、何を仕掛けられても途中でそれなりの混乱が引き起こされるにしても最終的には平穏無事な状態に落ち着かせようとする限りで、それなりにできることが決まってきて、できることをやっている限りで、それが直面している事態に対する対応や対処となっているわけで、そういうことをやれている状態を保たなければならないと意識しているわけではなくても実際にそうなっているとすれば、そういう面ではそれなりのことができていることになるのかも知れず、それが何か特定の対象であってそれに向かって攻撃を仕掛けていたり何か防御の策を講じているでなければ、特に攻撃とも防御とも意識できなくても自然な対応や対処となっているのではないか。
11月14日「現実の体験」
単純な論理ではよくわからないことが、他人の痛みを知ったつもりになることによってわかるわけでもないが、それも後から話がわかるように修正することが可能だとすれば、ただの作り話の辻褄合わせに違いないが、話を理解できるか否かを文章読解に関する技術的な問題に還元できるかというと、現実に起こっていることに関して何を言いたいのかよくわからなくなり、それまでの経緯が論理的に筋道が通っていると思うと、見当違いになってしまうわけでもないが、そのつもりがなくても他人を説き伏せようとする限りで、少なくとも納得させようとしているわけだから、筋の通った話になるようにしたいわけだが、元の話の筋が通らないということは語っている内容が論理的でなくなるということかも知れないが、たぶん語る人が考慮しているのはそういうことではなく、嘘のような話でも信じてもらえるような話にしたいということなら、信じられないような話の内容だと説得力がないから、信じてもらえるように語りたいわけで、嘘のような本当の話では困るわけでもないが、嘘のような話でも信じられるかというと、実際に自分が信じているのだからたとえ他人にわかってもらえなくても信じられるわけだが、別にそれで構わないということなら、そういう話を語るしかなく、信じてもらえないようなことを語るしかないわけだが、何が信じてもらえないのかといえば、実際に行われていることが他の人には信じられないのだろうし、これまでにも行われてきたことが嘘のようなことばかりであったわけでもないだろうが、嘘のようなこともいくらでも行われてきたのかも知れず、信じられないから全てが嘘というわけでもないだろうが、後の時代においては嘘のようなことがその時代においてはまことしやかに信じられていた可能性もあるだろうし、そこから類推するなら今の時代においても後の時代においては嘘のようなことが信じられていて、そういう迷信を基にして行われていることがあるかも知れないが、今の時代ではそれがわかりようがないとも言えないが、わからなければそれでも構わないだろうし、わからないままとなってしまうのかも知れず、そのまま忘れ去られてしまえばそれっきりとなってしまうかも知れないが、それっきりとなっても困らないことなどいくらでもあるかも知れず、ただわけのわからないことが行われて、そういうことを行うのが当然のことのように思われて、それがそのまま忘れ去られてしまえばそれっきりとなってしまうわけで、そういうことがいくらでもあるとすれば、話の内容が嘘のようで信じられなくても構わないとは言えないが、実際に多額の資金を注ぎ込んで何でもないようなことが行われていようと何の不思議でもなく、そんなことにいちいち目くじらを立てなくても済んでしまい、そういうことが平気で行われていても何とも思わないのに、逆に気に入らない人や敵対関係にあると信じ込んでいるような勢力などがちょっとおかしなことをやれば、そら見たことかと騒ぎ立てて非難したり嘲笑したりするわけで、そんな態度のひどい人ばかりが世の中には嫌というほど大勢いるわけでもないだろうが、そんな人たちの言動が何かと目立ってしまうから、ちょっとしたことでも不快感が募ってくるのだろうが、すでにそんな心理状態となっていること自体が、それを伝えるメディアの術中にはまっているというか、メディアが特定の誰を術中にはめようとしているわけでもなくても、そんな気になってしまうこと自体が被害妄想の類いだろうが、そこから逃れるにはどうしたらいいかということではなく、逆に妄想のただ中に留まっていると見えてくるものがあり、それが信じられないようなことを信じている自分自身の姿かも知れないし、嘘でも構わないから信じていたい幻想を抱きながら平静を保っているのかも知れないが、それが現実の自分自身だとしたらかなりの部分で虚構化していて、ほとんど心の中の自分が真実の姿ではないわけだが、意識の中で思い描いていることの大半がそんなことなのだから、現実離れしていることは疑いようがなく、現実の自分自身とは全く違うわけではないとしても、虚構の部分をどう扱えばいいのかとなると、どうにも扱えなければそのままにしておくしかなく、そういう部分から生じている妄想の類いが自らの心を蝕んでいるとしたら、それを取り除きたくなってくるかも知れないが、実際にはそんなことができるはずもなく、どうにもならない妄想を抱えながらも現実の世界で生きていかなければならないわけだから、精神的におかしくなっていても仕方のないことであり、時には情緒不安定に陥ることもあるだろうが、その一方で対処すべきことが現実の世界で起こっていれば、それに対処しているうちにわけのわからない妄想などに関わっている暇などなくなって、実際にやらなければならないことにかかりきりになってしまえば、妄想よりは実際に取り組んでいることに依存しながら生きていることになるわけだが、妄想が現実と重なってくる部分があるとすれば、妄想が投影された現実を意識していて、現実の世界が妄想によって歪んで捉えられていることになるだろうが、それを歪んでいると見るかどうかはその人が判断することだから、その人がそういう現実だと思っていることが、他の人にとってはそうではないと思われても、その人の現実に対する捉え方や見方を変えるようなことが起こらない限りはそのままでも済んでしまうだろうし、他の人にはそうは思えないとしてもその人にとってはそんな現実になっているわけだから、体験している現実が人によって異なることになり、同じ世界の中で暮らしていてもそこには人によって感じ方や捉え方の異なる現実があることになってしまうが、果たしてそれが信じられないことだといえるかとなると、信じようが信じまいが実際にそうなっているに過ぎず、誰もがそういうことだと認識しているわけではないが、自分が体験している通りの現実の中で他の人も同じ体験をしているとは限らず、同じ現実を体験しているのに、人それぞれで違う体験となってしまうなら、その現実について語らせれば人それぞれで話が違ってくるだろうが、同じ現実について語る機会もそれほどあるわけでもないし、普段はそんなことなど意識せずに誰もが同じ現実の世界を体験しつつあることを前提にして話を進めるわけで、だから人それぞれで話が食い違ってくるわけでもなく、共感できる割合が多ければ話が合うだろうし、少々話が合わなくなっても大して疑念を抱かずに話を合わせようとすることもあるだろうから、そうやって何となく同じ世界で同じ現実を体験しつつあるように装うのだろうが、別にそれによって何か不都合が生じることもないと思いたいが、その人の世界に対する歪んだ思いが明らかになることも稀にあるかもしれないし、そうなればその人が他の多くの人たちが思っていることからはかけ離れた妄想を抱いていることが明らかとなってくるかも知れないが、それがその人だけではなく、他の多くの人にも共感できるようなことであれば、妄想とは誰も思わないかも知れないし、それが紛れもない現実だと思うなら、例えばそれが地球温暖化に関する嘘だと思うなら、嘘とは何かということになるわけで、その嘘に関しては嘘ではなく、嘘だと思い込んでいる人たちの方が間違っていると主張する人たちの方が多いのかもしれないが、そのおかげで現実に困難や不具合などに直面している人であれば、それが嘘か本当かに関しては確かな実感が伴ってくるだろうが、深刻さに欠ける状況の中で生きている人にとってはあまり実感が湧いてこないし、どちらかといえばそんなことより他に優先すべきことがあればそちらの方に気を取られていて、そんなことが問題視されるような事態に巻き込まれていなければ、そんなことにはかかわりなく生きていられるはずだが、それでいいのかと言えばそんなことはなく、メディアで話題になっていれば関心がそちらへと向かい、そんな問題に取り組んでいる人や団体を支持したり賛同を表明することも時にはあるかも知れないし、現実に体験していることがその程度のメディア体験であれば、それに関する体験とはそういうことであり、何かしら実感が伴っているとしてもその程度の実感でしかないわけだが、そういうことから類推するなら、それ以外の社会問題や政治問題に関してもそんな程度で体験していることであれば、そういうことにリアリティを感じるとはそういうことであり、そういうリアリティを真摯に受け止める感性を持たないと、そこから直接の行動が生じてこないわけだから、そういう意味では政治情勢などに関しての逃げ口上として色々な文句を言っている人には、そういう感性が欠落している可能性があるわけだ。
11月13日「新自由主義と法治国家」
市場経済に関して、新自由主義の前の自由主義の段階では、政府がなるべく介入せずに放っておけば、神の見えざる手に導かれながら自動的に調節されるから、政府は詐欺などの不正行為を取り締まるだけでいいという立場だったわけだが、放っておくと独占企業が現れて市場が機能しなくなるから、新自由主義になると政府が市場に介入して、市場の中での自由な競争が維持されるようにしなければならないことになり、独占禁止法などの公正な競争を確保するための法整備を行なって、競争が阻害される要因を取り除きながら、また中央銀行などを通じて金利を上下したり債券の買取りなどの金融政策が行われるようになってきたわけだが、全ての事業を市場の競争に委ねることができるかとなると、例えば政府が担ってきた独占事業である警察や消防や国防などを民営化できるかというと、普通は論外だと思われるかも知れないが、実際に民間の警備会社などがそういった方面の事業に参入したがっているだろうし、また人が生きていく上で最低限必要な電気上下水道ガス道路などの公共公益的なライフラインに関係する分野は、政府が事業を独占的に受け持つべきだという意見もあるだろうが、実際には全面的と言えないまでもかなりの面で民営化されているし、何よりももっとも人間が生きていく上で必要な食糧の確保という面で農業自体が民営化されているわけだから、もちろん農業が特定の企業によって独占されているわけではないし、それとこれとは事業形態や供給のシステムが違っているから一概には言えないだろうが、そういうところで何から何まで全ての事業を利益を追求する経済活動として市場の中での自由競争に委ねるわけにはいかないから、新自由主義的な市場経済の推進にも限度や限界がありそうなのだが、ではどこまでが許されてどこからが許されないかについての線引きが明確にできるかというと怪しくなってくるだろうし、これといって正当化できる範囲も明確ではなく、現状で成り立っている状況や状態から著しく逸脱するわけにはいかないから、少なくとも現状から逸脱させないような力が世の中のさまざまな方面から働いていることは確かであり、事業が売買や貸借で成り立っているか徴税で成り立っているかによって、私的な利益を追求する経済活動か、公共の利益を追求する公益活動かの区分けができる面もあるだろうが、徴税や国債などの公債を発行して集めた資金を使って民間の私企業を助けることもあるだろうから、そういうところでは厳密には区分けできないし、徴税自体が政府が独占的に行なっている事業そのものであり、そのままでは何の歯止めもなく、好き勝手に税額を決められたら民衆がたまったものではないから、民主的な選挙によって代表者を選んで、代議員で構成する議会で徴税に関する法律を作ったり、税の使い道である政府の予算も決定して、政府の代表者も選挙で選ぶ制度にしているわけだが、もちろん何から何まで公共的な分野の全ての面にわたって民主的な選挙や議会の多数決によって決めるわけにもいかないし、そういう意味では民主主義や法治主義にもコスト的に限度や限界があり、それに関してどのような意見や主張を持っていても、まずは現状を受け入れた上で、そこからどのようにして世の中を変えられるかについての実践が始められるのだろうが、その一方で市場の自由な競争に任せていれば自ずから商品の価格の面で自動的に調整が行われて、少なくとも人が買える価格で商品が売られるようになることも確かであり、その方が民主的な手続きを経て公共料金や最低賃金などの価格を決めるよりはコストがかからないだろうし、また競争が成り立つには人や企業の間で格差がなければ競争にはならないわけで、それが各人や各企業の間での収入の格差であり支出の格差でもあり、絶えずより多くの収入を得ようとして工夫を凝らす競争が行われて、結果的に各人や各世帯の間に貧富の格差が生じるわけだろうが、それを政治権力などを使って強引に是正するわけにもいかず、絶えず各人や各企業間で競争が成り立つ程度に保たれるように政府が市場に介入して調整を行う必要があるというのが新自由主義的な趣旨なのだろうが、そういった調整をどうやって行うかというと、それが一般的には所得や利益に対する累進課税的な調整となるのだろうが、そこで微妙なところは格差をなくすのではなく、競争を成り立たせるために必要な格差を作り出さなければならないというややこしいところなのかも知れず、少なくとも競争が成り立たないと市場が機能しないわけだから、こうすればいいというはっきりしたことが定まらず、何を実行するにしても、実行した結果を見て判断しなければならないだろうし、そういう意味では同じやり方が恒常的に通用するわけではなく、状況や情勢に応じてその度ごとに適切なやり方を編み出さなければならないわけだが、そういうところがわかりづらいところであり、そういうことに関しても試行錯誤が繰り返されて、結果的に成功や失敗がそれなりの頻度で起こるわけだろうが、そういう成り行きに政治がどの程度関与できるかも不確かな面もあるだろうが、少なくとも同じような政治勢力が長年にわたって政権を担っていると、政治的にも経済的にも停滞するのは当然の成り行きだろうし、それが民主的な政治形態であれば民衆が愚かだからそうなってしまうわけだが、政治が刷新されたからといって経済状態も好転するとは限らない場合もあるだろうし、結局は前例主義の保守的な傾向になってしまうのがよくありがちなのかも知れないが、経済はその国の内部だけで決まるわけでもなく、絶えず世界経済の中で状態や状況が揺れ動いているから、国内の政治勢力が及ぶ力の範囲にも限度や限界があり、資源や人口や貿易や周辺国などとの関係から決まってくる地政学的な面で考えてもどうにもならない面が出てくるのだろうが、議会で活動する政治勢力としては議会の機能として立法行為などの面で工夫を凝らすしかないだろうし、政権を担う政治勢力としてはそれに加えて政府を活用することになり、そういった政治にかかるコストそのものを最小限にとどめることが経済への負担を減らすことにもなるとすれば、政府の規模をできるだけ小さくして、徴税行為や公債の発行も少なくするような発想も出てくるだろうが、逆に民間の経済状態が思わしくない時には大きな政府にして多額の公債を発行して予算規模を大きくするような発想も出てきて、両者の間で綱引きが行われるようなことにもなるのかも知れないが、それも実際にそういう政策をやってみれば結果が出てきて、その結果を踏まえてどうするかを判断することになるだろうし、現状のやり方で良ければそれを続けることになり、現状のやり方では駄目なら他のやり方を模索することになるだろうし、その時にはうまくいってもそこから時が経てば状況や情勢も変わってきて、そんな状況や情勢の変化に応じたやり方を模索することにもなり、そうした変化に伴って主導権を担う政治勢力も交代するようなら、それなりに臨機応変な政治体制になるのだろうが、そこまでうまくやる必要があるのかというと、やろうとしてうまくやれるようなことではなく、実際に現状の政治状況や経済状況が停滞しているとすればうまくいっていないことになるだろうし、うまくやろうとしていないことにもなるのかも知れず、その代わりに何をどうしようとしているのかといえば、当然のことのようにしてこれまで通りのことをやろうとしていて、またうまくいかないのは他のことのせいにしようとしていて、焦りが高じて時にはヒステリー発作を起こして、隣国や主導権を握っていない国内の政治勢力に八つ当たりしたりして、国民総出でみっともない醜態を晒しているのかも知れないが、それはそれでその程度のことであり、その程度で済んでいるうちはまだ余裕があって、切羽詰まっているわけでも破滅や破綻に追い込まれているわけでもないのだろうが、それに関しては少なくとも法治国家の体裁を取り繕う余裕があるなら、政府のやっていることに対して意義を申し立てる人々の言うことを尊重すべきだろうし、そういう人たちがいる限りで、政府の好き勝手にはできない状態が維持されているわけだから、現状がうまくいっていなければ違うことをやれる可能性があり、現状で主導権を握っている政治勢力とは違う勢力が主導権を握れる可能性がある限りで、現状で行われていることが変わる可能性も出てきて、そういう可能性があるから現状で主導権を握っている政治勢力であっても、民意や世論を無視するわけにはいかないわけだ。
11月12日「余計なこと」
人が自分の意志で自発的に行動しなくても、社会の中で何かが働いていれば、それが人を何かしら機能させようとするかも知れないが、それが何なのかといっても、誰もそんなことは気にしていなければその人の意識の中でも何でもないことかも知れず、人が自分の意志とは関係なくそれにかかりきりとなってしまうということなら、その人に課された仕事の類いだと見なしておけばいいだろうが、その人が自発的に仕事をやっている気でいるなら、課されているのではなく自分の意志で積極的に取り組んでいるはずだが、その人の思いがどうであれ、そんな思いとは関係のないところで、何かをやらざるを得ない成り行きに追い込まれているなら、その何かというのが社会の中で機能している何かと重なり合い、その何かが行動を促していることになるだろうが、行動したところで何がどうなるわけでもなければ、それも何でもないことになってしまうが、行動した人の気づかないところで何かがどうにかなっている可能性もあるから、何がどうなっているわけでもないと思うのは間違っているのかも知れず、ただ無駄に行動しているだけのように思われても、行動を促されて行動した人の気づかないところで何らかの機能をさせられていて、たとえばその人が無駄に何かを買わされることによってどこかの企業が利益を得ることになり、その人が生きていくだけで精一杯ということではなく、無駄で無意味なことをやれるから、そこから利益が生じてくるようなことにもなるのかも知れず、そうだとすれば利益自体が余分な何かであり、その余分な何かが社会の中で機能するから、人もその利益に引き寄せられて機能してしまうだろうが、それがその人を利するように機能していることになるかというと、利益を得ているのではなく利益を引き出されているわけだから、その人ではなく他の何かを利するように機能しているのだろうが、もしかしたら回り回ってその人の気づかないところでその人にも利益をもたらしているかも知れず、他の何かを利するために社会の中でその人が生かされているとしたら、当然のこととしてその人が生きている分の利益も生じていて、その人が実際に生活苦などによって生きられなくなったところで、その人の生きている分の利益がその人にもたらされなくなったことになるだろうが、少なくともそうなるまでは何かしらその人にも利益がもたらされていて、その人を社会の中で生かしている実態があり、それがその人にとって満足のいく利益かどうかはどうでもいいことかも知れないが、もちろんその人にとってはどうでもいいことではないが、その人に利益をもたらしている何かにとってはどうでもいいことであり、その何かにとっても何だかわからないが、その何かが気づかないところで回り回ってその人に利益をもたらしているのかも知れないし、それが何だかわからないところがその人にとっても救いといえば救いと言えるかも知れないが、それの何が救いなのかといってもその人にも理解できないところかも知れないし、場合によっては救いではなく絶望をもたらしているかも知れないが、そうであってもその人が生きている限りで少なくとも生きている分だけどこからか何らかの利益をもたらされているわけで、それだけのことだと言ってしまうと、それも何でもないことでしかなくなってしまうだろうが、それ以外のことに価値があったり意味や意義があるかというと、それも人の願望としては少なくともあってほしいのだろうが、価値のあるなしや意味や意義のあるなしにかかわらず、人を生かすように社会の中で何かが機能していれば、実際に人が生きている実態があり、もちろん中には死につつある人もいるし、死んでしまう人が少なからずいるから、死んだ人と入れ替わりに生まれてくる人もいるから、人も世の中も移り変わっていくのだろうが、それが無駄で無意味なことだと思われるかも知れないが、利益を求めている人や集団にとってはそれを得られる機会を作っていて、何かそこでうまく立ち回って利益を得たいのだろうが、それが利益だとは気づかずに他の何かを求めている場合もあるのだろうが、意識して何かを求めていると思われるなら、その何かを得られた時にそれが何なのかがわかる場合もあるだろうが、なぜかわからない場合もあり、さらには得られたことに気づかない場合もあるから、実際に自らの死を得られたことに気づかずに死んでいく人がほとんどだろうから、そういうところでもそんなことは何でもないことだと思ってしまうと、それだけ余計なこだわりが減ってそれと気づかずに無為自然な状態に近づくのかも知れないが、そうならないように気をつけている人など誰もないだろうし、なぜそれに気をつける必要があるのか、そんなことは誰にもわからないことかも知れないが、それも余計な心配には違いなく、その人がどうなろうとその人の周囲の人たちがそれをどう受け止めようと、それとは関係のないところでわけのわからない成り行きが生じて、それに巻き込まれてしまえばどうにかなって、その人も周囲の人たちもどうにかなってしまうのかも知れないが、どうにもならなければそんな成り行きなど無視できるようなことでもあり、それを無視できないどころか、巻き込まれて翻弄されてしまうようなことにでもなれば、何かその人にとっても周囲の人たちにとっても深刻な事態であることを実感できるのかも知れないし、逆に何も実感できないまま無視していても何でもないようなことが、その人にとっても周囲の人たちにとっても見逃されている重要なことであって、それを見逃しているからそれらの人たちに不運や不幸がもたらされている場合もあるかも知れず、それを見つけようとしても見つけることができないことであれば、見つけるのをあきらめる以前に気づかないことかも知れないし、それもそんなことまで考慮する必要のない余計なことであり、そういうことも含めて理由や原因のわからないことなど世の中にはいくらでもありそうだが、それを強引にわからせようとするお節介な人や集団もいるかも知れないが、そういう人や集団がわからせようとすることが、本当にその人にとってわかるべきことなのかというと、それもそういった人や集団の都合とその人の都合が一致すれば、それがその人が生きていく上で何かしら役に立つかも知れないが、余計なことがわかってもその人にとっては余計なお世話かも知れないし、それが余計なことか否かもその人にはよくわからないことであれば、特にわかる必要もないことかも知れず、わからないまま生きて死んでいく限りで、その人にとっては分相応と言えればその程度のことであり、余計なことまでわかる必要のない人生を歩んでいて、逆に余計なことを知ってしまったばかりに、それまでは順調に歩んでいた道を踏み外してしまう場合もあるだろうから、わけのわからない人や集団から余計なことを教わってしまうのは危険なことかも知れず、それが危険だからこそ誘惑されるような魅力があるのかも知れないが、それがわけのわからない人や集団ではなく、世間的に認められた企業やメディアの類いであれば信用してしまうのかも知れないが、その形態や形式の真っ当さに騙されてはいけないだろうし、何かしら胡散臭い印象が伴ってくれば、どう考えてもおかしなことが行われている実態があるかも知れないし、それに気づかなければそれっきりというわけではなく、絶えずその種の兆候が感じられるわけで、詐欺と何かが紙一重で隣り合っている方がよくあるケースで、形態や型式としてはそうではなくても実態がそうである場合もあるわけだから、そういうところで形から入っていくとすんなりと受け入れてしまうが、中身を重視するなら抵抗感が生じてくるようなことになれば、怪しいと思うしかなく、何かしら騙されている可能性もあるのだろうが、騙されている面があってもそれを上回るような利益を得られる場合もあるとしても、それも回り回って因果応報のようなことが起こる場合もあり、それが自分にとって良いことであっても、他の誰かを絶望のどん底に叩き落とすようなことであれば、場合によっては恨みを買うだろうし、そうならないように細心の注意を怠らなくても、気がつかないところで運命の歯車が回っていて、思いがけないところで思いがけないことが起こって、あっと驚く大どんでん返しのようなことになれば、それを見ている野次馬の類いなら愉快でたまらないだろうが、その当事者になってしまうと事態を楽しんでいる余裕などなく、必死になって間抜けな演技を強いられる羽目に陥ってしまえば、それが惨めな境遇だと言えるだろうが、たぶん避けようとしても避けられない運命というも誰にもいつかは必ず訪れる宿命にあるのかも知れず、その一つが自らに訪れる自身の死でもあるわけだ。
11月11日「模造品の世界」
素直には支持できないし賛同するわけにはいかない主張がされていようと、主張がそうである以前に、実際に行われていることが支持できないことであり、賛同するわけにはいかないことであろうと、さらには行われていることに対して反対している人たちの主張も支持できないし、賛同するわけにはいかないとしても、それらに納得できないから違和感を伴っていることは確かなのだが、納得できないことをそのままにしておくのは良くないことであり、それらを支持できない理由を表明したり、賛同できないわけを示さなければならないかと言うと、そうではないような気がしてしまい、ではどういうことが行われるなら支持できるのかというと、それも何かそうではないような気がするわけで、政治に関して思うのはいつもそういうことなのだが、ひどい政治が行われていて、それを批判する人たちもひどいことを主張していて、ではひどくない政治とはなんなのかというとよくわからないし、ひどい政治を批判するひどくない批判とは何なのかというとそれもわからないのだが、そういうのがあり得ない世の中で暮らしていることは確かなのかも知れないし、素直に支持できたり賛同したくなることがなく、結局は支持できないことや賛同できないことに従わされるようなことになるから、不快感が募ってくるのだろうが、そういった不快感がどのような行動につながるのかといえば、たとえば自殺につながるのかというとそうではないような気がして、実際に生活苦から自殺する人が増えていることが統計から明らかになっているらしいが、そこまで至っていないから不快感を募らせていて、そこまで至らないようにうまく立ち回っていることになるのだろうが、不快感を募らせているのだからうまくいっていない面もあるわけで、そういった不快感を募らせる対象となるのがシミュラークルと言われる模造品のような何かになるわけだが、特定の人物がそうなのかというと、集団としてもそうなのかも知れないし、そんなことを思っている自分自身も何かの模造品だと他の人から思われているのかも知れないし、どういう基準で模造品であるかないかがわかるのかといっても、それも基準などはっきりとは決まっておらず、ただ不快感を募らせる対象であればそれを何かの模造品だと決めつけているだけであれば、そんなのは根拠のない言いがかりに過ぎないが、言いがかりであっても構わないような気がするほど、自分自身も何かの模造品に過ぎないと思われても、それでも構わないような状況なのかも知れず、なぜそうなのかといえば自分自身にも不快感を募らせているからで、模造品ではない状態があり得ないような世界で暮らしているのかも知れないが、ではなぜ人や物が何かの模造品になってしまうのかといえば、言葉を使ってそれを表現するからかも知れず、言葉で表現されたそれがそれ自身ではないのは当然のことだが、果たして自らが言葉で表現されたそれ自身なのかというと疑わしく思われて、他人から言葉で表現されるような人物でなければ、模造品でも何でもなく、ただの一般人に過ぎないのだろうが、では他に何がそうなのかというと、例えば効果のない政策が行われている政治が政治の模造品と言えるかとなると、それを効果がないと決めつけること自体も批判の模造品のような気もするし、効果がないのではなくまだ効果が定かでないのではないかとも言えるだろうし、少なくとも限定的には効果があり、その効果が効果を期待しているところまでは及んでこないから、それを効果がないと見なしても構わないのかも知れないし、そうであればものは言いようの範囲内になってしまいそうだが、そんな言い方自体がまやかしだと思われるようなら、まやかしではない言い方があるとかないとかではなく、まやかしではない政治が行えるかとなると、現状ではあり得ないような気がするわけで、実際にまやかしの政治が一定の支持を得ていると統計的には示されていて、まやかしの政治を支持している人たちも人間の模造品程度の存在かも知れないが、なぜそれが模造品だと言えるのかとなると、それも根拠のない決めつけ程度のことであり、実際には生身の人間がまやかしの政治を支持しているわけだが、生身の人間が実際に支持しているからといって、それがまやかしではないとは言えず、支持していること自体が、実態を伴っていないのに印象として支持を表明している程度のことであり、支持する理由もまやかしであり、自発的に支持しているのではなく、設問形式で用意された選択肢の中から選ばされているわけで、それ自体も支持の模造品に過ぎないわけだが、そうやっていつの間にか生身の人間が言葉で表現された模造品に置き換えられてしまうわけで、もちろん生身の人間は依然として存在しているわけだが、それを利用して出力した結果として模造品が言葉として構成されてしまうわけで、それが虚像だと言えるかとなるとそうではなく、存在していることには変わりないから、現実の姿として模造品が存在していることになり、そういう政治を支持する人が実在していて、さらに奇妙なことには政策は支持しないが、そんな政策を推進している内閣や政党は支持するというわけのわからない結果まで出てくるわけで、そういった消極的な支持によって生身の人間より模造品の方がますます世の中で大きな比重を占めるようになり、相対的に存在が希薄となってしまう生身の人間の方は次第に存在する余地が狭められて行き、ついには自殺に追い込まれてしまう人まで出てくるのだろうが、それも言葉で示された印象に過ぎず、実際には生活苦によって自殺に追い込まれてしまうのだろうが、模造品としての言語表現の方がリアリティを感じられて、実感として感じられる世の中の印象が模造品の方へと傾斜しているから、人の意識も現実の存在から言葉で表現された情報へと引き寄せられて、結果的に生身の人間がいくら自殺しようと苦にならなくなってしまい、もちろん自殺することによってどうでもいいような存在でしかなかったのが尊い人命が失われたことになれば、それも言語表現による飾り立てに過ぎないわけで、自殺しなくてもかろうじて生きていられるどうでもいいような存在にまで貶められた人たちは、自殺して他人の哀れみを買わない限りは、どうでもいいようないてもいなくても構わない人として扱われるままかもしれないが、それも言語表現によってどうでもいいような人として貶めていることにしかならず、実際にはその人自身やその人の周囲では事情が違っていて、どうでもよくはない成り行きの中で生きているだろうし、そうであってほしいのだろうが、その人が実態として模造品となっているか否かは、その人にはわからないのかも知れず、その人が言葉で表現されている他にも、収入の額や税金を納めた額や、仕事や学業などの成績として表現されることもあるだろうし、何よりも固有名で呼ばれていること自体がその人の識別子としては決定的な要因となって、そこからその人の模造品が派生する契機となっているはずだが、それが匿名であれ愛称であれ、何らかの呼び名があるということが、その人に伴って情報が生じるきっかけを作っているわけだろうが、果たしてその人が関わっている現象や出来事がその人に由来しているのかというと、その人よりはその人の模造品の方が関わっている割合が高くなると、生身のその人とは関係のないところでそれらの現象や出来事が起こっていて、それが生身のその人にも有形無形の作用や影響を及ぼすようになれば、その人にとっては実在のその人と語られる模造品としてのその人のどちらが世の中で活動しているのかよくわからなくなってくるかも知れないし、無名の一般人でしかない人には関係のないことのように思われるかも知れないが、逆に無名の一般人の方が模造品としての著名人と比較されて、模造品としての大衆の中の一人に分類されていることに無自覚になっている面もあるかも知れず、影響を受けるとか影響を与えるとかは、何かそれに関して定量的に測れるようなことではないから、それも言語表現を伴った印象の強弱に伴って感じられるだけに、模造品としての存在を感じている度合いの方が強く、実感がそちらの方へと傾いてしまうから、そんな印象に騙されていることにはなるわけだが、騙されないということはあり得ないだろうし、実際に騙されなければ、どうでもいいようなことをやっている人たちを支持したりその政治に賛同したりしないわけで、しかもその政策を支持していないのに、その政策を推し進めている勢力を支持しているわけだから、そんな自覚のある人が模造品ではない証拠があるかというと、かなり怪しくなってくるのではないか。
11月10日「理屈以前の何か」
従来通りの予想から何かわかることがあるとすれば、今後もこれまで通りのことが行われてこれまで通りの結果がもたらされるということだが、それ以外のことが予想できるとも思えないし、予想通りの予想だから予想として機能するわけで、予想からかけ離れたことを予想するのは予想ではなく、これまでの予想に忠実なことを予想するのが予想の予想たる所以であり、それ以外の予想があり得ないとすれば、予想とは予想を裏切らない予想でしかないわけだが、そうであるなら予想から何が期待できるわけもなく、期待するほうが見当違いだろうが、では予想から期待できないとすれば、他の何から期待できるのかというと、そういう期待自体が見当違いであり、予想が裏切られることを期待するのが見当違いというわけでもないだろうが、予想とは違う期待を抱くとすれば、予想が裏切られることを期待するしかないだろうが、それが見当違いな期待であり、見当違いでも構わなければ、そんな期待を抱くしかないわけだが、見当違いな期待を抱いているわけだから、どう考えても望み薄であり、期待も裏切られることを覚悟しておいたほうが良さそうだが、それでも万が一ということがあるかも知れないから期待してしまうわけで、そんなことを期待していること自体が間違っているのを承知で期待していて、予想が裏切られることを期待しながらも、そんな期待が裏切られることも予想しながらも、期待せずにはいられないわけだが、そうであるなら予想も期待も信用していないし、予想通りのことが起こるとも期待通りのことが起こるとも思っていないわけで、何かそれとは違うことが起こるような予感がしているのかも知れず、実際にこれまでにも思わぬ出来事が起こってきたから、これからも予想とも期待とも違った思わぬことが起こるのではないかと予想しながら期待しているのだろうが、さらにそんな予想も期待も裏切られることも予想しながら期待しているわけだから、ある意味ではわけがわからないのだが、別の意味ではわけがわかっているし、どちらとも言えないのかも知れないが、どちらとも言えるような気もするが、一方でそんなことはどうでもいいような気もするし、それをどう捉えても何とでも言えるようなことかも知れないが、そんなことをいくら考えてみてもはっきりしたことは何も言えないのかも知れず、それで構わないようなことでもあり、考えるだけ無駄なのかも知れないが、たとえ無駄であってもそう思ってしまうのだから、何かそこに思考の対象があり、取り止めのないことを考えているわけだが、それを語れば理屈になってしまうだろうが、語る以前には理屈とは無関係なことを察知していて、それを何とかして意識が捉えようとするが、理屈になってしまうと取り逃してしまうわけで、そういう意味ではそれが理屈だと意識して語っている人にはわからないことでもあり、理屈以前の状態で何かを察知しなければならず、その何かがよくわからないのだから、どうやっても語りようのないことになってしまうだろうが、そんなふうに語らざるを得ないことでもあり、結果的にはわけのわからないことを語っていることになってしまうが、語っている最中にそこから逃れ去ってしまう何かを捉えようとしているから、結果的にそうなってしまうのであり、絶えず理屈になる一歩手前の思考を語ろうとしているわけだが、何かそれが捉えようとして捉えきれない対象なのであり、そんなことを語る必要もなく、語るだけ無駄かも知れないが、語れるような気がするから語ろうとして、うまく語れずにわけのわからないことになってしまい、そこで取り逃している何かを意識と思考が追いかけているわけだが、いくら追いかけても追いつかず、いつの間にか追いかけているのか追いかけられているのかもはっきりしなくなり、そんな表現では捉えきれないことに気づかなかったことに気づくわけだが、そうやってわけがわからなくなっている最中にも何かの機会を捉えて、そこで何かに直面するわけで、それが何なのかというと、ただの機会であり、何かに直面する機会だとしても、それが何であるかということが、実際に直面してみてもわからないことがあり、直面しているのにそれに気づかないこともあり、そこで何かをやる機会を逃してしまって、後からそれに気づいて後悔することもあるし、気づかないまま後悔もしないこともあるのだろうが、そこで何をやってみてもやれることは限られていて、その大抵はやらざるを得ないことなのだが、やらざるを得ないことしかできないのかというと、それは気の持ちようで、それをやらざるを得ないことだと捉えるか、やりたいことをやっている気になれるかは、その場の状況次第でどちらにもなりそうで、あるいはどちらでもなさそうな場合もあるだろうが、何かをやる機会だとも気づかない場合もあるわけだから、またそれと気づかずにやっている場合もあるわけだから、そんなことをいちいち気にするまでもない場合さえあり、結果からもっともらしいことが言えてしまい、そういうことだと納得できれば、それで済んでしまうようなことでもあり、そんなことを意識してそれにこだわるのも愚の骨頂とも言えるかも知れず、やはりそうなった結果からもっともらしい理屈を当てはめて語ってしまうと、それ以前の段階で何かを取り逃しているわけで、そんな結果を踏まえると、そうなった結果からもっともらしい理屈と共に語られる内容にはそれ相応のフィクションが含まれていて、語る人の都合を結果に反映させようとする意図や思惑が働いていると見なすしかないだろうし、その語る人の都合というのが、その人にとってもっともらしく思われる理屈に基づいているわけだが、その人の都合が他の人にも通用するかというと、通用しなければ批判されて、その人にとってのもっともらしさが他の人にとってはもっともらしくないことになるわけだが、なぜその人が自身の都合に基づいた理屈をもっともらしいと思うのかと言えば、その人がそれまでに辿ってきた経緯やその人の事情やその過程で培っってきた論理に照らし合わせて、納得できるような結果にしたくて、あれこれと工夫を凝らして語ろうとするから、そうした自身の都合と照合する作業の中で使われる理屈がもっともらしくないというのはあり得ないわけで、もっともらしいと思うからその理屈をその結果に適用するのだろうが、それをもっともらしくないと思う他の人にも、その人に特有な経緯や事情や論理を持ち合わせているから、それについて語る人とそれを批判する人とでは、そこに至る経緯や事情やそこから導き出される論理や理屈などが一致しないわけで、だからそうなった結果について人それぞれにそれに対する見解や解釈が異なるのは当然のことであり、それを一致させようとすればそれなりの論争が生じるのだろうが、そうした論争の類いにもそこからそれ特有の経緯や事情が生じてくるから、さらにそうなった結果をもっともらしく語ろうとすれば、取り逃してしまった何かが全く考慮されなくなってしまうだろうし、そういった論争の類いで費やされるエネルギーや言葉が全く無駄だということではないが、あたかも当初に意識が取り逃してしまった何かをなかったことにするためにあるいは隠蔽するために、論争の類いが行われているような印象を伴い、そういうことをやっている人たちが悪意を込めてそういうことをやっているわけではなく、大抵は良かれと思ってやっていることなのだろうが、そうなっている時点で事態がこじれていることは否めず、そんな事態のこじれを利用して都合の良い状態に持って行こうとする意図や思惑も生じてきて、そうやってどこからでも功利的かつ打算的に事態を収拾しようとするのだろうが、そういう成り行きがどんな結果をもたらすのかというと、現状を見れば明らかなように、特にどうということはない状態が保たれている一方で、その所々で破綻が生じている面もあるのだろうが、その生じている破綻を強調したり誇張しながら大げさに取り上げて騒ぎ立てれば、現状が危機的な状況となっていることにもなるだろうが、それが大げさに騒ぎ立てたい人たちの都合であり、そういう騒ぎ立てを行う上でもっともらしい理屈や論理が、それらの人たちの集団としての成り立ちの経緯や事情から導き出されるのだろうが、それらの経緯や事情をそれとは無関係な人たちも共有できるかというと、共有して欲しいから騒ぎ立てるわけで、騒ぎ立てによって他の人たちも共有できるかといえば、良識的な見地から考えるなら事情の許す限りで共有できるかも知れないし、事情が許さなければ敵対する場合もあるのかも知れない。
11月9日「勝手な思い込み」
勝手な思い込みがその人の行動をどのように操っていようと、その思い込み自体がその場の状況に反応して生じてくれば、状況に応じて行動していることになりそうだが、それがその人の勝手な思い込みではなく、その場の状況に応じてそんな思い込みが生じてしまうとすれば、その人の心理状態がその場の状況に反応してそんな思い込みをもたらしたのだから、確かに勝手な思い込みではないのだろうが、それでもそれが勝手な思い込みだと思われてしまうのは、それが勘違いだと思われるからで、思い込みに基づいて行動した結果がうまくいかなければ、それが勘違いだと疑ってしまうが、うまくいくかいかないかはその場の運次第だと言えるようなことであれば、たとえうまくいかなくても勘違いではなく、一応はその場の状況に応じて行動した結果として運悪くうまくいかなかったことになるのだろうが、それを勝手な思い込みだと決めつけたり、勘違いに基づいた行動だと見なすこともできるだろうし、結果的にうまくいかなければ否定的に見なされてしまうわけで、逆に運良くうまくいけば勘が冴えていたように思われたり、予感が的中したように感じられるわけだから、勝手な思い込みに囚われて行動した結果がどうなるかで、状況判断が合っていたか誤っていたかがわかり、それがその場の運次第のようなことであれば、どちらであってもそれなりにもっともらしく思われるから、結果が悪ければ勝手な思い込みに囚われて情勢判断を誤ってしまったと見なされるかも知れないし、結果が良ければその場の成り行きを的確に掴んで状況の変化にうまく対応できたと見なされるかも知れないが、それがその場だけで完結するようなことではなく、その後も続いて行くようなことであれば、そこで行われる試行錯誤の中では誤りや失敗もつきものであり、結果が思わしくなければ反省してそこから教訓を得て、次の機会ではうまく行くように工夫を凝らすことになるだろうし、その場で勝手な思い込みが生じるとしても、その思い込みが感触としておかしいことに気づけば、状況や情勢の変化に対応すべくその思い込みを修正してくるようなことにもなれば、次第に勝手な思い込みではなくなってきて、その場の状況や情勢に合わせて思いも調整されるような成り行きになるだろうから、思いが思い込みとしていつまでも固定されたままになることもなく、絶えず揺れ動くことにもなるだろうし、それもうまくいかなければうまく行くように調整することになる一方で、うまく行く限りで思いを変更せずに、思い込みがいつまでも持続する可能性もあるわけで、そういう意味でこうすればうまく行くという思い込みに囚われたままとなっている人がいれば、それが同じような作業形態や行動形態に囚われたままとなっている可能性があるわけだが、なぜそうなっているのかといえば、同じような作業や行動を強いるシステムや制度に囚われているといえるだろうし、そこで用いられる技術の類いがこうすればうまく行くという固定観念をもたらすわけで、それがその人の勝手な思い込みなどではなく、技術的にも制度的にも裏付けられた確信だとすれば、ちょっとやそっとでは動かしようのない信念となるだろうが、それもそのシステムや制度が安定して動作している限りでそう思われるわけだから、それが別のシステムや制度に取って代わられるようなことにでもなれば、たちまちそんな思い込みも通用しなくなって、いつまでもそんな思い込みに囚われているとひどい目に遭う可能性さえ生じてくるのだろうが、中にはそうしたシステムや制度に囚われている自覚さえない人もいるかも知れず、そうなるとそれまではうまくいっていたことが何らかのきっかけから次第にうまくいかなくなってきて、気づけば何をやってもうまくいかない状況に追い込まれてしまえば、その人が依存していたシステムや制度が気づかないうちに変化していて、それに伴って従来のやり方では通用しなくなってきたことになるだろうが、そうなっては困るなら、勝手な思い込みがいつまでも通用するようなシステムや制度にしたくなるだろうし、実際にそういうシステムや制度を管理運営している集団は、自分たちの都合を自分たちが管理運営しているシステムや制度に反映させようとするわけだが、もちろんそのシステムや制度も他のシステムや制度との競合や競争の関係の中で相互に作用を及ぼしたり及ぼされたりしながら成り立っているわけだから、その集団の都合だけを優先的に反映できるわけでもないだろうが、様々なシステムや制度が社会の中で共存している中では、それらを管理運営する様々な集団の都合も自ずから似通ってきて、ある一定の傾向に収斂してくるだろうから、そういった傾向に沿った思い込みであれば、それなりに通用する可能性が高いだろうし、それに伴って大勢の人たちが似通った思い込みに囚われている可能性も高く、そうなるとその人にとっては勝手な思い込みであっても、それが多くの人々が思い抱く最大公約的な共通の思い込みである可能性も高いだろうし、そうやって世間一般で通用する迷信のような思い込みが形成されて、そんな思い込みに基づいて世論や民意が生じてくる可能性もあるわけで、それが世論や民意のいい加減さを表しているとしても、実際に何らかのシステムや制度が機能している限りで、そういった思い込みに基づいて行動すればうまく行く可能性がそれなりにあるだろうし、もちろん思い込みだけでなく技術的あるいは制度的な裏付けがあれば、その条件を満たしている度合いが高いほどうまく行く可能性も高くなるだろうから、そういったうまく行った事例だけを選んで提示すれば、またうまくいかなかった事例についてももっともらしい原因や理由を導き出せれば、こうすればうまく行くという理屈にもそれなりに信憑性が増してくるわけだが、それが誰もがこうすればうまく行くということではなく、そこで競争が行われて、競争に勝った人が結果的にうまく行ったことになれば、たとえうまく行かなくても競争を認める限りで納得するしかないだろうし、そうなると個人の才能や資質や周囲のサポート体制や運が良いか悪いかまで、他にも様々な要因が絡んできて、そういう要因を持ち出せば、いくらでも言い逃れができるようなことにもなってきて、言うだけならどうにでも言えるわけで、そうやっていい加減な迷信の類いにも後付け的にもっともらしさが加わることによって信じられる理屈のようにも思われて、そういう合わせ技のような混合物を信じている人もいくらでもいるのかも知れないが、それ自体がその人の都合を反映した勝手な思い込みになってくるとしても、思っていることがそのまま行動や実践に結びつくとも限らず、思い込みの大半が実行を伴わずにそのままにとどまれば、それが妄想や幻想としていつまでもその人の思い込みとして維持されても、結果的には何でもないままになって、大したことは何もできないのに思い込みばかりが膨らんでしまい、頭でっかちな机上の空論ばかり主張する人というのも世の中にはいくらでもだろうから、そうなってしまっても大したことではなく、むしろそういう人々によって迷信の類いが執拗に信じられている状況があるとすれば、それがそういう迷信を信じるシステムや制度として世の中で機能している可能性さえあるだろうし、実際にそれらが情報の集積物として書籍の形で出回っていたり、ネット上の情報媒体に溜め込まれてそれらが世の中に流通しているわけで、果たしてそうなっていることがそういう迷信を信じている人たちの都合を反映しているのかというと、それも自分の都合を反映していると勝手に思い込んでいる人も中にはいるかも知れないが、それは個々人の都合ではなくネットワークを管理運営している事業者の都合を反映している度合いの方が高いだろうし、むしろそれを利用しているユーザーの方がそうしたシステムや制度の都合に合わせようとしていて、合わせようとすればするほど逆に依存するようにもなり、結局はそうしたシステムや制度に心身ともに取り込まれている状態となっているのだろうが、それで何か不都合を感じる場合もあるものの、それを利用している限りで、不都合よりは依存しているネット媒体などの都合の方が優先されている状況もあるだろうし、そういうところで何を優先させるかについて、その人の主体性を発揮できないようにされている可能性もあり、その人が主体的に関わっていると思う物事であっても、関わっている物事の都合の方が優先されている可能性もあり、別にそれでも構わないだろうが、自らが主体的に何かを行っているという感覚自体が勝手な思い込みに基づいてそう思っている可能性もあるわけだ。
