彼の声137
2020年
3月31日「疑念の正体」
現状で何を優先すべきかを判断する上で果たして何が対立する二者択一的な選択肢となるかといえば、どうもそういうことではなく何も選ばなくてもかまわないような成り行きとなっているのかも知れないし、さらに何を選んでもかまわないような成り行きにもなっているのかも知れないのだが、そうなると何をどう判断すればいいのかわからなくなってしまいそうだが、結果的には何かを選んでいることになってしまい、選んでいること自体には大した正当性もないようにも思われて、何も選ばなくてもかまわないと同時に何を選んでもかまわないのに結果的には何かを選んでいることになるとしても、それを選んでしまったからといって何がどうなるわけでもないように思われるのだが、結果的には何かがどうにかなっているのかも知れないし、それを選んでしまったからそんな結果がもたらされているわけだが、別にそれが受け入れがたいことではなく、それどころかそれを選ぶような成り行きになっていることが当然のことのようにも思われてきて、そこに神の意志が働いているようにも思われてしまうのだが、実際にそこで何を選んでいるのかといえば結果的にそれを選ぶのが当然のことのように思われる何かを選んでいるわけで、それを選んだ感触がそう思わせてしまうとすれば何を選んでもそんな感触を得られるなら、それが当然のことだと思っていること自体が何でもないことかも知れないし、そこで神の意志などという大げさなものを思い浮かべてしまうこと自体も勘違いかも知れないし、そうであれば神も自らも両方とも信じ切れていないことが明らかとなっているのかも知れないが、果たしてそれを信じてもかまわないのかとなると疑念が生じてくるとすれば、意識の中で何かしっくりこないような思いがあるのかも知れないし、そんな疑念を抱き始めるときりがないわけで、そんな思いの中に留まっている必要はないのかも知れず、急いでそこから抜け出さないと何もできなくなってしまうのかも知れないが、実際にそこから抜け出しているとすれば抜け出そうとする意志に従っていて、それが誰の意志なのかといえば自らの意志であり、自らの意志に従ってそこから抜け出しているわけだから、結果的には自らを信じているわけで、そこに神の意志も感じ取っているとすれば神の存在も信じていることになってしまうのかも知れないが、結果的にそうなっていると見なすしかないとしても事前の段階ではそうは思っていないわけで、結果的にそうなってしまうとしてもその前の段階では疑念を抱き続けているような状態となっているのかも知れず、そんな曖昧な状態を割り切ってしまったり合理化してはならないと思うなら、やはりそういう状態に留まることにこだわらなければならないわけで、たとえそういうこだわりが不合理に感じられても、それを割り切っているように感じられる人には何かが足りないと思われてしまうとしても、しかも足りないどころかそうやって何らかの傾向に振り切れてしまった人には世間的な安心感とともに信用が生まれて、そういう人たちが主流となってその人にあてがわれる何らかの役割分担とともに社会が形成されているようにも思われるわけだが、そういう人たちに社会的な役割分担が生じていること自体がその人が一つの部品として社会の適当な箇所にはめ込まれていることも示していて、そんな部品たちが構成している全体が社会の完成状態だとすれば、確かに社会の部品でしかない人たちには全体性が欠けているわけだが、その人に足りないのが全体性だとしても部品でしかないわけだから当然のことであり、別に全体性を獲得できなくてもかまわないどころかそれが適切な状態でさえあるとしたら、では社会の部品になりきれていない中途半端な人には全体性があるのかといえば当然そんなものはありはせず、それどころか世間的な安心感も信用もないから不利な境遇となっているのかも知れないが、少なくとも他から強いられてそうなっているわけではなく、自らに生じている疑念を振り払って自らの存在を合理化する気になれないからそうなっているわけで、そんな状態に留まっていること自体が自らの意志の反映でもあり、そこに神の意志も感じ取っているかも知れないが、それらに全面的な信頼を寄せているわけでもなく、自らの意志にも神の意志にも感じている疑念を振り払うことを思いとどまっている限りで、そんな思いとともにそこに踏みとどまっていられるのかも知れず、そうすることで何の利益がもたらされるわけでもないのだろうが、そこで歯止めをかけておかないとどこかへと流されていってしまうような気もするのかも知れず、その流されていった先で幸福がもたらされるとしても、何かそれでは実際に踏みとどまっている現状を無に帰すようなことになりはしまいかと心配してしまうのかも知れないが、そうであるとともにそうでもないような現実も一方には生じていて、どこからか流れ着いたところが現状であり、実態としてそこに踏みとどまっているというよりは、自然にそこへと流れ着いたのだからそこがその人にとっての安住の地であったりして、踏みとどまっているつもりが力を加えなくてもそこに立っていられるような状態となっていて、足下が地面にめり込んでいて固定されているような状態となっていれば、すでに社会の部品としてそこにはめ込まれていることに気づかないだけであり、そうなると自らの意志で力を加えて踏みとどまっていると意識していること自体が勘違いでしかないことにもなってしまうわけだが、そんなふうに思うこと自体も勘違いでしかないのかも知れず、そもそも大した理由もなく人が社会の部品でしかないと卑下するのもおかしいし、部品という表現は部品の集合体である機械に関して用いられるのだから、それを社会に当てはめてみてもそれ相応の限界があり、社会を部品の集合体と見なしてもそこからはみ出る要素がいくらでもあることは明白であって、たとえ社会が機械のように何らかの目的に従って一体となって動作しているように感じられる面があっても、それ以外の面も同時に併せ持っているだろうし、機械のようには動作していない面では部品同士の連携もまとまりも欠けているし、実際に対立や争いが生じている面では破壊や再構築を伴って、結果的には生物のように増殖したり死滅していると捉えた方がしっくりくるのかも知れず、さらにそんなたとえですらも裏切るような動作も中にはあるかも知れず、それがその人に特有の気まぐれな動作となったり、またそこでは何も動作もしない方が得だと意識されたりして、定まった目的がなければ何をやっても無駄な動作になってしまうだろうし、何かある一定のまとまったことができないような成り行きの中では、これといって何をおこなうつもりもないような成り行きになっていれば、人は何もせずにそこにいるだけの存在となってしまうのかも知れず、その一方でただ生きているだけでも食べたり呼吸するような何しら動作している面があっても、それが他の生物と同じような単なる動物の群れとして動いているように見えても、そういう水準で見ればそう見えるに過ぎないことだろうし、そんなふうにどう捉えてみてもしっくりこないような面があるとすれば、人をただの機械の部品とは見なせないとともに、単純に割り切れない面があるからそこにこだわるということでもなく、単純に割り切ってもかまわないように思われるときもあるが、そう思うのが勘違いのように思われるときもあり、そのどちらでもいいというわけでもないとともにどちらでもかまわないかも知れないし、どう思ってみてもそう思うことには絶えず疑念がついて回るとなれば、何かを思うということがそれに対する疑念とともにそう思うことになり、そう思うことがすべてではないということを自覚しながらもそう思ってしまうわけで、そうなっているとすれば何かそこでもっともらしいたとえを思いついても、それが何らかの勘違いを伴っていることも踏まえておかなければならないのかも知れないが、いちいち何かを思う度にそう思うわけでもなく、そう思ってからしばらくすると待てよと思ってしまうのかも知れない。
3月30日「相対的な状態」
何をやるにも極めるということではなく、何事も相対的な程度に留まってしまうのが現代的な傾向かも知れないが、世の中のどのような面でもそうなっているかというと、社会的な制度や機構が破綻しているところでは悲惨さの極めつけのような光景も見られるかも知れないが、その一方で誰かが積極的に肯定できる方面で何か凄い技を極めたとしても、それと競合していたり競争している他の誰かも負けじと追いついてくるだろうから、その程度も相対的な範囲内に収まってしまうのが結果的にもたらされる相対的な状態となるのかも知れないが、上を目指さずにほどほどのところで安定して何かをやっていられるようなら、うまい具合に破綻を免れる程度の均衡を保っていられるのかも知れないし、そんな状態になるように恣意的に調整するというよりは、自然の成り行きとして結果的にそうなっているようなら周囲との協調もうまくいっていることになるだろうし、実際にそういう安定した状態がたまたまどこかの方面で実現している一方で、不安定で不均衡な状態となっているところもそれなりにあるのが普通の社会的な状態なのかも知れず、具体的に何がそうなっているのかといえば経済の状態とか集団や組織などの内部状態とか様々な状態がありそうだが、公的な政治関連の状態などは常に流動的に推移していて不安定で不均衡な状態となっている面もあるだろうし、政治勢力の離合集散なども絶え間なく起こっているのだろうが、それは選挙で当選したり落選したりするからそれに伴って人の入れ替わりも絶え間なく起こって、そこから恒常的な流動化が生じているから、そうなっていること自体が制度的な特性からもたらされているとも言えるだろうが、そういう流動状態を安定化させるために政党などの政治勢力が組織されていて、人が絶えず入れ替わっても政党が議会内で一定の規模を保っていれば、政治的な活動の継続性が維持されるような成り行きになるわけだが、それで何の不都合が生じているわけでもなく政党の支持者にとっては自分の支持している政党が議会内で一定の勢力を保っていれば、自らの政治的な意見や主張も政治や行政に反映されていると思えるのだろうが、それで満足せずに直接自らの意見や主張を政治や行政に反映させたいのなら、自身が選挙に立候補して政治家になろうとするのだろうし、実際にそんな人がそれなりにいるから選挙が成り立っていて、それなりの人が当選したり落選したりするのだろうし、周囲の人たちがそういう人を積極的に支持しているかといえば、積極的に支持している人もそれなりにいるからその人に投票する人もそれなりにいて、相対的に得票数の多い候補者が当然して得票数の少ない候補者が落選するわけだが、そんな制度的な傾向以外でこれとって積極的に肯定できるような何かが政治にあるかといえば、何もなければ政治に関心を寄せる人もそれほどいないだろうし、そんな傾向が世の中の大勢を占めていれば政治が重視されることもないのだろうが、そうであればそんな状態や状況を深刻に受け止める人もそれほどいないだろうし、それで間に合ってしまえばそういう方面ではそのままとなってしまいそうだが、中にはそれを深刻に受け止めて何とかしなければならないと思う人もそれなりにいるだろうし、そう思う人たちがそんな状態の中で主導権を握っているように見える人や勢力を批判するのだろうが、その一方で深刻に受け止められない人たちはそんな批判を真に受けるわけでもなく無関心を装うかも知れないし、そういう人たちにとってはそんな態度でいることが特におかしいわけでもなく、自らがそんな態度でいることすらも自覚していないのかも知れないし、それによって自らが不利益を被っているようにも思われないのかも知れないが、すでにそうなっている状態が常態化しているならそのままでも取り立てて不都合は感じないだろうし、実際に不都合を感じられないような状況となっていればそれでかまわないわけだが、そういう方面ではそうなっているとしても他の方面では不都合を感じられるようなら、それは政治や行政のせいで不都合を感じているのではなく、別の何かがそう感じさせていると思われるなら、政治や行政にかかわっている人や勢力にとっては都合が良いのかも知れず、政治勢力や行政機構などが意図してそう感じさせようとしているわけでもないとしても、そんな成り行きになっているだけでもそれらにとっては都合の良い状態や状況になっているのかも知れないが、果たして実態としてどうなのかといえば、世の中で何かしら困っている人がそれなりにいるにしても、様々な物事が複雑に絡み合っている中でそうなっていて、そうなっていることの主な原因を特定できないほどわけがわからない状態になっていても、それでも政治や行政に無関心でいられるならそうなっている原因が政治や行政にあるとは思っていないだろうし、他に直接の原因がはっきりしているようならまずはそれを何とかしようとするだろうし、そうやっている限りでそういうことでしかないわけだが、その一方で政治や行政の対応に批判的な人たちは何か事件や事故などがメディア上で話題になる度に、その出来事が政治や行政と少しでもかかわってくる面があれば、それにかこつけて政治や行政の対応や姿勢などを問うわけで、そこでまずい対応や落ち度などがあればそれを批判や非難や糾弾の対象とするわけだが、それもそういう方面ではそうなっているに過ぎないことであって、他の方面では通常の対応に終始していて、もちろんその通常の対応にもまずいところがあればそれも批判や非難や糾弾の対象になって、それがなかなか改まらないと議会や選挙などの場で争点ともなるわけだろうが、そういうこともメディア上で話題となっていれば、普段は政治や行政などには無関心であってもメディア上で話題となっている範囲内では少しは気にはなるだろうし、そういう気になるところを改めようとしている政治勢力があれば、選挙の時にそういう勢力に投票すればいいわけで、その程度のことであれば何も事を大げさに受け止めなくてもかまわないだろうし、それ自体が深刻な状態でも何でもないわけだろうが、そういうことを意見や主張として伝えようとすると途端に大げさになってきてしまうわけで、そういう傾向がエスカレートしてくるとこのままでは国が滅びるとか言い始めてしまい、実際に国が滅びているわけでもなく、何かそれが現実離れしているような感覚に囚われると、そういうことに関して激しく批判したり非難したり糾弾している人たちが滑稽に見えてきてしまうのかも知れないが、実際にそういう煽動の乗せられてその気になっている人たちは事を深刻に受け止めるにしても、そういう実感が湧いてこない人たちは当然のことながら退いてしまうだろうし、そんなことを考慮するなら何でもかんでも大げさに激しく煽り立てるのはかえって逆効果のようにも思われてしまうわけだが、そう思われるにしても誰もがそう思っているわけでもないだろうし、何かを主張するということはそういうことだという先入観に囚われている人たちにとってはそうするのが通常の状態なのだからそれでもかまわないだろうし、結果的にそういう態度や姿勢が功を奏しているように思われるならそんなやり方を今後とも続けていくような成り行きになってしまうわけだろうが、中にはそれでかまわないような成り行きの中で活動している人もそれなりにいて、そんな人たちの活動はそういうものだという先入観も世の中で受け入れられている現状もあるから、そういう人たちが実際に存在しているわけで、そういう状態を普通の状態として受け入れている人たちには何の違和感もないだろうし、そういう人たちに向かって違和感を表明しても無視されるか反感を買うだけでしかないのかも知れない。
3月29日「連続性の維持」
意識が特定の物事に引き寄せられてしまうのは、それに興味があるからだろうが、惹かれるのだから魅力があるということだろうし、それに引き寄せられてしまうのだからそれが必要だと思われるかも知れないが、必要ではない物事に惹かれることがあるかというと、惹かれる必要があればそういう面では必要性が生じていることにはなるが、必要もないのに惹かれる場合もありそうで、その人にとっては無駄で意味のない物事に惹かれてしまうのは不幸なことかといえば、興味本位でしかないとしても暇つぶし程度には効用が期待されるのかも知れないが、物事の魅力は必要であるかないかとは関係なく生じてしまうのかも知れないし、魅力を感じたからといってそれが必要だとは思わない方が身のためかも知れないが、そうであれば逆に魅力を感じていないのに必要な物事というのもあるかも知れないし、興味がなくても必要であったり必要だと思わないのに必要であったりして、中にはなぜ必要なのかわからない物事まで必要であったりすれば、必要かどうかもわからないのに必要であったりなかったりする物事があり、必要だと思ったり思わなかったりする物事は必要であったりなかったりする物事の一部に過ぎないのかも知れないが、それでも必要だと思うのだからそれを求めようとするだろうし、逆に必要ではないと思えばそれを遠ざけたり捨ててしまったりもして、捨ててしまってから必要であることに気づくと後悔することになるだろうし、確かにその時は必要ではなかったのに後から必要になってきたりして、必要でないからそれを捨ててしまうような成り行きは、その時はそうなって当然のことのように思われるかも知れないが、後から必要になって捨てたことを後悔するような成り行きも、やはりそうなって当然のことのように思われるとしたら、そうなってしまうことに一貫性がなくても何の不思議もなく、では必要がないと思って捨てた後から必要になって捨てたことを後悔してしまうことを一連の成り行きと捉えるなら、必要がないと思って捨てようとしたときにいつか必要になることもあるだろうから捨てるのを思い留まればいいことになるが、そんな思いがことごとく空振りに終わって必要がないのに捨てられない物事で身の回りがいっぱいになって身動きがとれなくなる可能性もあり得るだろうし、そうであるなら後から捨てたことを後悔してもかまわないから要らなくなったらさっさと捨ててしまう方が賢明な場合もあるわけで、どうなるにしてもどちらがどうだとも言えない場合もあるだろうが、必要がないから捨てたことを後悔するような成り行きもある程度は避けられないと思って、そういう成り行きになったらなったでそれを悔やんでいればいいようなことでしかなく、過ぎたことにいつまでもこだわっていても意味のないことだと思うなら、そんなことはさっさと忘れてしまえばいいことになるだろうが、そんな逡巡に捕らえられながらもそこから抜け出そうとする気になるのだから、後悔することがなければ教訓は生まれず、教訓が生かされなければさらなる後悔をもたらすだろうし、それ以上事態が進展しようがないところまで行き着いてから何かそこから抜け出す方策を思案しても遅すぎるなら、手遅れになる前にそれとは別の方面へと模索を開始しなければならない成り行きにはなるだろうが、そんな都合良く別の活動へと思いをつなげられるとは思えなければ、行き着くところまで行き着いてから取り返しのつかないような事態の中で考えるしかなく、これまでに犯してきた数々の過ちや誤りを振り返りながらもそこに留まっているうちに、自然と事態が動き出すまでは粘り強く興味を惹かれている物事について考え続けることが肝要であるようにも思われてしまうかも知れないが、そうなっている時点ですでに捨てられない思考にすがりついているだけであったりして、それがその人にとってもはや用をなさない考えであっても、そういう方面からでないと物事を考えられないような思考形態に囚われている可能性もなきにしもあらずで、どんな状況でどんな事態に直面しても以前と変わらぬ態度で同じような物事に対する取り組み方を維持しようとすれば、そういう取り組み方がその人の思考の限界をもたらすことになり、そこで思い切って以前から維持してきた思考の連続性を断ち切って、発想の転換でもしない限りは遠からず行き詰まってしまうのかも知れないが、そんな行き詰まりをいいように解釈して成熟と捉えるなら、何かそれでもかまわないような気になってしまうだろうし、それ以上は考え続ける必要を感じなければそれでもかまわないわけだろうが、たぶんそうなってしまう人もいる一方で中にはならない人もいるのかも知れないが、どちらでもいいというわけでもなく、どちらか一方を選ばなければならない事態になってしまう場合もあるにしても、そんな二者択一的な選択をやり過ごしてしまうこともできたりして、それが可能か不可能かわからないまま、気がついたらその先へと事態が進展していたりもして、自身にとってそれが都合の良いことなのか悪いことなのかもよくわからないかも知れないが、そこで進展している事態がその人の意識や興味とは無関係な方面で進展している場合もあるわけで、そうなるとそれと自覚しないでそんな事態の成り行きに乗せられてどこか別の方面へと移動してしまっているわけで、それがその人にとって良いことなのか悪いことなのかはそうなった結果からその人が判断するにしても、その判断が正しくても間違っていてもどうということはないような事態の進展であれば、何か拍子抜けしてしまうかも知れないが、自らが直面しているつもりの事態が深刻に受け止めることでもなかったらそうなるのも無理はないことだろうが、当初は深刻に思い悩むようなことであったとしても、事態の推移に従ってその様相が変化して、その人の深刻な思い悩みを置き去りにしてしまうように進展してしまえば、今まで思い悩んでいた時間は無駄だったのかと思うしかないだろうが、決して無駄ではなくそれもそういう事態の成り行きに従ってそう思うような経過をたどっていたのかも知れないし、事態の進行に合わせて思い悩み、そういう思い悩みをもたらすような状態から抜け出ればそれが無駄だったように思われるわけで、後から思い悩んだことを後悔するようなら思い悩んでいる状態が延々と続くよりはマシだろうし、それはそれで良い兆候だと思うしかなく、そんな煩わしい紆余曲折を経ないことには収まりがつかないような成り行きもあるのかも知れず、そこで物事の成り行きの効率性を意識するなら始めから思い悩まないような成り行きを求めてしまうわけだろうが、思い悩んでからでないとそういう心境には至れないかも知れないし、そういう意味では取り越し苦労も必要になってくるわけだが、逆に取り越し苦労をしないようにあれこれと画策しようとするとかえって面倒な事態となってしまったりして、ただでさえ様々な要因が錯綜してもつれ合って事態がこんがらがっているのに、さらにそこから余計なことをやって事態をより一層こじれさせるようなことになってしまえばやぶ蛇でしかないだろうし、すでに十分に思い悩むようなことが引き起こされていれば、そこでとことん悩み抜いてみるしかなく、それが余計で無駄なことでしかないとしても、下手に効率的なやり方を模索しない方が身のためなのかも知れないし、しかも他人が効率的なやり方を編み出してそこから簡単に抜け出すことに成功したとしても、それをまねするような成り行きにはならなければ、とりあえずそこに留まっているしかないのかも知れないし、留まっていられるだけでもマシだと状態を都合良く捉えておいてもいいのかも知れないが、それをどう捉えるかもその人の勝手にはならない場合もあるだろうし、それだけその人が囚われている状況が込み入っている可能性が高いのかも知れない。
3月28日「人の普遍的な在り方」
人が何らかの事態に直面したときにおこなう判断に普遍性があるかというと、その場に限定された状況や情勢や条件などに応じた判断にも普遍的で一貫した要素が含まれていれば、そこに判断する個人の個別性や単独性を超えた普遍性を示されているはずだが、なぜ個々の特殊な事例に対応して個々人が個別に判断するのに、そこに普遍的な傾向が含まれてくるのかといえば、誰がその場に身を置いてもそこで考えることにもおこなうことにも一定の共通する傾向が出てくるからだろうし、別に普遍的な傾向が出てくるから良くて特殊な傾向が出てくるから悪いということではないのだが、そこで誰もが考えたりおこなったりすることに改善したり改良できる点があれば、それが誰もが参考にするべきことになるわけだろうが、その際にはもちろんその場に固有の状況や情勢や条件などが利いてきて、参考にするべきことが活かせるとは限らないだろうが、応用したり工夫できる余地があれば活かせることになるが、個々の事態に対応するに際して共通の手がかりになることがあれば、そこに普遍的な傾向があるのかも知れず、それに関してこういう場合はこう考えれば良くこうすればいいとなればいいわけだが、それが誰もができることではなければ普遍性がないかのように思われるかも知れないが、そうした結果がどうなるかは個々の特殊な事情に左右されるかも知れないが、うまくいってもいかなくてもこうするべきだとなると、やはり誰もができることでもないし、うまくいかない場合のことを考えればやらない人も出てくるから、やるかやらないかで判断が分かれるところかも知れないが、こういうときにはこうするべきという主張には普遍性があるのかも知れず、なぜ普遍性があるのかといえば、そうすることが世のため人のためになるというと、本当にそうなのかと疑念を抱く人も出てくるかも知れないが、果たして世のため人のためになるということに普遍性があるのかというと、世の中一般とか人の一般的な傾向というのに普遍性があるように思われるなら、世のため人のためになるように思われることに普遍性があることにはなるだろうし、そうすることが本当に世のため人のためになることが確かめられるなら普遍性があることになりそうだが、では具体的にどうすればいいのかとなると、具体的にどういう事態に直面しているかで対応が異なってきそうだが、それに関しては結果を予想することが考えることになり、こうあるべきという結果を目指して行動することになるだろうが、どのような事態に直面してもこうあるべき姿というのが人の普遍的な在り方になるわけで、こうあるべき姿を目指して行動することになるが、それを目指すに当たって身の危険が伴ってきたり損害や被害や弊害が伴ってくれば躊躇するだろうし、そうした試練を乗り越えてあるべき姿にたどり着けるかとなると、それでもやろうとする人と怖いからやめてしまう人とに分かれるだろうし、そこで功利的な判断をするなら割に合うか合わないかを判断するだろうが、倫理的に判断するならたとえ割に合わなくても世のため人のためにはやらなければならないと判断するのかも知れず、そうなると人としてあるべき姿を目指すなら、功利的な利害よりは倫理的な判断が優先されて、場合によっては割に合わないことをやるような成り行きになってしまうわけだろうが、誰もがそうするかとなると倫理観の強い人はそうするかも知れないが、利害を重視する人はやらない場合があるだろうし、そのどちらに普遍性があるかというよりは、倫理観の強い人はそうするが利害を重視する人はやらないという傾向に普遍性があることになるわけで、どちらの人が良くてどちらの人が悪いということではなく、そうする人もいる一方でやらない人もいるということであり、それをやるやらないのどちらかを選ぶことができればそこには選択の自由があることになるだろうが、それでもそうするべきという主張は変わらず、人の普遍的な在り方としてはそうするべきことをやることになるわけだが、実際にそれができる人もできない人もいるなら、誰もができるわけでもないことが明らかになるわけで、人としてあるべき姿はそれをやることだが、やるかどうかはその人次第であり、やるべきかどうかもその場の状況や情勢や条件によって左右されることになるだろうが、人によっては普遍的な在り方を目指す必要を感じない人もいるだろうし、普遍的な在り方としてはそうであるにしても、それを目指さないことを正当化するような個人的な事情も生じてくるかも知れないし、その事情が身の危険や安全であったり経済的な利害などであれば、普通はそうした事情を優先するだろうし、多くの人がそうした事情によって普遍的な在り方を目指せなければ世の中がおかしいことになるのかも知れないし、それに対して誰もが人としてあるべき姿になれるように世の中を変えてゆかなければならないと主張できそうだが、どうすれば世の中を変えられるかとなると、誰もが身の危険や経済的な損害を顧みずに人としてあるべき姿になろうとすれば世の中が変わるのだとすれば、主張が循環してしまうのだが、それを阻むように作用や影響を及ぼしている何かがあることは誰もが承知していることかも知れず、そういう作用や影響に逆らって、そういう作用や影響を及ぼしている何かと戦わなければならないと主張するなら、そうすることが人としてあるべき姿となるだろうし、それも普遍的な行為として価値のあることになるわけだろうが、それに逆らったりそれと戦うわけだから、そうすることは大変で大げさなことになるのかも知れず、危険や損害を顧みないとなると少なくともそうするにはそれなりの覚悟や勇気が必要となるだろうし、そうすることが試練になればそれに成功したり失敗する結果が待ち受けていることにもなるし、やはり誰もがそれに成功するわけではないし、失敗すれば不幸で悲惨な境遇になってしまう可能性もあるだろうし、そんな危険を冒してまでも挑戦する必要があるかどうかも考慮しなければならないと、無理にそうする必要を感じなければ、挑戦を断念してもかまわないような状況にもなってくるだろうし、世の中がそんな人ばかりになってしまえば、そうすることが普遍的な行為だとは言えなくなってしまうだろうし、それをやろうとするのが人として普遍的な在り方だとも言えなくなってしまうのかも知れないが、ではこのままでもかまわないのかとなると、そう思うように仕向けている何かが世の中に存在していて、その何かに逆らっても無駄であり、それと戦っても勝てないという認識を世の中に広めている何かも存在しているのかも知れず、そういった存在と戦って勝たないと自らの在り方の普遍的な価値を獲得できないと思われるなら、やはりそれと戦おうとするだろうし、戦って勝とうとするわけだが、それが何かといえば現状の世の中そのものなのかも知れないし、そんな現状を変えるにはそんな世の中を変えなければならず、現状を変えて世の中を変えようとするのが人としての普遍的な在り方だとすれば、そうすることを目指す以外にはあり得ないわけだが、現状を変えて世の中を変えるにはどうすればいいかとなると、まずは自らが変わらなければならないし、現状の中に囚われている自らを現状から解放しなければならないと考えるなら、現状の世の中で自らをそこに固定している何かに向かって働きかけるしかないわけだが、その働きかける対象となるのがまずは自己であり次いで他者となるだろうし、それが自己も他者も含んだ社会全体に働きかけていることになるのかも知れないが、それが改めてそうなのではなく、働きかける主体として自己が存在していること自体が、すでに何かしら働きかけていることを示しているのではないか。
3月27日「失敗と継続」
勘に頼って間違えれば勘違いということになるだろうが、論理的に思考したつもりがうまくいかずに間違っているとしか思えないとしたら、論理そのものが間違っている可能性があるだろうが、まだ気づいていない条件や要因が絡んでいる可能性もあるだろうし、結局はやっていることがうまくいくまで試行錯誤を続けていくしかないわけだが、そんなことをやっているうちにそれ自体がやらなくてもいいことであって、やらなくてもいいことをやっていることが明らかになってきたりすると、やり続けているのが馬鹿らしくなってきて、だからといって自らの誤りを認めるわけにもいかないまま、うやむやのうちにフェードアウトしてしまうのかも知れないし、そうなると無意味なことをやっていたように思われてくるだろうが、それでかまわないと思ってしまうとさらにそれが負け惜しみのようにも思われてくるだろうし、そんな成り行きも含めて勘に頼ったり論理的に考えながらもそれなりに失敗を経験するわけだが、あるとき不意に何かのきっかけから妙案がひらめくこともあるのかも知れず、結果的にそれが幻想に過ぎなくてもそれが気持ちの抑揚やめりはりをもたらして、さらなる継続の糧となることもあるのかも知れないが、そんな継続ですらも一向に事態が好転せずに無駄骨に終わってしまえば、いよいよ心理的にも追い込まれてくるだろうが、そこから本当の試練が始まるといってもすでに疲労困憊しているわけだから残り時間も少ないように感じられて、気を取り直してさらなる試行錯誤を続けるとしても大したことはできないような気がしてしまうのかも知れないが、それでもそうやって何かしら続けている実態があると、そこで何が執拗な粘り強さをもたらしているとも思えなくても自然にそうなってしまっているとしたら、そんなふうにしてかかわっている現象の類いにそうさせるような効果があるとしか思えないのかも知れず、何かそんな試行錯誤の迷宮の探索にのめり込んでいくような感覚がそれを継続させていると見なしてもかまわないだろうし、しかも実態としては何かの片手間にそんなことをやっているだけだとしたら暇つぶしに過ぎないことかも知れないが、その一方でうまくいかないからこそ続いている可能性もあるわけで、そこから何かのきっかけでうまくいってしまえば案外すぐに飽きてしまってやる気が持続せずに継続が途切れてしまうことだってあり得るだろうし、それがうまくいかないことを確かめるためにやり続けているようなことになっているとすれば、それこそが失敗することに成功し続けているようなものかも知れず、それ自体が何かを継続させる条件や要因となっていて、そうであれば成功するよりは失敗し続ける方が継続性が高いだろうし、しかも失敗し続けられるような成り行きとなっているわけだからそれをやり続けられるだけの糧が他から供給されているわけで、それがやり続けていればいつかは成功するのではないかと思う幻想かも知れないし、他にも色々と糧が供給されているのかも知れないが、やり続けている当人の糧となっているよりはやり続けている対象の糧となっているとすれば、やり続けている当人自身がやり続けている対象の糧となっている可能性もあるだろうし、要するにその対象の食い物にされているかも知れないわけだが、好きでそんなことをやっているのならなるべく肯定的に捉えておいた方がいいだろうし、対象への疑念が芽生え始めたらそれに依存している自身への疑念も生じてきて、結局は自己嫌悪に陥るしかないのかも知れず、そうなるとさらにのめり込んでいってしまい、それなしでは片時もいられないような心理状態となってしまえば、もはや完全に依存症であり病気と見なされるような段階に達していることにもなるだろうし、苦痛を生み出しているのにやめられないようならそれこそが対象と良好な関係を築くことに失敗していると言えるだろうが、継続を無限に生じさせるにはそういう関係になっていることが必要不可欠かも知れないし、良好な関係は長続きせずに悪循環に陥っていることが長続きする関係であり、関係を継続させる秘訣とも言えるのかも知れず、そんな継続であればそれを継続しつつそれに依存している自身がその対象から悪影響を及ぼされていることにもなるだろうし、それこそ悪魔に取り憑かれているような状況だと言えるのかも知れないが、そんな悪魔憑きとも言えるような精神状態で何かを継続していることがうまくいっているとは到底思えないだろうが、一方でそれがその人の孤独な状態を端的に示していることになるのかも知れず、一人で何かをやり続けると大抵はそうなってしまい、誰か他に支えてくれる人がいないと必ず独りよがりな悪循環に陥ってしまい、その人の相手をしてくれる誰かがそこへとのめり込んでしまうのを押しとどめてくれる歯止めとなったり、落ち込んでしまったくぼみから引き上げてくれるような存在として欠かせないわけで、そういう役目を引き受けてくれる人がいないと、孤独にまかせて消耗するがままになってしまうのかも知れないが、そんな人を探し出すのも試練として課されていたりして、放っておけば消耗して消尽してしまいそうになるのを持ちこたえるために他にも何かを施さなければならないのだろうが、そんな自家中毒気味の孤独から抜け出そうとすることも、やっていることを継続させるためには必要となる場合もあるだろうし、さらにそうすることがやっていることをやめるきっかけにもなるかも知れないし、どちらにしてもある一定の状態から抜け出して別の状態へと進むことが、それを進化や進歩だと肯定するには、少なくとも今まではうまくいかなかったことがうまくいくことに切り替わらないと肯定はできないだろうし、いつまでもうまくいかないままであっては困るわけだろうが、困っている状態が長引いてくるとそれが自然な状態に感じられてしまうのかも知れず、そういう状態に留まっていてもかまわないように思われてきて、それ自体がそうなったままでいることへの誘惑として機能してしまうのかも知れないが、そんな誘惑を振り切れなければそうなったままとなってしまうとしても、たとえそこから抜け出して何かしら肯定できる状態へ至ろうとしても、当人の思いとは関係なく結果的にそこへ留まったままとなってしまえば、そこが悪循環へとのめり込む舞台となってしまい、そこで試行錯誤を繰り返しているうちにその場が次第にくぼんできて、気がつけば自らの活動によって穿たれたくぼみにはまって身動きがとれなくなっているのかも知れず、しかも居心地が良ければそこにはまったままであってもかまわないような気がしてくるだろうし、しかも実態としてそうなっているのはその人だけではなく、他の多くの人たちも各々のくぼみにはまっているのかも知れず、そうやって社会の様々な場所にくぼみが穿たれて、その場所に落ち込んではまり込んで固定化された人たちがその場所を占拠している状態となっていれば、その場所で各人が思い思いの行為にふけっているとしても別にそれが悪循環だとは見なせないだろうし、そこが思いのほか快適な居住環境であるならそんな状態でも悪くないどころか、それが求めていた状態だと思っても何の不思議もないはずだが、それでもそう思ってしまう人がいる一方でそれでは不満な人もいるなら、すべての人がそんな状態の中にはまり込んでいるわけでもなく、そこから抜け出ようともがいている人もいるだろうし、中には抜け出すことに成功して自由の身になった人もいるはずで、うまく抜け出したところでまた別の試練が待ち構えているのかも知れないが、それが罠になっているとしたら他人が抜け出したくぼみが落とし穴のようにあちらこちらに掘られていて、また抜け出せずにくぼみの中で息絶えてしまったところへ誤って落ちてしまう危険もあったりして、そんな落とし穴のようになっている地帯を進んでいくことも試練の一部となっている可能性もあるのかも知れない。
3月26日「倫理的な態度」
効果的なことをやろうとすることは、どのような効果をもたらそうとするかで内容や傾向が異なってきそうだが、例えば功利的な効果なら利益がもたらされて、論理的な効果ならやっていることの辻褄が合いそうだが、では倫理的な効果だと何がもたらされるのかといえば、利益がもたらされなくてもやっていることの辻褄が合わなくても納得できるのかも知れず、なぜ納得できるのかといえば、他人に迷惑をかけないからというわけでもないだろうし、たぶん利益が出ないことや辻褄が合わないことで他人に迷惑をかけることがあるのかも知れないが、他人に迷惑をかけても納得できるとしたら自己満足に浸れるという可能性があるのかも知れないが、満足できなくても納得できるとしたらそういうことではないだろうし、そうなるとどういうことになればそれが倫理的な効果と言えるのかと問うなら、やはり納得できると言うこと以外にはあり得ないのかも知れないが、それ自体が納得できかねることなら、納得できるだけでは倫理的な効果があるとは言えなくなってしまうが、他に余分な効果がないことが倫理的と言えるのかも知れず、余分なこととはどういうことかといえば、それが不正なことであったり不快なことであったりして、無理に何かを得ようとすることが余分なことであり、無理なくできる範囲で得られるようなことなら余分なことではないし分相応なことをやっているようにも思われるし、それでうまくいけば申し分のないことかも知れないが、うまくいかなくても納得できる場合もあって、自らの力量を超えるようなことをやろうとすれば当然うまくいかないだろうし、それを悟れば納得できるわけだが、それが納得できなければ自らの力量を過大に見積もっているから納得できないのかも知れないし、そうなるとそういう思いが余分だから倫理的な態度ではないことになるだろうが、どうやって自らの力量を知ることになるのかといえば、何かをやってみてできなければ力量が足りなかったと思えばいいわけだが、ではできなかったことを努力してできるようにすることが倫理的な態度なのかといえば、その内容にもよるだろうし、できるようにすることが自らにとって必要なことなら、努力することに納得するだろうし、納得できればそれが倫理的な範疇に入りそうに思われるが、努力してできなければそれでも納得する場合もあるだろうし、そうだとすれば倫理的な態度とは直接やってみてそれを確かめるような態度となるのかも知れないが、やりもしないのにできないと決めつけるのは倫理的な態度ではないように思われるが、明らかにできそうもなければできるかどうかを確かめる必要はないだろうし、逆にできそうに思われるのにやるのが面倒だからできないと決めつけたり、また他人がやらないから自分もやらなくてもかまわないと決めつけて追従するのも倫理的な態度ではないだろうが、他人がやりたがらないことをやらなければならないと決めつけて率先してやるのは倫理的な態度だと思われるのかも知れず、なぜやらなければならないと思うのかといえば、例えばそれをやることによって困っている人を助けることにつながると思えば、倫理的な見地からやらなければならないと思うわけで、それもやる前からそう思うのではなく、やり始めてから次第にそういう思いを強めるような成り行きになるのかも知れず、やるきっかけは些細な偶然の巡り合わせに過ぎなくても、それをやっていくうちに何の利益にもならないのにそれでもやり続けなければならないと思うようなら、やはりそれをやり続ける原動力になるのは倫理的な思いとなるのかも知れないし、そういうことをやっている人を誰も賞賛しない状況の中で、誰も賞賛していないが自分一人でも賞賛しなければならないと思うことも倫理的な態度になるだろうが、他の多くの人たちが賞賛していてメディア上でも賞賛されているから世間体を気にして賞賛に追従するのは倫理的な態度ではないし、そういうところで一見同じ態度のようであっても倫理的な観点からは微妙に異なる場合もあるだろうし、それを一緒くたにしてしまうのも倫理的な態度ではなく、そこで倫理的な態度と偽善や欺瞞的な態度との間に生じている微妙な差異を感じ取れない人は倫理的な感性を持ち合わせていないことになってしまうのかも知れず、何が倫理的な態度となるかは同じようなことをやっていてもその場の状況や成り行きから倫理的であったりなかったりするわけだから一概には言えないわけで、自分の都合で恣意的に決められないわけだが、そうであれば何かをやる前から倫理的な態度になろうと心がけても当てが外れてしまうのかも知れず、それをやり始めてから手探り状態でやっていることの倫理性を模索するようになるのだろうし、それもこうしようと決めつけておこなうわけではなく、自分が作用を及ぼしている対象との相互作用の中でどのようにすれば倫理的になるのかを探るわけで、相手の都合を考慮しないで自分でこうだと勝手に決めつけるのは倫理的な態度とは言えないだろうし、もちろん自分の都合を相手に押しつけるのも倫理的ではないわけだが、逆に相手から強要されるがままになることも倫理的な態度とは言えないわけで、相手のことを思えばひどい仕打ちには反発しなければならないだろうし、当然それが相手の都合を受け入れないことになるにしても、そうすることが相手のためになると思われてしまうわけだから、そうなると双方の利害とは別のところで倫理的な判断がなされていることになり、またそれは合理的な判断とも違うだろうし、結果的に思っていることとやっていることが矛盾していて辻褄が合わなくても、やはり倫理的にはそういうことをやらざるを得なくなってしまうところが微妙になってしまうわけだろうが、そういうところで物事を単純化して割り切ろうとしてしまうと倫理的な態度ではなくなってしまうわけで、そうであるなら果たして無理に倫理的な態度をとろうとすることが自分のためになるのかといえば、たとえ自分のためにはならなくても世のため人のためになると判断してしまうところが倫理的な態度の微妙なところなのかも知れず、そんな態度を保とうとしたばかりに不利な状況に追い込まれたり場合によっては命を落としてしまったり、ひどい境遇を強いられてもなお倫理的な態度でいようとすれば、信心深い人なら神が自らに試練を課していると思われたりするわけだろうが、またそういう態度を保っていることによって自分で自分を統治していると実感できるから満足感を得られるのかも知れないが、そういう一途な思い込みに凝り固まってしまうのも倫理的な態度から外れてしまうのかも知れず、おこなっていることのすべてにおいて無理をしないことが肝心なのだろうが、何かをおこなっている中でどの程度からが無理をしていることになるのかがはっきりしないのかも知れず、結果的にそれができれば無理していないことになるだろうし、できなくても無理をしなかったからできなかったことにもなるだろうが、無理をしてできてしまってから心身に異常をきたせばやり過ぎなことをやってしまったことになるのかも知れないが、それも結果がどうこうというよりは、やりながらやっている成り行きの中で無理なことをやらないようにしなければならないだろうし、そうであればやる前の段階では無理かどうかがわからないだろうし、やる前から決めつけないことが肝心なのだが、それとともにやった結果からも決めつけないことも肝心なのかも知れないし、何かをおこなう過程の中でこうだと決めつけたり割り切ってしまうことが倫理的な態度から外れることになってしまうのかも知れないが、その対象の状態や状況を絶えず考慮し続けることが倫理的な態度につながるのではないか。
3月25日「おこなうことと主張すること」
何かをおこなうこととおこなうことを語ることが違うのは誰もが承知していることだが、語ることもおこなうことであり、おこなうことの中に語ることも含まれているわけだが、さらに何かをおこなうと記すことも何かをおこなうことの範疇に入ることであり、もちろん何かを主張することも何かをおこなうことの中に含まれているはずだが、何かを主張する場合にありがちなことは、すぐにでも何かができるかのように語ってしまうことであり、現状でおこなわれていることの問題点を指摘して、こうすればいいと改善すべき点を語り、自分ならこうすると語ってしまうことであり、何かを主張するということには確かにそういうことが含まれるわけだが、実際に主張した通りのことがおこなわれた例しがあるかといえば、あるにしても必ずしも主張した通りには事が運ばない場合も結構あるだろうし、実態としてはそちらの方がかなり多そうだが、それはその主張の他にも別の主張もされていて、様々な主張がされた中でそれらの主張がある程度は反映されたことがおこなわれてはいるが、そうやっておこなわれていることに対してもその問題点を指摘するような主張がなされているわけで、それもその主張だけではなく他にも様々な主張がされていて、そんな主張もある程度は反映された結果としてまた新たなことがおこなわれる成り行きになるから、そうやって様々なことが主張されている中からある特定の主張通りには事が運ばない場合が多いのかも知れないが、中にはある特定の主張通りのことがおこなわれる場合もあるだろうし、全くその通りにはならないというわけでもないだろうが、その場の状況によっては可能性が高かったり低かったりするだろうし、主張通りのことがおこなわれたりおこなわれなかったりするとしても、それが取り立てて驚くべきことでもないはずだが、とりあえず主張通りのことがおこなわれてほしいからそんな主張をするわけで、そんな主張がされたからといって主張通りのことが実現するわけではないとしても、主張した人は主張したことを実現させようとするだろうし、そのつもりで主張していることは確かだろうが、それが実現するかどうかは不確実なわけだが、主張に賛同する人たちも主張が実現してほしいと思うだろうし、主張している人も主張の賛同者を増やそうとするわけで、賛同者が増えればそれだけ主張が実現する可能性が高まると思うのかも知れず、そうなると主張を実現するためにおこなっている活動が主張の賛同者を増やすためにおこなっている活動になるわけで、それも主張を実現するためにおこなっている活動に含まれることは確かだろうが、何かを主張することが主張している内容を世に広めるために主張することになると、そこで少し主張している趣旨がずれてくるだろうし、そうやって生じる差異を無視できるかというと、そういう主張をしている人もそれに賛同している人たちも差異を無視してしまうのかも知れず、そういう無視が増幅してしまうと、主張を実現させることが主張の賛同者を増やすことにいつの間にかすり替わってしまうわけで、肝心の主張の実現性を高めるための戦略や実現しやすいように主張の中身を改善したり修正するための検討がおろそかになってしまい、その代わりに賛同者を増やすにはどうしたらいいかという課題に応じた戦略や戦術ばかりを検討する事態になってしまえば、何か本末転倒なことをやっているようにも見えてしまうだろうし、主張の賛同者を増やすことが主張を実現させることに直結していれば問題ないと思うかも知れないが、果たしてそうなのかというとそうかも知れないがそうではないかも知れないし、そういうことをやってみた結果として主張が実現すれば問題ないが、実現しなければそういうやり方が間違っていたと判断せざるを得ないし、実態としてもそういうことではないばかりか、賛同者があまりいないことが実現したり、それどころが実現に反対する人の方が多いことが実現したりして、そうであるにもかかわらず、そうであるからこそ反対する人たちが反対意見の賛同者を増やして実現を阻止しようとしたり、いったん実現したことをやめさせようとしたりするわけで、そういうところでも主張の賛同者を増やそうとしていて、それをやめさせるにはどうすればいいのかということではなく、やめさせようと主張する意見の賛同者を増やせばそれが実現するのか、という疑問を無視してしまうわけだが、もちろん結果的にやめさせることができなければ、やめさせようと主張する意見の賛同者を増やすことに失敗したことになるのかも知れないが、世論調査などをおこなって賛成意見よりも反対意見の方が多ければ、必ずしも失敗したとも言えないだろうし、そうなるとそれが世論を無視した暴挙だなどと実態を糾弾するのかも知れないが、それもやめさせるにはどうすればいいのかという問いに答えているわけでもないし、そうやって絶えず問いや疑問をずらそうとするわけだが、もちろんそんなことを主張している人も賛同者も自分たちがずらしている自覚はないだろうし、そういうところで自分たちがおこなっていることがおかしいとは思わないし、それを自覚できないことがおかしいとも思わないだろうが、ではその代わりにどう思うのかといえば、多くの人たちの賛同が得られているのにそれが実現できないのはおかしいと思うわけだろうが、実際に多くの人たちの賛同が得られていないことが実現しているどころか、それに反対している人が多いことも実現しているわけだから、おかしいと思うこと自体がおかしいわけで、実態としてはまずは賛同を得られるかどうかよりもとにかく実現させようとするわけで、しかもそういう思いによってそのままそれが実現するわけでもなく、他にも多くの人が他のことや似たようなことを実現させようとしている中で、そこで複数の実現させようとすることの競合や競争が起こっていて、その中からその場の成り行きや状況に合ったことが実現するというよりは、それを実現しようとする働きかけが実現するような成り行きや状況をもたらすといった方が妥当なのかも知れず、どうやればそうなるというやり方や方法があるとは一概には言えない場合もあるだろうし、何やらその場の状況の中で実現するために各方面に働きかけているうちに、そういう働きかけが絶えず無数にある中のいくつかがうまくいくことになるわけだろうが、たまたま何かの巡り合わせでうまくいった働きかけを結果から考察すれば、どうやればうまくいったのかがわかってくるだろうが、すでにその時には状況が変わっていて、同じやり方が二度と通用しないというよりは、その場で競合しているやり方の中でうまくいくものも出てくるしうまくいかないものも出てくるということであり、そうであれば時には賛同者をより多く集めることがうまくいく秘訣になることもあるが、そうはならない場合もあるだろうし、結果的にそうはならない場合の方が多ければ、それがうまくいく可能性は低いと判断せざるを得ないことになるだろうが、それも一つの要因だと判断するなら、うまくいくには他の要因も関与してくるということになるのかも知れないし、実際にうまくいっていない状況にあるのなら他の要因を探してそれを現状の中で働かせなければならないだろうし、そうやって様々な方面へと働きかけを行いながらやろうとすることを実現させる方法を模索する中で、たまたまうまくいくような成り行きへと持って行ければ、そこからやりたいことを実現させるような状況になってくるわけだろうが、そこに至るまでには当初に抱いていたことがその場の情勢に合わせてそれなりに変容を被っているだろうし、それが当初に主張していた内容とは様変わりしている可能性さえあるのではないか。
3月24日「態度と演技」
