彼の声139

2020年

7月31日「覇権争い」

 日本で最大の企業がトヨタなのかというと、どのような基準で最大なのかに関してはよくわからない面もあるだろうが、売上高と収益とは厳密には違うが、調べてみるとどちらか一方しか出てこないので、同じと見なして、後は従業員数で世界の他の大企業と比較してみると、まずトヨタの売上高が29兆9299億円(2020年3月期連結決算)で、アメリカドルに直すと2825億ドルで従業員数がグループ全体では37万人で単独では7万人だが、アメリカのウォルマートは収益が5240億ドルで従業員数は世界では230万人アメリカでは140万人、アップル社の収益が2602億ドルで従業員数が14万人、アマゾンの収益が2805億ドルで従業員数が84万人、韓国のサムスン電子は収益が2216億ドルで従業員数が29万人、スイスの資源穀物大手のグレンコア社は収益が2200億ドルで従業員数が19万人といったところだが、ウォルマートは小売業だから収益・従業員とも突出していて規格外な面があるだろうが、他の大企業はだいたい収益が2000億ドル台で従業員数が数十万人といったところであり、現状での企業規模というとこの辺が限界なのかも知れないし、他にも調べてみれば規格外に大きな企業があるかも知れないが、国家が国家間で覇権を巡って争っているように見えるのと同じように、企業も同業種の中では覇権を争っている面もあるだろうが、業種が異なれば別に覇権を巡って競争関係にあるわけでもないだろうし、むしろ物資や情報などの流通面では連携している面もあるだろうが、もしかしたら国家間の覇権争いというのも、最近の米中の政治面での争いが経済や軍事面にも波及して深刻さを増しているようにも見えるかも知れないが、それには中国の共産党一党独裁体制から生じる弊害があったり、もちろんそれを言うなら日本の自民党と政府の官僚機構との癒着体質でも政官民+マスメディアに絡んで同じような弊害が出ているだろうし、またアメリカの軍産複合体的な癒着体質や二党独裁体制などからも同じような弊害が生じているわけで、それらを相対的な水準での程度の差と見なしてもかまわないだろうが、全ての面で争っているわけではなく、企業的な面では多国間の連携関係が生じているかも知れないし、アメリカのテスラ社のように中国の上海近郊でもドイツのベルリン近郊でもアメリカのテキサス州でも大規模な工場を建設していて、表向きは対立しているように見える中国政府ともアメリカ政府とも良好な関係を示しているようにも見えるし、もちろん工場を誘致している先では経済効果が期待できるからどの国の政府も表向きはいい顔をするわけで、そういう面ではギブ&テイクの関係となっているわけだろうが、経営者のイーロン・マスクはアメリカの現大統領であるトランプが大統領候補であった時期には、トランプに向かってお前なんかロケットに積み込んで宇宙に飛ばしてやると言い放っていたし、今でもお互いに良い印象は持っていないことは確かであり、だからといってトランプがイーロン・マスクを捕らえて亡き者にしようとはしないが、中国政府やロシアのプーチン大統領ならやりかねないところだろうし、実際にプーチンは自身を批判していた企業経営者を捕らえて葬り去ったりテレビ局を潰した過去もあるが、そのトランプにしても大統領就任以来、中国に対しては事ある度ごとに経済面での制裁によって攻撃してきたし、実際に中国企業であるファーウェイにかなりの打撃を与えることに成功したわけだが、中国が国家ぐるみでやっているとされるスパイ活動にしても、アメリカのCIAやイギリスのMI5などの活動は合法的な範囲内に収まるのかというと、疑問に思われる面も多々あるのかも知れず、そういう面でも各国の政府がおこなっている活動に関しては、それらを相対的な水準での程度の差と見なしてもかまわないのかも知れず、それをどっちもどっちという論法を用いて批判をかわそうとするのはおかしいだろうし、普通に政府がやっていることに対して批判すべきところは批判するしかないだろうし、それも中国やロシアなどでは批判すれば危険な目に遭うから批判できない面もあるだろうが、日本やアメリカでは堂々と批判するしかないだろうし、またヨーロッパなどでも比較的批判が許される国が多く、そういう面で批判しても大丈夫な国と批判すると身の危険にさらされる国との間で明確な差があることは確かであり、それは相対的な程度の差ではなく明確に政府を批判しても大丈夫な国の方がまともだといえるわけだが、そこにどんな差があるかとなると、政府や政権が批判されるとまずい面があるということであり、批判されても国家的なまとまりを保てる国と批判されると国家自体が崩壊の危機に直面する危険がある国との間で差があるわけで、本当にそうかというと実際にそうなってみないことには何とも言えないだろうが、政府や政権が批判を恐れていれば批判者や批判している勢力を厳しく取り締まる成り行きにはなるだろうし、そういう方面での治安維持的な法律が住民の自由を侵害する傾向となっているわけだが、そういう方面で何が違っているのかといえば、政権に取り替えが利くか利かないかという違いがあるだろうし、政権と政府の官僚機構との間の癒着度に違いもあるだろうが、中でも日本の場合はどっちつかずの中途半端で微妙な面があるのかも知れず、実質的には社会主義的な一党独裁体制であるのにそれを否認したいわけで、それを社会主義だとは認めたがらないし、認めてしまってはまずいわけで、政府や政権を支持する人たちはそれこそ必死になって自分たちが社会主義や共産主義とは違うと否定するわけだが、やっていることはかつての社会主義国と変わらないかというとそういうわけでもなく、何か微妙に異なるわけで、そういう意味で日本的な政治体制や仕組みを欧米諸国と比較して遅れていると批判したり否定する必要はなく、また民主主義の定着を目指すという目的とも少しずれてくるのかも知れず、政権を批判する勢力としては普通に政権交代を目指せばいいだろうし、そういう勢力はそういう方面で活動すればいいのだろうが、別に多くの人たちがそれに同調してそういう運動に参加してそういうことにのめり込む必要もないだろうし、今まで通りに普通に暮らしていてもかまわないわけだが、そうであっても政治的な方面で情勢が変わる時期もあるだろうし、それは日本だけでなく他の国々でもいえることなのだろうが、それが具体的にどう変わるかといえば企業活動が変わるのかも知れないし、それに伴って人々の仕事への取り組み方も変わってくる可能性があるわけで、それが公的な政治活動を通じて変えようとすることから生じる限界や制約を超えて変わる可能性もあるのかも知れず、それに関して一般的な傾向としては政府も企業もそれらの機構が対象とする人や物や情報などを統治したいわけで、そこでどうやって統治しようとするのかといえば、安易に欲得ずくで統治しようとすれば手痛いしっぺ返しを食らうのかも知れず、そうやって統治しようとして失敗することが肝心であり、しかも失敗を繰り返しながらもなおも管理傾向を強めようとしては様々な問題に直面するだろうし、そこで何やら解決困難な問題に直面してしまうことも肝心であり、それらの問題の内容がどうでもいいことだとは思われないだろうが、統治機構が対象を統治しようとしては失敗してしまう傾向というのが、全面的な統治の不可能性を物語っていて、人にも物にも情報にもそうした統治や管理への意志を誘発しながらもそこから逃れてしまう面があるわけで、そこで着目すべきなのはそうした傾向の全体ではなく部分的な面であり、全体的な統治や管理は許さないし、やろうとしてもなかなかうまくいかないにしても、部分的な統治や管理なら可能に思われるから、実際に部分的に統治しようとして、ある一部分を管理しようとするわけだが、果たしてそれが統治といえるかというと、あるいは管理していることになるのかというと、他の面を無視する一方で少なくともそこだけでは統治が成り立っているように見せたいだろうし、ある一定の区域内を囲ってそこだけを管理していることにするわけだが、それを全体へと拡げようとすると破綻することになるだろうし、統治が行き届かなかったり管理しきれない面が出てくるわけだが、それが統治や管理における限界や制約の存在を示しているわけで、企業の規模がある一定以上には拡大できないのも、一つの国家が世界全体を覆い尽くせないのも、何かそこに統治や管理の限界や制約があって、それを取り払うことができず、それを超えて拡大できないようなことにもなっているのかも知れないが、たぶんそういう面で付け入る隙が生じているのだろうし、実際にその隙を突いて何やら勝手なことをやろうとする人や勢力が出てくるわけだが、その中には当の企業や政府も含まれてくるわけで、実際に他の企業や政府の統治や管理の隙を突いて攻撃を仕掛けてきたり、スパイ活動のようなことをやっている実態もあるわけで、もちろんそれらだけではなくテロ組織やゲリラなどの武装勢力もそこへと介入してくるし、暴力などとは無縁の一般の人や団体も平和的な訴えかけや働きかけをおこなうわけだが、そういった活動はそこで主導権を握っている勢力の統治や管理の隙を突いておこなわれることになり、ある意味でそれは統治機構や管理機構が課してくる掟や決まり事に逆らおうとするわけだから、当然のこととして反体制的な傾向を伴うわけで、実際にそういうことに加担している人たちは自分たちは反体制派なのだと自覚しておいた方がいいだろうし、そういう自覚があれば自ずから左翼アレルギーの類いも軽減されて、日本でも人々の政権交代への抵抗感も薄れてくるのかも知れない。


7月30日「認識と理解」

 世の中では様々な方面で様々なことがおこなわれていることは確かだが、それらの行為をいちいち認識してそこでおこなわれていることを理解しようとすればきりがないし、その中で自らに関連のある行為だけ認識してそれを理解しようとしているともいえないだろうが、何かその場の気まぐれというのもあるのかも知れないが、大した理由もなく何らかの行為を認識しようとしたり、そこで何がおこなわれているのかを理解しようとすることもあるだろうし、もちろんそうではない場合もあって、何も認識できず理解しようともしない場合がある一方で、偶然に出くわしたそれに興味を抱いてそれを認識して理解しようとしたり、あるいは何らかの必然的な成り行きでそれを認識して理解しようとしたり、そうしようとする理由や目的がはっきりしている場合もあるのだろうが、そうならなければ物事を認識しようとしたり理解しようとしないのかというと、そういうわけでもないにしても、何らかの成り行きでそうなってしまうとしても、それが必ずしも自らのためにそうしているわけでもないだろうし、何か漠然とそう思ってしまうわけでもないだろうが、世のため人のためという目的意識をそれほどはっきりとは持っていなくても、結果的にそうなってしまえば悪い気はしないだろうし、そういうところはその場の成り行き次第でどうにでも解釈が可能かも知れないが、大した目的も理由もなしに認識して理解しようとする成り行きになってしまっても、だからといっていい加減に済まそうとは思わないだろうし、そうしようとするのだから少なくとも自らが納得できるような認識や理解に至りたいのだろうが、なかなか思い通りとはいかないにしても、自分なりに認識しようとしたり理解しようとはしているはずだが、うまくいかなければわからずじまいに終わってしまったり、結局よくわからずに途中でやめてしまったりもするのだろうが、それでかまわないと思ってしまうこともあるだろうし、そうなってしまった結果を受け入れようとすればそうなってしまう場合もあるのかも知れないが、なぜそれでもかまわないのかといえば、いずれまたなぜか勝手に機会が巡ってきて、それを認識して理解しようとする成り行きになってしまう場合もあるからで、そういう成り行きは自らの意志ではどうにもならないのかも知れず、たとえそうなるのを拒絶しても勝手にその場の状況が自らにそれを認識させ理解させようとして、こちらが嫌がっても向こうからやってきてしまうわけだが、そういう成り行きになってしまうと否応なくそうなってしまうのであり、勝手に頭の中でひらめいてしまって、それを拒絶できなくなってしまうわけだが、そうであれば今は認識も理解もできなくてもその時が来たらできるようになってしまうのかも知れず、そうなるのが運命の巡り合わせなのか、または単なる偶然でそうなってしまうに過ぎないことなのかは何とも言えないところだが、そうなってしまうと勝手にそれを認識して理解してしまって、そうなるのに何の手間もかからなかったように思われるのだが、その時はそう思うだけで結構そこに至るまでの紆余曲折が半端なく、なぜそうなってしまうのかそうなった経緯が複雑に込み入った過程を伴っていたりして、ある時にはまるで迷路のような道筋を辿りながら、またある時期にはそれとは全く無関係な目的や理由を抱きながら今から思えばどうでもいいところで右往左往しているだけで、しかも途中でわけのわからない横道に逸れたり袋小路に行き当たって立ち往生したりしながら、そのあげくに当初には目的でも目標でもなかったことを無理矢理認識させられて理解させられたりして、それが何のための認識であり理解であるのかがさっぱりわからずに当方に暮れるばかりであったとしても、ふとしたきっかけからそれが思わぬところで役に立ったり、全く役に立たなかったりするわけだから、何か無駄で無意味に思われるようなことであっても無碍にはできないことかも知れないし、結局は全く役に立たないことであってもそれが活かされずに終わったとしても、それを認識して理解することが特に必要ではなくても、なぜかそんな認識や理解を経由するためにわざわざ遠回りする成り行きになってしまうこともあるのかも知れず、そういう意味でそうなってしまう成り行きを否応なく受け入れざるを得ないわけだが、受け入れられなくてもそうなってしまうのだからそうなるしかなく、いくらそれを理不尽だと思っても不条理だと認識しても、当人の理解を超えてそういう結果が勝手にやってきてしまうわけで、結局はそんな結果を受け入れるしかなくなってしまうとしても、それでも抵抗感が伴うわけで、しかも絶えず抵抗感を抱かせるような成り行きを伴っているわけだから、おかしな結果がもたらされていることは疑いの余地がないと思うしかなく、そうやって疑いながらもそんな結果を受け止めるわけで、そういう態度になってしまうと何か気持ちもすっきりせずにいつまで経っても割り切れなさを拭い去れないわけだが、そういう中途半端な思いの中に留まっていないと抵抗できなくなってしまうのはいうまでもなく、そこで何に抵抗できなくなってしまうのかといえば、自らの思いを無視して勝手に進行してしまう成り行きであり、しかもそれが自らの認識や理解を伴いながら状況が進行してしまうのだから、抵抗できないような状態になってしまい、そこで抵抗しようとしても無駄なのかも知れないが、それでも抵抗感が伴ってしまうわけだから、どう考えても無理に思われるのにそうした抵抗感を無碍にはできないわけで、そういうところでどう対処すればいいのかわからないのが当然だと思われてしまうわけだが、それでも自らの認識や理解に逆らってしまうのだから、それを不条理といってしまうとその通りだが、それだけでは済まないような気がしてしまうのも当然のことであり、実際にそれだけでは済まないような成り行きになることを期待してしまうわけだが、そういう意味で自らの認識や理解を裏切るようなことが起こってほしいのだろうし、実際に認識や理解を超えたことが起こってほしいと思うことが何も怖いもの見たさということだけではなく、その場の条件や事情に限界づけられた暫定的な認識や理解に納得していないということでもあり、その程度では満足できないからその上を目指すような気になってしまうわけだが、その上があるのかというとそうでもないのかも知れず、上ではなく横があったりして、その場の条件や事情が変わればまたその時とは違った認識や理解がもたらされてしまうとすれば、そういった認識や理解はどこまでも相対的なものでしかなく、その場の条件や事情に左右されないような究極の認識や理解などあるとは思えないが、疑念や抵抗感が伴っていればまだそれでは物足りないのであり、それとは別の条件や事情を伴った認識や理解に至らないと納得できないのかも知れないが、その場ではそれが無い物ねだりに過ぎないとしても、それとは別の機会がやってくることも期待しているのであり、それが別の条件や事情を伴った機会となるのかも知れないし、できればそこに自らの都合が反映してほしいのかも知れないが、そう都合良く自らを利するような条件や事情が伴ってくるわけでもないだろうし、やはりそうなると思いがけないことが起こることを期待してしまうわけだが、たぶんそういうご都合主義的な期待が裏切られてしまうことにも薄々気づいていて、半分あきらめの境地に踏み込みつつも一縷の望みを捨てきれないような心境なのかも知れないが、少なくとも現状では納得しがたいことには変わりなく、納得しがたいから自らの認識や理解に疑念を抱いて抵抗を感じるわけだろうが、逆に納得して疑念を振り払ってしまうような成り行きになってしまうと、もはや探求にも終わりが近いことを示していて、そこで自らの限界を悟っていることになるのかも知れず、歩みが止まる手前までやってきたことにもなってしまい、そこでもたらされた認識や理解で凝り固まる危険性も感じているのかも知れないが、そうなる成り行きもあるだろうし、実際にそうなってしまった人もいくらでもいるのだろうが、それも無理にそこから意志の力によって離脱しようとしてもできないようなことになっているのかも知れず、ただそうなってしまった事例を知っていれば、自らがその轍にはまってしまうことを避けようとするにしても、気づかないうちにそうなってしまえば避けようがないだろうし、それもそうなる運命に絡め取られてしまうような成り行きもあるだろうから、意識して避けようとするまでもないことであり、それも否応なくそうなってしまった結果を受け入れざるを得なくなってしまうのかも知れないが、何事にもそうなる可能性を想定して先回りして対処するほどの余裕があるわけではないだろうし、結局何をやるにも場当たり的な対応になってしまい、それもことごとく失敗に終わるような成り行きになってしまうようなら、かえって潔くあきらめて自らにもたらされた運から見放された運命を素直に受け入れた途端に、そこから思わぬどんでん返しが待ち受けていたら面白いだろうが、それもそうならないことがわかっているから冗談半分にそんなことを想像してしまうのだろうが、それでも疑念や抵抗感が自らの認識や理解につきまとってくるようなら、まだそこから変化する余地があると思うしかなく、そういうことまで考慮するなら、希望や期待を抱くには自己肯定や自己正当化ばかりにとらわれて独善的にならずに、自らの認識や理解への疑念や抵抗感を保持していることが必要最低条件となるのではないか。


7月29日「関わり合い」

 立場がないというのは居場所の不在を示しているように思われるが、その存在を世間から認められていないことになるとしても、そうなっていることがむしろ普通の状態であり、案外誰もがそうかも知れないし、それでもかまわないような状態といえるかも知れないが、立場がなくても生きていられるようなら、生活保護などの公的に助けられなければならないような弱い立場ではなく、立場がなくても居場所がないというわけでもなく、ただ目立たないということでしかないのかも知れないが、それでかまわなければ何の問題もない場合もありそうだが、人は誰でも何らかの問題を抱えているかも知れないし、それが個人的な問題であれば他の人には関係がないように思われてしまうだろうが、他人を巻き込んでしまうと迷惑なことになってしまう場合もあるだろうし、それが大げさに思われてしまうことの原因ともなるわけだが、それの何が大したことはないのかといえば、普通に起こり得ることを経験することにしかならないからかも知れないが、そこで何が起こるのかといえば死ぬということであり、生きていれば死ぬこともあるということであり、それだけ生きていることと死ぬことには関連性があるのは当然だとしても、誰もがいずれは死んでしまうとしても、その死に方に問題があったりするのだろうし、また生きているだけでもその生き方にも問題があるのかも知れないし、たとえその人に生死の問題があるからといって、それが個人的な問題であれば他人にとっては無視してもかまわないような問題でしかないのかも知れないが、その人の問題に他人も巻き込まれてしまうと、それが場合によっては面倒で迷惑なことになるだろうし、できればそうならないように個人の問題は個人の範囲内でどうにかしてほしいと思うだろうが、そうも行かないような成り行きになることも結構あるのかも知れず、例えばその人の生きている状態に問題があるからといって、その問題を解決することがその人に死をもたらすことになれば、誰がその人に死をもたらすのかということにもなって、場合によっては死をもたらした人が殺人罪に問われることにでもなれば、その人の生死に関する問題がそれにかかわった他人に別の問題を引き起こして、それが面倒な事態となって大げさなことのように思われてしまうのだろうが、それが人ではなく例えば野良猫の生死にかかわるようなことなら、猫に死をもたらすのではなく捕まえて去勢して面倒を見るようなことになるのだろうが、そんなことをやっている人がいくらでもいて、それが猫にとっても社会にとっても良いことをやっているという社会通念が成り立っていても、人の生死と猫の生死は別問題であって比較するのもおかしいし、生死の取り扱いが逆であっても対照的に思われるわけでもないが、それでも無視できずにあえて面倒なことにかかわりたいという思いがそうさせるのであり、そういう思いが誰にでもあってかかわろうとする思いが高じるから、それが興味を持ったことには何にでも首を突っ込もうとするメディア的な姿勢の興隆にも結びついていると言えるのかも知れないが、そんなふうにして誰もが立場のない状態には留まろうとせずに、自らが外部で遭遇した物事に積極的にかかわることによって自らの立場を確立しようとするのだろうが、そんな立場というのがかかわっている物事や現象との間で確立される限りは、それらの物事や現象に依存する傾向になり、それらにかかわっている限りで維持される立場だから、その立場を保ちたければ延々とかかわり続けなければならなくなって、そんな何かに延々とかかわり続けている状態が保守的な傾向となって、かかわり続けることによってその状態を保ちたいという思いが強くなれば、そうなると他の誰かがその状態を変えようとしたり競合してきて自らの立場を脅かすようなことにならないように、あれこれと自らの保身のために画策するような成り行きになってくるだろうし、そうまでしてその立場を独占するような状態を保ちたいとなると、そういった自らの保身に汲々としている姿が他から見苦しく思われるようになれば、それが嫌悪の対象にもなってくるわけだが、逆にそうならないように心がける人など誰もいないだろうし、むしろ誰もがそうなりたくて積極的にそうなろうとしてしまうわけで、それだけそういう立場になろうとする競争も激化してくるのかも知れないが、果たして誰もがそういった競争に積極的に参加すべきなのかといえば、そんな競争自体が他の何かによって恣意的に画策されているとすれば、安易にそういった傾向にはかかわらずにちょっと待てよと立ち止まって、そこで思考を巡らせてみるべきことなのかも知れないが、そうなってしまう人はかかわらなくてもいいのだろうし、安易にかかわってしまう人の中からそういう傾向に合うような人材が出てきて、そういう傾向とうまくかみ合ってそういった方面で成功してしまうわけで、そういう人材はそれ専用の人材だと見なしておけばいいのかも知れず、それはそれでそういう傾向がもたらす環境に適応しているといえるだろうが、世の中にはそういう傾向の人ばかりがいるわけでもないだろうし、そうであれば無理にそういう傾向に合わせることもなく、合わせようとしても合わせられなければ、結果的にそういう立場にはならないだろうし、そういう立場にならなくても生きていければそれでかまわないわけだが、ではそうならない人やなりたくてもそうなれない人には別の立場が用意されているかというとそうでもないだろうし、世間に認められる立場というのもそんなに多くはないだろうが、誰もがなれる立場というのもあまり多くはないのかも知れないし、だからといってそういう立場になれないことで劣等感を抱くようなことになってしまうとしても、また他から認めてもらえないからといって、その人の独自の立場を他の人たちに認めさせるようなことをやろうとする人もいるかも知れないが、それもその場の成り行きでそうなってしまうとしても、そんなことをやった結果としてその人がどうなろうと、関わり合いになりたくなければ無視しようとするだろうが、それによって他の人にとっても興味深い物事や現象がもたらされるようならそれにかかわってくるだろうし、他との間でかかわりが生じてくる限りでそれに伴って一定の関係や立場が確立されて、何かその人が他からそれと認知されるような立場を占めているように見られるわけだが、それがどんな立場や関係であろうとまたどれほどの人がそれにかかわってこようと、そういった立場や関係を維持しようとすればそれなりに面倒なことになってくるだろうし、場合によってはそこから権力関係などの不均等な力関係が生じることにもなってくるだろうが、そういった立場や関係を保持しようとしてそれなりにややこしい問題が生じてきて、それに伴ってそこに巻き込まれている人と人との間で争いでも起こってくれば、何かそれにかかわっていることが大げさなことのようにも思われてくるだろうし、多くの人がそう思えばそれが実際にも大げさなことになってしまうのかも知れないが、大げさなことだからといって誰もがそれにかかわるべきとはならないだろうし、実際にかかわっている人がそこで何かそれに伴って活動するような成り行きにはなるだろうが、かかわっていない人が何もやらなくても済んでしまうようなら、その人にとっては何の問題もないのだろうし、実際にも何の問題もないのにあえて問題があるかのように振る舞うのはおかしいわけで、そういうところで変に訳知り顔をして首を突っ込むようなそぶりを見せなくてもかまわないだろうが、何にでもすぐに首を突っ込みたくなるのがメディア的な感性であり、それが現代病といわれるような兆候を見せているのかも知れないが、そういうかかわり方も自然の成り行きのように感じられてしまうわけだから、誰もがそういう成り行きに巻き込まれているようにも感じられてしまい、そうやって感染が世の中に広がっていくわけだろうが、そこからどんな立場がもたらされるのかといえば、それを否定的に捉えるなら傍観者の立場や野次馬の立場などがもたらされるわけだが、それが見ているだけで何もしない立場なのかといえばそうでもないだろうし、見ているだけでもかかわっているように感じられるわけだから安易な立場でもあり、安易な立場だからこそ誰もが簡単になれる立場でもあるだろうし、それだけ無責任で何の力も持ち得ない立場でもあるのだろうが、そこに何か力があるかのような幻想を抱いてしまうと、それが世論の力であったり民意の力だと肯定的に捉えるわけだろうが、果たして物事や現象を見ているだけの傍観者や野次馬にどんな力があるのかといえば、見ているだけでは何も動かせないし直接関与しているわけでもないわけだから、やはりそういった力というのは幻想の力だといえるのかも知れないし、自分たちに何か力があるかのように幻想を抱いているわけで、それが実質的な力になり得るのかといえば、幻想を抱いている限りで何もしないし、他の大勢の人たちも同じような幻想を共有している限りで何もやろうとしないとすれば、そんな幻想を抱かせて何もやらせないようにする力があるのかも知れず、そういった多くの人たちに力があるかのような幻想を抱かせる力というのが現代社会の中で極めて有効に作用していて、幻想の感染をもたらす力がメディアにはあるのかも知れない。


7月28日「わかりきったこと」

 いつ何時でも戯言を言う状況にあるわけではなく、そもそもそんな状況があるとも思えないが、いったい何が戯言なのかわからなければ、すでに戯言を述べている最中かも知れないが、その自覚がないという状況はあり得るだろうし、述べている内容が戯言とは思っていないわけだが、そんなのは自明だと思われることが戯言なのかというと、そう思われてもかまわないようなことを述べている自覚が当人にあるのかも知れないが、それがどんな内容なのかと言えば極めて当たり前のことを述べているだけとすれば、そこでそんなわかりきったことは述べるまでもなく、今さら何を言っているのかとなるだろうが、それでもあえて述べなければならないように思われるとすれば、そんなことを述べなければならない状況というのがおかしいようにも思われてくるわけだが、そんなことはわかりきっているのだからあえて言う必要はないとしても、わかりきっているように思われることが本当にそうなのか否かを確かめてみたいのかも知れず、もしかしたらわかりきっていると思われることが思い違いの可能性があるから、あえてわかりきっていることを言わなければならないと思ってしまうのだろうが、言わなければならないことを言うという意思表示が言葉を使ってもたらされるとすれば、言葉が意思表示するために使われる道具だと言ってもかまわないのかとなると、比喩としてならそうも言えるかも知れないが、普通は直接言葉を道具だとは見なさないだろうし、何か言葉と道具とは別方面の用途で使われるもののようにも感じられるが、では実際の道具が何に使われるのかと言えば、物を使えるように変形するのに道具が使われることが多いだろうし、それを何に使うのかと言えば普通は生きていくために必要な衣食住に関連する用途に使うわけで、そういう意味で物を加工するために道具が使われるわけだが、もちろんその中には仕事で道具を使うことが多いだろうし、そんな道具の進化形態として駆動機構を伴って自立的に動く機械があるわけで、実際に人の活動に伴って様々な方面で機械が使われているわけだが、そんな機械が何によって作られるかと言えば人が機械を作るにしても、普通は道具を使って作るだろうし、もちろん道具と共に道具の進化形態である機械を使って機械が作られることも多いわけだが、経済活動としての産業分野では必ず機械が使われ、機械を使って商品が作られ、その商品の中には当然機械も含まれ、機械も含めて商品の大量生産には機械が欠かせないわけだが、機械そのものが商品として売買されるのは当然だとしても、機械を作るにも使うのにも金銭的な費用がかかるのも当然であり、そういう意味で機械が経済活動に組み込まれていることも当たり前のことだろうが、機械を使って何がおこなわれているかといえば、それだけではないにしても経済活動を伴った産業分野では人の労働がおこなわれているわけで、人が労働するには機械が欠かせないことも多いわけだが、その際になぜ機械を使うのかといえば、一般的には機械を使った方が効率が良く仕事がはかどるから使うのだろうし、そういう意味では普通に機械を使うことによって利益がもたらされると思うわけだが、ではいったいどれほどの金銭的な利益が得られたのか、その正確な額を求められるかとなると微妙になってくるわけだが、その機械を作るのにどれほどの費用がかかったかを調べればわかる場合もあるだろうが、また出来上がった機械がどれほどの価格で売られて、どれほどの運送費や設置費用がかかって、その機械が電気で動くとすれば、稼働するのにどれほどの電力を消費したかもわかるだろうし、またその機械を使って作られる商品がどれほどの量で、どれほどが売れてどれほどの利益が出たかもわかるだろうが、その利益が果たして機械の動作によってもたらされたかとなると、その辺から怪しくなってくるのかも知れず、例えばその機械が最先端の技術を取り入れた新製品であれば、それまで使っていた旧式の機械を使って得られた利益と新しい機械を使って得られた利益とを比較すれば、その機械を使って得られた利益が求まるかも知れないし、新しい機械を使うメリットとしては当然より多くの利益を求めようとするから使うのだろうし、それによってそれなりに利益と言える金額が確定できる場合もあるだろうが、それ以前にその機械を作って売った時に出た利益もあるだろうし、その利益の中にはその機械を作った時に使った機械がもたらした利益も含まれるし、そうであればさらにその機械を作った時に使った機械を作った時にももたらされた利益も考慮するとなると、どんどん遡っていくと、実際には遡ることなどできはしないだろうが、まず初めに人が何らかの道具を作って、その道具を使って機械を作ったことになるだろうし、さらにその道具がどうやって作られたかとなると、確かに何もないところから材料だけから道具を作ることができるかも知れないが、そうなるとそれは原始的な石器になるかも知れないし、石器を作るのにもそれを作る道具となる石器が使われる場合があるだろうし、道具の形状が複雑になるほど道具を使って道具を作るようなことになるのだろうが、その中でも物を売買する時に使う道具として貨幣が生まれたわけだが、そうやって人類史上でこれまでに作られた全ての道具や機械が何によって作られたかといえば、人の労働によって作られたと言えるだろうし、そこから労働によって利益がもたらされたことにはなるだろうが、その利益を計る道具として貨幣があるだろうし、貨幣が貴金属の金を加工して作ったコインであっても紙に印刷した紙幣であってもかまわないが、貨幣ではなく預金残高の数字が利益であったり、株式や債券として表示された数字であってもかまわないのだろうが、そうなると文字としての数字で利益が表示されることになり、それは労働したり売買や経理処理の結果として付与された数字として利益が示されるわけだが、そんなふうに利益という言葉と何らかの機械的な計算処理から導き出された数字を結びつけることに意味が生じる場合でも、それなりに利益に関するもっともらしい理屈が伴ってくるわけだろうし、例えば企業の経理処理として貸借対照表や損益計算書やキャッシュフロー計算書などから利益を計算して求めるとなると、企業側の経理担当者や会計事務所と税務署とで利益の額が違ってくる場合もあるだろうし、企業側としては必要経費をなるべく多く見積もって利益を減らそうとしたり、そういう操作をやり過ぎると脱税行為と見なされて追徴課税を受けたりするのだろうが、そういう細かい水準ではなく一般的に言えることとしては、企業で働く労働者が企業から不当に利益を搾取されていると思えば、そういう場合の利益というのがいったいどこから来るのかと問うならば、うまく説明できない面も出てくるわけで、労働者だけでは利益をもたらすことはできず、労働するのに必要な土地建物や設備や機械類を提供している企業の取り分が当然出てくるわけで、確かに内部留保としてそれなりの金額を企業が蓄えているとしても、事業を継続するためにはそれが必要だと判断されれば一応の理屈としては通るだろうし、それも結果として後からわかってくることであり、そこで働く従業員の生活が成り立たなければ企業の活動も成り立たないだろうし、企業としては従業員の生活が成り立つぎりぎりの水準に人件費を抑えておきたいだろうが、その一方で管理職などの幹部連中が不当に高いように思われる報酬を受け取っていれば従業員の側でも黙っていないだろうし、そこでも企業内の権力関係がものを言って、うるさい従業員は適当な理由をつけて解雇するようなことがおこなわれていれば、従業員の側でも組合活動や訴訟などを通じて対抗することにはなるだろうが、さらに企業の株主の側でも利益が出ているのに配当金が少なければ文句も出てくるだろうし、そこにかかわってくる人々の立場や境遇に応じて正当化できるように思われる言い分が各々に出てくるわけだが、そういうことに関してそれなりに公的な法律や制度があってそれに基づいて判断がされることもあるだろうが、それもその場の成り行き次第でおこなわれることであり、それらの法律や制度に照らしてはっきり判断できるような成り行きになればそこで公正な判断がされて、そこにかかわっている誰が良くて誰が悪いかがはっきりして懲罰や賠償がもたらされる場合も出てくるだろうが、中にはそういう事例も出てくるにしても、全ての争いがそうやって決着するわけでもなく、大抵は立場の弱い者に不利な結果がもたらされて、黙るしかないようなことにもなるだろうし、そういう意味ではその場の力関係から強い者がより多くの利益を取るような成り行きになるのが普通に考えられることだが、そうなってしまうのを覆すことは難しいだろうし、またそういう力関係をごまかすのも道義的には許されないことかも知れず、そういった関係が普通にあることを前提として話を進めないとまやかしの議論になってしまうかも知れないが、少なくとも何かそこで争いが起こっていれば、まだ優劣がはっきりしていないことになるだろうし、争いが起こっているからそこに権力関係があると言えるわけで、争わないと力の優劣を認めたことになってしまい、弱い立場の者が強い立場の者に従うだけの関係であれば、文句も言えないし逆らうこともできないから、争いが起こっていない状態となって、力の強い者がやりたい放題なことができることになってしまうわけで、そうなるのが嫌なら争うしかないわけだ。


7月27日「感性の保守化」

 提示された選択肢の中から何も選ぶ気がしないのに選ばされるような成り行きになってしまうのが執拗なアンケートではよくあるパターンだが、それでもそこに提示された選択肢から何かを選ばないとその先へ進めないようになっていると、不快さが極まって先に進むのを断念してしまうだろうが、中には善意でそうした仕組みを作った人に配慮して、選ぶ気も起こらない選択欄にチェックをつけて一通り最後まで進んでしまう人もいるのかも知れないが、そうやってしまうとアンケートを作った人の思うつぼにはまってしまうわけでもないだろうが、それでも誘導されていることにはなるだろうし、そういうのに慣れてしまうとその手のアンケートに自らの意志を制御されることになりはしないかと恐れを抱く人も出てくるかも知れないが、それも程度の問題であり、そう頻繁にアンケートに答えるような成り行きにならなければ、その場では怪訝に思うかも知れないが、時が経てばそんなことなど気にもとめなくなってしまうだろうし、アンケートの内容を不快に思うような経験がそれなりに積み重なれば次第にその手のアンケートには答えないようになるだろうし、またアンケートを仕掛ける側でもわざと不快になるような選択肢を用意して引っかかりやすい人を選別している場合もあるかも知れず、そういう意味でも善意でアンケートに答えるのは危険この上ないことであり、何らかの誘い文句や答えた人の中から抽選で何かがもらえるという餌につられて答えるような仕組みのアンケートにはなるべく答えないようにするのが賢明な選択となるだろうが、もちろんそういうアンケートに答えてしまう人がそれなりにいるからその手のアンケートが成り立っているのだろうし、それだけ世の中には賢明とは言えない人が大勢いるわけだが、実際にもそんなアンケートに気軽に応じても大したことにはならず、それも程度の問題でしかないが、その手の安易さや気軽さばかりに慣れ親しんでいると足下をすくわれてしまうのが世間の恐ろしくも奥深いところかも知れないが、そんな感じで躓きの石が方々に転がっている中でも、かつて痛い目に遭った経験に裏付けられた勘を頼りに生きていれば、それなりに危険を察知できて、まやかしの誘いをはねのけることもできるだろうから、そうやって生き残った人にはそれなりに自負の念があるのかも知れないが、それも程度の問題と言ってしまうとそれまでだろうが、その程度の問題の程度というのがどの程度なのかがよくわからない場合もあるわけで、人によっては意外と程度をわきまえているように見えても、思わぬところから底知れぬ愚かさにとらわれていることが露見する場合もあるだろうし、そういうところが油断のならないところかも知れないが、その程度のことであったりたかが知れていることでしかなくても、そうなっているばかりでは満足できないから幻想を抱いてしまうのだろうし、そこに何か可能性があると思ってしまうのであり、その可能性に賭けてしまうところから身の破滅が始まっているのかも知れないが、そうなってしまう人もいくらでもいてありふれているとしたら救いようがないだろうし、そういった救われなさに根負けしてしまうから自然と保守的な傾向となってしまうのだろうし、様々な失敗を経験した末にそういう態度に落ち着いてしまう人もありふれているわけだから、そこでも救いようのなさを思い知らされてしまうのかも知れず、要するに保守的な傾向の人はもはや疲れ切ってしまって神経のすり切れた老人と化しているわけだろうが、当人は至って突き抜けていて、疲れているのが微塵も感じられないところが神経がすり切れている証しであったりもして、いったいどこからどこまでがその程度の範囲内に収まるかの限度が不明で、そんなところから底知れぬ愚かさの全貌が浮き上がってくるのかも知れないが、それもその時のその人に対する印象からそう思われることでしかなく、勝手にそう思っているだけでこちらの思い違いである場合がほとんどかも知れないし、そこからいくらでも愚かになれるのは誰でもその可能性がある限りで自らにもその可能性があるわけで、そういう意味では救いようがない現状を受け入れた上で幻想を抱きたいならいくらでも抱いていればいいようなことにもなってしまい、そんな愚かさに際限がない状態にどれほど留まっていられるかが我慢比べのような様相を呈してしまうと、何やら正気の沙汰でなくなってしまうのかも知れないが、それでも程度の問題となってしまえば、ほどほどのところでそういった水準からは退散した方が身のためだろうし、そうなった状態では自らについてはあまり深く考えずに生きて行くに限るかも知れないし、態度が自然と保守的な傾向になってしまってもそれを受け入れた上でどうするかを決めるようなことにもなってくるのかも知れないが、決められないままでも勝手に時間が解決してしまう場合もあるわけで、時間の経過が物事にこだわるのをあきらめさせるのだろうが、そこであきらめずにこだわりを保とうとすることによっても、逆にこだわりの中で思考や動作が固まってしまう結果をもたらしてしまうのかも知れず、どうやっても感性の保守化からは逃れようがないように感じられるだろうが、たとえそうなってもあきらめないことが肝心かも知れないし、それ以前に何をあきらめればいいのかもわからない状態となってしまえば何もあきらめようがなくなってしまうのかも知れないが、そこで何かをあきらめたことになるとしても、そこからでもやるべきことが出てくればそれをやらなければならない成り行きになってしまうわけだから、それをやるべきだと思うことがあきらめの境地からの離脱を意味するわけで、それも安易にそう思ってしまう成り行きの中では浅はかな選択に違いないわけだが、やっているうちにそれがとりとめのないことだと気づけば、あきらめることもできずに途方に暮れてしまうかも知れないが、そんな当方にくれた状態をどう維持できるかが、やっていることを長続きさせるコツにもなってきて、途方に暮れている状態が悪いというわけでもなく、そうかといってそれが良い状態だとも言えないだろうが、とりとめもないことを当方に暮れながらもやり続けていれば、時にはそこから状態が良くなることも悪くなることもあるのだろうが、その良くなったり悪くなったりすることが単なるその場の気分次第でそうなっているように感じられるだけだとすれば、それは本質的なことなのではなく、そこで感じる物事の本質というのが、そうした気分次第の良し悪しとは別に、とりとめないことそのものから生じているとすれば、意外とそれが的外れというわけでもないのかも知れず、それに比べれば例えば健康に関する心身の状態などの良し悪しなど枝葉末節なことでしかなく、そういうところから従来からある価値観の転換が図られるのかも知れないが、それらの状態を良くしようとしたりそういうことも含めて全般的な幸福の実現を目指そうとすること自体が物事の本質から外れたことであれば、たぶんそれは結果的に気分の良し悪しにしか結びつかず、それが一過性で過渡的な状態にしかならなければ、普通にその場の気分次第で良くなったり悪くなったりするだけで、そんなことには本質的な意味も意義もないことになってしまうわけだが、しかもそれを目指すのが保守主義となってしまうと、何かそれが中身のない空疎な主義主張にしか過ぎないことにもなってしまうだろうが、意外とそういうところが物事の本質を突いていて、資本主義の原理も結局そういうところからきている可能性があるとすれば、全てがたわいないことになってしまうだろうが、そうしたたわいなさを隠そうとするわけでもなく、むしろそれがむき出しになっていることに誰もが無自覚でいられることが、いわゆるラグジュアリー的な意味での保守主義の目指す境地かも知れないし、確かにそういう状態からはほど遠い環境下にいる人にとっては憧れを抱くような状態だろうが、それを遠くから眺めているからそう思えるわけで、実際にそういう状態へと近づくほど健康状態や経済状態が良くなって幸福感に包まれるから、それの何が悪いと思うようになるかも知れないが、まさかそれをたわいないことだと馬鹿にする人もいないだろうし、気休めや気晴らし以上の何か肯定的な価値があるのかと問われるはずもないだろうが、そういう面でも無自覚になることが求められていれば、物質的にも精神的にも満たされることが目指すべき目標としては妥当で当然のことのように思われるかも知れないが、実際にそうであるとしてもそれが正しいことだとしても、なおのことそれがたわいないことだといってしまうと反感を抱かれてしまうだろうが、ではいったいそれ以外に何があるのかといえば、とりとめのない世界が目の前に広がっているのに、それが見えていないわけでもないのに、やはりそれでも幸福の実現を目指さなければならないわけだから、本当にそれ以外に目標がないのかと問わざるを得ない人など誰一人いないとしても、それでもそんなとりとめのないことが相変わらず問われているのかも知れず、絶えずそんなあり得ない問いにつきまとわれているとは思えないだろうが、もしかしたらその手のたわいないアンケートが問いかけている究極の問いとは、そういったあからさまな無内容なのかも知れず、しかもそれの別バージョンとしていくらでも安易で気軽に答えられるようなたわいない問いが無限に問いかけられているとしても、やはりそんな問いには終わりがなく際限がないわけで、そんな中で幸福の実現を目指す試みがおこなわれているとすれば、それがたわいないことだとは口が裂けても言えないものの、心のどこかに疑念がこびりついていてその汚れをいつまで経っても洗い流せないような精神状態に陥っているのかも知れず、だからそういった疑念を振り払う意味でも幸福の実現を目指すと言ってしまっても、それも正しさ以外の何ももたらさないようなことにしかならないのかも知れない。


7月26日「政治意識」

 たぶん何の理由もなく地理的に狭い範囲を歩き回るような成り行きにはならないだろうが、大した理由もなくネット上のいくつかのニュースサイトを閲覧して回れば、同じ事件に関する似たようなニュースの内容に遭遇するだろうし、また住んでいる近場の一帯を車で巡回すればめまぐるしく変わる周囲の景色以外には何に遭遇できるわけでもないとしても、気晴らし程度の効用があるかも知れないが、メディアで報じられるニュース以外でも世の中で様々な事件が起こっていることは確かであり、それらが起こっていることを知らなくても想像することはできるはずだが、それが何を意味しているとは思えなくても、そこに登場する誰がどんな社会的な役割を担っているかなんて知りようがないが、それを役割と見なさなくてもかまわないし、自らの社会的な役割など自負したり自慢するまでもないことであり、誰にどんな役割があろうと知ったことではないはずだが、社会の在り方について考える機会が巡ってくれば、自らがそれについて考える義務があるとは思えないとしても、なぜか理想的な社会の在り方や人の暮らし方について考えてしまうとすれば、自らがそんな大げさなことを考える必要などないはずだと思うかも知れないが、そういうところでそれがおかしな妄想だと思って、そんな妄想にとらわれてしまうような成り行きが誰にでも生じるとしても、ほとんどの人は自身がそんなことを考える立場にはないと思うかも知れないし、たとえ考えたところで何をやれるわけでもないだろうが、そんなことを想像することはできるわけで、それが大げさな妄想に結びつかなければそんなことを考えている自らが正気であることも確信できるだろうし、それが取り立てておかしなことではないはずだと思ってもかまわないし、実際におかしなことではないのだろうが、逆にそういうことを考えない方がおかしいと思っておいた方がいいわけではないが、そんなことを考えなくても済んでしまうことの方が普通に思われるとしても、その辺が微妙なところかも知れないが、それがおかしいわけではなくてもそれが普通に思われるところをあえてそこで立ち止まって考える必要があるのかも知れず、そこで普通とは思えないような身の程知らずな妄想を抱く必要もあるのかも知れないし、その必要があるとは思えないのに、そんなことを考えなくてもかまわないのに、そんな立場でもないのにそれを語るのは愚かに違いないのに、なぜか大げさに天下国家について論じるような成り行きになってしまうとしても、それが自らが置かれた立場から考えると身の程知らずで恥ずかしいことであっても、なぜか大言壮語しなければならないような成り行きが生じてしまうのかも知れず、たぶんそういう成り行きの中でしか政治意識が生じることはないのかも知れないが、しかも誰もがそうならないと世の中で政治的な主導権を握れないかも知れないが、それが現状の中で自身の置かれた立場や境遇から考えると普通ではなく正気だとも思われなければ、そう思うように仕向けられていると考えるしかないだろうし、誰もがそう思っていれば誰もが身の程知らずだと思わされていて、そう思わされている限りで政治的な主権を行使できないようにされているわけだが、主権を行使することが身の程知らずであり、そうしようと思うことでさえも恥ずかしいことだと思わされているとすれば、たぶんそれが普通の状態であり、そう思わされて実際にそう思ってしまうことも当たり前のことだとしても、なぜかそう思わされてそう思ってしまう自らに逆らうことが政治的な主権を行使することにつながるとすれば、果たして誰もが政治的な主権を行使できるかとなると、普通は誰も主権を行使できなくされてしまっているのだろうが、それでもそれが普通だとは思われないことをやる必要に迫られているとすれば、何がそれを迫っているのかというと、そうするための理由や根拠を見出せないのかも知れず、それも見出せないようにされていて、しかも自らに社会的な立場が備わっているように思われる人ほどそう思われてしまうのかも知れないが、そういう社会的な立場にしがみつくように迫る同調圧力に逆らって政治的な主権を行使しなければならないわけで、それが普通に理解できないところでもあるのだが、そうやって現状の中で自らの存在や活動を支えてくれているように思われる世間に逆らう勇気が求められているわけだから、そうする必要がないのは当然のことだろうし、実際に必要もないのにそうしなければならないとしたら不条理そのものになってしまうし、普通はそんなことはやらないのが賢明な判断だろうし、それが妥当に思われるわけだが、たぶんそう思ってしまう成り行きに対して反抗する必要はないのだろうし、そう思わされてしまうのだから、むきになってそう思わされてしまうことに対して反逆することはないわけで、反抗もせずに反逆する気もなく逆らうことができるはずがないと思うかも知れないが、無駄に労力を使う必要もないだろうし、反抗できないのに屁理屈まで持ち出して反抗する必要はなく、反逆してもそれを逆手に取られてネトウヨのようにおかしな方向へとねじ曲げられてしまうわけだから、無駄であるどころかわざと反抗させている側の思うつぼかも知れないが、なぜかできるはずのないことをやろうとすることがそれらに逆らうことにつながるとすれば、何かそこであらぬことを妄想するような成り行きが生じていると思っておけばいいのかも知れず、それができるはずがないと思わされてあらぬことだと思わされていることでもあるのかも知れないが、本当にできるはずがなくあらぬことだとしても、それでもかまわないのかも知れないし、そういうことを思ってしまう成り行きが生じていてそういう成り行きにとらわれているなら、素直にそういう成り行きに応じておけばいいわけで、たぶんそうならないと誰もが政治的な主権を行使できないのかも知れないし、政治的には無関心であることが普通のことになってしまうだろうし、それでもかまわないわけだが、そういったかまわないように思われる状況に逆らわないと主権を行使できないわけだから、何かそうなっているだけでもややこしい状況になっているのかも知れないが、それが面倒だとは思うにしてもそれに逆らうような成り行きも生じているのかも知れないし、実際に多くの人たちが逆らうような成り行きに応じているとすれば、そうすることに抵抗感を覚えるとしてもそうした方がいいとは思えなくてもそれをやることになってしまうのかも知れないし、その辺がよくわからないところではあるのだろうが、それに関して例えば実際に現状でアメリカと中国が敵対しているからといって、どちらかの側につくように迫られているとしても、アメリカの民衆は現状のアメリカの政権を支持していないわけで、もちろん支持している人も大勢いることは確かだとしても、世論調査では支持していない人の方が多いだろうし、それをどう見るかと言えばそう見ておけばいいだろうし、アメリカと中国のどちらの政府も支持しなくてもかまわないわけで、もちろんそこから日本政府を支持するかしないかの選択が生じることもないわけだが、そもそもアメリカと中国のどちらにつくかという選択自体に何かもっともらしい理由や根拠を求めなくてもかまわないわけだが、そういうところで常識的な態度を求めてしまうと、ウイグル人を弾圧して香港で圧政をおこなっている中国政府を非難するのは当然のことであり、実際にそれを非難しているアメリカ政府や同盟国の政府を支持しなければならないようなことになってしまうのかも知れないが、そういうことではないということがわかりにくいわけで、中国政府を非難する政治勢力は実際に中国政府を非難している自分たちを支持してほしいだろうが、だからといって支持する必要はないと言ってしまうと何かおかしいように思われるかも知れないが、中国政府を非難していることについては支持するがそれ以外のことまで支持する必要はないだろうし、そういうところで混同しないようにすることが肝心であり、支持するのが当然だと思わせるような同調圧力に逆らうような成り行きが生じているわけで、そこでそういう成り行きを感じ取ることができれば自然と逆らえるようになるのかも知れないが、それを意識してそうできるかとなると無理なのかも知れないし、逆に意識してしまうと物事を単純化してしまってそうし向けるような作用に逆らえなくなってしまい、結局ネトウヨのようなことになってしまうわけだが、実際に多くの人たちがそうなってしまって、歴史的にも何度となくそうなってしまった人たちの天下が訪れたわけだが、そんな人たちが歴史的に見てどう思われているのかと言えば、少なくとも大衆市民社会が先行した欧米では煽動政治家や煽動メディアに盲従する愚かな群衆と見なされて、もちろんそれは相互依存的な傾向があり、煽動政治家や煽動メディアの方でも自分たちに盲従してくる愚かな群衆に依存しているわけで、全体主義の起源としてその手の相互依存状態が指摘されているわけだが、そんなモッブと呼ばれる群衆の中から煽動政治家が指導者として頭角を現すとしても、その政治家の素性がどうでもいいわけではないとしても、それが政治の本質であり民主主義の悪しき側面だとしても、やはり一方ではそういう傾向に逆らうような成り行きも生じていて、それが普通の行為だとも当たり前のことだとは思えないにしても、やはり逆らう成り行きに応じてしまう人が必ず出てくるのではないか。


7月25日「深刻さの程度」

 野心というのが個人的な野心であればたかが知れているかも知れないが、国家的な野心であれば領土的な野心になってくる場合もあるだろうし、そうなると普通は戦争の気運が高まるように感じられるかも知れないが、それに関連して軍事的な暴発や暴走というのが何を意味するかとなると、誰もが想像してしまう成り行きとなるのだろうが、そういうことではないとすればどうなるのかと言えば、そんなことまで想像するには及ばないのだろうが、そこから遠からず近からずの中途半端な成り行きとなるのかも知れないし、現状でも世界的にそうなっているのかも知れないが、メディア的な常套句としては危機を煽りたいのだろうし、分析した情勢に応じてそれなりの危険があることを訴えかけるのだろうが、それは何も軍事的な危険ばかりではなく経済的な危機というのもあるだろうし、何か大変なことが今まさに起こりつつあるかのように語るパターンとしては戦争よりは景気の悪化の方がより日常的でリアリティが伴うかも知れないが、現状でもそうなっているわけだろうし誰もがそれを実感しているのかも知れないが、実感しているのはそれだけではなく例えばどこかの国の政府が何かを仕掛けていて、それが覇権を争う大国間の紛争に発展していることになっているはずだが、それが経済の悪化から国民の目を逸らすための策略の一環であったりして、またそれにかこつけて戦争への危機も煽られていて、どちらにしても実際に何やら紛争が起こっているように感じられるとそちらの方に関心が移るはずだが、実際に起こっているのはそういうことも含めて他にもいろいろなことが起こっていて、それら全てに関心があるわけでもないのだろうが、それが通常の世の中の状態なのだろうし、たとえ何か大変なことが起こりつつあるとしても、中にはそんな世間的な話題とは無縁の領域で進行中の出来事もあるわけだろうし、それがそういうこととは異なる次元で起こっていることであれば、特にそんなことには関心が向かないだろうが、全てが同時に進行中のことであればそれらが複雑に絡み合っていることでもあり、その中で何か特定の出来事へ関心が向くとしても、個人的にそうなっていることでしかないのかも知れないし、他の大勢の人たちと一緒になってそうなっている面もあるにしてもそれだけが全てではなく、中には他の大勢の人たちとは違う方面へと関心が向いていて、それがその人にとってのもっとも優先されるような関心事であれば、他ことなどには大して関心がない場合もあるだろうし、それでもかまわないような状況の中で生きていればそれで済んでしまうようなことでしかなく、またそういったことへと関心を向けることがそういうことにしか役に立たないようなことであったりすれば、そういう方面でしか通用しないことでもあり、そうやってそこだけでしか通用しないことをやっていれば、他の方面では関係のないことになってしまうわけだが、それがその人にとっての趣味の世界であればわかりやすいが、人には誰でもそういう面があるとしても、他の方面でも通用するようなことも同時にやっていたりもして、そうやって一つの方面へと特化しないように活動の均衡を保っているのかも知れないが、そんなことまで考慮すればメディア的な関心事など全体から見ればほんの一部に過ぎないわけだが、メディア方面で大変な事態だと騒いでいる人たちにとっては確かに大変なことが起こっている真っ最中であるはずなのだとしても、そういうことにあまり関心のない人たちにとっては、メディアに接している面ではそれが他人事ではないにしても、一緒になって騒ぐようなことでもないのだろうし、またそれとは別の方面で騒いでいれば、そちらでは大変なことが起こっているのかも知れないが、それがメディアで騒がれている大変な事態とは関係なければそれどころではないということになってしまうわけだが、それどころではなければそちらの方が優先されるのは当然のことであり、それで済んでいるならメディアで騒がれている大変なこともその程度のこととなってしまって、それよりはそれどころではない事態への対処で手一杯となっているのかも知れないが、中にはそんな人もいるかも知れないが、それも世の中のごく一部でそんな事態になっているに過ぎないことだろうし、それに比べてメディアで騒がれている事態の方が比較的広範囲に影響が及ぶことであっても、それが全ての人が優先的に関心を向けるべき事態だとは言えない場合もあるにしても、もちろん世の中のほとんどの人がそれに関心を向けていて深刻な事態だと思っている場合もあるだろうし、現状でもそう思われていることがあるわけだが、たとえそうであってしかも多くの人がそれへの対処をおこなっていてそれなりに効果的な対処をしているにもかかわらず、一向に深刻な事態から抜け出る気配を感じられないとすれば、果たして現状が深刻な事態なのかと疑念を抱くかも知れないが、深刻な事態とはそういうものだと状況を捉えるならそういうものでしかなくなってしまうだろうし、深刻な事態の中でも平気で暮らせていればそれでかまわないことになってしまい、誰もがそうではなくても平気で暮らしている人たちにとってはそうなってしまうわけで、それが取り立ててそうなってしまった人にとってはどういうことでもなくても、通常の状態としてそういうことになってしまい、そんな状態がいつまでも続くわけがなくても続いていく限りはそういう状態を保っているのだろうし、そうやってそういう状態の中で日々を送っているのだろうが、それが取り立ててどうということはない日々であればそれで済んでしまうようなことであり、そんな状態の人が多ければ多いほどそんな気分が世の中に蔓延して、そうやって多くの人たちがそんな気分のまま過ごしているような世の中になってしまうわけだが、それで良いとか悪いとかではなくそうなっているだけで、そうなっている限りでそういう面については何も判断しようがないわけだが、そんな判断しようがない状態というのが普通の状態であれば何も深刻には感じないだろうし、そうなっている限りで少なくともその人は実際にも深刻な状態とはなっていないわけだが、そんな人が世の中にどれほどいるかで深刻度が決まってくるかも知れないが、それも相対的なものでしかなく、メディア上で騒ぎ立てている内容を真に受ければ、自身が深刻な状態でなくても深刻な気がしてくるかも知れないし、逆にメディア上でそれほど騒がれていなければ自身が深刻な状態であっても、それは自身に特有な深刻さだと思うかも知れないが、逆に世間的に事の深刻さが話題となっていても自身の状態がそれほどでもなければ幸運だと思うかも知れないし、中にはその幸運な状態を活かしてさらに幸せになろうとする人も出てくるかも知れないが、そうやって世の中の状況や状態に関して様々な受け止め方があるにしても、実際に深刻な状態だと騒ぎ立てている人の思い通りには事態の深刻さを受け取ってもらえず、その手の騒ぎ立てが空騒ぎ程度の空振りに終わっているとしても、それでその人がどうなるわけでもなければ、騒ぎ立てている人にとってもその程度のことにしかならず、自身が騒ぎ立てたおかげで自身が深刻な状態に陥らなければ、自身が騒いでいるほど深刻な状態ではなかったことが自身の深刻ではない状態によって証明されてしまうことにもなってしまうわけで、そうであれば深刻な状況だと騒ぎ立てている人が実際に深刻な状況に陥ってしまえばそれが真の意味で深刻な状況だと言えるわけだが、何かその人が傍観者気取りで深刻な状況の中で高みの見物を決め込んでいられるようなら、いくら深刻な状況であってもその人にとっては痛くもかゆくもない状況であり、それどころかそこから利益を得られるような成り行きにもなっていれば、かえって深刻な状況になってもらった方が大歓迎であるかも知れないし、深刻な状況を利用して一儲け企んでいるようなことにもなりかねないが、そういう状況へと金銭的な利害関係を持ち込めるような人であれば、やはり自らの商売でそういう騒ぎ立てをやっていることになるだろうし、その人がその手の騒ぎ屋であって利益を得る目的で騒いでいるとすれば、果たしてその人が誰の味方であり敵であるのかということにもなってくるだろうが、そんなところまで詮索する必要を感じなければその手前で探りを入れるのをやめてしまえばいいだろうし、騒ぎ立てる人には騒ぎ立てる人に特有な事情があって騒ぎ立てているのだから、そういうことに関心が向かなければ放っておかれるしかなく、現状が深刻な事態だと騒いでいる人には騒がせておけばいいということになるのかも知れないし、そういうことに無関心な人はさすがに現状では多くはいないものの、それへの関心の度合いや対処に関しては人それぞれでそれなりに異なってくることは確かであり、それらをどう捉えてみても現状で起こっていること以外ではあり得ないし、そういった現状に対する受け止め方が何に結びつくかは実際に何かに結びついてみないことに何とも言えないところであり、案外現状のままに状況が推移するだけで、取り立てて現状からどんな思いがけない状態へと移行することもなければ、それで済んでしまうようなことでしかないだろうが、それでも現状が深刻な状態だと騒ぎ立てている人にしてみれば、もっと深刻で悲惨な状態になることを予想しないわけにはいかないような成り行きにとらわれているだろうし、すでに誰に頼まれたわけでもないのにそういうことを予想する役割を担わされてしまっているのではないか。