11月8日「現状の執拗な継続」
ありふれた言い方をするなら、誰にでもわかるような目立つ不具合は意外と大したことではなく、逆に不具合があるにも関わらず成り立っている状況であれば、その不具合をいくら指摘されたところで痛くも痒くもないようなことでしかなく、それよりは無視しても構わないようなちょっとしたズレや行き違いなどが、意外とそうした状況の本質的な欠陥や問題点を構成していたりするわけで、そこで明らかに矛盾したことが行われているのをこれみよがしに言い募ったり、二律背反のような状態となっていることをどうだと言わんばかりに指摘してみても、それが批判の対象となる状況のおかしい面となっていれば誰にでもわかりやすいだろうが、その一方で見過ごされやすいのが、そこに存在する複数の物や起こっている複数のことが互いに方向や傾向の違う面で複雑に関係し合って複合体のような構造を作っていると、何かそこにわかりにくいズレや不整合が形作られて、それらがその場の対立や敵対と無関係ではないしても、そうなっているにも関わらず、かつては敵とみなした相手と必ずしも全ての利害が一致しなくても、その場の事情が許す範囲内では連携できるようなはっきりしない関係が構築されて、何かそれが打算的でなし崩し的な様相を呈しているように思われると、それをはっきりした対立や敵対関係が生じていると見なして、亀裂が生じているのにそれを隠蔽しながら協力関係を維持していることが欺瞞だと指摘しても、何かそこで認識を誤っているように感じられて、そういうわかりにくいところで破綻しそうでしない微妙な状態が保たれて、誰が見てもうまくいっていないのにそれなりの周囲の支持や賛同を得られるような成り行きになり、そこに人や物や情報の不明瞭なネットワークが維持されていることからくる惰性の力を得て、関係者の間で不透明で胡散臭いやり取りを重ねながら事態が進行していくわけで、しかもその後の経過においても事態が好転するわけでもなく、逆にちょっと関係が悪化したからといってすぐに決裂したり破綻せず、つかず離れずいつまでも執拗に尾を引いて行くようなことにでもなれば、いつの間にかそんな状態も了解事項として織り込み済みになり、そのままであっても大して問題視されることもなくなってしまい、それをいつまでも執拗に問題視して批判したがる人たちが少数派として置いてきぼりを食う羽目になれば、それが良心的な犠牲者の役割を担っていることにもなるわけだが、そういった破綻もしないが改善もしない状態が長引いてくると、普通のことのように思われてそうなっているのが当然視されるから、それを批判する側の空回り状況も当前視されて、時としてその無能さ加減が嘲笑の対象にもなり、そうしたどうにもならないような荒廃した状況の中で、不快な言動を弄ぶ不埒な輩がメディア上で跳梁跋扈することにでもなれば、日本的な言説空間としてはよくある状況となるのだろうが、それが異常事態でも何でもない通常の状態だからおかしいと思われることが、逆に何かが狂っているような感じがするとすれば、狂っていない状況の方があり得ないわけだから、感覚としてはそちらの方がおかしいのかも知れないが、それも正常な範囲内でおかしいことになり、狂っているように思われてもそんな状況の中では誰も正気なわけで、狂人が正気なふりをしているのではないし、正気な人たちが狂気に囚われているのでもなく、至って通常運転の範囲内でそんな状況となっていて、確かにそれがおかしいとは思われるが、おかしくはないという認識が暗黙の了解事項として誰もが承知しておかなければならないことになっているのであり、それがおかしいと批判を繰り返している人であっても、そういうところは了解していて、結果としてはその場の役割分担として批判しているだけであり、批判しているからといって、批判することによって状況を好転させようとしているのではなく、結果的に批判している現状を維持するために批判していることになり、そんな批判が現状を変える力などないことは明らかだとしても、現状が維持されるにはそんな批判が必要不可欠となってしまうわけだから、それが本末転倒な批判となるのだろうが、そんな批判を繰り返している人を批判しても意味のないことであり、批判するのではなくむしろよくやっていると認めざるを得ないわけで、その人の役割として無効な批判を繰り返すような成り行きに囚われているわけだから、その人が悪いのではなく、むしろ状況に応じた対応をとっているからそういう役割分担を任されていると見るべきかも知れず、それがその場の通常な成り行きなのであり、それをおかしいと感じてしまう意識の方がおかしいのかも知れないが、おかしいことをそのままにしておくことができなければ、そこから何か状況を変えるべく行動を起こさなければならなくなり、実際に何かしら行動を起こした人たちがその後どうなったかというと、どうなったも何も、こうなっていることを、その後の状況の中でどう受け止めればいいかというと、それを相変わらずこんな状況のままだと捉えるか、以前より少しはマシになったと捉えるか、逆により一層ひどくなったと捉えるかは人それぞれだろうが、まだ執拗に現状が継続していると捉えるなら、それに対して執拗に批判も行われていて、そんな批判が現状を支えているだけではなく、批判が無効だから現状が続いているだけでもなく、そこに介入しようとして及ぼされる様々な作用や影響が複雑に絡み合って寄り合わさった結果として現状が継続していて、そんな状態をどう捉えても納得がいかないような気になるとしたら、無理に納得しなくてもいいだろうし、納得するような状況でもないのだろうが、納得できないからといって、それをおかしいと思ってしまうのはおかしいことではなく、他の誰もがおかしいと思うようなことなら、まだ多くの人がそのおかしさに慣れていないのであり、逆に多くの人がおかしいと思うどころか、むしろこうなっていることが当然だと思うようなら、おかしい状態がおかしいとは思われなくなったと解釈するしかないが、そうではなくおかしいかおかしくないかという判断が通用しなくなったと思っておくべきかも知れず、すでに心身がそんな状況に取り込まれているのだから、それをどう思おうとそんな状況の中で生きていかなければならず、生きて行く限りで状況に対応して行動しなければならないのであり、それをおかしいとかおかしくないとか言っていられない状況の中で否応なく生きて行くことを強いられているわけだから、まずはそこで精一杯生きざるを得ない状況に追い込まれていて、他のことまで気が回る余裕などない競争状態に巻き込まれていれば、そこで生きている限りで、いやでも現状を受け入れる成り行きになってしまうのかも知れず、果たしてそんな状況に誰もが直面しているのかと言えば、それもはっきりしないところでもあり、少なくとも大したことにはなっていないと感じられるならまだ心身に余裕があって、実際に大したことはないわけだから、現状を否定的に捉えて批判するまでもないことであり、確かにおかしなところにはそれなりに気づいているが、それでも現状が何とかなっている限りで、些細なことにまでいちいち目くじらを立てる必要もなければそれで済んでしまい、結果的にはすっきりしないながらもなし崩し的に現状を許容する成り行きになるのかも知れず、またそういう成り行きにつけ込んでやりたい放題勝手なことをやれるわけでもないだろうが、やれる隙が生じているところでは好き勝手なことが行われているかも知れず、そういう事態に直面している人にとっては見過ごすことのできないことがそれなりにあって、それを批判することになるのだろうが、それが他の全ての人に伝わるわけでもないから、そういう批判も部分的な範囲内にとどまり、その範囲外では批判が無効化してしまうかも知れないが、もちろんそれを批判したからといって、無視されてしまえば何でもないわけだから、批判するだけでは何がどうなるわけでもなく、さらにそこからそれを阻むような行為や行動が必要となってくるだろうが、逆に批判を阻むような行為や行動も作用反作用として生じてくるだろうから、その力のどちらが強いか弱いかというよりは、それだけがそこに及ぼされる作用や影響の全てではなく、他の意図や思惑を伴った作用や影響もある中では、また何の意図とも思惑とも無関係な自然からの作用や影響も及ぼされている中では、それらの作用や影響の中でどれが強いか弱いかといっても、それらが絡み合い混ざり合いながら現状として何らかの状況や状態をもたらしていると捉えるしかないわけだ。
11月7日「反省的な思考」
物事を認識しようとする意識から少し遅れてやってくる思考作用がその物事を改めて解釈しようとして、何らかの出来事が起こった後からそれにかかわって反省的な振り返りを促して、意識を解釈へと誘導するのだが、解釈した結果としてもたらされるそれが何なのかを理解できれば、それ以上の思考を必要としないはずだが、解釈して理解したつもりのそれを信用できるかというと、なぜか疑問を抱いていて、安心して納得できるような意味の混合物となるように物事を解釈させられているとしたら、何によってそう解釈させられているのかといえば、それはその物事が既に誰もが知っている何かになるように仕向けてくる世間の一般常識の類いであることは明らかで、それが既知の物事であることを確認するために解釈を行っていることになるのが疑わしく思われるのであれば、解釈を施そうとする対象ではなく解釈そのものに疑いを抱き、解釈そのものを信用できなくなるのだが、疑いを抱くような解釈を施しているのは自分自身であり、疑いを抱くよりはむしろ納得しようとして解釈しているのであり、納得したくて解釈しようとしているのに逆に疑問が湧いてくるのだとしたら、解釈そのものが間違っているような気がするわけだが、そういう解釈ではまずいのではないかと普通は思うところだが、一方でそうなってしまうのだから仕方がないとも思うなら、曖昧にそうなった結果を認めざるを得ず、それを失敗した探究だと見なしても構わないのだろうが、その程度にもよるが単純に物事を解釈するぐらいことを何かの探究だと思うのも大げさなことであり、失敗するも何も仮に失敗したところで別に構わないだろうし、そう解釈したのだからそれが気に入らないからといって、失敗だと見なすもおかしいのかも知れず、では失敗でなければ何なのかといえば、解釈自体はそれなりにそう解釈する成り行きに従っている限りで、そんなふうにしか解釈できないと思っておけばいいのであり、それとは別の解釈が可能であればそうしているだろうし、実際にそう解釈できる可能性があれば、それを追求する成り行きになるように、自らの思考作用を自らが導いて、思い通りの解釈が可能になるようにできればいいのだが、それができないから気に食わない解釈となり、そんな解釈には疑問を抱かざるを得ないということであり、そうなってしまう成り行きを自分で制御できないから、そういうところはあきらめるしかないのだろうが、自分以外にも多くの人々がそうやって何かに導かれるようにして、何か世の中の風潮に合わせた解釈をさせられて、それにひとまず安心して納得するものの、その一方でそうなってしまうことに対して疑念や疑問を抱いてしまうとすれば、それを完全に信用するのではなく半信半疑な心理状態となっていて、また都合の良い結果だと見せかけて納得させようと仕向けてくるメディア作用の類いにも抵抗感を覚えて、騙されまいとして身構えていることは確かだろうが、いつまでも身構えていても疲れるだけだから、一通り抵抗してみて気が済んだらさっさと気分転換してそれに納得して安心したふりを装いながら、いつも通りの態度へと修正できるかというと、いつも通りの態度が何なのかといえば、絶えず疑念を抱きながら物事を考えている状態がいつも通りであれば特に態度変更などする必要もないわけだが、その必要がないこと自体が、そうなっている時点で既に事件の幕引きのようなメディアのやり方に気づいていて、多くの人を納得させようとする解釈など信じていないわけで、そこで誰が何を納得させようとしているのかというと、誰も納得できない結果に自身が困惑しているから、自分で自分を納得させようとする以外に心当たりがあるわけではなく、そうなるのがよくありがちな過ちだと思い込めるわけでもないから、それが誰もが前もって知っていて安心できるような結果ではなかったわけだが、だから結果を納得がいくように解釈できずに困惑しているのだろうが、そうなっている限りで疑っていて、何を疑っているのかといえば、都合の良い解釈を施して人々を納得させようとする態度を疑っているわけで、では誰がそんな態度を見せているのかといえば、自らも自然とそういう傾向になっていて、他の多くの人たちもそうなっているようにも見えるから、そういう傾向が世の中の風潮だと思われるわけだが、果たしてそんな風潮に疑念を覚えるからといって、意識してそれに逆らって何をどう解釈できるかといっても、実際に解釈しようとすれば納得できるような解釈を求めてしまい、それが世の中の風潮に合った解釈となれば疑念を抱いてしまうわけだから、そんな成り行きは堂々巡りとなるしかないだろうし、そうなっている時点で解釈の不可能性を感じさせるだろうが、そもそも何を解釈しようとしているのかというと、しかもそれを本当に解釈したくて解釈しようとしているのかというと、それ自体が特に解釈したいとも思わない物事を解釈するように仕向けられているのではないかという疑問まで抱かせるわけで、だから解釈したくないのであれば、しなくても構わないという選択肢もあるはずで、あえて解釈する必要を感じなければそのままにしておくべきかも知れず、そういう成り行きに従うなら解釈を放棄すればいいのだろうし、無理に解釈せずとも間に合っている状況にもなっているなら、それの何が間に合っているのかもよくわかっていないとしても、そういう成り行きの中に留まっていればいいわけだが、何かを都合の良いように解釈させようとする意図や思惑を想像してしまうと、誰かの陰謀のようにも思われてしまうわけだから、それを避けるには逆に都合が悪くなるような成り行きへと自身の心理状態を持っていけばよく、どちらにしても思い込みの範疇でそんなことを思っているだけで、何かそこから行動が生じてくるわけでもなければ、大したことにも至らないだろうし、物事を解釈したりしなかったりするレベルでは何がどうなるわけでもないと捉えておけばよく、そこで自らにとって都合の良い行動に結びつけば満足感を得られるかも知れないが、そもそも都合が良くなるような解釈を避けているのだから、そういう成り行きは断念せざるを得ないだろうし、それが現状の成り行きに抵抗感を覚えている結果が示すところであり、抵抗しているだけでは何がどうなるわけでもなく、埒が開かないと思うなら、焦燥感に囚われるとともに、焦って何かしらその抵抗感を行動や行為に結びつけようとして、何か悪あがきのようなことをやってしまうかも知れず、そうなるのを待ち構えていて待ってましたとばかりに飛んで火に入る夏の虫となるような罠が仕掛けられているかというと、どこにもそんな気配も感じられないとしたら、自らの勝手な思いが空ぶっていることになるだろうが、目指すべきはそんな方向ではないとすれば、特に何を目指さなくても構わないような現状となっているのかも知れず、それが現状の取り止めのない有様となっていれば、まだそこに救いのかけらが残っていると見ておいてもそれほど勘違いでもないのかも知れないし、これから何が救われるのかというと、それが明らかになるにはさらに面倒でややこしい紆余曲折を通過した後でないと明らかにはならないかも知れないが、その期待を裏切るような成り行きになるのが紆余曲折そのものでもあり、その人にとって都合の良い解釈を受けつけないような成り行きが現に起こっているのに、それを無視して強引に都合の良い解釈を当てはめようとしているわけだから、期待が裏切られて当然の結果がもたらされるわけで、それを避けるにはどうすればいいのかと問うこと自体に無理がありそうで、結局そこで反省しなければならないのはもたらされた結果を都合が良くなるように解釈しようとする態度そのものであり、逆に都合が悪くなるように解釈しなくてもいいこともわかりきっているが、結局それを解釈して納得しようとしなくてもよく、逆に納得できない状態を辛抱強く保持していれば、それが安易な解釈を拒絶するような状況の中での真摯な態度になるのであればそれに越したことはなく、そういう心理状態に留まり続けることによって、その場の状況に応じた行動に結びつけばいいのかも知れないが、行動に結びつかなければ無理に行動しなくてもいいということであり、黙って情勢を見極めていれば、いずれ何らかの行動へと押し出されてくる成り行きになるかも知れず、その機会がやってくるまでは辛抱強く待っている必要があるのだとしたら、何も焦って飛んで火に入る夏の虫のような行為に及ぶことはないわけだが、それも期待外れに終わるなら、意外と今後も何の機会も巡ってこないままになってしまうのかも知れず、それが人々の期待をはぐらかすような紆余曲折と共にそうなってしまうのかも知れない。
11月6日「レッテル貼りの効果」
何かそこに否定しようのない確実な前提があるとしたら、例えば人が現実の世界から遠ざかるわけにはいかないのは、実際にそこで暮らしているからだが、しかし実際に暮らしていても、意識が現実の世界から遠ざかることはできるし、心ここに在らずな心境となって妄想に耽ることができるから、そんな心理状態であれば現実の世界から意識が遠ざかっていることになるのだろうが、それでも依然として身体は現実の世界に存在しているから、実際には遠ざかっていないことになるが、妄想の中で現実の世界から遠ざかっていて、それがその人が思い描いているフィクションであることが明らかになるかというと、客観的にはそうかも知れないが主観的にはそうではなく、身体は現実の世界に存在しているのに意識が現実の世界から遠ざかっていることになり、言葉でそう表現しているに過ぎないことだが、それが現実に起こっていて、別にそれの何が不思議でもないが、現実にそれが起こっているからおかしいような気がして、実際におかしいと思っているわけだが、おかしいからなんだというわけでもなく、普通にそうなっていることでしかないから、それがおかしいわけだが、おかしいからといって何がどうなっているわけでもなければ、それが取り立てておかしいとも思えなければ、やはり何でもないことになってしまい、それ以上は何がどうなっているわけでもなく、無理にそこから話を掘り下げる必要もないことであり、そのままの状態でも構わないわけだが、ただ心身が現実の世界と想像の世界とに分かれて偏在しているように思われて、そうなっているのが当然のことだと思われるなら、取り立てておかしくはないはずだが、そういう状態を改めて考えてみると、何か不自然な状態であるような気がする程度の話なのだが、一方でこの世界についての語り方に現実感をもたらすには、それではまずいような気もするわけで、ではどのように語ればいいかというと、フィクションとしてではなく現実の世界をそのまま語れば、そこに真実が含まれているように思われて、少なくとも架空の内容ではないはずだが、果たして現実の何を語ればいいかというと、そこにある物であったり、実際に起こっていることについて語るにしても、それに対する勝手な想像や決めつけが語られて、それがその人の主観からそう思われるから、少なくともそれが客観的な事実ではないような気がするわけだが、何を語るにもそんなふうに語らざるを得ないとすれば、それだけ語る意識の思い通りの世界に見せかけたいという願望の表れなのかも知れないが、それが現実の世界にどれほど近いとしても、というかそこからどれほどかけ離れているとしても、現実の世界から及ぼされる影響を無視して語れるわけでもなく、その人の妄想が現実の世界から影響を及ぼされた結果として生じていることは間違いなく、そうであるなら妄想こそが真の現実であり、現実の世界から影響を及ぼされてその人の心が動揺しているから、そんなあり得ない妄想が生じてくるとしか思えないが、そんなあり得ない妄想とはどんな妄想なのかというと、それが現実にはあり得ない妄想であれば、心が現実の世界の有様を受け入れられずに拒絶しているから、それと引き換えにしてあり得ない妄想が生じてきて、そんな妄想に耽ることによってかろうじて現実の世界と対峙することができると解釈しておけばいいのだろうが、では受け入れられない現実とは何かというと、自分の意見や主張が通らない現実であれば意識が自覚できるしわかりやすいが、そうではない場合があるかというと、自分の意見や主張だけでなく、自分の存在すらが無視されている現実だとしたら、別にそれでも大したことではないし、普通の一般人にとってはよくある現実には違いないわけだが、それと自覚することができず、それを拒否したり拒絶していることを自覚できない現実があるとすれば、それは何かというと、それがわかるのがその人の言動や発言の中身から他の人に知られることになるから、その人には気付きにくいことであり、場合によっては気づかないまま、一生を終えてしまうようなことにもなりかねないが、大抵の場合はその人がありふれたことを語っているから、逆にありふれていない現実に気づいていないことになるのだろうが、それが結果的にはその人がそれと自覚しないで語らずにいるありふれていない現実を拒否したり拒絶しているように思われるわけで、要するにその代わりに語っているのが紋切り型的な現実ばかりであると、ありふれた紋切り型の現実しか受け入れられない心理状態となっているように思われるのであり、それがよくありがちなテレビのワイドショーの司会者などの言動と一致するにしても、それと同じようなことしか語らない人には自身がそうなっていることに気づいていないし、それに気づく機会が死ぬまで訪れなければ、そのままとなってしまい、別に周囲の人がそれをその人に面と向かって指摘するわけでもないし、気づかなくても不都合が生じなければそれで構わないわけだが、そうなるとその人はその人が日頃から語っている紋切り型の現実以外の現実を拒否したり拒絶していることになるのかというと、その自覚がないわけだけから、当人は拒否したり拒絶しているとは思っていないわけだが、では無視しているのかというとそうではなく、実際に異常なまでの敵意を抱いていることがふとした拍子に明らかになることがあり、それが現実に存在している人や集団などを意地悪く小馬鹿にするような態度を取る時だが、そうなった時にその人や集団に対して、これも紋切り型の否定的なレッテル貼りをすることにもなるのだが、そうなると明らかにそうではない人や集団の現実の姿を拒否したり拒絶していることになるわけで、それが特定の人物や集団を意地悪く否定的に語るテレビのワイドショーの司会者などと同じ傾向を示すことになり、実際にそれと同じようなことを語っている一般人もそんなテレビタレントを小馬鹿にしているのに、自分が小馬鹿にしている人と同じようなことを語っているわけだから、どう考えてもそれに気づいていないとしか思えないわけで、もちろん小馬鹿にされているテレビタレントの方でも、自分を小馬鹿にするような一般人など相手にせず、逆に小馬鹿にしているのだろうが、結局はそれらの人たちの間で、自分が否定的に小馬鹿にしたい人や集団に対して紋切り型の否定的なレッテル貼りをするという行為が感染しているわけで、そんなふうにしてそれはあり得ない妄想などではなく、レッテル貼りに感染してしまった人々にとってはあり得る現実の姿として認識されていて、あり得ない妄想とは思われないわけだが、もちろんそれがそれらの人々にとっての現実であり、現実と妄想の区別がつかないわけではなく、妄想ではなく現実なのだが、そこから考えられるのは、現実のある面を誇張したり強調したりして拡大解釈すれば、その人の望み通りのレッテル貼りの規格に適合するような妄想を導き出せるということであり、そういう意味ではその人が事ある度に繰り返し特定の人物や集団に対して同じ否定的なレッテル貼りと共に嘲笑的かつ憎悪の念を込めて語るようなことがあれば、それがその人がお気に入りの決まり文句を用いた妄想に囚われている証拠だと見ておけばいいのだろうが、そういう人を嘲笑的に小馬鹿にしてしまうと、その人も否定的なレッテル貼りに感染してしまうわけで、そうやって世の中にその手の安易なレッテル貼りが感染していくのだろうが、しかも都合の悪いことには、そういう安易で否定的なレッテル貼り自体が全くの誤りではなく、誰にでもどんな集団にもそういう面があり、そういう面だけを見ればそれが正しい認識のように思われるだろうし、実際にそういう面だけを見て、そこだけに焦点を当てて語ろうとするのだから自ずからそうなるより他はなく、それがありふれた人にありがちな似た者同士の同族嫌悪だと言ってみても、当人は絶対に認めたがらないだろうが、似た物同士の同族嫌悪だからこそ絶対に認めたがらないわけで、それこそが自家撞着の最たる事例となるのだろうし、結局は自身が得意になって嘲笑して小馬鹿にしている対象となる人や集団の傾向や特徴がそっくりそのまま自身に当てはまるということに気づかないわけだから、それが灯台下暗しというか、それもよくありがちな人々によくありがちな傾向や特徴となり、そういうことを考慮するならそういう人が誰か特定の人物や集団を嘲笑したり小馬鹿にしながら安易に否定的なレッテル貼りを繰り返していれば、何よりもその紋切り型的なレッテルに最もよく当てはまるのはその人自身だと認識しておけばいいのではないか。
11月5日「出過ぎた真似」
出過ぎた真似をするということが、何かをやったことに対して非難の意味が込められているのは大体わかるが、逆に分をわきまえろと言いたい時の分とは、領分と捉えるしかないだろうが、領分とは何かというとそれが人の領分となれば、領分とはその人の力の及ぶ範囲になるのだろうが、力というのも何か得体の知れない作用を及ぼしていて、本当にその人に力があるのかないのか、その人から力が及ぼされているのか、何か他の関係のないところから及ぼされている力を、その人の力だと誤って捉えているのではないかと疑ってしまうこともあるだろうが、何がその人の領分なのかは、その人がはっきりした役割や役職を担っていない限りは、いつも疑念を抱かせる要因となるだろうが、逆に何らかの役割や役職を担っていると、力がその人ではなく、社会的に認められたその役割や役職から生じている割合の方が大きいようにも思われて、例えば何か発言する時でも、その人が何の役割も役職も担っていないただの人ということはほとんどあり得ないにしても、実際ただの人には何の発言権もないように思われて、ただの人が何か言っても無視しても構わないように思われるだろうが、何らかの役割や役職を担っていれば、その役割や役職の権限が及ぶ範囲内では、その発言を無視するわけにはいかなくなり、そういった範囲にかかわっている人であれば、かかわりの程度によってその人の発言の重みも変わってくるのだろうが、果たしてそんな役割や役職を取っ払って、純粋にその人の発言内容を評価できるかとなると、普通は評価するような成り行きにはなり難いだろうが、実際にそんな可能性を想定してみても、具体的に誰が何を発言したのかその内容を知らなければ評価も判断もしようがなく、その段階では架空の誰かの発言を念頭に置いて話を進めていることになるだろうが、話が誰の発言にも至らなければ、何が出過ぎた真似なのかも分をわきまえろとは誰に向けられた警告なのかも謎のままになってしまうが、逆にそういう警告を発する側の方が自らの社会的な立場に関して余程の自信がない限りは、特定の他人に向かって上から目線で分をわきまえろとは言えないだろうが、もちろんよくあるテレビドラマなどのフィクションの中ではそういう場面がよく出てきて、その中で典型的な立場が上の登場人物によって決め台詞のようにして発せられる警告ではあるわけで、現実の社会では余程のことがない限りはそんな台詞にはめったにお目にかかれないだろうし、大抵はそう思うことはあるが実際には口に出すことのない台詞となるだろうから、ほとんど架空の警告には違いないわけだが、それと同じで出過ぎた真似というのも、それなりに意味が重なる面があって、出過ぎた真似をするなということと分をわきまえろということが同じ意味で使われることもあるだろうが、どちらも相手に対してそう思うと共に自分に対してもそう思う時があり、それは何かをやった後から反省する時にそう思うわけだが、それも逆に出過ぎないでちょうどいいことができるかというと自信がないし、分をわきまえたことができるかといってもどの程度であれば分をわきまえたことになるのかが、自分では判断がつきにくいだろうが、他人の間違いは指摘できるが自分のこととなるとよくわからず、もちろん面と向かって他人の間違いを指摘する機会も滅多になく、ただ心の中でそう思うことがしょっちゅうあるようだと、他人の間違いをこれ見よがしに指摘したくてしょうがないのに、なかなかその機会が巡ってこないと、そんな鬱積した欲求を満たすのにちょうどよく、思いをぶちまけるのに格好の場がネット上の仮想空間の中に用意されていれば、それを利用しない手はないだろうし、そうなると出過ぎた真似をするなという趣旨の内容を書き込んだり発言をする出過ぎた真似をする人や、また赤の他人に向かって分をわきまえろという趣旨の書き込みや発言をする分をわきまえない人が出てきて、そうやって多くの人たちが自身がそうなっていることを自覚することなく自己言及パラドックスを体験することになるのだろうが、それを自己言及パラドックスと見なすのも少し意味が違っているような気もするが、自家撞着というと自分で自分の言行に反することをすることになるのだろうし、それを自覚できるかというとそうは思っていないのかも知れず、それを自覚できないから自家撞着になってしまうのかというと、それをやってしまった後からそれに気づくことも結構あるだろうし、その時はそれに気づかないとしても後から気づいた時にはもう手遅れで、そうなった時には取り返しがつかなくなっているのかも知れないが、それもネット上の書き込みや発言程度ならどうとでもなるようにしか思えないだろうし、匿名であれば確かに何とでもなりそうだが、それが名誉毀損で訴えられるほどの深刻な事態となれば、現実に何らかの作用を及ぼしたことが認められるからそうなるのだろうが、他人に対してそうなるぞと脅し文句を使うような人に限って、その種の自家撞着の危険が高いというわけでもないのだろうが、それも大抵は深刻な事態になることを想定していない人がそうなる可能性が高いといっても、稀にしか深刻な事態になることもないだろうし、そういう面ではその種の心配は大抵は杞憂に終わるかも知れないが、それでもそれが正しいことだと思って他人や他の集団の行為を批判したり非難する趣旨のことを書き込んだりそういう発言をするのだから、その人にとっては自らに正義があると思うだろうし、どうでもいいことではないはずだし、どうでもよくはないからそういう行為に及んで、未だ果たされていない正義が今こそ果たされるべきだと思って批判や非難に及ぶのだろうが、自らの批判や非難によって少しは正義が果たされたと思うかというと、まだ全く足りていないと思えば繰り返し執拗に批判や非難を繰り返すことになり、ネット上でその種の行為を見かければ、いくら批判や非難を繰り返してもなかなか効果を発揮しないし思うような成果をもたらさないことに焦っているから、そんなことが延々と繰り返されていると感じられてしまうが、やっている側からすればそういった行為を継続できていることが成果であり、それを行うこと自体に肯定的な意味や意義を感じ取っているのかも知れず、それがネット上から出て現実の世の中で何らかの作用や影響を及ぼしていることを確認できるかとなると、確認できるとしても微々たるものに過ぎなければ、やはりその程度のことでしかないと思うのだが、そうではなくネット上で行われていることだけで行為が完結していてもそれで構わないわけで、それがその程度のことだと思う所以であり、それは外の世界から見ればそうかも知れないが、中の世界に身を置けば、それが主要な活動だと思われて、そうなっている限りで外の世界から中の世界へその人の関心事が移っているのだろうが、それ以前に中の世界と外の世界との間に明確な境界線が引かれているわけでもなく、どちらも現実の世界で起こっていることであり、どちらに重きを置くかといっても、どちらでもその場の状況や情勢に応じた対応や対処が求められていると思っておいた方がよく、実際にそうしているはずだが、何かそこで思い違いや勘違いがあるとすればそれが自身に関わってくることではなく、自分とは全く関係のないところでそれらの世界が構成されていて、それを観客や聴衆として見聞させられていることに関係していて、やるべきことがそこにはなく、そこで何かを行おうとすることが、演技の類いにしかならず、現実の活動にも結びつかないどころか、逆に活動の邪魔をして阻害するような傾向を示すようなら、さっさとそこから退散して、そことは全く傾向の異なる別の場所で別のことをやらなければならなくなるだろうが、それで良いか悪いかはっきりしないところでもあり、実際にもそうはならず、それどころかますます関心を深めてそこへとのめり込んでいくように仕向けられてしまえば、いったい何がそう仕向けているのか疑わしくなってくるかも知れないが、それは自身を含めた人の関心事としてその場の状況や情勢がそう仕向けていると思うしかなく、何とかして人が関係する物事へと直接的な介入や関わりを阻害するような遮蔽幕が社会全体に構築されつつあり、そういう成り行きに沿って様々な人や集団の活動が移行しつつあるわけだが、要するに人や物の動きを極力抑えて、最小限度に留めるような成り行きが進行中なのであり、それに伴って情報の行き交いが活発化しているわけで、そういう成り行きに応じて言動を活発化させるようなことは積極的に行われるだろうが、行動がそれに伴って活発化するかというと、逆に不活化する傾向になっているから、無理に行動を起こすようなことをやれば、それが出過ぎた真似だと非難される成り行きにもなるわけで、環境活動家などの行動がそういった非難の対象となりやすいのではないか。
11月4日「信仰の影響力」
現状を都合のいいように解釈すれば、それが信仰に結びつき、自らが信じている必然的な成り行きに沿って物事が進行していくような気になってしまうわけだが、しかも思いがけないことが起こっても、起こった後からそれが必然的な成り行きになるような解釈を施してしまうから、信仰に揺るぎがなく、もしかしたらどんなことが起こっても、その起こったことを必然的な成り行きで起こったと解釈できるかも知れず、どのようなことが起こっても、それが偶然の気まぐれで起こったとは思われないように解釈できれば、信仰を疑いようがないわけで、そうやって絶えず自らが体験した出来事に合わせて解釈を施しながら、自らが体験しつつある物語を修正して、出来事の必然性を保ち、それが自らが信じている必然的な成り行きになるわけだが、結果を都合のいいように解釈できない場合はどうなるのかと言えば、自らの態度や姿勢を変えればいいわけで、それが自らに都合がいいことになるように態度変更や姿勢変更をして、あたかも自らにとって都合がいいような結果となったような態度や姿勢を装えばいいわけだが、それがその場の成り行きや状況に対応した演技となるのだろうが、それを演技だと自覚しないような精神状態になれれば、自然な成り行きでそうなったような感じになり、自らが体験しつつある事態にうまく対応できているような気がするのだろうし、それでも何か疑念を抱いたり疑問を持つこともあるだろうが、それも疑念や疑問が必然的に生じてくるような成り行きだと思えれば、納得がいくだろうし、そうやってなるべく現状の中で抵抗感が生じないような心理状態でいたいのかもしれないが、少なくとも疑念や疑問を感じること自体が抵抗を感じていることの証拠であり、実際に疑いを抱くようなことを体験しているわけだが、それがそこで疑いを抱くことが必然的な成り行きであるように思われるわけだから、そこで疑いを抱く態度や姿勢をとっていて、しかもそうなるのが必然的な成り行きだと思われてしまうことに疑いを感じているとなると、それが必然的な成り行きだとは信じられなくなっているわけで、では必然的にそうなったのでなければ何なのかというと、偶然にそうなったとしか思えないわけだが、必然的な成り行きと偶然的な成り行きを対立した成り行きとして捉えてもいいのかというと、そうではなく両者が混ざり合った状態というのも想定できて、完全に必然的な成り行きだけから物事が成り立っているわけではなく、そうかといって完全に偶然的な成り行きだけから物事が成り立っているわけではないと考えれば、どちらの面が強くても一向に気にする必要もないわけで、それで納得がいくならそう考えておいても構わないわけだが、そうだとしても自らに関わる出来事として何かが起こった後から思うのは、どうしてもそれが必然的に起こったように思われるわけで、そこに至る必然的な経緯や事情が作用してそうなったとしか思えないような実感が伴い、それが日頃の行いが災いしたり幸いしたりして、因果応報のように起こったと思われてしまうと、どうしても必然性を意識せざるを得ないわけだが、それと共に疑念や疑問も生じてくれば、偶然性も考慮せざるを得なくなり、別にそれが偶然に起こった可能性があるからといって何がどうなるわけでもない、と一瞬思うのだが、それに次いで思うのは、それによって今まで続いてきた必然的に思われた物事の成り行きが、単なる偶然の巡り合わせでそうなっていたに過ぎなかったのではないかという疑念も思い浮かんでくるわけで、それが本当に偶然に起こってきたことであり、必然的な成り行きだと思われていたことが思い違いや勘違いであれば、物事の推移が必然的にそうなっているという信仰が崩れてしまい、何か信念を曲げなければならない危機に直面しているような気になってしまうわけだが、そこで反省して、必ずしも全てが必然的に起こっているわけではなく、たとえそれが必然的な成り行きであっても、少なくとも自らに都合のいいようには起こっていないで、ただ起こった後から意識の補正が入ってくるわけで、なるべくそれが都合のいいことのように思い込もうとして、態度や姿勢の微調整が働くから、起こったことに自らの都合が反映してくるように思われるわけだが、それに直接介入したり関わっていれば、確かに少しは反映しているのだろうが、何の関わりもないようなことに自らの意志や意向が反映するわけもないだろうし、そういうところで何かしら関わりがあるようにも思われて、その関わりの度合いが薄いとしても、何かしら間接的に影響を及ぼしているような気がすれば、自らが影響を及ぼしたからそうなったと思い込む余地が生じて、それによって満足感を得られたり、思い通りのことが起こったような気もするのだろうが、それが世の中の大勢に影響を及ぼすようなことに結びつくわけでもないだろうし、それによって自らが直接世の中を思い通りに動かしているような妄想が生じるわけでもないから、あくまでもほんの僅かで部分的な影響力に過ぎないだろうし、世の中の大勢にとっては無視しうる程度の微々たるものでしかなければ、少なくとも自らの都合が反映した世の中になっているわけではなく、それよりは自分のほうから世間の風潮に合わせている程度の認識になるはずで、そこまで広範囲に影響など及ぼせるはずもなければ、そこから自らの周辺へと舞い戻って考えれば、絶えず自らに都合のいいような成り行きになっていると信じていること自体が迷信であり、完全な思い違いではなく、自らの影響が及んでいる範囲では多少は都合のいい成り行きになっていて、さらには直接関わって何かしら介入している面では思い通りになっている面もあるだろうが、それが全ての面にわたってそうならないと気が済まないから、絶えず都合が良くなるように作用や影響を及ぼそうとするのだろうが、そうしているのはその人だけではないし、他の人もさらには集団で組織的にそんな働きかけをやっている場合もあり、どちらかと言えば集団でやっている方が相対的には強力に作用するだろうから、世の中に何の影響力もないような一般の個人が行うことなどは無視されて当然であり、そういう面では確かにそうではあるものの、集団でやっていることが果たしてそんなに強大な影響力があるかというと、逆にその種の集団自体が世の中の風潮に踊らされているように感じられる場合もあり、それも相互作用と言ってしまえば、ある程度は納得できるかもしれないし、多くの人の感情や願望などとその種の集団意識が同期して、しかもそれが最大公約的なわかりやすい形態を伴ってくれば、それもどちらかといえば賢いよりは愚かな方へと照準が合っている場合が多く、一人の人を集団で寄ってたかって攻撃するような形態を取ることも多くなるだろうし、そうやって絶えず集団で群れる意識が攻撃対象を求めて、そのきっかけが生じやすい方面でうろつくことになるのだろうが、そういった傾向が強く作用するとしても、それも一過性かつ執拗に生じてくるとしても、結局それらの集団と意識を同期している人たちは愚かな大衆を構成しているに過ぎず、その力が強力な反面、質が悪く、その他大勢の人たちにとっては嫌悪や憎悪の対象となるだろうし、そんなことをやっている人たちがひどい世の中の構成員となっているに過ぎないのだろうが、もちろんやっている当事者がそれをひどいことだと自覚することはなく、むしろそこから自己満足も得ていて、そういう面では思い通りの状況となっていて、世の中にそれと感じ取れる影響も及ぼしているだろうし、それで構わないはずだろうが、そんなことをやっている無名の大衆が常時存在しているのがありふれた現状であり、ある面ではそれが世の中の荒廃を見せているのだろうが、いつもそうなのだから、果たしてそれを荒廃と呼んでいいのか疑問に感じるだろうし、いつの世でもどこにでもいるような人たちが、それと自覚することなくそんなことに明け暮れている世の中というのが何を意味するわけでもないだろうが、そこから良くなることも悪くなることもあると同時にないとも言えるような状況であり、要するにそこにいてもいなくても構わないような人であるからこそ、場合によっては大量虐殺の対象ともなるだろうし、事故や災害の犠牲者となれば、何か良心的な人たちが犠牲になったようにも思われるものの、それを日頃の行いが悪いから天罰が下ったと思われるわけでもないだろうし、そこに因果応報が適用されることもないだろうが、それもどちらかと言えば必然的な成り行きでそうなったわけではなく、偶然にそうなってしまうと思われるなら、事故や災害などと同様に人災の被害に遭っていると思っておいても構わないだろうが、客観的にはそれと自覚することなく社会を荒廃させる加害者として存在していることになるのではないか。
11月3日「生きていることの代償」