誰がどのような態度でいようと、恒常的に同じ態度でいられるとは思えないが、身の回りの情勢の変化に惑わされずに同じ態度を保とうとすることはできるにしても、実際にそれを保ち続けられるかどうかはわからないし、保っているつもりでいても自覚しないまま変わってしまうこともあるのかも知れないが、なぜ同じ態度を保とうとするのかといえば、それが肯定できて正当化できるような態度であるから保とうとするのかも知れないが、逆に否定されるような態度となると、落ち着きがなくいつもそわそわしていたり、人によって接し方がころころと変わってしまうようなら、偽善や欺瞞が含まれるような態度となるのかも知れないが、逆に肯定できて正当化できるような態度となると、誰に対しても物怖じせず正々堂々としていて正直で清廉潔白に感じられるような態度となるのかも知れず、自身でもそう感じられて他人からもそう見えるようなら問題はないのかも知れないが、そう見せかけようとしているように感じられると、外見はどうであっても内面は違うように思われてしまうのかも知れないし、他人から良くみられるように好印象を伴うような態度を演じているとすれば、やはりそこには偽善や欺瞞が含まれていることになるのだろうが、それが演技であることを見破れるようなら、それを見抜けるのだからその人自身はそんな態度を演じているわけではないと思われるかも知れないが、人から容易には見破られないような迫真の演技を演じられる人なのかも知れないし、そもそも一定の態度を保つようにしようとしていること自体がそういう態度を演じていることにもなるわけだから、それを意識すれば演じてしまうわけで、意識しないで一定の態度でいられたら演じているわけではないことになるのだろうが、当人の状態がどうであれ、他人にとってはどちらでもかまわないのかも知れず、わざとそうしているように思われたらそれが演技だと思うし、当人がどう思っても態度がぎこちなければ勘づかれてしまうわけだから詐欺師のように何事も自然でなめらかに演じられる演技が身についていて、しかも結果的に騙されているようには思われなければ、そうなっている限りで詐欺とはならないわけだから、当人が騙しているつもりがなくその人にかかわっている人たちも騙されている自覚がなければ、それでかまわないようなことになってしまうだろうし、実際にその人も誠実だしかかわっている人たちとも友好な協力関係を築いていればそれで何の問題もないわけだが、その人と敵対しているような人や勢力が存在するようなら、あいつは詐欺師だとデマとも本当とも受け取れるような噂を広めようとするかも知れないし、政治や経済などの分野で敵対し合う関係となっていればそういうことをやるのが常套手段となっている面もあるだろうが、一般的に言って態度からは表面的な信用しか生じないが実利からは実質的な信用が生まれるだろうし、利益を得られるならその人が詐欺師であろうとかまわないようなことにもなってしまう一方で、いくら誠実な態度に終始していても利益を得られないどころか損害まで被ってしまえば信用はされないだろうし、その人から何かしら肯定できる益を得られるようでないと信用されないわけだが、そうなるといくら態度だけ印象が良くても実質が伴っていないと話にならないようなことになってしまうのかも知れず、ではなぜ他人から良く見られるような態度でいようとするのかといえば、まずはそう装わないと他人からかまってもらえないだろうし、それも信頼し合うような友好関係ではなくただ利用し合うだけの利害関係であればいつ裏切られるとも限らないし、そういうところで利害なのか友愛なのかというよりはそれらが混じり合った関係になるだろうし、それとともに義理人情などの関係も絡んでくると一筋縄ではいかず、何かある度に難しい判断や対応が迫られそうだが、結局はそれらを総合的に判断するようなことになってしまうと、言葉ではうまく言い表せないような複雑かつ微妙な態度や対応になってしまうこともあるだろうが、どのような態度や対応になってしまっても他人との関係でそうなる限りは、自分にとってもその人とかかわっている他人にとっても関係からもたらされる結果によって納得できたりできなかったりすれば、その度に態度や対応がそれなりの変化を伴うだろうし、すべてを割り切って是々非々の態度や対応をとれるかといえばそうもいかない事情がそれらの関係から生じてきてしまうのが普通の成り行きかも知れず、そういう事情が絡んでくればいつでもいい顔はできないし、時には対立したり争うような成り行きなれば友好関係も利害関係も義理人情の関係も壊れる場合もあるだろうから、それがその時々で良かったり悪かったり幸運をもたらしたり災いをもたらすようなこともあるかも知れないが、できればそこから執拗で否定的な恨み辛みの情念を生じさせないことが肝要だろうが、中にはそうした恨み辛みの情念を糧として後に成功するような人も出てくるだろうし、それも一概には悪として断じられない場合もありそうだが、そういうのをいつまでも根に持っていると悲惨な結果をもたらす場合が多いのかも知れないし、そんな悲惨な結果の積み重なりが悲劇の歴史をもたらして、それが人間活動の本質であるようにも思われてくるのかも知れないし、そういった情念を伴うような人間関係からその良し悪しや善悪や勝ち負けなどの判断が生じてきて、そこで関係がうまくいかなくなって否定的な情念が心の弱さに起因して表れるとそれを他人事のように面白がってしまうだろうし、それが程度の差に応じて大げさに思われたり大したことはないようにも思われたりして、そういう成り行きから物事の客観的な判断や評価とは違う情念の強弱を伴った偏見などが生じてきて、結果的に判断や評価を狂わせるにしても、そういった判断や評価が一般的には不当で不正確だと思われる一方で、そんな判断や評価をしてしまった人はそれにこだわってしまうだろうし、その人の情念がそれに執拗にこだわらせるわけだが、中にはそうした情念が勝ってその人を何らかの成功へと導いてしまうこともあるわけだから、それが一般的には間違っていると思われても、そうしたこだわりを保っていられることがその人にとっては勝負に勝つことになってしまったりして、そういう他人の言うことを聞かないごり押し気味で一途な人は実際に強いだろうし、生半可な人では相手にならないわけだが、それが意識してそうなっているというよりは自然な態度としてそうなっていると何かの達人のように感じられてしまうわけで、そういう人に心の弱い人たちが惹かれてしまい、その人が何らかの宗教的な教祖に祭り上げられてしまうような成り行きも生じてしまうのだろうが、そんな場合でもそこから多くの人に肯定的な益が得られるように感じられると好印象が生じて、そこから世間的な信用も生じてくるわけだろうが、そういうことの良し悪しや善悪も、その場の成り行きや推移に応じて、それに起因して何かが起こる度に良くなったり悪くなったりするのだろうが、それも一つの現象として捉えるなら、何かが起こって印象が良くなったり悪くなったりする度に評価を変える必要はないだろうし、そういう現象はそんなふうに推移してそうなると捉えておくしかないのかも知れず、その信奉者となってしまえばそんな現象の中心となっている教祖様の類いをひたすら崇め奉るしかないだろうが、それらから一定の距離を置いて外部的な位置に留まるなら、それに起因する物事の推移に一喜一憂するよりは、伝わってくる情報に逐一反応するわけでもなく、おかしな偏見や固定観念を噂として広めるような動きは相手にせずに、情勢をできるだけ達観するような態度をとろうとするのではないか。
3月23日「病の感染」
同じような状況の中で同じような立場や境遇になれば誰もが同じような物事について同じようなことを思ったり考えたりする傾向になるとしても、すべてにわたってそうなるとも言えないだろうが、別に同じような傾向になったとしてもそれがおかしいわけでも悪いわけでもないだろうし、それだけでは何が言えるわけでもなさそうだが、そこで物事の良し悪しや善悪をどう判断すればいいかとなると、そもそも判断する必要があるのかといえば、それがわからなければ判断のしようがないが、誰もが同じような傾向になってしまうということは、何かによってそうなるように仕向けられているのかも知れないし、その仕向けている対象をどう捉えるかでそれへの対応や対処も決まってくるだろうが、多くの人たちを同じような傾向になるように仕向けている対象とは何なのかといえば、それらの人たちの心身に作用や影響を及ぼしている何かになるだろうが、それも同じように作用や影響を及ぼすから同じような傾向になるのだろうし、少なくとも人それぞれに異なる作用や影響を及ぼしているわけではないはずだが、一様に及ぼされる作用や影響とはそういうものであり、それに対する誰の立場や境遇も同じようにすることが、そこで及ぼされる作用や影響の傾向となるだろうが、本当にそんなことができるのかとなると、世の中の傾向を同じような状態にすればいいわけだから、人為的におこなうこと以外では、例えば自然にもたらされる病気の類いにかかれば同じような状態になるわけだが、病にかからなくてもそれに対応したり対処するように仕向ければ、特定の伝染病などへの対応や対処の仕方が同じような傾向になるだろうが、それが良かったり悪かったりして、対応や対処が良ければ病の伝染に歯止めがかかり拡散が未然に防げて悪ければ拡散に歯止めがかからなくなって世界的な流行となってしまうとしても、否応なくそうなってしまうのだから仕方がないことだろうが、そういう面では確かにそうだとしても、そういう傾向に逆らう必要はないだろうし、無理に逆らおうとしなくても、人為的に策を弄するようなこととは別の面で、人それぞれに異なる結果がもたらされる場合もあるだろうし、それが各々の人がもとから持っている体質などの個体差に起因するものなのか、あるいはそうなる過程で及ぼされる程度や強度が違ってくるかは、その両方かも知れないが、どちらにしても人為的な思惑からそうなるというよりは自然にそうなってしまい、そうなることに関しては自覚していないしそうなる過程を制御しようとしているわけでもなく、自然にそうなってしまえばそうなるにまかせるしかないだろうし、そうなる成り行きに逆らう気にはならないし逆らうつもりがなくてもそうなってしまえば、その人の意志とは無関係にそうなってしまったことになるだろうし、その際には誰もが同じような傾向になるとは限らないし、人それぞれにその場の状況が異なればそうなる傾向にもそれなりの差が生じるだろうが、自然にそうなってしまうのであればそれに関しては何をどうすることもできないし、どうにかしようとも思わないかも知れないが、そうなる過程において他人との差を意識することができれば同じ傾向になっているとは思わないし、そこに自らに固有の傾向があるように思われるかも知れないが、別にそれを気にしなければどうということはないだろうが、気になるようなことがあるのかといえば、気にする必要があれば気にするだろうが、その必要がどうやって生じるのかといえばその人なりのこだわりからそんな必要が生じるのかも知れないが、そういうこだわりが他人にとっては特に必要がないように感じられるとすれば、そこから他人とは違う傾向が生じてくるだろうし、そうであれば自分と他人とで異なる傾向とは、自分にとっては必要であるが他人にとっては不要に思われたりその逆の場合もあるはずだが、それがその人に特有な立場や境遇から来ているのかも知れないが、それでも単なる気のせいでそう思われるだけで、それほど大したことではなく他人にとってはどうでもいいことのように思われるのに、自分はそんなことにこだわっていたいように思われるとすれば、大して根拠も理由も定かでないようなことでしかないのかも知れないが、それでもそういうところから差異や違う傾向が生じてくるのだとすれば、結果的にこだわってしまう人からすれば些細な違いが重要に思われてしまい、そんなのは勘違いであり思い違いでしかないとしても、それでもかまわないと思われるならそんなことにこだわり続けるだろうし、そこから別の傾向へと次第に程度や強度が強まるようなことにでもなれば、時が経ってみれば大きな違いとなって顕著な傾向を示すことになるのかも知れないし、またいったんそうなってしまえばそうなってしまった人を取り巻く状況や環境も以前とは様変わりしてしまうのかも知れず、何よりもそういうこだわりを保ち続けることが、周囲に無視できない作用や影響を及ぼしてしまうわけで、その人がそれ以外では特に何もしなくてもそういうこだわりを持った人がそこに存在しているだけで、何か避けては通れないような障害物のように作用してしまい、その人にかかわるだけで意図せぬ作用や影響を及ぼされて、かかわった人もかかわった程度や強度に応じて思いがけない変化を被ってしまうことにでもなってしまえばその人からかかわった人に何かが伝染したことになるだろうし、それが病原菌の類いでなくても何かしら人の心身に作用や影響を及ぼす要因があれば、それによって何らかの変化が起こるのかも知れないし、それがどの程度の変化でどういう傾向なのかに関して良し悪しや善悪の判断を伴う場合もありそうだが、そういった判断が生じること自体が良い面と悪い面の両面を伴っている可能性も伺わせ、作用や影響を受けた人たちの間で善悪や良し悪しの判断が分かれるようなら、それらの人たちにも違う判断に応じて違う傾向があるかも知れないし、判断の違いによって同じ傾向ではないことは明らかになるはずだが、その一方で示し合わせたわけでもないのに同じ傾向にまとまろうとする思惑が働く場合もあるのかも知れず、例えばその人に危険な傾向があるように思われるとそれを察知して遠ざけたり、場合によっては強制的に隔離したり追放したり殺してしまうようなら、その人の存在を社会が受け入れられないという結果がもたらされたことになるわけだが、それが社会全体の意志として発動するようなら、そういう社会とその構成員には同じような傾向があることにもなるだろうし、その人のこだわりに対する世間の反応が一致しているようにも見えるわけだが、そういう反応が何らかの結果をもたらす過程において意見や判断のすり合わせがおこなわれたと見なすこともできるだろうし、そうなると人為的に社会全体を同じ傾向に合わせるような作用が働いていることにもなるわけだが、中にはそういう傾向に反発してそれに逆らう人もそれなりに出てくるのかも知れず、それを抑え込むようなこともおこなわれると、それも判断や認識を一致させるような傾向からそういう作用が生じていることになるだろうし、それが同調圧力であり同じ傾向に多くの人たちが追従するように強いる傾向となるわけだろうが、なぜそういう傾向が生じるのかといえば、人々を理性的に納得させるような道理が見つからず納得させることができないから、脅しや圧力を加えて強引に同じ傾向へと持って行こうとするわけで、それは何だかわからない事態に直面した際に生じる恐怖心や嫌悪感や不快感などが入り交じった感情からそういう作用がもたらされるのかも知れないし、今までの常識からは理解できないようなことをやっている人や勢力が急速に世の中に無視できない作用や影響を及ぼし始めれば、世の中で主導権を握っているつもりの人や勢力の中でそんな感情が生じるのも当然の成り行きかも知れない。
3月22日「巡ってきた機会」
機会を捉えるということが何の機会を捉えて何をやることになるのかは、その機会を捉えてからでないとわからないかも知れないが、事前に特定のことをやる機会を捉えようとしているなら、やる前から目的がはっきりしていて、それをやる機会を虎視眈々と狙っていることにもなるのかも知れず、どちらかというとそういうのはフィクションの中で見受けられるような行動であり、現実の世界ではそれよりはもっと漠然としていて、目的も目標もわからないままただ何となくその時がくれば何かの機会が巡ってきたように思われて、そこでその場の成り行きに合わせて何かをやれば、それがこれまでに経験したことがないようなことをやったように思われるなら、巡ってきた機会を捉えて何かをやったことになるのかも知れず、その際に機会を逃さずにそれをやれたことが幸運に恵まれたようにも思われるかも知れないが、たまたまそこではそんなことがやれたとしても、それ以外の時には結構巡ってきた機会に気づかずに、何かをやれる機会を取り逃がしていることも多いのかも知れないが、それは実際にそこで何かをやってみないことには何とも言えないところであり、果たしてそういう機会というのが貴重なのかありふれているのかはよくわからないし、たとえありふれているとしても機会を捉えてそれをやってみないことには、それに成功したとも失敗したとも言えないわけだから、そんな機会を捉えること自体が希少であり貴重なのかも知れないが、そんなふうにしておこなった結果を肯定的に受け止められなければそうは思わないだろうし、何か良いことをやって良い結果を得られたからそれが希少で貴重な機会であるように思われるのだろうが、少なくともそれが自分にとってはそう思われるにしても、他の人たちがどう受け止めるかは何とも言えないところであり、他の人たちにはどうでもいいことのように思われたり、それに気づかずに関知しないことであれば、自分にとってだけそう思われるわけだから勘違いかも知れないし、他からは何の共感も反応もなければ何でもないことのように思われるかも知れないが、それもその時はそう思われる場合があるとしても別の時にはそうは思われない場合もあるだろうし、その場ではそうかも知れないがそれとは別の時期や別の場ではそうは思われないかも知れないから、他人にどう思われようがそれに対して自分がどう思ってみてもそんなこととは関係なくそんな機会が巡ってきて、そこで自らが何かを行う成り行きになってしまえばそれをやる以外にはあり得ないように思われてしまうのかも知れず、それは自分だけではなく他の人たちにも言えることであり、自分だけがそんなことをやっているわけではないのかも知れないし、人それぞれにそんな機会が巡ってきてそこで何かをやる成り行きになってしまえば、それをやることが他の人たちには大したことではないように思われるとしても、やっている当人が肯定できればそれでかまわないのかも知れないし、各自にそんな機会が割り振られているように思われるなら結構なことかも知れないが、別々にやっているだけではなく、他の人たちの行為とのつながりや連携や対立なども絡んでくれば、それなりに他の人たちの動向も意識せざるを得ないわけで、そうなると気にかけていないように装っているとしても案外気にしているようなこともあるだろうし、そうやって意識し合いながらも何とか自分のやっていることに専念したいようにも思われてきて、それが自然と競い合いに発展することもあるだろうし、また他人の行為との共存を目指すような成り行きになることもあるのかも知れず、さらに場合によっては直接対立したり衝突したり争いに発展するような成り行きも起こるかも知れないが、どうなるにしてもそのままでは済まないような成り行きになれば、そこからまた新たな機会が巡ってきてそこでも誰かが何かをやるような成り行きになるのかも知れず、それが肯定できるようなことならいいだろうが、そういつもいつも肯定できることをやれるとは限らないだろうし、そこでは嫌なことをやらざるを得ないような成り行きになってしまうかも知れないが、それを我慢してやり遂げればその先でやりたいことができるような機会に巡り会えるかも知れないし、そんなことまで考慮できればとりあえずそこでやれることをやっておく必要があるようにも思われるのかも知れず、そこでそれをやっておいたことが次に新たな機会が巡ってきたときにそこでの経験が役立つようなら、とりあえずそれをやっておいて良かったと思われるだろうし、そうであれば後悔したくなければまずはやれることはやっておいた方がいいということになり、そうやって何かをやる度にそこから次にやるべきことが見つかればいいだろうが、そううまい具合に事が進むかといえばそれも実際にそうなってみてからでないとわからないことであり、そうなってから慌てたところで手遅れになってしまうこともあり得るわけだから、そこでそういうことに気づかないとそんな機会も巡ってこないかも知れないし、巡ってきたところでそれに気づかないのかも知れないが、そこで最善を尽くそうとするなら何はともあれ様々な事態を想定しながら事を進めようとするわけで、そういった物事に向き合う上で必要と思われる用心深さや慎重さや謙虚さを身につけるためにも機会を逃さないことが肝心なのかも知れず、それを身につける機会を取り逃がしてしまうと、いつまで経ってもいい加減で粗雑なことしかできない水準に留まってしまうだろうし、それを身につける機会に恵まれればそれだけ活動の幅が広がり、そういう機会に恵まれた人はそういうことができるようになるわけで、そうやってそういう機会に恵まれるか恵まれないか、さらに機会が巡ってきたとしてもそれを活かせるか活かせないかで、その人の領分や活動の幅や質などの程度が決まってくるのかも知れず、それがいつどんなときに巡ってくるかでもそれを活かせるか活かせないかが左右されるだろうし、やはりそれもそうなってみないことには何とも言えないところかも知れないが、そうなるとそういう機会に恵まれてなおかつそれを活かせる人は幸運だと言えるだろうし、それもその人にかかわってくる様々な物事の偶然の巡り合わせである面も大きいのだろうが、それに気づいても気づかなくても絶えず何らかの機会が巡ってきていると思っておけば、それを取り逃さずにものにできる可能性もそれだけ高まるかも知れないし、自らの能力や運を高めるにはそういうところで俊敏かつ敏感に反応できるようにしておくことが肝心なのかも知れないが、そういった勘の鋭さというも生来の能力である可能性もあるし、もとから鈍感な人はどんなに経験を積んでも鈍感なままに推移してしまうとすれば、それは否定的な性質であるように思われるかも知れないが、それを良く言えば物事に動じない性格とも言えるわけで、そういう意味ではそれがどのような性質であっても一方的に否定すべきものではないのかも知れないし、人それぞれに得手不得手があることも確かなところかも知れないし、それもその場の運不運の水準で判断してしまえばそんなことでしかなくなってしまうが、かかわっている物事をどのような水準や次元でどう判断したり評価するかも、その後の成り行きを左右するところでもあるだろうし、そんなことを考えていくときりがなくなってしまうのも誰もが承知しているはずだが、その場の情勢や状況の中で絶えず様々な視点や角度や方向からその対象となる物事を考えてしまうように仕向けられているのかも知れず、そんなふうにして自らがかかわっているつもりの世界に否応なく介入している実態があるのだから、今ここで何かの機会が巡ってきているように思われるなら、そんな中でもやれることをやっていくしかないだろうし、それをやった結果からもさらにやれることが生じてくれば、新たにそれをやるような成り行きにも導かれてしまうし、自ずからそんな成り行きに巻き込まれていってしまうわけだ。
3月21日「確率統計的な予想」
必ずそうなるとは限らないことが起こると、偶然に起こったことになるが、なぜ必ずそうなるとは限らないことがわかるのかといえば、実際にそうなるとは限らなかったからといえるかとなると、そうなるとは限らないことをどうやれば確かめられるのかといえば、同じことを繰り返してそうなるとは限らないことが起こればいいのかも知れないが、同じことを繰り返している時点でそれ自体が同じことしか起こらないのではないかと思うわけだが、例えばサイコロを振って違う目が出れば必ず同じ目が出るとは限らないことがわかるわけだが、正確に振れば毎回同じ目を出せるかも知れないし、同じ目を出すように正確にサイコロを振れないから、必ず同じ目が出るとは限らないとなるわけだろうが、要するに必ずそうなるように事を運べなければ必ずそうなるとは限らないと言えるのかも知れないが、少なくと事前にそれがわかるわけでもないし、必ずそうなるとは限らないと言ってみたところでそれは予想でしかなく、予想が外れる場合もあるとすれば、必ずそうなるとは限らないとは言えなくなる場合もあるかも知れないし、ではそういう場合には必ずそうなると言えるのかと言えば、必ずそうなると断言すればいいわけだが、たとえそれが外れたところで気にしなければ、必ずそうなると断言しまくることもできるだろうし、そうやって断言しまくったことの中から一つでも予想が的中すればここぞとばかりに、そら見たことかと今度は予想が的中したことを強調しまくって、自らの予想の確かさを宣伝しまくればいいのかも知れないが、それは戦略的にそんなことをやっているわけで、本当にそうなのかと言えば嘘である面もありそうだが、何かを断言するような成り行きには結果的にそういうことも含まれてくるのかも知れず、その人の都合や事情で必ずそうなるとも限らないとは言えないような立場や境遇になってしまえば、そうなると断言したり強弁せざるを得ないような成り行きに巻き込まれてしまうことになるかも知れないが、だからといってそんな都合があるだけで、そうなってしまった人の事情など考慮しなければ、必ずそうなるとは限らないことが起こると予想してもかまわないわけだが、果たしてそれが予想と言えるのかと言えば、普通はそうは思えないだろうし、そういう言い方がまずいと思われるなら、確率という概念を使ってそうなる可能性が何パーセントであると予想すれば、何やらそれがもっともらしいように感じられてしまうのかも知れず、そういう確率を導き出せる計算の根拠が確かならそれを信じられるかも知れないが、それが複雑な計算であって到底手計算などでは求まらず、スーパーコンピューターを使ってやっと求められるような計算値であれば、その分野の専門家でないと詳しくはわからないだろうし、素人の門外漢にとっては専門家が提示したことだから確からしいと思うしかないだろうし、そうなると信仰としてそう思うしかないのかも知れないが、実際にメディア上に天気予報や株価予想などのように提示されているものもあるわけだから、宗教的な信仰とは異なった分野の信仰となるのかも知れないし、それは信仰というよりは信用といった方が妥当に思われるが、信仰も信用も絶対に信じられるようなものでもないだろうし、いくらそうなる確率が高いと予想されても心の片隅では必ずそうなるとは限らないと思っておいた方がいいのかも知れないが、そういった確率統計的な確からしさというのは、それを適用する対象や適用の仕方やそのタイミングや時期によっても確からしさの度合いが異なるだろうが、何よりも確率の値そのものが低ければそうはならない確率の方が高いわけだから、普通に考えて必ずそうなるとは限らないと思うよりはほとんどそうならないと思ってしまうわけだが、そうであれば改めてそんなことは思わないだろうし、またいつかは必ず起こるがそれがいつ起こるかはわからないとか、何年以内には必ず起こるがそれが今日起こっても明日起こってもおかしくないとか、その何年以内というのが数年以内なら必ず起こりそうに思われるが、数百年とか数千年以内には必ず起こるとなると、それほどには思われないものの、今日起こっても明日起こってもおかしくないと言われたら、果たしてそれをどう捉えたらいいのかわかりかねるようなことになってしまうだろうし、そうやって条件や設定次第で何とでも言えてしまうように思われるところが、一見もっともらしく感じられるが、その実態はそうでもないようなあやふやな概念に思われるとしても、確率統計的に出された数値となれば一応計算して出した数値なのだから、そうなるとそれを計算して発表した人や機関を信用できるかどうかとなってくるわけだが、大学や研究所や公的な省庁などの何らかの権威と見なされるような機関のお墨付きがあれば大抵の人は信用するかも知れないし、その一方でどこの馬の骨ともわからないような怪しげな霊媒師のような類い人がオカルト専門のメディアなどで公表すれば、そういうのに興味がある人たちは面白がって信用するかも知れないが、一般の人たちからは相手にされないだろうし、それも結局はそういう予想や予測を伝える対象となる人たちをいかに信用させるかという技術的な問題となって、それに関しては戦略的にも戦術的にもいくらでもやりようがあると言ってしまうと身も蓋もないところかも知れないが、例えばこれから起こる可能性や確率が高そうなことが、さもそれが世の中に重大で深刻な事態を引き起こすかのように語れば、それを真に受けた人は大変なことが起こりそうだと心配するし、そういうことを大げさに予想したり予測したり予言したりする人や団体のいうことを信用してしまい、結果的にそういう人や団体を利するようなことになってしまうのかも知れないが、実際に予想を超える大災害をここ数十年で度々経験してきた事実もあるわけで、それが大地震であったり大火災であったり感染症の世界的な流行であったり株価暴落であったり、他にも天災から人災までありとあらゆることが起こっている現状の中で人が普通に生きているわけだから、そんな現状を日々体験しつつある人たちに向かって、これから起こることに関して何を大げさに訴えかけても、それを多くの人たちが真に受けるとしても、そういう訴えかけがそれなりに世の中に伝わって、訴えかけた人を利するようなことになっても、それ自体は実際に起こることや起こったことに比べれば大したことではないのかも知れないし、その人が主張した通りの何かが起こってからどうだとばかりに自らの予想や予測や予言が当たったことをいくら強調してみても、やはりそれも起こることや起こったことに比べればどうということはないのかも知れず、そうなっている時点でその手の予想や予測や予言などがインフレ状態となっていて、そんなことに大して価値を感じられないような状況になってしまっているのかも知れないが、実際にそうなっているのなら、ではそんな状態や状況の中で何が重要となってくるかといえば、それは述べていることや述べている自身をもっともらしく見せたり思わせるような戦術や戦略などの技術ではないのかも知れず、ただ功利的な損得勘定抜きに本当のことを語ればいいのかも知れないし、では何が本当のことなのかといえば、本当にそう思っていることが本当のことであり、本当にそう思っているのだからそれをそのまま伝えたい対象となる人に向けて語るしかないだろうし、そこでいかにごまかさずに嘘をつかずに語れるかが、それが本当のこととして伝わるか否かを決めるのかも知れないし、それが本当のことであるように見せかけたり思わせようとするのではなく、本当だと思っていることをそのまま語るしかないのかも知れないが、本当にそう語れるかといえば、語っている自らを正当化したいという邪念が伴っていると自然と誇張した表現になってしまって、それが高じると嘘を伴ってくるのかも知れない。
3月20日「試練を乗り越えて」
世の中の何に対して疑念を抱くとしても、疑いの目で見ている対象に作用や影響を及ぼせなければそれをどうすることもできないだろうが、例えば自らが間違ったことをやっているのではないかと思うなら、自分自身に疑念を抱いていることになるだろうし、それが自分自身なのだから直接作用や影響を及ぼせるとは思うだろうが、では自分自身をどうするのかといえば、自らがこれまでに身につけたと思っている思考の仕方や技術や習慣や動作や行為などの傾向を改めようとすればいいのかも知れないが、実際に改めようとしてもなかなか改まらない面もあるだろうし、これまでに様々なことを経験してきた中で培われてきた思考や動作の癖や勘をそう簡単に直すことはできないし、若いうちならまだしもすでに年老いていれば今さら直そうとは思わないだろうが、あきらめてしまえばあきらめてもかまわないような状況の中でそう判断するわけだから直さなくても大丈夫だと思うのかも知れず、直さなくてもそれなりにやっていけるだけの確かな自信や手応えがあるのかも知れないし、あるいは本当にあきらめていてやっていけなくてもかまわないと思っている場合もあるだろうが、本当にこのままでは駄目ならそれは仕方のないことであり、もうすでに様々なことを精一杯やってきた末に現状があるのだから、これ以上何をどう改める気にもならないような心境になってしまえば、これからどのような事態に直面しようと現状の自分で乗り切ろうとするしかないと覚悟を決めているのならそうするしかないわけだが、そうであっても自分で意識して改めようとするのとは別の面で、直面している事態に対処しているうちにこれまでの自身のやり方や癖などが自然に改まることもあるのかも知れず、そうやって困難な事態を乗り切る度にこれまでのやり方が改良されたり改善されたりすればそれが知識や勘となって身について、そういう面が改まったことになるわけだから、自らを改めることをあきらめてしまった人というのは、もうすでにこれ以上は新たな事態や試練などに直面することはないと思われるような心境に至ってしまったのかも知れず、というかこの先に待ち構えている事態や試練としてはもはや自らの死を残すのみと思われるなら、寿命としての死を乗り越えて生き残ることはできないだろうから、あきらめてしまうのも無理はないわけだが、そうであれば逆に若い人ほど自らの現状を改められる可能性があるのかも知れないし、改めるつもりがなくても様々な事態や試練を乗り切る度に自然に改まるところは改まってしまうだろうから、特にそんなことを意識する必要はないのかも知れないが、ではなぜ改めて改めようとする心境になるのかといえば、自らにふさわしいような状態に自らを持って行きたいのかも知れず、こうなりたいと思われるような自らの理想像を思い描いていて、そうなるには自らの至らない点を改めなければと思っているのであれば、そういう目的や目標に応じた改良点が見つかるかも知れないが、そう都合良く改められるかといえば、そういうことをやるための方法が確立されていたりもして、そういうことをやるための指導や講習やサービスなども提供されるような成り行きになっていれば、それを受ければそれなりに改良や改善されるようなことになるのかも知れず、そういう方面での自己改良や自己改善となるとそうなるための人為的なシステムがあるのかも知れないし、それは多くの人がやっていることだろうし、そうやってそれなりに確立されたやり方に従って自らの改良や改善をおこなえばそういうやり方に見合った結果が得られて、うまくいけば満足感や達成感に浸ることができるのかも知れないが、別にそれがまやかしや幻想であるわけもなく、それも自らを改めるには有効なやり方だろうが、そういうシステムにはそれなりの限界もあるだろうし、そういった人為的に整備された改良や改善をおこなう制度の類いには特有の傾向や程度があり、その射程から外れたところでは通用しない場合もありそうだが、有効な射程を定めることが目的であり目標でもあるわけで、改良点や改善点を事前に定めてそこへ向かって努力するように仕向けているわけだから、仕向けている範囲内では改良や改善が有効に働くように調整や整備がされていると捉えておけばいいのかも知れず、例えば道を歩きやすいように舗装されていたり迷子にならないように標識が立てられていたり足を痛めないように靴底のクッションを厚くしたり、場合によってはナビゲーションシステムによって目的地に誘導したり、そんなインフラの整備とともにその人の能力に見合った目的や目標を設定するために、前もってその人の実力を多方面から分析して数値化しておいて、そこからその人の限界値を導き出した上でその範囲内で努力目標を決めて、乗り越えることが可能な試練を課してから実際に乗り越えてもらうようなことにでもなっていれば、果たしてそれが本当の試練でありそれを乗り越えれば自己の改良や改善に成功したことになるのかといえば、そういうシステムの中では成功したことになるのかも知れないが、ひとたびシステムから外れた領域で自らの実力を試すような成り行きになってしまうと、システム内でおこなったことが生かされるかどうかは何とも言えないところだろうし、それを避けるには人々を絶えずシステム内にとどめておくように誘導すればいいのかも知れないし、実際に人類の文明自体がそういうシステムだと見なしてもかまわないなら、できるだけ人々が文明内に留まっていられるように様々な方面で人為的な配慮が施されていることは確かだろうし、その中では確かに努力すれば達成可能な範囲内で自己改良や自己改善のための試練が設けられていると見なしておいても、それほど間違ってはいないかも知れないが、そう感じられる面があるとしても、実態として文明自体を一カ所から完全にコントロールしている主体や機構があるわけでもなく、文明内でも様々なシステムが共存していると同時に競合しながら争っていて、あるシステム内ではうまくいくことも別のシステム内ではうまくいかないこともあるだろうし、また一人の人間がすべてのシステムを体験できるわけでもないから、偶然の巡り合わせで未知のシステムに入り込んでしまうと、その中ではうまく適応することができない可能性も出てくるだろうし、また文明内であっても環境が人為的なシステムによって完全にコントロールされているわけでもなく、そういうところでシステムの動作を妨害するような自然からの作用が働いていたり影響が及んでいて、システムによって計算された達成可能な努力目標が実際に試してみたら達成不可能であったりすれば、それこそが本物の試練となるかも知れないし、そういうところで本当の創意工夫が必要となってくるのかも知れないが、そこでも絶えずそれにかかわっている人たちによって達成可能となるように調整や整備などの配慮がされているだろうし、そうやって人が乗り越え可能となる試練という適度な刺激とともに快適に生きていけるようなシステムを作り上げることが、そういうシステムを作り上げることにかかわっている人たちにとっての試練となっていたりして、そんなふうにして人の活動が自身に向かって織り込まれるような折り重なり現象が絶えず文明世界では生じているわけだが、そういうことを考慮すればまず疑うべきは人類が作り上げたと思っている文明自体の機能なのかも知れず、人が生きていく中で自然から課された試練のような事態を乗り越えようとする度に、文明的な創意工夫をしなければならなくなり、そこから生じるのは決まって人が活動しやすいような人工的なシステムの構築となって、そうすることが果たして自然から課された試練を乗り越えたことになるのかといえば、ある面ではそうだと見なしてもかまわないが、その一方で人が乗り越え可能な試練を耐えず構築するような傾向もあるのではないか。
3月19日「真実を暴露する勇気」
目的も目標もない状態で何を思いついたからといって、思いついたすべてを語れるわけではないのはもちろんのこと、それどころか語る必要がなければ何も語らないだろうが、語ろうとしている中で何を語る必要があるかはある程度わかっているとしても、それをそのまま語れるわけでもなく、特定の誰かに向かって思っていることを率直に語れるかとなると、その場の状況や語りかける対象となる人との関係に伴って生じる事情が邪魔をして、普通は相手の機嫌を損ねそうなことは無理に語ろうとはしないだろうし、少なくともその人を怒らせるようなことは語らないはずだが、その場の成り行き次第ではあえて相手を怒らせるようなことを語る必要が出てくるかも知れないし、なぜそれを語ると相手が怒るのかといえばそれが相手にとっては都合の悪い事実や秘密であるのかも知れず、そうなると語らせないように有形無形の圧力をかけてくるかも知れないし、それが私的な人間関係の中で生じていることなら、私的な争いや諍いに発展するだけかも知れないが、公的な政治や行政などが絡んでくるような領域となってくると、場合によってそれを語ると処罰の対象になるような策を講じてくるかも知れないし、そうなるともはやそれは政治的な言論弾圧のような様相を呈してしまうわけだが、そうやって政府や行政当局などが都合の悪いことは語らせないようにしたからといって処罰を恐れて誰も語らなくなるかというと、中には勇気を出して語る人が出てくるわけだが、なぜそこで若干の人たちが身の危険を冒してまで語ろうとしてしまうのかといえば、そうした措置が不当に思われるからそれに逆らって語ろうとしてしまうわけで、そうやってたとえ自らが強権体制の犠牲になっても、それによって世の中の状況が少しでも良くなると思うなら、喜んで世のため人のために犠牲になろうとする心境にどうしてなってしまうのかといえば、そう思ってしまうこと自体がそうする理由でもあるわけだが、それに加えて他人の見て見ぬふりを装う偽善や欺瞞に満ちた態度や姿勢が不快に感じられるからという理由もありそうだが、そういうもっともらしい理由だけでは説明がつかないと思われるなら、実際に処罰や暴力的な攻撃を恐れて口をつぐんでしまう人が大勢出てきて、そうした脅しが一定の効果を上げていて、またそれに伴って周囲から及ぼされる同調圧力などによっても多くの人たちが押さえ込まれている実態もある中で、そうやって圧力をかければ当然それに対する反発も生じてくるわけで、圧力をかけられていること自体が不快感が伴うわけだから、いつまでも不快なままでは気分が悪いだろうし、いつかはそれが反撃となって現れてしまい、それが突発的に起こるかあるいは熟慮された結果として起こるかはどちらからでも起こりうるのかも知れないが、とりあえず身の危険を顧みずに圧力に逆らって真実を語る人が現れて、その人が処罰されたり暴力を加えられたり、場合によっては命を奪われたりすることもあるだろうが、そういうことがおこなわれること自体がさらなる反発を招くわけで、それに呼応してそうした人が次から次へと出てくれば、やがて圧力をかけている側が根負けしてしまう事態にもなるかも知れないし、そうやって独裁政権が打ち倒された事例もあるかも知れないが、たとえそうなったとしても事態がそれで一件落着とはならないわけで、そんな成り行きを経て体制側の不都合な真実を暴いて主導権を握った勢力が新たな体制側になると、今度は自分たちにとって都合の悪いことを語ろうとする人たちを処罰したり攻撃を加えてしまい、そんなことをやってしまうこと自体が偽善であり欺瞞になるしかなく、それ自体が不都合な真実になってしまうわけだが、実際にそういうことをやらないと政治的な主導権を握れないのかも知れず、そういう状況の中で政治的な主導権を握ること自体が、主導権を握ろうとする側にとって都合の悪い事実や秘密を暴露しようとする勢力を押さえ込むことによってしか実現できなければ、しかもさらにそうやって主導権を握った勢力を打ち負かして主導権を握るには、やはりそれらの勢力にとって都合の悪い事実や秘密を暴露するしか方法がなければ、お互いに相手にとって都合の悪い事実や秘密を暴露し合うような泥仕合の様相を呈してしまうかも知れないが、大抵は主導権を握った側に主導権を握る過程においてもその主導権を維持する過程においても都合の悪い事実や秘密がどんどん生じてきてしまい、要するにそういう政治的な主導権というのは不正行為や不当行為をやらないと維持できないようなものなのかも知れないし、長期にわたって主導権を握っている勢力には必ず恒常的に不正行為や不当行為をおこなっている実態が生じてしまうとすれば、それ自体がそういう政治状況を許していることの弊害でしかないのかも知れないが、それを誰が許しているのかといえばそういう政治勢力を支持している人々が許しているわけで、それがそうした勢力を支持する人々が抱えている偽善であり欺瞞でもあるわけだろうが、法律や制度の面でそういう弊害を改善するには限界があるだろうし、そうなると結局はそうした行為に関係する人たちに同調圧力に逆らって真実を暴露する勇気がないとどうしようもないだろうし、そういう関係者には誰がなるのかといえば一般の人たちの中から職業としてそうなる人たちが出てくるわけだが、そうであれば酷なことかも知れないが、黙っているように迫る上司からの圧力と真実を暴露するように迫る良心との間で板挟みになって思い悩んで自殺するようなへなちょこな精神の持ち主であっては困るわけで、そんなことを言われても実際にそんな立場になってみないことにはそういう立場の大変さを理解できないわけだから、外部から軽はずみなことは言うべきではないと反駁されてしまうかも知れないが、外部から何かを言うとすればそんなことしか言えないわけで、とりあえず弱い立場の人たちに残された反撃の手段は自らの良心に従って身の危険を顧みずに真実を暴露する勇気を持って行動すること以外にはあり得ないということを自覚するしかないだろうし、それがそういう役回りを担わされてしまうことから生じる危険かも知れないが、それでも長いものには巻かれろ式に黙っていれば済んでしまうようなことならそれに越したことはないわけだし、実際に多くの人たちがそんな偽善や欺瞞に満ちた態度や姿勢を強いられているのだろうが、そんな人たちが多数派として存在している一方で、中にはそういう姿勢や態度を保っていられない人が若干出てきてしまうのだろうし、そこで二者択一を迫られているわけではないにしても、確率的にはどちらかになってしまい、それなりに紆余曲折などを経ながら何かの加減で真実を暴露する勇気が勝ってしまえば、勇気と気概に満ちた少数者として内部告発するような成り行きにもなってしまうだろうし、何かそれが反骨精神の体現者のようにも見えてしまうかも知れないが、そういう人たちを賞賛するメディアがあってもいいだろうし、そうすることが良いことだというコンセンサスが世に広まれば、特に勇気にも気概にも大げさな反骨精神にも頼らなくても命がけとは無縁の気軽さで内部告発できるような世の中になってしまえば、それ自体がどうということはない行為になってしまい、そういうことが普通におこなわれるような状況になってしまうだろうが、そこに至るまでにはやはりそれなりの数の犠牲者が必要になってくるのかも知れず、それは昔の西欧で魔女裁判や異端審問などで火あぶりの刑に処せられることが当たり前の社会から今やそんなことはあり得ないような現代の社会に至った経緯などが物語っていることなのではないか。
3月18日「良い兆候と悪い兆候」
現代において起きていることはそれが何であれ未来への可能性を感じさせる兆候があるのかも知れず、もちろんそれが良い兆候なら現代において現れている傾向を好意的に見ているわけだが、逆に悪い兆候を探したいのなら探し出したそれを批判的に取り扱いたいのかも知れないが、それが終末に向かって先細りの閉じた傾向なら悪い兆候であり、逆に次第に視界が開けていくような末広がりの傾向なら未来が明るいと感じるのだろうし、何がそうなのかといえばそれが未来へ向かって発展的に進化していくような傾向にある物事となるわけだろうが、一見何でもないような物事の中にそんな傾向を見つけたら驚いて感動してしまうかも知れないが、そうではなく他の誰もがそう思っていることを自らもそう思ってしまうようなら安心はするだろうし、それがどうしたわけでもなければ、誰もがそう思っていること以外に何があるわけでもなく、それが良い兆候だろうと悪い兆候だろうと誰もがそう思ってしまうのだから、別に驚くわけでも感動するわけでもないだろうが、それでもそんな思いを他の多くの人たちと共有していると思われる限りで安心はできるだろうし、またそんな状況下では他の多くの人たちと連帯しているような気でいられるわけだが、例えばそんな安心感を振り切って独自に思考を巡らせて他人とは違う見解を導き出せるかとなると、そんな必要は感じられなければあえてそんなことはやらないだろうし、他人と同じことを思っていればそれでかまわないような状況ならそのままでいたいだろうし、実際に現代において起きているのがそんなことばかりなら、それらから未来への可能性など感じ取れるわけもなく、それでもそんな状況であれば安心できるなら、そういう状況が今後とも続いていく限りは将来にわたっても安心できる状況が維持されると思いたいのかも知れないが、ではなぜそこから未来への可能性を感じさせる兆候が生じてくるのかといえば、起きているのがそんなことばかりではなく、実際にそうではないようなことも起きていて、誰もがそこから未来への可能性を感じ取れるならいいのかも知れないが、そうではなく誰もそんなことは自覚していないのに、誰もそんな兆候など感じ取れないからこそ、それが未来への可能性を感じさせる兆候なのかも知れないし、では実際に誰がそれを感じているのかといえば、誰も感じられないことを感じさせる兆候がそこにあるといってしまうと嘘になりそうだが、別に嘘でもかまわないのかも知れないし、そう述べることしかできないような兆候がそこにあると思われるのであり、しかもそれが悪い兆候であるかも知れないのに未来への可能性を感じさせるなら、さらに嘘っぽくなってしまうだろうが、やはりそれでもかまわないのかも知れず、それが良い兆候だろうと悪い兆候だろうとかまわないような状況の中で実際に何かが起きているということであり、要するに未来が先細りになっていようと末広がりになっていようと現時点ではどちらでもかまわず、誰もがそんな兆候を感じ取って悲観したり楽観していればいいわけで、自分がそう思っていてしかも他の多くの人たちもそんなことを思っていれば心強いだろうし、兆候とはその程度のことでしかないのかも知れず、そんな兆候をことさらに重視する必要はなく、嫌なら受け流したりやり過ごしていてもかまわないし、必要とあらばそこから目を逸らしてそんな出来事が通り過ぎるのをじっと待っていれば、やがて嵐が過ぎ去った後のように晴れ渡った空の下で自らが生き残っていることを実感できるのかも知れず、そうなれば一安心なのかも知れないが、そこに至るまでに様々な紆余曲折を体験するわけで、そんな途中経過の中で良い兆候を感じ取ってぬか喜びしたり悪い兆候を感じ取って悲嘆に暮れたりするわけで、それを自身に引き寄せて感じ取れるならそれなりに現実に起こっていることだと自覚できるわけだが、それとは違って他人がやっていることを他人の解説や説明とともに実感しようとしても、それはどこまでも間接的な体験にしかならないわけだから、それをいくら自分のことのように思ってみても所詮は他人事でしかないわけで、そんな成り行きの結果に一喜一憂してみたところで骨身にしみて感じるようなことにはならないだろうし、だから嫌ならやり過ごしたり受け流したりすることができるのかも知れないが、それとともに直接身に降りかかる災難の類いではないことに一安心するのかも知れず、それが他人の災難である限りで傍観者の余裕が生じて、そこから何やら自身にも都合の良い感触などを引き出せそうにも思われるのだろうが、それを引き出せたところでまだ余裕があるわけで、そんな心理的な余裕を挟んだ対象との距離感が冷静さや冷淡さも生じさせて、一時的な熱狂とは異なる物事の単純化や合理化もそれに納得するには必要になるかも知れないが、納得しなくてもかまわないのならそれに対して疑念を抱き続けるだろうし、そうやって無理に疑う必要がなくても思考の対象となる物事に単純化や合理化を施して納得する必要もないのかも知れず、またそこから良い兆候や悪い兆候を感じ取って楽観的あるいは悲観的な未来に思いをはせるにしても、そんなことを思っている現状の中でどういう態度でどう考えてどう行動するかが問題となってくる場合もあるだろうし、またそんなことをやらなくても他の多くの人たちと歩調を合わせて前へ出すぎないようにするとともに後れをとらないように絶えず周りを見回しながら群衆の中に隠れていられるなら安心できるかも知れないが、果たしてそういう態度を現実の自身の生活や活動の中で実践として結びつけられるかとなると、何かそれでは違うような気がしてくるわけで、他の人たちに同調しようとすればするほど逆にずれてきてしまうようなことになってしまい、気がつけば自分だけ群れから外れて一人で生きているようなことになってしまえば、そういう環境に順応できない特性があるのかも知れないし、それが自分では自覚できない特性であり、他人と一定の距離をとっていないと逆に安心できないのかも知れず、無理に他人と歩調を合わせようとすればそれだけで気疲れを起こしてしまい、気がつけばそこから脱落して置いていかれてしまって、そこからどうやっても集団に追いつけなければ、もうその時点で疲れてしまっているのであり、結局はマイペースで歩んでいくような成り行きになってしまえば、それが自然からもたらされた境遇なのかも知れないし、そういう境遇を受け入れないと生きていけないようなことにでもなっていれば、集団の中に無理に留まろうとすれば、そこでもまれて消耗して早死にしてしまうような運命が待っている可能性を感じ取っているのかも知れず、そうなる運命を悪い兆しとして感じ取っているから、そこから自然に距離をとろうとしているのかも知れないし、そういうことであればそんな成り行きを自身のこととして自身に引き受けて素直に受け止められるだろうし、それが現状の中で自身を中心にして生じている成り行きであり、一人でそれに対処するような成り行きになれば、自身が他の誰の指導も助けも助言も必要とせずに直接おこなわなければならないことになるわけで、そこで何をおこなうのかといえばただ単に生きていくことになるわけだが、もちろん社会の中で生きていくには一人では生きていけないから、他の人や集団などとの関係も自身の置かれた立場や境遇に合わせて構築しなければならないだろうし、実際に生き続けていることがそういった関係を構築できていることになるわけだろうが、何かそういうところで対人や社会関係の中で矛盾をきたしている面もあるのだろうが、それを無理に単純化したり合理化して都合の良いように解釈する必要はなく、絶えず疑念や煩悶を抱きながら生き続けるような成り行きになっていくのかも知れない。
3月17日「統治対象」
厳密には誰もが同じ環境の中で同じ状態で存在しているわけではないとは思うが、それでも法律や制度などに照らして大雑把に捉えれば、誰もが同じような環境の中で同じような状態で存在していることにはなるだろうし、実際に政府などの統治機関が把握している水準では、そこで用いられている法律や制度などの中では、統治対象となる人々が同じような存在として把握されて管理されていることにはなっているわけで、それは個々人の側ではあずかり知らないことかも知れないが、それに関連する法律や制度上は同じ種類の個体として扱われていることになるのかも知れず、個々人の側ではそれがどうしたわけでもないかも知れないし、また法律や制度に基づいて管理している政府内の担当者にとっても仕事の範囲内でやっていることであり、取り立ててどうということはないのかも知れないが、個々人の意識の中ではその法律や制度の範囲内で同じように管理されている他の人たちと自身が同じ環境の中で同じ状態で存在しているわけではないだろうし、相対的な範囲内ではあるもののそれなりに他人とは違う環境の中で違う状態で存在しているとは思っているだろうし、そういうところで個々人が把握している自身の状態と政府として把握されている個々人と政府内の何らかの部署で働いている担当者の把握している個々人に対する認識はそれぞれで違ってくるはずだが、認識としてはそうであってもそこには同じ人が存在しているわけで、同じ一人の人間に対する把握の仕方がそれを対象とする個人や団体や団体内の担当者によって違ってくるのも、様々な水準で別々の方面から把握しようとするわけだから当然といえば当然のことだが、だからといって個人の側で政府などの統治機関の側と自身に対する見方や捉え方について認識を共有する必要はなさそうに思われるのだが、それでも個人の側が政府に対して自らを他の人たちと平等に扱ってほしいと思ってしまうわけで、確かに自分だけが政府から不当な扱いを受けては困るだろうし、また一部の他人が不当に優遇されていると思うと腹が立つし、法律や制度上は平等な扱いを受ける正当な権利があると思ってしまうと、結局はそうやって政府による人民の統治に巻き込まれていってしまうわけだが、別にそれが悪いことだという認識はなく、むしろそれは当然のことでありむしろそうやってもらわないと困るとまで思ってしまうし、果たしてそれで良いのかと疑念を抱く人など現状では皆無かも知れないが、それは障害者や子供や老人や失業者や母子世帯などの生活弱者を優遇するのとは別次元のこととして、政府が個人を統治対象者と認識するのとは別の方面で個人が個人として生きていく上では、その人が生活していく際に関係する他の人たちとの関係を考慮しつつも、独自に自身を統治していくような成り行きを伴ってくるのかも知れず、その際に自分で自分を統治するとはどういうことなのかというと、普通に自己という存在を配慮せざるを得なくなるだろうが、単に自分の生活を自分で管理していれば自然とそうなるし、その程度のことであればそれほど大げさに事態を捉える必要もないわけだが、他から自分を標的にして介入されると自身による自身の統治を侵害されているように思われるだろうし、そういう類いには例えば企業のサービスを受けるとそれなりに個人情報を管理されたりして、それが何かと便利な反面、過剰に商品やサービスの広告や宣伝などの不要な情報を執拗に送られてきたりして鬱陶しくも思われるときもあるだろうし、そういうのが嫌ならサービスを停止すれば済むことだが、政府による行政サービスの類いは嫌でも個人の側で停止できるわけではないし、しかも税金は強制的に徴収されてしまうし、それがゴミ収集などの行政サービスの類いであれば向こうから一方的に停止してもらっては困るし、生活苦にでも陥って生活保護を行政に求めるような成り行きになってしまうと、サービスを受けないと生きていけないような境遇になってしまうかも知れないし、そういう面もあるから自己の統治を自分だけでおこなうようにはならないわけだが、ほとんどの人たちは自己への配慮とか自己の統治とかに関しては改まってそう意識することはなく、自然にそれと自覚することなくおこなっていることであり、そういうことに気を遣う必要がなければそれで済んでしまうことだろうし、それで済まなくなる機会が訪れるかというと、大抵の人はそんなことは意識せずに一生を送ってしまうのだろうが、その一方で行政などとの関係も自らが全面的に依存するような関係になっているとはいえないし、そういう面では共産主義的な政府と人民とが一体となっているような状態からはほど遠いわけで、もちろんそれは反共産主義的で右翼的な国粋主義的な思想とも違うだろうし、普通に世の中のほとんどの人たちがその種の政治宣伝を真に受けない状態にあれば、そうした行政機関や統治機関などによってすべての人のすべての状態を全面的に支配するような一方的な傾向にはなり得ないわけだが、実際にもそれらが利用する法律や制度にしてもその網の目がある程度は粗いだろうし、法律や制度の網をすり抜けてそれらに依存しないでも生きていける余地がある限りで、自分で自分を統治する余地もあるから、それと自覚せずに誰もが自身を統治し管理している面があるわけだが、そういう面を意識した方がいいのかといえば、意識している人が多ければ多いほど行政機関や統治機関との関係も相対的には依存度が低下してくるだろうし、それらが公の機関であれば政治的な関わり合いになる面が出てくるわけだが、それが選挙などを通した政権選択を伴う機会が普通にあるようなら、依存している度合いによって深刻度や重要度も変わってくるだろうし、その依存関係というのが経済的なものなのか心理的なものなのかとなると、意外と心理的な度合いの方が大きくて経済的な度合いがそれほどでもなければ、それらの機関の力を過信していることになるだろうが、そうした過信を利用して政権側を利するような偏見や固定観念を意識に刷り込まれているとすれば、そういうのは宗教的な信仰と変わりないわけだが、それが本当に過信であり宗教的な信仰でしかなければ、そういった心理状態から抜け出したいなら、政権側と対立する陣営に与すればいいと考えてしまいがちになってしまうかも知れないが、それらが構成する二項対立というのは相互に補完し合いながら対立を形成しているわけで、一見それと対立しているように見える側にも同じような過信と宗教的な信仰がつきまとっていて、どちらへの過信を信仰するかという振りほどけないような二者択一を迫られてしまい、それを真に受けるとそうした勢力への依存状態がますます高まってしまう可能性があるわけで、そういう心理的な依存関係が嫌ならそれとは別の方面への依存を高めれば相対的にそれらへの依存も低下するのだろうが、それに関して身近な依存関係を意識するなら、やはり自己への関係を強めるのが手っ取り早いというか、自分で自分を統治できていれば自信につながるし、それが高じて少々の外部からの介入にも動じないような強い心理状態にもなれるかも知れないし、それが功を奏して深刻で重大な決意を持って対立する政治勢力のどちらかに対して生殺与奪件を譲渡するような勘違いな気持ちにはならなくて済むようになれば、今までよりは少しは冷静な判断ができるようになるのかも知れないし、現状が深刻で危機的な状態というよりは、そういう面も確かにあるにしても別のどうということはない面もあり、そういった様々な物事が様々な状態や水準で錯綜して絡み合っている状態にあることを意識できるようになるのかも知れない。
