彼の声126

2018年

5月31日「対立と協調の狭間で」

 現状の世界から何か同じような傾向が読み取れるとしても、それが何を意味するのかは誰にもわからないことではなく、放っておけばそこから恣意的な解釈とともに、そうした解釈にとって都合のいい意味が導き出されてしまうところだろうが、どこの国にも自国を自画自賛する国家主義的な思想が蔓延しているのかもしれないが、それにしてもそれ以外の思想というのがないのかもしれず、現状では自国を自画自賛する思想以外はいらないというわけではないだろうが、そもそも思想とは何かというと、物事に対する考え方の中である特有の傾向を示すものだろうが、それが思想として一括りにできるまとまった考え方というのが、社会の中で生きていく上で必要かといえば、人が生きていくうちにそうした考え方が次第に意識の中でまとまってくるかもしれないが、それが他の立場や境遇の人にも通用する考えとなるかは、その人の立場や境遇によって異なるのかもしれないし、そうでなくても世の中には様々な物事についての考え方や捉え方があって、そのようなものが特に普遍性を持たなくても構わない場合もあるだろうし、そういう面で人それぞれで異なる思想があっても構わないのかもしれず、そういったものは思想とは呼べないのかもしれないが、何かまとまったものではなく分散した思想というもありなのかもしれず、固定観念には至らないようなその場その時に対応した動作が引き出されればいいわけだが、やはりそれに関しては一定の動作基準といったものを想定してしまいがちだろうが、そうした基準として倫理とか良識とかが含まれるとわかりやすいが、たぶんそうではなく、そうかと言って功利的な利害関係が判断の基準となるわけでもなく、何か価値を分散させるような動作が必要なのかもしれず、それも脱イデオロギーといったあからさまな反対概念ではなく、様々な人々が特定のイデオロギーに凝り固まっているとしても、それを形骸化させるような作用が期待されているのかもしれないし、実際にそんなことが可能なのかというと、少なくともそれ以前に現実の利害関係を直視することが必要であり、しかもその利害関係から対立を形成するのではなく、それとは別の水準で働いている利害関係を発見することが肝心であり、そうやって世の中には様々な水準で利害が錯綜している現実を理解しなければならないわけだが、そこで特定の利害関係だけを強調するのではなく、あらゆる利害が錯綜しているわけだから、そうした利害の水準で妥協や調整を行なっていく必要があるのだろうし、またそんなことを行わなくても自然に妥協や調整が図られる成り行きになっていくのかもしれず、そうした成り行きを重視しなければならないだろうし、なるべく対立を煽らずに利害が対立する者同士で話し合いが行われる成り行きを促進する必要があり、そうした成り行きを促進させることが特定のイデオロギーに凝り固まるような動作を緩和させるのではないか。もちろんそれとは逆の対立を煽り立てて争いが激化する方向で利益を得ようとする画策も出てくるのだろうが、そうした画策を未然に防ぐ上で価値の分散を促進させる必要があるのかもしれず、何らかの価値観に凝り固まるような動作をはぐらかすには、選択や可能性の多様性を提示すべきだろうし、凝り固まらなくても生きていける可能性を明らかにしなければならない。

 そういう意味で一定の動作や思考を促す思想というのはいらないのかもしれないし、放っておいても一定の動作や思考に凝り固まろうとする傾向があるわけだから、それは社会の仕組みや構造からそうした傾向になりがちな作用や影響が生じているということだろうし、人々がそうなってしまうのを自覚するように仕向ける必要が生じてくるわけで、それを自覚してもなお凝り固まろうとするかというと、それを意識するとかえってそうなってしまう自らを戒めるような動作が期待されるわけで、それが分散思考の効用となればいいわけだが、なぜ一定の動作や思考に凝り固まってしまうのがまずいのかといえば、世の中の状況が絶えず変動しているのだからそれに対応しなければいけないわけで、一定の動作や思考に凝り固まっていると、そうした動作に対応できないだろうし、対応できなければ時代の変化から取り残されていくことにもなりかねず、そうなってしまうと総じて不利な立場や境遇に陥る可能性が出てくるわけだが、そうした世の中の変化に対応する姿勢というのが、そのまま流行に敏感になってそれを礼賛するということではなく、それはそうした皮相上滑りな傾向から一定の距離を保つという意味で対応することだろうし、凝り固まるでもなく流行に流されるでもなく、どちらにも対応することが重要だろうし、その辺が理解できない人が多いのかもしれないが、凝り固まる傾向というのは逆に流行の中に凝り固まることも意味していて、実際に多くの人が凝り固まっている思想や主義主張というのが、世の中の流行現象である可能性があって、それが時代の風潮を示しているのかもしれないが、それに対して状況の変化というのは、そうした思想や主義主張の限界をあらわにするような作用があるわけで、そうした流行によって世界で対立や軋轢が生じていて、それが抗争や紛争の原因となっていること自体がそれらの思想や主義主張の限界を示していることとなり、そうした限界を対話や交渉によって解決できるとは思えないが、とりあえず直接の武力衝突を回避するにはそうしなければならないだろうし、実際に武力衝突によって内戦が慢性化した地域でも、こう着状態を打開するために話し合いや交渉が持たれるのは当たり前のことだが、現実にそうしたことをやるのが状況への対応となるしかなく、そんな世の中の変化に対応する姿勢というのが、それ自体が世の中の変化を促していて、対立を煽り立てるやり方では限界が生じるからそうしたことが行われる成り行きとなるわけだ。そして話し合いや交渉の中でも対立する価値観に凝り固まっていると、議論が平行線に終始してこう着状態となってしまうだろうし、それを打開するにはやはり様々な選択の可能性を提示して、今までとは違うやり方や方向性を取らないと、妥協や調整も不調に終わってしまうだろうし、そういうところで現状からの脱却が図られるわけだが、その一方で頑なに対立を維持したい勢力も存在していて、そうした勢力は現状の対立状態から利益を得ているわけだろうが、そうした勢力の宣伝や煽動から影響を受けている人たちは、やはり特定の思想や主義主張に凝り固まっているわけだが、果たしてそれがそうした人たちの利益になっているかどうかはよくわからないところで、実際に対立状況から利益を得ている勢力がそうした人たちを利用して、世の中で政治的な主導権を維持しようとしているわけで、結果的にそれらの人たちが利益を得ているというよりは利益を得ている勢力によって利用されている面の方が大きいのかもしれない。


5月30日「活動の多面性」

 社会の中で何をやるにしても、何か目的を持って活動すればわかりやすいのだが、例えばただ単純に金銭的な利益を求めているのであれば、経済活動を行えばいいことでしかないだろうが、もちろん経済活動を行ったところで商品が売れなければ金銭的な利益は得られないだろうし、売るために絶えず工夫を凝らさないと、競合する商品との販売合戦に敗れてしまうことにもなりかねないし、それ以前に商品を売るためには販売先を確保しなければならず、さらにそれ以前に売れる商品を製造したり、それを何らかの手段を使って手に入れなければならないだろうし、そうした面を考慮すれば商品を売って利益を上げるのは並大抵な努力では難しいのかもしれないが、一方ですでに売れている商品があって、売るための販売網も確保されていて、そうした物や情報やサービスとしての商品の生産と流通と販売と消費の経路が出来上がっていれば、当たり前のように金銭的な利益が得られる仕組みになっている場合もあるだろうし、何か活動を行うにあたってそれを行う前提条件が整っていないと、活動を行うことさえままならない場合があるわけで、そうした水準で制度面が整備されているような場合には、様々な方面からそれを行うにあたっての協力や連携関係が構築されていて、確実に売れて確実に利益が出るシステムになっているのかもしれないが、社会の全ての面でそうしたシステムが出来上がっているわけではなく、ある面ではそうなっているとしても別の面では不確実であり、そういう面では売れるか否かはギャンブル的な傾向を伴ってくるだろうし、実際に商品が売れずに利益をあげることもできず、そうした事業から撤退を余儀なくされる企業が続出しているような部分もあるのだろうし、経済活動において利益を上げることは、それがうまくいっている面では容易に利益を上げている実態もあるのかもしれないが、全ての面でそうなっているわけでもなく、うまくいっていない面もいくらでもあるだろうが、結果的に地球上で人類が繁栄している状況を見れば、ある程の規模の人員を養うことができるレベルではうまくいっていることを認めざるを得ないだろうし、それが良いか悪いかは人によって判断が分かれるだろうが、金銭的な利益を得ようとする目的で行われている経済活動が、多くの人々の生活を支えている事実は否定しようがなく、そういう面での功利主義的な活動を礼賛するような人や団体が存在しているとしても、それが合法的な活動である限りは批判するわけにはいかないだろうし、行き過ぎた利益の追求に歯止めをかける上で、そうした活動を行うにあって良識や倫理を重視するように求めることはできるだろうが、それが多くの人からの支持を得られるとしても、功利的な利益の追求との兼ね合いにおいて、そこで何を優先すべきかは活動を行なっている当事者たちの自主的な判断に委ねられていることも事実としてはあるのではないか。また法律的な歯止めをかけるような成り行きになるにしても、実際に弊害や問題が発生してからそれに対応するような法整備を行うにしても、いつも対応が後手に回ってしまう感は否めず、行政的には法律と制度によって経済活動をコントロールしようとしているわけだが、それがどこまで有効に機能するかは何とも言えない面があることも事実なのではないか。

 またそれがただ単に金銭的な利益を求めているとは言えない場合も中にはあるだろうし、広く解釈すれば社会貢献のような要素があると、何やら肯定的に評価されるような場合もあるだろうし、一般の民衆に喜びや快楽を与えるような活動だと幅広い支持を集める場合もあるわけで、さらに直接商品を売買するようなこととは少し違って、サービスや技術を提供したりするようなものとなると、その料金などの価格が妥当か否かよくわからなくなってくるだろうし、そうしたことをやっている側が暴利を貪っていても、実際に商売が成り立っていて、それに関して誰も困っていなければ批判しようがないだろうし、そういう面で金銭的な利益を求める活動には他にも様々な要素が絡んできて、一概に金銭的な価値だけから判断するわけにはいかないような場合もあって、それだけが目的だとは言えない場合には特にそこから肯定的な幻想なども生じてきて、活動そのものの評価も一つの面から評価されるようなものではなく、複合的な価値が絡んでくるようなことになれば、どう評価すればいいのかよくわからなくなってくるだろうし、たとえ商売が順調に推移して利益を上げているとしても、そのことだけで評価されるようなことにはならない場合もあって、そういうところで何をどう判断するかは、評価する側の恣意的な好みから判断されるようなことにもなるのかもしれず、そうなるとその評価自体が客観性や公平性の面で適切とは思われない場合も出てくるだろうし、それだけはっきりしない不確実な要素があるのかもしれないし、たぶんそうした面で説得力を持つような評価となると、その方面での権威となっている人などの評価に頼ってしまうことにもなるのかもしれないが、そうした権威主義的な傾向に疑問を感じているのなら、自分自身で評価するしかないだろうし、たとえその評価が権威となっている人の評価とは違ったものになろうと、自身の評価に関して信じられる面があれば、何も確固とした揺るぎない評価基準などを持ち合わせていなくても、自らを信じるに足る確信があれば、自身の評価を変えることもないわけで、そうした評価を通して世の中の見聞を広めてゆけばいいだろうし、たとえそうした面で誤りや過ちを犯してしまっても、それはあくまでも途中経過としてそうなってしまうのであり、後から間違っているところは修正していけばいいわけで、そうやって試行錯誤を重ねながら徐々に評価の精度を上げていこうとすれば、学んだ分だけ身につくこともあるだろうし、それも自らを活かす活動となって、単純な金銭的な利益を求める活動とは違って、社会の様々な面を学びながら判断に関して価値基準の幅を広げていくのに役立つかもしれないし、結局は何か特定の目的というよりは、自分で主体的に活動していくことが生きることそのものとなって、何かを目指すというよりは活動そのものを楽しむような傾向が出てくると、不自然でおかしな凝り固まりにのめり込んでいくような成り行きを避けられるのかもしれないし、できるだけ活動している途中経過の中で可能な限り柔軟な対応を心がけるなら、極端なまでに硬直した認識とは違った、様々な要素が入り混じった中で様々な判断基準を考慮した総合的な判断が下せるようになるだろうし、それでも現状に関するあらゆる評価の中のほんの一部を表すにすぎないかもしれないが、それなりに可能な限り認識の様々な要素を汲み上げることにも繋がるのではないか。


5月29日「話題の共有」

 現状で起こっていることの中で、メディアがニュースなどで大きく取り上げることを、何か大げさに捉えて考えることが、メディア的な宣伝や煽動に慣らされていると当然のことのように思われるわけだが、そこでそれが当然のことのように思われる成り行きが生じていて、多くの人がそうした成り行きに逆らって物事を考えることができなくなっているだろうし、それはそれで仕方のないことで構わないわけだが、ただそれ以外にどう状況を捉えればいいのかわからないし、別にわかる必要もないのかもしれないが、そうした状況の中で何をどう捉えて考えなければならないのかというと、たぶん考えなければならないことは人それぞれで違うだろうし、違っても構わないのだろうし、そうであるならそれに関して、特に同じ方向や傾向の中で同じことを考える必要もないのかもしれず、要するに人それぞれで違った立場や境遇の中で別々に考えればいいだろうし、そう考えたところでそれがどんな行為や行動につながるわけでもないのかもしれないが、たぶん意識の水準では取り立ててニュースからどんな影響を受けているかなんてわからないだろうし、わかりようがないわけだが、少なくともそこから言えることは、考えられる範囲内では、どんな出来事が起こったところで、それほど思いがけないことだとは思わないようにしているのかもしれず、身の回りで起こっている出来事の全てが日常生活の水準でつながっていて、そこからかけ離れたことが起きているわけではなく、そうであるからこそ身の回りでは共通の話題に関して共通の価値観に基づいた判断がまかり通っていて、特にそこから外れたことを述べる必要も感じていないわけで、何とか世間の話題に関して同じような認識を共有しようとしていて、特に事の善悪については周りの人々と同じ判断をしたいだろうし、それも無理に合わせようとしているわけではなく、割と簡単に同じ意見や主張を共有できるような感触を得ているのではないか。そうした周りに合わせようとしなくても自然に合わさってしまうような状況だと安心できるわけで、そういうところが日頃から同じ傾向のメディアに接している効果なのだろうし、同じ意見や主張を共有している自覚がなくても、自然と同じ意見や主張が共有されていることに驚くわけでもなく、意識しなくてもそうなっていること自体も、別にそれがおかしいとは思わないだろうし、要するに当たり前のこととして、同じ意見や主張を共有しているわけで、それが取り立てて問題視するようなことではないだろうし、むしろそれとは違う意見や主張を述べる人が出てきたら驚いてしまうのかもしれないが、実際にそういう人が現れたためしもないのかもしれず、そうした同質化された社会の中で生きていれば、それがおかしいとも当然だとも思わないし、要するに何でもないことであり、その何でもないことでさえ意識しないのだから、どうしたわけでもないのだが、実際にそうなっているとすれば、特に人それぞれで違った立場や境遇の中で別々に異なったことを考えているとは思わないし、普通に誰もが同じようなことを同じように思い考えていると思っているのではないか。少なくともそういう前提で物事を考えているだろうし、民衆を一つの集団意識のようなものに囚われた単一の集合体のように考えてしまっているのではないか。

