彼の声141

2020年

11月30日「間違いの素」

 何かしら間違えたと思うことは誰にでもあるどころか、過ちや誤りのない状態など保てるわけもなく、間違えたことを絶えず反省しながらも、さらに間違えてしまうわけで、結局はそんな自分や他人の間違いを利用することによって、その隙を突いてかろうじて利益にありつけるような世の中になっているのかも知れず、誰かが間違えることが利益を得るには必要不可欠な条件かも知れないし、誰もが他人の間違いを喜んでこれ見よがしに指摘する一方で、自身の間違いは頑なに認めようとしないのもよくありがちな態度だろうし、それこそが間違った態度だとしても、そういう態度でいることが人として普通の在り方であり、それでは駄目だと指摘したい人もいくらでもいる一方で、そうではないような人としての在り方を模索したいのでもなければ、それが取り立てて何か不都合をもたらしているわけでもなく、そういう態度になってしまう成り行きがあり、それが間違った態度だと思われる一方で、それ以前に何かしら間違ってしまうからそういう態度になってしまい、特にそれ以外の態度になるメリットもなければ、そういう態度を頑なに貫き通していてもかまわないような立場もあり得るのかも知れず、それで困らないならそうなったままでいても特に問題はないのだろうが、自らの間違いを謙虚に認めたいような成り行きにもたまにはなるとしても、たとえそうなっても何のメリットも感じられなければ、そんな態度はさっさとやめて、元通りの他人の間違いはこれ見よがしに指摘するが、自らの間違いを認めることは頑なに拒否するような態度に戻ってしまうだろうし、そうなってしまうような成り行きには誰も逆らえないから、それが人としてよくありがちな態度になってしまうのだろうが、そんな成り行きから外れたいともそうなる度に思うかも知れず、絶えず誤りや過ちを犯してしまうにしても、それを反省せずにはいられなくなって、同じ間違いを二度と犯さないように心がけるものの、今度は別の方面で間違ってしまい、それに気をとられているうちに、気がつけば以前と同じような間違いも繰り返してしまっていて、どうやっても間違うしかない成り行きにとらわれて、それに居直って、いくら間違えても動じないようになってしまえば、平気で間違え続けられるようになれるかというと、それが間違ったことだとは思わなくなってしまうのかも知れず、それを他人からとやかく指摘されるようだと、そんなことをいちいち指摘してくる他人の方が間違っていると思えば、それだけ自己正当化の度合いが高まるのだが、それで済むかというと、それで済むような成り行きへと持って行きたいわけだが、誰もがそんな成り行きへと持って行けるわけでもなく、それなりに権力や権限を持っていないとならないわけで、間違いを指摘してくる他人を無視したり、場合によってはそんな他人を攻撃して黙らせることができれば、そういうことができる社会的な権力や権限をその人が持っていることになるのだろうが、そんな人を支える集団や勢力が存在していることにもなるだろうし、そういう集団や勢力に入れば守ってもらえるから、多くの人たちが寄り集まってそういう集団や勢力を形成するのだが、守ってもらえるといっても集団内で指導的な立場にある幹部や代表者などに従う限りで守ってもらえるどころか、逆にそうした幹部や代表者などを守るために時には犠牲にならなければならなかったり、彼らに奉仕する見返りとして守ってもらえることもあるだろうが、どちらかといえば集団内で下位の立場にある者は、守ってもらえるよりは犠牲となって奉仕する度合いの方が高いのかも知れず、集団内でより優位な立場になるには出世競争や内部抗争に勝ち抜いて幹部や代表者にならなければならず、そういう意味では何の見返りもなく守ってもらえるような仕組みにはなっていないわけで、一方的に有利な条件の勧誘文句に引っかかって何らかの集団や勢力に入ったとしても、その先に待っているのはよくありがちな身分や地位の上下関係を伴った権力関係でしかないが、どんな集団や勢力でもそれなりの規模で構成されていれば、それなりの居心地の良さと幻想を抱けるような環境が用意されていて、どこからか利益を奪ってきてそういう環境が整えられるわけだろうが、程度の差こそあれ大なり小なりネズミ講的な仕組みとなっている集団も多いだろうし、どういう仕組みになるにしてもうまい話には裏があるわけで、うまい話に騙される人が絶えないからうまい話にも存在理由があり、うまい話を吹聴する輩には注意しなければならないと思っても、引っかかる人が出てこないとうまい話にはならないわけだから、そこでもそういった話に引っかかる犠牲者の存在が欠かせず、うまい話を吹聴することもそれに引っかかることも間違いには違いないわけだが、そうならないと世の中が動いてゆかないだろうし、世の中が動いて行くにはそれを動かしていく犠牲者の存在が欠かせないと言ってしまうと、誰も犠牲者にはなりたくないから、一応は誰もが甘い話には騙されないように身構えるのだろうが、それでもある一定の割合で騙されて犠牲者の役割を担ってしまう人が出てくるのだろうし、そんな犠牲者の屍を踏み越えながら試練をくぐり抜けて生き残った人たちの中から、それなりの利益を手にする者が出てくるわけだが、そういうたとえ話では多くの人たちが納得できないのかも知れず、もっと何か正しいことをやればうまくいくような話にしないと、誰もが普通にやっていることを正当化できないわけで、そういう成り行きに持って行くには、公的な法律だの制度だのを誰もが納得のいく形に整えて、それを守って活動すればうまくいくような成り行きにしたいわけだが、それが無い物ねだりのフィクションであり、どうやっても誰かがうまくいくには他の誰かの犠牲が不可欠のような成り行きになってしまうのだとしたら、そういうことに関しては何の幻想も抱けないわけだが、それでも何かうまい話があるように見せかけないと人がそこに寄ってこないわけで、たとえそれが詐欺であっても、そういった幻想への需要がある限りで、絶え間なく人を騙すようなうまい話が世間で流行ってしまい、それが間違いの素となってしまうのではないか。


11月29日「必要なもの」

 人に必要なものは様々にあるかも知れないが、何が必要だからといって、必要だと思うだけでは、本当に必要かどうかは何とも言えないところかも知れず、必要だと思っているだけであれば、そう思っているに過ぎないことでしかないだろうし、必要でないものまで必要だと思っていれば、それは思い違いになるのかも知れないが、思い違いであっても必要だと思い続けることはできるかも知れないし、いつまでも必要ないものを必要だと思い続けていても、そう思っている限りでどうということはないのかも知れず、そんな思いを抱いている人が世の中にいくらでもいるとしたら、それはそれでそんな思い違いが世の中に蔓延していることになるだろうが、それでもかまわないというか、そんな世の中になっているに過ぎないことであり、それで何がどうなっているわけでもないことにしておいても、特にそれが思い違いだとしても、そういうことでしかないだろうが、それが本当に必要な状況かといえば、人々がその種の思い違いにとらわれていることで何か利益になるのだとしたら、そこから利益を得ている人や勢力にとっては、それが必要な状況だといえるのだろうが、果たしてそれが思い違いなのかというと、それらの人や勢力に利益をもたらす必要があるからそうなっているとしたら、それらの人や勢力にとってはそれが必要な状況だといえるのだろうが、それらの人や勢力にとって必要な状況が他の人々にとっては必要でなければ、それが必要か否かが人によっても勢力によっても異なるということになるわけで、それが必要か否かも必要だと思い違いをしているか否かも、人によっても勢力によっても異なることになり、そんなふうにして世の中が成り立っているのなら、それはそれでどうということはないのだろうが、そのどうということはないと思っていることも、人や勢力によってはどうということがあるかも知れず、それが思い違いであるか否かも、人によっても勢力によっても異なるのかも知れないが、それが必要であったりなかったりすることが、その必要のあるなしでその人の立場や境遇などに違いが生じていることになるとすれば、結果的に人によって立場や境遇の異なる世の中が生じていることを、その必要のあるなしが明かしていることになるのだろうが、その必要があるからそれにこだわっている人がいるとしても、別の人もそれにこだわる必要があるのかというと、それも何とも言えないところだろうし、中には全ての人にとって必要なものもあるはずだが、それが何か特別なものではない可能性も高いだろうし、その人にとってだけ必要なものが特別のものである可能性の方が高そうに思われるが、誰にとっても必要だからそれを求めて止まないとしても、求めても得られる可能性が低いほど、それが特別のものであると思われることもあるのだろうが、求めて得られる人が少なければ、それ以外の大多数の人には得られないことになり、大多数の人にとっては得られなくても特に支障はきたさないものなら、多くの人が必要だと思うものであっても、実際にほんのわずかな人しかそれを得られないのであれば、必要だと思うものが得られなくてもかまわないことになり、必要だと思うのだから得られなくてもかまわないとは思わないだろうが、そんなふうにして多くの人たちに思い違いが生じていることになり、必要だと思っても実際に得られないものがあるとしても、実際に得られなくてもそれほど困っているようには見えない実態があれば、それが必要でないものを求めている証拠となるだろうし、多くの人がそうは思わなくてもそれが思い違いだと見なされてしまい、その人にとっては思い違いだとは思えないのに、他の人からすればそれが思い違いだと思えるようなことであり、そういうところで何が思い違いなのかに関しても人によってその人の立場や境遇によっても違いが出てくるのだろうが、それに関して何をどう思ってみても、それが思い違いだと思っても思わなくても、それ自体がどうということはなければ、そんなことも取り立てて問題視されるようなことでもなく、人によってはたわいないことだと片付けられてしまってもかまわないようなことになってしまい、中にはそれを重要視している人がいるとしても、その人にとっては確かにそうであっても、他の人にとってはそうでもないということになり、それがその人にとっては受け入れがたいとしても、実際にそうなっていればそういう状況になっていて、それがその人にはどうにもならない状況となって、どうあがいてもその人にとっては不利な状況だと思われるとしても、それが不利だと思われること自体が、他の人にとってはどうでもいいことであるとしたら、それもその人の思い違いである可能性があり、そういうところで何かがこんがらがっていて、解きほぐせない絡み合いを形成していて、それがその人を思い違いに導いているのかも知れず、それがその人にとっては必要のない思い違いであるから、その分その人を不利な状況にしているのかも知れないが、だからといってその人がそんな思い違いによって割を食っていると見なしている人が、その人の思い違いを正すことはできないのかも知れず、いくら他人の誤りを指摘しても、当人が聞く耳を持たない場合も多く、聞く耳を持たないからいつまで経っても思い違いにこだわり続けて、それが思い違いだとは認めずに頑な態度を保とうとするのかも知れず、しかもそこからその人に固有のアイデンティティーが生じている場合もあるだろうし、そんな凝り固まり方をする人が世の中に多くいれば、それを招いている何らかの思想や思考が実際に世の中で流行っているのかも知れず、そんな流行が続いているうちはそれに引き寄せられて凝り固まってしまう人が後を絶たず、他の多くの人もそれに感染して同じような凝り固まり方をしていれば、そういう傾向の世の中になっているのだろうが、実際にそうなれば多くの人がそうなることが必要だと思うかも知れず、そうやって多くの人にとって必要な思い違いが生じてくるのかも知れない。


11月28日「世界の不条理」

 この世界が矛盾や不条理に満ちている面を強調したければ、その材料には事欠かないだろうが、この世界の不条理から目を背けるにはどうすればいいか、とは誰も思わないだろうし、誰がそう問いかけているのでもないだろうが、誰もが意識して何から目を背けているとも思っていないだろうし、そんなことは意識しなくても目を背けているのかも知れず、そんなことはわざわざ意識するまでもなく、誰もが承知していて、それを承知していることさえ忘れているほどに承知しているのかも知れず、だからこの世界が矛盾や不条理に満ちているわけでもないが、なぜと問いかける必要もないほどに当たり前のような状態でそうなっているのであれば、誰もが目を背けていることが、別に非難されるようなことではなく、そうなっていることが問題視されているわけでもなく、それについて語られるわけでもなく、その代わりというわけでもないが、それとは別の方面からそれとは違う表現を伴いながら何かが語られているのかも知れず、それが何なのかというと、それ以外に様々なことが語られているといえばとりとめがなくなってしまうが、そういうことも含めて様々なことが語られていて、特にそこで矛盾や不条理などの否定的な面について強調する必要のないことが語られていれば、それで済んでしまうようなことでしかないのだろうが、果たしてそれでいいのかといえば、そんなことも取り立てて問題視されることでもないだろうし、それほどまでに世界の不条理な面が無視されていることも自覚できないのだが、何が不条理なのかといえば特に思いつくようなこともなく、それを指摘するような成り行きにもならないが、たぶんそうなって当たり前のように思われることの中に、よく考えてみれば不条理な面が見つかるのかも知れず、それについて深く考えてみないとわからないから、普段は気づきにくいことなのかも知れず、わざわざ気づくまでもないことであり、いちいちそれに気づいていたらきりがなく、不条理にばかり気をとられていたら何もできなくなってしまうほど、この世界が不条理に満ちているわけでもないのだろうが、重箱の隅をつつくようにそれを指摘し出すときりがなくなってしまうのかも知れず、そんなことは無視していた方が気楽になれるだろうが、無視するまでもなく無意識に無視していて、それでもかまわないようなことであるから、無視すること自体に罪悪感も嫌悪感も覚えないのかも知れず、その代わりに道理に適っているように思われるもっともらしいことは好意的に意識できて、そうなっているだけでも偏見にとらわれていることになるわけでもないだろうが、偏見というよりは通常の感覚にとらわれていることになるのかも知れず、それが普通の感覚なのだから、そこから世界の不条理を意識するように仕向けられてしまうと、逆に通常の感覚からすればそれこそが偏見にとらわれているように思われてしまい、不条理を意識すること自体が異常な感覚にとらわれていることの証しとなってしまうのかも知れず、実際に偏見にとらわれている人は不条理を体現しているわけで、それとこれとは違うだろうが、この世界の不条理を意識することと、何かしらそれとわかる偏見にとらわれているように見えてしまうことが混同されている可能性もあるわけで、どちらもが常識にとらわれていることからはかけ離れていて、常識にとらわれている人から見れば同じことなのかも知れず、そういう意味では不条理は常識にとらわれていると自覚できないのかも知れないが、不条理なことがまかり通っている世の中に暮らしているわけだから、そんな世界の在り方を当然視している限りで、不条理を意識できなくて当然なのかも知れないし、逆に世界の不条理を意識してしまうと、世の中の常識の方がおかしいのではないかと思ってしまい、そんな常識にとらわれていることこそが不条理をもたらしているとも思われて、そこから世の中の常識を変えなければならないという使命感を抱いて、例えば反体制的な政治活動に身を投じる成り行きになってしまうと、常識の範囲内でうまく立ち回っている人たちから敵視されて、いわれのない誹謗中傷などの標的となってしまうのかも知れないが、それもその人が不条理を体現していることになるだろうし、そういう意味で常識に抗って世界が矛盾や不条理に満ちていることを強調することが、その不条理を直接体現することにつながって、また不条理に直面してしまうと、否応なくそこから目を背けられなくなってしまうのかも知れないが、ではこの世界の不条理から目を背けるにはどうすればいいか、という問いに対する答えとして、この世界の常識にとらわれていることが、そのまま不条理から目を背けていることになるのかというと、そうとも言い切れない面もあるのかも知れず、例えば常識の範囲内で不条理を不条理として自覚するように心がければ、そんなことができればの話だが、不条理を何か特別なものではなく、異常事態とは違う日常のそこかしこに転がっているありふれた何かとして不条理を捉えておけば、それを利用してできることもあるのかも知れないし、そうやって不条理を利用して何かやろうと心がければ、それも常識の範囲内でおこなえることの一部とすることができて、そんなふうにして不条理を飼い慣らしながら戯れるような行為につながれば、次第に不条理が不条理ではなくなってくるのかも知れないが、そうはいっても具体的に何をやればいいのかといえば、不条理に心当たりがなければ皆目見当がつかないが、不条理とは逆の道理をわきまえる行為に疑念を抱くように心がければ、自ずからそれ以外の行為として不条理があぶり出されてきて、普通にそれがおこなわれていることを当然視するのではなく、それが普通とは見えないように何か工夫を凝らせば、それを当然視することに疑問が生じてくるのかも知れず、それを意識するというか勘を働かせて妙なアクセントを加えると滑稽な動作にもなり、そういうのはお笑い芸人がよくやる手法かも知れないが、何か違和感を伴うようなことであっても、常識の範囲内でおこなってしまえば文句は出ないものの、それがおかしな動作であることが周囲にも伝わって、そういうことを当たり前のようにやることが憚られるような成り行きをもたらせるのかも知れないが、そういう微妙な動作を積み重ねることによって、常識としておこなわれている不条理な行為をあぶり出すことができるのかも知れない。


11月27日「運不運と努力」

 その場限りの気まぐれな思いつきで間に合わせの目的を定めてみても、それへの執着が薄いと、ちょっとしたきっかけや行き違いから逸れてしまい、目的とは違う別の何かに行き着いて、そうなったからといって自身の立場や境遇がどうなるわけでもなくても、少しは困惑ぐらいはするだろうが、本来の目的がそれ以前に特にあったわけでもなければ、そこから何か深刻な事態に至るわけでもなく、相変わらずの何でもない状態に留まっているだけであれば、そんな水準ではそれ以上の何がもたらされるわけでもないのだろうが、それとは別の水準では、それをきっかけとして何かしら別の思いつきが生じるかも知れないし、そんな思いつきに行動が伴えば、何かしらもたらされることもあるのかも知れず、それが幸運をもたらすのか、あるいは不運を引き寄せてしまうのか、そんなことが事前にわかるわけでもないだろうが、いやな感じがするとすでにその兆候を察知している可能性もあり、不安を感じながら思わず身構えてしまうのかも知れないが、それが運不運の問題ではなく、当人の努力次第でどうにかなることであれば、その場の状況に応じて何かしら努力しようとするだろうが、それも取り組んでいることや直面している事態の程度や傾向や内容にもよるだろうし、それが運不運や努力次第でもどうにもならないようなことであれば、何かそれらとは違う気配を感じ取っているのかも知れず、そもそもその場の成り行きの中で自身が果たしている役割というのが、そこにいてもいなくても何がどうなるわけでもないと思われるようなことなら、役割も何もあってないようなものなのかも知れず、誰もがそうだとは思えないが、誰がそうであってもかまわないような状況だと、それが誰であってもなくてもかまわないのかも知れず、そうなっていることが幸運だとも不運だとも思えないし、また努力次第でどうにかなるようなことでもなく、その場の成り行きのとりとめのなさが、自身を自暴自棄に導くような深刻さとも無縁な状態にしていて、自身にとっては何でもない状況がもたらされているとは思えないとしても、それ以上でも以下でもない状態がもたらされていれば、そんな状態の中で何がどうなっているのでもないだろうが、それでも何かがどうにかなっているとすれば、それなりの違和感が伴うだろうし、そんな違和感がどこから生じているのかといえば、何でもないような現状からもたらされているのかも知れず、何かそれが矛盾しているようでいて、誰も現状が何でもないはずがないと思いたいのかも知れないが、そう思いたいのが何でもないような自身であれば、自身の存在が何でもない現状をもたらしているのかも知れないし、それを何でもないことだと捉えるのがそもそもの誤りなら、そこに実質を伴った行為が伴っているはずで、例えばそこに金銭的なやりとりが伴っていれば、そこで実質的な利害が絡んでいるように思われるのかも知れないが、何でもないことであっても金銭的なやりとりを介しておこなわれているかも知れないし、それが何でもないことではない証拠として、実質的な利害を設定するような成り行きになるとすれば、それこそが幻想に実質が伴っているように見せかけている証拠かも知れず、もちろんそんなことまで意識せずに通常の取引の延長上でそういうことがおこなわれているのだろうが、そういうこととはどういうことかといえば、具体的な物や情報やサービスの売買や貸借であり、それ以外ではあり得ないわけだが、そこに実質が伴っているように思い込みたいというか、そんなことまで意識せずに当たり前の行為としてそんなことがおこなわれていて、取り立ててそれがどうということではないわけだが、そこにどんな実質がもたらされているのかといえば、取引に伴って何かが移動して、それが何かと何かの交換だと受け取られているのだろうが、本当に交換されているのかといえば、交換したことにしておかないと取引そのものの実質が伴わないのであり、単なる贈与では困るのだろうが、それで何が困るのかといえば、無から有を生じさせるわけにはいかないのだろうし、一方的に与えるようなことがおこなわれてしまうと、取引ではなくなってしまい、等価交換の体をなさなくなり、物事の価値がなくなって、経済活動の実質が伴わなくなってしまうのだろうが、他に何もなくてもそこに価値があれば、誰かがその価値を所有している実態がもたらされて、それを他の誰かが所有している価値と交換する取引が成り立ち、結果的に価値を担う物や情報やサービスを交換する経済がそこに構成されるわけだが、そこに何らかの価値を所有している人や法人などの団体を存在させるには、価値を交換する取引がおこなわれている実態が必要となり、何の見返りもなしにただで物事を与えるような行為はできるだけ目立たせないようにする必要もあるだろうし、また価値を得るにはそれ相応の努力が必要とされて、運不運などの偶然の巡り合わせによって得られるようなことはなるべく考慮に入れないようにして、何かそれを得るにふさわしい行為と引き換えにしか得られないとすれば、それが労働と呼ばれる行為になるのだろうが、そこから働かざる者食うべからずという格言が生じたわけでもないだろうが、そこにその場の運不運や偶然の巡り合わせをできるだけ排除して、その代わりに必然的な努力をもたらしたいのだろうし、そこで何かをおこなった結果が報われて、納得できるような対価を得られる制度を確立しようとする一方で、努力をおこなう機会の公平さを実現すると共に、努力に応じた価値が得られるようにしたいのだろうし、より多く努力した者がより多くの価値を得られるような制度にしないと、誰も必要以上の価値を求めようとしなくなってしまい、それに伴って経済的な取引も活発化しなくなってしまうから、そこで価値を求める競争を活発化させるための工夫が求められるわけだろうが、誰にとっても平等な立場での競争を実現しても、競争の結果としてより多くの価値を得られた者と少ない価値しか得られなかった者との間で不平等が生じてしまうから、根本的なところで生じる矛盾をどうやっても解消できないわけで、そうした制度を維持する仕組み自体に矛盾や欺瞞が伴っていることを理解しておく必要があり、それと共に運不運や偶然の巡り合わせなどの不合理で不条理な成り行きを温存させておく必要も出てくるわけだが、目的に応じておこなう努力ばかりを推奨してしまうと、その過程や結果において生じてしまう矛盾や欺瞞から目を背けて、努力がうまくいっていない面を隠しきれなくなって、結果的に嘘がばれてしまうだろうし、ばれないように注意するというよりは、努力にはある程度の嘘や矛盾や欺瞞が含まれていることも認める必要があるのかも知れない。


11月26日「やっていることの妥当性」

 現状から導き出される妥当な方針というのが、妥当に思われるだけに自然な成り行きに沿ったことのように思われるだろうが、それが現状を反映して導き出されることであるとすれば、現状の中で有効に機能する可能性がある反面、現状を成り立たせる上で不都合なことに対しては不利に働く可能性もあり、不利な状況を変えるには現状を変えなければならないとなると、現状の中で妥当に思われることが必ずしも良いことではない可能性もあるわけだが、ではどのような方針で臨めばいいかとなると、取り立てて方針を決める必要がない場合もあり得るだろうが、単純に利益を求めることが目的となるようなことではないのかも知れず、実際に利益を求めて活動しているとしても、それ以外のことも求めている可能性があり、それが単純な利益の獲得とは相容れないことであるとすれば、何かややこしい事態に陥っているのかも知れず、それに関して何か矛盾したことをやっていれば、結果的にうまくいかないことをやっていて、それでかまわないはずがないのに、否応なくそうなってしまう宿命にあり、そんな宿命を受け入れざるを得ないとしても、それに抗いながらもそうなってしまうという面倒な事態に陥ってしまい、そういうところはどうしようもないのだろうが、うまい解決策がないようなことをやっていて、それに関しては妥当な方針というのが見当たらず、妥当ではないことをやっている実態があり、現状では妥当なことができなければ、そんな現状は変えるしかないのだが、変えようとして変えられるような現状ではないのも当然であり、そこに現状の困難さがあるとしても、困難なことに挑戦するのが妥当なようにも思われてしまうと、困難なことに挑戦して失敗するのも妥当な成り行きであり、それが現状を反映しておこなわれることになって、うまくいかないことをやっていること自体が、現状で妥当なことをやっていることの証しとなるような逆説が成り立ち、やっていることがうまくいかずに失敗に終わってしまうことが、現状で妥当なことをやっていることになると、それが自然な成り行きに沿ってやっていることにもなって、そこから必ずしもやっていることがうまくいくとは限らないということが、現状の中で妥当なことをやった結果からわかることであり、現状で妥当に思われることをやってもうまく行く場合と行かない場合があり、たとえやっていることがうまくいかないからといって、それが間違っているわけでも妥当でないわけでもなく、その場の自然な成り行きに従えば、うまく行く場合と行かない場合の両方の結果がもたらされても何の不思議もなく、どちらか一方の結果だけがもたらされるわけではないということになれば、やっていることの妥当性がうまくいったりいかなかったりする結果からわかるわけではなく、うまくいかなくても妥当なことをやっている可能性がある一方で、うまくいっても妥当ではないことをやっている可能性もあるだろうし、妥当だと思われても思われなくてもうまくいっている面といっていない面の両面があれば、では妥当であるかないかをどう判断すればいいのかということになってしまうが、それを妥当だと判断すること自体が、その場の状況に適合しているように思われるからだろうが、結果的に正しいように思われたり間違っているように思われても、その場の判断としては妥当だと判断されたわけで、その場では妥当だと判断されたことをやって、結果的にうまくいかなければ判断が間違っていたことになるとしても、妥当なことをやったにもかかわらずうまくいかなかったということであり、その場の妥当性とはそういうことだと見なしておけばいいのだろうが、少なくとも妥当に思われることをやればそれなりにうまく行く可能性が高いように思われるが、逆に妥当だとは思われないような無謀なことをやってうまくいけば、奇跡的にうまくいったように思われるかも知れず、それもそういうことだと見なしておけばいいようなことでしかないが、それ以上の確実性を妥当か否かの判断に託しても裏切られるだけだろうし、確実性ばかりを追求しても大したことはできないのかも知れず、不確実なことをやって一か八かの賭けに出ないとならない事態に追い込まれたら、その時点で妥当か否かの判断そのものが成り立たなくなってしまうだろうし、そういう意味では何事においても妥当な判断が通用するわけではなく、妥当な判断ができる場合とできない場合があるのだろうが、そうであるならその場の状況や情勢に応じた判断というのも、妥当な判断とはならない場合もあり得るわけで、妥当な判断ができない場合にはどうすればいいかと問われても、その場で判断するしかないことになってしまうだろうが、とりあえず判断するしかなければ、その判断が正しかろうと間違っていようと、判断して何かをおこなった結果を受け止めるしかなく、それが受け入れがたい結果になっても、そう判断させるような何かに作用や影響を及ぼされて判断してしまったのだろうが、結果が思わしくなければその妥当性に疑念を抱くだろうし、そう判断することが妥当だと思わせるような何かの存在を突き止めようとするのかも知れず、またそこから作用や影響を及ぼされていることに抵抗感を覚えるかも知れないが、それを特定できなければ漠然とそう思っているだけで済んでしまうかも知れず、ただ単に世の中の状況や情勢から影響を受けて、そう判断することが妥当に思われる程度で済むなら大したことにはならないのだろうが、そうではなく何か特定の勢力や機関などがそう思わせるように仕向けていると考えてしまうと、そこから大げさな妄想が膨らんでしまうのかも知れないが、意外とそれが自らもその中に含まれるような勢力となっていたりもして、それを勢力と呼ぶのも少しずれている可能性が高いのだろうが、自らが覚える抵抗感というが自らに起因していることもあり得ない話ではなく、敵視している勢力に自らも含まれているからそれが妥当に思われるような判断をしてしまう可能性が生じるのではないか。


11月25日「物事の普遍性」

 人は様々な物事に依存しながら生きているが、人が依存できる物事が社会と呼ばれる領域を形成していて、人が関係する物事の総体が社会だとしても、人も物事に含まれていて、物事の関係の総体でもあるのだろうが、それらの関係の総体が社会だとしても、何かつかみどころのない総体でもあり、そこから何らかの法則や性質や傾向などが抽出できるものの、それが全ての法則や性質や傾向でもないだろうし、部分的にいえることでしかなく、絶えずそれ以外の何かがあるのかも知れないが、それが例外的な物事であるとしても、一方で何らかの法則や性質や傾向などに当てはまる典型的な物事もあるだろうし、そうした典型的な物事がそれについて述べる言説の中で利用されるわけだが、言説の内容の確かさがそこで述べられる典型的な物事から感じられるとしても、それ以外の物事からは感じられない場合もありそうだが、そういった確かさが感じられることが言説内容のもっともらしさにも結びつくのだろうが、そこで述べられている典型例のような物事に果たして普遍性があるかとなると、別に普遍性を求めているわけでもなければ、そんなことは問題とはならないわけだが、求めているのが普遍的な法則や性質や傾向となると、なぜそんなものを求めるのか疑問を感じるわけでもなく、何にでも当てはまるような普遍性というのが、果たして何の役に立つのかも疑問を抱くわけでもないのだろうが、自然にそんなものを求めているようにも思われてしまい、別にそれが何かの罠にかかっていることの証しというわけでもないのだが、それとは逆にそこだけで通用する特殊な事情が相互に関係し合って社会が構成されている面もあるとすれば、物事の普遍性がその場で有効に機能しているわけでもないのだろうが、機能するとかしないとかとは別に、単に普遍性があるとかないとかいえる程度のことであれば、それとは違ってその場だけで条件付けられた特殊な機能というのが、そんな機能を有する物事の重要性を物語っていたりもするわけだろうが、ではなぜ物事の普遍性を強調しなければならないのかといえば、それがその場だけではなく他の様々なところで通用する可能性があるからかも知れないが、通用することと有効に機能することとは違うだろうし、中には通用しても有効に機能しないこともありそうだが、それ以前に特殊なこととの対比で、一般的なこともあるだろうし、一般性と普遍性の違いというのもよくわからないところかも知れず、それが単なる言葉の使い分け程度のことであれば、あまり気にする必要もないことかも知れないが、物事には何らかの目的に特化した利用法と一般的な利用法というのがあると共に、その物事だけではなく他の物事にも通じる普遍的な性質や傾向があると共に、その仕組みや動作には普遍的な法則が当てはまる場合もあり、そうやって様々な法則や性質や傾向が入り混じりながらその物事が作用や影響を及ぼしているわけだろうが、そんなことは理解していなくても、それに依存しながら生きている人もいる一方で、それをうまく活用するにはそれへの理解が欠かせない場合もあるだろうし、そういうところが一筋縄ではいかないところなのだろうが、それを無視しているわけでもないのに、それについて何かを語るとなると、そんなことの全てを語るわけでもなく、その場の都合に応じて語る内容が語る対象の全てを語っているわけでもないのは確かなところであり、語らずに済ませている面があるとすれば、それが単に語っていないだけの場合もあるにしても、それに関して都合の悪いことは意識して語ろうとしない場合もあるだろうし、それを自覚していない場合もあるだろうから、一概に都合の悪いことは語らない人を責めるわけにはいかないものの、その人にとっては都合の悪いことが他の人が知りたいことになるわけで、それがその人への批判材料にもなるわけだが、その人が不利になるようなことは語らないのは当然だろうが、それを暴露してその人が不利な状況をもたらしたいとなると、そういうことを画策する人は都合の悪いことを語らない人との間で敵対関係にあるわけだろうが、そういう関係がその場だけで通用する特殊な事情に基づいていれば、その場の有利不利がその場だけでしか有効ではないことになるわけだが、そういったその場だけで通用する事情に関して何か言えることがある一方で、そこから類推してより一般的に言えるようなことも出てきて、そしてその一般的に言えることを利用して、さらにその場の事情に合わせて、何かもっともらしいことを言おうとして、そんなふうにして言えることを循環させながら、言っていることに説得力を持たせて、他の人たちから言っていることに関して信用を得ようとするわけで、そんな術を心得ている人にかかれば、生半可な人たちはすぐにそういう人の口車に乗せられて心身を操られてしまうのかも知れないが、そういった人心を操る言語術が通用する程度や範囲も、それを利用した実践の内容にもよるだろうが、それがその場の特殊事情に依存しているほどその範囲も狭まるだろうが、その場だけの効果は絶大になるかも知れないし、特殊事情に依存していないと普遍性を帯びる反面、その程度が薄まって、大したことでもない実践になってしまう可能性もあり、そういうことに関してはそうしたことの実践例から判断するしかないだろうが、巧みな言語術に操られて集団で何らかの行動に及ぶこと自体が危険な兆候でもあり、それ自体が特殊な行為に分類されて悲惨な失敗例として歴史に刻まれるような結果を招いてしまうことも多いのかも知れないが、そういうことが安易におこなわれるような状況が、それ以外の活動が行き詰まっているから、それが可能となるような事態となってくるのかも知れず、そうなってしまう成り行きにも何か普遍的な傾向があるのだろうが、大抵はそれだけでは実践に至らずに終わってしまい、それが実践に移されるには他の事情も絡んでこないとその条件を満たさないのかも知れないし、その条件というのがその場の時代状況を反映した人や物や情報の動きからもたらされて、何かそれが多くの人々が求めて止まない肯定的なイデオロギーとして世の中で機能することになるのかも知れない。


11月24日「効率的な管理」

 官僚的な組織がおこなうことに悪意がこもっているように感じられるのは、対象を支配したり管理する意図や思惑が想像されてしまうからだろうが、表向きに明かされる目的や意向の裏で邪悪な画策がおこなわれていると勘ぐってしまうと、それこそ典型的な陰謀論となって、よくありがちな被害妄想の虜となってしまうかも知れないが、それ以前にそうなって当たり前の成り行きを想定しなければならないだろうし、それが経済の領域で自然に起こる成り行きであり、資金の流れが利益を期待できるところへと集中する一方で、利益を得られる見込みの少ないところへは回ってこない成り行きとなるわけだが、そんな利益を求めようとする経済的な思惑と、対象を管理しようとする官僚的な思惑とがどう結びつくのかといえば、管理コストを削減しようとする試みに結びつき、対象の効率的な管理運営を目指そうとするのだろうが、無駄をなくして効率的なことをやろうとすることが、もっともらしくて正当かつ合理的なやり方に思われるのは当然のことであり、それが目的や目標としても充分に支持される理由となるにしても、それが官僚機構の利益となるように無駄を削減することになれば、官僚機構の管理対象となっているのが人であったりすると、その人が官僚機構が利益を得るには無駄な人である可能性も出てくるわけで、そうなればその人のために無駄なコストはかけられないことになるだろうし、その人が管理対象としてはふさわしくないと判断されれば、その人に対してそれ相応の措置を講じなければならなくなり、例えばそれが香港の民主活動家に対する措置となったり、あるいは反抗的なウイグル人やチベット人に対する措置となってしまうのだろうが、中国ではそういうあからさまな事例もある一方で、日本ではそれが生活保護申請にやってきた人に対する措置となったりもして、より程度が軽くても陰湿さが増してしまうのだろうが、そこで利益を求めるための功利的な手法が合理的なやり方だと思われているのかも知れず、功利性と合理性の違いがよくわからなくなっているのかも知れないが、何に対して功利的であったり合理的であるのかが対象の違いとなって表れて、官僚機構側と官僚機構にとっての管理対象や統治対象となっている人々との間で、利害が対立する面が出てきて、それが功利的な面では相容れないわけだが、合理的な面ではどうかとなると、何のために官僚機構が存在しているのかが、そこに関与してくる人や勢力の立場の違いによっても変わってくるとすれば、やはり合理的な面でも対立するところが生じてくるのかも知れないが、何が合理的なのかというとよくわからないところでもあるわけで、利害よりも優先されるべきところで物事の合理性が絡んでくれば、それが損得勘定抜きでやらなければならないことにもなってくるのだろうが、各人や各勢力の利益を優先させると理に適ったことができなくなるとすれば、合理的なやり方などあり得ないことになり、どうすれば合理的になるのかわからなくて当然となってしまうのかも知れないが、弱い立場の人を助けても利益にはならないのは明白で、功利的には弱肉強食の論理がまかり通ってしまうわけだが、それをひっくり返すことはできないだろうが、そういうところで非情なことはやらないのが、人であることの証しとなり、利害を無視した非効率で非合理なことをやってしまうわけで、それが合理的かどうかというよりは、功利性を追求する弱肉強食の論理に逆らってしまうことに合理的な理由など見当たらず、それによって他人が悲惨な目に遭っているのが我慢ができなくなってしまうのだろうが、その弱い立場の人が悲惨な目に遭っているのを放ってはおけない感情というのが、功利的な論理の外側から合理的に働く自然の作用となるわけだろうが、そうなって世の中が功利的で効率的になることが阻害されるとしても、バランスがとれているようにも感じられるだろうし、弱い立場の人でも生きていけるような余地ももたらされるのだろうが、それによって弱い立場がなくなるわけでもないし、依然として功利性を追求する試みが進められて、それに成功した人や勢力が利益を得ることになり、それ一辺倒な傾向を推し進めるわけだが、中にはそういうやり方がうまくいかなくて失敗してしまうところも出てくるわけで、そういう方面で無駄で非効率な面が残るとしても、そういう面をなくそうとする試みとそれがうまくいかない結果とがもたらされて、絶えず両面からのせめぎ合いが続けられるのかも知れないが、それが続いている間は無駄で非効率な面が維持されていて、それに依存しながら生きている人も存在する余地が生じて、そういうところで世の中の多様性も維持されるのだろうが、それによって定常状態がもたらされているわけではなく、絶えず何かと何かのせめぎ合いの中で状況が変動し続けるわけで、そういうところでは功利的な思惑から効率的な環境を造ろうとする思惑も絶えず働いているだろうし、実際にそういう試みをおこなっている人や団体による活動が続いている場合もあり、そういう試みを推進するような成り行きになっていれば、そこで非効率で無駄なことをやっている人たちは劣勢に立たされているわけだが、それらの人たちにとってはやっていることをやめさせられては困るわけだから、必死になって抵抗するわけで、そういう成り行きの中で起こっている対立や争いを中立な立場から合理的にどうすればいいか判断できるようなことにはならないのかも知れず、結局はそういう争いの中で劣勢に立たされている側の味方をしてしまうのが人としての人情のようにも感じられるだろうし、それが合理的な判断に基づいているかどうかはわからないところだが、苦しんでいる人たちを助けるように仕向けるのが、そこでまかり通っているもっともらしい論理の外側からもたらされる合理的な作用なのかも知れず、そうした論理の行き過ぎに歯止めをかけるために自然からもたらされる作用なのかも知れない。


11月23日「信仰の揺らぎ」

 それがその人の勝手な思い込みに過ぎないわけではなく、それを自覚できるような環境の中で、その人の役割分担がはっきりしてくると、それを安定的に機能させるべく、立場が自ずから固定されてくるような成り行きも生じてきて、さらにそういう定まった立場を積極的に守り維持しなければならないという意志も自ずから生じてくるのかも知れず、その場の状況に伴ってそんな成り行きに導かれてしまう場合もあるのだろうが、そこで何がその人を導いているのかと言えば、その場の成り行きから生じる意志が導いているように思われるかも知れないが、それが誰の意志になるかというと、そんな成り行きに導かれている自らの意志だと思いたいのだろうが、自らが自らの立場を守り維持しようとしているのが、自らの意志でそうしていると思いたいわけで、何をやるにも自らの意志で行為を遂行していると思っているわけでもないだろうが、そう思ってもかまわないような成り行きが生じると、そんな成り行きへと自らを導きたいと思うのかも知れず、それが自らの傲慢さの表れだとは思えなければ、そんな意志のどこに謙虚さが表れているのかといえば、周囲の状況と折り合いをつけながらも自らの意志を貫き通そうとしている配慮からかも知れないが、誰がそうしているのかといえば、やはり自らが積極的にそうしていると思いたいのだろうが、そう思っている限りで自らを取り巻く社会の存在を意識できるのかも知れず、普通はそんな漠然としたことではなく、実際に何らかの組織的な団体に所属していれば、否応なくそれを意識するのかも知れないが、実際にそうなったとしても、まだ拭いがたい疑念が残ってしまう場合もあるだろうし、それが何かによって操られているのではないかという疑念かも知れないが、自らが何によって操られているのかといえば、それが信じている何かだとすれば、実際に自らが何らかの主義主張を信じていれば話が早いだろうが、信じている何かに操られながら行動していることと、自らの意志に基づいて行動していることを、どう折り合いをつけるかとなると、自らの意志で何らかの主義主張を信じていると思うしかないだろうし、はっきりとはそう思わないにしても、行動の指針となる何らかの主義主張を自ら編み出したつもりになれれば、自らの意志に基づいて行動している実態を維持できるだろうが、それが自ら編み出したのではなく、外部からもたらされたものを信仰するようになったとなれば、そこで自尊心が傷つき揺らいでしまうわけでもないが、何の抵抗感もなくそういった信仰の類いを受け入れるはずもなく、何らかの紆余曲折を経て信仰するようになるのだろうが、激しい拒否反応に抗って信仰するようになると、それだけ強い絆で信仰と結ばれて、頑なにそれを信仰するようになってしまうとしても、それも信仰の内容にもよるだろうが、それがその人の思考や行動の何から何まで完全に支配するような信仰であれば、それだけ戒律の厳しい宗教の類いを信仰していることにもなるだろうが、それが組織的な教団の類いを伴った宗教になると、一般の信徒と指導者的な立場との間で戒律の厳しさにも格差がついている場合もあるだろうし、それは一般の社会でもある程度はいえることかも知れず、何かしら行動を律する規範や慣習などに縛られる度合いの強い立場とそうではない立場というのもあり、それが誰にでもわかるようにはっきりと示されているわけではないとしても、周りの多くの人たちから注目されるような立場になればなるほど、世間の目を気にするように仕向けられて、他から非難されるようなあくどいことは大っぴらにできないような成り行きになってしまうのかも知れないが、あくどいことをやらないとそういう立場にはなれないとなると、人目に隠れてあくどいことをやって、立場を手に入れるような矛盾した成り行きになってしまうのかも知れず、またそういう立場になればなるほど、そんな立場を利用してあくどいことをやるような誘惑も強くなってきて、結局あくどいことをやりながらもそれを隠しながらやるような成り行きになってしまうと、人目に隠れてやっていることと世間に向かって見せている姿との落差が甚だしくなり、ついには悪事が暴露されて破滅に追い込まれるような結果がもたらされるのかも知れないが、果たしてそれが自らの意志でやっていることだと言えるかとなると、普通はそう受け取られてしまうだろうが、その一方で社会の構造自体がそういった善と悪の二面性を併せ持つ両義的な人物を生み出すようにできている可能性もあり、また何らかの信仰を生み出すような主義主張を社会が受け入れられるようにするための仕組みが、団体として組織的な構造を伴って現れるような成り行きもあるわけで、そういう構造にとらわれてしまうと、その中で権力的な力関係と共に善と悪とを併せ持つような立場や役割分担も生じてきて、個人がそんな役回りを担わされて、そういうことをやるようなことになってしまうと、そんなことをやっている人物がそれを自らの意志に基づいてやっていることになるのか、あるいは組織的な役割分担からそういうことをやる役回りを担わされてやっていることなのかが、どちらとも言えるようなことになってしまって、そういう場合には理由や原因がどちらであってもかまわないのかも知れないが、そうなるとその人の自発的な意志というのもその程度の受け取られ方しかされなくなって、その人にそういうことをやる意志があろうとなかろうとそうなってしまう可能性があるともいえるだろうし、その人の意志に関係なくそういう立場になってしまえば自動的にそうなってしまうのであれば、中にはそうはならない人もいるとしても、そうなるかならないかはその人の意志の強さだとか良心や良識を持ち合わせているか否かだとか、そういうことはあまり問題とはならなくなってしまうのかも知れないが、人によってそういったことに関する信仰の揺らぎが生じていて、それがその場の偶然の巡り合わせによって生じてくると捉えておくのが無難なところかも知れないし、それによってその人の信仰に対する思い入れの強弱や激しさにも違いが生じてくるのかも知れないが、信仰への依存やのめり込みが激しく強い人ほど、それだけ善悪の二面や両義性が顕著に現れてくるのかも知れない。