3月16日「公益とは違う何か」
そこにどんな思惑が介在してどのような活動がおこなわれていても、活動内容がはっきりしなければ思惑の内容など推し量りようがないが、普通に利害の思惑があれば経済活動の類いになるだろうが、例えば公益を考慮するとなると経済的な利害に関しては中立の立場であるかのような印象を伴うかも知れないが、何かそれが建前上は公益であっても私益の延長上に公益があるかのような成り行きで公益を求めていることになると、そこにそれなりの経済的な利害関係が絡んでくるようなことにもなってくるだろうし、公益と私益を厳密に分けるような水準で活動がおこなわれているわけでもなければ、公益と私益が渾然と一体化しているような様相を呈していてもかまわないのかも知れないし、私益を追求しているうちにそれが自然と公益に結びつくような活動になれば、当初の思惑がどうであれ、結果的には公益を求めるような活動と見なしてもかまわないのだろうが、それが公益であっても私益であっても、そういう大義名分になりそうな言い訳じみた理由を嫌うなら、ただやりたいことをやっているだけでかまわないだろうし、やりたいことをやっているという自覚さえなければ、その場の成り行きに従ってやっていたり、あるいはその場の成り行きに逆らってやっていることであってもかまわないのかも知れないが、当事者が何をどう思っていようと、その活動がうまくいっていようといまいと、そこにどう捉えたらいいのか判然としない成り行きが伴っていれば、当事者の思惑を超えたところで作用している動きや働きがあるのかも知れず、そういう面をどう判断してどう評価すればいいのかなんてわかるわけもないかも知れないが、そんなことまで考慮できないのはわかりきったことであり、考慮する必要もないだろうが、それでもおこなっている活動をあまり正当化しようとは思えない状態であれば、何かしら疑念を抱いていることは確かであり、その疑念がどこからもたらされているのかといえば、活動そのものが何らかの益をもたらすものなのかどうかということであれば、その益の対象となるものは何なのかということになるかも知れないが、それが自身であれば私益となり、社会全般となれば公益となるのだろうが、社会全般というと途端に対象が曖昧となってしまうわけで、少なくとも益することが何もないようなことをやっているわけでもないはずだが、改めてそんなことは考えたことがなければ、普通はそんなことはあり得ないが、当初に目指していたことを忘れていることにしておけばいいのかも知れないし、それを今さら思い出す必要もなければそんな成り行きの中で活動が継続中でしかないわけだが、そもそも世の中でおこなわれている様々な活動というのが、全般的に活動している対象のためにおこなわれていて、対象とは何かといえば活動している自身や自体であり、活動がそれらの役に立っていると考えれば、活動の目的は私益となるのだろうが、何かしら活動していることがそれをもたらしているのだから、それ自体があまり重要なことではなく、わざわざ私益を得るために活動しているといわなくても済んでしまうようなことであり、活動していれば必ず活動している自身の私益がついてくるようになっていて、それ以外を求める必要はないのかも知れず、その私益というのが必ずしも金銭的な利益とはならないわけだが、それが自己満足だけであっても困らなければ苦労はないだろうし、中は満足でさえもなく不満や苦痛であっても、それを私益と見なしてもかまわない成り行きになってしまうことさえもあるかも知れないが、嫌になってやめてしまえば、その活動をやめた事実が益を得られなかったからやめたことになるのかも知れず、そうなるとやめない限りはそこから益を得ていることになるはずだが、嫌でやめたいのにやらざるを得ないことになっているとしたら、それをやらせている対象が他に存在していて、その対象に益をもたらすために活動をおこなっていることになるだろうし、そんな対象さえ見当たらないのに、しかも嫌でやめたいのに、それでもなおやらざるを得ず、実際にやめずにやっているとしたら、そうなると社会に公益をもたらすために活動をおこなっていることになるのかも知れず、なぜそういうことが言えるのかとなると、実際に活動が続いていれば、それを続けさせる何かがそこに作用しているから続いていると考えられるし、そういう成り行きをもたらしているのが何かといえば、それに関して思いつくような特定の対象が見つからなければ、周囲の環境から何らかの作用がもたらされているとしか考えられないだろうし、その周囲の環境とは具体的に何かといえば、活動している自らを含んだ社会でしかないのかも知れず、そうなると社会が継続する上でそれなりの益をもたらしているから、そんな活動が継続するように何かしらの作用が社会からもたらされていると考えるのが妥当なところかも知れず、そうであるなら社会そのものがそれを構成する人員に対して、社会自体が益するような活動をするように仕向けていると捉えてもいいのかも知れないし、社会の中で何かしら活動がおこなわれている実態があれば、たとえそれが私益を追求する活動であっても、それをおこなえるような条件が整っていれば、そういう活動条件をもたらしているのが他ならぬ社会自体であるのかも知れず、そういった活動がおこなわれている社会がそこに存在している限りで、そういう社会を益するような活動がそこでおこなわれているから、そういう社会が存在できるような条件がそこに整っていて、またそういう活動を実際に担っている人員もそこに存在できていることになるだろうし、そんな結果から見ればそうなっているとしても、では社会に益をもたらさないような人員はそこから排除されてしまうのかといえば、実際にそこからいなくなってしまう人員がいればそういうことだと捉えてもかまわないかも知れず、また益をもたらさない活動は継続できないとなれば、実際に継続が途絶えた活動に関しては社会に益をもたらさなくなったから途絶えてしまったと見なしてもかまわないのかも知れないが、そういうことは結果から判断すればそう捉えたり見なしたりできるということでしかなく、その活動の当事者からすれば、外部からそれをどう捉えようとどう見なそうと何の益にもならないだろうし、ただ活動を継続させようとしているだけかも知れないし、また活動をやめざるを得ないような成り行きになってしまっただけかも知れず、その際には公益を意識しなければ社会がどうのこうのは関係ないわけで、そこで何か明確な目的を持っていたり目標を抱いていれば、それに向かって活動しようとするだろうし、また何か偶然の巡り合わせとともにそんなことをやるような成り行きに巻き込まれていれば、そういう成り行きに合わせて活動しているだけかも知れないし、そんな事情や経緯を様々に含んで何らかの活動がおこなわれているに過ぎないことであっても、社会全体から見れば社会にとって益となるような活動がおこなわれているようなことになってしまうのかも知れず、また益をなさないような活動は継続が困難になリ、活動が続いているうちは社会に益をもたらしているものの続かなくなってくれば、益をもたらさなくなってきたから継続が困難になってきたと見なされるようなことにもなり、どうなるにしても社会全体から見ればそのような単純な論理で説明できてしまい、それで困らなければそういう説明に終始すればいいのかも知れないが、活動内容へのこだわりを求めるならそうもいかなくなるだろうし、具体的に特定の活動を正当化したければ、社会全般ではなくその活動に関係する人たちの益については他と区別して考慮する必要が出てくるのではないか。
3月15日「世間並みの罪意識」
多くの人が同じような思考形態と行動形態を共有していれば、そうなっている限りで世の中に何らかの特徴的な傾向が生じるかも知れないが、自身もそうなっているとしてもその自覚があるかというと普段はそんなことは思ってもみないだろうし、別にそれでかまわないしそうなっていても何の問題もないどころか、そうなっているからこそそんな世の中が形成されていて、その中で主流となっている思考形態や動作形態を多くの人が共有できているから、そこに世間的な社会空間が存在しているような気になれるわけだが、誰もそこから意識して外れようとはしないだろうし、世の中にそういう面があることは良くも悪くもないような普通の状態でしかないわけだが、中にはそれと意識せずに外れていってしまう成り行きもあるし、そうなると世間と対立するような立場や役回りを担ってしまう場合にもなりそうだが、世間的に著名な人がそうなるとメディア上で非難されて、それ自体がその手のメディアには欠かせない世間的な話題となるわけだろうが、そうだとすれば誰にとってもそこに構成されているように思われる世間的な社会空間には、そこから生じる世間的な意向に逆らうような人の存在も欠かせないことになり、そういう過ちを犯して非難されるような役どころの人もそういう社会空間には必要不可欠になるわけだが、実際にわざと意識して過ちを犯してしまうわけではなく、それと自覚することなく過ちを犯しやすいような成り行きの中で犯してしまうわけだから、それ自体が過ちを犯しやすい環境になっているわけで、しかもそういう特性を利用して過失を促すような機会が巡ってきてしまうわけだから、絶えず過ちを犯すように誘惑されている中で魅入られたように過ちを犯してしまい、そうなってしまうこと自体もありふれていて、誰かがそんな過ちを犯してそれがメディア上で明かされると、同時に非難されるような成り行きにもなっているわけで、それがどうしたわけでもなく意識してそれを嫌悪してそれに逆らうこともないわけだが、だからといって社会の模範となるように絶えず身を律して誘惑をはねのけるように心がけている状態を保てるかというと、真面目にそんなことを心がけている人も中にはいるかも知れないが、大抵の場合は些細な過ちなら誰もがいくらでも犯しているわけで、ただそれが世間的には目立たないだけでたとえ過ちを犯してしまってそれが他人にばれたとしても、普通の一般人がそうなってしまってもそれはメディアが騒ぐような話題とはならないだけで、それもありふれたことでしかないわけだが、そうなってしまったことを罪悪感とともに気にしすぎてしまうことが、そうした世間的な社会空間からもたらされる作用なのかも知れないし、その中にいる構成員に些細な罪の意識を抱かせることによって世間の意向に従わせるような成り行きとなっていて、それよりも相対的に大きく感じられるような過ちを犯した著名人がメディア上で非難される一方で、一般人に対してはそんなメディアの論調に同調しているお前だってそれよりは相対的には小さな過ちかも知れないが、それと地続きの同じような過ちを犯しているじゃないかと思わせて、そういう罪意識が社会に対する心理的な負荷となって一般の人たちにのしかかってくるわけで、それを罪に感じているならお前も世間の意向に従わなければならないという論理ならぬ論理が、そうした世間的な空気に囚われている人たちの心を支配していると言ってしまうと、そんな大げさなことでもないような気もするわけだが、別に従うことを強制されているわけではないし、従っていることをそれほど重大に自覚しているわけでもないが、とりあえずはメディア上で非難されている著名人の話題に反発したり反感を抱くわけでもなく、非難されて当然だと強くそう思っているわけでもないがそうなっていることが普通に感じられるのだから、一応はそうなっている事態を受け入れているわけで、そういうはっきりしないどっちつかずの中途半端な意識になってしまうことが、意外と世間の意向に追従させる上では無視できない拘束力を発揮しているのかも知れないし、それが大したことでもなくそれほど深刻には思われないことであるからこそ、例えばメディアが強い調子で批判したり非難できない政治勢力や政治家や政府や企業などには、そうしたメディアに対して強く反発したり反感を抱いているわけでもなく、そうしたメディアの存在を普通に感じられる人々も、それらの政治勢力や政治家や政府や企業などに対して強く反発したり反感を抱いているわけでもなく、メディアがそれらを是認していればそうしたメディアの態度を普通に感じられる人々も是認していることになり、そういう世の中に広く拡散して薄められた是認に対する世間的な人々の同調が、それらの政治勢力や政治家や政府や企業などの世間的な主導権の掌握を許していることにもなり、それもそれとはっきりわかるような独裁的なやり方に基づく権力の行使を伴っているわけでもないから、それほど大したことでもなく深刻には受け止められないことなので、それらの政治勢力や政治家や政府や企業などを強い調子で非難したり批判しているメディアやそれに関係する人たちには、それほど大きな支持も同調も集まらない事態となっているわけで、何かそういうところで批判勢力の目算が狂わされている状態となっているのかも知れず、しかもそれが普通に思われる人たちにとってはそれが良いことでも悪いことでもないわけだから、あまり気にしていないだろうし、そういう意味では笛吹けど民踊らずな社会状況がもたらされていることにもなり、それを安定と捉えるなら肯定的な傾向となるだろうし、大衆の無関心と捉えるなら由々しき事態とも受け止められるだろうが、それを深刻に受け止められる人がそれほど多くはいないから全体としてはそういう状態が放置されている現状にもなっているわけで、ならばそういう状態を改められるかとなると、もちろん深刻に受け止めている少数の人たちは改めようとしているのかも知れないが、そういう人たちの意向が世の中で全く無視されているわけではないにしても、それが強い調子でそうなっているわけではないから、それを強い調子で改めようとすれば空回りしてしまうだろうし、そういう強い調子で何かを訴えかける人たちが空回り気味になってしまうのは致し方のないことだとしても、では弱い調子で何かを訴えかければいいのかと言えば、それではただ単に無視されて相手にされないだけだから、何かを訴えかける動作としては強い調子で訴えかけなければならないわけで、そういう動作が世の中であまり効果をもたらさないとすれば、そういう訴えかけでは限界があるということであり、そういう訴えかけへの支持や賛同もある程度以上には広がらず、そうなるのも当たり前でしかないのかも知れないが、そうであるなら弱い作用には弱い力で応じなければならないといえるかどうかは確信が持てないが、少なくとも強い調子での訴えかけにはそれなりの限界があることは踏まえておかなければならないし、そういう実感や認識が他の方面での模索を促すのかも知れないし、それがどういう効果をもたらすかはそれとは異なる傾向のやり方を実際に試してみないことにはわからないし、やってみてから判断するしかないが、そんな世の中の状況から自然にもたらされる動作の類いが、果たしてそういう状況に対するカウンターの動作となるかどうかもわからないところかも知れないが、それをあまりはっきりとは自覚しなくてもかまわないのかも知れず、それ自体が世の中に広く拡散して薄められた是認の意識なのだから、それへのはっきりとした対抗心を抱くような成り行きにはなりようがないのかも知れない。
3月14日「現状を変える原動力」
考えていることやおこなっていることが何か現状とかみ合っていないように思えるなら、やることなすことがことごとくうまくいっていない感触があるのかも知れないが、それでもかまわない場合もあるだろうし、そういう状況へと引き寄せられているというか、そうなることを望んでいないのに自然とそうなってしまうような成り行きもあるのかも知れず、しかもそうなってもかまわないように思われるなら、そうなることが自然の導きのように感じられるわけで、それに伴って自らの存在と行為が現状の中で主流になっている存在様態や在り方とは違うことがはっきりしてくるのかも知れず、それだけ世間からずれていることになるだろうが、その実態が本当にそうかというとそんな気がしているだけで、少なくとも現状の世の中で生きていて生かされている限りで、現状とかみ合っていない面よりはかみ合っている面の方が大きいのかも知れないし、現状が許容する範囲内に収まっているから現状の中で生きていられるのだろうし、それ自体はどうということはないが、現状自体も刻一刻とそれなりに変動し続けていて、そうした変動の中で自身の状態も変動し続けているから、世の中の変動の傾向と自身の変動がずれてくることもあり得るだろうし、だから現状とかみ合っていないように思われるのかも知れないが、ずれを実感しているからといって、そこで生きていること自体が自然と世の中の動向に歩調に合わせようとしていることになるのかも知れず、全くかみ合っていなければ生きてはいけないわけだから、それなりにかみ合っている面があるのは当然かも知れないが、そういうところで変に意識して合わせようとしないで、自らを信頼しているなら自然の成り行きに身をまかせている方が良いのかも知れず、案外現状で世の中の主流に思われているような存在様態や在り方が次第に実情に合わなくなってきていて、むしろ自然の成り行きにまかせようとしている自身の方が実情に合ってきているから、世の中の主流とはかみ合っていないように思われてしまう可能性もあるわけで、それもただ漠然とそう感じているだけでは何とも言えないところだが、世間の在り方と個人の在り方は元から多少のずれが生じているのかも知れないし、それらの間にそれなりのずれが生じているから不安になって世間の風潮に合わせようとするわけで、始めからすべてが世間の風潮と合致している人など一人もいないだろうし、そういう意味でもずれていること自体はどうということはないだろうが、そうであるならむしろどれほど世の中の主流からかけ離れた存在になれるかを試してみるのも一興かも知れないが、それをどうやれば試すことができるのかも皆目見当がつかないし、結局は現状の中でやれることを模索するような成り行きにしかならないだろうが、それが現状について語ることになるかというと、それも一応は含まれてくるだろうが、安易に現状を批判的に語るべきではないのかも知れず、それも批判できるようなところはいくらでもあるだろうから、それについて批判すること自体が無難な語り方になってしまうわけで、そうなるとそれを批判するように仕向けられてそんな術中にはまっているというか、特定の誰がそれを仕掛けたわけでもないのに現状を現状のように保つにはそうした批判が欠かせないような成り行きになっていて、そんな批判とともに現状が構成されていれば、現状に対する批判も現状によって生み出された現状の一部のような様相を呈してきてしまい、だからといってそういう成り行きの裏をかこうとしなくてもいいが、少なくともそんな成り行きとはかみ合わないようなことを語る必要もないのに、普通の感覚では語れないように思われるのに自然にそうなってしまえば、それが現状の真の姿を物語っていることになれば愉快な気がしてくるわけでもないが、かみ合っていないとはそういうことをいうのかも知れず、それが現状の真の姿だと思わなくてもいいだろうし、勝手な妄想から導き出された虚構でしかないのかも知れないが、実際に語っている内容が現状とはかみ合っていないにもかかわらず、現状が仕向けているような批判とは異なることを語っているわけで、逆にそうしないと現状の求めに応じた現状にとって都合の良いようなことを語らされてしまい、それが現状に対する批判となってしまうとすれば現状が現状に対する批判を求めていることにもなるだろうし、そうだとすると現状を変えるには現状に対する批判が欠かせないように思われるのとは反対に、現状が現状に対する批判によって成り立っているような逆説によって現状が構成されていることになり、それが現状からもたらされている幻想でありフィクションだとすれば、むしろ現状の中で踊らされているのは現状に対して批判をおこなっている人たちになるかも知れないが、では現状を変えるには現状を批判してはならないと言えるかとなると、そうであってもかまわないのだろうが、批判してもかまわないだろうし、批判するように仕向けられているなら批判すればいいだろうが、うまく現状にかみ合うように批判しようとは思わない方がいいのかも知れず、それよりは現状とかみ合わないような的外れな批判を繰り返している方が面白いのかも知れず、それによって現状が変わるとは思えないと共にそれが現状を変える原動力ともならないだろうが、そんなことをやっても無駄に思われるようなことを実践することが、その場の成り行きに従っているようなことになるとしたら面白いし、わざと的外れなことを述べているわけではなく、自然にそうなってしまえば、その場の成り行きにまかせて自然に現状からずれていってしまうようにも思われるだろうし、そういうところで現状の微妙な変化の兆候を捉えていることになればそれも面白そうに思われるのだが、普通に考えてそれは気のせいでしかないのかも知れず、狙ってそうなれるわけでもないだろうし、その全容は常にはっきりしないことでしかないわけだが、それが現状が現状であるには現状に対する批判が欠かせないと同じことにはならないが、現状とうまくかみ合わないようなことを述べていること自体が、現状の中で生きていることの齟齬感や違和感を実感していることにはなるのかも知れず、現状を変えるために現状を批判しているような気にはなれないことも、そういった齟齬感や違和感の延長上で感じられることだろうし、現状について語るにはそういう実感を抜きには語れないのかも知れないし、それを省いて現状について語ってしまうと、たとえそれが現状に対する批判であろうと、何かそう批判することが現状の成り行きにかみ合ってしまって、現状が現状であるように感じられるにはそうした批判をすることが必須条件であるようにも思われてくるわけで、別に現状が現状として感じられるようなものではないと断言するわけでもなく、それこそが勘違いでありわざとひねくれて現状を解釈しようとしていることでしかないとしても、どうやれば現状に逆らうことができるかと問われているわけでもないのに、そんな成り行きに身をまかせている方が現状とかみ合ってしまうのだから、現状によってあてがわれる役割分担には現状を批判するような演技も含まれてくるわけだろうし、それが演技ではなく実際に現状を真正面に見据えて批判している気になれるなら幸せなことかも知れないが、誰もそんな役割を担う立場にはないし、なろうとも思わないだろうが、そんな気分になってしまってはまずいのかも知れず、要するに現状の外から現状を批判している気になってしまっては、それこそ現状からもたらされたフィクションの登場人物になってしまうわけだろうが、それが演技であることを自覚しようとは思わないし、現状に踊らされて現状を批判しようとは思わないのに、現に現状を批判していることになってしまえば、そんな状態も受け入れざるを得ないのかも知れない。
3月13日「現状に逆らうこと」
何かの加減で思い描いていた通りのことができなくなってくると、何かに邪魔されているような嫌な感触が意識にまつわりついてくるかも知れないが、そこで幻想と現実の違いを思い知らされるのは、他との関係の中で何かをやろうとする時であり、独りよがりなことができないのは、自らの意図や思惑に逆らうような作用や影響が他から及ぼされているからだと思うかも知れないが、それは自身が身勝手に思い込んでいる被害妄想の類いであり、そうではなくどうやってもうまくいかないような無謀なことをやろうとしているのかも知れないし、他の誰かが邪魔をしているわけではなく自らが現状に合わないようなことをやろうとしているだけかも知れないが、そんな現状の中では現状に合わせたことをやってそれがうまくいっている人もいるかも知れず、そういう人に反感や反発を抱くようなら、自らがそんな現状に逆らうようなことをやっている証拠かも知れないし、実際に現状に逆らうようなことをやっていれば、それが現状に合わせたことをやっている人の邪魔をしていることになるかも知れないし、そうであれば他から邪魔をされているのではなく、むしろこちらが現状に合わせたことをやっている人の邪魔をしていることになってしまうのかも知れないし、なぜそんなことをやってしまうのかといえば、現状の中でそういう役回りを強いられているのかも知れないが、そこで何かをやればうまくいく人がいる一方で、中にはうまくいかない人もいて、うまくいっていない人にはうまくいっている人のやっていることが現状の中で主流をなしているように思われるかも知れないが、他の人が同じことをやってもうまくいかない可能性もあるだろうし、そうなると同じことをやってもうまくいく場合とうまくいかない場合があることになり、同じことをやっている人たちの中から成功する人と失敗する人とが出てくることになるわけだが、なぜそうなるのかといえばそこで競争がおこなわれていて、競争の中で勝ち抜いた人がうまくいった人となり、競争に敗れた人がうまくいかなかった人となれば、そういう面に関しては納得できるかも知れないが、なぜそうなるのかといえば目標や目的が同じだから、同じ目的を抱いて同じ目標に向かって同じことをやろうとしてしまい、そうなるとその中から成功する人と失敗する人が出てくるわけだが、なぜ全員が成功するわけにはいかないのかといえば、その目的が何かを求めることであり、求める物事を手に入れることが目標となれば、それを求めている全員に行き渡るほどの量や数がなく、限られた人の分しかなければ、それを手に入れることに成功する人と失敗する人とに分かれるだろうし、それがそこでの勝ち負けという結果になるわけだが、果たしてそれをそういう競争に伴って生じた結果と受け止められるかとなると、そこで何をもって勝ちと見なして何をもって負けと見なすかという判断に関して、そう判断しなくてもかまわない場合が出てくるのかも知れず、そうなると途中経過の中で何かをやっていればそれでかまわないような成り行きであれば、結果にこだわる必要がない活動ともなるのかも知れないし、それがその人が死ぬまでの間に何らかの鍛錬をするだけの成り行きになるとしたら、結果としての死は誰にでもやってくるわけだから死そのものは勝ち負けを伴わないし、人は生まれて生きて死ぬだけの存在でしかなければ、誰もが生きている間中、ただ死ぬために鍛錬していると見なすなら、そこには勝ちも負けもないわけだが、果たしてそんな単純な認識でかまわないのかとなると、普通はそうはいかないだろうし、例えば死ぬまでの間に他の人よりも価値のある業績などを残そうとするのかも知れないし、また他の人よりも価値のある人生を送りたいと思う人もいるだろうし、そういった価値こそが儚い幻想に過ぎないと見なしてしまうと、では人は何のために生きているのかと問うかも知れないが、人は死ぬために生きていると単純化できれば、何か生に対して死が勝ち誇ってしまうような虚無的な気分になれるかも知れないが、そんな皮肉めいたことを受け入れられるかとなると、実際に生きているわけだから受け入れる必要もないし、死ぬために生きているなどと言い放ってしまうこと自体が単なるかっこつけであり嫌みなやつだと思ってしまうかも知れないが、そういう人には言わせるだけ言わせておいて、生きていることを楽しめば良いのかも知れないし、死ぬためではなく生きるために鍛錬していると前向きに思っておけば良いことかも知れないが、それを死ぬための鍛錬だと見なすことも自らが生きている現状に逆らっているのかも知れず、生きていることが決して思い通りにはならない様々な不自由さと共に生きていることになるわけだから、そんな現状に逆らいたい意識が思うに至る究極の逆説的な認識が死ぬために生きているという認識になるのかも知れず、そんな心境に至って何か達観した気分になれるとしたら、その程度のことでしかないかも知れないが、実際にはそういう単純化では釣り合わないほどの膨大な経験と記憶を意識が背負い込んでいて、それらを自らの死とともに無に帰すにはもったいないと思うかも知れないし、そうなると自らが生きてきた証しをこの世界に残しておきたいと思うかも知れないが、それも死ぬために生きていると言い放つような人からすれば未練がましい幻想に過ぎないと一蹴されてしまうかも知れないし、そんなある意味で無敵な人には勝てないし、勝てなければ無視して相手にしなければ良いことでしかないわけだが、要するにそういうこの世に未練がある人は勝ちたいという意識が強いのかも知れず、何に勝ちたいのかといえば究極的には自らの死に打ち勝ちたいのだろうが、そこまで思い至らなければ他人に勝ちたいと思うだろうし、そんな他人に勝つには生きている間に他人よりも価値のある人生を送りたいと思うのかも知れず、それが相対的には世間的な富や名声や名誉の類いになるのかも知れないが、はっきりとそう意識してしまうと単なる俗物扱いされてしまうから、そうなりかけてしまう手前でかっこつけたいわけで、何か善人でありたいし良心の持ち主であったり清廉潔白な状態でいたかったり、そんな自らのこだわりが他人から共感されるようになりたいのかも知れないが、他人にそういう下心を見抜かれてしまっても困るし、そうなるとちょい悪な雰囲気を醸し出そうとしたり、何か憎めないような役柄を演じようとするかも知れないが、どう振る舞ってみても中途半端な感じを出せれば他人から相対的な存在として安心してもらえそうだから、その程度で我慢するような成り行きに持って行こうとするのかも知れないし、実際に他にも大勢の人たちが生きている中では自分だけが特別な存在だと他から認められるわけがないだろうし、そうである必要もないわけだが、自尊心が高じるとそう思われたくもなるだろうし、誰もがそう思われたければそんな思いもありふれているし、そんなふうに思っていること自体が他の誰とも変わらないことを証明しているわけだが、そうであるなら生きていることに特別な価値があるわけでもなく、特別でなければ普通で相対的な価値があることになるかも知れないが、では死ぬことに関してはどうなのかといえば、現状では誰もが必ず死ぬのだから死自体もありふれていて、特に何の価値もないのかも知れないが、とりあえず価値のあるなしには関係なく死んでしまうのだから、別に死ぬための訓練に価値や意義があるとは思えないかも知れないが、死ぬことを目的として死を目標にして訓練しているわけだから、それが勝ち負けにこだわらないやり方である限りで、誰にとっても程度の差も強弱も善悪も生じない内容となるのかも知れない。
3月12日「活動の変質」
形あるものはやがて崩れて消滅してしまうのがあらゆる構築物の定めかも知れないが、社会的な形態も放っておけば崩壊してしまうように思われるから、そのまとまりを維持するには絶え間ない保守点検が必要となってくるだろうし、実際にそうした行為が日々絶え間なく繰り返されているのだろうが、何がそうした形態なのかといえば、そこに人が大勢より集まって何らかの作業や活動がおこなわれている形態なのだろうが、それを維持する必要があるのはそこで作業や活動がおこなわれているからで、おこなわれなくなったらその必要がなくなるだろうし、そうなれば消滅してしまってもかまわないのかも知れないが、中には文化的な価値が見いだされて公の機関などによって保存されるようなこともあるだろうが、そういうのは希少価値があるように思われるからで、それも他の似たような構築物がほとんど消滅してしまったから、その中でかろうじて残ったわずかなものに希少価値が生じるのであって、そういう意味ではそれに希少価値が生じていること自体が他がほとんど消滅してしまったおかげなのだろうし、そういうことからも必要でなくなった構築物が消滅するのは自然の成り行きになるわけだが、人の活動自体がその場だけで通用するようなものなら、活動している間だけ必要であって、活動しなくなれば必要ではなくなるわけで、実際に活動しなくなったところで消滅してしまってかまわないわけだが、必要であるか否かという判断が活動している本人だけに生じているわけでもなく、その人にかかわってくる他の人にも生じている場合もあれば、本人が必要でなくなったから活動を消滅させようとしても、他の人がそれを許さない場合も出てくるだろうし、そういう場合は他の人が活動を引き継ぐような成り行きとなるだろうし、そうやって活動が他人に引き継がれて継続する場合もあるだろうが、そうなると活動の形態や内容もそれを引き継いだ他人の好みや必要に合わせて変質するかも知れないし、活動自体が全く変わってしまえば、果たしてそれが本当に引き継がれたことになるのか疑わしく思われてくるかも知れないが、少なくともそのままの形では引き継がれない可能性は高いだろうし、そこでも活動している当事者に合わせた形態になるのが自然の成り行きになるだろうが、それが個人の活動ではなく集団の活動であったりそれにかかわってくる人が多ければ、かかわってくる人たちの都合も活動に反映されることになって、そうした活動内でかかわってくる人たちの間で場合によっては何らかの調整がおこなわれることにはなるのだろうが、その規模が大きくなれば活動の全体を統轄するような組織も生じるだろうし、そういう組織が官僚機構化するわけだが、それも必要に応じて生じる限りで効率的に動作するような成り行きになれば良いのかも知れないが、そうやっていったん何らかの組織的な活動が生じると、組織自体を保守してその維持存続を図ろうとする成り行きが生じてしまうわけで、そういった組織が肥大化するとそれを維持するためのコストがかかってきて、それを維持存続するために他の何かが犠牲になったり割を食う羽目に陥る場合があり、そういう自己保存本能や自己目的化が生じてしまうから、他からすればはた迷惑で弊害をもたらすような作用をいかに食い止めてなくすかが課題となってくるかも知れないが、それに気づいたときにはすでに手遅れになっていて、そういう組織形態に活動の主導権に握られて個人の力では太刀打ちできないような事態にもなってしまったり、そんなふうになってしまえばそんな活動に嫌気がさした人などはそこから離れていってしまうだろうし、それにかかわっている他の多くの人にとっても魅力のない活動や活動形態になってしまえば、そういった活動は衰退するだろうし、活動形態も形骸化してくるのだろうが、そうなるとそこから利益を得られたりそれに依存する人がどれほどいるかで、その程度に応じてそうした活動や活動形態の規模や程度も決まってくるだろうし、結局はそれを必要とする人がいる限りで維持継続されることになると思いたいが、必要とする人がいる一方で不要だと思う人や弊害があるからやめさせようとする人も出てくると、必要なのに維持継続できないような事態にも直面するだろうし、またコストが合わなかったり採算がとれなくなって維持継続が困難になってきてしまう事態にもなる可能性があるわけで、そうなると必要である他に様々な維持継続できるための条件が付け加わってきて、そうした条件をクリアするためには多大な手間暇が必要となってくれば、では必要とは何なのかという疑問も湧いてくるかも知れないが、根本的なところで必要だと思っている人の幻想であったりするのかも知れず、端から見れば必要とは思われないような物事がその人にとっては必要に思われたり、しかもその人自身が他の人には必要でなかったりして、それが誰にとって必要であるかでそのあるなしが変わってくるかも知れないが、客観的にどうかといってもその客観性も人によって違うようなら何とも言えないわけだが、一般的に考えてそこで何らかの活動が成り立っていれば、それにかかわっている人にとっては必要なのだろうし、そういう水準で必要であるか否かを判断するしか判断しようがないわけだが、そうであっても活動にかかわっていない人には必要とは思えないような活動など世の中にはいくらでもあるだろうし、結局それが必要だと思われる人たちによって活動が支えられることにはなるが、必要とは思われない人たちや邪魔であり害をもたらすからやめさせようと思う人たちによって活動が妨害されたり、やめさせられるような事態ともなれば、必要だと思って活動を支えようとする人たちはやめさせようとする人たちと争い戦うような事態にもなるだろうし、そうなると活動自体に争い戦うことも含まれてきて、それが高じると争い戦うために活動しているような自己目的化が生じてきたりして、そういうところからも活動の変質が伴ってくるわけだが、そうやって必要だから活動しているはずが、活動している中から新たな必要が生じてきて、そんな新たに生じてくる必要にも対応しなければならなくなると、本来の活動とはいえないことにかかりきりになってしまって、そういう新たな活動にかかわってくる人と元から活動にかかわっていた人との間で認識や考え方の違いも露呈してくるだろうし、それが活動をやめさせようとする人たちにもそれなりの作用や影響を及ぼす事態にもなってくれば、そうした活動を取り巻く状況や情勢も変わってくるだろうし、それに伴って活動自体の必要性も変容を被って、元からあった必要と新たに加わった必要が絡み合って反応して重ね合わされたり打ち消し合ったりもして、そんな中で利害関係や敵対関係も変化して協力したり対立したりする関係も互いに入り交じってきたりすれば、かなりこんがらがってもつれ合うような様相を呈してくるだろうが、そんなよくわからない状況の中でもその渦中にいる人たちの活動が何らかの内容や程度を伴って続いているようなら、それらの活動がなぜ必要なのかという問い自体にあまり意味がなくなってしまうのかも知れず、そうなると必要だから続けているという正当化も意味をなさなくなってくるだろうし、そこで活動が成り立っていること自体がそれにかかわっている人たちの存在理由となるしかないかも知れないが、そこで活動している限りでそれにかかわっている人たちが存在できているとすれば、活動をやめてしまえば消滅してしまうような人でしかなく、消滅するのが嫌ならそこでも、そこで駄目なら他であっても何らかの活動形態を模索しなければならなくなるのではないか。
3月11日「一つの身体と意識」
誰もが自らがこの世界に実在していることは自覚していて、自らの意志で自らの身体を操ろうとしていることも自覚しているはずだが、思い通りに操れるかというと身体の動作にもそれなりの限界があり、限界を超えた動作はできないし、その場に固有の事情からも動作に制限が加えられている場合もあるかも知れないが、身体的な動作はそうであっても何かを思うことに制限が加わっているとは意識できないだろうし、様々なことを勝手気ままに自由に思っていると認識しているはずだが、同時に複数のことを思っているとは思わないから、何かを思っていれば思っている間は別のことは思っていないはずで、そういう意味ではあることを思っていることによって別のことを思えないような制限がかかっているのかも知れないが、一度に複数のことを思いたいとは思わないし、それが思うことの制限とは思えないが、身体的な動作の方は一度に複数の動作が可能だろうし、そういう面では何かを思うことと何かを行うことには違う傾向がありそうで、思うことには身体的な動作に限界があるのとは違う傾向の限界がありそうだが、それでも多重人格者でない限りは一つの身体に一つの意識が宿っているように思われるし、他人に対して命令できる立場にない限りは意識が直接操れるのは自らの身体だけで、他人の身体までは直接操れるわけでもないが、何らかの意図や思惑を抱いて他人がその意図や思惑に従うように誘導することはできそうで、そうするようにそそのかすことができればそうさせることに成功するわけだろうが、他人を騙すとか否定的なやり方ではなく同意の上でそうさせることになれば特に問題はないわけだが、その際には他人もそうしたいと思うように誘導しなければならないだろうし、そう思わせるにはそれだけ手間がかかるだろうが、手間をかけてまでそんなことをさせたいということだから、そうさせることに成功すればそんなことをさせている人や勢力にとってもそれは肯定的な価値があることになるのだろうが、果たして他人を自らの意向に従わせることにどんな意味や意義があるのかとなると、そこに社会が形成されていること自体が、それが自らの意向であるかのように思わされていることになるのかも知れず、そんな社会の中で生きていると自然に自らの意向に他人を従わせようとする思いが生じてくるとすれば、大勢の人が社会の中に存在していることの効果としてそういう思いが生じてくるような性質や特性が社会にはあることになり、人はただそうやって生じてくる思いを自分の思いだと自覚してしまうというか、それが社会からもたらされる要請だとは思えないだろうし、社会が一つのまとまりとして構成されてそれが維持されるには、あたかもそこに重力が生じるかのように社会を構成する各人が一つの思いに統合されなければならないような成り行きになってしまうというと、そんなことが自然に生じるとはにわかには信じがたいかも知れないが、社会を全体として一つの身体に見立てればそこにはそれを操る一つの意識が生じているように見なされてしまうのかも知れないし、そこに集合意志のような意向が生じていれば、それに従って社会が一つの身体として動作しているように見える面があるかも知れず、そう見える面では個々人が自らの意向に他人を従わせようとする動作が生じていて、実際に従わせることに成功している実態が様々に絡み合い結び合わさって合体すると、何やら一定の制度や慣習などに大勢の人たちが従っているように見えるわけで、それが個々人にとっては周囲から同調圧力のようなものに圧迫されているような嫌な雰囲気が感じられるのかも知れないが、従わざるを得ない成り行きになっているのに逆らうわけにはいかないだろうし、そうなると自然と個人の身体にも意識にもそんな意向によって制限が加わってくることになり、そういう面では集団意志を体現しているような制度や慣習に従っていることになるのだろうが、すべての動作がそうなっているわけではないし、制度や慣習も様々な動作ごとに複数あり一つに統合されているわけでもないから、意識がそれをひとまとまりのものとして意識しているわけではなく、各動作間のつながりや結びつきがどうなっているかまでは把握する必要も感じないだろうし、それがどういう経緯でそうなっているかわからないが、とりあえず他人と同じようなことをおこなっていることぐらいは意識するだろうし、そんなことは意識するまでもなく自然と同じようなことを思ったり考えたりしていて、そんな思いや考えに基づいて活動している面や思いや考えを伴わなくても同じように動作している面もあり、そういう活動や動作などがこういうときにはこうするものだという制度的あるいは慣習的な活動や動作となって社会の中で顕在化していて、別にそれを意識する必要もないような成り行きの中で各人が生きているわけで、そうなっていることについては誰も良いとも悪いともいえないだろうし、実際にそうなっているのだからそれを改めて良し悪しで評価する必要もないわけだが、実際にそういう活動や動作では都合が悪い面が顕著になってくれば、それも自然とその場の状況に合わせて修正されていくような成り行きにもなり、そういう面では自動的にそうなっていくような経過をたどるのかも知れないが、それを改めてこうしなければならないと主張せざるを得ないようなことになれば、それはその場で機能している制度や慣習に逆らって主張するわけで、そうなれば当然そういう制度や慣習に従っている大勢の人たちから反発や抵抗が生じるのだろうが、そこでそんなことを主張する人には何がもたらされているのかといえば、理性的に物事を考えるからそんなことを主張しなければならないわけで、そこで機能して動作している制度や慣習が道理に適っていないと思われればそんなことを主張せざるを得なくなるのだろうし、ではなぜ道理に適っていないのにそんな制度や慣習がまかり通ってしまうのかというと、道理に適わないような作用や影響が及ぼされているからそうなっているとしかいえないが、そういう制度や慣習に落ち着くまでには途中で様々な紆余曲折があったわけだろうし、そういう途中経過を経るとなるほど結果的にそうなっていることがもっともらしく思われる一方で、途中の紆余曲折を省いて原因と結果の因果関係からだけから考えれば、道理に合わないようなことをやっていると思われて、そうなると周囲から及ぼされる同調圧力に逆らってでも改めようと主張してしまうわけだろうが、もうすでにそんな制度や慣習に従ってそれになじんでいる人たちにとっては、今さら改めるのが面倒くさいだろうし、そのままでも大して不都合を感じていなければ、かえって事を荒立てようとする人が鬱陶しく感じるわけで、そうなると余計なことをしやがってと反発して反感を抱くのも当然であり、しかもそんな制度や慣習によって利益を得ている人たちにとっては、なおのこと改めるわけにはいかない事情が生じていて、果たしてそういう抵抗勢力を説き伏せることができるかとなると、よほどのことがない限りはうまくいく可能性は低いのかも知れないが、逆にうまくいく機会があるとすれば、それはそんな制度や慣習で成り立っている社会そのものが激変する時期になるのかも知れず、そういった機会を捉えて改革を断行するような成り行きになればそれが革命と呼ばれる出来事になるわけだろうが、実際にそういうことをやればそれ以外でもそれに連動する様々な方面でも改革をおこなわなければならなくなって、結果的にそういうことをおこなうこと自体が様々な不具合や不都合を生じさせて、社会の各方面に否定的な作用や影響を及ぼして多大な被害や損害をもたらすのかも知れないが、時としてそういう成り行きにならざるを得ないようなことにもなってしまうわけだ。
3月10日「自然と宗教と文明」
この世界では自然の中よりは社会の中に人を生かす人為的な仕組みがあるといえるだろうが、では自然の中には何があるかといえばその中で生息している動植物を生かす仕組みがあるわけだが、そういう自然の仕組みと人為的な仕組みとの間にどんな関係があるのかといえば、それは仕組みの中身にもよるだろうが、人も社会も自然に含まれるのだから人為的な仕組みも自然の仕組みに含まれていて、その一部を構成していることは確かであり、その中で生かされているのは動植物とともに人も生かされているはずだが、人も動物に含まれるのだからそんなことは当然だとしても、社会の中で機能する人為的な仕組みを作ったのが人だとすれば、自然の仕組みを作ったのが神だと考えるのが宗教の教えであり、その宗教を作ったのが人であり、宗教は社会の中で機能する人為的な仕組みであるから、人が自然の仕組みを人為的な仕組みの中に組み込んでいるのであり、そうやって自然が人為的な仕組みの中に取り込まれているわけだが、宗教というよりは文明全体が自然を取り込むことによって成り立っていて、人為的な社会環境自体が自然環境を変形して人が住みやすいように改造されているわけだが、社会の中にも人の中にも自然が入り込んでいることは確かであり、社会も人も自然から作用や影響を受けて支配されている面があるとしても、自然がどのように社会や人に作用や影響を及ぼしているのかというと、人が社会や人を人為的に制御しきれない面において自然から作用や影響が及ぼされて支配されているわけだろうが、それを宗教においては神の支配にたとえるにしても、その一方で科学技術などの文明の力によって自然を人為的に支配しようとしているだろうし、宗教的な面では神からの支配を受け入れる一方で、文明的な面では自然を支配しようとしていて、そういうところで都合良く無矛盾な論理を構成している面もあるだろうが、宗教をそれほど信じていなければ特に問題はないのかも知れないが、何かというと都合良く宗教を持ち出す成り行きもあるだろうし、特に人が集団となって他の集団と争う場合にはその口実として宗教が持ち出されてくるわけで、それが人為的な操作であることは明白だとしても、争いが拡大して人為的に制御しきれなくなると自然の支配がそれだけ強まっていることになり、それが宗教的には神の意志が争いに反映されていることになるのかも知れないが、ではそこにどんな意図が反映されているのかといえば、人の都合を無視するような成り行きになっているわけだから、結果的には人の意志に逆らっていることになるわけで、そういうところで人の意志と神の意志が相容れないことを示していて、その宗教を信仰して神のために戦っている人々にとっては不条理この上ない事態に直面しているはずだが、そういう成り行きになってしまうのも神の意志の表れだと思う他ないだろうが、そこでも都合良く状況を解釈するなら、神と対立する概念として悪魔を導入して、神の側についている人間たちが悪魔の支配を受け入れた敵対する人間たちと戦っていることにすれば、それなりに話のつじつまが合うのだろうし、結果的に争いに勝った側の論理としては悪魔に操られた軍勢に勝利したことにすれば良いのかも知れないが、果たして現代においてそういう論理が通用するのかといえば、人間側の都合で争っているのにいつまで経っても決着がつかないような内戦の泥沼化に陥っていれば、次第に宗教的な論理では持たなくなってくるのかも知れず、そうやって人心が宗教から離れてゆけば宗教を利用した人為的な争いも廃れてくるのかも知れないが、それが神の意志が反映した結果だと捉えるなら、自然の作用としてそうなったともいえるだろうし、人為的な宗教より自然の力が勝ったから宗教によって人を制御する力が弱まってきたともいえるのかも知れないが、人を戦いに駆り立てるのも生存競争という自然からの作用によるのかも知れないから、戦おうとすることも戦いによって疲弊して戦いをやめようとすることも、どちらにも自然からの作用や影響が働いていると捉えるならば、自然は人に味方しているわけでもなく敵対しているわけでもないとともに、ある面では味方しているとともに別の面では敵対しているともいえるのかも知れず、恵みをもたらす面では味方していて災害をもたらす面では敵対していることにはなるが、ただ単に自然には人が利用できる面と利用できない面があって、利用できる面では利用することによって恵みがもたらされて、利用できない面では災害がもたらされることもあるが、自然が人を狙って災害をもたらしているとはいえない面もあるだろうし、危険な時期や場所にいるから災害が降りかかってくるだけで、利用するためにそこに行くから災害が降りかかってくるともいえるかも知れないが、さらに利用した結果として災害が起こりやすいような環境に自然を変えてしまった可能性もあるだろうし、そうなるとそれが自然災害というよりは人災としての戦争や飢饉や疫病などになってしまっていることもあり得るわけで、そういう意味では自然を利用することによって都合良く一方的に恵みだけを取り出すことはできないのかも知れないし、恵みと災害が一緒になってもたらされるようなら自然は人間にとって味方でもあるし敵でもあり、そうではない面では味方でも敵でもないともいえるかも知れないが、それでも結果的には自然を利用することによって文明を築いて栄えているわけだから、自然との関わり合いの中でそういう成り行きになっているとしかいえない面もあるわけだろうが、味方や敵という表現自体が本来は自然に対して使う言葉ではなく、人や集団との関係の中で使う表現だから、そうやって自然を擬人化すること自体が宗教的な特徴でしかなく、自然を自然として取り扱うには妥当とはいえない表現になってしまっていて、そこに自然を真正面から受け止められない人間的な弱さが示されていて、それを弱さといってしまうと何が弱いのかよくわからないが、自然を言葉で表現して我有化する上で人の都合が反映された宗教を持ち出して、自然が神から恵みである面では人の味方であるかのように見なそうとしたり、都合の悪い面は悪魔のせいにしたり、自然から人へともたらされる作用や影響を良し悪しで区別して整合性をとろうとするところがおかしいのかも知れないから、宗教をなしで済まそうとすれば自然科学から得られた知識を用いた説明で間に合わせるしかないだろうし、そうなると霊的な表現を取り除いた合理的な説明になるわけだが、世の中のすべての面でそうなってしまえばもはや宗教が要らなくなってしまうのかも知れず、果たしてそれが可能になるかといえば、世の中がそういった方向へ進んでいるように思われるなら何かそれが文明の進歩に連動しているようにも思われてくるわけだが、霊魂の存在なしで物事を説明する上で最大の障害となってくるのが、人の意識や精神に関する問題になるのかも知れず、それがないと人としての存在が成り立たないだろうし、そもそも神や宗教の類いも人の精神作用からもたらされた概念と考えるなら、それだけを迷信として片付けるわけにはいかないし、現実に神や宗教と似たような概念を実用的に普段の生活の中で利用していて、それが貨幣であり、物や情報やサービスなどを利用する上で欠かせない交換媒体として社会の中で機能しているわけだが、神や宗教とともにそれと似たような信仰の対象である貨幣を片付けることができれば世界が完全に共産主義化するだろうが、現状ではそうはなっていないわけだから、そんな無神論的な合理化にも何らかの限界があるのかも知れないし、もちろん霊魂と貨幣が同じ性質を伴っているとも思えないから、それらに対する信仰にも違いがあるのだろうが、そういうことも含めて少なくとも現状では宗教と科学が両立できる社会環境になっているのではないか。
3月9日「状況に合わせた心理状態」