 そう考えているとしても別にそれが何を意味するわけでもないし、実際に世の中が同質の集団意識に覆われていても構わないのだが、果たして立場や境遇が異なれば違った主張や意見になるのかといえば、確かにそこに立場や境遇に応じて利害関係が生じていれば違った主張や意見になるかもしれないが、特にメディアが報じるニュースから利害関係が生じるとは思えないし、誰もが同じように報道に接していればそれに対する意見や主張も同じような内容になると想像してしまうのかもしれず、もっともそんなことまで考えるわけでもないし、多くの人はただ漠然とニュースを見ているだけだろうし、別にそこから意識して意見や主張を抽出しようなんて思わないだろうし、意識してそれらの報道ついて考えるわけでもないし、それが政府側寄りの報道だとか政府に批判的な報道だとか、そんなことまでいちいち考えている人もそれほどいないとは思うが、中には特定のメディアを組織的に攻撃したい人や集団もいるにはいるだろうが、そうした特殊な事情を抱えている人や集団でない限りは、イデオロギーや党派性から偏見やこじつけなどに至ろうとはしないだろうが、そういう無理矢理のわざとらしい違いの強調ではなく、例えば働いている仕事や職種から異なる意見や主張が生じることがあるかというと、あるようにも思われるが、特に仕事や職種が同じだからといって意見や主張まで同じにはならないのかもしれないし、実際にはそうではない場合も容易に予想されてしまうわけだが、仕事や職種に関係して利害が異なる部分では、当然意見も主張も異なって当然だろうが、全ての面で異なるわけでもないし、そこに利害関係が生じていなければそうはならないことも容易に想像がつくだろうが、その一方で普通の一般市民としては何やら同じような意見と主張を持ち合わせているようにも思われるのだが、そうした普通の一般市民というカテゴリー分けができてしまう水準というのが、何かあまり説得力の定かでないフィクションが含まれてしまう部分なのかもしれず、そうしたカテゴリー分けとして他にも例えば一般の労働者という水準で、何か政策や法案を議会で審議しようとする場合にも、何か実質的に空疎な対象としておかしな区分や立場や境遇を成り立たせようとして、そこから無理な役割を想定してしまうのかもしれないし、そうした実際に仕事をしている現状からはかけ離れたことを政治の場で審議しようとすると、何かそこにおかしな立場や境遇が想定されてしまうのだろうが、そこに同じ立場や境遇を持ち合わせた同質の集団が存在するかのような仮定を設けないと、そうした議論が成り立たないだろうし、議論を成り立たせるためにあえてフィクションを構成する必要が生じてしまうわけだろうが、そういう面で実際に仕事としてそこで何らかの作業を行なっている実態と、そうした作業内容について政治の場で論じている水準が別であることが明らかであるのに、そこに差異がないかのように語らないとうまく説明できないのだろうし、うまく説明できたところで両者が別々の水準で行われている別々の作業から成り立っている別々の活動であることはわかりきったことなのだろうが、それでも両者の間に何か共通認識があるかのように装われるわけで、それが同じような人々が同じような話題を共有しているというフィクションが成り立っているように見せかけるメディア効果なのかもしれないが、たぶんそういう効果がないと人々が話題を共有できないだろうし、メディアそのものが成り立たなくなってしまうのではないか。


5月28日「問題の核心にある空疎」

 人は様々な成り行きの中で活動しているが、自らのやっていることが妥当であるか否かを判断する機会がそう頻繁に訪れるわけではないだろうし、そこに何らかの成り行きがあれば、とりあえずその成り行きに逆らうわけにはいかない場合が多いだろうし、成り行きに従いながらやっていることが結果的に倫理的に許されない行為だろうと、逆らうわけにはいかない状況である時には、やはり逆らうわけにはいかなくなってしまい、そうした行為をやってしまってからそれが問題視されても後の祭りで、大抵はそんなふうにして過ちを犯してしまうわけだろうが、ではなぜ過ちを犯してしまうような成り行きが生じるのかといえば、そういうことを行わなければならない成り行きが生じるわけで、現実にそうした事情が生じるわけだろうが、そこで過ちを犯すような行為を行うことが妥当であるという判断が働くわけで、そうした判断を下すには倫理的な判断よりは功利的な判断の方が優先される傾向が絡んできて、そこで働いている成り行きの中では、絶えずそれを行なった場合に有利になるか否かが判断材料となり、過ちを犯した方が有利な状況を作れるならば、過ちを犯してでも有利な状況を作る方が妥当だと判断されるわけで、そうした成り行きが続いている限りはそれが妥当な判断となるわけだろうが、実際にそうした行為が問題視されるようになれば、それまでとは状況が変わってきたことになるわけで、なぜ風向きが変わってきたのかといえば、実際に妥当だと判断して倫理的に問題のある行為を行ったからで、そういうことをきっかけとしてそこで続いていた成り行きが変わることもあるわけで、そういう場合は妥当だと思って功利的な判断を下した側が、倫理的な価値観を甘く見ていたから、思いがけず情勢の変化に直面してしまって、妥当だと思われていた行為を行ったことが裏目に出てしまったことになるわけだが、功利的な価値を追求することは常に行き過ぎた行為を招いてしまうのかもしれず、それは必ず倫理的な価値に抵触するようなところまで行き着いて、そこで歯止めに直面してこれまでのやり方の再考を促されて、結局は功利的な価値と倫理的な価値の両方のバランスをとらないとうまくいかなくなり、そこでこれまでの成り行きに対する反省が行われて、活動の見直しも行われることにもなって、いくぶん功利的な利益の追求傾向にも歯止めがかかるようになるのかもしれないが、それも一時的な揺れ戻しに終わるかもしれないし、そうした成り行きも長続きしない場合もあるのかもしれないが、行き過ぎた行為の反動が大きければ結構長続きするだろうし、それも程度の問題でしかなければ、喉元過ぎれば熱さ忘れるで、一通り倫理観の誇示が世の中に行き渡ればそれで幕引きとなって、またそれとは別の方面から功利的な利益の追求が盛り返してくるような成り行きにもなるのかもしれず、そんなふうにして両方のバランスが行ったり来たりしながら、調整局面が続いてゆくのかもしれないし、それだけではなく、また新手の手法ややり方が開発されて、今までとは微妙に異なる価値観が誇示されて、それに基づいた流行も起こるだろうし、そうやって世の中が変動していくのではないか。

 いずれにしても一つの面だけを見て、一つの価値観で全ての物事を判断するのは勘違いの原因になるだろうし、そして現状を批判したい人たちはどうしても一点突破を目指してしまうきらいがあって、現状でうまくいっていないところを突いて、そこから批判の論を展開したいわけで、結局そこだけ強調しようとするから天動説のようなことを述べてしまうわけで、全体から見れば枝葉末節な問題でしかないところを批判の中心に持ってきて、そこから現状の全ての問題を地続きの出来事として捉えて批判してしまい、その批判の対象が枝葉末節な問題でしかないとすれば、もしかしたらメディア上で世間的な話題となっている全ての問題が枝葉末節な問題でしかない恐れがあることを自覚できないだろうし、実際にそうした成り行きが枝葉末節な問題の連なりからなっているとしても、それを批判するとなると重大な問題だと煽動しなければ世間の注目を浴びないのだから仕方のないことなのだが、そうしたところで批判の限界が露呈してしまうわけだが、批判の対象となる政治勢力や企業などの集団にしても、当事者にしてみれば重要なことに関して様々な問題を抱えていることは確かなのだが、それを外部から批判されたところでそれ以上に問題に取り組んでいる場合があるだろうし、それを騒がれても大きなお世話でしかなく、しかも批判している側にも問題に対して解決能力がない場合がほとんどで、問題となっている箇所を問題だと騒ぐことができても、それを解決することはできないわけだから、いくら騒がれてもどうしようもないのかもしれないし、ならば主導権を他の勢力に譲った方がいいのかもしれないが、もちろん現状で保持している権力を簡単に手放すわけにはいかないし、それが政治勢力ならば選挙によって民衆の力を借りて主導権の移譲が実現すればいいわけだが、民衆の多数派を構成する側にその気がなければ、実際に主導権の移譲が行われないまま、現状維持の状態が続いていくわけだろうが、それでも実際に問題視されていることが枝葉末節なことに過ぎなければそれで構わないわけで、しかもそうした政権移譲の問題も枝葉末節な問題でしかなければ、別にそれが重大な問題となることもなく、そうした現代的な問題が全て部分的な枝葉末節な問題であって、しかもそれを理解していない批判勢力が大げさに問題を取り上げてメディア上で問題視する度に、その程度に関して世の中に勘違いが蔓延するわけで、そうした政治的な問題の処理の仕方に問題があることもわからないままとなって、延々と扇動合戦が続いていくと、終いには世の中で話題となっている何もかもが重大で深刻な問題として騒ぎ立てられて、何が重大で何が枝葉末節な問題かについての価値判断が狂ったままとなってしまうわけで、すでにそんな傾向となっているのかもしれないが、批判している側もすでに退くに退けない状況となっているだろうし、そうなっている時点ですでにそれが問題であるわけでもなくなっているのかもしれず、結局メディア上で騒がれている問題の全てが枝葉末節な取るに足らない問題でしかなく、それを重要で深刻な問題のように騒いでいる全ての批判者が、現状で起こっている全ての成り行きから見放されている状況となっているのかもしれないが、しかもそのこと自体がどうでもいい問題であり、問題でさえないのかもしれないし、別にそれで構わないことになってしまうのかもしれないが、では民衆が何をどう判断すればいいのかとなると、別に今まで通りで構わないことにもなっているのかもしれない。


5月27日「勘の正しさ」

 個人に社会的な役割があるとすれば、それは集団の組織的な構成員としての役割に限定されるようにも思われるかもしれないが、絶えず個人は自分自身への配慮を念頭に置いて行動しているだろうし、所属している集団のためというよりは自分を優先する傾向にあるのかもしれず、それが場合によっては集団を裏切ったり見限ったりする行動を選ばせることにもなるだろうし、そうした集団のためというよりは自身のために行うことを最優先に考えることを、自己中心主義と揶揄するような成り行きにもなるかもしれないが、普段はそこまではっきりとは意識していないだろうし、どちらかといえば自分よりは組織のために働いているつもりにもなれるだろうが、自分か組織かどちらかを選ぶような判断を迫られた時に、どうなるかわからないのかもしれず、できればそんな機会が訪れないように注意深く行動していきたいだろうし、実際にそんな機会がやってくることも滅多には起こらないだろうが、中には自分のために動いているのに組織のために動いていると思っている場合もあるだろうし、さらに組織のためというよりは社会全体のために行動するような心境になる時もあるのかもしれないし、その辺は実際にそうなった時を体験してみないことには、はっきりしたことは何もわからないのかもしれないが、普通に考えて自分を活かすために行動するのが活動であるわけで、何とか自分も属している集団も暮らしている社会も、それらすべてのために行動しているように装いたいのかもしれないが、そうした自覚に至ることもあまりないのかもしれず、あまりそういうことは意識せずに、ただ何となく活動しているのが偽らざる実感なのかもしれないし、現実的な妥当性としてその場でできることをやっている実態があるわけで、いくら高邁な理念を考えても、できないことはやれないわけだから、それが思考していることとやっていることとの間で生じるずれとして認識されるのではないか。そしてそんなずれを認識できるとしても、できないことをやるわけにはいかないだろうし、実際に行なっているのはできると思われることをやっているわけで、実際にやろうとしてやっていることが自分のためにやっているのか、所属している集団のためにやっているのか、あるいは暮らしている社会のためにやっているのか、という選択を迫られているわけでもなく、第一に仕事として所属している集団にやらされていることもあるわけで、また私生活の中でやっていることなら、当然自分のためにやっていることになるだろうし、また家族のためにやっているというなら、仕事として集団にやらされていることも、その中に入るだろうし、自分一人で生活しているなら、生活の糧を得るためにやっていることにもなるだろうし、そうやって現状の中で生きていることから、やっていることも限界づけられていて、現状の生活環境の中でやらざるを得ないことをやっている場合が大半だろうし、それらは主体的にやっているというよりは、現状の生活を維持するためにやらざるを得ないことにもなっているのではないか。そしてそうした余裕のなさからやっていることに対して、余裕を作り出してその余裕を利用してやろうとすることが、主体的に取り組むべき活動だと思われてくるわけで、そうした活動が自分の意志としてやりたいことになるのではないか。

 そして何かのためという理屈とは関係なく、それをやるべきと思われることをやっている場合もあるわけで、しかもなぜやるべきなのかがわからないまま、なぜかそれをやるべきと思われてしまう場合まであるわけで、そうした啓示を受けてしまう場合は、理屈を考えないでやっているわけだから、それをやるに際して障害となることは何もないようにも思われて、それが神からの啓示と考えればわかりやすいのかもしれないが、神という存在も知識として教育の過程で吹き込まれたことであれば、それなりに理屈を考えてしまいがちになるかもしれないが、それさえもなければただの啓示でしかないだろうし、やるに当たってシンプルにただやるべきことをやっているだけなら、特に何も考えずにやっていることでしかないわけだが、果たしてそんなふうに思えることがそう頻繁にあるとは思えないだろうし、それが社会通念に照らし合わせてやるべきと判断されるようなことではなく、ただその時の勘としてそうすべきと感じられてしまうような場合には、理屈を考える以前にそう思われてしまうわけだから、そこに至るまでに身につけた感覚がそう思わせるのだろうし、そう感じられてしまう勘を信じないわけにはいかなくなってしまうから、そうせざるを得ない状況に追い込まれているとも言えるのかもしれないが、それもやっている内容にもよるだろうし、それが深刻な事態を伴うような行動なら、もっと慎重に物事の筋道を立てて考えてしまうのかもしれないが、慎重に考えたところで結果が思わしくなければ、考えるだけ無駄だったことにもなってしまうわけだから、その辺の判断も勘に頼っている面もあるだろうし、微妙なニュアンスや印象として、賭けの要素も入ってきて、そうした賭けに出ていること自体が、時に深刻な状況をもたらす場合もあるわけだが、やはりそうなってしまうとしてもやるべきと思われてしまう場合には、後悔しないためにもやるべきことはやっておこうと判断してしまうわけで、そうした判断が良い結果をもたらすか、あるいは裏目となってしまうかは、運次第と思うしかないのかもしれないが、宿命的に賽を振る事態に至ってしまうのは、自らを超えた運命の導きを経験する際にはよくありがちなことなのかもしれず、そんな時に理屈から考えて慎重に事を運ぼうとすれば、かえって機会を逃して平凡な結果にしか至れずに、ありふれた状況になってしまうだけで、何かを逃してしまったことすらも無自覚でいられるし、普通はそれで構わないのかもしれないが、そこで思いがけない事態に遭遇するとしても、それが自らの力量を超えた事態ならどうすることもできないだろうし、結構そうなった時に何かに成功するような幻想を抱くのかもしれないが、それが幻想でしかなかった場合には、自らの力量を超えた事態に遭遇していたのかもしれないし、実際に何らかの機会を逃してしまったのかもしれず、それも結果的に何も起こらなかったという事実を埋め合わせるための幻想にしか過ぎない場合もあるだろうし、そういうところで妄想が膨らんでくるとしても、その大半は妄想のままに終わってしまうだろうし、結果的にはそれで構わないのかもしれないし、何事もなく事態が進展したことについては、それで良かったと思うしかないのかもしれないが、たぶんそうした何事もなく事を穏便に済ませられたということ自体が、その時の勘の正しさを物語っているのかもしれず、何か災難を避けられた時にそう思う場合もよくあることなのかもしれない。


5月26日「公的な領域」

 公的な政治制度がなぜ必要なのかといえば、それは第一に行政機構にとっては必要だろうが、一般の民衆にとっては、行政機構から身を守るために必要だと考えると、ちょっと大げさに思われるかもしれないが、行政機構の横暴を止める手立てがないと、困るのは民衆になるわけだから、そのために現状の制度が必要だと考えると、では行政機構がない方が民衆にとってはいいのかとなると、そもそも行政機構が何のために必要なのかとなるわけだが、そうした問い自体がこうなっている結果から導き出される問いである限りは、問いの立て方自体が倒錯しているわけで、そんなふうにして導き出されるすべての問いが無意味なのかもしれず、ただ現状がこうなっているから、そう問わざるを得ない成り行きになっているわけではないが、必要であろうと不要であろうと現状があることに変わりはなく、現状がこうなっていることを前提に考えなければならないわけで、実際に政府をはじめとする行政機構が存在していて、そのような機構が国を制度的に管理統治していることになっていて、そうした現実を前提として、そこからそれに関係する物事が派生してくるわけで、それ以外ではないようにも思えるわけだが、そういう意味で現状からしか政府の必要性については考えられないし、しかもそれが存在していることを前提として考えるしかなく、そうなるとすでにそこに存在している政府をどうすべきかと問うわけにもいかないし、どうにもできないものをどうすべきかとは問えないだろうし、少なくとも一般の民衆にとっては、立法府である議会制度を利用して、政府をはじめとする公の政治制度の内容を変更することができるとしても、その存在自体はどうすることもできないわけで、実際にほとんどの人はただ選挙の時に候補者に投票するぐらいしか政治には関われない状況となっているわけだが、別にそれで多くの人が不都合や不満を感じているわけではないだろうし、時には政府のやり方に反対してデモを行う人たちもいるわけだが、全ての民衆がデモに加わるわけではないだろうし、どちらかと言えばデモを傍観している人の方が圧倒的に多いだろうし、そうした政治的なパフォーマンスが有効に機能しているとは言い難い状況であるのかもしれないが、そうした政治不信や政治批判は今に始まったことでもなく、現状の政治制度が始まった当初から、それに付きまとうように政治不信や政治批判もあるわけで、そうした不信や批判に応える形で、あらゆる時代において政治改革が叫ばれてきたわけだろうが、そうした公の政治に対する関心とは無関係に、一般の民衆の関心事が他にも様々にあるわけで、他の関心事の方が政治に対する関心よりは優先されるような状況となってくれば、それほど政治的には深刻な状況とはなっていないのかもしれないが、それは一般の民衆にとっての認識でしかないだろうし、職業的に政治に関わっている人たちからすれば、深刻な状況である可能性がないわけではないだろうが、もしかしたら現状の社会の中では公の政治自体が枝葉末節な重要度しかないのかもしれず、それだけ公的な領域が顧みられない状況となっているとすれば、現状のような公的な政治制度が登場してきた頃と比べると、だいぶ世の中の状況が変わってきていると言えるのかもしれない。