11月22日「国家と市民社会」

 視線の移動が思考する対象を変えてその範囲も変えることに結びつく場合もありそうだが、物事の結果から判断するとなると、それを否定するなり肯定するなりして判断した範囲内では、それに対する自身の都合を考慮した印象が伴ってしまい、結果に至る途中の段階で考えていることが、結果を恣意的に評価した印象とは違っていても、結果の良し悪しを自身の都合に基づいて決めつけて安心してしまった後では、そこに至る途中の過程において考えていたことが無視されて、思考の対象となる物事への謙虚な姿勢を保てなくなってしまいそうだが、そうなる手前の段階に留まる必要があるわけでもないだろうし、その必要がないから急いで結果へ至ろうとしてしまうのだろうが、そうなってしまう途中で思考することに何の意味があるのかよくわからないところでもあり、いったいそこで何を思考の対象としているのかを捉え切れていないような気もするのだが、少なくとも考えているのはそれについてであり、それが何なのかを考えているつもりで、しかもそれが何なのかよくわかっていないのかも知れないが、その辺をどう語ればいいのかもよくわかっていないのかも知れず、それに関してはっきりしたことを語れないような気もしないではないが、そういうことの延長上で語っているのであり、国家と同等の存在として市民社会があるわけでもなく、どちらがどちらの前提として存在しているわけでもなく、どちらも語る側の都合に応じて持ち出されてくる虚構でしかあり得ないのかも知れないが、それらがあることを前提にして語ってしまうと、本当のことを語っていないことになってしまいそうだが、それらを考慮した結果として語られることが、話の辻褄が合うように論理的な整合性を考慮した内容にしたいのであれば、思考の連続性を打ち立てようとする都合に応じて、国家と市民社会とが強固に結びついて、どちらがどちらに含まれるとしても、何かそこにしっかりした構造的な関係も生じているようにも語られてしまうのかも知れないが、別にそれが思い違いでも錯覚でもなく、その通りの歴史的な経緯や成り行きも見出されて、社会の進化に伴って国家や市民社会が出現することになるのだろうが、現状を肯定したり否定したりするのに都合が良いような経過を伴いながらそういうことが物語られるとしても、それを本当の話として受け止めてもかまわないのかというと、本当か嘘かという判断そのものが意味のないことかも知れないし、そういうことが事実としてあることを前提としてそんな話があるわけだから、本当であることが当然のこととしてそういった話が語られるわけで、それを嘘だとか作り話だとか言うこと自体が、当然のことを当然のこととは思わない態度になっていて、それが本当であることを前提として成り立っている結果から考えるなら、意味のないあり得ない態度でしかないわけだが、そういった当たり前の前提に対して異議を唱えたい人や勢力が世の中には結構の数で存在しているのかも知れず、その表れとして顕在化してきたのがいわゆるトランプ旋風とか現象とか言われていたものかも知れないし、それらの側に属している人たちがそれをはっきりと自覚しているわけでも意識しているわけでもないのだろうが、それらの人たちが騒ぎ立てた結果として見えてくるものが、現状でそれを意識していなくても前提となっている国家と市民社会の強固な結びつき自体が嘘なのではないかという疑いであり、政府が統治しているつもりになっている国家自体の虚構性でもあり、市民社会が無政府状態でもやっていけるかも知れないという資本主義から生じる実態なのかも知れないが、愛国心に駆られて行動している人たちが実は無政府主義者であったとは当人たちも誰も思っていないはずだが、そこであらわとなっている実態が国家も市民社会も無視しているようにも見えてしまい、何か逆説的に真実を暴き立てるような行動に導かれて、それと自覚することなくそれらの虚構性を見せつけてしまったのだろうが、もちろん国家と市民社会の存在を当然視している人たちはそこから目を背けて、彼らが見せつけた虚構性の原因が彼らの行動の誤りに起因していると信じ込もうとしているわけで、どちらにとっても受け入れがたいことには目を背けて無視しているのだろうが、別にそれが態度として間違っているわけではなく、それどころかそう見ることが正しい見方であり、正しい視点から正しく状況を見るならそうなって当然のことなのだろうが、彼らにとっては間違った視点から穿った見方をするなら、どちらもが虚構の構造に思考がとらわれていて、物事の本質から目を背けているから、それ以上の状況の進展が望めないのかも知れず、ではそれ以上の進展というのがどのような進展なのかと言えば、彼らの求めているものが国家の中にも市民社会の中にもないということが明らかとなる事態への進展であり、そうなれば虚構の構造ではない実質的な真実の構造を構築しなければならなくなるのかと言えば、それは構築するようなものではなく、すでにそこに存在しているものであり、それが確固とした構造となっているとは限らず、例えば状況の変化に合わせて柔軟に変形し続ける流動体のような構造とはいえない捉えどころのない形態をなしていて、現状では思考の対象とはなりがたい何かであり、今のところはそれについて考えることができないから、その代わりに虚構の構造を前提として社会の枠組みを捉えておくことしかできないのかも知れないが、そこから世の中に対する誤解や錯覚も生じていて、それが副作用となって無用な対立や争いを生じさせていると考えることもできるだろうが、はっきりとはそう言い切れないような傾向もあるのかも知れず、それが無用であるどころか有用で必要な対立や争いである可能性もあるだろうし、それがないと現状の世の中が成り立たないと捉えるなら、それをなくせば現状の世の中とは違う世の中が実現するのかというと、それを簡単にはなくせないから現状の世の中が続いているともいえるわけで、そういうところからも現状の世の中を変えようとすることの困難さがうかがい知れるかも知れないが、無理に変えようとするのではなく自然と変わるのかも知れないし、それが実際に変わってみないことには何とも言えないが、変わったところでそれに気づかないのかも知れないし、すでに変わりかけているのに誰もそれに気づいてもいないのかも知れない。


11月21日「貨幣の機能」

 何か特定のものに何ものにも代えがたい価値があるわけでもなければ、価値とは希少価値とは違う価値かも知れないが、他の何とでも換えられると交換価値があることになるわけで、何と何を交換できるのかと言えば、商品と貨幣を交換するのが、普通に世の中でおこなわれていることだが、貨幣に何ものにも代えがたい価値があるとすれば、それは商品と交換できるからだろうが、貨幣と交換できるのは商品に限るとなると、貨幣と交換できるのが商品以外にはあり得ないのかといえば、貨幣と交換できるからそれが商品になるわけで、貨幣と交換できなければ商品とはいえないが、価値がなければ貨幣とは交換できないし、その場合の交換とは等価交換になるはずだが、同じ価値があるという前提で交換が成り立つのだが、どこまでいっても貨幣の価値とは交換価値のことであり、それが貨幣の使用価値なのかも知れないが、他の何かと交換することでしか手に入らないのが貨幣だとすれば、貨幣を入手するには貨幣と交換できるものを用意しなければならないわけだが、交換とは違って貸し借りするとなると、貸してくれる相手を信用させるには担保となるものが必要となり、担保となる物件と貨幣を交換できることが前提となって貨幣の貸し借りが成り立つわけで、何かと交換できる前提がないと貨幣を手に入れることはできないのだろうが、普通は貨幣と交換できるものを生産することになるわけで、それが商品の生産となるわけだが、そこからしか経済活動が始動しないということであれば、それがわかりやすい経済の理屈になるはずだが、中には貨幣そのものを生産すればいいという安直なことを考える人もいるわけだが、貨幣と交換できる商品を生産することと貨幣そのものを生産することとの間にどのような違いがあるかというと、貨幣をいくら生産しても貨幣と交換できる商品が増えるわけでもなければ、貨幣の価値が下がってインフレになるしかないわけだが、増えた貨幣を使って商品を生産すれば商品を増やすこともできると考えられるが、直接的には増えた貨幣を商品との交換に使えば経済が活性化すると考えるわけだろうが、何かそこで物事の順序が逆なようにも思われて、果たして貨幣の供給量の調整だけで政府が経済を制御できるのか疑わしく思われて、結局政府というのは人や企業の経済活動に寄生しているだけの存在なのではないかという疑惑もあるわけで、そうであれば商品との交換アイテムでしかない貨幣の供給量をいくら調整したところで、経済がどうなるわけでもなく、だからといって経済の全てを政府で管理運営するような社会主義的な試みがうまくいかないことも、20世紀の社会主義国の失敗によって明らかとなっているわけで、何かそういうところで一方的に政府主導でどうにかできるわけでもない世の中の構造があるのかも知れないが、現に各国の政府が存在しているのだから、通貨を発行する各国の中央銀行も存在しているし、全てを支配して管理するような機構にはなっていないものの、分権的にそれらの機構の役割分担に応じて機能していることは確かであり、そういった機能に応じて世の中に介入できるわけで、そうであれば全てを管理して制御できるような妄想は捨てて、力の制限を伴った働きかけの範囲内でやれることがある程度の認識にとどめておくしかなく、現状でおこなわれているのもそういうことだと受け止めておけばいいだろうが、そうはいっても政治の領域で主張する内容となると、政治主導で効果的なことができると主張するしかないだろうし、そうした主張に基づいて政治がおこなわれて、それなりの成果がもたらされる場合もあるだろうし、そういう政治的な試みに期待を寄せて幻想を抱くこともできるわけで、それを幻想だと断じるのは、ある程度は正しいとしてもある程度は間違っていて、それなりに成果が上がれば幻想ではなかったことになるだろうし、そういう面では政治に期待を寄せてもかまわないどころか、実際に何らかの勢力の政治的な主張を支持して、その勢力を応援するのが普通の成り行きになるだろうし、そういった活動に民衆が期待を寄せている限りで政治が成り立つのだろうが、実際におこなわれている政治によって世の中がどうなっているかも、それらの活動を評価する上で判断材料になるにしても、少なくとも現状で何らかの社会的な均衡や安定がもたらされていれば、そんな均衡や安定に寄与している要素として、政府や地方自治体による行政活動や議会や政府内の政治活動なども、人や企業の経済活動や社会活動などと共に、それなりの作用や影響を世の中に及ぼしているはずで、そういう面は無視できないし、それと共に人間の活動以外の自然現象も世の中に多大な作用や影響を及ぼしているはずだが、そんな中で貨幣の機能を利用した働きかけが世の中にどれほどの作用や影響を及ぼすことができるかは、現状では不確かで不明確な面もあるだろうし、そういう働きかけを実際にやった結果から判断するしかないだろうが、実際にそういう働きかけを試みる段階に至らないと、どうにも判断しようがなく、未だにそれを主張している段階に留まっている限りは、その成果に期待を寄せたり幻想を抱くことしかできないだろうし、そういう意味では主張するだけでは限界があり、実際に世の中に作用や影響を及ぼそうとするにも、主張するだけでは微々たる程度に留まっているのだろうが、それが主張するだけに留まったまま世の中の変化に伴って次第にフェードアウトしてしまうか、あるいは何かのきっかけからそれを試みる機会が巡ってくるかは、現状では何とも言えないところだろうが、そうなってもならなくても現状でもそれなりの均衡や安定がもたらされているし、そんな中でも不利益を被ったり不遇を強いられている人たちはそれ相応の不満を抱いているのだろうが、そんな人たちも世の中の情勢の変化に応じて入れ替わり立ち替わり現れては消えてしまうような成り行きにとらわれていて、客観的に見れば人も集団も相対的な存在でしかないし、それらの一部が時には栄華を誇るような成り行きにもなるだろうが、それも一時的に達成される相対的な栄華でしかなく、強引にそういう状態を目指すような成り行きに持って行こうとするのも、ともすればそうなりがちになるとしても、結果的には虚しい試みに終わるだけかも知れず、そういう行為が批判の標的になりやすいとしても、また賛同者を募って一緒になって批判するような成り行きも、それだけで終わってしまう可能性もなきにしもあらずなのではないか。


11月20日「危機的な状況」

 それに関して何を知っているわけでもなくても、何も知り得ないわけでもなく、すでに何かしら知っていて、周知の事実となっていることもあるはずだが、その知っていることというのが浅はかなデマや噂程度のことであれば、信じるに足るようなことでもなく、それだけでは何がどうなるわけでもないはずだが、そこに憎悪や嫉妬などの否定的な感情が絡んでくると、執拗な粘着質を伴って攻撃力が増して、デマや噂話の対象に向かって攻撃を呼びかけて、そんな呼びかけに応じて決起してくれる群衆を動員できれば、社会に対して破壊的な作用を及ぼせるはずだが、実質的にはメディア上やネット上のことだとしても、やりたいことには常に正義がついて回り、それが正義の行為であるかのように見せかけたいのであり、それを一緒になっておこなう賛同者を絶え間なく募っているわけだが、わかりきっていることの大半がその程度の範疇であれば、ではまだわからないことが深刻で重大な危機を社会にもたらす危険性があるのかといえば、それもそうなるかのように見せかけたいのであり、世間の危機感を煽りたいわけだが、実際に危機的な状況をもたらす原因がそれとは別のところにあり、大自然の猛威といった類いの感染病や気候変動や天変地異などの自然現象なのだろうが、それに人災も絡んでくるのだろうし、危機的な状況に政治や行政がうまく対応できないことから、人災がもたらされると思いたいのだろうし、誰がそう思っているのかといえば、危機的な状況をもたらした犯人を特定したい人たちがそう思いたいわけだが、それを政治や行政のせいにしたいわけで、それらに対する批判に利用したいわけだが、そういう行為が悪いわけではなく、それどころか極めてまっとうな行為なのかも知れないが、すでに政治の領域でそういうことがおこなわれていて、多くの一般人もそれに巻き込まれているはずで、中には積極的に政治参加したい人もいるだろうし、そういう人たちが政治的な発言に賛同したり、自身も政治的な主張をおこなっているのだろうし、そこから距離を置く必要もないのかも知れないし、危機的な状況に際してやりたいことがやれるようになるわけだが、それが本当にやりたいことだったのかどうかは、結果的にそう思われたり思われなかったりするようなことでしかないとしても、そこから明らかになることがそれ以外にないのかといえば、それを知りたいとは思えなくても、知ろうとするではなくやろうとすることであり、危機的な状況を利用して利益を得ようとすることがやりたいことであれば、平時ではできないことが危機的な状況の中ではできるようになるはずだが、結果的には利益を得ることに成功する人も失敗する人も出てくるだろうし、誰もが危機的な状況を利用して利益を得られるわけでもないのだろうが、誰もがあわよくば利益を得たいのかも知れず、そのために危機的な状況を利用したいわけだが、そんな功利的な魂胆を見透かされて、逆に利益を得る目的に利用されてしまう人も出てくるだろうし、実際にそんな思惑からおこなわれるキャンペーンに踊らされて、利益を得るどころか損害まで被ってしまえば、そんな邪な魂胆が逆に危機的な状況を招いてしまったことになり、他人の不幸を利用して利益を得ようとすること自体がありふれたことだとしても、それを逆利用されてしまう危険性もあるということであり、そんなあまりにもわかりやすい成り行きをそのまま真に受けて、自身の行動に結びつけようとしてしまうのは、それ自体が他人の仕掛けた罠に喜び勇んで飛び込んでいってしまうような愚かな行為なのかも知れず、そういうところで戦略のなさや思惑や魂胆の浅はかさが露呈してしまうのだろうが、危機的な状況の中で試されているのが、それに対処しようとする個人の力量でしかないとすれば、それも事を単純に捉えすぎているようにも感じられて、もっと何か世の中で暮らしている人々の無意識に絡んだ現象が起こっているようにも思われるわけで、それが意図せず自覚できないような共同作業となって表れていて、そこで人々の無意識の連携や協力が実現しているのかも知れず、それによって世の中が次第に良くなって行けばいいのだろうが、たぶんそういうことがメディア上では明らかにされない方が世のため人のためになるのかも知れず、逆にメディア上で明らかにされることはといえば、経済的な利害に絡んだ人や集団の愚かで浅はかな振る舞いや行動でしかなくてもかまわないのであり、そうやってそこへと介入してくる人や集団が危機的な状況の中で目先の利害に目がくらんで争い続けているうちに、危機が過ぎ去ってしまえば、さっさとそんなことは忘れて、また通常通りに振る舞おうとしてしまうのだろうし、そこで危機以外には何事も起こらなかったことになってしまうのかも知れないが、それでかまわないのであり、人々の無意識の連携や協力など何も起こらず、そこで意図せず自覚できないような共同作業がおこなわれていたなどとは思わなくてもかまわないのだろうが、個人が独自に抱く意図や思惑と共に集団意志のような表れとなって人々の間で共通の意図や思惑も抱かれるとしても、それらが相互に作用を及ぼし合いながら社会が形成されているわけだから、その中で特定の意図や思惑を浅はかだとか愚かだとか断じるのは間違っているのかも知れず、語る上では様々な意図や思惑を比較して何が良くて何が悪いかと語りがちになってしまうものの、本当のところはそれらが入り混じって一定の傾向を見せている面もあり、その中では別に否定的な意図や思惑や感情を抱いていても、それがその人の浅はかさや愚かさを感じさせるのだろうが、その人だけが他から分離して存在するわけでもないし、他の人や集団との相互作用の中でそういう傾向を見せているだけだと解釈するなら、その人だけを悪く言うこともないわけで、その人と関係する他の人や集団との関わり合いの中から、その人の役割分担として悪く見られるような面が際立ってしまうわけで、そういう意味ではその人が割を食っているわけだが、ある意味ではそういう人は社会の犠牲者なのかも知れず、人から非難されて悪く言われるような立場や境遇に陥っているともいえると共に、その代償として政治的な実権を付与されていたりもして、その差し引きがプラスなのかマイナスなのかは定かでないだろうが、別にそういうところまで考慮しなくてもかまわないような世の中となっていることも確かなのかも知れない。


11月19日「偶然にもたらされる結果」

 思わしい結果を得るために行動を起こすのは、それが無駄な悪あがきだとは思っていないからそんなことをやろうとするのだろうが、それ以外にもその場の偶然に左右されて思わぬ結果がもたらされるとしても、そんな結果に甘んじているわけにもいかなければ、自らが受け入れられるような思い通りの結果をもたらそうとして、その場の成り行きに介入するのだろうが、その際に気になるのがそれと競合する他の誰かの思惑や陰謀の類いだとしても、そんなこととは無関係にその場に介入してくる誰の思惑とも違う結果がもたらされてしまえば、それが様々な思惑の相互作用の結果としてそうなるのは理解できるが、誰もがその場の成り行きを制御したいのかも知れないが、またある程度は制御できてもいるのだろうが、それが思惑通りの制御だとしても思わしい結果が得られるわけでもないのは、その場に介入してくる各々の思惑が一致しているわけでもなく、微妙にずれているからそこに偶然の付け入る隙が生じて、思わぬ結果がもたらされるのだろうが、各々の思惑が完全に一致しようがないからそうなるのは当然のことだとしても、全てが偶然に支配されているわけでもなく、時にはそうなるのが必然だと思われるような結果ももたらされて、それが誰かの思惑通りの結果になることもあるのだろうが、そこに介入する隙が生じないと、そもそも介入できないわけだから、そこに誰かが介入してくること自体が、他の誰かにとっては思いがけないことであり、それこそ偶然の隙が生じているわけだが、そんな偶然が作用して誰にとっても思いがけない結果がもたらされるのも必然的な成り行きであり、そこで偶然と必然とが結びついていて、それが誰かの思惑通りであったりなかったりする結果をもたらすのだが、やはり気になるのはそんなことではなく、そこから意識がずらされて、横道に逸れていってしまう成り行きであり、当初に抱いていた意図や思惑とは違うところから、別の新たな意図や思惑が生じてきて、始めからそんな意図や思惑があったかのように事態が進展してしまえば、結果から見ればそこに連続的な意図や思惑の結びつきが生じているようにも思われてしまうのだが、しかも誰もがそこで同じような意図や思惑を抱いているようにも見えてしまい、そこから微妙にずれた結果がもたらされると誰にとっても思いがけない結果となるわけだが、成り行きとして誰もが同じような意図や思惑を抱いて行動してしまうから、そこで競合や競争が起こり、結果的に一定の傾向を伴った成り行きがもたらされて、競争が成り立っていることを実感できるのだろうが、それが集団意志のような形態になってしまうと、確かに何らかの集団がそこに生じていることになるのだろうし、そういう傾向をさらに突き詰めると、その中で役割分担が生じて組織的な集団が形成されるに至るとしても、それに伴って偶然をできる限り排除して、集団の活動が必然的な結果をもたらすように集団内の各自の行動を調整するような成り行きになってしまうと、それだけ偶然にもたらされる効果が薄れて、外部からの介入も阻止されて、集団内では意図や思惑通りのことがおこなわれるようになるのだろうが、そういう傾向になりすぎてしまうと、集団としての柔軟性がなくなって、外部の情勢の変化にうまく対応できなくなってしまうのかも知れないが、それが官僚制的な安定と引き換えにした行き詰まり傾向でもあるのだろうが、そういった傾向に慣れてしまえば集団内にいる限り何とも思わないのだろうし、そこに集団としての隙が生じて、別の集団に取って代わられる可能性も出てくるのだろうが、その場の成り行きとしてはそれでかまわないわけで、特定の集団だけが栄華を誇ってしまっても場が盛り上がらず、競争が維持されるような状態が保たれないと、そこに介入しようとする意図や思惑が生じてこないわけだが、その場で成り立っているルールを調整してそういう状態を保とうとするのだろうが、それが法の支配であり、法治主義的な思想に基づいてそういうことがおこなわれるのだろうが、それがその場を完全に支配してしまってもうまくいかないわけで、絶えずそこから逸脱する余地がないと場が一定の傾向に凝り固まってしまい、競争自体が予定調和の結果しかもたらさずに場が沈静化してしまうのだろうし、それを避けるには場を盛り上げるためにルール自体も絶えず変更しなければならなくなり、結局どうやっても一定の状態には留まれないのだろうが、集団の意志や思惑としてそういう状態へと持って行こうとするのではなく、そうなるのが自然の成り行きに感じられるようにならなければならず、そうならなければその場が衰退するしかないのだろうが、衰退すればその代わりに別の場が活性化する成り行きになるかも知れないし、そういうところまで考慮に入れるなら、特に現状が良くも悪くもどちらでもかまわないのかも知れないし、現状の中で主導権を握っているつもりの勢力としてはそれでは困るにしても、恣意的に沈静ムードをどうにかしようとしても、それがうまくいくかいかないかはその場の成り行き次第な面があるだろうし、結果的にはうまくいってもいかなくてもどちらでもかまわないのだろうが、そこに介入して何かをやろうと企てている側としてはうまくいってほしいことは確かであり、他の人たちがそれに与するかどうかは、それもその場の情勢次第な面もあるだろうが、結局はそこにもたらされた結果をどう受け止めても、結果の良し悪しとは別に、あるいはそれに伴って、何か新たな意図や思惑が生じてくるわけで、それが偶然にもたらされると共に必然的な成り行きと共にもたらされるとしても、そこから逸脱するような成り行きも生じてくるだろうし、それも必然的な成り行きがもたらされるように画策する恣意的な操作がおこなわれないと、それをはぐらかしてそれに逆らうような偶然の作用も生じてこないのかも知れず、だからというわけではないだろうが、恣意的な操作を画策する勢力を支持しつつも、そんな操作を裏切るような結果がもたらされることも期待しておいた方がいいのかも知れず、そうやって絶えず両にらみの両義的な姿勢を保てるわけでもないが、時としてどちらにも対応できるようなことも可能となるのかも知れないし、姿勢や態度を変更する余地を残しておいた方が、それだけ一定の傾向に凝り固まった勢力と心中するような結末を避けられる可能性が高まるのかも知れない。


11月18日「政治的な主張」

 時にはそんな感じがするとしても、別に勘が狂っているわけではなく、それでも何かが違っていると思うのは、当たり前のことを当たり前のことだとは思えないことからも、勘とは違う何かが狂わされていると思われてしまうわけだが、その何かが何なのかわからないから、そんな思い自体が間違っている可能性も捨てきれないが、たぶん間違っていてもかまわないのかも知れず、間違っていることが明らかとなるまでは間違っている方が自然な成り行きだろうし、そんな間違いに早く気づくことができなくても、それは仕方のないことかも知れず、また気づかないままでいる状態が長引けば長引くほど、間違っていることがもたらされる不利益を被る期間もそれだけ長くなるとしても、その不利益が何なのかわからなければ、それも仕方のないことかも知れないが、何を知りたいのかもわからない手探り状態の暗中模索から抜け出られないことに変わりなく、何だかわからない状況の中で、単純明快な論理に頼るのも当然の成り行きかも知れないが、それが論理的な思考から導き出された結果だとは認識できないのかも知れず、そこでも何かが違っているような気がしてしまうのであり、疑心暗鬼にとらわれていることは確かなのだろうが、わかりやすい主張の中身が物事のわかりにくい面を考慮していないことはわかるとしても、そういうわかりやすい主張にはよくありがちな傾向として、批判の的として敵を設定することはたやすいかも知れないが、全体からその部分だけを敵として摘出してあげつらうことにどんなメリットがあるかとなると、わかりやすい主張にするメリット以外の何があるとも思えなければ、それだけのことであり、政治的な主張とはそういうものだと納得するしかないが、そういう主張になってしまうことが必然的な成り行きなのかというと、たぶんそう解釈しておいた方が無難なのかも知れず、それ以外の何が求められているわけでもない状況の中で、そういった主張が出てくるのも致し方のないことかも知れないが、それでもかまわないとなると、それはそういうことだと見ておくしかないわけだが、物事のそうではない面から見ると、わかりにくいことを述べる必要が出てきてしまい、それに関して見苦しい屁理屈をこね回すような成り行きになってしまうかも知れないが、それも避けられない成り行きなのかも知れず、物事の全体を見通すことができないからそうなってしまうのだろうが、そんな状況の中で手探りで何を探し出そうとしても、得られたものが得ようとしているものでなければ、さっさと捨ててしまうようなことにもなりかねず、探し出したいものを探し当てたという確かな感触など期待すべきではないのだろうが、何も得られなくてもその過程で空疎な言葉が費やされているのであり、それによって何かが得られたかのように錯覚したいわけでもないのだろうが、それが錯覚だとは感じられなければ、わかりやすい主張で満足するしかないとしても、それで満足できなければわかりにくい面にまで踏み込んで考える必要も出てくるだろうし、そうなるとそれが政治的な主張には結びつかなくなってくるかも知れないが、では他の何に結びついてくるのかといえば、それが何だかわからないでは済まなくなってくるのだろうが、現状ではわからないことであり、そのままでは何にも結びつかないのかも知れず、それでは困るから強引に結びつけようとすれば、わかりやすい政治的な主張になるしかなく、それでもかまわない立場や姿勢があるにしても、それが政治的な立場や姿勢だとしても、一定の水準ではそんな立場や姿勢でも納得できて、そこに留まることが打算や妥協だとも思えないだろうし、そんなところで安住できる人もいるだろうが、そこに安住できなければ中途半端な批判者のような立場や姿勢になってしまうのだろうが、そういった傾向を徹底的に極めようとする成り行きにならなければ、中途半端なままでもかまわないのかも知れないし、どこまでそんな状態が許されるのかもよくわからないが、それを政治的な主張として明確な内容にしたければ、そのままでは済まなくなるだろうし、実際に広く世間から支持や賛同を得られるような内容にする必要が生じてくれば、それ相応の妥協的な世間への歩み寄りが欠かせなくなってきて、何やら保守的な主張に近づくのかも知れないが、それと共に急激な変化を嫌う傾向も出てくるかも知れず、何よりも現状でもうまくいっている面を考慮に入れるなら、冒険を控えるような守りの姿勢が目立ってきて、それに伴って主張そのものも曖昧化してきて、それが主張であるかも怪しくなってくるような内容を帯びてくると、主張の代わりになるような枝葉末節な細部にこだわるごまかしも顕在化してくるだろうし、当初に抱いていた野心的な内容を抑え込むために、そういう主張を議論から閉め出そうとするわけで、そんな主張ができないようにしたいわけだが、そういうことをやる目的で、そこへと至る手前の段階で細々とした関所を色々と設けて、そこで些細で枝葉末節な問題を延々と取り上げて果てしない議論へと誘い込んで、まともな結論が出てこないような成り行きへと持っていこうとするのだろうが、そういう試みがある程度はうまくいかないと政治的な言説空間が成り立たないだろうし、そうやって体裁を取り繕うのだろうが、そこから政治の無効性が明らかとなるような根源的な不条理が顕在化してきてはまずいだろうし、現状でそんなことが顕在化するはずもなく、誰もそんなことは指摘しないし、指摘するような立場にもなれないし、そんな立場自体があり得ないのだろうが、現状で民主主義のような大原則をことさらに強調するような成り行きになっているとすれば、それが他に何も主張することがないことの証しとなり、それでも他に何か主張することがあるとすれば、経済的な利害の問題となり、何か不利益を被っていると指摘される人々に対して、利益を奪っている対象として戦うべき敵を設定して、それと戦うように仕向けながらも、実際に戦っているつもりの自分たちの勢力を支持して賛同させるような成り行きへと持って行こうとするのだろうが、そういった試みが政治的な行為なのかというと、たぶんそうとしか言えないような現状の中で何かそれらしいことが主張されているのではないか。


11月17日「勘違いの素」

 期待通りの成果というのが結果からもたらされる思い込みに過ぎなければ、ただ結果をいいように解釈して追認しているだけかも知れないが、それに魅力を感じなければ、何かが足りないのだろうし、その何かというのが何でもないはずがないとしても、それも思い込みに過ぎなければ、感覚が狂っているのかも知れないが、おかしな事態をもたらしているのが自身に原因があるだけではなく、他からの作用や影響によってそうなっているとも考えられるだろうし、そういうところで何らかの相互作用によって感覚が狂わされている場合もあるわけで、そういうところからおかしな思い込みが生じてしまうのかも知れないが、なぜかその場ではそんな成り行きになってしまって、そんな思い込みにとらわれたまま、それでうまくいっているように思い込んでいて、思い込んでいること自体がおかしいのだろうが、実際に何とかなっているように思われてしまうのだから、何か感覚が狂っているように思われるのに、それで結果的にはうまくいっているつもりなのだから、そういう場合にはかえって正常な感覚ではない方がいいのかも知れず、かえって冷静になって物事に対処すると、うまくいかない場合もあるのかも知れないし、全てにおいて平常心でいることが必ずしもいいとは言えないとすれば、その場の状況によっては冷静さや平常心とはかけ離れた心理状態でいる方が、かえってうまくいく場合もあるかも知れないし、その辺のところはそうなってみないことには何とも言えないだろうが、感覚が狂わされているのに結果的にはうまくいく場合というのが、単なる勝手な思い込みに過ぎないか、あるいは本当にそういう場合もあるのかは、よくわからないと思っておくしかないだろうし、物事が良く見えている状態というのが、必ずしもそれでうまくいっているとかまずい事態に陥っているとか、そういうことが良く見えているわけではなく、うまくいっている面とまずい面とが両方見えている場合もあるだろうし、どちらか一方ではなく両義的な事態に陥っていると思われてしまうのかも知れないが、それに対して感覚が狂っている状態というのは、うまくいっていると思い込もうとしていて、まずい事態に陥っている面から意図的かつ無意識に目を背けながら、その場を乗り切ろうとしていて、実際に乗り切ってしまえば、まずい事態になっている面から目を背けていたから、その場を乗り切れたことになり、逆にそこから目を背けられずに対処してしまうと、まずい事態に引き込まれてしまって、さらにより一層まずい事態になってしまうから、やはりそういう場面では感覚が狂っていた方が結果的にはうまく行くのかも知れず、事の良し悪しに関するバランス感覚が失われて、一方的な思い込みにとらわれることによって急場をしのげるような理不尽なことが起こるわけだが、そんな心理的に平静を保てないような事態になったときにどう対処すればいいかということが、平静を保っているときにはわからないわけで、わからなくて当然だろうし、平静を保てるような状況の中でわかってしまってはまずいのかも知れず、それこそが勘違いの素となってしまうかも知れないが、事前に見通せるような物事の成り行きがあるとしても、実際にそうなってみないことには何とも言えないような事態もあって、そうなると事前の見通しが通じない事態も出てきて、事前の見通しが甘かったと結果的には言えるとしても、そんな結果になってみないことにはそうは言えないわけで、そうならなければそうは言えないとすれば、別に事前の見通しが甘かったわけではなく、事前に見通せることにも限界があるのが当然であり、事前には見通せない事態になってしまうのもよくありがちな成り行きであり、そうなってしまったときには平常心ではいられないのも当たり前であって、しかもそういうときには平常心でいない方が結果的にはうまくいく場合もあるだろうし、平常心でいるときに思っているようなことはやれず、狂った感覚にとらわれて狂ったようなことをやってしまい、それでその場を乗り切るような事態となってしまうと、何かおかしなことをやっているのだろうが、それは通常の状態ではできないようなことをやっていて、そんなことはやるべきではないと言えるのは、通常の状態の時に思うことであり、異常な状態の時には異常なことをやってしまうのが当然の成り行きだろうし、それを後からやるべきではなかったと反省しても後の祭りだろうし、そういうことを考慮するなら、まだ何もやらないうちから事前に辻褄の合うようなことを述べている人がいれば、そういう人の述べていることは当てにならないと見ておいた方がいいのかも知れず、その内容がもっともらしく思われるなら、その時は納得しておけばいいのだろうし、そこではそれが正しいことだと信じて疑わなくてもかまわないだろうが、それはあくまでもその場でそう思うことでしかなく、それとは全く別の状況下では当てにならないということであり、それはそういう状況になってみないことには何とも言えないが、その場で納得できることが間違っているわけでもなく、その場ではそういうことだと思っていればいいとしても、それが全ての場においてそういえるかとなると、その場とは別の状況になってしまえばその場では正しいことだと納得していたことが通用しなくなる場合もあるだろうし、そういうことまで考慮に入れておくことがその場ではできないわけで、その場ではそれができないのだから、別の状況下においてその場で納得していたことを試す機会が巡ってきた際には、必ずしもそれがうまくいかなくても、そういうことだと納得するしかないだろうし、そうなって初めてあのときもっともらしいことを主張していた人の言っていたことが必ずしも正しいわけではなかったことがわかるのだろうし、そうならない限りはもっともらしい主張を正しいことだと信じて疑わなくてもかまわないわけだが、何かをはっきりとそうだと断言するような成り行きになってしまえば、そんなことを主張せざるを得ないのだろうが、それをそうだと思ってみても、あるいはそうではないと思ってみても、それはその場で思うことであり、それとは別の場ではそうは思わないような成り行きになってしまってもかまわないのかも知れない。


11月16日「理性の活用」

 自らの置かれた立場や境遇が変わればそれに応じて考えていることも思っていることもそれなりに変わるかも知れないが、思考の全てが変わるわけではなく、立場や境遇にもそれ以前から継続している面もありそうで、そう何もかも身の回りの環境が一変することもないだろうが、それでもその場で生じている人間関係や利害関係などの変化に応じた心境の変化も行動の変化も伴ってくれば、何かしら思考の内容や傾向にも以前とは違ったものが出てきそうで、現状で誰がそうなることを期待しているわけでもないだろうが、何かが変わることを信じて疑わないわけでもなくても、大して変わるわけでもないと疑いながらも、状況の変化を感じ取りたいのかも知れず、少しの変化でもかまわないから、それを利用してこれまでとは違うことをやろうとして、何やら模索している人もいるかも知れないが、その一方で逆に変化に対して抵抗する姿勢もありそうで、いかなる変化にも動ぜず同調せずに変わらないことを目指して、自らの信念を貫き通そうとする頑なな態度の人もいるだろうし、そんな人にとっては変化そのものが嫌悪の対象となっているかも知れないが、そんな信念がどこから来ているのかといえば、例えば理性への嫌悪からきているのかも知れず、理性が利害をないがしろにして、その場の有利不利に基づいて構成された不平等な関係を台無しにしようと企てているように見えれば、そんな企ては絶対に阻止しなければならないと思うかも知れないし、それが頑なな変化の拒否へと傾くのかも知れず、今まで不利な状況に置かれていた人たちを、何の見返りも代償もなく助ける行為が許せないと感じることもあるだろうし、それによって自らや自らの地縁血縁関係や企業などの社会的な利害関係に基づいて編成されてきた仲間たちがたゆまぬ努力によって築き上げてきた有利な立場や地位が、少しでも後退するのが許せないと思うかも知れないが、それ以外に変化する可能性を想像できないかというと、競争に勝つか負けるかによって変化がもたらされるなら納得がいくにしても、それも不正行為によって、卑怯な手段を使って負かされたと思えば納得がいかないだろうが、しかも自分たちがどんな手段を使ってでも勝とうとしたのに結果的に負ければ、相手が不正な手段を使ったのだと主張すること自体が、どんな手段を使ってでも勝とうとしていることの延長上で主張されていることになるだろうし、それ自体が不正の証拠が見つからない限りは信用できない主張になるだろうが、証拠をねつ造したりデマを広める行為も、どんな手段を使ってでも勝とうとしていることの延長上でおこなわれている行為になるわけだが、そういうことをやらなければならない状況に追い込まれていること自体も、そこで起こっている変化から背を向けていることになると同時に、それがその場の変化を象徴する出来事だと受け止めてもかまわないし、それも一時的かつ表面上の変化であり、これまでにも繰り返されてきた見せかけの変化の一端に過ぎなければ、根本的には何も変わっていないと状況を捉えて安心したくなるかも知れないが、では根本的な変化とは何かといえば、例えばその場でおこなわれている競争の類いが成り立たなくなるような変化であり、それに代わってこれまでとは全く別の競争が開始されるか、現状でおこなわれている競争が状況の変化に伴って何らかの変容を被って、気づかないうちに徐々に変わってきているかの、どちらの面も顕著になれば誰もが変化に気づくかも知れないが、現状ではそのどちらでもなく、相変わらずこれまで通りのことが繰り返されているに過ぎなければ、大した変化は何も起こっていないことになるのだろうが、そうではなく、単に人々が世の中の変化などに期待しなくなっているとすれば、以前は期待していたのかというと、それなりに期待していた時期もあっただろうし、それは今も変わらず続いている期待かも知れないが、それも少し違っていて、変化ではなく、他の何に期待しているとしても、期待通りのことが起こるとは限らず、それよりは期待を裏切る思わぬことも起こるだろうし、また予想通りのことも起こるとしても、それが短期的な予想か長期的な予想かによっても受け止め方が変わってくるだろうし、それらの全てが全てとは言えないようなことが起こるから、それらの全てに期待するわけにもないだろうし、別に期待を裏切られても、期待通りの変化が起こらなくてもかまわないわけだが、そんなことを思っている自らも自らの行動や言動によって身の回りの状況を動かしたり整えたりしたいわけで、自らが動くことによって思い通りの成り行きへと持って行きたいとしても、一方で必ずしも思い通りにはならないことも承知しているし、思い通りになる面とならない面があるとしても、それが固定されているとは思っていないから、絶えず計算や調整によって何とかなるところを模索しながら、状況に働きかけているわけだが、それが空回りに終わっている面もあると共に、何らかの効果や成果をもたらしていると思っている面もあり、どちらにしても決まりきった方向や傾向を目指しているとは言えない面があり、そんな方向や傾向を目指さなくてもかまわないわけで、それが一定の方向や傾向に固定されないように振る舞えれば、世の中の状況や情勢の変化にも柔軟に対応できるのかも知れないが、地縁血縁や利害関係にとらわれてしまうと、そうした面が一定の方向や傾向で固定されてしまい、そうした関係がうまくいっている限りで問題は起こらないだろうが、いったんうまくいかなくなって関係がこじれてくると、自らの力ではどうにもならない面が出てきて、そういうところから身の破滅がもたらされることもあるだろうし、そうならないようにするにはなるべくそうした関係の中では波風を立てないように気をつけなければならないのだろうが、こちらが気をつけていても勝手に周囲で波風が立ってしまえばどうにもならなくなるだろうし、そういう面でも思い通りや期待通りにはいかないわけで、どんな事態に巻き込まれても納得がいかない結果に直面しても、そこで何を活用しようとしても、気休め程度のことでは満足できなければ、すぐにそちらへと目が行ってしまう損得勘定を鎮めるためにも、理性を活用する必要が生じてくるのかも知れない。


11月15日「伝えたいこと」

 何のためにそんな物事があるわけではないといっても、すぐに何かに利用できる典型的な事例が見つかるわけでもないが、見つかったそれを強調してそら見たことかとあげつらってみても、物事のそうではない面が考慮されていないことになってしまい、何かそこで見逃されていて、それがその物事の固有の性質であれば、強調されるべきなのは他と同じようなところではなく、その物事に固有な面なのかも知れないが、他とは違う特異性ばかり強調しても、他の何とも比較できないし、それを他との比較においてどう活用すればいいのかわからないだろうが、それを取り上げて何をどうしたいのか、それに関して何をどうすればいいのか、何のためにそんなことを述べているのか、そんなこともすぐにわかるわけでもないだろうし、そういうことに関してはうまく説明できないが、とりあえずそれに関して語るべきことがあるような気がしてしまうのかも知れないが、いったんそうなってしまえば語らざるを得なくなってしまい、実際に語っていて、他の何かと比較して、またそれ固有の特異性に関しても言及して、何らかの物事を言葉で表現しようとするわけだが、何かそこに思い通りにしたいという欲望が介在してしまうのかも知れず、それを言葉で表現することによってどうにかしたいわけだが、言葉で表現することによってはどうにもできない面があり、どうにもできないから焦ってしまって、そんな焦りがそれに関する誇張表現をもたらすのだろうが、それを強調しないと伝えようとすることが伝わらないように思われて、強調して伝えようとすると誇張した表現になってしまい、そんなことを繰り返しているうちに誇張表現の虜となって、言語に関する感性や感覚が麻痺してしまうわけだが、それでも何かを伝えようとしているわけだから、それを受け止める側がそれをくみ取ってやらないとならない場合もあるわけで、何かそこに是が非でも伝えたいことがあって、それを伝えないと気が済まないようなことを伝えようとしていて、それが伝えようとしている当人にとっては重要なことだと思われるから、それを強調して伝えようとしているのだろうが、それが伝わる側に予期せぬ受け取られ方をされて、誤解されてしまうこともあるだろうし、それを受け取る側も都合良く解釈してしまい、それらが相互作用となって思わぬ結果が生じてしまう場合もあるかも知れないが、それを狙って伝えようとしているわけではなく、わざと曲解して受け止めようとしているわけでもないのだろうが、それでも人の意図や思惑を超えて伝わることもあるだろうし、いくら事実をねじ曲げて伝えようとしても、勝手に都合良く解釈して受け止めようとしても、そういった恣意的な操作をはねのけて情報が伝播してしまうから、そんなことをやる人たちの意図や思惑が裏切られて、それらが通用しない世の中となっているのかも知れず、それでもその手の人たちが通用しているように装われるのだろうが、そういう人たちの言動には無理を押し通そうとする意図が感じられて、真実を誠実に伝えていないことがうかがえるし、屁理屈を用いた解釈が施されているようにも思われて、そういった情報には強調や誇張などの表現が満載されていて、それを伝えようとする者や解釈しようとする者の恣意性が顕著に表れてしまうのだろうが、何かそこに言葉ではどうにも変更できない物質的な面も現れているのかも知れず、いくら都合の良いところだけ強調したり誇張して伝えようとしても、いくらねじ曲げて解釈しようとしても、そういった強調や誇張や曲解をすり抜けて伝わってしまう真実もあり、それが多くの人にわかってしまうから、最終的にはそういった偏向を施そうとする意図や思惑が敗れ去るような結果がもたらされて、そういう試みが徒労に終わってしまうのであり、そうなることが事前にわかっていれば誰もそんなことはやらないのかも知れないが、事前にわかるはずもないことだから、無駄な悪あがきをやってしまうのだろうが、結果が明らかとなるまではそれが通用しているように装われるのだろうし、明らかとなってしまえば、今度はそんな失敗はさっさと忘れ去ろうとするのだろうが、実際に忘れてしまったように装われて、そこでは何事も起こらなかったかのように、関与した多くの人たちが示し合わせて都合の悪いことは忘却してしまったように装われて、さらにまた性懲りもなく真実に都合の良い強調や誇張や曲解を施そうとして、そんなことの執拗な繰り返しの中でメディア的な言説空間が構成されるのだろうが、たぶんそんなことをやっている誰もが懲りていないのだろうし、痛い目に遭ったとも思っていないだろうが、そんな人たちの存在も世間的な忘却作用に伴って徐々に忘れ去られてしまい、時が経てば無に帰すわけだろうが、中にはそんな人たちの中から頭角を現して権力者のような役割を担う者も出てきて、一時的にそんな人の天下になってしまうこともあるかも知れないが、そういう人が良い印象を伴って受け止められることは少ないだろうし、何か悪政の象徴のような存在に見られてしまうことも多いのだろうが、為政者と呼ばれる立場や地位を得る人の大部分は、大なり小なりそういう傾向があり、そういうことをやらないと頭角を現せないような競争の中から出てくるのであり、そういうことをやるのが必要悪というか必須の技術となって、それが統治術として普通に機能しているのかも知れないが、それが政治の無用性と共に必要性も生じさせて、政治には無用であることが必要であるような逆説的な効果が求められて、そういうことをやらないと何もやっていないことになってしまって、何もやっていないことが明らかになってしまってはまずいから、何かをねつ造しなければならなくなり、無理矢理トラブルを起こすようなことがおこなわれるのかも知れないが、トラブルを起こしてからそれに対処することによって、政治がおこなわれているように装われて、それで何かをやっていることになるのだとしても、それ以外に何ができるかとなると、それは政治的なことではなく、どちらかといえば行政的な行為となるのではないか。


