彼の声134
2019年
9月30日「言葉と貨幣と権力」
言葉を操る動作は、文明社会の中での人の動作としてはありふれていて、例えばそれと同じようなありふれた動作として、貨幣を用いて何かをおこなう動作にも、また権力を行使して何かをおこなう動作にも、それに付随して言葉を操る動作が含まれてくるわけだが、貨幣や権力を使う際には、当然のことながら目的が生じるわけだが、言葉を使うことに関しては、目的をはっきりと意識しないで使っている場合があり、もちろん目的を意識してからもその目的に合わせて言葉を使うわけだが、それだけ言葉は意識に直接連動して使われるから、目的以外にも使う用途が様々にあるのに対して、貨幣や権力は用途が限られていて、ある一定の状況下でないと使えないものであるわけだが、それぞれに別々の用途で使われるにしても、両者が組み合わさって使われる場合もあるだろうし、そこに言葉も組み合わさって使われるわけで、それぞれに同等には比較の対象とはなりがたい面があり、使われる次元が異なるといえば、それで済んでしまうようなことでしかないが、貨幣を使う場合と権力を行使する場合とでは何が違うかといえば、貨幣を使う場合にはそれと交換する対象が必要となり、具体的にはそれが商品となるわけだが、権力の行使はそれと何かを交換するために使うわけではなく、権力を行使する対象となる人や集団に何かをやらせるために権力を行使するわけで、そのやらせることの中には、確かに何かと何かを交換させる動作も含まれるだろうが、他にも権力を行使してやらせることがあるだろうし、貨幣が交換する目的だけに限定して使われるのに対して、権力はそれも含めて何かをやらせる目的で行使されるわけで、そこに違いがあるといえばあるわけだが、単に使う目的が違うといえば、それで済んでしまうようなことでしかないわけだが、貨幣は相手の同意がないと交換されないのに対して、権力は同意させることも目的となるわけで、しかも権力が行使されると、同意したくないのに同意せざるを得ないという心理状態が生じるわけで、貨幣の場合でも売りたくなかったり買いたくなかったりしても、売らざるを得なかったり買わざるを得なかったりする場合には、そうなってしまう事情の一つとして権力を行使されている場合があるわけで、売りたくないのに売らざるを得なかったり、買いたくないのに買わざるを得なかったりする場合には、そんな立場や境遇としてそこで権力を行使できる上下関係が生じていて、地位が上の者や団体が地位が下の者や団体から、自分たちの都合のいい価格で強制的に売買を成立させる権限が生じているわけだが、例えばそれが売買ではなく税の徴収であれば、強制的に税を徴収できる権限が行政側に生じていて、住民や企業などはそうした権限の行使に従わなければならない義務が生じていて、そこには義務の負担とともに権利を主張できる余地も生じていることは確かだが、別にそれは売買のような等価交換ではないわけで、義務と権利を比較して対等の関係であるかのように装うのは欺瞞でしかないわけだが、もちろん売買も等価交換のように見せかけて、実際にはどちらかに利益が生じるような不等価交換なのかも知れないが、権力の行使に関しては、それに対して異議を申し立てる権利というのも含めて、権力を行使する側で制度的に管理されているから、権力を行使する側の方が強く、そんな関係の中で国民と呼ばれる人たちが選挙や住民投票などで主権を行使するというまやかしの権力を行使する機会も制度的に決められているわけだが、それ以外にもまやかしの三権分立という仕組みもあって、もちろんそれらをまやかしと決めつけてはいけないわけだが、信じられなければまやかしと見なしてもかまわないのかも知れず、そこで国民主権が成り立っていようと三権分立が成り立っていようと、それも見せかけの制度である限りで信用できないわけで、国民主権や三権分立が成り立っているように見える国の住民と比較して、それらが成り立っていないように見える国の住民たちは民度が低いと見なされることは確かだろうが、たとえそうであってもそれも相対的な差に過ぎないことだろうし、無理して国民主権や三権分立が成り立っているように見せかけるだけのメリットが民衆の側に感じられなければ、世間の意識もそういう方向へは行かないだろうし、それも世間的な空気の範囲内でしかないのかも知れないが、そういうことの善悪を決められない雰囲気というのが現状の世の中にはあるのかも知れないし、そういった国家的な仕組みや制度を守っていくだけの世間的な信用が生じていないとすれば、それは民主主義を信用できないことにもつながってくるわけだが、では他にどんな方面への信用が生じているのかといえば、それも特に世の中の仕組みや制度に関して、全面的に信頼して依存できるようなものはないだろうし、その時々でその場の情勢に合わせて、特に信用できないものを無理に信用しようとするわけにもいかないだろうし、必要に促されてメディア上の煽動や宣伝に乗せられて、おかしな方向へと誘導させられてしまう傾向はあるものの、そうした誘導が万能であるわけでもなく、そこに絶対的な権力の行使が実現しているわけでもないだろうし、それに逆らう気であれば逆らってもかまわないような状況になっていれば、実際に不快な権力の行使に逆らう人が大勢出てくるはずであり、そういったことも含めて相対的な範囲内でしかないわけだが、その一方で国家主義的な保守主義者の中で良心的な人たちは、国民主権や三権分立などの民主的な制度や仕組みを厳格に実現したいだろうし、それらがうまく機能していないように見られたら、それらが厳格に運用されているように見える欧米諸国に比べて民度が低いと嘆くのは当然の反応なのだろうが、その一方で必ずしもそうでなくてもかまわないような成り行きが世の中で生じていて、実際に公的な制度や仕組みもそれを守るべき民衆の意識もぐだぐだな状況になっていてもかまわないような現状に関して、これでいいのだとは言えない人の割合が世の中の少数派にとどまっていれば、そういった制度や仕組みとは違った何かがそこに生じていることの証しとなるのではないか。
9月29日「些細なきっかけ」
何か根拠の希薄な期待を抱いて、偶然に巡ってきた成り行きに身をまかせているつもりになっても、それが実際に何でもないことであれば、淡い期待が裏切られるまでもなく、そんな不確かな機会を何に活かせるわけでもないだろうが、逆に信じられる成り行きというのは、それに伴ってそうした成り行きをもたらしている確かな理論や理屈を導き出せて、そこで必然的に物事が動いているように思われるわけで、しかもそうなった結果をもたらしたはっきりした原因や根拠も特定できれば、それが必然的に推移した成り行きであるかのように思われるのだろうが、逆にそうした信じられる成り行きに疑念を抱いて、それの何が勘違いなのかを探ろうと動機が生じるかとなると、それが現にそこで起こっている成り行きであることを信じられるだけに、偶然にそうなったのではなく、例えば神の導きによってそうなったと信じてしまってもかまわないようなことであるなら、時にはそういった信心深さや迷信深さも確信に至るには必要かも知れないし、それが実質的には気休め程度の効用しかないにしても、他に何もないよりはあった方がマシな気休めも、わらにもすがる思いで動機としては必要かも知れないが、実際にそれが本当に気休めでしかなければ欲求的な面では物足りないだろうし、たぶん気休めではなく本気で取り組んでいることだと思いたければ、そうした本気度に見合った必然的で信じられる理屈を、そんな成り行きの中で自らが確信を抱いておこなっている行為に当てはめてみたいのかも知れないが、理屈だけでは物足りなければ、さらにそれ相応の幻想をも抱きたいのかも知れないが、それでも結果的に何でもないことであるのがはっきりするようなら、実際に大したことではないのであり、いやならそれを信じようとはしないだろうが、確かな実感としてそうした事実が動かしようがなければ、もはやあきらめた方がいいのかも知れないし、それどころかそれに影響されてやっている自らの行いも馬鹿げた行為だと思ってしまってもかまわないのかも知れず、すでにそうなっている時点でその程度のことでしかないことがはっきりしてきたわけだから、それはそのまま見捨ててもかまわないような成り行きであり、そんな成り行きにいつまでも執拗にすがりついている義理はないわけで、実際にそうやってどうでもいいことから離れられるなら、それはそれでそういうことでしかなく、それに関して善悪の判断などもいらないのかも知れないが、そんな大したことではない成り行きをことさら言いつのるような行為が世の中に蔓延しているわけでもなく、ただ意識がそれにとらわれて依存していただけで、そうした中毒的なこだわりがどこから生じるのかといえば、たぶん偶然に生じるのであり、何かのきっかけでそうなってしまうとしても、そのきっかけ自体が大したことでもないのに、そこに意識が誘導されてしまうような成り行きが生じてしまうわけで、それが大したことであり、自らにとって重要な契機であるかのように思ってしまうことが、どう考えてみても勘違いのなせる業なのかも知れないが、たぶん心に余裕があると、そう思ってしまってもかまわないような隙が生じてしまうのかも知れず、そんな隙が亀裂となって次第に拡大して行き、どうにも修復が困難になってしまう成り行きもあるわけで、それもなぜそうなってしまうのか、その原因や理由を探ってみると、そもそものきっかけは些細な勘違いであり、それが高じて大げさで深刻な事態に発展してしまうような成り行きが生じるわけで、それをそうなった結果から考えると、何か大げさなことのように意識が捉えてしまうわけだが、それを後から思い返して結果と照らし合わせて勘違いであると決めつけてしまうのも、何か違うのかも知れず、そうなるきっかけが大したことではないとしても、そうなった結果が当人にとっては深刻に思われるなら、やはりそれは結果的には大したことであるのだろうし、そんな結果を深刻に受け止めてもかまわないわけだが、そうであってもそうなったきっかけが大したことではなかったことは確かな事実であれば、実際にどうでもいいような些細な要因が複数結びついて、そうした要因が互いに連携し合って相乗効果をもたらして、それが大した結果を招くような現象も起きるのであり、そういう意味で原因と結果の程度が同等であるはずもないわけだが、だから大げさな結果から大げさな原因を求めてしまうのは間違いであるのは当然だとしても、逆に大げさな原因からしょぼい結果がもたらされてしまうこともあり得るのかも知れず、例えば企業や行政を巻き込んで鳴り物入りでおこなわれるようなことが、その当初においてはそれなりに物議を醸していたのに、いざそうした出来事が起こったところで、それに連動して何事も起こらなかったら、それに対する期待も危惧も空振りに終わったことが明らかになってしまうのだろうが、それでもそんな結果が信じられなくて、あら探しを執拗にやれば、何かしら出てくるかも知れないし、それを誇張して取り上げて、メディア上でそら見たことかと改めて危機感をあおり立てるのも、敗戦処理程度の気休めには結びつくのかも知れないが、他の人たちがそんな行為に同調する必要もないだろうし、それよりは期待や危惧が空振りに終わったことの方が深刻に受け止められるべきことかも知れないし、それも当初は大して期待も危惧も抱いてはいなかったのに、何かのきっかけで多くの人々の意識と共振現象を起こして、それがメディア上で大げさな期待や危惧であるかのように見せかけられただけかも知れず、そういうことも考慮に入れるなら、これから先に起こりそうなことをある程度は予想できるかも知れないが、それに連動して実際に誰かがメディア上でパフォーマンスを繰り広げているだけではなく、街頭でおこなっているパフォーマンスをメディア上で拡散するような行為に関して、何かそこにも大げさなパフォーマンスの程度とは裏腹なみすぼらしい現状が垣間見られるようなら、それもこれから起こることの些細な原因に過ぎないようなことかも知れず、気休めにそういう成り行きに対する人々の期待を信じてみてもかまわないだろうが、それが現時点では気休めであることは確かだとしても、その確かな感触をいつまでも変わらず抱いていることはできないのかも知れないし、それに関する情勢の変動に合わせて、いつの間にかその気休めが過大な期待や落胆にとってかわるようなら、それは自身の心変わりでしかないだろうし、きっかけとなった出来事の程度が後から変わったわけではなく、それに対する世間の評価が情勢の変動に合わせて変わっただけなのかも知れない。
9月28日「話し合うことの効用」
人を動かすには、言葉を用いて動くように交渉したり説得する場合があるが、また動くのと引き換えにして金銭を払う場合もあるし、さらに権力を行使して動くように命令する場合もあるわけだが、それらのうちどれか一つのやり方を、その場の都合や事情や状況に合わせて選ぶ場合もあるが、普通はそれら三つのやり方を効果的に組み合わせることによって、それに関わってくる大勢の人を集団として束ねて動かすような活動が成り立つわけだろうが、その際に金銭の力や権力を利用して無理なことをやらせると、道徳的にも倫理的にも褒められないやり方になってしまい、それが将来に禍根を残すことにもなりかねないし、それよりはできれば話し合ってその場に居合わせた人たちの同意を求めるようなやり方が妥当に思われるだろうし、もちろんその場の同意に加わっていない人たちには不満が残ってしまうのかも知れないが、後から不満を表明した人たちとも、その都度話し合いの機会を設けて同意を取り付けるようなことも求められるわけだが、そういうコミュニケーション的な行為を無限にできるわけでもなく、できる範囲内でやるような成り行きになれば、それが決まり切った制度的な動作とは違った結果をもたらすかも知れず、その一方で制度は制度として一定の傾向を持ったやり方として維持されるにしても、制度化されていないところでも妥当なやり方が模索されるべきだとすれば、一つのやり方に凝り固まるのではなく、絶えずその場の都合や事情や状況に合わせたやり方が、その都度試されることになるのかも知れないが、その際には制度に固執するのとは違う傾向の試みに対して、制度を維持する側がどこまで柔軟になれるかが、その場で求められることになると、中には制度とは矛盾したやり方がまり通る可能性も出てくるわけで、そうなった場合に、果たしてどこまで制度に則ったやり方に固執するべきかが問われてきてしまい、そういうところでも話し合いによって妥当なやり方を模索しなければならなくなるだろうし、そこで制度の改正などが論議されるにしても、どのように制度を改正しても、必ず制度から外れるやり方を許容しなければならない事態が出てくるとすれば、そういうところで制度の曖昧でどうとでも受け取れる面を残しておくことも必要となってくるかも知れないが、それでも制度とは矛盾したことをやらなければならないケースが出てくるのかも知れないし、制度的にはそうした矛盾をできる限り少なくするような傾向が求められるのだろうが、それは制度を守り維持する側の都合であり、そうした都合にはこだわらなくてもかまわないような立場の人であれば、積極的に制度とは矛盾した行為をおこなおうとしてしまう場合も出てくるだろうし、その場の都合と制度の都合が合わなければ必然的にそういった傾向になってしまうのかも知れないが、どちらの都合が優先されるかは、それぞれの都合を優先させようとする側の、経済力や権力を背景としたその場の力関係から決まるようなケースもあるだろうし、そういった都合が優先されてしまうことが理不尽に思われるなら、それに対して反発や反対の声が上がって、そこでも混乱を収拾するために話し合いの場が持たれるなら、話し合いによってそれなりに調整がおこなわれることになるのかも知れないし、そうなると制度の遵守や維持よりは、話し合いによって合意された結果の方が優先されるような成り行きになってくるのかも知れず、すべてのケースで必ずそうなるわけでもないとしても、そういった方向へと成り行きを誘導するような思惑も出てくるとすれば、そういうやり方も物事を解決する上で試す必要があるだろうが、実際にそういった話し合いも各々の主張が平行線に終わって解決に至らないことも多いし、それが万能の解決手段であるわけでもないが、たとえ解決に至らなくても、そうやってうまくいかないケースがままあることを、その場に居合わせた人たちにわからせる効果はあるだろうし、制度によってはうまくいかない面を、話し合いによって妥協や調整を図るような試みもおこなわれるにしても、それでもうまくいかないことがあれば、そういった紛争の類いに関わっている人や団体としては、自分たちの至らなさや限界を知ることによって、それなりに謙虚になれるのかも知れず、それに関して知ったかぶりの上から目線で、他人や他の団体のまずい対応や行為の非をあげつらうことは簡単にできるかも知れないが、それによって物事の不具合や至らない点を改善できるかといえば、どうもそういうわけにはいかないだろうし、実際に交渉や取引などの話し合いによって解決を目指すような成り行きに持ち込むには、それ相応の努力が必要だろうし、不快なことをやっている人や団体の非をあげつらっているだけでは、そういう成り行きには持ち込めないだろうが、何よりもそういった行為自体がその対象となる人や団体にとっては不快なのだから、そこからは対立と抗争しかもたらされないのかも知れないが、世の中にはそれでかまわないような立場というのもあるだろうし、実際にそういったことを専門にやっている人たちというのも存在していて、そういった人たちにとっては、対立と抗争がもたらされていれば都合が良いだろうし、そうであるならより激しく対立して抗争ができるだけ長引くように、火に油を注ぐような煽動を年がら年中やっているわけで、しかもそういった煽動行為に対しても激しく非難して糾弾することしかできない人たちもいるだろうし、結局そういう人たちの行為と存在が、交渉や取引などの話し合いの機会を奪っているのかも知れないが、たぶんそれでもかまわないというと、何か無責任に思われるかも知れないが、そんな人たちの立場や主張も、できる限り尊重しておくことが肝要なのかも知れず、そうやって世の中で様々な立場が存在していて、その立場に応じた主張が行き交っている状態を保つことが、そこから話し合いの気運が高まり、そのきっかけを探るような成り行きをもたらすのかも知れないが、実際にそうなるには、そういった成り行きに関わってくる人や団体の思惑などが一致してそうなるというよりは、単に偶然の巡り合わせでそうなるに過ぎないのかも知れず、そうである限りで、あまり戦略的に策を弄するような凝ったまねはしないで、できるだけ楽観的な姿勢で事態に取り組むことが肝心なのかも知れないし、それにはできるだけ現状を肯定的に受け止める必要があるのかも知れない。
9月27日「昔の面影」
システム的な決められた動作とは違う動作が制度の中でできるかとなると、それをやるような成り行きが、まれに制度の変革などを通して生じることもあるのかも知れないが、逆に決められた動作をおこなうことが悪いわけではなく、実際にそこで決められた動作をおこなうことが制度によって求められていれば、その通りに動作する方がその場の状況には合っているだろうし、そうであれば制度に従って決められた動作をおこなえばいいわけで、そうでなくても人の意志や思考がその場の状況にとらわれていて、その場で機能している制度もその人の思考と動作を捉えて拘束していれば、それが身体的な動作であるだけではなく、思考に連動して起こる言葉を操る動作であっても、そこで何か決まり切ったことを語ることが制度的な動作に結びついている場合もあるわけだが、たとえそれがその人にはその人の意志に従った内容を語っていると思われても、実際にいつもながらの決まり切った内容を述べている実態があれば、その人の思考や意志がその場で働いている制度的な動作にとらわれている証拠となるわけだが、それがシステム的なオートメーションのように自動的にそうなっているのかというと、結果的にそう思われるような動作と内容であれば、別にその人の主体性や自主性などを考慮しなくてもかまわないのかも知れず、そうした状況下ではその人にはそういった自動的な動作が求められていて、そういった動作が制度内でその人の存在と価値を決定していると見なしてもかまわないのかも知れないが、そんな制度にとらわれた動作ではその人の意識が満足できないかといえば、制度がそれを求めているのであれば、意識してそういう動作をするように心がけていてもかまわないだろうし、そんな状況下ではそうすることが必要だからそうなってしまうと見なすなら、それはそれとしてその場では必要な動作であり、そういった必要な制度的な動作とともに、またそれとは違った制度とは無関係におこなう自主的な動作もおこなえるように心がけておけば良いのかも知れず、制度は制度として必要に応じて利用するような成り行きがあって、また制度とは別におこなう動作もその場の必要に応じて、自主的にあるいは他人の求めに応じて、またそういうことも特に意識しないで、何かしらおこなっている場合もあるのかも知れず、それらを特に意識して制度的な動作と区別する必要もないのかも知れないし、利用できるものなら制度だろうと慣習だろうとその場の偶然からもたらされる作用だろうと、それらを利用しながら何かをおこなっている場合があるだろうし、それが自動的におこなわれるようなことであってもかまわなければ、いちいちそれを気にする必要もないのかも知れず、確かにそういった成り行きの中で意識的な判断を伴わないような行為というのが、制度に心身を拘束されながらもおこなわれている場合があって、果たしてそこでやっていることの善悪を改めて判断するようなことが必要なのかというと、その場では必要だと思わないし、実際に気づかないから、外部からそれについてああだこうだと評論されたり評価されると、それが気に入らなければ、そういった指摘を真摯には受け止められないことにもなるだろうし、そういったことに関して、事の善悪を指摘するようなお節介なことをやられると、当事者であれば不快な気分になるのは当然のことだろうが、たぶんそんなこととは無関係に現状を肯定できれば、特に気にはならないのかも知れず、またそういった行為とは無縁な環境で何かをおこなっていることの方が、普通は多いわけで、他の誰からも何も言われないようなことを普通におこなっていれば、それに関しては自主的に判断するしかないのかも知れないが、普通は特に善悪を判断することもなくおこなっていることがほとんどであり、普通の一般人であればいちいちそんなことを気にするような立場にはなれないのかも知れないし、また普通の一般人である限りで、無理して社会情勢やそれに関係する人や団体について論評する成り行きにはならないし、そうした普通の一般人という立場をうまく利用できれば、世間的な判断や評価とは無縁でいられるのかも知れないが、そうなっている限りでそれと気づかないでその場を支配する何らかの制度に拘束されているのかも知れないし、そうした自らを拘束している社会的な制度を意識できなければ、事の善悪についていちいち判断して評価を下して、それを自らの活動にフィードバックさせる必要もなく、それを意識して自主的におこなうのではなく、そうした判断や評価を制度にまかせていれば、そんなことは自覚せずに自動的に制御されているだけだろうし、そういう面で不都合を感じなければそれでかまわないとしても、何か戦略的に意識してそうした制度の裏をかくというのでもなく、それも自動的に制度に逆らうような成り行きというもあるのかも知れず、実際にそれと気づかないまま制度に逆らうようなことになっていれば、しかも他の多くの人もそうなっていれば、結果的に制度の形骸化がもたらされているわけだろうが、そうした大衆的な無意識の動作というのも、時には必要なことかも知れないし、そうしたことに関して、意識して善意を働かせて、世間的に良く思われるようなことに、あえて疑問を抱くような余裕が求められているのかも知れないし、そういうひねくれた感情を発動させるには、反骨精神のような意識が必要なのかも知れないが、それがひねくれているとは思わないで、自然で素直な感情の発露だと見なせるには、それなりに知識の裏付けが必要となってくるのかも知れないし、そういった知識がどこから生じてくるのかといえば、やはりひねくれた感情に引っかかりながらもたらされると思ってしまうと循環論になってしまうわけだが、他人を見ていると、昔はそういった面があったのに、歳月の経過とともに、心身のすり減り具合が激しくその人の印象に刻まれて、何か妙に無理をしている面が目立ってくるとともに、そういうひねくれた感情に付着していた無駄で無意味なこだわりが洗い流されてしまい、その無理をしている面だけがその人の本質を示しているような外観を呈してくると、それがつまらないことに凝り固まった老人として世間的な印象として定着してしまうのかも知れないが、実際そうなってしまったとしても、すでにそれは出がらしの茶かすでしかなく、その人にとってはそれでかまわないような結果でしかないのかも知れない。
9月26日「矛盾し合う主張と動作」
世の中に関して何か思い違いがあるとすれば、別に世の中の現状を否定的に見てはいけない理由があるわけではないだろうが、もしかしたら現状に対する否定な見方から導き出された現状への批判が的外れである可能性があるのかも知れず、実際に批判者の思惑を超えた状況がもたらされているのに、それに気づかずに思惑通りのことが起こっている思い込んで、そら見たことかと言い張ってみても、現にそうなっていないから、そこからさらに現状への批判を追加しなければならない事態に追い込まれているとしたら、実際にそうやって年がら年中世の中の現状を批判してばかりいる人が、自らの予想や予測が当たったと自画自賛しながらも、相も変わらず以前と同じような批判を繰り返しているようなら、その人の思惑通りの状況がもたらされていないからこそ、延々と現状への批判を強いられていることが明白であるのに、それでも批判している自らを正当化せずにはいられず、実際にそうなっている人が現状の中で主導権を握れていないことも明らかであるのに、主導権を握れていない自らの立場も正当化せずにはいられないわけで、結局は全く思い通りになっていないから、何でもかんでも何が何でも現状を否定するしかない立場に追い込まれているのかも知れないし、そんなふうになってしまっていること自体が、その人の現状認識に勘違いが含まれていることの明白な証拠となっているのかも知れないわけだが、そういう人には何が足りないのかといえば、やはり現状を肯定する姿勢が欠けているのかも知れず、批判ばかりしているのに現状を肯定できるわけもないことは当然ではあるが、その必ずしも思い通りにはなっていない現状に関して、少なくとも思い通りにならないことに関しては、自らが反省すべき点があるのかも知れないが、たとえ現状に対する自らの姿勢を反省して、そこから教訓などを導き出しても、だからといってその教訓を活用して現状に合うような認識を得られても、それでも現状を否定的に捉える姿勢は変わらずに、現状を批判せざるを得ないとしたら、それがその人と現状との間に生じている定まった関係を示していて、それがその人と現状との強固な結びつきの程度や傾向でもあり、その関係が現状の中でその人の立場や境遇にその人を縛り付ける役目を果たしていて、そうした関係からその人の現状に対する姿勢が導き出されていて、そうやってその人はその立場や境遇へと縛り付けられて、それ以外の立場や境遇にはなれずに身動きがとれなくなっているわけで、だから延々と同じ姿勢を保ちながら同じことをやり続けている限りで、もはやその人にはそれ以外の可能性がなくなってしまっていて、それがその人の思惑を超えて現状からもたらされている作用であり、たとえその人が現状を批判することによって現状を変えようとしているとしても、それとは裏腹にその人の現状に対する姿勢も立場も境遇も強く固定化されていて、それ以外には変わりようがない立場や境遇にその人が縛り付けられているわけだから、その人自身の意志では批判や主張の中身を変えられないことが、その人には現状を批判することによっては現状を変えられないことが示されているわけだが、それがその人が気づかない点であり、その人の思惑を外れている点でもあり、その人には現状を変える能力が欠けているから、いつまで経っても同じような現状批判を繰り返しているわけであり、そんな代わり映えのしないことをいつまでもやっていられること自体が、現に現状が変わっていないことを示していて、その人がいくら現状批判を繰り返しても現状が変わらないことを物語っているわけだが、そうやって現状が現状のままにとどまろうとする傾向を示しているからこそ、その人の現状批判を可能にしているわけだから、その人にとっては現状が変わらないことが現状批判を可能にしているという皮肉な結果をもたらしていて、しかもそんな現状がその人の活動を機能させていることにもなっていて、その人の機能というのが、その人が現状批判をおこなっているからこそ現状が変わらないという逆説的な機能であり、果たしてその人の活動にそんな機能が備わっているとはにわかには信じられないかも知れないが、それが真実ではないとしても、その人の活動が現状の中でもたらしている効果を論理的に説明するとすれば、そんな理屈も成り立つだろうし、ではその人は批判をやめなければならないのかというと、その人が批判をやめたらその人は破滅してしまう可能性があるだろうし、破滅したくなければ、今まで通り延々と現状批判を繰り返していれば良いわけで、そうなっている時点でそんなことをやっている人は現状を変えるという自らの願望を実現できないわけだから、ある意味で破滅していると言えるのかも知れないが、ではそれをやめなければならないのかといえば、それをやめたらまた別の意味で破滅することになるのかも知れないから、そういう立場や境遇に固定されてしまった時点で、もはやその人は破滅しているとも言えるわけで、そんなふうに身動きがとれずにひたすら同じことを繰り返している人がいれば、その人がそうなっている限りで、その人を取り巻く環境の一部として機能していると言えるわけで、いったんそうした環境に同化してしまえば、そこから逃れることができないとしたら、その人を助けるすべはもはやないのかも知れず、あとはひたすらその人の寿命が尽きるまで同じ動作を機械的に繰り返すことしかできないのかも知れないし、そういった機械的な繰り返しの動作にはまり込んでしまった人に何を言っても無駄であり、端から見て何かその人の主張している内容とその人自身の動作との間に不可解な矛盾が生じているように感じられるなら、そこではその人の主張を実現するにはその人自身の動作をやめなければならないような理屈が成り立っているといえるのかも知れず、実際にそんなことがその人には不可能であるように思われるのであれば、それを可能としているのが、他ならぬその人がそこに縛り付けられている環境そのものが、その人の互いに矛盾し合った主張と動作を実現している可能性があり、そうなっている限りでその人の存在と活動が成り立っているという皮肉が生じているのではないか。
9月25日「都合の悪い面」
人は個人でも集団でも世の中で生じている様々な成り行きに巻き込まれながら活動しているわけだが、そこで何らかの状況に巻き込まれている自身の有り様を肯定できるかとなると、それはその巻き込まれ具合にもよるだろうが、そこでも主体的に振る舞える人であれば、そこから都合の良い部分だけを選んで、それを自身の活動を正当化するために使うことで、何やらもっともらしいことを主張できるわけだろうが、そんなふうに都合の良いことばかり主張して自己正当化していると、それが他の人から見れば鬱陶しい態度であり、そうした主張の中で都合の悪い面に気づいた他の人からは信用されなくなってしまうわけだが、そこでそうやって都合の良いことばかり主張している人たちに対して、そうした人たちの都合の悪い面に気づいた人たちが、たとえそれを指摘して批判したとしても、それらの人たちに世間を動かすような影響力がなければ、特にそうしたことの是非を巡って討議のようなことが実現する可能性はあまりないだろうし、結局そういうところで都合の良いことばかり主張している人たちは、大抵は都合の悪い面に気づいた人たちを無視して相手にせず、それ以降もひたすら独善的に都合の良いことばかり主張しようとするだろうし、そしてそうなっている時点で、そういうことをやっている人たちはすでにそれと自覚せずに、都合の悪い面に気づいて指摘した人たちと戦争状態に突入しているわけで、しかもそういう人たちに限って、戦争反対などと、自分たちのやっていることは棚に上げて、相変わらず表向きは都合の良いことばかり主張している場合があるわけだが、そんなふうに他人の存在や言い分を無視して、自身に都合の良いことばかり主張して、そういった独善的な行為が回り回って本物の戦争の遠因になることなど考慮せずに、表面的には戦争反対などとかけ声だけキャッチフレーズ化して主張すること自体が、言葉を攻撃的な武器として使用する戦闘行為に違いないわけだが、もちろん比喩としての戦争と本物の武力行使を伴った戦争とは、程度としてはっきりした違いがあることは事実だとしても、そんなふうに言葉を使って対立をあおるようなやり方に万能の効果が期待されるような成り行きになってしまうと、たぶんそれが逆効果となってしまう事態も予想されるだけに、できれば言葉の使い方に関して、そういった同じような傾向を押し通すようなやり方ではなく、時宜に適ったケースバイケースのやり方が模索されるのが当然であるわけだが、そこで自身に都合の悪い面を無視したり隠そうとする行為に関しても、やはりそれが逆効果となって自身に降りかかってくるわけだから、そこでも今までと同じようなやり方を押し通すような傾向ではまずいのだろうが、どうやっても自己主張を広告宣伝化するような成り行きの中で、必ずおかしな傾向へと誘導されてしまって、そんなふうにして活動を正当化すること自体が、型にはまったもっともらしい主張を誘発して、それが都合の悪い面には触れようとしない疑わしい行為となってしまうわけだが、それでもかまわなければそれが通用する間はそのままとなってしまうだろうし、実際に誰もがそんなことを平気でやっている実態があって、それが当たり前のことだという前提でやっていることでもあるのだろうが、そんなことがいつまでも通用する世の中になっていると思い込める人には、そんな世の中でしかないわけだから、実際にそういうことを通用させている成り行きを、多くの人たちが支えている現状があるだろうし、それを支えている人たちがそうした世の中に幻滅しない限りは、これからもそんな成り行きが延々と続いていくわけだから、何とかそんな現状を支えている一般市民の人たちに幻滅をもたらさないとならないのかも知れず、自分たちがメディアにいいように利用されてあぶく銭をかすめ取られていることをわからせないとならないのかも知れないが、実態としてはそうではなく、そんなことは百も承知で、それでも気休めの娯楽程度にそうしたメディア関係者を飼っているつもりでいるのかも知れないし、果たして飼い慣らされて牙を抜かれているのはメディア関係者なのか一般市民の方なのか、あるいはどちらもがそんな事態に陥っていて、誰がそこで主導権を握っているわけでもなく、誰もが主導権を握れずに焦っているのかも知れないが、案外そんなことは誰にもわからないことであり、気にもしていないのかも知れず、ただ単にその場で生じている何でもないような状況に身も心も飲み込まれていて、何だかわからないうちにそれと自覚することなく自身に都合の良いことばかり主張している成り行きになっていて、そうなっている限りで、それなりに自己満足にも浸っていられるのかも知れないが、実際には満足感を得られている人などほとんどいないのかも知れず、逆に不満が渦巻いている中で、誰もがそこから抜け出せずに喘いでいる可能性もあるわけだが、なぜ抜け出せないのかといえば、幻想を捨てられないから抜け出せず、しかも幻想を抱く以外には何もできないのかも知れないし、誰もが自らの存在を幻想によって支えられているのかも知れないが、その幻想というのが、ただ漠然と幸せになることであったりして、何かその辺でたわいない夢を抱いているだけで、それで済ませていられること自体が、端から見れば冗談のような心境なのかも知れないが、端から他人の狂態を見るような立場には誰もなれないわけで、そうしたとらわれの身のような状況というのが、何によってもたらされているのかとなると、結局は自分たちの活動が回り回って自身の心身を拘束しているわけで、ならば自分たちの活動の何が悪いのかと言われても、別に誰もそれを悪く言う筋合いがないわけで、逆にそれよりは自分たちには何も悪いところがないにしても、何か悪いことをやっている人を他に特定したいのだろうし、悪いことをやっている人たちが他にいるから、そのおかげで自分たちが苦しめられているとすれば、そんな悪い奴らを誰かが成敗すればいいわけだろうが、結局は悪い奴らを成敗しろとけしかけている輩が一番悪い奴らであったりするわけで、それが他ならぬ自分たちであれば、そもそもが自分たちにとって都合の良いことばかり主張する一方で、悪いことをやっている敵対者を自分たちとは別の誰かに求めていること自体が、自分たちの都合を反映した幻想に過ぎないわけだが、それに気づくことができるかとなると、やはりそんな誰もが自身にとっての都合の悪い面だけは断じて認めるわけにはいかないのではないか。
9月24日「批判される側のペット」
批判者のありがちな傾向となると、敵対する必要のないところで敵対してしまうところが愚かなところであり、何でもかんでもこじつけ気味に批判に結びつけようとして批判中毒になってしまい、心理的にも余裕のない面をうかがわせるわけだが、それに追い打ちをかけるようにして紋切り型的でありふれた成り行きというのが、大抵は誰もがそうなってしまい、それが自滅な傾向を示していて、自然とそういった批判中毒が蔓延してくるとともに、他に何もやりようがなくなって、そのうちそこからポツポツと脱落者が出始めて、気づいたときには高潔な少数派となっているわけだが、まさにそれが批判勢力のありがちな末路だと言えるのかも知れないが、それでもかまわないとなると、では何のために批判しているのかとなるわけだが、批判に目的などないわけで、気に入らないから批判を繰り返しているだけで、それが愚かな傾向だとしてもやめられないわけだから、飛んで火による夏の虫のように批判し続けるしかないだろうが、批判される側もわざと批判されるように意識しているわけでもないだろうが、その辺に無意識の心得があるわけで、批判者が批判しやすいようなことを無意識にやってしまうわけで、そうやって批判される壺を逃さないから、批判者が批判しっぱなしの状況をもたらせるのだろうし、批判されるのが怖くて縮こまっているよりは批判されっぱなしになる方が、やり方としては無難なところでもあり、そうやって延々と批判させるだけさせておけば、あとは黙って批判者が高潔な少数派に落ち着くのを待っていればいいだけで、いったんそういう成り行きに持ち込んでしまえば、黙っていても無関心派やサイレントマジョリティを味方につけることができるという寸法になってしまうのかも知れないが、別に無関心だからといって支持される必要はないわけで、無関心なら無関心のままに保ち、寝た子を起こすようなまねはしない方がいいということであり、批判派に対しては逆に寝た子を起こすようなまねをして、火に油を注ぐようなことを延々とやればいいわけで、当人にそのつもりがなくても、やはり無意識がその辺を心得ていて、実際に批判派が騒ぎ立てる口実を絶え間なく与えることによって、批判疲れに誘い込んでいるわけで、その辺を批判派が理解できるわけもなく、頑なに正義に凝り固まって何を忠告されても馬耳東風になって聞く耳を持たないような独善主義者こそが批判派にはお似合いなのだから、そうなってしまう時点で高潔なる少数派に落ち着くしかないわけだが、それはそれでそうなるしかないような成り行きであり、これまでもそうであったしこれからもそうなることしかできないわけだから、どうあがいても批判派が多数派になれるわけもなく、そういう意味で何が良くて何が悪いという判断自体も、良いことをいくらやっても報われるわけでもなく、また正しいことをいくら主張しても多数派から支持を得られるわけでもないだろうし、逆にそういった批判派から批判され続けることが、批判される側が主導権を握る上では有効なやり方ともなっているわけで、批判されているというよりは批判させてやっているという姿勢が、物心両面での余裕をもたらしているわけだが、それが必ずしも正しいことでも良いことでもないわけだから、なかなかそういう姿勢を保つには勇気がいるのかも知れないが、自然とそうなってしまう傾向があるとすれば、そういった世の中の流れをつかんでいることにもなるだろうし、いくら批判されてもそうなっている限りで何でもないことにもなってしまうだろうし、別にそれがもとで役職を解任されても辞任してもかまわないわけで、批判派から常時批判され続けている限りで、それが良い傾向でもないのにうまくいっていることの証拠となるのだろうし、そういう意味でも批判派から批判されるようなことを意識してできるようなら大したものなのかも知れないが、意識しなくても無意識にできている限りで、うまくいっていることの証しとなっているのかも知れないし、そんなふうに批判されながらもなぜか主導権を握っているということは、それが何の主導権を握っていることになるのかが、主導権を握っている当人にわかるわけがないだろうし、わけがわからないままでもかまわないのかも知れないが、批判派に絶えず批判のネタを供給し続けることこそが、その場の主導権を握ることになるのだとしても、そんな状況が批判派にとってはどういうことなのかといえば、絶えず批判ネタ待ちな状況である限りで、思考力を働かせる余裕がないわけで、それは水槽の中でひたすら餌を待っている金魚やメダカと同じ境遇を強いられているわけだろうし、そうやって批判される側から批判のネタが供給されるのを待っているだけでは、批判される側のペットとなっているだけで、そういったペットの供給源として格好の温床となっているのが、あるいはその培養土としての役割を果たしているのが、あえて名指しするなら日本では山本太郎がその役割を担っているのかも知れないが、それはそれで生産的な行為であり、そういったペット産業をもり立てることも民間の経済活動に貢献することにはなるだろうし、批判という行為に絡めて人や集団の活動を促すことで、メディア的にもある種の活性化が生じているだろうし、それがどう見ても建設的な行為だとは思われないかも知れないが、脱構築という分野に限っては、アク抜きのアクを集めるような役割を果たしていると言えるのかも知れず、構築には適さない人材を糾合することで、他の勢力による構築を促進させる効果があるのかも知れないし、そうやって批判専用のペットたちを山本太郎が寄せ集めておいてくれれば、他の勢力において何やら建設的な話し合いがスムーズに進められるような環境になればいいわけだが、果たしてそんな無意識のもくろみ通りに事が運ぶかどうかまでは誰の予想もつかないところかも知れず、そんな予想自体が単なる勘違いかも知れないし、もしかしたらそんな箸にも棒にかからないようなペットたちの中から、日本の将来を担うような逸材が出てくるとも限らないし、その辺はどこまでも不確かなところでしかないのかも知れないが、ともかくツイッターなどの批判される側が主導権を握って管理している飼育環境から抜け出さない限りは、それらのペットたちには暗澹たる末路しか待ち受けていないのではないか。
9月23日「世襲制の弊害」
普段からやりなれていないことをやろうとすると、やりなれていないからうまくいかない面が出てしまうのは致し方ないことであり、それに関して他から教わる機会があまりなければ、動作としても手探り状態で学んでいかなければならない成り行きになるだろうが、そこでその場の状況に合うような態度や振る舞いがとれるということは、それなりに経験を積まないとできないことであり、逆に勘違いや思い違いから、その場にはふさわしくない態度や発言をしてしまうことは、そういう方面での場数を踏んでいなければ、経験不足な面が露呈してそうなってしまうことがままあるにしても、その場の振る舞いや態度がいかにも薄っぺらで思慮が足りないように見えてしまうのは、その人のそれまでの経験や育ちがものをいうだろうし、そういう否定的な印象によって軽く見られてしまう面があるにしても、それはそこに居合わせた他人が抱く印象でしかないわけだから、その時点では当人にはどうしようもないことだろうし、逆に慣習にとらわれないような場違いで奇異な印象を持たれるぐらいが、それ相応の人物であることの証明でもあり、結局は第一印象として、いかにも世間知らずで馬鹿っぽくて中身が空っぽに見られてしまう方が、反省してそこから学べるわけだから、最初は最低レベルに見られていた方が気楽な立場でいられるだろうし、もちろんどこかの国の総理大臣のように学ぶ機会や能力がなければ、そのままとなってしまう可能性もあるわけだから、それは相対的な傾向としてその程度のことでしかないわけで、それを悪く言うなら馬鹿な人は馬鹿のままだと思われていた方が、変にそこから勘違いな幻想を抱けないだけに、それなりにあきらめもつきそうに思われるわけだが、世の中の仕組みとしては、それなりの社会的な立場や地位に就いた人は、馬鹿のままでは具合が悪いわけで、だから社会の仕組みを守る側としては、馬鹿な人を利口に見せかけるために、周りからあれやこれやと装飾が施される成り行きになってしまうわけだが、いくら箔をつけて立派に見せかけようとしても、そういった社会の仕組み自体が、世襲制のように、馬鹿な人でもそれが世襲であればそれなりに高い地位に導くような仕組みになっていると、そういった装飾的な見せかけにも限界があるだろうし、思いっきり馬鹿な人をいくら才能があって立派になる可能性があるように見せかけようとしても、そういった社会の仕組みに精通している人であれば、ごまかしがわかってしまうだろうし、精通しているも何も世襲制という仕組み自体が、馬鹿であろうと何であろうと、世襲によって社会的な地位が決められてしまう理屈なのだから、普通はどんなに馬鹿な人でもその辺の察しはつくはずだが、それが当たり前のように感じさせる世間的な空気に惑わされて、そうした世間に順応させられてしまった普通の人にはわからないのかも知れないし、また一般的な傾向として地位の高い人ほど、自分の子息を英才教育して立派に育て上げようとするものだから、そういう教育が功を奏して、それなりに優秀な人材へと成長するように思われるかも知れないが、その一方で生活環境としては物心両面で甘やかされて育てられてしまう面はどうしようもなく、心理的にエリート意識にとらわれて思い上がった人材になってしまうのは避けられない成り行きだろうし、そんな人材が社会の中で威張っている態度が目立ってしまうから、他の人たちが不快感にとらわれて、世襲制ではまずいことに気づき始めるのも普通の成り行きなのかも知れないし、それに対して世襲制を是が非でも維持したい勢力としては、そういった成り行きを阻止するためにあれやこれやとメディアに働きかけて、世の中に幻想やごまかしを行き渡らせるようなことにもなってくるわけだろうが、そういったことを世の中の人たちがどう受け止めるかで、世の中の情勢も変わってくるだろうし、成り行きとして自然に世襲制に傾いてしまう傾向と、そういう成り行きに反発して、誰にも平等に機会を与えられるように、制度的にも慣習の面でも変えていこうとする努力との間で、それなりにせめぎ合いが起こっていることは確かだろうし、そうであってもあからさまな世襲制は公的な制度としてはとられていないのが世界的な傾向ではあるわけだが、なし崩し的な伝統としては、王族などの世襲は公的な権力を伴わない配慮の下で維持されているにしても、日本では国会議員の世襲が公然の慣習として受け入れられている面もあるだろうし、世間的な話題として世襲議員を優先して取り上げるようなメディア的な風潮もあるだろうし、実際にそれが世間的な話題となって世襲議員が脚光を浴びている現実があるから、そうなるのも致し方のないところなのだろうが、今さら世の中の人たちに理性的に物事を考えるように説教しても馬耳東風なのはわかりきったことだろうが、それ以前に説教するような立場に誰がなれるわけでもなく、世襲が悪いということとは別の次元で、世襲議員であろうとなかろうと、選挙で選ばれて議員になる制度となっているわけだから、慣習的に世襲が許されるとしても、人々が意識してそういう慣習を公的にはふさわしくない悪習として嫌うような成り行きになれば、自然と公的な領域では世襲の慣習が廃れていくことになるだろうが、そうした世襲の慣習を制度として定めているのが天皇制でもあるわけだから、公的な制度から天皇制を除外するような成り行きに持って行かないことには、根本的には改められないのかも知れないが、それ以前に公的な各種の制度を定める大本となっている、国家という制度自体を、どうにかするような成り行きが生じてくるのかも知れないし、そんなことが問題となるのは遠い未来のことだと現時点では思われるにしても、今からそういうことに関して考えておく必要がないとは言えないだろうし、実際に国家という制度が様々な方面で弊害を生じさせる原因になっていることは、誰もが認めるところかも知れず、すべての制度的な弊害は国家という行政単位で生じていることでもあるわけだが、制度的にはそうであっても、制度面からだけではなく、慣習の面やメディア的な面や個人や集団の有り様から、社会の各方面から考えてみる必要があるにしても、それでも政治的には狭くてそれなりに限定された範囲内でおこなう制度的な改善によって、世の中の物事に関する弊害を解決しようとすることしかできないわけだ。
