彼の声135
2019年
11月30日「状況の恣意的な操作」
他人の発言に疑念を抱きその発言には裏があると想像してしまうことは、一歩間違えれば、別に一歩間違えなくても身勝手な妄想や幻想に囚われている証拠かも知れず、人の発言を勝手な想像力にまかせて都合良く深読みしたいことの表れだろうが、何かその発言の主が著名人でしかも政治的あるいは社会的に影響力があるように思われる人なら、その人の発言を都合良く解釈してそれを宣伝や煽動に使えれば、それを真に受けるような人たちに作用や影響を及ぼすことで場合によっては思い通りに操ることができるかも知れないが、それも大抵は身勝手な妄想や幻想の延長であり、仮にそうなっているように思われるとしても心理的な影響の範囲内に過ぎないことだろうが、言葉を用いて人を操ろうとする行為にはそれなりの危険もついて回るだろうし、その危険というのは自らが自分の言葉に酔ってしまって、言葉で表現された現実と実際の現実が遊離していることに気づかなくなってしまい、自らが操っているつもりの人たちからもそんな心理状態を見透かされていることにも気づかないとなると、教祖や指導者としての地位も失いかねない事態となってしまうのかも知れないが、それ以前にたぶん意識して他人を操ろうとしているのではなく、結果として周囲からの期待を勝手に感じ取って、それも勘違いのなせる業かも知れないのだが、善意からそういう役回りを自ら引き受けてしまうような成り行きもあるだろうし、別に悪意を抱いて人を操ろうとするのではなく、お節介な善意からそうなってしまうような状況がある限りで、自分に対する期待に応えようとするあまり過度な責任を感じて、逆に自意識過剰から生じる架空の期待に押しつぶされてしまうことだってあり得るかも知れないが、その辺はどのような状態になればそうなってしまっていることになるのかがよくわからないところだろうし、そういう状態を否定的に受け止めるならそう思われるかも知れないが、肯定的に受け止めるなら別に押しつぶされているとは思えないのかも知れず、それよりは逆に支持者たちの期待を一身に背負っているつもりであることが自己陶酔の極みに達しているような感覚となっている可能性もあるだろうが、具体的に現状の中で誰がそんな状態となっているかはよくわからないところであり、こういう表現自体も実際の現実からはかなり遊離してしまっていて、誰もそうはなっていないのにわざと思わせぶりに誰かがそうなっているかのように匂わせようとして、特定の誰かの架空の状態を言葉で表現しているに過ぎないのかも知れないが、メディア上で言葉を弄しているような人間は大なり小なりそんな傾向にあるのかも知れず、別にそれを肯定するでも否定するでもなく、そんな傾向をどう受け止めようと言葉として受け止めている限りで状態の深刻さには結びつかないのかも知れないが、それでもなるべく現状で生じている実態を反映していると受け止めたいのだが、たぶん善意からそう思っているのだろうし、そういう面では言葉を弄して何かを表現している人たちを信頼しているわけだが、別の面では言葉で表現されている状況よりは遙かに楽観的な見通しを抱いているわけで、それが現状を真摯な態度で深刻に表現する人たちの期待を裏切るような軽薄な思いであることも承知しているし、なぜそんな軽薄な思いでいられるのかといえば言葉に対する信仰心が薄いのかも知れないし、それが言葉を信頼していないことの証しであるのかも知れないが、現状の社会に直接的にも間接的にも何らかの作用や影響を及ぼしているのが、直接の人力や機械力や自然の力以外では、それが言葉であり貨幣でもあり権力でもあるとしても、それらのどれもが人や機械や道具を使って物や情報や人自身をも操作しようとする人の意志とともにあるわけだが、たぶんそんな道具的な操作自体がそういうことができる可能性に疑いを抱かせるのかも知れず、それらを完全に制御しきれているわけでもないのに部分的な操作実態を過大に見せかけようとしていて、見せかけようとしている実態についてもそれを自覚しているわけでもないのに結果的にそんな期待を抱かせるわけで、そういうわけで実際におこなわれていることの何もかもがそんなことをやっている実態を正確に反映しているわけでもないのかも知れず、操作しようとする思いが空回りしているのにもかかわらず操作しているような実感を抱いて、言葉で表現している現実が実際の現実から遊離しているのにもかかわらずそれが現実だと思い込もうとしている限りで、それを表現している言葉に対して信仰や信頼を寄せている自身に気づかないから、結果的に言葉にも実際の現実にも裏切られてしまうような事態となっているにもかかわらず、それを自覚できない愚かさに自意識が包まれてしまっているわけで、それが何を意味するのかといえば、自分では言葉を使って状況を操作しようとしているのに、実態としては逆に自らが使っているつもりの言葉に自身が操られながら勝手な妄想や幻想を抱かせられてしまっているわけで、言葉を操ることが言葉に操られることになってしまうという逆説的な作用を自覚できないところが、言葉に対して過大な期待を抱かせることにつながっているわけだが、ではそれと同じように貨幣や権力についてもそれらを使っているつもりの自身がそれらに操られていることに気づいていないのかといえば、同じことがいえるとともにそれぞれの操作子にはそれなりに特有の傾向や機能や強度があるのだろうし、そうしたものの理解に長けた人たちがそれ相応の専門的な技術や知識を駆使してそれらを操作すれば、そうした操作子が有する力を最大限に発揮できるのかも知れないが、それは逆にそれらを操作する人たちがそれらの操作子のしもべとなって盲従していることにもなるわけで、要するに言葉を操る能力に長けた人が言葉を操作するほど言葉に支配されることになり、貨幣を操る能力に長けた人が貨幣を有効に使うほど貨幣に支配されることになり、権力の操作に長けた人が権力を行使するほど権力に支配されることにもなるわけで、そうやってそれ相応のリスクを背負い込むことになるわけだが、結果的にそれらの人たちがどうなるのかは歴史的な経緯や成り行きが示しているはずだが、それを栄枯盛衰などの言葉で簡単に表現してしまうと、そういう単純化された表現が実際に起こった成り行きや結果を裏切ってしまうようなことになるだろうし、実際に現状の中で生きている人たちがそれを何の誇張も強調も卑下も矮小化もせずに受け止められるかというと、実際にはそうはならず、そこには必ず恣意的な偏見が含まれてしまうのだろうが、そうであってもなくても自らの把握力の限界内でそんな作用や影響を被った現状を受け止めるしかないのではないか。
11月29日「利害と対立」
人と人とが時には協力し合いながらも時には対立し合うのは、そんな協力や対立を通じて自分や他人や自分の敵や味方となる集団の利害を認識するからだが、それ以前に他で協力や対立の関係が生じているわけだから、そういう関係があることを認識しながら自らもそんな関係に介入してしまうわけで、もうそうなっている時点でなぜ人と人とが協力し合いながらも対立し合うのかその原因を知ることができなくなっているのかも知れないが、それとともに利害があることは認識できるはずだが、その利害というのも協力し合ったり対立し合ったりすることによって認識できるわけだから、協力関係や対立関係がなければ利害を認識できなければ、利害があることが協力し合ったり対立し合ったりする原因だとは認識できないだろうし、そんなわけでもとから利害が生じていたわけではなく、そうかといってもとから協力関係や対立関係が生じていたわけでもなく、そんな利害や協力や対立の関係を生じさせる原因が他にあるように思われてしまうかも知れないが、では利害や協力や対立の関係を生じさせる社会的な立場や境遇が原因かとなると、それももとからそんな立場や境遇があったわけでもないだろうし、立場や境遇を生じさせるような原因が他にあったと思われるかも知れないが、利害や協力や対立の関係から社会的な立場や境遇が生じてしまうと考えるともっともらしく思われるだろうし、そうやって立場や境遇も利害や協力や対立の関係とともに循環しているわけで、互いが互いの原因となりながらもそこに根本的な原因が不在であるかのように感じられてしまうかも知れないが、ではそれらが生じる根本的な原因とは何かと問うと、探せば何やらもっともらしい原因が見つかるかも知れないが、たぶんそれにも他の何らかの原因があってそこからそれが生じていることが明らかとなれば、それも根本的な原因ではなくなってしまうのかも知れないし、そんなわけで人の認識には欠陥があって、それらの何が根本原因なのかを探ろうとすればその不在が明らかとなると同時に様々な概念が相互に絡み合っていることも明らかとなって、それらの循環によってそれらの根本原因をわからなくしているのかも知れないが、それに関して大抵の人は概念の関係を単純化してしまい、それらが循環している中から原因と結果となる関係を部分的に捉えてしまい、そういった概念が生じる原因を特定してしまうわけで、人と人とが協力し合える関係が生じるとその関係の中に入る人たちが味方だと認識して、その逆に人と人とが対立し合う関係が生じると対立している人が敵だと認識するだろうし、また利害を共有できる人を味方だと思うと同時に共有できない人を敵だと思ってしまうのかも知れないが、味方だと思う人たちが味方同士で集まって集団を構成すれば、そんな集団の中でも些細な利害の違いから敵と味方とに別れて内紛が勃発するかも知れないし、そこから集団が分裂して分裂した集団の中でも些細な利害の違いから対立と協力の関係が生じてそれが内紛の原因となってしまうのかも知れないが、人は誰でも必ず利害に合わせて協力したり対立したりするのかといえば、そうとも言い切れない面もあるのかも知れず、中には利害抜きで他人に協力することもあるのかも知れないし、それどころか自らが損することを承知の上で他人に協力したり他人と対立するような成り行きになってしまうこともあり得るだろうし、さらに自らの意志とは無関係にあるいは自らの意志に逆らうような形で協力を強いられたり対立を強いられたりすることもあるだろうし、また他人と関係が生じると必ずそれが対立や協力の関係となるのかといえばそうでもない場合もあるのかも知れず、関係にも程度や度合いの濃淡があって、濃い関係の中では利害が鮮明に浮き上がってくる場合もあるだろうが、薄い関係の中ではそれほど利害にこだわらないような成り行きが形成される場合もあるだろうし、また関係の濃淡とは無関係にある面では利益になることも別の面では弊害となることもあるかも知れないし、そうなると利益となる面と弊害となる面が入り交じったような関係となってくるのかも知れないが、利益をもたらすから味方で弊害をもたらすから敵だとはっきりと区別できなければ、ではそうした関係とは何なのかといえばそれが腐れ縁の関係と形容されることもあるかも知れないが、必ずしもそれが否定的な関係とは認識されない場合もあるのかも知れないし、肯定も否定もできないような関係であるなら愛憎や功罪が半ばする場合と、それとも無縁であるなら完全に無関係の関係ということになるのかも知れないが、普通はその場で生じている事情に合わせてそれらのうちのどんな関係を優先させるかが決まってくる場合もあるだろうが、もちろん何も決まらない場合もあるだろうし、そんな中でも例えば政治的な主張をする場合には何か批判したり糾弾するような対象が決まってしまう成り行きがあって、誰に頼まれたわけでもないのにおこなっている活動の中で自発的に自らが味方したり救わなければならない対象が決まってきてしまい、なぜ味方したり救わなければならないのかといえばその対象となる人々が困難や不利益に直面しているからであり、その困難や不利益をもたらしている原因となる人や勢力がその人にとっての敵と想定されてしまうわけで、そうなると結局はそういった敵や敵がおこなっている行為を批判したり糾弾しなければならなくなるだろうし、またそうした困難や不利益をもたらしている制度というのも明らかとなってきてしまう成り行きというのもあるわけで、そうした制度を利用して利益を得ているのが他ならぬ敵と見なされた人や勢力であるわけだが、そうであるなら味方に困難や不利益をもたらす制度をなくさなければならないという主張も生まれてくるわけで、そういう成り行きが政治的な主張をしている人には至極当然だと思われ、そういった主張をすることが正当化できる明白な根拠も見いだされるなら、どうあってもそんなことを主張せざるを得ないし、かえって主張しないことの方が罪でありおかしいと思われるのかも知れないが、たぶんそれが当人にとってもその人の支持者たちにとっても正しい行為と認識されるにしても、当然のことながらそれらの人たちが敵と見なす人や勢力もそれなりの規模と数を有して存在しているわけで、だからこそそこで対立が生じているわけだが、それがはっきりと区別を伴った対立であるかというとそうでもないわけで、その中では敵と味方とが入り交じった領域というのもあるのかも知れないし、そういう部分でも明確な敵と味方との区別をつけようとすると味方と見なした人たちの間でも見解の相違が生じてくるし、そうした見解の相違が顕在化してくると味方と見なした人たちの間でも内紛が勃発してしまうわけだ。
11月28日「税に関する様々な基準と条件」
物事について明確な判断基準がなければ、普通は判断しようがないのかも知れないが、そんなどう判断したらいいのかわからない状況というのが現状だとすると、現状の中でおこなわれていることについてどう捉えたらいいのかといえば、やはり独自に何らかの基準を設定してその基準から現状を判断するしかないのかも知れないが、それに関しては単純にひとつの基準に関する善悪や良し悪しの度合いなどではなく、多角的に様々な方面から複数の判断基準を設定しなければならない場合も出てくるわけで、例えば企業活動に対する課税や企業が納めなければならない税に関しては、法人税の他に法人住民税、法人事業税、消費税、所得税、印紙税、登録免許税、固定資産税、自動車税、自動車重量税(車検の時)、自動車取得税(購入の時)など、行政から様々な課税と様々な納税を要求されるわけだが、その中で法人税に関してなら、例えば資本金が1億円以下の中小法人で年800万円以下の所得しかない企業なら課税額が通常では利益の23.4%のところを15%まで減額されたり、そうやって何らかの条件を満たすと優遇されるような場合もあるし、また法人事業税の中で外形標準課税については、対象となる法人は資本金の額または出資金の額が1億円を超える企業が課税の対象で、資本金等、従業員数、事業所の面積などの事業活動規模から税額が算出されて、それに関する税額の算出方法も多種多岐にわたる条件がつけられていて、会計事務所でないと詳しい算出法などわからないだろうが、法人税が国税として徴収されて法人住民税と法人事業税などが地方税として徴収されて、平成29年度の税収内訳を見ると法人税が約12兆円で、法人住民税と法人事業税を合わせて約7兆円だから、法人税と合わせると約19兆円になり、一方で消費税が約17兆5千億円で地方消費税が約4兆7千億円だから合わせて約22兆円だが、さらに現在では消費税率が8%から10%に上がったから、消費税収がさらに増えて税収全体に占める割合もそれだけ高くなりそうだが、そういった額や%の実情を見てしまうと消費税を廃止するという主張は無謀に思われてしまうし、消費税は建前としては消費者が払っていることになっているわけだが、税として直接納めているのは事業者であり、その事業者が下請けなどの弱い立場だと、元請けからの値下げ圧力によって実質的に消費税分を商品の価格に転嫁できずに、結果的に消費税分を自腹で納めるようなことになってしまう場合もありそうだが、税に関して課税の条件次第で有利不利があって一般的には大企業ほど有利で中小企業ほど不利だという先入観もあるだろうし、それが偏見というよりは税以外でもそうなっている面もあるだろうし、だから実際に税率や課税の条件などの面で中小企業に対する優遇税制が敷かれているわけだが、もちろんそれを額面通りに受け止めないで、特に法人税などの場合は利益が出ていなければ免除されるから、わざと利益を出さないように工夫すれば法人税を払わなくていいことになるだろうし、そういう制度面で抜け穴だらけな面を指摘して、有利な立場にある大企業からもっと税を取るべきだと主張する意見が後を絶たないわけだろうが、確かにそういう判断のレベルではそういう意見がもっともらしく思われるが、その一方で現行の制度でもそれなりに税収が確保できている実態があるわけで、それに関して不公平な面を指摘すればきりがなく、そんな不公平感をあおって指摘すればするほど一般庶民の人気取りに利用できる面もあるだろうし、実際に一部の大企業が法人税を何年も払っていない実態を指摘して、また全体的な傾向として法人税自体を払っていない企業が多いことを指摘して、それが不公平であり不当に利益を上げている実態として強調すればするほど、企業に対して許せないという感情が高まってくるのかも知れないが、そんな実態の中でおこなわれているいわゆる節税行為も合法的な範囲内でやっていれば別に非難されるような筋合いではないし、実際に行き過ぎた節税行為が脱税と見なされてしまえば違法行為として罰せされて、追徴課税されてより重い罰金を払わなければならなくなってしまうわけだから、そういう面では一応は制度が有効に機能しているわけで、それに加えて産業の国際競争力を高めるために政府が大企業を応援している面もあるだろうが、またそれに関して税を重くすれば大企業が海外へ逃げていってしまうとかいう俗論を逆の用途で活用して庶民感情をあおるような訴えかけをおこなう人たちもいるかも知れないが、ただ国内の市場で外国企業の商品も売られているわけで、また外国でもその国以外の企業の商品が売られている実態があるだろうし、そういった輸出入の面でどの国や地域で商品を製造すれば有利か不利かに関しては、関税や人件費や輸送費などの経費も条件として利いてくるから、国内の企業への課税だけでは一概に有利不利はいえない面も出てくるだろうし、もちろん税金の安い国で製造した商品が売れる可能性があればそれに越したことはないわけで、そういう面も考慮するなら、というか普通に様々な条件を考慮するのが当然のことなのに、俗論を都合良く利用したり自分たちの主張にとって都合のいいデータを示して煽り立てをやっているような人たちの主張を真に受けるわけにはいかないし、そういうやり方が民衆を無知な大衆と見なして馬鹿にしているというか、そういうところから政治に対する不信感が生じてくるわけだが、それでも税制を現行より改善して不公平感を払拭するような方向で改革しようとする意図でそういう主張をおこなっている限りで、それなりにまっとうな主張に思われてくるわけだが、そうでなく現状の中で何らかの否定的な結果がもたらされていて、そんな結果がもたらされている原因として例えば諸悪の根源が消費税であるかのような煽り立てをやるとなると、もちろんそういう煽り立てをやるに当たって都合のいいデータが示されるわけだが、実際に他の多くの国でも消費税が導入されているし、それとの比較において論理的整合性がとれなくなってくるだろうが、ではそうした消費税が導入されている他の国は自国と比較してどのような点で有利なのかといえば、例えば教育費や医療費がタダであったり、食料品に関しては軽減税率が適用されていたりするのならば、自国でもそういった方面で改革をおこなえばいいという論理も成り立ってくるだろうが、なぜかそうではなくそれとは違った方面から、例えば消費増税に伴って法人税が減税されているからけしからんとか、消費税は富裕層に有利であり一般庶民から余計に税を取り立てる税制だからけしからんとか、そんなふうに煽り立てて庶民感情に訴えかけることによって民衆から支持を得ようとする魂胆が見え見えなところが、逆に理性や知性のある民衆から浅はかさを見透かされているような印象も感じられるわけだが、実際にその辺の軽薄さに抵抗感を感じている人も多いのではないか。
11月27日「判断の是非とは無関係」
政治によってすべての人が救われるわけでもないのは、政治的な活動の性格上当たり前のことかも知れないが、そうでなくてもすべての人が救われるようなことはないわけだが、それに関して例えば実在したかどうか定かでない生身のイエスではなく、宗教としてのキリスト教ではイエスがすべての人類の罪をあがなって救おうとしたことにされてしまうのだが、そんな大げさなレベルではなく、大抵の場合において秀才と呼ばれるような人たちは、何が正しいか間違っているかの判断がつくレベルの範囲内で物事を思考するわけで、実際にそういうレベルで間違っていることをやっていると判断される人や団体を批判するし、また正しいことをやっていると判断される人や団体を賞賛するのだが、それは正しいか間違っているかの判断が何らかの形で明示されているような場合には有効だと思われるわけだが、はっきりとは明示されていなくても、世の中の様々な方面で成り立っているように思われる価値判断から総合的に類推することによって、大まかには正しいか間違っているかの判断が下せる場合があるだろうし、そういうレベルではそうした人たちの判断に狂いはないように思われるわけだが、それでも実際にそういう人たちにとっては間違っていると思われるようなことがあからさまにおこなわれている実態があると、どうしてそんなことがおこなわれているのか不可思議に思われるし、しかもそんなことをやっている人や団体があからさまにあるいは暗黙のうちに他の大勢の人たちから支持や賛同を得られていて、そういう人や団体が世の中の主導権を握っているように思われる状況になっていると、そんな実態が不条理に思われてくるわけだろうが、果たしてそういった状況が秀才と呼ばれるような人の判断がつくレベルを超えているからそうなっているかといえば、超えているとか超えていないとかいう判断とは別のところで普通にそんな世の中の状況となっているだけで、根本的なところで世間の判断が間違っていたり、さらに正しいか間違っているかの判断がつかないような事態がいくらでも出てくるのかも知れないし、そういう意味では物事のすべてにおいて正しいか間違っているかの判断がつくわけでもないし、たとえ間違った判断に基づいた行為であっても、その場の状況や条件次第ではまかり通ってしまう場合もあるだろうし、またたとえ正しい判断に基づいた行為であってもうまくいかなければ、それが正しい判断に基づいた行為だとは認められないような事態も起こりうるが、だから秀才と呼ばれるような人たちが駄目だとはいえないし、その場の情勢次第ではそういった人たちが活かされるような制度が整備されていることの方が多いのかも知れないし、そういった制度に基づいた行為であれば秀才と呼ばれるような人たちのやっていることの大抵が正しい行為だと認められるわけだが、時にはその手の人たちも制度的にも倫理的あるいは道徳的にも間違っているとされる行為をやらされる羽目に陥ってしまうだろうし、そういう場合は立場や地位の上下関係を利用した権力の行使によってそういった行為を強要される場合もあるわけだが、たぶんそういった誰にでもそれとわかるようなことではなく、それどころが誰にとっても間違っていると思われるようなことを平気でやってしまっているのに、なぜかそれでもかまわないような成り行きになってしまったり、別にそれが正しいと思われなくてもかまわないようなことをやっている人たちも大勢いたりして、そういうところで道徳的あるいは倫理的な判断に基づいて、間違ったことがまかり通ってしまう制度や慣習に従っているから駄目だとか、そういったことに囚われないことをやっているから偉いだとか、そういうことも秀才と呼ばれるような人たちにとっての判断がつくレベルの範囲内に引き込むことが可能かも知れないし、実際にそれもひとつの判断基準であってもかまわないわけだろうが、そういう判断に基づいても間違っていると思われるようなことをやってしまう人が出てくるのも当たり前のことであり、そういう人は世間的には非難されるわけだろうし、また場合によっては間違ったことがまかり通ってしまうような制度や慣習に囚われている人たちが世間の多数派を構成している実態もあるわけで、そうなると世間的には道徳的あるいは倫理的な判断が軽んじられているにもかかわらず、そんな世間の大勢に逆らって道徳的あるいは倫理的な判断に基づいて行動する人が偉いということになるだろうし、実際に世間的に尊ばれるような団体の頂点に位置する立場や地位を占めているような人がそれをやると、何かその人が聖人のように見えてくるわけだが、そうではなく一般の名も知れぬような人が分不相応にそんなことをやればたちまち周囲から叩かれてしまうのに、組織の頂点に立つような人にはそれなりに権力が備わっているからそういうことができるのだとやっかみを買う場合もあるだろうが、そもそも実際に自らがやっていることのすべてをいちいち正当化しながら何かをおこなっているわけでもないだろうし、現実の世界では何かをやった後から必要に応じて行為の正当化がおこなわれているわけで、そういう意味でも判断を通さずに正当化できないことをやってしまう可能性がいくらでもあるのだから、そういった判断を介さない行為がいくらでも生じてくるような世の中にあって正しい判断を求めること自体が矛盾しているのかも知れないが、そうであってもそういった矛盾に逆らってでも自らの行為を正当化したい人たちが必ず出てくるわけで、そういう人たちは自らが正しいことをやっているとしきりに世間に向かってアピールすることになるのだろうが、他の人たちがそういう行為にいちいち気を止めるわけでもないだろうし、そういったアピールは普通は放っておかれることが多いのだろうが、そういう人たちに敵対している人たちはもちろん放っておかず、その気になればいくらでも嘘や屁理屈を連ねてでもそれが間違った行為であることを宣伝しようとするのかも知れないが、そういう行為の正しさをアピールし合う凡庸な争いとは別に、どうやってそういうことがおこなわれてしまうのかを考えるような人たちも中にはいるわけで、そういう人たちにとってはそんな争いをやっている人たちの生態に興味があるのだろうし、それがその人たちにとっての思考の対象となるわけで、その手の書物を著すような人たちは、例えば人がそういった判断の是非を迫られるような社会的な状況について考え語ることになるわけだ。
11月26日「現状の制御」
企業に国籍はないというと、それは違うと反論されれば大抵は反論の方が正しいことになるわけだが、どこの国に主に税金を払っているかとか、本社の所在地がどこの国にあるかとか、その国の政府との結びつきが強ければ何らかの優遇措置を受けている場合もあるだろうし、そうなると政府と企業の関係から企業にも国籍があることになるのかも知れないが、そういうこととは別に法人として登記されていれば登記先の国の企業と見なされるのだろうから、外国企業の現地法人も含めて形式的には企業に国籍があることになるのかも知れないが、その企業に出資しているのが株の買い占めなどによって特定の投資会社などになってしまえば、その会社が外国の企業なら外資に乗っ取られたということにもなるだろうし、またその逆に企業合併などで外国の有名な企業を買収することもあるわけだが、その国に外国の影響力のある企業が多ければ、別にその国だけに特有な商慣習に従うわけでもないはずだが、それ以前に企業の株主資本主義的な面も無視できないだろうし、企業に出資している資本家や投資会社の言うことを聞かないとならないような制度的な制約があるはずだし、そういった制約や条件が課された中でも現状の経済状況が形成されているわけだが、もちろんその国に特有の要因も無視することはできないだろうが、それらの要因が作用した結果として現状の日本で問題となっているのは、それなりに内部留保があって資金に余裕があるのに人件費が抑えられて安い給与で人々が苦しんでいる状況があり、それが否定すべき状況であるならそういう状況を改善するにはどうしたらいいかという問いがそこから出てくるわけだが、そうした問いに対する答えとして簡単に思いつくのが政治的な権力を行使することによってそういう否定的な状況を改善するということになるのだろうが、政治的な方面から見ればそういうやり方で合っているはずだが、その政治的な権力の行使とはどういうことかとなると、公的な制度を改善してその制度に企業を従わせることになるわけで、それは外部から状況をコントロールすることになるわけだが、具体的には最低賃金を上げたり、民衆を安い賃金でこき使って利益を上げているのだから、税制を改正して利益に対してしっかり税金を取り、取った税金を民衆のために使えばいいということにもなるだろうし、また民衆が安く生活必需品を買えるように間接税を下げたり廃止するようなことをやればいいということにもなるのかも知れず、合理的にはそういう方向で政治権力を行使すれば民主的な政治をおこなうことになるわけで、それの何が悪いのかといえば何も悪いところなどありはしないと胸を張れるだろうが、その一方でそういうやり方と比較すれば悪いところばかりが目立つやり方が現状では横行していることになるだろうし、そういうやり方が横行しているからそれに反発して何も悪いところなどありはしないそうしたやり方を思いつくわけで、普通に考えればそうなるのは必然的な成り行きだろうが、なぜかそういう成り行きに反発するような人や勢力が多いだろうし、それらの人や勢力が現状を守ろうとするわけで、もちろん現状を守ろうとする自覚があるわけでもないのに結果として現状を守るような成り行きになってしまうのかも知れないし、何かそういうところで何も悪いところなどありはしないと胸を張れるようなことをやろうとすると、それを妨害しようとする人や勢力が必ず出現して、結果的にそういう行為や活動がうまくいっていない状況となってしまうのかも知れないが、なぜそうなってしまうのかといえば、現状のままの方が都合がいい人や勢力が現状の中で主導権を握っている実態があるのかも知れず、しかもそういう人や勢力はそんなことはあまり気にしていないのかも知れないし、現状の中でうまく立ち回ってそれなりに成功しているから何やら主導権を握っているように感じられて、その証拠に相対的にはやりたいことがやれている現状があるのかも知れず、そうなっている人たちから見れば、自分たちの主導権を奪いに来る人たちは敵でしかないだろうし、そういう認識になっていれば敵のやりたいようにさせるわけにはいかないし、だから当然の帰結として敵の行為や活動を妨害することになるわけで、妨害している意識がなくても結果的に妨害していることになっていれば、客観的には妨害していることになるわけだから、当人たちは良かれと思うようなことをやっているとしても、そのやっていることの中身は現状を変えようとする人たちの行為や活動を妨害するようなことをやっているわけだが、それが間違った行為だとは思えないのはもちろんのこと、結果的にはそれが現状の維持に貢献しているにしても、それでも不満がないということではなく、相対的にはうまくやっているとしても、もっとうまくやれるようになるには現状をさらに改善しなければならず、そういう意味ではそれらの人や勢力も現状の改善を目指しているわけで、そういった人たちを単純に旧守派と見なすのは間違っているのだろうし、実際に自身は保守を自認しながらも改革を目指しているつもりなのだろうが、その改革の方向が結果的にそれらの人たちから妨害されている人たちとは違うのであり、どの辺に違いがあるといえば単に敵味方の違いでしかないのかも知れないが、それが絶対的な違いかとなると案外そうでもないのかも知れないし、それらの勢力のどちらにも言えることは現状を成り立たせている政治や経済の秩序の範囲内で改革をおこなおうとするのは同じ傾向にあるのかも知れず、その中では現状で主導権を握っている人たちからすれば、自分たちと敵対する勢力がおこなおうとするやり方では現状で成り立っている秩序が破壊されてしまうから、そうなってもらっては自分たちの主導権が失われてしまうので、それは是が非でも阻止しなければならないことになるだろうし、少なくとも現状を改革するなら自分たちの主導権を維持しながら改革をおこないたいから、そこで主導権を奪おうとする勢力との間で対立や争いが起こっているわけだが、そこでそれらの人たちが想定していないような事態があるとしたら、現状を維持しようとすることが現状の崩壊につながることであり、実際に今まさに起こりつつあることがそういう成り行きであるとしたら、それらの人たちにとっては想定外のことが起こっているわけだが、もちろんそんなことに気づくはずもないだろうし、そんなことよりはまずは現状の中で主導権を奪いに来る勢力に勝利することが最優先の課題となっているのかも知れないし、そうであるからこそ必死になって悪あがきの最中かも知れないが、もちろんそれが悪あがきだなんて思ってもいないし、それよりは現状を思いのままにコントロールしているつもりになりたいのだろうが、現状を制御しようとしていることも現状を崩壊に導くことになるとしたら、やはりそんなことにも気づくはずがないわけだが、果たして現状を制御しながら現状を思いのままに変えることができるかといえば、さすがに思いのままとは行かないだろうが、そのおかげでそれなりに何らかの変化が起こっていることも確かなのではないか。
11月25日「言うは易しおこなうは難し」
たぶん単純な論理や理屈に基づいたことは簡単に主張できるにしても、主張通りのことを実現しようとすると途端に難易度が上がってしまって、実現できないままとなってしまうことが多いのかも知れないが、そういう実態を知らない世間知らずな人ほど単純明快なことを主張する傾向にあるのかも知れないし、またそんな主張に賛同する人ほど世間知らずな傾向にあるのかも知れないが、もちろん誰もが世間のすべてを知っているわけでも体験しているわけでもないし、そういう意味で誰にもそれなりに世間知らずな面があるわけだから、そういった世間知らずな面では単純明快なことを主張してしまう傾向にあるのかも知れず、それ自体はありふれたことであるが、だからといってそんな単純明快な主張では世間には通用しないということではなく、主張は通用しているのに主張通りのことを実現しようとすると行き詰まってしまい、それはそういった主張を受け入れがたい総論賛成各論反対な立場や境遇の人や勢力が他に存在しているからで、またそういう人や勢力も他では受け入れがたい単純明快なことを主張していれば、そういった人や勢力の互いに受け入れがたい主張がぶつかり合ってそこで争いが起こっている可能性があるわけで、結局自分たちが他には受け入れがたいことを主張しているのに、他の人たちの主張が自分たちには受け入れがたいことを批判しているわけだから、そういうところで言うは易しおこなうは難しということを頭の中ではわかっていながら、それを自分たちの言動に当てはめることを都合良く忘れているわけで、しかも批判対象として誰からも批判されやすい人たちと賞賛する対象として誰からも批判されにくい人たちをキープしておいて、そういった批判されやすい人たちよりは自分たちの言動の方がマシであることを強調しながら、批判されにくい人たちと自分たちの言動を同じ趣旨の物として重ね合わせようとするのだから始末に負えないのだが、しかも当人たちにそういうことをやっている自覚がなければ外部から何を批判されても聞く耳を持たないだろうし、そういう独善的なご都合主義が世の中に蔓延しているからこそ、他人から何を批判されても聞く耳を持たないのに他人に対しては批判ばかりしているような人たちがのさばって、しかもそういう人たちをその方面の権威として崇め奉ってそこから利益を得る目的で媚びを売るような人たちも大勢いる状況となっていれば、それが肯定できるような状況ではないにしても、そしてそんな状況が放置されていれば、より一層言うは易しおこなうは難しの傾向が強まってしまうのも無理はないことだが、そんな中でも何か良かれと思うようなことを主張してその主張を実現させるために尽力している人たちもそれなりにいるだろうし、そういった言動の賛同者をそれなりに集めて何らかの勢力が形成されているわけだから、そんな勢力の中でも相変わらず他から何を批判されても聞く耳を持たないのに他に向かっては批判ばかりしている傾向があるのかも知れないが、それはそれで織り込み済みの傾向として受け止めた上で、そういった独善的かつご都合主義的な傾向ばかりを批判するのでは、批判している自身も独善的かつご都合主義的な傾向に感染してしまうから、それとは異なった方面から言説を構成しなければならなくなるのかも知れないが、それに関してまず注意しなければならないのは、何かを批判したり賞賛したりすることは容易にできるということであり、特にそんな言説を弄する自らを正当化するには、自分と違っている人たちの言動を批判して自分と価値や考えや言動を共有できる人たちを賞賛すれば、その延長上で自らの言動も正当化できるということであり、しかもそうした賞賛できることが世の中の支配的な価値観と同調できれば、自らが賞賛している人たちもそれと価値観を共有している自らも正当化できるわけだから、そういう自己正当化と絡めて他人の言動を批判したり賞賛している範囲内では、自らの独善的かつご都合主義的な言動が傷つくことはないわけで、そういう自己主張をおこなっている限りで言説を弄するのは比較的簡単なことだが、それとは違って自らの言動が自らを傷つけてしまうようなことを述べてしまうと自己嫌悪に陥ってしまい、それによって独善的かつご都合主義的な自己正当化の論理が破綻してしまうわけだが、誰も好き好んでそんなことをやろうとは思わないだろうが、無意識がそうさせる可能性があるわけで、それが自らの言動のやましい面を察知しているからなのかも知れないが、なぜそうなってしまうのかといえば、実際に自らの経験として言うは易しおこなうは難しの状況をくぐり抜けてきているからであり、しかも実体験として自らの身をもってそれを証明してきたのに、意識がそれを受け入れようとしないから独善的かつご都合主義的にそういう実体験を否定してしまうわけで、そうやって自らが今までに数々の失敗体験とともに過ごしてきた人生について、他の人たちも同じようにして失敗を重ねてきたことをたわいない失敗談としては共有できるにしても、根本的なところでそうした失敗の原因を他人のせいにしたいわけで、それが他人への責任転嫁となって他人に対する批判に反映されてしまう面があるにしても、それだけでなく自分のせいである面もあることには薄々気づいているだろうし、それを無意識が承知している可能性があるわけで、そうした無意識が自意識にフィードバックされて時折自己嫌悪を発現して、独善的かつご都合主義的な自己正当化にブレーキをかけてくるわけだろうが、たぶん心理的な内面においてはそうだとしても、外部との社会的な関係においてはそれだけでは済まないわけで、実際に他人や他の勢力との間で意見や主張の相違や食い違いを巡って衝突が起こりうるし、そうやって争っているうちにも敵対する対象にはできるだけ強烈な批判を加えて攻撃する一方で、意見や主張を共有する人たちとはお互いにお互いを褒め合って談合を繰り返すこともあるだろうし、さらに親交を深めすぎて味方の不正には目を瞑り、敵の正当な行為を妨害して、そういう不当なことをやっているうちに自らの欺瞞を自覚できなくなってしまい、しかもそういうことをやっている他人や他の勢力のことははっきりと認識できるから始末に負えないわけで、そこにも独善的でご都合主義的な自己正当化の傾向が顕著に表れているわけだが、そうやって自分たちが嬉々として批判したり小馬鹿にするような人たちと自分たちが全く違う種類の人間だと断言したいのかも知れないが、実際にそういう言動を過信している人たちはしばしばそういう断言に囚われてしまう傾向にあるわけだが、そういう断言こそが独善的でご都合主義的な傾向があるからこそ、そういう人たちが少数派となっている現状の中では、いつもそんな少数派に批判されている多数派の人たちにはそういう自覚はないのかも知れないが、それらの人たちの無意識がそういう独善的かつご都合主義的な傾向を感じ取っているので、そういった批判を繰り返す人たちに嫌悪感を抱いていて、それは自己嫌悪の裏返しなのかも知れないし、それも自覚していないのかも知れないが、現状が膠着状態であるなら心理的にそういう無意識が世の中を覆っている可能性があるのではないか。
11月24日「語る目的」
普通は語る目的がなければ何を語ればいいのかわからなくなってしまうが、語っている内容に大した意味がないと思われてしまうと、そうなっている時点で語る必要がないようにも思われてしまうわけだが、それでも語るとなると、何を語るかではなくどう語るかということが語る上で重要となってくるような気がしてくるわけだが、そんな気がするだけで本当のところはよくわかっていないのかも知れず、そもそもなぜ語るのかということに関して語る動機がわからなければ、やはり語る必要がないと思うしかないのかも知れないが、それでもそんなことしか語りようがないことを語っている人が世の中には大勢いるのかも知れず、そのそんなことしかと思われてしまうような語っている内容に伴って、その人の社会的な立場や境遇に関する必然性が意識されて、それがその人の交友関係などから生じているのなら気軽に語っている感じになるのかも知れないが、それがその人が所属している団体や何らかの勢力を構成する組織内の立場や地位に囚われて語らされているようになってしまうと、何やらその人の本心から語っているとは思われないような疑念も抱かれてしまうわけだが、もちろんそんな事情だけから語っている内容が決まるわけではなく、そういう外的にもたらされる制約や制限を打ち破ろうとする内的な動機も語っているうちに生まれてくるわけで、なぜそうなってしまうのかと言えば、立場や地位から語らされるような外的な制約や制限が自らの自由意志を縛っているようでそれが鬱陶しく感じられて、そんな束縛を通して外部から加えられる圧力が作用反作用の力によって内部からの反発力を生じさせるわけだが、そうなると何を語ればいいのかわからなくても自然と反発力に従って語っているような気になるのかも知れないし、語る明確な目的を自覚できないまま語っているとしても、何かに反発してそれに抵抗しているという自覚は伴うだろうし、それもある意味では語らされてしまうことの類いではあるわけだろうが、それでも語っている自覚はあるのだから、そういった何かに反発しているという自覚が自らの主体性の表れだと思うかどうかは、主体的に語っていると思ってしまうのも無理はないところだろうが、それも逆説的に社会の制度的なコントロールの範囲内で語っていることになるのかも知れないし、その人に語らせるために圧力が加わっていると考えるなら、そうした圧力というのがその人を取り囲んでいる社会的あるいは集団の組織的な構造からもたらされることになるだろうし、そうした圧力に屈している面と逆らって反発している面とがそれについて何かを語る動機を構成していて、それを自覚できなければ何も語ることがないように思われるのかも知れないが、あいにくというか幸いにというか、そうした構造自体がその内部に囚われていると意識させてしまい、そうした圧迫感が圧力となってその人に作用して影響を及ぼしているから、それについて語らざるを得ない状況をもたらしていて、果たしてそれが語るべきことなのかどうかは、その人がそれを構造からもたらされる人為的な意図や思惑として自覚できればそれに反発して語る理由になるのかも知れないし、自覚できなければ大した理由もないのに自然に圧迫感を感じながら語っているように思われるかも知れないが、どちらにしてもその人が何かについて語っている状況がもたらされていれば、それを語ることによって自身に対しても周囲の社会環境に対しても何らかの作用や影響を及ぼしていることになるのだろうが、そうした動作を周囲の人たちや世間がどう受け止めるかは、その語っている内容によってそれなりに受け止め方が異なってくるだろうが、それは語っている人の立場や境遇によってもまた所属している集団内の地位や役職によっても異なってくるだろうし、そうした制約や条件が課される中で何を語るかというよりはそれをどう語るかに重点が置かれてくると、その制約や条件に応じた語り方が自ずから求まってきてしまうのかも知れず、それが自らの立場や境遇や地位や役職に応じた語り方になってきてしまうし、語っている内容よりも語り方が重視されると、語り方がその人の立場や境遇や地位や役職も応じていると思われるだけで、もうそれでそれを受け止める側も安心してしまうわけで、後は語っている内容などどうでもいいとは言わないものの、そうした立場や境遇や地位や役職に応じた内容も定まってきてしまうわけで、そういう立場や境遇や地位や役職の人ならそういう内容のことを語るだろうと思われてしまうわけで、そうしたことを意識し出してしまうとそれが周囲への配慮となり、それはとりもなおさず自身のおかれた立場や境遇や地位や役職への配慮となってしまうわけだが、それらが外部から課された制約であり条件でもあるわけだから、そうした制約や条件から生じる圧力を意識することによって、それに反発して語ることもそれらを意識した結果としてもたらされることになり、結果的に自縄自縛的な成り行きとなってしまうわけだが、それが社会からもたらされる制度的なコントロールだと認識できたとしても、ではそうしたコントロールに従うのでも逆らうのでもない語り方ができるかとなると、それは難しいのかも知れないし、それを意識し出すと自縄自縛的な成り行きを伴ってしまうのだとすれば、なるべく意識しないように心がけるしかないだろうが、そんなふうに心がけようとすること自体が意識していることの証拠でありご都合主義でしかなく、そうなると結局は語る目的というのがその人のおかれた立場や境遇や地位や役職に応じたことを語る以外に何があるのかと問うしかなくなってしまうのかも知れないが、それを避けて語るには、逆に語る目的が何もないような状態を感じたときに語り出すようなことにしかならないのかも知れず、そうやってそれが何を意味するのか何を意図するのか考える必要さえないと思われるときに語ればいいのかも知れないが、客観的にそんな状況がもたらされるとは思われないし、普通は語る目的に従って語っているつもりになるしかなく、周囲からもたらされる様々な制約や条件の範囲内で語るしかないわけだが、それも直接語っているのではなく、こうして文章を記している中で語っているつもりでいる限りで、語っていること自体がフィクションにしかならないわけだが、たとえそれがフィクションだと意識するにしても自然に語っているつもりになれるなら、その場に生じている制約や条件に従いながら語っているつもりになれるかも知れないし、それがフィクションにしか過ぎないことが制約や条件そのものなのかも知れず、それでかまわないように思われるならそれで語っていることにしておけばよく、変に逆らうよりはその方が楽であるならそのままにしておけばいいのであって、その反対に自らに課されている制約や条件に逆らうようにして語ると、そうすることが目的と化してしまい、そうした使命感に意識が囚われてしまうのかも知れず、そうやって何かに反発を覚えながら語るという動作が、やはりそれも周囲からもたらされる制約や条件に従っていることになり、何かがそこで循環しているのだろうが、その循環している何かが語る理由や目的となっているのなら、それが語ることの正当化につながってしまうだろうし、自分には語る理由や目的があるから語るという正当化に基づいて語るという循環的な動作となってしまうのではないか。
11月23日「金融資産に関する公然の秘密」