7月24日「正義の嘘」

 それがずるいことであるのは確かだとしても、なぜずるいのかをわかっていなければそうは思えないわけだが、だからといってずるい主張をあからさまに批判するわけにも行かないだろうし、そこで微妙なことを述べる必要が出てくるのかも知れないが、そう述べてしまうとずるい主張よりはわかりにくい内容となってしまうだろうし、結局その手のずるい主張というのが正義を語るに際して、両義的に思われてしまう部分を削って都合の良い部分だけを取り出して語っているわけだから、そうしないと正義を語れないわけだが、何が両義的に思われてしまうのかと言えば、真実を語ろうとすれば正義を語れなくなるわけで、正義を語るには嘘をつかなければならなくなるとしても、嘘をつきながら正義を語ってしまうのだから、それが欺瞞であり正義ではないはずなのに、正義を語っている当人にはそれが理解できず、真実を語ることと正義を語ることが一致しているという嘘をつきながら正義を語ってしまうわけだから、要するに正義を語ることが正義ではないという逆説が生じてしまうわけだが、それがわかりやすいかというと普通にわかりにくく、正義を語る人にはそれが理解できないわけだから、それが正義だと思っている人にもそれが理解できないわけで、正義が含まれる主張には嘘や欺瞞がつきものだという両義的な面を理解するのは難しいわけだが、国家という装置がその手の正義と嘘と欺瞞を同時に吐き出すのが歴史的な真実であるとしても、国家主義的な正義を語る人には相変わらずそれが理解できず、自らが正義を語っていることは自覚しているが、同時に嘘や欺瞞も語っていて、そうやって国民と呼ばれる民衆を騙し欺いていることには無自覚なのだが、今も世界中でそういった正義の主張を利用しながら敵対する国家主義者同士で非難合戦がおこなわれていることも確かであり、それらのどちらに正義があるということではなく、どちらの主張にも正義があることは確かだが、それと同時にどちらの主張にも嘘や欺瞞がつきものであることも確かであり、どんなにまともそうに見える人であっても国家について肯定的に語り出すと、そこには正義と共に嘘や欺瞞も必然的に伴ってきて、結局その人を信用できない人にしてしまうわけだが、国家という装置がそういう効果を醸し出していると言ってしまうとにわかには信じがたいようなことになってしまうとしても、実際に政府の官僚機構の中で動作している人が平気で見え透いた嘘をつくような成り行きの中に絡め取られていて、その人だけを批判してもどうしようもないということもわかりきっているのに、正義感に駆られて批判せざるを得ないような成り行きにも別の人が絡め取られてしまうだろうし、国家の存在を正当化すれば嘘と欺瞞にまみれるのだが、国家なしでは主張が成り立たないような正義の立場というのもあるわけで、それをずるい立場と言ってしまうとそこにも嘘や欺瞞が絡まってくるのかも知れないが、天下国家について論じてしまうのが政治家の立場である限りでそうなってしまうのだから、そういう人たちの嘘や欺瞞を暴き立ててもそれ自体がそれらの人たちの立場を構成しているわけだから、そこに嘘や欺瞞があるのが当然のことでしかないわけだが、ではそういった嘘や欺瞞にまみれた正義の主張なしに政治的な立場が成り立つかとなると、現状では無理だろうし、そういうことを理解した上でなおそんな見え透いたことを主張している正義の輩など相手にしなければいいのかも知れないが、メディア上で相対的に声が大きいのがそういうことを主張している人たちなのだから、愚かで浅はかな一般大衆がそういう主張を真に受けてしまうのもよくありがちな成り行きであり、そういう人たちには言わせておくしかないわけだが、言わせておくにしても、そうした主張の中で攻撃の標的としてやり玉に挙げられている対象というのが、そういう人たちと真逆な立場にあると思ってしまうとまずいわけで、あくまでも似たもの同士で非難し合っていると捉えておけばよく、いかに激しい口調で相手を非難していようと、そっくりそのまま攻撃している当人にも当てはまるようなことを相手に向かって浴びせかけているわけで、一方が正義で一方が不正義というのはあり得ず、もちろん一方が善で一方が悪というのもあり得ないわけだが、互いに攻撃し合っている両者ともに正義と不正義の両面を併せ持っていて、またそれが善と悪と見なされるような両義的な面でもあるわけで、それについていくら一方的な報道がなされていても、それを真に受けて攻撃している側にだけ正義や善があるとは思わない方がいいだろうし、攻撃されている側にだけに不正義や悪があるとも思わない方がいいわけだが、だからといって不正義や悪を非難されている側の味方になったり、そちら側だけ肯定するわけにも行かないだろうし、もちろん正義や善の仮面をかぶって攻撃を仕掛けている側の不正義や偽善を暴き立ててもかまわないわけだが、そんなことをやり出すときりがないし、探す気になればいくらでも不正義や偽善の証拠が出てきてしまう可能性もあるだろうが、要するにメディア上で何かを声高に主張している人が国家主義にかぶれていれば、その人が敵対している国家に関する不正義や偽善などは喜んでこれ見よがしに言い立てるだろうが、自国や同盟国の不正義や偽善は不問にしている場合が多いだろうし、また自国や同盟国の不正義や偽善までもあげつらっているようなら、自国内では反体制派である可能性が高いのだが、だからといってその人を信用できるかというと、たとえその人が現状ではまともであっても、何かのきっかけからいったん国家機構の類いに絡め取られてしまえば、その人が常日頃からあげつらっている国家にかかわる不正義や偽善にまみれてしまうしかないだろうし、そうならないためには国家体制そのものを現状とは別の何かに変えなければならないのだろうが、現状の反体制的な立場のままでは無理であり、それはその人が常日頃から批判の対象としている人たちにも言えることであったのかも知れず、その中には昔は反体制的な立場にあった人も少なからずいて、そういう人たちがいったん体制側に取り込まれてしまうと、結局は現状で批判の対象となってしまうような人に変貌してしまい、そういう成り行きを考慮すれば逆説的に民衆の側で実行可能なことが出てくるわけで、要するに正義や善を声高に主張する人は反体制側に押しとどめておくようなことをおこなえばいいのであり、それが選挙での投票に関する指標となってくると、穏当でリベラルな人たちが体制側となってくるはずだが、そういうことを頭で理解させるのではなく、経験として身につくようなことであるのかも知れず、それが勇ましいことを叫ぶ人を排除するような社会として実現されてくるわけだろうが、それが良いとか悪いとかではなく、勇ましいことを叫ぶような人は自らの欺瞞を自覚できないという欠陥を抱えていて、それが信用に欠ける要素であるのはもちろんのこと、他人の欺瞞は喜び勇んで指摘して攻撃するが、自分にも同じような欺瞞があることが理解できないのだから、そういう面で自己管理ができない人だと見なされるわけで、しかもそういう面が国家装置の中で増幅される傾向があり、そういう人たちがごり押し的な強権体制を作りやすいということであり、それを民衆の側が危険な兆候として察知できて、過去にもそんな人たちを支持してひどい目に遭った経験として身についているようなら、自然とそういう勇ましいことを叫ぶ人たちには投票しない傾向にはなってくるわけだろうが、そうなるまでに至るにはどれほどの過ちを繰り返せばいいかとなると、いくら過ちを繰り返しても性懲りもなくそういう人たちが煽動的な文句を叫びながら登場してしまうのだろうし、またそういう人たちを囮として使いながら国家的な官僚機構と保守勢力が産業界と結託して談合的に政治を形骸化させてしまっている状況もあるだろうし、どうやってもうまくいかない状況が延々と続いていってしまうのかも知れないが、今さらそういう政治の形骸化に対抗して民衆側が一枚岩となって結束することもないとしても、だからといってあきらめる必要もないわけで、あまり背伸びせずに自分たちの身の丈に合った軟弱な勢力を普通に支持すればいいだろうし、それに関してはそういう軟弱な勢力ほど勇ましいことを叫ぶ人たちの攻撃目標ともなるわけで、何か事ある度に執拗に攻撃の的となっているような政治勢力があるようなら、それこそが現状で支持すべき政治勢力なのかも知れないが、それも頭で理解するようなことではなく経験として身につくようなことかも知れないし、なぜそうやって執拗に攻撃されるのかと言えば、そういう勢力に属する人たちこそが勇ましいことを叫ぶ人たちとは真逆な傾向を持った人たちなのかも知れないし、自らもそれなりに欺瞞を抱えていることを理解しているから勇ましいこと叫ぶのを躊躇してしまうような人たちであり、勇ましい人たちとは違って一方的に振り切れない人たちでもあるのかも知れないが、だから中途半端で煮え切らないような態度で生ぬるいことを主張していて、そういうところが歯がゆく感じられるだろうが、もしかしたらそういう状態こそが民衆の多数派の現状を体現しているのかも知れず、そうであればあまり高望みしないで自分たちと似通った傾向の勢力を支持した方が妥当なのかも知れないが、そうなってしまっては困るのが勇ましいことを叫んでいる人たちであり、だから事ある度にだらしのない野党という常套句を駆使しながら攻撃を繰り返しているのではないか。


7月23日「大がかりな装置」

 フィクションの中ではそれなりに興味深い出来事が必ず起こるような話の展開があるわけだが、現実の世界でもそれが興味深いかどうかは人によって異なるとしても、日々確実に何かが起こっているはずであり、それが何らかの人や団体による思惑から、何も起こっていないかのように見せかけようとする大がかりな装置の類いが作動しているわけでもないのに、大したことは何も起こっていないかのように思われるとすれば、それがそう思ってしまう人の思い違いでしかないとしても、日々確実に起こっているはずの出来事から隔たった場所でその人が暮らしていて、実際にはそんなことはなく、それらとは地続きの場所で確実に暮らしているはずなのに、そんな確実さを信じられないような雰囲気が醸し出されている中で暮らしていると思ってしまってもおかしいわけだが、何か確実にそうなっているという感触を得られないような仕組みが作動しているのかも知れず、それがどんな仕組みなのかといえば、確実に起こっている出来事との間に隔たりを設けてその人を隔離してしまうような仕組みであり、それによってそんな出来事とは無関係に生きているような感覚がもたらされるわけだが、それがその代わりにそれとは違う他の出来事に興味を抱かせるような仕組みでもあり、その代わりの出来事というのが場合によっては商品の宣伝として機能している面もあって、あからさまにそう思ってしまうと何のことはないわけだが、それだけではないと思わせるような傾向を感じさせられてしまうと、何かそこで要らぬ思考を巡らせてそんな出来事に絡まって生じている事情を探りたくなって、それがそんな成り行きをもたらしている犯人捜しのようなことになってしまうと、ますます素人探偵の推理のような内容を披露してしまう事態となってしまうのだが、そうなってしまう時点でそれ相応のくだらなさが話の内容として盛り込まれて、当初に抱いていた疑念の大半が冗談のような興味本位の戯れ言と入れ替わって、いつの間にか出来事から隔たっている感覚がそこに形成されていて、そうなっていることに気づかないまま誰かの陰謀を突き止めようとする探偵ごっこのフィクションの中に意識が絡め取られてしまっているわけだが、そんなフィクションの中で素人探偵の推理を邪魔すると共に促すのが人為的に設けられた大がかりな装置であり、それがイベントとして何らかの行為を促すキャンペーンとも絡まり、そんな人工的なイベントに注意を向けられている間に本来の興味を抱くべき出来事への興味が減じられて、本来ならそちらの方がメインの出来事なのが、それに付随するようにしておこなわれる目くらましのようなちゃちでお粗末なイベントがこれ見よがしな効果をもたらして、もちろんそんなことがうまくいくはずもなく、散々な結果を招こうともそれでかまわないわけで、そこで否定的な反応がもたらされてもそれなりの効果が生じればいいのだろうし、それが誰にとってもいいというわけでもないのに、なぜか気晴らしのような効果がもたらされて、深刻な事態が冗談のような悪ふざけと混同されるわけでもないのだが、それに続いてそれに類することが第二弾三弾と次々におこなわれている間に次第に事態の収束が図られるわけで、もちろんそれは自然な終息が期待されているだけで、終息させようとして終息させることができるわけでもないとすれば、いったいそれらの実態がなんなのかというと、何でもないと言ってしまうと少し違うことになってしまうとしても、何でもないような結果がもたらされたように見せかけることに失敗しているとしても、それでも何でもないはずがないのにもかかわらず、そこにかかわってくる誰の意図や思惑も裏切られるような結果がもたらされて、それが終息宣言と共にそうなってしまうわけだが、もちろんその時点では何も終息していないが、自分たちの意図や思惑が裏切られたことを隠すための終息宣言でもあるわけで、それでもそんな終息イベントに嬉々として馳せ参じてしまう人たちにとしては、苦し紛れに終息と終了を入れ替えることで別の何かの終了を宣言しないわけにはいかなくなり、実際にこのままではそれが終了すると宣言しまくるわけだが、そんな予言も外れてしまってもかまわないわけで、意図して外れる予言をしまくるわけでもなくても、実際にいくら外してもかまわないのがその手の終了宣言であり、このままでは何かが終了すると宣言しまくることで、別の何かをごまかそうとしているとしても、しかも意図してごまかそうとしているわけではなく、自らが何をごまかそうとしているのかについてもその自覚がないのだから、何を意図してごまかしようがなくてもごまかそうとしていることになってしまい、それも自分たちの意図や思惑が裏切られていることを示しているはずなのだが、それが何だかわからないわけだから、すでにぐだぐだな事態に陥っていて、しかもそれでかまわないようなことになっているわけで、実際にそれらの人たちにとってはそれでかまわないわけで、なぜかまわないのかと言えばそこにかかわっているのがどうでもいいような人たちであるからで、当人たちにとっては自分たちがどうでもいい存在だとは思えないはずだが、たとえそれがそれらの人たちにとっての仕事であったとしても、そんなイベントに嬉々として出向いてしまうこと自体が、それらの人たちがどうでもいいような存在でしかないことを証明してしまっているわけで、何によって証明されてしまっているのかと言えば、イベント自体の内容が証明していると言えるのかも知れず、そういう意味でたわいないイベントに参加してしまうこと自体が、参加した人のたわいなさを証明しているかと言えば、それがその人の一面を物語っていることでしかなければ、他の面ではたわいなさを裏切るような中身が示されることもあるのかも知れないが、少なくともそのイベントを見ている人にとってはそこに参加している人たちのたわいなさしか見ていないわけで、それがその人たちの一面でしかなくてもそう思われる限りではたわいないと思うしかないだろうし、そう思っておいてもかまわない範囲内ではそう思っておいてもかまわないだろうし、それ以外の面を知らなくてもそれで済んでしまうようなことでしかないわけだが、要するに思われてしまうこと自体がそれらの人たちの終了を物語っていて、実際に何かの終了を安易にしかも度々決まり文句のようにして宣言してしまうような人たちはたわいない人たちであり、すでに自分たちが終了していることを自覚できないのだから、そのたわいなさもほどほどの程度に留まっている限りでもたわいないことになっているわけで、その全てがこけおどしではないにしても、何かとそこで多用される終了宣言自体がこけおどし程度の効果しか担えないのだから、それらの人たちの存在がたわいないことを自身の言葉のたわいなさが証明してしまっているわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、それらの人たちが絡め取られている大がかりな装置によってそうなってしまうわけだが、その装置自体の仕掛けがいかに大がかりに仕立て上げられていても、装置によって及ぼされる作用がたわいなくも残酷に働いて、それらの人たちをたわいない存在におとしめてしまうのかも知れないが、その見かけだけは大がかりに見えて結果としてはしょぼい実態しかもたらせないとなると、何か詐欺に遭ったような気分にさせられてしまうわけだが、しかも何の実害も被っているわけではないようにも感じられて、それらの成り行きをどう捉えたらいいのかわからず困惑するばかりで、普通に当てが外れたと思っておけばいいのかも知れないし、何かはぐらかされていることは確かであるとしても、何をはぐらかされているのかがはっきりせずに、そんな実感ばかりが残って虚無的な感覚に陥ってしまうかも知れないが、それが取り立ててどうということはなければ、それも一過性の流行病の類いと思うしかなく、そうなると事の深刻さを意識できなくなってしまうわけで、それもそれに付随して起こった人為的な失敗イベントに影響されてそう思わされてしまっているのかも知れず、そういう意味ではまんまとイベントを仕掛けた勢力に惑わされていることになるのだろうが、そんな愚かな罠を仕掛けている人たちに対して、いくらそれらの人たちの終了を宣言したところで馬耳東風でしかないだろうし、失敗してもかまわないことをやっているということであり、もちろん失敗しようとしてそういうことをやっているわけではないのだが、結果的には予定調和のように起こるべくして起こるぐだぐだな紆余曲折を経てそうなってしまい、結局そういうことしかできない人たちがそういうことをやっていて、しかもそういう行為を許している状況もあって、まさにそういう人たちがやりたい放題やっているわけではないものの、しかもやりたいことをやりたいようにやる能力がないようにも見えてしまうわけだから、どうやってもうまくいくはずがないのに、しかもうまくいっていないのに、そのうまくいっていない成り行きに誰もが巻き込まれてしまっても、それでもどうということはないようにも思われてしまうわけだから、そうなってしまうこと自体がおかしいのだろうが、多くの人たちがそのおかしさを実感していないのだろうし、またそれとともにそれに影響されて事の深刻さの方でも実感が湧いてこないような感覚の麻痺が醸し出されているわけだ。


7月22日「効率化と空疎化」

 それが感性の劣化や感覚の麻痺などによるのではなく普通にそう思われることだとすれば、別にそれの何がおかしいわけではないはずだが、それとは何かといえば現実の世の中で起こっていることであり、そこで大変なことが起こっているとしても普通にそんなことが起こっているわけで、実際に機械を用いた物事の生産や流通などにおけるシステムの効率化によって利益が出ていると思いたいが、そうした効率化について行けない人たちが脱落者として社会の底辺へと追いやられているようにも見えてしまい、しかも効率化によってもたらされているのが便利さと引き換えにした物事の内容の空疎化であるようにも感じられて、そういう物事の効率化自体に違和感を覚えるのだが、その反動で一見効率化とは無縁に思われるような無駄で無意味なことに魅力を感じるとしても、無駄で無意味に思われるようなことをやっている光景を見せる工夫というが効率的におこなわれるとすれば、そういう光景を安易に提供するシステムの効率化によって物事の空疎化がより一層促進されているようにも感じられて、そんな光景を見せることによって利益を得ようとする行為に逆らいたくなってくるわけで、それ自体が無駄で無意味に感じられてしまうのかも知れないが、そういった世の中の効率化に逆らう行為に魅力を感じられてしまうことも確かであり、そういう面で人の感性や感覚というのは古くて非効率な物事に魅力を感じてしまい、そんな物事にこだわることが効率とは真逆の非効率そのものであるなら、こだわりすぎてしまう人が社会から脱落してしまうのもやむを得ないとしても、果たして効率的な物事が空疎であるのとは反対に、非効率な物事に魅力的な中身が伴っているのかというと、何かそこに肯定できる中身があるように思われるだけで、そこに魅力があるかのような幻想を抱いているに過ぎないのかも知れないが、それらが安易にメディアを通じて効率的に提供されていて、実際にネットで検索すればその手の非効率なことをやっている光景がいくらでも見つかってしまうことが、そんな状況そのものの空疎感を逆説的に際立たせているようにも思われてきて、それ自体が幻想に過ぎないことも思い知らされているようなことになり、そうやって世界が荒廃していく様をまざまざと見せつけられてしまうわけだが、そんなふうにたとえ非効率なことであってもそれを効率的に見せてしまうシステムそのものが空疎なのかも知れないが、では魅力的に見えたり感じられたりすることの全てが幻想に過ぎないのかといえば、実際に効率的に利益がもたらされると、それが幻想ではなく現実であることを実感できるのかも知れず、だからこそ世の中の効率化が促進される事態になっているわけだが、そういう傾向になっているとしても全てが効率化されるわけではなく、効率化に抵抗するような傾向も作用反作用となって生じてきて、実際に抵抗する人たちが批判勢力となるわけだろうが、何事も効率的にやって見せている行為の中身が空疎であることを実感させられるとしても、では無駄で無意味に見えるような行為に中身があるのかというと、それも空疎に思われてしまうし、そこには世の中に存在している様々なものやそこでおこなわれている様々なことを効率的に見せようとする工夫が感じられるわけで、それ自体が世界の空疎化に貢献してしまうとすれば、そんなふうにして中身を感じさせない光景を見ているだけでは心が荒廃してしまい、メディアから提供される光景を見ていることが心の空疎化や荒廃化を招いていることにもなるわけだが、実際には世界が荒廃しているのではなくそんな光景を見させられている心が荒廃しているわけだから、そういう空疎化や荒廃化自体が幻想に過ぎないわけで、それがメディアのせいでそうなっているというよりは、それらを見ているだけで何もやろうとしない自身に原因があるのだろうし、しかも何もやろうとしないわけではなく、実際に日々様々なことをやっているのにそれを意識できないことにも荒廃の原因があり、そうやって自らに起因する何かがそんな事態を生じさせているわけだが、それも何の妨害にも遭遇せず一気にそんな思いへと効率的に至ろうとしてしまうわけで、それ自体が安易さの表れでしかないわけだが、そういった効率化への抵抗感や違和感というのも物事を効率的に処理しようとすることに対する作用反作用的な反感から生じているのだろうが、それを一概に悪いとは言えないところが微妙なのだが、実際にそうなってしまう傾向があって、それもある意味では必要な傾向であって、それ以外にも必要な傾向が色々とあるのだろうが、それらを並立させることが難しいからある特定の傾向へと一辺倒に進もうとしてしまうのかも知れず、そうなるとそうなってしまうことへの反発として、それとは逆方向への揺り戻しが起こるのであり、そんな作用反作用的な現象が起こったところでそれが一定の揺れにはならずに、他にも様々な方面からもたらされる様々な作用によって不規則に揺れ動いてしまうこともあるかも知れないが、そうした揺れ動きにも対応できればそれなりに心身の動作を一定の傾向に保っていられるだろうし、そうなったからといってどうなるわけでもなく、中にはうまく心身を制御できずにそれが自滅的な傾向となって自殺してしまうような人も出てくることも確かだが、そうやってあからさまな動作となって表面化しなければそれを自覚することはできないのかも知れず、それを自覚せずに通常の範囲内に心身の動作が収まっていれば普通に生きていられるが、そんな中でも外部から様々な作用や影響を及ぼされると同時に、それに呼応して内部からも様々な反作用や副作用が湧き出てくるとしても、それらの作用や反作用などの力の間で一定の均衡が実現している限りで心身には特に異常は見受けられないのかも知れないが、そうなっている中でも動作を効率化する傾向が顕著になっていて、それを自身が意識するとしないとにかかわらず、それが世の中の効率化の傾向とも同期しているなら、自然と自身も効率的に動こうとしてしまい、それに伴って自身がそうなるに至る経緯や事情が起因して生じてしまうやっかいで面倒な状態に留まっていられるようなこらえ性が減じられてしまうと、何かのきっかけから衝動的な行為に走ってしまうのかも知れないし、そんな中でも全ての苦痛を精算して楽になろうとするなら自殺という選択肢も俄然魅力的に感じられてくるわけで、そういう意味では効率的な傾向といっても何を効率化するかで動作の内容も異なってくるわけだろうが、実際に何を効率化すればいいかとなるとその場の経緯や事情に沿った答えが自ずから出てくるかも知れないし、それには今までに苦心して保とうしてきた心身の均衡をご破算にしてしまう効果も伴ってくるかも知れず、一般的には面倒なことを省いて楽になろうとするから何らかの効率化を目指すわけだろうし、またそうした効率化の反動としてそれとは別の面でややこしい事態になってしまうわけで、そういった効率化の反作用として起こるややこしい面から目を背けてしまえば、何でもかんでも効率化することが正義であるように思い込めるわけだが、逆にややこしいことをやらされる側としてはたまったものではなく、そうした不均衡がサービス業などにはつきものとなってくるわけで、サービスを効率化すればするほど効率化を担うシステム自体が複雑化してくるわけで、それがコンピューターなどの情報関連の技術によって飛躍的に進歩した面があるとしても、その心臓部や頭脳部となる演算回路のミクロ的な集積化の構造などは一部の専門家以外は複雑すぎて誰にも理解できないような仕組みとなっているだろうし、それだけ一部の場所へと負担が集中しているわけだが、そういった力の集中化と共にネットワークなどを経由した力の分散化も起こっているわけだから、そこでも作用反作用が同時に起こっていて、それらの作用が互いに複雑怪奇に絡み合っているわけだが、そうなっている中でも動作の効率化が求められているわけで、何かそういう面が矛盾しているように思われるわけだが、それも当たり前のようにそんな傾向になっているわけだから、そんな中で生きていれば否応なくそういった傾向を受け入れざるを得なくなってしまうわけで、そんな面でも心身への過度な負荷がかかっているのかも知れないし、だからそういった傾向への反動としてもできるだけ物事を単純化して捉えるような傾向も生じていて、ちょっと考えてみればそのおかしさがすぐにわかってしまい、冷静になれば矛盾を簡単に指摘できるようなことが、一方的な傾向を伴って煽動の勢いにまかせて主張されてしまうことにもなり、そういう主張をごり押しすることで面倒な事態を生じさせていること自体が、一方で効率的に主張することの空疎感や虚無感も同時に醸し出しているわけで、実際に主張している人たちがそうなっていることを自覚しているのかは疑問だが、それに不快感を抱いている人には面倒で鬱陶しい事態になっていることがわかりすぎるくらいにわかっているだろうし、何かおかしなことが正論のように主張されてしまっていることが滑稽に思われるかも知れないが、それを主張している人たちにとっては切実にそう思われてしまうわけだから、そういうところで社会システムの効率化を目指したことによる副作用としてそういうおかしな傾向が出てきているとは到底思えないだろうが、そんなことを主張している人たちを単純に馬鹿と見なしてしまうと、それも物事を効率的に考えようとする傾向に毒されていることになってしまうのではないか。


7月21日「力の加減」

 何事に対しても快不快の感情が優先すれば、事の経緯や事情を無視して単純にそう思ってしまうのだからたわいないことでしかないわけだが、そうではなく何か事を込み入らせて考えてしまえばそれが考えすぎではあるものの、快不快の感情の発露ではどうにもならないことに気づいていて、それを自分の問題だと引き寄せて考えているわけではなくても、思考の対象となっているそれがそうなっていることに関する経緯や事情を探ろうとしているのかも知れないが、それを自らの主義主張に結びつけて自説を補強するために使ってしまうと、そうなってしまうことが自己正当化と受け取られてしまうにしても、それ以外にやりようがあるのかと問うわけにも行かないだろうし、それがそこへ至るまでの経緯となってそれに関してもっともらしいことを述べていることになってしまい、別にそれでかまわなければそうなってしまったことを別に気にする必要もないわけだが、何かそうすることに引っかかりのようなものを感じてしまってそれが気になるようなら、そういうやり方からはなるべく遠ざかりたいと思うのかも知れず、たとえそれが余計な配慮に思われようと、そうなることを避けながら思考を巡らせる必要を感じてしまうのかも知れないが、では他にどう考えればいいのかというとよくわからないわけで、そうすることに違和感を覚えるだけではどうにもならないことに気づいて、それとは異なるやり方を模索しても得るものは何もないと思ってしまうと、やはりそこから妥協して元通りに自説を補強するために時事問題を利用することに精を出してしまうのかも知れず、そういうやり方が現状にも合っているように思われるなら、案外そうすることにも快不快の感情が作用していて、自分に都合が良いように物事を考えようとしているだけでしかないとしても、そう考えるのが心地良いわけだからそれをやめられないわけで、当初はそんな水準で物事を考えていたわけではなかったとしても自然とそういう傾向へと引き寄せられてしまうのかも知れないが、それが嫌ならそういう傾向を脱するにはどうすればいいかと問うわけだが、何も自説を裏切るようなことが現実に起こればいいというわけではなく、自説とは関係のない分野で関係のないことが起こっていることに気づくべきかも知れず、自説を適用できる範囲が極めて限られた範囲内でしかなく、その範囲内では確かに世の中の傾向を自説によってもっともらしく説明できるとしても、いったんそこから離れればそんな説明など何の役にも立たないばかりか全く説得力を欠いていて、それがどうでもいいくだらない言説にしか思われなければそこで目が覚めて、自らの考えが浅はかであったことを反省するようなことになるのかも知れないが、そう都合よく目を覚まさせるような契機が訪れるわけでもないだろうし、それよりは他から全く相手にされなくても自らの殻に閉じこもっていられるような状態を維持できて、そんな自らをいくらでも自画自賛できるような成り行きが待ち構えていて、そうなってしまうと他から相手にされないどころが、他からもおだてられてちやほやされるようなことになってしまえば、しかもそれが希有なことではなく、誰にでもありがちな成り行きだとすれば、大抵の人はそうなることを目指してしまうだろうし、実際に多くの人たちがそうなることを目指して競い合ってしのぎを削っているのかも知れないが、誰もそれが嫌だとは思わないにしても、たぶんそこからも自然に外れていってしまうようなことが起こるのかも知れず、嫌になってわざとそうなろうとするのでも無理にそうなろうとするつもりもなくてもそうなってしまい、そんなことはどうでもいいとは思わないにしても、思いがけずにそうなるわけではなくてもそうなってしまって、何か当てが外れたように思われるとすれば、それは自説がどうこうというのとは無関係なところでそうなってしまうのであり、そうなってしまう成り行きの中では自説も自己主張も自画自賛も関係ないわけで、それら全てが放っておかれるようなことでもあり、そうなってしまうことについては自らの考えが浅はかであったりそれについて反省しなければならないというのもどうでもいいことになり、そんなことからも簡単に離れられてしまうとすれば、ではいったいそこで何がどうなってしまったのかといえば、何もどうにもなっていないということではないにしても、少なくとも自身の思いや考えが反映されない領域ではそんなことはどうでもいいように思われてしまうわけで、それが特に何かに限定された領域というわけでもなく、逆に自由でとりとめのないところでは何の力も働いていないように思われて、実際には様々な力が働いているとしてもそれを意識が捉えられないほどそこから隔たっているのかも知れず、そうなってしまう状態を自らの想像力によって近づけることさえできなければ、やはり世の中には自らの力も思考も及ばない領域があって、そんな領域で起こっていることとは無縁の範囲内で自身が活動していれば、やはりそんなこととは無関係であることを意識せざるを得ないだろうし、それが自然にそうなってしまうようなことであれば、自らはそれをどうすることもできないし、自身がそうなっていることにも気づかないままそうなってしまっているとすれば、その領域までは思考も意識も及んでいないことになってしまい、そうかといって自らの考えや思いが及ぶ範囲内でいくらそれについて思考を巡らせても、わからないことがあるのは当然であり、だから世の中にはわからないことがあるのだろうが、それをわからないままにしておくのはしゃくに障ることであっても、そこまで思考が及ばないわけだから自身にとってはどうしようもないことかも知れないが、現状では思考が及ばないとしても自然に状況が変わってしまうこともあるわけで、状況の変化に伴って気も変わってしまえば、何かのきっかけでそれまでとは別の方面へ思考が及んでしまうこともあるかも知れないし、そこまで思考を及ぼそうとしてそうしているわけでもなくても及んでしまうことがあれば、不意にそんな領域で物事について考えていたりするのかも知れず、自らが自らの思考を制御しながらそうするのではなく、思いがけずに考えがそこに及んでしまうとすれば、そこで何かを発見したような気になれるかも知れないし、そんなことがきっかけとなって思考の領域も活動の範囲もそれまでとは様変わりしてしまうことがあるかも知れないが、そうなったとしてもそれはそういうことでしかないだろうし、それがただの変化でしかなければそれ以上の何ものでもなく、ただの範囲や領域の変化に過ぎないことになってしまうだろうが、それでも気分転換や気晴らし程度の効用はあるだろうし、それで気が済むならそういうことになってしまうのかも知れないが、自身にとってはそうであっても周囲にとっては違うかも知れないし、それがそうなることを狙ってそうなったわけではなくても、思考や活動が以前とは様変わりしてしまった人に対する周囲の見方や評価も以前とは様変わりしてしまう可能性もあるだろうし、それがそうなることを目指してそうなるのではなく、誰にとっても思いがけずそうなってしまうことが、当人の思いや考えとは無関係に思われるわけだが、誰の意図や思惑も感じられずにそうなってしまうとすれば、そこにそういうこととは無関係な何らかの作用や影響が及ぼされたと感じられるわけで、それがどんな作用や影響だとしても何か人を変えるような力がそこに働いていれば、そうした力を利用して自分も変わりたいとも思ってしまい、そんな思考の先回り傾向がそれに伴って生じる勘違いも誘発して、そんなところからも思いがけない成り行きが生じてくるとしても、とりあえずその人が自分から動いて何かをやればそれだけでは収まらなくなるとすれば、その人に関連する他の様々な領域でもそれに引きずられて何らかの変化を起こしたことにもなり、実際にそうなった分だけでその人にそれなりの力があったことにもなるわけで、それが狙って起こした変化とは違う思いがけない変化であるとしても、その人が力を行使することによってそういう面が伴ってくれば、その人にはそれなりの影響力があることにもなるだろうが、そんな光景を目の当たりにした他の人が自らの影響力を意識して何かをやったところで、結局何も起こらずに当てが外れてしまえば、逆に自らの力のなさを思い知らされてしまうことにもなるだろうが、そうなってもならなくても何かをやってみるような成り行きに自然になってしまうとしたら、その人がそういう成り行きにとらわれていることにもなるわけだが、何かの罠にかかってそういう成り行きに巻き込まれてしまったとも思えなければ、そうなってしまった事態を何も大げさに捉える必要もなく、気軽にやってみて何も深刻なことにもならなかったことが明らかとなれば、それも適当な紆余曲折を経てそうなってしまったと思ってもかまわないようなことかも知れないが、そんなふうに思いや考えを巡らせている時点で、すでに何かをやってしまった後からそう思ったり考えたりすることでもあるわけで、そうなる前から何らかの思考にとらわれているわけではなく、行動や活動と共にその行動や活動に伴って生じた意識の中でそうした行動や活動を思考の対象にしているわけだから、そうなっている時点で後戻りができない上にそれ以外のことなど眼中にもなかったりして、そこで冷静になってそんなことをやっている自らについて思考を巡らすわけにはいかないのかも知れない。


7月20日「ゴミ問題」

 それが何かをやるきっかけであるとすれば、ただ単にきっかけがつかめないのだとしても、それが何のきっかけなのかという疑問に答えられるわけもなく、きっかけとはそういうものではなく、思いがけず不意にやってくるものだと思いたいが、そんなきっかけをはぐらかすことなどできないだろうし、別にはぐらかそうとしているわけではないが、何かをやるのをためらっている人が世の中には大勢いるのかも知れないし、その大勢いる中の一人が誰であっても、その人によって何がもたらされるとも思えないが、誰かがそこに存在しているだけでも重要なことになるとしたら、そこで何かをやっていることも重要となってくるように思われるかも知れないが、どう見ても大したことは何もやっていないように感じられるとすれば、重要というのがどういう意味で重要なのかが問題となるかも知れないが、たぶん誰でもない人が存在しているわけでもなく、特定の誰かがそこに存在しているわけで、特にその存在が重要だと思われなくても存在しているわけだから、誰かがそこに存在していること自体は大して重要なことではなく、大して重要だとは思われなくても存在しているわけだから、そこで誰が何をやっていようと大して重要ではなく、大して重要ではないのにそこで誰かが何かをやっていることの何が問題でもなく、特にそれを肯定する必要も否定する必要もなく、そうしたことの何を問題視してみても、その問題に対して納得できるような回答は何も得られず、何を問題視すればいいのかわからず困惑するばかりでもないとしても世の中には何の問題もないということではないが、だからといって問題の所在を明らかにしても、そうするだけでは何の解決にもならないだろうし、確かに解決できない問題があるのかも知れないが、たぶんそれを解決しようとしているのではなく、問題を利用して活動しているわけで、何が問題なのかを明らかにすることがそうした問題を提起する人の活動となっていて、しかもそれが大して重要なことでもなく、むしろありふれた問題の提起として世間に安心感をもたらしているわけで、たとえそれが解決すべき問題であるとしても、別に問題を提起する人が問題を解決できるわけでもないし、それどころか解決しようのない問題を提起しているわけで、それがゴミ問題でもあるわけだが、そこで何がゴミなのかといえば、そこからもたらされる人も物も情報もゴミなのかも知れず、しかもそれらのゴミの利用や活用が問題となっているわけで、ゴミを利用したり活用する以前に、まだゴミとなっていない人や物や情報が利用できたり活用できるのかというと、それらを何に利用したり活用するのかも問題となっていれば、そちらの方が優先されるべきことかも知れないが、そもそもなぜ人も物も情報もゴミとなってしまうのかといえば、それらが利用されたり活用された後にゴミとなってしまったはずだが、その利用のされ方や活用のされ方が問題となっていて、取り扱いがまずいとすぐにゴミとなってしまって魅力を感じられなくなり、そうなると人も物も情報もゴミ扱いされるしかないわけだが、それらの取り扱いのどこがまずいのかといえば、言葉で決めつけることによって魅力を削ってしまうわけで、それが対象に否定的なレッテルを貼る作業となり、そうやって気に入らない人や物や情報をゴミ扱いしてしまい、そういう行為が世界の貧困化をもたらしていて、そんなふうに何もかもをゴミ扱いするような人の精神も荒廃してしまい、そんな人自身もそれ以外には何の使い道もない粗大ゴミと化しているわけだが、それは自業自得だとも言えるわけで、自らがゴミと見なした物事に周囲を取り囲まれて、そんなゴミ屋敷の中でゴミと格闘する毎日を送っているわけだから、自らもゴミにならないわけがないわけだが、しかもそういう人たちの活動というのが言葉を使ってひたすら何がゴミであるかを名指しする作業となるわけで、彼らが否定する対象はそれが人であっても物であっても情報であってもそれらのことごとくがゴミと化すのはもちろんのこと、逆に彼らが賞賛する対象というのも、その賞賛の仕方が他の人たちにはことごとく不快に感じられるから、他の人たちにとってのゴミ扱いされる人や物や情報を賞賛しているように感じられるのであり、そうやって言葉で示される物事の何もかもをゴミ化する能力が彼らには備わっているわけだから、もはや彼らの存在自体が有害この上ない毒物ように感じられてしまい、一刻も早く彼らを処分しないと世界全体がゴミとなってしまうような恐怖感が世の人々の間で蔓延しているのかも知れないが、それを恐怖感と認識してしまうと何か違和感が伴ってくるわけで、例えばゴミがそこいら中に散らかっている環境で生息しているゴキブリに恐怖感を覚えるかといえば、人によっては恐怖感を抱くかも知れないが、大抵の人はまずはゴミを片付けて清潔な環境にしないとゴキブリも駆除できないと考えるだろうし、環境を清潔に保つには日頃の掃除を怠らないことが重要であり、それが面倒に思われても定期的に掃除を繰り返していれば自然とゴキブリもいなくなるだろうし、そうであるならそこで優先すべきことは、まずは掃除をやることであり、掃除して身の回りの環境を清潔に保っていれば自然とゴキブリも寄りつかなくなるはずだが、逆に食い散らかした残飯などをそのまま放置してしまうと途端に臭いを嗅ぎつけてゴキブリが寄り集まってくるだろうし、そういった残飯の宝庫がネットメディアでもあるわけだが、それらの何が残飯と見なされるのかというと、汚い言葉でレッテル貼りした映像や画像や音声や文章などの断片であり、そうしたゴミ情報が至る所に大量に食い散らかっているわけで、それはゴキブリたちが仲間を増やすためにわざと食い散らかしているのかも知れないが、それらをメディアの管理者たちが掃除する気があるかというと、彼らにとってもそうした汚い残飯が飯の種でもあり、そんな環境の中でネットメディアが腐臭を放つ残飯を糧にして成長してきたわけで、そういう意味ではネットメディア自体が巨大なゴミ情報の集積場であるとも言えるのかも知れず、そこでゴキブリたちが大量繁殖してしまうのもうなずけるわけだが、それらの大量のゴミ情報をどう処理すればいいのかといえば、それが現状では解決困難なゴミ問題となっているのかも知れないが、そういう危機的な認識自体が杞憂に過ぎないのかも知れないし、放っておいても自浄努力が働いて次第にゴキブリの大量繁殖も収まって行き、それが一時的で一過性の現象に過ぎなかったことが明らかとなる日も近いのかも知れないが、そうであるとしても現状を否定的に捉えるのが妥当に思われることに変わりはないわけで、否定的に捉えると何かと都合が良いのかも知れず、それらの人たちをゴキブリと見なすことで復讐心を満足させている可能性もあるわけで、それ自体が誰が仕掛けたわけでもない罠にかかっていることになるかも知れないし、そんな罠から逃れるにはそもそも現状を否定的に捉えてしまうのをやめる必要があるのかも知れないが、実際に否定的な感情を催すように仕向けられているわけだから、素直な感情の発露として不快に感じられてしまうわけで、自然にそうなるのは仕方がないとしても、そこからどうやって挽回すればいいのかとなると、無理に挽回しようとしなくてもかまわないのかも知れないし、否定的な感情を抱くとすればそれはそのまま放置しておけばよく、その代わりに何かをやるとかいうのでもなく、それはそういうものだと受け取っておけばいいのかも知れず、そこから気を利かせてゴミとかゴキブリとかこれ見よがしな比喩をひねり出す必要もなく、そのままの状況の中で他から気を惹くようなそぶりも見せずに、状況について差し障りのない言葉を用いて淡々と語ればいいのかも知れないが、それが嫌なら語らなくてもかまわないだろうし、無理に語る必要はないわけだが、では他に何かやることがあるのかといえば、ただ自らが直面している事態と対峙すればいいのかも知れず、対峙しているだけで何かやるべきことが思いつけばそれをやればいいわけだが、何も思いつかなければ何もしなくてもかまわないのかも知れず、取り立ててやることがなければそのままになってしまうわけで、そのままになってしまうことが良くも悪くも現状の全てではないとしても、現状でできることというのがそのままの状態でできることであり、それ以外の立場や境遇に身を移す必要も置く必要もなく、現状の状態でできることをやればいいわけだが、それ以外のことをやろうとすれば現状を無視した勝手な妄想を抱くしかないのかも知れず、そうしたいと思うことが現状からの逃避を意味するとしても、現状を否定的に捉えている限りで絶えずそうしたいという誘惑に直面してしまうわけで、だからといってそんな誘惑に応じるのか逆らうのかという二者択一を迫られているわけでもないだろうし、そうした誘惑をはねのける必要もなく受け流しておけばいいのかも知れず、受け流せなければ誘惑を屈してしまってもかまわないだろうが、誘惑に屈したところで身勝手な妄想を抱くことしかできなければたかが知れていて、どう見ても大したことは何もやっていないように思われるなら、その程度の現状でしかないことになってしまうのではないか。


7月19日「臨機応変な対応」

 何をやるにもその場で勘が働いたり機転を利かせることができれば、何かうまくいったように思われるわけだが、なぜそうなるかはわからなくても良い感触というのがあり、それが思い違いや勘違いでなければ実際にもうまくいったことになるのだろうし、さらにそれが臨機応変な対応になればその場の状況や情勢にもうまく合ったことがやれたわけで、何事もそうなるに越したことはないとしても、大抵はそうはいかないだろうし、何か思い通りには事が運ばないと齟齬感や焦燥感などの悪い感触がついて回るわけだが、そこでその場の状況や情勢には合わないようなことをやっていれば、当然のことのようにそういう感触を抱くだろうし、そんな抵抗感の類いがこのままではまずいと思わせるわけだが、それでも何とかそんなことをやれる可能性を模索していけば、たまたま何かの巡り合わせから他の行為や活動などとかみ合うことで悪い成り行きが好転することもあるわけで、それが偶然にそうなったのか必然的な巡り合わせなのかは、その場では判断しかねるところかも知れないが、そんな成り行きになって無理に思われていたことができるようになることもあるだろうし、さらにそのままの形では無理だが、他の行為や活動との間ですり合わせをおこなえば、多少の妥協は強いられるとしてもできなかったことができるようになることもあるのかも知れず、そういう成り行きも臨機応変な対応に含まれるわけだが、だからといっていくらでも柔軟になれるわけでもなく、どうやっても譲れない点が出てくるわけで、そういうところで他との間で折り合いがつかずに交渉や取引が物別れに終わってしまえば、結局はうまくいかないままとなってしまうことも結構あるにしても、そのどうやっても譲れない点というのが金銭的な利害などであったらわかりやすいだろうが、そうではなく何か他人には理解しがたいような当人に特有なこだわりであったりすると、頭がおかしいのではないかと思われたりもして、そうなればうまくいかない原因がその人の他からみればわけのわからないこだわりであることがはっきりするかも知れないが、そうでなければうまくいかないままで終わりたくなければ、臨機応変に柔軟な対応を心がけて、できるだけ他と折り合うやり方を模索することになるのかも知れず、そうやって自分勝手なやり方を修正しつつ、他との協力や連携などを模索しながら活動していけば、自ずから道が開けてくるかも知れないが、他の人たちも当然の成り行きとしてそんなことをやっている中で自身も活動しているわけだから、そういう経緯を考慮するならやっていることがうまくいくとかいかないとかは、どちらであってもありふれたことであり、やっている当人にとってはうまくいかなければ重大で深刻なことになるとしても、他の人たちにとってはそんなのは世の中ではありふれたことであり、他人の失敗にそれほど同情できないどころか、その人に対して日頃から良い感情を持っていなければ、ざまあみろと思うかも知れないし、しかもそのざまあみろという言語表現をメディアなどで大っぴらにひけらかすような輩は、世間的にみれば嫌な奴だと思われて当然ことをやっているわけで、またそんな不快なひけらかしに共感したり一緒になってそんなことをやっている人たちがまともな神経の持ち主だとは思われないのも普通の反応だろうが、それが普通でないように思われるとしたら、何か感覚や感情に狂いが生じていることにはなるだろうし、そういうところで世間の一般常識に自らの感覚や感情がとらわれていることに気づくかも知れないが、少なくともメディア上でざまあみろと言い放つようなことをやった人がまっとうな大人だとは思われないし、だからといってそんな人が逆に叩かれることもあまりないのかも知れないし、所詮はそれもその程度の無視できるような些細なことでしかないわけだが、では無視できないような重大で深刻に思われるようなこととは何かと言えば、それが多くの人たちが現実に取り組んでいることになるだろうし、意外にそれがそういった他人の失敗につけ込んで攻撃を仕掛けるような行為に対する批判の延長上で起こっていることかも知れないし、無視できるような些細なことの延長上に無視できない重大で深刻に思われるようなことが生じているのかも知れないが、一方でそれは程度の問題でもあり、それとこれとを区別して一方は無視しておいて、もう一方は無視できないことだと強調できるかとなると、そうやって関連付けるとどちらも無視できなくなってきて、それを許容できる程度や傾向や内容などによって区別することに疑問を感じると共に、全てを一緒くたに考えてしまいがちになるかも知れないが、実際にそうなってそんな成り行きが何かをきっかけにして一時的にメディアを通じて盛り上がっても、長期間にわたってそれが持続することはなく、時が経って興奮や高揚状態が沈静化して、またいつものようにそれとこれとを区別するような通常の状態へと落ち着けば、それが世間的な意味でも普通の状態と言えるのだろうが、その普通の状態を無理に問題提起によって興奮状態へと持って行こうとするのではなく、普通の状態に対応したことができればうまくいくというか普通のままに状況が推移するわけだが、逆に何か突拍子もないようなことを言い放ったり強調するのとは違い、特に目立つようなことではなくてもじわじわと世の中に浸透するようなことを辛抱強くやっていければ、いつの間にかそういうことをやるのが普通に思われてくるのかも知れないし、それがどのようなことなのかが具体的に示されないと何もやりようがないかも知れないが、そんな何もやりようがない状態がうまくやるためには必要なことなのかも知れず、そういう意味では何もはっきりとはわからないようなことになってしまうが、取り立てて何をやる必要も感じられなければそうなるしかなく、普通にそう思われることが、逆に絶えず問題を提起したがる人からすれば歯がゆく感じられて、やらなければならないことが山積みになっていて、そうした山積している問題が全く手をつけられずに放置されていることが一番の問題なのであり、それをさっさとやることが今求められている最も重要なことだと主張できるわけだが、要するに主張する気になればそんな主張が安易にできるわけで、実際にそんな主張が事ある度に主張されている実態もあるのかも知れないが、なぜ主張されているのかと言えば、何もやらないことの言い訳として主張されている可能性もあるわけで、実際に何もおこなわれていないというのは誤った認識であり、通常の動作としてはやれる限りで全てのことがおこなわれていて、その上で何もおこなわれていないと主張されていれば、それも通常の動作としてそんな主張がされていて、すでにそうなっているだけでも過剰な何かが主張されているわけで、その過剰な何かというのが、通常の動作では満足できないからもっと他にやるべきことがあるだろうという思いであり、それがそんなことを主張する人がやりたいことなのかも知れないが、主張している時点ではそれがおこなわれていないわけで、しかもそれがおこなわれるめどさえ立っていないから、そんなことをやりたいしやるべきだとアピールするわけで、実際にはそうしたアピールが他にもいくらでもされていて、そんな主張するだけの人たちもいくらでもいて、さらにいくらでも主張されても放置されているような状況となっていれば、確かにそこに問題があって、主張の数だけ問題を伴っていれば、それだけ問題が山積していることになるわけで、そしてそれらに全く手がつけられていないとすればそうした主張が主張されるだけに留まっていて、そこから進展が全くないことにもなり、そうなると確かにやるべきことがいくらでもあることになるだろうが、そのやるべきことが実行されていない状態が通常の状態であれば、別にやるべきことがおこなわれていなくてもかまわないような状態となっているわけで、そんな状況から言えることは、やるべきことをやろうとしない代わりにやらなくてもいいことをやっている人や勢力やその支持者たちが、やるべきことをやれと主張したり実際にやるべきことをやろうとしてうまくいっていない人や勢力に対して、ざまあみろと嘲ったり罵ったりして笑い物にしようとしているのかも知れないが、そもそもやるべきことをやろうとする人や勢力の妨害をしているのが、やるべきことをやろうとしないばかりか逆にやらなくてもいいことを積極的にやっている人や勢力やその支持者たちなのだから、ざまあみろと嘲ったり罵ったり笑い物にしようとしていること自体が妨害工作であり、それだけでもやるべきことをやらせないようにしていることになり、確かにそれらの人たちにとっては、自分たちがやらなくてもいいことまでやっている都合上、やるべきことをやれと主張している人たちが実際にやるべきをやろうとしてやってしまうのはまずいし、当然それを妨害する成り行きになるわけだが、果たして妨害することがその人たちにとってのやるべきことなのかと言えば、それらの人たちには当然そう思われるとしても、そんなふうになりふり構わずやっていること自体が、世間的にはそういう人たちがそういうことをやっている人たちとして認識されることになるわけで、もしかしたらそれらの人たちが世間から良く思われたいと勘違いしているとすれば、そうした勘違いに応じたやるべきこととしてそういうことをやるのが妥当に思われてくるとしても、確かにそれがそれらの人たちにとって世の中の状況や情勢に応じた臨機応変な対応となるわけだが、それを見ている世間の人たちがそんな行為をどう思っているかとなると、一部の勘違いな人たちを除いて大抵の人たちには不快に感じられるだろうし、実際に良くは思われないような行為をやっているわけだが、現状ではそれが許されて放置されているとしても、そうした野放しの放置状態が今後いつまで続くかは現時点では何とも言えないところではあるわけだ。


7月18日「偏向した解釈と認識」

 物事の解釈に関するイデオロギー的な側面がそれを受け取る人の意識を偏った認識へと導いていて、ある程度はそういった面を強調しないと物事に関する解釈が成り立たないとしても、それをそのまま真に受けると認識が特定の傾向へと偏ってしまうわけで、解釈としてはその人の主義主張を解釈の中に盛り込みたいからそうするわけだが、そういう面があることを考慮しながらその手の解釈を受け止めておかないと、そういう解釈を真に受けてそれに賛同するにしてもそれに反発するにしても、解釈自体にそういった成り行きへと誘導してそれに対する賛否の対立をもたらして、論争を誘発させる意図や思惑が含まれていることも理解しておくべきで、そういった効果を狙ってこれ見よがしに偏向した解釈を提示するようなことをメディア上で仕掛けていて、そうなってしまうことを承知の上であえてそれに引っかかって騒ぎ立てるような倒錯的な戦略もあるにしても、普通はそういった煽動行為には引っかからないように気をつけるのが一般的な対応となるだろうが、物事の解釈に含まれているのはそういう面ばかりではなく、解釈者の意図や思惑を外れたところで解釈の真実があらわになっている場合もあるだろうし、それを解釈の中に探し出すということよりは、そんな解釈をもたらす物事に関する認識がどうやって生じるのかを考えるべきで、その人がかかわっている専門領域に関する都合ばかりが反映した内容であればそこに職業的な利害が意識されていて、功利的な思惑からそんなことをやっていると解釈しておけばよく、それを意識しているようには感じられなくてもそういう態度が身についている場合もあり、そういう傾向を伴いながら一方的に特定の対象を批判するようなことをやっていれば、イデオロギーというよりは体質としてそういう態度が身についていると解釈するしかないわけだが、そういう体質がどうやって身につくのかといえば、自身の活動を優先させるために物事の解釈を利用するように訓練されていることになるだろうし、それはそうなるのが当然のことのように思われるとしても、では自身の活動から離れて物事を解釈することが可能なのかといえば、可能だとしてもそれは素人としての解釈であり、その方面の専門家としての解釈より素人の解釈の方が勝るとは普通は思えないだろうが、自身の専門分野に忖度するような面を考慮するなら素人的な解釈の方が信用できる面もあるだろうし、そういう面での良し悪しを云々するというよりは、ただそういう面があると認識しておけばいいわけで、専門家だから専門分野での解釈を信用できるということではなく、それが専門の分野であっても述べていることを全面的には信用できない面もあるということであり、政治学者が政治家になったからといって、政治学者だからその主張が信用できるわけではないし、経済学者の経済政策が信用できるかと問われても、それが政権に都合の良いように忖度されたものなら、少なくともそういう面は信用できないだろうし、核物理学者がいかに原発が安全であるかを力説しようと、原発の設計や建築に不備がある場合もあるし、一級建築士が耐震偽装に関与しているような事例もあったわけで、土木の専門家がダムの必要性を力説しても、それが治水全般にわたって考えているのかといえば、そういう面では素人であったりして、もちろん治水の全般にわたって専門的に研究している人であっても、それを特定の政治勢力を批判するために自身の専門的な知識を利用していれば、本人にその自覚がなくても、それが功利的な思惑からそういう批判をおこなっていることになるだろうし、それが功利的な思惑ではなく政治的な思惑からそういう批判をおこなっているとしても、そういう方面での専門知識が党派的な利害に結びついてしまうところが信用できないわけで、そこから特定の党派だから信用できて特定の党派だから信用できないという決めつけがどの程度信用できるのかというと、特定の人だから信用できて特定の人だから信用できないと決めつけるのが普通の成り行きなのだが、その信用できないと決めつける判断が、信用できない党派に関するレッテル貼り的なイデオロギーにも依存していて、事前にそういう印象を抱いてから、だから信用できないと決めつけて、その理由を後付け的に何か否定的な出来事が起こる度に、そら見たことかと付け足してくるというやり方になってしまい、そうやって自らの決めつけを補強しながら自らの判断を正当化したいわけで、そんな正当化に賛同する人もそれを批判する人も、そういうことを利用して敵対する勢力と対立して争うためのゲームに参加しているような成り行きの中に生息しているわけだから、そういうところでおこなわれている政治ゲームが、いったい誰のためにそんなことをやっているのかとなると、意外と誰のためでもないのかも知れず、何のためでも誰のためでもなく、何か世の中でメディアなどから影響を受けて政治的な問題に関心を抱くと、自然とそんなゲームに引き寄せられて参加させられてしまうのかも知れないが、それらの人たちがそんなゲームに参加してそこで争っても何がどうなるわけでもなく、メディアという舞台上で各々に割り当てられた役柄を演じているに過ぎないことかも知れないが、それが興味深いかというとたぶん興味深い出来事なのだろうが、そんなことをやっても何がどうなるわけでもないと思ってしまうのは、そんな政治ゲームを包み込んでいる現象がその中で争っている人たちにはどうにもできない現象だからであり、その現象をどうにかしない限りは政治ゲームもどうにもならないのかといえば、少なくともゲームに勝とうとしては駄目なのかもしれず、そこで勝ってしまうとゲームを運営する側に回ってしまって、そうなるとますますゲームから抜け出られなくなってしまうから、ではゲームの中では負け続けていれば良いのかというと、たぶんそれでもかまわないのだろうが、それでもゲームから抜け出ることはできないだろうし、負けたからといってどうにかなるわけでもなく、そこでどうにかなるということがゲームを運営する側に回ることであれば、そうなってもどうにもならなければそこで堂々巡りを繰り返すばかりとなってしまうが、そんなゲームから抜け出る必要があるのかといえば、そういうわけでもないだろうし、たとえそういう人たちがそういう成り行きに取り込まれたままとなってしまったとしても、他の人たちがわざわざゲームに介入して助ける必要もなく、ならばゲームそのものを壊せばいいのかというと、壊そうとして壊れるものでもなく、壊すよりはむしろゲームを維持継続させようとしていて、誰もがゲームが壊れないように配慮していて、できればいつまでもゲームが続いていってほしいとも願っているのかも知れないが、誰もがそう願うからゲームが続いているというわけでもなく、むしろそれをゲームだと認識しては駄目かもしれず、確かにそこで政治が権力ゲームとして成り立っている面があるとしても、それだけではないことに目を向ける必要があり、ゲームとして成り立っている面にばかり目を向けて争っているだけでは物事が前に進まないのであり、敵と戦うのではなく絶えず何かをやるように働きかけなければならないわけで、その何かというのが政治を利用して実現させたいことになるわけだが、現実にはその実現させたい何かとは別の何かが実現してしまうわけで、結果的にそうなってしまうことが政治的な行為や活動の帰結としての結果をもたらしているわけだが、そうした成り行きから生じる結果を受け入れられるかというと、当然受け入れられないからそれに対して批判しなければならなくなるのだろうが、批判することも批判そのものも政治ゲームの中でそんなことがおこなわれていて、何かそこで敵対する勢力同士が争っていることになってしまうわけだが、そういった争いが実現させたい何かを実現させることに結びつくかといえば、なかなかそうはならないわけで、だから結局そうならない原因を争っている相手のせいにしてしまい、そうなるとますます争いに拍車がかかってしまうわけだが、そんなことをやっているうちに争うこと自体が目的化してしまって、本来の実現させるための活動が脇に押しやられて、そうやって何もできないまま無駄に時が経ってから、誰かが過去を振り返ってみれば、何かどうでもいいような人たちが大勢で権力ゲームに参加して、そこでどうでもいいようなことを巡ってひたすら争っていたことが明らかとなるのかも知れず、今ある現状がまさにその最中であったりもして、何やら敵と味方に分かれてその中で誰が信用できるだのできないだのと人物評価をしている人々の全てが、未来の人々からみればそのことごとくがどうでもいいような人たちばかりであり、そんなゲームに参加して争っていること自体がその人がどうでもいい人であることの証しとなっているような事態となっていれば、では参加しなければいいのかというとそうではないわけで、そこに参加している人たちにはそこから逃れられる可能性がないから否応なく参加させられてしまっているのかも知れず、そうであればそれらの人たちにはそこで争わない可能性などあり得ないことになるだろうし、すでにそこに参加して争っていること自体が、もはや後戻りができない状態となっていることの証しとなっているわけで、ゲームをやっている最中の人にやめろと言っても聞き入れられないのは当然ことなのだから、それはそれでどうしようもない成り行きなのではないか。


7月17日「事情と経緯」

 権力関係は人が集団で活動すればどこでも生じるものだろうが、そうなることを受け入れた上でどのように振る舞うべきかと考えても、振る舞い方などその場の事情や経緯から限定されてしまって、勝手に考えた通りに振る舞えるわけでもなく、また人間関係は権力関係ばかりに拘束されてしまうわけでもないだろうが、その場でそういう関係が生じてしまえばそういうものだと思うしかないのかも知れないし、そうなるのが嫌だから意識してそこから逃れようとしなくても、関係が不快なものなら自然と関係を解消しようとする気になるだろうが、そこでもそうなってしまった事情や経緯から、嫌でもなかなか解消できない場合もあるだろうし、どうなるにしてもなかなか思い通りに行かないのはわかりきったことかも知れないが、そうならないように工夫することはできるだろうし、そういう関係が嫌なら事情が許す限りでなるべく嫌な関係にならないように持って行こうとするだろうが、それもその場の事情やそうなった経緯に左右されてうまくいったりいかなかったりするわけで、それもそういうものだと思うしかないだろうし、どうなるにしても何らかの状況や状態となって、それが不快である面とそうではない面とが混じり合った状況や状態にはなるにしても、そんな状態を伴って生きていく成り行きの中で、いつまでもそのままの状況や状態のままに推移させておくわけでもなく、不快なら絶えずそれを何とかしようとするだろうし、その何とかしようとする根気が続く限りは何とかしようとはするわけで、それによって何がどうなるわけでもなくてもそんなことをやっていればやっているだけ時間が経過して、経過した分だけ経験が積み重なって、その経験が裏付けとなってやっていることがうまくいけば自信につながるだろうし、うまくいかなければさらに試行錯誤を繰り返すしかないが、そこで絶えず工夫を凝らせば、工夫を凝らした分だけ何とかなればいいが、そうは都合良くいかないにしてもやれる限りでやればいいということにはなるが、具体的に何をどうやるかもその場で生じている事情やそうなるまでに生じている経緯からやれることが限られてくるだろうし、どうなるにしてもその場の状況や状態に依存したことがおこなわれるしかないが、個人的な事情や経緯がその人にとっては重大で深刻なことに思われるとしても、他の人にとってはその人とのかかわり具合によって程度や傾向も変わってくるだろうし、それはその人がかかわっている団体などにも言えることでもあり、他の人や団体にも特有な事情や経緯があるのもわかりきったことだとしても、それらの事情や経緯が複雑に絡み合い作用や影響を及ぼし合ってその場に特有な状況や状態を構成していて、その中で各々が当事者的な事情や経緯から制約や制限を受けながら活動するわけだから、当人には都合が良くても他の人には都合が悪いことがおこなわれてしまう可能性が充分にあるし、そんなところから快不快の感情が生じてきて、それが他人や他の団体との間で争いや仲違いをもたらすこともあるだろうが、もちろんそこに現実の利害関係も絡んでくるわけで、そういうところでそこに絡んでくる他からの作用や影響や利害に関係する物事などをうまく交通整理して、自らがそれを利用したり他からも利用されたりしているうちにも、その場の状況や状態がそれなりに変わってくるのかも知れず、それが自らにとって良い変化なのか悪い変化なのか、またそれが他の人や団体にとってはどうなのかも、そこにかかわってくる各々の人や団体で違ってくるかも知れないし、それも良い面と悪い面とが入り交じっているのが普通の状態だろうが、そんな状況や状態の中で何かしらそこにかかわっている限りで、傍観者や部外者気取りで高みの見物をするような立場にはなれないし、少なくとも当事者意識を抱きながらそこに介入しようとするのだろうが、介入の仕方にもその人の事情やそこに至る経緯が絡んできて、勝手に思い通りのことはできないだろうし、他の人や団体との絡みの中で様々な制約や制限を受けながら何かをやろうとするのだろうが、また他から何かをやるように誘導されてしまったり、そうするように仕向けられてしまう場合もあるわけだが、その際には他の人や団体のやっていることを把握できれば、それらと比較して自らのやっていることがどうなのかを判断したり評価できるだろうし、例えばそこで他の人や団体と同じようなことをやっていれば、それらの人や団体などと共に同じような傾向にとらわれていることになるし、他の人や団体とのかかわりの中で何かをやっていれば自然とそういう傾向になってしまうわけだが、それとは違うことをやろうとすれば当然自身とかかわっている人や団体から何らかの反応が起こるわけで、それが対立や争いを招くか、支持や賞賛などの肯定的な反応になるかは、それらの人や団体などとの関係の内容や程度や傾向などによっても左右されるだろうが、どうなるにしてもそれらの人や団体や自身を取り巻いている状況や状態の範囲内で生じている制限や制約を受けながらやることになるわけだから、そうしたところから逸脱するようなことをやればやるほど困難を伴うだろうし、それに応じてそれらの人や団体からの抵抗や反発なども強まってくるかも知れないが、何かの機会を捉えてできてしまう場合もあるだろうから、一概にそれが無理だとは言えないのかも知れないが、それをやろうとすること自体も自身を取り巻いている状況や状態から様々な作用や影響を及ぼされながら、それをやるように仕向けられてしまう成り行きの中でそれをやろうとしてしまう場合があるわけだから、自身がとらわれている成り行きから逸脱するようなことをやろうとしているとは必ずしも言えないのかも知れないし、どうやっても現状の中でやれる可能性のあることをやろうとしているわけで、自身がそんなことをやろうとしていて、それにかかわってくる人や団体が存在する限りで、それらの人や団体から何らかの反応が起こるだろうし、その反応がやろうとしていることに対する抵抗や反発であったり支持や賛同であれば、それなりにそれらの人や団体から相手にされていることになるだろうが、無視されるようなら相手にされていないということであり、相手にしたくないから無視する場合もあるのだろうが、どうなるにしてもやろうとしていることが結果的にそれなりの紆余曲折を伴うとしても結果的にできるような成り行きになれば、そういうことが可能な状況や状態の中でそういうことをやる成り行きになるだろうし、またそれをやるような事情や経緯も生じているからそれをやる成り行きにもなっているわけで、そうであれば別にその場の状況や状態から逸脱するようなことをやろうとしているわけでもなく、その場で可能なことというのが一つではなく複数のことができる可能性があって、その中の一つかいくつかをやろうとしていて、実際にそれらをやろうとしたりやっている途中で、そのやっている当事者にかかわってくる他の人や団体から何らかの反応が起こり、その反応の内容や程度や傾向によってもやろうとしていることややっていることがそれなりの作用や影響を及ぼされて、それに応じて何らかの変容や変化を被ってしまう場合もあるかも知れないが、それもその場の状況や状態にかかわってくることであり、そんなことも含んでその場の状況や状態が成り立っているわけだから、また成り立たなくなれば過渡的な変化の途上にあるわけで、そこから定常状態へと至るかさらに流動的に物事が推移していくのかも、その場の状況や状態に応じてそうなっていくのだろうし、そうした中で生じている当事者のこだわりや行為の結果としてもたらされる状況や状態などについてどう受け止めるにしても、それとの関わり合いの中で受け止めるしかなく、それが肯定的な受け止め方であっても否定的な受け止め方であっても、そこからそういう受け止め方をしている人の立場や姿勢や傾向などがうかがい知れるだろうし、またそういう受け止め方をしている人と自身の受け止め方との間で何らかの差異があれば、それがそれに対する立場や考え方や捉え方の違いとなるわけだが、そうであるならそういうことの範疇でそれらの差異や違いもそういうことだと受け止めておけばいいわけで、それに対して反感や反発の感情を抱いて実際に批判したり攻撃するにしても、逆に共感して支持や協力するにしても、あるいは下手にかかわると面倒なことになりそうだから我関せずの態度をとるにしても、それもそう仕向けるような成り行きの中で他から何らかの誘導を受けながらそうなってしまう可能性があるわけだから、自主的かつ積極的にそうしようとしていると思っても、そうすることが全面的に自発的なことだとは思わない方が良いのかも知れないし、自身の置かれた状況や状態が他から切り離されてあるわけではないし、無理に切り離そうとしても切り離せないような時空のつながりの中に自らが存在していると捉えるなら、どんなに孤独を感じていてもそう感じさせるように仕向ける作用や影響が他から及ぼされていて、それが自身の内面から湧き出てくるような感覚を覚えるかも知れないが、そんな内面自体も他者との関係の中で生じていたりもして、その他者というのが特定の他者ではなく世間という姿形のない虚構であるかも知れないし、そういうところで何かそれらしいことを思うような成り行きが生じていれば、そう思うように外部から作用や影響が及ぼされている可能性があるわけだ。