 たぶんそうした状況になってきた原因として、経済的な繁栄が挙げられるだろうし、人々の関心事が他にも様々にあるということが、相対的に政治に対する重要度が下がってきたことと並行関係にあるのかもしれず、そしてそれが別に悪いことでもないようにも思えるのは、様々なことに人々の関心が分散していることが、端的に言って力の分散を表していて、それに伴って政治的な権力も弱まっていて、そうした力によって社会全体を覆うことが困難になってきていて、行政機構による世の中の管理統治も、それほど強力に作用しているわけではないことを示しているのかもしれないが、それが世界全体の状況だと捉えると、地域によっては少し状況が異なるだろうし、テロや内戦で疲弊している地域もあれば、政府による圧政に苦しんでいる地域もあるだろうし、要するに部分的にそうなっている地域が、世界の至るところに生じていることは確かなのだろうが、その部分的な傾向というのが公的な問題にはなり得ないところなのかもしれないし、例えば企業内で圧政が敷かれていたり、他にも宗教教団とか暴力団とか政府の治安を担当する部署とか、様々なところで部分的な圧政が行われていて、そうしたところが公的な領域とは認識できない場合があるのかもしれないし、実際に公的な政治制度ではやりようがない部分が生じてきているのかもしれないし、それは昔からそうだと言える面もあって、今に始まったわけではないにしても、一般の民衆が問題を共有できない部分が生じてきている可能性があるのではないか。またそれらはメディア的な煽動行為によって誇張して取り上げられることでもあるわけだが、そのような部分的な領域での強権的な権力の行使が蔓延して、そうしたことを行うのが当たり前のように思われる風潮が世の中に生じているとすれば、それが公の政治領域へもフィードバックしてくる可能性もあるわけで、実際に一般の民衆に対してではなく、集団内の構成員に対して強権的な権力の行使を行う傾向があると、少なくとも一般の民衆がそのことに無関心でいるなら、公的には何でもないことになってしまうだろうし、一般の民衆も職業として何らかの集団に属しているなら、その部分だけでの問題となってしまい、それを公的な領域で問題として取り上げるのはおかしいように思われてしまうだろうし、そうなると公的な領域そのものがなくなってしまうのかもしれないが、結局はそうした部分的な問題に共感力を行使しなければならないわけで、それが他人の問題であり他の集団の問題であるとしても、そうしたことに内政干渉のようにして共感を示さない限りは、公的な領域そのものが生じてこないだろうし、本来の公的な領域とはそうした他人が関わってくる領域なのだろうし、無関係であって無関心でいられるところに関係を構築して関心を持つことによって、そうした領域が生じてくるわけで、そうなると私的な領域だと認識しているところまで含めた全ての領域が公的な領域であり、そうした全ての領域で生じていることを政治問題化しなければならなくなるわけだが、それを他人事で片付けてしまうと公的には何も考えられなくなってしまうのではないか。だから自分とは無関係で無関心を装えるところで、何か問題が生じていることを認識すれば、それがメディアを通じて報道されることになるわけだが、それについて関心を持ってSNSなどで言及するような成り行きになるのだろうし、そうしたことが公的な領域での活動と認識するしかないのかもしれないが、果たしてそれが公の政治制度と結びついているかというと、現状ではよくわからない状況となっているのかもしれない。


5月25日「批判の限界」

 国の体制というのは政治体制を指すわけだが、政治体制といっても政府による行政を管理統括する仕組みといえば、どこの国でも大して変わりはないだろうが、問題は民主的な選挙によって選ばれた代表者が政府や議会を構成しているか否かで違いが出てくるはずだが、それが形ばかりの形式的なものであろうと、一部の特殊な王国を除いたほとんど国で、選挙によって代表者を選んでいることには変わりないのかもしれず、そうした制度によって国の管理統治が行われている限りで、民衆の要望を含んだ民意も制度に則った形で国政に反映するわけだが、そうした成り行きの中で形成される民意というのも、誰か特定の人が抱いているような要望ではなく、行政の官僚機構がお膳立てするような政策を議会の場で審議する過程で、何かそれらしい意見や主張などが議員によって発せられて、それが政府側の答弁者との討論の中で何らかの傾向を伴って、おぼろげながら民意との兼ね合いが議論されるわけだろうが、はっきりしたことは今ひとつよくわからないような内容となっている場合が多いだろうし、結果的に政府側の要望がそのまま何の修正もされずに議会で議決されるわけでもないのだろうが、大体は玉虫色の決着となって、何かしらこれまでの制度に若干の変更が施されたような感じになれば、それで改革が成し遂げられたことになってしまうだろうし、ほぼ現状維持に近いような政策や法案の内容であっても、それを批判する側からすれば、すぐに改悪だとか主張せざるを得ないような内容だとみなされてしまうのかもしれないが、そうやって何かしら議会で決めたことが政府を通して実行されると、制度的には一応の格好がつくわけで、それが実質的に大した効果も上がらなければ現状維持となるわけだが、政府の行なった政策によって世の中に劇的な変化が起こることはあまりないだろうし、それを批判する側からは、何らかの悪法が制定されて民衆の苦しみが増えたような主張がされるわけだろうが、そんなふうに実際に政府の政策によって世の中に何らかの弊害がもたらされているとすれば、選挙で政権批判をする勢力に有利な結果がもたらされればいいわけだが、そうならなければ制度的には政府の政策が民衆の信任を得たことになってしまうわけで、そうした単純な制度的な理屈を踏まえておけば、その途中で民意を捻じ曲げるような屁理屈を煽動するような主張を真に受けずに済むのかもしれないが、メディアから伝わってくるのはそうした屁理屈がほとんどかもしれないし、屁理屈を考慮せずに普通に考えれば、政府の政策を信任できなければそれを批判している勢力に投票すればいいだけのことなのだろうが、たぶんそれができない人が多ければ現状維持的な選挙結果になるだろうし、別にそれが悪いことではなく、制度的に選挙結果が現状で政権を担当している政治勢力に有利な結果となれば、政府が信任されたことになるわけだから、それ以外のことではないと捉えておくのが無難なところなのではないか。まかり間違ってもそうした結果を政府を批判している勢力のせいにしてはまずいだろうし、政権批判をしている勢力を批判するのは構わないが、そうであるなら政権を支持していると表明すればいいことなのかもしれないが、それができない人が多すぎるのかもしれない。

 そうやって制度的には単純な選択しかできないわけだが、考えていることは制度とは交わらないのかもしれず、民衆が個人として制度的な民意に従う必要はないのかもしれないし、メディアなどが行う世論調査を通じてもたらされる民意が選挙結果を左右することがあるとしても、個人的には選挙とは無関係に生きているつもりの人もいるだろうし、国の政治体制とどれほど結びつきを意識したところで、政府の政策とその人の生活が無関係に思われるようなら、そう思っている限りで政治的な無関心を装えるのかもしれず、そうやって何とか政府から逃げ切れたと実感できれば、その実態がどうであろうと、意識の上では政治とは無関係な生活を送っていけるのかもしれないし、それが思い違いや勘違いであっても、そう思っている限りでそうした姿勢を維持できるだろうし、実際に世の中が平和で経済的にも恵まれた環境の中で生きていれば、普通に考えて政治的な要望のない心境でいられるわけで、そんな人なら政府批判をしている勢力を支持しなくても構わないのかもしれず、実際に批判勢力が問題視しているような、政府の政策によって弊害を被っている人たちがほんの少数に過ぎないとしたら、やはり批判勢力の支持者も少数派にとどまるのかもしれず、そうなれば選挙で批判勢力が躍進することはあり得ないだろうし、実際に政府を批判しているのはいつも少数派にとどまってしまう情勢なのかもしれないが、中には政府の政策によって弊害を被っているわけではないが、弊害を被っている人たちに同情して批判勢力を支持している人もいるだろうし、そんな人たちが世の中の多数派を構成できれば、批判勢力に票が集まって議会で主導権を握れるような勢力に躍進して、政権を担うような成り行きにもなるのかもしれないが、そうなるにはいかにして多数派を味方に引き入れるかが課題となってくるわけで、もちろんそんな課題があるとは意識できない場合もあって、ただ政府の政策の問題点を指摘することだけに情熱を傾けてしまうような成り行きになってしまうこともありうるわけで、そうなるとそれに対抗して自分たちで独自に掲げている政策にも何かしら問題点があることを見落としてしまうのかもしれないし、何かしら不都合な点のない政策などあり得ないのかもしれず、現状で不都合な点があるから現状を改革しようとしていることが確かだろうが、改革しようとする過程でも何かしら問題点が出てくることはあり得るだろうし、そうした点を改善しながら現状を改革していかなければならないだろうし、不都合な点を直せば改革が成功するとは限らないところが、改革の難しいところだろうし、政府の政策の問題点を指摘している段階ではまだそこまで至っていないわけで、それだけでは広く民衆の支持を得るには至らないだろうし、そして民衆の支持を得るにはどうしたらいいかという問いに正しい答えなどないのかもしれず、ただ言えることは現状で政治的な主導権を握っている勢力が、制度的には民衆の幅広い支持を背景として政権を担っていると言えるだけで、それらの勢力も政権を担うにはどうしたらいいかという問いに対して正しい答えを持っているわけではないし、成り行き上そうなっていることに対して、ではどうすればそうなるかという問いを立てることはできないのかもしれず、だから政府批判を行なっている政治勢力にしても、現状で行なっている以外ことはやりようがない状況なのではないか。


5月24日「独我論の構築」

 人がどんなことを行なっていても、そこで活動することによって生きていることを実感するだろうし、たとえそれが自爆テロだろうと、爆死するまでは活動しているわけだから、そうした活動の中で生きがいを感じているのかもしれず、それが死ぬために行う倒錯した活動だろうと、自分が主体で何かやっている気になれれば、多少の無理は承知でやっている行為を正当化したい気持ちになるのではないか。ただそれが制度的に決められた動作を伴ってくると、活動している自身だけではなく、そうした制度を支えている集団的な意志に従っていることにもなるだろうし、そこで生じている集団的な意志がその集団に所属している多数の個人を拘束していることは確かで、そうした意志に行動を制限されながら活動していることについては、あまり気づかない場合が多いだろうが、少なくとも集団の中にいて安堵感を実感しているとすれば、意識が集団の意志に包まれているから安心できるのかもしれず、そこで何かに支えられているように思えるなら、実質的には制度に支えられているわけだろうが、その制度が集団を構成する多くの人々に承認されている限りで、制度に基づいた活動もそれらの人々から支持されているわけで、多くの人々から支持されて活動を行なっている実態があることにもなるだろうから、そういう面ではどう考えても安心できるだろうし、そうした意味で制度に基づいた活動を行なっている限りで、それは自身の主体的な意志だけではなく、他の多くの人々の支援を受けながら活動していることを実感できるわけだ。そしてそうした制度的な活動を行なっている人たちは、たとえそれが世間的に知名度の高い著名な人であろうと、時代の変遷とともに消えゆく枝葉末節な役割しか担えない人たちでもあるわけだが、しかし普通はそれ以外の制度的な役割などあり得ないし、制度自体が時代の変遷とともに変わりゆく宿命にあり、そうした制度に支えられて制度の後押しを受けてその時代の成功者となる以外に、著名人としての存在意義などないわけだから、それはそれで当たり前の成り行きなのかもしれないが、中にはそんな時代を超越して普遍的な価値観の導きの下に、何か重要に思われるようなことを成し遂げる人もいるわけで、そうした人に普遍的な価値の実現をもたらすような幻想を抱くとしても、その時代に拘束された意識では、それよりはその時代に特有な価値観に惹かれてしまうだろうし、その時代を代表する著名人にしてもそうした価値観とともに存在しているわけだから、その時代に限界づけられていることがその人の長所であり、特質だとみなしておいて構わないのだろうし、たぶんそれ以上を求めるわけにはいかないし、実際にそれ以上は期待できないわけだが、それに対して一般の人たちが実感できるのは、そんなこととは無関係なありふれた日常の中でありふれたことを行なっているという実感であり、別にそうした活動に価値を見出さなくても構わず、たまには実際に行なっていること以外の行為に幻想を抱くこともあるだろうが、それはその時々で偶然に感じる気まぐれからそう思うことでしかないのかもしれないが、そうした幻想を抱くこと自体がありふれたことを行なっていることに飽きていることの証しなのかもしれない。

 少なくとも既存の制度に支えられていれば、その制度の範囲内で活動している限りは、それなりにうまくいくはずだと思われがちだろうが、その制度に競争を煽るような機能があれば、当然そこで行われている競争の脱落者が想定されるわけで、そうした脱落者に対する救済措置も制度として設けられていれば、脱落者にもそれなりに生きてゆける可能性があり、実際にそうしたセーフティネットが誰もがそれなりに生きてゆける社会を成り立たせているわけだろうが、実際に人が生きていることに意義や意味を見出せないような状況も生じているのかもしれないし、そんなことまで考えずに生きてゆければ、その方が楽な世の中になるのかもしれないが、たぶん下手に意義や意味を見出そうとしない方がいいのかもしれず、それ自体がたまに突き当たってしまう幻想に過ぎなければ、そういう意味まで考えてしまうことが不幸につながってしまう場合も出てくるわけだが、その一方で制度に拘束されている中で自身に課せられた役割分担を意識してしまうと、自由のない窮屈な実態も同時に意識させられてしまうから、どちらにしても思考することが必ずしも幸福には結びつかない現実に愕然とさせられるかもしれないが、逆に幸福を実感してしまうことが制度からもたらされる幻想に洗脳されていることにも気づいてしまい、やはりどちらにしても一筋縄ではいかない世の中の仕組みを意識せざるを得ないのかもしれず、意識がどちらに振れても思い違いや勘違いを誘発する現実があるわけで、かといってどちらへも振れてしまう現状もあるのかもしれないし、多くの人がどちらかへ振れることで精神的な安定を求めているのかもしれず、そしてどちらかへ振れることが価値観の固定化へとつながって、保守だとかリベラルだとかいう固定された立場を実感できるだろうし、そうした立場を実感してしまうことが幻想に過ぎないことも忘れてしまうわけで、しかも忘れてしまった方が幸福感を得られるだろうから、結果的にはそれで構わないわけだが、しかしそうなると時代の変遷とともに忘れ去られてゆくような枝葉末節な役割に甘んじていることにもなってしまい、別にそれで構わないにしても、それ以上の幻想を抱くにはそこへ留まってしまうとまずいだろうし、やはりそうした心理状態から脱却したければ、何やら時代に囚われない普遍的な価値を実現するようなことをやりたいと思ってしまって、そうやって誇大妄想と紙一重な大それたことを思考してしまうのではないか。そんなふうに哲学や思想に傾倒することがまともな精神を実現するとは思えないわけだが、制度に囚われた相対的な対処として活動を継続させようとすれば、時代の変遷に応じた実践が導き出されるし、そこに留まることが妥当なやり方だと思われるわけだが、絶えずそこから逸脱するような成り行きが待ち構えているだろうし、何か普遍的な価値を導き出せるような気にさせるものが、その手の哲学や思想には内包されているように思われてしまうわけだが、別にそれを幻想で片付けるわけにはいかないものの、やはりそれを目指す成り行きに一定のリアリティがあることは確かだろうし、無碍に否定するわけにもいかないのだろうが、そうした哲学や思想を主体的に確立しようとすると、何か時代の状況とは折り合わない独我論的な傾向になってしまうのかもしれず、少なくともそうなってしまうと幻想で片付けられても文句は言えないような結果となってしまうのではないか。