一般的に言って秘密というのは知られてはならないことだろうが、その一方で知られてはならない秘密を暴露する行為の意図を知ってほしいわけだから、秘密は暴露されることによって秘密としての価値を高められるのであり、誰も知りたくもないような秘密は秘密としての価値はないだろうし、秘密が秘密として機能するのは知りたいと思わせるような内容だからだが、それが誰もが知っている公然の秘密であるとしても、世間に広く知れ渡っている限りで、多くの人にとって興味深い内容だからこそ公然の秘密と見なされるわけだが、例えばそんな公然の秘密として、金融のプロならそんなことは百も承知かも知れないが、金融資産というのは株券や債券などの金融商品の類いのことを言うが、単純にそれらの商品を貨幣と交換できれば交換しただけ金融資産が増えるわけで、実体経済の中で取引される商品が貨幣と交換された後は消費されて減ってしまうのとは対照的に、どちらかと言えば金融商品の場合は貨幣と交換された後も資産として貯まる傾向にあるだろうし、もちろん市場取引なのだから売り手が多いほど安くなるし買い手が多いほど高くなるはずだが、そういうことを考慮に入れなければ、金融商品と貨幣を交換すれば金融商品→貨幣=金融資産+貨幣=金融資産となり、商品が貨幣と交換されると資産として認められて、その分だけ世の中に存在している全体としての金融資産が増えるわけで、市場に中央銀行が貨幣を供給して民間の銀行や証券会社などが金融証券の類いを供給して、それに加えて政府も新たに公債を発行して供給するし、そういう理屈で新たに金融商品の類いを作って売れば売れた分だけ貨幣と交換できたことになるわけだから、その分だけ世の中に存在している金融資産が増えるわけで、しかも近年では情報革命によって情報通信技術の飛躍的な進歩と発達とともに金融商品と貨幣との交換回数が飛躍的に増大したことによって、世の中に存在している金融資産も飛躍的に増大したわけであり、確かにそういった金融商品取引をおこなっている中には陰謀論で有名なロスチャイルド系の証券会社や銀行も含まれているはずだが、他の金融機関も多数取引に加わっているはずであり、それをロスチャイルドの陰謀だと見なすのは的外れな面が大きいだろうし、それよりはコンピューターやネットワークを利用した情報通信技術の飛躍的な発展がなければ、金融商品と貨幣との交換回数の飛躍的な増大もなかったわけだから、しかもそれ以前に産業の発展によって金融証券の担保となる物質としての土地建物や機械設備なども飛躍的に増大したわけだから、さらに金融証券自体を担保にして資金を借りて、その資金を利用して金融証券自体の売買もおこなえるわけだから、どう考えてもそういった売買をおこなえばおこなうほど金融資産が増えていってしまうわけで、そういう成り行きは陰謀などではなく金融商品取引上の特性と見るしかないだろうし、しかもその取引の中には政府が発行する新規国債なども大量に含まれていて、それも金融資産の増大に一役買っていることは確かであり、その結果として金融資産の飛躍的な増大が世界的な貧富の格差の増大を招き、その貧富の格差の増大に一役買っている要因のひとつが政府が発行する公債の類いなのに、その公債を発行することによって貧富の格差の是正を目指すということ自体が意味不明のマッチポンプで焼け石に水的な行為でしかなく、そうやって金融商品取引に回される資金の割合が増えれば増えるほど実体経済に回ってくる資金の割合が相対的に減ってしまうわけで、そうなると金融資産を持っている人や企業ほどより多くの富を所有することになって、それと反比例して実体経済の中で働いている人や実体経済に依存している割合の高い企業ほど相対的に富を持っている割合が低下してしまうことは明らかであり、現状でそういうことまで考慮に入れて政治的な主張をしている人がいるとは思えないが、それに関連して政治的な主張に利用される学問や産業などの分野で専門的な知識を持っている人はそれなりにいるとしても、それは各分野ごとの専門知識でしかなく、しかもそういった専門知識に物を言わせて専門外の分野にまで介入しようとするのが政治的な現状であり、それはそんな政治的な主張や行為を伝えるメディア的な限界でもあり、何かそういう方面の専門知識に物を言わせた専門家の提言を鵜呑みにして、それを政治的な主張に利用していることは確かなのだろうが、しかもそういうことを主張している人がメディア的な面での有名人や著名人なのだから、誰もが知っている人が主張していることだから信用できるという偏見や固定観念に囚われて、またそういう人に限って社会的な弱者の救済を訴えかけるような人道主義的なことを言ったついでに経済的な専門知識を披露するわけだから、それにころっと騙されてしまうといっては一般の人たちに対して失礼だろうが、誰もが専門的な知識を持ち合わせているわけでもないだろうし、社会的な弱者や困っている人を助けるという大義名分はご立派な心意気なのだろうが、そんな人の政治的な主張を支持できるかと言えば、他の相対的には現状の中で幅を利かせている人権無視の国家論や国防論や経済至上主義のような論理などを隠そうとしない人たちよりはだいぶマシな方なのだろうし、確かに今は小さな勢力だとしても今後のさらなる成長を期待しつつ温かい目で見守るべきなのかも知れないが、そんな上から目線で偉そうに物を言えるほどご立派な立場を占められるような人も他にいるわけでもなく、誰もが何事においても自分の利害を優先させることに汲々としているたわいない小市民でしかないのだから、そんな中でも自分のためにと言いつつも実態として他人のために自分を犠牲にして活動できるような人は貴重な存在であり、そういう人たちを応援して増やしていくことが社会の中で行き過ぎた利己主義やその裏返しの国家至上主義や企業至上主義を是正していくことにつながるのかも知れないし、そうはいっても世界的な傾向としてそういう成り行きになっているのに、自国の中だけでそういう傾向に持って行こうとしても、世界的な傾向の方が勝ってしまえば焼け石に水程度の効果にしかならないわけだから、そういう面で何をやるにも限界につきまとわれてしまうわけだが、自らがそう思ってしまうだけでもそういった傾向に逆らうような成り行きが生じていることになるのかも知れず、できればそういう思いをなるべく多くの人たちと共有できるようにしていかなければならないのかも知れない。
11月22日「政府と中央銀行」
一般的には貨幣も通貨も同じものと考えてもかまわないのだろうが、建前的には政府から独立した中央銀行が発行しているのが銀行券であり、銀行券と政府紙幣とは異なるわけだが、シンガポールなどの一部の国では政府が政府紙幣を発行しているらしいし、日本でも貨幣=硬貨と定義して貨幣は政府が発行していることにしているらしく、実質的には政府の機関である独立行政法人の造幣局が貨幣=硬貨を製造してそれを中央銀行である日本銀行が引き取るという形態になっているらしく、日本銀行は紙幣の一種の日本銀行券を発行して、貨幣=硬貨は日本銀行ではなく政府が発行していることになっているらしいが、なぜ物としての銀行券と貨幣を区別するのか、言葉の定義としての貨幣に関して紛らわしい解釈があるわけだが、その辺は中央銀行ではなく政府が発行する政府紙幣との絡みでややこしい歴史的な経緯でもあるのかも知れないが、建前上は中央銀行は政府から独立しているはずであり、政府と中央銀行が一体化しているわけではないということを強調して、政府が責任逃れをしたいのか、あるいは通貨の国際的な信用を保つ上では政府と中央銀行が別々の機関であることが望ましいのか、司法と行政と立法の三権分立が強調されるのと同じような理由でそうなっているのかも知れないし、政府が直接通貨を発行するのではない形式になっていることに何らかのメリットがあることは確かなようだが、そういう意味でも政府の実権を握れば何でもかんでも思い通りのことができると考えるのは、物事を単純に捉えすぎているように思われるわけだが、少なくとも通貨としての貨幣に関して言えることは、政府には制御できない面があるということかも知れず、また中央銀行にも制御できない面もあるだろうし、それらのうちのどちらかの手元にある分に関しては管理しているし、管理が及んでいる範囲内では制御もできているはずだが、いったん管理の手を離れて民間で流通している分には、直接制御するのは難しいだろうし、たとえ民間の銀行に貸し与えているとしても、それが物としても数値的な情報としても、民間の銀行に管理権が移っていることになるわけだから、例えばそれが銀行券としてではなく株券や債券などの他の証券に化けていれば、その価値もそれらの証券独自の価値を担うようになるだろうし、それらも物としてというよりは数値的な情報でしかない面もあるわけだから、場合によっては貨幣と同等の交換媒体になっていて、そういう媒体を民間が活用している部分では政府や中央銀行の力が及ばない割合がそれだけ増えてくるだろうし、そういう面も含めると政府と中央銀行と民間の金融機関の間でそれなりに力の強弱を伴う権力関係があるにしても、それらの中でどれが主導権を握っているという判断をあまりにも重視してしまうと、事の実態を誤って捉えてしまうことになるのかも知れず、たとえその中で政府の支配力が相対的に強いとしても、政府には制御できない面が当然あるだろうから、政府が指導力を発揮して筋の通ったことをやれば政府の思い通りの結果が得られるとは限らないだろうし、それに関して何らかの有力な制御理論が導き出されて、その理論通りのことをおこなえばうまくいくかというと、やはりそうはいかない部分もありそうで、実際に世界各国の政府が思い通りのことをやれているかと言えば、どう見てもうまくいかない面が目立っているわけだから、そういう現状を額面通りに受け止めるなら、今後もそういう状況が続いていくと捉えておく方が無難だろうし、もちろん何か画期的なやり方が見つかれば、そのやり方が通用しているうちは何らかの思い通りの成果を得られるかも知れないが、そうやって思い通りの成果が得られている側とは利害が異なる勢力にとってそれは由々しき事態だろうから、当然の成り行きとしてそれらの勢力によって対抗措置が講じられて、そうなれば争いが避けられないこととなるだろうし、実際に争っているうちは双方ともに思い通りにはならないわけで、そういう意味でも対立し合う勢力が存在する限りである勢力がすべてを支配して制御できるような状況にはならず、そんなふうにどの勢力もすべてを制御できないという状況が何らかの有効な理論を用いても思い通りの結果を得られるとは限らないことを示しているわけだろうが、そうであってもやろうとすることはそういうことになってしまうわけで、何らかの理論や理屈を信じて理論や理屈通りのことをやろうとしてしまうわけで、そうすることが有効だと信じてそういうことをやってしまうわけだから、他にもそういうことをやっている勢力があると想像できるだろうし、その勢力が自分たちが信じている理論や理屈とは別の何かを用いてそういうことをやっているとしたら、どちらの理論や理屈が正しいか間違っているかが、双方が争った結果としてどちらが勝利するかで証明されると思われるかも知れないが、必ずしも正しい理論や理屈に基づいたことをやったとしても争いに勝てるとは限らないし、争いに勝つには他の要素や要因が絡んでくることが往々にしてあるし、それがそれらの勢力には受け入れがたいようなやり方を用いないとならないような成り行きを伴っていれば、当然そう言うことをやった別の勢力が勝利して、そういうやり方を受け入れがたいと思っている勢力が敗北することになるのだろうが、そんなことをやって勝利したと思っても、それも一時的な勝利でしかないのかも知れないし、結局は長い目で見れば無理なことをやってその場限りの勝利を得たところで、その無理が祟ってそういった勢力の力が弱まってくるようなことにでもなれば、今度は無理なことをやった勢力が自滅するようなことも起こりうるだろうし、そういうことも考慮に入れると、現状の中で誰が見ても無理なことをごり押ししている勢力というのは後の時代において否定的な評価を下される可能性が高いだろうし、だからこそ目先の勝利にこだわってひどいことをやってしまうのは得策とは言えないわけで、あまりにも性急に勝つことを優先させると、逆にそういうやり方に足下をすくわれて結果的には自滅の憂き目を見るわけで、その辺の情勢の見極めも判断も難しいことは確かだろうが、たとえ現状で正しい判断ができなくても、また無謀なことをやって自滅しようとも、根本的な部分では信念に基づいて行動するしかない場合もあるだろうし、たとえそれが災いして一時的に敗れ去ることはあっても、そういった勢力がそのまま世の中から消え去ってしまっても、どう考えても正しいように思われる信念があるなら、また何らかの機会を捉えてそういう信念に基づいて行動する勢力が現れるだろうから、実際にこれまでもいくらでもそうした決起のような行為が繰り返されてきたのだろうから、今後もそういう行為が繰り返される可能性はあるわけだ。
11月21日「行為の有用性」
ただ漠然と現状で成り立っているように思われる国家と資本主義の枠組みをどうにかしたいと思ってみても、それが個人の力でどうこうできるようなレベルではないのはわかりきっているが、少なくとも政治の場でおこなわれるようなことが直接あるいは直截にそういうことに結びつくとは考えられないわけで、ひとつの行為ではなく様々な行為が複合的に絡み合うことによって全体的な枠組みがかろうじて揺らぐ程度のことでしかないとしても、それ以前に政治的な行為はむしろ国家と資本主義の枠内で改良や改革や改善といったことを目指すようなものだろうが、もちろん実際に関わっている当事者たちにはそういう枠組みというのがはっきりと認識されているわけではないだろうし、政治の場で何かをおこなう際にとりあえずの指標や指針としてもそれほど明確には意識されないのかも知れないが、その一方で当事者の意識もおこなっている行為もそうした枠組みに囚われていることは確かなのかも知れず、それ以外の枠組みから外れたところでは何もやりようがないといえばその通りでしかないわけで、そもそも政治的な行為が国家と資本主義の範囲から外れることなどあり得ないのかも知れないが、またそれ以外の行為があり得るのかといえば、どのようなことをやろうとしてもその範囲内に収まってしまいそうだが、それでも可能性としてはそれらとは別のジャンルがあるのかも知れないし、そうしたジャンルを適当に定義してその範囲内で何かをやればそこから外れたことになるのかも知れないが、国家と資本主義の側ではそれが有用だと判断すればそういう行為も取り込もうとするだろうし、世のすべての行為に対して国家と資本主義にとって役に立つならそれを利用したいわけだが、そこで権威的かつ権力的あるいは功利的な価値判断を伴うような選別によって役に立つ行為が選ばれて役に立たない行為が退けられるとすれば、役に立たないとして退けられた行為には国家と資本主義の枠組みには適さない特性や特徴があるのかも知れないし、それが国家と資本主義にとっては有用ではないとしても、そういう行為をおこなっている人々にとっては有用であるなら、それらの人々がそういう行為をおこなっていくことが国家と資本主義の枠外へと出る契機になるのかも知れないし、それもすべての行為を枠外へと移動させるのではなく、枠内でおこなってもかまわない行為と枠外でできる行為とが均衡を保つような状態となればそこでおこなっている行為が安定するのかも知れず、そうなっていれば国家と資本主義に生活が全面的に依存するような状態から抜け出せるのかも知れないが、それに関しては国家と資本主義の側でその枠外でおこなわれる行為が自分たちの側に弊害をもたらすと判断されれば、国家権力や貨幣の力によって抑圧しようとしてくるだろうし、そういうことをおこなっている側にもそれに対する一定の抵抗力が備わっていれば、そこで争いが起こることになるわけだろうが、そうだとするとこれまでにその種の争いが起こってきた中に国家と資本主義の枠外へと抜け出られるような行為の可能性があったのかも知れないし、そうした争いの中身を検証してみればその可能性に関する何らかの手がかりを見いだせるのかも知れないが、それでも枠外へと抜け出ようとするのではなく枠内に取り込まれてしまうような成り行きの方が勝ってしまう場合がほとんどかも知れず、そうした行為が有用だと判断されれば枠内に取り込まれて、弊害をもたらすと判断されて枠外に弾き出されるどころか徹底的に弾圧されて消滅させられてしまうような成り行きが生じてきたわけだろうが、そうはならずに無害だと判断されて無視されて放置されるような成り行きとなればそのまま存続する可能性があるのかも知れないが、そうした行為が世の中で主流の営みとなってしまうと国家と資本主義の側では弊害があると判断されて許容できなくなってしまうのだろうから、お互いに相容れない面があることは確かなのだが、そういう面での争いは避けられないとしても、逆にそうした行為をおこなっている側からも積極的に国家と資本主義を利用するような契機も生じてくるだろうし、利用しながら国家と資本主義の枠組みを変えてゆくというよりは、利用できていること自体が国家と資本主義の枠組みが変更された結果であると見なせる可能性もあるわけで、その辺のニュアンスは微妙なのかも知れないが、そうした枠組みに取り込まれているように見えながらも逆に枠組み自体を変更するような結果をもたらせれば、現状で明らかとなっているそうした枠組みから生じる弊害も減じられる可能性が出てくるわけだが、実際にそうした行為の当事者たちがそういうことに関してどこまで自覚を持って活動しているかは各々の立場や境遇やおこなっている内容によっても違いが出てくるだろうし、それがそうしたことを推進している当事者に関連する毀誉褒貶なども伴ってくるわけだろうが、現状でそういう活動をおこなっている具体的な人物を挙げるとすれば、民間のロケット打ち上げ事業やEVや太陽光発電などの分野で世界的に事業を展開しているイーロン・マスクがいるわけだが、おこなっている中でロケットや人工衛星の打ち上げ事業ではアメリカの政府や軍に深く食い込んでいるだろうし、またEVや発電事業などに関連しては再生可能エネルギーの分野を投資などの金融関連の分野に結びつけることによって資本主義の側にも深く食い込んでいるわけだが、それらが国家権力や資本主義的な貨幣の力を利用していながらその有用性に関してはある程度は肯定される面があるにしても、果たして全面的にそれらの役に立っているかとなると、むしろそれらの資産や資源を食い尽くすような面もあるのかも知れないし、将来の利益のために投資する夢の魅力がある一方で、実際にはそうした投資家や政府などの皮算用的な夢や幻想を逆手にとって資産や資源の浪費に導いている面も否定できないのにそこへと投資せざるを得ないような悪魔的な成り行きがあるわけで、そうした行為を一方的に礼賛する必要もないわけだが、実際にそれ以外にもアップルなどの巨大IT企業が表向きは敵対し合うアメリカと中国のどちらでも事業を展開している例などもあるし、もちろんそれらの大がかりな事業展開に目を奪われているだけでは見えてこない面もいくらでもあるだろうが、そうやって国家と資本主義の枠組みの中でやっていることが枠組みそのものの在り方の変容を引き起こすような可能性を秘めている一方で、一般の人々が日々おこなっている比較的小さなことがメディア的な話題とは無縁の傾向があるとしても、誰もが気づかないような作用や影響を世の中に及ぼし続けている面もあるだろうし、現実にはそれらが国家や資本主義の枠組みの範囲内でおこなわれているか否かなど誰も気にしていないのだから、それらに無視されて放置されるような気にならない程度の可能性もあるのかも知れないし、そこに行為の有用性など気にならないような傾向もあるのかも知れない。
11月20日「MMTといういかさま行為」
人が貨幣を持っているだけでは生きていけないことは誰もが承知しているとしても、資本主義経済の中で暮らしていると生きていくのに必要な物や情報やサービスを売買によって手に入れることができるから、売買に必要な貨幣が万能であるかのように錯覚してしまうのは無理もないことであり、その貨幣をどうやって手に入れることができるのかといえば普通は商品を売って手に入れるわけで、中でもサービスとしての労働が売り物となる限りで、働いた報酬として貨幣を手に入れることができるわけで、そんなことも誰もがわかっていることでしかないが、問題はものを売ったり働いた対価として貨幣を手に入れるのではなく、借りることによって貨幣を手に入れようとする場合であり、借りると普通は利子が付いて返すときに利子をつけて返さなければならないが、貨幣の貸し借りだけでは社会が成り立たないことも誰もが知っているはずで、何のために貨幣を貸し借りするのかといえば商品を売買するためにそうするわけで、商品である物や情報やサービスがそれらの売買を通して社会全体に流通しているから社会が成り立っているわけだが、もちろん売買を介さなくてもただで物や情報やサービスのやりとりがおこなわれている場合もあるだろうし、また分け与えることができなければただで貸したり借りたりしている場合もあるわけだが、ただでそうした行為をおこなうには売買を介しておこなうよりも人と人との間でより強い信頼関係や信用が必要とされるかも知れないが、そうしたことをおこなう対象となる物や情報やサービス自体がそれほど重要でなければあるいは不要であればただになる場合もあるだろうし、実際にそれらが豊富に存在していて有り余っているようならいくらでも他人に分け与えることができるだろうし、有り余っていなくて消費できないものなら一時的に使う用途で貸し借りがおこなわれる場合もあるだろうが、それらが貴重なものであって価値がそれなりに高いようなものなら、気軽に他人に分け与えたり簡単に貸し借りがおこなわれることにはならないわけだが、貸したものが戻ってくる保証が必要となる場合があり、借りたものを返す義務がないとそのまま借主のものとなってしまうから、ものの貸し借りに伴って人と人の信頼関係や信用だけでは心許ないなら守るべきルールが必要となってくるわけで、そういうところから法律の類いが生じてきたわけだろうが、そもそも返さなくてもいいのに貸すとなると、それは貸すのではなく与えることになるわけで、実質的に与えているのなら貸すのではなく与えることにすればいいわけだが、諸般の事情から貸すと見せかけて実質的には与えるようなことをやっているとしたら、それは詐欺以外の何ものでもないだろうが、状況証拠としてそういうことがおこなわれている実態があるとしても、それをあからさまにおこなえる条件をつけながらMMTと称する理論に基づいて新たなルールにしてしまうと、従来からある許容限度を超えるようなことをやることになるだろうし、それが倫理観の欠如と思われても仕方のないところだろうが、政府だけがそういういかさまをおこなえる特権があるということになれば、それが政府自体の権力の強化につながるわけで、そうでなくても政府だけが軍事力を持つことが認められているし、すでにいかさまをやりたい放題できるような素地ができあがっているわけだが、果たしてそういうことをやりたい放題行えることの歯止めとして民主的な政治制度が有効に機能することになるのかといえば、実態として機能不全に陥っている面が世界的に目立っている現状があるわけで、そういう面でも国家と資本主義の矛盾が露呈しているわけだが、それでも政府によって管理統治されている国家という確固とした存在が権力行為という実態を伴ってほとんどの人の間で実感させられていて、また金融的な貨幣の貸し借りを基盤とした資本主義経済が世界全体を覆っているようにも感じさせられているわけだから、そうなってしまうような成り行きが必然的に思われても仕方のないところだろうが、逆に言えばそういう理論に基づいたいかさま行為が世界中で横行するようになれば、それが現状で成り立っている国家と資本主義の枠組みが瓦解するきっかけになる可能性もあるのかも知れず、それも政府の権力を利用して国家を崩壊に導き、資本主義の詐欺的な面を強調しながら資本主義経済を衰退に導くようなやり方として、やっている当事者がそういうことをやっている自覚がなくても結果としてそうなってしまうような逆説的な効用があるのかも知れないし、その辺は実際にやってみないことには何とも言えないだろうし、まだそういう行為が本格的におこなわれる以前の段階で勝手な期待を込めて予想や予測をしても意味のないことかも知れないが、崩壊というのは誰にでもその予兆を感じられるようになりながら徐々にやってくるわけではなく、誰も予想だにしないようなところからある日あるとき一気に起こる可能性はあるだろうし、突然そのときがやってきたら誰も備えなどしていられないわけで、そういう突然の崩壊を予想したり予測しようとするのも意味のないことかも知れないが、たぶんMMT論者がしきりに強調する自国立て通貨であればいくら借金してもハイパーインフレなど起こりようがないという一点突破的な論理は、それが一点突破的な強調である限りで、他の点を考慮に入れていない証拠であり、他の点を思いつけない証拠でもあるだろうし、その他の点というのが現状では誰もが思いつけない点である限りにおいて、そういう点がある日あるとき何らかのきっかけで突如出現すればパニックが起こるのかも知れず、そうでなくてもパニックというのは誰もが予想だにしない事態が起こるから誰もがパニクるわけで、ハイパーインフレというパニックが起こる可能性を前もって予想したり予測するという行為自体がパニックを回避するのとは無縁な行為であり、ハイパーインフレなど起こりようがないといくら強調してもそう唱えることがハイパーインフレを回避することにはならないだろうし、実際にハイパーインフレなど起こらないかも知れないが、それとは別の何らかの副作用があるかも知れないし、その副作用が社会に良い傾向をもたらすのか悪い傾向をもたらすのかは、やはり現時点ではやってみないことにはわからないのではないか。
11月19日「批判させられてしまう成り行き」
例えば政府という行政組織がすぐに壊れるわけでもないことは誰もが承知していることだが、何らかの理由で政府を批判したい人は行政が壊れていると主張するわけだが、そこで国家公務員も地方公務員も日々普通に働いている現実があるのだから、組織としても機構としても壊れているわけがないのだが、他にも機能不全を起こしているとか腐敗しているとかいくらでも否定的な言葉を用いて表現されてしまうわけだが、そういったメディア上で行き交っている政治や行政に対する批判をどこまで真に受ければいいのかと言えば、無条件で真に受けたい人や真に受けるに足る理由をすぐに思い当たる人は批判している人たちの意を汲んでそれ相応の状態を想像するわけだが、一般的にはそういう表現には大げさな誇張や強調がつきものだとしても、そこに何らかの否定的な問題が生じていると思われるから関係者も含めて多くの人がそういう表現を使って批判したいのかも知れないが、思われるだけでなく実際に壊れていたり機能不全を起こしていたり腐敗している面があることを承知しておくべきかも知れないが、それだけがすべてではないことも承知しておくしかないだろうし、すべてではないどころか壊れていなかったり機能不全を起こしていなかったり腐敗していなかったりしている面の方が遙かに大きいことも承知しておくべきかも知れず、そうであるから政府という行政組織が現に存在していてそれなりの実態を伴いながら社会の中で機能しているはずで、そういう意味ではそのような政治的な主張や批判は現実の状態や状況をそのまま表現しているわけではなく、そうかといって間違った現実を伝えようとしているわけでもなく、それどころかありのままの真の姿を伝えようとしているつもりの面の方が大きいのだろうが、伝えようとしていることは壊れていたり機能不全を起こしていたり腐敗している部分を伝えようとしている一方で、壊れていなかったり機能不全を起こしていなかったり腐敗していない部分は特に伝えようとはしていないわけで、結局すべてを伝えようとしているわけではなく、伝えたいことを伝えようとしているわけだから、別に伝えたくなかったり伝える必要もないことは伝えないわけだが、その人はそうであっても他の人はそれとは違う面や違う部分を伝えたい場合もあるだろうし、それがわざとでなくても伝わらないこともあるわけで、そうやって言語を使って述べていることは表現している対象のすべてを伝えているわけではなく、それが根本的な部分で誤解を生む原因ともなっているのかも知れないが、それに関してわざと都合の悪い面を隠すような意図が見え見えなら、そういう主張や批判に対してはあからさまな反論が可能だとしても、わざとでなくても部分的な範囲内でしか述べられないわけだから、それに対して批判を加えようと思えば相手の述べている範囲を外れたところから批判しようと思えばいくらでも批判が可能というわけでもないが、少なくとも議論がかみ合わなくなって平行線状態を作り出すことはできそうだし、戦術としてそういう成り行きを作り出そうとすることもあるだろうし、そういう面も考慮すれば何らかの対象を批判している言説にさらに批判を加えるのはあまり建設的で有益な議論にはならないことの方が多いのかも知れないが、ではどうすればいいのかとなるわけだが、いちいち対応する必要がなければそれに越したことはないわけだが、批判は批判として甘んじ受け止めるというか、受け止められる範囲内で受け止めることしかできないわけだが、それ以前にあからさまに批判されるような対象とはならない場合の方が多いだろうし、批判されるのではなく大抵の場合は無視されるわけで、無視されずに批判の対象となっている人や団体は他の多くの人々からも批判されているだろうし、要するに著名人でなければ批判している人が直接批判されることはほとんどないわけだが、実際にメディア的には批判している一般人を批判するのは意味のないことであり、その一方で一般人は著名人や著名な団体や組織をSNSなどで批判しっぱなしになる傾向があり、批判しっぱなしになる以上の進展があるわけでもないのだから、それがどうしたわけでもないといってしまうと身も蓋もないことだが、もとから相手にされていないのだから、批判そのものが無効だと思っておいても差し支えないということなのかも知れず、無効な批判をいくら繰り返しても無効なものが有効になるわけでもないだろうし、そうであれば批判は控えた方がいいのかも知れないが、批判せざるを得ないような成り行きに巻き込まれてしまうから批判してしまうのだろうし、要するに批判させられてしまうわけだが、批判させられてしまうような成り行きに巻き込まれて批判しているわけだから、そうなっている限りでメディア上で一緒になって批判している人たちの思うつぼなのかも知れないが、そうであってもかまわないとなると、みんなで一緒になって同じような批判をすれば安心できるだろうし、それが社会を動かす力になると信じていればいいのだろうが、実際に批判させられているのだから批判させている側の思惑通りにはなっているわけで、それが批判している側の思惑と一致していれば一応はウィンウィンの関係になるわけだが、本当にそうなっているのかといえば双方の力関係が不均衡であれば当然そうはなっていないはずだが、批判させられている人たちがそのことに気づいているのかといえば、中には気づいている人もいるだろうが、気づいていながら従っているとなると批判させようとする側を信用して従っているわけだが、そこでそういう関係が恒常的に成り立っているわけだから、そういう関係の中では自足していることになるのだろうし、そうであればそれ以上の関係の進展は期待できないのかも知れないが、別にそれでもかまわないような事情が生じていればそれはそういうことでしかなく、そういうことの中で生じているのが現状だとすれば、そんな現状が変わるとは思えないのだが、それも部分的にそう思われるだけで、そう思っている限りで他の面では気づいてないことがあるのかも知れないし、そういう気づいていない面があること自体は謙虚に受け止めるべきなのかも知れないし、そこに誰の思惑とも外れる可能性が生じているのかも知れないが、ではなぜ一緒になって批判している人たちの思惑通りではなく、それらの思惑を外れるような可能性に期待するのかといえば、誰もが気づいている部分ではそれ以上の話の進展を期待できないからだろうし、話の進展とは何かといえばそこで誰もが思い描いている幻想を裏切るようなことが起こることが、そこから話が進展することであり、そうでなければ現状の延長上で予定調和の結末が待ち受けていて、そこで落胆するにしてもざまあみろと思うにしても、それらの人々の幻想が温存されることになってしまうのではないか。
11月18日「情勢判断の正しさ」
それが一過性の流行り廃りなのかあるいは長期的に続く現象なのかは現時点では判断がつきかねるところかも知れないが、何がそうなのかと言えば現状そのものなのかも知れず、それがいつから続いているのかと言えば現状の中で多数派を占めるような人々が出現した頃から現状が続いているはずなのだが、それがいつからかと言えばいつの間にか現状が出現したという程度の認識にしかならないのかも知れないが、別に現状が深刻な状況だとも現時点が重大な局面だとも思われない人も結構いるだろうし、その一方で相変わらず現状が危機的な状況だとして危機感をあおっている人も大勢いるのかも知れないし、多くの人にとってはそれがまんざら間違っているとも思えないような状況なのかも知れないし、しかもそれらすべてがそれなりに正しい認識だと思われるなら何か矛盾しているのかも知れないが、どちらの面もあるからこそ現状が矛盾しているように思われるにしても、逆に矛盾しない一方的で一面的な状況の方がおかしいのかも知れないし、世の中が矛盾しているように思われる方が普通の状況であるなら、それだけその中の情勢が混沌としていて様々な要素や要因が複雑に入り組んでいることになるのかも知れないが、そこで相矛盾するような対立する意見や行為が戦わされているのなら、もしかしたらそのどちらもが正しいと思われること自体が矛盾している証拠かも知れないが、あるいはどちらもが間違っていると言うことなら、他に矛盾し合わない正しい意見や行為があるということになるのかも知れないが、別にそれがなくてもかまわないのかも知れず、そんな状況の中では何が正しいのでもなくまた何もかもが間違っているのではないとしたら、意見や行為の正しさを求めること自体はそれほど重要ではないのかも知れないが、それでも対立し合う各々の立場をとる中では、味方にとっては正しいと思われると同時に敵にとっては間違っていると思われるようなことを主張していようと、少なくとも述べていることと実際におこなっていることがともに味方にとっては正しければそれでかまわないとしても、そうではなく果たして味方にとっても敵にとっても正しいと思われることを述べることができて行えるのかと言えば、敵と味方が対立している限りは敵と味方のどちらかにとって正しくどちらかにとっては間違っていることをやらざるを得ず、双方が述べていることやおこなっていることについて交渉や取引などによって調整したり妥協しない限りは、双方が納得できないまでも一応は是認せざるを得ないことを述べられないし行えないはずだが、そういった成り行きとは別に双方がともにあるいはどちらかが間違った主張を述べていることが正しい行いに結びついたり、あるいは間違っていると思われる行いが正しいと思われるような主張に結びついたりすることがあるのかといえば、例えばその場の状況の中では間違っていること述べていようとおこなっていようと、そういう状況になっていること自体が間違っているのなら、間違った状況に合わせて正しいことを述べることが正しいとは言えないのかも知れないし、ではなぜ間違った状況となっているのかと言えば、現状の中で主導権を握っている勢力のおこなっていることが間違っていてしかもそれがまかり通っているからであり、例えば法律に違反していることが明らかなのに取り締まられずに罰せられず、なおかつそれを批判している側が法律違反を糾弾しているのに嘲笑されるような事態となっていることが、何よりも糾弾している側には許しがたいことであり、本来ならそういった状態が正さなければならないのに正しようがないところが何よりも間違っているはずなのだが、それをどうやれば正すことができるかとなると、それを批判するだけでは正せない状況があるわけだから、批判している側に状態を正す力がないと言うことになるのかも知れず、そうなっている時点でお手上げ状態なのかも知れないが、もちろんそんなことをやっている人たちは口が裂けてもお手上げ状態だとは認められないだろうし、しかも現状ではそれでかまわないのかも知れないし、そうなっているのにもかかわらず誰もがそんなお手上げ状態の中でも悪あがきを執拗におこなっていると見なせばいいわけで、それが無駄であろうと無意味であろうと徒労となろうと、ともかくそんなことをやっている人たちがいる限りで、そのやっていることから状況が生じてくるわけで、結果的にやっていることに応じた状況となっているわけだろうが、それがとりもなおさずその場の状況に応じてやっていることにもなるのかも知れず、そうやってその場の状況がその場にいる人たちの境遇に合わせたようなことやらせていることになるのだとすれば、その場で無駄で無意味で徒労としか思われないようなことをやらせられている状況があるということになるのかも知れず、結果的にそんなことをやってしまっている人たちからすればそれは不条理でしかないのかも知れないが、それがやる前ややっている最中には不条理だとは思わないだろうし、状況に応じた有効なことをやっているように思われるからそんなことをやってしまうわけで、結果的に不条理なことをやってしまったと思われるのなら、要するに結果的にうまくいかなかったからそう思われてしまうような情勢となっているから、そんなことをやっている現状があるのかも知れず、それをおこなおうとするときにはうまくいくと思われて、それを実際におこなってみたらなぜかそれがうまくいかなくて、当人たちは正しいことをやっているはずなのになぜそれが報われないのか不思議に思われて仕方がないようなことをやっているから、それが不条理に思われるのだろうし、またそれが結果的には無駄で無意味で徒労にしかならないことがおかしいと思われるし、そうなってしまうこと自体が世の中がおかしいからとしか言いようがないわけで、そうなっている限りで自分たちが正しいことを主張して正しいことをおこなっているのに、世の中がおかしいからそれが報われないのだと思い込みたいわけだが、別にそう思い込むことが間違っているとは見なさない方がいいのかも知れないし、そういつも正しいことをやったからと言って結果が伴うとは限らないのが世の常であり、逆に正しいと思うようなことをやったからその報いとしてそれ相応の試練が待ち受けているのかも知れないし、その試練に打ち勝たないとそれが正しいことだとは認められないような状況となっているのかも知れず、誰がそれと認めるのかと言えば、そういうことをやっている人たちと敵対している人たちであり、そこに敵対するような関係の人たちがいるとしたら、そういう人たちと戦って勝利しない限りは自分たちのやっていることが世の中で認められることはないという極めて当たり前のルールが適用されているだけのことなのかも知れない。
11月17日「同一視と錯覚」
戦略を欠いていることが何らかの勢力にとって不利な情勢を招いているとしたら、そんな情勢の中で有利になっている勢力の戦略が功を奏していることになるのかも知れないが、そもそも戦略を必要とするゲームに参加しているつもりもなければ戦略も何もあったものではなく、そこで自身が属しているつもりの何らかの勢力というのもそれなりの規模を誇る集団として組織的な構成となっていなければ単なる烏合の衆でしかないのかも知れないし、さらに集団としての実体も活動の実態もなければ自身の思い込みの中にしかそんな勢力は存在せず、実体も実態もない架空の勢力を空想しているに過ぎなければ、それに関する言説の内容が単なるフィクションにしかならないわけだが、自身が何らかの勢力に入っているように思われるのは、他に同じようなことをやっている人が大勢いるからかも知れないが、また自身が批判の対象としている人たちが特定の主義主張で凝り固まっているように感じられて、それらがひとつの勢力に分類できれば、自身も含めたそうした勢力に対して批判的な人たちもひとつの勢力に分類できるから、それに伴って自身がひとつの勢力に入っているように思われるのかも知れないが、そういう成り行きで何らかの勢力を分類していれば、特にその勢力が集団として組織されているとも思われなくても、それの延長上でその勢力に属する人たちが支持している政府や政党や企業などを勢力に含めれば、それらが組織的な構成物として認識されるわけで、そこで自身が支持していたり敵対していたりする勢力に入る特定の政府や政党や企業などを勢力そのものと同一視できるようになって、さらにその政府や政党や企業などの代表者も勢力と一体化していると見なされるだろうし、そうやって頭の中で思い描いている抽象的な勢力が、具体的な政府や政党や企業やその代表者やそれらが属している国などと同一視できるようになって、言説の中でそれらの具体的な固有名を用いてその対象を何らかの勢力として批判したり擁護したりするようになれるのかも知れないが、別にそんなことを述べている当事者たちはそういう成り行きやそういった経緯に基づいてそんなことを述べているとは思っていないだろうし、ただ漠然とあるいは性急に特定の国や政府や政党や企業やそれと関係する個人などを直接何らかの勢力に分類して、そうした勢力について何か述べている内容は、分類した中に入っている国や政府や政党や企業やそれと関係する個人についても同じように言えることにしているわけで、各々のレベルでの違いを区別していないから簡単に言えば一緒くたに見なしているわけだが、そういう分類に基づいた主張の中では一体化しているように見える国と政府と企業とそれらに関係する個人との間に違いがあるのかといえばあるのが当然だが、それが批判したり支持したりする内容の中に反映されているかと言えば、述べている中で生じてくる都合に応じて反映されていたりされていなかったりするわけで、そうなると同じ批判の中で国が批判の対象となっているかと思うと別の箇所では政府や政党が対象となっていたりまた別の箇所では政府や政党の代表者が対象となっていたりまたその代表者とつるんでいる大臣であったり議員であったりそれらを擁護するメディア関係者であったりもして、それらの団体や個人がひとつの勢力を形成していることになるわけだが、そうやってあるひとつの批判によってそれらすべてを批判するとなると、単なるイメージ操作のようないい加減なレッテル貼りの様相を呈してくるわけで、同じ批判によって国と政府と政権政党とその代表者を一緒に批判できるかというと実際にできてしまうわけだが、それで何か効果的なことを主張できているかと言えば、主張している当人はその気になっているだろうし、実際に語っている内容の都合に合わせて、あるときは国を批判するしまたあるときは政権政党を批判するしさらにまたあるときはそれらの代表者や議員なども批判の対象となるし、そうやってその時々で批判の対象を都合良く使い分けられるわけだが、それに関して例えば電気自動車の普及によってガソリンや軽油の消費が減るかも知れないが、それらの燃料の原料となる石油から何が精製されているかと言えば、航空機燃料、ガソリン、軽油、重油、機械油、プラスチック、アスファルトなどの多種多様な用途に石油製品が使われているから、電気自動車の普及だけで石油が不要になるわけではないのだが、石油を精製している企業や産油国の政府にとっては、石油からそれらの製品のすべてが精製されるわけだから、各々の製品が原油からどの程度の割合で精製されるかによっても対応が異なってくるだろうが、少なくとも電気自動車の普及によってガソリンと軽油だけ売れない事態となってしまうと困るだろうし、またそれによって石油の消費量が減って電気自動車も走っている道路の舗装に使われるアスファルトが足りなくなってしまえばその代替物が必要となってくるわけだが、それはプラスチックの代替物にも言えることだが、地球の温暖化をもたらしている原因として石油がやり玉に挙げられて、ガソリン車やディーゼル車の使用が批判されるとしても、大気汚染に関してはある程度はそれでもかまわないだろうが、またプラスチックの使用はゴミなどの方面から批判されるとしても、アスファルトの使用までは批判の対象とはなっていないし、また航空機や船舶については気球や帆船などでは代替の乗り物としては用途が限られてしまうし、それらを一緒くたにして化石燃料の使用として批判するとなると、燃料以外にも用途があるし、また石炭は鉄の精製には欠かせないし、プラスチックやアスファルトなどの使用も含めるとうまく批判の焦点が合わないような事態となってくるだろうし、中でもアスファルトなどは一般的には石油を精製した後に残る残りかすのようなものだから大して重要視されていないだろうが、それにしては世界中の道路で使用されているわけだから、足りなくなれば代替物が必要となるにしても不要となれば廃棄物となってそれをどう処理するかが問題となってしまうし、現状ではそういう方面のことは予想も予測もつきにくいだろうが、それが枝葉末節な取るに足らないことだと見なしてしまうと、やはり批判の中身自体が信用のおけないものとなってくるだろうし、そういう意味で言語を用いて何かを主張することには、絶えずその対象に関してうまく表現できないような事態が伴ってきて、たとえ仲間内は通じ合えることであっても、無関係な人にまではその趣旨が伝わらないようなこともあるだろうし、また敵対し合っているような人たちだと揚げ足取りのような悪用をすぐにやりたがるし、それがわざとであってもその自覚がなくても、必ず都合の悪い面を見つけてあるいは都合が悪くなるように解釈して、そこを突いて攻撃を仕掛けてくるわけで、そんなふうにして主張している側の都合を考慮してくれない事態が生じてくるわけだ。
11月16日「普遍と特殊の罠」