9月22日「客観的な立場」
たぶん物事の客観性というのは、意識の恣意性をできる限り取り除くことによって達成される傾向なのかも知れないが、客観的に考えて何ができるわけでもない状況というのは、客観的というのが本当に客観的であればそれが確からしいことにもなるだろうが、その時点では自覚できないこともあるだろうし、客観的ではない意識の恣意性に関して気づかないことも含めて、客観的なのかどうかは、それに気づいていないわけだから、そういう面では客観的ということは不確なのかも知れないし、それに関して物事の行為者ではなく観察者の立場をとれれば、観察している対象に関してなら、客観的な立場から対象を観察できるかも知れないが、そう都合良くそんな中立的な立場になれるわけでもないだろうし、実際に客観的な立場というのが、中立というその場の都合によってどうとでも受け取れる良くも悪くもないようなご都合主義的な立場以外の何を意味するわけでもないのかも知れないが、たとえそんな無色透明な観察者になろうとしても、観察の対象となる人や集団の目に余る身勝手な行為や行動に関して見て見ぬふりをしているようなら、それは客観的な立場でも観察者の立場でもないのかも知れないし、では見て見ぬふりをする人がどんな立場になっているのかといえば、それをとがめることも注意することもできない腰抜け的な立場と言えるかも知れないし、実際にネットを利用して言葉を使って脅しをかけてくるような人たちの行為を単に無視しているのではなく、それを見て見ぬふりをするような人たちは単なる腰抜けでしかなく、そういう人たちに対しては普通に言葉で抗議すればいいだけのことでしかないだろうが、最低限の礼儀としてその程度のことさえできないような人はただの腰抜けでしかないわけだが、たぶん大抵は誰もがそういった面倒な事態にはなるべく関わりたくない腰抜けぞろいでしかないのが現状なのかも知れないが、中にはそういった情けないていたらくの現状を見かねて、直接それなりに抗議している人たちもいるだろうし、さらにネット上では飽き足らず、街頭に出て直接政府や御用メディアによる人間のクズのような姿勢に対してデモ活動によって抗議する人たちも実際にいるだろうし、それが抗議のためのパフォーマンスなどではなく、直接の抗議であれば普通の態度だと言えるわけで、要するに抗議したいのなら抗議の言葉を発して普通に抗議すればいいだけのことでしかなく、それが見世物的なくだらぬパフォーマンスに堕してしまうと、ただの三文芝居の素人演劇になってしまうわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、それは単なる行為者による自己顕示欲の表れでしかないのかも知れず、それもある意味では客観的な立場になるのを妨げる恣意性の表れなのかも知れないが、そういった行為者のパフォーマンスを観察するだけのご都合主義的な意味での客観的な立場というのは、パフォーマーの行為をなるべく邪魔にならないように差し障りがない範囲内で観察するだけの逃げ腰的で腰抜け的な立場でしかないのかも知れないし、たぶん意味のとりようによってはそうした直接の行為から逃げることできるのが、客観的な立場の有利なところだろうし、要するにそれは直接手を下さずに見ているだけのずるい立場でもあるわけだが、そういった有利さを最大限に活用すれば、直接の行為から完全に逃げ切れるかとなると、そういうわけにもいかないだろうし、物事を観察する立場というのが直接の行為につながる場合もあり、対象を直接観察することによって何がもたらされるかとなると、その対象に関する理論が導き出される可能性があるわけで、そうなるには観察と思考を連動させることが必要となってくるだろうが、そうやって導き出された理論が何の役に立つのかといえば、観察している対象を理解するのに役立つわけで、それを理解することによって、対象への対応や対処に関して、有効で効果的なやり方が導き出せるかも知れないわけだが、果たしてそうやって直接的な行為へと至るには、いかにして対象への観察を思考に結びつけるかが重要となってくるのかも知れないが、最終的には思考するだけではなく行為や行動に結びつかないと理論が直接活かされたとは言えないわけで、そういう意味では思考的な成果としての方法論にとどまっているだけでは、どこまで行っても方法論でしかなく、そこでは具体的にどんな対象を観察してどんな理論を導き出すかが問われているだけで、そういう姿勢もずるい立場と言えるわけだが、そういったずるさを身につけた人たちがネット上にはいくらでもいるだろうが、ずるさを活かす対象というのが例えばネットを利用して言葉を使って脅しや攻撃を仕掛けている輩となれば、それは特定の政治勢力のネトサポというジャンルに属する人たちになるのかも知れないが、普通に考えてそんな人たちの行動や習性や生態を観察してそれに関する理論を導き出そうとしたところで徒労に終わるしかなく、その程度では無駄で無意味なことにしかならないだろうし、そんなくだらない連中よりはそうした連中の裏で糸を引いていて、それらの活動の元となっている特定の政党などの政治勢力を直接観察した方が有意義に思われるはずだが、たぶんそうした政治勢力を観察したところで、何を導き出せるわけでもなく、たとえそうした政治勢力が国家的な次元で政治的な主導権を握っていようと、実際にはそうした政治勢力を支持している人たちがいるわけで、もちろん積極的に支持していなくても、消極的な支持に徹している人たちの方がずるいわけだが、たぶん客観的な立場というのは、何事にも直接手を下さずに絶えずひたすら観察者という名の傍観者に徹しようとする態度であり、そういった人が多ければ多いほど、相対的に公共の次元へと介入する人が減ってしまうわけで、それにつけ込んで現状のていたらくが実現していると言えるわけで、そうやってネットに巣くう人間のくずのような人たちを育てているのは、それを見て見ぬふりを決め込む傍観者の立場を占める人たちだとも言えるのではないか。
9月21日「優れていることの証明」
現状の世界で人に対しておこなわれていることに関して、何か幻想を抱くようなことがあるとすれば、それが誰の想像力からもたらされた幻想であろうと、現状の世界で実際におこなわれていることの延長上で想像していることである限りで、たかが知れていると言ってしまうと語弊があるかも知れないが、少なくともそれ自体が驚くべきことだとは思えなければ、いくらそこから言葉を効果的に組み合わせて驚くべき認識が導き出されたとしても、それは言葉によって加工された装飾的なごまかしであり、世の中ではそうではない普通の認識も様々に提示されているだろうし、それらが大して驚きをもたらさないようなありふれた認識だとしても、誰かが言葉を駆使してもたらした驚くべき認識と比較して、ありふれた普通の認識の方がリアリティを感じられるなら、そちらの認識の方がもっともらしいと思われるだろうし、それが何を意味するのかと言えば、人にはその人の意識の中で感じている主観的な世界があり、またそれとは別に客観的な世界もあるだろうし、またさらに集団的な共通認識を通じて構成される社会的な世界もあり、それらの中でその場の状況に応じて主観的に言葉を組み合わせることで、特定の誰かに何やら画期的な認識がもたらされることがあろうと、その一方で大多数の人たちは特に何でもないような普通の認識がもたらされている状況もあるだろうし、それらが現実の世界からそれなりの作用や影響を及ぼされてもたらされている認識ならば、それらはそれなりにリアリティを感じられる根拠や理由があるのかもしれないし、たとえその中でごく少数の人にこの世界に関する驚くべき解釈がもたらされたとしても、他の人たちはそんなことには興味がないかも知れないし、例えばそんな解釈の中で、誰かが他の動物の生存形態と比較して人類の生存形態やその特徴を体現している歴史や文明のすごさを、言葉巧みに物語っているとしても、人類の中にはそのすごさとは無縁のどうでもいいような人もいくらでもいるだろうし、そもそも人の生存形態を他の動物の生存形態と比較すること自体が分野によっては意味のないことであり、そんな比較をおこなってしまうこと自体が、比較している人の浅はかさや愚かさを物語っている可能性もあるだろうし、またそんな比較から導き出された言説に感動してしまう人がいるとしても、そういった言説には興味のない人もいくらでもいるだろうから、その人の感動が他の人の共感を呼ばない可能性もあるだろうし、そうやって否定的なことを述べていくときりがなくなってしまうかも知れないが、別にわざとへりくつをこねくり回して無理に否定することもないわけで、それはそれですごい見解や解釈であり、そういった見解や解釈を含んだ言説が多くの人の驚きや感動を呼ぶことは普通のごく自然な成り行きであり、それが確かに賞賛に値するような内容かも知れないが、そういう言説を文章によって構成できる賢い人がいる一方で、そういう言説の構成とは無縁な人もいくらでもいるだろうし、そういう意味で他にまねすることのできない素晴らしい言説によって人類の歴史や文明を他に比類のないすごいものだと語れる人がいる一方で、その人類の中にはそういう人から比べれば何でもないような、特に優れた点も見当たらないような凡庸な人もいくらでもいるだろうし、たぶん人類全体では凡庸な人の方が圧倒的大多数を占めるはずなのに、そうなると人類の歴史や文明が他に比類のないほどものすごいのに、その中で暮らしている人のほとんどが大したことはないのはどういうことなのかという疑問が生じてしまうわけだが、たぶんそういう点に関しては、その驚くべき言説は答えてくれないだろうし、そういった言説の作者にとっては、そんなことは大したことではないのだろうし、人類の歴史や文明が他に比類のないほどものすごいということが、その人が主張したいことであり、その人類のほとんどの人たちがその人ほどには大したことはないということは、その人の関知しないことなのかも知れないが、そういったことに言及できていないとすれば、その優れた驚くべき言説にも言及できない点があり、そういった点が現にあるのだから、その内容にはそれなりに限界があると考えられるわけだが、そもそもそういった言説がこの世界ついてすべてを語れるのかとなると、それは無理であるという前提の下に判断しなければならないことかも知れず、そういった点を差し引いて判断するなら、そういう方面で優れたことを述べられる人がそれなりに賢いことは認めざるを得ないだろうし、実際にその人が述べている内容が多くの人の驚きや感動をもたらしている事実を賞賛することに何らおかしな点はないだろうし、そういう点に関しては普通に賞賛に値することであり、そこで驚いたり感動したり賞賛している人たちが、その人ほどには優れてはいないとしても、実際に大して優れたところがない圧倒的大多数の凡庸な人たちが、ごく一握りの希少価値を伴った圧倒的少数の優れた人を賞賛することが、賞賛という行為には必要不可欠の条件であり、そうした人を賞賛する行為がおこなわれていること自体が、人類全体では優れた人は圧倒的少数であり、その反面でこれといって優れたところのない凡庸な人が圧倒的大多数を占めているという事実を証明しているわけだろうが、そうであるなら、圧倒的少数のごく一握りの優れた人が、圧倒的大多数の凡庸な人たちの集合体である人類を、あるいはその歴史や文明を、他に比類のないものすごいものだと述べてしまうこと自体が、何か根本的に矛盾していて間違っているのではないかと思ってしまうわけだが、しかもそんな見解に驚き感動して支持を表明している人たちが、圧倒的大多数を占める優れていない人たちの側に属していること自体が、果たして優れていない人たちに賞賛される行為が優れた行為であるのかという疑問も生じてきてしまうわけで、そして優れていない人たちが優れた行為を優れた行為だと評価することが、果たして正しい評価と言えるのかということも含めて、何かそういう面が釈然としないかも知れないが、優れていない人たちを驚かせて感動させることこそが優れた行為だとも言えるのかも知れないし、そういうことができる人が圧倒的少数の優れた人であることの証明だとするなら、少しは納得できるだろうか。
9月20日「発言のバリエーション」
何かを述べている人が他に何ができるわけでもないのは、そこでできることが何かを述べることでしかないからであり、それがその人にとってのその時点での精一杯の行為であるなら、それ以外の行為をその人に期待するのは酷となるだろうが、そういうこととは無関係に考えなければならないことが、そこで誰かが何かを述べているだけのことをどう判断してどう解釈すればいいのかとなると、その述べている内容が世の中に何の影響も及ぼさないような何でもないことであれば、取り立ててそんなことには言及するまでもないことであり、誰もが無視するようなことでしかないのかも知れないが、あえて無視するまでもなく、実際に世間から注目されているわけでもなければ、やはりそれは何でもないことでしかないのかも知れないが、逆にそれが世間から注目されていることであっても、誰もがわかりきっていることをそこで述べているだけであれば、特にその人が述べていることは何の意味も意義もないようなことかも知れないし、他の誰が述べてもかまわないようなことをその人が述べているに過ぎなければ、また実際に他の大勢の人が述べているようなことをその人も述べているだけであれば、特にその人が述べているということ自体に注目することもないわけだが、その人が世間的に影響力のある著名人であれば、他の多くの人たちが述べていることを著名人であるその人も述べていることについては、世間の人たちも安心感を抱くかも知れず、そうやって世間の人たちに安心感をもたらすようなことを述べられる著名人がメディアに重宝されている可能性があるわけだが、それに加えてそういう著名人が政府の立場や意向を代弁するようなことにでもなれば、そういう人は政府にとっても有益な人だと見なされるのかも知れず、そうなればメディアにとっても政府にとってもそういう著名人が世の中で影響力を振るってほしいだろうし、実際そういう人に優先的にメディア上で発言権が与えられるような成り行きになるのかも知れず、結果的にそういう人の存在や発言が世の中の安定に寄与しているとすれば、世間から注目される発言の内容というのは、自然と誰もが述べることができて安心感をもたらすような紋切り型の内容となり、しかもそれが政府の立場や意向が反映された保守的な内容ともなれば、何でもないような人畜無害な発言内容になってしまうわけだが、もちろんそんな発言ばかりになってしまうとメディア上でなされる発言自体がつまらなくなって、その手の発言内容ばかりで埋め尽くされたメディアには誰も関心を払わなくなってしまいそうだが、それとともに庶民感情を逆なでするような反発を招きやすく挑発的な嫌われ者の発言も織り交ぜて、その手の発言が好印象をもたれるように、メディア上の様々な発言が効果的に調整されて構成されるのかも知れないし、またそういう需要を当てにした浅はかな賛同者という存在も世間の注目を集めるには欠かせないだろうし、そういう方面では憎悪をあおったり、また同情を誘ってお涙ちょうだい的な演出をする上で必要となる発言というのも用意されたりして、さらに知ったかぶりな知識欲を刺激する知的好奇心を満たすべく、軽いうんちくのお披露目としてのマニアやオタクレベルの知識のひけらかし的な発言も、メディア的には好まれるのかも知れないし、またそれとともに政治的な方面では、保守派の攻撃の的となるべく、典型的な反体制左翼というレッテルを貼られやすい発言内容も必要となるだろうし、具体的には人権だとか民主主義だとか、そういう一見理性的には支持されやすい肯定的な価値観を、否定的な共産主義や社会主義に絡めて攻撃できるように、清廉潔白を装った左翼メディアや左翼政党という存在が必要になってくるわけだが、それは同時にそうした価値観を伴った思想を本気で信奉している人たちの心のよりどころとなるような存在としても必要になってくるわけで、そういう政治的な対立や連帯のあおり立てもメディア的な商売に利用できるだろうし、そんなふうにして世の中の各方面から寄せられる様々な必要や需要に応えるべく、様々な内容や傾向の発言を取りそろえる必要が出てくるのかも知れないが、ひとつのメディアでそれらすべてを取りそろえられるわけでもなければ、各メディアごとに専門分野や得意分野を割り振られて、そういう方面に特化したメディアと、その逆に総合的にあらゆる分野をまんべんなく広く浅く網羅するようなメディアも必要になってきて、全体として種類や内容が千差万別になるように様々なメディアが配置されていれば、それらの需要に応じて供給が満たされるような成り行きになるわけだが、意図してそうなっているわけではなく、各方面からの様々な思惑が交錯した結果としてそうなるわけだから、それら全体を制御できるわけでもなく、制御が必要とされるわけでもないだろうが、政府としては制御したがるわけで、それは何でもかんでも社会全体を管理したがる行政としての宿命かも知れないし、実際にそうした方面で管理や規制の網をかぶせようとするわけだろうが、そんなことをやったところで完全に制御や管理しきれるわけでもなく、かえって中途半端な思想言論統制のようなことをやって世間の反発を招いてしまうわけだが、そういう面があるにしても、その場の情勢や状況に応じて、それらの行為の何が良くて何が悪いと言いたい人も出てくるだろうし、たとえ多くの人がそういう人から批判され非難されるようなことを述べてしまうとしても、そこで生じている社会的な関係からそんな発言が出てくるわけで、そういうことを述べている人が単独で主体性を発揮してそんなことを述べているとは言えない面があり、他との関係や関わりの中でそんな発言が生じてくるわけだから、そんなことを述べてしまう成り行きの中で、その人の意識がその場の状況や情勢から何らかの作用や影響を受けながら、そんなことを述べている状況があるわけで、そういう面を考慮するなら、そういう発言に対して小学校の先生のように偉そうに説教調でもっともらしい批判を加えてしまう人にしても、そんな馬鹿げた役回りを誰に頼まれたわけでもないのに勝手に引き受けてしまう成り行きがあって、そういう三文芝居のようなくだらないやりとりを避けるには、それとなくその場の情勢から勝手に割り振られてくる役回りを自覚するしかないわけだが、そうやって自らの述べていることが他の人たちの述べていることと連動して、予定調和の成り行きにはまっているように感じられたら、それは自らの意志ではなく、その場の情勢に操られて述べていることだと自覚できれば、それに気づいた瞬間から発言を軌道修正できるかも知れず、なるべくそういった成り行きから逸脱するように努めるなら、馬鹿げた役回りからも逃れられる可能性も出てくるのではないか。
9月19日「おかしな姿勢」
たぶん世の中の現状を否定的に見る傾向の何がおかしいわけでもないだろうが、逆に世の中の現状を肯定的に見る傾向の何がおかしいのかといえば、現状に対する批判を避けている点がおかしいと思われるのかも知れないが、ならば現状を肯定も否定もしない姿勢はおかしいのかといえば、そうした主張の内容にもよるかも知れないが、それが特に何も主張していなければ、何でもないことになってしまい、それでかまわないのなら、別にそれがおかしいわけでもなく、普通は何でもないことがおかしいとは思われないだろうし、おかしくなければそれでかまわないはずだが、逆におかしいことを主張しないと、他人の気を引かないのかも知れないし、そんなわけで多くの人たちは他人の気を引こうとして、おかしなことを主張しているのかも知れないが、別に大半の人たちは笑いをとろうとしてわざとふざけておかしなことを主張しているわけではなく、それを主張している当人にとっては、極めて大真面目にまともなことを主張しているはずだが、それの何がおかしいのかといえば、それは他人の気を引こうとするおかしさなのかも知れず、実際におかしなことを主張しないと他人の気を引けないとしたら、当人にしてみれば世の中のおかしなところを指摘したいのだろうが、おかしなところを指摘すること自体がおかしなことであったりしたら、そんな行為自体がおかしなこととなってしまうわけだが、普通はおかしなことがまかり通っていること自体がおかしなことであるように思われるにしても、おかしなことを指摘する行為自体がおかしなことであるように思われたら、確かにそんな行為自体がまかり通っていること自体がおかしなこととなってしまうわけで、ではなぜそれを指摘すること自体がおかしなことなのかといえば、例えばそれを指摘する立場でないような人がそれを指摘していること自体がおかしいのかも知れず、要するにそれを指摘している人が誰に頼まれたわけでもないのに、多くの人たちの代弁者気取りで指摘しているから、それが不自然に見えてしまうわけで、誰がその人に世の中のおかしいところを指摘してくれと頼んだわけでもないのに、勝手におかしなことを指摘し始めてしまい、しかもそれが当然の行為であるかのような態度で指摘し始めてしまうから、そしてさらにそんなことを指摘しているのがその人だけではなく、他にも似たようなことを指摘する人が大勢出てくるから、何かそれが奇異な印象を伴ってしまうのかも知れず、それ自体がおかしな社会現象であるかのように思われてしまうわけで、しかもそういったことをおこなっている人たちは、そろいもそろってそんなことが指摘されている世の中の現状を否定的に見る傾向があるわけで、もちろんそれを否定的に見ないとおかしなところを指摘できないわけだから、むしろそうなっている限りで、おかしなところを指摘するという文法に行為を拘束されているわけで、逆にそれを肯定的に見れば、それはおかしいどころではなく、世の中の素晴らしいところになってしまうだろうし、その人がおかしいところを指摘するには、必然的に世の中を否定的に見ないとならなくなってしまい、おかしいところがあるから世の中のそういう面は否定されなければならないという連動した作用が生じているわけだが、本当にそうなのかとなると、どうも実情はそれとは少し違ってくるのかも知れず、もしかしたらおかしい面がないとまずいようなことにでもなっているとしたら、そういう面ではおかしいからこそ肯定されなければならない成り行きがあるのかも知れないし、そういった是正されなければならない不具合が指摘されるような世の中の状態を肯定すべきだとすれば、そうした世の中を肯定する理由というのが、絶えず変革が可能な面があるからこそ、世の中のそうした面を肯定できるわけで、もしそういう面がなくなってしまうと、もはや人はそんな世の中では何もできなくなってしまい、何もできないということは、その人の死を意味するのかも知れず、その時点でその人には用がないということになり、実際に死んでしまうとすれば、逆にその人が生きているという状態は、そこで何かしらおこなっている最中であり、結局はそのおこなっていることというのが、おかしな部分を是正している最中なのであり、誰から頼まれたわけでもないのに、身の回りのおかしなところを見つけては、絶えずそれを直している最中なのかも知れず、そしてそんな行為に連動する自然な成り行きとして、そんなことをやっている自らを肯定して、そんな行為を正当化せずにはいられないわけで、それがそこにその人が存在して生きている状態を示していて、そこで自らの存在と行為を肯定しているということは、自動的にそうした態度や状態の自らを一部として含んでいる世の中を肯定していることになってしまい、結局世の中にはそういう成り行きで肯定できる面があり、それは改めて肯定するまでもないことでもあるわけだが、そうした暗黙の了解事項としての肯定が、その人がそこに存在して何かをおこなっていることの前提条件となっていて、それが世の中のおかしなところを指摘する行為に連動して、世の中の現状を否定的に見ることとは相容れない面になるわけだが、要するにそこでは現状の世の中を成り立たせている前提条件は肯定しなければならないものの、それが同時に現状のおかしな面を探し出してそれを改善する行為を促す契機にもなっているわけで、そうであるならそうなっている世の中を静的にただ肯定的に見たり否定的に見ているだけでは駄目で、動的に把握しなければならず、肯定したままではいられないと同時に否定したままでもいられないわけで、そうなると肯定したままでいる態度や状態も否定したままでいる態度や状態も、両方ともにおかしいと感じられるわけで、そうやってそのままでいる態度や状態をいつまでも維持しようとするから、それがおかしな態度であり状態だと見られてしまい、そんなふうにいつまでも世の中の現状を肯定し続けていたり否定し続けていないで、そこから動き出さないと、人としてそこに存在して生きていることにはならないわけで、そういう面では絶え間ない態度変更や状態変更が迫られているわけだが、その一方で言説的に首尾一貫性を保つには、いつまで経っても同じ姿勢を維持し続けるような成り行きになってしまい、それを端から見ればおかしな姿勢に見えてしまうわけだ。
9月18日「心の余裕」
窮鼠猫をかむという譬えとは少し違うかも知れないが、何かその場の成り行きの中で、急に言葉尻を捉えて反撃するのは、かえってそんなことをやっている側が心理的に追い込まれていて、焦燥感にとらわれている場合もあるだろうし、もはや言い尽くされているような単純な論理ではわかりきっているから、ちょっとした失言や言い間違えの類いでも、そこにつけ込んで批判しないと、他に効果的な批判の材料を探し出せないようだと、苦し紛れに相手の言葉尻を捉えて、揚げ足取りのようなことを言い立てて、それで何か批判したような気分になれればいいわけだが、どうもそうなってしまう以前に、議論が煮詰まっていて、わかりきっていることをそれ以上に強調しても、そんなことはわかりきっている以上にはなれず、他にもう何も付け足すことがなくなってしまっているのかも知れないが、そこで具体的に何をどう述べてみても、それ以上の説明が不要になってしまうほど、はっきりした結果が示されているような場合には、いくらそこから言葉をこねくり回して、こじつけ的な表現で状況を説明しようとしたり評価しようとしても無駄だろうし、それ以前にもはや誰の目にも分かりきった結果がそこに示されているはずだが、では実際に何が提示されているとのかと言えば、それを認識できても言葉で表現できなければどうにもならず、またそこで何かを提示している主体が誰なのかもわからなければ、特に何らかの結果が示されているとも思えないわけだが、結局は特定の誰によってその場の状況がもたらされているわけでもなく、様々な要因が複雑に作用し合って、それがはっきりした結果らしい印象を伴った結果をもたらしているだけかも知れないわけだが、そうした結果の中でその場に居合わせた誰もが、そこで共通認識のように認識されている物事の成り行きから導かれる物語の主人公を演じようとしているわけでもなく、実際に誰もが主体的に振る舞えるわけでもないわけだが、かといって別に状況に応じた対応がとれていると思っているわけでもなく、何かを思う以前からその場の状況に巻き込まれているかも知れないのだが、それでも成り行きによってはその場で主導権を握って状況をコントロールしようとする人が出てくるかも知れないし、そういう人が物語の主人公のように振る舞おうとするのかも知れないが、その人が活動している水準ではそういう思い込みが実現するとしても、他の人たちもそれでかまわないのかといえば、結構何とも思っていない可能性が高いのかも知れず、確かにそういうところで制度的に演劇空間のような舞台が構成されていれば、役割分担としてその場の誰もが認める主人公的な役割が生じる場合もあるのだろうが、そうであっても別にそれが誰もが求めているような役割だとは言えない場合もあるだろうし、そういうところで特定の人物が思っていることと実際にその人がおこなっていることの間に、それなりに当人が自覚できないずれが生じているのが、ありふれた普通の状態なのかも知れないが、状況を自分の信奉する論理や理屈に則って判断したり評価を下すのが、誰もがやりそうなことであるとしても、それも完全とはいわないまでも、何か自分の都合がつく範囲内で部分的に状況をコントロールできているような感覚にとらわれているとすれば、そういった判断や評価もあながち間違っているわけではないと思いたいだろうし、そんな絶対に正しいとは言い切れなくても、それなりに正しい面もあると感じられるなら、それが他人にも説得力が生じていると思いたいだろうし、そう信じられる限りで自信を持って自己主張できる面が生じてくるわけだろうが、そうした自己主張が自分だけでなく、他の周囲の人たちにも生じていると考えれば、その中で誰の自己主張にしても、何か他の人たちからは独りよがりのように感じられるのかも知れないし、そんなふうに感じられるから他人の自己主張には同調できない部分があるわけだが、それでもそれなりにメディア経由で支持者や同調者を獲得した人にとっては、獲得した人数に応じて自信が生じてしまうわけで、自らの自己主張が多くの支持者や同調者を獲得していると思い込めれば、そういう面で自らの主導権が発揮されていると思うだろうし、そうやって自分が何かしら世の中に作用や影響を及ぼしていると確信できるのかも知れないが、そこで勘違いの素となるのは、自己主張の内容が他人から支持や同調を得られるような傾向があれば、特にそれがその人の主張でなくても、世の中に受け入れられる可能性があるだろうし、誰もが思っていることをたまたまその人が述べてみたまでのことなら、他の誰もが主張できることをその人がたまたま主張してみたまでのことであり、支持や同調を集めているのは、その人であるというよりは、その人が述べている主張の内容となるだろうし、しかもそれが他の誰でも主張できるような内容であれば、特にその人自身が他の大勢の人たちから支持や賛同を集めているとしても、その人自身に世間的な影響力があるとは言えない場合が出てくるわけで、他の大勢の人たちとともにその人が誰もが主張できることを述べているとすれば、影響力があるのはむしろ主張の内容であると言えるだろうし、しかもそれがその時点ですでに誰もがそう思っていることであれば、その人がそれを主張する以前から主張の内容が世の中に何らかの影響を及ぼしていたことにもなるのかも知れず、そうであるとすれば、逆にすでにそんな主張内容が世の中に十分に行き渡っていたから、そんな状況に影響を受けて、その人自身もそういった主張ができるようになったとも言えるわけで、そういうことを考慮してみれば、なるほど大して知性を感じられない著名人が、誰もが言えるような紋切り型の主張をメディアを通じて繰り返し述べている場面に出くわしているようにも思われてくるわけで、そういった光景にサブリミナル的になれてしまえば、改めて思考を働かせる余裕もないまま、メディアに依存した日々の日常の中で、そういった種類の様々なありふれた主張に意識が漬け込まれていれば、すでにそこから抜け出すことなど不可能な状況になっていて、そうなっている限りで多くの人々の意識は、それ以外の主張など一ミリも受け入れる余地もない飽和状況になっているのかも知れない。
9月17日「病へののめり込み」
世の中で自身が批判している対象が、自身とさほど変わらない程度や傾向の立場や境遇を占めている場合には、何かそこに決定的な差異を設けて、自身が批判している対象と自身との違いを、誰もが認識できて納得できるような形で証明してみたくなってくるのかも知れないが、たぶん同じような程度や傾向の立場や境遇を占めているからこそ、余計に安易にそうした対象を批判できるのかも知れず、メディア上でそういった他人の批判に遭遇したら、似たもの同士で批判し合っていると捉えておいた方が、かえって余計な勘違いを伴わずに、そうした物事や人物に対する冷静な評価ができて、それらの事態から適度の距離が保てるのかも知れないが、それらの大抵は主義主張が正反対であるかのように装われていて、実際にはそれほど異なっているわけではなく、それよりはお互いに似たもの同士であるから、近親憎悪のようにして激しく対立しているのに、そういう面を考慮すれば、彼らの政治的な主義主張の違いなど、ほんの些細な無視してもかまわないような程度の違いでしかないと見なせるかとなると、大抵の人たちはそうは見ていないだろうし、たぶん激しく対立している演技にだまされていて、そういった演技を真に受けてしまうと、正反対の主義主張を戦わせていると見えてしまうわけだが、普通はそれがまやかしだとは到底思えないにしても、まずは迫真の演技に引き込まれないことが肝要なのかも知れず、それらの相手をしないことが無難なのかも知れないが、ではそれらをどう見なせばいいのかと言えば、彼らはゲームをやっていると見なせばいいのであり、メディアを通して対戦ゲームの類いを見せられているのであり、そうしたゲームに見とれてのめり込むように仕向けられていると判断しておけばいいのかも知れないが、そこでやっかいなのが、彼らは全くの架空の時空でゲームをやっているわけではなく、それを見させられている人たちと生活空間を共有しながら、一方はゲームに興じていて、もう一方はメディアを通じて観戦させられているということであり、しかもその観戦というのが何らかの病に感染させられながら観戦を強いられているということであるわけだが、ではその病が何かと言えば、それが比喩としての病であることは確かかも知れないが、そこで誰かが何かを主張していることが確かである限りで、それを見る側がそんな主張の内容を真に受けたり受けなかったりするわけだから、やはりそれは言葉に関する病なのだろうが、それも死に至るような深刻かつ致命的な病ではなく、自覚症状をほとんど感じられないような、軽くて無視してもかまわないような程度の病なのかも知れないが、時にはそれが重篤化しているように感じられるとすれば、それはそこで戦わされている双方の主張のどちらかへのめり込んでしまう人がいる限りで、のめり込んでしまってしまっている人の症状が重篤化しているように見えるわけで、それが実際にメディア上で批判を繰り返す人の言葉に感染してしまった証拠となるわけだが、たとえ重篤化しても命の危険にさらされているわけでもないわけだから、その症状の何を持って重篤化と表現できるのか、何かその辺で釈然としない面があることは確かだろうし、病の重篤化という表現自体が間違っているのではないかと思われるかも知れないが、たとえ命の危険はないとしても、例えば気が狂っているように見えれば、やはりそれは深刻な事態や状態を示しているように思われるわけだが、たぶんそれを見ているほとんどの人は、気が狂っているという表現も受け付けないだろうし、自分たちと生活空間を共有している人が気が狂っているとしたら、それは困った事態であるはずだから、たぶんそういう表現は避けたいわけで、できれば何かもっと穏便な印象を求めているはずであり、それに関して例えばある特定の分野にのめり込んでいる一群の人たちをマニアだとかオタクだとか表現することはあり得るだろうし、それらの人たちをそう表現してそんなカテゴリーに囲い込めれば安心するかも知れないし、確かにそんな人たちにそんなレッテルを貼ることに特に違和感を感じられないケースもあるかも知れないが、中にはそれでは済まないような場合もあるわけで、そういったケースになると、それらの人たちに対して適切な表現を割り振れなくて、そこでお手上げとなってしまうかも知れないし、そもそもそういった人たちをひとくくりにはできないのかも知れず、そうであるなら安易なレッテル貼りはあきらめなければならないのだが、では他にどうすればいいのかと言えば、どうもしなくてもかまわないわけで、それらの現象をどうにかしようとするから、かえって病気をこじらせてしまうのだろうし、どうにかしようとすること自体がそうした事態へののめり込みを示していて、そののめり込みの仕方が病の症状そのものなのだろうが、しかものめり込んでもかまわないから、特にそれが問題となることもないわけで、結局そうした状態をどうすることもできないからお手上げ状態と言えるわけだが、だからといってそうした病から逃れられないというわけでもなく、実際に病とは関係なく生きている人たちも世の中にはいくらでもいて、それらの人たちから見たら、病自体が何でもないことであり、特に逃れようとしなくても、感染はしないし、そもそも意識しなければ感染もしないのかも知れないが、ではなぜ意識してしまうのかといえば、それを見させられているから感染してしまうわけで、しかも感染していても大した違和感は感じられず、大抵の人は感染していることさえも自覚できないわけだが、要するに感染していてもしていなくても大した差異がないわけで、そこに差異があると自覚してしまうこともそれに感染している証拠となってしまい、そうであるならメディア上で懸命に批判対象とそれを批判している自身との差異を強調している人こそがその病の感染源であり、そんな人たちの言っていることを真に受けてしまうと、病に感染したことにされてしまって、そこで対立を装っている陣営のどちらか一方へと肩入れするような成り行きへと誘い込まれてしまうわけだが、別にそうした成り行きに巻き込まれてしまっても、それがどうしたわけでもないのだから、現に巻き込まれてそこから抜け出られなくなってしまえば、それはそれで張り合いのある生活を送れて、充実した日々を過ごせているように実感されれば、それでかまわないのかも知れないし、そこでよく強調されている誰が良くて誰が悪いとか、どのメディアが良くてどのメディアが悪いとか、そんなどうでもいいような差異を自覚できないと、現代社会では人としてのたしなみを維持できないのかも知れない。
9月16日「会話する目的」
例えば何かのきっかけで見ず知らずの他人と気軽に会話する機会が偶然に巡ってきたとしても、そうした会話にどんな目的があるわけでもないだろうし、そこで会話以外の他のどんな行為に結びつくわけでもなくても、特にそれで不都合というわけでもないだろうが、別に会話を利用して戦略的に他人を味方に引き込もうとするような下心があるわけでもなければ、目的として他人と意思疎通を図る必要があるとは思えないだろうが、では何のために他人と会話して意思疎通を図ろうとするのかと言えば、その場の自然な成り行きでそうなってしまっているだけで、単に言葉を交わせば、相手の言葉を理解しようとするから、結果的に意思疎通を図ろうとする成り行きになるわけで、それが他に何を意味するわけでもないのだろうが、そこからどんな意味を理解しようと、意味を理解することが会話の目的でもないわけで、会話すれば自然と相手が発する言葉の意味を理解しようとするだけで、それが会話した結果から生じる自然の成り行きとなるのだろうが、そういう意味で特に目的のない会話が成り立つだろうし、会話することにはっきりした目的が伴っていなくても、会話自体は成り立つわけで、他人と意思疎通を図ることが目的だとは意識されなくても会話自体は成り立ち、そうやって何のために会話するわけでもなくても、自然と会話している場合もあるが、その一方で会話から何らかの目的が生じることもあり、その目的を強く意識しなくても、それが会話する目的となる場合もあるだろうが、そういう意味では事前でも事後でも目的があってもなくても、特に会話が目的を遂行するための手段となってもならなくても、どちらでもかまわない場合も、逆に会話を何らかの手段として強く意識しても、会話すること自体にとってはどちらでもかまわないだろうし、会話が会話として成り立っている限りで、それは会話以外の何物でもなく、またそれに加えて何らかの目的が伴っていたり、その手段として会話が利用されようと、やはり会話は会話でしかないわけだが、その会話について何かを語ろうとしたり、それについて文章を記すような場合には、語ることや文章を記すことが目的とはなるだろうが、それは何かを知らせる目的でそんなことをおこなうわけで、直接の会話の相手ではなく、それについて語ろうとする相手や文章を読む相手に向かって何かを知らせようとしていて、その相手が誰かもわからない不特定多数の誰かに向かって語られて文章が記されるかも知れないわけだが、別にそうした相手と意思疎通を図ろうとしているわけでもないだろうし、ただ一方的に会話の内容を知らせようとしているだけかも知れないが、それも会話しているときには意識していなくても、例えば後付け的に会話の内容が面白かったから、それについて語ろうとしたり文章を記す目的として加わってくる場合があるだろうし、そういう成り行きが会話したあとから生じてきても、会話している時点ではそうした目的が会話に反映しているわけではないわけだが、もちろん事前にそれについて語ったり文章を記す目的で、会話相手に了承をとってから会話を始める場合があるにしても、それによって会話という形式が変化するわけでもないし、会話しようとしている限りで、お互いにその場の会話を成り立たせようとして、相手の言葉を理解しようとすることには変わりないわけで、それが会話から生じている特性だとしても、その特性を利用して会話相手に影響力を行使する目的で会話を維持しようとしても、相手を一方的に言い負かして沈黙に追い込まない限りは、会話自体が会話している双方を平等な立場に保とうとするだろうし、実際に双方が言葉を交わしている間は平等な立場が維持されて、平等な立場が維持されている限りで会話が成り立っているわけだが、そういう意味では会話から生じてくる目的として、双方の立場を平等に保つ目的で会話が利用される場合もあるだろうし、その際には権力や経済力や軍事力などの面で不利な側が、相手を交渉のテーブルに着かせて対話を実現することによって、平等な立場を装うような戦略も生じてくるわけだが、そういう魂胆が見え見えになってしまうと、事前に身構えてしまうし、今度はそういった目的が会話の実現を困難にしてしまう可能性もあるわけで、何か目的や魂胆があって会話を実現させようとすると、うまくいかなくなる場合もあるだろうが、会話すること自体が相手に言葉を交わすことの了解や了承を求めていることにもなり、会話が成り立っていることが、言葉を交わすことに関しては双方の同意の上で成り立っていることになるわけで、それ以外ではないという意味で、会話するという行為に幻想はなく、それ以上でも以下でもないという意味で、会話は会話でしかなく、実際にそれ以外の行為ではないわけだが、たとえ頻繁に会話する仲になることで親しくなったとしても、その親密な関係が会話を維持することによって成り立っていれば、それは会話から生じている関係であると言えるわけで、そこからそれ以上の関係を幻想するとしても、それが会話に依存した関係であることに変わりはないのかも知れないが、たぶんそこから双方に勘違いが生じて、会話することによってお互いの理解が深まって、それ以外の面でも親密な関係になれたら、それが会話の効用であり、会話を効果的に活用できたと思うかも知れないが、そういった効果や効用にもあまり過度な幻想を抱くべきではないのかも知れないし、そこで会話が成り立っている間だけは、とりあえずそんな幻想を抱けているだけで、そこから何かのきっかけで会話が成り立たなくなれば、急に険悪な雰囲気になってしまうかも知れないし、会話とは別の面で相手を裏切るようなことをやってしまえば、急にそこから会話が成り立たなくなることもあるだろうし、それを会話によって修復できるかというと、言葉だけではなく実際の行為や行動で示してもらわないと関係を修復できないとすれば、会話の効果や効用にもそれなりに限界があることにもなるわけで、そういう意味ではお互いに言葉を交わす仲だからといって、他の面でも何らかのアドバンテージを期待するのは虫が良すぎる話なのかも知れない。
9月15日「同時代的な評価」