世の中の傾向には何かしら程度に限度や限界があるはずだが、その中でもしばしば人の対応や言動が度を超しているように思われるのは、その人の思いから生じる強調や誇張がすぎているからだろうが、それが非常識に思われることと、常識的な範囲内に収まっていることとの間で、何が違うのかといっても、人によって感じ方が異なるだろうが、心理的にいたたまれなくなるようなことをされると、しかもそういうことが世間的にまかり通っているようだと、何か世の中が狂っているのではないかと思ってしまうわけだが、それに対して自分が正しいことをやっているという自信がなければ、それ以前にも何が正しいのかもわかっていないし、これまでにも数限りなく間違いや誤りを犯してきたようにも思われるなら、他の人に向かって何が正しいかを示すこともできないわけだが、それでも他人の言動や行為が間違っているように感じられると、それを批判したくなってくると同時に、批判を思いとどまろうともして、どっちつかずのいやな心理状態となり、結局自己嫌悪へと落ち着いてしまうのだが、そんな消極的な心理状態を何とか打ち破って、何か最低限でも述べなければならないことがあるかというと、その際にも自信を持ってこれだと示す気にはなれないのだが、自由にものを言える立場というのがどこにあるわけでもないのかも知れず、何かしら制約や制限がある中で、自身にいやでも絡みついてくるしがらみから逃れることも難しいわけで、そのしがらみが制約や制限をもたらすと思っても、それがないと困ってしまうこともあり、そういった制限や制約を打ち破ってしがらみを振り払い、自由に振る舞おうとすることが、自身の活動そのものになってしまうなら、しがらみがないと活動が成り立たないようなことにもなり、要するに始めから自由では何もやることがなく、不自由な状態から自由な状態へと移行することが活動そのものであり、それも大雑把に言えばそうかも知れないということでしかないが、本当はそうだとしても、その人の特有の経緯や事情から具体的に何かやらざるを得ないことが生じてきて、それがやらなければならないことのようにも思われて、そんなことをやっているうちに年老いて寿命が尽きて死んでしまえばそれで終わりとなってしまうのだろうが、それも大雑把に言える限りでそんなことが言えるにすぎず、そうなるに至る手前で何かその人のなりのこだわりが生じてくれば、そのこだわりがその人に特有な何かをやる成り行きへと導き、それがその人にとって生きがいを感じさせるような物事にかかわってくることにもなり、それが具体的に何なのかが、その人の仕事に関係して生じてくることなのか、あるいは趣味程度にとどまってくるのか、さらには生活全般から生じてくることなのかは、それもその人がかかわっている物事にもよるだろうが、そんなこだわりへと一直線に突き進めるかというとそうでもないだろうし、そういう成り行きに至らないうちに、何か思わぬところから事態がこじれてきて、やりたくないことにかかりきりとなって、消耗して疲労困憊してしまうと、やりたいことをやれないまま人生を終えてしまうような成り行きになるかも知れないし、またやりたいことをやっているつもりであっても、やっているうちに気が変わってそうでもなくなってくれば、しかもいやになったからといって、簡単にはやめられないことをやっているようだと、いやになりながらも惰性でいつまでもやらざるを得ないようなことにでもなれば、やりたくてやり始めたのにやるのが苦痛になるようなことにもなってしまうだろうし、そういう意味では現状で何にこだわっていようと、そのこだわりがいつまで持続するかは、その時点でいくら当人がやる気になっていても、その場の成り行き次第な面もあり、さらにそういうこととは別に何かしら偶然が作用して、その人にとってのやるべきことが、その人の意志や意向とは無関係にその人に課せられてしまう場合もあるわけで、それがその場の成り行きが示していることであり、それに逆らおうとしてもなぜか逆らえないようなことにでもなれば、そうなる宿命だったとあきらめるしかないだろうが、そこであきらめるかあきらめないかでもその後の運命が違ってくるかも知れず、逆らえないのに逆らってしまうと、自力で運命を変えようとして、逆らえないという前提をそこで打ち破ろうとするのだろうが、果たしてそんなことが可能かというと、結果的に逆らってしまえば、逆らえないという前提が嘘だったことになるのだが、逆らえないという前提を誰が決めたのかというと誰もそんなことは決めていなければ、運命に逆らえないとそこで自分で思ってしまったことが間違いだったことになるのだろうが、その時点でそう思ってしまうことと、そこから先の時点でその思いを裏切ってしまうことは、そういう成り行きの中では何か自然の流れのように感じられて、事前に何かをこうだと決めつけると、必ずそれを裏切るような結果がもたらされるわけでもないのだろうが、そう言った成り行きが印象として強く意識に残るから、実際にそうなったことをいつまでも覚えていて、何かそうなるのが宿命のような気がするのだろうが、実際にはそれだけが全てではないから、そういう自身の経験から生じる感覚もあまり信用できるようなものでもないだろうし、何でもかんでも予想が裏切られてしまうようなら、そんな予想を信じてしまう自らの感覚の方がおかしいわけで、そういう意味では自身のこだわりをそのまま額面通りに受け取って信用しない方がいいのだろうが、実際にそこにこだわっているとすれば、信用しているからこだわっていて、しかもその信用が度々裏切られても、裏切られる度にその場の状況や結果を都合の良いように解釈しながら、さらに信用を保とうとして、ますます自身のこだわりへとのめり込んでしまえば、それが信仰として機能するようになり、そうやって出来上がった形態としての信仰に従った生き方が確立されるのかも知れないが、精神の定常状態を保つ上では、その種の信仰が行動や言動の安定的な動作にも寄与するとしても、それが一定の思考パターンや行動パターンを伴うには、そこに制度や慣習や法律などの社会環境も必要となり、実際に集団として組織的な機構などの何らかの社会的な構造にその人が組み込まれていれば、いやでもそうなってしまうことは確かだが、そうなっていることがその人にとっての逆らえない宿命となり、しかもそうなっていることがそれに逆らう動機をもたらしたりすれば、そこで煩悶することになるだろうが、そこに入るためにそれなりの競争を伴った狭き門をくぐり抜けて組織的な機構に拘束されることによって、不自由と引き替えにして心身と経済的な安定を手に入れた後で、その煩わしさを嫌ってその状態から脱出するための算段をあれこれと画策しながら、結局は組織内でも組織外でも相対的に自由な立場を得ようとするのだろうが、そういう成り行きになってしまうこと自体が、その場の状況に拘束されてそうなってしまうわけだから、そこまでが一連の成り行きなのだろうし、そんな成り行きの中で活動することが、不自由な状態から自由な状態への移行を目指した活動でもあるわけだから、そんな成り行きに絡め取られて人生を台無しにしているとも思わないだろうし、不自由な状態になることによって獲得したものを、自由な状態になることと引き替えにして失ってしまうとしても、その差し引きにおいては釣り合いが取れているようにも思われるかも知れず、そういうところではセコい損得勘定など働かないだろうし、何かを蓄積するには不自由になるという代償を払い、その蓄積したものを消費して消尽することによって、それに伴って生じるこだわりやしがらみから解放されて自由になると考えておけばよく、要するにそこで蓄積していたものとはこだわりやしがらみそのものなのかも知れないが、それが一方では利益になっているような幻想も生むのだろうし、そういう意味では自身が何かを貯め込んでいる感覚や感触があるなら、それを消費することと引き替えにして自由や開放感を得られて、消尽してしまえば何もなくなると共に、その何もない状態こそが自由そのものだと言えるだろうが、何もかも消費し尽くしてしまえば、何もなくなった先には自らの死が待っているわけだから、死にたくなかったら何とかして不自由さもある程度は確保しておかなければならず、その不自由さと共にこだわりやしがらみを覚えるのだろうが、そうなっている限りはそれなりの程度で自らが生きている最中でもあるわけで、それらのこだわりやしがらみが自らの限度や限界を構成すると共に、その範囲内で自らが生きていることにもなるわけだ。
11月2日「戦略的な無視」
それが戦略というほどのことでもないにしても、戦略的に何かを無視しているように思われるなら、日本においては多くの人々が無視しているのが国家という制度であり、もちろんそれを戦略的な姿勢だと自覚している人など皆無だろうが、少なくとも選挙で投票に行かないわけだから、国家を無視して政府も無視していることの表れだと見ておいた方が良さそうで、もちろんそれも誰も意識して無視しているとは思っていないだろうが、実際に態度や行動で示しているわけだから、多くの人たちが自身のやっていることを理解しているにもかかわらず、それが国家や政府を無視しているのではなく、選挙を無視しているとも思っていないだろうし、無視していないにもかかわらず、選挙には行かないわけで、投票するのがいやなのだろうし、特定の候補者や政党に投票するのがいやなわけで、どうしても投票したくないわけだが、一方でそれが国家や政府を無視していることになるとも思っていないのかも知れないが、そういうところでも絶えず頭の中で考えていることや意識していることが、実際におこなわずに済ましていることの意味を把握していないように感じられるわけだが、誰も戦略的にそれをおこなわずに済ましているとは思わないだろうし、そうであればそんなのは戦略でも何でもないわけだが、それを戦略的な無視だと見なすこと自体が言いがかりも大概にして欲しいとも思う以前に、馬鹿げた妄想にすぎないと思われても差し支えないが、もちろん本気で人々が戦略的に選挙を無視しているだなんてこれっぽっちも思っていないし、わざとそう語りたいわけで、人々が戦略的に選挙を無視しているというフィクションを信じるふりをしながら、実態としては国民の権利としてわずかに認められた主権的な行為となる一人一票を投ずる権利を放棄してまで、消極的に現状を追認しながら国家や政府に服従していることの証しだと、もっともらしく解釈しておいた方が、もっともらしい印象を獲得できるかも知れないが、そんなふうにもっともらしく現状を解釈することこそが世間的には正しいと同時に実感としては間違っていて、そうやって投票しない人々に対して義憤を募らせるように仕向けられてしまうこと自体が、そこで物語られるもっともらしいフィクションの中での役割分担に従っているだけで、そういった良くできた作り話のねつ造を逃れるには、さらにあり得ないフィクションを物語る必要があるわけでもないが、戦略的に選挙を無視して国家や政府に逆らっているのだと解釈したところで、何がどうなるわけでもないとしても、さらに信じられない荒唐無稽な作り話になるしかないだろうが、少なくとも誰もが積極的にそうしているわけではなく、何かがそこでおこなわれているのを見て見ぬふりをするような消極的な態度だと言ってしまった方がすっきりするだろうし、何を見て見ぬふりをしているのかと言えば、それが政治の場でおこなわれている悪行三昧だと言ってしまうと、やはりそれに対して義憤に駆られてもっともらしい物語の虜となってしまうわけで、実際に選挙に行って政府に対する批判票を投じた人にはそう思われてしまうわけだから、そうなるのも無理はないわけだが、それを見て見ぬふりをしながら投票から逃げているというよりは、戦略的な見地から投票に行かないのでもなく、ただ単に投票したくないのであり、そういう思いに忠実でいること自体が戦略的な態度であるはずもないのだが、そこで戦略的にそうしているという解釈が破綻してしまうとしても、状況がそれらの人々に対して投票をさせないようにしていて、そこに他の方面から及ぼされる戦略的な思惑が絡んでいると見るなら、無理に現状を曲解してそう見ているとしか言えないだろうが、たぶん疑念や疑問として、そういう人たちの行動してほしいのに行動しない態度が謎として残ってしまい、その謎を戦略的に利用できないものかと思ってしまうわけだが、もちろんそれは謎などではなく、簡単に言えるようなことであり、論理ならぬ幼稚な感情を伴いながら投票に行かない理由が当事者から普通に打ち明けられてしまうのだろうが、それは投票に行かない当事者が投票に行かない言い訳と共にそう思い込もうとしていることであり、メディアの論調に操られながらそういう態度に及んでいると言ってしまっても、もっともらしい嘘として通用してしまうのだろうが、やはりそういうメディア的なもっともらしさ自体に疑問を感じるわけだから、そこはスルーして戦略的に無視しなければならないところであり、何かそうではない理由や原因を求めてしまうところが、それも何かそれとは別の罠にはまっている証拠かも知れないが、単純に言えてしまえるところをわざと込み入らせてややこしく考えようとしていること自体が、それが見え透いた戦略ならぬ屁理屈をこねている証拠ともなるだろうが、どうしてもそうならざるを得ないというか、従来のもっともらしいメディア的な見解や解釈から逃れないと納得しがたいというのではなく、そこからさらに納得しがたい結論へと無理に持って行きたいわけだが、なぜそうしたいのかとは問いたくはないわけで、そこから導き出された結論ならぬねつ造が真実だと思われなくてもかまわないのだから、それが始末に困るわけでもなく、勝手な妄想から導き出されたフィクションとしてそんなあり得ない解釈を提示したいだけだろうが、そうしたくなる理由というのが、何か正当化しがたい理由となり、それが自分一人だけが抱く勝手な妄想というのとも少し違っていて、何かそこに少しは救いを求めたいわけで、少なくとも現状を考慮に入れながらフィクションを構築したいのであり、日本の政治的な現状からそんなあり得ないフィクションが導き出されるように話を持って行きたいわけだが、果たしてそんなことができるかとなると、その途中で挫折して、その手前で立ち往生してしまい、わけのわからない横道に逸れてしまっている最中かも知れず、さらに今やそれが道からも外れて真相は藪の中かも知れないが、そんなその場しのぎの間に合わせ程度の比喩では何を述べていることにもならないが、多くの人々が投票に行かないという何でもないようなくだらないことを言葉を使ってもっともらしさからかけ離れて表現しようとすれば、わけがわからなくなるのは致し方のないことというわけでもないのだが、そこに救いを求めてしまうと、そこで人々の善意を想像してしまえば、いたたまれなくなるというわけでもなく、逆に冗談のような結論をねつ造したくなるわけで、その対象が幼稚な感情に惑わされながら自滅していくどこかの国民であるはずもなく、それよりは戦略的な見地から自発的に国家や政府を無視しながら、新自由主義的な功利主義を信じて力強く弱肉強食の荒廃した現代社会を生き抜こうとしている世界市民となるかというと、あり得ない妄想の中ではそうなった方が愉快な気分になれるわけだが、それもフィクションにすぎないから、現状で成り立っている社会の実態を反映しているとは言い難く、それと共に文章表現上の力不足を否めず、どう語ってみても嘘っぽい話しかねつ造できないわけだが、もっと単純にもっともらしく語ろうとしても、どうしても引っかかるものを感じてしまい、そう語ってしまうとまずいわけではなく、逆にその方が話に説得力が出るだろうし、大抵の人が信じられるような現状のもっともらしい解釈へと向かってしまう方が、引っかかりを無視してしまう分では負い目を感じるものの、それと引き替えにして得られる何かがあるのではないかと幻想を抱けるのだが、それも幻想ではなく実利であれば喜んでそうしてしまうだろうが、もっと利益に惑わされない自由な立場から語るとなると、そうも言っていられないわけで、それが語る者に宿る良心だというと、やはり嘘が含まれてしまうかも知れず、逆になるべくそうならないように語りたいわけで、しかも現状から得られる確かな感触に忠実に語ろうとすると、良心などとは無縁の何かをつかんでいるわけだから、それをないがしろにはしたくないわけで、実際に良心に惑わされて語ってしまう人たちが、現状に対する批判派を構成していて、それらの人たちが現状の世の中に対して戦いを挑んではことごとく跳ね返されて敗れ去り、絶えず現代という荒野に無残な屍をさらしつつあると解釈しても、それもくだらぬフィクションの域を出ない話となってしまい、何か嘘っぽくも冗談のような内容となってしまうのだろうが、たぶん現状はそんな内容とは似ても似つかないというか、もっと信じられないような世界の中で誰もが生きているから、逆に絶えず信じられて納得できるフィクションを求めてしまうわけだ。
11月1日「新自由主義的な自由」
何か世の中の状態に関してもっともらしくも怪しい表現を使うなら、例えば現状の世の中は何らかの制度によって支配されているというと、機会を捉えて世の中を支配する制度を揺るがすことができるかも知れないし、制度によっては手順をふめば別の制度に変えることさえ可能なはずだが、変えたところでそれが世の中を支配する制度であることに変わりなく、変えようと思えば変えられる制度によって世の中が支配されている一方で、時には揺るがそうとしても揺るがず、変えようとしても変えられない制度によって世の中が支配されているようにも思われて、制度を揺るがしたり、決められた手順に則って制度を変える手続きがおこなわれたところで、相変わらず何らかの制度によって世の中が支配されている状況は変わらず、制度を揺るがしたり変えたところで、制度の支配から抜け出られるわけでもないのはわかりきっているように思われるが、世の中を支配している制度とは何なのかと問うなら、それに該当する制度を名指しすることは可能かも知れないが、世の中を支配しているのはその制度だけではなく、しかも制度そのものだけではなく、制度を用いて世の中を支配している勢力を名指しすることも可能であり、少なくとも世の中を支配しているのはそれだけではないということも言えるかも知れず、では世の中を支配しているのは何なのかというと、そういう問いでは支配の全てを語ることはできないということであり、支配にも程度があって、果たして支配されているとも思われような軽い程度の支配を支配と呼べるのかというと、そんなのは支配ではないと思うかも知れないが、支配ではないと思うことと実質的に支配されている状態とは両立できるだろうし、支配されているとは思わせないようにして、支配するやり方が確立されていれば、その中で各人が何か自主的かつ積極的に活動しながら主体的に振る舞っているように思わされているのだろうが、それが簡単に言えば競争による支配であり、競争すれば競争している中で誰かが勝ち、勝った者が成功しているように見えるわけだが、勝つに至る過程において勝つために積極的に活動している中では、確かに自身が主体的に振る舞っているように感じられるだろうし、勝つという目標に向かって自主的に努力している最中であり、自分の意志で勝つために動いていることを、自由意志として実感できるかも知れないが、そこでおこなわれている競争自体が制度的に競争が成り立つように整備されていて、なるべく暴力を排除して、ゲームによって勝ち負けが決まるように、できる限り公平に装われたルールを守るように強いられていること自体が支配そのものなのだが、そんなルールによる支配を受け入れた上で自由を実感できるとしたら、果たしてそれを真の自由だと見なしていいのかと問われるわけでもないが、自由とはそういうものだと割り切っていられる限りで、それを自由だと認めざるを得ないだろうが、実際には自由に競争しているわけではなく、一応はルールに則って競争しているふりは装うだろうが、時にはルール違反を犯してしまうのも、競争している中では普通に起こり得ることだろうし、実際に違反行為がバレて罰則を科されながらも、いかにしてバレずにルール違反して自らが有利になるように事を運ぶかも、技術的に追及されるだろうし、そういうことも含めて競争をおこなっているわけだから、やろうと思えば手段を選ばずにやりたい放題やりたいわけで、そういう成り行きや状況の中に身を置いていれば、普通の感覚で倫理も道徳も二の次になってしまうだろうし、それ自体も都合良く解釈されて、マックス・ウェーバーの職業倫理観のような内容に落ち着いて、それが権威的に正当化されればやっていることの言い訳としても機能するだろうし、その場の状況に応じてやるべきことを判断しなければならないのが、恒常的に成り立つかのような普遍的な倫理観として見なされて、それに準拠していれば少々強引なことをやっても許されるような気がするわけで、それ自体がいい加減なデタラメだとも思わないだろうが、何とかそうやってまともなことをやっているような体裁が取り繕われる限りで、誰もがそこへ積極的に介入している気になれるわけだが、それは信じていなくてもかまわないようなことでもあり、信じられないと公言するわけでもないだろうが、それが信仰の対象とはなるだろうし、それとは何かといえば、はっきりしたことを言ってしまうと差し障りがでてくるから、その手前でうまく予防線を張りながら、否定的な断言にならないような配慮が求められているとも思えないだろうが、そこまで配慮する手前の水準で活動する必要があるといっても、そんな自覚が芽生えるまでもなく、そうなるのが自然の成り行きになっていれば、自然にそうなっているように見せかけるのが制度の効果であり機能だと言ってみても、制度の中に身を置いている人がそんなことまで意識できるわけもなく、ともすれば漫画の世界の住人と化している可能性もあるが、それをマトリックスワールドだと表現してみても、かっこつけて大げさに幻想について語りたいだけのような気もするが、何かの冗談でそんなことを語りたいわけではなく、それだけが全てでないと言うことがそこから遠ざかるための合い言葉になるはずもなく、その中の住人に気づいていることがそれ以外の世界に暮らす人々には気づかないということではなく、どちらの世界でも気づいていることと気づかないことがあり、どちらの世界でも通用する肯定的な価値観があれば、そこから表向きには共通の世界観が導かれるのだろうが、そこで注意しておかなければならないことがあるように思われるわけでもないが、奇妙な類似点を指摘したくなるわけで、その類似点というのが何から来ているのかと言えば、自由に振る舞うことの限界から来ていて、自己を全体的に見渡すのではなく、絶えず部分的に切り詰めて捉えるようにしていて、その中である一つの分野の一つの役割に特化して自己を捉えているわけで、そこだけが全てではないが、確かにそこで振る舞える技術を身につけておけば、そこから職業的な倫理観が生じてきて、そこで通用することが他の世界で通用するわけでもないが、実際に活動している範囲がそこなのだから、その範囲内にとどまっている限りで通用しているわけで、そうなると気をつけなければならないのは、いかにして自らをその範囲内で最大限に活かせるかということになり、それが自己の目的として意識されながらも、そこで自らを最大限に活かしている限りで、自らの自由を実感できて、そこで主体的かつ積極的にそこで課されている規則に従いながら動き回っていることが、自由に振る舞っているような感覚をもたらすわけだから、規則によって制限を受けた自由という矛盾した状態で活動しているわけだが、そうしないとその範囲内にとどまれずに、そこから逸脱してしまえばその場の役割を全うできないわけで、そうなってしまうとその場では自由に振る舞えなくなって、ルール違反を宣告されてそこから退場させられてしまうわけだが、逆にそうなった時に初めて、その場の外でその場のルールには束縛されない真の自由を獲得できると思ってもかまわないはずだが、そうなってしまうと今度はその場で培った技術が使えないわけで、それが制度に従う限りで機能する技術であるからには、制度がないと機能しない制度に特化した技術であり、制度の外では使い物にならないのだとすれば、逆に制度がないと困るだろうし、制度に縛られていないと生きていけない人間になっているわけだから、いつの間にか制度に全面依存しながら生きていることに気づいていないことになり、もちろん制度の中で生きている間はそれに気づかないのも当然のことであり、制度の中で生きて死んでいく分にはそれでかまわないわけだが、果たして人を制度の中にとどめておくことができるかというと、実際にその中にとどまっている人が生きていて、その人が制度から外れてしまえば死んでしまうのかも知れないが、制度の中にとどまっている人にはそんなことまで考えが及ばないし、全体を見渡すこともできずに、絶えず制度に守られた範囲内に視界が限定されていて、それも制度によって視界が及ぶ範囲を制度内に制限されているわけで、そしてその制度内で思考を巡らすには、そうした視界の制限が前提条件として機能しているから、制度外のことを考慮しなくてもかまわなくなり、制度内だけで考えている限りで、その制度自体から生じる矛盾やパラドックスに直面する可能性を減らせるわけだ。
10月31日「回りくどい指摘」
この期に及んで何の可能性に賭けていたのかといえば、その可能性というのが思ったほどそうなる可能性が高くはなかったばかりか、結果的にはほとんど可能性がなかったことになり、それでもかまわないと強がるわけにもいかないだろうし、強気になれるような結果ではなかったはずだが、たぶんこれで良かったとは誰も思わないだろうし、可能性とはその可能性ではなく、別の可能性の方が高かったと言うことになるが、そうであったとしても、とりあえずそれらの存在が何らかの形で一定の役割を果たしたと言えるとすれば、それがどんな役割だったのかと言えば、役割とかいう以前に、そこで何かが無視されているのかも知れず、その無視されている何かが何かといえば、普通に考えてそこで強く否定されて、これでもかと批判されていた何かになりそうだが、そこに何かの可能性があり、特定の傾向の人たちが強い拒否反応を示すところに、これからの可能性があると思っておけばいいのかも知れないが、しかもその強い拒否反応というのが、そこに人を惹きつける魅力があることの裏返しの反応なのかも知れず、その魅力に逆らうのではなく、その魅力を利用する必要があるということにでもなれば、少なくともそれに対して強い拒否反応を示している人には利用できず、しかもそれを利用できないから、うまくいく可能性がほとんどないと断言して、そこから何かを強弁できる可能性も出てくるような気もするだろうが、それを利用できない人たちにはうまくいく可能性がほとんどないということを、それらの人たちがわかっているのかというと、それに対して強い拒否反応を示しているわけだから、普通に考えてわかっていないことになるはずなのだが、それを意識して思考したり感情的に拒否するレベルではわかっていないということであり、逆に言えば強い拒否反応が何かを物語っていて、感覚としてそこに重要な何かがあることを感じ取っているのであり、その感じ取っている何かを利用できないばかりか、強い拒否反応を示すという逆の反応を示してしまい、結果的に自分たちが強い拒否反応によって掴み取っている何かの価値を理解できずにいるわけで、せっかく宝を見つけていったんは実際に手にしたのに、それが宝だと認識できずに捨ててしまうようなおかしな事態に陥っているのかも知れず、もしかしたらそのまま持っていたとしても宝の持ち腐れとなってしまう可能性も高いのかも知れないが、ならば捨ててしまうか宝の持ち腐れとなってしまう宝とは何だったのかというと、それは相変わらず宝とは認識できない何かであり、それを強調して強弁する過程で抜け落ちてしまう何かであり、そこに微妙な差異があって、単純には割り切れないかも知れないが、それが何だかわからないということにはならず、わかるかも知れないというわけでもなく、それを強調してそれがはっきりとわかるように強弁してしまうと、何だかわからなくなってしまうような何かであり、うまく言い表せない何かなのかも知れないが、ではなぜそれに対して強い拒否反応を示していたのかというと、それを必要以上に強調して何が何でも絶対に譲れないこととして強弁しようとするからで、そういった傾向の言語表現を使ってそれを示そうとすると、その魅力を利用できる可能性がほとんどなくなって、せっかく手にした宝を捨ててしまっているようなもったいないことになっているのかも知れず、もしかしたらそれをあとほんの少しだけ引き寄せておけば手にした魅力をそれまでの何十倍もうまく活用できるようになるかも知れず、それが今のところはできていないのであれば、やはり何かもったいないような気がするわけだが、それが何なのかを今のところは誰もうまく指摘できていないのだとすれば、せっかく手にした魅力がその手からこぼれ落ちてしまうのも仕方のないことだが、今後何かのきっかけからそれを活用できる人材が突然現れるとも限らないし、その時がやってくるのを待つしかないかというと、そうでもないのかも知れず、すでに新しい方面から新しい人々が次々に現れつつあって、それらの人々が何をやろうとしているかについては、様々な方面で様々な物事に取り組んでいる可能性があるということであり、今さらそんな人々の存在をあやふやに空想してみても、何を述べていることにもならないだろうが、それが必ずしも誰もがそれと認めることができるような特定の勢力を形成しているわけではなく、何か詐欺とすれすれの阿漕な商売に手を染めていることになれば、信用できなくなってしまうのだろうが、もちろんそれと比較してわかりやすく世間にも認められた政治勢力の類いであっても、やっていることがそれとそれほど変わらなければ、それもどうということはないわけだが、何かそれらの間で明確な境界線が引けるような幻想を抱いてはまずいだろうし、それに関して人の善意を利用してそこから利益を引き出そうとすると、善意を利用された人には何か釈然としない思いがもたらされて、それがその人にとって何になるかといえば、大抵は何にもならないかも知れないが、なるとしてもちょっとした気苦労しかもたらさなかったり、気にしなければすぐに忘れてしまうことかも知れないが、それをいつまでも根に持っていると次第に気苦労が増してきて、それが割の合わない災難とも思わないが、もう二度と力を貸さないと思うわけでもなくても、それもちょっとした気苦労程度で済ませられるなら大したことはないわけだが、その種の気苦労を厭わない人も中にはいるとしても、こちらが勝手にそう思っているだけで、向こうは気にもかけていないことであったりすれば、下手に気を遣って損したようにも思われるし、その程度で済んでかえって面倒なことに至らずに良かったと思われる時もあるだろうが、それを何かの都合で何でもないことにしてしまえれば気が楽なのだろうが、実際にそうなれば後腐れなく、さっさとその場から立ち去って、何事もなくそれとは無関係なふりを装っていられるのかも知れないが、実際には何かしら関係してしまったことが後悔と共に心の傷としてあとから度々思い出されるようなら、やはり何か釈然としない思いがいつまでも尾を引いている証拠かも知れないが、一時的にしろ、その対象に魅力を感じてそこへと惹きつけられていたのだから、何かあったことは確かであり、それがどういう経緯でこじれて人を騙すような成り行きなってしまったのかといっても、その当事者にもはっきりした理由があるわけでもないのかも知れず、そういうことをやってうまく立ち回れるような機会が誰にでもやってきて、その機会を逃さなかったのがたまたまその人であったり、その種の集団であったりするのだろうが、そうした人や集団が世間的にある程度は認知されて、その存在が認められる過程で、何かどうしようもなく他人の善意を利用して、結果的にその取り組んでいる方面でうまく成功できればいいのだろうが、時にはそうなるどころか、逆に他人の善意を裏切ったり踏みにじったりしながら、しかもそうすることがそこでの避けて通れない成り行きになってしまうと、その場の成り行きに従えば否応なくそうなってしまうわけで、そうするよって不快感や不信感を抱かれて、面倒ないざこざにも発展して、あとから思えばそうなることがそこでの定めだったようにも思われてくれば、別にそれでもいいような気がするわけでもないだろうが、そういう方面ではそうであっても、第三者的な無責任な視点からそれを語ろうとすれば、面白おかしく誇張したり、わざとありもしない話を盛ったり付け加えたりしながら、できるだけ愉快に語ろうとしてしまうわけで、そうなると実態としては険悪な関係が時には愉快で間抜けな関係などへと変貌して、それだけフィクションの度合いが高まってくるが、実態を知っている当事者であればそれほど愉快には感じられないものの、実態を知らずに話のうわべだけで判断するなら、面白おかしくもくだらない内容だと思われて、そんなことに深入りして間抜けな対応に終始している人は愚かだと思うだろうが、いったんそこへ足を踏み入れると誰もがそういう成り行きにとらわれてしまうわけでもないだろうが、何とか冗談のような話の展開へと持って行きたいのであり、実態としては悲劇に分類されるような話でも、苦笑いを誘う皮肉な要素をねつ造してでも付け加えて、その種の魅力があるように見せかけたいのだろうが、それもちょっとそこから脇に外れて状況を別の角度から見れば、そこにかかわっている人々の意図や思惑とは別の面が見えてきて、そういうところから真実として信用できる何かが垣間見られると、少しは救われた気分になれるのかも知れない。
10月30日「身から出た錆」
自身のこれからに関して具体的には何の展望もないが、それで何かがどうにかなる可能性がなくなるというわけでもなく、実際に何もどうにもならないなら、すでに気づかないところで何かがどうにかなっているのかも知れないが、ここだけでなく他でも何かがどうにかなっている可能性もあり、世界中がすでにどうかしている可能性もなきにしもあらずだが、以前からおかしいところはおかしかったのだろうし、これからもおかしいままかも知れないが、これから新たに何かがおかしくなってしまうのかも知れないし、それによって逆にどこかがこれまでよりも少しはマシな状態になるのかも知れないが、たとえこれまでとは少しはマシな世の中になったとしても、人によって気分がいくらか良くなる程度のことかも知れないが、それもその人の立場や境遇によっても程度に違いがあるだろうし、良くなる可能性に期待して誰がわけのわからないことを語っているわけでもないだろうが、それがわけのわからないことのように感じられるのは、その人の語っている言葉が理解できないからではなく、語っている内容に反発している面もあるだろうが、根本的なところで言葉を受け付けないと思っておいても差し支えないが、どうなるにしても単純な論理を信じてしまうと、逆に回りくどい成り行きに巻き込まれていることに気づけないばかりか、さらにいやになるような回り道を強いられて、途中で力尽きてしまうのかも知れないが、力尽きるということが自らの死を意味するとは思っていなくても、実際に死んでしまえばそこで終わりとなるわけでもなく、たとえその人の生が終わったとしても、何かしらこの世界に思いを残せれば、その思いが他の誰かに影響を及ぼして、今度はその誰かを不幸に導くとも限らないが、そうならないように配慮しながら生きていかなければならないわけでもないだろうし、他人に対してどういう配慮ができるとも思っていなくても、それどころか全く配慮できなくても何かしら影響を及ぼして、その他人を苦しめるようなことがあっては心苦しいだろうが、心苦しくてもなるようにしかならないばかりか、ともすれば可能な限りひどいことをやってしまい、そのひどいことが周囲の人たちに多大な迷惑をかけようとも、それがその人にとってはどうしようもなくやらざるを得ないことであれば、ひどいことをやりながら前進し続けるしかなく、そのひどいことがひどいことをやっている人にとっては、生きていくのに必要不可欠に思われるようなことであるならば、そういう思い込み自体がとんでもない勘違いである場合も結構あるかも知れないが、そう思われてしまうこと自体が世の中が狂っている証拠だと思ってみても、それも根拠のない責任逃れの責任転嫁かも知れないし、世間一般のせいにするのではなく、国のレベルで主導権を握っている政治勢力や官僚勢力や企業勢力やメディア勢力のせいにするのが、誰もが思いつくよくあるパターンには違いないが、思いつくことと実際に世の中の様々な方面から作用や影響を及ぼされている実態とが全く関係がないわけでもないが、そうであってもなくても、それらについては何かしらもっともらしいことが言えるような気がするのであり、たとえそれを言ってみたからといって、その言っている内容によって、何か世の中の仕組みが理解できたように思われるわけでもないが、世の中の仕組みを理解できたところで、世の中を動かす側に回れるわけでもなく、その仕組みを理解するだけでは何がどうなるわけでもないが、それでは気が済まないなら、そこから何か主体的に行動を起こさなければならないのかも知れないし、たとえ行動を起こしたところで結果的に何がどうなるわけでもなければ、行動が不発に終わったことになるかも知れないが、その行動の内容が世の中の現状を維持するために変化の芽を摘み取るようなことをやっているのであれば、そういう面では行動が有効に機能したことになるだろうし、その気がなくても自然とそうなってしまう場合もあるかも知れないし、当人の意図や思惑とは関係なく、結果的にどうなるかは、世の中の情勢や成り行きが決めることになるようなら、行動する人の主体性など一切考慮されない世の中になっているわけだが、それに関してはいわゆる全体主義国家と呼ばれるような支配形態でなくても、その時代から遠ざかってみると、その時代の中で生きている人々が各々に様々な意図や思惑を抱きながら行動していても、その時期に特有な時代情勢に操られて導かれながら情勢の範囲内で抱くことができる意図や思惑が決まってきてしまい、そういった時代的な制約を逸脱してそれを突き破るような意図や思惑を抱くことなど稀にしか起こらないのかも知れず、少なくとも行動の動機やその内容が周囲の人たちと似通っているようなら、その場の状況や情勢に拘束されていると思っておくのが無難なところだろうが、そんなことに気づく人も稀だろうし、普通は誰も気づかずに似たような心理状態や行動形態になってしまうだろうし、実際にそうなってしまうから競合状態となって、そこで利益の取り分を巡って反目し合い、争いが絶えなくなってしまうわけだろうが、もちろんそこに利益がもたらされるとも限らないし、利益どころか無益な殺生ばかりが繰り返されるようになれば、その場が平和からはほど遠い状態になってしまうが、たとえ平和であってもそれ相応に事件や事故が絶えないし、世の中のそんな面にばかりに目を奪われていると、自分が他人と似たような心理状態や行動形態になっていることに気づかず、しかもその場の情勢に特有な成り行きからそうなるように誘導されて、実際に誘導されていった先で思わぬ事件や事故に出くわせば、何かの罠にはまっているのではないかと疑ってしまうのだろうが、それが身から出た錆であり自業自得であることにされてしまう場合もあり、誰からもそんなことをやれと面と向かって指示されたわけではなくても、善意から余計なお節介を引き受けたわけでもないのに、良かれと思ってやったことが仇となり、しかもそれが直接そうなるわけではなく、それをやったついでに何か気づかないところで他人の気に障ることをやってしまってその場が険悪な雰囲気なってしまえばやぶ蛇なのだろうが、たぶんそれにも気づかない場合もあって、何とかその場をしらばっくれながら乗り切った先でも執拗に待ち受けているのが、思わぬ落とし穴のような罠であれば、それでも強がりながらそういう成り行きを体験できてそれなりのスリルを味わえて良かったと思うかも知れないし、強引に生きている実感を得られたように思い込めるかも知れないが、そんなことを体験しているうちにも、それなりに歳月が過ぎ去って、そういった経過の中で時代状況の変化を感じ取れるなら、少しは冷静になって自身がこれまでにやってきたことを振り返る余裕が出てくるかも知れないが、これまでの自身の行いが世の中でおこなわれていることの善悪や正否の判断基準となるようなら、そんな面では自己中心的に物事を判断していることになるだろうが、その反対に自身の行動指針や判断基準が世の中でおこなわれていることに依存している面もあるだろうから、自分と世の中との関係を相互依存的で相互作用的に捉えるしかないが、もちろんそれが対等の関係ではなく、自身の方が圧倒的な不利な状態で世の中の情勢に依存しながら生きていて、世の中に対して何の影響力もないことは身にしみてわかっているはずだが、それでも世の中で起こっている物事に関心を抱いて興味を惹かれると、何らかの形でそれにかかわろうとするだろうし、かかわったところでそれの何をどうすることもできなくても、それにかかわることによってそこから何らかの作用や影響を被って、それなりに心身が変容するのだろうが、それを自覚することがあるかというと、気づかないところでも絶えず様々な物事にかかわっているから、いちいち自覚できるわけでもなく、気づかないままに自身が変容して行ってしまい、大抵の人はそれに気づかないままに生きて死んでいってしまうのかも知れないが、それが普通に起こっていることであるなら、どう考えても気に留めるようなことでもなく、普通はそれでもかまわないだろうが、何かやられっぱなしではしゃくに障るようなら、少しは反骨精神が芽生えている証拠かも知れず、それが何であれ自分が存在しているのだから、主体的に物事にかかわりたいわけで、気が済むように振る舞いたいから、世の中の情勢に依存しながら生きているだけでは物足りなくなってきて、最低でも一矢を報いるようなことがやりたくなってくるのだろうし、それが自身の幻想にすぎなくても、そんなことをやるからおかしな状況に陥って、自業自得な不運を招いて、それが身から出た錆であるかのように思い知らされる場合もあるだろうが、それでも自らが主体的に行動している限りで後悔よりも先に自由を実感できるのではないか。
10月29日「微妙な違い」
制度的に定められたある一定の期間にわたってどこかで誰かが騒いでいるのは確かだが、その騒ぎを聞きつけて世の中の様々なところからそれなりの人数が群がってきて、そこに集まった誰もが単純な主張に聞き入っているわけではなく、その主張を支持したり批判したりしている一方で、実際にそれよりもっとひどい主張内容を信用している人がその何百倍もいるのかも知れず、そんな主張と比べれば何百倍も良心的な主張にそれなりの人数が聞き入っているようにも見えるが、良心的な主張の方が信用できるというわけでもなく、どちらかといえば世の中の慣習に忠実で迷信的な主張の方が信用されやすいだろうし、さらにどちらかといえば功利的な主張の方が信用されるだけでなく、実際に利益を得られるような気がするのだろうし、気がするだけではなく実際に利益がもたらされれば納得できるかも知れないが、そこに信じようとすることと納得しようとすることの両面にわたって迷信的な効果が及んでくると、それを信じたところでどうなるわけでもないどころか、逆に自分で自分の首を絞めているとは自覚できないものの、迷信を信じていると安心感や安堵感を覚えるだろうし、それが自分で自分の首を絞めていることにはならないし、それどころか逆に多くの人が迷信を信じていればそれだけでも世の中の状態が平穏無事に推移しているように感じられるのであり、もちろんそれは迷信を信じない人たちを抑圧したり黙らせていられる限りで保つことのできる状態なのだろうが、そういう意味では迷信を信じないことを声高に主張する人たちは戦略的には間違っていて、そんなことをやっているから迷信を信じている多数派の支持を得られずに、その地域の中で主導権を握れないわけだが、そうだとしても誰もそれが迷信だとは確信できないだろうし、それどころか特定の何かを信じているというはっきりした自覚さえなく、それが何かの拍子に唐突にわかるのが、その人に何かを主張させたり語らせると、場違いにおかしなことを信じているように思われるからだが、例えばどこかの地方の田舎で老夫婦がメディアの質問に答えて、日本の国防が何やらかんやらと語り始めると、途端にそれがタカ派的な政府の与党政治家の言動をオウム返しに繰り返していることがわかるのだが、そのおかしな何かがたわいない偏見のようにも思われるとしても、例えばそれを作り出しているのがNHKの政治番組であるなら、たわいない偏見程度では済まなくなって、また途端にそれに対する批判的な論調が構成されてしまうかも知れないが、そういう話題を共有しない人を除け者にしようとする限りで、不寛容な権力として何かが作用して、それが脅迫的な同調作用を伴って有形無形の圧力となって加わってくるわけで、しかもそれを何のきっかけも生じないところではうまく言い表せないところが微妙なのであり、どう言い表せばいいのかわからない焦燥感に押し出されながら、単純化した差異や比喩を用いてわかりやすく語ってしまうと取り逃がしてしまうようなことでもあり、批判的な調子で語ってしまうこと自体が間違っていると断言するわけにもいかないが、具体的な物事に関して賛成か反対かという単純なやり方で区分けするとわかりやすくはなるものの、それに対して批判的な姿勢を取らざるを得ないと、反対ばかり表明する立場へと追いやられて、反対派というレッテルを貼られてしまうし、そうなってしまう時点で何かを提案する立場を奪われて、ただ一方的に何かを提案して推進するような物事に賛成するかさもなければ反対するかの二択しかなくなって、考える余裕が生じてこないわけで、そうやって絶えず権力を行使され続けて受動的な姿勢を強いられる限りで、それに逆らうと批判したり反対するばかりになってしまい、積極的には何も提案できない人たちにされて、そういう悪循環に陥らないようにするには、直接あからさまに批判したり反対するのではなく、それらの強制二択を強いるような提案を微妙にかわして、直接の衝突を避けてすれ違うような提案を逆にしていかなければならないわけで、それが批判や反対を全面に打ち出す人たちにはわかっていないばかりか、どうしても敵対する勢力との差異を際立たせるためにわかりやすいことを言い放って、それが自ら墓穴を掘っているという自覚に結びつかないのはわかりきったことかも知れないが、わかりきったことに気づかないから迷信を信じ込んでいる多数派の思うつぼにはまってしまうわけで、現状ではそういったわかりやすい批判派や反対派では太刀打ちできない成り行きになりつつあるのかも知れないが、ではどうすれば世の中の慣習に基づいた迷信を打ち破ることができるのかというと、打ち破ろうとするのではなく、まずは多数派とほとんど同じようなことを主張する必要があり、しかもほとんど同じだが微妙に違うようなことを主張することが肝心で、その微妙な違いが迷信を信じ込んでいる人たちに気づかれない程度の違いとなればいいわけだが、そんな虫のいいことが主張できるかとなると、できれば苦労はしないし、それでも工夫を凝らすしかないが、戦略的に振る舞うなら最低でもその程度のことは考慮に入れておく必要があるだろうし、そういうところは多数派の中での派閥争いや覇権争いが参考になるだろうが、そんな争いに参入しているつもりで似たような主張を繰り返していれば、やがてどちらが多数派なのか見分けがつかなくなってくればしめたものだが、そういう遠回りで地道な努力を怠らずに、主導権を握る機会が巡ってくるのをひたすら待ち続けていれば、向こうから好機や幸運が転がり込んでくるようなことになればそれもしめたものだが、主導権を握ってから態度を豹変させるわけでもなく、何かそれまでの延長上で代わり映えのないこと主張して代わり映えのないをやり続けていれば、しびれを切らして自ずから世の中の方が変わってくるかというと、そんな虫のいいことにもならないだろうが、果たして現状の政治情勢がそんな成り行きになっているかというと、そうなっていないのは火を見るよりも明らかかも知れず、そうであればあり得ないようなことを語っているように思われるかも知れないが、語るとなると語れる程度であり得ないことを語っておくのが無難なところでもあり、語りの中で実現可能な結論が導き出されてしまうこと自体がフィクションでしかないわけだから、不完全な内容でもかまわないわけでもないが、そうならざるを得なければ結論に至るのを断念しなければならず、たぶん一般の人々であるならメディアから素直に影響を受けて、その中で語られる内容に感染してそれと同じような主張を繰り返すことしかできなくなってしまうかも知れないが、普段はそんなことを主張しなくても済んでいるから、その手の言動に感染していることに気づかないのも当然だろうし、それで済んでいる限りで感染者が世の中に悪影響を及ぼすこともないのだろうが、ひとたびそれらの感染者たちが選挙で投票するとなると組織票として機能する場合もあるだろうし、そうなっても世の中に悪影響を及ぼしているどころか、かえってそれが世の中の安定に寄与しているといえる可能性さえあるが、そんな現実を突きつけられて納得できるかというと、何かメディアに操られているような不快な気分となるかも知れないが、それが紛れもない現実かというとそうでもなく、そんな現実を突きつけられる機会など永遠にやってこなければ、絶えず潜在的な可能性の次元にとどまり続けて、そうなっている限りで何の問題も起こらないと思っておいてもかまわないが、可能性としては絶えず危機的な状況が想像されて、それも想像の次元にとどまり続ければ何も起こらないわけだが、そういう意味でそれについてどう語ってもフィクションの域を出ない話となり、たわいない妄想にすぎなくなってしまうわけで、そうならなくても一向にかまわないのだろうが、それでも現状を積極的に批判したり、現状でまかり通っていることについてあからさまに反対を表明するとなると、それだけ現状で成り立っている世間からの風当たりが強くなって、それに伴って有形無形の否定的な作用や影響を及ぼされてしまうわけだが、なるべくそういう作用や影響に気づくように心がけて、それをそのまま素直に受け止めておくことも肝要なのかも知れず、そういうことに気づけば、なぜそれを批判したくなったり、それに反対したくなるのかについて考える機会も得られるかも知れず、そこからそういう作用や影響にどう対応してどう対処すればいいかも考えるようになれば、その先においてまとまった結論が出てこなくても、考え続けることから何かしら行動や行為が生じてきて、それが自ずからそれへの対応や対処となってくるのかも知れない。