11月14日「自由の価値」

 人が自由になれないのは何かにとらわれていたいからかも知れないが、束縛から得られるのが安心感だとしても、安心しすぎると油断を招き、何に安心していたいからといって、時にはそんな安心感に裏切られることもあるだろうし、裏切られると不安になってしまうわけだが、常に裏切りを警戒しながら、油断せずに用心しながら安心したければ、安心と不安が隣り合わせな心境となってしまい、結局安心しすぎることはできず、安心感を得るために自由を犠牲にするわけにはいかなくなり、不安を抱きながらも自由を求めることになるのだが、自由を求めすぎても勝手に得られるわけでもなく、また束縛と引き換えにして得られる安心感にしても、何かに束縛されるほどの価値が自身になければ、束縛するだけの魅力が自身になければ、向こうからそう都合良く束縛してくれはしないだろうし、自由も束縛も安心も不安も、それが関係する何かとの相互作用から得られるものかも知れないが、自由をつかみ取ろうとしているのが自分で、それを阻んで束縛をもたらすのが国家だとは単純には言えず、何かをおこなった対価として自由を受け取ったり、束縛の代償として安心を得るにも、それらを獲得するにはそれ相応の見返りが不可欠なのだろうが、何もしないで黙っているだけで手に入るものなど何もないとしても、何を求めているわけでもなければ何もせず、ただの傍観者でいられるわけではなく、絶えず何かを獲得するための競争に身を投じる覚悟がないと生きてはいけないし、もちろん覚悟だけでなく、実際に競争に身を投じないとならないわけだが、心身に何らかの障害を抱えていてそれができない人もいるだろうし、そういう人は他から助けてもらわないと生きていけないわけで、しかも助けてもらってもその見返りとして対価や代償を払えない人もいるだろうから、そういうところでは競争原理が成り立たないわけだが、それとは無関係に何の見返りも求めずに人を助ける自由があるとしても、助ける余裕がないと助けられないだろうし、余裕もなしに助けようとすれば共倒れになりかねず、それを避けるには人助けをしたい賛同者を募って、多くの賛同者の協力を得ながら人を助けるための事業を興して助けようとするわけだが、そういう人や団体が現れないと人が助からないわけでもなく、自力で何とかならない人はそれ以前に家族や親族が助けているだろうが、政府にその役目を担わせようとする成り行きもあり、実際にそれに関連する法律や制度もあるわけだが、そうやって様々な方面から無償で人を助けようとする試みがなされる限りで、実際に多くの人が助けられているわけだろうが、そうなるには多種多様な価値観の共存とそれに基づいた行為が伴ってこないとならず、そうならないと社会の多様性を保てないことも確かだろうが、多様性を保つことに価値を見出せなくても、多様性を保とうとしなくても勝手に多様性が出現すると共に、逆に多様性を排して一つの傾向に凝り固まろうとすることの方が多大な労力や資源が必要となるかも知れず、それも実際にやってみないことには確かなことは言えないだろうし、やってみたところでその場の状況によって結果が異なってくるかも知れないが、少なくとも一つの傾向として功利性にこだわることも、またそれを求めないことも自由に行き着き、どちらを求めることにもそれを求めない自由がつきまとい、どちらとも言えないような成り行きの中で、自由に価値があるとは思わず、逆に何か一つのことにこだわり、それに心身共にとらわれてしまうことに価値を見出そうとする傾向も出てきて、それに反する傾向を排除したがるわけで、そうやって何かに敵対する傾向が生じてしまうわけだが、それを批判せざるを得なくなってしまうのだから、そんな傾向の批判をしている人を否定的に見ても仕方がないというか、ともすれば誰もがそういう傾向になってしまうわけだから、それはそれとして認めておいてから、他の可能性を指摘するにとどめておくしかなく、そんなことをやっても何の利益にもならないどころか、逆に一つの傾向に凝り固まって、それと対立する傾向の人や団体を批判することが利益につながるのだろうし、そういう行為が世の中でありふれていると共に安心感をもたらすわけで、なぜ安心できるかといえば、それがはっきりとした主張に結びついてわかりやすい内容になるからであり、敵を批判するのが主張の主な中身となるわけだが、そこで忘れてはならないのが敵と味方とが共存している状態が世の中にもたらされていることであり、それらが相互に補完し合って共存関係を形成しているにもかかわらず、敵対関係を装っているという矛盾がもたらされているわけで、そこで主張が破綻しているわけだが、もちろん主張している当人もその賛同者たちも破綻しているとは思っていないだろうし、彼らの頭の中では辻褄が合っていて、それは彼らが共有している言説の中では都合の良い面しか語られていないからで、その都合の良い面というのが敵と見なした人や団体の都合の悪い面ばかりを強調することになるわけだが、それが彼らなりの功利的なやり方となるのだろうが、そういった功利性を追求する主張の内容が一つの傾向に凝り固まっていることの証しとなり、そういった傾向に凝り固まってしまった人には心地良く感じられる一方で、それ以外の人たちには不快に感じられてしまい、主張が広く世の中に浸透しない原因となってしまうのだろうが、そういう一点突破的な主張ではなく、より自由度の高い多面的な主張を目指してしまうと、政治的な主張の体をなさなくなってしまうのかも知れず、どちらかといえば学術的な研究発表に近い内容となってしまうのかも知れないが、世の中の多様性や多面性に魅力を感じる人には、そちらの方が心地良く感じられて、敵と見なした人や団体を攻撃するような主張は敬遠される一方で、何かそれとは違うやり方が政治の場で可能なのではないかとも思ってしまうわけだが、それが無い物ねだりの幻想に留まっている限りで、うまく政治的な主張に結びついていないわけだが、結びつけようとしなければ無力感ばかりが募ってしまうのではないか。


11月13日「機会を得るための努力」

 努力する機会を得るとはどういうことかというと、普通は機会を得てからやる努力が主だった努力となるのだろうが、何の機会も得られなければ、そもそも努力のしようがないだろうし、そうなるとまずは努力する機会を得るための努力が必要となってくるのかも知れず、それがどういうことなのかといえば、すぐに思い浮かぶのが就職活動の類いだろうが、それが何をやるための機会なのかわからなければ、やはり努力のしようがないのかも知れず、何かをやるための機会を得ようとすることが、何をやるための機会なのかがわかっていれば、それに向かって努力することになるのだろうが、何だかわからないが、とりあえず何かをやる機会を得ようとすること自体が意味のないことかも知れないし、普通はそれを努力とは言わない場合もあるだろうし、実際に何をやっているわけでもなければ、努力でも何でもないのだろうが、実際に機会を得るために何かをやっている気でいれば、それを努力といわずに何というのかよくわからなくなってしまいそうだが、何だかわからないがとりあえず成り行き上やらざるを得ないようなことも出てくるだろうし、そういう目標や目的のはっきりしない努力の類いを何と表現してもしっくりこないのかも知れず、何かそれが暗中模索のようにも思われるのだろうが、何を模索しているわけでもないところが微妙に感じられ、意味のないことをやっているとしか思えないかも知れないが、それが意味のよくわからないことをする機会に恵まれたと思うなら、その機会を得るためにやっていた努力が実ったことになるのだろうが、何をやっていたのかも定かでなければ、それを努力だとも感じられないだろうし、何でもないことをやった結果として何でもないような機会を得たことにしかならないだろうが、それを努力とは感じさせないような成り行きの中で何かをやることが、希有な経験となるかも知れないし、何よりも努力が無に帰すにはそういった経験が必要不可欠と捉えること自体が意味不明かも知れないが、なぜ努力が無に帰さなければならないかといえば、そこから真の努力が始まるわけでもないとしても、努力から解放されて自由を得られるわけでもないとしても、たぶんそこで努力とは違う何かが求められていて、それを得るのに努力を必要としないことが明かされてしまうのであり、ただ単に何かの機会が巡ってきてしまい、何の機会なのかもわからないまま、気がつけばそこで思いがけないことが起こっていて、それに巻き込まれてしまえば、そこで何かをやる成り行きになってしまうのであり、それが努力とは違う何かになるのだろうが、誰もがそんな機会を得られるわけでも巡り会えるわけでもなく、普通は何かを得る目的で努力してしまうのであり、そうした努力にとらわれてしまうから、希有な経験をする機会を逃してしまうのだろうが、それが本当に希有な経験になるかといえば、目的や目標に向かって努力してしまう人にはそうは思われないわけで、それは何でもないことであり、何の価値もないことのように感じられるわけでもなく、ただ単に気づかないだけかも知れないし、それに気づいたとしても何でもないことなのだろうが、別にそういった努力によって全てを台無しにしてしまったと後悔するわけでもないだろうし、そこでいう全てとは何かといえば、努力しないで得られる経験の全てなのかも知れないが、人が努力せずに何を得るのかといえば、努力して何かを得ようとする恣意的な思惑を超えた物事の成り行きにとらわれた中で、何でもないような思いがけない何かを得るのかも知れないが、それを思いがけずに得ていることにも気づかずに、意識がそれを取り逃がしているのかも知れず、そんな物事に何の価値があるわけでもないのだろうが、なぜかそこから得られる経験が人を変えることになり、いくら努力しても変わらないことが変わってしまうわけで、努力して何かを得ようとする人にはそんな成り行きを信じるわけにはいかないだろうし、努力して得られたものとは比較にならないほど些細でどうでもいいような経験でしかないだろうが、そんな機会を得るために何を努力できるわけでもなく、努力など必要としないとすれば、運に恵まれるしか得る機会はないのかも知れないが、そんな努力ではどうにもならない物事によって世の中が動いているとしても、そんな中でもそれなりに目的や目標が生じてくれば、それに向かって努力しないわけにはいかないだろうし、人はそんな成り行きの中で否応なく努力せざるを得ないわけだが、そんな努力が報われずに無に帰してしまうとしても、だからといって無駄な努力はしない方がいいと思っていても、実際に努力してしまうわけだから、そんな思いもその場の成り行きにとらわれて否応なくおこなわれてしまう無駄な努力によって裏切られるしかないだろうし、そうやって人は思い通りにはならないことを思い知るわけだろうが、それに気づかなければ思い知ることもなく、それが無駄な努力だとも気づかずに、たわいない成り行きにとらわれながらも無駄な努力をやる日々の中で消耗して疲弊してしまい、それが思いがけない経験となって心身に深刻なダメージを与えてしまうのかも知れないが、そんな機会を得られたことが何を意味するのかといえば、普通に考えて危機に遭遇しているわけだろうが、危機を乗り越えられなければ死んでしまうのだろうし、そうやって死んでしまう人が後を絶たない現状もあるのかも知れないが、たぶんそうならないとまずいのかも知れず、そうなってしまうことが努力の報いを受けたことになり、死ぬような努力を重ねた末に待っているのは自身の死でしかないわけだが、そういう人は本当に必死になって努力するから死んでしまうわけで、それが思いがけないことではなく、実際に必死に努力すれば死ぬのは当たり前のことであり、ただそれが死ぬための努力だとは死ぬまで気づかないだけのことであり、それに気づかないから死ぬまで努力するわけだが、当初はそれが何のための努力なのかわからなかったことが、実際に死んでみれば、それが死ぬ機会を得るための努力であったことがわかるわけで、当人がそれに気づかないとしても、そういった成り行きを客観的にみるならわかる程度のことかも知れないが、そこまで努力する必要があるかとなると、それが死ぬ機会を得るための努力であれば、そんな努力にはそれなりの必然性が伴うのではないか。


11月12日「将来への備え」

 将来において現状では予測不可能なことが起こる可能性があるのは確かであり、現に新型コロナウイルスが世界中で蔓延することを数年前の段階で予測できた人は皆無だろうが、将来において何が起こるかを予測したい人もいくらでもいて、そういう人たちは将来において起こることに備えて今からやるべきことを力説するわけで、予測不可能なことには備えられないとしても、予測可能なことには備えるべきということだろうが、予測が外れてしまえば備えたことが無駄になってしまうかというと、備えたことが将来において無駄になるか否かということよりも、将来に向けて備えること自体が今必要なことだと思われるわけで、将来に向けて備えることが世の中で流行れば、それがビジネスチャンスだと捉えるわけだが、そうなると将来に向けて備えることが現状の世の中で役に立つと共に、現状の世の中に利益をもたらすようなことを将来に向けて備えるべきとなり、逆に言えば現状の世の中で不利益となるようなことをやるわけにはいかず、将来に向けて何か備えるといっても、それが現状の世の中に利益をもたらすようなことでないと推奨されないだろうし、将来において何が起こるかを予測したい人に功利的な思惑が働くと、自らに利益をもたらすような予測がしたいということになり、場合によっては自らの有利になるように、予測に手心を加えるようなことにもなってしまうのかも知れず、予測が信用できるか否かではなく、予測が役に立つか否かで判断するようなことにでもなれば、自らに都合が良いような予測を信用することにもなるだろうし、そうなると予測自体は当てにならないが、予測をどうやって現状の中で生かすかが重要となってきて、そういう意味では予測の内容も重要だが、予測を利用して何をやるかが重要となってくると、予測が結果的に当たろうと外れようと、それ以前に予測を真に受ける人たちを利用して何をやるかが重要となってくるだろうし、また予測をいかにして多くの人たちに信じさせるかも重要となってくるし、さらには予測を信じようとしない人たちをいかに利用するかも重要となってくるのかも知れず、そうやって予測を巡っていかようにも戦略が立てられる成り行きにもなるかも知れないが、それが当たるか外れるか、あるいはそれを信じるか信じないか、という二者択一がまずはメディアを通じて世間の話題とならないと、どの戦略も成り立たないだろうし、何か将来の予測が、人々にとって重大で深刻なことであると受け止められるような状況を作らないとならないわけだが、そうなることを狙って危機感を煽るようなことがおこなわれると見ておけばいいだろうし、そうやって人々の意識を不確かで漠然とした将来への不安に向けさせておいてから、例えばそんな将来への備えとして保険商品の類いを売り込む戦略が成り立つわけだが、それ以外にも防災グッズとか備蓄できる食料とか燃料の類いもあるだろうし、もっと直接的な資産投資への勧誘もあるだろうが、このままでは危ないからそれを避けるには、今から将来に起こりうる危険に備えておかなければならない、という論理を真に受けて、当てにならない予測を信じて、当てにならない将来への投資をやって散財してしまえば、かえって危険を呼び込んでしまうことにもなりかねず、そんな不安につけ込んで利益を騙し取ろうとする詐欺まがいの行為が後を絶たない現状があるとすれば、危険が将来に起こる以前に今ここにあるわけで、将来に起こりうる危険を予測することが、今起こりうる危険をもたらしていることにもなり、用心してかからなければならないのは、将来起こることよりも今この現状の中で起こっていることに対してであり、確実なのは今この現状の中で起こりつつあることであり、まず注意して目を向けなければならないのは、現状の中で起こっていることになるわけだが、灯台もと暗しでそれになかなか気づかないのだろうし、それよりは将来に対する漠然とした不安を抱いている方が心が落ち着くのかも知れず、それが不安と期待の入り混じった思いともなるだろうが、そういう思いにのめり込んでしまうと現状から目を背けて注意を怠っていることにもなり、かえって隙だらけの危険な心理状態ともなってしまうわけだろうが、現状への対処と将来への対処のどちらを優先すればいいかというよりは、現状への対処がそのまま将来への対処に結びつくようなことをやればいいとしても、そう都合良く事が運ぶとは限らず、確実なことができるとも限らないし、現状の中でも将来においても不確実な状況の中で生きていて、その中でやれることをやっているつもりが、結果的にやっていることがうまくいかなくなってしまえば、またうまくいかないなりにもそれなりにやっていることが続いていれば、そこでうまくいっている面とうまくいっていない面とが入り混じっている状態なのだろうし、それをどう評価しようと、何かが起こる度ごとにどんな判断を下してみても、その判断が結果的に正しくても間違っていても、何かに利用されたり何かを利用している間は一定の状態を保っていられるわけで、その間は安心していられるのだろうが、利用し尽くしてしまったり利用され尽くされてしまうと、利用していた資源や力が枯渇して、利用価値がなくなってしまったのが縁の切れ目となり、利用できなくなればそれを捨てるしかないし、利用されなくなってしまえば捨てられるしかなく、そうなったときに真の危機が到来するわけで、そうなってしまうのを避けるには、持続的に利用可能なものを利用し続けるような状態を保てばいいわけだが、それが持続可能なエネルギーの活用となるにしても、そうなるに至るまでには模索期間も必要だろうし、そこで安定した状態を保ちながら一定の取り組みができるとも限らず、何かをやる度に伸るか反るかの賭けに直面してしまうようなことにでもなれば、将来への備えなどという悠長なことをやっている余裕さえなく、そもそもそんなことをやれる人たちにはそれなりに安定した環境と安定した状態がもたらされていて、それ自身がごく限られた人たちでしかない場合もありそうで、そういった人たちに狙いを定めた商売も万人向けというわけでもなく、そうであれば将来への備えを心配できるだけでも、恵まれた環境の中で暮らしていることの証しとなるのかも知れない。


11月11日「過去からの継続性」

 公の政治の場で何かができる可能性と、実際に何かがおこなわれていることが別であるのは、何かができる可能性とは別の力がそこに働いているからだが、それだけ現状でおこなわれていることには、可能性とは違った過去からの継続性が実績として反映しているわけだが、常識外れで突飛に思われることにも実現できる可能性はあるにしても、現状でおこなわれていることからかけ離れたことをやるには、過去からの継続性が実績として反映されていない分、いざそれをやるとなると抵抗感が伴うだろうし、結局はいくら論理的に実現可能であることが説明されて、その内容に説得力があっても、常識の壁が立ち塞がって実現することは難しいのだろうが、実現できると主張することはできるし、主張している分には民衆から支持を得る目的で主張していることになり、継続的に説得力のあることを主張していれば、それが実績となって民衆から信用されて、選挙での票の獲得につながる可能性もあり、またその場限りの軽薄な人寄せパンダ的な人気取りや煽動行為などとは違った、民度や政治意識の底上げとして民衆に対する啓蒙的な効果も期待できそうだが、持続的にそんなことをやり続けるには根気も労力も資金も必要となるだろうし、結果が出る前に途中で力尽きてしまう場合も多いのかも知れず、それだけ難易度が高くなるだろうが、そういうこととは別の可能性として、実際におこなわれていることからそれほどかけ離れない範囲内で何かをおこなうには、実際におこなわれていることを利用して何かをおこなう以外にはあり得ず、そうなると現状の社会的な秩序を損なわないようなことをやる成り行きになるわけで、秩序を守っているつもりの人たちが安心できるようなことをやろうとするのだろうが、そうなるとそれが経済によって維持されている秩序なら経済的な利益が重視されて、利益が出るようなことがおこなわれるわけだが、それも長期的な見通しが立たなければ短期的に効果が出るようなことが求められて、すぐに利益を見込めるようなことが推奨されるだろうし、結果的に小手先だけの表面的な効果を得るようなやり方となって、しかも宣伝効果を狙ってできるだけ派手に目立つようなやり方になるわけで、そうやって見るからに軽薄な人たちが飛びつきそうなキャンペーンの類いがおこなわれるわけだが、そんなことに官民を挙げて取り組むことによって守られるのが、現状で成り立っている社会的な秩序であるとすれば、思慮深い人にはそれがごまかしや目くらましのようにも見えてしまい、そうやって守られてしまう社会的な秩序にも何か問題があるようにも思われてしまうわけだが、その問題が何かとなると、ごまかしや目くらましによって隠そうとしている何かであり、そこに目を向けさせないようにしている何かになるのかも知れないが、それが具体的にわかりやすいことではない場合もあるだろうし、何だかわからないが官民を挙げてそう仕向けられてしまうとしても、本当のところは誰にもわかっていないようなことであるなら、それが謎のままになってしまうだろうが、本当は謎などではなく、誰にとってもわかりきったことかも知れないし、大したことでもないが、背に腹は代えられないようなことでもあり、そうすることによってとりあえず自分たちの生活を守っているつもりになれるにしても、何かみっともないようなことをやっているようにも思われて、いたく自尊心を傷つけられているような気がするのだろうが、できればもっと高邁な理想や理念などを実現させるために働きたいのかも知れないが、目先の利益を得るためにはそんなことは言っていられないわけで、そういう意味では理想と現実に開きがありすぎて、何が理想なのかも想像できないほど、実際におこなっていることにとらわれていて、そんな人たちにはオバマやバイデンのような人たちが掲げる民主主義の理想のような主張が腹立たしくてしょうがないのかも知れないが、それが腹立たしいと思っていることも自覚していないのかも知れず、その一方でトランプのような人には親近感が湧いてくるのだろうし、実際に働いて金を稼いで生活している実感がそう思わせるのであり、それが民主主義のきれいごととは無縁であるような実感でもあるわけだが、そういう人たちには贅沢な悩みを抱く余裕などないと思われて、それがリベラルな富裕層が抱く悩みだとも思われるのだろうが、そう思わせるような余裕のない経済状態の中に置かれてみれば、確かにそんな実感が湧いてくるのかも知れず、多くの人たちがそうなるように仕向けられているとしても、誰かの陰謀によってそう仕向けられているわけでもなく、自然の成り行きによってそうなってしまうわけだから、そういう成り行きを尊重しないわけにはいかず、場合によってはそう仕向けられてしまう自分たちを正当化せずにはいられなくなってしまうのだろうが、そうだからといってそういう境遇に自分たちが追い込まれているとは思わないだろうし、そんな境遇の中でも精一杯生きているつもりであり、多くの人たちがそんな生活が普通のことだと思っているのだろうが、それ以外の生活などあり得ないのかというと、たぶんいくらでもあるだろうし、実際に多くの人たちがそれなりに余裕やゆとりを感じられるような状態の中で暮らしているのだろうが、それがゆとりのないぎりぎりの暮らしを強いられている人たちの犠牲によって成り立っているとは自覚できないような世の中の構造となっているのかも知れず、そういうところで民衆の分断が生じているのかも知れないが、それがはっきりとは意識できないわけだから、双方が疑心暗鬼になっている面があるかも知れないが、それも推測の域を出ないことだろうから、誰にとってもはっきりとは自覚できない限りで、そこから問題意識など生じてこないのかも知れないが、いずれにしても公的な政治の領域と実際の生活とを分けて捉えるのでは欺瞞になってしまうから、民主主義の理想や理念を説く政治家に敵意を抱くように仕向けられているとしても、避けては通れないのが政治の領域であるわけで、自らが日頃からとらわれている目先の利害とは別に公共の利害とも折り合いをつけなければならないし、それには敵への憎悪を鎮めないとまずいだろうが、それが理解できないところであり、何事も自らがとらわれている状態からは自由にはなれないのかも知れないし、何よりも過去からの継続性と共に自らがとらわれている立場や境遇から自らを正当化する感情が生まれてくるわけだ。


11月10日「うまくいかないことの原因」

 現状では何かが根底から覆されるわけでもなく、そうかといってすべてにおいて過去からの延長上で事が進んでいるわけでもなく、それなりにこれまでに経験しなかった新たなことが起きているのだろうが、それにどう対応しているのかといえば、行き当たりばったりなところもあるのだろうし、その場の成り行きにまかせて何とか乗り切れるようなこともある反面で、何かやり方を決めてかかるような成り行きにもなってしまい、それが間違いのもとともなるわけだが、たとえ間違ってしまうとしても事前に方針を決めてかからないとやりようがなく、その結果として間違ったことをやってしまったことに気づくと、それを修正したり改める作業になるわけで、そうやって何かをやっている感を出すようなこととなってしまうわけだが、それも正しいやり方とは言えないだろうし、絶えずやり方を模索していることは確かなのだが、これといってやり方を固定できるようなことにはならないのかも知れず、同じやり方で通用しているうちはそれをやり続けるだろうが、それが通用しているか否かを見極めるのも難しく、いつまでもうまくいっていないやり方に固執してしまい、またうまくいかなくなって行き詰まってしまうと、普通はそれを続けるのが困難になってやめることになるはずだが、なぜかやめることができなくなって、うまくいかないことをいつまでも続けることになってしまい、そういう場合にはどう判断すればいいのかわからなくなってしまうのだろうが、そんなうまくいかないことをいつまでも続けるような成り行きというのが、現状でもたらされているありがちな成り行きなのかも知れず、それでも他から力や資源の供給を受けながら続いてしまうのだろうが、それらを供給している側ではうまくいっているのかというと、うまくいっているというよりは惰性で続いている面もあり、それをやめさせるような力が働かないから、それが執拗に続いていて、無理にやめさせる理由も見当たらないし、やめる必要がないといってしまえばその通りかも知れず、それをやめさせるにもそれなりの力が必要で、そんな力を使う価値もないことが続いているといってしまうと、さらに否定的な印象を伴ってしまうかも知れないが、そういうことは続けさせておけばいいようなことが続いていると見なすしかなく、それが必ずしもうまくいっていないからといって、続いてしまう理由など探す必要もなく、それが続いてしまう理由といえば理由かも知れないが、そんな理由では納得しがたいとしても、現に続いていることがうまくいっているから続いているとは言えないとすれば、それ自体が納得しがたいのだから、続いている理由も納得しがたいものとなるだろうが、逆にそれをやめさせることができればうまくいったことになるのかも知れず、やめさせることができないからそれがうまくいっていないことになり、逆説的にそうなっているから、うまくいかないことが延々と続いているように思われてしまうのであり、そもそもそれをうまくいっていないと見なすことが間違っているのかも知れないが、現状で続いていることをやめさせようとすることも間違っていて、やめてほしいように思われるとしてもやめさせる必要もないのかも知れず、それがうまくいっていないと思われるのだから、そのまま続けさせればいいわけで、うまくいっていないことを延々と続けるだけでも、実際にそれを続けている人や勢力には多大な重荷となっているだろうし、そのまま重荷を担わせておけばいいし、そんな重荷を担うのはごめんだと思うなら、わざわざそれをやめさせて、彼らに代わって重荷を引き継ぐようなことはしたくないと思うところだろうし、それが重荷となって負担がかかっていること自体がうまくいっていないことの証しであり、それを続けるとはそういうことなのかも知れないが、逆にうまくいくということは、さっさとそんな成り行きから抜け出すことであり、それをやめることができればうまくいったことになるとすれば、何かそこで勘違いをしていることになるのだろうが、そんな勘違いによっても続いているとすれば、延々と不幸な状態が続いていることにもなるのかも知れず、それが不幸な状態だからこそ続いていて、逆に幸福な状態というのは長続きしないのかも知れず、物事の大抵は不幸を耐え忍ぶような成り行きになってしまい、過去に経験した幸福な一時期をあのときは良かったと懐かしみながら、現状でもたらされている不幸を耐え忍ぶようなことが普通に起こっている事態で、人の感覚というのが歳月の積み重なりや時間経過の中でそう思うようにできていて、現状が不幸な状態だと思われるからこそうまくいっていないとも思われて、実態としてはそれを続けていられるわけだから、必ずしもやめるような事態にはなっていないにもかかわらず、うまくいっていないと絶えず嘆いて危機感を抱くような感覚に襲われているわけで、そう思っていないと安心できないというか、不安感に包まれていないとならないような逆説的な心理状態になっていたいのかも知れず、それも勘違いに過ぎないのだろうが、それでかまわないことでもあるわけで、そんな感覚を抱きながらもその場でうまく立ち回りたいのだろうし、それがうまくいっていると判断しようがうまくいっていないと判断しようが、そんな判断に関わりなく何かがそこで続いていて、それが続いている中で、その時々の状態や情勢に応じて、やっていることがうまくいっていたりうまくいっていなかったりすると感じて、そのどちらであってもそこで続いている実態には変わりなく、それをやめない限りは、あるいは他からの介入によってやめさせられない限りは、そこから様々な判断やそれに対する思いや考えが生じてくるだろうが、それが重荷や負荷になっているかといえば、そうなっていないとそんな状態から抜け出て別の状態へと移行してしまい、そこで続いていることが途切れてしまうわけで、それが途切れないようにそこへと引き留めるための重石となっているのだろうし、その重石が続けているつもりの人にとっては重荷や負荷になっていようと、あるいはそれを負担に感じていることがうまくいっていない感覚をもたらすとしても、そういう感覚が不安感や危機感をも抱かせるわけだから、それによって緊張感も生まれるだろうし、やっていることに真摯に向き合うためにはそれが必要となり、それでもうまくいっていない状態から抜け出したくて、あれこれと試行錯誤を繰り返すにしても、それもそんなことを続けるための原動力となっていることは確かなのではないか。


11月9日「道具としての人間」

 わざとひねくれて表現するのでなければ、人が機械や道具の役に立つのではなく、機械や道具が人の役に立つと考えるのが普通だが、何が人にとって役に立つ道具となるかというと、何かを道具として使う用途を考える必要がありそうで、普通は道具とは見なさないものを道具と見なすと、また物事をひねくれて表現しているように受け取られかねないが、何かの道具にされてしまうのが人の宿命であれば、例えば人体が精神の道具になると表現すれば、そんな感じがしないでもないが、人体と精神を分離できるのは想像上のことであり、人体に精神が宿っていると表現しても、道具に人の精神が宿っているようなことかも知れないが、それが道具として使えなければ、人など使いようがないし、誰もが使えない人間になることを目指しているはずもなく、どちらかといえば使える人間になることを目指しているのかも知れず、普通に使える人間は人として重宝されるだろうし、人が何に使えるかも使う側の人にとっては考えようだが、何かに人を使う魂胆が見え見えの場合には、その対象となった人としては不快な用途で使われるのはいやだろうし、いやなら使えない人間に見えるように装うかも知れないが、何の役にも立たない人間にも使い道がありそうで、その使い道というのが囮として何かの的となることかも知れず、それに向かって攻撃するように仕向けられてしまうと、実際に何かの濡れ衣を着させられて攻撃されてひどい目に遭えば、役立たずが役に立ったことになるのだろうが、できれば一回きりの使い捨ての消耗品の類いではなく、繰り返し使えるようなら役に立つ人間とされて、場合によってはその有用性を高く評価されそうだが、そうなるには誰もが積極的に使われることを望むような肯定的な用途で使われないとならないとしても、人が人として他から敬意を表されるには、道具として粗末に扱われてはまずいようにも思われるし、人の道具とはならないようにするには、役に立たなくてもかまわないような気もするわけで、何かの役に立つ人間になることを目指すよりは、何の役にも立たない方が、人としては高級な部類に入るのかも知れず、しかも何の役にも立たなくても普通に生きていけることが肝心であり、それが人として存在できることの必須の条件であるわけではないとしても、特定の機能に特化されて使用されないだけ自由度が高いことも確かであり、そういった類いの自由を求めるには有用性とは無縁な人になるべきだとすれば、社会にとっては要らない人間だと見なされてしまうかも知れないが、そんな人間になろうとしてなれるわけでもなく、結果的にそうなってしまう人もある程度はいるだろうが、無用な人間として普通に存在するにはそれなりに運も味方につけなければ、まともに存在することさえできないのかも知れないし、まともに存在できなければどうなるのかといえば、例えば浮浪者の類いになると普通に思われるだろうが、人から道具として扱われるか、人を道具として扱う立場になるかの二者択一とは違う、ただの人間として扱われたいということでもなく、何かの用途として扱われたくないということかも知れず、そうなると何でもない存在になりたいのかも知れないが、その何でもなさというのが価値としては認められるわけもないことだろうし、それよりは人としての有用性が価値に結びつくのだろうが、それが道具としての使用価値ではないとすると、存在するだけで価値があるとかいう抽象的な観念に結びつくのかも知れないが、そういった価値は何よりも人から人としてみられたいという願望から生じるのかも知れないが、それこそが独りよがりな願望にしか過ぎず、客観的には価値としては認めがたいことかも知れないが、誰が認めがたいのかといえば、人を道具として扱う人にとっては認めがたいのであり、使用価値がなければ無用な存在であり、無用な存在なら要らないということになるだろうが、そんな要らない人間としての存在価値を高めるにはどうしたらいいかとなると、何やらそこから逆説めいたことになってくるかも知れないが、少なくともそれが使用人としての価値ではないことは明らかだが、人を使用する側の価値でもなく、何でもない人としての価値があるとすれば、少なくとも人として使用される側の観点からも使用する側の観点からもそんな価値など認めがたいだろうし、そんな人に価値などあるわけがないということになるだろうが、価値などなくてもかまわず、価値が全てではないと思われるなら、価値にこだわる必要がなくなってしまうのだが、他の何にこだわるべきなのかとなると、こだわる必要さえなく、こだわりのない人になればいいということになるかも知れないが、こだわりがなければ自由になれるかというと、自由を目指すほど自由であることにこだわってしまうだろうし、他の何ものにも代えがたい価値として自由であることにこだわってしまい、それが人の有用性を重視する人にとっては無用な価値となってしまうとしても、そうであれば価値のない人ほど自由でいられるような逆説が成り立ってしまい、何の用途にも使えない人ほど自由でいられて、自由な人ほど何にも利用できない人となってしまうだろうが、利用や使用から見放されてしまえば要らない人間となり、誰からも見向きもされなくなってしまうのかも知れないが、そうである限りでその人に自由が生じて、それが他の何ものにも代えがたい自由であると共に、他の何ものとも交換できないから無用な自由でもあるわけだが、そうであるなら道具としての使用から免れるには、使えない人間になるしかなく、役に立たない人間と他から見られることによって、その価値のなさと引き換えにして自由を獲得できるとすれば、それが無価値と自由の交換となるかも知れないが、それが何を意味するわけでもなく、実質的には何の交換ともならないのかも知れず、他の何ものとも交換できない自由が何の役に立つわけでもないことになるはずだが、逆に他の何とも交換できる自由というのもあるのかも知れず、実質的にはそうではないかも知れないが、そう見られているのが貨幣であり、貨幣には他の何とも交換できる自由がありそうだが、実質的には価格に見合った額がないと交換できないところが不自由なところであり、そんな不自由を解消するには、貨幣を他の何とも交換できる額にまで増やす必要があり、そうやって逆に貨幣にとらわれる不自由が生じてしまうのだが、そんな不自由を解消するためには貨幣を増やす自由を最大限にまで高めたいわけで、そうすることが新たな自由主義であるかのような幻想も生じてきて、それが貨幣にとらわれる不自由に耐える自由にも結びつくわけだ。


11月8日「効果的なやり方」

 政治や経済の場では何が正しくて何が間違っているかの判断がもとからあるというよりは、何をどうやれば効果が上がるかが重要となり、何かをやった結果として効果が上がれば、それが正しいやり方だと判断されて、たとえ正しいと思われることをやったとしても、結果的に効果が上がらなければ、そういうやり方は間違っていると判断されてしまうのかも知れず、たぶんそこで法的な判断と政治経済的な判断が直接結びついているわけではなく、もちろん政治と経済も直接結びついているわけでもないのだろうが、恣意的に結びつけて何が正しくて何が間違っているかを勝手に決めつけているわけでもないが、その度ごとに正と誤が求められてしまうと、そこに時代的な経緯や事情が絡んできて、それをどう主張するかが正しいことのように思われる理由となるにしても、その理由に誰もが納得できるとは限らず、そこにかかわってくる物事について正しい判断をするように迫られているわけでもないが、人々の間でなし崩し的に正しい判断に関して合意が形成されているように感じられるとしても、もちろんその正しさに納得できない場合もありそうだが、だからといって納得できない人たちの言い分にも納得できない場合もあるだろうし、無理に納得する必要もないが、その場の情勢次第では納得せざるを得ない場合もあるだろうし、その場の情勢の中では結果的に効果が上がったやり方が認められて、それが正しいやり方だったと判断される場合もあるだろうが、それが必ずしも法的に正しいとは言えなくても、時には法律を破ってでも効果を上げようとする場合もあるだろうし、結果的に効果が上がれば、今度はそれを合法化しようとするかも知れないし、そうやって法律を覆すようなことがおこなわれる可能性があるわけだが、そうする方が都合が良ければ合法性よりも功利性や効率性などの方が重視されたり、もとから緊密に結びついていたわけではなくても、時代的な要請に応じて政治の場で経済運営の重要性が増してくれば、政治経済などという新たな分野が生じてきてしまい、いつの間にかそれがもとからあったかのように思われて、そんな情勢の変化に応じて都合の良いように法律も作り替えられるような成り行きになってしまうかも知れないが、そこで何をどう判断しなければならないかというと、そんなことがその場でわかるとは限らないが、その場の偶然が作用してこれまでとは違う判断になってしまうと、そんな判断が正しいとも思えなくなってしまうわけだが、いったんそう判断することが広く世の中で受け入れられてしまうと、それが正しい判断であるかのように思われてしまうわけで、そういうところで理不尽なことが起こってしまうのかも知れないが、それに多くの人が気づかなければそれがまかり通ってしまい、納得できない人たちもなし崩し的に納得させられてしまうようなことになって、そんな判断が正しい判断として世の中に定着してしまえば、それによって不利益を被る人たちも一時的に黙るしかなく、それらの人たちを抑圧することによって、世の中の平静が保たれるような情勢になってしまうのかも知れないし、現状でもそんな世の中が実現しているのかも知れないが、世の中で主流を構成している人たちにはそれでかまわないようなことであっても、中にはそれに納得できないような人もいる可能性もあり、そんな人の存在を無視してもかまわないのかとなると、何かしらそれについて抗議するような成り行きになれば無視できなくなるにしても、それを抑圧するような成り行きも一方では生じてくるのかも知れず、そういうことを感知できないような状況になっていれば、一時的にはそれで済んでしまうのかも知れないが、それが後から何らかの副作用を伴ってじわじわと世の中に否定的な作用を及ぼすようになってくると、多くの人にはそれが何なのかわからないまま、世の中がおかしくなってきたように思われてしまうのかも知れず、そんな中でも効果的なやり方によって成功している人や勢力が存在していれば、そのしわ寄せが歪みとなって世の中に悪影響を及ぼしている可能性が疑われるとしても、その原因がよくわからなければ政治的にも経済的にも何ともやりようがないわけだが、強引にその原因を特定するような成り行きにならなければ、わからないままとなってしまうかも知れないが、その効果的なやり方というのが、経済的な利益を餌としてちらつかせながら多くの人をそこへと誘い込んで競争させて、結果的に利益を得られた人を成功者として讃える一方で、利益を得られなかった人に対しては、自身の至らなさが原因で利益を得ることに失敗したと納得させることかも知れないが、そんなことはやる前からわかっていることだから、誰もが納得していることだろうし、それ以外の原因を探すように仕向けることが肝要であり、それが効果的なやり方になるかも知れないが、要するに原因を探しているうちに世の中の情勢が変化してしまえば、いつの間にかそんな原因などどうでもいいことになってしまうわけで、そして情勢の変化に合わせてまた新たに効果的なやり方が模索されて、そんなやり方を用いて成功した人や団体をメディアが賞賛する一方で、成功できなかった人や団体に対しては、その原因を探すように仕向ければよく、そうやって原因を探しているうちに世の中の情勢が変化してきて、またその変化に合わせて新たに効果的なやり方が模索されて、そんなやり方を用いて成功した人や団体が賞賛されるような成り行きが繰り返されて、その陰でそれに失敗した人や団体は顧みられないようなことにもなり、そんなことが繰り返されながらも世の中が変化しつつ時代も移り変わり、その場の情勢に応じて効果的なやり方も変わっていくのかも知れないが、情勢の変化に合わせてうまく立ち回れなかった人にはそれが理不尽なことのように思われるかも知れないが、不満があるなら抗議するしかないだろうし、多くの人たちが抗議することによっても世の中が変わる可能性があるわけで、そうなってしまっては困る人や勢力が抗議する人たちを抑圧することになるわけだが、果たして抑圧することが効果的なやり方なのかというと、それもその場の偶然が作用して場合によっては抑圧が無効になる場合もあるだろうし、抗議することに成功する場合もある一方で、たとえ失敗に終わったとしてもその失敗の程度によっては、何かの革命のようにして世の中が変わることもあるわけで、フランス革命や毛沢東の大躍進政策のように思いっきり大失敗することが、そこでの効果的なやり方になる可能性もあるわけだ。


11月7日「悪だくみと誤算」

 制度や組織や機構といった人を集団として制御する機関が機械に近い構造となっているのは、両者の仕組みが機能的に近いからだろうが、ともに現代社会においては欠かせない存在であると共に、それらを活用することによって人の社会や文明が成り立っているのだが、それらを使ったり利用することによって何ができるかとなると、人や物や情報を制御することができるわけだが、何が人を制御しているのかといえば、それらを制御しているつもりの人もそれらによって制御されていて、人がそれらを制御していることとそれらが人を制御していることが、同じことではないのはわかりきったことだが、意識の中では同じことのように思われてしまうのかも知れず、そんな混同が疑心暗鬼を生じさせて、それに関して陰謀論者の類いがわかっていないのは、それらを制御しているつもりの人がそれらから制御されている面であり、人が制度や組織や機構や機械を使って人を制御している面だけを捉えて、そこから何らかの陰謀が巡らされているように思われてしまうわけだが、逆に制御されている面を捉え切れていないわけで、人が思い通りにそれらを制御できると思い込んで、意図や思惑通りのことが実現できると信じ込んでいるか、信じ込んでいる振りをしながら、彼らがそれと決めつける悪だくみの当事者を攻撃するわけだが、もちろん悪だくみが架空の企みではなく、悪だくみの当事者も架空の存在ではないはずだが、それらの存在を想像して、それがおこなわれていることを推理しているわけだから、想像や推理の範囲内ではフィクションであり、場合によってはその証拠をねつ造してまでそれがおこなわれていることを強調するわけで、ねつ造しないまでも印象操作を駆使して証拠があることをほのめかすわけだが、そういうことをやってしまう人たちは自らの意志でそんな陰謀論を主張していると思っているだろうが、それが彼らが利用していると思い込んでいる制度や組織や機構に操られていることの証しだと述べると、そんなことはないと反駁されるわけでもなく、単に相手にされないだけだろうが、彼らがそれらを使って攻撃する対象を悪だくみの当事者に仕立て上げたいのは明白であり、自分たちがそんなことを企んでいるわけだから、相手も企むに違いないと思ってしまうのも無理もなく、そんな疑心暗鬼にとらわれていること自体が、それらの人たちが利用していると思い込んでいる制度や組織や機構からもたらされている効果であり、そんな効果によってそれらの人たちが制御されていて、それを操られていると見なすのは、制度や組織や機構に人のような操る意志があるわけでもないとしても、それらによって操られているような効果がもたらされていて、そうやってそれらに依存するように仕向けられているのは確かであり、それらが彼らの力のよりどころともなっているのだろうが、それらを都合の良いときに都合の良いところだけ都合の良いように利用しようとするのも、それらからもたらされる効果であり、それらを効果的に使えばその場の状況を制御できると信じ込めるだけの感触があるのだろうし、それが機械を操作するときに得られる感触と同じ類いなのかも知れず、そういう感触があるからそれらを信頼しきってそんなことをやろうとするのだろうが、その結果として彼らの思い通りの状況となっているかというと、そうでもないだろうし、それが彼らなりの焦りを呼んで、しきりにそうした主張を繰り返す動作となって表れるのだろうが、それが一方的な主張であるほど、そんな主張を真に受けて信じ込んでしまう人とそうはならない人との間に分断をもたらして、そこから両者の間で対立や争いが生じてくるのだろうが、それもそれらからもたらされる効果と言えるのかも知れず、それらを使ったり利用する側が有利になると思わせるような効果があり、そんな効果を期待してそれらに依存するように仕向けられていて、実際にそれらを使って自分たちにとって有利な状況を実現したいから、そんな画策をするわけだが、それらがその人たちだけに都合が良いように作られているかというと、やはりそうでもないのかも知れず、それが公的な制度や組織や機構であれば、一応は万人が利用できるような構造となっているだろうし、特定の人たちだけに有利なようにはなっていないはずだが、それを攻撃に利用したい人たちは、攻撃対象に有利に働いていると非難するだろうし、そういう面を利用して悪だくみに使ったのだと主張するわけだが、それがそのままそれを攻撃に利用する人たちがやっているやり口なのだから、自分たちがやっていることを攻撃の対象もやっていると主張するようなことにもなり、物事の片面だけを一方的に主張しているだけなのに、それが結果的に物事の両面が明らかになるような不可思議な事態に至ってしまうわけで、何かそういうところに彼らなりの誤算があるのだろうが、それもそれらの利用の仕方からもたらされる効果なのかも知れないし、そういう意味で陰謀論者が攻撃相手がやっていることだと一方的に決めつけていることが、自分たちが常日頃から当然のこととしてやっていることでもあり、自分たちのやり口を攻撃相手に投影していることになるのかも知れないが、そうなると自分たちの一方的なやり口を公言してはばからないような倒錯が生じているようにも思われて、そう見えてしまうことも制度や組織や機構からもたらされる効果なのかも知れず、そういうところからそれらの恐ろしい一面がうかがい知れると捉えておけばいいのか、あるいは利用の仕方によってはそうなってしまうということなのか、その辺がよくわからないところでもあるわけだが、それらを使って何かをやろうとする人の意図や思惑や野望といった類いが、それら自身から生じてくることは確かであり、もとからそうした意図や思惑や野望などを抱いていたわけではなく、人からではなく集団の力の具現化としての制度や組織や機構などから生じてきて、それを抱かせるような構造がそこにはあるわけだが、そこに誤算もあるとすれば、それらから人の意志の自由が奪われていて、それらに依存することによってしか抱くことができない意志に限定されてしまい、いったんそれらに依存してしまうと他の自由意志が生じてこないようにされてしまうわけだが、必ずしもそうなってしまうことが不快には感じられないのだろうし、むしろ自分の意志で機械を制御しているような操作感がもたらされて、そこに構成されているシステムが動作する範囲内でしか機械を動かせないにもかかわらず、まるでシステム全体を支配しているような快感をもたらして、誰もがそういう立場になりたいのかも知れないが、自らがシステムによって限定された立場であるのに、限定を逸脱して力を及ぼせるかのような妄想にとらわれてしまうと、実際にそんな妄想を打ち砕くような現実に直面して、さらには敵によって妨害を受けているような妄想にもとらわれてしまうのではないか。