物事の普遍性は常に変わらない状態や傾向を保ち続けるによってもたらされそうだが、物事が変わる過程にも普遍性があるとしたら、その変わり方として例えば老いや劣化や摩耗のようにどのような物事にも同じように現れる過程が伴うから、それが変化の普遍的な成り行きとなるわけだろうが、それとは異なる状態や成り行きがあるかとなるとそれが特殊な事例となってくるのだろうが、普遍的な状態や成り行きの中で特殊な事例が生じてくるのも普遍的な傾向であるとなると、普遍と特殊とは対立する概念というよりは地続きな面があって、それがそこでは特殊な事例であるにもかかわらず、別の時代や場所でそれと似たような事例が発見されれば、それも普遍的な傾向になるのかも知れないが、そこで体験しつつあることが普遍的な成り行きに思われても、その中でどう振る舞うかに関しては別に普遍的な振る舞いになるように心がけているわけではなく、大抵はその場の特殊な事情を反映した振る舞いになるだろうし、別の時代や場所でも同じような振る舞いが見られるなら、そうなるのも普遍的な傾向であるのかも知れないが、それがその場限りの特殊な事情だと思われてしまうことが他でも似たような事情が生じていることに気づいていない証拠となり、そうした他でおこなわれた似たような事情を反映した似たような振る舞いに気づくことによって人の活動の普遍性を知るに至るわけだが、それはそこで実際に活動している人が知ることになるわけではなく、それとは距離を置いた人が様々な時代や地域で似たようなことがおこなわれていることを知ることからそれらの普遍的な面に気づくわけで、しかもその普遍的な面というのを必ずしも肯定できるとは限らず、それが否定的な行為であればいくら普遍性があるからといってそういうことをやっている人や団体を正当化できるわけでもなく、確かにそこで生じている特殊な事情もそんな行為をおこなっていることの言い訳にはなるが、別にその言い訳が正当化されるわけでもないだろうし、もちろんそんなことをおこなっている当事者は特殊な事情を根拠に言い訳をして否定的な行為をおこなったことを正当化しようとするのだろうが、それがやむを得ない行為だとしてもそれがやむを得ない行為だからこそ責任を問われるのであり、そうしたことをやらないという選択肢がなかったとしてもそれをやらざるを得ないという状況がたとえ特殊な事情から生じていようと、実際にやってしまったことについては責任が生じてしまうのであり、それが誰のせいでも何のせいでもなく、それをやってしまった当事者のせいになるわけだろうが、それと似たようなことをやっている他の人や団体がその当事者を擁護するような成り行きになることも普遍的な傾向だろうし、そういった普遍的な傾向がそれらの人たちには肯定できる傾向かと言えば、肯定できるからこそ多くの人や団体がよってたかってその時代や地域やそこに生じている社会の構造から生じている特殊な事情に依存しながら無理なことをごり押ししようとするわけだが、そういったごり押しがまかり通ってしまうとその先には破綻や破滅が待っているのも普遍的な成り行きであり傾向なのだろうが、そうやって取り返しのつかない事態を招いたとしても誰も責任などとらないし、それどころかそうなった結果から振り返ればそれも必要な迂回でありそこに至る紆余曲折の過程が避けては通れない成り行きであったと思うしかないわけだが、そういう意味では現時点で無謀なことを主張している人の方が理性的かつ穏当な意見を述べている人よりは魅力的に見えるわけで、そういった世の中の動向に従うなら無謀なことを述べている人と一緒になって避けようのない迂回路を突き進んで取り返しのつかない事態を招いてしまった方が、その後からやってくる人たちにとっては通用するレベルがそれだけ下がって好都合なわけだが、そういう趣旨に従うなら無謀なことを主張する人やそれを応援する人たちを否定的に批判する必要はないのかも知れないし、それよりはそういう人たちの限界も踏まえた上で好意的な態度で接する方が理に適っているのかも知れないが、もちろん普遍的な傾向としては理に適ったような対応はとりづらいだろうし、むしろ無謀なことを主張する人々と理に適った行為をおこなおうとする人々がともに少数派となって、それとは対照的にどっちつかずの現状維持に傾いてしまう人々の方が多数派を占めるような現状になるわけで、そんな状況にいらだった少数派同士で内ゲバのような争いが繰り返されて、どちらも現状の中では主導権を握れないこととなってしまうのかも知れないが、それも普遍的な傾向であるとしたら、そうやってなかなか世の中の状況が破綻や破滅には至らないような成り行きになってしまうのかも知れないが、それでも何かのきっかけでそういった傾向が乗り越えられてしまうような出来事が起こってしまうのかも知れず、それが現状の中で生じている特殊な事情に起因して起こるかどうかは何とも言えないところだが、たぶんその特殊な事情というのがくだらなくてたわいないことのように思われてしまうわけで、実際に人を小馬鹿にしたようなことが堂々とおこなわれている現状があり、それをおこなっている人たちにとってはそうするのが当たり前のように思われるからそんなことをあからさまにやっているわけで、それを批判する人たちがおかしいと思うことがあからさまにおこなわれているわけだから、それに関してはどう考えても狂っていると思われても仕方のないことだろうが、それを正気の沙汰でないと思うか当たり前のことだと思うかで批判する側とされる側という役割分担が生じるわけだが、どちらの役割も生じてしまうのも普遍的な傾向なのかも知れないし、しかもくだらなくてたわいないことを巡ってそれを批判する側とされる側の役割を担ってしまう人たちには気づかないことが、そうした成り行きの水面下で進行中なのかも知れず、それがそうした人たちを出し抜くと言うよりは、この時代にそうした人たちが存在していたことを未来においては忘却の彼方へと押しやってしまうような成り行きになり、果たして現状の中でそうした未来において忘れ去られてしまう人たちに加担すべきなのかどうかに関しては、批判する側に与するにしても批判される側に寄り添うにしても、どちらにしてもその対象がくだらなくてたわいないことでしかないわけだから、どちらに加担しても大したことにはならず、大したことでなければ無視していてもかまわないのかというと、別にそれが話題となっているのだから無理に無視する必要はなく、それよりは適当にそうした話題とともに言説を弄している方が自然な態度となるだろうし、そうやって自然に振る舞っていることが精神のバランスを保つ上でも必要なことかも知れないが、それにかかりきりになるのも話題への依存度を深めることにもなるから、それに関する妥当な態度を求めるなら深みにはまらずに浅瀬にとどまることが肝要となるわけだが、そうした立ち位置にとどまるにしてもそれなりの見識が必要となってくるのかも知れない。
11月15日「イベント心理」
一般的に言うは易く行うは難しとはいうものの、言語を用いて何かを語ることも実際の行為に含まれるはずだが、例えばその人の社会的な立場や役割を超えて何か言うべきことがあるかとなると、まず何がその人にとっての社会的な立場であり役割なのかと問われるかも知れないが、それを自分勝手に決めるわけにはいかない場合があるだろうし、職場での関係や家族や親族との関係や交友関係などに伴って、その人に何らかの立場や役割が生じてくるはずだが、それ以外に何があるかと言えば、公民としての立場があるのかも知れないが、その公民の中には政治に参加する国民という立場も含まれてくるわけだが、やはり国民=公民とは言えない面もあるのかも知れず、国民というのは国家という範囲内に限定された立場であり、国境を越えて他の国の国民にも関心を持つだろうが、あくまでも優先すべきは自国民の利害となってくるだろうし、それは他国民にしても同じことだと認識できるわけだが、都合良く公民の立場と国民の立場を使い分けられるかというと、立場が対立する面ではそうも行かないだろうし、例えば移民問題などにおいては国民としての立場を優先するなら、自国民さえ満足に助けられないのに他国民を優先して助けるのは間違っていると思われるわけで、しかも移民自体が棄民となって国民というカテゴリーに属さないような状況となってくると、国民という立場では彼らを助けようがないこととなってしまい、国から見捨てられた人々は死ぬしかないような状態となってしまうこともあるわけだが、国民でも公民でもはなく単なる個人としてなら誰を助けようとその人の勝手だろうし、また公私の区別なく単なる人としてなら個人としてのこだわりも必要としないようなことができる可能性があるわけで、また人を助けるという状況に活動を限定せずに、あらゆることに関して公平かつ公正な判断ができるわけではないにしても、別に公平でなくても公正でなくてもかまわないとなると、恣意的に好き勝手にやればいいということになるかも知れないが、もちろん世の中には様々な規制や限界があって好き勝手にやれないから、何をやるにもその場の状況に合わせた判断が必要となってくるわけだが、何かをやる以前に制度に関係する自身の立場や境遇などから制度的な制約や限界を考えてしまうと、制度によって限定された範囲内でやれることが限られてしまい、もちろん制度的にはそれでかまわないわけだが、制度を利用してやれることと制度を利用しなくてもやれることとの間で対立する面があると、そこでそれなりに葛藤が生じるだろうし、また制度を利用するに当たって様々な制約が伴ってくると、そうした制約を受け入れるか否かでも葛藤が生じるわけだろうし、さらに複数の制度が競合している場合にはどの制度を利用するかで悩むこともあるだろうが、そうやって制度を利用するか否かとどの制度を利用するかで複数の選択肢があれば、そうしたことに関係する人々の活動がそれなりに分散することになり、一般的にはそういう状況が世の中の実態を反映しているはずだが、実際にそうなっているとしても、それが政治的な主張や意見となると、何でもかんでも政治の場で解決するような成り行きへと持って行ってしまう傾向があるわけで、実際に政治を利用することによってしかできないことがあるはずだが、政治には政治特有の事情が生じてくるだろうし、それが政治を利用しておこなうこととは別に、政治勢力としての自分たちの人気を高めるために政治を利用するという空疎な目的も生じてきてしまい、それも政治を利用しておこなうことには違いがないわけだが、果たして政治家や政党が議会の内外や政府に関係してやっていることに関して、自身の人気を高めることと民衆のためにやっていることとの間で区別がつくかとなると、普通は両方が含まれているはずで、理想を言うなら民衆のためにやっていることが功を奏して民衆の間で人気が高まればいいのだろうが、単に人気を高めるためにやっていることが民衆の間で人気が高まることに直結するなら、自分たちの優位な立場を盤石にするためにもそちらの方が優先されてしまうわけで、実際に人気取りのためのイベントばかりを催して自分たちの支持者を集めて宴会をやっていれば済むなら、そういうことばかりをやるようになってしまうだろうし、果たしてそれが民衆のためになっているのかと言えば、普通はそうは思わないはずだが、イベントに参加している民衆がそれで満足するなら、そういう面では誰も困らないことになってしまい、その一方で社会の中で経済的に困窮していたり立場や境遇などの面で虐げられている少数の弱者を助けるようなことをやっても、それが人気に結びつかなければそういうことがなおざりにされてしまうだろうし、そんなふうに必ずしも政治的な活動が民衆の人気や支持にむずびつかないようなこともあるから、それが政治に関する限界を構成してしまうわけだが、そういう面を考慮するなら民衆の方が賢くならない限りは常にポピュリズム的な政治がおこなわれる可能性が生じてくるわけで、また必ずしも国家が繁栄しているからと言って民衆の暮らしに関する満足度が高まるわけではない場合もあるだろうし、さらに民衆の間で格差があれば格差の中で上位に属する民衆が社会の中で主導権を握ることになって、そういった上級市民を味方につけていれば政治的にも主導権を握れるようなことにもなってくるわけで、そこでも制度として組織的な立場や役割の上下関係が構築されていて、立場や役割が上位の者には下位の者が逆らえないような構造となっていれば、少数の上位者によって社会全体が支配されるような状況ともなるわけで、それに関してはっきりした立場や役割の上下関係に下位に属する民衆が気づけない場合もあって、自主的に指導的な地位や立場の者たちに従っているつもりであるのに、実態として暗黙の上下関係が生じているのに、自分たちがそうした上位者に利用されている自覚が生じないような制度になっている可能性もあるわけで、そういうところで観衆として舞台上の役者を応援する以外に役割分担がないような人たちが騙されていることになるわけだが、それも政治的な面ではそうであっても、他の面では自身が主人公でいられるような状況があれば、そんな境遇も大して苦痛を伴わない程度で受け入れてしまうわけで、そういう意味でも民衆が賢くないとまずい状況が生じてしまうわけだ。
11月14日「認識の妥当性」
現状に関して何らかの認識を持ち合わせていればそれについて語ることができるかも知れないが、現状について語っている言説が現状を的確に捉えているかというと、何を持って的確だと判断できるかがはっきりしなければ、それは誰にとってもよくわからないところかも知れないが、少なくともそれを語ったりそれについて文章を記している人の興味を引く範囲内では、言説の対象としての現状を的確に捉えているように思われるはずだが、その人とは無関係な他人にとってはどうかというと、当然のことのようにそれとは別の傾向や別の面などから現状を捉えている可能性があるだろうし、他人がその人とは違う傾向や方面などに興味を引かれていれば、その人が語ったり文章に記したりしている現状と他人が興味を抱いている現状とはそれなりに違ったものとなるのかも知れないし、そんなふうに人によって現状認識が異なっていることも確かかも知れないが、その人が他の人たちとの間で対話などによって言葉を交わしながら意思疎通を図れば、時にはその場に居合わせた誰もが納得するような共通の現状認識に至ることもあるだろうし、そういった複数の人や集団に共有された現状認識というのは、それらの人たちや集団にとってはそれなりに妥当性のある現状認識となるだろうが、そういう現状認識とは異なった現状認識もあるのかも知れず、しかも多くの人たちにとっては妥当に思われる現状認識が何らかの時代的・地域的・構造的な限界を含んでいるのに対して、他にも様々な限界も含まれているかも知れないが、特定の個人の認識がそれらの限界を突破するような傾向を含んだ認識となっていれば、それは他の時代的・地域的・構造的な限界に囚われた人々には理解できない認識となってしまうのかも知れず、そういう意味では対話などによって認識の妥当性を模索することによっても対話に加わる人たちが時代的・地域的・構造的な限界を抱えていれば、たとえそこでそれらの人たちにとっては妥当な現状認識に至ったとしても、そういう認識は時代的・地域的・構造的な限界につきまとわれてしまうかも知れないわけだが、だからといって特定の個人がそれらの限界を突破するような認識に至ったとしても、それが時代的・地域的・構造的な限界に囚われた人々が多数派を占める世の中で受け入れられる可能性は少ないだろうし、そういう意味で現に多くの人々の間で共有されている現状に関する認識が妥当だと思われるにしても、そこには時代的・地域的・構造的な限界があると思っておいた方が無難なのかも知れないし、他にも様々な面で限界があるのかも知れないが、逆に限界のない認識などないだろうし、そうであるなら自らが信じている認識も気づかないところで何らかの限界に囚われていると思っておいた方が妥当だろうし、その認識の限界に気づけばそれに対処することも可能だが、気づかなければ対処しようがなく、対処しようのないことに関わることなどできないだろうが、自らの認識に限界があるのだから他人の認識にもそれなりの限界があると想像することはできるだろうし、そうであるなら他人の認識を無下に否定することはないだろうし、またそこに限界があることに気づいたら、その限界が自らの認識にも関わっていないかどうか検討してみることも、認識をより一層深めることに貢献するかも知れないし、他人にそれとなく限界があることを知らせる必要が出てくるとしても、大抵の他人は聞く耳を持たないだろうから、そういう態度が自身にもあるのではないかと疑ってみることも自らの認識を深める上で重要となってくるのかも知れないが、ではなぜ多くの人たちが時代的・地域的・構造的な限界があるような認識に囚われてしまうのかと言えば、要するにそういう認識を共有することが心地よく感じられてしまうのかも知れず、それが自らの存在や行為を正当化できる認識となるわけで、しかもそれが自分だけでなく自分と価値観や考え方や地位や立場や境遇などを共有する人たちの存在や行為を正当化できる認識であれば、なおのこと多くの人たちに歓迎される認識となるだろうが、それは同時にそういう価値観や考え方や地位や立場や境遇などに限界づけられた認識となるわけで、そこに時代的・地域的・構造的な限界があるわけだが、それらの限界を突破するような認識を共有できるかとなると、それによっては自分たちの価値観や考え方や地位や立場や境遇などを正当化できないから共有できないし容認もできないし、場合によってはそういう認識が世に広まってしまうと自分たちの地位や立場などが脅かされてしまうから抑圧しなければならなくなるだろうし、断固としてそういう認識を共有する人たちとは戦う必要も出てくるわけだが、そういうことを自覚できない場合もあって、それと自覚しないで何らかの傾向にある人たちを自分たちが否定しているカテゴリーの中へと押し込めてから、そういう人たちを十把一絡げにして批判するようなことをやっている場合もあるわけで、それが無意識の抑圧となってくるわけだが、その際に作用反作用の力が働いて、そもそも自分たちの方が他人からそういう否定的な決めつけによってカテゴリー分けされているから、そういうことをやっている人たちを逆に自分たちが否定するカテゴリーに押し込めて批判するようなこともおこなわれるだろうし、そんな批判的な動作に伴って生じる認識にもそういうカテゴリー分けに特有の限界が生じていることにもなるわけだろうが、そうなると徒党を組んでいる自分たちに特有の限界が、かえってそんな自分たちを正当化する上で欠かせない価値観ともなってくるわけで、自分たちが何らかのカテゴリーに限界づけられていることこそが、そうした限界を突破してしまうような人たちにはできないことであり、それが自分たちの特性であり長所だと思い込むことができれば、そういう特性や長所を共有できる人たちこそが自分たちの仲間であり他の人たちからの攻撃から守るべき対象でもあり、そうすることが自分たちの権利であり義務でもあると思い込んでしまうと、そういう限界づけられた価値観を共有する人たちの団結力も増して、そういう集団が社会の中で一定の力を持つようになるわけで、そういう人たちの間では確かに現状の世の中に対する認識が共有されているし、そういった認識の共有がそれらの人たちの間では集団の結束を保つ上で欠かせない要素となってくるわけだ。
11月13日「現代から未来へ」
現代という時代の中身は常に不確定であり、過去の時代なら新たな発見がなければそれなりに固定された内容を伴うが、現代は常に未来へと向かって動いているから、暫定的に現代に関する共通の認識はもたらされてもすぐにそれは過去の認識となってしまい、それに代わって次から次へと新たな認識がもたらされて以前の認識と置き換えられて、それが現代についての現時点での暫定的な認識となるだろうが、そうであっても同時代的な認識として一定の期間にわたって安定して人々の意識の中に居座るような認識もあるだろうし、それが共通の認識として多くの人たちの間で受け入れられると、しばらくは固定観念のようになって人々の意識にこびりついたままとなるのかも知れず、そういう観念にとりつかれた人々が世間という常識に囚われた集団意識を構成して、そんな世間を土台としてメディアも一定の固定観念を共有しながら権威として構成されるわけだが、それとともに固定観念を共有しない人たちを少数派として排除することによって世間的な多数派も構成されるだろうし、その中で共通の価値観も形勢されることになるわけだが、そんな価値観を共有しない人たちも少数派として排除されて、そうやって様々な少数派が社会の中で構成されるのかも知れないが、世間的な共通の認識にも価値観にも人それぞれで多少のずれがあるだろうし、そうしたずれから微妙に差異が生じてくるから、固定観念に凝り固まった集団も決して一枚岩の強固な結束を誇っているわけではなく、現代という時代が未来へ向かって移動していくうちに生じてくる新たな認識が作用することによっても結束も緩んできて、固定観念を土台とした共通の認識や価値観も絶えず崩壊の危機にさらされるわけだが、それが世間で共有される危機感でもあるだろうし、そういった危機意識も世間を守ろうとする人たちの集団意識の中で共有されて、固定観念に基づいた共通の認識や価値観を信じられなくなってそこから外れようとする人たちを抑圧するわけだが、そういう同調圧力によって抑圧すればそこから外れようとする人たちの抵抗に遭って、そこで対立や軋轢も生じてくるわけだが、そうやって離反する人たちを世間の中に引き留めようとしても、世間そのものを支えきれなくなってくる瞬間がやがて訪れるのかも知れず、そんなことをやっているうちにも世間そのものが少数派との対立や軋轢の過程の中で変質してくるだろうし、また自分たちが守っている世間が変わってくると世間に裏切られたような気持ちになることでも多数派の結束力が緩んでしまい、そうやって世間を構成する人たちもだんだんと変わっていくのかも知れず、さらにそうやって生じた隙に乗じて少数派の側でも自分たちの意見や考えが反映するような世間にしたいわけだから、そういう世間になるように作用や影響を世間に及ぼそうとするわけで、そうやってできるだけ多くの人たちが納得できるような世間にしたいわけだろうが、それでもそんな人々の思い通りになるわけでもなく、必ずそういった思いを裏切るような世間になってしまい、世間が構成する常識に囚われた集団意識に反発や不快感を覚える人が少なからず出てくるわけだが、なぜ個人の思いを集団意識が裏切ってしまうのかと言えば、同じ意識に染め上げようとして同調圧力が生じてしまうからで、そういう成り行きが個々の立場や事情を無視してしまうからだが、ではなぜ他とは異なるその人に特有な個々の立場や事情が生じてしまうのかと言えば、自分自身で物事を考えて活動しなければならない状況が生じてしまうからであり、たとえ社会がそれなりに同質な集団から構成されているとしても、その中のすべての人たちが同質になるのにも限度があるだろうし、個人としても集団としても活動している限りで他人と同じでもかまわない面と他人とは違う面が必要となってくるわけで、それは個人が個人として存在できる限りで個人という枠組みの中で必要となってくるのだろうが、その一方で他人と協力して何かをやらなければならない必要も社会の中で生きている限りは当然のことながら生じてくるだろうし、そうなったときには他人と意思疎通を図る上でも共通の認識や価値観が求められてくるわけだが、何から何まですべてを共有できるわけでもないのは当然であり、その際に各人の事情や立場が違えばそれを尊重しないと他人の存在を無視することになってしまい、そうなると無視された人が不快な思いをすることにもなり、そこから自然と対立や軋轢も生じてくるわけで、そうした対立や軋轢が解消せずにこじれてきて本格的な争いに発展すると後戻りができなくなって、結果的に周囲の人々にも迷惑をかけることにでもなれば争いが周囲にも拡大することにもなるのだろうが、それがどうやっても避けられない場合もあるだろうし、そうなったときに双方がいかに相手の立場や事情を尊重できるかが争いを収める鍵となってくるのかも知れないが、それ以前に優劣が決して勝者と敗者に分かれてしまえば、勝者の言い分が通って敗者はそこから退かなければならなくなり、敗者の行き場所がなければ死が待っていることもあるだろうし、そこまで事態が進行しないうちに敗者を生かすやり方を見つけなければならないのかも知れないが、それ以前に争いに発展しないようなやり方を見つけ出さなければならない場合もあるだろうし、さらに対立や軋轢を軽減するようなやり方も模索されなければならないのかも知れないし、もっと言えば他人に対して同調圧力をかけるような世の中の傾向は変えていかなければならないのかも知れず、そうやって様々な面で生じる不具合を是正するような試みも生じてくるわけだが、そういった試みが必ずしもうまくいくとは限らず、逆にうまくいかないことが多いから絶えず生じてくる不具合に悩まされることになるのだろうし、不具合に悩まされながらもそんな事態に対応したり対処しながら、その過程で世の中が変わっていくのであり、変わっていく過程で人も変わり世の中に対する認識や価値観も更新されていくのだろうし、もちろん頑なに変わろうとせずに頑強に抵抗する面もあるのだろうが、そういう変わる面と変わらない面とが互いに影響し合って相互作用を起こして、それが社会の思い通りにならない面となるのだろうが、結果としてもたらされる新たな世の中でも引き続き様々な面で相反する要素同士の対立や軋轢やせめぎ合いが伴ってくるだろうし、それらが現代を未来へと導く原動力となっていくのではないか。
11月12日「情勢の見極め」
たぶん予想や予測を無理に当てようとする必要はなく、それよりは予想も予測も外れて驚いた方がいいのかも知れず、もちろんわざと外れそうな予想や予測を披露する必要もなければ、思いがけないことが起こってほしくてわざと予想や予測も外そうと思う必要もなく、ちゃんと現状の延長上でいかにも起こりそうなことを予想したり予測したあげくに、それらが思いがけず外れてさらに思いもしなかったような想定外の事態となって驚けばいいのかも知れないが、やはりそれもいかにも予定調和な成り行きであり、別に思いがけない事態となったからといって驚く必要もないのかも知れず、ではどうなればいいのかといえば、そういう問いに対して定まった答えなどないのかも知れないし、答えとは違う何かがもたらされて驚けばいいのかも知れないが、必ずしも驚く必要もないとすれば予想や予測とは異なった事態になっていることに気づかなければいいのかも知れないし、気づかなければいいというよりは単に気づいていないだけで、期待外れなことが起こったと思ってがっかりしてもかまわないのかも知れず、それらがすべて思い違いの勘違いというわけでもないだろうし、予想や予測もある程度は当たっているのかも知れないし、実際に当たっていると思われるから誰もがこぞって予想したがるし予測したがるわけだし、自らの予想や予測が当たったと主張したいわけだが、そうやって思い通りのことが起こっていると思われてしまうときにはそういう幻想を抱いているのだろうし、そう思っているときには心に隙が生じていて、そんな心の隙を突いて他から何らかの作用や影響が及ぼされて、心を操られてしまうわけで、それが国家的な構造や経済的な利害心によってもたらされるのであれば、人が人を操っているのではなく世の中の構造から人の心が生じていて、その心によって自身の肉体が操られていることになるわけだが、そうやって自らを取り巻いている周囲の環境から自らの心が生じているとすれば、周囲にいる他の人たちもそうなっている可能性が高いだろうし、そういった環境に束縛された自身の心の状態を認識できなければ、そこに自らの自主性があるような気になってしまうわけで、何かを自主的に思ってそんな思いとともに積極的に何かをおこなおうとするのだろうが、それが周囲の環境に促されておこなっていることだとすれば、別にそれは驚くべきことではないだろうし、そうやって身の回りの環境や状況に対応しているわけで、そんなのは当然のことのように思われるわけだが、たぶんその環境や状況というのが定常状態ではなく、絶えず変化し続けているわけだから、それに対応して心も心に操られてやっていることも変化し続けているはずだろうし、それとは別に恣意的な一定の論理によって導き出されるある一定の状態というのが理想的な状態だと思うことは、そういった変化を考慮せずにその理想状態に合わせた一定の態度を保とうとすることにもなり、そういう態度が周囲の環境の変化との間で軋轢を招いた結果として自らに疲弊をもたらしているとしても、そうやって疲弊することに心地よさを感じているとすれば、それがその結果として生じる老いに伴って生じる快感なのかも知れず、要するに疲弊することによって心身の老化が進行中なわけだが、疲弊しきって心身の消耗度合いが極まればその時点で寿命が尽きたことになるのだろうし、肉体の寿命が尽きれば死に直結するわけだが、それとは違って精神の寿命が尽きればそれ以上は変化できなくなってしまうのかも知れず、心が同じ精神状態に凝り固まって新たな変化を受け付けなくなれば、環境の変化に耐えられなくなってそれに伴って生じる環境との軋轢が精神を崩壊に追い込むのかというと、そう簡単に心が折れるわけでもなく、ある程度は自らの言い分を押し通そうとするだろうし、その際に内面の心的環境が外部の環境から自らを守ろうとするのかも知れず、それが外部から心を閉ざす作用を引き起こしてそれに伴って引きこもり状態となるわけだろうが、そういった引きこもり状態から抜け出す必要があるのかといえば、経済的に余裕があれば周囲からの冷たい視線を避ける意味でも引きこもりを続けていればいいだろうし、もちろん誰もが引きこもっているわけではないし、他の引きこもっていない人たちの生活習慣に合わせる必要もないのかも知れないし、最悪の場合は引きこもったまま死んでしまってもかまわないだろうが、普通は生き続けるために引きこもっているわけだから、引きこもったまま生きようとしてもかまわないだろうし、それなりに引きこもりの苦しみを味わいながら人生を全うすればいいわけだが、そういった状態をいつまでも続けることができなくなれば、当然のことのように変化する機会が訪れるわけで、それが自らの死を意味するかあるいは引きこもり状態を抜け出て何らかの別の状態へと至るかは人それぞれに異なるだろうし、どうなったところで結果としてもたらされた状態を受け入れるか否かはその人次第な面もあるだろうが、そんな選択自体が意味をなさずに強引な成り行きを伴ってそこへと引き込まれたり巻き込まれて従わざるを得ない場合もあるわけで、そうやって有無を言わせない外部からもたらされる力によって引っ張り出されてしまえばどうにもならないが、そんなことをやってまで引きこもった人を活用する理由が生じるのかと言えば、普通はそんなことをやるまでもなく、活用するならもっとマシな人など他にいくらでもいるだろうし、引きこもった人など世の中から相手にされないわけだろうが、そもそも誰もが引きこもるわけでもなく、その必要さえ生じない人の方が遙かに多いだろうし、そういう人を活用すれば良く、実際に活用されているはずだが、実際には引きこもったままで世の中から必要とされていない人も結構いるだろうし、別に必要とされていなくても生きているのだからそのまま生きていればいいことでしかなく、またその気になれば必要とされているように装うこともできれば、そういう演技を身につけた人もいくらでもいるのかも知れないし、根本的にはどんな状態であってもそこで生きていればそのまま生きていることにしかならないだろうし、生きることができなくなければ死んでしまうわけだろうが、死んでしまってもかまわない人でも生きていることもできる限りで生きているわけだから、そういう意味では人の生死とは無関係な状況や環境がそこに実現されている可能性もあるのかも知れないし、結果的に人が死のうが生きようがこの世界が存在しているとすれば、その中でどのような心身の状態であってもかまわないのかも知れない。
11月11日「消費税の効用」
単純に消費税のメリットを考えると、税の公平負担という面でいえば、富裕層ほど値段の高い商品を買えるからより多く税を払うことになる一方で、貧困層ほど安い商品を買う傾向になるからより少ない税を払うことになり、結果的に公平な税負担が実現するわけだが、こういう理屈に疑念を抱く人は多いだろうし、実際に反対派はそういう理屈にごまかされていると主張するかも知れないし、逆に貧困層ほど税負担が大きくなると主張したいわけだが、実際に節約しようと思えば富裕層であっても安い商品を必要最低限に抑えて買うようにすれば、ただでさえ相対的に所得が多いのだから、今までよりも余分に貯蓄できるだろうし、そういう面でもとから安い商品を必要最低限しか購入できずに節約しようのない貧困層の税負担の割合が税率が上がれば相対的に高くなるわけだが、果たして消費税率が上がったのを機に節約や倹約を心がける富裕層が増えるかとなると、それに関して都合のいい統計的なデータを収集できればわかるかも知れないが、それとは別に全体として消費税率が上がる度に国民の商品の購買意欲が減退して消費が冷え込んだおかげで景気が悪くなったことを裏付ける統計的なデータを示して、そら見たことかと消費税悪玉説を主張したい人も大勢いるだろうし、また消費税率の引き上げと連動して所得税の累進税率の緩和が図られていれば、金持ち優遇税制の傾向がさらにはっきりするわけで、だからこそ消費税を廃止しなければならないという主張が正当化されることになり、貧困層はもとから所得税の額が相対的に低かったのでそれ以上は減税しようがないから、消費税率が上がればそれだけ税負担が重くなることは確実であり、どう見ても消費税率の引き上げに伴って低所得者ほど不利になる傾向があるわけだが、果たしてそれに伴って低所得者を優遇するような目に見えて実感できる政策が講じられているのかといえば、実際には福祉予算が抑制されるような傾向が顕著になっているとさらに低所得者の生活が苦しくなるように思われるだろうし、またそれに追い打ちをかけるようにして生活保護の受給額を減らすようなことがおこなわれて、さらに生活保護申請を受け付けないような対応がとられていると、なおのこと行政の場でひどいことがおこなわれている状況が明らかになるだろうが、そうした現状が選挙結果に響いてくるようなら税率を上げた政権には痛手となるはずだが、そうでなければ形式的にはそれらの政策や対応が国民の支持を得られたことになってしまい、そういうすることが正しいという世論が形成されていることになるのかも知れないが、その逆に税率が上がったことによって多くの人たちの間で生活が苦しくなったことが実感され、消費税率の引き下げや撤廃を選挙公約に掲げる政治勢力に多くの人たちが投票して、それらの勢力が議会で過半数を超える議席を獲得して政権交代が実現すれば、消費税率の引き下げや撤廃が実現する可能性が高まるだろうが、そうならなければ税率の引き上げを国民が受け入れたと受け取られて政権側が事なきを得るだろうし、実際に日本の最近の傾向はそうなっているわけだからそれでかまわないような成り行きになっているわけで、たとえ世論調査などでは表向きは消費税率の引き上げに反対していた人が多かったとしても、さらにそれが重税感となって国民の生活に響いているとしても、それが選挙結果に反映しなければ現状の体制が続いていくことになるわけで、もちろんすべての人が現状を受け入れているわけでもなく、税率の引き上げに反対する勢力にも一定の支持が集まっている限りで、中には本当に生活が苦しくなっている人もいるはずだが、ただそれが選挙結果にむずびつくほどではないということであり、そういう意味では政権側は安堵しているはずだが、なぜそういう成り行きが現に起こっているのかといえば、それは国民というカテゴリーを形成している人たちが持っているメンタリティの問題なのかも知れず、そうしたメンタリティから生じるのは、例えば失業や破産などによって生活が成り立たなくなった社会からの脱落者を切り捨てて、そうした人たちを税金によって養うことをやめればその分の予算が浮いて税金が安くなるような幻想があるだろうし、また働かざる者食うべからずという格言を本気で信じさせるような実感が経済的な競争原理から導き出される傾向もあるだろうし、それに伴って一方ではそういう資本主義的な競争をあおっておいて、もう一方では競争に敗れた者のために税金を使うことに矛盾を感じさせるような傾向もあるのかも知れず、見殺しにするのはさすがに気が退けるとしても、少なくとも競争から脱落した者のためにではなく、資本主義的な成功を信じて競争している者たちのために予算を優先的に使うべきで、またそれは国家に忠誠を誓って国が繁栄するために身を粉にして働いている者たちを助けるためにも予算を使うべきという世論も成り立つ現状があるのかも知れず、またそういう国家の意向を強調するには競争をあきらめて社会から脱落すればひどい境遇になることを見せしめとして人々に実感させるためにも、なるべくそうした人たちが惨めに見えるようにしておきたいのかも知れないし、要するにそういった現状に文句をつけたり政府に反抗的な態度をとるような根性のない輩は努力を怠って働こうとしない社会のクズだというイメージを人々の意識に刷り込むためにも、弛みなく努力し続けている人たちだけが救われて努力を怠る不届き者には悲惨な境遇が待っているような先入観を植え付けるためにも、現状のような政治や行政がおこなわれていると解釈できるかも知れないのだが、たぶんそんなことをあからさまに信じている人たちはごく限られた少数派だろうが、そういう実態や傾向がそれなりにあることも誰もが知っているだろうし、少なくとも資本主義的な論理が維持されるには、競争に勝った者の方が競争に負けた者よりも富や栄光や名誉を余分に獲得できる権利があると信じているし、貧しい者よりは富んだ者の方が有利な社会であってほしいだろうし、そんなことを挙げていくときりがないわけだが、そういう論理だけでは世の中が成り立たないから実際に政府が貧困層を救済しなければならないわけで、それもできるだけ貧困層を減らすような政策が求められるとすれば、ではどうすれば貧困層を減らすことができるかとなると、資本主義一辺倒ではそれができないわけで、資本主義の論理とは矛盾したことをおこなわなければならないだろうし、それが現状の社会の中で主導権を握っているような人や勢力に受け入れられるかとなると、そうはならないから社会的な弱者が切り捨てられるような状況となっているのではないか。
11月10日「理論の正しさ」
政治的な面で単純な統計的な数字の比較からわかりやすい結論を引き出そうとする傾向があると、そこに自分たちの主張を裏付ける数字に惑わされている面があるわけで、では他にどうやって自分たちの主張を裏付けるデータを示せばいいのかといえば、そういう統計的なデータにはそういう利用の仕方しかないのかも知れないが、その一方で残念ながら経済理論というのは疑ってかからないとならない理由もありそうで、それが常に批判にさらされる理由とはならないのかも知れないが、理論が正しいとはいえない面もあるのかも知れず、かも知れないではなく本当はどうなのかといえば、少なくとも理論からその理論に合わせた実践的な行為を演繹するのは間違っているわけではないにしても、そもそも理論がどうやって求められるのかといえば、それとは全く逆の経緯や過程から求められるわけで、科学の分野ではそうやって求められた理論を実践に応用できるだろうし、産業分野でもそういった科学理論が応用されて実際にそれなりの成果をもたらすわけだが、果たして政治や行政の分野で経済的な理論を生かして成功した例しがあるのかといえば、探せばそれなりにありそうで、結果的に理論通りの成果が得られたことになっているのかも知れないが、その一方で必ずしも理論通りの結果がもたらされているとはいえない面もあるだろうし、要するに結果を都合良く解釈すればそれが理論通りの結果を示していることになって、またその理論を批判するために結果を都合良く解釈すれば理論の誤りを示すこともできるのかも知れず、そこからいえることは実験室のような環境で恣意的に条件を整えることができれば、確かに理論通りの結果を導き出すことができるだろうし、また物理や化学などの理論の場合は理論通りの結果を観測できる条件を満たす観測機器を使って、あるいは新たにそれ専用の観測機器を作って、さらに観測に伴って発生する誤差や雑音を技術的に取り除いて理論通りの結果を導き出すのであり、それと比較して政治や行政などの場では、あるいは企業活動や個人の生活の場では、誤差や雑音を含んだ結果がそのままの結果であり、当然そこには誤差や雑音などの不純物が含まれているわけだから、理論通りの結果とはならないことが多いのだろうし、だからといってそれを誤差や雑音と捉えるなら理論の正しさが揺るがないとしても、実際にそれらが含まれているのだから結果が理論通りではないことは明かだろうし、だから結果としてもたらされる現実が理論通りでなくてもそれは当然のことであり、だから理論が誤っているとはいえないにしても理論通りの結果がもたらされなくてもかまわないわけで、そういう意味で経済理論が机上の空論だというのなら他のすべての理論も机上の空論だろうし、理論通りの結果となるように条件を整えたり観測精度を高めたり誤差や雑音を取り除ける技術を開発しなければ、現実の世界で理論通りの結果を導き出すことはできない場合が多いのだから、そういう面を考慮すれば単純に理論が正しかったり誤っていたりするのとは別次元のところでそれなりに考慮しなければならないことがあるわけだが、そういうところが専門外の素人にはわからないところであり、また政治や行政の専門家が必ずしも経済の専門家というわけでもなく、また経済の専門家が政治や行政の専門家というわけでもないし、それぞれの専門家が専門外のことにまで口出しできるのかといえば、少なくとも素人が行政に参加したり介入するのが政治であり、専門家にしてもはじめから専門家として生まれてきたわけでもないし、誰もが最初は素人に過ぎないのだから、素人なりの意見を述べればそれでかまわないのだろうが、専門家から助言を得ながら政治をおこなう立場になったとしても、素人なりの意見を押し通してみてもかまわないのかも知れず、別に政治の専門家になる必要もないだろうし、そこのことで他人から馬鹿にされようがメディア上で嘲笑されようが気にせずに政治をおこなえばいいだろうし、政治がその程度のことでしかないとすれば世の中が平和な証拠となるのかも知れないが、たぶん制度が目指しているのはそういうことであり、行政の専門的な官僚機構を行政には素人の政治家が利用しながら政治をおこなうのが本来の民主主義という制度の趣旨であり、そういう意味では経済の専門家にだまされてリフレ理論とかMMT理論とかに則った政治をおこなってみれば面白いことになるのかも知れず、そうやって取り返しのつかない結果がもたらされたとしてもかまわないのかとなると無責任なことを述べているだけかも知れないが、現状でも批判的なことを述べている人たちにとっては取り返しのつかないことがおこなわれているはずで、それでも現状が現状としてあるわけだから、実際に取り返しのつかない現状の中で暮らしている身としては、そうなっていることに関してはある程度は覚悟ができているとともに、それがどんな覚悟なのかといえば結果としてもたらされている現状をそのままの姿で受け止めるぐらいの覚悟ができているということでしかなく、それもその程度のことでしかなければ大したことはないのかも知れないし、実際にそんな大したことはない現状の中で適当にいい加減な気持ちで生きているのだろうが、流行りの経済理論にしても政治宣伝程度のことに利用されている現実があるだけで、当然それだけが政治のすべてではなく、他の様々な作用や影響との兼ね合いの中で現状が構成されていて、そうした現状に何らかの理論を適用してもっともらしい説明ができるだろうし、それを言葉で説明している限りで説明者にとっては都合のいいことが述べられているわけだし、都合の悪いことは都合良く考慮に入れられずに説明している範囲から外れていて、そういう面を考慮に入れなければ政治宣伝の範囲内で理論通りの結果が提示されていても、それが取り立てて驚くようなことではないし、そういうことだと受け止めておくしかないわけだが、後はそういった政治宣伝をおこなっている勢力が実際に選挙を経て政治的な実権を握った後で改めて検討することでしかないだろうし、当然そんな政治宣伝には従おうとしない行政の官僚機構との間でそれなりの軋轢が起こって、それなりに妥協や譲歩が図られる可能性が高いわけだから、政治宣伝としての経済理論を額面通りに受け取る必要もないわけだが、そうであってもそういった経済理論に踊らされている面とは別に支持する理由が生じてもかまわないのかも知れない。
11月9日「余分なもの」
大抵の場合は人は必要に応じて活動しているはずで、経済活動も必要だからやっているわけだが、その必要というのが生きていくのに必要最低限の必要というわけではなく、意外と無駄で無意味に思われるようなことにも必要性を感じているのかも知れず、そうした必要でもないのに必要に思われることを省いてしまうと、それほど大して活動する必要もないのかも知れないし、そういう面を考慮すれば人は必要でもないのに過剰に貨幣を貯め込んで過剰に権力を行使する傾向があるのかも知れないし、またそれに伴って過剰に物や情報やサービスを作って使っている傾向もあるだろうし、そうやって無駄に経済規模が大きくなっているとすれば、それが無駄だとは思わないにしてもそれだけ経済的には余裕があるように思われるわけだが、そうした経済的な余裕が社会のどんなところに働いているのかといえば、物質的には余分な施設や設備や機械類として稼働しているのかも知れないし、情報もメディアを通じて余分に行き交っているのかも知れないし、サービスとしても必要もないのに余分なサービスがおこなわれているのかも知れないが、もちろんそれだけ人が余分に存在していることにもなるわけだが、別に経済的な状況としては人余りではなく、むしろ人手不足な面もあるだろうし、また金余りであり使い道のない資金が過剰に蓄積されている可能性もあるわけだが、さらに資金のだぶつきとともに証券や債券などもだぶついているとしたら値下がりするはずだが、値崩れしないように買い支えている可能性もあるだろうし、買い支えることができるからそれだけ資金がだぶついているのかも知れないが、ではそれらの要因が組み合わさって全体としてはどんな傾向となっているのかといえば、物や情報や人や媒体などが過剰に動作していることになるわけだが、それで何が言えるのかとなると、必要もないのに何もかもがありすぎるような世の中が形成されているといえるわけで、そのありすぎるということが逆に閉塞感をもたらしているのかも知れないし、必要でないものがあふれかえっていて、かえってそこから必要な物を探し出せずに誰もが困っているのかも知れないし、各人が余分なものをあてがわれている割には、その中に必要と思われるものがなかったり、無駄に所有しているからこそそれらの有効活用ができていなかったりするのかも知れず、それが豊作貧乏という状況をもたらしているのかも知れないが、何が豊作なのかといえば人々の心の中に生じている空疎な幻想が豊作状態なのかも知れないし、そうした無駄で無意味な思い込みが世の中に充満していて、そんな過剰な思い込みをもたらすのが過剰に蓄積されている物や情報やサービスや人余りな人たちの存在であり、実際に機能している人が不足しているのに余っている人はだぶついていて、それが閉塞感の充満をもたらしているのかも知れず、そういった事態が全体としてちぐはぐな印象をもたらしているわけだが、印象としてはそうであっても実態としてはさらに余分なものを蓄積しようとしているのかも知れず、消化しきれずに消費も追いついていないのに、もっと蓄積して豊かさを実感しようとしているわけで、そんな幻想が必要のない飢餓感をあおり立てていて、実際に不足していると思い込ませているわけで、余っているのにこれ以上何が必要なのかといえば、他人よりも多くのものを必要としていて、それが不要だとは思わないし、今でさえ不要なものを抱え込んでいるのにもっと不要なものがほしいわけだから、それを手に入れるには余分な資金が必要となってきて、資金を手に入れるには働いて稼がなければならないわけだが、やりたくない仕事なら山ほどあって、そういう分野では人手不足なのだが、やりたい仕事は競争率が高くて容易にはありつけないし、何とかやりたくない仕事を回避しながらやりたい仕事にありつきたいわけだが、それは無い物ねだりであり、結果的には仕事余りで人手不足な状況がもたらされているわけだが、そこでも不要な物資が溜まって必要な物資が足りない状況にもなっているわけで、方々で物事の停滞がもたらされている一方で、さらに不要な物資が生産され続けている現状があるだろうし、そうやって不要なものを絶えず求め続けて不要なものが溜まり続けることによって、世の中の様々な方面での停滞をもたらしているわけだが、それを停滞だと認識できるかというとそうは思わないから、さらなる不要なものの生産によってさらなる停滞がもたらされるかも知れないが、そういう営みに限界があるのかというと実際に限界を迎えているからこそ人々の間で閉塞感が漂っているのだろうし、しかも閉塞感を覚えるからさらなる活動によって不要なものの生産が促進されているわけで、普通はそれでは悪循環に思われるはずだが、一向にブレーキがかかる気配はなく、むしろ無駄にアクセルを踏んでエンジンの空ぶかしが方々で起こっているのかも知れないし、実際にそうやって何かが空回りしているわけだが、そんな比喩としてのエンジンの空ぶかしを伴うような内燃機関自体がもはや不要になりつつあり、それによってもたらされるのは今やただのうるさい騒音でしかなく、威嚇にもこけおどしにもなっていない状況があるのかも知れないが、たぶん未だにそういうことやりながら幻想を抱いていたい人が確実に存在するのだろうし、そんな人たちのための玩具が空ぶかしを伴うような装置なのかも知れないし、音ばかりうるさくて威勢がいいように思われる割には思ったほど前に進んでいるわけでもなく、逆に電気モーターを搭載した車との距離がみるみるうちに広がって、気づいた頃には後方へ置き去りにされている可能性も高いのかも知れないが、またそんな妄想を抱いて必要以上に時代から取り残される恐怖感を意識してしまうから、それを打ち消して忘れようとしてますます大きな音を立てながら空ぶかしを繰り返しているわけで、またそれが気に入らない対象への攻撃的な衝動にも顕れていて、何かというとワンパターンの言葉を発しながら罵声を浴びせているつもりなのだろうが、それが他の人々に対して威嚇としての機能を果たしているのかというと、それも不必要にやり過ぎてしまっているから、もはや飽きられてあきれられているわけで、要するに現状で飽和状態となっている不要で余分なものの大半は過剰な妄想に過ぎないのかも知れない。
11月8日「複合的な変化」
