彼の声144
2021年
5月31日「作為」
それまでの延長上で物事の成り行きが決まってくると、そうなって当然のように思われるだろうが、そうなって当然のように思わせるような工夫が凝らされていると、そこに作為が生じていることになるわけだが、そうなるのが自然の成り行きのように見せかける作為としては、作庭が思い浮かぶかも知れないが、すでに庭なのだから、人為的に作られていることは誰もがわかっているはずなのに、それが自然の風景に似せて造られていると、庭を見て自然の風景を思い浮かべるという模造感が醸し出されてきて、それによってある種の感動を味わうことになるのだろうが、それがどんな感動なのかというと、工夫を凝らして無駄で無意味なことをやっていることに感動しているわけではなく、直接自然の風景を見に行けばいいのに、それをわざわざ庭に再現して見せようとするわけだから、何か倒錯的でめまいのような感動を味わうのかも知れないが、庭造りをやっている側としてはそうではなく、自然の意匠が人工的に再現されていることに感動してほしいのかも知れないが、普通に考えてきれいに見えればそれで構わないような気もするだろうが、それが無為自然を表現しているわけではないことも大抵の人が気づくことかも知れず、何かが破綻なく調和しているようにも見えるわけで、それを単純に人と自然の調和だと思えば浅知恵のような感じになってしまうかも知れないが、逆にどこかで破綻しているのが人と自然の両方に共通する特徴となっている面もあり、それを庭程度の造形で再現できるはずもないという思いも募ってくるかも知れないし、何よりも自然に生えてくる雑草を取り除こうとする意志が、庭そのものの限界を示しているようにも思われて、ありのままの自然ではなく、きれいに見せようとする作為をそこで意識してしまうわけだが、自然に見せかけようとしているのに、きれいに見せようとする作為が邪魔して、自然に生えてくる雑草を取り除いてしまい、結果的には自然に見せかけた模造となって、そういうところで自然に見せかける試みが破綻しているわけで、それをはっきりとは意識できないまでも、不自然な印象を伴ってくるわけだが、その不自然さをいかにごまかそうとしても、自然のミニチュアとしての庭でしかないわけだから、庭である限りで領域が区切られていて、たとえ背景に周囲の自然の風景を借景として利用して自然に溶け込んでいるように見せかけても、そのどこかに不連続面があることが想像されて、自然と人工の境目に境界線が引かれていることは誰にもわかっていて、それを意識して無視しているわけではないが、それも目の錯覚程度のことにいちいち目くじらを立てる気にもなれないにしても、それが織り込み済みの了解事項となっている限りで成り立つ風景なのだから、どう見ても限界があるのはわかりきったことだが、その無限に延長できるわけでもない有限の風景をどう見るかに関しては、人自身が有限な存在であることをわかっていれば、それが別に否定されるわけでもないだろうし、風景を見ているだけではどうにもならない事情を誰もが抱え込んでいることもわかりきっていることであり、見ているだけではなく直接おこなう作業が必要となってくるにしても、それが雑草の除去となるときりがなくなり、実際に雑草を取り除く作業に追われて、風景を愛でるどころではなくなっているとしたら、では何のために庭を造ったのかというと、工夫を凝らして無駄で無意味なことをやるために庭を造ったわけでもないだろうが、そうでもないのに結果的にそうなってしまうのが、やっていることが破綻している証拠だと他からこれ見よがしに指摘されるわけでもなく、逆に無駄で無意味なことをやっている光景を他人に見せたくなるわけでもないだろうが、そういう光景が豊かさの象徴にも見えてしまうだろうし、実際に無駄で無意味なことに手間暇をかけられる余裕があるわけだが、それを無駄で無意味なことだと見なすのも、そうではないように見せかけられていることに気づけないと、風景がきれいに見える必要があることに関して、わかっていないことになるのかも知れず、そういうところでこれといってはっきりした理由を見つけ出してしまうと、そうした理由にこだわることで何とか正気を保っていられるかのような幻想を抱いてしまうのかも知れないが、それが幻想ではないことがわかっているつもりであっても、実際にはわかっていないことであり、何のためにそんなことをやっているのか、その理由がなくても構わないということが、それほど苦にならなければ、理由に気づかなくても構わず、ただ身の回りを清潔に保っておきたいことと、庭がきれいに見えるように保つことが同じことだとは思えないだろうが、掃除の延長上でなら雑草の除去もそれに含まれてきて、そういうところではっきりした理由を意識しないでおくことが、現状の世の中で無理のない行為や行動をおこなうには必要であり、何だかはっきりしないが、それまでの延長上で行動していることが安心感をもたらしていて、それだけでは何がどうなるわけでもないとしても、必要最低限のこととしてそれに気を遣う必要があり、逆にそういう気遣いができないと、何かおかしい人のように見られてしまい、それだけでは何がどうなるわけでもなくても、やはり人として他から敬遠されるような成り行きが待ち受けているわけで、そういうことに関しては他人から直に教えてもらうわけにも行かないだろうし、自ずからわかってくるように仕向けられているにしても、わからない人もそれなりにいるだろうし、他人からの気遣いに気づかない人が、他人から敬遠されがちになるのもありふれたことかも知れないが、そういうことだけで世の中が回っているわけでもなく、絶えず生活を脅かすような作為が人為的に仕掛けられているように感じられると、ちょっとした心の隙を突いて不快なことを仕掛けられているような被害妄想にとらわれてしまうわけで、果たしてそれが人為的に仕掛けられた作為なのか、はたまたそれと自覚することなく影響を及ぼされているにすぎないかも、はっきりしたことは何もわからずじまいになってしまうことの方が多いだろうし、そんな疑念にとらわれながらも、継続して居住環境をメンテナンスしながら暮らしていることは確かだとしても、その延長で起こることが、無駄で無意味な行為を強いられることに結びつくと、そういうことをおこなう理由や原因を明らかにしようとするわけでもなくても、起こったことに対応しているだけであれば、対応できている限りで何とかなっていることになるだろうが、それが対応できなくなると、生活が破綻してきて、例えば結果的に家がゴミ屋敷となったり、犬や猫などのペットが増えすぎてしまったりして、個人の力ではもとの状態には戻せなくなってしまうのだろうが、たとえそうなって周囲に迷惑をかけるとしても、そうなるに至るまでの過程において歯止めがかからなくなる要因などいくらでもあり、そうなってしまう可能性が誰にでもあるから、それを回避するには庭の雑草を除去する習慣が身についているか否かといった、ちょっとした気遣いの差になっているとしたら、それが何か重要なことのように思われてくるかも知れないが、たぶんそんなことは重要でも何でもなく、実際には何かのついでに付け足し程度としておこなわれることでもあり、それ自体が作為の対象となることはないだろうが、そんな成り行きをきっかけにしてちょっとした作為が仕掛けられる可能性もあるのかも知れない。
5月30日「説明する理由」
何かが起こった結果からそれが起こる原因を想像して、それを想像することが考えることになるが、普通は結果から原因が生じるのではなく、原因から結果が生じるのは当たり前のことだが、原因から結果に至る過程をうまく説明するのに都合の良い原因を設定することができれば、それで原因から結果が生じたことを説明できたことになるわけだが、そういう話の筋では済まなくなるのが、結果から原因を想像する理由になり、その種の説明が必要となる理由にもなるのだろうが、物事の成り立ちを理解するにはそれをわかりやすく説明してもらう必要があり、わかりやすく説明してもらわないと理解できないのも当たり前のことだが、それで理解したことになるかというと、確かにわかりやすく説明された範囲内は理解しやすくなっているはずだが、わかりやすく説明できないところは理解できないといっても、それは説明を聞く側の知能の程度にもよるだろうが、理解するのが難しいところをわかりやすく説明できれば、説明を聞く側が理解できる可能性が高まるだろうし、それも説明する対象にもよるが、一般的にわかりやすく説明されると理解しやすいが、専門的な説明が求められているところでは、一般的なわかりやすい説明では物足りない場合もあるだろうし、それ以前に理解している範囲内でしか説明できないわけだが、説明ができている範囲では理解しているつもりだろうが、理解していないところまで説明しようとしている可能性もあるだろうし、説明しているうちに理解を超えてしまえばわけのわからないことを説明していることになり、説明ではなくなってしまうかも知れないが、説明とは違うことを語っている場合もあるだろうし、語っていることの全てが説明とはならず、物事を説明する以外でも語っている内容があり、では説明の他に何を語っているのかというと、説明する理由を語っている場合もあるだろうし、さらに説明する意義を語っている場合もあり、そうやって説明していることを正当化したいのだろうが、そうなると説明を理解してほしいと共に説明から生じてくる主張を支持してほしくて説明していることになり、支持してほしいから説明していることになるわけだから、わかりにくい説明では支持されないだろうし、支持されるような説明をしようとして、説明を聞いてくれる人が支持してくれるような説明をしようとするわけで、そうなると理解しやすくて納得できて支持されやすいことを説明するようになるわけだが、説明を聞く人がすでに理解していることを改めて説明すれば支持されやすく共感を得やすいし、誰もがわかっていることを説明するわけだから、今さら説明するまでもないことを説明することによって、多くの人々から支持や共感を得ようとしている限りで、それが説明する理由ともなり、説明の対象となる物事を理解してほしくて説明するのとは全く違う理由から説明していることになってしまうわけだが、その区別がつくかというと、説明している側にも説明を聞いている側にもその自覚がない場合もあるだろうし、支持されやすくて共感を得られやすい説明だから信用されやすいとなると、そんなことはわざわざ説明するまでもないことであり、逆にわざと反発を招くような説明をして炎上商法を目論む場合もあるだろうが、そんなふうに人を煽り立てて操ろうとする意図や思惑が見え見えな説明になってくると、もはや理解するまでもない説明になってしまい、説明を装って説明とは別のことをやろうとしているわけで、そういうのが詐欺的な手口なのだろうが、そういう説明が多くの人の支持や共感や信用を集めている限りで、誰も詐欺だとは思っていないだろうし、演説の場で聴衆を虜にするにはそういう資質が求められて、その種の演説には中身がない場合も多いだろうが、それに関しては悪い意味での代表格がヒトラーの演説になり、良い意味での代表格がキング牧師の演説になるかも知れないが、人の心に訴えかける言葉がちりばめられていて、声そのものの魅力もさることながら、語り方にも人を惹きつけるような工夫が凝らされていて、さらには演説している舞台や環境も、その場の雰囲気に呑まれてしまうな演出が施されていれば、それを聞いているだけで気分が高揚してくるだろうが、そういった装飾的で人為的な加工を取り除いた後に何が残っているかといっても、それと一体化しているわけだから取り除けないだろうし、その種の演説はそういうものだと捉えておけばいいわけで、説明が説明するまでもないことを説明している限りで、説明とは別の目的に説明が使われる場合があり、それが特におかしいことではなく、逆に説明することの価値がそういうところから生じてきて、説明内容ではなく、どこで誰が説明したかが重要に感じられて、説明する役割を担っていない人がいくら詳細にわかりやすく説明しても、そんな説明は誰も聞いていない可能性があり、そういう意味では誰からも無視されてしまう説明もあるだろうが、無視されずに、しかも理解するまでもないわかりきった内容とはならないように説明しなければならないとしたら、聞いた人を思考へと導くような説明にしなければならないだろうし、さらには行動を促すような説明もあるかも知れないが、それもあからさまな反対運動へと導くようだと、それが反対する対象の攻撃の標的となってしまうだろうから、直情的にならずに考えさせるように仕向けるといっても、それは説明する側よりは説明を聞く側が配慮しなければならないことになってくるだろうが、説明する側の意図をくみ取るということよりは、説明から何がわかってくるのかを考えなければならず、それが説明を理解することに結びつくのだろうが、説明からわかってきたことをどう利用するかは説明を聞く側の勝手だろうし、そこまでは説明する側の知ったことではなく、説明する側の意図や思惑を離れて説明がどう利用されようが、説明する側の責任ではないだろうが、説明を聞く側が説明する側が説明する理由を無視しても構わないかというと、構うも構わないも、理由を知らなくても構わないのかも知れず、さらには説明の中で主張されていることを支持しなくても賛同しなくても構わないだろうし、説明に納得しなくても説明を信用しなくても構わず、説明する側の都合を無視しても構わないだろうが、ではなぜ説明に関心を抱くのかといえば、説明されている内容に関心を持つわけで、説明している人ではなく説明されている内容に関心を抱けば、説明している人の意図や思惑や説明する理由にとらわれることなく、説明している内容をそのまま受け止められるかというと、必ずしもそうとは言い切れない面もあるだろうが、肝心なのは説明されている内容であり、その内容に関心を持っている限りで、それについて考えさせられるわけで、考えさせられるだけではなく行動へと結びつけば、説明の対象となっている物事へ直接かかわることにもなるだろうし、そうなる限りで当事者意識が生じてきて、傍観者や野次馬とは違った立場を意識できるかも知れないが、そうした行動へと駆り立てるような説明となるかどうかは、説明している人にはわからないし、与り知らないことになるだろうが、説明している人が抱いている説明する理由とは違った理由が結果的に生じてくることにもなり、説明を聞いた人を説明の対象となっている物事に直接かかわらせることが、結果的に説明する理由となってくるわけだ。
5月29日「抵抗する意志」
世の中が人の意志に逆らって不快な状態へと至ってしまうと、結果的にはそうなってしまうとしても、その過程において人がそうならないように抵抗していて、抵抗しているにもかかわらずそうなってしまうから、それが人の意志ではどうにもならない成り行きになっているように思われるわけだが、どうにもならないのに決まってその種の成り行きには人が抵抗の意志を示して、実際に抵抗活動がおこなわれて、抵抗の意志を示す行為もやめさせることのできない成り行きとなり、そうなることも人に意志ではどうにもならない成り行きに含まれるわけだが、そこで強権的に権力を行使する行為と、それに対して抵抗の意志を示す行為とが対立しているのは誰の目にも明らかとなるのだろうが、なぜ強権的に権力を行使するのかといえば、そうしないと体制を維持できないからそうするのであり、それも人の意志ではどうにもならない成り行きとなり、いったん権力を行使して権力を行使する側にとって都合の良い状態にするために人々を強制的に従わせるようなことをやってしまうと、それ以後もそうする以外にはやりようがなくなってしまうわけだが、人々が抵抗するから権力を行使せざるを得ず、それも人の意志ではどうにもならない成り行きとなってしまい、どうやってもそういう成り行きを免れないのだが、他にも人の意志ではどうにもならない成り行きがあるとしても、そういう成り行きに逆らうことによって人の意志が生じてきて、そういう意味では人の意志とは、自らの意志ではどうにもならない成り行きに逆らう意志であり、それが意志に反抗する意志であり、いやなことを押しつけてくる意志に抵抗する意志となるのだが、逆らうのではなく従う意志になると、自発的に従う気になるかというと、人の本能にまつわる根源的な感情の中では他人の意志に従うのはいやだが、そこに様々な経緯や事情や条件が介在してきて、例えば利益の供与と引き替えに従うように促されたり、あるいは暴力などを用いたあからさまな脅迫によって従うように促されると、そこからも必ず抵抗感が生じてきて、根本的なところでは従うことは不快であり、できれば従いたくないが、従わざるを得ない理由となる経緯や事情や条件などが加わってくれば、いやでも従わざるを得なくなり、そういう意味では従う意志にも必ず抵抗感が含まれてくるから、時と場合によっては従うのと同時に裏切る理由も探していて、隙あらば裏切りたいから、裏切ることを正当化できる理由を探しながら従っていて、本心から従っているわけではないことにもなり、さらには従うことを強制されているのがいやだから、自由を求めることにもなるわけで、もとから強制がなければ自由を求める必要もなく、現状で自由になっていないから自由を求めることになるわけだが、そうなるのも人の意志では制御できない必然的な成り行きになり、何らかの強制があれば、その強制から逃れて自由になりたいと思うわけで、そこにも強制して従わせないと支配体制を保てないという事情があるから、人々に強制と服従を強いることになるわけで、実際にそうなってしまっている状況を前にして、いくらその種の支配体制を美化したり正当化しても何の説得力も伴わず、あからさまにそうなっていることが誰の目にも明らかになっているわけで、そういうごまかしようのない体制を維持しようとすると、必ずどこかで無理が生じてくるだろうし、そういう体制が無理を押し通して比較的長期間にわたって続くとしても、支配に対する抵抗活動がどこからともなく必ず生じてきて、現状でもそうなっている国が世界各地に存在しているが、そこにも程度や傾向に強弱があり、行政的な権力による強制的な支配体制がそれほど強くない国や地域では、それに代わって商業的な権力による強制的な交換体制が強まっている場合があり、そこで強制的な交換体制とは言うまでもなく物や情報やサービスを売買する体制であるわけだが、何と何を強制的に交換しなければならないのかといえば、直接的には商品と貨幣を交換して、その交換がうまくいかないと生きていけないから、何が何でも日々交換を強制される成り行きになっていて、交換する意志があろうとなかろうと、必ず商品と貨幣の両方共に必要となってしまうわけだから、その場の状況に応じて足りない方のどちらか一方または時には両方ともに求めざるを得ないわけで、求めても交換する商品か貨幣がないと交換できないわけだから、それも人の意志ではどうにもならない成り行きになっているように思われるわけだが、そんな交換体制に対して人の意志がどうやって抵抗するのかといえば、他人より多く貨幣を貯めて自分の意志で好きな時に好きなだけ商品と交換できる体制を築こうとするわけで、それがそんな体制の支配下では誰もが思いつくことだが、それとは別の戦略としては交換しなくても生きていける体制を築こうとして、そういう方面では物資の自給自足体制を目指すわけだが、どちらが強いかというと、すでに商業的な交換体制に支配されている国や地域では当然のことながら貨幣を貯める戦略の方が勝っているだろうし、もちろん貨幣だけではなく貨幣と比較的容易に交換できる資産を持っていれば、貨幣そのものの価値が暴落した時には有利となるわけだが、貨幣を含めて資産を増やす方法として一般的に通用しているやり方が投資というやり方になるだろうし、投資といっても要は安く買って高く売るか、高く売って安く買うかの二種類のやり方しかないだろうが、その応用として空売りというのもあるだろうが、資産を投じてその資産が投じた額や量より増えて返ってくるように工夫を凝らすわけだから、等価交換ではそうはならないわけで、絶えず等価交換に見せかけた不等価な交換をおこなわないと資産が一方的には増えないわけだから、しかも自身が損するとわかっていながら交換に応じる人や団体もそうはいないだろうし、そういうところでどうやって等価交換に見せかけた不等価交換を実現させるかが難しくなってくるわけだが、実際にそれが実現するような体制となっていて、それが不等価交換を強いられる不利な状況となる人々を生じさせる体制でもあり、しかもそういう人々が実際に生きられないと成り立たない体制でもあるだろうし、それが搾取される体制なのだろうが、どうやって搾取されるかが問題となっていて、少なくとも現代では行政的な権力によって強制的に人々が搾取される体制は、欧米的な価値観では否定的に見られていて、その一方で企業的な権力によって労働契約を結ばされて搾取されることも、一応は欧米的な価値観では否定的に見られているだろうが、搾取の程度や傾向にも強弱があって、自由のない奴隷的な契約では断じて認められないが、人並みの生活が成り立つかどうかが判断の基準となってくるだろうし、それも当人の意志でどうにかなる程度の自由も必要だろうし、当人にある程度の選択の自由が確保されていれば、それを搾取とは言えないようになり、それがいやならやめても構わない程度の意志が尊重されていることが望ましいのだろうが、その点も微妙に解釈によっては強制されているようにも見られてしまい、搾取されているかどうかを巡って争いの場が設けられている場合もあるだろうし、そういうところでその種の不等価交換をどの程度容認するかどうかで判断を迫られているかも知れないが、それに対しても絶えず抵抗する意志が生じてくるわけだ。
5月28日「意表を突かれる」
驚くことと意表を突かれることは連動していて、意表を突かれると驚くはずだが、他から意表を突かれるようなことをやられると驚き、その際には自分に油断があったような気になることもあるだろうが、油断していたわけではなくても意図的に何かを仕掛けられると、その仕掛けがうまくいけば驚かされて、意表を突かれたと思うかも知れないし、油断していたような気になるわけだが、それを狙って仕掛けているのに、うまくいかずに仕掛けもかわされてしまうと、相手にこちらの動きを見切られたように思われて、驚き焦るかも知れないが、そんなことを仕掛けたり仕掛けられるようなことが頻繁に起こるかというと、人によっても状況によっても違うだろうが、何かの冗談で友人や兄弟などとふざけ合うような親密な関係があれば頻繁に起こるかも知れないが、人付き合いがなければ全く起こらないだろうし、対戦ゲームなどの中で相手に対してそういうことをやる機会もあるかも知れないが、詐欺的な行為を仕掛けるのではない限りは、本気でやるようなことでもないのかも知れず、そういう人為的な行為によって意表を突かれることはあまりないとしても、何かを仕掛ける意図や思惑を想定できないような意表の突かれ方をされると、人為的な要因ではない物事によって意表を突かれたと思うしかないだろうが、それによって本当に意表を突かれているのかというと、意表を突かれたとは思わなければ意表を突かれていることにはならないだろうし、時と場合によって意表を突かれたと思うかそうは思わないかの違いも生じてくるかも知れないが、何の前触れもなく突然起こったように思われる出来事に遭遇すれば、その衝撃が大きければ驚くだろうし、それも地震などの自然災害のように起こるべくして起こるような出来事であれば、特に意表を突かれたとも思わないが、自らの油断を自覚させるようなことが起こると、意表を突かれたと思わされるわけで、何の備えもなしに思わぬ事態に遭遇して痛い目に遭うとそう思われるわけだから、意表を突かれることは教訓をもたらして、備えあれば憂いなしといった状態を目指して、何が起こっても意表を突かれないようにしなければならないと思わされると、意表を突かれることが何か悪いことであるような気がしてくるだろうが、それとは逆に意表を突かれたことに素直に驚くだけで、そうならないように特に防御を固めて隙のない状態を目指すわけでもなく、かえって隙だらけのままでいた方が気楽になれるなら、そちらの方が魅力があるように感じられるが、どちらにもそうなろうとしてなれるわけでもなければ、努力する必要もなくなってしまうのだが、何かを目指すという意識にとらわれてしまうと、それを目指して努力しなければならないと思われてしまうだろうし、そういう方面で努力するとか努力を怠るとかいう価値観の中でそれに応じたことをやっていると、たぶんある日ある時突然不意を突かれたり意表を突かれて、それまでの努力を台無しにするような事態に直面して、茫然自失となってしまうわけで、そんなふうに努力が水泡に帰するような出来事を経験すると、それとは全く違った感動を味わうことにもなり、努力の甲斐あって何らかの目標に到達するようなやり方が馬鹿馬鹿しくも思われて、そんなせこい努力とは無縁の生き方がしたくなってしまうかも知れないが、それもそれだけでどうなるわけでもなく、そんなことを思っても直面している現実がそれを許さなければ、わけのわからない妄想は捨てて、せこくコツコツ努力を積み重ねる生き方を強いられてしまうだろうし、そういう成り行きにとらわれている人など世の中にはいくらでもいるかも知れないし、それが別に悪いことだとは言えないような状況もあるのだろうが、やり方や生き方を選べないのは、誰もが何らかの成り行きにとらわれている中では、普通にそうなっていることでしかなく、それが様々な経緯や事情や条件などから構成されるしがらみとなっていて、いくら努力してもどうにも乗り越えられない壁を形成しているわけだが、それとは違って意表を突かれるような事態に遭遇すると、そうしたしがらみを無視して思いがけないことが起こったように感じられて、いくら努力しても乗り越えられない壁を簡単に越えて、そんな事態がもたらされたようにも思われて、一瞬しがらみが幻想にすぎないのではないかと思ってしまうかも知れないが、そんな出来事とそれに関連した事態が過ぎ去ってみれば、元通りに壁が修復されているわけではないものの、相変わらずしがらみにとらわれた状態のままになっていれば、それが幻想にすぎなかったことを改めて実感するしかないかも知れないが、だからといって意表を突かれる事態が何ももたらさなかったと判断するのは早合点かも知れず、しがらみにとらわれて努力する以外には何もできない状態を一瞬でも揺るがせることができたと考えるなら、それによって自身が焦らされて慌てさせた体験が、その後の状況の中で自身に思わぬ行動や言動を引き起こす可能性もあるのかも知れず、それがそれと自覚しないで発動する行動や言動になれば、そんなことをやったり言ったりしてもすぐには何の効果も効用も自覚できないかも知れないが、それをきっかけにして気づかないところでわずかな狂いやずれが生じてくれば、時が経つにつれて次第にその狂いやずれが大きく目立つようになってくると、ある日突然何らかの破綻や瓦解が生じて、それまでの努力が水の泡となるような事態に至るかも知れないし、それも意表を突かれたように感じられる事態となるだろうが、そういうことを経験しないと人としての厚みが生じてこないと結果的に実感できても、それも勘違いのなせる業かも知れず、結果的にそう思われることが重要なのではなく、そういった経験の中でどう振る舞うかが重要というわけでもなく、たぶん何を重要な経験と見なすかが問題なのではなく、ただ意表を突かれるような事態に至って感動してしまった事実を覚えていた方が気分が良いだろうし、それを否定的に捉えて教訓を導き出すようなことに至ってしまうと、つまらない努力をひたすら続けるようなことになって、そのつまらない努力というのが防御的に意表を突かれるような事態に至らないように備え続ける努力であり、備えあれば憂いなしの実現を目指す努力となるわけで、そういう努力をし出すときりがないことは誰にでもわかることだが、努力しすぎると努力の範囲内でしか物事を捉えられず、努力の対象から外れる物事には無関心となるわけでもないのだろうが、少なくとも努力の対象となる物事へと関心を向けることになるだろうし、それが自身の関心の視野を狭める結果になってしまうとしても、努力を怠らなければ視野狭窄を肯定的に捉えるしかなく、比喩的には近眼となってしまうわけで、めがねをかけていることが努力の証しでもあるのだろうが、ではそんな努力などしない方がいいのかというと、そうではなく努力せざるを得ない成り行きにとらわれていれば努力するしかなく、実際に多くの人がそういう成り行きにとらわれてしまうような社会状況であり、そんな状況の中で多くの人々が努力を続けて近眼になってしまうのかも知れないが、そんな状況を変えなければならないというわけでもなく、ただそんな努力が無駄になるような事態が世界各地で起こっている現状があるわけだ。
5月27日「憎むべき善人」
善人を憎んでいる人が憎む対象となる善人とそうでない人をどうやって見分けているのかというと、そもそもの善人の定義がその人の意識の中でこれといって定まっているわけではないかも知れないが、その人にとって気に入らないことをやったり気に入らない意見を言う人を、善人ぶりやがって、余計なことをしやがって、と内心思うようなら、そう思う対象となる人が善人となるだろうが、具体的に善人と見なされる人が何をやって、どういう意見を言うのかというと、その場の状況によって異なるだろうが、困っている人を何の見返りも求めずに無償で助けてしまったり、理不尽な集団の掟に逆らうような意見を言う人が、憎むべき善人となるのだろうが、では善人でない人が何をやっているかとなると、困っている人に見返りを求めて有償で助けたり、理不尽な集団の掟を守って、それに逆らってしまう人を集団から排除したり、村八分にするような人々が善人ではない人になるのだろうが、そもそも困っている人を助けなかったり、町内会などの理不尽な集団の掟に逆らうような意見を無視するのが、ごく一般的な人々の態度かも知れないし、さらに悪人となると、困っている人を騙して金を巻き上げたり、理不尽な集団の掟を利用して金儲けを企んだりと、工夫を凝らせば善人も善人ではない人も一般人も悪人も出し抜けるかも知れないが、善人と見なされてしまう人が意識して善行をおこなっているわけではなく、損得勘定抜きにその場の成り行きに従ってしまい、後から割に合わないことをやってしまったと自らの行為や言動を悔やんでいる可能性もあり、その人の自発的な意志でやっているわけではなければ、善人ぶりやがってとか余計なことをしやがってと思ってしまう人の方が、思い違いをしている可能性さえあるかも知れず、そういうことまで考慮に入れると、善人と見なされる人が本当に善人であるかどうかはわからず、その場の状況がその人にそんなことをやるように仕向けているのだとすれば、善人ぶった行為や言動に反感を抱いてしまうのも、その場の状況によってそう思うように仕向けられている可能性もあるだろうし、その場の状況が善人ぶった行為や言動に及んでしまう人とそれに反感を抱く人を必要としていて、そんな二種類の人が存在することによってその場の状況が成り立っていると見なせるだろうが、そうなった結果から見ればそんなことが言えるとしても、なぜそういう場が構成されてしまうのかと思っても、理由や原因などありはせず、何だかわからないがそうなってしまうような成り行きがあり、そんな成り行きにとらわれてしまうと、そんな役柄を担わされてそんなことをやってしまったり、それに対して反感を抱くように思わされてしまうことも含めて、そんな成り行きがあるとすれば、そんな成り行きに巻き込まれるのがいやなら、意識してそこから目を背けてかかわらないようにする必要があり、だから大抵の人は見て見ぬふりをしてしまうわけだが、かかわりたくなくてもかかわるように仕向けられてしまう場合もあり、見て見ぬふりができないようにされてしまえば、否応なくかかわってしまうだろうし、そうやって取り立てて自分のことを善人だと思っているわけでもないのに、否応なく善行をおこなうように仕向けられて、他人から要らぬお節介をしたと反感を抱かれてしまう場合もあるだろうし、逆に善行をおこなってしまった人に反感を抱いてしまう可能性もあるわけだが、どういう経緯でそうなってしまうとしても、結果的にそうなってしまったことを、そうなってしまった後からどうすることもできなければ、結果を受け入れるしかなくなってしまい、それを無理に肯定も否定もできないような居心地の悪さを覚えるかも知れないが、自らの意志を無視するような事態の進行に戸惑うしかないような成り行きの中で、どう振る舞うのが正しいとか間違っているとか言えない場合があり、結果的にどう振る舞ってしまってもそうなるしかないような実感を伴ってくれば、そういう成り行きに従うしかなく、従いたくなくても従わされてしまうような成り行きになっていれば、従う以外に選択肢がない状況に追い込まれていて、そうなっている最中ではそれを意識することもできないのかも知れないが、意識できなくても否応なくそうなってしまえば、そうなってしまった結果を受け入れるしかなく、そうなってしまった後から合理的に考えてどうすればよかったのかがわかってくるとしても後の祭りであり、そうなってしまっている最中には合理的に考えるような成り行きに至る前に行動や言動を促されてしまうのであり、たとえそれによって過ちや誤りが伴ってしまうとしても、その時点ではその場の成り行きに従わせられてそうなってしまうのだから、後からどう思ってみても、それがその場では通用しないことを認めざるを得ないだろうし、それであるなら何かをやってしまった後からたとえうまくいくやり方を思いついたとしても、もはやそのやり方を試す機会がそこにはないことを理解しておく必要があるだろうし、そういう意味では取り返しのつかないことをやってしまってからそれを回避する方法を思いつけるわけで、だから後悔先に立たずということになって、悔やんでも悔やみきれない思いを抱くのだろうが、そうなるのを避けられないとしても、避ける必要もないからそうなってしまうのであり、それが誰にとって必要がないのかと言えば、取り返しのつかないことをやってしまう人にとって必要がなく、そうなる運命だったとあきらめるしかないだろうが、もちろんやってしまったことを後悔するわけだからあきらめきれないだろうし、あきらめられないのにあきらめるしかないところが不条理なところだろうが、誤って善を憎んで悪を憎まずな成り行きになってしまうとしても、実際に憎めない悪人もいるわけで、直接の被害を被らなければ善人よりは悪人の方が面白い存在だろうし、自らも悪事を隠していれば、余計に悪人への親近感が増してくるだろうし、それとは対照的に善人面して悪事を暴き立てようとしたり批判するような人には不快感を抱くのが当然かも知れないが、そういう逆説的な思いが自然に生じてくるとすれば、普通に考えて世の中では善行をおこなう人よりも悪事を働く人の方が圧倒的に多く、多数派が少数派を抑圧したり弾圧するのが自然な成り行きになるだろうが、そういう成り行きには歯止めがかからず、ともすればそれ一辺倒になりがちになるのかも知れないが、そうなってしまうと社会そのものが成り立たなくなってしまうから、社会を成り立たせるために善行をおこなう犠牲者が求められていて、誰がどんな団体があからさまにそれを求めているわけではなくても、そういう雰囲気を敏感に感じ取ってしまう人がどこからともなく必ず出てくるのかも知れず、それが自身では自覚がないかも知れないが、その場の成り行きに合わせて行動してしまう習慣が身についていると、その気もないのに善行をおこなってしまい、悪人に親近感を抱いている多数派の人々から集中的に叩かれるわけで、それが社会を維持するためには欠かせない犠牲者となるわけだが、実際にそうなってしまった人には世の中がおかしいのではないかと思われるだろうし、犠牲者の味方を装う人々にも社会が荒廃してしまったと思われるかも知れないが、それが人間社会の真の姿だと言い放ってみても、直接そうなっているわけではないような気がしてくるわけで、微妙にねじれが利いていて、そうは思わせないような構造になっているのかも知れない。
5月26日「予想の困難」
何らかの動作が規則的に繰り返されるところでは、その規則を把握していれば動作の予測がしやすいだろうが、なぜ一定の動作が規則的に繰り返されるのかといえば、それが機械の運動であれば容易にその仕組みや構造を理解できるだろうが、一定の周期で何かが巡ってくれば、それが回転運動に由来する可能性があり、機械でなくても地球の自転や公転や地球の周囲を回っている月の公転運動から季節や昼夜や潮の満ち引きなどが周期的に巡ってくるわけだが、そういう一定の周期で巡ってくる現象に惑わされることはあまりないものの、何かが周期的に巡ってくると予想してしまう習慣が自然に身についてしまっていることに気づかないと、様々な要素や要因が複雑に作用し合って動作する不規則な現象にも単純に周期的な動作を当てはめてしまい、結果的に予想が外れて困惑してしまうのかも知れないが、他にも自然に身についてしまっている習慣に気づかないことは結構あるかも知れず、何か思いがけない事態に直面したり出来事に遭遇して驚くのは、自然に身についてしまっている習慣の中で何かが周期的に巡ってくると予想してしまう先入観を外れるようなことが起こるから驚き戸惑うのかも知れないが、何かを予想するという習慣自体に周期的な規則性を念頭に置いて予想してしまうような傾向があり、そこに一定のサイクルがあることを想像してしまって、そうならないと予想そのものが成り立たないだろうし、予想すること自体が、予想の対象となる何らかの現象の中で動作している物事の規則性を推測することになり、だから不規則に動く物事の動きを予測することはできないわけだが、予想するだけで済んでしまうわけでもなく、直接かかわるような物事であれば、そこで自身がかかわっている物事に働きかけるだろうし、その物事に自身の都合を反映させたいから働きかけるわけだが、自分だけでなく他の人や団体などが働きかけていれば、自分だけの都合が反映されるとは限らず、逆に自身が他人の都合に合わせようとする場合もあり、そうしないと対象となる物事にかかわれない場合も多く、その物事を管理している団体などがあれば、その団体が課してくる規則に従わないとかかわることができなければ、その場では自身に主導権がないことになるだろうし、そうやってその場を管理している何らかの団体が権力を行使して強制的にその団体にとって都合の良い規則を課しているところでは、規則が守られている範囲内では物事の動きを予想しやすいだろうし、そうなっている環境に慣れてくると、やはりその場を支配する規則通りに物事が動くことを予想する習慣が自然に身についてしまい、それを規則が適用できなかったり規則を逸脱するような現象にまで当てはめようとするから、そこで予想外や想定外の事態に直面したり出来事に遭遇して驚き困惑するわけで、後からそう考えればそうなって当然のことでしかないわけだが、その場ではあり得ない事態や出来事が起こっているように感じられるわけで、そんな事態や出来事を前にして茫然自失となってしまっても、そうなってしまう原因が勝手な先入観を抱いて予想通りのことが起こるような思い込みにとらわれている自身にあることには気づきにくいだろうし、場合によっては何か自分の感知しないところで陰謀が巡らされて自分を陥れるための罠にかかってしまったのではないかと被害妄想にとらわれたりするかも知れないが、それもそういった物事が一段落してからよくよく考えてみれば、自身が罠の標的となるような中心人物ではなく、大抵は通りすがりの通行人のような部外者でしかないのに、勝手な予想や予測を立てて、そこで起こっている事態や出来事の一部始終を物語ろうとしているだけであれば、その種の評論家や解説者的な言動にとらわれているにすぎないことになってしまうわけだが、そうなることも予想しやすい成り行きかも知れず、そういうなることも含めてその場を支配する制度的な成り行きに意識がとらわれていて、そういう物事の渦中で中心人物の立場を占めている人が自らの予想を物語るようなことはしないのとは対照的に、そこから外れてそこでおこなわれている物事には直接かかわれずに傍観するしかないような部外者的な立場になってしまうと、たとえその物事に関心を持っていても直接介入できないから、その代わりにそこで行われている成り行きを物語ることによって間接的にかかわっているように装いたいわけで、そうなると物語ることの延長上で当然のことのようにその成り行きがどうなっていくのかを予想するに至ってしまうわけだが、予想すること自体がその場の成り行きに沿って予想することになるわけだから、そこから物事が連続するように物語らないと話の筋として不自然に思われてしまうだろうし、そうなるとそうなることが自然な流れのように感じられる予想をしなければならなくなり、自然と予想内容が物語の筋にはまり込むような成り行きに至ってしまうわけで、そうなるとそうなって当然に思われるような予想となってしまい、何かそれまでの経緯やそこで優先されている事情を無視するような突拍子もないことが起こると予想することはあり得ないだろうし、実際にそんなそうなって当然のような予想を裏切るような突拍子もない出来事が起これば、事前に唱えられていたもっともらしく説得力のある予想を信じていた誰もが驚くわけで、それも後から考えればそうなって当然のようなことが起こったわけだが、そういう意味では予想外のことが起こりやすいのは当然であり、事前に予想通りのことが起こると信じ込まされていた人が多いほど、予想外のことが起こる可能性が高まると思っておけばいいのかも知れないが、そういうことまで考慮に入れるなら、人為的に予想を裏切るような結果が仕組まれていて、それがもっともらしく思われる予想を多くの人に信じ込ませようとする試みであり、予想している当人は自らの予想が当たってほしいから、なるべくこれまでの経緯やその場の条件や事情を考慮に入れて当たる確率を上げようとするのだろうし、そうすればするほどもっともらしく思われて、多くの人が安心して信じられる予想となってくるのだろうが、逆にそうなればなるほど、そういったもっともらしく思われる経緯や条件や事情から外れる要素や要因が無視される傾向となり、それらがその場のちょっとした偶然の巡り合わせによって思いがけずに作用すると、何か事前の予想や期待を裏切るような突発的な事態を生じさせたり出来事を起こして、誰もが納得できるもっともらしい成り行きを狂わせてしまうわけで、そうなればなったで、事後的にそうした事態や出来事も起こる可能性があったと後付け的に解説されるだろうが、そうなってしまうこともある意味では当然の成り行きだろうし、そういうことまで含めて物事の一部始終が後から物語られるわけだが、そうであれば事前の予想としては誰もが納得して信じられるようなもっともらしい予想が語られた上で、実際にそんな予想を裏切るようなあっと驚く結果に至ってから、それもそうなることもあり得たことを、これまた誰もが納得して信じられるようにもっともらしく解説してみせるのが、その種の予想屋や解説者に求められている内容となるわけで、それが制度的に確立しているのがメディア的な言説空間なのではないか。
5月25日「目的意識」
人を何らかの行動に駆り立てているのは目的意識だと思いたいが、意識の中では目的を遂行するために行動していると思っていても、その途中の段階で達成できるかどうかわからなければ、目的よりも優先させなければならないことが生じてきて、それが身の安全であれば、危険にさらされないように身をかばう行動となるわけだが、その際の目的が身をかばうことであれば、様々な目的が同時並行して作動している中には目的意識の対象とはならない目的もあることになり、それを目的とは意識していなくても、とっさの判断で身をかわして危険を回避すれば、身を守る目的としてそんな動作が発動したと考えればいいことかも知れないが、危険を回避したことで目的意識の対象となっていた目的を達成できずに断念してしまう場合もあるだろうし、例えば登山の最中に悪天候に阻まれて登頂を断念すれば、登頂という目的を達成できなかったことになるわけだが、その一方で遭難を回避するという別の目的は達成したことになり、確かにもっとも優先させていた目的の達成は断念したが、結果的にそれとは別の目的を達成したことになり、当初はそれを目的とは意識していなかったし、その際に目的を達成したとは思わないだろうが、第一に優先させたい目的とその場の状況に応じて生じてくる目的との間で、そのどちらを優先させるかを判断する際には、当初に抱いていた目的を断念して、その場の状況に応じて生じてきた目的を優先させる場合があり、そうなると目的よりもその場の状況を優先させたことになるだろうが、目的自体がその場の状況から生じてくると考えれば、人を何らかの行動に駆り立てているのはその場の状況であり、その場の状況に応じて行動している過程で目的も生じてきて、状況が変われば目的も変わってくると考えれば、目的と行動の辻褄も合ってくるように思われるが、ではなぜ状況とは関係なく一つの目的を定めて、その達成にこだわっているような気がしてしまうのかといえば、周囲の状況から独立して自身が存在していると意識しているからかも知れず、それが主体性の表れとなっているのだろうが、自分の意志で判断して行動しているような感覚にとらわれることによって、自我が生じてきて、そんな自己意識とその場の状況が作用して目的が生まれるとしても、自我を一定に保つには目的がぶれないようにしなければならず、短期的にその場の状況に合わせて、状況に対応しようとする際に細かな目的が生じてくるかも知れないが、それとは別に長期的な目標として達成したい目的があり、それが自らの願望の実現となるのだろうが、状況にも短期的な変動と長期的な変動が介入してきて、その際には短期的な変動に合わせた目的と長期的な変動に合わせた目的も生じてきて、もちろん短期と長期の間には中間的な期間もあり、それらが連続的にも断続的にも作用し合っているのかも知れないし、それをどう捉えようとしても捉えきれないだろうが、目的を達成できれば達成する前とは自身の状態が変化するわけだから、それ自体が状態の変動でもあるわけで、何か長期的な目標があれば長期的に自らの状態を変化させたいわけだが、例えば将来に備えて毎月一定の資金を積み立てていれば、資産のない状態からだんだん資産のある状態へと持って行きたいから、そういう行動に自らを駆り立てているのだろうが、途中で状況が変わって、失業などによって資金に余裕がなくってしまえば、積み立てていた資金を切り崩してそれを生活資金に充てる必要が生じてきて、長期的な目標の達成よりは目下の苦境を乗り切るための対応を優先させなければならなくなり、場合によっては長期的な目標の達成という目的自体を断念することにも追い込まれるだろうが、たとえそうなったからといって自分の意志で判断して行動しているとは思えるし、苦境を乗り越えて再び本来の目的を達成できる状態へと持って行こうとして、積極的に行動しているつもりにもなれるわけだが、可能性としてはいくらでもそう思えるところが、自我の目的意識への依存を深める要因となるのだろうが、そんな意識が空回りしていることにはなかなか気づきにくいわけで、ともすれば現状の苦境から目を背けてあり得ない未来の姿を夢想している場合もあり、合理的に考えればそんなことにはなり得ないようなことを目標として掲げていれば、間違った未来を目指して間違った目標を掲げていることになるのだろうが、そういう目標を掲げることが目的であったりする場合もあるかも知れず、それが目くらましとしての目的であって、バカなことをやっているように見せかけておいて、その裏で真の目的を遂行中であるような妄想を抱けるとしても、それも妄想の類いとしては想像できるが、実際にはじり貧に陥っている状況から目を背けようとして、わけのわからない妄想を抱いている可能性もあり、そんなわけのわからない妄想に浸っている暇があったらさっさと行動しろと思うかも知れないが、行動しようにも何をどうやったらいいのかわからない場合もあり、それも嘘かも知れないが、想像上の真の目的というのが案外意識できないわけで、実際に何をやったらいいのかわからなくても、行動しているうちにその行動の目的が明らかになってくる場合もあり、行動に合わせて後付け的に目的が付け加わるのだろうが、果たしてそれが真の目的なのかというと、目的自体が何かのついでにとってつけたようなものなのかも知れず、事前に熟慮や熟考を重ねた上で目的を定めるという成り行きに持って行きたいのかも知れないが、目的はあくまでもその場の間に合わせ程度に仮設しておいた方が、後々面倒なことにならない場合の方が多いだろうし、変に目的にこだわりすぎてやっていることをこじれさせないためにも、とりあえずの目的で我慢しておいた方が身のためだと思っても、それでは物足りないから何か立派で崇高な目的の設定に憧れてしまうのだろうが、その種の使命感というのは自分ためというわけではない場合も多く、逆に自分を犠牲にして他の何かに尽くすように仕向けられる過程で生じてくるわけで、それを真に受けて崇高で偉大な目的のために殉ずるように思わされてしまうと、悲劇の主人公のような気分になれるかも知れないが、実際には主人公でも何でもなく、洗脳によってそういう目的を意識に刷り込んでくる側にとっては、使い捨ての消耗品程度の扱いとなっていて、消耗品扱いとなって死ぬような成り行きになりたくなければ、その種の消耗品を募ってくる団体などの勧誘に乗らないように注意する必要があるかも知れないが、中には死ぬほどでもないような消耗品扱いもあるだろうし、取り立ててそれほど危険でもないのに、消耗品に違いないような人材が大量に確保されている場合もあり、それが派遣業界などで使われるパートタイムの人材であるかも知れないが、そういう場合は目的が偉大でも崇高でもないだろうし、単なる間に合わせの人員という位置づけで、そういう人材を時給で短期的に使うことにもなり、使われる側も偉大で崇高な使命感など抱く必要もなく、アルバイト程度の軽いノリでその種の団体に雇われるのだろうが、それがその人の本業となってしまうと、何か人として軽く見られているようにも感じられるし、こんなことをやるために生きているわけではないと意識を高く持ちたい気分となってくるかも知れないが、では何のために生きているのかと自問すれば、やはりそこから目的意識にとらわれるような成り行きになってしまうのではないか。
5月24日「社会への依存」
不意に脳裏をよぎる過去の苦い記憶が心的外傷をもたらして、時々それがフラッシュバックしてきて一時的にパニックを引き起こすとしても、大抵の人はすぐに平静を取り戻して、すでに心的外傷となり得る数限りない過ちや誤りを繰り返しながら今に至っているのだから、それを今さらいちいち反省したり懺悔しても仕方がないことも思い出して、それ以上は自己嫌悪が進行しないように歯止めをかけようとするだろうし、体調不良などから歯止めがかからずに鬱へと進行してしまう場合もあるものの、それ以前に周りの状況が見えていないから自分にかかりきりになれて、自分を何とかしなければという思いばかりが募ってくるのは、自家中毒の表れだと思っておくしかなく、そこまで思い至れば少しは心に余裕が出てきて、それに乗じて自分以外にも関心が向くようになれば、自分から離れて外界を見渡して、自分に関連する事情とは比べものにならないほどのひどい惨状を知ったところで、それに比べれば自分の事情など大したことはないとは思うものの、それでも大きな不幸よりは中途半端で小さな不幸にリアリティーが感じられるとしたら、そこだけに注目すればそんな印象を伴うかも知れないが、自分を優先させている限りでそう思われるのであり、果たしてそうまでして自分本位に自分を優先させているのかというと、怪しいところかも知れず、自分よりは他の何かに譲っている面もあるかも知れず、何を譲っているかというと利益を譲っていると考えると腹が立ってくるだろうが、都合良くそれに気づかないように配慮していることにも自分が気づかないような仕組みが心の中で作動していて、それで何とか自己と外界とのバランスを保っていると考えると、何かわけがわからないような気持ちになってくるかも知れないが、実際にも自分の都合ばかり考えているわけでもなく、時として譲り合いの精神が発動して自己犠牲を意識しているわけでもないのに他人を助けてしまって、それと引き替えにして自分が貧乏くじを引いているようにも思われて、そんな自分にも腹が立ってくるかも知れないが、腹立ち紛れにもっと利己的になれと自分を叱りつけても、そんな意識に自分がついてこないで、気がつけば無私の境地に陥っているわけでもないだろうが、自己の制御もままならないのに、他人に指図する気にもなれなければ、何もやりようがないとも思うかも知れないが、それでも何とか生きている実態があれば、そこで何かをやっていて、その何かというのが大したことでもなければ、それを取り立てて誇示する気にもなれないし、誇示する必要もないことをやっていることを誇りに思っているわけでもなく、何かを誇りたいと思うことが場違いな印象を伴い、そういう気にさせるような機会がまれにしか起こらない世の中になっているのかも知れず、特定の誰かにしかそういう機会が与えられず、そうなって当然の誰かが他の大勢の人たちに向かって自らに割り振られた業績を誇ってみせるのだろうが、他の大勢の人たちがそれに関心を示すとは限らず、無視されれば業績とはならないだろうが、では他の大勢の人たちから無視されないように業績を誇るには、他の人たちが羨むようなことをやってのける必要があるかというと、誰もがそういう必要に恵まれるとも限らず、その必要がないのに必要だと思うほど状況が切迫していなければ、やはりそこでも自らに余裕があるからその必要がないのかも知れないし、実際にも必要が感じられるようなことをやっていなければ必要だとは思われないのだろうが、必要もないのに必要以上に誇示しようとしているように思われると、それが他から見れば取るに足らないことであれば、取るに足らないことだからこそ必要以上に誇示しなければならないと受け取られて、それが無い物ねだりというわけでもなく、実際にそういうことは必要以上に誇示されるものなのかも知れず、そこでことがものに変わって、必要がないことが必要とされるものになるのだろうが、その必要とされるものが具体的に何なのかというと、名誉や栄光といった実体の定かでないものとなるのだろうが、それも汚名を着せられるよりは幾分マシに思われるとしても、そういったものを手に入れるにはそれ相応の対価を払わされるだろうし、その対価というのが他者の切り捨てであったりすれば、人でなしなことをやらなければならないわけだが、どんな人が切り捨てられるかというと、例えば何かの加減で人情味の厚い知人が真っ先に切り捨てられるようなことにでもなれば、それが裏切りと受け取られてその人からもその人を慕う周囲の人々からも恨みを買うことになるかも知れないし、恨みを買った分だけリスクを伴うわけだが、その分だけ多くのリターンも得られるかも知れないし、そうやってハイリスク・ハイリターンな成り行きに持って行ければ、そこで何かの賭けが成立して、そんな賭けに勝って実体の定かでない名誉や栄光が手に入る可能性もそれなりに出てくるかも知れないが、そんな名誉や栄光の周りには悪者どもが集うことにもなり、人でなしの連中がそれらを独占することになれば、それなりに名誉や栄光にも厚みや重みも増してくるだろうし、事情をよく知らない人は羨むかも知れないが、例えば何十もの勲章を軍服の胸にぶら下げた軍の司令官が直接手を下さなくても、どれほどの人数を殺めてきたかを想像してみれば、戦場や処刑場に積み上げられた死体の厚みやそこで失われた命の重みが、安物の缶バッジや子供のおもちゃのような勲章に変わっていることに驚くわけでもなく、そういう連想を働かせること自体が恣意的なこじつけのように思われて、そうではない場合もいくらでもあることを思いだして平静を装うかも知れないが、実際にそうあってもなくてもその手のものを得るには、何らかの賭けに勝つ必要があるのかも知れず、それを賭けとはいわずに競技の類いに見立てることもできるだろうし、なるべく汚い手段を使わないようにルールを厳格に適用できれば、誰もが納得して賞賛できる名誉や栄光が勝者にも負けはしたが健闘した敗者にも与えられるだろうが、そんなことにも関係のない人が世の中には大勢いて、そんな人たちがそれとは関係のない方面でやっていることが世の中の大半を占めているとしても、他の人たちが自身と同じようなことをやっていることに関心がない場合もあるわけで、その代わりに自分ができないことを他の誰かがやっていることを羨んだり妬んだりしていれば、それに関心があることになるのだろうが、自分ができることや実際にやっていることには関心がないというのは嘘になってしまうかも知れないが、何か不快感を伴うような作業を強いられていると、作業を中断させて休憩や食事などをとる際に決まって同僚などとの会話の中で話題となるのが、自分たちの作業とは関係のない方面の話題となることも多いだろうし、それがスポーツや趣味などの差し障りのない方面での話題へと持って行きたい思惑が働いて、実際にそうなっている限りではそれで構わないのだろうが、そこでもそういう話題を強いるような成り行きが生じている限りで、何とかひどい方面へと話が傾斜する坂の途中で踏みとどまっているといえるわけだが、意識してそれを避けているわけでもなくても、それが避けられない成り行きになってくると、何か不穏な雰囲気を感じてもそこで誰も何かがおかしいと声を上げる勇気などなく、気づいていても気づかないふりをしたいのだろうが、実際には誰もが気づいているからあえて声を上げようとはしないのかも知れないが、それが具体的に何なのかというと、自分には直接関わり合いのないことにしておきたいが、程度の強弱はあるものの、実際にはかかわっている何かになるのではないか。