5月23日「批判の制度化」

 地域的な部分でうまくいっていることが、他の地域に弊害をもたらしている可能性があることは、うまくいっている地域の中で暮らしているとわかりにくいのかもしれないが、世界が地域ごとに分割されているとしても、地域間で様々な交流があることは確かで、交流が盛んになるほど、地域間で格差が縮小してくればいいのだろうが、最終的には国境の壁によってそうした縮小傾向が阻まれてしまうのかもしれず、国ごとの格差はなかなかなくならないだろうし、国の中でも貧富の格差や民族間の格差などが制度的な必要悪としてある場合は、格差というのはそれを利用して様々な制度が機能している限りで、基本的に維持されるのかもしれないが、一方で格差が厳然とあるから、それを解消しようとする試みも生じるだろうし、そういうところで人や集団が活動する口実として利用されているのかもしれないが、格差をなくそうとする試みと格差を利用して利益を上げようとする試みの間で、何が正しくて何が間違っているというよりは、それらの活動を成り立たせている要因があるとするなら、その要因が社会の中でいかにして構成されているかを見る必要があるだろうし、制度としてそのような活動を支えている要因があれば、そうした制度によって恩恵を受けている面と弊害を被っている面を考慮しなければならず、恩恵が大きいほど肯定されて推進され、弊害が大きいほど否定されて批判されるわけだろうが、たとえ恩恵が大きくても弊害も大きい場合もあるだろうし、そこで恩恵を受けている勢力と弊害を被っていたりそれを批判する勢力とで対立が生じるわけだが、そこで対立や抗争が生じて、そうした争いの結果として弊害が改まればいいわけだが、弊害を被っていたりそれを批判している勢力が争いに敗れると、弊害が改まるどころかより一層拡大する場合もあるだろうし、そうした面で社会の内部では常に何らかの争いが起こっているわけだろうが、メディアを通じてそうした批判が話題となれば、そこで何らかの争いが起こっていることになるだろうし、批判している人や勢力が批判の対象と争っているわけだろうが、そうした争いに勝ち負けが伴わない場合もあるだろうし、ただ批判する側が批判しっ放しになっていて、批判されている側がそれを意に介さない場合もあるわけで、そうなっていると争っていないことにもなってしまい、そうした批判が相手にされない場合だと、批判している側が主張する弊害も改まらないだろうし、批判されている側は相変わらず恩恵を受けながら活動が継続されることになるわけで、そういうところではそこで生じている格差が固定される傾向にあるのかもしれず、そのような活動を支えている制度も盤石で、変更が困難である可能性が高いだろうし、そういう部分ではそれだけ安定した状態が保たれていて、またそれによって弊害を被っていたりそのことについて批判している側も、別の面では恩恵を被っているから、批判しながらもその批判している状態を保っていられるわけで、そうなっている場合は一方的に利益を得ている側と損害を被っている側とに分かれているわけではなく、そうした環境の内部では利害が錯綜していて、ある面では損害を被っているとしても別の面では利益を得ていれば、それによって活動が成り立つような状況となってしまうわけで、そうであるからいつまでも同じような批判を繰り返していられるわけだ。

 またそうなると別に弊害が改まらなくてもそれほど困らない状況にもなってきて、むしろ批判を継続させるためにはある程度は弊害があった方がよくなってきてしまう場合もあるわけで、批判するためには批判の対象が必要となるような本末転倒な状況ともなってしまうわけだが、それが批判の制度化と呼ばれる現象なのかもしれないが、批判することが生業の人が増えるほどそういう傾向になってくるだろうし、そうした批判が批判の対象となっている問題を改めるために批判を行なっているのか、あるいは批判を継続させるために批判している対象を温存させる狙いがあるのかは、当然批判している当人の意識としては問題を改めること目指して批判を行なっているつもりなのだろうが、結果的に同じような批判をいつまでたっても延々と繰り返している場合には、当人の意識とは裏腹に批判のための批判になってしまっている可能性が高いだろうし、それが批判の制度化を助長しているわけだろうが、たぶんメディアを介した批判はある程度はそういう面があって当然であり、一種の芸として批判を楽しみにしている人たちの要望に自然に応えるような成り行きになっているわけで、それが毎度お馴染みの批判であるほど、批判目当てにメディアを利用している人たちにはウケるわけで、半ばそういう批判者を小馬鹿にしつつも、娯楽の対象としてそういう批判を要望しているわけで、そうなってしまうともはや批判の有効性とか内容とかはどうでもいいとは思わないにしても、いつも同じようなことを批判している人の固定客として批判を楽しみにしているのかもしれず、そうなると批判の対象も固定されてくるだろうし、かえっていつもとは違う対象を批判していると不満を感じてしまうのかもしれず、そういう固定客の要望としては、いつも変わらず同じような対象を批判してくれると安心できるわけで、そういう批判の特徴としては必ず批判の対象を小馬鹿にするようなことをやるわけで、そうした批判者と批判の固定客の間には共通の紋切り型が共有されていて、また攻撃対象も固定されていて、いつもように同じような攻撃対象を同じような紋切り型の表現を用いながら批判してくれると安心できるような仕組みが出来上がっていて、それが批判の制度化の利点であり問題点でもあるのかもしれないが、そうした批判にさらされている対象の方でも、批判してくれるから逆に注目度を維持できるわけで、そして同じような批判にさらされているから、いつまでも同じようなことをやっていられる可能性まであって、実際に批判されている対象の方でも、いつまでたっても同じようなことを主張しながら同じような活動を行なっている実態があるのかもしれず、結局主張や活動の内容を変えると批判に屈したと思われるのが嫌なのかもしれず、だから彼らにとってはいつまでたっても同じような活動を行うことが、彼ら自身の存在意義の証しであり、活動を正当化する根拠にもなっているから、少なくともそれを死守しなければならないし、そこは譲れないところでもあるわけだが、実態としては同じようなことを行なっているから同じような批判にさらされて、同じような批判にさらされているから、その批判に打ち勝つためにも活動の変更は許されないことにもなるわけだが、一方ではそれが予定調和の二項対立を招いていて、状況の閉塞感と停滞ももたらしているのかもしれないが、それ以上に活動の継続ももたらしているので、対立している双方ともにやめるにやめられない成り行きが生じているのではないか。


5月22日「役割分担」

 たぶん日々行われていることの中で多いのは、普通の活動として現状で行なっていることの延長上で何かをやろうとしている活動があり、すでに行なっていることが世の中で行われていることであるから、しかも同じようなことを大勢の人が行なっているようなら、そうしたことを行うのが制度や慣習として定着している場合もあるだろうし、他がやっているから自分も行うような成り行きがあるわけで、そうしたことの延長上で何かを行うとしても、特に奇異な感じは受けないわけだが、そうしたことが当たり前のように行われている中で、他に何か行うことがあるかというと、現状でやっていることをそのまま続けていればいいような成り行きであれば、無理にそれとは違うことを行う成り行きにはならないわけで、それが現状の中でもたらされている状況であって、そんな状況の中では他と違うことをやるわけにはいかなくなるのかもしれず、というか他と違うことを思いつかないだろうし、誰もが他人のやっていることから学んでいて、しかもそれを他人よりは上手くやろうとするだろうし、そうした成り行きから同じ活動を巡って多くの人の間で競争が生じるわけだが、競争している中でも連帯感が生まれるだろうし、競い合いながらもやっていることを盛り立てていこうとするわけで、そこから共存共栄の状態がもたらされればいいわけだが、もちろんそこには同じことをやっている全ての人たちが栄えるのではなく、その中でも競争に勝ち抜いた少数の人たちに利益や栄光がもたらされるような成り行きとなって、共存共栄の状態にもある程度はその規模に限界が生じるわけだが、規模を拡大させるにはより多くの競争者を必要としていて、競い合う者が多ければ多いほど、それに勝ち抜いた者にもたらされる富や栄光もより大きくなるわけで、そうした競い合いを盛り立てる側の規模もそれだけ大きくなるわけだが、そこで富や栄光を手に入れる者とそうしたものとは無縁な者との間の格差もそれだけ大きくなるわけだ。それも格差社会を象徴する現象となるわけだが、それを肯定しつつも一方ではそうした富や栄光とは無縁な人たちを助けるような活動も行う必要も生じてくると、そこに矛盾や欺瞞を見出そうとすれば見出せるし、そこから何らかの批判が生じる余地も生まれてくるわけだが、格差が生じる必然性がある中でそれを改められない現状もあるわけで、そんな現状を批判している側でもそうした現状を改められない成り行きには逆らえないだろうし、そうなると批判していること自体が欺瞞を伴ってくるわけで、自分たちが格差社会の助長に手を貸しているにも関わらず、それを批判しているわけだから、それでは筋が通らなくなってくるだろうし、やっていることと述べていることの間で論理的な整合性が取れなくなってくるのかもしれないが、別に整合性を取る必要性を感じなければいいわけで、一方では格差社会を招いていることに対して批判を行い、もう一方では格差を招くような競争に勝とうとすればいいわけで、そしてさらに公的な徴税で集めた中から富の再配分を主張するような欺瞞も生じてくるわけだが、それも欺瞞であることを認めればいいのかもしれず、そうした主張を特に正当化する必要もないのかもしれない。

 結局はそうした成り行きの中で必要に応じて主張したり批判することになってしまうのかもしれず、要するに格差が問題視されればそうなってしまう状況を助長している側を批判して、不利な境遇の人たちを助けようとすればいいわけで、批判している自分たちが格差を助長しているとしても、自己矛盾を伴いながらも批判することはできるだろうし、現状の中で生じている現象に現状の中で生きている自分たちが作用を及ぼしているのは当然であり、そういう面で自分たちの活動を正当化できない面が出てくるわけだが、そうであるからこそ欺瞞的な態度を取らないとまともなことは何も主張できなくなってしまうわけだろうが、現状を無理に正当化しようとすると、さらに欺瞞的な面が強調されることになるだろうし、しかも現状に批判的な態度を捨ててしまうとさらにおかしくなってくるのではないか。そして現状がいかに欺瞞的な面で成り立っているかを理解しないと、現状の無批判な肯定となって、それは単純な勝者の論理となるわけだが、現状の中で生きている人たちを勝者と敗者に分けるのも無理な面があるわけで、敗者となった人たちが普通に生きている現状が、それらの人たちを敗者とはみなせないことにもなってしまい、勝者の論理では通用しない現実に直面させられるわけで、そもそも勝者と敗者とは便宜的な役割分担に過ぎず、経済的な富の格差も名誉的な栄光の格差も同じように便宜的な役割分担でしかなく、誰がどちらであっても構わないような状況があるとみなせば、何だかそれは大間違いのように思われてくるだろうが、たぶん主張や批判に欺瞞が含まれないようにするには、そうであることが望まれるのかもしれず、勝者と敗者の間にも格差が生じている間にも差異を設けないことが肝心なのかもしれないが、それが理解できないことの主な部分なのかもしれないし、普通は差異を実感したくて人は勝者になろうとするのだろうし、富や栄光を求めて努力するわけだが、それが現状を成り立たせるための役割分担に過ぎなければ、ではなぜそうした役割分担が必要なのかというと、現状で機能している制度や慣習を維持するために必要な役割分担だと思えば、何かそれが当たり前のことになってしまうかもしれないが、たぶんそんな見解で構わないのであって、それ以上に勝者や富や栄光に価値を見出せない状況なのではないか。そしてそうした差異を求める活動は当たり前の活動であり、またそこから生じる格差を伴った現状を批判する行為も当たり前の活動に含まれていて、それ以上の役割分担が望めなければ、そうしたことを取り巻く状況の中で、役割分担が絶えず循環するような成り行きがもたらされていて、そこから人々が逃れられなければ、そこで分担された役割を全うすること以外にやることがなくなってしまうわけで、別に逃れようとしてもそれ以外の役割分担にありつけるわけではないのだろうが、そこで設定されている価値基準に従うなら、それ以上の役割はあり得ないわけだから、素直に与えられた役割に甘んじていればいいわけだろうし、そうした環境下で暮らしていることを信じているなら、それで済むようなことなのではないか。そしてそれでは済まなくなってくるような状況が生じる余地があるなら、そうした機会を捉えて何か今までとは違う役割分担にありつけることを願うような成り行きになるのかもしれない。


5月21日「個人の力量」

 個人の振る舞いは連携している集団に支えられている面があるにしても、何か主体的な活動として好意的に受け取られることがあるし、その活動の成果として社会的な成功をたたえられることもあるだろうし、他の人たちより優れた面を認められれば、秀でた人材として広く世の中で尊敬されることにもなるわけだが、そうした個人が社会の中に存在していること自体が、他の人たちに何らかの影響を与えていることも確かで、それが有能だと思われている個人の力によって、何か社会的にも重要なことを成し遂げられるような幻想を抱かせるのかもしれないが、それが幻想ではなく実質的な成果を伴った偉業だと確信するには、そこからさらにメディア的な宣伝活動を介さないとそうは思われないのかもしれず、良い意味でも悪い意味でも歴史上に登場する個人という存在は、そうしたことを語る上で欠かせない存在となるわけだが、そうやって語られる歴史自体も、世界共通の価値観に支えられた物語というわけでもなく、それが語られる地域や国によっても、偉人としての個人の評価には若干のずれが生じてくるし、中には過大評価されたり過小評価されたりする個人も出てくるだろうし、それは語るジャンルによっても違ってくるわけで、例えば野球の歴史を語る場合は、野球が盛んな地域とそうではない地域では、その中に出てくる個人の存在や評価は全く違ってくるだろうし、野球が全く行われない地域では、野球の歴史上偉大な記録を残した個人などは全く顧みられないだろうし、それは他のプロスポーツでも言えることだろうが、それが政治となると少しは世界共通の価値観によって、歴史上の偉人に対する評価が定まっているように思われるかもしれないが、それも歴史が語られる地域や時代によってはかなり大きなずれが生じてくるかもしれないし、特にここ二百年余りの西洋中心の歴史観の中で語られていることの中では、だいぶ偏向した内容が標準的な歴史を構成している可能性があるのかもしれず、別にそれが公平さを欠いているとか間違っているわけでもなく、世界的な覇権を確立した地域で語られることが世界中に広まるのは当然の成り行きで、そうやって語られる歴史自体にも地域的に偏向した内容が含まれているわけだろうが、個人が歴史の中で語られる分には、何らかの分野でメディア的に目立ったことをやった人たちが語られることがあるとしても、一般人に関しては標準的な歴史の中では何も語られないだろうし、特に語る必要もなく、そういう意味で個人とは何らかの歴史的な出来事との関連で語れること以外では、普通に無視される存在だろうし、注目する必要のない存在となるのかもしれないが、そうした人々が日々の日常の中で活動する分には、その活動に関係してくる個人の存在を認識しているだろうし、それはメディア上で語られる個人とは違った存在として認識されるのかもしれないが、そうした個人が重要であるとかないとか、そうした意味で存在しているのではなく、ただ普通に関係してくるから特定の個人として認識しているわけで、それが社会の中で暮らしている限りで当たり前の関係として、個人と個人との間に関係を生じさせるわけだが、そうした関係が個人の主体的な活動を支えている面があることも確かなのではないか。