現代に生きていると同時代的に進行している世の中の成り行きに関して、それをどう評価してみても、評価している対象の一部として自身の存在や行為も含まれてきて、そこから適切な距離をとれないので、自身の都合や事情が主観的に作用や影響を及ぼして、それについての客観的な評価を歪ませてしまう可能性があるのかも知れないが、そういった世の中の成り行きを肯定的あるいは否定的に評価することに関して、意味や意義を感じられなければ、そもそもそんなことをやる必要もないのかも知れないが、普通はそういうことではなく、そこで誰かが何かをやっていることに関して、その誰かの行為を肯定的あるいは否定的に評価するわけで、しかも大抵は誰かの行為を批判する目的で、そんなことがおこなわれているわけだが、そういうことをやらなければならない理由というのが、それなりに妥当に感じられるとしても、そう感じられる理由に関しては、やはり評価する人の都合や事情が絡んでいるのだろうし、そういったことから生じてくる評者の主観的な立場から、果たして客観的な評価を導き出せるかとなると、たぶん無理なのだろうし、そういう意味で客観的な評価というのは幻想に過ぎず、その人の立場や境遇などに依存した主観的な評価しか下せないわけだろうが、それでいいのかと言えば、否応なくそうなってしまうのだから、そういった評価を認めざるを得ないし、そういうことを考慮した上でそういった評価を受け止めるしかないのかも知れないが、そこでその人に生じている主観的な都合や事情には、何かそういうことにこだわらざるを得ない価値があるかとなると、もちろんその人にはあるはずだが、他の人たちがそれに同調する必要があるのかとなれば、大抵はそういうのは気分の問題かも知れないわけだが、その気分がどこから生じてくるのかと言えば、自尊心とかその自尊心を生じさせる何らかの要因から、そんな気分が生じてくるわけだが、それも大抵は国家的・民族的・宗教的なアイデンティティーになるわけだが、そういう紋切り型的な思考から誰もが抜け出せないのかというと、同時代的な実態としてはそうなってしまう傾向が強いだろうし、それどころかより一層強く意識して、そういった気分にのめり込んでしまう人も大勢いて、それが重篤化してしまった人たちを中心として、客観的な評価からはかけ離れた主観的な評価を下して、メディアを通じてそうした評価を喧伝しまくるような成り行きに巻き込まれてしまう人も続出しているわけだが、それが批判されるべき行為かとなると、それを大真面目に受け止めてはまずいような雰囲気も醸し出されていて、批判するまでもなく、それよりは生暖かい目で見守るのが妥当な態度のようにも感じられてしまい、結果的に病気な人たちがそのまま放置されるような事態ともなっていて、そういった世の中の傾向に関しては、肯定的あるいは否定的な評価の対象とはしないことが、暗黙の了解事項として世の中に定着しつつあるのかも知れず、そういう成り行きに気づかない鈍感な人たちが、相変わらずメディア上で騒ぎ立てている実態があるものの、騒ぎ立て自体が空回りしているようなら、騒ぎの沈静化が静かに進行中なのかも知れないが、それでも多くの人たちには沈静化どころか慢性化していると感じられるのかも知れないし、そういった世の中の傾向に危惧の念を抱いている人が大勢いることも事実かも知れないが、実際にそうであるとしても、一方ではそれでかまわないような情勢なのかも知れないし、いったんはそういう成り行きを通過しないと、その先へと進めないのなら、それが通過儀礼のような役目を果たしていることになるわけだが、それが一過性の流行病などではなく、社会を決定的な終わりへと導く文明病の類いだと思いたい人も中にはいるのかも知れないが、たぶんそうであってもかまわないのだろうし、世界にはそういう終わりを今までに何度も経験してきた歴史的な経緯があるのかも知れないし、それが多くの人にとっては同時代的な出来事だから気づきにくいのかも知れず、そうした終わりからしばらく歳月が経過すれば、ほとんどの人にも過去の歴史的な経緯として、何らかの区切りとしてひとまとまりの時代が終わったことが実感されるのかも知れないが、本来の終わりとはそういうものであって、終わりを危惧しているときには、まだ本当の終わりが到来していないとしても、実際に終わりが到来したときには、そこでほとんどの人が生存しているわけだから、実感がわいてこないだろうし、要するに人は時代の終わりとともに死ねるわけでもなく、そこで自身が生きている限りで、それが自身にとっての終わりではないわけだから、時代の終わりというのもその程度のことであり、それほど深刻に受け止めるようなことではないわけだが、それが過去の歴史的な経緯となると、大げさなことであるかのように見せかけたいわけで、実際に歴史の終わりを神妙な面持ちで物語るような特権的な立場を得たいのかも知れないが、もちろん誰もがそういった立場になれるわけでもないだろうし、歴史の終わりをこれ見よがしに宣言するようなことにはならずに、そのせいぜいがこのままでは終わってしまうと危機感をあおるようなことしか言えないわけだが、それでも実際に終わってしまってもほとんどの人が生存中の終わりなのだから、そこで生きている人たちがそれを深刻に受け止めるようなことにはならずに、それよりは新しい時代の始まりを期待に胸躍らせながら心待ちにしている心境になれる可能性の方が高いだろうし、またできることならそうした終わりのついでに、それまでに不快な騒ぎ立てを繰り返していた病気の人たちも葬り去りたいような心境にもなってしまうのかも知れないが、それらの人たちのほとんども実際に時代の終わりとは関係なく生きているわけだから、なおのこと終わりを実感できないだろうし、どうあっても終わりを真の終わりとして受け止めるわけにはいかない心境となってしまうのかも知れないが、それでも終わりを宣言したい人たちは終わりを物語ろうとして、場合によってはご都合主義的なフィクションの助けを借りながらも終わりを物語ろうとするのだろうが、そんなふうにして物語的な終わりとともに一時代を区切る儀式を納得いく形で終える頃には、もはやそうした終わりも時代も過去の歴史的な経緯の中に埋もれてしまっているのであり、それが同時代的な評価とはなり得ないわけだ。
9月14日「形骸化した主義主張」
ある特定の主義主張に関して、その実質的な意味や意義を理解するには、普通にその言葉の意味を調べても納得できなければ、そうした主義主張を信奉している人たちの実態を詳細に調べてみる必要があるかも知れないが、それも現時点での状態や傾向とともに、過去から現在までの間でそうした主義主張がどのように社会の中で利用されてきたのかについて、その使用や利用の変遷や経緯や成り行きとともに、さらにそこから未来への可能性や展望などへと考察を敷衍していけばいいのかも知れないが、たぶんその言葉としての使用実態に関して、それとは対立したりそれに類似する他の概念との関係の中で、それに対する肯定や否定を伴った特定の主義主張として、その概念が社会の中で使い慣れた言葉として定着していれば、それが実質的にも何らかの機能や役割を果たしていて、例えばそういった主義主張を信奉する集団が社会的な勢力としてもそれなりに権力や経済力などを持っていて、実際にそうした名を冠した政党や企業や宗教教団などの形態をとっているようなら、しかもそれが世間的にもメディア的にも公認された団体として活動していれば、たとえそれが主義主張としては、それらの団体の実質的な活動の実態からはかけ離れた、たわいなく気休め的で形骸化した言葉の意味を担っているに過ぎなくても、何かしらそれに関連した人や団体の活動として実態がある限りで、そうした主義主張にはそれ相応の人や集団を動かす実質的な力があって、実際にそうした活動をおこなっている主義主張の信奉者には、それがかけがえのない崇高な価値を担っていて、心の支えや生きる支えとなっている面もあるだろうし、それに関連して機会があればそうした信奉者が集まる会合などで、自分たちが信奉している主義主張に関して、その今日的な意味や意義などが大真面目に議論されることもあるのかも知れず、そうなればそういった会合などがおこなわれるきっかけをそれらの主義主張が作っているわけだから、そういった会合を生じさせること自体が端的に言って主義主張の社会的な役割だと言えるわけだが、他にこれといって目立つようなはっきりした役割がなければ、単なる形骸化した言葉でしかないわけだが、そうした主義主張を唱えること以外に何らかの実質的な機能があるのかとなると、それが気休めや方便などではなく、社会を統べる法律や制度にそれらの主義主張の精神が活かされて実際に反映していれば、社会全体がそういった主義主張に基づいて構成されて成り立っていることにもなるわけだが、普通に考えて法律や制度は特定の主義主張だけで成り立っているわけではなく、他にも様々な主義主張が重層的に絡み合って構成されているだろうし、それでもそういうところで社会的な仕組みや制度的な目的に特定の主義主張が組み込まれていれば、そういう目的を遂行するに当たって、目的の必要性を正当化する意図で、それらの主義主張が唱えられるような成り行きになるわけで、そういう意味で主義主張の中身を実現するには、それ相応の社会的な制度や仕組みが必要とされて、そうやって特定の主義主張を反映した社会的な制度や仕組みが存在しているように思われることが、そうなっているだけでもその主義主張の存在意義を示しているわけだが、それ以上に主義主張の実質的な機能や効果を反映した事物を求めようとすると、それを強調しようとする度に、そうした主義主張を示す言葉が空回りしてくるだろうし、例えばデモ行進などでそれの実現を連呼したりすれば、何かデモの参加者の間では精神論的な幻想を共有できるにしても、それが実質的な力を生じさせているのかとなると、そうした演劇的なパフォーマンスから遠ざかれば、何でもないことになってしまい、そんな言葉を唱えている人たちと、そうしたパフォーマンスには無関心な人たちとの間で、それ相応の温度差が生じてくるだろうし、たぶんそうした空回り的な言葉の連呼ではなく、実質的な態度や直接の行為に結びつけることが、言葉の有効性を実現させる上では重要となってくるわけで、それが必ずしもうまくいっていないから、言葉が空回りするようなパフォーマンスになってしまうわけだろうが、そういう行為が繰り返される成り行き自体も、言葉の実質的な有効性が取り戻される過程の中では、迂回路的なエピソードとして、歴史的な経緯となってくるのかも知れないが、そうしたことも含めてそれ相応の紆余曲折が現状でも生じていて、そんな成り行きを通じて、何らかの主義主張が人や集団を動かすような実質的な力を担う可能性が出てくるのかも知れないが、それが今まで延々と使い古されてきた主義主張になるのか、あるいはそこから新たな概念を伴って新しい言葉を使った主義主張として生まれ変わるのかは、現時点ではなんとも言えないところかも知れないが、たとえその言葉が現時点でも多くの人々の間で肯定的な意味や意義を担っているにしても、それが今後ともそういう意味や意義のまま使われるかどうかはわからないし、同じ言葉でも昔は今以上に遙か多くの信奉者を集めていた主義主張なども結構あるだろうし、それが今現在では何らかの勢力による否定的なレッテル貼りによって、拒否反応を引き起こすような意味や意義を担わされて、廃れてしまった状況があるにしても、それがそのままの言葉で将来復活する見込みは二度とないのかも知れないが、そういった言葉を伴った主義主張がこれまで以上の魅力的な中身を伴うように期待を込めるならば、従来から使われている言葉ではない、新たな言葉と新たな概念を担った新しい主義主張の出現が待たれているのかも知れず、それがわざとらしいメディア的な宣伝や煽動の成り行きを伴わずに、自然発生的に人々の間で肯定的な意味や意義を担った言葉として社会に定着するようなら、それが一過性の流行り廃りではない本物の社会現象となるのかも知れない。
9月13日「制度の利用」
社会の中で普通に働いている物事のシステム的な動作に関して、人の行為がシステム的な動作を伴うのは、その人が何らかの制度に従っている限りで、そういった動作を伴うことが多くなるだろうし、なぜそこでシステム的な動作が求められるかといえば、制度内で効率的に一定の効果を引き出すためにはそういった動作が必要となってくるわけだが、制度を利用する人にとっては、制度を利用して何らかの成果を上げることが目的となっているわけだから、その人の目的に合致するような制度があること自体が、その目的が制度があることを前提に成り立っていて、その目的に伴って生じる行為や活動が、はじめから制度にとらわれていることを意味しているわけで、それらが制度と不可分な行為や活動となっていることは明白なのだが、そういった制度的な動作にとらわれていることが、その人にとって何を意味するのかとなると、その人がそういった制度が機能している社会の構成員となっていることを意味するわけだが、社会の中で活動していればそれは当然のことになるわけだが、そうやってその人の目的が制度的な次元で遂行されている状況は、そこにその制度に関わっている他の人も存在していることも意味しているし、普通はそれらの人たちと連携したり競合したりしながら活動していることにもなるだろうし、それが集団的な動作の一部を構成していれば、目的がその人のためだけではなく、その制度に関わっている他の人たちの目的ともなっていて、それが集団的な目的となっていれば、その人が関わっている次元が、その人の個人的な事情を反映したものであると同時に、そうした制度を成り立たせている社会的な事情を反映したものにもなってくるだろうし、そうなっている限りで、多くの人が社会の中でそうした制度を利用して目的を遂行しつつあると言えるわけで、そうなっていること自体が、多くの人を制度的に一定の傾向と内容を伴った目的へと導いていることにもなるわけだが、根本的なところでなぜそんなことが必要なのかとなると、それが金儲けなどの経済的な事情を反映した必要であったり、他にも人の様々な欲求の充足を目指したものであったりするのだろうが、そうやって多くの人の求めるものが制度によって与えられていると、そうした制度内での競争を生じさせる結果を招いていて、実際にそこで多くの人たちを競争させること自体が制度の目的と化しているわけで、制度自体がそういった競争を促進させる機能を伴っている場合もあるだろうし、結果的に多くの人を制度によって一定の動作に導いているわけだから、少なくともそういう面では制度が人をコントロールしている実態があるわけだが、人をコントロールする目的で動作していて、人を競争させることによってコントロールする目的で制度が存在していることになれば、それは制度を利用する個々の人の目的とは言えないだろうし、それは制度を管理運営する団体の目的と言えるのかも知れないが、実際にそういった団体がその中で多くの人を競争させることによって利益を上げていれば、そういうことをやっている団体とそうした制度を利用しているユーザーとの間で利害が一致しているのかといえば、少なくとも一致している面があるから、そうした制度に多くのユーザーが群がってくるのだろうが、その一方でユーザーは制度を利用することで何らかのコントロールを受けているのだから、そうしたコントロールの中には、利害が一致しているように思い込まされていて、そういう思い込みによって制度を管理運営する団体を支持するようにコントロールされている面があるのかも知れないし、双方がウィンウィンの関係にあるかのような認識をもたらすことが、制度の目的のひとつとなっている可能性もあるのかも知れないし、それに関してユーザー側の視点に立つなら、制度によって一方的に損害を被っていると判断されれば、そうした制度は利用しないだろうし、それに関してより実情に合った妥当な解釈をするなら、少なくともそこで競争がおこなわれている限りは、競争に勝利した人により多くの利益がもたらされることはわかりきっていて、競争に負ければそれなりに損害を被るとしても、競争に勝つ可能性もあるわけだから、競争に勝って利益を得ることが目的ともなっているわけで、そうだとすると制度を管理運営する団体のもくろみとしては、より多くのユーザーを制度に引き込むには、そこで競争して勝てば多額の利益が得られるような幻想を抱かせることが必要となるわけで、ユーザーにそういった幻想を抱かせることも制度側の目的となるわけだが、そこでユーザー側が大前提の理屈として踏まえておかなければならないことは、それを利用するすべてのユーザーに何らかの利益がもたらされる制度というのがあり得るかとなると、その利益がどこからもたらされるのかといえば、少なくともどこからか利益を持ってこないことには制度自体を存続させることができないし、それが究極的には太陽や地球などの自然から利益を得ていることにはなるだろうが、そうした自然から利益を得るには人に仕事させないとならないし、その仕事をさせる動機として役立つのが、他より多くの利益を得られるという幻想であるわけだが、幻想を信じ込ませるには、直接には得られる貨幣の額が決め手になるだろうし、得られる貨幣の額が多いほど、それを得るための競争も激化するし、それだけ制度も大規模になってくるのかも知れず、また制度の規模を決定するのは、それを利用するユーザーの数がものをいうわけだが、そうなるとより多くのユーザーを獲得するための各制度間の競争も激化することになるだろうし、制度を管理運営する団体としては、より多くのユーザーを獲得するために、メディア経由で世の中に幻想を振りまくことになるのだが、人々がそういった幻想を信じ込むには何が必要かとなると、実際により多くの貨幣を得られた実績がものをいうのだろうが、逆にそうした制度を利用することで経済的な損失を被るようなら、幻想を信じるどころではなくなってしまうわけだが、損失というのは何も経済的な損失ばかりではなく、健康などの心身に関する損失もあるわけで、そういう面では利益を得るために必要な仕事の内容がものをいってくるだろうが、それが労苦などの面で割に合わない仕事であれば、幻想を抱けないだろうし、逆にユーザーの視点から見れば、宣伝文句としての幻想よりは、制度を利用することによって実質的に何が得られるかに関心があるだろうし、それが幻想に過ぎなければ場合によってはだまされたことになってしまうだろうし、結局はその手の団体にだまされないようにするにはどうしたらいいかが、ユーザーにとっての主な関心事になってくるのであり、しかもそうした団体には各国の政府なども含まれてくるわけだから、そういう面ではそれなりに真剣にならざるを得ない事情も生じてくるのかも知れない。
9月12日「常識にとらわれた意識」
それは内容や程度にもよるだろうが、意識が社会規範の類いにとらわれている心理状態は、法律違反などの行為に課せられる懲罰への恐れなどよりは、人の振る舞いに強く作用していて、意識して守らなければならない動作というのが、何に基づいているのかといえば、普通に考えられるのは社会的な倫理や道徳であり、それを普段からはっきりと意識しているわけではないにしても、その辺の作用や影響に関しては論理的にはうまく説明できないところかも知れないが、自覚していない次元で人の動作を一定の傾向に保っていて、そういった傾向が活動の論理的な妥当性などとは違って、それについて思考する以前にその人の活動を規制していて、それが慣習的な動作となって世の中に作用しているわけだろうが、そういった動作が他のどんな動作と相容れないかとなると、それに関しては特にはっきりと対立した概念としては把握されていないのかも知れず、しかもそれが部分的には混同されている可能性もあるわけだが、それが理性的な思考に基づいた動作であり、意識の中では人々の間で共有されている倫理や道徳に基づいた行為が、理性的な行為であるかのように思われているわけだが、そこに社会的な規範や慣習といった概念が絡んでくると、必ずしも倫理的な動作や道徳的な動作が理性的な動作だとは言えなくなってくるのかも知れず、その辺に微妙な違いがあって、それが具体的に何に関して違ってくるのかといえば、たぶんそのもっともわかりやすい例が政府に対しての反応であり、それが慣習的な動作と見なされたり、あるいは否定的な表現を使うなら同調圧力として、保守的な傾向の強い政府には逆らわない空気が形成されている可能性があるわけで、それが人として守るべき倫理や道徳としてそうなっているとすれば、少なくともそれは理性的に考えてそうなっているわけではなく、理性を抑圧する社会的な同調圧力が利いていると考えれば納得できるかも知れないが、それさえも確証があるわけでもなく、本当のところはよくわからないわけで、何だかわからないが世の中にそういう傾向があるとしか言えないような成り行きになっているのかも知れず、それが普通の感覚として特におかしいと思われているわけでもなく、世間の一般常識として、保守には逆らわないようにしている人が多いとしか言えないような傾向があり、それが国民として身についてしまった習性と解釈するしかなく、そこに国家が存在すると意識すること自体から、そういった傾向の気分が生じてしまうのかも知れないが、もちろん理性的に考えてそう思っているのではなく、物事を理性的に考える以前にそうなっているとしか言えない面があり、要するに国を守り社会を守っているという気分が、保守的な意識をもたらしていることは確かなところだろうが、本当にそれでそれらを守っていることになるかといえば、そう考える以前にそうなっているのだから、それは改めて考えるまでもないことであり、そういう気分になることが、国を守り社会を守ることになってしまうわけだから、それ以外の、例えば政府のやり方を批判することが国を守り社会を守ることだとは言えないだろうし、逆にそういった行為を阻止して抑圧することが、保守派の論理としては国を守り社会を守ることになるわけで、そういうことを考える以前にそういう認識にとらわれてしまうわけだから、もはやその件に関しては理性的に考えるという動作が入り込む余地が生じないような意識となっていて、むしろそれは頭ごなしに倫理や道徳として、前もってそう決められているような感覚なのかも知れず、それに関しては異論を差し挟む余地がないかのように思われてしまうわけだから、そうやって先回りしてそれ以上考えることを妨げられてしまうと、実際にそういった空気には逆らえなくなってしまうわけで、すでにそういう成り行きの中で意識が固定されていては、無理に抵抗しようとしない方が無難かも知れないし、たぶんいつまでもそんな空気を保っていられるわけでもないだろうし、何かのきっかけで一気に情勢が変わってしまうこともあるのかも知れないが、逆にそんな空気のままでもかまわないような状況であるなら、意外とそんな状況が延々と長続きするのかも知れないし、少なくともそれでかまわないかどうかを決めるのは特定の誰でもなく、誰も決められないから誰も責任をとれないわけで、そういった状況がなし崩し的に惰性で続いていくだけだとすれば、そうなっていること自体は誰の思惑でそうなっているのでもなく、ただ何となくそうなっているに過ぎないことであり、そうなっていることに関しては取り立てて誰にとっても不都合というわけでもないだろうし、むしろ誰にとっても無責任な心境になれる限りで好都合であるのかも知れないが、別にそんなことになっているうちに恐ろしい事態が近づいているというわけでもなく、それに関しては下手な脅し文句やそれに類する危機感のあおり立ても無効かも知れないのだが、とにかくそういった事態をどうすることもできない人たちは、自分たちの無力さを他の何にも責任転嫁できないので、ただ危機感をあおり立てることしかできないだろうし、このままでは大変なことになると警鐘を鳴らしながら、オオカミ少年の役割をひたすら演じることぐらいしかやりようがないわけで、メディア上でそういう言い回しの言説が目立っているように感じられたら、それだけ世の中が平和であることを実感するしかないわけで、そういう状況を否定的に見るよりは、それが肯定的な兆しだと思って差し支えないのかも知れないし、世の中が平和すぎて暇を持て余している人たちがそうなってしまっている、と状況を肯定的に捉えておくしかないのかも知れない。
9月11日「捜し物の不都合」
資本主義的な利潤の追求に関して、産業面での技術的なノウハウを利用することと、そうした利用の際に生じるかも知れない倫理的あるいは道徳的な配慮とは、一見何も関係がないように思われるかも知れないが、物事の取り扱いに関する倫理や道徳などの面でも技術的に解決しようとすると、何かそこでそれ自体への貫入現象が生じておかしな成り行きとなってくるのかも知れず、確かにそこで一定の目的が生じてしまうと、その目的に応じたスキルが必要となるわけだが、では具体的に倫理的なスキルや道徳的なスキルが何を意味するのかというと、少なくともそれが物事の倫理面や道徳面を考慮しない功利的な行為を、倫理面や道徳面での配慮を伴っているように見せかける技術とはならないはずだが、場合によってはそれに近いニュアンスを伴っているように感じられるときもあるだろうし、それが何らかの方便として、それらを活用しようとしているかのように受け取られると、何か痛くもない腹を探られるような感じになってしまうのかも知れず、実際にそこでおこなわれていることが、確かに倫理面や道徳面などを考慮しているように感じられるとしても、そういう行為を見せられている側が、何か煙に巻かれているような感覚を伴えば、技術的にごまかされているように思われてしまうわけで、そういった行為が具体的に何を伴うのかといえば、例えば人助けを目的としているのに、一方でそれが人助けをしている人の金儲けに結びつくような行為となってしまうと、やはりそこに漂っている欺瞞や偽善の匂いを嗅ぎつけられてしまうわけで、たとえ資本主義経済の中で利潤の追求が正当化されるにしても、それがごまかされているような印象を伴ってしまい、そういう面では倫理的にも道徳的にも、派手に利益を追求することがはばかられる分野があるわけだが、そういう印象を打ち消すための次善の策として、それ以外のところで派手な金儲けに成功した人が、今度は損得を度外視して大金を慈善団体などに寄付したりする行為を見せびらかせば、そういうことに配慮しているように見えることが世間的には尊ばれるだろうし、そうやって金儲けの目的を遂行する途中で、慈善行為に見せかけてワンクッション挟むことで、欺瞞や偽善の匂いを脱臭するような技術的な処理が施されるわけだが、下手をするとそういった見せかけを目的とした思惑が世間的にばれて、それが資金洗浄の売名行為のように見なされて非難されてしまう場合もあるわけだが、そういった技術的なまずさを露呈する結果がなぜもたらされるのかといえば、功利的な方面での貨幣の活用に関する技術的な処理自体が、それとは違う傾向を伴って動作する倫理や道徳などの効果を発揮することを主な目的とする行為とは相容れない面があるからかも知れないが、一方でそこに欺瞞や偽善が潜んでいることを探し当てるには、それなりにそういった匂いを嗅ぎつける嗅覚の鋭さがものをいうことにもなるのかも知れないし、もちろんそれが比喩としての嗅覚であれば、実際には勘の鋭さが求められているわけだろうが、ただそれを探し当てることだけが目的でしかない場合には、そこから先の発展性が欠けているわけで、探し当てた当のものをどうするかを巡って、それを効果的に使うことが目的とはなっていなければ、持ち前の敏感な嗅覚を頼りにして誰かがそれを探し当てた時点で、その人はお役御免となってしまう場合があるわけで、何かそういう面で勘の鋭さを武器にして何らかの事物を探し出せる人というのは、そういった目的で使われるだけ使われて、その役目を終えたらそのまま使い捨てられてしまう危険性があるだろうし、そういった損な使われ方をされることが目に見えていると、それに対する自然の成り行きとして、それだけで終わってしまわないように、何かしら戦略的に振る舞う必要が生じてくるわけで、そうやって功利的にその人の目的に応じた賢いやり方を模索するような成り行きになってくると、今度はそういった本来の勘の鋭さとは関係のない余計なことに気をとられて、持ち前の勘が鈍ってしまうことにもなって、そうなると使い物にさえもならなくなってしまい、そんな人には用がないことにもなってしまうわけだが、それが比喩としてではなく、具体的に誰かがそんな目的に応じて使われること自体が、何を目指しているのかとなると、それがある意味では謎な部分でもあるわけだが、たぶんそれが特定の目的とは限らない場合があるわけで、その場でその人に生じている事情や経緯に照らし合わせて、嗅覚や勘を頼りにして探す対象が、当初に目指していたものからずれてくるような場合には、何を探すことが妥当なのかに関して、適切な判断を要することにもなってくるわけだが、果たしてその判断がどういう水準で適切なのかとなると、そこでも何か疑問を感じるような成り行きになってしまうこともあるわけで、何かそれと気づかずに見当違いなものを探しているとすれば、そんなものを探すこと自体が間違っていることにもなってしまうわけだが、それが元々は探すことが目的ではなく、そこに何らかの状況を生じさせることが、その人に課せられた目的となると、ではそんな目的を課しているのは何かとなるわけだが、それが何かではなく普通は誰かとなるのかも知れないが、たぶん誰も何も課していないわけではなく、誰かが他の誰かに向かって何かを課している場合には、そこに何らかの人間関係が生じているわけだろうが、実際に何かを生じさせるということが人間関係を生じさせることになれば、それが自家撞着気味であるとしても、極めて自然な成り行きであるはずなのだろうが、そう都合良く各々の目的が一致するようには人と人とは出会わないわけで、実際に各々の人に都合の良い人間関係などもそう簡単には生じないだろうし、そこには必ずお互いの意見や主張が合わずに争う要因が生じてしまうわけで、実際に都合の悪い人間関係として人と人とが争う関係が生じてしまうわけだが、またそれを技術的に解決しようとすれば、争っている双方が納得するようなルールに基づいた競争関係に止揚されてしまうわけだが、たぶんそこでも倫理的あるいは道徳的な規範を作ろうとする傾向が生じるだろうし、そういう行為を正当化する上で必ずつきまとってくるのが、それに対する倫理的あるいは道徳的な配慮であるのかも知れないが、果たしてそういった配慮に正当化できる中身があるのかとなると、その辺が怪しくなってくるわけで、要するにメディア的にはそういったことを報じる上で、そこで何でもないようなことをやっている人たちに価値があるように見せかけたいわけだろうし、そういった価値をそれを受け取る側が信じ込まされるような成り行きが、暗黙のうちに期待されているのかも知れず、それが倫理的あるいは道徳的な価値となるのかも知れない。
9月10日「空振りする配慮」
社会の中では少なくともその人が単独で存在しているわけではなく、実際に一人暮らしの孤独な環境の中で生きているとしても、生きていくには何かしら他との交流が必要であり、インフラが整備されている中では、電気やガスや水などの供給を受けているわけで、また自給自足でなければ衣食住などに関連しても売買や貸し借りなどの取引が欠かせないだろうし、他にもある一定の目的を伴った動作がその人に生じると、その目的から外れる動作を許容できない場合があるかも知れないが、その一方で目的だけにこだわった動作しか眼中にないと、目的を遂行する上で邪魔な動作を切り捨てるにしても、どうしても目的とは相容れないことをやる必要も出てきてしまって、それをやってからでないと目的を遂行できない場合も出てくるわけで、さらにそんなことをやっている中から、当初には想定していなかった別の目的が生じてくることもあるだろうし、どうしても切り捨てるわけにはいかないそれ以外の動作との兼ね合いに関して、うまくやっていることのバランスがとれなくなってくるのかも知れず、また目的もひとつだけはなく、複数の目的を同時並行で遂行していると、そこで何を優先させるかを巡って思い悩むこともあるだろうし、そういったことに関しては、その人が自覚していないことまで含めた動作の中で活動が成り立っている場合があるわけで、それが直接の身体的な動作ではなく、思っていることや考えていることに関係していて、それらが心理的な面から活動に作用や影響を及ぼしていれば、そこでも意識していることと意識していないこととの間で、何らかの心理的なバランスが保たれていて、たとえそれを意識していなくても、意識できないという理由で活動に影響を及ぼしていると、その人が直接思い描いていることだけが活動に関与しているわけではなく、思ってもいないことこそがその人の活動に幸いや災いを及ぼしていたりするわけで、そうなると実際にそこでおこなっていることが、自意識による制御の他にも、自身の外部からも内部からも制御が及ぼされている可能性があるわけで、そうした面を意識できなければ、思っていることや考えていることと、実際におこなっていることが、必ずしも同じ方向や傾向を示しているわけではないこととなり、そうなると実際にやっていることに関して意識の中ではそれなりに納得しているのに、なぜか納得できない結果がもたらされている場合もあるだろうし、それがその人の気づかないところで想定外の作用や影響が及ぼされているから、納得できない結果がもたらされていたり、あるいは単に目算が狂っていたり計算を誤っているからそうなっていたりして、しかもそれが災いしているのではなく、良い効果をもたらしている場合には、納得できないからうまくいっている場合もあるわけで、そうなるとその人にとっては必ずしもうまくいっているわけではないのに、それがその人にとっての分相応な状態や状況であって、それでかまわないようなら、逆に納得できるような結果がもたらされてしまうと、それがその人に深刻なダメージを与えてしまうことになり、そんな結果に満足しているのに、それが災いして身の破滅を招いているような皮肉な結果となってしまう場合もあるわけだが、その一方で、その人にとっては分不相応な結果でもあるのに、かえってそうなっているからこそ満足できて、幸せに感じられるような場合もあるだろうし、そんなふうにしてどんな結果がもたらされるとしても、その人の意識が結果に関して良し悪しを感じたり思ったりすることと、それがその人にとっての分相応であったり分不相応であったりすることの間には、必ずしもその人が納得できるような相関関係があるわけでもないのかも知れず、またそれが世間的な評価や評判とも合わない場合があるだろうし、実際にその人が世間からもメディアからも賞賛されるようなことを成し遂げたとしても、確かにその時点ではそうであっても、そうした世間やメディアの評価や評判というのが、実はたわいないものであり、後の時代においてはどうでもいいこととして忘れ去られてしまうような類いでしかない場合も多いわけで、現代においてはその人の存在さえも単なる小物扱いしかされない程度でしかなくても、過去の時代のその時点では、世間から大絶賛されてメディア上でも脚光を浴びて、まさに時代の寵児のような存在となっていた場合もある一方で、逆にその当時では馬鹿にされて世間から物笑いの種になっていた人が、現代においてはその時代を代表する重要な哲学者として扱われている例もあるだろうし、それと同じように現代において重要な著名人として扱われている人物が、百年後や千年後にはほとんど目立たない無名の人になってしまう可能性もあるわけで、そういうことに関してはその時代の評価基準と現代の評価基準が著しく異なっている場合とか、またその時代においては画期的なことが現代においては何でもないことであったり、未来においてはその逆もあるわけだが、実際に文明が継続しなければ、現代では廃墟しか残っていない場合も結構あり、その廃墟さえも発見されなければ、当時の時代状況など知りようがないわけだが、またたとえ当時の文献などが残っていたとしても、その文献の中で当時の人が後世の人たちに伝えたいことと、その文献の発見者が文献から知りたいことが異なっている場合も多々あるだろうし、実際に当時の人たちが当時において注目している人物が、現代の基準においてはどうでもいいような人物でしかなく、むしろそうした文献を記した人や編集した人に現代の人たちが興味を抱いてしまう場合も多いわけで、要するに当時の人たちが現代人の知りたいことや興味を抱く対象にまで配慮できるわけでもなく、そうなってしまうのが当然のことでしかないわけだが、それは現代人が未来の人たちに配慮できないことに関しても言えることなのかも知れないし、配慮したところで、未来の人たちにとっては何でもないことかも知れない。
9月9日「制度的な動作」
そこに社会があるということが、すでにその中では様々な制度が機能していて、具体的には人や物や情報が制度的な決まりに従って動いていることになるわけだが、そういった決まり切った動作があるから、社会の中で一定の秩序が保たれていて、それによって社会が社会として成り立っている面があり、そんなことは改めて言うまでもない当たり前のことだが、政治的な取り組みとしても、社会の中で動作している公的な制度を改善しようとしたり、また必要に応じて新たに何らかの制度を制定したり、逆に不要な廃止したりする動作があるわけで、それ自体も制度的な動作の範囲内でやっていることであり、それが制度に従っておこなわれている限りで、そういった行為が公的には正当化されるわけだが、そういうことも含めて制度としておこなわれている以外で何ができるかとなると、そこにはそういった決まり切った動作ではない動作があるだろうし、それが世の中の制度や慣習や機械的な動作とは異なる動作となるわけだが、そういった動作もそれがおこなわれるに当たって、大抵はすでに制度があることを配慮しながらおこなわれることになるだろうし、なるべく既存の制度に抵触しないようにしておこなわれるわけで、それでも実際に制度に反するようなことやってしまって、それが発覚すれば、そういう動作がそれなりに問題視される可能性があるだろうし、それが社会の秩序を乱すような行為となる場合もあるわけだが、その一方で制度の裏をかくように工夫された動作もあるわけで、制度を犯さないように心がけながらも、制度に則った動作よりも有利になるように動こうとするわけで、それが抜け駆け的な動作となると、制度を成り立たせている法律の網をかいくぐっておこなわれるような、ある意味でずる賢いやり方となるわけだが、制度を守る側でもそういった抜け駆け的なやり方を防止するためにも、法律を厳密に定義して、そういった動作が起こらないように工夫を凝らすわけだが、そうやって制度を出し抜こうとする側と守ろうとする側との間でせめぎ合いがエスカレートしてしまうと、法律によってがんじがらめに縛られた動作しか許さないようなこととなってしまい、そうなると各々の人が思い思いに工夫を凝らすような行為を制度が抑圧してしまうことになるわけで、そういう方面ではそういった締め付けに伴って人の動作や思考が硬直化してしまうわけだが、普通はそういう成り行きにも個々の事例に応じた程度の限界があるだろうし、制度や法律を破ったり出し抜いたりすると深刻な事態となってしまうような場合には、そういう行為をやらせないように二重三重の強固な防止策が施されるだろうが、逆に大して深刻な事態とはならないような方面では、それなりにそこで何かをおこなう人の自由な裁量に任されている程度も広がるだろうし、そういうことを考慮すれば、必要以上に制度的な厳格化が進んでしまって、そこで人や物や情報の動きが滞ってしまっているような状況ともなれば、制度の緩和が求められるだろうし、また逆に制度の整備が立ち後れていて、その方面がやりたい放題の無法地帯と化しているような場合には、制度による締め付けが行われるような成り行きにもなるだろうし、そんなわけで何が何でも世の中のすべての動作を制度によって締め付けるような成り行きにはならないわけだが、その必要に応じて制度を定めるという成り行きが、それが場合によってはやり過ぎであったり、またやらなさすぎであったりすることの判断に関して、そういったさじ加減が微妙なところでもあるのだろうし、そういったところで関係者による話し合いや、場合によっては広く一般から意見を求めることも必要になってくるわけだろうが、そういう成り行きも制度的には決めがたいところでもあるわけで、その場の状況に応じた判断まで制度的に決めるわけにはいかず、普通に考えて制度的に決めることができるのは、大多数の人々による同意が得られる範囲内でしかないのかも知れないが、そこも厳密には決めがたいところでもあり、決めがたいのに決めるという動作もある意味で矛盾しているわけだが、結局はいったん制度的に決められた動作であっても、その後の検証作業が欠かせないだろうし、そうやって絶えず制度を見直す動作も不可欠になってくると、そこでも制度を見直す動作を制度的に決められるかとなると、やはりそこでも言語的な循環が起こってしまうわけだが、要するに制度を作るような成り行きとその制度を見直すような成り行きとのせめぎ合いが避けられないわけだが、そういった相反する動作のせめぎ合いの中で政治がおこなわれることにもなるわけで、そうであるなら場合によっては固定したイデオロギー的な動作や傾向を政治に期待するのは筋違いとなるのかも知れず、それよりはそういった固定観念にとらわれない柔軟な思考や態度が求められるわけだろうし、そこでも何が何でも一定の傾向を貫こうとする傾向と、その場の状況に応じた柔軟な傾向とのせめぎ合いが起こっているはずだが、実際にそういう相反することがおこなわれると、そういった状況を受け止める人々の間で、それをどう捉えたら良いのかを巡って混乱が起こるのかも知れず、何かそこで筋が通らないような矛盾したことがおこなわれていると判断されれば、それに対する批判が起こるだろうし、また逆に何らかの固定観念にとらわれた硬直した対応への批判も出てくるだろうし、どちらにしても批判しようとすればいくらでも批判が可能な成り行きが生じて、そうやって意識が批判するような傾向に凝り固まってしまうと、まずは何が何でも批判ありきのような態度が蔓延してしまうわけで、実際にそういった態度を貫いている人たちの主張が多くの人々の間でもっともらしく思われて、それが世間的にも受け入れられてしまうと、そこから先はその手のメディア上で批判のための批判が延々と繰り返されるような無駄で無意味な言葉遊びが続いてしまうわけだろうが、そういった言葉の循環も場合によっては必要な迂回として認められてしまうような風潮があるとしても、そこで踏まえておくべきなのは、そうやって同じ行為が繰り返されることが妥当な行為として一般の人々に受け入れられることが、そういった行為の制度化が起こる契機となっているということであり、そういった行為の循環が当然のことように思われると、すでにそう思っている人は制度的な思考に支配されていることになるのではないか。
9月8日「こじれた事態」
歴史は繰り返すということわざが実際の事例にどこまで妥当するかは、そうなっているように見なせるときの印象にもよるだろうが、あまりにも恣意的にこじつけようとするとかえって嘘っぽくなってしまうだろうし、出来事が繰り返しているようには見えなくても、物事の関係が構造的に相似形をなしていれば、同じようなことが繰り返されているようにも感じられるわけだが、例えばそれに関連して、特定の大国が衰退の兆しを見せているとしても、それだけで歴史が繰り返しているわけでもなく、現状でも史上かつてないほどの規模で様々なことがおこなわれている中で、衰退ではなく経済的に繁栄していることが、その繁栄によって荒廃している面が顕著になってきているわけで、それは物質的な豊かさの裏面であるわけだが、それはかつての繁栄の時もそうであったし、現状の繁栄でも当然そうなっていて、別に昔の繁栄していた時期が必ずしも良いことばかりだったわけでもなく、むしろ荒廃のただ中にあったのに、それを忘れて単に昔は良かったという印象が残っているだけで、そんな印象から昔の繁栄を取り戻そうとすること自体が、かなりの矛盾と勘違いを含んでいるわけだが、それは昔の繁栄の中で様々な荒廃を経験した人たちもそう思っていたわけで、経済的な繁栄の裏で失われてしまった自然の豊かさや心の豊かさを取り戻そうとしていたわけだが、実際に自然が豊かだった頃はその豊かさに反比例して経済的には貧しかったわけで、その豊かな自然を開拓して消費することによって経済的な豊かさを手に入れたわけで、そういう意味では経済的な豊かさの実現は、自然の荒廃と表裏一体をなしているわけだが、自然が豊かだと人の心も豊かになるかというと、豊かな自然を消費して経済的に豊かになることを目指している人たちの心は、豊かであるというよりは貪欲であり、それを良く言えばハングリー精神となるわけだが、普通の感覚では欲得尽くで経済的な豊かさを手に入れようとする人たちの心が豊かであるとは表現されないし、何事においても欲得尽くな人は、心が豊かであるというよりは打算的であるだろうし、打算的であることはどちらかといえば心が荒廃していることになるのかも知れず、そんなふうにして人々の思いと世の中の実態とは、前もって人々が想定していないずれが伴ってくるわけだが、その一方で現状でもたらされている困難には、過去への幻想や郷愁と地続きな面があるだろうし、実際に過去においても解決できなかった問題を現状においても引きずっているわけで、そういった解決できなかった問題を忘れることによって、過去において繁栄していた時期が良かったという印象が生じていて、それが過去を美化することによってもたらされる幻想なのだろうが、では過去においても解決できなかった問題を現状においても解決できないのかといえば、問題を思い出さなければいいわけで、問題が視界に捉えられてしまうのを妨げるようなやり方を編み出せばいいわけだが、過去を美化することもある意味ではそういったやり方の延長上で編み出されてきた方法だろうし、他にも現状の中で普通におこなわれていることといえば、現状でリアリティを感じられるような特定の物事にこだわる態度を追求することであり、そうやって興味を抱いた何らかの物事を強調したり誇張して、それだけに意識を集中してこだわっていれば、他のことに気づく余裕などなくなってしまい、ともかくその物事をどうにかすることだけに全力を傾けている間は、未だに解決できていない過去の問題のことなど眼中にないわけで、そういった熱中できる物事をどうにかすることが目的となるように、その人の活動を調整するような操作がおこなわれているわけだが、それがその人の専門分野となるような成り行きだろうし、そういった分野が多種多岐にわたって出現するような傾向を生じさせているのが、資本主義経済の特徴と言えるのかも知れないが、もちろんそれに伴って新たな問題が次々に生じてきて、そうなっている限りで、過去に解決できなかった問題のことなど顧みられなくなってしまうわけで、その一方で人々は新たに生じてきた範囲の狭い専門分野において生じる部分的な問題に関心を奪われて、それにかかりきりとなっているうちに、その人の人生を終えてしまうような成り行きになるのかも知れず、そうやって解決できない問題が山積みになっていくことに気づかないばかりか、そういった問題は解決できなくても、他に新たな問題が生じてくる度にその問題に対する人々の関心が薄れてきて、問題自体が風化してしまうわけで、またそれらの問題が山積みになってくればその問題自体の重みによって圧縮されて地層化してしまうわけで、いったん地層化されてしまった問題は、あとから考古学的に再発見されて掘り返されない限りはそのままとなってしまうだろうし、確かに過去の時代においてはそんな問題を巡って人々の間で議論が戦わされていた時期もあったかも知れないが、地層化されて社会の中で固定化してしまうと、それと隣り合って固定化している他の問題とともに、それらが一括して織り込み済みの前提条件となって、そうしたことを前提にして他の物事が成り立っていて、そこに問題があるとしてもなんとも思わなくなってしまい、場合によってはそれがどうしたという態度も誘発するだろうし、それを改めて問題視するような態度は鬱陶しがられるような成り行きとなって、そうやってそこに問題があることを忘れようとするわけだが、果たしてそれで問題が解決したことになるのかといえば、当然そうではないわけで、それどころかかえってそうした問題の放置によって、より一層こじれた事態になっている可能性もあるだろうし、それが隣国などとの関係においては、様々な物事や人の感情などが複雑に絡み合って、容易には解きほぐしがたい事態となっているわけで、そんなふうにこじれてしまってから、改めて問題の解決に乗り出すような気運など高まらないだろうし、そうであればもはやこじれた関係を放置して風化するのを待つしかないような成り行きとなっているのかも知れないが、そこまで事態をこじれさせてしまった責任を誰もとろうとはしないだろうし、実際にも責任などとりようがないわけだが、むしろさらにそこから新たに問題を山積みにすることで、過去の問題を風化させようとする思惑まで生じているのかも知れない。
