彼の声132

2019年

5月31日「思考の対象」

 世の中で生じている現象や起こっている出来事の中で何について考えるにしても、考えようとするとそれなりの不自由が伴ってくるのかもしれず、当たり前のことだが考えるにはその対象が必要となり、しかも具体的にはっきりと限定された対象でないと考えようがなく、例えば何か特定の問題について解決案を検討するような成り行きになれば、それなりに思考を働かせることができるかもしれないが、誰もがそんなことを考える立場になれるわけでもなく、大抵はそれとは違って、ただ漠然と世の中の動向が不快に感じられるようなことにしかならないのかもしれず、そういうことに関してはまともに考えるような成り行きにはならないだろうし、ただ原因が何だかわからないが不快感が募ってきて、感情的にむしゃくしゃして、そうなると鬱積した不満のはけ口とか、当たり散らす対象などが必要となるかもしれないが、それでは考えることとは無関係になってしまうし、世の中の民衆をそういう気分の中に押しとどめておければ、単に憂さ晴らしの娯楽をあてがっておけば、それで済んでしまうようなことにしかならないのかもしれないが、別にそういう思惑が働いて、憂さ晴らしの娯楽があるわけでもなく、そういう否定的な感情の発露だとは誰も思っていないだろうし、むしろ積極的に楽しむ対象として、様々な娯楽があるわけだろうが、そういった娯楽を単に肯定したり否定したりするのではなく、娯楽が必要とされる理由を改めて考えてみるべきかもしれないが、何か特定の理屈があって娯楽が成り立っているわけではなく、理由も成り行きも様々に錯綜していて、結果的に娯楽が必要な世の中になっているわけで、その中で特定の人や団体の思惑が世の中の動向に作用しているにしても、それだけが全てではないから、そういったことだけからうまく現象や出来事を説明できるわけでもないだろうし、娯楽に関しても、娯楽だけが全てではなく、娯楽だけで人々の生活が成り立っているわけでもなく、他の様々な生活の構成要素の中で、娯楽に意識が囚われている時間帯がある一方で、それ以外のところで考える時間も対象もいくらでもあるのかもしれないが、別にそれで構わないのだろうし、人が何を考えようと世の中の何が思考の対象となろうと、そんなことはそれぞれの思考の対象に関してそうなるだけであり、やはりそれ以上に何をどう説明できるわけでもないのかもしれないが、それらは全て部分的な思考対象であり、意識がその対象にこだわっている限りでそれについて考えていることでしかないだろうし、それで済んでしまうようなことでしかないわけだが、考える目的が伴わなければ、考える価値もないことだろうし、別にそれについて考えたからといって、利益がもたらされるわけでもないのだろうが、では考えるには目的が必要かといえば、それよりは疑問が必要だろうし、疑いが生じるからそれについて考えるわけで、なぜ疑うのかといえば、辻褄が合わなかったり、道理を外れたことが行われているから、それについて疑わしく感じられるわけだが、逆に考えるなら、辻褄が合っていたり、道理に適ったことが行われていれば、もうそれ以上は考える必要を感じないだろうし、疑問を抱く余地も生じないのかもしれないが、またそこでも、世の中の民衆に考えさせないようにするには、疑問を抱くより先に感情的になるように仕向ければいいわけで、そのために必要な物事が世の中に流通しているのかもしれないが、それに気づける人は気づくだろうし、いったん気づいてしまうと、なぜそんな物事が流通しているのか、その理由や原因を探ろうとしてしまうのかもしれないが、気づいてしまう人が増えてくると、そういった物事には効力がなくなってくるだろうし、そういうところで、できるだけ気づかれないような配慮が期待されているのかもしれないが、誰がどんな勢力がそれに期待しているのかとなると、やはりそれを特定するような成り行きにはならないだろうし、それが思考の対象となることもないのかもしれないが、もしかしたら誰もがそうなることを期待しているのかもしれず、そういう意味では夢から覚めたくないのであり、別に騙されているわけでもないのに、真相を知ってしまってはまずいような気になって、それについてはなるべく触れようとしないし、そんな配慮が申し合わせとして全ての人の間で了解されているわけでもないのに、何となくそんな気になってしまうような雰囲気に世の中が満たされているのかもしれないが、そういった人を感情的にさせる物事とは何かといえば、それぞれの人が感情的になってしまう対象が確かにあるわけで、なぜ感情的になってしまうのかと言えば、それがその人の限界を示す物事だから、他人に触れられると思わず感情的になってしまうわけだが、簡単に言えばそれが自我であり、そんな自我が世の中に流通していると述べると、何かおかしいように思われて、自我とは自分の心の中にあるもので、それが世の中に流通しているわけがないと思うかもしれないが、それはある意味でありふれた紋切り型の自我でもあり、世の中に流通している自我とは、言葉で表現された定型の自我であり、そうした自我を構成する断片が、世の中に流通している物や情報に付着していると考えると、それでも合点がいかないかもしれないが、要はファッションとして気に入った物や情報を取り込んで、個々人が自我としてコーディネイトしていると考えればいいのかもしれず、そのコーディネイトの仕方がお手本のような方法として、やはりハウツー的に世の中で流通しているわけで、何と何を組み合わせれば見栄えが良くなるとか、賢そうに見えるとか、その組み合わせを間違えるとダサそうに見えたり、チャラい印象を持たれたりするわけだろうし、そういったお手本に忠実なコーディネイトをしていることを他人に見透かされてしまうと、思わず感情的になって取り乱してしまうだろうし、何か馬鹿にされたような気になってしまうわけで、だからそういうことにはなるべく触れないようにすることが、暗黙の申し合わせとして、それも世の中に流通しているのかもしれないし、またそういうのを暴き立ててこれ見よがしに馬鹿にするような人も中にはいるのかもしれないが、他人から好かれること意識している人なら、なるべくそういう人の琴線に触れるようなことはやらないことが、礼儀やマナーとして身についているわけだ。


5月30日「深刻で大変な事態」

 たぶん世の中には深刻で大変な事態に直面している人がいるはずだが、その一方で誰からも相手にされないで孤独感に苛まれている人もいるだろうし、それが深刻で大変な事態かというと、そこからおかしくなって凶悪な殺傷事件でも起こせば、それが深刻で大変な事態だと思われるかもしれないが、誰からも相手にされずに孤独感に苛まれている状態が、深刻で大変な事態かといえば、そこから誰もがおかしくなって、凶悪な殺傷事件を起こすわけでもないし、人それぞれにその後の成り行きは異なるだろうし、それよりはすでに何年間も国土が泥沼の内戦状態で荒廃してしまった地域に住んでいる人たちの方が、よっぽど大変で深刻な事態に直面しているはずだが、そこでも立場や境遇によっては、その国の支配層のように大して深刻さを実感していない人たちもいるだろうし、そういう意味で人の状態など千差万別なのは当然としても、誰かが酷い仕打ちを受けて辛い思いをしていても、それとは立場や境遇の異なる人からすれば他人事に過ぎないだろうし、そんな人に同情する人もいる一方で、他人の落ち度や粗探しをして、そこを突いて攻撃を仕掛けてくる人も中にはいるだろうし、そういう人は凶悪事件の被害者やその遺族の味方を装いつつも、凶悪事件を起こした加害者やその家族などを攻撃目標として、そんな誰から非難を浴びて糾弾されても文句を言えない立場や境遇の人を、徹底的に痛めつけようとするわけで、そういうことをやっている人たちが正義漢ぶっているのは嫌な感じがするわけだが、それも一つの立場であり境遇でもあるだろうし、そんな様々な立場や境遇の人たちが世の中に存在しているわけだから、それらが寄り集まって社会が構成されていようと、そうした社会に何らかの傾向が見受けられるとしても、それをコントロールすることはできないだろうし、政府や企業などのように、社会の中でそれなりに機能している制度や機構の類いを管理運営する団体が存在することは確かだが、それらの団体が社会そのものを管理運営しているわけではなく、直接にはその中で機能している制度や機構を管理運営しているわけだから、そうした団体が社会の中で主導権を握っているように思われても、社会を完全に支配しているわけでもないだろうが、中には特定の勢力によって国全体が支配されているように見える地域もあるわけで、そういう印象から特定の勢力に社会を思いのままにコントロールすることができるような幻想が生じるのだろうが、実際にコントロールしているつもりであっても、道理に反したことはできないわけで、その道理というのが例えば功利的な傾向であったりもするわけで、たとえそうした勢力に属する人の言動がメディア上で非難の的になろうと、その人の言動の内容が道理に反しているというわけでもなく、その人は自らが信じている道理に沿った発言をしているつもりであっても、その道理が別の道理とぶつかる面というのがあって、そういうぶつかる面への配慮を欠いているから、別の道理を尊重する人たちから非難されることがあるわけで、そういうところでそれと自覚しないで配慮を欠いている場合と、自覚していてもわざと配慮を欠いた発言をするような場合もあるだろうし、そういう場合は自分たちが信じている道理を優先させる一方で、それとぶつかる別の道理を軽視したいわけで、だからわざと配慮を欠いた発言をすることによって、自分たちが信じている道理を共有している自分たちの勢力の支持者には配慮しているわけで、そうやって配慮を欠いた発言を、失言だとか暴言だとか妄言だとか批判している人たちからすれば、そういう発言を平気で繰り返す人が選挙で当選して議員になったり大臣になっている現状が、深刻で大変な事態だと思うかもしれないが、そんな人を支持している人たちにとっては、当然そうではないだろうし、むしろそれらの人たちにとっては、自分たちが支持している人を批判している勢力の天下になってしまうと、それこそが深刻で大変な事態だと思うわけで、そうなるとそれぞれの道理を信じて尊重している人たちの間で、深刻で大変な事態が異なることになるわけだが、そういう意味では人それぞれでその人の立場や境遇によって、深刻で大変な事態が異なる可能性もあるだろうが、また大規模な自然災害や人災である戦争ように、深刻で大変な事態が一致する場合もあるわけだが、その程度も規模もそれぞれの場合で異なるだろうし、その深刻度も大変度も異なるわけだが、そうした事態が起こってしまえば、そんな事態の中でもそれなりに活動している人も勢力も存在しているだろうし、そうした事態を活用しながら活動している人や勢力にとっては、そんな事態が活動の糧となっているわけだから、別に火事場泥棒でなくても、通常の業務の範囲内の事態でしかないわけだが、そういう意味ではどんなに深刻で大変な事態であろうと、それが活動の糧となる人や勢力が存在する限りは、何かしらそこで利用価値が生じているわけで、そういう人や勢力が存在する社会は、それなりにそうした事態に対する適応力が備わっていると言えるだろうし、そんな適応力の例として、メディア上でそれが深刻で大変な事態だと騒いでいる人たちがいるわけで、そしてそんな事態をもたらした張本人として、特定の人や勢力を名指して戦犯や犯人扱いして、批判したり非難したり糾弾したりしている人たちもいるだろうし、そうした人たちの活動の糧となっているのが、それらの人たちが煽り立てている深刻で大変な事態であるわけだが、ではそんな事態になっていなければ、それらの人たちの活動の機会がなくなってしまうのかといえば、たぶんそうではなく、ただでさえ社会の中で複数の道理がぶつかり合っている現状があるわけだから、その中である道理が優勢になっていれば、その煽りを食って劣勢となっている道理の信奉者たちにとっては、それは深刻で大変な事態であるわけだから、当然それらの人たちはそうした事態になっていることを騒ぎ立てるわけで、そんな事態をもたらした張本人として、優勢な道理の信奉者たちを名指しして批判したり非難したり糾弾するわけで、そうやって結局はいつの世でも深刻で大変な事態が絶えることはないわけだ。


5月29日「客観的な現状」

 何か特定の主張や意見が普通の感覚からかけ離れていると思われるのは、語っている対象を特定の傾向に決めつけて、そういう傾向を誇張したり強調しながら、その傾向が深刻で重大な事態を招いていると主張するからかもしれないが、それが物事の本質を捉えた穿った見方であると思わせようとしていること自体が、宣伝や煽動に特有なわざとらしさでもあり、そんな意見を主張している人の魂胆が透けて見えるようなら、実際の状況はそれほどでもないと思っておけば無難かもしれないし、それに関連して言説の中で特定の対象と対象を比較して、二つの対象の落差を極端に強調したり、また一方を褒めてもう一方を貶めるような表現がメインの内容なら、それもその手の宣伝や煽動の内容だと思っておけばいいのかもしれず、それとは違ってそれなりに信用できそうな主張の中身となると、例えば比較する対象と対象の間の差異がわかりづらいからこそ、そのわかりづらさを詳しく説明しようとしたり、一見差異がないように感じられる対象と対象の間に、微妙な差異があることを説明しようとしていれば、そんな誰の得になるわけでもないことを説明しようとする姿勢には、それなりに信用できる面があるのかもしれず、さらに他の人たちが両者の差異だけを強調しているところで、差異の他にも同じような面もあることを説明していれば、片方を褒めてもう片方を貶めるような比較だけでは不十分であることを知らせたいのだろうし、そういう意味で単純な良し悪しの比較であるほど分かりやすい反面、それが宣伝や煽動である可能性が高まり、それとは違って複雑で錯綜した説明を伴ってくると分かりにくい反面、良し悪しでは割り切れない面があることを知らせようとしているわけで、そのどちらが良くてどちらが悪いということではなくて、そういうことを主張しなければならない事情があるのだとしたら、そうした事情を考慮しながら、そんな主張や意見を素直に受け止める必要がありそうなのだが、そうだとしてもそんなことを主張する人たちの意図や思惑を知りたいとは思うだろうし、そんな主観的な思いに意識が囚われていると、主張の中身から何かしら肯定的なことから否定的なことまで想像してしまうわけだが、それに関してまずは主張の中身と現状との間で無視し難い落差を感じられるなら、そう感じてしまう自らの感覚に狂いが生じているのか、あるいは主張している人の感覚に狂いが生じているのか、それともそれを感覚の狂いとみなすのではなく、単に現状に対する自らと主張者との立場や境遇に違いがあるのかもしれないし、そんな主張に共感や違和感を覚えるとしても、そう感じてしまう自らの主観と客観的な現状との間には、それなりにずれや違いがあるだろうし、自らが現状をどう捉えていようと、またそれに対して共感や違和感を覚えるような特定の主張や意見を持っている他人が現状をどう捉えていようと、どちらの主観から導き出された現状にも、客観的な現状との間でそれなりにずれや違いがあるのかもしれず、そういったずれや違いがあることを認識できれば、それに越したことはないわけだが、少なくとも客観的な現状に関して言えることは、誰もが思っているほど深刻でも重大でもなく、そんなふうに思っている程度とも傾向とも無関係な現状が、客観的な現状だと言えるのかもしれず、そしてそうした思い込みに基づいた主観的な現状は、杞憂とともに自意識の中に巣くっているわけで、それだけ客観的な現状とは違っているはずだが、そもそも客観的な現状とは何かといえば、それが現状に関係している人々の様々な思惑とは無関係に存在している現状であれば、そんな現状を意識が把握できるわけもなく、意識が把握するのはいつも主観的な現状でしかないわけだが、それは自意識が抱いている思惑に依存している現状であり、そうした思惑がある分、客観的な現状からはいつでもずれや違いを伴っているはずだが、果たしてそんなずれや違いを考慮しているかとなると、誰もそんなことは考慮していないし、考慮できるわけでもないだろうし、そうであるなら客観的な現状など無視しても構わないはずだが、実際に無視しているかといえば、無視するどころか、逆に自らが認識して把握しているつもりの現状を、できるだけ客観的な現状に近づけたいわけで、場合によっては自意識が主観的に把握している現状を客観的な現状だとみなしたいだろうし、それだけ正確で精密に現状を把握しているつもりになりたいわけだが、結局それを言葉で表現しようとすれば、使用する言葉の意味に縛られてしまい、どんなにうまく表現しようとしても、現状を正確にあるいは精密に表現する言葉の組み合わせを構成できるかとなると、普通に考えれば、言葉で表現した内容が現状と完全に重なり合うかとなると、意識が現状の全てを把握しているわけでもないのだから、そんなことはあり得ないわけで、それでもそうした内容を含んだ主張の類いに他の人が共感したり支持を表明してくれれば、それ相応の満足感を得られるだろうから、それで構わないと思うだろうし、少なくとも共感や支持を得られずに違和感や疑念を抱かれるよりはマシだろうし、そういうわけで他人から共感や支持を得られるような内容に、主張の中身を持って行きたくなる誘惑には逆らえないだろうし、実際にそういう自覚がなくても、自然と他人から共感や支持を得られそうなことを主張しようとしてしまうわけで、そして大勢の人たちから共感や支持を得られたら、世間的な評価も高まるだろうし、そうなれば世間的な権威のような立場にもなれるかもしれず、そういう野望を抱くような人もそれなりにいるだろうし、そういう人たちの活動によって、何らかの主張や意見についての世間的なコンセンサスができあがるのではないか。それが何を意味するかというと、客観的な現状とはそうしたコンセンサスに基づいた現状認識から導き出されると思われやすく、実際にそう信じている人もかなりいるのかもしれないし、はっきりとそう思っているわけではなくても、漠然とそういう現状認識の中で構成された現状を、客観的な現状だとみなしてしまっているのかもしれず、何かそういうところで物事の客観性といった概念に関して、客観的な現状を反映していない面があるのにも関わらず、そうであるからこそ、かえってそれを客観的な現状だと信じてしまう傾向があるのではないか。


5月28日「世相の反映」

 世の中の特徴的な傾向は、そこに暮らす人々の活動内容からもたらされるのだろうが、活動といっても多種多岐にわたるだろうし、その中から特徴的な傾向を特定できるかというと、たぶん一言で言い表そうとすれば、何やら怪しくなってくるのかもしれないが、何に対してそうなのかとなると、他の時代や世界の他の地域や国々と比べてどうなのか、ということが言えるかもしれないが、そういったことに関して、そういう言説の内容が何かもっともらしく思われるとしても、それがどうしたと問われると、別にどうしたわけでもないとしか言えないことかもしれず、そうであればあまり真に受けるようなことでもないのかもしれないが、その特徴的な傾向というのが、その地域の社会に何らかの影響を及ぼしていると捉えるなら、影響を及ぼされた個人や集団の心理状態から、それが読み取れるようなことになるのかもしれないし、実際にメディアが報じる事件や出来事などにそれが表れているのかもしれないし、それに関してよく言われることは、凶悪な事件などが頻発すると、人心が荒廃しているように思われるだろうし、それが世相を反映していると指摘されれば、そんなふうにも思われてしまうわけだが、果たして本当にそうかとなると、案外どの時代でもどの地域や国々でもそんなことが起こっていたりもするわけで、どのような社会であっても、人の活動がうまくいかなくなる可能性はあるだろうし、そのうまくいかなくなる度合いに応じて、世の中の治安も乱れてくるわけだろうが、活動がうまくいかなくなる原因や、治安が乱れる要因がなくならない限りは、活動がうまくいかなくなった人や、治安を乱した人を批判しても、他にもそういう人たちが出てくる可能性はあるだろうし、それはその人に原因があると同時に、社会にも構造的な要因があるということであり、そうなってしまうのを食い止めるには、その人がそうなってしまう手前で助ける必要が出てくるわけだろうが、そんなことができるとは思われなければ、そういった状況が放置されるしかないわけだが、そんな人を生み出すような社会の構造的な要因を改善できるかとなると、やはりそれも改善しようとしてできるとは思われなければ、そんな状態も放置されるしかないのかもしれないが、やるならそうなる原因や要因を突き止めて、それを改善しようとするのが、ごく当たり前の発想であり、そうする以外にはあり得ないように思われるかもしれないが、意外とそうではなく、もっと事態は回りくどく様々な原因や要因が複雑に入り組んでいる可能性もあるわけで、むしろ直接の原因や要因を特定するよりは、社会全体としてそこで暮らす人々のストレスを軽減するような方策が求められるのかもしれないし、場合によっては個々の活動がうまくいかなくなった人々が社会から見捨てられないような、セーフティネットのような制度を新たに作る必要もあるのかもしれず、もちろんそういった大げさな制度を公的な領域で創設することよりは、人間関係の中で私的に助け合うことができれば、その方が安上がりになるだろうが、どちらもありなら、なおのこと都合がいいだろうし、その人の都合や事情に応じて助ける方法にも、ある程度のバリエーションや選択肢があれば、それに越したことはないわけだが、それに関して最近流行りのお題目として循環型社会を目指すなら、物や情報とともに人も循環できるような構造が求められるだろうし、個々人の活動がうまくいかなくなったら、破滅して自殺するなり凶悪事件を起こすなりして終わりではなく、そういう人たちも活用できるような制度をシステムとして構築できれば、そういう方面でも効率性や功利性を追求できて、社会全体の合理性が高まるだろうし、これまでのように何かを起こすまでは放置しているようだと、おかしくなった人たちが刑務所や精神病院などへと収容されて、犯罪者や狂人のレッテルを貼られて、堅気の社会への復帰が難しくなって、結局ヤクザやギャングなどの裏社会の繁栄に一役買うような成り行きになってしまい、果たしてそれが社会全体の合理性を高めているかとなると、むしろ不条理や矛盾を露呈させていることにもなるだろうし、個人の自助努力や自己責任にはそれなりの限界も限度もあるわけだから、それ以上の改善を求めるには、集団の組織的な行為や制度的な措置によって個人を助けるしかないわけで、そういうところで世の中で成功してうまくいっている人たちが、失敗してうまく行かなくなった人たちを、不適合者として冷たく見下して、突き放すようなことはやらない方が、社会全体としては好ましい傾向になるかもしれないが、もちろん口先だけのきれいごととして、こんなことはいくらでも言えるわけで、実際に何かしら措置を講じることができるかとなると、政治的な面でも行政的な面でも、きれいごとを実行に移せるようなリベラル勢力が主導権を握らないと、何を言ってみても絵に描いた餅にしかならず、机上の空論の域を脱することができないわけだが、たとえ空理空論であろうと、唱えられる余地や余裕があるなら唱えていればいいわけで、保守的な勢力から非現実的な妄言だと小馬鹿にされようと、それができる限りで他から馬鹿にされるようなことを唱えていられるだけ自由があるわけで、そう言った言論の自由を維持するには、実践的にいかに世間の常識から外れたことを述べられるかにかかってくる面もあるだろうし、自らの述べていることが合理的に思われるならば、それが世間の常識を外れることであっても、将来において合理性を獲得できる可能性があるとみておいた方がいいのかもしれず、社会が合理性を目指して進化する傾向があるとすれば、今は非常識でも後の世では常識となる可能性はあるだろうし、自らの意見や主張が世間の常識となるように活動していかないと、いつまで経っても非常識のままとなってしまう可能性もあるだろうし、そういうところで世の中の様々な領域で様々な人や勢力が主導権争いを繰り広げている実態もあるのではないか。


5月27日「価値の相対性」

 世の中では様々な傾向の価値を伴った様々な物事が離散的または重複的に並存しているように思われるかもしれないが、それらを金銭的な価格を基準して統一的に比較しようとすると、価値の傾向や内容を見失ってしまうのかもしれず、中には金銭的な価値では表現できないような価値もあるのかもしれないし、そういう売買には適さないような価値がどんなものなのかを言葉で表現するのは困難かもしれないが、その一方で価値があるかないかあるいは高いか低いかを基準して物事の優劣を決めるというのも、単純すぎるようにも思われるだろうし、単純すぎても構わないのなら、単に金銭的な価格で物事の価値を決めればわかりやすいし、そういうところで何のために物事の価値を知りたいのかに関して、その目的にも配慮しなければならないとなると、普通は売買するために物事の価値を知りたいとなるだろうし、そういう目的ならそれ以外の価値など知ったことではないと言えてしまうわけで、そうなると価値とはその程度の目的に限定されるものでしかないだろうし、そうであるなら、あまり物事の価値に関して幻想を抱く必要もないわけだが、価値があろうとなかろうと必要な物事があるだろうし、実際に価値のあるなしよりは必要か不要かを優先させるような成り行きもあるわけで、必ずしも必要な物事の価値が高くて不要な物事の価値が低いとはならない場合があるだろうし、そういう面で価値ですらも相対化されてしまう成り行きもあるのかもしれないが、そうだとしても金銭的に価格の高い物事は、融通できる資金量に応じて手に入りやすかったり入りづらかったりするわけで、また物事の需要と供給の面でも価格が上下するだろうし、そうやって様々な条件や事情に応じて、価格が決まるとともに、それを必要とする人や団体が決まってくることも確かだが、それを必要とする事情や動機がどうであれ、人や団体によってはそれほど切実な事情や動機がなくても手に入りやすかったり、逆に切実に求めているのになかなか手に入りづらい物事もあるわけで、そうした相対的な面ばかりに目を奪われていると、倫理的な面がおろそかになってしまうのだが、果たして倫理的な基準が絶対なのかというと、倫理面を強調したい人なら、それを最優先したいわけだが、必ずしも誰もがそうしたいわけでもなく、そうなると様々な傾向の価値の中で、倫理的な価値も他の価値との間で相対的な優先度しかないようにも思われてしまうわけだが、政治的な領域で良心的な人たちに共感される倫理的な価値観として、社会的な弱者を助けるという行為が共感を呼ぶだろうし、そういう方面の人たちの支持を取り付ける目的から、そんな行為に及ぶことが、果たして倫理的な価値観に適っているかとなると、結果的に本当に社会的な弱者を助けられたら、価値のある行為となるわけだろうが、それをやっている途中ではわからないのかもしれず、それでも良心的な姿勢を保とうとするなら、そういう目的で活動している人たちを支援するしかないし、事情が許せば積極的に参加するわけだが、ひいき目に見ても世の中ではそういうことばかりが行われているわけではないし、そればかりを専門にやっている人や団体がいるとしても、それは全体の中ではほんの一部分であり、他の活動の方が圧倒的に多いことも確かであり、良心的な人々もそんな活動ばかりを支援したりそれに積極的に参加するにしても、他の活動も同時並行的にやっている現状があるだろうし、そのどちらを優先するかとなると、他の大部分の人たちはそれ以外の活動を優先している実態もあるわけで、倫理的にはそういう活動をおろそかにはできないわけだが、それをいうなら他のメインの活動もおろそかにはできないわけで、むしろメインの活動が成り立っている限りで、そうした活動をやる余裕も生まれるのかもしれず、それが枝葉末節な取るに足らない活動ではないにしても、他にメインの活動があれば、その活動は副業程度の活動になるしかないだろうし、そういう活動だけで良心的な人々から支持や賛同を得られるわけでもなく、また良心的な人々から支持を得られたとしても、他の一般の人々からも支持を得られないと、そういう方面での主導権を握れないだろうし、何かそういう面で倫理的な価値自体の部分的かつ一方的な傾向というのが、社会的な主導権を握るには不十分な事情となってくるわけだが、では社会的な主導権を握るにはどのような価値の獲得を目指せばいいかとなると、一つの価値ではなく様々な傾向の価値を複合的に獲得する必要があるのかも知れないが、その中でも代表的かつ倫理的な価値とは相容れない傾向を示す価値として、功利的な価値があるわけで、功利的な価値を追求するなら、むしろ社会的な弱者を見捨てる必要さえあるだろうし、もちろんあからさまに見捨ててしまうと、良心的な人々から反感を買ってしまうわけだが、そういうことを考慮しながら、しかもなおのこと功利的な価値を追求するには、やはり戦略的に振る舞う必要が出てくるだろうし、倫理面にも配慮しながらも功利的な価値を追求するという矛盾したことをやらなければならないわけだが、それを矛盾していないように見せかければいいわけで、もちろん欺いている限りである程度は嘘がばれていることも承知で、きれいごとの建前を維持しようとするわけだが、そういうところが社会的な主導権を握る上で必要ならば、本気で社会的な弱者を救う気でいる人や勢力が、主導権を握るのは不可能に思われるかもしれないし、あくまでもごまかしを拒否するなら少数派に甘んじることを受け入れる必要さえ出てくるのだろうが、それでもある程度は社会的な弱者を救うための活動を行なっていけるだろうし、実際にそういった活動によって救われる人もある程度は出てくるはずだが、一般的に見てもそういう活動はそういう傾向になってしまう必然性があって、それが現状で示されている偽りのない傾向であるならば、別にそれで構わないような世の中になっているわけで、それ以上の可能性を期待する必要もないのかもしれないし、そこから今以上に状況が好転することを期待する必要もないのかもしれない。


5月26日「価値のある行為」

 価値のある行為というのは、それを行うと世間から賞賛されるような行為であれば、世間的に価値のある行為となるだろうが、世間から賞賛されなくてもやる価値がある行為となると、少なくともそういう行為をやるに際しては、世間とは価値観を共有できない行為となるわけだろうが、それがどんな行為かとなると、功利的な行為であれば金銭的な価値や経済的な価値が得られるから、たとえ窃盗や強盗などの非合法な行為であっても、得られたものの価値は世間的にも認められるだろうし、そういった価値の裏付けがあるものに関しては、それを得ようとする行為にも価値があるはずだろうが、得ようとして実際に得られなければ、価値のない行為になってしまうだろうし、宝くじのように得られる確率がほとんどゼロに近い行為だと、得られた人以外の行為は、ほとんど価値のない行為とみなしても構わないかもしれないが、ではそういった価値のある物事を得ようとする行為以外で、価値のある行為というのがあるかとなると、普通はそういうのは価値のある行為とはみなされないだろうが、例えば人を助ける行為に価値があるかとなると、価値のあるなしを考えずに人を助けようとすることはあるだろうが、実際に助けられた人にとっては、当然のことながらそれが価値のある行為だと思われるだろうし、そういう意味で自分にとってはわからないが、他人にとっては価値のある行為だと思われる可能性があるわけで、そんなふうに人が何かを行うことによって、それによって他の人が得をすれば、得をした人にとってはそれが価値のある行為に思われ、そういう行為は人から人へと価値を受け渡すような行為だと考えられるわけだが、そうだとすると価値を得るのではなく消費するような行為であっても、その人が消費した価値が他の人の価値になるような成り行きも考えられるだろうし、例えば労働として費やされた価値が、労働者を雇っている会社の利益となれば、その分の価値が労働にはあるわけだろうし、そういう価値の循環によって社会が成り立っていると考えれば、理屈としても辻褄が合う仕組みになっているはずだろうが、もちろんすべての価値が循環しているわけでもなく、新たに生み出される価値がある一方で、すり減って摩耗してしまう価値もあって、全体として収支のバランスがとれているわけでもなく、そんな価値の循環の成り立っているところでは、経済活動も成り立っているわけだろうが、それ以前に人が生きていくのに必要な衣食住などの物資の循環が成り立っていないと、人から人へと価値を受け渡すネットワークそのものが成り立たないわけで、普通はそれらが経済活動として連動しているわけで、そうした連動がうまくいってないところでは人が生きていけない事態も生じているわけだが、具体的にそれがどういう事態かというと、生きていくのに必要な物資を買えないということだろうし、もちろん買えなくても自給自足や狩猟採集によって手に入ればいいのだろうが、それができない環境の中で生きていれば、人から人へと価値を受け渡すゲームに参加しないとならないわけで、参加するにはゲームのルールを守って、ゲームを維持管理している機構に対しても、それ相応の配慮を強いられるだろうし、そうした配慮の中には規範や慣習や法律に従いながら、それらの掟とともに成り立っている制度の中で暮らして活動しているような実態が伴ってくるわけだが、果たしてそれだけがゲームの実態なのかというと、そうではない面もあるだろうし、少なくとも行為の全てがゲームに関係しているわけでもなく、ゲームとは無関係な行為もあって、それが価値とは無関係な行為であり、あるいは価値を認められないような行為でもあるだろうし、社会の中には価値のないことや価値が定かでないことをやっても許されるような余地があるのかもしれず、それが社会の中ではなく社会の外にある可能性もあるだろうし、単にゲームとして成り立っている面だけが社会とみなすなら、それ以外は社会の外で行われていることになるわけだが、それらも含めて社会とみなすなら、社会ではそういったゲーム以外のことも行われていることになるだろうが、価値というのは自分以外の他の多くの人たちも価値があると認めないと、価値があることにはならないだろうし、他の多くの人が認めないようなことを行なっていれば、そういう行為には価値がないか、あるいはまだ価値が定まっていないことになるだろうし、その時点では価値がないか定まっていなくても、やっているうちに他の人がその意義や意味を認めるようになれば、認めた人たちの間ではそれに何らかの価値があることになるわけで、認める人が多いほど、大勢の人たちによる価値観の共有が起こって、そうした行為や物事に関する社会的な価値が定まってきたり高まってくるのだろうが、別にそれほど多くの人に認められなくても、ごく一部の少数の人たちの間だけで認められているような行為や物事も結構あるわけで、さらに最低限の状態として、それが自分一人だけが価値があると思っていても構わない場合もあるだろうし、自分一人だけであれば、特に価値を意識する必要さえなくなってしまうわけで、ただ何となくやっていることが長続きしていればそれで構わないような場合もあるのかもしれず、また長続きしていなくても、その場その時の思いつきで、その場その時限りで行うような行為もあるだろうし、そういうことまで含めると、そこでやっていることが成り立っている限りは、価値があるだのないだのを気にする必要さえ感じられないようなことも、日々行なっている可能性があり、そういった価値がなかったり価値が定まっていなかったり価値を意識しない行為などを行える余裕があれば、それだけ世間を意識しないでいられる自由があることにもなるわけだが、そうした自由を感じられる暮らしの中で生きていられたら、そこに何事にも代え難い価値が見出されていることになるのかもしれないが、誰もがそんな心境や境遇になれるわけでもないことは確かなところなのではないか。


5月25日「信仰の力」

 たぶん言葉だけで人を信用させることはできないだろうし、言葉巧みに誘導して人に幻想を抱かせるにしても、実質的な利益や価値が伴わないと、人を信用させるのは難しいわけだが、そういう面で言語表現には限界があるとしても、実際には様々な事情や経緯が絡み合っている中で、言葉によって人の意識が操られている面があるわけで、身体的な活動と連動して、言語的に何らかの操作が施されると、何やらそれらしい信仰が生み出される可能性があるわけだが、その信仰の水準がたわいない軽いものなら、それほど深刻には受け止められないわけで、そんな信仰なら気休めに信じても構わないようにも思われるだろうし、そうやって信仰が全てではない生活が成り立つわけだろうが、ではそんな生活の中で信仰とは違う面では、どんなふうに人が操られているのかとなると、やはり社会の慣習や規範によって意識が制御されている面があるわけで、それらと信仰とどう違うのかといえば、厳密には区別がつかない面もあるだろうが、慣習として身についている動作に関しては、意識して信仰している感覚ではないだろうし、何はともあれこうするもんだという理由も根拠も定かでないような動作になっているわけで、それについて深く考えているわけではなく、ただそうやっているに過ぎないような動作が慣習的な動作であるわけだが、人をそういう動作に従わせる圧力というのも、周りがやっているから自然な成り行きとして自らもやっている動作があるわけで、それは身体的な動作であるだけでなく、言葉を操る動作も含まれてくるわけで、またそういうことになると、物事を考える動作に関しても、慣習的にこう考えるものだという意識が伴ってくるだろうし、ともかくそれに関してはうまく説明することはできないし、実際に説明抜きでそう考えてしまうわけだから、それを後から改めて問うような成り行きにはならず、こういうことについてはこう考えるものだという思い込みによって、そういう思い込みに囚われている人たちが同じような考えを共有してしまう場合もあるわけだから、それを外部からとやかく言われても、全く意に介さないだろうし、聞く耳を持たないわけだが、それが信仰の力だとみなすと、そんな単純なものでもないと反論したくなるわけだろうが、そういった信仰はそのまま保持しておいて、それとは別の面で論理的な思考を伴う場合もあるわけで、それとこれとは別のことだとみなしたいのかもしれないが、そう考えている当人にしてみたら地続きだとみなしたいだろうし、信仰を壊さない範囲で論理的な思考を維持しようとして、そういう思考に基づいたもっともらしい意見や主張を、信仰に結びつけようとするわけで、そうなると信仰に世間的な信用をもたらすために、論理的な思考を使ってもっともらしいことを述べようとするわけだから、そういった思考のどこまでが信仰で、どこからが論理的な思考かを見極めないとならないだろうが、そういうことをやっている当人にはそんな自覚がないわけだから、そういう人たちを批判しても意味のないことかもしれないが、そもそもそれに関する正確な認識は必要ないのかもしれず、戦略的あるいは意図的にそうしようとするのではなく、状況に応じてそれとは違うことを語る必要があるのかもしれないし、信仰は信仰として保持している面では、それを信仰とみなしながら信仰のレベルで思考すればいいだろうし、また信仰抜きで論理的に思考している面では、それを信仰に絡めないで思考すればいいわけだが、そんな都合の良い具合にはいかないことは承知しながらも、そこで矛盾や欺瞞が生じていることについては自覚する必要があるだろうが、都合の良い面では信仰を保持できるとしても、何かしらその信仰を妨げるような事態に遭遇したら、そういう面では信仰とは無関係に論理的に思考するしかなく、そのお互いに相容れない両面を問題にしないような矛盾や欺瞞とともに、その場の状況に合わせて思考するしかないだろうし、たぶんそういうところを考慮しなければならないわけだから、そういう面では一方的に正しい認識や判断を保持するのは不可能なのではないか。もちろんそんなことを述べてみても、それと自覚することなく信仰に依拠しながら物事を論理的に思考しているつもりの人たちには何も響かないわけだが、それでも構わないわけで、人それぞれでそれぞれの抱えている事情や脈絡に応じて思考しながら活動するしかないわけだから、あえてそんな人たちを批判する気にはなれないわけだが、そこに至るまでの間にどのような経緯があって、そんな経緯の中でたとえ許し難い行為が行われたにしても、結果としてもたらされている状況の中では、そんな行為があろうとなかろうとどちらでも良かったようなことになっている場合もあるわけで、それを深刻に受け止めて、このままではひどいことになると結論づけてしまうと、そんなことは杞憂に終わるしかないだろうし、結果的にもたらされるのは、途中の経緯を深刻に受け止めるような人のあてが外れるようなことにしかならないわけだが、そういう人たちは、自分たちが自覚していない信仰の部分に気づけないから、その一方で論理的に思考して結論を出してしまうと、何か大げさなことが起こるしかないような終末論的な予言が導き出されてしまうわけだが、そういう結論を出してしまう論理的な思考とともに、それとは矛盾していて、しかも論理的な思考を欺くような信仰の面を考慮するなら、どうということはない現実がもたらされるしかないわけで、そのどうということはない現実が、現状の中で論理的な思考によって導き出された結論を裏切っているわけだが、ではなぜ論理的な思考の持ち主が自身の信仰を自覚できないのかといえば、その論理的な思考自体が信仰と共存することによって生じる矛盾や欺瞞を容認できないのであり、もちろんそれを自覚できないのだから、容認できないこと自体も自覚できないのだろうが、それでも論理的に考えようとする態度を維持しようとすると、信仰の部分が都合良く意識の中から抜け落ちてしまうような精神構造だとみなせば、それなりに辻褄が合うのかもしれないが、辻褄が合っていないことを自覚できないわけだから、自らの思考の中で辻褄が合っているように思われること自体が、論理的な思考に対する誤った信仰でしかなく、それこそが自意識が保持しているフィクションの部分なのかもしれない。


5月24日「世の中の調和」

 現状で保たれているように思われる世の中の調和が、そう簡単には崩れようがなければ、その調和のとれた世の中で生きている人たちは、それなりに安定した生活が送れているはずだろうし、そんな人たちが世の中で多数派を構成していれば、別にそういう部分では特に何か問題があるわけでもなく、そうであるならそれらの人たちの間では、問題意識そのものが生じていないのかもしれないが、本当にそうかといえば、ただそれが表面化していないだけで、ほとんどの人たちが何かしら問題を抱えながら生きている状況もあるのかもしれず、ただ生きていられることが、それを肯定的に捉えるなら、調和を感じられるのかもしれないし、例えば日々が同じことの繰り返しである面を考慮するなら、そういう面では確かに調和がとれているはずなのだが、そうした調和に満足しているかとなると、不満を挙げたらきりがないほどあるわけでもないとしても、何かしら不満を感じているなら、そんな不満を生じさせる原因が問題であるように思われるだろうが、その問題の程度がただ生きていられることとの比較で、取り立てて深刻に思われなければ、我慢すれば耐えられる程度のことになってしまうわけだが、そうではなく、実際に深刻な問題が生じていると主張したい人も、探せばいくらでもいるのかもしれないし、実際にメディアがそうした人たちの主張で埋め尽くされているとしたら、そんな状態を真に受ければ、とても世の中で調和が保たれているとは思われないわけだが、確かに一方ではそういう面があるとしても、他方では日々同じことが繰り返されている状況もあるわけで、それらのバランスとどう捉えればいいかとなると、結局はほどほどのところで暮らしていければ、それなりに不満があるにしても、我慢しながら生きて行ける限りで、調和が保たれているわけで、そうした不満を政府にぶつけるわけにもいかない心境になれれば、特に政府への信頼は揺るがないだろうし、実際に不満があっても政府や政権与党を支持している状況となるわけだが、また特定の政治家が問題発言などをして、メディア上で批判されようと、その政治家の存在が、一般の人たちが許容できる程度の存在であれば、それ自体として、支持や不支持とは無関係となってしまうだろうし、何かそういうところで、どのような問題発言をしても、それが世の中の状況を反映した発言であれば、選挙で投票するか否かの判断とは無縁となってしまうのかもしれず、そんな政治家の存在が世間と地続きであれば、いくら問題発言をしたところで構わないわけで、要は政治家が世間の一般の人たちと同じメンタリティであることを確信させるようなことを発言していればいいわけで、そうなるとそれが問題発言であると解釈する方が、世間的な感覚からずれていると思われてしまう場合もあるだろうし、実際にきれいごとではなく、そんな政治家と同じようなことを日頃から言っている人が身近にいくらでもいれば、かえってそれで安心してしまうだろうし、そうなればそれがどうしたと居直るような気持ちにもなるわけで、そういう意味で良くも悪くも政治家は世間の代弁者であるのだろうし、問題発言を繰り返す政治家の背後には、そんな政治家が言っていることをもっともなことだと思っている人が大勢控えていることを認識しておくべきだろうし、もちろんそれが問題発言と認識されているからには、それなりに否定的な評価を受けているわけだが、そうだとしてもそんな否定的な評価を逆に肯定している人も、その政治家を選挙で当選させる程度の人数はいると見ておいたほうがいいだろうし、そんな人たちもある意味では世の中のバランスを保つ程度には存在しているわけで、そんな人たちを含んだ調和が現実に保たれていて、それがそんな発言を批判する人たちの存在との間でバランスを保っているわけだろうが、そんな問題発言も一理あると思ってしまう人たちも少なからずいるから、問題発言を繰り返す人が存在する余地が生まれているわけだろうし、そうやって世の中の調和を保つにはそんな人の存在も必要不可欠であるような成り行きもあると捉えるしかなく、それを許容しているのが、そうした発言を批判する人たちのことを良くは思っていない人たちの存在でもあるわけで、そこでもそうした批判者たちの天下になってしまっては困ると思っている人たちの思惑が働いているのだろうし、また批判者たちに批判材料を提供する上で、これ見よがしに批判されそうな人たちをいつまでも温存しておくような戦略的な意図も働いているのかもしれないし、そうやってこれ見よがしな人たちに批判の矛先を向かわせておくことが、それとは違う方面での批判をかわすためには必要なことかもしれず、それが世の中の調和を崩すような行為に結びつく可能性があるのだとしたら、調和を保つためにも、そういう面は隠蔽しておいた方がいいだろうし、またその隠蔽に批判する側も一緒になって関与しているとしたら、何か批判対象とそれを批判する側がグルになっている印象を受けるわけだが、実際にそうであるなら、意図してそんな関係となっているのではなく、世の中の調和を乱さないように配慮するには、特に意識して配慮しているわけではなくても、そういった問題発言もそれに対する批判も両方が必要不可欠な面があって、それが予定調和の二項対立を構成していると指摘してしまうと、何か出来過ぎな構図になってしまいそうで、それ自体がフィクションでしかない面まで出てきてしまうのかもしれないが、たぶんそんなふうに先回りしてわかりきったことを指摘してはまずいわけで、できれば訳知り顔でそんな指摘をするのは思いとどまって、もっと愚直になって問題発言を簡単に否定せずに、またそんな発言をした人も批判せずに、さらにそれらの問題発言や発言した人を批判している人たちの存在や行為も認めなければならないだろうし、そうやってそれらの発言や発言者やそれに対する批判や批判者の存在も、世の中の調和を保っている要因と捉えれば、そんな調和を突き崩すには、それらとは別の何かが必要だと考えてしまうかもしれないが、そこでもそうではなく、そんな調和を突き崩そうとして何かやれるかとなると、何もやれないのかもしれないし、ではその代わりにやるべきことがあるかといっても、それも違う可能性があるわけで、だから意識してそんなことを考える必要はなく、そういう面での世の中の調和自体をどうすることもできなければ、それは放置されるようなことでしかないのかもしれないが、たぶんそういうことを意識しなければ、何かそれとは違う傾向の問題が自ずから浮かび上がってくるのかもしれない。