 日常生活の中で個人ができることが、歴史的な出来事に関連して特定の個人が成し遂げたとされる偉業とは全くの無関係であることは、誰もが承知していることだろうが、与えられた環境の中で個人が関わってくることは、そこで個人が個人としてやらなければならないことであるなら、そこで個人が最善を尽くすしかないわけで、もちろんそうした活動には様々な方面から様々な作用や影響が及ぼされているわけで、そうした中でできることとできないことがわかってくるわけだが、その中には個人としてではなく集団としての活動もあるわけで、個人としても集団としてもできる範囲内で活動を行うことになるわけで、そこで何をどう行うべきかが問われていることもあるだろうが、別に何も問われていないこともあるわけで、それもそこで生じている他との関係から導かれることなのかもしれないが、たぶん現状でもそうした面があるだろうし、実際に今やっていることができることの全てだとは思わないだろうが、実際に行なっていることが今やっていることのすべてであることは誰もが承知しているのではないか。それは一般人のやっていることにおいても、例えば公の政治の領域で行われていることにも言えるのかもしれないが、少なくともできることをすべてやれるわけではないし、実際に行なっていることをやるについては、何らかの選択が働いていて、できると思われる中でやろうと思われることを選んで行なっていることは確かだろうし、なぜそれを行おうとするのかといえば、たまたまできることがそれであったということもあるのかもしれないが、少なくともそれをやるにあたって最善を尽くそうとはしているだろうし、最善を尽くして行なっている結果が現状を構成しているのかもしれないし、今できることを最善を尽くして行なった結果が現状をもたらしているとすれば、そうした現状に関して批判的な意見を持っている人は、もっと何かうまい具合にできたはずだと思いたいのだろうし、自分にやらせればもっとちゃんとしたことができたはずだと思っているのかもしれないが、それがたらればの仮定の論理であって、実際にはその人が行う機会が生じなかったわけで、そういう意味で妄想でしかないのかもしず、現状に対して批判的な意見を持っている人の中には、やれもしないことをできると妄想している人が多いのかもしれないし、もしその人にそれをやる機会が巡ってきたとしても、大したことは何もできない可能性も高いのかもしれないが、そういう面で批判の中身が本当に妥当なのかがわかりにくいだろうし、一見論理的に筋の通った批判が行われているとしても、現状で論理的に筋の通ったことができるかというと、実際に行われていることが場当たり的であったり、また様々な方面から及ぼされる作用や影響が多面的に錯綜していて、そうした作用や影響を避けられなければ、論理的な筋を通すことが困難になってしまうのかもしれないし、そうした面を考慮すれば、案外現状で行われていることが、やっている人や集団の力量では精一杯の対応なのかもしれず、それを批判している人や集団にしても、現実に主導権を握れていない点を考慮すれば、力量的にはそれ以下だと容易に想像できるだろうし、そういう意味で現状で存在している人にしても集団にしても、力量的にも度量的にも大して違わないような人や集団が現状の中で存在している実態があって、メディア上で行われる宣伝活動によって両者の間に差異があるような気にさせられてはいるが、それもほとんどは幻想に過ぎないと思っておいた方が無難なのではないか。


5月20日「交渉の経緯と内容」

 世の中では人や集団の間で様々な面で交渉が持たれているが、政治的な面での交渉も互いに譲歩や妥協を図りながらも、それなりに妥当な妥結を目指して交渉が行われることになるだろうが、それがどのような形で決着を迎えるにしても、交渉をまとめる意志があれば、何らかの落とし所が模索されるのだろうが、そこで何を優先させるかは、その場の状況に左右されることもあるだろうし、中には互いの思惑が噛み合わずに話がまとまらない場合もあるだろうし、そうした経緯や成り行きから交渉が不調に終わるのもよくあることかもしれないが、少なくとも交渉に至るような成り行きがあれば、双方ともに交渉する意志があることは確実だろうし、実際に交渉の場が持たれれば、そこで否応無く話し合いが行われるわけだが、そうした成り行きの中で双方が互いに歩み寄る可能性が生じるわけだ。また交渉するということは、あからさまな戦いや争いを避けようとしているわけで、それなりに平和的な解決を目指していることにもなるだろうし、そういう面で譲歩や妥協の用意がなければ交渉そのものを行わないだろうし、双方ともに直接の戦いや争いにはメリットを感じていないことにもなるし、交渉による平和的な解決を実現できれば、それなりのメリットがあると期待しているのではないか。そうした期待を抱いている限りで交渉の余地が生まれるわけだが、中には戦いや争いを遅らせるための時間稼ぎのような思惑もあるのかもしれず、そうした戦略的な思惑を秘めて交渉を進めようとすれば、かえって話がこじれてくるわけで、本気で戦いや争いを避ける目的で交渉を行わないと、将来に禍根を残すような成り行きになってしまい、時間稼ぎのような中途半端な思惑を抱いたまま交渉すれば、それだけ決裂する可能性が高くなるわけで、さらに相手の足元を見るようなのらりくらりの焦らし戦術などをやると、それだけで信用を失うだろうし、本気で交渉の妥結を目指していないのではないかと疑われてしまい、余計に事態をこじれさせてしまうわけだ。そういう意味で普通に考えればなるべく誠実な態度で交渉に臨む方が、話がまとまる可能性が高まるだろうし、実際に話をまとめる気があるなら、誠実にお互いに腹を割って率直な意見交換をした方が良いのは当然であり、下手に欲を見せてできるだけ自分たちに有利な状況で妥結を目指そうとしてはいけないのかもしれず、特に力を持っている方が余計に譲歩や妥協を行う必要があるだろうし、力の弱い側に有利になるような妥結の内容にすれば、それだけ話がまとまる可能性も高まるのではないか。そうした余裕が力のある方にあれば、それほど深刻な状況にもならないのだろうが、お互いになりふり構わず自分たちに有利な状況を作ろうとすれば、それだけ話が平行線に終わって妥結が困難になる可能性が高まるだろうし、それも交渉が行われる経緯や成り行きにもよるだろうが、状況が切羽詰まった中で交渉を行わなければならないような場合には、焼け石に水的なあまり実効性のないような交渉となってしまうのかもしれず、そうした追い込まれた状況に至る前に交渉の余地が生まれると、それだけ中身のあるまともな交渉となる可能性が高まるのではないか。

 いずれにしても直接の戦いや争いに至るよりは、話し合いによる交渉に持ち込んだ方が穏便に事を運ぶことができるだろうし、そうした方が物理的な被害が最小限度で済む可能性も高いだろうし、何よりの平和裡に事が運んだ方が経済の面でも通常の状態を保てるわけで、戦時経済という特異な状態にならずに済むわけだ。別に交渉しないからといってすぐに戦争になるわけでもないだろうし、戦争が長引いて泥沼状態になってからようやく交渉が始まるのもよくあるパターンだろうし、交渉に至る経緯というのも千差万別なのだろうが、特に戦いや争いを避けるために交渉するわけでもない場合もあるわけで、それほど重大な懸案事項もないのに定期的に国と国との間で交渉するような成り行きもあるだろうし、様々な懸案事項があっても交渉の場でそのことがまともに話し合われない場合もあるだろうし、交渉にも程度の差があることも確かだろうが、今ままでが敵対関係であったのを、交渉によってそれを解消しようとする場合には、特に交渉自体が重要な位置付けになるわけだが、交渉の成否もさることながら、その内容も注目を浴びるだろうし、そうした交渉を行う上で重要となってくるのが、双方が対等の関係を演出することかもしれないし、これまでの敵対的な経緯や成り行きを引きずらず、まっさらな状態で交渉に臨むことが肝心なのかもしれず、少なくともけんか腰で交渉を始めるようでは、まとまるものもまとまらない成り行きになってしまうだろうが、事前に相手を牽制するような宣伝合戦などが行われてしまうと、それだけで関係がこじれてしまうだろうし、最悪交渉自体が流れてしまう場合さえありそうで、そういう事態は避けなければならないだろうが、交渉をすること自体が一種の宣伝でありパフォーマンスとなるわけで、それがお互いにとってメリットとなることを見越して交渉をしようとしているわけだから、好印象を持たれるような演出を施したいだろうし、実際に会って笑顔で握手を交わすようなパフォーマンスをメディア向けに演じてみせるわけで、それが双方の肯定的な思惑の一致を示している姿勢でもあり、たとえ建前であっても好意的で良好な関係を印象付けるためにそうしたパフォーマンスを行うわけで、実際にも終始和やかな雰囲気のまま交渉が行われれば、まさに融和ムードが高まるわけだろうが、そうした演技の部分と実際に意見をぶつけ合い議論の応酬を繰り広げる部分は別かもしれないが、すでに事前交渉の類いも行われているわけだから、双方の代表が話し合う段に至れば、大方の話は済んでいるのだろうし、後は合意文章を確認してサインを済ませるような儀礼的な行為を残すのみとなっているのかもしれないが、そうした一連の成り行きにも実質的な意味や成果が伴っているだろうし、そこに至るまでの過程において合意文章に双方の意見や主張を盛り込む作業が行われるわけで、そこにどのような言い分がどれだけ盛り込まれるかを巡って、双方が納得できる内容となるようにすり合わせが行われるわけだろうが、そういう部分で双方ともに譲歩や妥協が必要となってくるのだろうし、実際にどちらがどこまで譲歩して妥協するかが実質的な交渉の内容となり、それに関して話し合いが行われるわけだろうが、たぶん普通はそういう部分で双方の意見を併記するような折衷的な文章を作り出すわけだろうが、そういう部分でもあまりにも戦略的かつ功利的に自分たちに有利な条件を盛り込もうとすれば、話し合いがこじれてくるだろうし、そこでお互いが相手の主張を認め合うような態度が求められるのではないか。


5月19日「政治的な成果」

 政治活動によってその成果が上がったように思われる場合は、経済などの政治以外の分野で何らかの改善傾向が表れる場合となるだろうが、それが政治活動によってもたらされたとみなすには、それ相応の根拠が必要となるかもしれないが、政治的にはその成果を宣伝することも活動になるわけだから、それを政治的な成果として宣伝することに関して、そうしたことを宣伝している政治勢力の支持者にとっては、当然それが政治的な成果だと信じるだろうが、そうした政治勢力のやっていることを批判している勢力からすれば、それが政治的な成果だとは認められないだろうし、それに関して様々な機会を捉えて批判していくことになるだろうが、成果が上がっているか否かというよりは、それによって政治活動が成り立っているか否かが実質的には主要な問題となるのかもしれず、少なくとも政治活動を継続させる政治活動という循環的な活動が政治活動を支えているわけだろうし、それらすべてが政治活動でしかないわけだが、要するに政治活動が行われていて、それを支持する支持者によってそれらの政治勢力が支えられている限りで、そうした政治活動が成り立っている現状があり、そこで必要とされる政治的な成果とは、政治勢力を支持する支持者をつなぎとめられていることにあり、支持者が選挙の時に支持する政治勢力に投票してくれて、議会において主導権を握れる勢力を維持できれば、それが政治的な成果と言えるわけで、そうした成果と政治活動によって社会に一定の貢献を果たすような成果とは次元の異なることかもしれないが、実際に政治活動によってに社会に貢献しているから、その政治勢力への支持が集まって、議会で主導権を握れる勢力を保っていられるということになれば、両方の成果が結びついていることになるわけだが、必ずしもそうはなっていなくても、議会で主導権を握れる勢力を保っていられる場合もあるだろうし、そうなると社会に貢献するような成果を上げられなくても、それなりの支持を獲得できるわけだろうし、それは相対的なことなのかもしれず、他の政治勢力も大した成果を上げられない状態であれば、相対的に現状で主導権を握っている政治勢力の優位が揺るがないわけで、たとえ不祥事などが重なってある程度は評判を落とすことがあっても、それが選挙での不利には結びつかない場合もあるのかもしれないし、他の政治勢力も政治的な成果を上げられないような世の中の仕組みや状況がそこにもたらされていれば、当然のことのように現状の政治的な面での勢力図が変わらないこととなってしまうのではないか。別に現状で主導権を握っている政治勢力が意図してそれを狙っているわけではないにしても、他の様々な方面から及ぼされる作用や影響によってそうした成り行きが形成されているとすれば、結果的にそうした情勢がもたらされていることになるわけで、現状で劣勢を強いられている政治勢力がそうした情勢を打破できなければ、さらにそうした情勢が続いていってしまうことにもなるわけで、結局そうした情勢下では、特に社会に貢献するような政治的な成果が得られなくても、現状の政治的な勢力図が維持されて、それによって大した不都合が生じているわけでもないことになってしまうのではないか。

 実質的には政治問題化させようとすることが、政治勢力の都合で決まってしまうこともあるわけで、たとえ社会に政治的に取り組まなければならない不都合が生じているとしても、どの勢力にとってもそれを問題化すると不都合が生じてしまうとすれば、そういう問題は避ける傾向が出てくるだろうし、そうした問題が何かといえば、それが政治的には解決不可能なことになるだろうし、それが資本主義経済から生じる貧富の格差のように、根本的に社会の中で取り返しのつかない不平等や不均衡を生じさせているとしても、そうした解決不可能な問題を持ち出してきて、実際に解決できなければ、それに取り組んだ政治勢力が批判されることにもなってしまうだろうし、そうなるとそうした問題を取り上げたこと自体がやぶへびとなってしまうだろうし、だから政治的な人気取りを念頭に置いた活動を行うのなら、そうした問題はできるだけ避けて、何か容易に成果に結びつくような問題を積極的に取り上げることになるだろうし、それも実質的には成果が曖昧なままでも、宣伝することによって成果を強調できるような問題が優先される傾向となるのではないか。それが具体的に何かといえば、真っ先に挙げられるのが景気対策の類いとなるのかもしれず、目先の指標となる景気指数の類いが上がった時には積極的にそれを取り上げて成果を強調できるだろうし、また下がった時にもそういった指数は一つではないだろうから、他の面でわずかでも改善している傾向があればそれを強調すればいいだろうし、そうした何らかの数値に変換できるような評価基準を多数設定しておけば、それらの中のどれか一つでも良くなればそれを強調することで、政治的な成果を強調できるわけで、他に絶対的な評価基準がなければいくらでもごまかすことが可能なのではないか。しかもそれがごまかしだとはみなされない可能性も高いだろうし、そうした成果を強調できること自体において、そういうことを他のことよりも優先して評価基準として認めさせること自体が、ある意味では政治的な成果とも言えるのかもしれず、そういった自分たちに有利な状況を作ることが、政治活動において重要な成果として位置付けられているとしたら、自分たちの都合に合わせて評価基準さえも設定してしまえるような状況を作りたいだろうし、そうしたことをやり始めるときりがなくなるかもしれないが、他にやりようがなければそうしたところから政治活動として取り組む必要が出てくるだろうし、実際にそうした努力の積み重ねによって現状がもたらされている面もあるとしたら、まずは自分たちが有利な情勢となるような環境作りから政治活動が始まっていると言えるだろうし、すでにそうした前提を構築する上で、何が政治的な成果として認められるかを巡って、メディア勢力と連携してそうした基準を作る作業を行なっているわけで、政治的な成果として認められるような基準を作る上で、主導権を握っている勢力に有利となるような前提を作ろうとしているわけで、そういう部分で主導権を握れていないと、いくら不祥事などを批判して民衆の支持を得ようとしても、そんなことは大した問題ではないという共通認識をメディア勢力の協力の下に確立している現状があるなら、世論の支持を取り付けられないことになるだろうし、その時点で価値判断の面で批判勢力が遅れをとっていることになるわけで、もちろんそれだけが評価基準とはならず、他の基準と合わせて総合的に判断されることになるのだろうが、そうだとしてそもそもの政治的な成果というのが、その政治勢力の支持や不支持とはあまり関連性がないような場合もあるわけで、そうなっているとすればすでにその時点で、政治的な成果にはあまり関心を抱かないような政治的な無関心が、世の中に蔓延している状況ともなっているのではないか。


5月18日「提案力」

 人は社会の中での立場によっても境遇によっても、その人にとっての政治の重要度には差が生じるのだろうが、普通に安定した生活を送っている人は政治的な要求も大してないだろうし、特定の政治勢力の支持者やメディア関係者でない限りは、普段からそれほど政治情勢に敏感になるようなこともないのかもしれず、そうした状況の中で世論形成がされると、それほど切実な政治的な要求が出てくることもないのだろうが、その一方で地域によっては金権腐敗や汚職がはびこっているような国もあるし、さらにテロや内戦によって国内が荒廃しているような地域もあるし、そうした地域や国ではたとえ切実な要求や訴えが出てきても、独裁的な政治体制の中で握りつぶされてしまい、それが直接政治に反映されることはないのかもしれず、そういう意味で政治活動において何か理想とされる状態が一般的に想定されているわけではないし、ただ様々な状況の中で様々な程度や内容や方向で政治活動が行われていることは確かなのだろうが、政治だけが単独で成り立っているわけではなく、他の様々な要因が絡み合って政治活動を構成しているわけだから、中には政治活動に実態がない場合もあるだろうし、それはただの行政活動や経済活動に含まれてしまい、政治家の出る幕がない場合もあるだろうし、活動に政治家が必要とされなければ、他の職種の人たちが政治的な役割を担うわけで、その場合でも交渉や取引などの過程で政治的な活動が出現するわけだが、そんな中でそれ専門の政治家が必要になる場合というのが、国や地方自治体などの公的な制度を伴った行政に関係する部分で必要となってくるわけで、普通にそれが議会の議員や地方自治体の首長や政府の高官などで、政治家と呼ばれる人たちがそうした役職に就いて活動するわけだが、役職といっても決まり切った一定の作業を伴うような仕事に付きまとわれる部分は、それほど重要ではないのかもしれず、それ以外の様々な問題や懸案に関して、それらに関して対処するための一定の方向性や指針などを定める役割を担うわけだろうし、それを決めるのが議会の場であり、そこで決まったことを行政の場で行うように指示を出すのも、政府内や地方自治の場において、それに関係する役職を担っている政治家の役割となるのだろうが、まずはそうした基本的な役割分担に関して理解していないと、政治の場で何が行われているのかわからなくなってしまうのかもしれず、だから議会などで法案に反対しているだけの立場に固執しているような印象を民衆に与えてしまうと、果たしてその手の人たちに法案の立案能力があるのか、そして交渉や取引を行って何らかの実行可能な政策を打ち出せるのか、そうした本質的な政治活動の面でその能力に関して疑念を抱かせてしまうわけで、それに関して主張や活動に工夫を凝らさないと、民衆の広範な支持を得られずに、それらの勢力が政治的な主導権を握れない事態がいつまでも続いてしまうわけで、少なくとも政治的な主導権を握っている勢力が出してくる政策に、反対しているだけの印象からの脱却を目指す必要があるのではないか。具体的には反対よりは提案の方に力を入れるべきだろうし、特に選挙運動などの時には反対することよりは実行可能な改革を提案する方に重点を移すべきだろうし、それも現状で可能な妥協的な面を伴った現実的な提案ができることが望ましいのかもしれない。