9月7日「将来への展望」
例えば現状の世の中が行き詰まっているという実感から、その延長上で悲観的な未来の状況を予想することは、成り行きとしてはよくあるパターンかも知れず、そうなれば実際にその人が陥っている境遇の中では、未来への明るい希望や可能性が見いだせないわけだが、それが偽らざるその人の現時点での境遇や気分を反映した思いであることは確かだとしても、世の中にはその人とは違う境遇や気分の人もいるだろうし、その人にとってはそうであっても、別の人にとってはそうではない可能性もある限りで、人それぞれに別々の境遇の中で別々の思いを抱かせる状況があるのかも知れないが、全体としての集団的な感覚として最大公約的な世の中の風潮を反映した思いや実感というのもあるのかも知れないし、それが本当に多くの人が妥当に思われるかといえば、そうではない思いや実感を抱いている人には違和感を覚えるのかも知れないが、そういった世間的な風潮からずれた感覚の人には、他の人たちが感じ取れないことを感じ取れるような可能性があるのかも知れないし、もちろんそれがその人の勘違いである可能性もあるわけだが、客観的にはどうなのかといえば、果たして世の中に客観的な物事の見方をとれる人がいるのかとなると、怪しいところだろうし、とりあえず現状の中で支配的な物事の見方の範囲内で意識がとらわれている人には、現状の中で主流となっている集団的な意識に少なからず影響を受けている傾向があるだろうし、それが一般的にはメディアが作り出している傾向であるとしても、メディアも世間的な風潮に影響を受けてそうなっているの面があるだろうし、ではそんな世間的な風潮を作っているのが何かとなると、世の中で醸成される集団的な意識が世間的な風潮を作っているとすれば、そんなふうにして集団的な意識が人々とメディアの間で循環していることにもなるわけだろうが、しかしそうなると何が客観的な真実だとも言えなくなってきて、民衆とメディアの間で世の中に関するもっともらしい幻想が行ったり来たりしながら、それがその時々の世間的な出来事や現象に呼応して、増幅したり減衰したりしているのかも知れないが、それがどういった幻想なのかといえば、例えば現状の世の中が行き詰まっていて、悲観的な未来が到来するような予感になったりして、そんな思いが高じてこのままでは大変なことになると思われたりするわけだろうが、実際にそんな予感が的中するかというと、時にはそれが的中したように思われる出来事が実際に起こるかも知れないし、そうなれば悲観的な未来を予想していた人がそら見たことかとなるわけだろうが、もちろんそれとは違う出来事もいくらでも起こっている実態もあるのかも知れず、実際に世界のどこかの都市で行政のやり方に反発した民衆が暴徒化するような出来事が起これば、そら見たことかという思いが高まるわけだが、確かにその都市では実際にそんなことが起こっていても、別の都市では起こっていないわけだから、しかもそんなことが起こっていない都市の方が圧倒的に多い現実があれば、世界全体として見れば、そら見たことかと思った人の勘違いである可能性が高いわけだろうが、それがその人の身近で起こっていることであれば、そう思うのも無理はない話であって、それがあながち間違っているのでも勘違いでもないわけだろうが、そうだとしてもそんなことを思っている人の思いに普遍性があるとは言えないし、どちらかといえば地域的な偏向した思いになるのかも知れず、それでもその地域ではそんな思いがその地域の集団意識に反映していて、多くの人の間でそんな思いが共有されていれば、それがその地域の世論や民意となって、何らかの政治的な力を生じさせるのかも知れないし、そうやって地域的な行政に抵抗や反発などの圧力を加えることで、その地域の集団意識と相互作用を起こしながら、結果的に世の中の行き詰まりを解消するような成り行きがもたらされれば、それに伴ってそれまでの主流となっていた悲観的な未来とは違った楽観的な未来への期待がその地域の人々の心を捉える可能性も出てくるだろうし、そうなればその地域の世間的な風潮にも変化の兆しが見え始めて、それまでよりは肯定的な思いにとらわれる人の方が否定的な思いにとらわれる人よりも多くなってくるのかも知れないし、そうやって世間的な集団意識が変化することもあるのだろうが、そうなった原因が何にあるのかとなると、それは一概には言えないことかも知れないし、様々な要因が複雑に絡み合って、あるときにはそれが良い方向に作用したり、またあるときには悪い方向に作用したりもするのだろうが、どちらにもなり得るなら、どちらになるかはその場の偶然に左右される面が大きいのかも知れないが、どちらになったとしても、そこから修正や変更が利かないわけでもないだろうし、またこれまでの傾向の延長上でそんなことが起こるのとは違って、それとは全く異なるような傾向が唐突に現れるときもあるだろうし、なぜそういった傾向が突然現れるのかといえば、それ以前に人々の気づかないところで水面下で動いている何らかの動向があって、それが何かをきっかけにして急に誰の目にも明らかになる時がくるのかも知れないし、そうなったときには急に視界が開けてくるわけだが、それが現時点では誰にもわからないことなら、そうなる過程でもたらされる途中の状況下では、何やら状況が行き詰まっているように感じられるわけで、それが過渡的な状況の中で感じられていることであれば、そこから何らかの状況の変化や推移が起これば、すぐにそんなことなど忘れ去られてしまう場合もあるだろうし、だから確かに現状の中で行き詰まりが感じられるとしても、それが現時点で一時的にもたらされている状況の中で感じられることであれば、確かにそこではそんな思いに多くの人がとられているとしても、そこから先でそんな状況がどう転ぶかもわからないような成り行きになれば、たちまちそんな思いとは異なる思いにとらわれてしまうような成り行きにもなるだろうし、そういう可能性を考慮すれば、悲観的な未来を予想したり楽観的な未来を予想したりすることが、これから先もいくらでも起こりうることが予想されてしまうわけだ。
9月6日「出口に至る方法」
世の中では自然現象などからもたらされる作用や影響とは別に、あるいはそれに混ざり合って、人為的にもたらされる物や情報や人の動きから様々な成り行きが生じているわけだが、もちろんそうした成り行きのほとんどで人為的な思惑が介在しているとしても、必ずしも思惑通りの結果がもたらされているわけでもないだろうし、実際にそこで様々な人や団体などの思惑が渦巻いている中で、誰の思惑とも違った結果がもたらされているようなら、それが誰にとっても予期せぬ結果となっているのかも知れないし、そういう面を考慮すれば、それを偶然の巡り合わせからもたらされた結果だと見なしておくのが無難な解釈となるかも知れないが、それが大したことはない些細な程度なら、そんな思わぬ結果がもたらされてもそれほど気にはならないだろうが、中にはそうではなく、何か深刻に思われるような成り行きがあるとすれば、それは何かしら実害が及ぶ成り行きとなるのかも知れず、実害といっても自身とは無関係な他人や他の団体などが被る実害なら、その人にとっては痛くもかゆくもないのかも知れないが、それがメディアに取り上げられるような世間的な話題なら、一応は世間体を気にして同情するそぶりでも見せるような成り行きとなる場合もあるかも知れないが、それも表面だけ取り繕うような感じかも知れないし、とりあえず自身にとって深刻な状況に至らなければ、それほど慌てふためくようなことにはならないだろうし、実際に事態を冷静に受け止められるようなら、冷静でいられる程度のことでしかないだろうし、それを何でもないと言えば語弊があるかも知れないが、たとえそれが自国の政府が絡んでいることであっても、また同時に隣国の政府が絡んでいることであっても、感覚的には他人事でしかないのかも知れず、なぜそうなってしまうのかと言えば、そこに人の興味を一定の傾向に誘導するような思惑が介在しているように思われると、そういった思惑にはだまされないように身構えてしまうわけで、それも自然の成り行きでそういう動作を誘発してしまうと、その時点ですでに何らかの恣意性を感じ取っているわけだが、そんな状況というのが相変わらず他人事に感じられてしまうと、人々のそういった状況への言及が深刻さとは無縁に感じられてしまうわけで、むしろそれとは別の方面で生じている状況の深刻さを覆い隠すために、そちらの方面で演じられている状況の深刻さを醸し出すような見え透いたパフォーマンスが、遮蔽幕のような効果を発揮しているのではないかと疑ってしまうわけで、しかもそれが同時に何かを映し出しているスクリーンのようにも見えてしまうわけだから、あたかもそこには二種類の機能があるかのように思われてしまうわけだが、二種類のうちの一方は言わずと知れた対立をあおる目的で使われているのだろうが、もう一方の使用目的が一般的にはわかりづらいのかも知れず、そちらの方はどちらかと言えば肯定した方がいいような目的で使われていて、それは確かにそこで対立があおられているのにもかかわらず、それを真に受ける必要はないというメッセージを発しているようにも感じられてしまうわけで、なぜそうなのかと言えば、人が関係してもたらされる物事には常に正反対の矛盾していて両義的な面があって、それを一方的に肯定したり否定する必要はなく、実際にそれに関わって生じている一連のパフォーマンスからもたらされる実害を、最小限に抑えようとする配慮がにじみ出ていれば、それが必ずしも本気ではない傾向を示していることになるだろうし、双方とも相手に向けて絶えずそういうシグナルを送っているなら、それが本気で本物の攻撃ではなく、演技としての見せかけのパフォーマンスに堕している面が感じられるだろうし、むしろそうした見せかけの演技にだまされて本気になってしまう人を引っかけようとしているそぶりさえ見せていれば、そんな気配を感じたら用心してかからないと、挑発に乗って騒ぎ出した途端に、はしごを外されてしまう危険性があるわけで、もちろん実際にそんな危険を感じ取ったからと言って、直ちにどうこうするタイミングなどありはしないだろうし、それよりは未だに直接の戦争が起こるようなイメージを抱いているとすれば、実際に戦争など起こっていなければ、今のところはそれが幻想に過ぎないことが明らかとなっているわけだろうが、たぶん真の危険とはそういった次元では起こらずに、実際にそれは取るに足らない茶番劇的な現状の水準で起こっていることであり、それを認めがたい人が現状ではあり得ない戦争への危機をあおるしかないわけだが、本当に戦争があり得ないのかと言えば、それが現状によって示されていることでもあり、現状の何もかもがそんな傾向を示しているわけではないとしても、またそうした茶番劇の水準で示されていることが信じられないとしても、それが信じられないこそ、逆にリアリティを持っているのかも知れないし、要するに現状では戦争への危機をあおっている人たちにとって信じられないことが起こっているわけだが、それが実際に戦争が起こっていない事実であり、もちろん他の地域では実際に戦争が起こっている現実もあるわけで、そうなっている地域と実際に今のところは戦争が起こっていない地域との差異をどう説明したらいいのかわからなければ、それが戦争への危機をあおっている人たちの限界となるわけだが、その一方で実際には戦争どころか経済的な取引が活発化している現実もあるわけで、しかもそこで実現している平和な状態の中で際立つべき民主主義の価値観を置き去りにしたまま進行中であることが、なおのこと疑わしく思われてしまい、そんなふうにしてこれまでの常識が通用しなくなってしまっている現状の中で、戦争への危機をあおることが現実離れした無効な行為であることが、いやでも自覚せざるを得ない成り行きになっているのかも知れないが、それがメディアというモニターの画面に貼り付いた遮蔽幕を凝視し続ける動作によって実現していることであり、それが一方では恣意的な幻想を映し出すスクリーンにもなっているわけだから、そうやっていつまでも画面を凝視し続ける無理な姿勢を保っているからには、何らかの効果を期待せざるを得ないのかも知れないし、実際に民主主義の理念が実現することを期待しているわけだが、それがいつはしごを外されるかわからない状態で、戦々恐々としている中で期待しているわけだから、すでにそうなっている時点で出口を通り過ぎてしまったのかも知れないし、そこから足下がいつの間にかぬかるんで泥沼化しているのに気づいた時には、もう手遅れなのだろうし、そうならないための保険としてつかの間の経済的な繁栄があるわけだが、それさえも自業自得気味に手放そうとしているようにも見えてしまうところが、たぶん当人にとってもその見え透いたパフォーマンスを傍観する周囲の人たちにとっても冗談でしかなく、それもどこまでが冗談でどこからが本気なのかが、そんな見え透いた演技で騒いでいる当人にとっても周囲の人たちにとっても皆目見当がつかないのかも知れず、ともかく冗談のようにしてもたらされているつもりの政治的な主導権を軽々しく手放さないことが、今や唯一の頼みの綱となっているわけではないにしても、もしかしたらそれを手放してしまうことだけが、目下のところは唯一の出口に至る方法なのかも知れない。
9月5日「制度に関する思惑」
機械にはその用途に合わせて特有の機構が内蔵されていて、そういうところがより単純な機構の道具とは異なるわけだが、そんな機械の仕組みと比較されるわけでもないだろうが、社会的な制度には、事前に定められた何らかの取り決めに基づいて、人を決められた動作に導く作用があり、確かに制度に従っている限りで、人が機械的に決まり切った動作をすることがあるが、時には制度が求める決まり切った動作を行えずに、決められた動作から逸脱してしまい、そのことで制度を管理する側から取り締まられたり、それが悪質だと判断されれば制裁や処罰を受けることもあるだろうが、それが機械の故障にたとえられるかというと、故障にも様々な原因があって、一概には比較できないだろうが、人が制度から逸脱するようなことをやってしまうのは、制度自体に限界があり、制度的な動作では満足できないから、あえて意識して制度を無視したり逸脱するような動作に及ぶことがあるだろうし、それが恣意的な嘘やごまかしを含んでいれば不正行為になるわけだが、制度が社会の実情に合わなくなれば制度自体を利用する人がいなくなって廃れてしまうこともあるわけで、それは機械が使われなくなる経緯と似ているかも知れないが、人が機械的に決まり切った動作することを目指して制度が作られていることはあるかも知れないが、その決まり切った動作ができない人がいるから、制度だけでは限界があるわけだが、ではその限界を打ち破る必要があるかとなると、それはその場の事情にもよるだろうが、そもそもなぜ制度が必要かとなると、制度を必要とする側が多くの人に決まり切った動作をさせて管理したいわけだが、そういった制度的な囲い込みに反発する人もいるだろうし、そんな人にとって制度は行動の自由を奪う象徴のように悪く言われるかも知れないが、それ以前にそもそも制度がないと社会を維持できないだろうし、様々な制度によって社会が成り立っていて、人が集団で活動するために必要な様々な用途に合わせた様々な制度が社会の中で機能している実態を考慮するなら、なぜその制度に逆らわなければならない必要が生じるのか疑問に思われるかも知れないが、制度が必要とされるときと、その制度に逆らうことが必要とされるときがあり、もちろんその制度に従う必要が生じるときがあるわけだが、その時々において人の方に都合が生じると同時に、その都合に制度では対応しきれない場合も生じて、かといって制度が必要となる都合も生じるわけだから、人の方では自身の都合に合わせて制度を利用するときもあるだろうが、自身の都合によっては制度に逆らう必要も生じるわけで、一般的には社会の中で困っている人を助けるために制度があるにしても、場合によってはその制度によって苦しめられる人もいて、人を苦しめるような制度はなくすか改善することが求められるだろうが、そんな制度によって利益を得ている人が大勢いれば、大勢の人たちから必要とされているわけだから、それらの人たちの都合が優先されることになるわけだが、制度のあり方としては、それなりに多くの人が納得できるような仕組みになっていることが求められるだろうし、それも実際に現状の中で存在している人たちが納得しないとまずいわけだから、時代状況に合わせて制度を改善するような成り行きになるわけだろうが、それに関して利害が対立していると、利益を得られる人は納得できる一方で、損害や損失を被る人は納得がいかないわけで、ではそういう制度はなくすべきかといえば、そこから利益を得ている人たちは納得できないわけだが、そういった面で、どのような制度を残してどのような制度をなくすか、またどのよう制度が必要でどのような制度が不要なのか、あるいは制度をどのように改善するかを巡って、人々の間で意見の対立が生じるわけだろうが、そもそも制度が存在することによって、それを利用して利益を得ている人とそうではない人との間で意見の対立が生じているとも考えられるわけだから、それ以前に制度を利用しても利益を得られるどころか、損害を被るような制度はなくすべきか改善されるべきということに関しては、多くの人が納得するかも知れないが、問題なのは制度を利用すると、利益を得られる人が出る一方で、損害を被る人も出るようだと、そんな制度を巡って意見の対立が起こるのはある意味で当然かも知れないが、では制度によってすべての人を優遇するとなると、それでは優遇とは言えなくなってしまうだろうし、そんなわけで一部の人や団体を優遇する制度があるとすれば、その一部の人や団体が社会の中で不遇な立場や不利な境遇にあるからだが、そうした制度を設けることによってそんな社会状況を改善できるかとなると、一向に状況が改善しなければ、改善するような制度に改めなければならないという意見が出てくるわけだろうが、それ以前に別の制度によって一部の人や団体が利益を得ている実態があるから、そのあおりを食って一部の人や団体が不利益を被っている可能性もあって、それを解消するためにはまた別の制度を設けるような成り行きになってくるとすれば、そうなっている時点で様々な制度が複雑怪奇に入り組んでいることにもなるだろうし、そうやって現状の社会が成り立っているとすると、すでに社会全体が慢性的に制度過剰な状態になっているとも言えるわけで、別にそれによってもはや社会状況が行き着くところまで行き着いてしまっているわけでもないだろうが、だからといってこれ以上制度を付け足すわけにもいかないというわけでもなく、新たに制定される制度がある一方で、廃れてしまう制度もあるわけだから、そういった制度自体の新陳代謝を活性化させるしかないのかも知れず、無駄で無意味に思われる制度の制定とかには反対するのが当然だとしても、社会に害悪をもたらすような制度の制定にも反対する成り行きにはなるだろうが、逆にそんな制度によって利益をもたらそうとする成り行きもあるわけだろうし、特にそういった制度によって利害対立が鮮明化するような成り行きだと、そういった対立の激化を利用して何かをやろうとする人や勢力も生じてくることも確かなのではないか。
9月4日「現象を観察すること」
世の中で起こっている政治や経済や文化などに関係する何らかの社会的な現象に対して、観察者という立場があり得るかとなると、普通はそうした現象についてメディア上で何かしら語っている人が観察者だと思われるわけだが、しかしその人自身が観察している現象に巻き込まれていると、ただ現象を観察するだけの完全な観察者というわけにもいかなくなってくるだろうし、観察者であるとともに観察している現象に巻き込まれている当事者ともなれば、果たして自身が巻き込まれている現象を正確に把握できるかとなると、把握し切れていない面が出てくるのかも知れないし、そうやって社会の中で生きて暮らして活動している限りは、完全な観察者や傍観者や部外者という立場はあり得ないのかも知れず、その人に少しでも自らが観察している現象に巻き込まれている面があるなら、観察者や傍観者や部外者としてではなく、その現象に関わっている当事者として自らが巻き込まれている現象への対応や対処に追われている面があるだろうし、そういう面での自覚が希薄だとしても、それを観察していること自体が観察している現象に巻き込まれている証拠であるなら、少なくとも何も危害が及ばない安全地帯から高みの見物をしているわけではなく、何かしら観察している対象となる物事から作用や影響を及ぼされていて、たとえその現象に巻き込まれている他の人たちの対応や対処の仕方のまずい点などを指摘できても、そうやって指摘している自らにもそれらの人たちと同じようなまずい点があるのかも知れないし、それらの人たちを批判しているとすれば、その批判が批判している自らにも当てはまる可能性さえあるのかも知れないし、それに関して例えば自らが観察していると思っている現象と、それと気づかずに自身が巻き込まれている現象が意識の中で一致していなければ、気づいていないのだから一致するはずもないわけだが、それでもそれはそれでこれはこれという割り切りが自然にできているような気になれるのかも知れず、そういうのは産業などの分野で普通におこなわれている分業体制や、それに伴って生じている各種の制度などが、そんな意識を助長している面があるのかも知れないし、確かに自身が直接関わっている何らかの職業的な専門分野とか、また自らが利用している制度に関してなら、確かに当事者であるはずだが、それ以外の自らが関わっているわけではない他の分野に関してとか、直接利用しているわけではない制度に関してなら、完全な部外者であるように思われるわけで、そういった利用できる分野や制度などの使い分けによって、自身が関わっている方面に関してなら確かに当事者意識を保っていられるが、それ以外の面では観察者や傍観者ですらない部外者として無関心でいられるのかも知れないし、実際に興味がなければそうなるしかないわけだが、それとは違って意識していなくても気づかないうちに巻き込まれているような分野や制度があって、実際にそれに関わって利用していることに関しても無自覚な面というのもあるだろうし、それだけ社会の仕組みや機構が複雑怪奇に入り組んでいる面があるわけだが、最初はそういった単なる無関心な部外者であっても、いったん何かのきっかけからそれに興味を持てば観察者になることはあるだろうし、そうでなくても社会の中で起こっている大抵の現象は、主にメディアを介して間接的に観察するような成り行きにはなるわけだが、しかもメディアの側では人々に興味や関心を抱かせようとしていて、自分たちが取り上げる特定の物事を恣意的に強調してあおり立ててくるわけで、実際にそういった強調やあおり立てに乗せられて多くの人が興味を抱かせられてしまうわけだが、それでもそれらの大半は見るだけの立場を強いられていて、そこから直接何にでも首を突っ込んで知ったかぶりのお粗末な対応や対処をおこなって、他の人たちから失笑を買うような成り行きにならなければ、それはそれで観察者や傍観者としてだけなら、大して実害を被らない無難な立場だと言えるのかも知れないが、それが高じてそれについて何らかの発言をおこなうような立場になってしまうと、何かメディア関係者の仲間入りをしたような気分になってしまうのかも知れず、もちろんそれにも程度があって、SNSでその手の評論家もどきの発言を繰り返しているだけではどうということはないだろうし、そこでもすぐに他のメディア関係者や煽動者たちの欠点を言い立てて、それで鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てるような勘違いに至らないだけでも、まだマシな方だろうし、とりあえず専門外のことには無関心を装っておくぐらいの用心深さは戦略的には必要だとしても、少なくとも自らの力ではどうにもならないような現象が世の中には掃いて捨てるほどあることぐらいは自覚しておいた方がいいのかも知れず、もちろん自身ではそれらを掃いて捨てられないから、それらがどうにもならない現象となっているのだろうが、そういう面では自身の力が及ばない現象には素直に驚いて、場合によっては演技でもかまわないからうろたえていた方が、少なくともそんなふうになっている間は謙虚さを保っていられるのかも知れないし、そういう現象には畏敬の念でも示しておいた方がいいのかも知れないが、たとえそうなったとしても、だからといってその人が何もできないわけでもないし、世の中のすべての現象に関心を持つことは物理的に不可能だとしても、目についた現象とか自然と興味がわいて関わろうとしてしまう現象とかには、それなりに言及したり、できる範囲内で必要に応じて直接の対応や対処をおこなえばいいだけのことでしかないだろうし、そうした対応や対処がうまくいったりいかなかったりしても、それはそれでそういうことでしかなく、実際に自らの力が及ばなくて無視されても、そんな現実に直面していればいいことでしかなく、直面できなければ避けて通ればいいことでしかないが、避けては通れないようなら、それについて何かしらの判断や評価を迫られるわけで、そんな判断や評価が多くの人によってなされるようなら、それが世論や民意に落ち着くのかも知れないが、それをメディアが世論調査などを介して利用することにはなるわけだが、そこで何かしらメディア特有の恣意的な加工が施されるにしても、そういった社会的な現象に対する受け止め方に関しても、それなりの対応や対処ができるわけで、そんなことの繰り返しの中から自然とそれらの現象への対応や対処が身についてくるのかも知れない。
9月3日「イメージの蔓延」
人が生きていく中で誰にも同じ目的が生じるかとなると、誰もが同じ立場や境遇になれるわけでもないから、普通はそんなことはあり得ないわけだが、例えば最低限の目的として、生きること自体が目的だと認識できるわけでもなく、かといってそこからひねくれて、死ぬことが目的だと主張する気にもなれないだろうし、そういう認識の次元ではなく、その場限りで生じる事情などから、欲求を満足させるような短期的な目的が生じることもあるが、それと同時に計画的かつ長期的なスパンで遂行しつつある目的というのもあるだろうし、そんなふうにして複数の目的を同時に抱え込んでいる人も中にはいるかも知れないが、行為としておこなっているそれが目的があろうとなかろうと、それほどはっきりとは目的を意識していないときもあるのかも知れず、中には目的よりも重要に思われることをやっている場合もあるだろうし、それが何かというよりは、その場の状況や経緯などから、それをやらなければならないと思われるわけで、またやらなければならないと思われても、特にそれが重要とは思われないことをやっている場合もあり、そんなことをやりながらも、それが何のためにあるいは誰のためにやっているわけでもないのに、しかもそれが自分のためにやっているわけでもなくても、とにかくそこでそれをやらなければならないという義務感に引きずり回されて、それが大抵は何かを語らなければならないとなるのかも知れないが、そんな事態だからこそ、それが何でもないことだとは思いたくはなく、何かしら意味や意義のあることをやっているつもりにはなりたいのだろうが、それとは無関係というわけでもないのかも知れないが、例えばただ漠然と国家的な繁栄を実感していたいという心境が、誰がそんな心境になりたいわけでもないのに、自国の現状と周囲の国々の情勢や動向などとの比較から、それに関する言説に付随して、自身がそんな心境になっていると想像できるような成り行きがあるのかも知れず、それがそんな成り行きの中で生じている架空の人物の意識だとしても、そんなのはどうでもいいことだとは言えない理由がありそうで、そういったあやふやな意識から、何か決定的な認識なり見解なりが導き出せるかというと、それを受け止める側には、何の根拠もなくそんな認識や見解などを語ってしまうこと自体に違和感を覚えるかも知れないが、それを語っている人にはそれがフィクションを語っているとは意識できないわけで、たぶん自らが語っていることが、国家的な枠内で他の大多数の人たちが同意できるような内容であると思い込んでしまうわけでもないのだろうが、実際に語っている中では、推測や想像でそんなことを述べている場合があるのかも知れず、それが仮に誰もが同意できるような内容に思われても、実質的には憶測でしかなければ、フィクションの要素が多分に含まれているにもかかわらず、自国民の習性とか他国民の傾向とかを〜人という表現を用いて勝手に決めつけながら述べてしまうわけで、そんなふうに語ってしまうことに何か特有の事情があるとすれば、それは国家的な同胞意識の共有につながることかもしれないが、それを共有していると思っているのが、当人以外では架空の〜人でしかなければ、〜人という集団的な存在自体が虚構であることは確かなのかも知れないが、そんなふうにして〜人という表現を共有している人が他にも大勢いれば、それらの人たちが実在していることは疑いようのない事実かも知れないが、実在しているのはあくまでも〜人という表現を使ったり、使っている人や文章に違和感を感じない人たちであり、そうであっても〜人そのものはあくまでも、そんな表現を使う人の言説の中や、そういった表現を使った文章の中に記された虚構の存在でしかなく、要するに〜人という主語が記された文の述語に当たる内容が、〜人と見なされた人たちに本当に当てはまるかとなると、別に〜人と見なされたすべての人たちの同意が必要とされるわけではないし、客観的にはその文を使った人の主観的な見解でしかなく、その文を受け止める人がそれに同意すれば、確かにその文を介して〜人に関しての共通の認識が生じたことになるのだろうが、それが〜人に関するイメージとなるわけで、そうやって他の誰もが同意しやすい〜人のイメージをメディアなどを介して広めることもできるだろうが、果たしてそれが〜人と見なされた人たちの全員に当てはまるかとなれば、そんなことはないと考えるのが妥当な認識になるにしても、そういった〜人気質という表現は、例えば職人気質とか、特定の身分や職業に所属する人に特有の気性としてもイメージしやすいだろうが、それを特定の人種や民族や宗派や国民などに拡張するとなると、それが否定的なイメージであれば差別表現の助長につながるだろうし、意図してそういう否定的なイメージを世の一般大衆の意識に植え付けようとする行為が横行していることも確かだろうし、そこだけを強調すればその通りかも知れないわけだが、特に否定的なイメージではなく、何気なく〜人という表現をそれと意識することなく使ってしまう習慣自体も、世の中に蔓延していることも確かだろうし、それが自国民を〜人と意識してしまう人たちに特に多いわけで、もちろんその大半は、使っている自身を含めた〜人という自国民には肯定的なイメージをまとわせたいのだろうし、中には〜人の駄目なところを指摘するような教訓的かつ反省的な用途に使う人もいるわけだが、そうやって〜人に関してのイメージを世に広めて、誰もが納得するような〜人についてのアイデンティティを確立するような目的だとか意図まで持っている人はさすがにいないだろうが、仮にそうであるとしてもそういったイメージが当てはまらない人がいる限りで、そういったイメージを語ることがフィクションであることは踏まえておくしかないわけで、それが肯定的なイメージであれば自尊心をくすぐられたりおだてられたりして、否定的なイメージであれば教訓として受け取られたり、あるいは不快感や憎悪の感情を助長する目的で使われたりするわけだろうが、そうやって人を何らか気分や感情の状態へと誘導する目的で〜人という表現が使われるわけだから、それ自体が功利的な活用を目的としているわけで、少なくとも人に客観的な真実や真理を認識させるために使われているわけではないことは確かなのではないか。
9月2日「現状の止揚」
それは実質的なことではないのかも知れないが、例えば富を消費することと富を増やすことを同時に行えるかとなると、富の種類を変換する過程で、例えば物質的な富を消費することによって金銭的な富が発生すれば、それが実現したかのように思われるわけだが、それと似たような現象として、労働力を消費することで報酬がもらえて、その報酬から衣食住などに金銭を消費して労働力を養い、さらに扶養家族も養うために金銭を消費しても、まだ金銭的な富が余って、それを貯蓄できれば、富を増やすことに成功したことになるだろうが、誰もが貯蓄に成功できるほど高い報酬はもらっていないし、また世の中で金銭的な富が余ればインフレによってそれだけ金銭の価値が低下するわけで、そういった傾向から誰もが金銭的な富を蓄積することによって、労働から解放されて遊んで暮らせるようにはなっていないわけだが、別に誰もが労働から解放されることを望んでいるわけでもないし、また否応なく労働せざるを得ない人ばかりでもないだろうし、それ以前に労働することが生きがいなら、別にそれでかまわないわけだが、またそうであってもいずれは定年退職を迎えて年金生活が待っている人も大勢いるだろうし、現実に余生を年金生活で過ごしている人も大勢いるわけだが、その政府が管理する公的な年金システムが崩壊する危険性があると言っても、実際にそこに至るまでには途中経過があるだろうし、その途中経過の中で誰もが現状の生活を維持しようとするから、またそうやって社会の中で暮らしている大多数の人が安定した生活を維持できないと、社会そのものが崩壊してしまうから、政治的にも経済的にもそれぞれの分野で主導権を握っている団体が管理運営しているシステムを維持するためにも、社会の崩壊を防ごうとするわけで、そういった経緯からも何かそういう面では現状で危機感をあおっている人たちが主張しているとおりにはならない可能性の方が高いのかも知れず、実際にここ数十年間でも、その手の人たちが似たような危機感を繰り返しあおってきた結果として現状がもたらされているわけだから、そういった経緯の中でもまた性懲りもなく同じような危機感があおられてきたわけで、そうなると現状から数十年が経過した未来の時点でも、現状と同じような危機感があおられている可能性さえあるのかも知れず、そんな未来を想像してしまう時点で、年金システムの崩壊に関しては、現状で危機感をあおっている人たちの主張が信用されないのは明白なのかも知れないし、またそれとの関連で、一昔前のリフレ派の理論や、さらに現状で唱えられている、インフレにならない限りは政府がいくら借金をしてもかまわないようなMMT(現代貨幣理論)でも、単にそれらは現状を追認するために編み出された理論であり、それらの理論は現状を追認できている限りで有効なわけで、追認できなくなれば、そうなったときにはまた現状を追認するために別の理論を編み出せばいいわけだから、いくら理論そのものの矛盾や無効性を追及して批判してみても、そういった追及や批判自体が論争のための論争にしかならず、実際にそうした論争を繰り広げていること自体が、それらの関係者が何かやってます感を醸し出すための論争にしかならず、そういった論争という活動の方面でその手の経済理論が貢献しているに過ぎないことだろうし、しかもそんなことまでが現状を構成しているわけだから、そうした現状の一部として危機感をあおっている人や現状で主導権を握っている人や団体を批判している人もいるだろうし、そんなふうにして現状を批判している人たちが現状に含まれていると、そうなっている限りで批判自体が現状にとらわれていて、その有効性が現状によって制約を課されているわけで、そんなわけで現状を批判することによって現状を乗り越えることは不可能かも知れないわけだが、そもそも現状を乗り越えるということがどういうことなのかも、現状に対する批判からそれがわかるのかとなると、それとこれとは別で、批判が主張している内容とは違う可能性もあるだろうし、では現状を乗り越えるとは具体的にどういうことなのかといえば、現状を止揚して別の状態へともっていくことが、現状を乗り越えることになるわけだろうが、そこで止揚とは何かといえば、より高い次元に引き上げることになるわけで、より高い次元とは何かといえば、現状の判断材料をより適切な程度に増やすということになるのかも知れず、単純なひとつの価値観によって現状を判断して、それで現状の良し悪しを決めるのではなく、様々な方面から様々な判断材料を用いて多角的に現状を評価しようとすれば、単純に現状が良かったり悪かったりするのではなく、もっと複雑で複合的に入り組んだ現状の姿が浮かび上がってくるわけで、そうなると現状をひとつの基準で単純に肯定したり否定したりはできなくなってくるわけだが、そんなふうにして現状を物語れば、今まではひとつの要因で良し悪しを判断していたことが、それだけでは判断する材料が不足していたことに気づくのかも知れず、そうやって今までは何かにつけて駄目な点をあげて、そこからすぐに批判の対象がやっていることを否定してしまうことが、浅はかで思慮の足りない行為であることが明らかになるなら、そういった批判の対象となる人や集団がなぜ現状の中で主導権を握っているのかを考えるきっかけになるだろうし、またいくら繰り返し批判しても何の効果も上げられなかった対象に関して、なぜ効果の上がらない批判をいつまで経っても繰り返しているのかを考えるきっかけにもなるだろうし、そうやって思考の仕方を今までとは違う仕方に変化させることができれば、今までは気づかなかった現状を成り立たせている要素や要因に気づくきっかけになるかも知れないし、そこから現状に対するより正確で詳しい理解に至れば、現状への対応や対処にしても、今までは馬鹿のひとつ覚えのような紋切り型の批判の繰り返しに過ぎなかったことが、それとはひと味違った物言いになる可能性も出てくるだろうし、そんなふうにして現状に対する見方や考え方を更新していけば、自ずからそれが今まではなかった思考や言葉の使い方や言説の内容や具体的な活動の内容や形態に結びついてくるのかも知れないし、実際にそういった反省的な思考や行為につながれば、結果的に現状を乗り越える可能性が出てくるのかも知れない。
9月1日「神秘的な体験」
人の行動というのは、いつも確かな目的意識を抱いたり何らかの裏付けとなる確証に基づいて行動するわけでもないだろうが、確かにこれといった当てがあって、その目標に向かって進む場合もあるだろうが、社会のどこかにそんな目印となるような地点があって、なぜかそれと自覚することなくそこへと引き寄せられてしまう場合もあって、別にそこへと向かうのが使命だと自覚しているわけでもないだろうが、たまたま何かのきっかけで事のついでにそこへと向かってしまう成り行きもあって、特に切実な思いや理由がなくても、心身ともに余裕があって、経済的にも苦しくなければ、それが戯れ事だとは思わないにしても、寄り道や回り道をしてもかまわないような心境になってしまうのかも知れず、それが心の隙なのかあるいは心理的な余裕のなせる業なのかは、そうなってしまった結果からわかることがあるかも知れないが、何かそうすることが論理的に合っているわけでも合理的であるわけでもなく、むしろ何でもないことのように思われると同時に、無駄で無意味なことをやっていると感じられてしまうとしても、それでもそこではやっておくべきことだと確信してしまうような場合には、ともかくやれる余裕のあるうちにやっておいた方がいいだろうし、あとになって後悔しないように、多少の勇気を振り絞ってでもやっておくべきなのかも知れず、そのときには確かに何でもないようなことであっても、あとになってそれが思わぬところからじわじわと自身の許容度に関して利いてくる場合もあるのかも知れないし、そういう面では偏狭になるよりは寛大な態度でいる方が得るものも大きいのかも知れないし、またそういう皮算用を自覚するまでもない心境でいる方が抵抗感なく動作できるのかも知れず、それを意識が気づかなくても勘が知らせていたりして、その勘を信じてもいいと思うなら、そこでは非合理的であるか不合理的であるかは問わずに、そんなこととは違う次元でやるべきことがあるのかも知れないし、そうすることが必然ではなく偶然に導かれて向かう先には、特に何の脈絡も感じられないまま、想定外の思わぬ事態に巻き込まれるような成り行きが待ち受けているかも知れないが、それがその人のその後の運命を大きく変えてしまう可能性まであって、それが良い方へと転がれば、それによって短絡的な理屈ではわからないようなことを知るに至り、時にはそれが神秘的な体験であったり、他の何物にも代えがたい至福の時をもたらしてくれたように思われれば大成功であり、時にはなぜかそれがはるか以前から求めていたことだと思われるかも知れないし、またそんなことを経験するために今まで生きてきたようにも思われるのかも知れず、そんな不可思議な心境には誰もがなれるわけでもなく、それは偶然に身をまかせる勇気を持たないと経験できないことでもあり、活動の計画性とか論理的必然性などとは一切無関係のただ偶然にもたらされるようなことでしかなく、誰もが一生に一度はそんな体験をした方がいいのかも知れないが、体験しようと望んでできるわけでもないだろうし、普段はその人の目的や理性や思考や嗜好や感情などの心理作用が邪魔をして、なかなかそんな境地にはなりがたいのかも知れないが、自ら求めようとして求められるわけでもないのだから、向こうから何の脈絡も予兆もなく到来して、不意に虚を突いてもたらされることかも知れず、そんな機会を逃さないように気をつけていても、気づかないうちに通り過ぎてしまうようなことかも知れないし、そうであれば普段から心構えなど準備するわけにもいかないのかも知れないが、だからといってそこで物事の道理とは無関係なところで是か非かの選択を迫られているわけでもなく、すべてが是であるような心境にはなれないとしても、案外普段から妄想にまかせて思い描いているフィクションとはそんなものなのかも知れないし、フィクションであるからこそ信じられるような心境になれるときもあるだろうし、それを肯定できることが論理的には間違っていても、なぜかそんな心境に至ってしまうことが、功利的に損得勘定してしまうようなその手の浅はかな論理とは違った心の寛容さを示しているのかも知れず、それとは違ってそこだけに限った事情や経緯から導き出される論理や、それに従うことで導き出される是非の選択には、それだけ有効の射程が短いだけに、そこから新たに別の事情や経緯が加わってしまうと途端に覆される可能性があるから、そういったことからすぐに決定的な判断や決断を下してしまってはまずいわけで、そういうところでその時点まで生きてきた経験に裏付けられた勘がものを言うこともあるのだろうが、すぐに単純な論理や感情に従って是非を決めてきた人には、そういうある種の懐の深さは身につかないだろうし、それだけ機会を逃してきたことになるわけだろうが、それが何の機会を逃してきたのかに関してはわかりようがないわけで、それは現状でのその人の立場や心境や気性や人格や性格がそれとなく周囲の人たちに伝えていることでもあり、絶えずその時点までにその人のやってきたことの集大成が反映していることでもあるわけだが、たぶん実際にそうであったとしても、実態としてはそれほど大げさで深刻なことではなく、ほんの些細な取るに足らないことにしか影響を及ぼさないようなことに過ぎないのかも知れず、それだけ周囲の社会環境につなぎ止められている人が大半を占めていて、そうなっている時点で自由に振る舞える範囲が限られているのだろうし、その限られた範囲内で精一杯動き回っているつもりが、本人が意識しているほど自由には振る舞っていない実態があり、そんな活動の不自由さから焦りを意識せざるを得ないのだろうが、それでもそこから自由に振る舞うように意識すればするほど、思ったほどの効果を実感できずに、その代わりに焦燥感ばかりが募ってくるのかも知れないが、そんな焦燥感が積もりに積もると、それが何かの機会をきっかけにして暴発することもあるだろうが、そんな爆発的な活動が空回りに終わってしまうと、それを見聞きする周囲の人たちには滑稽な動作にしか見えないのだろうし、それが他人を巻き込んだ動作となれば、悲惨な事態を引き起こすことにもなるわけだ。
8月31日「持続的な行為」