10月28日「山本太郎の必要性」
そもそも現状で何が必要なのかといっても、様々な物事が必要なのだろうが、この世界のどこからかその必要が生じてきて、それが必要だと思っても、必要な物事を手に入れるには、それなりに面倒な手続きを経ないとならない場合もあり、必要に応じてすぐに必要な物事がもたらされるわけでもないだろうが、必要なのに手に入らなければ困ってしまうし、その代わりに必要でもない物事がもたらされても困ってしまうだろうが、必要な物事が手に入らなくてもその人が生きていれば、その人が必要だと思っている物事と、その人が生きていく上で必要な物事とが一致していないことになるだろうが、生きていく上で必要ではない物事が必要だと思うことがおかしいのかというと、少なくとも完全におかしいわけではなく、その人が必要だと思っていることと、それが本当にその人にとって必要なのかが、必ずしも一致していなくてもかまわないような状況というのもありそうで、そう思っていてもそれがその人の勘違いとは言えず、必要でない物事を必要だと思うもっともな理由や原因があれば、何かそれで辻褄が合っているように思われて、しかもそれが他からすれば必要であってもなくてもかまわないようにも思われるなら、そう思いたければ勝手に思っていればいい程度のことになってしまうだろうが、それが必要かどうかということ自体が、当人の主観に基づいてそう思われるということであり、思うだけならいくらでもそう思われるだろうし、しかも切実にそう思われて仕方なければ、他の人がどう思おうと当人にとっては必要だと見なすしかないだろうし、当人がそんなに必要だと思っているのだから、それを他人が否定する筋合いでもないだろうから、そういうことに関しては当人が必要だと思い込んでいる限りで、たとえそれがなくても困らないような物事でも、なぜか必要性が生じているということにしておけばよく、そうであるなら必要かどうかということ自体が、それほど重大で深刻なことでもないのだろうが、もちろん全てにおいてそうであるわけでもなく、中にはそれがないと本当に困るような物事が不足していて、それが死活問題となっている場合もあるのだろうが、それを言葉で表現してもうまく伝わらなければ、その人にとってはそうであっても、他の人にはそれが理解できなかったりして、その人としてはそれでかまわないはずがないが、相変わらず他人にとってはどうでもいいことでしかなかったりして、そういうところから齟齬が生じてくるのだろうが、それが現実の世界で生じていることであり、そこにあるものやそこで起こっていることについて、それに対する理解や認識に関して人々の間で食い違いがあるから、人それぞれでその必要性に関しても差が出てきて、ある人にとっては切実に必要だと思われる物事が、他の人にとってはそうでもなく、人によっては必要であるどころか不要だと思われていたりすれば、同じ物事に対して正反対の認識が共存していることになるのだろうが、そうなっているからといって、必要か不要かのどちらか一方に認識を統一する必要性もなければ、それに関しては立場の違いがあることになり、それが必要な立場と不要な立場とに分かれているはずだが、もちろんそのどちらでもない立場というのもあるだろうし、その物事とは無関係な立場もあれば、実際にかかわっていない人にとってはどちらでもなく、場合によってはそんなことはどうでもいいことになるだろうが、どうでもいいからといって無関心でいられなくなれば、そうなった時点でどうでもよくはないことになって、それが必要か不要かの判断を迫られることにでもなれば、そこで何らかの認識を示すしかないだろうが、認識を示したところで、その人の認識が他の人たちにどう受け取られるかも様々な可能性があるだろうし、好意的に受け取られたり否定的に受け取られたりもして、中にはそれを批判したり、その認識が間違っていると主張する人まで現れると、面倒なことになってくるだろうが、その人が世間的な面で何の影響力もなければ、どんな認識を示そうが無視されるしかないかも知れないし、そういうところでもその人の社会的な立場によって、その人の認識自体が必要か不要か、あるいは有益か有害か無益や無害かとか、様々な受け取られ方がされるかも知れないが、たとえその人の認識が間違っているように思われても、その人の社会的な発言力や行動力や影響力などがものを言って、その人の存在とその認識と発言内容などを利用して、何かそれらをうまい具合に有効活用できるかのような幻想を世間にもたらす場合もあるだろうし、その対象となるのが目下のところは山本太郎という人物になるのかも知れず、それをポピュリズムと見なして切り捨ててしまうにはもったいないように感じられるなら、何とかして利用できないものかと多くの人々が思っているのかも知れないが、その辺が思案のしどころでもあるのだろうが、少なくとも多くの人が抱いている好意的な印象を、所詮は幻想にすぎないと否定的に捉えるのも、何かもったいないような気がするわけで、幻想を抱いている人たちを小馬鹿にするのも、実際に小馬鹿にしている人たちの方が魅力の乏しい貧相な人たちのように見えてしまうから、それもちょっと違うのではないかと思うわけで、やがて放っておいても幻想が幻想でなくなって、何か実を結んで形となって表れることにでもなれば、そうなった時に日本という地域や国にとって、どのようなことになるかは、そうなってみないとわからないが、このまま何も起こらずにその存在が忘れ去られてしまっても、そういう風土でしかなかったということになってしまうだろうが、それではつまらないと多くの人が思うようなら、それなりの必然性を伴って何かしら起こるのだろうし、それが肯定的な結果を伴うように持って行ければそれに越したことはないわけだが、それに関しては現状の政治情勢が逆説的な作用や影響を及ぼす可能性があり、ひどい人や政治勢力や官僚機構が長年にわたって主導権を握っていて、それを多くの人たちが消極的に容認し続けているから、山本太郎のような存在が現れるべくして現れてしまうわけで、しかも日本の場合は主導権を握っている勢力があからさまに強権的な独裁体制を構築できないから、微妙に中途半端な状態を保っていて、そこでも天皇制が存続していることがそれなりに影響を及ぼしているのかも知れないが、山本太郎がロシアのナワリヌイ氏のようなことにはならないところが不可解な印象を受けるかも知れないが、それを民主主義が不完全ながらも日本に定着していることの証拠だと胸を張って正当化する気には誰もなれないだろうし、そういうところは誰も自覚していないのだろうが、簡単に言えば本気で政治ゲームに入れ込んでいないと捉えるなら、そんなことはないと誰もが否定するかも知れないが、逆に民主主義を実現できると本気で信じている人たちがこじれると、逆説的に強固な独裁体制が構築されてしまうという皮肉な結果がもたらされてしまうから、その辺が日本の中途半端さ加減が功を奏しているというか、ある意味では災いしているのかも知れないが、このままでもかまわないとは誰も思っていないだろうが、結果的にはなるようにしかならないだろうし、たとえ山本太郎の出現とその行動や言動が不発に終わっても、そうなった結果から日本的な風土が災いしてそうなったと言えるだろうが、もちろんそうはならない可能性もあるだろうから、多くの人々が山本太郎に幻想を抱いているなら、日本的な風土が変わる可能性に期待しているから幻想を抱いているわけだが、今後それがどこまで膨らんでいくかが、日本の将来を決めると言うと、ちょっと大げさすぎる認識になってしまうだろうが、それが大げさすぎると思われてしまうところも、日本的な風土に精神が影響を及ぼされている結果かも知れないし、もっと思い切って誰もが妄想を膨らませて期待すれば、何かとんでもないことが起こって、これまでの日本ではないような状況になってしまうかも知れず、それがひどい状況となるか、誰もがそうなって良かったとしみじみと実感するような状況となるかは、賭けのようなことなのかも知れず、果たして山本太郎ごときに日本の未来を託してもかまわないのかというと、今のところはそうは思わない人の方が圧倒的多数を占めているのだろうが、何かのきっかけからわけのわからない紆余曲折を経た挙げ句に圧倒的多数の人たちが山本太郎を支持するようなことが起これば、独裁体制のような状況に至ってしまうかも知れないが、それも世界各地でありふれているだろうし、ありふれた状況を経ないとありふれた民主主義が実現しないのかも知れないし、ありふれた民主主義が実現するきっかけとして山本太郎を利用する機会が今後やってくるのかも知れない。
10月27日「歴史的な意義」
安易に他国の制度や事例から学ぶような素振りを装うのは、自国の歴史的な経緯やそこから地続きの現状を考慮しない空想的な無い物ねだりの域を出ない態度と見なされてしまいそうだが、実際にもそこから何を学んでいるわけでもなく、それどころか何も学ぼうとしないから他国の制度や事例を持ち出しては、自国の歴史や現状から目を背けているような気がするのは、その現状がそれほど否定すべき状況でもなく、かえって自国の現状を全否定するような主張こそが無視すべき対象となり、そうかといって全肯定したいわけでもないのだろうが、自国の現状を否定的に批判したい人には思い通りにならないことが確かにあり、その人の力だけでは思い通りにならないから、他の人々に向かって協力してくれるように呼びかけて、その人の主張に賛同して一緒になって思い通りにならない世の中を思い通りに変えていこうと呼びかけているのだろうが、その人の主張に賛同してくれる人が思い通りに集まらなければ思い通りにならないままとなってしまうのかといえば、思い通りにならないのはその人だけではなく、他にも大勢の思い通りになっていない人たちもいるだろうから、それらの人々の思い通りになっていないことが、それらの人々が力を合わせて思い通りにならない現状と格闘すれば思い通りになるのかといえば、実際にそんなことをやる成り行きになればわかるかも知れないが、その人が呼びかければそういう成り行きになるのかというとそうでもないような気がすれば、何かそこに当てが外れるような物事の成り行きがありそうだが、実際にその人の思い通りになっていない現状があるのだから、その人が呼びかけても思い通りに協力者が集まらない現実もあるのだろうし、そういうところが当てが外れているのだろうが、主張としては協力してくれるように呼びかけるしかないだろうし、実際に協力してくれるように呼びかけているわけで、思い通りにならない現状を変えるために協力者を募っているわけだろうが、実際に思い通りには協力者が集まってくれないわけだから、その人にとっては相変わらず思い通りにならない現状があるわけで、そんな現状の中で果たしてその人が主張していることがその人の思い通りの内容になっているのかといえば、たとえ思い通りに主張しているとしても、その人もそれを聴いている聴衆も主張内容がそこに集まった人の思いを反映しているとしても、それらの人たちの活動が思い通りにできているのかといえば、ある程度はそうなっているのかも知れず、物資の面でも資金の面でも動員できる人数の面でもそれなりに制約がある中でも、それなりに活動が成り立っているから、そういう面ではある程度の水準で思い通りの活動ができているのだろうが、客観的にはそれがその人にとっての思い通りの世界である可能性があり、何かを主張して、その主張を聞いてくれる聴衆を集めることがその人の活動であり、それが思い通りに活動できていることを示しているが、たぶんそうした活動の成果として実現されていることがその人の思い通りとはならず、なぜ思い通りにはならないのかといえば、活動しているのがその人だけではなく、他にも様々な人たちが同じように活動していれば、当然のことながら競合状態となって、そうなればその人だけでなく、同じように活動している他の人たちの思い通りにもならないわけだが、別にそのこと自体がおかしいわけではなく、そうなって当然の結果がもたらされているわけだろうが、要するにそこで動作している何らかの内容を主張し合う競争の制度によってもたらされている現状の中で、そこに参加している誰にとっても思い通りにはならない結果が生じていることになるのだろうが、それが制度によってもたらされている現状である限りは、ある程度は予想の範囲内に収まるようにできていて、少なくとも制度を維持管理する側からすれば、それなりに思い通りの結果がもたらされていて、それが制度を維持管理する側の思惑を反映しているかというと、思惑というよりは制度そのものがそうした現状をもたらしていて、制度が成り立っている時点でそうなってしまうから、そんな制度に従いたくない勢力があれば、制度そのものを破壊しようとするだろうし、具体的には軍事クーデターや暴力革命などによって制度を破壊するわけだが、そんなことまでやる必要が生じなければ、何とか制度の範囲内で活動を収めようとして、実際に制度に従えば、制度が設けた制約を受け入れて、制度と折り合いをつけて、制度的な活動の範囲内でできることをやるしかないわけだが、そんな制度が現状の中で成り立っているのだから、制度をそのままにして現状だけを変えることができるかというと、結局現状を変えるには現状で成り立っている制度も変えなければならず、制度をどの程度変えるかで、現状がどの程度変わってくるかも決まってくるかも知れず、果たして制度に従いながら制度を変えることができるかというと、制度を変えるための手続きや手順が制度としてあるなら、そんな制度を利用して制度を変えるしかないだろうが、そこに至るにはまずは制度に従わなければならず、制度に従っていても手間ばかりかかって、いつまで経っても制度を変える手続きまで至らなければ、らちがあかないから制度を破壊する行為に及んでしまうことも多いわけだが、そうならないように制度を設けて制度に従わせようとするわけだから、しかも制度に従っている限りは現状が変わらないとすれば、現状を変えるには制度を破壊しなければならなくなるように誘導する制度である可能性もあり、現状を変えようと呼びかけている人たちが、そういった制度の誘惑に負けてしまえば、武装勢力などを結成して制度を破壊するための活動を行うような成り行きになる場合もあるだろうが、それも歴史のある段階で生じる成り行きなのかも知れないし、そうした暴力的な破壊活動がおこなわれる時期を通り過ぎると、制度の安定度がより増して、それに伴って容易には変わりようのない盤石な現状が出現して、何を主張しようとびくともしない状況となってくると共に、主張する以前に突飛な主張内容はリアリティを伴わないような空気が出来上がって、そうなると人々の意識の中で事前に検閲がおこなわれて、現状を壊そうとする主張は受け入れられない心理状態となっている可能性もあるだろうし、そうなっているにもかかわらずなぜ現状を変えようとする主張が出てくるのかといえば、無視したり嘲笑する対象としてそういう主張が必要であったり、真面目な主張を小馬鹿にすることによって、その種の主張を封じ込めようとする思惑があり、それも制度としてそういう成り行きになっているのかも知れず、そんなふうにして制度が幾重にも安全装置を備えていれば、ちょっとやそっとのことでは揺るがないだろうし、それがそういうことを想定して事前に制度の中に組み込まれているわけではなく、これまでに様々なことが起こる度に、制度を安定化させるための装置や機構としてその種の成り行きが付け加わってきたと捉えればいいだろうが、その際に注意しなければならないことは、その種の封じ込めの対象となるような主張をおこなっている人たちが必ずしも制度の被害者ではなく、逆に制度をより強化するために必要なトリックスターのような役割を担っている可能性まであり、実際にそれらの人たちの活動が封じ込められるどころか、安心を伴うようなありふれた主張としてメディアでひっきりなしに取り上げられていれば、それこそが制度を強化するための活動そのものなのだろうが、もちろん活動している当人にその自覚があるとも思えないし、そういうことに関しては誰にも自覚などなく、訳知り顔やしたり顔で自分はそうでないと言えるような立場にはなれないだろうし、大なり小なり何かしら世の中を安定化させる制度に従っているのだから、いくら世の中の現状を批判する主張をおこなっていても、そんなことを主張する活動が成り立っている限りで、被害者というよりは加害者や共犯者である割合の方が大きいだろうし、そうなっていることを自覚することすら難しいのだから、それだけうまい具合に制度にやり込められて従わされているわけで、だからといってそういう人たちに騙されるなと警鐘を鳴らすのも、同士討ちを誘発するような制度の範囲内にとらわれている証拠となるだろうし、そういう意味ではある程度は制度に取り込まれていることを承知しておくしかなく、無自覚に制度に従っている範囲内では思い通りになっていると思うと同時に、制度に逆らっている自覚がある面では思い通りにはならないことも承知しておくしかないのかも知れない。
10月26日「財政健全化という正論」
少なくともその人が何らかの意図や思惑を抱いて行動している限りで、それを自覚していて、何か目的があり、その目的と行動とが結びついているはずだが、その行動が他の誰かの勝手な思惑を誘発して、しかもそれが矛盾や破綻のない行動や行為をもたらせば、それも何かはっきりした目的や理由があってそんなことをおこなっているはずだが、その一方でなぜか何らかの理由で絶えずそんな成り行きに逆らうようなことがおこなわれる場合もあって、それに伴って思惑と行動と行為の辻褄が合わなくなってきて、そんな成り行きがさらに別の誰かの思惑や行動や行為を誘発するとしても、そうなる理由も目的もデタラメに思われてしまうと、普通に考えてそんなことはありそうもないが、たぶんそこであり得ないことが起こっていて、それ自体不可解な出来事そのもののように思われてくるだろうが、普通に考えて政府の失政によって借金まみれの財政状態となってしまったから、バブル崩壊以降の日本政府の財政状況も数十年間にわたっておかしいままとなり、そうなってしまった時点でさっさと政権交代して、痛みを伴うような財政健全化政策をおこなえば良かったのだろうが、それをいつまで経っても自民党政権を継続させて借金まみれの状態を保ってきたから、事態がこじれてしまい、こじれたついでに借金まみれでも大丈夫だと強弁したり、さらにもっと借金して経済を立て直さなければならないと主張するような輩が出てきて、結果的にわけのわからないことになっているのだろうが、いつの間にかそれでもかまわないような事態となっていて、誰も財政健全化に関する正論など主張しなくてもかまわないような空気まで形成されているのかも知れないが、それでも財務省などの役割としては、普通に考えて債務超過のままではまずいだろうから、何か機会を捉えて財政健全化という正論を主張せざるを得ないわけだが、そういう主張をすること自体は問題でも何でもなく、言わせておけばいいということになるのだろうが、そんな正論に逆らっていかにもっともらしいことをやるかが政治に求められていて、それだけ事態がこんがらがっているのかも知れないが、本当のところは誰にもわからないのであり、わかっていると自信ありげに強弁する人が一番わかっていないのかも知れないが、現状でも何とかなっているように思われる限りで、それでかまわないようなことになっているだろうし、実際に企業の業績も好調であるならそれだけ税収も期待できるだろうから、税収が増えて予算規模がそれほど増えなければ、財政状態も少しは改善するだろうから、そういう面では状態が好転しつつあるのかも知れないが、それとこれとは違う方面で、経済的に困っている人々を政府が助けるようなことがおこなわれるべきというなら、それももっともらしく思われるような主張となるだろうが、助けるには財政的に厳しいというなら、限られた財源の中で何を優先させるかで調整が必要となってくるだろうし、その中で経済的に困っている人々を助けるための財源を優先的に確保するようなことがおこなわれて、有効な支援策を打ち出せれば、何かまっとうなことをやっているように感じられるはずだが、なぜかそういうことをやろうとするとそれを阻むような横やりが入って、何かわけのわからない紆余曲折が伴ってくるのが政治の面倒でややこしいところなのだろうが、それ以外にも様々な方面で事態がこじれてしまっていて、もはやまともには修復が困難となっている箇所も一つや二つでは済まない状態となっていれば、いくらもっともらしいことを主張しても主張通りのことをやろうとする過程においてうまくいかないような状況となって、おかしなところがはっきりと示されていれば、そういうところを何とかしなければならないということになるだろうが、それがよくわからないような状態になっていると、いくらもっともらしいことを主張しても、実際におこなわれていることが疑問だらけで、なぜそうなってしまうのかに関して、途中経過がブラックボックス化されているように感じられてしまうのだろうが、すでにそうなっている段階で正論が通用しない状態となっていて、逆に都合の悪いことから目を逸らす目的で正論が利用されていると疑われるようなら、それだけ正論を主張する方面で信用が低下していることになるだろうが、そうした疑いが生じているなら、疑われている方面で疑いを晴らそうとはするだろうし、疑問や疑念を抱かれて批判されるようなことになれば、そこに問題が生じていることになって、問題を何とかしなければならないとなるのが、自然な成り行きに思われるだろうが、何とかされては困るような事情があれば、意図的に自然な成り行きをねじ曲げようとするだろうし、ねじ曲げようとすればするほど事態がこんがらがってきて、それに伴って生じる紆余曲折も込み入ってくるだろうし、現状がまさにそうなっている最中であれば、誰にも事態が把握し切れていないのかも知れず、実際にもこじれにこじれているのかも知れないが、こじれている原因を作っているのが誰かとなると、現状を批判している勢力ではなく、批判を招いている勢力であることは誰もがわかっているはずだが、それがわかっていても批判を招いている勢力を応援したいのだとすれば、それ自体が事態をこじれさせている要因ともなっていて、そういう思惑が何十年にもわたって維持されていることが、おかしな状況を作り出している元凶なのだろうが、もちろん当事者たちがそれをおかしな状況だと思っているわけではなく、通常の状態だと思っているから、それが何十年にもわたって維持されているのだろうが、それを今さら問題視することがあってはならないということにはならないはずだが、執拗にそんなことをやり続けている側からすれば問題視されたくないだろうし、もはやそういうことを積極的におこなっている自覚すらなく、問題だとも思っていないのかも知れないが、さすがにそろそろこんな行き詰まりの状況はリセットした方がいいのではないかと思う人が多数派を占めるようになれば、実際にリセットされるのかも知れないが、そうなってもそれらの人たちの思い通りになるわけでもなく、それらの人たちがどんな人たちなのかといえば、現状に対して批判的な姿勢の人たちであることは確かだろうが、結構それらの人たちにもその自覚が希薄であると、それらの人たちにとっても思いがけない事態の変容が起こっているのに、意外とそれを把握していないのかも知れず、それも事態をこじれさせている要因となるかも知れないが、事態がこじれにこじれていると思ってしまうことも、ある意味では勘違いなのかも知れないし、ある意味とはどんな意味なのかというと、正論がまかり通るのが当然という意味でそう捉えられるのだが、結局はどんなに紆余曲折が伴っても、いくら自然な成り行きを意図的にねじ曲げようとしてもなるようにしかならず、なるようにしかならないとはどういうことなのかといえば、財政健全化という当たり前の建前を否定することができなくなってくるわけで、それが事態の自然な正常化の過程で生じてくることなのだろうが、そうなる過程においてもそれに逆らうようなことが執拗におこなわれて、これでもかとだめ押しのようにしてもっともらしい主張が繰り返されて、そのもっともらしい主張に対して一定の支持や賛同も集まるのだろうが、しかも多くの人がそれを支持したりそれに賛同して、その主張に基づいた政策が推進される成り行きになってもかまわないわけで、その結果として惨憺たる状況となってから、財政健全化をおこなうような成り行きになれば、誰もが納得するしかなく、現状がそういう納得をもたらす途上にあると捉えておくのが妥当かも知れないし、それが妥当だと思っても、思い通りにはならないかも知れないが、少なくとも現状のままでは困ると思うなら、もっともらしいことを主張している勢力の主張に多くの人が賛同するだけでも、現状が動き出すだろうし、そういう意味では現状を動かそうとするなら、あえて間違ったことをやってでも現状を動かそうとしなければ、膠着状態から抜け出せないわけだが、そういう意図や思惑を抱いてそうしようとするのではなく、良かれと思って誰もが正しいと思うことをやったことが、思わぬ結果をもたらすことによって、思わぬ方向に状況が動く場合の方が多いだろうし、そういう意味でも状況を動かそうとするなら、現状を批判しつつ現状を変えるための案としてもっともらしい主張をおこなっている勢力を支持すればいいのだろうが、そうすることが妥当だと思われても、妥当だと思ってしまうことも勘違いかも知れないと心の片隅では思っておいた方がいいのかも知れず、そこに様々な方面から様々な思惑を伴って意図的に作用や影響が及ぼされている限りで、一筋縄ではいかない成り行きになることは覚悟しておいた方がいいだろうし、今後どうなるにしても、思わぬところで思わぬことが起こって、どうにもこうにもすっきりしない結果がもたらされるのではないか。
10月25日「経験の重み」
今後誰にとっても思いがけないことが起こるとしたら、各人の意識が把握していない何かが作用して、事前の予想が覆されるのかも知れないが、では事前に何を予想しているのかといえば、これまでの成り行きの延長上で起こることを予想していて、もちろん予想通りのことが起こって一安心する場合もあるだろうが、予想外のことが起こってもそれに気づかない場合もあるだろうし、これから様々なことが起こって、その中でも予想通りのことや予想外のことが起こる以外にも、いちいち起こることを予想していない場合もあるから、どちらでもないことが起こる場合の方が大半かも知れないが、何が起こってもそれほど驚かないとしても、驚かないからといって予想通りのことが起こっているわけではなく、いちいち起こっていることに気づく必要もなく、気づいたからといってそれに驚いたり驚かなかったりすることとは無縁の出来事の場合もあり、どちらでもないようなことが無数に起こっていて、それらの何を予想する必要もなく、何に驚く必要もなければ、起こったことに対して何の感慨も覚えないかも知れないが、そうではなく何かしら起こったことに感動するなら、それなりに予想通りことが起こったように思われたり、また予想外のことが起こって驚いたりするのだろうが、それだけでは済まないようなことが起これば、場合によってはそれにかかわらざるを得なくなって、介入するようなことにもなり、そうすることによって利益を得たつもりになったり、逆に損害を被って痛い目に遭った気になれば、直接かかわっていることになるだろうが、かかわっている状態も深入りせずに軽い程度で済んでいれば、それほど深刻に受け止めるようなことでもなく、大した事態には直面していないのだろうが、そう受け止めていても現実には違う場合もあるだろうし、軽い気持ちでかかわっているようなことであっても、他の人にとってはそうでない場合もあり、かかわっている状態が人によって違ってきて、ある人にとっては軽度であっても、別の人にとっては重度であれば、重く受け止めなければならない人にとっては深刻な事態であっても、軽くいなす程度で済んでしまう人にとってはどうということはなく、それが予想通りであろうと予想外であろうと大して気にならず、その程度のこととして受け止めて、驚きもしないし感動もしなければ、何でもなくなってしまうのだろうが、時にはそういう場合もあるだろうが、全てにおいてそうなるわけでもないだろうし、人には誰でも深刻に受け止めなければならないことが、最低でも一つ以上あるわけでもないだろうが、他人の心理状態や生活状態をいちいち気にする必要もなければ、そんなことをうかがい知る機会もなく、それ以前に自分のことだけで手一杯であれば考える余裕すらないだろうし、何事においても他人がどうであろうと自分さえよければそれでかまわないということにはならないが、時と場合によって対処法が異なり、時には他人を犠牲にして自分だけが助かろうとするかも知れないし、また自分が犠牲となって他人を助けてしまうこともあるかも知れず、そのどちらになるかならないかは、あるいはどちらにもならないかは、その場の状況によって異なるかも知れないが、どのような状況においても同じようには振る舞えないだろうが、自らの意志とは関係なく否応なくそうなってしまう場合もあり、そこで自分の意志にこだわってしまうとうまくいかなくなるかも知れないが、うまくいかなくてもかまわないと思えば、何が何でも自分の意志を優先させようとして、かえって面倒な事態を招いたりすれば、それが痛い目に遭った失敗の記憶として重く受け止められて、その時のうまくいかなくなった経験を生かす機会が後にやってくれば、その時とは違う対応になるだろうし、それもそういう機会が二度とやってこなければ、失敗の記憶など何の役にも立たず、やがて忘れ去られてしまうかも知れないし、その時は重く受け止められても、時間の経過と共にその重さがだんだん減じられてしまうかも知れず、いつまでも重いままでもないのだろうが、逆にその時には大して気にもかけなかったことが、後になって次第に重要度が増してくる場合もあるかも知れないし、そうなればなったで認識を改めることになるだろうから、その場の状況に応じて判断するしかないが、どう判断してもしっくりこない場合もあるだろうし、絶えず判断を誤る可能性につきまとわれて、実際に判断を誤って失敗してしまうわけだが、失敗してもそれでかまわない場合もあり、逆にうまくいきすぎてしまうと過信を招いて後々に禍根を残してしまい、そうならないためにも最初のうちはなるべく痛い目に遭って経験を積み重ねておいた方が無難な場合もあるのだろうし、それも人それぞれに状況の程度も変わってきて一概には言えないだろうが、いくら述べても実際に経験してみないことは机上の空論の域を出ず、それだけ経験が重要になってくる場合もあるだろうが、一度それを経験してしまうと、その経験を基に判断せざるを得なくなって、場合によっては経験が邪魔になってくる可能性もあり、何でもかんでも経験すればいいというわけでもなく、絶えずそれだけが全てではないということを念頭に置いておく必要も出てくるかも知れず、実際に何をやろうとするかでそれまでの経験の重みも違ってくるかも知れないが、一般的には機械を利用した自動化が促進されると、経験や学習の重みが軽減される傾向となってくるだろうし、そういうところでは経験に基づいたノウハウが機械や機械を利用したシステムに蓄積されていて、大して経験のない人でも機械を操作することによってうまく作業ができるようなシステムになっているのだろうが、それが一定の成り行きが手順として確立されている中では効果的に動作するとしても、そういった成り行きや手順から離れて何か新たなことをやろうとする場合には、それをやろうとする人のそれまでに培ってきた感性や知性などがものを言うのだろうし、そこから応用力や勘や機転を利かせて、さらにはその場の必然的な成り行きや偶然の巡り合わせなどを味方につけて、結果的にうまくいけば、何かその人が優れているように思われるだろうし、その人の才能に関して幻想を抱くことになるだろうが、それがそこに至る過程で生じる経緯や事情からそう思われることだから、そこでそう思われる条件が形成されて、その条件を満たすと結果的にうまくいくような幻想がもたらされるのだろうが、その条件もそこに及ぼされる様々な作用や影響が組み合わされて生成されるから、その場限りの有効な条件である可能性もあり、どのような場合でもその条件が当てはまればうまくいくとも限らないのかも知れないし、そういうところで安易にもっともらしい条件を決めてかかると当てが外れて、そこでもこういう成り行きになればこうなるとは安易に言えない場合が出てくるから、絶えず突発的に例外的な事件や出来事が起これば前例が覆される可能性があるわけで、そういう意味ではそういうことが起こると予想することはできても、実際にそれが起こってみないことにはそれを証明できないから、そうした前例がある程度は度重ならないと、そうした前例に基づいた予想の確かさを信用するわけにも行かないだろうし、それが前例に基づいた予想である限りは、それまでの成り行きの延長上で起こることを予想していて、絶えずそれを覆すような例外的な出来事が起こる可能性があるにしても、確率的には起こり得る可能性が高い予想を信用するしかなく、そうなると一応は信用するが完全には信用しきれないようなアンビバレントな心理状態となるしかないし、それまでの経験からわかることはそういうことでしかなく、経験に照らし合わせれば確からしいが、一方で経験を過信しすぎると裏切られることにもなり、経験が全てではないから、それまでの経験に頼って何かやろうとすれば、それなりに想定外の事態になることも予想されて、そこで手順ややり方に関して一定の水準で制度やシステムとして確立されていれば、それに沿ったことをやるしかないだろうし、そういうところではある程度の確実さが伴ってきて、それに応じた技術を身につけていれば、その技術を使うことによって技術の習得度に応じた結果が伴ってくるだろうが、そういう成り行きに沿ったことをやっていても、成功する場合と失敗する場合が出てくるなら、その制度やシステムにおいては、結果として成功と失敗の両方が伴うような仕組みになっていると見なすしかないわけだ。
10月24日「幻想の結末」
たとえ経済が低成長だろうとマイナス成長だろうと人口が減ってこようと、商品となる物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費がおこなわれている限りで、資本主義経済そのものは維持されるだろうが、根本的なところで資本を増やそうとする行為が資本主義的な経済活動となるのだろうし、資本主義経済が何らかの原因で終わるだの終わらないだのという議論とは関係なく、その場の状況に応じて資本家や投資家や企業などが競争にさらされて淘汰されて少なくなったり、逆に資本が増殖する余地が生じて増える可能性もあるだろうが、それが経済活動としての自然現象である限りは、人為的な制御や調整を超えて増減を繰り返しながら、人の社会に様々な作用や影響を及ぼして、社会の在り方を人為的な思惑から逸脱させて、絶えず自然状態へと引き戻そうとするのだろうが、それが人にとって何を意味するかというと、大抵の場合は苦難を強いるのかも知れないが、それによって社会が良い方向にも悪い方向にも揺れ動くから、それが社会の自然状態そのものでもあり、様々な人の思惑が錯綜して絡み合ってもつれ合っている状態が自然状態なのだろうが、それが全体として一定の傾向となっているように感じられるなら、功利的な傾向だと言えるだろうが、当然のことながら全ての人が利益を享受できるとも限らず、そこで生きていれば何らかの利益を得られている証拠かも知れないが、それを利益とは認識できないかも知れず、相対的には利益と不利益が混ぜ合わされて、その差し引きが人によってプラスとなったりマイナスとなるから、マイナスとなれば不利益の割合の方が大きいと感じられるだろうが、一時的に多額の負債を背負わされても、生きている状態が維持されている限りで、生きる糧として何らかの利益を得ていて、その状態が精神的な苦痛を強いるとしても、まだ生物として生きているわけだから自然状態にあり、自然状態にあることが生きている以外の何を意味するわけでもないとしても、人が社会の中で生きていることには変わりなく、生きていれば功利的な傾向の中では利益を得ようとするだろうから、そこで経済活動に巻き込まれて、結果的には何らかの利益を得たり不利益を被ったりしているわけだが、別にそれ以上の意味を求めているわけでもなくても、何か他に幻想を抱くとすれば、好意的に受け取られるような状態を目指しているのかも知れないが、そういう意識のレベルと経済のレベルとはそれ相応にずれていて、たとえ経済的なレベルで利益を得ることに好意的な幻想を抱いていても、それが意識のレベルで抱いている幻想と折り合いがつかなければ、何かそこにわだかまりが生じてきて、そこから疑念や不信感が生じてくると、例えばそれが自然保護などのエコロジーと結びつけば、そこからおかしな論理や理屈が形成されて、経済のレベルでの功利的な活動に影を落とすことになり、何か否定的な傾向として資本主義経済の行き詰まり状況などが想像されるとしても、それ自体が幻想にすぎないのだから、実質的なレベルでの経済活動からはかけ離れていて、頭の中で考えていることと、世の中で実際におこなわれている経済活動とが結びついてこないわけだが、では現実の経済活動の中で何がおこなわれているのかといえば、物や情報やサービスの生産と流通の消費の中で差異を作り出して、そこから利益を得ようとしているわけで、具体的には商品の売買を複合的に組み合わせることによって、そうした結果として出てくる差額がプラスとなるように、あるいはその中で資金の貸し借りに伴って利子が生じるように、そうなるに至る過程で利用する制度やシステムに工夫を凝らして、結果的に利益がもたらされるような成り行きへと持って行きたいわけで、実際にそういう制度やシステムを構築して利益を上げている実態があるから、結果的に資本主義経済が回っているのだろうが、それをある一面から否定的に捉えたところで、実際にその全体を一から全て作り変えるようなことはできないわけで、作り変えようとして失敗した事例もあるかも知れないが、仮に成功した事例があれば、すでに別の経済システムへと移り変わっているわけで、そうなっていなければ、まだ資本主義経済が成り立っていることになるのだろうが、それでも人が集団となって組織的な行為として制度やシステムを部分的に構築することはできて、実際に民間の企業活動や公的な議会や政府などの活動から新たな制度やシステムが構築されているのだろうが、そうやって様々な制度やシステムが乱立している状態を総称すれば資本主義経済システムと呼んでもかまわないだろうが、それらの全てが一定の傾向を伴って結びついているわけでもないだろうし、その規模や機能にも差異があって、それが成功しているとも失敗しているとも言えない場合もありそうだが、成り立っている限りで程度の強弱はあるがそれなりに機能しているわけで、その全てが功利的な目的があるわけでもなく、非営利的な目的を担った制度やシステムも中にはあるだろうが、全体的な傾向としては物や情報やサービスの生産と流通と消費に関連して構築されて、そこから何らかの利益を受け取ることによって成り立っているはずだが、それを利益とは呼ばない場合もあるだろうし、そうは呼ばないから幻想を得られるのかも知れないが、そうした幻想から新たな制度やシステムが構築されて、それも部分的に資本主義経済システムを侵食するかも知れないが、一つの制度やシステムが自立できるわけでもなく、絶えず他の制度やシステムに依存しながら相互作用を及ぼし合った結果として成り立つのだろうが、実際に人の活動に伴ってそうした制度やシステムが生じてくるのだから、それがその場の自然状態を反映している限りで人為的な制御や調整を全ての面にわたって受け付けるわけでもなく、そうした制御や調整を超えて成り立っている面があって、そういうところでは制御したり調整しようとしても思い通りにはいかないわけで、その場の偶然に左右されて損害や損失をもたらすこともあるだろうし、うまく機能しなくなって破綻すれば、利用されることもなくなってしまうわけだが、それも全体としてそうなってしまうわけではなく、部分的な破綻にとどまり、その後も形態や形式などを変えながら全体として成り立つことになれば、実際に人類の文明が存続している限りで、何らかの制度やシステムがそこで機能していることになり、それが人が生きていく上で欠かせない制度やシステムであれば、当然のことながら物や情報やサービスの生産と流通と消費に関連したものとなるだろうし、そうした制度やシステムの中で物や情報やサービスの売買がおこなわれていれば、それが資本主義経済システムと呼ばれることになるのかも知れないが、それを議会や政府の都合に合わせて新たに制度やシステムを構築して規制を加えることによって制御したり調整しようとしているのだろうが、少なくともそれによって別の経済システムに作り変えようとしているわけではなく、あくまでも規制を加えることによって制御したり調整しようとしている限りで、既存の資本主義経済システムに根本的な変更を加えるには至らないだろうし、過去には社会主義国などが根本的な変更を加えようとして失敗した実例もあるのだろうが、そういう経緯や実情を考慮するなら、議会や政府によっては根本的な変更を加えることはできないと見ておいてもかまわないだろうが、だからといって根本的な変更を加えることが不可能というわけではなく、実際にも現状の制度やシステムが何千年も続いてきたわけではなく、多く見積もってもたかだか18世紀の西欧から生じてきた制度やシステムが多少の変更を被りながら続いているにすぎないのだろうが、それが現状を反映した普遍的な制度やシステムというわけでもないだろうし、現状もそれなりに変わり続けているから、それに応じて制度やシステムも変わり続けているのだろうが、人の思惑通りに変わり続けているわけではなく、大抵は思いがけない変化となっているのだろうし、それも実際に変わってみてから思いがけない変化であることがわかったりわからなかったりして、そういうことからも変えようとして変わるわけではないのだろうが、議会や政府の活動の中では変えようとするわけで、変えようとした結果が思惑通りにはならないから困った事態に直面するわけだが、そういう意味ではこれからも絶えず議会や政府を通して制度やシステムを変えようとするだろうし、今後も事の成否とは関係なくそういった試みが絶え間なく続いていくのではないか。
10月23日「結果論の不都合」