5月23日「合理的なやり方」

 功利的であることは合理的であることよりは、大した前提条件もなく単に利益を得ようとするわけだが、それとは違って合理的であることは、同じ利益を得るにしても、理に適ったやり方で利益を得ようとするわけで、手段を選ばずに何が何でも利益を得ようとするのではなく、論理的に正当な手段を用いて利益を得ようとするから、そういう面に関しては誰からも文句を言われる筋合いはなさそうだが、では倫理的であることはどういうことかと言うと、利益を得ることによって他人に迷惑がかかるようなら、得るのを断念するのが倫理的な態度となるわけだろうが、そういう態度が合理的かとなると少し違うわけで、合理的に考えて利益を得る正当な権利があれば、たとえ他人に迷惑がかかろうと利益を得ようとする場合があるだろうし、そういう意味で人は自らがやっていることの正当性を求めるわけだが、それと比較して倫理的な態度や振る舞いに正当性はないのかといえば、物事の倫理性を重視するなら、行為に正当性のあるなしに関わらず倫理的に振る舞おうとするだろうし、それが極端な場合には、自分を犠牲にしてでも他人を助けようとする場合もあるわけで、そうであれば倫理的な態度や振る舞いは合理的ではない場合もあるわけで、その辺が合理的な態度や振る舞いとは少し違うのかもしれないが、それに関して物事を合理的に考えるなら、自分を犠牲にすることなく他人を助けようとするのが、合理的な振る舞いとなるわけだろうし、また他人に迷惑をかけずに利益を得るやり方を模索するのが、合理的なやり方にもなるわけだが、模索したところでそれができるとは限らないだろうし、できない場合はその時点での妥当なやり方を模索して、どういうやり方が現時点では合理的なのかを見極めようとするのだろうが、そうやって絶えずやり方を模索して修正したり改善したりしながら、やり方を進化させようとするだろうし、一概に合理的なやり方といっても、その時点での暫定的なやり方になるわけで、それよりもうまいやり方が見つかれば、そういうやり方に変えていくことが合理的なやり方となるだろうし、そういう意味では場合によっては功利的なやり方や倫理的なやり方などを積極的に参考して、それでうまくいく面があれば取り入れていくだろうし、そうやって絶えずその場の状況に合わせてやり方を更新していくのが合理的なやり方となるわけだが、そういうことをやっていくには、一定の傾向に凝り固まっていては柔軟な対応ができないと同時に、突然これまでにないことをやって、周囲を混乱に陥れないためには、ある程度は関係する他の人や団体にも気を配りながら、理解を得られるような活動をしていかなければならないわけで、そういう面では無神経で無責任なことはやれないだろうし、そうなると倫理的な対応を求められるわけで、一方では効率的かつ功利的な面にも気を配りながらも、他方では倫理的かつ道義的な面にも気を配るとすれば、一見矛盾していて論理的な整合性が取れないようにも思われるわけだが、そこをごまかしたり欺いたりすることが合理的かというと、それがバレて周囲から反発を招いたり反感を買うようなら、合理的なやり方とは言えなくなってしまうだろうし、そういう面でも合理的にやらなければならないわけだから、そういうところで関係する人や団体を説得するには、交渉や取引などのコミュニケーション的な行為を行わなければならなくなるわけで、それに関する会議や討議などの場で、そこに参加した人や団体などから了承や合意を取り付けようとするわけだが、果たしてそういうやり方が合理的なのかと言えば、そうせざるを得ない限りで、暫定的には合理的なやり方となるのだろうし、そんなことをやりながらも、もっと合理的なやり方を編み出せれば、またやり方を更新するわけだろうが、そうであるなら、合理的なやり方とは、絶えずその時点での暫定的なやり方であるわけで、確かにその時点で関係する人や団体の了承を取りつけて、そういうやり方を実際に行うことができれば、その時点ではそれが最善のやり方としての合理的なやり方になるわけだが、それはさらにそれよりも合理的なやり方が見つかるまでの一時的なやり方に過ぎず、その後にそれよりもっと合理的なやり方が見つかって、それが実際に実行されると、それまでは合理的なやり方だったものがそうではなくなるわけで、そういう意味では、合理的なやり方は絶えず進化する可能性があるとみなしておけばいいのだろうし、だから必ずしも現状でまかり通っているやり方にいつまでもこだわっている必要はないわけだが、そうであっても現時点での最善のやり方として、そういうやり方を重視しなければならないわけで、その辺の感覚がわかりづらいところであり、重視しつつもそこにとどまる必要はないということが、なかなか理解されないのだろうし、しかも周囲の同意を得ながらそういうことを推し進めようとすると、同意をなかなか取りつけられずに、それ相応の困難を伴うわけで、そうであるならかえって独裁的な権力を背景にして、反対する人や団体を押さえ込んで、強引に物事を推し進めた方が、改革や改善がスムーズにいく場合もあるわけだから、果たしてそれも合理的なやり方として認められるかとなると、そういうやり方に反発して反対している人や団体なら、絶対に容認できないことだろうが、かといって話し合いの時間が長引いて、改革や改善が遅々として進まなければ、やはりそういうやり方も合理的でも妥当でもないように思われてしまうだろうし、そういう面では合理的なやり方が万能だとは言えないわけで、そもそも合理的に物事を進めることができない状況もあるし、何が合理的なやり方なのかも一概には決められない状況もあるわけだから、そういう状況を無視して、勝手に合理的なやり方を定義してみても、それは定義した人の都合が反映しただけのやり方でしかなく、関係する周囲の人や団体が同意できなければ、合理的なやり方とは認められないわけだから、そこでも特定の人や団体が独りよがりなやり方に固執するわけにはいかなくなってしまい、どうやっても合理的なやり方を確定できなくなるような事態もあり得るわけだ。


5月22日「ご都合主義」

 たぶん効率的であることと合理的であることは違っていて、普通はその二つを混同してはならないのだろうが、さらにそれに加えて功利的であることも違っているわけで、それらはそれぞれに別々の意味と効用があるのだろうが、一般的には三つの概念を結びつける傾向があるのかもしれず、効率的であることが合理的であり功利的でもあるかのように思っておいた方が、何かと都合が良い世間的な風潮があるのかもしれないが、物事の全てにおいて効率的である必要はないし、また合理的である必要も功利的である必要もない面があるとしても、ある面においては効率的である必要があり、また別の面においては合理的である必要もあり、さらにそれらとは異なる面においては功利的である必要もあるのかもしれないが、実際にそれらが全て重なる面のある物事もあるのだろうし、誰もが何かをやる上でそうなることを目指しているのかもしれないが、結果的にもたらされた物事に全ての傾向があるとは限らず、場合によってはそれらの全てを満たさない物事もあるだろうし、むしろそれで構わない場合もありそうなのだが、そうでなくても必ずしも一概には言えない面があるということであり、効率的でも合理的でも功利的でもなく、ただ無駄で無意味なことが結構行われている実態もあるわけで、逆にそういう面がないと世の中が回っていかないことも踏まえておかないと、何事においても効率的で合理的で功利的であるべき、とかいう意見や主張の中で、論理的な矛盾や欺瞞があらわになってしまうわけで、それに関して例えば効率的ではないが合理的な制度としては、民主的な政治制度があるだろうし、また合理的ではないが功利的な商品としては、奢侈品の類いがあるだろうし、さらに功利的ではないが効率的なやり方としては、薄利多売的な商法があるだろうし、そういった物事もある面ではそうであっても、別の面ではそうではないような傾向もあって、それも一概にはそうとも言い切れないのかもしれないが、それに関して断言口調とこうだと言い切ってしまうと、それとは違う面に関しての言及が欠けてしまい、そういう面に気づかなかったり意図的に無視していると、そういう面を他から指摘された際に、ごまかしたり屁理屈をこねて強引に自説を正当化するような醜態をさらけ出してしまうわけで、何事にもそういう面があるからこそ、宣伝や煽動の類いとして、一方的にメリットばかりを強調して賞賛したり礼賛してみたり、また一方的にデメリットばかりを強調して批判したり糾弾したりすると、やはりそういう主張や意見の中にごまかしや欺瞞が紛れ込んでしまい、適切で妥当な主張や意見とは言えなくなってしまうだろうし、実際にその手のごまかしや欺瞞にまみれた宣伝や煽動の意見や主張を真に受けてしまう愚かで浅はかな人たちが大量にいる世の中であれば、行き過ぎた効率性や合理性や功利性が追求されて、そういう傾向に巻き込まれてしまうと、それを追求する作業の中で、人が人として扱われないような状況になって、消耗や過労によって心身に異常をきたして病にかかったり、最悪の場合は死に至るケースも出てくるだろうし、そういう意味でたとえ効率的で合理的で功利的であっても、それだけで適切で妥当なことにはならないだろうし、しかも全面的にそういうわけではなく、宣伝や煽動としてそういう面が強調されたり誇張されていることが多いわけで、実際にそれに巻き込まれた人が病気になったり死んでしまえば、それが効率的で合理的で功利的なことかといえば、その被害者や近親者にとってはとんでもないことだろうし、そんなことまで含めて考慮すれば、そういうことを追求するような作業や行為について、それを効率性や合理性や功利性が追求されていると言葉で表現すること自体に、確かにそういう面が追求されているとしても、それとは別の面も伴っていることにまでは言及されていないということであり、要するに何かを肯定的あるいは否定的に表現する上で、それに応じた適切な言語表現を使うことが、それに伴って不適切な面については不問にするしかない事態をもたらしているわけで、そうだとすると、何かを肯定的あるいは否定的に表現すること自体が、一面的で不完全な言語表現をもたらすわけだろうし、ではそれをどう解釈すればいいかとなると、何かを肯定したり否定したりする主張や意見があれば、そういう主張や意見は、その対象となる物事を一面的にしか捉えていないということであり、たとえそういう主張や意見に説得力があるように感じられるとしても、客観的にはそれとは別の面について言及されていないと捉えておいた方がいいだろうし、しかもそうした主張や意見では言及されていない面が実際にあるかとなると、ただ言及されていないだけで、あるかないかまではわからないだろうし、それについて疑念を抱いたら、自分で確かめてみるしかなく、確かめてみてもわからない面もあるだろうが、場合によってはそれまでの認識を改めさせるような発見をする可能性もあるかもしれないし、そんなことをやる余裕や技量のある人とそうでない人との間で、それなりに認識に差が出てくるのは致し方のないことだが、それに関しては少なくとも言及する対象に関して、一方的に肯定したり否定したりする主張や意見には、それなりに不完全な面があるということであり、もちろん肯定否定の両面を捉えているとしても、すべての面について言及されているとも言えないわけだが、そうであるからこそ、そうした主張や意見を全面的に信頼したり信用する必要はないわけで、それでも何かそういう主張や意見に関してそれなりに説得力があるように感じられたら、何かしら適切で妥当な面も含まれていると思っておくぐらいが無難なところかもしれず、それ以上に支持したり賛同する必要はないだろうし、特にそうした人たちとの間で直接の交流もなければ、むやみやたらと支持者や賛同者になるのは、ただのお人好しに過ぎないだろうし、結局はその手の宣伝や煽動に踊らされて利用されるのは愚かで浅はかなことだと思っておいても、それほど間違ってはいないのではないか。


5月21日「物事の判断と評価」

 現状の世の中で人や団体と様々な関係を持ちながら活動していると、それに依存している度合いが高ければ高いほど、そうした関係の中に埋没してしまい、新たに他のことをやろうとしても、その関係が邪魔をして身動きが取れなくなってしまうのかもしれないが、そういう場合はその人の活動が、そんな関係の中で動作しているシステムの一部として機能していることになるのかもしれず、それも普通は全面的にそうなっているわけではなく、その人を取り巻く社会的な関係のうちのある部分で、その人を含んだシステムが動作していることになるのだろうが、そうした動作がうまく機能しているうちは、システムの一部として動作するその人の活動も、安定した状態に保たれているだろうし、そういった状態が恒常的に維持されている限りで、それがその人のメインの活動であれば、結果的にそれによってその人の生活が成り立っていることにもなり、そういう活動にその人の生活が依存していても構わないと思われるだろうし、そういう意味でそういった活動を肯定的に見るにしても、あるいは何か他の面で弊害や障害が生じていて、それを理由にして否定的に見るにしても、その人が実際にそこで活動している実態がある限りで、その人が活動していること自体については認めるしかないわけだが、外からそうした活動についてどう評価してみても、活動が実際に行われているわけだから、たとえそれが否定的に評価されるとしても、そこで作動しているシステムを止められていない実態があるわけで、それを客観的に見れば、活動が社会の中でそれなりに機能しているから止まっていないわけだろうし、別に誰が止めようとしているわけでもなければ、それまで普通に機能して作動しているシステムが突然止まるわけでもないし、またその動作から生じる弊害や障害を理由にしてシステムを止めようとしても、動いている動作をそう簡単に止められるわけでもないし、実際に止めようとすれば争いになるだろうし、それなりにうまく機能している動作を止められてしまえば、それに依存して活動している当事者とそれに関係する人や団体が困るわけだから、普通に考えるならそれらの人や団体が止めようとする行為を阻止しようとするわけで、そこで止めようとする側とそれを阻止しようとする側との間で、争いになるのが目に見えているわけだが、そういう水準で物事を判断するなら、争っているどちらが良くてどちらが悪くても、その良し悪しを判断したり評価をする人や団体の立場や境遇や事情などによって、良し悪しの判断や評価が分かれるわけだが、そういう判断や評価が客観的に正しかったり間違っているかといえば、争いの当事者がそれに関して行う主張に納得できるか否かで判断するしかないわけだが、たぶんそれとは別に、良し悪しの判断も評価もしない立場というのも可能かもしれないし、それは中立というよりは、単に判断も評価もしない立場というもあるかもしれないし、消極的にそういう態度でいようとするわけではなく、むしろ積極的に良し悪しの判断も評価もしないというのもあるかもしれず、なぜそうするのかといえば、ただ単にわからないからという理由もあるかもしれないが、わかろうとしない方が無難な場合もあるかもしれないし、わからなくても構わないし、わかろうとしなくても構わないような立場とは、具体的にどういう経緯でそうなる必然性があるかと問うならば、当たり前のことだが判断材料が揃っていないことが挙げられる場合があるだろうし、そんなわけで判断しようがなければ、良し悪しなど軽々しく判断しない方がいいだろうし、特に現状で関係が薄かったり無関係に思われる物事について、無理に判断する必要はなく、また判断するにしても、良いか悪いかをはっきりと断言する気になれなければ、何かそれについて判断を躊躇する理由があるのかもしれず、まずはそれを明らかにした上でないと、軽率に判断してはまずいのかもしれないのだが、そもそも物事の良し悪しを断言するような行為が、世の中でまともに機能しているかとなると、部分的には機能する面もあることは確かだろうが、自身がそういう面に積極的に関与していなければ、少なくとも判断する必然性がないわけで、その必要もないのに周囲の状況に流されて判断してしまうと、果たしてそういう判断が自身の判断といえるかとなると、結局それは世間に促されて、判断するように誘導されているに過ぎなくなってしまうわけで、それこそがそういった判断を強いるようなシステムの一部として機能していることになり、そういったシステムの動作に従わせられて、自分自身の判断がシステムの中で機能させられてしまっているわけだが、それが世論調査などから伝染してくる作用かもしれないし、別に判断する気もないのに、何かの機会にそういった世論調査の結果を見せられると、それに同調したり反発したりして、自分が直接世論調査の対象となっているわけでもないのに、世論調査が求める判断の強要に巻き込まれていってしまうわけだが、たぶんそういうところで意識が世論誘導の罠にはまっているわけで、そういう誘導に逆らうというよりは、積極的にその種の誘導から逃れるには、判断する必然性を感じなければ、判断する必要はないということであり、それが政治関連の世論調査ならば、世論調査結果を見せられた時に判断するのではなく、そこではいったん判断を保留しておいてから、実際に選挙で投票する時に判断すればいいわけで、そういうところで親切心から世論調査結果を見せられる度に律儀に判断していると、そういう結果が意識に刷り込まれてしまって、そんなことを度々やられてしまうと、いざ選挙の時に投票する段になると、もういいや、となってしまう可能性があるわけで、そうやって判断する以前に根気がすり減らされてしまって、それだけ判断力を疲弊させられてしまうような効果があるのかもしれず、だからその手の世論調査結果を真に受けてはまずいわけで、なるべくそういった先入観や前提条件につながるような事前情報からは目を背けておいた方が無難であり、他の人がどう思っているというよりは自分がどう考えているかを重視して、また世論調査項目そのものの是非に関しても、自らの判断や評価をはぐらかすような設問なら、自分の考えとは無関係だとみなして無視した方がいいだろうし、そうした設問からすでに世論誘導が始まっていることを認識しておくべきなのではないか。


5月20日「信仰と自助努力」

 神の存在を信じている人にとっては、そんなことはあり得ないだろうが、例えば宗教から神への信仰を取り去ったら何が残るかというと、それでは宗教とは言えなくなってしまうかもしれないが、とりあえず何かを信仰することを宗教とみなすならば、では神に代わる信仰対象を求めるとすれば、まずは神とは異なる概念の信仰対象があるかとなると、普通に考えるなら神というと全能の神であるわけだから、全能ではない限定的な存在を信仰の対象とすれば、それで神とは違った概念を信仰していることになるのかもしれないが、それを信じることによって何かご利益があるかとなると、普通は何のメリットも感じられない存在が信仰の対象になることはないだろうが、それに関しては例えば古代のユダヤの民などは、メリットがないどころか、逆にバビロン捕囚などの苦難をもたらす神を信仰した例があるように、それ相応の事情が許せば、特に肯定できるメリットを期待できなくても、何らかの存在が信仰の対象となる可能性があるのかもしれないが、それとは違う身近な例から考えれば、メリットが期待できて、しかも神とは違って全能でもない存在として、よく自分を信じろと言われることがあるだろうし、自分を信じることのメリットとしては、何事にも自分を信じて自信を持って臨めば、持てる力の最大限を発揮できるように思われるわけで、逆に自信がないと、何をやるにしても消極的な態度となってしまい、そんな自信のなさがマイナスに働いて、満足に力を発揮できないまま、やっていることが失敗に終わってしまうように思われるわけだが、そういう意味でなら何事も自らの力を信じて、積極的かつ主体的に活動した方がいいように思われるから、信仰の対象になるわけだが、それが宗教の範疇に含まれるかというと、一般的に言ってそんなおおげさなことではないだろうが、一概に宗教といっても軽い程度の信仰から深刻で大げさな程度まで様々なレベルでの信仰があるだろうし、それらを十把一絡げにして何でもかんでも否定的に見たり、またその逆に無批判にそれらの全てを全面的に信じたりするようなことはないわけで、そこで信じることによって何らかの弊害が生じてくればそれが問題となるが、特に問題とはならなければ、そういう意味で少なくとも信じることが実質的に何のメリットも害もない宗教というのは、単なる形骸化した形式的な宗教であり、それが社会の中で深刻な問題となることはないだろうし、むしろ実質的な利益に結びつくような宗教教団の類いが、狂信的なカルト集団として様々な問題を引き起こすことになるわけで、それとは違う成り行きの中で全能の神の存在を強く信じたとしても、それによって何がどうなるわけでもなければ、誰にとっても直接の利害とはほとんど無関係となって、結果的に無害な信仰となるわけだが、そもそも何かを信じるということ自体が、信じることによって何かが直接にもたらされることを前提としているわけでもないだろうし、現代的な感覚からすれば、たとえ何らかのご利益を期待しているとしても、その大半は気休め程度に信じていることでしかなく、中には熱心に信じている人もいるかもしれないが、普通は信じることよりは、直接何かを行うことによって思うような成果を求めるやり方が一般的に通用しているだろうし、それとともに実際に何らかの行為を行うに際して、期待通りの良い結果がもたらされることを信じて努力するわけで、そうであるなら直接何かを行うことに加えて、行なった結果として期待通りの結果がもたらされることを信じることが結びついて、それらが一体化していると言えるだろうし、単に信じているだけではなく、直接の努力も惜しまない成り行きの中で、良い結果がもたらされることを期待するわけだから、そこで良い結果がもたらされることを強く信じて直接の行為を行えば、自ずから結果がついてくるように思っている限りで、それが実現することを信じていると言えるわけで、その辺がただ信じているだけで救われるのとは少し違うわけだが、それに加えて直接の努力を行うことが、より良い結果をもたらせるようにしているわけだから、それだけ信仰も含めてやっていることが合理的になっていると言えるわけだろうし、それが合理的だと思える理由が、直接の努力への期待であり自信でもあるわけだが、そういう自らへの自信と神への信仰が結びつくと、神が信者に向かって自助努力を惜しむなと命令していると解釈できるわけで、そういう動作が信仰の合理化と言えるのだろうし、ただ神に祈っているだけでなく、現実の世界で自らに課せられた仕事をやり遂げるために努力している限りで、神へのしもべとしての役割を全うできるような教義が生み出されて、そうした自助努力に基づく現世利益の獲得を目指す活動と、神への信仰が両立する結果がもたらされたわけだが、それは一種の方便だろうし、実態としては人々の経済活動と神への信仰を合体させることで、宗教の延命を図ろうとしているわけだろうが、社会の中でそうやって人々が自助努力を惜しまない限りで、実質的には神の助けを借りずに活動している状況がもたらされているわけで、そこで神が奇跡を起こしたり、人々を羊飼いのように導く必要もなくなっていて、それとともに神から生じる神秘的な力よりも自らの力を信じる傾向が強くなってきたわけだろうが、だからと言ってそれによって信仰が見捨てられることもないわけで、いくら自分の力を信じていても、自分は全能ではなく、その力には限界があることを自覚している限りで、自らの力を超えて及ぼされる物事の偶然の作用を体験して、それを自らに引き寄せて解釈すれば、そこに神からのメッセージを読み取れるわけで、それに関して例えば、偶然の作用によって不運に見舞われれば、神が自らに試練を課していると捉えられるかもしれず、またそれによって幸運がもたらされれば、神が自らの日頃の献身と努力に報いてくれたと捉えることができるかもしれないが、そうやって偶然にもたらされた成り行きや結果を、神への信仰と絡めて良くも悪くも解釈することによって、変わりない神への信仰を維持できるわけで、それも信仰とともに自らの努力を正当化するために必要な合理的な解釈と言えるだろうし、それが自助努力を奨励するような世の中の風潮ともマッチして、そうした人々の努力を利用して世の中を統治している政府や、それらを協業としてまとめ上げて経済活動に利用している企業にとっても好都合なことであれば、そうした行いを肯定するような解釈が世の中の世論となるのではないか。


5月19日「賢さと愚かさの混同」

 世の中の全てが演劇空間ではないことぐらいは理解しておいた方がいいのかもしれないが、部分的にはそこに何らかの舞台装置が設置されている場合もあるだろうし、また舞台の上で役者が何らかの役柄を演じているのを多くの人たちが見物している場合もあるのかもしれないが、比喩的にはそうだとしても、それだけではないことも誰もが承知していて、中には何も演じていない人もいくらでもいるのかもしれないが、少なくとも意識して演じているつもりがなくても、自覚しないで何らかの役柄を演じさせられている場合もあるのかもしれず、特に人と人との間で関係が生じると、その場で適用される論理に従って、その論理が示す方向へと言動を合わせてしまうだろうし、それがその論理に沿ったことをやっている限りで、正しいと思われるわけだが、世の中でまかり通っている論理はそれだけではなく、他にも様々な論理が同時並行的に成り立っていれば、その中の一つの論理だけに全面的に依存してしまうと、それと被ってしまう他の論理を否定しないと、その論理に従っている限りで正しいことを行えなくなってしまうわけだが、果たしてその論理の範囲内で正しいことが、それと被る他の論理では正しいこととなるかはよくわからないわけで、確かに多くの場面や局面で通用する万能的な論理というのもあるのかもしれないが、そんな論理によって正当化できる行為が正しいと思われても、中にはそれとは異なる論理によって動いている人もいるだろうし、果たしてその人が間違っていて、世間的に支持されるような万能的な論理で動いている人が正しいかとなると、たとえそれが正しいと思う人が多いとしても、それとは別の論理で動いている人にも特有の事情があるのかもしれないし、できればそういう人の行為や立場も尊重した方が無難な場合もあるだろうが、さらにそれとは別に、その人に特有な嗅覚や勘に頼って動いている人もいるだろうし、そういう人ははっきりした論理に従っているとは言えない場合があるわけで、また一概にその場の状況に合わせて動いていると言っても、人によっても立場によっても、その場の状況にどのように合わせているかは、その内容にも程度にも違いがあるだろうし、そうなると人によっても立場によっても、それぞれの行為や考え方には違いがあることになるのかもしれないが、そんなことは当たり前のことであり、実際にもそうだとしても、大雑把な捉え方としては、多くの人たちがその場で支配的な何らかの論理に従って動いていると捉えた方が、うまくその場の状況を説明できて納得もできるとしたら、そんな人たちは自覚せずに論理に従った演技をさせられていることになるのかもしれず、その際に個々の人はそれぞれに自らの意志で主体的に活動しているつもりであっても、その場を支配する論理によって役割分担が施されていることには気づいていないわけで、そうであるなら同じ論理に従っているとしても、役割分担に応じてそれぞれに違う活動をしていることになり、それらの活動が組み合わさって一つの論理を構成しているような場合があるとすれば、それが社会を構成する論理となるのだろうが、そうやって構成されている社会には特有の傾向があるだろうし、それが特定の宗教や民族に体現されていればわかりやすいのだが、さらに特定の政府や企業としてまとまっていれば、それらの政府や企業の傾向を理解する上で、何らかの論理が導き出されれば、それがその政府や企業を支配している論理となるわけだが、そこでも必ずしも一つの論理によって支配されているわけでもないだろうし、逆に一つの特徴的な論理によって特定の政府や企業を理解しようとすれば、一面的で単純な理解になるしかないだろうし、それに関連して特定の政府や企業を批判する上で、繰り返し同じような紋切り型的な論理を使って、毎度おなじみの型にはまった批判をしているような人たちが特定の勢力を構成していたら、それらの人たちの理解は一面的であって、単に対象を批判するためだけに否定的な面ばかりを強調しているだけになってしまっているわけだが、だからそういう理解や批判から導き出される結論としては、すぐにでもそんな政府が統治している国家の経済が崩壊したり国が滅亡するような論調となってしまうわけだが、それに関してはもう何年も前からその手の予言や論調で煽っているにも関わらず、対象となっている国の経済が崩壊しているわけでもその国が滅亡しているわけでもなければ、その手の言説を弄している人たちのいい加減さや言説内容のデタラメさが明らかになっているわけだが、それでも飽きもせずそんな論調を繰り返している実態があるとすれば、単にそうした論調の言説に需要があって、そういう内容の言説を読むと気分が良くなってしまう中毒患者が大勢いるということであり、そうした人たちもその手の論調の言説の中で述べられている論理に支配されていて、その手の言説の消費者として、役割分担の中に拘束されてしまっているわけだが、確かにそういうケースなら比較的わかりやすいとしても、それよりもわかりにくいケースとしては、そういう論理の言説に囚われた人々を嘲笑したり馬鹿にしている人々も、やはりその手の役割分担の虜になっているわけで、自分はそんな人たちよりは賢いと思って、それらの人々を嘲笑したり馬鹿にしているつもりかもしれないが、それも嘲笑したり馬鹿にする役割を分担されているに過ぎないわけで、そういう物事の一面的な理解に囚われている人たちを小馬鹿にする役割というのが、社会には生じているわけで、またそれらの人たちを小馬鹿にしている限りで、別の面での理解がおろそかになっている可能性があるのかもしれず、それが物事の一面的な理解に囚われてしまう人たちが社会の中で生じてしまう背景を理解することであり、なぜそういう人たちが生じてしまうかに関して、そうした人たちの意識を支配している論理に関して十分な理解が得られていないと、ただそういう人たちを嘲笑したり馬鹿にしているだけにとどまり、それだけだとそれらの人たちから反感を買ってしまい、さらにそれらの人たちを頑な態度に導いてしまっているわけで、結局そういう人たちを嘲笑したり馬鹿にすることによって、そうなってしまっている事態を打開できなくしてしまうわけだが、それを打開する必要があるかとなると、それを嘲笑したり馬鹿にする対象を必要としている人たちにとってみれば、自分たちの賢さを引き立たせるにはそういった人たちが必要不可欠になってしまうわけで、客観的にみればそんなのは賢くも何ともないことであり、逆にそうした現状を固定化させているわけだから、むしろ愚かな部類に入るのかもしれず、それに関して本当の賢さとはそういう状況を打開してこそ、賢さが証明されるわけだが、嘲笑したり馬鹿にしたりすることが逆効果な現状がある限りで、やはり本当の賢さが身についていないわけだろうし、またそれと同じように批判や非難によって現状を固定化させている人たちについても、それらの人たちと同様に賢さよりも愚かさの方が勝っていると言えるのかもしれない。


5月18日「想定内の事態」

 自分が考えていることや行なっていることに関して、合理的に考えて合理的に行うことができれば、とりあえず自分自身は納得できるかもしれないが、自身に関係する他の人や団体に対しても、そんな自身の活動を納得してもらおうとする際にも、それに関してなるべく合理的なことを述べて、合理的なことを行えれば、それを他の人や団体がどう受け取るにしても、少なくとも自分では何らやましいことはやっていないと胸を張れるかもしれないが、実際には自らを取り巻く様々な事情から、やましいことを述べたりごまかしを行わざるを得ない成り行きになってしまえば、それに関しては思い悩んでしまうこともあるだろうし、心ならずもそんな事態になってしまうと、何事も思い通りにはいかないことを思い知らされるわけだが、そうした事情を他の人や団体が考慮してくれるかというと、はじめからけんか腰の人なら、そういうところを突いて、ここぞとばかりに攻撃を仕掛けて、辛辣な批判や非難の言葉を浴びせかけてくるだろうが、そういった動作はある程度は想定内のことであるのかもしれないし、現実にはそういう成り行きとは違って、思いもよらぬ想定外の成り行きになってしまうこともあるわけで、例えばそれが偶然の巡り合わせとしか言えないような成り行きであり、実際にそうなってしまうと思い通りにはならないのはもちろんのこと、それへの対応が合理的であるか否かの判断とは無関係に事態が進行する場合があるわけで、そうなってしまえばそれに関しては誰も対応できなくなってしまうのかもしれず、直面している事態がはじめからその人の意図や思惑を外れているのだから、別に対応する必要すらないのかもしれないが、それに関係してやっていることがやましいことであろうとなかろうと、そんなことは枝葉末節などうでもいいことになってしまって、そういった人の思惑など無視するような成り行きになってしまえば、それに対する良識ぶった批判や非難などは意味をなさないだろうし、そういった人たちを置き去りにしながら事態が勝手に進行していってしまえば、そんな成り行きへの対応が合理的であろうとなかろうと、またそれに関して良識や見識のあることを述べようと、あるいは戦略的に功利的な態度や判断をしようと、そんなことをやっているうちに、そういった人たちの対応や判断とは次元の違うところで進行している事態に関しては、それらの人たちにはなすすべがないのかもしれず、しかもそれが別に危機感を煽り立てるような大げさな事態でもなく、単なるありふれた経済的な事情から生じたことであったり、また世の中の流行り廃りであったりするのかもしれないし、実際にそこで物騒な言葉が飛び交っていても、その言葉が意図することを実現するような成り行きにもならなければ、それに関係する人たちが毅然とした態度に出ても、そのことごとくが肩透かしやはぐらかしに直面してしまって、思いや都合を反映した実践にも結びつかずに、意図するところを何ら実現することもなく、どっちらけの展開を甘受するしかないような状況になってしまえば、いくらそこで合理的なことを述べても、また合理的に振る舞おうとしても、それらが全てすっぽ抜けてしまうわけで、結果的にはそんなことを述べていること自体が合理性とは無縁であり、またその振る舞いも理に適っているとは言いがたく、要するにそれらの人たちが思っていることや行おうとしていることが、それらの人たちが思っているほど合理的ではないとすれば、そこに思い違いや勘違いが生じているとしか言えないだろうし、もちろんそれらの人たちにしてみれば、理に適ったことを述べようとしているし、その行いも理に適っていると思い込んでいるわけだから、どうにもならないことなのかもしれないが、たとえそうであっても構わないような成り行きがあるのかもしれず、それらの人たちが何を言おうと、どう振る舞おうと、どんなことをやろうとしても、それらは全て想定内のことでしかなく、それが誰にとっての想定内かと言えば、そこに関係するすべての人にとって想定内ことであり、だからそれらの人たちが想定内のことをやっている限りで、そこで生じている成り行きには何の作用も影響も及ぼせないようなことになっていて、別にそれで構わないことになってしまうのだろうし、実際に構わないわけだから、それらの人たちにとっては、自分たちが行なっている想定内の活動しか把握できないわけで、実際の成り行きがそこから大きく逸脱していても、そんなことは把握する必要はなく、ただ想定内の把握にとどまっている限りで、まだ安全地帯で活動しているつもりになれるわけだが、ではそこから外れると危険なのかというと、想定内の活動をしている限りで、そこから外れることができないわけで、外れられないのだから、安全地帯にとどまっていられるわけで、要するに何を述べてもどう振る舞っても、安全地帯の中で言葉と行為と行動が循環しているだけとなってしまうわけで、それこそが予定調和の環境であるわけだが、そんな環境の中で活動しているにも関わらず、感覚としてはまるで危険と隣り合わせであるかのように振る舞っているわけだから、それは演技以外の何物でもないわけで、しかも自らが演技をしている自覚すらないのだろうし、そこまで把握してしまうと不条理にしかならないわけだが、自覚もできないし把握もできない限りで、自然な振る舞いとしか感じられないわけで、そうなるとどう考えみても、何でもないことでしかないわけだが、その何でもないことが、そこに居合わせた誰もが真摯な態度で真剣に取り組むようなこととなると、やはりその真摯な態度も演技であり、真剣に取り組んでいるように見せかけているに過ぎないことでしかないのに、果たしてそれを真に受ける必要があるのかとなるわけだが、そんな状況の中でも生真面目に振る舞うつもりなら、たとえそれが演技に過ぎないとしても、それになりにリアリティを感じているように活動すべきかもしれず、またそうした活動の意義や意味を積極的に見出そうとするべきなのではないか。そしてそれも想定内の活動に含まれるならば、活動が現状に合っていると思われるだろうし、そんな現状も想定内の現状となるわけだ。


5月17日「世間の常識と良識」

 たぶん世の中で今までは通用していた常識が通用しなくなってきたとしたら、その常識を通用させていた社会の枠組みとか構造が崩れてきたことを意味するのかもしれないが、そもそも何が常識となるかは、その常識を守って尊重している人たちの方が、常識を無視したり破っている人たちよりも優位や優勢な情勢となっている限りで、それが常識として世間で通用するわけだろうが、それが通用しなくなってきたということは、もはや世間がそれを尊重できなくなってきたことを意味するのだろうし、なぜ常識を尊重できなくなってくるのかといえば、常識を守ったり尊重することから生じるメリットがなくなってきて、それどころか逆に不利益を被るようにもなってくれば、もはや常識を守ったり尊重する必要がないどころか、場合によっては常識を積極的に破らないと世間では通用しなくなって、常識を無視したり破らないと、世の中で有利な立場や境遇になれないことを意味するようになるのかもしれず、そうであるなら常識を守れなくなってきたということは、その人の主体的な意志や事情でそうなってきたというよりは、単に世の中の情勢が変わってきたことを意味するだろうし、そうなると常識を無視したり破った人を批判したり非難することに、あまり正当性がないことにもなってくるわけだが、実際に世の中の多くの人たちが常識を守れないようなら、もはやそれは常識とは言えないことにもなってくるわけだから、常識を守るという規範を温存したいのなら、守るべき新たな常識をこしらえればいいわけだが、それに関しては何か特定の人や団体が常識を設定するというよりは、世間が世の中の常識を作り出すような作用があるのかもしれないし、実際にも世の中で多くの人たちが守っている規範が世間の一般常識となる場合が多いだろうし、そういう意味ではそれを守るとか破るのとは別の次元で、世の中の変化とともに世間の多数派が守るべき常識も変化していくと考えるのが妥当なところかもしれないのだが、そういう相対的な価値基準とは別に、倫理的に絶対に守らなければならない規範というのがあるかとなると、世間的に良識派を形成したい人たちにとって、そういう絶対的な価値基準があれば都合がいいわけだが、例えば人を殺してはいけないとか、そういうことになってしまうと、多くの人たちが普通に守っているようなことになってしまい、わざわざ判断を要するようなことではなくなってしまうわけだが、そういった人たちが求めているのはそうではなくて、何か他人や他の勢力を批判したり糾弾するのに都合の良い価値基準を設定したいわけで、そうなると誰もが納得できて、しかもわかっていながらもついつい過ちや誤りを犯してしまうようなことを、批判したり非難する口実に使いたいわけだろうし、それに関しては格好の対象となるのが、社会的な地位や資産などの格差から優遇されているような人たちが、その標的になりやすいだろうし、立場や境遇の面で優遇されていたり優位に立っている人たちが、世の中で好き勝手なことをやっているように思われれば、そうした傲慢で思い上がった振る舞いや素行が批判や非難の的となるわけだが、そういう人たちが人数の面でも少数派であれば、多数派にとっては都合がいいだろうし、実際に社会的に地位や資産などの面で優位な立場や境遇であるのに、公的な面で制度的にも優遇されている人たちは少数派であるわけで、そういった人たちを不公平だと批判したり非難することは、何かと世間の賛同を得やすいだろうし、そういう意味で良識派を自認する人たちにしてみれば、うまい具合に絶対的な価値基準を設定できるのかもしれないが、それとは違って多数派である普通の一般人を批判したり非難する口実となると、それに関してよく使われるのが、政治的な無関心や保守性が挙げられるだろうし、そういう方面でありがちな主張としては、政府や政権政党が不正やごまかしを行なって国民を欺いているのに、それに無関心であったり、知っていながら支持しているのは何事かとなるわけだが、それに関しては選挙で多数の票を獲得して議会で多数派を占めて政権政党になる成り行きがあるわけだから、実際に支持されているのが当然であるだろうし、そうだとすれば、政権政党になって政府に関与するようになると、不正やごまかしを行なって国民を欺くようなことをやらざるを得ない成り行きになってしまうとしか言えないのかもしれず、実際にそうであれば、国民の側としては政権交代を求めるのが筋だろうし、そうであるにも関わらず、実際にはそうはなっていない現状があるとすれば、悪いのは政治に無関心な人々であり、また国民を欺いている政府や政権政党を支持している人々である、となるわけだろうが、実際にそういう批判や非難を行なっている人たちが世の中で少数派であれば、そういう状況の中でそういう良識派が常に正しいことを主張できるような環境が出来上がっていることになるわけで、そういう意味で良識というのは、他の多くの人たちが守れないようなことを守っているから、それが良識となって、逆に他の多くの人たちもそれを守って尊重している状況が実現されてしまうと、もはやそれは普通で当たり前の常識であって、良識という希少性を担えなくなって、良識でなくなってしまうわけで、そういう事情があるからには、常に良識派を自認するには、誰もが守れるようなことは良識とはみなされないことを考慮に入れながら、常に努力していないと守れないようなことを価値基準に設定する必要に迫られるわけだが、ではその一方で同じ少数派でありながら、社会的に地位や資産などの面で優遇されていて、そのことで批判や非難の口実に使えそうな人たちとはどう違うのかというと、世間の多数派に属する人たちにとって、そういう人たちは憧れの対象であり、できれば自分たちも運や機会が巡ってきたらそうなりたいとも思っているような人たちでもあるわけだが、その一方で良識派と呼ばれる少数派の人たちに対しては、何かきれいごとを主張していて清廉潔白を装っているから、お高くとまっているような印象を受けるのだろうし、そのことがかえって嫌われる原因にもなっているのかもしれないし、そういう意味で人気がないから、いつまでも少数派でいられるような成り行きがあるのかもしれない。