産業の中で経済効率が重視されるのは当然のように思われるが、一口に経済効率といっても技術革新の度合いとか環境面への配慮とか地域的な事情とか、それなりに複合的な要素や条件が加わってくると単純な効率だけで他と比較できなくなってくるし、またそこに政治が介在してくると諸般の事情から意図的に非効率なことをやる可能性も出てくるだろうが、個々の産業分野でそれなりに特有の事情が生じて来るとともに、他の産業分野と比較する必然性もあるのかないのかよくわからない面もあるから、異業種でも同業種でもその中で何かと何かを比較するということに関してはそういった比較をする人や団体に恣意的な都合も働いてきて、特に自分たちの主張を正当化するための比較となると、自分たちに都合の良い条件や要素しか比較の対象としないような恣意性が必ず生じてきてしまうから、それをそのまま鵜呑みにするわけにはいかなくなってくるわけだが、少なくとも現状の中で成り立っている産業分野に関しては、そこで実際にそれなりの規模で商売がおこなわれているだろうし、もちろん同じ商売が永遠に続くとも限らないわけだから、当然個々の商売で浮き沈みはあるものの、その中でも確かに特定の産業分野が衰退するに従ってそれに代わる別の新たな産業分野が興隆してくることもあるだろうが、それによって従来からあった産業構造が変わることもある一方で、そうなったとしても意外と人のメンタリティは変わらなかったりするのかも知れず、世の中でどのような産業分野が優勢となろうと経済構造や国家行政の構造が変わらない限りはその中で活動している人たちは以前と同じように活動しているだけかも知れないが、それは現状の延長上から予想されることでしかなく、たぶん予想外のことが起こる可能性もあるだろうし、もちろんそういう思いがけない変化は現状の延長上で起こるわけではないから今までの経緯とは全く違った成り行きがそこで生じるのかも知れないし、それは現状の延長上で物事を考えている人たちには予想がつかないことでしかなく、そもそも誰にとってもそんな事態は予想していないことであり、実際にそうなってみなければわからないことだろうが、別にそれを予想したりそうなることを予言する必要はないのだろうし、またそれとは別に現状の延長上で起こることを予言する人の予言が当たってもかまわないし、それも充分に起こりうることだが、それ以外の面では予想外のことが起こる可能性もあるだろうし、実際にそんな予想外の出来事によって世の中の状況が大きく変わる可能性もあるわけだが、それは誰もが気づくような出来事ではないのかも知れないし、出来事だとは関知されない場合もあるわけで、そうなると何だかわからないまま世の中の状況が変わっていってしまうことだってあり得るし、現状で起こっている情勢の推移がそうなっていっている最中なのかも知れないが、そこでも誰もが関知している情勢の推移や出来事もある一方で、特定の人や団体にしか知られていない情勢の推移や出来事もあるかも知れないし、さらに誰にも知られていない情勢の推移や出来事もあるのかも知れないし、またそれらの出来事が複合的に作用し合って何らかの変化を起こしている最中なのかも知れないが、必ずしもそれが世の中を良い方向へと導いているわけでもない場合もありそうだが、それが悪い方向だともいえない場合もありそうで、ではどんな方向へと導かれているのかといえば、思いがけない予想外の方向へと導いているのかも知れないし、そういった変化の方向性を現時点から予測するのは困難かも知れないが、それを予測したり予想したり予言したつもりになる人たちもひっきりなしに登場するだろうし、そういう人たちの述べていることが必ずしも正しいとは限らないとしても、それらの人たちがもっともらしく筋の通ったことを述べている限りで、何となく多くの人がそれを信用したり信じたりするわけだが、なぜそれがもっともらしく筋が通っているように思われるのかといえば、現状の延長上で予測したり予想したり予言するからそう思われるわけで、多くの人がそう思っているからこそ、それとは違う思いがけないことも起こる可能性があるのだろうが、それが起こった後からそれらの予言者たちによって自分たちの予言との間でつじつま合わせのようなこともおこなわれるから、何かそれが想定内の出来事であるかのように思われるかも知れないが、たぶんそういったつじつま合わせによって、それらの人たちにとっては想定外の要素が削られたり隠蔽されたりしているのかも知れないし、実際に出来事を言葉によって表現する過程でそういう作業が無自覚におこなわれている可能性もあるわけで、そうなると何が起こっても起こった後からそれを言葉で表現すればもっともらしくて想定内の出来事のように思われてしまうわけで、そんなことをやっている人たちの言説というのは、その人にとって都合のいいことしか述べられていないし、都合の悪いことは意図的に避けたりそれと自覚することなく省いたりすることが多いのかも知れず、そういう意味では他人と似たようなことを述べている人たちはそんなことを述べている他の人たちとともに、それらの人たちが生きている時代状況によって思考も言動も拘束されているだろうし、時代状況に合うことしか言説の対象として取り上げないし、そもそも時代状況に合わないことはそれらの人たちには察知できないだろうし、それはその人たちにとっては思いがけないことや想定外のこととなるのかも知れないが、そんなことが誰もが気づくようなこととして起こっているとしても、それらの人たちの都合に合わせて表現されれば時代状況に合致する面だけ取り上げられて、そうでない面は意図的あるいはそれと自覚することなく無視されてしまうのかも知れないし、そういった無視されてしまう面が後から利いてきて、それらの人たちにとっても思いがけない情勢の変化が起こり、そうなるとそういった人たちの言説は完全に時代状況とは合わなくなって、多くの人たちには何か不自然でぎこちない言説内容だと思われてしまうのかも知れないが、逆に時代状況に合いすぎるようなことを述べていると、もはや誰もがそんなことは普通に思っていることだから、わざわざそれらの人たちの言説に耳を傾ける必要もなくなってしまうだろうし、そういう意味でもそれらの人たちの言説が不要となってその存在も忘れ去られてしまうような事態も起こりうるのかも知れない。
11月7日「貨幣と権力に関する問題」
現状の日本で政治的な論争の主題として取り上げられている消費税を上げたり下げたり廃止することと、別に論争にもなっていない貨幣と権力に関する問題をどうにかしようとすることは大して関係があるわけではないが、それについて考えることが政治的な論争の範疇を逸脱するとしても、何をどう考えればまとまった内容を持たせられるかとなると、現状ではよくわからない面があるだろうが、要するに現状の世の中では政治の面でも経済の面でも行政の面でも制度や慣習などの面でも、何をやるにも欠かせない貨幣と権力から生じる力を弱めるにはどうしたらいいかということなのだが、貨幣や権力に頼り切った社会の在り方が貧富の格差の拡大や権力の行使に伴う立場や地位の不平等を引き起こしているわけだが、結局はそれらの力を弱めるよりは他の力を増大させて、その増大させた力との比較において相対的に貨幣と権力の力が弱まれば貨幣と権力の使用価値も低下して、それに伴って生じる貧富の格差や権力の行使に伴う弊害も減らせるはずだが、そうであるならその貨幣と権力に対抗する力とは具体的に何なのかといえば、それがよくわからないといってしまうと身も蓋もないわけだが、例えばその場の状況において貨幣と権力の行使に抵抗する力といってしまうと、実際にそれらに抵抗している人々の力でしかないだろうし、そういう力で対抗してもうまくいっていないのが現状そのものであるわけだが、そうだとすればあからさまに貨幣と権力の行使に逆らうのではなく、それらの行使はそのまま容認しつつもそれらとは別に新たな力を付け加えればいいということになるのかも知れず、そういった方向で模索すればいいということになると、何かそれでは虫が良すぎる話であり、そんな好都合な力がすぐに見つかるとは思えないが、それに関して貨幣や権力の特性とは違った特性を持つような力となるとすれば、そうなると貨幣や権力の特性とは何かといえば、貨幣に関しては蓄積すればするほど力を発揮するわけで、また権力に関しては特定の人や団体に集中させればさせるほど強くなる傾向があるわけだが、そうであればそれらとは違う力は貨幣とは違って蓄積するのではなく消費するような力であり、また権力とは違って一カ所に集中させないで多方面へ分散させる力となるわけだが、そうはいってもただ漠然とそんなことが言えるだけで、具体的には何をどうやればそんな力が発揮できるのかがわからないのでは何もやりようがないわけで、少なくともそれと消費税を上げたり下げたり廃止したりするとかいう具体的な方策とは次元が異なるはずだが、またそれに関して政治の場で何をどうやるとかどんな制度や法律を作るとかいうこととも折り合いがつきかねるようなことかも知れないが、現時点で話題となっている消費税をどうこうするということは、政治的な権力を行使してそれをおこなおうとしているわけだから、例えばそれによって貧富の格差を是正しようとしているのだとすれば、政治的な権力を使うわけだから貨幣の力を弱めるために権力を強めるということになり、貨幣と権力の枠内でどうにかしようとしている限りで、従来からのやり方の範疇でしかないわけだが、それはそもそも政治力によってそうしようとしているわけだからそれが権力の行使する成り行きになるのは当然のことであり、そんなことはわかりきったことでしかないし、そういうところに政治力の限界があるわけだが、他にどうすればいいのかわからなければそんなことをやるしかないだろうし、そういうことをおこなうのとは違う方面で何かをやろうとするのなら、政治とは異なるやり方を模索するしかないわけだが、そんなことよりは現状で問題となっているのは貨幣と権力を合体させてさらに力を強めようとする傾向があるわけで、またそれに対抗しようとする勢力の方でも政治的な権力を奪取してそれを阻止しようとしているわけだから、結局それでは権力闘争にしかならないわけだが、果たしてこのまま権力闘争がエスカレートしていく傾向になっているのかといえば、どうもそうともいえない傾向も一方では顕在化していて、それが選挙に行かずに主権を放棄する人々の存在だろうし、そんなことをやれば現状で権力を握っている勢力の思うつぼだから選挙に行って主権を行使するように説得するようなこともおこなわれているわけだが、一向に効果が上がっていない現状があるだろうし、ではどうすれば人々を選挙に行くように仕向けられるかとなると、妙案は何も思いつかない現状でもあるわけだろうが、もしかしたらそれこそが政治的な権力の低下に貢献しているのかも知れないし、またそれによって日本の経済力も低下しているとしたら、権力とともに貨幣の力も減退していることになるだろうし、そうやって政治も経済も地盤沈下の一途をたどっていることになるわけで、普通はそれでは悪化の一途をたどっていることになるから否定すべき傾向でもあり、何とかして食い止めなければならない傾向となり、そんな現状に対して批判的な勢力としてはそういった傾向を食い止めるべく努力している最中でもあるわけだが、一向にそれが改まらなければ、それらの勢力の思惑とは逆の傾向になっているわけで、つまりそれらの勢力の努力が至らずにそうなっているというよりは、それらの勢力の努力によってより一層そういう傾向になっているとすれば、やはり結果的にはそれらの勢力の努力も、また現状で権力を握っている勢力のやっていることも、ともに貨幣と権力の力が衰えることに貢献していると言えるのかも知れないし、実際にそうなっているからこそ政治の面でも行政の面でも経済の面でもうまくいっていないことだらけであるはずなのだが、それで選挙に参加せずに主権を行使しない人たちが困っているのかといえば、特に困っていないから政治に参加しないのだと見なせば納得できるかも知れないが、果たして本当にそうなのかというと、困っていないというよりはもはやあきらめていると捉えるべきなのかも知れないが、主権の行使をあきらめているとすれば、自分たちの力を信じていないわけで、要するに憲法に定められた国民主権を信用していないのだから、それに基づいた民主主義の制度も信用していないだろうし、そこから生じる政治権力も信用していないわけだから、結果的にそれが権力の弱体化に貢献しているわけで、それが功を奏して実際にも権力を握っている勢力も自分たちの勢力を維持する以外は何もできていない現状になっているのではないか。
11月6日「構造的な問題」
社会情勢を揺り動かすような何らかの出来事を引き起こす成り行きは、それが人為的なものなら人の意志や思惑などが関与して起こっているとしても、そういった成り行きが社会の制度や制度に伴って構成される組織的な構造に起因して起こるものだと、それが個人の意志や思惑などを超えて社会に作用して、そうした構造的な傾向に多くの人々の意識が絡め取られて、またそうした傾向に応じて人の意志や思惑が生じてくるから、それらの意志や思惑が何らかの共通の傾向を示して、そんなふうにして多くの人が同じような意志や思惑に囚われると、それが国民が共有する国家的なアイデンティティとなるわけで、他にも民族的・宗教的・地域的なアイデンティティなどもあるだろうが、そんな国家によってもたらされているように思われる制度的な抑圧に対する民衆の反応としては、それが反発となって現れると同時に、そんな反発に対する反発となって現れる場合があるのかも知れず、そうした民衆の反発を抑え込むような集団的な意志や思惑がそれらの構造的な傾向から生じていると、それが国家に反発する反乱分子から国家を守るための愛国心につながるわけだが、実質的にそれが政府のやっていることに対する反発になるとしても、愛国心に囚われた人々には国家に対する反発であると認識されてしまうわけで、そうした政府と国家の混同が政府=国家という行政的な構造からもたらされていて、そこから国民を抑圧する政府を守ることが愛国心なのかという疑問が民衆の間から生じてくるとともに、一概に国民といっても民衆を抑圧する政府側に属する国民とそんな政府に反発する国民とに分かれてしまい、そうやって国民の定義自体がややこしく入り組んできて、状況をうまく表現できなくなってしまうわけだが、それに関して明らかなのは、政府という官僚機構を含んだ組織的な構造が国家全体にまで広がっていない実態があるわけで、だから実質的には政府=国家ではないわけだが、そんな政府を支持している人たちは政府=国家という行政的な構造を信じているわけで、それを信じさせるような制度が構造的にもたらされているから信じないわけにはいかないのだろうが、果たしてそれが国家によってもたらされたものなのかあるいは政府によってもたらされたものなのかを心情的に区別したくないわけで、信じているからには政府=国家という信仰を是が非でも守りたいわけだが、なぜそうなってしまうのかといえばそうしないと愛国心を維持できないし国家的なアイデンティティを共有できないからで、その辺で原因と結果が相互に入れ替わりながら循環しているわけだが、ではなぜそういう信仰が必要なのかとなると、政府が管理運営している国家という制度に意識が順応しようとしているからであり、そこからもたらされている抑圧に従うには愛国心が必要であり、従うことによって国家的なアイデンティティを共有できるわけだが、それが単に抑圧だけからもたらされているわけではなく、従うことと引き換えにして何らかの利益がもたらされているとも感じられるわけで、それが国家によって保証されて保護されている各種の権利や権限であり、具体的には財産を持つ権利や法律に抵触しない限りで自由に振る舞える権利があるように思われるわけだが、それらが法律によって何らかの制約や限定を伴っていることが、その法律に従うことが国家に従うことになり、従わされていることが抑圧につながっているわけだが、それを抑圧だとは意識させないどころか従うことによって生じる拘束感を遙かに上回る特典があれば、誰もが喜んで従うはずだが、それがすべての人にもたらされるわけではなく、社会的に成功していると実感される限られた立場や境遇や地位の人たちにもたらされるから、実際にそういう立場や境遇や地位を手に入れたと思っている人やそれを手に入れようと努力する人たちには政府=国家の信仰が必要となるだろうし、それを信じている限りで国家的なアイデンティティを共有して愛国心を保てるわけだが、そういう立場の占有や地位から見放されている人やそれを手に入れることをあきらめた人たちにとっては政府を信用できない事情が生じてくるだろうし、実際に政府から搾取されるだけで見返りが何ももたらされていないと実感されるなら、そんなことをやっている政府に反発するのが当然だと思われるだろうが、逆にそうやって政府に反発している奴らがいるから自分たちも巻き添えになってひどい目に遭っていると思わせることに成功すれば、そういう人たちの間にも政府=国家の信仰を広められるだろうし、そうやって国民同士を戦わせることによって漁夫の利を得ようとする戦略もあるのだろうが、そんなふうに対立をあおっている人たちにその自覚があるかというとそうでもないのかも知れないし、それと自覚せずにそういう心境になってしまうような傾向が構造的にもたらされているとすれば、それが世間的なイメージとなって多くの人たちの心の中に定着しているといえるのかも知れないが、そうなるように裏で糸を引いている犯人を捜し出そうとしてしまうと、何やら政府を構成する官僚機構の策略によって国民がだまされているようなイメージも抱いてしまうわけだが、どうもそういう犯人捜し的な意識までもそれらの構造からもたらされている可能性まであるわけで、その辺がつかみ所のないところなのかも知れないが、果たしてそれが組織的な構造として構成されているのかとなると、確かに何らかの組織にはなっているはずだが、そうした構造に囚われている構成員の人たちが意識して戦略的に活動しているかとなると、政府においても企業などでも幹部クラスとなれば多少は意識して活動しているにしても、組織の中では別の意識が働いていて、別にあからさまに意識して民衆を抑圧しようとは思っていないだろうし、また意識して金を搾り取ろうとも思っていないはずだが、組織の中で役割分担された作業を真面目にこなしてゆけば、結果的にそういう成り行きになってしまう面があっても、それよりは自らに割り当てられた作業を誠実にこなそうとすることや、また職場内の人間関係を良好に保とうとすることの方がより優先度が高いわけで、そういうことを心がけている限りでそれが深刻な事態だとは意識できないだろうし、実際にも深刻な事態ではないわけだが、国民をだまして搾取している犯人捜しをしている人にとっては、行政の責任者やそれとつるんで悪事を働いているとされる政治家などが非難の的となってしまうわけで、またそれを見て見ぬふりをしながら放置している国民の民度も低いことにもなるわけだ。
11月5日「合意の代償」
政府や企業が管理運営している世の中の制度に完璧とは言いがたいそれなりの限界があることは誰もがわかっているはずだが、また普通に考えて人々が政府や企業に完璧に管理されてしまうとそれはそれで問題なのかも知れないが、政治の場では制度が完璧になるように制度改革をおこなって政治的な主義主張の実現を目指すわけだが、そういう政治的な主義主張の中身にも主義主張通りのことがおこなわれるには実現困難な面もあるだろうし、政治の場で大勢の人や団体が関わって議論を交わしながら交渉や取引をしていくうちに、実現できる面と実現困難な面が明らかになればいいわけだが、はっきりしたことがわからないまま議論がかみ合わない状況が延々と続いていってしまう場合もあるだろうし、具体的に何をどうしたらいいのかということについて個々の政治家が具体的な改善策を主張しているとしても、他の政治家たちがそうした主張に賛同できるかとなると、それらの政治家たちも各々で独自にそれとは異なる意見を持っているとすれば、いくら話し合ってもなかなか合意できないわけだろうが、それ自体も制度的な面でうまくいかないことを物語っているわけで、なぜそうなってしまうのかといえば様々な競合する制度がひしめき合っていて、それらをひとつに統合しようとすればそこに権限や権力が集中して独裁となってしまうから問題だし、実際にそういうことができないからそうした権限や権力の分散状態となっているわけだが、また実際にそうやって権限や権力が分散しているのもそれに応じた各種の制度が競合しているのだから当然であり、そんな分散状態の中でそれらを統合する力とさらに細かく分散させる力のせめぎ合いが起こっているから現状の力の分散状態が構成されているわけだが、そうした分散状態の中でも政治的な主義主張の趣旨としてはやはりある程度の統合を目指しているわけで、分散状態をひとつの制度に統合することを目指してわかりやすくて筋の通った制度内容にすることを目指すわけだが、そうした主義主張とは別の主義主張をおこなっている政治勢力としても、それとは別の傾向の統合を目指しているわけで、またそれもそんな主義主張に則ればそれなりにわかりやすくて筋の通った制度内容になるはずだが、両者の主義主張を戦わせて双方が納得しないまでも妥協や打算的な成り行きを経て合意するようなことが起これば、双方の主義主張をある程度反映したわかりにくくて筋の通らない制度内容になってしまうわけだが、そうなってしまうからこそそうした制度内容が批判の的となってしまうわけで、もちろん批判している側はわかりやすくて筋の通った制度内容にしたいわけだが、批判とともにそういうことを主張している側で意見がひとつにまとまっているかというと、複数の批判者の間では微妙に差異や温度差があるだろうし、そんな差異を巡っても議論が戦わせられているわけだろうが、それらの意見を集約して妥協や打算を経て合意を取り付けようとすれば、結果的にはわかりにくくて筋の通らない合意案となってしまうわけで、そうやって主義主張の違う様々な勢力から合意を取り付けようとすれば、妥協や打算を強いられて自分たちの主義主張の合理性を維持できなくなってしまうわけだが、そういう事前の談合をいくらやってもらちがあかなければ、選挙で各勢力が競い合った後に合意を目指せばいいわけだが、それも成り行き次第ではうまくいかなくなってしまうだろうし、それらの中でどの主義主張に説得力があるかは人によっても立場によっても見解が分かれるところであり、どういった主義主張であってもそうした主義主張を掲げている勢力の言い分を尊重すればそれなりに説得力のある内容にはなるわけだが、それを尊重できない人や勢力からすれば説得力があるとはいいがたいだろうし、それについて納得できないことがあれば当然それについて問いかけるだろうし、さらにそれについて納得できない返答がもたらされたり逆に問うこと自体を批判されるようなことがあれば、そこからさらに論争に発展して合意には至れないわけだろうが、そういう論争をもたらすような様々な主義主張について、その中の何が良くて何が駄目なのかについて、はっきりしたことがわからなければ、いくら議論を重ねてみてもはっきりした結論が出てこないだろうし、そうなると結局は多数決になってしまうしかないわけで、そうやってより多くの支持者や賛同者を獲得した主義主張が優勢になるわけだろうが、それでも納得しがたい人や勢力が出てくるから一筋縄ではいかないわけだが、ではそういった意見がひとつにまとまらない状況が誰にとっても許容できないのかといえば、許容できないまでもそんな状況の中で誰もが活動しているわけで、それが通常の状態であり、そんな中で自らの主義主張が社会に反映されないのは納得がいかないだろうが、逆に自らの主義主張を社会の状況に合わせようとしても納得がいかないのかも知れず、そういう納得がいかない面が社会状況として生じていると、自らの納得がいくように社会を変革したいだろうし、それが政治に関わる動機となってくるのだろうが、それを阻んでているのが自らの意見とは違う様々な意見や主義主張が渦巻いている社会の現状なのかも知れないが、それは渦巻いているというよりは分散しているといった方がしっくりくるのかも知れないし、他人が同意する必要もない多種多様な意見や主義主張によって社会が構成されていれば、それらをひとつの意見や主義主張に統合する必要がないわけで、逆に統合しようとすれば他から反発を招くような状況となれば、自らの意見や主義主張だけを社会全体に反映させるわけにはいかなくなってしまうだろうし、それと同時に他人や他の勢力の意見や主義主張も社会に反映させるようなこともおこなわなければならなくなるとしても、果たしてそうする必要があるかとなれば、その人にとってはそう思われても、他の人にとっては必ずしもそうでなければ、他からの支持や賛同を得られずにそういう試みは失敗に終わるわけだが、少なくともそれはそういう試みをやってみなければわからないことだろうし、実際にそういうことをやっている人や勢力が存在している現状があるなら、そういう人や勢力の意見や主義主張に耳を傾けてみる余裕があればそうすればいいわけで、多くの人たちがそれに賛同したりそういう人や勢力を支持したりすれば、そういう人や勢力の意見や主義主張が反映した社会が実現するかも知れないし、また他の人や勢力の妨害に遭って実現しない場合もあるだろうが、そういう成り行きの中でも何らかの変化が起こるのかも知れない。
11月4日「美しい日本」
いくら風景が美しくてもそんな美しい風景を背景にしておこなわれている人の行為が醜い場合もありうるが、何かを見るという行為は見て考えるという行為に結びつくとしても、なぜそこで考えるのかというと、疑念を抱くからであり、風景ではなく人の行為が美しいと思うのはなぜか、それは行為を風景として見ているからではないか。ではなぜそんなふうに行為を捉えるのかというと、おこなっていることの醜い面から目を背けていることに気づかないと、それが美しい風景に見えてきて、美しいことをおこなっている人は、心も美しいと勘違いしてしまうのではないか。物事を考えすぎてしまうとそんな疑念がわいてくるわけだが、そういう意味で美的感覚が人を欺く場合がありそうだが、行為に感動する場合にも、行為の感動できない面から目を背けている可能性があるというか、都合のいい面だけを捉えて感動する場合があるのかも知れず、要するに行為を美化しているわけだが、なぜ美化する必要があるのかといえば、それについて都合のいいことを述べようとしているのかも知れないし、目的として都合のいいことを述べるために行為を美化している可能性があるわけで、そうした目的で行為を美化することが、時には政治宣伝に使われることもあるだろうし、それを美しいと思ってしまうことが、そうした宣伝の醜さに気づかないと、宣伝にだまされて利用されてしまうわけだが、そうやって人をだまして利用する行為が美しいわけがないだろうし、一般的には人をだますことは醜い行為であるわけだが、行為の美化を利用して人をだますのは目的に適っているだろうし、美しく見せかけることが人をだます行為につながるわけだから、それが醜い行為だと思われるならそこで美と醜が一体化していることになるわけだが、人が行為の美しい面で見て醜い面を見ようとしないのは、そういう行為が慣習として社会に定着している可能性もあるだろうが、それ以前にごく自然な動作として美しい面には惹かれる一方で醜い面からは目を背けるわけで、そうした人の習性を利用して物事を美しく見せることによって人をだまそうとする行為が醜いのは、ある意味で当然のことだろうが、そうであるなら物事の美しさを強調しようとすること自体が醜い行為である可能性があるわけで、美しく見せようとする行為に気づいたら、その裏では醜い行為がおこなわれていると想像できないと、そうした行為にだまされて利用されてしまう危険性が高まるわけだが、時にはだまされて利用されてもかまわないと思うこともあるだろうし、そうした人をだますような意図や思惑が見透かされている場合にはたわいない行為でしかないのかも知れないが、そうした行為にその気になって魅入られてしまう人とそれがたわいない子供だましだと思う人とでは、感じている状況の深刻度が異なるわけで、しかもそれ自体はたわいない子供だましの行為だと高をくくって許容しているうちに、いつの間にか他でおこなわれている醜い行為も容認していることになってしまって、そのたわいない子供だましの行為が他の醜い行為から目をそらすための囮であることに気づかなかったことにもなり、そうやって複合的な合わせ技によってだまされる場合もあるだろうし、それが手の込んだ仕掛けとなっていることが、はじめから仕組まれているわけではなく、成り行きとしてやっている側もそれを自覚しているわけでもないのに、結果的にそうなってしまうと、よほど注意深い人でもだまされてしまうだろうし、特に日頃から何でもかんでも一律に批判して警鐘を鳴らし続けているような人は、そういう紆余曲折が伴うような成り行きには至って鈍感であり、はじめから用意周到な陰謀が巡らされていたような話に持って行ってしまって、たわいない見え透いた行為によってだましているつもりの側を過大評価して警戒しているうちに、いつしかミイラ取りがミイラになって懐柔されて逆に取り込まれてしまうのだろうが、そうやってだましている側もだまされている側もお互いの力量を見誤って、お互いのやっていることを良い方にも悪い方にも過大に評価してしまうわけで、そういった分不相応な過大評価が事態を深刻に見せかけているのかも知れないし、実際に深刻な事態であればそれ相応の弊害を伴うはずだが、それに誰も気づけないとなると、まだ誰にもそれと感じられる深刻な事態が訪れていないのか、あるいは事態を過大に見積もりすぎているかのどちらかである可能性が高いのかも知れないが、おそらく見ている光景が美しいと思い込めるのは観光的な中身が空っぽの部分だけであって、それが表面だけであるとしても、そういう面に見せかけるのにも多大な努力を要するとしたら、そうやって努力が空回りしているから苦労して見せかけても成果は大したことはないのかも知れないし、それも表面だけ見せかけようとするから努力が空回りするしかないのかも知れないが、しかしそもそも美しい見てくれに中身が伴うこともあり得ないのかも知れず、外観が装飾過多となってしまうと中身にまで手が回らず、何かを見せかけるという行為自体がそういう傾向を伴ってしまい、別にそれはそれでもかまわないようなことであり、目的としても美しい外観に見せかけるための行為なのだから、それで中身まで伴うとしたらその方がおかしいだろうし、美しい外観とは裏腹に中身が空っぽというのが、観光としては分相応な形態だろうし、そういった見た目の美しさを重視しているだけでも大したものだと思うしかないのかも知れないし、それを観る人が細部にまで手入れの行き届いた垢抜けた風景に見とれているうちに、それに伴って催されるたわいないおもてなしにもだまされて気分が良くなれば、それ以上の成果を期待する気も起こらなくなるだろうし、それで満足できれば見栄を張る行為が成功したことになるのだろうが、それ以上の成果が何かとなると、見せかけではなく実質的な豊かさとなるわけだろうが、それは他の人たちに美しい光景を見せるのではなく、自らが生活を楽しむことになるのかも知れないが、贅沢な行為としてそういうことができるようになることが本当に幸せなのかとなると、たとえそれが幸せなことだとしても、別にそれだけが目的となることはないだろうし、それを無理に目指す必要はないのかも知れない。
11月3日「問題の拡散」
なぜ現状を肯定的に受け止めるのが難しいのかといえば、実際に現状の世の中の問題点が様々な方面で様々に指摘されているからだろうが、そういった問題点があってもなお現状を肯定できるかというと、たぶん無根拠な勘としてただ漠然と肯定してみたい気にはなるのかも知れないし、それは自らが現にここに存在しているからというとりあえずの理由をつけてみれば、ここで何かをやっている最中の現状があるからそれに関しては肯定したくなるのだが、そのやっていることを肯定できれば、そんなことをやっている現状も肯定せざるをえなくなるのかといえば、中には自らがやっていることは肯定できても自らを取り巻いている問題だらけの環境や状況は肯定できずに、そんな中で問題の原因となっている他の人たちや団体のやっていることを延々と批判している人たちもいるのかも知れないが、批判しながらも現状を肯定できるかとなると、肯定できる面もできない面もあるのが普通の感覚かも知れないが、かも知れないではなく、実際に何をやっているのかといえば、様々なことをやっていて、そのやっていることの中で他の人や団体に迷惑をかけている人や団体が社会問題の類いを生じさせていることになるわけだが、それらの人たちも現状で可能なことやできることをやっているわけだから、そうした社会問題をもたらす行為というのは現状の世の中でやろうとしてできるわけで、中にはそれをやろうと意識しなくても自然にできてしまうような行為もあるわけだろうし、さらに中にはできないと思われていたことができてしまったケースもあるのかも知れないし、社会問題をもたらす行為というのは少なくとも結果的にやれてしまう行為をやっているわけで、それをやれてしまっている人や団体にとっては、そんなことをやってしまえる世の中というのを否定しているわけでもないだろうし、それをはっきりと自覚している人は少ないのかも知れないが、とりあえずは自らがやっている行為自体はその自覚がなくても肯定しているだろうし、その延長上でそんなことがやれる世の中も肯定していると思われるわけだが、そういった社会問題化するような行為を批判する人たちは、そんな人に迷惑をかけるようなことができてしまう世の中は否定せざるをえないし、できればそんなことができないように法律や制度を改めて、できるだけ他人に迷惑をかけないような世の中にしたいわけだろうが、そういう世の中にするための活動をしていく過程で他の人や団体に迷惑をかけざるをえない場合も出てくるかも知れないし、中には迷惑をかけていることを謝りながら活動している人もいるかも知れないが、謝れば済む問題なのかとなると、それだけでは済まないからそういう迷惑をかけている面に関しては他から批判されるのだろうし、そんな迷惑をかける行為を批判している人たちにとっては、そんな行為ができてしまう世の中は改めなければならないだろうし、だから世の中を改める過程のおいて多少の迷惑はかけることもあるだろうが、またそれについて他から批判されることもあるだろうが、批判されながらも他人に迷惑がかかるような社会問題をできるだけなくすように努力しているわけだろうし、そんなことをやっている中から他人に迷惑がかかるような問題が発生することもあるわけで、実際にそうやって現状の世の中で問題点が様々な方面で様々に指摘されているわけだろうが、そういう社会問題の原因となっていることをやっている人や団体のすべてが世の中を良くしていこうとしているのかと言えば、確かにその人や団体にとっては都合の良い世の中にしようと思っているのかも知れないし、それが他の人や団体にとっては都合の悪いことだとすれば、そこでそんなことをやられて都合が悪くなってしまう人や団体からは批判されるだろうし、そういう行為を批判している人たちにとってはそういう都合の悪いことができてしまう世の中は変えていかなければならないと思われてしまうわけだが、それをやっている人や団体にとっては自分たちがやっていることができなくなってしまうとまずいわけだろうから、そこで対立や争いが起こるわけだが、そうした対立や争いからも社会問題の類いが生じてくるのだろうし、今度はそうした対立や争いの起こらないような世の中にしようとする人や団体も登場してくると、さらにそういう人や団体とも対立や争いが起こるかも知れないし、そうやって世の中の情勢はどんどん収拾がつかなくなってしまう方向に拡散していってしまうのかも知れないが、果たしてそういった傾向に歯止めがかかるようなことが起きるのかといえば、それが戦争や経済破綻のような出来事によって世の中がリセットされるようなことなのかも知れないが、実際にそういうことが起こってしまうと多くの人や団体が迷惑を被ってしまうから、やはりそんなことが起こらないようにしようとする人や団体も現れるわけで、しかしそういった人や団体の尽力が功を奏して世の中のリセットが回避されるような事態となれば、世の中の混乱が永遠に収拾がつかなくなって、どうにもならなくなってしまうのかも知れないし、そのどうにもならなくなってしまった状況というのが現状だとすれば、果たしてそれを肯定できるかといえば、それが問題だらけの現状だと認識している人たちにはもちろん肯定できないだろうが、それを様々な問題が様々な方向に拡散し続けていると捉えるなら、要するに一つ一つの問題の中身が薄められてその濃度が低下していることになるのかも知れず、そういった問題の相対化現象が進行中だと考えれば、問題が多すぎてすべての問題を解決することが不可能になりつつあるとしても、ここからさらにそういう傾向を放置すれば、さらに様々な問題が山積してきて、やがて世の中がその重みに耐えかねて崩壊してしまうと予想することもできる一方で、個々の問題自体がだんだんたわいのない内容となってきて、それがどうでもいいようなことでしかなくなってくると、そんな問題が放置されていても誰も何とも思わなくなるような事態となってきて、もはや誰もそんなことを問題視しなくなってしまえば、それが問題ではなくなってしまうわけで、今まさにそういう過程が進行中だと捉えるならば、社会が自己治癒過程にあると言えるのかも知れないし、だからといって問題の解決に向けて尽力している人や団体の活動が無駄で無意味というわけではなく、そういう人たちの活動も含めて社会が自然治癒へと向かっていると考えるなら、そんな現状を肯定してみてもかまわないのかも知れない。
11月2日「教育の弊害」
物事の意味というのはあらかじめ辞書などで決められている以外でも別の意味があるのかも知れないし、誰かが自分勝手に都合のいい意味をねつ造したがっているのかも知れないが、そんな誰かが自身の使っている言葉の意味を理解できないということは、わざと理解できないふりをしているわけではなく、たぶん本当に理解できないのだろうし、理解していることと理解していないことやできないことがあるのだろうが、すべてを理解できるわけでもないのは普通の認識だろうし、理解できないことなどいくらでもあるだろうが、理解していると思っているつもりでも理解しているのとは別の意味も含まれているのかも知れないし、別にそれを知らなくてもかまわない場合もあるだろうが、知る機会も知ろうとしていない場合もあるのかも知れず、普段からいちいち物事の意味ばかり考えているわけでもないし、必要に応じて考えていることでしかなく、その必要がなぜ生じるのかといえば、ただ言葉遣いがおかしいと思われると使っている言葉の意味を調べて、その使い方が妥当であるか否かを判断するときに、辞書の意味に納得できればその言葉の意味を知ったつもりになれるわけだが、それが普段から理解しているつもりになっていた言葉の意味と、辞書のなどに載っている意味が違っていると、間違った使い方をしていたことが発覚するわけだが、その間違った使い方の方が自然に思われるようなら違和感を覚えるわけで、そんなときに勝手に意味をねつ造していたことに気づくのかも知れないが、自分だけでなく他の大勢の人たちもそんな言葉の意味で使っていることがわかれば、間違った言葉の意味の方が社会に定着していることにもなるわけで、勝手に意味をねつ造していたのは自分一人ではなく、世間的な集団意識が言葉をそんな意味に理解していたことになるのだろうし、そうした意識に自分の意識も制御されていたことにも気づくわけだが、それも言葉の意味を調べるような機会があれば気づくこともあるが、その機会がなければ気づかないわけだから、他にも気づかないところで集団意識に制御されている面があるのかも知れないし、それが誰に頼まれたわけでもないのに自主的にやっていることであっても、その自主性にカモフラージュして集団意識にコントロールされている面が結構あるのかも知れず、しかもそうした集団意識というのが人為的に作られている場合もあるのかも知れないし、特にそれが学校などの制度的な教育空間によって育まれている可能性さえあって、そういった場で誰もが同じような意識を共有できるような訓練を施されているから、公共の場などで大勢の人たちが集うような際に団体行動のようなことが割と抵抗感なくスムーズにできるのだろうし、それが行動だけでなく意思疎通などの面でも同じような意識があらかじめ各人の心の中に構成されているから、お互いにわかり合えるようなことになるのかも知れず、そういうところで大した疑念も抱かずに大勢の人たちが同じようなことを同じような意図や思惑でやっているような状況が生じているとすれば、それが学校などでの訓練の成果となって現れているわけだろうが、その場で各人がそんなことまで理解しながら活動しているわけでもないし、それよりは自らの意志で自主的にやっていると思っている割合の方が大きいだろうし、往々にして世の中の多数派がやっているような行為はそういう思い違いを伴っておこなわれている可能性があるのかも知れず、またそれがおこなうというと行動に限定された言い方になってしまっているが、普通に考えていることや思っていることであっても、多数派の考えや思いが一致しているように思われる場合には、そこにそうした集団意識が働いている可能性が高いだろうし、それがネガティブな意味合いを伴いながら群集心理のように形容される場合でも、大勢の人たちが個人や少数の人たちを集団で攻撃しているように見られる行為だと、それが集団意識に操られながらの不快な動作となっているように思われるわけで、そういう動作も義務教育などの学校空間であらかじめ集団行動として訓練が施されているとしたら、それが教育による弊害と見なされるわけだが、そこでも教師などの特定の教育者の意志でそういうことがおこなわれているわけではなく、それさえもそうした人たちが所属する官僚機構などから生じる集団意識によってコントロールが施されているのかも知れず、例えばけが人が出ているのにも関わらず小中学生に人間ピラミッドなどの危険な組み体操をやらせる風習にしても、教師個人がおかしいと声を上げてもなかなかやめさせられないような成り行きが生じてしまうだろうし、そこでたとえ少数の犠牲者が出ても集団意識によって大勢の人たちが操られるような状況を作り出すための訓練の方が優先されてしまうというおかしな状況が生み出されていることが明らかとなるわけだろうが、個人がそれをおかしいと感じてもやめさせられないという状況が義務教育によってもたらされた成果だとするなら、それを成果だと思わせるような空間自体が学校という大勢の子供たちが集まって画一的な教育を受けさせる設備によって構成されているわけで、それは監獄や工場などによっても構成されているし、そこに社会の集団意識が具現化されているとも言えるわけだが、普通はそれを弊害だとは思わないし、実際にそれらの施設の中では生産的なことがおこなわれていると思いたいわけだが、なぜそういう施設やそこでおこなわれている行為に違和感が生じるのかといえば、施設の中では弱い立場の者が逆らえないようなことがおこなわれているからだろうし、そこが自由のない心身が束縛された空間であり、そこで有効に動作するには立場や地位が上の者から命令されると逆らえないようなルールが適用されているからで、それが組織的な権力構造であるわけだが、そこからいかに便利で使い勝手の良い生産物が出てくるとしても、その生産物が人間そのものとなると、何か恐ろしいような気がしてくるわけで、そういう人が物として扱われるような空間が人為的に構成されていることに無感覚となるようにも集団意識が構成されている可能性もあるわけだから、そこで大勢の人たちがやっていることやそれらの人たちの思いに共感を抱くような心境になっていること自体が、たとえそれが好感を持てるような行為や思いだとしても、そういうことに疑念を抱いている人が少しでもいれば、そういう人たちの意見や主張に耳を傾けてみる必要も場合によっては生じてくるのだろうが、すでにそれらの組織的な権力構造がもたらされる同調圧力に屈している人たちには馬耳東風にしか感じられないわけだ。
11月1日「判断の有無」
物事について何らかの判断を下す際には、判断するのに必要な情報が少ないと思われるときには、そこから必要な情報を集めるしかないだろうし、あるいはまだ判断する時期ではないと思われるときには、判断を先延ばしにするしかないのかも知れないが、判断するために必要な情報を集められるかというと、それについても集められるか否かの判断が迫られるかも知れないし、そこでも判断が必要となってくるわけだが、またそれは何をどう判断するかにもよるだろうが、何らかの事情で早急に判断が迫られていたら材料不足でも時期尚早でも判断せざるを得なくなる時もあるかも知れないし、そうなると判断が間違ってしまう可能性もそれだけ高くなるのかも知れないが、そういうことも含めて果たして現状が何らかの判断を迫られている状況なのかよくわからなければ、そもそもそこで何をどう判断すればいいのかといえば、普通はそんなこともよくわからないだろうし、それでもわからないながらも、時にはそれと自覚することなく、あるいは時には意識して何らかの判断を下しているわけだが、そういう判断が結果的に正しかったり間違っていたりすることがわかるときもわからないときもあるだろうし、そういう意味で判断自体がそのときの事情や状況などに左右されてしまい、適切な時期に適切な判断を下せない事態になってしまうのだろうが、それが間違っているかどうかもわからないかも知れないのだから、普通はそんなことをいちいち気にしている余裕もなく、適当と思われる時期に適当な判断を下しているつもりになっているのかも知れないが、そこで何をどう判断するにしても、その判断が正しかろうと間違っていようとあるいはどちらとも判断がつきかねるとしても、そんなこととは無関係にあるいはそれとの関係を意識しながら、判断に基づいた何らかの行為や活動をおこなっているときもあるいはおこなっていないときもあるかも知れないが、自分だけが判断しているわけではなく他人も判断しているわけだから、そういう他人の判断に影響を受けて自分も他人と同じような判断をしてしまっているときもあるわけで、そういう場合は他人の判断に自分の判断が影響されてしまって、勝手に判断が下せないような事態となっていて、もとより自分の他に人が大勢存在している社会の中で暮らしているのだから、自分の都合で自由に判断できるという状況はありないのかも知れないが、そうなっている限りで自分の判断というのもそれほど重視する必要もないのかも知れないし、それも時と場合によりけりだろうが、そこで何をどう判断してもそれなりの結果がもたらされる場合も何ももたらされない場合もあるのかも知れず、そうであっても何かしら正しい判断を心がけるのだろうが、そこで何をどう判断したからといって、それによって何がどうなるわけでもない結果に直面したら、自らの力量のなさや社会的な影響力が皆無であることを痛感させられるだろうし、そんな結果を受けて若ければ立身出世を目指して自らの社会的な影響力を増大させようとするかも知れないし、あるいはもう若くなければあきらめて身の丈に合った精神状態を保とうとするかも知れないが、どちらにしても社会が存在している限りでそんな対応がうまくいくような幻想を抱けるのだろうし、自分一人では何をどうすることもできないから自分に協力してくる仲間を探そうとするかも知れないし、また仲間が見つかったとしてもその仲間との折り合いが悪ければけんか別れしてしまうかも知れないし、そういう仲間との関係を時には絶対視したりまた状況に応じてあくまでも相対的な信頼関係に過ぎないと謙虚に受け止めたりしながらも、協力できる範囲内で何らかの共同作業をおこなうこともあるかも知れないし、さらに仲間とも思ってもいないのに、それどころか敵対関係にある他人とも、何らかの形でそれと自覚しないで共同作業をおこなうような成り行きになってしまうこともだろうし、そういう成り行き考慮するなら仲間とは仲間というレベルで信頼関係に基づいて協力関係を維持するとしても、別に仲間でなくてもあるいは敵対関係にある人であっても、必要に応じて協力して何かを行う成り行きになることもあるだろうから、そういうことを念頭に置いて活動していかなければならない場合もあるだろうから、そうやってそこで生じている様々な関係に応じた共同作業を模索しながら活動していくしかないだろうし、それでも何が最善のやり方というわけでもないにしても、その場で可能なことをやり続けている限りで、それなりに自らがやっていることについて肯定的な幻想を抱けるなら抱いていてもかまわないだろうし、たとえそれが自らの現状や境遇からかけ離れた勘違いな妄想であっても、そういう妄想を抱いていること自体は肯定的に受け止めるべきかも知れないし、妄想を抱かせるようなことをやっているだけでも、それなりにやっていることがうまくいっていると受け止めてもかまわないのであり、その結果として大した成果が伴わなくてもかまわないだろうし、何かしら成果らしき結果をもたらしたと思われる限りで自己満足に浸れるのであり、それはそれとして卑下したり否定的に受け止める必要はないわけで、そういうところで変に卑屈になる必要もないし、端から見ればどうでもいいようなことだと思われるかも知れないが、そんなふうに思っている人も端から見ればどうでもいいようなことを懸命におこなっているかも知れないし、それはお互い様な面もあるだろうから、そういう意味では他人がどうでもいいようなくだらないことを一生懸命やっているのを見ても、あからさまな嘲笑を控える心の余裕があればいいのかも知れないが、時にはそんな他人の行為を笑ってしまうだろうし、そういう行為を嘲笑して小馬鹿にするような人は心の余裕がないのかも知れないし、そういう他人の行為を小馬鹿にするような行為もどうでもいいようなくだらないことに含まれるのだろうし、そういうところでもどういう反応をすればいいのか判断がつきかねるところだろうが、たぶんどう判断してみてもそうした判断に応じた結果がもたらされたりもたらされなかったりするだけかも知れない。