これまでにやってきたことを変わらずにやり続けようとすることは、やっていることの持続性を保つ上では極めて当たり前の動作かも知れないが、やり続ける上で必要な何らかの前提条件があって、そうした条件をクリアした上でやり続けている実態があるわけだから、そうした実態にはそれなりに強固な持続力があるだろうし、それが当たり前のように続けられている実態があるわけだから、逆にそれをやめさせることの方が困難になっているのかも知れず、そうやってそれを続けることが当たり前のようになっている行為があるということは、それ以外でも毎日のようにやり続けられている行為などいくらでもあることをうかがわせるわけだが、そういった継続的な動作を伴った行為が身の回りに無数にあることが、その人の意識にその人自身が社会の中で存在していることのリアリティを感じさせるわけで、そういったこれまでの延長上で同じような行為が当たり前のようにおこなわれている状況の中では、これまでにはない新しい行為をやることにはそれなりに抵抗感が伴い、またそれによって新しい行為をやる成り行きがなかなか生じないことにもなり、そうなると結果的にこれまでにやってきたことを延々と繰り返していることにもなるわけで、しかもそうなっていることに自体に違和感を伴わないどころか、そうなっていること自体が極めて自然で当たり前のように感じられてしまうから、それが何でもないようなことである限りで、別にそれでかまわないわけだが、ではそれとは違って、何かこれまでにはない新しいことをおこなうような機会がやってくるのかというと、たぶんそれでもやってくるだろうし、実際にこれまでに持続的にやってきたことが何らかの事情でできなくなれば、いやでも新しいことをおこなわざるを得なくなるわけだが、そうなった際に何か納得できるようなもっともらしい理由が生じるのかといえば、そうなることもあるだろうし、そうはならないこともあるだろうが、その理由に納得しようがしまいが、そういう成り行きになってしまうと、否応なく新しいことをやることになってしまうわけだが、逆にそれをやる理由というのが誰もが納得するようなもっともらしいことであっても、それが実際におこなわれるかどうかは、実際にそれがおこなわれてみるまではわからない場合もあるわけで、やるに際していくら合理的な理由や条件が整っていようと、なぜかそれが行われない成り行きになってしまうこともあるわけで、そうなるとそれがおこなわれて当然だと思っていた人の当てが外れてしまい、なぜそれがおこなわれないのか理由がよくわからず、おこなわれない理由があるとしても、それに納得できないことにもなるだろうし、実際にそうなってから初めて気づくことは、他に大した理由がなくても持続的におこなわれていることが無数にあり、そういった無数の行為の継続が、新たに行おうとする行為を阻んでいる場合もあるわけで、それをやろうがやるまいがどうということはないような行為であっても、またそれを行うこと自体が不合理なことのように思われても、それが継続的に行われている実態があれば、そのまま惰性で行われてしまうような成り行きがあって、そういうどうでもいいような行為によって、合理的な理由のある行為が閉め出されてしまう実態もあるわけで、そうなると実際にそれをやろうとしてもできない人には、それをおこなわないのは理不尽なことだと思われてしまうわけだが、実際におこなわれない成り行きになってしまえば、その人にはどうしようもなくなってしまい、それでも合理的で切実な理由があるからやるべきだと主張するしかなく、そうなってしまうと他にはやりようがなくなってしまうのかも知れないが、そんな主張をひたすらおこなっていること自体も、いつの間にか持続的な行為となってしまうわけで、主張するならいくらでも主張できるような成り行きになってしまって、いつまでもどこまでも同じことを延々と主張するような成り行きにとらわれてしまい、その人にはそれ以外のことができなくなってしまうわけだが、果たしてそれが主張するだけにとどまっていないで、主張を実行するような段階に至れるかといえば、中には至れる場合もあるのかも知れないが、大抵の場合は主張に専念するような成り行きに巻き込まれてしまうわけで、そうなるとその人は何かを主張するだけの人となってしまい、主張することだけにその人の人生を捧げるような成り行きになる可能性があるだろうし、それも実際にそうなってみてわかるようなことであり、わかったときにはもう手遅れになってしまっている場合がほとんどかも知れないが、それがその人の分相応な能力と見られてしまう場合もあるわけで、そればかりは運不運の次元で判断することでしかないのかも知れず、そういった役回りにフィットしてしまう人も世の中には結構いるのだろうし、そうならないようにいくら戦略を練っても、それは他の人や物事との関わりの中で決まるようなことでもあり、他の人や団体などとの共同作業の中で、主張を実行に移すような機会が巡ってくる場合もあるわけで、それも恣意的にそういう成り行きへと持って行けるかどうかもその人の運次第といってしまえば、身も蓋もないわけだが、そういった目的志向の活動とは違う活動も中にはあるだろうし、それが他人や他の団体との間で意思疎通を図りながら、それらの人たちから了解を得られたことをやるような行為となるわけだが、そうなるとはじめから何かを実行するという目的があるわけではなく、他人と意思疎通を図りながら現状でできることを探す成り行きになるわけで、そこで合意を形成して、その合意に基づいて何らかの行為をおこなうことになるわけだから、それをおこなうことについて周囲の人たちから合意を得られた時点で、それをおこなうことが決まってしまい、そうやって決められたことを行うような成り行きとなるわけだが、それが実行に移されてうまくいったりいかなかったりするとしても、事前の合意があるわけだから、少なくともそれをやることに関しては、それに関係する人たちの総意に基づいているわけだ。
8月30日「告白の程度」
何かを物語ることは、その何かを誰か他の人に伝えようとしたり知らせようとしているわけだが、なぜ物語らなければならないのかというと、そこにはその人にとっては物語らざるを得ない必然的な成り行きが生じていて、例えばその物語る対象に感動したから、その感動を伝えようとしているのであれば、特にそのこと自体はどうということはないわけで、そんな理由ならありふれているかも知れないが、別に感動したわけでもないのに物語らなければならない成り行きが生じていたりすると、何か物語らざるを得ない義務感が生じている場合もあるのかも知れず、そうなるとやはり知ってほしいことがあるから物語ることにはなるのだろうが、なぜ知ってほしいのかといえば、例えば真実を知ってほしいから物語るようなことになるのかも知れず、物語ろうとする人が何らかの真実を知ってしまって、それが当人にとっては重大なことであり、またそれが他の人たちにとっても重大なことだと思われるなら、是が非でもその真実を伝えたい気になって、それを物語るような成り行きが生じるのかも知れず、例えばそれがその真実に驚き感動したのかといえば、そういうことでしかないだろうが、驚く理由は他にもあるだろうし、例えばそれが良い意味でも悪い意味でも何らかの秘密を知ってしまった場合があるわけだが、それが告発という形態をとるなら、何か他人が不正行為をやっているのを知ってしまったことになるのかも知れないが、そういう告発も成り行きによってはありふれているのかも知れないし、そういう意味で何かを物語るのはありふれた行為にはなるだろうが、人は何かを物語ることによって、物語っている内容を他の人に知らせたい他にも、何らかの効果を期待しているのかも知れず、それが物語っている自らをよく見せようとしていて、物語っている自らの存在と行為を他の人に認めてほしいという思惑もあるわけだろうが、それを悪くいえば功利的な打算や自己顕示欲の表れと見なされるような場合もあるだろうし、そういう意味で物語る行為には自己中心的な思惑が伴っている場合もあるわけだが、普通は物語る内容が物語る上では中心的な主題となるわけで、その内容が自身に関することなら自己中心的な思惑が生じるし、またそれが他人や他の物事に関してなら、それに関して語る切実な理由が他に生じていることになるだろうが、その際にその他人や他の物事と自身との関係がどうなるのかといえば、少なくとも何らかの関係がないと物語る動機が生じないはずだが、関係が薄い物事に関して語るとなると、より客観的で他人事な内容となり、逆に関係が濃いほど、よりその物事に関して語っている当人の主観的な思惑や願望が介入してくる度合いが強くなる傾向になるのかも知れないが、どちらを信用できるかといえば、その内容にもよるかも知れないが、より客観的で他人事な内容の方が、気軽に信用してもかまわないような気になるだろうが、果たして語っている当人とは関係が薄い物事について語っている内容が興味深いのかとなると、それもその内容にもよりけりだろうが、やはり語っている当人と関係が濃い内容に興味を引かれる傾向になるだろうし、それが当人自身に関する内容だと、当人による直接の告白となるわけだから、より興味深く思われてくるわけで、またそうなると語っている内容が真実であることがより重要となってきて、真実を語っていると思われるからこそ、その語りに引き込まれてしまうのであり、逆にあとから嘘を語っているのがばれてしまえば、裏切られた思いになって、そのことで激しく非難されるような成り行きにもなるだろうし、そういう意味で当人の告白というのは、それだけで物語の中では特別であり、より重要度が高いように思われてしまうわけだが、なぜそう思われてしまうのかといえば、告白が自分の秘密を自らばらしていることとなり、それだけ勇気を要する行為であり、下手をするとそれが危険を伴う行為であったり、そのことで自分が窮地に陥ることにもなりかねず、そうした危険を冒してまで告白するわけだから、それだけ貴重な証言であるように思われるわけで、そうであるからこそ、自身に関する告白は普通はめったにおこなわれないことであり、何か切実な理由があって覚悟を決めてからでないと、よほどのことがない限りは、自分自身については語らないものだろうが、実際に語ったところで、その内容が日常の何でもないような日々についての、差し障りのない範囲内で語っているようなら、身辺の雑記帳的な日記となって、それほど深刻にならない程度の内容であれば、告白の程度は大したことではなくなり、それを読んだり聞いたりする側も、気軽に接するような感じとなって、別にそれが貴重でも何でもないように思われるだろうが、そうではなく、何かそれが当人にとって重大なことであり、例えば末期がんにかかっていて、余命幾ばくもないことを告白されたりすると、それだけで驚くに値することになるだろうし、しかもそこから生涯の集大成となるようなことをやっていて、それが完成間近で、さらに死期が迫っているような状況なら、それだけより緊迫感が漂ってくるだろうし、そんなことを著名人がメディアを通じて告白でもしようものなら、すぐさま各方面から応援と激励のメッセージが寄せられて、世を挙げてその人をサポートするような体制が整えられるだろうし、そういうこれ見よがしなパフォーマンスを見せつけられると、何かできすぎな話のように感じられるわけだが、そんなエピソードが感動の物語として映画やテレビドラマとなるような成り行きもあるのかも知れないが、果たしてその手の感動話が、そういったエピソードを受け取る側の人たちにとって、それほど切実で重大なことなのかというと、それもその人の身辺事情にもよるだろうが、たぶんそういう話を深刻に受け止めるようなこととして条件反射する動作を、多くの人たちがそれと自覚することなく身につけている可能性はあるだろうし、それも日頃からサブリミナル効果として周知徹底されているメディア現象の類いなのかも知れないし、例えばそうした効果を利用して、心身に重度の障害を持った人を周囲の人たちが助けるようなことがおこなわれていることも確かであり、それがあまりにもこれ見よがしにおこなわれると、かえって目障りになってくるのだろうが、それはそれとして、それとこれとは別な場合もあるのかも知れない。
8月29日「世の中の仕組み」
世の中の仕組みについて、これといってすべての面にわたってうまくいく仕組みがないのは、誰もが薄々勘づいていることかも知れないが、いったん特定の仕組みを導入すると、その仕組みが一定のままで固まってしまい、それを社会情勢の変化に合わせて改善したり変更する行為が間に合わなくなることが、うまくいかなくなることの主な原因なのかも知れず、だからといって社会情勢が変化しないように固定することは不可能だから、結局は社会の変化に合わせて、その都度仕組みを変えてゆく以外はあり得ないのかも知れず、それが間に合わなくなって遅れてしまっても、それでも辛抱強く改善を試みるしかなく、実際に世の中の変化に仕組みが追いつかないことが原因で、世の中の仕組み自体がうまくいかなくなる面が出てくることも、誰もがわかっているはずだが、仕組みといっても様々な仕組みが複雑に入り組んでいるから、その中で特定の仕組みを変えようとすれば、他の仕組みにも影響が及んで、仕組み同士の連携がうまくいかなくなる事態が生じてしまい、そうなってしまう事態を避けるために、ある特定の領域や分野で複数の仕組みを一括して変更しようとすると、それなりに大がかりな制度改革が必要となってきて、そういう抜本的な改革をおこなうのには、それなりの政治力が必要となるから、現状でも政治的な主導権を握っている勢力でないと、そういった大がかりな制度改革はおこなえないわけだが、政治的な主導権を握るということは、現状の制度の中で主導権を握ることになるわけだから、現状の制度に順応した勢力が主導権を握ることになり、そうした勢力は現状の制度に順応した勢力であるから、わざわざ現状の制度を変える必要がないわけで、そういう意味で大がかりな制度改革を訴える勢力が政治的な主導権を握るのが困難な状況になっているわけで、それ自体がうまくいかない世の中の仕組みでもあるわけだが、ではそういう面をどうやれば変えられるかとなると、これといってうまくいくやり方がないのが、現状での改革が困難なところかも知れないが、実態としてはすべての面でうまくいっていないということではなく、それなりにうまくいっている面があるから、現状が成り立っているわけで、実際に現状の中で主導権を握っている勢力にしてみたら、現状のままでもそれほど困っているわけでもないはずだが、現状のままでもかまわない勢力が主導権を握っているのだから、そのまま主導権を握らせておけば、それでかまわないような成り行きにもなっているだろうし、実際にそんな成り行きになっていれば、現状を改革したい勢力にとっては、どうすることもできないわけで、それでもかまわないとなると、それらの改革勢力の存在意義がなくなってしまうわけだが、それでも一方では現状は絶えず変化し続けていて、そうした変化に対して、現状で主導権を握っている勢力も変化に順応しようとしているわけで、そういう意味では現状のままでもかまわないにもかかわらず、実際に情勢が刻々と変化しているから、そんな変化に合わせようとしているわけだし、そういった変化への対応がそれなりに功を奏していれば、変化する現状の中でもそれらの勢力が主導権を握れているはずだが、それがある程度は功を奏しているのだろうし、またある程度はうまくいっていない面もあって、それに関しては批判されている面もあるわけだが、結果的に主導権を握れていれば、全体としてはそれなりにうまくいっていることになり、だから現状が現状のままに推移している現状があり、そんな中でも特定の政治勢力が主導権を握っている現状があるわけだが、それに関して踏まえておかなければならないことは、現状を説明できる理論というのがあり、その説明の内容がもっともらしいと思えば、説明に使っている理論も正しいように感じられるわけだが、現状を説明する上で必要とされる理論の正しさは、現状を成り立たせている前提条件の中では正しいように思われるということであり、それとは別の条件の中では正しいとは限らず、あくまでも現状を説明するのに使われる範囲内で理論の正しさが醸し出されていて、それ以外の状況の中で正しいかどうかは、実際にその状況に理論を当てはめて説明してみないことには、正しいかどうかはわからないだろうし、別の状況の中では別の前提条件が絡んでくるとすれば、その前提条件を考慮した上で理論的にその状況を説明してみて、なるほどそこでも理論が当てはまるようなら、そんな状況の中でもその理論が使えることが証明されるわけだが、その状況の中ではうまく説明できないようなら、その理論はその状況の中では使えないということであり、あくまでも理論の正しさというのは、状況の説明に使える範囲内で正しいということであり、そういう意味では状況を成り立たせている前提条件に依存しているわけだが、逆に言えば、何らかの状況を説明する上で何らかの理論が都合よく使えれば、それが都合よく使える範囲内では、その理論の使い勝手がいいわけで、そういった状況の説明の中で都合よく使える範囲内では、その理論が正しいように思われるわけで、結局理論というのは、何らかの状況の説明に使うには都合の良いアイテムであり、そういうところで何らかの理論が重宝されているようなら、そういう範囲内で理論の効果的な運用ができていることになるだろうし、それに関して例えば世の中の仕組みをうまく説明できる理論があれば、そうした説明がうまくいっている範囲内では、理論の正しさが実際に多くの人の間で信じられているわけだが、そういう実態に抗して、理論の正しさが疑われるような事例を誰かが持ち出してくれば、そんな事例の中ではその理論は通用しないことになるわけで、そういうことを考慮するなら、世の中の変化に応じて、その説明に使われる理論も別のものに換わっても何ら不思議でもないだろうし、要は何らかの理論を使って状況をもっともらしく説明できれば、それで理論としての役割は果たされていることになるわけだ。
8月28日「対話が成り立つ条件」
人と人の間で成り立つ共通の了解事項となると、とりあえず認識が一致したり見解が一致すれば、それなりに了解できる範囲も広がるかも知れないが、それにはお互いに直接言葉を交わしてみないことには、わからないことが多いだろうし、それとは違って他人が記した文章を読んで何がわかるかとなると、文章の内容からわかることがそれなりにあるだろうが、それによって文章の作者と対話しているわけではなく、文章を読んだからといって作者と同じ認識や見解になれるとも限らず、それはそれで直接の対話とは違う体験となり、文章の量が膨大なら、情報量としても直接の対話からよりはるかに大量の情報を入手できるだろうし、それによって文章の対象となっている物事についての理解も深まるはずだが、それが他人の理解と共通の理解となるかというと、それはあくまでもその人が文章を読んで理解した限りでのことだろうが、それでもその文章を読んだ他人と理解を共有できる可能性はあるだろうし、また少なくとも文章の作者が文章の対象となる物事について理解したことが、文章の内容に反映されているわけだから、文章の作者と読者との間で、文章の対象となっている物事に対する理解が一致する面があることは確かだろうが、例えば読者がその文章の内容や作者に対して批判的な意見を持っていれば、作者の物事に対する理解に関して難点や欠点を指摘するような成り行きにもなるかも知れないし、そうなると作者と読者とで認識や見解が一致していないことになるわけだが、文章の作者がまだ存命中なら、それに関して批判的な読者との対話が実現する可能性もあるだろうし、そうした対話を通して作者に対する批判が妥当なのか否かに関して判断するような成り行きになるのかも知れないが、その中でお互いの主張がかみ合わずに平行線に終われば、その判断はそうした討論を聞いたり読んだりした第三者に委ねられるかも知れないし、それに関してはお互いに文章を書いて、相手に対する批判について記すような成り行きにもなるのかも知れず、そういう形態での対話もあり得るだろうが、そんなやりとりから何がわかるのかとなると、それ以前に両者にとって平等に文章を記す機会が与えられているかが問題となるかも知れないが、その中でお互いに相手の批判に関して真摯に答えているかも、どちらの主張を支持するかに関しての判断材料とはなるだろうし、またお互いの主張の中身に関して、どちらの主張を支持できるか、あるいはどちらも支持できないこともあり得るだろうが、果たしてそういったことを判断する第三者の立場というのがあり得るかとなると、そう都合良くそんな立場には誰もがなれるわけでもなく、またお互いがお互いを平等に批判できるような環境もなかなか実現しがたいのかも知れないし、普通はそうした討論自体がおこなわれないことの方が多いだろうし、批判したい側が批判しっぱなしになるのと同時に、批判されている側も、相手が何らかの社会的な権威でない限りは、下手に相手にして批判する側を利するよりは、批判を無視して関知しない場合の方が多いだろうし、またそれを判断する第三者的な立場というのも、批判している側とされている側のどちらもが、メディアから注目されない限りは特に興味を持たないだろうし、またその批判自体も誰もが理解して共感できるような内容でないと相手にしないだろうし、そういう面を考慮するなら、少なくともそれが世間的な関心事であることが、そういった討論の舞台が成り立つ条件となるのかも知れないが、それとは違って私的な範囲内であれば、個人と個人とのやりとりの範疇で、周囲の社会にはほとんど影響を及ぼさない範囲内でそんな対話が成り立つ場合もあるだろうが、それも双方がそんなことをやるメリットを感じなければ、あえて意見を戦わせるには至らないだろうし、共同で何かをやる機会でもない限りは、認識や見解が一致しなくても、特に問題とはならないだろうし、そういう意味では何かしら関係が生じる範囲内でしか対話する成り行きとはならず、関係が生じたとしても、それ以外のことは関知しないだろうし、仕事上の関係では仕事以外で特に相手の機嫌を損ねるようなことはいわないし、交友関係であっても、それほど面と向かってお互いの主義主張を戦わせるような成り行きになるのはまれなことかも知れないし、それよりは認識や見解が一致するような人とつるむ場合の方が多いだろうし、それに関して良くありがちなのは、そうやっておいて集団で敵と見なした個人に対して攻撃を仕掛けるようなことがおこなわれるわけで、そういう意味で正々堂々としたやり方を嫌う傾向にあるのかも知れず、またそれに輪をかけて敵の嫌がることを陰湿に攻めるようなことをやりたがり、わざと争点をそらして、敵の主張とは別の方面から、不快なデマを拡散するような誹謗中傷を仕掛けるわけで、そうなると攻撃相手を同じ人間とは見なしていないことになるだろうし、かえって認識や見解が一致しては困るような心境になり、攻撃理由が相手の主張が間違っているからというよりは、相手が人間以下のひどい存在だから、こちらがどんなにひどいことをやってもかまわないような論理を持ち出すわけで、もはやそうなってしまっては対話などいらないし、そうやってあらかじめ対話を拒否しておいてから、自分たちに都合のいいことしか主張せずに、攻撃相手のもっともらしい主張はすべて無視して、しかも相手の揚げ足取りに終始するような成り行きに持ち込んで、ひたすらそういうことをやりたがるから、とりつく島がないわけで、そんなやり方が通用するような世の中になってしまえば、相手の立場を尊重するようなことはおこなわれなくなってしまうわけだが、そういう状態から対話を成り立たせるには、双方ともにそれなりの妥協や譲歩を強いられることになるだろうし、対話することによって双方がメリットを感じられない限りは、妥協も譲歩もあり得ないのかも知れないし、そういう面であまり肯定的な幻想は抱かない方が無難であり、心身の面でも経済的な面でも、それなりに余裕がないと対話そのものが成り立たないのかも知れない。
8月27日「文化の観光化」
地域的な独自性というのは、その地域に特有な過去の歴史的な経緯から生じてくるわけだが、そこに特定の宗教や民族などから影響を受けた集団意識が形成されていると、文化的にも生活習慣などの面からも、他の地域とは異なる独自の社会形態が生じているように見えるわけだが、果たしてその地域の人々がそういった形態にこだわる必要があるのかとなると、すでにこだわっているから独自の社会形態が存続しているわけだが、それを今後も存続していくべきか否かはなんとも判断がつかないところかも知れず、少なくとも部外者はそれを判断する立場にはないだろうし、その地域の人々としては、成り行きによっては存続にこだわる必要がなくなってもこだわろうとするのかも知れないし、それも人によって事情が違うだろうし、立場上こだわらざるを得ない人と、特にこだわらなくてもかまわないような人と、どちらとも言えないような人と、他にもそういうところで様々な成り行きが生じる可能性もあるだろうが、例えばよくある成り行きとして民族的あるいは宗教的な弾圧などが起こると、意地でもこだわらざるを得なくなるだろうし、また特定の民族や宗教が国家的な基盤になっているような場合には、政府などの行政機構がそうした傾向を積極的に推進するような成り行きにもなるだろうが、そうなると国内に別の民族や宗派などが存在しているとややこしい事態となるわけで、そんな事情を踏まえるなら、公的な面ではなるべくその手の地域的な独自性は薄めた方が無難なのかも知れないが、そういう面で主導権を握っている勢力が、国家主義的に地域的な独自性に凝り固まっているようだと、そうもいかなくなるわけで、それが場合によっては紛争の火種となって、政情不安を招くことにもなるだろうし、実際にそれが原因で国内対立などが顕著になっている地域も世界にはあるわけで、そこでもそうした争いを利用して勢力の拡大を図ろうとするような思惑が働いていると、そうした紛争が絶えることはなく、慢性化してしまうわけだが、それが政治対立や武力衝突などの争いではなく、観光など文化的な経済資源などに利用できれば、政治的な権力などの面で空洞化を伴いながらも、経済面ではうまい具合に折り合いがつくわけだろうが、それはそれで観光客目当ての功利主義への変質だから、そうした商売に対する抵抗感も出てくるだろうし、そうなってしまった時点で独自の社会形態自体が見世物化してしまい、それが精神的な面で聖から俗への堕落を強いられて、人によっては受け入れがたいような心理状態になるのかも知れないが、文化だけではなく自然も観光資源として利用されやすく、元々そういった景観を神聖視するような成り行きというのが、人の生活から逸脱する余分な発想であり、そんなものを観る余裕が生じているということは、それだけ余暇が生じていることになり、生きていくのに必要な物や情報やサービスの生産と流通と消費が十分に間に合っていて、それ以上に余分な何かが生じてくると、それを余暇に利用しようとするわけで、それが一方では神殿や寺院などの神聖な構築物へと向かうと同時に、もう一方では同じ構築物が世俗的な観光資源に利用されるわけだから、そういう意味ではそこで聖と俗とが表裏一体化しているわけだが、どちらも見世物として観ることが主な利用法でしかなく、そういうところが生きるために物資を消費するのとは異なる面であるわけだが、文明に毒された人はそういう余分なことをやっていることを誇りたい気分になるわけで、そんなことができる自分たちの豊かさを他人に見せつけたい気になるのだろうし、それはスポーツや音楽や他の娯楽などにも言えることだろうが、何かを誇るということ自体が生きていくのとは違う余分な動作であるわけだから、それが本質的なことだと思い込むこと自体が本末転倒の倒錯的な事態とも言えるわけだが、そういうことをやるのが文化人や文明人の本質であるとも言えるだろうし、経済的な豊かさから生じる余剰物としての文化や文明の中に宗教や民族などに関係する物や情報やサービスなども含まれていて、そういう物事を観て体験することで物質的な面以外でも心も豊かになったように思われるだろうし、そういう面が人としての本質を物語っているようにも感じられるわけだから、そこに微妙で逆説的な精神の転倒が成り立っているのかも知れないが、一方でそういう面を国家や民族や宗教などの区分で区切って捉えると、それに応じたアイデンティティーを確立できるわけだが、そういった同一性の中に自我を押し込めようとすると、同じカテゴリーを共有する人と別のカテゴリーに入る人との間に、本質的な違いがあるかのような錯覚が生じることは確かであり、それを錯覚だとは思わないから、平気で〜人という表現を使って、その違いを当然のことのように主張してしまうわけだが、その違いが余分で枝葉末節な違いであるほど、それを逆説的に強調したがるような傾向にもなるわけで、それが文化的な違いとしての〜人と〜人の違いとなるわけだが、それは同時に宗教的な違いや民族的な違いともなり、さらに国家的な違いともなるわけだろうが、何かそこに本質的な違いがあるかのように思い込みたいという感情が、時として違いがあるはずのカテゴリー分けされた人たちによる対立や抗争に発展するわけだが、それは同時に違いではなく共通の何かを巡っての対立や抗争にもなっていて、その何かというのが、どちらの言い分に理があるかということにもなるのだろうが、その大抵が自分たちの言い分が正しく相手の言い分が間違っていることになるわけだが、ある意味ではどちらの言い分も正しく、別の意味ではどちらの言い分も間違っているとすれば、何かそこで錯覚が生じているとしか言えなくなってしまうわけだが、たぶんそれは錯覚であると同時に真理であるとも言えるだろうし、そもそもがそういうカテゴリー分けをすることによって、そんな錯覚が生じてきて、そういうカテゴリー分けすることが、両者の違いを強調することに関しては正しいやり方なわけだが、たぶんそれ以上でも以下でもないことが、観光と同じで観ることから生じる錯覚なのかも知れない。
8月26日「合理的なやり方」
何かをやるに関して、その人にとっての合理的なやり方というのが、他の誰にとってもそうだとは言えないようなら、合理的なやり方に関して、普遍性がないことになるのかも知れないし、何が合理的なやり方かに関して、人によって違いがあるとすれば、果たしてそれが本当に合理的なやり方なのか疑問に思われるかも知れないが、理に適ったやり方が合理的なやり方だとすれば、人によって信奉する論理が違えば、それに伴って理に適ったやり方も違ってくるはずだが、多くの人が共通の論理に従って行為すれば、合理的なやり方も共通のやり方となるはずだが、他人と同じことをやっても、うまくいく人とうまくいかない人が出てくる可能性はあるだろうし、合理的なやり方なのにうまくいかなければ、合理的とは言えなくなるかも知れないが、果たしてうまくいくやり方が合理的なやり方なのかというと、必ずしもそうとは言えなければ、ならば合理的なやり方を採用する必要があるのかとなるわけだが、合理的なやり方であればうまくいくと信じることが大切に思われることもあるだろうし、どのようなやり方でもうまくいくときといかないときがあるとすれば、最低限の前提として、それが合理的なやり方になるように心がけることが大切となれば、それで多くの人が納得するかも知れないし、感覚としてどうしても合理的なことをやろうとする傾向があるのかも知れず、なぜそうなってしまうのかといえば、言葉でやっていることを説明する際に、他人を納得させるには、他人から信用されるようなやり方でやっていることを示さなければならなくなるし、その際に言葉で説明できるやり方となると、どうしても合理的なやり方になってしまうだろうし、うまく説明できないようなやり方だと他人から納得してもらえず、信用されなくなってしまうから、言葉でうまく説明できるやり方となると、自ずからそれが合理的なやり方になってしまうわけで、そういう意味で物事の合理性というのは、言語と結びついている可能性があるわけで、そうなるとたとえうまくいくやり方であっても、それを言葉でうまく説明できなければ、他人から信用してもらえないし、納得してもらえないようなことになってしまい、だから魔法だとか超能力だとかは、信用も納得もしてもらえないやり方になってしまうわけだが、その人の独自の勘とかも、その人にだけ通用するようなやり方になってしまうだろうし、そういう意味では他人も同じようにできるやり方が合理的なやり方になるのかも知れないが、習得するのにそれなりに才能が必要となると、中にはどんなに努力してもできない人が出てくるだろうし、そうなると合理的であるかないかとは別次元の問題となってくるわけだが、そこでも産業技術や科学技術などの助けを借りて、そうした技術を使って作られた道具や機械を使うことで、誰もができるようになることが目指されるだろうし、そうやって言葉で説明できる範囲内で、さらにそれに付け加えて図面によって説明されるような成り行きにもなるだろうし、またそれが一人でできることの他に、集団で協業してやるようなことも出てくるし、そうなるとますます集団内で意思疎通を図るのに言葉の重要度が増してくるわけだが、技術的には確かにそうなるにしても、そういう方向ですべてがうまくいくわけでもないだろうし、中にはいくら言葉で説明しても従ってくれない人が出てくるわけで、また集団で協業して何かをやるにしても、その中で主導権争いが生じてしまうと、集団内がうまくまとまらなくなるだろうし、結局は合理的なだけではうまくいかず、功利性や魅力や欲求の充足などが加味されないと、それをやってくれない場合も出てきて、しかもそんなふうにして何かを行う成り行きになってしまうと、倫理だとか道徳などの面で問題も出てくるだろうし、そんな経緯でなかなか合理的なことができなくなってくると、人の心が荒廃してくるわけで、実際に合理的なやり方をわざとねじ曲げて、特定の人や集団に利益が集中するように工作したり、そういった不正行為がはびこり出すと、真面目に働くのが馬鹿馬鹿しく思われてしまうだろうし、そんなことよりも人をだましてでも利益を得ようとする傾向が強くなってくるわけで、しかもそんなことをやっているような人や勢力に限って、自らが正義を実行しているように装うから、そういった偽善や欺瞞の徒が世の中の主導権を握ると、社会全体が衰退傾向になってくるのかも知れず、それも他との相対的な比較においてそういう傾向になってくるから、以前はそれなりに栄えていた地域や国などが衰退してきた傾向が見受けられるとすれば、やはりそういった地域や国の中では、誰もが納得して信用できるような合理的なやり方がおこなわれなくなってきたから、そこからやっていることに対する疑問や疑念が生じて、それに伴って人々の士気が下がってきて、そんなことが原因で、他の地域や国と比較して相対的に衰退していることになるわけで、それは特定の分野でそうなっているということではなく、社会の全体的な傾向としてそんな兆候が現れていることになるのかも知れず、またそういう傾向というのは、世の中で主導権を握っている勢力などには制御できないことであり、何よりもそこで主導権を握っている勢力の傾向がそうなっているわけだから、自分たちのやっていることを改められないからそうなっていて、そんなことをやりながら実際に主導権を握っているのだから、改めるわけにはいかない事情が生じているわけで、それを改めてしまったら主導権を他の勢力に明け渡すことにもなるだろうし、そんなわけでいったんそうなってしまった傾向を改めるには、現状で主導権を握っている勢力とは別の勢力が台頭してくる以外にはやりようがないわけだが、果たしてそれが実現するかどうかについても、いかにして合理的なやり方を社会に定着させられるかが鍵となってくるのかも知れないが、現状でそうはなっていなければ、それよりも優勢となっているやり方が、世の中で支配的となっているのだろうし、それが功利的なやり方になっているのも、よくありがちな現代的な傾向なのではないか。
8月25日「深刻な状況」
たぶん現状の中で深刻な事態というのがどの程度の事態なのかといっても、人によって感じ方も捉え方も異なるのが当然だろうが、ある程度はそれについて意見が一致している場合もあり、そうであればわざと深刻ぶっても、それがわざとであることは誰もが承知していることにもなるだろうし、またそれほど大したことでもないのに多くの人が示し合わせて深刻ぶって、そうやって状況を人為的にコントロールしたがるような成り行きもあるのかも知れず、そういうことまで含めて、集団による印象操作のような行為が繰り返しおこなわれていると、客観的な状況の程度や深刻さというのが誰にとってもわかりづらくなることは確かだろうが、実際に状況自体が大したことはないと、そんな状況を人為的にコントロールすること自体も大したことではなく、では何のためにそんなことをやっているのかとなると、ただ単に状況を大げさに見せかけたいだけであって、それによってそれとは別の事態を覆い隠そうとしているのかも知れないし、しかもそんな事態までが大したことがないと、さらに状況をコントロールしようとする意図がわからなくなってしまうわけだが、そういう場合にはそんな状況の中で誰がどんな勢力が主導権を握っているわけでもなく、また状況を人為的にコントロールしようとする意図も希薄なのかも知れず、ただその場の成り行きとして、何かを強調しなければならない成り行きというのがあって、強調したいことが実際に大したことではない状況であると、それを真に受けてくれないわけで、そうなるととりあえずは状況の程度を真に受けてもらうためには、深刻ぶらなければならなくなるだろうし、本当に深刻な状況でないと、それを知らせる意味がないような状況となってしまうから、そういう理由からも深刻ぶるような成り行きが生じるのかも知れないが、いくら深刻ぶってみても実態が伴っていないようなら、大抵は嘘を見破られてしまうだろうし、実際に真に受けてもらえないようなら、状況のコントロール自体も空振りに終わってしまうはずだが、別にコントロールされていないことがばれても取り立ててまずい事態でもなければ、そのままの状態で放置されてしまうだろうし、そんな状況になってしまうと、それを知らせて人々の関心を引きたいメディアなどは、一応は深刻ぶって伝えようとはするだろうが、その実態や背景などが、どう考えてみても深刻な状況とは思えなければ、それほど身を入れて伝えようとはしないだろうし、そういう雰囲気を敏感に察知できれば、ただ深刻ぶっているだけだということがわかってくるのかも知れず、しかもそれが見え透いた嘘であってもかまわないような状況となっていたりもするわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、本当に深刻な状況であれば、ほとんどの人たちがそれに気づいていないことが、事の深刻さを物語っているわけで、その逆に多くの人たちが深刻さに気づいているように見えてしまうこと自体が、本当は深刻でないことの証拠となってしまうのかも知れず、多くの人たちが事態への懸念を表明していること自体が、それだけで安心感を伴ってしまい、実際に心配するような状況であることが、心配するだけの余裕があることを示しているだろうし、本当に深刻な状況であれば、心配するような余裕はないのかも知れないし、誰もが状況に関して安心しきっていること自体が、それこそが真に深刻な状況だとも言えるわけで、そういった逆説的な成り行きを考慮に入れれば、本当に深刻な状況であれば、状況の人為的なコントロールなどできはしないだろうし、また何が深刻な状況であるかがはっきりしていないこと自体が深刻な事態である場合もあるわけだが、はっきりしていても深刻な事態である場合もあるだろうし、そうした深刻であるかないかの条件自体がはっきりしない場合もあるわけで、さらに深刻であろうとなかろうと、どちらでもかまわない場合さえあるだろうし、実際にそんな感じになってくると、どうでもいいようなことになってくるのかも知れないが、そうなっている時点で、事の深刻さを知らせること自体が、それほど重要なことでもないことになってしまうわけで、そんなふうに事態が進展してしまうと、状況的に何が何だかわからなくなってしまうのかも知れないが、現状がそんな感じだとすれば、世の中の状況自体が空回りしていることにもなるのかも知れず、すでに何も実質的な中身を伴っていないわけで、そんな空疎な状況の中で、何かを伝えようとする言葉だけが実体や実感を伴わないまま、情報としてメディア経由で行き交っていることは確かだが、それがことごとく真に受けるようなことではなく、ただそのままやり過ごしておいてもかまわないようなことであり、実感としては情報だけが上滑りしているような感じなのだろうが、情報発信している媒体も、そのことに関してどういう姿勢で伝えればいいのかわからずに困惑するしかないのかも知れず、実感が全くわいてこないようなことを、言葉の内容だけはいかにも深刻ぶりながら伝えるしかないのかも知れないが、それを受け取る人たちが、全くそれを真に受けるそぶりすらも見せないわけだから、それがどういうことなのかうまく表現ができていないような感じであり、そんな状況の中で何をどう伝えても嘘っぽく感じられて、いったい客観的な現実がどうなっているのか皆目見当がつかなくなっているのかも知れないが、不安に駆られて事を大げさに伝えようとすれば嘘っぽくなってしまうわけだから、すべてが何か冗談のようなことだと見なすしかないのかも知れず、それも本当に冗談だと見なしてしまうと、受け取る側が真に受けてくれないから、やはり深刻な調子で伝えるしかないにしても、そう伝えてしまうと今度は嘘っぽく感じられてしまうわけだから、どちらにしてもうまく真実が伝わらないような成り行きになっているのかも知れず、どちらでもないような伝え方を編み出さなければならないのかも知れないが、それができないから、もはやお手上げ状態なのかも知れないが、それでもかまわないとなると、どのような伝え方であってもかまわないことになってしまうのかも知れないし、実際にそんな伝え方になってしまっていて、伝えている側もそれを受け取る側も、実際に伝わっている内容に関しては、それを真に受けるわけにはいかないような成り行きとなっているのかも知れない。
8月24日「現状をもたらしている要因」
世の中の状況にはその中で活動している人や団体の動向も含まれるから、それに関して大雑把に把握している状況というのが、特定の人や団体の活動とは無関係ではないにしても、より狭い分野で凝り固まって活動している人や集団にとっては、直接世の中の状況に関係しているわけではないようにも思われるかも知れないが、その一方で特定の地域情勢や産業分野やメディアなどの動向が、世界全体の情勢に少なからず影響を及ぼしている面もあるだろうし、中にはそんな情勢をもたらしているのが特定の人や団体などの活動となる場合もあるわけで、例えばそれがどこかの国の強権的な独裁者であったり、その政府であったりすることもあるだろうし、またそれが何らかの革新的な産業技術で成功した企業であったり、そのカリスマ的な企業経営者であったりすることもあるだろうし、さらにそれが強権的な政府や独裁者に抗議する無名の市民たちであったり、また武装蜂起する群衆であったり、それらを束ねる武装組織の指導者であったり、そんな人々に思想的な影響を及ぼしている宗教指導者であったり哲学者や思想家であったりするのかも知れないし、あるいはまた特定の企業が売り出す商品を購入する消費者が、そんな商品を使うことで人々の生活習慣に革命をもたらすこともあるだろうし、あるいは特定の商品とは無関係なエコロジーなどの自然主義思想が人々の生活習慣を変えることもあるだろうが、そこにメディアが絡んでくると、それが見世物的な大衆娯楽であったり、スポーツや音楽や大衆芸能などであったり、それらを伝えるテレビや新聞などの大衆メディアが世の中に多大な影響を及ぼしていることになるだろうし、それが近年ではインターネットに関連するメディアであったりもするのだろうが、そういったことがすべて政治に収斂しているわけでもないし、またそれらがすべて経済的な事情をもたらしているわけでもないわけだが、それを特定の地域情勢である日本の状況に結びつけようとしたり、またそれに関連して特定の人物や企業や政府やメディアなどに結びつけようとすれば、何かそこからそれらの対象を批判するような言動を導き出すことにもなるだろうが、そういった言動の中で批判の対象となっている人物や企業やメディアや日本政府や日本の首相などが、批判を免れるにはどうしたらいいのかとなると、結果的に批判されているわけだから、事実として免れようがないわけだが、そうやって批判に至った経緯を考えると、そういった人物や企業やメディアや日本政府や日本の首相にはどうすることもできない面というのがあっただろうし、それらの対象には結果的にどうすることもできなかったから、現に批判の対象となっているわけだが、それを運命だとか宿命だと見なしても、何を述べていることにもならないだろうし、そこに批判の内容として、こうすればいいとか、こうすれば良かったとかいう主張が出てくるわけで、実際にそうやらなかったから批判の対象となっているわけだが、逆に批判の対象となるようなことをやったことが、現状をもたらしている面もあるわけで、そんな現状を肯定しようとすれば、それらの批判とは真逆の主張をする必要が出てくるかも知れないが、たぶんそうではなく、確かに何かをやった結果として現状がもたらされているわけだが、それをやっただけで現状がもたらされているとは限らない面もあるのかも知れず、そういうことをやった以外にも、まだ現状をもたらすような他の要因があるのかも知れないし、それに気づかないからこうすればいいとか、こうすれば良かったと言えるのかも知れないし、実際に他にも現状をもたらしている要因があることに気づけば、批判の内容がそれとはまた違った主張になる可能性もあるだろうし、そういうことまで考慮すれば、それらの批判を真に受けるわけにはいかなくなってくるのかも知れないが、そうであっても現状をもたらしているすべての要因を知ることなど物理的に不可能な面もあるだろうから、批判がもっともなことだと思うなら、批判を支持したり信用してもかまわないだろうが、批判に疑念を抱くなら、疑念を抱く理由について考える成り行きになるだろうし、どちらにしても現状を肯定するには、肯定できる要因を探す必要があるのかも知れないが、それが現状に対する批判的な言動から求まるとすれば、何か逆説的に思われるかも知れないが、その批判的な言動が見逃している要因を探し出せれば、それが現状を肯定できる要因ともなるだろうし、厳密には肯定するのでも否定するのでもなく、現状をそのまま受け止めることにしかならないのかも知れないが、何かそういう意味で現状を現状たらしめている要因があるのかも知れず、それを見逃していることが現状に対する批判をもたらしていて、それが批判に対する批判をもたらすわけでもないだろうが、批判をもたらす要因というのも、批判の対象となる人物や団体だけではなく、中には批判をはぐらかすような要因というのも、批判者がそれに気づかないことで批判を成り立たせている可能性もあるわけで、そういった要因に気づくことが、現状へのより一層の理解を深めることにつながるだろうし、それを利用して批判者を封じ込めるというよりは、さらなる現状への正確な批判に結びつけたり、そういう要因も含んだ複雑かつ複合的な現状の構造を把握することにも結びつくだろうし、それは構造だけではなく、現状へと関わってくる多方面からの様々な作用や影響の複雑な絡み合いを把握することにもなるわけで、そんなふうにしてわかりやすくて安易な現状への批判とは違う見方や考え方を導き出せれば、それだけ現状への対処や対策も、より綿密かつ効果的に機能するようになるのかも知れないし、絶えずそういったことに配慮していれば、批判の対象となっている人物や企業や政府やメディアなどとは違うやり方が実現できる可能性も出てくるのではないか。
8月23日「裏切られた結果」