5月16日「おかしな動作」

 究極的な状況として何もやるべきことがなく、実際に何もやらなければ呼吸もせずに死んでしまうだろうが、実際には自動的に呼吸をしているわけだから、そういうレベルでは意識的に何かをやるやらないの選択肢はないだろうし、実際に人が生きている実態がある限りは何かをやっているわけだろうが、そういう基礎的な新陳代謝とは異なる面で、例えば言語を使って他人と意思疎通を図るような成り行きになるには、そこに社会が形成されている必要があるだろうし、またただ漠然と意思疎通を図ろうとしているわけではなく、当然何らかの意図や思惑があって、そこから導き出される目的のために意思疎通を図ろうとしていて、ではなぜ人に目的が生じるのかといえば、社会の中で人それぞれに役割分担が生じていて、その人が担っている役割に応じて目的が生じてくるわけだが、当然その目的は一つではないだろうし、同時並行的に様々な目的が生じていて、その様々な目的に応じて、人と人との間で社会的な関係も生じてきて、そうした人間関係の中で、お互いに関係する相手を利用しながら活動しているわけだが、その活動の目的というのが、その人に課せられた動作を行わせることになるわけで、その人の社会的な役割分担に応じて、その役割を全うするような動作が課せられるわけだが、何がそれを課しているのかといえば、社会が課していると解釈するのが妥当なところかもしれないが、社会全体というよりは、特定の団体がその構成員に特定の動作を課している場合もあるだろうし、また団体が管理運営する制度がその管理者と利用者に特定の動作を課している場合もあるのだが、たぶん動作はそれだけではないのだろうし、それ以外にも世の中には動作がいくらでもあるから、そうした特定の団体や制度が課す動作だけを把握しようとすると、他の動作を見逃してしまい、そういう偏った動作への理解から、現状に関する偏った解釈が導き出されてしまうわけだが、そんな解釈から何がもたらされるのかといえば、極端で一方的な認識であり、またそんな認識を基して、何やら大げさなことを述べたり主張してしまうわけで、そういった主張には普通の感覚では違和感を抱かざるを得ないのだが、さらにその違和感を基にしてそうした偏った主張に抗議するようなことを行なってしまうと、その抗議内容自体もそれ相応に偏ってしまうから、それを真に受けるとさらに認識が現状からかけ離れていってしまうわけで、そういう成り行きの中でもその人の都合に合わせた主張の正当化が行われて、それを他の人たちが真に受けてしまうと、現状に関する狂った感覚が他へと伝播していってしまい、それに影響を受けて現状に対する妥当な判断や評価ができなくなってしまい、そうした判断や評価に基づいた動作や行為がおかしくなってしまうわけだが、そのおかしさに気づかされるのは、やはり特定の団体や制度が課す動作がうまくいっていない時だろうし、それらの動作に他からおかしな動作が絡んできて、何らかの作用や影響を及ぼすから、動作自体もおかしくなってしまうわけで、そうなるとそうした動作に対しては、団体や制度が課す動作だけではうまく対応できなくなるわけで、そんな対応できなくなるような状態の中での通常にはないおかしな動作が、そうした動作を課しているつもりの団体や制度の限界を浮かび上がらせるわけで、そんなおかしな動作を実際に行なってしまう人が、逆説的に団体や制度が課す動作の限界や問題点を指摘できればいいわけだが、やっている当人は意外とそれに気づかずに、その人はやって当然の動作を行なっていると思ってしまい、自らの動作のおかしいところを他から指摘されても、納得がいかないだろうし、成り行きとして自然な対応をしたのに、それをおかしいと指摘されたり、場合によっては批判されたり糾弾されるような事態になれば、腑に落ちないだろうし、自分が悪いという自覚がなければ、そういう指摘や批判などには反駁したくなるわけで、そしてそういった他との争いを伴ったやり取りによって、さらに事態がこじれてくると、それだけ状況が変化してくるだろうし、要するにそういった争いを伴った成り行きから事態の悪化を招いてしまうことが、それ自体としてはおかしいのに、それが当然のことのように思わせる効果があるのかもしれず、それがおかしな動作でもあるにも関わらず、そんな動作によって作り出された状況の中で、その動作が有効に機能しているように思われてしまい、そうした状況の中で活動している人々にとっては、もはやそれがおかしな動作だとは思われなくなって、そういう動作を行うことが当然の行為のように思われてしまい、そうやっておかしな動作によって主導権を握ってしまう実績が作られてしまうわけだが、そんな中ではそんな動作を積極的に批判したり糾弾してしまうことも、そうした実績づくりを助けてしまうことにもなりかねず、そんな批判や糾弾自体が、おかしな動作によって批判者や糾弾者を生じさせたことになるわけだから、それもおかしな動作が機能したことによってもたらされた実績として、そういった動作が当然のことだと思う人々には、肯定的に受け止められてしまうから始末に負えないわけだが、そもそもそういった動作がおかしければ、それは真に受けるようなことではなく、むしろ批判や糾弾などには向かわずに、余裕でかわすぐらいの姿勢で臨まなければならないことかもしれないのだが、やはりそういった場面で、日頃から騒ぎ屋的な習性が身についてしまった人たちは、蜂の巣をつついて騒ぎ立てるようなことをやってしまうわけで、またそうした騒ぎに便乗して、騒ぎを不必要に拡大させて騒ぎ立てないと気が済まないような思惑も働いて、普段から抱いている不満をそうした騒ぎと一緒くたにして無理にでもこじつけながら、騒ぎを大きくしようとしてしまうわけだから、そんなことをやっていること自体が、おかしな動作そのものでもあるわけで、そういうところでまともな判断力や認識力を働かせるには、あまりまともにそういった動作を真正面から受け止めない方がいいのかもしれず、そうはいってもそれがメディアがはしゃぎながら取り上げるような世間的な話題であれば、一般の人たちが無視するのは無理だろうから、それに関して何らかの言及を行う機会が巡ってきたら、できるだけ正義の味方のような態度にはならない方がいいのかもしれず、むしろそういったおかしな動作を軽薄に茶化すぐらいが妥当な対応かもしれないのだが、それにも程度があるだろうし、それを親切心から生真面目に受け止めるなら、他と比べて妥当な程度を見極めて、できるだけ誇張や強調を排しながら冷静に語るぐらいが、妥当な対応となるのではないか。


5月15日「理論と制度と実践」

 理論と実践に違いがあるとしたら、実践の中で何らかの理論を活用するにしても、必ずしも理論通りには事が運ばないと、そこで理論の妥当性や信憑性などが疑われるわけだが、そうだとしても何かをやる上で、何らかの理屈を基にした理論があって、そうした理論による裏付けがあれば、それを実際に行う人だけでなく、そこに関係してくる人たちも、それをやることの意義や意味や効果などに関して、納得してもらえる可能性が高いだろうし、そういう意味で何らかの理論に基づいた行為には、それなりに信用できる面があるわけだが、さらに理論とともに信用できるのが、何らかの制度に基づいた行為であり、制度というのはそれを管理運営する団体とともにあるわけだから、そうした運営団体が後ろ盾となって行う行為であるから、その団体に関係する多くの人たちに認められた行為となるわけで、多くの人たちが認めていることだから、それだけ社会的な信用が生じているわけだが、そういう意味では理論による裏付けがあったり、制度を管理運営する団体の後ろ盾やお墨付きがあったりする行為は、それだけ社会的な認知度が高いことになるわけで、そういう行為は規範的な行為と言えるのかもしれないが、その反面で理論や制度に縛られていて、それだけ制限や制約のある行為だとも言えるわけで、要するにそこに多くの人や団体が関わってくると、行為に社会的な信用や信頼が生じる反面、勝手なことができなくなるわけだが、やっていることの妥当性や有効性を維持するには、絶えず改良や改善が必要とされる行為もあるだろうし、そういうところで何かと制限や制約が多く、個人の身勝手な逸脱や変更が認められない理論や制度を伴った社会的な行為に関して、改良や改善を図るにはどうすればいいかとなるわけだが、それに関して妥当なやり方となると、そこに関係してくる人や団体の間で、話し合いや討議や交渉や取引などを行いながら、そこで改良や改善するための方法や手順などを決めて、それらの関係者や関係団体の了承や承認を得ながら、決められた方法や手順に則って改良や改善を行うことになるわけだろうが、そういった成り行きが実質的な内容や効力を伴わないと、話し合い自体が形だけの形骸化した儀式や祭式になってしまうわけで、果たしてそういう場面での話し合いの類いに実質的な内容や効力が伴うかとなると、それに関しては話し合いの参加者が対等な立場で話し合いに加われれば、嫌でも話し合いによって様々なことを決めるような成り行きになるわけだが、そこに不平等で不均衡な力関係が生じていれば、力のある側の意向が優先されて、一方的に押し切られてしまうわけで、そうなると話し合いそのものが形骸化してしまい、話し合う以前に実質的なことが決定権のある勢力の主導で決められて、あとは制度的な通過儀礼のようにして、形だけの話し合いの場が持たれて、そこであらかじめ決められていた決定事項が、脅迫的な同調圧力とともに満場一致で採択されるようなことになってしまう場合もあるわけで、なぜそういう成り行きになってしまうのかといえば、やっている行為に関して功利的な利害関係が生じるからだろうし、そこで自らが優先的に利益を得ようとする思惑から、戦略や戦術を用いて利己的なことをやろうとするわけだが、果たしてそういう行為をやめさせたり、やらせないようにするために、制度を工夫することができるかとなると、理論的には可能かもしれないし、また現状の制度でも運用次第ではそうなることを極力避けられるかもしれないが、実際にそんな傾向になっているとしたら、そういう面ではうまくいっているとは言えないだろうし、理論的な模索にしても制度的な改良や改善にしても、それが実践に移されると、当初には想定していなかった様々な障害や弊害が出てくるだろうし、その中の一つが功利的な利益誘導や勢力争いを伴うような権力的な力関係になってくるわけだが、そもそもの理論的な模索やその理論に基づいた制度を制定する目的が、そういった権力争いや勢力争いなどを話し合いで収めようとすることにあるのだろうし、そういう成り行きが生じている時点で、同時並行的に社会的な行為と、その行為を行う際に必要な社会的な制度を制定する行為が、相互に入り組んで絡み合っているわけで、そうなっている限りで、そういうことを正しく行うための完璧な理論も、その理論に基づいた制度の制定も実現不可能になっているのかもしれず、そこでは理論的な模索と実践的な行為をそれぞれに別々に分けて行うことができなくなっていて、だから理論は絶えず実践によって裏切られて覆されるわけで、また実践によって理論を改良や改善していくにしても、両方の行為が噛み合うのはかなり難しいのかもしれないし、その噛み合わないままの状態こそが、様々な障害や弊害が出ている現状そのものでもあるわけで、それをそのまま放置すれば制度の形骸化が進行するしかないだろうが、そうかといってそうした形骸化によって利益を得たり主導権を握っている人や勢力にしてみれば、わざわざ自分たちが不利になるような制度の改良や改善をやる必然性がないだろうし、そういう意味ではこの先どうなるにしても、状況が良くなる可能性は極めて低いのかもしれないが、そういうところで何か思い違いや勘違いが生じていることも確かであり、現状に囚われている人や団体にしてみたら、現状を維持しようとしたり、現状を改良したり改善しようとするのが当然なわけだが、むしろそうであるよりは、全く新しい状況をもたらそうとする方が、それなりに良くなる可能性が高まるのかもしれず、それを良くなる可能性と捉えること自体が、現状に固執している人や勢力からしてみたら、間違った行為に感じられてしまうわけで、そういう現状に対する捉え方や認識の面で、現状に囚われて現状に固執せざるを得ない人や勢力にとっては、現状とは違う新たな状況を作り出そうとする人や勢力が、間違ったことや誤ったことをやろうとしているように思われてしまうわけだから、そういった状況の捉え方や状況に対する認識の面で、お互いに相容れない面が生じてきてしまうわけだが、それについてはどう考えてみても、現状にしがみつこうとする限りは、現状からもたらされる障害や弊害とともに生きていかざるを得ないのであり、しかもそういった障害や弊害などは、絶えず現状の改良や改善を目指す試み自体を潰すように作用するから厄介なわけだ。


5月14日「物事を肯定する力」

 何にしても世の中で気に入らないことがそれなりにあれば、それにかこつけて社会の現状を否定的に述べることは比較的簡単にできるかもしれないが、ではその逆に現状の中で肯定すべき物事があるかとなると、それに関してすぐに思い当たるのが、昔に比べて何をやるにしても大抵のことが便利になってきたことかもしれず、その便利さというのが具体的には、ネットを利用できれば、ネットを通して得たい情報や買いたい商品が容易に手に入るようになったことだろうし、それがここ二十年ぐらいの間で便利になったことの主な要因かもしれないが、そうした便利さが当たり前のようになってきた時代に生まれた若い世代の人たちには、特に実感がないのかもしれず、彼らにとっては別にそれが肯定すべきことだとは思えないかもしれないが、たぶん肯定すべきこととは、もっと根本的な面で肯定できるようなことかもしれず、具体的にそれが何かといえば、それに関してはほとんどの人は実感が湧かないのかもしれないが、現代という時代の中では、世界中の人々の間でそれほどメンタル面において、あまり差がないことが明らかになりつつあるのかもしれず、なぜそんなことが言えるのかといえば、それは国や地域ごとに異なっている言語や慣習や文化の違いでは、決定的な差異が生じるとは思えなくなってきているのかもしれず、それよりは全世界を覆う資本主義経済から生じる功利的な価値観の方が優っている現状があり、多くの人や団体がそれを追求することによって、人々の間で貧富の格差が生じていることも確かなのだろうが、そういう否定的な面よりは、全世界が共通の価値観によって統合されている実態があることの方が、何か肯定すべき面であるように思われるわけで、もちろんそれを肯定したからといってどうなるわけでもないのだろうが、世の中の物事に対する感覚として、特定の国や地域にこだわる必要がなくなってきているのは確かかもしれず、そういう意味で現状で問題になっているのは、世界中のどの国でも地域でも問題になっていることであり、まさにそれは世界共通の課題や問題として取り組むべきこととなっているのではないか。そうは言ってみても、これから具体的にそれに関して何をどうしなければならないのかとなると、何か漠然としてしまって、どうしたらいいのかわからず、途方に暮れてしまうのかもしれないが、そのどうしたらいいのかわからないことですらも、もしかしたら肯定すべきことかもしれず、実際には世界共通の課題や問題といった大げさなことに関しては、一般の民衆にとってはどうにもできないことであり、考える必要さえないことなのかもしれないが、では実際にそうした課題や問題に取り組むべきなのは、例えば世界各国の政府や国連などの関連機関が協力して取り組めばいいことなのかについても、多くの国の首脳たちが定期的に集まって国際会議を開いている実態からしても、まさに取り組んでいるわけだろうし、そういう面では一般の民衆が心配する必要はないのかもしれないが、要するに現状の世の中で肯定すべきこととは、現状で行われていないことではなく、実際に現状で行われていることを肯定すべきだろうし、現にそれを行なっているわけだから、行なっている当事者たちは行なっていることを肯定するしかないわけで、自らの行いを否定しながら行なっている当事者はあまりいないだろうし、そういう意味ではそれを肯定すべきというよりは、すでにそれを行なっていること自体が、肯定しながら行なっていることになるわけで、少なくとも当事者にとっては否定すべきことではないわけだ。そしてそれを否定したいのは、行なっていることを批判している人たちの方であり、それでは駄目だと思うから批判しているわけだろうし、そういう人たちはそれを否定するしかないのかもしれないし、否定してしかるべき理由や根拠があるから否定しているわけだろうが、それ以上に否定する理由があるかとなると、別にあるわけでもないと思いたいわけではないだろうが、批判する大前提として、それを否定しなければいけないかとなると、もしかしたらそうでもないのかもしれず、中には批判している行為を肯定しながら批判しても構わないのかもしれないし、また否定したい行為を必ず批判しなければならないのかというと、別に批判せずに無視していても構わないだろうし、さらに無視せずに肯定しながら批判しても構わないわけで、何かその辺で律儀な義務感に囚われながら、否定したい行為の全てを批判しなければならないと思っているようだと、批判しているうちに精力を使い果たしてしまうような状況に陥って、その批判行為の全てが徒労に終わっているような実態もあるのかもしれないし、その無駄に否定する労力のうちのいくらかでも、物事を肯定するためにとっておければ、もっと前向きな活動になるのかもしれないし、何かを積極的に行うには、当事者として関わっている物事を肯定する力が必要となってくるのかもしれず、そういう力を日頃から養っておかないと、ただ他人の行為を否定するばかりで、それ以外に何もできなければ、単なる無能な人になってしまうのかもしれないし、そういう意味では否定力よりは肯定力の方が強くなっていないと、少なくとも前進している気になれないだろうし、取り組むべき物事を前進させるには、何よりもその人が主体的に取り組んでいる物事を肯定しなければならないわけだが、それがどういうことかといえば、例えば批判している対象を肯定することが、何を意味しているかとなると、その対象を救おうとしていることになるのかもしれず、そうだとすると批判対象として攻撃するのではなく、逆に助けるような批判を行う必要が出てくるわけで、その助けるということがどういうことかとなると、批判対象が行なっている行為を変えることにつながればいいわけで、要するに駄目だと思っている行為を、駄目ではない行為にすればいいのだろうが、そのための取り組みとしては、批判対象が行なっている行為に介入を試みることになるのかもしれないが、介入するには批判対象とコミュニケーションをとらなければならないだろうし、そういった介入に伴って批判者から当事者へと立場を変えることができれば、当事者として自らが行なっている行為を積極的に肯定するような成り行きに持っていければいいのかもしれないが、なかなかそこまではいけないとしても、まずは批判対象を否定するだけではなく、肯定できる可能性を探ることが肝要なのではないか。


5月13日「知性と理性の後退」

 世の中の状況に関して何か誤解があるとすれば、例えば一般的に言って産業の発展によって社会が進化しているように思われるかもしれないが、何を持って進化と定義するかが曖昧だろうし、進化しているというよりは、人の意識が資本主義経済から生じる功利的な利害や世の中の慣習や伝統などに縛られている一方で、後から付け加えられた様々な但し書きが増えるとともに、法律や制度も複雑に入り組んでいく傾向にあるわけで、果たしてそれが進化と呼べるのか疑問に感じるわけだが、他方で産業技術の面では、交通機関のスピードが速くなったり、コンピューターの処理速度や計算能力が飛躍的に向上したり、ロボット技術の進歩などによって機械類の自動化が促進されている面などが、何か社会が進化しているような印象をもたらすのかもしれず、そういう面では確かにそうかもしれないが、一般の民衆がたわいない娯楽に興じてしまうのは昔と変わらないだろうし、確かに映像技術や音響技術などは昔と比べて格段に進歩したかもしれないが、人々が興じている内容は、その大半がくだらないものと言ってしまえば語弊があるにしても、喜怒哀楽の感情を刺激して効率的に満足感を得ようとする手法がより巧妙になってきたかもしれないが、その反面で人の知性や理性などを極端に忌み嫌う傾向も増長してきているし、そういう傾向を悪く言えば、大衆の白痴化に拍車がかかっていると言えるかもしれないが、要するに人本来の考える能力を退化させて、愚かで浅はかな大衆を大量増殖させるような成り行きになっているのかもしれず、果たしてそれを社会の進化だとみなせるかとなると、疑問を抱かざるを得ず、むしろ人の考える能力を退化させることによって、宣伝や煽動などのマインドコントロールによって、心を操りやすくするような傾向があるのかもしれないし、そういう面で利益を出すための功利性や効率性を追求する戦略や戦術がより巧妙化しているのかもしれないが、それをあえて社会の進化とみなすと、人を愚かで浅はかにすることによって、社会全体が効率的かつスピーディーに動作するようになっているということかもしれず、そういう方向での進化となると、動作の途中で疑念を抱いて文句を言ってくるような人を極力減らせば、確かに効率的かつ迅速に社会システムや産業システムが動作することになるわけだが、人にそれなりの知性や理性があると、ごまかしや嘘を見破られてしまう危険性があるだろうし、特に一般大衆が利口になってしまうと、それだけ宣伝や煽動などの質や内容に関してハードルも高くなってしまい、それに伴って工夫を凝らせば費用も経費もかさんで、結果的に収益を圧迫してしまう可能性があるわけで、だからなるべく手を抜いた低レベルの娯楽で満足してもらうには、日頃から社会全体を白痴化させておく必要があるのだろうが、そういった手の抜き方というのが、微妙な傾向を伴ってくるのかもしれず、それに関しては手を抜く面と、逆に手を抜かずに丁寧に抜かりなく作り込まなければならない面との間で、メリハリをつける必要があるだろうし、実際に手を抜かずに丁寧に抜かりなく作り込まなければならない面とは、人を驚かしたり欲望を抱かせる面だろうし、結果的にそれを欲しくなったり使いたくなったり体験したくなるように仕向けられれば、それが商品やサービスなら利益に直結するわけで、そういう面を優先させればその反動として、逆に利益にならないところでは思い切って手を抜くだろうし、そういうところで手を抜いている面が気づかれてはまずいわけで、それに関して典型的な事例が、安全面での配慮であったり、また副作用として人の心身に何らかの弊害が生じたりする面だろうし、そういうところで偽装や粉飾が発覚してはまずいわけだが、それが発覚するきっかけとなるのが、人々が疑念や疑問を抱くことであり、そういうことがきっかけとなって、それについて調査してみると嘘やごまかしが発覚するわけだが、そういうところで欠かせないのが理性であり知性の働きでもあるわけで、そこで何か話がうますぎるように思われたり、どこかでバランスを欠いているように思われるとすれば、やはり疑念や疑問を抱くからそう思われるのだろうし、そういった心理的な動作を引き出すには、まずは心を落ち着かせて思考を働かせる必要があり、その場の雰囲気に呑まれたり感情にまかせたりしていては、冷静な判断や対応が取れずに、理性や知性を働かせることができないわけで、またそうであるならそれとは逆の状態を考える上で、どうやれば社会を白痴化させることができるかとなると、民衆を脅したりすかしたりおだてたり驚かしたり笑わせて、それに伴って引き出された欲望や喜怒哀楽などの感情を煽り立てて、そういった動作を助長させる趣味や娯楽に夢中にさせ、さらには犬猫子供などの愛玩動物の類いを身近に置いて、その世話にかかりきりにさせて、そうやって常に冷静さを失った状態にさせておけばいいわけで、そしてそんな心理状態になっていることについて、疑問や疑念を抱けない成り行きにする上で、やはりメディアを介した宣伝や煽動が効果を発揮するわけで、現状でもその手の情報がメディアの画面いっぱいに溢れ出るような状況が作り出されているとすれば、果たしてそんな状況の中で、どうやれば理性や知性を働かせることができるのかとなるわけだが、そんな状況に疑念や疑問を抱くには、それらとは別の快楽を体験しなければならず、それが考えることにあるわけで、絶えず考えることによって知性や理性を身につけることが、礼儀作法やマナーなどとは違った、見栄や虚飾や功利的な欲望などを充足させるための目的とは別の態度である知への意志となって、それが快楽に結びつくことを知る必要があるのかもしれないが、それが単なる無駄で無意味なことに過ぎなければ、そんなものは必要ないと思うだろうし、実際に必要がなければ、単にメディアや周囲から伝染してくる欲望を充足するために生きていればいいわけだが、それが人としてのありようなのかといえば、一応は誰にも脳みそがあるのだから、何かしら考えてみた方が無難な感じはするだろうが、物事を考えるということは非効率で手間暇のかかることであるから、社会システムや産業システムが効率的かつ迅速に動作するには、システムのユーザーがいちいち途中で立ち止まって、システムの動作に疑問を感じて考えていたら、うまく動作しなくなってしまうことは明白なのだが、そこでそれらのシステムと生身の人との不条理で矛盾した関係が浮かび上がってくるわけで、果たして人から思考を奪うことが社会の進化を表しているのかといえば、やはりそこで考え込んでしまうのが普通の頭脳の持ち主なのではないか。


5月12日「批判の無効性と批判活動の有効性」

 人の行動や動作などの活動に関して、比喩としてなら何かうまく言い表せるようなことでも、直接的で具体的な物言いで判断や評価を下そうとすると、内容としても印象としても、微妙なところでやっていることの実態からずれてしまうようなことが起こるのかもしれないが、それは特定の個人だけではなく、政府や企業などの団体としての活動についても、何か言葉でうまく表現できないような実態があるのかもしれず、それを安易な表現を用いて批判しようものなら、たちまちその手の批判専門のメディアが使いそうな常套句で言説の内容が埋め尽くされて、そうなると言説の内容と活動の実態が隔たってしまい、誰もがそういう常套句を用いて簡単に批判できる反面、いくら批判しても状況が何も変わらないような結果がもたらされて、それでは批判しても無駄に思われてしまうわけだが、そもそも何かを批判することによって、その場の状況が変わるのかといえば、状況を変えるのは基本的には人や団体の活動であり、その活動の中には他の活動を批判する活動も含まれているはずだが、少なくともそれだけで状況が変わるわけでもないだろうし、むしろそうした活動が新たな批判をもたらすわけで、活動が原因で批判が結果であれば、批判して終わりな面があり、人や団体が何かをやれば、そのやったことに対して批判が行われて、それで終わりとなってしまうと、また懲りずに人や団体が新たに何かをやって、それに対してまた批判が繰り返されるだけで、結局はそれ以上の進展が望めなくなってしまうわけだが、ではそれ以上の進展があるとしたら、どうなればいいかとなると、批判が批判対象の人や団体の活動に作用や影響を及ぼして、活動内容を変えることができれば、批判の有効性が実証されるわけだが、果たして批判によってそんなことが可能なのかとなると、それは状況にもよるのかもしれないが、批判内容にもよるのかもしれず、どちらの場合もあるのだろうが、批判によって批判対象の活動を変えることができなければ、延々と同じような批判が繰り返される事態となるわけで、それによって批判対象が特定の人物や団体に固定されて、その人物や団体が何をやっても同じような批判が繰り返される事態になれば、その人物や団体の同じような活動が成り立っている限りで、それに対する批判の無効性が証明されることになるわけだが、なぜ無効なのかといえば、同じような批判が繰り返されるということは、そこで同じようなことが行われていることになり、要するにいくら批判されても同じようなことをやっている実態があるのだから、それに対する批判が何の効果も上げていないことになるわけで、そんなふうにして批判が無効であることが証明されてしまうわけだが、逆にいえば同じような批判を繰り返すこともできるわけだから、それによって批判活動も継続されるわけで、そういった批判活動によって利益を得ている人や団体からすれば、いくらでも同じような批判を繰り返していれば、そこから利益を得られて活動を継続できるわけだから、そういう意味では結構楽な商売をやっていると言えるわけで、実際にそうであるなら、批判の対象となっている人や団体も、それを批判している人や団体も、どちらも利益を得られてウィンウィンの関係だと言えるわけで、結局そんな経緯からわかることは、何かメディア上で飽きもせずに同じような批判が繰り返されているとしたら、それが批判の無効性を証明しているとしても、そんな批判を繰り返している人や団体の批判活動は有効に機能していると言えるわけで、そこから利益を得られている限りで、功利的な面では批判活動が有効に機能していて、そうした有効性は批判内容の無効性とセットになっていると言えるのかもしれず、またそれは批判対象となる活動の有効性も証明していて、いくら批判されながらも同じような活動が行われているわけだから、そうした活動によって批判する側に批判材料を提供していて、要するにそれによって批判対象が批判勢力を養っている面があり、批判されることによって批判する側を養いながらも、さらに批判されるような活動自体からも利益を得ているわけだから、ではいったい根本的なところで、それら全ての利益はどこから発生していて、誰が批判対象と批判勢力の両方を養っているのかといえば、双方のユーザーが養っていることになるのかもしれず、そのユーザーとは誰かとなると、批判対象となっている人や団体も批判する側の人や団体も、誰かに向かって自分たちの活動をアピールしているわけで、そのアピールする対象がそれらの人や団体に利益をもたらして養っていることになるわけで、例えばそれが回り回って最終的には一般の民衆ということになると、何か実感が湧いてこないのかもしれないが、双方から直接騙されているわけでもないのだろうが、本当にそうであれば、両方の勢力を生かしているのは、紛れもなく一般の民衆になるわけで、民衆の方でその自覚がないようなら、何か巧妙な仕掛けを用いて、民衆からそれと意識させないで利益を搾り取っていると考えても構わないだろうが、そういう見方もかなりうがった見方でありすぎるのかもしれないし、そういう面ではあまり意識しない方がいいのかもしれないし、意識しすぎると何やら陰謀論のようなことを信じざるを得なくなってしまうだろうから、もっと自然な感じで考えるなら、たぶん民衆にも様々な方面へと利益を提供する傾向があって、いつも批判の対象となっている側へと利益を提供する人たちもいる一方で、それを批判する側へと利益を提供する人たちもいて、そのどちらか一方だけに利益を提供するのではなく、双方へ満遍なく利益を提供しているから、批判される側と批判する側がウィンウィンの関係を維持できるような成り行きになっているのだろうし、そうなっている限りでそれなりに世の中のバランスが保たれていて、それなりに平和な状況も実現しているわけだろうし、そういう意味では、批判されるようなことをやっている人や団体も、それを批判している人や団体も、現状の平和な状況が維持されるには欠かせない存在であり、双方の勢力が維持される限りで、現状の平和な状態が保たれているとも言えるのかもしれないし、本当にそうだとすれば、そういった批判の無効性と批判活動の有効性が、現状の平和を維持する上では欠かせない要素であるとも言えるのではないか。もちろんそこには皮肉な面があることも確かだが。


5月11日「出る杭は打たれる」

 誰かが特定の人物に期待しているとすれば、それがその人物に対して何らかの幻想を抱いていることの表れでもあるのだろうが、逆に特定の人物に失望しているとしても、その人物に対して何らかの幻想を抱いていたことの表れであるのかもしれず、特定の人物に期待したり失望したりすることが、その人物の能力を過大評価していることの表れともなり、幻想というのは得てして物事や人物に対する過大評価から生じる傾向があるのだろうが、そうだとしても正しい判断や評価というのは、結果からしかわからないことであり、そうした判断や評価も正確さばかりを求めてしまうと結果論にしかならないだろうし、何でもかんでも結果から判断したり評価するばかりでは、誰もが結果を恐れて安全運転ばかりをやろうとして、無茶で無謀なことをやりたがらなくなるだろうし、そういう意味で結果が出る前に幻想を抱くのが悪いわけではなく、誰もが良い結果になることを期待するし、結果が悪ければ失望するわけだが、だからといって悪い結果をもたらした人物をいつまでも叩くようなことをやっていると、他の人たちもそうなることを恐れて萎縮してしまって、より一層安全運転を心がけるようになるだろうし、それが自動車の運転なら構わないだろうが、世間の同調圧力に逆らうようなことをやる場合には、出る杭は打たれるような傾向になるわけだが、別にそうであっても構わない面もあるだろうし、そういう傾向に逆らって何かをやろうとすることが、世間の同調圧力に逆らうことになるわけで、そういう行為が無茶で無謀な行為となるわけだが、そんなことをやろうとする人たちに期待するなら、結果が悪くても応援するのが筋だろうし、世間と一緒になってそういう無茶で無謀なことをやる人たちを叩くようなら、単なる保守派でしかないし、保守派はそんな人たちに期待しないだろうし、まずは無視を決め込んでおいて、騒ぎを起こしたら、そら見たことかと良識ぶって叩きにかかるわけだが、責任が求められるのは結果が出ないうちから無茶で無謀なことをやろうとしている人や団体に期待して応援する人たちの方だろうし、期待して応援するのだから、思わしい結果が出なくて失望しても、そこで応援をやめてしまったら無責任だろうし、できる限り何らかの形で助けないと、そういう冒険的な行為をやろうとする人や団体がいなくなってしまうわけで、その当事者ともなれば、世間に叩かれてもそんな逆境をはねのけて、無茶で無謀なことをやり続ければいいのだろうが、果たして期待を裏切られて失望した後も、その人や団体を応援することが、妥当なことなのかに関しては、大いに疑問を感じるところだろうが、たぶん応援するだけでなく、自らも自らの能力を過信して、幻想を抱いて、無茶で無謀なことをやろうとすれば、そんなことをやる人の気持ちもわかるだろうし、それが無茶で無謀なことではなく、妥当なことだと思えば、やれる限りでそんなことをやりたがるわけで、たとえそれが勘違いであっても、世の中の多くの人たちがそんなことをやろうとする人たちに期待して、また多くの人たちが直接そんなことをやろうとすれば、たとえ結果的に失敗する人がほとんどであっても、それによって世の中が保守的な傾向ではなくなるだろうし、実際にそんなことがやれているうちは、世の中の雰囲気もそれ相応の期待感に包まれるわけだが、そうなるには利己的に自分だけが成功するだけではなく、他の人たちを助けるようなことを行えば、何やら世間的な好感度も上がるはずかもしれないが、そういうところで宣伝や煽動などを用いたごまかしも行われるわけで、要する娯楽として民衆を楽しませることが、世間的な高感度を上げることになるような成り行きをもたらせれば、自分が利己的に成功するだけでなく、他の人からも喜ばれて支持されることになるだろうし、それが実質的には民衆を助けているわけでもないのに、国民に勇気と希望を与えたとかいう言説的なレトリックによって、保守的な政治宣伝にも利用されるわけで、そういう面で利用される分野というのが、科学や芸術や学術や芸能やスポーツや産業などの幅広い分野を網羅していて、そういった方面で世間的な名声を博してメディア上で好意的に取り上げられると、その人や団体などに対して多くの民衆が幻想を抱くわけだが、別にそういった人や団体が民衆を助けるどころか、結果的には合法的に民衆から金を巻き上げることによって有名人や大企業になっているにも関わらず、世間的な高感度が上がっているわけだから、別に民衆がそれらの有名人や大企業の食い物にされているとみなすのも少し違うのかもしれないが、少なくともそれは民衆を直接助けることとは無関係なのではないか。そしてそれとは違って真に民衆を助けようとしている人たちは、例えば共産党や共産主義者とかは、結果的に民衆を助けるどころか苦難に導いてしまうにも関わらず、それでも本気で民衆を助けようとしているわけで、そういうところで政治的に無茶で無謀なことをやろうとすることが、保守派や世間から危険視されて叩かれるのも当然な面もあるわけだが、結果的にそうなってしまうことが民衆に不条理感を抱かせるとしても、体制翼賛的で保守的な世の中の状況が不快に思われるなら、そういった政治的に無茶で無謀なことをやろうとしている人や団体を応援したくなるだろうし、それに関して理解しておかなければならないことは、世間が認める有名人や著名人や芸能人などに娯楽として楽しませてくれることを期待することと、特定の政治家や政党が政治活動によって民衆を助けようとするのは違うことであり、その辺が意識の中でごっちゃになっている可能性があるだろうし、またあえてそこを突いて、民衆の人気取りにそういった有名人や著名人や芸能人を政治的に利用する傾向もあるだろうし、そういったところで愚かで浅はかな大衆が政治勢力の計略にはまって、まんまと騙されている面があるわけだが、そもそも果たして民衆が政治的に助ける対象なのかといえば、政治宣伝としてはそれが当然であるとしても、それが実質的に宣伝にすぎなければ、建前としては助ける対象であるとしても、実質的には利用する対象であり、場合によっては搾取する対象でもあり、民衆の方でも騙されていることは重々承知していながらも、世間が認める有名人や著名人や芸能人と同じように、政治家にも期待しているし、時として勘違いな幻想も抱いているわけで、その辺が大衆心理の不条理な面なのではないか。


5月10日「成り行きと結果の評価」

 合理的な判断というのは、その場の状況の中で妥当に思われる判断が、合理的な判断だと思うしかないだろうが、妥当な判断と合理的な判断との間で違いがあるとすれば、合理的でなくても妥当な判断があったり、妥当でなくても合理的な判断がある可能性を想像させるわけだが、そんなのは言葉だけの違いだろうし、普通は自らの論理に照らし合わせて納得できれば、それが合理的な判断とも妥当な判断とも思われるわけで、両者の間の厳密な違いなど考慮しないし、そうやって判断した結果が良ければ、それが合理的であろうと妥当であろうとどちらでも構わないわけで、また判断が誤っていたり間違っていたりすれば、合理的でも妥当でもなかったと評価するしかないわけだが、場合によってはそんなふうにその時の判断を後から振り返って評価するような余裕もなければ、改めて自らの判断を意識する機会さえないのかもしれず、ただ漠然と判断も評価もごっちゃにしながら活動していれば、何が合理的で何が妥当だとも考えずに、その場の成り行きや状況に対応したり対処しているだけに過ぎないのかもしれず、そうなると物事の合理性とか妥当性とかは、それを考えて文章にすれば、何か重要に思われるが、実際の活動の中ではあまり改まって考えるようなことではないのかもしれないし、それはその場の状況にもよるだろうが、それよりはまずは、やっていることの効率性や功利性などが重視される傾向もあるだろうし、特に経済活動の分野ではその傾向が強いはずだが、それらと合理性や妥当性との比較で考えられるのは、効率性や功利性の重視が合理的で妥当なのかとなると、場合によってはそうでもないことがあり得るのかもしれず、そういった事例を示すことができれば、そんな事例の中では物事の効率性や功利性を重視するだけでは不十分なことがわかるわけだが、ではそれが合理的で妥当であればいいのかとなると、さらにそれだけでは不十分な事例が示されると、ではどうすればいいのかという疑問が出てくるわけだろうが、そんな疑問を抱いている時点ですでに原因と結果を取り違えていて、言葉ではいくらでも効率性だとか功利性だとか、あるいは合理的だとか妥当だとか言えるわけで、それはただ単にその状態を言葉で表現しているに過ぎず、そういった何らかの状態を言葉で表現した結果がどうであれ、ではどうなっていればその行なっている状態が効率的で功利的なのか、あるいは合理的で妥当な状態なのかが具体的に定まらないと、それが実際に効率的なのか功利的なのか、あるいは合理的なのか妥当なのかがわからないわけで、またそれを決めるのが誰であるかも重要となってくる場合もあるだろうし、その人がそう思っても他の人がそうは思わなければ、果たしてそれが本当に効率的で功利的なのか、あるいは合理的で妥当なのかが怪しくなってくるだろうし、少なくともそこに関わってくる人々の間で見解の相違があれば、それを何らかのやり方で決めなければならないわけで、そうなった時に話し合いの場が持たれたり、討議が行われる状況となれば、そういった場でやっていることの効率性や功利性とか、合理的であるか妥当であるかについて、認識や見解を一致させる必要が出てくるわけだろうが、果たしてそんなことをやる機会が世の中にどれほどあるかとなると、全くないわけではないだろうが、そんなことを行う状況にはならない場合の方が圧倒的に多いのかもしれないし、そうであれば話し合いや討議によって、そこに関わってくる人々の認識や見解を一致させるようなやり方に、それほど合理性や妥当性があるわけでもないことになるのかもしれないが、大勢の人が関わって行う共同作業のような行為に関しては、例えばその場で主導権を握った人や勢力が独断で事を決めてしまうとなると、何かと不満や反発が出てくるだろうし、だからと言って何もかも全員による話し合いや討議で決めるとなると、決めようとしてもなかなか決まらない場合も出てくるだろうし、だから制度的に決める役割を担う担当者を決めて、あるいは代表者を選んでその代表者に決めてもらうようなことが実際に行われているわけで、そういうやり方が効率的なのか功利的なのか、あるいは合理的なのは妥当なのかはさておき、必要に迫られてそういうやり方が編み出されたことは確かだろうし、結局は必要に迫られるにしろ、あるいは特に必要でもないのに、他の何らかの経緯や事情から何らかのやり方が導入されるにしても、その何らかのやり方によって何かが決められて、それが実際に行われる成り行きがあって、そうなった結果を言葉によって効率的だとか功利的だとか、あるいは合理的だとか妥当だとか評価することになるわけで、それが好意的な評価であれば、そういうやり方が継続したり、逆に否定的な評価であれば、そういうやり方をやめたり、やり方が改められることになるわけだが、中には効率的でも功利的でも合理的でも妥当でもないことが、なぜか継続することもあるだろうし、特に改められもせずに長期間にわたって制度的にも慣習的にも行われている事例もあるだろうが、そういう事例に関しては非効率だとか無駄だとか不合理で不当だとかの批判や非難がされながらも続けられているわけで、そうなるとそんなふうに批判や非難している人や勢力にとっては確かにそうかもしれないが、継続している人や勢力にとっては、それなりにメリットがあるから継続しているわけだろうし、そこで人や勢力の立場や境遇によって認識や見解の相違があることになるわけだが、そういった対立している人や勢力の間で話し合いや討議が行われても、結論が出るかとなると、たとえ話し合いが物別れに終わっても、それも一つの結論だろうし、またそれが継続されることによって被害や損害を被っている人や団体がいて、訴訟沙汰になって何らかの判決が下されたり調停が行われても、それも一つの結論とはなるだろうが、そういう結論を出すことが効率的で功利的であったり、合理的で妥当なのかといえば、それもそこに関わっている人や団体の立場や境遇によって、捉え方も評価も異なってくるのではないか。要するにそういった捉え方や評価には普遍性がなく、その場の状況に左右されるようなことだからこそ、それを言葉によって表現する行為自体にそれほど正確さや正当性を求めるわけにはいかないわけだ。


5月9日「言述の自由度」

 人が自由な立場であれば、その自由な程度や状態にもよるだろうが、時として身勝手な想像にまかせて無責任なことを述べられるのは、そうした言述を拘束する前提条件がないからかもしれないが、他人の理解を得られるように気を配るなら、それなりにもっとらしく思われるようなことを述べなければならないだろうし、そのもっともらしい内容というのが、そういう言述をもたらす前提条件の存在を想像させるわけだが、それをもっともらしく感じる意識も同じ前提条件に縛られていて、そうした前提条件を共有する人たちの間で、もっともらしく思われるような言述が流通しているわけだろうし、そうした言述の流通を何とも思わないような意識であれば、すでに前提条件に拘束されているわけだろうが、それを疑問に感じるようなら、なぜ疑問を抱くのか考えるだろうし、そこからそうした言述の流通を許す前提条件を突き止められるかもしれないが、前提条件とは意外と言述の内容を拘束しているわけではなく、それよりも言述の構成や形式を拘束していることが多いのかもしれず、それが何らかの型にはまった言述でないと、不自然に感じられるような形態や脈絡があって、その言述の形態や言述がもたらされる脈絡というのが、言述の内容までも限定しているとしたら、内容よりも形式の方が重んじられるような成り行きが、そこでまかり通っている実態があるのかもしれないが、たぶん形式にとらわれて窮屈な思いをしていれば、積極的にそこから逸脱するようなことを述べようとするのかもしれないが、形式にとらわれている方が心地良ければ、形式に則ったことを述べようとするだろうし、その一方でそういうことに関して考えるのが億劫になると、周囲に同調していればいいような気持ちになって、わざわざ他と異なるようなことは述べたがらなくなるわけで、そうなっている限りで周囲の同調圧力に屈していることにもなるわけだが、そういう面で、なぜ自由であることよりも不自由であることの方が安心できるかというと、他人の意見に同調していれば、その他人から相手にされているように思われるからかもしれないのだが、自分の意見に同調してくれる人でないと相手にしないような人だと、その人とは異なった意見の持ち主を認めないことになり、それでは自分の意見とは異なる他の様々な意見に対して聞く耳を持たないことになるだろうし、そういう聞く耳を持たない人との間で、自由な立場で忌憚のない意見交換ができるかとなると、たぶんそれが建前としてそういうことを述べているのであれば、まともな対話は望めないと思っておいた方が無難かもしれないし、そこで同調圧力としての前提条件を満たす限りで、形だけの中身のない意見交換や対話が成り立つ場合があるわけで、そういう場合は事前に何を話すかが暗黙の了解事項として決められていて、その決められた範囲内の内容に限って発言できるような申し合わせができていて、それでもたまにその場の空気を読めない人が、事前の申し合わせから逸脱したことを発言すれば、その人はその場から排除されるような内輪のルールができている場合さえあるだろうし、そういうことを行えば、その場に集った誰もが安心して会話を楽しめるかもしれないが、一般的に言ってそういうのは、社交界のサロンだとか、記者クラブの質疑応答とかの場に限られるだろうし、何らかの利害の一致した同質的な集団が、その場を支配して仕切っていないと実現しないようなことであり、そういう場で内容よりも形式や体面が重んじられるような成り行きが生じていれば、そういう場とは縁のない一般の人たちの間では、そういう成り行きを不自然に感じる人も結構出てくるかもしれないが、その場に集った人々を拘束する舞台装置が目に見えないような環境だと、なかなかわかりづらいし、ほとんどの人が気づかない場合があるのかもしれず、それに関して普通は誰もが、形式よりも内容を重視していると思い込んでいるはずだが、そう思っている人たちの間でも、同じような形式や構造の言述が流通している実態があるのかもしれず、要するにそういう場では、同じような形式や構造の言述を誰もが使っているうちに、それらの人たちが重視しているはずの内容までが似通ってきてしまい、しかも同じ内容の意見を主張していることが当然だと思われるわけで、少なくともその主張にその場に居合わせた誰もが賛同していれば、そうなるのが当然だと思うはずだが、そうなっている時点ですでにそこには、自分たちとは違う意見や主張には聞く耳を持たない集団が生じていて、そういう傾向の同調圧力も集団内で高まっているわけだが、そういう成り行きを避けるにはどうしたらいいかというと、ただ単に同じ内容を主張するのであっても、他とは違う形式や言い回しで主張しなければならないということであり、主張する側がそういう工夫を怠ってしまうと、同調圧力に支配された聞く耳を持たない同質的な集団が生まれてしまうわけで、それに関してにわかには信じてもらえないかもしれないが、逆説的な意味で、内容よりも形式を重視しなければならず、たとえ他人と同じ意見や主張であっても、言述が同じ形式や型に収斂してはならないということが、多くの人たちがわかっていないことであり、気づきにくいところでもあるわけだが、少しでも他人とは違うことを述べようとしないと、それだけそれらの人たちの間で流通する言述の自由度が狭められてしまうわけで、そうなってくると形式の一致が内容の一致に結びつき、そこから述べている内容が同じでも、言い回しが少しでも異なると違和感を覚えるような現象が起こってしまい、さらにそういう事態が進行していくと、そういう成り行きの行き着く先には、ただ紋切り型の主張を一緒になって連呼するだけのロボットのような群が生じてしまうわけで、いったんそうなって、形式の一致には同調できない人を排除するような閉じられた内輪の集まりのような状態となってしまうと、そこから先へと進展が望めなくなってしまうだろうし、結局はカルト団体のような様相を呈する事態になってしまうわけだが、そういう意味で言述の自由度とは、様々な形式や様式の言い回しを許容している限りで実現されることであり、必ずしも内容の多様性だけでは実現し得ないのかもしれず、そうした言述を拘束する前提条件としては、内容よりも形式の方がより強い力を及ぼすのではないか。