7月16日「批判の有効活用」

 自らが信用できる物事というのが、それを信用してしまうのが誤りとなってしまう場合もあるかも知れないが、たとえ結果としてそれが誤りとなってしまっても信用できるかといえば、普通は信用できなくなってしまうわけだが、ある面では合理的に考えても誤りだと思われる物事を信用してしまう場合もあり、そういうところが腑に落ちないわけだが、ここは自らの判断を信用しておくべきと思われるなら、たとえそうすることが誤っているように思われるとしても、自らの判断を信用せざるを得なくなるわけで、信用できる理由が定かでなくても信用してしまうわけだからそんなのはおかしいはずだが、おかしいの承知の上で信用してしまうわけだから、信用すること自体が判断を誤っているわけだが、なぜか誤ってしまってもかまわない場合があるわけで、そこで判断を誤らないとまずいわけでもなく、むしろ正しい判断に基づいて正しいことをやることが合理的なやり方に思われるわけだが、たぶんそういうわかりやすい成り行きにはなっていないのかも知れず、そういう意味で何事においても判断の正しさや行為の正しさを優先する必要はなく、時には誤った判断に基づいて余計なことをやってしまって痛い目に遭わないとわからないこともあるわけで、そういう回り道を経ないとたどり着けない境地もあるのかも知れないが、そんなことをやっている人や団体の誤りを指摘するのは容易なことであり、実際に誰もが簡単に指摘できる誤りを指摘しながらそんなことをやっている人や団体を批判するようなことがおこなわれているわけで、しかもそういった指摘の中で持ち出されるのが極端な例であったりすると、それと比べて大したことはやっていなければ、そうした指摘自体が大げさすぎてリアリティを感じられないわけで、それが日本だと政府の誤りを指摘するのに持ち出される例というのが、何でもかんでも戦時中のインパール作戦が持ち出されたりもするわけで、批判する側はそうした批判をしながら悦に入ることができるかも知れないが、それを受け止める側がまたかよとしか思えなければ、そうした批判は紋切り型以外では有効な作用は及ぼしていないことにもなるわけだが、しかもそれでかまわないような状況になっているとすれば、そうやって批判される側の天下であったりもするわけで、戦時中のインパール作戦と同じことをやっていると指摘されているのに、平然とそれがおこなわれているとすれば、それをやっている側が誤っているにもかかわらず、それでかまわないような状況がもたらされていることにもなるわけで、やっていることが失敗に終わってもかまわないようなことがおこなわれていて、失敗に終わるようなことをおこなっている側の天下となっていれば、それが戦時中のインパール作戦と同じことだと指摘している側の指摘がたとえ正しくても、そんなことは世の中の情勢に大した影響は与えていないような結果がもたらされていて、要するにそうした指摘や批判も織り込み済みのものとして情勢が推移しているわけだが、それがどういうことなのかといえば、そんなことと共にそれに対する批判も含めてありふれたことがおこなわれていてありふれたことが起こっているというありふれた状況となっているわけで、そうやってありふれた世の中がもたらされているわけだが、世の中の全ての面でそうなっているわけでもないだろうし、中にはそうではない面ももたらされていて、それが安易なたとえを用いた批判など受け付けないような面なのかも知れないし、そこに物事の本質にかかわるような面が現れているのかも知れないが、それがどのような面なのかといえば、そこでは紋切り型の批判では太刀打ちできないようなことが起こっているのかも知れないし、その手の批判では語られないようなことが起こっているのかも知れないが、何が起こっているのかといえばこれまでにないことが起こっているから、それを過去の事例ではたとえようがないわけで、それが世界的な事態の共有化であり、世界が同時に同じ事態に直面していて、それが国内だけで通用するたとえ話では形容のできない事態でもあり、これまでに国内だけで通用するたとえ話を用いて政府を批判してきた人には対処できないようなことが起こっているのかも知れないが、対処できなければ対処しなければいいということにはならないだろうし、それに気づいていなくても否応なく対処せざるを得なくなるのかも知れず、実際に対処しているのだろうが、それがどのような対処なのかといえば、世界で起こっていることを都合良く解釈するという対処であり、それも相変わらず攻撃対象や批判対象を定めて叩くような従来からおこなわれてきたことを世界規模で実践しているだけで、その際にも過去の事例との比喩的な類似が指摘されているわけだが、そこでもそういうことに目を奪われている一方で肝心なところを見逃しているわけで、その肝心なところとは何かといえば、それがこれまでにはなかった傾向であり、新たに起こっている世界的な現象に起因して起こっていることでもあるわけだが、それが世界的だからといって事態を大げさに捉える必要はなく、身近に起こっている取るに足らない些細なことかも知れず、それが見逃されがちなところでもあるのかも知れないが、それが単なるメディア的な情報の共有と理解すれば済んでしまうようなことでもあるだろうし、世界同時進行で人々が同じようなことに興味を抱いて同じようなことをやっていることが、どうということはない日常の光景を映し出しているメディアを通じてわかってしまうことでもあるのかも知れないが、そんな世界同時現象の一例を挙げるなら、なぜか世界中で機械の修理がおこなわれていて、その中でも特に自動車の修理にはまっている人が修理している自らの姿を動画に撮って伝えようとしていて、自分で修理して自分好みに改造して修理し終わった車を運転する姿を見せびらかしているわけで、それが取り立ててどうということはないのだが、自分勝手な趣味の世界で取り組んでいることに至上の喜びを見出しているようにも見えるだろうし、何かそうやって世界情勢から目を背けているように見えて、多くの人たちが世界中でそんなことをやっているのだからそれが世界情勢の一端を垣間見させているようにも感じられるだろうし、そんなことをやっていること自体が世界情勢の一部を構成しているわけだから、世界情勢の中には国と国との争いの他にもそういう面もあるということでもあり、国と国との争いという従来からメディアで取り上げられている紋切り型的な世界情勢に目を奪われている人たちは、そういうことにはあまり興味が湧かないだろうし、たとえそれを目にしたところでそれが世界情勢の一端を示しているとも思わないだろうが、かたや飢餓や貧困に苦しんでいる人が大勢いる一方で、テロや内戦で荒廃している地域もある一方で、世界的なパンデミックで大騒ぎしているのに、また中国とアメリカの戦争に世界中が巻き込まれようとしているのに、なぜかそんなことには目もくれずに自動車を修理し続けている人もいるわけで、そんな対比自体が意味のないことであり、それがどうしたわけでもないのだろうが、世界の主要メディアが世界中の人々に目を向けさせようとしていることとは無関係かも知れないが、そういった傾向に逆らっているわけでもないのに、その一方でそんなことをやっている人たちも大勢いて、自動車を修理することが自己アピールの手段になっているようにも見えるだろうが、ただ単に好きなことをやっているだけで、それらの人たちにとってはそれがもっとも優先すべきことであり、メディアを通じてそれを見ている人にとっては、何かのついでに気晴らしに見ている程度のことでしかなくても、その気晴らしの延長上で世界の政治情勢や経済情勢などについて考えているわけでもないが、それとこれとは別物であり同列に扱うようなことだとは思えないだろうが、やっていることに対する並々ならぬ熱意が伝わってくれば、それが他の何にも増して優先させるべきことであるようにも感じられてくるのかも知れず、実際にその人が公的な政治や経済や行政などに無関心であっても、その人のやっていることが普通にやれている限りで他に何の不自由も不都合も感じていなければ、それで済んでしまうような成り行きの中で活動している限りで、公的な政治や経済や行政などの情勢には無関心であっても済んでしまうようなことになってしまうのかも知れず、しかもそれが単なる趣味であるだけなく職業として成り立つような仕事となっていれば、そういうことに熱心に取り組んでいれば他のことには無関心であってもかまわないように見えてしまうのかも知れず、実際にそうなってしまうことに危惧の念を抱いているプロスポーツ選手や音楽や俳優などを職業として著名人などが、政治的な発言を公の場で行うような成り行きになっているわけだが、自分たちも政治や経済や行政などに無関心でないことを積極的にアピールする背景には、そういうことを意識してしないと無関心であるように見えてしまい、それがそういったエンターテイメントなどの大衆娯楽を楽しむ一般大衆に悪影響を及ぼしてしまうことを肌で感じているから、殊更に公の場で政治姿勢や思想信条などを強調する傾向になるのだろうが、それを一般大衆が理解しているかというと、中には理解している人もそれなりにいるだろうが、逆に余計なことをやるなと批判したり迷惑がる人も結構いるのではないか。


7月15日「時事的な話題」

 時事的な話題が直接何を意味するわけでもなく、それが物事の表面的な傾向でしかないとしても、世の中の表層で動いている物事以外に何があるのかといえば、他には何もないように感じられるなら、意識が物事の表層の動きにとらわれていることになるのかも知れず、そこから何が言えるかとなると、時事的な話題に関して何かそれらしいことが言えるかも知れないが、それに関して何も言えなければ特に言わなければいいのだろうし、そこから少し距離を置いて思考を働かせてみれば、何か見えてくるものがあるかも知れないが、それがありふれた光景でしかなければ、そのありふれた光景の中で言えることを言えばいいのだろうが、言うのではなく言葉を記しているのだから、何か言うのとは違う表現になっているわけだが、その内容が時事的な話題から離れている可能性もあり、結果的にはそれについて述べていることになってしまうものの、話題との間に一定の隔たりがないとそれを表現できず、それについて直接述べようとすると、なぜかそこから外れてしまい、それを直接話題にすることがおかしいわけではなく、むしろ直接述べようとしてしているのにそこから外れてしまうことの方がおかしいはずだが、外れてしまう方が自然の成り行きに感じられるようだと、やはりそれを直接話題にしてしまうことに何か違和感を感じているのかも知れず、しかもその違和感を利用しながら言説を構成しているのだから、それがそこから逃げていることになるのか、あるいは逆にそうなってしまうから、結果的にそれと真正面から向き合っていることになるのかは、その時点では何とも言えないところだが、そこから逃げずにそれと真正面から向き合ってしまうと、自然にそこから外れてしまうことになるとすれば、それがどういうことなのかよくわからなくなってしまうかも知れないが、少なくともそれについては語らずにおくことで、逆説的にそれについて語っていることになるわけでもないし、要するにそれについては何も語っていないことになってしまうのかも知れないが、実際にはそれと向き合っていて、それについて考えているわけで、それについて語ることには抵抗感を覚えるわけだが、なぜそうなってしまうのかその理由を思いつけるわけでもなく、理由など何もないわけではないとしても、そこから外れてしまう理由ならわかっているのかも知れず、それについて語るのがくだらないことだとは思わないが、それについて否定的に語りながら語っている対象を批判することも、逆にそれについて肯定的に語りながら語っている対象を支持したり擁護することも、それぞれにそれなりの正当性があるように感じられるだろうが、それを否定的に語れたり肯定的に語れるのだからそうなるのが当然のことになってしまうと、それだけではなくむしろ否定的に語っているのに、語っているうちにそうではない面が明らかになってきたり、また肯定的に語っているのに語っているうちにそうではない面も明らかになってきたりすることが、それほど当然のことではないように思われてしまうのかも知れず、そうなると物事の表面的な傾向から外れてくるようにも思われるわけで、だから時事的に話題についてはそれを否定的に語りながら語っている対象を批判するにしても、逆にそれを肯定的に語りながら語っている対象を支持したり擁護するにしても、それがそうなるのが当然のことのように思われてくるに従って、そこから外れてしまうような要素や要因の方に目が行ってしまい、その結果としてそれについての否定的な傾向や肯定的な傾向だけではなく、それを否定するのが当然のように思われたり肯定するのが当然のように思われたりすることに逆らう傾向があるように思われてきて、否定的な傾向にも肯定的な傾向にも判断が振り切れなくなってしまうわけだが、そういう成り行きに伴って物事の捉え方が以前とはどう変わってしまうのかといえば、否定か肯定かという二項対立的で平面的な捉え方ではなく、そうとは言い切れない代わりに他にも様々な傾向があるように思われてくれば、それが物事を立体的に捉えることにつながるのかも知れないし、そうなれば以前よりは少しはマシな物事の捉え方になったように感じられるのかも知れないが、だからといって物事を立体的に捉えられたとしても、それによって何がどうなるとも思えなければ、それによって何がどうなるわけでもないのかも知れないが、たぶん肯定と否定の二項対立では捉えきれない物事の傾向があるのかも知れず、それを否定的な傾向へと無理に物事を引き寄せて捉えたり、また肯定的な傾向へと無理に物事を引き寄せて捉えることが、偏った物事の捉え方であるように感じられるなら、それとは違う傾向で物事を捉えようとするのだろうが、それでも否定的な傾向も肯定的な傾向もあるだろうし、否定的な面を批判してもかまわないし、肯定的な面を支持したり擁護したりしてもかまわないわけだが、そこから外れたことを述べてもかまわないわけで、実際に否定的な傾向や肯定的な傾向に疑念を抱いているからそこから外れてしまうのかと言えば、そういうわけでもなく、ただ単に批判することや支持することや擁護することを避けているのかも知れず、そういう状態には留まりたくないわけで、それに関して何も言及しないわけでもないとしても、時事的な話題に関して何か述べることがあるわけだが、それも直接的な言及を避ける傾向もあるだろうし、その辺はわざと回りくどく間接的に述べるようにしてしまうわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、その場の傾向としてそういう話題と直接対峙するような成り行きにはなっていないわけで、それらとは全く関係のない方面で生きているわけではないとしても、それをうまく避けて通れるように振る舞っているつもりにもなれないが、自然と言説の対象から外れてしまうこともあるだろうし、こちらから意識して引き寄せようとしない限りで、向こうからも近寄ってこなければ、近寄ってこないから近づいていかなければ離れていられるだろうし、時事的な話題とはそういうことでしかないのかも知れないが、メディアで取り上げられる話題としてもその程度で済ませておけるような話題が取り上げられているかも知れず、それもそう受け止めておけば自然とこちらから近づいていく理由も生じないだろうし、そうなればそのまま受け流しておく状態を保っていられるかも知れず、本当に実態がそうなっているかどうかは怪しいところかも知れないが、嘘でも勘違いでもかまわないから、そう思ってしまうような成り行きが現状の中で生じているつもりになっていられるかも知れないが、そんな事態をそのまま受け止めようとしているのだろうし、普通に誰もがそんな心境に至れるわけでもないだろうが、それでも世の中の状況や情勢がその中で生きている人を自然にその外へと押し出してくれるような流れが生じていて、そういう力がそこで働いているとすれば、人がそこからどこへと押し出されていくのかといえば、取り立ててどこへということでもなければ、その人がしがみつこうとしている何かから離れるように押し出しているように思われるわけだが、その人が何にしがみつこうとしているのかは、その人が自分のうちに保持しておきたいと思っている何かであり、その何かが形をなさない何かであっても、何かそこにこだわっているような何かがあり、必死にしがみついているからそのしがみつき具合がそれなりの強度を伴ってその人にとってのこだわりに思われてしまい、そんなこだわりを基準として物事に対する否定や肯定の判断が生じてくるとすれば、なぜそこにしがみついているのかといえば、しがみつく理由や根拠として例えば社会正義などの倫理的な価値観や社会的な慣習などから生じる判断基準も持ち出されてくるかも知れないが、その人が社会の中で活動していると周囲の状況や情勢の変化や他人や他の団体とのかかわりの中で、それらに頼っているだけでは活動が成り立たないような事態となってくるのかも知れないし、そうなると自分がしがみついている何かから離れて、確固とした理由も根拠も定かでないような判断をせざるを得なくなってくるのかも知れず、それがある意味ではその人にとっての賭けとなるわけで、それら全てが伸るか反るかの大ばくちだとは思われないにしても、そんな大げさな成り行きではなくても、日々の日常の中で絶えずその手の小さな賭けに直面していて、その度ごとに自らがしがみついている独自のこだわりから離れるように促されているわけだが、そうやってそこから離れるように促されるほど逆にそこにしがみつこうとする思いも強くなって、そんな作用反作用の板挟みになりながらも判断を強いられているわけで、そうなるとそれまでに抱いていた確固とした意志に基づいた価値観が揺るがされて、絶えずそこから離れるように促される誘惑に逆らえなくなってくる場合もあるだろうが、逆に意志の力が勝ってしまえばしがみつこうとする握力ばかりが強くなってしまって、離れようにもしがみついている手を引き剥がせない事態に陥ってしまうのかも知れないし、どちらになるにしてもなるようにしかならないとも言えるわけで、どちらになった方が良かったか悪かったかが結果として示される場合もあるが、はっきりしたことは何も示されないままとなってしまう場合もあるのかも知れないし、そういうところで賭けとして伸るか反るかの大ばくちになる場合もあるし、あるいは何事もなくすんなりとどちらか一方へと状況が収まってしまう場合もあるかも知れないが、それも二項対立のような明暗がはっきりと分かれるような結果など伴わずに、どちらでもかまわなかったように思われるとすれば、それが大げさな分水嶺のように思われていたこと自体が勘違いでしかなかったわけだ。


7月14日「物事の道理」

 無理な主張というのは何か物事の道理を無視しているように思われるが、複数の人たちが同じように無理な主張を強引にしていると、なぜかひょっとすると無理ではないのではないかと思われてくるわけだが、その際に無理だと思われる根拠となる物事の道理が間違っているようだと、無理だと思っていたことが無理ではなかったことになるわけだが、別に自らが信じている物事の道理というのが絶対に正しいとは言えないし、その正しさが納得のいく形で証明されているわけでもなければ、間違っている可能性もあるのかも知れないが、たとえ無理なことを強引に主張しているように思われる人たちの方が正しいとしても、物事の道理にとらわれている人にとっては何となくそれが間違っているように思われるわけで、そう思うのが慣習となっているのかも知れないが、多くの人がそう思っていれば、それだけ主張が世間に受け入れられるためのハードルも高くなるだろうし、実際になかなか受け入れられなければ、無理な主張が無理なままに留まり、その主張通りの実践がおこなわれないままとなってしまうのかも知れないが、そうした世間の壁を打ち破るには何が必要なのかといえば、強引な実践あるのみというわけでもないだろうが、それを実行する機会が巡ってこないことには実践もままならないわけで、実践されないままとなってしまえばそんな主張もそのまま放置されてしまうのだろうが、主張している人たちはいつまでも主張し続けるだろうし、いくらでも執拗に主張し続けるわけだが、そうした主張しっぱなしの主張も世の中にはいくらでもあって、いちいちそんな主張を詳細に取り上げていたらきりがないわけだが、それでも主張することができるということは、そうした主張をおこなう機会が与えられていることにもなるだろうし、そんな主張を真に受けている人もそれなりにいるから、そうした主張がいつまで経ってもメディア上で延々と主張し続けられているわけだが、主張するだけであれば大して害がないから主張する機会が与えられているともいえるし、そうした主張に引っかかってしまう人がある程度いた方がかえって世間的にも好都合な面があるのかも知れないし、そんな主張がされているおかげで別の世間的には有害に思われる主張が実現されるのを阻んでいるのかも知れないが、その中には真にぶっ壊すべき何かではなく、別の何かをスケープゴートにしてそれをぶっ壊すと息巻いているような主張もあるだろうし、そうやって逸らされている何かというのが、世間的には有害に思われているどころか、有害だと思わされているだけで、本当はそれをやらないといけないようなことであれば、そうした主張があるおかげでやらなければならないことが阻まれていることになるわけだが、それが何かは今のところはよくわからないのかも知れないし、それも機会が巡ってくればあっと驚くような展開で突然おこなわれてしまうようなことなのかも知れないが、そうした機会がいつ巡ってくるのか予想がつかないところが、それがおこなわれるためには必要なのかも知れず、それは多くの人々が期待していることとは全く違うことかも知れないし、それがおこなわれるべきだとは誰も思っていないようなことかも知れないが、実際にそういうことがおこなわれた後からその必要性が認識されるようなことかも知れず、そうなってみないことには何とも言えないが、そうなってみればなるほどと思われるようなことかも知れないし、そのいつやってくるとも知れないその機会に期待するわけにも行かないものの、現状で何かをぶっ壊すと息巻いている人や勢力が、現状の体制を維持するためにそれなりに貢献しているような囮となっている可能性はあるだろうし、そうした囮にそれなりの数の人たちが引っかかっているのも、それなりに効果を上げていることにもなるだろうし、それが何の効果なのかはよくわからない面もあるだろうし、案外そうしたことをやっている人や勢力の思惑とも少しずれているのかも知れず、そういう意味で誰の主張や思惑とも少しずれた状況が実現していて、主張通りにも思惑通りにもなっていないことが、誰にとっても思いがけないことが起こる可能性を生じさせているのだろうし、もちろんそんなことが起こってからそら見たことかと言う人もいくらでも出てくるだろうし、自らの予想や予言が当たったと主張する人もいくらでも出てくるのだろうが、それはそうなった結果から言えることであり、そうなってからそうなる原因とそうなった結果を急いでつなぎ合わせて都合の良い言説をこしらえ上げているだけで、それがどうしたわけでもないのだろうが、重要なのはそうなる以前に何をおこなうかであり、それが今まさに問われていることであり試されようとしていることなのかも知れないが、現状で何もやらない選択肢があるように思われる人もいくらでもいるだろうが、それもそう思われるだけで、実際には何もできない状況に追い込まれているのかも知れないし、またやるべきこととは別のことをやるように仕向けられているのかも知れないが、それを仕向けているのが何かというと、それを仕向けているように思われる対象や成り行きを思いつくかも知れないが、それを特定できるかというと、特定してしまうとやはり少しずれてくるような気もするわけで、世の中で成り立っている既存の秩序や仕組みというのがその中で生きている人たちをある傾向へと導いて、そうした傾向の中でかかわってくる物事に関連する何らかの動作をおこなうように仕向けていると考えれば、何やら実際におこなっていることと整合性がとれるように思われるわけだが、それが自主的にやりたくなってやっていることなのか、あるいは何らかの機構や制度にとらわれることによってやらされていることなのかは、どちらでもそう思われる限りで納得できる面もあるだろうが、そこにそうやっている人の主体性が表れていれば納得できるということであり、何かそれをやる舞台や装置などが用意されていれば、そんな舞台や装置を用意している何らかの機構にそれをやる人が取り込まれることになるだろうし、そうすることが道理に適っているように思われると、もうすでにそこで物事の道理を信じられるような成り行きに巻き込まれていると言えるわけで、そこではそんなことをやるのが当然だと思われる限りで、そう思わせるような舞台装置の餌食になっているとも言えるだろうが、そうした舞台装置を提供している機構の思惑通りになっているかというと、そういう面も確かにあるだろうが、それと同時にそこに参加している人や団体の思惑も介在してくるだろうし、全面的に操られているとは言えないし、そこに参加している人や団体としても自分たちにとって都合の良いところだけをちゃっかり利用する魂胆があったりして、そんなところからも思惑のずれが表面化してきたりして、また表面化せずに水面下での暗闘もあったりして、いずれにしてもそういった舞台装置を提供する機構の類いを、そこに参加しながら内部から侵食したり、場合によってはそれを食い破って自分たちに都合の良い機構を新たに再構築したりして、それを私物化するようなことにでもなれば、他の参加者たちが黙っているわけもなく、そこから内部抗争が勃発したり外部から応援として呼ばれて争いに加わってくる勢力もあるだろうし、そうやって世の中で何らかの支配的な傾向や成り行きを作っている機構や仕組みなどが、何かをきっかけにしておかしくなってしまうこともあるだろうが、それをおかしくしようとしておかしくなってしまうわけでもないだろうし、できればおかしくしたくなかったのに結果的にはおかしくなってしまうことも多いわけで、そういうところでそこにかかわってくる人や団体の思惑が外れてしまうのだろうが、もちろん何らかの計画通りに事業がおこなわれて、それなりに思惑通りの結果がもたらされている面もあるわけだろうが、思惑通りの結果がもたらされている面と思惑を外れた結果がもたらされている面とが混ぜ合わさっているような結果が思惑通りではないわけだが、それをどう捉えたらいいのかとなると、思惑通りの結果がもたらされている面を強調したければそう思い込めるだろうし、また思惑から外れた結果がもたらされている面を問題視したければ、そこを強調することによってそうしたことをやっている当事者を批判したり非難する成り行きにもなるだろうが、どちらに関しても相対的な傾向の中でそうなってしまうわけだから、物事の本質がそうしたところにはなければどちらも的外れなことを主張しているようにも思われてくるわけだが、事の本質としてはそこで何らかの抗争や闘争がおこなわれていることであり、争いの類いによって物事が動いていれば、そこで双方の力が拮抗していれば結果がどちらに転ぶかわからないということであり、たとえ以前にも同じような経過を辿って同じような勢力による同じような争いがおこなわれたとしても、今回もその時と同じような結果がもたらされるわけでもないだろうし、争っている双方の力が拮抗しているように見える限りでどのような結果がもたらされるかは争っている時点ではわからず、結果が出てからもっともらしくそうなったことが必然であるような説明がなされるのはわかりきったことかも知れないが、それがわかりきったことのように思われるのはいつも結果が出てからなのではないか。


7月13日「主義主張の中身」

 何か一定の言説内容を政治的な主義主張としてまとめるのはそれなりに困難を伴うだろうが、それが不快な内容になってしまうのは独善的な主義主張だと思われるからかも知れず、そうであるならそんな傾向にならないようなことを主張できるかとなると、それもそれなりに困難を伴うかも知れないが、レッテル貼りを受け付けないようなことを主張できれば、それが一定の傾向を持っているようには思われないのだろうが、すでに一定の傾向を持った政治的な主義主張に対して批判的なことを述べてしまうと、そんな政治的な主義主張と対立する主義主張の持ち主であるかのように受け取られてしまい、そこからレッテル貼りを許してしまうわけだが、そうなってしまうのを逃れられるわけでもないだろうし、独善的な主義主張はそれがその場の状況にとらわれずに恒常的に一定の傾向に感じられるから批判されるわけで、状況の変化に応じて主義主張も変わらないとおかしいわけだが、状況が変化しているのにそれを無視して強引に同じ主義主張で押し通そうとするからおかしく思われてしまうとすれば、では状況の変化に応じた主義主張とは何なのかといえば、それでは主義主張とは言えなくなってしまうのかも知れず、そうであれば特に主義主張を掲げなければいいのかというと、何らかの主義主張がないと周囲の人々から支持や賛同を得られないかも知れないし、そうなると世の中の多数派から支持や賛同を得られやすい主義主張を掲げることになり、それが現状では中身が定かでない保守主義とかいう主義主張となってしまうのかも知れないが、そんな主義主張を建前上は掲げている政治勢力に対して批判的なことを言うと、すぐにお前は左翼だという否定的なレッテル貼りをされてしまい、そうなるとそれに伴って左翼という政治的な主義主張も何か世の中の多数派に刃向かうような否定的な傾向を伴っているような印象をまとわされてしまうわけだが、保守主義自体があまり実態の定かでない主義主張なのだから、それを批判する左翼にも実態が伴わないわけで、結局は印象として保守主義が多数派の信奉している主義主張であり、それに逆らうのが左翼という否定的な印象しかまとわせないようにされてしまっている主義主張なわけで、それ以外には大した中身は伴っていないのかも知れないが、一方で左翼というレッテル貼りされてしまった人や勢力としては、もっと肯定的な印象を伴ったリベラルというカタカナ用語を使って自分たちの立場を肯定的に見せかけたいのかも知れず、リベラルというのだから日本語で自由主義と呼べばいいのかも知れないが、またリベラルの側でも経済的な自由を掲げて規制緩和を推進する勢力を新自由主義という言葉を使って否定的なレッテル貼りをやっている都合上、新自由主義と自由主義の印象がかぶってしまい、その上さらに保守勢力の側でも自由と民主という肯定的な印象を伴った価値観を掲げているわけだから、どうしてもそれらとの差別化を図る上でもリベラルというカタカナ用語を使わざるを得ないのかも知れないが、リベラルが意味する自由という言葉が保守勢力と新自由主義勢力の共通の価値観だから使いづらいとしても、民主主義という言葉だけは是が非でも自分たちの側に引き寄せておきたいだろうし、最近はリベラルという言葉も使いづらくなってきた代わりに自分たちの側の名称を民主派とか民主主義勢力と規定したいのかも知れないが、それも香港の民主派などを応援する時にも使われる言葉であり、それと日本国内の嫌韓嫌中派と保守勢力がかぶってきて、沖縄の米軍基地反対運動などを叩きながらも嫌中の立場から香港や台湾などの民主派を応援するというご都合主義もあるわけだから、沖縄の米軍基地反対運動を応援すると共に嫌韓嫌中派などを批判しながら、さらに香港の民主派を応援してそれを弾圧する中国政府を批判しなければならないわけで、そこに首尾一貫した主義主張の中身があるかとなると、政治的には民主主義を擁護して経済的には自由主義の行き過ぎを規制するようなことになってくるわけだが、それが一方では共産主義や社会主義とは見なされないようにもしたいわけだろうし、そういう面でも否定的な印象を伴った主義主張だと見なされてレッテル貼りされないように用心したいのかも知れないが、そうなると何か煮え切らない印象を免れないだろうし、何を主張しているのかわかりづらくなってくるわけだが、たぶんそういうところはご都合主義にならざるを得ないのかも知れず、どうしても政治的な弾圧や抑圧に抗議したり経済的な搾取に反対するようないいとこ取りの主義主張になっても、それと表裏一体な面が自分たちが加担している政治や経済などの肯定的な活動からもたらされていることはわかりづらいし、そういった物事の根本的なところで批判を展開してしまうと資本主義経済をやめて共産主義経済にしなければならないという現状ではあり得ない論理的な飛躍に至ってしまうわけで、そんな結果を回避するには嫌でも煮え切らない印象を伴ってしまうことを受け入れざるを得ないだろうし、またいいとこ取りのご都合主義にならないためには政治的な弾圧や抑圧している側とも経済的な搾取に加担している側とも一定の距離を保ちながらも折り合いをつける必要が出てくるわけだが、しかしそういうことを許さないという対決姿勢を鮮明に打ち出してしまうと折り合いはつけられないし、中途半端に折り合いをつけてしまうと否定的な偽善や欺瞞の印象が伴ってしまうし、どうやっても実際に何かやろうとするとうまく自分たちの立場を正当化できなくなってしまうだろうし、そういうところで他からの批判や非難を甘んじて受けざるを得なくなってしまうわけだが、それを批判したり非難している側にとってはそうやっているだけで自分たちの活動が成り立つような楽な立場を占めているわけで、それこそがご都合主義であり卑怯な立場であるように見えてしまうから、一方的に批判や非難をおこなうだけの人や勢力には社会的な信用が生じないわけだが、結局政治的な行為として何をやればいいのかとなると、政治的な弾圧や抑圧をおこなっている側にも経済的な搾取をおこなっている側にも一定の配慮をした上で、弾圧や抑圧にさらされている人々や搾取されている人々を助けなければならないわけだから、それなりの矛盾を伴うだろうし、それが偽善や欺瞞を含んだ行為となってしまい、そのことで批判や非難を受けなければならないが、そういった批判や非難にさらされながらも民衆からの支持や賛同を取り付けなければならないし、また弾圧や抑圧の当事者である行政の官僚機構からも経済的な搾取の当事者である経済界からも支持や賛同を取り付けなければならないわけだから、そんな八方美人的な姿勢など保てるわけがないと思うかも知れないが、そうなると結局はどこでごまかすかという詐欺的で妥協的な姿勢に自ずから推移して行ってしまうだろうし、それも恒常的に一貫した姿勢を保つ必要がなければ、ある時には機会を捉えて民衆に配慮してまたある時には機会を捉えて行政や経済界にも配慮するようなことにもなり、その配慮する時宜やタイミングを絶えず計りながら機会を捉えて配慮するようなことになってくるのかも知れず、そうなると時宜やタイミングを逸しないためにはその頃合いを心得ておくことが肝心になってくるし、また配慮するには配慮する相手の力を利用しなければならないだろうし、例えばある時には民意や世論の力に押されて行政による規制を緩和したり減税したり、またある時には経済の悪化を口実にして公共投資を増やしたり福祉を充実させたりして、そうやって否定的な影響をできるだけ軽減するような効果を引き出す工夫が必要となってくるにしても、それでもやっていることがやり過ぎると矛盾してきてしまうのは事前に承知しておかないとならないだろうし、矛盾が目立ってきたら手遅れにならないうちにその矛盾を軽減するような対策を講じなければならないわけだが、そんなことをやっているうちにもそうした矛盾をネタにして絶えずメディアから批判や非難にさらされることにもなるだろうし、そうした批判や非難に対してもあからさまに圧力をかけて封殺しようとしないで、批判や非難を延々とさせておくしかなく、そこでもそうした批判や非難が効いてきてだんだん行為の継続が無理になってくるかも知れないから、一つの政治勢力だけが延々と政権を担っているとまずいわけで、そういう意味でも定期的な政権交代をおこないながら批判や非難をかわしてガス抜きをしなければならないわけで、そういうところまで考慮に入れると現状維持的な成り行きに落ち着いてしまうかも知れないが、それでも現状維持ではなく絶えず世の中が良い方向へと進化しているような幻想も必要となってくるだろうし、それだけ現状でも無理難題が山積しているわけだろうが、それら全てにうまく対応できるわけでも対処できるわけでもないことはわかりきったことだろうから、少なくとも社会の進化的な幻想を抱くなら新しい政治勢力を育てていかないとならないわけで、現状維持ではまずいと思うなら現時点でそれなりに欠陥や欠点を抱えているとしても積極的に新しい政治勢力を支援したり応援しておいた方がいいだろうし、それも政治的な弾圧や抑圧や経済的な搾取にさらされている弱者の人たちがそういった勢力を支援しているだけでは、政治的な主導権を得るには至らないだろうから、政治的な弾圧や抑圧や経済的な搾取に加担している人や勢力が新しい政治勢力を支援するとなると、現状で主導権を握っている勢力の補完勢力を応援するようなことになってしまうわけで、果たしてそうすることがそれらの人や勢力にとって妥当なことなのかは、一見正しいように感じられるが、少し違うのかも知れないし、その辺が微妙なところでもあるわけだ。


7月12日「神輿の担ぎ手」

 なぜか物事の合理性がねじ曲げられて解釈されてしまっているように思われるかも知れないが、合理的に解釈することが正しい場合もあるだろうが、心情的にそうは解釈したくない場合もあるのかも知れず、そんな場合にはわざと間違った解釈を示すわけでもないだろうが、何か割り切れない面があることを強調したいのかも知れず、その割り切れなさというのが、現状にとらわれている人を何らかの行動に駆り立てているのかも知れないが、一方でそれが行動するのを思いとどまらせていれば、行動に駆られてしまう人と行動を思いとどまっている人とが現状の中でどう関わってくるのか、その関連性がわかりにくいかも知れないが、合理的に思われる判断や解釈では物事の割り切れない面をうまく説明できないのかも知れず、説明できない面を説明しようとすれば、言葉に頼って割り切れない面を割り切ろうとしてしまい、それに関してあまり疑念を抱かずにそういうことをやってしまうのが、言葉に頼って合理的な物言いで言説をまとめようとしてしまう人にありがちな傾向となるのかも知れないが、浅はかな人たちは安易にそういった物言いに惹かれてしまうのであり、そういう人も世の中にはそれなりに大勢いるから、そんな人たちを対象とした商売もそれなりに成り立つだけに、それが合理的な物言いにとらわれてしまった人にとっては自信につながるだろうし、これでいいのだと思わせる理由にもなっているわけで、それが現状に関する判断や解釈を誤らせているとまでは言えないにしても、そういう人たちにとっての正しい判断や解釈に従っていてはうまく状況を説明できないだろうし、そういった状況とうまくかみ合わない齟齬感が焦りを招いて現状への批判に駆り立てられるわけだが、そこで苛立たしさを隠そうとしていないところが、すでに何らかのきっかけを逸してそこを通り過ぎてしまっていることの証しにもなっているわけで、いったんそうなってしまえばもう後戻りが利かないし手遅れなのかも知れないが、そうなってしまう手前で踏みとどまることは難しいのだろうし、実際に誰が踏みとどまっているのかよくわからないわけだが、たぶん通り過ぎてしまった人はいくらでもいるのだろうし、実際にそういう方面で言葉に関係する商売をやっている人もいくらでもいるわけだから、一般の人たちもそういう商売に引っかかってそこから吐き出される言葉の連なりを真に受けて、それらの言葉の連なりが伝えている物事に関するもっともらしい言説をありがたがって拝聴しているわけだが、それでかまわなければ世の中に関して大した疑念を抱くこともないのかも知れないが、それでもその手の単純化されたもっともらしさでは不満な面も出てくるわけで、そこで躓かずにその場を素通りしてしまう人と、その場で躓いて何に躓いたのかを確かめようとする人との間で違いが出てくるはずだが、言葉に依存しながらもっともらしい物言いになってしまう人たちには、その場で躓いてしまう人が愚かに感じられてしまうのかも知れず、なぜそんなところで躓いてしまうのか理解できない場合もあるだろうが、躓きの程度や傾向も人それぞれに違うだろうから、なおさら個々の躓き体験を言葉で共有しようとすればそこからこぼれ落ちてしまう何かが出てくるわけで、その出てきた何かを合理性のフィルターにかけてしまうと何も残らず、それを言葉で表現しないままその場を通り過ぎてしまうわけだが、それが世間的な紋切り型ではない何になるのかはどうかもよくわからないところだが、そんなのは無視してもかまわないような物事だろうし、そんなところで躓いて転んでしまうような人は愚かでしかないのかも知れないが、それでも躓いて転んだ体験はその人の脳裏に刻まれていつまでも執拗に残ってしまうのかも知れず、そこからおかしなこだわりが生じてくるとしてもそれを馬鹿にすることはできるだろうが、馬鹿にされた当人は腹が立つだろうし、そんな自らの存在を正当化したいという気持ちが強くなってくれば馬鹿にした人たちに対する復讐心も強まるわけで、そんなふうにして愚かに見えてしまう人たちが団結して、物事を合理的に判断したり解釈する人たちに対して復讐を実行しているのが、現状で顕著になってきている世の中の傾向だと見なせば、何やら合理的な思考では割り切れない物事の辻褄が合ってきたように思われるかも知れないが、そういう面もあるかも知れないということであり、物事の全てが全面的にそうなっているわけではなく、むしろ合理的な思考によって割り切れる面が物事の大部分を占めていないと、世の中が成り立っていかないわけだが、そういう面だけにこだわって強調するのも判断や解釈のバランスを欠いていて、合理的な思考にこだわるならそういう面は無視してもかまわないだろうが、無視されるとなおのこと腹が立つだろうし、そういう面にこだわっている人たちは誰もがそこにこだわってほしいわけで、それが合理的な思考によって物事を処理している人たちにはできない相談だとしても、それを無理にでも権力を行使してこだわらせようとしているわけだから、当然おかしくなってくるわけで、実際に世の中がおかしくなっているのかも知れないが、そういうことにこだわっている人たちは気にしないだろうし、自分たちのこだわりを通したいわけで、こだわっている自分たちを世の中で通用させたいわけだろうが、実際に通用しているのかといえば、実際に政治的にも経済的にも行政的にも世の中のトップに立っていると思い込んでいる人たちは通用していると思っているだろうし、そういう立場を占めているのだから客観的にも通用していることになるわけだが、通用している状態がどんな状態なのかといえば、神輿に上げられているわけで、神輿の上で隔離された状態となっているとも言えるわけだが、要するにそのままでは通用しないから神輿に乗せて、他の人たちがその神輿を担ぎながら神輿の権威を利用して強引なことをやっているわけで、そういう取り扱いをしないと通用しない人が自力で何かできるように思われるとしたら、それは思い違いになるのかも知れないが、少なくとも神輿を担いでいる人たちにとっては利用価値のある人だから、そういう人たちには重宝されているわけで、そういう意味で通用しているわけだが、通用の仕方というのが特殊な形態を伴っているわけだから、誰もがそういうやり方で通用するわけでもなく、そうやって取り扱われる人材にもそれなりの条件や事情が伴ってくるわけで、誰もがそんな立場になれるわけでもないのは当然としても、なれる機会もそうは巡ってこないし、なれる人にもそれなりに資質や才能が備わっていて、それがどんな資質や才能なのかといえば、それに関して合理的な判断や解釈を受け付けないような資質や才能であれば、合理的な思考の持ち主には認めようがない人がそういう立場を占めていることにもなるだろうし、どうあっても否定するしかないような人がそういう立場を占めていれば、そうなっている状況について否定的な判断を下したりそれを否定的に解釈するしかないだろうし、実際に多くの人たちがそうしているわけだが、そうなっているにもかかわらず、そういう人がそういう立場を占めている事実が厳然とあることも確かであり、物事を合理的に考えている人たちもそういう事実があることは百も承知だろうし、それでも自分たちのやり方で何とか変えようとしているわけで、何とかできるはずだと思いたいだろうが、実態が伴ってこないような状況の中でもどかしくも思っているのかも知れないが、合理的なやり方で何とかできるような状況でないとしたら、では他に納得できるようなやり方があるかとなるとそんなやり方があるわけでもないだろうし、要するに納得できない現状を受け入れられないとしても、相変わらず納得できない現状に直面しているわけで、しかも何かをやるとなると納得できるようなやり方を模索しなければならず、納得できるやり方を模索してそれを実行するしかないわけだが、その結果として納得できない状況に直面してしまうとしても、それも当然のことだろうし、そうなって当然のことをやり続ける必要があり、納得できなくても納得できるようなやり方を実行するしかないわけで、そこに不条理があるといえばその通りだが、不条理をなくすように努力するとしても不条理がなくなるわけでもないだろうし、結果的に不条理に直面するしかないが不条理を招くようなことをやっているつもりもないだろうし、そういうところはどうやってもそんな結果から導かれる齟齬感や嫌悪感を拭えないわけで、そんなふうにして感じる否定的な感覚を抱きながらもそんなことをやっていくしかないだろうし、しかもそんな思いを逆なでするような現実に直面しているわけだから、実際に愚かな人たちが愚かな人を乗せた神輿を担ぎながら愚かなことをやっている現状には耐えられないかも知れないし、そんな人たちが好き勝手に振る舞っているように見えてその実そうでもないことには気づきようがないかも知れないが、そこでむきになってわかったように振る舞うのも愚かなことだろうし、わからないことを無理にわかろうとする必要もないのかも知れないし、わかったつもりにならなくてもかまわないわけで、理解できないことを率直に認めることが肝要であり、そういうところで無理に理解してわかったようなことを述べてしまうと、自然にこちら側からあちら側への扉が開いて、気づいてみれば自らもそんな神輿の担ぎ手に加わってしまっているわけだ。


7月11日「世間への染まり具合」

 意図的に何かをやろうとすることが何かをやろうとすることの全てではないが、何かをやろうとすればそうなるのが当然だとしても、その人の意図や思惑がわかれば容易にその行動を説明できるだろうし、行為や行動を説明する際には、そうするに至った理由としてその人の意志や意図や思惑などを語ろうとしてしまうわけだが、説明に際してその人がそれをやろうとする主体的な意志があれば確かにわかりやすいのだが、それがない場合はわかりにくいかというと、それが何であっても行為や行動の理由や根拠をうまく説明できればわかりやすくなるだろうし、また理由なき行為や行動であるにしても、何やら無意識がどうたらこうたらとかいう心理学的な説明が加われば、わかりにくい説明になってしまっても納得はしようとするかも知れず、要するに何を説明するにも他人を納得させようとする説明になることも当然の成り行きとしてそうなってしまうわけだが、そこには説明する相手を納得させようとする意図や思惑が働いているわけで、もちろん場合によっては相手を煙に巻こうする意図や思惑が生じることもあるが、さらに納得させようとすると共に騙す目的が生じる場合もあるだろうし、意図的な行為や行動にははっきりした目的や目標が生じるのだが、中にはわざとそう見せかけようとしているのではないにしても意味不明な行為や行動もあるだろうし、そういうのはうまく説明できない行為や行動となってしまうわけだが、自らの行為や行動が意味不明であるように見せかけようとする意図や思惑が生じていれば、その意図や思惑の先にある目的や目標が何かというと、その人が神秘的なオーラをまとっているかのように見せかけたいのかも知れないし、そうやって行為や行動が人知を超えた振る舞いのように思わせることができれば、あわよくば人々から崇拝の対象として崇め奉られるかも知れないという狙いが生じてくるかも知れないが、たぶん始めからそんな目的や目標を抱いてそんな行為や行動に及ぶ人はまずいないだろうし、何かの拍子にそんなことを思う場合もあるかも知れないが、大抵の場合は戯れ事の類いだろうし、後はフィクションの中でそういうことが語られる場合もよくあるかも知れないが、そういった意図や思惑が働かなくても自然とそうなってしまえば、そこに場所的な差異や時間的な隔たりが作用している場合もあるわけで、たとえその場では子供だましのようなことがおこなわれていたとしても、空間を隔てて時が経って子供だましな面が風化してしまうと、そこからそうしたことをおこなった人の伝説化が生じてきて、後世の人たちに偉人のような受け取られ方をされてしまう可能性が出てくるだろうし、そういった歴史的な効果をそのまま受け取ってしまうと、現状でおこなわれていることが過去のある時期より悪化していたり劣化しているように感じられてしまい、そこから現状で主導権を握っているように思われる人や勢力に対する批判や非難に拍車がかかってしまうわけで、できればそういう面は割り引いて考えた方がいいだろうし、過去の偉人としての評価をそのまま現代の著名人と比較するわけにはいかない面があり、また現代において政治や経済などの方面で成り立っている支配的な体制というのが必然的に生じていると捉えてしまうと、それが偶然の紆余曲折を伴っていることを考慮していないことになるだろうし、そういった支配体制を支えているのが変化を嫌って現状維持にしがみつこうとする多数の小心者たちであることも考慮に入れておかないと、なぜあんなひどい人たちが政治や経済や行政などの面でトップに位置しているのかが理解しがたく思われてくるだろうし、そういった経緯から生じてくる現代に対する否定的な印象が現状の悪化や劣化を意識させるわけだが、意識がそういう面ばかりに気を取られていてもかまわないのかというと、成り行き上そうなってしまうのならそれは仕方のないことだろうし、できればそう思う人たちの数が現状維持にしがみつこうとする小心者たちを上回ってほしいと思いたいだろうが、少なくとも現状の中ではそうなっていないだろうし、それは過去においてもそうだったのかも知れないし、将来にわたってもそうなったままとなってしまうかも知れないが、それでも何らかの変化が実際に起こっているだろうし、その変化に期待している人もいくらでもいるかも知れないが、期待するだけでなく行動している人もいくらでもいるだろうし、現状でトップに位置している人たちよりはマシに見える人たちを応援したり支援している人たちもいくらでもいるかも知れないが、たぶん実際に行動している人たちが変化を起こしているのだろうし、その変化が行動している人たちが望んでいる変化とは違っている面もあるだろうが、それは現状を支えている小心者たちがおこなっている活動との相互作用から起こっている変化だろうから、なかなか変化を起こそうとしている人たちの思い通りにはいかない面があるとしても、そうした行動をやめてしまえば変化そのものが起こらない可能性も出てきてしまうから、変化を起こそうとする行動をやめるわけにはいかないだろうし、やめたくてもやめられないような成り行きになっている面もあるだろうし、そういうところですでにそういう人たちの行動も現状では織り込み済みの現状が成り立つ上での前提条件となっている面もあるわけだが、あまりそういう面で現状をもっともらしく説明しようとするとフィクションとなってしまって、現状で生じている不合理な面や不条理な面を取り逃がしてしまうことにもなりかねないが、たぶんそういう面が現状が成り立つ上では必要となってくるのかも知れないし、そもそも現状が現状のままで成り立っていると捉えること自体が幻想に過ぎず、実際には成り立たずに絶えず崩れ続けているから変化していると言えるだろうし、現状が崩れ去り続けている面にかかわっているのが変化を起こそうとしている人たちであり、まだ崩れ去っていない面にしがみついているのが現状を支えているつもりの小心者たちかも知れないが、実態としてはそんな区分けではなく、多くの小心者たちがしがみついているからその重みで現状が崩れかけているのかも知れず、逆に現状を変えようとしている人たちは新たに現状を構築しようとしているのかも知れないが、どちらにしても都合良く現状を解釈してそんなことを語りたくなってくるわけだが、それもフィクションであり、現状を都合良く捉えているから都合の悪い面を取り逃がしているわけだが、そうやって現状を都合良く語ろうとする際に取り逃がしてしまう面というのが、現状の不快さにかかわってくる面かも知れず、それが現状の支配にかかわってくる執拗な面でもあり、現状の中で行使される権力の醜悪さでもあるのかも知れないが、それを通して現状が成り立っていて、それを醜悪だと形容できないようにさせているわけだが、それなしには世の中が成り立たないのだからそれを肯定せざるを得ないだろうし、権力の行使を受け入れないと生きてはいけない人も大勢いるわけで、それらの人たちを現状にしがみついている小心者と見なして否定的に捉えてしまうと、意識や思考が現状から遊離して、そんな人は世間から相手にされなくなってしまうのかも知れないが、現状を変えようとするには現状にしがみついている小心者の状態から離脱しなければならず、自ら主体的にそんな境遇へを身を投じるからには危険に身をさらさないとならなくなり、そうすることによって世間から相手にされなくなってしまうことも場合によっては覚悟しなければならないだろうし、実際に立場がなく居場所がなくなってしまえばそんな不遇に直面するしかないだろうが、そうではなく立場も居場所も確保した上で世間に対して反旗を翻すような成り行きに持って行ければ、何かそれが欺瞞や偽善に感じられてしまうのかも知れないが、たぶん人それぞれにやり方があるだろうし、誰もが過激派やテロリストのようなやり方を選べるわけでもないだろうし、全面的に正義を主張できるわけでもなく、何もやらなくても済むような成り行きになってしまうことだってあるのかも知れず、立場も居場所もなくても生きていける成り行きもあるだろうし、現状でやれる範囲内でやればいいようなことでしかなければ、それほど大げさに正義や大義を振りかざす必要もなく、自らがやっていることを正当化する必要もないのかも知れないが、少なくとも自らが生活に困らない範囲内でやっていけるようなら何もやっていないのと同じことになってしまうかも知れないし、多少でもやっていることから弊害が生じてこないと現状に対して抵抗感を覚えられないだろうし、そうなるとふりでも装っているのでもかまわないから世の中の支配的な傾向に逆らって、世間やメディアから及ぼされる同調圧力をはねのけるようなことをやらなければならなくなり、それが明確な意志を伴った行動に結びつかなくてもかまわない場合もあるのかも知れず、また同調圧力に屈して世間で主流となっている紋切り型的な思考や生き方にまみれていても、そうなってしまっている自らを正当化できなければ、それだけでも違和感や抵抗感を覚えていることになるだろうし、そうであれば無理に自己正当化せずにそうした主流の傾向への違和感や抵抗感を保持したままでいればいいのかも知れないし、そういったところで少しでも自己主張できればそれだけでも全面的には世間に染まっていないことになるのではないか。


7月10日「無限の配慮」

 世の中を全体的な視点から捉えようとすると普通に全体主義的な思考にとらわれてしまい、そういった思考と折り合わないのが自らの存在であり、自らは個人として世の中の一部を構成しているに過ぎず、世の中の全体を占めていないのは明白なことだが、思考としての想像力が全体的な視点を想像させて、それを想像しているのだから当然のことのように虚構の視点となるわけだが、それとともに全体主義的な思考も虚構となってしまうが、虚構の視点と思考によって世の中を捉えようとしても、想像力がそうさせるのだから普通にそうなってしまうわけで、それの何がおかしいわけでもなく、想像力を駆使して世の中のことを考えてしまうことに関して、それの何が問題となるわけでもなく、自らが実際に行動して現実に直面した時に想像していたのとは違っていれば、自らが考えていたことを修正したり誤りを認めて撤回することにもなるだろうが、それも当然の成り行きとしてそうなるわけだが、そうなるのはとりもなおさず他人に対する配慮がそうさせるわけで、他人との相互作用の中で自らが存在していて、その際に自らの内や外から作用や影響を及ぼされたり、自らが内や外へ作用や影響を及ぼしながら活動しているわけだが、それは絶えず相対的な活動になるだろうし、そういった活動の水準ではそれ以上に何がどうなるわけでもないわけだが、そんな水準を超えてどうにかしようとして個人としての限界を意識すれば、自らに協力してくれる人を募って集団で組織的に活動するようになってくるだろうし、そうなると集団の力が個人の力に勝って、個人の都合よりも集団の都合の方が優先される面も出てくるわけだが、それと同時に人は集団だけで活動しているわけではなく、個人としても活動している面もあるわけだから、自らと他人との関係と、集団との間の関係が重層的に重なり合って相互作用が生じてくるわけだが、もちろんそれだけが全てではなく、自らがかかわっている物事との間でも相互作用が生じていて、それらとの距離や程度や傾向などに伴って、それぞれとの間で作用や影響の度合いや意味合いなども異なってくるわけで、それらを全て考慮できないし、中にはかかわりを意識できない物事まであるわけで、そうなっている実態を捉えきれないわけだが、そうなると配慮が行き届かない面も出てくるだろうし、そういうところから何か問題が生じてくれば、それに気づいた限りで対処するしかないし、気づかなければ対処できない場合も出てくるわけだが、絶えず配慮が足りない面も出てくるとすれば、そういったところで絶えず問題を抱え込むことにもなるわけで、そういう意味では何から何まで完璧に対処することは不可能だが、気づいた限りで対処していくしかなく、そんなふうにして自らにかかわってくる問題への対処の程度や傾向は自身が気づいた限りに留まるしかないわけだが、それ以上は求められないと思っておけばいいことかも知れないが、場合によってはそれ以上が求められてしまって、そうなると自らの能力を超える対処や配慮となってしまうのかも知れず、そうなると普通にやりきれないから解決困難な問題を抱えたままとなって、そういった問題に絶えず悩まされることになってしまうのかも知れないが、それでも自身の活動や生活が成り立っていればそれなりに何とかなっていることになるだろうし、実際にそういった問題を抱えながら生きている人もいくらでもいるのだろうが、それも実際にそういった問題を抱え込んでみないことにはそれの何が問題なのか他人にはよくわからないわけで、それをいくら想像してみても問題を抱えた当事者にはなれないわけだが、もちろんそれを想像しようとしている人も、その人独自の問題を抱えている場合もあるだろうが、そういった問題に対処しても解決できない場合もあり、それも対処してみないことには何とも言えないわけだから、それを想像してみるだけで何とかなるようなことでもないわけだが、その人やそれらの集団がどのような問題を抱えているのかを想像することが思考することにもなるわけで、思考の対象としてそういう問題があるかのように世の中の状況を捉えてしまうわけだが、そうなると問題を抱えている当事者とその問題を思考の対象としている人との間で、問題に対する立場の違いが生じてくるわけで、そういった立場の違いからもそれ相応の問題が生じてくるわけだが、それに対してより虚構の度合いが高いのはそれを思考の対象としている人の方だろうし、一方で問題を抱えている当事者の方がより深刻な現実に直面しているはずだが、それに関して何かもっともらしいことを述べているのはそれを思考の対象としている人の方であり、しかもそんな人に限って当事者意識が希薄かも知れないし、さらにそんな人を信用してしまうのが、それが思考の対象として語られる内容を情報として受け取る不特定の一般大衆でもあるわけで、そうなると一般大衆が依存しがちなのが虚構の度合いが高い情報となるだろうし、そうであってもかまわないような世の中の状況となっているのかも知れないが、もちろんそれについて語られる内容の全てが虚構であるわけではなく、そこで問題に対する立場の違いを超えてもたらされる真実と呼ばれる情報の在り方が虚構なのだろうし、それが当事者意識の希薄さを覆い隠してしまうような作用を及ぼしていることに気づかなくさせているわけだが、要するにそれについて語っている人にとっては都合の良い内容が語られているにしても、問題を抱えている人にとってはそれが都合の悪い内容であったりもするわけで、そういった語るには都合が良いがそれを抱えている人にとっては都合の悪い内容というのが、それについて語る人が問題を抱えている人が隠そうとしている真実を暴露していると思われるわけで、そういった当事者にとっては都合の悪い真実を暴露する人の存在というのがメディアが作り上げた虚構であり、そういう意味でジャーナリストという存在の虚構性に一般大衆が気づいていないわけだが、そうしたあり得ない立場を作り上げたことがメディアの功績であり、それによって大衆市民社会を成り立たせているとも言えるが、そこでジャーナリストの類いが虚構ではない真実を暴露しているように見えることが何をもたらしているかといえば、デマや噂の横行だろうし、しかもデマや噂を信じやすい一般大衆を生じさせているわけで、さらにそこからジャーナリストの類いが真実を暴露しているという虚構がまことしやかに信じられているわけだが、ではデマや噂を世間に広めているのはジャーナリストの類いではないと見なせば、暴露しているのが虚構ではなく真実であることが明らかになるのかといえば、誰でもジャーナリストと名乗ることができるわけだから、デマや噂を広めている人がジャーナリストの肩書きでそういうことをやっている限りで、それも虚構であることが明らかとなるだろうし、どうやってもジャーナリストが真実を暴露しているということが虚構でない保証はどこにもない限りで、暴露していることが虚構ではない真実である保証もないわけだが、その一方で一般大衆が信じやすい虚構というのもいくらでもあるだろうし、要するに問題を抱えている当事者にとって都合の悪い真実を暴露するという行為自体が信じやすいわけで、デマでも噂でもかまわないから当事者にとって都合の悪い情報を世間に広めれば、多くの一般大衆がそれを真実だと思い込んでくれるわけで、戦略的にそういうことを専門にやっている自称ジャーナリストの類いもいくらでもいるだろうし、そういう人たちは敵対していると見なす人や勢力にとって都合の悪い情報を恒常的に世間に向かって発信しているわけだろうし、しかも一般大衆の方でもジャーナリズムというのはそういうものだという固定観念に凝り固まっている傾向もあり、そういう固定観念を逆手にとってその手の人たちがそんな活動をおこなっている実態もあるわけだが、では都合の悪い真実を暴露するのと、味方にとっては都合が良く敵対者にとっては都合の悪いデマや噂を広めようとすることの間に、どうやって区別をつけられるかとなると、その真実が味方にとっては都合が良く敵対者にとっては都合が悪ければ、ちょっとやそっとでは区別などつけられないかも知れないが、普通に考えて煽動者の類いは自身にとって都合の良い真実しか言わないものだろうし、それが真実であっても自身の立場上都合の良い真実しか言わなければ、逆に自身の立場を危うくするような真実は絶対に言わないのかも知れず、思わず口が滑ってそんな真実を暴露してしまうようなことにならない限りで、自身にとって都合の良い真実とは都合の悪い面を隠した不完全な真実であり、不完全な真実が真の真実なのかといえば、不完全な部分に虚構が含まれている可能性があり、それがどういう虚構なのかといえばジャーナリストは真実を暴露するという虚構であり、要するにジャーナリストにも暴露できない真実があり、ジャーナリスト自身の立場を危うくするような真実を暴露できない限りで、ジャーナリストが暴露する内容にはそれなりの虚構が含まれていることになってしまうが、だからジャーナリストの類いは信用できないということではなく、一般大衆の味方となってくれるジャーナリストは信用できるだろうし、その一般大衆というカテゴリーに個人としての自分や何らかの集団内の役職を伴った自身が含まれるかとなると、それも自身の立場によって異なってくるだろうが、結局は自身にとって都合の良い情報を提供してくれるジャーナリストは信用できるとなると、たとえそうした情報にそれなりに都合の良い虚構が含まれていても信用してしまうわけで、しかもそれが自身の立場に配慮した内容であればさらに信用度が高まるのではないか。


7月9日「願望の実現」

 邪魔な人が世の中から消えてしまえばいいと思うのは普通に誰しも思うところかも知れないが、それ以前に邪魔だと思っているのだからその存在や言動が気に障っていて、その人を意識せざるを得ないわけだが、普通は消えてしまえばいいと思う人が必要だとは思わないだろうが、その人が必要なのはそういう人であり、その人の願望としては消えてしまえばいいと思う人を自分の手でこの世から消したいという願望があるわけだろうが、そういうのが殺人衝動だと言えるわけで、そうなると人を殺すには殺す人が必要となるだろうし、必要がないから消えてほしい人と消す必要がある人が同一人物であるのは当然のことかも知れないが、そこから状況を敷衍させて考えるなら、例えば古代社会において気候変動などが起こってその社会の存続が危ぶまれるようなことになると神に生け贄を捧げる風習があったとすれば、生け贄用の家畜や人が必要となるわけで、それと個人的な殺人衝動とは状況がかけ離れているだろうが、目障りな人を取り除いた上で実現する社会というのが理想的な社会だとしても、目障りな人を取り除くことが目的や目標となると、何やらナチスのホロコーストのようなものを連想してしまうわけで、そういう願望を誰もが抱いていて、そこに程度の差があって、実際に願望を実現するために人を殺してしまうに至るのは稀なことだろうが、可能性としては普通にあることであり、それは誰もが思うありふれた願望に過ぎないわけだが、それを実行するかしないかということよりは、実行してしまうとまずいから、できれば実行しなくてもいいような状態に持って行きたいわけで、そういうところから戦略としての行動や活動が生じてくるのかも知れないし、大抵の人はうまく工夫を凝らして事態が丸く収まるようなやり方を模索するのだろうが、それも普通は戦略などといった大げさなことではなく、最悪の事態は避けようと思っているだけで、そういう思いに従って行動すれば、自然と障害をすり抜けてしまう成り行きになってしまうのかも知れず、その人の思いにつられてその人の行動も伴ってきてしまうわけだろうが、それもその人の思いだけがその場に作用するわけでもないだろうし、他の様々な人の思いも作用すれば、それらが複雑に絡み合った末に何かのきっけから事態が悪化してしまうことだってあるだろうし、そうなると事件が起こってしまうわけだが、それが思いがけないことであっても、その場にかかわっている人たちの願望が実現しているかも知れないし、そういった願望に多くの人たちが気づかないとしても、結果として示されているのが願望が実現した姿であるとしたら、それに気づいていなくてもそんな願望を抱いていたことになってしまうだろうし、何か願望を意識できないような成り行きの中で行動が伴ってしまうと、自分がなぜそんなことをやっているのか理解できないわけで、理解する間もなく行動が先行してしまうわけだが、それが良い方に働くと面倒な事態を避けられたように思われるだろうが、逆に悪い方に働くと最悪の事態を招いたように思われるのかも知れず、そんな事態を招いたのが事件の当事者であり加害者とされてしまう場合もあるわけで、とりあえず加害者や被害者とならないように用心するにしても、当事者意識を逃れてしまえば傍観者となるしかない場合もあるだろうし、何事においても全ての面で傍観者となってしまえば何もやっていないことになってしまうし、それではまずいと思うならどんな形であっても当事者として活動する必要に迫られるのかも知れないが、当事者となれば当然のことながら他人や他の集団とのかかわりが生じてしまい、どうしてもそこから対立や争いなどの面倒な事態を引き起こしてしまう可能性が生じてくるわけだが、どんな事態を招いてしまっても避けようがない場合があるだろうし、そんな事態になればそれに対する対処や対応を迫られてしまうわけで、そこでその人なりに対処や対応に追われるわけだろうが、そこで何か願望が生じてそれを実現することが目的や目標になるのも当然の成り行きとなるだろうが、果たしてそういう成り行きをそのまま真に受けてもいいのかというと、そこで思いとどまるようなブレーキがかかることもあるだろうし、そういう成り行きへと誘導されているような気がしてくると、外部からそうし向けるような作用を及ぼされているのではないかと疑うわけで、それに心当たりがあったりすればすぐにそれを特定できるかも知れないが、心当たりがなければ気のせいだと思うこともあるだろうし、その人なりに探ってみて何もなければ自己原因でそんな願望が生じていると思ってみても差し支えないが、その一方でたとえ外部からの作用によって特定の方向へと誘導されていても、それを利用しない手はないと思うなら、例えば外部から及ぼされる力を利用してその場から遠ざかることが、力を及ぼしている外部の思惑から外れることになるとすれば、そんな思惑としてはそうした力に抵抗すること期待していたのかも知れないし、それが抵抗しないどころか逆に力を利用して力の及ばない圏外へと逃れてしまえば、何か当てが外れたように思われるだろうが、戦略としてはっきりとそういうことを意識していなくても、外部から力を及ぼされて恣意的に誘導されてしまうことを不快に思っていれば、そんな思いが行動へと作用して自然とそうなってしまう可能性があるだろうし、そういうところでそれを意識できるかできないか以前に、そんな思いに気づかなくても行動が先行してしまうような成り行きもあるわけだから、意識が制御できないところで何かが働いてしまうのだろうが、たぶんそんな自らの行動を肯定しなければならないだろうし、すでにやってしまっているのだから自己嫌悪を抱いても自責の念にとらわれても後の祭りでしかないだろうし、そんな否定的な気持ちも放っておかれると風化してしまうだろうし、そうなれば自然と前向きな気持ちになれるかも知れないが、そこに至るまでに様々な紆余曲折を伴うだろうし、それなりに苦難や困難をくぐり抜けてこないとそうはならないのかも知れないが、途中で苦難や困難に行く手を阻まれてそこで立ち往生してしまうと、やはり考える暇が生じて余計なことを考えてしまうわけで、それに伴って欲も出るし功利的に振る舞おうとしてしまうわけだが、そういった紆余曲折を余計な回り道だと思うにしても、そこで丁寧な対応を心がける必要に迫られると、やはりそういうところで何かしら経験して、それが自身にとってプラスになるようなことだと思うだろうし、そんなところで道草を食っていて先を急ごうとしなければ、最悪そこで人生が終わってしまう可能性もあるだろうが、そうなってしまった人も他にいくらでもいるだろうから、そうなってしまった人たちの中の一人として自らを位置づけるような成り行きにもなるだろうし、もしかしたら世の中にはそんな人しかいないのかも知れないが、そうなってしまうことを恐れる必要もなく、先を急いでもその先には何もないかも知れないし、どうなろうとその人なりの歩みでしかないわけだから、そこであきらめてしまうのはしゃくだろうが、自然の成り行きとしてその人をあきらめさせるような成り行きへと引き込まれてしまうのかも知れないし、どうあがいてもそうなってしまう人が身の回りに大勢いる実態を意識せざるを得ないとしたら、すでに自らもそうなってしまっている事実を認めようとしていないだけで、そういう成り行きの中でそれを認めようとしない人が他にいくらでもいることも明らかとなってくるかも知れないが、それでもなお自らの可能性が閉ざされてはいないのかも知れず、たとえそれに気づかなくても行動が示している中身がそれを物語っているだろうし、そういう意味でも自らが自然に動いてしまう成り行きに意識して逆らう必要はないのかも知れないが、それも後からそう思うことでしかないとしても、自らが全てを把握できないことは明白な事実であるから、そんなことを気にしても気にしなくてもその度ごとに違う対応になってしまうのかも知れないが、やっていることの一貫性を意識するなら同じような対応へと導かれてしまうだろうし、それでも全てを把握できないのだから、自然と違う対応になってしまうことにも気づけないのかも知れず、それがその場の状況に合わせた対応になっているとしても、意識の中では行動や活動の一貫性を意識しているかも知れないし、その辺に思い違いや勘違いが潜んでいるかも知れないが、別にそれを意識して顕在化する必要も暴き立てる必要もないのかも知れず、潜在化していることと顕在化していることの両方が同時に組み合わさって作動していると捉えるなら、それらの間で自然な均衡がとれていてもいなくても、それに応じた対応も自然に生じてくるだろうし、それが自身の対応であると共に他人や他の団体でもそれなりに対応していることであるとすれば、それらを意識して効果的に組み合わせてうまくいくように機能させることが難しいとしても、自然と成り行きとしてそうなっていく場合もあるわけで、そんな成り行きの中に身をまかせている現実があるとすれば、すでにそれを利用していることにもなるわけだが、それが意識する必要もない成り行きであったり、意識しないとそこから逸脱してしまうような成り行きであったりもするかも知れないが、そうなってしまうのを自らの判断では決められない場合もあるわけだ。