物事の否定的な面というのは、捉え方によってはそれが肯定的に見なされることもあるのかも知れず、実際にその物事を利用して利益を得ている人や集団からすれば、利益を得られる面ではそれを肯定的に捉えているはずだが、ではなぜそれに対する否定的な見方があるのかといえば、それによって何らかの弊害が生じていれば、否定的に捉えるのも納得できるはずだが、全面的に弊害ばかりが生じていれば、そもそもそれを利用しようとはしないだろうし、実際に人や集団が利用している物事であれば、利益と弊害の両方が生じていて、弊害よりも利益の方が勝っていれば、それなりに利用する上でメリットがあるはずだが、たぶん利益と弊害を単純に差し引きの要素として比較できない場合があるだろうし、利益が金銭的な利益だとしても、弊害の方は金銭的な損失ではなく、それが健康上の被害であったり、単純には金銭に換算できなければ、いくら心身に害悪をもたらすとしても、金銭的な利益の方が優先される場合もあるだろうし、また金銭的な利益が出るといっても、利用しているすべての人や集団に金銭的な利益がもたらされるわけではなく、中には逆に金銭的な損失を被る人や集団も結構多ければ、そんな人や集団にしてみれば、割に合わないように思われるときもあるだろうし、それでもそういう面で金銭的な損失と引き換えにして、何らかの欲求や欲望の充足がもたらされれば、それで納得するしかない場合もあるだろうが、そんなふうに物事に関わっている様々な人や集団にとって、金銭的な損得や心身の弊害や欲求や欲望の充足などのように、多角的な方面から様々な作用や影響がもたらされていれば、単純で一面的な判断では不十分となるだろうし、そうなると人や集団によっては立場や関わり方の程度や傾向から、それに対する思惑の違いも表面化してくるだろうし、実際に一筋縄ではいかない対応を迫られて、そういうところで立場や捉え方の違いから、各々の経緯や事情に合わせてそれを肯定的に捉えたり否定的に捉えたりすることがあっても、そういった物事が継続的に社会の中に存在していて、しかもそれが何らかの機能を果たしている実態があれば、場合によっては必要悪のような捉え方であっても、その存在と機能を認めるような成り行きになってくるのかも知れず、そうやってはっきりした弊害が指摘されてそのことで批判されながらも、それをやめさせようとする圧力をはねのけながら続いている物事というのも結構あるのかも知れず、それを実際に誰もやめさせることができなければ、弊害を指摘したり批判している人や集団が勢力としては劣勢を強いられていることにもなるだろうし、そうなっていると批判されている側の方が優勢となっていて、たとえ批判内容が正しいように思われても、批判が有効に機能していないわけだから、批判している側やその支持者たちにとってはつらい状況となっているだろうし、それなりに説得力のある批判をおこなっているのに、それが実を結ばないという事態が不条理に思われるかも知れないし、そういうところで何か世の中の有り様が間違っていると思われてくるかも知れないが、そこで必ずしも正しいと思われる主張がまかり通るわけでもないのが、社会のややこしいところだろうし、それよりはその場で主導権を握っている勢力がたとえ間違っているようなことをやっていても、それで何とかなってしまう状況というのも、結構あるわけで、そういう状況が多くの人には不快に思われても、それが不条理であるとか間違った状況だとかいうのでもないのかも知れず、社会にはある程度の許容力というのが備わっていて、そこでおこなわれている物事に関して、それなりに弊害や不具合が生じているとしても、実際に犠牲者をそれなりに出しながらも続けられる成り行きというのもあるだろうし、そういうことに関してはある程度の犠牲者がつきものである場合には、確かに犠牲となった人にとってはたまったものではないが、それなりにだまされたり誘惑されながらも誰かが犠牲者として選ばれるような成り行きがあり、もちろんそうした犠牲者を助ける試みもおこなわれてはいるだろうが、そういった試みによってもすべての人が助かるわけでもないだろうし、実際に助からずに死んだり破滅してしまう人もそれなりに出てしまうから、そういうことに対して批判や非難が絶えないわけだろうが、それが一か八かというほどでもないにしても、一応は賭け事的な面もあるわけで、すべての人に利益がもたらされるような成り行きでないことは、はっきりとは自覚していないまでも、誰もが薄々ながら勘づいているだろうし、またそういう危険な面があるから魅力を感じるわけで、虎穴には入らずんば虎児を得ず的な面がないと、社会的な成功を実現できないのかも知れないし、そこに至るまでの間に数多くの失敗があるから、成功した人がひときわ輝くことができ、実際に栄光を手にするわけで、そういった挑戦の過程があるところでは、必ず失敗の危険がつきまとっているわけで、そんな失敗に伴って、ある程度の犠牲者が出るのも仕方がない面があるにしても、たぶん誰もがそういった挑戦に巻き込まれるような成り行きにはなっていないだろうし、中にはそれが何らかの挑戦だとも気づいていない場合もあるわけで、何に挑戦しているのかもわからないまま、おかしな事態に巻き込まれてしまえば、それこそ理不尽に思われるだろうが、何らかの行為をやった結果として利益を得られるような世の中の仕組みがあるところでは、それとは逆に損害や被害がつきものであることも承知しておかなければならないだろうし、そういうところでそれなりに損得を伴った結果に誰もが巻き込まれているはずなのかも知れないが、それをにわかには自覚できないような成り行きにも同時に巻き込まれているのかも知れず、そこで正しい行為をおこなえばそれなりにうまくいって、その結果としてある程度の利益も入ってくるような仕組みになっているはずだと思いたいのかも知れないが、実際にはそうはならない成り行きというのもあって、それがやっていることがうまくいかなかったことになるはずなのだろうが、実際にはうまくいっていないことにも気づきづらいし、それ以前にうまくいく方法というのがあって、誰もがその通りにやっているつもりではあっても、結果的に誰もが利益を得られるわけではないし、それをやったとしても必ずうまくいくわけでもないし、そこに不確実な面があることは誰もがわかっているはずなのだろうが、それをやろうとすると、うまくいくことを前提として計画が組まれてしまい、実際に計画通りにやっているつもりではあっても、なぜか計画通りには利益がもたらされないわけだ。
8月22日「同質化と均一化」
人の人格や性格は、その人に特有の経緯や生い立ちなどから生じていて、他人にはない固有の傾向や特性を示しているようにも思われるが、その一方で社会の中では誰にでも関わってくる共通の物事や人や集団などとの相互作用から、同じような人格や性格が形成される面もあるから、そんなある程度は他人と共通の経緯や生い立ちによって、誰もが特異で個性的な人格や性格の持ち主になるわけでもないのは当然だとしても、むしろほとんどの人が似たようなキャラクターになっている可能性の方が高いだろうし、それを類型的に分類すれば、それなりに典型的な特徴を持ち合わせているのかも知れないが、そんな特徴が取り立てて社会の中で目立つわけでもなく、またそんな似たような特徴を持ち合わせたどこにでもいるようなありふれた人が大多数を占める社会が形成されていれば、それによってある程度は同質な社会が形成されていて、別にそれ自体は何でもないようなことでしかないだろうが、そんな社会の中でもそれなりに特異な事件が起こる場合もあるだろうし、実際にそんな事件が起これば、事件を起こした人物の特異性を強調するような報道もされるだろうが、その特異性というのが、どこにでもいるようなありふれた人に見受けられるような傾向の延長上に生じる相対的な特異性であれば、誰もが条件さえ整えばそんな事件を起こす可能性があるということにもなるだろうし、そうであればそんな事件自体が、どうということはない程度の事件でしかないことになるのかも知れないが、実際にそのどうということはない程度というのが、ある意味で深刻な事態をもたらしているとしても、実際にワイドショーなどのネタになるような事件というのは、そんなものがほとんどかも知れないし、そんなふうに何らかの事件がメディア上で話題となること自体が、世の中で生じているありふれた現象でしかないわけだろうが、そんな何でもないような現象が日々の話題となることで、それを共有する人の意識に世間との一体感をもたらすのかも知れないし、それ以外に何かうがった見方をする必要はないのかも知れないが、それを情報の生産と流通と消費という観点から捉えるなら、そんな情報に多くの人の興味が向くように仕向けられていることは確かだろうし、何がそうなるように仕向けているのかといえば、直接的にはメディアが仕向けているわけだろうが、メディアとしてはそれが当然のことであり、多くの人が興味を持つような話題を優先して取り上げているはずで、それが意図的かつ恣意的に興味を持つように仕向けているというよりは、どのような話題が人々の興味を引くかはある程度は事前にわかっていることだから、それを優先的に取り上げているに過ぎないことだろうし、それが興味を持つように仕向けていると言われると、何か釈然としないものがあるだろうが、少なくともそれを各メディアが繰り返し報道している状況があれば、一応は興味を持つように仕向けていることにはなるだろうし、それだけ人々が知ってほしい話題となるわけだろうが、なぜ知ってほしいのかとなると、それがよくわからない面もあるだろうし、例えば台風が近づいているから注意を喚起する意味で報道されるようなことではない場合には、やはり繰り返し報道されることの理由がわからないような話題もあるだろうし、そういうところで直接の意図や思惑とは別のところで、理由がわからないような報道のされ方があると、何かそれに関してうがった見方をせざるを得ないようなこともあるわけだが、それに関しては例えば同質の人を作り出すために同じような話題を繰り返し報道して、それに影響された人たちが同じような人格や性格になるように配慮されているということもあるのかも知れず、そうなるように意図的にそんなことをやっているとはいえないにしても、結果としてそうなっているとすれば、そういった報道によって社会の同質性が維持されているともいえるわけで、そう考えればテレビや新聞などが毎度おなじみのネタを飽きもせず繰り返し取り上げるのもわかるわけだが、それを情報を消費する側の視点から考えるなら、どういう話題が繰り返し報道されているかを注意深く観察していれば、そういった話題によって人々の人格や性格がどのような影響を受けるかがわかってくるのかも知れないし、例えばそれについてのわかりやすい例としては、隣国による挑発的な行為を繰り返し報道するような成り行きがあれば、それによって敵愾心のような感情が育まれることを狙ってあおり立てているといえるだろうし、また世界的なスポーツのイベントで自国の出身者が活躍したことを繰り返し報道するようなら、それによって同郷意識を高めたり国威発揚などを狙っているはずだが、そういったわかりやすい意図や思惑を想像できる場合とは違って、何だかわからないようなことを繰り返し報道する場合があるわけで、そういった直接の意図や思惑が不明な話題が繰り返し報道されることが、社会の同質性を保つような役割を担っているのかも知れず、それが年中行事のような季節の話題であったり、ある特定の時期になると毎年のように同じ話題が各メディアで一斉に取り上げられて、多くの人々がその話題に反応するように仕向けられる成り行きになるわけで、それが特にセンセーショナルな話題というわけでもなく、また不快な気分を呼び起こすような話題でもなく、どちらかといえば好意的に取り上げられるような話題であり、しかも絶賛とが礼賛されるようなことでもなく、それは薄められた善意の連帯を呼び起こすようなことでもあるだろうし、また微笑ましくその場が和むような話題となれば、特に嫌がられるわけでもないだろうし、そういった話題にはぐらかされているうちに、メディアに対する抵抗感を削がれて牙を抜かれてしまうような効果がもたらされているのかも知れないし、そういう話題を繰り返し見せられることによって、社会の同質化と人々の人格や性格の調整や馴致がおこなわれていることになるのかも知れない。
8月21日「言葉のやりとりが招く事態」
何かを語ることが、それを語っている人や語っている対象やその語りを聞いたり読んだりする人に、何らかの作用や影響を及ぼすことになるかというと、作用や影響を及ぼそうとして語っているのなら、当然のことながら何らかの作用や影響が及ぶはずだろうが、それが記された文章となっていれば、その場での言葉のやりとりには発展しないだろうし、ただ一方的に記された文章を読むだけでは、作用や影響を受けるのはそれを読んでいる読者に限られるはずだが、そうやって何らかの作用や影響を受けるとしても、それを記した作者が意図したとおりには読んでくれないかも知れないし、文章読解力のない読者なら、それが難しい内容だと読んでも理解できないのかも知れず、たとえ理解した気になっても、それが間違った理解になってしまうかも知れないし、また文章読解力がある人が読むと、作者の意図したこととは異なる解釈を得る可能性もあるだろうし、作者が気づかなかったことを読者が発見してしまう場合もあり得るのかも知れず、そんなふうにして直接語る場合と文章を記す場合とで、それを受け取る人の反応や動作が異なるのは当然だとしても、そういった差異を考慮に入れないと、何か単純化した解釈になってしまう可能性があるわけだが、それも語っている内容にもよるだろうし、単純な内容なら、語っている内容と文章として記された内容が大して変わらない場合もあるだろうし、それはそれでかまわないのだろうが、それが直接語っていることであり、また特定の相手と対話するような状況であれば、相互作用としてお互いに作用や影響を及ぼし合うようなことにもなるだろうし、それもその場の状況にもよるだろうが、そうやって日頃から頻繁に言葉を交わし合っていると、お互いの立場や社会的な地位などから生じる制約や背景や脈絡などよりも、言葉そのものから生じる文法的な制約や文そのものに生じている意味や意図などの方が優先される傾向になってくるのかも知れず、それも一応はその場の状況にもよるだろうが、実際に言葉を使えば使うほど、意識が言葉に依存するようになるだろうし、何かそういうところで言葉の使用に関する自在さや便利さと、実際の行為や行動に伴って生じる物理的な制約や制限などとの間で、うまく折り合いがつかなくなってきて、そうなると意識が自然と行為や行動を言葉の使用に合わせようとするわけで、結局そんなふうに思ったことを現実の世界で実現できるようにするために、科学技術や産業技術などを使って、実際に述べていることを物質的に実現させようとするわけで、そういうところで従来からある常識的かつ慣習的な限界や制約を突破しようとして、そんなことをやっている過程の中で、次第に合理的な思考に基づいた合理的なやり方が編み出されてきて、それと入れ替わりに、人の意識を拘束している伝統的かつ宗教的な慣習が廃れる傾向にもなるのかも知れないが、もちろん一方的にそうなるわけではなく、伝統や宗教を重んじる勢力からの巻き返しや揺り戻しなどのせめぎ合いが起こるだろうし、そういった過程もジグザグに推移するのかも知れないが、そこでも物事を単純化して捉えて、功利的に都合のいい面をあおり立てるような成り行きにもなるだろうし、そんな中で最悪なのが、非合理な伝統的かつ宗教的な面を保持しつつも、科学技術や産業技術を活用して功利的な面を追求しようとすることであり、果たしてそれで世界的に通用するのかとなると、それは日本の現状が物語っているところでもあるのだろうが、その現状をどう捉えるかも、捉え方によっては評価や見解が分かれるところでもあるだろうし、たぶんそんな現状を肯定的に捉えたり否定的に捉えるのではなく、現状の中で無理な面があるとすれば、それは必ずしも功利的な技術の使い方が合理的とはいえないところだろうし、また功利的な伝統や宗教の活用も合理的とはいえないところでもあるのかも知れないが、それに関しては地域に特有な伝統や宗教にこだわっている限りで、そういう面での世界的な普遍性をもたらせず、それがその地域の中では功利的な利益をもたらすかも知れないが、地域を離れたところでは通用しないのかも知れず、それが中途半端な国際的な地位や立場をもたらしているのかも知れないが、たぶんそういった面も長い時間をかけて徐々に変わっていくのかも知れず、そこでもいかに言葉を使って対話や交渉などを続けていくかで、その程度や傾向によっては他の地域との差異や格差となって顕在化してくるのかも知れないし、現状では伝統や宗教などの方面からの抵抗も根強く残っているのかも知れないが、それも他の地域と交流して行くにつれて、そこで嫌でも言葉を使った対話や交渉をおこなわざるを得ないわけだから、次第に世界の標準的な傾向によって馴らされていくのかも知れず、それは一方的に世界から侵略を受けるというよりは、世界に向かってこちらから積極的に出て行く成り行きも生じてくるだろうし、実際にスポーツや文化などの方面ではそういう成り行きになっているわけで、そういったところが突破口となって、現状では立ち後れている政治や行政などの面でも、徐々に世界標準へと近づいていくのかも知れないが、現状では世界の側でも様々なところで地域的な抵抗に直面している状態だろうし、それも武力行使などによる軍事的な抵抗が徐々に行き詰まってきて、それに代わって言葉を使った交渉や調整が主流となってくるような傾向となっていれば、結局そこでも地域的な伝統や宗教などよりも、言葉を交わすことから生じてくる合理的な思考の方が優勢となってくるのかも知れないし、そういう面では人や物やサービスを組み合わせた交流が盛んになってくるほど、その際に言葉を使わざるを得なくなってくるから、それだけ意識が合理的な思考にとらわれる可能性が高まるのかも知れず、そこでは確かに交渉が決裂に終わることもあるだろうが、たとえそうなったとしても、少なくとも言葉を交わしているわけだから、相手の話を理解しようとはしているわけで、理解できれば了解し合うだろうし、そこで相手の提案を受け入れるか拒否するかのどちらにしても、一応は相手の話の内容を理解しようとはしているわけで、そんなふうに相手の話を理解しようとすること自体が、合理的な思考からもたらされる成り行きになるわけで、結果的に相手の話を理解するほど、話し合いを継続させようとするのではないか。
8月20日「主張の程度」
述べていることが正しかったり間違っていたりどちらとも言えなかったりすることが、何らかの主張に対しての評価として下される可能性があるだろうが、それとは違って何かを告白するということは、嘘をついていなければ、普通は真実を述べていることになるだろうし、またその場の状況や情勢を語ることは、それが勘違いや見間違えや思い違いなどでなければ、やはり普通は真実を述べていることになるはずだが、それに対して何かを主張することは、場合によっては何かをやらせることにも結びつくだろうし、実際にその主張を真に受けて何かをやる羽目になった人に対して責任を負うことにもなり、結果的にそれがうまくいかなければ、主張が間違っていたことにもなりかねず、そうなるとそんな主張をした人の社会的な信用が失われることにもなるだろうし、そういう意味では何かを主張することに関しては、その主張が信用できるか否かとか、その主張を他の人や団体が受け入れ可能か否かとか、主張している当人が主張通りのことをやっているか否かとか、そういった様々な面で他の人や団体などの判断や評価が伴ってくることでもあり、またそうはいってもメディア的な現状では、世の中に出回っている大半の主張は無視される程度のことであるだろうし、実際にSNSなどで主張するだけのための主張なら、世間から相手にされないような主張がほとんどを占めるのかも知れず、あるいはそういう主張をするのが専門の著名人などの主張に、一般の人たちが支持や賛同を表明したり、あるいは批判や非難を浴びせたりするだけにとどまり、それは他の人や団体などから評価されて、主張通りのことが実行に移される以前に、さっさとメディア上で消費されて使い捨てられるだけの主張となっているのかも知れないが、そんなふうに何かを主張することが見世物的なパフォーマンスとなっているようなら、実質的な内容は伴っていないわけだろうが、実際に他の人や団体に見世物的なパフォーマンス以外の実質的な活動を誘発させるような主張がどんな主張になるのかといえば、それはにわかには想像がつかないことにもなりそうだが、もしかしたらそれがあからさまな主張であるよりは、何らかの告白であったり、あるいは単に状況や情勢を分析しながら語る行為であったりして、何かそういう語りの中で、それを受け取る人や団体に何らかの行動を促すように仕向ける内容が含まれることもあるのかも知れず、それもあからさまなあおり立てというよりは、一見どうとでも受け取れる内容であるのに、それを聞いた後からじわじわと利いてくるような内容であったり、そういうのは意図的な仕掛けではない場合の方が多いのかも知れないし、そういう面を考慮するなら、何が何でも反対デモや抗議集会などに結びつかなくてもかまわないだろうし、そういうところであまりに形式にこだわって、無理矢理見世物的なパフォーマンスをおこなうのはかえって逆効果にもなりかねないし、そこで成り行きの自然さを装うのは難しいとしても、装うのではなく自然の成り行きに任せることが肝要な場合もあるだろうし、あまり余計なお節介を焼かないで、時には突き放してみることも肝心かも知れないが、そういった態度や行為もその場の情勢に合わせないと、不自然でぎこちなく見えてしまうわけで、いずれにしてもそれに関してどうすれば良くて、何をやってはいけないのかということが、はっきりとはわかっていないのが普通だろうし、そんなわけで何をやるにも手探り状態になってしまうのは致し方ないとしても、はじめから大して成果を期待できなければ、たとえ他から無視されて相手にされないような主張であってもかまわない場合もあるのかも知れないし、あるいはその手の著名人の主張を真に受けて、それに賛同してもかまわない場合もあるだろうし、そういう場合はそんなことをやっている自らが大したことはやっていないことを自覚しておけばいいことでしかなく、別に自らがメディア上で主導権を握っているわけではないのだから、その程度のことしかできないことはわきまえておくべきなのかも知れず、それでは不満だろうが、不満があることを自覚できるだけでも正気を保っている証拠かも知れないし、そもそも言葉だけで何かを主張している限りで、それは実際に何かをおこなうのとは次元の違うことであり、また何かをおこなうことに関しても、大げさなことから些細なことまで様々な程度と内容があるだろうが、実際にそれとこれとが無関係であれば、言葉だけで主張することに関しては行動が伴っていないことにもなるだろうし、また何かをおこなっていることが主張とは別におこなっていることにもなるわけで、それはそれでそういうことにしかならないのかも知れないが、両者を無理に結びつけなくても済んでいるならそれでもかまわないだろうし、また主張が気休め程度でおこなっていることであり、それとは別に本業としておこなっていることから実質的な利益を得ていることになるなら、それはそういう成り行きになっていることでしかなく、そういった活動のあり方も一応は認めないと、是が非でも言っていることとやっていることを一致させなければならないのなら、何も自由に主張できなくなってしまうだろうし、そういう面では欺瞞や偽善もつきものなのかも知れないが、たぶんそうでないと世の中がうまく回っていかないのかも知れず、そんなことをやっている人たちの中から、主張だけを専門におこなうような人も出てくるのかも知れないし、また特に主張がなくても間に合ってしまう人も出てくるだろうし、結局はそうやって何らかの主張に対して、それを受け止める人によって距離感がまちまちであるのが自然な成り行きになってくるのかも知れず、そうやって誰もが特定の主張に対する態度をそろえて、一致団結しなくてもかまわないような状況が望ましいのかも知れないし、逆に何かそういうところで一定の統一的な反応が起こることの方が、かえって不自然に思われるようなら、そこで意図的な仕掛けが巡らされていることになるのかも知れない。
8月19日「宗教的な傾向」
近代の産業革命以後の歴史的な経緯の中で、産業技術や科学技術などの発展とともに、非科学的な神秘主義思想に基づく旧来の宗教的な権威が衰退傾向になってきたかというと、どうもそうとも言い切れないような成り行きがあるのかも知れないし、宗教そのもののあり方や形態が現代的な状況に合わせてそれなりに変質や変容を被ってきたにしても、それが現代社会に暮らす人々の活動や生活に合致する面があれば、衰退するどころかむしろ興隆するような傾向になってきているのかも知れないし、それに関してまず考えられるのは、人が生きていく中で様々な脈絡から生じてくる不安や恐れや悲しみなどの否定的な感情を鎮めたり、それに打ち勝つために勇気や気概などの積極的かつ肯定的な気持ちをもたらそうとするために、あるいはせわしない日常の日々から離れて精神の安らぎを求めるために、宗教の助けを求めるような成り行きがあるのかも知れず、そういった経緯が生じることが、宗教にとっては付け入る隙になるわけだろうが、それは同時に宗教以前に政治や行政などが付け入る隙でもあるわけで、実際に暮らしの安心や安全や経済的な富がもたらされるような政治や行政がおこなわれるなら、民衆からの支持が得られるはずだろうが、それも実態として本当に政治や行政などの活動から、安心や安全や経済的な富がもたらされているのかとなると、宗教と同じで信仰心などから生じる気の持ちようになってしまうと、実態としては必ずしもそうではなくても、そんなものだとあきらめてしまえば、なし崩し的な惰性で、現状の維持を受け入れるような成り行きになってしまうのかもしれないし、そういうところが実態としてはっきりしなければ謎な部分にもなるのかも知れないが、そういった気分に関することは気休め的なことでもあり、それが特に優先して考えるべき事柄とは思われなければ、何が何でもそれを重視するような成り行きにはならないわけで、それよりは実際に自身でどうにかできる面の方が優先されることになるだろうし、そうなると自助努力でできる範囲内にとどまるわけだが、それでも何とかなっていればそれでかまわないことになるのかもしれず、そうでなくても社会の仕組みとして、人を使ったり人を利用することで社会が成り立っていれば、それが同時に人を活かすことにもつながるわけだから、原理的にも制度的にもそこで人を活かす仕組みになっているのであり、実際にそうなっていれば、大抵の人は社会の一員として生かされている現状があり、その中でそれなりに不満があるとしても、それが我慢ができる程度の不満であれば、実際に我慢しているだろうし、そうした程度が深刻には感じられない範囲内で、それなりにうまくいっていることになるのかも知れず、また実際にもうまくいっていると判断されれば、人々の不満が大げさに受け止められるようなことにはならないだろうし、そうやって許容限度の範囲内で人々の集団意識が循環していれば、その程度の可もなく不可もなくの集団意識で安定することになり、それが革命などの社会的な破綻をもたらすような事態にはならないわけだが、それに伴って宗教的な意識の方も、日常の生活実感の中に溶け込んでいるようだと、表には出てこないで、意識の水面下でうごめいているような潜在的な水準にとどまる限りで、それが宗教的な意識だとは認識されないのかも知れず、そうなると結局は何でもないことになってしまい、何ら問題意識を持ち得ず、特にそれが弊害となるようなことにはなっていないはずだが、本当にそれの何が問題ともなっていないとすれば、ならばそもそもの宗教の何が問題なのかというと、一般的には宗教の聖なる部分がそれ以上の思考を受け付けず、結果的に禁忌には触れずにそこで多くの人が思考停止すれば、それに伴って現状の秩序の固定化を招く可能性があるからで、そういった現状の固定化の何が問題なのかといえば、社会的な身分や地位の固定化を招く可能性があり、その身分や地位に応じた経済力や権力の格差が容認されると、法の下での平等などの民主主義の価値観が揺らいでしまうわけだが、そうでなくても宗教的な権威というのは、その威光が否定されることを受け付けないし、信者は基本的に権威への服従を強いられて、権威による支配を受け入れる必要があり、逆らうことは禁止されているのに対して、民主主義の価値観では国家的な権威である政府に逆らうことが認められている点が異なり、民衆には政府のやっていることに反対して、自分たちの言うことを聞く政府を作る権利があるわけだが、そういったことに無自覚な人たちが、政府のやっていることに反対する人や勢力を弾圧する傾向もあって、そんなふうに世の中には民主主義の価値観を受け入れない人や勢力が結構存在していて、そうした人々が国家や政府の権威化や宗教化を推進している現状もあるだろうし、それが現代に特有な宗教的な傾向と言えるのかも知れないし、本気でそういった傾向に加担しているのはまだまだ一部の人や勢力に限られるかも知れないが、功利的な見地からそんな勢力のやっていることを支持する人や勢力も少なからず存在するだろうし、それが産業分野に巣くう企業や投資関連の人や勢力であったり、また政府の官僚機構に属する人や勢力でもあるわけで、それらの人たちからすれば民主主義の価値観は、功利的ではないから邪魔に思われるだろうし、なぜ功利的でないかというと、民主主義の価値観にとらわれた人や勢力が、現状で成り立っている富や権力の階層構造を壊そうとするからであり、現状の秩序から利益を得ている人や勢力にとっては、当然その秩序を壊されてはたまらないから、富や権力を利用して、そういった人や勢力を抑え込もうとするわけだが、要するにそういった人や勢力からすれば、現状の階層構造から生じている既得権益を守ろうとするのは当たり前のことであって、そういう意味でそういった権益に異を唱える人や勢力との争いは避けられないわけだが、中には既得権益に異を唱えることが民主主義の価値観から生じていることが理解できない人や勢力も存在するだろうし、実際に民主主義を推進しているつもりのメディア勢力にしても、それが理解できない場合があるわけで、そういった勢力にしてみれば民主主義の価値観を推進することこそが、自分たちが確保している既得権益を維持することになっていたりして、他の勢力が勝手に民主主義の価値観を推進してもらっては困るから、そういった人や勢力を押さえ込んだり排除する傾向にもなっているわけで、それは自身の企業経営などに伴って生じる功利的な見地からもそうせざるを得ないところが、そういう面で矛盾を抱え込んでいることにもなるわけだ。
8月18日「理性的な振る舞い」
現状の中で何かをやる上で、何をやるのにも納得できるような動機が必要かというと、特にはっきりした動機を意識しないで何かをやっていることもあるのかも知れないし、何かそんなことをやるに至る脈絡があって、それが必ずしも直接的な動機に結びつかない場合もあれば、それでもそれをやるに当たって何らかの経緯があるのかも知れないし、それに伴って何かもっともらしい事情があれば、それがそれをやるに当たって納得できる理由になるのだろうが、そのやっている内容がやっている当人にとっては取るに足らないことであれば、それをやる動機や理由など何でもかまわないのかも知れないが、また大した理由もなく軽い気持ちでやり始めたことが、やっていくうちに大変なことになってしまう場合だってあるだろうし、そうなると後からやるに当たっての大げさな理由や動機などをねつ造したくなってくるのかも知れないが、大抵はそんな思いとは無関係に、それを継続させる成り行きというのが、それをやっている当人にはどうにもできない事情を生じさせて、それが心を捕らえて放さなければ、そこから当人の意志も生じてくるだろうが、それが当人の自発的な意志とはいえない場合もあるのかも知れず、それをやりたいからやっていると素直に思えなければ、特にやりたくもないのにやらされていると思っておいた方が、それをやっている実態には合っているのかも知れないし、そうとは言えなくても、それをやる上で積極性が希薄であれば、ただ何となくそういう成り行きになっているから、惰性でそれをやり続けているような経緯になっているのかも知れず、そういう成り行きの中でははっきりした動機や理由を求めなくても、それを自然な感覚でやっていられるなら、それに越したことはないのかも知れないが、それとは違って何か深刻に思われるような使命感や強迫観念に駆られて、それをやらざるを得ない心境に追い込まれてやっているような状態になってしまうと、それだけ無理が祟っていることになるのかも知れないし、実際にそうなれば積極的になれるのは確かだとしても、そうやって自らの意志に自らの心身が拘束されている状態であると、当然のことながら自発的にやりたいことをやっていることにはなるだろうが、それが決して悪いことだとは思えないにしても、むしろそれをやる上での真剣さに関しては切実に肯定せざるを得ないとしても、少なくとも平常心ではいられなくなるだろうし、それが結果的にやっていることを成功に導くか失敗に終わらせるかは、もちろんどちらであってもかまわないわけではなく、使命感に燃えているのなら必ず成功させなければと思うところだろうし、それに加えてやる気に関しても、その人の決意の強さをもたらしているだろうし、普通はそんな事情を肯定的に捉えるわけだが、そこで問題なのは当人のやる気とかいったことではなく、当たり前のことだが、そのやっている内容が問われなければならないだろうし、もちろんそんなことはわかりきっているのに、例えば大してやる気もないのに適当でいい加減にやっているように見えてしまうのと比較すれば、真剣にやる気満々でやっている方が百倍はマシに思われるし、そんなやる気と熱意だけは人一倍強いように見える人が、ただがむしゃらにやっていることの方が好印象に見えてしまうのは当然だろうが、そういう意味でもやっていることに対する誠実で真剣な態度というのが、他人から見た印象として良く映るのは当然だろうが、それがその人の信用にも響いてくるとすれば、やっている内容よりも、それに取り組む姿勢が重要となってくるのかも知れないし、他のことはともかく格好だけでもそんなふうに整っていれば、何かを積極的にやっているように見えてしまうのだろうが、たとえそれが演技でしかなくても迫真の演技で熱演しているように見えてしまえば、それでかまわないような行為というのもあるのかも知れず、それが政治の実態というわけでもないだろうが、それは見世物としての活動の全般的な傾向と言えるのかも知れず、そんな内容が伴っていないハードワークというのが、何を意味するのかに関しては、結果よりも途中経過を重視するなら、何かそこに積極的な意味や意義を見いだせるのかも知れないし、たとえそれがまやかしの演技でしかないとしても、そんな演技に魅入られて好感を抱いてしまえば、それで済んでしまうような成り行きもあるのかも知れず、それに関して内容を把握できなくても、ともかく人と人とがコミュニケーションを図りながら交渉しているように見えることが、途中経過としては格好の安心材料を提供していることにもなるだろうし、そんなふうに何かやっている感を醸し出すには、是が非でもそういった交渉を継続させなければならず、それが最終的には決裂に終わる公算が高いにしても、そこに至る成り行きの中で期待感を持たせるような演出に成功すれば、それでそれなりに格好がつくだろうし、それが一般的な意味でも政治パフォーマンスになるのかもしれないが、たぶんそれが見え透いていると高をくくられてしまうと飽きられてしまうのかも知れないが、そんなふうには思わせないようにメディア的な印象操作が日々おこなわれている状況もあるだろうし、そうしたメディア状況も含めて、全体として大がかりな舞台装置ができあがっていて、そこに功利的な思惑も働いて、そんな状況が世間的に醸し出されていれば、それを受け止める一般の民衆にはどうにもできないのかも知れないし、というかそんな見え透いたパフォーマンスには興味がない人が世の中の大半を占めるなら、それが健全な状態なのかも知れず、そういう意味で選挙の投票率が上がらないのは大した問題ではないどころか、極めて当たり前の状況と言えるのかも知れないが、そこに何か勘違いがあるとしたら、民衆を甘く見ているとはどういうことなのかが、熱演のパフォーマンスを演じている人たちにはわかっていないことになるのかも知れず、それと自覚がないまま、使命感や強迫観念に駆られながら迫真の演技を強いられている人たちが、それしかできないと思い込んでいることにも無自覚なのかも知れないし、実際には他にもやりようがあるということに気づかない限りは、そんな状況がこの先も続いていくしかないのかも知れないが、それでもかまわないような現状だとすれば、案外そういうことには無関心な人たちの方が冷静な判断ができるわけで、実際にそんな判断が世の中を動かしていることになっているのかも知れない。
8月17日「表現の不自由」
例えば何かを成し遂げようとすることと、その人の考えを示すことは違うが、どちらが大変かとなると、普通は何かを成し遂げようとすることの方が、その内容にもよるだろうが、社会の中で他の人や団体との関わりも絡んでくれば、単に考えを示すことよりはかなり大変なことになるはずだが、その人の考えを示すことも、そういう成り行きになる脈絡によっては、例えば他の人や団体と何らかの交渉をおこなう中で、その人の考えを示すような場合もあるだろうし、そういう経緯も考慮するなら、単に比べるわけにはいないだろうし、また何かを成し遂げようとする過程で、その人の考えを示すような成り行きになることも結構あるわけで、そういう意味では比べるというよりは、二つの行為が一連の動作として結びつくような事態もあり得るわけだから、その差異や違いを認識する程度でかまわないのかも知れないが、そうなる過程において、いかにしてそういった行為を効果的に組み合わせて、それを自らの活動にうまく活かすことが求められるのかも知れないし、そんなふうにして様々な行為が組み合わされて、それらが全体として一つの行為にまとめられておこなわれることの中から、特定の行為だけを選び出してそれを他の行為と比較したり、その効用を強調するのは、理に適っていないことになるのかも知れず、確かにそれらの中で何が本質的で重要なことなのかを見極めるのは大事かも知れないが、実際におこなっていることがそれらすべてを含むことであれば、それらの中で一つたりともないがしろにはできないのかも知れないし、それらの中で何が良くて何が悪いと評価するようなことではなく、そうなってしまう成り行きをそのまま受け止めるしかないのかも知れず、そうなる過程においてそれなりに恣意的な意図や思惑を抱いてしまうだろうが、それはすでに何かをやっている最中に思うことであり、思うだけではなく、同時に何かをやっている現実があり、それらをそれぞれに単体として分離できないわけだが、そういう複雑に絡み合った動作を自覚できないまま同時並行的に処理しているわけだから、それに関して後から思考を巡らすと、大抵はそれらを正確には捉えられないだろうし、単純化した捉え方しかできない場合がほとんどかも知れないが、その一方で自意識にとって都合のいい面だけを強調してしまう場合も結構あるわけで、そういう部分的で偏向した物事の捉え方によって、何かフィクションのような固定観念や偏見が生じてしまうわけだろうが、いったんそういう感覚に慣れてしまうと、特に違和感を覚えるわけでもなく、そうすることが当然のように思われてしまうわけで、そう表現することがその人の意図や思惑を反映した効果的な演出にも思われてしまうのかも知れないが、それはその人だけでなく、他の人たちもそういう傾向になっている面があるとすれば、そんな人たちの意識がコミュニケーションなどを通して干渉し合って、それがメディアを通じて拡散すれば、客観的な現実からかけ離れた認識が世の中に蔓延することにもなるだろうし、しかもそれがある一定の傾向を持つようになってくると、誰もが安易にそう思ってしまうような紋切り型的な認識として世の中に定着することになるわけで、しかもそれが物事に対する先入観や固定観念を補強するような効果をもたらせば、そんな認識を持つことが当たり前のように思われてしまい、逆に客観的で正確な現状認識の方が違和感を伴ってしまうだろうし、それに関して何か心地よかったり、逆に不快感を伴うような認識だと、心地よくさせたり不快感を催させるような意図や思惑を反映した認識になっている可能性があるだろうし、それだけ誇張された表現を伴っているのかも知れず、そういった認識は当然のことながら客観的で正確な認識でない可能性が高いのかも知れないし、そうではなく何の変哲も面白みもないような認識だと、誰も興味を持たないのかも知れないが、それが紛れもない客観的で正確な認識だと、やはり誰もそんな認識など重視ないし無視してしまうかも知れないから、メディア的にはそれでは困るだろうし、それよりはわざとセンセーショナルな内容にしたがる傾向が出てくるのかも知れず、そういうあざとい趣向や演出を施したものになってしまうと、何か不自然な感じになってしまうのかも知れないが、それが当たり前のように感じられる傾向になっていれば、やはりそういう傾向に流されてしまう人が大勢出てくるわけで、そうなるとやはり意図的に心地よい雰囲気を醸し出したり、逆にわざと不快感をあおって世間の注目を浴びようとしたりしてしまうわけで、そうなるとこれ見よがしなことを仕掛けてくることにもなるだろうし、そういう部分が客観的な現実からかけ離れたフィクションの部分になるわけで、そういうやり方に慣れてしまうと、そんなことをやらないと気が済まないような事態にもなってしまい、そういうのがエスカレートしてやらせ的な演出が横行してしまうわけだろうが、そういうやり方とは違って、心にも時間にも金銭的な面でも余裕があれば、そういうあざとさとは正反対のさりげない表現にとどめようとする傾向になるだろうし、安易に感情に訴えかけずに平静さや冷静さを目指すような認識になると、そこへと及ぼされる様々な作用や影響を考慮した複合的な認識を表現しようとするわけで、それが良いとか悪いとかの特定の傾向の評価を押しつけるのではなく、良い面も悪い面もどちらともいえないような面も、できるだけすべての面を織り込んだ多面的かつ多元的な認識にしないと、物事の客観性を表現できないだろうし、そういう傾向を目指すには一時の感情に流されていてはうまく表現できないから、自然と平静さや冷静さを心がけないと、物事の様々な面を捉えることはできないだろうし、しかも時には激しい怒りや歓喜などを同時的に織り込もうとする場合もあるわけだから、そんな感情をあおり立てる勢力と一緒になって非難したり共感するのではなく、いったんそれを突き放して捉えるようなことをやらないと、対象との距離感が生じないだろうし、そういう面でも物事の状態を客観的に認識しようとするなら、捉えようとする対象とは異なる心理状態や態度が必要となってきて、それが認識を客観的に表現する上で特有の心理状態や態度となってくれば、それ自体が表現者自身の考えを示していることにもなるだろうし、認識を表現するという行為を成し遂げることにも結びつくのかも知れない。
8月16日「宗教的な儀礼」
社会規範の中に例えば何らかの宗教的な行事に参加することが含まれるとすれば、そうした宗教の存在やその行事に参加することが、社会の中で重要な意味を持つことになるのかも知れず、実際に行事に参加した人たちが、その宗教に起因する思想や価値観を共有することにもなるわけだが、たとえそんな思想や価値観などが取るに足らないものだとしても、行事に参加した人たちの中に、社会的な地位や役職などに関して有力者が含まれていれば、それなりに社会に影響を与えることになり、その宗教の内容というよりは、信者たちの権力や発言や団結力などが、社会の様々な方面で無視できない作用や効果を及ぼすことになるわけで、そういうところに宗教の実質的な力が宿っていて、宗教的な行事に社会的な有力者を参加させることによって、その力を誇示している面があり、それは宗教に限らず、何かメディアが話題として取り上げる社会的なイベントがあるとすると、イベントの主催者や主催団体は、必ずその手の社会的な有力者を参加させて、自分たちの力を誇示することになるだろうし、それも宣伝や煽動の一環であることは確かなのだろうが、他の人々がそうしたデモンストレーションを真に受けることによって、イメージとしての影響力が生じるわけで、簡単に言うならそれもある種の印象操作でしかないわけだが、それが心理的な効果でしかないとしても、そういう操作が繰り返されることで、いつの間にかそれが実質的な内容を伴った力になるわけで、それを中身が伴っていない空疎な力と見なすこともできるが、それを真に受けてしまう人が大勢いる限りで、真に受けていること自体が影響を及ぼされていることになるわけだから、そういう力があるとしかいえないのかも知れないが、宗教的な呪術の力というのは元来そういうものだろうし、それは魔法ともいえるのかも知れないし、物理的な効力ではなく心理的な効力というのは、そういった類いの力であることがほとんどなわけだが、それとは分野が異なるが、芸術の類いが人に及ぼす力というのも、それに類似したものがあるのかも知れず、それは見世物全般にいえることかも知れないが、それらは直接の物理的な作用を及ぼすわけではないから、逆に神秘的に感じられて、それが魅力となって人の心を動かす力となり得るわけだろうが、たぶんそれを意図して利用しようとすると、かえってわざとらしさやぎこちなさが目立ってしまうだろうし、そうではなく、その人が意図しないところでそういう魅力が生じると、何かそれが本物のように思われるわけで、そういう魔力の類いは、その人だけの力ではなく、周りから様々な作用や影響が及ぼされた結果として生じるものだから、必ずその人の意図や思惑を超えて発揮される傾向があり、それ自体に人の制御を逸脱するような力があるのかも知れないし、その作用や影響に関しても、思いがけない想定外のものが含まれていて、そういう意味で下手な策略や戦略には収まりきらないわけだが、それを意図的に制御できるかとなると、実際に意図的に制御された力だけで構成されるものは、魅力に乏しくつまらないものとなってしまうのかも知れず、普通はそれを超える何かがもたらされないことには神秘的なオーラが生じないわけだが、そうした人知を超える要素というのは、大抵は天然の素材から生じている場合が多いわけで、人工的にはなかなか再現できないから、それだけ価値の高いものとなるのだろうが、果たして宗教にそういう要素があるかとなると、秘蹟の類いがそういう要素に当たるのかも知れないが、やはりその実態は何だかわからないものであり、かえってそれがわかってしまうとありがたみがなくなってしまうだろうし、何だかわからない面があることが、神秘的なイメージを保つ上で重要となってくるわけだろうし、何だかわからないがそこに何か人知を超えるようなものが存在していて、それが人の意識に作用や影響を及ぼして、人の心を良い方向へと誘っているように感じられると、それ自体が秘蹟としてその宗教の全体的な価値を担っていることになるわけだが、それが論理的に説明できるようなものなら、神秘的な面がなくなってしまうから、やはり宗教的な効果は得られないだろうし、また守るべき規範としての価値もなくなってしまい、こけおどしの儀礼としては通用しなくなってしまうわけだが、そういう意味で宗教的な行事は、論理的な説明を要するようなものではないわけで、何だか理解できないようなものを形式的に守ることによって、それを守っている人たちが連帯して団結できるわけだが、その際にはなぜそれを守らなければならないのかという問いを発してはいけないわけで、ただ理由もなくありがたいものだから守らなければならないわけで、守るに際して理屈はいらず、ただ型としての動作を代々受け継いでゆくことが重要であり、そんな理屈抜きの行為に参加しているわけだから、それを信じるしかないだろうし、疑念を抱いてしまったら信仰が揺らいでしまうから、ひたすら信じる姿勢を保たなければならず、そんな姿勢を保っている限りで、信者として信用できるわけで、それ以上の動作を求めないことも肝心であり、皆が同じレベルでの心理状態と姿勢を保っていなければならないわけだが、そうやって他の信者と動作を同じにすることが、他の信者からも信用される条件ともなるだろうし、信仰が保たれている上で、そうなった原因が結果に結びついて循環しているわけだが、それを循環とは感じないようにするには、聖と俗とを区別して、触れてはならぬ領域として、聖なる領域での論理的な説明を断念すれば、原因が結果と結びついて循環せずに体面が保たれることになるだろうし、それ以上の説明が必要ないから、その先へと踏み込まずにいられるわけで、その手前で踏みとどまって、後はひたすら秘蹟を信じればいいわけで、実際にも信じる者は救われるわけだが、そこでなぜ救われるのかとか、どうやって救われるのかとか考える必要はないだろうし、ただそれを信じていれば救われると思うしかないわけだ。