それとこれとは特に関係があるようには思われないことであっても、どうしても関係を見つけ出そうとすれば、小手先の小細工を弄してでも何か関係があるように装えるかも知れないが、日頃からそういうことにかかりきりとなっている人たちに向かって何か言っても、それも言いがかりに近い批判と受け取られて無視されるのが関の山だろうが、そういうところでは無意味なことはやらない方がいいのかも知れないが、それが無意味とは思えないからそういうことをやってしまうのだろうし、結果的には無意味になっても、無意味になる過程で意味が消費されて、その途中では意味のあることをやっているつもりになれるかも知れず、当事者としてはやっているつもりではなく、実際に何かやっているのだろうが、それが結果的に無意味となって、何の成果も得られず、何も残らないようなことをやっているのだとすれば、別に何かが残ればいいというわけでもないだろうが、後腐れのないことをやっている方が気楽なのかも知れないし、大抵はそんなことにまでは考えが及ばず、それどころかそれなりの成果を得られているつもりで、その成果によって満足感も得られていれば、果たしてそれが無意味なことなのかといえば、誰も無意味だとは思わないのかも知れず、意味や意義があるからそんなことをやっているのだろうが、なぜそれが意味のないことになってしまうのかといえば、やはりその途中で意味が消費されて、意味がなくなるまで意味が消費されてしまうから、消費され尽くしたところで無意味となり、そこで活動が終了すれば後腐れがないのだろうが、そうやって活動している人は終了したくないのであり、終了したくないから、絶えず意味や意義のあることをやろうとして、実際にそれをやってしまうから無意味となってしまうのだろうが、当事者の意識の中では意味も意義もあることだろうし、そう思っているから執拗に後腐れが残るように、故意に後腐れを残そうとしてでも意味や意義のあることをやっているつもりになれるだろうが、なぜそれが結果的に無意味なことになってしまうのかといえば、ただ単に時間の経過に伴って意味や意義が劣化して賞味期限が切れてしまうと捉えてもかまわないが、それと共に人心も劣化すると見ておいてもかまわないだろうし、心が腐ってしまった人たちがやることといえば古今東西どこでもありふれていて、それに関しては誰もが気がついていることかも知れないが、そうなる過程においては気づきにくいことかも知れず、結果的にそれが無意味となってから気づく場合もあるだろうが、気づかないまま忘れてしまうこともあるだろうし、そんなことをやっている人たちは死ぬまで気づかないかも知れないし、客観的には死んでも気づかないだろうが、そこで誰もそれに気づかないと、後の時代となってから愚かな人々が愚かなことをやっていた時代だと見なされる場合もあり、無意味な人々が大勢生きていた時代であったことが明らかとなって、その時代とそこに生きていた人々が軽んじられてしまうだろうが、今がその時代であることが後の時代において明らかとなるかも知れないが、後の時代には誰も生きていないから、今の時代に生きている人たちにとっては知ったことではないだろうし、たとえ自分たちがやっていることが無意味になってしまうとしても、実際に現状においては生きている途中なのだから、各人が思い思いに意味や意義をそれなりに感じているだろうし、それでも不満を抱いている人がいれば、さらに自己満足を得られるような後腐れを残そうとして悪あがきをやっている最中かも知れないが、それが悪あがきだと思われるのは、別の時代の別の人々にとってそう思われるのであり、その人と関係するその人と価値観を共有する人にはそうは思われないで、実際に何らかの成果に結びつけばそうは思われないし、その成果というのが肯定的な成果であるとは限らないが、今の時代にふさわしい成果であると、後の時代においては価値のない成果かも知れず、大抵の人は今の時代にふさわしくあろうとするから、それに伴って今の時代に特有な価値観にとらわれていて、それがどの時代でも通用する普遍的な価値とはならない場合があり、そういう意味では歴史認識が重要となってくるのだろうが、一言に歴史認識と言ってもこの時代に特有の歴史認識というのもあるだろうし、何か狭い範囲内で特定の価値観にとらわれていると、それが普遍的な認識にはならないわけだが、今の時代の中で通用していれば、普遍性など要らないだろうし、それが今の時代だけで通用しているのか、あるいはいつの時代でも通用するような認識や価値となるかは、今の時代の中で生きているだけではわかりようがなく、誰もが今の時代の中でしか生きていないわけだから、普通にわからないわけだが、たぶんわからなくてもかまわないのだろうし、かまうもかまわないも、個人がどうにかできるようなことではないわけだが、そういう意味では別に普遍性を意識しなくてもかまわないだろうし、意識や思考が普遍性をまとっていなくても、この時代の中で通用していれば、それなりに社会的な役割を担って活動しているはずで、それが現在進行中のこの時代の中で意味や意義があればそれでかまわないわけで、普通はそんなことまで考慮する必要もないだろうが、やっていることの意味や意義を考えると、この時代に限定された意味や意義しかないように思われることが、世の中で実際に幅を利かせているようにも思われて、それが別に悪いことだとも思えないが、必死になってそんなことをやっている誰かの姿を見るにつけ、虚しくなってくるわけでもなく、それが他の時代では通用しないとも思えないが、他の時代でもその時代でしか通用しないことがいくらでもおこなわれている中で、大なり小なり誰もがその時代に特有な状況にとらわれていることは確かであり、その中で普遍的な存在になろうとしてなれるわけでもないが、意識してなろうとしなくても、意識せずになってしまうこともありそうだが、普遍性を意識するなら、それとは対照的なこの時代にとらわれた功利的な評価基準も同時に意識できるかも知れず、それがこの時代に特有な価値観をもたらしていて、そんな価値観に従って生きていると、それなりに意味や意義のあることをやっているつもりになれて、その成果としてそれなりの利益や満足感も得られて、そうなっている結果を踏まえれば、それなりにうまくいっているように感じられるだろうし、それで一向にかまわないだろうが、それがこの時代に限定された生き方の実践例となり、そうやって生きていく過程において生じてくる肯定的な意味も、それと同時並行して消費の対象となり、それを消費することが人の活動そのものでもあるのだろうが、意識の中で意味が絶えず消費されるから、生きていることの意味を漠然と感じられるのかも知れないが、それが消費されるだけでなく、意味の生成に結びつけば主体性も感じられるのだろうが、消費するだけの存在となってしまうと、ありふれた意味をメディアから受け取るだけで満足してしまい、それを加工して新たな意味として生成できなくなって、そうなると他人と同じ意味を共有するだけの存在でしかなくなり、どこにでもいるありふれた人間となってしまうのだろうが、他人からそう見られてしまうと不満だろうから、自分独自の個性という幻想を追い求めるのだろうが、結局はそれがどこにでもいるありふれた人間に特有の心理状態でもあり、そうなっていることがメディアが仕掛けた罠にはまっていることの証拠となるわけでもないだろうが、何かそこで疑念を抱くとしたら、他人と意思疎通を図る過程で、他人と同じ意味を共有していることが疑問に思われるだろうし、共有していると思っている意味が疑わしく思われて、他人と同じ意味を共有していないと他人と意思疎通が図れないかというと、そういう前提を意識しながらも、一方では勘違いや思い違いやずれや偏差を伴いながら意思疎通を図っているわけで、同床異夢という状態もあり、ともすれば他人がそうなっていると、それを否定的に捉えて批判として利用するのがありふれたやり方とはなるものの、実際には誰もが大なり小なりそうなっているわけで、そうなってしまうのを避けて功利的な見地から他人と意味の共有を目指すのもありふれたやり方だが、ある程度は勘違いや思い違いがないとうまくいかないわけで、もちろんそれによって他人との関係がうまくいかなくなってしまうことも多いだろうが、うまくいかないなりにもうまくいくやり方を模索することが普通に求められて、わかり合えないことを前提として他人との関係を模索しないと他人を自分とは違う存在として認められないし、他者との間で意味や意義や目的や目標や価値観の共有化を目指すのは間違っている可能性もあるわけだが、逆にそういう価値観の違いやずれを認め合うことが時代状況にとらわれない普遍性を意識させて、それがその時代に特有な意味の共有から脱却するきっかけとなるのかも知れない。
10月22日「政治情勢の更新」
経済は一つの国だけで成り立っているわけではなく、国内経済の他に貿易や金融取引などの通商的な結びつきのある他の国や地域との相互関係の中で動いているはずだが、その中で資金は消費に使われると共に投資にも使われて、国内消費だけではなく、国内外の投資にも使われるから、国内消費の状況だけから経済状態がわかるわけでもないのだろうし、例えば国内の消費が低調で貧困層が増えているという統計結果が出ていても、株や債券や為替などの取引が活発におこなわれていれば、金融経済の面では活況を呈していることになりそうで、貧乏人が食料を買うために小銭を使うことと企業の株価を上げるために資金が使われることが同じではないのは誰もがわかっているはずだが、金額に関しては企業の株価を上げるために使われる資金の方が圧倒的に大きいだろうし、国内の消費が低調でも外国での投資や事業で利益を上げていれば、企業の業績が好調となって株価が上がる要因となるだろうから、そういう面で経済が回っていくことになるのだろうが、そういった経済の実態と個々の人々の生活が直接結びついているわけではなく、全体の傾向がどうであれ、個々の事例で様々なことが起こっていて、その起こっていることにどう対処しても、結果的にうまくいったりいかなかったりするのだろうが、その中でうまくいっていない個々の事例を寄せ集めると全体的な傾向となるかというと、それをどれほど寄せ集められるかにもよるだろうが、それが全体的な傾向との間でずれが生じているとすれば、恣意的に都合のいい事例だけを集めて、それが全体的な傾向であるかのように装いたいのかも知れないし、そんな思惑を想像すれば、そういった事例の寄せ集めから特定の傾向を導き出す試みが信用できなくなってしまうわけだが、それを政治に利用しようとすれば、政治の場での主張と重なってくるから、全体として人々の生活の向上を目指すようなことが主張されるだろうが、それが個々の事例ではなく、全体的な傾向としてそうなることが目指されていることは言うまでもないことであり、政治の場での主張としてはそれでかまわないのかも知れないが、実際に政治がおこなわれてからどうなるのかといえば、結果的にはどのようにも都合良く解釈できるだろうし、うまくいっていることを強調したければ、それに関して都合のいい統計的な結果を示すだろうが、その一方でそれを批判する側としても、逆にうまくいっていないことに関して都合の悪い統計的な結果を示すだろうが、それをどう判断すればいいのかといえば、そのどちらを信用してどちらを支持するかになるわけだが、結局はその人自身の生活実態から全体の傾向を推測するしかないだろうし、それが選挙結果に表れるとすれば、妥当な実態であり傾向となるわけだが、たとえそれが多くの人にとって妥当に思われても、それとはかけ離れた生活実態の人もいるだろうし、悪い方向でかけ離れた生活実態の人がいれば、その人は選挙結果に失望するかも知れないし、失望するも何も、それ以前に政治に関心がなければ、選挙結果がどうなろうと知ったことではないかも知れないが、実際に選挙結果を基にして議会構成が決まったり、政府の陣容もそれなりに刷新されてから、政策が遂行されて、また何らかの結果がもたらされるのだろうが、そういった政治の場での成り行きが、個々の人々の生活に影響を及ぼすことがあるとすれば、それは制度的な変更やその場しのぎに臨時でおこなわれる追加措置にもよるだろうが、それによって人々の間で多少の有利不利が生じるとしても、平和裏のうちに成り行きが進行するなら大げさに騒ぎ立てるようなことでもなく、その程度のことだと思っていれば、政治の場でおこなわれていることがそれほど人々の生活に影響があるわけでもないことになるが、それも政治の場だけで決まるようなことではなく、経済情勢などと連動して政策が決まってくるのであり、政治だけが他の何よりも優先されるわけではなく、もちろん経済情勢の類いが他の何よりも優先されるわけでもないが、特定の分野だけで都合のいいことを単独で決定できるわけでもないから、絶えず様々な分野が連動して何らかの同調的な傾向が伴ってくると、それに基づいて何らかの決定事項がもたらされると捉えておけばいいのだろうが、それが日本のここ数十年の成り行きを決定しているとすれば、例えば産業の面では似たような傾向を持つ他のアジアの国々との相互関係から、価格競争力の面では製造業の全般的な衰退を招いているだろうし、その中でも得意分野となる精密機械などの分野では、まだ一定の競争力を維持しているものの、電子部品などは周辺国へと主要な生産拠点が移っているだろうし、それに比べて金融分野ではそれなりに世界の中で一定の影響力を維持しているのかも知れないが、それもアメリカなどとは違って絶対的に優位な地位を保っているわけではなく、どちらかといえばアメリカに依存して成り立っている面が大きいから、政治の分野ではしきりに日米同盟が強調される傾向となっているだろうし、その一方でアメリカと対立関係にある中国経済とも一定の相互依存関係を保っているから、面と向かって強い立場で政治的な対立を際立たせるわけにも行かないし、そういう様々な分野でつながりが生じているから勝手なことができないと共に、逆にそういう成り行きを利用して都合良く曖昧な状態を維持できているわけだろうが、そうなっていても国内の経済状況だけを強調するなら、何か政治の面でそれなりにもっともらしく批判的なことを主張できるだろうし、主張するだけならいくらでも都合のいいことを主張できるが、その都合を反映した政策を実行できる立場にならない限りは、主張するだけにとどまってしまい、いつまでも都合のいいことを主張できるが、いつまで経っても実行する機会がやってこないことになり、そんな主張を続けているうちにも日本を取り巻く状況もそれなりに変わっていくだろうし、そういう状況の変化に対応できなければ人々の広範な支持を得られずに、結局いつまで経っても少数派にとどまっている限りで、都合のいいことを主張し続けられるのと引き替えにして、政治的な主導権を放棄するようなことにでもなれば、ますます少数派にとどまるしかなくなって、じり貧となってしまうわけだが、そうならないようなことができるかといえば、それもそういった政治勢力が単独で何かをやれるわけではなく、絶えず周囲の連携している他の政治勢力と意思疎通を図りながら、主導権を握る可能性を模索していくしかなく、そういうところではその政治勢力だけではどうにもならない面があるのだろうが、そういう面を無視してそれらの勢力を批判したければいくらでも批判できるだろうし、いくら批判したところで実際にそれらの勢力に主導権を握らせて政策を実行させないと、その政策の欠点や欠陥が露わにならないわけだから、批判自体も勝手に批判するのに都合が良くなるように想像力を膨らませて批判しているにすぎず、そんな批判を真に受けるわけにはいかないし、それよりは実際に主導権を握って政策を実行している政治勢力に対して批判するなり支持するなりしていればいいのであり、それ以外に何か主張することがあるわけでもないはずだが、少なくともそんな政治状況では困るなら、選択の幅を拡げて、もっと様々な政治勢力が主導権を握れるような状態へと持って行く必要があるだろうし、そうなるような配慮が欠けていると見るなら、その責任がどこにあるのかというと、形式的には名目上の主権者にあることになり、主権を行使する機会に選択の幅が広がるように配慮しなければならないのだろうが、そういうことをおこなえる状況がここ数十年で整いつつあるのかも知れず、実際にこれからも何度も政権交代の機会が訪れるだろうが、その機会をものにするには選挙で投票する権利のある主権者の協力が不可欠だろうし、そうなるに際しては絶えず政治情勢と経済情勢が連動してそういう機会が巡ってくると捉えておいてもかまわないが、それ以外にも国内情勢と国際情勢が連動して機会が巡ってくるいると捉えておいてもかまわないし、そういうところで単独で特定の勢力が決定権を握っていると思ってしまうと勘違いが起こって、せっかくの機会を台無しにしてしまうのかも知れず、それが平和裏におこなわれる可能性がある限りで、あまり大げさに危機感を募らせずに、気軽な気持ちで政権の選択ができるような環境が整っていれば、政治情勢としては良い方向に向かっていると言えるだろうし、できればメディアなどでもそんな成り行きになるような配慮が求められているとすれば、大したことでもないのに過度な誹謗中傷を伴う偏向した見方や考え方を控えるような傾向へと持って行く必要が出てくるのではないか。
10月21日「是非の強調」
人の行為や行動には責任が伴うと思われて、その責任によってその人に何らかの事態がもたらされると、例えばその行為や行動が罪に問われて、実際に裁判などで罪を犯したと認定されて、それ相応の罰を受けることになれば、そういった成り行きには因果応報が伴っているように思われて、それを目の当たりにすれば納得したくなるわけだが、確かに悪いことをやってそれがバレて罪に問われて報いを受ければ納得したくなるが、それは人を納得させるように仕向ける制度的な仕組みが機能したからで、だからといって世の中の全ての面にわたって制度が機能しているとは言えないし、実際に機能しない場合もあり、制度があるのに機能しないと納得しないわけで、その人の行為や行動が罪に問われて罰を受けることになったのに、そうした行為や行動を促した人が別にいて、その人の方は何の罪にも問われなければ納得できないし、直接罪を犯した人だけではなくその関係者にも連帯責任があるかのように思われる場合があり、そういうところで制度の仕組みやその制度の運用を巡って納得できない面が出てくるとしても、それが人為的に構築されて恣意的に運用されている制度であるだけに、誰もが納得できるような成り行きにはなりがたく、何か人によって不公平があるように思われると不信感が募ってきて、そうした不信感によっても制度の機能が損なわれる場合もありそうだが、人を納得させるためだけに制度があるとは言えず、その制度を管理している側にとって都合がいいように運営されている面もあるだろうし、また制度だけに頼って人の活動が成り立っているわけでもなく、他の様々な方面からも及ぼされる相互作用の中で、人の行為や行動が可能となったり不可能となったりするから、そのような成り行きの結果として納得できたり納得できない事態がもたらされて、そうなった事態に対処したり対応することによっても、人の行為や行動がもたらされるわけだが、そうなってくると単純に因果応報を適用できなくなってきて、それらの行為や行動に伴ってもたらされる事態に納得できたりできなかったりしても、そこからさらに事態が進展して、それに対していちいち反応するのが面倒になってくるようなら、そんなことは放っておいてもかまわないようにも思われてきて、そうなるとわざわざそこに介入して作用や影響を及ぼそうとはしなくなってしまうだろうし、そうなることを狙って誰かがその場を混乱に陥れて、事態を込み入らせようと画策しているわけでもないにしても、そういった物事に多くの人や集団が関心を抱いてそこに介入しようとしてかかわってくれば、かかわっているつもりの人々の思惑とは関係のないところで、勝手に思わぬ方向へと事態が進展して、誰も納得できないようなわけのわからない紆余曲折を伴った結果がもたらされることもあるだろうし、そうなることを狙ったわけでもないのにそうなってしまうことが、そこでの成り行きや経過の偶然性を物語っているのだろうが、実際にそうなっているのにそれを結果から判断して単純な理屈を当てはめて、その理屈に基づいた目的や目標を勝手に設定して、目的を遂行するために、あるいは目標を達成するために何か画策して、それを実行しようとする人や集団まで現れてくるから、そういう行為や行動に対しては、ますます納得しがたくなってくると共に、何か呆れてものも言えなくなるような心境に至ってしまうこともあるが、そこで何も言わないと、ますますそれらの人や集団が増長して勝手なことをやろうとするから、そういう面ではかかわるつもりもないのに、否応なくそれらの現象に巻き込まれてしまうのかも知れず、そうやって多くの人々を巻き込むような集団的な行為や行動が生じるのだろうが、そうなるとその渦中の誰に責任があるとも思えないだろうし、そこに因果応報のような成り行きを当てはめようとしても、様々な因果応報が複雑に絡み合っているから、その中の何に納得しようとしまいと、人それぞれに納得できるところとできないところが違ってくれば、良し悪しの判断もバラバラになってきて、全体として統一的な見解には至らないわけだが、それでもそうなった結果から絶えず単純な理屈や論理を導き出そうとする人が現れて、そうやって示された理屈や論理に同調する人が多ければ多いほど、その場を支配する理屈や論理として通用してしまうわけだが、メディアを通じてそういう傾向や光景を見せられると、それに対して無闇矢鱈に依存したり同調したりしながら、安易に賛意や支持や拒否や拒絶の反応を示すのではなく、少しは冷静になって考えてみなければならないだろうし、何かもっと一般の人々が利口にならないと、いつまで経ってもその手の煽動に心身を絡め取られて、まともに物事を判断できないことにもなるから、それに対して免疫を高めるためにも、そういう煽動的な行為や行動を注意深く見守っていく必要がありそうだが、だからといって傍観者になれというわけではなく、またそういうことには無関心でいろというわけでもなく、むしろ何らかの形でそういう現象にかかわって、それを内部からも外部からも変えて行かなければならない、と思うのがまっとうな対応となるだろうが、そうはいっても誰もがまっとうな対応ができるわけでも、できなければやらなくてもかまわないというわけでもなく、何かそれに対して一つの決まり切った態度や姿勢にはならない方がいいのかも知れず、逆に単純に賛意や支持や拒否や拒絶の反応を示してしまうから、そういう反応を糧としてそれらの行為や行動の増長が起こるわけで、そういう反応が強ければ強いほど、それに対応してますます強い反応を示そうとするから、◯かXかで物事を処理する理屈や論理の単純化にも拍車がかかって、単純にそうとは言い切れない面が削られて、それが受け入れられたり拒絶されると、そういった断言に自信を深めて、それに対する賛否を伴った強烈な反応を期待してしまうわけで、客観的にそこから距離を置くことが求められるにしても、単純にそういった傾向を拒否したり拒絶してしまうと、そんなことをやっている人や集団の思うつぼであり、結果的にはそういう行為や行動に逆らっているように思われるとしても、その過程においてはそれに寄り添うことも求められるような両義的な行為や行動に結びつけばいいのだろうが、だからといってそれらの活動に対して単純な賛意や支持や拒否や拒絶の反応を示してしまう人を批判するようなこともやってはならないから、そうなるとどうしてもわかりにくくなって回りくどくなり、何を言っているのかやっているのかよくわからないような行為や行動となってしまうだろうが、それを脱構築だのディコンストラクションだのとかっこいい言葉で正当化しても、知的なスノビズムとしか受け取られず、そうなってしまってもまずいだろうが、とりあえず物事の単純化に逆らうには逆に複雑化すればいいというわけではなく、時と場合に応じて単純化も複雑化も肯定する態度や姿勢が求められるとしても、それが時と場合に応じてというところが微妙で、また時と場合に応じて否定するにしても完全に否定するわけではないといってもわかりにくいだろうが、結果的にそうなってしまうところが物事の両義的な解釈や判断を伴い、そうなるにしても絶えず途中の過程を通らなければならず、結果だけが全てではないのはわかりきったことだが、結果に至る過程において多様な道筋を描ければいいが、それが何らかの決定事項へと収斂してしまうのも避けなければならず、何事も未決定な状態を維持できるわけでもないが、そこに至る過程の中で活動している状態を維持しないと、すぐに結論に至って◯かXかの判断を迫られて単純化の餌食となってしまうわけで、それを避けるには、人が実際に行為や行動のただ中で生き続けることが、求められていることに気づくべきなのだろうが、誰がそれを求めているのかといえば、自分がそれと気づかずに求めていて、それに気づかないことも普通に起こってしまうから、絶えずわけのわからない焦燥感にとらわれて、性急に単純な結果や結論を求めようとしてしまうのだろうが、そういう焦燥感がどこから生じてくるかというと、実際に生き続けていることの意味を求めてしまうから、生きていることの意味などないことがわかってしまうのが怖くて焦ってしまうのかも知れないが、そもそも意味自体が答えではないのに、それが答えだと勘違いしてしまうから、それを肯定するにしろ否定するにしろ、はっきりした答えとしての意味を求めて、何事も◯X問題に単純化する傾向になってしまうわけだ。
10月20日「愚かな選択」
世の中が現状のままで何も変わらないと思うなら、誰がどんな政治勢力が現状を変えようとしても変えられるはずがないと思ってしまうかも知れないが、変えるために何かを選ぶ機会が今巡ってきているとしたら、それは保守的なメディアなどでそれとなくほのめかされる現状維持的な政治情勢の中で推測される予想や予測が外れる可能性があるということであり、それでも実際に多くの人々が選挙で特定の政治勢力を選んだ結果として、何も変わらない現状がもたらされるなら、現状を変えてほしいと思っている人々にとっては選ぶべき選択肢が間違っていることが明白だと思いたいだろうが、では誰を選ぶべきだったかといってもそんなことは選ぶ前にはわからず、それは選んだ後からわかることかも知れないし、あるいは選んだ後になってもわからない場合もありそうで、実際にどんな政治勢力を選んでもはっきりした結果にはならないような気がするなら、選択を誤っているかどうかもわからないし、誤っているのではなく、誰を選んでもそれが間違っているような気がしてしまい、選択を誤っているのではなく、この時点で誰かを選ぶこと自体が間違っているように思われて、そうであるなら特に誰も選ばなくてもかまわないと思っておけばいいことかも知れないが、それでも制度的には誰かを選ぶことになり、誰も選ばなくてもいいのに誰かを選んでしまうわけだから、別にそれが間違った選択であることが選ぶ前から確定しているとは言えないが、ただ人々がそこで誰かを選んだり選ばなかったりすることが、今後の世の中の状況を左右することになるとしても、誰かを選んだことが間違っていてもかまわないとは思わないし、誰も選ばなかったとしても、それが間違っていてもいなくてもかまわないとも思わないだろうが、それでも現状に関して批判的な印象を持っている人には、人々が政治的な選択を誤ったと感じられるとしても、それによって選択を誤った人々の運命がどうなるわけでもなければ、そのこと自体がどうなるわけでもなくても、後の時代の人々にはそれが愚かな選択だったと思われるかも知れないし、愚かな人々が愚かな選択をしてしまった時代だと評価されるような時代がまさにこの時代だとすれば、今後やってくる将来の時代の中ではこの時代よりはマシな選択がおこなわれて、この時代よりマシな状況となっていることが想像されるだろうが、それも現状に不満を抱いている人の想像だとすれば、そんな世の中の現状から考えるなら極めて当然の想像となり、そんな想像通りの未来の世の中では誰もが愚かな選択などするはずがないだろうが、そんな妄想にとらわれている人がほんのわずかな人数にとどまるなら、そうであるからこそ、そうなって当然の結果がもたらされて、それが後の時代に生きている想像上の人々には残念な結果であると思われるのかも知れないが、現状の世の中で生きている大多数の愚かだと見なされる人々にとっては何でもないことだろうし、そんな人々にとっては選択の機会などあってないようなものであり、自分の愚かさなど自覚する必要も機会もないことだろうし、自分たちが愚かであるかどうかなど知る機会さえ与えられておらず、仮に自分が愚かだと思っても、それは通常の意味で愚かなのであって、政治的な選択が愚かであるかどうかなど知ったことではないし、実際に愚かなどではなく、それが無難に思われるのだから、現状ではそれでかまわないだろうし、自らが生きている期間とは違う時代の中で自らの選択をどう思われようと知ったことではなく、そんな未来の時代状況など現状ではわかりようがないが、それでも現状の成り行きが今後やってくる新たな時代を予感させるなら、少なくとも現状よりはマシな未来を夢想するだろうし、現状よりはマシな政治状況の中では現状が愚かに思われるのも当然かも知れず、本当に今後そんな時代状況となるかどうかはともかく、現状から今後の時代状況を肯定的に捉えるなら、現状の中で生きている人々が愚かに思われるような時代の到来を期待してしまうのであり、誰がそんなことを期待しようが現状の中で生きている人には関係のないことかも知れないが、関係がないだけに現状が愚かな時代であってもなくてもどうということはなく、時代が愚かであるはずがないとしたら、現状の中で生きている人々が愚かなのかも知れず、もちろんそれを愚かだと見なす人がどこにいるのかといえば、未来の時代の中にいることを期待してしまうのであり、そんな愚にもつかないことを現状から想像してしまうこと自体が愚かだというなら、現状では意味のないことを想像してしまうのだから愚かであってもかまわないのだろうが、現状という過ぎ去りつつある世の中の状態や状況を否定的に捉えるのは、将来が現状よりもっと良くなることを期待していることの表れであり、実際に良くなる兆しを感じ取っているのだろうが、それが本当に良くなる兆しなのかといえば、現状を愚かな時代だと思っている人が感じ取っている兆しだとすれば、現状の維持に奔走している政治勢力やメディア関係者にとっては悪い兆しになるかも知れず、そんな人や勢力にとってはまさにこれから暗黒時代がやってくるのかも知れないが、その暗黒時代の実態を想像したり推測してみても、それは少なくとも現状とは違った状態になると想像されたり推測されたりするわけで、具体的にそれが何かというと、現状から推測するしかなく、現状とは具体的に何かが違うのであり、その違いがそれらの人や勢力にとっては都合の悪いことになるのだろうが、例えばそれを日本の現状に照らし合わせて違いを想像してみると、夫婦別姓が容認されたり、死刑制度が廃止されたり、駐留しているアメリカ軍が日本から撤退したりすれば、それが将来の暗黒時代を想像させるかといえば、そんな枝葉末節なことではなく、もっと根本的な都合の悪いことが省かれていると主張したくなるかも知れず、例えば靖国神社が廃社されたり天皇制が廃止されたり共産党が政権政党となれば、さらにひどい時代の到来を予感させるかも知れないが、そこまで行くと現状ではあり得ないことになるだろうし、実際にそんなことはあり得ないと思う余地もなく、それらの人たちには想像もつかないことになってしまうだろうが、漠然と思うのはそういう具体的なことではなく、何らかの兆しを感じ取っているのなら、もっとあやふやで曖昧なことになるだろうし、その兆しというのがそれらの具体的な物事がどうでもよくなる時代が到来するかも知れないということであり、すでにそんなこととは無縁に生きている人などいくらでもいて、多くの人々が日本に特有な物事とは関係のないことに関心を抱いて、それが日本が日本ではなくなる兆候を示していて、それはこれまでにもそうなってきたことであり、これからもそうなりつつあることなのだろうが、それは日本と呼ばれる地域が日本とは呼ばれなかった時期や期間もこれまでにもあったわけだから、ある意味では当然のことであり、それがいつの頃からか日本と呼ばれているのは事実だとしても、ここが日本と呼ばれるにふさわしい何らかの物事が存在したり起こったから日本と呼ばれるようになったわけではなく、後付け的に日本的な物事を日本の風土に当てはめようとする意図や思惑が介在して、日本と呼ばれる概念や観念が形作られた面が大きいだろうし、そこに様々な経緯や実情や成り行きなどが寄り合わされて重ね合わせられて、日本と呼ばれる概念や観念が人の頭の中で構成されて、それが言葉の組み合わせとして文章で表現されたり、映像や音声などの情報も付け加えられて日本を構成しているのだろうし、またそれらの情報を体現している事物が現に存在していて、それらを象徴する存在として日本を表現しているのだろうが、いつの日かそれが意識されないことに誰も気づかないような状況となるかも知れず、そうなった時にはもはや日本以外でもそうなっているかも知れないし、すでに現代でもそうなりつつあるのかも知れず、日本を意識しなくてもかまわない物事などいくらでもあって、むしろそちらの方が多いのかも知れないが、その一方で何か改まって意識しながら自分の住んでいる地域を正当化したり賛美したり、逆に卑下したり嫌悪感を抱いたりする時に、日本という固有名詞を使いたがる傾向になるとしても、それ以外では特に使う必要がなければ、それらの表現とは無縁でいられて、そうなる傾向が強くなっていることを漠然と感じているとしたら、逆に日本という固有名詞を事ある度に使いたがる人や集団が目障りになってきて、それらの人たちに対して嫌悪感や否定的な感情を抱くようになるのかも知れない。
10月19日「改めるべきこと」
何かこれから改めるべきことがあるというなら、それが何になるかというと、それは改めるべきことではなく、何もしなくても自然に改まってしまうなら、特に改める必要もないだろうが、では改めるべきと思っていたことが何なのかと言えば、それは改めようとしても容易には改まらないことであり、改めるのが困難なら改めなくてもかまわないのかというと、困難だからこそ改めなければならないと言えるだろうし、改めるべきことは困難を克服して改めなければならないことになるはずだが、たぶんそれは改まらないことであり、実際にこれまでにも改めようとして失敗してきたのであり、改めようとして改められなかったからこそ、余計に改めるべきことだと強く意識されてきたわけだが、実際に改められなかったのだから、あきらめた方が身のためだと言えるだろうし、改めるべきだと主張する人はいくらでもいるだろうが、誰も改められずに主張するだけに終始している実態があれば、そんな主張など真に受ける必要もなく、言いたい人には言うだけ言わせておいて、それとは無関係に生きていけばいいだろうが、実際にそんなふうに振る舞えるのかというと、良心の呵責を覚えて無視しようとしても罪悪感を伴ってくれば、思っていることとやっていることが二律背反を起こして、それを克服しようとするから困難に直面して挫折してしまうわけだが、ではなぜ改められないことを改めようとするのかといえば、改めようとする過程にとどまりたいのであり、結果的に改められないとしても、その過程にとどまることによって活動が成り立っていて、絶えず改めようとして活動し続けている実態があり、それに挑戦し続けているわけだが、それが不可能に挑戦していることがわかってしまうとまずいから、不可能ではないと主張するわけで、実際に挑戦し続けている限りは不可能ではないことを示しているつもりになれて、活動が継続している間は改めるべきことを改めている最中のように装えるのだが、いつしか活動を継続すること自体が目的となってきて、永遠に達成できない目標を掲げることが活動を永続させる秘訣となり、それを悟られてしまうとまずいから、悟られないようにするにはすぐにでも達成できると信じ込ませる必要があり、改めるべきことが改められることを実際に証明してみせる必要があるだろうが、それが達成されたらそこで活動が終わりとなってしまうから、それは達成してはまずいことでもあり、すぐにでも達成できると信じ込ませながらも、永遠に達成しつつある途中にとどまる必要があるとすれば、それこそが不可能への挑戦となってしまうから、活動を続けることの不可能性を活動そのものが体現しているわけだが、果たしてそんな不可能を可能とする必要があるのかと言えば、不可能なままでもかまわないだろうが、一方でそれが可能だと信じ込まないと活動を継続できないだろうし、それが二律背反そのものでもあるわけで、そんな二律背反をどうやれば改められるかとなると、それも改めるべきことではなく、二律背反な状態を維持することが活動の継続をもたらすのであり、活動の目的が活動を継続させることである限りは、達成されるべき目標はあくまでも仮設の目標であり、それを達成することが不可能な目標であれば都合が良く、そうであれば不可能を可能に改める必要はないわけだが、では他に改めるべきことがあるのかというと、改めるべきは目標や目的ではなく、それを達成しようとする態度や姿勢であり、達成しようとしてできるものではないのだから、そうしようとする態度や姿勢を改める必要があり、ではどのように改めればいいのかというと、絶えず態度や姿勢を改め続ける必要があり、一定の態度や姿勢にはとどまらないように心がけて、その場の必要に応じてそれまでの態度や姿勢を改めれば、それがその場の情勢や状況の変化に応じた態度や姿勢となり、なぜそうする必要があるのかと言えば、そうしないと活動を継続できないからで、その場の情勢や状況が刻一刻と変化しているのに頑なに同じ態度や姿勢をとり続けるなら、変化に対応できずに行き詰まって、そこで活動の継続を断念せざるを得なくなって、活動を継続させるという目的の遂行も不可能となってしまうわけで、そうであるならその場の情勢や状況に応じて態度や姿勢を変えていれば本当に活動が継続するのかというと、それもその場の情勢や状況に応じて態度や姿勢を変え続けることが活動そのものであり、とりあえずそうやって活動を続けていれば、そうした活動から目標や目的が生じてくるのであり、始めから目標や目的があるとは考えない方がいいのかも知れず、活動を続けている中で必要に応じて目標や目的が生じてくると思っておけば、特定の目標や目的によって活動が縛られる必要がなくなり、そうなれば活動の硬直化を避けられて、それだけ柔軟な対応や対処が可能となり、そうすることによって活動の継続が図られることにもなるのだろうが、果たして目標や目的が定かでない活動があり得るのかというと、目標や目的は活動した結果として生じてくると考えればいいわけで、活動した結果から振り返れば目標や目的があるように思われるとしても、途中や経過の中で目的を遂行したり目標を達成しようとする自覚があると、そのことだけに意識が集中してしまうから、態度が姿勢が硬直化してその分だけ活動の柔軟性がなくなってしまうわけで、実際に一定の目標や目的を掲げて活動をおこなっている人や団体からすれば、そんなのはあり得ないと思うかも知れないが、そう思ってしまうことが結果と原因を取り違えていることになり、目標や目的があるからこそ活動があると思い込むのは無理もないが、それが錯覚だと言っても納得しがたいだろうが、それに関しては活動を説明しようとすると、その目標や目的について語らざるを得なくなると思っておけばいいのかも知れず、活動を説明しようとする限りで、それがまだ活動する前の段階であっても絶えず活動した結果から振り返って見る視点に立っていて、まだ何もやっていないのに、結果的になんらかの成果がもたらされることを説明しなければならなくなるから、そうなるとそれに伴って不確かな予測や予想も入ってきて、そんな予測や予想の中で事前に決められた目標や目的についても語らざるを得なくなれば、その目標や目的に縛られながら活動する羽目になり、そうやって活動の柔軟性がなくなってしまうわけだが、それがいやなら目標や目的を途中で放棄したり裏切ったりすることになり、またそれに応じて態度や姿勢を変更することにもなるだろうし、活動を継続するにはそれが避けられなくなることが結構あり、そうなる度に継続が途切れる危機に直面するだろうが、そんなことをしょっちゅうおこなっていると他から信用されなくなるだろうし、誠実な対応を心がけるなら、一度決めた目標や目的に忠実でなければならず、それに伴って態度や姿勢も首尾一貫している必要もあるだろうが、そういうところでもそれらから生じる信用を裏切りながら活動を継続させることができれば、うまくいっているような成り行きを得られるわけで、そうなる過程において必要に応じて他人を裏切ったり騙したり自分をごまかしたりしながら、結果的にうまく立ち回っていれば、そんな活動そのものが信用のおけないものとなり、他から見れば倫理観や道徳心が欠如しているようにも思われるだろうが、現実の世の中で普通におこなわれている活動にはそういう否定的な傾向がつきものだろうし、そういった活動の是非がとやかく言われることも多いし、真に改めるべきはその種の活動内容となるのだろうが、それも改めるべきことだと主張する限りでその対象となり、実際にそんなことをやっている限りでは、その当事者でしかもそうした活動に伴って詐欺やペテンに引っかかってひどい目に遭った人でない限りは、何とも思わないし、詐欺やペテンに引っかける側としては、やって当然のことをやっているにすぎないだろうし、実際にそれが事件となって犯人や容疑者として逮捕されたり裁判の被告とならない限りは、うまいことやっている感覚しかないだろうから、反省もしないし、良心の呵責も感じないかも知れないが、それでも改めるべきことがあるとすれば、何が何でも活動を継続させようとはせずに、きりのいいところで切り上げて、さっさとその手の悪行から卒業してしまえば、案外罪に問われることもなく、善良な一般市民として何食わぬ顔をして振る舞っていられるかも知れず、そうすることも情勢や状況の変化に応じて態度や姿勢を変えることになるわけだ。
10月18日「不快さとは違う何か」
何を批判する気もないのに何かを語れば結果的に批判していることになってしまうとすれば、その語っている何かが批判の対象となっているのだろうが、何かとは何なのかというと、その場の不快な空気であるわけでもないが、空気を批判してどうするのかといえば、現実の空気が不快であるわけでもないだろうが、空気という曖昧な表現でしか語れない何かを感じ取っていて、それに関しては確信を持てないのだが、何かいやな雰囲気を感じているから不快さが増してきて、何とも言いようがないから空気と表現するしかなく、どうにもこうにも思い通りにはいかないからそうなってしまうのだろうが、矛盾を指摘されると無視するしかないだろうし、矛盾を無視した上で成り立つ理屈であれば屁理屈になってしまうが、もちろんそれが屁理屈であることを指摘しても無視されるしかないし、その種の慣習が不条理であることを前提に成り立っているわけだから、それが不条理であることを指摘すればそれも無視されるしかなく、要するに不都合な真実はそれが明らかになっていても無視するしかないわけだが、その一方で都合の良いところだけ理屈を持ち出して、その理屈だけを声高に主張していればいいわけで、そうなっていること自体が理屈も何も通用しない世界に暮らしていることを証していて、都合の良いところだけ理屈を持ち出す一方で、都合が悪くなれば都合の悪い理屈は無視するしかなく、理屈にはならない理屈が理屈であるように見せかけなければならないところが無理なのだろうが、それが具体的に何なのかを指摘できない空気というのもいやな雰囲気を感じさせて、日本という地域一帯に漂っている空気が淀んでいると表現してもしっくりこないだろうが、その原因をもたらしているのが特定の政治勢力というわけでもないだろうし、全体的に微妙な成り行きが進行している最中なのであり、それがメディアの世論調査通りの結果をもたらせばひとまず事なきを得るとしても、何か言いようのないしこりが残ることは確かであり、そのしこりをどう表現してもしっくりこないだろうが、それをはっきりと否定的に表現すると、真実を取り逃がしてしまうような気がするわけで、目下のところは否定も肯定もできない結果となる公算が高いだろうが、それを覆すような民衆の良心が求められていると言ってしまうと、そうならなくてもかまわないような気もして、もっと執拗にそのままの状態を保っていた方が後の時代のためにはいいような気もするから、今この時期を犠牲にして、未来へと今よりもっと良くなる可能性を託したいような気がするのであり、そうなるにはこの時期を生きている人たちが現状維持に執着することで、結果的にすぐに良くなる可能性を断念してもかまわないような気もするわけで、実際にそうなる可能性が高そうな成り行きになりつつあるから、現状を否定的に捉えることには躊躇が伴うわけだが、それに関しては政治の方面でも経済の方面でも批判されながらもうまくやっているような感じを出したいのだろうが、実態としてはうまくやっているわけではなく、うまくいかないなりのことをやっているだけで、うまくいっているように見せかけたいわけでもなく、それほどうまくいっていないことが誰の目にもはっきりと見えるはずだが、普通に暮らしている範囲内ではそれでも何とかなっていて、何とかなっている人の割合が高いほど現状を維持するような結果がもたらされるのだろうが、それも見せかけとしてそうなるだけで、実質的な面でどうかというと、少し違うような気がするだろうが、恐れているのは現状の破綻が明らかとなることかも知れないが、それを破綻だとは受け止められなければ、破綻していないことにしたいだろうし、破綻という表現がふさわしくないから、そういうはっきりした表現を嫌う傾向となっているのだろうが、実際に何が破綻しているのかといえば、現状が破綻しているといえばその実感が湧いてこないだろうし、破綻が間近に迫っていると主張したい人ならいくらでもいるだろうが、そう主張する人の実感としては破綻しそうだがまだ破綻していないことになるが、実態としてはどうなのかというと、毎度のことのように株価の暴落が間近に迫っていると言いたい人が宣伝攻勢を仕掛けている現状があるようだが、そうなったからといって相変わらず何が破綻したのかというと、暴落の理由としてどこかの企業の経営が破綻した程度にとどまるわけだが、他の何が破綻しているわけでもないのに破綻という言葉を使いたくなってしまうなら、それによって論理が破綻していることを示したいのかも知れず、それが何の論理かというと、現状を正当化する上で欠かせない論理であれば、それが現状が維持される上でも欠かせない論理になるかというと、少なくとも論理によって現状が維持されるのではなく、何らかの論理が破綻していることを前提とした現状が結果的には維持されようとしているのであり、その論理が何かといえば、現状の維持を図るための論理であり、現状の維持を図るために言葉を使って現状を維持する理由を説明しようとすれば、その説明に説得力を持たせるには、それを論理的に説明しなければならないのだろうが、そもそも論理が破綻している現状を維持しようとしているのだから、現状を維持しようとすること自体が論理的には破綻していると言えるだろうし、だから言葉ではうまく説明できないのかも知れないが、結果的にはそんな現状が維持されていて、実際に現状を維持するために様々な妥協や譲歩が図られた結果として、現状が維持されているように装われているのだろうが、それには現状を維持するために必要な論理が破綻していることを認めざる得ないのかも知れず、もちろんそれを認めてしまうと現状が破綻していることも認めざるを得なくなって、すでに論理的には破綻している現状を維持しようとすることになってしまい、言っていることとやっていることが矛盾してしまうので、矛盾を認めようとしなければ、どちらか一方の現状を否認しなければならなくなり、当然否認するには言葉を使って否認するわけだから、現状が論理的には破綻していることを否認するしかなく、それを否認しつつも、実際には論理的に破綻している現状を維持しようとするわけで、それが実際に何によって示されているのかというと、政治と経済の現状によって示されていて、簡単に言えば政治の中で主張していることが破綻しているのに、実際に経済活動がおこなわれている面ではそれほど支障を来さない状態が保たれていて、そういう水準では言っていることとやっていることが矛盾しているように感じられるわけだが、政治的な主張の矛盾が放置されて無視されていないと、経済活動にも支障が出かねないように思われるから、根本的なところで矛盾を指摘することが禁止されているような状況となっているわけだが、それがあからさまにはっきりと禁止されているわけではなく、誰も禁止されていることを意識できないようにされているというと、何かそれが陰謀のように思われるかも知れないが、そうではなく、それを意識できないような成り行きの中で政治的な主張がおこなわれているから、そういった主張のほとんどが矛盾を避けるような主張となっていると言っても納得できるわけでもなく、もとから矛盾しているのだから納得しろと言う方がおかしいわけだが、実際にどうやって矛盾を回避しているのかというと、これからやろうとすることを主張する際には、実際にそれをやった結果として出てきた状況を無視すれば、言っていることとやっていることの矛盾が回避できて、たとえこれからやろうとすることがこれまでにもやってきたことであっても、これまでにやってきたことに言及しなければいいわけだから、これからやろうとすることはこれからやろうとすることであり、これまでにやってきた結果がどうであろうと、これからやろうとすることにとどまるわけで、もちろんこれまでにもやってきた結果を正当化する際には、都合の良い成果を強調しておけばよく、都合の悪い結果はこれから改善していけばいいわけで、都合の悪い結果が出ているにもかかわらず、これからやろうとすることがこれまでにもやってきたことであれば、都合の悪い結果を改善できないわけだが、現状を維持するには、これからやろうとすることがこれまでにもやってきたことでなければならないわけだから、都合の悪い結果など改善しようがないわけだが、そうであっても都合の悪い結果をこれから改善しようとするわけで、現状を維持するためにこれまでにもやってきたことをこれからもやっていく中で、都合の悪い結果を改善しなければならないわけだ。