7月8日「選挙の意義」

 もうすでに現状で成り立っている政治的な体制を事後的に承認することが選挙の目的であり意義だとすると、選挙したところで何も変わらなくてもかまわないことになるが、そうではなく選挙をやって体制を変えようとしても、今ある体制を変えるような選択肢がそもそもなかったりして、要するに候補者の全てが今ある体制側の人物であれば、その中から誰を選んでも体制が変わることはないわけだが、今ある体制とは何かといえば現状で成り立っている政治や行政や経済の体制であれば、そういう体制が成り立っている中で選挙をやるわけだから、選挙の結果がどうなろうと体制が変わることはないのかも知れないが、それでも候補者が体制の転換を訴えかけていれば、そんな候補者が当選すればそれなりに体制の転換を実現しようとはするだろうが、それによって現状で成り立っている政治や行政や経済の体制がどう転換するかといえば、何かしら変わることがあるにしても、政治勢力の政権交代が実現する程度かも知れないし、そうなるだけでも体制の転換が実現したように思われるのかも知れないが、その実態がどうなのかといえば、普通に行政機構や企業活動が継続されていれば制度的にも構造的にも何も変わっていないことになるわけだが、選挙によってそれらを変えることができるとは誰も思っていないだろうし、そういう意味では選挙にあまり過大な期待を抱くべきではなく、それよりは選挙で求められていることは、現状で成り立っている体制の承認であり、実際に現状で政治的な主導権を握っている勢力が勝利すれば、現状の政治体制が有権者によって承認されたことになるだろうし、体制の転換よりは体制の維持が求められていて、それを裏付けるような結果が示されることの方が多ければ、そこに選挙をやる意義があることになり、選挙をやっても何も変わらなければ選挙をやった意味がないということではなく、投票権を持っている有権者が絶えず現状の体制を承認してくれることに選挙をやる意味や意義があると捉えれば、選挙をやることは現状の体制を批判する人たちを黙らせる効果があるとも言えるだろうし、そうやって批判勢力の力を削ぐために選挙をやるような成り行きになれば、体制側が批判勢力に向かってお前たちは所詮民衆の多数派から支持されない少数派のひねくれ者集団に過ぎないのだと言い放つような効果をもたらすために選挙をやると捉えるなら、たとえ体制維持的な選挙結果になったとしても肯定的な意味や意義をもたらされたことになるのかも知れないが、そういう逆説的な意味や意義というのがあからさまに表明されることはないだろうし、そのせいぜいがそういう穿った見方や捉え方をしてそう受け止めれば何やらもっともらしく思われて納得できる程度のことであり、そういうのは所詮は負け犬の遠吠えに過ぎないことになってしまいそうだが、そうやって物事を逆説的にひねくれて捉えるのではなく、真正面からそのまま受け止めなければならないとしたら、体制批判という行為が報われることはないと受け止めておけばいいだろうし、しかもたとえ報われなくても絶えず体制批判をやらなければならないだろうし、体制側も余裕綽々で体制批判をやらせておけばいいということでもなく、体制批判をやっている勢力を絶えず痛めつけておく必要があるだろうし、そんなことをやりながら現状を維持しようとすることから実際の現状がもたらされていると捉えればいいのかも知れないが、それが何を意味するのかといえば、ありのままの現実がもたらされていること以外の何ものでもなく、それによって何らかの利益や不利益ももたらされているだろうし、体制側に利益がもたらされていることが反体制側にとっては不利益となっていればわかりやすいのだが、どうも実態としてはそうではなくどちらにとっても共存共栄の結果をもたらしているとしたら、それがどちらの勢力の活動も現状の中で成り立っていることになるわけで、活動が成り立っている勢力にとっては体制反体制を問わず現状から利益を得ていることになるだろうし、選挙の当落にかかわらず活動が成り立っていることが利益を得ている証しとなるわけだが、しかも不利益を被っていても活動が成り立っていれば、それが活動を成り立たせなくするような致命的な不利益ではないことになるわけで、そこから利益を得ていようと不利益を被っていようと活動している限りで何らかの糧を得ながら活動していることになるわけだが、そうなっている限りで体制側が反体制側を痛めつけている構図というのが、プロレス的な構図となっていると言えるだろうし、絶えず叩かれるようなやられ役がいないと見世物興行としてのプロレスが成り立たないということであり、だからといって攻撃を手加減しているというよりは見世物興行として成り立つように工夫を凝らしている面の方が大きいということであり、メディアが選挙などの公的なイベントを見世物興行として見せているとも言えるわけだが、それも興行そのものが壊れないように気を遣っているとも言えるのかも知れず、その興行主が誰かといえば政治や行政や経済などの方面で主導権を握っている勢力がそういう役割を担っていることになるかも知れないが、一般的に言って公的な興行を執りおこなっているのは政府であり、政府が許容できる範囲内の結果になればいいわけで、そういった範囲内に落ち着くようにメディアも気を遣って政府に協力していることにもなるだろうが、それを見せられている民衆も気を遣っている可能性もあるだろうし、実際には見せられているだけではなくイベントに参加して投票しているわけだろうが、そうやってそれにかかわってくる人や勢力が協力し合ってイベントを盛り立てて成功に導いていることになるわけだが、そこでいう成功とは何かといえば結果的に現状がもたらされることであり、実際にそこにかかわっている人や勢力の活動が成り立っている現状がもたらされているわけだが、ではそうなってはまずい事態とは何かといえば、そこにかかわっている人や勢力の活動が成り立たなくなるような事態だろうし、果たしてそんな事態があるのかといえば、実際に活動が成り立たなくなった人や勢力はそこからいなくなってしまうだろうし、これまでにもそうなってしまった人や勢力はいくらでもいたわけで、それは何も珍しいことでもなかったわけだが、それよりも主催者側が恐れているのはイベントそのものがなくなってしまうことであり、それは一党独裁的な中国や北朝鮮でも形骸化しながらも選挙というイベントが続けられていることからも明らかだが、そういう意味ではどのような政府や政権であってもそこで暮らしている住民からの承認を必要としていることは確かであり、自分たちの主導権を認めさせる対象として住民が必要となっているわけだが、そのことに住民の側が気づいているのかといえば、意外にわかっていないのかも知れないし、政府や政権の側でも気づかれてしまっては困るような事情があるのかも知れないが、要するに政府や政権の側としては主権が住民の側にあることを住民に自覚させないようにすることが政治的な主導権を握る上で重要となってくるわけで、住民が政府や政権の主導権を承認するように持って行くとしても、承認しないという選択肢があることには気づいてほしくないわけで、その辺が微妙なところであり、住民側がそれに気づいてしまうと住民側に主導権があることになってしまい、政府や政権の主導権が失われてしまう危険性が出てくるわけで、それを阻止するには、選挙というイベントが必要不可欠だとしても少なくとも住民側が政府という機構そのものを否定するような選択肢を取り除いた上で、選挙をおこなう必要が出てくるのかも知れず、実際にイベントを主催するのは政府なのだからそこに参加する限りでイベントの存在を認めていることになるわけだが、そういう意味では意外とイベントそのものに参加しないことが政府という機構をなくすには近道となるのかも知れないが、無政府状態を住民が望んでいるかというと、普通はそうではないと誰もが思うところだろうし、無政府状態となってしまっては困るから選挙に参加するわけではないとしても、実際に投票に参加しない人たちがそんなことまで考えているわけでもないだろうし、単なる無関心を装っているに過ぎないのかも知れないが、結構そういうところで自身が思ってもいないようなことが行動に表れているのかも知れず、しかもそれでかまわないような成り行きが世の中の傾向として示されているとすれば、選挙に行かないことが大方の人たちには間違っていると思われているにしても、その間違っている理由というのが大方の人たちがそう思っているのとはだいぶ違っていて、それが勘違いしているところでもあって、そうは思ってもいないにもかかわらず行動で示されていることが、政府が不要だということであり、実際に無政府状態となれば大変なことになると思われるとしても、人々の行動が示している先には無政府状態を目指すような無意識の意志が現れているわけで、それもひねくれて逆説的に解釈するようなことではなく、素直にそのままの傾向として受け止めればいいようなことかも知れないし、選挙に行かない人たちが無政府状態を望んでいることを好意的に受け止めておけばいいのではないか。


7月7日「危機管理能力」

 どこかの国の政府が政権の維持や強化のために国内外の危機を意図的に作り出していると考えるのはメディア上でよく見られるもっともらしい見方だが、その場合の危機というのは紛争や騒乱によって平和な状態が脅かされていることになるわけだが、そんなことが起こる原因としては国内の経済状態が悪化して政権に対する不満が高まっていることが挙げられるだろうし、そういった不満をかわすために意図的な紛争や争乱を起こして、経済状態の悪化よりはそちらに気を取られるように仕掛けていると言えるのだろうが、そこで勘違いしてはならないのはそうやって政府による国内の管理や制御がうまくいっているわけではなく、逆にうまくいっていないからこそ危機を煽らざるを得ないということであり、アメリカのトランプ政権が中国へ貿易戦争を仕掛けているのも、中国政府がインドや南シナ海などの国境で緊張を高めたり香港への圧力を高めたりウイグルへの抑圧を強化しているのも、国内の経済的な失政から不満をかわす目的でそういうことをやらざるを得ないような状況へと追い込まれていると言えるわけだが、そういう見方がある程度は当たっていることは確かだが、年がら年中絶えずそういうことを繰り返していると言えるだろうし、政府に批判的な民衆や反政府的な政治勢力が政府への不満があるのはどこの国でも同じことだろうし、政府がそういった不満をかわそうとしたりそこから目を背けさせるように仕組むのもどこの国の政府でもやっていることだろうし、そうすること自体が政府による国の統治術に含まれることであり、そうやって国を管理して民意や世論を制御しているわけで、わざと起こしているのではないものの危機を作り出して煽ることが国を統治することにつながるわけだが、そういった危機が起こることと政府が国を統治することが表裏一体化しているとも言えるのかも知れず、危機が起こるからこそその危機を利用して国を統治するわけで、危機を国難と見なしてそれを乗り越えるためには政府による国の統治に従わなければならないという印象操作を作り出しているわけだが、政府による国の統治とはそういうことでしかないと捉えるなら、民衆が絶えず危機感を募らせていないとならないだろうし、このままでは大変なことになると不安感にとらわれていなければならないことにもなるわけだが、それは他ならぬ政府による統治に対してもそう思うことになるだろうし、そうなると必ずしも民衆が政府を全面的に支持しているわけでもないことにもなり、恒常的に政府に対する不満が渦巻いていることにもなるわけだが、そういった不満を権力を行使して抑え込むことも統治につながるとしたら、そこに抑え込む対象として不満が渦巻いている必要もあるのかも知れず、それも危機を利用して統治することに含まれてくるわけで、そういった否定的な要因や傾向までも統治に利用しているわけだから、緊張をもたらすような国内外の危機的な状態は政府の統治には欠かせない要素でもあるわけで、危機こそが政府による国の統治をもたらすとも言えるわけだろうが、それに関してフーコーが癩病とペストにおける管理の違いを説明していたが、癩病の場合は患者を町の外へと強制的に排除して、町から離れた癩病患者だけが住む集落を作るようなことをやったのに対して、ペストが流行すると町全体を碁盤の目のように区域に分けて、その区域を担当する行政の担当者以外は外出を制限されて、行政の担当者が担当する区域内の各戸を定期的に巡回して内情を把握するような管理の仕方をやったらしいが、最近の新型コロナウイルスの世界的な流行においても、過去のペストが流行した時の都市封鎖と似たような管理をおこなった国もあったわけだが、過去とは人口も経済規模も比較にならないほど大きく、新型コロナウイルス自体の致死力もペストほど強力ではなかったわけだから、それだけ管理の程度も危機意識も中途半端になっているわけで、それだけ政府や自治体の統治も中途半端なものとなっているだろうし、それはそれでそうなって当然と言えるわけだが、またそこから危機感を募らせて管理を強めたり、逆に情勢を楽観視して管理を弱めたりすれば、それぞれの場合でそれ相応の状況の変化が伴ってくるかも知れないが、どうなってもそれを利用して統治している実態は変わらないだろうし、そんな状況下で危機感を煽って警鐘を鳴らしているつもりの人も政府による統治や管理に加担していることになるだろうが、だからといってそれをやめなければいけないということではなく、そんな人はそんな役割を担っているのだから、それはそれでそのまま危機感を煽っていてもかまわないだろうし、そういった危機感を真に受けて政府に対する不満や疑念を募らせる人が多くなれば、そういった人を抑え込むことが統治作用として働くことになるだろうし、逆に真に受けない人が多いほど政府に対する敵対行為も減るから、それも統治がうまくいっていることになるだろうし、どちらにしても政府が統治していることには変わりないだろうから、そういう方面では政府の統治が揺らぐことはないのかも知れないし、ではどうなれば統治が揺らぐことがあるのかといえば、たぶん現状でも揺らいでいる面があるのかも知れず、それが何だかわからないから揺らいでいるようには見えないのかも知れないが、わかったところで統治が揺らぐか揺らがないかは相対的な程度に過ぎず、相対的な程度に留まっている限りは政府による国の統治が機能しているわけだろうが、そういう方面をあまり突き詰めて考える必要はないのかも知れないし、実際に突き詰めて考えて、政府による国の統治を機能不全に追い込むような方法を探ろうとしてもそれは無益なことかも知れず、そういう方向には物事が進んでいかないのかも知れないが、ではどうすればいいのかといえば、そういった統治を無視してもかまわないような領域で活動できればそういった方面のことは気にならなくなることは確かだが、それがどのような領域なのかといえばそれも相対的で過渡的に生じるような領域でしかなく、恒常的にそういう領域が国内に生じてしまうと政府の方でもそれを無視できなくなって、統治が行き届かない領域がなくなるように作用や影響を及ぼしてくるわけで、それが例えば中国政府による香港への圧力として生じているわけだが、そうやって政府の標的になるような成り行きになってはまずいわけで、そのためにはどうしたらいいかと問うならば、その答えがすぐに見つかるとも思えないが、それに関して山本太郎などは自らが政府の代表者となって国を統治する立場になれば、現状で生じている政府による統治の弊害をなくせると思っているわけではないにしても、それに近いことをやろうとしているのかも知れないが、そういうことをやろうとしている人は他にも大勢いて、その中には実際に政府を代表する立場になっている人も少なからずいて、実際にそういう人たちの活動も国の統治には含まれているわけで、そうなっていることを考慮するなら政府による国の統治を全否定するわけにはいかなくなるわけだが、しかも統治するということが何か具体的で物理的な直接の作用を伴っているわけではなくても、ベンサムの一望監視装置のようにただ見ているだけも監視していることにはなるわけで、そういった監視が管理や統治に結びつくならペストの流行に対応したやり方で済んでしまうわけだから、規律訓練する施設などとは無関係に世の中をひたすら監視していればいいことにもなってしまい、しかも監視する人たちもお互いに監視し合うようなシステムにすれば、誰も監視からは逃れられないようなことにもなってしまい、それこそが統治の理想的な状態と見なすと、それに対する反発や批判が起こるのも当然だろうが、そうした反発や批判している人や勢力と対立して争うことも統治活動の一環となるだろうし、そうやって何から何まで統治の対象としてそこに作用や影響を及ぼそうとすることが国家の絶え間ない国家化だと言えるだろうが、それに対する作用反作用のようにして脱国家化を促すような活動を模索するとしても、それも国家化と表裏一体となって生じることであり、対症療法として政府の統治によって不利な立場や境遇に追い込まれてしまった人たちを助けるために活動することがそういった活動に結びつくのかも知れないが、もちろんそれは政府の統治が及ばなかったり足りなかったから不利な立場や境遇に追い込まれたと見なすなら、さらに政府による統治を強化しなければならない口実にも使われるからそういう活動にも両義的な面があって、それも統治に利用されるわけだろうが、統治自体の強弱や良し悪しではなく、統治の内容が民衆のためになるような状態に持っていきたいわけだが、どのような状態が民衆のためになっているかを誰が決めるかとなると、民衆自身が決めるような成り行きになるかといえば、そうなるように装うことにはなるだろうし、現状でも制度的にも法律的にもそうなっているように装っているわけだが、それに対する不満や批判も様々な方面から出てくるような現状もあるわけで、そうなっていること自体が政府による国の統治がうまくいっていないことを示しているわけだろうが、しかもそのうまくいっていない状況が、それを改善させるために統治の強化が必要な理由や根拠にもなってしまうわけだ。


7月6日「無限の広がり」

 この世界のどこからどこまでが閉じていて、どこからが開いているかについてはわからないわけでもないだろうが、開かれた世界というのが何を意味しているのかというと、とりとめのないほどどこまで行っても限界がないわけでもないが、無限の可能性と無限の不可能性を併せ持ったような捉えどころのない状態を想像しがちになってしまうかも知れないが、ではその反対に閉じた世界というのが何を意味しているかといえば、どこまでも無限に外へ向かって進んでいけるわけでもなく、ある程度まで行くともうそれ以上は進めないような限界があれば、それが閉じた世界の特徴であるように思われるかも知れないが、中には閉じていても限界がない場合もあり得るし、例えば球面上をどこまで進んでいってもぐるぐる回っているだけで限界がないが、面積が一定であり球面上が閉じていることは球の外から見れば一目瞭然だが、球面上から抜け出られなければなかなかそれを感じ取ることができないだろうし、球面上を一周して同じ場所に戻ってこないことには世界が閉じていることを実感できないかも知れないが、実際に地球の表面は球面であって地表面に関しては面積が限られていて閉じているわけだが、空を見上げれば天空が無限に広がっているように見えるし、地面の下には地中の世界もあるし、海に出れば海中の底知れぬ巨大さも実感できるだろうし、技術的な制約があるものの、まだまだ無限の可能性が残されているように思われるのだろうが、確かに地球の地表面は限られた面積しか持ち合わせていないが、それも程度の問題なのかも知れず、例えばそこを人が歩くとなると無限の広さがあるように感じられるわけで、別に熱帯地方の人気のない鬱蒼としたジャングルの中を歩んでいるわけでもなくても、広漠とした砂漠のただ中を死にそうになって水を求めてさまよい歩いているわけでもなくても、ただの街中で道に迷っているわけでもないのに当てもなくさまよっているだけでも、何かこの世界の無限の広さを実感できるかも知れないし、それは長距離をカーナビを見ながら自動車で進んでいるだけでもある程度は実感できるところだが、そこでいったん道に迷えば不安になってくるわけで、しばらくして見当違いの方角に向かっていることがわかれば少しは冷静さを取り戻して、カーナビの音声案内に従いながら進めば目的地にたどり着けることを思い出して、何やら慣れない操作に四苦八苦しながらカーナビを駆使してかろうじて目的地にたどり着いて一安心できるかも知れないが、別に無限の広さがあるとは思わなくても迷ってしまうわけだから、限られた狭い範囲内で道に迷ってしまう愚かさに愕然として、逆にこの世界の無限の広ささえ実感できない自らの小ささに呆れつつ落胆してしまうかも知れないが、ジャングルの中を原住民が起こしている焼き畑の野焼きのように立ちのぼっている煙に向かって歩を進めているわけではなく、逆にそれを避けつつ歩いているのかも知れないが、そういう光景がフィクションの中で再現されているとしても、そういう状況におかれている人がなぜそんなところで歩いているのか説明が示されていなければ、何のことやらさっぱり事態が飲み込めないだろうが、それでかまわないような話の展開もあるのかも知れず、そこで立ちのぼる煙を目にしながら、それに何の意味があるのか、それに何の目的があるのかさっぱり理解できなければ、ただ戸惑うだけでそこで思考停止するかないかも知れないが、たぶん脳裏にこびりついて離れない煙の残像への疑念を抱えながらも進んでいけばその人はいずれ助かるのかも知れないし、フィクションだからという先回り的な推測から、どうせ道に迷いながらもそこから生還を果たした人がそれについて語っているのだろうと思えばとりあえず安心できるだろうが、その人と一緒にいた他の人たちの大部分はジャングルの中でさまよい歩いたあげくに死んでしまったのかも知れないし、そういう状況だとフィクションとして人目を惹きやすいだろうが、そこで繰り広げられた生と死の紋切り型的な葛藤が物語の主題と見なされることもあるかも知れないが、一方でそれを裏切るような要素が題名に込められている可能性もあるのかも知れず、そういうところでその手のフィクションについて語る人の興味を惹きつけるのかも知れないし、人がそこで何に惹きつけられようとも、そこから生還を果たした人が立ちのぼる煙に惹きつけられたからこそそれについて語ろうとするのだろうし、そういうフィクションを読んだり観たりする人たちはその人が語ろうとする光景に注目するのが自然な成り行きになるはずだが、そこで何やら争いの中で生じる人の生と死の葛藤を巡る紋切り型的な物語の主題が邪魔をして、なかなかそれに気づかない場合もあるかも知れないが、しかも気づかなくてもその人が語ろうとする光景に引き寄せられてしまうから、そこに魅了されてしまうのかも知れず、実際に魅了されているにもかかわらず、なおのこと物語の紋切り型的な主題にこだわろうとすることが、その人が語ろうとする光景に抵抗していることにもなるわけで、どうやっても合理的な理屈を用いた説明を拒んでしまうような光景に引き寄せられてしまうことに納得できないわけだが、そんな自らを納得させようとして紋切り型的な物語の主題にこだわってしまうことが、その人の迷いを断ち切る上では大切なことのようにも思われるわけだが、しかし迷いのない状態ほど魅力に乏しい状態もないだろうし、そういうところでその光景を語ろうとする人も、それを切り捨てて迷いなく紋切り型的な生と死の主題について語ることをためらっているのだろうし、その表れとしていつまでも脳裏からこびりついて離れようとしない立ちのぼる煙について語らざるを得ないわけだが、そんな不条理感との葛藤が迷いとしての魅力につながっているのかも知れないが、だからジャングルで繰り広げられた人の生と死の葛藤に魅力が生じていないわけでもないだろうが、たぶんフィクションでなければそこがジャングルでなくてもかまわないだろうし、別に人の生と死の葛藤でなくてもかまわないわけだが、それが道に迷ってカーナビと格闘するような成り行きになってしまっては情けないし、できればもっと操作しやすそうな最新のカーナビに買い換えたいのかも知れないが、結局そうはならない事情や成り行きがそういう考えを実行するに至るのを阻むわけで、確かにその場では操作の不慣れなカーナビと格闘したにしても、それがその場だけのことになってしまうと、いつもそうなるわけではないから、そうしたケースを一度体験したにもかかわらず、それがそのまま放置されてしまうわけで、それが例えば戦略として利益を得るために行動するようなこととはあまり重ならない次元で行動を強いられてしまうことにもなってくるわけだが、それでも何かそこから思考の対象として見えてくるものがあるかも知れないが、それによって何か利益のようなものがもたらされるわけでもないだろうし、何ももたらされなくてもかまわない場合もあるわけで、たとえ一度道で迷ったりしても、さらに何度迷ってもその度ごとに困るだろうが、やがて困ることにも慣れてきてしまって、そんなこととは無関係なところで新たな発見がもたらされたりもして、例えばそこで右往左往しているうちに思いがけない光景にでも出くわせば、新鮮な驚きがもたらされたように思われてしまうかも知れないし、そういう成り行きがあらかじめ計画通りにこしらえ上げたようなわざとらしさやもっともらしさとは無縁であることは言うまでもないことだとしても、それもさっさと忘れ去られてしまうような光景でしかなければ、いつまでも脳裏にこびりついているわけでもないだろうし、わざわざそれについて語ろうとはしないわけだが、逆に執拗に事ある度に同じ光景について語ろうとするような成り行きがあるとすれば、何かそこに語ろうとする人の意図や思惑があると思われてしまうのかも知れないが、それが何らかの戦略に基づいて語られているとしたら、何やら理路整然とした論理や理屈に基づいて語られているだろうし、そういうことを繰り返し何度も語っていれば、果たしてそこに聴衆を惹きつけるような魅力が感じられるかとなると、そうは感じられないのかも知れないし、別に聴衆を惹きつけるような意図を持って語っているわけでもない場合もあるが、では何のために語っているのかといえば、それが簡単にわかってしまうようなことであれば、その内容に魅力が伴わなくてもかまわないのかも知れないが、たぶんわかりやすい戦略やら目的やら目標やらが含まれる明白な語りの内容が何をもたらすのかといえば、内容の退屈さや倦怠感などをもたらすのかも知れず、別にそういうところを工夫する必要があるとは言えない場合もあるだろうが、何かを語るという行為に伴って人が自然に求めてしまうのが、話のわかりやすさや明白な目的や目標などではなく、話の面白さや興味深さといった時には余計に思われるような傾向なのかも知れず、それも意図して人工的に工夫を凝らして作り出そうとすると、もっともらしくもわざとらしくもなってきてしまって、かえって話が退屈でつまらない内容となってしまうのだろうが、そういう意味でも何だかわからない理解しがたいような不条理な体験を語りたがるのもよくありがちな傾向であるわけだ。


7月5日「思い違い」

 考え違いをしているとすればほとんどの人が考え違いをしていて、しかもほとんどの人が考え違いをしていると思っている人こそが全くの考え違いをしているのかも知れず、それでもかまわないとなると考え違いをしていると思うこと自体が考え違いでしかないわけだが、そんな結果からもたらされた状況が物語っているのが、何の変哲もない現状であるわけで、それを何の変哲もないと捉えてしまうと、今まで世の中の変化を求めていた期待は何だったのかということになってしまうが、少なくとも現状でも思い違いをしていることを肯定的に捉えてみる必要があるのかも知れないし、思い違いをしていてもかまわないような状況であることが、正しい認識から遠ざかる上では必要なことでもあるような気がしてくるわけで、そういう回りくどい紆余曲折を経ないと正しい現状認識には至らないのかといえば、それこそが思い違いでしかないのかも知れないが、それでも現時点では思い違いをしているしかないのかも知れず、希望や期待を抱くには思い違いをしていないと抱けないような状況となっていると現状を捉えてみるとしっくりくるのだが、それこそが思い違いであることは百も承知しているような気もしてくるが、そんな思い違いをしている自らを肯定的に受け止めているわけで、思い違いをしていてもかまわないような状況というのが、世の中の主流から外れていることの証しのような傾向を示しているのかも知れないが、しかも世の中の主流を構成している人たちとの差を埋めなくてもかまわないのは、そんな人たちも一枚岩のような状態の団結とは無縁であるようにも思われるからであり、別にそれらの人たちが世の中の主流を構成しているわけではないとしても、そんな人たちの存在を想定しておかないと世間そのものが成り立たないのかも知れないが、それも思い違いでしかないとしたら、いったいどこからどこまでが思い違いなのかよくわからなくなってしまうが、思い違いだと思っていること自体が思い違いなのかも知れないし、それを思い違いと思うこと自体が間違っていて、何も思い違いではなく現状認識が正しいと思わなければならないのかも知れないが、ではどんな現状認識を抱いているのかその内容を提示する必要に迫られているのかというと、どうもそうではなくすでに述べている中で現状認識が示されていて、それは誰もが考え違いをしているということであり、それをわかっていても認めたくないような人たちばかりであり、自らの考え違いを認めたくない人たちが現状の中で進行している成り行きに逆らっているわけだが、その逆らい方がその人のなりに独善的な傾向があって、他の大勢の人たちからそういった傾向がそれなりに一定の支持が得られているにしても、それが世の中の主導権を握るまでには至っていないわけだが、他の誰も主導権を握れない状況の中ではそれも致し方のないところでもあり、それよりは世の中の主導権を握らないとできないことをやろうとすること自体が間違っていて、大したことは何もやれていないような人たちが主導権を握っているわけでもないのに、それなりに他の人や勢力が主導権を握るのを阻む程度のことはやれている状況にあるわけで、そういう人や勢力が多数派の支持を得て主導権を握るような立場を占めていることになっているものの、主導権を握るような立場を占めているのにその主導権を活かして何ができるわけでもなく、結局は何ができるわけでもないのに何かができるかのような幻想を抱くべきではないのかも知れないが、そういった現状の中で進行している成り行きに逆らっている人たちは、他の大勢の人たちから支持を得て世の中の主導権を握ってやりたいことを実行したいわけで、そういう人たちが思い違いをしているのは、世の中の主導権を握ればやりたいことができるかのように思ってしまうことであり、実際に主導権を握る立場にある人や勢力が大したことは何もできていない現実を直視するなら、自分たちが主導権を握ったところで大したことは何もできはしないと認識するしかないのかも知れないが、そうなるとでは何のために現状の中で進行している世の中の成り行きに逆らっているのかわからなくなってしまうだろうし、結局は現状の中で進行している成り行きに逆らうには、自分がたちが世の中の主導権を握ればやりたいことができると思い違いをしなければならないわけで、思い違いをすることが現状の中で進行している成り行きに逆らうには必要なのであり、たとえそれが合理的な思考から外れることであっても、そう思わなければ自分たちの活動が成り立たないような状況となっていて、そんな状況に追い込まれているとは思えなくても、自然の成り行きとしてそうなっていることだから、そんなことは意識するまでもないことでもあり、それ以上先に考えが及ばないようなことかも知れないが、それでもそんな思い違いを必然的に抱え込みながら今後も活動していくことになるだろうし、自分たちが思い違いをしていることを認められないわけだから、主導権を握るような立場には今後もなれないのかも知れないが、活動自体もそんな思い違いを糧として成り立っている現状もあるだろうから、それはそれで主導権を握るには至らないとしても一定の世間的な支持が得られる限りで活動が継続していくわけだろうが、そんな活動に幻想を抱くべきではないと言ってしまうとまずいわけで、世の中の主導権を握ってやりたいことをやるという幻想によって成り立っている活動なのだから、それが自家撞着というわけでもないにしても、たとえそれが思い違いであるとしても多くの人たちとそんな幻想を共有しなければならないのかも知れず、そんな希望を抱きながら活動する人たちに期待を寄せることが、そのまま現状の中で進行している成り行きに逆らうことでもあるわけだから、そう思うこと以外には逆らいようのない成り行きとなっているわけで、しかもそんな人たちも現状の中で進行している成り行きに含まれていて、成り行きに逆らっている人たちも成り行きに含まれているのであり、そんなふうにそれらの人たちが逆らっているからこそ、現状の中で主導権を握っているように見える人や勢力が思い通りのことができない状況に直面しているのであり、さらにそれらの人や勢力にとっての思い通りのことというのが、どうなれば思い通りなのかもよくわからない事態に陥っているのかも知れず、何が思い通りのことなのかをわかるには、現状の中で進行している成り行きに逆らわないとわからないのかも知れず、それがわかるには現状の成り行きに逆らわないとわからないが、たとえそれがわかったとしてもそれをやろうとすれば主導権を握れなくなってしまうのであり、反対に主導権を握るような立場になってしまうと今度は何をやればいいのかわからなくなってしまうわけで、要するに主導権を握るような立場になってしまえばその立場に応じたことをやらなければならなくなり、それが必ずしもやりたかったことだとは思えないし、こんなはずではなかったと思いたいのかも知れないが、ではそもそも何がやりたくて政治的な主導権を握りたかったのかというと、そういう立場になってしまうとそんなことはどうでもよくなってしまうわけで、その代わりに現状の中で進行している成り行きに従ってやらなければならないことが出てきて、それがそれ以外には大したことは何もやれないような内容になるわけだが、そういうことをやれば当然それに対する批判が浴びせられるし、そういう成り行きに逆らうようなことをやりたい人たちが登場してきて、自分たちがやりたいことを主張するような成り行きになるわけだろうが、そういうことを主張するような人たちが主導権を握る成り行きにはならないとしても、それが一定の支持を得てそういう人たちの活動を継続させるだろうし、それが現状の中で進行している成り行きに逆らう活動であり、そんな人たちを含んで現状の成り行きが進行しているから、その中で主導権を握るような立場の人や勢力にとっては思い通りにはいかないわけだが、思い通りにはならないのに主導権を握っていることになるのかと言えば、そういう立場があるということであり、そんな立場を占めているにもかかわらず思い通りにはならないのが現状の中で進行している成り行きと言えるわけだが、要するに現状の中で主導権を握るような立場の人や勢力が無理に思い通りのことをやろうとすれば、当然のことのように強権発動となるだろうし、それが現実化しているのが中国の状況に近いだろうし、もちろん中国政府の中で主導権を握っている人や勢力もそれなりに思い通りにはいっていないわけだが、そこに思い通りのことをやろうとする意志が感じられるだろうし、実際に世界の反対を押し切って全世界を敵に回しても強引なことをやっている限りで、思い通りのことをやっていることにはなるのだろうが、それをやり過ぎるとどうなるかは、過去の全体主義的なやり方が示していることでもあるだろうし、ヒトラーにしてもスターリンにしても自らの思い通りのことをやっているつもりだったのかも知れないが、結果としてそれが成功していたとはいえないわけだろうし、実際にかなりの失敗をもたらしたからこそ否定的な評価を伴って歴史上の人物として悪名をはせているわけだ。


7月4日「言葉の遅れ」

 別にそれが語る上での正しい方程式というわけではないが、言葉が出てくるタイミングが少し遅れてくることが肝要で、わざとずらしているわけではなくても、それを意識しなくても遅れてくる間に考える余裕が生じてくるのであり、そうなるまで待つ手間を惜しんで性急にその場の手拍子で語ろうとしてしまうと、熟慮する間もなく軽はずみに語ってしまい、対話する相手がいるわけでもなくてもどこからともなく湧き出てくる煽動的な言動の誘いに乗ってしまうわけだが、それが対話術の全てではないだろうが、なぜか誰に向かって発せられたわけでもない誘い文句に対して反論の機会があるかのような気がしてしまうのは、もうその時点で相手の間合いに入ってしまい、それが手の内の全てではないとしても、そういう成り行きに巻き込まれてしまうのは避けたいところであり、そんな短い射程の範囲内で何を語ろうとしても、他の誰かが語っている内容と似てきてしまうのだが、充分に熟慮してから物事について語ろうとしなくても、なぜかすぐに反応したいのにそれをためらってしまうような場合には、必ずその時点からかなり遅れてだいぶ時間が経ってから何かを思いつくわけで、それを思いついた時にはすでに語るタイミングを逸しているのに、それからしばらく経った後から、思いがけないところでそれについて書き記す機会を得るようなことになれば、それが何を物語っているわけでもないかも知れないが、すぐに反応して語ろうとしていた時とは全く違った内容になってしまうとしても、それが何を意味するわけでもなければ、単なる偶然の巡り合わせに過ぎないのかも知れないが、そこで何に勝とうとしているわけでもなく、何に負けることを恐れているわけでもないとしても、すぐに語ろうとしていたこととは違うことを語ろうとしているわけでもないのに、なぜかそれに関連して何かそれとは別の方面からそれについて語っている気になってしまい、どうしてもそういうところで回りくどい印象を覚えるわけだが、たぶんそれが気づかないところで功を奏しているのかも知れず、そんな自然の成り行きによってにわかにはわからないことを回りくどい調子で語っているように思われても、そこで語られている内容の中に意識して探していることからは少しずれた印象を伴った言葉の断片を探し出すことができれば、なぜかそれが探し求めていたことだと思われてしまうのかも知れず、そうなってしまうと意識が語られている内容から影響を受けて何らかの変化を被っていることにもなるわけだが、そこでもとから探し求めていたことがあったかのように思われてしまうこと自体も幻想の一種であり、下手をするとそういうところから目的や目標などが生じてきてしまい、それが何もないところから生じてくるのではなく、自らが語っている内容であったり、他人が語っている内容や著作などに書かれている内容からであってもかまわないのだろうが、さらには世の中で流行っている現象や起こっている出来事であってもかまわないのかも知れないが、それらを利用して何かを語ろうとしてしまい、結果的にそれらに依存した語りになるわけだが、語っていることが自らが依存している物事への対処であり対応だと意識されるわけで、自らが語ろうとしていることに先行する形で何らかの物事があり、その物事から作用や影響を及ぼされて自らの目的や目標が生じてくるとすれば、それへの対処や対応が自らが語っていることであり、それが自らに先行して存在している物事を利用して語っていることにもなり、それに依存しながら語っていることでもあるわけだが、なぜ言葉が遅れて出てくるのかといえば、言葉に先行して存在している物事があり、それが言葉で表現する対象でもあり、その対象に依存しながら言葉を繰り出すことがそれへの対処であり対応でもあるわけで、だからそれと同時に言葉が出てくるわけではなく、それよりは少し遅れて言葉が出てくるのであり、それに対して言葉を繰り出す分だけ時間がかかってしまうのは当然だろうが、果たして言葉に先行して何があるかといえば言葉で表現している物事があるわけだが、それが何らかの先入観を形成しているとは思えないだろうが、実際にそんなことを認識している自らに先行して何が存在しているかというと、やはり言葉で表現している対象が自らの存在に先行して存在していると思われてしまうのかも知れず、しかもその存在が自明のように思われてしまうと、それなしでは自らも存在できないように思われてしまい、それに依存しながら自らが存在していて、それを目的や目標として定めて、それへの対処や対応をすることが自らがやっている主なことでもあるとすれば、例えば国家主義者や国粋主義者にとってその対象となるものが国家になるわけで、その人の思考対象としてその人に先行して存在しているのが当然のことながら国家になるだろうし、その人にとってはそれが自明のことになるわけだが、確かにその人が生まれた時にはその人が所属しているつもりの国家がすでに存在していたように思われるが、歴史的な時間の中では国家の存在に先行して人の方が先に存在していたことは明白だろうし、そうであればその人にとっては自明のことが人一般については当てはまらないのかも知れないが、もちろん現代人についてなら全ての現代人が生まれた時にはすでに国家が存在していたのだからそれは自明なことだが、少なくとも自明に思われることが揺らぐ可能性が残されていて、それを考慮に入れないと物事を考える上で何らかの先行条件をあまりにも自明視しすぎるという過ちを犯して、それが思考する上での足かせとなり、思考自体が思考対象となる物事を言葉で表現しながら思考しているとすれば、必ずその対象の存在を自明視してしまうことになってしまい、もちろん存在しない物事についても思考できないわけではないが、それでも言葉で表現しようとする物事が言葉に先行していることには変わりなく、言葉で表現しようとする物事が思考や思考している自らに先行していると思ってしまうわけで、それが先行して存在していることと同義ではないとしても、イメージとしてはそう思われてしまうのかも知れず、そうやって先行していると思い込んでいる物事に思考がとらわれてしまうわけだが、それの何が問題なのかと誰もが疑問に思うわけでもないだろうが、先行しているということが優先事項のように思われてしまうと、何よりもそれを優先させるような倒錯が生じるだろうし、例えば他の何よりも国家を優先させなければならないと思ってしまうと、全てにおいて人が国家の犠牲になってもかまわないと思っているわけではなくても、少なくとも非常時においては人よりも国家の方が優先されなければならないと思うかも知れないし、それが優先されるべきだと思い込めば国家主義や国粋主義に特有の物事の捉え方になるかも知れないが、そこで考えられることは自らと自らが所属しているつもりの国家があると同時に他の人たちと他の人たちが所属していると見なされる国家も複数存在していることであり、そうなると他の何よりも自らが所属していているつもりの国家が優先されるべきかと疑問に思うはずもないだろうが、理屈の上ではそう思うことも可能かも知れないし、実際にはそうは思わないわけだから、何よりも自らが所属している国家が優先されなければならないと思い込んでしまうのが当たり前のことのように思われるだろうが、どう考えてもそう思われるのが自然に感じられるとすれば、他の何にも先駆けて自らが所属している国家が存在しているという前提が信じられていることになるわけだが、そういう前提を基にして歴史を組み立てれば、世界の全てがそこから始まったような万物の起源となる神話が誕生するだろうが、そういった大げさな思い込みを信じさせる要因となるのが単なる物事を言葉で表現するという心理作用でしかないとすれば、それこそが信じられないようなフィクションだと思われるかも知れないが、意外とそんな単純な成り行きが考える上での盲点となって、何か途方もない誇大妄想が生み出されてしまうのかも知れず、国家という存在が誇大妄想の産物だとは思わないだろうが、国家に先行する何らかの存在を信じてしまうと、そこから必ず神話的なフィクションが妄想されてしまうのかも知れず、逆にそうやって起源への追求に思考を集中させてしまうことが、現状で感じている煩わしくも自らの心身にまとわりついて離れないような物事を忘れるための口実にもなってしまうわけだが、その延長で天下国家の在り方について大げさに思いをはせるような成り行きにもなるだろうし、そういうことを考えるのも大事なことではあるのだろうが、それと同時に身の回りで起こっている些細なことや存在している小さなものが、普通の一般人が関係している物事でもあるわけで、それらが絡み合って様々な問題が生じてしまうのだから、まずはそれを何とかしなければならないと思うのも普通の成り行きであり、もしかしたら自らにとって全てに先行しているのはそういった個人的に関わり合っている些細な物事かも知れないし、それが自己中心的に思うところであるのは百も承知しているつもりだが、どうしてもそこから思考を展開するような成り行きになってしまうだろうし、それも全てに先行して自分が存在しているような錯覚に基づいているのかも知れない。


7月3日「当然の成り行き」

 近代国家が歴史的に辿ってきた成り行きとしては議会政治の発展よりは政府の官僚機構が権限を増して肥大化する傾向が強いわけだが、そういう経過や傾向に伴って生じてくる副作用として、行政的な病の典型的な症状が現状の中国で出ていることは確かであり、それは経済発展がもたらした結果でもあり、それに対応して政府が統治機関としてやらざるを得ないことを生真面目にやっているわけだが、中国では選挙が形骸化して議会政治の発展がないから、政府の機能が全面的に顕在化していて、それが他国から否定的な傾向としてに非難される行為に結びついているわけだが、現状で起こっているウイグルやチベットなどの国内の有力な少数民族への抑圧や、香港での治安維持法まがいの法律を作って民主化勢力を弾圧する手法は、程度や傾向や経過や結果がぞれぞれに異なるだろうが、世界の主要な国々でも大なり小なり政府が似たようなことをやってきたことの延長上でやっていることであり、しかも未だにほとんどの国々でも克服できていない問題だから、中国でも同じような成り行きになり、少数派を弾圧している中国政府を世界の他の国々が非難する成り行きにならざるを得ないが、悲劇や惨劇が繰り返されるのは歴史の常であり、現状の中国で起こっていることも近代国家の歴史的な経過の中ではありふれた典型例に過ぎないわけだが、だからといって許される行為ではないだろうし、非難されて当然のことをやらざるを得ないわけだが、その一方で日本の安倍政権の内部でおこなわれてきた数々の醜聞まがいの行為は、日本特有の町内会的な体質が関与しているだけに、世界各国が安倍政権に対して非難の大合唱となるわけでもなく、それに類することは大なり小なり世界各国の政権内でも起こっていることかも知れないが、それらよりは遙かに下世話で低レベルの範疇で起こっていることだから、世界の各国のメディア上であえて名指しされて非難されるようなことにはならないのだろうし、非難されるよりは毎度のこととして呆れられているのかも知れないが、それをどうにかしたいなら日本国民がどうにかするしかないだろうし、中国の問題とは違って世界の他の国々から政権批判派や抵抗派に支援の手が差し伸べられるようなことでもないわけだが、町内会の慰安旅行や桜の花見に町内会費が使われたり公民館の建設を町長が懇意にしている業者が請け負ったりすることが、町内の有力者たちによる談合で公然のことのように決まっているのが、同調圧力によって半ば強制的に町内会費を支払わされているにもかかわらず、自治会の活動にはほとんどかかわっていない側からすれば理不尽に思われて当然だろうが、文句を言うような空気ではないし、黙って会費を払い続けていれば隣近所から嫌がらせをされることもないから、見て見ぬふりをするような成り行きになってしまうのかも知れないが、そんなことの延長上で議会政治や政府による行政がおこなわれているとすれば、その内部の空気に慣れている人たちにとってはそれがどうということはないにしても、制度や法律などの面から合理的な思考によって解釈すれば異常なことのように見なされるわけだが、しかもそんなことから目を逸らさせる目的で中国政府に対する世界的な非難が引き合いに出されている現状もあるわけで、そういうところでおかしな思惑が渦巻いているとしても、別にそういう行為が日本を危機的な状況に陥れているわけでもなく、それよりは新型コロナウイルスの世界的な流行の方が目下のところ重大な関心事であり、それに対する日本政府の対策がうまくいっていないというよりは、町内会的な安倍政権には対応できないだろうし、感染の封じ込めなどは望むべくもないのは始めからわかっていたことであり、その辺は誰もが予想していた通りになったわけだが、それでもかまわないわけではないだろうが、政権を支持してきた人々や政治や経済やメディア方面で政権を支えてきた勢力としてはそれでも政権を支持し続けるだろうし、それよりは今まで無関心を装って政権の不祥事や醜聞が明らかになっても見て見ぬふりをしてきた人々の反応がどう出るかに政権の命運がかかっているようにも思われるわけだが、それも命運がかかっているとかいう深刻な表現が当てはまるとは感じられないのかも知れず、安倍政権がどうなってもかまわないわけでもないだろうが、今後どうなってもそうなるのが当然のことのように思われてしまうだろうし、政権が延々と継続しても継続が途切れてしまっても、どちらになってもそうなって当然のように思われるわけで、別にそれが不可思議というわけでもなく、もとからどちらでもかまわないような政権であったわけで、日本のような政治風土からは出てくるのが当然のような人たちが政権を担って、そうなるのが当たり前のような政権運営がおこなわれて、そんな政権を支持するのが当然のような人や勢力が政権を支えたから長期政権となり、その延長上では政権がさらに続くのも倒れるのも当然のような成り行きでそうなるしかなく、どちらにしてもそうなるのが当然のような結果がもたらされるのかも知れないが、そうなるのをわざわざ予想したり予言するまでもないことなのかも知れず、どうなるにしても誰もがそうなって当然だと思うだろうから、そんなことを予想したり予言したりする価値さえ見出せないのかも知れないが、そういった紋切り型で凡庸な人たちに何ができるかといえば、今までにやってきたことの延長上でやれることをやるしかないだろうし、そうすることが当然のように思われることをやるしかなく、実際にそんなことが延々とおこなわれてきたから何でもないような現状がもたらされたわけで、それは制度や法律以前に当たり前のように町内会的におこなわれてきたことの延長上でさらにおこなわれていることでもあるわけだから、特定の主義主張とは関係なくおこなわれていることでしかなく、むしろ国家主義とか国粋主義とかその手の信奉者たちが喜ぶような特定の主義主張に基づいておこなわれているように装いたいのかも知れないが、それはその手の人たちを騙す目的で装われることでしかなく、そういう人たちを騙す一方でそういうこととは無関係な人たちからも支持を取り付けないとまずいわけで、中でも経済的に主導権を握っている人たちから支持を取り付ける必要があるわけだから、その手の人たちがかかわっている企業などが利益を出して潤うような配慮がおこなわれてきたわけだろうが、そういう配慮が経済政策の体をなしているのかといえばよくわからないだろうし、少なくとも配慮はしていて様々な便宜や忖度などが図られてきたわけだが、それがうまくいっているかというと、確かに利益を得られている企業などが明らかになっている限りでうまくやってきたわけだろうが、それでもそれが不正行為だと思われてしまえばまずいだろうし、実際に便宜供与のように見なされることが明らかになってしまったのだから、それが必ずしもうまくいっているわけではなく、当初はうまくやったはずなのに、それがばれてしまえば結果的にはうまくいっていないというややこしくも面倒な事態に陥っているわけだろうが、それでもそういう人はそういうことをやるだろうと思われるような人たちがそういうことをやっているわけだから、そうなって当然の成り行きとなっているわけで、そうなるのが当たり前のことが起こっているのだから何ら異常事態でもなく、それらの人たちや勢力からすればそうやるのが当然のことをやり、しかも後からそうなるのが当然のことのようにばれてしまって、何やら毎度おなじみの成り行きが飽きもせず呆れられながらも繰り返されているわけだが、見方を変えればそれ自体がそれらの人たちにとっては正常運転であるわけで、それらが何ら異常事態とも思われないのは、そういうところからそんな印象が生じているわけだが、そこからあえてつまらない予想をするなら、こんな状況は今後も延々と繰り返されるだろうし、今後とも何事も起こらなければそうなるのが当然だと思われるわけだが、しかし実際に現状で新型コロナウイルスが世界的に流行しているわけで、それがすでに何事も起こらないという予想を裏切っているわけだろうし、現状でも何事かが確実に起こっているわけで、そういうことがきっかけとなって何かが変わる可能性は充分にあるだろうし、実際に世界が変わり始めていると誰もが予想しているし実感もしているわけだから、それに呼応して日本の現状も変わるだろうことは誰もが思うところだろうし、誰もが現状が変わると予想できるような状況が今まさに到来しているわけだが、それでも現状で主導権を握っているふりをしている勢力を支持したり支えようとしたり、そんな勢力が隣国の状況や情勢へと目を逸らせようとしている煽動に誘導されてしまったり、そんなわざとらしくも見え透いた行為に対して無関心を装ったり見て見ぬふりをすることができるかといえば、もういい加減に目を覚まさなければならないと思う人も大勢出てくるかも知れないし、実際にそんな勢力に刃向かう人たちの訴えかけや煽動に乗せられて、今こそ世の中を変えなければならないと思う人たちも大勢出てきたのかも知れないが、自分がどちらの味方につくかというよりは、政治的な主張の中でやりたいことをはっきりと示している人がいれば、その人が誠実な対応を心がけているように感じられて、やりたいことをやらせた方がいいと思われるなら、そういう人が政治的な主導権が握れるように配慮しなければならないのだろうし、それが結果的にうまくいってもいかなくても、今までにそういう人にやらせる機会を与えてこなかったことが、あるいは多くの人たちが中途半端なやるやる詐欺的なやり方に延々と騙されてきたことが現状を招いているのだから、そんな現状を変えようと思うならその機会が今まさに巡ってきたことを信じてみる必要があるのかも知れないが、その結果がどうなるかはまだ何とも言えないわけだ。


7月2日「個人的な事情と結果」

 機械がそれを使う人の都合を反映した装置であれば、やりたいことを実現するために機械を使えば思い通りの結果が得られるかも知れないし、そのやりたいことが機械なしに実現することが困難であれば、それは道具を使う時にもいえることであり、道具を使わないとやろうとすることがうまくできないかも知れないが、機械も道具に含まれるが、道具よりは機械を使う方がそれを使って何かをやる場合に、それなしにはできない度合いが高くなる傾向があるだろうし、それだけ機械への依存度が高まるわけだが、そうなると機械の動作に合わせて人も動作しなければならなくなるだろうし、機械を使って何かをやっている時には機械の動作と人の動作を同期させる必要があり、機械を制御しているつもりが機械に人が制御されているわけではないが、機械の動作から使う人の思考や行動も何らかの作用や影響を及ぼされていて、それを及ぼしているのが機械が発明された経緯や発明した人の思考であったり、そこに機械が使われる理由や事情などが絡んでくると、機械を使う人が機械を通して機械を使わせて何かをやらせるような社会の意向や都合などに作用や影響を及ぼされながら活動していることになってしまうのかも知れず、その人の事情や都合が機械を使うに際しては優先されていることは確かだが、それと同時に機械を使わせて何かをやらせるという社会的な成り行きがそこで生じていることも確かであるにしても、しかもその機械が商品として世の中に多数出回っているとすれば、その機械を使う人は誰でも同じようなことをやっている可能性があり、機械を使っている人は確かに自身に特有な都合や事情から機械を使っているとしても、他にも自分ではその人に特有な都合や事情から機械を使っていると思っていても、同じ機械を多くの人たちが使っている限りで、その機械の動作に合わせた人の動作も同じような動作になるだろうし、結局は同じ機械を使っている多くの人たちに同じような都合や事情が生じていることにもなり、その人に特有の都合や事情というのが、他の多くの人たちと同じように同じ機械を使っているという事実から虚構である可能性が出てきてしまうのかも知れず、それ以前に同じようなインフラなどの社会基盤が整備された共通の地面の上で多くの人が暮らしているわけだから、そこで暮らしている限りで多くの人に同じような都合や事情が生じてきてしまうことは想像に難くないわけだが、そんな中で同じような機械をあてがわれて同じように暮らしていれば、やることなすことが同じような傾向になってしまうのは当然のことであり、そういう面で個人には避けようのない同じような都合や事情から同じようなことをやっていれば、しかもさらに同じような環境の中で暮らしているわけだから、考えることも思うことも同じような傾向になるのも当然だろうが、その一方で同じ社会の中で暮らしていても経済格差や職業的な役割分担などから立場や境遇に違いが生じていることも確かだろうし、そういう面で生じている違いと個々人の間で生じている違いが同じなのかというと、それなりに重なる面があるにしても重ならない面もあるだろうし、それが同じような目的で同じ機械を使っていても違いが生じてくるとすれば、動作が同じでも使い方が違うとか、使う上での習熟度に差があったり、使い方がうまいか下手かの違いがあったり、使うタイミングが良いか悪いかなどによって相対的な違いが出てくるにしても、機械によって人の動作を拘束されている面があるだろうし、機械を使っている限りはそういう面はどうしようもないわけで、機械を使わないとできないことをやっている限りで差が生じない面が出てくるだろうが、それでも他の人とは違うことをやりたいと思うなら、無理にでも差をつけようとするだろうし、実際に独自のことをやろうとする理由が生じてくるのかも知れないが、逆に機械を使うことによって他とは違うことをやるように仕向けられてしまうとすれば、それが機械を使って多くの人たちが同じようなことをやっている光景を見せられたり、そんな光景を想像させられてしまったりすることから、そういう傾向が出てくるのかも知れないし、そして誰もが他の人とは違うことをやろうとすれば、誰もが同じようにそう思ってしまうことにもなってくるわけで、そうなると各自が思い思いに自分独自のやりたいと思うようなことをやっているというフィクションを共有することにもなってしまって、そういうことが商品の宣伝などに使われている実態があれば、例えばスマートフォンやSUV車の宣伝の中でその手の雰囲気作りがおこなわれていることに気づくかも知れないが、そういった機械類を利用しながら実態としては多くの人たちが同じような傾向のことをやっているにもかかわらず、個々人の意識の中では自分独自の何かをやっているような気になってしまうとすれば、そんな機械類を商品として売っている企業の宣伝に乗せられていることになるわけだが、そこまで気づいてしまうとそういった傾向に逆らおうとしてしまうのかも知れず、それもそういうことに気づく機会に恵まれた人や気づく余裕がある人がその手の宣伝に逆らうような傾向となってしまうのだろうが、そこにも個人的な都合や事情が絡んでくればそういう都合や事情を利用して他人とは違うことをやろうとするのかも知れないが、そんなところまで意識して考慮できるかとなると、それも後からとってつけたようなもっともらしさが伴ってしまうのかも知れないし、気づく必要のないことまで気づいてしまうような成り行きへと意識を持って行きたいだけかも知れないが、そうならなくてもかまわなければ素直に企業の宣伝文句に応じておいた方が気が楽だろうし、向こうからそうするように仕向けてきているのだからひねくれずに好意をありがたく受け取っておいて、それも金儲けのためにそんなことをやっていると否定的に受け取らない方がいいだろうし、そしてそういうことを口実にして相手の力に押されるようにして多くの人たちがやっているようなことを意識して自分も真似しながらやろうとすれば、何かうまく事を運ぶコツをつかめるのかも知れないし、それが世の中で相対的に自らを有利に導くようなことになれば、たとえその優位さの実感が幻想に過ぎなくても、そういうものだと受け取っておいてもかまわないだろうし、それが現状で他の多くの人たちが活動を自粛しているから自らも自粛するようなこととは真逆の戦略になるのかもしれず、世間へのそういう働きかけが功を奏してやっていることがうまくいこうがいくまいが、やってみることが肝心なのかも知れないし、それもやる余裕や時間があればやるようなことであり、生活に困窮しているようなその日暮らしの境遇へと追い込まれてしまった人にはできないことだが、世間的な状況や情勢から批判や非難などの対象への否定的な働きかけをやらざるを得ない成り行きに巻き込まれてしまうとしても、それと同時に何か肯定的な働きかけも欠かすことはできないだろうし、それが否定的に見られる対象から及ぼされる作用や影響であっても利用しない手はないのかも知れず、それらをどう利用するかで、さらにより一層の否定的な情勢や状況へと陥ってしまうか、逆に肯定的な情勢や状況へと持って行くことができるかが、それだけで決まるわけではないにしても、そうなる要因の一つとしてそういう戦略に基づいた行為も絡んでくるのかも知れず、それもその場の状況や情勢次第で何もやらないよりはやった方がマシな程度に留まってしまうかも知れないが、そういった働きかけが対象への否定一辺倒になってしまうような、一方的な傾向に収斂しないような配慮が欠かせないという意味では、そのバランスを取ろうとするなら生ぬるく感じられるような傾向も残しておいた方が、やっていることの平板さを回避するには必要になってくるのかも知れず、そういうところから他の誰もがやっていることを自身もやっているという安心感も得られるわけだろうが、それが否定的な意味でそうならないようにすることが肝心なのだろうが、そういった微妙な案配を保つ意味では過激派的な印象を持たれてしまうと怖がられてしまうし、意図的にそういう印象を緩和しようとすればわざとらしく感じられてしまうし、自身にかかわってくる何から何まで事細かに隅々に至るまで知った上でそれに対応しようとすればきりがなくなってしまうわけだから、ある程度は他人任せで自身は身の丈に合ったことしかできないような成り行きになってしまえば、それはそれでかまわないと思うしかないわけだが、そういう意味では特定の目的に応じて作動する機械があれば、それを素直に使えばよく、そんな機械が商品として売られていてそれが世の中の幅広い分野で使われていれば、それを使っている他の大勢の人たちと同じように機械を使っていればいいわけで、他人と同じようなことをするために機械を使う必要があるだろうし、そうやって機械を使いながら何かをやっている時には、機械を使っている他の人たちと同じような動作や成り行きに従って同じような結果がもたらされることは想像に難くなく、そんなところでは安心して機械を使えばいいだろうし、逆にそういうことをやったにもかかわらず、なぜか自分独自の結果がもたらされるようなことにでもなれば、そこに個人的な事情や経緯が絡んでいることを認めざるを得なくなるのかも知れない。