 当たり前のことを述べるならこうなるのかもしれないが、しかし現状で可能な妥協的な面を伴った現実的な提案の中身が、具体的に何なのかについてはよくわからないのかもしれず、簡単にはそんな提案などできはしないだろうし、できればすでに行なっているはずだろうし、説得力を持ったそうした提案ができないから、今に至る現状が続いているわけで、実際に政治的な主導権を握っている勢力による政策や法案にも説得力がないから反対せざるを得ないだろうし、それがいくらでも批判できる内容だから批判しているわけなのだろうが、では批判するなら対案を出せと言われて対案を出せるかというと、もともと説得力のないお粗末な政策や法案に対案を出す必要があるかと言われると、出す必要もなさそうに思われるだろうが、対案ではなく別の方面で何か説得力のありそうな提案ができればいいのだろうが、現状の中であまり説得力のないお粗末なことしかできないのは、批判勢力にしても同様の困難に直面しているのかもしれないし、そうした面で政治の場に集う人々には、すでにそんな提案すらやらなくてもいいような状況の中で活動しているのかもしれず、政治活動自体がそうした提案を行うような成り行きになっていなければ、そんなことなどできなくて当然だろうし、やる必要もないような成り行きの中で政治活動が成り立っていて、その中で主導権を握っている勢力がお粗末な政策や法案を用意してきて、それを批判勢力が批判して反対することで現状の政治活動が成り立っている状況が形成されていて、それ以外のことができない成り行きになっているのではないか。そしてなぜそうなっているのかといえば、そうなっている理由を特定できるというわけではなく、現状で様々な方面から及ぼされる作用や影響が絡み合った中で、そうした状況が出現しているとしかいえないのかもしれず、主導権を握っている勢力もそれを批判している勢力も、それ以外のところでは出る幕がないと言えるのかもしれないし、それらの勢力がやっていること以外の活動領域では、すでに別の勢力が別の活動を行なっていて、それらの活動の中では政治家の出る幕がないのだとしたら、政治家を抱える勢力としては、お粗末な政策や法案を出してきてそれを批判したり反対してもらうことで、それでかろうじて活動が成り立っていると言えるのかもしれないが、ではそれ以外の活動を行える可能性がないのかといえば、現に行なっていることが活動の全てであり、それ以外の活動が行える可能性がないとはいえないだろうが、実際に行なっているのが現状で行われている活動であることは確かであり、中にはそうした活動以外の活動を行うように提案している人もいるのかもしれないが、少なくとも現状の中ではそうした提案や主張がそれらの勢力に受け入れられているわけではなく、受け入れられていないから現状で行なっている活動が行われている現状があるわけだが、今後ともそんな状況が続いていく保証はないだろうし、何かのきっかけで現状とは違う何らかの活動を行うような機運が高まる可能性がゼロではないだろうし、そうしたほうがいいと思う人たちが世の中の主流を構成するような成り行きになるなら、現状とは違う活動が行われる可能性も高まるのではないか。実際に現状のままでは困るならそうした期待を抱くのは当然だろうし、期待している人が多いほど現状とは違う活動がしやすくなるのかもしれない。


5月17日「現状への肯定的な態度」

 普通に考えて社会は政府や地方自治体などの行政機構によって管理される傾向にあるだろうが、現状では管理の程度は完璧なものではないだろうし、それはこれからも完全な管理体制が実現するとは思われていないだろうが、常にそうした行政機構の管理を逃れる部分が社会には存在していると考えた方がいいのかもしれず、それでも行政側では社会を管理しようとしていることは確かだが、そうした試みや目論見が不完全に終わることも、今までの歴史的な経緯からすれば、そうなる可能性が高いわけだが、果たしてそうした傾向を示す行政機構の活動をそこに暮らす住民たちが支持しているかというと、支持している部分もあるだろうし反発している部分もあるだろうし、どちらとも言えない部分もあるのではないか。つまり住民たちの意向がどうであれ、行政機構の活動は変わらず、社会を管理する方向で固まっているだろうし、行政の役割としてそうならざるを得ない部分があり、そうした目的のために行政が活動している実態はいつの時代でも変わらないのではないか。そしてそれが何を意味するのかというと、そうした行政に対する支持と反発とともに社会がそれなりに歴史的な変遷を被りながらも存在していることは確かであり、そうした中で行政の活動がそれなりに機能していることも確かだろうし、またそうした機能に合わせて人々の活動もそれなりに管理されているだろうし、そうした管理を受け入れている面もあるのだろうが、その管理の程度と状態が住民の行政に対する対応を決めている面もあるだろうし、役立つ面においては従うが、反発を伴う面においては行政に逆らっているわけで、そうした住民の対応が行政の対応にも影響を及ぼしていて、その対応自体が行政側の活動となるわけだが、行政側の住民への管理が完全には行われないことを大前提と考えるなら、公的な部分での活動が行政の活動となり、それ以外の部分は住民の自主判断にまかされるような成り行きとなるだろうし、そして行政側の活動としては税収と公債などによって予算を組める範囲内での活動となるのは当然のことだろうが、たぶんその公的な部分での活動というのが、どこまでが公的な部分でどこからが私的な部分になるかが判断基準の曖昧なところだろうし、何かその辺で行政側の集団としての権益や利権などが生じてくる部分で、官僚機構が私利私欲を追求してしまう部分が出てきて、それが住民側に弊害ともたらす部分でもあり、そうした面を住民側の代表で構成されるべき議会勢力がチェックして、弊害が出ている部分で改革を施さなければならないのだろうが、そうした面での方針がはっきりしていない部分があるのだろうし、またはっきりさせないような作用が行政側と議会勢力側の談合癒着状態の中から及ぼされているのかもしれないが、そうしたところで談合癒着状態からの脱却を目指す勢力が議会で主導権を握る必要が出てくるだろうが、その辺で住民の側でも行政や議会の機能としてやるべきことがわかっていない人たちが大勢いるのかもしれず、わかるような成り行きにもなっていないだろうし、住民側の大半で理解が深まってしまうと、現状で議会や行政の面で主導権を握っている勢力にとっては困ったことになってしまうのかもしれず、だから現状維持を目指す勢力としてはそういう面で曖昧な状態になっていることを望んでいるのではないか。

 だからと言ってこれからも住民側で判断すべき基準がはっきりしないとも限らないだろうが、たぶんそういうところはその場の状況に応じて変わっていくだろうし、現状でも刻々と変化し続けている面はあるだろうが、大まかなところで住民側にとって何が必要かというと、それは行政側が推進していることが、住民側が望んでいることと一致するか否かを見極めないとわからないわけで、しかも住民側でも望んでいることが全ての住民で一致しているわけでもないし、住民の間で意見が分かれていることについて行政側で推進していることがあれば、当然それに関して反発する人も出てくるだろうし、果たして少なからずの住民が反発していることを行政が推進する必要があるかとなると、その推進している内容にもよるだろうが、たぶんそういうところで住民の側の代表で構成されるべき議会勢力の対応が問われてくるのだろうし、少なくとも住民側が納得できないようなことを行政側が推進している現状があれば、議会勢力としてはそうした住民たちが納得できるような結果をもたらすために活動しなければならないだろうし、そうしたことをやるのが住民側の代表者で構成する議会勢力がやるべきことになるのが、一般的には当然のことのように思われるわけだが、それができていない場合には、議会勢力としては住民側の意向とは違ったことをやっていることにもなるだろうし、そうしたことを議会選挙によって正していこうとすることが、政治的な課題ともなるのではないか。それも一般的な原則論としてはそういうことだろうが、現実問題として議会勢力の側でも政党などの集団的な組織構成や活動を伴っていくにつれて、住民の意向よりも集団の権益や利権が優先される傾向になっていってしまう面があるわけで、しかもそもそもの住民の意向というのも曖昧ではっきりしない場合が多いわけで、そういった面で制度的にも住民の意向を構成しにくい構造になっていたり、その方が行政にとっても議会勢力にとっても都合が良かったりするわけで、何にしても全ての面で公の制度をはっきりしたものにしていく必要が生じていることは確かであるにしても、そうはならない事情も生じている現状もあって、そうした現状が現に機能している制度の中で有利な立場を占めている勢力にとっては、現状維持を目指すべき理由にもなっているわけで、結局はそれを深刻に受け止めるか、あるいは現状のままで構わないと思うかは、住民側の意識次第でどうとでもなる面もあるだろうし、またそんな状況を深刻に受け止めている勢力にとっては、住民の意識を現状の改革へと向けるようなやり方を模索しなければならないだろうし、そのための訴えかけもメディアを通して行なっている現状もあるのだろうが、そうした活動が実を結ぶには、他にもやらなければならないことが出てくるだろうが、そのためには選挙で現状に不満を抱いている住民の受け皿となるような選択肢を用意することだろうし、そうしたことをやるにあたって重要なことは、わかりやすい対立軸を打ち出すことでもあるだろうが、そうした対立軸とともに主張しなければならないことは、否定的な現状への批判ばかりではなく、肯定的で説得力のある未来像を明らかにすることかもしれず、しかもそれがある程度は現状を肯定するような内容も持っていた方が支持を広げる要因となるだろうし、そうしないと現状維持で満足している住民の支持を得ることができなくなる可能性があり、その辺が現状批判を全面に打ち出して活動している勢力にとっては難しいのではないか。


5月16日「批判の機能」

 それが肯定的に捉えられるにしろ否定的に捉えられるにしろ、人は政治に幻想を抱いているし、国家にも同様に幻想を抱いているのだろうが、政治家は人々に幻想を振りまいているし、それは宗教指導者にも企業経営者にも言えることかもしれないが、それらの幻想の中身が意味しているものが、ありえない夢ではないにしても、都合のいいことを強調して都合の悪いことを隠蔽する傾向にあることは、誰もが承知していることかもしれないが、そうした都合のいい幻想を真に受けることには誰もが慣れているだろうし、また幻想ではない都合の悪い現実が露呈すれば、マスコミをはじめとしてそのことに関しては誰もが批判的な論調になるだろうし、それも誰もが承知していることかもしれず、都合のいい幻想をふりまいて政権をとった政治勢力がやっていることに関して、都合の悪い現実が露呈してしまうのは、ある意味では必然的な成り行きかもしれず、それは取り立てて驚くべきこともでもないわけだが、そうした都合の悪い現実を指摘して批判的な論調を展開する人たちにも、都合のいい幻想を振りまいている面もあるわけで、国家に絡んだ政治的あるいは行政的なあり方が、都合のいい幻想とともにあることは事実であり、その一方で都合の悪い現実も国家的な行政形態からもたらされていて、少なくともそれらの形態が、都合のいい幻想だけから成り立っているわけではなく、都合の悪い現実をもたらす活動も行われなければ、そうした形態が成り立たないことは明らかなのかもしれず、ならば都合の悪い現実をもたらすような活動も、必要悪として認めなければならないかというと、それに関して批判を展開している勢力からすれば、そうした都合の悪い面をなくしていかなければならないと主張しているのだろうが、そうした面がなくなってしまうと国家的な行政形態が立ち行かなくなってしまうとすれば、そうした都合の悪い面をなくそうとする主張自体が、都合のいい幻想に過ぎなくなってしまうのだろうが、果たしてそうした幻想を伴うような主張に実現性があるのだろうか。それに関しては実現を目指した活動ができるのかもしれないし、実際にそうした活動を行なっている勢力が存在しているから、そうした主張が行われている実態があるわけだが、たぶんそれに関しても、そうした活動を成り立たせている現実があり、そうした活動を行なっている勢力にとって、都合のいい状況がそこで生じていることになるわけだろうし、要するに幻想を振りまく活動が成り立っている状況がそこに出現していることになるわけだが、その一方で同時に都合の悪い現実には触れなくても構わない状況も出現しているわけで、そうした都合の悪い現実に関しては、そうした現実への批判を行う活動の中で指摘されて、都合のいい幻想を振りまく活動の中では触れなくても構わないことになり、それとこれとは別々の活動として成り立つような状況が出現していることになるのではないか。そういう面ではそれこそがご都合主義的な状況となっているわけで、都合のいい幻想を振りまく時にはそれだけ主張していればよく、また都合の悪い現実を批判する時にも批判だけやっていればいいようなことになり、両方をいっぺんにやってしまうと自己矛盾に陥ってしまうから、その辺で幻想を振りまく時と現実を批判する時で巧妙な使い分けが成り立っているのではないか。

 そうした幻想と現実の間でフィクションが成り立つ要素があって、そうしたフィクションによって現実が幻想によって支えられている面を明らかにできるかもしれないが、フィクションに都合のいい幻想を混ぜ込むのも普通の成り行きである反面、都合の悪い現実がフィクションによって強調されることもあるわけで、批判勢力がそうした面を強調したがる時もあるだろうし、それ自体が虚構なのだから現実の世界に影響を及ぼすにしても、直接の効果は期待できないだろうが、それが何らかの訴えかけを伴っている部分はあるわけだから、そうした面を肯定的に捉える向きもないわけではなく、集団的な活動形態が全般的にそこに参加している人々が抱く都合のいい幻想によって成り立っている面があるわけで、それが政府にしろ企業にしろ、あるいは何らかの宗教的な団体であるにしても、幻想の共有によって集団の団結力を保っている面があるわけで、そうした集団に対して実際にその集団の活動によってもたらされている都合の悪い現実を指摘して、批判することが可能であるのはわかりきったことだが、都合のいい幻想と都合の悪い現実が表裏一体な面もなきにしもあらずで、それら全てが作用し合ってそうした集団の活動を支えているのだとすると、そうした集団やその活動に対して批判することは可能なのだろうが、批判によって状況を変えることができるかというと、できないわけではないにしても、たぶんそれには批判する側にとっても都合の悪い現実を変えようとしなければいけないのかもしれず、批判している対象だけではなく、自分たちにとっての都合のいい幻想だけではなく、都合の悪い現実があるわけで、その自分たちにとっての都合の悪い現実に向き合わないと、相手の悪い部分だけを指摘しても説得力が伴わないのかもしれず、まずはそうした面から状況を改善しようとしないと、ただ現状の中で批判勢力としての役割分担の範囲内で活動しているだけとなってしまい、そうした役割分担を超えて現状そのものを変えるきっかけには結びつかないだろうし、その辺がそうした役割分担の中で活動している人たちを限界づけている部分であり、そこから脱却できない部分でもあるのだろうが、しかも脱却しない方が現状の安定に寄与している面もあるわけで、実際にそこから利益を得ている現状があれば、下手に現状を壊そうとしてやぶ蛇にならないとも限らないし、そういう意味で現状維持に貢献するなら、批判勢力としての役割分担の範囲内で活動している方が無難な面もあるわけだから、別にそれを批判する筋合いもないのかもしれないし、それも批判勢力にとっては触れてほしくない都合の悪い現実なのかもしれず、そういう意味で現状を打破するにはそれ相応のリスクを伴い、そんな現状を批判しつつ現状から利益を得ている側にとっては、自己言及を伴った批判を行うか否かで、微妙な立場になってしまうだろうし、それが現状の維持のための批判か現状を変えるための批判かは、批判している側の恣意的な判断にまかされている面もあって、それが正しい判断に結びつく可能性も定かではなく、何が正しく何が間違っているかも、その基準が曖昧だろうから、はっきりしたことは言えない面もあるのかもしれないが、批判の妥当性に関しては、結果的に批判している側にも批判されている側に変化がもたらされず、双方ともに現状維持の姿勢に変わりがなければ、批判の機能が現状維持に結びついていると判断されるのではないか。そしてそうはならない展開や成り行きがもたらされるなら、批判によって現状が変わったといえる面も出てくるだろうが、それもその場の成り行きの程度によって、その有効性が測られるようなことでしかないのではないか。