10月17日「教訓話の効用」
過去の出来事に関して何か気になることを覚えていると、それが自分にとって重要なことであるとは限らないが、それを覚えていることが気になって仕方がないようなら、今後それを知っていることが何かの役に立つ時がやって来るのではないかと期待してしまうが、実際に何を覚えているのかと言えば、逆に重要なことを忘れているのではないかという疑念と共に、その重要な何かを手放してしまったということを後悔の念と共に覚えているわけで、せっかくそれが役立つ時がやってきたのに、すでにその時にはそれがないということがわかってしまい、気づいた時には手遅れとなっているわけだが、すぐさまそれを手放さずに持っていたとしてもその時はやってこなかったのではないかという疑念も思い浮かんでくるが、それを手放してしまったことを後悔させるためにその時がやってきたと解釈すれば、話の辻褄が合うように思われて、同時にそんなことはあり得ないとも思うが、どちらかといえば話の辻褄が合う方が本当らしく思われて、それが運命のいたずらのように思われて仕方なければ、そんな話を思い出しては後悔しないように、何かを手放す時にはその時のことを思い出すように心がけるようになるだろうが、それのどこまでが実際に経験したことで、どこからが作り話なのかが不明確で、それを思い出す度に半信半疑になってしまい、よく考えてみれば手放したもののことごとくが後悔を伴うこともないだろうし、何も手放せなくなってしまえばゴミ屋敷となってしまうだろうから、手放したことを後悔してもその方がよかったのかも知れず、後悔したからといって、それがただの思い違いであれば、運命のいたずらでも何でもなく、それが何でもないようなことであっても、なぜか自戒の念や自責の念にとらわれたいのであり、別に理由もなくその種の教訓話をでっち上げたいわけでもないだろうが、そうやって何かしら防御の姿勢を取ろうとすることから保守的な態度や思考がもたらされて、ともすればそういう姿勢を取っている自らを正当化すると共に、軽はずみなことをやってしまう他人をそら見たことかと非難する口実となるが、逆にそればかりだと冒険心を抱いて新しいことをやる勇気や蛮勇を振る機会を手放していることにもなり、何でもかんでも教訓話に持って行きたい教師のような立場をとりたいなら、そうなっていること自体が説教老人化の兆候であり、もはや後先が短くなってきて持ち合わせている資源や可能性が枯渇してくると、それまでの経験を生かして若者に向かって教訓話を語りかける以外にやりようがなくなってくるのだろうが、それが駄目なら他にやりようがあるのかというと、やりようがないからそうなってしまうと共に、まだ他にやりようがあればそうなる成り行きを逃れるだろうし、まだ手放していない資源や可能性があるかも知れないが、その人が手放していないというよりは、絶えずその人へ向かって供給されるエネルギーがあり、それが他人に向かって説教するエネルギーに転化されるか、自身で何かをやる糧となるかは、どちらでもあるだろうが、いつまでも後生大事に説教話のネタを手放さずに事ある度にそれを蒸し返していると、マンネリ化を避けられないと共に、それ以外に何もできないような印象も伴ってしまうだろうが、その種の説教話をする機会さえ与えられていない老人の方が圧倒的多数を占めているだろうし、そうであるなら説教話や教訓話に接する機会にも希少価値が生じて、それを小馬鹿にしないでありがたがって拝聴しておくのが無難なところだろうが、逆にそんな老人を反面教師と見なして説教話に反発するのもよくありがちな若者ふうの態度でもあり、それもどちらあってもかまわないだろうが、よくありがちな範囲内で物事を捉えてしまうとよくありがちな成り行きにしかならず、そうなるのが人としての無難な在り方であり、何事にも無難さを求めるならそれでもかまわないとしても、無難であるに越したことはないと思っても、果たして本当に無難なのかというと、実際に何かがおこなわれた結果が何でもなければ、それが無難に思われるわけで、いくら説教したところで何の効果もなければ、やはりそれが無難な結果であり、説教する対象として馬耳東風な聞く耳を持たない存在が想定されていて、そういう存在に向かって説教したくなるのが、その種の説教老人がおかれた環境であり、その種の説教をありがたがって拝聴してくれるのではなく、無視するかさもなければ屁理屈を伴った反論を仕掛けてくるかのどちらかの態度が想定される中で説教したくなれば、そんな敵意が渦巻いている中でいくら説教したところで何の効果もないと思っておくのが無難なところだろうが、結局その種の説教の内容も、相手に対する敵意から生じてくる場合も多く、素直には言うことを聞いてくれない若者に敵意を抱くから説教したくなると思っておけばいいわけだが、それが敵意だとは認識できなければ他にどんな思いを抱くのかとなると、逆に好意を抱くと媚びていることに気づかないだろうし、そこで功利的な損得勘定が働けば敵対するよりは味方に引き込んだ方が得だと判断するなら、褒めると共にそれと自覚することなく媚びることにつながるだろうが、なぜ媚びるのかといえばその方が得だと判断しているからだが、それと意識して判断しているわけではなく、他人から良く思われたければ自然に媚びるようになるだろうし、自身が他人に媚びていることがわかってしまうと自尊心が傷ついてしまうなら、なるべくそれを意識しないようにする思惑が働いて、好意を抱いていることにしておくのが無難な態度になってくるだろうが、それも自覚しているかどうか定かでない程度にとどめておいた方が無難だろうし、何となくそういう思いをはっきりとは自覚しない程度にとどめておく習慣が勘として身についていれば、否定的な心理状態となって自己嫌悪に陥る危険を避けられるかも知れないし、そもそも過去の経験から教訓の類いを導き出す必要が生じている時点で手遅れの可能性が高く、大抵は手遅れとなって後戻りが利かなくなってから後悔して、もはや取り返しがつかないことをやってしまった後で、そこから教訓を導き出してその教訓に基づいてうまくやろうとしても、もうその機会は二度とやってこない可能性が高く、そうであるなら教訓話を真に受けても効果など期待できず、逆に効果を期待してしまうと裏切られて、教訓など生かす機会が全くないような成り行きの中で途方に暮れることになるなら、ではその種の教訓話が何の役に立つのかといえば、教訓話を真に受けた人の足を引っ張るのに役立つことになるかも知れず、始めから敵意を抱いている人に向かって教訓話をするのだから、結果的にそれがうまくいけば敵の足を引っ張ることに成功するかも知れず、始めから敵の足を引っ張ろうとは思わなくても、まずは媚びを売って敵をおだてて信用させてから、何かためになり役に立つような教訓話を披露すれば、敵も話を真に受けてその気になるだろうし、その気になったところで、取り返しのつかない過ちを犯すようにそそのかせば、まんまと罠にはめたことになるわけだが、それも始めからそのつもりでそういう罠を仕掛けるわけではなく、結果的に似た者同士で意気投合してしまうから同じ過ちが繰り返されて、そこから同じような教訓も引き出されて、そんな教訓を真に受けてしまうと、また取り返しのつかない過ちが繰り返されることになるだろうが、なぜそうなってしまうのかといえば、教訓話を真に受けるような人は偶然に対する感性が鈍いから、その場の情勢とは関係なく何でもかんでも教訓に頼ってしまい、教訓によって事前の先入観が脳裏に植え付けられてしまうから、それと違う成り行きになった時にアドリブが効かなくなって、一度対応を誤ってしまうと事前の先入観が邪魔をして応用が利かないから、そのまま軌道修正が利かずに一本道で取り返しのつかない事態へと進行して、そうなってから後悔しても後の祭りとなって、たとえそこから教訓の類いを導き出しても、二度と同じ成り行きにならなければ、その度ごとに違った教訓が導き出されるだけで、教訓が生かされる機会が永遠に訪れないことになってしまうわけだが、そうならないようにするには、その場を支配して人や物や情報を制御して同じ制度やシステムの中で誰もが活動するように仕向ければ、同じような環境の中で同じような状況が再現されて同じようなことが起こるから、たとえそこで成功しても失敗しても、同じような結果の中でそうなるから過去の教訓が生かされることになるだろうが、そうなればなったで、今度は制度やシステムを同じ状態に保つのが至難の業となってくるのかも知れない。
10月16日「余裕のない期待」
その必要もないのにあえて嘘をつくなら何がそれに該当するわけでもないが、それに対して危機感を伴わないような変化などあり得ず、絶えず外圧にさらされることによって、大した打撃を被っているわけでもないのに追い詰められているような感じがして、心身に余裕がないからそう感じられるのだろうが、その場の成り行きがそんなふうに見えてしまえば、自身が気づかないところで、代わりに他の誰かが気づいて欲しいわけでもないが、気づかないからといって具体的に何がまずいとも言えないし、少なくとも心理的に追い詰められているように感じられるなら、そう感じたままになっていればいいというわけでもないが、その程度で済むなら、それに越したことはないということであり、実際にはその程度では済まないだろうが、それを他の誰のせいにできるわけでもなく、やっていることがうまくいかないからといって、それに対する批判の矛先が自身とは別のどこかへ向かうとしても、世の中の何が悪いからといって、根本的なところから社会を作り変えようとしてできるわけでもなく、手っ取り早くもっと表面的なところで功利的な利害関係を問題視すれば、それに関してこれまでのやり方を改めなければならないような気運が高まることを期待して、もちろん期待するだけでは何がどうなるわけでもなく、何もできないから期待するしかないと思うなら、そんな実効性のない期待が裏切られるのは当然だとしても、何の進展もないのにただ期待だけが先行していけば、やがて虚しくなってきて、言葉でそれを説明するのとは違う次元で実践的なやり方が生まれることを期待するかも知れないが、それも期待するにとどまるだけなら、期待するだけで何もやらないままとなって、何の進展も得られないだろうが、それでも期待できるなら期待していればいいとなると、そうやって絶えず期待し続けることが、その期待に応えて誰かが何かをやらざるを得ない状況に追い込み続けることにつながり、追い詰められて窮鼠猫を噛むという成り行きを期待しているわけでもないが、そんな意味不明なたとえではごまかせないような成り行きになることを期待して、今回を逃せばもう後がないというわけでもないにしても、なぜか自身が追い詰められているような感じがするなら、単に心身に余裕がないだけでは納得できないはずだが、実際に自分が何を期待しているのかといえば、単刀直入に世の中が変わることを期待しているのだろうが、都合の良いように変わってほしいと思うのは虫のいい話であり、変わるに際してはそれなりのリスクが伴うことを覚悟しない限りは、期待の本気度が疑われて、淡い期待程度では裏切られて当然だが、実際に裏切られてもかまわない程度に期待しているなら、その程度の期待で済むような世の中になっていて、誰にとってもそうとは限らないだろうが、大して深刻な状況とは言えないところが、大げさな危機感や期待感を真に受けられない理由ともなり、そう感じる人が世の中で多数派を占めていれば、現状維持でもかまわないような気がしてしまうわけでもなく、世の中の現状に関して微妙に違和感が伴っていることが、大したことでもないのにちょっとしたところからさっさと何かが変わるような気にさせるのかも知れず、実際には期待がそれとは別のところから来ていて、自らの願望を実現させるような成り行きになることを期待しているだけだが、そうなる理由が定かでないのに、そんな期待感が辺り一面に空気のように充満しているわけではなくても、その期待感と普段から気になっているちょっとした違和感を結びつけるのはおかしいのだろうが、メディアが機会を捉えて繰り出す恣意的な世論調査によって、変化への期待感を鎮めようとすることが納得がいかないのは、誰しもがそう思うところだろうし、その種の世論調査結果と変化を求める期待感とが全く一致しないから、そんなのは嘘だろうと思うしかなく、そう思っている時点で期待が裏切られるのはわかりきっているだろうが、そのわかりきっている結果を確かめるには自身も自らの期待に沿うように積極的に行動しなければならず、そんな行動が実を結んで思い通りの結果がもたらされれば言うことなしだろうが、そんな淡い期待が裏切られてしまうことも予想の範囲内であり、事前に裏切られることを予想して、どちらでもかまわないように振る舞おうとするのだろうが、それが振る舞おうとして振る舞えるわけでもなく、そんなふうには振る舞えないから、余裕の感じられない振る舞いになってしまい、結果的には自らの振る舞いに落胆してしまうわけだが、そんな振る舞い方に誰もが後悔するとも限らず、何とかして思考と行動を一致させて整合性を取り繕うなら、それ相応の屁理屈の類いで理論武装しなければならず、そういった世間体を気にした取り繕いが破綻してみないと、自らの本心が見えてこないわけで、それが見えてこないうちに破綻のないように振る舞おうとしてしまうから、自らに嘘をついていることに気づかないばかりか、気が進まないにもかかわらず世間の意向に従って、それがたわいないことだと知りつつ賛意を示して、世間を支配するくだらない論理の前にひれ伏してしまうから、やはり自らに嘘をついていることに気づけないわけで、そんな成り行きが自らの期待に対する批判として機能するかというと、機能させないようにしているのかも知れず、そうするには期待と落胆とを取り違えないとならなくなり、そんなことを期待していたなんて夢にも思わなかったように装う必要がありそうだが、では何に落胆したのかというと、自らの願望の幼稚さに落胆したのかも知れないし、それが期待ではなく願望にすぎなかったことが、取り立てておかしくは思えないが、それ以前に期待と願望の違いがわかるわけでもないだろうし、うまく説明しようとしてもできないから、それがおかしいことが実感できないし、何を自覚すればいいかもわからず、途方に暮れてしまうかも知れないが、そんな回りくどくてややこしい回り道を避けるなら、素直に自らの願望が成就することを期待していればいいわけだが、そういう成り行きにさせないような事情や経緯がどこからともなく生じてくるわけでもないだろうが、無から有が生じてくるように、そこに至る成り行きを誰が構成しようと画策しているわけでもないはずだが、何かそうはさせないような誘導がおこなわれていて、その誘導の仕方に違和感を感じつつも、誘導に屈しているとも感じられないが、誘導されているような疑いがどこからともなく生じてくるわけでもないのだろうが、そんな誘導に引っかからないように意識して振る舞っているわけでもないが、その疑いが晴れるわけでもなく、疑いを抱かせるような成り行きを意識してしまうと、意識していること自体がすでに誘導されていることの証しかも知れないし、疑い出すときりがないが、期待していることをはっきりと意識しているなら、それを信じて行動するしかないし、その期待が裏切られても行動に迷いが生じなければ、それを期待していることを自覚するしかなく、少なくともそれを期待するように誘導されているとしても、そんな誘導に逆らう理由もなければ誘導されるがままに期待していればいいのかも知れず、しかも他からそれを迷わすような仕掛けが講じられていることを意識してしまうと、ますますそうした仕掛けに逆らって期待してしまい、結局はその種の仕掛けによって誘導させられていることになるだろうが、仕掛けている側にも思い違いが生じているのかも知れず、何かを仕掛けられて誘導させられてしまうわけだから、仕掛けを見破られてしまっている可能性もあり、その結果として裏の裏をかいて、思わぬ期待が生じていることにも気づけないわけで、その期待が何かというと、仕掛けている側に逆らうような期待であり、仕掛けによって誘導されるまでは読み通りだとしても、そうなった結果として抱く期待というのが、なぜか仕掛ける側の思惑とは違う期待を抱くということが、仕掛ける側にも仕掛けられた側にも俄には理解できないかも知れないが、案外そこにその場の偶然が作用してそうなる成り行きが生じて、その原因がその場で覚える違和感になるわけだが、そこで何を信用するのかといえば、最終的には自らが覚える違和感を信用するわけで、なぜ違和感を覚えるのかといえば、何かを仕掛けられて仕掛けに沿って誘導されるから違和感を覚えるわけで、そんな違和感を覚えている時点で仕掛けに逆らっていて、仕掛けに逆らって違和感を覚えているのに仕掛けによって誘導させられてしまうから、仕掛け自体が信用できず、そこで仕掛けに対して両義的な解釈も生じてくると、仕掛けている側に誘導されているにもかかわらず、仕掛けている側を信用していないという矛盾が生じて、結果的に仕掛けが思ったほどの効果をもたらさないから、うまくいかなくなってしまうわけだが、そうなれば仕掛けに対する不信感も覚えるわけだ。
10月15日「悪しき前例主義」
そのような状態の何が悪いとも言えないとしても、特に何も悪くなければ批判できないはずだが、前例主義に基づいて無難な方針が示されると、うまくいかないのは前例主義にとらわれているからだと批判できるだろうが、否定的な傾向としてそうなっているから、それを批判する余地が生まれるわけで、批判したいことが現状の延長上にそうあるべき未来の姿として提示されて、そんな未来の状態を想像しているにもかかわらず、それが確実にやってくることを前提にして、そうした前提をもとにして批判の言説を組み立てるわけだが、それの何が悪いといっても、そうなってはまずい状態を都合良く設定していること自体が現状からかけ離れていて、そうなるとは限らないということが無視されているわけで、実際にこれまでにもそうなるとは限らない成り行きになって、その度にその手の批判が空振りに終わってきたにもかかわらず、そうしたオオカミ少年的な批判が無効であることがその度ごとに証明されているにもかかわらず、それが証明された事実も無視されてしまうから、相変わらず前例主義にとらわれた批判がおこなわれてしまうのだろうが、そこから何が言えるかというと、それの何が悪いわけではなく、そこで悪しき前例として批判が繰り返されることによって、事なかれ主義的な現状が持続するわけで、そうやって現状が維持されている限りで批判の継続も図られるわけだから、別にそれで誰も困らないし、それでも一応は批判が機能していて、現状の中で批判が無効となるように機能しているから現状が維持されるのであり、そうした執拗な現状への働きかけによって現状がもたらされているように錯覚しているのであり、そんなことをやらなくても現状のままなのに、何かしら現状に働きかけているから現状が維持されているように装いたいのだろうが、果たしてそんな現状批判を真に受けている人がどれほどいるのかというと、批判している人以外には真に受けている人がいないということはないだろうが、それも勝手な想像によって導き出される推測である限りでどうでもいいことかも知れず、その種の批判もどうでもいいことなのかも知れないが、やはりどうでもいいことだからこそ現状の維持にはどうでもいい批判が欠かせないわけで、そんな現状を踏まえるならどうでもいい批判以外には批判はあり得ないのかも知れないが、あえて意識して無効な批判を繰り出しているわけではなく、批判が有効になるように工夫を凝らしてしまうことが、批判を無効化させるわけではないとしても、結果的に現状が続いていく限りで現状批判が無効となっているように感じられて、しかも無効となっている限りで現状の維持には批判が有効に働いているように感じられるわけで、それはあくまでも結果的にそう感じられるから、それに関して批判している人が悪いわけではなく、ただ単に現状を維持しようとする勢力が現状を批判して現状を変えようとする勢力に勝っているから、そんな結果がもたらされているわけで、それ自体が特にどうということはなく、結果的にどうでもいいように思われる批判であっても、それなりの内容を伴っているから、それが無効であるにしても有効であるにしても批判として機能しているようにも感じられて、現状の中で批判として成り立っているように感じられるわけだが、たぶんそれ以上の機能も有効性も無効性もないのであり、その程度でかまわないどころか、それを超えて批判を有効に機能させようとすることが、無理で無益なことなのかも知れず、それ以上の何かを求めてしまうと批判ではなくなってしまい、そこから一歩を踏み出してしまうことによって批判者ではなくなって、批判とは言えない言説を弄していることになるのだろうが、批判者ではないとすれば何なのかというと、いつの間にか体制の擁護者となっていて、批判しつつも批判している対象を擁護するような両義的な立場となってしまい、それが批判の無効性を示しているのに、批判自体は有効に機能していて、現状を維持するには欠かせない批判となっているわけで、批判者が権威者になるとはそういうことであり、別にそれが悪いことではないはずだが、そういった批判を受け止める側が注意しなければならないのは、結果的に批判によって現状が維持されているとは思わない方がいいのかも知れず、逆に現状が維持されているからその種の批判が有効に機能しているように感じられて、それによって批判者が権威者となっているわけで、そうなった結果を原因と取り違えると、批判者が権威者として現状の体制を支えているような本末転倒な認識に至って、そんな錯覚を抱いてしまうから批判者に権威があるように感じられてしまい、そういった錯覚が遠近法的な倒錯から生じているわけで、多くの人がそう感じていれば、逆に現状を支えているのはそう感じている人になるだろうが、そうだとすれば現状を変えるには権威者気取りの倒錯者をやっつけるのではなく、そう感じてしまう人たちの認識を変えなければならないわけだが、その種の倒錯者をやっつけることによって大勢の人たちの認識を変えられるかというと、少なくとも倒錯者を批判している人たちにはそう感じられるのだろうが、現状を変える近道としてはそうだとしても、迂回して遠回りしている過程で生じる紆余曲折が現状を変えている可能性もあり、なぜそこから迂回してしまうのかといえば、批判が批判として機能していないように感じられるからであり、それ自体も錯覚かも知れないのだが、それも結果的に紆余曲折がもたらされていること自体が現状の変化そのものであり、批判してもその批判が直接批判している対象へと届かないようなもどかしさを感じるとすれば、すでにそうなっている時点で紆余曲折が生じていて、その対象を批判することによって現状を変えようとしているのに、批判が無視されたり跳ね返されるのではなく、ねじ曲げられて別の方向へと逸らされて、回り回って自身へ戻ってくれば批判が一巡したことになるだろうが、その際に批判とは違う別の何かに作り変えられて戻ってくるのであり、そうなる過程で現状が変化したことになるのだが、それが具体的にどうなるのかというと、現状を批判することから、変化した現状を肯定する言説となって返ってくるわけで、そうなる過程で現状の変化がもたらされるわけだが、いつまで経っても現状に対する批判のままにとどまっていれば、そういう変化はもたらされていないことになるだろうが、ある時不意にそれが現状を肯定する言説に変貌していることに気づくか気づかないかは、そうなってからでないとわからないかも知れないが、そんな現状でもかまわないと思ってしまうことが負けを認めることになるとしても、それが負けではなく、すでに現状が変わってしまっているから、そんな現状でもかまわないと思ってしまうわけで、そう思っている時点ではまだ現状が変わっていることに気づかないわけだが、いつまでも気づかないと気づかないままとなってしまうが、それでもかまわないから、そんな現状でもかまわないと思ってしまうのであり、その途中で通過してきた紆余曲折を変化だとは思えず、それに気を取られているうちに現状が変化したことに気づかないとすれば、逆にそれを意識させないようにしているから、その隙に現状の変化が起こり、人々が変化に抵抗する隙を与えなかったから変化させることに成功したのであり、そうであれば人々が気づかないような変化が、変化を成功させるには必要となってくるわけだが、要するにそれを結果的に説明するとすれば、多くの人がそこで起こる思いがけない紆余曲折に気を取られている隙に現状が変化すればいいわけで、現実に何か物事の本筋とは関係のないところでわけのわからない紆余曲折が起こっていて、それが気になって仕方がないような雰囲気になっていると、誰もが気づかない方面から現状が変わりつつあるのかも知れず、そんな紆余曲折が何かというと、それを具体的に指し示すことはできないが、それを探そうとしなくてもすでにそこで起こっていることであり、実際に誰もそれを紆余曲折だとも思っていないのかも知れないし、その代わりに悪しき前例主義にとらわれたような語り方で語られるような物事かも知れないのだが、実際にそれがうまくいかないから批判されているわけで、しかもそれが悪しき前例主義にとらわれているように思われるから批判されているのだろうが、それ自体が現状の変化をもたらす紆余曲折だとすれば、誰もそんなことは夢にも思わないようなことなのではないか。
10月14日「人間中心主義」
それは企業活動などを考えてみればわかることかも知れないが、世の中で機能している制度やシステムには、必ずしも人のために動作しているとは言えない面があって、何か人を部品として含んだ装置が動作するための制度やシステムとなっていて、そういう認識を示してもピンとこなければ、普段から人間中心的なものの考え方に染まっていて、制度やシステムは人の活動を手助けするためにあるという公式的な見解を信じていることになるだろうが、そういう面ばかりではなく、制度やシステム自体を維持継続させる目的まで考慮に入れると、そのために人を犠牲にするような面が出てきて、制度やシステムを維持するために人を消費するような成り行きの中で、人が消耗品のように使い捨てにされている状況があり、それに関して例えば国家のために命を捧げるのが戦場での兵士の役目だとすれば、そこで兵士は消耗品扱いとなるわけだが、そういうわかりやすい成り行きにはめったにならないとしても、人間中心的な考え方では説明がつかないような面まで考慮に入れると、少なくとも人のためにこの世界があるわけではなく、人も世界の一部を構成していて、人が構築した制度やシステム自体がしばしば人を裏切るのは、人が人を裏切るのと同じではないとしても、人が構築したにもかかわらず、構築した人とそれを利用する人の思惑が一致するとも限らず、さらに制度やシステムに敵対する人まで出てくる可能性を前もって考慮できるかというと、ある程度は想定できるとしても、可能性の全てを考慮して制度やシステムが構築されているわけではなく、特定の目的のために構築されていれば、それ以外の目的が構築された後から出てくることまで考慮できるはずもなく、そういう意味では全ての人の要求に応えるようなものではないし、特定の目的に特化しているなら、他の目的には応えられないのも当然のことであり、また目的以外のことに利用できるわけでもなく、その目的に応じる面では確かに活動の手助けになるだろうが、他の目的にとっては役に立たないどころか、場合によっては邪魔になることもあるだろうし、さらには活動が妨害される可能性まであるとすれば、制度やシステムが人を裏切るのではなく、単に目的とは合わないだけで、ある目的にとっては有効であっても、別の目的にとっては無効であったり障害であったりして、では目的に合った制度やシステムを利用すればいいのかというと、利用できる制度やシステムがあればいいだろうが、なければ新たに構築すればいいが、そう簡単に構築できるわけではなく、すでにそれとは別の目的に沿って作られた制度やシステムが運用されていて、それが邪魔ならその制度やシステムを破壊しなければならなくなるかというと、その制度やシステムを維持管理する人や団体やその利用者と戦わなければならなくなり、そうやって様々な目的で作られた制度やシステムが乱立している中で、それぞれの制度やシステムにかかわっている人や団体が、互いの利害がかち合う面で争ったり戦ったりすることになるのだろうが、人間中心的なものの見方や考え方からすればそこで敵対し合う人や団体が争ったり戦ったりしているように見えるが、もっと広い視野から実態を把握するなら、そうなっていること自体が人や物や情報を交流させる制度やシステムを構成していて、それらを混ぜ合わせて活性化させるような作用があって、そうなっているとしても活性化させる目的があるわけではなく、ただ単に化学反応のようなことが起こっているだけで、そこに誰かが都合良く目的を設定してみても、それはその人にとっての都合の良い解釈でしかなく、そういう解釈によって構成されるのがフィクションであり、そうだとすれば物事の人間中心的な解釈自体が都合の良いフィクションでしかないわけだが、それも〜でしかないと述べてしまうと何か大したことはないように思われるが、物事を魅力的に見せるにはフィクションが欠かせないわけで、人に都合の良い幻想を抱かせる目的で、その種のフィクションが構成されると思っておけばいいのかも知れないが、人が取り扱う物事に魅力を抱かせるフィクションが人間中心主義であるなら、そうではないフィクションがあるかというと、中には人を物扱いする主義主張もあるだろうし、そこから人が疎外されていることを問題視するような主張が批判として生じてきて、そういう批判がますます人間中心主義を補強するのだろうが、世の中の全ての物事が人間中心主義に従わなければならないとなると、そういう主義主張に従わせる過程でフィクションの度合いがより一層強まってきて、そうではない面を排除したり無視すればするほど、人の活動を手助けする制度やシステムの矛盾が見えにくくなり、それだけでは世の中が成り立たない実態が見過ごされて、都合の悪い面から目を背けるような姿勢や態度を取らせて、かえって人間中心主義が邪魔をして、ものの見方や考え方を歪めていることにもなってしまうのだろうが、それとは逆に人が物扱いされて、人権が蹂躙されてしまうことが見過ごされてはならないなら、では人をどのように扱えばいいのかといえば、果たして全ての面で人を自由な存在として扱えるかとなると、それにも限度があるだろうし、人を何らかの目的に従わせることが、人を物扱いすることにつながるとすれば、ではいやなら従わなくてもかまわないのかというと、同意を取り付けないと目的を達成できなければジレンマが生じて、どうやっても人間中心主義の範囲内では収まらなくなると、それ以外の制度やシステムが必要となってきて、それが人を統治したり支配したり制御したりする制度やシステムになるのだろうが、そうやって人の同意を必要とせずに強制することが許されていいのかといえば、許されなくても必要だからおこなわれていて、人よりも他の物事が優先されるところでは、同意なく強制されるしかなければ、そういった強制に逆らえば、強制してくる人や勢力と戦うしかないだろうし、そこで人間中心主義を貫こうとするから、物事を強制してくる人や勢力と戦うしかなくなるわけだが、実際に戦うにしても、始めから戦うことが目的だったわけではなく、強制されなければ戦う理由も生じないはずだが、では戦わずして他人から同意を取り付けるにはどうしたらいいのかというと、そんな制度やシステムとして編み出されたのが物事の売買であり、もちろん全てが売買によって片がつくとは思えないが、人間中心主義を貫こうとすれば、強制ではなく同意を取り付ける傾向になってきて、できるだけ戦いを避けて穏便に物事を処理したいという意向を世の中に反映させるとなると、自然と双方の同意に基づいた取引が主流となり、それに対応したやり方の中で何が好都合かというと、物事の売買によって決着を図る成り行きになってくるわけで、そうなると人の目的自体を売買に合わせて構成しようとする成り行きにもなって、例えば欲しいと思うものをどうすれば手に入れられるかとなれば、買えばいいということになり、それ以外の手段を生じさせないような制度やシステムも講じられて、人の目的が欲しいものを買うという行為に収斂されてくると、欲しいものを商品として提供するような制度やシステムも世の中の主流となってきて、狩猟や採取によって得るよりは売買によって得る方が手間がかからない成り行きとなり、そうなる過程で人の行動や行為や思考や欲望なども調整されてきて、何かをおこなうにはそれに伴って必ず物事の売買がかかわってくる制度やシステムになってきて、誰もが物事の売買にかかわらないと生きてはいけない世の中になっていれば、同意なく何かを強制されるというよりは、物事を売買することに同意せざるを得ない成り行きになって、場合によって死ぬか売買するかの二者択一になってくるのだろうが、果たしてそれが人間中心主義なのかというとそれそのものではなく、人間中心主義を押し進める過程で、いつの間にか物事の売買をせざるを得ない成り行きになってしまったわけで、それ以外にやり方がないのかというとそうでもないのだろうが、その中で何が便利で効率的な他人の同意を求めやすいやり方かとなると、自然と物事の売買に行き着いてしまうわけで、そうなるとそれに合わせて目的が調整されることになって、人の目的が物事の売買を中心にして構成される成り行きになってくるのだろうし、結局はそういった目的に合わせて社会全体も構成されるようになってくるのではないか。
10月13日「ダメージの蓄積」
日本の近世以降の歴史をひもとけば、例えば江戸時代では武士の頭領が形の上では天皇から征夷大将軍に任命されて幕府を開く権利を得て、そうやって天皇の権威を利用して徳川家による全国支配が正当化されていたのを、薩摩藩や長州藩が中心となって王政復古と呼ばれる天皇の権威や古代の律令制に基づいた詔を利用して江戸幕府が倒されて、明治政府を立ち上げて欧米諸国を見習った立憲君主国の体裁を取り繕いながら日本の近代化が図られて、またそれが行き詰まって第二次世界大戦の戦前や戦中にはドイツやイタリアのファシズムを見習っているにもかかわらず、天皇制を利用しているから天皇制ファシズムと呼ばれた政治体制へと変貌した挙げ句に、アメリカとの戦争に敗れてGHQと呼ばれる占領軍が日本を民主的な政治体制にする際には、共産党や社会党が主体の左翼政権になるのを防ぐために、また天皇の権威を利用するために天皇制を残して、保守派を主体とした政権にして、それが現代まで実質的には政権交代のほとんどない自民党による長期独裁政権が続いているにもかかわらず、形の上では欧米諸国に認められた民主的な政治体制を取り繕ってはいるが、その内実は議員の世襲制が慢性化していて、少なくとも国民が真面目になって議会制民主主義を守ろうとしているわけではなく、形だけは民主主義の体裁を取り繕っているのだが、誰もそれがひどいという自覚はなく、とりあえず日本と呼ばれる地域に暮らしている人々が直面している政治状況は、見せかけのいい加減さやデタラメさとは裏腹に、相対的にはうまく行っている方なのだろうが、結果的にそうなっている状況を実力だと勘違いしてはならないし、運も実力のうちであり、地政学的な有利不利も都合の良いように捉えておけばいいとしても、過去の経緯は過去のことであり、現状への対応も過去との整合性を考慮するなら、相変わらずデタラメでいい加減なものになるだろうし、別にそうしようとしてそうなるわけではなく、そうなった結果からそんなことが言えてしまい、そんな結果を良いか悪いかで評価すると、良いとか悪いとか評価したところでそうならざるを得ない面を考慮すれば、その良いか悪いかの評価自体を真に受けるわけにはいかず、ならばそういう評価自体が無効なのかというと、そうなりやすい傾向として否定的な意味や批判的な理由から評価することが、そうなった結果を示していて、そういうことだと受け止めておくしかないのだが、それでも納得しがたいだろうし、どうしても否定的かつ批判的な評価には反発してしまうのだろうが、その反発も真に受けないから、何か本気ではないような印象を伴って、その程度でかまわないような気になってしまうわけで、それなりに多大な犠牲を払って現状に至っているとしても、犠牲の見返りを求めてしまうと割が合わなくなってしまうから、割が合わない分がマイナスの評価となって、そこから現状への批判が可能となるわけだが、無理にそれをプラスに捉えて批判を封じ込めようとしても、果たしてその見返りとして割に合うような利益がもたらされているのかというと、現状を肯定的に捉えるのはその人の勝手であり自由だが、今までが割に合うか合わないかとは関係のないところで、これからまた否応なく歴史が追加されると思っておいてもかまわないし、それも厳密には関係ないはずがないとしても、なぜかデタラメでいい加減な解釈が通用してしまう範囲内では、関係のないところで関係のないエピソードが勝手に付け加わって、今までの連続性がねじ曲げられて、それを説明しようとしておかしな屁理屈をこね回して強引に説明してしまうわけで、それがこれまでにも通用してきたつもりのデタラメないい加減さのなせる業なのだが、本当は通用していないのかも知れないし、通用しなかったから戦争に負けて多大な被害や損害を被ったわけだが、そこでも奇妙な成り行きにまかせて乗り切ってしまい、本当は乗り切っていないから、割に合わない現状がもたらされているのだろうが、うまくいかないのはどこでもそうであり、世界中でうまく行っていない面があり、それも強引にうまくいったように見せかけようとするのだが、おかしいところはおかしいと言うしかないし、実際におかしいのだから、それを隠す必要があるとしても、同時に暴き立てる成り行きも生じてくるから、両方から力が及ぼされて、対立して敵対する者同士で争ったり戦ったりすることになるだろうが、それもこれまでの経緯からすれば些細な小競り合い程度にとどまってしまい、大したダメージとはならずに、平然と受け流しているつもりにはなれるだろうが、それもつもりであり、本当は深刻なダメージを負っているのに、平然と受け流しているように装われて、結果的にごまかされてしまい、別にごまかそうとしてごまかしているのではなく、否応なくそうなってしまうのであり、そういう風土だと思っておいて差し支えないわけだが、そういうことを考慮するなら、何でもないような結果がもたらされるにしても、それを大げさに捉えて深刻な状況だと思ってしまう人の方が状況を正確に捉えていて、そういう人の現状認識を信用した方が身のためかも知れないが、見かけはそうではなく、誰もが平静を装い、強がってみせる人の方が好感を持たれて、そんな好感を抱く人たちによって現状に対する批判が抑え込まれてしまうのだろうが、それもこれまでの経緯からすれば当然の成り行きだろうし、そうやってこれまでにも何度も難局を乗り切ってきた経緯があり、それも本当は乗り切れずに破局的な結末を迎えた事実があるとしても、そんな事実から反省や教訓の類いがもたらされた例しはなく、むしろ否定的な結果をいいように受け取って、肯定的な解釈を施してうまく取り繕うことに慣れてしまい、痛みを痛みとも感じなくなっているのかも知れないが、痛みを感じられないとしてもダメージが蓄積していることは確かかも知れず、その蓄積されたダメージがどのような結果となって痛みを感じない人たちに跳ね返ってくるかとなると、実際にそうなってみないことには何とも言えないが、意外とそれも受け流しているように装われてしまうとすれば、犠牲となった人たちも浮かばれないし、時が経てば誰が犠牲となった人かも忘れ去られて、何事もなかったかのように平静が保たれて、何でもないような日々の日常が続いていくしかないだろうが、そうなることを狙って誰が策略の類いを巡らせているわけではなく、そういう面では誰も戦略的に振る舞っているわけでもないのに、結果的にはそうなってしまうから、実際に被害や損害を受けた人たちは骨折り損のくたびれもうけとなってしまうのだが、それがこれまでにも無数に繰り返されてきたことでもあり、そうなるのを避けようとすれば、セコく小ずるく立ち回って、他人から軽蔑される役割を引き受けることと引き替えにして、小さな利益にありつけるだろうが、そういう生き方が性に合わなければ、自ら進んで犠牲者の役割を引き受けて、いつまで経っても一向に実現されない正義を主張しなければならなくなり、どちらかと言えば深刻なダメージが蓄積されるのはそういう正義を主張する人たちの方になるわけだが、そのダメージというのが何になるかが、実際にそうなってみてからそれに気づいたり気づかなかったりすることでもあり、中にはダメージを負っていることに気づかないまま死んでしまう人もいるだろうが、身体に深刻なダメージを負った人なら病気にかかって気づくことになるが、精神に深刻なダメージを負った人になると、逆にそれをダメージだとは思わない傾向があり、端から見ればおかしな主張を繰り返しているように感じられるとしても、そんな人たちが仲間を集めて結束すれば、それが世界を動かす力となるような幻想も生まれてきて、集団でその力を行使することによって他人を傷つけるから、さらに被害が拡大することにもなり、それが社会全体に悪影響を及ぼすのだろうが、そうなってしまうこと自体が破局的な結末そのものでもあり、それも一般の人たちにとっては受け流すべき対象となるのだろうが、いつまでもどこまでも受け流していられるかというと、果たして我慢の限界がいつやってくるかも、その時になってからわかることでもあり、それが半月先になるか半年先になるか、あるいはいつまでも耐えられるかは、そういう攻撃を仕掛けてくる集団の精神状態にもよるだろうが、一般の人たちが軽く受け流すようであれば、深刻な状態だとは言えないだろうが、それもこれまでに起こってきたいつものことであり、身体に深刻なダメージを負った人はその怪我や病気がもとで死んでしまうが、精神に深刻なダメージを負った人はいくら暴れても軽く受け流されて忘れられてしまい、そうやって社会全体で心身のダメージを吸収するようなシステムになっていると捉えておくしかないのかも知れない。
10月12日「ねつ造された疑い」
何かを予想したり予言する以前に、実際に調査した結果が示されると、調査結果を信じるなら、それが客観的な事実だと思われるが、調査した結果として示されたそれが、ねつ造されたデータであれば、少なくとも事実ではなく、何らかの思惑からデータがねつ造されて、それなりにもっともらしい理由を伴ってデータがねつ造されたのであれば、それがそれなりにもっともらしい結果として示されて、それが多くの人にとって信用できる結果となり、多くの人を信用させたくてデータをねつ造したのであれば、それなりに信憑性の高い結果として示されるのだろうが、そこから何を予想したいのかといえば、多くの人が信用できるようなもっともらしい結果がねつ造されていることを予想したいのであり、そんな結果を予想することが現状で求められているわけでもないだろうが、ただそんな結果を信じられないからデータがねつ造されていることを疑いたいのであり、誰もが信用できそうなもっともらしい結果が信じられないわけだが、では逆に何を信じたいのかというと、データがねつ造されていることを信じたいのであれば、逆に信じられない結果が出ることを予想したいのであり、実際に思いがけない結果が出て、大方の予想が覆されて、そんな結果がもたらされたことについて、もっともらしい理由や原因が求められるだろうが、そのもっともらしい理由や原因も信じられるかというと、それも多くの人が信じやすいようなもっともらしい理由や原因であれば、疑わしく思われて、もっと何か信じられないような理由や原因があるのではないかと疑いたいのだが、そういうことを疑い出すときりがなく、いくら疑っても疑念が晴れることはないだろうし、疑いたくて疑っているのだから、疑わないという選択肢などなく、信じたいとは思わないわけだが、なぜそうなってしまうのかというと、疑わしいことが世の中でおこなわれていて、疑わしいことをおこなっている人たちが有利になるような結果がもたらされているから、それを疑わないわけにはいかないわけだが、逆に疑わしいのは疑わしいと思うことであり、ねつ造されたデータがあることは確かで、実際に調査結果が恣意的に改ざんされた事実もあるわけで、それが明らかになったこともあったわけだが、全てがそうだとも言えないだろうし、疑わしいと思われることが真実であるならそれが思い違いであり、それを疑わしいと思っている人に確かめる術がなければ、真相はいつも藪の中に留まっていて、疑わしいとも疑わしくないともどちらとも言えない状態が続いていくことになってしまうわけだが、過去にねつ造された調査結果を公表した報道機関が、性懲りもなくもっともらしくも疑わしい調査結果を公表しているわけだから、それを信じろ言う方がおかしいわけで、たとえそれが他の報道機関の調査結果と一致するとしても疑わしいことに変わりはなく、疑いたければ疑っていればいいのだろうが、疑っているだけでは気が済まないわけで、それが疑わしいことが明らかになってほしいわけだが、明らかになるはずもなく、それも思い通りの結果とはならずに、疑わしいこと自体が客観的には疑わしいとは思われないわけで、主観的な水準で疑わしく思われるだけで、大抵はそのままとなってしまうのだろうが、それでは納得がいかないから疑わしく思われるわけで、だから疑わしい思いを自らがねつ造しているとは思わないのだが、偏見に満ちていることは確かで、偏見を改めるつもりもないわけだが、ではそのままでもかまわないのかというと、普通に考えて疑わしい思いを晴らしたいわけで、もちろん疑いを晴らそうとしても晴らせないわけだから、そういう方面では行き詰まっていて、それ以上は疑いをどうすることもできないわけだが、ではどうすればいいかとなると、それを疑いとは別の方面に振り向けなければならなくなるだろうし、できれば疑うのではなく信じる方向へと持って行きたいわけだが、では何を信じればいいのかというと、自らがそれを疑っていることを信じたいのだろうが、それではらちがあかないから、別の何かを信じようとするのだろうが、それが疑っている対象とは別の信じたい対象を求めることに結びつけばいいと思うのかも知れず、そこから単純に疑っている対象と対立関係や敵対関係となっている勢力を支持することになれば、そういう成り行きがもっともらしく思われるだろうが、果たしてそんな簡単に信じられるかというと、そういうわけにはいかない事情や経緯が生じてくると、それも疑わしく思われてきて、そういった対立や敵対とは無縁の在り方を模索したくなってくるかも知れないが、それが何かとなるとよくわからないのかも知れず、どうもそういうわかりやすい関係自体がねつ造されたもののように思われてきて、それが何によってねつ造されているのかというと、もちろん対立や敵対を装ってそれを煽り立てている勢力によって偽りの対立や敵対がねつ造されていると思えばしっくりくるだろうが、そういう一見もっともらしい解釈も疑わしいわけで、それはそういう成り行きとしてそのまま受け止めておくしかなく、対立や敵対を装っている勢力のどちらかを支持すればいいとなると、それもどちらかを支持しているように装っておけば、実際にもどちらかの勢力を支持していることになるのだろうが、それで済むかというとそういうわけでもなく、そんな偽りの対立や敵対など信じないで、どちらも支持していない人もいくらでもいるから、そんな現状でもかまわないのならそれでいいとしても、少なくともそんな現状が疑わしいと思っているのなら、現状を変えようとするだろうし、現状を変えるにはどうすればいいかとなると、それに関してはすでに自ずから答えが出ていて、現状を変えたいと思う人なら、そんなことなど誰から教えてもらわなくても、誰に聞かなくてもわかっているはずだが、普通に考えてそれを実行に移せばいいだけのように思われるが、たぶんそれだけではまずいのであり、それをやってから、さらにまだ他にやらなければならないことがあるのかも知れず、まずはそれをやってから現状の変化をもたらした上で、そうなってから何をやればいいのかがわかってきたり、あるいはそれでもわからなかったりするのかも知れないが、そうであってもなくても、まずは現状が変わるようなことをやらない限りは、実際に現状が変わることはないと思うだろうが、それも思い違いかも知れず、誰が何をやってもやらなくても変わる時には変わってしまうわけで、しかも誰の思い通りにもならず、絶えず思いがけない変化が起こって、人を困惑させて、場合によっては途方に暮れさせるのかも知れないが、そうならざるを得ないとすれば、そんな成り行きに介入したいのかも知れず、そこで起こる混乱に乗じてうまいこと立ち回れば、混乱が収まった時点でその場の主導権を握れるかも知れず、そういうことに介入してくる人や勢力がそういうことをやりたいわけだから、その場を混乱に陥れることが、現状を変えるにはやらなければならないことになるわけで、そういう意味では実際に混乱をもたらそうと画策している人や勢力に気づいた時点で、そういう人や勢力の動きを注意深く見守る必要があるだろうし、何のために見守るのかと言えば、自らもそこに介入する隙を窺う人や勢力が見守っているのだろうが、結局そんな人や勢力も混乱に乗じて主導権を握りたいのだろうし、功利的な面ではそうなるのが必然だとしても、意識してそういうことをやろうとしているわけではなく、その場の成り行きに対応しようとしているうちに、自然とそうなってきてしまうわけで、そうなってしまう成り行きを考慮するなら、現状の中で功利的に振る舞っているように見える人や勢力を特に支持したり信用する必要はなく、意識して支持したり信用してしまうような人はすでに現状の混乱に巻き込まれていて、混乱に踊らされてその場が醸し出す雰囲気を反映した行動や言動になっているだろうし、そんな人を冷ややかに見下す必要もないだろうが、少なくともそんな現在進行形の騒ぎが起こっている以前に、大前提として踏まえておかなければならないことがあるはずで、それが現状の変化を求めているか否かということであり、変化を求めているなら、目先の成り行きに惑わされずに、そこに至る経緯や事情を踏まえて判断して行動する必要があり、その必要に気づいた人が多ければ多いほど、変化がもたらされる可能性も高くなるのではないか。