5月23日「見えざる手」
挑発的な文句で人を煽動する行為が空振りに終わってしまえば、そういうことをやっている最中には知るよしもないことだとしても、結局は悪あがきとなるようなことを必死にやっている様を見ているような気になり、一見無駄なことをやっているように見えて、実はそうでもない場合もあるのではないかと一縷の望みを捨てきれずに、どんな思いでこんなことをやっているのかをわかってほしいと訴えかけているようにも見える分には、少しは同情して煽動者を応援したくなってしまうのだろうが、そこまでは想像力を膨らませて架空の誰かが思っていることであり、実際にはそれとは関係のない非情な現実に直面していて、救いも何もないことはわかっているはずだが、何もないから捨てきれない思いもあるだろうし、いつかは必ず誰もが救われることを信じて疑わず、うまく行く可能性を探りながら、悪あがきを続けてしまうとしても、それが悪あがきではないことをどうやって証明してみせるかが、思案のしどころであるはずもなく、始めから悪あがきだと決めつけてしまうところが、半ばあきらめ気味でもあるのだろうが、それでも賭けに勝つとすれば、何を賭けているのかもわからないようなところから思いがけない勝利が転がり込んでくることを予想できるはずもなく、予想とは別の方面から予期せぬ出来事が起こって、自らが何に対して勝利を目指していたわけでもなかったことを知って驚くわけでもなく、それが勝利とは無縁な活動であることを百も承知でおこなっていて、目的がそれとは別のところにあるわけでもなく、目的自体が無効となっているわけでもないのだろうが、目的自体がどうでもよくなるような重大で深刻な事態に直面しているわけでもなく、普段と何も変わらない日常の中で愚にもつかないことを考えていて、それがくだらないことだとしても、実際に重大で深刻な事態に直面しているわけでもないから、くだらないことしか思いつけないわけだが、現状でわかっているのはそういうことであり、何とかそこから目を背けたくて、必要以上に深刻ぶっているわけでもなくても、世の中には深刻な事態に直面している人がいくらでもいて、そんな人たちに同情することはできても助けることはできないだろうし、そんな人たちの不幸につけ込んで戦略的に何かをやろうとする魂胆が丸見えな対応をどこかの国の政府がやろうとしているのであれば、そんな行為を批判せざるを得なくなるとしても、それも批判することはできてもやめさせることはできないだろうし、批判に逆らっておこなわれることが、人々の意識に無力感を植え付けるわけだから、それも戦略的には効果があるわけで、わざとそういうことをやって、自分たちに力があることを見せつけたいのだろうが、それも誰かがそう思っているわけではなく、結果的にそう受け取られるようなことがおこなわれるわけで、そんな行為によって多くの人々が深刻な事態に直面してしまうわけだが、そこでもそんな成り行きに乗じて何かをやる機会をもたらされて、そんな機会を捉えて賭けに出る人や団体がいるとしても、その中から成功したり失敗したりする結果がもたらされるわけだが、何かそういうところでうまく立ち回ろうとしても、当てが外れてひどい目に遭うことも多く、実際にひどい目に遭って深刻な事態に陥っているのに懲りないわけで、中には懲りないどころかそういうことをやるのが生きがいとなってしまう人もいるのかも知れず、それが紛争地域で活動する目的となっている可能性もあり、そんな人の命が危険にさらされても自業自得な面もあるだろうが、それもメディアを通じて伝えられていることの一部であり、それが伝えられていることの全てではないとしても、そういう面に興味を惹かれるなら、そこからそれ相応の影響を及ぼされて、そういった方面に特有の意識が形成されるのだろうが、それも日常の生活から遠く隔たっていれば、深刻な事態ではなく、そんな地域で誰が何をやろうが他人事でしかなく、そういう面ではまだ安泰でいられるのかも知れないが、そんな思いでいると自身が何もできなくなっていることに気づけないわけで、それも他にやっていることがあるから何もできないことになり、そういう方面では何もできず、それとは別の方面では何かをやっているのだから、それで構わないわけで、それでも構わない状況の中で日常の生活を送っているわけだから、不幸でも何でもないし、取り立てて深刻な事態に直面しているわけでもないわけだが、それを深刻な事態とも不幸とも思わせないように誰かが何かを画策しているわけではなくても、そう思わされているように感じられるとしたら、何かそういう方面から影響を及ぼされているからそう思われるわけで、そういう方面とはどのような方面なのかといえば、深刻な事態や不幸な状況を伝える方面だろうが、人々のそういう思いが政治の方面での意思表示へと結びつけば、煽動者の活動も浮かばれるわけだろうが、これから何らかの結果を伴って結びつくかも知れないし、実際に結びつけるために必死に煽動しているのだろうが、そうならないように誰かが邪魔しているとも考えられず、むしろ結びつきが促進するような成り行きになっているのかも知れず、そういう方面ではそうなる可能性が高まっていると見ておけばいいのかも知れないが、可能性が高まっていても、それがいつまで経っても可能性のままにとどまる可能性もあるだろうし、そういう方面では期待が失望に変わる可能性も高いだろうし、別に失望したいから期待しているわけではないとしても、期待には常に無い物ねだりも含まれていて、期待がそのまま実現することはないわけだが、実際にお粗末な煽動によって踊らされてしまう人も少なくないし、むしろちょっとやそっとのことでは動じない人の存在が、社会を底辺から支えているといえるのかも知れず、そういう人からの支持を期待できなければ、何事も皮相上滑りに終わるしかなく、表面的な流行現象にしかならないわけだが、ではどうすればいいのかといっても、今まで通りのことをやる以外に選択肢が残されてはいないのかも知れないが、そういうことも含めて現状が現状として構成されていると思っておけばよく、人々の意識が表面的な流行現象にとらわれていることを批判する必要もなく、そんな流行現象に導かれて特定の分野の中で成立する特定の物事にこだわるのが普通の精神状態であり、そんなこだわりをくだらないことだと否定しなくても卑下しなくてもそれで済んでしまう状況の中で、それ以上の何にこだわる必要もない状況の中で誰もが生活していて、そういう部分的な偏向がこだわりそのものなのだから、そういった小さなこだわりではなく、もっと大きな範囲でそうした小さなこだわりと共存可能なこだわりをもたらしたいのだろうが、特定の誰がそれをもたらしたいわけではなく、また挑発的な煽動文句で人々の政治意識を煽り立てる煽動者がそんなことを思っているわけでもなく、結果的にそういうこだわりが社会に定着するような成り行きへと持って行ければいいのかも知れないが、それも誰がどんな政治勢力がそういう成り行きへと持って行こうとしているわけでもなく、そこにそんな傾向へと持って行こうとする誰かの見えざる手を想定したいわけでもないのだろうが、実際にそうなった時にそういう意志が想像されてしまうわけで、それが人の意志を超えた自然の意志だと見なしても構わないのかも知れない。
5月22日「関わり合い」
自身が直面している事態が、その中で自身に特定の役割を担わせる成り行きにはなっていないとしたら、しかもそこでおこなわれていることを黙って見ているような傍観者にもなれなければ、全く関わり合いのないことになってしまうだろうが、それでも直面していることになるのかというと、無視に直面していることになるのかも知れないが、無視される立場があるのかというと、そんな立場があるわけでもなく、立場がないことになるのだろうが、そこでおこなわれていることに直接介入しない限りは立場などなくて当然だろうし、立場がなくても困らなければ介入する必要もなく、わざわざかかわる必要もないのだろうが、実際にそんな事態に直面しているとすれば、ではそこで何をやればいいのかというと、何もやらなくてもいいことになってしまい、何もやらずに事態の推移を見守るばかりとなれば、ただの傍観者にすぎないだろうが、傍観さえしていなければ、興味を失っていることになり、他にも興味のないことなどいくらでもある中で、特にそれについて言及する必要もないだろうが、それへの興味があるなしにかかわらず、それについて言及せざるを得なくなれば、言及している限りでその対象にかかわっていることになるだろうし、そういうかかわりが何を意味するわけでもなくても、そこには自身の都合が反映していない可能性があり、そんな直接の利害関係もないところからなぜ言及が生じてくるのかといえば、自身の気づかないところで利害関係が生じているのに、それに気づいていないだけかも知れないが、そうであってもかまわないようなかかわりの実態があるかも知れず、それも推測の域を出ないところだが、はじめから利害にこだわる必要はなく、ただ関心を抱いたからそれについて言及しているだけかも知れないし、関心を抱くこととかかわりを持つことには違いがあって、重なり合う部分もあるものの、それに関心を持ってはいるが、直接かかわろうとする以前の段階にとどまっている場合もあり、そこからかかわるには踏み越えなければならないハードルがあるだろうし、いったんかかわりを持ってしまうと、利害関係も生じてくると捉えておくのが無難なところかも知れないが、それ以前の段階ですでに、かかわることが自身にとって利益となるかどうかを見極めようとしている場合もあるだろうし、そういう打算的な思惑からかかわりを持とうとしていると、かかわろうとしている対象を利用したいだけのように思われて、それ以外に何があるかといわれても、心情的なかかわりを思い浮かべるぐらいしかないだろうが、そこから幻想が生じてくることもあるだろうし、それが勝手な思い込みにすぎないことがわかれば、打算的な思惑を優先することになってしまうのだろうが、それ一辺倒になれるかというと、そういうわけにもいかない場合の方がほとんどかも知れず、漠然とそんな気がしているにすぎないとしても、何か良いことのように思われるからかかわろうとするわけで、中には意識して悪事を働くような場合もあるとしても、たとえ不正行為や詐欺的なことをやっても、それを差し引いても余りがあるような良さがあれば、何かしらそういうことをやるに際してロマンを感じているだろうし、それがかかわっている対象を肯定的に捉えていることの証しとなるのかも知れないが、それが確信に変わる理由を求めているのかも知れず、そんな確信が何によって得られるかは、かかわっている対象にもよるだろうが、その時代や時期においてどんな物事の捉え方が優勢になっているかにもよるだろうし、それが一時的な流行にすぎなければ、廃れてしまえば幻滅を味わうわけで、それに関して今何が合い言葉のようにもてはやされているかというと、カーボンニュートラルとかいう流行語があるわけだろうが、そんな流行り言葉に踊らされている面ではそれなりの利害が生じているだろうし、何が踊らされているのかといえば人心が踊らされているのかも知れないが、そういう言葉が流行ってそれに関連する産業が隆盛を極めるようなことにでもなれば、確かにそこから巨額の利益がもたらされるかも知れないが、そういう流行の波に乗り遅れても乗れなくても構わない面もあるかも知れず、そういった流行が世の中の表層にとどまるか深層にまで達するかは、表層と深層という捉え方がそもそも何をもってそういえるかにもよるだろうが、それも具体的な結果が出てこない段階では、言葉でどう表現しても想像の域を出ないことになるだろうが、そこからどんな結果が出てくるのを期待しているのかといえば、そういう流行を推進している人や団体にとって肯定的な結果がもたらされることが期待されているのだろうが、その肯定的な結果というのが、必ずしも期待通りではない可能性もあるわけで、それが誰にとって効果的な結果になるのかといえば、流行に乗り遅れたり乗ることができなかった人や団体にとってそうなるかも知れず、なぜそうなるのかといえば、すでに事態が手遅れの段階に来ているからだろうし、大抵は手遅れになってから多くの人々が騒ぎ始めるわけで、その騒ぎ始めている段階で流行現象も極まっていて、そんな騒ぎが一段落すれば、騒ぎに乗じて動いた人や団体の間で勝負が決して、その勝敗が明らかとなり、ごく少数の勝者とその他大勢の敗者が現れることになり、結局その手の流行に乗って利益を得ようとしても、その大部分は敗者となって大した利益を得られずにそこから退場させられる羽目に陥るわけで、そうした大勢の敗者が利益どころか損害までも被るのとは対照的に、勝ち残ったごく少数の勝者が利益を独り占めにするとしても、その利益が流行に乗り遅れたり乗らなかった人や団体に還元される可能性があり、そういうところでは勝者が敗者から利益を搾取するとしても、その利益を使ってさらに投資しなければならなくなり、その投資先として狙いを定めるのが、まだ敗者になっていない人や団体になるだろうし、そうした投資によって世の中に広く利益が還元されるといっても、その直接の投資先にならない限りは利益を享受できるわけではないが、消費者に還元される利益は金銭的には残らず、物や情報として消費されて、それによって何か良い体験をしたように思われるわけで、それによって満足感を得られるわけだが、そういう体験や満足感が勝者によってもたらされた利益といえるかも知れないが、そんな利益が得られる未来がやってくることを、誰もが意識して期待しているかといえば、そんなはずもなく、ただ何となく流行語の類いがメディアを通じて世の中に広まっている状態を好意的に感じているだけかも知れないが、そんな流行に惑わされてはならないと警鐘を鳴らす人もいくらでもいて、すでに流行している時点でそんなことを言うわけだから手遅れなことは確かで、警鐘はいつも手遅れになってから鳴らされるのであり、警鐘を鳴らす人の体裁を取り繕うために鳴らされるのだろうが、実際にそうなっているから手遅れになっていることは確かなのだろうが、何が手遅れになっているからといってもただ単に流行に乗るのが手遅れになっている可能性もあり、手遅れになっている範囲というのが流行の範囲内でしかなければ、そんな流行が廃れてみれば、あるいは一段落してみれば、すでに手遅れになっている状態など解消されていて、何もかもが流行する以前にリセットされているわけでもないにしても、流行現象の勝者を利用することによって、その先の世の中で活動する機会を得られる可能性もあるわけだ。
5月21日「目指している状態」
特にそうなることを目指しているわけでもないのに、いつも決まって特定の状況や状態になってしまうとすれば、そうなりやすい傾向があるからそうなってしまうといえるかも知れないが、それは傾向というよりは体質なのかも知れないし、そんな体質の人が世の中に大勢いる体質とはどんな体質なのかといえば、例えば食生活に起因して肥満体質になれば、それが生活習慣病になりやすい体質だといえるだろうが、そうなるのがいやならそうならないように心がけるようになるだろうし、それとは逆に意識してそうなることを目指している状態とは、体脂肪率の低い状態であったりするわけだが、特に目指さなくてもそうなってしまえば、そんな状態のままでも良いような気がしてしまうだろうが、そうなってしまうと何か差し障りがあるようなら、そうなってしまう成り行きを避けなければならなくなるわけで、抵抗するとはそういう成り行きの中で起こることであり、そうなる成り行きに逆らっているわけだが、なぜ逆らってしまうのかといえば、そうなるのがいやだから逆らってしまうというよりは、そうなるのがいやでもそうなりやすいから意識してそうなる成り行きに逆らうわけだが、そこに誘惑の対象があると、誘惑に負けてそうなってしまう成り行きがあるわけで、甘いものが食べたいという誘惑に逆らえないと肥満体質になるとか、そういうのがよくありがちな傾向かも知れないし、甘いものを食べても太らないように適度な運動を心がけて、誘惑に負けてもそうならないように工夫を凝らす場合もあるだろうが、果たしてそういう人為的な配慮が必要なのかといえば、肥満によって生活習慣病に罹るのを避けて長生きしたいという欲求があれば、必要だと思われるが、それもどちらかといえば誰もが長生きしたいだろうから、それもそういう傾向になりやすいのかも知れないが、それと同時に喫煙や飲酒などの長生きを阻む誘惑との間でせめぎ合いが起こっていて、絶えず心の中で葛藤があるのかも知れないが、そういう水準で起こっていることと、国家規模で起こっていることを同列に扱うわけにはいかないだろうが、そうなりやすい傾向としては、自らにとって都合の良い範囲内で事態を捉えて、都合の良い判断を下すようなことをやってしまう傾向があるのかも知れず、例えばイスラエル政府とパレスチナのガザ地区を実効支配している武装組織のハマスとの戦闘という範囲に事態を区切って判断するなら、ハマスによるテロ攻撃に対して国民を守る義務がイスラエル政府にはあるとイスラエル政府のやっていることを正当化できるだろうが、そのきっかけとなったパレスチナ人への抑圧にまで範囲を拡げれば、同じイスラム教徒であるウイグル人を抑圧する中国政府の行為を非難しておいて、イスラエルを非難しないのはどういうわけなのかという屁理屈のような理屈を持ち出してくる人はまずいないだろうが、確か新疆ウイグル自治区でも中国政府へのテロ攻撃が頻繁に起こっていたはずで、ウイグル人の武装組織によるテロから国民を守る義務が中国政府にはあると中国政府のやっていることを正当化するようなことは誰もやらないだろうが、中国にいるウイグル人も中国国民であり、中国政府のやっていることが自国民であるウイグル人を守っていることになるのかという疑問も湧いてくるが、そうであるならイスラエル政府が自国民であるパレスチナ人を守っているのかというと、パレスチナ人はパレスチナ自治政府が守ればよく、イスラエル国内にいるパレスチナ人は外国人扱いなのかというと、それも一概には言えない場合がありそうで、また中国政府が自国内でウイグル人の人口が増えないように強制的に不妊手術をおこなっていた事実が明らかになりつつあるが、イスラエルでも自国内でパレスチナ人の人口が増えないような政策を講じていて、それが中国政府のような直接的であからさまなやり方というわけでもないにしても、パレスチナ人から土地を強制的に取り上げて、ユダヤ人入植地を拡大するといったパレスチナ人をイスラエル国内から追い出す政策であることは確かだろうし、中国政府のやり方がウイグル人を追い出さずに人口を減少させるやり方を取っているとしても、勝手に国外へと逃げていく人々を引き留めようとするわけでもないだろうし、それとは関係のない方面でアメリカのバイデン大統領が、過去のトルコによるアルメニア人の虐殺を認定して波紋を呼んだこともあったが、虐殺したり強制不妊手術を施すのはまずいが土地を強制的に取り上げるのを認めるとなると、そういう理屈が通用するわけでもないし、アメリカ政府も民主党政権としては見て見ぬふりはできないだろうし、民主党の議会勢力内でも左派のサンダースがイスラエルへの武器の輸出を制限すべきだと主張し始めているようだが、過去を思い起こせば、第一次世界大戦が起こる直接のきっかけとなったのはサラエボ事件であり、ウイグル人が中国政府に反感を抱くのとは少し傾向が違うが、セルビア人も祖国を併合したオーストリア=ハンガリー帝国に反感を抱いて、視察に来た帝国の皇位継承者をテロによって暗殺したのだろうが、そういう国家主義と民族主義が結合した傾向になりやすいところで、何らかの誘惑が作用していることは誰もが認めざるを得ないだろうが、それが糖分過多な甘い誘惑なのか幻想や幻覚を伴うようなアルコールやカフェインやニコチンなどの薬物的な誘惑なのかはさておき、快楽や快感を伴って依存体質をもたらす誘惑であることは確かであり、それによって都合の良い時に意識を麻痺させたり覚醒させたりもして、麻痺するところでは思い出せなくなり、覚醒するところではそればかり思い出すことにもなり、そういった効果を利用して、都合の悪いところは意図的に忘れているように装いながらも、都合の良いところだけ取り上げてそこを強調したり誇張したりして、それを宣伝や煽動に使うという成り行きがよくありがちな傾向なのだろうが、そういった効果に依存しすぎると、対立や対決するところでは効果的に作用するのだろうが、協調や協力するところでは双方の立場を譲れなくなって折り合いがつかなくなるわけで、そういう成り行きを避けるには、都合良く忘れようとしていることを思い出して、都合の良いところだけを強調したり誇張しようとする誘惑に逆らって、抑えた表現にとどめる必要があるかも知れないが、何かと断言する癖がついてしまうと、そうした言語表現の使用がそれを許さないわけで、断言癖から思考の単純化が起こるのは、いったん断言したからには後からそれを訂正するわけには行かなくなるからかも知れないが、そうなってしまうことを目指してそういう断言を繰り返すわけではなく、いったん何かを断言し出すと引っ込みがつかなくなって、それと釣り合いを取るためには他のところでも断言せざるを得なくなり、中途半端に優柔不断なことは何もいえない状況に追い込まれて、そうなるとそれと自覚せずに断言中毒になって、そんなことまで断言する必要のない些細などうでもいいことまで、何が何でも断言せずにはいられなくなるわけでもないだろうが、その種の言語表現の虜となっている限りで、そんな断言の妨げになるような都合の悪いことは絶対に認められなくなるだろうし、結局はそうやって言語表現の単純化が思考の単純化をもたらすわけだが、それに反して世の中の状況や情勢の変化にうまく対応するには、常に両義的な判断を迫られる傾向があるのかも知れない。
5月20日「投資と詐欺」
そうするのが精一杯で、それ以上はどうすることもできないことをやっていると、それ以外のやり方がなかなか思いつけないかも知れないが、思いつけなくても仕方のない成り行きになっていれば、それをやるしかない状況になっているのだろうが、それとは別のやり方があって、そちらの方が現状のやり方よりも遙かにマシなやり方であれば、どういう意味でマシなのかによって微妙に判断が異なってくるだろうが、もっとマシなやり方があるのに、それをやっていない状況があれば、そんなことをやっている当人には与り知らないことだとしても、無駄に苦労しているようなことになってしまうのかも知れないが、もっとマシなやり方にたどり着くには、それなりに試行錯誤の期間が必要だったと、実際に試行錯誤してそういうやり方にたどり着いてからわかることになるかも知れないが、結果的にたどり着けなければわからないことだとしても、無駄に苦労しているように感じられることが、試行錯誤の最中に感じられることでもあり、ただ闇雲にそんなことをやっているわけではなく、何か目算があっておこなわれるのだろうが、それが見込み違いであればうまくいかないままにってしまうとしても、そういうことをやっている中から、今よりもっとマシなやり方が編み出されて、それが広く世の中に普及すれば、今よりもっとマシな社会が実現するような気がするのだろうし、現状では何とも言えないことについては推測の域を出ないことになるから、確実にそうなるわけでもないとしても、期待しないわけにもいかなくなり、期待を抱けば未来へと投資する意味で試行錯誤する成り行きになるのだろうが、もっとマシになると期待できなければ、そんなことはやらずに現状の維持にとどまり、そんな現状維持に汲々としている世の中では未来への投資意欲が湧いてこないだろうし、画期的な技術革新や制度改革なども起こらないはずだが、全てがそうなるわけではないから、何かしらその種の革新や改革の萌芽が生まれてきて、それが期待や希望を抱かせるのだろうが、その中から実際に実現することもそれほど多くはなく、そのほとんどは他との競争に敗れて消失してしまうのだろうが、多くの人や団体が無駄に苦労して、その苦労が報われずに消え去る一方で、その中のごく一部から成功例が出現する成り行きになるのが、現状の世の中で起こっていることであれば、未来への投資の大半が無駄になってしまう現状があり、逆にそうならないとごく一部の成功例さえ出現できないと考えるなら、結果的には無駄に終わってしまう努力にも、それなりに意義や意味があるようにも思われるわけだが、努力の大半が無駄になってしまうからといって、何もしなければ現状の維持以外にやることがなくなってしまい、そればかりになってしまうと、未来への期待や希望を抱けない世の中になってしまうわけだが、そうであるなら現状維持か夢や希望を抱いて大半が無駄に終わるような努力や投資をおこなうかの二者択一になるわけではないにしても、何か他にもっとマシなやり方があるのではないかと疑問を抱く成り行きにもなるかも知れず、それを模索している人や団体もいくらでもいるかも知れないが、それもまだ実現していないことかも知れず、もっとマシなやり方を模索する試みも、その大半は実現せずに無駄な努力に終わってしまうかも知れないが、現状で何かしら現状にはないやり方を目指して努力したり投資する成り行きになっていれば、それが未来への期待や希望をもたらして、そういった結果的には無駄に終わるような努力や投資がおこなわれないと、その中から実際にそれが実現するような成功例へとたどり着く可能性も生じてこないのかも知れず、だから未来への努力や投資が促されるわけでもないだろうが、その中から何が成功例となるかはその場の偶然の巡り合わせに左右されるかも知れないが、未来への努力や投資がおこなわれるのは必然的な成り行きになるだろうし、なぜそうなるのが必然なのかといえば、現状が行き詰まっているからであり、なぜ行き詰まっているのかといえば、現状で解決できない問題が山積しているからだろうが、その解決できない問題というのが、未来への努力や投資の大半が無駄に終わってしまうような成り行きなのかも知れず、そうやって原因と結果が循環しているから、それが解決できない問題となっているわけだろうが、そうであるから解決法を示して、そこに矛盾やパラドックスがあるのを認めないような主張をすることが、現状から目を背けていることになってしまい、そうなってしまうことに関しても、必然的にそうなってしまう傾向があり、何かを主張すること自体が、矛盾やパラドックスを含んで原因と結果が循環しているようなことを主張してしまうと、その内容に説得力がなくなってしまい、だからそうならないようなことを主張せざるを得ないのだろうが、だから無矛盾で論理的に破綻のない主張が実現することはないのかも知れず、それよりは詐欺的で嘘やごまかしを含んだ主張の方が実現する可能性が高いとすれば、実現した後からその問題点が浮き彫りとなり、嘘やごまかしがばれて騒動を巻き起こすわけで、世の中でその種の詐欺事件が多発しているのも、嘘やごまかしに騙されやすい人が多いというよりは、嘘やごまかしを含んでいないと実現できないようなことしか実現しない可能性があり、嘘やごまかしを駆使して多くの人から金を集めて事業の類いをやっているうちに、その中のいくつかは詐欺が発覚して事件となってしまうにしても、中にはいつの間にかそれが嘘やごまかしではなくなってしまう場合もあるのかも知れず、それが結果的に嘘やごまかしのままに終わるか、逆に嘘やごまかしではなくなって本物の事業となってしまうかも、その時の世の中の情勢にもよるのだろうが、事業をおこなっている人や団体としては、嘘やごまかしを駆使して金を集めている自覚がない場合もあるだろうし、本当にそれを実現する見込みがあると信じているから何か途方もないほらを吹いているように思われる場合もありそうで、そんな当時ではあり得ないと思われたことが実現してみると、後からそれが実現するのが必然的な結果であるように説明することができるかも知れないが、他にもそんな夢想の類いがいくらでもある中から、ごくわずかな成功例がもたらされると、それが世間的にもメディア的にも注目の的となるのだろうが、だからといって他の見果てぬ夢のままに終わってしまったことと実際に実現したそれとの間に決定的な違いがあったのかというと、実現した後から決定的な違いがあったように説明することはできるものの、まだ実現していなかった当時の段階ではそんなことがわかるわけもなく、それらがまとめて十把一絡げに扱われていたとしても何の不思議もないだろうし、現状でもそんな扱いを受けている妄想の類いが世の中にはいくらでもあるかも知れないが、そうなってしまうのが当然のように感じられる世の中になっているところが、何か矛盾やパラドックスの寄せ集めのような感じがしてしまうのかも知れず、その一方で無矛盾で論理的に破綻のないような主張が誰からも見向きもされない現実もあるかも知れないが、何から何まででたらめというわけでもないだろうし、でたらめな主張も許容されるような懐の深さがないと、世の中が普通に成り立たない現状があるのかも知れない。
5月19日「結果の判断」
そこでは何もおこなわれていないように見えても、そこに人がいれば何かがおこなわれていて、たまたまその時には何もおこなわれていないとしても、それとは別の時間帯では何かがおこなわれている可能性があるが、何かがおこなわれている時間帯に遭遇できるかというと、遭遇することもしないこともあるだろうが、その時間帯では何らかの作業が計画通りにおこなわれているように見えれば、そこでは一定の秩序がもたらされているようにも見えるだろうし、そういう現場に身を置いている人にとっては、そうなっていることが当たり前のように感じられるとしても、実際に現場で何らかの作業をおこなっている人には、案外うまくいかないことの連続であるように感じられる時間帯もあるわけで、うまくいかないから作業が滞って遅延して、その度ごとに作業が中断して、中断している間は何もやっていない場合もある一方で、うまくいかない原因を突き止めてその箇所を直して、作業を再開させる作業をおこなっている場合もあるだろうが、そんなことが繰り返される時期と、何事もなく正常に作業が進行中の時期とで何が違っているかといえば、トラブルが多発してその原因を究明して改善している時期と、そんな時期を乗り越えて事態が正常化した時期との違いがあるだろうが、それはそこで何がおこなわれているかにもよるだろうが、はっきりと二つの時期に分かれるわけではなく、二つの作業が同時におこなわれている場合もあり、そうなるとうまくいっていることとうまくいっていないことが同時並行しておこなわれている状況となるわけだが、それらの成り行きの中で、うまくいっている時期や部分だけを見ると、確かに計画通りに物事が回っているように感じられるのだろうが、そういう時期や部分だけを取り出して成功例として見せられると、そんな成功例に騙されて、それと同じようにやればうまくいくのではないかと思って、同じようなことをやろうとする人や団体が他にも数多く現れる可能性もあるだろうが、そういうことをやってうまくいった例しがあるかというと、確かにその中のいくつかはうまくいって成功するかも知れないが、大半はうまくいかずに失敗してしまうかも知れないし、その中でも派手に失敗した事例はメディアなどで取り上げられて有名になるかも知れないが、他にも無数の失敗例があっても、興味を惹かなければそんな事例は無視されるしかないだろうし、世間の興味を惹く事例はその中のほんの一部分にすぎないのかも知れないが、そういうことを考慮するなら、何をやってもうまくいくこととうまくいかないことの両方がもたらされて、結果的にうまくいけば賞賛される一方で、うまくいかなければ批判されるか無視されるにしても、うまくいっても興味を惹かなければ無視されるか、気に入らなければ批判される場合もあるのだろうが、うまくいった事例の周りに群がる人たちや、派手にうまくいかなかった事例をネタにして、得意になって批判しまくる人たちも含めて、そうやって何とかして、そこに至る成り行きを都合の良いように解釈しながらねじ曲げようとしているのではないが、結果的には事の次第がうまく伝わらないようになってしまうのかも知れず、もちろん伝わらなくても構わないとは誰も思っていないだろうが、逆に伝えたいことを正確に伝えようとするから、そんな思いが事実を歪ませてしまうのかも知れないし、歪ませようとしているのではなく、伝えたい部分を強調して伝えようするから、伝えたくない部分や把握していない部分が伝わらないのは当然だろうし、伝えたいことを伝えようとしている人にとってはそれでも構わないわけで、その人が伝えたくない部分や把握していない部分を知ろうとしているわけでもなければ、それでも構わないだろうし、興味を惹いた部分だけに関心を持つことしかできないのであれば、必然的にそうなってしまうわけで、それが特におかしいことでも何でもないわけだが、それが当然のことのように思われて、何もおかしいとも思われないとしても、そんなふうに思ってしまうこと自体が、物事を正確には捉えられないことを正当化していることになってしまうのかも知れず、別にそう思っているわけでもなく、誰もそんな自らの思いをはっきりと意識できるわけでもないだろうが、伝えたいことを伝えようとするのが当然に思われるようなところに落とし穴があるといっても、それ以外にどう伝えればいいのかわからないだろうし、それ以外に伝えられないことがあるのは誰もがわかっていることかも知れないが、たとえわかっていてもそれを意識することはできず、意識できないから、何を知っても伝えられたそれが事実であると認識してしまうだろうし、実際に事実を伝えようとしているのだから事実には違いはないわけだが、その事実の他にも、さらに別の事実があることまでは思い至らず、それだけが事実だと思っているわけでもないが、それとは別の事実を知りようがなければ、そんな事実は判断の対象とはならないだろうし、実際に伝えられた事実だけで物事を判断してしまうと、それを伝えた側の判断も判断に含まれて、その人の判断だけで判断しているわけではなくなり、それを伝えた側が強調していることが、それを伝えられた側の判断にも含まれてしまい、そういった判断には判断の材料となる物事に歪みや偏向が生じていることになるだろうし、それがそれを伝える側から影響を及ぼされた判断となって現れるわけだろうが、だからある特定の情報源からの情報だけで物事を判断してしまうと、偏向した判断となってしまうのだが、そうなったからといってそれがおかしいとは思わなければ、そういう判断や評価によって何か支障が出てこない限りはそれで構わないようなことになってしまうわけだが、支障を出さないようにするには、特定の情報源以外の情報が出てこないようにすればよく、要するに政府などの行政機関が情報統制をすればいいのだろうが、そういうことがおこなわれてしまうと、偏向した情報を基にした内容から判断や評価を迫られて、そうなっても人々が誤った判断や評価に導かれるとは限らず、逆に情報統制する側にとっては誰もが正しい判断や評価をしていることになるだろうが、それが正しい判断や評価だとしても、それ以外の誤っているとされる判断や評価が抹殺されるような事態となれば、ある特定の判断や評価しか許されない状況となってしまうわけで、そういう状態が保たれている限りでうまくいっていることになるだろうが、そうなるに至るまでの間にうまくいっていない時期があるわけで、それがうまくいくようになってからの時期よりも、かなり長期間にわたってうまくいかない時期が続く場合もあり、そうなっている間に抵抗する人々を虐殺するなどのひどいことがおこなわれるのだろうし、今も世界各地ではそういったうまくいかない事態と格闘している行政機関が結構あるのかも知れないが、それに関してもうまくいっている事例を持ち出して、そういう事例が当てはまる特定の国を賞賛したり、逆に派手にうまくいかなくなっている事例に当てはまる国を批判しまくるようなことがおこなわれているとしても、そういうことを伝えられている側が、それを当然のこととして受け止めているようなら、そういう人たちには伝わっていないような出来事が今も世界各地で起こっている可能性があるのではないか。
5月18日「予知夢」
物事の仕組みや成り立ちをそれなりに理解していれば、それが社会の中で機能したり動作すればどうなるかはある程度は予想がつくだろうが、そうなるに違いないという確信を抱いて、本当にそうなったとしても、別にその人に予知能力があるわけではなく、実際に知識や経験や勘などに照らし合わせて、そうなりそうだからそう思われるのだろうし、そうなるような気がするという予感が的中しても、過去の経験などからある程度は予想がつきそうなことに関してそう思われるのであり、そういう意味で知識や経験や勘に裏付けられた予想には、それなりの精度が伴っているはずだが、こうなるはずだという思い込みが覆されると、それがただの思い込みにすぎなかったと思ってがっかりするかも知れないし、逆にこうなるはずだと思ったことがその通りになってしまうと、自らにその種の能力があるのではないかと確信してしまう場合があるとしても、予想が外れてがっかりするか、予想通りになって得意になってしまうかは、その場の運次第だと思う程度のことであれば大したことはないだろうが、運次第では済まない場合があるかというと、予想が当たると利益を得られたり、外れると損害を被るような場合には、利益を得られたり損害を被った時の状況にもよるだろうが、予想を当てようとしてそれなりの労力や資金や物資をつぎ込んでいる分だけ、結果においてそれ相応の衝撃が伴ってくるだろうし、大抵は努力が報われるような形で結果が伴ってほしいだろうが、そんなことにはお構いなしに理不尽で不条理な結果がもたらされると、運にも天にも神にも見放されたような絶望感を覚えるかも知れないが、むしろそうなってから本当の試練や苦難が待ち構えていて、そんな試練や苦難を乗り越えるための予行演習として、何かを予想する成り行きがあるのかも知れず、しかもその予想が大きく外れてわけのわからない混乱に巻き込まれるようなことになれば、それがそれまでに培った知識や経験や勘などが全く通用しない成り行きになり、そんな唖然とさせられる成り行きの中で、何をどうすればいいのかわからず途方に暮れるしかないような体験をして、しかもそこでもがき苦しんでいるうちに光明が差してきて、新たに道が開けてくれば、あらかじめそうなることを予知していたような気になるかも知れず、そんな成り行きを一通り経験してみれば、確かに今後の成り行きを予想しながら行動することは重要かも知れないが、必ずしも予想通りにはならなくてもよく、かえって予想通りに事が運んでしまうと、拍子抜けのような気分になってしまい、予想を裏切るような重要な機会に巡り会えずに、後からその機会を逃してしまったのを悔やむことになるかも知れないし、そういった波瀾万丈のような経験がないと人として成長できない場合があるかも知れないが、成長できなくても構わないだろうし、順風満帆な人生を歩んでしまえば、それで悪いはずがなく、どこにでもいるようなありふれた人にも、程度の差はあってもそれ相応の試練や苦難の経験があるだろうし、一概に言えるようなことでもないが、機会に巡り会うとは思いがけない事態に直面することであり、そういう機会に巡り会えれば、そこで体験する試練や苦難を乗り越えることによって、何かそれまでとは違った能力を得られたような気分となるのかも知れないが、それが本当に得られたかどうかもわからないうちに次から次へと試練や苦難がやってくれば、そんな試練や苦難をくぐり抜けている途中で力尽きてしまう場合もあるかも知れないが、そういう成り行きにも限度や限界があるとしたら、それなりに人工的に調整された環境の中で生きていることにもなり、管理が行き届いた環境の中で生きている人ほど温室育ちの人間になってしまい、野生の力を失っているかも知れないが、それも比喩としてそういえる程度のことであり、現状の社会では程度の差こそあれその種の管理が破綻している面もあって、人為的には管理しきれないから、人工的に調整された環境といっても、危険と隣り合わせな面もあるわけだが、場合によっては管理そのものが危険をもたらしている可能性もあるだろうし、人を鋳型にはめ込むようにして管理しようとするから、それに反発したり抵抗する形で野生の本能が呼び覚まされて、そこから争いや戦いが起こってしまい、結果的にやぶ蛇のような成り行きとなって収拾がつかなくなるわけで、そういった管理が人の行動を予想して予想の範囲内に人の行動を規制するような管理となるわけで、実際に予想の範囲内に人の行動が収まれば何事もなく事態が推移する可能性もあるわけだが、そうはならずに思いがけない事態が社会の方々で起こるから、そういうところでは管理が破綻するわけだが、そんな事態が起こることも想定して管理計画を練るといってもきりがなく、起こり得るあらゆる事態を想定しても、絶えずそれを超える事態が起これば、事前の想定が甘かったとしても、全ての事態を想定できるわけもなく、未知の事態に備えるわけにもいかないから、既知の事態に備えて計画を練るしかないだろうが、計画を練ったからといってそれをそのまま実行できるわけでもないだろうし、計画を実行に移す際にも様々な妥協を強いられるかも知れないが、そういう意味で何かを予想するとは予想に基づいて行動の計画を練ることにもつながるわけで、そうした予想に基づいた行動が予想を裏切るような思いがけない事態に直面するから、それが試練や苦難に直面していることにもなり、そこで計画の変更を迫られたり、その場の成り行きに沿って行動すれば、当初には思いもしなかったような行動になって、それがこれまでには経験しなかった未知の体験にもつながるわけだろうが、その場の即興でそういう行動ができないと、直面している試練や苦難を乗り越えることができずに、挫折を経験するのかも知れないが、挫折を経験してもなお生き残っていれば、生き残る過程において死ぬような成り行きを回避できたのかも知れないし、そもそも始めから死ぬような成り行きではなかったのかも知れないが、どちらにしてもその種の試練や苦難にも程度の差があり、それを試練や苦難とも感じないまま、気づかないうちに通り抜けてしまうようなら、結果的にはそんなのは試練でも苦難でもなかったことになってしまうだろうが、眠っている間に見る夢の中でも予想だにしなかったことが起こるから、それを驚きと共に鮮明に記憶している可能性があるわけだが、それを後から思い返して予知夢だと思う際にも、夢の中で起こったことが現実の世界でも本当に起こったことに驚くからそう思われるわけで、どちらにしても予想通りのことが起こるわけではなく、予想外のことが起こるから驚き、それが幸運であれ不運であれ、あり得ないような事態に直面していることになり、突発的な事故や事件のようにして非日常的な出来事として記憶に刻まれるとすれば、日常的な管理や計画からはほど遠い事態となり、そうなることを予想して管理計画を練るわけにもいかないだろうし、それがまれにしか起こらないことであれば、管理や計画に基づいておこなわれるようなことには含まれないだろうが、逆にそういうまれにしか起こらない機会を捉えて行動しないと、管理や計画に基づいて行動する人や団体を出し抜くことはできないわけだ。
5月17日「価値と都合」
価値という言葉から連想するのは何か肯定できるものであり、大抵の人は価値のあるものを求めているはずだが、価値のあるものを所有していれば、所有している自身の価値も高まるかのように思われるだろうが、ある程度はそうかも知れないが、それを持っているだけでなく使わないと、その価値を利用できない場合もあり、また使えば価値が減っていってしまう場合もあるだろうし、持っているだけで価値が高まればそれに越したことはないが、所有するには相応の対価を払わなければならず、対価が高すぎれば手に入れるのが困難になり、何もないところから価値を生み出すようなことにはならないわけだが、それを価値と言ってしまうと少し違和感を覚えるかも知れないが、それとはちょっと違うものを求めている可能性もあり、確かにある面では価値のあるものを求めているとしても、それは表向きの妥協なのかも知れず、本当はそうではないと言いたいわけでもないが、本当も嘘もなく、表裏があるようなことではなく、その場の成り行き上、何かを求めているように装わないと体裁を取り繕うことができず、行きがかり上、何かを求めているように装ってはいるが、何も求めていない可能性もあるわけで、それが必ずしも価値があるとは限らないということかも知れず、意外と価値のあるなしに関係なく求めているものがあるのかも知れず、さらには価値などなくてもかまわないようなものを求めている可能性さえありそうな一方で、何も求めてはいない可能性もありそうで、そうなると価値のあるものを求めているという前提自体が意味をなさなくなってしまいそうだが、たぶん求めていると思っていること自体が、そうではないような結果をもたらしてしまうのかも知れず、こんなものを求めていたわけではなかったと思う一方で、では何を求めていたのかと自問すれば、自問している時点ではわからなくなっているのかも知れず、当初は価値があると思われたものが、手に入れてみればそうでもなかったと思うのがよくあるパターンであり、それは求めている過程で価値を取り逃がしてしまったということかも知れないが、元々価値などなかったのかも知れないし、価値があると思わされていたから求めていたのだろうが、それはそう思っている限りで価値があり、そうは思わなくなってしまえば価値などなくなってしまうのかも知れず、そうなると価値のあるなしというのはそう思っている人の思い込みでしかないのかも知れないが、そういう思いを他人と共有できれば、思っている人々の間で共通の価値をもたらすことができて、また他の価値があるものとも比較できれば、それらの間で共通の尺度や基準も設けられて、それが貨幣価値のように具体的に実現している場合もあるだろうが、それ以外は何もないのかも知れず、唯一の基準が貨幣価値だけで、他に指標となるものがなければ、それだけで判断すればいいからかえってわかりやすいが、貨幣価値のないものを求めている人にとっては、何のために求めているのかうまく説明できなくなってしまうかも知れないが、説明する必要が生じなければそれでも構わないだろうし、求めている理由をうまく説明できないが、その場の成り行き上、求めないわけにはいかなくなってしまうものが出てくる場合もありそうで、わけのわからない妄想を抱きながら、自由を求めたり愛を求めたり、金では買えないものを求めているとか、色々とそれを求めるに当たって自らの都合を優先させたいのかも知れないが、それが他人と価値を共有できないものであれば、その人のだけの価値となり、特に価値を意識できなければ、その人にとっても価値のないものを求めていることになってしまうのかも知れず、そうなればたとえそれを求めているからといって、求めているものに価値があろうとなかろうと構わないことになってしまい、価値を意識することなく求めている場合も出てくるのだろうが、人の群れの中で生きている限りで、求めていることに関して他から共感を得たいと思えば、共感を求めていることになり、共感を得られるようなものを求める成り行きにもなるだろうし、そういう意味では他人が求めているものを自分も求めていることになり、そこから価値観の共有が起こるわけだろうが、また他人よりも価値のあるものを求めたいということになれば、価値を巡って競争も起こるだろうし、価値のあるものを手に入れて、それを他人に向かって自慢したいという欲求も生じてくるのだろうが、それを全面的に肯定できなくなってくる場合もあるのかも知れず、あからさまに金銭的に価値をあるものを手に入れて、それを他人に向かって自慢するようなことをやると、成金趣味のように思われて、かえって他人から嫌がられるから、そういうはしたない行為は控えるような配慮が働くと、それとわかっている人だけにさり気なくアピールするような成り行きにもなるだろうし、わかる人だけにしかわからない符牒のようなものを求めて、限られた人々の間だけで通用する価値を所有して、そんな価値を所有している者同士で秘密の会合を開いて、お互いに持っているものを見せ合って自分たちの価値を確認し合うような成り行きになれば、そこに上流社会のような舞台が形成されていることになるのだろうが、そんな社交界のような舞台に立つには、他のメンバーから認めてもらえる何かが必要となり、その何かが一般人にはわからないような仕組みになっていれば、その場だけで他にはない価値があることになり、そんな価値を持っている人たちが優越感に浸れるのだろうが、それもそういう成り行きに憧れるような人が抱く妄想の中で実現していることにすぎず、実態の定かでない面もあるのだろうが、それ以上に何でもないようなことに価値が生じているわけでもなく、価値のある状態に憧れる人ほど価値のない状態になっているわけでもないだろうが、どこからも価値が生じてこないような状況に現状の世の中がなりつつあるとすれば、それだけ価値の相対化が促進しているのかも知れず、それでも価値を巡って何らかのせめぎ合いが生じている面もあるだろうが、それが従来の価値観を破壊するような作用を伴っていると、破壊される側の価値を信奉していた人たちが悲鳴を上げているわけでもないが、何かしら不平不満を抱いている状況があるわけで、それに確固たる価値があるように思われていた時代が過ぎ去ってみると、何の価値もないようなみすぼらしい廃墟に価値があるように思われたことが不可解に思われて仕方がないだろうが、往時の面影など微塵も感じられないその凋落ぶりが、その代わりに何かがもたらされた証しだとも思われるわけでもないとすれば、ただ単に価値が幻想にすぎなかったことを物語っているわけで、もとから何に対して幻想を抱いていたわけでもなかったのかも知れないが、それが結果ではなく今も何かが進行中の過程の中で抱いていることなのかも知れず、まだその先があるのだろうが、いつまで経っても先が見えてこないようなら、さらにその先があるのかも知れないし、実際に今に至ってもなお何らかの価値を求めて無理なことをごり押ししている最中の人たちも未だにいるのかも知れないが、そういう人たちの都合がどんな価値をもたらすとしても、その価値が幻想にすぎなかったように思われてしまう時がやがて否応なくやってくるのかも知れない。
5月16日「貴重な経験」