11月6日「自らに固有な問題」

 自らが直面している事態が誰もが直面している事態だと思ってみても、そこには自らに固有の事情や都合が絡んでいるのではないかと思いたいのだが、誰もがそう思いたいのなら、そういうところは誰もが直面していることに過ぎず、そういう面では自らに固有の問題があるとは思えないわけだが、それとは別の面では自らに固有の問題もあるのかも知れず、その固有の問題というのがどれほど自らにとって重大かというと、確かに重大な面もあるが、それがどうしたわけでもない面もあるだろうし、そういうところで客観的に判断できるようなことではなく、自らに固有な問題が他人にとってはそうではないのは確かだろうが、自らが重大に感じていることが他人にどう思われようと、あるいはどうも思われていないにしても、それについて考えてしまうことは確かであり、他人からどう思われようと、どうも思われていないにしても、それを考えないわけにはいかないだろうし、それはそういうことでしかないわけだが、それを自らに固有の問題だと思っていること自体がそもそも勘違いかも知れないが、例えば世界の閉塞感や終末感と共に将来を見通すような予言や予想や予測などをおこなうのは、誰もがやりそうなことかも知れないが、それの何が問題というわけでもなく、誰にとっても自身に固有な問題とはなりがたいのだろうが、では自らに固有な問題とは何かといえば、身の回りの些事がそうだとは思えないし、それはそもそも問題なのではなく、問題ないから些末なことにとらわれていて、重要とは思えないから些末なことのように思われるのだろうが、そんな些細なことにとらわれている自らが、自身にとっても周囲の誰にとっても些末な存在としか思われなければ、それが自身にとっては深刻な事態だと思われてしまうのかも知れず、できればもっと自身にとっても周囲の誰にとっても自らが重要な存在だと思われたいと思うのが、他の誰にとってもそうだとすれば、それが自らに固有の問題とは思われないし、誰もがそう思うような些末なことに過ぎないのかも知れず、それが自意識過剰の表れだと思うしかなければ、そんなことは問題にもならないことであり、真の問題はそんなことではなく、もっと何か世のために人のためになることを考えるべきだと建前上は思うかも知れないが、考えるべきことも考えてしまうことも色々とあり、いつ何時でも真に重要だと思うことばかりを考えるわけにもいかず、些細でどうでもいいようなこともいくら考えていても一向にかまわないのかも知れず、それが誰もが考えるようなありふれたことであってもかまわないだろうし、それを考えるべきというよりは、そんなことまで考えなくてもかまわないようなことまで考えてしまうから、人が人としての存在を保っているのかも知れないし、実際にそんなことまで考えなくなってしまえば、もはや人ではなくなってしまい、人でなければ何になるのかといえば、人ではない何かになるわけでもないだろうが、人が人であるからには考える必要がないことまで考えてしまうのであり、そういう無駄で無意味なことまで考えてしまうから、人として存在できると考えておけばいいのかも知れないが、自らが考えられるのはそんなこと以外ではなく、それ以外は何も考えていないというわけではないが、それ以外にも考えてしまうことが、そこからそれほど隔たったことだとも思えないし、それが誰にとってもありふれたことであっても、自らがそれについて考えれば、それが自らに固有な問題となるかも知れないし、誰にとっても固有な問題とはなり得ないが、少なくとも自らにとっては固有な問題と認識しておけばいいだろうし、そういう前提でそれについて考えているわけではないが、たぶん考えているのはそういうことであり、それが自らにとっては固有な問題だと思いたいわけだが、それが具体的に何かといえば、例えばそれが救いようのない愚かさについて考えていることかも知れず、何が救いようがないのかといえば、世の中の全てにおいて救いようがなく、実際にこの世界が救いようのないことで満ちているにもかかわらず、救われないことを救おうとするから愚かになってしまい、愚かになってしまうからそれについて考えてしまうのであり、そんな愚かさ自体が救いようがないわけだが、救いようがないことを救おうとしているのは自分ばかりではなく、案外誰もが救いようがないことを救おうとしているのかも知れず、救いようがないにもかかわらず救おうとしてしまうから、誰もが愚かになってしまうとすれば、では逆に愚かにならない方法があるかといえば、それが自分自身に専念することであり、他の何かを救おうとはせずに自分を救うことに専念すれば愚かにはならず、その代わりに何になるのかといえば、自分自身になれるというと、そんなのはもとから自分自身ではないかと思うかも知れないが、自分だけではなく他を救おうとしている限りで、自分に専念できないわけで、自分に専念できないところから愚かさが生じてくると考えれば、何かそんな論理がもっともらしく思われるかも知れないが、要するに自らに専念することが自らに固有な問題なのであり、それ以外のことを考えてしまうとそれは自らに固有な問題ではなくなり、ではそれが何になるのかといえば、それを一般的な呼び方で表現するなら社会問題となるわけだろうが、では社会問題が自らに固有な問題ではないかというと、自らにとってだけではなく社会にとって問題となるようなことであり、社会にとって問題となるようなことであれば、その社会に暮らす誰にとっても問題となるようなことになり、それと自らに専念することから生じる自らに固有な問題がどう関わってくるのかといえば、誰もが自分のことしか考えなければ、社会そのものが成り立たなくなってしまうかも知れないが、誰もが自分以外のことを考えてしまう愚かさを分かち合う限りで、社会が成り立っているようにも思われるわけで、そういう意味では社会が成り立つには誰もが愚かになる必要があり、自分だけが愚かになることを回避して賢くなろうとしてはまずいのかも知れず、ある程度は他人と愚かさを共有しながら他人を利するようなことをやっているから、それによって世の中が回っていると考えておけばいいだろうし、自らが愚かな過ちや誤りを性懲りもなく繰り返してしまうから、それを利用して他人が利益を得られて、それと同じように他人も愚かな過ちや誤りを性懲りもなく繰り返してしまうから、それを利用することで自らが利益を得られるような世の中になっているのではないか。


11月5日「騙された振り」

 事態を真に受けることが果たして必要なのかといえば、真に受けずにそれとは違う幻想に浸ることが時には必要だと思われて、それが事態を真に受けることだとも思われると、事態を無視することが真に受けることだとも思われるのかも知れないが、そうは思わないが、そう思っているように装うことも時には必要だと思われて、そこからその場の都合や事情に応じた演技が始まってしまうのかも知れず、それが悪いことだとは一概に言えないが、時は必要だとは思われないようなことをやってしまうとしても、意外とそれが功を奏してうまくいってしまう場合も、逆にさらなる事態の混迷をもたらすこともあるだろうが、どちらにしても事態が何らかの推移を見せるだろうし、それによって何らかの進展が起こったようにも思われるわけだが、実態としてはどうかというと、その場で見せかけの演技が空回りしているだけで、実際には何の進展も起こっていなければ、見せかけの演技からもたらされた雰囲気に呑まれて、好意的な幻想に浸っているだけかも知れないし、それによって事態が進展したと思い込んでしまっているのかも知れないが、それに気づかなければそれでかまわないのかも知れず、実際に気づかない人が大勢いれば、それがその場の共同幻想となって、そんな共同幻想に浸りながら直面している事態を乗り切ろうとしているのかも知れないが、それが実際に株高をもたらしていて、危機的な事態によく耐えているような印象を得ているのかも知れないが、そんな印象に実態が伴っているのかといえば、伴っているように見せかけたいのだろうし、それが見せかけではなく、実質が伴っていることを信じて疑わないわけでもないが、信じるには多少の疑念がつきものであり、疑念を抱きながらも信じていれば、一途に信じるよりは安心できるかも知れないし、そんな安心が慢心にならないように身を引き締めているつもりかも知れないが、そこでも身を引き締めているように装っているだけかも知れず、そうやって安心するための演技には、演じようとすればいくらでも演じられて際限がないような傾向があって、それらのどこからどこまでがその場の実態を反映しているのかといえば、全てが実態を反映していると捉えてもかまわないが、そうだとしても程度の強弱や高低や大小があるだろうし、全てが一様に実態を反映しているわけでもなく、中には何も伴っておらず、それだけ幻想の割合が高かったりする場合もあるだろうが、思い込みにも演技にも際限がないとしても、そう見せかけたいのだから、それをそのまま真に受けて、騙された振りをするというよりは、本当に騙されてしまってもかまわず、むしろ積極的に騙されようとしているのかも知れず、騙されているのだから騙されていることに気づいているわけではないのだろうが、気づかなくてもかまわないわけで、むしろ気づいていない方がその場では好印象に思われてしまい、その場の状況を肯定して、肯定している自らを正当化するには、その場の雰囲気に呑まれて積極的に騙されることを受け入れる必要があり、そうすればそこに醸し出されている共同幻想に浸れるのかも知れないが、それで騙されていることになるのかといえば、騙されていることに気づかないばかりが、騙された振りをしていることにも気づかないのかも知れず、演技として騙された振りをしていて、騙された人を演じているわけで、そういうところでそういう人たちをどう見ればいいのかわからなくなってしまうわけだが、それで本当に騙されていることになるのか、あるいは騙された振りをしているだけだから、騙されているわけではないのか、どちらか一方なのではなく、両方が入り混じっている状態なのか、さらにはそういう騙された振りを装う演劇集団がSNSなどで自然発生的に虫の大群ように湧いていると見るべきなのか、あるいは人為的に組織されていると見るべきなのか、それもよくわからないところであり、実際に街頭でデモ活動をしている人たちもニュースなどではよく見かけるわけだが、メディア上でそういう印象が醸し出されていて、そんな活動と共に事態が進展しているような印象を受けるわけだが、実際のところは何がどうなっているわけでもなく、革命の形骸化したなれの果てがそうした集団活動として画面上に映し出されているわけだが、それらの集団活動が本当の意味での革命に発展するのかといえば、実際に何らかの騒動が起こってそれを革命と形容する場合があるとしても、それも革命と呼ばれるようなものとして世間に認知されるのかも知れないが、それらが好意的に受け取られたり否定的に受け取られたりもするものの、それ自体は一過性の騒動に過ぎないのだろうが、そこから何が生じてくるかが重要と言えるのか、あるいは何が生じてきても流行り廃りを伴った一時的なものに過ぎないのかは、実際にそうなってみてから判断するしかないだろうが、そこでも何がどうなっても一途にぶれずに一様に同じ主張を繰り返している人がいるなら、時にはそんな主張に耳を傾けるのも一興という冷めたものの見方からはほど遠い、それを本気で信じ込むような成り行きの中に活動の実態があり、そこに何らかの社会的な問題や不都合や不具合が顕在化していることは確かであり、それを何とかしたいという思いから一定の主張が生じてくるわけだが、これまでにも何かを延々と主張してきた成り行きがあり、その延長上で何かが主張されていると思いたいのかも知れないが、そういう受け止め方ではまずいのかも知れないし、実際に問題や不具合や不都合に直面している人がいるわけだから、それをどう受け止めるかが問われていて、真摯に受け止めれば、それに関して主張しなければならない成り行きが生じてしまうわけだが、受け止められなければ何も主張しなくてもかまわないのかといえば、自らの利害とは無関係ならそんな態度もあるだろうが、それが直接の利害とはならない場合もあり、そういうところが利害とは無関係だと思い込めるかとなると、たとえ無関係に思われても同情したり共感する場合もある一方で、関係があっても見て見ぬ振りをする成り行きにもなるだろうし、できるだけ自らの都合や事情を反映させないように振る舞いたいなら、微妙な判断を強いられるのかも知れないが、それ以前に肯定と否定との間で揺れ動きながらも、両義的にそれらの活動を捉えておくことが肝要だが、訳知り顔で騙された振りを装うのは、結局のところミイラ取りがミイラになるようなのめり込みの危険が伴ってくるのかも知れない。


11月4日「政治の行き詰まり」

 それが無理なことだとはこれっぽっちも思っていなくても、一般的には無理なように思われることをやらなければ何も変わらないのであれば、これまでに誰もやらなかった一見無謀に思われるようなことをあえてやろうとするのだろうが、本当にそれができるかとなると、誰もが現状では無理なように思われるのが当然であれば、それとは違って現状でおこなわれていることの延長上で事を収めようとするのも保守的な人にはこれまた当然に思われることでもあり、現状を変えるために何をやろうとしているのかが明らかになっている限りで、現状を変えられたくない人や勢力としてはそれを阻もうとするわけだが、実際にそれを実現しようと試みる成り行きになってみないことには、それが駄目だと判断を下す段階にはならないとしても、事前にダメ出しをしておけばそれを試みる段階にも至らずに済むかも知れず、まだそれを主張している段階では何とも言えないとしても、主張していることを実行に移される前に潰しておけば事なきを得るだろうし、そんなことをやらなくてもそれが駄目な試みであれば、当然のことながらうまくいかなくなるわけだが、まだそんな段階にも至らないうちからそれが駄目な試みだと断言するに足る明白な理由や根拠を示しておけば、そういうことをやろうとする主張そのものが説得力を失うだろうが、そうした理由や根拠を示せなければ、それに関しては現状では判断を保留しておいてもかまわないわけだが、それを主張する人にとっては実際にそれをやろうとしているわけだから、それが実現可能だと主張するしかないだろうし、実現可能だと思っているからそんな主張を繰り返しているわけで、そういう段階ではそうなるしかなく、それをやりもしないうちからあれこれとあげつらってみてもらちがあかないのはわかりきったことだが、それとは別の方面から何か語ることがあれば、それを語る成り行きになるわけだが、例えば現状で顕在化している政治的な無効性について何を語れるかとなると、その行き詰まりについて語るしかないだろうが、最悪の結果をもたらしているのが現状だと見なすなら、それが政治的な無効性が顕在化している結果として示されているはずだが、果たして政治的な試みが現状では無効だから実際に最悪の結果がもたらされているのかというと、無効であろうと有効であろうと制度的に政治がおこなわれていて、実際にその役職に応じてそれをやるようなお膳立てが用意されているわけだから、その任にある人が役職に応じたことをやるのだろうが、それが中身のない演技に見えてしまうと無効だと思われてしまい、そんなことをやっても何の成果ももたらさないように見えてしまうわけだが、中身のない演技を強いられてしまうこと自体が、そうしたことをやらせる側としてはうまくやっていることになるわけだから、それでかまわないと見なすならやっていることがうまくいっていることにもなるわけで、実際に何でもないようなことが起こっていて、それを何でもないと解釈すること自体が間違っているとしても、そうした状態が継続していることになり、それが政治的な行為でもあり、そうやって何も変わらないような状況がもたらされているわけだが、果たしてそれでいいのかとなると、政治的な行為としてそういうことをやらせている側としてはそれでうまくいっていることになるわけで、果たしてそれをやらせている側というのがあるかといえば、公的な領域ではそれを支持する民衆がそれをやらせていることになるわけだが、それが何もやらせないという意思表示と共に政治をやらせているように見えるとすれば、そう見えてしまうこと自体がおかしいのだが、それが何かをやっているように装うことであっても、やはりそれもおかしなことであり、もっと具体的で実効性のあることをやってほしいと普通は思うはずで、それが何かが明確に示されていれば、実際にそれをやろうとするわけだろうが、たぶん現状の中ではそれが見えてこないというよりは、見えているものを見ようとしないといった方が、より実践的で現実的な姿勢や態度に結びつき、多くの人々がそういう姿勢や態度になってしまうような状況にあるのかも知れず、そういう姿勢や態度が民主主義を駄目にしていると述べてしまうと、世の中に向かって警鐘を鳴らしているような役割を演じていることになって、それこそが政治的な演技になってしまうわけだが、演技を避けられない事情もそういったことを述べてしまう人には生じているだろうし、そういう人には演技を避ける理由が見当たらず、それよりはそんな役柄をこなす方が実践的で現実的な姿勢や態度に思われるのだろうが、実際に見えているものを直視して、それをどうにかしようとするなら、それに取り組まなければならなくなり、それに取り組むのが政治としての役目だと自覚するなら、それをやればいいのだろうが、逆にそれをやろうとするのを阻むのが政治の役目だと思われてしまうのが、現状で演じられている政治的な行為であれば、そういった演技の有効性はそれを阻むことから感じられてしまうわけだが、それが何を阻んでいるのかといえば、誰もが見えているものを直視させることを阻んでいるのかも知れず、またそれを直視したくない人々が現状で主導権を握っている人や勢力を支持しているわけで、その直視したくないものが何かといえば、人々が敵と味方とに分断されている状態であり、敵に向かって攻撃を仕掛けているつもりになっている人たちが、現実を直視したくないと言ってしまうと、それも世の中に向かって警鐘を鳴らしていることになってしまうわけだが、果たして本当に敵と味方とに分断されているのかといえば、そうなっている方が好都合な人や勢力が現状の中で主導権を握っていると捉えれば、それらの人や勢力は現実を直視しているはずだが、では世の中が敵と味方とに分断されている状態を直視できないのが誰なのかといえば、そうした分断を快く思っていない人や勢力が直視できないとすれば、分断した状態を解消して、特定の階層や集団を敵視しないような世の中に作り変えたいと思っているのかも知れないが、それが現状ではできないことであり、それどころが敵に向かって攻撃を仕掛けていないと立場が危うくなってしまう人たちが、現状で主導権を握っている人や勢力を支持していることになるわけだが、敵がいないと困ってしまうような状況というのが、政治的な行き詰まりを示していると共に、政治をおこなう理由として一般的な動機にもなるわけだから、そういう意味ではその手の人たちにとっては、状況が行き詰まっていないと政治をおこなう成り行きにはならないわけだ。


11月3日「機械と人間の動作」

 それを物質として捉えるならそうだとしても、この世にある何もかもが細部からなる構造体であるわけでもないし、そこに物事の本質があるとは限らず、意外と大雑把な枠組みを捉えることによって、物事の本質を理解できる場合もありそうで、細かな部品の集合体である機械の類いにしても、その動作の原理は至って単純明快な場合もあるだろうし、動力源は内燃機関や電気モーターで駆動しているだけであったり、半導体素子の複雑な組み合わせとして論理回路が構成されていても、電流のオンとオフで1とゼロを表現しているだけであったり、魔法や超能力の類いによって動作しているわけではないのだが、そこに人の言語的な意図や思惑が絡んでくるとややこしいことになってくるのかも知れず、多くの人や団体が介入してくると思わぬ事態が引き起こされて、機械的な動作原理に基づいた単純明快な結果とは違って、こじれた様相を呈してくることも多いのだろうが、そこから無理に明確な答えを導き出そうとしなくてもいいのかも知れず、制度的には何かをはっきりと決定しなければいけないとしても、一度決めた決定事項にとらわれてはまずいわけで、何を決めても後から修正可能なわけでもないが、意外と決められたことが守られない場合も多く、決めたことが守れないのなら、何のために決めたのかわからなくなってしまうかも知れないが、その場の都合に応じて柔軟に対応しようとすれば、決めたことをなし崩し的に骨抜きにするようなことが日常茶飯事のごとくにおこなわれてしまうわけで、それが言語的にも実践の中でも有言実行的な面で矛盾をきたすのだろうが、始めからそれを狙っているわけでもなくても、動作していくうちに言っていることとやっていることが違ってきてしまうのだろうし、それを容認できる場合もできない場合もあるとしても、できれば多くの人にとって許容可能な成り行きへと持って行きたいわけだが、そこで思い違いをしていることがあるとすれば、同じことのように見えて微妙に異なってくることであり、それが人間の機械化と機械の人間化に関係することなのかも知れず、時代の趨勢として顕在化しているのは、機械の人間化の方であるにもかかわらず、そうした成り行きに逆行しているように見えるのが、誰もが紋切り型として理解している竹中平蔵的な新自由主義であり、そこで顕在化しているのが人間の機械化であるように見えてしまうわけで、物事の処理において機械的な動作原理に基づいて単純明快な結果を決めてかかってしまい、それが新自由主義的なやり方だと勘違いしているわけだが、それらに関係する事態をそう捉えた方が確かにわかりやすいが、実際に進行中であるのは機械の人間化の方であり、機械の動作を人間の動作に合わせようとしているわけで、それとは逆の人間の動作を機械の動作に合わせるような19世紀的な思考とは真逆な事態が起こっているのに、それを理解できないのが古い新自由主義的な発想や思考でもあるわけだが、そういう面で新自由主義に対する認識の混乱が日本では起こっているのかも知れず、機械的に単純明快な結果に至ろうとして、日本に置いては未だに明治維新以後の西洋由来の産業革命的な観念に取り憑かれてしまっているわけで、それが新自由主義そのものだと間違って解釈されている可能性があり、そういうところで世界の趨勢との間で微妙なずれが生じているのかも知れないが、それに関して世界の趨勢から導き出される傾向としては、人間的な紆余曲折を伴って事態がこじれている中でどう振る舞うかが問題となっているのに、こじれた事態を機械的に単純化しようとするからうまくいかなくなるわけで、そこでどう振る舞うかを省略しようとするから、省略しようとする分だけ情勢認識が虚構化されてしまって、そういうところで人間的な交渉や駆け引きのノウハウが蓄積しないわけだが、逆に機械的な割り切り方を避けて交渉や駆け引きの中に留まろうとすることが、新自由主義的な戦略に含まれていることに注目しなければならないのかも知れないが、そういうところに微妙に粘着質的な傾向があるわけで、そこにケインズ主義的あるいは社会主義的な傾向への全否定というのではなく、それらとは正反対の傾向へとは進まずに、微妙にずれてねじれたことをやっている傾向があるわけで、そういうところに着目しないと、従来通りの右翼と左翼や保守とリベラルの二項対立的な構図しか出てこないわけで、どうもそういう構図では理解できないことを念頭に置かないと、ますます世界の趨勢からずれた認識に至り、時代から取り残されてしまう可能性も高まるかも知れないが、結局は認識も状況に合わせて自動的に修正されるような傾向もあり、それほど日本だけが世界から取り残されるわけでもないだろうし、現状に対して過剰な危機感を抱くのも勘違いになりかねず、日本の状況だけがどうなるわけでもないはずだが、それに関して肝要なのは単純で二項対立的な図式の提示には用心しなければならず、現状で敵対しているように見えてもそれが真の敵対ではない可能性があるわけで、そういうところで常に判断を留保する部分を残しておいた方がいいだろうし、一方的な振り切れは禁物で、そうしないと後から修正が利かずに取り返しがつかなくなってしまうわけで、そうなってしまうのを避けるには人間的な試行錯誤や事後的な反省に基づいた絶え間ない態度や姿勢の修正作業を続けていく以外にはなく、そうした作業を粘り強くやっていけば、過ちや誤りを犯しても後からそれを改めようとするだろうし、主張や意見が合わなくても交渉や取引をすぐには打ち切らずに、何とかお互いに譲歩や妥協を引き出そうとして、その場に留まり続けることにはなるわけで、そこから明確でわかりやすい結論が出てこなくても、否定的に見るのではなく、引き続いて絶え間なく交渉や取引をおこなう上での足がかり程度に認識しておけばよく、その場の状況や情勢によってはさっさと見切りをつけて別のことをやった方がいい場合もありそうだが、見切りをつけることと単純に割り切ることは違うだろうし、物事を単純に割り切ることが決断とはならず、戦略的には単純に割り切ったように見せかけながらも、引き続き交渉や取引の場に留まる決断を下す場合もあるわけだが、そういう二枚腰的な粘り強さがないと、何事も前進させられないだろうし、時と場合によっては機械的な割り切りも選択肢として残しておくが、それだけでは済まない事態にも備えておくといった両義的で矛盾した態度や振る舞いになってしまうこともいとわない姿勢でいるのが人間的なやり方でもあるわけだ。


11月2日「数値から得られる実感」

 何かを得られるということは、得られた物事を実感できれば、それによって得られたことがわかるが、実感できない物事も得られているかも知れないし、何を得られたのかわからなければ、それを実感できないが、実感できなくても得られていれば、それによって何かしらそれ以前とは異なる状態になっているはずだが、それを実感できなければそんなことなどわかるはずもないだろうが、そんなとりとめもないことまで考える必要もないだろうし、そんなことまで考えるのは意味のないことだと思っておけばそれでおしまいとなってしまうが、ではなぜそんなことまで語ろうとしているのかといえば、それもよくわからないことかも知れず、何かのついでに意味の定かでない日常からの逸脱感を得ようとしているのかも知れないが、そんなことであってもそこから何かを得ているのであり、たとえそれが幻想の類いであっても、得られたものから何かが生じてきて、それが気分の高揚をもたらせば、何かを得られた気になれるのだろうが、気分の高揚感を得るためだけにとりとめのないことまで考える必要もないだろうし、もっとマシなやり方がいくらでもありそうだが、それに関してそれを得るために何を投資しなければならないかが、功利的な損得勘定によって規定されているなら、幻想などではなく確実にわかるような数量的な何かが求められて、それを得るために何かしら作業の類いをやりながら物事が前進しているように装われて、そんなことをやった結果として目に見える物質的かつ数値的な何かが提示される必要があるのだろうが、その結果として提示される数値というのが、恣意的な目くらましの意図や思惑が介在してくるところでもあり、都合の良い数値だけを取り上げて肯定的な評価を下せば好印象を得られて、その一方で得られた好印象を阻害するような都合の悪い数値は無視されたり隠蔽されてしまうわけで、それは数値の取り方にも影響してくるところであり、そうやって好印象を得るために数値的な結果を示すという行為からごまかしやねつ造が生じてしまうのだろうが、ごまかしやねつ造でなくても実感を伴うような数値を得られる場合もあるだろうし、それが売買によって得られる利潤であったり、貸借から得られる利子であったりするのだろうが、他にもスポーツやゲームやテストなどから得られる得点もあるが、そういう何らかの行為に伴って一定の数値が加算されるようなルールが達成感という好意的な実感をもたらすとしても、それも得られた数値が目標に達しなかったり、マイナスになってしまうと落胆してしまうし、ルール上そうなってしまうことがわかっていれば、そうならないような努力が求められるわけだが、そういった数値を獲得するゲームの類いに参加する人の全員がプラスの結果を得られることはないだろうし、それがゲームである以上は勝ち負けの結果が伴ってきてしまうし、勝った者にはその程度に応じて満足できるような得点が加算される一方で、負けた者には不満が残る点数しか与えられないし、参加した全員が勝てるわけでもないのは、ゲームのルール上は仕方のないことなのだろうが、果たして誰もがそうしたゲームに参加する必要があるかとなると、中には参加したくない人もいるはずで、参加したがらない人を無理に参加させるのは人道に反する行為かも知れないが、実態としては誰もが経済活動から生じる売買や貸借などの行為にとらわれているわけで、そこから当然のこととして数値が絡んできて、数値としての利潤や利子などの利益を求めようとして、あれこれと画策することになるのだろうが、それを数値にとらわれたゲームの類いだと割り切ることができるかといえば、実際に労働して賃金を得てそれを生活の糧としている限りで割り切れないだろうし、自分や家族の生活がかかっていれば遊びのゲームとは違うわけで、そうなると実感としても本気モードにならざるを得ないし、少しのミスが命取りになるような緊迫した感覚で日々を過ごしているわけでもないが、ちょっとしたきっかけから身の破滅がもたらされるような重大かつ深刻な事態を頭の隅では想定しているのかも知れず、それは実際にそういう状況になってみないことには実感できないことかも知れないが、それとは違う面でも実感できないことがあり、それが労働した見返りとして報酬をもらっていることが労働力を売っていることだとは実感できないわけで、それが直接の売買とは関係のないことだと思われてしまうと、働けば賃金が払われるのが当然のことのようにも思われてしまうわけで、そんな思いから売買に伴う危うさが無視されて、それを都合の良いごまかしだとは思わないだろうが、忘れられていることでもあり、自らに労働力しか売るものがなく、多くの人がそれしか生活の糧がない状況に追い込まれているとは思われないことが、経済活動の危うさを実感させるはずなのだが、それが当たり前のこととなっているわけだから、普段は実感できるはずもなく、それも実際に失業して無職となってから初めて実感することなのだろうが、当然のことが当然のことのように働いている限りで実感できないことがあるのは当然だとしても、それが当然のことであるかのように思わせている社会的な構造があるわけで、それが制度や慣習などからもたらされている構造であり、そこでおこなわれているゲームに参加していると、ゲームの中で働いているルールが当然のことのように思われて、その危うさを実感できないわけだが、普通に企業などで働いて賃金を得ていれば、労働が売買によって利益を得るゲームだとは思えないだろうし、そこで売り買いされているのが労働力という商品だとは思わないし、それを商品と見なすこと自体が何か間違っているようにも思われてくるわけだが、それがごまかしやねつ造なのではなく、それを商品と見なすこと自体が間違っているように思われてしまうこと自体が、労働という制度と慣習が入り混じったゲームに参加させられている人たちの方がごまかされていることの証拠であり、それが制度的かつ慣習的には正しいと共に、自然状態においては間違った思い込みであり幻想に過ぎないと言ってしまうと、では自然状態とは何かと問われるなら、普通に様々な物事が売買されたり貸借されている経済の状態と見なしておけばいいのかも知れないが、なぜその中で労働力を商品と見なすことに抵抗感が伴うのかといえば、それを生身の人間から切り離して扱うことができないからで、それを売買したり貸借すると人間自身の売買や貸借だと思われて、そういう思いをごまかすために労働力商品という言葉を使うのは憚られるわけだが、実態としては人の労働力が具現化した物として機械が売買されたり貸借されて、人を補助したり人に代わって働く労働力として広く世の中で普及しているわけだ。


11月1日「振る舞うことの意味」

 それ相応という表現はそれなりにふさわしいことのように思われるが、確かなことではなく、そう思われる程度のことであり、そう思われても仕方ないが、それ相応のことをやって結果を待つ程度に思われるなら、それ相応のことがやれたようにも思われるだろうし、自らにふさわしい振る舞いができれば、それ相応に振る舞えたように思っておいてもかまわないはずだが、問題なのは自らの振る舞いではなく、それ相応に振る舞ったにもかかわらず、そんなことはお構いなしの事態に直面してしまうことであり、自らがどのように振る舞うかなんてどうでもよかったと思い知るような事態が待ち受けていて、自らの振る舞いが問題だったのではなく、そこで巻き込まれている状況の中で、どう振る舞ったところでどうにもならない事態が起こっていれば、そんな事態に対して直接的にも間接的にも作用や影響など及ぼすこともできないどころか、自らがどう振る舞ったところで及びもつかないような事態に巻き込まれて、その渦中でなすすべもなく翻弄されるだけで、できることのせいぜいが身を守るのが精一杯となってしまえば、そこでどう振る舞うかなんて考える余裕もないだろうから、ただ直面している事態に対してできることをやるだけに終わってしまうだろうが、そうなれば無駄に考えるよりは反射神経を経由した動作に頼ってしまい、それがそんな場合のありがちな成り行きになるにしても、そればかりとは限らず、状況が一様に一方的な傾向になるわけでもなく、そこに揺らぎや揺れ戻しなどがあれば、その隙を捉えて考えるいとまが生じて、そんな際にそこで何を考えるかと言えば、やはりどう振る舞うべきかを考えるだろうし、どう振る舞ったところでどうにもならないことがわかっているのに、どう振る舞うべきか思いを巡らすとすれば、まだそこで振る舞い方を変えられると思っていて、その場の状況によって完全に自らの振る舞い方が固定されて制御されているわけではないと考えるなら、自らの意志でどう振る舞うべきかを考えるわけだが、実際に振る舞いを変えられると、自らの意志で振る舞う余地が生じていることにもなるだろうし、その余地が生じている限りで考えられるわけだが、実際に何か考えられるということが、その考えに基づいて自らの意志を生かす機会があるということであり、そこから自らの振る舞いも生じて、実際に振る舞うことができれば、その振る舞いによって状況を変えようとするだろうし、そこから自らがどう振る舞ったところで何も変わらないような状況ではないと思うようになるかも知れないが、全てを変えられるわけではなくても、振る舞いを変えられる程度には状況を変えられるわけで、しかも変えようとしなくても自然に振る舞い方が変わってくれば、状況そのものが変わってきて、それに応じて振る舞いも変わってきた可能性もあるだろうし、どちらからも状況が変わってくるわけだが、変えようとしても変わらなくても、変わらない状況を維持できない場合もあり、そんな状況の中でどう振る舞ってみても、思い通りには振る舞えず、自らの意志と自らが含まれている状況との間に齟齬や軋轢があるように感じられるとすれば、自らが状況に歩み寄っても、逆に状況を自らの意志に近づけようとしても、何かしっくりこない感じがすることになり、そんな時には状況とは一体化できない思っておけばいいのかも知れないが、逆にあまりにも周囲の状況と一体化してしまうと、自らの意志が生じなくなってしまい、その場の情勢に流されるがままとなってしまうのだろうが、そんな中でどう振る舞ってみても、結果的にはその場の流れに誘導されてしまって、それが自らの意志で振る舞っているつもりであっても、同じように流れに誘導されている他の多くの人たちと同じ振る舞いになってしまうかも知れず、そういう意味で周囲を見渡して自らの思考や動作が他人と同じ傾向になっているようなら、誰もが世の中の流れに誘導されていると考えればいいのかも知れないが、そこで流れに逆らって独自の振る舞いができるかというと、必要がなければそんなことはそもそもやらないし、その必要を感じられないようなら、その場の状況によって必要を感じられないように仕向けられて、そうなるように誘導されてしまっているのかも知れないが、無理に逆らう必要もなければ、そうなってしまってもかまわないのだろうし、逆にそうなっている方が都合が良い場合もあるだろうし、それはそれでその場の状況に応じているのだから肯定できることかも知れず、それでかまわないなら、そうなったままでいても取り立てて不都合はないのかも知れないし、そうした流れに逆らう正当な理由が生じる場合があるかというと、例えば身の危険を感じるとか、そのままでは不利益を被ってしまうとか、何らかの被害や損害を受ける可能性があるとか、そうなる危険性を感じていれば、しかも平時の通常の状況であれば誰もが逆らうかも知れないが、そうではなく、大した理由も根拠もなく逆らうこともあるのかも知れないし、そうなると逆らうことを正当化できなくなってしまい、うまく自らの意志や行為を説明できなくなってしまうのかも知れないが、逆に逆らうと身の危険を感じるとか、不利益や被害や損害を被るようなことが予想されている中で逆らうとしたら、何か功利的には説明できないことを理由や根拠として逆らうことになるだろうが、果たしてそんな理由や根拠があるかというと、それは実際に逆らうような状況になってみないことには、その切実な理由や根拠を示せないだろうし、しかもそこで納得できるような切実な理由や根拠が示されるようなら、そうした理由や根拠に基づいて世の中の状況を変えなければならないような成り行きが生じていることにもなってしまい、実際にそうした理由や根拠に基づいて明確な主張が生じてくるはずだが、そうなればそれに基づいた世の中の変革が期待されると共に、そうした変革を阻む要素や勢力なども、現状を維持しようとする傾向として生じてくることにもなるだろうし、そこから変革を促す勢力と変革を阻む勢力との間で対立や争いが起こるかも知れないが、実際にはそうはならない場合の方が多いだろうし、それに関してよくありがちな傾向としては、まずはその場の主導権を握っている保守的な勢力から真の改革を阻むような偽りの改革案が示されて、それによって事を収めようとするわけだが、そういう改革案を出す意図が見え透いているから、そこから事態が紛糾していって、結果的には誰もが思っても見ないような結末を迎える場合もあるのだろうが、そうなったからといってそれでは収まりがつかず、そこからそれなりにこじれた状態が長引くのかも知れないし、長引いたところで何がどうなるとも思われなければ、そうなった結果においてではなく、そうなる過程において人々が自由に振る舞う余地が生まれてくるのかも知れず、こじれた状態が長引くほど人の行動や活動の自由度が高まっていくと共に、身の危険を感じる頻度も多くなってきて、世の中が騒乱状態となるわけだ。


10月31日「持続する意志」

 割に合わないことをやっている感覚というのは、何か損をしているように思われるのかも知れず、意味としては労力の割に結果が伴ってこないということだろうが、やっていることが割に合うように思われるなら、そこに損得勘定が介在していると思っておいてもかまわないが、それが持続しているということは損得勘定とは別に、やっていることが続いていると受け止めておいてもかまわないが、そこで何を持続させるかという選択肢があるわけでもなく、意志とは無関係に否応なく何かが持続していて、それを持続させようとする意志が働いていると思いたいが、そんな思いを裏切る形で何かが持続しているようなら、それはやっていることにもよるが、単にやる気を持続させるといっても、何もやっていなければやる気がないことになってしまうし、そうかといって続ける必要のないことを続けようとしているわけでもなく、必要のないことをやるはずがないと思っても、必要があるかないかをどう判断すればいいのかわからない場合もありそうで、たとえ必要があるとは思われなくても、やる気がなくてもやっていることが持続しているようなら、それをやめるという選択肢がなく、何かをやらされていると考えるのが妥当なところであり、それを強いられていて、そうせざるを得ないことをやらされているのかも知れず、何かそれは強制労働のようなことを連想させられるが、そうであれば強制労働のようなことをやらせている機構なり団体なりの存在をわかっていれば、それを強制させられていることを意識できるが、そうでなければ何によってそれを強いられているのかわからないし、それを強制労働とは認識できないかも知れず、何に強制されているわけでもなければ、自らの意志でそれを積極的にやっていることにはなるが、それを強いているのが自らの意志であれば、やらされていることにはならず、強いられていることにもならないのかも知れないが、それを強いている自らの意志がどこから生じているのかといえば、何かによって自らが操られていると考えれば、操っている主体から意志が生じていることになり、その主体がどこから生じているのかといえば、例えば社会から生じていると思われてしまえば、社会が人を操っている正体となるわけだが、社会が人の集団意志を生じさせて、社会を持続的に存続させるために、その意志が人々を強制労働に駆り立てていると考えれば、何かもっともらしく感じられるかも知れないし、そこに加味されるのが富裕層と貧困層の対立とか資本家と労働者の階級闘争とかであったり、それらしい構図や物語によって煽り立てられる否定的な感情も介在してくると、やはりそこからもっともらしい演劇の舞台装置が出来上がってしまうのだが、それでは物事の全てを語っていることにはならないし、全ては語り得ないとしても、一面だけを強調していることにしかならないわけだが、その中で何かを良く言ったり悪く言うことによっては捉えきれない面や部分が必ず残されてしまい、その残された面や部分が取り立てて重要なはずがないとしても、何かを強調するにはその残された面や部分をあえて言わないことが肝要となり、その意図的かつ恣意的な言い落としから、その人に特有であるように見せかけられていて、しかも社会の集団意志を反映した主張が生じてくるのであり、そうした主張が多くの人々から支持や賛同を得られるようだと、やはりそれが社会の集団意志を反映した主張であることが明らかとなるのだが、それに気づく人はまずいないだろうし、さらにそれが社会の維持存続にとって都合の悪い面や部分が意図的かつ恣意的に言い落とされているとは気づくはずもないことだが、そういう一方的な主張をやめて全てを語ろうとすれば、それが主張としての体をなさなくなるだろうし、そういう傾向の主張を続けるには常に意図的かつ恣意的な言い落としの面や部分を自覚できないように、自らの意志を調整し続ける必要が生じてきて、しかもそれを自覚できるようになってしまうと、もはやそういう主張では物足りなくなって、可能な限り物事の全てを語ろうとするのだろうが、それができるはずもないことだから、自らの部分的かつ一方的な主張には満足できないから、いらだちを隠せなくなってしまい、何か不機嫌な面持ちで物事について語っている人がいれば、その人は自らの主張の不完全さを意識しているのかも知れず、そういう場合にはそれを意識しているのに気づいていないという微妙な感じが、その人の表情からうかがえるわけだが、中には表情がわからなくてもその人が書き記した文章の内容からうかがえることもあるだろうし、一般的に言うなら文章の内容から迷いや戸惑いが感じられると、それを意識していながら気づいていないことの表れとなるだろうし、そこに及んでいない面や部分が残されているわけだが、それを明確に示せるかとなると、はっきりと言及してしまうとそれ以外の面や部分が言い落とされてしまって、ある特定の何かについて語れば、それ以外の面や部分が語れなくなってしまうから、全てを語ることは不可能なわけだが、事前にわからないことがあるとを断っておけばいいとしても、そうなると明確にこうだと断言できなくなってしまい、主張としての弱さが露呈するわけだが、こうだと断言することが主張であるなら、場合によっては主張にならなくてもいいのだろうが、世の中には何かを主張しなければならない立場というのもあるだろうし、その立場になってしまうと何かをこうだと断言せざるを得なくなり、そんな成り行きの中で強制的に社会の集団意志を反映した主張をせざるを得ない立場に追い込まれてしまえば、それが強いられておこなわれる主張となるわけだが、そこにそうした主張をおこなう舞台装置が設定されていれば、自らの意志でその壇上にのぼって積極的にそういう主張をしているように見える限りで、そこに集まった聴衆は感動するだろうし、まさに民衆の意志がその人を通して主張されているように思われるわけで、それがそんな成り行きからもたらされる効果であり、またそれは社会から生じる集団意志の好意的に受け取られる面であり部分であるはずだが、もちろんそれが意志の全てではなく、そこには故意に言い落とされている意志の暗黒面や容易には支持も賛同もできない部分があるのかも知れず、それが社会を維持存続させるのに伴って生じる人々に犠牲を強いる面であり部分でもあるわけだが、それを意識しているのに気づいていないと社会の犠牲になっている人々を助けるような主張に落ち着くわけで、結局は人々に犠牲を強いることをやめさせようとすることになり、誰かが犠牲にならなくても済むような社会を造ろうとするわけだが、それがその人の意志に基づいた主張として結実していれば、善意でそこに集まった多くの人々に支持されて共感を呼ぶことになるだろうが、本当に犠牲なしに社会が存続できるかとなると、古来から連綿と受け継がれてきた、支配者や権力者が民衆に犠牲を強いることによって存続してきた社会の在り方に反することになり、それが実現する上での困難さをうかがわせるが、そうした面や部分にはついては意図的かつ恣意的に言い落とされているのかも知れないし、それを自覚できなければ、それが損得勘定抜きの割に合わない主張だということにも気づかないのかも知れない。


10月30日「異議申し立ての効果」

 何かを主張することが現状でおこなわれていることやこれからおこなわれることへの異議申し立てになるとしても、そうした異議申し立ても現状でおこなわれていることに含まれるだろうし、またそうした異議申し立てに対して異を唱えることも現状でおこなわれていることだが、そうやって異を唱えたりそれへの反駁の応酬がおこなわれているうちに、現状がそれなりに変化していき、そういう成り行きも現状に含まれてくるだろうが、そういうことも含めて現状がそのまま固定されることはなく、わずかであっても絶えず揺れ動きながらそれなりに変化していて、そうした現状を変化させる原動力となるのが、現状への異議申し立てだと見なすのは、少し違うような気がしてしまうが、それよりは受動的な傾向も加味して、現状への対処や対応として有効に思われるのが、現状への異議申し立てだと見なしておいてもかまわないし、それが本当に有効か否かは、それを実際にやってみた結果から判断するしかないだろうが、それが本当に異議を申し立てているのかよくわからない場合もあるのかも知れず、現状に関して何か述べているつもりであっても、たとえそれが異議を唱えているつもりはなくても、結果的に現状に対する異議申し立てとして機能する場合もあるのかも知れないが、逆にはっきりと現状に対して異を唱えているのに、結果的にそれが現状を補完するように働いてしまえば、異議申し立て自体が無効であるどころか、かえって現状の継続を助けてしまって、逆効果となってしまう場合もありそうで、その辺も結果から判断するしかないが、現状に対して無効というのはそれらとは違って、異議申し立てが無視されてしまえばそう思われるだろうが、それもあからさまな無視ではなく、無視されていることすらわからなければ、もとから異議申し立てになっていないのかも知れないが、現状でおこなわれていることが異議を唱えるように仕向けられているとすれば、異議を唱える人を選別して排除するために、わざと異議を誘発させるようなことがおこなわれている場合もあるのかも知れず、それが異議を唱えるように仕向けられた人たちを陥れるための罠として機能していることになるだろうが、そんな見え透いた仕掛けが、現状の中で有効に機能しているかとなると、機能しているように見せかけられている場合があるとしても、それも長い目で見れば、かえってそういうことを仕掛ける人たちが、いかにじり貧に陥っているかがわかってくるのかも知れず、他に何もできないからそんなことまでやらなければならなくなり、そうなってしまうこと自体がネタ切れやマンネリ化を連想させて、活力の減退や資源の枯渇を暗示させるものがあり、それが末期的な状態を物語っていると捉えておいてもかまわないが、それもその後の結末を迎えてみないことには、はっきりしたことは言えないだろうが、逆にそういう見え透いた仕掛けが、現状に対する異議申し立てとして機能するかと言えば、普通にそうは思えないわけで、むしろ現状を維持するためにやる最後の悪あがきだと見なしたいところだろうが、そうやっている間にも現状が崩れつつあるから、そんなことまでやらざるを得ないのであり、それでは現状を維持するどころか、それと自覚せずにかえって変化を促進させていると捉えるなら、それも現状への異議申し立てとして機能していることになるかも知れないが、そう見なすこと自体が間違っているだろうし、むしろそれこそが現状の維持を目指す補完勢力がやるべきことだと捉えておくのが妥当だが、そんなことをやっても現状が補完されるどころか、むしろそうすること自体が、現状の足りない面や欠陥や不具合や問題点を浮かび上がらせてしまい、それもそうしたことを通して明らかになることであり、現状の変化を促進させるには逆説的にそうした行為も必要となってくるのかも知れないが、それも現状への対処や対応からそんなことがおこなわれてしまうのであり、積極的にそんなことがおこなわれるというよりは、受動的にやらざるを得ず、当初はやるつもりもなかったことが、だんだんやっていることが行き詰まってくると、苦し紛れにそんなことまでやってしまうわけで、それ自体が状況が変化した結果としての行き詰まりを体現していて、異議申し立てが功を奏した結果だと判断してもかまわないが、土俵際の粘り腰だと見なしてもかまわないだろうし、それだけ事態がこじれていることにもなり、こじれた事態の中で何がもたらされるかというと、膠着状態がもたらされて、物事が前に進まずに行き詰まってしまうわけだが、そこで変化も止まってしまい、変化を促進させようとすることが、かえって変化の停滞に結びついて、そういう面では異議申し立てが変化をもたらしたにしても、その変化が止まってしまっては功を奏したわけでもなかったことになるが、それが異議申し立てをした側にとっての都合の悪い変化を止めたと判断するなら功を奏したことになるだろうが、さらには苦し紛れにやったことが土俵際の粘り腰をもたらしたと判断すれば、それによって変化を止めて膠着状態をもたらしたのだから、苦し紛れにやったことも功を奏したことになるだろうし、それは異議を申し立てた側にとっても苦し紛れの行為をおこなった側にとっても、どちらにとっても効果があがったことになり、どちらにとっても望まれるような状態ではないが、そこから状況が停滞してしまったことに関して責任のなすり合いに発展するとしても、そもそも異を唱えられるようなことを強引に推し進めようとしたからそうなってしまったと捉えるなら、そうなるのが当然の結果がもたらされたことになるのだろうが、結果から見ればそんなことが言えるわけで、その途中経過の中ではそうなるとは誰も思っていないのも知れず、そうではあれば思いがけない結果がもたらされたことになるのだろうが、結果から見れば当然の結果だとしても途中経過の中では思いがけない結果だとすれば、それが何を意味するかと言えば、状況の変化に応じて恣意的に判断を変えていることになり、ある時点では思いもしなかったことが結果的に起こるとしても、それが起こった後からは当然の結果として起こったことになるわけで、そういう判断の変更がやっていることを正当化するための戦略に含まれるとしても、それが変化したことを素直に驚かない戦略でもあるわけだから、ことによっては異議申し立てを台無しにしてしまうことにもなりかねず、何かをやった結果を当然視して、当然視している自らを正当化するよりは、そうなってしまったことについては率直に驚くべきかも知れないし、思いがけない事態を招いてしまったことに感動した方がいいのかも知れないが、それがなかなかできないことであり、自らの負けを認めて謙虚になれないことの情けない面でもあるだろうが、さらには強がりながら負けを認めるような往生際の悪さもあるだろうし、そういうみっともない事態を避けるには、事の勝ち負けとは違う面に注目すべきであり、そこに何らかの変化がもたらされて、それに対応して何かをやっていることを感じ取れるなら、それが自身の勝ち負けよりも優先すべきことになるのではないか。