10月11日「有意義な迂回」
たぶんそれがわかれば苦労はしないだろうが、そこで実際に何が機能しているかがわかれば、その機能している制度なりシステムなりを考慮しながら活動することになるだろうし、それに影響されたり有形無形の作用を被りながら思考することにもなるだろうが、複数の制度なりシステムなりが複雑に絡み合って錯綜して、それらが互いに作用や影響を及ぼし合いながら機能していると考えれば、簡単なことは言えなくなってしまうだろうが、それでも物事を単純化してこうだと断言したくなることもあり、単純に割り切ってこうだと言ってしまうことと、実際にそこで考えている内容にはそれなりにずれが生じてくるとしても、何とかして自らがかかわっていると思っている物事の仕組みや機能を理解したつもりになりたいのだが、それ自体が日々刻々と変化し続けていれば、理解もその変化に追いつかなければならず、状況や情勢の変化に思考が追いついていると思っていても、いつまでも同じ理屈や理論で物事を考えていれば、それが何十年も変わらなければ、何かしら時代遅れな面も出てくるかも知れず、状況や情勢の変化に応じて理屈や理論も変えていく必要があるかも知れないが、実際にはそんなことまで考慮していないだろうし、いつまで経っても同じ理屈や理論を状況や情勢に当てはめて、以前と同じような結論を出そうとして、都合の悪い要素や要因は無視して頭の中で辻褄合わせをしてしまうわけだが、それでも自身の活動や生活が何とかなっている範囲内では、身の回りの状況や情勢の変化も深刻な程度にはならないわけだが、実際にも日々刻々と変化している面とほとんど変わらない面とがあり、その程度や割合も人の思考や感覚とずれていたりいなかったりして、一筋縄ではいかないからそれなりに勘違いや思い違いも生じてきて、思っていることと実際の行動や言動や活動などにもかみ合わない面が出てきて困惑するわけだが、困惑しつつもずれを修正しようともしていて、勘違いや思い違いに気づけば改めようとするだろうし、そうやってその場の状況や情勢に合わせて自身の活動や生活を成り立たせようとするのだろうが、それでもうまくかみ合わない面が出てくるから、自身に対しても周囲の状況や情勢に対しても疑問や疑念を抱き続けて、そういった疑いを解消できなければ、単純には物事を割り切れなくなってきて、少しは謙虚になって自分にもわからないことがあるのを認めざるを得なくなり、自身の無知や無理解を補うために他人から学ぼうとしたり、時には自身の行いを反省して、他人の忠告に耳を傾けたりするのだろうが、そうやって他からもたらされる否定的な評判や評価を覆すに至れば、そうなる過程で自身や自身が所属している団体や勢力の状態を変えたことになるだろうし、変えられるものなら都合の良いように変えたいだろうが、変えようとして変わるわけではなく、変えようとしなくても思いがけない方向に変わっていってしまうから、どう変えようとしてもうまくいかないようにも思われて、だからといってあきらめてしまえばそれっきりになってしまう可能性もあるから、思い通りには変えられないとしても、状況や情勢に合わせて自分を変えようとすると共に、状況や情勢そのものを変えようとして、何かしら積極的に仕掛けることもあるわけだろうが、それによって状況や情勢が変わるかというと、変わることもある一方で変わらないこともあるかも知れないが、変えようとしても変わらなければ、自らの力が及ばない水準や次元があることも認めざるを得なくなってきて、そういう方面から及ぼされる作用や影響を無視できなくなってくるわけで、そこまで把握できればそれなりに謙虚さも身についてきたことになるだろうが、その一方で自分の力ではどうにもならないことをどうにかしたいという思いが強くなれば、そこから現状ではあり得ない妄想が生じてくるのかも知れず、そうやってどうにもならないことがどうにかなった未来を妄想するようなことになれば、そのどうにかなった状態というのが、その人にとっての理想的かつ終末的な状態であり、その終末の地点から現在の状態や状況を推し量るような逆説的な思考も生じてきて、そうなると絶えず妄想が実現すべき固定的な観念に基づいた評価基準によって良いか悪いかを決めつけるような断言がもたらされて、現状で何がどうなっていようと絶えず同じ結論へと持って行く成り行きとなり、それがその人にとってのあらかじめ用意された結論になるわけで、そうなると言っていることがぶれない代わりに、そんな断言は聞き飽きてしまうということにもなるだろうし、そういう人の言っていることを信用できるかというと、ある意味では信用できるわけで、それがどういう意味かと言えば、あらかじめ結論ありきで関心のある物事を語っていることについては信用できて、その人が以前と変わりなくそんなことを述べている限りで、大して状況や情勢に変化があるわけでもなく、その人の言っていることを信用していれば大抵のことはそれで済むようにも感じられるだろうが、それで済まなくなった時が真の変化を実感できる時でもあり、その人の言っていることが通用しなくなる機会がやってくることを内心期待していて、言っていることが通用しなくってその人が慌てふためく様を想像すると愉快な気分となってくるわけだが、その時が次第に近づいていて、現状でもすでに世界的に激動の時代に入っているような兆候も感じられるわけだが、その激動の程度というのが、固定観念にとらわれた人をどれほど慌てさせるかで推し量れるかも知れないが、実際に慌てふためいてうろたえる姿を目にすることはないだろうし、それも想像するしかなく、そんな想像も結果的にあり得ない妄想に終わってしまえば、現実にも激動の時代でも何でもなかったことになるわけで、根拠のない期待もはぐらかされて、いつの間にかもとの退屈な日常の中で、固定観念にとらわれた人がメディア上で以前と同じような見解や認識を披露している光景を目にしていれば、何も起こらなかったことになってしまうのだろうが、メディアではそう見せかけようとする思惑が働いていて、実際に驚くべきことが頻繁に起こっているのに、何事も起こっていないように装いながら平静を保とうとしているのなら、そういう意味では以前と同じようなことをひたすら語っている人たちが、そういった方面で権威者面を保っている限りで、そんな体制を揺るがすような大した事態は起こっていないと状況を捉えておけばいいのだろうが、本当にそうなのかというと、すでに時代を画するような変化が起こっていて、誰もがそれに気づいていないのかも知れないし、誰も気づかないような変化であれば、それをメディアが大げさに取り上げる必要もないと思われるだろうが、本当にそうであれば、何事も起こっていないように装っているメディア自体が、すでに時代の主流から外れていて、何の影響力もないようなことになっているとすれば、そんなメディアに心を奪われている自身も時代から取り残されていて、メディアの衰退と共に衰退しつつある勢力に自身も含まれるのかも知れないが、現時点ではそれに気づかないとしても、案外誰も気づかなくてもかまわないのかも知れず、現状で主流のように感じられるメディア自体も、いつまでも継続していくと思っておけば、実際に時代の主流から外れている気配も感じられなければ、主流だと感じられる状況自体がそういう体制の上に成り立っていて、実質的にも有効に機能しているのであり、それが何に対して有効に機能しているのかと言えば、メディアに心を奪われている人に対して有効に機能しているわけで、そういうところで人の意識がメディアとの間で自給自足の循環関係を保っていて、そんな関係が現状の世界を構成していると言えるだろうが、果たしてそういう関係が今後崩れることがあるかというと、現状では崩れる気配すら感じられないとしても、やはり崩れることを期待してしまうだろうし、そんな期待が現状の変化をもたらせば愉快な気分になれるとしても、何もせずに期待するだけでそうなるはずがなく、そこでも何かしら現状に介入して働きかける必要があるだろうから、期待すると共に現実に働きかけることによって実際に現状が変化すると思うしかなく、そんな思いが勘違いであろうとなかろうと、実際に働きかけをおこなっている人や団体の活動の中で、様々な妨害や障害に直面して悪戦苦闘している様が人の心に響くわけで、そうした成り行きから生じる紆余曲折が、実際に有意義な迂回となるのではないか。
10月10日「独りよがりな思い込み」
普段は意識よりも無意識が優先されるとも思っていないが、何か命の危険にさらされるような極限状態におかれると、意識するより先に身体が動いて、自身でも信じられないことをやってしまって驚くこともあるだろうが、そういった無意識の動作ではなく、意識して体を動かそうとしても、なぜかその時に限って体が言うことを聞かず、結果的に意識に逆らった動きをしてしまい、後からみすみす何かのチャンスを逃してしまったような気がするのは、たぶん気のせいだと思われるのだが、それが何のチャンスだったのかがわからずじまいで、何かのチャンスを逃して後悔先に立たずな思いだけは残っていて、それを知りたくてもわかるはずもなく、すぐにそんなことは忘れて、さっさと気持ちを切り替えて、それより優先させたい別のことに意識を集中させたいのだが、なぜかいつまでもその時のおかしな身体の動作が気になって頭から離れず、それを考えれば考えるほど気が散って、何も手につかなくなってしまうわけでもないが、何かの拍子に思い出すことはあるだろうし、思い出したところで納得できる結論に至るわけでもなく、謎が謎のまま、疑念を抱いたままとなってしまうのだが、思い通りには体が動かないことは他にもいくらでもあり、それをいちいち気にしていたらきりがなく、現実にそれよりは優先すべきことが外部からもたらされると、それどころではなくなって、否応なく優先すべきことに意識を集中させるのだろうが、それと何が関係しているわけでもないが、関係しているように思われる何かが忘れた頃に起こって、不意にその時のことを思い出して、そうなった理由や原因もついでにわかってしまって、なぜそれとこれとが関係しているのかも謎だが、不意に思いついた理由や原因は合っているように思われて、因果関係や辻褄も合ってしまうこと自体もおかしいのだが、意識の中ではそういうことにしておきたいわけで、これにて一件落着となれば話が早いとしても、そんな成り行きを後から振り返ってみれば、必ずしも物事が時間的に連続して起こっているわけではなくても、ある時不意に起こったことが、また忘れた頃にその時の続きのようなことが不意に起こって、それとこれとは時間的にも場所的にもかけ離れていて、直接には関係がないが、頭の中ではそれとこれとが結びつき、一連の出来事のように思われて、しかも以前の出来事の時にはわからなかった理由や原因を知らせるために、新たに出来事が起こったようにも思われて、別にそれが同じような出来事であるわけでもないのに、新たに起こった出来事がきっかけとなって、以前に起こった出来事の理由や原因を思いついてしまうわけだから、直接には関係のない二つまたは複数の出来事が関係しているように思われて、意識の中で勝手にそれらの出来事を結びつけて考えているのだろうが、それが起こったのをきっかけにして不意に結びついてしまうわけで、直接には何の関係もない複数の出来事が、少なくとも意識の中では関係のある出来事として認識されてしまうわけだから、やはりそれは気のせいでしかないのだろうが、因果関係の辻褄合わせとしてはそれでかまわず、そういうことにしておきたいわけだが、フィクションとして話が都合良く構成されると思っても差し支えなく、本当は理由も原因もこじつけにすぎないが、そうやって理由や原因を都合良く設定するともっともらしく思われるわけで、だからそれでかまわないように思われるのだが、自分で勝手にそう思っていることだから、他人にはそう思われなくてもいいわけで、他人がどう思っていようと、自分がそう思って納得したつもりになっていればかまわないようなことでもあり、そうやって自分で自分に暗示をかけていることになるのかも知れず、それが迷信だと思われても自分の中では辻褄が合っているのだから一向にかまわないのだが、それらは偶然に起こった二つまたは複数の出来事であり、意識の中でそれらの偶然を必然のように解釈してしまうのだとしても、必然のように解釈してしまうともっともらしい理由や原因が浮かび上がってくるわけだから、それを信じないわけにはいかないわけで、要するに奇跡が起こったことになるのだが、そんなふうにして奇跡的に複数の出来事が積み重なって意識の中で結びついて、もっとらしい認識や解釈を思いついてしまうところが、いい加減で気まぐれな思考作用を物語っていて、思うだけならそれでもかまわないだろうし、気休めや気晴らし程度のこととしてそう思っていてもかまわないのだろうが、本気でそう思うかというと思いついた時点ではそう思ったのだろうが、後から振り返って考えれば考えるほど、何の根拠もないようなことであるようにも思えてきて、だんだんと半信半疑な気持ちに傾いてくると、そこで世間の一般常識に照らし合わせて考えを改めてまともそうに装ってしまうと、せっかくの奇抜な思いつきが台無しになってしまうのかも知れず、世間から馬鹿にされるような荒唐無稽で非常識な思いつきであってもかまわないと思っておいた方が、精神衛生上は良いような気がすれば、自らの勝手な思いつきまで常識的な範囲内に抑え込む必要はないとは思うが、逆に世間の常識も迷信に基づいている場合もあるだろうし、世間という集団意識が形成する過程で多くの人が妥当に思われる偏見が生じてきて、もちろん大勢の人がそう思っているのだから偏見とは思えず、自分だけがそう思っていることの方が偏見だと思われるだろうが、そういった偏見の類いならいくらでもあって、例えば血液型に基づいた性格判定などが未だに大勢の人に信じられていることかも知れないが、同じ血液型でも性格が異なる事例などいくらでもある限りで、それが偏見にすぎないことも多くの人が承知していても、気休めレベルの軽い気持ちでそう思っていること自体は、別にそれがおかしいとも思えず、逆にそう思い込んでいた方が、人間関係がうまく行く場合もあるかも知れず、そうであるなら一概に偏見を抱いていることが悪いことだとは言えないのかも知れず、そういう意味でなら偏見もうまく活用できれば功利的な面では得になることもあるだろうが、逆に功利的には何の得にもならなくても、自身の勝手な思いつきでいい加減な認識や解釈を保持している場合もあって、それが結果的には何の得にもならないとしても、なぜか独りよがりな思い込みに基づいて行動する成り行きにもなってしまい、それで得をするどころか被害や損害を被ってひどい目に遭ってしまうとしても、納得できるような結果が少しでももたらされると、それでもかまわないような気になってしまい、実際に損な結果がもたらされているのに、それが自分には似合っているように思われてしまえば、自分はそういう人間なんだと自らに言い聞かせながら、そこからさらに生きていくしかないだろうし、人それぞれに固有な成り行きがもたらされるから、それによって損する人と得する人とで運命が分かれて、そこで得した人がそこでは一時的に有利になるかも知れないが、そのまま得し続けるわけでもなければ、そこでは損した人もそれとは別の時や場所では得する可能性もあるだろうし、損得勘定だけで運が良いか悪いかは言えないが、別に運が悪くてもかまわないなら、自身にとって悪い状況というのが、それほど致命的とも言えない場合もあるわけだが、さらには致命的な深刻さを感じていても、そのままそこで死んでしまってもかまわない場合もあるだろうし、そこに存在しない方がマシに思われるなら、そういう成り行きの中に気持ちがとらわれていることになるのだろうが、そうであっても死ぬまでは生きているわけだから、死ぬまでの間に気が済むような生き方を模索するだろうし、そういう意味ではその人の運命がどうなろうと、そんな運命に翻弄されながら死ぬまで活動するわけで、死んでも他の誰かの記憶に残ることもあるだろうが、死んでしまえばそこでおしまいだとも感じられなければ、死後に面倒なことにならないように、死ぬまでに身辺整理をするような成り行きにもなるかも知れないが、そういう面ではなるべく自身の思い通りになるように努力してしまうのだろうが、自らにかかわりがある方面でもどう考えても思い通りにはならない面がありそうで、そこでその場の偶然の左右されるような成り行きになるわけだが、逆にそういう面で思いがけないことが起こることを期待して、そういうところでうまく勘が働くように自らの感性を研ぎ澄ましているつもりになれるのかも知れないし、たぶんそういった感性が自らに都合の良いように作用すれば、そこから独りよがりな思い込みも生じてくるのだろうが、それが思い通りに生じるのではなく、思いがけないところで思いがけず不意に生じてくることを期待してしまうわけだから、そんな思いを抱いていること自体が矛盾しているのかも知れない。
10月9日「困難と矛盾」
資本主義経済に起因する困難は、国民国家に起因する困難と表裏一体となって、あるいは否定的な相乗効果を伴って、政府による国家統治に解決不可能な矛盾をもたらして、それに関して宗教や生活習慣の異なる複数の民族が、国民としての同質性を求める一つの国民国家を形成できないのはわかりきったことかも知れないが、それに輪をかけて資本主義経済に起因する貧富の格差が直接民族や人種間の格差をもたらしてしまうと、もはや一つの国民国家としては統合が不可能となってしまい、その結果として経済的に不利な状況となっている民族に独立の気運が高まり、さらには経済的に有利な立場にあるのに、その有利さに見合うだけの政治力を持てない地域でも独立の気運が高まり、そうなると資本主義経済から生じる弊害からも国民国家から生じる弊害からも逃れられずに、そうかといって経済活動も国家統治もやめられないから、困難を抱えたまま矛盾も解消できないままとなってしまうわけだが、一方ではそうなっているからこそ経済活動と統治活動が促進されて、実際にそれらの困難や矛盾がそれらの活動を促進させる原動力となっているとすれば、そうした活動の犠牲となっているのが不利な立場や状況を強いられている人や集団となり、それらの人や集団が犠牲となっているからこそ、経済活動や統治活動の攻撃対象となっていて、攻撃する対象があるから、その対象を攻撃することによって活動が成り立っていて、結果的に貧困や政治的な弾圧などで犠牲者が出るなら、そこで活動がおこなわれている証しとなり、同時にそれが困難を克服するための活動となり、それが矛盾を解消させるための活動でもあるわけで、そこに困難や矛盾があるから活動する理由となり、それが活動する口実でもあり、活動の糧となる困難や矛盾でもあり、困難や矛盾がある限りはそれを解決したり解消するための活動をやめられなくなるわけで、要するに活動するには困難や矛盾が必要となるわけだが、それらの活動には犠牲者が欠かせないわけで、絶えず犠牲者を出し続けることが活動の継続をもたらすわけだから、それを解決したり解消したりしては活動が成り立たなくなってしまうわけだが、もちろん解決したり解消できないから活動が続いているわけで、現状の資本主義的な経済活動と国民国家的な統治活動が続いている間は、現状が保たれていることになり、そんな現状を変えようとして現状に対する抵抗や抗議や批判などがおこなわれるわけだが、また現状を変えるための改革案や修正案や是正案などが示されるわけだが、それが実行されて功を奏してうまくいけば現状が変わるかも知れないが、実際に変わらなければ、それらがうまくいっていない証拠となり、まだ結果が出るまでには至っていないのかも知れないし、これから実行に移される予定も機会もないのかも知れないが、ただ単に世の中が変わりつつあることに多くの人が気づいていないだけで、別に気づかなくてもいいようなことかも知れず、意識して変えようとしなくても自然に変わって行ってしまうようなことでもあり、これまでも自然に変わってきたのかも知れず、それをうまく説明できないから気づかないのかも知れないが、誰もが納得できるような説明が確立された頃には、すでに世の中が様変わりしていて、そんなことには気を遣わなくても済むような世の中になっているのかも知れないが、少なくとも現状では資本主義経済や国家統治から生じる貧困問題や民族問題や環境問題などに関して、それらの解決が叫ばれているとしても、一方ではそれが企業の経済活動や政府の統治活動の原動力ともなっていて、活動の結果としてもたらされている問題が、活動するための糧となるという自家撞着や自己矛盾や自己循環を生じさせているわけだが、そういうメディア上で問題提起されるようなことが何を意味するかといえば、一時的な話題となっているだけだろうが、それがそれに関する情報の消費をもたらして、実態としては解決しようのないことだから解決が目指されるわけで、では解決しなくてもいいのかというとそうではなく、結果的に今のところは解決していないが、今後解決してほしいだろうし、何らかの機関や団体などが解決を目指しているはずだが、例えばそういうことを政治問題化して、それに真正面から取り組んでいるように装っている人たちを信用できるかというと、装っているのではなく実際に取り組んでいるように見えるかというと、それに関しては疑念や疑問を差し挟む筋合いもないはずだが、少なくとも言葉だけの批判にならないように配慮するとなると、何かしら実際の活動が生じてくるはずだが、それが政治活動であり経済活動でもありジャーナリズムの活動でもあるのだろうが、それらも企業や政府などの団体の活動と渾然一体となって世界情勢をもたらしていて、それらにかかわっている人たちの活動をもたらしているはずだが、そんな中でも例えば中国政府が香港の民主派を弾圧したり、南沙諸島を占領したり、台湾に軍事的な圧力を加えたり、ウイグルに監禁施設を建設してその中で強制労働をおこなわせているのが発覚すれば、それがあからさまに誰にとってもわかりやすい悪行になるわけで、それらは普通に非難する対象となって、実際に世界中で非難されているわけだが、それでも中国国内で経済活動をおこなっている企業は活動を継続しているし、別にそれ自体が非難される筋合いもないが、ウイグル人の強制労働にかかわっている企業は制裁対象となるのだろうが、それも中国政府がやっていることだから、企業が中国政府に逆らえるわけもなく、最近では逆らっているわけでもないのに、中国政府に難癖をつけられて締め付けられて苦境に陥っている企業もあるが、それ以外でも、もちろん苦境というほどではないがGAFAと呼ばれるアメリカの巨大IT企業なども、その独占的な体質や課税逃れなどの面で、欧州各国の政府などから目の敵にされていて、制裁金を課せられる事態にもなっているし、そういう個々の事例についての批判や非難なら簡単にできるし、批判や非難することについては何の躊躇もなく、当たり前のこととして誰もが批判することも非難することも可能なのだろうが、根本的な次元での企業一般の経済活動や政府一般の統治活動そのものを批判したり非難するとなると、それは筋違いであり、それ自体は何も悪いことはしていないのだから普通は批判や非難の対象とはならないだろうし、そんなことを批判したり非難するような人は頭がおかしいと思われても仕方がないわけだが、実際に中国政府が普通に統治活動をおこなえば、そういう批判や非難の矢面に立たざる得ないようなことをやらざるを得ないような成り行きになってしまうのかも知れないし、それは独裁的な権力を行使しているロシアのプーチン大統領やベラルーシやトルコやシリアなどの独裁的な傾向の強い大統領にも言えることだろうし、軍事クーデターをおこなったミャンマーの軍事司令官にも言えることだが、個々の事例において当事者となる人や団体にはそれなりの権限があり、実際に権力を行使して批判や非難の対象となることをやってしまうわけだが、果たして今後もそんなことをやってしまう人や団体が止めどなく出てきてしまうのかというと、そうなる可能性があるにしても、それも世界情勢の程度に応じてそういう傾向が強くなったり弱くなったりするかも知れないが、そういった行為を批判したり非難することによって少しでも行為を抑制できるかというと、そうなった結果から実際に批判や非難がおこなわれるわけだから、事前に抑制する効果があるかどうかは何とも言えないだろうし、結果的にそうなっているということでしかないが、そういう行為があからさまにおこなわれると、あるいはそれが発覚した時点で、それに対して批判や非難をせざるを得ない立場の人たちが実際に批判したり非難するわけで、絶えずそうやって事後的に取り繕われる体裁というのが世界情勢そのものでもあり、それが現状に対する人々の実感を生じさせているわけだから、確かな実感は常に過去に起こったことや現に起こりつつあることを反映していて、総じて起こったことに対する感想でしかなく、それに対してこれから起こることに関しては、確からしい予想や予測を得られるかも知れないが、まだそれは不安や期待や希望が入り混じった不確かで曖昧な予感や予兆にすぎないわけだが、すでに起こったことについての解釈や実感を、これから起こるかも知れないことへの期待や不安と混同してはならないが、それが政治的な主張となると両者が混ざり合って示されるわけで、そこで注意しなければならなのは、過去に起こったことについての解釈や実感を、これから起こるかも知れないことへの期待や不安に利用しようとする意図や思惑であり、実際にそういうことをやっている人や団体を信用できるかというと、それは各人の判断にまかされるにしても、何か疑念や疑問を抱くとすれば、大抵はそういうことに関連して生じてくるのではないか。
10月8日「多数意志による支配」
人がどんな目的を持って何をやろうとしても、世の中には他にも人が大勢いるわけだから、他の全ての人がその目的に賛同してくれるわけでもなく、何事もすんなりとはいかないのが世の常であり、何のしがらみもない個人の好き勝手にはさせないように、集団の多数意志を体現する制度やシステムが社会の隅々にまで張り巡らされていて、もちろん何のしがらみもない個人などいるはずもなく、様々なしがらみにとらわれた個人が様々な集団の支配に屈しているはずだが、それが何の集団なのかといえば、政党であったり企業であったり政府であるかも知れないが、それらの集団によって人々を支配する意志があからさまに示されているわけではなく、逆に人々の意志や意向を尊重しているように装われて、各人の自由意志に基づいた支持や同意を取り付けたいのかも知れないが、各人に自由などあるはずもないのに、自由意志があるように扱われなければならないとしたら、では自由を制限するために講じられている法律による束縛とは何なのかといえば、社会を維持するために守るべき法律を守った後でなら、それ以外のことについては各人の自由意志にまかせられているということかも知れず、その程度の認識で済むなら、それほど面倒なことにはならないはずだが、実際には法律以外にも自由にならないことはいくらでもあり、法律を守っているだけでは済まされず、意識できないところで何かに制御されていて、それによって自らが自由ではないことを自覚できるとしても、では何によって自由が制限されているのかといえば、それが特定できるようであればわかりやすいが、気づいていることも気づいていないことも含めて複数の物事が絡み合っていて、自らがかかわっている物事の絡み合いから逃れられないから、それらが自身の自由にはならないしがらみを構成しているように思われて、しかもそのしがらみによって自らが生かされていると同時に、さらにそれが煩わしくも生きにくい状況をもたらしているようにも思われて、そんな状態がもはや人一人の力でどうにかできるような次元にはなく、それを覆すために多くの人たちが協力しようとしても、それを妨害するような作用や影響がどこからともなく及ぼされて、それによってやろうとすることをあからさまに断念させられてしまうわけでもないが、少なくとも人々の意志や意向がそのまま状況に反映するわけではなく、もちろんそれ以前に意志や意向が一致しているわけでもないのだが、全く一致してないわけでもなく、同じような傾向や方向に整えられていること自体が、各人の自由意志からはほど遠く、それが個人的には気に入らないことでもあり、そんなことに同意したつもりもそれを支持したつもりもないのに、いつの間にかそれに同意してそれを支持していることにされてしまうから、いかさまにもほどがありそうだが、そうであっても特定の集団から及ぼされる同調圧力に従っているつもりも逆らっているつもりもないのだが、何かしら隷従を強いられていて、その隷従している対象というのが世間という実体が定かでなく形のはっきりしない空気のような何かなのかも知れず、特に意識して従うつもりもないのに、大抵の人は隷従させられていることにも気づかないまま、ただ何となくそれでもかまわないような成り行きの中で、誰もが同じ方向へと歩んでいるように受け止められてしまい、少なくとも他人と同じ方角に向かって歩んでいるわけではなく、各々が別々の方角を向いて歩んでいるはずなのだが、歩き出すとその歩調がいつの間にか揃ってしまうところが不気味なのかも知れず、特にそれを意識していないのに、なぜか他人の歩調に合わせようとして、それが見知らぬ他人というわけでもないとしても、顔見知りの隣人というわけでもなく、そうなってしまう状態が集団の多数意志に屈していることになるのかというと、そんな集団に所属しているつもりもなく、そもそもそれが何の集団かもわからないのだから、多数意志を感じ取っているわけでもないだろうし、そこに意志があるわけでもないだろうが、少なくとも世論という多数意志が想定されていて、その世論に自らの意志も含まれているような気がするかも知れないが、部分的にはそうであっても、全面的に世論を受け入れているわけでもないだろうし、世論に同意したわけでもないのに、それが世論であることが示されてしまえば、そんな世論がどこから生じてきたのかといえば、世間から生じてきたことを認めざるを得ないだろうし、しかもそれが自らが暮らしている場所と地続きであるなんて信じられるはずもなく、それでも実際にはそういうことになっているわけだから、そんなまやかしを信じるわけにはいかないはずだが、まやかしでもいかさまでもあると言ってしまうと、それを支持したりそれに同調したりしている人たちがどこにいるのかというと、たぶん世間のどこかに住んでいるはずであり、そういう事実を認められない少数派が自爆テロの類いを画策しているとも思えないが、自らが少数派であるなんて思いもしなくても少数派に含まれてしまえば、誰にそんなことを決めつけられているとも思えないが、それを認められなければ、では世論の類いがまやかしのいかさまであることを認められるかというと、別に認めるとか認められないとかの判断を強いられているわけでもないはずで、強いられていると思ってしまうこと自体が支配に屈していることになるわけでもないだろうが、世論が提示された時点でそういう成り行きに巻き込まれてしまい、それに逆らったり従ったりしてはまずいのかも知れず、それに抵抗するとは判断を保留する自由を確保しておくことだと思えば、現状ではそんな自由もあり得ないとしても、その種のアンケートに安易に答えてしまうことが、アンケートを仕掛けてくる側の思うつぼだと思っておけば、そうやって何とかして自由を確保している気になれるかも知れないが、それだけでは不十分なことも確かであり、アンケート結果として示された世論の類いとは異なる結果をもたらさないと、世論を粉砕したことにはならないが、もちろんそんなことが個人の力でできるはずもないのだが、個人の力を超えてもたらされる力が何から生じてくるかといえば、自然から生じてくると思っておけば、たとえそれが裏切られても平静を保っていられるかも知れないが、集団の意志に反発して、先回りして思い通りの未来を求めてしまうと、それが確実に裏切られて、その代わりに何がもたらされるかといえば、世論調査の結果がもたらされて、そんな結果など認めるわけにはいかないと思えば、やはり思い通りの未来を求めてしまい、それも確実に裏切られて、何か自家中毒の堂々巡りのようなことになってしまうから、示された世論に反発してあり得ない未来を求めてはいけないし、反発するような世論自体が罠なのであり、それを無視したりそれに対して不快感を覚えることも、世論という罠にかかっている証拠であり、何とかして世論が示す未来とは違う結果をもたらしたくなるのも世論に反発している証拠だろうし、どうやっても世論を意識させられてしまうわけだが、それが多数意志による支配に屈していることになってしまうなら、それだけ不自由な束縛を受けていることにもなってしまうわけだが、あえて逆らう者の心を折るために多数意志が示されるわけだから、それに反発して自爆テロを仕掛けるのも反応としてはおかしいのかも知れず、では正常な反応というのがどのような反応なのかといえば、正しい答えなどありはせず、正常に反応しなくてもいいのかも知れず、そうかといって異常な反応もおかしいのだから、それに対してどう反応しても違和感を覚えてしまい、無反応を装ってもそれも反応には違いなく、反応しないという選択肢を奪われているのかも知れないが、そもそもそんなところで思い悩むのもおかしいし、もとから反応するかしないかの選択肢などないわけだから、素直に反応すればいいだろうし、実際に不快感を覚えるわけだから、それが否定的な反応になっているわけで、それをそれ以上にこねくり回す必要もなく、多数意志というのは個人にとっては不快以外の何ものでもなく、個人の存在が否定されているのが多数意志だと思っておけばいいのだろうが、そんな多数意志に従うような政治がおこなわれるなら、たとえそれが正しい政治の在り方だとしても、それも不快感をもたらすような政治となるのではないか。
10月7日「事前と事後」
例えば誰かが何かをおこなった結果として、それがその人にとって有利に働いたり不利に働いたりするかは、実際にそうなってからでないとわからないだろうが、そうなってからわかるようなことが必然的な結果なのかというと、そうなった結果から振り返れば、必然的にそうなったように思われる時もあるだろうが、中には偶然にそうなったとしか思われない場合もあるだろうし、果たして結果からわかるようなことが、それをおこなう前やおこなっている最中にはどう思われるかと想像してみても意味のないことかも知れないが、事前には何とも思われないことが、事後には自身にとって有利に思われたり不利に思われる可能性はあるだろうし、また事前にはそれをおこなうことが有利に思われても、実際におこなってみるとそうでもなかったり、逆に不利な状況を招いてしまえば、事前の思いが裏切られて、見込み違いだったことが明らかになったわけで、少なくとも事前に不利に思われるようなことはおこなうはずがないとしても、それをおこなっている最中に何らかのアクシデントが起こって、思わぬ結果になってしまえば、そうなった原因がわかっている範囲内では納得できるかも知れないが、事前には何の兆候も感じられなかったのに、思わぬアクシデントに見舞われて思わぬ結果に直面してしまえば愕然とするしかなく、それも大抵は事前の認識が甘かったことになるだろうが、事後的にどうなろうとそれを都合の良いように解釈して、大したことではないように思われてしまうとすれば、実際に大した痛手を被ったわけでもなく、思わぬ結果がもたらされて愕然としたことは確かだが、それが致命的な結果でないことが怪我の功名というか不幸中の幸いというか、無謀なことをやったのに被害や損害が最小限度に抑えられて、結果的に何かに守られているような感触がもたらされて、そうなると神の加護があるような気がして、そこで何を信じているのかというと、自らが善い行いをしていると信じて、何がどうなってもそれが良い兆しのように思われてしまうのかも知れず、もしかしたらそれが危険な兆候であり、そんな感覚を抱きながら危険を顧みずに、自分を信じてその場の成り行きに従って状況に深入りしてしまうと、その時点ですでに勘が鈍っていて、自らの破滅が間近に迫っていることに気づけないのかも知れないが、それも実際に自身が破滅してから気づくようなことかも知れず、そういうことに関しては結果的に破滅したり命を落とした人が、そうなる途中の段階での心境を明かさないとわからないし、当人以外は誰も知り得ないことかも知れないが、現状でおこなっていることを継続するしかやりようがない場合には、自分を信じて続けるしかないのかも知れず、そうなっていること自体が後戻りできないような成り行きであり、多くの人がそうなっているから、実際に無謀なことがおこなわれて、多くの人が破滅したり命を落とすことになり、そうなった結果から振り返れば、無謀なことをやってしまったことが明らかになるのだろうが、それが事前の段階では気づきにくいことであり、気づいていてもうまくいくのではないかという思いの方が勝ってしまい、しかもそれが途中の段階でもそう思ってしまうのかも知れず、結局は後戻りできなくなって手遅れとなるまでそう思い続けて、結果的に悲惨な事態を避けようがなかったことになるのかも知れないが、中には奇跡的にうまくいって生還を果たして、どんな事態になっても自分を信じていたから幸運を掴み取ることができたと思って、ほとんど理由も根拠もないのにかえって神がかり的な成り行きを目の当たりにして自信を深めてしまうのかも知れず、それを事後的に振り返ればそうなる確率が万が一程度にはあったことになるだろうが、同じことは二度と起こらない程度のことかも知れないし、一生に一度あるかないかの幸運が誰のもとにも巡ってきて、それを掴み取れるかどうかもその時の運次第なのかも知れないが、そういう話にはきりがなく、そんな事例を探せばいくらでも見つかるとしても、それ以外のうまくいかなかった事例となると、少なく見積もってもそれの数万倍はあるとしても、そんなありふれた事例など誰も見向きもしないし、あえて探す気も起こらないだろうが、奇跡的にうまくいった事例がごくわずかでもあるなら、それを知れば何の根拠もないのに自分もうまくいくのではないかと思ってしまうのであり、そういう浅はかな思いが人を無謀な行為へと駆り立てるのだろうが、人がおこなうことの全てが一か八かや伸るか反るかの致命的な危険と隣り合わせであるはずもなく、大抵は成功しても失敗しても大したことにはならないから、感触としてはうまくいくような気がするから実際におこなうのであり、それまでの経験に照らし合わせて、うまくいく確率の高そうなことをやろうとするだろうし、実際にうまくいった経験があれば、同じことをまたやろうとするから事前にうまくいくのではないかと思われて、それを何度もやってうまくいった経験として積み重なれば、うまくいくことにも慣れてきて、さらにおこなう度に確実にうまくいくと思うようになるだろうし、そういう経験に裏打ちされた思いが裏切られることはめったに起こらないだろうが、稀に裏切られると逆の意味で奇跡が起こったことになるかも知れないが、確率的に高そうだったり低そうだったりすることは、どんなにそれが確実だと思われても万が一ということがあり、常に確率が当たらないリスクがつきものなのだろうが、事後的にそれを語る際には必然的にそうなったように語られて、後付け的にいくらでも理由や原因を付け加えて、確実にそうなった事実を補強できるかも知れないが、それはあくまでもそうなった結果から言えることであり、それをもっともらしく言ったり語ったりすることと、実際にそうなった事実とは、時や場所を変えて別次元で起こっていることであり、それを混同しないように注意する必要があるとしても、意識の中でそれが一連の成り行きとなってしまえば混同してしまうわけで、そうやって自覚せずに都合の良い事実を組み合わせて一連の出来事として編集しているわけだが、そういうノンフィクション的なフィクションこそが多くの人に信じられやすいわけで、物事を事実として信じる成り行きはそういった経過を伴っていることが多いから、そうなって当然のことのように思われる結果にはそれなりの虚構が含まれているのかも知れないが、それが心地良かったり、逆に癇に障るようなことであれば、それを語る誰かの都合がその事実に反映していることになり、そういうことを語っている人がそれを狙っている場合もあり、そんな意図や思惑に踊らされたり操られてしまうから、そういう心境になってしまうのかも知れず、だから事後的に語られるもっともらしい事の経過や結果には注意しなければならないとしても、それを語る人の都合が実際に起こった出来事や現象に反映されていることが、逆にその人にとって都合の悪い事実が隠蔽されている証拠となるわけでもないだろうが、その人があえて語らなかったり、それを自覚することなく無視していることがそれとかかわるようにして他にもあれば、少なくともその全てを語っていることにはならないし、都合の良いところだけ辻褄が合うようにして語っているのかも知れないが、それが必然的にそうなったように思われるなら、その一方で偶然にそうなったように思われる要素や要因が意図的に排除されているか、あるいは単にそれが見落とされているだけかも知れないが、全てを語ろうとしてしまうと語っている人の主張がなくなってしまい、なぜそれを語りたいのかということに関して、語りたい理由があるから、それを強調するわけで、それが必然的にそうなったように語りたいなら、必然的な要素や要因が集められてそれが強調されるわけで、そこに偶然的な要素や要因も同じ割合で混ざってくれば、では何のためにそれを語りたいのか理由がわからなくなってしまうだろうし、普通は語る以前に目的がはっきりと自覚されているから目的に沿った事実が集められて、それらを組み合わせて語りが構成されるわけだろうが、その自覚がなくても事後的に語る目的が明らかになってくれば、それがその人がそれについて語る理由だと思われるだろうが、それだけで語りが構成されているわけでもなければ、その人の意図や思惑を超えるような要素や要因も含まれてきて、逆にそれらがその人の語りを超えて信じられる要素や要因になることもあるわけだ。
10月6日「効果のない批判」