5月8日「争いから競争へ」

 現状で何が必要なのかは、それが事前にわかっていたり、まだわかっていなかったりするのかもしれないが、たぶん必要もないのに考えていることも結構あるかもしれないが、現状の世の中で何を考えるにしても、それを考える上での前提条件というのがあるだろうし、それを考えるに至る事情や脈絡がないと、何も考えられないような成り行きもあるわけだが、少なくともそれに関して、疑問や疑念を抱く対象については考えるわけで、なぜそれが疑わしいのかについて、その理由を知りたいから考えるわけだが、疑わしく思われる主な理由としては、まずは自らが正しいと思っている理屈に合っていないと、なぜ理屈に合わないのかについて考えるだろうし、それ以前に理屈が疑わしく思われるなら、理屈の論理的な正しさを追求するだろうが、さらにそれ以前に、人が理屈に合ったことをやるかとなると、疑わしいことをやっていると、理屈に合わないことをやっていると思われるわけだが、では理屈に合うようなことができるかとなると、普通はやっていることを、自らが信じている理屈に合わせようとするだろうし、そうやってやっていることのつじつまを合わせようとするのかもしれないが、結果的に合わせられないと、その理由をあれこれと考えて、それを他人から指摘されれば、可能ならもっともらしい言いわけをする場合もあるだろうし、また何らかの事情でうまくいかないことを認めるなら、自らが正しいと思っている理屈も、それほど正しくはないことも認めざるを得なくなるわけだが、なぜ理屈に合わないことをやっているのかと問うならば、他との兼ね合いから譲歩したり妥協せざるを得なくなる場合が出てくるとしか言えなくなってしまうのかもしれないが、またそういうところでは自分一人で勝手なことをやっているわけにはいかない社会的な事情があるとも言えるかもしれないし、少なくとも他の様々な人や団体と共同作業を行なっていれば、自分の事情や理屈の他に、他人や他の団体の事情や理屈も絡んできて、それらの間にはっきりした差異があれば、その差異をなくすには譲歩や妥協を強いられるだろうし、そこに関係してくる人や団体の間で、事情や理屈などを共有できればいいのかもしれないが、その際に他の人や団体の事情や理屈に関して、理解することはできるかもしれないが、それを全面的に認められるかとなると、そうもいかない事情があれば共有はできないだろうし、それに関してはそこだけの行為や作業の他にも、それぞれの人や団体が別の方面でも、別の人や団体と共同で行為や作業をやっている場合があるわけで、そこでも別の人や団体などと事情や理屈などを共有できるかとなると、他との兼ね合いから共有できない面が出てくれば、やはりそこにも無視できない差異が人や団体の間で生じていることになるわけだろうが、そういう面を考慮するなら、人や団体の間にはそれなりに他とは共有できない特有の事情や理屈が生じているとしか言えないだろうが、そうであるなら、その人やその団体に特有な事情から、その人やその団体に特有な論理や理屈が生じてくるともいえるだろうし、しかもそうした論理や理屈に合うようなことができるかとなると、他との兼ね合いからなかなか論理や理屈に合わない面も生じてくると言えるだろうし、それがその人やその団体に特有な事情を生じさせるとも言えるわけだが、そうなってくると、そこに関わってくる人や団体の間で生じている差異が、それぞれの人や団体に特有の事情や論理や理屈をもたらすとも言えるわけだろうが、そもそもなぜ人や団体の間で差異が生じるのかと言えば、それぞれの人や団体が存在している在り方や形態などが違っていて、それらが生まれた時期も場所も異なるから、時期や場所の違いに応じてその経緯が違ってくれば、そうした違いからその人に関係してくる人や団体も異なってきて、絡んでくる程度も強度も異なってくるだろうし、そうやって考えていけば、なるほど差異については納得できる面もあるわけで、納得できるということは理解はできるということだが、それが実際に特有の事情や論理や理屈を抱えた当事者になってしまうと、簡単には他の事情や論理や理屈に合わせて譲歩や妥協ができなくなるわけで、そこに人や団体として存在していること自体が、その存在を継続させなければならず、他との兼ね合いから消滅させられるわけにはいかないだろうし、消滅したくなければ、自らの存在を正当化するしかなく、正当化するには自らの存在とともにある事情や論理や理屈も、他との競合の中で優先させようとするだろうし、優先させようとするのは他の人や団体にとっても同じことであり、存在を正当化することや事情や論理や理屈を他よりも優先させることが、自らの存在を維持して継続することにつながるわけだから、それらの間に差異がある限りで、それなりに存在や維持や継続を巡って、他との間で争いが起こるのも宿命的な成り行きになるだろうし、そうなるとそれらの間での妥協点としては、争いつつも可能な限りで他の存在も認めていかなければならないわけだが、他の存在を認めるには、その存在に伴って生じている事情や論理や理屈なども理解しなければならないだろうし、理解するだけでなく認められるかとなると、自らの事情や論理や理屈と一致しない部分に関しては認められないだろうが、他にもそれなりにもっともらしい事情や論理や理屈があることは、了解しておかなければならないだろうし、それらを共有することはできないが、それがあることは了解せざるを得ないわけで、それは自分の他にも他人や他の団体が存在していることを了解することの延長上で、それらの人や団体にも特有の事情や論理や理屈があることを了解することになるのだろうが、それらはどこまで行っても了解であって、それに同意することにはならないだろうし、そういうところで一致点を見出せなくても妥協点を見いだせるような成り行きになれば、それなりに争いも緩和されるだろうが、争いそのものがなくなることはないだろうし、それに関しての妥協点を得るには、争いにも争っている人や団体が了解できるようなルールを設けて、争いをルールのある競争へと変えていくことはできるわけで、もちろんそうしたルールにもそこに関わってくる人や団体の都合が反映してくるわけで、それが誰にとっても公平なルールとなることは難しいだろうが、そういうところでも争いながらも暫定的な妥協点を模索することしかできないわけだ。


5月7日「政治の無効性」

 人々が単純に政府の政策や議会に提出された法案などに賛成したり反対するだけで、実際に世の中が変わればわかりやすいのかもしれないが、実際に世論調査などの内容はそうなっている面もあるわけだが、どうも実態としては世の中が変わる変わらないということとは、それらは別問題のような現状があるのかもしれず、人々の方でも世の中が変わる変わらないということを政治に求めているわけではないらしく、もちろん中には政治によって世の中を変えてほしいと幻想を抱いている人も少なからずいるだろうが、そうはならない現実があることも確からしいし、政治では何も変えられないような状況の中で、多くの人が無力感を抱いているわけではないとしても、無関心になっている人は多いだろうし、ならば何のために政治があるのかといえば、現状に即した妥当な解釈としては、特に何のためにあるわけでもなく、ただ世間が許容する範囲内で政治が行われていれば、それで構わないような成り行きがあって、それが一般の人々には何を意味するわけでもないのかもしれないが、公的な行事や儀式として、どうでもいいようなことが行われていて、もちろんそれをやっている人たちにしてみれば、どうでもいいわけではないのかもしれないが、少なくともそれに無関心な人にはどうでもいいことであり、たぶんそうした人たちの実感としては、世界的に何がどうなっているわけでもないのだろうし、逆に何もどうにもならないようなこととして、政治的な行事や儀式が世界的に行われていることになるのかもしれず、それでも現状の政治に関するこんな解釈は間違っているように思われるだろうが、別に間違った解釈であっても、政治に無関心なら構わないような成り行きがあるのかもしれないし、実際に現状の政治状況をどのように解釈しても、それに対する見方や考え方を都合良く調整すれば、政治の場で何が行われていようと、何でもないような状況だと思われてしまうのかもしれず、特に何も問題がないわけではないが、問題に関わらない限りで、何とかなるようなことでしかなく、実際に問題が無視されている方面では、何とかなっているわけで、それに関してはどのような状況においても、部分的に何とかなっていれば、それで構わないような成り行きがあるのではないか。それはこれまでの経緯からも明らかとなっていることであり、逆にうまくいっていない部分がないと、それと比べて相対的にうまくいっているような印象を得られないわけで、世界的に見て戦争や経済的な事情などに伴ってうまくいっていない国や地域があるから、それ以外の国や地域でもうまくいっていないことがいくらでもあるとしても、少なくともそれらのうまくいっていない国や地域と比較すれば、うまくいっているような印象を得られるわけで、そういう面でわざと経済制裁や貿易摩擦などを絡めて、うまくいっていない面を印象づけることによって、そういうことをやって主導権を握っている国の政府が、自国の優位さを誇るような成り行きにもなるわけで、それも否定的な戦略としての政治活動と言えるわけだが、実際にそういうやり方を支持する国民も少なからずいるだろうし、そんな国民にしても自国が強国であるような幻想を抱いている限りで、そんなことをやっている政府を支持しているわけだろうが、そんな国民に限って自国が強国であることを裏づける上で、軍事力などにも幻想を抱くだろうし、政府の方でもそんな国民の支持を背景として、軍備増強を図るようなことも積極的に行う成り行きにもなるのだが、それも実際に戦争が起こらない限りは幻想でしかないわけで、しかも実際に戦争をやってしまうと、それなりに被害が出て、自国民が死傷したり経済的な損害が出たりすれば、直接被害に遭った国民も目がさめるかもしれないが、そうなった時にはもはや後戻りができなくなっているから、多くの人がひどい目に遭うしかないのかもしれないが、そこでも部分的な被害で済めば、被害に遭わなかった人はまだ幻想を抱いていられるわけで、それも程度の問題に過ぎなければ、ひどい目に遭った人たちを置き去りにしながら、都合のいい幻想に浸りながら、そんなことをやっている政府の支持者でいられるわけだから、そんなことをやっていられる余裕がある限りで、どこまでいっても上手く立ち回ろうとするだろうし、そんな上手く立ち回っている人たちとともに政府に与する勢力が政治的な主導権を握っていれば、それで何とかなってしまうのではないか。そしてそういうやり方に対して、倫理面でも道義的な面でも許せないと思う人々も少なからずいることも確かだろうが、そういう人たちが世の中の主導権を握ることができるかとなると、やはり現状ではそうはなっていないだろうし、大抵はそういう人たちは少数派となってしまうわけだが、なぜそうなってしまうのかといえば、それらの人たちは、現状でうまくいっていない人たちも含めて、すべての人たちの状況を改善しようとしているわけで、うまくいっていない人たちを見捨てることができないから、必然的にそれらの人たちに足を引っ張られて、主導権を握れなくなってしまうのだろうし、しかもうまく立ち回って主導権を握っている人たちにとっては、そういう人たちに主導権を握られてしまっては困るから、そういう人たちを偽善者に見立てて執拗に叩くわけだろうし、もちろん叩く際には自分たちは手を汚さずに、そういう人たちを叩く専門のヘイト的な言動を厭わない汚れ役を買って出る人たちを差し向けるわけで、それも部分的にそうなっているに過ぎず、全面的にそうなっているわけではないから、多くの人たちが見て見ぬ振りをしても構わないような状況が形成されているわけだが、別にそのこと自体に無関心であれば、その自覚がないわけだから、見て見ぬ振りをしているわけでもないことになってしまうのかもしれず、それも実際にそういう事態に遭遇しなければそれで構わないだろうし、ただ単に世の中の片隅で行われていることだから、普通に暮らしていれば、わざわざそれらの反対運動に出かけていくような成り行きにはならないわけだ。だからそういう面で政治は無効である方が都合がいいわけで、そうした問題をやり過ごすことができれば、特に有効な解決策など必要ではなく、全面的にうまくいっていない面に直面することもないまま、うまくいっている面を選びながら、そこでうまく立ち回れるのではないか。


5月6日「解釈の実態」

 現状をどう理解して解釈するかは、人によって現状で興味を持っている方面の違いによっても、現状に対する理解から解釈の程度も内容も変わってくるかもしれないが、多くの人の間で共通の認識を得られない面があるとしても、また大体のところでは共感を得られる面もあるとしても、それはそれぞれの人が主観的に捉えるところだろうし、客観的に何がどうなっているかは、誰も正確には理解できないのかもしれず、それを解釈するにも人それぞれで立場や境遇からもたらされる一長一短があって、それに伴って現状についての認識もあまり一致しないのかもしれないが、中には単純な理解として、そこに存在する人や勢力同士の対立や敵対関係を拡大解釈して、そこから生じる争いばかりを強調するような人たちもかなりいるだろうが、世の中がそれだけから構成されているわけではないのは、誰もが実感としてわかっていることであり、実際に対立し合う人や勢力が共存しているわけだから、互いが互いを利用し合っている面もあることは確かであり、対立と争いがある一方で、協力や協調の関係もあるわけだから、そういう面ではそれなりに競争関係として安定してバランスがとれているわけだろうが、対立や争いを利用したい人や勢力は、メディアなどを通じてそれを煽り立てようとするだろうし、そういう面では人や勢力が個々の政府や企業などの集団として対立している実態を、危機感を煽りながら宣伝するのだろうが、そういう宣伝の手法に共通する傾向としては、実際は見かけとは違うことを主張したいわけで、何かそこに多くの人が気づいていないような真相や秘密があって、それに気づけば世界情勢の真実を知るに至るような幻想を抱かせようとしているのかも知れないが、たぶんそういった幻想に逆らって、ありのままの客観的な現実を知ろうとするには、たとえ自らの認識が間違っていようと誤っていようと、それを信じるのではなく、現状で知り得た限りでのその時点でのとりあえずの認識として暫定的に保持しておけばよく、それが何かの機会に間違いや誤りだとわかれば、そうなった時点でまた認識を改めればいいことだろうし、絶えず現状についての認識を更新するような態度でいればいいわけで、そうであれば自身が捉えている物事に関する解釈も、認識の更新に合わせて解釈し直せばいいわけだが、そうやってこれまでの自身の解釈にしても他人の解釈にしても、疑問を感じるようなことがあれば、その時点で新たに解釈し直せば、いったんそこで解釈しても、それをこうだと決めつける手前にとどまることができるかもしれず、また解釈すればそれで終わりではなく、絶えずその解釈の妥当性を検証し続ける態度でいることが肝要であり、それに関しては自身の都合のいいように解釈している可能性が常にあるわけだから、自分の都合がどのようなものかも把握しておいた方がいいだろうし、自分の都合に合わせて独りよがりな解釈をしても、他の人にとってはそれでは都合が悪い場合も出てくるわけだから、そういった解釈自体もとりあえずの暫定的な解釈に過ぎず、他人の解釈と合わなければ、その合わないところが、自身と他人の都合の違いとなったり、そこから生じる立場や境遇の違いとなってくるわけで、そうやって立場や境遇が違えば物事に対する解釈も違ってくることを認識しておく必要があるだろうし、そういった人の立場や境遇の違いから物事の認識や解釈の違いが生じてくることを把握しておけば、それを考慮した認識や解釈になれば、それだけ正確な物事の把握や認識や解釈になるわけで、そういうところで自分以外の人や団体による物事の把握や認識や解釈を知る必要も出てくるだろうし、そういったことを知るために、メディアを利用してそれらに関する情報を入手するわけだろうが、それがどの程度必要かとなると、その人の知り得る限りで知ることしかできないわけだから、知り得る程度も人それぞれでまちまちであることも当然だろうし、それに関しては何よりも特定の人や勢力による把握や認識や解釈を優先的に信じるようなことはやめた方がいいのかもしれず、確かに世の中には信用できる人や勢力がある一方で、信用できない人や勢力も存在するだろうが、何が信用できて何が信用できないかに関しても、自身の都合が反映している場合もあるわけで、特に自分の味方や仲間だから信用できて、敵だから信用できないという論理は間違っているだろうし、たとえ味方や仲間であろうと信用できない面はそれなりにあるだろうし、また敵だろうと信用できる面があるわけで、そういうところで敵の信用できる面も味方や仲間の信用できない面も把握しておく必要があり、そういう面を把握することによって、より現状に対する理解が深まって、そこから認識も解釈もより正確になる可能性があるわけで、そういうことを怠ると、味方や仲間への信用や信頼から生じる、敵に対する安易で否定的な決めつけによって、物事の関係を対立だけに限定するような単純化された把握に至ってしまい、そこから一面的な状況の認識や解釈が導き出されて、結果的に味方や仲間から利用されるだけの都合のいい存在となってしまうのかもしれないし、また敵からも軽くあしらわれるような雑魚や小物扱いを受けてしまうかもしれず、そんなふうにして味方からも仲間からも敵からも見下されるような安易で愚かな人たちを従えて利用することによって、そうした人たちを含んだ勢力や集団の中で主導権を握っている指導者的な人たちの権力が強まるわけで、そうなっているだけでもそれらの人たちは損な役回りとなってしまうわけだが、そういう役回りから抜け出すには、まずは敵と味方とに分かれた単純な二項対立を信じてはまずいだろうし、それらの人たちにとっての真の敵は、自分たちが付き従っている勢力や集団の中にいるわけで、結局はそれらの人たちが崇拝している指導者的な人物にいいように利用されている現実を把握し認識しなければならないだろうし、それに関してまず理解しておかなければならないことは、本当の味方や仲間であれば、上下のない対等で平等な立場であるべきだろうし、それが子分や手下のような地位に甘んじているようであれば、単に利用され搾取されているだけの従属関係であることを理解しなければならないわけで、そういうところで自らの立場や境遇を正確に捉えて、自身にとっての妥当な認識に至れば、自らを取り巻く情勢に関しても、それなりに実情に合った解釈を得られるのではないか。


5月5日「違反行為」

 何かをやる上でその場の状況に応じてできることは何でもやろうとすることが、実際に何かをやっていることに結びついているとは限らず、逆に何をやろうとしているわけでもなかったのに、自らの思い通りにはならない様々な紆余曲折を経ながら、結果的に思いもしなかったようなことをやる羽目になったりして、そこで特に自らの主体的な意志が働いているとは思えないようなことをやっていれば、やっていることにそれほどこだわらないような成り行きにもなってくるのかもしれないが、世の中で様々なことが行われている中で、何を行うかを決めてから行うようなことは、そうやって何かを行う成り行きもあることは確かだが、特に何も決めずに行われるようなこともあるだろうし、何かを行うに際して周囲の同意を必要としない成り行きがあれば、事前にやることを決めてから行うのとは違った成り行きも考えられるだろうし、そういう意味で型にはまったような成り行きにならなければ、やり方や手順などが定かでないようなことが行われる可能性があるわけで、そんなことをやっていくうちに、手探り状態で行うような成り行きになってくると、それこそが日々やっていることの大半だと言えるのかもしれず、手順もやり方も確立されていないようなことをやっているのが、人の活動の本質なのかもしれないし、確かに事前に決められた手順に則ってやるのが、社会の中での集団的な動作である面は否定できないにしても、それだけだと何の変化も起こらないわけで、世の中の情勢がそれなりに変化しているとすれば、絶えずそうした決められた動作から逸脱するようなことが行われていると考えた方が自然な感じがするし、むしろそうした決められた動作の裏をかくようなことをやって、それに成功すれば他の決められた動作に囚われた大半の人たちを出し抜けるだろうし、逆に言えば多くの人たちを決められた動作の範囲内に封じ込めておけば、そんな人たちを尻目に好き勝手なことができるような成り行きを独り占めにできるかもしれないし、そんな逆張りができる人も限られてくるのだろうが、必然的にそういう山師のような人がごくわずかしかいないから、他の大勢の人たちが決められた動作の範囲内で活動できるのだろうし、そういう面で社会の秩序を保つような法律や制度は、必ず決められた動作に従う人のためにあるわけで、そこから逸脱するような人の違反行為は取り締まりの対象となるわけだが、たぶん世の中を変化させる要因は、そういった違反行為をする少数の人たちの存在にあるのかもしれないし、しかも違反行為にそれなりの妥当性があれば、それを合法化する必要が出てくるだろうし、そういう成り行きによって法律や制度が改められるような経緯も生じてくるのかもしれないが、それを誰が決めるのかとなると、誰にも決められないようなことかもしれないし、それでも誰かが勇気を出して決めなければならないのかもしれないが、決断の機会がいつやってくるかは、その場の偶然に左右されるようなことかもしれず、そんな成り行きになった時に、ちょうど決断ができる人や勢力が存在すれば、そこで改革が行われるかもしれないが、大抵は決まりを守ろうとする抵抗勢力の方が強いだろうし、それらの勢力がそういった決まりから利益を得ていれば、なおさら決まりを変えるわけにはいかなくなるわけだが、そういった旧主派的な勢力の力が弱まる時期というのも、何かの加減で巡ってくるかもしれないし、そういった時期を捉えて改革を断行できれば、法律や制度もそれなりに改革される可能性も出てくるわけだが、中には偽りの改革というのもあるだろうし、改革に見せかけてさらなる利権の強化が行われれば、旧主派勢力がさらに強くなってくるわけだが、そういうことに関して何を基準や根拠にして改革が行われるべきかは、そこに暮らしている人の都合を考慮する方向で改革が行われるべきことは確かだとしても、それに関しては特定の支配勢力の都合が優先されるような改革であってはならないだろうし、その特定の支配勢力という表現が、多くの人にとってはわかりにくいところかもしれないが、要するに世の中で特権階級のような層が生じていれば、それが特定の支配勢力だと言えるだろうし、それに関して少数の成功者とその他大勢の一般人とにはっきりと勢力が分かれていれば、その少数の成功者が特権階級だと言えるわけだが、その一方で法律や制度は、そうした特権階級の含めて、まずはその他大勢の一般人が従うべきものとして定められるわけで、その法律や制度によって一般人が苦しめられるようなことが起こっていれば、それが改革すべきことだと誰もが気づくはずだが、実際にはそれもわかりにくいところだろうし、またそうした大勢の一般人を味方につけて世の中で成功すれば、特権階級の仲間入りができるような成り行きもあるだろうし、そういうところで大勢の一般人が特権階級の人たちに騙されたりごまかされている現状もあるのかもしれないし、しかもほとんどの人たちが現行の法律や制度によって苦しめられている感覚がなければ、それをわざわざ改革するような機運など高まらないだろうし、そういう面でも、まずは多くの人たちが日頃から特権階級ではなく自分たちのためにある公共空間を意識していないと、政治的なことに関して何かを積極的に主張して、世論や民意のような意見を集約する成り行きが生じてこないわけだが、それもメディアが行う世論調査のような内容では、現状維持のような世論誘導にしかならないだろうし、それでも現行の法律や制度の範囲内で決まりを守っている人たちが大多数を占めている現状があれば、それで何事も起こらないのかもしれないし、そういう面で下手に正義感から問題提起を行なって世論の喚起を求めるような行為は、かえってやぶ蛇にしかならないのかもしれないが、もしかしたらそういう大げさなことではなくて、いきなり世の中の決まりを変更するとかいうのとは別の方面で、もっと軽いレベルでやっていることに関して、意識した方がいいのかもしれないし、それをやっていることの自由度を高めるような方向で調整できれば、それだけ世の中が気楽に生きられるような環境となっていくのかもしれず、それが気休めの幻想にしかならないとしても、現に人々がやっていることを事前の決まりにとらわれずに柔軟に調整することが、そんなことをやっているうちに世の中の変化に結びついていく可能性があるのではないか。


5月4日「人の都合」

 人には社会の中で活動していくうちに様々な面で、その人に特有の都合が生じてくるのだろうが、その人の都合が他の人の都合とぶつかるようなら、両者ともに譲らなければ争いが起こるかもしれないが、争いを避けるためにお互いの都合を調整して折り合いがつけば、衝突は避けられるだろうし、実際に争いになることが都合が悪ければ、調整して折り合いをつけようとするわけだが、争った方が都合が良いと判断すれば争うだろうし、争うか争わないかで両者の間で判断が別れれば、普通は争いを起こそうとする方が主導権を握って優位な情勢になるのかもしれないが、それも争いを収めようとする側の方が圧倒的に力関係で勝っていれば、そうはならない場合もあるし、いずれにしろその場の情勢や双方の力関係から様々なケースが考えられるだろうが、それが人と人の争いではなく、集団同士の争いになれば、さらに様々な事情が複雑に入り組んで絡み合って、結果的におかしな具合にこじれてくれば、その先がどうなるかは誰にも予測がつかなくなる場合もありそうだが、そうは言っても争いにも程度があるだろうし、争っている程度が小競り合い程度なら、すぐに深刻な事態には至らないだろうし、また一方では交渉しながら、もう一方では争っているような状態もあるだろうし、二者で争っているわけではなく、三者以上で争っている場合には、さらに事態が複雑な様相を呈してくるだろうし、争うだけではなく、場合によっては連携や協力の関係も様々な方面で結ばれていれば、争い自体がごく一部の部分的な局面で争っているに過ぎず、それらを全体として見れば、取るに足らないような影響しか及ぼしていない場合もあり得るわけだから、その中のごく一部でしか行われていない争いを取り出してきて、それを拡大解釈して誇張や強調表現を用いながら騒ぎ立ててみても、そうした騒ぎ立て自体が実態からかけ離れている場合さえありそうで、そういう騒ぎ立て自体も、そうやって騒ぎ立てている人の都合で騒ぎ立てているわけだから、その人の都合を真に受ける必要のない立場や境遇の人なら、そんな騒ぎ立ては無視していればいいわけだが、そういう意味でどうあがいてみても、その人の都合が他人の都合と合わないと、意気投合したり共感や同調を得られるような成り行きにはならないわけだが、是が非でも自分の都合に他人を巻き込んで事を進めるには、それ相応の利益が得られるような誘惑がないと、喜んで他人の都合に巻き込まれるようなお人好しもなかなかいないかもしれないし、利益と言ってもすぐに金銭的な利益が思い浮かんでしまう人も多いだろうが、それ以外の利益と言えば、例えばその人が自由な立場や境遇でいられることが、その人にとっての利益となるかと問うなら、人それぞれで見解が分かれるところかもしれないが、自由と言っても、何が自由かで、場合によってはそんな自由は要らないと思う人も出てくるのかもしれず、それに関してお金を自由に使える立場というのが、誰もがそんな立場になりたいとは思うだろうが、それとは違って、ただ単に暇を持て余しているだけで、自由時間がいくらでもあるが、特に何をやれるわけでもなければ、退屈で死にそうになるだけだろうし、そんな自由は要らないと思われるかもしれないが、それもその人の都合でしかなく、その人の都合が良ければどんな状態や境遇だろうと、特に不満はなく、その逆に都合の悪い利益や都合の悪い自由であれば、そんなものは要らないとなるわけだろうが、なぜその人に特有の都合が生じるのかと言えば、やはりその人がそこに至るまでの成り行きがあって、そんな成り行きからその人の都合が生じてくるわけで、成り行き上必要もないのに利益がもたらされたり、自由な立場や境遇になれたとしても、それらの使い道がなければ猫に小判であり、宝の持ち腐れとなってしまうわけだろうが、だからと言ってそんなものはほしくないと言ったら嘘になるだろうし、とりあえずその人にとっては無駄な利益であり不要な自由であっても、獲得できればそれに越したことはないように思われるだろうが、獲得するにはそれなりの見返りや代償を払わなければならない場合があるだろうし、それがそこに至るまでの時間であったり、その人の健康状態であったりする場合が多いわけで、それらを獲得した時にはすでに残りの寿命が限られていることが多いわけだが、それでも大抵の人はお金や自由を獲得するために人生を棒に振ったとは思わないだろうし、そうしたものを獲得することが目的化しているなら、そんなことは思わなくても当然のことかもしれないが、そういう成り行きに囚われていること自体が、その人の都合でそうなっていることも多いのかもしれないし、またそういった都合を生じさせているのも、その人が囚われている世間的な価値観であったりもするわけで、そういうところで現状の世の中を成り立たせている条件や事情などに関して、疑問を感じさせないようにするために、世間的な価値観が構成されているのかもしれないし、そういった価値観に多くの人が囚われていることが、世間にとっても都合が良いことであり、むしろそういった価値観に疑問を抱いて、世間に逆らうような人が増えてきてしまうと、世間そのものが成り立たなくなるわけで、そうなると世間的な価値観に従っている人たちにとっても都合が悪い状況になってきてしまうから、そういうことがないように、普段から同調圧力をかけていて、何とか世間に逆らう人を少数派にとどめようとしているわけだろうが、実際に世間的な価値観に従っていても、思うように利益や自由を得られないとなると、従っていることのメリットを感じられなくなってしまうから、その辺の実情がどうであれ、世間を味方につけて世の中の主導権を握っているつもりの勢力としては、何とか幻想を抱かせながら民衆の心を世間的な価値観につなぎとめようとしているわけだろうが、それに関しては民衆の方でも価値観が壊れてしまうのが怖いから、大した利益も自由も得られずに不満を抱きながらも、現状が維持される限りで、ほどほどのところで我慢するような成り行きも生じているのではないか。


5月3日「必然性と偶然性」

 偶然に何かが起こるということは、それが起こるに際して必然的な脈絡や因果関係を感じられないから、何かが偶然に起こったように感じられるのだろうが、起こった後からそれが起こった原因や理由を突き止められれば、それが偶然に起こったことではなくなるわけだが、その原因や理由というのが信用できるかとなると、何でもかんでも必然的に起こったように見せかけたければ、無理にでも原因や理由を捏造して、屁理屈を用いてこじつけようとするのかもしれないが、そういったやり方が無理に思われれば信用しないだろうし、そういうところでどこまで物事の偶然性を認めるか否かが難しいところかもしれないが、全てを偶然の巡り合わせと述べてしまえば、それ以上は何も述べられなくなってしまうだろうし、それに関して何かもっともらしいことを述べようとすれば、それなりに信用できそうな論理や理屈に基づいた必然的な物事の脈絡や因果関係に言及せずにはいられなくなってくるわけだが、そういった論理的な説明に限界があるとすれば、やはり偶然に何かが起こったとしか言えない事態に遭遇した時かもしれないが、そういう物事の必然的な成り行きを突き崩したりはぐらかすのが偶然的で偶発的な出来事であり、それが事件と呼ばれる出来事でもあるわけで、そういう意味では何らかの脈絡と因果関係に基づいた必然的な成り行きと、それをかき乱す偶発的な事件とが組み合わさって、歴史的な経緯が生じるのだろうし、物事の全てが必然的な成り行きで推移したり、全てが偶然的な事件によって成り立つわけではなく、それらの両方が起きるから、その両者のせめぎ合いによって歴史が構成されると言えるだろうし、そういう意味では必然性と偶然性のどちらか一方だけでは歴史を物語ることができないわけだが、そういった歴史への思い入れが強すぎて物語り過ぎると、どうしても出来事が起こったことについての必然的な理由や原因や根拠の捏造へと説明が傾いてしまうわけで、そういうところで説明者と説明対象との距離感が近すぎないように気を配るべきなのだろうが、その距離感が近すぎると、語っている内容に自らの主張を強く反映させようとするわけで、そうなると説明対象への評価も、強い調子で主観的な善悪の印象を織り交ぜようとするだろうし、中には語ることの節度を破って、フィクションの中で説明対象を賞賛したり非難したりするようになってしまうわけで、そういった歴史物語が大衆に好まれるとしても、その一方でフィクションに魅力を持たせるには、そういう大衆受けするような必然的な紋切り型だけではなく、時として作者の意図や思惑を超えて作用する偶然的な出来事を、いかにしてフィクションの中に出現させるかも重要となってくるわけだろうが、それもわざとらしさやぎこちなさが目立つようだとしらけてしまうだろうし、そういうところでも説明者の語り過ぎな傾向が限界を感じさせてしまうのかもしれないが、要するに物事の必然的な傾向を突き詰めようとすれば、必然的に語りに無理が出てしまい、そこで何かをもっともらしく説明しようとする作為に関しての限界が露わとなるわけだろうが、そういう作為的なやり方に限界を感じるなら、そうした説明の中にも偶然性を導入するしかないだろうし、積極的にそれが偶然に起きたことを認めていくしかなく、実際に世の中では何かの偶然が作用して予期せぬ事件が起こるわけで、それが起こった後から、起こるに際しての必然的な原因や理由や根拠を探ろうとするだろうが、その全てを必然性だけで物語ることはできないだろうし、どう考えても任意の出来事が任意の時間と場所において必ず起こるとは限らないわけだが、それに関して見方を変えるなら、その出来事が起こるに際して、そこへ作用や影響を及ぼしてくる要因が無限にあると考えるなら、その無限の要因の全てを突き止めたり調べ尽くすことは物理的にもできないから、便宜的にその中で突き止めることができる限りでの代表的な要因で説明できるものに関しては、必然的に起こるように感じられるだろうし、また突き止めたり調べられた要因からだけでは説明できない部分があれば、そういう部分に関しては偶然的な要因とみなすしかないわけで、しかもそれが確率的に起こるようなことなら、必ず起こることに関しても、確実に起こる出来事の内容を事前に特定できるわけでもないだろうし、そうなると必然性にも不確実な要因が必ずつきまとってくるわけだろうが、そんなふうにして出来事の説明には限界があることを承知しておけば、それほど説明を信用する必要もないことに気づくだろうし、場合によってはかえって信用してしまう方が悪いことにもなってくるわけで、また説明する側にしても、あまり過度に信用を得ようとして、話のつじつまを合わそうとすることも、逆に説明のフィクション化を招いてしまうだろうし、そういう意味ではいかにももっともらしい話をでっち上げるよりは、にわかには信じられないようなことを物語る方が、かえって話に真実味が出ることもあるだろうし、実際に奇跡が起こるというのはそういうことであり、信じられないようなことが実際に起こるから、それを多くの人が信じてしまうのだろうが、その逆のいかにももっともらしいことというのは、その大半がもっともらしく感じさせようとするから、そういう作為に多くの人が騙されるわけで、もっともらしく思わせたいから、もっともらしく思われるように、話を都合良く構成しようとする意図や思惑が働いてくるということだろうし、そこに人為的な作為が関わっているわけだが、なぜそうした作為を弄するのかといえば、単純に考えるならそこから利益を得ようとするわけだろうし、功利的に利益を得るには、信じてもらえるように意図的に話の内容を調整したりでっち上げたりするわけで、そういうところが話をでっち上げる上での必然的な理由や原因となってくるのだろうが、そうであれば利益を得ようとする動機から必然的に話の捏造が生じてくることになり、そこから誰もが信じてもらえるように調整された作り話も生じてくるわけだが、その中では誰もが信じてもらえるような理由や原因も事の真相として語られるわけだが、それが作り話ではなくて実際に起こった出来事であろうと、その出来事が起こった理由や原因として、誰もが信じてもらえるような理由や原因をでっち上げようとする意図や思惑も働くわけで、そうなると実際に起こった出来事を利用して、それが起こった理由や原因としてもっともらしいことを語って、そこから利益を得ようとする思惑も生まれてくるわけだから、そんなふうにして何事にも功利的な思惑が絡んでくると、必然的にそれに関する話のでっち上げが生じてくるのかもしれない。


5月2日「門外漢の感覚」

 何か特定の狭い範囲の専門分野に関して、その筋の専門家と称する人たちが何かを述べようとする際には、それに関わることで編み出された専門用語を駆使して専門的なことを述べている間は、横から門外漢が口出しするわけにはいかなくなるだろうし、それとともにそうした狭い範囲では特定の論理や理論によって統御されているから、比較的その論理や理論に照らし合わせることで善悪や正誤などの判断や評価がはっきりして、何が良くて何が悪いかについて強い調子で主張できるわけで、そういう意味で世の中の物事に関して、はっきりした判断や評価を示すには、比較対象となる範囲を細かく区切って、そうした範囲内に収まる部門や分野ごとに、さらにその中でも特定の機能や役割ごとに判断や評価を示せば、専門外の門外漢はそういうものだと思うしかなく、特にそれが数値化されていれば、数値の大小で良いか悪いかがはっきりするだろうから、なおのこと誰もが納得するような判断や評価になるだろうし、そうやって専門外の人には文句や批判を言わせないようなやり方が、現代ではそれなりに確立されているわけだが、それとは違ってそういう狭い専門分野から離れて、範囲も分野もはっきりしない領域で、総合的に何らかの判断や評価を下すような成り行きになれば、そういう専門的なやり方では通用しなくなることは目に見えているかもしれないが、果たして現代的な脈絡から、そんなはっきりしない漠然とした判断や評価を行うような機会があるかとなると、たぶん誰もそんなことは意識していないだろうが、それでもそれと自覚することなく、誰もがそんな判断や評価に直面しているのかもしれず、しかも意識せずに毎日のようにそうした判断や評価を行なっているのかもしれないし、そうした判断や評価の傾向が、人と人との交流から生じる相互作用によって一定の傾向を示すようなら、そうした傾向が慣習や規範として社会の中で定着することになるだろうし、何か自然とそういった慣習や規範に照らし合わせて、やってもいいこととやってはいけないことが定まってきてしまうわけで、そういう慣習や規範を守っている限りで、その人が社会人として世間で通用するような成り行きになるのかもしれないが、そういう慣習や規範の中には、現状の世の中で肯定されるような資本主義的な価値観に則った動作まで含まれてくるだろうし、そういったことが社会的にもそれなりに影響してくるわけだが、そこで社会的な慣習や規範などに則った動作を行なっているのに、そんなことを行なっていることがかえって世間的な批判を招いてしまうようなら、慣習や規範にも様々な傾向があり、その様々に入り組んでいる様々な傾向のうちの特定の傾向が強く出過ぎたがために、それが世間的には癪に障るような人々の反応を引き出してしまうようなこともあるわけで、そういったことの典型例として金に物を言わせて強引なことをやり過ぎてしまう成り行きもあるのかもしれないが、そこで世間的な暗黙の了解事項としてある様々な慣習や規範のうちで、その中の一つ一つを取り出して、それぞれを単体として判断や評価するなら、それこそ特定の狭い範囲で成り立っている専門分野と同じになってしまうわけだが、それらが相互に作用し合い、複雑に絡み合って入り組んでいる状態であれば、やはりそれらのバランス重視しながら、総合的な判断や評価が求められるかもしれないのだが、現状で具体的にどんな判断や評価をしているかとなると、一概には言えないようなことになってしまうのかもしれず、その場その時でその場その時の状況に応じた判断や評価をしているわけだろうが、それが必ずしも正しかったり間違っていたりするわけでもないだろうし、その大半が正しいとも間違っているとも言えないような判断や評価となっているのかもしれないし、要するにどう判断しても評価しても、そうした判断や評価に伴って、それなりの結果もついてくるだろうが、たとえそんな判断や評価を正しいと認識しようと間違っていると認識しようと、そうなった結果として生じている現状に対処したり対応しなければならないだろうし、そうした対処や対応に応じて、またそれなりの結果が伴ってくるわけで、そうなってくると、いちいちその場その時の判断や評価を後から振り返って、それが正しかったとか間違っていたとか認識する余裕が生じないのかもしれず、ただ現状に対処したり対応するだけで精一杯な状態であれば、それが正しかろうと間違っていようと、そんなことよりはそこにもたらされている状況への対処や対応が優先されてしまうだろうし、そして結果的に何らかの成功を実感できるなら、その場その時の判断や評価が正しかったと思いたいわけだが、それとは別の判断や評価でも、それなりの結果がもたらされてしまう可能性もないわけではないとすれば、やはり判断や評価の良し悪しを気にしないでいられるだろうし、そうなってくるとその判断や評価が良かったり悪かったりするのは、その場その時の気分の問題に過ぎなくなってしまう場合もなきしもあらずかもしれないし、全ての判断や評価がそうだとは言えないにしても、その人が何らかの判断や評価を繰り返しながら、長期間にわたってまともな状態で生存し続けているなら、その時々の判断や評価はそれほど深刻な程度や状況を伴わなかった可能性もあるだろうし、それとは違って何かそれが命がけであったり、一か八かの判断を迫られていたりすれば、その人の周囲では実際に命を落としていたり、破滅しているような人も結構少なからず出ていても不思議ではない状況かもしれないのだが、周囲の人たちもその人とともに何不自由なく普通に暮らしている人が多ければ、結局そこでどのような判断や評価を行なっても構わないような状況であった可能性が高いだろうし、そうであればそれだけ安定した状況の中で、その人が周囲の人たちとともに普通に暮らしていけるような社会が成り立っているわけだろうし、そうした社会の中ではそれと自覚することなく、多くの人たちが一定の傾向の慣習や規範に従いながら暮らしている可能性も高く、そこで多くの人たちが行なっている判断や評価が、一定の傾向の範囲内でまとまっていれば、それぞれ人たちが主体的に判断や評価を行なっているつもりが、実際にはそれが世の中の慣習や規範に基づいた判断や評価になっている可能性があるわけで、そういう面では専門家だろうと素人だろうと変わらないのではないか。


5月1日「善悪の判断」

 社会の中で生じる立場として、社会を観察するだけの立場があるわけではないが、社会学者とか文化人類学者とか、あるいはジャーナリストや評論家的な分野であれば、それに近い立場があるのは、誰もが承知していることかもしれないが、そうした立場の人も社会の中で生じている何らかの出来事や現象の中で、当事者として直接関わっている面があることは確かであり、そういう面では単にそうした出来事や現象を観察しているだけではなく、それらへの参加者として観察される側になっているわけだろうし、そうなった時に観察する側もされる側も、そのどちらも観察できるような立場から見れば、両者のメンタリティが大して変わらないことに気づかされるかもしれないが、もちろん観察される当人がそれに気づくはずもなく、また観察する側にしても、観察していた時には気づいていたことが、観察される側になると気づかなくなってしまうのかもしれないし、しかもそれ以前に、当人にその自覚がないままに、観察する側の役割とされる側の役割を自分の都合に応じて使い分けていることに気づかないのかもしれないが、さらには観察する対象を自分たちの論理や理論から導き出された典型例とみなして、その体現者として特徴や特質をあげつらっていることが、そっくりそのままそれを論じている自身にも当てはまってしまうことに気づいていないのかもしれず、それは灯台下暗しのたとえに当てはまるようなことかもしれないが、そういったことから何がわかるかとなると、観察者が社会の外から観察対象者を観察しているわけではなく、観察者も観察対象者も含んだ社会の構造の中に両者ともに絡め取られていて、そうした構造が観察者と観察対象者を観察する側とされる側とに分割しているにしても、それは観察者が観察する対象を観察することによってもたらされる役割分担であって、その場では確かに観察者という立場を占めるのだが、その立場というのが観察者が思っているほど特権的な立場というわけでもなく、自分が観察する立場になれば、確かに観察される側よりは有利な立場を占めているように思われるかもしれないが、両者ともに同じ社会の中に存在しているわけだから、自らが観察すると同時に観察される側になっていることにも気づくべきだろうし、もちろんほとんどの人がそんなことはわかっているはずだが、わかっているのと気づくのとは違うのかもしれず、わかっていても気づかないことというのがあるだろうし、実際にそこで何に気づかないのかといえば、観察者も観察対象者も容易に入れ替え可能な社会構造になっていることであり、どちらがどちらでもあっても構わないような成り行きの中で、観察者は自らが優位な立場だと勘違いしながら、観察対象者の特徴や特性をあれこれと述べてしまうだろうが、そうした言述には自らの特徴や特性も含まれていることには無頓着であり、しかもそうした言述に観察対象者に対する否定的な評価が含まれてくると、それがそっくりそのまま観察者にも当てはまることだとは夢にも思わないだろうし、実際にそういう面を突かれてブーメランだ何だのと、他の人たちから指摘されれば、真っ向からそれを否定するだろうし、何かそういう面で自分が善で批判対象が悪という決めつけが幅を利かせていて、そこを強調してしまうところが他の浅はかな人たちと共通したありふれた評価をもたらしてしまうわけだろうが、たぶんそうした評価を抜きにして言述を構成するのが困難を極めるから、安易な良し悪しや善悪の評価に行き着いてしまうわけだろうが、果たして良し悪しや善悪の評価なしに何を述べられるかとなると、必然的にそうなってしまう面をどう捉えるか、という課題が浮かび上がってくるわけだが、他人のことを良し悪しや善悪でしか評価できないことが、観察者としての特徴や特性として示されるべきかもしれず、そういう特徴や特性を持った観察者を観察することから何が言えるかとなると、そういうことを述べる上での判断基準や評価基準についての傾向と、その観察者の言述的な習性との間に、興味深い論理的な結びつきがあるのかもしれず、それがその人のよく使う文型的な表現が、良し悪しや善悪などの二極的な対立概念を用いた言い回しになりがちで、その間の中庸や中間的な概念をうまく表現できないような言述の特徴があって、それに伴って世の中の出来事や現象などを説明する際には、何かというとすぐに二項対立的な物事の見方や考え方に進んで、その対立するどちらが良くてどちらが悪いとしか言えないような成り行きになってしまい、そうした善悪の両極端に行く手前の説明が省略されてしまうような言述の構造になっているのではないか。そしてそこで見落とされている点としては、もしかしたらその人によって良く言われる人物と悪く言われる人物とが、その場の条件や事情が異なれば、取り換え可能かもしれないということであり、しかもその取り換え可能という点では、そういったことを述べている観察者と述べている対象の観察対象者も、取り換え可能かもしれないということであり、さらに言えば、必ずしもそれはそれらの人たちのせいでそうなっているわけではなく、たまたま何かの偶然が作用してそうなっているかもしれないということであり、その偶然の作用が、その時の条件や事情が違っていれば、全く別の作用を及ぼしていた可能性さえあり、そうなると良し悪しや善悪の評価も正反対となっていた可能性もあるだろうし、観察者と観察対象者もあべこべになっていた可能性さえあるのではないか。そういう面まで考慮するなら、良し悪しや善悪の判断や評価は、その場その時の条件や事情から決まるような相対的なものだろうし、どちらの立場の人物も実際に存在しているわけだから、それらの人物の全てが一方的に良い評価となることも、一方的に悪い評価となることもなく、それも社会的な役割分担として、良い評価の人物と悪い評価の人物が適当な比率で分かれるような状況となるかもしれないし、現状で両方の立場の人物が共存している実態があるわけだから、実際の情勢というのは、良い評価を受ける人と悪い評価を受ける人とがある一定の割合で共存していないと、現状そのものが成り立たない情勢となるだろうし、もちろんそうした評価を下す人にとっては良い評価を下す人が増えてほしいとは思うだろうが、それはその人の立場から言えることであり、その一方でその人が悪い評価を下す人に関して良い評価を下す人も世の中にはいるだろうし、悪い評価を下す人の支持者たちは、それとは真逆の評価を下しているはずであり、そういう人たちがいるからこそ、それらの人たちもある一定の割合で存在しているわけだ。