10月29日「慣習と思惑」

 人は抗いようのない慣習にとらわれていることは確かであり、それは売買に伴って生じる商慣習であったり、貸借に伴って生じてくる信用の慣習であったりするのだろうが、そこで無駄に想像してしまうのはたわいないことに過ぎないのかも知れないが、何かの渦中で人や団体の様々な思惑がぶつかり合っている中で、自分のやり方を押し通すことができるか否かを事前に判断しようというのではなく、思惑を超えて掟として作用する慣習に逆らえるか否かを事前に判断などしないだろうし、それらの慣習に従うことを前提として、各人の思いや各団体の意向がそこでどのように状況の中で作用するかを想像してしまうわけで、そこから妥当に思われる見解が導き出されるわけだが、慣習に逆らって行動することなど端から論外であり、考えられないことなのだが、中には法律を破ってでも慣習に従う場合もあり、法律自体が慣習を反映していないことが悪いかのように思われてしまい、法律よりも慣習を優先させる傾向があるとしても、法律よりも慣習よりも自身の思惑や意向を優先させることができるかというと、その場の必要に応じて優先させる場合もあるだろうが、何よりも事を荒立てないことを優先させるとなると、まず優先しなければならないのは慣習を尊重することであり、周囲の慣習を守りながら暮らしている人たちとの間で諍いを起こしたくなければ、そうするより仕方がないわけだが、通りすがりのよそ者ならそんなことなど気にせずに悪事を働く場合もあるだろうし、社会の慣習になじめない外国人の類いが犯罪者となる場合に見受けられるのはそういうことになるわけだが、その場合は表面上は法律を破って犯罪をおこなうとしても、それ以前に慣習になじめずに社会から除け者にされているから犯罪に走りやすくなっていて、そうする以外に行動の余地がなくなってしまい、それは生活苦に陥って窃盗事件を起こす場合と似た状況だが、その場の状況がそういうことをやろうとする思惑を生じさせるわけで、それをさらに広く解釈するなら、慣習がその場の状況をもたらして、そんな状況に応じた思惑や行動を生じさせると考えてもかまわないだろうが、では法律はそこでどのように機能するのかといえば、犯罪を思いとどまらせるように機能するわけだろうが、結果的に犯罪行為をやってしまえば、法律よりもその場の状況から生じた思惑や行動の方が勝ってしまったことになるだろうし、その場の状況が何からもたらされたのかといえば、社会を支配する慣習だけでその場の状況がもたらされたわけではないが、慣習を守れない人が出てくることによってそこで守るべき慣習が作用しているのがわかるわけで、そして慣習を守れなかった人がどうなったかを知ることによって、人は慣習を守ることの重要性を理解するわけだが、特に慣習を守る人々は法律を破ってでも慣習を守った人を擁護するだろうし、もちろんあからさまに擁護するのではなく、しらを切ったり隠蔽工作をしながら、法律を破ったことを認めようとしないし、その代わりに別の論理や屁理屈などを持ち出してきて、そちらへと関心を誘導しようと仕掛けてくるわけだが、そうまでして慣習を守ろうとしている自覚があるかというと、自覚のあるなしではなく、慣習を守ることによって実際に利益が生じてくるから慣習が廃れないわけで、例えば靖国神社に参拝する慣習がなぜ廃れないかといえば、そうすることによって参拝者にも靖国神社にも利益がもたらされるとは言わずに、国を守った英霊を讃えて何が悪いとか、戦争犯罪人を奉っているのは問題だとか、そういう方面に関心を誘導した方が事を荒立てずに済むだろうし、実際にそうやってそれと自覚することなく慣習を温存させようとするわけだが、慣習を守ることが功利的な思惑に結びつくことがあからさまになってもまずいわけで、実利を求めるという下世話な理由ではなく、もっと崇拝の対象としての崇高で美的な理由付けが好まれて、そのためには建物や環境や様式や儀礼などの面で伝統の美をまとわせる必要が出てくるのだが、それも客観的に考えるなら実利を隠すための装飾的な美に過ぎず、そうした面でそれらの神社仏閣で催される儀式の類いが醸し出す雰囲気に呑まれて、伝統の重みを感じてしまう人に向かって、大げさなこけおどしに騙されていると言ってしまっては身も蓋もないわけだが、そうやって物事を客観的に捉えて何でもかんでも直接の理由を求めようとしてしまうと、それ以外には何も語れなくなってしまって、そこに至るまでの紆余曲折の経緯や事情が省かれて、それ自体がわかりやすい真実となってしまうから、関心を持てなくなり、そうであるのにそれを自覚できないような成り行きの中で、そこへ至るまでの途中の段階へ留まろうとして、そこから何やらもっともらしい理由付けと共に、場合によってはその種の興味深いフィクションまでが構成されてしまうわけで、そうやって何とか直接の理由に至らないように、あれこれと表層の戯れを仕掛けてくるのだろうが、それが崇高さをもたらす大がかりな舞台装置であろうと、ローマ教皇庁などの宗教的な人道精神や博愛主義であろうと、果たしてそれが物事の本質なのか、あるいは枝葉末節で些細な装飾に過ぎないかは、どちらでもあるかも知れないし、どう受け取ってもかまわないのかも知れないが、そういう演出を仕掛けてくる側としては、それを観ている人が演出を真に受けてほしいだろうから、余裕のある人なら演出する側の事情や意図をくみ取って、善意で受け止めてくれるかも知れないが、余裕のない人ほど功利的な実利を優先してしまい、その種の演出のありがたみを感じられないわけで、そんなもんはどうでもいいからカネや、カネがほしいんじゃ、となってしまうとその場の空気や雰囲気を読めない人と見られてしまうわけだが、普通は相手にそういう真意を悟られてしまうとはしたないから隠そうとするのだろうが、隠そうとしても態度や受け答えから悟られてしまう人もいるだろうから、それを隠すのにも慣習が必要とされて、動作を慣習に則った礼儀作法に準じた形式にとらわれていれば、何事もなく邪念を相手に悟られる暇もなく、事態を進行させることができるだろうし、事前に決められた型枠からはみ出さずに、一連の儀式を滞りなく執り行って済ますことができれば、礼儀作法を尽くして動いてくれた人を無碍に扱うことは失礼となってしまうから、それなりに報いなければならなくなるし、そうなれば慣習を守った人に利益がもたらされることになるのだろうが、それも方便であり、直接実利へと向かわずに、いったんどこかへ迂回させてそこで試練の類いを与えて、それをくぐり抜けてからでないと信用できないという事情に基づいてそういうことがおこなわれるわけで、客観的に考えればそういうことだろうが、それもそういう意図が知れ渡ってしまうと身も蓋もないから、その対象となる人がそういう意図や事情を察してしまうのを防ぐには、意識や関心を他へと逸らすためにもこけおどし的で大げさな崇高感を抱かせる演出が必要となってくるのだろうが、それをどう受け取るかも、その人の事情や心身や経済状態などにどれほどの余裕があるかで決まってくるようなことなのかも知れない。


10月28日「逆説的な思い」

 世の中で何か逆説的なことが起こりつつあると、それが皮肉を込めて語る言説の対象となるかも知れないが、あえて皮肉でも逆説でもないことを述べる必要はないし、急がば回れ程度のことなら誰でもわかっているはずで、そこで無駄に思われるような回り道に誘導されてしまうとしても、迂回してでも至らなければならないような境地があるとは思えなければ、なぜそうなってしまうのかよくわからなくても、自然にそうなってしまうと思うしかなく、そんな成り行きに従うしかないだろうし、実際にそういう成り行きを体験してみないとわからないこともあるだろうが、体験してもわからないし、何もわからなくてもそういう成り行きを体験してみることが重要というわけでもなく、別にそれが貴重な体験というわけでもないとしたら、なぜか知らないがそういう成り行きを体験しているだけで、それが取り立てて何に結びつくわけでもなく、しかもそれが何の得になるとも思えないどころか、どちらかと言えば損をしているようにも思われて、損得で言えば損に結びついているようにも思われるとすれば、何の得にも結びつかないような体験でしかないわけだが、実際にそうなってしまえば、どう考えてみてもそんな成り行きを肯定するわけにはいかないのだが、そんな成り行きの中でも全く危機感を抱けず、それどころかそれでかまわないような気がしてきて、そんな気がすること自体が不思議に思われてくるとしても、いつまでもそんな思いにとらわれたままではらちがあかないし、そこから何かしら行動を起こさなければならないと思うだろうが、どんな行動に結びつくかその時点では皆目見当がつかないとしても、暇つぶしや気休め程度に留まってしまうとまずいだろうし、気持ちの上ではそれ以上の何かを求めているとしても、何をやるか一通り逡巡したあげく、結局何にも結びつかないこともありうるだろうし、何にも結びつかなくても、それ以前から自然にできることをやっていて、そのやっていることに気づかないわけでもないが、気づかなくてもかまわないようなことをやっている場合もあるだろうし、結局それ以前からやっていることが、その時点においてもできることであり、それ以外には何もできなければ、相変わらずそれをやっていくしかなく、そうなると結果的にはそれを継続させるためにそんな体験をしたと解釈しておけばいいのかも知れないが、実際にそれを継続できているから危機感を感じられないし、それ自体が都合の良い自己正当化にも結びついてしまうのかも知れず、そんなことをやっている自らを正当化したいのかも知れないが、そうなると体験したことが台無しになってしまうとすれば、そこで何かを体験したのだから、それを現状でやっていることに生かさなければならないとも思ってしまうだろうが、まだその時点で体験が終わっていなければ、さらにそこから体験が続いていく可能性があり、そうなればその体験とそれ以前からやっていたことが同期したり共鳴現象を起こすかも知れず、そうなることを狙ってそんな成り行きに身を委ねているわけでもなくても、自然とそうなってしまえば、それが求めていたことではなくても、そういう成り行きを受け入れざるを得ないだろうし、成り行き上そうなってしまえば、それがその場で生じている複合的な体験であり、そんな体験の中で行動していて、しかもそこでそれまで経験してきた既知の体験とこれから経験する未知の体験とが混ざり合っていき、そこから思いがけない作用や物事が生じてくるかも知れないが、そうなることを当初から目指していたわけではなくても、結果的にそうなってしまうことを受け入れながら、さらにそこから何らかの目的が生じてきたり目標を設けようとしてしまうだろうし、それが思わぬ迂回や回り道となって、さらに思いがけない紆余曲折を強いられることによって自らが変質していってしまうわけだが、それが理由や原因がよくわからない体験となって、意識や思考をはぐらかしているような感覚を抱かせるわけで、それをどう受け止めたらいいのかわからず思い悩むのかも知れないが、それでも強引にかまわないと思い込もうとすれば、単なる強がりでしかなく、何か焦っている証拠となるだろうが、強がっても焦ってもかまわないのかも知れず、平静や冷静さを失って動揺してしまってもかまわず、そうやってそんな状態や状況を体験するわけで、それが何でもない体験であるはずがないが、誰にでも起こるありふれた体験でもあり、取り立てて何がどうというわけでもないのだろうが、時には深刻に受け止めるようなことでもあり、心の安寧を乱されることになるのだが、それでも何か冗談のように思われるとすれば、体験そのものの馬鹿げた面を意識が捉えているのかも知れず、それが何だかわからないとしても、確実に物事の本質を感じ取っているのであり、それを深刻に受け止めることのおかしさをわかってしまうのかも知れず、深刻に受け止められなくても深刻な状態にあるとすれば、それこそが馬鹿げたことでもあり、何かおかしいのだろうし、そのおかしさが冗談のように思われてしまうわけだが、それが求めていたのとは全く違う状態であっても、それこそが求めていた状態だと思ってしまってもかまわないのかも知れず、それが何かあり得ないようなことだと自覚できればそれでかまわないわけで、そうなってしまった結果を冗談のように受け止めることから、それが求めていたことだとわかってしまうわけだが、わかってしまうというと何かごまかしや欺瞞に思われるかも知れないが、意識の中で辻褄合わせをしてしまうのもよくありがちな心理作用だと考えるならそういうことになるわけで、それが強がりや虚勢からそうなってしまうと捉えることもできるが、結構些細なことから大げさなことまで満遍なくそうなってしまうとするなら、普通にそうなるようなことでもあり、そう思い込める限りでそういうことだと解釈できるわけで、それも強引に勝手な解釈をしているだけだが、現状でやっていることに関してどう思ってみても、思っているに過ぎないことであり、それを良く思ってみても悪く思ってみても思っているだけのことであり、実際にやっていることが世の中で何かしら機能している状態とはあまり関係のないことかも知れず、それよりはそれが自らも含めた周囲の状況の中でどのように機能しているかによって、心理的な影響が生じてきて、その機能の仕方によって、それを悪く捉えたり良く捉えたりするわけで、たとえ悪く捉えたところで強がってみたり虚勢を張って、やっていることやそれをやっている自らを正当化するような態度に及ぶわけで、そうなっている限りで、やっていることに関して何かしら問題を抱えているのかも知れないが、それを深刻に受け止めるか、あるいは軽くみているかは、その人の思い込みにも影響してくるだろうが、受け止め方の程度や傾向が実態とかけ離れていれば、それが勘違いや思い違いであるのだろうし、その勘違いや思い違いの程度や傾向が事の深刻度を表しているのではないか。


10月27日「好機到来」

 それが何をやる機会であっても、誰もがその機会を得られるわけでもなく、世の中には得ようとしても得られない機会もいくらでもあるだろうから、なかなか得られない絶好の機会が巡ってくれば、それをやらないわけにはいかないだろうし、やりたかったことをやる機会が巡ってきたと思えば、普通は躊躇するよりは好機到来とばかりに積極的にやろうとするのだろうが、実際に現状の中で好機が到来したと思ってしまう人もいくらでもいるだろうし、それが本当に好機かどうかは、それをやった結果がうまくいけば機会をものにしたと思うだろうが、うまくいかなければ機会をものにできなかったか、そもそもその機会ではなかったのかも知れず、好機が到来したと思ったのが思い違いでしかなかったことになるだろうが、その一方で好機を逸したと思うこともいくらでもあるのかも知れず、逃した獲物はでかかったと思うのも誰しもが思うところかも知れないが、結果からそう思うのだから、そういう思い自体がいい加減な思い込みに過ぎない場合もいくらでもあるだろうし、それが根拠の定かでない勝手な思い込みである限りで、芳しい結果を得られなければ反省するしかなく、実際に反省したところで、そんな思い込みに基づいて行動してしまうような人は、同じ過ちを性懲りもなく何度も犯してしまうのが関の山だろうが、何度も同じ過ちを繰り返せるのだから、反省していないし、過ち自体も大したことでもなく、いくら過ちを犯したところで深刻な事態には至っていないのかも知れないが、そんなふうにして大したことでもない過ちを延々と繰り返しているうちに、その人の寿命が尽きてしまえば、それがありふれた人の人生そのものになってしまうのかも知れないが、果たしてそんな人の人生の中で好機が到来していたのかといえば、何度も到来していたのかも知れないが、それを活かせなかったからありふれた人生で終わってしまったのかも知れないが、それも結果を否定的に受け止めるか肯定的に受け止めるかで、何とでも言えるようなことかも知れず、それを好意的に受け止めるならありふれた人生とは言わないし、例えば何事も順風満帆で幸せな人生だったと表現されるかも知れないし、その人の葬儀の際には弔辞の中でその種の内容のことが生前親交のあった人から語られるかも知れないが、今生きているなら自分が亡くなった後のことまで心配する必要もなく、過ちをいくら犯しても、性懲りもなくさらにいくらでも過ちを犯して、それを反省したところで教訓が生かされないような成り行きになってしまえば、そんな成り行きの中でもそれなりに生きていくしかなく、生きていく限りでそうなってしまい、それ以上はどうなるわけでもないかも知れないが、そういう成り行きをそのまま放置していれば、それが自然の成り行きのように思われてしまうのかも知れず、そんな成り行きがいやだからといってそれに逆らうのではなく、そんな中でも運をたぐり寄せるようなことをやろうとするのかも知れないし、何かの兆しを感じ取ろうとして、事態の推移を注意深く見守っていれば、もちろん見守る余裕がない場合がその大半を占めているかも知れないが、それでも機を見て反転攻勢に出ようとするわけでもなければ、成り行きに応じたことやろうとして、それまでにやってきたことをさらにより一層状況に合わせようとして、抵抗や摩擦の類いを減らそうとすれば、その場の状況に適応した生き方ができるかも知れないが、状況が安定していれば、そうすることがその中では有利に働くかも知れないが、それが有利に働くとは限らない場合もあるだろうし、すでに同じ過ちを何度も繰り返すような成り行きになっていれば、同じ過ちを何度も繰り返すように仕向けられていて、そんな状況に合わせると同じ過ちを何度も繰り返すことになり、成り行きに合わせて生きていこうとすればそうなってしまい、そうなってしまう人がいくらでもいる世の中で、誰もがそうなってしまうような成り行きにとらわれていることになり、誰もがそうなってしまうから、そんな状況が安定的にもたらされていることにもなるだろうが、状況が安定しているからといって、その場の状況に合わせようとすれば、その場を安定させるために必要な犠牲者の役割を担わされてしまい、そんな犠牲者が入れ替わり立ち替わり絶え間なく現れることによってその場の安定がもたらされていると、結果的に犠牲者になる人にとってはそれをやる好機が到来したと思われて、実際にその場の状況に合わせたことをやって利益を得ようとして、逆にその場を支配している何らかの制度や機構から利益を搾り取られて、一文無しになってしまうどころか、さらに負債まで背負わされて負債を返済するために、制度や機構の支配に屈して奴隷のように働く羽目になってしまえば、まさにそれがその場を支配する制度や機構の罠であったことが明らかとなるはずだが、それが明らかとなっているにもかかわらず、そうは思わせないように巧妙な仕掛けが施されていて、だから同じ過ちを繰り返して利益を搾り取られてしまう人が後を絶たないわけで、それを避けるにはそういう成り行きに合わせようとするのではなく、またそういう成り行きにあからさまに逆らおうとするのでもなく、ある程度は犠牲者の役割を引き受けた上で、それでもなお戦略的に振る舞う必要が出てくるのかも知れず、そんな戦略としては過ちを犯しながらもそれが致命傷とならないように、やり方をその場の情勢に合わせて適当に加減したり調整することになるのかも知れないが、過ちを犯さないという選択肢はなく、虎穴に入らずんば虎児を得ずということわざほど大げさなことでもないが、大事にならない程度に過ちを犯すことができれば、かろうじてその場から脱落せずに、それなりに満足できる状態を維持していられるが、そんな場合でも他の犠牲者からそれなりの利益を搾り取っている状態となり、そうなるとその場を支配する制度や機構の共犯者となってしまうわけだが、犠牲者となって利益を搾り取られている分と、共犯者となって他から利益を搾り取っている分との、差し引きの合計がプラスであれば、かろうじてそんな制度や機構の中で生きていけるようなら、そういった制度や機構の問題点を指摘する批判勢力に同調できない面が出てくるわけで、それが制度や機構の共犯者として犠牲者から利益を搾り取っていることのやましさや後ろめたさになるのかも知れないが、それも制度や機構へのかかわりの程度にもよるだろうし、犠牲者である面と共犯者である面を天秤にかけてどちらに重きを置くかでも態度の違いとなって表れてくるだろうが、そういうことをはっきりと意識させないような仕組みになっていれば、批判勢力が主張していることに抵抗感や嫌悪感を感じる一方で、その批判対象にシンパシーや親近感を感じることが、そういった制度や機構に身も心も取り込まれているか、あるいは自らの行いが批判対象となっているか、そういうことも含めてはっきりとはわからない状況の中で生きていることになるのかも知れない。


10月26日「目先の利害」

 どのような状況下においても目先の利害が重要というわけではないが、目先の利害にこだわることも時には必要になり、また目先の利害に惑わされて痛い目に遭えば、それに関する格言の正しさが身にしみて感じられるかも知れないが、痛い目に遭わないどころか、むしろ目先の利害にこだわってそれなりの利益を得られるなら、積極的に目先の利害にこだわらなければならないと思うかも知れず、実際にその種の格言に逆らって、目先の利害にこだわってうまくいった事例などいくらでもあるかも知れないが、それだけでなく、目先の利害と共に長期的な展望も視野に入れておかないとまずい場合もあるだろうし、両方を同時にこだわることなど不可能だと思うかも知れないが、それができなければそもそもそんなことにはこだわらなければいいのかも知れず、何かにこだわることで、そのこだわっていることから目的や目標が生じるのがいやなら、こだわりを捨ててしまえばいいのだろうが、こだわりを捨てられなければ、そのこだわりの他に別のこだわりも持てばいいとはならないかも知れないが、何か互いに矛盾するような複数のこだわりを持っていれば、一つのこだわりにのめり込んで、それ一辺倒になるのを避けられるかも知れないし、それがどっちつかずの態度になって、やっていることが中途半端になってしまい、うまくいかない場合もあるだろうが、うまくいかない代わりに何かのバランスがとれるかも知れず、そのバランスが何かといえば、精神の均衡程度に捉えておいてもかまわないが、うまくいかないなりにもそれなりにやっていることがかろうじて成り立っている程度に収まっていれば、何とかなっていることを実感できるかも知れず、そういうことはその程度にとどめておけば正気を保っていられるわけで、こだわっていることにこだわりすぎると矛盾をきたすことを理解しておけばいいわけだが、なぜそうしなければならないのかというと、そうする必要がないからで、特に必要のないこだわりを複数持っていれば、何かにこだわることが馬鹿げたことだと自覚できるかも知れず、その馬鹿げたことにこだわるから馬鹿になれるのだろうし、馬鹿になったままでかまわないのかといえば、時にはそんな状態になっていないと精神のバランスと保てない場合もあるだろうし、逆にこだわる必要がなければ、それだけ正気を保っていることの証しとなり、どちらにしても必要があるかないかに関係なく、時にはそうなってしまい、そんな状態から脱する必要が生じてくれば、さっさとそんな馬鹿げたこだわりは捨ててしまえばいいのだが、どうしても捨てられなければこだわらざるを得ない状況に追い込まれていると判断するしかなく、目先の利害にこだわってせこいことをやらざるを得なければ、せこいことをやっている最中であることを理解できるだろうし、自らがせこい人間になってしまったと自覚しておけばいいだろうが、そんな自分の状態を情けないと思っておけばよく、そんなせこいことをやっている自らを正当化する必要はなく、だからといって逆に自らの状態を突き放して他人事のように装う必要もないが、卑下することも擁護することもなければ、どちらであってもかまわないのかも知れず、絶えず自らの状態を両義的に捉えておけばいいだろうが、それとともに周囲の状態も両義的に捉えておけばいいだろうし、場合によってはどちらか一方にのめり込んでもかまわないと思われても、それが自らを陥れる何かの罠だと思っておいてもかまわないだろうし、どう思ってみてもなるようにしかならないと思っていてもかまわず、そうやって自らや身の回りの状況に関して、相矛盾する思いが頭の中でぐるぐる回っているうちに、成り行きまかせで事が済んでしまう場合もあるが、全く済まない場合もあり、いつまで経ってもどうにもならない場合もあるだろうが、自らの思いを無視するような事態の進行に直面して、自らの無力さを思い知る場合もありそうで、その場の状況に応じて思うことは色々ありそうだが、時にはそんな思いを無視して取り返しのつかないことをやってしまう場合もあるだろうし、結局は思い通りにはいかないことを痛感してしまうわけだが、自らの思い通りにならなくてもかまわない場合もあるだろうし、それなりに生きていければいいと妥協するようなことになれば、そういう状態に留まっていることになるが、目先の利害に汲々としている自らの境遇を情けなく思っていれば、機会を捉えてそんな状態から抜け出そうとして、それとは違う傾向の何かをやろうとするかも知れないが、それを情けないとは思わないどころか、逆に自らの行為を正当化するようなら、そういう状態にとらわれたままとなって、目先の利害に汲々とするような人と見られてしまうわけだが、それでもそうやってそれなりの富や名声を得て成功を手に入れてしまえば、そんな自らを正当化するのも当然だと思われて、世間に向かって自らの存在を誇示したくなるのも無理もないが、そういう人たちがそれなりの割合で生じてくるような社会情勢であれば、それだけ世の中が経済的に繁栄していることの証しとなる反面で、そんな人を否定的に見る風潮もその種の格言とともに出てくるだろうが、それも実際に目先の利害に惑わされて失敗する場合と、それにもかかわらず成功する場合の二通りの結果がもたらされるからであり、実際に目先の利害にこだわって成功してしまった人にとっては、そんな格言などどうでもいいと思うかも知れないが、中にはそういった格言を真に受けて教訓としてしっかりと胸に刻み込んでいながら、それでもなお目先の利害にこだわって成功する人もいるだろうし、そういう人は目先の利害にこだわる執念や情念が教訓や格言に勝ってしまうわけで、人一倍そういった傾向を極めてしまえば、世間一般に通用する格言や教訓などでは判断できないほど強烈な程度でそうなっていて、他の追従を許さないほどそうなっているから、もはや出る杭は打たれるどころか、出すぎた杭を打つことができないほど突出して、他には手の施しようがないほどになってしまえば、誰もがそんな状態を放置するしかなく、そんな人がやりたい放題やり過ぎてしまうような状況が出現してしまうかも知れないが、そうなっている限りでその人にそういうことをやっていられるだけの権力がもたらされていて、そうした権力にものを言わせてやりたい放題やってしまえば、その結果としてますます富や名声を独り占めするような成り行きになってしまうこともあるだろうし、そうなってくると果たしてその人が目先の利害にこだわるだけでそんな偉業を成し遂げたのか疑問に思われてくるだろうが、目先の利害にこだわるという表現そのものが、何かうまくいかずに失敗した際のもっともらしい理由としてそんな表現が使われることが多いわけだから、やっていることがうまくいって成功した行為に関してはそもそもそういう表現は使われず、もっと何か好意的に賞賛されるような表現が普通は使われるだろうし、それに関しては逆説的で皮肉な表現が使われることが稀にあるにしても、表現のもっともらしさを求めるなら、やっていることが成功した場合にはそれにふさわしく肯定できるような表現で説明される一方で、やっていることが失敗した場合に限って、何かの教訓的な格言に結びつくような表現が使われることになるのではないか。


10月25日「偶然に起こること」

 それを均衡と言っていいのかどうか疑問が残るかも知れないが、何かが偶然に起こることよって何の均衡が実現するかとなると、何事も極端な事態には至らず、物事が一つに集中せずに適度に分散した状態が保たれて、その結果として誰の思惑からも外れる事態となり、当てが外れてしまえば、それで世の中の平静が保たれるわけでもないが、そうなるには偶然に起こる出来事が必要だと思われなくても、必要もないことが偶然に起こってしまうと、そこで感覚が狂わされてしまい、それが起こるまでは平静を保っていたのに、思わぬことが起こると心がかき乱されて、冷静でいられなくなって、事態にどう対処すればいいかわからず、場合によっては途方に暮れてしまうかも知れないが、それが何だかわからず、何を意味するのかもわからず、誰の思惑からも予言や予想からも外れたことが起こると、それによって物事の緊張を解きほぐす効果が生じるとしても、何かの均衡が実現するというよりは、均衡が崩れるきっかけがもたらされると捉えた方がしっくりくるかも知れないが、それが起こる以前の均衡が崩れて新たな均衡がもたらされるには、いったんそれまでの均衡が崩れる必要があると考えれば、そうなるきっかけをもたらすのが、そこに関与している誰の思惑からも外れる出来事であり、それが偶然にもたらされると誰にとっても思いがけない出来事となるから、そんな出来事に調子を狂わされて、それまで保っていた均衡が崩れてしまうのかも知れないが、なぜ以前の均衡が崩れなければならないかといえば、別に理由があるわけでもなく、偶然にそういうことが起こるだけで、何かそこに意図や思惑が介在しているわけではなく、むしろそこから意図や思惑が生じてくるわけで、例えば以前にもたらされていた均衡の中では不利益を被って不遇を託っていた者がいれば、その境遇を覆す機会が到来したと思われるだろうし、そうした出来事を利用して何か仕掛けてくるかも知れないが、そういうことまでが偶然に起こる出来事に含まれるのかも知れず、そうなるとそれを利用して何かをやろうとする意図や思惑が生じるわけで、そういう意図や思惑をもたらすきっかけが偶然に起こる出来事であれば、やはりその出来事が起こらないと、そういう意図や思惑も生じなかったわけだから、人の意図や思惑もそれだけで先行して生じるわけではなく、何かが起こったことがきっかけとなってそういう意図や思惑が生じることになるわけで、それはそこで起こった事態に対処するための行為となって現れることもあるだろうし、出来事が何らかの事態をもたらしているわけだから、それへの対処としてそういうことをやろうとするわけだが、そういう行為がうまくいってもいかなくても、それをやること自体がそれ以前とは違う行為をやっていることになり、それ自体が変化をもたらしたことにもなり、実際にそういうことをやる人が大勢現れて、それが流行現象などに発展すれば、何かそれまでとは世情が一変したように感じられるかも知れないが、それが一過性で終わるか世の中に定着するかでも状況が変わってくるだろうが、たとえ一過性で終わって流行が収まったとしても、その時の経験がそれまでとは違う物事の見方や考え方をもたらしている可能性もあるだろうし、何かしら人々の記憶に刻まれて、もはやそれ以前の思考状態には戻りようがなくなってしまい、それがもとで事態への対処や対応もそれまでとは違ったものになれば、世の中が変わったからそれに伴って対処や対応も変わったことになるが、いったんそうなればそれが必然的にそうなったと思われて、偶然の出来事によってそんなきっかけが与えられたことなど忘れられてしまうかも知れないが、そこに至るまでの間に人の生き死にも断続的に起こりながら世代交代も進んでいけば、一人の人間がそれら全てを経験するわけではなく、何世代にもわたって進行することになれば、ある一人の人物の意識の中では世の中の変化を実感できないのかも知れず、そういう面まで含めて考えるなら、人も世の中も絶え間ない変化を被っていることになるはずだが、それもそうなった結果から絶えず過去を振り返りながら、過去からの継続性や連続性を探し出して安心しようとするわけだから、保守的な思考の中では偶然の変化が無視されてしまうわけで、それに代わる過去から連綿と続く一貫性が求められて、そうした一貫性に基づいた価値観や観念を導き出そうとするわけだから、そこから偶然を排除した必然的なフィクションも構成されてしまい、しかも現状の世の中でそれに適合しない要素を改めようとすれば、そこで自分たちが現状に適合しようとするのとは逆に、自分たちが構成したフィクションに現状を適合させようとしてしまうわけだから、結果的にかなりの無理が生じてしまうのかも知れず、実際にそれが政治や経済の領域でおこなわれてしまうと、何か現状に合わないおかしなことをやってしまうことになり、事態はそれだけでは済まなくなるだろうし、そういうことを無理にやろうとするから、現状との間で摩擦や軋轢などの抵抗が生じてきて、それによって社会的な対立や争いなどが引き起こされるなら、それを通じても世の中の変化がもたらされるだろうが、その際にもそういうことをやろうとする人や勢力の意図や思惑を外れるような偶発的な出来事を引き起こして、それをきっかけにして世の中の支配体制などが転覆することもあるだろうし、そこでも世の中の状況の推移を敏感に察知して、それに対応したことをやろうとする人や勢力が主導権を握る可能性が高くなるだろうが、それが世の中の変化に抗っているように思われることでもあるかも知れず、実際に世の中の変化に抗っているつもりが、実はそれが世の中の変化に対応した行動であったりすれば、当人の思いとは真逆なことをやっていることになるわけだが、その場の情勢の中では案外そういうことが頻繁に起こりうるのかも知れず、当人が思っていることと実際におこなっていることが一致していないと、何か間違ったことをやっているように見られてしまうかも知れないが、それまでの常識に照らし合わせてそれが間違っているように思われるとすれば、世の中が変化してその常識が覆されるような結果がもたらされるなら、その時には間違ったことをやっているように見られた人が、結果的には世の中の変化に対応したことをやっていたことになるわけで、そうなると現状に抗って何かをやっているように見えることが、変化する以前の状況に抗っていることになり、それがそのまま変化しつつある状況には対応していることになるのではないか。


10月24日「不条理への取り組み」

 世の中で容認されていることの中には、何か不条理のような理屈と共に成り立っていることもありそうなのだが、それの何が不条理かといえば、うまくいく行為にはそれとともにあるようなうまくいかない行為が必要であり、そのどちらか一方がうまくいけば他のもう片方がうまくいかなくなり、どちらもうまくいくということはあり得ず、必ずどちらか一方がうまくいくともう片方がうまくいかなくなり、そこで勝敗が分かれるのだが、うまくいったことに関しては特に問題はないとしても、うまくいかなくなってしまったことについては、それの何がまずかったのかを指摘できるとしても、そのまずいことやってくれたから、もう片方がうまくいったわけだから、うまくいった方からすれば、まずいことをやってくれた方に感謝しなければならないはずで、まずいことやったからといって、うまくいかなくなった方を批判したり非難する気にはなれないだろうし、結局そんなことをやっているから駄目なんだと批判するのは、それを見ている傍観者や野次馬の方であり、そういう立場は見ているだけで文句を言っているわけだから、どちらかといえばずるい立場と言えるが、何か言って批判したところで、特に利益が得られるわけでもなければ、相手にされるようなこともなく、いくら批判したところで何の効果もなければ、それがどうしたわけでもないのだろうが、それを見ていればそれに関して何か言わざるを得ないような立場というのもあるだろうし、それに関して何か言う立場というのが社会的に確立されていれば、そこから何らかの利益が得られる場合もあるだろうが、それが何かを言う対象に依存して成り立っているわけだから、その対象がなければ何も言うこともできないとすれば、対象次第では何を言っても利益には結びつかない場合もあり得るだろうし、利益に結びつかないことがまずいのかとなると、何かを言っていることがまずいという以前に、言う対象がまずいということになり、言っている内容や言っていることではなく、それが利益に結びつかないことがまずいのであれば、そういう方面ではそういうことになるが、それとは別の方面では利益がなくても何か言うだけは言えるような成り行きもあるだろうし、何かを言うこととそこから利益を得ることが必ず結びつくわけでもなく、結びつかなくてもかまわないのであれば、特に問題はないわけだが、そうなると利益に関してはうまくいくこととうまくいかないことが直接結びついているわけではなく、それどころかうまくいってもいかなくてもどちらでもかまわない場合さえあるだろうし、勝敗を気にせずに何かをやっていられるなら、そんなにお気楽なことはないとも言えるが、その場の状況次第ではそうなってしまう可能性もあるだろうが、それとは違ってそこで利益を得る目的が生じて、さらに利益の獲得を目指す人が他にも多数いれば、そこで競争が起こって、その中の誰かが利益を得られると、他は利益を得られないことにでもなれば、利益を得られた方がうまくいって、利益を得られなかった方はうまくいかなかったことになるだろうが、そういう一攫千金を目指す賭博的な成り行きがある一方で、そこに参加した誰もがそれなりの利益を得られるような成り行きもあるかも知れず、実際に得られる利益の多い少ないはあるとしても、世の中で誰もが利益を得られているから、そこで多くの人が暮らしていける成り行きがあるわけだが、その一方でやっていることがうまくいって成功すれば多額の利益が得られるが、逆にやっていることがうまくいかずに失敗すれば利益を得られないどころか多額の負債を背負い込むような成り行きもあるわけで、成功すればより多くの利益が得られて、失敗したらより少ない利益しか得られないどころか、場合によっては負債まで抱え込んでしまうような成り行きがなぜ生じるかというと、成功するにはそれなりの利益を投資しなければならず、まずは投資するための利益を得なければならないという不条理があるわけで、何もないところから利益を得ることはできず、利益を得る前提として別に利益を得ていなければならないわけで、すでにそれなりの利益を得ていれば、その利益を投資してさらなる利益を得ようとする成り行きが可能となり、何もなければ他から利益を借りて負債を抱え込んで、マイナスの状態から投資を始めることになるだろうし、そんなことまでやる必要があるか否かということではなく、そういう成り行きの中ではそうなってしまうのであり、やる必要があるからといって必要なものが得られるとは限らず、それも努力次第で得られるのであれば、努力のしがいがあり、そういうことになれば理屈の上でももっともらしく思われるだろうが、実際には努力したかどうかに限らず、その場の偶然に左右されるようだと、結果的に努力が報われなければ不条理に思われるだろうし、両方の傾向が入り混じっているようだと、どちらもあり得るということになるが、その場合でも努力しないよりはした方が必要な利益を得られる可能性が高まると捉えるなら、そういう理屈の方がよりもっともらしく思われるはずだが、そうとも限らないことが実際に起こってしまうと、何かそれが不条理に思われてしまうわけで、そんな不条理をなるべく起こさないようにするために、努力した分だけ報われるような制度や機構を公的に設けようとするわけだが、そうなると努力した内容を評価できるか否かが問題となってくるだろうし、制度や機構が設けた努力目標を達成したか否かで判断されてしまい、それとは違う努力をいくらしたところで何の評価も得られず、制度や機構の意向に沿った努力をしなければならなくなるわけだが、結局はそうした意向に沿った努力をしようとする者が大勢現れてくれば、そこで競争が起こって利益の争奪戦となってしまうわけで、それを避けるために事前の審査をおこなって、審査を通った人に利益を与えるようなことになれば、それが試験制度に発展してしまい、審査したり試験することによって、制度や機構に利益がもたらされることにでもなってくれば、審査したり試験する側に回れば利益に与れることになるだろうし、そうなると制度や機構に沿った努力をしようとする者たちが制度や機構に利益をもたらすことにもなってきて、それらの人たちが制度や機構の食い物にされていることにもなってくるかも知れず、結局は利益を餌にしてそこに群がってくる大勢の人たちに競争をやらせて、そこから利益を得るようなやり方が制度や機構の目的ともなってくるわけだから、餌につられて群がってきた人たちにしてみれば、まさにそれこそが不条理そのものだと言えるかも知れないが、それでも審査や試験に通って競争に打ち勝って実際に利益を得られた人にとっては、自らの努力が報われたと思うだろうし、それがもっともらしくて道理に適った制度だと思うのではないか。


10月23日「巧妙な手口」

 何らかの偏見や先入観などから生じる固定観念にとらわれていると、それに基づいた身勝手な理屈を信じたままになってしまうかも知れないが、他人にそれを信じ込ませることによって、有利な状況をもたらそうとするやり方もあるだろうし、世の中の多くの人をそこに拘束して動作させる何かの制度や機構を管理運営する側にとって、管理対象となる人たちにそれを信じ込ませることが、管理する側が有利な運営をおこなうためには必要となれば、そういった固定観念にとらわれてしまう人を利用しようとする成り行きが生じるのだろうが、もっとあからさまに人を洗脳したり勧誘する手口としてそういうことがおこなわれる場合もあるわけで、その手口がたわいないほどたわいない人たちが引っかかるとしても、安易にそういう手口に引っかかる人が大勢いないとその手の商売が成り立たなくなってしまうし、もちろん一度引っかかって痛い目に遭った人をさらに引っかけるための手口もより巧妙化してくるわけで、そういう手口の巧妙化や悪質化は、そこから利益を得られる限りで進化し続けるわけだが、中には引っかかってしまう人だけがひどい目に遭うだけではなく、引っかけようとする人たちの方がより一層悲惨な目に遭うような成り行きもあるだろうし、そうなるとその種の映画などで見受けられるように、詐欺師の末路ほど悲惨なものはないとなるわけだが、さらにはわざと詐欺に引っかかったふりをしながら詐欺師や詐欺的な制度や機構を利用しようとする試みもあるのかも知れないが、世の中にはそれを詐欺だとは一概に言えないような制度や機構もいくらでもあるだろうし、そういう制度や機構を利用しながら普通に暮らしていれば、それを詐欺だとは思わないわけだが、同じ制度や機構の利用者の間でも、うまくそれを利用して利益を得られた人にとっては詐欺ではないが、うまくいかなくて多大な被害や損害を被るような人が出てくると、実際にそうなってしまった人は詐欺だと思うかも知れないし、被害を受ける人が多くなると被害者の会とかを結成して法的な手段に訴えるような成り行きとなるのだろうが、そうなるケースは稀だろうし、大抵の制度や機構はそれが利用されていればそれに関係する団体によってそれなりに管理運営されているわけだろうが、当然のことながらうまくいっていない面もあるだろうから、それが公的な制度や機構であれば政治的な問題となってくるだろうし、それについてあれこれと政治の場で論議されることになれば、それが改革の対象となってくるのだろうが、実際に改革するとなると、改革する側にとって都合の良いことをやろうとするわけだが、もちろんその際には、建前上はそうした制度や機構を利用する側にとっても利益となるようなことをやろうとするだろうが、それが本当にそうなるかといえば、改革する側と利用する側とで利害が一致していればそうなる可能性が高いだろうが、全面的に一致しているかというと、必ずしもそうとはいえない面もあれば、そういうところで制度や機構を利用する側にとって不利益となるようなことを指摘して、改革に反対する動きも出てくるだろうし、そういう成り行きとなればそれに関して論議した上で、改革に対する賛否を問えばいいわけだが、それがそういう範囲内には収まらないようなことにもなってくれば、何かそこからこじれた事態になってくるのだろうが、そのこじれた事態というのがそこにかかわってくる誰にとっても得にならないことにでもなれば、さらに事態が混迷してくるわけだが、そこに介入してくる人や団体にとっては、介入することによって利益を得たいのだろうし、それがどんな利益であるかによって、介入の正当性や介入してくる人や団体に対する社会的な信用や信頼が問われてくるのだろうが、事態をこじれさせてこじれた事態の中で動き回ることによって何らかの利益に結びつけば、それもそこから利益を得ようとする行為になるわけで、そういう人や団体としては事態がこじれるほどそれを口実として動き回る理由が生じるわけだから、事態をできるだけこじれさせようとするのだろうし、それが昔ながらの総会屋的な存在として立場が確立されるようなことにでもなれば、何か脅迫まがいの行為によって生計を立てるようなことにもなってくるのだろうが、そういった行為がどこまで許されるかとなると、そうした事態に介入してくる人や団体などの間の力関係から許容範囲が決まってくるのだろうが、たとえそういった行為が世の中で横行する事態になっても、そんな騒ぎは枝葉末節なことに過ぎないのだろうし、そうしたことの原因となる制度や機構などが維持運営される際には多少のトラブルはつきものなのであり、それを運営する側もそれを利用する側も、そこから生じるもめ事を嗅ぎつけて介入してくる側も、そうした制度や機構にとらわれている中では、それとともに機能する運命共同体的な枠組みの中に入ってしまっているのであり、そこにいったんかかわってしまうとなかなかそこから抜け出られないような構造に組み込まれてしまって、その中で限定された動作を強いられてしまうのだろうし、それを外部から見ている人には、何か不合理で面倒なことに縛られて、身動きがとれないように感じられてしまうかも知れないが、そこに拘束されていないと活動がままならないというか、活動する理由が生じてこないのかも知れず、何かに拘束されて何らかの動作を強いられてしまうから、それに逆らったりする感情が生じてくるわけで、またそれを維持管理する上でそうした感情が生じてくるのをいかに抑え込むかが活動の主な内容となるだろうし、そもそもそういう機構や制度がないとそんな活動も生じてこないし、それらの人たちが存在する理由や意義もなくなってしまうわけだが、そういったことから自家撞着のような論理も持ち出されてくるのだろうし、そこに機構や制度があることが前提で、そこにかかわってくる人や団体の活動が成り立っていて、そこでは各々の人や団体などの都合が許す限りで、活動を成り立たせる前提条件を自身に有利となるように作り変えたいのだろうが、そうするに当たって他の人や団体の同意を取り付けたいわけで、しかもその際には何とかして自らに有利な条件を相手に呑ませたいのだろうし、そのための策略をあれこれと巡らす場合もあるだろうし、その際にはその場の力関係が利用されるだろうが、そうやってうまく相手を丸め込むことができれば、そうなった時点では有利な立場になったと言えるだろうが、そこで終わりではないのはもちろんのこと、そこから先に絶え間ない管理や運営の作業が待っているわけで、いったんそういう立場になって、そういうことをやり出すときりがないわけだが、何から何まで管理しきれないし、運営に当たっても絶えずトラブルがつきまとってくるだろうし、そういう作業にのめり込んでいってしまうと、そうした機構や制度にとらわれて、それと一体化することになってくるだろうし、もはやそれなしでは何もできないことにもなってきて、それを外部から見れば身動きがとれずに縛られているように感じられてしまうわけで、それが制度や機構自体が仕掛けてくる巧妙な罠だと見なしても、別にそれらに人のような人格があるわけでもなく、ただの機械仕掛けの装置に過ぎないのかも知れないが、それらにとらわれてしまった人たちもそうした装置の部品に過ぎなくなってしまうわけだ。