何かありふれた物事に興味を持ってありふれた思いにとらわれてしまうと、そんな思いにとらわれたありふれた人間になってしまうかというと、実際にありふれた人間になっているのかも知れず、それで構わないような世の中になっているのかも知れないが、ありふれた人間以外にどんな人間がいるのかというと、ありふれた人間は自らがありふれているとは思っていないだろうし、そう思っている限りでありふれた人間になっているわけだから、逆に自らがありふれていると思っていれば、それがありふれていないことの証しとなるわけでもないとしても、自らがどこにでもいるありふれた人間だと思っておいた方が、それが自然と物腰や仕草にも現れて、謙虚な印象を伴うかも知れないが、たとえそう思われたとしても、それだけで自らに有利な状況をもたらすわけでもないだろうが、人の在り方としては無難な傾向になるのかも知れず、そうしなければならないということではなく、逆にもっと積極性を前面に押し出して、貴重な存在になろうとした方が、世の中で大きな成功を手にする機会が巡ってくるかも知れないが、積極性は傲慢さと紙一重であり、成功と引き替えにしてそれだけ多くの敵を作ることにもなるかも知れず、積極性が仇となる場合も多いだろうが、人から恨まれるようなら成功していることの証しとなるだろうし、他にも羨ましがられたり妬まれたりもするのだが、他人を恨んだり羨んだり妬んだりすることも、ありふれた人間であることの証拠となるだろうし、それが貴重な存在のように思われる成功者の周りに群がって、それを恨んだり羨んだり妬んだりする人がありふれているのであり、もちろん他人の成功を讃えることもありふれた行為だろうが、普通に世の中で生きていればそうなりやすく、そうならないように心がけてもそうなるように仕向けられてしまい、世の中にはそういう傾向があると思っておけばいいのかも知れないが、そういった傾向に身を委ねて、そういう傾向になるがままにまかせていても、どこにでもいるありふれた人間として、普通に生きていけるだろうし、そういう傾向を受け入れるならそれで構わないだろうが、自分から積極的に受け入れているとは思わないだろうし、逆に良識ぶってそういう傾向になっている人を咎める成り行きにもなるだろうし、そういうことを意識できずに無自覚にそうなっているのが、典型的なありふれた人間なのかも知れないが、それが悪いことだと思ってしまうのもありふれた態度かも知れず、逆にそういうことを意識してしまっても、ありふれた傾向に導かれてしまうのかも知れないが、一辺倒にそういう傾向になっているわけでもなく、人にはそういう面もあると共に、他にも様々な傾向になる可能性もあって、多面的な傾向があるのかも知れないが、そんな傾向ばかりが目立ってしまうと、何かありふれた傾向にとらわれているように見えてしまって、他人からそう思われてしまうと自尊心が傷ついてしまうから、できればそういう傾向は隠しておきたいのかも知れないが、隠そうとしても自然と態度や仕草や言動から滲み出てきてしまえば、お前もその程度の奴かと蔑まれているようにも感じられて、何かいやな感じがしてしまうのだろうが、それもそうなるように仕向けられているようにも思われて、いったんそういう方面を意識してしまうと、どこまでもいやな感じにつきまとわれてしまい、普通に世の中で生きていると、自然とそういう成り行きに引き込まれてしまうような構造になっているのかも知れないが、そういった社会の構造が自然に出来上がっているとすれば、それを人為的に変えようとしても変えることは難しいだろうし、変えられないから否応なくそうなってしまい、そういう成り行きを受け入れるつもりがなくても、実際にそうなってしまえば、結果的に受け入れていることになり、そうなるのがいやなら、それも否応なく積極的に成功を目指して、貴重な存在になろうとしてしまうのだろうが、それもありふれた成り行きだといっても、そうなるのを拒む理由もないだろうし、世の中で普通に生きていれば自然と誰もが成功を目指してしまうわけだが、それも構造的にそうなるように社会ができているといえるだろうが、そういう構造を人為的に変えようとして変えられるわけでもないだろうし、そういう意味では人が目指す傾向というのも一定の傾向に定まっていて、そういう傾向から自由になれるわけでもなく、そういう傾向に固定されているといっても、人為的に固定されているわけではなく、自然にそうなってしまうのかも知れないが、そういう成り行きの中で、自らの意志で自発的に成功を目指しているように思われてしまうから積極的にそうするわけだが、それが社会の構造によってそう思わされているといわれても、それに反発して成功を目指さなくなるわけでもないだろうし、成功を目指すことが良いことであり、実際に成功した人が羨ましいから、また結果的に成功することに失敗してしまえば、失敗する原因を作った人を恨んだり、自分を差し置いて成功した人を妬んだりしてしまうわけだから、根本的にそういう成り行きには逆らえず、そうなるように仕向けられているといっても、特定の誰がどんな団体がそう仕向けているとしても、そんな人や団体もそう仕向けるように仕向けられていることは容易に想像できるだろうし、どうやってもそういう傾向から逃れる術はないのかも知れないが、そんな傾向に操られて成功を目指すとしても、そこには熾烈な競争が待ち構えていて、実際に成功できる人や団体が限られているから、その存在が貴重になるわけだが、それがありふれた成り行きである限りで、矛盾しているようだが貴重な存在もありふれていて、成功自体がありふれた成功となって、成功することよって抱く思いもありふれているから、そうなってしまうことから何がもたらされるといっても、ありふれた成功がもたらされる以外にはあり得ないわけで、それを否定的に受け止める必要はないものの、成功を肯定的に受け止めることも当然そう受け止めるだろうし、それに関して何がまずいわけでもないはずだが、そうなるまでの過程においてもそうなってからも、そうした結果に至るまでの間に様々な葛藤や試練や紆余曲折などがもたらされて、それがその時だけでしかそうならないような独特な過程であれば、そういう成り行きの中で貴重な体験や経験がもたらされたように思われて、そうなる過程の中に人が生きていて、その活動を独特なものにしているようにも思われるわけだが、誰もがそうなる過程を体験したいのだとすれば、それがそうなった結果から思うような恨みや羨望や嫉妬などとは違った思いを抱かせるのかも知れず、それを体験したいから積極的に活動してそんな思いを実感したいといってしまうと、結果を求めていないような気がしてしまうかも知れないが、目指すものがあるからそういう気持ちになれるわけだから、意識がそれを自覚しているわけでもないが、人は意識して結果を求めているとしても、実際には結果に至る過程の中で生きているという矛盾を抱え込んでいると解釈しておくのが妥当なところかも知れず、そういう意味では結果を恐れずに結果に至る渦中へ進んで巻き込まれていってしまうわけだ。
5月15日「人と社会の循環」
ただ漠然と世の中の空気や雰囲気に対して、何かしら抵抗感や違和感のような感覚にとらわれると、何によってそんな気がするように思わされているわけでもないのだろうが、はっきりとした実感が伴っているわけでもなければ、何の根拠もなくそう思っているにすぎないことであり、それに関して大した理由があるわけでもなくても、そんな空気や雰囲気をもたらしているのが何かだと決めつけること自体が被害妄想のような思い込みかも知れず、それは自分一人が他とは違うという思い上がりから生じてくるのかも知れないが、案外誰もが少しはそう思っているのかも知れないし、それも勝手な思い込みにすぎないのだろうが、そんな世の中の傾向を批判的にこうだと決めつけること自体が、他人の欠点をあげつらうような攻撃的な感情の表れであり、確かなことは何もわかっていないのにそんな気がする程度では、何の根拠もない言いがかりにすぎないだろうし、そんな漠然とした思いを抱くことが、自身が何かから圧迫されている証拠だといっても、証拠も何もありはしないのだろうが、探しても証拠が見つかるわけでもなく、だから漠然とそんな気がする以上に、何が言えるわけでもないのかも知れないし、そういう方面では何をどう思ってみても、何もどうにもならないのかも知れないが、思うだけ不快な気分になるだけだから、なるべくならそう思わない方がいいと思っても、それでは自尊心が傷ついて、気が収まらないから、思うならとことんそう思っていてもいいと思う以前に、意識の中では直接的にも間接的にも他から理不尽な仕打ちを受けたと思ったり、また自身でも理不尽なことをやってしまって、自己嫌悪に陥ることもあるだろうから、そうなるように何かによって誘導されているのではないかと疑ってしまったり、そんな疑いが募るから被害妄想にとらわれるのかも知れないが、いくら疑ってみても何の解決にも至らず、とりとめのない妄想ばかりが膨らんで、怒りの持って行き場がどこにもなければ、やはりそれ以上に何がどうなるわけでもなくても、かえって精神的な負担やダメージが増すばかりかも知れないが、それが自滅の兆候であるとしても程度の問題で、心の内でいくらそう思っても、実際に外部から直接の圧迫が加わらない限りは耐えられる程度のことかも知れず、外部からもたらされる作用が精神の内面へと影響を及ぼすと考えるのが、そういう面での一般的な解釈となるだろうが、何もしなくても勝手にそうなるかというと、何かをやるからそうなると思われるだろうし、それに気づかないから何でもないと思ってしまうが、実際には何かをやったことへの反作用として心の内面に影響を及ぼすような何らかの作用が外部から加えられて、それに関して探せば心当たりはいくらでもあるのかも知れないが、その一つ一つは無視できるような些細な作用であっても、それが度重なると精神的な重圧や負担となって、些細なことだからそれに気づかなくても、ダメージとして蓄積されるようなことになり、そういう成り行きによって徐々におかしくなっていくのかも知れないし、徐々にその兆候が現れるということではなくても、耐えられる限界を超えると一気に精神崩壊を引き起こすようなことが起こるのかも知れないが、それが人の内面ではなく社会全体としてはどうなのかというと、比喩的にそれに類する現象を指摘できるかも知れないが、そういうことを語ればもっともらしく思われるとしても、そういうのはイメージでしかなく、あまり実質を伴わず、何を語っているわけでもないことになってしまうのかも知れないし、そういう方面には関心がなければ、そんなことは無視してもかまわないようなことでもあり、実際に大半の人がそれに気づかないまま普通に生きているのだろうが、普通にそうなのだから気づかないことでもあり、気づく必要のないことは語る必要もないかというと、実際に語られていないだろうし、語らなくても困らないことは語られないのかも知れないが、その代わりに何が困っているかというと、困っていると共に悩まされてもいて、過去から続く歴史的な経緯に悩まされているだろうし、そんな経緯を無視することも断ち切ることができないと共に、それに基づいて現状の社会秩序も構成されているように思われて、秩序を壊せないから、逆に秩序を守ろうとするから、それを守るには無理なことをごり押しするような成り行きにもなり、それによって多数の人命が失われることになろうとも、秩序を守ることの方が優先されると、秩序を守ることが英雄的な行為として讃えられたりもして、それが功利的な思惑とも一致すれば、なおのこと秩序の維持に全力が傾けられるわけだが、結果的にそうなってしまうとすれば、何かそういうことがおこなわれている世の中の空気や雰囲気が殺伐としているようにも感じられて、そういう空気や雰囲気に圧迫されて気が滅入って、それによって精神が異常をきたすほどでもないだろうが、そうならないように心がけていることにも気づかないのかも知れず、意識に気づかれないようにして、精神のバランスを保っている可能性があると想像してしまうわけで、そんなことはあり得ないと思うだろうが、あり得ないことは他にもあり、そのあり得ないことというのが、たぶん宗教として実現されているのであり、あり得ない何かを信仰しているように装われているのだが、もちろんそれを信仰している人たちは本気で信仰しているのであり、あり得ない何かを信仰しているとは思わないだろうし、むしろ実在する何かを信仰しているつもりなのだろうが、その実在する何かというのが社会の秩序であり、宗教を信仰している人々にとっては過去の歴史的な経緯をもとにして社会が構成されているはずなのだろうが、構成されているのは社会だけでなく、世界そのものが宗教的な秩序に基づいて構成されていることにもなるだろうし、そうなっていることが精神的な支えにもなっているはずだが、それが何の根拠もない妄想に基づいて構成されているとは思わないだろうし、そうなっていることに関しては確かな根拠が教典の類いに記されているはずだが、そういった教典の類いを信じられるかというと、その宗教を信仰しているのだから信じられるのが当然だと思われるだろうが、信じているのは歴史的な経緯であり、過去と現在と未来との必然的な連続性でもあり、偶然にそうなったわけではない歴史的な必然性になるわけだが、それが根拠の定かでない信仰そのものだといっても、相手にされないだろうが、実際に苦難の歴史の中で理不尽なことがおこなわれてきたのだとすれば、それが信じるに足る根拠となるわけで、何かの加減や偶然の巡り合わせによってそうなってしまったのだとしても、自分の身をもって実際にそれを体験してみれば、必然的にそうなったと思われるだろうし、それを後世に語り継ぐ理由としては充分すぎるほど重大で重要な出来事だとも思われてしまうのだろうが、そういう思い込みが信念となり、より強固な使命感ともなって、それがそれへの信仰を確かなものにしてしまうのだろうが、そういった歴史的な経緯を無視するわけにはいかないとしても、そういうこだわりを乗り越えるような何かがもたらされなければ、いつまで経っても過去とのしがらみを断ち切れないわけで、それをどうやれば断ち切れるかということよりも、それを意識させないようにしても意識してしまうだろうから、宗教よりも合理的な価値観を創造するようなこともおこなわれてきたのだろうが、今のところはそれが功を奏する成り行きにはなっていないのかも知れない。
5月14日「比較と相似」
複数の物事を比べて似ているところが見つかると、それらに共通の傾向があるような気がするかも知れないし、そういう比較から言説が構成されると、必然的にそうなっているように思われて、比較している物事に共通の本質があるかのようなことが述べられてしまうかも知れないが、偶然に似ているだけかも知れないし、たまたま似ているだけであれば勘違いでしかないわけだが、似て非なるものが似ている場合もあるだろうから、一見似ているからといって、それらを同一視するわけにも同列に扱うわけにもいかず、似ているというだけで同じカテゴリーに入れて語ると、おかしな内容になってしまうかも知れないが、似ていることから構成される言説の中で語られる共通点とは、似ている物事を比較することであり、複数の物事を比較しながら語ることが、それらの言説の中ではよくありがちな傾向となるだろうが、語られる物事にかかわっている人が権威者ぶって、その中で一見似たようなものでも、それらが似て非なるものであると強調すると、そういう断言がもっともらしく思われて、それを決め台詞のようにありがたがる傾向にもなってしまうし、本物とまがい物を見極める鑑定士のような役割の人が、よくそういう言説を駆使して言葉巧みに門外漢を丸め込もうとするのだろうが、実は本物だと強調しているものこそが偽物である可能性もあり、あるいはどちらが本物であっても偽物であっても大して差がないような可能性もあるだろうし、本当にそれらを比較する必要があるか否かも含めて、その必要もないのに比較するように仕向けられてしまう成り行きにならないように注意しなければならないのかも知れないが、もっともらしい断言を駆使する権威者をまがい物の詐欺師として攻撃する批判もよくありがちなやり方になり、オカルト系などの怪しい方面では、権威者=詐欺師という構図が結構高い確率で当てはまるかも知れないが、それに対して一見信用できそうなのが権威者ぶらない比較であり、素人目線での比較となると、一般人と同じ立場で比較しているように感じられるから、共感できるような気がするのだろうが、その一方で安心して小馬鹿にしているかも知れないし、専門的な方面ではそれほど信用していないような微妙な認識が伴ってくるわけだが、では専門家の意見なら信用するかというと、専門家にもピンからキリまであるだろうし、ジャーナリストと呼ばれる人たちがその方面の専門家になるのかというと、ジャーナリズムという分野の専門家であることは確かだが、そういう人たちとは別にそういう人たちの取材対象となるのが真の意味で専門家になる場合もあって、さらにはそんな専門家の意見や見解をわかりやすく解説する解説者という解説の専門家もいて、そしてさらにそんな解説者に意見を聞く司会者という司会の専門家もいて、そういった人がキャスターと呼ばれることもあるだろうが、そういう細かい専門的な区分けは、テレビ時代が過ぎ去ろうとしている今では、あまり意味のない過去の風習になりつつあるのだろうが、たとえ信用しても素人が信用するわけだから、そんな信用が信用できるとも思えないだろうし、信用できるからといって安心できるわけではなく、騙されて信用している場合もあるだろうし、信用できるから安心してしまえば騙されていることになるし、絶対に安心できるような状況にはならないわけだが、何を信用して何に安心できるかといっても、その対象が具体的に示されなければ判断のしようがなく、何も示されなければ判断しなくてもかまわないだろうし、判断を伴わないような物事の比較が可能かも知れないが、そこに様々な経緯や事情や条件が加わってくれば、その良し悪しを判断する必要がなくなってしまうのかも知れず、何らかの経緯や事情や条件が重なってそこにそんな物事が存在して、それにかかわっている人や団体も存在していることになれば、そんな物事やそれにかかわっている人や団体の良し悪しではなく、それらとどう関係していくか、あるいは関係しないようにするかが問われているのかも知れないが、関係した方が良いから関係するとか、良くないから関係しないようにするとかの判断をする以前に、関係したくないのに否応なく関係してしまっていたり、関係したくてもできないような経緯や事情や条件が生じていたりと、良し悪しを言っていられない場合もあるから、かかわらざるを得なくなったりかかわれないような成り行きになってしまえば、そういう成り行きの中で自らの判断が通用しなくなっているわけで、誰かが何かの良し悪しを強調してその判断に従うように仕向けても、すでに悪いと判断された物事にかかわっている人や団体にしてみれば、今さらそんなことをいわれても後戻りが利かなくなっているだろうし、それとの間で強固な関係が生じていれば、部外者の言葉による判断や判断に基づいた見解や説得よりは、対象との関係から実際に生じている利害を優先せざるを得ず、そういうところでそれを悪いと決めつける人や団体などと対立して、場合によっては争って戦う成り行きも生じてくるかも知れないが、そうなってしまえばそれを悪いと決めつける人や団体などとは正反対の判断や認識になっているだろうし、そこに至る経緯やその場で生じている事情やそういう成り行きになる条件などが重なって、そういう事態がもたらされるわけだが、そうはいってもそれをどうすることもできないかというと、実際に争ったり戦ったりしながらどうにもならない事態を打開するしかないし、シリアでもミャンマーでもパレスチナでも争ったり戦ったりしながら事態の打開を目指すわけだが、それに対して部外者や関係者が争って戦っている双方のどちらが良くてどちらが悪いと決めつける場合もあるだろうが、そうなるに至る経緯や事情や条件を考慮してもなお、良し悪しを判断せざるを得なくなるとすれば、どちらか一方に肩入れしていることになり、どっちもどっちだというような無責任な立場にはなれなくなっているわけだが、そんなところでも物事の良し悪しにこだわらない姿勢を保てる可能性もあるかも知れず、こだわらないからといって責任逃れになるわけでもないだろうが、そういうはっきりしている対象には一般的な良し悪しの判断が容易に当てはまり、抑圧したり弾圧している側を悪く言っても大して問題にもならないだろうし、さらには抑圧や弾圧に対する抵抗活動がエスカレートすればテロ行為に発展するとしても、今度は都合良くテロ行為に対して断固たる武力攻撃に打って出る場合もあるわけだから、そういう成り行きには死傷者出るようなことをする側を非難したり悪く言えばいいはずだが、そういうことが言われる中で個々の事例に関して良し悪しの判断が迫られるかというと、自身が直接かかわっているとは思われなければ無理に判断する必要もないだろうし、実際に判断できなければ、良し悪しとは別のことを言う必要が生じてくるかといっても、言う必要もないのかも知れないが、その必要もないのに良し悪しを言ってしまってもかまわないわけで、それらの事例が似ているからといって、全てを同じような傾向の判断にそろえる必要もなく、個々の事例ごとに良し悪しを判断してもかまわないだろうし、自らが肩入れしている勢力があればそれを応援してもかまわないわけだが、それ以前に実際におこなわれていることの良し悪しを判断してもかまわないのかも知れず、そうなるに至るまでの間におこなわれた関係者や関係当局の対応のまずさを指摘してもかまわないのかも知れない。
5月13日「新自由主義の擁護」
普段はそこに生じてくる様々な経緯や事情や条件などを考慮して、物事の良し悪しを判断するのをためらってしまう場合が多いとしても、時にははっきりと意見を言わなければならない場合もありそうで、どんな場合にそうなるかといえば、例えば自らが不利な状況に立たされた時に、有利な状況を利用して攻撃してくる相手に抗議して、毅然とした態度で相手を非難する成り行きになるかも知れないが、そうなっている時には正義が抗議する人にあるように感じられるとしても、それ以外の時にも常にその人に正義があるとは限らず、時には逆の立場になる場合もあるかも知れず、だから不当な扱いに抗議する人の味方をしたり応援する気にはなれないわけでもないだろうが、同じ抑圧された立場や境遇の人たちが一致団結して強権的な体制の勢力に抗議するような場合に陥りがちなのが、正義への過信であり、そうした正義に共感して抗議する人々を支援したり応援する人々も、抗議活動を無視したり見て見ぬふりをする人々の冷たい反応や態度に腹が立っているかも知れないが、自らに正義があることを信じられない場合もあるのかも知れず、誰もが不当な扱いに抗議する立場や境遇になれるわけではなく、そうかといって誰もが有利な立場を利用して不利な立場の人々を抑圧したり弾圧する立場になれるわけでもないだろうが、そうなる過程の段階でどちらが有利な立場になれるかを巡って、競争している途中の段階にとどまっている可能性もあるわけで、結果ではなく途中の段階にとどまるにはどうすればいいかといっても、とどまろうとしてとどまれるわけでもなく、何かこれといって決まり切ったやり方があるわけでもないだろうが、結果的にとどまっていればまだ競争している最中であり、そんな競争を成り立たせる条件がその場の状況によってあったりなかったりして、そんな条件も競争した結果から明らかになったりならなかったりするのかも知れないが、いついかなる時もそういった有利不利を決める競争に身を投じているわけにもいかず、熾烈な競争から逃れて安泰な立場になることを目指してしまうと、そういう立場を目指せる人はどちらかと言えば競争に勝ち残った人になるだろうし、そういう強者の論理の中に傲慢さを見咎めることもできるだろうが、誰もがそうなりたい立場になることを止める理由はないだろうし、誰もが競争に否応なく参加させられてしまうとしても、できれば競争に勝つと共に安泰な立場にもなりたいわけだが、そんな立場の人が増えるほど競争そのものが成り立たなくなるだろうし、それだけ格差が広がった結果がもたらされるわけだが、人や企業がそういう立場を目指すとしても、人為的にそうなる成り行きを抑制できるかというと、実際に様々な規制を講じて歯止めをかけようとしているのだろうが、歯止めがかかっていない状況がもたらされているのかも知れないし、競争に勝った者に富が集中して結果的に貧富の格差が広がっているのかも知れないが、そういう成り行きを根本的に食い止めることはできないのかも知れず、そういう方面では否応なくそうなってしまうとしても、それとは別の方面で何とかするような試みが生じてきていて、それが環境に配慮する経済にしようとする試みなのかも知れないが、どう配慮するかが問題となってくることは確かであり、少なくとも環境に配慮するというのだから、人が住みやすい環境にしたいのだろうし、できれば抗議活動が起こらないような環境にしたいのだろうが、そうなると強権的に抗議活動を抑え込むのとは別の対応が求められるのかも知れず、究極的には人を人為的に抹殺しなくても済むような社会の在り方が求められているのかも知れないが、人為的に抹殺しなくても自然に死んでしまうのは放置されるかというと、放置されないだろうし、社会の中で面倒をみるようなことがおこなわれて、そういった過程において人の生き死にの水準ではなく、どうやって生きていくかに照準が当てられて、うまく人を生かすような社会の在り方が模索されていくわけだが、そういうところで人を制御したり監視する方面で技術的な進化が進行すると共に、そういった人為的な制御や監視などを逃れるような技術も進化してくるかも知れず、どちらか一方へと技術の進化が進行するわけではなく、絶えず背反する両面での進化が促されて、両面でのバランスを保つような成り行きになるのかも知れないが、そういう成り行きを考慮するなら、経済的な貧困を解消するというよりは、貧困であっても生きていけるような成り行きになってくるわけで、貧困であっても困らないわけではなく、貧困から抜け出すために努力するように促されて仕向けられるわけで、それが何らかの職業に就かざるを得ない成り行きにもなるわけだが、それだけではなく失業している状態も保たれて、失業者に職業訓練を施すような制度も設けられて、そうやって社会の中で何らかの役割を担わせられてしまうというと、何か違和感が伴ってくるのだろうが、そこでもそういった役割を拒否する成り行きも伴ってきて、その人の意志でそうなるというよりは、自然にそうなってしまうといった方がしっくりくるのかも知れないし、そこにも絶えず背反する作用が働いているのかも知れないが、結局は社会全体を監視して管理して統治するような試みが破綻してしまうわけだが、そういう試みと同時に不確実なことをやろうとする成り行きにもなってくるわけで、それが機会を捉えて賭けに出るという行為に結びついて、そういう博打的な面がないと、監視や管理などの統治もうまく行かなくなるのかも知れず、そこでも一方的な方面には振れないようになっていて、そういう二律背反的なところが官僚主義的な管理統治を目指す人たちがわかっていないところであり、そういう方面ばかりを追求すると全体主義的な統治へと行き着いてしまうわけだが、官僚主義的な管理統治とは矛盾しているから理解できないのも無理はなく、理解しなくてもかまわないわけで、それが成り立たなくなる方面で博打的な行為がおこなわれるわけではなく、博打的な行為も公営ギャンブルや宝くじなどのように管理統治されている面もあるわけだが、実際に一つの価値観や善悪の基準などでは割り切れないことがおこなわれていて、良くも悪くもそういった矛盾と隣り合わせなことをやらないとうまくいかなくなってくるというとか、うまくいかない面も内包していないと成り立たないようなことをやっていると捉えれば納得がいくわけでもなく、成り立っていないことを成り立っているように装っているにすぎないのかも知れないし、批判しようと思えばいくらでも批判できるようなことをやっているのかも知れないが、そこで誰が何をやっているとしてもそのやっていることが本当に機能していたり効果を上げているともいえないような面まであるのだろうが、そういうところまで踏まえてそれらの行為に伴って生じてくる主義主張を新自由主義と呼べば、何か得体の知れない主義主張となってしまうのかも知れないが、それを批判しようと思えばいくらでも批判できるように思われてしまうところが、批判者をとりとめのない議論や解釈へと導いてしまうのかも知れず、それが得体の知れない主義主張である限りで経済の中で有効に機能するのかも知れないし、有効に機能しているように装われているのかも知れない。
5月12日「戦時下の思考」
日々どんな恐怖と隣り合わせに暮らしているわけではなくても、恐れていたことが実際に起こってみると、それが思っていたよりは大したことがなかった場合もあるだろうが、もしかしたら恐れていたのとは別の何かが起こっているのに、それを恐れていたことだと勘違いしている可能性もあるが、想像していた恐怖と実際に体験した恐怖が違うのは当たり前のことだろうが、恐れていたことが起こったと思ったのだから、少なくとも似たようなことが起こったからそう思うわけで、それとこれとを結びつける共通の何かがあると思うから、恐れていたことが起こったと思うのだろうが、それが予想通りだと思うか予想とは違うと思うかは、どちらの面もあるだろうし、どちらであってもなくても、恐怖心を抱いていたようなことを実際に体験してみないとわからないこともあり、ホラー映画を見て恐怖を疑似体験するのとは違った実感が伴ってくるかも知れないが、たぶん心の内では恐れていたことが実際に起こるのを期待していて、怖がりつつも恐怖を楽しみたいと思っているわけではないとしても、二律背反的な微妙な思いを抱きながら恐れていたことが起こるのを待ち望んでいれば、ついにその時がやってきたと心躍らせて恐怖に対して身構えてしまうのかも知れないが、そういう思いがはぐらかされてしまうようなことが起これば、当てが外れて直面している事態にどう対処すればいいのかわからず、途方に暮れてしまうだろうが、実際に途方に暮れるような事態に直面しているのかというと、どうもそういうことではなく、むしろ起こっている事態を冷静に受け止めているとすれば、別にそれが恐れていた事態でもないことになってしまうかも知れないが、実際の現状がそうなのかも知れず、人によってはそれが恐れていた事態になる場合もあるだろうが、恐れていた事態が個別的な水準にとどまっている限りで、人によってはそれほどでもないことにもなってしまうのだろうし、それが恐れていた事態だと思っている人には深刻に受け止めるような状況なのかも知れないが、戦時下では意外とそういう雰囲気になりやすく、何と戦っているのかは定かではないが、もちろん定かである人もいくらでもいるのだろうが、恐れていた事態を体験するには絶好の機会だと思ってしまうような人には、現状が貴重な体験となっていて、かけがえがなく取り返しのつかないような日々の中で充実した時を過ごしているのかも知れないし、実際に何を恐れていたのかといえば、例えば自らの死を恐れていたのだとすれば、世界的なパンデミックによって死を体験した人も大勢いるわけだから、まさに死を体験するには絶好の機会だったわけで、また株バブルの崩壊によってこれから多くの人が財産を失う機会に直面するかも知れないし、一生のうちに何度あるわけでもない機会をこれから体験することになれば、それも貴重な体験となるはずだが、本当にそうなるかどうかはともかく、恐怖を体験すること自体に何の意味や意義もないかも知れないし、実際に死を体験したらそれで終わりだろうから、そこで終わらずにあの世があったり輪廻転生を期待しているとしても、それとは違って戦時下の意識を持つことによって、何かを体験しつつある自らを今この時に生かさなければならず、生かさなくても生きているのだから、生かす必要がないということにはならないし、今を生きつつある現代とは何なのかと問うまでもなく、よくわからない時代や時期や時間帯の中で過ごしていて、恐れていた何かを実際に今体験しているつもりなのに、体験している当の物事がさっさと目の前を通り過ぎて、過去の出来事となって遠ざかっていってしまうのを引き留めることもできず、自分だけが現状の中に取り残されているわけでもないのに、現状とは何かと疑念を抱く間もなく、そこではないどこかへと引きずられていった挙げ句に、自らの死と共に廃棄処分となってしまうわけでもないだろうが、そこで何が廃棄処分となってしまうのかといえば、自らの生が廃棄処分となってしまえば、恐れていたこととは、自らの死ではなく、自らの生が死と共に廃棄処分になってしまうことかも知れないが、たぶんそうなる際に何らかの試練に直面しているはずで、その試練というのが戦時下で生き残ることであり、何と戦っているわけでもないのに何か戦時下で暮らしているような気分にさせるのが緊急事態の状況でもあるわけで、そうなっている時点でもはや戦前の思考には戻れないわけだが、戦前の思考が何だったのかといえば、すでに過去へと遠のいてしまっているから思い出せないわけで、それと入れ替わりに非常事態の雰囲気も醸し出されて、何やら世の中が殺気立っているような気配を感じている限りで、戦時下であることを意識できるわけだが、それも事前に想像していたのとは明らかに違っていて、過去の戦時下とは似ても似つかない事態に直面しているのかも知れず、それを誰が仕掛けたわけでもないのにそうなっていること自体が何か不可思議に思われるのかも知れないが、そんな成り行きを利用して、何かを仕掛けている勢力がいるとすれば、それを仕掛けた側が手痛いしっぺ返しを食らう可能性もありそうだが、先に動いた方が負けというわけでもないにしても、動かざるを得ない状況に追い込まれているとすれば、すでに余裕がなくなっている証拠であり、余裕があろうとなかろうと、余裕がないように見えるのなら、実際に先に攻撃を仕掛けているからそう見えるわけで、非常事態下では動かない方が有利となるわけでもないし、じり貧となって動けなくなってしまえば後は死を待つのみとなってしまうだろうが、動かないのと動けないのとでは意味が違い、動かないことを正当化できるわけでもないが、動かない方が得策だと思われる場合もあり、なぜ動かないのかといっても、明確には理由を見出せない場合もあるだろうが、勘がそう知らせているというとたわいのないことになってしまうかも知れないし、何かそういう状況に追い込まれているようにも感じられるのだが、それが本当に追い込まれているから動けないのかというと、他からの仕掛けに応じて動いてしまうと、負けを意味するわけでもないとしても、その仕掛けが必ずしもうまくいっているとは限らず、その場の状況を利用して仕掛けているのかも知れないが、その場の状況から生じている自然の成り行きの方が人為的な仕掛けよりも勝っているように感じられるとしたら、人為的な仕掛けも自然の成り行きに動揺して仕掛けられた苦し紛れの行為にすぎず、そうであれば応じるべきは人為的な仕掛けに対してではなく、自然の成り行きの方になるのかも知れず、そういう意味では恐れていたのは人為的な仕掛けよりも自然の成り行きになり、自然の成り行きに応じて動かなければならないのかも知れないが、そうなると人為的な仕掛けには動じず、自然の成り行きに従いながら動くことになるわけだが、そこで動くということと動かないということがどう結びつくのかというと、自然の成り行きに応じて動くことが、人為的な仕掛けの前では動いていないように見えるわけでもないだろうし、動かないのに動いているように見えるわけでもなく、今は動かないとしても、動く機会をうかがっていると捉えておくのが妥当なところかも知れず、それが動かない状態を強いられていると見えてもかまわないのだが、勝つために動かないというわけでもなく、何かのためにどう動くというよりは、動くことを強いられるような状況になるのを待っていると現状を捉えておいてもかまわないのかも知れない。
5月11日「無意識のレベル」
意識のレベルで察知できないことを無意識のレベルで察知しているかというと、それを察知とは呼ばないのかも知れないが、何かが起こった後からそれが起こることを予感していたような気がするのは、気のせいであることは確かだろうが、そんな気がするから心には無意識の領域があるのではないかと想像してしまうわけで、意識が無意識の領域を想像していることになるのだろうが、無意識のレベルで何かが起こる前兆を察知していると想像してみても、実際には何かが起こってからそんな気がするわけだから、何かが起こる前にそれを察知するわけではなく、起こった後からそんな気がしてくると考えるのが妥当なところだろうが、それでもそんな予感がするわけだから、霊感の類いがあることを信じたくなってしまうのかも知れず、その存在を科学的に証明することはできないとしても、信じたければ信じてもかまわないだろうし、自身に危険を事前に察知する予知能力があると思うのはその人の勝手だが、できれば何かが起こってからそれが起こるような気がしていた程度ではなく、実際に起こる前からそれが起こることを察知できればいいのだろうが、虫の知らせという表現で示されるような霊感となると、何かの拍子に不意にいやな予感がして、それが何かが起こる前兆だと感じても、はっきりと認識できるような特定の出来事だとわかるわけではなく、いつ何が起こるかははっきりとはわからないが、近いうちに起こるかも知れないと感じられる程度では、どう対処したらいいのかわからないし、それに備えるといっても、せいぜいが心を落ち着かせることぐらいしか思い浮かばないだろうが、できれば危険を事前に察知するだけでなく、危険を事前に回避する能力があればいいと思うだろうし、そんな好都合な能力が誰にでも備わっていれば、交通事故など起こらないはずだが、実際には交通事故など毎日のようにいくらでも起こっているわけだから、そんな能力があればいいと思う願望が、技術的に危険を回避する仕組みを作ろうとする試みに結びつく一方で、何か特殊な環境の中で育ったごくわずかの超能力者とか霊能力者とかにそういう能力が備わっている設定で、漫画や映画などのフィクションの題材にもなるだろうし、そういう方面でその種の想像力が活用されることになるわけで、それは直接そういう能力を身につけようとするのではなく、それとは別の方面からの活用を模索する成り行きになってしまうところが、そういうやり方に特有の回りくどさが感じられるかも知れないが、そういった方面での技術的な傾向に関しては、例えば素人が素手で断崖を登るような無謀で危難な行為は避けて、断崖を避けて道を整備して、断崖の上まで誰でも行けるルートを構築するようなことがおこなわれると考えればいいだろうが、メディア的な方面からの活用となれば、崖の上の風景を撮影してメディア上で見せたり、崖と人との関わりとして、崖を素手で登るクライマーの映像を見せたり、崖の上まで行ける道を自動車などで上る映像を見せたりするのだろうが、映像表現としては見せることに重点が置かれるとしても、そのまま見せるわけではなく、加工を施してみせるわけで、それがどういう加工かといえば、恣意的にどう見せたいかにもよるだろうが、何か意図して見せたいわけで、そこに見せたい側の都合の良いように見せたいという願望が含まれていて、逆に言えば都合の悪いところは見せたくないだろうし、都合の悪い部分はカットされているのが普通の映像表現になるだろうが、そこに無意識が作用している可能性を考えると、思わぬところで思わぬ光景が映し出されていると、それが偶然に映っていると考えれば何でもないことだろうが、何かの霊感が作用して心霊映像のようなものを撮ってしまったと考えれば、無意識にそういうものに憑かれていたと後から考えることもできるかも知れないし、意識して意図的に撮ろうとしても撮れない映像が無意識の作用によって撮れると考えると、そんな気もしてくるかも知れないが、それもそういう映像に出くわした後から想像力を働かせて考えた結果でしかなく、そうやって頭の中でフィクションを構成しているのかも知れないが、そういう意味では意識がいつも後から都合の良いように出来事を構成しようとして、それが必然的な経過を辿るように物事の成り行きを構成したいという願望の表れなのかも知れず、そこで何か不可解な現象に出くわすと、そういうことが起こる原因や要因として、意識が理解可能な原因を設定したいのだが、それをうまく設定できないと、未知の何かがそこに介在していると考えるしかなく、その何かが無意識の作用となったり、霊的な力となったりするのだろうが、そういった作用や力の存在を映像表現によって見せようとすれば、それに伴って恣意的で意図的な映像の加工技術が介在してきて、見せたいものを都合良く見せようとしてしまうからフィクションの度合いや傾向が強まってくるだろうし、そこで都合良く想像力を働かせてしまうから、偶然を排除して必然的にそうなるような成り行きを伴った物語などが構成されてしまうわけだが、そこでも思わぬところからそういう恣意的な意図や思惑を裏切るような出来事が起こるのを回避したいわけで、何とか意識してその場の成り行きを思い通りに制御したいのだろうが、完全に制御できるわけでもなく、何かしらトラブルが発生して、そんな思わぬ事態に対処しなければならなくなると、別にそうなる危険を事前に察知する能力を身につけたいと思うわけでもないだろうが、少なくとも前もって危険を技術的に回避しようとするだろうし、用意周到に準備を整えて、抜かりなく場所や場面を設定してから撮影しようとするかも知れないが、それでも偶然に介在してくる作用や影響を避けられなければ、その場の即興で対処していくしかないだろうし、それなりに臨機応変な対応が求められるのだろうが、意識してそうするのではなく、意識するよりも早く対応できるようになれば、意識を経由することなく反射神経に頼って機械的に動作することにもなるだろうが、そういう場合に無意識が介在していることになるかといえば、無意識というよりは日頃の訓練によって、そう動くように身体に教え込んでいる場合もあるだろうし、それは身体だけでなく意識にも言えることかも知れず、こういう映像を見せられたらこう思ったり考えたりするように教育されていたり、悪い意味で洗脳されている可能性もあるわけで、そんな反射神経に頼って思ったり考えたりする動作がどうやって出てくるかといえば、制度的にもたらされるのかも知れないし、技術的に考える苦労を省くような傾向があるかも知れず、それも制度に裏付けされた日頃の訓練や学習によって反射神経的な思考や感情として形成されるのかも知れないが、直接そうなるというよりは、やはりそれ自体には向かわない回りくどいやり方によって、結果的にそうなってしまうと捉えた方が妥当なのかも知れず、制度の中で人を活用するに際して、自然の崖を素手で登ろうとする人が必要なのではなく、崖を回避して崖の上まで誰もが上っていける道を作るために人が必要となれば、その制度は道路建設に関する制度になるわけだが、そうなると必要とされる人材は、崖を素手で登る技術を身につけたクライマーの類いではなく、土木関係の技術者が作業員となるわけで、それらの人たちは崖を直接登ることとは全く異なる技術を身につけているわけだ。
5月10日「差異の実感」
例えば何かの専門分野で些細な違いを大げさに強調しているように思われる場合、違いを強調している人にとってはそれが重要なことかも知れないし、その重要性を理解できなければ、違いを強調している人とは立場や境遇が異なるから理解できないのかも知れないが、ただ単にそれに関する知識や経験が足りないから理解できない可能性もあるだろうし、そもそも立場や境遇が異なればそれに関する知識や経験を得られない場合もあり、そういうことから他人が強調していることに共感したり賛同するには、それに関する知識や経験が必要になってくるのかも知れないが、その一方で知識も経験もなしに共感したり賛同してしまうとすれば、その人の口車に乗せられている可能性があり、巧みな話術や表現力によって、その場の雰囲気に呑まれて共感させられてしまったり賛同させられてしまう場合もあり、それが悪い意味では洗脳の類いと受け取られてしまうわけだが、他人から信用を得るにはそういう方面での技術が必要不可欠となるだろうし、騙そうとしているのではなく、言いたいことをわかってほしいから余計に話術や文章術やプレゼン術を高めようとするわけで、そうなることは他人に知識や情報を伝える上では必然的な成り行きとなるわけだが、そういう方面で差異ばかり意識させられていると、そうした差異の強調に慣れてしまって、いくらその種の差異を強調されても、それが大した差異でもないと感じられてしまうようなら、その差異を実感できないことにもなり、その人が生活している圏内では、その差異を意識できるような体験が伴ってこないのかも知れないが、そういう意味で差異を実感するには、その違いによって有利となったり不利となったり、快適に思われたり不快に思われたりする体験が必要となってきて、直にそれを体験してみないことには本当に差異があるかどうかもわからなければ、たとえ差異を強調する他人を信用していても、その差異は想像の域を出ない水準にとどまっているわけで、そういうところで想像上の差異と実感を伴った差異との間で、何か決定的な違いがあるような気がするわけだが、それも差異の程度や度合いによっては、何が何でも実感する必要があるわけでもなく、例えば死ぬような苦痛を味わったと強調されても、実際に死を体験したらそこで終わりとなってしまうから、比喩として死を持ち出しているにすぎず、死ぬような苦痛と死ぬほどでもない苦痛との間に生じる違いは、想像で判断するしかないわけで、これといって決定的な判断の基準が見当たらなければ、そうした基準をもとにした差異を比較できず、そうであれば言語表現によって強調される差異は想像の域を出ない差異となり、特殊な専門分野の中で差異が強調されても、大半の人はその差異を実感することはできないのかも知れないが、それでも言説の水準では差異が強調されて、そうした言説を信用するならそこに差異があることに納得するだろうし、それに対して多くの共感や賛同が集まれば、言説空間の中でその種の差異が広まるかも知れないが、ほとんど誰もその差異を実感していない可能性もあるわけで、誰も実感していないのに、いつの間にかその種の差異があるかのような先入観が世の中で定着していれば、それが偏見と呼ばれる固定観念になるのだろうし、◯◯人は◯◯だとか、◯◯国は◯◯だとかいう偏見は、誰もが共有しやすい部類に入るだろうが、一見すると偏見とは気づきにくい偏見というのも中にはあるかも知れず、それが言語表現の中でだけ通用する差異の強調となれば、一方的に言われていることなのに実感が伴ってこない物事の傾向になるわけで、そうなっていることが前提で事態が進展してくると、何かそういうところで微妙に違和感を覚えるかも知れないが、誰もがそう感じていると思い込んでいれば、自分もそう感じている必要があるような気になってしまい、そうやって大勢の実感に同調しているように装うのかも知れないが、実感が伴ってこないのだから、想像上で実感しているように装っているわけで、それが世論調査などによって示される実感であり、そういわれてみればそんな気がする程度のことかも知れないが、同調圧力としてそういう傾向が後から利いてくるのかも知れず、そこからそうでなければならないと思い込んでしまうには、そういう心境に至るまでにはそれなりの距離を踏破して、その途中でいくつもの障害を乗り越えなければならないようにも思われるが、いつの間にかそうなってしまうところが、気づかないうちにそうなってしまうとしか思えないようなことなのかも知れず、それが当然のことのように思われる意見となれば、何か世論を代表する意見となる場合もあるだろうし、中にはまことしやかにささやかれる噂のような臆見にもなるだろうが、例えば脱炭素とか言われると、それに続けて原発推進へと持って行きたい思惑も介在してきて、短い文でこうだと断言されるような内容となると、そういう断言が流行るとそれに逆らえないような空気になれば、そこから一気呵成に煽動と共に宣伝攻勢を展開したいのかも知れないが、実際にはそうはならず、そういうことをやりたい人たちの思惑がその通りに実現するわけでもないだろうが、そうなることを想像してしまうわけで、それを想像してしまうとそれに対して危機感を煽るような言動にも結びついて、それを推進したい側とそれに反対したい側との間で、そういう論争を盛り上げようとする思惑も一致して、実際にそういう方面で勝手に論争が盛り上がっているように装われるのかも知れないが、大抵の人たちはそういう装われた論争を見せられても実感が伴ってこないだろうし、その人の与り知らないところで勝手に仕掛けられているゲームにすぎないわけで、そういうことには無関心になるのも無理はないだろうが、それが無関心になるように仕向けられているわけでもないのに、逆にそういう成り行きがそういうことには無関心になるように仕向けているようにも感じられて、そこでも微妙に違和感が伴ってくるのだろうが、そのそうなるように仕向けられているわけでもないのに結果的には仕向けられているように思われてしまうことが、そうなる途中の過程で想像上の差異と実感としての差異を混同していることの証拠なのかも知れず、どちらが本当の差異でどちらが偽りの差異というわけでもないが、差異を差異として認識する際には、言語表現から想像させられてしまう差異と、実体験として実感する差異との間にも、差異があることに気づきにくいのかも知れないし、大抵の人たちはそれに気づく必要も感じられない成り行きの中で差異を感じ取っているのかも知れないが、言語表現から差異を想像している段階では、本当に差異を実感しているわけではないと断言できるわけでもないだろうが、差異の強調に関して何か微妙に違和感を伴ってきたり、それを実感していないようなリアリティを感じられない差異というのもあると見なせば、言語表現から想像してしまう差異を信じすぎると、いつの間にかはしごを外されて、誰もそんな差異は実感していなかったような結果がもたらされて、一時の流行現象の渦中で差異があるように錯覚しているにすぎなかったようなことになり、実際にそうなってしまっても何がどうなるわけでもないのかも知れないし、誰が差異を実感しようといまいとその人の勝手だが、少なくとも言語表現によって強調された差異に違和感を覚えるようなら、まだその差異を実感していないことになるのではないか。
5月9日「説明する理由」
物事を言葉で説明するだけではわかりづらければ、それ以外にも図示したり画像や映像を使ってわかってほしいことを示す場合もあるだろうが、それによって何がわかるかというと、説明したい内容がわかるはずだが、説明する側の意図や思惑を外れて、説明を受ける側が勝手に解釈してしまう場合もあり、そんなことを伝えたかったわけでもないことが伝わってしまって、それが説明を受ける側の勘違いや思い違いなのか、そうだとしても他に伝わりやすいことがあるのか、その辺が定かでないかも知れないが、説明が誤解を招きやすい内容になっている可能性もありそうで、意外とそう解釈してしまう方が正鵠を得ている場合もあるのかも知れず、それが説明する側にとって都合の悪いことであれば、説明の対象となる物事には、それを説明する側にとって都合の良い面と都合の悪い面の両面があることになるが、もちろんそのどちらでもない面もあるかも知れないし、必ずしも説明する側の意図や思惑通りには物事を理解してくれない可能性があり、わざと誤解して説明する側を困らせようとする魂胆も中にはあるかも知れないが、それを誤解と見なすか、あるいは理解の範囲内ではそう解釈することもできるということなのかは、説明する側と説明を受ける側とでは、説明の対象となる物事との関係やかかわり方に違いがあれば、それに対する理解にも差異が生じてくる可能性があるかも知れないから、それを説明する側が容認できなければ、そこから解釈や見解の相違や、さらにこじれてくれば対立や争いなども生じてくるかも知れないが、何か特定の意図や思惑を抱いて物事を説明して、そうすることによって説明を受ける側を意図や思惑通りに誘導しようとする魂胆があると、そういう魂胆を見透かされて、逆に説明する側の意図や思惑に逆らうような結果を招くこともあるわけで、そうなってしまうと困るようなら、大抵は言うことを聞いてくれないと困ってしまうだろうが、容易には魂胆がつかめないように説明に工夫を凝らすような成り行きにもなるかも知れないが、結果的に何を意図しているのかわからないような説明になってしまえば、そんな説明など要らなくなってしまうかも知れないし、なぜそんなことを説明するのか理由がわからない場合もあるのかも知れず、普通はわかってほしいから説明するのだろうが、煙に巻くような説明もあるだろうし、わざとでなくても誤解を招くような説明をしている場合もあるのかも知れず、説明しようとする対象自体にそういう傾向があるのかも知れないし、説明しようとしてもうまく説明できないから、余計に説明したくなってしまい、説明したいから説明しているという、それ以外に理由がないような説明になってしまうと、何のために説明しているのかという問いそのものを受け付けなくなってしまい、その対象にかかわるとそれについて説明せざるを得ない状況に追い込まれてしまえば、否応なくそう仕向けられてしまうような成り行きの中にとらわれていることにもなるわけで、そうなると説明している側に何か特定の魂胆があるわけでもなく、説明せざるを得ないような立場や境遇になってしまい、そういう立場や境遇に追い込まれているというか、何か他から強いられてそういうことをやっているような状態もあるのかも知れず、そうなってしまうことの是非はともかく、説明することの意義や意味や理由や動機などをはじめから明らかにしながら説明しているとしても、それとは別にそうなるに至る経緯や事情が説明に介在してくると、説明している当人の意志などを超えて、説明そのものが経緯や事情によって支配されているような状態となってくるのかも知れず、それに関して例えば、それなりに必然的な経緯や事情から、特定の自動車メーカーによって自動車が生産されて販売されると、その自動車について説明する立場の人が説明する成り行きが生じてきて、それが自動車の広告宣伝であれば、それについて説明する理由や目的がはっきりしていることになるが、それがその自動車の性能や機能やデザインなどの評価となると、評価が良ければ生産や販売などの目的と一致するから受け入れられるとしても、評価が悪いと生産や販売する側には受け入れられないし、できればそんな評価はしてほしくないだろうが、自動車を買う側の消費者にとっては、評判の悪い自動車を買うのはいやだから、時には自動車メーカーから嫌われるような悪い評価を下す辛口評論家のような人の方が信用がおけるような気がするのだろうが、広告宣伝や評価の良し悪しとは別の方面から自動車について語ろうとしても、好意的に語れば広告宣伝の機能を果たすことになるし、否定的に語れば自動車の悪口を言っていることにもなるだろうし、どう語ってもどちらか一方に受け取られてしまう水準があり、別に宣伝したくて語っているわけでもなくても結果的に宣伝になってしまえば、当人の意図や思惑には関係なくそうなってしまうわけで、そうなるとそれを生産した経緯や販売する事情の方が、それについて語ろうとする人の意志に勝っていることになり、語っている当人にはどうすることもできない経緯や事情に支配されていることになるだろうが、そういう面ではそうであっても、それについて語りたい人が勝手に語っている状況も一方にはあるわけで、それが何のために語るという意識が希薄であれば、何となくであってもかまわないだろうし、何となく語るのが面白そうだから語っていても、それが特におかしいわけでもなく、特に理由や動機など明かすことなく語っていても、内容次第では何とも思われないだろうし、そういう意味では理由や目的の不明確な語りには、当然のことながら理由や目的に縛られない自由があって、そんな自由に何の価値もありはしないだろうが、それをどう受け取ってみても、どう受け止めるかも受け止める側の自由であり、どう受け止められてもかまわないような内容であれば、その内容が問題視されるようなことにもならないはずだが、それでも強引に難癖をつけて問題視したいような思惑が生じてくると、それが難癖をつけたい側に特有の事情であったり、難癖をつけるに至る経緯がそこに生じていることになるのだろうが、そういう事情や経緯がどこから生じてくるとしても、それもそれについて語っている側にはどうにもできないことであれば、そんなことをいちいち気にしても仕方がないことになって、どう受け止められても無視することができれば無視するだろうし、無視できなければ何らかの反応が伴ってくるわけだが、反応から対応や対処へと発展することもあるかも知れないし、ただの反応にとどまるだけの場合もあるだろうが、そういうところから新たな経緯や事情が生じてきて、そこからその場の状況が何らかの進展を示す成り行きなる場合もあるだろうが、それだけにとどまらない限りでそうなるとしても、他の物事やそれにかかわっている人や団体などとの関係の中でそうなってくると、そこからも特有の経緯や事情が生じてきて、それがそれについて語る理由となってきたり動機となる場合もあるだろうし、そういうしがらみの類いが語る自由を奪って、しがらみ自体を説明しなければならない成り行きも生じさせて、それがそれについて説明する理由になる場合もあるだろうし、他にも様々な理由が生じてきて、その中でどの理由を優先させて説明するかでも、自らに生じている経緯や事情に照らし合わせて判断しなければならなくなれば、そうなっている時点で自らの意志ではどうにもならないことがわかってくるのではないか。