現代の大衆市民社会とも呼ばれる社会状況の中で、大抵の人は他の誰とも似通ったありふれた人生を歩んでいるように思われるが、いつの時代でも人は他の人と似たような暮らしの中で生きているのだろうが、それでも体験しているのは各々で微妙に異なった内容になるだろうし、あらかじめ他の何かによって定められた生き方に調整されているかというと、公的な法律や制度や社会的な慣習やしきたりなど、一定の同じような行動様式や生活様式に縛るような作用や影響をもたらす決まり事に囚われていることは確かで、それによって人が群れとしてまとまった形態を維持しているわけだろうが、そういう水準ではなく人を個々の水準で捉えるなら他人との違いを色々と意識しているし、他人と同じでは満足できない面では他人より秀でたいと思うところだろうが、そういった他人と競合や競争している面では同じ価値観を共有している中で他人より優れていたり劣っていたりする面を意識するわけで、それは同じ職種や年代や社会的な立場や境遇の中での比較になるだろうが、そういうカテゴリー別の競い合いとは異なる面で何を意識しているかとなると、自らをそれらしく装いたいというか、自らを自らにふさわしく見せたいと思う面もあるかも知れず、それが自尊心の表れなのかも知れないが、少なくともみっともない姿を他人に見られたくはないだろうし、無様であっては恥ずかしいわけで、できれば卑怯なまねはせずに正々堂々としていたいわけだが、そういう否定的で恥ずかしいことをやってしまうとそれを隠し通そうとして、さらに色々と人には言えないような隠蔽工作のようなことをやってしまうと、それがきっかけで身も心も悪に染まって行ってしまうわけだろうが、逆にそういうことをやらなくて済むように善人づらを押し通せるような行動様式や生活形態を模索し出すと、倫理や道徳などの面で宗教に助けを求めてしまったり、それも人生がこじれるきっかけになってしまうだろうが、そうやって自らがやってしまったことを必要以上に良し悪しの基準で評価しようとしてしまい、特にそこで悪いことをやらないように心がけたりやらないように自らの生活態度や習慣を調整しようとしてしまうと、やりたくないのにやってしまったりやらざるを得ないような成り行きに巻き込まれてしまうわけで、そんなふうにして自らの意志を裏切ってしまって罪悪感から逃れられずに煩悶するのだろうし、それが高じて中には心を病んでしまう人も出てくるのかも知れないが、そこでも逆に何が何でもそんなことをやってしまった自らを正当化せずにはいられないような成り行きになることもあるのかも知れず、そうなるとひどいことや悪いことをやったことについてすべてそれは自分のせいではなく、他に責任転嫁するような独善的な態度になってしまうのかも知れないし、そうやって一方的な傾向や態度に凝り固まってしまうのも心を病んでいる表れであったりして、どちらに向かっても一方的に良かったり悪かったりする傾向になってしまうから、良くも悪くもあり良くも悪くもないような中途半端な状態へ留まれなくなってしまうわけで、そんな単純明快さの水準で物事を判断するだけになってしまうと、そういう思考の傾向では奥行きや柔軟性に乏しく、もうそうなっている時点で何かの限界に達してしまっているような危うさを感じられるわけだが、そんなふうに世の中の各方面で活躍する人の意識や思考の凝り固まり具合が顕著になってきているとしたら、それだけでも社会の行き詰まり感を物語っているのかも知れず、人の意識が依存できるような善悪の判断基準が明確に定まっていることが安心材料ではあるわけだが、そういうことを主張せざるを得ないような状況というのが、善と見なされていることをやらなければならない一方で、悪と見なされたことは絶対やってはならないと決めておかないと安心できないわけだから、実際にそれをやってしまう人がいくらでもいるから、絶対にそんなことはやってはならないと主張せざるを得ないのかも知れないし、それだけやってはならないことが世の中でありふれているから、そう主張せざるを得ないような状況となっているとしたら、やはりそうなっている時点ですでに末期的な状況となっているのかも知れず、そんなことを主張している人たちが末期的な現状を意識しているからそう主張せざるを得ないと考えれば、そういう人たちの存在自体が社会的な行き詰まりを示していることになり、意識や思考が一方的に凝り固まってしまっているから、もうその状態から抜け出せなくなっていると見なされるわけで、いったんそうなってしまってから意識や思考に柔軟性や多様性を取り戻そうとしても手遅れなのかも知れないし、社会の行き詰まりとそんな社会の中で生きている人の意識や思考の凝り固まり具合が連動していると捉えればいいのかも知れないが、そういう世の中の状態や状況を否定的に捉える必要もないのかも知れないし、単にそういう行き詰まりの時期がある一方でそんな傾向が極まってくると何かのきっかけから一気にそれが瓦解するようなことも起こるのかも知れず、そんなことが起こるとまたそこから流動的な状態となって、そういう状態も安定してくればまた特定の傾向に凝り固まるような成り行きが生じてくるのだろうし、その中で暮らしている人からすれば、そういう世の中の状態に合わせて意識や思考の柔軟性や硬直性が変化するのかも知れず、そういうことに意識的な人はそういう傾向を敏感に察知して、世の中の状態が行き詰まり傾向になって人の意識や思考もある一定の傾向に凝り固まってくれば、そこでそういう傾向になってしまった他の人たちとの差異を際立たせようとすれば、意識や思考の柔軟性や多様性を保とうとするのかも知れないが、それを意識してできることなのかどうかはよくわからないとしても、何かおかしいとは感じるだろうし、おかしいと感じただけでもそれとは違う傾向を目指していることの表れとなり、そんな凝り固まった傾向にならない状態へと踏みとどまるような抵抗感が生じるわけだろうが、逆に世の中の状況が流動的になって激動の時代へと突入して、物事の判断基準となる価値観が定まらなくなって大多数の人が何をどうしたらいいのかわからなくなると、逆に多くの人たちが安心できて信頼できるような価値観を求めて、そういう価値観に基づいた意識や思考の形態を確立しようとするのかも知れないし、そういう意識や思考の在り方を目指そうとするのも世の中の状態や状況に合わせて思うところだろうから、どちらにしても同じような傾向を示していて、世の中の状態が行き詰まればそれに連動して大多数の人の意識や思考の状態も行き詰まってくるから、そんな状態を敏感に察知した少数の人たちがそういう傾向に逆らって意識や思考の柔軟さを保とうとして、逆に世の中の状態が流動的になればそれに連動して大多数の人の意識や思考も定まらなくなってくるから、やはりそんな状態を敏感に察知した少数の人たちが誰もが安心して頼れるような価値観に基づいた意識や思考の状態を確立しようとするのだろうが、果たしてそれだけで説明がつくようなことなのかといえばそうでもないように思われる傾向や状態もあるのかも知れないが、少なくとも何らかの状態や状況の傾向や変化を敏感に察知できるような人は、それに応じて何らかの行為や活動を行う成り行きになってしまうのかも知れず、それが一方では他の大多数の人たちの傾向に合わせるような成り行きになったり、それがおかしいと感じればそれとは違う態度や姿勢をとるようになるのかも知れないし、どちらになるかはどちらが良いか悪いかと思うからだが、そこで一方的にそうなってしまうかあるいは途中で踏みとどまれるかも、その場の状態や状況の傾向や変化を敏感に察知できるか否かにもよるのではないか。
3月8日「練習用の的」
手遅れというのは対応が遅すぎたからそう思われるのだろうが、対応が後手に回るのはよくありがちなことだろうし、何かが起こってからそれに対応するわけだから大抵の場合は手遅れになるのかも知れず、それが何かの加減でたまたま功を奏してうまくいけば迅速な対応ができているように思われるのかも知れないし、うまくいけば迅速な対応だと思われてうまくいかなければ手遅れな対応だと思われるとすれば、単なる気のせいでしかないのかも知れないが、普通に考えて対応が的外れであったり誤っていればうまくいくはずがないだろうし、果たしてそれが本当に手遅れな対応であるのかよくわからないうちにうまくいっていないと判断されれば手遅れだと批判されるのもよくありがちなことかも知れず、そういうことに関しては批判しようと思えばいくらでも批判できるのかも知れないが、肝心なのは実際に対応していることであり、対応できていることがそこで何かをやっていることの証しとなり、それを批判されようがどう評価されようがそれに対して活動をおこなっている限りで、そこで何かをやっていられることになってしまうわけだから、いくらそこで対応の良し悪しを云々する人が文句を言ってきても、そこでやっていることをやめさせられない限りは、実際に何かをやっている人や団体としてはその場の主導権を握っていることになり、それでかまわないような成り行きの中で活動を継続させることができるのだろうが、何でそうなっているのか理屈がよくわからないのに、とりあえずそこで何かをやっていられる成り行きというのもあるのかも知れず、しかも何に対応しているのかもはっきりしないのに、何かをやっているとすれば何かには対応しているはずなのかも知れないが、当人はそのつもりであってもその場の成り行きに翻弄されているのであって、ただ単に情勢に踊らされているだけかも知れないし、そこから悲惨な結果を招いたりすれば他から否定的な評価を受けるかも知れないが、何事もなければ特に何を言われる筋合いもなく、ほとんどの場合はスルーされてしまうのかも知れないが、そういう活動に他から何らかの負荷が加わって、何らかの事件と呼べるような出来事が起これば、それに気づいた人や団体が面白がって騒ぎ立てるようなことにもなるだろうし、そんな偶然の巡り合わせのようにして何かと何かが結びついたりぶつかれば、さらにそれに連動して何かが起きることになるわけで、そうなるとそこから波紋が広がるようにして関係する各方面でそれに対する反応も次々と起こって、それがそれへの対応となるのだろうが、結局世の中でおこなわれている活動というのはそうした対応の類いなのかも知れないし、何も起こらなければ活動も起こらないし、そこで何かが起こっているからそれに対する活動も生じているわけだが、そうなっているだけではそれに関しては何も言えないだろうし、誰かがそれに関して何かを言おうとするからそれらの出来事と言説を結びつける必要も生じるわけで、それも出来事への対応として機能するのかも知れないが、それが本当に対応となっているかと言えばそれに関して何かを言っている人にとってはそうやってそれに対応しているつもりなのかも知れないが、そういう言説が物語っていることが対象としているのは、その対象からずれている場合も多く、それが的外れであるというよりは恣意的に的をずらしているわけで、わざと言説の対象とは別のことを述べて攻撃の矛先をかわそうとしているのかも知れず、それで本当にかわしていることになるのかと言えば微妙なところかも知れないが、真正面から攻撃を受け止めるのでは割に合わなければ、窮余の策としてそういうやり方も選択されるのかも知れないし、そうやって特にその気もないのにやっているようなことへと攻撃を誘導して、ダミーの標的へと攻撃させておいてから、その隙にそれとは別の方面で活動をおこなっている場合もあるから、そういう言説を真に受けるわけにはいかないのかも知れないが、事前にそんな仕掛けを講じていれば、言説を真に受けているように装っていることになるだろうし、それをどこまで本気でやっているのかとなるとにわかには判断できないし、少なくともそれほど面白がっているわけではないにしてもそれなりに張り合いがあるのかも知れないし、その気もないのに言説を駆使してそれについて述べている限りで、一応はそういう活動が成り立っていることにはなるだろうが、そうする目的が他からの無用な攻撃をかわすためだけにそんなことをやっているのだとすれば、それ自体がほとんど意味のない中身となっているのかも知れないが、邪魔なノイズを取り除くにはそういう仕掛けが必要ならやらざるを得ないし、そういうところで手間暇をかけられるだけの余裕があることが、それなりに余力が残っていることを示しているのかも知れないし、そんな迂回も前向きに受け止めるべきかも知れないが、実質的にそれしかやっていなければそれが本業になってしまっていて、ただの練習用の的へと攻撃を誘導する目的で大がかりな装置をこしらえ上げて、そうやって攻撃させることによって利益を得られるようならいつしかそれが本業となってしまうのかも知れないが、果たしてそれが全力で取り組むべきことかとなると、始めはその気もなかったのに途中からその気にしまうのかも知れないし、それはそういう成り行きと見なすしかなく、やっている当事者もそうなってしまっている実態を受け入れざるを得ないのだろうが、やり始めた当初はすでに手遅れになっていて他にやりようがないから気休め程度でそんな仕掛けを講じた経緯があるにしても、やっているうちにいつしか立場が逆転してしまい、事前にそういう仕掛けを講じておいたところにその仕掛けへ向けて他から攻撃してくるような成り行きになってしまっているとすれば、そうなっている時点で手遅れでもなく事が起こってから迅速に対応しているわけでもさえもなく、前もって用意周到に準備万端整えておいたところへ予定調和のような攻撃が加えられているような成り行きになってしまっているわけで、それが何を意味しているといっても、それ自体が無意味なことがおこなわれているだけかも知れないわけだが、それでもそこで何らかの活動が成り立っていることにはなるのだろうし、それに関してはたとえ自然からの作用が幾分は混じっているとしても、社会の中でおこなわれている人為的な活動に人が生きていくのに必要なこと以外の内容が含まれていれば、その中には必ずそういう迂回的な活動内容が含まれているのかも知れず、そんなことをやるために人も資源も余計に必要となっているし、そういう人が生きていくための手間暇も余計にかかっているだろうし、そんなことは百も承知であってもそれを無駄な人員と見なして資源や労力の節約のために殺してしまうことはできないし、そういうところですでに生じてしまっている余計な手間暇を削って効率的な活動にはできず、そうなっていること自体がすでに手遅れな状況であることを示しているわけだが、その上で何をやれるかとなると、すでにそこで生存していて生活して活動している人たちをそのまま生かすために策を講じなければならないわけで、それもただ生かしておくだけではまずいだろうし、それらの人たちが満足するような生かし方を考案しなければならないのかも知れないが、誰がそれを考案する義務があるのかとなると、他の誰にもないとすればそこで生きている人たちが自身で満足する生き方を模索するしかないのだろうが、すでに用意周到に準備万端整えているところもあるわけで、それが手遅れであることを承知しつつも何か気休め程度におこなわれていることが高じて、それらの人たちが実際におこなっている活動になるのではないか。
3月7日「救済とは無縁の世界」
よく考えてみるまでもなく特定の宗教が約束している救済などその宗教の信者以外は誰も求めていないのかも知れないし、ただ漠然と全人類が救済を求めているかのような内容のフィクションがどこかに記されているのかも知れないが、普段はそんな大げさで誇大妄想的な作り話など誰も相手にしないだろうし、心の片隅にそんな話を信じてもかまわないような気にさせる何かがあっても、例えばそれが科学技術的な進歩によって実現するのではないかと想像したところで、少なくともそれが今ではないことは確かであり、またそう遠くない未来においても実現するとは思えなければ、やはりそういう大げさなことではなく、現状の世界で普通に起こっていることは、救済とは無縁の救いようのない救われる必要のない出来事でしかないのかも知れないが、その出来事が具体的に何なのかといえば、身の回りで起こっていると思われる出来事であり、それ以外の出来事も起こっていることは確かだろうが、そのほとんどは関知できないだろうし、関係ないように思われるから知るに至らないのかも知れないし、ニュースなどで報じられる話題は少なくとも知るに至るわけだが、知ったところで無関心であればそれっきりになってしまうと思われるにしても、何かそこから作用や影響を受けて心の片隅に残滓のように残ることもあるのかも知れないし、そういう残滓がある程度堆積して、それらのうちの何かと何かが結びついて化学反応のようなことを起こして、何やら固定観念や偏見のようなものが形成されるのかも知れないが、そうなったとして直ちにそれが自らに悪影響を及ぼすとは思われないだろうし、普段は気にもとめないようなことでしかなく、それよりはもっと他に重要に思われることや深刻に思われるような問題を意識しているのかも知れないが、果たしてそれが自らにとって重要であったり深刻に思われるのかとなると、そう思われるとしてもそんなことを思っている自身の存在は大したことはないのかも知れないし、自身の活動内容もどうということはなく、別にそれが世界情勢に深刻な作用や影響をもたらしているわけでもなく、そんな大した存在でもない自分が思っていることが重要で深刻なのかといえば、自分がそう思っているとしても客観的にはそうではないのかも知れず、自分がそう思っていること自体が大したことではなく、では誰もがそう思っていても相変わらず大したことではないと言えるかというと、誰もがそう思っているからこそそれが大したことになるのかも知れないし、誰もがそれについて心配していれば、やはりそれは深刻なことになるのかも知れないが、他の人たちと同じように自分もそう思っているとしても、自分がそう思っていること自体は大したことでも深刻なことでもなければ、自分がそう思っていることと他の大勢の人たちが同じように思っていることとの間で決定的な差異があるのだろうし、大したことや深刻なことは世の中の大勢の人たちが同じように思うことによって生じるのかも知れないが、そう思うことが大した出来事であり深刻な出来事なのかも知れず、もちろんその対象の出来事も大勢の人たちにそう思わせるのだから大した出来事であり深刻な出来事なのかも知れないが、自分一人がそう思うことは他の大勢の人たちにとっては無視できるようなことでしかなく、他の大勢の人たちもその中の一人が思っていることよりも他の大勢の人たちが同じように思っていることの方を重視するのかも知れないし、そう思ってしまうことが世間的な意味で偏見であり固定観念なのかも知れないわけだが、もしかしたらそんな偏見や固定観念自体が大したことではなく深刻なことでもないのかも知れず、それを自らが一人で思っていることよりも重視してしまうこと自体が世間から悪影響を及ぼされていることの証しであり、それが自らに深刻な事態をもたらしているのかも知れないのだが、その深刻な事態というのが自らの存在や活動を軽んじていることなのかも知れず、世間的に思われていることよりも自身が思っていることを優先すべきところを逆に思ってしまい、それによって自身が大衆の中の取るに足らないちっぽけな存在として自ら扱っていることに気づかないばかりか、そういう役割を担わされてしまっているのかも知れないわけだが、誰に担わされているわけでもないのに、自らが率先してそんな役割を担っているつもりになってしまうと、それこそが自業自得でしかないわけだが、そうなってしまうような成り行きが世の中で生じているとすれば、その中で救われないのは自分自身でしかないわけだが、それは自分だけではなく誰もがそう思っていれば、まさに誰も救われないような世界が今ここに実現していると言えるのかも知れず、誰のせいでそうなっているのかといえば、この世界に存在しているすべての人がそう思っていればすべての人のせいでそうなっていると言えるわけだろうが、本当にそうなっているのかといえば誰もそうは思っていないだろうし、また誰にとってもそんなことは大したことでも深刻なことでもないだろうし、本当に誰も救われない世界が実現しているとしても、やはりそんなのは大したことでも深刻なことでもないことになってしまうのかも知れないが、その中の誰か一人が救われてしまっては困るのだろうし、誰も救われないように出る杭が打たれるのとは違ったやり方で救われようとする人の足を世間が引っ張っているのかも知れず、何とか偏見や固定観念の領域にできるだけ大勢の人たちを閉じ込めておく目的で、大勢の人たちの心理に悪影響を及ぼしているのかも知れないが、特定の誰にそんな意図や思惑があるわけではなく、誰もがそう思っているつもりもないのにそういう成り行きに巻き込まれてしまっているのかも知れず、そういう成り行きによって現状の世の中が構成されていて、それが大したことでも深刻なことでもないのに、結果的に誰も救われないような状況となっているのかも知れないが、だからといってそうなっていることが大したことでも深刻なことでもないわけだから、そんな世の中で誰もが平然と生きているわけで、それがどうしたわけでもなければそんな世の中を問題視する必要もなく、実際に何が問題視されているわけでもなければそれでかまわないのかも知れないが、そういった救われるとか救われたいとかいう思いとは無縁でいられることが他の何らかの可能性を示していて、その可能性というのが救われる対象とはならない人になれる可能性だとしたら、そういった救済を目指す宗教とは無縁でいられる可能性になるのだろうし、たとえその宗教が全人類の救済を目指しているとしても、そんな救済を拒否できるとしたら救済自体が大したことではないし、救済されないからといって深刻な事態でもなく、逆に救済されないことの方が現状の世の中では普通のことであり、普通でかまわないのなら救済される必要はなく、普通の状態が救済されない状態なのだからそれでかまわないわけで、それ以上に何が必要なのかとなると他に必要なことなどいくらでもあるだろうし、実際に必要に思われることを求めているわけだろうが、それは誰にとっても必要というわけではなく、その場の状況に応じて必要であったり必要でなかったりする物事でしかないわけだが、他の大勢の人たちが必要でなくても自身が必要だと思われる物事が自身が優先して求めている物事なのかも知れず、そういう物事を獲得することが自分には必要だと思うなら、それが世間的に必要だとは思われないことであってもかまわないわけで、それを求めることを正当化できなくても正当化する必要がなくても、他の大勢の人たちとは違って求めようとしている物事があれば、そういう物事を求めることが自分にとっては必要なことなのかも知れないし、別にそれを求めることが救済につながらなくても困らないだろうし、それが大したことでもなく深刻なことでもなければ普通に求めようとすればいいわけだ。
3月6日「自己への配慮」
人が社会の中で生活して活動していく上で、何かこうあるべきだとかこうするべきだとかいう指針となるようなものがあれば、それがそうしたいと思えるようなものならそれに従いたくなってしまうのかも知れないが、どのような立場や境遇になっていようと無条件で恒常的にこうあるべきとかこうするべきことがあるかというと、普通は立場や境遇によってあるべきこともするべきことも異なってくるだろうから、誰もがこうあるべきとかこうするべきことがあるとは思えないのかも知れないが、中にはそういわれてみればそんな感じがしないでもないことがあるかも知れないし、それが自分に配慮することになるとすれば、いったい自らに対して何をどう配慮すれば良いのかにわかにはわかりかねるかも知れないが、そこから転じて自分に配慮するように他人に対しても配慮しなければならないとなると、何やらそれが倫理的な態度のようにも思われてくるかも知れないし、それに関して例えば自分が嫌がるようなことを他人に押しつけるなとか、自らに配慮することは他人に対しても同様に配慮しなければならないとなれば、それは他人との関係の中で配慮しなければならないことになるわけだが、ではどうしてそれが自らに対する配慮に結びつくのかといえば、自分が他人に対して嫌なことをしなければ他人も自分に対して嫌なことはしないのではないかと期待されるわけで、そんな態度が世の中に行き渡ればもう誰も他人に対して自分が嫌がるようなことをしなくなり、やらせようともしなくなって自分も他人が嫌がるようなことをしなくても済むようになるかというと、そうやって社会全体が友愛に包まれるような状態になることを期待するのが自己への配慮になるかといえば、そう思いたければ勝手に思っていれば良いことかも知れないし、それが高じてたとえ他人から嫌な仕打ちを受けても復讐心に駆られてやり返そうとはせず、むしろ他人が喜ぶようなことをしようとすれば良いのかも知れないが、そうすればその他人がさらに調子に乗ってもっとひどいことを仕掛けてきて、さらに自分が嫌な思いをするかも知れないし、果たしてそれが自己への配慮になるのかと疑問に思われるかも知れないが、調子に乗ってそんなことばかりやっていればそういう行為が目立つようになって、周囲の人たちにもその人が他人に平気でひどい仕打ちをする嫌なやつだということが知れ渡って、次第に敬遠されるようになり相手にされなくなって周囲から孤立してしまえば、他人に対してひどい仕打ちをしたことの報いとなってその人に跳ね返ってきたことになるだろうし、そこで自分が嫌がるようなことを他人にするなということがわかるはずだが、果たして実際にそうなるかというと、相対的に社会の規模が大きくなってある限界を突破すれば、自分が他人に対してやったことが回りに回って自分に跳ね返ってくるまでに至らない可能性も出てくるのかも知れず、そうなればやった者勝ちになってやり得な状況にもなってくるのかも知れないが、例えばそれが狭い家庭の中で両親が子供を虐待したりすれば、その両親が老後になって子供が面倒をみてくれなくなってから思い知るのかも知れないし、そうなると自分とかかわってくる人との間で生じる関係の距離や度合いや内容にもよって、接する態度も変えるようなことにもなってきて、親密な人や利益もたらす人には優しく接したり相手の気分が良くなるようなことを積極的にやろうとするが、その反面で疎遠な人や敵対するような人には平気でつらく当たったり嫌がらせをやるようなことにでもなれば、身内だけにはいい顔をする嫌なやつになってしまうのかも知れないが、そういう行為が自らに配慮していることになるかといえば、どうもそうではないように思われるとすれば、自己への配慮とはそれとは異なるようなことかも知れないし、他人がどうであれそんなこととは関係なく自己へ配慮しなければならないことがあるのかも知れず、例えばそれが自らの精神状態を健康に保つことであれば、もちろんそれには身体を健康に保つことも気にかけなければならないことにはなるだろうが、身体の健康を気遣うあまりに過度に精神に負担をかけるようなことにでもなれば本末転倒になってしまうわけで、それが運動のやり過ぎにつながったり身体に良い食事や住環境や生活態度ばかりに気が行ってしまい、それらをすべてやり切ろうとして気疲れを起こしてしまうことだってあり得るだろうし、そうなると身体にばかり配慮して精神に配慮していないから、それが自己への配慮とはならないのかも知れないし、また自らの財産や家族や親族や交友関係や社会的な地位や立場などを気遣ったり、仕事関連でかかわっている人や企業や各種団体や、公の政治関連では政治家や政党や社会や国家や世界情勢などを気遣ったり、気遣うことが様々にあるだろうし、それらに対する配慮が精神の負担になっているように思われるなら分をわきまえずに気を使いすぎていることになるかも知れないし、そういうところで若いうちから精神の鍛錬を怠ってきたことが今になって響いているのかも知れないが、では様々なことに満遍なく気を使えるように若いうちから精神を鍛錬することが自己への配慮につながるのかといえば、それもそう考えればもっともらしく思われることにはなるだろうが、ではどうやれば精神を鍛えることになるのかといえば、結局は様々なことを経験して困難を乗り切れば鍛えたことになるのも知れないが、そうなるのも偶然の巡り合わせのような成り行きかも知れないし、誰もが同じような程度で精神を鍛えられるかとなるとそうもいかないだろうし、そういうところで鍛えた程度によって分相応な程度が決まってくるのかも知れず、鍛えられていなければ後になって精神的な負担に耐えられなくなってしまうだろうし、年をとればだんだん鍛えられなくなってくるとしたら若うちに鍛えておかないと手遅れになってしまうのかも知れないが、それも鍛えすぎて消耗してしまうことだってあり得るのかも知れず、若いうちでも鍛えすぎて消耗しない程度に鍛錬の分量を絶えず調整する必要もあるだろうし、それも自ら調整する余地や能力があればの話であり、過酷な環境の中で生きていれば嫌でも鍛えられるだろうし、その過酷さもその場だけに特有な過酷さであれば他では通用しないような偏向した凝り固まり方となってしまう危険性もあるのかも知れず、そういう環境の中では確かに有利な精神状態になるが、別の環境下では全く適応できずに自滅してしまうことだってなきにしもあらずなら、やはりどのような環境下でも耐えきれる万能な精神状態になりたいとは思うかも知れないが、そう都合良く精神を鍛えられるかというと、時間が過去から未来へ向かって一方向にしか進まないわけだから、いくら様々な状況を想定して精神を鍛えることができたとしても、これから起こることは未知の出来事になるわけで、それに伴って想定外の状況になる可能性がゼロではない限りで精神の鍛錬にも自ずと限界があるだろうし、鍛えられない面に関しては分相応に対応するしかなく、そうするには自分の立場や能力をわきまえることが自らに配慮することになり、そうなるとあらかじめ自分の能力を知っておくことが肝心になってくるわけで、そうやって自分自身を知ることができればどのような状況に直面しても分相応な対処ができそうに思われるのかも知れないが、果たして自らの限界を知って分をわきまえたやり方で振る舞えるかというと、それを誰が判断するのかといえば自分で判断するしかないだろうし、そのためには自分自身を知っていなければならないから、そういうところで循環現象の中に自らが囚われてしまうわけで、どこまでやってもやりきれないようなことになってしまうから、ほどほどのところで満足するように自らに配慮しなければならなくなるわけだ。
3月5日「認識の限界」
自分を取り巻いている状況や環境が自分にどんな作用や影響を及ぼしているのかといえば、よくはわからないが自分の活動が周囲から何かしら有形無形の作用や影響を受けているわけだろうが、自分自身が周囲の環境に溶け込んでいるのかといえば、環境と一体化しているように感じられるときもあるかも知れないが、自意識の中では自身と周囲とを区別しているときもあるだろうし、自身の存在と活動が自身に基づいている限りで、それ単体で独立して周囲の環境や状況とは別の何かを構成しているように思われるのだろうが、周囲の状況や環境自体もひとまとまりのものとして一体化しているわけでもなく、他とは区別されるようなものとして単体で独立して動いているものもいくらでもあるだろうし、またある部分では他と協調関係や連携関係があったり相互に作用や影響を及ぼし合って連動しているところもあるだろうし、それは自身の存在や活動にも言えるところかも知れないが、それをどう捉えるかによってもそれらの関係や結びつきも違って見えるかも知れないし、その捉え方によって他と区別してそれ単体で独立して捉えたり、他と一緒くたにして一体化して捉えたりしているわけだろうが、そんなふうに認識していることが自身に何をもたらしているのかといえば、それを認識している自身の存在をもたらしているわけで、自らがそこに存在していてそんなことを認識しているように思われることが確からしく感じられて、それが自意識の中で自らの存在の確からしさを構成しているわけだが、それとともにそれ以上何を認識しようとしてもきりがないようにも思われて、そういう方面でいくら物事を知ろうとしても、自らの認識には限界があるように思われるのかも知れないが、ではそれとは別の方面で何がわかるのかといえば、何かそこに物事の関係があったりなかったりして、その中で人や物や情報が錯綜して絡み合って作用や影響を及ぼし合い、何かはっきりとは認識できないような現象を起こしているように思われるのかも知れず、何と何が関係しているのかあるいは無関係なのかよくわからないから、何をやるにも手探り状態な面があって、時には勘に頼って活動しなければならないし、それが結果的には正しかったり誤っていたりわからなかったりすることがあるにしても、結果にも至らずに途中でわからなくなってしまうこともあるだろうし、そこでも自意識は認識したいからすべてを知ろうとしてしまうわけだが、知り得ないこともいくらでもありそうに思われるから、その度ごとに頃合いを見計らって断念しなければならず、知りたくても知り得ないことがあるまま中途半端な状態の中で生きていくしかないわけだが、そういった意識が届かない領域を想像してしまうと、想像力にまかせて自分の都合を反映したフィクションを思い描いて、勝手に妄想が膨らんでいってしまうのかも知れないが、そうなるのを押さえ込んでわからないことはそのままにしておけるかというと、実際にわからなければそうなるしかないだろうが、下手にわかろうとして勘違いな妄想を膨らませてもかまわないのかも知れないし、その場の状況に応じてそんな自意識を放置しておけば、やがてそれではまずい状況になってしまい、自らの間違った認識を修正せざるを得なくなるまで放っておいてもかまわないのかも知れないのだが、無理に軌道修正することもないのかも知れないし、そういうところでいつどんなタイミングで誤りを正さなければならなくなるのかもわからないだろうし、それは自らがそれを自覚するまで待つしかないのかも知れないが、待っていられなければすでにそれを自覚しているわけだから、そこで認識の誤りを正せば良いのかも知れないが、一度そうすればそれで正しくなるわけでもなく、絶えず検証し続けるような成り行きを強いられることもあるだろうし、そういう意味ではいくら認識を改めても安心できないわけだが、そういう認識を改めるように周囲から圧力などの作用や影響を及ぼされているのかも知れないし、そういう同調圧力に従うか逆らうかもその場の状況次第な面もあるのかも知れないが、どちらに転んでもそれなりの経過や結果が待ち受けていて、そこでも自らの認識の誤りを自覚すればそれを修正しようとするだろうし、その自覚が思い違いであれば修正自体も誤りである可能性も出てくるのだろうが、そこで信じられる判断基準があればそれに依存しながら判断することになり、その際に他の多くの人たちと同じ判断基準を共有していれば心強いが、他の多くの人たちも判断を誤っている可能性もあり、他の多くの人たちと同じ判断をしているからといって安心できない場合もあるわけで、それに関してはデマを真に受けることなどがよくありがちな成り行きとなるわけだが、慎重になりすぎるのも時と場合によっては災いするだろうし、迅速に行動できずに石橋を叩いて渡っているうちに石橋もろとも崩れ落ちるのに巻き込まれてしまうこともあるだろうから、そういうところでも正しい認識に基づいて行動すればうまくいくわけでもなく、想定外のことが起これば認識に基づいた判断だけでは間に合わない場合もありそうだが、そこでも結果的にうまくいけば間違った認識に基づいた間違った判断を伴っていたとは思えないだろうし、判断を度々誤りながらも試行錯誤を繰り返したあげくに何とか難局を切り抜けられたなら、途中でいくらでも判断を誤っていてもとりあえずは何とかなったと思うしかなく、それでうまくいったと思われたらそういう認識が正しいとは思われないだろうが、結果的には何とかなったわけだからそれで事なきを得たことにもなるだろうし、それで必ずしもうまくいったことにはならなくても、その場ではそういうことでしかなく、他にも色々とやりようがあった可能性はあるだろうが、結果的にはそうやってその場を切り抜けたことになり、それを他からお粗末な対応だと嘲笑されたり批判されても、それにかかわってきた当人としてはどうしようもないわけで、もう済んでしまったことであり、それを教訓として今後の活動にその時の経験が活かせるかも知れないが、必ず活かせるわけでもなく、また性懲りもなくまずい対応に終始してしまうことだってあり得るだろうし、そういうこともあるから難局を乗り切った自らの経験を自慢するわけにもいかないのだが、しかもそこには他にも大勢の人たちがかかわっていれば、自らの力だけでそうなったわけでもなく、他の大勢の人たちに助けられて何とかなったことになるかも知れないし、またそうではなく自らが中心となってそこで主導権を握りながらそれにかかわっていたわけでもなければ、それが自らの業績として認められるわけでもない場合もあり、そういうところでも自らの努力や労苦が報われたように思っていること自体が勘違いであったり、その人が勝手にそう思っているだけで周囲の人たちからは何とも思われていなかったりして、そんな現状についての自らの認識が他の人たちとは全くかみ合っていないのに、それによって周囲との関係が支障をきたすわけでもなく、周囲の人たちからは馬鹿にされているのに当人がそれに気づかなければ、そのままでも何とかなってしまうことだってあり得るだろうし、そんなことを心配するまでもなくそのままそれなりにその環境の中で過ごせていること自体が、結果的にはそれが難局とも思われないような普通の状況を乗り切っていることになってしまうのかも知れず、それで果たして認識や判断を誤っていることになるかといえば、ある面では誤っているかも知れないが、誤っていてもかまわないと判断してもかまわないのかも知れないし、そんなのは正しいとも誤っているともどちらにも判断する必要のないことなのかも知れない。
3月4日「真理の発見と創造」
経験上こうすればこうなるということがわかるのは必然的な成り行きの部類に入るが、わかったところで必ずそうなるとは限らないとしても、そうなることがわかればそれが役に立ちそうに思われるからその経験が重視されるだろうが、その中でも偶然にそうなったと思われる経験は、次に同じことをやっても必ずそうなるとは限らないから重視されないだろうし、必ずそうなることは同じことを繰り返せるから役に立ちそうに思えるが、偶然にそうなったことは必ずそうなるわけでもないので、こうすればこうなるという理屈が通用しないわけだが、それでもそうなる確率が一定の割合で出てくれば何やらそれが役に立ちそうに思われるだろうし、要するに何らかの規則性が見つかればこうすればこうなるという役に立ちそうな知識として記憶されることになるわけで、さらにそうなる条件がわかればこういう条件の下でこうすればこうなるという理屈が成り立ち、それも役に立つ知識として記憶されることになるだろうし、そうやって何らかの物事の動作や生成や推移などが確からしい理屈として確立されるわけだが、それでもあまりにもそうなる過程が複雑で、そうなるのに必要な条件も込み入ってくれば経験として覚えきれないだろうし、そうなる確率も低ければ役に立ちそうには思えないだろうが、必ずそうなるとは思えないのに実際にそうなったというのが、偶然の巡り合わせでそうなったように思われることであり、そこからこうすればこうなるという理屈を抽出するのは無理に思われるわけだが、人によってはそれが必ずそうなると思われてしまうこともあるだろうし、中でも何かを予言したがったり予想したがるような人は、必ずこうなるはずだと断言したいし、実際にそうなればそら見たことかと得意がりたいし、そうやって物事の真理を誰よりも先んじて発見したと主張したいわけだが、さらにそこで権力を行使したい人になると自らがこうしたからこうなったんだということを示したいわけで、こうすればこうなるという真理を自らの行為によって創造しようとするわけだが、そうする過程において他の人を従わせる必要が出てくると、そうなることを信じてくれないと従ってくれないだろうし、そこで確実にそうなると思うから従うのであり、従わせようとする人と従う人がこうすればこうなるという真理を共有することによって権力の行使が可能となるわけだが、その中には従わないと必ずひどい目に遭うぞという脅迫の類いも含まれるだろうし、もちろん従えば確実に利益を得られるから従った方がいいという経済的な勧誘の方が現代の主流だろうが、さらにこのままでは大変なことになるから言うことを聞けという危機感を煽るような人も多いだろうし、それらはひどい目に遭うとか利益を得られるとか大変なことになるという予言や予想を通じて人を従わせようとしていて、従わせようとする人たちにこれから起こるだろう真理を示しているわけで、それを自ら起こすとなるとそれが真理の創造であり、人を従わせるということを自ら起こすことに成功すれば権力を行使したことになるわけだが、それとともに従った人に利益をもたらしたり従わなかった人を罰したりすることも含まれるだろうし、また自らが利益を得るために他人を働かせることも含まれるのだが、従う方もそうなると信じないと従わないだろうし、そういう意味でそこに信じられる真理が提示されることが権力を行使できる条件となるわけで、そうであれば自らが示した真理が他人に信じてもらえないと権力を行使できないから、権力を行使する対象の人たちが信じてもらえるような仕掛けを用意することにもなるだろうし、そうやって何らかのやり方でそれを信じるように誘導するわけだが、そんな制度的な仕掛けが真理の体制となるわけで、政府や企業や宗教教団などの各種団体はそんな体制を用意して、そこに群がってくる人たちを拘束して従うように誘導するわけだが、中でも政府は国家を直接統治しているわけだから、その領域内に生まれてそこで暮らしている人たちを強制的に従わせているわけで、従わざるを得ないような国家体制がすでにそこにあるわけだが、統治がうまくいかなくなると最悪の場合は体制を信じられなくなり、亡命したり移民となって住民が国外へと出て行くような成り行きにもなるわけだが、統治というのが人を信じさせるやり方であり、信じさせて統治する側の都合が良いように制御したいわけだが、統治される側にとっても都合が良いと思わせないと信じてもらえないし、そうやって統治する側とされる側の双方にとって都合が良ければ統治もうまくいくし、権力も行使しやすくなるのだろうが、信じるといってもそれが信じないとひどい目に遭うような否定的な真理だとそれなりに抵抗感が伴うわけで、脅迫されているように感じられると少なくとも良い印象は伴わないだろうし、そういう意味では人を脅して統治するようなやり方がうまくいくとは思えないわけだが、そんなことをやっている側はそうは思わないのかも知れないし、何かというとこちらの言うことに従わないとひどい目に遭うぞという脅し文句を用いてしまうわけだが、そんなことを言ってしまう人たちにはそういう言葉しかないのかも知れず、言葉以外に人を誘惑する手段を持ち合わせておらず、しかもその人たちが主導権を握って提供できる物事が他には何もないから、脅し文句しか用意できないわけで、そうなっている時点でだいぶ不利な状況にあるわけだが、それでも人を制御したり誘導したければ他人が不快になるようなことをやってでもそうするしかないのだろうが、果たしてそういう脅し文句を他人が真に受けるかというと、切羽詰まった深刻な状況になっていないと真に受けないだろうし、そんな脅し文句を使う側もそれを真に受ける側も危機的な状況の中にいることを共有していないと、それが真理であることを信じられないわけだが、実際にもうすでに大変な状況となっていれば嫌が応にも信じざるを得ないのかも知れないが、そうなっている時点ですでに手遅れになっているのかも知れないし、それを信じたところでどうなるわけでもなければ、いくら脅してみても権力など行使しようがないわけだが、そういう意味でこのままでは大変なことになるから言うことを聞いてくれと訴えかけるような人たちには実質的に権力を行使する手段がなく、そんな脅し文句だけでは人や物事を統治することはできないのかも知れないが、そういう人たちはそれでかまわないような立場や境遇であるのかも知れないし、そういう立場や境遇であるから大して効果のない脅し文句を使って訴えかけるぐらいしか権力を行使して人々を統治する手段を持ち合わせていないのかも知れないが、では実際に権力を行使している人や団体が何を持ち合わせているのかと言えば、例えば人や物や情報やサービスなどを生産して流通して交換して消費する体制を持っていれば、それが真理を使って統治する体制と言えるだろうし、人々はそういう体制にかかわることによって糧を得て生きているわけで、そうやって生きている中で権力を行使したりされたりしているわけだろうが、そんな中でも何を信じられるかと言えば、まずは実際に何らかの糧を得て生きている現実を信じないわけにはいかないし、それが信じられる最低限の現実であり前提となっているわけだが、その上でこれから起こることを信じられるかとなると、現状の延長上で判断するしかないだろうし、そうした判断の中で優先されるのが、実際に権力を行使できている人や団体であるかどうかということになるだろうし、またそれらの人や団体が真理の統治体制を持っているかどうかも、権力を行使できるか否かの判断基準となってくるわけで、それが偶然にそうなっているとしても多くの人たちがそれを信じていると、何やら確実にそうなっているように思われてしまうわけだ。
3月3日「変化することの両義性」
思考がある一定の傾向に凝り固まっていることは、何か特定の物事に興味を惹かれていることの表れかも知れないが、その物事から何らかの作用や影響を及ぼされて思考や意識が一定の傾向に凝り固まって、そんな思考に作用や影響されてその人の活動も一定の傾向に凝り固まってしまうこともあるだろうし、それがその人の職業としてそうなっていれば、その職種に関係する特定の物事に囚われているからそうなっているわけだろうが、生き方や考え方としてそうなっていると何か偏向した固定観念に囚われている可能性があるかも知れないし、それがその人の思想や哲学や宗教に表れていれば、そこからその人に特有の主義主張の類いが導き出されるかも知れないが、それが特定の政党や宗派などに関係してくると政治的な傾向を帯びるだろうし、さらにそれを肯定するのではなく否定して批判するようなことになれば、そうした否定や批判の対象に対して一方的な決めつけやレッテル貼りなどをやっていて、そうやって政治的な思惑として否定しておかなければならない攻撃対象が特定されてくるわけだが、それが他の多くの人たちからも否定されて攻撃されていれば何らかの偏見や固定観念として世の中に定着している可能性はあるだろうし、しかもその対象が否定されて攻撃されているにもかかわらずそれなりの勢力を伴って活動が存続していれば、その対象も一定の支持を得て世の中に定着していることになるわけで、そうやって否定や批判の攻撃対象となっている勢力は、それが存在していてそれに関係する活動も成り立っている限りで何らかの存在意義があるのだろうし、それを恒常的に否定したり批判を繰り返している人や勢力にとっては、それらの人や勢力の活動自体がその対象を否定したり批判したりすることによって成り立っているわけで、そうなるとそれらの人や勢力と否定や批判の対象とは何らかの共存関係や依存関係にあると言えるだろうし、それが敵対しているにもかかわらす互いに互いの存在や活動を補い合い支え合うような補完関係にもあるのかも知れず、そうなっているだけでも予定調和の二項対立を形成しているようにも見えてしまうわけだが、それが問題だとかそういう関係は解消しなければならないということではなく、むしろそうなっていること自体が世の中の安定に寄与していることになるだろうし、逆に対立関係が双方の和解によって解消してしまったり、否定や批判の対象が攻撃によって弱体化して消滅してしまってはまずいのかも知れず、あくまでも双方の存在や活動が存続している限りで世の中の状態が維持されるような成り行きになっていて、そんな状態から何らかの利益や弊害が生み出されているとしても、そういうことを含んだ世の中の在り方としては、そうなっていることがそういう状態の存続条件となっているわけだから、世の中が存続する前提条件としてそういう関係が必要不可欠であるのかも知れないし、逆にそういう関係が消滅してしまうとそれまでとは別の世の中になってしまう可能性があり、そうだとすればそこから利益を得ている勢力はそういう状態を保とうとするだろうし、またそこから弊害を被っている勢力があれば、そういう関係がなくなれば世の中が変わって弊害を被らなくてもいいようになる可能性があるわけで、それが一般的にはそこから利益を得ている勢力が弊害を被っている勢力に対して、一方的に否定や批判の攻撃を加えているように見えるわけだが、実際には攻撃を加えられているのになくならないし、実態としては互いに批判や非難の応酬状態となっているわけだから、そういった否定や批判の対象となっている勢力であっても、勢力として存在して活動が成り立っている限りで何らかの利益を得ているわけで、その利益がどこから生じてくるのかと言えば、そうした勢力を支持して支援している人たちからもたらされているわけだろうが、なぜ支持したり支援しているのかと言えば、その主義主張が正しいように思われるからだろうし、場合によってはその活動から利益がもたらされているように思われるのかも知れないが、それが実態としてそうなのではなく期待としてそう思われる面もあるだろうし、今はまだそうではなくてもこれからその勢力が世の中の主導権を握ればそうなるかも知れないから、そうなることを期待して支持したり支援しているとなると、少なくともまだそうなっていないことになるわけで、それがいつそうなるかはこれからの活動次第な面があるとすれば、そうした支持や支援の輪を拡げてゆかなければならないと思うなら、勢力を拡大しようとする運動に参加することにもなってくるだろうが、実際にそうやってその勢力が拡大することによって世の中が変わるのかといえば、たぶん変わるだろうし、世の中を変えようとしてそんな運動をやっているわけだから変わってもらわないと困るわけだが、期待通りで思い通りに変わるわけでもないだろうし、それ以前にその勢力と敵対する勢力も存在しているわけだから、そうした勢力同士の力関係に変化が起こることで世の中が変わったように実感されるのだろうし、またそれらの勢力同士の共存関係や依存関係などに変化が起こることによっても世の中が変わるわけだから、そういう相互作用の結果としてもたらされる状況がその勢力の支持者や支援者の思惑や期待とは違ったものになることは充分にあり得るだろうし、それが期待外れという実感を伴えば支持する気持ちも揺らぐだろうし、場合によっては支援をやめるような成り行きにもなるのかも知れないが、たぶんそれが世の中の変化に合わせて生じる気持ちであり態度になるのかも知れず、実際に世の中が変わればそこに暮らす人の気持ちや態度も変わるわけで、たとえそれが期待外れによる支援の打ち切りであっても変化には違いないだろうし、それらの人の期待通りには変わらなかったからそうなったとしても、それも変化には違いないわけで、期待が期待外れに終わってだけでも変化したことになるのかも知れないが、誰もそういう変化は望んでいないだろうし、望んでいないことが起こるのも変化だとしても、そういう変化が起こってもらっては困るわけだが、人を困らせるような変化が起こるからこそ、さらにそこから変化することが期待されるわけで、思い通りにはならないから思い通りの変化が起こってほしいという期待が生じて、そんな期待が裏切られることによってもまたそこから思い通りに変化してほしいという期待が生じるとしても、変化が起こらなかったから期待が裏切られたと思うのは違って、期待が裏切られたこと自体が変化であって、期待していた気持ちが裏切られた気持ちに変化したことになるわけで、そんな気持ちの変化が世の中の変化に応じて生じているとすれば、そう思うだけでも世の中が変化したことになるわけだが、絶えず期待していたのはそんなことではないと思うことによっても世の中の変化を感じ取っているのかも知れず、それとは逆に期待していた通りの変化が起こったとすれば、そうなることを期待しながら予想していたことにもなり、そんな成り行きに心も気持ちも囚われていたことにもなるわけで、果たしてそれが変化と言えるのかとなると、思い通りで期待通りの変化であるにしても、そんな肯定的な気持ちとは裏腹に実態は何も変わっていないことになるのかも知れず、そういう意味で絶えず変化には思いがけない要素や要因がないと変化したことにはならず、それが思い通りや期待通りである限りで、そう思っている人自身を変えたことにはならないわけで、その人の思いや期待が変わらなければそれに応じてその人の活動も変わらないし、その人を取り巻く環境も世の中も変わったことにはならないのかも知れないが、実際にそうした変化が起こるとその人自身が困ったことになる可能性が高いのかも知れない。
3月2日「不都合な認識」
過去に様々なことがおこなわれたりおこなわれなかったりした結果として現状があり、それは現在進行形で続いていることでもあるだろうが、様々な物事の偶然あるいは必然的な巡り合わせを伴って続いていることでもあり、そうなった結果から考えればそうなったことについて納得できる理由や原因を導き出せるかも知れないし、実際にそれを導き出せればそんな結果に納得してもかまわないのだろうが、納得できなければさらに考察を続けて納得できる説明を導き出そうとするのかも知れないし、納得できなくてもかまわないとは思わないのかも知れず、納得できないままに留まることができるかとなると、納得できるような結果を導き出せなければそうなるしかないわけだが、逆に納得できる答えを導き出してしまうとそれ以上は考えないだろうし、それ以上考えないからそこで思考が止まってしまって、そうなればそれ以上考える理由も原因もなくなってしまうわけで、そうやって考える理由や原因がなくなって納得できてしまうことが思考を止めてしまう理由や原因となり、それ以上考えることをやめるには考える理由や原因がなくなるような状態に至ればいいわけだが、それがどういうことかといえば考えて答えを導き出して納得できればいいわけで、納得できればそこで考えることをやめて納得できなければさらに考え続けることになると、考え続ける理由や原因が納得できないことであり、絶えずその理由や原因について疑念を抱き続けることにもなり、実際に現在進行形で疑念を抱き続けているわけだが、そんな現状の中で何を考えているのかといえば、相変わらず納得できない理由や原因について考え続けていることになるのかも知れないし、そのまま納得できない現状の中に留まり続けているのかも知れないが、そうやって考え続けることや疑念を抱き続けることから何がわかるのかといえば、現状がこうなっていることに関してその理由や原因を求めるようなやり方では納得できないということであり、納得するためにはその理由や原因を求めるのとは違うやり方を導き出さなければならないのかも知れないが、それに関しては逆から考える必要があるのかも知れず、そもそも現状がこうなっていると決めつけていること自体が間違っている可能性があり、現状がこうなっているからそれに基づいてこうなっている理由や原因を求めようとして、何やら納得しがたいような理由や原因が求まってしまうのかも知れず、そんな疑念が解消できなければ現状がこうなっているという認識自体が間違っていて、間違った認識から間違った理由や原因を求めてしまうから納得できなくなってしまうのであり、そうだとすると現状がこうなっているという決めつけ自体を疑ってかかる必要があり、何らかの作用や影響によってそういう現状認識に至るように誘導されてしまっているとすればそれを突き止める必要があるわけだが、現状がこうなっていないとすれば実際にはどうなっているのかといえば、こうなっている以外の現状を見つければいいわけで、またこうなっているように見せかけている現状も知らなければならないだろうし、そうであるなら現状には様々な側面があって、現状のある一面については知っていたり気づいているかも知れないが、別の面については知らなかったり気づいていなかったりするのかも知れないし、また知っていたり気づいているつもりであってもそれが間違っている可能性もあるだろうし、それに関しては勘違いや錯覚をもたらす理由や原因があるのかも知れないが、それを突き止めるには何が必要かといえば、まずは現状認識について疑念を抱くことが必要であり、現状をそう捉えると不都合に思われる理由や原因を探らなければならないし、要するに現状がこうだと決めつけるとあまりにもそれに反するような物事の状態や成り行きがありすぎれば、こうだという決めつけ自体が間違っていることは明白なわけだが、何がそういう決めつけを許しているのかといえば、そう決めつけておいた方が都合が良いと思われるからで、そうであればそういう決めつけにとっては都合の悪い現状の実態を探し出せばいいわけで、そういう実態が明らかになればそんな決めつけは間違いであることが明らかとなるわけだが、そういう決めつけをおこなう人は自身にとって都合の悪い現状に気づいていないか、意図として言い落としたり隠そうとしているのかも知れないし、気づいていなければその程度のいい加減な認識しか持ち合わせていないことになり、意図的に都合の悪い面を言い落としたり隠そうとしているのなら、そういうことをやっても大丈夫だと思われるような立場や境遇であるのかも知れないが、それが実際には大丈夫でなければその人の認識が浅はかであったことが明らかとなるのかも知れないが、そういうお粗末なところや勘違いなところがあれば、そこからいい加減な決めつけに基づいた誤った現状認識がもたらされていることになるわけだが、果たしてその程度のいい加減な現状認識をもっともらしく感じられるかとなると、それで都合が良ければもっともらしく思っているように装うわけで、現状がそういうことになっていた方が都合が良いからそういうことにしておきたければ、それで都合が良い人たちが互いに示し合わせて、そんな現状認識に支持や賛同を表明しながら、他の人たちにも同調圧力を加えてそれに従うように仕向けてくるのかも知れず、そうやって自分たちに都合の良い現状を人工的にこしらえようとするのかも知れないが、果たしてそんなやり方がうまくいくのかといえば、部分的な範囲内で一時的にはそういう現状がもたらされるのかも知れないが、世の中のすべての面に渡ってそうなるわけでもなく、現状のある面においては確かにそうなる部分もあるのだろうが、そういう現状をこしらえようとしている人たちもそれ以外の現状があることは知っているだろうし、自分たちが加えている同調圧力に従ってくれない人たちがそれなりにいることも知っているはずだが、そういうことをやっている成り行きの中では意図的に都合の悪い人たちの存在を隠そうとしたり言い落としたりするのかも知れないし、そうやってそこに自分たちにとって都合の良い現状があるように装い、その中ではそれが当たり前であるかのように振る舞うわけで、端から見ればそういうのは紛れもない演劇空間であり、普通の感覚だとそんなことをやっている人たちが滑稽に見えてしまうわけだが、そういう状況の中では誰もが滑稽だとは口が裂けても言わないし、言わせないように箝口令も敷かれているだろうし、そういうところで何から何まで不自然な動作や仕草に支配されていると、普通はそういう現状自体に疑念を抱くはずだが、慣習としてそういう動作や仕草が定着していると自然に思われてしまうわけで、それが自然な動作や仕草に思われてしまうところが気づきにくのかも知れないし、それが意図して示し合わせた演技などではなく自然な振る舞いとなっていると、そんな現状の中ではそうなっているのが当たり前の感覚となってしまうわけで、そうやって現状が作られているとすれば、そんな現状がおかしいとは誰も思わないだろうし、そんな現状になっている理由や原因もよくわからないかも知れないが、それがごく普通の自然な認識であれば、改めてそうなっている理由や原因を探ろうとは思わないだろうし、そもそもそうなっていることに関して疑念を抱かなければその理由や原因など必要ないわけで、それに納得するとかしないとかの問い自体が生じないのだから、そうやって現状に対して何の疑念も抱かないような成り行きがあれば、そんな成り行きの中では何を考える必要もないだろうし、別に何も考えなくても何の不都合も感じないのではないか。