10月31日「試練の認識」
人が何らかの困難や苦境に直面した際には、それがその人にとっての試練の時だと思うこともあるだろうし、またそうした試練をくぐり抜ければ精神的に強くなれると思いたい人もいるかも知れないが、そんな思い込みだけで試練をくぐり抜けられるかというと、それだけでは無理な場合もありそうだが、果たしてそれが誰にとってもくぐり抜けるべき試練なのかといえば、それ以前にそれとは何かと問われる必要が生じてしまうかも知れないが、例えば現状の中で政治的な主導権を握っている勢力が、自分たちが困難や苦境に陥っているという認識を抱いているかといえば、少なくともその中の誰かはそう思っている可能性もあるかも知れないが、実際にそれらの勢力の権力基盤が盤石であれば、全体としては何でもないような状況でしかなく、そうであれば現状への緊張感が欠けているといえるのかも知れないが、そんなことはお構いなしに事態は誰の思惑とも関係なく推移し続けているのかも知れないし、それが何を示しているとも思えなければ、そこで何がどうなっているのかを説明できないかも知れないが、少なくともそこで生じていると思われる困難や苦境の程度というのが、別に乗り切れなくても克服できなくてもかまわない程度であれば、ではどうすればいいのかとなるかも知れないが、それがどうもしなくてもかまわないのなら、果たしてそれが困難や苦境だと言えるのかともなるわけだが、それでも世間的には困難や苦境と見なしたいのかも知れないし、メディア的にもそれが困難や苦境だと表現しないと、そんな事態に関する言説が成り立たなくなってしまうのかも知れないが、ならば現状の中で感じている困難や苦境とは、それに関する言説を成り立たせるためにあえてそうであるかのように見せかけるための申し合わせが暗黙の了解事項としてメディアや世間に行き渡っているからこそ、それが切り抜けるべきあるいは克服すべき何らかの試練として困難や苦境が設定されているとなると、それが何やら人為的な措置であり、あたかも偽りの困難であって苦境に見せかけているだけで、本当はそうでもないような余裕綽々の状態なのかといえば、もちろんそんなふうに思っている人は誰もいないだろうし、実際に現状の世界では多くの人が様々な困難や苦境に直面していて、その中で人と人とが争い傷つけ合って他人から弱みを握られたり集団の中でいじめられたり悲惨な境遇の中で、それなりの人たちが自殺に追い込まれたり野垂れ死んだりしているわけだが、またそんな中でクズやゴミやチリや芥のような人たちも大量に発生していて、そういう人たちに生じている薄汚く気が滅入りそうな事情を挙げるときりがないわけだが、それらも何でもないことの一部に過ぎないと見なしてもかまわないのかとなると、そんな渦中で嫌な思いや腹立たしい体験をしている人からすればふざけるなと憤るかも知れないが、それが日常茶飯事であるなら依然として何でもないことだろうし、たとえいじめられて自殺する人が出たとしても、そんなのも何でもないことの範疇に入ってしまうことであり、毎年のように交通事故で死ぬ人が出るように、毎年のようにいじめによる自殺者が出ているだけであり、それへの対策も通り一遍のように講じられているだけだろうし、人が死ぬという出来事の原因がどのようなものであれ、その中には交通事故死もあるしいじめによる自殺もあるわけだが、そういうありふれた事態が日常茶飯事であり、現状の中ではいくらでも起こりうることであれば、果たしてそうなっていることが困難や苦境に思われるかとなると、少なくとも当事者以外はそうは思わないのかも知れないし、実際にそうは思われていないからこそ、多くの人たちが平和で安定しているように思われる世の中で惰眠をむさぼっていられるのかも知れないが、それが否定すべき事態なのではなく、肯定して好意的に受け止めるべき事態だとしたら、そういう態度が人として現状に対応した妥当な在り方なのかも知れず、現状に対応しておこなわれていることの中には確かにひどいと思われるようなこともいくらでもあるのだろうが、そうした様々におこなわれていることが現状を構成している面もあるだろうし、そんな現状を肯定することが現状の中で存在している自らをも肯定することにつながり、自らの存在と行為を肯定することによってそれを含んでいる現状を肯定することにもつながるわけだが、その中で否定すべき存在や行為が確認されるなら、それと自らの存在や行為とは分けて認識するしかないだろうし、そういった否定せざるを得ない現状の側面を意識の中でどう処理すればいいのかに関して思い悩むこともあるだろうが、それに関する妥当な態度としては現状には肯定できる面と肯定できない面とがあると認識するしかないだろうし、その肯定できない面を放置するとなると、それを放置していること自体が否定されるべき態度だとすれば、そんな自らを肯定するわけにもいかなくなるだろうし、そうなるとそれでもなお自らを肯定して自らを含んでいる現状も肯定したいのならどうすればいいのかと問われてくるわけだが、現状に働きかけて肯定できない面を放置せずに、少なくともそれが改善するようなことを試みなければならないわけだが、果たして現状の中でどれほどの人がそういうことができる立場や境遇にあるかとなると、そういうことをやろうとする人が多ければ多いほど現状が改善される可能性が高まると思いたいわけだが、実際にはそうした現状を改善させるための試みや努力が功を奏さないとうまく現状が改善しないだろうし、その結果として現状が改善するどころかますますひどい面が拡大するようなら、そうした試みや努力がうまくいっていないことになるわけだが、果たしてその実態がどうなのかとなると、見ての通りの惨状となっているとすれば、それが惨状だと否定的に捉えている人にとっては、現状を否定的に見なすしかないような態度となるだろうし、そう見ている人が多ければ多いほど現状が否定的に捉えられていることを示しているはずだが、それもそういう面を見ようとしない人にとっては何でもないことであり、そんな人にとっては現状の否定的な側面が無視してもかまわないようなことに含まれてしまうわけだが、実際に無視しても放置しても何ともなければそういう態度がまかり通ってしまうわけだから、そうである限りでそういう態度の人たちにはどうということはない現状でしかなく、別にそれが試練であるとは思われないわけだが、実際にも困難や苦境に直面していなければそのままとなってしまうのではないか。
10月30日「生きる価値と死ぬ価値」
特定の人に価値があるかというと、それは人にもよるだろうし、その人の利用のされ方にもよるだろうが、一般的にはそれは利用価値や使用価値という価値であり、他にどんな価値があるかとなると、にわかには思いつかないが、それらの経済的な価値や権力的な価値の他に価値があるとしたら、例えば他人から好かれるような魅力があれば、それが価値として他人に認識されるかも知れないが、その人に魅力が感じられなければ価値がないのかとなると、他人にとってはそうかも知れないが、自分にとってはうぬぼれが強ければ、当然のことのように自分に価値があると思われるわけだが、では自分にとっても価値があるようには思われないとなると、実際に価値がなければそれが自殺に結びつくかとなると、ものは考えようで生きる価値がないとともに死ぬ価値もなければ、わざわざ自殺しようとは思わないかも知れないし、そういうところでもし生きる価値がないから自殺しようと思っている人は勘違いをしている可能性があるのかも知れず、その人に価値がなければ生きる価値とともに死ぬ価値もないと思っておいた方がいいだろうし、価値がないからといって別に生きるのをやめる必要はなく、単に価値がないということはただ価値がないということに過ぎず、それ以外に意味がなければそれはその人の生死とは無関係なのであり、そう考えれば価値がないからといって、それが生きようとしていることとも死のうとしていることともつながらないはずで、また価値があるからといって生きようとしているのでも死のうとしているのでもなく、生きる価値があろうとなかろうと死ぬ価値があろうとなかろうと、生きている状態が保たれていれば生きていて、保たれなくなったら死んでしまうだけで、その状態に価値を結びつけようとするのがそもそもの勘違いなのかも知れないし、要するにそれは人を価値という尺度で物象化しているだけで、確かに資本主義経済や国家的な統治制度の中では、貨幣や権力という尺度によって人の価値を計ることで、そうやって人の物象化が進んでしまうわけだが、そういう概念に意識がとられることによって価値というフィクションが構成されて、それが人を測る尺度として信じられている限りで、その人に価値があったりなかったり、また価値があったらあったでどれほどの価値があるかで人と人とが比較されて格差が設けられたりしているわけで、知識としてそういう価値の原理を理解していれば、それを人の生死に結びつけるのはあまり意味も根拠もないことであるのがわかるはずだが、そうだとすれば生きている価値がないから自殺するという発想は完全な勘違いであり、人は生きている価値がなくても生きていられるし、死ぬ価値がなくても死ぬ価値がないからこそ生きていられるわけで、死ねば多額の保険金が入るとしても、それが自殺だと発覚すれば支払いを拒否されるだろうから、自殺には功利的にも価値がないことになるだろうし、だから少なくとも自殺しようとする人は自殺には金銭的な価値がないことがわかれば、そんな価値のないことをやっても意味がないことを理解できるはずだが、そこでも勘違いが生じていて、価値がないから自殺するのではなく、自殺する人は死ぬことに価値を見いだしている可能性もあるわけで、自らが自主的に死のうとするのだから、そこにその人の意志や主体性が働いているはずで、それが世間一般の価値についてのイデオロギーに洗脳されているから、死ぬことに価値があるという理屈に無自覚となってしまっていて、その人が無意識のうちに生きている価値がないのと同時に死ぬことに価値を見いだしていることに気づかない可能性が高いわけで、そういう意味で生きている価値がないから自殺すると思い込んでいる人は単に思考力や論理的な理解力が足りないのかも知れず、またそれは生きていることに価値を見いだせなければ死んだ方がいい、という貨幣や権力からもたらされる単純化された紋切り型的でイデオロギー的な論理に心を囚われている証拠かも知れないが、生死に関する本来の理屈からすれば生きることにも死ぬことにも価値が見いだされるはずで、どちらにしても人がおこなう行為ともなれば、そうすることに価値が見いだされるからそうしようとするわけで、それでも一般的には死ぬことが否定的に見られているから価値がないかのように思われるのも無理はないにしても、病気や怪我などによって他からもたらされるのではなく、それなりの覚悟や事情があるにしても自ら進んで死のうとするわけだから、やはりそうすることに価値を見いだしているから死のうとしているわけで、そんなことはないと否定するかも知れないが、その人にとっては死ぬことに価値を見いだしているとしか客観的には見えないだろうし、そういう意味で生きる価値がないから死ぬという論理は間違っているわけだが、論理よりも感情が勝ってしまうのは当然のことで、生きることに絶望してしまえば後は死ぬしかないと思われるだろうが、生きることに絶望しても生きていてもかまわないし、自殺がばれてしまえば保険金もおりないだろうから、通常では自殺には金銭的な価値はないのかも知れないし、自殺すれば遺族に大金が入るような策略を巡らせれば事情も異なってくるだろうが、現実に起こっている多くの自殺はただ死のうと思って自殺するわけで、死のうと思うこと自体が死ぬことに価値があると思っていると受け取られてもそれほど間違ってはいないのかも知れないし、そうやって人を価値という尺度で計ろうとすること自体が人を物と見なす物象化の論理にはまっている証拠であり、経済的あるいは権力的なイデオロギーに意識が染まっているわけだが、そういう国家と資本主義の洗脳から抜け出すには、まずは何でもかんでも世の中にあるすべての物事に価値を見いだそうとする意識の誤りに気づかないとならないわけだろうが、価値があれば良くて価値がなければ悪いという論理に当てはまる物事もあるにはあるが、価値がなくてもかまわないような物事の方が遙かに多いだろうし、その中には人の生死も含まれる場合もあるだろうし、生きることにも死ぬことにも価値がなければ、そう思っている間は価値があるだのないだのの功利的な価値判断とは無縁でいられるだろうし、そうは思えないから思い悩む場合の方が多いのかも知れないし、自意識過剰やうぬぼれという心理作用もあることだし無理はないが、自分が生きていようと死んでいようと、自分の存在を知らない人には関係のないことであり、知っていても何とも思われなければ価値がないまま生きていることになるわけで、だからといってそれがどうしたわけでもないだろうし、単純に他人から良く思われなければそういうことでしかないわけだから、少なくともそれ以上は何でもないわけだ。
10月29日「予言と陰謀論」
世間の注目を集めるような出来事から人が何を知り得るかというと、それに関するありふれた傾向として、現状で起こっている出来事の中に何かの予兆を察知して、それをきっかけにして起こる未来の出来事を予言せずにはいられない人が世の中には大勢いることは確かだが、この先にどんな出来事が待ち構えていようと、果たして予言者の都合を反映するような出来事が起こるかどうかは何とも言えないところであり、その何かが起こる予兆を察知したと思われるのは、これまで起こってきた数々の出来事から共通の傾向を導き出して、そうした傾向の延長上で起こるようなことを予想しているわけだから、そうした予想を裏切るような思わぬ事態が起こることは予言できないわけで、そこに予言の言説の不都合な限界があるわけで、そうしたもっともらしいことを予言する人を信じるか信じないかはその人次第な面があるにしても、信じる人が多ければ多いほどそれが起こる期待が高まるはずだが、果たしてそういう期待の高まりがそれが起こる可能性を高めるかといえば、それも何とも言えないようなことだろうし、それでもたぶんその何かが起きたときがそれに呼応して何かをやるチャンスなのであり、そうした期待を抱いている人たちにとってはそこで何が起きるかが肝心なのだろうが、少なくとも騒ぎが起きれば、騒ぎのどさくさに紛れて誰かが何かをやろうとするだろうし、そのときが来るのを虎視眈々と狙っている勢力がいるとしたら、それがどんな勢力なのかといえば、現状ではまだはっきりとはまとまった勢力になっていないのかも知れないし、騒ぎが起きたときの情勢に合わせて何らかの形や傾向にまとまるのかも知れないが、またそうなった結果からそんな状況の中で主導権を握った何らかの勢力が、当の出来事が起こるように裏で糸を引いていたような陰謀論がささやかれるわけだが、果たしてその現状の中で起こっているように思われる何かの予兆と、その予兆の延長上で起こるとされる未来の出来事と、その出来事が起こるように裏で糸を引いている何らかの勢力に関して、果たしてそれらが現時点でつじつまが合うようなもっともらしいことを述べられるかというと、予言者気取りの人もそこまでは述べていないはずで、予言者が述べられるのは、まずは何らかの予兆が起こっていることであり、またその予兆に起因する出来事が近未来に起こるということを予言していて、そこまで語ることが予言者に割り当てられた範囲なのだろうし、その一方で陰謀論者が割り当てられた範囲で語ることは、すでに起こってしまったことに関して、それが起こるように裏で糸を引いていた何らかの勢力の企みであるだろうし、両者が述べていることが一直線につながれば、何かつじつまが合うようなもっともらしい物語が完成するわけで、実際にそうなればそれは驚くべきことだろうし、果たしてそんな予定調和のように事態が推移するのかはにわかには信じられないだろうが、結果からつじつまを合わせようとすればそれなりにもっともらしい話を構成できるのかも知れないが、そういうことではなくそこから外れて注目すべきなのはむしろそれ以外の出来事や事態であり、それが思いがけない出来事や予想外の事態であれば驚くべきことなのかも知れないし、そうした出来事や事態が起こることに期待すべきかも知れないが、そうであるなら予言者や陰謀論者の思惑通りや予想通りになってほしくないと思っておいた方が、それなりに人生を楽しめるのかも知れず、そういう人生とかいうありふれた表現では物足りなければ、絶えず事件の目撃者となることを目指すべきであり、しかもそこで予定調和の物語を構成しようとするのではなく、絶えずそこから外れる要素に目を向けるべきで、未来への希望はそうした要素から芽生えてくると信じた方がいいのかも知れず、現状で起こっている出来事に新たな要素が付け加わることによって実際に現状からの離脱がもたらされるわけだが、そういう態度や姿勢になれるかというと、それをやろうとしてできるかできないかのレベルを超えて、思いがけずに否応なく予想外の出来事としてそれがもたらされてしまう事態もあり得るわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、事前にそれが起こる予兆を察知できなかったから思いがけない事態が起こり、それに唖然としてただ驚くしかないような状況となってしまうのだろうし、そういった予想外の状況の中でそれに対応するのに精一杯で、積極的に立ち向かうような成り行きにならなければ、茫然自失のままとなってしまうのかも知れないが、そんな中でも生き抜いている状況になっていれば、実際にそんな状況の中でも何らかの対応や対処ができているから生きていられるわけで、そんな状況の中ではこれから起こることを予言したり、起こった出来事の裏で糸を引いている勢力の存在を妄想している余裕はないだろうし、それだけ切羽詰まった状況の中で必死に生きていることになるわけだが、その一方でそれとは違ってこれから起こることを予言したり起こった出来事の裏で糸を引いている勢力の存在を推理したりしている人たちは、いったいどんな状況の中で生きているのかといえば、そんなことをやっている余裕のある状況の中で生きているわけで、そんな状況があるということは、それらの人たちにとっては切迫した状況となっているわけではなく、予言したり妄想したりするだけの余裕があり、現状が予想外の驚くような事態でもないだろうし、もちろん現状の中で茫然自失となっているわけでもないだろうが、ではそんな現状で余裕綽々の人たちが予言する危機的な未来というのを信用できるとかとなると、もちろん信用する人も大勢いるのだろうが、ならばそんな余裕綽々の人たちが妄想する陰謀論の類いが、本当に世界の危機的な事態を物語っているのかといえば、もちろんそんな事態になっている可能性もあるのかも知れないが、ではそれが驚くべき未来を予言していて陰謀論が驚くべき事態を物語っているのかといえば、その通りであると思ってしまうこと自体が予定調和なのであり、それらの人たちにとって予想通りの思惑通りである限りで、そうなってしまうこと自体が別に驚くべきことではないわけで、それでは思いがけないことではないのであり、それらの人たちが茫然自失となってしまうようなことでもなく、そんなことに期待しているようでは情けなくなってきてしまい、何かもっとすごいことが起こってほしいようにも思われてしまうわけで、もっとすごいことが何かといえば、それらの人たちが真に驚くようなことが起こってほしいわけで、そんな未来がやってくることを期待してしまうわけだ。
10月28日「立場の循環」
現状の世の中で様々な問題が複雑に絡み合っているように見えるなら、それだけ問題の解決が難しいことを示しているはずだが、そうした数々の問題を抱えながらも普通に成り立っているのが現代社会だと考えるなら、問題を指摘する人にとっては普通にそんな社会が存在しているわけではなく、深刻な問題が山積みになって今にも社会が壊れてしまいそうで、まさに危機的な状況だと思われるわけだが、それが極めて自然な普通の状態と捉えるなら、では普通ではない状態とは何なのかということになるわけだが、たぶん普通であってもなくても何でもないのかも知れず、その何でもない状態が現状のこの状態だと捉えるなら、危機的な状況だと思っている人にはそんなのは間違っていると思われるだろうが、たとえ間違っているとしてもその間違え具合が何でもなければ、それが不条理とかそういうことではないのかも知れず、そうなっているのが当然の状況であり、それに関して問題を指摘する人がいくらでも出現する状況が生じているわけだろうが、そういう人たちを生み出しているのも他ならぬ現状の世の中なのだから、それもひとつの生産的な社会であることを示していて、社会問題によって生かされるような人を大勢養うような状況となっているわけで、ある意味では社会を活気づけているのが社会問題を指摘する人たちであるわけだが、それらの人たちが問題を解決できるかとなると、解決しようとは試みるだろうが、そうした役割を専門に担う人や勢力も別にいたりして、それが制度によって世の中を統治する政府などの行政機構であるわけだが、その制度自体も社会問題を生じさせている面もあるわけだから、制度を改革するために政治勢力も存在していて、そうした政治家や政党などの政治勢力が社会の問題を指摘して、その原因が制度にあると主張しながら改革を目指すことになるわけだが、そもそもそういった試みがうまくいっていないから問題が深刻化して世の中が危機的な状況となっているわけだろうが、制度を改革すればうまくいくという単純なことでもないだろうし、それどころかそうした制度的な不具合や欠点が他ならぬ制度自体を支えている場合もあるのかも知れず、実際にそこから利益を得ている人や企業などが結構存在しているだろうし、そういった制度を改革してしまうとそれらの人や企業の利益が失われて困ってしまうわけで、それらが抵抗勢力として改革を阻むような成り行きとなってくるわけだが、企業だけでなく行政機構自体がそういった既得権益の上に成り立っている実態もあるわけだから、力関係としては改革を試みようとする勢力よりも改革を阻む勢力の方が強い状況となっていて、そうであるから問題の解決が難しいわけだろうし、しかもそうであるからそれが何でもような当然のこととして、そういう状態が世の中でまかり通っているわけで、そういう何でもなさになれきっている人たちからしてみれば、そういった状況の何でもなさに挑戦する人や勢力が滑稽に感じられるわけだが、ではなぜそうなって当然な状況が問題なのかといえば、普通に考えるなら人として道義的にも倫理的にもおかしいと思われる面があるわけで、そういう社会のどうしようもない傾向や仕組みによって多くの人が不幸に陥っていると思われるのだろうし、そうした不幸を何とかしてなくそうと試みることが、人としての道義的で倫理的な態度だと感じられてしまうわけだが、それに抵抗するような勢力が実際に存在することが明らかとなり、しかもそれらの勢力が社会の中で主導権を握っているのが明らかとなるにつれて、何か世の中がおかしいと思われてしまうわけで、そんな自らが利益を得るのと引き換えにして他の人たちを不幸にするような行為が正しいやり方であるはずがないと思われるのだろうが、実際に世の中がゼロサム社会であれば誰かが幸福になった分だけ他の誰かが不幸になるような理屈がなり立つのかも知れないし、本当にそんなことがあり得るのかというと、特定の人や団体への富や権力の集中とともに部分的にはそうなっているように思われるだろうし、それもそうなるのが当然の成り行きにも思われるわけだが、しかもそれらの勢力に立ち向かうには富と権力を集中させないと太刀打ちできないわけだから、そうやって特定の勢力に富と権力を集中させると、それが社会のひずみとなって他へと波及して社会問題化するわけだろうし、そんなふうにしてまさに自分たちが批判していることを自分たちがやる羽目になってしまうことが問題の解決を困難にしているわけで、ではそうした堂々巡りの負の連鎖を断ち切るにはどうすればいいかとなるわけだが、果たしてそれを断ち切るようなすべがあるかとなると、それ以前にそうなっていることに誰もが気づいてすらいない状況なのかも知れないし、そうであるならまずは自分たちが批判している対象に自分たちがなっていないかを検証してみることも重要な問題解決への一歩となるのかも知れないが、そもそも自分たちはそうではないと主張することによって批判する立場を占めているわけで、そうでないと他から信用を得られないだろうが、まさか批判している当の対象と自分たちも同じだと宣言して批判するような輩を信用できるかというと、少なくとも批判している対象と自分たちとは違うということを示すことが批判そのものの趣旨となるわけで、逆に違いが大きいほど信用度も高まるわけだから、それを示すには対立して激しく争わなければならないわけだが、しかもそうやって激しく争うことによってそれ自体が社会問題化してしまうわけで、そんなことがきっかけで暴動などが発生すれば結局社会問題を作り出す勢力のレッテルを貼られてしまうわけで、問題を生み出している勢力を批判して対立をあおって争いを激化させることが、新たな社会問題を生み出してしまうことになるわけだから、そんなふうにして様々な問題を複雑に絡み合わせて問題の解決が難しくしているのが当の問題の解決に取り組んでいるつもりの批判勢力となってしまうわけで、しかもそれがなるべくしてそうなってしまうような当然の成り行きだとしたら、それもある意味では何でもないようなことであり、そうやって深刻な問題が山積みになってしまうのも社会のあるべき姿として定着しているのが現状の世界そのものなのではないか。
10月27日「期待の先送り」
他人がやろうとしていることに関してそれがやってみなければわからないことであるにしても、他人のやっていることに期待するということにどれほどの勇気がいるかとなると、それはそのやろうとしていることの中身やその場の状況にもよるだろうが、信頼できそうな人がやるのならとりあえず期待するかも知れないし、その人が信頼できるか否かを判断するにはその人がやっていることの内容やその人の人柄から判断するしかないかも知れないが、直に話してみた感触から判断することもあるだろうし、世間的な評判も判断材料にするかも知れないし、そうやって誰もが信頼できそうに思われる人が中心となっておこなわれることに多くの人が期待を寄せて支持したり支援したり応援するような成り行きになれば、それが政治的な行為であれば草の根的な支援の輪が世の中に広がっていって、全国規模の大衆現象を巻き起こして選挙を経て大きな政治勢力を形成する可能性も秘めているかも知れないが、そういう夢みたいなことを実現しようとしている人に期待を寄せる勇気がどれほどの人にあるかは、やはりそれをやってみないとわからないことであり、実際にそれをやってみればわかることでもあるわけだが、たとえ冗談のような結果が待ち受けているとしても、それはそれで興味深いことであり、そういう行為に人々がどれほどの期待を寄せているのかは誰もが知りたいところかも知れないが、それが他人の行為に期待するという幾分他力本願的で無責任な思いから、そういった行為に積極的に関わってその人の仲間になるという気持ちに変われば、何やらさらに政治参加しているような気持ちになれるかも知れないが、それは政治という行為のひとつの段階であり、その先にさらなる政治を執り行う段階が待ち受けているわけだろうが、それが何らかのきっかけになるというか、発端としての始まりになって、そこから事態が変動してゆけば人々の期待もいやが上にも高まっていくのかも知れないが、期待通りに物事が運ぶかどうかはやはりやってみてからでないとわからないことだろうし、絶えずその先へと期待がつながっていくのかも知れないが、どこで見切りをつけるかは人それぞれに思い入れの程度が異なるだろうから何とも言えないところだが、やっていくにつれて期待がどんどんしぼんでいくようなら、ある程度のところで見切りをつけて期待外れの烙印が押されてしまうのかも知れないが、そうならないためには絶えず期待を抱かせるような創意工夫が求められるのだろうし、次から次へとあの手この手で人々の興味をつなぎ止めておくような仕掛けを用意して、それが何らかのイベントであれば古代ローマのパンとサーカスのような見世物政治と化してしまうのかも知れないが、そういったごまかしやまやかしでは満足できなければ、例えば人々の生活を満足できる程度にまで引き上げることが急務となってくるわけだろうが、それが気分や印象などの操作でないことを証明するにはちゃんとした統計的なデータによって示すしかないわけだが、もちろん都合のいいデータばかりを見せておいて都合の悪いデータが人目に触れるのを避けるような仕掛けが施されていると、それが発覚すれば信用を失うだろうし、そうであってもそういったごまかしやまやかしが政治にはつきものかも知れないが、そもそもなぜ人々が政治に幻想を抱いて期待を寄せるのかと言えば、他の物事には幻想を抱けないからかも知れないし、逆に他の物事に幻想を抱いている人なら、わざわざ政治に幻想を抱くことはないのかも知れず、そうであるなら昨今の政治的な無関心層の増加というのは、もはや政治には愛想を尽かしてあきらめているか、あるいは他の物事に幻想を抱いているので政治に幻想を抱く必要を感じられないかのどちらかかも知れないが、そういうことではなく政治に求めているのは幻想などではなく実質的な何かとなると、それが人々が望んでいる何なのかと言うことになるだろうが、何も望んでいなければそんなことには無関心になってしまうだろうし、もっとストレートに言うならもういい加減にごまかしやまやかしによって人々をだますのはやめにしてほしいと思うのなら、それが極めてまっとうな意見となるだろうし、人々に幻想を抱かせるのではなく、単に現状をありのままに見せてほしいと言うことであれば、それに関する客観的なデータを見せて判断してもらうしかないわけだが、果たしてそれが客観的なデータと言えるかとなると、どんなデータであろうとそれを見せる側の都合が反映したデータには違いないわけで、データの取り方によってそれを見せる側の意図や思惑が透けて見えるようなら、そういうことを考慮して判断するしかないわけだが、他の国や地域と比較した相対的なデータではなく、そうではないような何かを求めているとなると、それは政治に対して求めていることではない場合もあるだろうし、政治には実現できないようなことかも知れないが、それでも現状の政治がおかしいと思うなら、最低でもおかしくないような政治をおこなってほしいとは思うだろうし、その程度の期待であれば特に幻想など抱く必要もなく、もっとマシなことをやってほしいという期待でしかないわけだが、そのもっとマシなことをやってほしいという期待が大して切実に思うような期待ではなければ、たとえマシなことがおこなわれていなくても、政治とは所詮そんなもんだろうと思う程度のことであり、それを大げさに批判している人たちがかえって鬱陶しく感じられるようだとそう思っている時点で政治を執り行っている側の思うつぼなのかも知れないし、そうでなければ現実にどうやってもこれ以上のマシなことができないような状況となっていて、できる限りで最善を尽くしているのに、それが部外者からすればどうということはないように感じられて、だからもっとマシなことをやってほしいと思われてしまうのかも知れないし、それも実際に当事者としてやってみて初めてわかるようなことでしかなければ、結局は現状でやっていることを批判している人たちにやらせてみるしかないのかも知れず、そういうことを考慮するなら憲法上の主権者に位置づけられている人たちが最低限踏まえておかなければならないことは、もっとマシなことをやってもらいたかったら現状を批判している勢力にやらせてみてから判断するしかないということであり、そうでないと現状で何かできるのかがよくわからないままとなってしまうのかも知れない。
10月26日「流行現象」
世の中で実際におこなわれていることの中には、妥協の産物であるような行為もあるだろうし、また長年の因習や慣習をいじりたくないような思惑が働いて、結果的に中途半端なことがおこなわれている状況もあるのかも知れず、そういうことも含めると必ずしも最善の対応がとられるような成り行きにはなっていないだろうし、それはいつの時代でもどんな世の中でもそうであったのかも知れないし、現状でもこれからもそうであり続けるのかも知れないが、そういうあやふやなこととは別に具体的に個々の事例の中では何がおこなわれているのかと言えば、その場の事情や経緯がおこなわれていることに反映されているわけだろうが、それに関してたとえ合理的に考えて正しい主張や論理が反映されていなくても、それに関して様々な方面でいくら不満や憤りが渦巻いていようと、そこで生じている組織的な権力構造から生じる力関係や経済関係から外れている人が何を言っても無駄な場合が多い一方で、実際に直接おこなわれていることに関係する役職に就いている人であっても、そこで生じているシステム的な動作を外れて何をやることもできなかったりするわけで、ではどちらにしても創意工夫をこらせないのかというと、たぶん偶然に巡ってきた機会を捉えて何かをおこなっているわけで、そこにその人の意図や思惑が反映されていなくても、結果的にはその人の創意工夫が生かされていたりもして、そういう機会に恵まれなかった人はどんなに立派な主義主張を持ち合わせていようと、また世の中の役に立つアイデアを思いついていてそれをおこなうように主張していようと、誰からも見向きもされないような境遇の中で孤立無援となっていたり、ひどい場合にはデマや中傷によって心ない人たちから叩かれていたりもするわけで、しかも当人が立派な主義主張だと思って自らの主義主張をしきりに自画自賛していても実態はそうでもなかったり、いくら画期的なアイデアだと思い込んでそれを世間に向かってアピールしていても、実際にそれを試す機会がない限りは証明できないような代物であったりもするわけで、そんなふうにしてその人の主張や考えが反映されないような状況となっていると、その人にとっては不幸なことかも知れないが、他の大多数の人たちにとってはその件に関しては何でもないようなことでしかないのかも知れず、それでも若干の人たちはそれとは別の件では不満を抱くような状況かも知れないが、それも不満を抱いている人がかなりの数に上っていようと、そういった人たちの思いを抑え込むような権力的な圧力や経済的な事情が生じていれば、それらの人たちの思いを晴らすような成り行きにはなかなかならないだろうし、それどころか機会を捉えて全く別の方面で誰も望んでいないようなことが割と簡単に実現してしまうのかも知れず、またそういったことがさらなる世の中のゆがみを生じさせてしまい、それを是正するのに多大な労力と莫大な費用と長い歳月を要するような成り行きが生じてしまうことすらあるのかも知れず、そういう事情や経緯がひとつやふたつではなくいくつもが積み重なって絡み合っているような状況が現状を構成しているのだとしたら、そこに数多くの人の努力や尽力が無駄に費やされている現実があるとしても納得できるのかも知れないが、それでもその中のいくつかが有効に機能して世の中を何らかの方向や傾向に導いていると認識するぐらいなら許されるのかも知れず、実際にもすべてが無駄とはなっていないからそれなりに世の中の状況が変化しているのだろうが、それに関して批判的な態度に凝り固まっている人なら絶え間なく状況が悪化し続けていると認識しているのかも知れないし、いつ何時でも警鐘を鳴らし続けていないと気が済まない人も中にはいるわけだが、それがその人の役割なのかというと、誰に頼まれたわけでもないのにそんなことをやっているとしたら、そういう行為は世間から無視されるしかないわけだが、そういう人が多ければ多いほどそういう人たちの努力や尽力によって世の中がそういう人たちの意図や思惑を反映するように変わっていくと思いたいのだろうが、果たして現状の中でそういう兆しを感じられるかというと、そういう人たちに近い人ほど感じられて、そういう人たちに無関心な人ほど感じられないのかも知れないが、偶然の巡り合わせが作用してそういう思いとは全く別の方面から思いがけない影響が及ぼされているとしたら、やはり誰もが期待していないようなことが起こっていて、誰もが思っても見ないような成り行きが進行中なのかも知れないし、それに誰もが気づいていないとすれば、何かあっと驚くような変化が起こるのかも知れないが、それもある種の変化への期待であるわけだが、ただ漠然とそう思ってしまうことが何を意味するのかと言えば、それと自覚することなく状況の本質を捉えているからそう思ってしまうのかも知れず、それは理屈に合わない現状の本質を捉えているからそう思われるわけで、そうやって誰の筋書き通りでもない状況の変化が起こりつつあるとしても、結果から考察すれば自ずから誰かの筋書き通りのことが起こったと解釈できるのかも知れないが、それがそう思っている解釈者の筋書き通りであることはいうまでもないことだが、確かに解釈者にとっての都合の良い要素を切り貼りすればそうなるとしても、都合の悪い要素をいくらでも無視できるかと言えば、無視すればするほど独善的な現状に対する解釈になるだけで、そういった解釈の信奉者がどれほどいようと、それは現状に対するひとつの解釈に過ぎないだろうし、それが世間的に通用する解釈であれば、他にも大勢の人が同じような現状に対する解釈をおこなっていたりして、その人だけの解釈ではないかも知れないわけだが、しかもそこで誰もがことごとく独善的な解釈をおこなっていれば、そういう解釈が流行しているとともに、間違った解釈が世の中に蔓延している可能性も高いわけだが、それでも流行り廃りの次元では間違っていることが明らかとなってしまえば廃れてしまい、もちろんそんな間違った解釈を世に広めていた人たちが間違ったことの責任をとるわけもなく、それどころか平気でしたり顔をしながらまた新たな流行の解釈を世に広めようとしているわけで、そんなことの繰り返しでも世の中が変化し続けているのかも知れないし、そういう成り行きの中で世論が流行を追い求めて右往左往している現状なのではないか。
10月25日「現状の困難」
人が言葉を使って他人と意思疎通を図るのは当たり前のことだが、他にも内省的な自問自答にも言葉が使われるし、また文字を記して文章を構成して情報として残そうとすることもあるし、そんなふうにして意識が言葉に囚われていることは確かであり、意識そのものが言葉で構成されているはずだが、普段はそんなことは当たり前すぎて改めて考えもしないことであり、さらに様々な物事を言葉で表現することと表現された物事との間に成り立っている関係なども思考の対象となることもないだろうが、少なくとも意識が言葉で表現する物事を選ぶときにはその物事に興味を抱くから言葉で表現しようとするわけで、またその人が否応なく何らかの出来事や現象に巻き込まれてしまうときにも、自らが巻き込まれている状況を言葉で表現して判断したり解釈したり評価しようとするだろうし、そうやって知覚した物事を言葉で表現しようとすることから人と物事との関係が意識の中で把握されて、そこからさらにそれを制御する試みも開始されるわけだが、その際には自らの身体を使ったり道具や機械を使うにしても、そこでも他人と共同作業をするには言葉による意思疎通が欠かせず、その場の状況に応じて他人から同意や了解を取り付けながらも、言葉を使って他人を制御したり他人から言葉で指示されて制御されたりするわけだが、そういった制御の中には特定の動作に合わせて貨幣を使ったり権力を行使するような制御も入ってきて、例えば物事の売買や貸し借りには貨幣が使われて、また他人に命令したり他人から命令されたり、そこで生じている立場や地位の上下関係を利用して人を制御する動作には権力が使われるわけだが、普通はそれらがむやみやたらと乱用されるわけでもなく用途に応じて制御媒体が使い分けられるわけだが、用途を外れた使い方をされると誤りを指摘されたり批判されてしまうわけで、その使い方に関して人によって見解の相違があると一方は適切な使い方と思っていてももう一方では誤った使い方だと判断されてしまい、それが争いのもととなる場合もあるわけだが、それに関して例えば人身売買は禁止されている一方で労働力の売買は合法とされるが、労働力が人と切り離せないことを考えると、それも実質的には人身売買と変わらないのではないかという疑念が生じてくるわけだが、人をすべての時間に渡って拘束するのではなく、労働している時間だけ金銭を払って拘束するわけだから、そこにいわゆるグレーゾーン的な曖昧さが残っていて、そういうやり方が行き過ぎて奴隷労働にならないように、法律によって労働時間に上限を設けて労働者を保護することで容認される成り行きとなっているわけだが、それでも現状において賃金労働によって企業活動などが成り立っているわけだから、容認せざるを得ない事情があるわけだが、実際にも奴隷労働よりも賃金労働の方が効率的で使い勝手が良く、しかも賃金を払えばその賃金で企業が扱う商品を買ってくれるので、それによって資本主義経済が回っていくわけだから、結果的には賃金労働者が資本主義的な企業経営には必要不可欠な存在になっていて、資本主義経済の発展と賃金労働者の存在は切っても切れない関係となっているわけだが、逆に言えば賃金労働者が商品を買えなければ資本主義経済が回っていかないわけだから、実際に経済の停滞が起こっているとすればその原因が賃金労働者の賃金が上がらずに商品を買えないことであるのは明らかなのだが、企業側としては人件費である賃金を抑えて利益を上げたいのだからそこに矛盾が生じているわけで、それも資本主義経済の中では必然的に生じる矛盾でもあるわけだが、その矛盾を解消するにはどうすればいいのかというと、借金をすればいいわけで、企業が借金をして設備投資して労働者も雇って生産量を増やして利益を上げて、賃金労働者も借金してローンによって商品を買い、政府も借金して予算を増やして公共投資するような成り行きになるわけだが、そういうことが究極的には資本主義経済の維持存続に貢献するわけだから、何か冗談のような話かも知れないが、それがごまかしやまやかしに受け取られてしまうと、では資本主義経済ではなくもっとマシなやり方を模索した方がいいのではないかという話になってくるのかも知れないし、そういう経緯を言葉で表現して思考するような成り行きになってくるとそうなるのかも知れないが、現実の成り行きとしては様々な人や集団の活動がそれ相応の紆余曲折や試行錯誤を経た結果としてそういう成り行きになってきたのだから、それなりにそうなるべくしてなったような妥当な結果に落ち着いている面が大きいわけで、そこに矛盾やパラドックスが生じているとしても、それを言葉で表現する限りで生じていることであるわけだから、言葉で表現すると何か深刻な問題であるかのように表現せざるを得ないにしても、現実の中では平然と大した困難もなくそういった矛盾やパラドックスが放置されていて、しかもそうなっているからこそ世の中の平静が保たれていたりするわけで、それはネトウヨ的な思考の持ち主がデマや屁理屈を使って自分たちの行為を正当化しても何とも思わないのと似ているのかも知れず、逆にそういうことを問題視する方が頭がおかしいと思われるような空気が蔓延していて、現状のそういう面を考慮するなら、そういう事情に関して必要以上に言葉で表現して思考を巡らせてしまうと、たちまち不都合な真実が浮かび上がってきて、それを問題視せざるを得ない態度が生じてしまうわけだが、それに対してそういった不都合な真実を指摘されても平然と無視するような人たちは、そういうことに関しては無意識のブレーキが利いているのかも知れないし、自らにとって都合のいいことだけ選んで言葉で表現する一方で、都合の悪いことに関しては言葉で表現しないような意識の構造となっていて、なぜそれが都合の悪いことだとわかるのかと言えば、わかるのではなくそこまで考えが及ばないからとしか言いようがないわけだが、要するに自らを利するように思われることだけを言葉で表現するように訓練されていると言えば、そういった訓練が学校教育によって身についたことなのか、あるいはその中で機能している功利的な競争原理にさらされると自然に身につくことなのかははっきりしないところかも知れないが、そういう意味では教育的な配慮として思考のリミッターを外すようなやり方が模索されるべきなのかも知れない。
10月24日「制度の不具合」