10月22日「気になっていること」

 忙しいときでも退屈を持て余しているときでも、気になっていることはあるだろうが、そこで活用しなければならないのは、意外と日頃から気になっていることではなく、誰も気づかないようなことであり、それを活用して他人が気づかないようなところで差をつけなければならないのかも知れないが、実際にそうやって差をつけたつもりになっても、それを他人に気づかれなければ自己満足に浸っているだけであり、他人にとってはそれがどうしたわけでもないだろうが、逆に誰もが気づいていることをあからさまに指摘するようなことはしないのかも知れず、それが気になるところでもあるわけだが、あえてそこには触れずに差し障りのない範囲内で言及できることについて語ろうとして、何かそれでは肝心なことが何も述べられていないような気もするわけだが、誰もが差し障りのあることに気づいているかというとそうでもなく、それに気づいていないのにそれを避けて語るようなことになってしまうわけで、なぜそういう芸当ができるかとなると、はっきりとは気づいていないとしても、おぼろげながらそれに言及してはまずいことがわかっていて、そういうところで空気を読むとかその場の雰囲気を察知することができて、そうすることによって触れてはならないことを避けながら語れるようになるのだろうが、それがわかっているだけに、そういうことをあからさまに語る人には同調できないわけだが、もちろん同調できる面とできない面とが語りの中で混在している場合もあり、そういうときには是々非々の態度をとらざるを得ないが、それをしないで全面的に同調したり賛同するような人を信用できるかというと、何かそういう態度が欺瞞を含んでいるように感じられると信用できなくなってしまい、それも信用できない面とできる面とが混在していれば、そういうときにも是々非々の態度をとるしかないわけだが、そういうことにも誰もが気づいているのかも知れず、しかもそれに気づいていながら、あえてそのことには触れようとしないから、そういう態度にも欺瞞がつきまとっていて、それを信用できるとかできないとかいうのとは少し違うところで、そういうものだと受け止めるしかなく、それも気になるところだが、気になったところでそれについてはっきりと述べるわけでもなければ、やはりあえてそれについては言及しないような態度をとってしまい、差し障りのあることに言及するのを避けているわけで、そういう態度にも絶えず欺瞞がついて回り、それをいかにごまかすかが腕の見せどころとなるようなことにもなってしまうわけだが、そうなると何か存在の定かでない相手との間で架空の駆け引きをおこなっているような様相を呈してきて、特定の相手を想定しているわけではないとしても、いつどこから何が飛んでくるとも限らないような状況の中で、敵の攻撃から身をかわす仕草を見せているようなことにもなってしまい、そこに誰がいるわけでもないのに、誰かがそこにいることを想像しながらそんな態度を演じてしまうと、それが世間の同調圧力に屈した態度に見えようと、誰がそれを見ているわけでもないだろうし、誰も何も見ていなくてもそんな態度を演じてしまうとすれば、それは誰の意志とも関係なく自動的におこなわれていることになり、誰もがそんな態度を演じている世の中がそこに形成されていることにもなるのだろうが、本当にそうかというとそうでもないのであり、誰も何も演じているつもりはなく、自然な動作としてそうなっているだけであって、別にそれが気になるようなことでもないのだろうが、誰の演技に気づいているわけでもなく、誰も何も演じているつもりがないのだから、それを演技と見なすこと自体も間違っていて、ではそれが何なのかといえば、自らの意志に基づいてそんな態度になっているわけではないとしても、何かその場の状況に応じた意図や思惑があるから、そういう態度になっているとみておけばいいのかも知れないが、それが見え透いているように思われてしまうと、そうした意図や思惑の当てが外れてしまい、意図した通りのことも実現しないし、思惑通りにもならないわけだが、意図や思惑が態度に表れてしまうようだと、それを相手から見透かされてしまい、そうした意図や思惑に対応した行動に出られてしまうわけだが、それも相手がいることが前提でおこなわれることなのだろうが、果たしてまともに相手をしてくれるような存在を想定できるかとなると、一方的に相手を打ち負かすようなことを主張してくる相手の相手をするメリットがあるかとなると、普通はそんなことを言ってくる輩の相手などしたくないだろうし、いくらお人好しでよほどの余裕があっても、戦うメリットのない相手は相手にしない方針で臨むのが無難であり、それでも言いたい輩には勝手に言わせておけばいいだろうし、言わせておくのがデメリットになるようなら、直接には対峙しないで、裏から陰湿な妨害工作のようなことをやってくるかも知れないが、要するに正々堂々とした対決には持ち込めないし、持ち込ませないような意図や思惑が働いてくるわけで、なぜそういう成り行きになってしまうのかといえば、何のメリットもない相手と戦うのは差し障りがあるからだろうし、相手がどんな卑怯なことをやってくるとも限らないし、それ以前にお互いに卑怯なことをやり合った末に、まともに正々堂々とした戦いになるはずもなく、すでにそんなことにはなりようがない成り行きの中で、誰とも知れない正体の定かでない何かと戦っているつもりでいれば、その延長上で行動しているわけだから、特定の誰かと戦うような成り行きにはなっていないわけで、戦う対象すらわかっていないのに、それでも何かと戦っている気でいるのだから、それこそ勘違いもいいところかも知れないが、そういうことまで考慮に入れるなら、相手にされないような相手とは戦わない方がいいだろうし、こちらが戦っているつもりであっても相手にされていない可能性がありそうで、そもそも特定の誰かを敵と見なすこと自体が間違っているのかも知れず、敵でもなければ味方でもなく、実際に何らかの争いに巻き込まれてみないことには、はっきりとは敵も味方も区別がつかないし、区別がつかないような状況の中で暮らしている限りは、無理に特定の誰かを敵と見なしたり味方と見なすようなことは避けなければならないが、不快なことをやっている人や勢力を敵と見なさなくてもかまわないのと同様に、好感を持てる人や勢力を味方と見なさなくてもかまわないわけで、それが中立や中庸の立場を装うのとは違い、全面的に敵対したり賛同することはできないということであり、どのような人や勢力であってもそれに対する敵意や賛意が入り交じっていることは踏まえておくべきかも知れない。


10月21日「幸運な巡り合わせ」

 偶然にそうなっているとしか思われないことについて、理屈や理論では説明できない現象や出来事などいくらでもあるかも知れないが、それを説明する必要もないこともいくらでもあるだろうし、説明を要しない些細なことであっても、わざわざ説明するまでもないことであっても、それに驚いたりあっけにとられるようなこととは違って、何かの運命の巡り合わせのようにして迫ってくるものを感じてしまい、どう考えてもそれが偶然にそうなっているに過ぎないのに、それに遭遇しているのが何かの必然であるかのように思われてしまうこともあるわけで、なぜそうなってしまうのか理解できないのだが、何か自らにまとわりついて離れないような運命を感じてしまうとすれば、やはり説明しがたいような必然的な運命の巡り合わせであることを確信してしまうわけだが、それが勘違いであれば何のことはないとしても、その時点では勘違いだとは思えないわけだから、本気で何か凄いことに巡り会ってしまったような気がしてしまうわけで、しかもそれが自分にとっては凄いことだと思われても、他人にとっては何でもないことであり得るとすれば、自らに特有な事情に関係することであり、自分にとってだけ特別な出来事であるようにも思われて、そうなるとそれが幸運な巡り合わせだとも、あるいは正反対の事態だと最悪な運命の巡り合わせだとも思ってしまうわけだが、そんな思い込みが生じてしまう理由としては、自分と他人とではそれを受け止める際に感じる出来事の重みが違ってくるからだろうし、それが自分の身に降りかかっている時にはさも重大なことのように思われるが、それが他人の身に降りかかっているのを見ているだけであれば、あくまでも他人事であり、悲惨な目に遭っていれば少しは同情するかも知れないし、幸運がもたらされていれば少しは羨んだりするかも知れないが、他人事であれば自分にとってはどうということはないだろうし、他人事だとは思えない範囲内で同情したり羨んだりもするのだろうが、自分の身に降りかかっていることであればそんな余裕はないわけで、まずはその事態に対処しなければならず、しかも対処を誤れば致命的な結果を招くようなことであれば、全身全霊を尽くして事に当たらなければならず、それだけ本気度が違ってくるのだろうが、そういう傾向の事態であれば誰もが事を深刻に受け止められるだろうが、そうではなく他人にとっては何でもないことかも知れないが、その延長上で自分にとっても何でもないことだと思ってもかまわない程度のことであり、しかもそれに関しては他人のことなどどうでもよく、他人がそんな事態に直面したところで何でもないのに、なぜか自分にとってはそうでもないような気になるとすれば、ではなぜ自分がそんな事態に直面しているかといえば、やはりそこに自分に特有な事情が絡んでいて、それをどう受け止めればいいかの判断基準がわからず、どう受け止めてみてもしっくりこないような事態に直面していると、それを何でもないことだと突き放してしまう気にもなれないし、そうかといって特に深刻な事態に陥っているわけでもないとすれば、他人から同情など期待できないし、同情されるどころか、誰も何とも思わないようなことであれば、気にする方がおかしいのかも知れないが、何でもないようなことだらけであっても他に何もなければ張り合いがないだろうし、それが自らに特有な事情をもたらしているかといえば、他人から見れば何ももたらされてないように見えるかも知れないが、それでも自身にとっては何でもない些細な物事がいくらでももたらされていて、それらのことごとくが特に取り立てて深刻な事態も重大な局面ももたらしていなければ、やはりそんなことはどうでもいいように思われてしまうわけだが、それが何の巡り合わせでもなければ、そんなことでしかないわけだが、何かの巡り合わせてそうなっているとしか思えないほど、それが必然的な運命の巡り合わせでそうなっているように思われるとすれば、他人からすればそんな大げさに捉えるようなことでもないのだろうが、自身にとっては気になって仕方がないようなことでもあるのかも知れず、気になる事情というのが何でもないと思われることであり、何でもないでは困るというか、困っているようには見えないのだろうが、特に困り果てる理由もないところが張り合いのないことなのかも知れず、果たして誰もが深刻な事態や重大な局面の中で事に当たることを望んでいるかといえば、確かにそうなれば張り合いがあるだろうし、世の中のそういう事態や局面の中に飛び込みたいという願望が、戦場カメラマンのような存在をもたらしたのだろうが、それとは逆に何でもないような出来事の連続が凄いことだとは思えないし、特にそれを気にするようなことでもないとしても、それが何か凄い事態に結びつくのではないかという妄想が生じてくると、その期待がことごとく裏切られてしまうような事態になればひどく落胆して、そんなふうに何もなくてがっかりするようなことが連続すれば、退屈紛れに自らが何か大それたことをやってしまいたくなるのも、それほど不思議ではないとしても、本当にそれをやるような成り行きに至るには、そこに至るまでの間に様々な紆余曲折があるのかも知れず、途中から思わぬ方向へ逸れてしまって、当初には思いもよらなかった事態に巻き込まれてしまえば、それこそ思いがけぬ事態に直面したことから生じる驚きと共に、何かそこに得体の知れない宿命のような因果応報を感じ取って、そんな事態に遭遇してしまったことが運命の巡り合わせのように感じられるかも知れないが、その遭遇した何かというのも他人にとっては何でもないことであれば、特に他人から気にされるようなことでもないだろうし、そこに何らかの事情が介在していると、妙に気になってしまい、それが他人にとってはどうということはないのに、自分にとっては気になって仕方がないようなことになるのかも知れず、それが現代の世の中で普通に起こっていることであれば、誰もが自身にとっては気になって仕方がないような出来事に遭遇しているのに、社会全体から見ればそれらのことごとく何でもないことであっても、それが何でもないようなことにこだわってしまう存在としての一般市民の実態となっていて、それらのことごとくが何でもないことが現代に特有な問題となり、そんな何でもないことにこだわってしまう何でもなさが、一般市民を何でもない存在にしてしまっていると捉えるなら、その何でもなさに阻まれて真の社会的かつ政治的な問題が顕在化してこないと思われるかも知れないが、それも社会的かつ政治的な幻想であり、そういう幻想でさえも何でもないことに含まれてしまうのかも知れない。


10月20日「変化への対応」

 何が人を変えるのかとなると、時代が人を変えるのかも知れないし、何らかの事件や出来事が人を変えるのかも知れないが、影響を受ける程度であれば、何かの書物から影響を受けるかも知れないし、あるいは他人から影響を受けるかも知れないが、書物でも映画でも漫画などでもかまわないが、何かの物語が人を変えるかというと、そうかも知れないし、そんなはずがないかも知れないが、それがどんな物語かといえば、その時代の誰もが知っている物語であったり、あるいは誰も知らないが、古書などに記された過去の物語を人知れず読んで影響を受けるようなこともあるかも知れないが、人が変わる必要もないのかも知れず、その必要がなくても自然に変わって行ってしまうのかも知れないが、人が変わったとしても身の回りの状況も世の中も変わるだろうし、人自身も絶えず生まれて死んで世代交代が起こっているだろうし、人から人へと受け継がれる慣習や伝統や財産や資産などがあるとしても、受け継がれた先で消滅したり使い果たされてしまえば、何もなくなってしまうだろうし、自然の風化作用や浸食作用によってなくなってしまう地形や環境もあるだろうから、人の変化も時代や世代の移り変わりも自然に起こることに含まれていて、人為的に起こされた変化であっても、それが人自身に変化を促す要因となるにしても、あるいは集団内の組織や構造が変わるにしても、それらの変化に応じた人材が必ず出てきて、環境の変化に適応するのかも知れず、誰も適応できなければ人類が消滅するのだろうが、誰もいなくなっても世界は残るだろうし、どうなってもかまわないのは、誰もそうは思わなくても、そうは思わない人が誰もいなくなってしまえば、その先がどうなってもかまわないのだろうが、現状ではそういう水準で考えていることではないのはもちろんのこと、現状のままの社会や世の中があることを前提として、今後それをどう変えるかとか、あるいは変えずにどう守っていくかとか、あらゆることを想定して対応したり対処しようとしているわけでもないし、できないことも色々とあるだろうが、人為的に変えられることと自然の成り行きとして変わっていってしまうことを同等に考えるわけにもいかないだろうし、人為的に変えようとしていることも、変えたところでそれだけでは済まないで、その副作用として思わぬ変化を起こしてしまう場合もあるだろうが、対応しようとしても対応しきれない変化もある一方で、変化に対応することで関係している物事がうまくいくこともあるだろうし、人は誰でも周囲の変化に対応してうまく事を運ぼうとしているわけでもないし、不器用であれば世の中の変化に対応できずに取り残されてしまう場合もあるだろうが、古い慣習やしきたりを守っている集団や地域共同体などがあれば、外との交流を閉ざすことによって、内部にいればそれなりに安泰でいられるのだろうが、内部が退屈であれば外に出て行くだろうし、人は誰でも自由を求めて世界各地をさまようわけでもないが、どこか居心地の良い場所で安住したいという思いもあるのかも知れず、それが平凡な日常の退屈さと隣り合わせであるとしても、そういう漠然とした思いを実現するために犠牲にしなければならないことがあれば、意外と金銭的な損得勘定抜きであやふやな思いの方を優先させることもあるのかも知れないし、強いられてそうするよりは積極的に様々なしがらみを断ち切って、たとえそうすることによって多大な損害を被ってでも、割の合わない苦労を惜しまないとしたら、そういうときには功利的な打算などはどうでもよくなってしまうのかも知れず、それでうまくいけば言うことなしだが、実際にはうまくいかないことも多いから、功利的な打算が働いてしまうのだろうし、それでもあからさまにせこくずるく立ち回ると、他人から軽蔑されてしまうから、なるべくそういう否定的な面は表に出したくないのだろうが、そうしないと利益にありつくことができなければ、隠れてやりたくなるだろうが、なるべくそういう否定的に見られることはやりたくないわけで、それよりはもっと他人から良く見られたいだろうし、かっこいいことをやって他人から羨望の眼差しで見られたいという思いもあるだろうが、そういう見栄を張りたい思いというのも、いざとなったら割と躊躇なく捨ててしまえるのかも知れず、それまでは人並みにこだわっていたことが、何かのきっかけを境にしてきれいさっぱり洗い流されて、社会の中で生きていく過程で身についてこびりついてしまう垢のように汚れた情念がどうでもよくなってしまう心境になれるかも知れないが、そんな機会が誰にも平等に巡ってくるわけでもなく、大半の人は身についたこだわりを捨てられずに、せこく打算的な面が周囲にはばればれなのに隠すそぶりを見せながら生きていくことになるのだろうが、自由な状態になることを望むなら、必ずそういう機会が巡ってくるわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、多くの人がせこく打算的に生きている現状があるからで、そんな中で自由を求めてしまうと、自然に周囲から押し出されてしまうわけで、誰もがせこく打算的に生きることの競争を繰り広げている中では、自由を求めることはそれとは相容れないから、こだわる力が弱まってしまい、社会との結びつきが切れてしまうのかも知れないが、完全に切れてしまえば生きてはいけないから、相対的に結びつきが緩む程度に収まっていれば、それなりの自由を得られるだろうが、それも程度の問題だろうし、自由を求める思いが強いほど、慣習などのしがらみが邪魔に思われてくるのかも知れず、邪魔に思われても周囲との間で協調が成り立っている範囲内に収めようとすれば、自由を求める思いを抑えて打算的に振る舞うしかないだろうし、そういう妥協的な態度を潔しとしなければ、周囲の迷惑を顧みずに自由を求めてしまうだろうし、それによって周囲との関係がうまくいかなくなって、そこから物理的あるいは心理的な面で様々な損害を被ってでも、それでもなお自由を求めてしまえば、功利的な新自由主義などとは別の自由を求めていることになるのだろうが、そういう自由は自らの社会的な関係を壊す自由であり、利益の追求によって社会そのものを壊す功利的な新自由主義とは性質が少し異なるわけだが、それによって変化が生じることには変わりないだろうし、どちらにしても自由を求めることが変化をもたらすわけで、それが良くも悪くも変化を促すとすれば、何か自由は社会の敵であるかのように思われるかも知れないが、社会がそのままの形で永遠に保たれるわけでもないだろうし、実際に時代の変遷と共に社会も移り変わってきたわけだから、変化した結果をいやでも受け入れざるを得ないわけだが、変化させまいとする力に抗って変化するわけで、そういうところで必ず軋轢や抵抗が起こるだろうし、その際に変化を促す側につくか変化を押しとどめる側につくかの二者択一とはならずに、どちらの面も入り交じったような態度や姿勢になってしまうのかも知れず、それが結果を見てみなければわからないようなことであり、また結果から見てもどちらについていたのか不明確な立場というのもあるのかも知れないが、ことさらに自らの態度を鮮明にしなくてもかまわない場合もあるのかも知れない。


10月19日「功罪半ばすること」

 様々なことが様々な分野でおこなわれている中で、それが様々な方面にわたっているだけに、特に統一感がとれているわけでもないはずだが、その中である特定の方面で特定の分野の中で語ろうとすれば、何かまとまりのある言説となるだろうが、様々な方面で様々な分野の中から同じような傾向の物事を選び出して語れば、統一感のとれたまとまりのある言説となるかも知れず、中には意識しなくても自然とそういう傾向になってしまう成り行きもあるかも知れないが、そこに恣意的な思惑が介在してそうなっていると、それを意識できないと恣意的な選んだ物事の間で統一感がもたらされているから、何かそれらの間では辻褄が合っているように思われるのだろうが、もとから統一感のない物事は選んでいないわけだから、選んできたそれらが全てのように思われてしまうと錯覚が生じてしまうわけで、それらが全てではなく、世の中のほんの一部分に過ぎないことだと意識できれば、少しは思考にゆとりがもたらされるのだろうが、そういう傾向で一辺倒になっているようだと意識がそこへとのめり込んで、それ以外のことは眼中にない心理状態となって、そういう傾向に凝り固まってしまうのだろうが、それが良いか悪いかではなく、時にはそうならないとわからないこともあるわけで、時と場合によってそういう傾向へと意識を集中させることと、他の様々な傾向へも配慮することを使い分ける必要があるのかも知れないが、両方をいっぺんに同時並行的にできるような器用さを持ち合わせている人はまずいないだろうし、そういうところで一方的な傾向へと凝り固まってしまう人と、他の様々な傾向へも配慮できる人との間に何らかの違いが生じてくるのだろうが、どちらが良くてどちらが悪いとも言えない場合もあるだろうし、その人がだけが独りよがりに事を進めても、それに関係する人たちが同調してくれないと事が進まないだろうから、周囲の人たちが同調しやすい傾向を探って、他の人たちの同意を得ながら物事を推し進めるような成り行きになるのだろうが、実際に現状の世の中で他の関係者が同意できるような傾向というのがあるのだろうし、それが実際に世の中でおこなわれていることの支配的な傾向となるのだろうが、そういう傾向に凝り固まる人の中から成功者が出てくることは確かだが、多くの人がそういう傾向に凝り固まるほど、その中でおこなわれる競争も熾烈を極めて、成功する人もそれだけごくわずかな人数に絞り込まれてくるだろうし、成功した人にもたらされる富や名誉も多大にもたらされる一方で、それだけ成功できない人も大勢出てくるわけで、ごく限られた人によって富や名誉が独占されることになるのだろうが、他の大勢の人たちは富や名誉にはありつけず、その代わりにそれらの人たちは成功した人を盛り立てる観客になるか、成功した人に対して嫉妬の感情を高ぶらせるか、成功することをあきらめてそういうことには無関心になるか、他にも様々な在り方や態度が可能かも知れないが、そうなってしまうと成功した人に対する自身の在り方や態度が普通に求められてしまって、意識がそういう傾向への依存体質から抜け出せなくなってしまうわけだが、そうやって多くの人たちが成功した人とそれに関係するその他大勢の人たちという構図にとらわれてしまうことが、そういう傾向が世の中に定着する成り行きを示しているわけで、それが慣習として定着する面も制度として定着する面もあるだろうが、そうなることによって利益がもたらされるなら、そういう傾向になるように人々を誘導しようとする試みも生じるだろうし、意識がそういう成り行きに巻き込まれてしまうと、それ以外の傾向を意識できなくなって、それ一辺倒になってそこへとのめり込んでしまう危険も生じてくるわけだが、そうなることが危険だとは感じられないどころか、利益を得られるなら自ら進んで積極的にそうなろうとするだろうし、そうなっている時点でそういう傾向の中で成功するための競争に加わっているわけだが、そこでおこなわれる競争への参加者が多いほど、そういう傾向への凝り固まり具合もより強まるわけで、そういう傾向へとのめり込んでしまった人にはそれ以外の傾向が感知できなくなってしまうから、それ以外の傾向になる選択肢もなくなって、それ一辺倒になってしまうのだろうが、中にはのめり込めない人もいて、そこから適度な距離を保つ余裕があれば、それ以外の傾向も感知できるだろうし、世の中がそれだけではないことも理解できるはずだが、理解できたとしてもそこから利益を得ることしかできなければ、そういう傾向に依存するしかないだろうし、依存せざるを得ない状況の中で生きていれば、そうなるしかないわけだが、それが資本主義経済の中で生きていることの問題点かも知れないが、いったんその中に身を置けばそうなるように仕向けられてしまうから、そういう傾向には抗いようがなく、生まれたときからそんな環境の中にいれば、空気のように意識しなくてもそうなってしまい、誰もがそういう傾向に凝り固まってしまうのも無理もないわけで、それ自体をとやかく言う気にはなれないが、できれば他の傾向も含めてバランスをとりたいわけで、そういう傾向に凝り固まってしまった人に向かってそれ一辺倒になるなと諭しても、聞き入れてもらえないのはわかりきっていることだが、誰もがその中で成功しているわけではないどころか、ほんのわずかな人しか成功していないわけだから、成功していないその他大勢の人たちは、そういう傾向から距離を置いているはずなのだが、成功している人たちの方しか向いていなければ、それに気づかないだろうし、そういう方へと目を向けさせているのが他ならぬメディアであり、それにつられて曲がりなりにも世の中で成功している人は好意的に取り上げるべきだと思えば、それが政治家となると批判したり否定的に取り上げることには抵抗感が伴うだろうし、そういう傾向からもどちらかといえば成功している部類に入りそうな与党的な政治家を好意的に取り上げる一方で、どちらかといえば成功していない部類に入る野党的な政治家をあら探しのようにして否定的に取り上げる成り行きもあるだろうが、もちろんその逆の立場もあって、与党的な政治家のあら探しをしてその否定的な面を強調する場合もあるだろうし、そういう傾向の中で成功することが、必ずしも好意的なことをやったから成功するわけではなく、場合によってはあくどいことをやらなければ成功できない面があるとすれば、実際に成功するにはそういうことをやらざる得なくなり、しかもそれをやること自体が成功できない人には許せないことであれば、それを隠蔽することも成功するにはやらなければならないことになってしまうだろうし、結局後ろ暗いことをやりながら成功するわけで、そうなると世の中で成功した人には必ず人には言えないやましいことをやった過去があることになり、それを隠蔽しようとするからそれが格好のゴシップネタになるのだろうが、そうやって悪事を重ねないと成功できない世の中というのも、それを好意的に取り上げると欺瞞になってしまうわけだから、そういう傾向に凝り固まること自体が功罪半ばする諸刃の剣的な危険を伴っていることになるのではないか。


10月18日「消費者の存在」

 何か思い違いをしているとも思えないとしたら、普通にそう思っているだけかも知れないが、企業が投資するということが、すでに人件費として従業員に賃金を払っていることだとは認識されないだろうし、また商品を造るための材料を買い付けてくることだとも認識されないだろうし、そういったすでに既存の機械や設備を使って商品を造ることが投資とは認識されない代わりに、何か新規に事業を立ち上げるために資金を調達して土地を購入して建物や設備をこしらえる場合には投資だと認識するわけで、さらには株や債権などの金融証券を購入することも投資というわけだが、それら全てに共通することとして、資金を投じて利益を得ようとする行為を投資と呼ぶわけで、その中ですでに通常の業務として日々繰り返されていることは再投資とも呼ぶわけだが、それも投資には違いなく、常に投資していないと企業が成り立たないことは確かであり、企業が作り出してくる物や情報やサービスを消費してくれないと、そこから再投資に必要な資金を得られないわけで、投資する資金を借りてくるなり、株式を発行して調達するなりしても、それは一時的なものだろうし、肝心の事業が継続して行くには商品を買って消費してくれる別の企業や消費者がいないとならないわけだが、それに関して例えば百万円程度の比較的安い軽自動車を十台造るのと、一千万円程度の比較的高い高級車を一台造るのでは、どちらが人件費や材料費がかかるかといえば、普通に考えて一台造るよりは十台造る方が人件費も材料費もかかるはずだが、どちらも売れれば一千万円でしかないわけだから、どちらが儲かるかとなると、一千万円の高級車が一台売れる方が百万円の軽自動車が十台売れるよりは儲かるだろうし、しかも消費者十人に自動車を一台ずつ売るよりも、一人の消費者に一台の自動車を売る方が手間暇もかからないし、それだけ販売コストも安上がりになるだろうから、どう考えてもそれとは逆に価格の安い商品を大量に売る薄利多売の業者の方が手間暇もコストもかかってきて、その中でも手間暇や経費などのコストをできるだけ抑えることができる業者が競争に勝ち抜けるわけで、手間暇や費用などが多くかかるということは人件費もそれだけ多くかかることと同義だろうし、それだけ人を多く雇っていることになるだろうが、そういう分野で競争が激しくなれば、当然コストを削減すると共に人件費も安くしようとして、従業員の賃金を抑制しようとしてくるだろうし、またそれが叶わなければ機械化を促進して従業員の数を減らそうとしてくる場合もあるだろうが、そうなると競争自体によってコストを削減できなかった業者が脱落して、競争に勝ち残った業者の事業規模がそれに伴って拡大する結果をもたらして、効率的で低コストな生産と流通と販売の体制を実現することになるわけで、現にここ三十年でコンピューターの処理能力の大幅な向上によって実現した情報関連技術の発展に伴って産業の傾向がどう変わったかといえば、比較的コストを気にしなくても済むような高級品や奢侈品を扱っている欧米の企業は中国などの富裕層の増加と共に結構商売が繁盛している一方で、コストを気にかけなければならない薄利多売の企業の方は欧米などではアマゾンやウォルマートやイケアなどのようにますます巨大化して寡占化してくると共に、中国やインドなどの企業もそこへ割り込んできたわけだから、その煽りを食っているのが日本の企業だろうし、コストの削減に伴って人件費も削減しなければならない部門でも、機械化して従業員数を削減できない分野では、賃金が低く抑え込まれてしまうわけで、情報関連技術の発展がコスト削減に関してどのように寄与したかといえば、ネット販売などの活用によって流通コストの削減に寄与しただろうし、産業の機械化では世界でも最先端の技術を持っていた日本の企業も、ネットワークの活用では言語的な地域性も災いして、欧米の企業などが先行している世界規模での消費者の獲得に関しては後れをとってしまったのだろうし、もちろん全ての面で後れをとってしまったわけではないものの、例えば企業に部品を供給する部門では台湾や中国や韓国などのメーカーの方が低コストを実現して優位となってしまったわけで、そういう部門でも日本の企業が煽りを食ってしまった面もあるだろうし、そういう面まで考慮に入れるなら、どう考えてみても消費税の導入によって日本経済が駄目になったという単純な論理だけでは説明しきれないわけだが、それ以外でも多様な価値観を持った消費者を育ててこなかったことも災いしているのかも知れず、それについては日本で目立つ傾向として、メディアを通じて何か一つの価値観を一方的に押しつけようとしてくるわけで、コンビニ的かつホームセンター的に商品の品揃えを一つの傾向に統一して、消費者の選択の幅を狭めて繊細な神経を抑圧して、画一的な型枠にはめ込もうとするわけで、そういう傾向がかえって消費者の購買意欲を減退させてしまっているのかも知れないが、それは日本だけではなくコスト削減に伴った世界的な傾向でもあるだろうし、人々がそういう傾向を嫌っているから消費が伸び悩んでいて、それはただ単に貧乏になっただけでそうなっているわけではないはずだが、それも商品を必要以上に買わなくても生きていけるような情勢になっているのかも知れず、そうであるなら人々が消費を手控えてしまうことが必ずしも悪い傾向とも言えず、それで生活が成り立つならかまわないようなことでもあり、それが良いとも悪いとも言えないわけだが、経済が活性化して消費が伸びないと困る人や企業もいくらでもいる中でも、消費者が節約してもかまわないわけで、それ以前に企業でもコストを削減して節約しようとしているのだから、我慢比べな面もあるだろうし、それに加えて行政でも効率化して節約を目指そうとすれば、我慢比べが伝播していると言えるわけで、それで困るような人や勢力が盛んに消費を刺激するようなことをやろうとするのだろうが、そういうことをやっている人や勢力に限って、自分たちに都合の良い一方的な価値観を押しつけてくるわけで、そういう傾向に嫌気がさして消費意欲が減退していることがわかっていないのかも知れず、一方的な価値観の押しつけではなく、価値観の多様性を提示しないとますます窮屈な社会となってしまい、一方的な価値観に締め付けられて不快感が増してくるだけで、結局は一方的な価値観の押しつけを執拗に続けている人たちは、それと自覚せずに彼らが偽りの対立を装っている中国や韓国のような社会に日本を変えたいわけだが、さらにそんな彼らと対立を装っているような人たちも、対立しているつもりの相手と対立するような一方的な価値観を他人に押しつけようとしているわけで、そういう敵対感情の煽り立てが一方的な価値観の伝播や増殖を促しているといえるだろうし、政府の一方的な傾向の押しつけを批判している勢力も、それと対立する一方的な主張を人々に押しつけようとしているのであれば、案外それは彼らが日頃から利用しているコンビニやホームセンターなどの一方的な傾向を肌で感じて影響を受けた結果なのかも知れない。


10月17日「納得しがたい説明」

 世の中では理屈ではわからない現象も度々起こっていることは確かだが、それが起こった後から何らかの理屈を当てはめると納得できることもあるし、その時点ではわからないことが後からわかってきて、それで何とか現象をもっともらしく説明できるときもあるだろうが、辻褄が合わないままでも済んでしまう場合もあり、辻褄を合わせる気が起こらなければそのままとなってしまい、特に思考的な探究の対象とはならなければ、大して疑念も抱かないのだが、疑念を抱きながらも疑念を解消できなければ、疑念を抱いたままとなってしまい、疑念を抱きながらも疑念を解消するために、何とか辻褄を合わせようとすれば、辻褄の合わない理由を探っていることになるわけだが、理由や原因がわかったとしても、それでも辻褄が合わないままとなってしまう場合もありそうで、どうなるにしても辻褄が合わないことを認めざるを得なくなってしまえば、辻褄が合わなくてもそれでかまわないことになるのだろうが、果たしてそんなことがあり得るのかというと、それを明らかにしたいわけで、辻褄が合わなくてもかまわない事例を提示して、その現象を説明したいわけだが、それが具体的にどんな現象であるか明らかにしたいわけだが、それをうまく言い表せずに四苦八苦しているのかも知れず、辻褄が合うようにもっともらしい理屈を持ち出すことをしないで説明しようとして、困難に直面しているのかも知れないが、もとからそんなのは無理なのかも知れないし、無理を承知で辻褄が合わないことにこだわり続けて、おかしな事態に陥っているとすれば、このままでは徒労に終わる可能性も高いが、具体的にそれが世の中の経済的な現象であることを示そうとしているわけで、またそれに対して政治的な方面から辻褄が合うような対応をしようとすることが、いかに間違っているかも示そうとするわけだが、そもそも辻褄が合わないことが納得できないわけだから、それに対する対応が間違っていることを示したところで納得できないだろうし、要するに納得しがたい説明になってしまうのかも知れず、そんな説明では理解してもらえないだろうが、そうならざるを得ないと述べてしまうと、納得できる説明を放棄していることになってしまうだろうし、それではまずいわけで、まずいのにそうならざるを得ないとなると、説明そのものが間違っていることになってしまい、そうなれば説明が間違っていることを認めざるを得ないが、事前に間違っていると認めた上で、それでも説明すると、問題なのは世の中に出回っている通貨の量なのではなく、通貨の使われ方なのであり、通貨が消費に使われるよりも投資に使われる量の方が多ければ、消費に使われる方には通貨が回ってこないだろうし、通貨の供給をどんなに増やしても消費に回ってこなければ、通貨を消費することしかできない人には、相対的に少ない通貨しか回ってこないわけで、ならば政府が消費するだけの人たちに直接通貨を供給すればいいということになっても、消費された通貨がまた投資目的に使われてしまえば、やはり消費するだけの人たちには少ない量の通貨が回ってこないわけで、結局は政府が消費するだけの人たちに延々と通貨を供給し続けても、消費する割合よりも投資する割合の方が多ければ、相対的に消費するだけの人たちは貧乏になってしまうわけで、通貨の供給過多となって物価が上がってインフレになっても、いつまで経っても貧富の格差が解消されないことになってしまうわけで、だから通貨の供給だけで問題を解決しようとする試みはうまくいかないわけだが、しかも消費するだけの人たちは労働することによっても投資目的に使われていて、労働者の労働を消費することによって投資が成り立つわけだから、労働者の労働を消費して利益を出せれば投資に成功することになるわけで、結局労働するだけでは労働によって労働力を消費させられた上に、得られた賃金などの報酬を商品の買うときに消費されられて、そうした二重の消費によって投資の対象となっているわけで、そういう面でも消費する通貨よりも投資する通貨の方が割合が大きいのであり、政府が消費者に通貨を供給するだけでは、それらが投資に回される限りは、何の解決にもならないことになるわけだが、実際に投資しなければ労働も成り立たず、労働が成り立たなければ労働だけで生計を立てている人が困ってしまうわけで、要するに現状の世の中では労働するだけでは貧乏になるのが当然の成り行きになっているわけだが、政府が労働者やその家族に通貨を供給すればするほど、その通貨が回っていく先で投資目的に使われることになり、消費するより投資したり投資目的に蓄積する割合が大きくなってしまい、そこから税として過剰に徴収することになれば、投資が滞って投資の対象となる労働が成り立たなくなる可能性が出てくるだろうし、結局どうやっても問題は解決しないのだが、では誰もが投資する側に回ればいいとも言えないだろうし、たとえ投資する側に回ったとしても投資に成功するとは限らず、投資する側でも食うか食われるかの弱肉強食の現象が起こっていて、投資に成功する割合よりも失敗する割合の方が大きくないと、投資そのものが成功しないわけで、多くの失敗した投資資金を回収しながら投資に成功することになる一方で、投資に失敗した人たちは労働する側に回ることになるだろうし、投資する側が投資資金を得るための労働に使われた上で、さらに商品を買うことによって投資する側に資金を提供することになるわけで、どうやっても搾取される立場から抜け出すことはできないわけだが、投資する側にとっても投資の過程で労働力を消費してくれる労働者と、投資した成果としての商品を買ってくれる消費者を必要としているわけで、労働者と消費者が供給されないと投資が成り立たないわけだが、仮に労働力の大半を機械で肩代わりさせると、それまでに労働した報酬として賃金を提供することによって作り出していた消費者をどうやって作り出すかが問題となるわけだが、ベーシックインカムで作り出すにしてもたかが知れているし、そもそもそういう辻褄合わせは机上の空論に過ぎない可能性があるわけで、結局は投資する側が消費する物や情報やサービスを、投資によって作り出すという自給自足になっていく可能性もあり、そうなるとそれが何のための投資なのかということになるだろうが、投資する側が一方的に投資するだけの立場になっているとも限らず、労働する側の中から資金を貯めて投資の競争に勝ち抜いた者たちが投資する側に回るという成り行きもあり、投資する側の者も元々は労働する側にいた人も多いだろうし、例えば若い頃は労働する側にいて、そこから投資する側に成り上がってきた事例も結構あり、そうした成り上がり者の家族や親族が生まれながらにして先代の資産を受け継いで、はじめから投資する側に入っている事例もあるものの、そうならないように相続税や資産課税などを重くして、富のバランスをとろうとしてもうまくいかないわけで、投資に成功して資産を蓄える者が出てこないと、投資する意欲が減退してしまうだろうし、そうなるのを見越して先回りして対処しようとしたり、うまくいくように調整したり制御するのにも限界があるわけで、結局は不完全な対処法しかなく、そういう不完全な制度や法律の穴や欠陥の隙を突いてうまく立ち回ろうとする者が必ず出てくるから、いたちごっこやモグラ叩きのようならちがあかないこととなるしかないわけだが、それでかまわないとなるとやる気をなくすから、そういった方面では永遠に改善や改革などの対処をし続けるような成り行きとなるのではないか。


10月16日「今できること」

 できないことを夢想するよりもできることをやるというのは現実的に思われるが、できることやるというのも夢想していることであるのかも知れず、できそうなことをやろうとしてもできないことがあるのも事実だろうし、それができるかどうかはやってみてから判断するしかない場合もありそうで、やってみてできなければ、できると思っていたことが実際にはできなかったことになるわけで、できることをやると思っていたことが夢想に過ぎなかったことになるのだろうが、逆にできないと思っていたことができるようになることもあるだろうし、現状で何ができて何ができないかを判断するときには、その判断が正しいか間違っているかも結果的に判断されることであり、何かを主張している中で、主張していることが実現できると断言しても、それが実現できそうに思われても、実際に実現してみないことには、そうした断言が正しかったか間違いだったかはわからず、実現を試みる段階にまで至らなければ、いつまで経っても断言に留まり続けるしかなく、最悪の場合はいつまで経っても主張し続ける段階に留まり続けて、主張を実現するためにそれができるはずだと断言し続けることになってしまい、それが実現できないことを主張者の身をもって示していることになってしまうわけだが、そういう意味でその種の政治的な主張の大半は空約束に終わってしまう運命なのかも知れず、それ自体はありふれていて、そういうものだと解釈しておけばいいことでしかないわけだが、だからといって何かを熱っぽく語るパフォーマンスを真に受けないことが無難であるわけでもなく、真に受けなくてもかまわないが、そういう行為を批判する理由もないのかも知れず、それをやり続けることが今できることになっているわけで、そういう人にとっての今できることが、何かを主張し続けることになるわけだが、主張し続けている限りはその実現を試みる段階には至っていないことになるだろうし、その段階に至らなければ主張を続けることしかできないだろうが、それでは困るわけで、それも主張を実現する気があれば困るということであり、実現する気のない主張をいつまでも続けていたいとは思わないだろうが、またそうしたことを熱っぽく語るパフォーマンスをいつまでも見続けていたいということでもないだろうが、結果的にそうなってしまうと、やはり困るだろうが、もしかしたら結果的には誰も困っていないのかも知れないが、主張を実現するという展開に至らない限りは、それを主張し続けるという今できることをやり続ける成り行きになってしまうわけで、そうならないための現実の方策として用いる手段が、現状の政治的あるいは行政的な領域で実際におこなわれていることであり、それをどう表現すればいいのかというと、大抵の人たちは批判の対象とするか、実際に何かを熱っぽく主張するだけの人にとっても批判の対象となっているわけだが、もちろん体制側の人たちはやっていることの見苦しい弁護や正当化をしながら開き直るわけで、そうせざるを得ないようなことをやらざるを得ないということが、今できることの現状を物語っていて、それだけ何かを熱っぽく主張している人と実際に政治や行政の場でおこなわれていることが隔たっているわけだが、そこからわかることは、実際にできることに関して、それほど多くの選択肢があるわけではないのかも知れず、実際におこなわれていることからそれほど隔たったことができるとは思われず、そう思ってしまうことが正しいか間違っているかも、実際に現状でおこなわれていることから大きく隔たったことをやる成り行きになってみないことには何とも言えないところだが、そんなことができるとは思われないと多くの人たちが思っている限り、何かを熱っぽく主張する人の勢力が主張を実現する機会も巡ってこないだろうが、思いがけないところからそんなことをやる機会が巡ってくることもあり得るかも知れず、それが主張通りのこととは限らず、主張の意図していることから外れたやり方でそれが試される場合もあるだろうし、そういう主張に基づいたやり方では駄目だということを示すために行われるような成り行きになってしまえば、それがそういった主張に基づいたやり方を潰す目的となってしまい、それもそれを狙ってそういうことがおこなわれるわけではなく、結果的にそうなってしまえば、そんなつもりではなかったとしても、そういった主張に反対する勢力としては願ったり叶ったりとなるわけだろうが、そういう思惑がもとからあるわけではないとしても、何かをおこなった結果からそういう思惑があることを想像してしまうわけで、それが結果から語られる物語として都合良く誰かの頭の中で構成されてしまい、そういうことがもっともらしく語られてしまうのが陰謀論的な言説となるわけだが、それも官僚的な組織の中で構成員たちが各々の役割分担に則って行動すると、必然的にそういう結果がもたらされることにもなり、それが政治的な行為に携わる人たちを苦しめることになるわけで、そんな成り行きに巻き込まれてしまうと、その人が事前にどういう考えを持ってどんな主張をしようと、そんなことにはお構いなく機械的にそれらを反映しない結果がもたらされて、そんな結果を渋々受け入れざるを得ないことにでもなれば、その人が事前に思い描いていたことなどは実現不可能な絵空事に過ぎなかったことになってしまうわけだが、それが現状でもたらされている結果の大半であるなら、何か辻褄が合っているようにも思われてしまい、そんな現状に納得するしかなくなるかも知れないが、それに納得できない人が現状に反するようなことを熱っぽく主張しているわけで、それも現状を構成している要因に含まれるだろうが、それとも違った視点があるかとなると、たぶん新自由主義的な見地からすれば、現状よりもさらに政治的あるいは行政的な権限や権力が及ぶ範囲を狭めたいわけで、相対的に企業の力を強めて政府の力を削りたいわけだが、政府の中で主導権を握っているつもりの勢力からすれば、やはりそうなってしまっては困るはずだが、自分たちにすり寄ってくる企業関係者がそれを狙っているとは思っていないだろうし、企業関係者の方でも政府を利用したいわけだから、あからさまに政府の力を弱めようとは思っていないだろうが、少なくとも利用価値のある政府ではあってほしいだろうし、あまりにも政府の力を削ぎすぎて、企業にとって利用価値のない政府になってしまっては困るはずだが、双方共に主導権争いをやっているつもりもないだろうし、政府や議会の与党などが敵視しているのは企業などではなく、議会の野党勢力であるはずだが、野党勢力の方でも政府や議会の与党や経済界やマスメディアなどが利害共同体となって一体化していると見なしたいだろうが、たぶん根本的なところで政府と企業とは組織として競争関係にあるのかも知れず、そんなのは思い違いで勘違いもいいところであり、政府の方が圧倒的に優位な立場であるのは火を見るよりも明らかなように思えるかも知れないが、それでもなお政府の力をできるだけ削ぐのことが、新自由主義的な見地からすれば、現状の中で今やるべき妥当な戦略となるのかも知れない。