3月1日「自分の重要性」
何が重要だと思っても自身が感じている中で最も重要なことは自らの存在と活動になるだろうが、まず自分が何かを思うわけだから、自分にとっては自分に関することが最も重要だと思うのは当然ことかも知れないが、そんなのは当たり前に思われるにしても、自身にとって自身の存在と活動が何を意味しているかといえば、そんなことを改めて考えてみることはまずないだろうし、普通の感覚では考えられないことかも知れないが、それ以外では少なくとも自身が依存している物事は重要に思われるのかも知れないし、実際に何かに依存しきっていればそれなしでは生きられないと思うからそれが重要に思われるだろうが、例えばそういう物事の中で宗教がどれほど重要に思われるかというと、その人がどれだけ宗教にのめり込んでいるかにもよるだろうが、生活の中で宗教にかかりきりになる時間がどれほど多いかで、その重要度も決まってくるように思われるかも知れないし、それもその儀礼的な動作が習慣と化してしまえば普段はあまり意識しないだろうし、それが実質を伴わない形式的な動作であればあまり重要だとは思われないのかも知れないが、宗教的な体験によって自身が今までの自身ではなくなってすっかり変わったように思われるとすれば、それだけその体験が重要なことになるだろうし、自分の存在がそんな宗教とともに生じているように思われ、自身の活動が逐一宗教と連動しておこなわれているようなら、その宗教に自らが支配されて操作されているような状態となってしまうのだろうが、そうなるとその宗教に携わることが仕事となっているのかも知れないし、要するに神父や神主や僧侶などの宗教関係者と見なしてもかまわないのかも知れず、それなら何らかの職種に就いている人がその職業の関係者となっていることとそれほど変わらないかも知れないが、そうした職業とは別に何らかの宗教にのめり込んでいるとなると、その宗教がその人にとっては特別な存在となっていることになるのかも知れないが、例えば功利的な損得勘定抜きでそうなっているとすれば、それと別の重要な何かがその宗教にはあるわけだろうが、それが何かとなるとうまく言葉では言い表せないような何かかも知れないし、無理に表現しようとすると感じていることからずれてしまうかも知れないが、中にはそれが宗教だとは思っていない人もいるかも知れないし、その人の生き方そのものが何らかのこだわりに基づいていれば、それを宗教とは呼ばずに哲学や思想や道徳や倫理などと呼んでみた方がしっくりくるのかも知れないが、それらが混ぜ合わさったような観念がその人の生きる術として強く心を捕らえているとすれば、他の人にとってはそれを宗教と呼べば差し支えないことかも知れないが、当人がそう思っていなければ別の呼び方の方がしっくりくるのかも知れないし、どう呼んでみてもしっくりこなければその人の生き方そのものとしか言えないが、その人が依存する対象として神という存在がはっきりと認識されていれば客観的には宗教となるだろうし、何か内なる声のようなものが聞こえてきたりしてその声に従うようなことになれば、その声の主が神となるわけだろうが、そういう原初的な段階ではなく、教会とか神殿とか寺院とかの建物とともに宗教教団の類いが組織されていて、そういった教団に入会するようなことにでもなれば、政府や企業などの各種団体の中に宗教教団もあるということになり、それは社会的な関係と見なされるだろうし、その人と神との関係の他に、教団との関係や教団内の人間関係も介在してきて、さらに教団内で階級や序列などの上下関係も絡んでくると権力関係まで生じてくるし、そうなってくると自身の生き方よりも教団の在り方などの方が重要となってきてしまい、それが高じて教団の繁栄のために働くような成り行きまで伴ってくれば、それは自らが所属している国家や企業の繁栄のために働くことと同じになってしまい、そのためには自分を犠牲にしてもかまわないような気になってしまえば、何のための宗教なのかということになってしまうだろうし、そうやって自分以外の対象へとのめり込むことが自分から離脱してのめり込んでいる対象へ自身を捧げるような犠牲心を生じさせるのだろうが、そういう成り行きを客観的に捉えるなら、自身がのめり込んで依存している対象に利用されていることにしかならないわけだが、そういう状態は洗脳されて身も心も支配されている状態と言えるだろうが、果たしてそれが恒常的に成り立つ状態なのかというと、そんな中でも自己への配慮は欠かさないのかも知れないし、組織や団体のためなら自らを省みないような態度が見せかけの演技でしかなければ、結果的には組織や団体を裏切っていることにもなるわけだが、それ以前に所属している組織や団体の犠牲になってもかまわないのかとなると、それも共存共栄を目指すようなら納得がいくかも知れないが、それ以上に犠牲を強いるようなら拒否してもかまわないようにも思われるわけだが、そういうところでその人の生き方がものをいうのかも知れないし、そういうことに関しては何が正しくて何が間違っているかは一概には言えないところだが、その人のこだわりとその場の状況が許す範囲で思考し行動するしかないのかも知れず、その結果として自分の意志を優先させたり組織や団体の意向を優先させたり、そのどちらも優先させたりどちらも優先できなかったりする場合もありうるだろうが、どうなるにしてもどうにもならないにしても、結果的にどうにかなった分だけ重要性がそこへと移動するだろうし、どうにかしようとする対象が自らにとっては重要なことになるわけで、そうなると重要だと思うことを優先してそれに取り組むことになるわけだが、そうやって取り組んでいることが自身の活動であり、それをやっているのが自分であることは明白だろうし、自分が存在しているから自らの活動があるわけで、自分が存在していなければ自分の活動もないし、そんなのは言うまでもないことであり当然のことでしかないわけだが、ではそこで何が重要なのかと言えば、自らの存在が自らにとってはかけがえがなく、自らが活動している限りで自らが存在しているのだからその活動もかけがえがなければその存在と活動が他の何よりも重要だと見なしてもかまわないのかも知れないが、自らにとってはそうだとしても自らが所属している組織や団体にとってはそうでもないかも知れないし、自分がいなくても組織や団体が存続可能なら少なくともかけがえのない存在ではないし、その活動も他の人員で間に合ってしまうとすれば、それもかけがえのないことではなくなってしまうわけで、そうなるとその組織や団体にとってはその人がそれほど重要な存在だとは言えないだろうし、その活動もそれほど重要だとは言えないわけだが、そうした組織や団体が繁栄すればするほどその規模も大きくなって所属している人員も多くなるから、それに比例して所属している人員の存在もその活動も他の人員で代替が可能となってきて、それだけ一人一人の重要度が低くなってくるわけだが、そんな中でもその人でないとできないような役職や役割があればその人の組織や団体内での重要度が高まるだろうが、それも組織や団体の規模の拡大とともに官僚機構が発達していくにつれて次第にそういうことがないような傾向になってくるわけで、またそれとともに組織や団体の繁栄のために特定の誰かを犠牲にするような成り行きも減ってくるのかも知れず、他の誰とも代替が可能なら特定の誰かでなくてもかまわないわけで、誰でもかまわないのに誰かが犠牲になるとすれば、そんな犠牲自体も大して重要なことでもなくなってくるし、誰が犠牲になっても構わないようなら誰も進んで組織や団体の犠牲になろうとは思わないだろうし、それだけ組織や団体の重要度も低くなってくるわけだ。
2月29日「活動の継続性」
ある状況の中で認識と判断が連動して何かをやったりやらなかったりした結果として、たとえ後からそれが間違っていたことがわかっても、その時点では何とかなっていれば、それに関しては間違っていたとしてもそれ以外の認識や判断も合っていたりいなかったりするから、結果的に合っている面では何となっているのかも知れないし、間違っていた面でもその程度が大したことではなく、それが致命的な結果をもたらしてはいないから何とかなっているのかも知れないし、そういう意味で何かを認識したり判断することがたとえそれが間違っていたとしても、そう認識したり判断した人の立場や境遇を危うくするようなことにはならない場合はいくらでもありそうで、いくらミスしても致命的な結果をもたらさなければどうということはなく、もちろん致命的な判断ミスを犯して深刻で危機的な状況をもたらしても、その結果としてその人がどうなろうと他の人にはなんともなかったりする場合もあるだろうから、それをどうのこうの言うような成り行きにはならず、いくらその人が間違った認識に基づいて判断を誤ることがあろうとなかろうと、それに巻き込まれない限りはどうということはないわけだが、それに巻き込まれてしまったとしても大した事態には至らなければどうということはなく、大した事態に直面して大変なことになってしまってもそれを切り抜ければいいわけで、切り抜けようとしてその場で生じている課題に前向きに取り組めば、取り組んでいる間は何とかなっていることになり、そうやって何かに取り組んでいる状態が生きている状態であり、生き続けていることはそういう状態を維持していることになるから、そんな状況の中で何かに関する認識と判断が連動して何かをやっていることになるわけだが、やっているうちにその場の状況に合わせて認識や判断を修正してくるだろうし、そうやって徐々に修正したり調整したりする認識や判断が間違っていようと合っていようと、間違ったと認識したり判断すればまたそこから修正してくるだろうし、そんなふうに一度した認識や判断を繰り返し吟味してその度ごとに修正や調整をおこなえれば、そんなことをやっている限りでやっていることがそれなりにうまくいっていたりいっていなかったりするわけで、そういうことをやっていることが他からどう評価されようと、それをやっていられる間は何とかなっていることになるだろうし、世の中でおこなわれている何事に関してもそれが続いている限りでそういう経緯や成り行きがあるから、それを外部からいくら批判しても跳ね返されてしまうような事態も起こりうるし、そういう面ではこれといって付け入る隙が生じなかったりするわけだが、別の面ではそうもいかない場合もあるだろうし、実際にうまくいかずに続かない活動などいくらでもあるだろうし、無理に続ける必要もない活動もいくらでもあるのだろうが、そうやって終わってしまった活動について後から欠点や欠陥などを指摘しながら、もっともらしい理由や原因をあれやこれやとあげつらってどうだといわんばかりに勝ち誇って見せても、それ自体が後の祭りに過ぎないわけだが、そう語るのが無難であり安全でもあり、いったん終わってしまったのだからもう性懲りもなくよみがえることもないだろうと見越した上で、そうやって定まった結果を評価すればそれほど間違いはないと思われるわけだが、そうなるとこれからどうなるかという予言的な機能がなくなって面白みが半減してしまうから、何かを断言したがる人は必ず途中経過の中で結果を予想したり予言するようなことをおこなって勝負に出るわけで、そうした予想や予言が当たればその時点でのその人の推理や推論の正しさが証明されて、そういう方面でのその人の優秀さや有能さも認められるわけだが、それもその人の他にもそういう推理や推論のゲームに参加している人が大勢いて、しかもそういうゲームの主催者や主催団体がその人を著名なゲームプレイヤーとして優遇している限りでのことであり、誰からも認められていない人がいくら予想や予言を的中させたとしても無視されるのが関の山だろうし、まずは予言者としての実績を積んで著名な予言者や予想屋として世間に認知される必要があるだろうが、それもどういう経緯でそんな予言者や予想屋になったのかは各々で異なる事情が伴ってくるだろうし、それ自体にも興味のない人にはどうということもないわけだが、たとえそういう機会に恵まれて誰かが予言者や予想屋の権威になれたとしても、その予言や予想が当たったり当たらなかったりすることが大して深刻な事態ももたらさなければそうした予言や予想という行為自体も大して深刻なことでもないだろうし、それがゲームとして成り立つ範囲内でそうした行為が可能な限りでそんなことをやっていられるわけだから、そういう活動の継続性というのは活動内容が活動自体を脅かさないことが継続の前提条件となっている可能性もあるわけで、そうやって絶えず活動を破綻させないような活動内容に自己の活動を調整し続けているとしたら、そうした調整に沿うような活動内容になっているだろうし、それが何らかの予言や予想をおこなう活動であったとしても、それが自らの活動に跳ね返ってきて活動の継続を困難にしてしまってはまずいわけだから、それが意図的な配慮であるか自覚なき配慮であるかはどちらであってもかまわないにしても、無難で妥当なことを予言したり予想する傾向が伴ってくるとそうしたことのジャンルに応じたそれらしいことを言おうとして、そうなるといかにその内容が深刻で重大なことであってもそうしたジャンルではそういうことを言うものだという固定観念に応じている限りでそれを受け止める側も安心して受け入れてしまうだろうし、そういう次元や水準ではそれを真に受けることが当たり前の反応となってしまい、そんなことにいちいち文句を言ったり批判する必要も感じられなくなって、真に受けつつも受け流すような態度となってしまえば、別にそれがどうということもなくなってしまうのだが、そういう意味でそれが継続しているうちはどうということはなくても、いったんそれが途切れたり行き詰まってしまうと、何やら深刻で重大な局面を迎えたような気になってしまうだろうし、それが当事者や関係者にとってはそう思われるのが当然だとしても、そういう事態を面白がるような野次馬の類いにしても、待ってましたとばかりに騒ぎ立てたいのかも知れないが、騒ぎ立てるのにふさわしいような活動なら面白がって騒ぎ立てるだろうが、大して世間的な認知度も高くないマイナーな活動であるなら騒ぎ立てるまでもないことであり、そんな活動が途絶えようと行き詰まろうと知ったことでなければ、単に無視していればいいようにことにしかならず、そういう活動についてどう認識しようと判断しようと意味のないことになってしまいそうだが、少なくとも当事者や関係者にとってはそうではなく、何かそこで深刻で重大な事態が起こっていることになるのかも知れないが、確かに活動を継続できないことに関してはそれが途絶えたり行き詰まってしまう事態に直面すればそう思われるだろうが、その先において何をどうするかで事態を反転させることもできるのかも知れず、災い転じて福となすようなことがそう都合良く起きるわけでもないだろうが、絶えず途絶えそうになって行き詰まってしまうからその反動を利用して飛躍してしまう可能性もあり、そうやって危機感を糧にして継続を図ろうとする思惑まで生じてくるわけで、何かそういうところで都合の悪い事態を都合良く判断するようなことがおこなわれる限りで、そこから何らかの思いがけない継続を導き出すような事態が起きてしまう可能性もあるわけだ。
2月28日「普遍的な原理」
物事の普遍的な原理は何のためにあるのかというと、気休めや安心したいからあるというわけでもないだろうし、原理から答えを導き出したいのかも知れないが、その答えがどういった次元や水準で有効に活用できるかといえば、大して役に立たなければ気休めにしかならないのかも知れないし、では具体的にどんなものが普遍的な原理なのかといえば、例えば物理学の法則のようなものを思い浮かべてしまうかも知れないが、ではそれが何に使えるのかとなると、何らかの計測に使うとなると正確な数値が求められるだろうし、そういう面ではそれが正確に求められる限りで有効だと認められるだろうが、それとは違って人の行動原理などの類いで普遍原理のようなものがあるかというと、経済学や社会学などの分野であるかも知れないが、果たしてそれによって確実な答えが求められてそれが計測可能かとなるとそうでもないだろうし、その場の状況に左右されて決まるときもあるし決まらないときもあるようなことなら、それほどはっきりしたことはわからないように思われるだろうし、そうなると当てにならないようなものでしかないのかも知れないが、とりあえず何らかの結果から物事を説明する際にその原理のようなものを使って説明すればもっともらしい説明になるかも知れないし、そういう説明を信じるか信じないかはそれを受け止める人次第な面があるとすれば、そんな次元や水準ではそういうことにしかならないだろうし、それで良いか悪いかもその人次第な面があるとしても、果たしてそれほど納得できるような説明を求めているのかとなると、気休め程度でもかまわなければそれで済んでしまうだろうし、そうであるならそれほど原理の普遍性を重視しているわけでもないだろうが、それが普遍的であるか否かに関係なく、その場の状況に合わせた説明で納得できるならそれが特に普遍的である必要はないだろうが、何か思考や行動の指針のようなものとして、どんなときでもこれさえ守っておけば安心できるようなものがあれば、それが普遍的な原理のような気がするのだろうが、そんな都合良く頼れるような原理などどこにもないから安心できないのかも知れず、それでもそれを求めようとするから特に普遍とは言えないような思考や行動の指針を決めて、安易にそれにすがりついてはおかしなことになってしまうのかも知れないが、それが具体的に何かといえば人を愛することとか倫理的に生きることとか、要するに誰もが否定できない肯定的な価値にすがりつくようなこととなってしまい、それで済むかというと愛するように心がければ愛するだけでは済まなくなり、倫理的な態度にこだわっていると功利的な思惑に打ち負かされたり、絶えずそれを裏切るようにそそのかされてしまうのかも知れないが、ではそうなってしまうのが何か普遍的な原理に基づいてそうなってしまうのかといえばそんなこともないのかもしれず、何かそこに普遍的な原理の類いを設定して様々な事例をそこに当てはめようとするとそうとは限らないような事例が出てきてしまい、特定の原理ではうまく説明できないようなことになってしまうとすれば、事前に原理の類いを定めようとすること自体が間違っているのかも知れないが、そうであっても考える指針のようなものとして標準的な思考や行動のパターンを想定しておけば、それに基づいて説明できればそれが普遍的な原理であるかのように思われるし、そこから外れるようなものは例外的な事例として処理すれば良いのかも知れず、また多くの人がそうしてしまうような紋切り型の思考や行動パターンを特定できれば、やはりそうなってしまうような普遍的な成り行きがあって、多くの人がそれに巻き込まれてしまったり、それに従うような成り行きに導かれてしまったりするわけで、そういうパターンに普遍性があるかといえばあると見なしておいた方が無難だろうし、そういった物事の普遍性によってすべて片付くわけでもないことも確かだが、それがあるとすれば逆にそういう成り行きに反発してそれに逆らうような思考や行動も出てくるだろうし、そうなるとそれを巡って対立や争いが起こるわけだろうが、愛することや倫理的な態度を保つことはそれとは違って、対立や争いを避けようとしてひたすら愛するように仕向けたり、倫理的な態度でいるように促すわけで、しかも当人がそうであっても他の人たちがそういう態度が気に食わないから、それに反発したり反感を抱いて対立しようとしたり争いへと誘い込もうとするのだろうが、愛や倫理を守ろうとする人がそれを避けようとする限りでそれに対して攻撃を仕掛ける側も、一方的に仕掛けるだけとなってしまったり、相手にならないから無視するのかのどちらかの態度をとるしかなくなって、誰もがそうするとは限らなければそれ自体が例外的な事例でしかなく、逆に対立したり争う成り行きの方に普遍性があることになるわけだが、それでも愛や倫理に普遍性があるとするなら、対立や争いをやめる方法として愛することや倫理的に振る舞うことに普遍性があることになるのだろうが、普遍性があるのに誰もがそれを実行できるわけでもなく、大抵は対立したり争うような成り行きになってしまえば、誰もがそうすることに肯定的な価値を感じられるとしてもそれができないということだから、たとえ普遍的な価値があるとしてもそれを有効活用できないということであり、そういう逆説的な普遍性をどう捉えたらいいのかといえば、それは敬して遠ざけるような普遍性となるのだろうし、建前として普遍性があることは認めるが実際にそうするわけではなく、むしろそれとは逆のことをやるような成り行きの中で生きていて、しかもそこから抜け出せずにもがき苦しんでいるにもかかわらず、そういう成り行きを避けようとはせずにますますそういう成り行きにのめり込んで苦しむことになり、相変わらずその中に留まってそれを体験し続ける一方で愛だとか倫理だとかの建前を言う人を疎ましく思うわけだが、それだけが活動や体験のすべてではないし、また対立や争いのただ中にいる方が張り合いがあるだろうし、生きがいとして常に他と競い合うような状態となっている方が相手にされずに無視されるよりは耐えられるのかも知れず、そういうところでも建前としては平和な状態を目指すとしても、それを目指す過程の中で他と争って勝利しようとする傾向を好むわけで、対立したり争っている最中に憎しみに囚われた人に愛を説いたり、卑怯なことをやる人に向かって倫理的な態度を求めたりして、そういう普遍的な価値観を世に広める役回りを担おうとするのだろうが、そうではない人が他に大勢いる限りでそういう役回りを演じていられるわけで、そうやって誰もができないことを自分だけができるような状況の中にいることが、そんな自らが普遍的かつ肯定的な価値を保持していることにもなり、そうであればそれは希少価値でもあるだろうし、誰もがそんな態度になってしまうと価値がなくなってしまうようなものだからこそ、そういう価値を自分だけが保持していたいわけで、何かそういうところに欺瞞や偽善を感じないわけにはいかないが、ともかくそういう価値を保持する上でそんな前提条件がある限りでそうした価値を求めることができるのだとしたら、それ自体には普遍的な価値があるとしてもそれを求めることには普遍的な価値があるわけでもなく、それよりは建前としてそういう価値を求めるように仕向けることに普遍性があったり、それを説く役回りを求めることにも普遍性があったり、そうやってややこしい迂回を経ることによってそういうことの普遍的な価値が生じるような成り行きとなるのではないか。
2月27日「パンとサーカス」
それがこけおどしというわけでもないだろうが、何事につけても装飾過多な見せびらかしをやっていられるようなら、そういった手間暇をかけられるだけの経済的な余裕が感じられるし、他に向かって何かを見せつけるという行為には、それとともに自らを自慢したいという意思の表れのように感じられるが、そんな仕掛けが他を巻き込んで大がかりになればなるほど己の権勢を誇っていることにもなり、それだけ権威があることの証しとなるし、それを見せつけられている側にとっては何か凄いことをやっているように思われてくるわけだが、昔の王や皇帝が好んでそういうことをおこなっていたにしても、今のご時世でも国威発揚として国を挙げてそんなイベントをおこなって国力を誇ってみせるようなことがおこなわれるとしたら、それはそれで何らかの意味や意義があるのだろうが、その国に住んでいる一般の人々も一緒になってそんな気になれるかというと、そんな気になれる人も中にはいるだろうが、それがその国の政府が主催するイベントであれば、国民をそんな気にさせる目的でそういうことを催している意味合いもあるわけだろうが、表向きはオリンピックや万国博覧会のようなイベントは国ではなく都市が主催することにはなっているだろうが、それが多額の公的な予算が組まれておこなわれる限りで、そんな一時の見せびらかしに税金の無駄遣いのようなことをするよりはもっと国民に直接利益をもたらすようなことに予算を使ってほしいとも思うだろうし、一部の企業などではなく広く国民に利益をもたらすことや役に立つことに公的な予算を使え、というのが合理的な意見に思われるとしても、そういうことがおこなわれる歴史的な経緯や脈絡からすれば、今までにもそういった行事に多額の費用や手間暇がかけられてきたわけで、大げさなことをやって権威を誇示するような行為は、それを主催する側にとっては自分たちの存在の証しのような意味合いがあるだろうし、実際に多くの人や団体を従わせてそういうことをおこなうわけだから、そういった人や団体に命令することができるわけで、それ自体が権力の行使となり、それに協賛させられる側にとっても良い迷惑どころか自分たちもこいつらの仲間だということを宣伝できるところがメリットというか、それを不快に感じる人たちが大勢いればデメリットとなってしまうのだろうが、いくらもっともらしい理由や意義を挙げてみてもそれが合理性には結びつかないようなことであり、下手をするとやらない方がいいようなことが強引におこなわれてしまうのが、そういうことのよくありがちな成り行きとなってきて、そういうことをやるのが国家的な統治の本質となっていたりもするわけだが、それを合理的に考えると否定せざるを得ないようなことをおこなわせることによってそういったことを主催する機構の権威が保たれるとすれば、そんなことは是が非でもやめさせてそういう機構自体をなくしてしまいたくなってくるのかも知れないが、それはそういう機構が実際に存在していてそういう催しを定期的におこなっている実態があるからそう思われるわけで、それが不合理に思われるようなことが当然のことのようにおこなわれている実態というのは、それがおかしいと思われる人たちには理解できないのが当然であると同時に、そんなイベントに賛同してそれを楽しんでいる人たちにはそれがおこなわれるのが当然だと思われてしまうわけで、それを不条理といってしまうとそこで話が終わってしまうかも知れないが、そういう水準でいくら考えてみても何もわからないのかも知れず、それ以前の水準で考えてみれば、大勢の人が寄り集まって社会を構成していると何かと対立や争いや衝突が起こってストレスが溜まって、ちょっとしたことで暴動の類いが起こってしまうから、定期的に溜まった不快感や不満のガス抜きとして、憂さ晴らしのお祭りイベントなどをやる必要が生じると考えれば、そういうことを大々的におこなう経緯にも納得できるかも知れないが、それが必要のない人にはそんなことは無駄に思われるし、それを楽しみにしている人には是非ともやってほしいと思われるかも知れないし、それが人を楽しませるためのイベントである限りで実際に楽しむ人が大勢いることになるだろうし、そういうことをやれば大衆の人気取りになるからそういう社会を統治する側にとってはいわゆる「パンとサーカス」の効果を期待するだろうし、それに魅せられて引き込まれてしまう人々は自分たちが為政者から軽く見られていることに気づかないというよりは、自分たちがそんな境遇であることを自覚している面の方が大きいのかも知れないが、それが関心のあることのすべてではないだろうし、他にも様々なことに関心を持っている中の一つとしてそれも楽しんでいることにはなるわけで、それを楽しむだけの余裕があることになるのだろうが、中には楽しめない人もそれなりにいるから、そういう人たちの中から合理的な見地からそういう催し物によって大衆の人気取りをやる為政者を批判する人も出てくるわけだが、そんな批判や批判者に賛同する人もそれなりにいるだろうし、さらに催し物の開催の仕方や開催の準備状況や開催する会場の建築や立地にまで文句を言う人も出てくるわけだが、そうなるとそれに関する言説や言及なども過剰なように思われて、それも装飾過多な見せびらかしの類いに過ぎないと切って捨てるわけにもいかないだろうが、そうやって多くの人がそういうイベントに巻き込まれていってしまうこと自体が、そういう現象の特性を示しているだろうし、それによってどんな効果が得られているのかといえば、それを主催する側がそういう現象を利用することで主導権を握ることにもなっているわけで、それも実質的にはそういった方面の主導権に過ぎない限りで別の方面にまでその力が及んでいるわけでもないはずだが、印象としては違うのかも知れず、結局それを真に受けてしまう人たちは、見せかけのこけおどしに惑わされてそれを過大評価してしまうわけで、特にそれを批判的に見ていたり否定したい人たちにとっては馬鹿げていて見え透いたことをこれ見よがしにやっている人が、大勢の人たちから本気で支持されていると思ってしまい、「パンとサーカス」ごときに惑わされてしまう人たちが愚かで浅はかに感じられてしまうだろうし、そんな人たちには知性や理性のかけらもないと小馬鹿にする一方で、そんなくだらない人気取りには騙されないとぞと思わず力んでしまうのかも知れないが、そう思ってしまうことでさえもそう思うように仕向けられているのかも知れず、仕向けている側はそれをはっきりと自覚しているわけではないだろうが、少数の人たちがそうやって反発していれば、逆に大多数の人たちはそれほど反発はしていないことになるだろうし、そうなっている限りで多数派から消極的に支持されていることにもなるわけで、熱しやすく冷めやすいような熱狂的な支持よりは、どちらとも言えないような薄められた賛同や消極的な支持の方が長続きするかも知れないし、それほど強硬に拒絶されているわけでもないことになり、そういう相対的かつ低調な支持や賛同を背景として、そうしたことをやっている側に主導権が生じていて、それに対して強硬に反対している人たちには少数の熱烈な支持者や賛同者が現れるかも知れないが、そうやって心ある人たちから支持や賛同を得られるにしても、それ自体が心ある人たちを対象としたイベントではないし、心ある人たちはそんな軽薄なお祭り騒ぎには与しない傾向があるだろうし、それはそれでかまわないようなことであり、そういう方面で生じている主導権自体もそういうことをやるために生じている主導権でしかないわけだ。
2月26日「支配と統治」
自分で自分を支配しようとすることから自己統治が始まって、それは自らの精神が自らの身体を統治していることになるのだが、例えば政府が国家を統治しているように思われるのは、統治ができている面では支配していることになるのかも知れないが、政府の支配に民衆が抵抗するようには精神の支配に身体が抵抗しているわけではないし、両者の間では支配と統治の次元が違うように思われるが、支配と統治の概念も微妙に違ってくるし、統治が強まれば支配されていることになるように思われるが、完全に思い通りにはなっていないわけで、思い通りにならない面が自然の領域であり、人も政府も自然を完全には支配できないし制御できないわけだが、そもそも完全というのはあり得ないのだが、支配しようとすることは完全に支配下に置こうとしているわけだろうし、そういう意味で統治は支配とは異なり、統治の目的は完全に支配することではなく、そこから何らかの効果や利益を引き出す分だけ統治しようとするわけだろうが、その微妙に異なるように思われる支配と統治の関係は、ただ単に日本語だと使い分けることができるだけで、他の言語では同じ意味を持つのかも知れないが、例えば自己統治や家族統治や企業統治や国家統治が肯定的に感じられ、自己支配や家族支配や企業支配や国家支配が否定的に感じられるとしても、そこに束縛から逃れる自由の余地が残っているかとなると、実態がどうであれ支配という言葉を使うと自由がないように思われるのと対照的に、自由主義的な統治というのはあり得るだろうし、自由主義的な統治というのは功利的に考えて割に合う範囲内では統治しようとするが、割に合わない面は自然からの作用を受け入れて放任するような統治手法をいうのだろうし、統治が割に合うか合わないかの判断においてどういう基準を設定するのかが難しいところかも知れないが、一方的にすべてを支配しようとして絶えず対象に働きかけるような行為とは一線を画しているだろうし、そういう実践的な面で支配と統治に違いが出てくるわけだろうが、どちらにしてもその対象との間でそれなりの駆け引きを伴うし、素直に統治や支配に応じてくれるようなお人好しな対象はあり得ないし、簡単に双方にとって都合の良いウィンウィンの関係が築けるわけでもなく、場合によっては互いに騙し合いや化かし合いの応酬というのもあり得るし、そうなると相手を信用している面と信用していない面とが同居していることにもなるし、普通はそういうのがあって当然の関係となるわけで、対象を一方的に支配できるわけでも統治できるわけでもなく、支配や統治という言葉では表現しきれないような関係が結ばれているのが通常の状態かも知れないが、支配できたり統治できたりする結果を目指して支配しようとしたり統治しようとするのが対象に作用や影響を及ぼそうとする人の思惑になり、そんな現在進行形の状態に意識が留まっているわけだろうが、その一方で自らは自由を求めていたり、対象との間で面倒な関係になるのを嫌がって、不快な雰囲気や空気を察知すれば無用なのめり込みはせずにさっさとそこから離れてしまったり、それが制度的な強制を伴っていなければ割と自由に振る舞えるわけだが、そういうことを目的とした集団的な機構などに所属している場合にはそうすることが仕事になって、嫌でも不快でも当人の意思や思惑とは関係なく支配や統治をおこなうような役割を担わされてしまうことにもなり、そんなことを実際におこなっている限りでその人自身が所属している機構の支配や統治に屈していることにもなるわけで、そうするのと引き換えにして金銭的な報酬を手にする場合が多いのだろうが、そうした他からの支配や統治に従うことによって生じるメリットも考慮して、得られる利益の方が被る弊害より勝っているように感じられる限りで従うのだろうし、また相手との間で信頼関係を築けていればより従順になる場合もあるわけで、そうなるとそこで生じている上下関係の中で支配したり統治する側が権力を行使して、される側がそれを受け入れるような関係も生じていることになるのだろうし、そうした関係が恒常的に生じている限りでその場が安定して表面的には対立や争いの起こらない状態が保たれるわけだが、表面的にはそうだとしても内心では不満や不快感がくすぶっている場合も多いだろうし、何らかのきっかけから活動がうまくいかなくなったときにそうした不満や不快感が表面化してきて、それが対立や争いを生じさせて安定を保てなくなってくると、上下関係や信頼関係が崩壊してしまうのだろうが、そうやって絶えず支配や統治をおこなおうとする行為とそれに対する抵抗や反抗が繰り返される成り行きが延々と続いていくのかというと、同じ状態が続いていくというよりは徐々にその傾向や程度や内容などが変わっていく成り行きになっているだろうし、その中でも関係する双方の間の力が拮抗するような場合には上下関係というよりは対等な関係を築こうとするだろうし、そうなると支配や統治というよりは協力や連携の関係になるわけで、それに伴って相手に作用や影響を及ぼすにしても一方的に権力を行使するわけでもなく、相手に同意を求めたり話し合って物事を進めたりするようになり、そういうやり方が多くなってくると、同意を得られなかったり話し合いが平行線に終わったりして、なかなか事態が進展せずに停滞してしまう可能性も高くなってしまうわけだろうが、そういうことも含めて様々なやり方があることは確かで、それらのやり方が競合状態になると、その場の情勢や成り行きの中でどのようなやり方を選ぶべきかの判断が迫られる場合も出てきて、あるやり方でうまくいかなければ別のやり方を試すような成り行きにもなるだろうし、そんな中でも一つのやり方が他のやり方を抑えて支配的なやり方として定着することもあるし、また様々なやり方が同時並行的に共存するような場合もあるのかも知れず、そのどちらが良くてどちらが悪いとも一概には言えないだろうが、世の中の歴史的な経過から得られる傾向としてはそれが一方的な支配関係にはならないようなやり方へと向かっているのかも知れず、多少の不具合や停滞を余儀なくされるとしても、なるべく対等な関係となるような配慮が求められる傾向にあるだろうし、そのような配慮が統治にかかるコストとして意識されるようなら、何事においても完全な支配には至らないような自由主義的な統治が目指されるわけだろうが、その一方で管理する傾向というのがその場をすべて管理することを目指していたりもするわけで、そういうところで対象を管理して制御しようとする意向と割に合わないところは自由に任せておく余地をどれほど残しておくべきかを巡って、何らかの調整が伴ってくるだろうし、それをどう調整してどのように運営するかが重要となってくるのかも知れず、それに関してよくありがちな思い込みとして情勢を安定させようとしたり定常状態に導こうとして、そういう意向に屈しないような要因を抑え込もうとして、かえって余計にコストがかかってしまうような成り行きになってしまうのかも知れないが、それよりはなるべく自由に振る舞わせておく範囲を拡大するとともに、対象を動的で臨機応変的に管理したり統治するようなやり方が求められるのかも知れないし、それに伴って絶えず状態を調整するような行為が欠かせなくなってしまうだろうが、そうすることで対象の方でも自由を感じられるとともにストレスが軽減されるとすれば、調整の仕方によっては管理されているとも統治されているとも意識させないようなやり方になってくるのかも知れないし、できればそれがまやかしやごまかしなどではなく、実態としてもそうなることが求められるのではないか。
2月25日「腐った社会」
終わりがないということは目的がないわけではなく、続けることが目的となっている場合もありそうだが、何のために続けるのかというと、続けるために続けているのだとすると、続けるということが自己目的となっていて、本来の目的が抜け落ちているのかも知れないが、目的がなくても活動が続けられるなら目的のない活動として続いていることになるだろうし、続けられる限りで続けている活動というのもありそうだが、それが何のためにという問いに答えられないとすれば、続けている理由が定かでないような気がしてくるわけだが、だからといって無理にもっともらしい理由や目的を導き出そうとしても、何か納得しがたいように思われるならば、続ける理由や目的を問うのはやめて、現状で続いていることをそのまま続けているとしか言えないだろうし、それとともにやめる理由がない限り続けているという論理も成り立つかも知れないし、逆にやめるために続けているとも言えるのかも知れないが、そこにもっともらしい論理を持ち込むと何か不自然な気がするのなら、やはり何となく続けていると思う方がしっくりくるだろうし、下手に屁理屈のような正当化はせずに自然の導きに従って続けているとでも思いたいところだろうが、続けていること自体が大げさなことではなく、何か大義名分が必要というわけでもなければ、ただ続けていると思っていればよく、それを続けていると意識せずに続けている場合もありそうで、続けていること自体はどうということはなく、何を続けているのかがこだわるべきことであり、それを続けていることのそれに肯定的な価値を見出せれば申し分のないことであり、良いことを続けていればいいとなると、それが善行の類いを続けていることにもなり、善い行いをすることが理由や目的となってしまうわけだが、そうなると続けていることから重心が善い行いへ移動してしまい、果たしてそれを続けることが善いことなのかどうか疑問を感じてしまうようなら、どうもそういう理由や目的ではないのかも知れないし、どうせ続けるなら事の善悪を問わないようなことを続けたいと思うなら、果たしてそういう理由や目的が説得力を持つかいえば、別に他人に認めてもらう必要がなければそれでかまわないにしても、少なくともそうなると世間的には通用しないだろうし、大げさな大義名分でなくても他から良く思われるようなことをやりたいと思うのが、周囲を意識することによって生じてくる思いだろうし、そういう思いに囚われてしまうこと自体が周囲から及ぼされる同調圧力に屈していることになるのかも知れないが、それが悪いとは思えないにしても、そうなると善いことをやっているように装いたくなってくるわけで、善いことをやっているかのように周囲や世間を欺くようなことをやっていればそれが悪いことだと言えるだろうが、そんなことをやっているのにしかもそういうことをやっていると批判されているのにもかかわらず罰せられないようだと、周囲や世間がそれを放置していることになるだろうし、そうなるとそんな周囲も世間も悪いことになってしまうわけだが、メディア上でそんな批判を繰り返している人たちからすれば、そんな世の中はひどい世の中だと思うだろうし、社会全体が腐っているとも言うかも知れないが、そんなことをやっている当事者からすればわざと悪いことをやっているわけではないだろうし、そうなってしまう成り行きの中で最善を尽くしている可能性さえあるのかも知れず、何だかわからないわけでもないが結果的にそうなってしまい、それを悪く言われるのは心外だが、敵と見なした人たちから悪く言われるならいくら悪く言われても心に響かないだろうし、むしろ敵から悪く言われるということは味方からは良く思われていることになってしまうわけで、そういう意味で敵から悪く言われるようなことを積極的にやる成り行きにもなるかも知れないし、そうであるなら世の中に敵と味方がいるから味方に良く思われるようなことをやると敵には悪く言われることになるだろうし、そんな世の中が敵にとってはひどい世の中であるとすれば、味方にとっては良い世の中と見なしてもかまわないことになり、そうやって自分たちのやっていることを正当化できるのかも知れないが、それでも周囲や世間を欺く必要があるのなら、欺いている時点で良からぬことをやっていることになるだろうし、それが敵にとっては良からぬことであり味方にとっては良いことだと思うのなら、周囲や世間を敵と見なしていることにもなるわけだが、場合によってはそうやって論理的に筋を通さなくてもいいことになるのかも知れず、要するに筋の通らないことをやっていることになるわけだが、無理して筋を通す必要もないと感じられるようなことでもあるだろうし、それが何だかわからないわけでもないが、そういう成り行きの中で最善を尽くしているつもりになっていることは確かであり、そんなことをやっているから世の中で主導権を握っていられるにもかかわらず、それを批判されたり悪く言われて、しかもそういうことやっているからこそ主導権を握れているのにもかかわらず、そんなことはやめろと糾弾されているとすれば、果たしてそれをやめた方がいいのかやめない方がいいかといえば、そのまま主導権を握っていたければやめるわけにはいかないだろうし、それがいくら批判されようとやめられない理由になるわけで、結局その場の状況の中でやれる範囲内で最善を尽くそうとすれば、周囲や世間を欺くような筋の通らないことをやらざるを得なくなるし、そういうことをやるとその場の主導権を握れるのと引き換えにして批判や非難を浴びることにもなるし、それを批判したり非難している人たちには世間を欺くひどいことをやっていると思われるだろうし、そんなひどい人たちが世の中の主導権を握っているのだからひどい世の中だと思われるし、社会全体が腐っていると思われるだろうが、では世間を欺かずに筋の通ったことをやろうとすればどうなるのかといえば、うまくいかずに途中で挫折するような成り行きになってしまうのかも知れず、そうだとすれば現状の中で続いている活動というのは大なり小なり都合の悪い面を隠しながらおこなわれている可能性があるわけで、その都合の悪い面というのが周囲や世間を欺いていたり、筋の通らないことをやっている面であったりするのかも知れないし、そういうことが明らかになると批判されたり非難されるわけだろうが、そういうことにも程度の大小があり、多少の欺瞞は世間の許容の範囲内であったり、ひどいことをやっていても見て見ぬふりをできればそれに越したことはなかったり、功利的に利益と損害を天秤にかけて利益の方が大きければ大目に見てもらえるような状況となっていたりもして、そうやってかろうじて善悪のバランスをとるようなことがおこなわれるのが社会の通常の在り方であれば、良くも悪くも全面的に良くも悪くもなくひどいことを一方的に批判したり非難したり糾弾しても、対象となる人や団体がやっていることをやめたくても、やめろと言われてもやめようがないし、やめられない事情や成り行きが生じていたりもするわけだが、そうなっている限りでそれを続けることが目的化しているわけで、そういう行為には終わりがなく、終わらせようとしても終わりようがない成り行きの中でおこなわれていて、いくらひどくても誰もがひどい行為だと思ってもそれをやめさせられないような状況となっているのかも知れないが、そうなってしまうことが自然な成り行きであれば、それが終わってしまうような成り行きも自然な成り行きとして偶然に巡ってくる可能性があるかも知れないし、そうした機会が巡ってきた際にやれる範囲内で最善を尽くすしかなく、それをやめさせたければその機会を捉えてやめさせようとするしかないわけだ。
2月24日「善意の偽善」
周期的に起こる何らかの変調がまた起こって、それが他の方面に影響を及ぼして別の出来事を引き起こしているとしても、そうした連鎖現象が世間に向けて何を示しているとも思われないだろうが、少なくともこれまで世間を騙してやりたい放題やってきたように思われる人たちの化けの皮が剥がれたようには見えないものの、騙されてきた人たちも幻想から覚めて正気を取り戻すどころか、また性懲りもなく別の幻想にすがりつくぐらいが関の山だが、たぶんその程度のことでは何がどうなるわけでもないのだろうが、そうであってもなくても大したことはない世の中がこれからも続いていくのだから、そういう何かがあったりなかったり何かが起こったり起こらなかったりするだけでも多少の紆余曲折が伴うわけで、それが気休めに物語られる素材や題材となって、それ以後の世の中が構成される前提条件の一つとして機能して、そういった条件を巡って各方面で駆け引きがおこなわれているのかも知れないが、そうならなかったとしてもどうということはないわけだから、そうなってしまったのは偶然の巡り合わせ以外の何ものでもないのであり、そうした偶然に起こったことを活かして何かやろうとして、そこで主導権を握るとそれを続ける成り行きが生じて、他の人たちがやれないことをある人たちだけが独占的にやれるようなことにもなってしまい、そんなふうにしてあることを独占的にやっている人たちを他の人たちも認めざるを得ないような結果がもたらされて、そうした結果からそれをやることについての支配力も生じてくるのだろうが、いつまでも他の人たちがそれに屈しているといつの間にかやりたい放題になってしまうわけで、頃合いを見計らってそういうことをやっている人たちをやっつけないとならなくなるのだが、その頃合いというのも偶然に巡ってくる機会を捉えないとなかなかやってこないし、そんないつやってくるとも知れない機会を待っていてもいつまで経ってもそれがやってこなければ待ちぼうけを食ってしまうから、まだ余力があるうちに蜂起しなければ何もできなくなってしまうわけで、それに関してはそういうことでしかなく、結果的にはそれが早すぎたり遅すぎたりしてそうした蜂起が失敗に終わるにしても、そういうことをやったことがたとえ無駄に思われてもそれをやったことによって何らかの前提条件が追加されて、次に何かをやる勢力はその条件を基にして戦略や戦術を練ってくるわけで、そういう意味で蜂起が失敗に終わった人たちにとっては無駄に思われたことが、少なくともその次に何かやろうとする人たちの糧にはなるのだろうし、そういうことを見越して蜂起するわけではないはずだが、何かこれまでにないことをやろうとする人たちを無下に否定することはないわけで、どう見ても駄目に思われることをやろうとしている人たちであっても、それを応援する余裕があれば応援することが肝心なのかも知れず、別にのめり込む必要はないのだろうが、否定したり嘲笑したりしてはもったいないだろうし、応援する余裕のある人は余裕が許す範囲内で応援しておいて、それが世間から注目されるような何らかの現象にまで育ってくれればしめたもので、そこまでには至らないとしてもちょっとした注目を集めるぐらいが、他の何かをやるきっかけとしては申し分のない出来事であり、それが思いがけず大きく育たなくてもかまわないし、他にもそんな出来事の萌芽のようなものを探し出しては水分や養分を分け与えておけば、その中から知らないうちに大きく育ってしまうものが現れてくれば面白いし、そうなることを目指して何かをやるということではないにしても、何かのついでに他の何かを利するようなちょっとしたきっかけを与えることができれば、それだけでも大したことではないとしてもちょっとした期待を抱かせるわけで、そうした期待が裏切られてもかまわないような状況の中で誰もが普通に生きているのかも知れないが、それが普通だとは思われないとしたら、やはり期待が忘れ去られないうちに自らが率先して蜂起しなければならないような気になってしまうのだろうし、そうやって犠牲者たちの活動が世界のどこかで開始されるわけだろうが、それらの人たちが何の犠牲になるのかといえばそんな活動をただ傍観しているだけの人たちの犠牲になるわけでもなく、またそういった活動を嘲笑する人たちの犠牲になるわけでもないだろうし、ではそれと競合するような人たちの犠牲になるのかといえば、競合している人たちも犠牲者の部類に入るのかも知れないし、たぶんそれを必要としているのが誰でもないところが犠牲者の犠牲者たるゆえんとなってしまうのかも知れず、世界が犠牲者を求めているわけでもなくても誰に頼まれたわけでもなくても率先して犠牲者の身振りを身につけようとしてしまうところが、犠牲者とはそういうものだと思わせるような雰囲気を醸し出しているのかも知れず、要するにそう振る舞うことが何かの犠牲になっている犠牲者を演じているように見えてしまうわけで、そう見えてしまうから犠牲者と見なしてもかまわないような曖昧かついい加減な認識かも知れないが、そんなふうに彼らを見ておけば安心できるのかも知れないし、彼らといってもそれを見ている人を含んだ彼らであり、ことによったら傍観者のふりする野次馬たちも何かの犠牲者かも知れないし、それを政治的な振る舞いと呼べば何かそこに欺瞞や偽善が含まれているようにも思われるだろうが、そんな何でもないように思われることに命がけのふりをしながら介入してくるわけだから、端的に馬鹿な人たちと見なしておいても何らおかしなことにはならないわけだが、果たしてそこまで突き放して彼らを見捨てられるような余裕綽々な立場があるかというと、真摯な態度であるかのように見られたいのなら突き放すどころか応援しているように装わないとならなくなるわけで、もちろん装っているだけでは応援していることにはならないし、実際に応援する必要があるわけだが、そうなるとその気もないのに応援しているとかそれほど期待しているわけでもないのに応援しているとか、そんな応援の犠牲になっているのが他ならぬ応援の対象となっている人たちであり、そうやって犠牲になる人を探し出しては応援することにもなるわけで、そうするのが嫌なら自分で自分の期待の犠牲となった方がマシに思われるかも知れないが、犠牲になるほどの勇気がなければ他の誰かが犠牲になった方が楽なことは確かであるし、そんな気でいると絶えず自分たちの犠牲になってくれる馬鹿でお人好しな人たちの出現を期待していることにもなり、そんな人が期待通りに現れてしまうと嫌が上でも期待が高まるし、そうした周囲の期待をひしひしと感じてしまう感性の持ち主ならその気になって犠牲者の役回りを引き受けてしまうのも無理もないことだろうし、そんなふうにして需要と供給をほどよく満たすような成り行きが生じていることがその機会であり、そんな機会が到来していることになるわけで、果たしてそれが今なのかとなると、実際にそうなった結果からしか確かなことはわからないが、そうなるような結果を求めているだろうし期待もしているわけだろうが、誰がそれを求めていて期待しているのかというと、それについて自身に心当たりがある人がどれほどいるかがそうしたことの成否を決めるのかも知れず、要するにその気になって犠牲者を応援できる人がどれほどいるかが、結果的に犠牲者を救うことになるか犠牲者のままとなって敗れ去ってしまうかの分かれ目となるのだろうし、率先して犠牲者を引き受ける人たちがどれほどお粗末であっても見て見ぬふりをしながら応援できるかどうかが今後の状況を左右するのではないか。
2月23日「現状の取り扱い」