社会の中で機能している何らかの制度から恩恵を受けている人たちには、その制度があるおかげで助かっている面がそれなりにあるはずだが、中には恩恵だけでなく弊害も伴っているような制度もあるだろうし、さらにそれが弊害とは気づかなければ制度があるおかげで困っているとも思わないだろうが、弊害があることに気づいて制度改革の必要性を主張して実際に既存の制度を改革して新たな制度にすることに成功したとしても、その制度にも恩恵と弊害の両面があるとも限らないわけで、もちろんなるべく弊害の少ない制度にすることが必要だが、根本的に制度なしでも暮らしていけるかとなると、社会の中で暮らしている限りは何らかの制度によって存在を拘束され活動を規制されているわけだが、なぜそうなっているのかといえば、誰もが身勝手なことをやっているとお互いのエゴと活動がぶつかり合って争いが絶えなくなって、結果的に社会情勢が混乱して収拾がつかなくなってしまうから、誰もが守るべき共通のルールを定めてルールの範囲内で活動するように仕向けられるような制度となっていて、またそれでも不利な立場や境遇になってしまう人を助ける制度もあり、そうやって複数の制度が組み合わさることによって誰もができるだけ不自由なく暮らしていけるように社会の様々な面で制度の充実が図られているわけだが、逆にあまりにも事細かにルールを定められてしまうと、がんじがらめになって身動きがとれなくなってしまい、かえって不自由な思いをしてしまうから、どこまでルールを適用するかの判断や運用が難しいところだろうが、そういう意味では議会などの立法の場において、外部からの批判や提言を真摯に受け止めて、制度の内容に関しての絶え間ない検証や見直しや調整などが欠かせないわけで、そういう議会での地道な作業を軽視したりないがしろにしてしまうと、制度の不具合や不備が是正されずに弊害が増えてきて社会全体が硬直化してしまうわけだが、すでに政府側と議会の与党側が結託して聞く耳を持たない態度に出てしまうと、与野党の派手な対決姿勢ばかりが目立ってしまい、まともに審議がされないまま立法府が開店休業状態になってしまうわけで、それに関しては野党側の審議拒否などの対決姿勢にも問題があるとしても、根本的なところでは質疑応答に関して与野党の双方が歩み寄りを見せないことには討議そのものが成り立たないだろうし、その方が戦略的かつ功利的には好都合であればまともな議会運営がされないままとなってしまうわけだが、そういうところも制度的な不具合なのかも知れないし、そういう面も含めて制度に関わっている人たちに制度をまともに機能させようとする意志がなければ、制度そのものが破綻してしまうことになるわけだが、そんな状態のまま放置されてしまうのもよくあるケースかも知れず、制度はそれを切実に必要とする人や団体がある限りで、絶えずメンテナンスがおこなわれて維持されることにもなるだろうが、それも制度を管理運営する側の意向次第な面もある一方で、制度を利用する側の姿勢や態度も問われてくるだろうし、双方が双方の立場や主張や意見などを尊重できる範囲内で機能するわけで、それができない事態となってしまうことがそもそもの制度の不具合であり弊害であって、そうなるには双方が対等な立場でないと相手の主張や意見などを尊重できないし、無視したり軽んじてもかまわないようであれば、そうしている側が有利な立場になっているわけだが、それも大抵は制度を管理運営している側が有利な立場になるわけで、制度を利用する側は管理運営している側の言うことに従わないと利用できなくなってしまうだろうし、そこで権力的な上下関係が生じてしまうわけだが、利用する側にもどの制度を利用するかに関して選択肢が他にあれば、他の制度を利用することによって対抗できるわけで、そういう意味では様々な制度が競合していると、自身の主張や意見が反映されるような制度を利用する成り行きも生じてくるだろうし、そういう状況が利用者にとっては望ましいわけだが、企業などの管理運営する制度に関してはそういう状況もあり得るわけだが、行政に関してはなかなか利用者が主体的に制度を選ぶような成り行きにはならないわけで、それも地方自治体については引っ越しすれば別の自治体の行政サービスを受けられるわけだが、自治体ごとにそれほど差異がなければ意味のないことだろうし、また所属する国を変えるとなると、亡命したり移民となることで生じるリスクの方が大きい場合の方が多いだろうし、それよりは民主的な体制の国であれば積極的に政治参加して、制度そのものを自分たちの立場や主張や意見を反映する内容に変えることの方が推奨されてしかるべき姿勢であるはずなのだろうが、そういう姿勢になれる人よりも現状の制度で我慢できる人の方が多ければ、ただ行政に従順に従うだけの態度の人たちが多数派を占めてしまうだろうし、現状の日本でもそういう態度が蔓延しているように感じられるかも知れないが、意外と実態としてはそういうことではなく、行政に依存しているつもりのない人も多いのかも知れないし、多少は行政の言うことは聞くとしても、全面的に信頼しているわけでも信用しているわけでもなく、また制度的にも行政の管理運営する制度よりは民間の企業などの管理運営するサービスに依存している割合の方が大きければ、そちらに気をとられていて、なかなか行政に対して異議申し立てをするような政治的な介入に参加するまでには至らないだろうし、そういう意味では民衆の政府への依存をなるべく少なくするような成り行きにもなっているのかも知れず、それが一方では政治的な無関心を招いているのだろうし、それが必ずしも憂慮すべき事態ではないのかも知れないが、そういった企業がおこなう貨幣を介したサービスと行政がおこなう権力を介したサービス以外で何があるかとなると、ボランティア的な助け合いがあるだろうし、そんな中で何を優先したらいいかとなるとその場の状況にもよるわけだが、それぞれに得手不得手やできることとできないことがあるだろうし、その中でも行政にしかできないことに関して制度的な不具合を是正するには、政治的な介入に参加するしかなく、例えば社会的な弱者が困っている事例などに関しては、積極的に弱者の味方となることが公共の理念を尊重する限りでは求められていることなのではないか。
10月23日「つじつまの合う虚構」
例えば抗議する人々が組織立って抵抗運動をしている光景を見ると、それを陰で操っている勢力の存在を想像してしまうとか、果たしてそんな勢力が存在するかどうかはよくわからないにしても、そんなふうに想像するとそこで起こっている物事のつじつまが合うように思われてしまうわけで、それがフィクションとしてよくある陰謀論的な内容であろうと、本当にそうなっているのではないかと期待を込めて想像してしまうから、そう思ってしまう時点で物語の罠にはまっていて、そうやって想像力を駆使して、一見無関係のように思われる複数の人や団体の活動に関して相互作用を伴うように結びつけて、何か示し合わせて連動しているかのように想像してしまうわけだが、頭の中では結びついているように思われる人や団体の物事を介した関係が理屈の上でも必然性を伴っているかというと、それがまず偶然の巡り合わせでそうなっているとは考えないわけで、そうなっていることを期待しているわけだから、必然的な結びつきを想像してしまうのは当然のことだろうが、自らが自分の論理に基づいてかっこいいことを言い放てるような状況を恣意的に構成してしまい、それが誰もがそう思うような断言であれば紋切り型的な常套句になるわけだが、果たしてそういう断言に合うような現実の成り行きがそういつもいつも起こっているかというと、普通に考えればそうではないように思われてくるだろうが、それ以前に自分の願望が他人の願望であるかのような紋切り型的な思考に意識が囚われているのだから、そうは思わないわけで、そこで断言調の決まり文句や決め台詞を言い放つような成り行きになってほしいだろうし、そうやって実際に他人に向かって決め台詞を言い放つようなことを実行してしまっている人もネット上では結構いるだろうし、それが国会でいうなら野党的な質問内容でもあるわけだが、もちろんそれに対してデマやへりくつを織り交ぜながら罵声を浴びせ返すネトウヨ的な切り返しもネット上では頻繁に見かけるわけで、そういうやりとりはすでに演劇的なパフォーマンスでしかなく、現実にそういったことがおこなわれているとしても、もとの素材となっている現実の中ではそうではないように思われるのだが、実際にはそれらの人々にとって思い通りの現実にはなっていないとしても、それらの人々が思い通りの現実になっていることを前提で言い放つような断言にはもっともらしい内容が含まれていて、それによって論争の相手を論破しているように装う演劇的なパフォーマンスもメディア上で盛んに宣伝されている中で、いったい何を信用すればいいのかといえば、そんな疑念を抱いている自らを信用するしかないわけだが、そこから必要以上に想像力を働かせる必要はないといっても、自らの願望に合うように想像してしまい、それに無自覚であろうと確信犯としてそんなふうに思考を巡らせていようと、そうやって戦略的に振る舞うような成り行きになってしまうと、当然のことながら自らに有利な状況に持って行こうとするだろうし、自らが主役の物語を言説的に構成しようとして、そうなるのにふさわしいような都合のいい現実の要素を取捨選択して、それらを組み合わせてもっともらしい断言を恣意的に作り上げてしまうわけだろうが、そういう成り行きから意識が外れるにはそういった物語を打ち砕くような出来事が実際に起こるしかないわけだが、それが起こったところですぐさまそれに合わせるようにして恣意的に物語を再構成しようとするだろうし、実際に自分の言説に合うような現実の要素を探し出す才に長けた人ならその物語構成力も半端ない域にまで達していて、それが浅はかな人たちをだます詐欺やペテンに使われているとしても、実際にだまされる人が後を絶たないような状況を作り出せれば、何かの教祖や権威としてメディア上に存在し続けられるだろうし、そのもっともらしい断言を駆使して論敵や批判の対象を毎日のように論破しているように装えば、信者やフォロワーがついてくるのかも知れないが、それが誠実な態度かとなると、自身や信者やフォロワーに対しては誠実なのかも知れないが、現実に起こっている出来事や現象に対しては不誠実であり、別にその出来事や現象に意識や感情があるわけでもないのだから、功利的にはいくらでも不誠実になれるかも知れないが、当人の気づいていないところで忘れた頃に復讐されるのかも知れないし、特にそういうことをやっている人が他にも大勢いると、そんな人たちがまとめサイト的に十把一絡げに扱われて、時代の経過とともに忘却の彼方へと押しやられてしまう成り行きが待っているのかも知れず、そういう成り行きはそれらの人たちには操作しようがなく、いくら自分たちの言説の中では都合のいいように構成してみても、それを信用してくれるのが愚かで浅はかな信者やフォロワーでしかなければ、そういう人たちには個々のレベルでは何の力もないわけだから、たとえ大勢で団結して組織的に教祖様を支えているとしても、肝心の教祖様が亡くなってしまえば、烏合の衆でしかないのかも知れず、そうでなければ教祖様の実像を歴史に名を残すにふさわしい普遍性を持つような形態に作り変えようとするわけで、そうなると存命中とは様変わりして、聖人として立派な偉人であるかのような逸話が構成されるわけで、それも物語的な要素を恣意的に取捨選択して生み出される虚像なのかも知れないが、その方が教祖様としての紋切り型に合っているわけだから、それに合わない要素は意図的に取り除かれるにしても、当人が亡くなった後からおこなわれる操作であれば当人にはあずかり知らないことであり、関知も関与もできるはずもないことであるわけだが、そういった虚構の部分がどこから付け加わってくるのかといえば、虚構を構成する人の願望が反映されるわけで、そうした願望をもっともらしく見せかけるにはそれ相応のもっともらしい論理が必要となってきて、うまくつじつま合うような論理を導き出そうとするわけだが、それには論理に合うような現実の要素を取捨選択して物語を構成するしかないわけで、そうやって虚構の物語が人から人へと循環していくうちに、何やら多くの人が信じられるような人物像が構成されてくるのではないか。
10月22日「存在の正当化」
何をどうやれば現状が良くなるかと問うことが、現状の問題点を指摘することにもつながるわけだが、人によってはその立場や境遇によってもそれが問題点とは思わない場合もあるわけだから、それを問題だと決めつけてかかると肩透かしを食らうこともあるのかも知れないが、少なくとも現状の中でおこなわれていることについては、それを積極的におこなっている人や団体にとっては、何らかの目的を持ってそういうことをおこなっているわけで、それが大抵の場合は経済的な利益を得る目的と結びついているのかも知れないが、それ以外でも功利的な目的に基づいて戦略的に何かをおこなっている場合があるのかも知れないが、そういった目的に結びつかないような行為も中にはありそうだが、それが社会の中で主要な行為となるかどうかは何とも言えず、やはり主要な行為となると功利的な経済行為となることが多いだろうが、それに伴ってそれと競合する他の行為との間で調整をおこなう行為も出てくるわけで、そこで単に功利的な経済行為だけをやっているわけではなく、他の行為もそこへと介在してくるだろうし、様々な行為が複合的に絡み合って経済行為を支えていることになり、その中で目的に基づいた戦略的な行為だけでは成り立たないようなこともあるのかも知れないし、そこだけで物事が動いているわけではなく、他との兼ね合いで動いている面も含めて様々な思惑も介在しているだろうし、そういうことも含めてあまり物事を単純化して捉えない方がいいのかも知れないが、そういう関わりを無視して何か一つのもっともらしい理屈を用いてその理屈に適った正しいようなことを述べてしまうと、確かにそういうことを述べればわかりやすく物事を説明できるし、説明内容についても納得できるのかも知れないが、実態としては納得できないような紆余曲折を経た不透明な面も伴っている場合が結構多いわけで、そういう面を考慮に入れるともっともらしい理屈を伴った説明だけでは、何か都合の悪い面を省いているように感じられてしまうわけだが、たぶんその都合の悪い面というのが理屈ではうまく説明できないところであり、それがそういった行為の独自性を醸し出している面でもあるわけだろうが、そういった面を正当化しようとするともっともらしい理屈に基づいているわけではないから、何かまやかしやごまかしが含まれているとも感じられるわけで、実際に根拠の定かでないことをやっていることになってしまうのかも知れないが、それが伝統だからやっているようなこととなると儀礼的で形式的な動作となってしまうわけだが、実際そういう由来もよくわからないようなことが形だけ受け継がれているように見える部分というのは、そういう動作をおこなっているだけでも論理とは別の何かに基づいておこなわれているように感じられるから神秘的に見えるわけで、その何だかわからないことを伝統という理由をつけて継続していると、それが無駄で無意味な動作と思われてしまうわけだが、それをやらせている立場というものが存在していると、それが権力の行使を伴った立場となるわけで、何だかよくわからないことをやらせることでそれをやらせている側の権威を誇示しているわけだが、またそれが伝統の守護者としての立場も占めていて、そうした権威の誇示になびいてしまう人たちが強者にこびへつらうみっともない人たちであることもいうまでもないが、果たして伝統に依存した権威の誇示が強者の証しとなっているかといえば、真の強者ならばそういった伝統を無視することによって権威を誇示するわけだから、そこでもまやかしやごまかしを用いて強者に見せかけているとも言えるわけで、そうなるとそれらの動作を否定するしかなくなってしまうわけだが、たぶんそれは否定するまでもないことであり、伝統を継続するにはそうしなければならない事情が生じてしまうのであり、その事情というのが儀式を主催する団体の正当化に関わってくるわけだが、何を持ってその存在を正当化できるかとなると、それが政府であるならば、国民の総意によってその存在と活動が正当化されるべきなのだろうが、それだけでは足りないと考えるなら、あるいはそれとは別の何かによって正当化されるべきと考えるなら、国民の総意とは別の何かによって正当化できるような論理が生じて、それがその国の伝統を守る守護者としてその存在を正当化するような論理を国民に信じ込ませるような儀式が必要となってくるわけで、それが日本の場合だと天皇制の伝統に結びついてくるわけだが、他の国だと王制や帝制になるかも知れないが、イスラム教やキリスト教やユダヤ教などの宗教となっている場合もあるだろうし、そういった伝統の権威が国民の総意よりも勝ってしまうと民主主義ではなくなってしまうわけだが、曲がりなりにも立憲君主制を守るならそういった伝統的な権威であっても国民の支持や賛同がないと成り立たないだろうし、支持や賛同があるように見せかけるための同調圧力がメディアを通じてかけられているにしても、その実態が権威にこびへつらうような汚らわしい人たちによっておこなわれているように見えるなら、何か嫌な印象を受けるわけで、その程度の人たちが世の中の主導権を握っているように見える社会は不幸だと言えるのかも知れないが、それもまやかしやごまかしであって見せかけの主導権でしかなければ大したことはないわけだが、そんな大したことはない世の中というのが大衆社会のあるべき姿だとは思えないだろうが、たぶんそういう状況を深刻に受け止めてしまうとおかしくなってしまうのだろうし、深刻に受け止めている人も含めた滑稽な状況を普通だと思うしかないのかも知れず、これ以上は状況が良くなることはないとあきらめてしまわないで、またそれが問題だとも思わなくてもいいのかも知れないが、では他に何か問題があるのかといえば、そういったイベントに惑わされないことが肝要なのかも知れず、それ以前に自らの存在を正当化する動作というのが余分で、すでにそこに存在していて活動しているわけだから、そういった事実は認めざるを得ないようなことであり、そうなっていること自体が他の様々な物事との関係や関連が生じていることを示していて、それ以上の何を正当化してみても、すでにそれは織り込み済みの経緯や事情に過ぎないことは踏まえておくしかないのではないか。
10月21日「呪詛の言葉」
それが予定調和とはならないとしたら、未だ予定は未定でしかないわけだが、実際に行く手に何が待ち受けているわけでもないとすれば、何が行く手を阻んでいるわけでもないわけだが、そんな状況の中でこの国の未来に関して何が見えているかというと、例えばそれがありふれた国家の衰退とかそういうことであったとしても、少なくともそこで暮らしている人々を信頼しているなら、それでも希望に満ちた明るい未来が待ち受けているはずだが、その一方で現状の世の中に対して呪詛の言葉を投げかけるような人が大勢いるとしたら、何か理由があってそうしているはずだが、それとは違って例えば気に入らない対象に向かって罵声を浴びせる行為であればわかりやすいだろうが、それが呪詛の言葉となると何やら意味深な回りくどさを感じてしまうわけだが、それが未来に対する漠然とした不安から生じていることであれば、なぜそれが呪詛の言葉になってしまうのかというと、単純に特定の人や団体などを呪っているということかも知れないが、そういう呪詛の対象となっている人や団体がひどい現状をもたらしていて、それがこの国の未来を台無しにしていると思われるなら、そんなことをやっている人たちを呪うしかないような成り行きになってしまっているのかも知れないが、しかしそうであっても呪いの言葉の内容というのが何か拍子抜けするような毎度おなじみのこのままでは危ない的な言い回しでなければ、たぶんそれは何でもないことだろうし、それはこれまでもそうであったしこれからもそうなるしかなく、そんな内容の何が呪いの言葉なのかその根拠が今ひとつわかりかねるところかも知れないが、要するに呪詛の対象となっている人や団体がこちらを振り向いてくれないから恨んでいるようなことでしかないのかも知れず、だからといってそれらの人たちを振り向かせるような魅力がなければ振り向かないのは当然のことだが、そうなるにはまずは現状を肯定できないことには魅力が生じないだろうし、そんな現状を肯定するような宴には参加できない人たちが、そんな現状など壊れてしまえと叫んでいる内容が現状への呪詛そのものであるように聞こえるわけで、そういった恨めしい思いが呪いとして現状の世の中にこだましていて、裏を返せば世間がそれらの人たちの存在や言い分を認めてくれるなら、直ちに呪詛の言葉も鳴り止むかも知れないが、それは現状を肯定する宴を開いている人たちにはできない相談であり、根本的に現状を肯定している人でないと宴には参加できないわけだから、そもそもそういう姿勢に疑念を抱いて、現状を否定的に見ていること自体が受け入れがたいだろうし、受け入れがたいということが別の意味では現状の否定に伴う紋切り型的な反応として受け入れているわけだが、つまり受け入れがたい人たちとして受け入れているというこれまた回りくどい対応をしているわけで、またその程度の人たちなら比較的簡単に料理しやすいということでもあり、それがこれまでもこれからもそういう人たちへの対処法として確立されているわけだが、それらの人たちには現状を否定すること以外の何が求められているわけでもなく、それ以外のことに関してはお役御免な人たちでしかないのだろうし、もはやそれだけで役割を全うしているのだから、他に何を求める必要もないわけで、後は気が済むまで現状を否定しながら呪詛の言葉を唱えていれば、それでは気が済まないのは百も承知だが、期待している役柄がそんなものでしかないのだから、それでかまわないとしてその存在と主張を認めてしまえばいいわけで、もちろんそれを認めているという証しがその存在と主張を認めがたいという態度となって表れていると捉えるなら、それらの人たちはもとからそう仕向けられているとも言えるのかも知れず、そういうことをやった効果として、それらの人たちにはこの国の未来がないように思われてしまい、そこで暮らしている善良な人々が悲惨な境遇を強いられていると見えてしまい、だからこそそんな現状を呪わずにはいられないという理屈が成り立つわけだが、実際にそれがすべてなのかといえば、それらの人たちには見えていない現状があるわけで、それが何かといえば何でもないようなことなのだろうし、実際にそれらの人たちにとっては何でもないようなことであり、それが未来への可能性だとは思えないわけで、そもそも誰もそんなことには気づいていないのかも知れないが、気づかなくてもいいことだろうし、逆に気づいてしまうと現状を否定的に見れなくなってしまうのかも知れないし、そうなるとそれらの人たちの存在意義すらがなくなって、そんな自分たちに危機感を抱かなければならなくなるわけだろうが、それが具体的に何かといえば、やはり何でもないことであり、何でもないような現状でしかないわけだが、現状が何でもないことに気づくかといえば、気づいてしまうと困るだろうし、何でもないから否定しようがなく肯定しようもないわけだが、逆に現状に何か問題があるからそれを指摘せざるを得なくなるわけで、指摘することが何でもなければ商売あがったりで、閑古鳥が鳴いていることになってしまうわけだが、逆になぜそうはならないのかといえば、現状に問題があるからだろうし、その問題が現状を肯定する人たちにとっては問題でも何でもないわけだが、そうであるどころかそれは現状を成り立たせている重要な要素なのであり、それがないと困るわけだが、それは現状を否定する側にも言えることであり、それがないと現状を否定できずに困ってしまうわけだが、それとは何かといえばそれが呪詛の原因ともなっている特定の態度であり、要するに誰かを認めて誰かを認めない態度であり、また何かを認めて何かを認めない態度でもあり、それを認めることによって現状を肯定して、それを認めないことによって現状を否定しているわけだが、また逆にそれを認めないことによって現状を肯定して、それを認めることによって現状を否定するようなことでもあり、現状の中でそれを認めるか認めないかによって架空の境界を設ける行為となるわけだが、その境界ですらも現状を否定する人たちには認めがたいわけで、なぜそんなところで境界を区切るのか理解できないわけだが、現状を肯定する側にとっては、そこで境界を区切らないと現状を肯定できないわけだから、それは譲れない線でもあるわけだが、そういった境界線の確定自体が何でもないことであれば、それ以上に何を問題視する必要もなくなって、ではその何を問題視する必要もないことに気づけるかというと、現状を否定する人たちには気づけないし、断じて気づくわけにはいかないわけだ。
10月20日「衆愚政治」
現状の世の中で起こっていることに関して、それを伝えるメディアの話題に興味を引かれるのは普通の感覚では当たり前のことだと思われるだろうが、それが当たり前でないように思えるかとなると、なぜそう思いたいのか理解に苦しむかも知れないが、それが当然のことのように思われてしまう意識に対して、メディアが影響力を行使していることは確かなようにも思われるわけだが、別に権力を行使されてメディアが伝える話題に興味を持つように命令されているわけではないだろうし、そういうあからさまなことではなく、それとなく興味を持つように仕向けられているわけだが、そういうことができる権力がメディアにあると捉えるなら、それも権力の行使の範疇に入ることかも知れないが、一般的には権力を行使できるような法律があって、その法律に従って権力を行使できることがあるとすると、それは法律で認められた権利を行使することになるわけだが、権力を行使する権利を認められた具体的な例となると、例えば有権者には選挙で主権を行使する権利が認められているわけだが、選挙では一人で一票しか投票できないわけだから、一人あたりの権力は驚くほど弱いが、大勢で同じ候補者や政党に投票することでそれが大きな力となるわけで、それが何を意味するのかというと、多くの票を得て当選した人に民衆の代表としての権力が託されることになるわけで、普通にそういう制度でありそういうことでしかないわけだが、世間的に注目度の高い人がメディアで人気を得て、その人が選挙に立候補して当選する場合がある一方で、逆に選挙に当選して政治家となってから、世間的に注目度の高い人となってメディアに取り上げられて人気を得ることもあるだろうが、それもそういう制度でしかないわけだが、公的にその人物の存在や活動が正当化されるには多くの人々から信任を得る必要があり、実際にそうなっていれば民主的な価値観からすれば容認されるわけだろうが、メディア上では実際に多くの人たち支持や賛同を得られているように装うことがある程度はできるし、それが宣伝や煽動の手法なのだろうが、そういう手法が功を奏して実際に支持や賛同が得られたとしても、その内容がたわいないような紋切り型的な意見や主張であればくだらないことのように思われてしまうわけだが、そのくだらないように思われる意見や主張の持ち主が世間的な人気を博して選挙で当選して政治家となって政治を執り行えば、それが衆愚政治だと思われてしまうわけだが、だからといってそうした衆愚政治が悪いのかといえば、ただそれを批判している人たちが衆愚政治だといっているだけで、支持している人たちはそうは思っていないだろうし、開き直って衆愚政治で何が悪いと言われると、実際に執り行っている政治の内容で判断するしかないだろうが、政治を執り行うに当たって人々から支持されるような大義があればそれでかまわないように思われてしまうのかも知れず、例えばそれが社会的な弱者救済であり困っている人たちを助ける政治となるわけだろうが、そういうことを主張して実際にそういう人や勢力が政治的な主導権を握るまでに至るかというと、今のところはそうはなっていないのかも知れないし、実際そういうことからほど遠いことをやっている連中であっても、口先だけはそんなことを言っていられるわけで、実際に主張するだけなくそういう政治をおこなってみてからでないと信用できないかも知れないが、そういうことを主張する勢力を支持することが悪いわけではなく、むしろ積極的にそういう人や勢力を支持すべきだろうが、実際に社会的な弱者をどうやって助けるかとなると、政治的にできることは権力と貨幣を用いて制度的に助けることになるわけで、具体的には社会的な弱者を助けるための制度を拡充することになるわけだが、そうやって社会の制度化を推し進めることが政治的な行為の宿命だとしたら、制度によって人々が自由に振る舞える範囲を狭めながらその制度を利用して自由に振る舞えるようにするという二律背反的な行為となって、それは根本的なパラドックスであるわけだが、それを回避するにはどうすればいいかとなると、政治的な行為には答えがないのかも知れないし、別の行為によって埋め合わせを迫られるのかも知れないが、それが何かといえば権力とも貨幣とも無縁の普通に社会的な弱者を助ける行為そのものになるしかないだろうし、要するに無償の見返りを求めない行為となってしまうわけだが、そういう制度になっているからでもなく慣習としてあるいは倫理的または道徳的な見地から人を助けるのではなく、ただ単に人を助ければいいということになると、果たしてそんなことができるかとなるわけだが、普通に心理的にも肉体的にも余裕があれば助けられるかも知れないし、食料がなければ分けてあげられる余裕があれば助けられるかも知れないし、根本的に人を助けるとはそういうことでしかないとすれば、ではなぜ人を助けるための制度が必要なのかといえば、確実に迅速に効率的に人を助けようとするわけで、そういう意味では功利性を追及しているわけだが、それが悪いことではないだろうし、助けられる方もそういった制度があれば安心して助けてもらえる可能性が高まるはずだが、そういう制度があるのだから制度に助けてもらえばいいという無責任な心境にもなれるだろうし、わざわざ人助けをしなくても済むような制度があればそれに越したことはないと思うようになる可能性もあるわけで、そういう制度があるせいで人と人との結びつきが阻害されるようなことになれば、制度によって人が物として扱われる物象化が進行していくことにもなってしまうわけで、果たして実際にそんなふうになってしまうのかといえば、それでも制度のあるなしにかかわらず普通に人を助けようとする人が出てくるわけで、そうした権力と貨幣を利用した制度にとらわれない気持ちを持つことが肝要となってくるわけだが、もちろん制度があるならそれを利用してもかまわないだろうし、制度に心身を拘束されるのが何とも思わないならそれに越したことはないわけだが、逆に必要以上に制度にこだわらなくても済んでしまうならそれに超したこともないわけだ。
10月19日「現状の安定」
政治と経済はそれらを動かす媒体として権力と貨幣に依存しているはずだが、具体的に例えばそれらの媒体を使って政府が経済を制御できるかとなると、一応は経済政策や経済対策を施すことによって制御しようとするわけだが、政府の経済政策や経済対策などを批判する人たちが言っているほどには制御できているとは言えないだろうし、また実際に批判しているわけだから、彼らの言い分を真に受けるなら、政府の経済政策も経済対策もそれほどうまくいっているわけではないことになるわけだが、それでも利益を得ている人や企業などの団体が存在している限りで、それが政府の経済政策や経済対策のおかげとは一概には言えないものの、政府のやっていることが全くのでたらめとは言えないわけで、その手の批判者によって特定の勢力や企業だけが優先的に利益を得ていると指摘されてしまうとしても、それも指摘する側は自分たちに都合のいいことしか主張しないわけだから全面的には信用できないわけで、そういう面で判断するにはわかっていないことが結構多く、そうした判断も評価も慎重にならざるを得ないわけだが、それでも現実に不利益を被っている人や勢力がいると主張されてしまうと、それらの人たちがかわいそうだと思ってしまうし、また行政の生活保護などの制度や法律の趣旨を無視するようなひどい対応を告発されると憤ることとなってしまい、そういった制度や法律自体が破綻寸前であるかのような危惧の念を抱いてしまうわけだが、それ自体が制度や法律に依存しすぎている証拠だろうし、依存するように仕向ける成り行きも生じていて、権力や貨幣などの特定の媒体にも依存しすぎると、どうしてもそれらの欠陥があらわとなってきてしまうわけで、もちろんそれらに依存しすぎるような傾向の社会の構造となっているわけだから、そうなるのが当然の帰結なのだが、それに関してありふれたことをいうなら、より一層の制度改革や柔軟な制度運用などをおこなうことも重要かも知れないが、根本的にはそれらへの依存体質からの脱却も目指さないとまずいだろうが、実情として官民を挙げて権力や貨幣に依存するように仕向けられているのにそうした依存からの脱却を目指すとなると、そんなことは不可能なような思われるかも知れないし、実際に多くの人たちが不可能な境遇にあるならそれが悲惨な境遇だとも言えるわけだが、中には効果的に権力や貨幣を使えるような恵まれた境遇にある人や集団も存在するだろうし、現状はそういう人や集団の天下だとも言えるわけだが、果たしてそこから恵まれない境遇の人たちが一致団結して力を合わせて政治的な主導権を握って、自分たちに有利な制度や仕組みを作ることができるかとなると、今まさにそれをやろうとしている最中だと実感できるようなら、そのままそうした活動をおこなってそれを目指せばいいだろうし、実際にも多くの人たちがそうしたことをやろうとしている勢力を応援しているのかも知れないが、それも現行の制度や仕組みの中でやっている限りで、現行の制度や仕組みの中で主導権を握っている勢力の方が優位な立場にあることも確かだろうし、それがそうした人たちの活動によって今後どうなるかは何とも言えないところだろうが、そうしたことをやっていく一方で、現状の権力や貨幣への依存をできるだけ軽減するようなやり方を模索していくことも重要なのかも知れないが、現状の中では権力や貨幣の使用が有利であるからこそ、誰もがそれに依存してしまう傾向になってしまう事情があるわけで、普通に考えてそうした状況を変えられるわけがないと思われるかも知れないが、変えようと意識して変えるのではなく、自然に変わっていってしまうような成り行きになればいいわけで、誰もが権力や貨幣の使用に関しては嫌気がさすような傾向も生じている一方で、それらの使用によって有利な立場や境遇になっている人たちはそれに依存せざるを得ないだろうし、そういう成功した人たちが不快感を漂わせて威張り散らしているような世の中であれば、しかもそれらの人たちが圧倒的少数派で、その一方で残りの圧倒的な多数派が権力や貨幣の使用に関して不利益を被っているような人たちであれば、確かに革命が起きても不思議ではない状況となってしまうのかも知れないが、実際にはそうではなく、多くの人たちが権力や貨幣に依存しながらそれなりに安定した立場や境遇を確保できているからこそ、現状が成り立っているわけで、少なくともそんな現状の中で権力や貨幣を利用することに成功した人や勢力がメディア上でも政治的な面でも経済的な面でも主導権を握っているわけだから、普通に考えるならそうした人たちが有利であるのは当たり前なわけだが、そうであるからこそ他の不利な人たちはそれらとは異なるアイテムを探し求める成り行きになるわけで、そんなことをやっているうちに使用価値としての権力や貨幣の重要度も低下してくるのかも知れないが、そうなっては困るから現状で主導権を握っている人や勢力としては、現状と変わらずに人々が権力や貨幣に依存するように仕向けてくるだろうし、それに関してはある意味ではその最後の頼みの綱が現行のシステムの中で不利になっている人たちに幻想を抱かせるようなことを語る人や勢力の存在になってくるわけだが、それが果たして詐欺やペテンの類いなのか、あるいは本当に現状で不利になっている人たちが政治的な主導権を握るような世の中が実現できるのかは、現状では何とも言えないところかも知れないが、少なくとも権力や貨幣の特性としては、なるべく少数の人たちがそれらを独占することによってその有効性が最大限に発揮されるわけだから、大多数の人に平等にそれらが分配されるような状況になってしまえば、権力も貨幣もそれほど有効には機能しなくなってしまうわけで、そういう逆説的な特性があるからこそ、権力や貨幣に依存することで誰もが豊かになれる社会を築けるかとなると、それが幻想に過ぎないことが明らかになるわけだろうが、どうしてもそれらに依存するように仕向けてくる人たちにとっては、そういう不都合な真実には目を向けてほしくはないわけで、そういう意味でも現行の政治経済的なシステムの中では誰もが豊かな生活を送ることは無理なわけだろうし、それに関して現状で不利な立場や境遇を強いられている人たちが承知しておかなければならないことは、幻想だけで満足できなければ積極的に現行のシステムから逸脱する必要があるということかも知れないが、それが自身の死や破滅を招くかどうかは、実際にやってみれば明らかとなるわけだ。
10月18日「できることとできないこと」
一般的に言って人にできることは限られていて、その一方でできないことは世間の一般常識に照らし合わせてある程度はわかっているはずだが、できると思っていることに関しても、実際にやってみればできないことが判明する場合もあるだろうが、個人ではできないことが集団で力を合わせればできる場合もあるだろうし、人力ではできないことが機械を使えばできる場合もあるし、そういう範囲内ではできることとできないことがそれなりに判明している場合もあるだろうが、目的がある場合はできることをやろうとしているわけで、そうでないと目的を遂行できないわけだが、目的が定かでないことをやっている場合には、実際にやれている範囲内ではそれをできているわけだろうが、何をやろうとしているのか定かでないようなことをやろうとしている場合もあるのかも知れず、そうやって結果的にできないと思っていたことができてしまった場合には、やっているうちにできるようになってしまった場合もだろうし、そういうことを発見してしまったら何か新たな能力を身につけたような気になってしまうのかも知れないが、それでも他にできることがあるのに気づいていない場合もあるだろうし、そういう意味で人には個人としても集団としてもできることが限られているわけだが、やれることのすべてをできるわけでもないし、やれないことに関してはやれるのにできない場合ともとからできない場合の二種類のできないことがありそうだが、たぶんそんなことにはお構いなく、実際にやってみないことにはわからないわけだが、もちろんそのやってみることの範囲内には、事前に計算や推測などによってできるかできないかを判断することもあるわけで、そういうシミュレーション的な行為によって可能性を探る行為も含まれているわけだが、そうやって能力や予算内で収まることだけをやれば、確実にできることができるかも知れないが、計算や予測が間違っていれば実際にやってみてできないことが判明してしまうわけで、そうなるとそういった計算や予測のいい加減さが明らかとなってしまうわけだが、それでも試行錯誤という言葉があるように、何度も間違って試行錯誤を繰り返さないとできないことがあるわけで、そういった試行錯誤を繰り返す余裕がないとできることをみすみすやらずに終わってしまう可能性もあるわけで、そういう意味では現状の中で確実にできることだけを繰り返していれば、結果的に現状維持以上の状況を作り出せないだろうし、だから時にはできないと思われるようなことをやろうとする勇気のある人や集団を応援するような成り行きも生じるわけだが、実際に現状が行き詰まっていると感じたら、積極的にできないように思われていることをやろうとする人や集団に加担した方がいい場合もあるだろうし、それには一種の賭けの意味合いも出てくるわけだが、一か八かという表現にどこまで真実味があるかというと冗談半分のように思われるとすれば、仮にそういった試みが失敗に終わってもかまわない程度の気持ちでそんな試行錯誤の行為を見ている場合もあって、その程度の認識であればそれらの人や集団の行為に関して、あまり信用していないのかも知れないが、それでもかまわないような状況であるなら、そうした状況の中で何をどう判断すればいいかは自ずから求まってくるのかも知れず、それが現状の中で実際に人々の間で判断されていることだとすれば、それが実際にできることであろうとなかろうと、また無謀な試みであろうとなかろうと、半分破れかぶれであろうとなかろうと、そんなことはお構いなしにそれらの行為を応援している人たちがどれほどいるかが問題となってくるのかも知れないが、その一方で現状に飽き飽きしているのなら、気休めでもかまわないから一か八かの賭けに打って出るくらいの酔狂な気分にならないと、退屈にやられて頭が爆発してしまうこともないだろうが、少なくとも彼らのつかの間の成功と失敗がくだらない状況を変えてくれるのではないかと思いたいわけで、それによって状況がさらに悪化してもかまわないようなことをやっているとも思われてしまうとしても、それが気休め以上の何かとなって予想外の結果をもたらすことを期待してしまうだろうし、それが一過性の現象であることは確かなのだろうが、誰にとっても魅力的に思われてしまえばそれでかまわないわけで、もちろん彼らの他にも孤軍奮闘しているようでしかも魅力に劣る人も若干いるとしても、そういった魅力に欠ける現実主義的で地に足がついているように見せかけようとする人よりは、浅はかで愚かな民衆に幻想を抱かせるような人の方が救世主としての役割に適っているのだろうし、そんな幻想にとらわれている人たちを尻目に斜に構えて傍観者気取りになってしまっていては、暇つぶしには格好の機会をみすみす逃していることにもなってしまうだろうし、それが他に何の機会になるにしてもただの一過性の空騒ぎに終わらせてしまってはもったいないわけで、しかもなるべく積極的に関わって彼らをおだてまくって騒ぎが長引くように仕向けるのもわざとらしいと思うなら、何かそれとは違った関わり方を模索してみるのも一興かも知れないが、たぶん関われる人は限られていて、関われない人の方が圧倒的な大多数に上るのかも知れず、そうなってしまうのが現代的な大衆現象の傾向であるとしても、そこに何らかの希望の兆候を感じ取れるだけでもまだマシな状況なのかも知れないし、そんな現象に関われる幸運な人たちを温かく見守っていくことぐらいがその他大勢の人たちにはできることの精一杯の姿勢なのかも知れず、仮にそうであっても逆にそんな行為を疎ましく思って攻撃したい人も中にはいるわけだから、もっとも飛んで火に入る夏の虫というのはそういう人に向けられた常套句だろうし、それら人たちに対する攻撃もそういった活動を持続させる燃料となっているのかも知れないし、そんな現象がこの先どういう結果をもたらすかは、ある程度は予測がつくことかも知れないが、ここでこれ見よがしにそんな予想や予測を披露してしまうのは愚の骨頂だろうし、彼らが戦っていると思っている対象というのが、彼らが思っているとは明らかに異なるビジョンを持ち合わせているとしても、それを彼らに教えようとしても彼らには届かないだろうし、そういうレベルでは明らかに多くの人が部外者でしかないわけだが、それもできるようでできないことの範疇に入ってしまうわけで、そうであるからこそ現状でできることは自ずから限られているわけだ。
10月17日「まやかしの姿勢」
人がおこなう動作として制度や法律を伴ってあるいは道具や機械を使っておこなうシステム的な動作の他にどんな動作があるかとなると、例えば複数のシステム的な動作を組み合わせておこなう創造的な動作があるが、それもシステム的な動作に含まれるかというと、その一種であることは確かだが、人が社会の中で集団を形成してそういったシステム的な動作をおこなっていることは確かで、また単独で活動している人もそうした集団との関わりが避けられないし、誰もが何らかの形で集団で動作するシステム的な動作の恩恵に与っているわけだが、そういったシステム的な動作を利用する一方で、他にも様々な動作をおこなっているの中の一つとしてそういった動作があるとすれば、たぶんそれとは違う動作も様々にあるはずだろうが、そんな動作のうちで何を優先するかはそのときの状況次第となるのだろうが、制度や法律を背景として成り立つシステム的な動作によって他のすべての動作を代替するわけにはいかないだろうし、中には法律や制度を介さないでまた道具や機械も使わないでおこなわれる動作もあるわけだが、そうした動作とシステム的な動作とは何が違うのかといえば、動作すること自体が人の生物としての機構から生じる生体的なシステムを使っておこなうわけだから、そういう面ではすべてがシステム的な動作だと言えるわけだが、ではシステム的な動作に伴って生じるまやかしやごまかしを見抜くような動作もシステム的な動作かといえば、それはシステム的な動作に対抗しておこなわれる動作であるから、それとは異なる分類に分けて捉えるべきだろうし、そう考えるとシステム的な動作には必ずその種のまやかしやごまかしが生じているのかといえば、人を一定の動作へと誘導する過程において人をだますような行為がおこなわれていれば、それがシステム的な動作に伴って生じるまやかしやごまかしとなるわけだが、必ずそういったまやかしやごまかしが伴っているかとなると、そうとも言い切れないと思いたいだろうが、他の人や集団やそれらの行為や活動を攻撃するような煽動や宣伝には、大抵はまやかしやごまかしがつきものなのかも知れず、またそういったまやかしやごまかしを暴いてみせることにも、それが煽動や宣伝である限りで別のまやかしやごまかしが伴っている場合もあるわけだから、その辺の見極めがややこしくなってくるわけだが、そういった行為のどこまでが容認できるかとなると、そこには集団的なイデオロギーの類いが介在してきて、同じ価値観やイデオロギーなどを共有する味方と見なした人や集団がやっているまやかしやごまかしには寛容な姿勢で臨み、敵と見なした人や集団の行為にはどこまでもいつまでも執拗にまやかしやごまかしが伴っていないかを嗅ぎ回り、ちょっとしたことでもそら見たことかと大げさに鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てる姿勢で臨むいわゆるダブルスタンダードな態度も、それ自体がまやかしやごまかしに含まれるわけだが、そういった戦略的かつ功利的な姿勢につきまとってくるいかがわしさに鈍感な人たちは、大抵はそんなSNSなどで敵と味方に分かれておこなわれるまやかしごまかし合戦に巻き込まれてしまうわけだが、そんな中で主張されなければならない正直者の発言としては、自らの主張にはまやかしやごまかしなどは一切含まれないという嘘つきの常套句になるのかも知れないが、あからさまにそんなことを主張する人はほとんどいないだろうが、主張の言葉と言葉の間からにじみ出てくる思いというのが、自分は正直者であるという嘘なのだから始末に負えないわけだが、それがその手の主張のいかがわしいところなのだろうが、なぜそうなってしまうのかといえば、それもそういう宣伝媒体としてのSNSというメディアの構造から生じてくるシステム的な動作だといえば、何となく事情がはっきりしてくるわけだが、そういうメディアに巻き込まれてしまうと煽動したり宣伝せずにはいられないという動作に誘導されてしまうわけで、敵に向かって攻撃を加えようとすると、言葉で攻撃するしかないわけで、それが安易な言語表現となり、さらにそこに画像や映像や音声などの情報を付け加えることが可能なのだから、そうなると恣意的な情報操作の誘惑には勝てないだろうし、相手を一方的におとしめようとするわけだから、そこにあることないこと否定的な要素を付け加えようとして、そんなことをやればやるほどまやかしやごまかしの度合いが強くなるわけだが、しかもそういった行為になると安易で浅はかな人たちがすぐに飛びついて支持や賛同を表明するわけだから、そうやってもっともらしくもまやかしやごまかしだらけのデマや憶測が蔓延してしまうわけだが、しかもそういったことを戦略的かつ功利的にやりたい放題な人たちが他のメディア上で脚光を浴びている現状もあって、さらに政権を担当している政党や行政のトップにいる人たちがそんなことばかりやっていると、もはやそれが公的なお墨付きを与えていることにもなるし、実際にもそういった行為に歯止めがかからないような情勢となっているわけで、そんな事態であれば世も末で、何か人心が乱れて世界の終わりが近づいているようにも思われてしまうかも知れないが、たぶんそうなのではなく社会の構造に伴って生じているシステム的な動作として、そういった行為が目立つような仕組みとなっているわけで、別に誰が意図してそういう構造となっているわけでもないのだろうが、現状の資本主義的な経済システムの中でそういった戦略的かつ功利的な動作をする人や団体が成功するような成り行きになっているわけだから、そうした現状に対して人々がどう対応すればいいのかが問われているわけで、そういう世の中が良くないと思うなら、自然とそれとは違う行為を模索するような成り行きや傾向となってくるのではないか。
10月16日「間違った行為」