たぶん騙されたり欺かれているのではなく、それをそのままの状態として受け止めておけばいいのであり、具体的に何を受け止めればいいのかというと、そこで繰り広げられている人や物や情報の錯綜そのものかも知れないが、そうなっていることに関しては、何の効果も効用もないと思い込んでしまうと、ではどんな効果や効用を期待しているのかと問われると、何を期待しているわけでもないことに気づいてしまえば、効果や効用などなくてもかまわないことになってしまうが、実際には何かしら効果や効用があるから、そこで人や物や情報が錯綜して絡み合いながら何らかの現象が起こっていて、誰かがそれを説明しようとしているわけで、そうなっていること自体がそこでの効果や効用なのかも知れないが、そこで誰が得して誰が損しているとしても、それが見たまま感じたままの状態なのであり、何も疑う必要もないとすれば、確かに騙されているのでも欺かれているのでもないことになるが、それでも疑っていて、なぜそうなってしまうのかと疑問を感じて、そこでおこなわれていることを批判したくなってしまうのだろうが、なぜか批判するのを思いとどまってしまい、そこで実際に批判している人たちにも違和感を感じて、それが効果のない批判だと思ってしまうわけだが、ではどんな批判であれば効果があるのかといっても、すぐにそれを思いつけるわけでもなく、逆になぜ批判が無効なのかというと、返答に窮してしまうだろうし、何かしら効果や効用があるから批判が成り立っているようにも思われて、ならば効果のない批判だと思うこと自体が間違っているのかいうと、それが期待しているような効果や効用ではないから無効だと感じられるのかも知れず、すでにそうなっている時点で思惑通りではなく、当てが外れているとしても、別に何を期待しているわけでもなければ、何か当てがあるわけでもないだろうが、少なくとも希望が叶うとは思っていないだろうし、希望とは何かというと、こうあってほしいということであり、では何を期待しているのかというと、あり得ないことが起こってほしいわけで、実際に希望からも期待からも外れた現状になっているわけだが、そんな現状を批判する気にはならず、その代わりに現状ではあり得ないことが起こるのを期待していて、あり得ないことが起こるはずがなくても期待してしまうのは矛盾しているが、それでもかまわないような気がして、確かに今はかまわないが、これから状況が良くなるとも思えず、良くならないのに執拗に現状を維持するような成り行きとなっていて、客観的に見るなら愚かな人々によってどうしようもない現状が維持されていることになるだろうが、そう見ることに客観性が感じられるのかというと、誰もそうは感じていないだろうし、それよりは主観的かつ感情的にどうしようもない現状を維持しようとして、要するにゴミクズのような人々が現状の世の中で主導権を握っていると思っておいてもかまわないはずだが、やはりそう思うことが間違っていて、安易に現状を否定してはならず、否定していることがそのまま現状の批判につながってしまうとまずいと思うなら、現状を肯定的に捉えておくべきなのだが、現状を肯定しようとすればゴミクズのような人々も素晴らしい人々に見えてくるかというと、実際に素晴らしい人々であり、素晴らしい世の中に素晴らしい人々がいるはずだが、それがどれほど素晴らしいのかといえば、現状を肯定できるほど素晴らしいわけで、現状を肯定するには現状が素晴らしくないとまずいのかというと、それは何とも言えないが、果たして素晴らしいという言葉に否定的な意味合いがあるかというと、普通は否定ではなく肯定的な意味として使うはずだが、何か皮肉を込めて素晴らしいと思われるなら、どういう意味で素晴らしいという言葉を使っているのかというと、ただ単に素晴らしいとしか言えないわけで、この世界の現状が素晴らしいのならそれでかまわないはずだが、その一方であり得ないことが起こってほしいと思っているわけだから、素晴らしい現状の中であり得ないことが起こってしまってはまずいのかも知れないが、それが現状ではあり得ないのだから、まず起こらないと思っておいてもかまわないはずだが、意外とすでにあり得ないことが起こりつつあり、あり得ないことが起こっているから世界が混乱していて、何があり得ないかというと、現状で主導権を握っているはずの人たちがあり得ないと思うことがこれから起こって、その握っているはずの主導権が別の人たちの手に移ってしまえば、そうなった時点であり得ないことが起こったことになるはずだが、それがいつ起こるのかというと、今まさに起こりつつあり、起こっている最中であれば、それが素晴らしいと思われて、あり得ないことが起こっている現状の世の中が素晴らしいことにもなり、あり得ないことが現状が素晴らしいと思うことと一致するのであれば、今まさにあり得ないことが起こっている最中なわけだが、果たしてそんなあり得ないことが現状の中で起こっているのかといえば、それこそがあり得ないことであり、いくらそんなありえなことが起こるのを期待しても、実際にそれが起こっていなければ嘘になってしまうのだろうが、嘘ではなく今まさにあり得ないことが起こりつつあり、これから現状に不満を抱いている多くの人々にとって素晴らしいことが起こって、あり得ないことがあり得るような世の中になるわけだが、それを信じられない人がそんなことはあり得ないと思っているのであり、そんなことはあり得ない世の中になっているはずだが、それが思い違いなのかも知れず、思い違いに気づいていないわけだが、別に思い違いのままでもかまわないのであり、できれば思い違いのままでいてほしいのかも知れず、もうしばらくはそんなことはあり得ないと思い続けてほしいのであり、それらの人たちがあり得ないと思っているうちに世の中が変わって、あり得ないことがあり得るような世の中に移行して、そんなことはあり得ないと思っている人たちを置いてきぼりにしたまま新しい世界が実現してしまえば、もはや古い世界には後戻りできなくなってしまうのだろうが、果たしてそんなことが本当に実現できるのかというと、これから実現しなければならず、現に多くの人や団体が新しい世界の実現を目指して歩み出していて、実際に様々な方面で変化をもたらそうとしているわけで、それに気づかない人たちがそんなことはあり得ないと思っているのだろうが、そんな人たちには気づいてほしくない変化が実際に起こっていて、それに気づいてしまうと様々な方面から妨害工作がおこなわれてややこしい事態となってしまうから、そういった変化には気づいてほしくないのだろうが、何かそういうところでできるだけ目立たないように、変化を悟られないように地味に振る舞う必要があるのかも知れず、それがそんなことはあり得ないと思わせる戦略ともなり、そういう戦略が実際に功を奏していれば、まだ多くの人たちが騙されたり欺かれている現状となっているのかも知れないが、そうした現状をもうしばらく継続させるには何をやればいいのかとなると、その中の一つとして現状に対して効果のない批判を繰り返しているように装うことかも知れず、実際に毎度おなじみの現状維持派を安心させるようなブーメランだ何だのと揚げ足取りをやりやすい現状批判がメディア上で繰り返されていれば、それが敵を欺くためのカモフラージュとして効果を上げていることになるだろうし、実際にうまく偽装工作がおこなわれていることになるのだろうが、そういうことをやるに際して注意しなければならないこととなると、できるだけ敵から紋切り型の反応を引き出すことになるだろうし、それが現状が維持されていることの証しともなって、相変わらず効果のない現状批判を繰り返していると思わせておいて、そうやって敵を安心させて油断を引き出すことにもなるわけだが、そういうことにのめり込んでいるように見せかけるには、執拗に執念深く繰り返し過去の不祥事を蒸し返して、それをメディア上で取り上げ続けなければならないし、もういい加減そんなことをいくらやっても無駄だと呆れられるほど繰り返せば、こいつらに何を言っても馬耳東風で、聞く耳を持たない愚か者だと思わせておけば、まだ当分は偽装工作がバレない可能性が高まるのかも知れない。
10月5日「楽観的な予測」
将来の予想や予測は、それが悲観的になるにしろ楽観的になるにしろ、何かもっともらしい根拠が示されれば信用したくなるが、別にもっともらしく思われなくても、その人の願望と一致すれば気分が良いから信じたくなり、さらには人を安心させたり希望を持たせたり期待を抱かせたりする、サービス精神旺盛な占いのような予測もあるかも知れず、逆に不幸になると脅されたり、最悪の事態になると危機感を煽られたりすると、心配になったり不安になってくるだろうが、それは何を予想したり予測するかでも、その分野の傾向によって異なってきて、例えば地震の予測なら人を驚かせるような巨大地震が起こることを予測したいだろうし、他にも災害の類いを予測する時には、最悪の事態になることを予測できれば、それだけ予測自体にインパクトがあり、それも世間を騒がせたいという思惑が人の感性を刺激することになるが、その一方で人の悟性や理性に訴えかけたいのなら、なるべく大げさでセンセーショナルな表現は避けて、理詰めで説得力のあることを言いたいだろうし、できればどちらの効果も利用したいのだろうが、たぶん人には感性や感情を刺激しようとすることがまやかしに感じられて、逆に理詰めで説得力のあることを言われると本当らしく思われるのだろうが、どちらも予測にすぎなければ、確からしいということでしかないのかも知れず、もちろん〜でしかないとか〜にすぎないという表現を使うと否定的に感じられてしまい、わざとそう語っているわけで、そういう表現自体が感性に訴えかけているわけだが、しかも感性や感情を刺激されてその気になるような人は浅はか極まりないと見なしたくなり、そういう人を小馬鹿にしたいのだろうが、実際に感性や感情に訴えかけて浅はか極まりない人たちを操りたくてその種のデマをしきりに煽り立てている人もいるし、逆に何やらもっともらしい理屈を持ち出して人の知性や理性に訴えかけて、さらには小難しい哲学用語や数学の公理などを使って、頭のいい人にだけわかるようなことを言っているように装いたい人もいるだろうし、そうやってそこで強調していることが、人をその気にさせる罠なのかも知れないが、聴衆をその気にさせないと主張としては失敗だろうし、人をその気にさせないような主張は主張とは言えないのかも知れないが、それが主張ではないとすると何なのかというと、特に語るべきではないようなことを語っているのかも知れず、安易に予想や予測を語るべきではなく、過去に起こったことや現代に起こりつつあることを語ればいいわけで、それだけでは不満なら現代にいてはならないということであり、ここからどこかへ移動しなければならず、語るのではなく現在のいる場所から移動しなければならないとしたら、まずは行動を起こさなければならず、果たしてそれがここから移動することにつながるのかというと、実際に行動してみなければわからないが、行動してみてもわからない場合もあるし、行動したところで移動できない場合もありそうで、果たしてここから移動することが何を意味するのかと言っても皆目見当がつかなければ、移動するということが何かの比喩なのかも知れず、移動した結果として他人との交流に結びつけば、他人とコミュニケーションすることになるだろうが、その過程で何がわかってくるかといえば、例えば経済活動において農業が機械化されて人手が要らなくなり、農村で要らなくなった人々が移動して都市へと流れ込むと、そこで人と人との交流が生まれて、そこでのコミュニケーション行為から経済活動と共に文化的な活動も生じてきて、その結果、人の活動の幅が広がることになるかも知れず、それが将来の予想や予測とは無関係だが、人の移動とは関係があり、少なくとも日本や欧米ではそうした現象は過去に起こったことだと思われるかも知れないが、現代でも移民や難民が流れ込んでいる国や地域があり、その原因は農業が機械化されたこと以前に、そもそも他の産業が機械化されると、相対的に機械化が遅れた産業の生産物の価値が低くなってしまい、今までと同じ量や額を売っていたのでは採算が合わなくなってしまうから、その産業も機械化せざるを得なくなり、今までよりも量を多く生産するか、逆に付加価値をつけて高く売らなければならなくなり、量を多く生産する方向では、農業は開墾できる土地が限られているから、大規模化に成功した少数の戸数しか生き残れなくなってしまい、もちろん付加価値をつけた高級品の需要もその生産量が希少であるから高く売れるわけで、どちらにしても農業人口が減ってしまうわけだが、その減った分の産業人口を他の産業が吸収できればいいのだろうが、それ以外の理由や原因でも世界的に移民や難民が増えているとすれば、今まさにどこかの国で食っていけなくなった人口を他の国が吸収している最中なのかも知れないが、日本では農業人口の減少はとっくの昔に一段落ついていて、現代では都市部のパートタイム労働者が食っていけない状況に直面しているとしたら、他の産業でも要らないとなると全体の人口そのものが減っていくしかないわけだが、そういう現象を人為的に食い止めることができるかというと、政治の方面で様々な試みがおこなわれようとしているかも知れないが、それでは焼け石に水程度の効果しか期待できないかも知れないし、雇用の創出ということであれば、例えば政府が農業公社を設立して、現状で働かずに生活保護などで金銭を支給されている人々の中から、働きたい人を募集して農業をやらせて、農地は耕作放棄地を国が買い取るか借りるかして工面して、借りる場合は土地の所有者に農業指導員になってもらってもいいだろうが、もちろん素人に農業をやらせても採算が合うようなことにはならないから、生活保護の支給額はそのまま支給して、しかも支給した金額はそのまま貯金してもいいような制度にすれば、働く人もやる気が出るだろうし、また生産した農産物はそのまま働いた人や他の生活保護世帯に無償で配れば、商品化に伴う流通経費がかからずに安く済むだろうし、そもそも日本は農産物の自給率が他の国に比べて極端に低いわけだから、無償で配った分だけ輸入が減って、自給率も上がるだろうし、働いた人や他の生活保護世帯で食費が浮いた分だけ他の商品を買う余裕が出てくるから、その買った商品が国産品であれば、国産品の生産や流通や販売や消費もそれだけ増えて、それにかかわる雇用が創出される可能性があるかも知れず、それも実際にやってみればうまくいかずに失敗するかも知れないし、そういった机上の空論を考えている人は他にもいくらでもいるかも知れないが、とりあえずパートタイム労働の働き口がなくて食っていけないとしたら、働かない生活保護の他に、農業公社に入って働くという選択肢ができるだろうし、またそれは農業に限らず、もっと職種を拡げて産業公社として設立すれば、採算が合わないが必要な仕事をやらせる可能性も出てきそうだが、それによって衣食住に関して必要最低限の分野を補えれば、それだけでも何とか社会を維持できるだろうし、そういうのは社会主義的な試みだから、保守派が嫌がるだろうから、現状の政治勢力から政権交代しない限りは実現は不可能かも知れないが、そんな面倒なことをやるよりは民間の資本主義的な企業活動だけで、現状で生きている人の全てが普通に暮らしていければそれに越したことはないだろうが、生きていけない人が死んでしまえば結果的に生きていける人だけ生き残ることになり、それでもかまわないなら自然状態と同じになってしまうわけで、そうならないように生活保護の制度があるわけだが、ただでさえ無駄に大勢いる公務員が、できるだけ生活保護を受け付けないように嫌がらせをやっている現状もあるのかも知れず、そんなことをやっているうちに人口が減ってしまって国力が衰えてくれば、国家主義的な右寄りの人たちも困るだろうから、何とかして人口を維持して国家の衰退を食い止めたいのかも知れないが、世界的には衰退というよりは形骸化が進んでいるのかも知れず、国と国とが対立しているように装い、メディアなどでその対立感情を煽り立てれば、一時的には国家主義的な傾向が強まって、国力が強化されたように感じられるかも知れないが、そこで暮らしている人の生活が成り立たなくなってくれば、実質的には国力の低下が否めないだろうし、余分な人など要らないということであれば、国民の保護という大義名分も成り立たなくなり、そういう状況を目の当たりにした国民がどう思うかといえば、やはり国家が衰退しつつあると共に、その存在感が薄れて形骸化の進行を実感せざるを得ないのではないか。
10月4日「機械と利益」
人は道具の進化形態である機械を作り出して活用することによって利益を得ていることは確かで、それと共に人は自身が働いて利益を得ていることも確かであり、利益を得るということが金銭的な利益を得ることになると、商品となる物や情報やサービスを売ることによって金銭的な利益を得ることになるが、その中で自らが労働することによって利益を得ることがサービスを売って利益を得ることと同じになるはずだが、その際にも大抵は機械を使って労働しているし、客観的に考えて機械を使うことや機械そのものを売ることも含めて、機械の活用が利益をもたらしている面があり、業種として考えるなら、機械を使って機械を作って売るのが製造業で、機械を使って働くのがサービス業となり、一次産業である農林水産業となると、機械を使って働いて機械以外のものを生産することになり、鉱業となると機械を使って資源を採掘することになるわけだが、どれを取っても機械が欠かせないわけで、少なくとも手作業でやるよりは効率が良いはずだが、すでに機械を使っているところを手作業でおこなうはずもなく、手作業と比較すること自体がおかしいが、機械を使った作業があること自体が、その機械が製造されることが前提で成り立っていて、その機械が製造される工程があるということでもあり、さらにはその機械の材料を資源として自然環境から取り出す工程もあるわけで、しかも材料を取り出したり加工する工程からも、材料を使って機械を製造する工程からも、その機械を使って作業する工程からも利益が生じないと、それら全ての工程が成り立たないし、もちろんそれらを輸送する工程が事業として分離していればそこからも利益が生じなければならないし、結果的にはそれら全ての工程が成り立つ程度には利益が出ていることになるわけだが、もちろん収益から必要経費を差し引いた分が利益となるから収益が出ていれば事業は継続するだろうが、利益が出ないと投資できないから、それなりに利益が出ている実態がありそうで、その利益が何に使われるかとなると投資や消費に使われるはずだが、その投資や消費にも機械が使われていれば、またその機械を製造する工程があり、結局一度機械を使い始めると機械から逃れられなくなる宿命にあり、機械を使わない活動などあり得なくなってしまうが、機械を使っている人にとってはそれが別に不自然には思われないし、そうなっているのが当然のことのように感じられるわけだから、それについて考えるという契機が生じてこないわけで、実態としては機械を使うことによって利益がもたらされているのに、普通に自身が働いて利益を得ていると思うだろうし、また直接には商品を売って金銭的な利益を得ているはずなのだが、その利益も投資や消費に使われる限りで無駄になるわけではなく、たとえ一時的に蓄積されるとしても、何のために蓄積するのかといえば、将来において投資したり消費するために蓄積していて、実際に銀行などの金融機関に蓄積されていれば、すでに投資や融資などに運用されていて、金融システム上は無駄に蓄積されているわけではなく、何らかの目的で活用されている実態があるだろうが、そこでも当たり前の事実として、人力でやるよりは機械を使う方が利益を得られるから機械が使われて、機械を使うには機械を作らなければならず、時間的な順序としては機械を作ってから機械を使うことになるが、機械を作るには資金が必要で、資金を得るには商品を売って利益を出さなければならず、その利益が機械を作ることに使われて、それがどのような時間的な順序であろうと、利益を出すために機械が使われて、機械を使うには機械を作らなければならず、機械を作るには資金が必要なわけで、資金を得るためには商品を売らなければならないわけだが、商品自体も機械を使って生産しなければならず、その商品自体が機械である場合もあるし、もちろん商品を生産するにも流通させるにも販売するのにも機械が使われて、それら全ての活動をおこなうのにも資金が必要だろうし、資金をどうやって捻出するのかといえば、商品を売って利益を出して、その利益が蓄積されると活動するための資本となり、活動資金として使われるわけで、その始まりが工場制手工業であったとしても、その時点で生産体制がシステム化されていて、それ自体が人力で動く機械のような構造となっていて、そのシステムを駆動させる力が人力から水力や蒸気機関となり、さらには内燃機関や電気モーターへと進化して、用途に応じて油圧による機械制御や電気信号による電子制御へ機構が移り変わってきたにしても、それらは全て機械を利用した活動になっていて、いったんそうなってしまえばそれが当たり前のように感じられて、すでにそれは織り込み済みのこととして改めて考えるようなことでもなくなってしまうのだが、そうなっていることに関して何が言いたいのかというと、機械を活用することによって利益をもたらしている実態があり、人の機械へのかかわり方に応じて作業工程における役割分担が変わってくるだろうが、システムの自動化やネットワーク化に伴って、従来の役割分担の中で必要とされた人材がだんだんと要らなくなってきて、どのような役割を担っていた人材が要らなくなってくるのかというと、単純労働と呼ばれる労働に携わる人材がある程度は必要だとしても、従来ほどには必要ではなくなってきて、その代わりに人とコミュニケーションを取って交渉や取引をする人材が必要であるにしても、それほど必要なのではなく、誰もがその役割を担えるほどには必要ではなく、その人が取り扱えることが可能な事案の数だけ必要なだけで、無駄に必要というわけではないから、そういうところでは人数が限られているのだろうが、そうなってくると産業が機械化されるに従ってだんだんとそれにかかわって活動する人も減っていく傾向にあるのかも知れず、実際に人口の増加が抑制されている国や地域では産業の機械化が進行中であり、必要以上に人口が増えない傾向になっているのかも知れないが、人が意識して人口を減らそうとしているわけではないのは明らかだろうが、世の中のシステムがそのシステムの中で生きられる人の数を調整していると言えるのかも知れず、人が多く必要とされるシステムになっていれば、自ずから必要に応じて人口が増える一方で、それほど多くなくても成り立っているシステムの中では、人が増えるだけの余地がなくなっていて、産業社会の中で人が生きていくのに何が必要かというと生活に必要な資金が必要となり、その資金に余裕がなければ人を余分に増やそうとはしないだろうし、生活に必要な資金を得られなければ生きていくことができないわけだから、得られる資金の額に応じて生きられる人数も決まってくるわけだが、そうであるなら例えば発展途上国などにおいて貧乏子だくさんな家庭があるということは、まだその地域では機械化がそれほど進んでいないから、人が働く余裕があり、そういう家庭では子供が働き手でもあり、たとえ貧乏でも子供から老人まで家族総出で働きながら生きている実態があるだろうし、資金がなくても農業や漁業や狩猟採集などによって自給自足が可能な環境であれば、それらの作業に必要な分だけ人が生きているわけで、もちろんそういった地域では気候変動などが原因で干ばつなどが起これば食料が足りなくなって大量の餓死者が出ることになるだろうが、そういうことを考慮するなら人が社会の中でどれほどの数が生きられるかは、その社会の状況や状態に応じて決まってくると言えるだろうから、人口が減少している地域で勝手に人の都合で人を増やそうとしても、そう単純に思惑通りには増えないのかも知れず、発展途上国などの農村で余剰人口を抱えている地域であれば、何らかの政策によって農村を破壊して、食えなくなって都市に流れ込んできた人々を労働者として働かせることによって、産業化を促進させる一方で、労働者の子供たちを教育によって知識や技能を身につけさせて、さらに高度な技能労働者に仕立て上げることに成功すれば、産業の機械化も進んで利益も増えるかも知れないが、果たしてそういった過程を歩んでいる地域が現状の世界の中であるのかというと、実際に人口が増えている地域や国がそれに該当しているのだろうし、それがアジアやアフリカや中南米の国々の中でもそれなりに存在しているのかも知れない。
10月3日「確からしい話」
何かを語るに際して既知の事実だけを語っていれば、確かなことを語っているつもりになれるだろうが、その語りを聞く側がそれが事実であることを確かめられるかというと、その場では確かめる術がなければ推測するしかないが、その推測が当たっているとは限らず、当たっているか否かではなく、確からしいと思うならそれでかまわないが、確からしいというのが確かではないのだから、不確かであることは否めず、語る側が不確かなことを確からしく装っているにすぎなければ、少なくとも確かではないことになるが、それも確かめる術がなければ、推測して判断するしかないが、いちいち話の内容の確からしさを確かめようとはしないだろうし、大抵は推測して判断しているわけで、それも意識して判断しているとも言えず、何となく本当のように思われる話を確からしいと思っているだけで、確からしいか確からしくないかを判断するようなこともあまりないかも知れないが、では何なのかというと、あまりその気になって話を聞く気にはならず、ただ聞き流しているだけで、そういう場合は話の確からしさ以前に興味がなく、興味のない話を聞いているふりをしていて、なぜ話を聞いているふりを装うのかといえば、それはその場の状況がそうさせるのだろうが、何か思惑があってそうしている場合もあるし、何の思惑もなく他にやることがないから何となくそうしている場合もありそうだが、それも推測の域を出ないことであり、そんなことをやっている当人にもわからないことかも知れず、意識せずに話の内容も理解する気もなく興味のない話を聞いている場合もあるとすれば、ただ周りの人もそうしているから、そんなその場の状況に合わせているだけかも知れないが、そうなっているからといって話を全く聞いていないかというとそうでもなく、話の内容が嘘っぽく感じられると騙されないぞと思って、身構えるかも知れないし、こいつ適当なことを言いやがってと敵意を露わにしたり、批判や揚げ足取りをやりたくなって、その材料を収集すべく、途中から意識して注意深く話を聞き入るようになるかも知れないが、それもその場の気分次第でそうなる時もあるが、そうはならない時もあるだろうし、介入するのが面倒くさければ、あるいは介入するような立場でもなければ、たとえ話の内容が気に食わなくても、そのまま聞き流してしまい、時が経てば忘れてしまうようなことにもなるのだろうが、その場だけの話とはそういう成り行きになりやすいとしても、その場だけでは済まなければ、何かのきっかけから世の中に広く拡散する話の内容もあるだろうし、それが誰もが興味を惹くような内容でもあるのだろうが、興味を惹くからといって、その人にとっては深刻であったり重大であるわけでもなく、安心して受け止められるような内容もあるだろうから、興味を惹く内容にも千差万別があるが、大して内容には興味がなくても話を聞いてしまう状況があるとすれば、それは話をしている人の立場がそうさせていて、多くの人々に向かって興味のないことを語りかける儀式のような仕掛けがあり、そうしたことをおこなう制度やシステムに巻き込まれてしまうと、退屈に耐えながらあくびをかみ殺しながらつまらない話を聞く羽目に陥ってしまうわけだが、それが多くの人をそこに集めて権力を行使していることにもなり、そこに集められた人々にとっては、そこに出席することが義務であり、大した理由もなく欠席すれば、場合によっては処罰される恐れもあるだろうし、そういう場合の話の内容になると、あえて聞くまでもない空疎な内容となることが多いだろうから、話の内容を聞いてもらうために人を集めるのは建前上のことであり、実質的には人を従わせるために人を集めて、どれほどの人数を動員できたかによって、その人の権威の強さや権力の大きさがわかり、それを誇示するために大量の動員をかけるわけだが、そういった集会にやってくるのが信者や支持者の類いになるわけで、そういう人々はすでにわかりきった話の内容を改めて聞くために集まってくることになり、熱心な人はそれでも気分が高揚するだろうが、そういう人には話の内容が面白いだのつまらないだのといった判断基準があるわけもなく、判断する以前にその場の儀式が醸し出す雰囲気に呑まれていて、そんな人に向かってその場の雰囲気に騙されるな目を覚ませと呼びかけても、聞く耳を持たないことはわかりきったことだが、もちろん当人がその場の雰囲気に騙されているわけでもなく、目も覚ましているだろうし、そういった儀式に参加している自覚があるから、その場の雰囲気を堪能しているわけだろうが、自身が熱心に支持している人に多くの支持者が集まったことに満足するわけで、そうなればそういった集会を主催している団体も演壇に立って演説する人も満足感に浸ることになるだろうが、それによって本来の目的が見失われるわけでもなく、そういった仕掛けを施さない限り、大勢の人々に向かって直接何かを話す機会がそもそもないのかも知れず、しかも話の内容に関して同意を得るにはそうせざるを得ず、そんな必要に応じて制度やシステムとしてそういう仕掛けが施されて、そこに大勢の人が集められて同意させられてしまうわけで、そこで何を同意させられたのかとなると、話の内容に同意したことになるわけだが、誰も話の内容など覚えていないかも知れないし、同意したとも思っていないのかも知れないが、形の上では同意したと見なされて、そんな結果を踏まえてそこから何かがおこなわれることになるかも知れないが、その場では文句が出るようなことは話さないかも知れないし、異論が出るようなことはあえて避けて、誰もが同意できるような、あるいは誰もが聞き流すような空疎な建前論に終始しながら、その中にもちょっとだけ空気を読めよというニュアンスの言葉を差し挟んでおけば、それに気づく人は気づくが、気づかない人は周囲の空気から察知するしかないだろうが、それに関してそこに集まった人のほとんどが信者や支持者であれば、そんなことには納得済みで集まったわけだから、そんなことは大して問題にもならないことなのだろうが、そういったことが世の中で大っぴらにまかり通ってしまうと、メディアを通してそんな光景を目にした一般の人々は違和感を抱くかも知れないが、ほとんどの人が違和感を抱かないとしたら、すでに誰もがそれを当たり前のこととして受け止めていて、広く一般に受け入れられた儀式として、恒例の年中行事のような様相を呈しているのだろうが、果たしてそんなことばかりがおこなわれている世の中が良いか悪いかの判断を迫られるような機会が巡ってくるかというと、そんなことには関心がない人が世の中の大半を占めていれば、機会など巡ってこないと思っていればいいだろうし、思っていてもいなくても、そもそもそんな話ばかりがまかり通っているわけではなく、ちゃんと中身があってそれなりに興味を惹く話がメディアを通じてもたらされている現状もあるだろうし、心配するまでもないことだろうが、大勢の人々に向かって話をするような立場にある人が、異論反論が出るようなことを語りたいと思うかどうかは、その立場によってもその場の状況によっても話す内容によっても変わってくるだろうが、無理に異論反論や賛否両論を求める成り行きにはならないだろうし、それ以前に何かを語るだけではどうにもならないことについて語るようなことになれば、語っている自らの無力さやむなしさをかみしめながら語ることになってしまい、それでも語らざるを得ないとしたら、そういったことを語らせる制度やシステムに欠陥があることになるだろうが、それが欠陥ではなく、制度やシステムにとって都合の良いことであれば、話の内容とは違ったレベルで制度やシステムが機能していることにもなり、そういう機能によって大量の人数を制御する装置としてそれを主催する団体が運用していれば、そこで何かを語る人は装置の歯車にすぎず、そうであればその人が思ったり考えたことがそこで語られているわけではなく、スピーチライターの類いが用意した原稿をただ読んでいるだけの役割であってもかまわないわけで、そうなるとその人が人でなくてもかまわなくなってしまうだろうが、その人にカリスマ性が宿っていれば、人寄せパンダとして利用価値があることにもなるわけだ。
10月2日「日本人であることの意味」
言葉を話したり読んだり記したりすることの全てがそうだとも言えないが、誰もが言語を人並みに使えるように学校教育などを通して制度的に教え込まれるから、その結果として他の人と意思疎通ができるようになり、メディアから伝えられる情報の内容を理解できて、世の中の状況をそれなりに把握できるようになるわけだが、それが当たり前のこととしてそうなっているように感じられるが、実態としては人為的に造られた言語環境の中で暮らしていて、普通はそんなことまで考える必要もないが、すでに織り込み済みのそういった前提から考えていかないとわかってこないこともあり、そこから何がわかるかというと、例えば日本語を使っていることが日本人であることの自覚をもたらしていて、自然にそうなっているように思われるとしても、それは人為的に作られた感覚であり、日本語を使える外国人などいくらでもいるから、それだけが日本人であることの証しではないし、何か他にも日本人であることの条件がありそうなのだが、それが例えば日本国籍を持っていることだとすると、何かそんなお役所的で事務的なことではないような気がして、もっと根源的なところで日本人とそうではない人との間で区別が必要だと思われてくると、そういったところから人種差別的なナショナリズムが生じてくるのだろうが、そういった区別を求める要求や要請がどこから生じてくるのかというと、一見とそれとは無関係に思われる普通の経済活動などに起因して生じてくることに気づかないわけで、そこに貧富の格差があれば、日本では日本国民が優先されるべきなのに、どうして国は外国人の好き勝手にやらせているのかと憤っている人がいるとすれば、それがナショナリスト的な感情であり、国は経済的に困窮している日本国民を優先して助けるべきだと思うなら、ただ漠然と日本国民=日本人だと思っている可能性が高いわけだが、実際には日本の国籍を持っている人が日本国民であり、それ以外には特に条件はないはずなのに、彼らの恣意的な基準からすれば、日本人ではない人も日本国籍を持っていることが許せないわけで、そういうところでおかしな先入観が生まれて、大して気にならない人は不条理感を抱いてしまうかも知れないが、経済活動自体が国際的な地域差を利用して利益を得ている一方で、隣国との対立関係からナショナリズムを煽り立てられることも、外国としての隣国の存在が気になっていて、どうしても日本国内だけの事情からはそういった感情は生まれてこないのだが、そういった微妙な差異にこだわってくるときりがないから、もっと単純に割り切って物事を捉えた方が良さそうにも思われるかも知れないが、感情が許さないことと経済的な事情がリンクしてくるとナショナリズムが発動してしまい、いつの間にか日本人という表現が全面的に意識されて、結果的におかしなことを主張し始めてしまうわけで、別にそれがおかしいとは思われないばかりか、当然のことを主張しているようにも思われて、それが〜人という表現自体が積極的な主張に盛り込まれることによって発動する効果であり、またそれは〜国という表現でも似たような効果を発揮するのだろうが、実態としては〜国の政府がやっていることであって、〜国自体が何かやっているとは言えないわけだが、言語表現となるとそうならざるを得ないわけで、そこから〜国が何かをやっているように普通に感じられて、また〜人という集団的な存在も実在しているように思われてきて、自身の精神的なよりどころを〜人であることに求めてしまうと、〜人の国である〜国が、何か素晴らしい国でなければならなくなるだろうし、ただ単に〜国に住んでいるという事実だけでは済まなくなってきて、そうなっていることに積極的な価値があり、できれば〜国に住んでいる〜人であることに誇りを持てるような状況となってほしいのだろうが、それも実態としては〜国の中でも地域差があるし、〜人にもいろいろな境遇の人がいて、〜国の全てが肯定できるような状態とはならないし、〜人の全てが素晴らしい人格を持っているわけでもないのは明らかだが、言語表現を使うとそういうことが言えてしまうから、心の中ではそう思ってしまうし、そういうことを実現してほしいとも思ってしまうわけだが、誰が実現できるかというと、〜人自身が実現させるしかないだろうし、〜国の政府が〜国の状態を素晴らしいと言えるような状態へと持って行ってほしいわけだが、果たしてそんなことが実現できる〜人であったり〜国の政府なのかというと、それは現状が示している通りのことであり、そんなことからはほど遠い〜国の現状があれば、そんなことを思っていること自体が何か現実離れしているとしか言えないだろうが、さらに現実離れしたことを言うなら、〜国や〜人だけが良くなっても、周囲の国や周囲の国の人々が許さないだろうから、世界全体が良くならない限りはうまくいかないわけだが、言葉で簡単に言ってしまえることと現実にどうやればそうなるかと考えることの間には、埋めようのない落差があり、そういう意味では言葉で簡単に言えてしまえることを安易に信じるわけにはいかないのだろうが、そこでも感情がそれを許さないわけで、ともすれば感情にまかせてあり得ないことを求めてしまい、現実や実情との落差を考慮できずに、言葉だけが暴走してしまいがちになってしまうわけだが、そういった言葉の暴走がいつの間にか一人歩きしてしまうと、いつまで経っても実現不可能なことを要求し続けることになって、実際にそうなっている現状を自分たちが無視していることに気づけなくなってしまうわけで、そういったことがまかり通っている一部のメディアから発せられる主張を真に受けている人には、自身が人為的に作られた言語環境の中で暮らしていることが、現実の世の中で起こっていることだと思われるだろうが、そうでないと言うのなら、では他に真実の世界があるのかというと、それが真実だとは到底思えないような状況の中で暮らしている感覚が、案外世の中の実態を反映した言語表現から生じてくるかも知れず、実際に確からしいと思っていたことがことごとく裏切られて、思いがけないことばかりが起こっていれば、自意識が安易に辻褄が合うように現状を捉える一方で、心の中でも自分にとって都合が良く、しかも理路整然とした論理によって現状を表現するから、それが大間違いだったことが発覚して、そこで自らの認識の甘さを思い知らされたことになるのだろうが、それでも自分を信じるなら、世界の現状から大幅にずれたことを思い続けてしまうだろうし、そんな現状も感情的に許せなければ、頭の中で思い描いている理想状態の実現を阻んでいる犯人やそれを陰から操っている黒幕的な存在を想像してしまい、そういう想像上の敵を現実に存在する人や団体に当てはめようとして、そこでも恣意的にそんな状態を語る上で好都合な事実の組み合わせを現状から導き出そうとして、それが現状に関する荒唐無稽な解釈に結びつくのだろうが、事実を都合良く組み合わせると辻褄が合ってしまうから、それを信じないわけにはいかないだろうし、たぶんそれが言語的な罠であり、といっても誰が罠を仕掛けているわけでもないが、そういう罠に引っかからないようにするには、うまく言葉では表現できないような矛盾や二律背反を簡単には止揚できない世界の中で暮らしていると思っておくのが無難なところかも知れず、逆に簡単に辻褄が合うような表現が当てはまるような出来事にはまずは疑いの目を向けておくべきで、ただでさえ様々な物事が錯綜して絡み合ってわけがわからなくなっていることが多いわけだから、そう単純に言葉で割り切れるようなことにはならないはずで、そういったことを考慮するなら、例えば自分が日本人であることに関して自身の率直な感情に従うなら、都合の良くて肯定的な意味を伴わせたくなるが、そんな感情に従ってしまうことについてはそれ自体として認めざるを得ないが、世の中の現状にそういった感情を反映させようとすると裏切られると思っておいた方がいいだろうし、たとえ裏切られたとしても受け入れられなければ、そういう思いを延々と抱き続けて、そこからそれを裏切るようなことをやっている人や団体に対して否定的な感情を抱いてしまうだろうが、そういうことをやっている人や団体にしても、その人の思いやその団体の意向を裏切るような現状に直面していて、言葉ではうまく言い表せないような成り行きにとらわれているのかも知れず、そうやってその場で生じているわけのわからない状況にかかわっている誰もが互いに疑心暗鬼になってしまうのかも知れない。
10月1日「人と国の関係」
人が人に対して何かこうしなければならないという規範があるわけでもないだろうが、自身の都合や事情とぶつからない限りは他人の自由は尊重しておいた方がいいと思うのが、普通の感覚だと思いたいが、事情や都合がぶつかるような場合には意思疎通を図りながら交渉や取引をせざるを得なくなるだろうが、それは国と国との関係でも言えることだろうし、人と人との関係と国と国との関係が同じことなのかというと、似たような場合もあるだろうが、個人と団体や組織とでは形態が異なるから、違う面もあるだろうが、国が団体や組織なのかというと、確かに国には個人も団体も組織も含まれているが、幻想の共同体と形容しても、何かしっくりこない面もありそうで、うまく言い表せないのだが、公共的な枠組みであることは確かであり、それに関しては国の内外で政府によって個人や集団が理不尽な仕打ちや扱いを受けているなら、その国の政府を非難しなければならないと言えそうだが、それもはっきりとした国際的な決まりがあるわけでもないし、国というよりは政府という団体が存在していて、軍隊や治安機関や司法機関や行政機関や議会などを含んだ組織的な構成があり、それらをひとまとまりにして政府と呼ぶのだろうが、そうやって存在しているそれらの組織をなくす必要は感じられないだろうし、そこに政党などが絡んできて、政府の組織が形骸化している面もあり、政府の官僚機構と政権を担う政党が癒着して談合的な傾向を強めていて、さらにそこに産業界やマスメディアも癒着してきて、それら全てが政府の政党機関や産業機関やメディア機関として官僚化している傾向もありそうだが、そうなると幻想の共同体ではなく、現実の利害を基にした集団化が促されていると言えるだろうし、そこに生じているのは国家的な制度やシステムを管理運営する側に回りたいという意志や意向の表れであり、それにかかわっている個々人がそれを意識しているというよりは、集団として組織的に構成されるとそういう傾向になってしまうということだろうが、そんな集団に所属している個々人がそういった傾向に逆らえるかというと、それも意識して逆らうようなことにはならず、逆らうような契機が生じないし、逆らう理由もないはずだが、そうやって人が集団に取り込まれて官僚化していく過程において、そうなるのが当然のことのように思われてしまうとすれば、自然な傾向としてそうなってしまうということであり、そういう抗いがたい成り行きが生じているということでもあり、そうなるについては特に正当化する理由もなくそうなってしまい、そうなるより仕方がないわけだが、それに対してそんな傾向から外れてしまった人がどう振る舞えばいいかといっても、自身の都合や事情とぶつからない限りは他人の自由は尊重しておいた方がいいと思っても、個々人の自由意志よりは優先されてしまう集団的な傾向があり、そういうところでは自由意志そのものが生じない成り行きになっていて、すでに人の意識がその場を支配する制度やシステムに従っていて、そうなることを自明視していて、逆にそうならない方がおかしいような意識となっているから、それを疑問視する余地さえ生じないわけだろうが、そうなってしまうと何がまずいのかといっても、ただ単に他人の自由を尊重できないということであり、尊重する理由がないから、他人の自由を尊重する方がおかしいと思われるだろうが、そうなると自由という概念が生じてくる余地もなく、どういう状態が自由であるのかに関して、特に問われるような状況が生じてこないのだろうが、それらの人たちの中ではそうであっても、他の国で独裁政権などによって国民に対して弾圧がおこなわれるようなことにでもなれば、その国の国民の自由が損なわれたと思うだろうし、そういうところでは自由意志が侵害されたと認識できるだろうが、自分たちに自由意志がないことには気づかないわけで、官僚システムによって自由意志が取り除かれていることにまでは思い至らないわけだが、要するにそういった制度やシステムに対して従順であれば、そういうレベルでの自由意志などは生じてこないわけで、それに逆らうことによって自由意志が意識されて、逆らう自由を自覚できるだろうが、もとから逆らっていないわけだから自由意志などないも同然で、他のところでは例えば日常の些細な好き嫌いなどに関して、嫌いなものを強要されたら、そこに権力関係が生じていなければ逆らうだろうし、嫌いなものは拒否する自由があると自覚できるが、そういう人たちにとっての自由とは、そういうレベルでの自由である他には、他国での人権侵害に関しては自らが直接の利害関係の当事者ではないから自由の侵害を認識できるとしても、自らが官僚システムに取り込まれていることに関しては否応なくそうなっているから、拒否する自由がもとからないわけで、そういう面では自由を意識できないのは当然で、そうなっていることに関して拒否する理由がないから、自由のあるなしを自覚できる材料が選択肢として目の前に置かれていないことになるわけだが、そもそも選択肢がなければ選ぶ自由がないも当たり前のことであり、ではその人たちに選択肢を作る義務があるかというと、そんなお人好しなことまでやる必要はないだろうし、選択肢を作ることは敵を利することになるとすれば、ではその人たちにとっての敵とは誰なのかといえば、誰も敵とは思っていなければそもそも敵などいないも同然だろうが、まさか自分たちの選択の自由を奪っているのが自分たちを利する制度やシステムだとは思わないだろうし、そう思わせないような制度やシステムなのだから、そういう意味では敵などいないも同然かも知れないが、仮想敵であるならそれなりにいるだろうし、それが国内であれば反体制的な批判を繰り返す野党勢力であり、国外であれば自国や同盟国の脅威となる外国の政府となるだろうが、それらは仮想敵でしかなく、真の敵が自分たちがその内に取り込まれて自由を奪っている官僚システムだと言えるはずもないだろうし、別に仮想敵が真の敵だと思い込んでも何の不都合もないはずだが、国家という概念が未来へ向かって徐々に形骸化されて解消される傾向にあるとすれば、それを阻んでいるのが官僚システムであり、しかも同時に国家を蝕んでいるのも同じ官僚システムであり、さらには官僚システムに取り込まれた人たちに恩恵をもたらしているのも当の官僚システムであるところが、ややこしい事情や経緯をもたらしているのだろうが、それに関してたとえとして天動説と地動説などを持ち出してみても納得しがたいだろうが、確かに国内では自分たちが所属する政府を中心として物事が回っているように思われるとしても、国外ではそうは思わないどころか、同盟国である覇権国を中心として物事が回っているようにも思われるだろうし、また二つの敵対する覇権国の狭間で難しい対応を迫られているようにも思われるなら、自国が何の周りを回っているわけでもないようにも思われて、天動説も地動説も成り立たない状況にあり、そんな説を持ち出すこと自体が意味のないことになってしまうだろうが、逆に国家という概念が形骸化されて解消することはなく、ただ単にその時代の状況に合わせて強化されたり弱体化したりするだけで、国家そのものはいつまでも執拗に残り続けるものであれば、それを統治する政府という団体も存在し続けるだろうし、世界では一定の区域内を領土とする統治機構が必要不可欠なのかも知れないが、もはや戦争による離合集散ができない飽和状態となっていることも確かであり、それと共に地域的な面ではより細かな区域内で国家から独立する気運も高まっていて、それに伴って紛争も絶えないわけだが、そうなっていることに関してあまりもっともらしい必然性や正当化を持ち出さなければ、その程度のこととして済んでしまうようなことでもあり、何やらそれらの人たちが把握できる範囲内では主導権を巡って争いが起こっているのだろうが、少なくとも争っている人たちの意見や主張などを真に受けなければ、別に大したことをやっているわけでもないと思われるだろうが、それらの人たちにとってはそれをやることが死活問題なのかも知れず、そう思っている限りでそれなりにそれらの人たちのモチベーションが保たれるのかも知れない。
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