世の中で執拗に作用しているのは物事を単純化して捉えようとする傾向であり、またそうした傾向を正当化しようとする思惑もあるだろうが、そうしないと物事を理解できず、しかもそんなふうに物事を理解してしまうと様々な物事の間に生じている複雑な関係やつながりや絡み合いなどを取り逃がしてしまうのだろうが、そうすることが物事を単純化して捉えようとする意向に適っていて、それで物事を理解したように思われるのだからそれでかまわないようにも思われ、そんな物事の理解に囚われた人たちはそうした理解を世の中に広めようとして、そうやってそれを世の中で通用させようとするわけだが、実際にそれを信じている人の間ではそんな理解が通用しているだろうし、そんなふうに物事を理解していることを正当化するのに伴って、それとは違う物事の理解を抑圧してあわよくば世の中から閉め出そうとして、そうやって物事を単純化して捉えて理解する勢力を拡大させようとするのだろうが、それでうまくいくのかというとうまくいかない面があるから全面的にはそうはならないのだろうし、うまくいかない面では物事と物事との間に生じている複雑で込み入った関係やつながりや絡み合いなどを考慮しなければならないのだが、考慮したところで理解できるかというとそうもいかないだろうし、理解できるのは相変わらず単純化された関係やつながりの方で、理解するのが難しい複雑で込み入った関係やつながりや絡み合いの方は放っておかれるしかないのかも知れないが、実際に理解できないまでもそういった複雑で込み入った関係やつながりや絡み合いに直面するわけだから、それに対応したり対処するしかないだろうし、もちろん対応しきれないし対処も不十分なままに留まってしまい、そうやって活動がうまくいかなくなるわけだろうが、うまくいかないなりにも活動を継続させようとして、あれこれと工夫を凝らしてその場を取り繕うわけだが、すでにそんなことをやった結果として現状があるわけで、そうなっている時点で取り返しのつかない事態にも陥っていて、今さら後戻りもできないわけだが、そんな結果から明らかになったまずい対応や対処をいくら批判されても、すでにそうなってしまったのだから、そうなってしまった時点から今までやってきた対応や対処の延長上でどうにかしようとするだろうし、実際にもそうするしかないわけだが、そんなやり方でうまくいくのかといえば、現状がうまくいっていなければそんな現状と大して違わない状況が続いていくしかなく、そうやって事態が沈静化するまでそんなことをやり続けるしかないわけだが、そうだとしてもそれが客観的にどういう状況かといえば、危機的な状況であり楽観できない状況でもありそれ以外の何ものでもなく、あるいは捉え方によってはその程度の状況でしかないわけだが、たとえそれがもはや取り返しのつかない事態だとしても、そんな事態の中でもそれなりの対応がおこなわれていてそれ相応に対処がなされているわけで、そんな現状をどう捉えればいいかと言えば、それを単純化して捉えるなら現状の否定的な面を批判して肯定的な面を賞賛すれば良いのだろうし、もちろん否定的な面が見当たらなければ賞賛して、肯定的な面が見当たらなければ批判すれば良く、そうやって評価を賞賛か批判かのどちらか一方に固定すれば単純な態度でいられるわけだが、果たしてそれで良いのかというと、そういう立場が成り立っている限りでそういう立場に留まっていられるだろうし、そういう立場に留まっている自らを正当化すれば良く、そんな正当化が通用している限りで自らの立場や態度を保っていられるわけだが、それが物事を単純化して捉えようとする傾向であり、またそうした傾向を正当化しようとしているわけで、そうやって物事を理解しようとしているわけでもあり、それが現状への対応であり対処でもあるわけだが、ではそれとは違う対応や対処があるのかというと、それを賞賛したり批判するには至らない段階に留まって、現状を分析してその結果を示せばいいわけで、なぜそうするのかといえば、現状がそうなってしまった事実は変えようがなく、そこでできることはそうなってしまった経緯や成り行きを考察する以外にはあり得ないだろうし、その経緯や成り行きとはどういう経緯や成り行きでそうなったかということであり、現状を分析することによってそれを明らかにすればいいわけで、そうする過程でそこに作用や影響を及ぼしている物事の関係やつながりや絡み合いがわかってくるだろうし、それらを示すことによって現状が現状のようになっていることが理解されるわけだが、それ以上に何が求められるのかとなると、そこから現状を肯定的に捉えたり否定的に捉えたりすることになってしまうと、現状に対する見方や考え方になってしまい、そんな現状に自らの意見や主張を介入させるには、現状を否定的に捉えることによって、ああすれば良いだのこうすれば良いだのの意見や主張を言う余地を生じさせるわけだが、ではそんな人の意見や主張を聞き入れて、実際にああしろこうしろとその人の指導の下に現状を変えようとするプロジェクトが発動するのかといえば、実際にはそうはならないだろうし、大抵はそういう人は意見や主張を言いっぱなしになってしまうわけで、そこから何も事態が進展しなければそのままとなってしまって、実践や実行の点ではその人の意見や主張は無駄になってしまうことが多いだろうし、では何でそんな意見や主張を言う羽目になってしまうのかというと、そんな立場があるということであり、人や団体の活動の結果として何らかの現状がもたらされると、それに対してああすれば良かったのにこうすれば良かったのに、ああしないから駄目なんだこうしないから駄目なんだ、などと意見や主張を言う立場の人が必ず出てきて、結果的にそんな意見や主張を言う人の思惑通りにならなかったからそんなことを言うのだが、それと同時にそんなことを言う余地が生じていること自体が、そういうことを言う人が現状の中で主導権を握れていないことを物語っているわけで、そんなことを言う人にはどうすることもできなかったからそんな現状がもたらされてしまったことにもなり、その人はその意見や主張とは裏腹にああすることもできなかったしこうすることもできなかったことを証し立ててもいて、その人もああすることもできないしこうすることもできないような人でしかなく、だからああしろこうしろと意見や主張を言ってみてもそれを実行も実践もできる立場にはないことも示しているわけで、そういう意見や主張自体が現状に含まれていて、現状に伴ってそういう意見や主張が出てくるわけだから、そんな意見や主張も現状を支えていることになるわけで、現状が現状でなければ通用しない意見や主張となり、現状が現状である限りでそんな意見や主張を言っていられるのであり、現状とは異なる現状がもたらされるようなら、それとは違うああすれば良かったこうすれば良かったとなり、どんな現状がもたらされても同じ内容とはならないだろうし、そういう意味で意見や主張に一貫性がなく、それは現状に対して枝葉末節な関係にしかならないわけで、そうであるならそんなことをいくら言ってみても無駄なような気もするわけだが、たとえ無駄で無意味のように思われてもその人が現状に囚われている限りでそういうことを言わせる成り行きが生じてしまい、それは現状がその人に言わせているのであり、そんなことを思わず口走ってしまうような現状によってその人がコントロールされていると見なしてもかまわないのかも知れない。
2月22日「見せかけの革命」
何と何を比べて何を述べようとしているのかは定かでないが、どちらでも同じような経過をたどって同じようなことが起こるはずもなく、これから起ころうとしていることも、それに伴って特有の現象が起こるのが当然のことように思われるところが、何やら予定調和の気配を感じられるのかも知れないが、ではそれに伴って起こる特有の現象とは何かといえば、それがいわゆる革命と呼ばれる現象であり、それによってあたかも世の中が激変したかのように思われるのかも知れないが、実際にはそんなことはなく、ただ革命によって旧来の支配的な階層が没落したかのように思われて、それに代わって新たに世の中の主導権を握る勢力が出現したかのように思われるかも知れないが、そんな勢力もそれ以前から台頭していたわけだから、新たに主導権を握った勢力が革命に乗じて旧来の支配層を追い落としたように見えるとしても、事の本質はそんなところにはなく、革命自体がそれに伴って起こった付随的な現象に過ぎず、ではそんな現象を起こしたのは何かとなるわけだが、それがこれから起こる何かだといえば、実際には何も起こらないとしても何かが起こったかのように見せかけなければならないのだろうし、例えば革命が起こったかのように見せかけなければならないわけだが、何が見せかけているのかといえば、そこで主導権を握っている勢力が見せかけているわけだろうが、そんなことはお構いなしに何らかの事態が進行していって、それを後から振り返ってみればあたかも革命が起こったかのように見えるならそういった見せかけの行為が成功したかのように感じられるわけだが、果たしてそこで何が成功しているのかといえば見せかけの行為が成功しているわけで、そう見せかける必要があるのかといえば、その必要もないのにそんなふうに見せかけているのかも知れないが、見せかけないよりは見せかけた方が納得がいくし安心できるかも知れないし、とりあえずそこで何かが起こったことにしておかないとそうやって世の中の主導権を握ったように見せかけている勢力にとっては都合が悪いわけで、そんなことのために革命が利用されるわけだろうが、その実態は見せかけの行為でしかないわけだから、そこで何が起こっているわけでもないとしても何かが起こったことにしておく必要があるわけで、例えばそれがただの暴動でしかなければ大義名分も何もないだろうし、少なくともそれを肯定的な内容にまとめ上げるには革命でも起こったように見せかける必要があるのだろうし、ではその革命という現象の中身が何かというと、そこに何か肯定的な意味や意義がないとまずいだろうから、そういった何かをねつ造しようとするわけで、そういったものをねつ造するのに知識人の類いが利用されるわけだろうが、そういうのには決まって過去の意匠の類いが総動員されるのかも知れず、西洋的な脈絡からすれば古代ギリシアやローマの意匠が利用されるのかも知れないし、東洋的な意匠を利用するとなると古代中国の易姓革命の類いになるのかも知れないが、それも換骨奪胎のようにして見せかけるにしても、何かが起こったかのように見せかけているに過ぎないわけだから、実際には何も起こらなくてもかまわないのかも知れないし、何も起こらずに今まで通りのことが平然とおこなわれているとしてもそこで革命が起こったかのように見せかけるわけだから、そういうところで何か無理が生じているのかも知れないが、実際に無理なことがおこなわれているとすればそれが見せかけていることになるわけだが、特に見せかける必要がなければ何でもないことになってしまうところを、何でもないと都合が悪いから見せかけないとならないわけで、そういうところで無理が生じているとすれば、そんなふうに見せかけること自体が無理なのかも知れないが、何もやっていないことがばれてしまってはまずいから見せかけざるを得ないわけで、しかもそれがばれて何もやっていないのが周知の事実となってしまった以降も、見せかける努力を怠ってしまうと、そこで主導権を握って何かをやっているふりをしている必然性がなくなってしまうから絶えず見せかける演技を続ける必要が生じてしまうわけだが、それが誰に対して見せかけているのかというと、いつの間にか見せかける対象さえも消えてしまうのかも知れず、なぜそれが消えてしまうのかといえばもはや相手にされなくなっているわけで、その時点で革命に対する熱が冷めてしまったことになるわけだが、そんなふうにして革命の幻想から覚めてみれば、そこで何が起こっていたわけでもなかったことが明らかとなるのかも知れないが、それでは革命を起こしたふりをしていた勢力にとってはメンツが立たないだろうから、あくまでも革命の意義を強調して革命の精神を後世に語り継ごうとするわけで、そうやってそこで何かが起こったかのように見せかける行為が継続されるわけだが、それと共に果たしてそう見せかけていただけなのかという疑問が湧いてくるわけで、見せかけていただけではなく何か実質的な内容が伴っていたのではないかと思いたいのかも知れないが、ではその内容が何かというとそれがわからなければ無内容と見なされても仕方のないところだが、革命によってそれ以前と比較して何が変わったかというと、何も変わっていなければ変わったように見せかけることに意味や意義があることになるわけだが、なぜ以前とは変わったように見せかけるのかといえば、それによって以前にはあった弊害の類いが取り除かれたように見せかけたいわけだが、本当に取り除かれたのかといえば、大抵は形を変えて意匠を新たにして残っていればそれが見せかけでしかないことが明らかになるわけだろうが、形や意匠の目新しさに目を奪われているうちはそれを認識できないわけで、それが目が慣れてきて飽きてくると粗が目立ってきてただの見せかけが明らかとなるに従って、そうしたことを見せかけている勢力の信用が落ちてきてそれと共に以前からあった不満も噴出してくるのだろうが、その不満というのが何かといえば特定の勢力が主導権を握っていることから生じてくる不満であり、そうやってそこで明らかになってくるのは、そこでおこなわれていたのが何のことはないただの主導権争いでしかなったことであるわけだが、ではなぜそれを革命に見せかけなければならないのかといえば、争いを経て主導権を握った勢力が自らが主導権を握っていることを正当化したいから、何かそれが意味や意義のあるようなことに見せかけたいわけで、そんな都合に適うのが革命と呼ばれる現象であり、それによって何かこれまでにない新しいことがおこなわれているかのように見せかけたいという願望が適うような気がするのだろうが、実際にはどうかというと、過去の意匠を借りてきたりするわけだから、それ自体が見せかけに過ぎないわけだが、果たしてそれだけで何も新しいことがおこなわれていないのかというとそうでもなく、それ以前にすでにおこなわれていた新しいことを革命にかこつけて正当化したり、すでに唱えられていた新たな思想や思考に基づいた行為や活動を革命に便乗して試そうとしたりもするわけで、革命とはそういう新たな行為や活動を正当化したり、そういうことをやるきっかけになるわけだが、それがうまくいけばそれが革命の中身となるのだろうし、うまくいかなければ革命が失敗に終わったことにもなるのだろうが、そういう意味では革命とはそういうことをおこなうためのきっかけに過ぎず、暴動のどさくさに紛れて今までは認められなかったことを認めさせるようなことを目指すわけだが、革命自体が見せかけに過ぎないのだからそうすることには何の正当性もないだろうし、そういったことをおこなう正当性も客観的にはありはしないのかも知れない。
2月21日「大げさなこと」
些細なことを大げさに取り上げる必要はないが、では何を大げさに取り上げる必要があるのかといえば、何も大げさに取り上げる必要はないとしても、少なくとも強調したい物事については大げさに取り上げようとする傾向にあるだろうし、何を強調したいのかといえば、語ろうとする対象を強調したいのかも知れず、実際に何を語っているのかといえば、強調したい物事について語っているのかも知れないが、逆に何も強調しないで語ることができるかというと、何かについて語っているとしたら、それを強調しないわけにはいかないだろうし、強調することと大げさに取り上げることが同じだとは思わないだろうが、何かを強調することが大げさな印象を伴ってしまうとすれば仕方のないことで、人によって語る対象によっても強調している対象に興味がなければ、それを強調すること自体が大げさに思われてしまい、大げさに取り上げているつもりがなくてもそう思われてしまうのだから、そんなことはどうでもいいと思われてしまうとすれば、それを大げさに語っていることになるわけで、ではその大げさに語っている対象が何かといえば、例えば天下国家について何か語ろうとすれば誰もがそれが大げさなことだと思うのかも知れず、今の時代にそんなものはないということにはならないが、否定的な対象として語れば大げさにはならないのかも知れず、天下国家の代わりにそこにあるのは行政組織としての政府があるだけで、政府が統治しているのが天下国家ではないとすれば何かといえば、国境に囲まれた区域内の土地や建物やそこに住んでいる住民や活動している企業などの各種団体だといえば済むのかとなると、それが天下国家でなくてなんなのかということになるはずだが、それを天下国家と表現すれば大げさに感じられるとすれば、それらの統治対象をひとまとまりのものだと見なさなければいいのかも知れないが、そもそもそれらを統治しているのかといえば、ならば統治とは何かということにもなってくるだろうが、政府がおこなっているとされる行為を統治といわずに何というのかということにもなってくるのかも知れず、とりあえずそれを統治と見なしておくことが無難な解釈となるのかも知れないが、ではそれを否定的に語るなら、政府がおこなっている統治がうまくいっていないことになるのかといえば、少なくともすべてがうまくいっていないわけではなく、ただメディア上で批判の対象となっていることがそれなりにあるから、批判されているのだからそれがうまくいっていないように思われるかも知れないが、批判している側はうまくいっていないところを批判するわけで、ではそれ以外はうまくいっているのかといえば、とりあえずそこではそれ以外についてはうまくいっているかいっていないかの判断がされていないのだろうし、批判されていること以外は批判の対象とはなっていないわけで、批判の対象とはならないことがおこなわれていることになるわけだが、それについても詳細に調べてみれば批判の対象となるようなことが出てくるかも知れないし、実際に今後それが批判の対象となる可能性があるのかも知れないが、とりあえずその時点ではそれとは別のことが批判の対象となっているわけで、それが批判されることによって改善されるのかされないのかはまだ何とも言えないことかも知れないが、そんな成り行きから言えることは、政府のおこなっていることがメディア上であるいは国会などの議会の場で批判の対象となるということであり、議会の場で批判がおこなわれるからそれがメディアによって報道されるということだろうが、それに対して政府がどう対応すればいいのかと言えば、批判に正当性があれば真摯に受け止めて指摘されているところを改善しようとすればよく、また正当性がなければ反論するなり突っぱねるなりすればよく、実際にもそんなことがおこなわれているはずだが、それ自体も政府の統治に含まれるとすれば、そういう面に関してはうまくいっているとかいっていないとかの判断とは別に、ただそんなことがおこなわれているとしか言えないのかも知れないが、そういう対応が不満ならそれが批判されるだろうし、そんな批判に対してもそれに正当性があれば改善しようとするだろうし、正当性がなければ反論するなり突っぱねるなりするだろうし、そこからどうなるにしても対応とはそういうことでしかなく、そんな対応自体は大げさなことではないはずだが、それに対する批判に関してならそれほど大したことでもないのに事を荒立てて大げさに批判していると受け取られる場合もあるだろうし、またそう受け取られるように大したことではないかのように過少に見せかけようとしている場合もあるのかも知れず、批判する側はそれが深刻で重大なことだと主張する一方で、批判をかわそうとする側は一貫して大したことではなく相手にしない態度をとっている場合もありそうだが、そうした駆け引きが大げさに受け取られるかというと、そんなのは当たり前のことだと思われるようなら普通におこなわれていることになるわけだが、そういった対応に真摯さがあるかといえばそうは感じられないだろうし、そこでおこなわれていることに対して真摯に向き合っていないように感じられるなら、そんなことをおこなっている側が信用されるはずがないだろうが、そう思われるのは批判の対象が深刻で重大なことだと思われる限りでのことであり、そうは思われなければ大したことでもないのに大げさに批判しているに過ぎず、そうであればそんな批判者は相手にしない方が賢明に思われるだろうし、それもそんなふうに批判者を愚かに見せかけるための偽装工作がおこなわれている限りでそう思われてしまうのかも知れず、そんな偽装工作がメディア上でおこなわれていることに気づけない人たちが騙されてしまうのかも知れないが、それが大げさなことなのかといえばそれ自体がくだらないことでしかなく、そんなくだらないことを真に受けてしまうようなら、それに引っかかってしまう人たちが愚かでくだらないことになってしまうのだろうが、引っかかってしまうのではなくあえてそう思い込みたいだけで、そういう見せかけの工作をおこなうこと自体が批判に対するカウンターとして定着しているわけで、そうやって駆け引きが機能しているように見せかけようとするのだから、もはやそれは形式的な動作と見なしてもかまわないのかも知れず、何か政府に対して議会やメディアなどで批判がおこなわれると、そういった批判自体が大したことではなく批判者も大したことでもないのに大げさに批判しているだけであり、そんな批判をしていること自体が愚かで浅はかな行為でしかないと見せかけようとするわけで、それがメディア上で日常茶飯事のようにおこなわれていること自体が異常なことだと思うなら、それ自体が深刻で重大な危機的な兆候だと思われるかも知れないが、何がそうなのかといえばそんな見え透いていて浅はかで愚かな行為が普通にまかり通っていること自体がそうなのだろうが、そう思ってしまうこと自体も事を大げさに捉えすぎているといえばその通りなのかも知れず、そもそもメディア上では以前からそんなだまし合いの化かし合いようなことばかりが普通におこなわれてきたのであり、今さら良識ぶってそんな行為を嫌悪して眉をしかめてみせること自体がお為ごかしな自分をよく見せようとする態度でしかなく、そんなことは誰もが承知していることであり、それこそが相手にしないことが肝心であり、実際に誰もが相手にしなければどのような批判に対しても真摯に向き合う姿勢が優勢になってくるはずだが、果たして実態としてそうなっているかどうかは、そうなった結果から判断するしかないのかも知れない。
2月20日「感覚と状態の相対性」
何かを利用することは利するために利用することになるはずだが、利用する気がなくても結果的に利用していたり、また利用される気がなくても結果的に利用されていれば、意に反して利用していたり利用されていたりもして、人が社会の中で暮らしていれば他との間で利用したりされたりする関係が必ず生じていて、その中ではいちいちそれを意識しないようなことも多く、自分が何を利用していて何から利用されているのか把握できていなくてもそうなっているから、思わぬところでとばっちりを食う場合もありそうで、身に覚えがないのに他から攻撃されるようだと、攻撃してくる側にとってはその人から勝手に利用されたと逆恨みしているような場合もあるだろうし、そんなことが起これば知らないうちに見ず知らずの人や団体との間でおかしな関係が生じていて、そこからこじれた事態となってしまったことが明らかになるのだろうが、それさえも知り得ない場合には無関係なところからいきなりわけのわからない作用が及ぼされるような理解不能な事態となってしまいそうだが、そんな作用が及ぼされていることすら意識できなければ、それは何でもないことになってしまうわけだが、何だか知らないが原因不明のまま体調が悪化してそのまま死んでしまえばそれっきりとなるしかないだろうし、どこから危害が及んでくるのかわからないのではどう対処すればいいのかわからないが、たとえそうなっても死なずに生き残れば、何かそこで自覚がないのに無意識に対処していたのかも知れないし、あるいは本人のあずかり知らないところで他から作用を及ぼされて助けられていたのかも知れないが、何らかの社会的な防衛機構が働いて危機にさらされた人を助けるような自動装置が稼働しているようなら、普通はそれとわかるはずだろうが、不特定の人を利する作用というのが社会の中で働いているからそこに社会が構成されていて、実際にそうなっているから多くの人がそこへと集まってくるはずだが、もちろん利するだけではなく害するような作用も働いているだろうし、実際に危害を加えられたり被害に遭ったりして大勢の人が社会の中で心身に損害を被って傷つき亡くなっているだろうが、どちらの作用が大きいかとなると実際に大勢の人が社会の中で暮らしている実態があるのだから、利する作用の方が大きいと思われているはずだが、利するから社会の中で暮らしているというよりはただ単に大勢の人が社会の中で暮らしている実態があるだけで、利益を得ようが損害を被ろうが社会の中で暮らしていて、そこで生きて死んでいくだけであり、それ以外にも暮らしている理由を挙げればきりがないだろうが、そこで大勢の人が暮らしているからそうなっているとしか言えない面があるだろうし、その中で肯定的な結果がもたらされていればそこから利益を得ていることになり、否定的な結果がもたらされていれば損害を被っていることになるかも知れないが、そんなことを四六時中意識しているわけでもないから、どちらとも言えない面もあるだろうし、どちらであってもなくてもかまわなければ利害とは関係なく暮らしていることにもなるわけだが、利害を意識しないとしたら他に何かこだわることがあるのかというと、快や不快の感覚もあるだろうし、快不快を優先するなら、普通は利する結果になれな愉快に感じて逆に損害を被れば不快な気分になるが、それが労働となると不快な思いをして利益を得たり、また娯楽となると愉快な気分になるために金銭的な損害を被ったり、それを金銭的な損害ではなく消費と見なせば、金銭を払って娯楽に興じたことになるし、損害の程度も許容限度内であればどうということはなく、また労働を不快とは思えなければ、不快よりはそれによって金銭を得られた快の方が上回ったことになるし、また働くことが好きだからと思い込めるような状況もあるだろうし、働きがいのある仕事をやっていれば快適な気分になれるかも知れないが、では利害とも快不快とも無関係になれるようなことがあるとすれば、それはどちらも意識していないときにはそうなっているということであり、四六時中利害や快不快を意識しているはずもなく、そんなのは当たり前のことでしかないが、それ以外にも満足しているか不満であるかとか、その場の心理状態を肯定的に意識するか否定的に意識するかで、そこからその状態に応じた行為や動作につなげるための理由をあれこれと意識することにはなるだろうが、主体的に何を望んでおこなう行為や動作にしても他から作用を及ぼされてそうした行為や動作を強いられるにしても、それをやったりやらなかったりする限りでめりはりや抑揚として意識するだろうし、そうしたある限度内での上下や強弱が起こっていたり感じられたりすることがその人の活動を成り立たせていて、何かのきっかけでそこから外れてどちらか一方へと振り切れたままとなってしまうことが、その人の活動が停止した状態を示しているのだとしたら、一方的に利益だけを得ようとしていたり、逆に損害ばかりがかさんでしまったりすれば、どちらの場合も活動停止に追い込まれてしまう危険があるのかも知れず、それは快不快や満足不満足の感覚にも言えることかも知れないが、普通は利益だけを得られて快適で満足できる状態のままになっていれば肯定的な状態なのだからそれで良いはずだが、果たしてそのままの状態をいつまでも保てるのかといえば、今のところは人には必ず死がつきものなのだから、すべてが死によってリセットされるときが必ず来るだろうし、もちろん財産が遺産として他の親族に受け継がれたらプラスのままと言えるかも知れないが、そういう面があるとしても他の面もあって、一概にプラスマイナスを判断することはできないかも知れないが、その人にとってはそうであっても他の人にはそうは思えないところが、どちらの感覚や判断も相対的な程度でしかないとしたら、あまりそういった方面で一方的な肯定や否定を断言できないのかも知れず、またその人が一方的に断言したところで他の人が承知しなければそんなのは通用しないだろうが、他人もさらに世の中のすべての人も認めさせるような状態へと至ろうとするなら相対的な範囲内では満足できないだろうし、そうやってその人の限界を超えた利益や快感や満足感を得ようとすると破滅が待ち構えているのかも知れず、そういう意味でもその人の活動が成り立っている限りでは、その人の限界の範囲内で利益や損害や快感や不快感や満足感や不満感などが入り交じった状態が保たれていて、そんな状態を受け入れている限りで社会の中で暮らしていられるのかも知れず、そうやって分相応な状態の中にいると次第に慣れてくると共に飽きてきて不満も募ってくるのかも知れないが、そこで無謀な冒険をせずにそんな状態の中に自身を押し込めていられるのか、あるいは自らの限界を押し広げようとして分不相応なことをやろうとしてしまうかでその後の運命が決まってくるのかも知れないし、また意識しなくても何かのきっかけから冒険を強いられてしまえば危険なことをやらざるを得なくなってしまうし、あるいは意識してそんなことをやろうとしても跳ね返されて分相応な安全地帯へと転がり込んでしまうかも知れないが、どうなるにしても結果的に活動が成り立っている実態がある限りでその人の状態が保たれていて、そんな状態となっている限りでそれに応じた利益や損害や快感や不快感や満足感や不満感がもたらされるような成り行きになってしまうのだろうし、またそういった様々な感覚からその人の行為や動作が作用や影響を受けて、それが他の人や団体などの動作や作用に関係するとそこからも作用や影響を及ぼし合って変化したり変動するわけだ。
2月19日「矛盾する行為と結果」
辻褄の合うやり方というのは辻褄の合わない面を無視することで辻褄が合っているように感じられるのかも知れないが、辻褄を合わせようとするよりは優先すべきことがある場合には、そちらを優先させることで無理に辻褄を合わせようとする場合よりは現状に合わせたやり方になるのかも知れないし、なぜ辻褄を合わせるより優先すべきことがあるのかといえば、実際に辻褄の合わないことをおこなっている可能性があり、しかも現状の成り行きの中では辻褄が合わない方が自然に感じられる場合があるわけで、そこに物事の矛盾する状態があるときにはそれに合わせた行為に及ぶとそんな行為自体も矛盾を含んでしまい、しかも矛盾していることが現状の成り行きに沿った行為となり、そこで無理に辻褄を合わせようとすると矛盾した現状の中ではうまくいかなくなってしまうのかも知れず、すでにそこで動作している物事が矛盾した成り行きを伴っているのだから、それに合わせて行為を調整すれば自ずから矛盾したことをおこなわざるを得ず、他からそういった行為の矛盾を指摘しながら批判されるかも知れないが、矛盾したことをおこなわざるを得ない状況となっているのだから、行為の矛盾を改めるわけにはいかず、たとえそこから弊害が生じるとしても、それとは別の行為によって弊害を抑制する以外に手立てはないのかも知れず、そういう理由で矛盾を伴った行為を改めるわけにはいかない場合がありそうなのだが、それが何かといえば利害を伴った経済的な行為の中でそうなってしまう場合がありそうで、効率を重視するならそんなことをやる必要はないのだろうが、あえて非効率で回りくどいやり方にしなければならない場合があるわけで、なぜそうする必要があるのかといえばそこに至るまでの経緯や手順に沿ったことをおこなわないと、そこにかかわってくる人や団体の行為にも支障が生じてしまい、そういう行為が非効率だからといっていきなり省くわけにはいかず、それらの人や団体の行為や作業を経由しないと全体としての動作がうまく回らないのであれば、多少の非効率には目を瞑ってそれによって利益が減ってしまうのも致し方のないことになるわけだが、そうなると利益を最大限に求めようとする目的とは矛盾してくるわけで、他からなぜそういった非効率を改善しようとしないのかと批判されても、その部分だけを改めるわけにはいかない事情があるとしか言えないわけだが、それが他との競争において不利に作用しているなら、いずれは改めざるを得なくなってしまうのかも知れないが、そう都合良くそういう成り行きにはならないのかも知れず、それとは別の面でそうした回りくどいことをおこなっている人たちに有利に作用するような事情が生じてくる場合もあるわけで、そうなるともっと効率的なやり方がいくらでもあるにもかかわらず、なぜか非効率なことをやっている人たちの活動が維持される一方で、もっと効率的なことをやっていた人や団体が消えてしまうようなことも起こるのかも知れず、そうなるとその場の状況を説明する論理と実際におこなわれている実態が合わなくなってきてしまい、なぜそうなってしまうのかについてうまく説明できないような事態となってしまうのかも知れないが、そうなるに至る経緯には偶然にそうなってしまったとしか言えない面があり、そこでは必ずしも優れた人や団体が成功するとは限らないし、結果的に成功した人や団体には他と比べて劣っている面や非効率な面がいくらでもあるにもかかわらず、なぜかそこに至る経緯の中で生じた様々な紆余曲折を経て、当初はどうということはなかった人や団体がそこでおこなわれた競争に勝ち抜いて生き残っていたりして、そうなった結果に関して後からもっともらしい理由や原因が指摘されても、それを指摘するような説明には納得できるかも知れないが、実態としてそういう成り行きを体験してきた当事者たちからすれば、そんなことではないという思いが募ってくるだろうし、特に競争に負けて脱落した人たちには納得しがたいことばかりかも知れないし、自分たちの方が遙かにまともなことをやっていたのに、なぜあんな奴らが勝ち残ってしまったのか、絶対に何か不正な行為が裏でおこなわれていたに違いないと妄想を膨らませている人も中にはいるのかも知れないし、そういう人に限ってちょっとした不正行為をそら見たことかと大げさに取り上げて糾弾するかも知れないが、後からそんなことをいくらあげつらっても、もはや手遅れとなっている場合もよくありがちなことだろうし、あのときこうしていればとかあそこではこうするべきだったとか、後からその場の成り行きに合わせた最善のやり方が見つかっても、それはそうなった結果から言えることでしかなく、その場の状況の中に身を置いてみればそんなことまで思い至らないのは当然だろうし、その場でいくら辻褄の合わないことや矛盾したことをおこなっていたとしても、結果的にそれが功を奏してうまくいってしまうような成り行きとなってしまい、その場を切り抜けるにはそうした紆余曲折が必要だとは思われなくても、それは後からそう思うことであり、そこで後から思えばどうでもいいような無駄で無意味なことにこだわっていようと、そうした迂回や回り道を経ないとうまくいかない場合があり、それは他とのタイミングや巡り合わせとも関係してくるのだろうが、そんな愚かなことをやっていようとその後に偶然に巡ってきた機会を捉えてうまくいってしまうような成り行きもあるわけで、そういった紆余曲折の中で他よりも優れていたり才能があったりした人たちがふるい落とされてしまい、結局残ったのは当初においては凡庸で愚鈍でさえあった人やまた箸にも棒にもかからない人たちの集まりでしかなかった集団であったりすれば、何か不条理の極みのような結果に思われるかも知れないが、たぶん結果から過去を振り返ればそんなことにはならず、成功した人が元から才能があったように思われるだろうし、また才能があってしかも人一倍努力したように語られることもあるし、実態としては才能がある人などありふれているし、誰もが人一倍努力しているかも知れないが、結果的に成功した人に関してそう語られると納得できるわけで、またいくら才能があって人一倍努力していようと不慮の事故や不運のおかげでそれを台無しにしてしまった人などもよく語られるから、そうやって何とか才能があって人一倍努力した人が成功するようなフィクションが保たれるわけだが、それが虚構であり間違っているかというとそうでもなく、確かにそういう面があるということであり、そう語られると安心や納得ができて、何となく原因と結果の間で辻褄が合っているようにも思われ、それが矛盾しているわけでもなく、それに加えて有効な戦略や戦術やその場の運や人間関係や良縁にも恵まれて、そういった成功する要素や要因を挙げていけばきりがないが、その逆に失敗した人や団体に関して語られることは否定的な要素や要因をいくらでも挙げることができるかも知れないが、そういうもっともらしい言説内容をなしで済ますことができるかといえば、そんなわけにはいかないだろうし、うまくいった行為や活動についてそれを賞賛する目的で語ったり、またうまくいかなかった行為や活動についてそれを批判する目的で語ったりすれば、そうならざるを得ないような成り行きになってしまうわけで、そうした説明や言説に納得したり安心したりするのとは異なる成り行きが必要なのかというと、普通はそうは思わないだろうし、大抵はそれで済んでしまうようなことでしかなく、実際にもそれでかまわないのだろうが、少なくともそれで物事の成り行きのすべてを把握したことにはならないのではないか。
2月18日「可能性の消滅」
試行錯誤ができるということはその手間暇をかけられることになるが、そのつもりもないのにそれと自覚せずにやっている場合には、それが試行錯誤ではないと思っているかも知れないし、では他に何をやっているのかといえばもはや試行錯誤とは言えない何かをやっているのであり、毎度おなじみの決まり切ったことを惰性でやっているに過ぎず、それ以外にはやりようのないことを継続してやっているとすれば、そこからもたらされているのはすでに織り込み済みの決まり切った結果であり、前もって予想がつくような物事でしかないのかも知れないが、それ以外にはあり得ないようならそれがマンネリ化でしかなく、魅力の乏しい決まり事としてそんなことをやっているだけであれば、確かに試行錯誤からはかけ離れたことをやっているわけだが、そうであってもそれをやっている事実は動かしようがなく、そこで何かを確実におこなっていて、それをやることが生きがいとは感じられないとしても、そうしなければならない境遇がそこに構成されているのなら、それをやることに確かな意味や意義を感じられなくても、その場の成り行きに従っているからそんなことができているのかも知れず、それ以外にもやれることがあるのにそれをやっているという選択がおこなわれていること自体が、行為の希少性を獲得しているのかも知れないし、そこではそうしなければならないような流れの中で実際にそうなっているのだから、そうすることに利があるようには感じられなくても、少なくともそれをやめるような成り行きではないからやっているのであり、それをやれるだけの環境が整っていて、やるに際してはそれを邪魔されずにできているということでもあり、また何らかの妨害がおこなわれているとしても、それに打ち勝ってやっていることにもなり、実際にやれている限りでやれるようなことをやっているはずだが、周囲からそれをやるように仕向けられている場合もあるだろうし、そうなるとやっているつもりであってもやらされていることにもなるだろうし、それをやるように仕向けている側からすれば、それをやらせていることによって何らかの利益を得ているのかも知れないし、そうであるなら他の誰かの都合でそんなことをやらされているわけだろうが、それをやらされているだけだとしてもやらされている間は生きながらえていることにもなるわけで、そうやって生きている限りでそこに何らかの可能性があるのかも知れず、その可能性がそれをやらせている側が利益を得られる可能性だとしても、少なくともそれをやっている当事者の糧にはなっているわけで、そうでなければそれを続けられないだろうからそこでそれをやっている当事者の可能性があり、その可能性とはそれをやめる可能性であるかも知れないし、またそれを続ける可能性でもあるかも知れないが、それとは別次元の可能性もあるとすればそれはその場の環境を変える可能性であるのかも知れず、すでにそれをやり続けるのに都合が良いような環境に身の回りを変え続けている可能性があるわけで、それがそれをやり続けることによって及ぼされる作用や影響であり、それをやり続けることによって周囲の環境をそれをやりやすいように改変してしまっていて、それと同時にそれ以外のことはやりづらいような環境に変えてしまっているのかも知れず、当初は他のこともできたのにそれをやり続けたことによって他のことをやる余裕がなくなってしまい、もはやそれしかできないようなことにもなってしまっているのかも知れないし、確かにそれをやるのには都合が良いだろうが、他のことをやるのには都合が悪いような成り行きがそこで生じているかも知れないのだが、そうなるとそれをやることに関しては継続の可能性があるとしても、それをやり続けるに従って他のことをやる可能性が減っていることにもなり、そうやってそれしかできないような状況に追い込まれているとすれば、それが当事者にとって良いことなのか悪いことなのかはわからないとしても、そういう動作に凝り固まってしまったことについては、そこから新たな展開に至ることができなくなっている可能性があるだろうし、そうなるともはや精根が尽き果てるまでそんなことをやっている可能性もあるだろうし、それっきりとなってしまえばそれ以外の魅力を感じられず、その人にとってはそれでもかまわないかも知れないが、他の人にとってはもはやそれだけの人であり、それ以外には使いようがなく、それだけの専門家となっていて、そういう人にはそれ以外の何を求めても無駄に思われるなら、単なる魅力に乏しい出がらしの人と見られても仕方のないところだが、そんな人に限ってまだ野心を捨てていないのかも知れないし、これから世間をあっと言わせるようなことをやる気になっているとすれば、それは身の程知らずの勘違いか誇大妄想でしかないのかも知れないが、その人に秘められた可能性というのはその人にとっても周囲にとっても思わぬところから開花する場合もあるだろうし、まず十中八九はそんなことは起こらないとしても、残りのわずかな可能性が何かのきっかけから思いがけない成り行きをもたらして、それまでに惰性で続けていたことがそうなるのに役立ってしまうようなことにでもなれば、今までやり続けていたことが無駄でなかったと思い知らされるのかも知れないが、その可能性が低いとしてもそんなことを夢想する時間はいくらでもあるだろうし、そんな夢想に浸っていることですらもそれを継続させる糧となっているのかも知れないし、すでにそんなことを夢想している時点でそれを続ける以外には何の可能性もなくなっているのかも知れないが、いったんそういう成り行きにはまってしまえば後戻りはできないし、場合によっては取り返しのつかないことをやっているわけだが、運命とはそういうものだろうし、変えようのない運命ならそれが宿命だと言えるのかも知れないが、その人がそうなってしまうのにはそれなりの経緯があってそうなってしまったのだから、そんな結果に至る過程の中でそれ相応の段階を経ているわけで、それが他からの圧力や攻勢などにさらされたあげくに追い込まれてそうなってしまったのか、あるいは自ら進んでそうなってしまう運命を受け入れたのかは定かでないとしても、さらにそうなった結果からもっともらしい理由や原因をいくらでも挙げることができるとしても、それが最終的な結果だとは受け取らずに途中経過と見なすなら、そこまでの経緯をどう解釈しようともまだその先があると思ってしまうのかも知れず、それを残念な結果として否定的に捉えて終わりではなく、そこから何らかの可能性を探り続けることがそれを終わらせないためには必要なことかも知れないし、探り続けているうちはまだあきらめていないことになるわけで、少なくともそれが終わる瞬間までは何かをやっていることになるのかも知れず、そんなことをやっている中でそれなりの試行錯誤を繰り返しながら終わりの時を迎えることにでもなれば、それが現状でやっていることの実態となるわけで、それを試行錯誤だと見なす限りで同じことの繰り返しではないわけだから、それでマンネリ化を避けられているつもりになれるなら都合が良いのかも知れないが、すでにそんなことをやっていることが他の何かをやれないことを示していて、それをやっているというその選択がその場の勝負であり試練となっているわけで、そこで何かがかけられていることがその先の未来を決めているのかも知れないし、実際に何がかけられているのかといえば、そこで勝負をして試練に直面している人の人生がかけられていて、確かにそれがその人にとっては重大な局面かも知れないが、それ以外にとってはどうでもいいことかも知れないし、その人がその先どうなろうと他の人には知ったことではない限りで、まだその人にとっては未知の可能性が残されているのかも知れない。
2月17日「確からしいこと」
確からしいことは信じられることであり、信じてもかまわないと思われるかも知れないが、実際に信じているのはそんなことではなく、確からしくないことまで強引に信じようとしているのかも知れず、自意識の都合に合わせて自らに都合の良いことを信じようとしているのかも知れないが、そうなると確からしいとしても自身にとって都合の悪いことは信じようとはしないだろうし、それに伴って信じられることの基準が公平さを欠いてずれてしまうのかも知れないが、そうやって信用できない信仰が形成されるとしても、自分でそれを信じている限りで自業自得なのだから、身から出た錆のように自らを苦しめる信仰に煩わされながらも、そういった偏見や固定観念を改めようとすることで、そんな自縄自縛気味の殻を打ち破るような行為が何か肯定的なことをやっているようにも思われるだろうし、主体的にそんなことをやっている気がすれば自己改革をやっていることになるのかも知れず、それが本当に自己改革になっているのかというと、自分でそう思っているだけで、勝手な思い込みに過ぎなければ何でもないことになってしまうのかも知れないが、何が偏見や固定観念なのかについて正しい理解や認識がもたらされているわけでもなければ、それ自体が自らの都合に合わせた信仰をさらに信じることにしかならないだろうが、それについての正しい理解や認識にしてもどうやってそれが正しいと知ることができるのかといえば、何らかの世間的な権威に照らし合わせてそれを判断するとなると、その権威が間違っていれば間違った理解や認識になってしまい、そんな理解や認識の正しさに頼ること自体が信用できないことにもなってしまうわけだが、そうした理解や認識が正しいか間違っているかではなく、どうやってそんな理解や認識に至ったのかを明らかにすることが、そういった理解や認識に至る成り行きを知る上で重要になってくるとすれば、そういう成り行きに巻き込まれてそういう理解や認識に至る過程の中で、他にもそんな成り行きに巻き込まれて同じような理解や認識に至った人が大勢いれば、それが世間的な世の中の流れかも知れないし、誰もがそんな理解や認識に至ってそれが正しい理解や認識だと信じてそれを共有しているような状態となっていれば、そうやって世間が構成されていると見なしてかまわないだろうし、そういう世間的な理解や認識に留まっている限りで世間的な紋切り型に囚われていることにもなるだろうが、それが確からしく思われることであれば正しい理解や認識とはその程度のことであり、そんな理解や認識が正しかろうと間違っていようと、それ自体は何でもないことのように思われてくるだろうし、それよりはそういう世間的な紋切り型に惑わされないようにすることが肝要なのかも知れず、またそういった傾向の特徴を捉えることができれば他の多くの人が信じている固定観念や偏見の類いがどのようなものなのかを把握できるのかも知れないし、何が固定観念や偏見であるかを見分けることができるようになれば、そんな理解や認識に至る成り行きがどういうものなのかも知るに至るのかも知れないが、実際にどんなふうにしてそうなってしまうのかといえば、大抵は物事を単純化してわかりやすいように理解しようとすることから、わかりにくい面を省く傾向が生じるわけで、なぜそれがわかりにくいのかというと、都合良く理解できないからわかりにくいのだろうし、それが正しいことだと認めてしまうと今まで信じていたことが嘘になってしまうから信じるわけにはいかなかったりするわけで、そうなると今まで信じていたことと新たに加わった確からしいこととの間で整合性がとれるような説明が必要とされて、そういう説明が固定観念や偏見に囚われている意識にとってはわかりにくいだろうし、そこで自らの考えを改められなければ新たに加わった確からしいことを受け入れるわけにはいかないし、新たな理解や認識を拒絶して今まで信じていた理解や認識に留まろうとすれば、自己改革の機会を逸して自縄自縛気味に旧来の思考の中で自閉することになってしまうわけだが、周囲の人たちもそうなっていれば心強いだろうし、そうであれば新たな理解や認識を受け入れること自体が間違っていると思われてしまい、どういう経緯でそういう理解や認識が生じてきたのかを知ろうともせずに、そんなことは知らなくてもかまわないような気になってしまうのかも知れないが、そういう決めつけが物事の単純化そのものであり、そうやって都合の悪いことを受け付けない限りでそれを新たな理解や認識として受け入れた人たちとの間で差異が生じてしまい、どちらの人たちが現状の環境に適合するかで優劣が決まるような成り行きになるとすれば、そういった理解や認識を受け入れるか否かが重大なことになるわけだが、果たしてそんな成り行きが実際に生じるかといえば、そういう理解や認識に基づいておこなう活動がどれほど世の中に作用や影響を及ぼすかでその深刻度も変わってくるだろうし、特にそれほど大した作用や影響を及ぼさないようならそんな不都合な理解や認識を信じる必要もないと思われるかも知れないが、それが直接それらの人たちに作用や影響を及ぼすのではなく社会全体の傾向を変えるような結果をもたらすのなら、それらの人たちには気づかないようなことなのかも知れず、知らないうちにそういった理解や認識がじわじわと広まっていって、そういう広まり方に何の抵抗感も反感も感じないような特性があれば、それを受け入れるか否かで人の優劣が決まるようなことではなく、世の中の情勢や状況の変化に合わせて活動していればそれと自覚せずに自然と理解や認識も変わってしまうようなことかも知れず、そうであればあえて今までの理解や認識を意識して改める必要はなく、今までの理解や認識を固定観念や偏見として批判するまでもなく、未来のどこかで過去を振り返ってみれば過去にそういう成り行きがあったことが明らかになるだけで、それをことさら取り上げて強調する必要もなければ、普通に暮らしている限りで意識する必要すらないことになってしまうだろうし、そんなことなら現状で誰もが抱いている固定観念や偏見を批判的に示す必要もなくなってしまうわけだが、ただ現状の中で行き詰まり感や閉塞感が漂っていることに気づいてしまう人がいるとすれば、どうやってそういう感覚がもたらされるのかを知るには、そういった固定観念や偏見から抜け出て新たな理解や認識へと至る必要があるのかも知れないし、実際にそういう固定観念や偏見に囚われているから現状が行き詰まっているように感じられるのかも知れず、そう感じられること自体がそれらの固定観念や偏見を通して現状を捉えようとしていることになるのかも知れないし、そんな現状の捉え方では新たな人や物事の動勢を感知できず、そういった動きや進展があることを知り得ないから閉塞感を覚えるのだろうし、そうやって未来への希望や可能性が潰えているように思われると終末的な感覚に囚われて、末期的な時代の中で生きているような感覚にもなるのかも知れないが、そう感じるから今まで抱いてきた物事の理解や認識では駄目なのではないかと危機感を募らせるのかも知れず、そういった危機感が何かこれまでにないような物事の理解や認識を求めて意識を新しい発明や発見へと向かわせることになり、そんな要請に合うような物事の理解や認識を生み出そうとすると同時に、すでに使い古された理解や認識を過去の時代遅れな固定観念や偏見として捨て去るような意向も生じさせ、未だにそういった理解や認識にしがみついていたい人たちとの間で無用な摩擦や軋轢を引き起こすのかも知れない。
2月16日「現状の打開」
現状を打開する必要があるかといえばあるともないとも言えるのかも知れないが、現状の政府を批判している人たちは打開したいだろうし、政府が変われば現状を打開できるのかというとそれもできるともできないとも言えるかも知れないが、そういう水準でどうこうするということではなく、各人が打開する必要を感じていれば打開しようとするだろうし、その必要を感じなければ現状のままに留まろうとしているかも知れないが、現状について何をどう感じていようと、現状そのものが変わり続けている面も変わらない面もありそうで、そういう面が気に入らなければ変えようとするし、気に入ればそれを維持し続けようとするだろうが、変えようとしても変わらない面もあるし、変えようとしなくても変わってしまう面もありそうで、変化に対応しようとしたり対処しようとしたりする反面で、対応も対処もしきれない面もありそうだが、それなりに対応できたり対処できたりするから何とかなっている面もありそうで、日々やっていることが様々なことに対応したり対処していることになるわけだろうが、やっていることに意味や意義を求めてしまうと、それがやっていることを正当化することにつながってしまうのかも知れないし、正当化することが現状への対応や対処となるかといえば、対応や対処しきれないから正当化するしかないのかも知れないし、そうやってやっていることに否定的な面があるのを認めようとしないのかも知れないが、やっていることを正当化することによって現状を打開できるかというと、他からやっていることについてとやかく言われたら反論せざるを得なければ、それがやっていることの正当化になるわけだから、他から何を言われてもやっていることをやり続けることが現状を打開していることになると同時に、それが現状維持にもつながるだろうし、そうなると現状を打開することが必ずしも現状を変えることになるわけでもなく、逆に打開できずにやっていることをやめてしまえば現状を維持できずに変わってしまったことになるわけだから、そうなってしまえば変わろうとして変わったのではなく、変わりたくないのに他から作用を及ぼされて変えられてしまったことになるわけで、それが当人には悔しいことかも知れないが、いつまでもやっていることにこだわってやり続けてもらちがあかない状況であれば、かえって他から作用を及ぼされてやめさせられてしまった方がいい場合もあるだろうし、実際にそうなればやっていることの正当化をあきらめざるを得なくなるわけで、それが当人にとって良かったのか悪かったのかはどちらであってもなくても無関係な人にとってはどうでもいいことかも知れないが、何かしらそこに利害関係を構築できる立場であれば、それをやめさせることが利益になるようならやめさせようとするだろうし、続けさせることが利益になるようなら続けさせようとするだろうが、そんな思惑からそこに介入して状態が有利になるように持って行こうとするのだろうが、それも無関係な人にとってはどうでもいいことであり、果たしてそういうことと全くの無関係になれるかといえば、そんな立場などどこにもなく、何かしら多少は関係のあることにしか興味が向かないだろうし、それを意識してしまうことが意識する対象との関係を生じさせてしまうことになれば、そういう対象があることを認識しているわけだろうが、そう都合良く利害関係を構築できるわけもなく簡単に他人のやっていることに介入することもできないわけだが、そこに利害関係があるように思われればそれを関心の対象とはするだろうし、それについて言及する成り行きにはなるのかも知れず、実際に他人のやっていることを否定的に見るならそれを批判することにもなるし、肯定的に見るなら評価することにもなるわけだが、果たして他人のやっていることを批判したり評価することが利害に結びつくのかといえば、無視されれば何でもないことになってしまうだろうし、共感されれば利益になったり非難されれば不利益になったりするのかも知れないが、そうなったとしても直接には何も起こらないかも知れないし、それも何でもないことなら別にやる必要もないことになってしまうのかも知れないが、他人のやっていることをどうこういうわけでもないとすれば、まずは自分のやっていることを優先するような成り行きになるだろうし、それが他人のやっていることにぶつからない限りは直接関係することもないのかも知れず、そうであるなら関心があるのは自分のやっていることになるだろうし、そんなことは当たり前のことであり、自分のやっていることをどうにかしなければ現状を打開できず、何とかしたいのは自分のやっていることを満足のいく状態や内容にしたいということになるのかも知れないが、そうであるなら他人のやっていることをとやかく言う余裕はないはずだが、それはそれでこれはこれということになれば、他人のやっていることをとやかく言っている自らを正当化することにもなるだろうし、世の中にはそういう立場に安住してしまう人もいるわけで、それが正当化できる行為とは思われなければ、そんなことをやっている人を評価するわけにもいかなくなってしまうのかも知れないが、それを否定できるかというと取り立てて評価はしないがそういう立場があることは認めておいた方が無難に思われるなら、肯定も否定もしないことになるだろうし、そうであれば無関係とも言えるかも知れないが、そうではなく他人のやっていることを分析することになると、それは評価とは違う行為になるだろうし、評価する手前に留まって他人のやっていることを明らかにすることが分析することになり、そうした分析内容を自分のやっていることに役立てることができれば、評価よりは分析の方に関心が向くことになるのかも知れず、また他人のやっていることと比較して自分のやっていることを明らかにする必要があるとすれば、他人のやっていることを理解したいからその分析内容に関心を抱くだろうし、それが他人による他人のやっていることの分析であっても自分が他人のやっていることを分析した内容であっても、そのどちらにも関心を抱くのかも知れないし、またそれが自分のやっていることを自分が分析するのにも役に立つかも知れず、結局はそうやって他人のやっていることや自分のやっていることを理解しようとしているわけで、そうやって理解することが自分のやっていることにも役に立つだろうし、絶えず分析し続けることが自らのやっていることにフィードバックされていれば、それが現状を打開し続けていることにもなり、そういった状態を維持し続けていることにもなるのかも知れず、そこでそういうことをやり続けることが何かをやっていることになるとすれば、それが自らが生きている内容のすべてではなくても、それを絶えず把握しようとしていることにもなり、そうすることに肯定的な意味や意義を求めて、やっていることを正当化しようとしても、絶えずそうした把握から逃れ去る何かがあるとすれば、それが不確定な何かであり、把握しきれない内容となるのかも知れないが、たぶんそうした求めていることから外れるような何かに可能性があるのかも知れず、その可能性が変化する可能性であれば、それが思いがけない変化をもたらす可能性になるだろうし、自らがやっていることを自ら把握しようとして把握しきれない面があるから、そうした面が自らに作用して思いがけない変化をもたらして、それがやっていることの行き詰まりを打開することになれば、現状を打開するにはそれが必要であり、しかもそれが必要だとは認識できないことが思いがけない変化をもたらすわけだ。