5月8日「予想通りの結果」
将来の状況を予想して、予想通りの状況になる場合もあるだろうが、これからどうなるかわからないのは、現状ではわかっていないことがこれからわかってきたり、何か思いがけないことがこれから起こる可能性もあるからだが、実際にわからないことがわかったり思いがけないことが起こったのに、それがわかったり起こってから、そんなことはわかっていたと言い放ってみたり、起こったことが起こるのを予想していたり予言していたと主張する人も出てきて、わかったり起こったりした結果を予想通りの結果だと言える成り行きもあり、そういう反応が出てくること自体が予想通りの結果だと言えるかも知れないが、たとえそれが本当に予想通りの結果であっても、それ以外の言及されていない面では予想されていないことが起こっている場合もあり、これから起こる全ての出来事が前もって予想されているとは誰も思わないが、何らかの出来事が起こった後から、それが起こることを予想していたと主張したくなるような出来事が実際に起こるのであり、そうであるなら世の中ではそれが起こることを予想していたと主張したくなるような出来事と、そうは思わない出来事の二種類の出来事が起こっていると思いたくなってくるが、実際にはそれ以外の出来事も起こっているのかも知れず、その中にはそれが起こったことすら気づかない出来事も起こっているだろうし、起こったことに気づかないから、それがわからないことでもあり、実際にわからないことが起こっていれば、それが予想外の出来事であったり、現状では確かにわからないが、これから何らかのきっかけからそれがわかってくる可能性もあり、わからないことが起こった後からでも、いったんわかってしまえば、起こる前からわかっていたことだと主張したくなる人が出てくるのであり、そうやって何とかしてわかったことを利用して自らが優位な立場になりたくて、そんな主張をしたくなるのかも知れないが、そんな主張が出てくること自体が予想通りの結果でもあり、そんな主張が出てくるのは前もってわかっていたことだと断言したくなってしまうのかも知れないが、そう言いたくなってしまうこと自体が言動の先回り傾向を示していて、何とかして起こったことに乗じて、しかも起こったことに先んじて、それに対する言動が起こったことに先回りして言われていたように後から装いたいわけで、それが起こるのを前もって予想していた状況を打ち立てたいわけだが、起こるより先に言っていたことを証明できれば、言ったことの方が起こったことより勝っているような印象を得られて、誰よりも先んじて言った人が有利になれると思いたいのかも知れないが、それが本当に有利な状況なのかと言えば、そういうことを言う人が出てくることが予想通りの結果でもあり、そんなことを言って予想通りの結果を招いてしまうこと自体が、そんな状況を理解していないことの証拠ともなり、そこで何を理解していないのかと言えば、そんなことはわかっていたとか、そんなことが起こるのはわかっていたと言ってしまうような予定調和の成り行きに意識が絡め取られていることに気づいていないわけで、しかもそれで終わりとはならず、そう言ってしまった後からさらに新たな出来事が続いて起こると、出来事が起こる度にそんなことが起こるのはわかっていたと言わなければならなくなり、延々と後付け的に同じような言動を繰り返すことにもなるだろうし、そうやって同じ言動を延々と繰り返す度に飽きられてくる可能性が高まり、また同じことを言っているという印象を持たれてしまえば、出来事に先回りして言っている印象から生じる優位さもなくなって、いつの間にかありふれた紋切り型の言説を駆使するどうでもいい人々のうちの一人に堕してしまうかも知れず、そうなってしまうこと自体も予想通りの結果だと言えるかも知れないが、述べている内容が予想通りの結果に含まれてしまうこと自体が、それが出来事に対する予想通りの反応であり、紋切り型の反応でもあるわけで、さらには新たに起こる出来事の新しさを理解していないことの証拠ともなるわけだが、またそれが過去と同じことの繰り返しを期待していることの表れでもあり、出来事の新しさを感じ取る感性がないことも示していて、しかも過去と同じことが起こるのを期待しているという自覚もないのに、さらには過去に起こった出来事と同じようなことがまた起こると予想しているわけでもないのに、予想自体が過去に誰かが予想していた内容に似てきてしまうわけで、そうなることを期待するからそういう予想や予言になってしまうという自家撞着に陥っていることにも気づかずに、そうなることはわかっていたという内容自体には、過去に起こった出来事が繰り返されることが含まれているわけでもないのだが、そうなることはわかっていたと繰り返し発言することが、しかもその人が同じ発言を繰り返すわけでもないとしても、他にも似たようなことを発言している人がいるわけで、複数の人の間で示し合わせたわけでもないのに、そんなことはわかっていたとか、そんな出来事が起こるのはわかっていたという発言が共有されてしまうから、そういう発言が紋切り型となってしまい、そんな発言が方々で繰り返されるから、出来事に先回りして発言していることの優位さも薄れてきて、結果的にはそういう発言がありふれている印象と共に飽きられてしまうことが、予想通りの結果となってしまうわけで、そうやって何かが起こる度に予想通りだとか想定内だとか強がっているように受け取られる発言を繰り返す人が後を絶たなくなってしまい、そういう発言にすがりついてしまうこと自体が人としての弱さを露呈させる結果にも結びついてしまうのかも知れず、もっと素直にこれまでに経験したことがない未知の事態に直面していることに驚くべきかも知れないが、その一方で信頼しているのは長年の経験の中で培ってきた自身の勘であり、過去と連続している時間の中で勘に頼って、あるいは計算や計測によって、その延長上で起こる出来事を予想してしまうのであり、しかも予想通りの出来事が実際に起こるわけだから、自らの勘や経験や知識を信じないわけにはいかないだろうし、そうなってしまうことは予想通りなのだから、それでかまわないはずだが、全てが予想通りとはいかないこともわかっていながら、そうなった後からそうなることはわかっていたと思いたくもなり、そう思うことによって自身に都合の良い未来を思い描いていることと、実際に体験しつつある現実との間に生じている溝を埋めようとしてしまうわけで、逆に溝を埋めずに、自身に都合の良い未来を思い描いていること自体を、たわいない夢想にすぎないと突き放してしまうことができるかというと、心の片隅で抱いている願いが叶うのではないかという漠然とした期待を捨てる気にはなれないだろうし、そういうところで自分を信じるべきか否かを巡って心が揺れ動いているのかも知れないが、それをどちらか一方へと振り切ってしまうと、思考の中で論理の単純化が起こり、こういうことにはこういう対応をしておけばいいと割り切ってしまうようなことをやってしまうわけで、実際にそうなってしまった人の方がわかりやすいかも知れないが、それも外部的な事情や経緯からそうなってしまうのを食い止められない場合もあるだろうし、そうなってしまった人が一概におかしいわけではなく、人をそんなふうにわかりやすい人間に改造するための制度や慣習や仕組みが社会の中で幅を利かせているわけだ。
5月7日「経済活動の成果」
現状の世界でおこなわれている経済活動が、議会の立法活動や行政の統治活動によってある程度は制御されている面があるとしても、経済的に貧しい境遇にある人々を政治や行政によって豊かにすることができると主張することもできるが、経済活動自体が豊かさと貧しさの両方の境遇を生み出していることも確かで、人々の間に格差をもたらすのが経済活動の成果と考えると、それが経済活動の結果として生じるわけだから、そういった主張を額面通りに受け取れるかというと、何か違和感を覚えるのだが、これまでにも政治や行政によって経済活動の行き過ぎを規制する措置が講じられてきたことは確かであり、それが経済活動の制御だと見なせるだろうし、また経済活動を促進させる措置も講じられてきたのだろうが、国家単位でそういうことをやると国ごとの経済格差が生じて、貧しい国から豊かな国へと移民が押し寄せることになり、それが国際的な問題へと発展してきたわけで、また貧しい国でのテロや内戦を誘発しているのが、豊かな国の経済活動だと言えるかというと、それもそういう面もあるだろうし、経済活動をやめることはできないし、やめさせることもできないだろうが、政治や行政による経済活動の制御にも限界があるというか、政治や行政自体が経済活動と一体化していて、政治や行政も経済活動をおこなっているわけで、経済の論理に支配されている面があるのだろうが、政治や行政によって貧しい人々を豊かにしようとすると、経済の論理とは矛盾してきて、それによって経済活動が阻害されてしまう可能性があるから、そういうことはやりづらいのかも知れないが、貧しい人々を支援することはできるだろうし、また貧しい人々が国の中で多数派を占めている場合には、特定の党派や勢力が貧しい人々から支持されて、議会で多数派を占めて、大統領や首相や大臣などの行政の長をそれらの党派や勢力から出すことになるだろうが、そうなれば貧しい人々が豊かになるかというと、むしろうまく行かずにさらに貧しくなることの方が多く、それよりは地政学的にも歴史的にも経済活動をおこなう上で有利な地域と不利な地域があって、有利な地域に位置する国では豊かになる一方で、不利な地域に位置する国では一向に豊かにならず、そういうことからも政治や行政の力だけで貧しい人々を豊かにすることの難しさがわかるはずだが、その状態も歴史的な変遷の中で絶えず変動していて、好景気と不景気が周期的に巡ってきたり、ある時期にはうまくいっていても別の時期にはうまくいかなくなったりして、それも政治や行政による経済運営のまずさからそうなる場合もあるのかも知れないが、主張としてはそういう主張をしやすい状況となっている時期もあるだろうし、またそういう主張が民衆の支持を集める時期もあるだろうが、実際にそういう主張をおこなって、そういう主張をする勢力が議会で多数派を占めて、行政の長を多数派の中から出しても、それによって経済が持ち直すかどうかは、時期的にも情勢的にも、ちょうど経済が持ち直しつつある時期に、うまい具合に政権交代などのタイミングが重なれば、政治や行政によって経済が持ち直したような印象を得ることができるだろうが、実際に過去にもそうなったケースもいくらでもあったのかも知れないが、たぶんまやかしの類いに思われるかも知れないが、経済活動が停滞している時期にはそれなりの政策がこれまでにもいくらでも政治や行政の方面から講じられてきたはずで、これからもそういうことがおこなわれていくのだろうし、それによって実態はともかく印象としては政治や行政が経済の舵取りをやっているように装われるのだろうが、それはあくまでも直接制御しているのではなく、間接的に影響力を行使しているわけで、中国のような強権的な行政形態や政治体制であれば、出すぎた杭が打たれるように、行き過ぎた経済活動に対して、企業や企業経営者を直接痛めつける成り行きになるが、それも氷山の一角のような見せしめ的な行為にすぎず、そこから経済格差から生じる貧困問題が解決するような成り行きにはならないわけだが、そんな根本的には解決できないようなことを政治の領域で解決できると主張することはできるわけで、そういった主張を支持したり主張している政治家や政治勢力や党派を応援することもできるから、そうやって政治にかかわっている面では問題に取り組んでいるような気になるものの、そこから先の到達点として実際に問題を解決するに至るかというと、そういった過程にとどまろうとするのだろうが、とどまっている姿を見ているだけでなく、それにかかわって参加する人も後を絶たないだろうが、そういった活動も経済活動を伴っていて、経済活動の中でおこなわれる活動となるわけで、そうなっている以上はあまり物事を単純化するわけにはいかなくなり、しかも経済活動をおこないながら経済問題を解決してみせると豪語する輩の商売に引っかかっていることにもなるだろうから、それが根本的な矛盾をはらんでいることに気づいていながら、それをどうすることもできないようなジレンマに襲われているのかも知れず、そうしたジレンマを解消することもできないとすれば、何かそういうところで事態がもつれてこんがらがっていて、そういうもつれやこんがらがっている状況から目を背けるには、やはり単純なことを主張するしかないだろうし、問題の範囲を絞って、狭い範囲内で主張できることだけを主張していれば、ジレンマも感じないし、矛盾していることにも気づかずに済むのかも知れないが、そういう主張がまやかしだとは思えないにしても、部分的な範囲内で通用する主張だと見なしておけば済むことかも知れないが、それを具体的な事例に照らし合わせて評価したりしなかったり批判したりしなかったりすることもできるとしても、そこまでやる必要を感じなければ実際に議論や言説の対象とはならないだろうし、それはそういうこととして支持したりしなかったり無視したりしなかったりすれば済むことかも知れないが、それとは別のレベルで人や企業などの経済活動がおこなわれていて、それに政治や行政も介入してくるのだろうが、それが経済活動であるだけにうまくいく時もいかない時もあり、うまくいかなくなって貧困に陥れば、行政による救済措置なども必要に応じて講じられるわけだが、その必要というのが貧困に陥った人にとっての必要なのか、行政にとっての必要なのかがずれている場合もあるだろうし、行政にとって必要でないと判断されれば、貧困に陥ってもそのまま放置されて、結果的に貧困に陥った人々が行政から見捨てられてしまうのだろうが、それも経済活動の結果としてある程度の貧困が生じるのはやむを得ないとみれば、実際に失敗して貧困に陥ってしまった人々は納得しないだろうが、行政から見捨てられたと判断するなら、そういうことでしかなく、見捨てられたくなければ、直接的には自分たちで政治勢力を結成して、政権獲得を目指すしかないだろうが、それができる状況かというと、そういう人々に利用価値がなければ、政治的にも見捨てられる一方で、そういう人々の利用価値に目をつける勢力も中にはいるわけで、それが伝統的には国家主義的な右翼勢力であったり、労働組合的な左翼勢力でもあるわけで、そういう勢力が貧困問題を解決できた例しがあったかというと、解決の内容にもよるだろうが、少なくともうまくいった例しがないとみるのが妥当なところなのかも知れない。
5月6日「状況のわかりにくさ」
物事の成り行きにはそこに至る経緯やその場の事情やそれが成り立っている条件などが作用しているのだろうが、それらの経緯や事情や条件などがわかったところで、偶然にそうなってしまう成り行きもあり、必然的にそうなるとはいえない面もあるのだろうが、そうなった結果からその場の成り行きを説明すれば、そうなった経緯やその場の事情やそうなる条件などを挙げて、だからそうなったと必然的にそうなる面から説明することになってしまい、そういう意味では物事の成り行きの全てを必然的な面から説明しきれるわけでもなく、それだけでは不完全な説明になってしまうのだろうが、説明しなければならない成り行きになってしまえば、必然的にそういう説明になってしまうのかも知れないし、それはそれで仕方がないだろうが、そういう説明で納得できるかというと、納得できる面もできない面もあるだろうし、それが偶然にそういう結果になってしまえば、そうなってしまうことを必然的な面からだけではうまく説明できないかも知れないが、納得できなくても必然的にそうなるとは思えなくても、そんな説明には違和感を覚えるとしても、実際にそうなってしまうことが、うまく説明できないような成り行きとして体験されれば、どう説明してみても違和感を覚えるような成り行きがあることを認めざるを得ないだろうし、説明と実体験との間に差異やずれがあることをわかっていても、それを説明する成り行きになれば、わかりにくい実体験をわかりやすく説明することの難しさを思い知るかも知れないが、必然的にそうなる面からわかりやすく説明する成り行きになってしまえば、そういう説明ではフィクションになってしまうとしても、そんなふうにしか説明できないことを認めざるを得ないようなもどかしさを覚えるとしても、納得できなくても否応なくそういう説明になってしまい、説明がわかりにくいままでは困るからわかりやすさを優先させれば、必然的にそうなるしかないような断言口調の説明に終始するしかないわけだが、それを説明と解釈するのではなく、その人の主張だと解釈すれば、それでもかまわないようにも思われるだろうし、主張しているならそう思っているということであり、他の誰かはそうは思わないかも知れないが、そういうことを主張している当人はそう思っていると受け取っておけば、そういう主張に納得しなくても受け入れなければ特に問題はないようにも思われるが、主張している側はそういう主張に納得してほしいだろうし、主張を受け入れてほしいわけだが、納得しないし受け入れないとしても、主張を受け流して特に反論しなければそのままになってしまうだろうし、それが説明であっても主張であっても、わかりやすくてもわかりにくくても、納得できてもできなくても、反論しなければ受け入れたことになるわけでもなく、特にそれについて議論する成り行きにならなければ、反論も批判もされず、そういう主張は放っておかれる場合も多いのかも知れないが、利用価値があるように思われれば放っておかれることはなく、何らかの方面で利用されることになるのだろうが、その利用のされ方が煽動や宣伝に使われる場合も多いだろうし、一方的なことを主張するからそれが煽動や宣伝になるわけで、説明から主張になって、それが煽動や宣伝にまで至ると、それだけ偏向の度合いが高くなってくるわけで、そういう形態の言動があるわけだから、それもそういうことだと受け止めるしかないだろうし、煽動や宣伝になってしまうからといってそれを懐疑的に見たり否定することもなく、そういう方面ではそういう主張が使われると認識しておけばいいわけだが、そういった言動においては何に重点を置くかで、その傾向や方向などが異なってくるのだろうが、それはあくまでも言動の範囲内での傾向や方向の差異となるだろうし、それが言動をもとにした実践となってくると、言動外の別の要素や要因も介在してきて、言動だけではどうにもならない経緯や事情や条件などが伴ってくるわけで、いくら言動にわかりやすさや説得力が伴っていても、一方的に偏向した煽動や宣伝などの主張の方が魅力があるように感じられてしまう場合もあるわけで、多くの人がそういう傾向に感化されてしまうと、世の中がそれで通用してしまう成り行きになってしまい、それがポピュリズムと呼ばれる政治思想によってもたらされる大衆的な現象なのかも知れないが、そうなると否定的な傾向で状況を捉えることになるだろうが、そうなることが間違っていると感じてしまうと、では他にやりようがあるのかと問われると、返答に窮してしまうかも知れないが、そういう方面では正しい傾向というのがあり得ないのかも知れず、正しいとか間違っているとかではなく、そうならざるを得ないような傾向の中で、いかに効果的なことを仕掛けられるかが、そういう方面では重要になってくるだろうし、そうした仕掛けがその場の状況の中で功を奏して利益を得られれば成功したことになり、そういう場合には正しいか間違っているかよりも、成功するか失敗するかという結果で事の成否が判断されて、成功するためなら手段を選ばないという傾向になってくれば、それだけ無理が通用してしまうわけで、実際に世の中の混乱に乗じて無理なことがおこなわれる情勢になってくれば、それに呼応して煽動や宣伝の内容もより一層過激で偏向した傾向になってくるのだろうが、果たしてそういった傾向がどの程度世の中で受け入れられるかが、そういう方面での煽動や宣伝の成否を判断する上での目安となってくるにしても、その一方でその場の偶然に左右されるようなうまく説明も断言もできない成り行きも絡んでくれば、断言口調で一方的な傾向を押し通す試みがうまくいかなくなり、先行きの見通しの利かない混沌とした状態になってしまうかも知れず、それがわかりやすい形で現れるのが内戦の泥沼状態でもあるのだろうが、そういったわかりやすい状況となることも現状では稀なのかも知れないし、むしろ目立ったことは何も起こらないような状況となってしまうと、そこで何がおこなわれているのかはっきりしなくなり、何事もはっきりしないまま様々な物事がうやむやとなってしまうようなことになって、一方的な煽動や宣伝も大した効果も上げずに空振りに終わっているようだと、結果的にはそういう方面での仕掛けが失敗していることになるのだろうが、別に失敗したからといってそれがどういう結果ももたらさなければ、それもうやむやになってしまい、そんな試みは無視されて忘れ去られるより他はないのかも知れないが、そんな状況の中では誰がどんな勢力が主導権を握っているわけでもなく、それでも何か特定の人物や勢力が主導権を握っているように装われるのかも知れないが、そういう人物や勢力に何らかの権限や権力があるとしても、それもその場の状況や情勢に従う限りで発揮される権限や権力になるだろうし、それは主導権を伴わない権限や権力となり、一見そんな権限や権力があるようには思われないかも知れないが、それらの人物や勢力の都合や言い分を反映した勝手な仕掛けが通用しない状況や情勢となってくれば、その場を支配するような力が生じないだろうが、それでもその場の状況や情勢に従っている範囲内では、やれることがそれなりに出てくる成り行きにもなるわけだ。
5月5日「期待が裏切られる」
技術的に解決可能なことはその技術を使って解決すればいいはずだが、他の方法で解決可能なのかというと、果たしてそれで解決したと見なしてもいいのかということが、人によって判断や見解が異なるようなら不明確になってくるかも知れず、どういう状態からどういう状態へと移行すれば解決したことになるのかが、よくわからない場合があるかも知れないが、問題の解決にこだわらなければ、解決しなくてもかまわない場合もあるかというと、何が問題なのかもよくわからない場合には解決も何もなく、何も問題でなければそもそも疑念など生じてこないだろうが、疑わしいことが問題だとは思わないのかも知れず、疑わしいのにそれを容認するようなことになれば、それを容認することが問題だと思われてしまうだろうが、疑わしいことをやっているから信用がおけないとしても、もしかしたらそれがうまくいって多大な成果をもたらすのではないかと期待させるようなことであれば、疑わしさよりも期待の方が勝って、たとえ問題があっても容認する場合も出てくるのかも知れないが、詐欺と紙一重のような怪しいことをやっているようだと、そういうことにはかかわらない方が身のためだと思われるだろうし、期待すればそこにつけ込んで騙そうと仕掛けてくるようなら、疑い出すときりがなくなるにしても、疑うことと期待することが矛盾していても、疑いながらも期待しているわけで、何を疑っているのかといえば、期待させるようなことを疑っているわけだから、それの何が問題なのかといっても、期待すること自体が間違っているだろうし、実際に期待を裏切られて騙されるようなことになれば、騙されるようなことに期待する方が悪いと開き直られると、そんな気がしてしまうのだが、そうかといって疑っているだけではらちがあかないから、期待しないわけにもいかなくなり、実際に期待させるようなことが起これば、何かしら期待せずにはいられなくなり、いくら期待を裏切られても、新たに何かが起こる度に性懲りもなく期待してしまうわけで、そうやって何かを期待せざるを得ない状況に追い込まれてしまうといっても、追い込まれていることに気づけるわけでもなく、それが何なのかもよくわからず、何を期待しているのかもよくわからないのに、そこから何かがわかってきて、何かを期待するから、その期待が裏切られてしまったことがわかるはずだが、実際に何を期待していたのかも覚えていないのに、期待外れな結果がもたらされたことに気づいてしまうはずもなく、期待を忘れさせるような何が起こったわけでもなく、何を期待していたわけでもなかったのに、期待を裏切るような結果がもたらされたことには気づいてしまい、そんな理由も根拠も不確かなことに気づいてしまうのだから、頭の中で何かがこんがらがっているのかも知れず、何も期待していなくても、期待が裏切られたと思ってしまうこと自体がおかしいのであり、自らが嘘をついていることに気づかず、自分で自分に暗示をかけているのだとしたら、暗示をかけている自分に自分が気づけないという自己矛盾が生じているのかも知れないが、別に期待外れでもかまわないのに、期待が裏切られたいという実感を抱いているとなると、期待外れと期待が裏切られることの間にどのような差異があるのかと問うならば、期待に対するこだわりの強さが違うのかも知れず、期待外れでもかまわないと思う時には、それほど期待していないのかも知れないし、裏切られてもかまわないような淡い期待でしか抱いていないのに比べて、期待が裏切られたことを強く実感する時には、本気で期待していたことが裏切られてしまったから、強い憤りと共に裏切られたことを公言してはばからないというか、そんな差異など無視できるような状況もあるのかも知れないが、裏切られたことを強調したいのだろうし、なぜ期待していたのかがよくわからなくても、事前に何を期待していたわけでもないのに、なぜか期待を裏切られたように思われるのはおかしいはずだが、気に入らない何かが起これば、それとは反対のことが起こるのを期待していたように装うのかも知れず、そういう演技の延長上で期待が裏切られたと言いたいのなら、やはり嘘をついていることになるのだろうが、それを嘘だと自覚できなければ、事前に何を期待していたわけでもないのに期待が裏切られたような気になってしまうのかも知れず、そういう否定的な意味での期待が裏切られることの他にも、肯定的な意味で期待が裏切られることもあるだろうし、そういう良い意味で期待が裏切られるなら、それに越したことはないだろうが、逆に期待通りの結果がもたらされるとどうなるのかといえば、とりあえず満足はするだろうが驚きはないことになるのかも知れないが、期待通りであることを強調したいとなると、思い通りであることを誇りたいような、思惑通りに事が運んでうまくいったことを自慢したいような、自己中心的な願望の成就を示していることにもなるのかも知れず、そういう意味では自らの働きかけが功を奏すれば、期待通りの結果を得られるのだろうが、他人が期待通りのことをしてくれれば、その人とは味方同士の関係だと言えるだろうが、逆に期待を裏切るようなことをやられると、それを批判したり非難したくなるだろうし、険悪な雰囲気になりやすいが、他人に対して期待をかけていることが、自らの勝手な願望を他人に投影しているだけであれば、単なる独りよがりな思いを抱いていることにしかならないだろうが、多くの人が特定の人物に期待をかけている状況になると、何らかのメディアを通してそうなっている場合があるだろうし、世間的な話題の中で注目を集めている人物がいて、その人物に対する期待がメディアを通じて世間に広まっている状況を思い浮かべればわかりやすいが、そういう期待というのは内容的にもわかりやすいし、何か特定の分野で輝かしい成果を上げることが期待されているとか、その手のものなら多くの人が抱くのにふさわしい期待となるのだろうが、そんな期待の他にどんな期待があるかといっても、そういうことの延長上でならいくらでもそういった類いの期待がありそうに思われるが、期待値が高ければ高いほど、やっていることがうまくいかなかったり失敗すれば、期待を裏切ったことになる程度も強く、大きな失望感にとらわれるのだろうが、多くの人がそういう傾向へと誘導されてしまうことが何を意味しているのかというと、期待していないことには無関心になれということであり、そういった方面での期待の内容が何を対象としているかに注目してみれば、そういった期待とは無縁な方面で起こっていることに無関心の対象となる領域や物事がかかわっていて、それらに無関心であることが、それとは違う方面での期待を抱かせると共に、無関心の対象に気づかないから、それらが作用して期待を裏切るような結果をもたらしているとしても、期待を抱いている対象以外には意識が向かわず、それ以外の対象からの作用を感知できないから、期待を抱いている対象だけでそんなことが起こっていると思われてしまい、その結果として期待通りのことが起こっても期待を裏切るようなことが起こっても、期待を抱いている対象がそれを起こしたと思われるだろうし、それ以外にもそれと似たような物事がいくらでもあるとしても、それ以外の物事は意識を向ける対象とはならないわけで、そういう意味では期待している物事が何かの一部分を構成しているのだろうが、それだけに期待している限りで、それを含んだその全体像を把握することはできないのかも知れず、だから期待が裏切られるといっても納得しないだろうが、裏切られてしかるべき原因がそこにあるのかも知れない。
5月4日「苦難に耐える」
何か失敗が度重なると勘が狂っているように思われて、自分を信じられなくなり、そうかといって勘に頼りすぎて思考力が欠けているように思われると、何かをやる前にできるだけ考えようとして、考えている間に機会を逸して動作が遅れてしまって、結果的に失敗の悪循環に陥っているような状況となってしまい、そんなことの繰り返しによってますます自分を信じられなくなってしまえば、自分に合っていないことをやっているのではないかと、自分ではなく行為そのものを疑い始めると、ではその代わりに何をやればいいのかわからなくなってしまうし、些細なことを疑い出すときりがないにしても、やっていることがうまくいかなくなってしまえば、うまくいかない原因を突き止めようとして、まずは自らの行いを疑い始めてしまい、失敗の原因が自らの内にあるのではないかと思ってしまうわけだが、そんな疑心暗鬼にとらわれてしまうことがうまくいかない原因なのかも知れないが、少なくともそんなことを思っている時点でうまくいかない原因をわかっていないのであり、わからないのだから仕方ないとしても、仕方がないでは済まないようなことになってしまうと、うまくいかない状況を打開しなければならないのだろうが、打開したくてもできないままになってしまうと、打開しなくてもかまわないような状況に持って行きたくなるわけでもないだろうが、なし崩し的にそうなってしまうとしたら、そうなるのが自然の成り行きのように感じられるとしても、やっていることがうまくいかないなりにも、うまくいかないことを続けようとして、何かそれが苦難に耐えているような状況となってしまうわけだが、耐えられないようことに耐えているわけでもなく、実際に耐えられる程度のことに耐えている状況があるとすれば、うまくいかなくても一向にかまわないような状況にもなっていると言えるのかも知れず、その程度の苦難に耐えることが活動そのものになって、そういう水準で苦難に耐える活動が成り立っていることになるのだろうが、なぜ苦難がもたらされるのかといっても、うまくいかない原因がわからなければ、わからないから苦難に思われるのかも知れないし、わかってしまえばどうということはないのかというと、それはわかった内容にもよるだろうが、わからないままではひたすら苦難に耐えるしかなく、苦難に耐えながらうまくいかない状況を乗り切れるかというと、乗り切ってみないことには何とも言えないだろうが、乗り切る途中の段階でそんなことを思っているわけで、乗り切ってしまえばもうその時点では苦難ではなくなってしまい、それが苦難に感じられるのは、苦難を取り切る途中だからそう感じられて、その時点ではなぜそうなってしまうのかよくわからないまま苦難に耐え続けているのかも知れず、なぜ耐えているのかその理由もわからない状況にも耐え続けているのかも知れないが、そうやって絶えず疑念を抱き続けて、疑心暗鬼のただ中にいるからそれが苦難にも感じられて、うまくいかない原因もわからず、自らのやっていることに対する疑念も解消しないまま、ひたすら苦難に耐える状況となってしまえば、うまくいかないのも当然に思われてくるわけだが、そうなるとうまくいかないことの原因が苦難そのものだからというと、それもよくわからないところであり、仮にそうであったとしても、苦難をどうすることもできず、ひたすら耐えるしかない状況になってしまうのかも知れないが、苦難を乗り切ろうとしている最中ではそう思われてしまい、それが苦難となってしまう原因がよくわからないまま、いつの間にか苦難と活動が一体化している状況に慣れてしまうのかも知れず、それを何とも思わないわけでもないだろうが、苦難とはその程度の苦難であり、その程度とはどの程度なのかもよくわからないだろうが、耐えられる程度の苦難に耐え続ける活動がそこで成り立っているわけで、それを自家撞着と捉えるとしっくりくるわけでもないだろうが、誰もが耐えられる程度の苦難に耐えるように誘導されているわけでもないのに、苦難が待ち構えているとも思われないところで苦難を強いられてしまうと、何かそれが罠であるようにも思われて、誰かに陥れられたような被害妄想を抱いてしまうのだろうが、そういうところであまりにも原因の追求にこだわってしまうと、犯人捜しのような単純化に活動が陥ってしまうわけで、そういった疑心暗鬼から犯人捜しへの移行が刑事ドラマ的な典型例を形作るわけだが、そうなってしまうとまずいのかというとそういうわけでもなく、むしろそうした方が活動がしやすくなるだろうし、そこから犯人を特定して攻撃を加えるような成り行きへと持って行ければ、問題の解決に近づくような気がするわけで、そこで気がするというのが、それだけではなく、本当にそれで問題が解決するのかというと、とりあえずの問題は解決するのかも知れないが、それがとりあえずではなく、全面的な問題の解決になるかというと、そもそも全面的な問題の解決とは何かというと、それがよくわからないわけだが、うまくいかないことをうまくいくようにするということが、犯人捜しのように問題を単純化することになるかというと、わざとそういう方向へ持って行きたいわけではなくても、原因を追求していくうちに、自然とそうなってしまうのかも知れず、それが苦難から逃れる方法ともなると、何か手っ取り早く犯人捜しをやってしまうわけだが、例えばそれが国家レベルでは、何か悪いことをやっている犯人がいくらでも見つかってきて、中国やロシアやイランやシリアや北朝鮮やミャンマーなどの政府やその代表者などが、悪者として名指しされやすいわけだが、そういうレベルではそれでもかまわないのだろうが、国家の統治形態として構造的にそうなりやすい面があり、そういった傾向になるのが避けられないといってしまうと、実際に避けられている国もあるのではないかと反論が出てくるかも知れないが、いったんそうなってしまった状態から抜け出すことができるかとなると、何かしら試みられるのだろうが、そういった試みがうまくいっていないから、そういう状態の国家がそれなりに生じてくるわけで、それを国家という統治形態が必然的に抱え込んでいる欠陥と見なしても、それを解決することができるかというと、実際にもうまくいっていないわけで、一応は解決に向けて努力している最中なのだろうが、それが苦難に耐えている最中にもなっていて、そんな苦難の中で被害妄想にとらわれているだけではなく、実際に被害や損害を被っている人や集団もいる一方で、その反対に利益を享受している人や集団もいるだろうし、そんな人や集団の間で犯人捜しのゲームや戦いのゲームが繰り広げられているのだろうが、それも苦難が続いている間におこなわれる活動となるだろうし、そこで生じている苦難がそれらの人や集団の活動そのものになっているというと、何か本末転倒のような感じもしないではないが、進んで苦難を引き受けているわけでもないのだろうが、それが苦難にならざるを得ない成り行きになってしまうのが避けられないから、必然的に苦難に耐えるしかないといってしまっても、何か釈然としないわけで、苦難をもたらしている原因が分かりきっているのに、その原因から目を背けるために犯人捜しをやってしまうといっても、納得がいかないだろうが、そんな現象をどう捉えてみても、そこで生じている苦難がどうにかなるわけでもなく、今後ともその種の苦難に耐えるしかないような立場の人や集団が存在し続けるのかも知れない。
5月3日「変える対象」
その場の成り行きで自然に変わっていってしまう物事を恣意的に変えようとして変えられると思うのも無理はないし、変えようとして変えられる物事があるのも確かで、実際に変えているのだろうが、それを変えようとすることと変わっていってしまうことを同一視するわけにもいかず、同一視していないと思っていても同一視していて、実際に何と何を同一視しているのかといえば、変えたいと思っている物事が、実際に変えようとしている物事だと思っていて、それとこれとを同一視していることになるのだろうが、それとこれとが同一の物事でないとすれば、それがどういうことなのかといえば、変えたいと思っている物事が、変えようとしている物事とは違うのであり、その違いを意識が把握できないわけだが、なぜ把握できないのかというと、変えたいと思っている当事者と、変えようとしている当事者が異なる場合があり、変えたいと思っている当事者が変えようとする当事者にはなれない場合があり、あるいは変えようとして指示や指令を出すのだが、実際に指示や指令に基づいて変えようとする当事者が、指示や指令とは別のことをやっている場合があり、変えたいと思う役割と、変える役割が分割してしまうからそうなってしまうのだろうが、変えたいと思って変える当事者にはなれなくても、変える対象となる物事が一致していれば問題ないはずだが、大抵は両者の間で思惑の違いが生じてきて、変える対象となる物事の中身が変わってきてしまい、結局は当初に変えたいと思っていた物事とは似ても似つかない何かが変わってしまい、あるいは変えたいと思っていた思いがはぐらかされて、変える以前の状態に逆行するような結果がもたらされて、変えようとしたことが逆効果をもたらしてしまうこともあるだろうし、そうであるなら自然に変わるにまかせる方が変わりやすいのかも知れないが、必ずしも思惑通りや思い通りにはならないから、無理にでも変えようとする意志を押し通すことになって、それが実際に無理であれば、変わるものも変わらないような結果に直面して愕然としてしまうのかも知れず、実際に変える対象となる物事が特定の名称で呼ばれる同一の対象だとはっきりと認識されていても、それを変える段階になるとずれが生じてきて、変えようとする当事者は何とかしてそれを変えようとするのだろうが、それと共に別の何かも変わってきてしまい、その何かが作用して、それを変えようとすれば別の何かも変えなければならなくなり、その別の何かも変えようとすれば、さらにそれとかかわってくる別の何かも変えなければならなくなり、そうやって当初に変えようとしていた物事とは別の物事まで変えなければならなくなってくると、変えようとしている重心が別の物事へと移っていってしまい、いつの間にかそれを変えるには別の何かも変えなければならないから、別の何かを変えることの方が重要だと思われてくるわけで、そうやって変えようとする主旨が当初の目論見からずれていってしまうわけだが、それも後から都合の良いように解釈すれば、辻褄を合わせることにもなるだろうし、そんな辻褄合わせをやっている時点で、当初に変えようとしていた物事とは似ても似つかない何かが姿を現して、そんなものを変えようとしていたわけではなかった何かが変わってしまい、結果的に取り返しのつかない事態を招くとしても、そうなってしまった時点で後戻りが利かなくなってしまうだろうし、そうなれば当事者の思惑から外れて自然に何かが変わってしまったことにもなるのだろうが、少なくとも変えようと思っていた当事者や実際に変えようとした当事者の制御が利かないところで何かが変わることにもなるわけで、それが現状の世界で実際に起こっていることでもあり、世界中で何かを変えようと思っていたり、変えようとしている当事者が直面している事態でもあるのかも知れないが、それが自然の成り行きでもあり、思い通りにも思惑通りにもいかない自然の成り行きに翻弄されて、誰もが思いがけない事態に直面しているとしても、そんな事態を乗り切らないと、その次の段階には進めないと思っているわけでもないだろうが、その次の段階とは何かというと、それに関して何かSFチックな妄想を抱いているわけでもなく、段階を踏んで徐々にやりたいことに近づいていくわけでもないはずだが、それでも現状でメディアを通して世界的に流行っている傾向に合わせて、何か都合の良い主張が導き出されてくるかも知れず、そういう傾向や方向へと世界を変えようと思っている当事者が思い描いている内容が、多くの人にとっても共感できてもっともらしく思われるとしても、必ず変えようとする過程でずれやはぐらかしが生じてくるとも思われないとしても、実際に変わってみれば当初に抱いていた状態や状況からかけ離れた状態や状況になってしまうのかも知れないが、そうなったからといって、それが取り返しのつかない事態となってしまったとしても、何か自然の成り行きでそうなったように思われてしまうのかも知れず、そうなる過程において人為的な制御を超えるような自然の力が働いていれば、そうなって当然の結果がもたらされるわけで、そういうことまで考慮に入れるなら、現状で無理にでも特定の物事に狙いを定めて変えようとする思惑がメディア上で明らかになっているとしても、それがそのまま思惑通りに事が運ぶとしても、実際に変わってみれば、そういう思惑を裏切るような結果がもたらされるのかも知れないし、それは変える過程においても言えることかも知れないが、何よりも事前に変えようとする意志を明らかにしてしまうことが、見込み違いや見当違いをもたらす原因ともなり、それがやり方としても稚拙極まりないとしても、否応なくそうなってしまうことも自然の成り行きに含まれていて、そうならざるを得ないような手順を踏んでそういうことがおこなわれるのだから、そういう過ちは避けようがないわけで、避けようのないことをやっている時点で、すでに思惑からずれてしまう兆候を示しているかも知れないが、そうなることがわかりきっていると思っても、わかりきったことをやらないと周囲が納得しないだろうし、わかりきったことをやってはまずいと助言する人などいるはずもなく、それが自然の狡知にとらわれていることの証拠だとも言えないし、そういう成り行きを逃れるにはどうすればいいかといってみても、やり方など誰も思いつかず、思いつかないからあからさまなことを主張して、これからやろうとすることを台無しにしてしまうのだろうが、そうやってあらかじめ人為的な目的が達成できないようにされてしまうわけだから、後は自然の成り行きに身をまかせるしかなくなってしまうだろうし、そのつもりもなく、逆に自らの目的を遂行しつつあると思い込みながら何かをやっている人などいくらでもいるとしても、やっていると思っている以上のことや以下のことがそこでおこなわれていることを把握できないのは、その全体を見通せないということだとしても、それでも変えようがないことを変えようとしているわけでもなく、変わる可能性がありそうだから変えようとしているわけで、そう思うことが何かを変えるには必要なことでもあり、結果的には思い通りにも思惑通りにも変わらないとしても、それが現状を人為的に変える活動になってしまうのではないか。
5月2日「精神の荒廃」
関心のある物事が自身と直接かかわりがなければ、それに関して無責任なことが言えるかも知れないし、なぜ自身と直接かかわりがないことに関心を持つのかと言えば、それに向かってどんなに勝手なことを言っても、自らに深刻な影響が及んでこないような野次馬的な姿勢を保てるからかも知れないが、逆に直接の言及を避けたいことになると、自らに直接かかわりのある物事になり、それに関しては慎重に言葉を選んで発言しないと、人間関係などの面で深刻な影響が及んでしまうことになるだろうし、そうなってしまうのを避ける意味でも、世間話などにおいては自身や周囲の人々とは直接関係のないメディア的な関心事などが話題となりやすいだろうが、全くかかわりがないわけではなく、それなりに関心を抱いているのだから、直接かかわっていることに比べれば相対的に距離が遠いが、無関心にはなれない程度の距離感は保っていて、かかわり方の傾向や内容が違うと考えればしっくりくるかも知れないし、直接的なかかわりと間接的なかかわりとの違いと見なせば、全てがそうだとも言えないが、大抵はそうだとも言えるかも知れないが、そういう関心が高かったり低かったり距離が近かったり遠かったりする感覚の違いから、自身を取り巻く世界と自身との関係を意識し出すと、自然と世界の中で、あるいは社会の中で、自らがどんな立ち位置や立場を占めているかがわかってきて、そんな立ち位置や立場に常時固定されているわけでもないだろうが、そこに自らの限界があり、それがどんな立ち位置や立場であっても、それをどう捉えてみても、肯定しても否定しても、限界を感じていれば不満に思っていて、どうにかしてそんな限界を打ち破りたいとも思ってしまうだろうし、そこから勝手な妄想や空想を巡らして、今よりもっとマシな立ち位置や立場を占めたいと思う時もあるだろうが、その一方でどんな立ち位置や立場を占めていても、それが何らかの立ち位置や立場である限りで、何らかの制限がかかってきて、そうした制限を超えて何ができるわけでもなく、制限を取り払うことができなければ、その範囲内でできるととできないことがあるような不自由さを実感してしまうだろうが、それを不自由だとは思わせないようにするために、制度や慣習があると言ってしまうと、制度や慣習を利用して利益を得られている限りで、利益からもたらされる満足感が不自由さを上回って忘れさせる効果があるのかも知れないが、制度や慣習を受け入れることによってもたらされるのが、その制度や慣習を守っている限りで保障される立ち位置や立場でもあり、それを守ることと引き替えにして手に入れることができる立ち位置や立場でもあり、制度や慣習が課している制限や限界を超えない範囲内で、できることとできないことが決まってくるのだろうが、そういった制限や限界を感じてしまうと不満を覚えるにしても、その一方で制度や慣習からもたらされる立ち位置や立場を利用して利益を得られていると、そんな立ち位置や立場は手放したくはないだろうし、そういう思いが高じると不正行為への誘惑に負けてしまう事態にもなるだろうし、自身や自身が属している勢力や党派が有利になるように制度を作り変えたり、都合の良い慣習を他の人たちや勢力や党派に強要したりもして、そうやって自分たちが有利となる世の中に作り変えようとすることが、改革や革命だと思い込みたいわけだが、自分たちと敵対する人や勢力や党派が存在する限りで、自分たちにとって都合の良い世の中にはならないことも承知しているだろうし、そうなると敵対勢力を倒すためのやり方を模索することになるかも知れないが、物事の全てがそういう方面へと向かうかとなると、実際にはそうはならず、敵を倒すのではなく、競争相手と競争するような状況を目指す場合もあるが、また競争もせずに相手にもしない場合もあるかも知れず、そういうところで自分たちが何に関心を持っているかによって、かかわってくる物事も変わってきて、関心を持っている方面が違えば相手にしないし相手にならなければ、そういった方面にいる人々には無関心でいられるかも知れず、物事の全てがそうなるわけではなく、こちらが無関心であってもあちらから関心を抱くように仕向けてくる場合もあり、そういうお仕着せがましさに辟易させられるとしても、実際にいやなことを強要させられると、大抵の人はそれに反発するわけで、そうした反発を利用して何かをやろうとする魂胆もあるだろうし、そういった策略の臭いを感じ取ると、ますます不快感が募ってきて、そういうことをやっている側の思うつぼにはまってしまうわけだろうが、そういう意味で何かに関心を持つということが、必ずしも好意的な関心を抱くわけでもなく、不快に思われることによって逆に関心を引き寄せられて、そこで待ち構えている罠にはまって、相手の都合の良いように誘導されてしまう可能性もあり、そういうことが制度的におこなわれていると、そんな制度がまかり通っている世の中の状況が荒廃してくるのだろうが、そこで何が荒廃するのかというと、物資や情報が過剰に行き交っている割には満たされぬ思いも募ってきて、そういった満たされぬ思いを標的として詐欺の類いも盛んにおこなわれる状況となれば、そんなことをやっている人たちの精神が荒廃しているようにも感じられるかも知れないが、実態としてはそんなことは誰も感じていないのかも知れず、ではなぜそんなことが感じられるのかといえば、誰も感じていないようなことを言葉で表現すると、そんな感じがしてしまうという逆説が起こるのかも知れず、実際にはそんなことはあり得ないが、言葉によって表現されたフィクションの中ではそれが実現していて、何かそれがもっともらしく思われて、実際に世の中で人々の精神が荒廃しているように思われてくるわけだが、たぶん人の精神という概念も制度的に作り出されたものであり、物質的な面での不満を補う概念として、心の充足感をもたらそうとする過程において、精神という言葉で表現される何かが必要に思わされる制度が、教育的な方面で講じられていると言ってしまうと、そんな制度が実際にあるとも思えないが、倫理とか道徳とか愛国心とか、物質に依存していないように感じられる概念によって人を操り誘導する制度が、人を教育する制度として根深く社会の中に浸透しているように感じられるとしても、それも大抵の人はそんなことは感じていないだろうし、そういわれてみても、そんな感じを抱く人もそれほど多くはいないだろうが、人の意識に働きかけているのに、多くの人がそれに気づかないまま操られて誘導されてしまうような制度が、教育制度として実現しているのかも知れないが、それを意図してそんな制度が講じられているわけではなく、社会の中で様々な物事が絡み合った結果として、そういう制度が生み出されてきたのだろうが、それを制度だと言っても、学校制度のようなものしか思い浮かべられないかも知れず、それが学校だけに限定されているわけではなく、もっと広くメディアを通じて啓蒙されている実態もあるだろうが、それもあからさまに実感できるようなものでもなく、そういわれてみると何となくそんな気がする程度のことでしかないのかも知れない。
5月1日「必要な物事」