あまりにも拙速に事を運ぼうとすると失敗する可能性も高くなるかも知れないが、いつまで経ってもものにならないことを未練がましくやり続けていても時間の浪費でしかないかも知れないし、どちらにしてもうまくいかないことの典型例かも知れないが、そのどちらにも当てはまりそうなことをやっているつもりはないにしても、たぶん間違えやすいところではさっさと間違えておいた方がかえって面倒な事態には陥らなくて済むのかも知れず、下手に安全運転を心がけながら正しい動作に徹して、結果的にそこを難なく切り抜けられたとしても、得るものが何もなければ何でもないことであり、間違えるべきところではしっかりと間違えておいて、それなりに損害を被って高い授業料を払っておく方が、後先が楽になる可能性もあるだろうし、そういう論理が根拠のないへりくつに過ぎなくても、それ自体が間違った認識であってもかまわないわけだが、なぜかまわないのかに関しては特に納得できる理由などないだろうし、それがわからないと言ってしまえば済んでしまうところを、おかしなところでつまらないこだわりを捨てきれていないだけかも知れないわけだが、なぜか誰もが間違ってしまう成り行きに巻き込まれている中では、自分だけが正しい認識を持とうとしても無駄で、どうやっても間違ってしまう成り行きから抜け出せなければ、やっていることが間違っているのを自覚しながらも、それがわざとでないにしても間違ったことをやらざるを得ないのかも知れないが、実際にそうやって本当に間違ったことをやっているとすれば、なぜそれが間違ったことだとわかるのかが謎だが、結果が伴って来なければ自ずとやっていることが間違っているとわかるかも知れないが、ではどんな結果がもたらされればいいのかといえば、普通は思い通りの結果を得られればやってきたことが正しいことだと認識できるのだろうが、間違ったことをやっても思い通りの結果が得られて、逆に正しいことをやると思い通りの結果が得られないとすれば、思っていることが間違っているのかも知れないが、思い通りの結果が得られなくてもかまわないようなことをやっているとすれば、特にそれが正しいか間違っているかはどうでもいいようなことであったりするのかも知れず、それ以前にまだ結果が出ていないだけで、現状ではまだ正しいか間違っているかを判断できるような段階には達しておらず、まだその先にやるべきことがだいぶ残っていて、現にそれをやっている最中であり、それが現時点での途中経過と言えばそういうことになってしまうわけだが、このままやり続けてもこのままであり続けるわけでもないだろうが、それが正しかろうと間違っていようと、やり続けている限りでそれをやり続けられるような成り行きの中でやっていることになれば、どちらにしろやり続けるような成り行きになっている限りでやり続け、続けることができなくなればやめてしまうことになり、そこに正しいか間違っているかの判断を介在させなくても済んでしまうような場合もありそうで、そういうことにこだわらなければそんなことでしかなく、それ以上にどんな判断を介在させなくてもかまわなければ、他から何を言われようと気にしないでやっていられるのかも知れず、そんな境遇になれたときがゴール地点であれば、それが間違っていることのすべてかも知れないが、外部からの意見に関して聞く耳を持たないでやり続けられる環境というのがシステム的な環境であり、しかも誰がやっても同じようにやれてしまうとすれば、誰がやってもかまわないようなことがおこなわれているわけだが、それが人の動作として許されるならば、人でなくても機械にやらせればいいわけだが、たぶんそういうことを人にやらせることに何らかの意義があるのかも知れず、例えば個人的な感情を抜いてしまうには誰がやってもかまわないようなことを延々とやらせれば、そういう作業によって人の抜け殻のような人ができあがってくるのかも知れず、最初からそういう効果を狙っていたわけでもないだろうが、実際にやらせてみれば思いのほかうまくいくので、調子に乗ってやらせているうちに、そういうことをやらせるのが常態化している環境ができあがってしまったのかも知れず、そしてそんな経緯を経て人と物と情報が効果的に連動したシステムの進化形態として現行の制度があるわけだが、それがどんな制度かといえば、それを制度とは意識させないような制度かも知れず、便利だと思って利用しているうちにそこから抜け出せなくなって、もはやそれなしでは生活できないような状況となっている限りで、そうなっていることが良かったり悪かったり思われるのとは別のところで滞りなく動作しているわけだから、否応なくそれを利用するしかないのだろうし、そこでは間違うことすらできないような型枠にはめ込まれて、誰もが同じ動作を強いられているから、それ以上は何もできなくなっていて、何かそこに上限が設定されているわけでもないのに、それ以下の範囲内で同じようなことをやらされているわけだが、それが常態化してしまうとやらされているという感覚さえも抱けず、なぜかそんな動作に都合良くはまっているわけだろうが、それが外部の視線にさらされると何か滑稽に見えてしまうわけで、そこからなぜそこでそんなことをやっているのかよくわからないような不可思議な光景が見えてくるわけだが、そんなことがおこなわれている渦中では誰もが見通しが利かないから、何か水槽の中でうごめいている魚のようにその辺で行ったり来たりを繰り返しながらも、よく見れば水槽の外の空間へと抜け出そうとしているようにも見えるのだが、実際に水槽の中の魚が水槽の外へと飛び出してしまうと呼吸ができずに死んでしまうわけで、そこにどのような隠喩が込められているわけでもないにしても、たとえそれが病院の空間であろうと何かの工場の空間であろうと、すでに作業が始まっている段階では、はじめから動作をやり直すことはできないわけで、誰もが作業手順の途中で抜け出すわけにはいかないから、黙ってその場の指示に従って動き続けるしかないわけで、その先に何が待ち受けていようとお構いなくその先へと自動的にベルトコンベアのように進んでいってしまい、それでもその先で待ち受けている事態の中で慌てふためくでもなく、そこでも黙って指示に従っていればさらにその先へと到達できるわけだが、別にそうやってどこかへと至ったからといって、その人にとっての現状の認識を新たにできるわけでもないだろうし、相変わらず世界がどこまでも広がっているに過ぎないのかも知れない。
10月15日「期待の忘却」
別に関わっては駄目な物事に関わっているわけでもなさそうだが、それに関わることによって利益を得られるわけではなく、関わるような成り行きに否応なく巻き込まれているだけかも知れないが、結果的に利益を得られるのか損害を被るのかはわからないし、案外利益を得ながら損害も被るのがありがちな成り行きだとしても、そういう利害とは別に偶然に関わっているに過ぎない面の方が大きいかも知れないし、単に偶然の巡り合わせから関わっているとすれば、関わり自体が大して重要ではない可能性もありそうだが、必然的な理由がなければそんなことでしかないのかも知れないし、何かに関わることによって何ももたらされないとしても、そういう関わりでもかまわない場合もあるのかも知れず、たぶん政治との関わりというのはそういうものなのかも知れないが、政治から利益を期待してはならない代わりに何を期待するのかと言えば、別に落胆することを期待するわけではないにしても、良い意味でがっかりさせられると、それが政治に求めていたことかも知れないし、ただ希望を抱いていたときにはそれに気づかなかっただけで、実際にそうなってみればわかるようなことかも知れないが、政治に期待することは何か肯定的なことだとしても、実際に政治家や政党が活動してみて、結果的に民衆をがっかりさせれば、それが政治に期待していたことであったことに気づかされて、改めて偶然に関わっていた当のものが何であるかを実感させられるのかも知れないが、そうなればがっかりしたとしてもそれほど悪い気はしないのではないか。そういう意味で政治に期待することは政治的な行為の限界を知ることになるのかも知れないが、なぜそういった行為には限界があるのかといえば、政治だけではどうにもならないことがあるだろうし、政治も他の行為や活動とともに巻き込まれている現象の中では否応なく制御されていて、そうした制御を逃れて何かをおこなったり活動することはできないから、少なくとも巻き込まれている現象から抜け出すことはできないだろうし、別にそれでかまわないわけだが、政治にはできないことを期待するのも筋違いであり、では政治には何ができるかとなると、それは実際の政治的な行為や活動の中でおこなわれていることでしかなく、それ以外のことができるわけではないが、それが世の中の様々な方面から批判されていることであれば、批判している側が政治に対して無理な要求をしていることになるわけだが、中には無理な要求をせざるを得ない事情のある人や団体もいるだろうし、そうした要求に応えてしまうと不正行為をやらざるを得ない成り行きになってしまい、それも政治的な行為に含まれることになってしまうわけだが、それらのすべてが不正行為に結びつくわけでもないのだろうが、政治が行政の官僚機構に依存している限りで、官僚機構ができる範囲内に政治ができる範囲内も限界づけられていて、そうなると政治と行政の間のどちらに主導権があるかということになるわけだが、表面上は制度的にも法律的にも政治の側に主導権があるとしても、行政の側に抵抗ができないと言うことではなく、実際に組織があるのだから組織的な抵抗ができるわけで、そういった組織的な抵抗によって政治が押し切られてしまう事態になってくると、実質的には行政の側に主導権があることが明らかとなってくるわけだが、もちろん行政の側が絶対に勝つわけでもなく、付け入る隙はあるだろうが、それを政治の側で利用できるとは限らず、そうやって政治と行政とが対立しているうちに、政治の側では行政なしでは何もできないことも明らかとなってきて、政治に対する民衆の期待や希望が落胆や失望に変わっていくことになるわけだが、別にそれでかまわないのかも知れず、それが政治制度の限界と捉えればいいのだろうが、そうは思わない人たちが何もできない政治にいらだって政治批判をすることによって、事態がさらにこじれてくるわけで、政治の側では民衆が期待するようなことを主張することはできるが、実際にそれをおこなおうとすると行政の壁に阻まれてできないことが明らかとなって批判を浴びるわけだが、そうなると政治の側でできることは行政機構ができることを追認することしかできなくなるわけで、しかもそれが民衆の期待していることであるように装うことにもなってくるのかも知れず、実際に宣伝と煽動によって民衆が行政機構ができることをやるように期待していることにもなってくるわけだが、その辺から話がややこしくなってくるのかも知れないが、結局は民衆を洗脳するような成り行きにもなってくるのだろうが、そうなるとなぜか他の国の政府との連携も必要になってきて、その連携というのが対立や敵対を含んだ連携となることもあり、具体的には近隣諸国がお互いに対立を装いつつもそうした国同士の緊張関係がお互いの国内で愛国心をあおり立てるには好都合な状況を作り出せるわけで、そうやって自国の政府を応援するような国民を作り出せれば、それが行政の言うことを聞く民衆となるわけだろうし、もちろんそこでも政権政党が行政の官僚機構の中の抵抗勢力と主導権争いを繰り広げていて、国民に政権政党を応援させるには行政の抵抗勢力を押さえつけて勝利したように装う必要も出てくるだろうし、そうやって行政の官僚機構を付き従えて命令を下せるような強い政府であることを装えば、民衆はそういう政府や政権政党が頼もしく思われてくるわけで、また対外的な面でも世界の中で中心的な存在である覇権的な国との同盟関係を維持しつつ、不快な近隣諸国との対立関係を演じていれば、それが愛国心を鼓舞する上で自国の強さをアピールするにはうってつけの情勢であるとも言えるのかも知れず、そんなふうにして政治と行政と民衆との一体感が生まれるのかも知れないが、果たしてその中で民衆の側に主導権があるのかといえば、もちろん主導権を握っているのは政府であることは明らかであり、民衆はそんな政府を支持することによってしか政治にも行政にも加担することはできないわけで、支持できない人たちは反政府勢力として排除される運命にあるわけだが、そうなると国民主権という概念が有名無実となってしまい、それが国家統治の実質的な実態であることを思い知ることになるわけだ。
10月14日「虚構の状況」
現状の世の中でいくらひどいことが起こっていようと、そこで自身が生きている限りで、身の回りでは自らを活かすための何らかの成り行きがそこで生じていると捉えた方がいいのかも知れないが、そう捉えられるなら現状の中にも肯定できる要素が何かしらあるはずで、それはどんなひどい境遇の中にいようと生きる希望を失ってはならないというありふれた励ましにもつながることかも知れないが、たとえ今は何もできなくても焦らず辛抱強く待っていれば必ず何かが起こるはずであり、その機会を捉えて起こったことに乗じて何か行動を起こすような成り行きが待ち受けているかも知れないし、そうであればただ待っているだけでなく、積極的に状況に働きかけて、自らが望んでいる状況をもたらすために活動すべきかというと、誰に言われるまでもなく誰もがそんなことは承知していることであり、現に今も誰もがそうやって活動している最中かも知れないが、それ以前にあるがままの現状を受け入れる必要があるかと言えば、受け入れると言うことが何を意味するのかを理解できなければ、無理に受け入れる必要もないのかも知れないし、そう思っている時点で現状を受け入れるには抵抗感を覚えるということかも知れないが、それよりは普通は現状に対して批判的な姿勢をとることがありふれたやり方として推奨されているのかも知れず、実際に多くの人が現状の改革を求める心境になっていれば、現状の中で批判の的となっている物事を改革しなければいけない成り行きになっているのかも知れないが、それが改革という大げさな表現では身の程知らず的な印象を伴うなら、現状を変えるために絶えず努力し続けるぐらいの心境になれるなら、気休めではなく何らかの肯定できるようなことを誰もがやっている最中なのかも知れないし、少なくとも現状維持で満足できなければ自然とそんな心境になれるはずだろうが、そんな心境にさえもなれなければ現状に満足しているかあきらめているかのどちらかになるのかも知れず、どちらにしても現状の中で構成されている環境に心身が同化していると、そういう方面へは思考も感情も働かなくなるだろうし、それはそれで現状を肯定していることになるのかも知れず、そうであればそこから抜け出すよりもそこに安住する方を選んでいることにもなるわけで、そういう態度は進歩的な意識高い系の人には受け入れがたいことかも知れないが、それでも他人がそういう態度であれば少なくともその人は競争相手とは見なされないわけだから、功利的にはその分自分にチャンスが巡ってきていると思いたくなるだろうが、それが何を目指した何のための競争なのかがよくわかっていなければ、単なる雰囲気だけの意味不明な競争願望ばかりが先走っているに過ぎないだろうが、本気でそんな妄想を抱ける人がいたらそれは単に頭がいかれているに過ぎないのかも知れず、普通は何かの冗談で進歩的な意識高い系の人という架空の基準を引き合いに出しているわけだろうし、それとは違ってその人にとっての具体的な状況の中で、特定の人や集団に対して何らかの関わりを持っている範囲内では、そんなことを思う余地はないだろうし、そこでは絶えず現実に直面しながら具体的な対応や対処をしていて、それはフィクションの中で登場人物が何かを思ったりするのとは状況が異なるわけだが、確かに何もしないで妄想に耽っているときにはフィクションの登場人物と似たようなことを思うこともあるだろうが、それこそがフィクションの作者が想像力を巡らして話を構成しているときと重なる部分があるということであり、他に何もせずに妄想に耽っているという状況の中でフィクションが構成されるのかも知れず、実際に妄想をもたらすような想像力から導き出される状況と現実に体験しつつある状況とはそれなりに異なっているはずだが、それが現実に起こっている成り行きの中で生じている状況だと思ってしまうと、何かずれた感覚に陥ってしまうわけで、実際にそこで現実の状況の中では思いもしないようなことをフィクションの登場人物は思ってしまうわけで、そことはフィクションの中の架空の場所なのだが、それがフィクションの需要者にとってはリアリティを持つのだから、そのリアリティこそがフィクションの中で感じるリアリティとなるのだから話がややこしくなるわけだが、現実の世界では感じられないリアリティをフィクションの中で感じることによって何がもたらされるのかというと、普通に考えればそれは現実の軽視かも知れないし、そこから現実の世界で起こっていることを想像力によってねじ曲げられるようなあり得ない行為がリアリティを持つわけで、しかもそれがその人が本気で主張している内容に含まれていると、そこから何やらファシズム的な集団幻想の中で現実の事態が進行するような現象も起こりかねないだろうし、実際にある種の集団の活動にそういう内容が含まれていると、何か滑稽であるとともに人によってはそんなことをやっている人たちに恐ろしさも感じるかも知れないが、そういった妄想のひけらかしがメディア上で堂々とおこなわれているわけだから、それが当たり前のことだと思ってしまうのは、ある意味で当然の成り行きだろうが、安易にそういった妄想に飛びついてしまうのは、それだけ人々が暇を持て余している証拠かも知れないが、娯楽の延長上でそうなっている面もあるわけだから、そんな現状を一概に否定するわけにもいかないだろうし、そうなっている現状を深刻に受け止めるにしても、それの何が深刻なのかというと、その深刻さをどう表現すればいいのかわからずに困惑してしまうかも知れないが、たぶんそうである限りにおいて、まだそれは途中の段階であって、その先に何かもっと視界が開けるような状況が待っているのかも知れず、実際にそうなってみないことには、そういった状況を納得のいく形で理解できるような成り行きにはならないのかも知れないが、ともかく今は焦らず腐らず辛抱強く視界が開けるときが来るのを待つしかないのかも知れない。
10月13日「意識の多様性」
大抵の人は扶養されていない限りは人生のある時期において労働を強いられるわけだが、強いられるというと語弊がある場合もあり、自ら進んで積極的に働いているつもりになれればいいわけだが、中にはやりたくない仕事をやらざるを得ない境遇の人も出てくるわけで、実際に誰もがやりたい職種に就けるわけがなく、中には誰もがやりたくない職種もあって、そういう職種を好き好んで選ぶ奇特な人も少ないだろうし、そんな仕事をやらざるを得ない人は気の毒かも知れないが、別に当人にとっては同情してもらういわれはないだろうし、こればかりはどうしようもないことであり、そういう仕事を必要とする社会の仕組みがあって、そういう面で仕事を選べない人が出てきてしまうわけだが、そういう成り行きから人と人の間で格差が生じるとしても、誰もが悲惨な境遇になってしまうわけではないのが微妙なところでもあり、その逆に自らが他人と比較して恵まれていると感じられるなら、優越感に浸れて気分がいいことは確かで、また自分の力で今ある恵まれた境遇を手に入れたと思っている人がいたら、そういう人には何らやましいところもなく、努力すれば必ず報われると信じることもできるし、そういう人の意識はそういう境遇にはなれなかった人の意識とは明らかに違うはずで、どちらの意識が良いとか悪いとかいうのではなく、そうなってしまう成り行きから意識の違いが生じるのだろうが、その一方で同じような境遇から同じような意識が生まれることもあるだろうし、さらにメディアから影響を受けて同じような意識になってしまう人も多いのかも知れないし、それに関して様々な意識の間でどのような差異があるのかと言うと、それは一概には言えないところかも知れないが、そうした意識から生じる特有のこだわりというのが他の人たちの共感を呼ぶかとなると、意識が違えばこだわりも違ってくれば共感されないかも知れないし、その典型例としてありがちなのが右翼と左翼の違いとなるわけで、もちろん両者の共通点として国家主義的な面もあるわけだが、もちろんそれらは職業的な違いだけからなるわけではなく、メディアからの影響の方が強いのかも知れないが、それとともにその人が住んでいる地域的な偏差もあるのかも知れないし、そうやって生じる様々な違いを受け入れられるかとなると、受け入れると言うよりは逆に違いを強調して対立したい場合もあるだろうし、それも同じ意識を共有する人たちが徒党を組んで、それとは別の意識を共有する人たちの徒党と対立することによって、利害を共有する集団として一致団結する習性の方が勝る場合の方がありがちだろうし、そういった傾向が社会の中で様々な集団の間で対立と争いを生じさせて、それが一般的にはその人あるいはその人が所属する集団における主義主張の違いとなって表れるわけだが、そんな主義主張自体が時には具体性とは無縁の抽象的な形態をとる場合もあるわけで、何かそれ自体としては論理的に完結しているとしても、それだけではどうでもいいような政治的なイデオロギーとなってしまうわけだろうが、それがそういう価値観を共有する集団の内部では団結するための符牒として働くわけで、それが一見何やらもっともらしいキャッチフレーズではあるわけだが、よく考えてみるとたわいない幼稚な論理を含んでいたりして、部外者からすれば愚かに感じられるのだが、当人たちは至って大真面目に考えていて、そんな集団として自分たちと他の集団に所属する人たちの違いを強調するのにうってつけな論理というのが、簡単に言うなら国家的・民族的・宗教的アイデンティティーに結びついているわけだが、それが理性よりも感情に訴えかけるから安易に同調できるわけで、また同調することによって生じるリスクも考慮しなくてもかまわないような気にもなるわけだが、そのときはそう思われてしまうと言うかあまり意識していないわけだが、それが長期的な視野で考えると、ほんの軽い気分でそんなこだわりを持ってしまったばかりに、悪い意味で後から響いてくるわけで、現状では何気なしに感情的に流されているのがいい気分だろうが、時には理性によって安易な感情を抑えなければならないこともあるだろうし、それが後から振り返ってみれば高い授業料を払って学んでいる最中であったりするわけで、そうやって貴重で取り返しのつかないことをそれと自覚することなく経験しつつあるわけだが、ではいったいいつになったらそれが誰の目にも明らかになるのかと言えば、今日か明日にも明らかになればわかりやすいだろうが、大抵は忘れた頃につけの支払いを迫られるわけで、その時点ではもう手遅れにならない限りは誰もそのことには気づかないのかも知れず、もしかしたら現状でもそんなふうになりつつある最中かも知れないが、知らぬが仏ということわざもあるから、知らないままになっていた方が誰もが気分良く暮らしていけるのかも知れず、そんな気分が高くつくこともあるだろうが、それでかまわないような現状ならば、気づいている人たちも黙るしかないだろうし、黙らない人たちはこのままでは危ないと大げさに騒ぎ立てるわけだが、そういう騒ぎ立ては多くの人にとっては何かのBGMのようにさらっと聞き流されるだけかも知れないが、それでも自己満足に浸りたいなら騒ぎ立てるしかないだろうし、中にはそういう騒ぎ立てによって成り立っている言論分野というのもあるのかも知れないが、そういうのは空騒ぎ系の人畜無害な行為にしかならないのかも知れず、そんなふうにして警鐘が無視されるがままに歳月がある程度経ってみれば、否が応でも現実がそれらの人たちの状態を知らせてくれるかも知れないが、その状態がそれらの人たちにとって満足できる状態であれば幸いだが、大抵は逆になるわけだろうし、そうなってから手遅れに気づいてあたふたしてみても後の祭りだが、やはりそういう成り行きはある程度は必然的に起こることなのかも知れず、そうであるなら現状で気づいている人たちも下手に警鐘を鳴らしてそれらの人たちからオオカミ少年扱いされても気分を害するばかりだろうから、黙っておくのが次善の策かも知れないが、無駄に労力を費やす覚悟がある人たちは自らに降りかかる災難をものともせずに、ここぞとばかりに騒ぎ立てるのかも知れない。
10月12日「見せかけの活動」
政治家は当然のことながら国家とそれを統治する政府が存在することを前提として、他の政治家や政党や政府の官僚たちや一般の市民などと議論を交わすわけだろうが、果たして政治家の手腕によって国の状態が良くなったり悪くなったりするのかというと、たぶんそういう要素が多少はあるだろうが、それだけがすべてではないことも誰もが承知しているはずで、政治家や政党などの政治宣伝としては、特定の政治家が政府を代表する役職に就いたり特定の政党が政権政党になれば、国の状態が良くなり民の暮らしも改善すると主張するわけだが、本当にそうかというと、それが政治宣伝である限りで、客観的にはそうでもない面もあるだろうが、一般の民衆がそう思い込んでいる場合には、やはり政党や政府やメディアの印象操作を真に受けているのかも知れないし、もちろん良く見せようとする印象操作もある一方で、悪く見せようとする印象操作もあるわけだから、敵対する政治勢力同士で印象操作合戦みたいな状況となっていれば、互いの印象操作が相殺されて、意外と客観的な真実や実情が明らかとなるかも知れないが、どちらの印象操作の方が優勢かといえば、普通は政権を担当している側の印象操作の方だろうが、それも印象操作において主導権を握っているメディアの意向がものをいう場合もあるかも知れないが、そうした印象操作に民衆が完全に惑わされているかというと、その気になっているのはほんの一部の人たちに過ぎないのかも知れないし、案外政治とは無関係なところで世の中が動いていて、それが人や集団の思惑とも無関係であれば、政治勢力のメディアを利用した印象操作が実質的には何をもたらしているのでもないのかも知れないし、そういった見せかけの活動よりは、制度や法律や慣習などから生じる自動制御的でシステム的な動作の方が世の中を支配していて、メディアを利用した印象操作でさえもそういったシステム的な動作の一部を構成する動作でしかなく、そこに政党などの政治勢力や政府の官僚機構などの意向が反映しているにしても、それ自体もシステムからもたらされた紋切り型の意向でしかなく、そこに政治家や官僚などの恣意的な思惑が介在しているとしても、それもシステムから自動的にもたらされた紋切り型の思惑であるなら、特にそれらの人たちが自分の役職や境遇から独立して物事を考えているわけでもないだろうし、こういう役職や境遇ならこういうことを考えてこういう意向でこういう動作になるということでしかなければ、別にその人が誰であっても同じようなことを考えて同じような意向や動作になるだけで、それが取り立ててどうしたわけでもないようなことになり、それに対する他の政治勢力やメディアの反応もシステム的にこういう意向が働けばこういう反応が返ってくるだけのことであり、何かそれについてこれまでにない意見や考えを持ち合わせているわけでもないのかも知れず、結局は従来から繰り返し主張してきた内容を性懲りもなく繰り返し主張しているだけのようなことになっていて、そうなるとそこではシステムに操られたロボットたちが動作しているに過ぎなくなってしまうわけだが、果たして人の思考や動作がそれ以外の方向に働かないのかというと、仮に働いたとしてもシステム的な紋切り型の動作をおこなっている人たちからは無視されるだけだろうし、そういった人や物や情報がシステム的な動作をしている範囲内では特に何がどうなっているわけでもなく、そこで政府による国家統治と民衆統治が滞りなく機能しているだけで、それは政府だけではなく企業や各種団体でも、それぞれの作用や影響が及ぶ範囲内でシステム的な動作によって統治をおこなっているのだろうが、それ以外の各種団体の統治が及ばないところでは一般の民衆が普通に暮らしているのかも知れないが、そんな状況に関して憂慮する点があるのかというと、例えばメディアのコメンテーター的にはもちろん憂慮せずにはいられないわけで、それもメディアの機構から生じるシステム的な動作によって生じる憂慮なのかも知れないし、それが具体的には政府や企業などの各種団体の動作に関して至らない点を告発して追及して糾弾するような動作であるわけだが、それもそうしたメディアのコメンテーター的な動作である限りにおいて、指摘する箇所は決まっていて、それらの各種団体が社会の中でより完璧に統治という目的に応じた動作するにはどうすればいいかという課題から導き出される指摘であり、そうした課題から外れるようなことは指摘されないわけだが、それは政治家の求めるところでもあり、そういう面では政治家の動作とかぶるから、政治家がコメンテーターになったり逆にコメンテーターが政治家になったりすることもあるわけだが、どちらにしてもそれは一般の民衆が望んでいることでもあると決めつけるなら、それらの動作も正当化されるわけだが、本当にそうかといえば、そういう面も確かにあるのかも知れないが、その一方で一般の民衆としては、そうしたシステム的な動作から逃れたいという願望も抱いているのかも知れないし、それがシステム的な動作に守られながらもそこから逃れたいという矛盾した願望であれば虫のいい話なのだろうが、それもシステム的な動作に対する一種の反応でもあり、実際に社会が各種団体によるシステム的な統治動作から成り立っている面と、そういった動作に反発した民衆の自由を求める動作とのせめぎ合いによって成り立っている限りで、必然的にそういった矛盾する願望が生じてくるわけだが、それ以外の動作がないのかといえば、そこで人々がお互いに相手と言葉を交わし合う中から、それ以外の動作を探っていくしかないだろうし、その言葉を交わす動作というのも言語を構成する文法的なシステム的な動作の範疇に入るのかも知れないが、その際に必要に迫られて言葉を交わすとしても、前もって目的が定まっていなければ、それがシステムから導かれた動作とは言えないだろうし、また前もって目的が定まっている会話でも、会話している途中から成り行き次第では当初の目的から外れていってしまう場合もあるわけだから、そういう面ではシステムから外れる動作として、お互いに言葉を交わし合うことがそのきっかけをもたらすわけで、そういう意味では既存のシステムを外れて何らかの新たな動作をもたらすには、言語の使用が有効な手段となる場合もあるわけだ。
10月11日「間違った行為」
それは誰にとっても言えることかも知れないが、個人でやっていることであろうと集団でやっていることであろうと、たぶん現時点でやっていることができることのすべてではないが、できることのすべてをわかっているわけでもなく、それは実際にやってみなければわからないことかも知れないが、少なくとも現状でやれることは限られているだろうし、またやれる可能性のあることをすべて試せるわけでもなく、結局は現時点でやっていることで手一杯であったりするのかも知れず、そんなふうに思ってしまうことが現状の中に意識が絡め取られている証拠かも知れないわけだが、また現状の中で他人や他の団体がやっていることに関して、それを信じている何らかの理屈に照らし合わせて、それが正しいか間違っているかを指摘することはできるかも知れないが、そういった指摘も現状の中でやっていることに含まれるのは当然だとしても、それを指摘している人の意識も現状の中に絡め取られていて、決してその人が現状の外側から現状の中でおこなわれていることを観察しているわけではなく、そういった指摘を含んだ現状があることも確かなのだが、そんな現状を考慮に入れた上で何ができるかとなると、やはり現時点でやっていることで手一杯であれば、そういった指摘を受け入れて真に受けている余裕がないと、まずは他人の指摘よりは自らがやっていることを信用するだろうし、実際にそこでやれているわけだから、自らがやっていることに関しては確かな感触を得ているだろうし、自信を持ってやれていれば、それに対する肯定的な指摘はともかく、否定的な指摘が信用できないのは当然に思われるわけだが、それは指摘する側にも言えることであり、実際に指摘できるわけだから、やはり自信を持って指摘している限りで、たとえ指摘した内容を受け入れることを相手から拒否されたとしても、指摘することをやめる理由が生じることにはならないだろうが、そうであるなら現状の中では他から何を指摘されようとそれをやり続けることもできるだろうし、また誰かがそれをやっていることに対してそれが正しいか間違っているかを指摘することもできるだろうし、どちらもできる限りでそれらに関してできないことがあるとすれば、そこでやっていることをことをやめさせることができないのかも知れず、実際にやめさせることができなければ、それをおこなっている現状があるわけだが、たとえやめさせることができないとしても、特に不都合がなければそれで済んでしまうわけだが、少なくともそこでおこなわれていることが間違っていると指摘して、それをやめさせようとしている人や団体がいたら、その人や団体にとってはそれがおこなわれている現状は不都合であるはずだが、それでもその人や団体が他人や他の団体がおこなっていることを間違っていると指摘して、それをやめさせようとすることができるとしたら、たとえ結果的にやめさせることができなくても、そういった指摘をすることに関しては都合のいい現状であるわけで、そういう意味で間違ったことをやめさせようとすることができることに関しては都合のいい現状が、実際におこなっていることをやめさせることができていないことに関しては都合の悪い現状となっていたら、それを指摘することが、主張通りのことを実行することができない現状の中でおこなわれていることになるわけで、間違っていると指摘できるがその間違っている行為をやめさせることはできないとなると、結局そういった主張をする人や団体には実行力がなく、単なる主張するだけとなってしまい、そういう人や団体を信用できるかとなると、それが実行されることを期待する人にとっては、実際にやめさせることができない限りは信用できないだろうし、そういう意味では間違った行為を指摘するだけの人や団体は信用できないことにもなるが、ではそうした人や団体が間違っていると指摘したことをおこなっている人や団体を信用できるかとなると、そこでおこなわれていることを支持する人たちは、そうしたことをおこなっている人や団体を信用するだろうし、何よりもそうしたことをおこなっていることが実績として評価されて、またそれによってそれを間違った行為だと指摘する人や団体とは敵対することにもなるわけだが、そうなるとそんな現状の中で不利な立場や境遇を強いられるのは、それを間違った行為だとして指摘しているにもかかわらず、それをやめさせることができない人や団体となるわけで、その一方でそこで間違った行為だと指摘されていることを実行できている人や団体は、それを実行できている限りで実行力があることになり、そうした行為によって利益を得ている人や、それを快く思っている人からも支持されることになるわけで、その一方でただ他人や他の団体の行為を評価するだけの人は、そうした評価が一時的に共感を呼ぶことがあるにしても、それが間違った行為を指摘することになれば、いつまでもどこまでも間違った行為を指摘し続ければ、なぜいつまでもどこまでも間違った行為がおこなわれ続けているのかが疑問に思われてしまうわけで、間違っていると評価されているのにも関わらず、その間違った行為が延々とおこなわれ続けていて、しかもそれを指摘している人や団体がその間違った行為をやめさせることができないという事実が、それを間違った行為だと見なす評価自体の信用の低下をもたらして、そういう意味でいつまでもどこまでも長期間にわたってそれを間違った行為だと指摘し続けることは、そうした行為自体が間違っていると見なされかねないが、しかもその間違っていると指摘されている行為が長期間にわたっておこなわれている実態があるわけだから、要するにそれを間違った行為だと指摘し続けることが、そうした行為を長期間にわたって維持し続けることにつながっていると見られてしまうことにもなりかねず、結局それを続けている双方の間で持ちつ持たれつの関係が成り立っているとも見なされてしまうわけで、そうした行為をやめさせるには、そんなことをやっている双方ともに信用してはいけないことになるのかも知れず、では他に何を信用すればいいのかとなるわけだが、それについては特に誰を信用しなくてもかまわないような現状の中にいると思っておいても差し支えないのではないか。
10月10日「何でもないこと」
何でもないことをそれなりに表現しようとすれば、何でもないのだから大げさな表現は避けるとしても、それに関する言説として取り上げるに当たって、何でもないのになぜそれを取り上げるのかについて説得力のある理由を述べる必要に迫られて、結局は何でもないという前提を裏切って、それなりに重要なことであるような語り方になってしまうかも知れないが、何が何でもないのかとなると、それが何でもないことであると同時に、それについて語る必然性として、その何でもないことを大げさに語る人たちを批判するために、あえてそれについて語るような場合もあるかも知れないが、その際には大げさに語られる対象を何でもないことだと指摘するのだから、その対象を否定的に見ているのであり、大げさなことの否定として何でもないと表現される限りで、それを大げさに語る人たちとの間で、その対象を巡って見解の違いがあるわけだが、たぶんその見解の相違に関して、物事を大げさに語るよりは何でもないことのように語る方が妥当なのではないかと思っているのかも知れないし、だからあえてそんなことを述べようとしているのかも知れないが、そんなこととはどんなことかといえば、大げさなことを何でもないことのように語るというよりは、実際にそれが何でもないことだということを証してみたいのかも知れず、具体的に何が何でもないことかとなると、その対象を特定できなければ言説として成り立たないわけだが、それが何でもないことであるだけに、それにこだわる必要もなく、例えばそれに関して予想が当たったの外れたのと自らの予想の的確さを誇ってみせるようなことはせずに、予想の当たり外れ自体も何でもないことなのだから、何かのついでにその対象の将来を予想してみせたことがあったかも知れないが、すでにそんな予想自体が何でもないこととなってしまって、そうなってしまった時点で目算が狂っているのかも知れないし、逆にそれについて大げさに騒ぎ立てたい人たちにしてみたら、過去の外れた予想については忘れてほしいのとは裏腹に、少しでも予想と一致する部分があれば、それを鬼の首をとったように強調したいわけで、むしろそうなってしまうから認識のゆがみが生じてしまうのかも知れないが、そうしたその人のアピールポイントというのが、アピールの必要のないポイントであったりして、では他に何をアピールすればいいのかとなるわけだが、その人の語っている対象が何でもなければ、アピール以前の問題となってしまい、それについて何かもっともらしいことを語って、語っている自らをアピールするということ自体が何でもないことだとすれば、そうした自己アピールが空振りに終わっていることになるわけだが、それがその人にとっては大げさな事態かとなると、そうでもなければそれも何でもないことと見なしてもかまわないのかも知れず、結局はその人が思っているほどには、誰もその人に注目しているわけではないことが明らかになるとすれば、やはりそれも何でもないことになってしまうだろうし、そんなふうにして大げさに語るようなことが何もなくなってしまえば、それがその人に結びついている生活世界の実態と言えるのかも知れず、実際に普段の日常の中で大した事件など何も起こらなければそうなってしまうわけだが、そうなっている限りで安定した生活が成り立っているとも言えるわけで、たとえニュースなどで伝えられる大げさな事件から刺激を受けるとしても、それが自らの生活とは無関係であれば何でもないことになってしまうわけだが、外に向かって自らをアピールするにはいやでも強調しなければならないことが出てきて、その際に何でもないことを強調することが間違っているとすれば、少なくとも強調していることについては自らにとって重要なことだと思うかも知れないし、そうでなければ他の人たちにとって重要なことであるかも知れないし、重要なことでなければ何か興味深いことであるのかも知れず、またそれが面白そうなことであれば、多くの人たちが興味を持つようなことであり、それが何でもないことだとしても興味深かったりすれば、それがそれについて語る理由となるだろうし、何でもないことに興味を持つことがその人にとっての語る理由となれば、それを大げさに語らなくてもかまわないような理由となってくるのかも知れず、そうなるとアピールポイントとしては、何でもないことを語っている自らがその対象となるのかも知れないし、しかもそれが他人の同意を必要としないアピールであれば、それによって自己満足に浸っていても何ら不自然なことではないようにも思われるだろうし、それを無理に誰もが興味を持つようなことにつなげなくてもかまわないのかも知れないし、そういった他人の同意を必要としない楽しみが増えると、それだけその人の嗜好や価値観などが世間のそれとずれてくるのかも知れず、そんな人が多ければ多いほど、人々の共通感覚が薄れてきて分散傾向となってくるだろうし、例えばそれが貨幣を介した金銭的な価値や価格とも結びつかなくなってくるのかも知れないが、たぶんそういう物事は売買には適さないわけで、人々が求めるものが売買によっては求まらないような物事になってくると、そういった方面には資本主義経済が浸透しづらくなっていくだろうし、結局それが何でもないからこそそうなってしまうわけで、価値とも価格とも関係ないような物事は何でもないと決めつければそうなってしまうわけだが、それでかまわないようなことならそれで済んでしまうだろうし、そういった何でもないことに関わっている時間が長くなってくると、それだけ資本主義経済とも無関係な時間も長くなってくるわけで、もちろん世の中でそういった物事がこれから増えていくにしても、すべてがそうなっていくわけではないだろうし、売買に依存している面が相変わらず相当の割合であるにしても、実際にそれらのすべてを売買には結びつけられなければ、それをいくら売ろうとしても買い手がつかなければどうしようもないわけだから、だからといって買い手がつくように工夫する必要がなければ、何でもないままでも特に支障は来たさないだろうし、それもその場そのときの成り行き次第であれば、そういった何でもないような物事に関わり合うような成り行きも生じてしまう可能性があるのではないか。
10月9日「制度的な関係」
現代社会では人は政府や企業などの各種団体が提供する様々な制度に囲い込まれているわけだが、自らの意志でそれらの制度を利用しているつもりになっている場合もあるわけだが、中には知らないうちに制度に絡め取られている可能性もあるだろうし、それと気づかないで制度を管理している団体によって心身を操られていたりしたら、何か自由を奪われているみたいで抵抗感を抱くかも知れないが、それに気づかなければ何とも思わないだろうし、それに伴っていったいどこからどこまでが自らの意志で活動しているかなんて、わかるわけがないかも知れないが、できれば自らの主体的な意志に則って活動したいわけだが、少なくとも社会の中にいるわけだから自分一人で生きているわけではなく、様々な人や団体などとの関係の中で生きている限りで、身勝手なことができない面がそれなりにあるわけで、そういう面では不自由になっているのは致し方ないにしても、できればその程度と傾向などを把握したいだろうし、自らがどのような制度にどの程度規制され拘束されているのかを知りたいわけだが、知っている範囲内での把握では不十分かといえば、それはその人の事情にもよるだろうが、どうしても当人の気づかないところで、何か制度を管理している団体に利用されている部分があるのではないかと疑ってしまうわけだが、たとえそうであっても、その人の現状がうまくいっているようなら、それが制度に守られている面でもあるのかも知れないし、そういう部分では自らを守ってくれる制度を肯定せざるを得ないのかも知れないが、何よりもその実感がわいてこないし、制度のありがたみを自覚できなければ、自らを束縛していることに対する抵抗感ばかりが目立ってしまって、それによって制度を否定的に見てしまうこともあるわけだが、すでに何らかの制度が存在していることを前提としてその人の活動が成り立っているとしたら、抵抗感を感じつつも制度を受け入れざるを得ないような成り行きにもなっているだろうし、それ以前に社会そのものが様々な制度の集合体である面もあるわけだから、否応なくその社会の構成員となっている限りで、何らかの制度に心身を絡め取られている現実があるわけだが、それでも自らの自主性や主体性などがそれなりに確保されているような環境の中で生きていたいわけで、そう思っていること自体が一方では制度の恩恵に与っている面もあるのに、何か身勝手でご都合主義的に思われてしまうかも知れないが、そんなアンビバレントな思いを抱くのも、ある意味では当然の状況なのかも知れないし、社会の中で制度にとらわれながら生きている限りでそうなってしまうわけで、しかもそれ以外に生きようがないからそうなるのは宿命なのかも知れないが、すべての面においてそうなっているわけではなく、束縛の程度や傾向も様々な度合いがあり、そんな中でやり過ごせる作用はやり過ごして、及ぼされる影響にも逆らってしまえる場合もあるし、そうやってうまく作用をいなして影響をかわしながらも、避けられないものについては被害を最小限に食い止めようとするだろうし、そんなやりくりの中でうまく立ち回っている気になれれば、それなりに満足感を得られるのかも知れず、そうやって制度と格闘しながらも、制度に利用されるのではなくこちらが制度を利用しているつもりになれるなら、そんなに悪い気はしないわけだが、結果的に制度が維持されて運営している側にも利益がもたらされているのなら、利用している側と運営している側がウィンウィンの関係にあると言えるわけで、そうなっている限りで共存共栄のつもりにもなれるわけだが、そうした状況が単なる利害関係以上の関係に発展するかといえば、何か信頼関係を築くような成り行きへと持って行きたいのかも知れないが、それが幻想に過ぎないとしても、そうなるには制度的な動作とは違う何かが必要となるのかも知れないし、その何かが肯定できる価値観を伴っていることがそうなる条件となるのかも知れず、それに関しては事情が許す範囲内で制度をねじ曲げてでも双方が助け合ったり、また制度を超えて制度のあるなしにかかわらずに肯定できるようなことが共同作業としてやれたら、それが双方にとっての信頼の証しとなるのかも知れないが、そうなってしまうともはや制度がいらなくなってしまいそうだが、そういうことがきっかけとなって、より柔軟性の高い制度を構築するような気運も高まるのかも知れず、そういう面で束縛感よりも自由を感じられる制度となっていくと、それだけ制度に対する抵抗も減って好感度も上がるのかも知れないが、それには制度を管理する側と利用する側との間に信頼関係が生じていないとならないだろうし、どちらかが疑いを持たれるようなことをやってしまうと、つい自己防御的に身構えてしまうわけで、相手の隙を見つけてはそこにつけ込んで利益を得ようとしてしまうと、信頼関係など生じる余地はないわけだが、そうするのが当然な状況だと、どちらもビジネスライクで功利的に割り切った関係となるしかないだろうし、表面上はフレンドリーに振る舞っているものの、心の内では相手が何を思っているのかわからないとなると、まずは疑ってかかるしかないだろうし、いつ相手から攻撃を加えられたり出し抜かれたりだまされたりしないかとビクビクしながら付き合うような状況となってしまえば、所詮はそんな関係でしかないと捉えるしかないわけで、それ以上を望むことが幻想に過ぎないと思えば、別にそれでかまわないのだろうが、そうであるとしてもそこから逃げることができなければ、そういった関係を維持しながら生きていくしかないわけで、さすがにそんな状況を肯定はできないとしても、それでも活動が成り立っていれば、否定するわけにもいかないだろうし、そんな肯定も否定もできないような状況の中で生きていれば、特に身勝手な幻想を抱くこともなく、それなりに平常心を保ちながら生きていけるのかも知れないが、それでも功利的な利害関係だけではなく、安心できる信頼関係を築きたいような成り行きが生じるとしたら、それと自覚することなく功利主義とは違う価値観を求めているのではないか。
10月8日「公共的な面」