7月1日「自己の主体化と予言」

 誰かが未来に関して何か予言するのは現代において何か警告を発していることが多いが、それが過去の出来事に関して語ることと関係してくれば、過去が教訓となり、このままでは過去の一時期のようになると予言することも多いだろうが、過去に起こったことが原因となってその発展形となるようなことが未来において起こると警告しながら予言することも多いだろうし、それが過去から現在を経て未来へと向かう物事の連続的な推移であり、その進化過程を示しているわけだが、それを避けるにはどうしたらいいかとなると、それ以前になぜ避けるのか理由が定かでないかも知れないが、フーコーのように過去の一時期についてしか語らず、未来については決して語らないやり方がどんな意図があってそうしていたのかといえば、過去を語ることによって現代について診断していたと言われるが、それが知の考古学であり、さらには系譜学へと展開していったわけだろうが、フーコー自身が言うには系譜学には三つの軸があり、真理の軸と権力の軸と倫理の軸があり、人の主体化はこの三つの軸で成り立っていると捉えてもかまわないだろうが、人は真理を通して自身を知の主体として構成し、権力を通して自身を他者への働きかけの主体として構成して、さらに倫理を通して道徳的主体として自身を構成することになるわけだが、果たしてこの三つの軸がカントが言うところの自己自身を普遍的な主体として構成しなければならないこととどうつながるのか、三つの軸で同時に主体化に成功すればそれが普遍的な主体となるのか、それがよくわからないところだが、さらにこの三つの軸以外でも、例えば自らを欲望の主体として構成したり、快楽の主体として構成したりもできるかも知れないが、欲望の主体と快楽の主体は両立可能かも知れないが、それが倫理を通した道徳的な主体とは相容れないように思われるし、フーコーのように未来については決して語らないことが倫理的な配慮だとするなら、では未来について予言することが何をもたらしているのかと言えば、未来について予言したいという欲望の表れであり、未来を予言することによって快楽がもたらされるとすれば、未来を予言することによって自らを欲望の主体として構成すると同時に快楽の主体としても構成することになるわけだが、そうすることが自己自身を普遍的な主体として構成していることになるのかといえば、それもよくわからないところだが、その一方で自らを経済的な主体として構成するとなれば、それが金儲けがしたいということでもあるだろうし、もちろん金を儲けることが快感を伴うだろうし、金儲けの手段として企業を経営するとなれば、そこで権力を行使することにもなるし、そうなると権力を行使するような他者への働きかけの主体を構成するのと同時に、欲望の主体としても快楽の主体としても構成されるだろうし、さらにそれが知の主体としても構成されるかも知れないが、道徳的な主体として構成されるかとなると、金儲けを優先させて従業員を切り捨てたり顧客を騙すようなことになれば、決して道徳的な主体としては構成されないだろうが、企業経営者となれば必ずそういうことをやる羽目になるとは限らないだろうが、やりたくないがやらざるを得ないような状況になりやすいことも確かかも知れないし、またそれは自らを政治的な主体として構成する上でも起こりうることだろうし、できれば嘘はつきたくないのに成り行き上嘘をつくしか直面している苦境を切り抜ける術がなかったり、しかも嘘がばれても嘘をついたことを認めるのを拒否したりと、いったん経済的な主体や政治的な主体として自己を構成しようとすれば、道徳的主体として自己を構成するのを断念しなければならなくなる可能性が高まるわけだが、そうなると自己を普遍的な主体としても構成できなくなるかも知れず、その人が自身を普遍的な主体として構成しようとしているのであれば、それが矛盾していることに気づいていないかも知れないが、その一方で主体化=隷属化でもあるわけで、何かに隷属するのを拒否したいなら自らを世間的に認められた何者かにしようと仕向けてくる作用に抗う必要が出てくるわけで、それがフーコーの言う国家と国家に結合している個別化の類型から自分たちを解放することにつながるのかも知れないが、メディア的な作用としては絶えずメディア関係者を予言者に仕立て上げようと仕向けているはずで、人がメディアを通じて何かを伝えようとすれば、とりあえず今この世界で起こっている出来事や現象について伝えようとするだろうし、またその延長上で過去に起こった出来事や現象についても伝えようとして、それは真理を通して自身を知の主体として構成することにつながるわけだが、自身が真理の保持者であり知っていることを世間に示したいという欲望が絡んでくると、現在と過去に続いて未来についても知っていることを示したくなってくるわけで、そうなると自らを欲望の主体として構成する上で欠かせないのが、予言者として自らを構成することになるわけで、自らが全てを知っている全能の主体として構成されるには是が非でも予言者として振る舞うことが必要となってくるわけだが、果たしてそれがカントのいうところの自己自身を普遍的な主体として構成することに結びつくのかと言えば、知りたいという欲望の実現として知り得たことや知っていることを示すことが快楽の一種として未来を予言することにつながり、自らがメディア上で予言者として振る舞うことも快楽につながるとすれば、欲望の主体としても快楽の主体としても同時に主体化が達成できたことになり、普通に欲望にも快楽にも普遍性があるように思われるわけだが、未来を予言することが道徳的に許されるかとなるとそれは予言の内容によるかも知れないが、予言の中で利用されている情報にもよるかも知れないし、例えば誰もが予言しがちな紋切り型の内容をその人も他の人たちと同じように予言したところで、それがどうということはないわけだが、そんな予言をすることによって世の中でありふれた紋切り型の主体が構成されることと、カントが言うような自己自身を普遍的な主体として構成しなければならないこととは何か違うような気がするし、そんなありふれた紋切り型にまみれることと倫理的な態度とは相容れないことのようにも思われるが、では誰もが思いつかないようなことを無理矢理にでも予言しなければならないかとなると、そういうことではないだろうし、たぶんそういうところでフーコーとしては予言者の役割を拒絶したのかも知れないが、その一方でフーコーの『言葉と物』に対して苛烈な批判を浴びせたサルトルなどはメディア上で予言者の役割を普通に担っていたわけで、しかもありふれた予言者などではではなく、ノーベル賞の受賞を辞退するようなことまでやってのけた凄い人物として、メディア上の予言者の中でもひときわ目立つ存在であったわけだろうが、もちろんそういったひときわ目立つ予言者としてカントも挙げられるし、実際に国際連盟や国際連合のような国家の連合体が生まれるという予言を的中させたわけだが、カントの予言は紋切り型の内容ではなかったわけで、当時の世の中で他に誰もそんなことは予言していなかっただろうし、そういう意味では他の誰もが予言できるようなことをその人も予言しているようなら、そんな人は世間的にもありふれている予言者であることは確かだろうし、そんなことを多くの人たちが予言しているとすれば、メディアを通してそういう予言の内容が世の中に知れ渡っているということであり、それをオウム返しに口にしてしまう人も大勢いるの中で、そんな人が予言者気取りになっているとすれば、その人は勘違いしていることにもなるだろうし、そんな勘違いな自称予言者が世の中には大勢いるということにもなるわけだが、そういう人たちはメディアに隷属しているわけで、主体化=隷属化の罠にかかってしまってメディアとメディアに結合された予言者という類型に拘束されてしまっていると見なせるのかも知れず、そこから解放されるにはフーコーのように予言者になることを拒否するか、カントのように誰もが予言したことのない内容を予言してみせるかの二者択一を迫られているわけでもなく、たぶん自らがメディアから作用や影響を及ぼされて他の大勢の人たちと同じような内容を予言してしまっていることを自覚するしかないのかも知れないし、自覚できなければ今まで通りに予言してしまってもかまわないのかも知れないが、そんな自らが何か凄いことを予言しているような気になってしまうとそれも勘違いであり、しかも勘違いをするように仕向けられているのかも知れず、勘違いするように仕向けているのもメディアかも知れないが、仕向けているというよりはそうなってしまうと捉えた方がより妥当なのかも知れないし、メディアから得られる情報の中にその手の予言を促すような内容が含まれていて、そういう情報に接すると誰もが自然に予言したくなってしまい、そうやって誰もが同じような予言を繰り返すことによって、予言通りのことが起こる確率が高まるわけでもないのだろうが、そうなるような期待は高まるだろうし、そうなることが多くの人々が望んでいる願望でもあって、人々の願望を実現させようとして、そうなることを予言して、自然にそうなることを期待してしまうような成り行きになってしまうのではないか。


6月30日「評価のたわいなさ」

 どのような形であれ知識を蓄えることは、その知識を後で活用するために蓄えるのならそれが知識を蓄える合理的な理由のように思われるわけだが、蓄えても活用しないままとなってしまえば無駄になってしまうだろうし、活用の仕方にも程度があって、雑学程度であれば世間話のネタとして使う程度に留まってしまうわけだが、それでもかまわないような類いの知識もあるにしても、特に用途があるとも思えないような知識であっても、それを知っているか否かで微妙に趣が異なってくるようなものもあるのかも知れず、それを知っていることで何が違ってくるのかといえば、知識の活用の仕方が違ってくるのかも知れないが、簡単に言うならハウツー型の使い方をすれば確かに実効性があるように思われるわけだが、その実効性というのが射程の短い実効性であり、効果の範囲の狭い実効性でもあるわけだが、それでもかまわない知識もあるだろうし、使う用途によって内容も程度も傾向も異なってくるのが当然だろうし、そういう知識ならそういうところで使うのがちょうどいいわけで、それで何ら不都合はないのだろうが、もちろん特定の用途で特定の知識ばかりを使っていると、それ以外の用途で使うそれ以外の知識を知らないことになってしまい、そんなことばかりやっている人の程度が知れてしまい、そういう人を表面的には持ち上げることもあるが、その人を知識人と表現することには違和感が伴ってくるだろうし、何か狭くて浅い知識しか持ち合わせていないから、そういう方面では重宝されるにしても、人としての厚みがないような印象を受けるかも知れないが、そんなところまでケチをつけるような成り行きにならなければ別にかまわないわけで、かえってその程度の人だと思われていた方が、何かと面倒なことにはならないし、メディア上でそういう活用のされ方をされる人にとっては好都合かも知れないわけだが、それは世界の中で日本という固有名を伴った地域に関係する人や物や情報などについても言えることかも知れず、ちょっと便利だがそれ以上の活用は求められないような役割分担しか日本という固有名に関係する物事は求められていないのかも知れないが、逆に当事者として日本という固有名に思い入れが過剰な人たちはそうは思っていない印象を持たれていて、世界の中で日本はもっと地位が高くて何事においても重用されているという思いをにじませているわけだが、そんなところからユーモラスな誤解や勘違いが生じている可能性が高そうで、日本という固有名からもたらされる否定的な印象や是が非でも日本を持ち上げたい思いがそんな自意識過剰な思い込みを裏切るような事態の進行が起こっていることを気づけなくしているのかも知れないが、それがどんな事態の進行なのかといえば、それを受け止める人の立場によって印象が変わってくるのは当然だろうが、本当のところは誰にもよくわかっていない事態の進行としか言えないようなものなのかも知れないし、そこにおいては日本の地位がどうのとか重要性があるだのないだのとかいうこととはあまり関係がないのかも知れないし、それよりは歴史上のフィクションとして日本を考えた場合に起こるような欧米由来の脈絡とは別次元のところで幻想を抱ける可能性もあって、そういった関連事項を全てフィクションと見なすならそこから日本とは別のもっと具体的な評価の対象も現れてくるかも知れないが、思考がそんなところまでついて行けないだろうし、そういうことに興味があるわけでもなく、その手前の段階で馬鹿らしく思われてくるのかも知れないし、できればそういう思いとは無関係でありたいわけだが、そうなると普通にもっと射程が短くて狭くて浅い思考の範囲内で評価するような成り行きになってくるだろうし、それでかまわない成り行きにの中で何をどう評価すればいいのかということになれば、特にそういうことについては無視してもかまわないし、そうなるとそこから何らかの価値の転換を図らないとそういうことについてはうまく表現できなくなってくるわけだが、意識がとらわれている前提として、しっくりこないような評価基準をあてがわれていて、そんな基準から評価してしまうと評価のレベルが曖昧であることを表現できないわけで、そんな前提が当然のことのようにそこにあると思われてしまうことがそもそも間違っているのではないかと思われるわけで、できればそれを省いて評価したいわけだが、それを許さないような世間的な評価基準があるのだろうし、そこでそれを省いて何かを評価したいという思いが阻まれてしまい、何やら立ち往生しているような状態となってしまうわけだが、そう評価してもその程度のことであれば、そういう評価基準に基づいた評価自体が信用のできないものとなってしまうだろうし、実際に多くの人がそんなものは信用していないのかも知れないが、それでかまわないような成り行きの中であえてそれらの妄想を評価すれば、比較対象にならないような比較を強いられているのにもかかわらず、それを比較せざるを得ないような状況にも追い込まれてしまい、そうやって苦しい境遇の中で無理矢理肯定や否定を伴った評価をひねり出すような成り行きになってしまうなら、やはりそれが馬鹿げたことのように思われてしまうわけだが、そう思われてしまうならそれは避けなければならない比較対象であり評価対象にもなってしまうわけだろうが、すでにそんなことにまで言及してしまったことを後悔しつつも、そんな比較や評価を推し進める論理に従って何か述べることがあるとすれば、それをたわいないことだと見下すような成り行きになってしまうのかも知れず、そうやってそういう論理を否定してみても、すでにそんな論理にとらわれてしまっているのだから自己卑下にしかならないのかも知れないが、卑下するような自己すらもあり得ないのかも知れないし、自己の欠如がそんな論理の跋扈を許してしまうのかも知れないが、そこから具体的な社会の諸問題へと移行してしまうと、どうしてもたわいないフィクションがそこにへばりついていることを認識できなくなってしまうわけで、そういうところでそれをなおざりにしたままで具体的な社会の諸問題については語れないわけだが、そのことにこだわってしまうと今度は比較のバランスを欠いているようにも感じられてしまうし、そこでいったい何と何を比較しているのかといえば、特定の国とか社会とか人とか物とかを比較しているつもりなのかも知れないが、すでにそれ以前に何らかのバイアスが偏向した論理からかかっているわけだから、そんな論理に従って比較している限りで比較内容自体がたわいないものとなってしまっていて、そんな比較をどう評価してみてもどんなに好意的に受け取っても何か冗談のような内容となるしかないとしても、それを真に受ける人たちもそれなりにいるわけで、そういう人たちを小馬鹿にしてはまずいだろうし、小馬鹿にしそうになっている自らも大した存在ではないわけだから、それが何をもたらしているとしても、そうやってもたらされている物事自体が狭くて浅い思考の範囲内で捉えられている対象でしかないわけだが、しかもそれでかまわないのだから、そこから大げさな誇大妄想を抱いてみても著しく思考のバランスを欠くことになるだろうし、そういう成り行きの中で思考している限りはそうなるしかないとしても、それがわかってしまえば全てがたわいないことになってしまうわけで、そうならないために必要なのがその手の偏向した論理になるわけだが、果たしてそんな範囲内の思考に留まっていてもいいのかとなると、それでもかまわないような状況となっているとしか思えなければ、そんな状況自体もたわいないものとしか思えないだろうし、だからといって何でもかんでもたわいないものとして片付けてしまえば、そうした物事に取り囲まれながら生きている自らを卑下するしかなくなってしまうわけだから、それでは自尊心を傷つけられてしまうし、そこで思い悩むしかないのかも知れないが、そこまで至らなくてもかまわなければ、その手前に留まりながら身の回りのたわいない物事と戯れていてもかまわないだろうが、そもそもそれらをたわいない物事と思う必要もないわけで、それどころかそういう物事にこそリアリティを感じられるとしたら、それらがそう感じる人に生きがいをもたらしているわけだから、そんな状態の自らを無下に卑下する必要すらないわけで、それを卑下するように強いている成り行きがあるとしたら、それをもたらしているのが世の中の風潮や傾向だろうし世間の空気でもあるわけだが、要するに何か著しく偏向した論理からもたらされる物事への評価というのが、世の中の支配的な価値観を形成している可能性がある限りで、そうした価値観からは一定の距離を保っておく必要があるだろうし、その一定の距離というのが単純にそれを否定するような評価に振り切れてしまうのを防ぐ意味で必要なのだが、実際にそんな支配的な価値観にとらわれている人たちが大勢でよってたかって世間を形成している現状があるわけだから、それを単純に否定するわけにはいかないし、そこには何かしら功利的な意義が含まれているわけで、それをはっきりとはわからないまでも、それが確実にあることは踏まえておかないとそれによって足下をすくわれてしまうだろうし、ひょっとするとそれが否定する人たちを選別して始末するための装置となっている可能性まであり、そういうところで何事も用心してかからないと、逆におかしな先入観に基づいたレッテルを貼り付けられてお払い箱にされてしまうのではないか。


6月29日「立場のなさ」

 資本主義経済の中では金銭を介した物や情報やサービスの売買によって利益を得ることと、金銭を直接貸借することによって利子を得ることと、土地建物や機械類を貸借することによって賃料を得ることが主な金儲けの手段だろうが、他にも金儲けとはいわないが行政による徴税があり、それらの行為の中で金銭の所有者が移り変わることによって経済が回っていくわけだが、根本的なところでは人が生きていく上で必要なことをおこなう過程で生じてくる行為であり、実際には金銭に関連した活動の他にも様々なことをやらないと生きていけないわけだが、金銭に関連した活動をやらなければ生きていけないようにさせられてしまっているのが資本主義経済からもたらされた効果であり、そんな前提条件を受け入れなければ生きていけないような世の中になってしまっているわけで、そんな前提条件が生じていることから人が生きていく上で様々な問題が生じてくるわけだが、他にも直接には見返りを求めない金銭の寄付や贈与や給付や支給があるにしても、そればかりが横行してしまうと経済活動をやっている意味がなくなってしまうから、それらはあくまでも補助的な手段に留まるわけだが、なるべく金銭に頼らないで生きて行くには自給自足や物々交換などによって生存に必要な物資を確保しなければならなくなり、現状ではほとんどの人がそういった方法では生きられないような環境で生きているわけだが、だからといってこれから無理にそういった環境を人為的に変えていく必要はないだろうし、金銭に関連したやりとりによって生きている現状があるならそれを続けていくしかないわけだが、成り行き次第でそうなる可能性もあるとしても、それはそういう成り行きになってからそういう成り行きに巻き込まれた人たちが対応することになるが、現状では金銭的なやりとりに巻き込まれている人たちがそういう成り行きの中で対応しているわけで、そういう成り行きに受動的に巻き込まれている限りで、自らが巻き込まれている成り行きをどうすることもできないのかも知れないが、中にはそんな成り行き自体を変えようとしている人も出てくるだろうし、それが集団による試みになればある程度の社会的な作用や影響力を生じさせて、完全にそれができるわけではなくてもほとんど金銭的なやりとりを介さない生活が実現する場合もあるかも知れないし、実際に世界には自給自足や物々交換がメインで成り立っている社会もあるのかも知れないが、そうした社会にも金銭的なやりとりで成り立っている社会に特有の問題とは違った面で特有の問題が生じているだろうし、どちらの社会が良くてどちらの社会が悪いかとか、あるいはどちらの社会の文明が進歩しているとか、どちらの社会の方が環境に優しいかとかいう比較ではなく、その場に生じている前提条件を踏まえた上で行動するのが妥当なやり方になるにしても、行動した結果として前提条件が無効になってしまったら、それは前提条件を無効にする目的で行動したわけではないとしても結果的にそれを実現したことになるわけで、そうなることを目指して行動したわけではなくてもそうなってしまったことについては、そのまま素直に結果を受け止める必要があるのかも知れないし、そうなってしまった結果を無理に否定する必要はないわけで、そういうところで目指してきた目標や目的にこだわってしまうと、状況認識や判断を誤ってしまって、せっかく巡ってきた絶好の機会を逃してしまうようなことになりかねず、そこで自らが保持してきた主義主張にはこだわらずにさっさと方針転換ができれば、結果的にうまくいくようなケースも出てくるかも知れないが、そこで何がうまくいくのかといえば、自らの思惑通りというわけではなくても、それどころか自らの思いを裏切った形であっても、なぜか結果的にはうまくいったような気がするのかも知れず、そういうところが微妙なのだろうが、それまでにひたすら強硬に主張してきたことが実現しなくてもかまわないということではないが、それはそれで実現しようとしてきたことをそのまま続けるような成り行きになっていれば、そういう成り行きに身をまかせればいいのだろうが、たぶん転機が訪れることもあるわけで、そこが運命の分かれ道なのかも知れないが、そこからどちらに向かってもかまわないだろうし、実際にどちらかに向かった結果としてどうにかなってしまうわけだろうが、今までやってきたことにこだわり続けてもかまわないのに、なぜか方針転換を強いられてしまう成り行きもあるわけで、すでにそんな成り行きに巻き込まれてしまっているにもかかわらず、未だに意識が切り替わっていないとうまくいかなくなってしまうのだろうし、すでにそんな成り行きに巻き込まれているのにそれに気づかなければ、今まで通りのことをやれているにもかかわらず、何かそれが的外れのように思われてくるのかも知れず、そんなしっくりこないような感覚を覚えるなら、それが身の回りの環境の変化を肌で感じていると表現するようなことが起きているのかも知れないし、なかなかそれをはっきりと知るには至らないだろうが、これまで当然のこととして前提してきた事情や条件などに変化の兆しが現れているのかも知れないし、そういうところでそんな兆しを敏感に察知できればそれを自覚していなくても身体が勝手に反応して、それが変化に対応するような行動にも結びついてくるのかも知れないが、そういったことがその場ではほんの些細な変化しかもたらさなくても後々に響いてきて、資本主義経済そのものをひっくり返すとかいう誇大妄想とは違う何らかの模索が生じるきっかけとなるのかも知れないし、そういうところであまり性急に過大な結果を空想せずに粘り強く現状の延長上で思考しなければならないだろうし、誇大妄想に陥る手前で踏みとどまらないと論理的な飛躍を伴ってしまうわけだが、それがたとえ何らかの理論や理屈として形をなさなくても、絶え間なく変わり続ける社会現象の類いを感知できれば、それなりに世の中の状態や状況を把握したことにはなるのかも知れず、そこからどんな活動をもたらせるわけではないとしても、自然とその場の状況に合わせた思考や行動に結びつけばそうすることが社会実践ともなるだろうし、一定の形式にならなくても臨機応変な対応としてそれなりの効果を期待できるかも知れないし、事を大げさに捉える必要はないわけだが、自らの存在や活動や主義主張に殉じるのではなく、人や物や情報などが絡み合った関係性の中で生きていることが人の現実の姿であり、その中で存在の有り様や活動の状態や主義主張の内容などが絶えず揺れ動いているわけで、そこから一定の傾向が導き出される契機が訪れるとしても、その傾向がそのままの状態や形にいつまでも留まるわけでもないだろうし、そういうところで絶え間ない変化の兆候やそこへと留まろうとする力の存在を感じ取ることが肝心だとしても、その一方でそういった言語表現で捉えられるような状態から逸脱するような傾向も生じてくるわけだから、意識や言語表現によってどういった傾向を捉えたとしてもそれとは別の傾向も同時に生じているとすれば安心はできないわけで、世の中の全ての傾向を同時に捉えることはできないとしても、自らの思考や行動がそれらの傾向のいくつかに同期すれば、何かそれを感じ取ったと思うだろうし、それが現状で成り立っている世の中で生じている特徴的な傾向だと思うわけだろうが、自らの思考や行動と合わないような傾向も生じていれば、それに気づかないことにもなるだろうし、そういう気づかないことに気づく機会が巡ってくると、何かそこで自身に転機が訪れたような気になるわけだが、そこから急に視界が開けて今まで見えていなかった光景が見えてくるとしても、それはもとからそこにあった光景である可能性もあるわけで、今まではそれに背を向けていたのに何かの加減で不意に振り向いてみれば、何か見たこともないような光景を目にした気になってしまうのかも知れないが、それが錯覚ではないにしても大したことでもないのかも知れないし、例えば今までは売る側だったのが買う側になったり、借りる側だったのが貸す側になったりすれば、確かに視点が今までとは逆になり、立場も逆転したことに気づくかも知れないが、かかわっていることに関していえば同じ行為にかかわっているのだろうし、しかも表裏一体の関係の中にいるわけだろうが、真の転機とはそういうことではなく、そこからずれることであり逸脱してしまうことかも知れないし、売る側でも買う側でもなく借りる側とも貸す側とも異なる立場に突然移動してしまうことかも知れないが、それがどういう立場だとも表現できず捉えきれないような立場になってしまえば、そこでわけがわからなくなってしまうのかも知れず、しかもそういう立場とも言えないような立場というのも普通にあって、そうなると立場がないように思われるかも知れないが、そうなっている限りでそれでかまわないのかも知れないし、そんな立場がないような立場に留まっていては危険なのかも知れないが、そういう立場に留まっていないと見えてこない光景というのもあるのかも知れず、たぶんそういう機会に巡り会うことが幸運なのだろうし、そうなってしまったからといって、立場がないことからくる危険を察知してすぐにそこから離れようとしないで、事情が許す限りでその場に留まっていた方がいいのかも知れないし、時にはそういう社会的な立場とは言えないような立場を体験してみるのも一興なのではないか。


6月28日「旧主勢力」

 現状では血気盛んな国家主義者が苛立っていて、自らが納得できるような国家の内実を切実に求めているのかも知れないが、それが現代的な国家の在り方との間で矛盾をもたらしているとしても、矛盾していて当然なのかも知れないが、それを血気盛んな国家主義者が理解できるはずもなく、国家に内実がないことに不満を感じていて、その不満が暴発したり暴走すると暴力的な行動となって表れるのだろうが、そんな暴力的な行動自体を国家の空疎な内実が誘発しているわけで、結局は国家主義自体が暴力的な軍事攻撃以外の何ももたらさないことを明かしているわけだが、政治的な主導権を握っている人や勢力にしてみればそれでは困るわけで、軍事攻撃は国の内外の政治交渉の範囲内で使われるべきで、威嚇目的の延長上で行使されるものだと捉えているだろうし、それが全面戦争に至ってしまうと制御が難しくなってしまうから、時折想定外の暴発や暴走を起こすにしても、政治的に後始末がつけられる範囲内にとどめておかないとならないわけで、そんなわけで政治関連の指導者や主導権を握っている勢力としては、それが内政や外交などの交渉でどうにかできる範囲内に収まるように、暴力の加減を調整しようとしているわけだが、時には限度を超えて軍事力や警察力が行使されてしまうわけで、そういった偶発的な暴発や暴走もその場の情勢や状況に合わせてうまく利用できればそれに越したことはないわけだが、自分たちにとって不利にならないように処置を施すにしても、それが後始末としてどれほど効果を上げるかは、実際にやってみないことには何とも言えないだろうし、国家統治にほころびが出てしまうのはそういうところからかも知れないが、そういう面で民主的な政治体制でない中国の指導部には責任逃れができないし、政権交代ができないのが強みでも弱みでもあるわけで、しかもそんなのはどうでもいいことだとは思えないにしても、別に中国の政治体制がどうなろうとかまわないような自立的な中国経済になりつつあるのかも知れず、政治主導で国家経済を牽引するのではなく、国家経済にとっては政治的な支配体制がお荷物になりつつあるとすれば、共産党自体がアンシャンレジーム化してくるだろうし、そういう成り行きは避けたいところかも知れないが、避けようとしても避けられないのが政治的な空洞化であり、それが中国政府だけではなく世界共通の現象であれば、特に中国だけの問題でもないわけだが、実際にそうなりつつあるとすれば、中国も他の国々と同じように政治的な支配から行政的な統治へと移行しつつあるといえるのかも知れないし、それだけ政治的には主導権を握っている勢力の力が弱まってきて、政治が形骸化するのに伴って行政的な統治の傾向が強まってきたといえるだろうが、行政的な統治が何を意味するのかと言えば、悪く言えばそれは事なかれ主義であり、何事も右から左へと受け流して事務的な処理や対応に終始するだけだが、それでは何もやっていないのと同じことなのではないかと疑問に感じるだろうが、事務処理ができればそれでかまわないわけで、何らかの行政上の問題に関して意見を言いたい人たちを選んで招いて意見を言わせて議論を戦わせて、行政がそういう場を提供して会議の類いを開催すれば、それで何かをやったことになるわけで、その結果として新たな法整備や法律の改正や制度の変更が決まれば、関係する行政機関がそれに対応したことをやればいいだろうし、行政としてそれの成否は問わなければ、それが効果や成果を上げようと何の効果や成果をもたらさなくてもそれが成功しようと失敗しようと痛くもかゆくもなく、そういう対応をしたことが行政として仕事をしたことになるわけで、ただそんな範囲内に活動が収まっていればそれでかまわないわけで、それ以上でも以下でもないわけだが、そうであれば自らの体制の維持以外に何か目的があるわけでもなく、形式に事務作業をこなすだけの機関になってしまうわけだが、それ以外に何かやることがあるかとなると、他に何があるわけでもなければそれでかまわないのだろうが、それでも何かがあるように見せかける必要が生じればそこに何かを作ろうとするだろうし、実際に会議をするために施設を作って、その施設の中に人を集めて会議をさせるのだろうし、会議をした後に会議をしたことに関して報告書でも作成すればそれで何かをやったことにはなるだろうが、会議をやってもその中で何も決まらなければそれでもかまわないどころか、その方がかえって好都合だろうし、下手に気を利かせて面倒なことをやる羽目になってしまうとそれだけ余計な作業を強いられてしまい、それだけ予算が余分にかかってしまうわけだが、そんな予算を自分たちの息がかかった業者に回せばそれだけキックバックが入ってくるのかも知れないし、あからさまにそういうことをやっているのがばれると問題になってしまうが、ばれないように事を進めているうちは、そこでも何かをやっていることになるわけで、そういうことをやるのが仕事になれば、それもそれでかまわないのかも知れないし、それがそういうことをやる担当者の意志でやっているとまずいにしても、そういうことをやるのが慣習となっていれば半ば自動的にやるようなこととなってしまい、できればそういう慣習を作りたいわけで、それが当たり前で通常の動作になるように事の成り行きを持って行きたいのだろうが、そうなったからといって何がどうなるわけでもなく、そんなことが普通におこなわれている限りで何の問題もないことかも知れないが、そんなことがおこなわれている分だけ他のことができなくなるわけで、そっちがメインになってしまうと他が後回しとなってしまい、その後回しとなってしまう他のことというのが行政機構にとっては何のメリットもないことであったりすれば、結構それが住民にメリットがあることであったりするのかも知れないし、そうなると行政と住民との間で利害が対立することになるだろうが、逆に行政の他にも政治家や企業にメリットがあることが住民には何のメリットもないことであれば、なおさらそちらの方が優先されるだろうが、なぜそうなってしまうのかといえば、住民の間でも格差や利害の対立が生じていて、行政や政治家や企業の味方となってくれる住民と行政や政治家や企業と敵対している住民とに分かれていれば、当然の成り行きとして敵対している住民が除け者となってしまうだろうが、敵対しているようには見なされない住民も中にはいて、しかもそういう住民が世の中の多数派を構成しているわけではなくても、それなりの勢力を形成していれば、そういう勢力が行政や政治家や企業の味方として機能していることになるだろうし、それが行政や政党や企業の傘下に入っている住民たちであり、組織の構成員でもあるわけだが、そういった組織の構成員と、自発的に行政や政治家や企業の味方となってくれる住民との間にどのような違いがあるのかといえば、組織の利害で動いているか否かの違いであり、組織の利害で動いている人は自分の利益を犠牲にしてでも組織の利益を優先できる傾向があり、住民としての自分には何のメリットもないことでも自らが所属する組織にメリットがあればそれでかまわないようなことになり、そこから心理的な葛藤や負荷が生じるのかも知れないが、それも意識できないと自分がなぜそんなことをやってしまうのか理解できないしその自覚がないだろうが、そうやって自らに不利益をもたらすようなことを平気でやってしまい、結果的に自分で自分の首を絞めるようなことになってしまうわけだろうが、実際にそんな結果をもたらしているのにもかかわらず、相変わらず組織の利害を優先させている人もいるだろうし、それが自己滅却であり、自らが利益を得るのを自粛することでもあり、組織からの同調圧力に屈することでもあるのだろうが、それに関しては戯れに現状からかけ離れた例を持ち出すなら、キリスト教が形成される初期段階で起こったことで、なぜか放っておくと信者が勝手に修行して超人的な力を身につけようとして、インドや中国の山奥に生息しているとされる仙人のようになろうとしてしまい、空中浮遊や幽体離脱をやっているような妄想にとらわれて、そんな力を身につけるために人里離れた砂漠の中でひたすら難行苦行に取り組むようになってしまうから、そういうことをやめさせるためにも修行者を修道院に集めて師の指導の下で修行させるような制度となっていったわけで、そうなると今度は逆に徹底的に弟子の力を削いで師が命令すること以外は何もやらせないような傾向になってくるわけで、何か自らが欲望が抱いているとすればそれは心の中に悪魔が住まっているからであり、悪魔の誘惑に屈しないためには欲望を抱かないように訓練しなければならないという成り行きになるわけだが、そもそも自らの利益というのが欲望を実現することであるなら、その欲望というのが本来であれば過酷な修行の末に超人的な力を身につけることになるわけだから、それを断念させることが組織としての宗教教団の目的となって当然それが信者の利害と対立することになるわけだが、組織の利害に適うなら個人には何もやらせないことになるわけで、しかもたとえそれが組織のトップであるとしても同様なことがいえるわけで、結局そこから強引に言えることは、組織のトップの地位にある人が何もやらないとしても、それが組織としての利害に適っている限りは是認されることになるわけだ。


6月27日「人の家畜化」

 明治維新以降に日本政府が国家体制を西欧の国家体制のように仕立て上げようとしたのは明らかだが、それはかつて国家体制を中国の隋唐時代の律令制に合わせようとしたことの延長上で起こったことであり、世の中を管理するやり方として飛鳥時代の末期から奈良時代にかけては隋唐の律令制に合わせて管理しようとしていたわけだが、それが明治維新以降においては西欧のやり方で管理しようとしていたわけで、そこからキリスト教の修道院などの管理体制の伝統から社会の他の構成員との横並び体質や同調圧力や自粛などの習慣も日本に移入されてしまったのかも知れないし、フーコーによれば西欧の歴史の中で社会の管理化の傾向がこれまでに何度か周期的に強まった時期があり、まずは古代ギリシアにおいて民主制のアテネが国家管理型の都市国家であるスパルタにペロポネソス戦争で敗れたことがきっかけで衰退していって、それは今日でいえば民主制のアメリカが国家管理型の国家である中国に敗れるようなことであったのだろうが、アテネが衰退していくただ中で師のソクラテスの死にも直面したプラトンが、民主制がいかに脆く致命的な欠陥を抱えているかを思い知ったわけで、そこからプラトンは哲学者が王となって国家を統治するやり方を夢想するようになっていったわけだが、それをピタゴラス派の教団から学んだようで、それはピタゴラス派の創始者であるピタゴラスにしても、自身の故郷であるイオニアの都市国家が民主制からペルシア帝国の影響下で僭主政へと移行してしまい、その僭主となったのが友人のポリュクラテスであり、失望したピタゴラスは故郷を離れてエジプトからインド辺りまでさまよい歩いて、その放浪の中で様々な知識を学んでその中で有名なのが三平方の定理なのだろうが、その末に共産主義的な教団を創ることになってそれがピタゴラスの死後もシチリア辺りで活動していて、そこへアテネを離れて放浪していたプラトンがやってきて教団から共同体を管理するやり方を学んだらしいが、そんなピタゴラス教団にしても後の古代ローマで興隆したストア派やエピクロス派にしても、またプラトン主義や新プラトン主義にしても、人を操縦して管理するような傾向が強いわけで、もちろん律令制も元々遊牧民が家畜の群れを管理するように人を集団として管理するやり方から生じたわけだから、それはモーゼがユダヤの民を羊の群れのように管理しながら導いたことに由来するのかも知れないし、国家による人民を管理する体制そのものが人を群れとして家畜のように管理することからきていることは明白なのだろうが、今日で言われる管理社会や監視社会そのものが養豚場や養鶏場で豚や鶏を飼うように施設で管理するか、遊牧民や畜産業者や羊毛業者などが牛や羊の群れを放牧しながら管理するかの違いだけで、家畜を管理する手法は本質的に大して違いはないのかも知れないが、キリスト教においては紀元後数世紀の間に修道院で信者を管理する手法が定着したわけで、その際には師の言うことには弟子は絶対に逆らえないという規律によって信者を支配する手法がとられて、その中では自らの欲望の全てを断念したり自己そのものを消し去るように教導されもしたわけだろうが、そういった管理手法がローマ帝国の崩壊から中世末に起こったルネサンスや宗教改革の時期までの千年間にわたって、キリスト教会による中世ヨーロッパの支配の中で熟成されていって、そこで管理社会や監視社会が一つの頂点を迎えたわけだろうが、当然そういった管理の行き過ぎが副作用を伴ってくるわけで、例えば修道女や修道院長などが精神的に耐えきれなくなって、ある日突然けいれん発作を起こしてそれが悪魔に取り憑かれたと見なされて、悪魔払い師のエクソシストが登場したり、教会のやり方について行けなくなった人たちが分派して独自に活動するようになれば、捕らえられて異端審問にかけられて火刑に処せられたりして、そうやってキリスト教会による中世ヨーロッパ支配が行き詰まっていった結果としてルネサンスや宗教改革などが起こって社会の管理体制や監視体制に緩みが生じたわけだろうが、そこから一時的に衰退したキリスト教会の側でもイエズス会などが設立されて信者や教会の管理に向けて巻き返しが図られた一方で、君主の側でも王国の管理や統治に向けて強化が図られた経緯の中で生じてきたのが官僚機構であり、そんな王国の官僚機構とイタリアのジェノバやベネチアなどの都市国家で生じてスペインから独立したオランダを経て覇権を握ったイギリスで資本主義的な産業とが合体して、近代的な国家体制が生まれたわけだろうが、もちろんイギリスの繁栄を他の諸国が黙って見ていたわけではなく、他の諸国でも王国の繁栄のために国家統治を担う官僚機構を強化して資本主義的な産業を育成しようとしたわけで、そんな中で資本主義的な産業の興隆によって裕福になったブルジョワ階級と国家管理をまかされている国家の官僚機構が結託して、王侯貴族や僧侶階級などと入れ替わって国家の主導権を握る上で好都合だったのが議会制度であり、議会側が旧主勢力を差し置いて優位に立つには一般の民衆を味方につける必要があったからそれが議会制民主主義の制度として確立したのだろうが、それと同時に一般の民衆を労働者として産業に縛り付けておくやり方として工場などの管理設備も発達していって、また同時に一般の民衆を国家に縛り付けておくやり方として学校で教育したり軍隊で教練したりするやり方も発達してきて、それらを含めた国家を強化するには生きている人間ができるだけ数多く長い期間にわたって健康な状態を保って産業のためにも国家のためにも働いてもらう必要があるから、そのための健康管理として医療設備や居住環境や生活環境全般にわたって関連する施設や設備や制度などの充実も図られたわけで、それに伴って病院などの施設や道路や鉄道や電気・ガス・上下水道などインフラ設備などの強化にも結びついたわけだが、そこでも管理のやり過ぎな傾向が出てきて、心身がおかしくなった人をすぐに拘束して治療する専門の施設に閉じ込めたりして、そんな中でヒステリーが精神病の一種だと誤解されて何十年も精神病院に閉じ込められて、医師の実験体として使われるような事態まで出てきたわけで、そうやって人を治療して正常な状態に戻すような試みが刑務所などの監獄でもおこなわれることにもなり、そういう矯正的なやり方もかつてのキリスト教の修道院などでおこなわれていたことの延長上にあるわけだが、その一方で絶えずそうした傾向に逆らうような行為や動作も管理のやり過ぎの反動として生じてきたわけで、それが虐げられた民衆の暴動であったり、あるいはヒッピーやエコロジストのように管理や統治や支配をできるだけなくした生活の実践であったりしたわけだが、それも一方で管理しすぎるからそれへの反動として生じるような作用反作用の法則の範囲内で起こる現象であるわけで、そういうことが表裏一体をなしている限りでそのどちらか一方を肯定してその反対の行為や動作を否定してみても、それらはあくまでもセットで生じていることなのだから意味のないことであり、自身が人や物や情報などを管理する側に属しているとしてもそんな管理に反発して逆らう行動を起こしている側に属しているとしても、どちらにしても管理や監視や統治や支配などの社会的な動作や行為の枠内で割り振られた役割分担に沿って行動したり動作しているだけだろうし、それ自体がそういう枠組みにとらわれてしまうとそうなってしまう成り行きに順応しているわけだが、家畜も飼い主に逆らうことがしばしばあるとしても、飼育環境や設備の中で生きている限りで手の内で転がされているに過ぎず、飼い主にとっては想定内のことでしかないとしても、時には飼い主も家畜やペットの類いにかみ殺されたり蹴り殺されたりして飼い主であっても何ら安泰ではないわけで、家畜やペットなどを飼うこと自体によってそれらの飼育環境に組み込まれてしまい、環境から生じる制度的な統治や管理の手法や事情や条件に則って飼わないとうまくいかなくなって、そういう制度に束縛された中で生きていく成り行きが待ち構えているわけだが、そうした制度的な枠内から逃れることはできないとしても、自身がそうなってしまっていることを自覚しようとはするだろうし、それが一つの制度ではなく様々な制度に取り込まれていることを踏まえた上で、競合する制度と制度の狭間で自由に振る舞える余地を確保しようとしたり、さらにある制度からの作用や影響を別の制度からの作用や影響と相殺させたり、逆にそれらが相乗効果をもたらすように作用や影響の加減を調整しようとしたり、制度そのものを利用して使いこなすような成り行きに持って行こうとするわけで、そうなると制度にただ付き従うだけの盲従ではなく、またやられたらやり返すような反発したり反抗するだけでもなく、制度があることを前提として制度と対等に付き合う関係を構築するようなことにもなってくるのかも知れず、そうなることまで考慮に入れれば制度に従うか逆らうかの二者択一的な論理からも外れることができるかも知れないし、制度や慣習への同調圧力が加えられたりそれらに逆らうことを自粛するように促されても、あからさまにではなく穏便に事を運んでうまく折り合いをつけるような成り行きへと持って行くことになれば、それだけそれらの作用や影響に対しても粘り強さが生じていることにもなるのではないか。


6月26日「山本太郎とパリ・コミューン」

 今の日本がフランスの第二帝政期と同じように国民自らが民主主義を放棄した時代であることは歴史に詳しい者なら普通に気づくことだが、フランスの第二帝政期がその後の世界に起こる様々な典型例をもたらしたにもかかわらず、歴史的には何の重要性ももたらさなかったように、今の日本も世界史の中では何の重要性ももたらしていないにもかかわらず、しかも空疎な政治状況はフランスの第二帝政期と何ら変わりないのに、その後の世界に起こる様々な典型例を提供することになるのかも知れないし、第二帝政期自体も二十年近く続いた後にあることがきっかけであっけなく終わってしまったのに、同じような時代状況がその後も延々と続いていくことになったわけで、その中でも日本で山本太郎が中心となって起こしている政治運動がパリ・コミューンとある程度は重なる面があるにしても、運動の結末がパリ・コミューンのような悲劇的な結果をもたらすわけでもないにしても、また虐げられた労働者たちが山本太郎の呼びかけに呼応して決起するわけでもないのかも知れないが、政治面で民主主義がないがしろにされて資本主義経済の進展によって経済格差が目立ってきた状況の中では同じようなことが起こるわけで、そんなふうに感じられるのが現状の日本の空気でもあり、フランスの第二帝政期から延々と続いているにもかかわらず、誰も何とも思っていないような世界的な空気でもあるのだろうが、それを一言で表現すれば社会の大衆化ということであり、そんな空疎で衆愚的な雰囲気を敏感に察知した者が、理由はどうであれ政治的に何とかしようとして民衆に向かって今よりもっとマシな社会に変えていこうと訴えかけるわけだが、それに対して社会を覆っている衆愚的な雰囲気に慣れきってしまった人たちの反応は鈍いだろうし、世間の雰囲気に慣れきっていない一部の若者たちを除いて、この先も笛吹けど民踊らずな状況が続いていくのかも知れないが、もちろんパリ・コミューン的な試みは最近の例では香港でもシアトルでも山本太郎の政治運動の中でも、程度や内容の差こそあれ世界の方々でこれからも起こるにしても、世界的には大して注目もされないだろうが、それよりは環境活動家のグレタ・トゥーンベリなどの方が話題性が高いにしても、それが良いとか悪いとかいう評価とは別に、日本の事例が世界に及ぼす影響が意外に大きいのかも知れないし、日本の現状の中で起こっていることが今後の世界でも起こっても、その関連性に注目する人はほとんどいないのかも知れないし、世界史的にも中国やアメリカなどの大国に比べれば日本などはどうでもいいような存在でしかないのに、それでも人知れず世界が日本化していって、全世界が日本病に感染してしまっても全世界がそれを無視し続けるかも知れないが、それはヒトラーやナポレオン・ボナパルトには注目するが、ナポレオン3世には誰も注目しないのと同じようなことかも知れないし、もちろん注目に値するような業績は何一つ残さなかったのだから注目しようにも注目しようがないわけだが、それと同じようなことが現状の日本にもいえるだろうし、何も政治的には注目に値することが起こらないのに、かえってそういう状況の中で蔓延している世の中の空疎な空気というのが世界中に伝染するわけで、それが何でもないようなことだからこそ誰もそこへ手を加えようがないだろうし、何か派手な暴力の応酬によって流血沙汰が起こっているわけでもなく、そうかといって何もおこなわれていないわけではなく、現状をどうにかしなければならないと必死に訴えかけている人もいるわけで、そういった活動そのものが民主主義的な政治活動の模範となって、これから世界中に伝播していくのかも知れないが、それが現状の世界情勢からはかけ離れているだけに誰も注目せず、世界がそれに気づかないわけだが、それでもそれがこれから世界標準となる政治姿勢なのかも知れないし、一見何でもないような活動が誰もが見習うべき活動内容になり、誰もが気軽にできる活動ともなり、何でもないのだから何の効果も成果ももたらさないのかといえば、誰もができるという効果をもたらしていて、実際に世界のどこでもそんなことがおこなわれる状況になってくれば、それが現状でおこなわれている運動の成果となってくるわけだが、それでも何かそこで事件が起こらないと注目には値しないだろうし、実際に何らかの肯定できるような事件を起こそうとしているのかも知れず、それが目指すべき政治的な成果だと思いたいのかも知れないが、すでにそこでおこなわれていることが効果や成果をもたらしているとは誰も思わないだろうし、誰もそれに気づいていないかも知れないが、第二帝政期の何でもないような衆愚的な大衆市民社会がその後の世界標準となったように、日本でおこなわれている何でもような民主主義を尊重するだけの左翼的とも嘲笑される政治運動がその後の世界標準となるのかも知れず、それに関してはどうしても欧米に模範となるような事例があるかのように思ってしまうわけだが、どう見ても欧米の政治運動とは違う面があるだろうし、何よりも民衆が政治に関してあるいは民主主義に対して何の幻想も抱いていないのが、ともすればそれが欧米の政治理念にかぶれた人たちには政治的な無関心と受け取られてしまうわけだが、それは政治だけではどうにもできないことがあるのを民衆がわかっているということであり、それが資本主義的な経済活動だと見なせばそれなりに説得力が生じるかも知れないが、それに関しても幻想を抱いていないし、それが政治的な主張にも表れていることが見過ごされてしまうのだが、要するに理念とかそういう高邁なこととは無縁に政治的な手続きを介してできそうなことをやってみようということであり、それを実際にやってみるような成り行きに持って行ければいいわけだが、それには民衆からの支持や賛同が伴わないとできないわけで、選挙運動の中でやらなければならないことを明確に主張して、それができることを証明するには主張している立候補者が当選して政治権力を行使できる立場を占めなければならないわけだが、結果的にそこまで至っても至らなくても、それとは違う面で特徴的な傾向としては、政治運動自体が他の何を真似ているわけでもないということであり、またそういう政治運動を成り立たせている制度自体をぶち壊そうとしているわけでもなく、制度を拘束している法律に違反するような行為を積極的におこなうわけでもなく、制度や法律の範囲内でやっていることであり、別にそれ以上を目指しているわけでもなく、極めて礼儀正しく行儀良く運動をおこなっているわけだから、本来なら何よりもそこに注目すべきなのかも知れないが、実際にメディア的には何の話題性ももたらさない特徴であり傾向なのだから、注目しろといっても無理だろうし、別にそんなところに注目する必要もないわけだが、たぶんそういった特徴的な無傾向が世界標準となり得るだろうし、日本以外でそれはあり得ないことかも知れないし、何のギミックもなしにそんなことをやっているのだから、誰の真似でもなく誰からも真似されそうもないことであるにもかかわらず、なぜかそういう姿勢や在り方が世界に広がっていく上では有利な点であるといったら、やはりそれも少し違うのだろうし、ただそういうことをやっているということでしかなく、自然にそうなってしまうようなことをやっているわけで、他の誰がそれを真似するわけでもなく、真似しないにもかかわらず、誰もが自然に同じような傾向になっていくという成り行きが今後の世界の中で形成されてしまう可能性があるということであり、そんな成り行きが世界標準といえるような傾向を実現させるのだろうが、そうなるには誰もそれに注目しないことも必須ということでもなく、単に誰からも注目されないような傾向があるということであり、その代わりに誰もが注目してしまうのが政治的な主張を訴えかけている特定の個人であり、そういった世界標準となるような訴えかけの形式ではなく、訴えかけている中身や内容に注目しつつも、訴えかけている特定の個人に注目がいってしまって、ともすればポピュリズムと見なされてしまう印象を与えているとしても、何かそういうところで事の本質が見逃されてしまっているのかも知れないが、それが本質だとも思えないだろうし、本質は主張の中身や内容を実現することであって、それ以外は無駄で無意味な装飾に過ぎないのかも知れないが、それも無駄で無意味な装飾にとらわれてしまうことが、フランスの第二帝政期から続いていて今や世界標準となっている大衆市民社会における虚無的な傾向でもあり、何かそういうところがどう考えても納得しかねるところかも知れないが、そんな形だけの空疎で衆愚的な大衆市民社会に溶け込んで、それがかつての第二帝政期や現状の日本でも支配的な傾向となっているにもかかわらず、そこで主張の中身や内容を重視するという政治的な訴えかけが世界標準となるような形式として実現しているわけだから、何かそれが奇妙で不可思議なことのように思われるかというと、誰もそうはない思わないだろうし、それ自体が何でもないことであり、実際にそれ以外には何もないことなのだから、何かそこに自然の狡知が働いていると考えてもかまわないが、そんなふうに状況を捉えるまでもないことなのかも知れない。


6月25日「活動の優先順位」

 社会的な地位と品性が釣り合っているような人はわかりやすいだろうが、果たして両者が釣り合うことがあるのかというと、釣り合っているようには見えない人の方が世の中では目立つだろうし、どちらかといえば品性が卑しくて下劣に感じられるような人が経済の分野でも政治の分野でも成功しているように思われるだろうが、そういう人は普通の一般の人たちに安心感を与えるわけで、場合によっては一般人から見下されるような人が世界有数の資産家であったり巨大企業の経営者であったり大統領や首相でもあるのだろうが、こんなにも品性が卑しくて下劣な人が成功できるのだから、自分にも成功できる可能性があると思われて安心感を与えているのかも知れないが、それもそう思わせて世の中の多くの人々に安心感を与えるような人だからこそ、安心感を利用して成功できたともいえるだろうが、では成功するには品性が卑しくて下劣でなければならないかというと、それが成功するための必要条件ではないにしても十分条件にはなるのかも知れず、品性が卑しくて下劣だからこそ成功したわけではないにしても、成功した人には品性が卑しくて下劣な人が多いことも確かであり、そうでなくても品性が卑しくて下劣な人などいくらでもいるわけだから、成功するために意図して品性が卑しくて下劣なふりをするのは間違っているはずだが、演じるとはそういうことでもあり、わざと否定的な面を見せようとすればそれは演じていることになり、間違ったことをやっていることにもなってしまうのかも知れないが、無理して演じているように見せかければ、大抵の人にはそれが見え透いた演技であることがわかってしまうだろうし、わざとそれをわからせようとしているわけではないにしても、そういう見え透いた演技には何かそれを見る人の心に訴えかけてくるものがあるだろうし、その人が無理にそうせざるを得ないような状況に追い込まれているような気がしてきて、それを察して何かいたたまれなくなってしまう人もいるかも知れないが、そういう逆説的な善人というのが自ら犠牲者の役割を引き受けてしまっているわけだが、もちろん当人にその自覚があるとは限らず、その人もそういった世の中の空気を敏感に察知して、それと自覚せずにそういう役回りを引き受けてしまっているのかも知れず、どこまでそれを感じ取って演技しているのかは当人にも周囲の人たちにもよくわからないところかも知れないが、神の見えざる手に操られながらそういう役割分担が自然に生じてしまうとしても、だからといってそういう役回りから逃れようとすれば、神からも運からも見放されてしまうだろうし、しかも自らがそんな役回りを演じてしまっていることに気づいてしまうとまずいと思ってしまうのかも知れず、それを意識し出すと演技もぎこちなくなって迷いも生じてきて、実際に演じるのをためらってしまうと神からも運からも見放されてしまうのかも知れないが、何かそういうところで終始無自覚に自らが担わされた役回りを演じきれるかどうかが事の成否を左右してくるのかも知れないし、それを自覚してしまうことから演じることの危機が生じてしまうのかも知れないが、それも自然な成り行きでそうなってしまうのかも知れず、無理にそれを自覚させることによって神がその人に試練を与えているわけでもないだろうが、試練というのは時も場所もわきまえずに不意にやってくるものなのかも知れないし、そこでその人がどう振る舞うかがそれ以降のその人の運命を決めてしまうのかも知れないが、少なくとも予定調和のようにしてあらかじめ運命が決まっているわけでもないのだろうから、後からいくらでも挽回が可能な場合もあるだろうが、いったんそういう役回りから外れるような成り行きになってしまえば、素直にそういう成り行きに従っておいた方がいいだろうし、いつまでもそれを演じることにこだわっていると、未来への道が閉ざされてしまうことにもなりかねず、身の破滅を招くまで損な役回りを演じ続けるような筋書きになっていなければ、まだ神にも運にも見捨てられていなかったことを確認できる機会に恵まれるかも知れないが、そんな機会を自分でつかみ取ろうとしなければならないか、つかみ取ろうとしなくても勝手に与えられてしまうかは何とも言えないところだろうが、その決断を迫られる機会も不意にやってくるのかも知れず、何の準備も心構えもできていないのにそれを迫られてしまうわけだから、それが一種の賭けだと思われて、そこで伸るか反るかの大ばくちをやっているような気になってしまば、途端に神からも運からも見放されてしまうのかも知れないが、それも成り行き的にそう思わせるように仕向けられてしまうわけだから、そう思ってしまうのも無理はないわけで、そういうところで運命の歯車が狂うような構造上の欠陥があるのかも知れないが、それが何の構造なのかといえば社会の構造になるわけだろうが、欠陥を利点だと勘違いして利用すればそれなりの報いも受けるだろうし、その報いが実際に何になるかは具体的に何を利用したかによって異なってくるだろうが、例えば世間の信用を逆手に取れば世間からの不信感を招き、金銭を利用して無理なことをやれば利用できる限度を超えて利用しなければならなくなって、限度を超えた分については返却を求められなくても信用上の負債となって、後にそれが心理的な負担や重荷にも変わってくるかも知れないが、そこから試練が始まっているわけではなく、それを利用するように仕向けられて、誘惑されているように思われるところからすでに試練が始まっているのだろうし、誘惑されるがままに無理なことに手を出してしまえば、その時は確かにうまくいくにしてもそれが後々になって響いてきて、肝心なところで足を引っ張るように動作するわけで、そうなれば後悔先に立たずということわざ通りになってしまうわけだが、実際にそうなってしまったとしてもはじめから罠が張り巡らされていたわけでもなく、自ら墓穴を掘ってしまったわけでもなく、そうすることによってそれなりの効果や成果を得られたはずで、そんな効果や成果の裏返しとして余計な報いも受けるわけだろうが、それらは表裏一体のものなのかも知れず、表裏一体となっているからこそ、そんな行為に伴って生じる社会的な地位や品性もそれにふさわしい中身になってくるわけで、それを自業自得と解釈しても好意的に受け止められてしまうような逆説も生じてきて、そんな結果を世間的な良識に照らし合わせると釈然としなくなってしまうわけだが、それは地位が人を駄目にしているわけではなく、駄目であるからこそ手に入れられた地位というわけでもないとしても、そんな状況の中でやれることをやった結果としてそうなってしまうわけだから、特にそれで問題はないわけで、はじめからそうなってしまう可能性があったわけだから、そうなってしまう人もいる一方でそうはならない人もいるということであり、たまたまその人はそうなってしまったにしても、中にはそうはならなかった人もいるという程度のことであり、そうなるかならないかは大した問題ではなく、そうなってしまう人もそうはならない人もいくらでもいる中で、たまたまその人がそうなってしまっただけのことであり、そうなってしまったからといってそれが取り立ててどうということはないわけだが、逆にどうということがあるような成り行きというのが、何やら希少価値を伴うような成り行きなのだろうし、そんな希少価値を獲得するような成り行きに巻き込まれている人も中にはいるかも知れないが、その人が強いられてそうなったのかといえばそうではないだろうし、その人は自発的にそうなるように自らを仕向けているはずで、それがその人を自覚なき演技に駆り立てているとはいえないだろうが、端から見れば何か犠牲者の役を自ら進んで引き受けているようには見えるだろうし、それはそう見る人の勘違いなのかも知れないが、それがあながち勘違いにはならないような成り行きも伴ってしまうわけで、当初はそんなつもりもなしにそんなことをやり始めてしまったことが、それよりはもっと前向きで積極的な目的や目標を立てながらおこなってきたことが、途中から思いがけない使命や運命がどこからともなく付け加わってきてしまう成り行きというのもあるのかも知れず、それがその人のあずかり知らないことであっても向こうから勝手にその人を標的にして矢を打ち込んでくるのであり、それが避けられない宿命を伴っていれば、たとえそこから逃げても執拗に追いかけてくるだろうし、そんな宿命に追いかけられているうちがその人の活動の全てであれば、宿命から逃げ切ることがその人の目標となってしまうわけだが、何かそれも逆説的な活動内容となってしまって、活動そのものに解消不可能な矛盾が含まれているのだが、その矛盾に気づかないことが逃げ切れる条件ともなっていれば、さらにややこしい事態に直面していることになってしまいそうだが、もとからわかりやすい成り行きになっていればわざわざそんなことには首を突っ込まないだろうし、それをやることに関して単純で明確な理由や動機があるからそれをやればいいと思われるにしても、実際にやってみればそれだけでは済まなくなるのもよくありがちな成り行きだろうし、そんな後からつけ加わってくる余計な事情や経緯に振り回されているうちに、当初に抱いていた明確な理由や動機が揺らいでくるようなことがあれば、そこで試練にさらされていると思うのも当然だろうが、それ以上に余計な事情や経緯の方が当初の目的や目標よりも重要度が高いようにも思われてくるのではないか。


6月24日「時流に乗ることの有利さ」

 感じ取れることは人や物事が作用し合い影響し合って起こることを、論理的な筋道を通して理屈から思考した結果としてわかることとは違い、単なる全体としての印象を感じ取っているに過ぎないことかも知れないが、そうなるしかないのであり、普通はそうなるのだろうし、それ以外はあり得ないわけだが、あり得なくてもかまわないのだろうし、しかもあり得ないようなことが現に起こっていて、普通にあり得ないことが起こっているにもかかわらず、それを普通に受け止めてしまうわけで、そうなると何も驚きようがないわけだが、そう感じ取っている人にはそれでかまわないのであり、何かそうなってしまうことが自然な成り行きとなってしまうわけだが、それでも感じ取っていることを意識できるかとなると、その全てを意識できるわけではないし、意識したとしてもそれを自身の都合や事情に合わせて解釈してしまうと、都合良く解釈した分だけ感じ取っていることから微妙にずれてきてしまうわけだが、それを感じ取っていることだと解釈してしまうと、さらに勘違い気味にずれが拡大してしまうだろうし、そういう意味で感じ取っていることをそのまま意識するのはかなり難しいのかも知れないが、いくら考えるよりも感じ取れと自らに言い聞かせても考えてしまうわけで、考えた結果として出された結論の中身がそれなりにもっともらしく思われることだとしても、それをそのまま感じ取ったことだと解釈してしまうと、それはとんだ勘違いになってしまうわけだから、そういうところで感じ取っていることとそれについて考えて都合良く解釈したこととの間に生じている違いやずれを意識しておく必要があるかも知れないが、その必要を感じ取れなければ意識の中で何らかの混同が起こってしまうわけだが、そうならないためには感じ取ったことを意識しない方がいいのかも知れないし、下手にそれを意識しようとしてしまうと、そこで立ち止まってそれについて考えてしまって、せっかく感じ取ったことを活かせなくなってしまうのかも知れないが、それを活かすも何もその人次第なところがあり、活かす機会が巡ってこなければせっかく感じ取ったことが無駄となってしまうのかも知れないが、たぶん無駄になってしまうと考える必要はなく、別に感じ取ったことが活かされなくてもかまわないのであり、そうでなくても年がら年中絶えず自らを取り巻く周囲の状況を感じ取っているわけだから、そうやって感じ取っていること自体が物事を感じ取るように機能していることになるわけだから、それ自体が機能していることになり、感じ取る機能として常に状況を判断するために役立っていると思っておけばいいだろうし、それを改めて意識して思考を経由してもっともらしい意味や理由付けをして解釈するまでもないことなのかも知れないし、思考するだけ無駄なのかも知れないが、無駄に考えて過ぎてしまうこともよくありがちだろうし、迷いがあるからそこで考えてしまうわけだが、人を迷わすような作用や影響が外部からも内部からも及ぼされていて、そうやって絶えず心理的な揺さぶりをかけられながら、感じ取っていることを恣意的に解釈するように仕向けられてしまうわけだが、そこからもっともらしく説得力を伴うような論理的な解釈が導き出されてしまうとしても、なおそこには恣意的な思惑や事情が介在していて、それを覆い隠すにはもっともらしく思われて説得力を感じられるような論理的な状況の解釈が必要になるわけだが、そういうところまで意識できるかというとできないわけで、そこに恣意的な感情が介在していることを感じ取れないわけだが、そこで何がしたいのかと言えば自らの都合や事情に合わせてうまくもっともらしく現状を説明したいわけで、そのための材料や論理を取捨選択しながら、過去の歴史的な経緯なども援用しながら話に説得力を持たせようとするわけだが、そういう説明の仕方が間違っているわけではなく、それどころか当たり前のように正しいのだろうが、それでもそれが感じ取っていることから遠く離れてしまい、そういうやり方では感じ取っていることが活かされないわけだが、ではどうやれば感じ取っていることを活かせるかとなると、それに対する答えが見つからなくなってしまい、正しい答えを導き出そうとすれば、結局は論理的な整合性や筋道が通って説得力もあるようなもっともらしい状況の説明になってしまうわけだが、それと感じ取っていることが相容れなければ、せっかく感じ取ったことが活かされなくなってしまうわけだが、感じ取ったことを活かすには説明するよりも先に行動しなければならないだろうし、行動している中で感じ取っていることを活かすわけで、行動しながら周囲の状況やそれに対する心の動きを感じ取っているわけだが、それを後から具体的に説明する段階では感じ取っていることから遠く離れてしまい、それとこれとが隔たってしまうわけだが、それはそれでありこれはこれであってそれとこれとは別々の行為であり、それはそれとしておこなっていて、これはこれとしておこなっているのだから、両者が遠く離れて隔たっていてもかまわないだろうし、それで何か不都合があるわけではないし、それらをおこなっている人が各々に不都合を感じているわけでもないわけだが、両者がうまくかみ合うかというとそうはならないだろうし、大抵は別々の人が別々のことをおこなっていて、そこに何か役割分担が生じているわけでもなく、無関係に別々のことをやっているからうまくかみ合わないのだが、かみ合う必要があるかというと両者が遠く隔たっていればかみ合わなくてもかまわないだろうし、では両者を近づける必要があるかといえば、近づければ対立して争うことになってしまうかも知れないし、また無理に連携させようとすれば双方の機能が打ち消し合って相殺されてしまうかも知れないし、結局はかみ合わずにうまくいかなくなってしまい、双方共に活かされなくなってしまうのかも知れないが、別に性質が水と油というわけでもなく、役割分担ではないとしても各々で別々に活動していることは確かであり、それを同時にこなすことはできないとしても別々のところでそれぞれに機能しているわけで、そうなっているなら両者を結びつけて捉える必要はないのかも知れず、別々の方面で別々の人がおこなっていると捉えておけばいいのかも知れないが、実際には合理的な説明をおこなってしまう人がそれに基づいて行動するわけで、自らの正しい状況認識や情勢判断を実際の行動や行為に活かそうとしてしまうわけで、そこで状況を正しく説明することとは全く違う困難に直面してしまうわけだが、正しい説明を活かすように行動しようとするとうまくいかなくなってしまい、また実際にうまく行動している人を正しい状況認識や情勢判断に基づいて批判するような成り行きにもなってしまうわけだが、要するにうまく行動することと正しく行動することとは相容れないわけで、正しい状況認識や情勢判断に基づいて正しく行動しようとすればたちまちうまくいかなくなってしまうのだから、うまくいくには正しいことをやっていてはまずいわけだが、ではどうすればいいのかといえば、間違った状況認識や情勢判断を信じている人たちに支持され賛同されるようなことやらなければならないだろうし、そういう人たちと一緒になって行動すればうまくいくわけだが、それは赤信号みんなで渡れば怖くないということであり、そうすることによって取り返しのつかない大変な事態が引き起こされるように感じられて、実際に正しい状況認識や情勢判断をするような人たちが危機感を募らせて、このままでは危ないと警鐘を鳴らすわけだが、赤信号をみんなで渡っている人たちは一向に聞く耳を持たないだろうし、大抵はそうやって世の中全体が破滅に向かって突き進んでいるように感じられるかも知れないが、それも実際にそうなってからでないとわからないわけで、そうなってからそら見たことかと言う人がいくらでも出てくるかも知れないが、途中でそれを止められなかったのだから後の祭りであり、そこに至るまでの間でうまく状況や情勢に合わせて行動できる人が実際にうまくいっていることになるわけだから、それが現状の中でうまく行動できている人でもあるわけで、逆に現状に批判的な人はそれだけでそういう方面ではうまくいっていないことになるだろうし、そういう人は時流に乗れないし、時流に乗ること自体に疑念やためらいを感じているだろうし、何よりも時流に乗って調子良く振る舞っている人たちが軽薄で愚かに見えてしまうわけだが、では実際に時流に乗っている人たちがそのまま破滅に向かって突き進んでいるのかというと、そうではないのかも知れず、本当に破滅に向かって突き進んでいるのだとすれば、まずは時流に乗りきれなかった人たちが先に破滅してしまうのかも知れないし、最後まで生き残るのは時流に乗って調子良く振る舞っている人たちなのかも知れず、それだけ時流に乗っている人たちは好機をつかんでうまくそれを活かしているわけだろうし、周囲の状況や情勢をそのまま感じ取っているわけだ。