人が生きていくには何が必要かといっても、物質や情報がそれなりに必要だろうが、そういう意味での必要が直接には何を意味するわけでもなく、人という漠然とした枠内ではなく、特定の個人や団体などが必要としている物事となると、個人や団体によって必要とする物事が違ってくる場合もあるだろうし、動物としての人が水や空気や食料が必要であるのとは違った水準で、必要となる物事が具体的に出てくるが、必要だと思っている物事が本当に必要かとなると、必要だと思っていることと、それが本当に必要であることが違ってくると、必要でないのに必要だと思い込んでいる場合もあり、その必要とこの必要がどう違うのかといっても、うまく説明できないかも知れないが、生きていくには何が必要かということと、それ以外でも必要だと思っていることが別にあっても、特に違和感は伴わないかも知れないし、必要でないのに必要だと思い込んでいても、特に問題はない場合もあり、人が生きていく以外にも必要な物事があってもおかしくはなく、特に必要とは思われないような物事を求めても、その人の勝手だと思われる場合もあるだろうし、その人にとっては必要だから求めていることが、その人にとってはそれなりの切実さを伴っていても、他の人から見れば、大して必要だとも思われない場合もあるだろうが、必要だからという思い込みにこだわってそれを切実に求めようとしてしまうと、必要でない物事まで必要だと思い込んでいることに気づかない場合もあるから、何か当てが外れた結果を招くかも知れず、本当にそんなものがほしいと思っていたのかどうかが、後から振り返って考えると、何か辻褄が合わないようなことになってしまえば、それをほしいと思っていた頃と、結果的にそれを手に入れたり、手に入れることができなかった時点での状況が様変わりしていて、今となっては必要ではない物事を手に入れてしまったり、あるいは手に入れるために尽力したことが無駄に思われてしまえば、切実に必要だと思われた頃が、勝手な思い込みにとらわれて行動していたように思われてくるかも知れないが、当時は無駄ではないと思われていたことが、時が経ってみれば無駄に思われてくるのは、当時と今では自らを取り巻く状況が変わってきたと思うしかないだろうが、当時も今も変わらず求めている物事があれば、求めている気持ちや求めている物事の普遍性や、状況の連続性や一貫性を実感できるかも知れないが、手に入れることができない物事を求めている可能性もあるだろうし、手に入れることができるとは思われなくても、求めている姿勢を保っていないと、信念を貫けなくなってしまうような思いにとらわれている場合もあるのかも知れず、自らの信念を曲げずに求めようとしても手に入らない物事を求める姿勢を貫いていないと、自らの今の精神状態を保っていられないとしたら、何か困難に直面しているのかも知れないが、そこに手に入れることができないから求めてしまうという矛盾が露呈していて、もっとそこから妥協して、容易に手に入りやすい物事を求める姿勢に変更できれば合理的に思われるかも知れないが、そうする必要があるかというと、矛盾していてもかまわない状況であればその必要は感じられないだろうし、思っているだけならどう思っていてもかまわず、思っていることと行為や行動が矛盾しても一向にかまわなければ、そんな精神状態が保たれてしまうのかも知れないが、そうなると何が必要だと思っていても、本当に必要なのかどうかがよくわからなくなってしまい、必要だから求めていると思いたいだろうが、それが裏切られるような結果に至っていれば、思いと行動がかみ合わずにちぐはぐなことをやっていることになるのかも知れないが、全てがかみ合うこともないのかも知れず、一致させようとしてもできない状況がもたらされていれば、そんな成り行きを受け入れるしかなく、受け入れつつも理想を追い求めるような矛盾した傾向になってしまうから、そこにずれが伴ってきて、ずれているからそれを埋めるような思いにとらわれてしまい、できもしないようなことをやろうと思い続ける一方で、現実を見ろと促されながらも、そんな現実は受け入れられないから、いつまで経っても手に入れられないものを追い求める夢を抱きながらも、実際には分をわきまえて身の丈に合った生き方を実践している場合もあるのかも知れず、そうなっている限りで矛盾した精神状態を保っていられるのかも知れないが、そうする必要があるかというと、必要のあるなしにかかわらず、どうしようもなく否応なくそうなってしまい、それをどうすることもできなければ、そんな状態を保っているしかないわけだろうが、そうなっている必要性を感じられないのに否応なくそうなってしまっていることをどうすればいいのかと言っても、自らにはどうすることもできないのかも知れず、それがその場の成り行きに従っていることになれば、そんな成り行きに身をまかせながら生きていくしかないだろうが、そこで物事を単純化して考えても浅知恵となってしまうだろうし、どうしても頭の中で整理整頓して状況をわかりやすく捉えようとしてしまうのだろうが、わけがわからないことをわけがわかるようにしたいのはやまやまだが、わけがわかるようにしてしまうと単純化が伴ってきて、わけのわからなさを無視しようとしているだけであったりすれば、それが勘違いの原因となってしまうだろうが、それが勘違いであってもかまわないようなことになってしまえば、できもしないことをやりたいと思ってしまうことが、そんな勘違いから生じてくるのかも知れないが、その場では確かにできもしないことであっても、時が経てばできるようになるかも知れないし、それもできるようになってみないことには何とも言えないだろうが、それができるようになるには何が必要なのかを考えてしまうのもよくありがちなことだろうが、もとからできもしないことをやろうとしているのだから、それをやるには何が必要かといっても空想の域を出ないことであり、実際の状況と考えていることがかなりずれていて、そうなっている時点で机上の空論となっているのだろうが、無理なことをやるにはそんな机上の空論にとどまるような状態は避けられないのかも知れず、何事もあり得ないことが実現するには、そういう状態から出発するのかも知れないが、そこからどうするかがその後の成り行きに絡んでくるところでもあり、その時点ではわけがわからないとしても、それをやっているうちに、そこに様々な方面から様々な作用や影響が及ぼされて、それに伴って様々な物資や情報がもたらされて、結果的にはあり得ないと考えられていたことが実現してしまう場合もあるだろうが、必ずしもそうなることが必要だったからそうなったわけではない場合もあるだろうし、必要から発明がもたらされるとしても、当初は必要でなかったことが時が経つにつれてその必要性が徐々に高まってくる場合もあるだろうし、そうなることを見越して必要とは思われないことをやろうとしても見当外れなことになってしまうかも知れないし、それも実際にそうなってみてからそういうことがわかるわけだ。
4月30日「うまくいかないこと」
やっていることがうまくいかなかった結果を踏まえて反省するのは当然だとしても、反省しても後の祭りという場合もあり、一度やってしまったことが取り返しのつかない事態を招いてしまえば、反省するどころか逆に開き直ってしまう場合もあるかも知れないが、うまくいきそうもないことをやっていれば、反省するも何も、うまくいかなくて当然と思っているから、うまくいかないなりのことをやろうとするだろうし、それがどういうことかと言えば、うまくいかなくても気にしないような態度で、ある程度は失敗するにしても致命傷にならないようなことをやろうとするのかも知れず、それが本当に致命傷にならないかどうかは、結果から判断するしかないだろうが、何か駄目なことをやり続けているような状態になると、結果的に駄目なのに続いてしまうような成り行きになって、それをどうやればうまくいくかもわからないものの、途方に暮れてしまっても、なおそれをやり続けるような成り行きとなってしまい、そんな悪循環からなかなか抜け出せないにしても、それでも終わりがなかなか見えてこなければ否応なくやり続けるしかなく、それを続けることによって負債が雪だるま式に膨らんでゆけば、いずれは破綻するのだろうが、一向にそうなる気配もなければ、延々とうまくいかないことをやり続けることになり、それをやり続けられるとすれば、本当にそれがうまくいっていないことになるのかというと、続いていることに関してはうまくいっていると思われるかも知れないが、うまくいかないから続いているということ自体が矛盾しているようにも思われて、うまくいけばさっさと終われるのに、いつまで経っても終わらないこと自体がうまくいっていないことの証拠となってしまうと、泥沼状態のようになっているのかも知れないが、だからといって途中でそこから抜け出すこともできなければ、結局はやり続ける成り行きになってしまい、そんな活動を強いられると普通はいやになってしまうだろうが、それが通常の状態となってしまえば、いやになるどころか、逆にそういう状態へと持って行こうとしているように見えてしまい、他にどうにもやりようがないから、仕方なしになし崩し的にそうなってしまっている状態を保とうとしているようにも見えてしまい、やっている当人にはそういう自覚はないのかも知れないが、端からそう見えてしまうと、かなり見苦しいことをやっていることになるのかも知れないが、他人からどう見られても、そんなことにまで気を回す余裕がなければ、必死になってうまくいかないことをやっている分には、必死さが伝われば胸を打たれるかも知れないが、なりふり構わず強引に事を進めていけば、傲慢に見られても仕方のないことであり、それによって否定的な感情を呼び起こすかも知れず、それを他人からどう受け取られても、やはりそれどころではなければ、そんなことを気にする余裕もなく、そういう成り行きの中でやっていることにかかりきりとなってしまい、それだけで手一杯となってしまうのかも知れないし、別の方面では意外と功を奏している可能性もあって、気づきにくいところでそれなりにうまくいっていれば、それを意識しようとする気すら起こらなくても、意識がはぐらかされてそれに気づけない状態となっていても、それをやることによって思いがけない効果がもたらされている場合があって、それが何なのかを知る手がかりなどどこにもないかも知れないが、誰もそれがうまくいっているとは思わなくても、それをやり続けているという結果が、何かを物語っているのかも知れず、それがどう考えてもよくわからない何かであり、その場の持続的な活動をもたらしている何かになるのかも知れないが、それが何かの偶然の巡り合わせによってそうなっていると考えてもかまわないだろうが、それでは納得がいかなければ、必然的な原因を考えてしまうかも知れないし、持続可能な活動をもたらす必然的な原因として、当事者のやる気の持続が挙げられるかも知れないが、欲得尽くで何かをやろうとするなら、それをやる上でモチベーションとなるだろうが、そういった内面的な動機ではなく、外部からもたらされる要因としては、摩擦や軋轢などの否定的な圧力に逆らいながら、それらと争ったり戦いながら何かをやっていることにもなり、争ったり戦うことが直接やっていることになる場合もあるだろうが、欲望自体が争いや戦いに勝とうとすることから生じてきて、それは争ったり戦っている相手にも言えることだろうが、それによってもたらされる思いがけない効果というのが、争ったり戦ったりすることに抗うような効果を求めて、争いや戦いをうまく避けながら勝とうとする戦略を生じさせて、それが売買や取引の目的にもなり、交渉によって都合の良い状況をもたらすために、あれこれと策略を巡らすような成り行きにもなってくるわけだが、それが争いや戦いの延長上で練られる策にもなるだろうし、全面戦争によって多大な被害や損害を出さないために用いる次善の策とも言えるかも知れないが、相手もそんな魂胆であれば、そういった交渉や取引の結果として双方の言い分が通るようなことにはならず、どちらかがうまくいけばどちらかがうまくいかないような結果がもたらされる限りで、勝敗がはっきりと決まるだろうが、勝敗をはっきりさせると勝った方は喜ぶが負けた方は悔しがるだろうし、どちらも交渉や取引に負けるわけにはいかなければ、うまくいっては困るわけで、うまくいかなくなると双方共に痛み分けとなるか、明確には勝ち負けが決まらないような結果がもたらされるかも知れないが、それを当方共に都合の良いウィンウィンの結果になったように見せかけようとするにしても、完全に決裂したようには見せたくないからそうしているわけで、必ずしも交渉や取引がうまくいったとは言えない場合にも、うまくいっていないのにうまくその場を取り繕うようなことがおこなわれて、形の上では円満解決したようにも見せかけるのだろうが、そんな結果に持って行くために、延々と絶え間なく交渉をおこなって、何とか双方の妥協点が模索されるのだろうし、それがうまくいかないことの繰り返しになってしまう場合もあるだろうが、よくありがちなのが双方の言い分がかみ合わずに議論が平行線に終始する場合だろうし、そうやってうまくいかないから交渉を延々と繰り返すようなことがおこなわれて、どちらかがうまくまとまらないことに業を煮やして、途中で交渉が打ち切られて決裂に終わってしまうとしても、また機を見て機会を捉えて、ほとぼりが冷めた頃に性懲りもなくまた交渉が再開される場合もあるだろうし、そんなふうにしていつ果てるでもなくうまくいかない交渉が繰り返されるなら、そんなことをやっている間は全面戦争などの取り返しのつかない事態になることが避けされるわけで、それがうまくいかないから致命的な状況にならない成り行きになっているとも言えるだろうし、勝敗という決定的な結果に至ろうとしても、それが交渉の過程ではぐらかされて、勝つために交渉しているのに勝ちにも負けにも至らないようなどっちつかずの状況がもたらされてしまうから、うまくいっていないわけだが、うまくいっていない限りで交渉を続けるしかないようなことにもなってしまうわけだ。
4月29日「一貫性」
絶え間なく様々な事態に遭遇しているにもかかわらず、態度や姿勢の一貫性を保てるなら、遭遇している事態が態度や姿勢の一貫性を保てる程度のことなのか、あるいはどんな事態になっても一貫性を保てるような態度や姿勢があるのかも知れないが、いつでも変わらず同じ傾向や内容の主張を繰り返すの人はいくらでもいるだろうし、それを見て態度や姿勢が一貫していると思えるかも知れないが、一つの立場を貫き通すということは、一つの対象に対して一つの立場を貫き通すと解釈できれば、そういう人は同じ一つの対象しか見ていないことにもなりそうで、他の対象には興味がないからそういう立場を貫き通せるのかも知れないが、常時見ているそれが変わってくれば、それに伴って立場や態度も変わってくるかというと、そうなってみないことには何とも言えないが、対象となる物事が変質してくると、それに伴って対峙している人や団体の立場や態度も変わってきているのに、当人や当の団体の構成員がそれに気づかない場合もあるかも知れず、いつまで経ってもその対象に向かって同じことを言っているように思われるかも知れないが、一貫して同じことを言っているつもりなのに、その意味合いが変わってくれば、言っていることの有効性が疑わしく感じられることにもなり、それが疑わしいことに気づいていないから、いつまで経っても同じ言い方に終始していていて、それが有効な言動だと思っていること自体が、見込み違いや思い違いがあるのかも知れず、いつまでもそれに気づかないわけでもないだろうが、何かの機会にそれを思い知らされるようなことが起こらない限りは、そのままになっていても取り立てて問題はないかも知れないが、問題がないという認識にも見込み違いがあるようなら、すでにそういった言い方が形骸化していて意味をなさなくなっている可能性もあり、そうなっている限りでその種の一貫性を保てていることになると、そうしたことを言っていること自体が無意味というわけでもないが、それなりに無効化しているのだろうし、それでも何かそういう姿勢や立場を保とうとしていることについて、何らかの意味や意義があるのかというと、やはり言動や行動の首尾一貫性を保つ上では意味のあることだと思っているわけではないだろうが、はっきりとそれを意識しているわけではなくても、実際の態度や姿勢の一貫性がそれを示していて、それが何があっても変わろうとしない保守的な傾向となるのだが、そうなると何があっても何とかして変わらない態度や姿勢を維持したいのであり、変わってしまったら負けだと思っているわけではなくても、自らが対峙している対象に負けないためには、自身が変わってしまえば負けを認めたことになるだろうし、そういった傾向から態度や姿勢の首尾一貫性が生じてくるのだろうが、そういう頑なな態度や姿勢が何をもたらすのかと言えば、状況や情勢の停滞をもたらすのかも知れず、そうやって停滞した状況や情勢の中で自らが主導権を握っていたいのかも知れないが、果たして本当にそうなっている人や団体にその場の主導権があるのかというと、そういう態度や姿勢を維持できている限りで自身に主導権があるように思われるのかも知れず、それが何かのきっかけから頑なに守り通してきた態度や姿勢を維持できなくなってくれば、他の何かに主導権を奪われてしまったことを実感せざるを得ないだろうし、そういう意味では頑なな態度や姿勢を保つことに関しては主導権を握っているから、そんな態度や姿勢を維持できていることになるわけだが、そういう人や団体と対峙している人や団体がそういう態度や姿勢が目障りになってくると、そういう態度や姿勢を変えさせようとするのだろうが、目障りなだけではなく実害が伴ってくれば、強硬に変えようとしてくるだろうし、そうなると面と向かって強い態度や姿勢で臨むことになるだろうが、そういう対立が表面化すれば、対立するどちらが強いかの力比べとなるだろうし、それがどのような力比べになるかはその人や団体が活動している内容にもよるだろうが、あからさまに事を荒立てるような成り行きにはならないかも知れないし、表向きは友好関係を装いながらも、水面下では人知れず謀略が巡らされていたり、工作活動がおこなわれているような実態もあるのかも知れないが、もはやそんな段階ではなくなってくれば、表面的な友好関係を保てなくなってくるだろうし、そうなるとあからさまに相手の態度や姿勢を批判したり非難することになるだろうが、それも自身の態度や姿勢の首尾一貫性を保つためには避けては通れない成り行きとなり、そこで対立する双方の態度や姿勢の違いが際立つことになるわけだが、それも違う面だけ強調すればそう見えるだろうが、違う面ばかりではなく、実際に競合関係や競争関係が成立している限りで、同じような態度や姿勢を共有している面もあって、それが国家的なレベルになってくるといわゆる覇権国同士の対立になるわけで、覇権国家が他の国へ影響力を行使するようになると、それとライバル関係にある覇権国も同じように影響力を行使することになり、双方が他の国へと影響力を行使するような成り行きになるのだろうが、そういう他の国へと影響力を行使するような態度や姿勢が似通ってくるわけだが、普通の国がそういった覇権国同士の対立に巻き込まれてしまうと、どちらの国の側につくかで選択を迫られる場合もあり、どちらも重要な貿易の相手国であれば悩ましいことになるのだろうが、はっきりと態度を決めない場合もあるだろうし、また表向きはどちらか一方の側についても、実態としては双方共に友好関係を保ちたい思惑もあるなら、そうなると何か煮え切らない態度や姿勢になってしまうのだろうが、その一方で現状では世界的にどの国でも、国家権力の衰退に直面している可能性があり、何がそういう傾向を示す原因となっているのかと言えば、企業の経済活動によってそうなっている可能性があり、国家が企業の力を抑えられなくなっているから、企業の力を削ぐために行政的に何らかの措置を講じる必要性に迫られているのかも知れず、それが独占企業に対する規制や懲罰になったり、重い税金を課すようなことがおこなわれたりするのだろうが、その一方で政府と企業とは持ちつ持たれつの関係ともなっていて、どちらも人を管理して統制しながら自身の活動の糧としているわけで、確かに国同士でも企業同士でも国と企業とも対立や協力や競合や競争の関係にあるのだろうが、人を管理統制することに関しては利害が一致しているだろうし、そういうところで首尾一貫性が保たれているわけだが、人がそういう首尾一貫性に惑わされているわけでも悩まされているわけでもなくても、何かというと敵対的な対立関係に目を向けさせられてしまうわけで、それが民衆を陥れるための罠だとは思われないし、実態としても罠でも何でもないのかも知れないが、だからといって政府や企業などの団体と個人を対立させて状況を捉えてみても、そこから何をどうすればいいのかわからなくなってしまうだろうし、対立を煽る行為自体が無効かも知れないし、そうかといって無条件で協力関係になれるわけでもなく、少なくともそういった団体の存在を肯定して認めた上で、自らの利害や主義主張や思想信条などとの兼ね合いの中で、その場その時の状況に応じて、それらに対する態度や姿勢を変えていく必要があるのかも知れない。
4月28日「目的の消滅」
人の習性に関して、部分的には功利的な傾向になるにしても、全てがそうなるわけではなく、中には功利的ではない行為や行動もあるだろうが、功利的でないとすれば何なのかというと、例えばそれが自己犠牲的な行為や行動であったり、またそんなことをやっている当人にも何の目的があるのかよくわからない行為や行動があるかも知れないが、自己犠牲的な行為や行動となると、自らが犠牲となって家族や集団や他人などを助けようとする行為や行動になるだろうが、目的がよくわからない行為や行動となると、そうなった結果から行為や行動の目的を推測するしかないだろうが、当初は利益を得ようとしていたが、結果的には得られなかった場合もあるだろうし、そうなれば利益を得ることに失敗したことになるわけだが、結果から見れば利益を得ようとしてそんなことをやったとは思えないようないい加減な行為や行動になってしまっている場合もありそうで、失敗して当然であり、失敗してもかまわないような行為や行動だったと見えるようなら、そんな結果から特に何かを得るためにそうしたわけでもなく、何だかわからないが結果的にそうなってしまった成り行きがあり、そうするのが楽しいからそうしたのであれば、楽しみを得るための行為や行動となるだろうが、楽しくも嬉しくもないのにそんなことをやっているとなると、そうすることが苦痛となっていたり精神的に負担となっている場合もあるにしても、そういう面では確かにそうかも知れないが、そういう面ばかりでもなければ何なのかというと、それが何だかわからなくてもそういうことをやっていることになり、何も理由になっていないような気もしてくるかも知れないが、当初は確かに利益を得ることを目指していたり、そうするのが楽しいからやっているような気もしていたが、結果的には何の利益も得られなかったし、取り立てて楽しいわけでもなければ、では何のためにそんなことをやっているのかと問われても、特に大した理由もなく、ただこれまでにやってきたことを惰性で継続しているだけになれば、結果的には何でもないようなことをやっていることになって、理由も目的も定かではなくなってしまうのかも知れないが、そんな成り行きにとらわれて、やる気もないのに延々と同じようなことを繰り返していると、それをやっていることに関しては別に苦痛でも負担でもないのだろうが、結果的にも否応なくそうなってしまうからやっているだけで、それが取り立ててやりたいことでもやるべきことでもないのにやっているとなると、それをやっているからといって特に何がどうなるわけでもないのだろうが、自身にはそう思われても、その人が自覚できないところで何かがどうにかなっている場合もあるだろうし、それがやっていることの意義や意味とは言えないにしても、それが続いている限りで何らかの目的や機能を果たしていて、やっている当人とは関係のないところで機能していれば、当人には何の利益にもならないし、他から勝手に利用されているにすぎないのかも知れないが、そうなるがままにさせられているとも言えるかも知れず、どこの誰にそんなことをさせられているわけでもないのに、自発的にやっているとは言えないようなことをやっていて、それが何のためにやっているのか定かでなければ、そうした目的や理由の呪縛から行為や行動が解き放たれるとは思えないにしても、何か中性的に中立的なことをやっているような気がするわけでもないとしても、自らのためにやっているわけでも他の誰のためにやっているわけでもなく、何かよくわからないようなことをやっているのだろうが、それが何だかわからない状態を保ちながらやっていることにはなるだろうし、そうしたくてやっているわけではなく、できれば自らの利益になるようなことをやりたいのだろうが、他からの作用によってそうはならないようにさせられてしまっているとすれば、そういう面ではどうにもならなくなっているのかも知れないが、そういう成り行きを利用しながらやっていることにもなるわけで、他からの作用を受け流して無効にしているのではなく、その作用に従いながら何かをやっているのに、結果的には従っているわけでもないような事態となっていて、本当に従うならそんなことはやめる成り行きになってしまうわけでもないのだろうが、結果的にはそうはならないのだから、そういうところでそれを利用している誰かの思惑を外れているのかも知れず、それ以前にそこにかかわってくるのがある一つの方面からだけではなく、他にも様々な方面から何らかの作用がもたらされていると、特定の人や団体の意図や思惑がそのままその場に反映されるわけではなく、他との相互作用によって力が様々な程度で相殺されたり合成されたりしながら、結果的に誰も意図しない減衰や増幅を伴いながら力が及ぼされてくるから、その場をうまく制御するような主体が存在しない事態となるのだろうが、そうなるとそこで渦巻いている様々な意図や思惑も有効には機能せず、そこから何を得られているかどうかもよくわからないような状況となり、全てが混沌としてくるのだろうが、そんなどさくさに紛れてこっそり何かをやっていれば、そんなことをやっていること自体がその場の状況を反映しているようにも思われて、その場との一体感がそれをやる上でのモチベーションとなれば、それが意味のよくわからない理由といえば言えるだろうが、そうなってくると目的とか理由とかが明確でなくても、その場の成り行きに従っているような気がするだけでも、そんなことをやっていれば何とかなるような気にさせるわけで、そんな成り行きが方向も傾向も定かでなければ、そこから特定の傾向や方向を伴った目的が生じてこないのも当然だろうし、わかりやすい目的を生じさせないように誰かが陰謀の類いを巡らせているわけでもなくても、自然とそういう成り行きになってしまうのだろうが、そうであっても結果からみれば誰かの意図や思惑や目的などが導き出されてしまい、そういう意図や思惑や目的が求まるように結果を恣意的に解釈しているのだろうが、そう解釈する側にとってはそうしなければその場の状況を説明できないわけだから、その場の状況をわかりやすく説明するという目的に沿って話を構成すると、否応なくそういう意図や思惑や目的が導き出されてくるわけで、果たしてそれを信じられるかというと、別に信じてもかまわないが、それはそれを語ることから生じるフィクションによって構成された意図や思惑や目的であり、そこに語り手の都合が反映されていて、そういう結論へと持っていきたいという意図に沿った話の内容になるのだろうが、実際には他にも様々な意図や思惑や目的もその場で渦巻いていたのかも知れないが、話の主旨に合わなければそういうものは除かれてしまい、話の内容に合う意図や思惑や目的だけが選び出されて、それらが誇張されたり強調されたりしながら、興味深い話の内容にしようとするのだろうが、誰にとって興味深いのかといえば、そんな作り話を構成する人にとっては興味深い話なるだろうが、そういった意図や思惑や目的から外れてしまうようなことを実際にその場でやっていた人にとっては、そんなことはどうでもいいことかも知れないし、それどころか自身の意図や思惑や目的が話の中で無視されてしまって腹が立っているのかも知れない。
4月27日「外れた予想」
予想が外れて思わぬ結果に直面するのは、予想が一つであるのに対して予想とは異なる結果になる可能性が他にもいくらでもあるからだろうが、では思わぬ結果になって驚くのは、予想通りの結果がもたらされることを信じて疑わなければ、それを裏切るような結果がもたらされると、大抵の人は驚くはずだが、あえて予想とは外れる結果になることを予想できるかというと、そんなことを予想しても意味がないだろうし、他の結果になる可能性がいくらでもあれば、何を予想しても外れる可能性の方が確率的に高いかも知れず、そうであれば予想が当たることを予想するよりは、予想が外れることを予想した方が当たる確率は高くなるだろうが、それは何を予想するかにもよるだろうし、天気予報ように技術的に当たる確率が高い予想もあるだろうが、サイコロを振れば特定の目が出ることを予想するよりは、他の目が出る確率の方が高い場合もあるだろうし、技術的あるいは数学的な裏付けがあれば、ある程度は確実な予想が可能かも知れないが、ただ漠然と予想するような場合には、その場の勝手な思い込みから大した根拠もなく予想してしまうだろうし、そういういい加減な予想は外れても驚くようなことにはならず、別に外れてもかまわないような予想でしかないだろうが、予想が外れて驚くような場合には、確実に当たるように思われる予想が外れた時に驚くだろうし、またほとんど当たらない予想が的中すれば、それも驚くだろうが、どちらにしても思わぬ事態に遭遇すれば驚くわけだが、逆に人を驚かすには思わぬ事態になることを予想して、それが的中すれば驚くかも知れないが、思わぬ事態になることを予想するだけなら、よくありがちな予言者の類いがやることになるだろうし、何かこれからとんでもないことが起こって、世の中が大変なことになると予言するのはありふれていて、オオカミ少年のように危機感を煽るのだが、それがいつまで経っても危機がやってこないと、手を替え品を変えて次々とその手の予言者が入れ替わり立ち替わり現れては、天変地異や世界大戦などが起こることを予言しまくることになっても、災害は忘れた頃にやってくるという警句が示すように、コロナ危機のように思わぬところから危機の類いが襲来するわけだが、そうなればなったで、予言が当たったと騒ぐ人もいくらでも現れては消えて、そうやって人を驚かした当事者に自身がなりたいのかも知れないが、自身がなれなくても、人を驚かした当事者がいることを騒ぎ立てる場合もあるだろうし、また誰かが人を驚かすようなことをやったことを騒ぎ立てたい場合もあって、驚愕の何かがそこで起こっていることを大げさに騒ぎ立てたいわけで、そうなるとそういう人は騒ぎ屋の類いになるわけだが、そうなってくると驚くべきこともだんだんありふれた現象に近づいていくだろうし、例えばスポーツの分野で驚くべき記録が打ち立てられるのは年がら年中起こっていることかも知れないし、そういった驚きなら安心して驚けるわけだが、そういったことが起こることを予想するのは驚くべきことでも何でもないが、騒ぎ屋と驚き屋が合体してちょっとのことでも大げさに騒いだり驚いたりするのがわざとらしくも見苦しい光景となってしまえば、こじつけのような新記録が量産されてインフレ状態となるのにも飽きて、騒いだり驚いたりするのもマンネリ気味となってしまうのだろうが、もっと何か新鮮で知性的な驚きを求めたくなるわけでもないだろうが、驚きたいという期待や欲望をはぐらかすような事態も、思わぬ結果に含まれるだろうし、驚きたいのに驚けないことにでもなければ、それを何と表現すればいいのかわからなくなってしまうだろうが、求めているものとは違う結果がもたらされることが驚きをもたらすとすれば、そんな騒ぎ屋や驚き屋が騒ぐような予定調和の驚きではない驚きこそが真の驚きとなるはずだが、驚きに真も偽もないと考えれば、どちらも驚きにはなるだろうが、騒ぎ屋や驚き屋によって制御されて誇張されて誘導されながら驚くことに慣れてしまうと、驚くべきことが起こっているのに気づかず、驚くべき時に驚けないような事態となってしまうのかも知れないが、驚くべきことも驚くべき時も、人によって違いがあると考えるなら、そういうことの範疇で判断すればいいことだとしても、そこで何が起こっても驚かないような状態になれるかというと、全てが想定内で予想通りだと思えば何も驚くことはないはずだが、そこにも思わぬ方面からはぐらかしの要素や要因が介入してくるかも知れないし、恣意的に介入してくるわけではなく、介入しようとする意志もなく介入してくる場合があり、それが交通事故のように突発的に起これば、思わぬ事態となるだろうし、そういう意味ではそういうことが起こることを予想してそれに備えたくなってしまうのだろうが、そういう意図や思惑がはぐらかされたくないだろうし、それが自らに都合が悪いことであるなら、思わぬ事態が起こって驚きたくはないわけだが、その時には都合が悪いことだと思っても、そこからさらに時間が経過してみると、いつの間にか都合が良くなっている場合もあるかも知れず、そうなれば都合が良くなってきた時点では良い驚きに変化するわけだろうが、同じ出来事でも時と場合によっては都合が悪くなったり良くなったりしてしまうと、それが驚きであったりするわけだが、そんなことがそう頻繁に起こるわけでもないだろうし、まれにしか起こらなければそれも驚きとなるわけだが、まれにしか起こらないことを予想できるかというと、まれにしか起こらないから大げさに考えてしまい、まれにしか起こらないことが大げさなことだという先入観を抱いてしまうかも知れないが、予想すべきことがまれにしか起こらないことだとすれば、予想することにも希少価値があると感じられるかも知れず、そうやってまれにしか起こらないことが大げさなことであり、それが起こることを予想することに価値が見出されるのかも知れないが、誰もが価値を求めて予想したがれば、多くの人がそんな予想をすることにもなり、それも同じような内容の予想となってしまえば、それだけ価値も低下して希少ではなくなってしまうわけで、そうなってから実際に起こることが大方の予想を覆すようなことになれば、それだけ起こったことの価値が高まって、希少性が増すだろうし、そうやって事前の予想を裏切るような結果がもたらされると誰もが驚くわけだが、そういう意味では驚くことが予想や期待を裏切ることだと思われるわけだが、それを期待して期待通りのことが起こることを予想するとなると、実際に驚くべきことが起これば、そういった期待や予想が裏切られてしまうわけで、それが良い意味で裏切られてしまえば、期待したり予想した側も、期待や予想を超える出来事だとして喜ぶだろうが、悪い意味で裏切られてしまうとがっかりするだろうし、期待通りになったり予想通りになってくれることを望むのだろうが、驚くにはそれだけでは足りないところが、事前に抱く期待や予想の不完全性を示しているのかも知れず、実際にそうなってみなければわからないことが、期待や予想をはぐらかす要素や要因となるわけだ。
4月26日「試練と苦難」
試練というと何か難しい無理難題を突きつけられているような状況を想像してしまうかも知れないが、試練が苦難のように思われるとしても、それが何らかの制度や機構によって意図的に課される場合もあるのかも知れないが、自然に課されているように感じられる場合もあるだろうし、それの何が試練とも言えないような場合もあるのかも知れないが、やっていることがうまく行かなくなってくると、それをうまくいくように持って行くには、何かこれまでとは違うやり方を試さなければならなくなる場合もあり、そんな成り行きが試練を課されているような気にさせるのかも知れないが、それが必ずしもこれまでとは違うやり方とはならない場合もあり、逆にこれまでと同じやり方でどこまでうまくいかない状態に耐えられるかが試されているとしたら、それが難行苦行の類いになるのかも知れないが、例えば現状の世界では国家形態そのものが試練にさらされているような実態もあるだろうし、その場合は難行苦行を強いられているのがその国の国民になるかも知れず、それと共に行政機関や議会やそれに携わる官僚や政治家なども試練にさらされていることになるだろうが、実際に難行苦行の最中だとしても、それも国によっても地域によっても差異があって、一部では苦難に耐えているとも思われないような何でもない状況が実現しているかも知れないし、そういう方面では試練でも何でもないと感じられるなら、そういう方面でなら実際にそれがどうということはないわけだが、誰にとっても国や地域によってもそうなっているわけではなく、試練や苦難に直面してしまうのがごく一部の人や集団に限られるような状況だと、そういうごく一部の人や集団が犠牲となっている一方で、その他大勢の人たちには何とも思われないような状況がもたらされていることになるのかも知れないが、自身が犠牲となってしまう人や集団に含まれてしまうと、何かとんでもない災難に遭っているような気がするかも知れないし、その一方で試練や苦難を経ずに何でもない生活を送っている人たちの方はといえば、実際に何でもないような普通の人になってしまい、どちらか一方にしかなれないというわけでもないだろうが、別にそれが不条理だとも思われなければ、そういう成り行きが普通に感じられるだろうし、それが取り立ててどうということはないのかも知れないが、自身や自身が属している集団が犠牲となってしまうことに納得できなければ、それに関して不平不満を訴えたり抗議したり、犠牲にならないように行動しようとして、そうした行動や言動が周囲の人や集団との間で摩擦や軋轢を引き起こすようなことになれば、そのこと自体が試練に直面していることとなり、そこから人や集団の間で争いや戦いが起こって状況が泥沼化すれば、そういう争いや戦いに巻き込まれてしまう人や集団などが苦難を強いられることになるだろうが、それもこれまでにも延々と繰り返されてきたよくありがちな状況に含まれるとすれば、たとえそんなことが世界の方々で起こっていても、それ以外では何が問題でもない世界が実現しているはずで、なぜそれが問題ではないのかといえば、人という種類の動物が互いに争ったり戦ったりするという習性に従いながら生きていて、そうするのが普通の状況であり、そういう状態をそのまま放置しても取り立てて問題がないということになれば、それでかまわないことになってしまうのだろうが、実態としては誰が放置しているわけでもないだろうし、放置しているのではなく結果的に放置されていて、そういう状態を何とかしなければならないと誰もが思っているわけでもなくても、少なくとも政治の場では解決しなければならない問題となり、そういうどうにもならない問題に取り組むのが政治の宿命かも知れないが、一応は解決しようとして取り組むのだからどうにもならない問題という認識ではないだろうし、実際にどうにかなったという結果に持って行きたいわけで、政治にかかわっている人や機構としてもそういうことにしておきたいわけだが、どうやればそういうことになるのかといえば、会議を開いて何らかの結論を決議すればいいわけで、それを声明として発表すれば、政治の方面での役割を果たしたことになるだろうし、それだけでは問題の解決にはなっていないだろうが、問題への取り組みの姿勢を示したことにはなるだろうし、そういう方面ではそういう方向にしか物事が進まないとみておけばいいとしても、どうなれば問題が解決したことにしたいとしても、試練や苦難に伴って必ず問題が出てきて、そこで誰かが問題を解決しようとして、結果的に問題が解決されたりされなかったりするのかも知れないが、それで終わったことにならなければ、まだ試練や苦難が続いていくことになり、それに伴って政治的な活動もその他の活動も続いていくことになるのだろうが、そこで活動がうまくいかないから活動が続いていくような成り行きになってしまうと、うまくいくに越したことはないが、必ずしもうまくいく必要はないことにもなり、そうであれば試練や苦難が続いていても一向にかまわないことにもなってしまい、そういうところで逆説的に活動を継続させるような力が働いて、それも人や集団がおこなう活動の特徴となるかも知れないが、しかも試練や苦難がないと活動を継続させることができないわけでもないのだろうが、実態としては試練や苦難を糧として継続している活動などいくらでもありそうで、より困難な課題に取り組むことが人や集団の活動となり、それが政治にも課せられていると思っても差し支えないだろうし、政治以外の分野でもそう思われているかも知れないが、そういうことをやっている人や集団を応援するのは手間暇が許す限りで好き勝手にやればいいだろうが、そういうことをやらなくてもかまわないような状況が実現するかというと、そういうことに取り組みたいわけだから、また取り組むように仕向けられてしまうのかも知れないが、ごく一部の人や集団がそれに取り組んでいて、その他大勢の人たちがそれを応援したり妨害している状況も生じているのかも知れないが、そんな劇場空間がどこに形成されていようと、そんな空間の中で試練や苦難に耐え忍んでいる人たちがいくらいるとしても、その一方で当てが外れて誰からも相手にされない人も大勢いるかも知れないし、そういう誰からも相手にされていない人たちの方がより大きな困難に直面しているとは言えないだろうが、それが活動そのものができない状況であったり、何もやることがなく退屈で死にそうな状況であれば、より困難な課題に取り組むことが、より深刻で大きな試練や苦難をもたらすという成り行きに反していることにはならないが、それを裏切っているようにも思われて、それが活動だとも言えない活動であり、それをひたすら続けている状態もあるかも知れず、実際に何もやることがなくても生きていられるのが何ともいいようがない苦痛や不快感や嫌悪感などを伴ってくれば、それが通常の意味での試練や苦難だとは見なされなくても、特に興味を惹くような課題や問題をもたらさなくても、何でもないような日常を送ることだけに終始していること自体が、何の見返りももたらさない底知れぬ虚無感に襲われる恐怖と戦いながら生きているような深刻な勘違いをもたらすとは思われないにしても、いずれにしてもそれも何かしら心の負担となってくるわけだ。
4月25日「明確な理由」
何かそれをやるきっかけがあって、そこから何かをやり始めて、それをやるのが習慣となったとしても、はじめからそんなことをやる理由があったわけではなく、何かをやったり何かを思ったり考えたりすれば、それをやる理由や思う理由や考える理由があるような気がするかも知れないが、実際に明確な理由を思いつけるかというと、その必要に迫られなければ特に理由など気にしないだろうが、逆にやられたらやり返すような成り行きになった方が、やり返すという明確な理由を意識することができて、そうなれば行為や行動を容易に正当化できるだろうが、何もないところからそれをやるとなると、何もなければ何もないままとなってしまい、それではらちがあかないから、強引に何かをやるきっかけをこしらえてやることになるかも知れず、そういうやり方になると、何かとってつけたような理由や動機となるかも知れないが、そんな成り行きから何かをやるきっかけを探している場合もありそうで、それが明確な理由とはならないかも知れないが、とりあえずの理由が見つかればそれを口実にして何かをやろうとするわけで、そういう口実を気に入らない相手には与えたくないだろうし、そんな因縁をつけてくるようなことをやられるといやになってしまうから、なるべくそういう人の相手をするのは避けたいところだろうが、それに関しては外部から刺激を与えられるとそれに反応するような動作があり、何も刺激がなければその場で動かずにじっとしているだけになってしまうという習性があるなら、触らぬ神に祟りなしだとしても、実際に祟りのようなことが起こったから、そういうことわざが出来上がったと考えれば、祟りが起こるようなことをやってしまう成り行きになりやすいのかも知れず、そういう意味では何かをやる口実を探している時点で、すでにやる気モードに入っていて、ただその場で動かずにじっとしているだけでは不満なのは当然だろうが、そういうやっかいな人に何かをやる口実を与えたくないとは思うものの、逆にやるのに好都合な口実をわざと与えて、それをやるのにかかりきりにさせておけば、それをやっている間は他のことには関われないわけだから、それをやらせるがままにさせておくという戦略も成り立つかも知れないし、本当にそういうことができるような成り行きになるかどうかはわからないが、実際に何らかの物事にかかりきりとなっている人も世の中にはいくらでもいるだろうから、それが何らかの意図や思惑からわざとそういうことをやらせられているとは思えないにしても、結果的にそういう状態になっている人たちをどう捉えてみても、そうなっていることに関して明確な理由や原因があったりなかったりするものの、それを取り立てて問題視しなければそれで済んでしまうようなことでしかなく、そういうことにかかりきりとなっている状態が恣意的に作り出されているか、あるいは自然にそういう成り行きになっているかは、どちらでもかまわないと思われるなら、そういうことには触れない方が都合が良いのかも知れず、そうであるなら特定の物事にかかりきりになってしまうことに関しては、明確な理由がなくてもかまわないことになるだろうが、逆に明確な理由にこだわる必要がどこから生じてくるかというと、やっていることを正当化する必要から、それをやるについて明確な理由が求められるのだろうが、特に正当化できなくてもすでにやってしまっていて、それをなしにすることができない状況となっていれば、理由などあろうとなかろうと、もう後戻りができないような取り返しのつかないことをやっている場合もあるわけで、それが非難されるようなことであるなら、理由がどうであれ、どう取り繕ってみても正当化できないようなことになってしまうとしても、それでも正当化したければ、やってしまったことを正当化するだろうし、それが受け入れられるかどうかは、そのやったことに関して損得勘定が働くようなことであれば、受け入れた方が得だと判断されれば、正当化を受け入れるようなことになるかも知れないが、それも損得勘定が働く範囲内での受け入れであって、その範囲外であれば受け入れられないことになるだろうし、全面的に正当化が受け入れられるわけではなく、何か特定の方面だけで受け入れられるようなことになると、受け入れられた方はその気になって得意満面になってしまうかも知れないが、受け入れた方にしてみれば無理を承知で渋々受け入れている可能性もあるから、双方の間で認識の違いや温度差があることになり、それが大したことでもないのに大勝利のように思ってしまうと、その後の経過の中で何かのきっかけから足下をすくわれるような結果を招いてしまうかも知れないし、そういうところから思わぬ事態が起こるのだろうが、そこでも何か明確な理由があってそうなるわけではなく、何気ないちょっとしたすれ違いなどをきっかけにして関係が悪化してくるわけで、それもそういうちょっとしたきっかけを口実にして関係を切ろうとする場合もあるだろうし、実際に何でもないような理由によって企業を解雇されたりする場合には、それが不当な解雇だと思われるにしても、本当の理由はその何でもないような理由ではない場合も多いだろうし、特定の誰を解雇したかったわけでもないのに、たまたま都合良く解雇の対象となってしまった場合があれば、そういう人はいてもいなくてもかまわないような立場の人だと思っておけばいいのかも知れないが、誰でもかまわないから人件費を削るために解雇するような場合には、そういう人がその対象となるだろうし、それももとからそういういてもいなくてもかまわないような立場だったわけではなく、だんだんとそうなってきてしまう場合もあるだろうし、それもありがちなケースとしては、業務内容の変化に伴ってそうなってきてしまう場合が大半だろうが、逆にそうなって職にあぶれてしまった人たちを、他の業種に活用するような成り行きが生じてくるかも知れないが、それも大抵は他の人たちがやりたがらないような業種が、そういう人材を当てにすることになるわけで、そういう成り行きが人を性格や感情などの方面で否定的な傾向に誘導してしまうだろうし、前向きな気持ちにはなれないような人にしてしまう成り行きがあるのかも知れず、そうなってしまった人がそうなってしまったことについては、すぐには明確な理由が求められないだろうが、そういう人がメディアで話題となるような事件などを起こした際に、ありがちな理由や動機がすぐに求められてしまうとしても、本当にそれが理由かどうかは怪しいところであり、理由がそれだけではないにしても、様々な経緯や事情や条件が重なってそうなってしまえば、その中の一つに明確な理由として焦点が当てられるにしても、それでわかったような気になれるのは当然かも知れないが、そういう理由を決めつけられてしまう側としては、何かやりきれないような思いを抱くかも知れず、そうなるまでにどれほどの苦汁をなめさせられてきたのか、誰もわかってくれないような被害妄想にとらわれるかも知れないが、それも当人にしかわからないことだけに、一般には無視されるようなことにしかならないのではないか。
4月24日「現場主義」
論理的にどう考えてもおかしなことをやっている状態というのは、そこに至る経緯やその場の事情などが合理的なことをやらせないように作用している可能性がありそうだが、論理的に考えることが合理的かというと、それも少し違うのかも知れず、論理的に考えている人の論理が考えている人の都合を反映していて、それが必ずしも他の人の都合やその場の都合を反映しているとは限らないわけだが、では論理的ではなく物事を合理的に考えることができるかというと、合理的に考えることはできるだろうが、さらにその場でやっていることを合理的に説明できるとしても、論理的に考えても合理的に考えても、やっていることがおかしいと思われる場合もありそうで、何か辻褄の合わないことをやっているような気がするのだろうが、そうならざるを得ないような成り行きになってしまい、やっている当人にはそれが制御できない場合もあるだろうし、考えていることをそのまま実行できなければ、その人の意志だけではできないようなことをやっていることになり、やりたいことができない状況の中で、その場の成り行きに従いながらできることをやっているわけで、論理的に考えておかしなことをやっているとしても、その場できることがそうなってしまうようなことでしかなく、論理的に考えて妥当なことをやれるような状況にはなっていないのかも知れないが、それが論理的に考えておかしなことであっても、その場でできることをやらざるを得ないような状況であれば、とりあえずできることをやるのが合理的な判断となるだろうし、そうなると合理的な判断から論理的に考えておかしなことをやっていることになるのかも知れず、たとえやっていることがちぐはぐで辻褄が合わないように感じられるとしても、その場でできることをやろうとすればそうなってしまうのだから、合理的な判断としてはそれでかまわないことになるかというと、そういう合理性と論理的に考えて正しい合理性とは違ってくるかも知れず、そう考えるとどちらの合理性が正しいのかといっても、実際にその場でやっていることが論理的に正しくないから否定してみても、できることがそういうことでしかないわけだから、いくらそれが間違っていると否定しても、やらざるを得ないことをやっている側からすれば、そんな否定は無視するしかないだろうし、その場の合理的な判断を優先させるしかなく、それが現場主義と言われる主義になるのだろうが、それで何かまずいのかというと、現場ではそういうことがまかり通っているとしても、そこで通用することが他でも通用するかというと、通用しなければそういうことをやっている現場だけが次第に周囲から遊離していって、完全に周囲から隔絶してしまうと、いわゆるガラパゴス化が起こったことになるのだろうが、それを他でも通用させようとすると、強引にやらざるを得なくなって、それが他からみれば覇権主義的に感じられてしまうだろうし、そこに至る経緯やその場の事情が通用するのがその場だけであるかないかが、そういったやり方が他でも通用するような普遍性を伴うかどうかも左右するのだろうが、他で通用しなくても自前でやっていける範囲内では孤立した村社会のような状態が保たれるだろうし、村社会の論理が村の中では幅を利かせることになるのだろうが、ではなぜ村社会の論理が論理的におかしいのかというと、村の外で通用している論理との間で矛盾が生じてくる限りでおかしく感じられて、どう考えても村全体が不合理な慣習にとらわれているように見えてしまうのかも知れないが、村がそうなってしまった経緯や村特有の事情に照らし合わせてみれば、そうすることが合理的に感じられてしまい、そういう意味ではその場の事情や都合やそうなった経緯ばかりを重視すると、何かおかしな成り行きになってしまい、それをおかしいとも思えなくなると、村の論理に馴染んでしまったことになるのだろうが、村以外にまでそういった村特有の論理を延長できるかというと、延長するに際して様々な方面で摩擦や軋轢が生じてくるようなら、それが他では通用しない村特有の論理でしかなく、そういった論理に裏付けられた慣習や掟の類いにも普遍性がないことになるのだろうが、そんな村社会が実際にどこに形成されているのかといえば、比喩的には日本で形成されているかも知れないし、韓国でも北朝鮮でも中国でもミャンマーなどでも他では通用しない村特有の論理を優先させることによって、他の国々との間でも、国内の村の論理に逆らう人々との間でも摩擦や軋轢を生じさせているのかも知れず、それが果たして現場の合理主義から生じてくるのかといえば、他にも現場の合理主義から生じてきた行為や行動がいくらでもあって、それらがたまたま世界的に通用するような行為や行動へと進化して制度や慣習となったものもあるにしても、今では廃れてしまった制度や慣習もあるだろうし、それらの中で何が世界的に通用するかどうかは一概には言えず、実際にそうなってみないことには何とも言えないのだろうが、それもその場その時の事情や都合やそこに至る経緯からそうなってしまうのかも知れないが、世界情勢自体がそういう事情や都合や経緯などが複雑に絡み合って形成されているわけだから、その中で特定の国や地域に特有な論理から生じる現場主義を世界全体に行き渡らせることができるかというと、それに伴って様々なところで摩擦や軋轢が生じてくる現状があるのだろうが、中には利害から妥協を強いられる場合もあり、例えば企業的なレベルでは、トヨタの現場主義がテスラの現場主義とぶつかり合うことで、利益を得るにはテスラの現場主義も受け入れざるを得なくなれば、トヨタでも本格的にEVを生産する成り行きになってきた事情があるだろうし、また国家的なレベルでは、経済的に利益を得るなら中国の現場主義との間で人権面での妥協を強いられるとしても、経済的な利益よりも政治的な利益を優先させなければならない事情が出てくれば、民主主義から生じる利益を優先する姿勢を民衆に示すために、アメリカやイギリスやオーストラリアやEUのように中国と政治的に対立する必要が生じてくるわけで、そういうところで何を優先させるかを巡って、その国や地域の事情や都合や経緯から判断できることとできないこともあるのかも知れないが、どう判断すれば正しいか間違っているかも一概には言えないことかも知れず、ただ単に損得勘定などの功利的なレベルで判断してもいいわけでもなく、たとえ何らかの判断をしたとしても、その判断を裏切るようなこともやらざるを得なくなる場合も出てくるだろうし、その場での判断ばかり優先させてもうまく行かない場合も出てくるかも知れないから、現場主義に頼り切っていると、その現場の衰退と共に心中しなければならない場合も想定しておく必要があるのかも知れず、だからといって現場主義に頼り切っている状況をどうすることもできなければ、もうすでにそんな現場に絡め取られてがんじがらめとなっていて、そんな現場と心中せざるを得なくなっているわけで、そうなっている人にどうこう言っても無駄だとしても、そういう人の言い分をそのまま受け入れるわけにも行かないわけだ。