2月15日「見せかけの価値」
意識がそこにある事物を認識するとき、それがすでにそこに存在していることが明らかになっていると、その存在の確かさを信じられるが、そこになかった物事を新たに一から人工的に作り上げるようなことになると、実際にそれを作っている作業などに出くわしたときには、すでにそこに存在している物事とは違って不自然な印象を伴ってしまうだろうが、そういった事物を作り出す作業を人目に触れさせずにすでに元からそこにあったように見せかけることができれば自然な印象を伴うだろうし、そんなことをやろうとする行為自体は不自然な印象を伴ってしまうのかも知れないが、できあがった事物を観て自然な印象を受ければその存在の確かさを実感してもらえるだろうから、そこに不自然な印象と自然な確かさとの間に生じる落差があるとしても、それがあることを知っているのはそういった物事をこしらえ上げようとする当事者だけであり、できあがった事物を観るだけの人にはわからないし、そうした何かを観るだけの体験には常にそれを見せかける側の思惑がつきまとってしまうのかも知れないが、あらかじめそれが人工物であることを承知していればそれが人工的に作り出された経緯を想像するだろうし、そうした想像力に不自然な印象と自然な確かさとの間に生じる落差を埋める働きがあるとしても、なぜそうやって想像力を働かせて事物がそこにある経緯を補って恣意的に認識を調整するのかというと、そうすることでそれがそこにあるように見せかける側の意図や思惑に対抗しようとしているのかも知れず、そこでそれを見せかける側と見せかけられた事物を観る側との間で駆け引きがおこなわれているわけで、見せかける側は観る側を信用させようとする一方で、観る側は見せかける側の意図や思惑を推し量ることによって信用しようとしているのかも知れないが、そこで何を信じようとしているのかといえば事物の存在を確かさを信じようとしているわけだが、果たしてそんなことが必要なのかというと中には余分なことだと思う人もいるだろうし、別に人工物であることがむき出しになっていてもかまわなければ問題ないわけだが、ではなぜ自然な印象を醸し出したいのかといえば、そんな印象を伴うことに価値を感じるからそう見せかけたいのだろうし、観る側もそんな印象を求めているのかも知れないが、それが贅沢な雰囲気ならそれだけそれを作り出すための費用がかかっているのかも知れず、実際に費用を余分にかけていればそれを体験する側に金銭的な負担がかかってくる場合もあるし、そういうことを承知でそうした贅沢な体験がしたい人がいれば、そうした需要と供給が一致する限りでそこに見せかけの価値が生じているのだろうが、それは付加価値の一種には違いなく、それを求めるほどの余裕がなければそんなことにまで気を配る必要もないわけだが、そういう雰囲気を醸し出すことが競われていれば、そうした競い合いに勝ち抜いた者に何らかの利益がもたらされる場合もあるだろうし、それが金銭的な利益であれば実際にそれを負担する者もいるわけだが、そうやってそういうことをやる行為に経済的な価値が生じて、そういうことにかかわっている人や集団がそこから利益を得ることによってその生活や活動が成り立っていれば、その存在の確かさも感じられるかも知れないが、果たしてそういう付加価値を求める必要が恒常的に生じるかといえば、大抵の人にはそんなことを求めるほどの経済的は余裕がないとしても中には裕福な人もいるだろうし、そんな付加価値を求める人が大勢いる限りでそうした需要が生じるとすれば、それだけ裕福な人が存在する必要があるわけで、そういう人たちを存在させるだけの経済規模が必要となり、そうした経済を支えている人たちのほとんどはそうした贅沢にはありつけないとしても、そんな中でもうまく立ち回って富を蓄えることに成功した人だけにそうした贅沢が許されるような余裕が生じるとなると、そうした贅沢を享受できない人たちには不公平に思われるかも知れないが、そんな贅沢には見せかけの価値しかなく、それにありつけなくても元から必要のない贅沢でしかなければ特に問題はないだろうし、また贅沢がしたいという欲望をやり過ごすことができれば不平不満は生じてこないはずで、不平不満が生じても我慢すればいいことだが、逆に問題なのは生活が成り立たない人がでてくることであるというのなら、すでにそこで人が生活していればその人の生活が成り立っていることになり、生活が成り立たなくなれば存在できなくなってこの世からいなくなってしまうだろうし、そういう意味ではそこで経済活動が成り立っている人だけが存在できるわけで、実際にそうした経済規模に見合った人口が生じているわけだが、それが成り立っているように見せかけることによって取り繕うわけにもいかないだろうし、人が生活しているように見せかけることに価値が生じるわけでもないし、人口を過大に見せかけても経済規模が大きくなるわけでもなく、そこで人が生活している実態がそのまま経済規模に反映するわけだが、その一方で人が所有している資産の蓄積というのは他の地域との相対的な比較においてその経済活動の活発さに比例して増えるだろうし、資産を増やすにはそれだけ経済活動をおこなう必要があり、しかも蓄積できるほど余分に富を蓄えなければならないわけで、余分に生産して余分に価値のある物事と交換して余分に蓄える行為を繰り返せば資産を余分に蓄えることに成功するわけだが、そうやって必要とするよりも多くの物事を作り出して蓄えるわけだが、その必要とするよりも多くを作り出して蓄える行為が不自然な印象を伴うのかも知れないし、資産を増やすには蓄えるのが必要だから蓄えることになるわけで、蓄えるために蓄え増やすために増やすという不自然な行為が繰り返される実態があり、そうした不自然な実態を自然に見せかけるには、使うために蓄えているように装う必要があるわけで、そこから資産を投資するために蓄えるような行為が正当化されるわけだが、結局何のために投資するのかといえば資産を増やすために投資するわけで、使うために蓄えているようでいて最終的には増やすために使うという倒錯的な行為を自然に見せかけるために使うことを強調するわけだが、そうした見せかけの行為によって経済活動を活発化させている現状があるとすれば、そんな経済活動にも不自然な印象がつきまとってくるかも知れないが、そうした行為を正当化するにはそれを自然な印象を伴うように見せかける必要があるだろうし、そこで有意義なことがおこなわれている印象をまとわせる必要が生じてくるわけだが、そうなるとそれが誰にとっても必要だと思い込ませるために、欲望や感情に訴えかけるようなことがおこなわれて、多くの人がそれを求めるように仕向けるわけだが、そうするには競わせることが必要となってくるのかも知れず、簡単には手に入れることができずに、苦労して何らかの競争に勝ち抜かないと手に入れられないような物事なら、それだけ希少価値があることにもなるだろうし、手間暇や費用をかけた上にそれと引き換えにして何かを失うようなそれなりのリスクを伴うような物事を求めさせることによって希少価値を生じさせるわけだが、それが最終的には富を獲得することにつながって資産を蓄積することになれば、それ自体が価値のある行為となるだろうし、誰もがそれを獲得するためのゲームに参加するような成り行きへ持って行ければ、それに参加する人が多ければ多いほど経済活動も活発化するし、そんなゲームに参加している人の中から資産を蓄積することに成功する人が一定数の割合で出てくれば、そうした行為にも自然な印象が伴ってくるのではないか。
2月14日「妄想の罠」
その人が何に影響されているかはその人を取り巻く社会的な関係や存在の状態や様態にもよるだろうが、人の振る舞いが世の中に及ぼす影響というのも人によってはたかが知れているだろうし、その人が一般大衆の中の一人でしかないような存在なら、それをいちいち気にする必要もなく、大抵は放っておかれるのだろうが、そこから及ぼされる作用や影響をはっきりと意識できるかというとそうでもないだろうし、また特定の誰かから何らかの間接的な影響を受けようと直接の作用を及ぼされようと、その人自身の自主性を重視するならそんなことはすでに織り込み済みのこととして主体的に振る舞ってもらうしかなく、他から様々な作用を及ぼされたり影響を受けながらも、それを自覚できれば意識してそれに従ったり逆らったりして、あるいは自覚できない面においてはそんなことは気にしないで主体的に生きていくしかないのだろうが、逆に社会や世の中へあるいは特定の個人や団体などへ何らかの作用や影響を及ぼそうとするような野心あるいは目的などがある人は、個人であるいは何らかの集団を組織して罠のような何かをその標的とする対象へ向かって仕掛けるのかも知れず、個人で仕掛けるのならその規模も程度も大したことにはならないだろうが、集団として社会に何らかの作用や影響を及ぼそうとするなら大がかりな組織的な活動が伴ってくるだろうし、その集団が政党形態や行政形態や企業形態などになってくれば、その集団が取り扱っている物や情報やサービスを通して社会に何らかの作用や影響を及ぼそうとするのだろうが、そこにはそれらの集団が利用する法律や制度も絡まってくるだろうし、作用や影響を及ぼされる側はそれに従ったり逆らったりしながら、従うことを通してあるいは逆らうことを通して作用や影響を及ぼされてしまうのだろうが、そこで踏まえておかなければならないことは、それらに従えばその法律や制度が意図する内容に基づいた作用や影響を及ぼされてしまうのは当然だとしても、それに逆らったところで作用や影響を免れることはできないだろうし、そこで逆らうような動作を強いられてしまうこと自体が何らかの作用や影響を及ぼされた証しとなってしまうわけだが、そういう意味ではその標的となっている人や団体がそれに従うことも逆らうこともそう仕向けている側の想定内であり、従わせたり逆らわせたりすることから何らかの結果を引き出しているわけだろうが、ではそうした作用や影響を避けたりそこから逃れるにはどうしたらいいかと言えば、その標的にならないようにすればいいのだが、向こうから勝手に標的を定めて何かを仕掛けてくるのだから避けようがなく逃れようがないのかも知れないし、仕掛けてくる罠の内容や程度が大したこともなければ、わざと罠にはまって見せて仕掛けた側を満足させて済む程度ならそれでかまわないようなことにもなるのかも知れないが、果たしてそんな手の込んだことをやる必要があるのかといえば、それ自体が自意識過剰な妄想でしかなく、誰が仕掛けたわけでもない罠でもない罠にはまって見せているだけかも知れないし、そうやって特定の誰かが意図的に罠を仕掛けているようには思われないような何でもない状況というのが、普通の日常の中で体験しているほとんどの状況かも知れないし、そこで何に従っているとも何に逆らっているとも意識できないまま、ただ漫然と日々を過ごしているようならそれでもかまわないのかも知れず、あえてそんな状況から抜け出そうとは思わないだろうし、そんなことよりも意識してこだわっている他のことがいくらでもありそうで、そんなことに気をとられているうちに誰かが仕掛けた罠にはまっているとしても、特にそれを意識する必要がない場合もあるだろうし、特にこれといってこだわるようなことがなければそういう罠を意識する成り行きにはならないのかも知れないが、ちょっとしたことにも過剰に反応するような過敏な神経を持ち合わせていれば、罠を仕掛けた側の思うつぼにはまって期待通りの反応が引き出されてしまう可能性もあるのかも知れず、そうなることを期待して誰かが意図して些細な罠をメディア上に仕掛けているわけでもないのだろうが、罠でもない仕掛けを罠だと錯覚するのもお人好しすぎるし、仕掛けでもなく罠でもないのにそれを恣意的な仕掛けや罠だと錯覚するのも、何かそこで退屈を持て余していることの表れなのかも知れず、そういう仕掛けでもない仕掛けに反応すること自体が娯楽と見なしてしまうとまずいのかも知れないが、なぜか罠でも仕掛けでもない何かにはまってしまったように装う演技が求められていて、誰がそれを求めているわけでもないのにそんな演技を強いられるような成り行きになってしまうとすれば、それが何らかの社会的な動作なのかも知れないが、そこに意味や理由を求めてしまうと身勝手なフィクションを構成してしまうのだろうし、そんな動作に裏の意味や隠された意図を想像してしまうことが無意識の罠にはまっている証しかも知れないが、そういう妄想を抱くことすらも娯楽に含まれるとすれば、何でもないことにこだわっていることになるだろうし、それ自体がおかしな感覚をもたらしているのかも知れないが、それが自然な感覚でありそうなるのが自然な成り行きであるとすれば、別にそこで気が狂っているわけでもなく、普通の感覚でそんな成り行きの中にいることにもなるのかも知れず、それはただ漠然と日々を送っていることと同じことになってしまい、それこそがそれ自体でしかないのかも知れないが、そんな日常の日々から抜け出せるかというと、抜け出せないし抜け出す必要もなければそれは罠でも仕掛けでもなく、誰が何を仕掛けているわけでもないのに、そんな仕掛けが勝手に形成されているような気がしてくるかも知れないが、そう思ってみてもかまわないところが何でもないことの証拠なのかも知れず、そこに何かがあるように思われると同時に何もないようにも思われて、そう思ってしまうことも何かに惑わされているようにも思われてしまい、そんなことを思っているときりがなくなってしまうのかも知れないが、きりがなくてもかまわないのかも知れないから、いくらでもそう思っていればいいのかも知れないし、暇にまかせてそう思い続けることでかろうじて正気を保っているつもりになれるならそれでもかまわないのかも知れず、そんなことでしかないと気にとめておけばそれで済んでしまうことであり、それ以上の詮索は禁物かも知れないが、そこから詮索しようと思えばいくらでも詮索できそうに思われるなら、それは詮索の底なし沼でしかないだろうし、そんな底なし沼にはまるように仕向けられているわけでもそれが罠のすべてでもないはずだが、それ以上の動作を求められているわけでもなければ、そうなるように求められていなくても勝手にそんな底なし沼にはまり込んでしまうのかも知れないが、それ以上の動作とは何かといえば、少なくともそれはそれ以下の動作ではないだろうし、そんな動作そのものでもないはずだが、そこでどう振る舞えばいいのかと考える余裕があるとは思えないし、そんなことを考える以前に振る舞っているそれが振る舞うべき動作なのかといえば、そんなことを事前に決めてかからなくても済んでしまうような状況なのかも知れず、実際にそうなっている時点ですでに罠も仕掛けもかいくぐっている最中なのかも知れないし、たとえそんな事態に巻き込まれていようといまいと、そんな気にならなければ意識せずに罠や仕掛けから脱出できているような成り行きになっているとしたら、やはりそれは何でもないことになってしまうだろうし、運悪く罠や仕掛けにはまったとしてもその中で平然と生きていることになるのかも知れない。
2月13日「事態の過小評価」
様々な出来事が組み合わさることによって何かの機会が巡ってきているような気がするのは、それを取り巻く状況から判断するなら、やはり気のせいでしかないのかも知れないが、気のせいでもかまわないのだろうし、気のせいでしかないことが重要なのかも知れないが、別に重要でなくても気のせいでしかないことにこだわっていればいいのかも知れないし、気のせいであることを利用して何かを語ろうとしているのかも知れず、それが気のせいでしかないのにさも重大で深刻な事態に直面しているように装いたいのかも知れないが、それも気のせいでしかないのかも知れず、事態は重大でも深刻でもなく、どう見ても大したことだとは思えないはずだが、それについて語るとなると大したことであるかのように装わないとならないのかも知れないし、大したことではないのに大したことのように装うのだから、装うこと自体に無理が生じているのかも知れないが、無理を承知で大したことのように装うわけだから、その場にかかわっている人たちが口裏合わせをするだけでは足りず、それ以上にその場で起こっている出来事が実際に大したことである必要があるのだろうが、それでも大したことが起こっているわけでもなければ、それは気のせいではなく本当に大したことなど何も起こっていないと思うしかないのかも知れないが、それがどういうことなのかといえば、単にそれについて語っている人たちの思いが裏切られているのであり、大したことが起こっていると見せかけたいのではなく、本当に大したことが起こっていると思うからそれについて語っているのであり、別にわざと大げさに語っているのではなく、そこで感じたままのことを語っているつもりなのであり、それについて語っている人たちにとっては大したことであり重大なことでもあり深刻な事態なのだろうが、なぜそうは思えないのかといえば、わざと過小評価しているわけではなく、そんなふうに受け止めるしかないのであり、そういう事情が生じているのであり、そんな事情に基づいて事態を過小評価したいのだろうが、そうやって見過ごしている現状から目を背けて他に何をやっているのかといえば、本当に起こっていることを過小評価しているわけだが、なぜ過小評価するのかといえばその方が都合が良いからだが、その都合の良さがどこから生じてくるのかといえばそれらの人たちが抱えている事情に照らし合わせれば都合が良いわけだが、その事情とは何かといえば事を穏便に収めたいということだろうし、穏便ではないとしても穏便に見せかけたいのであり、穏便に収めれば見せかけたことになるわけだろうが、しかしそれについて語るとなると嫌でも大げさに語らざるを得ないのであり、ならばそれについては語らないようにしたいのだろうが、誰もが関心を持っていることを語らないわけにはいかないだろうし、語らないわけにはいかないようなことならそれだけでも重大で深刻なことのように思われてしまうわけで、語らないように誘導するのが困難を極めているのかも知れないが、それが駄目ならそれとは別の話題へと関心を誘導するしかないのかも知れないが、果たしてそれ以上に関心を呼ぶような話題があるのかとなると、それを人工的に作り出すのに苦労している実情があるのかも知れず、盛んにわざと気を惹くような不自然な発言をしてみたり、あるいは過去の事件を蒸し返して事件化してみたりしているわけだろうが、それがどこまで成功しているかといえば、それは今後に起こるだろう紆余曲折の如何にもよるだろうが、わざと紆余曲折を起こそうとしてみてもその場の偶然に左右されることもあるだろうし、思い通りの紆余曲折とはならないのだろうが、それでもそうならないよりはそうなっただけでも気休めとしての効果があるのかも知れず、できればそれが気休めなどではなく期待通りの効果を上げればいいのだろうが、そこで何を期待しているのかといえば事が穏便に収まることが期待されているわけだが、すでにわざとそれとは別のことで騒ぎ立てているのだから、穏便に収まるどころか相乗効果によってより一層騒ぎが複合的に大きくなる可能性もあり、そうであるならそんなことをやっていること自体が逆効果でしかないわけだが、それがありのままの現状を構成していて、そこで様々な出来事が複合的に組み合わさることによって何かの機会が巡ってきたような気がするのは無理もないことかも知れず、そんな機会を捉えて何かさらなる効果的な作用を世の中に及ぼしたいのかも知れないが、それが気のせいでしかなければ当てが外れたことになるわけだが、果たして事の真相が明らかになるかというと、うやむやになってしまう可能性の方が高いだろうし、結果的に大事には至らずに事態が収束してしまえば大したことはなかったことになってしまうし、そうであれば事を穏便に収めたことにもなるのかも知れないが、何かそこで重大で深刻なことが起こっていたかどうかが永遠にわからずじまいとなってしまえば、気のせいであったと思っても差し支えないわけだろうが、それは今後に起こることが鍵を握っていて、何が起こるかは現時点では推測の域を出ないことかも知れないが、パニックになることを期待していたずらに恐怖を煽ってみても何の得にもならなければ、機会を捉えてやるべきことでもないはずだが、ただ単にそれについて語ろうとしているだけであればそれが何らかの出来事に発展する可能性も低いだろうし、何かを語ることが重大な結果をもたらすとも思えないが、他に何か隠そうとしていることがあるわけでもなく、すべての物事が出揃っていることは確かであり、その中で何が重大で重要で深刻な状態を示しているわけでもないだろうが、出揃っている物事が効果的に組み合わさるとそこに何らかの怪物的な存在が浮かび上がってくるのかも知れず、それがすでに組み合わさっているのではなく、言説の中で効果的に組み合わせる必要があるのかも知れないが、それも恣意的に意図や思惑に基づいて組み合わせるのではなく、その場の状況に合わせて組み合わせてみれば、その内容が何らかの真実を物語っていることにもなるのかも知れないし、それらが相乗効果をもたらすのか、あるいは打ち消し合って大して深刻な効果ももたらさないのかは、その場の状況次第な面があって、それを語る側が決められるわけでもなく、それについて語る側としては過大評価にも過小評価にも結びつかない程度で語ることが肝心なのかも知れないが、それについて語ろうとすればそれを強調して他とは区別して語るような成り行きになってしまうだろうし、それだけでも過大評価が伴ってしまうのかも知れないが、そうではなくなるべく事を荒立てないように語ろうとすればそれが過小評価に結びつくかというと、何かを過小評価するには他の何かを過大評価してそれと比べて対象への評価を低く見積もるような操作をせざるを得ないとすれば、やはり何かを過大評価しない限りはうまく過小評価できないのかも知れないし、そういうところで恣意的な意図や思惑が浮き出てきてしまって、何かを語ることによって過小評価することは難しいのかも知れず、そういう意味では過小評価するよりは語らないでおく方が無難なやり方となるだろうし、要するにそこで何かが起こっていることを隠すには、それについては語らない代わりに他のことについて大げさに語るわけで、それとは関係のないことを過大評価するようなことをやるわけだが、それでもそれが過大評価と受け取られる限りで、あえて語らないでおく対象を想像させてしまうだろうし、何にしても何かを語る限りでそこに恣意的な意図や思惑がその中に含まれてしまうわけだ。
2月12日「効果のない主張と批判」
何かをやるに際して簡単な理屈でうまくいくかというと、それはやっている内容にもよるのかも知れないし、実際にうまくいかなければ簡単な理屈ではうまくいかないことが明らかとなるわけだが、うまくいけば簡単な理屈でもうまくいくと言えるかも知れないし、うまくいくときとうまくいかないときがあれば理屈通りにはいかない場合があるのかも知れないが、確率的にうまくいく場合といかない場合があるのかも知れないし、そこに何か込み入った事情や条件などが介在してくるのかも知れないが、そんなことをやる側としては簡単な理屈でうまくいくようなことをやりたいから簡単な理屈を持ち出してくるのだろうが、簡単な理屈でやれると主張していることを実際にやろうとすると、うまくいかなければ理屈が間違っていると言われても仕方のないことだが、誰かが誰でもわかるような簡単な理屈を用いて何か主張していれば、それは簡単な理屈を用いて主張することができるということであり、その人がやっていることは何かを主張していることであり、主張の中で何かをやれると主張していても、主張している時点では別に主張に基づいて何かをやっているわけではなく、その人にはただ何かをやれると主張することはできるが、それ以外に実行力があるわけではなく、主張するということに関してそれを実行しているに過ぎず、またそういう人に限って簡単な理屈を用いて批判を繰り返しているような状態になっていて、その批判の対象となるような人や団体のやっていることがうまくいっていないと批判しているようなら、やはりそれは簡単な理屈を用いて批判することができるということであり、そうであれば簡単な理屈を用いてできることは何かを主張したり批判することになるわけで、そんな主張や批判を信じられるかとなると、主張や批判ができることは実際に主張したり批判しているのだから信じざるを得ないにしても、その先の主張や批判の中身を信じられるかといえば、主張や批判だけでは信じるか信じないかはどちらとも言えないのかも知れず、それ以外の要素を加味すれば信じたり信じなかったりすることに関して何かもっともらしい理由が生じてくるのかも知れないが、別にそれを信じたり信じなかったりすることにこだわらなくてもかまわないのかも知れず、そういう主張や批判があると受け止めておくだけでかまわないようなことであれば、特にそんな主張や批判を重視する必要はないし、場合によっては無視してもかまわないと思われるなら無視するだろうし、無視してもかまわないような主張や批判ならその程度のことであり、実際に誰にでもわかるような簡単な理屈を用いて主張したり批判しているとすれば、そんなのは誰でもできるようなことでしかなく、実際に誰もがそんな主張や批判をしているのならそんな主張や批判は世の中にありふれていて、そうであるにもかかわらず主張や批判が活かされていなければ、要するにそんな主張や批判は機能していないことになり、主張しても批判しても効果がないということであり、逆に効果がないから誰もが安易に主張したり批判したりできるわけで、効果がないようなことを主張したり批判しているわけだから、逆にそれ自体が主張や批判の効果を打ち消すような効果があるということにもなるわけで、誰かが戦略的にそんな効果を狙っているわけではないとしても、誰もが同じような主張や批判をすることによって、それが誰でもできる紋切り型の安易な主張や批判となり、そういう主張や批判を世の中に蔓延させることによって他の主張や批判が出てこないようにさせる効果があるわけで、実際にそんな主張や批判がなされているのにそれが活かされていないような状況となっていれば、そういう状況をもたらしているのは誰でもできるようなありふれた主張や批判のおかげでそうなっているわけだが、それによって世の中がうまくいっていないのかといえばそうでもないのかも知れず、誰もが無効な主張や批判を繰り返していてもかまわないような状況が実現しているわけで、そんな主張や批判とは裏腹な状況となっていることが、そうなっていることに関してはうまくいっていることになるのかも知れないのだが、それがどういうことかといえば主張とは逆のことをやっていたり批判の対象となっている人や勢力にとってはうまくいっていることになるわけで、要するにうまくいっていないと批判されている批判そのものが無効なのだから、批判が無効である限りで批判の対象となっている人や勢力には好都合な状況がもたらされていて、少なくともそういう面ではうまくいっていることになるのだろうが、逆に言うなら主張や批判が無効となっているのだから、主張や批判をおこなっている人たちにとってはうまくいっていないことになるのかも知れないが、それも誰もがそんな主張や批判をしている状況がもたらされている限りで、誰もがそんな主張や批判ができているのだから、主張や批判ができるということに関してはうまくいっているわけで、そんなふうにして誰でも主張や批判ができる世の中が実現しているわけだから、そういう面では民主主義が実現していることになり、民主主義とは誰もが自由に主張や批判をしても構わない状況を実現することだとすれば、まさにそれが実現していてそういう状況となっているわけだから、逆に言うなら誰もが自由に主張したり批判できる状況とは、その主張や批判が無効である限りでそうなるのかも知れず、要するに差し障りのある主張や批判をされるとその主張や批判の対象となっている人や勢力が困ってしまい、それが政府などの行政に関する主張や批判だとそれを押さえ込まなければならなくなるから、そうなると結果的に民主主義に反したことがおこなわれてしまうわけだが、ではそうならないようにするにはどうすればいいのかと言えば、そんな主張や批判をされたところで支障をきたさないような状況を作ればいいわけで、そういうことの妥協点として生じているのが、誰でも自由に主張したり批判できるがそうした主張や批判が活かされるとは限らない状況となるわけで、そういう状況の中では誰もが自由に主張したり批判したりしているつもりであっても、そういう主張や批判がことごとく無効な主張や批判であり、無効であることが気づかないというか、無効な主張や批判をしている自覚がないような状況となっているのかも知れず、そういう人たちは自業自得気味に足並みをそろえて無効な主張や批判を繰り返すことによって団結しているわけで、他の主張や批判を許さないような空気を作り出してそういった同調圧力を世の中に及ぼしている自覚もないのかも知れず、そうやって横並び感覚で執拗に同じような紋切り型の主張や批判を繰り返すことによって民主主義を実感しているわけで、もちろんそうした批判の対象となっている人や勢力が民主主義を踏みにじるような行為をおこなっていると批判するわけだが、そう主張することが他の主張を封じ込めるような効果を及ぼしていることには無自覚なのかも知れず、それももちろん他の主張は一切無視することによってそれを実現しようとするわけで、それが逆説的に誰もが自由に主張や批判をおこなえるような民主主義的な状況を作り出しているわけだから、そういった行為を批判するのは民主主義に反した行為になるのかも知れないが、むしろそれを逆説的に捉える必要はなく、それこそが民主主義の実現だと捉えておけばいいのかも知れないし、多くの人たちが同じような主張や批判をおこなうことが民主主義のあるべき姿だとするなら、そうすることによってしか民主主義は実現しないのではないか。
2月11日「正義の都合」
物事の全体を見通せないのは誰にもありがちなことかも知れないが、別にそれでまずいわけではなく、むしろそれが当たり前のことであり、誰もが部分的で一面的な認識しか持ち合わせていないのかも知れないし、また物事といっても興味を持ったり関心を抱いたりした物事に限られるだろうし、すべての物事に関心があるわけでもないのも当然だろうが、その人の都合の良いように物事を理解していることもあるだろうし、それが本当にその人にとって都合の良いことなのかとなると必ずしもそうではなく、他の誰かあるいは何らかの団体にとって都合が良ければ、それらから作用や影響を及ぼされている可能性もあるだろうし、それらにとって都合の良いような物事の理解をその人が強いられていれば、それを意識できるかとなると特に意識するような成り行きにはならないのかも知れず、そんなことにまで気が回らなければそれで済んでしまうようなことかも知れないし、その人にとって都合が良いように思われていれば普通はそれでかまわないわけで、他からそう思い込まされている限りでその思い込まされていることには逆らえず、その人にとって都合の良いように思われると同時に他の誰かにとっても都合が良いのだから、それ自体が他との間で無用な対立や争いや戦いをもたらさないから双方にとって都合が良いことだろうし、そうやって都合が良くなるように他へ作用や影響を及ぼすことが戦略的にも都合が良いやり方となるわけだが、一定の傾向や内容の理解や認識を世に広めるということはそういうことであり、なるべく多くの同調者を募って自分たちの勢力を拡大する上でそういうやり方が戦略的に有効に機能するのだろうし、そういう意味で他から信じてもらえるような物事の見方や考え方が共通の理解や認識として役立つわけだが、なぜ支持や同調を得られるのかといえば支持者や同調者にとってもそう見たり考えたりすれば都合が良いと思われるからだが、そんなふうにして何らかの理解や認識を共有する人たちでまとまることができれば、それらの人たちにとっては都合が良いように思われるわけで、そういうまとまりが何らかの団体として存在するようになり、それが社会的なまとまりであったり国家的なまとまりであったりするわけだろうが、すでにそうやってまとまっているとしても絶えずまとまろうとする限りでまとまりを維持できるわけで、そんなふうに絶えずまとまろうとするように仕向けるためにも、そのまとまりの中で共通の理解や認識を保持しようとするだろうし、そうなるための戦略がまとまりの中で講じられることにもなるのだろうが、それが都合の良い理解や認識を人々に信じさせるための宣伝や煽動となるわけで、そのために利用されるのがマスメディアとなるわけだが、間接的な思い込みだけではなく直接的な実感となればなおのこと好都合なわけだから、そうなると人々の暮らしや生活に直接の作用や影響を及ぼさないとそういう段階までには至れないわけで、そうなるにはメディア的な宣伝や煽動だけでは足りないだろうし、そういう物心両面での心地よさを実感するには経済的な豊かさが必要となってくるわけだが、それが実現できるかというと他との競合関係も考慮に入れると、なかなか思い通りにはいかない現実があるわけで、しかも単なる経済的な豊かさでは満足してもらえない段階にまで至っている可能性もあり、付加価値としてそれに加えて自分たちがやっていることが正義であるような状態を求める傾向にもなってくるのかも知れないが、具体的に何が正義かというと、現代的な傾向としては例えば環境破壊や汚染などの面で他へ迷惑をかけないことが正義であったりして、そういう面にまで踏み込んで理解や認識を他と共有するとなると、現状の世界でおこなわれていることの中で、自分たちの主張との間で整合性がとれないような行為を批判することにもなってきて、そうなると他との間で生じている対立や軋轢も激化するわけだが、果たしてそれで都合が良いかとなると全面的に都合が良いわけではなく、ある面では都合が良いかもしれないが別の面では都合が悪いことも出てくるだろうし、それでも正義を主張したければ都合が良い面だけを強調したり都合が悪い面を隠蔽したりするわけだろうが、そんなことをやっていると正義を主張すること自体に欺瞞や偽善がつきまとってきてしまい、正義にこだわっている限りでそうなることは避けられないのかも知れないが、自分たちにとって都合の良い正義の主張が、それと対立したり軋轢が生じている他の人たちにとっては迷惑な主張となって、結局は迷惑なことをやっている他の人たちを批判している行為が他の人たちにとっては迷惑な行為になってしまうから、お互いに迷惑をかけ合っていることにもなり、迷惑をかけているのはお互い様なわけだが、環境破壊や汚染を引き起こしていること自体が迷惑な行為だと主張することが正義だと思われるのだからその点は譲れないだろうし、その点にこだわることが正義であるわけだから、たとえそれによって他へ迷惑をかけているとしても、優先すべきは正義の主張や批判の方であり、その点ではそれらの人たちの都合が優先させるべきなのだが、主張していること自体がそれらの人たちの都合を主張していることでしかなく、主張すること自体はいくらでも主張できるし、批判することもいくらでも批判できるのだが、それが実際におこなわれていることに対して主張したり批判しているわけで、実際におこなわれていることの効果としてそれに対して何かを主張したり批判したりしている現象が伴ってくるわけだから、それらが一体化していてそれ自体が一つのまとまりを伴った出来事であり、正義の言説がそこに加わっていると捉えられ、そこでおこなわれていることに付随して生じる正当化の言説であり、そこでおこなわれていることに対して自らの立場を言葉で正当化していることになるだろうが、そういった正当化によって自らの都合を説明しているのだから、それがそういった行為への賛同であれば、おこなっている人たちとそれに賛同している人たちとの都合が一致している一方で、そういった行為への批判であれば都合が折り合わないどころか対立していることにもなって、どちらに正義があるかを巡ってもめているとも言えるわけで、そうなると結局それをやめさせることができるかどうかで正義のあるなしが決まってきて、批判する側に正義があるとすれば、それをやめさせることによって正義があることを証明しようとするわけで、言葉による批判だけでは無理なら実力行使をやるような成り行きになってくるだろうし、実際にそれが抗議活動などの反対運動に発展すると、具体的に裁判に訴えたり公的な政治権力に頼ってやめさせようとしたりするわけだが、そこでおこなわれていることに政府などの公的な機関が絡んでいると、民主的な政治制度が機能しないとやめさせることはできないだろうし、いくら反政府的な運動をやったところで民主主義が機能しなければ弾圧されて抑え込まれてしまうしかないわけだが、民主的な政治制度が機能するには経済的な豊かさが実現していなければならず、それを実現するために自然破壊や汚染に結びつくような行為をやってきた経緯があるとしても、今までにそういうことをやってきたからこそ、そういった行為に歯止めをかけなければならず、それをやることが正義に適った行為になるとすればそうやって状況が変化すると共に正義の主張も移動することにもなり、状況の変化に対応した正義を求めなければならないわけだが、そうなると以前には思いもつかなかったような正義の主張が今後状況の変化に伴って出現する可能性も出てくるのではないか。
2月10日「政治的な主張の限界」
普通に何が正しくて何が間違っているかに関して、現状で正しいと思われるような認識が将来のある時点においては間違っていると見なされることがあり得るだろうし、それが何かを特定することは現時点ではできないかも知れないが、過去のある時点では正しい認識と思われていたものが現代では迷信となってしまったものもいくらでもあるわけで、そういうことから推測すれば現時点で正しいと思われる認識のうちで将来において迷信となってしまうものを予想できるかも知れないが、では具体的に何がそうなってしまうのかといえば、それは政治的に信じられている認識となるかも知れないし、また科学的な認識の中でも将来において間違っていることが判明してしまうものも出てくるかも知れないが、例えば政府の財政赤字や消費税の在り方や原発や化石燃料の必要性や地球温暖化などのように、現在においても見解が分かれている認識もあるだろうし、そうやって何が正しくて何が間違っているかを主張し合うようなやり方が政治の場で普通におこなわれていること自体が、実際にそれに基づいて政治がおこなわれているわけだから、現状でおこなわれていることが間違っていると安易に主張できてしまい、すでに現状でおこなわれていることが否定されて、その時点で将来において認識の間違いが明らかになることが先取りされていて、その理由が現状でおこなわれていることがうまくいっていないからだということになるのだが、そうであるにもかかわらず間違ったことが平然とおこなわれている現状があるわけで、だからこそ間違った現状を正さなければならないという主張になるわけだが、果たしてそれが間違っていると認識してもかまわないのかというと、たぶん正しいと認識しているからそういうことがおこなわれているのだろうし、将来においては覆されるかも知れないが、現時点では少なくともそれをおこなっている側には正しいと認識されていると判断しておいてもかまわないのかも知れず、またそれをおこなっている側にも間違ったことをやっていると認識されているにしても、それが実際にできてしまっていることは事実なのだから、間違ったことが実際にできてしまうという事実は認めざるを得ないわけで、やっていることが正しかろうと間違っていようとそれができてしまうということが、現状の確かさを物語っているのだろうし、しかもそれが将来においてもできるかどうかはわからないにしても、現状でそれをおこなっているのだから、少なくともそれをおこなっている側が現状の中で主導権を握っていることも確かであり、逆に言えばそれをおこなっているからこそ主導権を握っていられるのかも知れず、そうであるなら現状では間違ったことをおこなわないと主導権を握れないという事実が厳然とあるのかも知れず、要するに正しいことがおこなえない現実があることになるわけだが、本当にそうかというと実際に正しいことがおこなわれない限りはその現実を覆せないわけで、ただそれを主張しているだけでは実現できないし、実際におこなわなければならないわけだが、現時点ではそれを主張しているだけで実現できていないわけで、なぜそうなっているのかといえば間違ったことがおこなわれているからだが、現時点ではどこまでもそうなっているわけだから、どうにもなっていない現実があるわけで、それをどうにかするには間違ったことをやめさせなければならないわけで、その間違ったことをやめさせるにはどうしたらいいのかということがうまくいっていないからこそ、間違ったことがおこなわれている現状があり、そういう意味でも現状でおこなわれていることがうまくいっていないわけで、結局何が間違っているのかといえば、現状でおこなわれていることが間違っていて、それは間違ったことをやめさせようとするやり方も間違っていることになるわけだが、そうなると現状でおこなわれていることが間違っていると主張する側も、その間違ったことをやめさせられない限りは、自分たちのやり方も間違っていることになり、自分たちの主張の正しさを証明するには、まずは現状でおこなわれている間違ったことをやめさせた上で自分たちが主張する正しいことをおこなって、それがうまくいくことが明らかにならない限りは自分たちの主張の正しさを証明できないわけで、要するに自分たちの主張を正しさを証明できていないのにもかかわらず自分たちの主張が正しいと主張しているわけだからその主張が正しいことにはならないわけで、またよそでは正しいことが証明されているというならここでもその正しさを証明して見せなければならないだろうし、ここでその正しさを証明して見せない限りは、どこまでもその正しさは仮説の域を出ないことであり、どうやっても現状のままでは不利な状況に陥っているのだが、それでも現状でおこなわれていることが間違っていて自分たちの主張が正しいと主張せずにはいられないわけだから、その正しいことが実際におこなわれてそれがうまくいったことが確認されるまでは、主張が正しいことにはならないわけで、いつまで経っても正しいことが証明されないことを正しいと主張し続けることしかできないのだから、それ自体が現状の中では不利な状況であることを示していて、そんな不利な状況を打開できない限りは自分たちの主張が正しいことにはならないし、また現状でおこなわれていることをやめさせることができない限りは、それをやめさせようとするやり方が間違っていることにもなるわけで、そうなっている限りは現状でおこなわれていることに反対する人々はやり方を間違えていることになってしまうわけだが、やり方を間違えているにもかかわらず自分たちの正しさを主張せずにはいられないのだからそんな主張自体も間違っていることにもなってしまうわけで、もちろん主張のすべてが間違っているわけではなく、現状でおこなわれていることが間違っているということが正しいなら、間違っていることをやめさせようとするやり方が間違っていることになり、では主張しているだけで間違ったことをやめさせようとはしていなければ、少なくともその場では主張自体が正しいことが永遠に証明できないわけで、正しいことが証明できない主張が正しいわけではないし、それを証明するには現状でおこなわれている間違ったことをやめさせて自分たちの主張することおこなわないとならないわけで、それが現時点ではおこなえない現状を打開しない限りは自分たちの主張の正しさを証明できないのだから、要するに正しいことを主張しているだけでは駄目だということは明らかになってしまうわけで、しかも現状でおこなわれていることが間違っていると主張しているのだから、まずはその間違ったことをやめさせなければならないわけで、そして結果的にやめさせられなければやめさせようとするやり方が間違っていることにもなり、そうなると現状でおこなっていることが間違っていることの中には、自分たちのやり方も間違っていることが含まれてくるわけで、ともかく現状でおこなわれていることが間違っていると主張する人たちはその間違っていることがおこなわれている限りで、それをやめさせられない自分たちも間違っていることが明らかとなってしまっていることに気づかないとならないわけだが、果たしてそれに気づいているかとなると、まさか自分たちも間違っているとは主張できないだろうし、それに気づいているか否かにかかわらずまだ証明されていないのにもかかわらず自分たちの主張が正しいと一方的に主張するしかなく、それが政治的な主張の限界となっているわけだが、果たしてそんな主張が本当に正しいか否かは、現時点ではわからずじまいとなるしかないのではないか。
2月9日「自由と束縛」
自由に生きようとすることは結果的に周囲から及ぼされる様々な作用や影響に逆らいながら生きることを意味するのかも知れないが、家族や他人からの直接の作用やメディア経由で受ける心理的な影響以外にも、集団で構成する何らかの団体や機構の組織的な束縛から逃れようとすることも意味するかも知れないし、それ以前にすでに社会の中で生きているわけだから、それだけで有形無形の何らかの束縛を受けていることも確かであり、それに伴って身体的な束縛と共に心も束縛されているかも知れないし、言動や行動や活動もそれと関係する人や集団によってそれなりの束縛を受けている可能性もあり、そういう面も考慮すれば自らに施される様々な束縛に抗いながらも、それらと共存しながら主体的に生きようとする限りで、その人の心身に多少の自由がもたらされているのかも知れないが、端的に言うならどれだけ身勝手に生きられるかでその人の活動の自由度が決まると考えても差し支えないだろうが、その身勝手さが周囲からの反発を招くなら、それが原因で絶えず争いや戦いに巻き込まれてしまうかも知れないし、周囲がその人と争っても戦っても無駄だと判断すれば単に無視されるだけだろうし、そうやって無視されていも当人が社会の中でおこなわれている何らかの行為や活動に介入しようとすれば、相手にされなければ無視されるだけだろうが、向こうから相手にするだけのメリットがあると判断されれば、そこから何らかの接触がおこなわれることになり、それが交渉や取引や争いや戦いに発展するかはその場の状況次第だとしても、何らかの関係が生じればその関係がそれなりの束縛をもたらすわけで、それだけでもそういう方面では自由ではいられなくなるのだろうが、そういった方面に四六時中かかりきりになるとは限らず、それと同時に他の様々な方面でも関係が生じていれば、関係の数だけ束縛が生じているわけだろうが、それらの関係している対象との間で相互作用を生じさせているわけだから、その作用の程度や傾向に応じて束縛の強度も変わってくるだろうし、関係する対象に強く束縛されているほど自由度が減少するわけだが、束縛が心地良ければ許容されるし、不快に感じるようなら交渉したり取引したり争ったり戦ったりしながら自らの自由度を拡げようとするだろうし、そうすることが関係そのものであるとも言えるわけで、そんなふうにしてその人の自由度が広がれば、その分だけ相対的に相手の自由度が狭まる可能性もあるだろうし、そんな関係の中で主導権を握った方が相手に対して勝手なことをやれるようなことになるのかも知れず、それが権力関係と言えるのだろうが、そうであれば相手との関係において無関係であれば双方共に自由でいられるが、いったん何らかの関係が結ばれるとどちらが主導権を握るかで、主導権を握った側の自由度が増えると同時に主導権を握られた側の自由度が減るという不均衡が生じて、主導権を握った側が有利な状況となる一方で主導権を握られた側が不利な状況となるわけだが、それでどちらか片方あるいは双方共に不満なら絶えず双方の間で交渉や取引や争いや戦いが起こるわけで、そういうことが続いている間はどちらもそういった行為に束縛されて、それだけでもそういった方面では自由ではなくなるだろうし面倒な事態にもなっているわけだが、そういう関係に束縛された状態になっていることにメリットを感じていればそういう状態を保とうとするだろうし、そこから利益がもたらされている限りでそういう状態を受け入れるわけで、その分自由度が減っても文句はないのかも知れないが、たとえそこから利益がもたらされているとしても、そういった状態が煩わしくなれば関係を解消しようとするのかも知れず、そう意味で利害関係といえども他のすべてに優先されるとは限らず、たとえそのことで不利益を被ってもかまわないような心境や状態にもなるわけで、どのような関係であっても絶対というのはないはずだが、相対的な関係では不満なら絶対的な関係を目指すのかも知れず、自らが絶対的に有利な関係というのが自らの自由度が最大限に大きくなった関係だと言えるのかも知れないが、そこに関係がある限りで何らかの束縛も生じていて、いくら絶対的に有利な関係を目指そうとしても無関係ほどには自由な関係にはなれないだろうし、そういうところに勘違いや思い違いが生じているのかも知れないが、相手が妥協したり譲歩した分だけ自らが有利になったと錯覚するわけで、それだけおごり高ぶってしまえば隙が生じて、隙を突いて相手から反撃されるかも知れないし、そういう意味では交渉や取引や争いや戦いの関係であれば双方共に気を抜けないわけだが、交友とか愛情などの信頼し合う関係であればお互いに気を許しあう関係になるだろうし、それだけ心身共に余裕が生じているから許し合える仲になれるわけだろうが、そこからも憎しみや妬みなどが生じてきて関係が壊れることもあるだろうし、何がどうなっても絶対はあり得ないわけだが、何も誰もが絶対的な関係を目指しているわけでもないだろうし、大抵は相対的な関係で妥協するだろうし、良好な関係を保っている限りで満足しているはずだが、自由であることを望むときりがないとしても、ただ漠然と自由な状態を望んでいれば関係をできるだけ薄めようとするのかも知れず、完全に自由になってしまうと無関係となって孤独にさいなまれてしまうから、他者との間で適度な関係を維持しつつも相対的な自由度を確保したいのかも知れず、その適度な関係というのが薄められた関係であり、しつこくつきまとわれないような状態に関係の程度を調整しようとして、つかず離れずな距離感を絶えず調節していて、それも他人には身勝手と受け取られるかも知れないが、そうやって感じられる身勝手さがその人が求める自由につながっているのかも知れず、濃くて強固な関係を嫌う傾向にあれば、そこから生じる束縛を許容できないということであり、何かに依存するのが不快に感じられるということでもあるだろうし、そういうところで自由な状態をどう捉えてどう感じるかで、人によってはそういう状態を嫌ったり中途半端で無責任に思われるかも知れないが、逆に何事にも深入りしないことで、そこから生じる束縛から逃れようともしているわけで、そういう傾向を求めている限りで自らにも他者にも自由が生じていると言えるだろうし、また自由が生じている限りで自らも他者も決して思い通りにはならないし、意識する対象への管理も制御も中途半端に留まることを意味するわけだが、そんな自由を許容できるかとなると、自らの意向や利益をある程度は放棄できるなら、放棄した分だけ自由になったと言えるのかも知れず、それだけ自らの権力の行使を放棄することにもなるだろうし、放棄した分だけ他者との関係が弱まることにもなるわけだろうが、その分だけ対象となる他者の自由度も高まるわけで、それが無関係となれば自らの力が他者に及ばないから、そういう面では完全に自由となるわけだが、それも身勝手かといえば関係がなければ身勝手とも思われないし、何でもないことになってしまうだろうが、少なくともそれは相手を屈服させて相手に対して思いのままに権力を行使するような自由とは正反対の無関係の自由となるわけで、どちらが本当の自由なのかといえば、どちらもその人にとっては自由だと言えるだろうが、相手にとっては思いのままに権力を行使されるのは不自由この上ないだろうし、不快な束縛を受けていることになるのかも知れないし、普通はそれだけで許容限度を超えているはずだが、逆に完全に無関係であれば別に自由であるという意識も自覚もないような状態となってしまうわけだ。
2月8日「満足感を得る戦略」