6月23日「幻想に対する免疫効果」

 この世界の状態や有様が人の意識にどのような幻想をもたらしているとしても、そういうことも含めて現実の世界が存在していて、世界への幻想も現実の世界の一部として機能しているわけだが、そんな幻想をもたらす機能から遠く離れて想像力を発揮させることはできないとしても、実際に想像する内容はありそうなことを想像する場合があり、もちろん全くあり得ないことも想像できるにしても、現実に起こっている出来事の延長上で想像すれば、現に存在していたり起こっている物事を組み合わせて想像するから、想像している人にとってそうなる可能性のあることを想像するわけで、そして想像通りのことが現実に起これば予言が的中したかのように思われるのだろうが、それは現実に存在していたり起こっている物事を組み合わせて想像しているのだから、普通にあり得ることであり、実際に予言が当たることがあるのだろうが、だからといってそれが何か神がかったことではないのかも知れないし、予言が当たったからといって予言者が何か凄い力を持っているとは言えず、たまたまそうなることもあるということぐらいに捉えておけばいいことでしかないのかも知れないが、そこから言えることは何かの力が作用して物事が動くことも普通に起こるということであり、実際に誰かが力を加えて何らかの物事を動かすことができたからといって、それによってその人の力の凄さが証明されたということではなく、そういうことが普通に起こるということであり、そんな成り行きの中で現実に起こっていることは、確かに力が加われば物事が動くということ以上ではないとしても、そこから力を加えた人が凄いと想像してしまうわけで、それも実際に力が加わってその力を加えた物事が動いたという事実から想像していることなのだろうが、確かに力を加えた人が凄いと想像してしまうとしても、実際に起こっているのは力が加わって物事が動いたという単純で当たり前のことでしかないわけだから、それが何でもないことだと思うのは間違いだろうが、当たり前のことが起こっているという認識にはなかなか至れないことも確かであり、それどころか力を加えた人に何か凄い能力が宿っているのではないかと思ってしまうわけだから、そこで多くの人たちが幻想に感染してしまっているわけだが、そういった幻想の集団感染というのも世の中に何らかの作用や影響を及ぼしていて、それを逆手にとって物事に力を加えているように装うことによって人々を幻想に感染させて誘導しようとする行為もおこなわれるわけで、そういった煽動行為が功を奏して何らかの物事が動いたとしても、それもそうなるのが普通の出来事と言えるだろうし、何ら煽動者の力が凄いとも言えないのかも知れないが、煽動された人はそうは思わず、煽動者に何か特別な力あるかのように幻想してしまうわけだが、そういった原始社会のシャーマンのような存在がそれなりの数の人たちを動かして世の中に何らかの影響を及ぼすとしても、その及ぼされた影響というのも世の中の全てを覆い尽くすほどにはならないだろうし、もちろんそうした影響を大げさに捉えるのが普通の人たちが陥りがちな傾向だとしても、それが大げさという表現に当てはまることには変わりないわけで、何か過去に起こった深刻な事件や出来事を持ち出してきて、それをたとえ話に使って今やそれと同じことが起こりつつあるという仕方で危機感を煽ることもその手の人たちが用いる常套手段ではあるわけだが、それもそういうことだと普通に受け止めておくしかないのかも知れず、そこでその手の煽動者の主張を真に受けて深刻な事態だと思っておいてもかまわないわけだが、そんなふうにしてそうなるのが普通のことであっても、そこに煽動や幻想が介在してくると何やら普通ではないように思われてきて、普通の出来事が単調に起こり続けているのではなく、そこにめりはりや抑揚が感じられたり共鳴現象のようなことが起こってくれば、それによって俄然世界が興味深く思われてくるのかも知れないが、それが迷路の中で迷っているのでもなく思いがけない迂回を強いられているのでもないとすれば、普通にそうなっていることでしかなくても、そんな幻想に浸っていてもかまわないのかも知れず、そう思うことによって何か高揚感や倦怠感などを伴いながら感情の起伏をもたらしているのであり、たとえそれが現状をありのままに受け止めているわけではないとしても、そういう成り行きの中に世界の真の姿が埋もれていて、それを幻想と共に関知しているわけだろうから、それなりの味付けや装飾が施されていて、そんなふうに意識が捉えやすいように処理された世界を意識しているわけだから、それはその人の意識が捉えた世界に都合良く反映していると捉えておけばいいことなのかも知れず、現実の世界に反映しているのではなく、意識の中で捉えている世界に反映されているわけで、それが現実と幻想との間に落差を生じさせていることにもなるわけだが、そんなふうに世界を捉えている限りで幻想に対して免疫が生じていることにもなるわけで、他人がその人に力を及ぼしてその他人が見させようとする幻想に対して、その人の方でも幻想をその人が受け入れやすいように意識の中で加工していることになるのかも知れず、そうやって処理された幻想が意識の中で無害化されているようだと、その人にとって都合の良い幻想となるわけだろうし、そこで煽動者が見させようとする幻想が都合の良いように加工処理されることで、結果的に煽動者の思惑を外れるような効果がもたらされるわけだが、それが煽動行為をおこなった結果に表れると、場合によっては落胆がもたらされるかも知れないが、それは煽動者にとっては思いがけない結果かも知れないが、普通に起こり得ることでもあり、別に驚くべきこともでもないわけだが、逆に煽動が成功して満足のいく結果がもたらされたとしても、それも普通に起こり得ることであって、それも別に驚くべきことでもないわけだが、では他に驚くべきことがあるのかといえば、どちらも普通に起こり得ることであり、どちらが起こったとしても世の中がそれなりに変わる面も変わらない面もあることに驚くべきかといえば、誰もそんなことには驚かないだろうし、ならば真に驚くべきは何かといえば、何も驚くべきことに驚かなくてもかまわないということであり、何か驚くべきことがあるという前提がそこではぐらかされていて、なぜそうなってしまうのかといえば単に煽動者が煽動によって人々を驚かそうとしているからであり、それに対する防衛反応が作動しているといえるだろうし、何かそこで驚くべきことが起こっていると煽動されると、それを真に受ければ確かに驚くはずだが、メディア上でそんなことばかりがおこなわれると意識が慣れてしまって、そこで考える余裕が生じてしまい、本当に考えているのかといえばそれを意識できないから、考えているとは思えないわけだが、煽動が意識の中ではぐらかされてしまうとすれば、やはり意識の中で何らかの加工処理がおこなわれていて、その結果として入力された情報が無害化されて出力されていることになるだろうし、何が出力されているのかといえば驚きの欠如が出力されているわけで、結果的には煽動を真に受けないような現実がもたらされているわけだが、それも煽動の効果としてもたらされているわけで、そこに力が加えられて何らかの事態が動いたわけで、たまたまそれが煽動者の思惑通りではない結果がもたらされているとしても、別にそれが何ら驚くべきことではないし、そこで多くの人たちが驚いても驚かなくてもこの世界が大して変わらなければ、それは驚くべきことでも何でもなく普通の成り行きでしかないことになってしまうわけだが、要するに煽動者が煽動するようなことが驚くべきことではなく、それとは違って煽動者も気づかないようなことの中に驚くべきことが含まれているのかも知れないが、煽動者が気づかないのだから普通の一般人も気づく必要もないわけで、そんなわけで驚くべきことに驚く必要はないのに驚いてしまえば、それが結果的に驚くべきことになるにしても、誰もそれに気づかなくてもかまわないわけで、実際に誰も驚かずに気づかれないままになってしまっても、それが驚くべきことではなくなり、そんなふうにして驚くべきこともはぐらかされてしまえば、そんな世界が目の前に広がっているとしてもそれが普通のことだろうし、煽動者が驚かすようなことに普通の一般人が驚くような世界であるとしても、実際にそうなって多くの人たちがそれに驚いたからといって世界が変わるわけでもないだろうし、逆に誰も驚かないまま素通りしてしまうようなことが世界を変えるとしても、別にそれが驚くべきことではなく、何らかの物事に世界が驚くことと世界が変わることは別物であり、中にはそれがきっかけで世界が変わることもあるのかも知れないが、それによって変えられてしまった世界の中でも普通に人々が暮らしているわけだから、やはりそれは驚くべきことでも何でもないのかも知れないが、普通の人々が思うことはまず驚くべきことが起こってそれによってそれ以降の世界が一変すると思いたいわけで、そう思いたいならそう思っておいてもかまわないわけだが、そうなることを先取りしてこの先のどこかで世界が一変するような出来事が起こると予言してしまうのも普通の成り行きであり、それも誰もがそう予言したいだろうし、誰もが予言通りのことが起こることを期待しているわけだ。


6月22日「戦いの結果」

 世の中に存在する様々な物や起こっている様々なことをただ分類わけするだけでは、個々の物事の時間的な変化や場所的な状態を把握できないだろうし、また複数の物事の間にある関係や結びつきの程度や状態や傾向を把握するにもただ分類わけするだけでは不十分だろうが、ではそういうことを知るには何が必要かとなると、対象となる物事を観察したり調べたりその痕跡を探すことになるが、ただ外部から観察したり調べたり探すだけではなく、物事に直接かかわったりそれがもたらす現象に巻き込まれたり、時には自分で物事を作り出したり、それに伴って起こる事件や出来事の当事者にならないとわからないこともあるだろうし、そうなると自分一人では全てをやりきれなくなって、他人の助けが必要となってくるだろうが、そもそもそれらの全てを体験して知る必要があるのかというと、それが必要だと思っても知り得ない場合もあるだろうし、また必要だとは思われなかったり、必要かどうかもわからない場合もありそうだが、結果的に知り得ることもある一方で、いくら知ろうとしても知り得ないままとなってしまうこともあるだろうし、知り得たとしてもそれを他人に伝えたり伝えなかったりするわけだから、その人がどこまで知っているかは外部からはうかがい知れないかも知れないが、それをうかがい知る必要があるかとなると、知りたいと思って知ろうとする時もあるしそうではない場合もあるだろうし、そういうことに関していくら事前に想像してみてもきりがないわけだが、事後的に経験してきたことを振り返ってみても忘れていることも多いだろうし、また都合の良い部分だけまとめて筋が通っているように解釈してみたり、都合の悪いことは忘れようとしてみたり、忘れたつもりになってもふとしたきっけで思い出して不快な気分になったりして、思い通りにはならないばかりか、外部からわけのわからない作用や影響を及ぼされたあげくに思いがけない方向にねじ曲げられてしまったり、それ以前に世の中から作用や影響を受けてその人の人格や形成されて、その人の思考や行動も外部からの作用や影響によって制約を受けて制限されて、場合によっては操られていたりもして、しかも多くの人々が一様に操られている場合もある一方で、各々に役割分担が施されていたりもして、何らかの世論や民意に関して多数派を形成するような誘導もある一方で、少数派の抵抗勢力を形成するような誘導もあるだろうし、もちろん個々の人たちは他から誘導されてそうなったとは思わないだろうし、自主的な判断や自分の意志でそういった勢力に加わっているように思われるなら積極的に活動するだろうし、そうなってしまうことについてはどう捉えてみてもそう捉える理由や根拠がそう捉えた人の立場や都合を反映してしまうわけで、その人の都合を反映した立場や境遇に合わせてその人が存在しているなら、そうした立場や境遇になっている自らを正当化したいだろうし、もっともらしく納得できるような理由や根拠を伴ってそういう立場や境遇があるような気がしていれば、それがその人にとっての妥当で正当な立場や境遇となっているはずだが、そういう立場や境遇にあることが不満で、自分の実力や能力からすればもっとマシな立場や境遇になるべきだと思うなら、そこから自らの実力や能力に見合う立場や境遇を獲得するための戦いが開始されるかも知れないし、他にもその人の実力や能力に見合った立場や境遇を獲得するための戦いに参加する人が大勢いれば、そこで熾烈な戦いや競争が繰り広げられているわけだろうが、果たしてそんなふうに今ある現状を捉えるべきかとなると、そうは思えなければその人は戦いや競争には参加していないか、あるいは戦わずして敗れていることになるのかは、その人が置かれている立場や境遇にもよるだろうが、世の中では様々な立場や境遇が共存可能だとすれば、たとえ戦いや競争に参加している気にはなれなくても、実際に戦いや競争に参加しなくても生きていけるか、あるいは本人は参加しているつもりがなくても否応なく参加させられていることに気づかなかったり、参加している程度や傾向にも様々な状態があって、のめり込むように強く激しく戦っている人がいる一方で、ちょっとだけしか戦っていないような軽度の人もいるかも知れないが、どちらにしても戦いが実際におこなわれていて、そこから勝者や敗者が絶え間なく産み出されているとすれば、勝者が勝者であり続けられる一方で敗者が敗者のままで終わってしまうこともあるだろうが、中には敗者から勝者に這い上がる人もいる一方で勝者から敗者へと落ちぶれてしまう人もいるだろうが、勝者でも敗者でもないような曖昧な立場や境遇を終始保ち続ける人もいるだろうし、大抵はある面では勝者であると同時に別の面では敗者になっているのかも知れないし、そもそも勝敗の基準がはっきりしていなければ勝ち負けなどどちらでもかまわないことになってしまうわけだが、普通は何か落ちぶれた路上生活者のようになっていれば、その人が敗者だと思うだろうし、逆に資産があって贅沢な暮らしを満喫していれば、その人が勝者と思うだろうが、中には金持ちなのに路上生活であったり、借金まみれで明日にも破産してしまいそうなのにつかの間の贅沢な暮らしを満喫していたりもするかも知れないし、そんな境遇も想像はできるだろうが、そんなケースは稀かも知れないし、そんな世俗的な判断基準で人を見てしまうのはその人の浅はかさの表れであり、人を外見や身なりで判断するのは愚かしいことかも知れないが、それも程度の問題だろうし、そういう勝ち負けの判断を要するような状況というのが大した状況ではなかったり、気晴らしの世間話でそんなことを取り上げるなら大した内容は伴っていないわけで、その中では誰が勝者で誰が敗者だろうとどうでもいいようなことにもなってしまうだろうが、実際に敗者に見えるような人が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているような深刻な事態に陥っていれば、そんな境遇の人を助けたいと思う人も出てくるだろうし、逆に見て見ぬふりをする人も大勢出てくるだろうが、そんな光景を目の当たりにすれば、何かいたたまれなくなってくるかも知れないし、こんな世の中ではまずいと思うなら中には世の中を変えようとする活動に身を投じる人も出てくるだろうし、また悲惨な境遇に陥る人を一人でも多く救おうとする活動に参加する人も出てくるかも知れないが、その人の自主的な判断で行動しているとしても、そのきっかけとなったのはありのままの世の中の状態を見せられたことによるだろうし、そこからその人が活動する動機や理由が生じてくるわけだが、そうやって直接活動にかかわって活動の当事者になれば、間接的な情報に頼って知り得たこととは違って、実感が伴ったよりリアリティのある内情を知るに至るわけだが、それでもまだ人を助ける立場から知り得ることであり、助けられる立場や境遇から実感することではないわけだが、そんなふうにして立場や境遇に応じて知り得ることや実感することが異なってきて、それらの全てを直接知って実感できる立場がないこともそこから明らかになるとしても、かかわっているところから想像力を働かせて知ろうとするだろうし、そんな想像から知り得たことや実感できたことが、直接の当事者が知り得たことや実感したこととは少しずれているとしても、想像の範囲内でも何となくわかるようなことがあるだろうし、それ以上は知る必要はないとしても、身近に感じられるから肯定的な共感も生じてきて、当事者と連帯したり連携してより良い状態へと持って行こうとするかも知れず、そういう行動に多くの人を導くためにそこで生じている実情をなるべく多くの人たちに知ってもらいたいと思うのだろうが、そんな前向きな理由で実情を知ろうとするなら、それを知ることによってそこで生じている事態が改善に向かう可能性も生じてくるだろうが、そうではなく当事者を攻撃する口実を見つけようとして内情を知ろうとすれば、そういう思惑に適うような情報が探し求められてしまうだろうし、そこで何か災害や事故が発生していれば、災害の原因や事故を起こした当事者を探し出して、災害の原因が人為的なものなら人災と捉えて、人災をもたらした原因を作った当事者が攻撃目標となるだろうし、事故なら直接事故を起こした当事者や事故が起こりやすい環境をこしらえた当事者が特定できれば、それも攻撃目標となってしまうわけだが、そうやって当事者を攻撃したり断罪することの中から、何か肯定的な傾向を見つけるのは難しいことかも知れないが、そういうことをやるのが戦いであり競争でもあるのだろうし、そこから勝者と敗者とが導き出されてしまうわけだが、そうなると戦いに勝つためには戦っているつもりの相手に対して公平な判断基準に照らし合わせて勝敗を決めるわけにはいかなくなってきて、絶えず自身や自身の味方の側に有利な判断基準を設けようとしてしまい、その結果として自らが属する陣営にとって不利な情報は隠そうとする一方で、相手が不利になるような情報ばかりを求めてしまって、それ以外の情報を無視してしまうなら、結果的にそんな自らの態度が災いして自滅してしまうのかも知れないが、それもその場の状況や情勢を都合良く解釈するように仕向けられて操られてしまった結果としてそうなったと見なせるのかも知れない。


6月21日「組織の在り方」

 組織の意向に逆らって組織を裏切った人に対して組織がどういう対応をすればいいかとなると、普通は処罰したり制裁を加えればいいとなるわけだが、それだけではありきたりすぎて面白みがないと思われるなら、それとは違った対応をするような成り行きになるのかも知れず、そうなればありきたりにはならない組織の在り方を示せる可能性が生じてくるわけだが、ありきたりではまずいのかといえばそうではなく、組織がありきたりな人たちで構成されていれば、ありきたりな組織だからこそ組織としての求心力が生じているとも言えるわけで、ありきたりな面がないと組織として成り立たないとも言えるのかも知れず、その辺が微妙なところでもあり、組織の意向に逆らって組織を裏切った人を処罰したり制裁を加えることが一概に悪いとは言えないどころか、積極的にそうしなければならない場合もある反面、場合によってはそれとは違う対応をした方が組織自体を逆に強化できるのかも知れず、それも組織自体をありきたりな方向で強化するのではなく、他のありきたりな組織との違いを際立たせるような強化をおこなえる可能性があり、しかもそれが諸刃の剣であり、ありきたりな方面では弱体化してしまう可能性もあるわけだが、そうした弱体化してしまう方面を補ってあまりある強化を果たせればいいのかも知れないが、果たしてそれを組織的な強化とは言えないばかりか、逆に組織の結束力を弱めるようなことになりはしないかと憂慮されるようなことでもあるだろうが、強化とは別の言い方をするなら柔軟性を持たせると表現できればいいのかも知れないし、その辺のものは言いようでどうとでも都合良く表現できる面もあるのかも知れないが、そんなふうに一途で一方的な方向へと組織を強化するのではなく、それとは矛盾するような別の面も併せ持つことによって、組織自体の柔軟性が生じてくると言えるのかも知れず、それが理屈や論理ではうまく説明できないから、そういったことについてはあまり重視されなくなってしまうわけで、そうなると組織自体の性質が硬直化してしまって融通が利かなくなって、そこで成長が止まって後は老衰するだけとなってしまうわけで、その辺が組織運営においては難しいところだろうが、そうはいっても組織自体を強化したり柔軟性を持たせるだけでは、組織の中にいる人たちにとってはあまりそういうことを重視する気にはなれないのかも知れず、それよりは一つの組織に全面的に依存するのではなく、身も心も組織のために捧げるような気にはなれない方がかえって気楽に生きられるだろうし、逆にその人に経営手腕があれば都合や目的や用途に応じて複数の組織を使い分けるようなことになるのかも知れず、実際にイーロン・マスクなどはそういうことをやっているのかも知れないし、それができるのはごく限られた人になってしまうだろうが、何も企業経営者のような立場でなくてもユーザーとして複数の組織の会員になっている場合もあるだろうし、普通に暮らしていれば自然にほとんどの人が何らかの組織をかけ持ちするような成り行きになってしまうのかも知れないが、それができない境遇にあるのが貧困に苦しめられている人であり、組織の会員にするメリットがないならユーザーとしては組織から相手にされないことになってしまうわけだが、逆に貧民を使うメリットとしては低賃金でこき使うメリットとなってしまい、人道的には許されないようなことに資産や収入の少ない貧民が使われる傾向があるわけだが、果たしてそういう否定的で不快な用途が世の中で増えることが良い傾向かというと、良いはずがないとほとんどの人が思うだろうが、それは世の中の一面的な傾向であり、それも時間的な経過を加味した上で出てくるような傾向となるわけで、世界のある地域で起こっている社会の発展段階において、その初期の段階では誰もが資本となる資産を蓄積するためにがむしゃらに働き、やれることは何でもやって組織を拡大させようとするわけで、そういった段階では身を粉にして働いて組織の発展の犠牲となってその礎となるような人材が求められるわけで、そういった中で貧民も労働の担い手としては格好のターゲットとなるだろうし、他の人が嫌がってやらないような3Kに譬えられるきつくて汚くて危険な仕事を低賃金で長時間にわたってやらせるわけだろうが、また心身に障害を持った人も行政からの補助金目当てで雇われる場合もあるわけだが、そういう場合は雑用的な単純作業などがあてがわれて能力の劣った人材として扱われるだろうし、そんなことをやりながら汚い商売に成功して、成り上がってうまく立ち回ることができれば、そこからきれいごとだけで済むような業務内容に移行することもできるだろうし、汚い商売は直接の下請けやそれ専門に集中的に扱う業者にまかせて、自分たちは世間から良い印象を持たれるような業務内容だけに特化できるわけだが、そうなると例えば価格の高い商品を買ってくれたり高級なサービスを受けてくれるような顧客だけを相手にしていればいいような具合になってくるわけだが、そうなれば自分たちを利用してくれるユーザー共々世間的にも勝ち組に入っていることになるだろうし、それどころか実質的には負け組に入るような人たちもそういった企業やその顧客になりたいと思ってしまい、憧れてしまうから世間的にも悪い印象は持たれないわけで、もちろん世の中がそんな企業ばかりになるわけではなく、実際にはほとんどの人たちがそんな企業とは直接には関係のない生活を送っているはずなのだが、世界の資産の大部分をそういった富裕層に属する人々が持っていれば、やはり主導権を握っているのはそんな少数の人たちになってしまうわけで、だから政治も経済もメディアもそうした人たちに媚びるような傾向になってしまうのだろうし、そうした傾向に影響を受けて一般の大して資産を持ち合わせていないような人たちまで富裕層に媚びる傾向になってしまうのかも知れないが、それが悪い傾向なのかといえばそうでもないのかも知れず、誰もがハングリー精神の持ち主となって、成り上がって富裕層になることを目指して努力すればそれだけ競争も激化して、それに合わせて世の中の経済活動も活性化すればいいように思われるかも知れないが、確かにそんな一方的な傾向になればそれなりに肯定的な経済状態であるように捉えられるとしても、どうも実態としてはそうはならないのかも知れず、確かに一部ではそういう傾向もあるが、それと同時に別の傾向もあるのかも知れないし、何事も一筋縄ではいかないようなもつれ合ってこんがらがった状態となっているだろうし、少なくとも誰もがそうなるわけでもないだろうし実際になれるわけでもなく、そうならない人がほとんどであるにもかかわらず、そのことに関しては世間から無視されているしメディアでもあまり積極的には取り上げられない傾向があるのかも知れないし、それとは真逆の世の中の貧困化を強調する場合があるとしても、何か目立つことをやっていたり目立つような存在であれば、世間から注目されるしメディアでも取り上げられるのが当然だろうが、そういった世間やメディアが注目して取り上げるような内容に目が行ってしまい心を奪われてしまうのも当然だとしても、確かに意識はそうであっても一般の人々がやっていることは違うわけで、また一般の何でもないようなありふれた人たちがかかわっている組織の在り方も世間が注目してメディアが取り上げるような内容とはだいぶ違うのかも知れず、その活動のほとんどはありきたりで面白みがなく、ただ淡々と作業をこなしていくようなことが大半であり、それはテレビドラマのような劇的な展開とはほとんど無縁であって、何か拍子抜けしてしまうような普通のことをやっている実態があるとしても、意識の中ではそういった活動内容がそのまま右から左へと流れて行ってしまい、ほとんど記憶に残らないのかも知れず、実際に日々そんなことをやっている実態があるのだから、そういう日常に慣れてしまうとメディアで取り上げられるような劇的な話の展開がフィクションのように思われてしまうのかといえば、それがそうでもないわけで、要するにメディアに接している間はメディアが取り上げている内容にリアリティを感じるだろうが、メディアから離れて日常の中に身を置いてみればそんなことは忘れて日々の淡々とした作業の中で平常心を保っていて、そうやって自覚することなく意識を使い分けているわけで、それはメディアだけに目が行って心が奪われてしまっているような暇人であってもそういう面があるのかも知れず、そんな成り行きの延長上で考えるなら、人は組織の中で何らかの作業に没頭している間は確かにそんな組織に身も心も捧げて、組織の発展や繁栄のために進んで犠牲になろうとしているようにも見えるだろうが、そこから離れた普通の生活空間の中ではそんなことは意識できないのかも知れず、それよりは組織との間で距離感を意識していて、組織内の活動において嫌になるような不快な思いをすればさっさとそんな組織から離れたくなってくるわけで、組織的な活動や業務の範囲内であれば、そういった活動や業務をおこなっている時間帯では組織の意向を最優先に考えていることもあるだろうが、そこだけを切り取って強調すれば、そうなっているように見せかけることはできるだろうが、それがメディア的な見せかけであってそれが全てではないということが見えてこないわけで、そんなメディアに接している間はメディアに誘導されて、メディアが見せかけるようなことに合わせて思考も実際に働くかも知れないが、なぜかそこから意識が離れてメディアとは無関係なところでは、そんなことは忘れて別のことを別のレベルで考えているわけだ。


6月20日「政治と現世利益」

 人を政治に誘導することが何を意味するのかというと、何かそれによって人を盲目にするような作用があれば、それは目に見えるものではなくなるのかも知れないし、見えないことをおこなうのが普通のことになれば、別に見える必要もないのかも知れないが、実際にはそうはならないのかも知れず、見えないものを見させようとしているとしても、それは幻影の類いではないだろうし、見えないことをおこなわせるというよりは、特定のこと以外は何もおこなわせないようにするのが政治であり、その代わりに選挙で当選した民衆の代理人が議会や内閣で民衆の要望に応えるようなことをおこなうことになるのだろうし、それは選挙で選ばれなかった人にはできないことでもあるだろうが、それはもとからおこなう必要のないことかも知れないし、そうであればもちろん見える必要もないことかも知れないが、それが目に見えないからといって盲目になったから見えなくなったわけではなく、ただ単に目に見えないことと何らかの関係があるのかも知れず、確かにその関係が目に見えず、そんな関係が人を盲目にしてしまうのかも知れないが、別にそういう関係によって盲目になったからといって不利益を感じるわけでもなく、それどころか逆に利益をもたらすようにも思われるかも知れず、その利益というのがそれと関係する人の立場や境遇によっては利益どころではなく、害悪をもたらしているようにも思われてしまうわけだが、例えばそれを歴史の中に登場する著名人に当てはめてみるなら、その典型として指摘するとなると、それが大ナポレオンにはあまりもたらされなかったが、小ナポレオンには有り余るほどもたらされて、しかもそれがもたらされたことによって小ナポレオンがそういう名称で呼ばれてしまう原因となってしまったということであれば、そうやって利益がもたらされてしまうことはある意味で不名誉なことでもあり、どちらかといえば尊敬されるよりは軽蔑されるようなことでもあるだろうし、実際に利権に群がる政治家は現世利益に与れる反面、私利私欲にまみれた政治家として軽蔑の対象となってしまうわけだが、それが政治の本質でもあるわけだから、政治家が現世利益に与れて政治家と関係する官僚や企業も同じように現世利益に与れると、その煽りを受けて一般の民衆が不利益を被ってしまうようなことにでもなれば、政治家や政党や官庁や官僚や企業や企業経営者やメディアやメディア関係者などが示し合わせてそういうことをおこなっているのに、そのことに民衆が気づいていなければそれについては盲目であると見なされるはずだが、そういう利権政治を支持している民衆はそれに気づいているだろうし、気づいていながらそれを支持しているわけだから不利益を甘んじて受け入れているつもりはなくむしろ利益に与っているつもりでいるだろうし、利益に与れているような幻想を抱いているわけではなくそういう政治を支持することが自らの利益になっていると思っているわけで、それがそういう政治を批判している人たちからすればとんだ勘違いであり、実際には不利益を被っているのにそれに気づいていないから、それらの民衆に向かっていい加減に目を覚ませと訴えかけているわけだろうが、なかなか目を覚まさないどころが逆にきれいごとを言うなと反駁されているかも知れないし、そうであれば批判勢力もお手上げなのかも知れないが、批判勢力の方でも民衆がそれに気づいていないから気づかせなければならないと思っていればそれこそがとんだ勘違いであり、批判勢力の方がそのことに盲目になっていると見なされてしまうのかも知れないが、たぶんそうやって盲目という言葉を便利に都合よく使いすぎてしまうと、事の本質を見誤ってしまうことにもなるのかも知れず、盲目とかそういうことではなく、本来的に政治とはそういうものなのであり、私利私欲にまみれる以外には何もできないのが政治であり、それ以外で一般の民衆のために何かできるかと問うてしまうこと自体が勘違いであり、そんな幻想を抱いているだけでは何もできなくなってしまい、民衆からもそっぽを向かれてしまうわけで、そうであるなら政治家の使命とは民衆を騙すことであり、そんな経緯から言えることは政治家が民衆を騙して民衆が政治家に喜んで騙されることによって政治が成り立ってきたと言えるのかも知れないが、それ以外に何ができるかとなると、それはできることではなくできないことであり、政治家が民衆を騙すこと以外に何ができるかとなると、それはできないことをやることであり、そんなことはできないと思われることをやらなければならないのかも知れず、それが本当にできないのか、あるいはやってみればできないと思われていたことができたりするのかは、実際にできないと思われることをやってみればいいわけで、民衆の方でもできないことをやろうとする政治家を支持して選挙で投票して当選させることができれば、そのことがわかるわけだから、それが面白そうに思われるなら、できないと思われるようなことをやろうとしている政治家を支持すればいいだろうし、選挙でそういうことを訴えかけている候補者に投票してみればいいわけだろうが、民衆にそれができるかというと、やはり今まではそんなことが民衆にできるわけがないと思われてきたのかも知れないが、もしそんなことを訴えかけている候補者が当選すれば、今までできるわけがないと思われてきたことができたことになるだろうし、そうなれば民衆にできることは何かといえば、今まで通りに利権政治をやってきた政治家を支持するか、あるいはできるわけがないと思われることをやろうとする政治家を支持するか、さらには批判勢力が支持する政治家を支持するかとなるのかも知れないが、果たしてできるわけがないと思われることをやろうとする政治家と批判勢力が支持する政治家が一致しているかといえば、確かに一致している面もあるかも知れないが、必ずしも完全に一致しているとは言えない面もあるだろうし、そういうところでできるわけがないと思われることをやろうとすることと現状の利権政治を批判することとの間で、どちらに重きを置くかで民衆の間でも判断が分かれるところかも知れないが、少なくとも現時点でできることはといえば、政治のレベルでは今まで通りに利権政治をおこなっていくことであり、現にそれをやってきたわけだからそういうことをやってきた政治家を多くの民衆が支持していて、実際に選挙で投票して当選させているのだろうし、それが実現していることだろうが、またその一方でそういう政治の在り方を批判することもできているし、実際にメディア上で多くの人が批判しているし、そういった批判も実現しているわけだが、ではそれに対して未だに実現していないことは何かといえば、できるわけがないと思われていることを政治の場でやってみることだろうし、それをやってみればできるかできないかがわかるわけだが、実際にやってみなければわかるわけもないだろうし、やってみてできればできるわけがないと思われていたことが間違っていたことになるわけだが、果たしてそのできるわけがないように思われてきたことをやることが民衆のためになるのかといえば、それは民衆の間でも意見が分かれるところかも知れないが、できるわけがないと思われてきた先入観を覆す勇気が民衆の側にあるかとなると、実際にできるわけがないと思われていることをやろうと主張する候補者に多くの人が投票してその候補者を当選させることができれば、そのできるわけがないと思われていることをやってみる機会を得られるわけで、そうなるには民衆にその候補者に投票する勇気があるかどうかにかかっているのかも知れないが、多くの民衆がその候補者を信用することになればその機会が巡ってくる可能性が高まるわけだが、果たしてその機会が今なのかといえば、実際に何らかの異変が世界中で起こっていて思いがけない事態を引き起こしていれば、それが今までに経験したことのない異常事態であると誰もが思うだろうし、そんな思ってもみなかったような状況になっているとすれば、何かその機会が巡ってきたように思われるかも知れないし、さらにそれとこれとが関係していることであれば、そんな機会に乗じて今まではできるわけがないと思われてきたことをやる機会も巡ってきたように思われるのかも知れないし、俄然それをやる可能性が高まってきたようにも思われるかも知れないが、もちろんそれをやらせないように邪魔をしようとする勢力も存在していて、確かに今まではそんな勢力の方が強かったからそれをやることができなかったと言えるわけだが、では現状でそんな勢力の力が弱まっているのかといえば、実際に次々にそんな勢力がかかわってきた不祥事の類いが明らかになってきたのであれば、それだけ抑えが利かなくなっているからそうなってきたと言えるわけだから、それだけ力が弱まってきたと言えるだろうし、やはりそんな状況に乗じて今まではできなかったことができる可能性が高まったと状況をいいように捉えるなら、まさにその機会が到来していると見なしてもかまわないわけだが、果たして本当にそうか否かはこれからわかってくることであり、実際に民衆の判断にかかっているわけで、民衆がこれまで通りの経緯にこだわっているようならそんなことは起こらずに、相変わらずこれまで通りの延長上で事が推移するだろうが、できるわけがないことをやろうと主張している人を多くの民衆が信用して支持するなら、確かにこれまでは考えられなかったようなことが起きる可能性も高まるのではないか。


6月19日「失意の報酬」

 人も団体も利害が絡んでくるとそこから目的や目標が生じて、目指していることを達成するためには手段を選ばないような成り行きになれば、筋の通ったもっともらしいことをやっていては間に合わなくなり、結果的に理屈もへったくれもないような無理強い的でごり押し的なことが力にものを言わせておこなわれてしまう場合も出てくるだろうが、嘘やごまかしを用いて平然と人を騙しておこなわれるようになってしまうと、後からそれが発覚すると面倒でこじれた事態となってくるのだろうが、そうなる過程においてそういうことをやらざるを得ないような事情が生じてしまうのだろうし、しかもそんなことをやってしまう人たちが政治的な権力や権限を持っていると嘘やごまかしがまかり通って、そういう行為が法律によって禁じられて処罰や制裁の対象になっていても、中にはうまく立ち回って処罰や制裁を免れてしまう人も出てくるだろうし、だからといって積極的にそんな行為を推奨するわけにはいかないわけだが、そうやってなりふり構わずにおこなわれるような行為をどこまで許容できるかとなると、できればそういう行為を許さない態度でいたいわけだが、それでもグレーゾーンというのもあるだろうし、しかもそういうグレーゾーンを狙って微妙なことを仕掛けてくる人たちも出てくるわけで、いったんそういうことを許容してしまうといつの間にかそんなグレーゾーンがどんどん拡大してきて、後から気づいてみれば普通に許しがたいことが平然と行われるような成り行きになってしまっているわけで、だからといって常に清廉潔白でいられるわけでもなく、結局はそうなってしまうのを承知でしかもそうならないように心がけなければならないわけだろうし、そういった成り行きや状況を踏まえないようなことを主張してしまうと、教条主義的にきれいごとばかり言っていることになって、それが実現困難であることをわかっている人たちから嘲笑されてしまったり、逆に本音と建前を使い分けて見え透いた嘘を平気でつくような人たちの味方を装ってしまったり、どちらにしてもまずいことがわかっていなければ、言っていることとやっていることの違いを理解できなくなってしまうのかも知れないが、理解できたとしても実際にそんなていたらくにならざるを得ないわけだから安心できないわけで、結局はうまくいかなくなってそれを守るのが難しくなってしまうことは承知で、原則としては不正なことや不当なことは許さないような態度を保とうとしないとまずいわけだが、それも口先だけ嘘をついて裏では違うことをやっていてはまずいわけで、そういう成り行きになってしまうのを押しとどめようとしなければならないのだろうが、結果的には歯止めがかからずに踏ん張りも利かずにそんな成り行きになってしまうわけで、実際にそうなってしまえばそういうことをやってしまった人や団体は他の人や団体と交代しなければならず、それが政治的な領域で起こっていることなら政権交代が求められるのであり、それに逆らっていつまでもそうなってしまった人や団体に権力や権限を握らせていると、ますますそんな行為が大っぴらにおこなわれることとなってしまうわけだが、しかもそれもそういう成り行きになりやすいわけで、実際にそんな結果をもたらしているだろうし、現状がそうであればまさにまずい状況になってしまっているわけだろうが、それでも当事者たちは誰も懲りていないだろうし、自責の念など覚えないどころかかえってそんなことをやっている自らをますます正当化したくなってくるわけだが、自浄努力など皆無である限りで他の人たちが何とかしなければならないだろうし、それらの人たちだけでは何とかできないようになってしまうのだから、他の人たちの力が必要となってくるわけだろうが、それが何とかできるかどうかは、やはり他の人たちの力にかかってくるわけで、おかしくなってしまった人たちが権力や権限を握っている状態で、他の人たちが何とかしなければならないのだから、すでにそれだけでも困難な状況に陥っている中で困難を乗り越えなければ事態が正常化しないわけだから、それだけ乗り越えるのも難しいわけだが、乗り越えられなくてもかまわないだろうし、結果的に乗り越えられなくても乗り越えようとしなければならないという不条理にとらわれてしまうだろうが、それでも困難を乗り越えようとする姿勢を崩さずに、そんな状態を保とうとしなければならないわけで、それだけでも何やらおかしいように思われてしまうだろうが、そんな姿勢を保てなくなってしまった人や団体が不正なことや不当に思われるようなことをやってしまうわけだから、しかも中にはそんなことをやって権力や権限を握ってしまう人や団体も現れてしまうわけだから、ますますそんな姿勢を保てなくなってくる中でも姿勢を保とうとしなければならないわけだから、そんなことにこだわっているだけでも自然の成り行きに逆らっているようにも思われてくるだろうし、それだけ誘惑をはねのけようとする力が弱まってしまうわけだから、どうやっても無理に思われてしまうのかも知れないが、そこから宗教的に罪の意識に目覚めてしまって信心深くなってしまうのもまずいだろうし、何らかの特定の傾向に振り切れてしまうのを思いとどまる必要があるのだろうが、そういった面倒でややこしい葛藤を経ないとならないわけだから、そういった状態を保っているだけでも損な役回りとなっているような感じになってしまい、どうしても安定しているように思われる定まった主義主張に傾いてしまうわけだが、いったん主義主張を固定してしまうとそこから動けなくなってしまい、そこから移動することは主義主張を裏切ることになってしまって、一時は一途に信じて心のよりどころとしていた主義主張を裏切ってしまったのだからやましさが高じてくるだろうし、そんな後ろめたい思いを振り切ろうとすれば余計に誘惑に身をまかせてしまうわけで、そんな人の末路は決まり切っているだろうし、大抵は政治権力や権限を握っている勢力の御用学者や御用メディアなどにそういう人たちが巣くうわけだろうが、そういう人たちは一時であっても清廉潔白で教条主義的な主義主張にかぶれていたわけだから、未だにそういう主義主張にかぶれている人たちに対しては異常なまでの敵愾心を抱いているだろうし、少しでもそういう傾向がうかがえる人たちに対しては憎悪の念を募らせて執拗に攻撃してくるわけで、いったんそうした憎しみにとらわれてしまえば二度と正常に戻ることはないわけだが、そうなってしまうのもある意味で自然な成り行きでしかないわけで、そんな誘惑に逆らうのは難しいだろうし、実際に逆らえずにそうなってしまう人が後を絶たないのかも知れないが、そんなキチガイじみた人にならないようにするにはどうすればいいかという問いに対してまともに答えることはできないとしても、要はそういった傾向に振り切れないようにしたいわけだが、一つの傾向だけを追求しようとするとそうなってしまうとも言えるわけで、何らかの主義主張を一途に信じるという行為が逆にそれを裏切ってしまってそういった結果を招いてしまうとも言えるわけだから、まずは一つの主義主張を頑なに信じることが危険であるだろうし、実際に世の中に複数の主義主張が併存している状況があるとすれば、それらの主義主張を併存させておけるだけの余地が世の中に残されていると捉えておけばいいのかも知れず、しかもそれらが互いに対立し合って争っている状況もあるとすれば、それらのうちでどれか一つを頑なに信じるだけでは、その主義主張の範囲内ではそれが正しい態度であると言えるかも知れないが、他の主義主張の範囲内では間違っていることになってしまうだろうし、そういう意味でそれらの中でどれか一つの主義主張を頑なに信じるだけでは不十分であると言えるわけで、だからといってそれらを全て否定するのも正しい態度とは言えないだろうし、また全ての主義主張を信じられるかと言えば、互いに対立し合っていれば相容れないのだから矛盾をきたしてしまうだろうし、結果的に考えるならどれか一つの主義主張が正しいと感じているとしても、他の主義主張の論理に照らしてみればそれは正しくはないわけだから、そういうものだと思っておくしかないだろうし、その主義主張の範囲内で正しいことはそこから移動してしまえば正しくはなくなってしまい、そうなってしまうことは何らおかしなことではないだろうし、別にそこからやましさや後ろめたさを覚える必要はないわけだが、理性的に考えればそうであっても、そこに感情が絡まってくると正しいと思っていた主義主張を捨ててしまったのだから自責の念に駆られてしまうだろうし、そうした念を振り切ろうとすれば邪悪な誘惑に屈してしまったようにも思われるのかも知れず、もちろんそんなやましさや後ろめたさを否定すればするほど、ますますかつては信じていた主義主張を憎むようになってしまうだろうし、自らを正当化できない裏切り者に仕立て上げてしまった成り行きを許せないと思うようになってしまうのだろうが、そんな人たちが状況の肥やしとして堆積して養分をもたらして、そんな養分を糧にして若い人たちが成長してきたとも言えるわけだから、現状の世の中で稚拙な論理をよりどころにして騒ぎ立てている若者たちだけに罪はないのは確かだが、そういう状況に至った成り行きにもそれなりの必然性があるようにも思われてしまうわけだ。


6月18日「他人を助けること」

 他人を助ける明確な理由や根拠があると思うなら、信念として何やらもっともらしい理由や根拠を並べられるような気がしてくるだろうが、何も他人を助けるという他から共感を呼ぶようなことでなくても、実際に何をやるにしても理由や根拠の定かでないことをやっている実態があれば、何かをやるについて理由や根拠よりも優先すべきことがあるように思われるかも知れないが、何を優先しているわけでもなければ、別に何かをやっていることも優先しているわけでもないのかも知れず、とりあえずのこととしてそんなことをやっているのであれば、では他にそのやっていることよりも優先すべきことが出てくれば、さっさとそんなことはやめてその新たに出てきた優先すべきと思われることをやればいいのかというと、すでにそうはならないような成り行きに巻き込まれている可能性もあるわけで、その成り行きというのが特に優先すべきことだとは思われないようなことをやっている成り行きなのかも知れず、それをやらざるを得ないとも思われないのに惰性でやっていたりもすれば、やはり理由も根拠も定かでないようなことをやっているような気がするだろうし、それをやるに当たって明確な目的がないように思われるわけだが、以前は何か目的や目標があったのかも知れないし、それがやる理由であり根拠でもあったかも知れないが、やっていくにつれてそんな目的も目標も消え失せて、ただ何でもないようなことをやっているだけとなってしまえば、それはやっていることの形骸化と言えるのかも知れないが、果たして本当にそうなってしまっているのかといえば、どうもそうではないようにも思われるわけで、特に他人を助けることを他の何よりも優先してやっているとすれば、何やらそれがその人に課せられた使命のようにも思われてくるだろうが、助けるつもりがなくても結果的に助けているようなことになっているかも知れないし、他人を助けるというはっきりした意思表示がないと、助けるつもりがないように思われるかも知れないが、結果的に助けていることになれば、本人の意志とは無関係に助けていることになってしまうのかも知れず、それを目指してそうしているわけでもないだろうし、そうすることが目的でも目標でもないのにそうなってしまっているとしたら、それがどういうことなのかといえば、そういう成り行きに巻き込まれている当人としては何でもないことでしかないのかも知れないし、本気で心から助けるつもりもないのに結果的に他人を助けようとしているなら、やはりそれは何でもないことだろうし、そうなることを目指しているのでもないのに、結果的にそうなってしまうとしたら、別にそれについて何を思う必要すらないのかも知れず、自然な成り行きとして他人を助けるような成り行きになってしまうのだろうが、果たして本当にそんな成り行きになっているのかといえば、現状の中ではそれとは逆方向へと導こうとする成り行きもあるのかも知れないし、人々の意志や思惑や意図とは無関係にそうなってしまうとは言えないにしても、それらが社会の中で入り交じって絡み合いながらそこから無意識の集団意志のようなものが生じて、多くの人がそれを意識できなくてもそれに従ってしまうような成り行きが生じてしまうのかも知れず、それがどういう結果をもたらしているのかといえばたぶん現状をもたらしているわけで、現状の中で現れている傾向に本当に無意識の集団意志のようなものが反映されているのかに関してはにわかには信じがたいだろうが、同時にそれが何でもないようなことであれば、取り立ててどうということはないわけで、別に気にするようなことでもないはずだが、だからこそほとんど誰からも気づかれずに世の中に何らかの作用や影響を及ぼしていると言ってみても、やはりそうである限りで何でもないことなのだろうし、そんなものが思考の対象となることはないわけだが、それが何でもないことである限りで世の中に何らかの作用や影響を及ぼして、見るに見かねて目を背けることができなくなって、あるいは他の事情から目を背けるわけにはいかなくなって他人を助けざるを得なくなる人を生じさせるのかも知れないが、実際にそうやってその人が他人を助けるために行動するようになってくると、もはや何でもないことではなくなってくるわけで、それが慈善活動や奉仕活動になりさらに政治活動にも結びついてくれば、別に隠されていたわけでもないのに気づかれなかった無意識の意志や意向が明らかとなってくるのかも知れないが、そこに至るまでにはそれをはっきりと自覚して使命感に燃えて活動したがる人もすでにいるかも知れないし、そんな人が事を荒立てて世間に向かって何やらもっともらしい人助けの意味や意義を訴えかけるのだが、それに対して聞く耳を持っている人はそんな人の支持者になるだろうし、それとは違ってそこに偽善臭を嗅ぎつけて反発する人もそれなりに出てくるわけだが、本当に偽善臭という臭いがするのかといえば、そういう嗅覚自体が思い込みと無理なこじつけに基づいたフィクションのようにも感じられるかも知れないが、そこにどのような意図が生じているのかといえば、そんな人は何かに目がくらんでいる可能性もあるわけで、それが黄金の類いならわかりやすいだろうが、ほとんどの人は実物の金塊など直接には見たこともないだろうし、それもそんなイメージに基づいた幻想に過ぎないのかも知れないが、そうやって何とかそこに実感をもたらそうとすることが、意図的にそうすることの理由や根拠のねつ造にもつながって、そんな成り行きなってしまうことが必然的にそうなってしまうように見せかけたいわけだが、そういう利他的な行為に反発する人はどうしてもそれに反発するにあたってもっともらしい理由や根拠をねつ造したがるわけだが、何をやっても自己責任で片付けるわけにはいかないような成り行きに巻き込まれてしまうと、やはり他人を助けようとする人の方に分があるように思われてくるわけだが、直接助けるにはそれなりの余裕や余力がないと助けようとする人までが共倒れにもなりかねないし、それ以前に自分のことで手一杯であれば他人を助ける余裕も余力もないにもかかわらず、危険を顧みずに助けようとして自滅してしまう人も出てくるわけで、実際にそうなってしまうのを目の当たりにすれば人助けなどにはかかわろうとはしなくなって、見て見ぬふりを装うかも知れないが、それが自己防衛本能の表れとみることもできるし、そうなるのも仕方がないようにも思われてくるわけだが、世の中がそんな人ばかりになってしまうと人が助からなくなってしまい、それでは困ると思うなら公的な人助けを専門におこなうような組織が必要だと思われて、そうなると必然的に行政機関が人助けの役割を担うような成り行きにもなってくるわけで、実際に救急機関の類いが創設されて活動するようになるわけだろうが、いったんそういう役割分担が出来上がると、そういうことはそういう機関に任せて他の人は何もやらなくてもかまわないような状況になってしまうかも知れないが、それだけでは不十分に思われるならやはり独自に助けようとするだろうし、また有志を募って民間の人助けをする団体のようなものも設立されたり結成されたりもするだろうし、そういった団体の類いも一般の人々からの募金や助力によって成り立っている実態があれば、それで済んでいるうちはそれでかまわないように思われてくるかも知れないが、それでも助ける対象となるような人が多すぎて間に合わないとなると、何かそんな人が次から次へと生じてくるような世の中そのものがおかしいのではないかという疑念が湧いてくるし、そうなると根本的なところで助けを必要とするような人をなるべく出さないような世の中にしないとまずいようにも思われてくるわけだが、それができない事情というのがあれば、そういうところを何とかしなければならなくなるだろうし、実際に人助けと共になるべく人が助けられなければならないような境遇にならないような取り組みというのも同時並行しておこなわれなければならなくなるわけだろうが、そういう取り組みが実際に効果を上げているかとなると、それなりに意見や評価が分かれるところだろうし、何か焼け石に水のように思われるところもあるだろうが、やらないよりはやった方がいいように思われる程度の効果しか上げていないというなら、その通りな面もあるのかも知れないが、それと同時にやはり他人や他の団体との間で差をつけたいという思惑も働いていることも確かであり、その差というのが社会的な身分や地位の格差であり貧富の差につながるような成り行きを伴っていると、それを直に肯定するわけでもないとしても、結果的にそうなってしまってもかまわないようなことに加担しているわけで、それが良かれと思ってやっている経済活動であれば罪悪感など伴わないし、自身のやっていることが社会に悪影響を及ぼしているとも思わないし、それどころか自身も自らが生きるために必死になっていたりするわけで、それが何かの具合でうまくいくと高揚感をもたらすだろうし、この調子で何もかもがうまく回って自身を社会的な成功に導いて欲しいとも思うだろうし、実際にそうやって何らかの成功に導かれてしまう人がいる一方で、それとは別の方面では何らかの悪循環に取り込まれて他の誰かが身の破滅を招くような成り行きに陥ってしまえば、そうなった人は社会的に助けられるべき対象となるわけだが、それが身から出た錆なのかあるいは不運に見舞われてそうなってしまったのかは何とも言えないし、少なくとも必死になって生きようとしていれば、怠惰を理由にそうなってしまったとは言えないわけだが、そういう人に向かって否定的なレッテルを貼りたい思惑が働けば、その場だけの状態を見て働かざる者食うべからず的な理屈が持ち出されてくるわけだ。


6月17日「金儲けのやり方」

 現状で産業が発展する余地があるかとなると、思いがけないところから発展する可能性はあるだろうが、また現状の延長上でも発展するかも知れないが、ある方面では限界に達しているかも知れないし、これ以上の発展は望めない分野もある一方で、発展し続けている分野でもその発展の度合いというのが微々たる程度に留まっているかも知れないし、また発展に伴って雇用人数が増えるわけでもない発展というのもあるかも知れないし、それ以外にも様々な発展の仕方や程度や内容があるはずだが、経済活動の中で物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費のどこからも利益を上げる機会があるにしても、特に経済成長を促すような産業の発展を人為的に起こせるわけでもないだろうし、どんなやり方にせよ利益を得られて事業が継続していけばそれでかまわないようなことになるのだが、その金儲けのやり方があまりにも汚いと真面目に働いている人が馬鹿を見るようなことになるだろうし、そういう意味で世間の一般常識や倫理観などから著しく外れたやり方で金儲けをしていると非難を浴びるわけだが、またそういうやり方ができないように法律で規制したり行政的な措置を講じることにでもなれば、それで一応の世間的な体面が保たれることにもなるわけだが、それによって金儲けができなくなるわけでもなく、経済活動のあらゆる面で金儲けのやり方が絶えず模索されているわけだから、無限に金儲けのやり方があるわけではないとしても、現状で金儲けに成功している分野では、それがおこなわれている限りで、実際に儲かっているからおこなわれているのは当然だとしても、汚い金儲けとは正反対のきれいな金儲けのやり方があるとは言い切れない面もあるだろうが、それがきれいなやり方か汚いやり方かの明確な基準がはっきりと示されているわけではなくても、世間の一般常識として許されるような金儲けのやり方があり、そういう金儲けを巡って競争もおこなわれて、金儲け競争に勝った限られた人や企業などが実際に金儲けに成功しているわけだろうが、誰でも金儲けに成功できるわけではないのはわかりきったことであり、中には破滅したり破産したりしてホームレスになってしまった人や倒産した企業などもいくらでも存在するわけだろうが、実際に生きている人は程度の差こそあれ生きられている程度に応じて金儲けに成功しているといえるだろうし、もちろんかろうじてその日暮らしで生きているような人が金儲けに成功しているとは一般的には言わないわけだが、餓死しない限りで金銭を持ち合わせていなくても、狩猟採集などによって自給自足が成り立っている人を除けば、物や情報やサービスなどの売買や貸し借りを通じて金銭を得て生計を立てている人は、金銭的な収入に頼って生きているわけだろうし、そんな生活者が多ければ多いほど一応は金儲けが世の中で成り立っていることになるわけだが、そうやって経済活動をおこなった結果として資産という形態で貯蓄できずに、ぎりぎりの生活を強いられている人がやっている経済活動が汚い金儲けだとは思われないのは当然である一方で、他の人や企業との競争に勝って莫大な資産を形成したり、他の企業を駆逐して独占的な巨大企業にまで発展させることができれば、そうなる過程で汚い金儲けをやってきたのではないかと思われるのも当然だろうし、実際にも何かしら他を騙したり他から盗んだりしないと成功できないような事情があるかも知れないし、それも実際に成功者や成功した企業の内情を詳細に調べ上げれば、後ろ暗くて隠しておきたいようなエピソードもそれなりに出てくるかも知れないし、ともかくまっとうなやり方で経済活動をやっているだけでは成功できないことは誰もが承知しているにもかかわらず、それでも経済活動を実際におこなって誰もが生計を立てている現実もあるわけで、しかも誰もが成功したいと思っているだろうが、そう思っているにもかかわらず、成功した人や企業が汚い金儲けをやっているとも思うわけで、そういうアンビバレントな世間一般の感情をそのまま真に受けるわけにもいかないだろうし、そういう感情を都合よく利用して汚い金儲けをやっている人や企業を特定して非難するような行為にどこまで同調できるかといえば、その手の煽動者の言いたいこともわかるが、やはり微妙な感じになってくるわけで、誰もが金儲けに成功できるわけではないし、自らの手を汚さずに金儲けに成功した例もあまりないだろうし、根本的な世の中の在り方として金儲けに成功する人や企業の存在しない世の中になってしまえば、真の意味での富の平等が実現するわけだろうが、ではそういう共産主義的な社会の実現を誰もが目指しているのかといえば、目指すどころかほとんど誰も目指してはいないだろうし、あからさまに共産主義を掲げるのも世間的にはタブー視されるような世の中の支配的な空気もあるのかも知れないし、そこでもアンビバレントな世間一般の感情が渦巻いているのかも知れないが、そういう世の中の傾向や空気を一概に肯定したり否定するわけにもいかないわけだが、そういうところから総合的に判断するなら、汚い金儲けをやり過ぎているような人や企業が世間的に批判を浴びて非難にさらされるのは当然の成り行きであるが、そういった批判や非難の尻馬に乗って煽動を仕掛けている人にもあまり同調はできないだろうし、そうかといってあからさまに共産主義の実現を主張する人にも同調しかねるわけだが、現行の法律や制度を利用したり制度や法律を改正して、汚い金儲けを規制するようなやり方が妥当で可能なやり方であるとしても、そういうことをやろうとしたり実際にやっている政治勢力を支持するにしても、だからといって自らが汚い金儲けをやる機会に恵まれた時にはやってしまう可能性もあるわけで、それは誰もが直面する可能性があるかも知れないが、実際にそういう機会に恵まれる人もあまりいないだろうが、少なくとも金儲けというのはどんな金儲けであっても、汚い金儲けになってしまう可能性もあるかも知れないし、それはその度ごとに世間一般の常識や良識に照らし合わせて判断されるようなものかも知れないが、その逆にきれいな金儲けをやろうと心がけるのも結果的には欺瞞や偽善となってしまうのかも知れず、きれいごとを優先させるとそもそも金儲けにはならないわけで、何かボランティアなどの奉仕活動をやって金儲けができるほど世の中は甘くないだろうし、実際にそれを装って金儲けをやっている人や団体がいれば、それらは全て詐欺でしかないだろうが、そういう意味で世の中でおこなわれていることを一概に良し悪しで判断できない面があることは確かで、善や悪に振り切れないような程度の範囲内で活動を成り立たせるしかなく、そんな中で絶えず自らがやっていることやかかわっていることの内容を検証しながら活動していくしかないのかも知れず、自分でまずいと思われるところや他から文句がくるところなどを修正したり改善しながら、時にはやり過ぎてしまう面も出てくるだろうし、逆に至らない面も出てくるだろうが、できる範囲内で対処するしかなく、そんなことをやっていても時には自らの能力を超えておかしくなってしまったり、思わぬところで大成功してしまったり、逆に大失敗してしまったりもするかも知れないが、失敗しておかしくなるのは当然だろうが、成功してもおかしくなってしまうこともあるわけで、どうやっても自らの意図や思惑を外れるところから躓きの石が転がってくるのかも知れず、そういう成り行きの中で実際に躓いて自身が転んで重傷を負ったり、それがもとで死んでしまったりもするかも知れないが、そうなっている範囲内ではその過程で生きていることになるわけだから、そうなってしまうことを肯定したり否定したりはできるとしても、他人がそうなってしまうのを肯定したり否定したりもできるものの、それが自分の力の及ぶ範囲内であったり視線の及ぶ範囲内であったりもするわけで、実際にその範囲内でしか関与できないと思うしかないだろうし、そうであれば自らの力の及ばないところまで、視線の及ばないところまで妄想や幻想を巡らして、全体として支配的な認識や解釈や論理や原理を打ち立てようとするのは、何か限界を超えているように思われてくるわけで、そういう意味で全体主義的な妄想や幻想の類いに触発されて活動を開始してしまうと、遠からず自らの破滅が待ち受けていることは覚悟しておいた方がいいだろうし、そこまで至らなくても、どうしても世の中の全てを変えるにはどうしたらいいかと妄想してしまうわけで、それもそういうことを安易に思いつくような傾向になってしまう成り行きが学校などの教育に内包されているのかも知れないし、そういった教育を受ければ誰もがそういうことを思いつくような成り行きになってしまうのかも知れないが、そういう妄想の誘惑に安易に屈してしまうにしても、実際に世に出て様々な人と交流していく過程で、自らが他の多くの人と同様に何でもないような存在でしかないことに遠からず気づかされてしまうだろうし、現にそうした教育を受けてきた人がいくらでも無数にいるわけだから、そこでもアンビバレントが感情が生じてくるわけだろうが、そういうところで世の中の現状が教えられてきたことと矛盾していることを受け入れざるを得ないと同時に、教えられてきたことを自分なりに修正する必要に迫られるのかも知れない。


6月16日「社会システム」

 何か特定の社会的な立場や役職の人が意識してそうなるように仕向けているわけでもないだろうが、人ではなく何らかの社会的な団体があからさまにそうしようとしているのでもなく、それとは別の目的でおこなう取り組みが結果的にそうなるような結果を招く可能性があるのかも知れないが、それが人を考えさせないようにする社会システムの類いの構築に向かわせるのだとすれば、何かそれが必然的な成り行きに思われるかも知れないが、なぜそれが人の思考を奪うようなシステムの構築に向かうのかといえば、そういうシステムの中で生きている方が幸せそうに見えるとは思えないにしても、人ではなくしかも人と関係している別の何かを生かすようなシステムの構築へと向かっていくのかも知れないし、その人と関係している別の何かというのがそれ自身で何らかのシステムを内包しているわけで、それが機械であり機械を生かすためには人が必要であると同時に、人の思考が邪魔になってくるような結果をもたらすのかも知れず、機械に全てを任せて人は何も考えずに機械に従っていればいいような傾向となってしまうとすれば、機械にとって人は従わせる対象となるが人が機械に逆らうようなことがあってはまずいだろうし、人が考えてしまうと機械に逆らってしまうなら、人を機械システムの中にとどめておくには人を考えさせないようにする工夫が必要となってくるわけで、そうなるとシステムの中に留まっている人を考えさせないようにするにはどうすればいいのかとなるわけだが、すでにどうすればいいのかと考えている人がいることにもなり、システムの中にいる人を考えさせないようにするにしても、システムを構築する人はそれを考えなければならないことにもなるわけで、そうやって人と人の間で力の不均衡を生じさせて、そうやって構築されたシステムによって人を支配するような成り行きになるとしたら、人が人を支配するシステムを構築しようとしていることにもなるわけで、そしてそんなシステムから逃れようとするには、システムの中でシステムに逆らって考えなければならないことにもなるだろうし、果たしてそうすればシステムから逃れることができるのかというと、はじめからシステムから逃れようと思って考えるわけでもなく、単に考えるということはあり得ないにしても、例えばシステムにより良く同調するにはどうすればいいのかを考えようとする場合もあるだろうし、そう考えてシステムの中にいる人が勝手に工夫を凝らすことがシステムから逃れることにつながってしまえば、何かそこで矛盾しているように思われるかも知れないが、実際にそうなってしまうとシステムを構築する人は、人がシステムの中で考えて工夫を凝らすことまでは想定していなかったことになるだろうが、そういう意味でシステムを構築しようとする人は、人が何も考えずにシステムに従ってくれることを前提としてシステムを構築しようとしていたことになるわけだが、あるいは人がシステムに従うように仕向けるには、システムに逆らう人を処罰するようなシステムを構築することも考えられるし、そうなった時になぜ人がシステムに逆らおうとするのかを考えるはずだが、またそこから人がシステムに逆らえないようなシステムを構築しようとするかも知れないし、逆にシステムに逆らってもかまわないようなシステムを構築しようとは思わないだろうが、そもそもなぜシステムを構築しようとするのかといえば、人をシステムの中で思い通りに制御したいという願望があるのかも知れないが、そうやって制御する側の願望を実現するためにシステムを構築しようとするのではなく、制御される側の願望を実現するためにシステムを構築しようとする場合もあるだろうし、制御される対象となる人々がシステムに制御されながらシステムに喜んで従ってくれるようなシステムを構築できれば、わざわざシステムに逆らおうとする人は出てこないはずだが、それがシステムを構築する側の願望と一致すればシステムを構築する側とシステムによって制御される側の願望が一致して、その結果システムに逆らおうとする人もいなくなってシステムがうまく動作することになるかも知れないが、実際にはそうはならないだろうし、しかもシステムがシステムに制御される側の願望を実現させるように見せかけようとする場合もあるし、またシステムに制御される側でもシステムに従っているように見せかけようとする場合もあるだろうし、そうなってしまうとシステムを構築する側とシステムに制御される側がお互いに相手を騙そうとしていることになるだろうし、さらにシステムを構築する側とシステムを管理する側の間でも思惑の違いが表面化してくる場合もあるかも知れず、システムを構築しようとする側がいくらシステムに制御される側の意向に配慮したシステム設計を心がけても、そのシステムを実際に管理する側が自分たちの私利私欲のためにシステムを利用しようとすれば、そんな配慮はたやすく踏みにじられてしまうことにもなるだろうし、そもそも普通はシステムを構築しようとする側の顧客はシステムを管理する側であるわけで、そうなればシステムに制御される側よりはシステムを管理する側に配慮したシステム設計になるだろうし、そういうところでの力関係としてはシステムを管理する側がより強い権限を持つことになるだろうが、そんな関係の中でもシステムに管理されて制御される側の意向が反映されるにはどういう場合があるかとなると、システムに管理されて制御される側がシステムを構築する側とシステムを管理する側の顧客になればいいということになるわけだが、要するに金銭を払ってサービスを受けるのだから、サービスを受ける側の意向が反映されないようなサービスなら要らないということになるだろうし、システムを構築してそれを管理する費用を負担するのだから、費用を負担する側の言うことを聞いて欲しいということにもなるはずだが、民間の商売なら普通はそういうことになるだろうが、もちろん実際にはあらかじめ出来合いのサービスが用意されていて、複数の用意されたサービスの中から好みのサービスを選ぶようなシステムもあるだろうし、注文を受けてから注文に応じたシステムを構築して出来上がったシステムを利用してもらうようなサービスになればそれだけ高価なサービスになるだろうし、その費用を払える金銭的な余裕があるような限られた人でないと利用できない場合もあるだろうし、民間の商売ならそれでもかまわないにしても、それが行政によるサービスとなると果たして顧客が税金を払っている住民と言えるかとなると、全面的にそうとは言い切れない場合も出てくるかも知れないし、税金を使っているのにそれが住民向けのサービスとは言えない場合も出てくるだろうし、例えば行政の統治の対象として国家が想定されてくると国家を繁栄させたり存続させるために行政機構があるということにもなってくるわけで、そうなるとそこで暮らしている住民は国家を繁栄させるための単なる資源と見なされたりもするわけで、そういう成り行きから住民を計量できる人口として取り扱ったり、教育して調教して国家に役立つ人材として育てるような目的も生じてくるだろうし、それなら民間でも労働者や従業員として金を儲けるために使う道具のように取り扱うことにも通じるものがあるわけだが、そうであれば行政の方でも公務員がそんなふうに取り扱う対象として存在するわけだが、民間でも顧客や消費者などを金儲けの道具だと見なしている場合もあるのと同様に、行政の方でも住民を上から目線で管理して統治して従える対象と見なしている場合もあるかも知れず、結局は権限や権力があるように思われて、実際に管理したり統治する権限を得て、実際に権力を行使して行使する対象を従わせることができれば、支配者のような優位な立場を占めていることを実感できるだろうし、管理したり統治する側の意志や意向がその場の状態や状況の中で優先的に反映されるのが当然のことのように思われるのだろうが、そうなるとやはり当然のことのようにその場を管理したり統治する側の意志や意向が優先的に反映されるようなシステムを構築しようとするだろうし、管理したり統治する対象となる人々が管理や統治などの行為に従順に従うようなシステムも求められるだろうが、それが管理したり統治する対象となっている人々のためになっているかとなると、客観的には何とも言えないところであり、そもそもそれを客観的に評価できる立場というのがあるかとなると、管理したり統治する側は当然のことのように自分たちの意志や意向に従って判断して、そのシステムの良し悪しを評価するわけだから、客観的な立場とはなりがたいし、それ以外の立場があるかとなると、他には管理されたり統治される側の立場しかなければ、そんな立場などあり得ないことになるだろうが、そういう意味ではシステムの良し悪しを巡って、それを管理したり統治する側と管理されたり統治される側とで是非の判断や良し悪しの評価が分かれるのも当然のことであり、そこで対立が生じるなら争いに発展するのだろうが、そこで管理されたり統治される側が管理したり統治する側を選ぶようなシステムになっていれば、それなりに一方的な有利不利になるわけではないはずだが、そうなっていることに行政に管理されたり統治される側の住民が気づいているかも重要となってくるだろうし、行政側も住民にそれを気づかせないような管理や統治を目指していれば、やはり双方の間でだまし合いや化かし合いに発展していく可能性もあるわけだ。