4月23日「微妙なすれ違い」
誰もが微妙に避けようとしているのが自らに対する批判かも知れないが、批判ではなく非難となると、非難の応酬という事態もよくある成り行きかも知れず、批判も非難も否定的な意味に解釈するなら、誰もがされたくないことになりそうだが、肯定的な批判や非難があるかというと、非難は全般的にその対象を否定する傾向があるものの、批判には肯定的な意味を含んだ批判もありそうで、他人から自分の良い点や悪い点を評価されたり判定されるのは面白くないだろうが、批判されずに無視されるのも面白くないだろうし、無視しないでかまってほしいが、何を批判されているわけでもなく、そうかといって全面的に無視されているわけでもなく、触れてほしいことについて言及してほしいというわけでもなくても、何かしらそれについて語っている成り行きというのもありそうで、その対象が批判の対象となる物事かも知れないが、それが何だかわからないということにはならないだろうし、何かしらそれについてはわかっていることがあるはずだが、わかっていることの中でもとりわけわかりすぎるくらいにわかっていることというのが、聞く耳を持たない人ほど他人からの批判に激高して非難の応酬となりやすいわけではなく、聞く耳を持っているから激高する場合もあるだろうし、戦略的に聞く耳を持たないふりをしているわけでもなく、本当に聞く耳を持っていない場合もあるだろうが、それもどこまでそうするかに関しては批判の程度にもよりそうだが、それが的を射た批判であるほど激高しやすいのが聞く耳を持たない人の特徴だと思ってしまうと、ちょっと違うような気がするだろうし、中には単に他人の意見には耳を貸さないだけで、静かに無視し続ける人もいるだろうし、それも批判の程度にもよるだろうが、的を射た批判である必要はなく、逆に言いがかりのような批判であるほど頭にくるだろうし、筋違いのような批判をされると、批判されるいわれがないようなことをいわれているような気がするから、激しく反発してしまうのがよくありがちな反応だと思われるかも知れないが、その場でははっきりそれとわかるような態度は示さず、それを根に持って、後から陰湿な仕返しをしてくる人もいるだろうし、そんなテレビドラマふうの人ばかりが世間で目立つことは確かかも知れないが、中には自らが批判されているという自覚がなく、また批判してくる対象に何かやり返すという自覚もない場合もあるかも知れず、何だかわからないが、人間関係がギクシャクしているのが不思議でならないような気になっていると、そのうち仲違いが生じて自然とそこから離れていってしまうようなことが起こるかも知れず、そうなってからそれと自覚することなくそこで何らかの諍いが生じていたのではないかと疑ってしまうわけだが、自身には覚えがなくても相手の方が意識している場合もあるだろうし、その逆もあるかも知れないが、それを面と向かわずに批判だとは受け取られないように周到な言い回しを使って批判をされているような気がすると腹が立つ場合もあるかも知れないし、そういうところまで妙に気を回しすぎているとおかしくなってくるわけで、しかもそれを自覚できないようなところにまで気が回っている場合もあり、そうなっている時点ですれ違いの兆候がかなり深刻化しているのかも知れないが、気を遣いすぎることと無視することの両面からおかしくなってくるとしても、ちょうど良い程度や度合いを探ろうとしているわけでもなく、その場の状況や成り行きに応じてメリハリをつけられるかといっても、意識して調整や調節を働かせようとするのにも限度や限界があるだろうし、どんなに恣意的に気を遣ってもなるようにしかならないのが人間関係の難しいところかも知れないが、意識して善人ぶってもすぐに化けの皮が剥がれてしまう場合もあるから、ある程度は他人から悪く見られている方が気楽な場合もあり、周りの他の人たちと同程度に愚かな人物のように振る舞っていれば、周りの誰からも批判されることもないだろうし、自然にそんな振る舞いが身についていれば、その場の環境に同化していることになるのだろうが、そういう方面ではそうであっても、そういう方面ばかりに気を遣っているわけにも行かず、何かそれとは別の方面から侵食作用や風化作用などが起こってくるわけで、それがきっかけで心の病に発展することもあるだろうし、それが何のきっかけなのかもよくわからないかも知れないし、ただの退屈が原因だとは信じられないかも知れないが、退屈な日常から抜け出ておかしな方面へ離脱していってしまう人もいて、それをおかしな方面だとも思っていないだろうが、普通に考えてやる必要のないことをやっている人も大勢いるだろうし、そんな人たちの中には旅人のように年がら年中移動を繰り返している人もいて、なぜ移動しているのかといえば、同じ場所にとどまっていると飽きてしまうからといった理由では満足できないかも知れないが、魅力を感じられないのはどうしてなのかというと、そこが平板でメリハリがないように感じられると飽きてきて、何か退屈な気がしてしまうのかも知れないが、その程度のことで深刻な状況となってしまうかといえば、誰もそうは思わないかも知れないが、それに関して例えば美容と健康という差し障りのない方面に引っかかっていれば、大して不自由を感じられない生活を送っていることにはなるだろうが、そういう平凡な価値観を否定してもかまわないのかというと、そうではなくそんな生活に憧れるように仕向けられてしまっても、それほどおかしくは思われないような環境の中で生きていることには変わりなく、そんな大したことはない生活を成り立たせるために、それなりの苦労を強いられているかも知れないが、そんな苦労も何とも思わないような心境になれる場合もあるのかも知れず、そういった何でもないような状況が実現していればそれなりに満足感を得られるのかも知れないが、自分さえよければそれでかまわないのかと言われるような事態は避けたいだろうし、何かそういう方面での共同体的な村人意識になることを嫌ってしまうことが、バランス感覚としてそれなりに利いてくるのかも知れず、そういう感覚をどこまで延長しても、自ずから限度や限界もあるだろうが、身の回りだけでは済まない方面で振る舞わなければならないことがあること自体が、世の中がそれだけで完結しているわけではないことを示していて、それだけで間に合うような生活を維持したくなってしまうのだろうが、それが維持できなくなった時にどう振る舞うかが、別に試されていることでもないはずだが、実際に振る舞うような事態に直面するわけでもないだろうし、そんな事態に備えなくても済んでいるうちは何とも思わないことかも知れないが、メディア的な仮想の言論空間では絶えず意識が世界と接していて、そこでは政治的な話題とは無縁ではいられないだろうし、また経済情勢などにも関心を抱くかも知れないし、そういうことに関心を持つことが意識が高いことの証拠だとも思えないにしても、意識の高さを誇るわけでもなく馬鹿にするわけでもなく、関心の幅を拡げることも大して意味があるわけでもないだろうが、そういった方面へと関心を向けることがそれなりに自らを取り巻く世界の実態を知ることにはなるのではないか。
4月22日「偏重した思考」
偏った考えが偏った行為や行動をもたらすとも限らないが、偏りのない行為や行動の正しさが何を意味するのかと言っても、それが正しいかどうかが誰かがそれを正しいと判断したりしなかったりするかも知れないが、何らかの法律やルールに基づいて判断できる場合もあるだろうし、そういう場合には法律やルールに適合すれば正しく、適合しなければ間違っていることになるだろうが、その法律やルール自体が正しいかどうかも、誰かがそれを正しい法律やルールだと見なしたり、あるいはそれが間違った法律やルールだと見なす場合もあるかも知れないが、なぜそれが正しかったり間違っていたりするかについてちゃんと説得力のある説明ができるかというと、法律やルールに詳しければ説得力のある説明ができるかも知れないが、できなければどうなるのかというと、それはそうなってみなければわからないことかも知れないが、そういった法律やルールがあるおかげで具体的に不便や支障などが生じてくれば、それを間違った法律やルールだと見なして改正するかなくそうとするかも知れないし、確かに法律やルールなどの決まり事に照らし合わせて、行為や行動の正しさがわかる場合もあるが、法律やルール自体の正しさは、実際に法律やルールに基づいて行為や行動した場合に、不便や支障をきたさないかどうなるかにもよるだろうし、さらには時には違法行為をやっても不便や支障をきたさない場合もあるかも知れないし、また合法的な行為や行動の範囲内であってもその場の条件や状況によって不便や支障をきたす場合もきたさない場合もあり得るだろうし、行為や行動をしている当人は不便や支障をきたさなくても、他の人や団体がそれによって不便や支障をきたす場合もある得るだろうし、そういうことをやると誰かが不便や支障をきたすとしても、それが正しい行為や行動であれば許されるかというと、法律やルールに則って正しい行為や行動をやられると、違法な行為や行動だとされるような間違った行為や行動をやっている人や団体が不便や支障をきたすなら、正しい行為や行動をしている人や団体を脅して、やっていることをやめさせるかも知れないし、間違った行為や行動をやった方が利益を得られるならそれが違法であってもやろうとするだろうし、単純に利益を得ることが正しい行為や行動だと判断しても、やり方によっては違法にも合法にもなるだろうが、それが偏った考えであり、偏った行為や行動をもたらすのかというと、単純に利益を得られるなら何をやってもかまわないと考えることが、利益を得ることだけに偏重した思考だと言えるのだろうし、また合法であるなら何をやってもかまわないと考えることも、法律やルールを守ることだけに偏重した思考だと言えるだろうが、そんな偏重した思考から何がもたらされるかというと、何か特定の物事に偏重した思考から主張が生じて、それを強調した主張になってしまうのが主張自体の宿命となり、主張したいことを強調しなければならないから、そこで強調された物事に偏重した主張になってしまうのは当然のことなのだが、それに関して正しいことを主張するなら、物事の正しさに偏重した主張となるだろうし、主張としてはそれでかまわないのだが、主張はそれで良くても、実際に主張に基づいて何かをやるとなると、主張の中で示されていることだけではうまく行かなくなる可能性があり、そこでは強調されていない物事が主張の中では示されておらず、主張だけに偏重した行為や行動がうまくいかない原因がそういうところにあるのかも知れないが、それが主張するだけに完結した行為や行動であればそれでもかまわないだろうし、主張の範囲内で物事が推移している限りでは、それ以外の物事がなくても主張の中だけで完結できるのだろうが、そういう意味で主張に特化した主張というのもあり、主張するだけで他の物事には大して作用や影響を及ぼさなければ、主張をさせるだけさせておけばいいことになってしまい、そうなってしまうと主張に基づいて何かをやる可能性がなくなって、いつまで経っても実現しないことを延々と主張するだけにとどまってしまっても、その方がかえって主張する側にとっては都合が良い場合もあるだろうが、そうならないようにするためにはどのような主張をすればいいかということではなく、主張だけでは完結しないような行為や行動にしなければならないと言ってみても、それが具体的にどのような行為や行動になるのかと問われても、外部から主張者に向かって指図したりアドバイスするような機会が生じてこなければ、そんなことが問われる機会も生じてこないし、すでに行為や行動をおこなっている中で何かを主張しているわけだから、そういう成り行きの中でもたらされている条件や事情などを変えるのも難しいだろうし、実際に主張するだけにとどまっている人がいるとすれば、その人が主張するだけにとどまってしまうような成り行きがそこに生じていると見なすしかなく、そこからその人が主張を実現するような成り行きになるかどうかは、実際にそうなってみなければわからないといってしまうと無責任だが、現状ではどうなるかわからないからそういうことしか言えないわけで、案外大したことは何も主張していないような人の中から、何かを実行する人が現れることも結構ありがちな成り行きかも知れないが、何かを実行するような立場がそこに生じているとしても、その立場を占めている人ではなくすでに別の誰かが勝手なことをやっている最中で、その立場の人がやろうとする行為や行動を妨害しているのかも知れず、それもそういう成り行きがそこで生じているとしか言えないようなことかも知れないが、そういうことにかかわっている人や団体などの意図や思惑がすんなりとその場で支配的な作用や影響を及ぼしているとも限らず、そこでおこなわれていることとは関係のない方面から思いがけない作用や影響を及ぼされている可能性もあるだろうし、例えばそこに支配者のような人物がいて、その人物の意志が完全にその場を掌握しているように見えるかも知れないが、そこでおこなわれていることが空疎な王侯貴族的な遊戯でしかなければ、その人物の意志も空疎な王侯貴族的な紋切り型でしかなく、それを王侯貴族的な遊戯と決めつけるのもおかしいかも知れないが、たぶん単純な論理がそこで実現しているように感じられて、その人物が支配者のように見えれば、それがその場を支配することに偏重した見方をしていることの表れとなるだろうし、またそこで管理統制がおこなわれているように見えれば、当然のことのように管理統制に偏重した見方となるだろうし、そうやって支配や管理統制を否定的に見る批判的な思考に偏重してくるわけで、そうなると何がどうなっているかもわからなくなっているわけでもなくても、その詳細がどうでもいいことのように感じられてくるわけでもなくても、漠然と強権的に支配や管理統制がおこなわれているような印象にしかならず、それがそれ以外の何を意味するわけでもないのだろうが、そういう傾向が高じると、例えば人権侵害のようなことがおこなわれているらしいという噂が世界中に広まっていく成り行きも生じてくるだろうが、そういう傾向に偏重しながら何を考えても、そういった傾向の方面でしか物事が考えられなくなってしまうわけだ。
4月21日「両義的な評価」
経験から学ぶことが当たり前のようにできるとは思えないが、何事も経験してみなければわからないとも思いたいだろうし、経験する以前に予想したり予測することもできるが、経験する程度にも予想や予測の内容にもよるだろうが、結果を安易に想像できてしまうことが余計なことを考えさせてしまい、現状が予断を許さない状況だとも思えず、憶測や推測などによってあらかじめ都合の良い先入観を抱いてから事に当たると、失敗する可能性も高まるだろうが、うまくいかない原因というのも、実際にうまくいっていないのとは違って、うまくいっていないと思い込もうとしているだけであったり、うまくいっている面とうまくいっていない面があれば、やっていることを両義的に評価しておくのが妥当なところかも知れないが、そう考えるのがそもそもの先入観となって、何事も経験する以前に考えすぎてしまっているのかも知れないが、どちらとも言えないようなことをうまくいっていると思い込みたいのだが、逆にうまくいっていない面が気になって仕方がないような心配性になると、うまくいっていると思いたくても、そうでもない面を意識せざるを得なくなって、どちらか一方になりたいのになれないような焦れったい気分となってしまうだろうが、判断や評価がどちらか一方に振れてしまうのが間違っているようにも思われて、そんなどちらとも言えない心境になってしまうことが、果たして良いことなのか悪いことなのかと考えてしまうこと自体も、思考が先走って結果に至る以前に先回りして判断しようとしているのであり、何とか良いか悪いかを断言して、予断を許さないような先行き不透明な状態から抜け出たいのかも知れないが、そんなどちらとも言えない状態にとどまることこそが重要だとは思えないだろうが、判断停止状態を長引かせることが何をもたらすとも思えないにしても、ひとまず判断や解釈を保留しておくことが、まだ結果に至っていないという認識が示していることでもあり、結果というのも途中経過の一種と考えれば、何かが一区切りついた状態がとりあえずの結果にすぎず、結果そのものをあまり重視しない姿勢というのもあり得るかもしれず、結果に至ったところでまだ終わっていないと捉えるなら、結果をことさらに恐れる必要もないはずで、そうであれば結果の良し悪しを判断することでさえ大したことではなく、気休め程度のことだと受け止めればいいのかも知れないし、とりあえずの一時的な判断や評価でしかなければ、結果の良し悪しを気にしたり、それを深刻に受け止める必要もないわけだが、では何が気にすべきことであり、深刻に受け止めなければならないことなのかといえば、それが現在の状態であり、自らがとらわれている状況であれば、何かそれが疑わしく思われて、何かに欺かれているような気がするのかも知れず、自らがとらわれている先入観や固定観念に欺かれている可能性もあるだろうが、どう考えても無理なことがおこなわれている現状があるとすれば、そこから偏った先入観や固定観念が生じて、無理なことが当たり前のようにおこなわれていることが、そうするのが当然のことだと思わせる偏見をもたらすのだろうが、何がそうなのかといえば、例えばそこで人為的な行為によって多数の死傷者が出ていれば、普通の状態であれば人は死にたくないから、無理なことがおこなわれているのが一目瞭然になるだろうし、そういった誰もがはっきりとわかるような状況であれば、簡単にそこでおこなわれていることの良し悪しがわかるのだろうが、それが無理なことだとは気づかない場合もあるのかも知れず、何だかわからないが、多大な手間暇をかけて大がかりに何かがおこなわれていて、それによって多くの人々が苦痛や苦労を強いられていれば、それが無理なことだと言えるだろうが、それを言える立場がなければ、誰にも言えないような状況がもたらされていて、なぜ言えないのかと言えば、それを無理だとは言わせない制度になっていて、そうするのが当然視されているような状況となっていれば、誰もそれを無理だと言わない代わりに、もっと何か好意的な表現を使って無理なことを賛美している場合もあるかも知れないが、それも一方的に無理な状態となっているわけではなく、ある方面では確かに多大な苦痛や苦労を強いられているとしても、別の方面では快適な状態となっていれば、快適な状態を享受できる範囲内ではそれが賛美されているだろうし、そういう意味で快適な状態を賛美するような成り行きになっている裏では無理なことがおこなわれている可能性があるのかも知れないが、それが人目につかなければ気づかれないだろうし、無理を押し通しているのを隠し通せるかというと、何かの拍子にそんな実態が明るみに出てしまう場合もあって、それを暴露しようとする人もいくらでもいるかも知れないが、暴露したところで世間から無視されれば何でもないことになってしまうだろうし、無視されなくても一過性の話題としていくらでもメディアから提供されている実態もあるだろうし、そうやって制度的にも慣習的にも無理なことがいくらでもおこなわれるような世の中になっているのだろうが、そんな世の中の状態に欺かれているとしても、それが当然なのだから、欺かれているとは思えないわけで、その代わりにそれをどう思うかといえば、好意的に受け取られて、苦痛や苦労を強いられることを賛美する風潮となっているのかも知れず、別にそれが悪いことだとは思われないし、それどころが若い時の苦労は買ってでもせよという格言もあるだろうが、それが無理なことだとは思われない範囲内でそう受け取られていれば、特に表現自体には何の問題もないわけだが、それも時と場合によっては限度や限界を超えて無理強いさせるようなことになってしまうだろうし、そうなるとしても個々の事例においてそうなってしまうわけだから、そんな世の中の状態に欺かれているわけでもないのだろうし、それを一方的に悪いことだとして非難するのも、個々の事例においては確かに非難できるようなこともおこなわれているわけだが、個々の事例を非難すればいいわけで、そういうことがまかり通っている世の中の状態が悪いわけではなく、まともでないことが世界各地で起こっていても、それをどうにかして改善するような試みもおこなわれているわけだが、それらをどう評価してもまだ結果に至っていない段階で評価することになってしまい、それに関する予想や予測を交えながら、良し悪しを断言するようなこともおこなわれていて、断言するとなると結果に先回りして断言することになるだろうし、それが予言として機能するわけで、そんな予言が当たったか外れたかは大して重要ではなく、何かをこうだと断言すること自体が無理なことだとは思われていないどころか、断言する人たちがそんな断言を乱発して、断言のインフレ状態を招いて断言の価値を下げていることに無自覚なのかも知れないし、日々何かを断言せざるを得ないような立場に立たされていて、それが無理な立場とは思えないだろうし、断言すること自体も無理なことではないのだが、そんな断言の数々をどう評価すればいいのかというと、評価すること自体が無理な場合が多いのではないか。
4月20日「ゲームのルール」
何をやるにも泥縄式になってしまうのは、事前にどうすればいいのか見当がつかないからかも知れないが、それでも直面する事態に対応している間に、自ずからやり方が導き出されてくるはずだが、それが一定のやり方とはならず、状況や情勢の変化や変動に合わせて絶えず調整したり調節するようなやり方になるのも当然だろうが、受動的な対応では後手に回ってしまうのは致し方のないところで、こちらから積極的に仕掛けて主導権を握るようなことをやれば、こちらにとって都合の良い状況や情勢へと持って行くことができると思われるのも当然だろうが、言葉で説明すればうなずけるようなことでも実際にやるとなると、うまくいく面といかない面の両面が出てきて、うまくいっているのかいっていないのかよくわからないような混沌とした状況となってしまう場合もあるだろうし、そうなってくると積極的に仕掛けて主導権を握ろうとしても、こちらの言い分が通らずにうまく行かなくなってしまうのかも知れないが、たぶんそんなことよりも根本的にわかっていないことがあって、何か目的があって思考や行動を促されるのだとしても、目的がないと思考にも行動にも結びつかないかというとそうでもなく、思考することが思考することの目的となったり行動することが行動することの目的となったりして、何だかわからないがとりあえず活動している場合があり、大した目的もなく生きていれば受動的になるとか積極的になるとか、その場の主導権を握るとか握らないとか、そういうことが気にならなくなってしまうのかも知れず、それに関して例えばゲームをやっていれば、ゲームを楽しんだりゲームに勝つことが目的として意識されるだろうが、それはその場の成り行きからたまたまゲームをやらざるを得なくなってからそんな目的を意識し出すわけで、はじめからゲームを楽しむためにゲームに勝つためにゲームをやり始めたと思われるかも知れないが、それも実際にやってみないと楽しいかどうかも勝てるかどうかもわからず、他人が楽しんでいるからとか他人がゲームに勝って喜んでいるから、自分も楽しもうとして自分も勝って喜びたいからゲームをやろうとするわけで、自分が何もないところからゲームという行為を編み出したわけではなく、すでにそこにゲームがあったから自分もやってみようと思ってしまうところが、受動的な対応であり、後手に回ってしまっていることの証しとなるのだろうが、そうであるならゲームの中でこちらから積極的に仕掛けて、局面の主導権を握ろうとしていること自体が、ゲームをすることによってそう仕向けられてしまっていると言えるだろうし、ゲームのルールがそう仕向けているとも言えるだろうが、そんなことをやってみた結果としてうまくいったりいかなかったりする状況や情勢がもたらされるとしても、ゲームをやっている成り行きの中でそうなったりならなかったりするわけで、ゲームをやらなければ全くそうならないかというと、ゲーム以外でも他の行為の中でそうなったりならなかったりするわけだが、やってみてうまくいかなければ楽しくないし、ゲームに勝つことができなければ喜べないから、そうなると楽しくゲームをやるにはどうすればいいかとかゲームに勝つにはどうすればいいかとか、そのやり方を考えるようになるわけで、そうやってゲームをすることの目的がはっきりしてきて、ゲームを楽しむことが目的となったりゲームに勝つことが目的となるのだろうが、そういうことまで含めてゲームの術中にはまっていると見なすと、そんな術中から逃れるには、あるいはそこから抜け出すにはどうすればいいかという目的も生じてくるかも知れないが、なぜそういう目的が生じてくるのかといえば、ゲームをすることによって何らかの弊害が生じてくれば、それがゲームをやめる理由となり、ゲームへの依存状態から抜け出して、心身の健康を回復したいと思われるようになるかも知れないが、それもそういう状態となってから思うことでもあり、そうなってみなければそうは思わないだろうし、事前にそういう状態になるとは思わないから、結局はそうなってみてから判断することになるわけで、そういう意味では何事も事前には判断できないことがあるだろうし、予想や予測のつかないことが出てくるわけだが、そういう不確定な要素や要因がある中で何か特定の目的を掲げるにしても、目的にこだわるだけではうまく行かない場合もあるだろうし、こうすればうまくいくとはじめから決めつけてかかっても、途中でやり方の変更を余儀なくされてしまう場合も出てきて、その場の状況や情勢に合わせた臨機応変な対応が求められるとしても、即興でそういうことをやれといっても難しいだろうし、そういう意味では備えあれば憂いなしという格言がリアリティを伴うだろうが、何に備えればいいかもわからないような状態で備えができるわけでもなく、それをゲームの類いだと決めてかかっても当てが外れてしまえば、では何をやっているのかというと、一概には言えず、確かにゲームのようなことも片手間でやっている場合もあるにしても、それだけではないから、それだけではない面に関してはゲームのルールなど適用しないだろうし、ゲームの外からゲームの中へと介入してくる作用があれば、ゲームのルールなど無視して介入してくるかも知れないし、そうなるとそういう面ではゲームそのものが成り立たなくなってきて、ルールを無視して直接的にも間接的にも作用や影響を及ぼそうとしてくれば、実際にそうなっているのにまだゲーム内でルールに則ったことをやっていると、ルール内ではうまくやっているつもりであっても、それでうまく行くはずもなく、うまくいくにはルールを無視して、あるいはルールを破って違法行為のようなことをやらなければならなくなるわけで、それが実際にはスパイ行為であったりハッキングであったりするのだろうが、そういう行為まで含めてゲームのようなことがおこなわれていて、それを決められたルールに基づいておこなうだけではうまくいかないから、様々な違法行為や脱法行為などをおこないながら、何とかそういうことをやる人や勢力が有利になるような状況や情勢へと持って行こうとしているわけだろうが、それもそこでおこなわれているように見えるゲームの類いが人や勢力をそうするように仕向けていると見なすと、何かそう思われるような理由や根拠が導き出されてくるのかも知れないが、そういうことをやる人や勢力などに明確な目的があるかというと、実際にそういうことやっているのだから目的があるのは確かだろうが、そういうはっきりした目的ではなく、そういうことをやらせる原動力となっているのが何かというと、単なる競争心の類いであればそれが国家間競争であったり企業間競争であったりするものの、そういった競争心を煽っているものが何かというと、案外そこには何もないのかも知れず、実際には他者の存在が気になるから他者に打ち勝つように煽られてしまうのだろうし、その他者の方でもそう思えば、互いにライバル心が生じるはずだが、本当にそこに競争相手としての他者が存在するかというと、必ずしも同じ方向を向いていない可能性があり、別々の方向を向いていれば競争が成り立たないだろうし、ゲームにもならないわけだが、果たして競争もゲームもしていないのに他者に打ち勝つことができるかというと、そこでは勝敗とは無関係の関係が成り立っている可能性もあるわけだ。
4月19日「早計な判断」
何か的外れなことをやっていても、やっている最中ではそれに気づけないわけだが、実際に的外れなことをやっているとすれば、的外れなことをやる機会を捉えているわけでもないだろうが、それによってどんな結果がもたらされようと、それが何の機会なのかといえば、思考や意識では捉えられないような機会を捉えているわけでもないが、それでも実際には思ってもみなかったような結果に至って戸惑うことになれば、そんなのは幻想にすぎないと思うかも知れないが、何かこれまでにない事態に直面して、やっていることがうまく行かなくなったのではないかと勘違いしてしまうのかも知れず、それ以前に自らが何を幻想しているのかさえよくわかっていなければ、幻想でさえないのかも知れず、それが思いがけない事態だとしても、何でもないような結果がもたらされているのに、何の機会を捉えて何をおこなったわけでもないと思っても、それでも思いがけない結果がもたらされていることには変わりなく、当てが外れていることは確かだとしても、まだ途中経過にすぎない段階で結論を出すのは早計だろうし、途中の段階では当てが外れていると思うしかなくても、本当に的外れなことをやっているかどうかは、そこから最終的にどんな結果となるかがまだわかっていないのだから、確かにその時点では当てが外れてがっかりしているとしても、自分で自分を騙すにはそれでかまわないのかも知れず、なぜ騙す必要があるのかがよくわからないかも知れないが、こうすればうまくいくという方法や戦略を自分に信じ込ませるには自分を騙す必要があり、そうやって自分を騙さないと思いがけない事態を招くようなことは怖くてできないだろうし、それで自分を騙していることになるのか、それで騙されたつもりになれるのかも不確かかも知れないが、思いがけない結果に至るには的外れなことをやる必要があったわけではなくても、事前にはよくわからない何かに導かれるようにして実際にそうなってしまえば、意識して自らを騙しながらそうなってしまう結果へと導いたわけでもなくても、騙しているつもりもないのに騙されたような結果に至って、がっかりするようなことになれば、それが思いがけない結果であることには変わりないだろうが、それによって自分の都合を反映した夢が破れてしまうとしても、思いがけない結果がもたらされて都合の悪い事態に陥ってしまったことを嘆くよりも、事前に必ずしも都合が良い結果が得られるとは限らないことを承知していれば、そのいやな予感が的中して、しかもその予感を上回るような思いがけない結果がもたらされてしまえば、それがまだ途中経過にすぎないことをわかっていても、そんな事態に直面して思い通りにならなかったことについてはがっかりすると共に、何か当てが外れているような気がしてしまうわけで、しかも当てが外れてしまったことによって思いがけない状況へと至ってしまったのだから、そういう成り行きの延長上で何らかの結果がもたらされるのは確かだろうし、そんな予感がしてしまうわけだから、それ以上に何がどうなるわけでもないのだろうが、予感通りのことが起こったと思っておいてもかまわないはずだが、そんないやな予感が的中すれば、それが思わぬ結果となって自らに不幸がもたらされるとしても、思わぬことが起こるような予感が的中してしまったことにもなるわけで、何とかそうなるのを回避したいのかも知れないが、現状をそんなふうに捉えながら事態を乗り切ろうしているのかも知れず、それが何を意味するといってもそうなるような気がするという予感に従っているつもりで、的外れなことをやっていると思うしかなく、しかもうまくいかなくなることを考慮に入れながらやっているわけだから、実際にうまくいかなくなったとしても、それは想定内であるはずだが、実際に思いがけない事態に直面してしまえば、想定外のことも起こっているわけで、何かいやな予感がするというのは、想定外のことが起こることを察知しているというよりも、経験上そうなることを予想していて、事前の段階でそれが織り込み済みになっているように装うために、何かいやな予感がするような気になりたいのかも知れず、結果的に思いがけない事態に直面してみれば、なるほどあの時いやな予感がしたのはこのことだったのかと思って安心したいのかも知れず、もちろん思いがけない事態に直面しているのだから全面的に安心できるわけもなく、ほんの気休め程度の安心でしかないだろうが、そこに至ってもなお一連の成り行きの途中経過にすぎなければ、まだその先でどんな事態が待ち受けているとも限らず、現実にそうなったからといって一安心するようなことにはならないわけだが、いやな予感には続きがあって、現状でも思いがけない事態に直面しているのだから、さらに思いがけない紆余曲折を経て、予想だにしなかったような結果に至ることを期待してしまうわけで、そういう期待や希望に支えられながら目下の事態を乗り切ろうとしているのだろうが、この期に及んでなお都合のいい結果に至るような幻想を捨てきれないから、何かそういうところで状況に対する認識の甘さが露呈しているのだろうが、将来に関して甘い期待を抱くことが活動のモチベーションとなっていることは否定しがたく、悲観的な未来ばかり予想していると何もやる気がなくなってしまうのであり、そういう意味ではそうなるのが当然の結果がもたらされていて、身勝手な夢や希望を抱きながら的外れなことをやっているという結果がもたらされてしまうのがよくありがちな成り行きかも知れず、そんな結果を事前に予想してしまうと夢のない話になってしまうわけだが、いやな予感というのはそうはならない未来になるような気がして、思いがけない結果がもたらされれば予感が的中したような気がするのだろうが、それが事前に抱いた甘い期待を打ち砕くような厳しい結果であれば、なおのことそれが必然的にもたらされた戒めや懲罰ように思われるかも知れず、そう思うことがそんな結果がもたらされたことを合理的に説明したいということの表れともなるはずだが、無理にやっていることを合理化したり正当化する気になれなければ、ただ単に的外れなことをやっていると思っておいてもかまわないだろうし、しかもそれが取り立てて悪いことではなく、良いことだとも思えないにしても、そこで生じている成り行きに従っていると思っておいてもいいのかも知れず、そういう成り行きに従うと的外れなことをやるようなことになってしまい、結果的に思いがけない事態に直面して、やっていることがうまくいかなくなってしまうだろうが、それを生かそうとしても利用しようとしてもうまく行かなくても、うまくいかないことをやり続けることで、何かしら結果がもたらされて、それが自身にとって必ずしも都合のいい結果とはならないかも知れないが、事前の甘い期待が打ち砕かれるような結果がもたらされるとしても、それはそういうことだと受け止めるしかないだろうし、それが良いとか悪いとか判断する以前に、そんな成り行きの中で活動していること自体が、何かの救いとなるわけでもないだろうが、その程度のことだと卑下するわけにもいかなくなるのではないか。
4月18日「政治意識の高まり」
どこかの国や地域で、産業や商業の発展によって何が起こるかといえば、物や情報やサービスの生産と流通と売買と消費の活動が盛んにおこなわれるようになるはずだが、それだけでは何かが足りないと思うなら、それが経済活動と連動して起こる政治活動になるかも知れないが、そう思う必要がないのが民主主義を軽視するアジア的なメンタリティーだと見なすと、それが差別表現となってしまうかも知れないが、どうやって民主主義を葬り去れば納得がいくわけでもなく、それ以前にそういった方面には考えが及ばず、少なくとも産業や商業の発展と民主主義の発展が相容れないとは考えにくく、逆に強く結びついているのが欧米的な価値観かも知れないが、経済活動が盛んになるにつれて人々の政治意識も高まるのが普通の成り行きだと思いたいのだろうが、経済的な豊かさと政治意識の高まりを無関係だとは思えないのが、従来からある先入観にとらわれた思考かも知れず、そうではなく実際には経済的な貧しさが政治的に解決してほしい課題となってきて、それが政府主導による経済発展への幻想につながるのだろうが、逆に新自由主義的な思考からは、政府による過度な産業への介入や規制を抑制しようとする発想が生まれてきて、民間の活力によって経済を発展させようとする建前が優勢となるのだろうが、そういった政治と経済の結びつきの中で民主主義の居場所があるかというと、どうもそれがよくわからないところであり、民主主義を政治に利用しようとすることが、逆に民主主義の破壊に結びつくこともあるわけで、例えば昨年のアメリカの大統領選挙で、選挙の不正を訴えていたネトウヨたちが、逆に愛知県知事のリコールを巡る住民投票の著名集めでは不正行為をおこなっていたり、広島での参議院選挙における大がかりな買収工作をおこなっていたのも、ネトウヨたちが支持する内閣が主導でおこなっていたことであるし、首相の桜を見る会において地元住民を接待していたのもそういった買収工作の一環かも知れないが、そんな民主主義を破壊するネトウヨたちが、嫌韓嫌中の延長上では、香港の民主派や台湾政府を応援していたりもして、またウイグル人の人権弾圧も非難しているだろうが、民主的な選挙で選ばれた韓国の大統領とは、従軍慰安婦や徴用工や竹島の実効支配などの問題から敵対する立場を取っているはずだし、自分たちのその場の都合に応じて、民主主義を擁護する時もあるが、逆に民主主義を破壊する側に回ってしまう時もあるわけだが、それはネトウヨに限らず、経済的な貧しさを政治的に解決してほしい人たちも、当然のことのように民主的な選挙を利用して政権を取ろうとしているわけで、別に政治的に何とかしようとしたことがうまくいったためしがないわけではなく、中には結果的にうまくいったように思われることもそれなりにあるだろうが、それが政治の延長で軍事的に何とかしようとすることにつながれば、それを民主的な行為だとは誰も思わないだろうが、民主主義を守るためにはあえて軍事攻撃を辞さないような成り行きにもなるだろうし、そうやって軍事的に勝利すれば、結局は自由と民主主義の勝利だと行為を正当化することになるかも知れないが、何から何まで全てを民主主義の枠内で解決しようとするわけではなく、実際にそれができわけでもないとしても、選挙や住民投票で賛否を問う投票が公正におこなわれる限りで、民主主義が有効に機能していることにはなり、そのためには人権侵害や差別などがおこなわれていないことが必須条件となるだろうし、それが独裁政権などになると民主主義を機能させると独裁を保てなくなるから、制度を自分たちの有利になるように改変したり、骨抜きにして形骸化させたり、警察や軍隊を動員して住民を暴力で脅したり、クーデターなどを起こして民主的な政権を倒したりするわけだが、少なくとも民主的な選挙制度や政治制度が機能していれば、誰もが民主主義を利用できる建前とはなっているものの、住民の間で経済格差が生じていれば、どちらかといえば貧しい人よりも豊かな人の方が、有力な条件で利用できるだろうし、それだけ政治的な発言力や発信力や人望なども伴ってくるだろうし、そうなれば結果的には貧しい人よりも豊かな人の方がより大きな割合で民主主義を利用できる成り行きになるわけだろうが、そうなるのがいやなら貧しい人々が一致団結して、数の力で豊かな人々を圧倒しなければならないという戦略が机上の空論のレベルでは成り立つだろうが、貧しい人々は貧しいままではいたくないわけで、できれば豊かになりたいわけだから、豊かな人々と敵対する気にはなれない場合も出てきて、むしろ豊かに人々に取り入ろうとして、媚びへつらうようなこともやってしまう場合もあるだろうし、歴史的にもそういう机上空論が成り立たないことが証明されたのかも知れないが、実際にそうであれば民主主義を破壊しているのはむしろ平凡な一般人の方であり、政治に対する無関心が選挙での投票率を下げて、結果的に民主主義を破壊していると言えるかも知れないが、そういう意味での民主主義というのは特に尊いものでも価値があるというわけでもなく、それが政治的に独裁体制などになって、民衆が弾圧されるような事態になってみれば、改めて民主主義のありがたみが骨身にしみてわかるかも知れないが、そうなってからでないとわからないのであれば、普通の平和な状況の中ではそのありがたみなどわかるはずもないだろうし、政治的に無関心を装ってみても取り立てて問題はないと思ってしまってもかまわないのかも知れないが、実際にそうなれば経済的に有利な人々が世の中の主導権を握ることになるのは当然だろうし、貧しい人々も豊かになりたいのだから、豊かな人々に取り入って豊かになろうとするだろうし、貧しい人々も豊かな人々の味方を装うことになるしかなく、SNSなどで経済的な豊かさを誇示する人の見せびらかしを羨んで、いいね!ボタンを押すことになるだろうが、そういう低レベルのメンタリティーへと押し下げられた人々が、民主主義を擁護するような成り行きにはなりがたいだろうし、そういう傾向も含めて民主主義が破壊されていると見なすと、何か民主主義には未来がないような気がしてくるかも知れないが、たぶん未来がなくてもかまわないのかも知れず、それは思想というよりは制度の類いであり、制度的に有効に機能していればそれでかまわないのであり、形骸化しようと有名無実化しようと、形だけでも民主主義の体裁を取り繕っていれば、それなりに機能していることになるだろうが、制度を無効化しようとする成り行きには反対しなければならないだろうし、それが政党組織や官僚機構の肥大化につながって独裁体制を招くのだろうが、それに関しては二大政党体制などが一定の歯止めとして機能している現状があるわけだが、日本の現状に照らし合わせて考えてみると、まだ二大政党制にさえも至っていないだろうし、そうかといって中国のように完全な一党独裁体制にもなっていないわけだから、何とかその手前で踏みとどまっている状態になっているのかも知れないが、二大政党体制にも一党独裁体制にもならない中途半端な状態が絶妙なバランスとは誰も思っていないだろうが、表面上はどちらでもかまわないのであり、かろうじてそうなっているのではなく、慢性的にそうなっているのかも知れず、それが良いことなのか悪いことなのかという判断を必要としない状況であり、批判的なことを言うなら悪いに決まっているだろうが、そういうレベルでは悪いということではなく、何とかすべきなのはそういうレベルではないということかも知れない。
4月17日「取るべき態度」
それが何かに依存していたり影響を受けていると考えてみても、すぐにはそれを特定できないだろうが、特にそれがおかしな言動に終始しているとも思えないとしても、一方的な調子で自分たちが唱えている原理原則を言い立てて、自分たちの行為を正当化する主張に及んでしまうのは、そういう強硬な姿勢を取らざるを得ないような問題を自らの内に抱え込んでいることの証拠であり、実際に中国や北朝鮮などの強権的な政府関係者から発せられる声明が、いつも決まって硬直化したことを述べるのが恒例行事となっているのが、取り立てて不自然な印象を抱かせるわけでもないところが、そういった方面で通用する紋切り型に適合する言説の形態となっているからだろうし、それを当然のこととして聞き流してしまってもかまわないのだが、交渉術として交渉を拒絶するような戦術をとるには、そんな態度に終始していなければならず、自分たちと相手との間に勝手に境界線を設けて、境界の内側では自分たちに主権があるわけだから、それに関することなら相手が何を言ってこようと聞く耳を持つ必要はないと主張できるわけだが、主張することができるとしても、実質的な面では違ってくるのかも知れず、実質的な面での問題をどうにかしなければならないのが、政治に関する活動になってくるのだろうが、どうにかなるような問題でもないかも知れないし、どうにもならない問題として無視してもかまわないのかも知れないが、そういうことにかかわると面倒なことになるから無視したくても、それができないから問題となっているのだろうし、無視できないにしても無視するような態度を取ることはできるだろうし、そうするようにそれらの政府関係者が脅迫してくるだろうが、果たしてそんな脅迫に屈して無視せざるを得ない態度になってしまうかどうかは、今後の成り行き次第な面があるとしても、今後の成り行きがどうなるにしても、結局は表向きには強硬な態度をとり続けることにはなるだろうが、当てが外れて裏腹な状況となるかというと、どちらに転ぶにしても、どちらか一方にはならないのかも知れず、どちらにしてもわかりやすい成り行きにはなりそうもなく、はっきりした結果にならないような配慮が働くわけではなくても、実際にそうなってしまうとすれば、それが成り行きの自然な経過となるだろうし、関係各国の政府が破局的な混乱を招かないように機能するかどうかは、何とも言えないところかも知れないが、そういうことに関してすぐに悲観的な結果を予想したくなってしまうわけだが、それがその種の言説が向かってしまうありがちな傾向だとしても、そうなるのを事前に禁じてしまうと、それ以外には何も言えないから黙るしかなく、何も言えなくてもかまわない場合もあるだろうが、すぐにありがちな予想を述べて紋切り型の罠にはまってしまってもかまわないところで、そうはならない未来を予想するのも難しいだろうし、政治の面では常にどちらか一方に与するように決断を促されていても、決断できずに曖昧な態度に終始するのもじり貧な状況を招くとしても、そうならざるを得ないように事態が推移すれば、難しい対応を迫られる状態のままとなってしまい、結局は対応しているふりをするような対応となってしまえば、他の国の政府から信用されなくなってしまうのかも知れないが、強硬な姿勢を貫いている国の政府も信用されていないだろうし、信用されて無理難題に取り組むように催促されるか、信用されなくなって無視される立場となってしまうかの二者択一を迫られているわけでもないだろうが、それもどちらにしても、そうはならないような結果を想定してしまいたくなるわけで、常によくありがちな予想を裏切る結果がもたらされると思っておいてもかまわないだろうし、そう思って実際にそうなったからといって、それに対応できるわけでもないだろうが、うまく対応できないから現状でもそうなっているわけで、誰もがうまく対応できないような現状がもたらされていて、その対応に四苦八苦している現状があり、今後もそういう状況が続いていくと予想しておくのが妥当なところであり、あまりそういった方面で楽観的な見通しを述べるのは控えたくなってしまうだろうが、逆に全面的に悲観的な見通しを語るのも、そう述べるのも簡単なことであるだけに、しかも今までにもそんな安易な見通しを裏切る形で事態が推移してきたわけだから、何か間違っているような気になってしまい、どちらにしても安易に都合の良い印象を語ってしまっているように感じられて、結果がその種の予想や予測が当てにならないことを証明してしまうかも知れないが、たぶん結果的にどうなるわけでもなくても、強引に好都合な結果になったと強弁したくなるだろうが、どう述べてみてもしっくりこない現状の中で、安易に都合良く断言したり、何かをはっきりと言い放つことができるような結果がもたらされるとは思えず、その種の強弁が長続きすることはないわけだが、流行り廃りとしてそういう言説が一時的に流行っては廃れて、何とかその種の言説の体裁が保たれるだろうが、それもそんな状況の中で飽きもせず繰り返されることでもあり、実際にはそうはなっていない状況とは裏腹な状況であるように見せかけるためのテクニックの類いとなるのだろうが、そういった何とかなっているように装うためのごまかし戦術から抜け出ることができるかというと、その必要もないのに抜け出なくてもかまわないのかも知れず、逆にそんなことの繰り返しの中にとどまっている方が居心地が良いのであり、それもどちらかといえば誰もが居心地の良さを追求するだろうし、それでいいならそれでもかまわないわけで、それが幻想を追い求める態度だと思っておいてもかまわないが、ではそれがいやならそれ以外にどうすればいいのかといっても、現状ではどうにもやりようがないのかも知れず、どうにもやりようのない現状の中でなし崩し的にごまかし戦術に終始しているのが偽らざる現状だとしても、それが悲観的で取り返しのつかない深刻な状況をもたらすと脅しをかけても聞く耳を持たないだろうし、現状が絶望的な状況だとは思えないから聞く耳を持たないと思いたくなるだろうが、それは以前から恒常的にそうなのかも知れず、そういった方面ではそうなるしかないような成り行きになってしまい、実際にもこれまでに何度となく深刻で絶望的な状況が繰り返しもたらされたわけだが、その度ごとに楽観的な未来や悲観的な未来を予想して、そんな予想に依存しながら、これからやるべきことや振る舞うべきことを決めてきたのであり、それに関してはよくありがちな言い方としては、このままでは大変なことになってしまうからこうしなければならないという言い方が一般的にもたらされる模範回答となるものの、こうしなければならないと唱えられる内容が今ひとつ信用できないものであり、必ずそれに対する賛否両論が併記される成り行きとなるだろうし、そこに人道的な価値として、人権を尊重しなければならないとか民主主義を守らなければならないとかいう単純な主張が介在してくるのだろうが、もしかしたら優先すべきはそれ以外にはないのかも知れないが、それが経済を優先させることとどう折り合いをつけるかが永遠の課題となってくると都合良く述べてしまうと、それも事態を単純に都合良く捉えていることの証しとなってしまうのではないか。
4月16日「些末な気遣い」