4月30日「天皇制の限界」

 物事を合理的に理解できるかとなると、例えば不合理な面や非合理な面を探し出して、そういう面を取り除けば合理的な理解につながるかというと、実際にそういうやり方ができるかとなると、にわかにはそういうことができる具体的な事例を思いつけないが、そもそも合理的とはどういうことかとなると、何が合理的であるかに関して納得できないと、合理的だとは思われないわけで、それが単に道理や論理に適っていると判断しても、その道理や論理に納得できなければ、やはりそれが合理的だとは思われないだろうし、そういう意味で何が合理的なのかについて、納得できる道理や論理があれば、そうした道理や論理に基づいた理解が、合理的な理解となるのかもしれないが、そこでもそうした理解に当てはまる事例を思いつけるかとなると、やはりにわかには思いつけないのかもしれないが、そうでなく、何か中途半端に合理的な理解について幻想を抱いてみても、それが正しいと考えてしまうと、その理解の水準によっては、大して合理的でもないようなことを合理的だと思っているだけで、実際にもっと精緻な合理性と比較すれば、粗雑でいい加減な理解を合理的だと思い込んでいるに過ぎない場合もありそうだが、もしかしたらいかに物事を合理的に理解できるかが、あまり意識せずに理解しようとしていることなのかもしれず、しかも世の中の風潮や傾向などが、物事の合理的な理解を妨げている面にも気づいていて、それに関してはわかっているのに、心情としては合理的な理解に逆らって、不合理であったり非合理であるような理解を尊重している面があり、そうした理解を尊重している時には、都合良く合理的に理解しようとする意識を抑え込んでいて、またそうした面があるにも関わらず、合理的に理解した方が都合が良さそうに思われるところでは、何食わぬ顔して合理的な理解が全てであるかのような態度になるわけで、世の中の多くの場面でそういうところがあるから、物事の合理的な理解だけでは通用しない面があると言えるのかもしれず、果たしてそういう面を今後修正していったり、是正していくことが可能なのかといえば、合理的な理解というのにも程度の差があって、それを極限にまで突き詰められるかとなると、そんなことは無理だろうし、バランスとして合理的に考えなければならない面がある一方で、慣習や歴史的な経緯などが関わってくる面では、ある程度は不合理や非合理な面があることを認めていかないと、世の中のありのままの現状を肯定できなくなってしまうだろうし、肯定できないからこそ、合理的でない面を批判して、現状を合理的な状態へと近づけようとするのかもしれないが、その一方で批判するところでは合理性を追求しておいて、自己正当化の面では不合理で非合理なことをやっている自らを認めてほしいようなご都合主義も、それと自覚することなく平然と両立させようとするわけだから、そういう態度自体が不合理で非合理な傾向があるのかもしれないが、なぜそうなってしまうのかといえば、その人の合理性の追求の程度が、不徹底にならざるを得ない事情が生じているからだろうし、要するに都合が許すところでは、その都合が許す範囲内で合理性を突き詰められるわけだろうが、そうしたことをやっていくうちに、都合が許さなくなるわけで、なぜ都合が許さなくなるのかといえば、その人がそこに存在する経緯や、今までにやってきた活動の実態が、不合理で非合理な面とともに成り立っているわけで、そういう面を認めないと、その人の存在も活動も成り立たないような現実があるのかもしれず、そうなるとその人の存在や活動に関しては、いかに不合理で非合理な面を認められるかが、その人自身を社会的な存在として認める上で重要となってくるのかもしれないし、そうした面が顕著に表れているのが、現代の日本で言えば、天皇という存在だろうし、そうした不合理で非合理な面への言及を、主要メディアをはじめとして多くの人たちが意図的に避けることによって、天皇という存在が成り立っているわけだろうし、それは他の国の王制などにも言えることかもしれないし、それに関して厳密に言うなら、さらに合理性を突き詰める方向で考えるなら、例えばアメリカの大統領制でさえも、不合理で非合理な面があるだろうし、実際に王のいない共和主義的な制度でさえも、それなりに不合理で非合理な面があるわけだから、そういうことは程度の問題であり、現状で成り立っている制度には大なり小なり合理化が不徹底な面があるわけだが、果たしてそこからどれほど合理性を突き詰められるかとなると、現状の制度が安定して機能している限りで、特にさらなる合理的な制度にする機運など高まらないだろうし、実際にも不合理で非合理な面がないと、息苦しい社会になってしまうだろうし、そういう意味では、世の中にはある程度の無駄や無意味な面やいい加減で雑な余地がないと、そこからの修正や改善を目指すこともできないだろうし、実際に現状に対する批判が成り立っているのも、そういうところがあるからだろうし、そういう余地がなくなってしまえば、批判しようがなくなってしまうわけだろうが、その批判が目指すのが合理性の追求となると、いったいどこまで合理性を追求すればいいかをめぐって、ほどほどのところで妥協点を見出すのが困難となってしまうわけだが、実際に妥協が成り立っているから日本では天皇制が存続しているわけだろうし、それに関しては、こんな不合理で非合理な制度はやめてしまえ、とは言わせないようなバイアスが働いているわけだろうが、それが悪いことだとは思えないような空気や雰囲気を世間的に保つことの是非も、改めて問題視したがらないような歴史的な経緯や脈絡が生じているわけだろうし、現実にもそうした情勢の良し悪しを判断するような状況にはなっていないわけだから、それに関しては合理性を追求する批判勢力においても、天皇制の是非よりも、それを支える政府や政権に対して、天皇制よりも切実な別の理由から批判しているわけで、また世界的な傾向としても、政治的な実権を失った王制の類いは存続される傾向にあるわけだから、今すぐにそれを問題視するようなことにはならないわけだ。


4月29日「思考力」

 現実の世界で何が起こっていようと、それを意識が感じ取れなければ、その起こっている出来事を知り得ないのだが、自らの行動範囲から外れたところで起こっていることを知るには、それに関する情報を受け取らないと知ることができないだろうし、普通はメディアから情報を入手することによって、直接には知り得ないことを知るに至るわけだが、それ以外に知る方法がないかとなると、他人から教えてもらうしかないだろうし、そういった伝聞が信用のおける情報か否かは、その内容はもちろんのこと、教えてもらう他人が信用のおける人物か否かによっても、そうしたことの信憑性に影響が出てくるのかもしれないが、それはメディアにも言えることだろうし、メディアが伝える出来事にどれほどの信憑性があるかは、複数のメディアが同じ出来事について伝えていれば、そうした出来事が実際に起こっていると信じても構わないだろうが、問題は出来事についての見解や解釈や評価などが信用できるかとなると、メディアを信頼するなら信用するだろうし、疑念を抱けば信用しないだろうし、そういうところはケースバイケースとなるのかもしれないが、別にそれで構わないわけで、信用したりしなかったりしているうちに、自分で考える癖がつけばいいのかもしれないし、なぜそういうところで考える必要があるかといえば、その必要を感じなければあまり深くは考えないのかもしれないし、それで構わないとなると、構わなければそれだけのことでしかないわけだが、それを考えることに関してあまりもっともらしい理由にとらわれない方がいいのかもしれず、また考えるにあたってはあまり功利性や効率性などを考慮する必要もないだろうし、場合によっては無駄で無意味に思われるようなことを考えてもいいだろうし、たぶんその必要がないのに考えてしまうぐらいで構わないのかもしれず、それに関する疑念や疑問というのは自然に湧き上がってくるようなものであり、そういう意味では一種の勘が働くような感じなのかもしれず、そこで考えられる人が多いほど、世間的な時流やら風潮やらに流されてしまう人が少なくなってくるのかもしれないし、またそれに関してはそういった時流や風潮を味方につけて、物事を強引に推し進めようとする人や勢力の思い通りにさせないためには、やはり多くの人がそこで立ち止まって、そういうやり方が妥当か否かを考えてみることが重要であり、実際に考えてみて、その妥当性に疑問を感じたら、そうした行為には反対するだろうし、そういう意味でそれについて考えることが、世の中の軽薄で安易な流行現象に対する免疫力をつけることにもつながるのかもしれないが、そうした軽薄で安易な流行現象を利用して利益を得ようとする人や勢力にとっては、逆に多くの人に考えてもらっては困るわけで、そういった人たちは功利的にも戦略的にも、自分たちに利益をもたらすような流行現象を恣意的に作り出そうとして、そのために盛んにメディア上で煽動や宣伝を行うことになるわけだろうが、そういった行為の良し悪しも、何でもかんでも否定して悪いと決めつける必要もないだろうし、自分なりに考えて事の善悪を判断したらいいのかもしれないし、そこでもその人の思考力や判断力が試されているわけだが、試されているといっても、誰が試しているとも言えない状況もあるのかもしれず、そこでその人が感じ取っている状況や成り行きには、その人に特有の事情が絡んでいて、下手をすると他人にとってはどうでもいいようなことにこだわっていたりして、その人のこだわりに基づいた判断というのが、他の人たちには受け入れられないような判断なら、他の人たちからは相手にされずに放っておかれるだけかもしれないし、それがその人にとっては好都合なのか、あるいは最悪の事態なのかは、その人の立場や境遇によっても変わってくるのかもしれないが、その人にとってもそんなことはどちらでもよければ、判断自体が何でもないようなことになってしまうのかもしれないし、その人のこだわりがその程度で済んでしまうようなら、その人の存在自体も社会の中ではどうでもいいような人畜無害なレベルなのかもしれないが、そういう意味で現代的な状況の中では、人の存在も、その人の思想や信条などにしても、たとえその人が、その人に特有の思想や信条に基づいた身勝手なこだわりから、他の人たちや社会全体に多大な迷惑をかけるようなことを起こしたとしても、それによってメディア上で非難や糾弾を浴びるにしても、またそのことが災いして罪に問われて刑務所に囚われたり、死刑判決を受けて処刑されたとしても、それとその他大勢に含まれるような人畜無害なレベルで活動している人と比べても、それほど変わらないような存在でしかなく、立場や境遇に大した違いはないのかもしれないし、また貧富の格差や社会的な地位や身分などの差についても、そのことによって人としての違いが生じるかとなると、それも大衆レベルではありふれた紋切り型的なキャラクター分けが施される程度に収まってしまうようなことでしかなく、そこからその人に特有のこだわりが生じてくるとしても、他の人にとっては相変わらず何でもないことでしかなく、何かそれについてメディア上で、さも他と比べて違いがあるかのように大げさに取り上げられるにしても、それも話題作りの一環でそんな加工が施されるに過ぎず、逆にそこに決定的な違いがあるかのように装うこと自体が、ありふれたやり方に過ぎないのかもしれず、結局はそれも情報として言葉や音声や画像や映像によって装飾が施されるわけで、それによる誇張や強調などの表現が人々の関心を惹くのだろうが、それも宣伝や煽動の一環でそういうことが行われるわけで、そういった情報による装飾を取り去った後には何も残らないわけでもないだろうが、たぶんそこには社会的な役割分担があって、その分担された役割に応じて振る舞っていれば自然に感じられるような存在のあり方が設定されていて、そういった社会的に認められるような人のあり方が疑問に思われるとすれば、やはりそこで何かしら考えているからそんな疑問が生じてくるのだろうし、そこに考えさせるような成り行きが生じているとすれば、そういった役割分担や存在設定に関して、信じられない面があるということだろうし、それを全面的には信用できないからこそ、それに関して疑念や疑問を抱きながら考えることになるのではないか。


4月28日「活動の感触」

 たぶんただ何となく生きているだけでは、そこから明確な目的が生じることもないだろうが、何かをやる理由というのが、どういった経緯から生じてくるかとなると、それは人によっても状況によっても千差万別としか言えないのかもしれないが、また人によっても状況によっても、何かをやる目的や理由の程度も、些細などうでもいいようなものから、何か重大で深刻に感じられるようなものまで千差万別になるだろうが、そこで何を優先させるかも、その場の状況によって異なるだろうし、そういうことを考えていくと、そこに何らかの基準や条件を設けないと、ただ漠然としてしまってとりとめのないこととなってしまうだろうが、人の活動の根拠というのは、それがあまり信用できないような目的や理由であれば、特にそういったことから活動を正当化するような成り行きにはならないのかもしれないが、別に取り立てて正当化するようなことはやっていなければそれで構わないのだろうし、ただはっきりした目的も理由もなく、そこで生じている成り行きに従って何かをやっているだけなら、改めて目的や理由を意識するようなこともないだろうし、そうであるならやっていることの意味や意義を考えてみるまでもないことであり、受動的に行き当たりばったりでやっていることにしかならないのかもしれないが、それで済まないようなことになってくると、俄然その気になって深刻ぶってしまうわけだろうが、実際に他の人や団体などを巻き込んで行うようなことになってくると、それなりに責任も生じてくるように思われてきて、それに応じて事を大げさに考えるようにもなってくるのだろうが、そこに関係してくる人や団体が多いほど、そういう傾向が強まるだろうし、それだけ大掛かりな活動になるのかもしれないが、それでもやっていること自体が、特に意義があったり価値が高いこととは限らないわけで、それもそこに関わっている人や団体の立場や役割にもよるのかもしれないし、それに関して例えば大規模な活動の中枢で中心的な立場や役割を担っている人と、末端で単純作業のようなことをやっている人とでは、客観的に見ればやっていることの重要度にも雲泥の差があるだろうし、関わり方の程度にも極端な開きがあるわけだろうが、やっている当人にしてみれば、別に末端で単純作業をやっていようと、賃金が安かろうと、仕事だからやっていることに関しては納得するしかないだろうし、納得しなければ辞めるなり何なりすればいいことでしかないのかもしれないが、辞められない事情があれば、それに関していくら不満を言ってみても、どうにもならない面があるだろうし、実際に不満が我慢できる程度であれば我慢してしまうわけで、またそこで我慢したままになってしまうと、そういうレベルで安定するわけだろうが、そういうレベルで安定して作業が成り立つなら、それに越したことはないわけで、そういう環境でも我慢しながら作業をやってくれる人材が確保される限りで、そういった作業が継続的に行われることにもなるわけだが、そこで自分のやっていることを特に肯定したり正当化するような意識が薄ければ、それなりに生活が成り立っている限りで、辞めるほどの不満や文句にはならないのかもしれず、もちろん不満たらたら文句たらたら言いながら作業を行うような成り行きになるにしても、そういうレベルで安定していれば、それで済んでしまうようなことになってしまうだろうし、そうでなくても大なり小なり世の中の大抵の仕事にはそういう面がつきものだろうし、これといってやっていることの意義や意味を見出せないようなことも、結構普通に行われているわけで、そういうことに関して不満や文句を言ってみてもきりがないことは確かだとしても、不満や文句を言っているだけで済むならそれに越したことはなく、それ以上に何かが改善されたり更新されたりするわけでもないだろうし、そういう作業に支えられながら、何らかの大規模な事業が進められることが多いのかもしれないが、そういうことを無理に肯定したり正当化する必要はないのかもしれず、世の中には特に意義や意味を喧伝できないような行為があって、また何かをやる目的や理由というのも、はっきりしている面と特にはっきりさせない方が無難な面とが、表裏一体となっているような行為もあるだろうし、そのことの良し悪しもわざと曖昧なままにしておいた方が、そういった行為をやる上では都合が良かったりするわけだが、そこに多くの人や団体が絡んでくると、それぞれの思惑に濃淡が出てくるだろうし、その中には強い目的意識とともに仕事に臨むような成り行きを伴った人や団体がいる一方で、中には単なる下請けでやっつけ仕事を任されているに過ぎない人や団体もいるのかもしれないし、そうした人や団体などの犠牲の上に、世間で脚光を浴びるようなことをやれる人や団体も出てくるわけだから、まさにそれはピンからキリまであるといえば、そういうことでしかないのかもしれないが、別に陽の当たらないところで何かやっている人や団体が、特に犠牲になっている自覚も意識もないのかもしれず、またそういうところでもやっていることの意義や意味を強調したり肯定するような成り行きにならなければ、やはりそういうレベルで状況が安定してしまうだろうし、実際にそういうところではほとんどの人が考える手間をかけるようなことは行わないわけだろうが、改めて考えてみるまでもなく、やっていることに意義や意味があったり、はっきりとした目的や理由があって、それへの世間の関心が高まれば、そのことの良し悪しをメディア上でも云々できるわけだろうが、逆にそうでなければ言及するような対象とはなりづらいだろうし、ほとんど誰からも無視されるようなことを行なっている人や団体からすれば、特にやっていることを宣伝する必要さえ生じないだろうし、そんなことをやっている自分たちを正当化する必要すら感じないのかもしれないが、それでもそれに関して他人に向かって自己主張するようなこだわりとは異質の感触を、やっていることから得ている可能性もあるだろうし、世の中にはそういう感触に支えられながら継続されるような活動もあるのかもしれない。


4月27日「守る対象」

 一般的には人が社会によって守られている面があるにしても、社会から必要とされない人は守ってもらえないのかもしれず、もちろん社会が人を守っているというよりは、公的には政府によって国民が守られていることになっているはずだが、政府に逆らう人まで守るかとなると、逆らい方によっては、守るどころか罰せられたり攻撃されてしまう可能性まであるのかもしれず、そういうことまで考慮するなら、守る必要のある人が政府によって守られていたり、また他の人や団体によって守られていたりもするのだろうが、なぜ守る必要があるのかといえば、守る対象と守られる対象とが何らかの関係があるから、その関係上守る必要が出てくるわけだろうが、普通は関係のない人までは守らないのかもしれないが、人を守るということが、すでに守る対象と守られる対象との間で関係が生じていることになるわけだから、その人を守ろうとする時点で関係が生じていることになるだろうし、そういう意味で関係というのは、当人のあずかり知らないところで一方的に結ばれてしまう場合もあるわけだ。もちろん関係といっても様々な程度や次元で様々な関係があるだろうし、守る関係があれば攻める関係というのもあるだろうし、中には守りも攻めもしない無関係という関係もあるのかもしれないが、人が誰を守ろうとしても、守ることで見返りを求めたり期待する場合もある一方で、何の見返りも求めない一方的な関係というのもあるだろうし、その人が何の面識もない人と関係しているつもりでいれば、それは勝手な思い込みの中での関係でしかなく、そんな関係はその対象となっている人には気づきようがないわけだが、それがストーカーのような人だと、実際には攻撃の対象となっているのに、当人は守っているつもりでいたりして、そうなると愛憎半ばする関係と言えるわけだろうが、公的な制度や法律の面では、政府などの統治機構が統治の対象となっている民衆を守る義務が生じているとしても、実際には統治機構が民衆を苦しめているとしたら、守ることと攻めることが同時に行われている可能性があるだろうし、それが管理という手法なのかもしれず、管理に関して例えば、民衆を守るには民衆の自由を奪わなければならないとしたら、自由に振る舞おうとする人を押さえ込むようなことが行われるだろうし、そうやって自由な動作を封じられた人にとっては攻撃されたことになるわけで、そういう意味で管理という手法には、守ることと攻めることが一体となった両義的な面があるのだろうが、そういう面で自由ということに関しては、行動の自由とともに思想信条の自由が憲法で保障されているはずだが、管理という面からすれば、国民の命と財産を守るという安全上の観点から、危険思想を広めるような行為は取り締まらなければならないということになってくると、それに関して例えば、真っ先に取り締まりの対象となる危険思想が、共産主義思想ということになれば、共産主義思想を広めている政党やその運動員が攻撃の対象となるだろうし、そんなふうにして思想信条の自由を脅かすような管理が行われる可能性があるわけだろうが、そんな単純に事態が進行するとは思えないにしても、イメージとして政治宣伝の内容の中で、それらの政治勢力に関して民衆の意識に否定的なイメージを植え付けることに成功すれば、何かの時に強引なことを行う上で、民衆の抵抗感が少なくて済むような効果が期待できるのかもしれず、そういう意味では言論や思想信条の自由を逆用して、邪魔な存在や責任転嫁の対象になりやすい人や勢力に対して、否定的なイメージをすり込むようなことが戦略的に行われるだろうし、実際にそういった政治宣伝を真に受けるような愚かで浅はかな人も大勢いるのかもしれず、またそういう政治宣伝を行なっている人や勢力に限って、国民を守るという大義名分を掲げるわけで、そして何から国民を守るのかとなると、それが攻撃の対象として否定的なイメージを覆いかぶせる人や団体から国民を守ると主張するわけだが、実際に否定的なイメージを植え付けようとする人や団体が国民を攻撃しているかとなると、それに関してはまず国民を守ると称する人や団体が、否定的なイメージを植え付けようとする人や団体を政治宣伝の中で攻撃しているわけで、またそうした攻撃によって何か成果が上がっているとすれば、政治宣伝が功を奏して、そうした政治宣伝を行なっている団体の勢力が拡大していることになるのだろうが、果たしてそれが国民を守ることとどう結びつくのかとなると、少なくとも直接は結びつかないだろうし、またそれは行政的な民衆の管理とも直接は無関係かもしれないし、それよりは単に政治団体の勢力の拡大のために政治宣伝が行われている状況があるわけだろうが、そこで考えなければならないことは、何かを守ると称してその守る対象を直接守っているわけでもない主張内容を信用できるかということであり、ではそういうイメージとしての守るというフィクションではなく、何かを直接守るとはどういうことかとなると、例えば警備会社とセキュリティー契約を結んで、月々の料金を払って犯罪などから身や財産を守ってもらうとか、また保険会社と保険契約を結んで、何か事故や病気や災害に巻き込まれた時に、金銭的な面で守ってもらうとか、また行政などの面でも、警察や消防や救急搬送などの面で守ってもらったり、健康保険や雇用保険や年金などの面で暮らしを守ってもらうとか、それ以外でもまずは自分で自分の身を守るし、家族や友人を守ることもあるだろうし、仕事上でも同僚や部下や上司を守ることもあるだろうし、逆にそういった人たちから守られることもあるだろうし、さらには会社や学校などの団体がその人を守ってくれたり、その人が所属している団体を守るために尽力したりすることもあるわけで、そういう世の中の様々な面で守ったり守られたりする関係の中で、その上さらに何らかの政治勢力を支援すれば、その政治勢力がその人を全力で守ってくれるかとなると、まずは政治宣伝の中で否定的なイメージを植え付けようとする対象を攻撃しているわけだから、少なくともそういう面では守ることよりも攻撃することを優先しているわけで、そういった対象を攻撃することが国民を守ることにつながるかといえば、それが政治宣伝でしかなければ、まだそれはフィクションの段階だと言えるのではないか。


4月26日「同意と了解」

 世の中で多くの人によって守られている決まり事があるとすると、それを決めるにあたって、過去に何らかの話し合いが行われた可能性があり、そうした物事を決める時に、他の人たちから了解を取り付けた可能性もあるだろうし、そうであれば人と人とがコミュニケーションを図って、物事を決めるような成り行きがあったことを示しているのかもしれないが、そうした決まり事がそれなりに長い期間にわたって、世の中で守られている実態があれば、それが守られている間は少なくとも、そういう決まり事を守ることに関して多くの人が同意していることも意味するだろうし、それがそれなりに妥当な決まり事であることが、それに対する人々の反応や態度によって明らかとなるわけだろうが、そうした決まり事があること自体が時が経つにつれて忘れ去られてしまったり、また誰も決まり事を守らなくなってしまえば、もはやその決まり事が社会の中では有効に機能していないことを示しているだろうし、決まり事としての役目を終えていることも意味しているわけだろうが、中には政府などの統治機関が権力を行使して決まり事を守らせようとすることもあるだろうし、その決まり事が公的な法律として定められていて、何らかの制度として運用されていれば、それを強制的に守らせようとする成り行きも生じるだろうし、それを守らずに破ると罰せられる可能性も出てくるわけだが、そういった法律や制度が、もはや世の中の現状に合わなくなっていると感じられたら、法律を改正したり、制度を改めるような機運も高まるだろうし、そうなれば議会などで法律や制度などの改正や改革に関する議論が行われて、実際に変えられることもあるのだろうが、それも人と人とがコミュニケーションを図って、関係する人たちの同意を取り付けるような行為になるわけで、そういった面では社会の中で確かにコミュニケーション的な行為によって物事が決められる成り行きがあるわけだが、それも個々の事例によって、それを決めるにあたって様々な固有の紆余曲折があったり、歴史的な経緯も絡んでくる場合もあるのかもしれないが、すでにそれ以前にも様々な決まり事が存在していて、それらも作用や影響を及ぼしてくるだろうし、そうした過去の決まり事に作用や影響を受けた人たちが話し合って、新たに何らかの決まり事を決めるわけだから、それもそこでの事情や経緯や背景に含まれていて、要するにまっさらな精神状態で何の前提や条件もなしに、人と人とがコミュニケーションを図れるわけではなく、そこに至る過程で様々な思惑や偶然の作用も絡んでくるわけだろうが、どのような経緯であっても結果的に同意や了解を取り付けられたら、そこで何らかの決まり事が成立するわけだが、中には関係する全員の同意や了解を取り付けられなくても、多数決で物事を決めてしまう場合もあるだろうし、そうなると必ずしも全員一致というわけにはいかないわけだが、さらに同意や了解を取り付けるにしても、納得しないまでも何らかの弱みを握られて、渋々の同意や了解もあるだろうし、そういうところで取引の材料があれこれと出てくるわけだろうし、同意や了解と引き換えにして、何らかの見返りが要求される場合もあるだろうし、そういうことまで絡んでくると、その場で決められたことが必ずしも妥当な内容とは言い難いような結果までもたらされてしまい、それが後の時代に禍根として残ったりするわけだが、そういう意味では何らかの時期に何らかのタイミングで何らかの決まり事が成立するにしても、そうした決まり事へのたゆまぬ検証作業も不可欠になってくるだろうし、いったんそこで何かが決められたからには、それを未来永劫守るようなことは、かえって妥当性を欠いていると言えるのかもしれず、世の中の状況や情勢の変化に応じて、柔軟に内容の変更や修正を施していくのが妥当なやり方に思われるわけだが、それも変更や修正を施す上で妥当な理由や根拠がないと、改悪になりかねないだろうし、そういう面でも機会を捉えて、関係者や関係団体などの間で話し合いが行われるべきだろうが、それが内容のない形式的な形作りの話し合いになってしまえば、話し合ったという既成事実を積み重ねながら、ごり押し的にその場の主導権を握っている側が強引に話を進めていって、都合のいいことを決めてしまう場合もあるわけだから、そういう場合はコミュニケーションを圧殺するためのディスコミュニケーションを戦術的に駆使して、話し合いの席では何を言ってもわざと話が噛み合わないような態度に出て、話し合いにさせないような対応となってしまうだろうし、そこでは平等な立場で話し合って物事を決めるような成り行きになってはまずいような事情が生じているわけで、実際にそう言った事情が生じてしまうところが、人と人とがコミュニケーションを図ることの困難さを痛感させられるわけだろうが、そうならないためにはどうしたらいいかとなると、公的な場ではそうなってしまうような事情を抱えた人や勢力を、民衆が支持しないことが望まれるわけだが、そういうところでは現実に人々の支持を得て主導権を握った人や団体が、自分たちの有利な立場や状況を利用して、そういうことをやってしまいがちになるわけで、しかもそこでそういうことをやるために行使する権力というのが、民衆の支持を背景として生じてくる現実があるわけで、そういうことは平等なコミュニケーションを阻害する要素でしかないわけだが、それとは裏腹に、公的な場での平等なコミュニケーションを図るために作った制度からそうした事態が生じてくるわけだから、そこでコミュニケーションに加わる民衆の代表者に良心や良識を期待するしかないとしても、そうした期待がいつも裏切られてきた歴史的な経緯もあるだろうし、たぶんそれは制度的な欠陥というよりは、制度的な宿命と言った方が妥当かもしれないが、制度というのは常に良い面ばかりとは限らず、必ず弊害や悪い面も含まれているから、そこでそうした制度を運営する側にも利用する側にも、そういった制度の否定的な面への対応が求められているのかもしれないが、対応することができないと、必ず制度的な弊害に民衆の側が悩まされることになるわけだ。


4月25日「媒介物」

 貨幣の価値は幻想に過ぎないわけではないが、その価値が実質を伴っているかというと、商品と貨幣との交換が成り立つ限りで、何かしらその商品に価値があるとするなら、価値のある商品と貨幣を交換できれば、貨幣にも当然のことながら価値があることになるわけだろうし、実際に商品と貨幣を交換した時に、その価値を実感できるかも知れないが、もちろんそんな実感などする以前に、意識はただ商品と交換できることを当たり前のように思っているし、さらにそれが当たり前だと思う以前に、すでに自然な動作として、ほしい商品と貨幣とを交換しているわけで、しかもそれは交換しているというよりは、表現としては買ったり売ったりしているわけで、それを交換とは意識していないだろうし、そんなことでさえも改めて思うまでもなく、そういった途中の経過や過程が織り込み済みになっているから、貨幣に価値があるとかないとかを問う必然性さえ感じないわけだが、商品を買う立場からすれば、貨幣をできるだけ多く所有していれば、ほしい商品をいくらでも買えるように思えるだろうし、また実際には商品といっても、物以外にも情報やサービスもあるから、物質的な物を買う以外でも、お金を払って形のないサービスをしてもらうような実態もあるわけで、それを商品だとも意識しない場合さえあるだろうし、そういう意味でお金を払って何かをやってもらうことが、賃金労働だと思うわけだが、そうなるとそこで売買という認識さえも省かれてしまい、そんなふうにしてそこに貨幣と商品との交換が介在していることを意識させない制度が、世の中に浸透していると言えるのかもしれないが、それによってどんな効果がもたらされているかとなると、貨幣を介在させることによって世の中の全ての行為が行われているわけではないが、少なくとも価値のある行為には貨幣が介在していると思われるだろうし、そういう意味で物事の価値の源泉が貨幣にあるかのように思われてくるわけで、果たして本当にそうかというと、改めてそんなことを考える機会があるわけでもないし、ただ漠然とそれに近いような感覚になっているだけでしかないのかもしれないが、それに関しては、物事に価値があるとかないとか考える機会もあまりないのかもしれないし、ただ単に貨幣を介して何かが行われていて、それだけではないにしても、実際に貨幣を払ったり受け取ったりすることを通して人の活動が行われているわけで、そういう活動に依存しながら生活が成り立っている人が、世の中のほとんど全てを占めている現状では、それ以外の状況などあり得ないわけで、そのことの是非などを問うこと自体がおかしいだろうし、それを認めることが大前提となっている世の中で、そのことの是非を問う余地などありはせず、そういう面ではどうしようもないわけだが、それでも原則論としては、商品と貨幣の交換が成り立つことと、貨幣と商品の交換が成り立つことを、一連の動作と捉えれば、貨幣という媒介物を通して、商品と商品との交換が成り立っていることになるわけで、それを詳しく説明すると、商品を売る側が商品を買う側との間で売買交渉が成立すれば、商品を売る側の商品と商品を買う側との貨幣が交換されて、商品を買った側が商品を手にすることになり、商品を売った側が貨幣を手にすることになるわけで、また商品を買った側が商品を買うためには、貨幣が必要になるから、どうやって貨幣を手に入れるかとなると、商品を売って貨幣と交換しなければならないわけで、その際には同じ商品を売ったり買ったりする必要はなく、買った商品とは別の商品を売ればいいわけで、結果的にはそうやって貨幣を介在させながら、世の中で商品と商品が別々の人たちの間で交換されていることになるわけだろうが、貨幣がただの媒介物でしかなければ、ただ単に商品の売買に必要なだけの量の貨幣があれば間に合ってしまうわけだが、その際に問題なのが、貨幣そのものも商品となる場合があって、さらには貨幣を貸し借りする際に利息を取ろうとするから、そういうところでおかしな幻想が生まれるわけで、もちろんそれを誰もおかしいとは思わないだろうし、それ自体が当然のことと認識されているわけだろうが、確かに貨幣を持っているだけで利子がつけば、それだけで増えていってしまい、もちろんそんなことはあり得ず、実際には貨幣を金融機関に預けて、それを金融機関が貸し出して、借りた人や業者が利子をつけて返している間は、その分だけ預けた貨幣が増えていくことになるわけだが、もし借りた人や業者が借りた資金を返せなくなったら、資金を貸した側が損害を被るわけで、たぶんそこに無理があるわけで、実際にはそういう理屈を成り立たせようとすれば、未来永劫どんどん貨幣を増やしていかないとならないわけだろうが、もちろん利子をゼロにすればそんなことはしなくてもいいわけだが、実際にも日本などでは限りなく金利をゼロに近づけているわけだろうし、そうなるとだんだん金融機関の収益が圧迫されてくるのかもしれないが、それでも資金の貸し借りに伴って手数料をとれば、収入を確保できるわけだが、そうなると金融機関に貨幣を預けるメリットが何もないことになってしまうのかもしれないが、結局一般の人たちは口座振替やクレジット決済などに伴って、金融機関に口座を持つことが必要不可欠になるから、ほとんど利子が付かないのに金融機関に貨幣を預けるしかないわけで、そういう意味では今流行りのキャッシュレス社会の推進といっても、それ自体は消費者には何の得にもならないのかもしれないが、何か直接に貨幣を受け渡す手間が省けて便利で効率的に思われるかもしれないし、それが過大な幻想でしかなく、そうしたことを推進している勢力の宣伝に踊らされているに過ぎないことかもしれないが、そうした事態の進行に伴って生じる副作用としては、貨幣が単なる売買に必要な媒介物であり、しかもキャッシュレス化の進行とともに、物ではなく数値的な情報に過ぎない面が強調されてくると、それ自体には価値を感じられなくなってくるのかもしれず、その代わりにそうした数値情報を所有している人や企業などの価値が、その数値が大きいほど価値があるように思われてくるかもしれないし、それも昔からある程度はそういう傾向にあるのではないか。


4月24日「事態の正確な把握」

 そんなことはわからなくて当然かもしれないが、どのような状況でも意識が物事を正確に把握しているかというと、どのような把握が正確なのかがわからなければ、把握している内容が確実に正確だとは言えないだろうが、時と場合によってはいい加減で雑な把握でも構わない場合もありそうで、それに関して現状を正確に把握しているか否かを確かめるすべがあるかとなると、あるのかもしれないが、別にそれを知らなくても構わない場合もあるだろうし、それでも何かその人に関係のありそうな出来事が身近で起こったなら、なるべく意識が事態を正確に把握しようとするだろうし、その場で何が起こったのかを把握したくなるはずだが、そうした把握に関して、たとえ思い違いや勘違いが含まれているとしても、それによって深刻な事態とならなければ、別にどうということはないのかもしれないが、そのどうということはないと思っていることが、そもそもの思い違いであり、勘違いである可能性もなきしもあらずだろうし、そういう面で意識が主観的に認識していることと、そこで実際に何かが起こっていることとの間に差異があるとしたら、その人の認識に間違いがあったり、それほど正確でなかったりする面があるのだろうが、気づかないことがあるのは当然だろうし、そこで起こっていることの全てを把握しきれないのは、人の感覚にも限界があるからであり、視聴覚や嗅覚や触覚や味覚などの五感では感じ取れない面があるのは仕方がないだろうが、それを補うためには推理や推測などの思考作用が必要となってくるだろうし、また霊感や直感などの勘も必要となってくるわけだが、さらに他人から教えてもらったり、メディアから情報を入手したりしながら、現状の把握や認識に正確を期すわけだろうが、またそうした成り行きの中で、他から情報を入手するだけなく、他へ伝えたい情報を発信するようなことも行なう場合もあるだろうし、それに関しては普通は相互作用として知りたいことと伝えたいことがあり、なぜ知りたいだけでなく知らせたいのかといえば、他の人たちにも知ってほしいことがあるのだろうし、そうしないと他の人たちの把握や認識が間違ってしまうことを恐れているからかもしれないが、中にはそういう善意からだけではなく、他人に正確な情報を伝えることによって利益を得ようとしている場合もあるだろうし、そうなると功利的な動機から他人に情報を伝えようとしているわけだろうが、そういう功利的な動機が強まると、間違った情報を伝えることによっても利益を得ようとする欲望も出てくるだろうし、そうなると詐欺的な行為になってしまうわけだが、さらには詐欺すれすれのグレーゾーンを狙うような思惑が生じると、わざと正しい情報を伝えなかったり、また都合のいい情報を伝える一方で、都合の悪い情報は隠しておいたり、それとともに、知ろうとする側でも、都合のいい情報にだけに耳を傾けて、都合の悪い情報については馬耳東風を決め込んだり、そうなってくると現状の把握も、そこからもたらされる現状認識についても、自分にとって都合のいい把握や認識に固執する一方で、都合の悪い把握や認識になろうとするのを抑え込んで、あえてそういった傾向は無視するような態度にもなってくるわけで、恣意的にそういう態度になってしまうと、かえって正確な把握や認識でない方が都合が良くなってしまうわけで、では果たしてそんな態度で大丈夫なのかというと、自分だけでなく他の人たちにもそういう態度を強いるような行為に出るだろうし、場合によってはあからさまに権力を行使してそういうことを行なう場合もあるかもしれないが、それが日本的なやり方となると、空気を読むことを強いるような同調圧力となるのかもしれないし、それに伴って例えば体制側にとって都合の悪い把握や認識をメディアを通じて他人に伝えようとする人や団体を叩くようなことも行われているだろうし、誹謗中傷によってその人や団体の社会的な信用を貶めるようなやり方も横行しているわけだろうが、果たしてそれが有効に機能しているかというと、よほど世間知らずで愚かな人でない限りは、そんなことはお見通しだろうし、ほとんどの人たちはそうした行為に気づいているはずだろうが、そういうことも含めて現状が成り立っていると言えるだろうし、すでにそういうことが織り込み済みの現状があるわけだろうが、だからと言ってそんな現状を変えなければならないかといえば、変えなければならないと思っている人たちは変えようとしているのだろうし、そのために多くの善良な人たちが知ってほしいことを情報発信しているわけだろうが、中にはそんなことには馬耳東風な人たちもいるだろうし、見て見ぬ振りを決め込む人も大勢いるだろうが、たぶんそういう人たちはそれでも構わないのかもしれず、別にそういう人たちを非難することも糾弾する必要もないのであり、情報というのは基本的には知りたい人が知ればそれで構わないのだろうし、中には知りたくなくても知ってしまうこともあるだろうし、さらには知りたくても知り得ないようなこともあるわけで、その知りたくても知り得ないようなことの中には、それを秘密にしておきたい思惑が働いているのだろうし、そういうことまで含めると、結局は現状で知り得たことだけで現状を把握するしかないだろうし、またそこから思考や勘を働かせて、その人なりの現状認識に至るしかないわけで、そうやってもたらされた認識をその人の活動に利用するわけだろうが、活動といっても、特に政治活動をする気もなければ、認識が大して役に立つわけでもないだろうし、特に功利的な利用ができなければ、それを得たところで何の利益にもならないわけだが、要は功利的なはっきりとした利益ではなくて、世の中の空気や風潮のような雰囲気を醸し出せればいいのかも知れず、それには認識を共有する他人と直接の連携や連帯にまでは至らなくても、率先して何かのついでに行なうぐらいの軽い気持ちで、世間的な同調圧力のような作用をはぐらかせばいいのかも知れず、それはほんの些細なことで構わないだろうし、大げさに騒ぎ立てるようなことでもなく、結局はその手の不快な同調圧力に対しても、大げさに非を言い立てて、強く抗議したり抵抗するようなこととは違うことをやってみせればいいのではないか。もちろんそれらとはちょっと違うことを述べてみせるぐらいが関の山なのかも知れないが、逆にそんなたわいないことでさえも述べられないようだと、やはり同調圧力に屈したことになってしまうだろうし、同調圧力程度のたわいないことなら、別にそうなっても構わないのだが、なぜかそれと自覚せずにそこから外れてしまうぐらいがちょうどいいのかも知れないし、それらと戦うために大げさな二項対立を形成するのよりは、ほんの少しマシなことをやれたらいいのかも知れない。