6月15日「日本語と日本人」

 日本という存在は世界の中ではかなり曖昧な場所に位置していて、別に今あるような場所に存在している必然性がなければ、例えばカナダのバフィン島が日本であってもかまわないし、さらにはニュージーランドが日本であっても取り立てて不都合はないかも知れないが、存在位置や地形以外では宗教的な特徴として日本には八百万の神がいるといっても、もとは一人の神もいなかったのかも知れないし、人類のアフリカ起源説に近づけて考えるなら、八百万の全ての神は外国から外国人と共に日本の地へとやってきたのかも知れないし、宗教と並んで日本人の民族的な特徴を挙げるなら日本独自の言語である日本語の存在となるだろうが、便宜的な観点から考えるなら神と共に言語も日本へとやってきたことにすれば、日本語の特徴もそういう経緯から生じていて、実際に日本語はかつてはウラル・アルタイ語族に属する言語だと見なされていたらしいが、現在では分類としてウラル語族とアルタイ諸語とが分かれていて、日本語はアルタイ諸語の中に含まれる場合もあるらしく、母音調和が存在する膠着語という点ではシュメール語と似ている面も確かにあるらしいが、厳密にはシュメール語とウラル語族とアルタイ諸語とは分けられるらしく、セム・ハム語族やインド・ヨーロッパ語族や漢語などの文明の中心から離れた周辺部族特有の言語であり、様々な部族や民族が文明の周囲を回遊して移動してきた終着点の一つに日本列島が位置していたから、八百万の神々と共に日本語もごちゃごちゃと統一性のない複数の言語の不完全な寄せ集めのような表記で成り立っているわけだが、何が日本語の特徴なのかといえば表記として漢字かな交じり文が特徴となるだろうし、外国由来の言葉を漢字で表記して漢字を簡略化したひらがなでつなげて文を構成するのだが、欧米由来の言葉はそのままの発音に近づけてカタカナで表記する場合もあるし、そういうところは歴史的な経緯から生じる行き当たりばったりの都合で、あまり統一的な表記にはこだわらない傾向があるかも知れないが、それで通用してしまうのだから元々いい加減なのかも知れず、確かに現代ではそうなっているとしても過去の一時期にはそうではなかったかも知れないといっても、だからといって西欧の言語学的な研究のように言語の起源を遡って、古代の原日本語ような存在を想定する必要もないだろうし、それこそが西欧の基準から考えられた想像上の起源でしかなく、西欧のインド・ヨーロッパ語族に特有の進化論のような系統樹的な分岐によって日本語の起源を考えること自体が意味のないことであり、西欧の19世紀に確立された論理をそのまま日本に当てはめるにはそれなりの無理があるわけで、そんな西欧の19世紀からもすでに百年以上も経過しているのだから、そういう論理自体もかなり古くて時代遅れとなっているのかも知れないし、いつまでも過去の幻影に取り憑かれていると今現にここにある世界の実態を見誤ってしまう危険もあるだろうから、現にあるがままの日本の実態を理解する必要があるわけだが、いつの頃からそう呼ばれていたのかは知らないが、世界各地から流れてきた日本人と呼ばれる寄せ集めの集団が、八百万の神という寄せ集めの混合物のような宗教と共に、表記も発音も寄せ集めの日本語を使ってきた歴史的な経緯から言えることは、過去の歴史的な経緯を気にするのが面倒くさいということであり、そもそも西欧にとっての古代ギリシアや古代ローマのような起源を日本に想定する必要はなく、西欧の文化人類学を日本や東アジアに導入しようとした柳田國男が、西欧の手法を日本に導入してもせいぜいのところ室町時代ぐらいまでしか遡れないと述べていたらしく、それに対して南方熊楠は日本だけにこだわるのではなく世界そのものをそのまま学問の対象として捉えるようなコスモポリタンとして振る舞おうとしたらしいが、それらとは違って折口信夫などはあくまでも日本や日本人の独自性にこだわろうとして、逆にそれが19世紀西欧の論理の罠にはまっていることにもなるわけで、欧米人が西欧の起源にこだわるようにして、それに対抗して日本人が日本の起源にこだわってしまうという過ちを犯してしまっているわけで、それこそが現代の日本の世間的な基準からしてももっとも一般受けするやり方であり、そういう過ちの代表格が折口信夫なのだろうが、折口に限らず19世紀西欧の思想的なエピゴーネンが今でも世界中に大勢いて、それこそが19世紀西欧の思想や論理の世界支配の象徴ともなっていて、その中には国民国家や民主主義や右翼や左翼と呼ばれる政治的な対立などのように、そういう概念や実態ありきで大勢の人たちがそれを前提にして思考や行動を進めてしまうような傾向になっているわけだが、何から何まで寄せ集めの日本においても、当然のことながら世界の支配的な傾向に付き従って活動してしまうわけだが、それも完全に隷従するようなことにはなっていないだろうし、また西欧が先生で日本が生徒であった関係を将来的には逆転させて、日本が世界を指導する立場になろうとしているわけでもなく、単なる寄せ集める材料として西欧文化があるのかも知れないし、かつては同じように中国文化や朝鮮文化も寄せ集めていたわけだが、そうやって何でも取り入れるが完全に取り入れたためしがないような傾向もあるだろうし、別にそれが肯定されるわけでも否定されるわけでもなく、人や物や情報などは本来的な意味でそうやって寄せ集めるものだろうし、これまでもそうやってきたようにこれからもそうやっていくのだろうし、逆に日本発で世界に対して何らかの物事を提供することもあるだろうし、これまでも提供してきたしこれからも提供していくのだろうが、もとから何にしても周縁的で寄せ集め的な傾向があっただけに、支配的な傾向とはならないのかも知れないし、それが日本の文化的な特徴とも言えるのかも知れないが、そういった何にしても深くのめり込むようなことはしない傾向というのは、ほどほどのところで留まるような中途半端な印象は拭えないだろうし、それが焦れったく感じる人も大勢いるかも知れないし、そういう成り行きになってしまっている現状を批判しようと思えばいくらでも批判できるかも知れないし、実際に批判している人もいくらでもいるのかも知れないが、そういうことを批判してもかまわないし、さらにそういう批判が気に食わなければそれもまた批判すればいいだろうし、どうやってもそういう中途半端さに対しては批判の連鎖が続いていってしまうわけだが、だからといって徹底したことができるとは思えないが、実際に徹底したことをやろうとして失敗したこともかつての軍国主義的な暴走を伴った経緯があるだろうし、現状の政治や行政や経済などの面でも失敗している成り行きがあるとしたら、やはり徹底したことをやろうとしていつものようにかけ声倒れとなり、途中からぐだぐだになって失敗している現状もあるのかも知れないが、そうなっているのが日本だけではないかも知れないし、現に世界各地でそんな成り行きになっているように感じられるとしたら、現状でも支配的な傾向として作用している19世紀西欧の価値観に限界や欠陥があるからかも知れないが、それに代わる価値観が世界中で求められているかというと、それも相変わらずそうではなく、民主主義などの肯定的な傾向を徹底しようとして、かけ声倒れに終わったり途中でぐだぐだになったりしながら、功利的な利益の追求や昔ながらの人種や民族がらみの対立も事ある度ごとに蒸し返されて収拾がつかなくなっているのかも知れないが、それももとからそうなのかも知れないが、世界そのものが様々な物事の寄せ集めであり、そこに統一的かつ合理的な論理が行き渡っているわけでもなく、そもそもそういう論理を行き渡らせようとすること自体に無理があり、19世紀西欧の論理や価値観も一時的な支配体制を確立したかに見えただけであり、それによって完全な支配体制を確立したわけでもなく、実質的には相変わらずの寄せ集め状態でしかないのかも知れないが、だからといって新たな支配体制を確立しようとしてできるわけでもなく、うまくいかなくなることも目に見えているだろうし、そうやってあらゆる物事が不完全なまま中途半端に回っていくしかないとしても、その一方で資本の論理が相変わらず世界を支配しているように感じられるだろうし、それは誰もが理想の形態として掲げるような論理ではないどころか、様々な不都合や不均衡をもたらしながら人々を誘惑して、一部の人たちには富と快楽をもたらしながらも、富を充分には得られないその他大勢の人たちを苦しめる傾向があるわけだが、それは日本や日本人だけの問題ではなく、世界中で問題となっていることであり、日本だけでどうこうできるわけでもないだろうが、政治や行政の方面では日本だけでどうにかしようとする成り行きになってしまうだろうし、何かそういうところでちぐはぐなことをやらざるを得ない事情が生じてきてしまうわけだが、それもそうなってしまってもかまわないのであり、日本だけでなく世界の他の国々でも大なり小なりそういう傾向になってしまっているだろうが、それに対する批判も世界各地でなされているだろうし、そんな批判に対する批判もされて、やはりそういうところからも批判の無限連鎖が始まってしまうのかも知れないが、そういう傾向も世界共通な面があるだろうが、日本独自の領域でおこなわれている批判にもそれなりの有効性があるだろうし、それに対して批判してもやはり批判の連鎖にしかならないわけだが、たぶん何かを徹底化しようとする傾向を押しとどめることはできないとしても、結果的に徹底化できずに途中からぐだぐだになってしまう成り行きになるのを阻止することもできないのではないか。


6月14日「民主主義と民度」

 民主主義がまともに機能している状態が現状だとすれば、民度がそのまま政治に反映していることになるわけだし、制度的にも法律的にも民度がそのまま政治に反映するようになっているとすれば、民主主義を反映した政治制度になっているわけだが、それの何が問題となっているわけでもなく、逆に問題があるのは制度や法律ではなく民度そのものかも知れないが、どちらにも問題があると思ってもいいし、もちろんそれに問題があるとは思わなくても思えなくてもいいだろうが、そういう制度と法律と民度がその国の民主主義を反映していると認識してみても、それだけでは何を述べていることにもならないかも知れないが、問題なのは制度や法律などの形式とその国の内情としての民度でもないとすると、他に何か問題にすることがあるのかと問われるかも知れないが、そんなことまで問う必要がなければ問題など何もないと思っておいてもかまわないだろうし、実際に何が問題でもないのかも知れないが、問題は民主主義だけにあるのではなく他の様々な物事にも問題があるだろうし、世の中を構成する様々な物事に関してその在り方や様態や動作に関して疑念を抱くようなことがあれば、それが疑念を抱いた人にとっての問題となるわけだろうが、現状を肯定するなら何も問題がない立場を取る必要があるだろうし、現状に関して何か問題を指摘する人に反感を抱くようなら、その人が現状を肯定したいわけだろうし、もちろんあからさまにそんなことを意識しているわけでもなくても、政治や経済の現状に関して何か批判的なことを述べるような人に対して敵意を抱くようなことになるなら、現状で政治や経済の分野で主導権を握っている勢力に属していることになるのだろうが、本人がその気になっていても実際に主導権を握っているつもりの勢力からは相手にされていなければ勝手な思い込みに過ぎないわけだが、別にそういうことに関心がなければ何も思わなくてもかまわないわけだし、世の中の様々な物事に問題があるように感じるとしても、またそういった問題を指摘する人に反感を抱くとしても、問題があるように思わせられていたり反感を抱くように仕向けられていたりもするわけだから、そういう面で自分がそう感じていたり思っていたりすることにも疑念を抱くようなら、何か世の中の様々な方面から作用や影響を及ぼされていると認識するしかないだろうが、自らがそういった成り行きで世の中の支配的な風潮と一体化している面があることも認識しておくしかないのかも知れず、そうなっていることが肯定的に思われるなら、世の中の主導権を握っているように思われる勢力に同調していることになるだろうし、何かそうなっていることが不快に感じられるようなら、世の中の主導権を握っているように思われる勢力に反発していることになるだろうが、なぜ同調したり反発するのかといえば世の中の傾向に同期できるかできないかということにもなるだろうし、そういった傾向がおかしいと思われるなら同期できないわけだが、なぜおかしいと思われるのかといえば、そんな傾向によって不利益や被害を被っている人の存在を知っているからだろうが、どこからそういうことを知るのかといえば直接身の回りから知ることもあるし、間接的にメディアを通して知ることもあるだろうが、そんな人が存在すること自体が問題だと思えば、それをどうにかしなければならないだろうし、現状の世の中で主導権を握っている勢力がそういう問題を放置していたり、その問題にうまく対処できずにいれば、やはりそういう勢力に反発するだろうし批判的な態度になり、実際にメディア上でそれを批判している人や勢力に同調したりそれを支持することにもなるわけだが、それも一つの成り行きであり世の中の傾向としてそういう成り行きになることもあるわけだから、それに対しても反発する人が出てくるだろうし、特に現状に肯定的な態度の人はそうやって問題を提起する人たちを快く思わないわけで、自分が肯定的に思っている現状を変えようとしているわけだから余計なことをしているように思われるだろうし、だからそういうことやっている人たちの邪魔をしたり攻撃するわけだろうし、実際にそんな世の中の風潮から利益を得ていると思われる人はそんな風潮でもかまわないわけで、逆にそんな現状から不利益や被害を被っている人がいるとしても、それは現状に問題があるとしても少なくとも自分は利益を得ているわけだから、自分のようにやれば利益を得られるわけで、それをできない人の方が悪いか努力が足りないと思うかも知れないが、例えばその人が他の多くの人たちと競争してそれに勝利して成功を勝ち取ったような状況であれば、客観的に考えるなら競争に敗れて努力が失敗に終わった人も大勢いるわけだから、果たしてそんな大勢の人たちの方が悪いのか努力が足りなかったのかとなると、その中で誰かが成功してそれ以外の人たちが成功できなければそういうことではないようにも思われてくるわけだが、そういうことばかりではないとしても、実態としてはそれ以外の人たちが世の中の多数派を占めている状況にもあるのかも知れないし、それも単に成功するか失敗するかではなく、成功や失敗の程度や傾向や内容にも様々な有り様があって、それを単に成功や失敗とは割り切れないような中途半端で曖昧模糊とした状態もあるわけだから、そんな現状から得られる利益も不利益もはっきりしないようなどちらも得ているような感覚にもなれるのかも知れないし、利益を得ていながらも不利益や被害も被っているような感覚になると、現状に関して肯定的に受け取れる面と否定的に受け取れる面とが混じり合っていて、そんな都合良く現状の中で主導権を握っている勢力にもそれを批判する勢力にも簡単には支持も同調もできないような感覚にもなるのかも知れず、そうなるとそういった体制や反体制といった勢力の割り切りもできなくなってしまい、そこから民主主義的な政治制度の限界が浮かび上がってくるのかも知れず、選挙でどのような候補者に投票するとしても、どれも自らの感覚とは合わないようなことにもなるだろうが、ならば自らが立候補すればいいともならないだろうし、政治の場では自らがやりたいことが見つからなければ政治家になろうとは思わないわけだが、では政治に無関心となって投票に参加しなくてもかまわないのかといえば、そうなってもかまわないのかも知れないが、そうでなくてもかまわないだろうし、現状に関して何か問題に感じるところがあってそれを改善した方がいいと思われるなら、それが政治的に解決が可能に思われるなら既存の政治勢力に対して何らかの働きかけをおこなえばいいだろうし、一般人が働きかけをおこなっても無視されるだけかも知れないが、そこから仲間を募って政治運動をするような成り行きにもなるのかも知れず、結局はそういうことをやりたい人たちが徒党を組んでやろうとするのが政治的な行為となるのだろうし、他の大勢の人たちもそれに賛同したり反発したりそれを支持したり反対していく中で、何らかの政治的な活動が生じてくるわけで、そんなことの積み重ねとして民主主義的な政治の内容や傾向や程度が定まってくるなり変動するなりした結果として、そんなことがおこなわれている中でその国の民度も定まってくるなり変動するなりするだろうし、そういった結果として明らかとなるような内容や傾向や程度に関して、それらを肯定的に見るなら現状に関しても肯定するような感覚になるだろうし、それらを否定的に見るなら現状に関しても否定するような感覚になるだろうが、それを否定するに関してもそんな現状をどうしたいかも問われてきて、現状で見られるような肯定的な内容や傾向や程度などをさらに伸ばしたいのか、あるいは現状で見られるような否定的な内容や傾向や程度などを改善したいのか、あるいはその両方をやりたいのかも問われてくるだろうし、そうなると選挙で立候補者が何を主張しているのかを詳細に知る必要も出てくるかも知れないが、果たしてそんな必要を感じさせるようなことを立候補者が主張しているのかも問われてくるわけで、そういうところでその国の民度が高ければ、実際にそんなところまで知る必要を感じさせるような人が選挙に立候補してくるだろうし、逆にその国の民度が低ければうわべだけの単純なスローガンを叫びながら民衆を扇動しようとするような立候補者ばかりとなるかも知れないし、さらに広告代理店の類いを使って心地良いイメージばかりを売りにするような立候補者が民衆の人気を集めるかも知れないが、それに関して例えば経済的な面での利害の調整や効率化などを掲げているとしても、そういった主張の中身が何らかの分野へと民衆の意識を誘導するような傾向があるとすれば、民衆の側ではそれ以外の分野にも関心を向けなければならないし、特定のことだけをことさら強調するような主張にはそれ以外のことを主張者が考えていないか、主張を受け取る人たちが考えないように誘導している場合があるわけで、そういう誘導の意図や思惑を民衆の側が見破れるかどうかに関してもその国の民度が試されているし、そういう意味で選挙というのは立候補者にとって試練であるのは当然のことであるのと同時に、それを選ぶ民衆の側にとっても試練であることも承知しておかなければならないだろうが、そういった人々の意思や思惑だけでどうにかなるものでもないし、そういった意志や思惑を超えて歴史的な成り行きもあるわけだから、結果がどうなろうと、あるいはどうにもならなくてもそれをそのまま受け止めるしかないのかも知れない。


6月13日「退避する理由」

 何かの渦中から退避する能力が何から生じるのかといえば、そこで起こっている出来事に対する抵抗力に退避する能力が含まれているのかも知れないが、なぜそこから退避しなければならないのかといえば、危険だからという理由がすぐに思い浮かぶかも知れないが、そもそも何かの渦中とは何なのかといえば、そこで何らかの争いがおこなわれていて、それに暴力の行使が含まれていれば確かに危険だが、危険だから退避しなければならないという理由以外でもっともらしい理由があるかとなると、特に理由がなくてもそこから退避してもかまわないだろうし、退避する理由がなければそれを退避とはいわないのかも知れないし、もっともらしい理由がなくても、自然にそうなってしまうならそれでかまわないのかも知れないが、自らが行動するのにもっともらしい理由が必要なのかといえば、それは行動している自らを正当化しなければならない成り行きがそこで生じているからだが、正当化しようとしてできなければ理由など不要となってしまうのかというとそうでもなく、理由にすがらないと退避できないかも知れないし、退避する理由がないと退避している自らを信じられないのかも知れないが、たとえ信じられなくても実際にそこから退避してしまった現実を前にして呆然とするしかないとしても、退避できてしまったことを自らの行動の成果と受け止めるしかないだろうし、なぜ退避したのかわからないままでも自然の成り行きとしてそうなってしまい、そうなってしまったことについて何やらもっともらしい理由をこじつけようとしてもうまくいかず、単なる自己防衛の本能が作動してそこから退避したに過ぎないとしても、また退避したことによってそれなりの不利益も被ってしまったとしても、どういうわけか退避してしまった後から生じている成り行きの中で普通に生きている現実があれば、それもそうなったことを踏まえながら現状に至っているわけで、そんな現状を特に正当化するまでもなければ、単に自然の成り行きとしてそうなってしまったことでしかないと納得できないまでもそう受け止めるような成り行きの中で、まだ自らに嘘をついているように思われるなら、そんな嘘をついている自らの弱さを自覚せざるを得ないわけだが、果たしてそんな弱さから自らを正当化せざるを得ないのか、それとも弱いことを自覚している限りで、そんな自らを正当化する必要すらないのかは何とも言えないところかも知れないが、ともかく退避するのではなく積極的に立ち向かう勇気が必要だとも言えるわけで、何に立ち向かうのかといえばその出来事の渦中で争っている相手に立ち向かうのが自然の成り行きとなるだろうが、そうやって戦う勇気を持って相手に立ち向かっていれば、相手に怖じ気づいて負け犬のようにそこから退避してしまうような心身の弱さをさらけ出すこともないのかといえば、それもその場の状況にもよるだろうし、そもそも自らが争いの当事者なのかといえばそうとは思えない場合もあるわけで、またその場でおこなわれている争いから背を向けることが逃げていることになるのかというと、逃げられるとも思えなければ逃げているのではなく、例えば真正面からぶつかるのでは分が悪いから一時的に退避していると言えるのかも知れないし、それがその場の状況に応じた行動であり、退避する上でもっともらしい理由になることもあるだろうが、どうも状況としてはそういうことではなく何のために退避しているとも言えないのかも知れず、結構その場の状況の中で退避しているように思わされているだけで、勝つ見込みがないのに戦わされているだけであれば、戦う相手を間違えていることにもなるだろうし、実際にそこで対峙している相手ではなく、その相手と対峙するように仕向けている何かと戦わなければならないとしたら、まずは対峙している相手との戦いを避けなければならないだろうし、戦いを避けるにはそこから退避するしかなければ、自然の成り行きとしてそうなってしまうのも致し方のないところだが、ではそんなふうに戦うように仕向けているのは何なのかといえば、まだそれを知るに至っていないのかも知れないし、もとからそんなものなどなければ取り越し苦労でしかないだろうが、そんな取り越し苦労を強いるような状況となっているのかも知れないし、どう思ってみても納得しがたいような成り行きの中で生きているとすれば、それ以外にもいくらでも疑念が湧き出てくるかも知れないが、とりあえず抱いてしまう疑念としては、何でそんな不利な状況で不利な戦いを強いられるのかということであれば、それがそこから退避することのもっともらしい理由となるだろうし、実際に退避してみた結果として大した不自由も不具合もなく生きられていれば、そこで必死になって何かと戦っていたことが意味のないことだったようにも思われてしまうだろうし、たぶんそうなっては困るから、そこでも誰が困るのかがはっきりしないところかも知れないが、ともかく必死になって苦労して疲弊して消耗しながら何かと戦っている状況というのが、労働と呼ばれる行為に伴って生じる状況の本質なのかも知れないし、そんな環境の中で働くことを強いられていると、何か自らの生死をかけたぎりぎりの状況で戦っているように思われてくるのだが、そういう状況の中で実際に過労死してしまう人も病気になってしまう人も出てくるのだから、何か大変なことをやっているように思われてしまうのにもかかわらず、大変な思いをしてそんなことを日々やり遂げている実態があるとしても、何かの機会にいったんそこから離れてしまえば、大した報酬をもらっているわけでもないのに、大した仕事内容でもないのに、それどころか端から見ればどうでもいいような些細で部分的でみみっちいことに汲々としている実態がわかってしまうわけで、それもそう思わされるような機会に恵まれる限りでそう思ってしまうことであり、そう思ってしまうことですらも他の何かによってそう思わされてしまっていることでしかなく、そういう成り行きになればそう思うしかないわけで、そう思えばそこで必死になって戦っているのが馬鹿らしく思われてしまうだろうし、そういう成り行きに従うならそこから退避した方がいいように思われてしまうわけだが、それもそう思ったからといって素直に退避できるわけでもないだろうし、退避しようにも退避させてもらえないような事情が生じていれば、実際に退避できずにさらなる消耗戦を続けざるを得ないような成り行きとなってしまうわけだが、そうなってしまう人も世の中にはいくらでもいるだろうが、中にはそこから退避できてしまうような運のいい人も出てくるわけで、それが運がいいと言えるかどうかもそうなった結果から判断するしかないわけだが、どう判断したところで相対的な判断に留まるだろうし、そこから進むも退くも地獄となってしまうような成り行きもあるだけに、何かこれといって賢明な選択というのがない場合もありそうだが、そのあるなしにかかわらず何らかの成り行きを結果的に選んでいるわけだから、そういう成り行きになってしまえばどうしようもなくなってしまうわけだが、何かそこから退避しながら後退戦を繰り広げているように思われるなら、たぶんそれは中途半端な戦いを強いられているのかも知れないし、それが不幸なことのように思われるならそういう戦い方はやめた方がいいだろうし、だからといって玉砕覚悟で特攻をかけるほど無謀なこともやらない方がいいように思われるなら、まだ自らの終末に追い込まれているわけでもないのかも知れず、まだ何とかやりようがあればやろうとするだろうし、そんなことなど思う間もなくせわしなく動き回っていれば、何らかの成り行きの中にとらわれていることになるだろうが、そうやって絶え間なく動き回っているうちに、そういう動きの中で安住できるようなことにでもなれば、安定して動いているようなことにもなってしまうだろうし、結局どうやってもやっている内容のマンネリ化を避けられないようなら、他の誰もがやっているようなことを自分もやっていることにもなるわけで、それに気づけなければそこに安住しながら同じようなことをやり続けるだろうし、何かの機会に何かのきっかけからそれに気づいてしまえばそれでは満足できなくなってしまうだろうし、そうなると安住の地から離れてしまうかも知れないが、それが直に危険からの退避だとは思われないかも知れないが、間接的にはやっていることがマンネリに陥ってしまう危険からの退避だと思われてしまう場合もあるのかも知れず、その辺がやっている内容如何で程度や傾向に差が出てくるわけだろうが、途中で余計に考えすぎないことも肝心なのかも知れないし、どれほどまでに考えることが余計であるのか、あるいはちょうどいいのかも考えてみないことには何とも言えないところだが、考えるための指針や基準が簡単に求められるようなことであれば考えればいいことでしかないだろうが、そう簡単には考えてみたところでどうなることでもなければ、それ以前に何かそこで感じ取らなければならないことがあるかも知れないし、それが何かの機会を捉えてその場の偶然の巡り合わせとしか感じ取れないようなことを感じ取れたように思われるなら、やはりそこで幸運に恵まれたと思っておいた方がいいのかも知れない。


6月12日「易姓革命」

 普通に政治家や政党が打ち出す政策の類いに実効性があるかとなると、その実効性というのがどういうレベルにおける実効性なのかが問題となってくるわけでもなく、それが政治的なレベルでの実効性なのか、行政的なレベルでの実効性なのか、経済的なレベルでの実効性なのか、社会的なレベルでの実効性なのか、民衆的なレベルでの実効性なのか、そんなことはよくわからないし、それによって何か効果や成果が上がれば政策の類いに実効性があったことになるのだろうが、それが必ずしも政策といった形態そのものではない場合もあるかも知れず、例えば何やら政府と癒着している業者が懇意の政権や特定の省庁と示し合わせて、政府の予算を独占的に横領することに成功して莫大な収益を上げていれば、そういうことを許すような政策には実効性があることになるだろうし、たとえそれが社会的なレベルや民衆的なレベルでは否定的な効果や成果と見なされるとしても、政治的なレベルや行政的なレベルや経済的なレベルでは肯定的な効果や成果と言えるのかも知れず、そうなっているのは政策だけではなく官民癒着体質がそういうことをやらせているわけで、たとえそれが社会的なレベルや民衆的なレベルから見ればあってはならないようなひどい行為であっても、それによって政権の側でも政権と癒着している特定の省庁や民間の業者にとっても利益を得られているレベルでは成功していて、それによって政権側が打ち出している政策がうまくいっていることにもなるだろうし、そんな結果をどう受け止めればいいかとなると、政権批判的な論調に与するならそんなことを許している社会や民衆が情けないということでかまわないが、政権を擁護する側では不正がおこなわれているのに見て見ぬふりをするような態度であってもかまわないだろうし、そもそもそれを不正行為と見なすことさえ憚られるのかも知れないが、制度的にはそういうことを許さないような世の中の風潮になって民衆の方でも否定的な受け止め方が大半を占めるようになってくれば、選挙で政権側が敗北して政権交代が実現するわけだろうが、政権を擁護する側の勢力も御用メディアを使って社会や民衆の世論をコントロールしようとしてくるだろうし、そういったコントロールが功を奏しているうちは政権交代など起こらないだろうし、起こったとしても政権を批判する勢力ではなく政権を補完する勢力に交代させるように誘導されてしまうのかも知れないし、結果がどうなるにしてもそれは制度的な面で起こることだろうから、今ある社会そのものが根底から覆されるわけでもないわけだが、それでもかまわないとなると倫理も良識も皆無なわけだが、結果的にそうなればそれでもかまわないことにはなるだろうし、実際にかまわないことになってしまうわけだが、社会的なレベルでも民衆的なレベルでもそういうことに関心がなくてもかまわないのかも知れないし、実際に関心がない方面では全く関心がなく、そういうことに関心のない民衆もいくらでもいるだろうし、また批判するよりも不正行為には見て見ぬふりをする民衆もいくらでもいるのだろうし、そんな状況がそのまま政治や行政に反映しているから現状がもたらされているのかも知れないし、それはそれで批判する側もそんな現状になっていることは認めざるを得ないだろうが、それを社会的なレベルから考えるなら別にあり得ないことが起こっているわけではなく、これまでにもそういうことが繰り返されてきた経緯があるだろうし、資本主義的には理に適っている行為がおこなわれているわけで、それが功利的な行為でもあるわけだが、少なくともそれが倫理的にも道徳的にも許されない行為であることは確かだろうし、悪質な行為と見なされても仕方のないことなのだろうが、今までにもそういうことがおこなわれてきたし、今も世界の各地で似たような行為がおこなわれているだろうし、実際におこなわれているのだから不可能ではない行為であり、成り行きとしてはそういうことがおこなわれて当然の風潮の中に社会が形成されているわけだが、根本的に倫理的な価値観よりも道徳的な価値観よりも功利的な価値観が優先されるような世の中になっていると言えるわけで、そういう世の中で生きている限りで、そういうことがおこなわれている現状があることは認めなければならないだろうし、そういうことがおこなわれている現状に不都合を感じるならそれを改めなければならないと思われるわけだが、どうやって改めるべきかとなると、現状で機能している法律や制度を改正することによって改められるかといえば、改める過程で改正内容が骨抜きにされてしまえば結果的には改まらないわけで、実際にもそうやって抜け穴だらけの不十分な法律や制度となってきた経緯もあるだろうし、そういった法改正などの行為にも限界があることが明らかとなっているのかも知れないが、では他に有効なやり方があるのかといえば、あるとは言えないものの、ないわけではないのかも知れないし、これから有効なやり方を模索していく過程で明らかになることだろうが、その際に必ずしも制度や法律や国家の枠組みが守られるとは限らないし、別の形態へと移行する可能性もあるだろうし、実際にこれまでにもある時期を境にしてこれまでにない社会形態が出現してきた経緯があるし、実際に今ある社会形態も過去のある時期の形態とはかなり違っているはずだし、また現状の形態が将来においてどう変わるかも現時点ではっきりとはわからないが、現状からは様変わりする可能性もあるだろうし、大して変わらない可能性もあるわけだが、どちらにしても変えようとして変えようとするのとは別の方面から作用が働いてくることも確かであり、そういった作用や影響を受けて思いがけないことが起こることも確かであり、例えばそれが自然からの作用であれば、実際にコロナウイルスの世界的な蔓延によってそれ自体が思いがけない出来事でもあるわけだが、また東アフリカからインドにかけてバッタが異常発生して蝗害が起こっている最中であり、農作物などの甚大な被害によって飢餓が蔓延するかも知れないし、そういった方面からの作用をきっかけとして社会的な混乱も誘発されると、それに照準を合わせた人為的な行為もおこなわれるかも知れないし、それが政治的な行為なのかテロなどの破壊的な行為なのか、あるいは多くの人に好意的に受け止められるような人道的な行為となる可能性もあるだろうが、そういったところから社会の枠組みが思いがけない変動を起こすのかも知れないが、それはこれまでにも似たようなことが起こってきたのだろうから、そこから類推することは可能だろうが、同じ結果をもたらすわけでもなく、そういう意味で未来が不確実であることに変わりないわけだが、どうなるにしても社会的あるいは民衆的なレベルでは政治・行政・経済・産業などのレベルで起こっていることから少なからず作用や影響を受けるにしても、人と人とのつながりの面で信頼や信用を維持するには単なる功利性の追求だけでは不信感が募っていくわけで、それなりに助け合うには倫理的かつ道徳的な面でも守っていかなければならないことが出てくるだろうし、またそういう面を阻害するような不快で慣習的な同調圧力にも抵抗していかなければならず、功利的な面での損得勘定とは違う、人と人とが信頼し合うことで信用が生じるような成り行きも生じさせなければならず、それが得と徳の違いにもなるわけだろうが、そういった得とは違う徳を生じさせるには、権威主義的かつ権力的な強制とは異なることをやらなければならず、それが現状で成り立っている国家的かつ行政的な枠組みだけでは不十分であり、また宗教的かつ祭祀的な昔ながらの伝統的な枠組みでもうまくいかないだろうし、そういうところで今までにはなかったような全く新しい社会的な枠組みが必要となるのかも知れないし、それには18世紀と19世紀の境目で起こったフランス革命からナポレオン戦争に至るような歴史的な経緯が必要であり、またそうした経緯によって成立した国民国家的な枠組みとは全く違った枠組みになるのかも知れないし、それは第一次世界大戦から第二次世界大戦を経て成立した国家連合的な枠組みとも違ったものになるのかも知れないが、18世紀と19世紀の境目でカントが予言した国家連合的な枠組みが、まさに国民国家的な枠組みが成立しようとしていた時にその実現が予言された経緯から考えられることは、二度の世界大戦を経て実現した国家連合的な枠組みが成立しようとしていた時期にまさに予言されていたことはといえば、まずは米ソ対立などの冷戦的な枠組みの到来であり、さらに国民国家的な枠組みとも国家連合的な枠組みとも違う枠組みが予言されていたとすれば、次に来るのは共産主義的な枠組みの到来であるかも知れず、現状でも主導権を握っている勢力に属する誰もが避けなければならないと思っていることが、やはり世界的な共産主義革命の到来であり、そう考えると今後思いがけないことが起こるとすれば、やはりそれは誰もが避けようとしている共産主義革命なのかも知れず、実際に資本主義がその担い手たちによる金権腐敗体質によって貧富の格差が極限にまで押し広げられた末に起こるのは、国家の解体と世界的な共産主義体制の実現となるのかも知れず、その主要な担い手が共産主義独裁国家の中国から出現するのかも知れない。


6月11日「紆余曲折の行方」

 何もかもが予定通りにいくわけではないのはわかりきっていることかも知れないが、予定ではそこへと至るはずだった場所に行く途中で思いがけない紆余曲折が差し挟まれると、そこへ至ってはまずいようにも思われてくるのかも知れず、普通はそこで躊躇してしまうわけだろうが、勘を信じるならそれが紆余曲折だろうと何だろうとかまわず突っ込んでいってしまうのかも知れないが、冷静になって考える余裕があれば、待てよとなるのかも知れず、そこで下手に欲を出せば絶好の機会を取り逃がして後悔することになるだろうし、あのとき成り行きに従って突っ込んでいけば良かったと悔やまないためにはそこで決断するしかないわけだが、何をどう決断するのかといえば、途中の紆余曲折と戯れる必要があるわけで、それが決断と言えるのかよくわからないところかも知れないが、意味不明な紆余曲折とはそういうものだろうし、何だかわからないがそうなってしまうならそういう成り行きに従っておいた方がいいだろうし、下手に理性を働かせて思いとどまってしまうと絶好の機会を逃してしまうわけだが、果たしてそれが絶好の機会なのかといえば、自らの力量が試される試練であったりもするわけで、そこで機会を生かすか殺すかは自らの力量次第であり、それはまたその時の運次第でもあるのだろうが、力量不足であっても幸運に助けられてうまく事が運ぶ場合もあるのかも知れないが、結果から見れば無謀なことをやって敗れ去ってしまったことにでもなれば、今までの努力が水泡に帰してそこでおしまいとなってしまう場合もあるから、できることなら慎重に事を運びたいのだろうが、そういうときに限って大胆な行動を要することであったりもして、全てが自身に有利に作用しているわけでもなく、危険に身をさらさないと得られぬ物事もあるわけで、その危険が罠かも知れないし、飛んで火に入る夏の虫となって誘い込まれるように罠にはまってしまう場合もあるわけだから、用心してかからなければならないわけだろうが、大胆に行動しなければならないのに用心もしなければならず、何か矛盾しているように感じられるかも知れないが、やろうとすることが矛盾してしまうからそこで紆余曲折を通過しなければならず、近道を一直線に進んでいるつもりがとんだ回り道を強いられていたりして、果たしてそれが取り返しのつかない過ちを犯している最中なのか、あるいは回り道の中で迷わないと目的地へはたどり着けないのか、悩ましいところかも知れないが、やらなければならないこととはそういうことであり、結果的には何でもなかったことだったのかも知れないが、それはそう思った時にわかることであり、それをやっている最中にはわからないわけで、そこで何をやっているとしても、結果的に何でもないこととなるか、あるいは何か意味や意義を感じられることになるかは、それをやっている当事者にもそれを見ている傍観者にもわからない場合があるのかも知れず、しかもそれでかまわないような成り行きになってしまえば、やはり何でもないようなことをやっていたことにもなるだろうし、たとえそんなふうに物事の成り行きが推移しているとしても、それにかかわっている限りでそうなってしまうのであれば、それはそういうことだと捉えるしかないだろうし、そういう成り行きはそのまま放置して成り行きにまかせておくしかないだろうし、たぶんそうなるのが自然な成り行きなのかも知れず、あまりそういうところで理屈に頼って納得しようとすると、何か勘違いをしてしまって動かなければならないところで動くのをためらって、逆に動かなくてもいいところで無駄に動いてしまったりして、そうやって無理に考えてとってつけたような理屈が状況に合わないことが災いしてその場で主導権が握れないままとなって、それが何でもないような結果を招いたことの原因のようにも思われてきて、やはりそうなってしまうと自らの勘を信じ切れなかったことも後悔の原因とも思われてしまうだろうし、そうやって自己嫌悪にとらわれながら自縄自縛に陥ってしまうことだってあるだろうし、そうならないためにはやはり身の危険を顧みずに大胆に振る舞うしかないわけだが、そういう伸るか反るかの賭けに直面していると思われるのが勘違いであれば自らが愚かだったということであり、そこで身の程知らずな夢を見るのをやめた方がいいのかも知れないが、身の程知らずであるからこそかえって勘違いな夢を追い求めてしまうのかも知れず、その辺の成り行き自体が身から出た錆でしかなく、愚かだからこそその愚かさに見合うようなわけのわからない紆余曲折を招いて途方に暮れてしまうのかも知れないが、そういう脇の甘さがかえって何かの機会を引き寄せてしまうわけで、何かそういうところで何から何まできっちり計画通りに事を運ぼうとする人は意外とつまらない人生を歩んでしまう反面で、ある程度はいい加減などんぶり勘定で済ましてしまう人の方がとんでもないようなことをしでかしてしまう可能性があったりして、そういう極端な成り行きとは違う結果をもたらすような中途半端にせこくて中途半端にいい加減な人が世の中の大半を占めているのかも知れないが、政治家に何を求めるのかとなると、ただ漠然と民に利益をもたらしてくれるように願っていると期待外れに終わってしまうのかも知れないし、たぶん世の中には様々な人がいるわけだから政治家にも様々な人がいるだろうし、それだけのことだと思っていればそれでかまわないとしても、そうであれば特定の政治家を支持する必要もないわけだが、それでかまわないような世の中になっているのかも知れないし、それが政治の形骸化を招いているとしても、そうなっている限りで政治が機能するのかも知れないし、どう機能するのかといえば普通の政治家が普通に政治を執り行うような成り行きになるのかも知れないが、それを目指しているわけでもないとしても成り行き的にはそうなってしまうことが望ましいのかも知れず、一般人と大差ないような政治家であることが望ましいのは日本のような国では身の程をわきまえているように感じられるだろうし、逆に政治に期待するような人が多ければ多いほど世の中が不幸に陥っていることの証拠となるだろうし、そういう意味で政治家に求められているのは普通の感覚であり、何が普通の感覚なのかといえば世間の一般常識を逸脱しない範囲内で活動して欲しいわけで、それだけが全てではないとしても、普通は優れているように思われる政治家を求めていることも確かだろうが、実際にはそうならないことも成り行き上は承知しているだろうし、その成り行きというのがわけのわからない紆余曲折を伴っていて、思わぬところからおかしな事情が介在してきておかしなことをやってしまうわけで、そういうおかしな紆余曲折を経て何がもたらされるのかといえば、ありのままの現状がもたらされているわけで、それを普通は否定的に捉えるのが批判勢力の現状分析となるわけだが、それを真に受ける必要があるかというとそうでもないだろうし、何よりも現状に関しては肯定的に捉えるべきで、どんなに悲惨でくだらない現状だろうとそうなってしまったことを踏まえた上で活動しなければならないわけだから、まずは現状が現状のようになっていることを認めなければならず、そうなっていることを認めた上で現状の中でどう振る舞うかだが、そこで抵抗感を覚えるようなことには抵抗しなければならないだろうし、それがどんなに理不尽で些細なことであっても抵抗した方がいいのかも知れず、抵抗することに何のメリットも感じられないとしてもそれに従うことが理に適っているように思われても何か抵抗感を覚えていれば、メリットがあったりなかったり理に適っているように思われたり思われなかったりするのとは違う次元で何かを感じ取っているわけで、それを探ろうとすればするほどわけがわからなくなってしまうとしても、何か得体の知れない胸騒ぎと共に抵抗感が募っていく限りで、そういった感覚を信じた方が身のためだろうし、そこでどう振る舞うかがその後の成り行きの行方を決めてしまうことにもなるのかも知れず、下手にメリットが感じられたり理に適っているように思われる方へと歩み寄ってしまうと、それだけうんざりするような妥協を強いられて、自らとは無関係な別の目的で別の利益を得るための餌として、メリットや理に適っているように感じさせるような罠が張り巡らされていることに気づけなくなってしまい、そんなふうに誘導している勢力の思うつぼとなってしまうわけだが、それが何も政治勢力であるとは限らず、単に経済的な利益を得るために誘導している可能性もあるわけで、案外利益を得る以外のことはどうでもよければ何でもないことでしかないわけだが、そうであってもそれだけでは済まなくなってしまうと、何やらそこに利益を得るために誘導している勢力の思惑を外れるような紆余曲折が差し挟まれていることになるのかも知れず、そんな紆余曲折が偶然の巡り合わせで生じてしまうとしても、それが罠にはめられようとしている人が感じる抵抗感の原因となっている場合もあるのかも知れないし、そうであればそういう紆余曲折を逆利用することによって罠にはめられてしまうような難を逃れることもできるのかも知れず、実際にそうなるとメリットや理に適っているように思わされて誘導されても、そうやって誘導される途中で思いがけず差し挟まれるわけのわからない紆余曲折に乗じてうまくそこから逃れてしまえる可能性もあるわけだから、たとえ罠にはまったとしても罠に気づかないとしても、最後まであきらめずに覚えている抵抗感を信じることが肝要となるのかも知れない。


6月10日「比較の正当性」

 確かに日本政府と癒着して政府の予算を吸い上げている寄生虫のような電通やパソナなどの日本企業を快く思っている人はいないだろうが、一方でアメリカ政府のNASAや軍と独占契約を結んでロケットを飛ばしているイーロン・マスクのスペースX社を悪く言う人はいないし、同じく米中対立にもかかわらず中国に大規模な自動車工場を建造中のイーロン・マスクのテスラ社のファンの人も結構いるだろうし、なぜそうなるかといえば理由は簡単で、その企業の業務内容に不快感を抱くか好感を持つかということだろうし、また他社の技術を盗んで業界で独占的な地位を築いたマイクロソフト社と世界有数の富豪となった創業者のビル・ゲイツにはアンチな人も結構いる一方で、そのマイクロソフトにやられて一時業績が傾いてピンチになったアップル社と創業者のスティーブ・ジョブズや当時の革新的なOSのマッキントッシュやそのOSを搭載したMacには古くからの根強いファンもいたし、またスティーブ・ジョブズが復帰して業績が立ち直るきっかけとなったパソコンのiMacやスマートフォンのiPhoneにも根強いファンがいるだろうし、それと同様に電気自動車のテスラにも熱心なファンがいるわけで、電通やパソナの竹中平蔵には政治が絡んでいるだけに常に薄汚いイメージがつきまとっていて好感度を下げていて、一方テスラ社やアップル社にはユーザーが使っている製品から良い印象が感じられて好感度を上げているし、スペースX社に関しては宇宙開発に携わっているからロマンを感じるだろうし、それだけ電通やパソナの竹中平蔵には金儲けがうまくいっている反面で悪いイメージがつきまとってくるわけだが、もちろんそうやって業種の違う企業を恣意的に比較すること自体が不公平であり、企業など他にもいくらでもあるし、そんな恣意的な比較が成り立たなくなるような比較対象もいくらでもあるかも知れないが、例えば企業としてのトヨタにはあまり良い印象を抱く人はいないだろうが、トヨタ車には大勢の人が乗っているし、特定の車種にも人気があるし、実際にまだテスラ車に乗っている人よりはトヨタ車に乗っている人の方が遙かに多いはずで、それは価格や使い勝手や生産台数や販売網などの面でトヨタ車の方にまだ有利な面があるからだろうが、さらにいくら良いイメージがあって欲しいと思ってもフェラーリやランボルギーニなどは価格が高すぎてほとんどの人は買えないし、特定の企業にまとわりついてくる印象や実際の業績などから企業間の優劣を比較するにしても、恣意的に比較する条件を絞り込んで比較しているだけだろうし、条件に合理性が生じる限りでそんな比較にも説得力が伴ってくるし、比較すること自体に何らかの意味や意義があるように思われるわけだが、その人がどんな企業で働いていてどんな企業の製品を愛用していても、その人と企業の間には一定の距離があるだろうし、距離を意識できる限りでその企業がどうなろうと自分は自分であり、その企業とその人が一心同体ではないことを意識できるだろうが、ではそれが企業ではなく住んでいる国となると、それとは事情が違ってくると思われるはずで、もちろんその人が公務員となってその国の政府の中で働いていて、企業と企業で働く人との関係と政府と政府で働く人との関係となれば十分に比較対象となるが、その国に住んでいることとは全く違うことだろうし、その国に住んでいるからといってその国の政府と一心同体になる必要はないし、公務員となって働いているとしても国民の立場で政府のやっていることに対しては批判してもかまわないだろうし、その人とその国とその国の政府との間に区別を設けることが肝要であり、それらを混同するようなことがあってはならないわけだが、それでも国とその国の政府を一心同体の存在と見なしてしまうことがしばしばあるわけで、例えば中国や韓国を批判している人は実質的には中国政府や韓国政府を批判しているのだろうが、それと同時に中国人や韓国人も批判対象となってしまうことがしばしばあるわけで、そういう批判者の意識や思考の中ではその国とその国の政府とその国の国民を一心同体と見なしてしまっているわけで、それをご都合主義的な単純化と言ってしまうと反感を買うだろうし、意識して恣意的に単純化しているわけではなく自覚することなくそうなってしまうわけだから、悪意を込めてわざとそう見なしているのではないだけに、その辺が微妙になってくるわけだが、国家同士の覇権争いなどを論じる際にも当然のことのようにその国とその国の政府とその国の企業の優劣などをまとめて論じる傾向にもなるだろうし、さらに場合によってはその国の政治家やその国の企業経営者なども比較対象に挙がってくるわけだが、多くの人がそういう比較に興味を持っているから論じる人もそういった需要に敏感に反応するのだろうし、そうなってしまうこと自体もある意味では当然の成り行きなのだろうが、そういう同時代的な傾向というのは別の時代ではその時代に特有な傾向となって、今の時代とは違った国々が比較対象となっていたのだろうし、その時代でもその時代を象徴する国家同士の覇権争いが繰り広げられていたことになっていたのだろうが、そうであれば今の時代の中で論じられている国家同士の覇権争いも歴史の中では相対的な部類であり、覇権争いの結果として生じる国家間の優劣が絶対的な指標とはならないはずだが、たぶん政治的に各国の政府同士が争っていて、それが連日ニュースのネタともなっているし、各国の企業同士も同じ業種の中では競争関係にあって、何らかの技術的な分野では熾烈なシェア争いを繰り広げていることになっているわけだろうが、特定の企業が特定の業種の中で覇権を握ることが特定の国が世界の中で覇権を握ることに結びついてくるとしても、そういう論法が何から影響を受けているのかと言えば、歴史家が特定の時代において特定の地域における国同士の覇権争いについて論じてきた伝統からであり、その元を辿れば中国の『史記』や古代ギリシアの歴史家のヘロドトスが『歴史』の中で語っていた内容に似てくるのかも知れないが、現代の世界で起こっていることがそれと似ているのかと言えば、似ているところもあるだろうが、全く似ていないところもあるわけで、しかも似ているところと言うのが、特定の国の世界的な覇権自体を裏切るような国内事情であり、たとえ過去数十年にわたってアメリカが世界の覇権を握ってきたとしても、また今もある程度は覇権を保っているとしても、アメリカ国民の大多数はアメリカ政府に対して絶えず反感を抱いてきたわけで、実際に暴動が定期的に繰り返されてきたし、政府を転覆させるためのテロ事件も絶えず起こってきたし、政府のトップを暗殺してしまう事件も実際に数回起こったわけで、それは歴史上の覇権国でも起こってきたことなのだろうし、世界の覇権を握ったからといって世界中の民がその国の前にひれ伏すどころか国内でも反乱が頻発してそうはならなかったわけで、特定の国が世界の覇権を握ること自体にどのような意味や意義があるかといっても、それに関して何やら肯定的な意味や意義などいくらでも挙げることができるかも知れないが、否定的な意味や意義もいくらでも挙げることができるのかも知れず、その一方で特定の企業による特定の分野での世界的な覇権に関しても、別にトヨタが世界の自動車販売台数でトップに立ったことがあっても、日本政府がそれによって世界の中で政治的な発言力を強めることができたわけでもないだろうし、イギリスの東インド会社が世界の交易を支配していた時期があったとしても、江戸時代の日本では鎖国をやっていたから全く影響がなかったのかも知れないし、たとえ世界的に多大な影響が及ぶ業種で特定の国の企業が世界の覇権を握ることができたとしても、それがマイクロソフトであろうとアップルであろうと、それを同時代的に経験してきた身にとっては何でもないことであったのかも知れず、また将来において共産党独裁国家の中国の企業が特定の業種で世界の覇権を握ることがあってもなくても、それが中国の世界支配に結びつくような脅威論で危機を煽られても、現状がどうなっているかを思えば、そこから類推するならやはり大したことでもないと思うしかないし、企業活動というのが商品やサービスを提供して利益を得るということでしかないのだから、そういう方面でおこなわれることはそういう内容でしかないだろうし、それ以上に何がどうなるわけでもなく、それによって中国政府の世界戦略を利する効果があろうとなかろうと、ただ中国政府には世界戦略とやらが成功するように頑張ってもらうしかないだろうし、日本の中で一般人として暮らしている身であれば、それによって多少は何らかの影響を被るのかも知れないが、別に中国政府の世界戦略が成功したからといって、中国政府の支配に屈するような結果は想像できないし、普通に考えられるのはそういうことではなく、せいぜいがメディア上で歴史家が論じてきた国家同士の覇権争いという構図に基づいたプレゼンテーションの類いを見せられるに過ぎないのかも知れない。


6月9日「情念と衝動」

 人が衝動的な行為に及ぶ時には理性の制御が利かなくなるが、情念に突き動かされて何かをやろうとすると、ややもすると喜怒哀楽などの感情にまかせた動作になるだろうし、動作の目的として何かを切実に求めているようだと、そこで何やら過剰な情念に取り憑かれていることになるのかも知れないが、そうやって他の全てに優先して目的に専念することが何を意味するのかといえば、我を失い正常な判断ができなくなっていると言えるのかも知れず、そこでそんな情念を抑え込んで正気を取り戻して、それが無謀な目的であることを悟って、思いを遂げようとするのを思いとどまるような機会に恵まれるなら事なきを得るだろうが、なぜそんな成り行きになるのかといえば、理由も原因もわからないままそうなってしまう場合もあるだろうし、感情にまかせて普段の状態からはかけ離れた衝動的な行為に及んでしまう人に、そうなる理由や原因を知る余裕などないのかも知れないが、たとえその人が冷静な態度であっても情念を心の内に秘めていれば冷静さを装っているに過ぎず、機を見て思いを遂げるために態度を豹変させて激しく感情を爆発させることもありうるかも知れず、目的が恨みや憎しみにとらわれた復讐ともなればそんな成り行きになるのも当然かも知れないし、そうなるとその場に居合わせた第三者にはまるでテレビドラマのような光景を目にすることができるかも知れないが、その標的となった人にとっては災難になるだろうが、その人が原因を作ったことにもなるだろうし、当人にはその自覚がなくても恨みを買う場合もあるわけだからそれが逆恨みであっても情念を向ける標的となってしまうわけで、何かしら共鳴現象をもたらすような因縁がそこで生じているわけだが、そういう人に対しては何らかの隔たりが必要となり、距離を設けることが肝要なのかも知れないが、思い込みの激しい人はその対象との距離を常に縮めて何かしら攻撃を仕掛けようとしてくるわけで、そんな人にまとわりつかれたらたまったものではなく、そういうストーカー体質の人ほど情念に突き動かされやすいだろうし、だからなるべく攻撃の射程から外れるために距離を取ることが肝要となってくるわけだろうが、人を恨んだり人に恨まれたり、あるいは人を羨んだり人に羨まれたりすることが、情念に突き動かされた行為を生むことになるのだろうが、他にも喜怒哀楽の感情を引き起こす原因や理由はいくらでもあるのかも知れないし、情念をもたらす対象というのが人以外にもあるかとなると、何かを追い求めることが情念に突き動かされてそうすることにつながるわけだが、目的として何かを追い求めることが、果たして情念に突き動かされて追い求めているのか、あるいは他に別の目的があって追い求めているのかとなると、普通は情念と目的が強く結びついて入り交じっていることになるのだろうが、情念以外の目的があるかとなると、比喩として狩猟の獲物を求めていることにはなるだろうし、それが食欲にしろ他の何にしろ欲望の対象として獲物があるわけで、それが人間なら人間狩りを目指しているわけだろうが、必要だから求めていて、必要でなくても必要だと勘違いしている場合もあるだろうが、獲物を狩ろうとしているのを邪魔されると邪魔した人を恨むだろうし、そうやって衝動に伴って恨みが生じることにもなるのだろうが、他人の何らかの状態を恨んだり羨んだりする心理状態になることを追い求めている可能性もあるだろうし、そうなると嫉妬するような精神状態になることを追い求めていることにもなり、それが他人に対する攻撃に至るように持って行きたいのだろうが、攻撃以外に情念の対象となる物事がないのかといえば、それが攻撃だとは思えないような行為をもたらせれば攻撃以外の行為になるわけだが、否定的な感情は全て攻撃に結びつくとしても、肯定的な感情が何に結びつくのかといえば愛する対象となるはずだが、それも愛憎が入り交じっていることが多く、愛するだけでは情念にはならないわけだろうが、では情念なしに済ますことができるかとなると、情念を抱かずにどうやって対象に興味を持つのかということにもなってくるわけだが、それも対象との間で一定の距離を保つ必要があるのかも知れないが、距離を保っているだけでは何も起こらないし、何かを起こすにはやはり距離を縮める必要が出てくるわけで、距離を縮めて対象と結びつく必要があるのだろうが、それが攻撃衝動ではなく肯定的な結果をもたらすにはやはり情念が余分かも知れず、情念を抑えるなりそれとは異なる心理状態になるなりして対象に接する必要があるのだろうが、その場の状況を制御できるわけでもなければ、そう都合良く情念なしで事を済ますわけにはいかないだろうし、時として制御不能な衝動に襲われてしまうことがあっても、そうなってしまった結果を後から修正したり修復することができなくても、それはそれで仕方のないことであり、人は誰でも自らを完全には制御できないだろうし、完全な制御を目指す必要もないのかも知れないが、ではどうすればいいのかとなると、それは何らかの状況におかれた時に、その場の状況の中で自ずから対処すべきことがわかってくるのかも知れず、わかってこなくてもそれと自覚しないまま対処しているわけだろうが、その結果としてうまくいかないようなことになってしまっても、その人にとってはそうかも知れないが他の人にとってはそうではないかも知れないし、その人がおかしくなって衝動的な行為に及んでしまい何か事件を起こしたとしても、他の人たちがまともならその場がうまく収まるかも知れないし、一人がおかしくなって人として駄目な人間になろうと、社会全体では何でもないことになってしまい、ただその人が他の人たちから相手にされていないだけとなって、それで万事が滞りなく回っていけば、それでかまわないような状況となっていることもあり得るわけだから、その人にとっては何やら独りよがりなことをやった報いを受けて大変な目に遭っていると感じているだろうが、それが被害妄想を抱かせてさらに復讐心を募らせるような結果に至るとしても、それによって周囲の人たちに多少の迷惑や被害が及んでいるとしても、その人はそういう人なんだというレッテル貼りをすることによって済ませてしまうような成り行きにもなれば、やはり周囲のそういう対処によって世の中の平静が保たれてしまうだろうし、そうやって誰かが起こした何らかの出来事がその地域の社会情勢を反映している面があるとしても、社会全体がそういう出来事からダメージを受けているとまでは言えず、むしろ深刻なダメージを受けているのは事件を起こした当人とその家族や被害を受けた周囲の人たちだけで、後は興味本位で世間の話題になる程度であれば、そういう成り行き自体がありふれたことになってしまうわけだが、そんな社会にうまく適応できなくなっておかしくなってしまう人がそれなりに出てくるのが現代の世の中の一般的な傾向なのかも知れず、それによって社会全体がおかしくなることもないのだろうし、たとえアメリカのように暴動や騒乱状態になろうと、それが大衆の不満のガス抜き効果として必要な出来事に過ぎず、そんなことが定期的に繰り返されているのが通常の状態だと受け止められるようであれば、それも一過性の行事のようになってしまい、そうやってある意味ではそれなりに不健全な社会が保たれていることになるのだろうが、それがどんな状態であろうと、たとえそれが否定的に受け止められても一定の状態に留まっていればそれで済んでしまうわけで、そこから肯定的な傾向へと持って行くのが社会改革の類いになるわけだが、その改革の担い手というのが何も政治家であるとは限らないだろうし、あるいは市民運動の類いであるとも限らず、何だかよくわからないがそれらの相互作用によって事態がより一層こじれてしまうとしても、それでかまわないようなことにもなってしまうとすれば、それが何を意味するとしても結局は何らかの均衡状態がもたらされる限りで、その中で普通に暮らしている人が多数派を占めていたりして、そんな多数派も一定の傾向で一致団結しているわけでもなく、様々な方面に分散しながら活動しているだけであれば、そういう世の中の状況になっているだけでしかないのかも知れないが、それでは済まなければそれなりに変化の兆しもうかがわれて、それが何か多くの人たちが興味を抱いて参加するような運動に結びつけば、それによって社会がそれなりの変化を被ることにもなるだろうが、それもその手の市民運動だけではなく、産業の技術革新などと連携した運動になれば目に見える成果となって表れるのかも知れないし、実際にそうやってそれなりに社会が変化してきたわけだろうが、それが数十年もかかる変化であればその中で暮らしている人にはそれほど実感が湧いてこないだろうし、実際に世の中が変わってきているのにそれを意識できなくてもかまわなければ、それは未来のある時期に暮らしている人が過去を振り返って実感するような変化でしかないのかも知れないが、現時点でも過去を振り返ればそれなりに社会の変化を実感できるだろうし、それは過去のある時期に暮らしていた人には実感できなかった変化であることは確かなのではないか。