5月15日「矛盾したあり方」

 現状が示していることが何を意味しているとしても、その意味をどう捉えてみても、政治的にはうまくいかない面があるだろうし、例えばそこに民族や宗教などを基とした集団が構成されると、国家的な官僚機構と対立や軋轢を生じさせることとなり、国家自体が同じ民族と宗教で構成されても、敵対する民族や宗教などの集団との間で紛争が発生してしまうわけで、根本的には同質の集団を構成しようとするから、それがそれとは異質な集団との間で紛争の原因となるわけだが、それ以外に紛争の理由を求めても、あまり説得力を伴うような理由とはならないだろうし、だからと言ってそうした単純な理由でも納得しがたいのかもしれず、人は紛争に至る成り行きというのも執念深く憶えているわけで、紛争の当事者として自らの立場を正当化する上で、自分にとって都合のいい経緯として憶えているわけだから、憶えている内容自体がいつも不当な弾圧に対する正当な抵抗となり、悪いのは敵対している集団の方になってしまうわけだが、一方で敵対している集団の方でも、それとは全く逆の正当な主張を保持しているわけだから、結果的には対立や軋轢が解消するはずもなく、必然的に紛争に至るしかないのだろうが、そうやって紛争に至りながらも、経済活動が盛んな地域ではそちらの方が優先されて、紛争が部分的な範囲にとどまっていれば、たまにテロなどが起こっても散発的な状況で推移して、決定的な破局には至らないのだろうが、そういう意味で紛争も一つの活動であって、他の活動と競合状態にあると言えるだろうし、社会の中で様々な活動がある中で、武力紛争が行われている状態としてテロや内戦に明け暮れている地域もあるということであり、そうした状態の程度にも様々な段階や成り行きがあるわけだろうが、結局それは成り立っている範囲で行われていることであって、無理で不可能な活動ではなく、他の様々な活動との兼ね合いの中で、そのような活動も実行可能な余地があるから、そうした活動も行われているのだが、集団的な同質性を拠り所とするそうした活動は、その同質性が突き崩されてしまえば不可能になってしまうのだろうし、民族浄化という大量虐殺などの発想なども、同質な集団をなくしてしまえばいい、という極めて安易で単純な発想から、そうした残忍な行為が行われてきた経緯があるのだろうが、それも同質性を保持する異質な集団同士の敵対関係が原因となっていて、どちらの集団も同質ではなくなれば、そうした対立や軋轢も雲散霧消してしまうだろうし、そうはならないように集団内での結束を維持しようとしているのだろうが、そうした同質性が突き崩される可能性としては、他の活動の方が魅力的に感じられて、そちらの活動が優先されるようになれば、同質的な集団内の結束もそれなりに緩んでしまう可能性も生じる余地があるのかもしれないが、普通に考えれば、民族や宗教に基づいた結束が緩む要因としては、経済活動の活発化が挙げられるだろうし、しかもそこで異なる民族や宗教に関係する集団の間で経済活動が盛んになればいいわけで、さらにそれが特定の民族や宗教に関係する集団だけに利益がもたらされるのではなく、できれば民族や宗教とは無関係な集団に利益がもたらされるような成り行きになれば、そうした同質化が緩む原因ともなるのではないか。

 実際にそうした経緯をもたらす要因として、経済活動を活発化する企業が栄える成り行きとなっているわけだが、企業内で異質な民族的あるいは宗教的な起源を持つ人々が共存していて、さらに異なる生活習慣や風習を持つ人々も共存できれば、それらに関しては対立や軋轢が解消されるだろうし、できれば公の行政の中でも制度的にそれらの要因による差別や区別がなくなれば、やはりそうした対立や軋轢が減じられることとなるだろうが、しかしそうなったとしても、今度は特定の企業に優先的に利益がもたらされたり、特定の国家が世界の中で覇権的な地位を占めたりして、そうした不均衡が生じると企業間や国家間で対立や軋轢が生じることとなるわけだが、少なくとも世界の中の主要国や主要企業の間では武力衝突は起こりづらくなっているだろうし、そうした現状の中で民族的あるいは宗教的な面での武力衝突をなくすことが、国際社会の中では課題として浮かび上がってきているはずで、現状でもそうした努力が行われていることは確かだろうし、少なくとも国家や企業と民族や宗教が無関係となってくれば、それに絡んだ武力紛争も沈静化してくるはずだろうが、経済活動や政治活動と民族や宗教とが無関係になってくるなら、それらが紛争の原因とはなりづらくなってくるのではないか。そして具体的にはイスラム教がテロや内戦との関連で、宗教をいかにして国家的な制度から切り離すかが課題となってくるのかもしれないが、実際にはアラブ諸国をはじめとしてまだ宗教と国家が深く結びついている現状があって、それを切り離すのは現状では困難に思われるかもしれないが、そこにも経済活動が絡んでくるだろうし、経済活動を優先させると宗教活動がおろそかになってくれば、相対的に宗教色が薄れるわけだろうが、それでも経済活動において功利的な利益の追求が優先されてくると、倫理観や道徳観が薄れて、心も世の中も荒廃してくるような状況が生じて、今度は宗教的な倫理観や道徳観の復権が叫ばれるようになるかもしれないし、心や生活習慣の拠り所として宗教に脚光が浴びるような事態となってくれば、そうした宗教の良い面を強調するような成り行きとなるわけで、そうした中で妥協的な方策としては、世界平和に貢献する思想として宗教を正当化したくなってくるわけで、そうしたやり方の中ではカトリックの総本山であるバチカンが主だった立場を占めているわけだが、その是非は微妙なところかもしれないが、またイスラム教の方でもテロや内戦ではなく世界平和に貢献する宗教として自己アピールを行なっている人たちもいるだろうが、それらの肯定的な評価を得ている宗教や宗派などに関係する教団の類いでも、その内実が同質的な集団であることを堅持している限りで、いかに寛容精神を強調してみたところで異質な集団と敵対する可能性は常にあるだろうし、集団的な同質性を放棄するのはそれらの宗教教団としては受け入れがたいことかもしれないが、それでも社会の全ての面で宗教色が薄まることが期待されているのかもしれず、またそうした傾向は経済活動にも言えることかもしれないし、特定の企業や国家ばかりが経済的に栄えるのではなく、世界の全てで利益が均衡化されることが望ましいわけで、そういうわけで宗教の理想的なあり方は宗教活動が廃れる傾向であり、また経済の理想的なあり方は利益が特定の企業や国家に偏らないことであり、どちらにしても宗教教団としても企業集団としても、望ましくないあり方が理想状態として提示されているわけで、そこにそれらの活動の矛盾が凝縮されているのではないか。


5月14日「魅力ある演技」

 何かの惰性で動いている物事には自動で動作している面があって、状況によってはそれを誰も止めようがなくなっていて、実際にそうなっていると、あえて止める必要もなくなっているのかもしれず、それなりに被害や損害を出しつつも続いている人為的な物事には、頑なにそれを続けようとする人の意志も働いているだろうし、そうなってしまうとある程度は自然に動作が止まるまで放って置かれることもあるのかもしれず、その放って置かれる期間が長いほど、それだけ被害や損害も拡大するのかもしれないが、人為的にそんなことを続けている側からすれば、それは被害でも損害でもなく成果だと認識されているだろうし、そんな成果の積み重ねによって、自分のたちの勢力が優勢に事を進めていると判断できれば、さらにそんなことを続けようとするだろうし、それが惰性で行なっているのではなく、積極的かつ主体的に行なっていると思えるのではないか。そんなふうにして人は状況に対応しているつもりが、状況の一部となっていることに気づかないで、そうした状況の中で起こっている出来事に巻き込まれているのだろうが、それが人為的な動作を伴っていれば、そんな状況を作り出しているのが自分たちであると認識できるのかもしれず、それが思い違いでなければ、主導権を握っているのが自分たちであることを信じて疑わないような成り行きにもなるのだろうが、それも自動的に働いていることの一部となっているにすぎなければ、誰が主導権を握っているわけでもなくなってしまうわけだが、そうした物事が物語っているのは、その場の状況に関わっているつもりも誰もが、自分が主役であることを想定しながら、状況の中で主導権を握ろうとしていて、そこで主体的な活動を行なっていると思いたいわけで、少なくとも状況を傍観しているわけではなく、状況に積極的に介入しようとしていて、状況の方でも自分を必要としていると思いたいだろうし、実際に自分がその中で重要な役割を果たしている気でいるようなら、自尊心が傷つかずに済むわけだろうが、贔屓目に見ても世界が自分を必要としていると実感できるには、それ相応の社会的な注目が自分に集まっていないと、そんなふうには思えないだろうし、普通に社会の中で暮らしている限り、とてもそんな気にはなれないのが、偽らざる心境なのかもしれず、実際に一般の民衆とは違って、それなりに社会の様々な分野でメディア的に注目を集めている人であっても、それは特定の分野に限って注目を集めている程度であり、一般的に言ってもよほどのことがない限りは、その分野に興味のない人からは無視されていて、別にそれで構わないわけで、普通はそれ以上ことは起こらないだろうし、それ以上になる必要もなく、たとえそれが国と国との関係であっても、世の中の全ての人が注目するような出来事とはならないわけで、政府を代表するような立場の人物の一挙手一投足が誰にとっても注目に値するわけでもなく、外交交渉の中身が一般の民衆の生活に直接影響を及ぼすような問題とはなり難いわけだが、中にはそんなことを我がことのように思って感情移入してしまう人もいるわけで、直接そこに巻き込まれているわけでもないのに、介入しようとしたがる論調に感化されてしまうわけだ。

 それも何でもないことの表れかも知れないのだが、当事者たちにとっては深刻な問題でも、傍観者たちには面白おかしい話題になるかも知れないし、しかも誰が当事者であるかを巡って主導権争いを繰り広げていたり、どうしてもそこへ介入したがる傾向があるだろうし、たとえ介入できなくても自らが主導権を握っているかのごとくに語りたいわけで、それも実質的には何でもないことなのだろうが、何でもないことではニュースにはならないから、メディア上では少なくともニュースとしての体裁を整えるわけで、単なる傍観者ではないことを強調したがるわけだが、そうした見せかけの介入が何の効果も影響ももたらしていないことは明白で、そうした明白な結果を言葉で歪めようともしているわけで、傍観者がその場の主導権を握っているような語り方に終始するわけだが、それを見え透いた行為だと認識させないようにする配慮まで行き届いているとしたら、それこそフェイクニュースになってしまうのだろうが、たぶんそうした涙ぐましい努力というのも、何でもないこととして人々の無意識に語りかける力があるのかもしれず、それが茶番劇であることはわかりきっているのかもしれないが、それでもそうした茶番劇を行うことが善意に基づいた行為であるかのように装われるわけで、その場の作法として茶番劇を演じなければならないとなると、では茶番劇ではない真の姿がどこに現れているかとなると、そんなものはどこにもありはしないと思うなら、まるで世の中で起こっている全ての現象がフィクションであるかのように思われてしまうが、たぶんそこまで大げさに物事を捉えなくてもいいのだろうし、誰もが当事者になる必要はないし、誰もがそこへ介入する必要もなく、興味がなければ傍観者になることさえ余分な動作であり、それが公の政治的な問題であっても、必要以上に騒ぎ立てるには及ばないのかもしれず、ただ制度的に介入できるところで介入すればいいことでしかなく、それ以外のところでは無理に宣伝や煽動に加わる必要もなく、感化されるような成り行きからも離れていればいいだろうし、また傍観者のように事ある度ごとに群れ集うことも不要で、それでは過剰な参加意識の増長にしか結びつかないだろうし、必要以上にそうした善意の連帯に賛同していると、肝心な時に致命的な判断ミスをやらかしてしまい、それが状況を変える力にはならないわけだが、なぜそうなってしまうのかというと、それらの何でもないことを何でもないこととして認識できなくなるからで、いつでもどこでも最大限の非難や反対で応じていると、物事の程度がわからなくなって、そこに力の強弱やアクセントをつけられなくなってしまうわけだ。状況に応じて力の緩急をつけていかないと、やっていることや述べていることが一本調子になってきて、どんな状況でも同じ対応しかできなくなってしまって、それではうまくいかないのはもちろんのこと、何よりもそうした一本調子の対応では、やっていることがマンネリ化して飽きてしまうし、つまらないことには他の人々が興味を示さなくなってしまうわけで、実際に独り善がりな正義漢ぶった行為が一般の民衆から嫌われることにもなるだろうし、たぶんそうした独善的な態度を改めて、その場で演じられている茶番劇を楽しむぐらいの余裕のある姿勢を見せれば、それなりに魅力的に見えるのではないか。


5月13日「弊害の持続」

 戦略的な活動は利害がはっきりしていれば利益を得るためにやるものだろうが、利害がはっきりしていなければ、戦略そのものが練り上げられないだろうし、また目的がよくわからないままでは戦略を立てようがなく、どうやっても暗中模索のようなことしかできなければ、戦略以前に活動そのものがよくわからないものとなってしまうのかもしれず、それでも何かやっている実態があるようなら、それは何でもないような活動となってしまうだろうし、実際にそんな活動はありえないのかもしれず、そんな何だかよくわからないような状況の中でも、とりあえず目先の判断に基づいて目的や利益などを設定して、それを目指して活動していくわけだろうし、またそうであっても結果的に思い通りには行かず、期待したような達成にも利益にも至らなければ、無駄で意味のない活動に思われてしまうだろうが、それでも実際に活動が成り立っている状況があれば、そうした活動は思っているほど否定されるようなものでもないのかもしれず、そもそも社会の中で様々な勢力の間で思惑や作用や影響などが錯綜している状態ならば、結果的に何をやりたいのかはっきりしないようなことが行われている実態になってしまうのかもしれず、そうなっていると部分的には戦略的な利害関係に基づいて活動が行われているにしても、それが様々な活動の中の一つに過ぎないものとなっていると、そうした活動の中にいると全体的な視点というのが無効になっていて、そんなありえない視点から空想してみても、状況を正確に捉えることはできず、かといって状況を単純化した二項対立の関係で捉えても、さらにいい加減な認識しか出てこないだろうし、そうした認識に頼って現状分析してみても、誤った判断しかもたらされないのかもしれないが、そもそも正しく認識することが不可能な状況ならば、少なくともその場で活動している誰もが、自分の都合に基づいた認識しか持っていないわけで、自分の都合の中ではそれが正しい認識だと思われるだろうが、それとは異なる認識を持っている他の人も、その人の認識が正しい認識だと思われてしまうから、各人がそれぞれに異なった正しい認識を持っていることになり、当然そこに認識のずれが生じていて、全体として統一された現状認識にはなっていないわけで、各人が想い想いの正しさの中で自足できれば、それに越したことはないわけだが、もちろん人と人とが関係し合い接触するわけだから、自分が思い描いたような正しさの中では自足できないわけで、そこには必ず対立や軋轢がつきものとなるわけだが、賢明な人たちはそうした正しさからは一歩退いて、なるべく関係者の共通の利益や目的になるように調整して、それによって他の人たちと連携を模索するようなことをやり始めるわけで、そうした試みがうまくいけば、より多くの人たちから支持を得られるようなことをやりたがる傾向になるわけで、できればそれが宣伝や煽動によるごまかしとはならずに、実質的にも多くの人たちに利益がもたらされるような活動に結びつけばいいわけだが、そうした調整や妥協がうまくいく保証はないわけで、そういう試みはやってみないことには結果が伴わないわけだ。