4月23日「存在の抹殺」

 人は誰でも自身の活動や生活に実質的な中身が伴っていると思いたいだろうし、何かしら主体的に活動している限りでその気になっているわけだから、その人をその気にさせるような対象が、その人の活動に伴って生じているのが実質的な活動の中身となるのだろうが、それに関しては自分が満足するだけなく、他人にも共感してもらいたいだろうし、自らがやっていることに関して、他人が共感してくれると嬉しくなってしまうわけだろうが、それ以外に何があるかとなると、単に自己満足に浸ることができれば、とりあえずはまんざらでもないのだろうが、そういうことはその人の意識の中で主観的に思っていることであり、それが実際に他人にどう思われているかはよくわからないだろうし、自分が勝手に思っていることが、身の回りにどのような作用や影響を及ぼしているかも、わかりづらいところではあるのだろうが、そういうことに関しては、いくら考えてみてもよくわからないのかもしれず、結局は他人にどう思われようと、自分を信じて自分のやりたいことができる限りでやっていくしかないだろうし、たとえそれが周囲から不評を買おうと、そんな成り行きをもたらすような脈絡や背景があれば、必然的にそうなるように思われてしまうわけで、それをどうにかしようと思ったら、まずは自分を曲げなければならないだろうし、自分を曲げないで生きられたらそれに越したことはないわけだが、自分を曲げるとか曲げないとかは、その場の成り行きと、その場で生じている自我の強さにもよるだろうし、またそれはその人の立場や境遇からも作用や影響を受けることではあるのだろうが、まずはそこで具体的に何をやっているかが重要であり、またそれに対して周囲の人たちがどういう態度でいるかも、活動に少なからず影響を与えるだろうし、たぶんそういう面ではその人が何をやるにしても、その人の力だけではどうにもならないことではあるのだろうが、そんなことをやっているうちに、周囲の関係する人や団体との相互作用から、その人の生活や活動の実質的な中身が定まってくるのだろうし、またそうした活動の中身に意識が囚われて、それなりに結果が伴ってくれば、何かしら実感を伴うようなことをやっている気になれるのかもしれないし、そういう意味では活動の中身がどのようなものであっても、そんな成り行きになればそれなりに実態も実感も伴ってくるのだろうが、そうなったとしてもそれ以上の結果を求めてあまり作為的かつ強引に主導権を握ろうとしない方がいいのかもしれず、それよりは周囲から及ぼされる作用や影響に翻弄されているぐらいがちょうどいいのかもしれないし、また自身のやっていることに関して他人の共感を期待する以前に、他人のやっていることに関して共感できるようなことには積極的に共感や支持を表明しておけばいいのかもしれず、さらに共感も支持もできないようなことには、無視したりあからさまに批判を加えるよりは、そういうことが行われている背景や事情や脈絡について考えてみる必要があるだろうし、たとえそれが不快感や怒りを覚えるようなことであっても、なぜそういった否定的な感情を覚えるかについても考えてみる必要があるのかもしれないが、そこに悪意が渦巻いているように思われるなら、その場に悪意をもたらすような成り行きについても、できる限り否定的な感情とは別に考察してみる必要があるのかもしれず、それらのことについて考えていられるようなら、考えている間だけでも理性を保つことができるだろうが、考えることをやめて、怒りの感情などに身をまかせてしまえば、その時点で理性を放棄したことになるのだろうし、理性がなくなれば、いくらひどいことをやっている人や勢力を糾弾する正義の味方を装っていても、何かそこに欺瞞が生じてくるわけで、またそういう欺瞞が、自覚なき悪意とともに無理な論理や理屈を正当化させるわけで、もちろん悪意を自覚しないのだから、それが無理だとも思わないわけだろうが、それらの何が無理なのかといえば、まず第一に理性と正義が一致しないところが無理なのかもしれないが、それが無理であるなら、では他に何を優先させる必要があるかとなると、たぶんそれは理性でも正義でもないのかもしれないし、またそれは物事の妥当性や周りの人々の了解でもなく、もしかしたらそれらよりももっと軽い領域で作動するような実践なのかもしれず、具体的にいえばそれは現状を肯定する勇気なのかもしれないが、どのように肯定するかとなると、例えば現状で主導権を握っているように思われる勢力だけを肯定したり支持するわけではなく、それらと敵対しているような批判勢力の存在も肯定してみる必要があるのかもしれず、またそれはそこで生じている二項対立を解消させようとするのでもなく、そうした二項対立ですらも肯定的に捉えなければならないのかもしれないし、ともかくそこに存在している事物を否定するわけにはいかず、それらの存在を否定はしないものの、それらへの好き嫌いがあることも肯定しなければならないだろうし、別に嫌いな対象を無理に支持する必要もないだろうが、またそれらの対象を好き嫌いで判断する必要もないのかもしれないし、ただ単にそれらの存在を肯定しておけばいいだけかもしれないのだが、そういう感覚がよくわからないところかもしれず、なぜ嫌いな対象を否定してはならないのかというと、アプリオリな理由などないのかもしれないが、少なくとも嫌いということと否定ということは違う概念だろうし、それらの違いを肯定する必要があるわけだが、嫌いだから支持できないということも、普通に考えればもっともなことだろうが、別に支持しなくても、その存在は肯定しておけばいいのかもしれないが、ではなぜ否定してはいけないのかとなると、ただ単に存在している事実は肯定するしかないわけで、存在している人や団体の主張や意見に関しては、それが嫌なら支持しなければいいわけで、またそれが存在していることによって、何らかの弊害が生じていると感じれば、弊害を取り除くにはその存在を抹消すればいいのかとなると、それを抹消することができるかとなると、生きている人を抹消することは抹殺することだから、やはりそれをやるとなるとそれなりの無理が生じてくるわけで、そうした無理を押し通そうとすることが、最終的には暴力やテロに結びつくわけだろうが、たとえそれが武力を伴わない言葉による暴力としてのヘイトスピーチであっても、やはり邪魔な存在を消そうとする行為には違いないわけで、そういう意味でそこに存在している物事を消そうとする行為には、それなりの無理が伴ってくるわけだ。


4月22日「大変なこと」

 これから世の中が大変なことになるわけでもないとしたら、別に現状でも危機的な状況でもないことになるのかもしれないが、それは身の回りの状況から感じられることであり、またメディアの論調から感じられることでもありそうだが、そうした実感が特に間違っているわけでもなければ、何を証拠にそんなことが言えるわけでもないだろうが、世の中の全てが大変なことになるわけでもないとしても、常に部分的には大変なことになっているのかもしれないし、実際にどこかの国では爆弾テロによって多数の死傷者が出ていたり、そんな物騒なことが頻繁に起こる地域でなくても、比較的平和な地域でも、交通事故によって毎日のように死傷者が出ている実態もあるだろうし、そうやって部分的には災難に遭った当事者にとっては大変なことが起こっているわけだろうが、そういった類いの大変なことではなく、政治的あるいは経済的な面で大変なことが起こるのを期待している人も多いのかもしれないが、そういう面での大変なことが本当に起こるかというと、そんなことは現時点での推測や憶測に過ぎないし、これから大変なことが起こるという推測や憶測を喧伝しまくるような成り行きもあるのだろうが、そういう否定的な期待はなるべくなら外れた方がいいだろうし、実際にこれまでも外れまくっているのに、性懲りもなくそんな期待が抱かれてしまう成り行きがあるわけだが、そもそもこれから大変なことが起こると期待すること自体は、その時点ではまだ大変なことが起こっていないことの証拠となっているのかもしれず、そういった期待が何か事あるたびごとに表明されてきたということは、そのたびにその事自体が、まだ大変なことではなかったことになるのかもしれず、そうやって大変なことが起こる時期が、その期待が表明されるたびに先送りにされてきた事情があるわけで、いつも大変なことはこれから起こるのであり、まだそれが起こっていない時点で、それへの期待が表明されるわけで、そうなるとすでに大変なことが起こっているのに、それに気づかないようなことも起きる可能性があるわけで、もしかしたらこれまでにも、すでに大変なことが起こっているのに、これから大変なことが起こると喧伝されてきたとすれば、すでに現時点で起こっている大変なことをやり過ごすために、これから大変なことが起こると喧伝しているのかもしれず、そうなると大変なことが起こっているのに、誰もそれに気づかないという事態もあり得るわけで、では誰も気づかないような大変なこととは何なのかとなると、誰もそれに気づかないとすれば、それは大変なことではないとも考えられるわけで、結局はそうやって、実際に大変なことが起こっているのに、それに誰もが気づかないまま、いつまで経っても、これから大変なことが起こると喧伝するような人があとを絶たない実態があるとしたら、そんなことを性懲りもなく繰り返し喧伝しまくること自体も、ある意味では大変なことかもしれないが、それ以外で現時点で起こっている大変なこととは何かと言えば、それは世の中の全ての人に降りかかるような災難の類いではないのかもしれず、その中の誰かにとって大変なことが起こっているのだろうが、それが他の人にとっても大変なことかと言うと、それを実際に体験している人はその大変さを実感するだろうが、それを体験しない人は、それを実感できないわけで、体験している人だけ大変さを実感できて、体験しない人はそれを実感できないわけだから、それを直接体験していない人が、大変なことに気づかないのは当然であり、そういうわけで、これから大変なことが起こると喧伝している人が、実際に直接大変なことを体験するとは限らないわけだから、そんな人は実際に大変なことが起こっているのに気づかないまま、これから大変なことが起こると喧伝するような成り行きになってしまうのかもしれず、そのこと自体は別に不思議でも何でもないことだろうし、実際にこれから大変なことが起こると喧伝する人と、大変なことを直接体験する人が別々にいれば、そういう事態が起こり得るのだろうし、そうした実態を実感することが特に勘違いであるわけでもなければ、何を証拠に勘違いだとも言えないわけだろうが、これから世の中が大変なことになるとメディアを通じておどしている人も、そういう意味ではまるで見当違いなことを煽り立てているわけでもないのだろうし、また世の中の全てがそうなっているわけではないとしても、実際に部分的には大変な世の中になっていて、それを体験した多くの人が世の中の大変さを実感しているとしても、その一方でまた多くの人がそれに気づいていないことにもなっているのかもしれず、その気づいていない人の中には、これから世の中が大変なことになるとおどしをかけている人も含まれるのかもしれないが、そうやって大変な世の中になっていることを実感している人と、それに気づかない人が、世の中で混在しているとすれば、それこそが世の中が大変なこととになっている証拠かもしれないが、そんな時でも、これから世の中が大変なことになる、と繰り返しお経を唱えるように喧伝していれば、世の中が大変なことになっていることに気づかないままやり過ごせるのかもしれないし、そんな大変な世の中のやり過ごし方自体も、奇妙に自家撞着的で大変なことかもしれないのだろうが、そういう面での大変なことというのが、滑稽なことでもあるだろうし、そういう意味で、大変なことが起こるとおどしながら、その大変なことをやり過ごすというやり方自体も、大変な世の中を乗り切るための秘訣だとみなすなら、さらに皮肉な趣きを伴ってくるだろうが、そういうことまで含めて、人々が抱いている大変さというのが、その大変さを裏返すようなはぐらかしを生じさせているのかもしれず、そういったことは、すでに言葉が実際に起こっている現実を通り越して、絶えずその大変さを未来へと先送りするようにそそのかしている可能性があるのかもしれないし、特にそういう傾向が、自分の期待をメディアを通じて喧伝するような人に顕著に表れていて、そういった人は自分が自分の語る内容に裏切られていることに気づいていないのではないか。


4月21日「部分的で連続的な感覚」

 社会は常に部分的に成り立っていて、それは経済活動が成り立っているところでしか経済行為が行われないのと同じように、世界の全ての地域で社会が成り立っているわけではなく、人が集まって暮らしているところでしか社会は成り立たないだろうし、そもそも人が住んでいなかったり活動していないところでは社会が存在しないわけだが、それを全体的な視点から見てしまうと、人が住んでいない地域にも社会があると錯覚したり、また経済活動がほとんど行われていない地域と、経済活動が盛んに行われている地域を、同じ水準で捉えてしまうことになるのかもしれず、そういうところで程度や度合に濃淡があり、例えば人が密集して暮らしている地域と過疎の地域では、当然社会の内実も経済活動の規模も違うだろうし、またたとえ人が大勢で密集して暮らしていても、スラム街などのように低所得者が密集しているだけでは、そこで経済活動が盛んに行われているとは言い難いだろうが、どうしても国単位で社会や経済を全体的に捉えようとすると、そういう面が見過ごされてしまうわけだろうが、社会も経済も地域間で格差や偏差や不均衡があり、また地域という捉え方にも比較的狭い範囲から広い範囲まで、様々な広がりがあるだろうし、その中でも国単位で社会や経済の実態を比較するとしても、人口も面積も人口密度も経済規模も、国によっては比較するのが適当でないほどの開きがあるだろうし、また同じ地域の中で暮らしている世帯ごとの経済格差も、所有している資産や収入には相当な開きがあるかもしれないし、そういった格差や偏差がある人々の間でコミュニケーションが成り立つかというと、成り立つこともあるだろうが、成り立たない場合もあるのかもしれないし、少なくとも格差のある経済的な事情の面では価値観を共有できずに、それに関してコミュニケーションしても合意を形成できない可能性があるだろうし、そもそも社会的な立場や境遇の異なる人と人がコミュニケーションする理由があるかとなると、その機会が全くないわけではないだろうが、何のためにコミュニケーションする必要が出てくるかとなると、それについては様々な理由や目的が考えられるかもしれないが、個々の場合でそれぞれに異なる理由や目的になる可能性があるのかもしれないし、それよりは同じような立場や境遇の人たちがコミュニケーションした方が、何らかの合意を形成しやすいのかもしれず、例えばそれが公的な政治などに関して意見交換するような成り行きになるとすれば、同じような立場や境遇の人たちが、自分たちの代表者を議会に送り込むような場合には、その代表者が選挙で当選して議員になれば、その人が貧しい地域や貧しい境遇の人たちの代表者であれば、政治的に貧しい地域の経済振興を図るとか、あるいは貧しくても普通に暮らしていけるような制度を充実させるために、他の議員たちの協力を取りつけて、関連する法案を議会で通すために尽力するとか、そういう成り行きが生じればいいのだろうが、必ずしもそういう目的や理由で議会の議員たちがコミュニケーションして合意を形成するとは限らないだろうし、また貧しい地域の住民たちや貧困層が話し合いによって政治的なコンセンサスを作るような成り行きが必ず生じるとも限らず、結局そういう場合は政党や労働組合や各種の団体などが、住民の意見を集約するようなことを行いながら、それを政治の場へと導入するような成り行きになるだろうが、そういう団体とは無関係な人たちにとっては、必ずしもそういう成り行きに関心を持つとは限らないだろうし、そういう意味でその人が貧困層に属していようが富裕層に属していようが、その人の生活が成り立っている限りで存在しているわけで、その生活が苦しいとしても、それが政治的にどうにかなるとは思えなければ、政治に対して関心がなくなるだろうし、また実際に生活が成り立っている人が世の中の多数派を占めていれば、その生活が成り立っている現状を維持しようとするだろうし、そういう意味で現状維持的で保守的な傾向になるのは当然のことだろうが、そこで何が不都合かとなると、状況が変わって、現状が維持できなくなることが不都合だと考えれば、なるべく現状を維持することに関して期待が持てるような傾向の政治勢力を支持することになるわけだが、そういうこともある程度は政治に関心がある限りで思うことだろうし、政治的な行為では社会を変える力がないとみなすなら、政治的には無関心になって当然だろうが、そんなことさえも思わなければ、世の中を変えるとか変えないとかいうことではなく、ただ現状の延長上に過去や未来があり、そうした過去から現在に至って未来へと向かう連続的な感覚の中では、それにふさわしい脈絡とか背景があると感じられるわけで、そういった自然に思われるような感覚から外れるような勢力は支持されないだろうし、また意識が過去から現在を通過して未来へと至る間の中で、何らかの一貫性を感じられるような思考や思想に囚われていて、やはりそんな思考や思想から外れるような主張にも違和感を覚えるわけで、そういった連続的な観念に囚われていると、過去や未来と地続きな現状に意識も身体も縛られていることになり、その過去や未来が現状から想像されるフィクションであることに気づかないわけだが、そういった現状の中で身動きが取れない人が多いほど、世の中の傾向も現状維持へと傾くのかもしれないが、それが本当に現状の維持に結びつくのかとなると、単に漠然とそう感じていることでしかなければ、何の根拠もないわけだが、現状でそれなりに生活が成り立っているにしても、その生活が苦しければジリ貧状態になっている可能性もあるだろうが、果たしてそれを我慢する必要があるかというと、必要があるとかないとかではなく、単に耐えている感覚ならば、今後も耐え続けなければならないと思うしかなく、それ以外のやり方を思いつかなければ、実際に耐え続けるしかないわけだが、ではそういった耐え続ける現状に関して、何か突破口のようなそこから抜け出せる可能性があるかとなると、やはり感覚としてはそういうことではないのかもしれず、それよりは単に余計なことは考えたくないのだろうし、その余計なことというのが現状から抜け出すことであり、突破口を見つけ出すことなのではないか。そしてそうなってしまった人たちはそれで構わないのかもしれず、それも一つの態度であり在り方なのであり、それはそれとして認めても肯定しても構わないのだろうし、そういう人たちが存在するおかげで現状が維持されていると思っておけばいいわけで、たとえ実態としてはそうではなくても、それも特に問題視する必要もないことかもしれない。


4月20日「言葉と貨幣」

 人の動作は身体的な動きの他に、音声を発したり文字を記すことも、声帯を響かせたり腕や指を動かすことだから、身体的な動作には違いないが、言葉を操るという面では、他と比べて特別な動作であり、言葉というのが他人と意思疎通を図るための道具だとみなせば、言葉を操ることは道具を使いこなすことと同じであり、道具や機械を作ってそれを使うのと同じように、言葉を適切に組み合わせて文を作って、それをコミュニケーションの道具として使っているわけだが、さらにそれと似たような概念としては、貨幣があるわけで、貨幣も売買に使う道具とみなせば、同じようなことが言えるわけだが、人の活動はそれら全てを組み合わせて動作するものだろうし、身体に加えて言葉や貨幣や道具や機械を使うことによって活動が成り立っているわけだが、他の道具や機械に比べて、言葉と貨幣が特別な役割を果たしていて、それらには物質と情報の二面性があり、どちらかというと情報である面が本質であり、貨幣が数値的な価値を示す情報であるとすれば、言葉は価値以外にも様々な情報を含んでいて、世の中のありとあらゆる存在や現象を指し示す情報であり、それは物事を指し示す情報であると同時に、それらを解釈したり説明したり判断したり評価する情報も伴っていて、人や他の物事の様々な状態や状況を表現する情報でもあり、それらについて思ったり考えたりする時には言葉を用いるだろうし、そうやって言葉について考えていくと、それに関してはとめどなく多くの物事が次から次へと連想されるわけだが、貨幣の特性と言葉の特性は明らかに質が違うし、それぞれに役割が違うことは確かだが、その一方で人を人にとっての道具や機械として扱うには、言葉と貨幣が必要であり、人を道具や機械として動作させる上で、人を言葉で操って貨幣によって拘束するやり方というのが、近代から続いている資本主義的な制度の中で普及してきたことも確かであり、人にとって最も特別な道具である言葉と貨幣が、人を道具や機械として扱うような人間疎外をもたらす原因ともなっているわけで、それはもともと人の身体が人にとっての道具でもあり、そうしたことの延長上で、何やら言葉を操る意識が霊魂のような存在として認識されると、霊魂が人体を道具として操りながら活動しているような解釈も成り立ってくるわけだが、意識や霊魂という概念自体が、身体の一部である脳が抱く幻想である可能性もあるわけで、またそういう意味で脳だけを身体の中で特別扱いするような思想も、意識や霊魂の存在を信じることに伴って生じてきたわけだろうし、そういったことから意識とともに生じている言葉を特別扱いするような傾向も生じてくるわけだが、人を道具や機械としてではなく、人を人として扱うにはどうしたらいいかとなると、一般的には人を物としてではなく、心を持った霊的な存在として扱うようなことを説く人道主義的な在り方があるはずだが、その一方で例えば人がどれほどの量の貨幣を所有しているかを、その人の価値判断の材料にしてしまうと、途端に人の物化が進行してしまうだろうし、そうやって資産や収入の数値化とともに人が物扱いされる傾向が強まり、またそういう傾向はすでに教育の場で、偏差値や試験の点数や成績などからも生じてくるのだろうが、そもそも社会自体が人の集団的な役割分担によって成り立っている面があるわけで、社会を維持していくための道具が、役割分担された人であり、人が機械の部品である歯車のように働くことによって社会が維持されているようにみなすなら、そこでも人の物化が進行しているわけだろうが、どうも社会を機械や装置に見立てるような思考自体が、近代的な思考に特有な傾向なのかもしれず、その一方で人を霊的な存在とみなす人道的な傾向も、近代の思考に特有な傾向だとすると、何かそこで矛盾が感じられてしまうかもしれないが、霊的な存在である人の意識が、道具としての身体と、その延長上にある本物の道具や機械を操りながら、社会を作り上げてそれを維持しているようなイメージを思い浮かべると、何かしっくりくるのかもしれず、そして言葉を駆使して様々な道具の類いを操っている霊魂という意識が、人の身体の一部である脳の神経ネットワークから生じる幻想だとすると、ではそんなふうにして構成されている社会とは何なのかというと、社会の構成員である各人の脳の神経ネットワークが結びついた、巨大な情報と物流のネットワークだとも解釈できるかもしれないが、そうしたネットワークを行き来する情報を制御しているのが言葉であり、また物流を制御しているのが貨幣であるとも言えるだろうし、その中で人を霊魂に見立てると、それは言葉によって制御されていて、人を物に見立てると、それは貨幣によって制御されていると言えるのかもしれず、また情報もメディアを通じて商品となると、貨幣によって制御されることになるし、言葉と貨幣を制御しているのは霊魂としての人であるはずかもしれないが、その一方で企業や政府などの団体が人を物として制御している面もあるだろうし、また人が制御しているはずの機械も、仕組みが複雑になってくると人自身が機械の一部として取り込まれて、機械によって人が制御されるような実態も生じてくるだろうし、それは様々な機械が寄り集まって作動しているシステムにも言えることであり、そうしたシステムに取り込まれた人は、機械とともに機械的に動作することになるだろうし、そういう面では人は機械を制御するとともに、機械に制御されるようなことにもなり、さらに機械と一体化して機械とともに動作するような成り行きにもなって、そういうところで人が物化しているわけだろうが、それほど複雑な機構に組み込まれていなくても、金銭的な面では、収入や資産とともに評価されるようなところでは、それらが示す数値的な情報とともに、物的な取り扱いとなる面も出てくるだろうし、何かしら数値によって計られる時には物化せざるを得ないわけで、そういう意味では霊的な面では、数値化できないはずで、そこでは量ではなく質によって、良し悪しが判断されることになるわけだが、その一方で質の良さでさえも金銭的あるいは数値的な価値に換算されてしまうと、途端に物化してしまうわけだ。


4月19日「言葉を交わす理由」

 人の様々な行為の中で、言葉を用いて関係する人や集団から何らかの反応や対応を引き出そうとする場合、その対象となる人や集団も、その言葉を理解できる必要があることは言うまでもないことだが、言葉そのものは人と人とが意思疎通を図るための手段となる媒介物であり、言葉自体よりは言葉で指し示される内容が重要となってくることも言うまでもないことだが、社会の中ではその人の立場や境遇も重要となってくるだろうし、何の脈絡も背景もないのに、いきなり見ず知らずの赤の他人と言葉を交わして意思疎通を図るような成り行きにはならないわけで、そういう事態になる前提条件として、そういった行為を生じさせる理由や目的があるわけで、普通は理由や目的なしに他人と意思疎通を図るような成り行きにはならないだろうが、もちろんその理由や目的というのが、その人の意識の中で明確にはなっていない場合もあるわけで、ただ何となくその場の成り行きでとか、偶然のきっかけで言葉を交わす仲になったとか、中にはそういう場合もあるだろうが、それもそういう事態になる前提条件に含まれるだろうし、そうなった前提条件に応じて、意思疎通を図る内容もそれ相応のものとなり、そこで明確な理由や目的があれば、その理由や目的に沿った内容になるのは明らかだろうが、ただ何となくだとか偶然のきっかけだとかで言葉を交わすとしたら、他人と言葉を交わしているうちに、即興で理由や目的が生じてくる場合もあるわけで、相手の顔色を伺いながら、途中で話す内容を変えてくることもあるだろうし、そういう意味では話しているうちに、前提条件とは異なった理由や目的も生じてくる可能性もあるのかもしれないが、はじめから相手を騙そうとしたりやり込めようとする場合があるにしても、話しているうちに騙せないと判断したり敵わないと悟れば、やはりそこで理由や目的を変更せざるを得なくなるだろうし、そういう場合は戦略的に臨機応変な対応が求められてくるわけだろうが、ある程度は事前に目算があってそういうことを仕掛けてくるわけで、そういうことを行う場合にもそれなりの前提条件があるわけだが、そうした条件がどこから生じるかといえば、やはりそれは社会の中でのその人の立場や境遇からそんな条件が生じてくるわけで、何の前提条件もなしにそういうことは行われないわけだ。そうした条件を変えることができるかとなると、簡単に言えば社会的な立場や境遇を変えられれば前提条件も変わってくるだろうし、これまでの人間関係や団体などとの関係を変えれば、立場や境遇も変わってくるのだろうが、そのためには新たな人間関係や団体などとの関係を築かなければならなくなるだろうし、そうした関係を築くには新たにこれまでとは違う人や団体と言葉を交わして意思疎通を図りながら、それらの人や団体などとの関係を構築するために活動しなければならないわけだろうが、そういった活動の中身は単に言葉を交わすだけにとどまらないだろうし、そこにはプライベートでは勉学や趣味や娯楽や交友や恋愛や家族などの活動や、仕事関連では経済活動や公的な領域では政治活動などが伴ってくるわけだが、そうした様々な活動が同時並行で行われるわけだから、当然そうした活動からもたらされる社会的な立場や境遇も日々刻々と変わっていくだろうし、決して一定の状態で安定しているとは言えなければ、それに伴ってその人の前提条件も変わっていくはずだろうが、他人と言葉を交わす理由や目的や内容も、その活動内容に応じて変わってくるわけで、だからその中のある部分やある面を選んで、そこだけ拡大解釈して、それがその人の全てであるかのように決めつけるのも、かなりいい加減で信憑性の乏しい解釈になるしかないが、得てしてその人の評価を恣意的に貶めるようなことをやるとなると、そういうことが行われがちになるだろうし、浅はかな人たちもそういう誹謗中傷の類いを面白がって信用しがちにもなるわけだが、果たしてその人の公私両面にわたる様々な活動内容に首尾一貫性があるかとなると、大抵は何かしらその人に特有な傾向があるかのようにみなしたくなるだろうが、そういった傾向が見つかるとしても、それがその人の全てではないわけで、その人にはそういう面やそういう部分があるとしても、別の面や別の部分もあるだろうし、しかもそれがその人の立場や境遇から生じてくるとしたら、別の立場や境遇になれば生じてこない可能性まであるだろうし、そうなると全てをその人自身のせいにはできないことにもなるわけだが、そういうところであまりにも人物本位の解釈を行なってしまうと、状況的にも情勢的にも見誤ってしまうだろうし、そこでも戦略的な見地から特定の人物を批判するような成り行きにもなるわけだから、必ずそうやって判断を誤らせようとする意図や思惑が生じてくるのかもしれないし、意図的にそういうことをやる人や勢力を信用できるかとなると、そこに言説的な誇張や強調が加えられている傾向があれば、そういう部分や面は信用しない方が無難だろうし、たとえ自らが支持している人や勢力がそういうことを行なっているとしても、なるべく信用しない方がいいわけだが、たぶんそういうことを行わざるを得ない立場や境遇というのもあるだろうから、そういうことが行われる脈絡や背景を十分に考慮しておくことが肝心で、そんなところまで含めて考えれば、必ずしもその人やその勢力のせいでそうなってしまうわけでもないことにはなるわけだろうが、そこで事態を単純化して解釈してしまうと、その人やその勢力のせいでそうなってしまっていると思われるわけだから、そこでも事態を単純化しなければならない脈絡や背景が潜んでいるわけだろうし、そういうことまで注意深く考えていくと、現状がこうなっていることについて、それなりの必然性がわかってくるのかもしれないが、わかったところでそれをどう今後に生かしていくかとなると、なるべく単純化しないで、できるだけそこで行われている様々な活動内容について、詳しく把握しようとするしかないのかもしれず、そうやって現状の世の中を成り立たせている様々な要因の一つ一つを確認しながら、それらの要因が互いにどう絡み合って世の中に作用や影響を及ぼしているのかも把握できれば、現状認識がそれだけ正確になるわけだろうが、そうした認識や把握にもそれなりに限界があるだろうし、どんなに努力してもその人の能力以上のことはできないわけで、そういう意味でもメディアをはじめとして様々な方面から情報を入手して、総合的に判断するしかないわけだが、その際に注意しなければならないことは、やはり情報を恣意的に捻じ曲げたり、意図的に誇張したり強調したりしている部分や面を見極めることが肝心だろうし、そういう信用できない部分や面を取り除いてみれば、それなりに正確な現状認識へと至るのではないか。


4月18日「対話の不都合」

 対話というと、何か真剣な話し合いのようなイメージを連想させるが、話し合いではない対話があるかとなると、そんな対話はにわかには想像できないが、内容によっては話し合いとは言い難いような形だけの空疎な対話というのもあるのかもしれないし、人と人とが対話する以前に、果たして対話する理由を得るまでにこぎつけるかとなると、それ以前に何らかの関係が生じないと対話する機会もなく、たぶん世の中のほとんどの人たちは対話することなしに、互いに無関係な時間と場所の中で離れ離れに生きているだろうし、それだけ膨大な数の人たちがこの世界には存在しているはずだが、そういう意味では対話の有効性を過信するわけにはいかず、そう簡単に人と人とが対話によって良好な関係を築くまでには至らないだろうし、意思疎通を図ることの困難さを認識しなければならないだろうが、対話する必要がなければ対話しないのは当然のことだとしても、中には片方が対話しようとしても相手が拒む理由さえ生じてくるのかもしれず、だから対話によって物事の解決を図れるなどと安易に幻想を抱く気にはなれないわけだが、それでも公的な領域では、例えば世界各国の政府と政府との間で交流を図るような成り行きになれば、政府の首脳同士が対話することになるわけだろうが、それで何が解決することもないだろうし、気休め的には外交の面でそれなり定期的な対話を繰り返している間は、政府同士が国交断絶とか戦争とかには至らないのかもしれないし、そういう面では揉め事などの解決を図るためというよりは、友好関係を継続させるために対話する成り行きにはなるのだろうが、そういった政府の首脳同士の大げさな対話でなくても、普通に人と人とが気軽に対話する機会があるかとなると、中には偶然のきっかけから目的もなく会話することもあるだろうが、いざ改まって何らかの目的を持って対話するとなると、戦略的な損得勘定とか功利的な面から目的が生じてきてしまうと、気軽な会話程度では済まなくなるだろうし、そこから交渉だとか取引などに発展すれば、場合によっては争いのもととなったりもするわけで、何かをめぐって争うようなら、対話というよりは対決になってしまうだろうし、そういった揉め事を伴うような対話となると、普通に考えても険悪な雰囲気の中で行われることになるだろうし、そういうことも含めて、対話自体も内容によっては争いの面も含まれてくるわけだから、対話の全てが平和的な話し合いに終始するわけではなく、下手に対話したばかりに、以前より関係が悪化するような場合さえあるわけで、実際に問題の解決を図るために対話するにしても、対話だけでは終わらずに、その後に暴力の応酬のような思いがけない事態を引き起こすようなら、対話にも否定的な結果をもたらす可能性があることになるだろうし、そういうことも踏まえて、対話という行為自体よりも、そこに至るまでの成り行きや、対話の内容や進め方などの面で、工夫を凝らしたり改善の余地があるのかもしれないが、そうでなくても人と人とが、あるいは集団と集団とが、さらに人と集団とが、面と向かって直接対峙するような場合には、対話以外にも様々なケースが考えられるわけで、その中で対話だけに肯定的な価値を見出そうとしても、現実にそれ以外の事態に至る可能性があるわけだから、公の制度として対話を重視するような成り行きに持っていくにしても、現状でもそれだけでは済まないケースが圧倒的に多いのかもしれず、例えばそこに経済的な利害が絡んでくれば、いくら対話しようとしても、経済的な損失を被った側は収まらないだろうし、たぶんそういうところで対話の限界が露呈するのだろうが、そうであっても対話を継続することによって、時間稼ぎのようなごまかし戦術をとるような場合も出てくるわけで、ただ利害が食い違ってどうにもならないようなケースであっても、ごまかしとして対話を利用するようなことになれば、それが正しいやり方とも妥当な判断とも思えないような成り行きにもなってくるかもしれないが、決定的な破局に至らないためには、次善の策としてそんなことが行われるケースもあるのかもしれず、そんなふうにして卑怯と言われようとずるいと思われようと、対話によって物事の解決を図るふりをしながら、ずるずると事態を長引かせることによって現状の維持を図ろうとするような思惑も生じてくるだろうし、その良し悪しはそういった事態に関わってくる人や集団などの立場や境遇によっても判断が変わってくるだろうが、別に関係者の全てが納得するような解決があり得ないなら、そうなってしまう成り行きもあるだろうし、そんな成り行きの中では、対話の有効性もよくわからないものとなってくるのかもしれないが、特に有効でなくても構わない場合さえあるだろうし、その場の間に合わせ程度に、とりあえず場を保つために関係者の間で話し合いの機会がもたれることなども結構あるわけで、そんな時には対話の有効性など誰も気にしていないだろうし、そんな中でははっきりとした目的さえわからないような内容のない対話も行われて、それが何のために行われているのかも意識せずに、惰性で対話しているようなら、要するにそれは憩いのひと時となるのかもしれないが、そういう会話ならそれで構わないのだろうし、たとえそれがきっちりと目的を設定した制度的な対話であっても、成り行きによってはそういった目的から外れてしまうようなことも起こるだろうし、いくら目的を定めて結果を重視しても、対話に参加する当事者がその気にならなければ、そんなのはどうでもいいことになってしまうだろうし、またそうであるなら、事前に定めた目的も期待された結果も計画倒れで、あまり本気で取り組むようなことではなかったことになるだろうし、そういうケースも含めて、まずは対話ありきではなく、対話に至る成り行きになったら対話することになるというのが、実感としてはリアリティを感じられるだろうし、普通に考えて何もないところから対話に至るわけはないし、また激しく戦闘している状態から急に対話に至るのもありえないことだろうし、それが偶然ではあっても、何らかのきっかけがないと対話に至る機会が訪れない場合もあるし、また第三者が用意周到に対話の場をセッティングするような成り行きも中にはあるだろうが、少なくともその機会が必ずやってくるわけではないことは踏まえておいた方がいいだろうし、何か争っている双方が対話に至るような成り行きに持って行こうとしても、その全てが成功するわけでもなく、また成功しなくても努力するような成り行きもあるわけで、それが無駄な努力だとは思えなければ、粘り強く対話に至るように努力し続けなければならないわけだ。


4月17日「論理的な矛盾」

 世の中で生きていて、特に守らなければならないことを意識しているかというと、法律や慣行などを意識する場合もあるが、それと自覚しないで守っている規範というのもあるのかもしれず、その自覚せずに守っている規範というのが、自身がそれに気づくとは思えないし、では他人を見ていてそれに気づくかというと、それもよほどのことがない限りは気づくはずのないことかもしれないが、そういった誰にも気づかれないような規範によって、世の中で生きている人々の思考が規制されているとしても、自らの思考がどのように規制されているかなんて、何の手がかりもなければわかるはずもないことだろうし、そもそもそんなあるのかないのかわからないようなことを考えるのも、無駄で無意味なことかもしれないが、そんなことよりは誰もがわかっている具体的な物事について考えてみた方が、有意義な気もしてくるだろうが、たぶんその誰もがわかっている物事というのが、確かにその中で誰もがわかっている面があるかもしれないが、その一方で意外とわかっていない面もあるのかもしれず、その誰もがわかっていると思っていながら、実際にはわかっていない面もあるとしたら、それについて考えていること自体が、わかっている面についてしか考えていないことになってしまうわけで、そういうところでわかっていない面については考えようがないから、そうした面で思考が規制されていることになるのかもしれず、そしてそういう規制を設けてしまうことが、その人が自覚せずに守っている規範と言えるだろうし、そういう面についてはわかろうとしなくても構わないと思うことが、自己規制という規範になるわけで、結局それがわかってしまうと、それまでに守ってきたその人が確からしいと認識してきた論理とか理屈とかが破綻してしまうから、それ以上は考えないようにして、自らの思考に自主規制をかけていると言えるのかもしれないが、それも意識して規制をかけているというのではなく、思考しようとすると自然とブレーキがかかってしまう成り行きがあり、そこでリミッターが働く感覚なのかもしれないが、なぜそれ以上考えることができないのかというと、やはりそれ以上考えてしまうと、今まで守ってきた論理や理屈が破綻してしまうのかもしれず、そしてそれに伴って現状を現状のままでは認めがたい感覚もあるわけで、現状で起こっている現象や成り行きの全てを認めてしまうと、その人の論理や理屈が成り立たなくなってしまい、その人の論理や理屈を成り立たせるには、少なくともそうした論理や理屈に反することをやっている人たちを想定しなければならないわけで、そんなことをやっている人たちが、その人にとっての敵対勢力を形成していて、要するに敵としてその人の論理や理屈に反することをやっているから、そんな人たちを批判するために必要な論理や理屈が、その人が守っている論理や理屈になるわけで、確かにそうなると、そんな人たちを認めてしまったら、論理や理屈が成り立たなくなってしまうわけだが、そう都合良く世の中で敵を見つけられるかというと、それは敵を都合良く設定するための論理や理屈になっていて、敵とみなした人や勢力を、その人が持ち合わせている論理や理屈を用いて、批判しやすい定型の型枠にはめ込んでから、それらの人たちを敵と決めつけるわけで、その過程で批判しやすいように強調や誇張などの表現を用いて、批判対象に加工を施すわけだろうが、そうした加工に用いるのが、文字や音声や画像や映像などの情報素材であり、それらを使って批判して当然に思われるような虚像を作り上げるわけだが、それが虚像だと悟られないようにするには、そうした情報処理を行なっている自らが、それを自覚してしまっては、わざとらしさやぎこちなさが出てしまって、真実味が伝わらなくなってしまうのかもしれず、だからそれと自覚せずに、論理や理屈が破綻する手前で思考にブレーキがかかったりリミッターが働くように、自己規制や自主規制をかけているわけだろうが、自分で自分に規制をかけていることになぜ気づかないのかというと、すでにそんなことをやっている時点でそれが演技になっているわけで、自分で自分が守っている論理や理屈に合うような自己を演じようとしてしまっているのかもしれず、そうした論理や理屈によって、敵となる対象を批判しやすい定型の型枠にはめ込むという作業を行うこと自体が、自分自身もそうした論理や理屈によって、敵を批判する側の定型の型枠にはめ込んでいるわけで、そうやって批判対象を定型の型枠にはめ込むこと自体が、自身も批判する側の定型の型枠にはめ込む作業を伴ってしまうわけだから、それを自覚しながらできるかとなると、やはり無理だろうし、それが演劇的な舞台装置から生じる作用であり、そうした舞台装置を提供しているのが、SNSと呼ばれるソーシャルメディアになるわけだが、そこでそうしたメディアの利用者がメディア上でメディアにとって都合の良い定型の人格を演じている自覚があるかとなると、やはりそんなことまでは自覚していないのが、普通に考えられる成り行きなわけだが、それを自覚する必要があるかとなると、やはり自覚してしまったら、定型の人格を演じられなくなってしまうのかもしれず、演技者が演じる人物になりきってこそ演劇が成り立つわけで、そこで演劇が成り立っている限りは、演技者は自らが演技していることすら自覚していないのかもしれないし、それだけ迫真の演技となっているのかもしれないが、結局その実態は自らの演技を自らで見ているに過ぎず、自己満足に浸るために演技していることを、自らが自覚しているかというと、やはり演じている際にはその自覚がないのかもしれないが、演じているうちには飽きも出てきて、何かのきっかけで演じているのが馬鹿らしく思えるようになってしまえば、それに気づいてしまって、気づいてしまえば馬鹿らしさがこみ上げてきて、演じられなくなってくるのかもしれず、そこまで至ればブレーキも利かずリミッターも働かないような成り行きとなって、演じることやめてしまうのかもしれないが、やめる人がいる一方でやり始めてしまう人もいるだろうから、そこで誰かが演じている限りは演劇空間も維持されるのではないか。


4月16日「プラシーボ効果」

 現実の世界と社会との間に何か差があるかと言えば、普通に考えれば社会は現実の世界に含まれているはずだが、社会にはあって現実の世界にはないものがあるかと言うと、簡単に言えばそれは幻想や幻影の類いであり、幻想や幻影には人の精神作用や心理作用から生じて、実際に人の心に働きかけて無視できない作用や影響を及ぼす力があり、そもそも人の心自体が幻想や幻影から成り立っているのかもしれないが、それを文字や音声や画像や映像などで表現すれば、現実の世界にも出現しているように感じられるだろうが、それは間接的に示される虚像であって実物ではないだろうし、社会の中で人はそういった現実には存在しない虚像によっても動かされていて、それを実際に存在しているかのように信じてしまうと、例えば言葉が言霊になっているように感じられたりするわけで、そのいい例が、最近日本で話題となった、天皇の代替わりに伴って元号を平成から令和に替えたことによって、何か世の中が良くなるかのような幻想がメディアを通じて世の中に振りまかれたことだろうし、普通に考えれば単に年号を示す言葉が変わっただけで、それだけで世の中の状態が良くなることはないように思われるかもしれないが、そうした元号を考案した人は、そういった願いを込めて言葉を選んだわけだろうし、実際にそうなれば令和という言葉に世の中を良くする力があったことになるわけで、そうなるとそれはただの言葉ではなく言霊だと言えるわけで、言葉に何か霊力のような力が宿っていて、その言葉を唱えれば言葉に込められた思いが実現するという陰陽道のような呪術となるわけだが、果たして現実の世界でそれが可能であるかというと、社会の中でなら可能なのかもしれず、実際に人の心に訴えかけることで、プラシーボ効果のような作用をもたらすのかもしれないし、またそれがそんなふうに思い込んだ人の活動によって、現実の世界も変えていくのかもしれないが、そうだとしても他の現実の世界を変える要因と比較すれば、気休めのような効果しか期待できないのかもしれず、例えば実際にそうした陰陽道のような呪術が、人々の間で現代よりは格段に強く信じられていた平安時代などの実情がどうであったかといえば、普通に考えても呪術よりは他の政治的な要因や経済的な要因などの方が、世の中に強い作用や影響を及ぼしていたわけだろうし、そして現代では当然呪術よりは科学技術や産業技術などの方が、社会の中でも格段に重要性が高いだろうし、もちろんそうした様々な術が働く方面にも違いがあって、神社や寺社などが関係する方面では、場合によっては呪術の方が重要な分野もあるだろうし、そういうところでは祈願などの儀式の中で呪術が使われるのだろうが、そういうことと現実の政治や経済などの方面での効果を重ね合わせる風習があることも事実であり、そういった様々な術の効果を混同しないことが肝要だろうが、科学技術や産業技術によって成し遂げられることと呪術によって成し遂げられることには違いがあることが、頭の中ではわかってはいても、その場の雰囲気や成り行きに呑まれてしまうと、多くの人が錯覚してしまうだろうし、それに関して例えばどの政権や内閣であっても新しい元号を発表することはできるわけで、新しい元号を発表したからといって内閣や政権の支持率が上がるとしたら、それがイカサマの世論調査でなければ、民衆が呪術にかかっていると言えるわけだが、もっともそれも一時的な効果しかなく、だいぶ時間が経って、人々が新しい元号に慣れてしまえば、そんなことは忘れてしまうだろうし、そういうその場しのぎの一時的な効果が期待されていたわけでもあるのかもしれないが、元号の発表と同時に民衆がご祝儀のような気分になることを期待して世論調査も行なったわけだろうし、そういうことまで含めて呪術の範疇に入るのかもしれないが、実際に元号が発表された日が4月1日であり、日本では統一地方選挙に向けて政権側がそういったご祝儀的な世論の印象操作をするには絶好のタイミングではあったのだろうが、4月1日といえば世界的に欧米を中心にエイプリルフールと言われているわけで、その日だけ嘘をついても構わない日であり、そういった4月バカの日に政府が元号を発表すること自体、不謹慎なのではないかと思う人も中にはいるかもしれないが、もちろん欧米の風習と日本の風習は別であり、確かに民間ではそうかもしれないが、政府が発表するような公的なレベルでは、たとえその日が4月バカの日であろうが、そんなことは気にするまでもないことなのだろうが、その一方でそれと同じような欧米の風習であるハロウィンやクリスマスやバレンタインデーなどでは、普通にメディアがそれに関する行事を報じるだろうし、また例年でも4月1日がエイプリルフールであることは、それらの日と同じぐらい周知の事実であり、実際に世界各地や日本で開催される4月バカの日にちなんだふざけたイベントを、その日には決まって報じてきたはずなのに、なぜか政府が新しい元号を発表する日がたまたま4月バカの日と重なってしまったからには、そうしたふざけたイベントを報じるのを自粛したとすれば、結局それは政府に対する弱腰姿勢であり、それに関して近頃流行の言葉を使うなら、忖度と言えるかもしれないが、それだけならまだしも普段から政府に対して批判的な人たちでさえも、なぜ4月バカの日に新しい元号を発表するような間抜けな行為を嘲り笑うようなことができないのかといえば、やはりそれらの人たちも呪術にかかっているとみなすしかないのかもしれず、実際に例年の4月1日と今年の4月1日がそれほど様変わりした印象を受けなければ、そんなことも単なる勘違いの思い違いでしかないわけだが、そういったたわいない事情と、元号の発表がどれほど次元の違ったイベントかとなると、それも人々の心理的な印象の範囲内で感じられることでしかないだろうし、多くの人たちがそれとこれとは別次元の話だと思えばそれで構わないだろうし、それに関してあまり屁理屈を並べて政府の対応をおちょくる気にはなれないし、そうしたことも含めてそれらのほとんどは枝葉末節なことでしかないわけだが、そうした枝葉末節なことの中に、言葉の霊力などの呪術的な効果も含まれているだろうし、それを当たり前のように信じてしまう風土が、現状の世の中に含まれていることも確かなのではないか。