6月8日「政治倫理」

 利用できるものなら何でも利用するのが政治的な手法として当たり前になっているのが世界共通の事情かも知れないが、そこにどう倫理的な次元をつなげられるかとなると、そもそも利用できるものなら何でも利用するという姿勢が倫理的とは言えないわけだから、そういう姿勢では倫理的な物事の取り扱いとはなりがたいわけだが、そもそも民主主義的な政治の在り方が倫理的なのかと問われるならば、普通は倫理的でないはずがないと思われるかも知れないが、たぶん民主主義の倫理性というのは民主主義的な政治勢力を率いる人の態度や姿勢にかかってくるのかも知れず、その人の態度や姿勢次第で倫理的に感じられることもある一方で、場合によってはそうではないように感じられることもあるということなのかも知れないが、それは法律の類いで規定できるようなことではなく、最終的にその人が実際におこなう振る舞いで決まるようなことかも知れないが、それでもどう捉えればいいのか決めかねるような振る舞いというのもあるかも知れないし、他人からどう思われようと自身が自身の基準に照らし合わせて倫理的に振る舞うしかないのかも知れないが、基準というのもその場の状況や情勢次第でぶれてくることもあるだろうし、倫理的な基準を前もって決めておいても、それを情勢の変化に合わせて臨機応変に変更しなければうまく立ち回れなくなってしまうこともあるだろうが、うまく振る舞えなくても不器用な振る舞いによってしばしば他人と衝突してしまう方がかえって倫理的に見えたり、逆にうまく立ち回って他人との間で軋轢が生じないと、あいつはいいとこ回りばかりして調子がいいやつだと陰口をたたかれたりして、どう振る舞ってもうまく立ち回っても全ての人から好印象を得られるわけではないのかも知れないが、具体的な事例を挙げて倫理的な政治姿勢を示せと言われるなら、逆にそういう姿勢を貫いたばかりに窮地に陥って、身の破滅を招いたような実例を挙げなければならないのかも知れず、そうであれば何も倫理的にはならない方がいいということになってしまうのかも知れないし、例えば史実かどうかは定かでないが、諸葛孔明が泣いて馬謖を斬るという行為に及んだことについて、あるいは暗愚な二代目の君主に自身が取って代わらずに最後まで仕えたことについて、それが倫理的な振る舞いだと感じる人は多いだろうが、史実としては彼の没後に当然のごとく国が滅んだことは確かであり、それ以前に国力の差や地政学的な位置関係やそこに至る歴史的な経緯から判断するなら、そうなるのが当然のことのように思われるわけで、国が滅んだことを彼のせいにはできないどころか、逆に不利な状況の中で比較的長期間にわたってよく持ちこたえたことを賞賛すべきかも知れないが、少なくとも倫理的な政治姿勢によって利益がもたらされるどころではなく、結果的に利益を得る人たちは必ずしも倫理的であるとは言えないような立ち振る舞いに及んでいるわけで、ではなぜ人は倫理を政治や行政に携わる人たちに求めるのかとなると、そういうことを求める人たちがすでに不利な立場や境遇に陥っていて、だから倫理が廃れると世の中が乱れて国が滅びると脅して、有利な立場で利益を得られている人たちに自制を求めるわけだが、そんな人たちが諫言を聞き入れて自制するかといえば、すでに私利私欲に走っているのだから聞き入れられるわけがなく、諫言する方でもそんな人たちが諫言を聞き入れることを期待しているわけもないのかも知れず、むしろ他の人たちに向かってそんな人たちを支持しないで欲しいと訴えかけているのだろうし、そんな人たちを支持しても私利私欲に走るだけで、支持しているあなた方に利益がもたらされることはないと説いているわけだが、それがそんな人たちを支持している人たちに聞き入れられるかというと、やはりそうでもないのかも知れず、ではそんな訴えかけが誰か他の人たちに聞き入れられることがあるのかとなると、少なくともそういう訴えかけをしている人の支持者には聞き入れられるどころか、それはそういう訴えかけをしている人自身であるのかも知れず、そういう訴えかけをしている人を支持している人たちは、自身もそういう訴えかけを他の人たちに向かってしていることが多く、実際にそういう訴えかけをする人を増やそうとしていることになるのかも知れず、確かにそうやってそういう訴えかけをする人が増えることになるのかも知れないが、ではそういう訴えかけをする人は私利私欲に走らないのかといえばそうではないかも知れないし、自身は他の人たちに向かって私利私欲に走らないように訴えかけながらも、そんな訴えかけをしている人が私利私欲に走っているとしたら、言っていることとやっていることが違うではないかと非難されるかも知れないが、たぶんそういう成り行きになることもよくあるのかも知れないし、実際にそうなってしまって非難される人も出てくるのかも知れないが、むしろ非難されない場合の方が多いのかも知れず、では実際に何がどうなっているのかといえば、公職に就いている人が私利私欲に走って非難されるのはよくあることであり、そういった非難がメディア上でおこなわれたりデモ活動の場でおこなわれるのもよくあることであり、それを他の多くの人たちが見ていることも確かであり、実際に他の多くの人たちもそういった非難には賛同するだろうし、公職に就いている人が自らの仕事に関連して私利私欲に走ってはまずいとは思うが、だからといって他の多くの人たちは私利私欲に走っていないのかとなると、そうでもないことも確かであり、他の多くの人たちも各々の私的な領域では私利私欲に走っているわけだが、それも許される範囲というのがあるわけで、公職というのが他の大勢の人たちから仕事をまかされていると捉えるなら、委任された範囲内で私利私欲に走ることが仕事をまかせている人たちの意向を裏切ることになってしまい、そういうことがあってはならないということが法律でも規定されているだろうし、そこでは公私混同してはならないわけだが、では果たしてそれらの人たちに公私の区別がつけられるかとなるとそれが微妙になってくるのかもしれず、実際に公私混同が多くの公の場でおこなわれていれば、公職に就いている人たちの間では公私の区別がついていないということになるだろうし、さらに公私の区別がついているとしても公私混同をやらざるを得ないような成り行きに陥っているのかも知れないが、法律で禁止されているわけだから、そういう成り行きになりやすいと言うことであり、実際にそういう成り行きに巻き込まれてそれが明らかになって非難されることにもなるわけだが、そこで法律を機能させなければならないだろうし、そうしないと公的な仕組みが成り立っていかないわけだが、そうやって絶えず公職が試練に晒されていると捉えればいいのかも知れず、実際に法律を機能させる立場にある人たちの力量が試されているわけで、力量のない人がその職に就いていると法律が破られてしまうわけで、そういう法律があるのにそれが無視されて公私混同がまかり通ることが常態化してしまうと、法律を機能させるという課題を克服できずに試練に打ち勝つことができなかったことになるわけで、そうなると法律を機能させる立場にある人の力量不足が明らかとなり、その人は公職の任に適さない人だと判断されてしまうわけだが、そういう結果がもたらされることと、私利私欲に走らず公私混同を避けるような倫理的な姿勢との間にどのような関係が生じるのかといえば、倫理的な姿勢を保つことが法律を機能させる立場にある人を助けることにつながるだろうし、そういう意味では倫理観を守ることが人助けにも寄与するわけで、それが他人を利することにもなって実際に法律を機能させる人を助けることに関しては利他的な行為になるわけだが、公的な行為というのがある意味では自らの利益を犠牲にしてでも、他の大勢の人たちに利益をもたらすように規定されていることでもあり、そういう意味で公僕と呼ばれる役割が社会の中で設定されていると捉えるならば、理に適った行為というのが倫理的な行為となるだろうし、公職に就く人はそういう役割を理解した上で、自らがまかせられた仕事を全うしなければいけないわけだが、そうなった時にただ仕事をやればいいということではなく、なぜか試練が課せられるわけで、それが私利私欲に走らせるような誘惑であり、公私混同をするように仕向けてくるような成り行きであり、そんな試練をかいくぐらないと職務を全うできなくなってしまうわけで、それが公職につきまとってくる不条理というわけではないにしても、そういった誘惑や成り行きに打ち勝つことができなければ、その人に公職をまかせるには力量が足りないことになるわけだが、そんな人を支持している人たちがそれを理解しているかとなると、理解できるだけの知性がない人たちが力量の足りない人を支持していることにもなるだろうし、そうなると知性のない人たちにとって有利な世の中になるのかと言えば、それもそうともいえないようなことにもなるのかも知れず、結果的には知性のない人たちが私利私欲で公私混同をやっている人に利用されていることになるのではないか。


6月7日「全体主義と新自由主義」

 まるでとってつけたような浅はかな思考というのは、何か役に立ちそうに思わせるテクニックと共に語られる傾向があるかも知れないが、意外性という面では紋切り型的なたとえ話に登場する歴史上の著名人ではなく、そういった浅はかな人たちがまず挙げてくる歴史的な著名人と対立する人物を挙げなければならず、それに関して例えば20世紀の歴史の中で最も成功して世界的にも賞賛を浴びた全体主義的な独裁者とは誰かといえば、それは浅はかな人たちが挙げるようなヒトラーでもスターリンでも毛沢東でもなく、アメリカのフランクリン・ルーズベルトであるわけで、彼がおこなったとされるニューディール政策こそが全体主義的な戦時統制経済を推進する政策として世界的に脚光を浴びたわけで、それが実質的に成功したかどうかはさておき、歴史的な成り行きとしては世界恐慌から第二次世界大戦へと突入してしまい、否応なく戦争に参加した国々は戦時統制経済となったわけで、そういう成り行きの中でニューディール政策自体の成否がうやむやになってしまった感があるが、それはニューディール政策から第二次世界大戦中の戦時統制経済を経て、戦争で疲弊した西欧諸国を支援するマーシャル・プランに至るまで、ルーズベルトとその死後に後を引き継いだトルーマンと共に官僚主義的な統制経済として続いていったわけだが、それに関して一般の人たちが学校の教科書的な知識として勘違いしていることは、ヒトラーやスターリンやソ連の見せかけの成功に騙されてそれを真似て大躍進政策をやって失敗した毛沢東などの全体主義に対立するものとして、自由と民主主義の守護者のような印象を勝てば官軍のごときに世界中に振り撒いたから、当時のアメリカが全体主義でなかったかのように思われるかも知れないが、そういった印象自体もナチス・ドイツのメディアを利用したプロパガンダ政策と同様の成果であり、1930年代のアメリカではルーズベルトを賛美するプロパガンダ映画がハリウッドで盛んに作られていて、むしろそれを真似たのがナチス・ドイツやスターリン圧制下のソ連や戦時下の日本であったりするわけで、現代ではその伝統が北朝鮮にまで受け継がれているわけだが、ついでに教科書的な勘違いとして日本の大正時代が大正デモクラシーとして民主的な風潮が一時的に流行った時期という印象もあるかも知れないが、実態としてはソ連からの影響で共産主義も流行っていたわけで、実際に労働争議なども盛んにおこなわれたのかも知れないが、風俗としてのファッションや文化や文芸などの方面でも共産主義が流行っていたわけで、何かそういうところで印象としての歴史的な認識に実態が反映していないのかも知れないが、ともかく戦後まもなくして、それは戦前から戦中にかけては反体制派の間で盛んに論議されていたことでもあるわけだが、西ドイツの経済学者のグループなどがナチズム批判や社会主義勢力に対抗する形で、無政府状態と官僚主義的な「シロアリ国家」との中間の道として新自由主義的な経済政策を掲げたわけで、またアメリカでもニューディール政策やケインズ経済学などの批判として、またトルーマンやケネディやジョンソンなどの民主党政府の政策に対抗するためにシカゴ学派を主要な中心としてやはり新自由主義的な経済政策が唱えられたわけで、ドイツとアメリカの新自由主義にはハイエクなどのオーストリア新自由主義もかかわっているらしいが、成り行きの順番としてはまずは自由主義的な市場経済がうまくいかなくなると政府が市場に介入してきて戦争状態や統制経済に移行してきて、市場の混乱と政府の介入と共に始まった戦争が経済を破壊し尽くして、戦争が終われば経済復興がおこなわれてそこでもまだ統制経済が続いていくわけだが、それなりに復興が一段落つけばまた経済が政府によって統制されたままでは発展できないから、政府による統制を緩和するための政策として新たに自由主義的な経済政策が唱えられて、その新たな自由主義的な経済政策が新自由主義的な経済政策と呼ばれたわけだが、それ以前に自由主義的な市場経済が行き詰まってきた時期にも政府主導の統制経済が行き詰まってきた時期にも、経済がうまくいかなくなってきて世の中が混乱している状況を、人の精神が堕落したから世の中がうまくいかなくなってきたという精神論も唱えられて、それに伴って新興宗教の類いも生じてくるわけで、日本の戦前・戦中でも神道や仏教やキリスト教などから影響を受けて様々な新興宗教が興って、それが現代まで続いているものもあるが、バブル崩壊と共にオウム真理教や幸福の科学なども勢力を伸ばしたわけで、それらは経済的なバブル絶頂期にすでに繁栄に浮かれて生じた精神の空洞を埋めるために生じた宗教でもあるわけだが、さらに元を辿ればキリスト教や仏教なども経済的な繁栄のただ中で興り、繁栄に浮かれた人々の精神的な空洞化に伴う反作用のようにして世の中に静かに広まり、それが経済的な混乱期などに乗じて人々が精神的な救いを求めて一気に流行したのかも知れないが、そうやって世の中が一時的に混乱して動乱状態になるとそれに対応してそんな状態をもっともらしく説明してそれを打破するための主義主張が唱えられるわけで、それが経済的な次元では政府による統制経済を正当化するために必要な時期であればケインズ主義であり、そういった主義主張に基づいてニューディール政策などが推進されたわけだろうが、そうした状況が一段落ついて今度はそうした政策の限界が見え始めてくるとまたそれに対するカウンターとして新自由主義的な経済政策が唱えられてきて、実際に西ドイツでは戦後に新自由主義を推進する経済学者のグループが政府の政策に深く関与していた経緯があるのだろうし、他国に先駆けていち早く経済発展するための戦略として、ナチスによる戦争責任などに関してもさっさと手際よく謝罪して周辺の同盟国などからの信頼を勝ち取りながらも、その一方でアメリカによる統制経済から一刻も早く抜け出るような政策も打ち出してきたわけで、一方でアメリカでは新自由主義が自主独立を目指す企業家精神として民間で広まる傾向にあったわけで、自分自身を人的な資本としてホモ・エコノミクス=経済的人間と見なすような主義主張になったわけだが、その中では確かに人間を機械と見なすとしても、ただの機械ではなくその機械には当たり前のことだが耐用期間があり、歳月の経過と共に老朽化してしまい耐用年数を過ぎては使えなくなるから、それが使用期間の限られた資本と見なされて、そういった使用期間の限られた人的資本を効率良く組み合わせて投入したり入れ替えたりするタイミングも調整しながら、いかにしてそれらの人的資本の複合体として企業をうまく運営していけばいいかという主義主張を合理的に模索することになったわけだろうが、企業家自身も人的な資本であり、企業活動の中で自らを資本として投資して活用して消費しなければならないわけで、ただ単に労働者を雇って働かせるだけの存在ではなく、企業と一体化して雇っている従業員も含めて一つの生物として動作するようなことにもなってくるわけだろうし、そうなると経済学という範疇を逸脱して社会学や生物学の領域まで含まれてくるのだろうが、そういうサイバネティックスの領域も含まれてくると何やらサイエンスフィクションのような傾向にもなってくるのだろうが、要するに絶え間ない自己改革と自らを含めた経済が結びつくような人的資本としての自分を投資と所得からなる企業と捉えながら活動することになるわけだが、それに関してはシュンペーターが技術的な進歩と資本主義の機能について研究しているようだが、新自由主義的な傾向としては経済的な発展が人的資本の増大によってもたらされるということであり、それは古典派経済学的な労働者の数や労働時間の増大という単なる数量の問題ではなく、経済政策以外でも社会政策や文化政策や教育政策などにも反映されてありとあらゆる分野へと人的資本が投入されて、そんな人的資本の社会への投資と消費によって、結果的にそれらの人的資本が自己改革すると共に周囲の様々な人的資本とも結びついて連携して作用し合うことによっても改革を目指すような活動を目指しているわけだろうが、それもそういう説明をすればさももっともらしく思われるかも知れないが、社会情勢を反映した一つのイデオロギーであり、もちろん複数のイデオロギーが複合的に結びついて一つのイデオロギーを形成しているように見えるだけで、実態としてひとまとまりになっているわけでもないのかも知れないが、いずれにしてもそういった内容でプレゼンでもやればもっともらしく受け取られるとしても、実際に何をやっているのかといえば現状でおこなわれていることからかけ離れたことがおこなわれているわけではなく、現状でおこなわれていることをもっともらしく説明すればそんなことを説明できてしまうということであり、別にそれを無理して真に受ける必要はないだろうし、そんなものだと思っておけばいい程度のことでしかないのかも知れない。


6月6日「歴史的な経緯と国民性」

 たとえ日本と呼ばれる地域で生まれ育ったからといって、世界の一般常識と大きくかけ離れた思想信条を持つようになるわけでもないだろうし、鎖国しているわけでもないし、他国とそれなりに交流しているから他の国の人たちとそれほど違わないメンタリティを持っているはずであり、日本国や日本人という存在を世界の中でそれほど特別視する必要はないし、時代的にも地域的にも何ら特別視する必要もなく、今や世界のどこで生まれ育っても何でもないような一般市民の一人として生きているだけでしかないのかも知れず、それだけ国ごとの違いを取り立てて強調しなくてもかまわない世界になってきたはずだが、その一方で日本の特殊性を強調したい人も相変わらず存在していて、それは日本だけなく他の国にも自国や自国人の存在を特別視する人がそれなりに存在しているだろうし、そうなってしまうのも世界の一般常識から大きくかけ離れたことでもないはずだが、世界のどの国にもその国の成り立ちにはそれなりの歴史的な経緯があり、そうした歴史的な経緯からその国の特殊性が生じて、それがその国に生まれ育った人たちに無視できない作用や影響を及ぼして、その国の国民性を形成することになるわけだが、それとともに世界の様々な地域で交流が盛んになってくると、その国の独自性や特殊性も薄れてくるはずで、そうした独自性や特殊性を否定的に捉えている人にとっては、そうした人や物や情報の交流に期待してもいいのかも知れないし、逆にその国の独自性や特殊性を肯定したい人がいれば、そうした外圧からその国の文化や国民性を守ろうとするのかも知れないが、それはどちらの立場でもかまわないわけで、どちらにもそれなりの正当化できる理由や根拠があるだろうし、そんな理由や根拠に基づいて自身の立場を正当化していればかまわないわけで、そういう立場の正当化も世界の一般常識からそれほど大きくかけ離れたことでもないはずであり、その国の現状の何を肯定して何を否定するにしても、そういうところから理由や根拠が導き出されてくることもあるだろうし、それがそれなりの説得力を持つこともあるだろうが、そういう面を強調して自身の論に説得力を持たせるということさえも、世界の一般常識からそれほど大きくかけ離れたことでもないわけで、そうやって世界中で各々の国の肯定的な面や否定的な面を論じあっているのかも知れないが、そうなっている限りで自国の現状について論じている内容が普遍性を持ち、たとえそれが地域的な特殊事情であろうとなかろうと、他の地域や国にもある程度は当てはまるような内容ともなるだろうし、そうなっていれば他の地域や国との比較も成り立つわけだが、それが同時代的に成り立つように思われると共に、過去の時代とも共通点が見つかるかも知れないし、そうやって現状で問題となっている特殊性から離れていってしまえば安心できるかも知れないが、それが特殊な印象を受ける限りで問題視されているようなことなら、その特殊性を取り去ることによってありふれたこととして処理できるようになるわけだが、そうやって特殊な内容を平準化することに抵抗感を覚えるとすれば、そんな抵抗感をもたらすのがそうなったことの特異性であり事件性でもあるわけだが、それを問題として語りたい理由として出てくるのもそういった特異性や事件性になるわけで、現状で何が特異でありそれが事件であるのかというと、特定の人物や勢力が存在していて何かしらおこなっていることの内容が特異であり、その存在や行為が現状の中で事件として機能していることにもなるのだろうが、それをどう捉えてみても他の何とも異なっていれば、そこに特殊な事情が介在しているだろうし、その特殊な事情について論じれば、何やらそれを問題化して語っていることになるのかも知れないが、果たしてそれが特殊な事情なのかといえば、他の地域や他の時代でもそんな事情が生じていれば特殊でも何でもなくなってしまい、ありふれた事情に降格してしまうわけで、そうなることを目指して語っている場合もあるとしても、そのこと自体を問題視するなら特殊な事情を解消するにはどうしたらいいかという問いを立てることになるだろうし、絶えず現状で生じている不都合な事情を問題視してそれを解消するための策を考えるような成り行きになってくれば、自然とそういう物事の論じ方になってくるわけで、そうなること自体が問題視されるわけでもなく、そういう語り方も世界の一般常識からそれほどかけ離れているわけでもなく、各国のメディアでそんなことが論じられているのだろうが、もしかしたらそんなふうに物事を論じること自体が世界の中で地域的あるいは時代的な差異をなくす試みとなっているのかも知れず、差異をなくして平準化するために同じように物事を論じなければならないような傾向となってきて、それが世の中の物事を論じて一様に処理するための手法となるかも知れないが、そうやってメディア的な処理を施すことによって何がどうなるのかといえば、世界中の人々が同じような問題に目を向けるように誘導されていて、それがそこで生じている差異をどうすべきかという問題となり、差異を差異として認めるにはどうすればいいかという問いにもなるのかも知れないが、それがどのような差異であれば許容されてどのような差異になると許容できないかという問題にもなるわけで、そうなると自ずから不都合な事情が浮かび上がってくるだろうし、場合によってはその国や地域に特有な歴史的な経緯から生じてくる他との差異を認められないことにもなってくるわけで、その認められないことを正そうとするかそれに反発するかで態度が分かれてくるとしても、許容できる差異と許容できない差異とが表裏一体となって特殊事情が生じていると、解決困難になってくるだろうし、困難であるとしても絶えずそれが問題として突きつけられているわけだから、そこから目を背けるわけにはいかなくなれば、その国や地域の住民が否応なくそれと向き合う成り行きになるわけだろうが、それが日本に関して言えることとなると、何か微妙で曖昧な問題となってくるのかも知れず、果たしてそれが他との間で比較対象となるのかどうかよくわからないことまで含まれてきてしまうからどう処理すればいいのか迷うところだろうが、何がそうなのかといえばそれをうまく表現することが難しいわけで、例えば中国の課題として浮かび上がってくる民主化の問題と日本のそれとはだいぶ趣が異なっているわけで、さらにいうならアメリカの問題というのも世界的に見れば日本とは比較にならないほど深刻な矛盾を抱え込んでいるだろうし、それと比べて日本に固有の問題が取るに足らないことかとなると、世界的な水準ではそうかも知れないが、日本国内の問題としてはそれなりに深刻であるとも言えるだろうが、それを特に問題視しなくてもかまわないようなことにもなっているのかも知れないし、何かそういうところでどうということはないような成り行きが生じているだけに、日本のことなど放っておいてもかまわないような世界情勢となっているだろうし、実際に日本に固有の国内問題など世界的には無視されているわけだろうが、そんな成り行きに日本の世論も甘えてしまっているからどうしようもないような惨状を示しているのかも知れないが、実際に深刻ぶって何を問題視してみても真に受けられないこと自体が逆説的に事の深刻さを示しているという入り組んだ様相を呈しているのかも知れないが、たぶんそれでも何とかなっていると思ってはいけないのだろうし、それなりに対処していかなければならないわけだが、何をどう対処すればいいのかと問われると返答に詰まってしまうのかも知れず、そういう意味では安易にわかりやすい答えを導き出す必要はなく、何だかわからない状態を保持しておいた方がいいだろうし、そういう状態が情けないと思ってもかまわないが、情けないままでいるのが嫌だからそうなっている状態を正当化しようとするのはまずいだろうし、何もそれを否定的に捉える必要もないわけだが、どっちつかずの中途半端な心理状態に留まるべきなのかも知れず、そういう状態に嫌気がさして右だの左だのに振り切れるようなことになってしまってもまずいわけだから、どう見てもアメリカや中国のような深刻度とは傾向が異なるだろうが、それなりに改善すべき問題を抱えていることは自覚しておかなければならないが、それがどのような問題であるかに関して、メディア上で様々に取り上げられてそれに対して様々な意見が寄せられているにしても、それもアメリカや中国ほどにははっきりと的が定まっているわけではなく、絶えず揺れ動いていて的が定まっていないし、また的を正確に射るようなことが述べられているわけでもなく、うまく問題提起ができていないようにも思われるし、これといって何をどうやればいいと言えるようなことがあるわけでもないのかも知れないが、それでもはっきりと物申す人もそれなりにいることも確かであるとしても、そういうことを指摘して何らかの方策を提案している人たちがそれを実行できるようにさせることが目下のところ急務の課題なのだろうが、なかなかそういう人たちが主導権を握れない現状もあるわけで、まずはそれをどうにかしないと先へと進めないことも確かなのではないか。


6月5日「体裁を取り繕う」

 手続きを重視するならあらかじめ決められている手続き通りにやるしかないが、目的を重視するなら手続きにとらわれずに手段を選ばないことにもなるだろうし、どちらがどうというわけでもなければ、その場の状況や情勢に合わせてある時には手続きを重視したりまたある時には目的を重視したりすればいいだろうが、取り立てて何を重視する必要もなければ手続きにも目的にもこだわる必要もないかも知れないし、では何をやればいいのかといえば取り立てて何もやらなくてもいいわけでもなければ、何かしらやっている現状があるのかも知れないが、何かをやるに当たって重視しなければならないことがあるとしても、それだけを重視しているわけでもなければ、さらにとりとめのないことをやっているわけでもなければ、そこにそれなりのこだわりが生じてくるのが当然の成り行きになってきて、それをやるに当たって何かしら当てがあるようなら、当てといえば目当てであり目的や目標となるわけだろうが、その当てが外れてしまってもいったんやり始めたことをやめられなければ、そのままやらざるを得ないような成り行きになってしまうこともあるのかも知れないし、そうやって当てが外れたことをやり続けた末に何が起こるかといえば、何も起こらないなんてあり得ないかも知れないが、何かしら起こってもそれに気づかなければ何も起こらなかったことになってしまったりして、実際に気づかなくてもかまわないような状況というのもあるのかも知れないし、何の当てもなくさまよっていても何かしら出くわすことに期待してしまうのかも知れないが、そんな期待にも裏切られてしまえば何でもないことになってしまうのだろうが、たぶん資本主義的な経済活動の果てにあるのはそんな成り行きでしかないとしても、まだそこまで至っていないように思われている限りでそんな活動が今後も続いていくだろうし、もちろん経済活動に目的がないといえば嘘になるし、何かしらとってつけたようなもっともらしい目的があるように装われるわけだろうが、その一方で政治に関する手続き上の妥当なやり方というのも、民主主義的なルールに基づいているようにも装われるわけだが、その装われているというのが重要なところであり、そこに関与して介入してくる人たちの申し合わせとしてはそういうことにしておきたいわけで、実質的にはそうではないとしてもそういうことにしておけば体裁が保たれるようなことにもなり、何とかその場が成り立っているように取り繕われるのだろうが、それ以上に何がどうなっているわけでもないのかも知れず、確かにそこで何かしら決まり事に基づいて決まり事を決める手続きに則って決まり事が決められるわけだが、決まり事は決まり事以上ではなく、いったん決められた決まり事もその場の都合や事情によっては破られてしまえば、破られてしまったのが明らかになれば批判を浴びることもあるだろうが、その場の都合や事情に合うように決まり事を変更できれば、その変更の仕方が強引であったり変更した内容が不合理であったり不当であれば、またそれについても批判を浴びるだろうが、それを絶対に変更できないわけでもなく、手続きに則って変更すれば文句のないところだろうが、それも手続きに則っているように装われているに過ぎなければ、それもまた批判を浴びるのだろうが、結局はそうやって何から何まで装いの水準でおこなわれていることでしかないのかも知れず、そこに実質が伴っていなければ空疎な装いとなってしまい、ならば実質とは何かといえば実際にその決まり事に基づいて中身のあることがおこなわれるかどうかなのだろうが、決まり事が何らかの肯定的な成果を上げるには何が必要なのかといえば、まずはそれが実行されることが必要だろうし、実行された時に肯定的な効果がもたらされるようなら、それが肯定的な成果になるわけだろうが、それも肯定的な成果が上がったように装われる場合もあるわけで、何か成果が上がったように強調されて実際にそんな宣伝を真に受けて人々がそう思い込まされることになれば、そうした装いが成果を上げたことになるわけだろうが、果たしてそんなふうに装われたり、成果が上がったように強調されたり、人々が宣伝を真に受けて成果が上がったように思い込まされたりすることが肯定的な効果なのかといえば、それが装われたことに過ぎなければ、そして装われたことに過ぎないことが明らかになれば、実質が伴っていないわけだから肯定的な効果だとは言えないだろうが、それを喧伝する側は成果が上がったと強弁するわけで、それが成果を強弁する側の空疎なやり口であるわけだが、そういった口先だけの空回りのごり押し状態をいつまでも続けられるかとなると、実質的な成果が上がっていないとどんどん世の中が不快な状況になってきて、成果が上がっているように思い込まされている人々も目を覚まして現実を直視するしかなくなってくるかも知れないが、そうなった時にはもはや手遅れとなっているだろうし、薄々は気づいていたのに軽薄な宣伝に騙されたふりをしていたことを後悔することになるかも知れないが、要するに人々の側でも宣伝を真に受けたように装っていたわけで、騙す側も騙される側も共謀して成果が上がっているように装いたかったわけで、なぜそんなふうに装いたいのかといえば、彼らの共通の敵である教条的な民主主義が嫌いなのであり、民主主義の実現を掲げてきれいごとを言っている輩を叩いて悦に入りたいのだろうし、そんな敵に向かって世の中はそんなものではないことを思い知らせたいのだろうが、では本当の世の中がどんなものなのかといえば、それに関しては卑怯なことをやってでも他人を出し抜いて自らの欲望を遂げることが全てではないにしても、あからさまにもそう思っていないだろうが、実際に行動した結果としてそうなってしまうことを肯定したいわけでもないにしても、実際にそんな人たちが行動した結果としてはそうなってしまうわけで、そういった本音の部分を意識していなくても行動した結果として生じてしまう実態を正当化するだろうし、もちろんあからさまに正当化するのではなく、世間的な良識を持ち合わせているように装いながらも、実態としてそれを裏切るようなことをやっている自らを意識できないわけで、意識できないというよりは意識してしまうのを避けているのかも知れないが、そういうところで複雑な感情を隠しながら本音と建前を使い分けながらも、世間的な良識の範囲内で行動していることを強調するだろうし、それも世間的な良識の範囲内で行動しているように装う限りでそれを建前として維持しようとするわけで、そんなわけでどこまでも都合の良い装いを保とうとするわけだが、実際に他人もそんなふうに装っているのを意識しているし、そうした装い自体が見え透いていて、装っている者同士がお互いに装っていることをわかり合っているのだが、だからといって装うことをやめようとはしないだろうし、本音をあからさまに世間に晒してしまうことは憚られるのだが、果たしてそういった彼らの仮想敵となるような人々が世の中にどれほどいるのかといえば、どうもそれも自分たちに敵がいるかのように装っているに過ぎないのかも知れず、実際のところそんなきれいごとを言う教条的な民主主義者などほとんどいないのかも知れないし、隣国の脅威を煽るような人たちが想像していることのことごとくは、自分たちの心の中で構成された虚構の世界に存在しているようなカリカチュアばかりで、そんな自分たちが忌み嫌うような否定的な要素を敵と想定した人物に当てはめて誇張した上で攻撃するようなことをやるから、そうなっている時点でだいぶ世の中の実態からかけ離れてしまうわけだが、そんなふうに装わないと世界を感じ取ることができないわけだから、ありのままの何でもないような世界は受け入れがたく、絶えず敵と見なした勢力を攻撃しているような事態が生じていないと安心できないだろうし、他国からの攻撃の脅威や征服の陰謀が渦巻いているような情勢になっていないとまずいわけだから、国防には人一倍気にかけているのかも知れないが、そんなふうにそれらの人たちの実態を想定してしまうことでさえ冗談でそう思っておくしかないようなことかも知れず、本当のところは誰にもわからないようなことであり、他人のことをどう思っていようと自分のことで手一杯なら、そんなことを思う余裕すらないわけで、そうなっている限りで自己中心的に物事を捉えているわけだが、しかも自分が周りから影響を受けてどんなふうに自身を周りに向けて見せかけようとしているのかさえ客観的にはわからないわけで、そんな自分の装いさえ定かには意識できないのだから、周囲の状況を正確に捉えることなど不可能なのかも知れないし、そうなっている時点で自意識過剰な心理状態になってしまうのは避けられないとしても、それでも絶えず謙虚にならないと周囲から助けてもらえないわけだから、少なくともそういう面では世間的な良識の範囲内で建前を維持しようとはしているのではないか。


6月4日「目的への特化」

 人が欲しいもの手に入れたいと思うのは普通に起こる衝動であり、欲しいものを手に入れるために行動するのも極めて当たり前のことだろうが、果たしてそれだけで行動が完結しているかとなると、どうもそうでもないわけで、手に入れようとしても入れられない場合もあるだろうし、そこで思い悩むのだろうが、本当にそれが欲しいのかどうかも疑問に思われてしまう場合もあるだろうし、素直に欲しいものを手に入れようとする衝動に従えなくなってしまうと、そういう衝動が起こる原因を探ろうとしてしまい、そうやって思考に頼ろうとしてしまうわけだが、うまく事が進まないから考えてしまうのだろうし、それだけ自らがややこしい成り行きに巻き込まれていることを実感せざるを得ないのだろうが、欲しいものを手に入れようとする初志を貫徹するにはそれなりに工夫を凝らさないとならないことも思い知るだろうし、そこで自分なりに考えた戦略や戦術などを巡らそうとするのだろうが、それに関してはどうすればいいかという問いに答えてくれるような知恵を他から借りようとするかも知れないし、その教えを請う対象が何らかの書物であったり、あるいはネットで検索して答えを探そうとしたりもするだろうが、それとともになぜそれが欲しいのか、それを欲しがる原因を突き止めようともするかも知れないし、それに関して他の大勢の人たちも欲しがっているなら、それに影響を受けて欲しがっているとすれば、それを欲しがるように仕向けているメディアの宣伝や煽動に乗せられていることに気づくかも知れないし、しかもそんなからくりにはめられて欲しがっているに過ぎないことを受け入れている自らが、そうなっていることを承知しながらも放置していること自体が、何か自分なりのしたたかな戦略に基づいているのではないかと自身を疑ってみたり、それとは別の何かを求めるにはそうなってしまうことも利用しなければならないようにも思われるのかも知れないし、その別の何かというのが真に求めていることであり、それを知りたいからメディアが煽っている欲望をも利用しようとしているのかも知れないが、そうなると真に欲しいものとは何なのかという素朴な疑問が湧いてくるわけだが、それを知ることが欲しいものを手に入れたいと思うこととどう結びつくかも知りたいとなると、いったい何が欲しくてそんなことを考えているのかも疑問に思われてくるだろうが、たぶん求めているのはそういうことであり、それに関する知識を手に入れたいのかも知れず、なぜ欲しいものを欲しがるかに関しての知識を手に入れたいと思うから、それがその人にとってのより根本的な衝動となっているのかも知れないが、それ以前にその人とは誰なのかということにもなってくるが、果たしてそれを人間一般にまで範囲を拡げてもかまわないのかと言えば、そんなことまで思っていない人まで含まれるような根本的な衝動になってくるわけだが、その一方でそういう根本的な衝動に至るのを思いとどまらせるような作用も欲望を煽り立てる側から及ぼされていて、その手前に留まって人々が欲しいものを求めるという衝動に突き動かされている状態を維持しようとしているわけで、そういう目的に特化することがいわゆる功利主義となるわけだが、なぜそういう目的に特化しなければならないのかといえば、根本的な衝動にまで至ってしまうとそこまで至らずに目先の利益を求めて右往左往している人たちが愚かに見えてきてしまい、そういう目的に特化した愚かな人々が世の中の多数派になっていないと、資本主義経済が回っていかないからだというのが、もっともらしい答えになってしまうのはまずいわけで、だからそこへ至ってしまうのを防ぐために先回りして、その手前に留まるように盛んに人々の欲望を煽り立てているのかも知れないが、実際にそんなことをやっている人たちはそこまで考えていないだろうし、なぜ自らが人々の欲望を煽り立てる側に回っているのかに関して、改まって深く考えているわけではなく、そういう根本的な理由に至る手前に留まっていないとそういうことはできないだろうし、何だかわからないが成り行き的に人々の欲望を煽り立てるようなことをやる側になっているわけで、そうなっていることに関して悪気はないだろうし、それも利益を求めてそんなことをやっていることは確かであり、しかも利益を求めることが良いことだということも当然肌身にしみてそう思っているだろうし、そうなると欲しいものとは利益になるわけだが、その一方で人々がなぜ利益を求めているのかという問いにも答えたいわけで、それに関して生きるためにそうしているという単純な答えの前に留まることもできるわけだが、生きるためだけであればそんなことまでする必要がないとも言えるのかも知れず、生きることを遙かに超えて余分で無駄で無意味に思えることまでやっているわけで、それも単純に生きることとは正反対の死ぬためにそんなことをやっているのだとすればそれが死の衝動と言えるのかも知れないが、普通は死に至る手前で留まろうとしているわけで、中にはそこに留まれずに自殺してしまう人もいるとしても、そうなる途中でそれなりの紆余曲折を伴うだろうし、途中で経験する紆余曲折の成り行きが生きていることの全てに思われるかも知れないが、それでもなおそこからはみ出てしまう余分な何かがあり、それが利益を求めて右往左往することだといえば、何かそこで答えが求まったような気にはなるかも知れないが、それで気が済むかと言えばそんな単純なことではないと思われるだろうし、実際に誰もがその手前で思い悩んで苦労しているわけだから、単純な答えを求めて思い悩んで苦労しているわけでもなければそういう衝動に突き動かされながら思い悩んで苦労していて、そうなっている限りで自身を功利的な目的に特化し切れていないことにもなるわけだが、中途半端にそうなっていると競争に負けてしまうように思われるなら、何らかの競争の当事者となっていれば、その競争が苛烈であるほど自身をどんな手段を使ってでも競争に勝つという目的に特化しようとするわけだが、他の競争相手もそうなっている限りで競争の勝ち負けが運に左右されてきて、いくら頑張っても運に見放されてしまえば競争に負けてしまうことにもなるだろうし、そういう意味ではその場で生じている目的に特化することが必ずしも有効に作用するわけでもなく、そういう目的に特化する姿勢をはぐらかすような運命のいたずらにもてあそばれる羽目にもなるわけで、それが死に至る途中で体験する紆余曲折であったりすれば、そんな紆余曲折の中で目的を見失って茫然自失ともなるだろうし、そこで当初に抱いていた目的が何でもなかったことに気づいてしまえば、生きる目的からも死ぬ勇気からも見放されてしまって、そこから生きるにしても死ぬにしてもどちらにも目的を見出せないようなどっちつかずの中途半端な心理状態となってしまうかも知れないが、たぶんそうなってしまえば欲望に突き動かされるような衝動からも解放されてしまったと言えるだろうし、そうなってしまったことが損にも得にもならないように思われるなら、利益を求めることだけでは済まないような事態も経験していることにもなるわけで、そこから自らが求めているつもりの特定の何かにこだわることだけではどうにもならないような世界が目の前に広がっていることに気づくとすれば、さらにそこからややこしくも煩わしい紆余曲折を経験することにもなるかも知れないが、たぶん当初はそんなややこしいことを経験したかったわけでもないだろうし、そういうことを経験することが目的でもなかったはずだろうが、成り行き上そんな経験をする羽目にも陥ってしまうことだってあるだろうし、そうなってしまえば自身が当初において何らかの目的に特化して行動しようとしていたことが、いかに浅はかで愚かだったことにも気づくかも知れないが、実際にそうやってみないとわからないこともあるわけだから、それが全くの無駄だったわけではないだろうが、そんなことをやると大抵は余分で無意味に思われるような紆余曲折がついてきて、そうした迂回路や寄り道で迷うことが生きることの全てではないとしても、何か一直線に目標に向かおうとするとそうなってしまうこともあるわけで、そうなってしまった時にあくまでも目的や目標にこだわり続けるか、あるいは成り行きまかせでそこから外れて離脱してしまうかも、その場の成り行き次第で運次第な面もあるだろうが、素直に成り行きに従うなら当初の衝動から解放されて自由に振る舞える余地が生じるかも知れないし、それもその時になってみないとわからないし、その時になってもわからないかも知れないが、わからなくても実際に行動してしまうだろうし、その場に留まれなければ否応なくそうなってしまい、行動してしまってどこか思いがけない局面に至ってからそれに気づくわけで、そうなってしまえばそれに気づいたところでもはや後の祭りなわけだが、たぶんその場で巻き込まれている成り行きがそれに気づかせないようにしているのだろうし、そんな成り行きに助けられて自らが窮地を脱して生き残ったことを実感する場合もあるわけだ。


6月3日「ピンハネ行為」

 経済活動をする上で避けては通れないのが、安く買って高く売って差額を儲けることだが、そのバリエーションとしては高い価格で仕事を請け負って安い価格で下請けに出してその差額を儲ける行為も含まれるし、政府などの公的な仕事は税収で賄われるからその分で損得感覚が希薄で割と値切らない高い価格で発注されるから、その仕事を政府とコネのある民間の業者が請け負えばうまみのある商売となるだろうし、その仕事を下請けの業者に安い価格で請け負わせればその差額を儲けることができるわけだろうが、それが元請けと下請けという別々の企業の間で取引がおこなわれれば、元請けの企業が下請けの企業に仕事を丸投げして丸儲けしていることになって、何か汚い商売をやっているように思われてしまうわけだが、例えばそれが同じ企業内で高い役員報酬をもらっている管理職が仕事を受注してきて、それを下っ端の安い給料で働いている従業員にやらせれば普通のことになるだろうし、資本主義的な経済活動の論理からすればどちらも大して違わないことかも知れないが、世間の一般常識に照らし合わせれば、元請け企業が下請け企業に仕事を丸投げして労せずして儲けるのは何か倫理的に許しがたいように思われるわけだが、そもそも政府という行政組織がやっていることも、統治している領域内にいる人や企業の仕事から得られる収入から、税金として一定の金額を強制的に徴収しているわけで、政府が大本の元請け企業と考えて、下請け企業に仕事をやらせるに当たって取り分として一定の金額を差し引く行為が税金の強制的な徴収と考えれば、それも仕事を丸投げして収入の上前をはねるようなピンハネ的な行為と大して変わらないのかも知れないし、そういうやり口の横行によって世の中の経済活動が成り立っていると考えるなら、ある特定のピンハネ行為が悪くて他の大して違わない行為なら認められるように思われることも、結局は世間の一般常識とらわれた錯覚に過ぎないのかも知れず、少なくともピンハネしている企業の類いがピンハネに関連して何か仕事らしいことをやっていれば、それがピンハネする上での必要経費と見なされるだろうし、丸投げに見られないように工夫を凝らす必要が出てくるわけだろうが、それに関しては何か労せずして大金をせしめるような行為が悪いように思われてしまう、という労働に関する幻想が関与しているわけで、しかも優位な立場を利用して強制的にそういうことをやると、なおのこと反感を買うだろうし、それらの全ては権力関係にかかわってくることなのだろうが、それも人々の思い込みや幻想によってそういう印象が生じてくるわけだろうし、そうだとすれば政府による国家や住民の統治も、軍事力や警察力によって暴力で住民を脅しながら成り立っているに過ぎないことを、民主主義的な幻想や行政サービスなどの印象操作によって住民を騙しているわけだから、税金の強制徴収というピンハネを住民に意識させるようなことになるとまずいわけで、なるべく癒着している民間業者に丸儲けさせるようなことが大っぴらにならないような工夫が求められるわけだろうが、住民の方でも経済活動によって生活が成り立っている限りで、多少なりともそうしたピンハネ行為に加担している面があり、仕事にかかわっている相手との間でお互いに利用し合い場合によっては騙し合いながら経済活動をおこなっていて、とても清廉潔白とは言いがたいような利害関係を結んでいるわけで、それら全ては相対的に許容できる程度でおこなわれていることに過ぎず、誰もやましさから逃れることはできないわけだが、そんな中でも特定の人や集団が何の権限も権利もないのに労せずして大金をピンハネするようなことが起こると世間から叩かれることになるだろうし、あるいは何らかの権限や権利に基づいてそういうことをやっていても、その権限や権利自体が不公平で不平等で不公正なように思われるとやはり世間的には叩かれるのだろうが、そういった行為のうちでも何がやっても良くて何がやってはいけないことなのかを区別しようとすれば、区別の付け方によっては区別をつけた側に欺瞞や偽善があるかのような印象も伴ってくるだろうし、結局はどうやってもそういう行為には権力や権限を利用したピンハネ的なことをやっている印象が伴ってきてしまい、そういった印象を拭い去ることはできないわけだが、そうであっても絶えず世間的な価値基準などに照らし合わせてやっていいこととやってはいけないことを区別して、そうすることに関して世間的な同意を求めていかないと、世間そのものが成り立たなくなってしまうから、必要悪という言葉は使いたくないだろうが、必要悪としてピンハネ的な行為を認める必要が出てくるだろうし、それもピンハネ的な印象を極力薄めながらおこなわれる必要があるのだろうが、少なくとも強制的な徴税によって大っぴらにピンハネをやっている政府としては、そうやって集めた予算を不当に思われるような民間の金儲けに使われるとまずいだろうし、日頃からピンハネしている側の人や企業よりは、余計にピンハネされて生活弱者となってしまった人のために優先して予算を使わないと、善悪や平等の均衡がとれないだろうし、そうなると直接には金儲けに結びつかないような予算の使い方が求められるのかも知れないが、それが例えば経済活動を活発にさせるために予算を使うという大義名分とどう折り合いをつけられるかとなると、うまく整合性がとれなくなってきてしまうし、政府が経済的な豊かさをもたらしてくれるような幻想を抱いている住民の思いとも折り合いをつけられなくなってきてしまうだろうが、それに関して妥当な方向性としては豊かな人がより豊かになるようにするのではなく、それほど豊かでない人を経済的に助けるために予算を使うようなことになれば、それなりに住民の反発を軽減できるかも知れないが、それ以前にそもそも税を強制的に徴収しているわけだから、庶民の人気取り的なやり方としては絶えず減税を印象づけるようなことがおこなわれてしまうかも知れないが、政府の活動自体が徴税によって成り立っているわけだからいくらでも際限なく減税できるわけでもなく、そういった減税を印象づけるようなやり方に対しては住民の側でも幻想を抱くべきではないだろうし、結局は住民の中でも力のある住民や有力な企業などの民間の団体よりは政府の方が強い力を持っていないと統治ができないわけで、そのために軍隊や警察があるわけで、それらの暴力で威嚇しながら法律の類いを守らせて徴税を成り立たせている面を忘れてはならないし、そういう意味では民主主義的な幻想にも限界があることも承知しておかなければならず、ピンハネ行為にもそんな行為を成り立たせている力が必要なわけで、力によってピンハネされている側を従わせているわけだから、そういう行為に正義があるかのように主張してしまうと、ピンハネしている側の傲慢さが目立ってしまうわけだが、その一方で政府という組織もそれを構成しているのは人であり、政府に所属する人たちも給料で雇われているに過ぎないことを自覚しておいた方がいいだろうし、それは民間の企業などに雇われている人たちにも言えることだろうが、自分たちが組織による統治や支配や管理に加担しているとしても、組織の役職を離れれば統治され支配され管理される側の住民としても存在しているわけだから、そういった組織の力をあまりにも強めてしまうと住民としての力がその分弱まってしまい、圧政のような統治形態によって不自由な立場や境遇を強いられてしまうわけで、そういう面を配慮する余裕があれば、あまりにも組織の力を強くしてしまうと自分で自分の首を絞めるような事態になってしまうことに気づくはずで、そうであればそういった政府や企業などの団体の力を不必要に強めるよりは、なるべく住民との間で対等な立場になるように力の均衡を取る必要に迫られるはずだが、果たしてそういうところにまで考えが及ぶほど住民の側に余裕があるかとなると、いわゆる組織の構成員として機械の部品のような役割を受け入れてしまうと、人としての知性や理性も持ち合わせないような組織人間になってしまうだろうし、そうなると自分よりも組織の利害を優先するような傾向になって、組織の中ではそれなりに有効に機能するが、それ以外では虚無的で中身の空っぽな人間となってしまうだろうが、そうなってしまった方が組織としては都合が良いだろうし、そういう人間の方が使い勝手もいいだろうが、組織に使われる人間としてはそれでかまわないが、そういう人間を使う側の人材が必要となってくると、ただ使われるだけの人間だけでは烏合の衆となってしまうわけで、そういう面でもあまりにも機械の部品のように人を型にはめて整形してしまうと、それ以外では使いようがないからかえって負担になってしまい、要らなくなったら廃棄されるだけの塵や芥のような存在になってしまうわけだから、人の方でもそうならないために自分で自分の身を守らないと、いいように使うだけ使われて後はゴミのように捨てられるだけの人生となってしまうわけで、そういう意味でも組織内の役割と共に一般の住民という立場も重視する必要に迫られるのではないか。


6月2日「今を生きる」

 今を生きることは今を生きながら昔のことも気にして、また今を生きながら将来の心配もするだろうし、それでも今を生きているのだから、今起こっていることを気にして、今起こっていることを憂うわけで、今の世界で何が起こっていてそれについてどう思いどう考えればいいのかわからなければ、そんな自らが心配になってくるはずだが、今起こっていることをそのまま受け止めようとすれば、そのままやり過ごせるわけでもないが、やり過ごせなければそこで立ち止まって考えようとするだろうし、今起こっていることに対処する方法を探ろうとするかも知れないが、そんなことを考えている時点でそれに対処しながら考えているわけで、それについて考えていることもそれに対処していることに含まれるわけだが、起こっていることに直接関与していれば、実際にも対処しつつ関与しているだろうし、関与することが対処することにもなり、対処するために関与していることにもなり、そうやって直接関与している限りで当事者意識が芽生えてくるはずだが、実際に何に関与しているのかと言えば、今自身が直面している事態に関与しているわけだが、それをやり過ごすことはできないし、やり過ごせないから関与せざるを得ないし、関与せざるを得ないから対処するしかないわけだが、特に対処法を問われているわけでもなければ、問われる間もなく対処しているわけだが、何に直面しているのかと言えば、何らかの事態に直面しているわけだろうが、対処の仕方が良かろうと悪かろうと、対処している限りで今を生きていることにはなるだろうし、対処できなくなった時が危機に陥っていることになるのかも知れないが、今を生きられなくなってきて生存の危機に陥ってくると何を考えるのかと言えば、そうなってしまった人が考えていることをうかがい知る機会がなければそんなことは知り得ないし、実際に自らが危機に陥っていなければ知る必要もないかも知れないが、危機に陥っていることに気づかない場合もあるだろうし、死に直面している最中なのにそれに気づかないこと自体が、まさに危機的な状況なのかも知れないが、それが危機に対処していることであったりして、危機に瀕してなおそれに気づかなければ平常心を保っていられて、それが対処法として間違っているとしてもそれに気づいていないのだから、当人にとってはそれでかまわないのかも知れないし、何でもないことなのかも知れないが、それは危機の程度にもよるだろうし、気づかないような危機なら、その時点では本当に何でもなければ危機とはいえないことになってしまうかも知れないが、気づかないまま死んでしまえば実際に危機だったことを知るよしもないだろうし、結果的には危機を乗り越えられずに死んでしまったことになるのかも知れないが、気づいた時にはもう手遅れになっていれば、絶望的な事態に直面していることにもなるし、それに気づいていないだけでもその時点ではうまく立ち回っていることにもなるのかも知れず、そうであればいかに気づかないように振る舞うかが危機への対処としてその時点では有効なのかも知れないし、意識して気づかないように心がけているわけでもないだろうが、危機に瀕しているのにそれに気づかないということは、その場の状況によってはそれがある種の才能と見なしてもかまわないのかも知れず、それに気づかないことによって今を生きられていることにもなり、今だけ生きていられるなら後はどうでも良ければ、それでもかまわないような成り行きもあるのかも知れず、そういう成り行きの中で生きていられる限りで今を生きていることになれば、今がそういう人たちにとっての天下なのかも知れないが、別に天下を取るような野望を持ち合わせていなければ、そういう人たちの天下となっていてもかまわないだろうし、そういう人たちをうらやむ気にもなれないのかも知れず、だからといって今を必死で生きていることには変わりなければ、そんなことにまで考えが及ぶ余裕はないはずだが、たぶん何とかしようとしているのはそんなことではなく、今をどうにかしようとしているとしても、それは今だけをどうにかしようとしているのではなく、将来にわたってどうにかしようとしているのであり、何かより良い未来になるように今をどうにかしようとしているわけだろうが、それに関して何か未来への展望があるかとなると、それらしい理想を思い浮かべるのだろうが、その理想像というのが過去の歴史的な経緯から地続きとなっていると、過去にも理想像を求めてしまうだろうし、現在の時点から過去にも未来にも理想のあるべき姿を思い浮かべてしまうわけだが、それが今ある世界の状況や情勢を反映した姿となるのかも知れないし、思い浮かべている理想像を過去や未来へと投影してしまうことが何を意味するのかと言えば、少なくとも今この時点では実現していないことを思い浮かべていることになるだろうし、それが過去に実現されていたかも知れないし、未来に実現するかも知れないことであれば、今やるべきことは何かといえば、過去に投影した理想を取り戻すことであり、また未来に向かってそれを実現させることが現時点で課せられた使命であるかのように思われるかも知れないが、それが今を生きることになるかというと、たぶんそう思うだろうし、実際にそうなることを目指して努力することになるだろうが、現状を維持することに汲々としていればそんなことまで考えが及ぶ余裕はないのかも知れず、今を必死に生きているということが現状を維持することに汲々としていることと同義であれば、今だけしか眼中にないことにもなるだろうが、意識がそうなっていても活動の内容が違っている場合もあるだろうし、その人の活動がその人だけでは完結し得ないものであるなら、他の人や団体などの活動と重なる面が少なからずあるのかも知れず、そうなると他の人や団体の意向や思惑に引きずられて、その人の意志とは違った方向に活動が引っ張られていってしまい、自らおこなっていることが自らの意志とはだいぶずれていることに気づかない場合も出てくるのかも知れず、実際にそうなってしまうことが今を生きていることの証しとなっていたりして、その人がたとえ現状の維持に汲々としていても、そんな人を利用して理想とする未来を実現するための努力がその人が気づかないうちにおこなわれている場合もあるわけで、そうなれば過去や未来へ投影した理想像を実現するためのプロジェクトにその人が巻き込まれていて、その人の意志とは全くかけ離れた姿がその人の今の姿となっていて、それに気づいていないばかりか、その人がおこなっていることも決して現状を維持することには結びつかず、その代わりに別の何かを実現しようとしていて、それがその人が拒否したいような何かだとすれば、その人はそれと気づかずに自らの意志とはかけ離れた何かを実現するために必死で努力していることにもなってしまうわけだが、それでいいのかといえば、その人には受け入れがたいことかも知れないが、これまでの歴史的な経緯を見れば、実際に人々が受け入れられないような状況が実現されてきたのであり、しかもそんな人を利用している人や団体の理想を実現しようとして逆に受け入れられないような結果に至ってしまったわけで、そういう歴史的な経緯を踏まえるなら、何か現時点で誰もが望むような理想の未来像を提示してそれを実現するように呼びかけている人や団体がいて、しかも過去に理想の世界があったかのように説く人や団体に多くの人たちが惹かれているとすれば、これまでにもそんなことが繰り返されてきたことに気づくべきだろうし、そんなことが繰り返されてきた結果として今ある世界が実現しているわけで、こんな世界が実現するには途中で様々な紆余曲折を伴ってきたことがこれまでの歴史的な経緯からも明らかになっているわけで、その中には何やら当時の人たちが自分たちの理想とする世界を実現させるために必死で努力していた時期もあったはずだが、それが結果的にどうなったかは今や誰もが知っていることであり、さらにそれは今でも性懲りもなくそんな世界の実現を唱えている人や団体がいることからも明らかでもあり、たとえそんな人たちがテロリストと呼ばれていようと一定の支持や賛同を得ていることも確かだろうし、そういう人たちには普遍性があるわけで、その普遍的な傾向や内容に多くの人々が惹かれてしまうわけだが、それは人類にとって理想の世界を作るという使命に込められた普遍性であり、そういう果てしない夢に普遍性があるわけだが、果たしてそんな実現不可能に思える夢の実現にかかわっていないで目の前の現実を直視すべきかというと、むしろ目の前の現実を直視すればするほど夢の実現へと向かってしまう人が少なからず出てくるのかも知れず、多くの人たちが絶望的な現実に直接向き合っているからこそ夢の実現へと向かってしまい、そうやって多くの人たちが夢を実現するために必死で努力すると、その結果としてさらに受け入れがたいような悲惨な状況がもたらされてしまうのだが、それがこれまでにも繰り返し生じてきた歴史的な経緯であったわけだ。


6月1日「縁起を担ぐ」

 人の習慣には様々なものがあるようだが、他人と違う習慣を持っているとそれが勝手な思い込みに過ぎなくても、その人独自の個性のように思われて、縁起を担ぐようにそれが悪習であってもなかなかやめられない場合もあるだろうし、酒や煙草のようにそれがもとで健康を害して命取りになってしまうことだってあるし、もっとも酒や煙草やカフェインの摂取なら他の多くの人もとらわれていることだから、その人の独自の習慣ではないものの、逆に他の多くの人がやっているのを見ると抵抗感を覚えてやらないように心がけることも習慣と言えるかというと、果たしてそれがそうだと言えるかどうか怪しいところだが、他の人とは違う振る舞いを心がけることが習慣と化していると、時と場合によってはそれが面倒な事態を引き起こすこともあるのかも知れず、多数派へ同調できないことが多数派から嫌われる要因になったり、そうなってしまうことによってより危険な目に遭いやすくなったりすれば、その人自身にとっては損なことかも知れないが、そうすることによって自分だけが助かろうと思っているのであれば、それは勘違いもいいところかも知れず、人が集団でまとまらないと生きていけない性質であれば、自分一人が助かったところで意味のないことかも知れず、そうだとすれば何か他からずれた感覚に陥っているのかも知れないが、突然変異的に自らが特別な存在になったかのような幻想を抱くこともできるのかも知れず、それも幻想に過ぎなければ単なる思い込みに留まることだが、何か他から秀でた存在になりたいという欲望は誰もが抱くだろうし、他人とは違うことをやって優越感に浸っていたいのかも知れないが、それがありふれた願望に過ぎなければそんな願望を抱いている自らが何ら特別な存在とも言えないだろうし、結局は他の多くの人が抱いている願望を自身も抱いているに過ぎないことであり、そんな願望を抱いている限りで何ら特別な存在にはなり得ないわけだが、たぶん特別な存在でなくてもかまわないのかも知れず、逆に自らがありふれた存在であるように見せかけておいて、他人を油断させたいのかも知れないし、そうやって油断させておいてから、機を見て油断につけ込んで何か自らが有利になるように事を運びたいのかも知れないが、そんな機会がいつ訪れるとも知れないし、確かに普段からそんなことを思っている人も稀かも知れないが、それも特定の目的もなしにそんな振る舞いに及んでいれば、何か雲をつかむような話になってしまうだろうし、そんなことを思っている人が他よりも秀でているはずがなく、逆に愚かだとも言えるだろうが、そうやって他とはずれたことを思いつく限りで、何かひねくれているというか、わざとねじくれたことを考えようとしている兆候がありそうで、普段からそんなことばかり考えているなら、それこそが悪習だと言えるだろうが、縁起を担ぐのともかけ離れたことであり、もっと卑俗でちょっとした仕草から得られた結果を吉兆だと思って、それを繰り返すのが縁起を担ぐことになるのだろうが、縁起を担ぐことも多くの人がやっている習慣であり、他とは違うことをやろうとするならやってはならないことかも知れないが、日頃から何か漠然とした不安感にとらわれていると、ちょっとしたことでも吉兆だと見なしたいだろうし、これをやっていればうまく行くような気になっていたいわけで、そうであれば縁起を担いでちょっとした動作を繰り返そうとするわけで、そのちょっとした動作が他とは違う動作であれば、何やらそれが自分独自のやり方だと思い込めるのかも知れないが、誰もが各々でその人独自のちょっとした動作を繰り返すことで縁起を担いでいれば、そんな動作自体がありふれていて、やはりそれも見せかけだけの独自ルールに過ぎず、実質的には他人との違いとはならないわけだが、では他人との違いを際立たせるにはどうしたらいいかとなると、それ以前になぜ他人との違いを際立たせなければならないのかと言えば、それが他より秀でたいとか優越感に浸りたいとかありふれた願望である限りで、他人との違いを際立たせたいと思うことも実際にそうすること自体もありふれたことになってしまい、そんな自らの願望を他人と共有していることにしかならないわけで、大抵はそれが経済的な富によって実現されることになってしまうわけだが、そうではないような他人との違いを実現できるかとなると、そうする理由がなければそう思う必要はないだろうし、理由がなくてもそうは思わなくても自然と他人との違いが生じてくれば、それが真の意味での他人との違いになるのかも知れないが、そうであれば無理に他人との違いを自覚しようとする必要もないのかも知れず、それが目的とならない限りで他人との違いが生じてくれば、その違いを他人と共有する必要もなく、他人と違いを比較することができなければ、それを価値として共有していることにもならないだろうし、他人と違うことに関して価値があったりなかったりするのとは違うところで、他人との違いが生じてくれば、他人もそれを真似ようとはしないだろうし、他人がそれを真似しない限りで他人との違いが生じてくることにもなり、それは他人が参考できないような違いであり、比較する必要もない違いでもあり、その辺は欧米のハウツー本の著者が言うような、他人にはない自分独自のオリジナリティーを身につけよう、というありふれたオリジナリティーとは違って、身につけたところで何の得にもなりそうにない違いとなるのかも知れないが、それを利益に結びつけようとする限りで、他人との比較や価値観の共有が生じて、ありふれた違いになってしまうのだろうが、そういう思惑が生じない限りで生じている違いであれば、それをどうする必要もないし、実際にどうにもならないような違いとなってしまい、違いは違いでしかなく、それを他の何に結びつける必要もないわけだが、例えば縁起を担ぐような動作もそうすることによって何の効用も効果も期待しなければ、それがその人の独特の間合いを生み出して、何やらその人がその人であるような存在感が生じてくるだろうし、効用も効果もないのにそれを続けることが、その人が生きていることの証しとなるようにも思われてくるのかも知れず、別にそれがその人の存在感や生に結びついているわけではなく、単なるそれらの一部でしかなく、結びつくこともなく一体化していると言えるだろうし、そこで様々な物事が結びつくことなく共存しているとも言えるかも知れないが、そんなことを言う必要もなくそうなってくるわけで、特にそれを言葉で表現する必要もないことだとすれば、必要以上にそれに言及しない方がいいのかも知れないが、それについて語ることもそれと共に存在していることになれば、何かそう思ってもいいような気になってくるわけだが、それがばらばらに分散していると表現してみても間違っているのかも知れないし、かといってそれらをその人に関係することとして、ひとまとまりに結びつけようとしても、それも違うような気がするわけで、分散させようとすると各々の違いを際立たせてしまい、ひとまとまりに結びつけようとすると各々の共通項を想像してしまうわけで、どちらも語る目的に応じて生じてくる恣意的な認識となるわけだが、認識する以前に認識しようとする動作が生じているだろうし、語る目的に応じて動作しようとしてくるわけだが、その動作が認識をもたらしていて、その動作が何の動作なのかと言えば、利益や効用や効果などを求める動作であり、それを自らの成果に結びつけようとする動作となるわけだが、そうすることによって利益や効用や効果があることを確認したいわけで、他と違うことによってそれらが生じることを確認したいわけだが、果たして確認できるかとなると、それ相応の結果をもたらさないと有効な動作をしたことにならないし、それ相応の結果をもたらすことが目標にもなるだろうし、目標を達成するために努力しなければならないわけだが、目標を達成するには他人との違いを際立たせつつも、それを他人と共通の価値観に基づいて共有する必要も生じてきて、そうすることによって利益や効用や効果などがもたらされていることを他人に認めさせないと目標を達成したことにはならないだろうし、そうすることが目的ともなってくるわけだろうが、そうなれば欧米のハウツー本的な範囲内にも収まってくるはずだが、たぶんそうなってしまうと他人との違いを違いのままに保てなくなってきて、違いを認めさせる過程でそれが他人と共通の目標になることを目指してしまい、違いを比較することによって違いの中に共通の価値が含まれていることを期待するような成り行きになってくると、それは他人も認めるようなありふれた違いに近づいていくわけだろうが、そこまで至る必要があるのかといえば、それはその人次第な面があるのかも知れず、必要もないのにそこまで至れば違いが消滅してしまうわけだ。