8月15日「道徳的な配慮」
たぶん社会の中で道徳的な配慮に欠けるようなことをやったところで、それが道義的に許されない行為であれば、そのことで何かしら批判されることはあるにしても、肝心の道徳的な配慮が具体的にどういうことなのかがはっきりしなければ、そんなことはそれほど重視されないだろうし、その配慮に欠ける行為というのが社会規範に照らし合わせて何となくわかるとしても、ではその反対の道徳的に配慮された行為というのがわかるかというと、それが元々配慮を要するような行為でなければ、配慮すること自体が不要だろうから、それがわからないどころか、そんな配慮とは無縁な行為ばかりがそこで行われている成り行きの中では、単に道徳的な配慮などは不要なことでしかないだろうし、普通はそれよりは功利的な配慮の方が優先的に行われるようになりがちだろうし、社会の傾向がそういった方向に傾いていれば、道徳的な配慮など二の次になってしまうだろうが、それでも道徳的な配慮に関して尊重するような可能性があるとすれば、功利的な配慮によって損失を被った人たちの間で道徳的な配慮がされる可能性があるかも知れないし、それも気休め程度の配慮なら焼け石に水的な結果に終わってしまうだろうし、それで何がどうなるわけでもないのかも知れないが、功利的な配慮とともに道徳的な配慮も同時にできるかとなると、功利的な配慮が自身に利益をもたらすことであるとして、道徳的な配慮が他人を思いやることだとしたら、少なくともそれは正反対の配慮となるだろうし、やりようによっては同時的に行えるかも知れないが、それを第三者から見れば欺瞞や偽善に感じられるようなことになってしまうかも知れず、特に他人を思いやりつつもその他人から利益を奪っていて、しかもその他人が損失を被っていれば、何よりもその他人がだまされていることになるだろうし、それでは道義的に許されない行為になってしまうだろうし、では自身にも他人にも利益をもたらす行為であればいいのかとなるのかも知れないが、そうなると他のどこから利益を奪っているのかとなるわけで、それとは別の他人から利益を奪っているとすれば、その利益を奪っている他人を思いやっているわけでもないから、それもただの功利的な配慮がされているだけになるだろうし、そうではなく、例えば他人と協力して自然から利益を奪っているのであれば、それが自然の成り行きだと思われるかも知れないが、そうなるとその利益を奪っている自然に対して供物を捧げて、そこから自然崇拝的な宗教が生じる成り行きになるのかも知れず、実際にすべてのアニミズムなど原始的な宗教はそうやって生じてきた経緯があるのかも知れないが、そこで供物を捧げるからそれと引き換えに利益をもたらしてくれ、という自然との取引が成り立っているように装われるわけで、そうした信仰が他人に向けられると、原理的には他人が欲している物や情報やサービスを提供するから、それと引き換えに貨幣をくれというのが商業的な取引であり、その反対に他人が欲している貨幣を提供するから、それ引き換えにその人が欲している物や情報やサービスを提供してくれという取引も成り立つわけだが、そういった等価交換的な取引を信用しているなら、別に功利的な配慮に関して問題があるわけでもないはずだが、普通はそこから余分に利益をかすめ取ろうとする思惑が生じるわけで、もちろんその自覚がなくても自然とそうなる傾向があるだろうし、そうした取引をおこなった後に余分に貨幣が残れば、それが利潤になるわけだが、果たしてそれが道徳的に許される行為かといえば、その余分に残った貨幣を使って欲している物や情報やサービスと交換すれば、何やら経済的な論理としてはつじつまが合うように思われるだろうし、それも全体としては自然から奪った利益の分がプラスに働いているはずだから、そういう意味では功利的な配慮だけで十分だと思われるわけだが、それでもそうした配慮が行き過ぎて、商業的な取引の中で利益を奪われた人がひどい境遇に陥っている状況があるなら、そうなった人を思いやるような道徳的な配慮が必要とされるだろうし、そういう面で優先的にそうなった人に配慮すべきなのが、税として強制的に貨幣を奪っている立場の政府になるわけだろうが、成り行き的にはそうなっているとしても、それに関してうまくいっていない状況が世界的に見受けられるから、そういった制度的な仕組みをうまくいくように改革したり調整しなければならない気運が高まるわけだが、果たしてそれが現行の制度でうまくいくのかといえば、それに関しては多くの人が疑念を抱いているにもかかわらず、改革や調整の試みもうまくいっているとは言いがたい状況があるだろうし、それでもそういう面だけを強調して取り上げればそう思われるだけで、実際に世界全体で数十億の人が生存していること自体が、史上かつてないほどに人類が繁栄している証拠となるだろうし、そういう面を肯定的に評価するなら、現状の制度でも全体としてはうまくいっていることになるわけだが、現状に不満がある人にとってはそうではないだろうし、何かもっとうまくいくやり方を模索したいわけで、実際に政治などに関する方面では、そういった模索をやっているわけだろうが、そういうことも含めて現状の世界では功利的な配慮と道徳的な配慮がぶつかる状況になっていることは確かで、功利的にうまくいっていないところでは道徳的な配慮が求められているわけだろうが、それが対立関係を形成しているかというと、そうでもないわけで、どちらかといえば補完関係になるわけで、成り行きとしてはまずは功利的な配慮が優先されて、それが行き過ぎてうまくいかない面が出てくると、それを是正する意味で道徳的な配慮が求められることになるわけだが、はじめから道徳的な配慮が求められているわけでもなく、そこには常に功利的な配慮が優先される成り行きがあって、しかもそれをやり過ぎる傾向もあって、実際にやり過ぎてうまくいかない人たちから不満が出始めると、バランスをとる意図で道徳的な配慮を求めるような成り行きに持って行こうとするわけで、そういう意味では道徳的は配慮だけを単独で求めるような成り行きにはなっていないし、しかも制度として恒常的に道徳的な配慮を求める仕組みがうまく機能しているとはいえない状況なのかも知れない。
8月14日「制度に対する抵抗」
人が生きていく中で、特に利害に関係する面だけが重要というわけではないだろうし、むしろ大して利益を得られなくても、面白そうだからやっていることの方が、その人にとっては重要に思われる場合もあるわけで、また特に重要だとも思われなくても、その場の成り行きでどうでもいいようなことをやっている場合もあるだろうし、そこで何をやっていようと、取り立ててその人にとって意味のあることだとは思えなくても、ただ何となくそんなことをやっている場合もあり、その人にとって価値のあることを優先して行うような成り行きになっていなくても、それでかまわない場合もあるわけで、たまたまそこでどうでもいいようなことをやっている場合には、たとえそれが暇つぶしでやっているようなことであっても、そんなことをやりながらも、他のことを考えている場合もあるだろうし、それがそれを考えるには有意義な時間であったり、考えている内容がとりとめのないことであっても、そこでそんなことを考えるのが貴重な体験だと思われれば、そんなことをやっている成り行きも肯定できるだろうし、はっきりとそんなことを意識していなくても、何となく悪くないと思える程度でもかまわないわけだが、それが自分一人でやっていることではなく、そこに他の人や団体が関わってくると、何かと関わっている人たちに配慮しなければならなくなるから、それだけ身勝手なことができなくなるのかも知れないが、また他人との関わりの中で、社会的な慣習や規範などに従わなければならなくなる場合も出てくるかも知れないし、中には制度的な拘束を受けて、それに従わなければ懲罰や制裁の対象となることもあるだろうし、そうなったときに考えなければならないのは、その人が制度的な拘束を受けることに同意したとして、その同意の仕方が当人の自由意志ではなく、半ば強制的でなし崩し的な成り行きであれば、そこに同調圧力が働いている可能性が高いだろうし、不本意ながらも渋々従わなければならないような制度があるとしたら、当然そこには何らかの権力の行使も伴っているのかも知れないし、そうやって社会の中で人を拘束して制御したり操作するような成り行きがあるとすれば、そういった制度的な仕組みが作動している経緯の中では、政治的かつ経済的な思惑が作用していることはいうまでもなく、何らかの成果を期待してそんな制度に人々を従わせようとするわけだが、それが善意の押し売り的な制度だと、何かお仕着せがましい内容となってしまうわけで、そういう制度はうまくいかない可能性が高そうだが、それが具体的にどんな制度かというと、民主主義に関する制度になるのかも知れないが、政治的な面ではそうであっても、経済的な面ではどうなのかというと、たぶんはっきりした制度の体をなしていないのかも知れないし、潜在的には制度であるのだろうが、そうは見えないわけで、それは商慣習といった類いの認識にとどまっているはずだが、こちらの方は善意の押し売りでもお仕着せがましいわけでもなく、誰もが素直に従うしかなく、従うことに関しては特に抵抗感もないし、抵抗しようにもできないわけだが、それでも抵抗しようとすれば、窃盗や強盗などの犯罪行為となってしまうから、それが発覚すれば、すぐに処罰や制裁の対象となってしまい、それに関しては有無を言わさぬ制御の対象となって、どのような事情があろうと、やったことに対しては善悪がはっきりしてしまうわけだが、それでも条件さえ整えば合法的な強奪が可能な面もあるだろうし、それが徴税行為となるわけだろうが、普通はそれが経済行為だとは認識されていないし、徴税は徴税として経済行為とは別の行為に分類されているのだろうが、実質的には金銭を強制的に強奪していることには変わりなく、それが窃盗や強盗とは見なされないのは、政府が行う行為であるからだが、それも誰もが素直に従うしかなく、もちろん商慣習の類いと違って、従うことに関してはそれなりに抵抗感を伴うわけだが、抵抗すれば脱税という犯罪行為になってしまうし、それも処罰や制裁の対象となってしまうわけだが、少しでも抵抗感を減じる方便として、徴税によって徴収した資金を使って、民衆のためになる事業を行うことが、政治的な公約になったり、民衆のための行政サービスなどの趣旨として徴税が正当化されるのだろうが、民衆のために徴収した税を使うとともに、国家のために使うという大義名分もあるだろうし、その国家のために税を使うことが民衆のためになっているかというと、建前上は民衆のために税が使われることと国家のために使われることが同じ意味をなすわけだが、実感としてはそうではないし、だから徴税には抵抗感が伴うのかも知れないが、またそれは民主主義の制度とも絡んでくるところであり、それらの制度が民衆の意向を反映していないように思われると、全般的に政治や行政を信用できなくなってくるわけだが、信用できないとしても、行政による管理と主導によって活動が滞りなく行われていることになっているから、民衆にとってはどうにもできない面があり、それに対する精一杯の抵抗としては無関心を装うぐらいしかやりようがないわけだが、無関心でいても利するところは何もないし、それに乗じて行政と政治とが結託して、ますます民衆の意向を無視して勝手なことをやりたがるようになるだろうし、そういう成り行きを阻止するためには、民衆の側が一致団結して、民主主義の制度に則って、選挙を有効活用して、民衆の意向を汲んだ政治勢力に主導権を握らせるしかないわけだが、そもそも必ずしも利害が一致しているとは言いがたい民衆の側が一致団結できるかというと、団結しているように装うことはできるかも知れないが、それが民衆の側の意向を汲んだ団結ではない可能性もあるわけで、それに関しては行政と結託した政治勢力が、民衆を手なずけている場合もあるだろうし、実際に行政に批判的な勢力が抑え込まれていれば、そういった可能性が高いわけだが、そういった傾向に民衆が抵抗できるかというと、実際に抵抗している人たちが批判勢力を形成しているわけだが、それが多数派にならなければ、抵抗が有効に機能しているとは言いがたい状況となってしまうのかも知れないし、現状でもそういう傾向が強いのではないか。
8月13日「共同体的な幻想」
自意識が社会的に構成された自我から成り立っているとして、その一方で公的な社会空間が何から成り立っているかとなると、その空間内に存在している人々の自我から抽出された共通感覚にとらわれた集団意識から成り立っているとすれば、何やらそれで妥当な認識のように思われるかも知れないが、それだと厳密には共同体的な空間にしかならないわけで、実際にはそこには存在しない人まで含めた空間を想定しないと、公的な社会空間とはいえなくなるのかも知れず、それが共同体的な空間ではなぜ駄目なのかといえば、それが絶えず集団意識を共有しない異質な他者を排除する傾向にあるからだが、ではそこでなぜ異質な他者が共同体的な空間に出現してしまうのかといえば、共同体的な空間自体がその中に潜在的に存在する異質な他者を抑圧しながら成り立っていて、共通感覚や価値観を共有しない他者を排除することによって共同体的な空間が構成され、そこで集団意識が成り立っていることになるのかも知れず、そういった排除の動作を経ないと共同体的な空間を構成できないとすれば、共同体的な空間とは公的な社会空間の内部で生じる部分的な空間に過ぎないのかも知れず、それは世界の中で様々な国家が成り立っているのと同じように、公的な社会空間の中でも様々な共同体的な空間が成り立っていると想定でき、そういった何らかの共通感覚や価値観の共有に伴って成り立つ様々な共同体的な空間を包摂して公的な社会空間が成り立っているとすると、公的な社会空間とは様々な国家を包摂して存在している世界と重なるわけで、世界=公的な社会空間という等式が成り立ちそうに思われるかも知れないが、世界と公的な社会空間との違いは何かといえば、人が存在しない地域にも世界は広がっているのに対して、公的な社会空間には人しか存在していないというか、人の意識の中に公的な社会空間が広がっていると考えた方が妥当なのかも知れず、それ自体が架空の空間と解釈すれば、何か実在しないように感じられるかも知れないが、それに伴って共同体的な空間も想像上の空間だろうし、それらは架空の空間というよりは仮想空間とでも捉えておけばいいのかも知れないが、そういった空間を想定しておくことで、社会という概念を意識できるだろうし、それとともに人が認識できるのは、客観的な現実の世界の他に、自己の内面の世界と社会的な世界という三種類の世界を認識することができ、普通は意識の中でそれらの世界を厳密に区別しているわけではないだろうが、むしろそれらを混同してしまうことが、その混同にまつわる特有の心理現象を生じさせているのかも知れず、それが例えば共同体的な利害意識を国家的な利害と混同してしまうことであり、またそこから国家的な利害と政府的な利害の混同も派生していて、実際にそんなふうに様々な次元で生じている利害を混同してしまう方が、共同体的な共通感覚や価値観を共有する人々にとっては都合がいいわけで、そうすることで共同体的な利害意識が実質を伴っているように幻想できるわけで、それが幻想に過ぎないことを理解しなくても済むようになるのかも知れないが、本当にそれが幻想なのかというと、幻想ではない実質的な利害とは何かということが、うまく定義できない可能性もあるわけで、利害の実質的な実態がはっきりしなければ、共同体的な利害も国家的な利害も政府的な利害も、何か実態の定かでない心理的なイメージに過ぎなくなってしまうのかも知れないが、それが経済的な範疇で商品の売買に伴って利益が出たり損失を被ったりする次元であれば、その実態もつかめるかも知れないが、例えば国家的な利害や政府的な利害が何かといえば、単に経常収支が黒字であったり赤字であったりすることが、黒字であれば利益が出て赤字であれば損失を被るのかとなると、そうだとしても社会の中で暮らしている個々の人にとっては、そうともいえない面があるだろうし、また隣国などとの間で起こる政府間の対立が、非難の応酬や制裁措置や対抗措置などに発展したところで、その中で自国の政府が隣国の政府をやり込めたように思われたところで、それが自国の政府の支持者にとっては心理的に溜飲を下げたような感覚になるとしても、それが実質的な利益に結びつくのかとなると、幻想としての利益ならその気になれるとしても、実態として何か得したことにはならないのかも知れないし、またそれが自国の政府の支持者ではない人にとってはなおのことそう思われるだろうし、むしろ隣国との関係が悪化したことによって、国家的な損失を被っていると受け取られる可能性もあるわけだから、実際にそんなふうに意見する人がいたら、自国の政府を支持する共同体的な集団意識や価値観を共有している人たちからしてみたら、そういう人は非難の対象とも排除の対象ともなりかねず、そんな人が存在していること自体が国家的な損失だとも思われるのかも知れないが、逆に政府に批判的な人たちからみたら、そんな共同体的な集団意識や価値観を共有する人たちが存在していること自体が、隣国との良好な関係を損なっているわけで、それこそが国家的な損失を招いていると見なそうとするのかも知れず、もちろんそうした国家的な利益や損失自体が、実際に産業面での経済状況の悪化や好転を招くなら、実質的な面も伴っているように感じられるわけだが、そうやって心理的な面と実質的な面とがそれなりに連動している面もあるわけだろうが、実際に連動しているからといって、やはりそれは程度の問題であり、大した実害も実益も出ていないのに、心理的な面では大げさに誇張されて捉えられてしまう場合があるわけで、ちょっとしたことで実益が見込まれる側が完全勝利したかのように捉えてしまうと、それこそがもっともらしくも気休め程度の幻想だろうし、ただ一時的にそういった途中経過としての局面が生じているに過ぎず、長い目で見れば大したことではなく、時が経てば忘れ去られてしまうようなことでしかなければ、その程度のことで一喜一憂している人々の存在もそれに伴って忘れ去られてしまうわけで、結局はその程度の利害など何でもないことになってしまうわけだが、その時点では確かに多くの人が心理的に利益や損失を幻想しているわけだ。
8月12日「必要な迂回」
何か必要に迫られてやっていることが、どのような結果をもたらしているかとなると、それが特に必要とは思われない物事をもたらしていれば、必要に迫られていると思っていたことが思い違いだったのか、あるいはそのときには確かに必要であった行為が、それをやっていくうちに、なぜか必要ではない余計な物事がもたらされて、結果的に必要に迫られておこなった行為を台無しにしてしまうようなら、何かそこでこじれた事態が生じているとしかいいようがないだろうが、そんなふうに何かをやっている人の思惑から外れた事態がもたらされるのは、その人に関係する他の人や団体などの思惑も、その人の行為に絡んでくる場合もあるだろうし、それらの思惑がその人の思惑から外れさせるように作用すれば、やっていくうちにその人が必要だと思っていることからも外れていってしまい、その人にとっては思いがけない想定外の事態をもたらしてしまうのかも知れず、それをその人がどう捉えるかにもよるだろうが、そうなってしまったのは仕方がないとして、とりあえずそんな事態を受け入れて、なおかつそんな事態に対応して、そこでやらなければならないことを模索して、それをやるような成り行きに持って行ければいいわけだが、その人にとってその人がやっていることが必要であるかないかという判断に、果たして妥当性があるかとなると、誰がそれを判断するのかといえば、自身で判断するしかないわけだが、実際にやっていることが必要だからやっている以外で、必要でもないのにやっているとすれば、それをどう捉えたらいいのかとなるわけだが、必要でなければやめなければならないのかというと、そのやめるという判断を下すのも自身になるわけだろうが、その人に果たしてそんな判断ができるかとなると、もちろん判断することもあるだろうし、その判断が正しいか間違っているかも、その人が自身で判断しなければならないとしても、実際にそんなことを判断している場合もあるわけだが、それが正しい判断だと判断できればそれでかまわないわけで、どのような判断を下すにしても、自身の判断が正しいと信じられる限りで、それが自信につながるわけだろうが、自信がなければ判断を迷ったり躊躇したりするわけだろうが、どちらにしろそれが必要だと思われるなら、そこでそう判断するしかないわけだが、それが必要に迫られた判断であり、その判断に自信があろうとなかろうと、判断とともに何がもたらされるわけで、そこで何かしら判断したことが、その後の状況をもたらしていることは確かであり、そこでの判断がその先の未来の有り様を決定していて、そこで取り返しのつかない決断を下しているとしても、そんなことは知るよしもない場合もあるだろうし、そうであればその場での判断がその人の未来を左右していることも確かかも知れないが、判断を躊躇するのも先送りにするのも判断であり、どうやってもそこで何かしら判断していることになってしまうのだから、判断しないということはあり得ないだろうし、そこで何かしら判断してしまったから、その後の状況としての現状があるわけで、それを今更なかったことにはできないし、後からそのときの判断が誤りであったことに気づいたとしても、そのときの判断は変えようがないわけだから、それはそれとして、そこで判断を誤ってしまったことを踏まえて、それを今後の反省材料にするしかないだろうが、それでもそのときの判断のおかげで現状がもたらされていると捉えるなら、現状を肯定的に捉えるには、たとえ間違った判断から現状がもたらされているにせよ、それが必要な迂回であったことを認めざるを得ないのかも知れず、実際に現状に至るまでの間に様々な紆余曲折があるのは、誰にとってもそれが自然の成り行きに思われるだろうし、少なくとも最短ルートをたどって現状に至ったわけではないことは、大抵の人にとってはそれが必要な経緯だったと思われるわけで、そうでないと現状のかけがえのなさを実感できないだろうし、そんなふうにして様々な紆余曲折を経験して現状に至ったことが、その人の人格や特徴を構成しているわけで、それが他人にとってはややこしくも面倒くさい傾向を示しているとしても、そこに至るかけがえのない経験がその人を作り上げてしまったのだから、現状を肯定するなら、その人がそうなる必要があったとしかいえないわけで、もちろんそうなる必要などなかったともいえるだろうし、その人が必要に迫られてそうなってしまったとはいえない面もあるのかも知れないが、そうであるなら必要もないのに偶然にそうなってしまったことになるわけで、偶然にそうなってしまったことを正当化できるかといえば、特に正当化する必要もないだろうが、それを正当化する際には、そうなってしまった必然性を強調することになるだろうし、そうなる必要があって、そうなる必要があったからこそ、実際に肯定するしかない現状がもたらされていることを力説するような成り行きになるのかも知れないが、それとは違って現状の偶然性を強調すると、肯定とか否定とかとは無関係に、ただありのままの現状があって、必ずしもこうなる必要があったわけでもなく、どのような現状がもたらされる可能性もあったにもかかわらず、たまたまこんな現状がもたらされていて、果たしてこんな現状になっていることがかけがえのないことであるかというと、現状を肯定するならそう思うしかないだろうし、否定するなら特にそう思う必要もないわけだが、それがどちらでもかまわないように思われるなら、偶然にこうなっているとしかいえないだろうし、そういう意味では偶然性に関しては判断のしようがない面もあるだろうし、判断とは無縁の成り行きであることが、偶然にもたらされた結果を示しているのかも知れないのだが、その人が様々な判断を下した結果として必然的にこうなったと捉えたいのなら、偶然にこうなったわけではないし、そうではなくどのような判断を下そうとも、そんな判断とは関係なくこうなってしまったのなら、偶然にこうなったとしかいえないようなことでしかないわけだ。
8月11日「つかみどころのなさ」
例えば商品の価格に関する妥当性というのは、実際に売買がおこなわれた実績から判断するしかないが、市場を介して売買が頻繁におこなわれるような商品なら、需要と供給の関係から自然と適正な価格帯に落ち着くことがあるとしても、売る側と買う側の立場が固定していると、両者の間の力関係から、力の強い側に価格の決定権があるような事態にもなりやすいし、そうなると力の強い側の都合で、不当に高い価格で買わされたり、不当に安い価格で売らされたりして、そうやって価格の妥当性が損なわれるような事態が起こるかも知れないが、そんなふうにして強い立場の側が得をして弱い立場の側が損をするような成り行きがあるにしても、そこにはそれなりに限界があるだろうし、実際に弱い立場を強いられている人たちの生活が成り立たなくなれば、売買そのものが成立しなくなってしまうから、それが生産者であろうと消費者であろうと流通業者であろうと小売業者であろうと、それに携わっている人の生活が成り立つ範囲内でしか、経済行為である商品の売買は成り立たないわけだが、たぶん普通はそういった次元が問題となることはないだろうし、ただ商品の売買が成り立っていていて生活も成り立っている範囲内で、しかも相対的な印象や実感として、力が強い側と弱い側との間で、貧富の格差が目立っているような状況があるのかも知れないが、本当のところはよくわからないから、別にそれが世間的に問題視されるわけでもないのかも知れないし、むしろそういうことではなく、例えば恒常的に労働力を売って生計を立てる立場というのが、経済的な力関係の中で弱い立場を強いられている印象があるだろうし、その結果として賃金が不当に安く抑えられているとすれば、それを政治的にどうにかしてほしいという要望が出てくるのかも知れないが、それも雇用がそれなりにあって、ほとんどの人の生活が成り立っている範囲内でのことでしかないから、あまり強く主張するほどのことでもないだろうし、それを深刻な事態として問題視する成り行きにはなっていないのかも知れないし、そんなことも含めて事態が中途半端に推移する情勢の中で、特に明確に政治的な主張が形成されないような状況に陥っているとすれば、それでもかまわないと思うしかないのかも知れないが、そこで何が何でも問題視しなければ気が済まないような人なら、ちょっとした懸念材料でも大げさにあおり立てて、そこから無理にでも政治的な争点をねつ造したくなってくるのかも知れないし、実際にそんなことをやっている人たちにしてみたら、自分たちがいくら問題をあおり立ててみても、一向に世間が関心を示さないし、メディア的な盛り上がりにも欠けることが不思議でならないのかも知れず、そうなってしまう理由や原因をあれこれと並べ立てて、それらのどれもが決め手を欠いているわけではないにしても、根本的に何かが間違っている可能性を否定しきれないのかも知れず、それが戦略的な誤りなのか、それともそういった小手先の問題などではなく、間違っているとか正しいとかいうことでさえもなく、何をどうやってもそうなるしかないような成り行きに巻き込まれてしまっていて、それ自体が予定調和のマンネリ化を招いているとすれば、そんなことをやっている人たちには、もはや何の可能性もなく、そこで行き詰まってしまうしかないのであり、だから世間がそれらの人たちに関心を向ける必要さえないのかも知れないが、それも相対的な範囲内でそうなっているに過ぎないことだから、そうなってしまうことを深刻に捉える必要もないのかも知れず、逆に深刻でないようなことに関して、それをことさらに問題視するようなこともせずに、あくまでも相対的な範囲内で考えてみる必要があるのかも知れず、それは本質的に良くも悪くもないことであり、特にひどい状況でもないのに、そこから改善や改革といった大げさなことではなく、ちょっとしたところをちょっとだけ変更するような態度が求められているのだとしたら、確かにそれをことさらにあおり立てる必要もないだろうし、それが世間の支持や賛同の対象ともならないようなことだとしたら、そんなことをやった成果を賞賛したり批判するような成り行きにもならないだろうが、それでもそういうことの積み重ねが、それなりに状況を変えていく上で必要なことであるのかも知れないし、そういった特に賞賛や批判の対象ともならないようなことをやるような成り行きになっているとしたら、何でもかんでも政治問題化してあおり立てるような人たちは不要になってしまうわけで、そんな大げさな批判がいらないとしても、やるべきことが全くないということではなく、ただそのやるべきことが特に大した成果をもたらすようなことでもないだけに、それをやるに際して他からの支持や賛同などは当てにできないようなことであり、そんな誰からも賞賛も批判もされないようなことを淡々と遂行できるかといえば、実際に必要に応じてそんなことをやっている人など世の中にはいくらでもいるのかも知れないし、その逆にやっていることがメディアなどで大げさに取り上げられて世間の脚光を浴びるようなこととなると、それは全体から見ればほんの一部に過ぎないことなのだろうし、誰もが嫌でもそんなことに関心を持つような成り行きがあるとしても、それはそれとして、実際に多くの人たちがやっているのは、そんなこととは無縁な行為であるだろうし、そんなことを多くの人たちがそれと自覚することなく気づいているから、政治問題の類いやメディア関連の話題をあおり立てるような行為に関心を持てない人が増えてきたのは、ある意味当然の成り行きなのかも知れず、ならばそれをことさらに問題視する必要もないだろうし、またそれの延長上の問題として、選挙での投票率の低さを嘆くようなことに関しても、それを誰のせいにする必要もないだろうし、それはそうなるのが当然の成り行きだと捉えておくしかないことであり、それを当たり前の前提として、それに伴って人々が関心を持つようなことをメディア上で大々的に取り上げるような行為も空振りに終わることも踏まえた上で、別に多くの人が関心を抱くようなことではなくても、必要ならやらなければならないだろうし、またそれをことさらにあおり立てる必要もなく、やるべきと思われることを淡々とやるような成り行きになるしかないわけで、別にそれが世間的な評価の対象とはならなくても、必要と思うならやっていくしかないわけだ。
8月10日「大道芸」
言葉を用いて何かを表現することと、その対象となる事物とは、それなりに関連性があるはずだが、ただそれが毎度おなじみのありふれた表現になってしまうと、事物の本質を捉えていないように感じられるわけで、実際にその事物の存在感や動作として、その事物特有の傾向や強度が備わっていると、ありふれた表現では釣り合いがとれなくなるだろうし、下手をするとその事物について語っていないことになり、その事物にはふさわしくない表現になってしまうのかも知れないが、そんな表現を真に受けてしまうと、そういった表現からは事物の真の姿を感じ取れないことになり、事物に対して的外れな印象を抱いてしまうことにもなって、そんなふうにして事物の虚構化が進行するのかも知れないが、それは事物を直接表現するのでなくても、それにかこつけてありふれたことを語る際にも、そんな事態が進行するのかも知れず、なぜそうやって事物をありふれた存在におとしめようとするのかといえば、そこに事物が存在していて動作していることから来る素直な驚きを可能な限り減じて、何かそこで新しいことが起こっているのをやり過ごすには、そういった言語的な処理が必要となってくるのかも知れないが、なぜそうしなければならないのかというと、意識がこれまでと同じような感覚を保ちたいわけで、これまでの感覚の延長上で物事が推移していれば、これまでの論理や表現によって難なく物事を捉えられるだろうし、その物事に合わせた新たな論理や表現を模索しなくても済むからだが、そうであれば自分たちが後生大事に抱えている価値観を変更する必要もなくなるわけで、そうした試みが最終的には現状維持へと落ち着くのかも知れないが、実際にはこれまでにはない事物が出現しているとすれば、単に新たな事態に意識が対応できていないだけで、現状維持自体がフィクションにしかならないわけだが、それで済むかというと、そういうやり方に批判的な人なら、それでは済まないと思いたいのかも知れないが、そうやって状況が変化する可能性の芽を摘んで押さえ込むことに成功すれば、何とかなるような気がするのかもしれないが、実際には意識してあからさまにそんなことをやっているわけでもないだろうし、結果的にそんな成り行きになっているのかも知れないということでしかなく、それに関してほとんどの人たちも何を把握しているわけでもないのだろうが、中には前衛芸術のようなものが社会を改革に導くことに期待するような、そんなわけがわからない勘違いを抱いているような人たちもいるのかも知れず、そういった人たちは自由な表現を目指して、現状維持を目指す保守派の同調圧力に屈せず、芸術作品に政治的な主張を込めて、それをやめさせるために圧力をかけてくる勢力に対して抗議の意志を示しながら、戦闘的な姿勢を鮮明化するようなことをやっているつもりになれるのかも知れず、そんな活動を大真面目に受け取ると、何やらそこから社会変革が実現できるかのような幻想を抱けるのかも知れないが、それはそれで現状維持を実現しているかのように幻想するフィクションとは反対の、現状の改革を実現しているかのように幻想するフィクションになってしまい、その実態が単なる安手の政治的なパフォーマンスにしかなっていないことに気づかないような愚かな事態になっているわけで、それもある意味ではそこでおこなわれていることの本質を捉えていないことから来る勘違いでしかないわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、メディア的な見世物の水準と人々が実際に生活している水準にはそれなりに違いがあるわけで、いくら人々にパフォーマンスを見せても、それはあくまでも非日常的な出来事に過ぎないことだから、それとこれとは別々の次元でおこなわれていることだと認識できるだろうし、下手をするとそんなパフォーマンスの類いは娯楽の一環と解釈されてしまうわけで、そうなるとそれを観て楽しめれば十分なものでしかなく、そこから社会の変革に結びつく要素を導き出せなければ、どんなに趣向を凝らしてみても、見世物であるという敷居を超えられず、結果的に人畜無害で珍奇な演芸にしかならず、それこそありふれた表現形態と受け取られてしまい、それ以上の進展は期待できないわけだが、ではどうすればそれ以上の進展を望めるのかといえば、こけおどし的な効果を持たせるとか喜怒哀楽の感情に訴えかけるとかいうのではなく、考えさせるように仕向けることが重要だろうし、それにはありふれた表現では考えてくれないし、興味を抱かせることが肝心であるとしても、毎度おなじみの安心感を伴ってしまえばやはり考えないし、何よりも疑問を抱かせなければ考えないわけで、実際にも表現の自由だとか不自由だとかの水準では疑うことは何もなく、それは憲法で公式的に認められていることでしかないだろうし、ではなぜそんなことがわざわざ憲法に記されていないとならないのかといえば、自由に表現させないように圧力をかけてくる勢力がいるからだろうし、気に入らないことを主張されたり表現されると腹が立つ人たちがいるということであり、そんなこともありふれていてわかりきっているわけだが、それも取り立てて疑問を抱くようなことでないのもわかりきったことであり、人々に考えさせるのはそんなことではなく、そんなことをなぜ遠回しに芸術にかこつけて表現しなければならないかということがまずは疑問に思われるだろうし、しかもこけおどし気味に憎悪の感情に訴えかけるようなことをやらなければならないのかも疑問に思われるし、そういう意味ではそれ自体が疑問だらけの見世物であるわけだが、しかもその中でも一番の疑問点は、芸術とは何かという本質的な問いに答えずに、その代わりに表現の自由とか不自由とかいうありふれたお題目でお茶を濁していることが、芸術とは無縁な教条主義的な主張になってしまって、結果的に見世物を台無しにしているし、芸術とは何かという問いには、実際に展示されている作品によって答えなければならないのに、それがありふれた薄っぺらい政治的なパフォーマンスに堕してしまったわけだから、結局は目も当てられないようなひどい惨状になってしまったのではないか。
8月9日「自己犠牲」
社会規範というと何か道徳的な内容を思い浮かべる人が多いかも知れないが、果たして世の中で何にもまして無条件で守らなければならない規範というのがあるかというと、普通はそんなのはあり得ないように思われるかも知れないが、日頃の自らの行いに関して何かやましさを覚えるような時があるとすれば、そこでやってはいけないことをやってしまっているように思われるだろうし、たぶんそんなときに守らなければならない規範を破っているように思われるのかも知れず、誰でもそんな経験はあるのかも知れないが、なぜそこで規範を破るような成り行きになってしまうのかといえば、大抵は自身の事情を優先させると、その手の社会規範とぶつかってしまうわけで、そういう意味で社会規範というのは、自己を犠牲にして社会に尽くすような成り行きを伴うのだろうし、実際にそういうことをおこなっている人は立派に見えるのかも知れないが、具体的にどのような行為が自己犠牲を強いられる行為になるのかといえば、自らの不利益を顧みずに他人を助けるような行為を行えば、それが自己犠牲的な行為となるのだろうが、それも意図的に意識して行うのではなく、意図せずそれと自覚することなくやってしまうようなことがあるだろうし、それをやった後もそのことに気づかなければ、それが社会規範に操られておこなったことになるのかも知れないが、無意識の動作としてそれが身についているのかも知れないし、なぜそんなことが自然に身につくのかといえば、他人に共感する能力が自己保存本能に打ち勝つように動作するから、そんな現象が起こるわけで、そこに社会が存在していて、その中で人と人とが助け合いながら生きていること自体が、自分よりも他人を助けることを優先させる傾向となっているのかも知れず、そうすることが社会規範としても望ましい行為と見なされるわけだろうが、誰もがそんな規範に従うわけでもないだろうし、少なくとも経済的な功利性を優先させようとすれば、自分や自分が所属している集団の利益を最優先させるような傾向となるわけで、なぜそうなるのかといえば、実際に経済活動を成り立たせている論理が、そうなっているとしかいえないような成り行きをもたらしているのかも知れないが、そうであるなら、社会を成り立たせている論理と経済活動を成り立たせている論理が、相反する傾向を伴っていて、そこで二つの論理がぶつかり合っていることになるわけだが、その二つの論理のどちらも人が生きていくに際して必要であるなら、論理的整合性がとれなくなってしまうように思われるかも知れないが、その場の状況に応じて相反する二つの論理を使い分ける必要があるのかも知れず、どちらか一方の論理を優先させるだけでは世の中がうまくいかなくなってしまうわけで、その中でも利己的な功利性に歯止めをかけるためにも、それを優先させて結果的に他人を困らせるような行為については、やましさを覚えるような成り行きになるわけだろうが、やはりそこでもなぜそうなるかについては、うまく論理的には説明できないのかも知れず、ただ他人を困らせるようなことをやってしまうと、気分が悪くなってしまうわけで、それよりは他人を喜ばせるようなことをやりたくなってくるのだろうし、しかもその際に他人に迷惑をかけずに他人を喜ばせて、それによって自分も気分が良くなるような成り行きをもたらそうとすれば、自然と自分を犠牲にしてでも他人を助けるような行為となってしまうのかもしれず、そういうところで自己保存本能に反するようなことを時としておこなってしまうわけだだろうが、それで世の中がうまく回っていくなら、回り回って自分が犠牲を払った分がいつか返ってくる可能性もあるのかも知れず、そういうことを事前に期待するわけにはいかないとしても、あえて自分が犠牲になる方が、結果的に物事がうまくいくような予感がするのかも知れず、そういうところであまりにせこく目先の利益を追い求めない方が、身のためなのかも知れないし、しかも利益を得られると思っていたのが幻想に過ぎない場合もあるわけで、さらにその幻想というのが、現実の利益である場合もあるだろうし、要するに銀行口座の残高がいくら増えても、そのままでは何ももたらされず、実際にその金額を消費しないと何かがもたらされたことにはならないし、例えば何かを過剰に買って過剰に消費すれば、すぐに口座残高がゼロに近づいてしまうし、そうなるとまた口座残高を増やすために経済活動をおこなわなければならなくなり、そんな金儲けがやましさを伴ってくれば、金儲けから来る自己満足とやましさから来る不快な気分が同時にもたらされることにもなるだろうし、特にそこで不正行為やごまかしや詐欺的な行為などをやらざるを得なくなってくると、それだけ心労やストレスもかさむ一方で、その反動から過剰に自らがおこなっていることを正当化するような成り行きも生じてくるだろうし、やましさに打ち勝つためにはは自己正当化が欠かせなくなって、そんなことをやればやるほど独善的な傾向になってくるわけだが、それに比例して虚栄心も増長してくるし、何にしても程々のところで済ますわけにはいかなくなってきて、大げさに自らの存在を誇示して、やっていることを飾り立てるような成り行きにもなってくるし、そうやって盛大に繁栄を祝うようなことをやり始めると、それだけそういう行為の限界が近づいている証しともなってくるのだろうが、そうやって栄華を極めた後にやってくるのが何かといえば、普通は衰退となるわけだろうが、衰退を遅らせて栄華を長引かせようとすれば、それと表裏一体となって生じている心身の荒廃も深刻な様相を帯びてくるし、繁栄している面と荒廃している面が極端な対比を見せるようになるのだろうが、それが利己的な功利性を追求した結果としてもたらされた状況であるなら、実際にそうした行為の渦中にある人たちには、そうなっていることが当たり前の状況であるわけだから、それでかまわないのだろうし、もちろんそこからせめてもの罪滅ぼしというわけでもないだろうが、世間体を気にして慈善事業なども手がけることにもなるのだろうが、そんな状況になってからでないと、そういうことはおこなわれないだろうし、そうなっている時点でもはや手遅れで、取り返しのつかない事態になっているわけだが、それが成功や繁栄の証しであるだけに、それ自体が不条理な成り行きでしかないわけだが、それが不条理であることに気づけるわけでもないだろうし、うまくいっている面だけに目を向ければ、うまくいっているようにしか感じられないわけだ。
8月8日「制度と社会の不完全性」