4月15日「分相応な運命」

 人がどんなに努力しようと、結局のところ人にはその人にとって分相応な成り行きが待ち構えているというと、何かそれは運命論のようないい加減さを感じてしまうかもしれないが、その分相応という状態がどうやって生じるかとなると、社会の中での人間関係や団体などとの関係から生じたり、あるいはそれまでにその人がやってきたことに関して、何か説得力を伴うような因果応報的な成り行きによってそうなれば、分相応な現状にも納得できるかもしれないが、必ずしもそうでなければ、何らかの運不運が作用してそうなってしまったと考えるより他にないような成り行きもあるだろうし、またそういった偶然の巡り合わせによって生じた現状に不満を感じているのなら、必ずしもそれが分相応だとは思わないだろうし、実際に良い意味でも悪い意味でも分不相応な状態に現状が感じられると、何か居心地が悪いような感触を得るかもしれないが、実際にそうなっているとしても、その居心地の悪さというのが、現状で感じる違和感となって、それがその人の判断を狂わしたり、妨害や障害などを伴って思い通りのことをさせないようにする成り行きになっているとしたら、他からの悪意ある作用や影響を感じ取っている証拠かもしれないし、それが勘違いや被害妄想でなければ、実際に何らかの敵対関係がそこで生じているのかもしれないが、果たしてそういう成り行きから自由になれるのかというと、もしかしたらそういうこととは別の方面から状況を判断できる可能性があれば、それが自身を取り巻く環境や情勢を客観的に捉えることにつながるのかもしれず、それに関しては自分にとって利益となるか不利益となるかが判断基準ではなく、またそれによって自らの社会的な役割などを恣意的に決めつけるわけでもなく、自らの存在を何ら特別視しないような感覚で世の中を眺めてみれば、自意識過剰とは無縁の世の中の客観的なありようが見えてくるのかもしれず、それが何を意味するのかといえば、自らが社会の中で何ら特別な存在ではないことを自覚できるわけで、実際に自らが置かれているのが、どこにでもありふれているような立場や境遇であることがわかれば、自分以外にも自分と似たような立場や境遇の人が世の中にはいくらでもいることに気づかされるだろうが、それを否定したりそれに気づかないうちは、まだ自意識過剰な面があると言えるだろうし、そういった面が自らが他とは違う特別な存在だと思い込ませているわけだろうが、他にもそういう自意識過剰な人が世の中にありふれているとしたら、自分が特別な存在だと思うことこそがありふれた思い込みになってしまうわけで、そしてその自らが特別な存在であることの根拠というのも、結構誰もが思っているようなことであるならば、やはりそれはありふれた思い込みであって、自らが特別な存在であると思い込んでいる人は、何も特別な存在でもないことになってしまうだろうし、そう思っている時点でそんな思いに裏切られていることになるのかもしれないが、ではその逆に自らがありふれた存在であると思い込むことが、自らが特別な存在であることの証拠となるかといえば、当然そんなことはないだろうし、自らがありふれた存在だと思い込むことは、ただ単にそういう思い込みは妥当なのかもしれないということであり、実際にありふれた存在なのだからそう思うしかなく、それを勘違いして特別な存在だと思い込めば、単にそれは誤った認識になるに過ぎず、どちらにしても自らが世の中でありふれた存在であることを示しているのかもしれないが、実際に誰にもそういう面があるのかもしれず、またそれとは別の面もあるのかもしれないし、その別の面というのが、もしかしたらその人を特別な存在にしている場合もあるのかもしれないが、それはその人が自分で自分に対して思い込むことではなく、他人がその人に関して、何かその人に固有の特別な面を発見することになるのだろうし、要するに他人に認められないと、その人に特別な面があるとは言えないわけで、それは他人から見てそう見えるということであり、自分が勝手にそう思い込むようなことではないのかもしれないし、そういう面での違和感というのも、それはいつも他人を介してもたらされるようなものなのではないか。そしてそうであるなら、別に自分で自分を特別な存在であるとは思わなくても構わないだろうし、それは謙遜とか卑下なのではなく、自分を特別な存在だと思うような自意識過剰な自分を、客観的に他人事として捉えられるようなら、自分に対する公平な評価をもたらすわけで、特に周りを見渡してみて、自分と同じような立場や境遇の人が他にもいくらでもいるようなら、それを客観的に判断すれば、そうした状況は何ら特別な兆候を示していないわけで、そして自分が特別だと思うこと自体が、他の人も同じように思っているとすれば、それも取り立てて特別な兆候ではないわけで、そういう意味では自分を特別な存在だと思うことは、その人の特別さとは真逆の凡庸さを物語っていることになるのかもしれず、そしてその凡庸さというのが、誰もが持っている傾向であり、そんな傾向の中には、自分が特別な存在だと思うことも含まれていて、そういう成り行きがその人の分相応さをも物語っている可能性まであり、誰もが同じように思うことを自分もそう思っているわけだから、それこそがその人の分相応な思い込みであり、そんなふうに思ってしまうこと自体が、その人のありふれたメンタリティと、そんなメンタリティをもたらしている立場や境遇も、他の人たちと似たような立場や境遇であり、それがその人の分相応な立場や境遇であり、他の人たちと同じような思い込みをもたらすような立場や境遇だと言えるのかもしれないが、ではそういう立場や境遇の何がそういった分相応な思い込みをもたらすのかといえば、これも誰もが思うことであるだろうが、例えば自分が他人より秀でたいという願望があるなら、他の人たちと同じようなありふれた立場や境遇であると、不満や不快さや居心地の悪さををもたらして、要するにそうではないような幻想を抱かせるわけで、それが他人から足を引っ張られていたり妨害工作を仕掛けられているような被害妄想を抱かせたり、さらに不運が重なって今はこんな立場や境遇に甘んじているが、そんなことさえなければ、もっとすごい立場や境遇になれたんだと思い込んだりしていれば、やはり絶えず自分は他人とは違うんだ特別なんだと自らに言い聞かせていないと、自尊心を保てないように思われてしまうのではないか。そしてそれがその人の分相応な運命だとすれば、やはりそんな運命は世の中にはありふれているわけだ。


4月14日「日本に特有の問題意識」

 世の中で行われていることに関して、特に良し悪しの判断とか評価などとは無縁なところで何かが行われている場合には、ただ単に必要だから行われていて、さらにそれが惰性で行われていることがあるとすれば、それは制度的な行事となるのかもしれず、そういう場合は行為を行なっている人が必要としている以上に、制度的に必要とされている場合があり、そうなるとその制度に従わなければならない立場の人にとっては、制度に従っている限りで行わなければならない行為となるだろうし、それもある意味ではその人が制度に従うためには必要だから行われる行為にはなるだろうが、それよりは制度にとって必要だから、その制度を維持する上で必要だから行われる行為になるわけで、そういう場合はそれを行うことの是非は問われないだろうし、そうした行事にその良し悪しの判断や評価が伴うとすれば、行うか行わないかの良し悪しではなく、それが必ず行われることを前提として、行われた内容の良し悪しを判断したり評価することはあるかもしれないが、そうしたことの良し悪しを判断したり評価する人にとっては、それを行わないという判断はあり得ないし、それは何が何でも是が非でも行わなければならないことになるわけだが、そうした前提が世間的に当然のことと思われている中で、そうした行為の是非を問うようなことを述べても、世間からは無視されるのも当然のこととなるわけだろうが、そういう制度的な行事を推し進める側としては、何が何でも自分たちが推し進めたい行為を制度的な行事にしてしまえば、もはやそうした行為を行うか行わないかの判断を行えないようにすることができるわけで、そういう意味で行為の制度化や行事化というのは、そのような行為を必ず行わせることを目的としていて、あらかじめ行為そのものの是非を問う人たちを排除した上で成り立つ行為となるわけだが、何でもかんでもそういう行事にできるかとなると、新たに行事として定めるに関しては、それなりに抵抗が伴うはずだが、すでに行事化してしまった行為に関しては、それが慣習や制度として世間的に定着していれば、それほど抵抗感は伴わないだろうし、逆にそれをやめさせるのが困難になっているから、それを行うのが当然のこととして世間的に定着しているわけだが、実際にそうした制度や行事をやめさせるには、世の中の動乱状態を利用したり、政府が強権的なことを行なって強引にやめさせるようなことが起こらないと、なかなかそういった制度や行事をやめさせることはできないのかもしれないが、現実にそういった制度や行事が長年にわたって続いていること自体が、そういった制度や行事をやめさせるほどには、それに伴って弊害が生じていないことを意味するわけで、そういう意味では何らかの制度や行事が長年にわたって続いていることは、特にそれを続けることに関して世間的にはそれほど問題とはなっていないことを意味しているだろうし、逆に言えばそれほど世の中に弊害をもたらさないような制度や行事が、長期間にわたって続いていくことになるのだろうが、それが実際に弊害をもたらしていないかとなると、そうした弊害に人々が気づいていないだけかもしれないし、それを弊害だとは思わなければ、それをもたらしている制度や行事をやめさせようとは思わないだろうし、その辺の判断や評価や認識が微妙なところかもしれないのだが、そうしたことに関しては、そうした制度や行事を維持運営している団体が、世の中でどれほど力を持っているかによっても、そうしたことを続ける上では重要な要素となってくるわけで、特に政府が主催するような行事ともなると、それを行わせる力も強大となってくるわけで、誰もがそれに関して問題意識を抱いて、それが議会や選挙などで争点となるようなことにでもならない限りは、そうしたことをやめさせるような成り行きにはなりづらいだろうし、しかもそれが単なる取るに足らない形骸化した儀式のような内容であれば、誰もそんなことを問題視しないだろうし、予算的にも他に比べて微々たる費用しかからなければ、なおさらやめさせることにこだわる理由もないだろうが、そういった些細なことが数多く積み重なって、意外と気づきにくい無駄で無意味な物事が、塵も積もれば山となるように大量に蓄積している場合もあるわけで、そんな経緯によって長年にわたって慣行となってしまった儀式の類いが多くなりすぎて、それが飽和状態となってくると、そうしたことの重みに耐えきれなくなって、世の中の秩序が崩壊する要因にもなるのかもしれず、それが世の中の動乱期を招く原因にもなるとしたら、そうした動乱状態を利用して制度や行事を一新するような成り行きが起こるわけで、日本で言えばそれが、古くは大化の改新から奈良時代にかけての時期や、そこから時代を下って平安時代から鎌倉時代への移り変わりの時期とか、さらに現代に近づいて明治維新から第二次世界大戦での敗北までの時期にも言えることだろうし、そういった激動の時代を経て、それ以前の時期とは驚くほど世の中の制度も行事も変わってきたわけだろうが、そうした歴史的な経緯と、現状で行われている行事などが関係があるかとなると、現代に暮らしている限りで、それほど関係も関連もないようにも思われるかもしれないが、むしろ現代の情勢を考慮するなら、日本だけのことというよりは世界的な枠組みの中で考えなければならないのかもしれず、そういう意味で形骸化している制度といえば、それは国家的な制度であり政治的な制度なのかもしれず、またそういうことに目を向ける上で障害となっているのが、日本特有の問題意識だろうし、それを日本だけの問題だと意識することが、かえって問題の本質的な面を捉え損なうような結果を招いているとしたら、そういうことに関して、今までの認識を一新する必要があるのかもしれないが、現状では誰もそんなことにまで関心が及ばないだろうし、別に日本でそんなことを問題視するよりは、もっと世界的に影響が及ぶアメリカとか中国とかで、そういうことに関して問題視する機運が高まればいいと思うかもしれないし、たぶん日本と同様ではないにしても、アメリカでも中国でもその国に特有な問題意識が生じているだろうし、そういう面が世界的に問題意識を共有できない事態を生んでいるのかもしれないが、現状が19世紀の欧米で確立された国家的な政治制度を一新させるような時期だとは、世界中のほとんどの人たちは思いもしないだろうし、そんな機運がこれから高まるとも思えないだろうが、それが資本主義の問題と絡んでいることに関してなら、どうも日本だけの問題ではないことぐらいは、他の多くの人も気づいているのではないか。


4月13日「主導権と主体性」

 世の中で生じている様々な物事とともに人も活動している実態があるわけだが、そこで主導権を握っているのは人であり団体であり制度でもあるわけで、それらの物事の何から何までが全面的に主導権を握っている主体によって制御されているわけでもないとしても、個人が主体的に自らのやりたいことができるかとなると、やりたい内容によっても、その場の状況によっても、主体性を発揮できる程度は変わってくるだろうし、またその人が行なっていることの中で、どの程度までその人に主導権があるかは、そこに関わってくる他の人や団体の関わり方にもよるだろうが、そこで何らかの共同作業を行なっているなら、その中で特定の個人に全面的な主導権があるわけでもないだろうし、そういう意味で主体性とか主導権とかは、必要以上に意識するようなことでもないのだろうが、何か自らが行なっていることについて肯定的な幻想を抱くなら、自らが主導権を握って主体的に行なっていることに価値を見出したいような傾向となるのかもしれないが、必要以上にそういう面にこだわると、ややもすると自己中心的なことをやろうとして、他との兼ね合いにおいて妥協を許さないような態度となってしまいがちになるのかもしれないが、状況的にはそんなわがままな態度が許されないような立場や境遇になる場合もあるだろうし、そういうことに関してもその場の状況次第でどうにでもなるようなことかもしれず、何を行うにしても人が主体的に行なっている限りで、そういった利己的な価値を度返しするわけにもいかないだろうが、それでも行なっていることがうまくいくためには、自らの主導権や主体性などを犠牲にしてでも、他との兼ね合いから生じる、合理的で妥当に思われるやり方に従わなければならない場合も出てくるだろうし、そういう面で他の誰に主導権を明け渡すにしても、特定の局面において特定の立場や境遇の人が、一時的にその場の主導権を握るような成り行きになるのかもしれないし、たぶんその一時的に主導権を握る期間というのが、ほんの数分であったり数時間であったり数日であったり数ヶ月であったり数年であったりするわけで、中には数十年も主導権を握り続けるような場合もあるとしても、人の寿命には限りがあるから、人に代わって何らかの集団が主導権を握る場合もあるだろうし、そういう場合は数百年単位で主導権を握っているような組織的な集団もあるかもしれないが、それもあらゆる方面にわたって全面的にそうなるわけでもなく、ある特定の限られた分野や領域で部分的に主導権を握る場合が多いのかもしれず、そうであるからそれとは別の方面で、特定の個人が主体性を発揮して主導権を握る余地が生じてくるわけで、たとえそれが偶然の巡り合わせであっても、その人に大した力がなくても、どう見てもその任にはそぐわないような人が、主導権を握るような立場や境遇になってしまう場合もあるのかもしれず、そういうところで誰もが納得するような合理的な論理や理屈とは無関係にそうなってしまうと、他から疑念や不信感を抱かれたりするだろうし、なぜ大した能力も才能もないような人が、そんな立場や地位についているのか、それが適任でないように思われてしまうわけだが、そこから何か不正なやり方でそんな立場や地位についたのではないかと疑われたり、誰か他の大物が黒幕となって陰からその人を操っているのではないかと勘ぐられたりもするわけだろうが、そういうところで社会的な立場や地位の妥当性として、その人に備わっているように思われる能力や才能への幻想が生じるわけで、そういう立場や地位に就くには、それなりに多くの人が納得できるものが必要となってきて、それがその人の備わっているように思われる能力や才能や人格などであれば、何やらそこに妥当性があるように感じられるのかもしれないが、それがないように思われてしまう人については、その人を支える周りの取り巻きたちが気を利かせて、その人に立場や地位に見合う能力や才能や人格などがあるように見せかける工夫が凝らされる場合もあるのかもしれないが、それが幻想であるなら、そんな工夫が凝らされる必要もないような立場や地位でしかなく、ただ多くの人々がその立場や地位に関して、それなりの能力や才能や人格がないと勤まらないように思っているだけで、本当はそんなものなど要らない可能性まであり、そういう立場や地位にしても、社会的な関係の中でそれだけが独立して存在しているわけではなく、その周りの関係する他の立場や地位の人たちとの共同作業の中で、相対的に限られた一定の範囲内で主導的な役割を任されているだけで、それが他からの助言やサポートによって成り立つような役割であれば、特にその人だけに秀でた能力や才能がなければならないわけではなく、助言やサポートなどのバックアップ体制がしっかりしていることが、そういう立場や地位が成り立つ条件である場合もあるだろうし、そういう職種になってくると、そうした役割をこなす個人の能力や才能や努力とともに、その個人を支える周囲の組織的な体制などの充実が、そうした職種がうまくいく上で欠かせない要素にもなってきて、そういう面で個人が何かを行なうことに関しては、その人が単独で行える分野やその範囲はそれほど広くはないのかもしれず、何をやるにも絶えず他の人や団体との共同作業になっていく面があり、そうなるとその人の能力や才能というよりは、それとともにいかにうまく他の人や団体と協調体制を築きながら、その中でギブアンドテイクのような関係を結べるかが重要となってくる場合もあるだろうし、そんな関係の中では、その人が全面的に行為の主導権を握るような成り行きにはならずに、そうした関係を損なわない限りで、関係者や関係団体の間で、何らかの妥協や利益分配や役割分担が生じて、そういうことを交渉や取引などによって決めるような成り行きになるとすれば、そういうことを決めるための協議の場が重要となってくるわけだ。


4月12日「時流に反して」

 人が文明世界の全てを把握できないのは、その人とは直接関係のない夥しい数の人や集団によって、長い年月をかけて文明世界が作られてきたからと考えれば、多くの人は納得できるかもしれないが、地域的にも時期的にも異なった様々なところで様々な文明が興亡を繰り返してきたわけだから、現代においてすでに滅亡してしまった文明の痕跡などをいくら調べてみても、完全にはその全てを把握できないのは当然のことだろうが、別にそんなこととは無関係に生きている人が把握する必要もないだろうし、そうなっている時点で特定の個人は、いつも世界の片隅に存在する部分的な要素でしかないわけだから、その人が知り得るのも、いつも部分的な物事になるしかなく、その人にとってはそれで構わないことでしかないわけだが、その人が世の中をどこまで把握すべきかは、誰がそんことを決めるわけでもないので、その人が現状で把握している範囲内が、把握すべき全てではないものの、必要に応じて把握するしかないだろうし、必要がなくても把握しようとすることもあるかもしれないが、何を知るべきかを誰から指図されることもなければ、自主的に把握するしかないだろうし、そうした把握が正しいか間違っているかも自分で判断するしかなく、そういう意味で世の中の全ての人の知的レベルが、必ずしも一致していないのは当然のことだろうが、どのような知的レベルになるべきかも、そんなことは誰にもわからないことであり、誰に知っておくべきことを指図されるいわれもないだろうから、結局誰が何を知っていようと、その人と無関係ならどうということはないのかもしれないが、その人が何を知るかも偶然の巡り合わせでしかない面もあるだろうから、特に必要でないことまで知っているとしても、それが普通の事態なのだろうが、そういう意味ではその人が何かを知るに至るかの選択肢はないのかもしれないし、知る必要がないことまで知りたくはないと思っても、思いがけずに知ってしまうこともあるわけだから、人によって知っていることがまちまちでも仕方のない面があるわけだが、それでも人と人とが関係を持つ限りで、コミュニケーションをとってそれなりに情報交換をする過程で、知識を共有することになるだろうし、そうやって世の中に知識が伝播していく成り行きもあるわけで、何か知ってほしいことがある場合は、知ってほしい人たちとコミュニケーションをとろうとするのだろうが、それとは違ってメディアを通して不特定多数の人々へ向かって、多くの人が知ってほしいことを訴えかける場合もあるわけで、それはコミュニケーションによって他人と知識を共有する場合とは傾向の異なる知識になってしまうのかもしれないが、何かしら他人に向かって知ってほしいことを訴えかける行為には、訴えかける人にとっては切実な理由があるのだろうし、実際にそうしたことをメディアを通して多くの人たちが知ることによって何が起きるかは、その知ってほしいことの内容にもよるだろうが、その内容が多くの人にとって都合の悪い内容であれば、いくら訴えかけても黙殺されるだけかもしれないが、なぜ都合の悪い内容を知ってほしいと思うかは、例えば多くの人が間違った認識を持っているから、それを正したいという思いから、そんな訴えかけが行われる場合もあるわけだが、果たしてそれが本当に間違った認識かとなると、人の立場や境遇によって認識が異なってくる場合があるとしたら、立場や境遇によっては間違っているとも言えない可能性が出てくるわけだが、それ以外だと、わざとデマを流して多くの人を誤った認識へと導く行為も行われるだろうし、それがデマではなく宣伝の類いだと、訴えかけの内容そのものは間違っているわけではなくても、都合の良い面を強調したり誇張して伝える一方で、都合の悪い面は隠蔽するような操作が施されている場合もあるだろうし、そうした面を見抜くには、それなりに伝えられる内容に関して知識を持ち合わせていないと、騙されてしまう可能性が高くなるだろうし、そういう面ではメディア上で訴えかけられる内容というのは、注意してそういう訴えかけが行われる背景に関して、他の方面から調べてみる必要があるだろうし、そうでなくてもメディアから情報を受け取るには、そのメディアやメディア上で訴えかけている人や団体がどういう素性なのかに関して、あらかじめ知っておく必要があり、そうなるとそれなりに知るべきことが出てくるわけだが、すでにそうしたメディアやメディア上で訴えかけている人や団体を信用してしまった後では、なかなか内容を公平には評価できないだろうし、そういう意味ではそれらのメディアや人や団体などを信用する前に、訴えかけている内容を吟味する必要が出てくるわけで、またいかにその内容が合理的で妥当に思われても、それらのメディアや人や団体を全面的に信用する必要はないのかもしれないし、そのメディアだからその人だからその団体だから、報じている内容や訴えかけている主張が信用できるとは思わない方がいいのかもしれず、何らかの人や団体がメディアを通じて何かしら主張したり訴えかけているとすれば、まずはその内容を優先的に吟味してみる必要があるわけで、特に現状で成り立っている大衆市民社会の中で行われる主張とか訴えかけというのは、その大半がメディア上や世間的に流通している紋切り型的な内容である場合が多いだろうし、その気になれば誰でも主張できるような内容を、さもその人だけのオリジナルな主張であるように見せかけているわけでもないだろうが、一応は世の中で認められていて、多くの人が共感するような意見や主張であっても、なぜそれが世の中で認められていて、多くの人や共感するのかを考えてみてからでないと、安易にそれに同調したり、そういった意見や主張の持ち主を支持するのは、思いとどまった方がいい場合もあるわけで、そういうところでその人の思考力や持ち合わせている知識が物を言うわけだろうが、そうだとしても、その人の世間的な立場や境遇とは無関係にそういった態度がとれるかどうかは、やはりその場の状況次第となってしまうのかもしれないし、その人だけが疑問や疑念を抱いていても、他の大半の人たちが世間的な時流に流されてしまえば、その人には何の世間的な影響力もないことが証明されてしまうわけで、そうならないためには、その人自身がメディア上で積極的に意見や主張を述べる必要が出てくるのだろうが、その人がそれができるような立場や境遇にあるかとなると、そううまい具合にそういったことが主張できる立場や境遇になれるわけでもないわけだ。


4月11日「自然と精神と文明」

 この世界は人が生まれる以前から存在する自然の世界と、人が意識する精神世界と、人が人工的に作り出した文明世界の三つの世界に分けられるはずだが、それらがつながっている部分も重なっている部分もあるだろうし、それらを区別して捉える必要があるかとなると、普通はごっちゃになっているだろうし、全てが自然の世界に含まれているとも考えられるし、はっきりと三つに分けて捉えている人などあまりいないだろうが、それらの世界に対する対処や対応の仕方がそれぞれに異なることは確かであり、まずは自然の世界に対して人がどのような対処や対応をとるかというと、そこから資源や食料などを収奪して、それらを自身や文明世界を作り上げて維持するための糧として使うわけだが、精神世界の方は知恵や知識や思考や感情などの情報を蓄える貯蔵庫として使われているだろうし、それらは自然の世界に関する情報であったり、また文明世界に関する情報であったり、さらには精神世界自体に関する情報であったりして、精神世界が自然の世界と文明世界をつないで結びつける役割を果たしているとも言えるだろうが、精神が自身も含めて全ての世界を完全に把握しているかというと、当然把握しきれていないだろうし、実際にそれぞれの世界を部分的にしか把握していないし、しかもその把握が正確であるとも限らないわけだが、そこでできるだけたくさんの正確な情報を収集するために、人と人とがコミュニケーションを図りながら、絶えず情報交換している場合もあるだろうし、さらに情報を集積させる場としてメディアが文明世界の中で機能していて、そこからも絶えず情報を受け取ったり、そこへ情報を提供しているわけだが、精神世界は単なる情報の貯蔵庫であるだけではなく、様々な情報を加工してつなぎ合わせたり切り離したりしながら、そうやって新たな情報を製造する場でもあるだろうし、自然界や文明世界で働いている作用や影響に関する理論や法則などを見つけ出したり編み出したりする場でもあるわけで、それが自然界や文明世界で人が活動するのに必要な知恵や知識となるわけだろうが、文明世界で何か価値のある物事を作り出す原動力となるのが、精神世界に蓄えられた情報であり、それらを使う時に技術や勘となって働くわけだが、それを適切な時期に適切なタイミングで使うことが重要で、それが身体の動作と連動していたり、さらに道具や機械や制度となれば、それらの使い方が知恵や知識として精神世界に蓄えられているわけだが、またそうした情報はメディア上にも蓄えられているだろうし、そういう面でメディアが精神世界を補助する役割も果たしているわけだろうが、逆にメディアが人の精神世界をコントロールする役割を担っている場合もあるだろうし、またそういう意味では道具や機械や制度も、それを使う人の活動を制御している面もあるわけで、精神世界の知恵や知識を使って作り出された物事が、逆に精神世界に作用や影響を及ぼして、それらの物事に対応した精神世界を作り出す機能も持ち合わせているとすれば、それに関しては近年の情報技術から生み出されたコンピューターなどが、人の精神世界に及ぼしている作用や影響は甚大なのかもしれず、そういう面で精神世界と文明世界とはお互いに作用を及ぼし合いながら支え合っていると言えるだろうし、その二つの世界が連携して、自然の世界を征服しつつあるとも言えるだろうが、その一方で自然の世界は精神世界も文明世界も含みながら存在しているわけだから、征服という認識すらが人の勝手な思い込みに過ぎないとも言えるだろうし、多少贔屓目に見ても、自然界のほんの一部を征服しているだけだろうし、元来征服という言葉や概念自体が文明世界でしか通用しないのかもしれないし、自然の世界は征服の対象ではなく、単に依存しているに過ぎず、力関係としては圧倒的に自然の世界が勝っているのかもしれないが、それでも精神世界が形成する意識は、人の精神によって築き上げられた文明世界を肯定したいわけで、そこで顕在化している文明こそが、人が活動した成果として誇るべき物事なのだろうし、自然の世界にはない人に特有な価値が文明には宿っているわけだが、現実に人にしかその価値はわからないわけで、そういう意味では精神世界も文明世界も、人以外にとっては何の価値もない世界でしかないだろうし、そもそも世界という概念自体が、人に特有な捉え方だろうから、人以外の存在を想定すること自体がおかしいわけだが、精神世界の中では、理屈的にも信仰的にも人以外の何かを想定しないと、精神世界自体が成り立たなくなってしまうのかもしれず、そういう面で便宜的に神という概念を導入せざるを得なくなってくるのだろうが、人の精神がそれらの世界を完全には把握できないと思われること自体が、人以外の何かがそれらの世界には含まれていて、それが世界が成り立つ条件でもあり、しかもその人以外の何かが、人をコントロールしている可能性もあるわけだから、陰謀論的にも人類を作り出して操っている存在として宇宙人を想定してみたり、それが神だとみなしたい人もいるわけだが、もう少し事態を現実に起こっている目に見える現象だけで説明しようとするならば、別に人が作り出した物事が人をコントロールしていても構わないわけで、また人が人をコントロールしても、あるいは何らかの団体が人をコントロールしても、それは極めて自然な成り行きと言えるのかもしれず、人と人が作り出した道具や機械や制度などの関係は、人が思っているほど明確な上下関係はないのかもしれないし、創造主が創造した物事に操られてしまうのは、ごく自然で当たり前の現象と思っておいた方がいいのかもしれず、実際に人が結成した宗教教団の類いの中では、人の精神世界の中で作り出された神に信者がつき従っている実態があるわけで、実際に信者は本気でそう思い込んでいるだろうし、しかも精神世界では創造主が神であり、神によって作り出されたのが人であるという理屈が信じられていて、そうした理屈を作り出したのが他ならぬ人であるところが、宗教という発明品の逆説的な特性であり機能だろうし、それが文明世界では宗教教団などの団体として実現しているわけだが、他にも様々な施設や聖書や偶像や神殿や礼拝所などとして具現化しているだろうし、そうした意識の中で思っていることを実際に世界の中で物質化したり制度化したものが、文明世界を生じさせる発端となったことは確かなのではないか。


4月10日「ユートピア願望」

 一般的に言って、ユートピア願望というのは左翼的な幻想であるかもしれないが、現状の息苦しさとは無縁の能天気な世界像を空想して、そういった世界像とともに夢想される目指すべき理想的な社会というのが具体的にどんなものなのかは、それを無理に説明しようとすると、大抵はリアリティのない空想的な虚構となってしまいそうで、実際に現状でどういう状態が理想なのかは、誰にもわからないかもしれないが、理想社会をいくら空想してみても、それを実現させるために何をやればいいかとなると、やはりよくわからないのかもしれず、それよりは自らが個人的にやりたいことを優先させるのが、普通の感覚かもしれないが、自らのやりたいことが理想的な社会を実現させることであるなら、何かそれに関連して政治運動のようなことをやる成り行きになるのかもしれないが、実際に政治活動が理想社会の実現に結びつくかとなると、それはその場の状況にもよるだろうが、たぶん政治活動というのはもっと部分的で限定された狭い範囲内での活動となってしまうのかもしれないし、そもそも現状の世の中では社会全体を人為的に作り変えるようなことは行われないだろうし、それよりは特定の制度や法律を修正したり改正したり、新たに作ったりするぐらいで、政治にそれ以上のことは求められていないだろうが、人も団体もその活動の内容は、絶えず部分的な傾向となってきているのが、現代的な特徴であり、それに伴って全体としては変えようがない世の中の構造が顕在化してきたようにも思われるわけだが、なぜそうなってきたのかというと、軍事的に世界全体を征服するような妄想を抱くことが、それなりに非現実的であることが明らかとなってきたというと、それこそが誰もそんなことは思ってもいないようなことかもしれないが、どうせそんなことは実現できるわけがないのだから、社会のあるべき姿を思い描くような気になれないというか、それよりはもっと射程の短い身の回りのことだけにかかりきりとなっているというか、それも人によって立場や境遇によって異なるのかもしれないが、そういう妄想や空想の類いとは違う、良く言えば地に足のついたことを考えているというか、悪く言えば現状の延長上でしか物事を考えられないというか、別にそれを悪く言う必要もないだろうし、そんなふうに考えることを極めて当然のことだと認識していれば、それで構わないだろうし、やはりそういうことは良し悪しの問題ではなく、何かのきっかけからそんなことを思ったり考えたりしてしまうわけだが、それ以上に社会のありようというのは、そこで行われている人や団体の活動が反映されるわけで、結果としてそうなるに過ぎず、そうなることを目指すようなことではなく、それとは違って人や団体が目指していることは千差万別であり、決して全ての人や団体が同じ一つの状態や状況になることを目指しているわけではなく、そういう意味でただ漠然と社会変革を目指すといっても、何か雲をつかむような話となってしまって、具体的に何をどうすればいいのかがわからず、そんなことよりは個人的な興味の範囲内で、何かやりたいことが見つかればそれで構わないわけだろうが、そのやりたいことというのが、社会変革とかいう雲をつかむような話となってしまうと、ただの妄想の範囲を出ないわけだろうが、誰もそういうところで目標や目的が循環している自覚はないだろうし、普段から誰もがそれとは違うことを考えているはずだろうが、実際の世の中の状況や状態というのは、人や団体の認識とか、それを分析して導き出されるようなこととは無関係なのかもしれず、たとえ特定の人や団体が社会変革を目指して活動を行なった結果が、社会に何らかの作用や影響をもたらしたとしても、それがその人や団体が目指した状態とは一致はしないだろうし、それは社会の中で活動しているのが、その人や団体だけではないのだから、他の人や団体の活動も社会に何らかの作用や影響を及ぼしていて、そうした作用や影響が社会状況に反映されて、社会変革を目指す人や団体が望むような結果から外れるような状況をもたらしているわけだろうが、そういうことであれば、その人や団体の意向に他の全ての人や団体を従わせない限りは、その人や団体が望むような結果をもたらすのは難しいことになるはずだろうが、果たして現実にそんなことができるかというと、その人や団体が世界全体を征服しない限りは、他の人や団体を従わせることはできないだろうが、実際にそんなことをやろうとしてできるとは思えないだろうし、またたとえ世界全体を征服して他の人や団体を従わせたとしても、人や団体以外にも自然があるだろうし、人や団体が地球や太陽や宇宙を全て従わせることができるかとなると、そんなことは無理に決まっているわけだが、そもそも社会変革を目指す人や団体がそんなことまで考慮しているわけがないし、ただ単に人の社会を変革したいだけだろうが、そこには自然からの作用や影響が常に及ぼされていて、そういう面はどうにもならないだろうし、そんなことまで考慮する必要はないのかもしれないが、実際に大規模な自然災害などによって社会が多大な被害や損害を受けている現実があるだけに、そういったところからも制御できない人心の乱れが起こってくるわけで、そんな面まで考慮に入れると、何か理想的な状態や状況を目指すにしても、それ以前に現状への対処や対応や対策に追われているわけで、まずはそういった面を重視する必要に迫られるだろうし、そういうところで現状でうまくいっていない面を、どうにかするようなことが政治的には求められていて、それへの対処や対応や対策をどうするかが政治的な課題となってくるわけだが、その一方で理想を追い求めるようなことは要らないのかというと、宣伝文句としてはそちらの方が魅力的に感じられるわけで、やはりそういった宣伝に力を入れてしまうと、何か詐欺的で現実離れした夢のような話をでっち上げる成り行きになってしまうのかもしれず、そうなると語るだけならいくらでも誇張や装飾が可能で、何とでも言えるようなことをさも実現可能であるかのように語れるだろうし、そういったプレゼン的な見かけや見せかけを競い合うようになってしまうと、実際にやっていることが形骸化してしまうだろうし、やっていること自体に魅力がなくなってしまうから、人心がただ宣伝を映し出す画面を見て刺激を受けるだけの空疎な欲望に取り憑かれて、それとともに世の中の実態が荒廃していってしまうのではないか。


4月9日「利益を生むずる賢さ」

 世の中で誰にとっても都合の悪いことといえば、私的な領域での欺瞞的なごまかしを他人に見抜かれることかもしれないが、逆に誰もが抱え込んでいる欺瞞的なごまかしを他人と共有できたら、その人と共犯関係を築いて悪の同盟を結成できるかもしれないし、実際にはそんなフィクションのような単純な成り行きにはならないだろうが、世の中でうまく立ち回るには、ずる賢いやり方を身につける必要に迫られてしまうのかもしれず、そんなずるさをどうやって他人に許容してもらうかが、その人の魅力を生じさせるとともに腕の見せどころと言っては語弊があるだろうが、ずるいことをやっても憎まれないような人が、他人を押しのけて社会的な成功を収めるわけで、もちろんいくら他人から憎まれても、憎んでいるのが世間から相手されないような人たちだと、憎まれている人の方が勝ちとなってしまうだろうし、そういう意味でもずるいことをやっている人同士で連携して、きれいごとを取り繕うような偽善の徒である自称正直者たちの邪魔をしながら、結果的にそういった偽善者たちの天下とならないような方策を講じるような成り行きになるとすれば、そういった行為の集大成となっているのが、現状で行われている資本主義的な経済活動だと言えるのかもしれないが、そういうことをやっていないと現状の世の中が成り立たないと思われるなら、それが必要悪ともなるのかもしれないが、誰もそんなことは思っていないだろうし、成り行き上そうなっているだけのことであり、それをはっきりと意識していたり自覚しているわけではなく、またそうすることが合理的に思われるわけでもないだろうし、恣意的にそうやっているというよりは、成り行き的にそうなってしまうわけだから、理性とか良心とは無関係なわけだが、別にそれが欺瞞的なごまかしだとも思っていないだろうし、表向きはやましいところはないはずだろうが、そこでうまく振る舞えない人にとっては、うまくやっているように見える人たちが、何かずるいことをやって儲けているように思われてしまうわけで、そういう思い込みからうまくやっているように見える人たちを感情的に許せないような気持ちになってしまうのかもしれないが、実際にうまくやっているだけに、本当にずるいかどうかはよくわからないわけで、またそれをずるいとみなしてもいいかどうかも、実際にそんなことをやって成功している人たちからすれば、やって当然のことをやっている気でいるわけだから、それをずるいと非難されてしまうと、ではどうやれば成功できるのかとなってしまうわけだが、少なくともそうした非難に打ち勝ちながらやっていることだと考えておけばいいだろうし、そもそも誰からも文句が出ないような活動などあり得ないだろうし、実際に文句が出ないということは誰からも無視されていることになるわけで、そんな世間から相手にされていないような活動なら、そこから利益が出ることはないのかもしれず、実際に経済的な利益が出ている活動なら、何かしら不快に思われているだろうし、他人が儲けているのを快く思わないのは当然のことであり、そうやって文句を言ってくる人には、分け前をやれば黙ってしまうような成り行きもあるわけで、そういった分け前に群がってくる人を味方につけながら、そういった人たちを利用して事業を大きくしていくような成り行きもあるだろうし、そういうこと自体が清廉潔白な人たちから見れば、ずるい行為だと思われてしまうのかもしれないが、もちろんそんな清廉潔白を装うような人に限って、私的な領域での欺瞞的なごまかしを他人に見抜かれることを極端に恐れているだろうし、それに関しては普通に活動しているだけで、清廉潔白ではいられないような世の中なのかもしれないが、そうなると自らが必ず抱え込んでしまう欺瞞やごまかしとどう折り合いをつけるかが、その人の人としての器や度量を決めるようなこととなってしまうのかもしれないし、清廉潔白を装いながらもそれが見せかけであることがばれて、取り乱したりうろたえてしまうような人は、小心者の小物だと思われるだろうし、その一方で欺瞞やごまかしだらけなのに平然としていて、しかもそうであるのに他人からも信用されているような人だと、そういう人の周りにはその人の分け前に与っている仲間や手下が大勢いたりするわけで、そんな人たちに支えられながら、何らかの利害共同体のような勢力のトップに立っているような人だと、カリスマ的な力があると思われているだろうし、それなりに多くの人を惹きつける魅力も持ち合わせているわけだろうが、いったんそんな立場になってしまうと、私生活だけでなく、公的な領域でもいくら欺瞞やごまかしが発覚しようと、またそのことで他人から憎まれようと蔑まれようと、そんなことは意に介さないような成り行きとなってしまう場合もあるわけで、実際にその人の取り巻きによって支えられて、御輿に乗っているような状態となってしまえば、その人の人間性とは無関係に、その人をトップに頂いた勢力としての活動が勝手に動いていってしまい、その中でその人に割り当てられたトップとしての役割を全うしている限りで、それで構わないような成り行きとなってしまうのだろうが、ただそうした勢力の利害に反したことをやるようになってしまうと、勢力内でその人に対する追い落とし工作などが画策されることになり、そうなると今までは大目に見てきた欺瞞やごまかしが問題視され出すだろうし、それがその人を追い出すための口実に使われることにもなるわけで、そういうことまで考えるなら、普段からなるべく清廉潔白を装う必要が生じるのかもしれないが、そうだとしてもただの清廉潔白なだけでは、勢力内でその人への求心力が生じてこないだろうし、そんなわけで他人と欺瞞やごまかしを共有しながら仲間を増やしていって、そうした勢力のトップにまでのし上がるような人には、もろ刃の剣のような表裏一体の強みと弱みを兼ね備えているから、それなりに人を惹きつける魅力が生じるのだろうし、そういう意味ではトップに居座って安泰でいられる期間は思ったほど長くはないのかもしれないし、それもその人を取り巻く周りの状況に左右される面が大きいのかもしれない。