思考と行動の円滑な連携からうまくいっているような感覚がもたらされるとしても、その場の成り行きに逆らっていると抵抗感がもたらされて、外部的な事情や外部からもたらされる圧力によって、行動が抑え込まれるような圧迫感を感じると、やっていることがうまくいっていないような感覚にとらわれるのだろうが、それによってやっていることが直接やめさせられたりすれば、事態がはっきりするが、そうでなく外部から圧力を感じながらも、やっていることを直接やめさせられたりするわけでもなく、結果的にやっていることが継続するようなことになると、外部からもたらされる圧力がやっていることを継続させているような感覚にとらわれるわけではないとしても、それを直接糧としているとも思えなくても、外部から圧力を感じると何か張り合いがあるような気がするのかも知れず、全く無視されているわけではないことが逆に励みになれば、それが全くの勘違いで思い込みにすぎないとしても、そんな気がしてしまうことが精神的な支えとなるのかも知れないが、そんなことを思っている時点でまだ何かをやっている最中なのかも知れず、そういう張り合いがなくなってしまえば、もはや何もやってはおらず、何もできない状態になっているのかも知れないが、そうではない限りは大なり小なり程度の差こそあるものの、それをやっている程度に応じて外部から圧力がかかってきて、そんな圧力を感じながらもやっていることが継続しているのだろうが、その圧力がやっていることをやめさせるに至らない程度で、ほどよくかかっていると、何か張り合いのようなものを感じてしまうのかも知れないが、それが気のせいでなければ実際に圧力がかかっているのだろうが、そんな圧力をはねのけながら活動しているというよりは、やっていることを抑え込もうとする圧迫感が、活動を支える力となっているような感じがすると、逆にそんな作用を利用していることになるのかも知れず、そこで何かが作用しているのかも知れないが、それをはっきりとは意識できないような感じであると、作用が顕在化していないわけで、何かに導かれながら活動しているような気になるのかも知れないが、その何かというのが、そこに作用している様々な方面からの力が合成されていて、それが一つの作用や力としては認識できず、そうなると結果的に何かの圧力が加えられているとしても、間接的に加えられているような感じとなり、直接面と向かって妨害工作のようなことがおこなわれているわけでもないわけだから、それに抵抗しようにも的が絞れないわけで、そうなるとそんなことを気にしてもらちがあかないようなことにもなり、それよりは活動を継続することに全精力を振り向ける方が得策だとも思われるかも知れず、そうでなくても全力で事に当たっている場合もあるのだろうが、そんなどうとでも言えるようなことに気を遣っているだけでも、まだ余裕や余力があることにもなるのかも知れないが、疑心暗鬼にならない程度で気にしていることなど他にもいくらでもありそうで、気分次第でいくらでも心配したり悩むことができるとしても、気分次第な面ではそうだとしても、実際に活動している面では直接の行為や行動に伴って直接の圧力や軋轢も加わってくるわけで、そういった心理的な作用ばかりに気を取られていると、そちらの方がおろそかになって、やっていることがうまく行かなくなってしまうのかも知れないが、それに比べれば心理的な作用はあくまでも枝葉末節なことでしかなく、気にするようなことでないといっても気にしてしまうようなことにもなってきて、気にしすぎるとおかしくなってしまうが、全く気にしないようなことにはならず、どちらかといえばどうでもいいようなことにはなるとしても、そのどうでもいいようなことに気を使えるだけの余裕や余力がほしかったりするわけで、そういう意味では心身のバランスを保つ上では、そういった方面へも細心の注意を払う必要も出てくるのかも知れないが、気のせいにすぎないことに細心の注意を払うといっても、何か矛盾したものを感じるかも知れないが、やっていることと考えていることや思っていることが矛盾している方が両義的な姿勢を保てるわけで、自らの思考と行動が矛盾していることを意識しておかないと、合理性の罠にはまってしまうといっても、それが罠だと自覚できるわけでもなく、人によっても場合によっても罠でもなく罠でもあり、そんなのは罠でも何でもないといってしまえばその通りだろうが、罠を罠とは認識できないから、罠にかかってしまうわけでもあり、誰もが無矛盾なことを思考できたり矛盾しない行動ができれば苦労しないわけだが、自らの思考と行動が矛盾していることを認めておかないと、うまくいっていることとうまくいっていないことを両立できなくなってしまい、一面的かつ一方的な傾向になろうとして、さらに思考と行動のバランスがとれなくなってしまうのかも知れないが、それもその場の成り行きでそうなってしまうわけだから、そうなっていることを意識するのは難しいかも知れないが、自身が意識できなくても周囲が異変に気づいて対処すればいいことであり、もちろん孤独であればおかしくなっていることを自覚できずに、悲惨な事態になってしまう可能性もそれだけ高まるだろうが、そういう成り行きに陥っておかしくなってしまうのもよくありがちなことかも知れず、それはそれでそういうことだと受け止めるしかないわけだが、自らがそうならないように細心の注意を払っていても、なる時にはなってしまうわけで、そういった危機的な出来事も活動の糧としないと、そういった事態を乗り越えられないとしても、乗り越えなくてもかまわないとなると、何をどうすればいいのかわからなくなってしまうかも知れないが、何をどうしたらいいのか皆目見当がつかない時ほど、無意識の思考が働いている時でもあり、それに伴って心身の活動も活発化してきて、自ずから道が開けてくると、矛盾しているのも甚だしくなってしまうかも知れないが、何の解決方法も見つからないのにそれでかまわないような状況がもたらされて、そこからも活動が継続して、あっけにとられてしまうのであり、そういう成り行きが自助努力とは無関係に思われるほど、何か他力本願が成就したような気分となってしまうわけだが、それをうまく理屈を用いて説明するようなことをやってしまうとフィクションにもなってしまうだろうし、そんな都合の良いフィクションを信じてしまってもかまわないのだろうが、実際に信じている理屈に裏切られてしまうと茫然自失となるし、理屈に裏切られることによっても奇蹟を信じるような神秘主義へと傾斜してしまうわけだが、そうなってまで活動の継続が保たれるようなら、やはりそこで思考と行動の矛盾が保たれていて、一応は心の中では信じられる理屈を信じているのだろうが、そんな心を裏切るような行動に及んでしまうと、それを正当化できないジレンマに陥って、思い悩むわけだろうが、それでも自らを裏切って行動に及んでしまうということが、活動の継続を意味していて、そうしないと活動を継続できない二律背反にとらわれていることを思い知ることもあれば、思い知るまでもなく矛盾にも気づかない場合もあるわけだ。
4月15日「できることとできないこと」
今までできなかったことができるようになることが、技術の進歩を示す場合もあるが、それができることだと気づいたり、できないことだと気づくことも、技術的な進歩の成果となるかも知れないし、できそうなことができなかったり、できないと思っていたことができることに気づけば、できることとできないことの境界がはっきりしてきたことになるだろうが、できないことをできると思わせるのが詐欺の類いになるとしても、実際にそれをやってみないことにはわからない場合もありそうで、できそうなことを実際にやってみてから、できるかできないかの判断ができればいいのだろうが、やるに当たって費用や労力がかかることは、やってみてからできないことが明らかになってしまうと、かけた分が損害や損失になってしまうから、その程度にもよるだろうが、なるべく確実にできることをやるような成り行きになると、割に合いそうなことをやろうとして、結果的に割に合わなければ目算が狂ってしまうだろうが、それがその時の微妙な何かの加減によってできたりできなかったりするようだと、できるかできないかが賭けの対象となる場合もあるだろうし、勝敗がつくようならそれができれば勝ちとなり、できなければ負けとなれば、勝ったり負けたりするのがゲームの結果になるとしても、勝敗が固定されてしまうとつまらなくなってしまうわけで、やる側としては確実に勝てるに越したことはないわけだが、それには負けてばかりいる相手が必要となり、負ける側としては一方的に負けてばかりいると困るわけで、勝ったり負けたりすることの繰り返しが実現できれば、ゲームとしては理想的な状態になるわけだが、ゲームを見ている側としては常に勝つ側を応援したいわけで、そういったいつも勝つチームや選手を応援したい心理が、ゲームの在り方をいびつな方向へ導くとしても、必ず常勝チームや常勝できる人材が登場してきて、それによってゲームそのものが盛り上がったり、勝つことに関しての伝説的な記録などが打ち立てられたりするわけだが、そういう時期もあれば群雄割拠のような状態となる時期もあるだろうし、様々な方面での技術的な進歩によって、様々なことに関してできないことができるようになる一方で、できるようになった物事同士がぶつかり合うと、双方の力が相殺し合って新たなできないことが生じてくる可能性もあるわけで、それに関してわかりやすい例を挙げるなら、軍事技術の進歩が恒久平和の実現を阻害しているように感じられるだろうし、軍事技術の進歩によっては平和を実現できず、ゲームによっては勝ち負けを実現できるが、ゲームから逸脱したことができるわけではなく、技術の進歩によってできないことができるようになる反面で、技術とは関係のない方面では依然としてできないこともあり、技術の進歩によって、その技術が適用できる方面ではできないことができるようになるとしても、その技術を用いた競争が激化すると、今までできていたことができなくなるような弊害も出てくるかも知れず、ただ単にできないことができるようになったことが良かったと判断できるとは限らず、どう判断してもしっくりこないような状況となれば、そこには良かったり悪かったりすることようなことと共にどちらとも言えないようなこともあるのかも知れず、そんなどう判断したらいいのかわからない状況というのが、現状でもたらされているとすれば、あらゆる方面にわたって不確実で不確定な状況となっているはずだが、誰にとってもそんなわけでもなければ、人によっては確実なことを言えるような方面があり、そんな方面では確実なことができるはずだが、例えばそれがルールに基づいておこなうことであり、確固としたルールが制定されていて、そのルールに基づいて行為や行動の良し悪しを厳密に判定できるようなシステムや体制が整っていれば、そうしたルールが適用される範囲内では確実なことができるはずだが、そこでもどう判定してもしっくりこないようなグレーゾーン的な領域が自然に生じてきて、そこからルールから逸脱する行為や行動がルールが適用される範囲内に侵入してきて、ルールそのものに攻撃を仕掛けてくれば、そうなるとルールを守る側がルールを変更したり修正を加えて、ルールから逸脱する行為や行動をなくそうとして、それが生じてくるグレーゾーン的な領域もできるだけ狭めようとするわけだが、そういったルールを保持する側とルールを破壊しようとする側の間で繰り広げられるせめぎ合いとは直接関係はないが、ルールとは無関係に振る舞おうとする行為も生じてくるだろうし、ルールはルールとして尊重するが、そんなルールにはとらわれない自由を求めるような試みも生じてくると、そういう行為が高じるとルールを基礎とするシステムが機能しないようなことにもなってきて、そこからも新たにルールを制定してその種の自由を管理するようなことをやろうとするわけだが、そうやって全ての行為をルールの範囲内に囲い込もうとする行為と、そうしたルールによる囲い込みから逃れようとする行為との間でもせめぎ合いが生じていて、そういうことまで考慮に入れるなら、果たしてルールの範囲内でできることとできないことを決めることが良いことなのか悪いことなのかというと、ルールによる囲い込みを推進する側としては当然そうすることが良いことだと主張したいだろうし、実際にそういうことをおこなった結果としてルールに基づいて確実なことができるようになるわけだから、そんな方面に関しては良い傾向だと判断するしかないわけだが、そうやって世の中に様々なルールがはびこってくると、何をやるにも事前に決められたルールの範囲内でやらなければならないような窮屈な思いをすることになり、またルールにとらわれないことをやっても利益に結びつかないと、やっていることが持続できなくなってくるから、自然とそういう行為は廃れてしまうかも知れないが、逆にルールに違反することをおこなうと、ルールに従うよりも多くの利益が得られる可能性があれば、罪に問われる危険を冒してでもやろうとする人や集団が出てくるだろうし、それがルールを制定したことから生じる弊害となってくるのだろうが、罪に問われる危険を冒してルールを破る側としては、それがルールを破ることの利点でもあり、利益を得るためにはそうしたルールの存在が欠かせない事態ともなってしまうわけだが、そういう意味でもルールを制定することによって、できることとできないことをはっきりと区別することが、ルールに従ったりルールを破ったりする人や集団にとっては重要となってくるはずだが、ではそうした区別を無効にするには何が必要なのかというと、そこで技術の進歩が必要となってくるのかも知れず、それがルールを気にしなくても済むような技術となってくるのかも知れないが、それに関しては例えば技術的にルールを自動判別して人を導いてくれるなら、人がルールのあるなしを気にする必要がなくなるような事態となり、そうなれば人に向けて適用されたルールが無効化したことになるのかも知れず、それが何を意味するかといってもうまく言い表せないかも知れないが、とりあえず面倒なルールをやり過ごすには、そうした技術が必要となる時代が到来しつつあるのではないか。
4月14日「経験と忘却」
機会を捉えてその気になってやるべきことをやってみると、意外とあっさりそのままやれてしまえることもあるだろうが、やるまでが半信半疑で、やってみたらさらなるドツボにハマって窮地に陥ってしまえば、後悔先に立たずなことにもなってしまうが、どちらも起こり得ることではあるものの、そういう一か八かという局面ではなく、もっと確実なことがやれるような気がする時には、何かそれなりに見込みがあるからそう思われるのだろうが、それが幻想にすぎなかったと思われるような最悪な事態に直面してしまうと、茫然自失となってやっていたことが失敗したことを悟るしかないだろうが、それでもそこからわけがわからない紆余曲折を経て、結果的に細々とであってもやっていることの継続が図られてしまうと、まだ一縷の望みがあるかのような気がしてしまうのだろうが、そういう経験がその時だけの体験というわけではなく、その後につながるような経験の蓄積をもたらしてくれれば、何かの機会にその時の経験が役に立ったような気になれるかも知れないが、実際にそうなってみないことには役に立ったかどうかもわからず、実際にそうなってみても、その時にはすでに過去の経験など忘れてしまっていて、そんなことには気づかないままとなってしまうかも知れず、だからはじめからそんなことには興味がなくてもかまわないわけだが、興味などなくても身についていることもあり、特に身につけるために修練を積んだわけでもないのに身についていることが、役に立った気にもさせないのだろうし、役に立っていてもそれに気づくこともなく、それを自覚しないままでもいられて、それでかまわない場合が大半なのかも知れないが、そうやって自然に身についていることが、特に意識しなくても思考や行動を促して自身を助けていれば、特定の経験が特定の思考や行動の役に立っているというよりは、それらが知識や勘となって、その度ごとに円滑に思考や行動に結びついて、様々な行為に応用が利くことになるのだろうが、確かにそういう成り行きも自身を助けるかも知れないが、それだけではどうにもならないことも大半であり、かかわっている物事とのやりとりから、その場の成り行きに応じて思考や行動が生じてきて、それがその場の成り行きに適合する行為となるわけで、いくら知識や経験にものを言わせても、それがその場の成り行きに合わなければうまく行かないだろうし、実際にその場でうまく事が運ばなければ、やっていることが失敗に終わってしまうわけだが、それでも失敗することがその場の成り行きに合っていれば、他の誰かが成功するには、その人の失敗が必要だったことにもなるだろうし、他人の失敗を利用して成功するような成り行きになるのであれば、他人の失敗を誘発させるような戦略をとるだろうし、そうなるとそこでうまく他人を失敗させるために謀略を巡らすような成り行きにもなり、そんな謀略に引っかかって自身が失敗してしまったとすれば、その人にとっては失敗することによってその場の成り行きにうまく適合したことにもなるだろうし、他の人が成功するために犠牲となったわけだろうが、たぶん失敗することに成功するとはそういうことではなく、そうやってその場の成り行きにうまく適合して成功したり失敗したりする成り行きにうまく適合できないような成り行きもあって、何だかわからないがそこから外れていってしまうような成り行きになって、下手にそこで成功したり失敗するような成り行きにかかわってしまうと、そんな成り行きに絡め取られたまま身動きがとれなくなってしまい、それ以外のことが何もできなくなってしまう可能性があれば、それを避けるにはそこでの勝負を避けるような行動を取る必要があるわけで、そうなるとそこから逃走してしまうのだろうが、それも意識して勝負を避けたりその場から逃走してしまうのではなく、自然と外れていってしまうようなことになれば、その場の成り行きがその人をそこから排除するようなことになってしまうのだろうが、意識してその場にかかわろうとしても相手にされないような場合もあるだろうし、それもそこから外れる作用が働いていることになるだろうが、危険を察知したような気になれるのは、そこにかかわるとヤバいと思われるような場合に勘が働くわけだろうが、何もしないで一目散に逃げ出して、ひたすらそこから離れようとするのではなく、あまり深入りせずに浅くかかわるような成り行きになれば、そこで大成功はしないだろうが大失敗もしない結果をもたらすのかも知れず、それを意識して目指すのではなく、結果的にそういう状態にとどまっていれば、何か中途半端なかかわり方になってしまうわけだが、成功も失敗もしないような人にはそういう態度が似合っているとしても、あまり居心地の良いようなことにはならないだろうし、そういう下手にのめり込まない姿勢をどれほど保っていても、何がどうなるわけでもないだろうが、何か特定の方向や傾向を目指すということでなければ、そういう態度や在り方になってしまうのかも知れず、果たしてそれで危機を脱したことになるのかというと、案外危機のただ中でそういう姿勢を保っていることになるのかも知れないが、何から逃げているとも思えないとしても、逃げずにそこで踏みとどまっているような状態を意識していれば、かかわっているつもりの物事にのめり込んだり深入りしなくても、軽い気持ちでそこに踏みとどまることができるのかも知れないが、それでも深刻さとは無縁でいられるわけでもないだろうし、深刻な状態の現状に真正面から向き合えなければ、自然とそこから目を背けてしまうのかも知れないが、目を背けてしまってもそこに踏みとどまっていられるようなら、そういう成り行きにとらわれているとしか思えないわけで、そういう状態を利用して何かやれることがあるとすれば、それが現状の中でやるべきことになるのかも知れないが、果たしてやるべきことをやっているつもりになれるかというと、やるべきとも思えないことをやっているつもりにもなれるのかも知れず、それが現状の中にのめり込んだり深入りしていない効果なのかも知れず、そうすべきともすべきでないともどちらとも言えないようなことをやっているつもりになれるなら、それが取り立ててどうというわけでもなく、それが良いこととも悪いこととも思えないだろうが、そうすることがこれまでの経験が導き出された最適なやり方とも言えないし、絶えず既知の状態や傾向と共に未知の状態や傾向ともかかわっているのだから、よくわからない状況の中でよくわからないことをやっていると捉えておくのが妥当な感触なのかも知れないが、そうはいってもその場の状況に合わせて適切なことをおこないたいだろうし、何かをやってみた結果からそれがわかったりわからなかったりするわけだが、それも結果とは言えず途中経過の中でそう思ってしまうことにすぎなければ、勘違いの類いでしかないわけで、そういう意味でこれまでの経験を生かして何かをやるような成り行きになるとしても、経験から生じる先入観や固定観念などを振り払うには、これまでの経験を忘れることも時として必要になってくるわけだ。
4月13日「限定と選択」
普段の生活の中で人が直接見聞きできる物事が限られているように思われるのは、個人の活動範囲を超えてそれ以外のメディアを通して間接的に入手できる情報の方が広範囲からもたらされて、量も圧倒的に多いように思われるからだろうが、では何を直接見聞きしているのかというと、画面や紙面やスピーカーを介さずに見聞きできる範囲内で物事を見聞きしているのだが、画面や紙面やスピーカーを介して見聞きしている物事と、直接見聞きしている物事とは何が違うのかといえば、メディアは同じ物事を多数の人々に向かって伝えようとするから、画面や紙面やスピーカーを使って伝えようとしていて、しかもそれを増幅したり強調して伝えようとするから、その物事に限定して伝えようとしていて、大勢の人がその物事だけに注目するように仕向けているから、それを伝えようとする側の意図や思惑に従わせようとしていて、伝える側にとって都合の良い限られた情報を伝えようするわけだが、そういう意味では情報が事前に伝える側にとって都合の良いように編集されているのは当然であり、直接見聞きするよりもメディアを通して伝わってくる情報の方が伝えたい情報だけに限定されているはずだが、その一方で直接見聞きできないような遠く隔たった情報がメディアを通して伝えられるから、より広範囲で大量の情報を受け取っているように思われるのだろうが、実際にそうであっても現状では視聴覚に限定された情報であり、味覚や嗅覚や触覚から伝わってくる情報は画面や紙面やスピーカーからは伝わってこないわけだが、逆に言えば情報が視聴覚に偏っていて、画像や映像や文字や音声としての情報となり、それらの情報が人の思考や感情や欲望を刺激して、それによって人がどうなるかというと、情報を伝える側の思惑通りになるとは限らないとしても、何らかの傾向は示すだろうし、傾向によっては情報を伝える側に利益をもたらす場合もあるだろうが、少なくとも情報を受け取る側が求めている情報を提供しようとしているわけで、ほしい情報を提供することが情報を伝える側には求められているはずだが、情報を受け取る側がほしくなる情報というのが、受け取る側の思考や感情や欲望を刺激する情報であり、伝えようとする情報もそういう情報に限られるが、必要としない情報は伝えられないし、伝えようとしても伝わらないはずだが、伝える側の都合で必要な情報を伝えない場合もあるだろうし、また必要とは思われないような情報も伝わってしまうかも知れないし、誰も求めていない情報が伝わる可能性もあるかも知れないが、伝える側としては伝える情報が求めている情報になるようにしたいわけだから、人の思考や感情や欲望を刺激する情報が求められていれば、そういう情報を伝えようとするだろうし、その際にはどのような情報であれば思考や感情や欲望が刺激されるかがわかっている必要があるわけだが、ユーチューブのようにわざと不快な広告を見させて不快な感情を募らせる戦略もあるだろうが、明確な目的がなく、何のためにメディアを見ているわけでもないのに、何気なく見ているような時に、ただの暇つぶしで見ているような物事から、メディアに特有な傾向が伝わってくるのかも知れず、そういう傾向がメディアを介して社会全体を覆っているわけではないとしても、それが肯定的な価値として受け入れられるような傾向だと、それが功利的な傾向であったり民主的な傾向であったりするのだろうが、それが伝えようとしている側が意図して伝えようとしていることではなく、意図しなくても伝わってしまうようなことでもあり、伝えるという目的を超えて伝わってしまうようなことが、人の思考や感情や欲望を刺激するのかも知れず、意図して伝えようとしていることよりも、そちらの方がより大きな影響を及ぼしているようにも思われるわけだが、何に影響を及ぼしているのかというと、社会全体に影響を及ぼしているようにも感じられるわけだが、本当にそうかというと明確にはわからないのだが、逆に不快な感情を煽り立てるようなやり方が目立ってしまうことも確かだとしても、意図的に目立つように仕掛けていること自体が空回りしているわけではないとしても、それが不快な感情をもたらすから目立ってしまうわけで、不快だから目立ってしまえば、素直に不快さに従うしかなく、それとは逆に普通は相手を不快に思わせないように配慮するところを、不快さを強調するわけだから不快になるしかないわけだが、そういうところで目的として戦略的に正しいのだろうが、正しいからこそ不快に思われるのだから、どうやっても不快さを覆せないのに、さらに不快さを際立たせような傾向となって、どこまでいってもマイナスのままになってしまうわけだが、そういう面ではそれでかまわないのかも知れず、意図的にそれを仕掛けている分にはそれで間に合ってしまうのだろうが、意図してやっているようには思われない面で絶えず思考や感情や欲望が刺激を受けていて、時にはそれが目先の利害よりも自らの命よりも優先されて、反政府的な抵抗運動に発展する場合もある一方で、逆に住民の意向よりも組織や機構の意向が優先される面も出てきて、そこで対立を際立たせるのかも知れないが、そういう成り行きにメディアが影響を及ぼしているというよりも、それを伝えざるを得ないような成り行きが生じていると捉えておいた方が妥当かも知れないし、それを伝えることによって功利的な価値観と民主的な価値観が結びついて、メディアの存在意義を正当化できる成り行きへと持って行けるのかも知れず、何だかわからないがそういう出来事を執拗に伝えている実態があれば、意図してそうしているわけではなく、人や団体の意図や思惑を超えてそういう傾向となっているのであり、そういう傾向に逆らってはまずいような空気がそこに生まれていると言えるのかも知れず、そうなってしまっては都合が悪い政府などの統治機関が盛んに情報統制をやろうとするのだろうが、それがそういう傾向に逆らっているように感じられれば、そこから不快感が生じてくるだろうし、はっきりと政府の当局者が不快感を表明することもあるだろうが、それも組織の意向に従う限りで不快感を表明できるわけで、組織的な権力の後ろ盾があって始めてやれることであり、何の後ろ盾もなしにそういうことをやってもメディアからは無視されるだけであり、そういう面で効力を伴うには、組織的な後ろ盾が是が非でも必要なのかも知れないが、そうでなくても不快な行為をごり押しするには組織的な後ろ盾がないとできないし、その場の傾向に逆らって何かを強引にやろうとすることがごり押しすることになるわけだから、実際に強引なことがおこなわれる背景には、逆らわなければならない傾向が働いていて、その逆らわなければならない傾向が、功利的な価値観と民主的な価値観が結びつくことで働く傾向であり、何かそれが組織的に強引なことをやる上での障害となっていて、それが組織内部で働いている非民主的な地位や身分の上下関係を伴う権力関係を否定しているから、是が非でもその種の民主的な価値観には逆らわなければならなくなってしまうわけだ。
4月12日「どちらでもない」
そこで起こっていることについて、その一部始終を全て語れるわけではないにしても、事の顛末の中でどんな経過や成り行きを伴って、結果的に何を招いたとしても、印象に残るのは途中経過よりも結果がどうなったかになるだろうが、現状がまだ結果に至っていなければ、さらにこれから様々な出来事が起こって、事前の予想や予測から外れて行ってしまえば、それが思いがけない成り行きになるのだろうが、それも特に予想や予測するようなことでもなければ、当てが外れるようなことにはならないはずだが、そうなってしまう前の段階で、いったい何を予想していたのかといえば、よくありがちなのは楽観的な見通しと未曾有の危機が訪れることの両方があるはずで、そのどちらでもない結果がもたらされると、当てが外れたことになるのだろうが、感触としてはどちらでもないとしても、どちらかにしておいた方が語りやすく、事前に危機感を煽っていれば、どちらかといえば未曾有の危機が訪れたことにしておきたいだろうが、実際に深刻な状況だと認識しておけば、大抵はそれで間に合ってしまうかも知れないが、今現に体験している状況がそうなのかというと、未曾有の危機とはこの程度のことだと思って安心できるかも知れないが、危機意識に浸っていたければ安心したくないだろうし、これからさらにひどい状況になりそうな予感がすれば、未曾有の危機とはこんなものではないと思って、気を引き締めたいところだが、すでに未曾有の危機という表現が空振っていて、当てが外れている状況もあるだろうし、状況にも時期や場所によって程度に濃淡が生じていて、その重い程度や軽い程度に応じて、深刻ぶってみたり楽観してみたりと、気持ちに浮き沈みが伴ってきて、いつ何時でも深刻ぶっているわけでも楽観し続けているわけでもなく、その場その時で気持ちを使い分けて、そうやって自身でも気づかないうちにその場の状況に適応しようとしているのかも知れず、そういう面まで考慮に入れて予想するなら、楽観的な見通しと未曾有の危機が訪れることの両方を並べておけばかまわないはずだが、そのどちらでもないということがどういうことなのかといえば、それが現状を示しているとなると、現状の中で肯定的な面と否定的な面を足し合わせて平均化した状態だと思っておけばいいのかも知れないが、そうであってもそれなりにめりはりをつけたいわけで、なぜそうしたいかということよりも、自然にそうなってしまうといった方がしっくりくるかも知れないが、何のためにそうしたいわけではなく、現状が危機的な面と楽観できる面の両方を併せ持っていると、どちらでもあってないようなめりはりがつくのかも知れず、それがうまく言い表せないような現状であって、そういうところでどちらか一方に言説が傾いてしまうと現状についてのフィクションとなってしまい、そのどちらとも言えないようなフィクションも中にはあるのだろうが、わかりやすいことを言おうとすると、どちらか一方しか言えないようなことになるだろうし、フィクションだからわかりやすいということにもならないが、出来の悪いフィクションほどわかりやすいというわけでもないにしても、わかりやすく現状を表現したいという思いから、自然と単純なことを述べようとしてしまうのかも知れないが、なぜかそれに失敗して、なぜ失敗してしまうのかと言えば、現状がわかりやすくないからかも知れないが、わかりやすいところだけを選んで述べることもできるだろうし、実際にそうやって現状について語っているのだろうが、そうすることに失敗してしまえば、何かわかりにくいことを語っているように思われるとしても、それは現状のわかりにくい面について語ろうとして、実際にわかりにくければ語ることに失敗しているのだろうが、わかりやすく語ることができれば、現状についてその全てを語っているわけではなく、現状の中で語るのに都合の良いところだけ語っていることになるのかも知れないが、それを現状についてのフィクションだと見なしてみても、少しずれているようにも思われるだろうし、現状について語っていることは確かかも知れないが、その全てを語っているわけでもなく、全てを語れるわけでもないのは当然だが、それをノンフィクション的なフィクションと見なしてもわかりにくいだろうし、たぶん現状の中の何かに焦点を当てて語っているのであり、それが現状の中で語りたい物事でもあり、それについて語りたいから、それを語るに当たって都合の悪い面やわかりにくくなる面などが自然と省かれていて、そうなると特定の物事や人物や団体などについて語るような成り行きになってしまうわけだが、それがごく当たり前のありふれた語りであり、それ以外には語りようがないかも知れないが、そうなってしまうのが自然な成り行きだとしても、語っているうちにそれ以外の面が出てきてしまうこともあり、それがわかりにくさをもたらしているのだろうが、そういうわかりにくさがないとめりはりが利いていないように感じられてしまい、平板な印象を抱いてしまうのかも知れないが、そういう意味でわかりやすいということが否定的な印象を伴ってしまうと、それも現状のひねくれた解釈を推奨しているような倒錯がもたらされてしまうかも知れないが、わかりやすさとわかりにくさを兼ね備えていればいいということでもなく、そのどちらでもないというとわけがわからなくなってしまいそうだが、少なくとも現状に関してことさらに危機感を募らせるようなことを主張してしまうと、何かそれ一辺倒になるとわかりやすいことは確かだが、そうであればそうではない楽観的な面も付け加えて現状に対する危機意識を中和させればいいかというと、そういうことでもなく、両面を語ってさらにどちらでもないようなことを語ることができるかというと、両面を語らなくてもかまわないのかも知れず、ただどちらでもないようなことが語られていれば、それが偏りのない現状の解釈となり、その中には現状の深刻な面を物語っている内容も含まれるだろうし、また深刻ではあっても楽観的な面もあるように語られるかも知れないが、現状のとりとめのなさや取り返しのつかない面が、深刻であると同時にどうにもならないし、どうにでも解釈できるようないい加減さにつきまとわれていて、それをどう解釈してみてもしっくりこないようなわかりにくさを醸し出しているのかも知れず、それをわかりやすく語ってしまうとフィクションになってしまうのかも知れないが、そうしないと語りようがなければそう語るしかないわけで、だから現状が未曾有の危機が訪れている状態だと語っても、それが本当のことではないような気がしてしまうのだろうし、そんな気がするならそういうことであり、そういった現状に対する危機的な見解が語り切れていない面が現状にはあると思っておけばいいのだろうが、しかるべき人にそういうことを語らせるような現状になっていることも確かなのかも知れず、そんなことを語るのにふさわしい人にそういうことを語らせる作用が現状の中で働いていると解釈しておけばいいのではないか。
4月11日「思考と行動のバランス」
行動する前に思考の先回りを避けるには考えすぎないことが肝要だろうが、何を考えているのかよくわからなければ、行動を優先させればいいのかも知れないが、意識が思考に追いついていない場合もあり、何を考えているのかよくわからなくても思考が働いていて、それが行動に結びついている場合もあり、そうなると思考と行動が一体化して動作していて、行動した結果から何を考えていたのかがわかることもあるだろうが、結果からわかることだから、その時に何を考えていたのかを推測しているわけで、本当にそう考えていたかどうかは推測の域を出ないことでもあり、そんなことを考えてそんなふうに行動したからそうなったというフィクションを構成することにもなり、そう考えて安心したいのかも知れないが、それも考えすぎの兆候を示していることになるだろうが、そうなると行動した後にも思考による補完が利いてくることになり、全般的に思考が行動を抑制していることになるだろうが、そういう状態が何を示しているのかといえば、行動する前に先回りして行動した結果を予想して、行動した後からどう行動したのかを検証しているわけだが、そういうことを考えるのが思考であり、それ自体は考えすぎているわけでもないが、否定的な結果になることを予想して行動をためらったり、行動した結果を否定的に評価してその後の行動を自粛するようになると、行動が抑制されてしまうことになるわけで、そうやって自身にとって危険な結果になるのを回避しているのだろうが、時には大胆な行動に打って出ないと事態を打開できない場合もあるだろうし、そんな時に限って行動をためらい尻込みしてしまうと、その機会を逃してしまうことにもなるわけだが、大抵はそうなってしまうのであり、だから大抵の人は保守的な状態にとどまって、大胆な行動を控えて平凡な日常の中で平穏に暮らすようになり、また大胆な行動に打って出ても大抵の人は失敗してしまうのであり、そこで成功する人はほんの一部にとどまるから、少数の成功者とその他大勢の普通の人々というよくある構図が出来上がるのだろうが、誰もが成功したいからこうすれば成功できると喧伝する詐欺師の類いも暗躍するわけで、そんな甘い誘いに騙されて失敗してしまう人もそれなりに出てくるとしても、平穏に暮らしていれば成功も失敗もしなくても済むかというと、それも大して深刻にならない程度で済んでしまうことの方が大半かも知れないが、それも確率的にはそうかも知れないが、実際に深刻な事態になっている人も世の中には大勢いて、メディアを通じてそれが強調されて伝えられるから、世の中が大変なことになっていると感じられるのだろうが、それもそう感じられるのが普通の感覚だろうし、別にそれが取り立てておかしなことでもないはずだが、それがおかしなことではないと考えてしまうこと自体が、そういう成り行きに疑念を抱かないようにしていることの表れでもあり、逆におかしいのではないかと思ってしまうと、そこからそのおかしい状態を何とかしなければならないと思うようになって、実際に何とかするにはそれに応じて行動しなければならなくなってくるわけで、そうやって思考が行動と連動して働くようになると、そこからおかしいと思ったことを何とかしようとする行動が開始されるのかも知れないが、そうなることも取り立てておかしなことではなく、そうやって実際に行動している人も世の中にはいくらでもいるだろうし、その中には政治活動をしている人もいるだろうし、実際に政治家になっておかしなことを正すために政策の類いを喧伝している人もいるわけだが、そんな場合もこうすればうまくいくと主張せざるを得ないだろうし、うまくいくための方法を事前に発表して、それへの支持や賛同を募っているわけで、それもそうすればうまくいくと予想していることにはなるだろうし、そうなっている時点で思考が行動した先まで予想して、思考が行動の先回りをしているわけだが、まだ行動した結果が伴っていないわけで、そうやって絶えず思考が先回りする傾向になってくると、いつまで経っても行動が思考に追いつけないような状態が慢性化して、そうなっている状態に安住してしまうと思考するだけの人になって、そういう状態を保持できれば、それに応じて学者とか評論家のような職種もあるにはあるが、そういう状態に凝り固まってしまった人には行動や実行が伴っていないように感じられるかも知れないし、そういう人にはそういう人に応じた行動や実行が伴っているにしても、それが普通の行動や実行とは違うのかも知れず、そういう場合の行動とは何かを発表する行動であり、それを言うなら政治家も政策を発表する行動となるわけで、そうすることがおかしいと思ったことを正すことにつながるのかというと、つながると主張したいのだろうが、実際におかしいことが改められてみないことには何とも言えないところだが、それとは違って例えば20世紀末から21世紀初頭にかけてのアメリカの主導でおこなわれた中東や中央アジアやアフリカなどでの軍事行動が何をもたらしたのかが明らかにしていることかも知れないが、未だに何も解決していないどころか、かえって事態を悪化させてしまった傾向もあるとしても、現状でアメリカと同盟関係にある国々でも王族による国内の支配や軍事独裁政権になっている国も一つや二つどころではないから、その時点ではその時点で問題となっていることを解決しようとして、軍事力の行使という大胆な行動に打って出たのだろうが、それに関してはアメリカと同盟諸国の勝利という形で目的が達成されたわけだが、それだけにはとどまらない思わぬ事態の推移があったわけで、そういう想定外の事態についてはお手上げ状態というか、そうなってしまってもかまわないはずがないが、それも結果から見ればそうなって当然のような結果がもたらされていると思われるし、現状に至っていることについてその全てを肯定するわけにはいかないだろうし、功罪半ばするようなことがおこなわれて来たから、現状の世界が混沌のただ中にあると言えばもっともらしく聞こえるかも知れないし、そうなった結果からもっともらしい意見や見解を述べるという行動もあるわけで、それも事前にもっともらしく結果を予想した上で、結果が出てからそれに関してもっともらしい意見や見解を述べるという成り行きになるわけだから、事前に結果を思考することによって行動の先回りをしておいてから、行動した結果についても思考して、もっともらしい解釈を加えて回収するという言説特有の囲い込みがおこなわれて、それで何とかなったようには思われないものの、言説の中で一連の現象を破綻なく説明できている限りで、そういう水準では何とかなったように装えるわけで、そんな説明を真に受けたり感銘を覚えるようなら、説明者の術中にはまっていることになるのだろうが、そういう説明ができる人がいるとしても、そういう説明に納得できて、説明の中で主張されている内容を支持したりそれに賛同できるとしても、依然として説明の対象となっている現象や出来事自体が説明によってどうなったわけでもないという事実は動かしがたく存在しているわけだ。
4月10日「見た目の印象」
視覚がとらえる物事の実態が表面的な見た目だとすれば、内部の構造や動作は思考力や想像力によってとらえられているのかというと、そうともいえるものの、それを見ながら思考や想像を巡らすわけだから、それらが一体となってとらえられていて、見た目から思考や想像を巡らして物事の実態を捉えようとしている以外にも、視覚だけでなく聴覚や嗅覚や触覚や味覚なども働いている場合があるだろうし、それらの感覚を言語によって表現した内容が、見た目だけではない物事の内容を示しているはずだが、何も考えず何も想像せずに、見た目だけの水準にとどまっている状態が、何を示しているのかといえば、物事の表面的な印象となるだろうし、まだその段階では思考や想像を伴わずに、見た目だけで物事を判断しようとしているのかも知れないが、どう判断したいのかというと、そこで良い印象やいやな印象を感じ取ろうとしていて、それによって良し悪しを判断しているのだろうが、どう判断したいという以前に見た目で判断しているわけで、そうした判断に基づいて思考や想像を巡らしてしまうと、思考や想像も見た目に合わせたものとなり、見た目から得られた先入観に引きずられながら、物事を考えたり想像してしまうわけだが、そういう意味で見た目の印象が全てではないにしても、すでに見た目の印象から良し悪しを感じてしまい、そんな印象を無視して判断するわけにもいかなくなり、すでにそうなっている時点で見た目の印象が優先された判断となっているのだろうが、それを否定したいというか、見た目に騙されるなと主張したいわけではなく、見た目から得られた印象に引きずられて何かを判断してしまうことを拒否して、そうした判断に抗ってしまうことも見た目に引きずられた判断を伴っていて、どちらにしても見た目の印象を無視するわけにはいかないわけだが、誰もが見た目の印象を無視するわけにもいかないから、そうした傾向を利用して何かをやろうとする成り行きにもなるだろうし、見た目の印象によって人を惑わすようなことが普通におこなわれるわけだが、それがかっこいいデザインなどを競い合う成り行きを示すとしても、それを好意的に受け止めるのも普通の感覚となるだろうし、そういう方面ではそれでかまわないような成り行きが生じているはずだが、そういう方面を他と切り離して、それだけを追求していればいいことになるかというと、その用途から生じてくる効率性や利便性などが許容できる範囲内で考慮されて、それらの付け足しとしてかっこよさが加わる程度であれば、それほど見た目だけで判断していることにはならないが、言葉で表現する上では見た目のかっこよさが強調されることも普通におこなわれるし、誰もがそれだけではないことを承知している中で、そうした強調を伴った表現が示されるわけだが、かっこよさを強調した言語表現の他にも、それだけではないという判断がその場で共有されていることになり、そういう判断がかっこよさの強調を抑え込もうとしているわけではないにしても、それはそれとして判断を左右する価値として受け止めておくが、他にも判断すべきことがあり、そういう方面からとは別の方面からも判断の基準や指標が示されていると、何やら信用できるような気がしてくるわけだが、信用できるということが惑わされていることと同義とは思えないが、そこで言語表現によって示されていることが、他のどの方面でも通用するかといえば、そこにその方面に特有の条件や経緯や事情などが伴ってきて、そこで通用することが他でも通用するとは言えなければ、言語表現による比較や類推などに惑わされて、違うことを同じことのように錯覚させられていることにもなるだろうし、そういうところで主張に説得力を持たせるようなやり方が、嘘やまやかしを伴ってくるのも当然かも知れないが、それを嘘やまやかしだと断じるのも少し違うような気もするだろうし、騙そうとして主張に説得力を持たせようとしているわけではなく、自らが信じていることを他の人にも信じさせようとしているわけで、他の大勢の人も信じてほしいから、善意から自らが信じていることを強調するのだろうが、そうした善意による強調を信じてしまうと、全てが誤った方向へと導かれてしまうとも言えないが、少なくともそこから何らかの先入観や固定観念が生じてきて、それが迷信の類いになることもあるだろうし、また何かの真理へと導かれることもあるかも知れないが、他人を信じさせようとして自らの主張や意見に説得力を持たせようとしているわけだから、そんな主張が他の多くの人々に受け入れられれば、主張している人が主張していることに関する権威となったり、その人が大勢の人を操ることができる権力を手にすると思われるかも知れないが、信じさせようとする内容にもよるだろうし、特にそれを信じてもどうということはない内容であれば、その人だけでなく、そんなことを主張している人が他にいくらでもいる可能性があり、誰もが信じたいことをその人も主張しているとすれば、そんなことを主張してもその人が権威になるわけでも権力を手にするわけでもないのだろうが、それもその人の役職や地位などにもよるだろうし、アメリカの大統領だったトランプ氏や現大統領であるバイデン氏などが、誰もが信じたいことを主張していれば、その役職や地位にふさわしいことを主張していることになり、実際に彼らの主張内容にはその是非に関して賛否両論が伴うだろうが、彼らは彼らなりにその役職や地位にふさわしいことを主張しようとしているし、実際に主張してきたわけだが、それが説得力を持たせようとする意図を伴いながら主張していることであるのは、誰もが承知していることであり、それに関して特に疑念を抱くようなことでもないだろうが、そうした説得力というのが、現状を現状として受け入れるための説得力となるのではなく、現状を現状よりもさらに理想に近づけるための説得力となるのであれば、現状を現状として認識すると共に、理想へと誘導しているわけで、そういう目指すべき理想的な状態というのが、何か見た目の好印象を得ることを目指しているとは誰も思わないだろうが、それがこの世界の理想的な秩序の類いであれば、秩序が何によって明らかになるかというと、見た目で明らかとなるのは誰でもわかることだが、わかっていてもそれに気づかないわけで、理想的な秩序の実現を目指している当人でさえも気づけないわけだが、もちろん秩序を実現する上で障害となっている国々の政府首脳なども、その手の人たちにとっての理想的な秩序を実現しようとしているわけで、そういう人たちが世界の現状である無秩序的な混沌を受け入れがたいのは、彼らの役職や地位から生じてくることだとしても、実際に無秩序的な混沌をもたらしているのは何かといえば、人や企業の経済活動がそれをもたらしているだろうし、パンデミックを引き起こす病原菌やウイルスなども実際に混沌をもたらしているのだが、それらが行政的な秩序の構築を困難にしていることも誰もがわかっていることかも知れないが、それが秩序を構築しようとする動機となっていることも、そういわれてみれば確かにそうかも知れないが、秩序を構築する必要があるのかというと、それが行政活動だからそうするしかないわけで、結果的にはさらなる混沌や混乱を招いてしまうとしても、見た目の好印象を得るために理想的な秩序の構築を目指しているわけではないが、結果的にはそう見えてしまうような実態があるのではないか。
4月9日「はぐらかし」
物事を単純に考えてわかったような気になってしまうのは、そうしなければわかったような気になれないから、そうなるしかないのかも知れないが、そうやってわかろうとしている対象とは違う何かをわかってしまうのかも知れず、それもそうやってわかろうとしなければわからないことであり、そうやってわかろうとする過程でわかるようなことかも知れないが、そちらの方が重要というわけではなく、何かのついでにわかってしまうのだから、それが取り立ててどうということはなく、むしろそんなことをわかったところで意味のないことかも知れないが、わかるということはいつも何かのついでにわかってしまうことであり、それがわかろうとしている対象から気を逸らすために仕掛けられている罠だとは思えないにしても、何かをそこではぐらかされているのであり、そんなはぐらかしによってわかろうとしている対象がますますわからなくなるわけでもないが、それによって物事の理解がさらに深まったように思われるなら、やはりそこで何かをはぐらかされているのであり、しかもそんなはぐらかしには素直に従わなければならず、従わなければ物事を単純に考えてわかったような気にはなれるが、そのわかったことというのが、他の浅はかな人々と共有する浅はかな物事の理解や認識になるにしても、それで間に合っている限りでそれで済んでしまうわけだから、それでもかまわないわけだが、それでもかまわないような環境が世間的な見せかけの環境となり、もちろんそんな見せかけの環境など誰も信じていないだろうが、自己が見せかけの環境の中で見せかけの人格を演じている限りで、見せかけではない真の自己があるというややこしい仕掛けとなっているのかも知れず、そういう意味では真の自己が存在するためには見せかけの環境が必要となるのだろうが、見せかけの環境がないと真の自己を認識できないのだとすれば、真の自己というのも見せかけの自己でしかないのかも知れず、自己というのはどこまでも見せかけの自己でしかなく、自己があると認識すること自体がフィクションにすぎないのかも知れないが、そんな自己をはぐらかしているのが思わぬところから状況に介入してくる何かであり、その何かが何なのかはその時々で違う物事となるのかも知れないが、その対象を特定できるかというと、何かのついでに自己がはぐらかされてしまうのだから、それを特定しようとする気になる前にそこから気を逸らされてしまい、結果的に取り逃がしていることになるのだろうが、それを自己がとらえようとしているわけではないから、何かを取り逃がしたようには思われないし、気を惹くような対象とはならないから取り逃がしているとも思われず、何かが目の前を通り過ぎたのに、それに気づいているのにそれを見ようとしないわけで、そうであればそれにはぐらかされているわけでもなく、ただ単に無視しているだけかも知れないのだが、実際にそれを無視して物事を単純に考えてわかったような気になってしまうと、それで済んでしまうわけだから、それで取り立てて困るわけでもないのに、何かそんな物事の理解や認識ではまずいような気がしてしまうとすれば、そんな違和感を覚えながら、そこで何かにはぐらかされているような気もしてしまい、その何かが目の前を通り過ぎた時に、それを見なければならないのに、実際にそれを見ていたはずなのに記憶に残らないような不可思議な思いにとらわれて、何か狐につままれたような気分となってしまい、それ自体も自分勝手に思い描いたフィクションにすぎないかも知れないが、そんな得体の知れない何かを見逃しているという感覚が焦りを伴うとしても、それで済んでしまうのだから見逃してもかまわないわけで、むしろ見逃さずに記憶にとどめておこうとする方がおかしいのかも知れず、どうでもいいことにこだわる必要がないのに、無理にこだわろうとしてしまうと、かえって事態をこじらせて、見えないものが見えてしまうような幻覚にとらわれて、そういう症状に苦しめられることになれば、どう見ても余計な真似をしていることになってしまい、いくらそれについて語ってみても、他の誰からも相手にされないような孤独感を味わうことにもなり、そうやって自己が次第に世間的な常識からも背理してきて、他人とは違う景色が自分には見えているような優越感も生じてくるのかも知れないが、そんな気分になってしまうこと自体が何かにはぐらかされていることになるわけだが、それが何なのかというと、自らねつ造した自己の幻影にはぐらかされているといえば、何かそれが大げさなことのようにも思われてくるわけだが、どうもそういうもっともらしいフィクションにも違和感を覚えて、それは違うのではないかと思われると、もっと何でもないような些細なことにはぐらかされているのではないかと疑いたくなってしまうわけだが、それは自己の幻影などではなく、他の何かであり、例えばそれが自らが取り組んでいる何かでもあり、日頃から取り組んでいる仕事や趣味などの活動そのものによってはぐらかされているのかも知れず、自身が思っているほどそれにとらわれているわけでもなく、いつやめてしまってもかまわないようなことであるにもかかわらず、やめたくてもやめられないような気持ちにさせているのが何かというと、それが習慣となっているからだろうが、他にもそれをやめられない事情や経緯がいくらでも生じているとすれば、それらもやめたくてもやめられないような気にさせているのだろうが、それをどうやってはぐらかすことができるのかというと、実際にはぐらかされてみないことにはわかるはずのないことかも知れないが、そんなことをやっている自らを正当化するには、やっていることから生じる利点や利益を挙げてゆけば済むことかも知れないが、逆に自らのやっていることを否定的に評価しながら、それをやめられない自らの愚かさやバカさ加減を吹聴してもなおそれをやっているのはどういうわけなのかと自問してみても、釈然としない思いにとらわれてしまうのかも知れず、やっていることをやめられないようになってしまった時点で、その場の成り行きに絡め取られて身動きがとれなくなっているだろうが、そうなってしまったことによって何を失ってしまったのかを知るのは難しいだろうし、失ってしまったものよりも得られたものの方が多いように思われるのが普通の感覚かも知れないが、失ってしまったものと得られたものとの間で、釣り合いがとれているかというと、普通は収支がプラスになっているから自身の現状が保たれていると思うはずだが、釣り合っているかいないかを知ることなどできないかも知れないし、何によってそれを計ろうとしてもそれを想像しているにすぎず、実際に計っているわけでもなく、釣り合っているかいないかを見ているわけでもないだろうが、一方では心身のバランスを取ろうともしているわけで、それは出ていったものと入ってきたものとのバランスというよりは、内部の状態が偏りのないようにバランスを取ろうとしているわけだが、そういった収支のバランスや心身のバランスといった想像が、自己を健康に保つためには不可欠のように思われていること自体も、他の何かによってはぐらかされていることの効果なのかも知れず、そんなことよりもっと大事なことがあるはずなのに、それをはぐらかされているから、それがなかなか思い出せないわけだ。
4月8日「微妙な違い」