社会の仕組みとして何かしら制度的な形態があるのは、その中で活動している人に制度に基づいた役割分担が生じていることからも明らかだが、そこで人が制度が定める規則に従った動作を強いられるのも、制度が社会の中で機能していることから来る当然の成り行きであり、またその人が規則に従っているか規則を破っているかを判断するのは、その人自身ではなく、制度を管理している側であるのも、規則として定められていることであり、人がそうやって制度に拘束されている面があることは、そういった制度を含んだ社会が成り立っていることを示しているわけだろうが、もちろんそういう面があるとしても、人が全面的に制度に拘束されているわけではないし、官民を含めて複数の様々な制度が同時並行的に乱立していること自体が、制度と制度の狭間で制度にとらわれない活動できる余地が残されている可能性を示していて、また制度同士の連携や整合性などに関しても、うまくかみ合っていない面もあるだろうし、実際にそうなっていることが、ある意味では制度の不完全性とともに社会の不完全性を示しているのだろうが、それを不完全だと見なすか、あるいは社会が変化する余地として柔軟性があると見なすかは、どちらでもあるのだろうが、制度を利用してできることと、特に制度を利用しなくてもできることがあるのは、制度が必要とされる面と、特に必要ではない面の両面があることを示しているだろうし、それに関して人の活動のすべてを制度によって囲い込む必要があるかというと、そうとも言い切れない面もあることは確かで、制度化されていない行為や活動に関しては、制度化するメリットがなければ制度化されないだろうし、また制度化しようとする目的が生じなければ制度化されることはないわけだろうが、ではなぜ何らかの行為や活動が制度化されるのかといえば、制度化することによって利益が見込まれれば制度化されるだろうし、また人や物や情報を何らかの制度に囲い込むことによって、効率的に管理できると判断されれば、やはり制度化が試みられるわけだろうが、そういう面では人を制度に従わせることによって支配するとか、支配という言葉に語弊があるなら、やはり管理という言葉が使われるだろうが、そうすることによって制度を管理する側が、人の活動や行為を把握しやすくなるとともに、制御しやすくなるなるわけだが、その一方で人が複数の様々な制度を同時に利用していると、その中の一つの制度だけに管理されているわけでも支配されているわけでもなく、それらのことごとくは部分的な管理に過ぎなくなるだろうし、部分的な支配に終わるしかないわけで、そうなるとそれらは不完全な管理であり不完全な支配になるわけだが、そうであるなら実質的にも全面的な管理も支配も行われていないことになるだろうし、そうやって人の活動や行為の中である一面だけを管理したり支配するような複数の制度が社会の中で成り立っていることになるわけだが、それでは管理も支配も不十分だから、制度を一つに統合できないかというと、それぞれの制度にはその用途や特性に関して一長一短があり、また制度同士が相容れない面もあれば、それらを強引に一つに統合すると、うまく機能しなくなる可能性が出てくるのかも知れないし、だからそれぞれの得意分野ごとに、その分野に特化した制度が必要となってくるわけだろうが、それが制度の限界であり、そういう意味では多方面で複合的に機能する制度はあり得ないのかも知れないし、制度にはある特定の分野に機能を特化することで成り立つ性質があるのだとすれば、その分野に関わった部分では、確かにそれに関わってくる人を制御したり支配することもできるのかも知れないが、その分野から外れる部分では、当然のことながら制御も支配もできなくなり、そうであるなら特定の制度では、人を完全に制御することも支配することもできないわけだが、それに関して例えば政治や行政などの面で、国家的な制度によって人を完全に制御したり支配することを目指す試みというのが、実際に行われているとしても、そういった試みがうまくいくはずがないことにもなるのだろうが、ではそうだとすると、そういう面での制御や支配に危機感を募らせるような人たちの認識や主張というのは、勘違いであり間違っているかというと、危機感を募らせていることに関しては、そういった懸念を抱かせるようなことが実際に行われているのかもしれないし、そういった試みが成功することはないのかも知れないが、完全には成功しないまでも、そういう試みが行われる可能性は絶えずあるといえるのだろうし、そしてそれが無駄で無意味な挑戦というわけでもなく、制度というのは常にその制度によって拘束する人たちを管理して制御するような性質があって、そうすることにメリットが生じるから、実際にそういうことをやろうとするわけで、しかもそれがしばしば行き過ぎた管理となって、束縛され支配されているように感じられるから、そこで危機感を募らせることにつながるのだろうが、そうだとしてもそれがいつも部分的な管理や支配にとどまっている現状もあるとすれば、そうなっている限りで危機感を募らせる人たちの杞憂に終わっている現状もあるのだろうが、それでも現状の社会が成り立つ上で、人や物や情報の制度的な管理は必要不可欠であり、実際にそういうことが行われているわけだが、たとえそれが部分的な管理にとどまっているとしても、制度を管理する側の論理としては、常に完全で完璧な管理を目指すわけで、そうすることが制度的な特性でもあるわけだから、そういった傾向に危機感や懸念を抱くのも当然なわけだが、そういった制度的な管理を推進する側と、そういう傾向に危機感を抱く側とで行われるせめぎ合いの類いが、社会に何らかの均衡状態をもたらしているともいえるのかも知れないが、少なくともどちらの思惑通りともなってない現状があるのだろうし、それは将来的にわたっても変わりないのかも知れないし、結果的にどちらの思惑通りにもならないことが、制度や社会の不完全性を示しているとしても、それが現状をもたらしていることも確かなのかも知れない。
8月7日「場の力」
何かその人に明確な目的があって、その目的を成し遂げようと努力していれば、その目的の内容がどうであれ、それがその人の活動の中では最優先されるはずだが、実際にはそれを成し遂げる自信がなければ、必ずしもそれを最優先させているわけでもないのかといえば、表向きはそんなことはないだろうが、少なくとも自信があるかないかで、それを成し遂げようとする意気込みにも違いは出るだろうし、成就する見込みが全くないようなら、そもそもそれが目的とはならないはずだが、その反対に十分な見込みがあって、ある程度は目算も立つようなら、目的を成し遂げるというよりは、目標を達成するような成り行きになるのかも知れず、そうなると目的と目標の違いがわかりにくいところかも知れないが、目的の場合はその結果がどうであれ、例えば何かをやることが目的であれば、それをやってみれば目的を成就したことにはなるだろうし、それがやるだけではなく、結果的に成功することが目的となると、それは目的というよりは、目標というニュアンスを伴ってくるだろうし、そうなると目的が何かをやることであり、目標はそれを成功させることになるわけだが、そうやって目的と目標を使い分けることができるだろうが、必ずしもそれらが明確に区分けできるかというと、そういうわけでもなく、何かをやることだけではなく、それを成功に導くことも目的にはなるだろうし、その辺の言葉の使い方は、何がターゲットになるかによってニュアンスが異なってくるのかも知れないが、そんなふうに目的や目標にとらわれた行為や活動がある一方で、それほど明確には目的や目標が定まっていない行為や活動というのも中にはあるのかも知れず、それに関して何かを切実には求めていなければ、特に目的や目標をはっきりとは意識していない場合もあるだろうし、それが表向きは目的や目標を明確に示しておきながら、なかなかそれを成し遂げようとしなかったり、いつまでたってもそれが達成されなかったりして、それが単なる怠慢でそうしているわけではないとすれば、そうした目的や目標自体が疑わしく思われるようにもなってくるのかも知れず、そういう場合は目的や目標に向けて努力しているふりを装いつつも、実際には努力しているポーズを保っていることが、真の目的となっていたりして、そういった結果に至らずに常に途中経過の中で、現状を維持し続けるような戦略というのもあるのかも知れず、そうすることのメリットとしては、いつまでも同じ目標を掲げていられるわけで、いったんそれが達成されてしまえば、それとは別の目的や目標を掲げなければならなくなるようなら、たぶんそこで他にやることが見つからずに活動を継続できなくなってしまう恐れが出てくるわけで、そうなってしまうのを避けるには、いつまで経っても同じ目標を掲げ続けることが、そこでの最善のやり方ではないにしても、そんな現状を維持するには妥当なやり方となってくるのかも知れず、もちろんそんなことをやっている人や団体にとっては、それでもかまわないような状況となっている限りで、そんなやり方が通用するのだろうが、果たして現状の政治情勢の中でそれが通用しているかというと、情勢が安定していて、しかもいつまで経っても同じような政治的な主張が繰り返されていれば、それでもかまわないような成り行きになっているのだろうが、それで通用しているかとなると、そんな主張を繰り返している人や団体が、現状の中で政治的な主導権を握っていれば、結果的には通用していることにはなるわけだが、それも果たして主導権を握っているのかとなると、やっているふりをしているだけで、実質的には何もやっていないようなことになっていれば、主導権を握っているどころか、単に行き詰まっているだけかも知れないし、実際にやることが何もなければ、やっているふりを装うことぐらいしかできないわけだが、それをレームダックと見るか、それとも何かをやっているふりを装うことが、通常の意味で政治活動の実態であり、それがまかり通っていること自体が、政治本来のあり方だと強弁できるようなら、何の問題もないのかも知れないが、もちろんあからさまにそんなことを言うはずもなく、それとは正反対のことを言うことが、それも政治の場では普通に言われていることであり、それが取り立てて何の違和感も感じないようなら、それで何かをやっているふりを装うことに成功しているわけだろうが、下手に何かをやろうとして、現状の安定した状況が壊れてしまっては元も子もないわけで、そういうところでも何かをやっているように装うことが、実質的な政治活動となっているとすれば、そこで求められているのは何かをやっているように装う演技力の類いかもしれないし、しかもそれが政治家自身の演技力というよりは、それを伝える側のメディア的な演出力である可能性もあるのかも知れず、さらにそれを受け止める側の見て見ぬふりをする傍観力でもあるのかも知れないし、要するにそこでは誰もが共犯関係にあることが、そんな三文芝居を成り立たせる上では必要不可欠となってくるのかも知れないが、それが必要だと思わないことも、自覚なき演技に含まれるのかも知れないわけだが、そうやってどこまでも現状維持的な情勢となっていれば、本当に演技すること以外には何もやるべきことがなくなってしまうわけだが、たぶんやるべきことが何もないということには誰もが薄々気づいていながらも、それをあからさまに指摘しないようにすることが、三文芝居を長引かせる上では、舞台上の演技者にとっても、それを客席から観ている観衆にも求められていることでもあり、それを誰が求めているのでもないのだろうが、その場に居合わせた人たちの共通認識としては、支配的な同調圧力として認識すべきことかも知れず、誰もがそんな圧力に屈している限りで、その場の均衡が保たれているわけだろうが、果たしてそんな均衡を破って事態を流動化させる力が誰にあるのかといえば、誰にもなければ、そんな状況が延々と続いていくのだろうが、それが続かなくなるようなら、それは特定の誰かや何らかの勢力に、予定調和の均衡状態を打ち破る役目が割り振られるということでもないのかも知れず、ただそこで場の力が弱まってくるような成り行きが、自然に生じてきているということでしかないのかも知れない。
8月6日「相互作用」
物事を宣伝すること自体は悪いことではないが、何を宣伝しているかで、その良し悪しを判断するような成り行きが生じるのかもしれないし、また何を表現しようとその人の自由ではあるが、それも表現できる場がある限りで表現できるに過ぎないが、表現している中身に関しては、やはりその良し悪しを判断する成り行きが生じるのかもしれないし、それに対して他から何をどう判断され評価されようと知ったことではない、というような態度もとれるかもしれないが、大勢の人や団体がそうした判断や評価の対象となるイベントに関わっていると、そうしたイベントを成功させることが目的となるだろうし、嫌でもそれに対する評価を気にせざるを得なくなるし、そんなことを意識し出すと、物事の様々な面で好き勝手に振る舞うわけにはいかなくなってしまうのかもしれないが、そういうことを気にせざるを得ない立場というのにも誰もがなれるわけではないし、大抵の一般人はそんなイベントとは無関係に生きているわけだから、たとえそれが世間の話題となろうと、興味がなければ無視していればいいわけだが、無視できないことがあるとすれば、それがその人が直接的にしろ間接的にしろ、程度の差があるにしても、それなりにそうしたイベントに関わっていることになるわけだろうが、それに関して何か言及する程度のことであっても、言及の中でそれに対する評価も含まれてくれば、その評価の中で対象となる物事を、否定的に評価したり肯定的に評価したりすることになれば、そんな評価が世間に影響を及ぼすなら、その人には世間に対して何らかの影響力があることにもなるのだろうが、その人が無名の一般人であれば、そんな影響力もたかが知れているだろうし、そのすべてが何でもないことというわけでもないが、すべてではなく部分的なことにしかならないのかもしれないし、それも相対的な程度に過ぎないとしても、そうした相対的な程度というのが、誰にとってもあてはまることであり、別にそれを無駄で無意味なことだと受け止める必要はないのかも知れないが、無駄で無意味なことであってもかまわないのかも知れず、結果としてそうなってもかまわないような成り行きがあり、無駄に終わるようなことを積極的に行おうとすれば、そこから効果や効用とは異なる成果が得られるのかも知れず、だからあえてそうなることを目指すというよりは、結果的にそうなってしまうのをそのまま受け止めるしかないのかも知れず、それを否定的に評価する必要はなく、もちろん無理に肯定的に評価する必要もないのかも知れないが、評価とは無縁の行為だと思っておいてもかまわないし、根本的にそういうことは評価できないのかも知れないが、個人が一人で思っている限りはそんなことでしかなく、それが他人や他の団体との相互作用を伴うような行為であるなら、そこで関係してくる他人や他の団体が、それに関して何らかの評価を下すかも知れないが、そうならない限りは独りよがりでやっていることでしかなく、自己の主観的な判断に依存しているだけで、それこそが無駄で無意味な行為になっているのかも知れないが、それとは違って社会的な行為となると、必ず他の人や団体が絡んできて、それに関してその他人やその団体なりの判断を下すことになるわけで、それがその人にとっての肯定的な評価に結びつけばいいだろうが、必ずそうなるとも限らず、自らの判断や評価とは異なる他人の判断や評価を受け入れなければ、場合によっては世間から相手にされないことにもなるだろうし、そういうところでその人の力が及ばない領域で判断が行われて評価が下されてしまうわけだが、そんな判断や評価が気に入らなければ、拒否して受け入れないような態度をとることができるかも知れないが、それでも大丈夫な立場というもあるのかも知れず、要するにそれが誰からも相手にされない立場となるのかも知れないが、他人からの評価を受け入れようが受け入れまいが、どちらにしても相手にされない場合もあるだろうし、それも無駄で無意味なことの類いかもしれないが、それでも他人や他の団体との相互作用からそうなっている限りで、それも一応は社会的な現象であり、何かそういうところで自己の存在の耐えられない軽さを実感させられるかも知れないが、そういうところで他人からかまってもらえないと気が済まないような性分であっても、何らかの依存症と見なされてしまうだけで、そうした状況の中でその人がどのような心理状態であろうと、それ以上にそんな心理状態を無視するような成り行きの中で、絶えずその人とは無関係な物事が生成され続けるような成り行きもあるわけで、それがその人に関係する保証などどこにもないだろうし、そのほとんどがその人とは無関係であれば、疎外感を覚えるしかないのかも知れないが、実際には疎外されているわけでもなく、誰もがそんな疎外感とともに生きていようと、気づかないところで何かしら他の人や団体と関係していて、それなりに不満を抱きながらも交流しているわけだが、そうした交流がその人を中心として行われているわけではないから、その人が取るに足らないちっぽけな存在であるかのように思われるとしても、誰もがそうであるなら、それだけ世の中に存在している人が大勢いて、誰もがその中心を占めることができないのは当然なのだが、だから中心などどこにもないといえば、それっきりになってしまうわけでもないが、少なくとも自らが何らかの中心にいるという幻想を抱きたいのかも知れず、それが幻想に過ぎないこともわかっていても、やはり自らを中心として物事が回っているような幻想を抱きたいのだろうが、そんな思いとは裏腹に、各人の活動はいつも中心から外れて分散する傾向があるのかも知れず、もちろん中心がないのだからそれも幻想に過ぎないのかも知れないが、幻想でない認識というのもあり得ないのかも知れず、現状認識には必ずその人なりの幻想が含まれているのかも知れないし、そうでないと自らの主体性を維持できないのかも知れないし、心の中に主体性を保つには、それなりに自己中心的に振る舞っているつもりになれないと、世間から無視されているように思われて、そのことから生じる疎外感に自意識が負けてしまうのかも知れない。
8月5日「言葉の意味」
言葉の意味はイメージとしては言葉そのものに絡みついているように思われても、常に意味を意識しながら言葉を使っているわけでもなく、使うに際して違和感がないような言葉を選んで使っているつもりだろうが、使っている言葉の正確な意味をいちいち把握して気にとめているわけではなく、意味が通るような言葉の使い方を心がけているとしても、言葉の正確な意味までは把握せずに使っていることは確からしく、もちろん文章を記すような使い方だと、後から文章を読み返して、違和感を覚えるような使い方をしている箇所が見つかれば、その言葉の意味を調べて、実際におかしいことがわかったら、修正するようなことは行うだろうし、確かにそんな成り行きの時には言葉の正確な意味を把握する機会もあるだろうが、どちらかといえばそんな機会がいつも訪れるとは限らず、大抵は正確な意味を把握せずに使っているわけで、しかもそれで済んでしまう場合が大半だろうから、いちいち言葉の意味を確認するようなことはしないわけだが、それでも大丈夫な場合がほとんどであるからには、言葉の意味を正確に知る機会というのもほとんどないのかもしれず、わざわざ意味を把握しなくても知っているつもりになれるわけで、言葉を使った時点で、その意味を知っていることも織り込み済みになってしまい、そういう意味では言葉の意味を把握する行為を省略しながら、言葉を使っていることになり、それでもコミュニケーションが成り立ってしまうわけで、別にそれが当たり前のことだから驚くには値しないわけだが、それは言葉に限らず、例えば使い方を完全には把握していない機械を使っていることなどいくらでもあるだろうし、大抵は機械の機能や使い方に関して、使う用途に合わせた使い方しかできない場合がほとんどなのかもしれず、そうやって機械のすべての機能を把握せずに機械を使っているから、時には使い方を間違えて、故障や事故などの思わぬ結果をもたらしてしまったりもするのだろうが、そういった多用途を伴った汎用的な機械の代表格がコンピュータの類いなのだろうが、それでも言葉と機械には違いがあることは当たり前だが、言葉と機械の道具的な使用に関しては、それなりに共通点があるわけで、それも人が人を道具的に使用するのに伴って、言葉の使用と機械や道具の使用などが効果的に組み合わさって、それらが一体化して全体的かつ複合的な人や物や情報などの道具的な使用が成り立つのかもしれないが、人類の文明の中でも産業面においては、人の道具的な使用は避けられないわけで、別にそれが悪いわけではないのだろうが、ただ全面的に人が道具として使われているわけではなくて、それはあくまでも部分的な使用であり、仕事において組織的な作業を伴った協業的な行為の中で、人が人を道具的に使う事態が生じてくるわけで、それが大抵の場合は賃金労働という形態を伴うだろうし、そういう意味では人の道具化と賃金労働が一体化している場合がほとんどかもしれないが、そうした作業内容の分業化によって各パーツごとに分かれた作業が、全体として組み合わさって、ひとつのシステムとして動作することになるわけで、それは様々な言葉が有機的に組み合わさって文章として機能することに似ているわけだが、言葉の道具的な使用と人の道具的な使用との間に差異を考える必要があるかというと、そもそも比べる必要がないわけで、それとは違って人が意味の定かでない行為をしている時には、少なくともそれは道具的な使用とは無関係だろうし、それは目的が定かでない行為ともいえるだろうが、言葉には言葉を用いて何かを表現するという目的が常につきまとってくるわけで、そういう意味では目的のない言葉の使用はあり得ないようにも思われるわけだが、言葉で表現していることの意味を理解させることも、言葉の使用目的であるはずだが、果たして意味のない言語表現というのがあるかとなると、目的が意味のない言語表現を実現させることになると、一応はそこにもそういった目的が生じていることにはなるだろうが、目的には意味や意義があると思っていると、そんなひねくれた言語表現の中では意味を見いだせないだろうし、そんなふうにして言語使用の道具的な面からの逸脱を目指す試みには、意味不明な言葉の使用が伴ってくるのかもしれず、そうなってしまう時点で、言葉の実用から背を向けてしまっているのかもしれないが、それは人の道具的な使用においてもいえることかもしれず、例えば芸術作品に意図や思惑などの効果を求めてしまっては駄目なのかもしれず、そういう意味では安易な喜怒哀楽を表現しようとすると、それでは芸術とはならずに、それに代わって政治的なメッセージなどが込められてしまうわけだろうが、それとは違って何の意味も想像できないような作品が芸術作品としてもてはやされる場合もありそうで、それが美的な価値を高めもするなら、そうした作品は何の役にも立たずに、どんな目的も担い得ないのかもしれないが、そこにあからさまな意味やメッセージを想像してしまうと、そんなことを想像させるのが、その作品を作った目的になってしまうだろうし、そういう意味では従軍慰安婦像などは芸術作品とはいえないわけで、それ自体は性処理の目的で人の道具的な使用を思い起こさせるわけで、それを芸術として提示することに、特定の意図や思惑が想像されてしまうから、それがあざといやり方となってしまい、芸術の趣旨を誤って使っていることになるのかもしれないが、それに関して例えばピカソの「ゲルニカ」を観て、空襲による大虐殺を想像できるかというと、そこには飛行機も爆弾も描かれていないことは確かだろうし、ただピカソがそれを描いた動機を想像すれば、何やら虐殺の光景を描いたとみなせるわけだろうが、そういった描いた経緯を知らない人が観たら、何のことやらさっぱりわからない抽象画でしかないだろうし、その作品が世界的にあまりにも有名だから、誰もが無差別爆撃による大量虐殺を描いたという先入観や固定観念を伴って観てしまうから、そんなことはないわけだが、それは渋谷辺りに飾ってある岡本太郎の壁画にもいえることであり、確かにそういうところは微妙なニュアンスを伴っているわけだが、少なくともあからさまな想像力をかき立てるように意図した作品に芸術性を期待するのは酷なのではないか。
8月4日「意識の変容」
自意識というのは自身と社会との関係の中で生じている意識でもあり、それは自己だけではなく、自己とは別の人格を有している他人や、自己が関係する団体などとの相互交流の中で、それらから何らかの作用や影響を受けながら形成されている面もあるから、孤立して存在しているわけではないし、他人の意識や関係する団体などの集団意識などとも共鳴したり、つながっている部分や重なる部分もあるだろうし、さらには他人から多大な影響を受けて侵食されている面もあるのかもしれず、そういう面が自意識の中に入り込んでいると、それは自己には制御できない面になるわけで、それに関連して団体の構成員として十把一絡げに扱われるような人たちは、総じて似たような意識になっている可能性もあるのかもしれず、それは同じ団体に属していなくても、群衆的な集団意識に支配されている人たちにも言えることだろうし、そういった人たちには一見個性がないように感じられるかもしれないが、特定の物事に対して同じような反応を示すから、同じような意識の持ち主であるように感じられるわけで、また生活形態や職業などが同じような場合にも、同じような意識になってしまう可能性があるのかもしれないし、そんなふうに意識の形成にはその人を取り巻く周囲の環境からの作用や影響が大きいのかもしれず、それは生い立ちや教育環境などにも言えることだろうし、そうやって長年かかって形成されてきた意識がそう簡単に変わるとは思えないかもしれないが、人や物や情報などとの関係が変われば意識もわりと簡単に変わることもあるだろうし、意識が変わったところで何がどうなるわけでもないのかもしれないが、意識の変化とともに、それと関係する他の様々な物事の有り様や形態も変わっていくのかもしれず、もちろんそれはそれらが変わったから、それに連動して意識も変わっていく面もあるのかもしれないし、どちらが先でどちらが後というわけでもなく、それらの間に主従関係があるとも言えないだろうが、そういったことに自身がいちいち気づかなくても構わないだろうし、必要に応じて自身と関わりのある他人や団体などと交流していく過程で、その関わりの形態にフィットするように意識も自然と変わっていけば、それに越したことはないのかもしれないが、その際に自らの主体性やエゴなどをどこまで押し通す必要があるかも、その場の成り行きに応じてわかってくるかもしれないが、そういう面では権力関係なども絡んでくる場合もあるだろうし、そこでの関係も対立や協調や連携などの様々な内容や傾向を伴ってきて、そうなると意識だけでなく、実際の利害なども関係に作用や影響を及ぼしてくるだろうし、それに伴って言葉で意思疎通を図るだけでは不十分な場合も出てくるわけで、またそこに公的な制度などが絡んでくると、意識が否応なく制度的な物事の考え方や捉え方にとらわれてしまい、そうした制約の下で硬直した融通の利かない傾向になってくると、思考の柔軟性を失って、意識も自然と教条主義的になってしまうだろうし、実際にそうなってしまって、そのことで自らの活動に支障をきたすようなら、自らの意志で意識を変えようとするのかもしれないが、そもそも自らの意識を思い通りに変えられるかというと、自らの意識の中に自らの意志があるわけだから、それ自体が循環論になってしまっているわけで、大抵の場合は他人の助けを借りて意識改革を行おうとするだろうが、それが自らの思い通りになるというよりは、他人との共同作業の過程で自ずから意識が変わっていくのかもしれず、そうでなくても社会の中に存在している限りは、自身が孤立しているわけではないから、意識が変わろうが変わるまいが、周囲の環境や関係する人や団体との間で何らかの調整作業が必ず伴ってくるだろうし、そういった自らが関係している物事の動向に引きずられながら、自らの意識も絶えず何らかの作用や影響を被っていると認識しておくしかないだろうし、また意識が変わることと活動の内容や傾向が変わることとが連動しているかというと、連動している面もしていない面もあるかもしれないが、どちらがどうというよりは、互いに絡み合いながら変動していると言えるのかもしれず、それが今後においてどうなるにしても、そこで何か決まり切った作用や影響が自意識に及ぼされるわけでもなく、絶えず偶然にもたらされる予期せぬ出来事に遭遇して、そこから思いがけない作用や影響を被りながらも、そこで自意識が変わらないように保とうとする傾向が、自己保存本能から生じているとしても、それが全てではないことは確かであり、すでにその時点で、自己保存本能とは異なる社会的な制度や慣習などからの作用や影響を被っていて、それが社会の保存を図ろうとする集団的な本能であるならば、そうした集団意識は個人を犠牲にすることで成り立っている場合があるわけで、またそこで生じている制度が個人を個別的に取り扱うように動作していれば、なるべく仲間との連携や連帯などの絆を断ち切って、孤立させて体制には逆らえない無力な個人として国民や労働者に仕立て上げるような場合もあるのかもしれず、それに加えて個々の人たちがお互いに反目し合うように仕向ける動作も伴ってくると、そんな作用や影響を及ぼされていることに人々が気づけるかというと、それは現状の世の中が情勢として示していることであり、そこで人々が様々な徒党に分断されて相互に対立して争っているようであれば、まんまと体制側の思惑通りとなっているわけだろうが、果たして体制側にそんな意図や思惑がはっきりとあるかといえば、たぶんそうではないだろうし、それよりは自然とそんな成り行きになっているだけで、その中で人々がお互いに疑心暗鬼になるような事態となっているのかもしれず、ではなぜ自然とそうなってしまうのかといえば、それは制度的な効果としかいえないのかもしれないが、意識が制度に縛られているということは、すでにそういった前提を意識できないことからも明らかであり、要するにそんな前提を織り込み済にしながら意識が生じていて、そうなっている時点でお互いに反目し合うような傾向の意識となっているのではないか。
8月3日「何かを行う機会」
社会の中で行われる人や集団による活動に際して、それを行うタイミングというのが重要に思われてくる時もあるわけだが、実際に機会を捉えて何かを行うことは、その時でないとうまくいかないように思われるから、そのタイミングを見計らって、最もそれを行うのが効果的に思われる時にそれを行うことになるわけだが、それにはそれまでにそれを行なってきた経験からそういうタイミングがわかってくるわけで、どのようなタイミングでそれを行うかに関して、その裏付けとなる知識と勘が身についていることが、そういうことを行う上での前提条件となっているわけだろうが、実際にそれを行ってみて、それが思いの外うまくいかなかったり、空振りに終わったりすると、機会を捉えて何かを行なったつもりが、それがとんだ勘違いだったことがはっきりするのかもしれないが、そもそもそれを行うタイミングさえ良ければうまくいくという思い込み自体が間違っていたのかもしれないし、それ以外の面でもうまくいくための条件や要素があれば、そういう面まで考慮に入れるなら、うまくいくかいかないかは単にタイミングだけの問題ではないことになるわけだが、そうであるとしても、別にそれを行なった結果が思わしくなくても、そうなった結果が大して深刻な状況とは思えなければ、そのことの良し悪しだけを問題にすることもないわけで、それよりは、そこで何かを行なったこと自体に、そのことの是非とは別に、肯定的な意味や意義を見出したい場合もあるだろうし、実際にそこで何かを行なったことが、そんなに大げさな事態に結びつかなければ、それがうまく行こうがいくまいが、そのこと自体は特に問題とはならない、という認識を得ることができるのかもしれず、いずれにしても実際にそれを行なったこと自体に関しては、それなりに多方面からの分析や解釈や評価が必要となるだろうが、そうすることの意味や意義が不明確ならば、特にその必要もないのかもしれないし、実際にメディア上でそういう分析や解釈や評価が行われる機会を逸してしまうと、少なくとも世間的には注目されないだろうし、そんなふうにそれが他から無視されるようなことでしかなければ、そんなことを行なった事実ですらも確認できないようなことになってしまうのかもしれず、そういった記録にも記憶にも残らないようなことが、世の中で行われていることの大半だとすれば、その大半の出来事はすぐに忘れ去られてしまうようなことでしかないわけだが、それでも少なくともそれを行なった当事者はそれなりに覚えているだろうし、またその関係者もそのことを割と長期間にわたって覚えているかもしれないが、その当事者と関係者以外の人たちには興味のないことであれば、世間の話題となることもないだろうし、世間の話題ばかり気にするような人にとっては、そんなのはどうでもいいことでしかないのだろうが、少なくともそれを行った人やその関係者にしてみれば、それを行う必要があったから行ったと捉えられるようなことにはなるだろうし、そうではなく、それを行う必要もないのに行ったと捉えられるなら、それは行う必要さえない余計なことになってしまうだろうが、ではなぜ行う必要もないのに行うのかといえば、当人の勘違いで行なってしまったことにすれば、必要か必要でないかの判断の対象とはなるだろうし、必要もないのに行なったわけだから、それは間違った行為に分類されることになるわけだが、果たしてそれが必要か必要でないかの判断の対象となるのかといえば、そうした判断自体が間違っていれば、必要か必要でないかという前提条件が崩れてしまうわけで、そうであれば、そんな判断をする必要のない行為というのもあることになるわけで、特にそれを行うに際して、明確な前提条件を伴わないような行為というのもあるとすれば、ではそういった行為は何のために行われているのかとなると、それはただそんなことが行われているだけの場合さえあるのかもしれず、そういった目的の定かでない行為から生じるものの中で、後付け的にそれに対して何らかの定義を施すような必要が生じてくれば、例えばそれを芸術と定義すれば、そういった芸術の信奉者にとっては、それはかけがえのない行為であり、そこから生じるものがかけがえのない作品となることもあるだろうが、それが芸術の信奉者以外の人にとっては、どうでもいい不要な行為であり、そこから生じるものも不要なものとしか感じられない場合もあるのだろうが、それを不要な行為や不要なものとはみなさないようにするには、メディアを通じて宣伝して、それが何か価値のある行為であり価値のあるものだと世間に信じさせる必要が生じてくるわけだが、そういう宣伝を真に受ける人が多いほど、そういう行為やそこから生じるものをありがたがって受け入れるような世間の風潮が生じるわけだろうが、たぶんどのような行為やそこから生じるものが世間的に受け入れ可能なのかについても、それを宣伝するメディア側で経験と勘に培われたノウハウが蓄積している場合があるわけで、そういったノウハウに基づいて、世間に受け入れられやすい行為やそこから生じてくるものを宣伝するような成り行きも生じてくるだろうが、何かそういうところで、そんなメディアが宣伝するような行為やものをありがたがって受け入れるような風潮に、疑いの眼差しを向けることも、時と場合によっては必要となってくるのかもしれず、なぜそういうことが必要となるのかといえば、そういった宣伝を真に受けるような人々が、明らかに軽薄でしかも世間知らずな印象を伴っているのに、もちろん当人たちにはそういった自覚もなく、単なる大衆娯楽のレベルに過ぎないものを芸術作品のように崇め奉っているように見えてしまうと、そういったメディアを通じた宣伝が詐欺のように思われてくるわけで、そう思ってしまうような感性がどこから生じてくるのかといえば、それも何が芸術作品として定義されるのかについての経験と勘が培われていないと、見分けがつかなくて当然かもしれないが、果たしてそういう感性を身につけることが必要か否かとなると、中には必要な人もいるだろうが、必要ではない人の方が圧倒的多数に上るのも、現状の社会では妥当なところなのかもしれない。
8月2日「倫理性と功利性の関係」
人と人との関係がどのようなものになろうと、お互いに意思疎通を図るには言葉を交わすことが主だった行為になるだろうが、中には意思疎通を図ることが目的ではないような言葉の使い方もあるだろうし、意思疎通を図って言葉を交わす相手との間で合意や了解を取り付けようとするのではなく、逆にわかり合おうとせずに、むしろ対立を深めて敵対関係を強めようとして、その際に相手を攻撃するために言葉を戦略的に活用しようとする場合もあるだろうし、それが批判や非難といった行為に結びつくわけだが、一方でそれは批判や非難することの正当性を強調して、そうした行為への支持や賛同を募る目的でも言葉が使われるわけで、そんな際には相手を批判したり非難するのが当然だと思われるような理由を提示したいだろうし、そうやって敵対している人や勢力とはわかり合おうとはしない一方で、そうした行為の支持者や賛同者とは意思疎通を図ってわかり合おうとするだろうし、そういう行為から集団的な党派性が生じるのだが、その中で一緒に徒党を組もうとする人たちとはわかり合おうとする一方で、対立して敵対関係にある人たちとはわかり合おうとはせずに、代わりに批判や非難の応酬となれば、それだけ偏狭で好戦的な態度となってしまうわけだが、功利的にはそんな態度でいる方が何かと有利になることもあるのかもしれず、そのためにもわざと対立を煽るような傾向にもなるのかもしれないが、対立しなければならない理由も批判したり非難しなければならない理由も、それなりにもっともなことだと思われるなら、そうするのが当然だと思われるだろうし、それが倫理的にそう思われるとすれば、相手が何か許されないようなことをやったから、批判や非難の対象となることもあるわけだろうが、そこで功利的にそうなるのと倫理的にそうなるのとの間でどんな違いがあるかとなると、功利的かつ戦略的にそういうことをやろうとする人たちは、倫理的にやっているように見せかけようとするわけで、それが見せかけの行為であることを見破れない人は、両者の区別がつかないだろうし、何か倫理的な正義感からそんなことをやっているように感じられてしまう限りで、両者の違いを見極めることは難しいわけだが、たぶん実際にも功利的な面と倫理的な面とが混じり合っているのかもしれず、そうなると一概には区別がつかないのかもしれないが、心情的に倫理的な面を感じられる行為であるほど、支持や賛同が集まる傾向になれば、そういう批判や非難などの行為により妥当性が増すように思われるわけだが、その一方で功利性を追求する人たちにもより多くの支持や賛同が集まるようなら、やはりそこには党派的な損得勘定などの利害関係が絡んでくるようにも思われるだろうし、特定の党派に属する人たちがそういった宣伝や煽動を集中的に行なっているようなら、やはりそこでは倫理性よりは功利性が優先されていると思われるだろうし、それとは違って特に利害関係とは無縁の人たちがそういった行為を支持したり賛同しているようなら、やはりそれは倫理的な行為であるように思われるわけで、そういう意味では特定の行為への支持や賛同に関しては、それへの反応として多くの人が支持や賛同へと至る経緯や脈絡から、それが倫理的な傾向の強い行為であるか功利的な傾向の強い行為であるかの違いがわかる場合もあるかもしれないし、たとえそれが党派性の傾向が強い行為であっても、その党派が倫理性を重視する党派か功利性を重視する党派であるかの違いによっても、それがわかる場合もあるわけだが、中には倫理的であることが功利的である場合もある一方で、功利的であることが倫理的であるかとなると、それよりは単に倫理面を無視してでも功利性を重視する傾向の行為の方がはるかに多いだろうし、それに関してはより多くの人たちが倫理的な面を重視すれば、それが世間の総意として功利的な面にも結びつくわけだが、逆に多くの人たちが倫理的な面を軽視して功利的な面ばかりを重視するなら、それは単に功利的な行為になってしまい、そういう意味では倫理的な面と功利的な面とは対照的な関係ではなく、倫理的な面が功利的な面に結びつく可能性はあるものの、単に功利的な面だけが重視されても、それが倫理的な面に結びつくとは限らず、逆に倫理的な面が軽視されたり蔑ろにされるような行為は、倫理的には否定される行為であり、それが批判や非難の対象となりやすく、特にそれが倫理的に見せかけるような行為となると、そうした見せかけを暴き立てるような批判や非難にさらされるわけで、その典型的な例が義援金詐欺のような行為になるわけだろうし、そういった偽善や欺瞞を見破ることができるか否かによっても、そういった行為への支持や賛同を表明する人々の程度が知れてしまうわけだが、それに関しても例えばメディア上で何らかの宣伝や煽動が行われているとして、それが倫理的な宣伝や煽動であるか、あるいは功利的な宣伝や煽動であるかに関して、果たして両者の違いがわかるかどうかとなると、やはり両者が入り混じっている場合もあって、そういうことに関しても一概には区別がつきにくい面があるわけだが、少なくともそれがあからさまに倫理的な面を強調するような宣伝や煽動であれば、それなりに疑ってみる必要があるだろうが、逆に一見倫理的でも何でもなく、ただ功利的かつ戦略的な行為に感じられるとしても、わざとそういう面を強調することで、そういった功利的な強調に隠されている倫理性を感じ取った方がいいような行為もあるだろうし、そういう面をいかに汲み取るかが、それへの支持や賛同を表明する上では重要なことなのかも知れないし、実際にそういうことを行なっている当人が、自らの倫理的な面に気づいていない場合もあるわけで、もちろん気づいていないからといって、気づかせようとするのではなく、その人がそれに気づかないまま倫理的な行為をやってしまうのを支援するようなことが行えたらいいのかもしれず、そんなわけで何らかの行為に支持や賛同を表明するにも、そういった面への感性や配慮が求められることもあるだろうし、そういうことを気にしないで、あからさまに倫理的な行為を賞賛して功利的な行為を否定するようなことをやってはいけないのかもしれないし、そういう面に多くの人が配慮しないと、あからさまに功利的な行為を礼賛する人たちの天下となってしまうのかもしれない。
8月1日「物象化」
物事が商品として売買される過程において、そこで貨幣と商品が交換されるのを見て、貨幣には商品と交換できる能力があると思ってしまうと、そう思ってしまうこと自体が何かおかしいように感じられるわけだが、実際には貨幣と商品を交換しているのは人と人であって、貨幣自らが直接商品と交換しているわけではないのだから、そう思ってしまうこと自体が貨幣に対する物神崇拝が生じていると解釈するのも、何となく違和感や感覚的に無理があるように思われるとしても、そう述べてしまうと、何かもっともらしいことを述べているようにも感じられてしまい、そんなふうに貨幣には商品と交換できる能力があると思ってしまう意識が、商品と貨幣の交換を通して成り立っている売る側と買う側との人間関係が、商品と貨幣との関係に還元されているように思われて、そういった物と物との関係として捉えているわけで、それが関係の物象化と言えるのだろうが、実際にはそれとは少し違っていて、売り手がこの商品はこれくらいの金額の貨幣と交換することが妥当だと主張して、買い手の側でもその金額を支払うことに同意すれば、そこで売買が成立するわけだろうし、少なくとも買い手が同意しなければ売買は成立しないわけで、それがどのような形態になるにしても、普通はそこで売買交渉が行われているわけだが、それはその場の状況にもよるが、売る側も買う側も交渉など意識しないことがあるにしても、例えばスーパーやコンビニなどで客が買いたい商品を選んでいる最中が交渉だと捉えるなら、とりあえずそこでは売る側が買わせたい商品と、買う側が買いたい商品とが一致しないと、売買が成立しないことになるだろうし、そういった成り行きの中で貨幣の果たす役割は何かといえば、商品の価値を決める尺度といった類いの媒介物となるわけで、また買う側がどうやってそれを入手したのかといえば、普通は何かを売って貨幣を手に入れたわけで、その売り物が労働力となると、働いて賃金を得たことになるわけだが、そこでも労働者には自らが所有している労働力と、賃金である一定額の貨幣を交換できる能力があると思ってしまうと、やはりそう思ってしまうこと自体が、何かおかしいようにも感じられてしまうわけだが、そこでも普通は売買交渉が行われると捉えられるわけで、労働力を買う側は、自分たちが課した作業を行ってくれないと、賃金を払う気にはなれないだろうし、また労働力を提供する側でも、買う側が課した作業を行ったのだから、当然賃金をもらう権利が発生したと思いたいわけだが、それが買う側が満足できるような作業内容でないと困るわけで、そうなると労働力を売る側が、その作業をこなす能力があるかないかではなく、実際に買う側が満足できるような作業をこなした結果から、買う側が賃金を払う義務が生じるわけだろうが、もちろん労働する側がこれまで働いてきた実績が考慮されることによって、前もって支払われる賃金の額が決定される場合もあるわけで、また労働の実績がなくても、学歴などの経歴によってその額が決定される場合もあるわけだが、そうやって実際に賃金や報酬が支払われた結果から、その労働者には支払われた賃金の額に見合うだけの価値があると思ってしまうと、その労働者自身を物象化していることになるだろうが、実際にはそこに関係してくる人たちの間で、同意や了解が成り立っていることが、賃金が支払われる上では必要不可欠な条件となるだろうし、交渉や調整を行なった結果として、双方の同意や了解を得て、そういった金額が決まるわけだから、そんな途中経過を無視したり省いてしまうと、そこで生じている人間関係の物象化が生じてしまうわけで、そういった金額や成績などの数値だけで物事を語ろうとすると、そこで行われている行為や活動の一面しか把握していないことにもなるだろうし、それに関しては一時期世界的に流行ったビッグデータなどの数値を活用した情勢分析の類いなどは、そういった人が絡んだ社会関係を物象化するための最たる手法だったわけだろうし、それによって分析対象の効率化や功利性などに関して有効な指針が出てくるにしても、それとは無縁の非効率で功利性を無視するような行為や活動などとは相容れないものがあるだろうし、実際にも誰もが統計的な出力傾向に沿うように動くわけではなく、それとは無関係な動作もその場の成り行きに合わせたり逆らったりしながら行われるのかもしれず、それが想定外の偶然に起こる成り行きであり、動作だとみなしてしまうと、それ以上の分析は不要かもしれないが、分析ではなく交渉や調整などを行う場合には、分析結果から判断するだけではなく、その場で相手の顔色を伺いながら判断したり、偶然に生じてくる双方の特殊な事情を考慮しなければならない場合もあるだろうし、それらが統計結果から外れる要素となるのかもしれないが、そこで起こる想定外の出来事や現象まで事前に予想して考慮できるわけでもないだろうが、さらにそういうことだけではなく、結果的にうまくいかなくても構わない場合もあるわけで、それがうまくいかなかったから批判される成り行きがもたらされるわけだが、それでもうまくいけばそれで終わりとなってしまうから逆に困るのかもしれず、行為や活動を持続させるには、うまくいかないことを延々と繰り返す方が有効な場合もあるわけで、そうなるとうまくいかない方が都合がいいわけで、実際にうまくいかずに、それに関して各方面から批判を浴びながらも、そんな批判を浴びること自体が、その批判を浴びせてくる人や勢力と対立して争うことによって、そういった対立したり争っている状態を保つことによって、その場の主導権を握っていることにもなるのかもしれず、そうなるとむしろわざと批判されるようなことをやって、そういった批判に対して居直って、場合によっては逆に批判するような人や勢力に対して攻撃を仕掛けたりして、そうすることによって味方からの信用や信頼を得ることにつながるのなら、むしろ批判されないような成り行きとなってしまうことの方が、それらの人や勢力にとっては不都合になってしまうわけで、そういった事情まで考慮に入れるなら、結果ではなくそこに至る途中の過程で他の人や団体などと絶えず交流し続けて、そうした人や物や情報を介した交流を途絶えさせないことが、活動を継続させる上で重要となってくるのかもしれない。
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