世の中でうごめいている人たちが実質的に何をやっているかといえば、人によっては何もやっていないかも知れないが、大抵の人なら何もやっていないわけでもなく、何かしらやろうとしていることをやっているつもりになれるだろうが、そのやっているつもりというのが実際にはそれ以上のことをやっていたり、また場合によってはそれ以下のこともやれていなかったりするわけで、やっているつもりのことに実質が伴っていなくても、何か満足できることをやっているという実感は抱いていたりして、またその実質というのが何なのかがよくわからないわけだが、ただ金銭的な利益が伴っているという基準では、それが自ら主体的にやっていることになるとは限らず、やりたくもないことを必要だからやらざるを得ないようなことにもなってしまうわけだが、そうなるとやはりその場の状況に合わせて何かやっているというのが自然な成り行きになってしまうわけだが、そうだとすれば何もやっていないように思われる人も、その場の状況下では何もやっていなくても間に合っていることになるだろうし、その場では確かにそうだが別の場では何かをやらざるを得ない成り行きであったり、実際に何かをやっていた時期もあったのだろうが、それがある時期から何もやらなくても間に合ってしまうような成り行きになってしまったのかも知れず、そういう意味では何かをやっているかやっていないかの基準というのも、その場の状況に合わせて別の基準を当てはめて判断しなければならなかったり、そもそもなぜそんな基準から判断するのかといえば、その理由がわからなければ基準が基準としての体をなしていないし、場合によっては基準などなくても無視してもかまわないが、ではなぜ何かをやっているかやっていないかで語ろうとしたのかといえば、それだけでは何を語っていることにもならないのではないかと疑念を抱くように誘い込もうとしていたのかも知れないが、それもそう語ってしまえば何でもないようなことになってしまうわけだが、何かを語るには語るきっかけとなる何らかの判断基準を示して、それについて一通り語ってみれば、そんなことは何でもなかったことが明らかとなり、結果的にはそんなことを語る必要もなかったということになってしまいかねないが、やはりそれでも語っている内容に何らかの実質が伴っているように思い込みたいわけで、それが語ることの意義であるかのような幻想も抱きたいのだろうが、それが幻想であってもかまわないし、幻想を抱けることが語ることの効果として実質が伴っていることであってもかまわないのかも知れず、普通は幻想を抱くことだけでは実質が伴っていないことになるのかも知れないが、実質的な満足感というのはそういうものでしかないのかも知れず、それとは違ってたとえ何らかの活動に金銭的な利益が伴っていても、それを貯め込んでいるだけでは満足感しか得られないだろうし、金銭を使って何かを得ればそれが実質となるかも知れないが、得たものに満足できなければ、それを得ることで実質は伴っていたかも知れないが不満であったり、それなら得られなくても幻想を抱いているだけの方が満足感に浸っていられたのかも知れず、もちろんそれだけでは物足りなくなってしまうから何か実質的なものを得ようとするわけだが、その実質的な何かを得ようとするときが試練の時なのかも知れないし、そこでうまく満足感を得られるようなものを手に入れられれば、試練をくぐり抜けて満足感を得ることに成功したわけだろうが、その満足感も一過性のものでしかなく、一通り何かを得たことで満足感に浸っていると、またそんな体験をしたくなってまた満足感を得られるような別の何かを求めたくなってしまい、その際には今までに体験した満足感よりもより一層大きな満足感を得ようとしてしまって、そうなると身の程知らずな試練にその身をさらすような危険も伴ってきて、そんな試練に打ち勝って得たいものを得られれば、確かにより一層の大きな満足感を得られるかも知れないが、まかり間違えば自らの破滅を呼び込むことにもなるだろうし、そういうところで危険を回避するには、ほどほどのところで満足しておかなければならないだろうし、満足感を得たいという欲望を放っておけば留まることを知らないわけだから、そうした欲望を抑えつけて身の丈に合ったことをやるように心がければいいのかも知れないが、その身の丈という程度がどれほどなのかも判断がつかないところだろうし、結局はやりたいと思うことをやってみるしかそれを知る術はなく、実際にそれをやってみれば結果的にそれができたかできないかで身の丈の程度が明らかになるわけだが、たとえその時にはできなかったとしても条件が違えばできると思われる場合もあるだろうし、そうなるとまた機会をうかがって条件を整えて再挑戦するような成り行きにもなるかも知れないが、そういう判断が正しいか間違っているかは、やはり実際に挑戦してみないことには何とも言えないだろうから、どこまでも結果がどうなったかで判断するしかなく、満足感を得るにはそれ相応の試練をくぐり抜けないとならないわけだが、いつまでもそんなことに挑戦していられなくなるだろうし、そんなことをやっている途中で力尽きてしまうことだってあり得るわけで、そういうことを恐れるような成り行きになれば、やはりある程度のところでやっていることに見切りをつけて満足感を得る行為を断念するようなことにもなるのだろうが、今度は戦略を変えてより安易に満足感を得やすいやり方を模索するようにもなるのかも知れず、なるべく困難に直面せずに安易に手軽な満足感を得られるような方法に惹かれてしまうわけだが、そういう満足感を提供するのがメディアの役目にもなってくるし、またそれに連動して娯楽産業が提供するサービスの類いがそういう傾向になりがちになり、そうした誰もが得られる手軽な満足感を求めて多くの一般大衆がその手の娯楽に群がって、そういう方面の産業が興隆してきたわけだろうが、いつまでも同じ娯楽を提供し続けているとやがて飽きられてしまうから、目先の流行に合わせたり自らも流行を作り出そうとしながら、より多くの人々が魅力を感じられるような娯楽を提供しようとしたり、あるいは多額の金銭の所有者向けに選ばれた人向けの虚栄心を煽るような豪華な娯楽を提供するような傾向にもなるだろうし、それも貧富の格差をもたらす資本主義経済の傾向に合わせた戦略としてそういう二極的な傾向にもなるわけだろうが、どちらにしても人為的に工夫を凝らして満足感をもたらそうとしているわけで、人々にそうした夢を提供しているとも言えるわけだから、それに実質が伴っているとしてもそこから得られるのは幻想の類いには違いなく、人々がそこで直面しているのは人工的な仕掛けとなるだろうし、それがいかに至れり尽くせりのサービスだとしても、身の安全を保証されている限りで体験しやすいように調整されて飼い慣らされた試練とはいえない何かを体験していることになるわけだが、それで満足できるかとなれば満足したように思わされてしまうのだから結果的には満足したことになるのだが、そこには間接的な意図や思惑が差し挟まれていることは確かであり、それが人為的な制御であり、そこでサービスを提供する側に操られていることにもなるし、果たしてそれを全面的に受け入れてもかまわないのかとなると、中には抵抗感や反発を抱く人も出てくるだろうし、そうした人の存在を最小限に食い止めることができればサービスを提供した側は勝利したことになるわけだが、ではサービスに満足してしまった人が敗北したことになるのかといえば、満足したのだから少なくともそんな気にはならないわけだ。
2月7日「人為的な構成物の寿命」
人や集団に関係した様々な活動において、何らかの成果を上げていることはいくらでもあるのかも知れないが、それが何を標的にした成果かといえば、特定の人や集団や不特定数の人々や場合によっては社会全体を対象としていたりもするのかも知れず、その中のどれでもないとするなら、何の成果も上げていないのかも知れないが、ただ漠然と何の目的もなく働いているわけでもないだろうし、何らかの成果を期待するような意図や思惑や目的があって誰もが働いていると思いたいところだが、結果的にはうまくいかない場合もあるだろうし、何の成果も上げられずに失敗に終わった活動もいくらでもありそうだが、その成果というのが直接の金銭的な利益の獲得を目指しているのであれば、それが経済活動の類いになるわけだが、それ以外にはどんな成果が目指されているのかといえば、それによって何らかの組織や団体や機構などのまとまった人為的な構成物を維持しつつ増大させたり強化するような成果となる場合もありそうで、そのために経済活動や経済行為をやっていることにもなるわけだが、何のためにという目的がそれ自身やそれ自体の維持継続や強化を目指しているなら、それは当然のことでありどのような人為的な構成物にも言えることになってしまいそうだが、それ以外の目的があろうとなかろうと、すべての目的はそれ自体へと向かっているだろうし、それを構成している人や物や情報の類いはそのために使われることになるわけだが、そういうそれ自体で社会を構成しているような物事にはどのような力がそれ自体に加わっているのかといえば、そこに何らかのまとまりを生じさせるような圧力がその内外から加わっているからそれ自体で何らかの構成物を生じさせているのだろうが、それがその構成物を維持継続させる力ではない場合もあるだろうし、それがそれを破壊しようとする圧力であれば、それに抗う力が内部から生じてくるのだろうが、それを維持する力と破壊する力が拮抗していればそれがそのままの形を保っていられるのかも知れず、維持する力が勝っていればそれ自体の構造が強化されるし、逆に破壊する力が勝っていれば弱体化して壊れて行ってしまうだろうし、そういう力がどうやって生じてくるのかといえば、人為的に生じてくることもあるし自然に生じてくることもあるだろうが、それが人為的に生じていることであればそこに利害が絡んでいて、それを維持継続して強化することによって利益を得られると判断している人や勢力などは、それを守り防衛するために力を及ぼそうとするだろうし、その存在が障害となって活動が弊害を生じさせていると判断している人や勢力などは、それを攻撃して破壊するために力を及ぼそうとするだろうし、そうやってそれを巡って戦いや争いが生じているわけだろうが、それとは別に経年劣化や摩擦や消耗などによって瓦解を促すような自然の作用も及ぼされているだろうし、いくら人為的に工夫を凝らしてそれを維持継続させようとしても、それ自体に寿命があればどうにもならない面があるのかも知れず、そうであれば維持継続させるための経費や労力などが割に合わなくなれば、ある程度のところで見切りをつけて壊れるにまかせるようなことになってしまう場合もありうるだろうし、過去にはそうやってうち捨てられて廃墟となってしまった構成物などもいくらでもあるのだろうが、それが目に見える建物や設備などの構成物とは限らず、例えば王国や帝国などの過去に繁栄して栄華を極めた国家形態などもいくらでもあるだろうし、現状で成り立っている国家形態なども用をなさなくなればいずれは廃れて別の形態へと移行する成り行きになるのかも知れないが、現状の形態を守り防衛する側もそれに攻撃を加えて破壊しようと目論む側も、意識が現状の形態に囚われていれば現状の範囲内でどうにかしようとしていて、そこに意識的な限界があるのだろうが、すでに現状の形態に寿命が来ていれば、やがてどちらの側の思惑からも外れる成り行きが待っているはずだが、だからといってどちらの側も来たるべき形態を先取りするわけにはいかないだろうし、だから現状の形態を巡って争いや戦いを繰り広げている人や勢力は、現状の形態の寿命が尽きると共に滅び去る運命にあるのかも知れないが、当事者たちにはそんなことを考慮に入れる必要もないだろうし、現に誰も考慮していないしできないわけだが、それでもかまわないしそうなるしかないのかも知れないが、少なくとも寿命が尽きるまではそれにかかわらざるを得ないだろうし、それを維持継続させるために無理で無茶で強引なことをごり押ししている人や勢力も後を絶たないし、またそれをやめさせようとして盛んに批判や非難を繰り返している人や勢力もそれに対する執拗な攻撃をやめようとしないし、そういった退屈で予定調和な攻防劇が続いているうちは現状で成り立っている形態が維持継続されていることになるわけだが、いつまでもそれが続けられるとも思えないし、いつかは限界が来てどちらの側も消滅してしまった時が終焉の時なのだろうが、その時が来るまではどちらの側もやめたくてもやめられない状況が続いていくしかないだろうし、それは自主的にやめるとかやめないとかの選択自体があり得ないのかも知れず、そこで誰かがやめても他の人がやめようとしないから、またそれに加勢する人も出てくるから延々と続いていくしかないのかも知れないが、ではいつになったら終わりの時が来るのかといえば、それは誰にも予想や予測のつかないことかも知れないし、最終的には自然の成り行きが決めることになるかも知れないが、その時が来るまで待ち続けることもできないだろうし、結局はそれにかかわる限りでそれを巡る攻防のどちらか一方につくことしかできないわけだが、それだけが世の中のすべてを覆い尽くしているわけでもなく、他にも別の場所や時の中で別の何かを巡って攻防の争いや戦いを繰り広げている人や勢力も存在していて、そういうことにかかりきりになっている人たちには他のことは眼中にないだろうし、他のことは無視できる範囲内で活動している場合もあり、それがそういう範囲内でおこなわれていることであれば、他の人たちが無関心であっても傍観者でしかなくてもかまわないのかも知れず、それらの人たちが関知しないところで何らかの争いや戦いが繰り広げられていることでしかないのかも知れないが、誰もがそれに魅力を感じなければもうすでに寿命が尽きているかも知れないし、たとえそこから金銭的な利益が得られていても、それがつまらなくてくだらないように感じられる活動であれば惰性で続けられているようなことでしかないだろうし、それにかかわっている人がいかに大勢いるとしても、そんな人たちはどうでもいいような人たちでしかないわけで、それらの人たちの命運もすでに尽きているのかも知れないが、それでもそこにかかわってくる人や物や情報がそこへもたらされている限りでその存在が確認できるだろうし、それが存在しているように見せかけることもメディア上ではおこなわれているわけだが、すでに命運が尽きている状態をいつまでも執拗に長引かせることができるかとなると、そういう行為にも自ずから限界がありそうに思われるかも知れないが、現にそうなっている状態を見せられているとすれば、見たければそれを見ていれば済んでしまうようなことでしかないのかも知れず、見たくなければ見ないように目を背けていればいいのだろうし、それに直接かかわっていない人たちにとってはそういうことでしかなく、しかも見ていないのに見ているように装っているとすれば、それは意味不明な行為となってしまうのかも知れないが、それでかまわないのならやはりそれで済んでしまうのかも知れないし、実際に済んでしまっている実態が現状の中にはあるのではないか。
2月6日「世間と世論と自意識の関係」
何か時事的に興味を惹くことについて語ろうとして、それについて言及しているのだから、当人にしてみればどうでもいいようなことに首を突っ込んでいるわけではないはずだが、その自覚がなくても端から見ればどうでもいいように思われることだと、それが何かといえばあえてこだわる必要もないことにこだわっているのかも知れないが、なぜそれにこだわる必要がないのかといえば、それがその人にとって重要なことだとは思えないからだろうが、こだわっているのだから少なくとも軽視できないことだと感じられるのかも知れず、何が重要であろうとなかろうと、その人にとってではなく世間的には重要なことだと思われるならそれについて語るのが当然のように思われるわけだろうが、その世間的な重要度が何によって判断されるのかといえば、メディアがそれについて報じる頻度となるのかも知れず、メディアがそれについて度々報じて世論を喚起しようとしているのなら、それが世間的に重要なことだと判断したから頻繁に報じているのだろうし、そんなメディアの動きに連動してそれについて語ろうとしているのだから、そうするのが当然のことように思われるのは普通の感覚なのかも知れず、それが語っている当人にとってはそうは思われないとすると、世間と当人の間でずれが生じていることになるのかも知れないが、そうであるならメディアがやろうとしている世論の喚起ともずれていることになるだろうし、そんな世間とも世論ともずれている人が世間にも世論にも同調しようとするのはなぜかといえば、世間にも世論にも媚びていることになるのかも知れず、しかし媚びる必要があるのかとなると、当人がその必要を感じているというよりは、その人の意識がメディア現象に巻き込まれているからそうなってしまうといった方が妥当なのかも知れないが、果たしてそんな現象に巻き込まれている人が世間にどれほどいるのかとなると、そうしたメディアにかかわっている人ならかなり多くの人を巻き込んでいる感覚があるのかも知れないが、そうしたことに関心のない人にはそうは感じられないだろうし、人によっては全くの無関心でいられるようなことかも知れないが、多くの人が多少の関心はあるとしても、意識が全面的に巻き込まれている感覚はないだろうし、そんな多少の関心がある人が世間の大部分を占めるなら、そんな世間自体の重要度もどうということはないわけだが、そんな世間を相手に多少は興味を惹きそうな話題について語ろうとしているのだから、それが重要なことだとは思えないのも当然かも知れないが、そんなことがメディアが報じている内容の大半であれば、それによって世論を喚起することに何か意味や意義があるのかといえば、メディアにとっては意味や意義があることかも知れないが、そんな世論に同調したり媚びる人にとってはどうでもいいことかも知れないし、しかもその人にとってはそうだとしても、その人の意識の中ではそうではないから同調しようとしたり媚びようとしてしまうわけで、そうであるならその人の存在と意識の間にずれが生じているのかも知れないが、そんなずれを生じさせているのがメディア報道であるのかも知れず、当人には大して重要ではないことに関心を持つように仕向けているのがメディアであり、そうやって巻き込まれて関心を持ったことがその人にとって重要なことだと思われてしまうとすれば、それが思い違いであることが明らかだとしても、それによって世論が喚起されるとすれば、そういった世論も思い違いに基づいた世論であり、そんな世論は当てにならないわけだが、中にはそれを真に受ける人や団体もいるだろうし、そうやってそれを真に受けた人や団体が判断を誤ってしまうのかも知れないが、誤った判断によって何がもたらされるのかというと、大して重要とも思われないことを重要だと思うのだろうし、そうやって事を大げさに捉えて、大したことでもないのに大騒ぎするわけだが、そうした大騒ぎの陰に隠れて見過ごされてしまうことも出てくるわけで、また見過ごされることを狙って、大して重要でもないことに世間の関心を向けさせようとするのかも知れないが、そういった世論誘導がどれほど功を奏しているのかといえば、それも功を奏していると思うのが思い違いかも知れないし、要するにそうやってねつ造される世論自体に誰も関心を向けないようなことになっているのかも知れず、世の中の大部分の人たちは真に受けていないのに一部の人や団体だけが真に受けて、メディアが大騒ぎしていることに誰もが関心を持っていると思い違いをしているとすれば、そんな世間も世論も虚構でしかなくなってしまうわけだが、そもそも何が重要で何が重要でないかの判断もそういったメディア的な報道のされ方に基づいていれば、それを真に受けた人の中では重要という意味に反したことが重要に思われてしまうわけで、その人にとっては大して重要ではなくてもその人が真に受けているメディアの報道や世間の反応や世論から判断すれば重要に思われてしまうのだから、それがその人にとっても重要なことではあるわけで、そうなるとそれ以前のその人にとって大して重要ではないという認識自体が間違っていることになり、誰がそう判断したのかといえば他の誰かがその人を端から見てそう思われたのだから、その人の判断が間違っていて思い違いをしていることになり、その人にはそうは思われなくても、メディアの報道を真に受ける人にとっては重要なことであり、メディアの報道を真に受けて世間で騒がれている話題が重要であるのは、それを真に受けることによって重要度が増すのであり、それを真に受ける人にとっては重要でも真に受けない人にとっては重要ではなく、それが重要であるか否かはそれを真に受けるか受けないかで決まってくるのかも知れず、真に受ける人にとってはメディアの報道が重要度を決めているわけで、その人の判断はメディアに依存しているわけだが、案外そういう面ではそうであっても他の面では別の判断が生じてくるのかも知れず、何が重要であってもなくても、重要であるからといってそれはメディア的には重要であるということであり、他の面ではそうではないかも知れないし、そうであればその重要度というのもメディアに限ってのことであり、他の面ではどうということはない重要度であるとするなら、それを重要だと判断すること自体が大して重要ではないという矛盾が生じてしまうわけだが、それがどういうことかといえばその人の生活の中でメディアの占める割合が大したことでもなければ、感覚としてメディアの中で重要と思われることがその人の生活の中ではそうでもないということになり、メディアに接している間だけは重要だと感じられることも、それ以外の時には大して重要だとも感じていないのかも知れず、メディア的な重要さがその程度のことであれば、当人にしてみればどうでもいいような部類に入るわけでもないとしても、時と場合によって重要であるか否かが違ってくるということであり、そういう重要度の大小の使い分けが何を意味するのかといえば、その人の意識の中で占める割合も生活の中で占める割合も、その時々で関心のある物事を持ち出してきたり引っ込めたりしていて、何か恒常的に関心があって重要に思われることというのがそれほどないというか、それほどなくてもかまわないような生活を送っているわけで、そんなふうに生活している人はそれだけ心身に余裕があるということだろうが、そういう人が世の中に多ければ多いほど世間的な関心も薄められているのかも知れないし、メディアが騒ぎ立てていることを真に受ける人もそれほどはいないのかも知れない。
2月5日「意志や思惑を超える作用」
過去の経緯がどうであれ、現状のような状況が形成されていて、現状に至るまでにそれなりの紆余曲折があったにしても、その紆余曲折の中で人や物や情報が動いた結果として現状がもたらされたわけだが、そうやってもたらされた現状の中でも新たな紆余曲折が生じている最中だろうし、その中で人や物や情報がどう動くかで未来が決まるはずだが、すでに決まってしまった固定的な面とまだ決まっていない流動的な面があるにしても、またそこからも固定化している面に働きかけて動かそうとする作用と、流動化している面に働きかけて一定の傾向に固定化させる作用とがぶつかり合ったりすれ違ったりして、そこに介入してくる様々な作用を被りながら現状が変化し続けていると捉えるなら、まだ何か期待や希望を抱く余地が残っているのかも知れないが、それでも現状に落胆したり絶望している面もあるだろうし、現状をどう捉えるにしても思い通りになっていない面については不満を抱いているのだろうが、具体的に何をどうしたいのかがよくわからないところがあれば、それについては関知しないか無視しているのかも知れないし、直接の利害があると感じられるところだけかかわろうとしていて、そういうところしか意識できない場合もありそうで、後はメディアから影響を及ぼされて関心を持たされている面もあるだろうし、さらに身の回りから直接の作用や間接的な影響を及ぼされて関心を持たざるを得ない面もあるはずだが、そんな作用や影響によって自意識が形成されて個人や集団としての存在が意識されるのかも知れないが、そんな個人や集団の存在を信じられるかというと、信じないわけにはいかない面があるとすれば、それは制度的にあるいは慣習的に個人や集団として区別されて特定されていると意識せざるを得ない面であり、そんな個人や集団を標的にして動作して機能している装置や機構があるわけで、そんな装置や機構を動かすために個人や集団が働いているわけだろうが、もちろんそこから利益がもたらされるから個人や集団が働いていて、それが金銭的な利益であれば資本主義経済にかかわっている装置や機構になるだろうし、それを利益だと感じられなくても、何らかの意志や思惑が介在して装置や機構を利用している場合もあるだろうし、また当人の意志や思惑に関係なく何らかの装置や機構に取り込まれている場合もあり、そういう場合は他の意志や思惑によって操られていることにもなるだろうし、それが人の意志や思惑ではないとすれば自然にそうなっているとしか言えないわけだが、それを装置や機構だとは意識できない場合もあるのかも知れず、人工的な装置や機構でなければ自然の仕組みの中で動作していることになるわけで、人工的な装置や機構も自然の仕組みの中で動作していると捉えるなら、何らかの装置や機構に取り込まれているとしても自然の仕組みの中で動作していることには変わりないわけだが、そうだとすればたとえ金銭的な利益を得るために活動しているとしても、自然から及ぼされる作用や影響に逆らっているわけでもないことにはなるが、ただそれが自然破壊のような行為に結びついていれば、何か自然と対立しているように思われるのかも知れないが、自然破壊と共に人も滅びるような成り行きになっていれば、自然が人を滅ぼそうとしてそんな作用に誘導しているのかも知れないし、そういう意志や思惑が自然にあるかとなると、それは人が感じ取れるような人の意志や思惑とは違うものかも知れないが、普通は自然に意志や思惑があるとは見なさないし、宗教的にはそれが神の意志や思惑になるとしても、それを感じ取って自然破壊は人を滅ぼすからやめさせようとする意志や思惑が人に生じているなら、人が抱いている意志や思惑が人の意識の中で循環しているだけなのかも知れず、そんなふうに人がやっていることが人に利益をもたらすように思われるとしても、単に利益だけがもたらされるのではなく不利益や弊害も一緒にもたらされるようなものなら、何かそこで工夫を凝らさないとならなくなるのだろうし、それも一応は功利的な思惑から生じることなのだろうが、人によって立場によってもそこまで配慮できる場合とできない場合もあり、そういうところで利害が対立して争いが起こっているわけだが、本当に利害が生じているのかとなると実利や実害を直接感じ取れないと実感できないような人もいるだろうし、様々な利害が様々な水準で混ぜ合わさっているような場合には単純な比較をするわけにもいかず、そうなるとどれほどの利害が生じているのかよくわからなくなってしまうわけで、そこに金銭的な金額が提示されていても、計算の根拠を信じられなければ金額自体も信用できないし、そういう意味ではどこまでもあやふやなことでしかないが、確かに実害を被っているとは思われない人にとってはそうであっても、何らかの実害を被っていてそれをそのことのせいにしたい人であれば、そこから利益を得ている行為をやめさせようとするだろうし、そこで実際に対立や争いが起こっているわけだが、それに関しては他人や他の集団を味方につけようとしてデマを流したり煽動したりする人や集団も出てくるだろうし、そういうデマや煽動につられてそんなことをやっている人や集団の味方になる人や集団も出てくるし、それもそんなことのバリエーションの中で動作して機能している行為でしかなく、それが人工的な装置や機構に付随しておこなわれていることであれば、そうした装置や機構に取り込まれた人や集団に生じる意志や思惑が介在しているわけだが、たぶんそうした意志や思惑を超える作用というのはそんな人や集団には制御できないだろうし、それを感じ取れなければ対処も対応もできないのかも知れないが、ではそれらの人や集団が何を感じ取っているのかといえば、ただ漠然と焦燥感を覚えているのかも知れないし、何か振り払おうとしても振り払えない誰かの視線を意識しているのかも知れないが、それが誰の視線であるわけでもなく、単なる自意識過剰な思い込みに過ぎなければ、実際に生じている被害は自分たちのせいではないと声高に主張することもないわけだが、何かを声高に主張したり宣伝や煽動によって人々の気を惹いたりする行為が目立っていれば、やはり何かを感じ取っていることになるのだろうし、その感じ取っていることが何に起因しているのかといえば、それらの人たちの活動が周囲の環境に及ぼしている作用や影響が、そのままそれらの人の意識に跳ね返ってきているのかも知れないし、そんな跳ね返りがそのままそれらの人や集団の活動に作用や影響を与えながら、その活動に何らかの変容をもたらしているのかも知れず、そうだとすると他から目立った作用や影響を受けなくても、自ずから変容していってしまう可能性があるということにもなり、それが自業自得気味に起こる自滅であるのかも知れないが、なぜそうなってしまうのかといえば元からそうなる因子がそれらの活動には内包されていたのかも知れないし、活動自体が起承転結などの成り行きを伴っていて、同じような定常状態を恒常的に維持できるようなものではなく、それなりに起伏に富んだ経過を経てある時期を境にして収束に向かう傾向があるのかも知れず、それは実際にそうなってみないことにはわからないことであり、そうなった結果からわかることでしかないわけだが、それであれば活動の中に身を置いている人たちにはわかりようのないことかも知れないし、それをおこなっている立場の人たちにはどうすることもできない成り行きになるだろうし、そうなったらなったでそんな結果を受け入れるしかないことなのではないか。
2月4日「思いがけないことの持続」
人が人の語る内容に何を期待するのかといえば、例えば話の論理的な整合性や納得のいく合理的な内容かというと、その場の状況にもよるだろうが、何か思いがけないことを言われると慌てるかも知れないし、予想外の内容に言葉を失う場面もあるのかも知れないが、思惑通りの成り行きになることを期待しているわけでもないだろうし、別に何も期待していないのかも知れず、何か途方もない秘密が明かされたとしても嘘だと思ったりもして、そこで何に反応するかはその場の気分次第であったり、結果的に何の反応もなくても取り立てて何が不都合であるわけでもなく、どんな反応を期待されようと、そんなのはどうでもいいことだと高をくくっていれば済んでしまうようなことかもしれないし、相手が何をどう語ったとしてもそれだけでは何でもない場合には、何を期待していたわけでもなかったことになるのかも知れないが、そうであれば特に予想外で想定外の話の内容でなくてもちょっとしたことに驚くかも知れないし、別に驚くような内容を求めていたわけでもなくても、何の先入観も前提条件もなく素直に感動できるのかも知れないが、それがあらかじめ予想されていたことではなくそうなるべくしてなったわけでもないなら、その場の偶然の巡り合わせで起こった感動となるかも知れず、そういう意味では驚いたり感動したりするには何の準備も心構えも要らないわけだが、そうやって不用意に驚きや感動に出くわすのとは違って、事前にそうなるための入念な下準備をしてから、そうなろうと決めたその時に満を持して目的の何かに出会おうとするような場合には、そこで起こることが前もって想像していた通りのことであってほしいわけだが、それが思いがけず出鼻をくじかれたり、途中でわけのわからない紆余曲折に巻き込まれたりすれば、何か当初の目算が狂いに狂って出会う以前に気が散ってそれどころではなくなってしまうかも知れないが、それも偶然の巡り合わせとしか思われないし、そうなる予定が未定となって思い通りに事が運ばずに焦り苛立って我を忘れた状態で何かに直面すれば、それがすでに直面している思いがけないことの延長上に出くわす未知の事態であり、そうなればその場で何をどうしたらいいのかわからなくなってしまうかも知れないが、そこでやるべきことが取り立てて思い浮かばないのに何かをやっている実態があれば、たとえそれが当初に抱いていたやるべきことではないとしても、そこでその人が実際にやっていることがその場の状況に合っていることなのかも知れず、そうやって未知の事態に対応していることがその人にとっての未知の事態でもあり、それがこれまでにないことであれば、何か新しいことをやっていることになるのかも知れないが、それでかまわないのかというと、そうやってその場をうまく切り抜けられたら、それがその場での正しい対応になるのかも知れないし、切り抜けられずにどうにかなってしまったら、そのどうにかなってしまった状態というのが、その人にとっての失敗や挫折を意味するのかも知れないし、その人にとってはそうであっても、そういう成り行きにその人を追い込んだり罠にはめるようなことをおこなっている人が他にいれば、その人にとっては事がうまく運んでしてやったりと思うかも知れないし、思い通りの結果を得られて満足することになるかも知れないが、そう何から何までうまくいくようなことも稀であり、大抵はうまくいった面といかなかった面の両面があるわけだろうが、実際にそうなったとしてもそれ以降も何かやっている実態があるとすれば、そこでうまくいったりいかなかったりしたことがそれ以後のやっていることにも引き継がれているのかも知れず、それが実際に何らかの形で引き継がれている限りで、やっていたことが無駄ではなかったことになるのかも知れないが、特にそれが役に立ったとも思われなくてもかまわないわけで、さらに役に立つどころか邪魔や障害となるようなことであってもかまわないのかも知れず、要するに誰かの思惑通りで予定調和の継続に持ち込まれてしまってはまずい場合もあり、そうなると絶えず相手がやっていることをねじ曲げるような作用を伴うことにもなるのかも知れないが、それでかまわないとなるとそこで争っていたり戦っていたりもすることになるわけだが、別にそうならなければいけないわけでもないのにそうなってしまうとすれば、そこに争点が生じていることにもなるだろうが、争点を巡って争っているとなると、事前にその争点が明らかとなっていたわけではなくても、その場で誰かと誰かが対峙することになると自然とそこに争点が生じるような成り行きになるのかも知れず、ではなぜ対峙しなければならないのかといえば、ただ単にその場に現れた両者がお互いに譲らないからかも知れないが、譲る必要があるのかといえば、互いの進路が交わっていれば譲ろうにも譲れない点が生じてしまうのかも知れず、そうでなくてもわざと対峙するようにタイミングを合わせているのかも知れないし、要するに特定の誰かと争いたいから争うタイミングを計ってそこに出現した可能性もあるわけだが、そのために事前の周到な下準備が必要となるなら、争うことに何らかのメリットを感じているからだろうが、その理由としては誰かの進路を妨害しないとその先へ進めないような成り行きになっているのかも知れないし、そうであれば直接対峙して争うことが有効な妨害となるだろうし、争っているうちは互いに前進ができないから互いが互いの邪魔をしていることになるわけだが、そうなると相手の邪魔をしている間は自分も邪魔をされていて前進できないことになってしまうとまずいような気もするが、他人と争うことが目的となれば、争っていること自体が目的を遂行していることになるだろうし、それが前進していることだと解釈しておけばいいのかも知れないが、相手の目的も争うことだとすれば、お互いに争いながら前進していることになってしまい、それが双方の共通の目的となれば別に争うことに関しては何の不都合もないわけだが、何かそこでおこなっていることがそういうことでしかないとすれば、それが双方にとってやるべきこととして当然のことをやっているとしても、むやみやたらと争っているだけで、争えば争うだけ消耗していることにもなるのだろうが、争うだけのことしかやっていないと他から糧が得られないから、やがて疲弊して争いをやめなければならなくなってしまうだろうし、そうなれば糧を得るための行為をおこなう必要が出てくるわけだが、争う以外ことが何もできなければ他から糧を供給してもらわないと争いを継続できないわけで、そうなると他から糧を供給してもらうような仕組みを作らないとならなくなるわけで、それが争いを見世物とするための成り行きになるのかも知れず、実際に見世物として成り立つような争いが世界のあちらこちらでおこなわれている状況があるわけだが、ではそういう争いの劇場化によって何がもたらされているのかといえば、それを観ている人たちに争う暇を与えない間がもたらされていると言えるだろうし、見世物としての争いがそれを観ている人たちの争いを奪っていることになり、少なくともそれを観ている間は他人と直接争わずに済んでいるわけだが、そうなっていることに何のメリットがあるのかといえば、それを娯楽として楽しんでいられるというメリットがあるわけだが、それもある意味では時間の浪費であり、観ている間は糧を得ることができないわけだが、それを観させている側はその間に糧が得られる仕組みとなっているわけで、他の人たちが争いを観て楽しんでいる時間の浪費が争っている当事者が糧を得る時間となっているわけだ。
2月3日「革命の原因」
革命という出来事が何を表すのかはそれを言葉として使う状況によってニュアンスが違ってくるだろうが、革命が起こった際には起こるべくして起こったように思われても、しかも何らかの人や勢力が革命を起こそうとして起こしたようにも思われるとしても、革命そのものを制御できるかとなると、やはり何らかの人や勢力が自分たちの有利になるように制御しようとするのだろうが、しかも結果的にそれなりに制御できてそれらの人や勢力が主導権を握ることができたとしても、それでも思い通りになる面とならない面とがあるだろうし、思い通りにならない面とは、それらの人や勢力もそこから生じている成り行きに受動的に巻き込まれている面だが、そういうなるようにしかならない面とは、そういう成り行きを制御しようとする人の力を超えている面だと言えるが、そういう面では思いがけないことが起こっていたりもして、それがそこで主導権を握っているつもりの人や勢力を逆に操っているようなことにもなり、場合によってはやりたくはなかったことをやらざるを得ないような事態に追い込んだり、そのことが起因してそれらの人や勢力が破滅に導かれたりして、そうやって革命の最中で一時的に主導権を握ったが他の人や勢力から追い落とされて没落するような人や勢力の末路を生じさせるのだろうが、最終的に混乱を収束させて内部抗争を勝ち抜いて生き残って主導権を確立した人や勢力がいたとしても、それらの人や勢力にとっても当初に思い描いていた構想が実現したわけでもないだろうし、何らかの偶然が作用して思わぬ形で政治的な実権を握る機会が転がり込んできたのかも知れないし、始めから計画的に事を進めて思い通りの結果を得ることに成功するような革命などあり得ないのかも知れず、そうやって結果的に革命後に政治的な支配体制を築いた人や勢力に革命の最中におこなった悪行などの責を負わせるようなわけにはいかないだろうが、結果から物事を判断するようなことになればそうなるだろうし、そんなふうにして革命を招いたような悪政を隠蔽する目的で革命そのものを否定的な行為に見せかけようとする意図や思惑から、革命を起こした人や勢力を悪者扱いする人が後を絶たないわけだが、では結果的に革命を招くような悪政をおこなっていた旧支配体制の中で実権を握っていた人や勢力を悪く言うことができるのかといえば、それも結果的に悪政となるような成り行きに巻き込まれていたわけだろうし、それが悪政となった時点で判断すれば悪政を招いた人や勢力を悪く言って批判する成り行きにはなるだろうが、やはりそれらの人や勢力には状況や成り行きを制御しきれない面があったから後の時代にその責を負わされて悪く言われるような結果を招いたわけで、そうやって過去の否定的な出来事を招いた張本人として名指しされるような人や勢力にはその場の状況を制御しきれない力足らずな面がつきまとっているわけだが、そもそも何らかの人や勢力が思い通りにその場を支配して制御できていれば、他人から悪く言われるようなことは起こらないのかも知れず、そういう意味では後の時代において否定的な評価を受けるような人や勢力は、総じてその場の状況や成り行きを制御し切れていなかったから思いがけない想定外の出来事や成り行きを招いて、そのせいで後の時代に悪く言われるようなことになったのだろうが、そうやってうまくいかない面を伴った物事を悪く言う行為自体に説得力があるのかというと、愚かで浅はかな人ならそれでも納得するかも知れないが、人や勢力がその場で起こっている成り行きの中で主導権を握って自分たちに有利になるような結果をもたらすために活動していることは確かだが、そうやって自分たちが巻き込まれている状況を完全に支配して制御できるかといえば、一応はその場の主導権を握っているつもりになれる程度の状況をもたらしているのなら、それなりにうまく制御できている面もある反面でうまく制御できていない面もあるのかも知れないし、またそれに気づいている面と気づいていない面もあるのかも知れないし、それもそうなっている時点でうまくいっていない面に関しては現在進行形で他から批判や非難を浴びているだろうし、その場の支配力が他を圧倒するほど強ければ強権を発動して批判や非難を封じ込めることができるのかも知れないが、そういう独裁的な権力を行使できても、いつまでもそういった状況を保てないのが世の常であり、それがそういった支配体制が終わった後の時代に悪く言われる原因となるわけで、しかもそうした強権体制を長く維持すればするほど、そうした支配に対する不満が溜まりに溜まって、それがより大きな革命を招く原因ともなってくるだろうし、結局は何らかの人や勢力がその場の成り行きを制御しようとして政治的な主導権を握って支配体制を築くこと自体が、その場を制御しきれない要因を作るというパラドックスを招くことにもなるわけで、そうすること自体がうまくいかない原因そのものとなるわけだが、ではどうすればいいのかと言えばその場の判断ではそうせざるを得ないからそうしてしまうわけで、要するにそうならざるを得ない事態に巻き込まれていってしまうわけだが、そういう面が制御しきれない面であり、どのような人であっても勢力であってもその場の成り行きを思い通りに制御しようとすればそういう面が生じてきてしまうわけだろうが、では思い通りに制御しようとすることをやめればいいのかというと、その人やその勢力がやらなければ他の人や勢力がやろうとするだろうし、そういうことをやろうとして他のとの抗争に勝ち抜いてその場の主導権を握った人や勢力がそういう状況に陥ってしまうわけだから、誰がどんな勢力がその場の成り行きにかかわってきても、その場で他との抗争に勝ち抜く人や勢力が出てくればそうなってしまうわけだから、そんなことをやろうとしなければそういった抗争に参加しないだけであって、それに参加しなければ主導権を握れないだろうし、主導権を握って思い通りのことをやりたければ参加するしかなく、参加して他の人や勢力に勝って主導権を握ればそうなってしまうだけであり、結局はそうならざるを得ないのであり、そういう成り行きに巻き込まれてしまえばそうならざるを得ないような結果となってしまうわけだが、たぶんそんなことをやっているうちに、そんなことを繰り返しているうちにそれとは違う成り行きというのも何かの偶然の巡り合わせによって生じてくるのかも知れないし、そんなことにばかり気をとられているとそれに気づけないのかも知れず、そういう成り行きに囚われて今までとは違う結果を体験した人や勢力がそれと自覚せずに活動している実態が、後の時代に活かされてくるわけで、そんなことの繰り返しに飽き飽きしているような実感があるとすれば、もしかしたらすでにそれとは違う成り行きの中で生きていることになっているのかも知れず、その成り行きの中で生きている人にはそれがわからないとしても、後からそれに気づくような機会がやってくるのかも知れないし、それがいつになるかはそんな成り行きの中で活動している人には知るよしもないことかも知れないが、そういうことが嫌というほど繰り返された後には嫌でも誰もが実感できるようなことかも知れず、それは現状の世の中で生きている人たちが過去の革命の中で嫌というほど繰り返された成り行きを知っていることとは似ても似つかないことかも知れないが、少なくとも現状の世の中で生きている人たちが現在進行形で繰り返していることを未来の人たちが知ることができるまでには、さらにそれなりの時間と経験を要するのではないか。
2月2日「主義主張の形骸化」
社会の仕組みとその動作が単純ではないことは誰もが理解していることだが、それが複雑すぎて理解しきれない面があるとしても、その一方で単純な理解で間に合わせている面もあるだろうし、その単純な理解というのが特定の主義主張で物事が動いているように見なすことだが、そんな認識でもかまわない面があると同時に、そういう認識でもかまわないように仕向けている勢力も存在していて、それが特定の主義主張を掲げる政党などの政治勢力であるわけだが、もちろんそれは暗黙の申し合わせ程度のことかも知れないし、そうではないことは誰もが承知しているが、言葉でそれを表現すると、単純な主義主張に基づいて物事が動いているような説明となってしまい、実際に特定の政党がそういう主義主張の名称を使っているわけだから、そんな政党はそういう主義主張に基づいて動いていると見なせるだろうし、そんな単純な理解でも間違ってはいないわけだが、それらの政党が実際におこなっている内容はそんな主義主張とはかけ離れたことをやっている面もあるわけで、そういう意味ではその政党の名称として使用されている主義主張を額面通りに受け取るわけにもいかないだろうし、その主義主張自体も言葉で示されている意味とは違うことをやっていたりもして、主義主張に基づいてやっていること自体が全く主義主張を反映していない場合もあるわけで、そうなるとそれは単なる見せかけの主義主張であり、主義主張から連想される印象を隠れ蓑にして、それとは全く別のことをやっている実態もあり、だからそういうことをやっている仕組みとその動作が単純ではないことは誰もが承知していることなのだが、そうであってもその主義主張から連想される意味が尊重されているように装うわけで、それにかかわっている誰もがそういうことにしておきたいのだろうが、実態がそうなっていないところがわかりにくいだろうし、しかも実態が全く違っていても誰も気にもとめないし、そうであってもかまわないような暗黙の申し合わせがあるとしても、そんな申し合わせがあるという自覚さえなく、やはりそんな主義主張を尊重しているように装うわけだが、実際に何をやっていようと印象だけはその主義主張に基づいていると見なしたいわけで、そうなっている時点で印象と中身が全く別物でかけ離れているのに、言葉を使って何か主張するときには相変わらずそれを強調するのだから、もはや嘘をついているとしか言いようがないわけだが、そんな主張をしている側にもそんな主張を受け止める側にもその自覚がなく、そこでもそんな嘘をついてもかまわないという暗黙の申し合わせがあるわけでもないのに、実際にそんな嘘がまかり通っているわけで、そうやって言葉がその意味とはかけ離れた次元で流通している実態があり、しかもそれを修正する気も意味と内容が合うような別の言葉で置き換える気もない人たちが、平然とそんな言葉を使ってそんな言葉の意味とはかけ離れたことをやっているわけで、そういう言葉から連想される印象だけ都合の良いときにだけ利用しながら、その意味を無視するようなことをやっている実態というのは、それに違和感を覚えない人が世の大多数を占めているとしてもおかしいことは確かだろうし、そのおかしさを誰も真正面から言葉にして表現できないとしても、やはりおかしいことには変わりないし、そんなおかしさに誰もが気づくべきなのかも知れないが、気づかない方が都合が良いような情勢となっているのかも知れず、何よりもそういうことをやっている当事者たちが世の中の主導権を握っている実態があるのだろうし、実際にそうなっているからそういうことがまかり通っていると見なすしかないわけだが、実際におこなっていることの大半が主義主張からかけ離れているとしても、そんな形骸化した主義主張を捨てられない事情もあるのかも知れず、要するにおこなっていることが特定の主義主張では表現できなければ、そしておこなっている内容に合わせた主義主張を掲げては都合が悪ければ、従来通りの主義主張を掲げながらもそれを裏切るようなことをやらざるを得ないわけで、しかも誰もがそれをおかしいとも思わないような状況となっているのに、そんな状況自体も誰もおかしいとは思えないわけだから、もはやそういう面ではどうにもならない事態となっているのだろうが、それを深刻に受け止めるようなことにはならないだろうし、実際に深刻でも何でもなく、むしろそれが当然のことのように感じられるわけで、そうであるなら狂った世の中になっているはずだが、誰もが狂っていることを自覚できないわけだから、たとえ狂気の世界が実現していようと何でもないわけだが、そういう面だけから世の中を捉えようとすること自体がそもそもおかしいのかも知れないし、もっと何か多面的かつ多元的に捉えるべきと言えばそんな気もしないでもないが、そうなっている実態の否定的な面を強調する一方で、肯定的な面も強調しておく必要もあるとすれば、特定の主義主張の形骸化によってもたらされる状況そのものが、主義主張の強調では捉えきれない行為や動作や活動の多様性を示しているとも言えるわけで、特定の主義主張に基づいた思考や活動では通用しない世の中になっているからそれが形骸化してしまったわけだが、そもそも元からそうなっていて、それを特定の主義主張によって強引に世の中を変えようとして失敗した経緯があるのに、それを失敗だと認められないからいつまでもそんな主義主張を掲げていて、未だにそんな主義主張に基づいて世の中を作り変えようとしているのかも知れず、それをあきらめたわけでもないのだろうが、もはやそうしようとする自覚もないのかも知れないし、要するに惰性でそんな主義主張を掲げていて、その看板を下ろす機会を見失ってしまったのかも知れないが、今さら看板を下ろすのは自分たちの負けを認めることになってしまうから下ろすに下ろせいないとしても、そういう否定的な印象が染みついた主義主張の看板がある一方で、肯定的な印象を担った主義主張の看板もあるだろうし、それが自由だの民主だのの看板であるわけだが、それが何となく肯定的な印象を伴っているだけに、たとえ自由にも民主にも反したことをやっていようと看板を下ろす必要はないだろうし、そういう意味では世間的な印象として肯定的に受け入れられる主義主張を看板として掲げておくことが肝要であるかも知れないが、実態としてもそこから全くかけ離れている印象があるわけでもないだろうし、看板というのはそれを観た人に好意的な印象を抱かせるものなら看板の機能として目的に適っているだろうし、掲げている主義主張も看板と同じような機能だと見なすなら、たとえそれが誇大広告の類いであろうと、結果的にうまく機能している限りで目的に適っているわけだろうし、そういう面ではおかしくも何ともないわけだが、ではなぜ主義主張通りのことをやってほしいのかとなると、それらの主義主張にはこうあるべきという理想が含まれていて、理想を掲げているなら理想を実現させるために活動してほしいわけで、活動内容がそこからかけ離れていれば批判されるのが当然の成り行きだが、果たしてそういう主義主張を真に受ける人が世の中でどれほどいるかとなると、少なくともそれを誇大広告の類いだと認識しているなら、それを真に受けているわけではないことになるだろうし、それ以前に看板は看板であり主義主張は主義主張であって、別にそれを結びつけて捉える必要もなく、結局そのようなものだと漠然と捉えておいて、その人の意識の中でその場の情勢に合わせて都合良く解釈していれば済んでしまうようなことなのかも知れない。
2月1日「崇拝の対象」
世の中には何らかの権威となるような人や団体が存在していることは確かであり、そうした存在を成り立たせているのはそうした権威を崇める信者が存在しているからだが、崇めるように仕向ける仕組みが存在していることも確かであり、そこで崇められる存在と崇める存在との間で上下関係が成り立っているわけだが、そうやってなぜ崇拝の対象を求めているのかといえば、崇拝する見返りとしてその対象から利益を得たいという下心があるのかも知れないが、そこまで意識していないのかも知れず、ただ崇拝しているだけで幸せな気分になれるということであれば、それ以上に何を求めてもいないのかも知れないが、それは対象の特性にもよるだろうし、特定の神仏を崇拝しているだけならそれでもかまわないだろうし、それがアイドル的な存在であっても同じようなことかも知れないが、それが政治家や政党の類いであれば、何らかの実利を崇拝する見返りとして期待するのかも知れず、それは崇拝ではなく単なる支持ということになるだろうが、その実利というのが幅広い解釈を許すだろうし、具体的には贈収賄的な悪い意味として受け取られるものから、生活における物心両面での豊かさや暮らしやすさやゆとりや自由や幸福などのようなものまで色々と求めるものがありそうだが、そういう個人的なものではなく国家的な繁栄だとか国の威信を高めて世界に誇れる国にしてほしいとかいうものになってくると、崇める対象が国家そのものになってきて、何やらきな臭い気配が漂ってくるかも知れないが、今どきそういうおかしな思い入れにのめり込む人もあまりいないのかも知れないし、崇拝する対象に何を期待する以前に、自らの活動の範囲内で自己実現するようなことの方が優先順位が高そうだが、そういう意味では崇拝している対象に全面的な信頼を寄せているわけでもないのかも知れないし、何かの片手間で気休め程度にとりあえず崇拝しているつもりになっているだけであれば、取り立ててその対象を重視しているわけでもないことになってしまうが、そういった対象への思い入れというのもそれなりに程度の差がありそうで、社会情勢からもその程度に強弱が生じてくるのかも知れず、あまり普段は意識しないようなことであれば、何かを崇拝するということ自体の重要度は低そうだが、それは生活に占めるそれへの関わり度合いにもよるだろうし、宗教的に生活と一体化しているようなら、それだけ意識の中で崇拝対象が占めている割合が高まるわけだが、それも形式に割り切ってしまえば宗教的な儀礼のようにして、その対象へ祈りを捧げたりする特定の動作を欠かさずおこなっていれば済んでしまうようなことになってしまうわけだが、それを意識するか否かにかかわらず、他の行為や思いとの折り合いをつけようとすれば、他への支障をきたさない程度にとどめておくのが肝要に思われるのかも知れず、そういう意味で表面上は大げさに崇拝しているように装っている人ほど、態度として目に見える儀礼的な行為とは裏腹に、ルーティンワークのような割り切り方で対処している面もあるだろうし、それがその人にとっての大事に至らないための対処法になっていれば、かなり冷めた対応と言えるのかも知れないが、それとは対照的に熱い思いと共に過剰な期待を寄せている人には、他の人たちも同じように対象を本気で崇め奉っているのではないかという思い込みがあるのかも知れないし、そういう人には人によって対象との間で温度差や距離感に違いがあるのがわからないだろうし、そうなると一部の過激な信徒でしかなくなってしまうわけだが、そんな人が多くなれば他の中途半端な人たちが退いてしまうし、自らの信者を増やして社会への影響力を強めたい人や勢力にとっては、それが良いことなのかあるいは弊害となるのかは、そういった人や勢力の活動内容や活動状況にもよるだろうが、それが公的な政治勢力として普通に生きている人の生活にかかわってくる面が増えるに従って、思い込みの強い過激な信者が邪魔になってくるような成り行きもあるのかも知れないし、そういった勢力の政治活動が大げさな利害の衝突に直面しない限りで気休め程度の支持を表明しているような人たちにとっては、多少の不都合には目を瞑るとしてもなるべく大事にならない程度にとどめておきたいのかも知れず、そうなるとかえって何事においても事なかれ的な態度であった方が好都合なのかも知れないし、事を荒立てるのではなく穏便に済ます術を心得た人や勢力の方が信頼できるだろうし、もちろんそんな人や勢力は大げさな崇拝の対象とはならない代わりに、どちらかといえば事務的かつ実用的な範囲内で支持できるわけだが、それは大義のないことであり大げさな幻想を抱けないから物足りない印象を感じるだろうし、政治とは本来そんなものではないはずだと思いたい人も出てくるかも知れないが、その一方で公の政治そのものには無関心な人たちからすれば、面倒なことにならなければそれでいいわけだろうし、例えば社会的な弱者を助けるとか貧富の格差を縮小するとかいったことではなく、社会的な弱者は無理に努力して強者にならなくても弱者のままでもかまわないだろうし、貧しい人は貧しいなりに生きている限りで生きていればかまわないようなことであれば、事なかれ的には妥当な成り行きなのかも知れず、もちろんあからさまにそんなことを言えば多くの人から反感を持たれてしまうから言わなくてもいいことは言わずにおけばいいわけだが、その代わりに嘘っぽく感じられないようなことを述べればいいのかも知れないし、それが何かと言えばありのままの現実をそれなりに説明するにとどめておけばいいのかも知れないが、そんなことで済ませられるかというと政治的にはそうではないだろうし、それよりは嘘でもかまわないから人々に幻想を抱かせるようなことを言わなければならないのだろうが、その辺のさじ加減が微妙なのかも知れないし、そういう意味では政治的な立場というのが盤石な地盤の上に形成されているわけでもないから、確定的なことは主張できないのかも知れないし、いっそのこと立場がないといった方が正解かも知れないが、どうなるにしろ崇拝とか尊崇の対象となること自体が余分なことであり、それよりは時には軽蔑されたり馬鹿にされつつも、何とか現状の中でかろうじて活動が成り立っている程度でかまわないのかも知れないが、もちろん支持者はそれ以上を求めるだろうし、実際にそれ以上の存在となるように何かしら見てくれを取り繕ってはいるわけだが、それに成功している勢力は世界広しといえども皆無だろうし、現状を見ればその程度でかまわないと見なすしかないのかも知れないが、そういう面で批判を力で抑え込むよりは、絶えず批判の対象となっているだけでもマシな方だろうし、現状の世界で政治的な面で尊敬を得るのは不可能な情勢と言えるのかも知れないから、妥当な状態と言えば、様々な方面から批判を受けながらも政治的な主導権を握っていることが、勢力としてはあるべき姿なのかも知れないし、逆に批判されなくなっているようだと批判を封じ込めている以外にはあり得ないのかも知れず、さらに崇拝の対象となっているようだと独裁的な強権を振るっていることにもなるかも知れないし、どちらにしてもネガティブな状態と言えるわけで、そうであるならなるべくなら賞賛や崇拝の対象となるよりは批判や非難を受けながらも活動が成り立っている状態を保つことが、政治勢力として理想ではないにしても現実的な在り方と言えるのではないか。
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