4月8日「物事の合理性」

 物事を合理的に考えるとどうなるかといえば、幻想を抱けなくなるのかもしれないが、そもそも合理的に考えるということが、どういうことなのかといえば、理にかなったことを考えるということになるだろうが、どう考えれば理にかなうかといえば、それに関して何か説得力のある具体例を示さないと、大抵の人は納得できないだろうが、その具体例以外に合理的な事例がないかとなると、他にもいくらでもありそうで、たぶん他にも無数にある合理的な事例を一つ一つ挙げていくのは、合理的なやり方だとはいえないだろうし、一つの説明によって誰もが納得できそうな合理的な説明ができるかとなると、それができなければ、そんな虫の良い説明などないということになるわけだが、そうではなく、何かを具体的に考える際に、なるべく合理的に考えようとするわけで、また考えるだけではなく、何かをやる際にも、なるべく合理的なやり方を模索しようとするだろうし、実際に考えたり行なったりする際に、どう考えるのが合理的なのかを考えるし、どうやれば合理的になるかを考えようとするわけで、すでにその時点で、それが合理的か否かがわからない考えや行いに取り掛かろうとしていて、そこで工夫を凝らして、いかにすれば合理的になるかを考えるわけで、そこで考えていることや行なっていることに関して、絶えずそれが合理的か否かの判断を下しつつも、合理的でないと判断すれば、合理的になるように、考えていることや行なっていることを修正しようとするわけで、そうであるならそれが合理的であるか否かは、その時点ではっきりと決まっているわけではなく、またいったんは合理的だと判断しても、状況が変わってくれば、もっと合理的なやり方を思いつくかもしれないし、実際にもっと合理的なやり方を思いつけば、それまで合理的だと思っていたことは、もはや合理的ではなくなるだろうし、そういう意味で物事の合理性を追求し始めると、絶えず自らの考えていることや行なっていることを批判的に解釈し直すことになるだろうし、また自分だけでなく他で行われていることにも同様に批判的な解釈を加えることになるわけだが、それが合理的か否かについては、やり方や考え方の正しさを求めることにはなるだろうが、それは絶えず暫定的な正しさであり、いつでもさらに合理的なやり方や考え方が見つかったら、それまでのやり方や考え方は正しいとは言えなくなって、新たに見つけられたり導き出されたやり方や考え方が、またさらに合理的なやり方や考え方が見つかるまでは、暫定的に正しいやり方や考え方となるわけだが、果たしてそうやって絶えず合理的なやり方や考え方をより合理的なものへと更新し続けられるかとなると、普通に考えるならそういった合理性の追求にもそれなりの限界があるだろうし、そういつまでもより合理的なやり方や考え方を追求していられるわけでもなく、ある一定のやり方や考え方が世の中に普及すると、それが模範的なやり方や考え方として定着して、それが主流となって他のやり方や考え方を駆逐するような成り行きもあるだろうし、そうなればそこで更新が止まってしまうわけで、実際にそれ以上の追求が行われなくなってしまえば、それ以降はそういうやり方や考え方が延々と繰り返されるような成り行きにもなるだろうが、どこでもそうなるわけではなく、地域によってはさらに合理的なやり方や考え方が考案されて、その地域ではそこから先でも合理性の追求が継続されることにもなるだろうし、そうやって合理的なやり方や考え方にも地域的な偏差が生じてくるのだろうが、その地域的な範囲も一定しているわけではなく、ある地域が他の地域より栄えてくると、その地域の範囲が拡大する傾向になってくるだろうし、そうなるとより合理性を追求し続けた地域が、他の合理性の追求が止まってしまった地域を征服したり吸収しながら、その勢力を増していって、ついには世界全体にその勢力範囲を広げてしまうと、そこで世界が一つになるのかもしれないが、それが必ずしも一つの国家による世界統一という形態にはならない可能性もあるだろうし、実際に現状の世界について考えるなら、国家自体が合理的な組織形態だとは言えないのかもしれず、むしろ合理的な形態とは国家ではなく企業の方かもしれないし、世界全体を一つの領土で統一すること自体が合理的なやり方ではないとすれば、暫定的には現状のような多数の国家とさらに多数の企業が混在しているような状態が、国家にとっても企業にとっても合理的な状態と言えるのかもしれないが、それはあくまでも暫定的な状態であり、今後さらに合理的な状態が出現するとも限らないし、そういう面でも絶えず合理的なやり方や考え方が模索され続けるのかもしれないが、その一方でそういう面での合理性の追求がすでに止まってしまった可能性もなくはないだろうし、今後も延々と多数の国家とさらに多数の企業が世界で混在した状態が続くなら、それが裏付けられたことになるのかもしれないが、現状の中で暮らしている人々にとっては、そんなことはどうでもいいことでしかないのかもしれないし、現状の中では現状に適応した人が生きていられるだろうし、その現状が変化すれば、またその変化に適応した人が生き残ることになるのだろうが、それも実際にそうなってから、人々がどうやれば生きていけるかに関して、その都度、合理的なやり方や考え方を模索し続けることになるだろうし、実際に現状の中でも大勢の人々が移民や難民となって、生き続けることの困難さをその身をもって体験している最中であり、その中から生き残った人々によって合理的な生き方が見つけられるのかもしれないが、果たして生き残ることが合理的なやり方となるのか、あるいは死んでしまった方が合理的なのかは、その人の立場や境遇によって異なってくる可能性もあるだろうし、かつてナチスドイツではユダヤ人の処遇についての合理的な解決手段として、絶滅させるやり方が採られたわけだが、実際にそれは頓挫したわけだから、ナチスのやり方が合理的だったか否かは、わからずじまいになってしまったわけだろうが、たぶん物事の合理性に関しては、ある面では合理的であっても別の面では不合理や非合理なところが生じてしまうのかもしれないし、必ずしもそうすることが全面的な合理性を獲得するわけでもないのかもしれない。


4月7日「使命感」

 人には社会の中で前もって何によってどのような役割分担が割り振られているわけでもないが、後からその人に役割を課す対象として何らかの団体に所属することはあるだろうが、それは団体内での役割分担であって、社会から特定の役割を課されているわけでもないとは思いたいが、知らない間に自身に特有の立場が生じたり、何らかの境遇に陥ってしまうと、そうした立場や境遇に応じて振る舞うことが、その人の社会の中での役割であるかのように思われるかもしれないが、それはその人の思い込みであって、ほとんどの人はそんなことを思っているわけでも自覚しているわけでもないだろうが、それでも時と場合によっては、自らの役割を勝手に自覚してしまうような成り行きにもなるだろうし、そんな役割を誰によって課されたわけでもないのに、ある日突然何か天啓のような啓示を感じて、その気になって自らの役割を全うする気になってしまえば、それがその人の使命になってしまうのかもしれないが、そうした使命感がないと何もできないわけでもないだろうが、そんな使命感に囚われた方が、何をやるにも張り合いが出るのかもしれず、張り合う対象として、その人に使命を授けた神のような存在が意識されて、自分がそうした対象から試練を課されているような気になれば、喜んで困難に立ち向かい、試練を乗り越えて、やるべきと思われることをやり遂げようとするのだろうが、果たしてそんな使命感に囚われることの是非を判断できるかとなると、たぶんそれは判断の対象ではなく、実際に使命感に囚われてしまった人は使命に従おうとするだろうし、囚われていない人は使命を感じないわけだから、従うも何もなく、ただそんなこととは無関係に生きていくのかもしれないが、肝心なのはたとえ使命感に囚われてしまったとしても、その内容に関して、果たしてやるべきことか否かが判断の対象となるはずだろうが、もしかしたらいったん使命感に囚われてしまうと、その使命がどんな内容であっても従う気になってしまい、たとえひどいことでも平然をやる気になってしまえば、それによって迷惑を被る他の人にとっては、それなりに困った事態になるわけだろうが、果たして使命に従うか否かではなく、使命の内容によって、その是非を判断できるかとなると、たぶんそういうことに関して問題が出てくるのが、組織的な集団体制なのかもしれないし、人が何らかの団体に所属すると、何かをやるかやらないかに関して、その内容如何でやることを拒否できる選択肢がなくなってしまって、拒否したらその団体から追い出されるようなことになってしまうとしたら、やはりそうした体制には問題があることになってしまうわけだが、果たして現状の組織的な集団体制の中で、上からの命令を拒否しても構わないような体制の団体がどれほどあるかとなると、どう考えてもそんなに多くはないだろうし、下手するとほとんどの団体では、そういう体制にはなっていないのかもしれないし、団体としての活動内容がどんなものであるかによって、命令の内容にも千差万別があるだろうが、例えばそれがギャングやヤクザなど暴力的な団体であれば、非合法的な内容となってくるだろうし、さらに軍隊や警察などであれば、たとえ合法的な活動内容であろうと、暴力を伴う場合も出てくるわけで、そういった団体に入ると、場合によっては普通の平和な日常では考えられないようなひどいことをやってしまう可能性があり、しかも上からの命令には絶対服従のような掟があるだろうし、それがそういう団体に特有の活動内容を伴ってくるのだろうが、もちろんそんな極端な例を持ち出してくること自体に妥当性はなく、それと比べて個人が勝手な使命感からやるようなこととなると、やれることの内容もその自由度もだいぶ違ってくるだろうし、何をやっても構わないようなことになってくるのかもしれないが、もちろんそこには法律的にも制度的にも経済的にも制約や限界があるだろうし、それらの制約や限界の範囲内で行うこととなるわけだろうが、そうであってもそれらの制約や限界を超えたことをやろうとしてしまう場合があるわけで、それに関してはそもそもどこまでやれるかが、あらかじめわかっていないことが多いだろうし、中には実際にやり始めてからそれに気づくこともあるだろうが、その大半はやっている途中でも気づかずにやり続けている場合があるだろうし、その結果としてやり遂げられずに終わってしまう場合があるわけで、そんなやり遂げられないことをわからずにやっているようなことだと、それが無駄で無意味なことになるかというとそうでもなく、別にやり遂げられなくても構わないようなことをやっているのかもしれないし、その人の力量や技量や器量を超えたようなことをやることが、それをやり続けることによって、やっているうちに力量を増やして技量を向上させて器量を大きくすることにつながる可能性もあるのかもしれないし、それが一般的には練習と呼ばれる鍛錬になるわけだろうが、そういったどこまでやってもきりがないようなことをやり続けていると、それをやり続けていること自体が、その人の主な活動内容となってしまうわけで、そんな練習を続けることが目的化してしまうと、練習の成果を試す機会が訪れずに終わってしまう可能性もあるのかもしれないが、それを練習と捉えずに、それ自体が何かを生み出している最中と考えれば、その何かがやっている最中にはわからないようなことになってくるのかもしれず、そうなるとそれが何のための練習であるかも定かでなくなってくるだろうし、もしかしたらそこから思いがけない事態に直面することになるのかもしれないし、実際にそこまで至ると、もはや当初に抱いていた使命の内容もわからなくなってきて、何のために何をやっているという明確なビジョンを抱けなくなってしまうのかもしれないが、意外と集団的な組織形態であっても、その構成員にはそういうことがわかっていない場合が多いのかもしれないし、実際に末端で働いている構成員には明確な目的が示されないまま、ただ上からの命令に従っているだけでは、自らが関わっている物事の全体を見通すことができないわけだから、かえってそんな状況の中で気を利かせて目的意識を持ってしまうこと自体が、その人の独りよがりな勘違いでしかなくなる可能性もあるだろうし、そういうところで無理に信念や信条を意識しない方が、うまく振る舞えるのかもしれないし、幻想を抱くよりは目的がわからないことを自覚すべきなのかもしれない。


4月6日「普遍と特殊」

 特定の物事に普遍性があるように思われる時、それは特殊な物事ではないはずだが、そこだけで通用する特殊な物事に普遍性がないのかというと、どうもそうではないのかもしれず、特殊な物事にも普遍的な面はあり、それどころかすべての物事には普遍的な面も特殊な面もあるのかもしれず、その場やその時やその部分に限定されているように思われる特殊な面というのが、逆にすべての物事に通じる性質だとすれば、それが物事の普遍性を表していて、そうやって物事の特殊な性質を抽象的に導き出すやり方に普遍性があるわけで、普遍的なやり方によって物事の特殊性が導き出されるとすれば、普遍性と特殊性は対立する概念とはなり得ず、むしろ相補的な関係だと言えるのかもしれないが、どうもその辺で誰もが思い違いをしているのかもしれず、普遍性にも特殊性にも意識を誤らせる面があるのかもしれない。それに関して誇って見せたり肯定したい物事の特殊性を、自分たちだけが保持しているかのような気になっていると、そうした特殊性を成り立たせている物事の普遍的な面を見逃している可能性があり、しかもその普遍的なやり方から導き出される特殊性というのが、誇って見せたり肯定するようなことというよりは、むしろ他と比べて劣っていたり、遅れている面まであるのかもしれず、だから他にはない特殊性を誇って見せたり肯定したりするというよりは、ただ単にその場やその時やその部分に限定されていることを理解すべきで、そういう性質を持った物事の良し悪しというよりは、そこに限定された性質であることを強調すべきであり、そういう部分で判断が誤っているのかもしれないのだが、どうしても他にはない特殊な面というのは、他と比べて際立っていると勘違いされやすいのかもしれないが、そこだけに限定されているということは、他では通用しない可能性があるわけで、他では通用しない面を誇って見せたり肯定しても、他の人たちにとってはどうでもいいことであり、むしろ他でも通用する普遍的な面があれば、他でも共感や支持を得られるはずだが、実際に他でも見習うようなことであるなら、そうした物事には特殊な面よりも普遍的な面があることになるだろうが、他では誰も見習う気配さえもなければ、やはりそこだけで通用する限定的で特殊な物事でしかないだろうし、それは良いとか悪いとかというよりは、ただそこだけで通用することでしかなく、それを誇って見せたり肯定すること自体が思い違いであり、そういう面で判断を誤っていることになるのではないか。またそれに関してわかりやすい例を挙げるなら、将棋とチェスと囲碁とオセロというボードゲームを比較してみれば、個々のゲームにはそのゲームに特有の特殊なルールがあるだろうが、二人で対戦するゲームという面では共通点があるだろうし、またボード上に並べて使う駒や石に関しては、将棋とチェスと、囲碁とオセロでは、共通点がそれぞれにあるだろうし、そうやって世界中で行われているボードゲームの中で、全てのゲームに共通する普遍性と、個々のゲームに特有の特殊性が相補的に組み合わさって、そういった遊びを成り立たせていることは、誰もが気づくことだろうが、別にそれらのゲームの中で、他のゲームより優れている点を誇って見せたり、他のゲームより劣っている点をけなして見せたりする行為などあり得ないだろうし、それよりは個々のゲームの他のゲームと違う点や似ている点を強調することがあるわけで、それは優劣や良し悪しとは関係ないだろうし、そういう意味で物事の普遍性や特殊性は、性質の優劣や良し悪しと直接つながっているわけではなく、その中で普遍性は他と共通する面であり、特殊性は他とは異なる面だと単純にみなしておけば、それほど間違っているわけではないのだろうが、それを普遍的な面が良くて特殊な面が悪いと単純に解釈してしまうと、誤った判断となってしまい、しかもそこから逆に特殊な面を誇るような倒錯的な居直りまで誘発してしまうだろうし、そうなると合理性や妥当性の判断にもつながってきて、合理的に考えるなら、なるべく他との差異をなくすようなことをやった方が、理解を得られやすく共感や支持を得やすいと判断されてしまうだろうし、そうであるならなるべく特殊なことはやらない方が妥当なようにも感じられてくるだろうが、それに関しては例えば世界で比較的通じやすい言語として英語を習うのが合理的な判断であり、それが妥当なやり方だと思われてしまうわけだが、だからと言って日本語をやめて日常会話を英語に限るべきだということにはならないだろうし、すでに日本語で日常会話が行われている歴史的な経緯を無視するわけにはいかないし、しかもその日本語の会話でさえ、江戸時代あたりまで遡れば、地方によって話が通じないほどの差異があって、それは今でも青森あたりの方言だと他の地方の人には理解が困難なのかもしれないが、結局明治維新以後に、政府が義務教育などと連動させて、共通言語としての日本語を人工的に作った経緯があるわけだが、それは日本だけの特殊な事情ではなく、他の国でも民主的で中央集権的な国民国家を作る過程で、その国に特有な人工的な共通言語を作る試みがあったわけで、そういった民主的で中央集権的な国民国家と共通言語を作る試みというのが、普遍的な傾向であるだろうし、そしてそれが現代に至って、そういった普遍的な傾向にも陰りや限界が出てきたことも、世界的に共通の普遍的な傾向なのかもしれず、そういった陰りや限界を象徴するのが、極右的な傾向なのだろうし、しかもそれが中央集権的な国民国家に特有の特殊性から生じている可能性まであって、そういう意味でも普遍性と特殊性が相補的な関係を形成していると言えるのかもしれないが、そこでもその国の特殊性を誇って見せたり肯定するような行為が行われていて、それが誤った判断に基づいているとは思われないだろうし、そうした勘違いを勘違いだとは理解できない傾向も、世界的に蔓延しているのかもしれず、それも現状での普遍的な傾向なのかもしれないが、どうもそれの良し悪しをいくら言い立ててみても、事態が改善するとは思えないし、実際に改善していないし、それが対立や抗争の原因ともなっているわけだから、憂慮すべき事態であることは確かだろうが、そう思ってしまうことも、もしかしたら思い違いである可能性まであるのかもしれない。


4月5日「不徹底な時代状況」

 程度の差があるにしても、人は誰でも幻想を抱くだろうが、それがその人にとって都合の良い内容であることは確かだとしても、別にそれが実現しないままとなってしまっても、構わないようなことを夢見ている場合もあり、その大半が気休めに過ぎなくても、それでは不満を感じるとしても、取り立てて不都合は感じないだろうし、実際にそれなりに生活が成り立っていれば、特に問題はないのかもしれないが、それでも何か願望ぐらいは持ち合わせていて、期待していることもありそうで、それが淡い期待に過ぎないから、幻想を抱いていることになるわけだが、そういった別に裏切られても構わないような望みの薄い期待であれば、実現するしないは特に問題ではなく、何が何でも実現しようとするこだわりや執念を感じられないようなものだと、たわいない思いになってしまうわけだろうが、その程度にとどまっているようでは、切実さがないだろうし、状況的には深刻さが欠けていて、それに関して危機感を煽るような事態にはならないわけだが、そういった物事への不徹底な接し方というのは、悪く言えば意志薄弱に見られるだろうが、そうなってしまう成り行きというのもあるだろうし、普通に社会の中での立場や境遇によっては、どちらかといえばそんなくだらない幻想を抱きながら生きているぐらいが、ちょうど良い場合があるわけで、その程度の人を馬鹿にしたり批判するのが、筋違いの勘違いにしかならない世の中であれば、それだけ平和な世の中が実現していることになるのかもしれず、そうであるならそれを悪く言うことは間違っているわけだが、それでも立場や状況によっては、それでは済まないような境遇の中で生きている人もいるわけで、そういう人から見れば、そんな何か生ぬるいように見えてしまう人を軽蔑したり、時には許せないと感じてしまうのかもしれないが、それを立場や境遇の違いとして認められるかとなると、それを認められるような人は、それだけ心身や経済的な事情などに余裕があるのかもしれず、どうあってもそういう面では立場や境遇の違いによって、現状認識に差が出てきてしまうわけで、それだけ政治的なリアリティにも深刻度や切実さに違いが出てくるわけだが、中には多くの人が特定の立場や境遇にある人の深刻かつ切実な現状認識に共感したり同調する成り行きもあるだろうが、そういうところで、ありふれた現状認識というのが、メディア上で使い古された慣用句を使って主張される意見の中身になると、確かにそれに共感したり同調するような人もある程度は出てくるだろうが、それがたわいない幻想を抱いている人たちでしかなければ、世の中に大して影響を及ぼさないだろうし、すでにそうした認識がメディア上で織り込み済みになっている場合があるわけで、たとえそれが現状に対する危機感の表れだろうと、昔から延々と繰り返されてきた危機感でしかなければ、かえって安心材料にしかならないだろうし、そういう危機的な現状認識をメディア上で述べる役割分担がされた人の意見として、そういう言説がメディアを通して世の中に広められてきた経緯がものを言うわけで、それ以上でなければ今まで通りにしかならないだろうし、それ以上を期待するわけにもいかず、やはりその程度に留まっていれば切実さが感じられないから、たわいない現状認識にしかならないわけだが、果たしてそれ以上の現状認識が可能かといえば、不可能ではないだろうが、別に危機感を煽ってわざと民衆を不安に陥れるようなことをやる必要があるかとなると、その必要はないだろうし、無理にやっても空振りに終わる公算も高そうだし、たぶんそういうこととは違う面で、そうしたこれまでにも繰り返されてきた煽動的なやり方とは違うことをやる必要があるのかもしれないが、必要があるというのも嘘になってしまうかもしれないし、その辺が何かを主張することの限界であり、それ以前に特に何も主張しなくても構わないのかもしれないし、何かをメディア上で主張すること自体に違和感を感じて、何かそうではないような気がしてくるとすれば、すでにそんな気がしている時点で、それがメディア上で流通しているありふれた現状認識に、リアリティを感じられない証拠かもしれないのだが、では他に何かリアリティを感じられる対象があるかとなると、例えばそれは、実現するあてもないたわいない幻想を抱きながら生活していること自体にリアリティを感じられるのかもしれず、それが虚ろで根無し草的な大衆の実態かもしれないが、それを否定的に捉えるわけにはいかないだろうし、世の中が平和な代償としてそうなっている可能性さえあるわけで、そんな平和では退屈で死にそうだから、何かそれとは正反対の動乱が起こってほしいと期待するのも、現実逃避的な願望であり、しかもそれが実現しなくても一向に困らないような無責任な期待でもあるわけだが、そういった本気で願っているわけでもないような無い物ねだりの願望というのも、退屈紛れに思い描く気晴らしの幻想となるだろうし、そうやってどんどんどうでもいいような軽くて薄っぺらい妄想が連鎖していくと、頽廃の雰囲気が醸し出されてくるのかもしれないが、それも幻想の範囲内で思っているにすぎなければ、軽くて虚ろな頽廃でしかなく、真の頽廃状態からはかけ離れていると言えるだろうが、そうやって思っている何もかもがイミテーションの域を出ない状態の中で、リアリティを感じられるかとなると、たぶんそれがそれなりの実感を伴ってくるようだと、やはりまだまだ心身ともに経済的にも余裕がある証拠となってしまうのかもしれず、何かそうやって本気になるのを先送りしている状態が、憩いのひとときを形成していて、これから迫り来る嵐の予感もフィクションと取り替えて、それ以上に取り違えているのが、物事の合理性と恣意性になるのかもしれないが、そんな心理状態で物事の普遍性を感じられるかというと、とりあえずのものでしかない現状の生活が普遍的であるはずがないだろうし、そういう現状の特殊性がいくら寄り集まっても特殊な状況であることには変わりないわけだが、それでも自然と理屈を適用して物事を合理的に考えようとするわけで、恣意的に言葉を選んで何かを述べているにすぎないのに、それのどこに合理的な思考が潜んでいるとも思えないだろうが、合理的に物事を考えようとすることが、普遍的な価値観に基づいていることを信じるしかないのではないか。


4月4日「規範を外れる行為」

 人が活動するにあたって、社会の中で守るべき規範としてすぐに思いつくのが倫理や道徳になるかもしれないが、具体的に倫理や道徳が何かというと、それがわからないわけではないが、うまく表現できない場合があるのかもしれず、それに関してやってはいけないことを挙げていくと、それは法律で禁止されていることに行き着くのかもしれないし、それ以外で特に法律で禁止されていなくても、道義的にやってはいけないことが何かとなると、その場の状況や成り行きの中でしかわからないことかもしれないし、どんな状況とも成り行きとも関係なく、無条件にやってはいけないこととなると、もしかしたらそんなのはあり得ないのかもしれないが、それと似たようなことで、倫理的あるいは道義的にやってはいけないことが、どうやったらわかるのかといえば、実際にやってはいけないことをやってみないことにはわからないのかもしれず、やってはいけないことをやってみるまではそれがわからなかったり、それをやったところで気づかない場合さえあるのかもしれないし、実際にそうしたことをやってしまって、それを他人から倫理的あるいは道義的にやってはいけない行為だと指摘されて、初めてわかるようなことだとすれば、まずはやってはいけないことをやってしまう状況に至らないことには、それがわからないことになるだろうし、そういう意味で何かをやる前からやってはいけないことをわかっている場合には、まずはそれをやらないし、大抵はやってしまった後からそれを批判されたり非難されて、初めてそれに気づくようなことになってしまうのではないか。だから何もない状態から倫理や道徳が何なのかを示すのは難しいのかもしれず、実際にそれを示すような成り行きになるには、実際に倫理的あるいは道義的に許されない行為をやった後でないと、それを示せないようなことになってしまうのではないか。そしてもしそうだとすると、守るべき規範が何のかが大抵の場合はわからないことになってしまうだろうし、実際にそうした規範を破って痛い目に遭ってみないことにはわからないとなると、それを知ったところで不快で嫌な気分になるだけだろうし、そんな成り行きの中で倫理や道徳が嫌いになるのも仕方のないことかもしれないが、それはやるべきこととして知るのではなく、やってはいけないこととして知ることになるわけだから、やってはいけないことをやった後でないと知り得ないのは当然のことだろうし、それを知った時点で罪の意識に苛まれるわけだから、それを他人に知らせるようなことでもないし、それをやらない人が知るようなことでもなく、やる前にあらかじめ知っておくべきことでもないのかもしれないし、実際に過ちや誤りや間違いを犯してしまったことに気づいてから、罪の意識とともに知るようなことだとすれば、倫理や道徳を守るのがいかに難しく大変なことであるかを、自らの身をもって体験させられることで、倫理や道徳の大切さを痛感させられるような成り行きにしかならないのかもしれないし、しかもそれを破ってしまうわけだから、守ることが難しく大変なことであり、実際に守れないわけで、そして守れないことによって罪の意識に苛まれるわけだから、それが守るべき規範だとしても、守られない事態が起こるわけで、そんな事態に直面した時に守ることの大切さを痛感させられてしまうとしたら、ではどうすればそんな事態から逃れられるかとなると、逃れるすべがなければ、それを受け入れるしかないわけだが、そうなると要するに守るべき規範を守れない事態になるわけだが、そうなるのが不快で嫌なら、では逆に意識して積極的に倫理や道徳に反することを行えるかとなると、罪の意識に目覚めないと、倫理や道徳を感じられないのかもしれないし、それを守ろうとして守れない時にのみ、罪を意識を感じて、倫理や道徳が何であるかを知るに至るとすれば、罪の意識を感じられない人にとっては、倫理も道徳もないわけで、そもそもそれらに反する行為が何であるかを知らないことになるのだろうし、そうであるなら積極的にそんなことを行えるわけでもなく、ただ何かをやった後から、それらに反する行為だと他の人から批判されたり非難されて初めて気づくわけだから、厄介この上ないことなのかもしれず、そうであるなら逃れるすべはないことになるのかもしれないが、別に罪の意識に苛まれたとしても、不快で嫌な思いをするだけだから、そういうものだと思っておくしかないのかもしれず、それを意識しないように心がけても、嫌でも意識させられてしまう事態にも直面してしまうだろうし、そういう面では自らで制御できるような範囲を超えて襲来する事態なのかもしれないし、結局はそういう事態を受け入れるしかなく、せいぜい不快で嫌な思いをさせられながらも、そういう成り行きに耐えることしかできないのではないか。そしてそういう成り行きが過ぎ去った後でも、機会を捉えてその時のことを反芻的に思い出しては、自己嫌悪に陥るようなこともあるだろうし、そういう不快で嫌な思いを数限りなく経験しているうちに、年老いて寿命が尽きて亡くなってしまう場合もあるだろうし、またそういう経験から学んで、守るべき規範を守るように心がけたとしても、自ら制御できる範囲は限られていて、それは他人との関係の中から生じてくるものだから、例えばその他人を助けようとして、倫理や道理に悖るような行為をやる羽目になってしまったりすれば、やはりそれは自らの力だけではどうにもならないことだろうし、良かれと思ってやったことが、その時点では自らの気づかないところで、守るべき規範を外れていたりもするわけで、それにやった後から気づけば後悔するかもしれないし、そんなことも含めて、全てにおいて自らが納得づくでやるようなことにはならないだろうし、多少の疑問や疑念を抱きながらも、やらざるを得ないことなどいくらでもあり、やっている最中に嫌な予感がしてきても、そこから後戻りができない場合もいくらでもあるわけで、そんな中には規範から外れた行為もそれなりに含まれてくるだろうし、そうでなくてもやっていることの全てがうまくいくとは限らないわけだから、やってしまったことで他人に迷惑をかけようが、罪悪感に苛まれようが、その度に対処して対応していくしかないわけだ。


4月3日「言葉と貨幣の力」

 たぶん言葉には力があり、また貨幣にも力があると思われるが、それらを使って人を動かして、動かされた人が物や情報を動かして、何らかの物事が成し遂げられたら、確かにそれを成し遂げる過程で使われた言葉や貨幣には力があると思われるだろうが、実質的には言葉や貨幣を使って、人や物や情報を動かして、何らかの物事を成し遂げた人や団体に力があったことになるだろうし、人が言葉や貨幣を使うから力が生じるわけで、では使われない言葉や貨幣に力があるかとなると、それらの蓄積が信用を生むなら、蓄積された言葉や貨幣には、信用を生じさせる力があることになるだろうし、他人を信用させる上で言葉や貨幣の蓄積は、それらを使って何かをやってくれるのではないかという期待を生じさせて、それが信用となるわけで、それに関して言葉が蓄積された状態は知識の蓄えがあるということであり、貨幣が蓄積された状態は資産の蓄えがあるということだとすると、それらを使って経済活動を行えば、利益を生む可能性があり、そういう意味で知識や資産の蓄えがある人や団体は、それらを使って利益を生む可能性があるから、世間的に信用されるわけだろうが、その一方で力というのは仕事を行う原動力であり、普通に力があれば、その力を使って何かを行えるわけだが、言葉を使って何かを行えれば、その言葉には力があることになり、また貨幣を使って何かを行えれば、その貨幣にも力があることになるわけだが、では人の力で何が行えるかといえば、言葉や貨幣を貯めて使えるということだろうし、人には言葉を貯めて使ったり貨幣を貯めて使う力があるわけだが、それ以前に道具を作って使う力があり、そうした道具の中で人を使う道具として、言葉や貨幣があるわけだろうが、貨幣は紙幣や硬貨となると物質的な印象を伴うが、本質的には価値を計る尺度としての数値的な情報であるわけだが、言葉も紙に記されて書物となったり、石板などに刻まれたりすると物質的な印象を伴うだろうが、記号としての文字で記される面と、発音されて音として聞き取られる面もあるし、それも本質的には情報であり、言葉はそれを介して人と人とが意思疎通を図るための道具と捉えればわかりやすいだろうが、道具であるからには、それを使って何かを行うことになるわけで、人を使うには言葉で命令する必要があるだろうし、命令というと一方的な権力関係を前提とするだろうが、もう少し対等な関係になると、お願いという相手の同意を必要とする関係もあるだろうし、さらに金銭的な見返りと引き換えにして働いてもらう関係があるわけだが、そうなると言葉と貨幣の両方を組み合わせた関係となるわけで、それは言葉だけで命令したりお願いしたりする関係と違って、そこに貨幣が入り込んでくると、それだけ拘束力が強くなってくるわけで、実際に金銭と労働の交換だと、そこで契約の関係が生じてきて、金銭をもらうからには、その金銭に見合った労働を行わなければならないという義務が生じてくるだろうし、金銭に見合った労働を行わなかったり、労働に見合った金銭を与えなかったりしたら、契約違反とみなされてしまうわけで、そういう契約を交わす上で必要なのが言葉であり、普通は言葉で記された契約書を交わすことになるだろうし、契約する双方が著名して、契約書に記された約束を守るような成り行きになるわけだが、要するに人を契約書に定められた活動に拘束する上で、言葉と貨幣が必要となるわけで、言葉と貨幣によって人を拘束して活動させることができるわけだが、そういう意味でも言葉と貨幣には人を動かす力があると言えるだろうし、それは魔力や超能力などではなく、動かす上で同意を得るために必要な力であり、人を従わせて操る力だとも言えるわけだが、そういったことをやらせる契約が成り立つ上で必要なのが、契約を履行させる制度であり、制度を定める法律であり、法律を守らせる行政機構となるわけだろうが、もちろん法律は言葉で記されているわけで、言葉で記されているだけの法律を守らせるには、強制力を伴った機構が必要となるわけで、それが政府などの行政機構であるわけだが、行政機構なしでも法律が守られるかとなると、それは人々の善意に期待するしかないだろうし、そもそも何をやるにも法律が必要かといえば、それも人々の善意に期待するしかないのかもしれないが、少なくとも人と人とが話し合って妥当なやり方を決めて、決めたことを行うには、特に法律も制度も必要がない場合もあるだろうが、何かをやろうとする度に、いちいち話し合って妥当なやり方を決めるのではなく、前もってやり方を決めておくのが制度であり、その決められたやり方が法律となるわけだろうが、その方が何かと便利だから、そういうやり方が普及したのだろうし、普及するに従って、それを決めたり決められたことをやるために、人が大勢集まって社会が形成されてきた経緯があるのかもしれないが、そんな中でも一人で勝手なことをやっている分には、法律や制度に従っている自覚はないだろうが、周りに人が大勢いれば、一人で身勝手なことはできなくなるわけで、それをやるに際して周囲の人々に同意を得る必要が生じてくるわけで、そこでも同意を得るためには話し合いが行われる成り行きになるだろうし、話し合うために言葉が必要となってくるのは当たり前のことだが、話し合うために人が大勢集まってくれば、やはりそこにコミュニティなどの社会が形成されて、大勢で協力して何かを行うような成り行きが生じてくるわけだろうし、大勢で何かをやるには、あらかじめ決まりを作って、そこで決められた手順や動作に従うようなことをやらないと、どうしても大勢で行う協同作業とはならないわけだが、決められたことを行うには意思疎通を図らなければならないし、意思疎通を図る上で必要なのが、そこに集った誰もが理解できる共通の言葉であり、またそういった社会の規模がある程度を超えてくると、親族や一族の単位を超える規模で協同作業を行う必要が出てくるだろうし、そうなった時に必要となってくるのが、企業などに特有の金銭的な契約関係となってくるわけで、地縁や血縁などとは無関係に協同作業を行う上で、どうやれば信用や信頼関係を構築できるかに関して、金銭的な見返りを前提とした同意のシステムが編み出されてきたわけで、そういったやり方が、それまでに主流だった奴隷制などより優れたシステムだったから、実際に奴隷制などを駆逐しながら普及したのだろうし、現状に至るまでには様々な紆余曲折やそれなりの歴史的な経緯を経ているわけだが、それはあくまでも現時点での現状であり、今後そういった形態がさらに様々な紆余曲折や歴史的な経緯を伴いながら変化して行く可能性もあるわけだ。


4月2日「呪術の力」

 呪術的な効果というのは一般的には心理的なものだと言えるだろうが、フィクションの中では物理的な作用も伴ってくるから、信じやすい人は想像力を働かせて、何か直接の物理的な作用を伴って呪術にかかった人を傷つけたり、場合によっては死に至らしめることまで信じてしまうかもしれないが、それを信じた人が直接の凶行に及んだり、陰謀を巡らして人を苦しめるようなことを行えば、そもそもそれが呪術的な効果だと言えるだろうし、呪術が人を動かして物理的な作用を及ぼすことは十分にあり得ることだから、単に心理的な影響しかないと考えるのは間違いなのかもしれず、そういう意味で呪術というのは人を介して何らかの作用や影響を及ぼすことは確かであり、それが迷信だろうと魔法だろうと、全く何の効果もないわけではなく、ただフィクション中で表現されるような驚異的な力の実態とはだいぶ違うのかもしれない。そしてそういった力をフィクションの中で表現しようとすることも、また人知を超えた神秘的な力の存在を信じようとすることも、それなしではうまく説明のつかない成り行きや現象に遭遇してしまうからかもしれず、実際にそういった奇跡と言われる現象や出来事に直面してしまうと、それを想像してしまうだろうし、人の心がそういった力の存在を信じるような精神構造を持っているのではないか。またそういった力に魅力を感じるということは、そういった力を会得したいという願望の表れでもあり、そういった力を使って思い通りのことをやりたいという欲望の表れでもあるのだろうが、そういった力がないとどうにもならないことがあるのかもしれず、どうにもならないからこそどうにかしたいわけで、それが現実の世界ではどうにもならないとしても、フィクションの中ではどうにかなるような話にしたければ、どうにかするためには超能力とか超自然的な力を持ってこないと、どうにもならないわけで、フィクションとしてならそれで構わないのだろうし、また現実の世界で起こっている現象や出来事を説明する際にも、そんな力の存在を信じるなら、それを説明できるだろうし、信じている人たちの間では、そういう説明でも通用するわけで、それで構わないような場や状況が実際にあるわけだ。またそれを信じている人には実際に呪詛の類いが効くこともあるだろうし、それが思い込みでしかないとしても、思い込みであるだけに、呪詛をかけられた人の身体や精神に異常をきたせば、それが効いていることになるだろうし、また人以外でも例えば雨乞いの儀式などをやって実際に雨が降れば、物理的な現象までも引き起こす力があることが証明されてしまうだろうし、現実の世界でもそういった力の存在が信じられてしまう成り行きもあるわけだ。だがそうだとしても、確実なやり方としては、そうした力よりは産業技術や科学技術などの方が信頼できるだろうし、また政治的にも行政的にも企業的にも、社会の中で実際に行われていることが、神秘的なやり方よりは合理的なやり方に基づいている方が、誰もが納得できて効果も確かめられているから、特定の霊能力者などの力よりは汎用性が高く、様々な方面へと普及していて、経済的な面でも売買などの取引においても、制度面でも法律面でも整備されているだろうし、それだけ社会の仕組みに合致しているわけだが、全ての面にわたってそうなっているわけでもないだろうし、神社や寺院などの領域では、昔ながらの伝統が息づいていて、そうした伝統に基づいて行われる儀式などでは、それなりに形骸化しているとはいえ、そうした超自然的な力の存在を前提としたやり方で、加持祈祷などが行われているだろうし、実際に経済的な制度としても、拝み料など取って行われる神事や祈願があるわけだ。そしてそれが王族や皇族などに関連する行事などになると、政府も積極的に関わってきて、中には政府の予算を使ってそうした行事をやることもあるだろうし、そうなってくるとそこで行われている呪術的な儀式の内容を、政府も国民も公なものとして認める成り行きになってしまい、そこに合理的かつ科学的な根拠があるとは思えなくても、形骸化した形式的な儀式に過ぎないとは言えないわけで、実際にそうした儀式を執り行っている現実が、それに伴って生じる超自然的な力の存在を信じても構わないような余地をもたらしているわけだが、実際にはそういった超自然的な力を信じてもいい場合と、それとは違う産業技術や科学技術などからもたらされる力を使って何かが行われる場合とでは、はっきりと区別がされていて、それぞれに時と場所を選んで使い分けられているわけだが、稀に時と場合によってはそれらが重なる時もあるだろうし、それが産業技術や科学技術などによってもたらされた事故や事件などの災害が起こった時であり、そういう時には儀式として祈りや拝みなどが行われるわけで、それが犠牲者への供養であったり鎮魂であったりするのだろうが、さらに大規模な建設工事などの竣工式や棟上げ式などの時にも、そういった儀式が執り行われるわけだが、誰もが大してその効果や効用を信じているわけでもないのに、そういった儀式がなぜ行われるかとなると、伝統的あるいは慣習的にそれをやらないと、それに関わっている人や集団に信用してもらえないという事情があるのかもしれず、とにかく形だけも儀式を執り行って、そういった儀式に主だった関係者や関係団体が参加することが、そういった行為や作業を取り仕切って運営する団体に対する信用の証しと捉えられている面があるだろうし、儀式に参列したり参加することが、そうした行為や作業に関係することができる条件ともなるだろうし、そうした通過儀礼に加わることで、そうした行為や作業から生じる利益の分け前にありつけることができるわけで、要するに仲間として認められるには、まずはその手の儀式に参加する必要があるわけだ。


4月1日「正しさの相対性」

 何が正しい行いであるかを知っていて、正しいことを行なって正しい結果が得られれば、それは当然のことのように思われるかもしれないが、これも当然のことながら、正しい行いを知らなければ、正しいことを行えないだろうし、また正しい行いを知っていても、何らかの事情によって行えない場合もあるだろうし、さらに正しいことを行なっても正しい結果が得られなければ、正しいと思われていた行いが疑わしくなってしまうだろうし、行いの正しさに関して、それを知っていることは重要なことだが、それを知らない場合は、まずはやれることをやるしかないような成り行きになるのかもしれず、それをやる上でやってみてできることは、暫定的には正しいことだと思うかもしれないし、やってみて何らかの弊害が生じれば、やり方に工夫を凝らして、弊害が生じないようなやり方を模索するだろうし、そういう成り行きの中では、最初から正しいやり方がわかっているわけではなく、やれることをやりながら、それをやっているうちに、感触として何が正しいかをだんだんわかってくるような成り行きにもなるだろうし、そういう意味で正しいことが始めから決まっていない場合や、その時点では正しいと思われることであっても、別の時点ではそうでもないように思われてしまう場合も含めて、まずは正しいことが何であるかを決めるというよりは、できることを行なっている状態の中で、次第にうまくいくやり方が導き出されるに従って、それが正しいやり方のように思われてくる成り行きがあるだろうし、また特にそれが正しいやり方だと確信が持てなくても、何となく惰性でやり続けていることもあるわけで、しかもそんなことばかりやっているわけでもなく、それと同時並行的に別のこともやっている場合もあるだろうし、そんなことをやっている状況下においては、別に行為の正しさを意識していない場合もあるのかもしれず、特に正しいことをやろうとしているわけでもなく、そうかと言ってわざと間違ったことをやろうとするわけでもないだろうし、ただその場の状況に合わせて何かをやっている中で、それをやっていることが生活の一部ようになっていれば、それが正しかろうと間違っていようと、そんなことをやりながら生きていれば、現状ではやっていない他のことよりも、とりあえず現状でやっていることをやり続けるしかないような状況となっているのかもしれず、そうなるとそれをやらないわけにはいかなくなるわけで、たとえ他人からやめろと言われても、他に何をやるあてもなければ、それをやめてしまったら困ってしまうわけで、そんな事情や成り行きの中で何かをやっているのであれば、そういった行為への依存によってその人自身の存在が成り立っているような状態となってしまうだろうし、そうなると行為に対する距離が近すぎて、行為から離れられないような依存症状態になってしまい、もはやそれが行為への正しい接し方や在り方だとは言えなくなってくるだろうし、そうならないためにも、行為との適度な距離感が必要となってくるのかもしれないし、意識して適度な距離感を保つことこそが、何を行うにも正しい姿勢となるのかもしれないが、そういうことを知るに至るには、様々な試行錯誤の経験を経た上でないとわからない場合もあるだろうし、そうではなく、やる前から正しいやり方を他人から教えられて、その通りに行なって行為の正しさを実感するようなやり方では、そういうことはわからないのかもしれず、そういう意味で正しいことを知っていても、それができるとは限らないし、また正しいことができたとしても、正しい行為にのめり込み過ぎると、そういう行為をやっていること自体が、行為に対する正しい姿勢や正しい接し方や正しいあり方ではないことになってしまう場合もあるだろうし、そういうことまで考慮するなら、一概に正しいことをやっていればそれで済むようなことではなくなってくるだろうし、それ以前にその場の事情や状況を考慮しながら、何かを行うような成り行きになってくるのかもしれず、その中では、ある時にはうまくいかないなりにも、その場の状況に応じて行えることをやるしかない場合もあるだろうし、またやっていることの欠点や欠陥をわかっていながらも、それを行わざるを得ない成り行きの中で、欠点や欠陥をうまく抑えつけながらも、だましだましそんなことをやり続けるしかないような場合もあるかもしれないし、そうやってそれなりに苦労しながらやり続けていることがあるわけで、そんなことをやっている身からすれば、やっていることの内情をろくに知りもしない外部の人から、ああだこうだと勝手なことを言われるのは、腹が立って仕方がないかもしれないが、実際に何かを批判するとはそういうことであり、そうなってしまうのが当然の成り行きとなってしまう場合が多いだろうし、そんなことをいちいち真に受けていたら身が持たないと思えば、外部からの意見に耳を傾けないような姿勢となってしまうだろうし、そんな聞く耳を持たない姿勢でいられたら、それも程度にもよるだろうが、今度は外部から意見を言いたい側が、腹が立って仕方がないことにもなるだろうし、普通はそうやって対立や争いが起こるのかもしれないが、そうなってしまっても、何かのきっかけから話し合いの機会が持たれたり、何らかの妥協が成立して、双方ともに不満を抱きながらも、対立や争いに一応の決着をつけて、手打ちが行われたりする場合もあるだろうし、そんなふうになってしまうと、何が正しいとしても、対立や争いの当事者たちからすれば、自分たちの行いや姿勢や態度が正しいと主張する一方で、対立や争いの相手の行いや姿勢や態度が間違っていると主張するだろうが、どちらが正しくても、そこで対立や争いが起こるような成り行きになれば、そうした対立や争いを収めるような行為が正しい行為とされる場合も出てくるだろうし、そうやって行為の正しさが、そこで生じる立場や境遇によって違ってくるような場合には、正しいことを主張したり行うことが、必ずしも正しい結果をもたらすわけではなくなってきて、ただその場の成り行きに応じて出てくる結果が、その場に関わっている誰にとっても重視しなければならないことになるだろうし、出てきた結果に対処したりうまく対応して、その人にとって有利な状況をもたらすことが、功利的には重要となってくるだろうが、結果的にそうした対処や対応がうまくいけば、それが正しい対処や対応だと思われるわけだが、そこでもその場で生じている立場や境遇によっては、うまく対処できなかったり対応できなかったりすることもあるわけで、たとえ正しい対処や対応の仕方を心得ていても、それができない可能性もあるわけだ。