世の中では様々な方面で様々な物事が絡み合って様々なことが起こっているはずだが、それらが世の中にもたらしている作用や影響を特に知ろうとしなくても、何かのきっかけから否応なく知ってしまう場合もあるかも知れず、それを知ったからといって、すぐに何がどうしたわけでも何をどうしようとするわけでもなくても、いったんそれを知ってしまうと、それへの反応や対応も以前とは微妙に異なってくる場合もあるだろうし、それが何かを知ることによってもたらされた意識や行動の変化であれば、変化するような作用や影響がもたらされたことになるのだろうが、それを知ることによってもたらされた変化が何を意味するかというと、直接の作用によって変化を被るわけではなく、間接的な影響によって変化するのであれば、それだけ因果関係がわかりにくくなってくるかも知れず、何だかわからないが、以前とは微妙に雰囲気や空気が違うような気がすると、何をやったわけでもないのに、なぜそうなってしまったのかわけがわからないようなもどかしさが伴ってきて、どうにも対処のしようがないが、特に対処しなくてもかまわないようなどっちつかずな状況であれば、まだそれに対して態度が定まっておらず、何をどうしたらいいのかわからない状態となっていて、またそこからある程度時間が経過して、はっきりとした態度を示さなければならなくなるような場合も出てくるかも知れないが、それを知ってしまったからには、今までとは違う態度で臨まなければならないと表明せざるを得ないのは、そういった公式的な見解を示す政府や企業などの団体がやることであり、個人が他人に向かってそんなことはやらないし、やる必要もないのかも知れないが、そんな因果関係のわかりにくい状況や情勢の変化から何を知る必要もなくても、何を知ったつもりもなくても、何かを知ってしまったような気になれることもあり、知ってしまったことをこれだと示すことができなくても、何となく状況や情勢の変化を肌で感じ取ったような気になると、すでにその時点で以前とは態度が異なっていて、世の中の空気が以前のそれとは違うことも承知しているつもりになってしまうのかも知れないが、別にそれを求めていたわけではなく、そうなることを望んでいたわけでもないのに、いったんそうなってしまうとそれをすんなり受け入れてしまっている自らに唖然とさせられるわけでもなく、当然のこととして変化を受け止めていて、そうなってしまった状況の中でも自然に振る舞っていることが驚くべきことでも何でもなく、そうなるのが当たり前のような態度でいることが、見え透いた演技だとは誰も思わないだろうが、それが手のひら返しのような態度ではないにしても、微妙な違和感を誰もが感じているはずなのに、それを感じているふうを見せないような態度に、それなりの演技が含まれているのかも知れず、それを演技だとも誰も思わないにしても、普段の日常の中で他人に対して演じていることの延長上で演技していると捉えれば、取り立ててそれが不自然なことでもないだろうし、そこでそれ以前とは微妙に空気や雰囲気が違うとも思わなくてもかまわないのだろうが、もっと大げさに以前との違いを言い立てるようなことをすれば、その契機となった出来事と共にそれを説明することになるわけだが、そんなことは誰もが知っているはずで、世間の話題となるような大きな事件や出来事を示して、その事件や出来事に注目するように仕向けてくるのだろうが、そうなる以前とは何が変わったとしても、それ以前にもそういった変化の契機となる大きな事件や出来事が世間の話題となっていたわけで、それが同じような変化の繰り返しのようにも感じられるところが、歴史上の王朝交替や覇権国家の入れ替わりのような平板な印象を伴ってきてしまい、それが現状の変化を捉え損ねているような内容となってきてしまうのかも知れないが、現状の変化が過去の変化と何が違うのかを示さないと、はっきりとしたことは何も言えないわけで、それを示すことができなければ、そんなのは変化でも何でもないことになってしまうのかも知れないが、過去の変化と同じところを指摘することの方が容易であるから、まずはそれが指摘されるわけで、過去にも似たような変化があったことを指摘して、そんな指摘と共に安心したいのかも知れないが、逆に不安を煽り立てようとするなら、過去には経験したことがない未曾有の惨事が起こっていると騒ぎ立てることになるのだろうが、無視してもかまわないような些細な変化なら、そんな変化など世間の話題となることもないだろうし、話題とならなければ無視してもかまわない変化だとも思えないが、誰も気づかないような変化が起こっている可能性はあるだろうし、それを指摘する必要もなければ、それについて語る必要もないのかも知れないが、それでも誰もが無視できるような変化が起こっていて、無視しているにもかかわらず、誰もが影響を被って、それ以前とは微妙に異なる態度になっていれば、それを誰もが知っている大きな事件や出来事とは結びつけられないだけに、それをどう捉えればいいのかわからないことになるだろうが、それも変化に気づかなければ無視してしまうのが当然で、意識が変化を捉えることもないわけだが、それが特定の事件や出来事とは結びつかないものの、様々な事件や出来事が絡み合って、それらが重なり合って互いに影響を及ぼし合った結果として起こる変化であれば、その因果関係が定かにならず、原因や理由もはっきりしないが、それでも変化そのものが確実に起こっていることは実感できるのかも知れず、そこで何かと何かが連動して変化が起こっていると説明してもかまわないものの、何かと何かが二つではなく、他にも無数にある事件や出来事とも作用し合い影響を及ぼし合っていれば、それらの事件や出来事から同じような傾向を抽出できるとしても、抽出した同じような傾向が何を示しているわけでもなければ、そんな傾向があるとしても取り立てて問題とはならないはずだが、少なくとも人が集団となって活動する傾向には、暴力的な傾向や功利的な傾向などがあるだろうし、そんな傾向から何がもたらされているのかといえば、様々な事件や出来事がもたらされているわけだが、それらを一つ一つ挙げて具体的に何が問題となっているかを指摘できるかも知れないし、実際に指摘している人も大勢いるはずだが、たぶんそういうことには含まれていない傾向もあるだろうし、それをはっきりとは指摘できないが、うまく指摘できないようなことが微妙な違いとなって、それが世の中の空気や雰囲気の変化をもたらしているのかも知れず、そんな空気や雰囲気の変化を感じ取ることが、誰にとっても取り立てて重要なことでもないのだろうが、感じ取れないと時代の変化に乗り遅れるわけでもないにしても、以前には許されていたことが許されなくなってきたということが、そんな空気や雰囲気を敏感に感じ取っていることの証しとなるが、それを特定の政府や企業などの団体が強硬に拒否する姿勢や態度を貫き通してしまうとどうなるかが、今後の世界的な関心事となってくるのかも知れない。
4月7日「状態の継続」
うまくいかないことをやっていると、うまくいかないなりにそれを続けていることが、不満と共に心身にストレスや疲労をもたらしているとしても、うまくいかないのにそれを続けていられるのが不思議に思われてくるかも知れないが、様々な理由やそこに至る経緯からやらざるを得ない成り行きになっていれば、不満や焦りを感じながらも、自らの意志でやり続けているという自負があるにしても、回りの状況がそれをやるように強いていると思われる時もあるだろうし、やり続けようとする意志が周囲の状況から生じていると考えるのが妥当かも知れないが、時にはやっていることを正当化したいという思いにとらわれるにしても、自分一人の判断だけでやっているわけでもなければ、その場の状況に心身がとらわれていることを自覚せざるを得なくなり、それが罠だとは思えないにしても、そんな不快な状態から早く抜け出たいと思う気持ちとは裏腹に、どうやっても抜け出そうにも抜け出られない現状の中で自身が機能しているようにも思われてきて、その機能というがうまくいかないことをやり続ける機能であり、実際にやり続けているわけだから、それに関してはうまくいっているはずだが、不満や焦りやストレスを感じている面ではうまくいっていないわけで、それがうまくいっていない証拠だと思われるだろうが、自身がそう思うこととそれが続いていることが結びついていて、それが続いているからそういう思いが生じてくるのであり、それは結果的に続けることができなければうまくいかなかったことになるのとは違って、続いているからうまくいっていないという逆説的な思いにもとらわれてくるわけで、結果からそう思うことと途中の過程の中でそう思うことは、状況としては異なるはずだが、うまくいかなかった結果とうまくいっていない現状とが一致するかというと、一致しているように思われるだろうし、うまくいかなかったから続けられなかったのと、うまくいったから続けるのをやめることができたのは状況としては違うだろうが、うまくいかないことが続いているとすれば、うまくいかない現状から抜け出ることがうまくいくことであり、うまくいかない状態をやめることができれば、うまくいったことになるはずだが、うまくいかなかったからやめてしまったのはやめることには成功したわけで、やめるという行為に関してはうまくいったことになるだろうが、続けようとしていたことをやめざるを得なかったことに関しては、うまくいかなかったことになり、それがうまくいかないなりにも続いているということは、続けることに関してはうまくいっているにしても、やめることに関してはうまくいっていないわけで、そうやって行為を続けることとやめることとに分けて考えれば、うまくいっていることとうまくいっていないことの二つの面があることに気づかされるわけだが、実際には途中の経過の中でそんな思いが生じてくるのだから、二つの面を分けて考えられるような状況にはなっていないし、そうであればそんなのは気休めにもならないことであり、それをやり続けていればやり続けられなくなるまでやるしかなく、その最中や途中でうまくいかないことに関していくら悩んでも焦ってみても、悩みながら焦りながらもやり続けていることには変わりなく、それが不本意な形で終わってしまえば、うまくいかなかったからやめてしまったと思うだろうし、逆にそれなりにうまくいっても、何らかの理由や事情でやめてしまうこともあるのだろうが、すぐに結果を考えてしまうのもうまくいかない原因になるのかも知れず、何かというと事前にこうすればうまくいくと予想して、結果に至る前に先回りしようとすると、やっている途中で当てが外れてしまって、動揺してあり得ない過ちを犯して、やっていることがうまくいかなくなってしまうのかも知れないが、同じような場面で何度も過ちを繰り返していくうちに、次第にその場の成り行きに慣れてきて、ある時不意に過ちを犯さずにうまくやれるようになる場合もあるわけで、そういうところでは経験の積み重ねが重要となってくるのだろうが、実際に何度も過ちを繰り返しているうちは、やっていることがうまくいかないことに悩むし焦るだろうし、中にはいやになってそこでやめてしまう人も出てくるだろうが、そういった経過の中で、やっていることがうまくいかないからやめてしまった場合と、何度も過ちを繰り返してうまくいっていないにもかかわらず、やめずに続けている場合とがあれば、やめずに続けている方が偉いように感じられるにしても、個々の事例を比較できるように条件を一致させることは難しく、学校などの教育制度の中では、同じ条件の下で同じ内容を学習させて優劣を判定してしまうかも知れないが、そうやって人を制度の中に囲い込むことが、そこから抜け出られなくさせて人を苦しめることにもなり、確かにうまくいっている状態を制度的に構築することが、そんな状態の継続や持続をもたらすわけだが、中には制度に馴染めない人も出てくるわけだから、そういう人にとってはそうした制度が地獄の体験をもたらして、それが強制収容所的な体験となれば極端に否定的な印象を伴うわけだが、制度的な束縛を嫌って自由を求めるなら、やっていることがうまくいかなくなるリスクを自身で引き受けなければならなくなり、自己責任でやらなければならないこともそれなりに増えてくるのに応じて自由も拡大されるのだろうが、人が集団で社会を形成しているのだから、人と人との間で摩擦や軋轢も生じてくるから、全てを自由にやれるわけではないのと同様に、全てを制度で覆うこともできないわけで、そんなのはわかりきったことだろうが、わかりきったことでもその加減をうまく調節したり調整するのが難しいのだろうが、うまくいっている面を強調したり誇示することはできても、うまくいっていない面を明らかにするのはいやだろうし、そこで取り返しのつかない深刻な事態が起きていれば、うまくいっている面を強調して宣伝するような人や団体としては、それを隠そうとするのが自然な成り行きになってしまい、隠していられる限りで、表面上はうまくいっていることになるわけで、そうやって体裁を取り繕うにも限度があるとしても、制度としてうまくいっていない面があると、それも制度の一部として機能している場合もあるわけで、うまくいっていない面を含んだ制度となると、うまくいっている面をうまくいっているように見せかけるには、うまくいっていない面も必要になってくる場合があり、うまくいっていない面で活動する人や団体から利益や労力を搾取することによって、うまくいっている面で活動する人や団体がうまくいくようになれば、うまくいっている人や団体にとっては、うまくいっていない人や団体が是が非でも必要となってくるわけで、そうなるとうまくいっていない面で活動する人や団体は、うまくいっている面で活動する人や団体をやっつけない限り、永久にうまくいかない活動をやり続けることになるわけだが、それも実際に制度的にはっきりと搾取する側とされる側が区別されているような国や地域も少ないし、そういう点を強調しすぎるのもフィクションとなりかねない危険があるわけだ。
4月6日「言語表現が示す現状」
誰もがそれに気づいていて、実際に大変なことが起こっているわけだろうが、しかもそれを利用して何かをやろうとして、誰かが何かを画策しているのかも知れないが、実際におこなわれているのはその大変なことへの対応で手一杯となってしまい、他には何もできない事態となってしまっているのかも知れないが、表向きはそうであっても、実際にはそれとは少し趣の違う面もあって、それが何なのかが未だにその全容が明らかになっていない状況もあるのかも知れないが、これから次第にそれが明らかになってくるかというと、それも何とも言えないところかも知れず、この時代に生きている人々にはわからないような変化や変動が世界で起こりつつあるとしても、それがわかるのはまだだいぶ先のことになりそうな予感もして、今の時代に生きている人々には結局のところ何もわからずじまいに終わってしまうかも知れず、自分たちが生きている時代がどこへ向かっているのかもわからないまま、誰もが盲目の歩みを続けているとすれば、それがどうしたわけでもなく、そんな表現では何を述べていることにもならず、そんなことはわかりきったことかも知れないが、そんなわかりきったことさえ嘘だと思われているわけでもないだろうが、自分が何を信じているのかを自身が知っていると思っていても、その知っていると思っていることが実は知らないことでもあり、自身の知らない何かに導かれながらどこかへと向かっていて、向かっていった先に待ち受けているのが自らの死であるとしても、それもわかりきったことだと高をくくっているわけでもなく、実際にその間際にならないと知ることさえできないのかも知れず、誰もが今何が起こっているのかを知っているのに、それを知らないまま死んでしまうとしても、それとは何かといえば、そこで何かが起こっていることには誰もが気づいていて、メディアを通じて世界情勢の類いは伝えられているだろうが、そんなことはわかりきっていると誰もが思うわけでもないが、わかりきっていることがどうすることもできないことでもあり、そうなるのがわかっているのにそうなることを止められずに、どうすることもできないから焦ってしまって、焦って苦し紛れに何をやるかというと、それを言葉で表現して何とかなったと思い込もうとしているわけではないが、それでも現状を言葉で捉えようとして、言葉が示す意味のままに現状を解釈したいのかも知れないが、言葉を現状に当てはめようとしているのに言葉の意味が現状が示している状態だと思いたいのであり、言葉の意味とありのままの現状との間に隔たりがあることを自覚できないが、それを理解したくないのかも知れず、そういう意味で現状に言葉を当てはめて都合の良いように解釈したいわけで、それがともすれば都合の悪い部分や面を省いて、都合の良い部分や面を強調した誇張表現となってしまうわけだが、それが良かったり悪かったりする印象をもたらすから、意識が言語表現に惑わされていると捉えておくのが妥当なところかも知れないが、その一方で言語表現ではなく、現状に対して何か言葉では言い表せないような印象を抱いている場合もあるかも知れず、何だかわからないが予感がするわけで、それがいやな予感か良い兆候かはその時々で違うにしても、そうやって何かが起こる兆しを感じ取りたいのだろうし、これから何が起こるかを知りたいわけだが、すでにこれまでに起こったことを都合の良いように解釈して、その延長上でこれから起こることも都合の良いように解釈したいわけで、自身にとっての都合の良いことが起こるのを知りたいわけだが、逆に言えば都合が悪いことなど知りたくないと思っているわけではないが、知りたいのは都合の良いことが起こる兆しであり、都合の悪いことは知りたくないわけだから、それを知ろうとしていないわけで、それを知ろうとしなくても知ってしまう場合もあるかも知れないが、知ってしまってもそれを信じたくないわけで、本当に悪い意味で信じられないことが起これば、茫然自失となってしまうかも知れないが、それでも自身に直接の被害や損害が及ばない限りは無視したいだろうし、実際に自身にとって都合の悪いことはできる限り無視しながら、その逆に自身にとって都合の良いことはできる限り誇張して表現したいし、それを周囲に向かって誇示したい気持ちになることもあるだろうし、そんなふうに現実を歪曲して解釈して、それを自らの正しい認識として表現しようとするから、実際の現実との間に無視できないずれが生じてしまうのは致し方のないところだろうが、それがそれなりに信じられる言語表現として他の人々にも伝わって、他の人々にとっても都合が良く心地良く思われるなら、さらには否定的な感情として憎悪や嘲笑を伴うように都合良くねじ曲げられていれば、そういう表現や認識を他の人たちも共有してしまうことになるわけで、それが恣意的に作られたフィクションであることは誰もがわかっているのに、わかっているからこそ、そんなイメージを利用して憎悪や嘲笑の対象への攻撃に使おうとするわけで、しかもそれがこれまでに数限りなく繰り返されてきたことでもあり、19世紀に大衆市民社会が世界中に形成された頃からそういう傾向となっているわけで、それが今も飽きもせず繰り返されていると言えるかどうかが、微妙に何かが異なってきているとすれば、その微妙な違いを見極める必要があるのかも知れないが、それがわからずじまいに終わってしまうような今の時代の傾向であれば、それを知ったところで誰も注目しないようなことかも知れず、またそれを知ったとしても言葉でうまく表現できなければ、他の人々にうまく伝わらずに、間違った認識や解釈をもたらしてしまうのかも知れず、それがこれまでの延長上でこれまでの認識や解釈からそれほど遠く隔たっていなければ、過去と似たようなことにしかならないわけだが、言語表現によっては過去と似たような表現しかできないということでもあり、それも実際の現状との間で微妙なずれが生じていれば、何か違和感を伴ってきてもおかしくはないはずだが、それでもそんな表現や認識や解釈を現状に施して安心したいのだろうし、そうやって実際に安心していると思いがけない事態となってから驚くわけで、そういう人々にとっては思いがけない事態となるまでは、現状を過去の繰り返しと捉えて安心しようとするのであり、安心できなくなるような事態となったところで、もはやそんな表現や認識や解釈では通用しないことを知るわけで、すでにそうなっている時点で、だいぶ前から通用していなかったのかも知れないが、ずれを無視していても意識の中では許容限度内に収まっていたのだろうが、ずれが許容限度を超えてしまうと、そこで突然予期せぬ事態となったように感じられるものの、だいぶ前から通用していなかったのを意識する必要がなかったのかも知れず、それもその人だけではなく、他の多くの人たちと表現や認識や解釈を共通の価値観として共有していたから、持ちこたえられていたのかも知れないが、それが持ちこたえることができない事態となるような契機がある日突然やってきたと思うような出来事に遭遇すれば、何か大変なことが起こっていることに気づくのだろうが、その時にはもはや何もかもが手遅れとなっているわけではないにしても、何かその場で起こっている事態にうまく対応できずに誰もが焦ってしまうのではないか。
4月5日「行為の慣習化」
何か二律背反のようなちぐはぐなことをやっていても、結果的にはそうする以外にあり得ないような成り行きになってしまうと、そこで不条理なことがおこなわれているのは誰にでもわかることかも知れないが、一方でやって当たり前のことをやっていれば誰もが安心できるだろうし、それをやるのが当然であれば、それをやらないという選択肢はあり得ないはずだが、では何が不条理なのかといえば、やって当たり前のことをやっているのに、それだけではどうにもならない事態に陥ってしまうわけで、だから不条理なことをやらざるを得なくなるというと、それも少し違うような気がしてしまい、もっと何か合理的に事を運びたいだろうし、そこが思案のしどころのような気がしてしまうのかも知れないが、二律背反だからこそバランスがとれていて、それを二律背反だと見なしてしまうこと自体も間違っているとすれば、では何なのかといえば、その場の成り行きに応じて何かをやっているのだろうが、それがある局面では二律背反のようなちぐはぐなことをやっているように感じられて、またそれとは別の局面では合理的に物事を進めているようにも感じられてしまうのだが、それが結果的に不条理な事態をもたらしているのかというと、そこではそうだとしても、そこからある程度時が経ってみれば、その場の状況にやっていることが馴染んできて、当初と比べれば、それほどおかしなことをやっているわけでもないと感じられるようになり、そこからさらに時間が経過してみると、もはやそれがやって当たり前のことをやっているように思われてきて、いったんそうなってみれば、その場の状況とその場でやっていることが、違和感なく結びついているような気がしてしまうわけだが、そんな経過の中で様々なことが同時並行しておこなわれていて、その中のある行為が廃れておこなわれなくなってしまう一方で、それとは別の行為が慣習化して違和感なくその場の状況に溶け込んで、それをやっていること自体が何とも思われなくなってしまう場合もあるだろうし、合理的に考えればそんなことはやらなくてもかまわないようなことが慣習化していると、何かそれが不条理なことであるかのように思われてしまうのだろうが、しかもそんなことをやっている一方で、それとは全く矛盾するようなことも同時におこなわれていれば、それが二律背反であるようにも感じられて、どうしてもそれを筋道が通るように統合して合理化したくなってしまうのだろうが、それをやってしまうとその場のバランスが崩れてしまい、また一からその場の状況を再構築しなければならなくなり、そんな手間暇をかけるのがいやなら、その場の状況をあまりいじらずに、ある程度の二律背反や不条理には目を瞑って、必要に応じて物事を微調整するような成り行きになってしまうわけだが、それをおかしいと批判することができるものの、ではどうすればいいかとなると、もっと合理的で無矛盾なことをやろうとして失敗してしまうか、そういうことを主張するにとどまって、やるには至らないようなことになるかのどちらかになることが多いのかも知れないが、少なくとも主張するとなると、そういうことを主張せざるを得ないわけだが、それを実現させようとする成り行きになると、結果的に慣習化するのはそういうことではなく、折衷的で二律背反のようなことがまかり通ってしまい、それが不条理な事態をもたらしているように感じられてしまうわけだが、なぜそうなってしまうのかを誰もが納得がいくように説明できても、またその原因を容易に指摘できるとしても、それを改めるのは容易なことではなく、そうやってそんなことをいくら批判しても、批判が空回りしているだけで、批判させるだけさせてもらえるとしても、それと同時に批判の無効化が起こっているわけで、批判が全く無視されているわけではないのだろうが、それが非主流派的な批判の典型例のようなこととして受け止められている一方で、相変わらず慣習として理不尽かつ二律背反かつ不条理な行為がまかり通っている状況をどうすることもできずに、批判者には無力感がもたらされるが、慣習を守る側としてはそれでかまわないわけで、理屈の辻褄が合っていなくても、現状の中でおこなわれていることが優先されていれば問題ないわけで、問題がないと装いたいわけでも問題を無視したいわけではなくても、問題が放置されている状況が問題ないと言えるかとなると、問題を指摘することは容易にできるが、問題を指摘するにとどめることもできるわけで、問題を指摘するにとどめておくことによってその場の微妙なバランスが保たれることにもなり、そんな状況に問題があるのは誰もが承知しているだろうが、その問題をどうすればいいかというと、問題を指摘するにとどめておくことがその場での慣習となっていれば、そんな慣習に従うしかなくなってしまうわけで、それが問題だと認識していても、問題を解決するにはこうするべきだと主張しても、そんなことを主張している人に主導権を引き渡す気はさらさらなく、その場でおこなわれているゲームのルールに則って物事が進んでいる状況をどうすることもできないわけで、そのゲームのルールというのがあってないようなルールかも知れないし、ゲームというのも勝敗が始めから決まっているいかさまゲームでしかなければ、では何のためにゲームがおこなわれているのかといえば、行事としておこなわれていて、それがこれからおこなうことを決める行事だとしても、あらかじめ決められた手順に則って決めるべきことを決める行事であり、何から何まで決まり切った手順に基づいて決められたことを決める儀式となっていれば、そういうゲーム自体が不条理そのものであるかのように思われるだろうが、そういった過程が慣習化されていれば、誰もおかしいとは思わないわけで、それがそういう儀式を伴った行事であることを誰もが承知していれば、誰もが型どおりに振る舞って、行事を滞りなく執り行って、それでその場が穏便に済むならそれでかまわないと思って、そういうことの延長上でまつりごととしての政治が執り行われるような状況となってしまえば、別にそれで問題はないとも言えるのかも知れず、そんな成り行きに異議を差し挟むような野暮な真似はしたくないわけだが、そういうやり方がどこまで通用するのかというと、そこに生じている問題を回避できる範囲内では通用するだろうが、回避できない問題が生じているかとなると、実際に利害が衝突して争いや戦いが起こっているところでは通用しないだろうし、逆に争いや戦いを表面化させないようにするための方策として、そういう儀式が執り行われることもあるのだろうが、それにも程度の問題があり、何から何まで儀式化するわけにもいかず、逆にそこで起こっている争いや戦いを表面化させないと事態がそこから進展しない場合もあり、そういう意図で対立を煽り立てて争いや戦いを派手におこなわせることによって、争っている双方が共倒れになることを狙っている場合もあるわけだ。
4月4日「危険な兆候」
何かをやっている途中で、勘が何かを知らせているような気がするとしても、その勘が狂っている可能性もあるだろうが、胸騒ぎがしているのにそれが何を知らせているのかわからない場合もあるだろうし、虫の知らせという現象も起こるかも知れないが、何だかわからないが何かの警報が頭の中で鳴り響いているような気がすれば、そこでやっていることをやり続けるのを躊躇してしまうわけだが、そのままやり続けてしまうと、大変なことが起こるような気がしてしまい、実際にそのままやり続けて、大変なことが起こってからそれがわかるとすれば、やり続けなければそれがわからないわけで、怖くなってやるのをやめてしまえば、その先に何が起こるのかがわからずじまいになってしまうわけだが、そんな気がしているのにやっていることをやめられない状況となってしまえば、その先で起こることを知るに至るのだとしても、果たして現状でそんな段階に来ているのかどうかが、確信が持てないのかも知れないし、そういう方面ではそんなことを思っているとしても、それとは別の方面では合理的な思考によって物事を捉えようとしていて、そこに何らかの理屈を当てはめようとしているとなると、その理屈が怪しい理屈であれば、それが原因でやっていることがうまく行かなくなっているのかも知れないが、それにも確信が持てないとわけがわからない状況となってしまい、しかもそんなわけがわからない感覚が、先行き不透明感でもあり、その先で何が起こってもおかしくないようなワクワク感をもたらすと共に、そんな高揚した気分が気の緩みとなって、結局大失敗をもたらしてしまうのかも知れないが、それでもかまわないような状況が現状なのかも知れず、そうなっている時点ですでに危うい事態となっているのだろうが、危うい事態だからこそ、その危うさに引き寄せられてしまうような逆説的な成り行きに逆らえないわけで、危ないのにそこから立ち去ることができずに、そんな危機的な状況を楽しんでいるつもりもないのに、そこから逃げるという選択肢を見つけられずに、逃げ遅れてもどうということはないと高をくくっているわけでもないのに、危険に魅入られてしまっていて、そうなっている以上は、このままでは危ないという段階ではなく、すでに危ない段階まで来ていて、危ないのにどうすることもできないのかも知れないが、危機を回避することもできないとすれば、現実に終わりが近づいているのかというと、それもそうなってみてからでないと確かめられないのかも知れず、そうやって全てが途中の段階にとどまっていて、どこまで行っても途中の段階が延々と続いていくとは思われないとしても、結果を結果として認識できない場合もありそうで、何が結果なのかよくわからなければ、それは原因がわからないことと同じであり、原因がなければ結果もない事態を体験していると考えれば、それでも納得はできないだろうが、納得できないとはそういうことであり、納得できるような辻褄が合う成り行きではなく、辻褄が合う合わないという水準ではなく、辻褄のない成り行きであれば、そこには原因も結果もあり得ないのかも知れず、そういう成り行きの中でわけがわからない事態となっているのかも知れないが、果たしてそれが危険なのかというと、ある意味では危険なのだろうが、ある意味とはどんな意味なのかといえば、それは無意味ということなのかも知れないし、やっていることが無意味だからこそ、意味を求めようとしている限りで意味がないわけだから、意味のないことをやっている水準では危険なのかも知れないが、それでかまわないのなら取り立てて危険というわけでもなく、無意味なことをやっていられるのだから、それがまだ余裕がある証拠となるかも知れないが、それが無意味なことではなく何かしら結果が伴うことであれば、その結果が危険な兆候を伴ってすでに現状の中に現れていて、誰もがそれを感知しているのに、実際に危険だと思われているにもかかわらず、それを回避できずにいるのだろうし、回避できないから避けようがない現状として誰もがそれを体験しつつあるのだろうが、そこには様々な物事が絡み合っているから、それらのうちで何が原因で何が結果なのかといっても、複数の原因と複数の結果があり、一つの原因から一つの結果がもたらされているわけではなく、原因も結果も一つにまとめることができないわけだが、それも危険な兆候なのかというと、むしろ一つの原因から一つの結果がもたらされているように感じられること自体が危険な兆候であり、多くの人たちがそう思ってしまうから、そこから危機がもたらされるのかも知れないが、それの何が危機なのかというと、一つの原因から一つの結果がもたらされていれば、それに対処するやり方も一つあるように思われてしまい、それがこれだと思うような一つのやり方なのだが、やり方を一つに決めたからには、是が非でもそれにこだわらなければならず、時にはそれをやれば全てがうまくいくような幻想も抱いてしまうかも知れないが、そこまで物事を単純化できないにしても、そうやって方針が一つに定まってしまうから融通が利かなくなって、そればかりをやることになってしまい、そうなると他のバランスが崩れて、やっていることが全般的におかしくなってきてしまうのだろうが、そうかといって方針を定めないことには何もやりようがなくなってしまい、何かをやるに当たって方針を定めるのは当たり前のことかも知れないが、状況に合わせて方針を微調整する必要にも迫られると、そこで調整力や対応力などが問われてくるのかも知れず、状況に合わせた柔軟な調整や対応ができないと、やっていることが次第に的外れとなってきてしまい、そういうところでその場の状況とやっていることとの間でずれが生じていることに気づかないと、自らがそこから閉め出されつつあることにも気づけないし、気がつけば何もできない状態となって、わけがわからないままにそこから退場させられていることにもなるわけだが、そうであれば結果がわかるのは全てが済んでしまった後になるのだろうが、そこに至るまでの経緯や成り行きの中では、そうなるとは全く思っていないわけで、それどころが自らが主導権を握っているつもりでいるようであれば、その場では確かにそうだったかも知れないが、状況が変わってくればそんな主導権など吹けば飛ぶような軽さで失われてしまう場合もあり、そういう意味で自らが盤石な体制を築いているつもりであっても、それが何に依存してそうなっているかに関して、案外その場にいる誰もわかっていないのかも知れず、何だかわからないが一人の人物に権力が集中しているような体制が築かれやすいのだが、いったんそういう体制が築かれてしまうと、その人物が誰であってもかまわないような空疎な存在となってしまい、誰が代わりをしてもかまわないようなこととなり、人物としては要らない存在となってしまうのだが、人物としては要らないが、体制にはそういう存在が欠かせないわけで、そうなると誰でもかまわないからそういう存在が一人必要となって、結果的に空疎な人物が体制の頂点に立つこととなってしまうのではないか。
4月3日「関心の分散と集中」
世の中で人々の関心が様々な方面へと分散しているのは、それだけ興味深いことが様々な方面で起こっていると考えるのが妥当なところだが、関心を向けている方面で何かが起こっていて、それが興味深いから、関心がそこへと向いていると考えてしまうと、何か当てが外れているようにも思われてしまい、多くの人がそこへと関心を向けているわけではなく、多くの人が関心を向けているように装われているというのが実態であるにしても、その多くの人というのがどれほどの数なのかが、何とでも言えてしまうところでもあり、それほど多くなくても、多くの人数になってしまう場合もあるだろうし、何を基準にして多くの人数と感じたりそれほど多くの人数でもないと感じるかは、人によってもそこでおこなわれている内容によっても違うが、多くの人々が関心を向けているからといって、それが興味深いことだとは思われなくても関心を向けている可能性があり、誰もが興味深く思われることに関心を向けているわけではなく、中にはつまらないことにも関心を向けている場合もあるだろうし、そんなつまらないことに関心を向けている多くの人を貶したり批判するために、そこへと関心を向けている場合もあるのかも知れず、どうでもいいことに多くの人々が関心を向けていることが興味深く思われてしまい、それが腹立たしいから批判したいという思いも募ってくるかも知れず、中にはそういう関心の向け方というのもあるかも知れないが、そうやって多くの人々が関心を向ける対象が世の中の様々な方面にはあって、そこで何かが起こっていれば、その起こっていることにかかわろうとして、関心の渦に巻き込まれながら、何か積極的に活動しているような気になってしまうのだろうが、他の多くの人も同じように活動していることに気づけば安心するし、それによって勇気づけられもして、自分が何か間違ったことをやっているのではないかという不安や疑念を振り払えるかも知れないが、活動が正しかったり間違っていたりするのは、それとはまた別の方面からわかることかも知れず、活動がうまくいっていれば正しいことをやっているように思うし、うまくいっていなければ間違っているようにも思われるのだろうが、他の多くの人と同じように活動しているのだから、活動していることに関しては間違ってはいないと思われるだろうが、実態としてその中でうまくいっている人もうまくいっていない人もいれば、活動していること自体は間違っていなくても、うまくいかない人も中にはいるとなると、うまくいかない人が出てこないと、うまくいく人も出てこないという成り行きもあり得るわけで、そうであればそこでおこなわれているのがゼロサムゲームの類いとなっているのかも知れないし、実際に自分の他にも多くの人が同じようなことをやっていれば、そこで競争がおこなわれて、その中でほんの一握りの人しかうまくいって成功することができなければ、他の多くの人たちはうまくいかなくなって失敗してしまうことを暗示していて、そうだとすれば安心するどころではなく、むしろ事態を深刻に受け止めなければならない状況となっているはずだが、そういう方面ではそうだとしても、それとは別の方面ではそんなことにはお構いなしにそれとは別の事態が進展中であれば、深刻に受け止めるようなことでもない場合も出てきてしまい、そこだけにかかわっているわけではなく、他にも様々な方面で様々なことにかかわっていれば、その中の一つの方面ではやっていることがうまくいかずに深刻な事態となっている一方で、他の方面ではうまく行っていないわけでもなければ、大してそれが痛手となっているわけではなく、中にはそういうこともあるという程度で許容限度を超えていないことになるのかも知れず、結局そういうことに関しては、そういう方面へどれだけ労力や資金や資源を投資しているかで、そういったことへの捉え方や受け止め方も変わってきて、何か一つのことへと全身全霊を傾けているような成り行きになっていれば、その一つのことがうまくいかないとそれがその人にとっては致命的な死活問題となってしまうわけで、そうならないようにするには様々な方面へと物や金や労力を分散して投資すればいいのかも知れないが、そんなことができる余裕のある人も限られてくるだろうし、余裕のない人が何か一つのことにかかりきりになるしかないような成り行きの中で、やっていることに成功できれば余裕ができるわけで、何をやるにも始めから余裕があるわけではなく、余裕のない状況の中でいかにやっていることをうまくいくように持っていけるかが、その人が成功するための鍵になってくるかも知れないとしても、成功するための秘訣を誰が教えてくれるわけでもなく、それを教えてくれるのはそうすることによって自らも金儲けを企んでいる詐欺師のような人たちであり、そういう人たちに引っかかるような人たちは成功できないにしても、引っかからなかったとしても成功できるとは限らず、成功できるか否かがその時の運次第であれば話が早いが、その一方で努力という幻想にもつきまとわれて、成功できなければ努力が足りなかったと思うしかなければ、自らを納得させるためにそう思っているにすぎず、単に失敗の原因を単純化しているだけだろうが、そんな結論に至らないようにするためには、努力し続けるしかないと思っても、努力も工夫を凝らさないと努力が実りやすくならないだろうし、そういう成り行きの中には言葉ではうまく言い表せないような何かがあり、その何かが人を様々な方面へと導いて行って、導かれていった先でその中の誰かが成功したり他の誰かが失敗したりもするのかも知れないが、そこにもその中の誰かがそうなるような成り行きがあり、そんな成り行きの中にも言葉ではうまく言い表せないような何かがあれば、その何かが何なのかといえば、それがある水準ではその人の運と言えるようなことにもなるのかも知れないが、運などではなくそんな成り行きの中で働く必然的な仕組みだと言えるような場合もあるだろうし、そこで何らかのシステムが作動していて、そのシステムがある人を成功に導いたり別の人を失敗に導いたりしながら、そこで動作している制度や装置の類いを維持していると言えるなら、そういう制度や装置を動かすには、そこへと集まってきて制度や装置の中で働く人材が欠かせないことになるだろうが、その中で活動する各人が成功したり失敗することが何を意味するのかといえば、そこで選別がおこなわれていて、それが人々を選別する制度であり装置でもあるわけだが、何のために選別しているのかといえば、そういった制度や装置やシステムを維持するために選別していると言えるだろうし、なぜそうしないと維持できないのかといえば、そうしないと制度や装置やシステムに人々が魅力を感じられないわけで、では人々はそこで何に魅力を感じているのかといえば、人々がその中で成功したり失敗したりする過程や結果に魅力を感じているのであり、そうなる過程や結果を求めて多くの人々がそこへと集まってくると事態を捉えておくのが妥当なところなのではないか。
4月2日「語るという行為」
何を語るにしても、語る対象が自身に関係することであれば、それについて語る理由となりそうだが、それがどんな関係であって、関係の度合いがどの程度であるかによっても、それが語る理由となるか否かが決まってきそうだが、特に何の理由もなく語る必要があるかというと、その必要もないのに語ることができるかもしれないし、なぜそんなことを語っているのかよくわからなくても、語っている場合もありそうで、自身ではそれがわからないが、何かに導かれながら語っているような気がするとすれば、その何かとは何なのかとかいえば、それがわからないのだから、何かに導かれながら語っているというのは嘘かも知れないが、理由がわかっているのに、その理由を語ってしまうと語る必要がなくなってしまう場合もあるかも知れず、そうではあれば理由を隠しながら語ることになるのかも知れないが、実際には何を語っているわけでもなく、誰かが語っているように文章が構成されているにすぎなければ、語っていること自体がフィクションとなってしまうわけだが、それでも普通は文章を記している誰かが語っていることになるだろうが、誰がそこで語っているとしても、何を語っているかがその文章の内容となり、そこに語っている内容が記されているはずだが、それ以前に何かに導かれているような気がすること自体が、何だかよくわからないことであり、理由も内容も特になくても何かしら語っている実態があるのかも知れず、本当に理由も内容もないのに何かを語っているとしたら、何かとは何でもない何かになってしまいそうで、そうなると何でもないことについて語っていることになるのかも知れないが、語るとは本質的に何でもないことであり、語るだけではどうしようもなく、語ることによって他の何らかの行動や行為をもたらさないと、何でもないことになってしまい、語るだけで終わってしまえば、語るという行為が不発に終わったことになるのかも知れないが、そんな語りでもかまわないような語りがあるとしても、その一方で自身や他人に何らかの行為や行動を呼びかけるような内容の語り方もあり、それが直接の行為や行動を促すように訴えかける語り方になるのだろうが、そういう訴えかけが不発や空振りに終わったりすれば、不可能なことや難しいことをやるように訴えかけているのかも知れないが、直接には行動することも行為することもできないから、訴えかけるより他にない場合もありそうで、そうなるとその人が直接には行動も行為もできない絶望的な状態を物語っていることになるだろうが、自分ができないから他人にやるように促すのも虫のいい話で、自身ができなければ他人もできないのではないかと思われたりするにしても、実際に何もできないから語ることしかできないような絶望的な状況におかれた人たちも世の中にはいるだろうし、そういう人たちの声がメディアを通じて伝えられると、そんな人たちを救わなければならないという思いが募ってきて、そういう成り行きから人権を尊重して抑圧され虐げられた人々に人道的な配慮をするように訴えかける行為も起こるわけだが、そんな訴えかけも訴えかけるだけで、そういった人たちを助けるための直接の行為や行動に結びつかなければ、ただの訴えかけにすぎないと思われても致し方のないところだが、そうやってそこから何も事態が進展しないように思われるかも知れないが、短期的にはそうかも知れないが、長期的に見れば何らかの進展が必ず起こっていて、それが何もできない絶望的な状況を他の地域へと拡散させながら進展して行って、実際にそうなっている地域で起こっていることが、政治的にも経済的にも抑圧されて虐げられた人々の声を通して語られているのであり、しかも抑圧して虐げている当事者たちと政治的にも経済的にもつながりも関係もある人々に向かって、そんな訴えかけがおこなわれているわけだから、どうすることもできないのはお互い様となってしまい、結果的に訴えかけが不発や空振りに終わってしまうことも多いわけだが、それでも抑圧したり虐げている当事者たちと敵対していれば、それが敵を攻撃する格好の口実になるから喜んでそんな声に耳を傾けるだろうが、それを敵への攻撃に利用しようとしている限りで、抑圧されたり虐げられている人々の味方を装っているのであり、本心からそれらの人々に同情して助けようとしているわけでもなく、その手の人たちが一方では自分たちと敵対している人々を抑圧しようとしたり虐げようとしているのであれば、同じ穴の狢でしかなく、日本ではその手の人たちのことをネトウヨと呼んで軽蔑しているわけだが、そういう人たちが世界中に拡散している状況というのが現状の世の中のややこしいところではあるわけで、しかも現状で抑圧されて虐げられた人々の勢力が大きくなってくると、下剋上のようなことが起こって、今度は逆に抑圧したり虐げる側に回るようなことも起こるだろうし、地域や時期の違いによって立場や境遇が入れ替わるようなことが起これば、本質的なところで誰もがどちらの立場や境遇にもなり得るわけで、そういう意味でもその手の訴えかけの無効性が明らかになってしまうわけだが、無効であっても訴えかけがおこなわれているのは事実であり、そういう訴えかけに同情して助けようとする試みもおこなわれている限りで、無効だとは思われないわけだが、ただ訴えかけが不発や空振りに終わっているように感じられるのであれば、何をどうすればそうならないようになるのかというと、そんな問い自体も無効なのかも知れず、答えの出ない問いを発してみても意味のないことであり、そう感じられるのであればそう感じているしかなく、そういう思いが報われることはないと思っておくしかないだろうし、実際に絶望的な状況を語っているわけだから、簡単にそんな絶望的な状況を変える手立てがないから絶望的な状況なのであり、語ったり訴えかける程度では絶望的な状況は揺るがないのであり、だから絶望的な状況として語られて、そんな状況をどうにかしてほしいと訴えかけられているわけだが、果たしてそれが永遠に続くエンドレスな状況なのかといえば、たぶんそうではなく、実際に場所や時期を変えれば、そんな状況にはなっていない場合もあるわけで、自然とそういった状況が一段落して終息する場合もあるのだろうが、少なくとも今はそうではなく、世界中でその種の煽り立てが活発化している時期なのかも知れないが、それらの何が問題なのかは意外と誰もがわかっているのかも知れないし、誰もがわかっていながらやめられない事情があるから、そういう状況が放置されているようにも見えるかも知れないが、実際に抵抗している人たちもいくらでもいるだろうし、そういう抵抗運動の類いが無視されて目立たないようになっているとしても、誰もがその種の抵抗運動に直面して苛立たしい思いを抱いている現状もあり、特に政治的あるいは経済的な実権を握っている勢力などがそういう苛立ちを隠さないだろうし、実際に苛立っているのが目に見えるようなら、その種の訴えかけが功を奏している証拠となるのではないか。
4月1日「無難なやり方」
人は自らの理解を超えるようなわけがわからない物事の成り行きに直面しても、一応は自らが理解できる範囲内でそこで何がどうなっているのかを把握しようとするだろうが、意識が把握したつもりになっている内容が実際にそこで何かがどうにかなっていることとの間でずれや隔たりが生じていると、それが思い違いや勘違いの原因になるはずだが、意図的に他の誰かの思惑や策略によって、勘違いな認識や解釈へと誘導されてしまうのではなくても、自らに都合の良いように事態を把握してしまうこともあり、しかも結果的にはそれでかまわなければ、その程度の事態でしかなかったことになるだろうが、そうなると思い違いや勘違いにもそれなりに効用があることになるのかも知れず、勘違いや思い違いをしていたおかげで、逆に事態を正確に把握して、それに真正面から取り組んで、それが自らの力量不足が祟ってかえって状況を悪化させてしまうようなことはやらずに済めば、やぶ蛇や蛇足のようなことになるを避けられたわけだが、自分がやらなくても他の誰かが余計なことをやってしまい、結果的に事態をさらにこじれさせてしまうと、その余計なことをやってしまった人が他の誰かから非難されることにでもなれば、自分がそうならずに済んだことに、内心ほっとするかも知れないが、誰かがそんなことをやらないと事態がそこから進展しないのかも知れず、それを見て見ぬふりをしていた方が無難に思われるような場面に直面してしまうと、何か居心地の悪さや場合によっては罪悪感にもつきまとわれて、結局やむにやまれずやるには力量不足なことに手を出してしまい、事前に恐れていたように失敗して後悔することになるのかも知れないが、そういった試練を乗り越えないと、そこから先へ進めないのであれば、必然的に手に負えないようなことをやり続けなければならず、それをやらずに無難なところで妥協してしまうと、その程度の水準にとどまってしまい、それでもかまわないようなことになって、実際にそうなってしまうわけで、実際にそうなってしまうということが、その人の勘違いで思い違いな認識や解釈からそう思われて、自然にその程度の生息領域の中に囲い込まれてしまうような結果をもたらして、それが勘違いでも思い違いでもかまわないことになれば、そんな勘違いや思い違いから構成されたフィクションの中で安住する人になってしまうわけだが、それが勘違いや思い違いだと認識できれば、それでもいいとは思わないだろうが、普通にそんなふうには思わないわけで、むしろそんな状態にとどまっていては自身が駄目になると思ってしまうから、高望みして手に負えないようなことをやって失敗してしてしまうわけだが、ではその一方で勘違いや思い違いから構成されたフィクションとは何なのかといえば、分相応な自分であり、自分はこの程度の人間だという思い込みが勘違いや思い違いであれば、では本当の自分とは何かといえば、分不相応で手に負えないようなことをやってしまう自分であり、どちらにしても居心地が悪いような心理状態を招いてしまうかも知れないが、どちらでもあってもどちらでもないような自分でありたいのかも知れないが、それが無い物ねだりでもあり、どちらかになるしかないような事態に直面して思い悩むことになってしまうかも知れず、それが事態を正確に把握できていないことの証拠であれば、すでにそうなっている時点で自らの理解を超えるような事態に直面していることになるわけだが、そんなどちらであっても困るような事態というのが、普通に大抵の人が日々直面している事態かも知れないが、実際に直面しているのはどちらでもないような事態なのかというと、結果次第でどちらにもなるような事態なのかも知れず、どちらになってもかまわないというわけでもないが、結果的にどちらかになってしまうかも知れないし、どちらにもならないかも知れないが、それはそうなった結果からそう思うことでもあり、そうなってみないことには何とも言えないのかも知れないが、何とでも言えるような事態も起こるかも知れないし、むしろ何とでも言えてしまう事態になれば、そんな事態を自らの都合の良いように把握したり認識したり解釈していることになるのだろうが、そう把握したり認識したり解釈するのが無難なやり方になるとしても、そんなふうに把握も認識も解釈もできないような事態に直面していて、それがその場で起こっている真の姿であれば、人が把握できるような真の姿などあり得ないことになるだろうし、そうであればその場で起こっている事態を自らに都合の良いように把握して認識して解釈しておくのが、たとえそれが勘違いや思い違いであるとしても無難なやり方になるのだろうが、そんなふうに事態を把握して認識して解釈することによってその場を乗り切ることができれば、その場ではうまく立ち回れたことにもなるだろうし、その場で起こっている事態にうまく対処して対応したことにもなるのだろうが、その人がうまく乗り切ることができたとしても、そのとばっちりを他の誰かが受けたかも知れないし、他の誰かの犠牲によってその人が救われたことになれば、その人の対処や対応が誰にとってもうまくいったことにはならないわけだが、そんなその人にとってはうまくいったことであっても他の人にとってはうまくいかないことであれば、その人にとっての勘違いや思い違いは、その場で自らがうまく事態に対処して対応できたと思ってしまうことになるだろうが、その人がそう思うしかないような成り行きであるなら、それが勘違いとも思い違いとも思われないし、そう思うしかなければその人にとっては勘違いでも思い違いでもないわけで、それによって他の人がどうなろうと、そんなことなど知ったことではなく、実際に知り得ないような状況であれば、知るにも至らないわけで、そうやってその人の意識の中ではそれなりの成功体験が形作られて、自らの実績として記憶に残ったり、そこから金銭的な利益などももたらされるなら、数値としても銀行の口座などに一時的に残るのだろうが、そういうことの積み重ねによってその人の意識が形成されるのだから、意識そのものがそれなりの勘違いや思い違いからも構成されていて、そんな勘違いや思い違いに基づいて物事を判断していたりもして、それが自らが理解できる範囲内で捉えている物事であろうと、何かずれた把握となっているケースもあって、それが他人が把握していることと比較する機会があれば、そこで自らの至らなさや愚かさなどが露見して、その場でうまくやっていると思っていた幻想が崩壊するかも知れないし、それが自らの認識を改める良い機会になることもあるだろうが、逆に自分と同じような物事の把握や認識や解釈を知って勇気づけられて、ますます勘違いや思い違いにも拍車がかかってしまうことにもなるかも知れず、そうなるのもその場の状況次第な面もあるとしても、少なくとも自らに都合の良いようにその場の事態を把握していることは理解しておくべきかも知れない。
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