つまらないことにこだわることによって何がもたらされるかというと、意外とそれが面白い出来事につながるかも知れないが、面白いかつまらないかの違いが深刻な事態をもたらさなければ、それが面白くてもつまらなくても大したことはないだろうが、こだわっていることが深刻な事態をもたらすようなことであれば、それについて真剣に考えるような動作をもたらして、何やら事を大げさに捉えるような成り行きになるのかも知れないが、先入観として政治に関する問題が、それについて真剣に取り組むべき深刻な問題であるのは当然のことのように思われるわけだが、それが人によってはつまらないことであるとしても、少なくともくだらないことだとは思われないはずだが、では何でもかんでも大げさに扱うべき深刻な問題かと言えば、実態はどうであれそう捉えてもかまわないような成り行きがあるのかも知れず、そこにメリハリや程度の差を設けるわけにはいかない空気があるとすれば、それが政治に対するある種の先入観から構成された空気であるのかも知れないが、そういった問題に関して無関心になれるのかというと、たぶんなれるだろうし、実際に誰もが政治に関するすべての問題に関心を持っているわけではなく、政治に限らずメディア上で話題となっている様々な物事に関しても、無関心でいてもかまわない場合があるわけだが、なぜかまわないのかと言えば、実際に無理に関心を持たなくても済んでしまうからだが、そうやって無関心でいられる人が多ければ多いほど、その政治的な問題がそれらの人にとっては大したことではない問題になってしまうわけだが、本当にそうかとなると、それらの人が気づいていないだけで、実際にそれらの人たちにも少なからず作用や影響を及ぼすような無視できない問題である可能性もあるわけだが、そうであっても無関心でいられるとすれば、それらの人たちには気づかないうちにその問題から何らかの作用や影響を及ぼされていて、それがその人たちにとっての何らかの利害をもたらしているのなら、気づかないうちにそうなっていて、それでも平然としていられるのであれば、そういうことでしかないわけだが、それらの人たちにとっては自動的にそうなっているわけだろうし、当人が直接何らかの行為や行動に及ばなくてもそれで済んでしまうようなことであれば、世話なし手間なしで楽なことかも知れないが、実際にそれで済んでしまう人が世の中に大勢いるとすれば、果たしてそれが政治の場で問題視するようなことかとなると、そうなっている実態こそが問題視されるべきことだと思われるかも知れないが、果たしてそれが具体的に何かと言えば、それが大多数の人にとっては何でもないことであっても、ごく一部の少数の人にとってはそれが大問題であるようなことかも知れないし、大多数の人が気づかないことであり、無関心であることなのだろうが、実際に現状でもそれに気づいていなければわかりようがないわけだが、それを多くの人がわかるようにするにはどうしたらいいのかといえば、メディア上でそういう問題を指摘してそれが世間に知れ渡ればいいわけだが、なぜそうしなければいけないのかといえば、多くの人々の間で問題を共有しないと、そうした問題を解決しようとする気運が高まらないからかも知れないが、その多くの人が問題を共有する必要がある問題とは何かといえば、それが公共的な面での問題となるわけだろうが、実際にそういった面での問題に多くの人が関心がなくても済んでしまう状況であるとすれば、そういう人たちはそういった問題に関しては、公共的な面を意識しなくてもいいような立場や境遇に置かれている可能性があるだろうし、そういう意味ではすべての人が等しく問題を分かち合うようなことにはなっていないと言えるのかも知れず、人それぞれに関わってくる程度や傾向に違いがあればそういうことになってしまい、それが公共的な面といえども、それに関わってくる人によって差異があることになってしまうわけだが、そうだとすればそれに類する政治的な問題に関しても、それを真摯にあるいは深刻に受け止められない人や団体が生じてくることは想定されるし、そうであればそうした問題に関して無関心であっても許されるような場合も出てくるだろうし、結局はそれについて関心のある人たちがそうした問題に関わってきて、それらの人たちやそれに関わっている団体によって、そうした問題を解決するための努力や活動が行われる成り行きになってくるわけだが、そうなって誰もが等しく問題意識を持つ必要がなくなれば、それは公共的な面での問題とは言えなくなってしまうのかも知れないが、それでかまわないのかといえば、制度的な建前としては、公共的な面では誰もが関心を持ってほしいような意向があるわけで、少なくともその国の政府が関わっている問題であれば、その国の国民の誰もが関心を持ってほしいわけだろうし、そうでないと憲法に記された国民主権の建前が有名無実化してしまうし、実際にそれを実質ではなく形式的な建前と見なせば、ある程度は有名無実化していることになるわけだが、その実態がどうであれ、そうした問題に関わってくる人や団体の思惑がどうであれ、誰もが関心を持つような問題となれば、それなりに広範囲に作用や影響を及ぼす問題であるだろうが、世の中の問題がそういう問題ばかりかといえば、そういう問題よりは些細で作用や影響の及ぶ範囲が限定された問題の方が圧倒的に多いのかも知れないし、そうであればそういう問題には関心を持てなくても当然なのかも知れないが、そういった公共的な面というのは、公的な制度に関わってくる面だから、それに関心を持つ義務があるかとなると、義務というのとは違うだろうし、ならば関心を持つ権利があるといったら、それも少しニュアンスが異なるかも知れないが、実質的には関心を持ってもかまわないようなことであり、関心を持つか否かはその人次第な面があるのだろうが、関心を持って関わるような成り行きがある一方で、関心を持たないままであっても済んでしまうような成り行きもあるといえば、結局はどちらであってもかまわないようなこととなってしまうわけだが、実際にそうであれば、それはそういうことでしかないだろうし、それ以上でも以下でもないことが、そうした問題の程度であり傾向でもあるわけだ。
10月7日「正常な感覚」
簡単に考えれば貨幣は商品の売買に必要なアイテムでしかなく、でしかないと表現すれば何か軽んじていることになってしまうが、確かに貨幣が蓄積されていると何でも買えるような幻想を抱いてしまい、経済的に豊かになったように感じられて、少ないよりは多い方がいいように思われるわけだが、そういった単純な理屈だけだと大したことはないが、そこから他の理屈に絡めて都合のいい結論を導き出そうとすると、何かおかしな事態が引き起こされてしまうのかも知れず、そのおかしな事態というのが、何か差引残高の帳尻が合わないようなことを主張し始めてしまうわけだが、そういう事態をなるべく避けるには、貨幣に絡めて持ち出す理屈というのは、できるだけ単純でわかりやすい内容にとどめておいた方がいいのかも知れず、詐欺やごまかしのように思われないためには、そういうところをちゃんとしておかないと他人から信用されなくなってしまうのかも知れないが、貨幣の使い方としては売買とともに貸し借りも絡んでくると、そこに利子の支払いも生じてしまい、また借りる際には担保も必要になってくる場合もあるし、そうやってそこに様々な要因が絡んでくると、それなりにややこしい事態となってしまうわけで、さらにそこに貨幣そのものを発行している各国の中央銀行と政府の関係にまで言及しようとすると、何か陰謀論的な妄想まで膨らんでくるのかも知れないし、実際に政府が財政の面で莫大な額の国債を発行している状況があると、財政破綻しないかとか、その際にはハイパーインフレになるのではないかとか、それなりに危機感をあおりたくなってくるかも知れないが、実際に近年でハイパーインフレになったのは、ジンバブエとかベネズエラとか、政情不安が続いて国内経済が滅茶苦茶になってしまった国では、確かにハイパーインフレも起こるわけだが、それらの国と日本の現状を比較するのはおかしいし、どう考えても現状の日本ではハイパーインフレなどあり得ない話だが、そこまで混乱していなくても、ギリシャとかアルゼンチンとかは財政破綻を経験しているのに近年では至って平静を保っているし、もっともそれらの国でさえ日本とは比較にはなり得ない小さな経済規模であり、日本においてそうした危機を感じられないのは当然だろうが、だからといって政府の財政が国債の発行に頼ってしまうのはゆゆしき事態であり、できれば今後は国債の発行量を徐々に減らしていくことが求められるし、そうやって借金財政から抜け出す努力を怠ってはならないのは、普通の感覚では正論だと思われるわけだが、別にそれに関して財務省が組織としてどんな思惑があろうと、何か良からぬ陰謀を巡らせていようといまいと、政府全体としては普通に税収だけで予算が回っていくようにしておいた方が良さそうには思われるわけで、むしろそれができずにずるずると数十年が経過してしまっていること自体が、普通に考えるなら問題であるわけだが、もちろんそれができない事情があるから数十年が経過してしまったわけで、この先誰がどんな政党が政権を担当しても、うまくいかないような成り行きが続いていってしまうかも知れないが、だからといって逆にそうした状況を積極的に放置するようなことはやめた方がいいのかも知れず、またそうした状況を利用してさらに借金財政の度合いを強めるようなことをやるのも言語道断だろうし、そういうところで経済的な倫理観や道徳観が求められているのかも知れないが、そんなことに気を遣っている余裕などないと言えば、その通りな人たちも中にはいるだろうし、果たしてそういう人たちを政治勢力として支持できるかと言えば、微妙なところかも知れないが、実際に困っている人たちを助けるには政府の財政健全化などは後回しだと主張するなら、そういう主張に賛同したい人がそういう勢力を支持すればいいわけだが、案外現状ではそういう人たちの主張の方が正しくて、消費税率を引き上げて借金を減らして財政の健全化を推し進めることの方が間違っているのかも知れないが、もちろんそういう人たちは財政状況を悪化させずに困っている人たちを助ける秘策があると主張しているわけだろうし、実際にそういう人たちが政権を担当する機会が巡ってくれば、そういう人たちの主張が正しいか間違っているかがわかるわけだろうが、現状ではそういう人たちが政権を担当する機会が巡ってこないから、主張が正しいか間違っているかの判断がつかないままであり、もしかしたらこれから先も永久にわからずじまいとなってしまうのかも知れないが、それに関して無難なやり方としては、政府は財源に都合がつく範囲内で行政をおこなえばそれでかまわないわけで、もちろんその中には税収の他に公債などの借金も含まれるわけだが、民衆の側でもそれ以上の行政サービスなどは求めない方がいいだろうし、実際にそれ以上のことをやろうとしてきたから慢性的な赤字財政になってしまったわけで、そういう意味でもあまりアクロバティックな論理を持ち込まない方が無難かも知れないが、それでは済まないと思っている人たちが、何かこれまでにはない画期的なやり方を試そうとするのなら、そういう人たちを支持したい人たちが世の中の多数派を占めれば、それをやる機会が巡ってくるのだろうが、どうも現状ではまだそこまで至っていないのかも知れないし、今後そういうことをやりたい勢力が支持を拡大して、政権を取ってそれをやる機会が巡ってくれば、そういうやり方が正しいか間違っているかがわかるわけだが、そういうことも含めて、それが枝葉末節なたわいないことだとは誰も思っていないだろうし、いずれはそういうことをやる機会が巡ってくるのかも知れず、そんな勢力に期待しているのなら、選挙の時にはそういうことをやりたい勢力に投票すればいいのではないか。
10月6日「システム的な動作」
言語が人にどのような作用を及ぼしているかと言えば、それは当たり前すぎて改めて考えてみるようなことではないのかも知れないが、他人と意思疎通を図るときでも思考を巡らせて物事について考えるときでも言語が欠かせないし、他にも様々な用途で言語が使われていて、人が集団で社会を構成する上で言語が必要不可欠であるのは分かりきったことだが、では言語の他に何が必要かとなると、生活していくのに必要な物資と社会を構成する上で必要な各種の制度などが必要となってくるわけだが、そこでも物事を表現するには言語が必要だから、根本的なところで人の意識が言語から構成されていて、そういうところから何を語ろうとしてもあまりにも当たり前すぎて、興味のない人にとってはどうでもいいような内容になってしまいそうだが、人が何をおこなうにしても言語と連動しておこなわれていることが多いだろうし、特に集団で共同作業などをおこなう場合は関係する人たちの間で言語を用いて意思疎通を図りながら作業することになるわけだが、そこで何をやるにもいちいち他の人たちと話し合って全員の了解を求めながら作業を進めていくと、作業内容によっては手間暇がかかりすぎて非効率になってしまうから、前もって手順を決めておいてから、その場でいちいち他人の了解を求めなくても作業を進められるような仕組みを作ろうとするわけで、それがシステム的な動作をもたらすわけだが、すべての動作や手順を前もって決めておけるかとなると、そういうことができる部門では当然そういうことがおこなわれるだろうし、できない部門ではそこで関係する人たちの間で話し合いや交渉や取引などがおこなわれることになるわけだが、どちらの動作も必要であれば、その場の必要に応じてどちらかあるいは両方ともにおこなわれることになるだろうし、少なくともすべてがどちらか一方の動作に統一されることはないはずだが、どちらかと言えば効率重視のシステム的な動作が優先される傾向があるわけで、他人と意思疎通を図って同意や了解を求めるのが面倒で大変な場合が多いから、できればそれをなしで済ませられるなら楽だと思われるし、そういうことをやるに際して使える便利なアイテムとして、貨幣と権力があるわけだが、どちらを使うにしてもそれを使う際に整えておかなければならない条件があって、それが制度や慣習や法律などとして、前もって決められている必要であるわけで、例えば金銭を払って同意や了解を取り付けるような決まりや慣習が前もって社会の中で容認されていたり、また権力を行使して他人を従わせることが可能な組織的な指揮命令系統や地位の上下を伴った階層構造が前もって社会の中で構成されている必要があるわけだが、そうした行為の裏付けとなる制度や慣習や法律ができあがる過程において、人や集団の間でそれなりに話し合いや争いなどがあっただろうし、そんなことを含めて何らかの経緯や成り行きを伴いながら、貨幣や権力が使われるような社会的な環境ができあがってきたわけだが、それでおしまいというわけではなく、その先にも何らかの経緯や成り行きを伴いながらも、従来とは異なるやり方が新たに社会の中で通用するようになるかも知れないし、現状でも無償の贈与とか貸し借りとか貨幣とは異なる交換形態とかがあるのかも知れないが、絶えずそれを模索していく必要があるかも知れないし、意識しなくても自然の成り行きとして模索されているのかも知れないわけだが、貨幣や権力が自然発生的に生じてきた経緯があるように、これから生じてくる何らかの形態も自然発生的に生じてくるかも知れないし、少なくともそれについて特定の人や集団が考案するようなものではないのかも知れないが、詐欺的なやり方としては詐欺師や詐欺的な集団がその種のアイテムを考案するにしても、それが社会の中で定着するには、それなりの紆余曲折があるだろうし、それが制度や慣習や法律などを伴うとしても、それが誰にとっても都合の良いやり方となることはないのかも知れず、それなりに利害を伴うなら、それがたとえそれなりの公平性や公正さを装うにしても、そうしたやり方に伴って何らかの問題が生じてくるはずだが、それを現時点で予測することはできないし、そうしたやり方が社会の中で定着してからでないと対処のしようがないわけだが、そうなる過程においては、途中で関係する人々の間で話し合いや交渉や取引がおこなわれて、そこでそれなりに同意や了解を求めるような成り行きが必要不可欠となるわけで、それが何らかのシステム的な動作を伴うにしても、いったん社会の中で定着してしまった制度や慣習や法律などは、それなりに不合理で不都合な問題を伴っているとしても、それを帳消ししてあまりあるようなメリットを伴っていると、原発のようになかなかやめられなくなってしまうわけで、それは現状で支配的なアイテムである貨幣や権力についても言えることだろうし、貨幣の使用や権力の行使が社会から一掃されることなど現状では考えられないわけだが、もしかしたら今後それらに勝るようなアイテムが登場してきたら、それらに取って代わって社会の中でそのアイテムの利用形態が社会の中で支配的になるとも限らないだろうし、そんなことも現時点では予測不可能であり想像できないし、それを現状でおこなわれている活動に反映させるわけにもいかないわけだが、だからといって貨幣の使用や権力の行使に伴って生じる不都合や不具合を放置するわけにもいかないだろうし、それに反感を抱いたり反発して抵抗することが、それとは別のやり方を模索する動機となったり原動力となるのかも知れず、そういう意味では実際にそれによって被害や損害を被っている人たちがそうした活動の中心となってくるだろうし、間違ってもそこから利益を得ている人や集団が、貨幣や権力に勝るアイテムを発明したり開発できるとは思われないし、もちろん貨幣に似た動作や役割を果たす株式や証券の類いが考案されてきたことは確かだが、抵抗運動などにかかりきりになっている限りで、それに代わるやり方を模索している暇はないだろうし、実際にそれらの人たちは抵抗運動の類いをやるだけに終わってしまう可能性もなきにしもあらずだろうが、それを模索する人にとってはそうした抵抗運動の存在が、模索する動機や原動力になることは確かなのではないか。
10月5日「認識のずれ」
現状認識について何か誤解があるとすれば、社会的な立場や境遇の違いから個人間でそれなりに認識のずれが生じて、そのずれをおかしいと思ってしまうと、立場や境遇の違いを考慮せずに思慮が足りない可能性が出てくるが、逆に誰もが異口同音に同じような認識を示しているのを目の当たりにすると、本当にそれがそれらの人たちの間で共有している共通の認識だとしても、何かそれが、それらの人たちに特有な固定観念にとらわれているのではないかと疑ってしまうわけだが、あるいはそこでは意識が自然と他の人たちと同じような認識に至るための口実を無意識のうちに見つけようとしてしまっている可能性もあるかも知れないし、さらに他人が表明していることを自分も無批判に表明してしまうような成り行きもありそうだし、そうした安易な共通認識というのが、民意や世論として世間一般で流行っている認識であるのかも知れないわけだが、そういう認識を疑ってかかるのも、何かへそ曲がりのひねくれ者のような印象を伴ってしまうかも知れないが、意識してわざと他人と違う認識や見解を示して、結果的に知ったかぶりの優越感に浸っているように見えてしまうのも損なことかも知れないし、そういうところで他人とは違う素直な認識や見解を提示することにためらいを感じてしまうとすれば、それだけ世間を意識していることになるわけだが、認識を得るには思考することが必要だし、自身の思考を欠いた認識は他人の認識かも知れず、他人の認識を無批判に受け入れることは、自身の思考を省略してしまっているわけで、そうではなくたとえ他人の思考を受け入れるとしても、それについて自身で考えて納得した上で受け入れるなら、それだけ自身の意識の中で認識が定着していて、その認識を自身の責任で引き受ける覚悟ができていることになるだろうが、そこまで至らずに他人の受け売りになってしまうと、それだけ認識の精度が下がってしまい、詳しいところがわかっていなかったり、またその認識に絡めて言わんとしていることが理解できていないと、思わぬところで誤解が生じてしまい、同じようなことを述べているのに、認識の肝心な部分を外して述べてしまうような結果を招き、そうなると認識自体の信憑性も怪しくなってしまうのかも知れず、そういう意味で一口に認識と言っても、それに付随して思考を要する知識や経験や経緯などを伴っていれば、他人の認識に賛同している人の間でも、当人のあずかり知らないところでずれが生じてしまい、結果的に多くの人が共有できる共通認識からはほど遠い状態になっている場合もあるのかも知れず、それが何かと言えば、例えば世界経済に関する現状認識であったり、また国家財政に関する現状認識であったりするのかも知れないが、それに関して何が言えるのかとなると、微妙な問題が絡んできて、何かはっきりしたことを言ってしまうと、それが間違いや勘違いの素となって、下手に論理的に正しい範囲内にとどまろうとすれば、思わぬところで足下をすくわれて、何かにつまずいて転んでしまい、それが自身の認識の正しさに幻惑されている証拠となってしまうのかも知れないが、たぶんそれについては一つの論理や理屈や理論で説明できるようなことではないのかも知れず、絶えず既存の論理や理屈や理論を疑いつつも手探り状態の姿勢をとっていないと、何かもっともらしくもわかったような認識に至ってしまい、それが足下をすくわれて転んでしまう原因となって、うまくいかない事態となってしまうわけで、その辺の微妙な加減を考慮しないと、すぐに正しい認識を求めてわかりやすいことを述べてしまうわけで、そうなるとそうした論理によって人為的に経済を制御できるかのような幻想を抱いてしまうわけで、実際にそれができないから、はっきりしたことは何も言えないような現状をもたらしていて、またそれに関して特定の勢力が主導権を握って政治や経済を制御しているような陰謀論に陥る成り行きもあって、そうやって悪者を特定して批判の矛先を向けやすい対象となるのが政府となるわけだが、果たしてそれが正しい現状認識に基づいた行為なのかとなると、仮に正しいとしても行為としてはうまくいかないわけで、結果的にそうなってしまう必然的な成り行きがあるとしても、それをもたらしているのが政府にも制御できない成り行きだとしたら、確かにそのことで政府を批判できるのだが、批判したところで政府がその批判に応えて批判派の要求を受け入れられるかと言えば、受け入れるわけにはいかない事情があるだろうし、実際に受け入れていないわけだろうが、そういうところでどうすればいいかに関して、正しい答えはないのかも知れず、正しいと思われる答えがあるとしても、その通りにはできない事情が生じているのかも知れず、ではその代わりにどうすればいいのかと言えば、実際にやっていることがその答えとなるわけだろうが、もちろんそれが批判の的となっているわけで、何かその辺で批判と行為が循環しているのかも知れないが、いくら循環しても正しい答えにたどり着くはずがないのかも知れないし、これから先もそんなうまくいかないことをうまくいっているかのように見せかける行為が続いていくのかも知れないが、結局は政府にできることと言えば、ただ単に貨幣をコントロールしようとすることではなく、資源と人材を投入して何かをやらせることでしかなく、たとえそれが成功しようが失敗しようが、何かをやらせればやらせた分だけ仕事をしたことになり、そこで仕事の量と質に見合った貨幣が支払われればいいわけだが、そこも微妙なところであり、果たして仕事に見合った価値や価格を政府が決定できるかとなると、市場価値や価格が絶えず変動しているわけだから、結局それをうまく制御するのは至難の業となってしまうのではないか。
10月4日「時代の犠牲者」
世の中で起こっている当たり前のような現象に関して疑念を抱かざるを得ないとしたら、そうした現象の説明に納得できないからかも知れないが、例えばそれを説明している人との間で見解の相違があれば、少なくともそのことに関しては疑念を抱かないはずだが、では他の何に疑念を抱くのかとなると、その人の説明が正しいと思われるのに見解の相違があると、ではこちらの認識が間違っているのかというと、そうは思わないわけで、どちらの見解や認識が正しくて間違っていると言うことではなく、正しいと思われる説明の内容に疑念を抱いているのであり、それがどういうことなのかというと、確かに現状についての説明内容としては正しくても、そうした説明内容を過去や未来には当てはめられないと言うことであり、実際に過去の特定の時期においては、その説明内容とは違うことが起こっていたのだから、それを未来への予想や予測に使うことには疑念を抱いてしまうわけだが、説明している当人はそれに気づかないばかりか、自信を持ってそれを自らの主張に利用しているわけだから、何か危うさを感じてしまうわけで、もちろん同時代的にはその認識が正しいように思われるのだから、それなりの支持を集めていて、実際に支持者とともにその主張を世の中に広めて、政治的な主導権を握ろうとしているわけで、しかもその同時代的には正しいように思われる認識をもとにした主張によって、世の中を変えようとしているわけだから、実際に世の中を変えてしまったら時代が変わってしまって、同時代的には正しいように思われる認識も、時代が変わってしまえば、必ずしもその認識が正しいとは言えなくなってしまう可能性があるわけだが、要するに現状の範囲内ではうまくいっているように思われるとしても、それは微妙なバランスの上にかろうじて均衡が保たれていて、そうした理由からその認識が正しいように思われているだけで、いったんその危うい均衡が破られてしまったら、たちまち世の中の状況がおかしくなって、現状での認識の正しさも簡単に失われてしまう危険性があるわけで、そういう点を考慮しない主張にはやはり危うさがあるわけだが、それが現状から導き出された認識であるだけに、そうした主張の支持者にはなかなか気づかないところでもあり、だからといってそうした主張を批判して抑え込もうとするのはやめておいた方がいいのかも知れず、時代を変える原動力となるのは、意外とそんな人たちの活動である場合が多いのかも知れず、またそれに関して酷な言い方をするなら、そういう人たちこそが時代の犠牲者としてもふさわしいわけで、たぶん次の時代には生き残れないが、現状の時代を終わらせるにはそういう人たちの尽力が欠かせないわけで、それに関しては例えば日本で言うなら、江戸時代を終わらせることに一役買った集団として、新撰組という組織があったはずだが、もちろんその集団に対する客観的な評価となると、単に時代の流れに逆行した勘違いな集団と見なされていて、明治維新と呼ばれる革命の中では、抵抗勢力としても大して役に立ったようには思われないかも知れないが、それは結果的に勝者となった勢力から見ればそういう評価になってしまうわけで、そんな組織の存在と活動が、やはり時代が終わってしまってもかまわないように思う意識が、世の中の大勢を占めるような成り行きになるのに一役買ったかも知れないわけで、時代の終わりを後押しするには、その時代の中でしか活動できないような集団が、その時代の終わりとともに葬り去られるようなイベントが必要となるのかも知れないし、そういった犠牲の子羊として葬り去られるに当たって、その時代の精神を象徴するような人たちが選ばれてしまう成り行きがあるのかも知れず、それが江戸時代が終わるに際してふさわしい集団としての、武士道精神を貴ぶ新撰組と呼ばれる組織であったのは、単なる偶然の巡り合わせというわけでもなかったのかも知れないが、現状の世界でこの時代が終わるに当たって、この時代の終焉とともにこの時代の精神を象徴するような存在として、犠牲者の役割にふさわしい勢力は何かとなると、普通は現状で政治的な主導権を握っている勢力の中から選ばれるはずだが、新撰組が時代の終わりに際して新たに結成された組織であることを考えれば、現状で新たに結成された組織としてすぐに思い浮かぶのが、れいわ新選組であることは、もはや誰もが知っていることになるわけだが、しかもれいわ新選組に関しては、現状で主導権を握っている政治勢力とは敵対関係にあり、幕末の新撰組とは正反対の立場であるはずだが、さらに幕末とは正反対に維新の会という組織が、現状で主導権を握っている勢力の補完勢力として暗躍していて、むしろ時代の終焉ととも滅び去るのはそういった勢力だと思われるかも知れないが、その辺が今後どうなるかが見物かも知れないが、単に名称が似ているからと言って、おかしなこじつけはしない方が無難なのかも知れないし、そもそもこの時代がそう簡単に終わるはずがないとも思われるだろうし、またれいわ新選組の支持者の中には、この不幸な時代を終わらせる原動力となって、希望に満ちた新たな時代の中で主導権を握るのが、れいわ新選組だと本気で思っている人も少なからずいるかも知れないし、そうなるならそれに越したことはないわけだが、ただ気がかりなのが、同時代的な状況の中で正しい論理や理屈が、果たして新たな時代を切り開く上で助けとなるかどうかが疑わしくも思われるわけで、ではそうであるなら、来たるべき新しい時代にふさわしい論理や理屈が何かとなると、この時代の中に心身がとらわれている人たちにはわかりようがないのかも知れないし、それは明治維新とは違って、他に見習うべき有力な勢力が、目下の世界のどこにも存在しないかも知れないという事情にも反映しているのかも知れず、そういう意味でどうみても過去の時代の繰り返しとはなりがたく、たとえ維新だとか新選組だとか、過去の時代にあやかった名称をつけてみても、その内実は全く異なることからも明らかかも知れないが、そんなことにはあまり興味のない人にとっては、彼らの主張も活動もたわいないものだと高をくくっておいてもかまわないのかも知れず、逆にわざとそう思っておけば、良い意味で期待を裏切られて、予想外の結果に驚き感動できるのかも知れない。
10月3日「システム」
何か一つのことにこだわってしまうと、他のことにまでは神経や行き届かない場合がありそうだが、未来の予測というのは、それに関係する確かなデータに基づいて、さらにそこに及ぼされる様々な作用や影響を考慮した上で、総合的に判断して未来に関する何らかの予測を立てることになるのかも知れないが、具体的に何を予測したいのかといえば、この国の未来であれ、世界の未来であれ、そんなことは予測するまでもなく、わかりきったことかも知れないし、たぶん明るい未来になるのだろうが、なぜそれがわかりきっているかといえば、夜になれば暗くなるし昼になれば明るくなるから、少なくとも明日の昼は明るいのかも知れないという程度のふざけた予測でしかないわけだが、その程度の予測でかまわないのかとなると、そうもいっていられない事情がある人も世の中には大勢いそうだが、社会を何らかのシステムとみると、貨幣に関係したシステムとしては、資本主義市場経済というシステムが動作していて、また公的な権力に関するシステムとしては、政府が行政を取り仕切っている限りで、行政システムとして動作しているわけだろうが、行政システムを動かすには予算が必要で、税と借金で予算がまかなわれていて、そういった前提で行政システムが成り立っているわけだが、そんなわかりきったことを今さらどうにかできるわけもないだろうが、様々な事情を加味して、成り行き上は各種の税率が引き上げられたり引き下げられたりするわけで、例えばその中で間接税の税率が一方的に引き上げられたら、それに対する反発も当然のことながら出てくることは確かだが、そういうことに反発して怒りの声を上げるというのも、何らかのシステムとして動作しているのかも知れず、そこで働いているシステムというのがメディアシステムであり、メディア上に怒りの声を上げる政治家や市民が登場するシステムになっているわけだが、そうしたシステムに対して何をどう考えればいいのかといえば、別にそれはやらせのシステムではなく、本当に税率が上がって怒り心頭に発している人がいるのかも知れないが、この場合は怒り心頭に達しているというのが表現として間違いであることに、文章を記していくと気づかされるわけで、意味としては心頭に達しているとする方がしっくりくるのに、なぜか言語システムとしては怒り心頭に発するという表現の方が正しいわけで、心底から怒っていると意味で使われるらしいが、そういうところで本来の言語システムから離れて、間違っているとされる表現を使いたくなってくるわけで、しかもそれ以前にそれをシステムと見なすのには抵抗があるかも知れないが、例えばプログラミングなどで使う言語となると、やはりどうしても言語システムと表現するしかないような動作を伴ってくるわけで、少なくとも文法的な決まりがある限りで、それがたとえ自然発生的に生まれてきた言語であっても、ある程度使い方が複雑化してくれば、システム的な決まり切った動作が伴ってくるわけだが、間接税の税率が引き上げられたことに関しても、たとえそれが以前から予定されていたにもかかわらず、引き上げられたタイミングを見計らって、メディア的にはそうしたイベントに対する何らかのリアクションを報道する必要に迫られて、それについてのわかりやすい反応としては、怒り心頭に発するようなリアクションが典型例として取り上げられやすいわけだが、また税率の引き上げに反対していた政治勢力としても、実際に世間に向かって自分たちの主張と存在をアピールする上でも絶好のタイミングでもあるわけで、街頭演説のようなことをやって税率の引き上げに反対であるとアピールするわけだが、それもそういったタイミングでそういった内容の政治パフォーマンスをやること自体がシステム化しているとも言えるだろうし、それは税率の引き上げに連動して動作するシステムの一部として捉えられるのかも知れず、果たしてそういったシステムに他の人たちも乗っかって動いた方がいいのかといえば、それ以前にそういうシステム的な動作によって何がもたらされるのかを考えてみる必要があるのかも知れず、実際にそこから何がもたらされるのかとなると、そういうシステムの動作を管理している行政機構にとっては、それなりに思惑通りの成り行きだと言えるわけで、またそういったシステムに乗っかって動いたメディアや政治勢力としても、それなりに自分たちのもくろみ通りに動作することができて安堵しているところだろうし、現地で多少のトラブルはあったかも知れないが、全体としては事前の打ち合わせ通りのお遊戯ができて、発表会としてはそれなりに盛況だったのだから、まずまずの結果を残せて一安心といったところだろうが、安心するのはまだ早く、そういった予定調和のシステムから抜け出る方法を模索しなければならない時期なのかも知れず、そういつまでも行政システムの手のひらの上で踊らされていないで、かといって自ら踊り出すのでもなく、踊りとは違ったお遊戯を試すのでもなく、またシステムの裏をかく必要もなく、システムはシステムとして動作するのは致し方ないとしても、自分たちが主導権を握れるようなシステムを作り上げようとする行為も必然的な成り行きとしてやろうとするだろうが、それと同時にシステムにはとらわれないこともやってみたいだろうし、それが何だかわからないのも、現状の中にもたらされている謎であるわけだが、それが謎だとは気づかない人も中にはいて、そういう人は決まり切ったシステムにはなじめずに、自然とそこから逸脱してしまうわけで、そういった人が実際に何をやっているのかといえば、例えばシステム通りのお遊戯しかできない人たちが反感を抱くようなことを自覚することなくやってしまう人もいるだろうし、そういう人は不器用に見えるのだろうが、それが確信犯の人もいて、たぶんそういった人の動作にシステム自体が惑わされてしまうから、それに伴ってシステムの不具合が顕在化して、世の中が混乱しているように見えてしまうのではないか。
10月2日「心境の変化」
偶然に巡ってきた機会を活用するには、ある程度はこれまでにやってきたことを犠牲にしないと、巡ってきた機会を活かせないのかも知れず、また機会を活かすということが、自らの思惑通りの成り行きを目指すのではなく、巡ってきた成り行きに応じることも必要となるだろうし、応じるとはどういうことかといえば、できる限りで譲歩しなければならない場合もあるだろうし、かといってそれが妥協というわけではなく、そこで誰の思惑とも無関係なことができればいいのかも知れないが、それも自らの思惑通りというわけでもなく、別にその場で不可能なことをやろうというわけでもなく、それよりは特に不可能というわけではないが、今まではやってこなかったことが、そのタイミングでやろうとすると、できるかも知れないという程度のことであり、何かそこで大それたことができるというわけでもないだろうし、むしろほんの些細なことでしかないとしても、それをやることによって、今までとは違う心境になれればいいのかも知れないし、それも是が非でもというわけはなく、別になれなくなってもかまわない程度のことであり、そんなことがたまたまできるようになれば、少しは今までにやってきたことから脱却できて、マンネリ気味な状況から抜け出て、ほんの少しだけ救われた気持ちになれるなら、それでもかまわないだろうし、別に救われた気持ちになれなくても、それはそれでどうしたわけでもなく、そのままでもかまわないようなことでしかないのかも知れないが、それに関してはあまり大げさな幻想を抱くようなことにはならないだろうし、そんなことをやっていることに関して、特にやっていることを正当化するまでもないことであり、無理に肯定するようなことでもなく、できればデガティブにはならない方がいい程度のことであり、実際にやりたいことができなくて、少しは不自由な思いをしていればいいのかも知れないが、それもやりたくてやってきたことだとは思えなければ、この際だからやめてしまえばそれでかまわないようなことであり、やめるといっても元々大したことでもなかったわけだから、どうということはないことを何かのきっかけでやり始めて、またどうということはないことを、不意に巡ってきた機会を捉えてやめればいいことでしかなく、それについて大して残念がるような成り行きにはならないのかも知れず、それよりはとりあえずその場の情勢に合わせて、その場でやれることをやっていればいいことでしかないだろうし、それ以上の進展を無理に求める必要はなく、そういった状況というのは、個人の力ではなかなかどうにもならないことが多いだけに、この際だからできないことはあきらめればいいのかも知れず、あきらめたついでに何か他にできることやればいいとなるのかも知れないが、それもすぐに大げさで画期的なことをやろうとする気にはならないだろうし、その代わりに、それなりに些細でどうでもいいようなことからやってみればいいのかも知れず、実際にそんなことしかできなければ、それでもかまわないと思うしかないだろうし、あまり多くを求めない方が都合が良ければ、そんな都合に合わせて、ほどほどのところでとどまっていられるのかも知れないし、それも大して満足できなくてもかまわないと思えば、そのままになってしまうだろうし、そのままになってしまっても、以外とそれで済んでしまうようなら、そこから無理に事を荒立てる必要はないだろうし、その程度でかまわないわけでもなくても、特に不満とは違った心境になれるなら、そのままにとどめておけばいいのかも知れないし、そういった心境のままで、いつまでも状況が推移しているなら、そういう状況でしかないのかも知れないし、それをそれ以上の状態へと引き上げようとしなければ、そのままでもかまわないだろうし、そういうところで今までの延長上に状態を保とうとすると、やはり無理が祟ってしまうのかも知れず、そういう意味ではセーブできるところはセーブしながらも、そこから徐々に今までとは異なる方向や傾向へと至れるなら、結果的にはそれでかまわないのだろうし、それが自らの思惑とは違うとしても、いったんそうなってしまえば受け入れるしかなく、受け入れなければ、またそれとは違う方向や傾向へと移っていけるのかも知れず、そうなることを期待しているわけではないだろうが、たとえそれが期待外れに終わろうとも、そうした期待自体が見当違いであれば、それでかまわないような成り行きなのだろうし、結果的にそうなってしまう状況を受け入れられるなら、そんな現状を肯定すればいいわけだが、肯定したところでたかが知れず、今までとそんなに変わらないことをやっているだけかも知れないし、それもそういうことだと捉えるなら、それについての心境の変化もどうということはない程度でしかないのかも知れず、そういう意味では、やっていることがそんなに変わっていないのに、気持ちや心境だけが以前と変わってしまっただけで、何のことはないただの思い違いにとどまっているだけかも知れないが、それでも心境の変化をもたらすだけの機会が巡ってきたのだから、そんな成り行きを肯定してみるしかないだろうし、別にそれでうまくいこうがいくまいが、そうなっている限りで、うまい具合に何らかの行き詰まりから抜け出たぐらいの心境になっていればいいのだろうし、積極的にそういうことをやってみたというよりは、機会を捉えてその場の状況を揺り動かすことに成功したまでのことであり、それに伴って多少の犠牲はつきものかも知れないが、それも犠牲と呼べるようなものではないのかも知れないし、もとから何もなかったと思えば、何もないところから言葉の連なりが生じてきただけのことであり、少なくともそれ以上の成り行きではないとしたら、それ以上の成り行きが何を指しているわけでもなく、別に全く想像がつかないような状況を目指しているわけでもないだろうし、そういう意味では想定内の変節だと思っていれば、その程度のことだとあきらめもつくのではないか。
10月1日「たわいない情勢」
たぶんそんなのは当たり前のことであり、改めて指摘するまでもないことだろうが、政治家は自らが所属する国家の行政機構を使って何かをやりたいわけで、その何かというのが国民のための政治活動になるわけだが、その国民というカテゴリーに属する人たちの中では様々な利害関係が生じていて、その利害に応じて対立や連携などの関係も生じているわけだが、それを単純に利害と見なしてしまうと、中にはそうした利害では割り切れないような思いや論理や理屈にとらわれている人もいて、客観的には自らの利益にならないような政治勢力を支持している人もいるから、それだけややこしい事態になってしまうわけだが、またその時点での国内外の情勢や状況から、何らかの思想信条のような思いや考えも生じてきて、そこから特定の政治勢力に対する信頼や反感などの感情も生じてくるわけだろうが、それらの中で単純に隣国などへの憎悪だけで特定の政治勢力への支持や不支持を決めるような愚かな人たちもいるにはいるだろうが、大抵の人たちはそんなふうに利害や思想信条や感情などの複合的で複雑に絡み合っている要因や要素を考慮しながらも、特に支持する政党も政治家もいない人も結構いるだろうし、またそんなこと自体がその人にとっては大したことではないのであり、政党や政治家に期待することや要望することなども特になく、政治には無関心であっても特に不都合を感じていない人もいる一方で、政治や経済や行政に関してメディア上で何か主張している人たちの意見を真に受けて、そこで指摘されている不具合などを改善するために、積極的に政治家や政党や行政機構などに働きかけをおこなっている人や団体もいるだろうし、そんなことの延長上で政治情勢が動いているわけだろうが、そんなことも含めてあるがままの現状を肯定したり否定する必要もなければ、別にそれに関して述べることもないわけだが、そうではなく現状を批判しようと思えば、根掘り葉掘りいくらでも批判できるような人の実際に述べていることや主張していることに、どれほど関心を持てるかとなると、関心を持ったことに関して何か述べる必要もなければ、関心があってもそのまま放っておくしかないわけだが、なぜ多くの人たちにそういう成り行きに巻き込まれるような事態が生じないのかといえば、それほど関心を持たなくても間に合っているからだろうし、何が間に合っているのかといえば、それらの人たちにわざわざ批判してもらわなくても、自分で批判することができるわけで、しかも政治に関してメディア上で何か述べている人たちが愚かに感じられるとすれば、愚かな人たちの批判内容はくだらないことになるし、そうやって批判しようと思えばいくらでも批判できるようなことを延々と繰り返し述べていること自体が、批判中毒になっているように感じられてしまい、そんな人たちに関わっても得るものは何もないような気にさせるほど、そんな批判をひたすらおこなっているような人たちもいるわけで、もはやそんな人たちの批判を止める手立てはないと同時に、そうなってしまっている限りで、批判自体が何の効力も効果もないのかも知れないし、それはそんな人たちの境遇が実際に物語っていることでもあるわけだが、現状の中でそんな人たちがどうなっているかを見れば、それらの主張が社会の中で有効に機能しているかどうかがわかるわけで、また主張の内容とその主張によって何らかの情勢や状況の変化がもたらされていれば、情勢や状況に何らかの作用や影響を及ぼしていることになるのだろうが、何ももたらされてはいないし、世の中に何の作用や影響も与えていないように感じられるなら、それらの主張が無効であり無用な主張でしかないのかも知れないが、主張内容に関してもっともらしく感じられて支持できるような内容なら、支持してもかまわないだろうし、実際に支持する人がそれなりに大勢いれば、そうした支持によって主張が世の中に何らかの作用や影響を及ぼしていることになるわけだが、そんな人たちがそんな主張をおこなっていること自体が、そうした主張を行えるだけの世間的な支持を得ている証拠となるかも知れないし、また特に支持を得られなくても、主張するならいくらでも主張できる環境が、SNSなどのように整っている場合もあるだろうし、それだけ主張すること自体が何でもないような行為でしかないのかも知れないし、それがたとえ街頭でそれなりの人数を動員して政治的な主張を行うパフォーマンスをやるような場合であっても、さすがにそれなりの支持を必要とする大がかりなことではあるわけだが、そういったパフォーマンスでさえも、実際の政治情勢には何の作用も影響ももたらさなければ、何でもないことになってしまうのかも知れないし、制度としてそういう行為の積み重ねが政治情勢に作用や影響をもたらすようになっていなければ、ただ勝手にやっていることでしかないわけだが、それでもかまわないのかといえば、取り立てて不都合を感じない人が世の中の多数派を占めているようなら、そんなことでしかなく、それよりはプロスポーツなどのイベントに興味のある人の方が大勢いるとしても、それとこれとが比較の対象となることもなく、それはそれでイベント会場が満席になって、そこに居合わせた観衆がスポーツなどのパフォーマンスを観て満足できればそれでかまわないわけだが、多くの人たちがそういった政治的な主張をおこなうパフォーマンスの内容を真に受けるようになるには、それを好意的に報じてくれるような世間的に影響力のあるメディアとの協力関係が必要だとしても、それでは特定のメディアによる世論のコントロールをもたらしてしまうだろうが、そうした成り行きに関して全般的なこというなら、そういう場で語られる政治的な主張がたわいないものとなる傾向があり、しかもそれでかまわないようなら、それだけ世の中の何でもないような情勢を反映していると言えるのかも知れないが、逆にそういったパフォーマンスが深刻に受け取られるようなら、世の中の情勢もそれだけ切迫していると言えるのかも知れないが、イベントに参加している人たちは当然のこととして深刻に受け止めていて、それなりに切迫した情勢の中で何とかしなければと思い込んでいるのかも知れないが、そう思っている人たちとそうは思っていない人たちの間で、それなりに実感や認識に落差があるようなら、そうした落差の分だけ、イベントに参加している人たちの思い違いや勘違いである可能性もあるわけで、そういう人たちに限って、そうは思っていない人たちのことを、危機意識の欠如した茹でガエルとか見なしてしまうこともあるわけだし、逆に何とも思っていない人たちの方でも、危機感をあおる人たちのことをオオカミ少年だと揶揄したりもするわけだろうが、たぶんそうした譬えとは無関係に、そういった傾向の全般をたわいないことだと見なしてしまってもかまわないのかも知れず、それがたわいないことであるだけに、それとは違う方面に思考を巡らせてみる必要があるのかも知れない。
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