10月15日「的外れなこと」

 時事的な話題に関して何を語ってみても、それに関する情勢分析から抜け出せず、それでかまわないとしても、日々の話題や出来事に気をとられているうちに、見逃している世の中の動きや状況があるかも知れないし、それを察知するにはどうすればいいかと問われても、確立されたやり方があるわけでもないが、やろうとすれば暗中模索になってしまうのは仕方がないにしても、それをどう表現すればいいのかわからず、わからないことを意識しながら語っているとしても、何かそれが的外れなことを語っているように思われてしまうわけだが、それだけでもメディア上で語られている主流の言説から外れたこと語っていることになるわけだが、一方で主流の言説にも疑念を抱いていて、それがあるから意識して外れたことを語ろうとしてしまうのだが、語ろうとしても語れないこともあるだろうし、語りようのないことを語ろうとして、結局語り得ないことに気づいて、語るのを断念してしまう場合もあるだろうが、そうなるからといって現状で語れることを語ろうとすれば、メディア上で語られている主流の言説になってしまうわけだから、そういうことしか語れないような成り行きに応じて語ろうとしているのかも知れないし、だからそれについて語っていればいいのだろうが、それについてはメディアが語るための話題を提供していると考えておけばいいだろうし、実際に政治の領域からも経済の領域からも社会の領域からも時事的な事件や出来事などの話題が提供されているわけだが、それら以外に何か語る必要があるのかといえば、必要があるから語るのではなく、そうなっている時点ですでにメディアによって語らされてしまうわけで、そういった語らされてしまっている状態から抜け出して語る必要があるのかといえば、そんな必要はないわけで、必要もないのに語ろうとすれば的外れになってしまうのは当然のことだが、それもそういう成り行きになってしまうわけだから、致し方のないことなのかも知れないが、意図してそれを狙っているわけではなくても、自然にそうなってしまうとすれば、それについて語らざるを得ないのかも知れないし、果たして語らざるを得ないことを語っているのかといえば、その必要もないのだからそうではないわけで、語り得ないことや語らざるを得ないこととは違うことを語っている可能性もあるとすれば、そこで語らざるを得ないことがメディアから提供されている話題であることは明白だろうが、では語り得ないことが何かといえば、それがそれ以外のことであるとすれば、普通に考えてそれ以外のことは語り得ないわけで、語り得ないことを語れるわけがなく、それでも語ろうとすれば、的外れになってしまうのも当然のことであり、メディアが提供する的を外れているのだからわざと外しているわけではないものの、成り行き上そうなってしまうわけだから、的を外れたところに何があるとしても、その何かを探していることになるのかというと、それを探し当てられるかどうかが問題となっているわけでもないが、それを探し出す成り行きになっていることは確かであり、探しながら何か的外れなことを語っているわけだが、その的外れな語りの内容こそが探している当のものであるはずがないとしても、そこに的を外す力が働いている可能性もあるわけで、その力が何かといえば、そこへと引き寄せられてしまう引力のようなものなのかも知れず、それが何かはわからないままなのかも知れないし、そんなものなどもとからありはせず、ただの空虚な真空地帯へと引き寄せられているだけかも知れないが、語る在り方としてはそんな姿勢でいる方が些細なことに惑わされずに正気を保っていられるのかも知れないし、それが正気なのかというと、それよりは素直にメディアが提供する話題に応じて語る方が、世間的には正気であるように見られるかも知れないが、正気であるように見られることと正気を保つことは違うのかも知れず、世の中が狂気に包まれている中で正気を保つには、逆に世間的に見れば正気とは思えないようなことを語っている方が、正気を保つには必要なのかも知れないが、果たして現状の世の中が狂気に包まれているのかといえば、狂気というよりは、そうなってしまうのが当然のことのように思われてしまい、それを狂気の沙汰だとは誰も思わないことの中に狂気が潜んでいると述べるのもおかしいが、正気でやっていることが正気の沙汰でないようなことをやっているのだとすれば、具体的に何がそうなのかといえば、すぐには何も思いつかないどころか、現状でおこなわれていることの全てがそうであるはずもないことであり、それを正気の沙汰でないとか狂気の沙汰だと見なすこと自体が世間的に見れば的外れであって、世の中で普通におこなわれていることは、正気の範囲内でおこなわれていることに過ぎないわけだが、そういうことが普通におこなわれるための仕組みとか制度とかが確立されていて、そうした仕組みや制度に則っておこなわれていることが、普通におこなわれていることである一方で、そうした仕組みや制度から外れて、仕組みや制度を凌駕するようなことをやろうとすれば、それこそ正気の沙汰でないことや狂気の沙汰となってしまうのであり、それらを凌駕しようとするのではなく、それ以下やそこに至りもしないことをやっていれば、それで何とか正気を保っていられるのかも知れず、やっていることが的に至るまでに達せず、要するに成功しないわけだが、成功に至らないことをやっている人などいくらでもいて、成功に至らないからこそ正気を保っていられるわけで、逆に成功してメディア上で脚光を浴びてしまえば、そこから先は正気の沙汰でないことをやらざるを得なくなって、やっていることの何もかもが過剰な反応をもたらして、そういう反応にいちいち対応していると、意識が狂気に包まれてしまい、正気でないような心理状態となってしまうのかも知れないが、そこまで行かないと世間的な意味で成功したとはいえないのかも知れず、そんな意味で政治や経済や学術やスポーツや芸能などの分野で成功した人たちは、何かしら狂気に取り憑かれている面があるのかも知れないが、他の人々の期待に応えようとするからそうなってしまうのかも知れず、それが人々の夢や幻想や妄想などを実現することであるとすれば、そういった夢や幻想や妄想などの中に狂気が潜んでいることになり、それ自体が普通の状態から隔たっているわけで、そういう状態を避けようとするのではなく、普通の成り行きに従っていれば、そういう状態にはならないのかも知れないし、わざわざ的外れなことを語ろうとしなくても、メディアが提供する世の中の話題について素直に語っていれば正気を保っていられるだろうし、それだけで済んでいるうちは何の問題もないわけだが、そこから疑念や疑問が生じてくると、だんだんそれだけでは済まなくなってきて、そこから的外れな領域へと語る内容が逸れていってしまうのではないか。


10月14日「毅然とした態度」

 今まで経験してきたこととこれから経験することが地続きで連続しているように感じられるのは、過去の経験から導き出された教訓の類いを、これから経験していく中で生かそうとしていることの表れかも知れないが、それが未だかつて経験したことがない事態であれば教訓など生かしようがないが、かつて経験したことと似たような面を感じられるなら、そこで過去の教訓を生かそうとするだろうし、そんな気になって絶えず過去の経験との類似点を探し出そうとしまうわけだが、勘に頼りすぎると誤ってしまうから合理的に考えようとして、物事の正しい筋道を探り当て、それに基づいてこれからやるべきこととやってはならないことを決めてしまえば、後は実践あるのみに思われるかも知れないが、そういう単純な割り切り方ができない場合もあるだろうし、やろうとしていることに関して疑念を拭い去れなければ、絶えず用心してかかるに越したことはないとも思うわけだが、やるべきことややってはならないことを決めてかかるのは、迷いを振り切りたいことの表れかも知れず、そういった試行錯誤や紆余曲折を嫌う単純思考の持ち主についていく気になれるかというと、確かに気の迷いの感じられない潔さには惹かれるだろうが、どんな状況下でもそれ一辺倒になってしまうようだと危うく感じられるだろうし、人の群れを統率するリーダーとしては、そういう面が欠かせないようにも思われるだろうが、いつでもそういう役回りの人が必要とされるわけでもないとしても、多くの人がそういう人が主人公の物語に慣れ親しんできた経緯もあるかも知れないし、そんな経緯からその手の人材が必要とされているような気がすると共に、中にリーダー的な立場を担おうとして、そんな役柄を自然に演じてしまっている人もいるのかも知れず、やっていることの中身より、そんな人の毅然とした見せかけの態度に惹かれて、そんな人やそんな人が代表となっている政治勢力を支持してしまう人も多いのかも知れないが、政党などの代表者となれば誰もがそんな役柄を演じてしまうから、それだけで支持する政党を決めるわけでもないだろうが、支持していることの言い訳としては、毅然とした態度でやるべきことをやっている印象がものを言うだろうし、何よりも敵と戦う姿勢を見せることや敵を排除する決断を下すことが求められるだろうし、そんなことをやっているように装うことが、群れのリーダーとして頼もしく見えることの必要条件かも知れず、それが英雄的な行為に見えてしまうところが、その手のフィクションや歴史物語などから得られる幻想なのだろうが、そんな英雄幻想に取り憑かれて敵と激しくやり合っている姿をメディア上にさらすのも、宣伝効果を期待してやっていることだろうが、その一方で物事の正しい筋道に沿ってやらないと、かえって逆効果となってしまうのかも知れないし、そんな見せかけの演技を見せられている人たちがそこまで気づくか疑問な面もあるだろうが、少なくとも知性を持ち合わせていない人たちは、やっていることの中身よりは、リーダー格の毅然とした態度や決断に惹かれてしまうわけだが、そういう成り行きの中で過去の教訓が生かされていない面があるとしたら、何がそうなのかといえば、過去の独裁的な政治家の類いが毅然として敵と戦う態度を貫いた結果がどうなったかとか、そういう態度が民衆を熱狂させた結果がどうなったかとか、そういうところから教訓が生かされていない面が導き出されてしまうわけで、それでもかまわないのかも知れず、現状でも充分すぎる教訓話が構成されてしまうのかも知れないが、そんな教訓話も物語として慣れ親しんできた経緯もあって、そういうことまで含めて、その手のフィクションや歴史物語から得られる幻想だろうし、今までに経験したことの延長上で語られることでもあり、現状でおこなわれていることにそんな幻想が付着していて、それが箔付けとなって、何やら大げさなことがおこなわれているような気がしてしまうわけだが、それが意外とメディア上で騒ぎ立てるほどのことでもないとしても、成り行き上は騒ぎ立てられるわけで、そうなることを狙っているわけではないとしても、成り行きとして騒ぎ立てないわけにはいかないことでもあり、その裏で誰かが暗躍しているとか、陰謀が巡らされているとか、そういうことまで含めてその手の報道には箔付けが施されていて、そこに物事の本質があるような気がしてしまうのだが、実際に何か重要な事実が見つかるかも知れないし、それに関してもっともらしいことが言えるかも知れないのだが、それも世の中でおこなわれていることの延長上で、その程度のことならやってもいいだろうという判断に基づいてやっていたりもして、そういった世間の常識に照らし合わせて妥当に思われることが、意外と物事の正しい筋道から外れたことにでもなれば、世間の常識の方が間違っていることになるわけだが、そうなると世間の常識に慣れ親しんでいる人からすれば納得しがたいだろうし、世間の常識と物事の正しい筋道とが背理してしまうとすれば、世間の常識に抗って物事の正しい筋道を示さなければならない事情が出てくるわけで、そういうことをやってきたのが哲学者や思想家や宗教家の類いとなるわけだが、それが政治家となると民衆の味方を装って世間の常識に追従することになるのか、あるいは毅然とした態度で、哲学者や思想家や宗教家のように、世間の常識に抗って物事の正しい筋道を示すのか、どちらの態度を選ぶかが、政治家としての真価が問われるところかも知れないが、その一方で学者というのはどちらかといえば、哲学者や思想家や宗教家に近いのかも知れず、そうなると当然のことながら世間の常識に抗って物事の正しい筋道を示すのが使命だと思っているだろうし、そういうところで学者の真価が問われるとすれば、これも当然のことながら政府に与する御用学者の類いなどは、権力の番犬に成り下がった学者の風上にも置けない愚劣な存在だと思われるし、排除されるべきはそちらの方であり、そういう毅然とした態度が世間の常識に照らし合わせてどうなのかといえば、どう考えても物語的な幻想から導き出されるのは、権力に抗う反骨精神を持ち合わせた学者こそが真の学者であると思われるのではないか。


10月13日「行政の効率化」

 何かの隙を突いて功利的な追求をする時には、まだ目的化が起こっていないのだろうが、功利的な追求をする制度や仕組みを構築することになってしまうと、功利的な追求の目的化が完成してしまうわけで、それだけに凝り固まってしまって、それ一辺倒の体制が出来上がってしまうのだが、それ一辺倒だからこそわかりやすく、それに関しては多くの人々の間で利害が一致するのだろうが、それだけでは済まなくなることもわかりきっていて、うまくいかない面は不問にするのだろうが、結局は不利益を被って文句を言ってくる人を黙らせようとするわけで、そういう行為に関して何が欠けているのかというと、それ一辺倒で押し切ろうとするわけだから、すでに無理なことをやっていて、無理を押し通そうとするにはそれ相応の犠牲を必要としていて、敵ではなく味方の中からそれなりの数の犠牲者が出ることが考慮されておらず、もちろんその程度のことは事前に承知していて、ついてこれない人は見捨てられてしまうのだろうが、欠けているのはそんなことではなく、それでうまくいっている気になれるわけで、実際に無理を押し通している間はうまくいっているのだろうが、うまくいっていればそれでいいはずだとしても、逆にうまくいっていない方がいい場合もあり、そういうところが納得しがたいだろうが、制度の運用に関して運用している側の都合を優先させれば公平さを欠くだろうし、それもわかりきっているだろうが、公平さに関して配慮してしまうと、都合の良いことばかり言っていられなくなって、制度を運営する側に求心力がなくなってしまうわけだが、それは功利的な追求の目的化に問題があるのだから仕方のないことであり、制度を運営する側がそれをやってはまずいと言われても、そういう目的で制度を運営していればそうなるしかないとしても、公平さに配慮してしまうと制度の運営がうまくいかなくなり、制度がうまく機能しなくなってしまうのだろうが、それでかまわないと言ってしまうとおかしいわけだが、そこで危うい均衡を維持しなければならないわけで、制度を完成させてしまうとそこで終わってしまい、後は制度内が腐敗する余地しかなくなって、それを避けるには絶えず制度を構築している状態に保たなければならないわけだが、それがわかりづらいだろうし、そうではなく制度を何らかの状態に固めたくなってしまうわけだが、固めてしまうとわかりやすくなるが、わかりやすくなってしまうと制度自体の問題点も明らかになってしまうだろうし、問題があるのに無視して押し切ろうとすれば、そういった強権的な行為が批判を浴びるのも当然のことだが、そうなることを承知の上で強権的なことをやらざるを得ないのであり、それは制度が何らかの傾向に凝り固まっていることから生じる結果なのだろうが、制度を運営する側としてはそういうことをやっていたいわけで、面倒なことは避けて単純な運営に終始していれば楽に感じられるわけだが、それと引き換えにして無理なことをやり続けることになるわけだから、確かに運営は楽だがそれだけ運営する側にも制度を利用する側にも、それ相応の負担がかかってくるわけで、その負担にどこまで耐えられるかの我慢比べをやらなければならず、そういう制度に世の中が支配されていると、そこからの脱落者も後を絶たなくなるわけで、それだけ世の中が荒廃した状態になるのだろうが、それでも制度を運営する側としてはうまくいっていることになるわけだから、そういうことをやり続けたいわけだが、脱落者が多くなってくると制度に頼らない生き方をする人も多くなってきて、制度そのものが形骸化してきて、制度を運営する人や団体の世の中への影響力も低下してくるだろうが、制度内では相変わらず強権的な行為をやっていられるわけだから、それにかかわっている人や団体の間では、依然として支配的な影響力を維持していて、その範囲内での強権体制が成り立っていることになるわけだが、要するにそれは北朝鮮的な体制に特有な傾向となるわけで、もっと広い範囲で中国やロシアでも強権体制が成り立っているように見えるかも知れないが、それらの体制からの脱落者を世界中で受け入れている現状もあるだろうし、絶えず脱落者が出る過程が進行中だと認識しておけばいいのだが、脱落者が出ないようにするにはどうすればいいかと考えるよりは、脱落者を受け入れるような制度を作らなければならないと普通は考えるわけで、それが強制収容所のような制度となるわけだが、アメリカやオーストラリアのように、脱落者を受け入れた場所が一つの国家として形成された事例もあるものの、他にも刑務所や精神病院や老人の介護施設など、脱落者を収容する施設が結構あるのだろうが、そういった施設が多いほど、社会に許容力がなくなっている証拠となり、それだけ世の中を支配する制度に柔軟性が欠けていることになるわけだが、制度だけで世の中が成り立っているわけでもなく、制度に頼らずに生きていければいいとしても、全く頼らずに生きていくことは不可能かも知れないし、現状でも大抵の人は複数の制度を利用しているだろうし、一つの制度だけでは足りないところがあるにしても、複数の制度を同時並行して利用できれば、足りないところを補いながら何とか生きていけるわけで、そういう意味でも一つの制度の中でいくら強権的な支配体制を確立しても、それだけでは何がどうなったことにもならず、また強権的な支配体制を確立するために全ての制度を一つにとりまとめようとすれば、社会全体が北朝鮮化するしかなく、それこそ多数の強制収容所が必要となってきてしまうだろうが、要するに強権的な支配体制を確立することと行政機構の改革とは別問題であり、むしろ真逆の傾向さえあるのかも知れず、行政機構の妥当な在り方を目指すには、まずは強権的な体制を取り除くことが必要であり、権限や権力を一つに集中させるのではなく、逆に分散化させて、どこに権力の中心があるのかわからない方がいいだろうし、また行政機関そのものは単に事務処理を専門におこなう機関へと特化して、何の権力も権限もなくせば無駄が省けるわけで、それとは反対に権限や権力が集中しているからこそ、そこへ人や物やカネが集まってきて、機構を肥大化させてさらに権限や権力を強化しようとしてしまうのであり、それでは行政の効率化に逆行してしまい、機構内部での地位や身分の階層化や権力闘争ばかりに無駄な労力が費やされてしまうことになるのかも知れない。


10月12日「統治する意志」

 誰の言いなりになっているわけでもないと思うのは、誰もが思うところかも知れないし、自らの意志で行動していると思いたいだろうが、誰の言いなりになっていなくても、守るべき規範があり、世の中の慣習に従っている面もあるだろうし、自然にそうなっていれば、そういう方面では無自覚なのかも知れず、何かの言いなりになっていることに気づかないこともありそうで、それを言いなりとは普通は言わないのだろうが、それが悪いことだとも思わないし、自然にそうなっているなら特に何を問題視することもないわけだが、自らの意志の言いなりになっているわけでもなく、意志が何かの言いなりになっている場合もありそうだから、意志に逆らって何かをやろうとすることもあるのかも知れず、普通は何かを求める欲望を意志の力で抑え込んでいるのかも知れないが、その辺のところは意識の中で複雑に理性と感情が入り組んでいて、何をどう表現してみてもしっくりこない場合もありそうだが、意志の力にまかせて強引に何かをやろうとするのではなく、自然に何かをやるように押し出されてくると、それをやる成り行きになり、それをやりたいともやりたくないとも思われなければ、自らの意志に従っているわけでも逆らっているわけでもないことになり、他の何かの言いなりになっているとも思われなければ、全ての行為がそんな成り行きからおこなわれるわけではなくても、自然に何かをやる機会が巡ってくることもあるかも知れず、その機会を逃さなければ、そこで何かをやることになるだろうが、それが自他の意図や思惑にとらわれずにやることになれば、その場の成り行きでそんなことをやっていることになるのかも知れないが、やる機会を逃してしまうことがあれば、自らが守ろうとするこだわりに惑わされて逃してしまったのかも知れないし、他人に邪魔されたのかも知れないが、他にも色々と機会を逃してしまう要因があるとしても、それもその場の成り行きだと思っておけば、その機会ではなかったことになるのかも知れず、中には執念深くその機会を狙っている場合もあるかも知れないが、いくら機会をうかがってもその機会がやってこないこともある一方で、不意にやる機会が巡ってくれば、それをやる準備ができていなかったりして、ぶっつけ本番でやってもうまく行く場合もあるが、その時の成り行き次第でうまくいったりいかなかったりするにしても、結果的にそれをやってうまくいけば、機会を捉えてやるべきことをやったような気になれるだろうし、うまくいかなければまだその機会ではなかったと思うしかないが、そんな場合でもそれほど自らの意志を意識しなくてもいいのかも知れず、そこで何かをやるに際して介入してくる要因の一つとして、自らの意志もあるぐらいに思っておけば事足りる場合もありそうで、逆に自らの意志を意識してしまう場合には、それをやらなければならないと切実に思ってしまい、そう思うと何はともあれ強引にやろうとしてしまうわけで、それが失敗の素となるのかも知れないが、そういう時には焦っていることを自覚できるだろうし、焦っているのを自覚しているのにそれをやってしまって失敗するわけだから、失敗すべくして失敗するようなことをやってしまうわけだが、それもその場の成り行きであれば、避けられない運命なのかも知れず、失敗を避けようとして避けられないような場合には、失敗を受け入れるしかなく、そういう場合は失敗する機会を逃さなかったことになり、何かをやる機会を逃さずにやることの中にはそういう機会もあるわけで、それも結果として受け止めるしかなく、その後の機会にその時の経験が生かされることが期待されてしまうわけだが、機会を生かす機会がやってこない場合もあるだろうが、機会がやってきてもそれを意識できなければ生かされないままに終わってしまうか、意識しなくても無意識のうちに生かしている場合もありそうで、そういう場合もいちいち意識しなくても自然に対応できていればそれでかまわないわけだが、自然に対応できないような成り行きになるとすれば、欲が出てしまうからであり、そうなると意志の力で欲が出てしまうのを抑え込もうとしたり、その場の情勢に応じて欲の出方を調節するようなことにでもなれば、やっていることがうまくいっていることになるのかも知れないが、そうなってしまうともはや自然の成り行きでやっていることにはならず、恣意的な調整と人為的な管理と共に意図的にそんなことをやるわけだろうが、それが管理や調整などを伴った統治のあるべき姿だと思ってしまうと、勘違いを含んでしまうのかも知れず、そこには常に管理や調整を免れてしまう面があって、それが自然にそうなってしまう面であり、偶然の巡り合わせでそうなってしまう面でもあり、そういうことまで管理も調整もできないわけで、そういう面までも考慮に入れた統治の在り方というのがあるかとなると、それは統治対象とはならないわけだが、そういう意味で統治しようとする意志には限界がつきものなのかも知れず、統治できないことには首を突っ込まない方がいいのだろうが、そういう面までも考慮に入れた統治には常に統治が破綻する危険性を考慮に入れておかなければならないとしても、たぶん統治にはそれ以上の危険もあって、統治するということは統治しすぎることと同義であり、統治しようとして統治を進めていくと絶えず統治しすぎてしまい、それが管理の行き過ぎであったり調整をやり過ぎてしまうわけで、管理が過剰におこなわれると自由がなくなり、調整をやり過ぎると談合体質になってしまい、どちらにしても自然からの反発や反抗が強く出てきて、それが人々の意志となって世論や民意を形成するようになるわけで、そういうことまで考慮に入れるなら、統治には統治を緩めることも必要となってくるわけだが、どのように緩めるのかとなると、人々の自由意志にまかせることになるのかも知れないが、意志に自由があるわけがなく、意志は欲望に拘束されていて、意志の力で欲望を調節しているつもりでも、欲望を調整してうまくやろうとする欲望があるわけで、欲望を制御して支配しようとする意志こそが欲望の統治に結びつき、それが統治そのものであるなら、そこに全てを統治しようとする意志が現れているわけだが、またそれが統治して支配しようとする欲望の表れでもあるわけだから、まさに欲得尽くの統治を表していることになるのだが、それを打ち砕くのが自然の狡知なのかも知れず、自然に導かれて誰もが自身の欲望に忠実に行動すれば、調整も管理もままならなくなって統治が破綻するわけで、無為自然ではうまくいかなくなってしまうと思われるわけだが、それがホッブス流の思想の浅はかなところであり、そうなるところでは慣習の力が働いてきて、慣習に支配された社会が形成されて、慣習の力が慣習に逆らう力を抑え込んでいる限りで社会が安定するだろうが、その一方で慣習に基づいて法律も制定されて、そこで法治主義が成り立っているようにも見せかけられて、理性を納得させようとするのだろうが、慣習にも合理性が考慮されていない面があるから納得させるには至らず、さらにそこから合理性の論理を突き詰めようとすれば統治の行き過ぎをもたらして、またそれも統治がうまくいかない原因となるのではないか。


10月11日「代表者の権限」

 何かの手の内で踊らされている感覚が、それに関してすぐに思いつくことかも知れないが、何に関してそう思うのかというと、それがうまく言い表せないのであり、そうとしかいいようのないことに関して、自らがそうなっているかも知れないし、他の誰かもそうなっているのかも知れないが、実際には誰もそうなっているわけではなく、そんなのは嘘かも知れないし、誰も踊っていないのではないかとも思ってしまい、そんな思いつきが疑わしく感じられてしまうのだが、またそれが何の手の内なのかというと、それもうまく言い表すことができず、それでは何を述べていることにもならなくなってしまうが、それがいつもの何でもないことであれば、何かの決まり文句のようにしてそんなことを述べているまでだが、それに関して無理に述べるとすると、たぶん何かに対する真摯な姿勢というのが誰かが演じていることになるのだろうが、真摯な姿勢そのものではなく、それを演じていることになると、何か違和感が伴ってきて、嘘かも知れないと一瞬思ってしまうのだが、嘘ではなくそれが真の姿なのかも知れないし、誰もが何かを演じているのが真の姿であって、それ以外にはあり得ないのではないかとも思ってしまうわけだが、真の振る舞いが演じていることでしかないとすると、社会そのものが演劇空間となっていて、誰もがそこで何らかの役柄を演じているに過ぎず、それが真の自分だと思い込んでいるに過ぎないのではないかという疑念が湧いてくるわけだが、それこそがありふれた思い込みであり、何かの手の内で踊らされながらそんな疑念を抱いてしまうのかも知れず、それで何か手の込んだ策略に引っかかっているわけでもなく、そこから目を覚ませと何かに促されているわけでもないのだが、それを強引に具体的な事物に結びつけて語ろうとすると、やはり嘘になってしまうような気がしてしまうわけで、行き詰まりの原因が特定の個人にあるわけではなく、団体を構成する組織的な官僚機構に問題があると言ってしまうと、官僚機構の動作とは相容れない人にはその通りに思われてしまうわけだが、そんな官僚機構に支えられながら、まるで張り子の虎のような見せかけの標的として、特定の人物が政府や地方自治体の代表者として物事の前面に出てくると、官僚機構を代表する人物を攻撃しなければならなくなり、そんな標的を攻撃しているうちに、標的が長年の攻撃にさらされて傷ついて劣化してくると、新しい標的と取り替えられて、またその新たな標的に向かって以前と同じような攻撃が加えられる成り行きになるだろうが、政府や企業や政党や宗教団体なども、規模が大きくなるにつれて団体を管理運営する官僚機構が幅を利かせてきて、団体を代表する特定の人物の意のままにはならなくなるように思われるが、だからといって団体内の特定の人物が発言することには変わりなく、その人物が権力を行使しているようには見せかけられるだろうし、それが見せかけられているだけではなく、本当に権力を行使して何らかの決定を下すわけだが、その決定がおかしいと外部からの批判にさらされることがあるにしても、それが官僚機構の意向に沿った決定であれば、たとえその人物の意志で決定を下したとしても、官僚機構と一心同体の様相を呈していれば、どんな決定を下しても官僚機構を利する決定を下したことになり、それが団体の管理方針に沿ったことをやっていて、団体の代表者としては当たり前の動作となるわけだが、それによって何か不都合が生じてきて、管理方針とは相容れない何かが団体の内部で生じてくることになれば、それを排除するような意志決定が代表者の名前で下されるにしても、それが団体内の規則に照らし合わせてみてもおかしな決定であると、官僚機構やその意を汲んで動作している代表者にしても、団体の公共的な在り方を逸脱したことをやっているわけで、そんな状態が自家中毒的な様相を呈していることになるのだろうが、団体の利害しか念頭になく、そればかりを優先させてしまうと、外部の人や団体との交渉や取引がうまくいかなくなり、それが外部の人や団体との間で利害調整を怠っていることになるわけだが、団体の内部を官僚機構の意向に沿って管理しすぎると団体内の規則までも逸脱したことをやる羽目になってしまい、さらにはそれに伴って外部の人や団体との対立や軋轢も高まって、そうなると団体自体が自滅の兆候を見せ始めていることにもなるだろうが、官僚機構の意向に従ってしまうとそれがわからないだろうし、官僚機構といってもその代表者が意のままに制御できるようなものではなく、機械的な動作に従うしかない面があり、それが制度的な動作とも言えるわけだが、それが団体を拘束する制度そのものを空洞化させる動作にもなり、団体を腐敗させる動作にもなるわけで、そういう諸刃の剣的な特性が団体を構成する官僚機構にはあり、そうなってしまう成り行きを団体の代表者が止めることができるかとなると、官僚機構の意向に沿った動作をしている限りは無理であり、そうかといって官僚機構と全面対決してしまえば、代表の座を追われてしまう可能性が高まるだろうし、どちらにしてもうまくいかないことは覚悟しておく必要があるかも知れないが、逆にギクシャクした関係を保つ必要もあるのかも知れないし、馴れ合いの関係になってしまうと官僚機構に籠絡されてしまったことになるだろうし、官僚機構を構成する個々の官僚たちも機構全体に籠絡されてしまっているわけだから、代表者であってもそのうちの一人となって機構と一体化してしまえば、やはり官僚機構の意向に沿った動作しかできなくなってしまうわけだが、それが見せかけの機構改革のようなことをやり始めてしまうこととも重なって見えてしまうと、何か見え透いたこけおどしのような体裁となってしまうわけで、枝葉末節なところばかりつついてお茶を濁しているみたいなことをやっていると、改革の本筋から外れていると思われてしまうわけだが、根本的には組織内の必要悪として官僚機構があるだけで、機構内の役職を減らして事務的な作業を合理化すれば、自ずから官僚機構の力も弱まるはずだが、それを阻むように動作するのが官僚機構の特性と言えるわけで、意向に沿ったことばかりやっていると自然に機構が拡張して膨張するのを阻止できなくなるわけだが、それとともに機構内の空洞化や腐敗も進行していくわけだから、そんな成り行きを客観的に見れば、自滅の道を歩んでいることになるわけで、そうなってもすぐに自滅するわけでもなく、かなりの長い期間にわたってゆっくりと事態が進行すると共に、関係する周囲の人や団体にもそういった傾向が伝播して、何か不快な気分にさせるような印象を抱かせているのが現状だとすれば、何かしっくりくるように感じられるのかも知れない。


10月10日「間違った判断」

 結果が悪ければ間違ったことをやっていたと判断されてしまう以外に、何をやってもうまく行かない場合もありそうだが、だからといって下手に介入するよりは何もやらなくてもうまく行くかも知れないと考えるのは、ただの願望に過ぎず、介入したくないという思いを正当化したいだけかも知れないが、何もせずに傍観しているだけで状況が悪化するなら、悪化する状況を何もせずに放置したのが悪いことにされてしまい、何をどう判断しても結果から判断すれば何とでも言えてしまうだろうし、結果が悪いとは必ずしも言えなければ、悪い結果がもたらされたと決めつけることから、悪い結果をもたらした犯人捜しをしてしまうことが、そもそも間違っている可能性もあるわけで、こんなふうに述べてしまうと、屁理屈をこね回しているだけのように思われるかも知れないが、それが戦略的な決めつけであっても、それ以前にそういった決めつけを利用してうまくいった前例があれば、それを真似してそういうことをやってしまう人も出てくるだろうし、そこで人や団体の行為や活動が作用や影響を及ぼし合いながら絡み合っていて、それを全面的に支持したり支援する気になれなければ、まだ直接の介入をためらっていることになるだろうし、ためらうも何も端から相手にされていなければ、傍観しているだけでもかまわないわけだが、何かしらそれに言及するようなことがあれば、間接的に触れていることにはなるだろうし、その戦略的に主張しているように思われる内容に賛同できないわけだから、何かそれとは違う意見を持ち合わせていることは確かであり、それを直接表明すればわかりやすいだろうが、なぜそうしないのかといえば、それとは違う意見にも疑問を抱いているからだが、何かをやった結果が思わしくないからといって、しかもそれが間違いだったと指摘されているにもかかわらず、やはりそれをやらざるを得ないような成り行きになっているとすれば、実際にそういうことをやってしまうわけで、そういうことをやってしまった結果として現状がもたらされているとすれば、そんな現状は認められないとしても、認められない立場を表明しようと、現状が現状のようになっていることは認めざるを得ないだろうし、それを認めた上で間違ったことをやったから現状がもたらされたと批判するのだろうが、それがわかりやすい主張であるにしても、そういう主張には賛同できないわけで、主張としてはそれでかまわないとしても、実践としてはそうはいかないと思われてしまうのであり、間違っていたとされる行為以前の状況には戻しようがなく、それよりは現状を認めた上で、現状の中で現状に沿ったことをやろうとするわけで、しかもそれが結果から見れば間違ったことだと見なされてしまう可能性もあるわけで、そうなればそういうやり方では結果的に間違ったことだと見なされてしまうようなことしかできないわけだが、それでもそういうことをやろうとしてしまうわけだから、実践自体がそういう成り行きの中でしか可能でないことがわかってしまうわけだが、実際にそんなことをやってうまくいかなければ、結果的に間違ったことをやっていたと判断されてしまうわけだから、そういう判断に基づいた主張をする側はいつでも正しいことを主張していられるにしても、間違ったことだと判断されてしまうようなことをやらざるを得ない側としては、うまくいかないなりにもそういうことしかできないわけだから、うまくいかないことをやり続けるわけで、またそれを批判する側はそれが間違っていると批判し続けるわけだが、うまくいかないことをやり続けられるという事実が、それを間違っていると批判し続けている人たちがどう受け止めるのかというと、このままでは大変なことになると騒いで、近い将来においてやっていることが破綻して、やり続けられなくなると主張するしかないだろうし、延々とそんなことを主張し続けるしかないわけで、それもうまくいかないことをやり続けられる成り行きに含まれているわけだが、批判する側も批判される側も現状の成り行きに沿ったことをやり続けていると見ておいた方がいいだろうし、それらは現状ではやらざるを得ない行為なのかも知れないが、それ以外に何ができるかというと、普通はうまくいく行為を模索するわけで、どうやればうまくいくのか試行錯誤するわけだが、それがやり続けられるとも限らないだろうし、うまくいかない行為ならやり続けられるが、うまくいく行為ならやり続けられないとなると、普通は逆なのではないかと思うところだろうが、要するにそこで判断が間違っているわけで、現状でやり続けられていることを間違っていると見なすことが間違っているとすれば、うまくいかない行為をやり続けているのではなく、現状でやり続けられているのだからうまくいっていると見なすしかないだろうし、またそれを間違っていると批判し続けていることも、現状で批判し続けられているのだからうまくいっていると見なすしかなく、どちらもうまくいっていて、うまくいっている行為を間違っていると判断することが間違っているわけだが、現状ではそうだとしても将来においてはわからないだろうし、わからないことは現状では判断しようがないわけだが、判断しようがない将来のことを予測したり予言したりもするわけで、だからこのままでは大変なことになると騒ぎ立てるわけだが、現状でも大変なことになっていると騒ぎ立てる場合もあるだろうし、実際に騒いでいる人たちの主張を真に受ければ大変なことになっているはずだが、それでもうまくいかないことをやり続けているわけだから、そんなことをやり続けている人や団体を支持したり擁護している人たちや、そんな状態を放置している人たちの罪は重いと判断してしまいがちになるわけだが、それも間違った判断かというと、そう判断してそういう人たちを批判し続けることができれば、それをやり続けることがうまくいっていることになり、続けられる限りで続けようとしていることがうまくいっていることになるわけだが、確かにそれをやり続けられる人がいる一方で、中には続けることができなくなってやめてしまう人も結構いるだろうし、そういう事例まで考慮に入れれば、うまくいっている人や団体もいる一方で、うまくいかなくなってやめてしまう人や団体もいるだろうし、似たようなことをやっていてもうまくいくこともある一方でうまくいかないこともあるだろうし、やっていることが正しいか間違っているかに限らず、それがうまくいくこともいかないこともあると見なしておくのが妥当なのではないか。


10月9日「狂気に取り憑かれること」

 何も当てがないということは見込みがないということだが、大抵は何もなくても何か当てがありそうに思われて、漠然と見込みがあるんじゃないかと思っていたりもするのだが、客観的にはそれが何の根拠もない幻想に過ぎないこともわかっているわけだが、何か見込みがあるように振る舞っていないとやる気が出ないわけで、ただ漠然と何かの惰性で生きているだけではつまらないから、嘘でもかまわないから騙されたつもりになって、実現できそうな目標や目的を設けてみたりもするわけだが、それに向かって努力しているかというとそうでもなく、そんなことはすぐに忘れて気がつけば何もやっていなかったり、あるいは他の見込みのありそうなことに目移りしたりして、目移りしても実際に何もやらなければ無気力になっているだけだが、何もやらないということが何かをやっていることになるかというと、何かをやらなければならないという強迫観念に逆らっているのかも知れないが、否応なく何かをやらざるを得ない状況に追い込まれていればやらざるを得ないとしても、もっと気軽にやれることをやろうとして、実際にそれをやっている場合も多いかも知れないが、やっているうちにそれでは済まなくなるとすれば、やっていることにのめり込んでしまうような成り行きがそうさせるのだろうが、のめり込んでも深刻な状況にならなければどうということはないわけで、そういうことをやるように仕向けられているわけではなくても、自然とそんな成り行きになってしまえば、もとからそれをやる気でいたのかも知れないし、それを実際にやっている現状があれば無気力でも何でもなく、やる気があってそんなことをやっているに過ぎないことでしかないだろうが、それをやるに際してもやっている最中であっても、絶えず疑念を抱きながらそれをやっていて、全面的にやっていることを信用しているわけでもなければ、うまくいっているわけでもないのかも知れないが、その程度のことだと割り切っているようなら、それを全面的に肯定しているわけでも否定しているわけでもなく、ほどほどのところで見切りをつけるつもりになっていたりして、身が入らないとはそういうことを言うのかも知れないが、それをどうでもいいことだと突き放してしまうようなことはせずに、それなりに真面目に取り組んでいるように見える程度にはなっていれば、周囲から見ても何か問題を抱えているようにも見えないわけだが、まさかそこに狂気が潜んでいるようにも見えないだろうし、狂気にはそう感じられるのにふさわしい振る舞いが必要だと勝手な先入観を抱いている人も多いかも知れないが、それが普通にとらわれている偏見であり、一見普通に感じられる人が狂気にとらわれていると周囲の人々に認識されるまでにはそれなりに時間がかかるのかも知れず、そういう兆候が露見しなければそのままとなってしまうようなことかも知れないし、それも取り立てて問題視するようなことでもなければ、どうでもいいことの範疇に入ってしまうわけで、そもそも何かをやるに際していちいち狂気にとらわれる必要もないのだろうが、その必要もないのにとらわれてしまうのが狂気の狂気たるゆえんだとしても、気休めや気晴らしにとられているのでもなければ、何か深刻な問題を抱え込んでいるのかも知れないが、それが意外と経済的な事情であれば誰もが納得するかも知れないし、そんなありふれた事情であっても、事情を抱え込んでしまった当人にとっては深刻な問題となるわけで、気休めや気晴らしとしての狂気よりはそちらの方が大変な事態となり、そうなれば身が入らないどころではなくなって、そんな事態に対処するために精一杯のことをやろうとして、まだ何とかなる見込みがある間は真剣に取り組むだろうが、うまくいかなくなってその見込みもなくなれば投げやりになってあきらめてしまうのかも知れず、あきらめてしまえばそれっきりとなって気もおかしくなって、そうなって初めて狂気に取り憑かれるかも知れないし、それなりに深刻な問題を抱えていれば狂気に取り憑かれてしまうのもやむを得ないかも知れないが、そうなったからといってそこでおしまいになってしまうとも限らず、そこからが真の正念場となってきて、その狂気を利用して何をやるかが問題となり、狂気にまかせて殺傷沙汰でも起こしてしまえば、それこそありふれた事件にしかならないが、それを狂気だと解釈しない方が正気の対応であったりするのかも知れないし、狂気でなければ何なのかといえば、時には正気でないことをやるのが正気であることの証しでもあり、正気であれば時には狂気に駆られることもあるだろうし、やっていることがうまくいかずに投げやりにもなることもあるだろうが、正気の沙汰でないことを正気のつもりでいる人たちがやっているのが政治でもあり、その内容が世の中の正気でない行為を反映しているとすれば、それが経済活動を反映している場合もあるだろうし、経済的に追い詰められた末にやらざるを得ないことを政治の場に持ち込んでしまうと、政治も経済事情と連動して追い詰められてしまうのかも知れず、追い詰められているから余裕がなくなって正気の沙汰でないことをやってしまうのだろうが、正気の沙汰でないことをやるのが政治だと解釈すれば、政治の場でおこなわれていることは正気の沙汰でないわけだが、正気の沙汰でなければ狂気だと単純に解釈しなくてもいいのかも知れないし、正気であるからこそ時には正気の沙汰でないこともやってしまうのであり、経済的にも政治的にも追い詰められているなら、普通に正気の沙汰でないことをやっていればいいのかも知れないし、正気であることにとらわれる必要もなく、そうかといって狂気にとらわれる必要もないだろうが、たぶん狂気に取り憑かれている方が面白いのかも知れず、正気でいるより狂気に取り憑かれていた方が面白いことをやれる気になってしまい、その気になることが狂気の正体かも知れないし、世の中が興味深くて面白そうに感じられると、それが狂気に取り憑かれていることの証しとなってしまうとおかしいが、そのおかしく感じられることが狂気そのものであり、周囲の人たちから見ると明らかにおかしいのに、おかしいことをやっている当人が至って気にしていなければ、その人が狂気に取り憑かれていることになるのだろうが、追い詰められて狂気に取り憑かれるよりは、積極的に面白いことをやろうとして狂気に取り憑かれる方が可能性がありそうで、それが何の可能性なのかわからないところも面白そうだが、そういう意味で面白そうなことをやっている人が狂気に取り憑かれるのは肯定すべきことなのかも知れない。


10月8日「辻褄の合わない活動」

 自らの思い通りにはいかないのは他人も思い通りにはいかないからであり、対立関係にあれば自らの思いと他人の思いがぶつかって各々の思いが相殺されて、どちらの思いも実現できなくなることもあるだろうが、思い通りのことをやろうとすること自体が間違っていれば、中には間違ったことをやってもうまく行く場合もあるだろうが、その間違い方にもよるが、大抵はうまくいかないから間違っていると思われて、それが思い通りにはいかないことの理由となってしまうのだろうが、それを語る範囲内では恣意的にフィクション化できるから、思いを語ることはできるが、やろうとすることを実行に移すとうまくいかなくなるとしても、そんなことは承知の上で思い通りにはいかないことを嘆いてみせるような演技をしたり、そんなことまで考慮すれば、たとえ思い通りにはいかないからといって、必ずしもそれが問題だとは思っていない場合もあるわけだが、やろうとしていることが思い通りになることを望んでいないはずがないとしても、思っているのはそれだけではなく、他にも様々なことを思っている中で、思い通りになるかならないかも、その中の一つとして思っていることであり、思い通りにはならないと思いつつも、やっていることはそのまま継続していたり、たとえそれが他人の思いとぶつかっていても、対立ではなく協力関係の中でぶつかっていれば、思いがぶつかりつつも互いに妥協し合って関係を継続させている場合もあるだろうし、それが腐れ縁とは言えなくても普通の協力関係の中で起こっていて、それが対立と協力が結びついていることの例となるのかも知れないが、何かしら関係していれば対立や協力や連携などが伴いながらの関係となっていて、何かのきっかけでその関係が切れることも再び結びつくこともあるだろうが、潜在的な関係というのもあるのかも知れず、お互いに関係しているつもりがなくても意識が感知できないところで間接的に関係していたり、因果関係がよくわからないのに活動が連動していて、なぜか知らないが共鳴現象や相乗効果のようなものが生じてしまうと、両者の間に関係があるのではないかと疑ってしまうのだが、そういうことまで含めると関係自体がはっきりしたものではなくなってしまうのだろうが、関係を語る際にはよくわからない関係まで語られることはないだろうし、普通は政治的な面でも経済的な面でもはっきりとよくわかる利害関係や権力関係などが語られるとしても、想像で語られる範囲内では表向きではない裏で誰かと誰かが結びついているようなことまで語られて、そこからフィクション的な要素が入り込んできて、誰もが興味を惹かれるような陰謀や謀略が巡らされていることまで想像してしまうわけだが、想像によってもたらされる各要素の結びつきを語る際に辻褄が合いすぎるとフィクションのように思われて、逆に疑わしくなってくるのだろうが、それについて語っていること自体が語っている対象へと介入していることになり、語ることによって対象との間に関係が生じて、対象へと何らかの作用や影響を及ぼそうとして、語ることによって思い通りの効果をもたらしたいわけだが、その効果というのが疑惑の関係を暴くとかのジャーナリズム的な欲望の成就に結びつけば、それも今度はフィクションではなく、ノンフィクション的な興味を惹かれる内容となるのかも知れないが、それも話の辻褄合わせが先行してしまうと疑わしくなってくるだろうし、語ることによって疑惑の真相が暴かれるようなこととは違う方面で、当たり前のようにおこなわれている経済活動から、語ることによって単純化できないようなややこしい関係が生じてきて、それが語り得ないことでもあり、それについてはうまく語れないが、うまく語れない部分については語られないままになってしまう一方で、語ることができる部分だけ語ると話の辻褄が合ってしまい、話の辻褄が合っているのに疑わしく思われるようなことを語ってしまうわけだが、辻褄の合う部分だけ語っているから疑わしく思われるのだろうが、そうする以外には語りようがなければそうなるしかないだろうし、そうやって疑わしくも辻褄の合う話が語られることになるわけで、それが政治的な主張となると、微妙な雰囲気が醸し出されるとと共に、そんな微妙さを強引に振り払うための煽り立ても横行するのだろうが、いくら都合の良いことだけを語気を強めて主張しても、疑わしさが晴れるわけでもなく、逆に疑わしいから語気を荒げているように感じられて、何か強い調子で訴えかけられることがあれば、訴えかける人やその人が所属する団体にとっては都合の良いことが当然のことのように訴えかけられるわけだが、それらとは対立する誰かやその誰かが所属する団体があり、それらを攻撃するために強い調子で訴えかけられることが多いだろうが、そうした訴えかけの対象となる人々に向かって何らかの行動を促している場合も多く、そういう場合は言う通りのことをやってほしいということであり、命令するのではなくお願いしているわけで、どうか我々の言うことを聞いてくださいということだろうが、素直に言うことを聞くわけにはいかない事情があるだろうし、それが資本主義経済の中ではややこしい関係をもたらす事情でもあるのだろうが、それに関してはまず大前提として、何のための資本主義経済なのかといえば、利益を追求するための経済であり、利益を上げるにはどうするのかといえば、資本を投資して利益を得ようとするわけで、その資本をどうやって得るのかといえば経済活動によって利益を蓄積する必要があり、要するに消費してしまうとまずいわけで、無駄な消費を抑えて資本を蓄積して、その蓄積した資本を投資して利益を得るわけで、しかも誰かが消費しないと利益を得られないわけだから、要するに資本主義経済の中では消費者が利益を搾取される犠牲者の立場を強いられるわけで、その中で誰もが利益を追求しようとすれば、当然のことながら消費するよりは蓄積して投資する側に回りたいわけで、搾取される消費者の立場にはなりたくないわけだが、消費者がいないと経済が回っていかないわけだから、根本的に辻褄の合わないシステムになっているわけで、それを行政的な方策によって辻褄を合わせようとするわけだから、そういうことをやろうとする政治的な主張に無理があるように思われてしまうのは当然のことかも知れないが、曲がりなりにも資本主義経済が成り立っていて、それなりに経済が回っている実態があることは確かであり、そうなっている理由や原因を資本主義経済の内部や外部に求める必要があるかというと、それ自身に求めるしかないのかも知れず、その際には辻褄が合っていないことをごまかすよりはそれを利用する必要があるのかも知れない。


10月7日「必要とされること」

 特にその人が何もやっていなければ、何かをやる必要から見放されているのかも知れないが、その時はそうだとしてもいつも必要から見放されているわけでもないだろうし、生きていれば何かしら必要を感じてその必要に応じて何かをやるわけで、全ての時間にわたって必要から見放されていれば、もうその人は生きてはいないわけで、実際に生きる必要からも見放されてしまえば死ぬしかないかも知れないが、そう思っても実際に生きていればそうではないわけだが、それが死ぬ必要からも見放されていると考えると、死ぬのに必要も何もないだろうし、必要だから死ぬとは限らず、死ぬ必要を感じて自殺するよりは、寿命を迎えて死ぬことの方がしっくりくるだろうが、それでも何かの加減で生きる必要からも死ぬ必要からも見放されているように感じられる場合もあるかも知れないが、その時はそうであっても必ずしも必要のあるなしと生死が結びつくとは限らず、それが結びついているように思われても、真の意味で必要から見放されていることになるかどうかも怪しいところだが、その場の情勢によって何らかの立場や境遇の人が必要とされなくなる社会よりは、どのような情勢の中でも全ての人が必要とされる社会の方がよさそうに思われるだろうが、それは何に必要とされるかにもよるだろうし、他の人や団体から搾取されるために必要とされるのはいやだろうし、何らかの形で利用されるにしても利用のされ方によっては、必要とされることが必要とされる人に不利に働いたり負担や重荷になるのはごめんだろうが、必要とは他の人や団体から必要とされる以前に自分から必要を作らなければならず、自分に必要とされる人間になる必要があるというと、何かもっともらしく思われるかも知れないが、無理に必要を作る必要もなく、必要がなくても生きていけるならそれに越したことはないし、必要のあるなしとは関係なく生きていければ、それでかまわないのかも知れないが、生きていけなければ生きる必要から見放されて死んでしまうにしても、それでもかまわなければ、それが取り立ててどうということはないわけだが、それがどうということがあるように思われるとしたら、人も団体も存在しているだけで価値があると思い込めるような環境の中で存在していることになるのかも知れないし、それが自己保存的な自己肯定にもつながるかも知れないが、そう思い込む必要があると思わされているだけかも知れないし、誰もがそう思わされるような世の中の成り行きに巻き込まれているのかも知れないが、必要もないのにそう思わされているわけでもなく、そう思い込んでしまうことに関して、何らかの利益を想定できればわかりやすいだろうが、ただ漠然と何の根拠も示されないでそう思い込めと命令されているわけでもないし、誰もが必要とされるもっともらしい理由が見つかれば安心できるだろうが、それに関して例えば日本の国会で野党が騒ぎ立てるようなことがあると、国民にとってはどうでもいいことなのに野党が屁理屈をこねながら騒ぎ立てている、という印象を国民の意識に植え付けるための工作がおこなわれているように思われてしまえば、しかもそれがメディア上で賛否両論併記的なやり方で話題作りされていることでもあったりして、それらを意図的な工作だと断言するようなことだとは思われなければ、成り行き的にそうなっているに過ぎないことかも知れないが、騒ぎ立てる必要があると勝手に思い込んでしまうことが、そんな成り行きにつながってしまうのかも知れないし、そうであればその必要があると思い込んでしまうことが不要で余計なことでしかなく、誰にとっても不必要なことをやっているだけであれば、無駄な労力を使っていることにしかならないわけだが、世の中で何らかの社会的な構造が出来上がっている限りで、その構造を維持するための必要が生じていて、それが構造の自己保存的な自己肯定の傾向を示していて、そこに生じている何らかの枠組みを維持するためには、それにかかわってくる人や団体に必要をもたらさなければならず、人や団体がかかわる必要を感じなければその枠組みを保てず、人工的に作られた構造が瓦解してしまうのかも知れず、野党的な立場でそこにかかわろうとすると、そういうことをやる必要がもたらされて、常にそういう立場を意識しながらそこにかかわっていれば、マスメディアも安心してそんな役割分担の範囲内でそれを報じるだろうし、そうすることによってその場に構成されている枠組みが安定するわけだろうが、当然そんなことばかりやっていると役割分担が固定されてしまって、いつまで経ってもそんな立場や境遇から抜け出せなくなってしまうわけだが、その必要がなくなるまでは抜け出せない反面、抜け出せない限りで何らかの必要が生じるに伴って、その必要に応じた立場や地位があてがわれて、その立場や地位に応じたことをやる必要が生じてくるわけで、そういった必要の循環を否定的に捉えれば悪循環になるわけだが、肯定的に捉えればあてがわれた立場や地位に留まろうとして、そういう立場や地位に固執している限りで、その立場や地位から生じてくる自己保存的な自己肯定を当然のこととして受け止められて、大した疑念も抱かずに自らに割り当てられた役割分担をこなそうとするのだろうが、それとともにそうした役割分担を課してくる構造の中で必要とされていることを実感できるのではないか。


10月6日「山本太郎の主張」

 簡単に言えることには簡単にわかることが含まれていて、簡単にわからせようとして簡単に言うわけで、簡単にはわからないことや簡単には言えないことがあればそうはならないわけだが、明快な主張はわかってほしいから明快に主張するわけで、疑念を抱かれるようなことは主張したくないだろうが、それでも疑念を抱かれてしまうとすれば、主張している側の思惑が外れているわけだが、できるだけ多くの人にわかってほしくても中にはわかってくれない人も出てくるだろうし、少しはわかってくれない人が出てしまうとしても、多くの人がわかってくれればそれでかまわないわけで、そうなれば主張が多くの人に伝わったことになり、主張が多くの人に受け入れられたと思いたいのだろうが、それでも主張に反するようなことをやろうとしている人も多くいれば、では主張が多くの人に受け入れられたというのは嘘なのかと疑念を持たれるかも知れないが、そうではなく、確かに多くの人が主張を受け入れたとしても、その一方で主張に反することもおこなわれる可能性があるということであり、主張が多くの人に受け入れられることと主張に反することがおこなわれることが両立可能な場合があるわけだが、では主張がうまく伝わらなかったからそうなったのかというとそうではなく、うまく伝わったとしても、それに反することがおこなわれる可能性があり、主張は主張として受け入れておいて、その一方で主張に反することをおこなう事情が切実であれば、それをやろうとするわけで、そこで主張に反することをやらなければならない事情が生じていて、主張よりも事情の方を優先する必要があれば、そういうことをやろうとするわけで、その事情というのがそこに至る過程で積み重ねられた経緯であり、その場だけの主張よりは経験として積み重ねられた経緯の方に重みや厚みがあり、主張は理解できるが今さらやろうとしていることをやめるわけにはいかない事情の方が勝ってしまうわけで、そういう意味で何かをやるにはそこに至るまでの継続性や連続的な経緯や事情の積み重なりがものを言うわけで、たとえやろうとしていることが間違っていると指摘されようと、すでに後戻りができない段階まで達していると思われてしまえば、そのままやろうとしていることをやってしまってもいいように感じられるのだろうが、本当にそうなのかといえば、そうでもないように思われるものの、そういうところでは現実の利権関係や心理状態がものを言うわけで、そういったものがもっともらしく思われる主張を打ち砕く原動力になるのだろうが、実際に打ち砕かれることになれば、そういう主張が明快に感じられるほど、明快ではない面や部分には触れていないことが明らかになるのかも知れず、今まさに大阪都構想に反対する山本太郎が街宣活動で主張している内容に関して、果たして意図して触れようとしない面や部分があるのかないのか、それとも単にそれに気づいていないだけなのか否かが、都構想の賛否を問う住民投票の結果次第では明らかになるかも知れないし、その辺が注目されるところかも知れないが、大阪市が東京に続いて日本で第二の都市だと言っても、人口から見れば横浜市の方が多く、それでも都市圏としてみれば神戸や京都も含めて関西圏の中心都市であり、横浜市の方は川崎市や千葉や埼玉も含めて東京圏に入ってしまうから、大阪の方が格上かも知れないが、大阪も内情はともかく形だけでも東京と対等に見られたいという思いも住民にはあるだろうし、そう見られるための第一歩としての位置づけが都構想には込められていて、もちろんそれは外見だけで中身が全く伴っていないという主張が今のところは妥当かも知れないが、それは今回だけで終わるわけではなく、これからさらに外見を整えてゆけば、努力次第では自然と中身が伴ってくるかも知れないという住民の期待もあるのかも知れず、そんな将来への甘い夢を餌にして新自由主義に染まったエコノミックアニマルたちに大阪が食い尽くされてしまうと危惧の念を抱くのも、現状で抱くもっともな認識かも知れないが、山本太郎が主張するように現状がひどい状態だからこそ、そんなひどい状態に維新の会や自民党政権がしてしまったからこそ、起死回生に導く手段として今まさに大阪都構想が実現されなければならないと屁理屈を言えるかも知れないが、そんなことをやればさらひどい事態になると山本太郎や反対派が主張しているわけだから、その通りになるかも知れないが、そういう主張がもっともらしく思われるほど、その通りになってしまうように思われるほど、やはりそういう成り行きになってしまうわけで、要するにそういう成り行きになってしまいそうだから、山本太郎も必死になって都構想反対の街宣活動をしているのだろうし、そんな姿を見ているとそうなる可能性の高さを実感させられるわけだが、実際に数ヶ月前の東京都知事選挙でも山本太郎が都知事選挙に立候補して、小池知事の再選を阻止しようとして必死になって街宣活動をやっていたわけで、そういった経緯を踏まえると今回もそうなってしまう可能性が高いだろうし、本当に今回もそうなってしまえば、山本太郎が街頭で必死になって何かを訴えかけるようなことがあれば、しかもそれによって何らかの事態を阻止しようとしているなら、その事態が本当に実現してしまうとみておいた方がいいことにもなってしまうわけだが、そういうことに山本太郎自身が気づいているのに、あえてそこには触れようとしないのか、あるいは単に気づいていないだけなのかが、前回の都知事選挙に続いて今回の住民投票の結果からわかることかも知れず、それがわかるとしても結果からわかることであり、現時点では気づかなくても当然であり、結果が出た時点で考慮することであり、現時点で結果を先取りして利いた風なことを述べること自体がおかしいわけだが、それでも山本太郎が危機感を募らせることが本当に実現するとなると、山本太郎には予言者の資質があることになり、今後は山本太郎が何か騒ぎ始めたら、その騒いでいる内容が実現すると山本太郎が予言していると解釈すればいいことになってしまうが、本当にそうなるかどうかが、今回の大阪都構想に関する住民投票の結果からわかるかも知れず、そうであれば山本太郎自身は、何か街頭で騒ぎ始める度に、それと自覚することなく自らが体現している予言が実現するか否かの試練に直面しているわけで、彼自身はそんなことなど全く知るよしもないだろうが、現代における予言者の在り方として山本太郎的な存在が何らかの特徴的な傾向を示しているのかも知れず、偽予言者として役割なら同じようなことをやっている他の政党の代表者たちもそれなりに加わってくるだろうが、その辺が現状で次第に明らかになりつつあることなのかも知れないし、それらの中で誰が真の予言者だと見なしても、当人たちには何の関係もないことであるにしても、後世にその真偽が委ねられているかいないかも含めて、今後だんだんと山本太郎の活動と共にこの時代の興味深い特徴や傾向が明らかになってくるかも知れない。


10月5日「道具的な思考」

 人が何かをおこなう際に使う道具が役立つことは確かで、実際にものを作るには道具が欠かせないが、それと同じように思考も何かの役に立っているはずで、何かをおこなう際には考えながらおこなっているはずだが、思考とは別種の感覚として感性にとらわれると、考える以前に感じることが大事に思われてくるわけで、そんな感性を役立てようとする意志から生じてくるのが、考える手間をかけずに従わせようとするやり方になるわけだが、人を道具として使うにはその対象となる人に考えさせてはまずいだろうし、その人が道具として使われていることに気づいてしまうとまずいから、そうなっていることに気づかせないようにして他人を利用しようとするわけだが、それに関して方便として有効に思われる煽り立ての文句としては、考えるな、考える前に感じ取れ、というのが人の感性に訴えかけるには、何かその気にさせるような洗脳として役立ちそうだが、その人が自主的に考えることが、その人を使う上で障害となってくるとすれば、それ相応の危険を伴うようなことに使おうとしていて、軍隊や警察や消防などに従事する人になれば、日頃の訓練によって身体が自動的に動くように仕向けるわけで、こういう状況になったらこう動け、という動作を訓練によって体にたたき込んでいるはずだが、そういう人たちを指揮する立場になりたいという願望が命令通りに人を操ろうとする人にはあるだろうし、そうした軍隊や警察や消防などに関連する式典を視察に行って、気分を高揚させているように見える政治家や幹部級の官僚などにはそういうところがあるだろうし、集団の一糸乱れぬ行進などを見ると興奮してしまうわけだが、そんな大げさなことではなく、単に道具を使って何かの機械などを作るに際しても、作業に伴って生じるそれなりの困難や苦難を乗り越えて、思い通りのものが作れて、それがうまく動作すれば嬉しくなってしまうだろうし、それが機械でなくても日用品やおもちゃの類いでもかまわないが、作っている最中にも高揚感を得られるわけで、それが道具でも機械でもそれを使って思い通りに何かをおこなっている最中には、考える以前に感じ取っているはずで、何を感じ取っているのかといえば、思い通りの感覚を感じ取っているのかも知れず、それが自己陶酔になるわけだろうが、自分だけで何かをやっているだけではなく、他人を使って自己陶酔に浸ることが、自分だけで自己陶酔するよりも強烈な高揚感を得られるだろうし、そうなると自己陶酔を得るための道具として他人を使うことが自然の成り行きとして生じてしまうのだろうが、それが強権的な行為を伴って弊害を生じさせていて、そうした自己陶酔に浸るほど道具として使われる身になっている他人のことを考えていないし、自己陶酔に浸っている自らが他人からどう見られているかも考えていないわけだが、そんなことを考える以前にそれを感じ取れるかとなると、それを感じ取れる人がプロスポーツなどの分野で名将と呼ばれる優れた指導者や監督になるのだろうが、それを感じ取るということはそうなってしまってはまずいということであり、それも考える前に感じ取るべきことに含まれてくるのだろうが、それでもその種の自己陶酔は避けようがなく、何よりも世の中で成功することが自己陶酔をもたらすわけだから、そうなってしまってもかまわないが、その種の優れた指導者や監督になると、それを使われる身となった選手やスタッフたちや応援してくれたファンなども讃えながら共に分かち合うことも忘れないようにしているわけだろうが、それが政治家の類いとなるとそれでは済まなくなってきて、そもそも現状が政治家が自己陶酔に浸れるような世界ではなく、強権的な独裁者が軍隊や警察などを指揮しながら民衆を動員して、それをもたらすような虚構の式典を催すことはあるだろうが、またオリンピックや万国博覧会などの大げさなイベントも昔はそうだったかも知れないし、開会式や閉会式などの会場の特別席などに陣取って悦に入っている姿も目撃されていたかも知れないが、それはその手の催し物の範囲内でそうなっているだけで、実質的には何でもないことだろうし、それで何か政治家としての仕事をしていることにはならないのはもちろんのこと、それよりはより良い生活を求める国民の道具となって働いてほしいだろうし、国民の役に立つことが求められているはずだが、その国民の中の一部が反国家的な勢力だと認定されて敵視されるようなことになってもまずいだろうし、建前としては政治家も官僚も公務員となれば、分け隔てなく全ての国民に奉仕する立場となるはずだが、それも建前ではなく実質的にそうなることが求められているはずだろうが、やはり現状ではそうなっていない面があるだろうし、逆に公務員だけではなく国民を上から指導する気になっているように見えてしまうと、そこから自己陶酔が生じているようにも感じられて、配下の官僚や国民を国家繁栄のための道具として使おうとしているような傲慢さもうかがわれて、そういう感覚が組織的な上下関係を伴った政党や政府の官僚機構の中で養われてしまうわけだが、要するに人を道具として使う思考がどこから生じてくるのかといえば、組織的な上下関係を伴った権力関係から生じてくるわけで、そこで監督的な立場の者が配下の者たちを道具として使って、集団としての組織を管理運営する動作が常態化するわけで、それが何らかの機構とそれを運営する制度が効率的に動作する上では必要不可欠に思われるわけだが、集団としての機構や団体にはそういう傾向あり、集団を組織として効率的に動作させようとするとそういう傾向が強くなってしまう成り行きが確かにあるが、それとともにそういう傾向に抗う面も出てくるだろうし、それが非効率な馴れ合いなどを悪習としてもたらして組織が腐敗してくるわけだが、それも人の道具化から生じる弊害であり、人の存在を道具と見なして軽んじてしまうから、人に対して敬意を払わなくなって、倫理観が薄れるとともに功利的な損得勘定が組織内にはびこって、自らと配下を従えた派閥の利益を優先するようになって行ってしまうわけだが、そういうところに道具的な思考に特有の欠陥があるのだろうが、それを避けるには単に人と道具を区別して混同しないようにすればいいのかも知れないが、そういった集団としての組織の中に身を置くと構造的な機能として人の道具化に抗えなくなってしまい、そうならざるを得ないと述べてしまうとどうにもしようがないわけだが、組織的な上下関係から生じる権力の行使に逆らうことが、自らが道具になることを拒否することになるわけだから、そうすることが損な役回りになっても、多くの人が権力の行使に逆らうと組織内の効率化が阻害されるとしても、人の道具化を阻止するにはそれが必要であり、そうなると集団内で争いが絶えなくなってしまうわけだが、それが組織の宿命であり、それも人の道具化から生じる弊害といえるのではないか。


10月4日「皮相上滑り」

 単純に批判されるようなことは、批判されるようなことをやるに至る経緯が紆余曲折を伴っていて、結果から見れば単純に批判できるが、そうなってしまった途中の経緯の中に批判されるようなことをやる切実な理由が含まれていて、それを単純に批判する側はそこに至る途中の経緯を考慮に入れずに、結果だけを見て単純に批判できるわけだが、もちろん途中の経緯にしてもごり押しをせざる得ない事情があればそれも批判の対象となるわけだが、ごり押ししてでもやらざるを得ないだけに、それだけやろうとする意志に情念がこもっていて、無理なことを押し通そうとしているわけで、そんなことをなし崩し的に容認してしまうような人は根負けしているわけだが、やろうとする熱意にほだされて根負けしてしまうような人に向かって、やること自体が論理的に間違っていると主張する人たちの訴えかけが聞き入れられるかというと、それはなかなか微妙なところだろうが、利益を求める情念に突き動かされて無理を押し通してきたのが資本主義的な経済活動であるわけだから、歴史的な経緯からすればいつも理性に対して情念が勝ってきたわけで、そういう行為がもたらしたひどい結果を目の当たりにすれば、そうした情念に突き動かされたごり押し的な行為を批判するしかないわけだが、そうした情念にとらわれた行為に打ち勝つために執拗に批判を繰り返す人たちも、それとは別の情念に突き動かされているわけで、どちらの情念が勝つかとなると、結構理不尽な結果がもたらされることが多く、無理なことを押し通そうとする人たちが勝つと理不尽に思われて、結果的にも無理が祟ってひどい状況に陥る可能性も高そうだが、それでもひどい結果がもたらされたと訴えかける人に同調できるかとなると微妙なところだろうし、ひどいの程度にもよるが、たとえそれがひどい状況だとしても、そこで普通に暮らしている人が大勢いれば、その程度のひどさはどうということはないと感じられるかも知れないし、どうということはなければひどくないと見なされて、そんな状況に慣れればそれが通常の状態となってしまい、結果的に無理が通ったことになるのだろうが、そこまで行くと当初の事情もどうでもよくなってきて、何のためにそんなことをやったのかも忘れてしまうのかも知れず、そんなことをやること自体が目的化されてしまって、目的を達成するために尽力したわけで、達成された後のことまで考えていなかったわけではないのだろうが、その後まで情念が持続しなければ、後は野となれ山となれになってしまうだろうし、無理なごり押しも通ってしまえばそれ以上は無理を押し通せなくなってしまうかも知れないし、そこからさらなる野望が用意されてれば、そこで終わりとはならずに、また性懲りもなく情念を傾ける標的を定めて、それに向かってごり押し気味に突進しようとするだろうが、最初のごり押しが強すぎると後が続かないだろうし、最初のごり押しによって精根尽き果ててしまえば、もはやごり押ししている状況ではなくなってしまうわけだが、果たして実際にそうなるのかといえば、そこで何をやっているかで判断するしかないが、判断するまでもなくわかりきっていることかも知れず、何かをやった結果としての状態の良し悪しではなく、そういう人たちが活動している状態が継続すればいいということであり、ごり押し的な行為をやった結果として何らかの状況がもたらされることは確かなのだが、そういう人たちは何よりもごり押し的な行為をやり続けたいわけで、それをやり続けられるような環境にしたくて様々な策略を巡らすわけだが、それが功を奏してそればかりやり過ぎるような状態となってしまうと、ファシズムやナチズムやスターリニズムのような集団暴走行為へと発展するわけだろうが、そういう暴走行為にも前例がいくらでもあるだけに、だんだんとそこへ至る途中で、自然とブレーキが働いてきて、何か中途半端に終わってしまうような結果がもたらされるのかも知れないし、それを促進するような行き過ぎた利益追求原理にしても、合理的に感じられるのは功利的な面に過ぎず、それ以外の面で利益追求原理から派生してくる弊害が顕著になってくると、そういう活動に付き合わされている人たちも嫌気がさしてきて、それに伴ってごり押しの持続力が減退してしまうのだろうが、弊害がどこから生じてくるかといえば活動そのものからであり、行政的なごり押しをいくらやったところで、肝心の経済活動の中身が伴っていないとどうにもならないわけだが、それが機械的な技術革新であり制度的な効率化となるのだとすれば、それをいくらやっても物理的な限界が待ち受けていて、人の生活や暮らしがついてこれない可能性が出てきて、そこからの脱落者の方が多くなってしまえば活動が空回りしてしまうわけだが、いくら技術革新や制度改革をやろうとしても、費用ばかりかかってしまえば利益が出ないし、そうやって次第に資本主義的な経済活動そのものが変容を被っていけば、利益の追求よりも優先すべきことが生じてくるかも知れず、それが何かといえば利益を度外視した技術革新や制度改革となるかも知れないし、そうなるともはや資本主義経済ではなくなってしまうかも知れないが、それでも人の生活や暮らしが成り立っていればかまわないわけで、ただ必要に応じて費用をかけるだけに終始するようなことになってくれば、利益を得られるなら何でもやるという情念のもって行き場がなくなってしまい、それに伴って人の意識や心を変えなければならない事態となってくると、生活や暮らしの中身も変容を被ってくるのかも知れないが、現状ではそこまで至っていないし、現状でやっている技術革新や制度改革も、利益を追求するための技術革新や制度改革になっているだろうから、そういう傾向が高じて行き詰まりや弊害をもたらしているのだろうし、果たしてそうではない技術革新や制度改革があり得るかとなると現状では疑問に思われるだろうが、その辺はまだ探求不足な面があるのかも知れず、現状でも批判勢力による批判のよりどころとなっていることすらも、諸外国や世界平均に比べて日本の経済成長率が低いか下手するとゼロやマイナスですらあるということであり、そういうところでも経済成長神話という幻想に取り憑かれているわけだが、それに輪をかけて批判勢力による批判の対象となっている保守勢力についても、たかだか明治維新以後にねつ造された保守的な伝統という嘘を守りながら、しかも世界でも最先端の技術革新や制度改革を目指しているように装うという自己矛盾に陥っているわけで、そういう無理をごり押ししようとするわけだから普通に考えても空回りするしかないのだろうが、それでも利益の追求という情念の面では経済界と利害が一致しているにもかかわらず、その一方で従来通りの保守的な商慣習にとらわれて、むしろ結果的に技術革新や制度改革を抑制している面もあるわけだから、どうやってもちぐはぐなことをやっているとしか感じられないわけで、そんな事情もそのままに保ったまま自分たちのやり方でごり押ししようとする現状を見れば、気の弱い人ならこのままでは日本が終了してしまうと危惧の念を抱くのも無理はないわけだが、それらの行為のほとんどが、かつて夏目漱石が指摘していたように皮相上滑りだとみれば、特にそれがどうということはなく、ただ単に活動が空回りしているだけと捉えておけばいいのかも知れない。


10月3日「制度的な不都合」

 何かこれまでにないことをやれば、それに起因して思わぬところで揺り戻しが起こるにしても、それも激震が走るという表現では合わないような揺れもありそうで、揺さぶられてもびくともしないなら、何の問題もないかも知れないが、ちょっとの揺れでも過剰反応するわけでもなく、ではどうなんだと問いたいわけでもなく、何か騒ぎ立てる度に、みっともないからそっとしておこうと思われる程度のことなら、みっともないと思われている人や団体が過剰反応していることになるのかも知れないが、小間使いのような小さな人物を分不相応な地位に就けたわけでもないのだろうが、みっともないことを平気でやってひんしゅくを買ったように見せかけて、それもわざとひんしゅくを買うようなことをやって世間を騒がせているのかも知れないが、そんな物言いでは何を言っていることにもならないのかも知れないし、制度的な方面からそれ相応の言説が構成されるにしても、そういう人たちがそんなことしか言えないのもわかっているが、どうでもいいような小さなことにこだわって権力を行使しようとする態度が了見の狭さを感じさせて、何かそういうところで不快感を覚えるわけだが、それが関係者にとっては枝葉末節で些細なことではないのかも知れないが、部外者にとっては物事の本質に触れるようなことだとは思われないし、それも何か勘違いしているのではないかと疑わしく思われてしまうわけだが、メディア的な効果によってこちらが勘違いさせられているのかも知れず、そうした勘違いが印象操作から生じていることは確かなのだろうが、それも織り込み済みで何を判断するわけでもなく、大して憂うような状況だとも思わないわけだが、それでももっと状況を楽観視して前向きに物事に取り組む姿勢になるかというとそうでもなく、それが前向きではないとすると、後ろ向きなら否定的な比喩となってしまうが、では横向きや下向きや上向きならいいというわけでもないだろうし、実際に何に取り組むかで方針も異なってくるわけだが、その程度のことだとしても、そんなどうでもいいことを語るわけにはいかず、もっと何か大げさで重要に思われることを語りたくなってしまうわけだが、それが何だかわからないでは済まないからといって、無理にそうした物事をねつ造できるわけでもなく、そうなると結局は世の中の制度や慣習に沿ったことを普通に語れば、それなりにしっくりくるのだろうが、やはりそれが本心から語りたいわけでもないようにも思われて、では他に何か語りたいことがあるのかとなると、あるにはあるが、それがうまく語れないから面倒な事態になってしまい、そんな語りようのないことよりも、もっと身近な世の中で話題となっていることについて語るにとどめておけば、何かしら格好がつくだろうが、そうはならないだろうし、それよりも絶えずわかりきったことを蒸し返そうとしてしまうのかも知れず、そのわかりきったことが何かといえば、世の中で普通におこなわれていることであり、それが経済活動や政治活動などに関係することになるのだろうが、どうしてそれがわかりきったことになるのかといえば、誰もが不問にしていることだからかも知れず、人々の間ですでに暗黙の了解事項となっていることを改めて蒸し返して問題視したいわけでもないとしても、それがもはや問題とはなっていないのに、なぜかそれについて語ろうとするわけで、そうする理由がよくわからないのはそれに気づかないだけかも知れず、気づいていながら無視しているわけでもないが、無視してもかまわないようなことを語ろうとするわけで、それが人々の習慣から生じる日常の中では感知できないようなことでもあり、やはりどうでもいいような些細なことには違いないのだが、それを無理に取り上げて問題視するのではなく、実際にそれを経験するのであり、それが何をもたらすわけではないとしても、何ももたらしたようにも思われないのに、気がつけばそれについて語っているというと何かごまかされたようにも思われるわけだが、何かを体験したり経験することは、それについて語ることにもつながるが、直接それについて語っているわけでもないのに、間接的にも語っていないはずなのに、そうしたことが自然に想像されてしまうわけで、それが制度的あるいは慣習的な繰り返しの動作とは違う体験となり、その場限りの体験に過ぎないのに、それが忘れようにも忘れられない鮮明な光景をもたらしているわけでもないのに、やはりそれについて語ってしまうのだろうし、なぜそんなことを語るのかよくわからないからといって、なぜとかどうしてとかいう理由を求めているのではなく、また語りようのないことを語るとかいう不可能なことを語ろうとする試みからも外れて、逆に簡単に語れることを語ろうとしているのでもなく、語ろうとしなくても語れるようになってしまうのであり、それが自らの意志とは無関係に語っているようにも思われてしまうわけだが、そうした勘違いもメディア的な印象操作とは違うだろうし、語ろうとしているから語るというのとは違っているとしても、それを勘違いだとも思っていないわけだが、結果的に語っているわけだからその時点で語ろうとしているはずだと解釈するわけにもいかず、そこで何かが破綻してしまうわけだが、その何かというのが自らの意識の統一性や連続性なのかも知れず、何かまとまりがあるように思われる前提が間違っていて、それが結果からそう思われてしまうところの遠近法的倒錯だと認識してみても、それでは知識の誤用に過ぎなくなってしまうだろうし、そういうところでは制度的にも慣習的にもそれらに基づいた統一性や連続性を前提としていて、そうしないと制度も慣習も成り立たないわけだが、その場限りの体験や経験をもたらすのは制度や慣習を打ち破る事件性を伴った出来事であり、結局それについて語ることが制度や慣習の退屈な持続を一瞬断ち切ることになり、それを真に受けるとそれなりの勘違いをもたらすわけだが、それが制度や慣習に逆らってもたらされるわけでもなく、それらを打ち破ったように感じられるとしても勘違いでしかないわけだが、だからといって勘違いを否定的に捉えたり無理に肯定的に捉えたりする必要はなく、それが一瞬の勘違いでしかないことを理解しておけばいいのかも知れないが、無理に理解しようとするようなことでもなく、理解できなければそれでかまわないだろうし、理解したと思ってもそれは勘違いでしかないだろうが、そこにあり得ない幻想を見出して勘違いする方がいいのかも知れないし、勘違いできなければそれでもかまわないわけだが、勘違いしていてもかまわないような余裕がほしいのかも知れないが、現状ではそんな余裕などありはしないし、望むべくもない状態なのかも知れない。


10月2日「語る対象」

 他人が物語る対象をそのままの形で受け止められるかというと、受け止めるということがどういうことなのかよくわからないが、他人によって言い表された物事を直截そうは受け取らずに、妙に歪曲したり、意図的かつ恣意的にずらした表現を使ってそれについて再度語ろうとすれば、元の表現を別の新たな表現で言い表そうとしていることになるのだが、なぜ元の表現をずらそうとするのかといえば、他人によって語られた対象に違和感を覚えるからかも知れないが、世の中には言葉ではうまく言い表せない物事があるのはわかりきっているが、言い表せないことを無理に言い表そうとして、しかもそれがすでに他人によって語られた物事であれば、他人の表現を恣意的にずらそうとする意図が、語る者の身勝手さをもたらしていて、他人の表現に違和感を覚えるからそれを恣意的にずらして、自らにとっての自然な感覚に引き寄せようとして、そうすることによって違和感を解消できるとしても、それに伴って表現の対象となった物事自体からもずれてくるのかも知れず、元の違和感を感じさせるような表現を伴った物事が、自身の意識の中で変形を被って別の物事になってしまい、何かそれがしっくりこないような収まりのつかない事態に陥ってしまえば、次第に物事をどう捉えればいいのかわからなくなってくるだろうが、どう捉えてもそれで物事を捉えたことになり、その人なりの表現を伴って物事を捉えたことになると思っておけばいいことでもあり、その表現に違和感を覚えれば、確かに自分なりの表現で捉え直してみればいいだろうし、それでしっくりこなければしっくりこないような物事の捉え方になっているわけで、そこではそうなってしまうと思うしかなく、それはそういうことであり、それ以上はどうにもならないことだが、たぶんそういうところから語るべきではなく、普通に世の中に生じている具体的な物事について語ればいいのであり、それ以外には何も語りようがないのかも知れないが、語りようがないことについて語っても何がどうなるわけでもなく、そこには語る対象となる物事があるわけだが、何もなければ語りようがなくても、何かを語っている実態があれば、語る対象がそこにあるわけで、なぜ語りようがない対象が語る対象としてそこにあるのかがよくわからないところだが、それが何だかわからないでは済まないのかも知れないし、それを語る対象として表現しなければならないわけだが、表現することができなければそもそも語っていないわけで、語っている限りで何かしら表現できていて、そこで言い表している物事がそこで語る対象となっているわけだが、それをどう捉えているかというと、語る対象となる物事の評価などとは違う捉え方をしていて、どうしても批判的に捉えがちになってしまうのを避けようとするわけで、だからといって無理に肯定したいわけではなく、わざと違和感を伴うように語ろうとしているわけではないとしても、何か言い表せないような部分を残しておきたいわけで、それが語り得ない物事の部分でもあるわけだが、それを省いたり避けてしまうともっともらしくて安心できるが、何かが抜けているようにも思われるわけだが、その抜けている何かがうまく言い表せない部分であり、それがないと語り足りないように思われてしまうわけだが、そういう意味で語る対象となる物事には語るのに不向きな部分があり、それが何らかの形で示されていないと納得できないわけで、もっともらしいが嘘っぽく感じられる内容になってしまい、違和感を覚えるのだが、それで済ませてしまうこともできるのであり、大抵の人はそれで済ませているのかも知れず、だから世の中にはもっともらしくてわかりやすく違和感のない言語表現があふれているのかも知れないが、なぜ一見違和感がないのにそれに違和感を覚えてしまうのかといえば、それでは物事の辻褄が合いすぎているからかも知れないが、そういったわかりやすい言語表現では捉え切れていない物事の部分があることに勘づいているからかも知れず、それが辻褄の合わない部分であり語り得ない部分となるのだろうが、それについて語ろうとすると、語り得ないことを語ろうとすることになるわけで、結局はうまく語れずに、わけのわからないことを述べていることになってしまうのだろうが、どうしてもそれを避けて通るわけにはいかず、それを避けてわかりやすくてもっともらしく語るわけにはいかなくなってしまうのかも知れず、そうなると難儀しながら無駄な骨折りを繰り返すことになってしまうのかも知れないが、そうしないと語ろうとする対象について語ったことにならないわけだが、ではそういう紆余曲折や回り道を避けて通って、もっともらしく感じられるように語れる部分だけ辻褄が合うように語ろうとするとどうなるのかといえば、物事を正確にも完全にも捉えきれないのはもちろんのこと、それを真に受けるとそこから物事についての肯定的な幻想が生まれるわけで、またそこからわかりやすい批判も生まれるだろうし、その肯定的な幻想を抱く人とそれに対してわかりやすい批判をする人との対立や争いも生まれるわけだが、そうやって物事のわかりにくい部分を省くと予定調和の二項対立が生じるのだが、そういう対立を真に受けると誰もがどちらか一方の陣営へと誘い込まれて二項対立の中へと拘束されてしまうことになり、何やら単純明快な争点を巡って争っているふりをするのであり、それが見せかけの演技であることに気づかなくなってしまうわけだが、そういうことを煽っている輩が世の中にいくらでもいるように感じられてしまうわけだが、それはメディア的な錯覚であって、メディア自体がそういう見せかけの演技を誇張して伝える傾向がある一方で、またそういう偏向報道に騙されるなというマッチポンプ的な方向にも人々を誘導していて、どちらにしても人々の意識をわかりやすくてもっともらしく思われる水準へと保とうとしているわけだが、それによって何がどうなっているのかといえば、現状の世の中がもたらされていると認識しておいてもかまわないが、それで何か不都合が生じていなければそれでかまわないことになるのではないか。


10月1日「礼儀を尽くす」

 人には誰でも非常識なところがありそうだが、常識を知らないのは当たり前のことかも知れず、人の非常識なところをたしなめるために面倒な常識を設けたい思惑があるわけではないだろうが、他人からたしなめられて非礼をわびるどころか逆に反発する場合もありそうだが、普通は自らの非礼をわびて改めるそぶりを見せるのが無難なところで、本当に改めるつもりがあるかどうかはその場の当人の都合や事情にもよるだろうが、自らに固有なペースやリズムを乱されないようにするには、時には非常識なことをやったり、他人に対して礼儀をわきまえないようなことをやってひんしゅくを買ったりしてもかまわない場合もあり、それよりも優先すべきことがあって、それを押し通すには非常識で非礼な行いになってしまうのを恐れない場合もありそうで、他人からそれを指摘されて謝罪するかも知れないが、それを知りながらあえてそんなことをやっている場合には本心から謝罪するわけでも反省するわけでもなく、そうなるとその後も時と場合に応じて同じようなことを繰り返すかも知れず、そうすることによって迷惑を被る他人よりも自身の利益を優先したり、信念を貫こうとするわけで、それも時と場合によっては妥当に思われるだろうが、もちろん非礼なことをされた他人は面白くないだろうし、程度によっては怒り心頭に発してしまう場合もありそうだが、わざと他人を怒らせる目的でそんなことをやる場合もあるだろうし、それもその場の状況次第でいかようにも判断できるし解釈できるかも知れないが、それを杓子定規に受け取る必要はないだろうし、そんなことをやられた側も柔軟な対応を心がけておけば相手の術中にはまらずに済むかも知れないし、それが執拗にこだわるようなことでもなければ受け流しておけばいいことでしかなく、世間の常識を知らないのはお互い様で、やられた側も他では他人に対して非礼なことをやっている場合もあるかも知れず、だからお互いに非礼な行為をやり合えばいいとはならないが、そんなことなど気にかけなくてもかまわないような成り行きもあるだろうし、そこで何を優先させるかは状況次第で判断されるところでもあり、その人次第な面もあるだろうが、判断よりも行動が先行すれば後から何を判断しても後悔するかしないかということになるだけで、それ以外の何をもたらすわけでもなければ判断するようなことでもなくなってしまうだろうが、非礼なことをやってしまった他人とその人との関係の深さや親密度によって、対応が異なってくるのは言うまでもないことで、親しい人や隣近所や職場や交友関係にある人ならわびるが、疎遠な人や敵対するような人に対しては非礼なことをやってもかまわないと思っているわけではなくても、自然と態度に出てしまう場合もあるだろうし、誰に対しても同じような態度はとれないものの、人によってころころ態度を変えるようなことはよしとしなければ、なるべく一様な態度で臨むように心がけるかも知れないが、功利的な利害などを重視していれば、逆に丁重な扱いにも裏があり、他人を騙して利用する算段を巡らせていれば非礼な扱いはしないし、落ち度を指摘されれば大げさな調子でわびるかも知れず、そうであれば他人に対して礼儀を尽くしているように見えても、裏では何を考えているかわからず疑わしく思われてくるわけだが、実際にその場でその人に接してみないことにはわかりようがなく、その場でもわかりようがないこともあり、言葉で説明しても説明しきれない作用や要因が重層的に絡み合ってくれば、それをどのように受け取っても釈然としない態度や対応になってしまい、人によっても立場によってもそれに対する受け取り方が変わってくるかも知れないが、誰から見てもわかりやすい受け取り方をしておけば世間的には無難かも知れないが、世間に向かって自分をよく見せようとしてアピールしている場合もあり、当人にはその自覚がなくても自然とそんなアピールをしていることが態度に出てしまって、そんな態度に出ることによって周囲の人たちを安心させる狙いがあるわけだが、それもそういう意図でそんな態度に出ている自覚もないだろうし、そうなっているところではその人の意識が世間の集団意識と同化しているわけだろうが、それが世間に対する見せかけの態度であり、それとは別に当人に特有な思惑もあるだろうし、それに関してはどこからどこまで世間に同化していて、どこからがそうした同化を装った偽装を利用する魂胆があるかもよくわからないところだろうが、結果的にわかりやすいことをやってしまうと愚かで浅はかな人はそれを真に受けて安心してしまう一方で、あまりにもわかりやすいと裏があるのではないかと疑心暗鬼も生じてくるし、裏があろうとなかろうとその場ではそう受け取っておいて、そこからまた状況が変われば、その状況に合わせて妥当に思われる解釈をしておけばいいのかも知れないが、何をどう解釈してもそこでおこなわれていることとは直接関係がなければ、無責任な態度でいられるだろうし、直接関係があっても勝手に見当違いな解釈をしてもかまわない立場の人もいるだろうし、人がどのような態度を示してそれに対して他の人がどう反応しても、それなりにそういう態度や反応が世間的に通用してしまうこともあるし、それらを容認できない人たちがそれを批判したり当事者たちに非難を浴びせかけようと、それに対する態度や反応も人それぞれに異なってしまってもかまわないだろうし、それが何か世論や民意となってはっきりと示されないようなら、世間的にも大したことでもないのかも知れないが、それを大げさに捉えて誰もが気を惹くように煽り立てる人にとっては大したことにしたいわけで、それが大したことでもないのに大したことにしたいのか、本当に誰もが関心を抱くべき大したことなのかは、結果的に大騒ぎになれば大したことだと思われる一方で、その大騒ぎが一過性に終わってしまえば大したことではなかったことになるのかも知れないが、いずれにしてもそれで済んでしまえばもうそれは過ぎたことになって、時が経つにつれて世間からも忘れ去られてそれっきりとなってしまうが、それをいつまでも根に持っていて、何かの機会にその時にやられたひどい仕打ちに対して復讐するようなことになってしまうと、それでは出来の悪いテレビドラマの脚本程度のことになってしまうし、そんなくだらぬ尾ひれがつくようなことは大したことではないといえるだろうが、その復讐が大量無差別殺人事件などに発展すれば、マスメディアでセンセーショナルに騒ぎ立てられることにはなるだろうが、そういうことも世間的にはありふれたことではあるだろうし、世間的にありふれているから大したことではないといえるかとなると、そんな事件を起こした加害者やその家族や被害者やその家族やその関係者などにしてみれば紛れもなく大したことであり、実際に深刻な事態に陥っているわけだが、そういう成り行きになってしまうことを未然に防ぐことはできないのかも知れないし、交通事故のようなものかも知れないが、結果がどうなるにしても前もって準備や対処ができなくてもその場で対応するしかないことであっても、それを経験した後からやれることもあるだろうし、やってしまったことを後悔するなら、後悔した後からその後悔を生かすようなことをやろうとするのかも知れず、それがどんなことになり、どんな結果をもたらすにしても、さらにもたらされた結果からやれることが見つかればそれをやろうとするだろうから、そうやって何かをやり続けて活動が継続している間は生きていることになるだろうし、生きていれば何かしら世の中のことがわかってくるのかも知れない。