 そして思わしい結果が伴わなくても続けられてしまう場合もあるだろうし、多くの人たちがそれに関わっている状態では、たとえうまくいかなくてもそれなりに続いてしまうわけで、そうしたことが惰性で続けられてしまうのが、人々が力を合わせて連携しながら行うことの強みであり、多少の無理は利くし気に入らない状況でも我慢できる限りで続いてしまうわけで、そうした活動が許容の限度を超えて継続されていくと、不感症となって人々の意識に何でもないような感覚をもたらしてしまうのかもしれないが、結果的にそれが誰の意志で続いているわけでもなく、何となくやめるにやめられない状況というのが案外ことの外長引くわけで、もちろんそこで主導権を握っているつもりの勢力が自らやめるわけがないのであり、周りがやめさせなければいつまでもやっていることになり、そこに見過ごせないような弊害が生じていても、それをごまかしたり隠蔽しながらも続けようとするだろうし、実際に続けられている限りは続けるのだから、続けることに関してそれ以上の理由など要らないわけだ。そうなってしまうとやっていること自体は戦略に基づいているのでも何でもないし、とりあえずやっていることをやり続けていればいいわけで、しかもそのやっていることに関して批判を浴びようが非難されようが、それがやっていることをやめさせることに結びつかないような成り行きになればいいわけで、しかも誰がそういう成り行きを制御しているわけでもなく、そうである限りにおいていくらでも批判も非難もできるわけで、またそれが誰のせいでそうなっているわけでもなく、誰もそれを止めることができない実態も生じて、そして実際にそれがどうしたわけでもなく、そんなどうしたわけでもない感覚を伴いながらも、何でもないことの続きがいつまでも続いていってしまう状況の中で、それに関して実害や弊害をいくら指摘しても、やはりそれで何がどうなるわけでもなく、実際に指摘したい人はいくらでもそれを強調しすぎるほど強調するだろうし、たとえそれが人々の実感からはかけ離れているとしても、激しい口調で非難を繰り返すしかないわけで、もちろんそんな非難も誰も止めないし、止める筋合いもないのかもしれないが、それも多くの人にとっては何でもないことでしかないわけで、たぶんそう思っている限りでそれ以上の事態にはならないだろうし、それ以下にもならないだろうが、そうなっている限りはそんな活動が延々と続いていくことになってしまうのではないか。そしてそこで理解しなければならないのは、取り立てて何がどうなっているわけでもないということであり、たとえそこで行われていることが無駄で無意味なことのように思われようと、やはりそれが何でもないことには変わりなく、そうなっているから危機感を煽ろうとする人々の目論見は外れ続けるしかないだろうし、危機でも何でもない状況を危機だとは感じられないわけで、だからと言ってうまくいっているわけでもないし、それに関する実害や弊害を指摘しようとすればいくらでも指摘できるだろうし、実際に批判勢力によってそんなことがいくらでも指摘されていて、別にそれが的外れというわけでもないのだろうが、それでも現実に現状を継続させようとする活動が続いているのだから、そんな活動によって利益を実感している人たちが確実に存在することになるのではないか。たぶんそうした現状が世界を覆っていて、その中で何かを行なっている人や勢力が現実にいるわけだが、その行なっていることが何でもないことのように思われてしまうわけだ。そしてなぜこんな世界が実現しているのかというと、もしかしたら人々が言及している対象にずれが生じていて、そのずれの中でしか対象を認識できないから、全ての言及がその対象からずれていて、それが言葉の正確さを欠いて、その結果として焦点の定まらない何でもない感覚をもたらしているのではないか。


5月12日「自由と民主」

 政治的な用語で使われる自由という言葉には、自由という本来の言葉の意味からはだいぶずれた実態を想起させられるが、実生活では安易に自由という言葉が示す状態を想像できるにしても、実際に自由な状況というのはあるようでいて、厳密にはあり得ない状況でもあり、普通に人が自由を意識するのは余裕があることの証しであり、経済的に余裕があったり時間的に余裕がある時には、自由であることを意識しやすく、そういう場合は不自由な状態であるよりは相対的に自由な状態であることを感じるわけで、そういう場合の価値としての自由は肯定的な意味を持つだろうし、反対に自由な活動が制限されるような場合は、実際に自由ではなくなって否定すべき状況だと思われるわけだが、活動自体に目的があって目的のために自由が制限される場合には、ある程度は不自由でも仕方がないと思われるだろうし、目的を成し遂げるために活動しているのであれば、他のことをやる自由などいらないだろうし、そういう意味でなら自由は無駄で余分なことになってしまうかもしれないが、果たして自由な活動が行える状況で目的が必要かというと、活動に目的が生じたらそれ以外のことを行う自由などなくても構わないと思うかもしれず、そうした場合には自由と目的は両立し難いように思われるだろうし、実際に何をやっても自由だと言われたら、逆に何もやる気がなくなってしまって、そうなると生きる気力も意味もなくなってしまうわけではないが、そうであるならかえって何かしら目的に拘束されている方が生き甲斐を感じるだろうし、そういう意味でなら人には生きていくために目的が必要だと思われてしまうだろうが、自由でいることよりは目的のために生きることが優先される傾向となると、自由であることの意味などなくなってしまいそうだが、普通はそんなふうに自由と目的とを比較などしないだろうし、目的が生じていれば目的のために努力しようとするし、また自由を求めている時には、自由になることが目的となって、自由になることを目指して努力するのではないか。結局そこに何らかの成り行きが生じていることが、人がその成り行きに合わせて活動して、そこから活動の目的などが生じてくるわけで、そうした成り行き次第では、その目的が自由を獲得することや自由を目指すような目的となることもあるわけで、そうした成り行きが生じていなければ、取り立てて自由に関して目的や活動など絡んでこないだろうし、そうした成り行きの中で自由という言葉を使う必要が生じてきたり、何か自由を目指すような活動が生じてきた時に、自由という言葉を使うことに価値を感じたり、それを目指す活動にも幻想を抱けるようになるのだろうが、それが政治的な意味であからさまに自由を唱えるような成り行きになってしまうと、そこで唱えられている主義主張や活動を正当化するのにかこつけて、自由を守るだの自由を目指すだののスローガンが出てきてしまうわけで、そうなってしまうとそこで使われている自由が何なのか、その意味も実態もよくわからなくなってしまうのではないか。

 また民主というと民衆が主体であったり主人公である状態を目指すのが、民主的な政治姿勢であるように思われるのだが、実際に民衆に主権があるのが民主的な政治形態であるわけだが、それも現状の実態に照らし合わせると政治的なフィクションであるように思われてしまい、もはや民主という言葉自体に実質的な意味がない状態となっているのかもしれないし、それに関して何かすぐに否定的な仕掛けを弄して民主という言葉を愚弄するような人々もいるわけだが、そういう意味で政治的な実態が理想からかけ離れているのも普通の政治状況であり、使っている言葉の意味などいつの間にかどうでもよくなっているわけではないが、そこに言葉を使っている人の都合が反映されるのは当然としても、民衆の実態も意識も人によって千差万別には違いなく、場合によっては政治の内容が民主的である必要さえ定かでなく、民主的な政治というのが何でもないことになりつつあるのかもしれないし、そこに普遍的な価値を付与できないだろうし、それを肯定する必要さえなく、肯定しすぎるとかえって主張している内容が空回りするような状況となっているのかもしれないが、それでも形式的には制度としての政治体制が構築されていて、そこで実質的な活動が行われているわけで、民主という言葉がもはや何でもないことであるのとは裏腹に、誰もそれを儀礼的な儀式であるとは思えないだろうが、実態としてはそうなっているのかもしれないし、それを言葉で説明するよりも実態のある活動内容として捉えれば、絶えず何らかの交渉が行われているわけで、その交渉内容や交渉結果として世の中に何らかの影響や作用を及ぼしているのだろうし、少なくともそれがメディア上でニュースとなっているわけだから、民衆の注目を浴びていたり、その実態の定かでない民衆の支持を得ていることにもなっているわけだ。そして政治にそれ以上のリアリティがあるとは思えないし、それ以上の何が実際に行われているわけでもないのだろうが、民主という言葉にこだわらなければ、単なる行政的な活動としての政治が普通に行われていることに気づくわけだが、そういう意味で政治とは公的には行政活動の類いであり、私的には経済的な利益の追求の延長上で、自らの立場を社会の中で有利に導くような工夫として、人や集団の間で様々な画策が行われている実態があるわけだが、たぶんそれらの活動を正当化する根拠として、民主という言葉が使われている実態もあるのだろうが、そうした場合の実態と民主という言葉の意味の間に、何か説得力のある結びつきがあるかというと、それは言葉の意味というよりは、慣習として使われている一方で、その意味に合うような使われ方をされているわけではなく、ただの添え物や飾りとして象徴的な役割を担っている場合がほとんどだろうし、そうなっていると実質的には何でもないことなのだろうが、ともかく自由とか民主とかいう言葉に何らかの肯定的な意味があることは確かなのだろうが、そうだからといってそれとそれらが使われている実態とはあまり関係がないのかもしれず、別に関係があろうとなかろうと誰も困らないのかもしれないが、そうした成り行きの中でそれらの言葉にいかなる効果があろうとなかろうと、少なくとも言葉が使われている実態があるのだから、それ相応の機能がそれらの言葉にあることは確かだが、使っている人がそれを意識しているかどうかは定かではないのかもしれない。


5月11日「関係の構築」

 論理的整合性が感じられるような論には、当然そうなることを目指しているから、それなりに矛盾しないように配慮されているわけだろうが、論の中身が何であれ、そこで述べられている内容以外のことには触れられていないことは確かであり、それに対して述べていないことまで持ち出して批判されても、それについてどう答えるべきかわからずに困惑するしかないかもしれないが、それとは違って論理的整合性に関してはあまり配慮されていない論になってしまうと、矛盾だらけのいい加減なことが述べられていても、それでは論というよりは雑談の類いとみなした方がいいだろうし、そうした雑談から何が読み取れるかというと、とりあえず何か主張したいことがあるのかもしれないし、そうしたニュアンスをわかってほしいのだろうが、はっきりとした正しさを纏った内容にはなっていないなら、その辺が曖昧な表現に逃げているわけではないのだろうが、ともかくそれに関してはっきりとは断言できない内容となっていると、それを受け取る方でも別に話の整合性を求めているわけではなく、ただの雑談として聞き流しても構わないと受け取ってもらえれば、それ以上に何を気にかける必要もないのかもしれないが、少なくともそれに関して批判する筋合いはないだろうし、批判されることを避ける意味で、あえて曖昧な内容にとどめている可能性もなきにしもあらずかもしれず、それもはぐらかしの類いとみなした方がいい場合もあるだろうし、そうした議論になることを避けるような配慮は、当然それによって戦略的な正しさを求めているわけではなく、むしろ雑談に終始している限りで明確な争点を巡って議論にならないようにしているわけで、それで構わないような状況の中で、議論とは違うところで物事を進めようとしているわけで、そうなると議論は見せかけの形式的な手続きとなってしまい、議論する前から結果が出ていて、その結果に至るまでの通過儀礼のようなものとして、形だけの議論が行われる成り行きとなってしまい、そこでは議論の中身よりは、そこで議論が行われた末に何らかの議決に至ったという事実さえもたらせば、それで済んでしまうような申し合わせが前もって決められていて、ただそうなるように粛々と手続きを進めていけばいいことになってしまえば、議論というよりは雑談程度でお茶を濁しても構わないようなことになっていて、かえってそうした意にそぐわないような白熱した議論の応酬になってはまずいわけで、まかり間違ってもそんな展開になるのを避けるには、はっきりしないようなことを述べながらのらりくらりで批判をかわすようなことをやっていけば、そんなことをやっていくうちに時間が無駄に経過して、後は相手が根負けするを待つのみというようなことになればしめたものだろうし、それも否定的なディベート術の範疇に入るようなことかもしれないが、そうなるためには手段を選ばないようなことをやるとすれば、無理にでもそんなことまでやるような成り行きにもなるだろうし、それもその場の状況次第でいくらでもやりようがあるのかもしれないが、そういうことをやった結果として信用や信頼関係がどうなるかまで考慮に入れないと、あまりにもえげつないことまでやってしまうと、将来に禍根が残ってしまうわけだ。

 普通に考えて交渉や取引の中身はその場で交わされる議論だけではないだろうし、そこで会話や対話が行われるにしても、事前に何が話し合われて、それについてどのような結論を得るかまで、前もって決められている場合まであるだろうし、ある程度は合意に至る可能性があるから、そこで話し合いが行われることになるのだろうし、最初から交渉の決裂を目指しているわけでもないだろうし、そういうところは事前にある程度は予想もついているのかもしれず、だからと言ってその場の話し合いが全くの形式だけということにはならないだろうが、そういうことも含めて話し合いが行われるわけで、話し合いの中身も重要だが、話し合いが行われるという事実も重要となるわけで、何らかの出来事としての話し合いが、話し合う双方にとっても重要な契機をもたらして、それ以後の関係の進展を期待できるのだろうし、そこに何らかの関係を生じさせる上で、そうした話し合いの場が持たれるのはよくあることなのだろうが、話し合うことによって何かを確認することは確かで、それは互いの意思疎通を図るということ以上に、約束を交わすという出来事を伴うだろうし、さらにその交わされた約束を守るということにまで踏み込めれば、それが話し合いの重要な成果となって、実際にそこで約束が交わされてその約束が守られる限りで、そこで話し合われた内容が有効だったことが証明されるわけで、そうなれば話し合いが成功したことにもなるだろうし、そうした成果を求めて実際に話し合いが行われることになるのだろうが、最初からそこまで期待するようなことにはならないだろうし、何度か話し合いが行われる中で、次第に双方の利害の調整が行われるようになれば、許容可能な妥協点が模索されることにもなるだろうし、それがうまくいくに越したことはないわけだが、たとえ話し合いが不調に終わろうとも、話し合われた事実は消しようがないだろうし、そうした事実を積み重ねるだけでも、それによって物事が前進していることにもなるだろうし、少なくともそこで何かが行われていることになるわけで、それが共同作業となって、そうしたことを行う関係が生じていることにもなり、そうした関係を継続させることによって、決定的な敵対関係となってしまうことを避けられるわけで、そうした関係を形式的な通過儀礼に終わらせないためにも、そこで中身のある率直な意見交換が行われることが望ましいのだろうが、それもその必要が生じなければ話し合いの中身も実のあるものとはならないわけで、そういう意味で必要もないのに話し合いを行うことはないわけだが、話し合う必要が生じるということが、双方に何らかの交流が生じていることにもなるだろうし、その時点で関係も生じていて、具体的に物や情報やサービスの交換が行われていることも意味するだろうし、だからそこで何らかの懸案事項が生じて、それについて話し合う必要が生じるわけだが、そうした話し合いによって決まり事や約束事が定められると、さらにそこから双方の交流が活発化するきっかけとなるわけだ。そしてそうした積極的かつ肯定的な関係を望むなら、やはり相手を打ち負かそうとするような悪意を介在させないような配慮が求められるのではないか。


5月10日「可能性の中心」

 必然的な成り行きというのはその場の状況が作るものかもしれないが、その場でどう考えてもそうした方がいいということがわかり、実際にそういうことをやる成り行きになるわけだが、そうした状況が人為的に作られるかというと、そう仕向けられていればある程度はそうなるだろうし、また偶然の巡り合わせでもそうなってしまう場合もあるのかもしれないが、どちらにしてもそうするのが必然的な成り行きに思われるような場合には、その場の状況に合わせて活動する成り行きになり、積極的にそうしようと思う限りで、そうすることが必然的な成り行きだと思われるだろうし、実際に強くそうしなければならないと思われるわけだ。そしてそうすることが良いことのように思われるなら、自らのやっていることに対して肯定的な評価を下すことにもなり、そうなれば肯定できる活動とは、その場の状況に合わせて何かを行うことになるのではないか。またその場の状況に合わせることは、場合によってはその場の状況に逆らうことも含まれるのかもしれず、要するにその場の状況に対応して、良かれと思うことをやることになるのだが、その良かれと思うことが、その場の状況に逆らうことだと判断することもあるわけで、そうなるとその場の状況に関して否定的な評価を下していることにもなり、否定的な状況の中で肯定的なことをやるとなると、必然的にその場の状況に逆らうようなことをやることになって、結果的にそのような成り行きも必然的な成り行きだと思われるのではないか。ただそれはそう思っている限りでそうなのであって、思い違いの可能性もあり、実際に必然的な成り行きに思われても、それが思い違いなら必然でも何でもなかったことにもなるだろうし、そういうところで勝手な思い込みであったり、自意識過剰な勘違いであることも十分にありうるわけだから、やっていることの必然性に関しては、あまり信用できない面もあるのではないか。それでも自分で自分を信じられなくなったらおしまいだと思いたいのなら、自分の勘を信じて、そうするのが必然だと思うようなことをやるしかないだろうし、大抵の人はその辺はあまり深く考えないで、自分を信じて自分がやりたいと思うことをやろうとするのかもしれないが、偶然に何かをやっている場合と違って、必然的に何かをやっている場合だと、主体的にやっている気になれるのは、自分で自分の行いを肯定できるし、正しいことをやっているように思われるからかもしれないが、その逆に意識して間違ったことをやれるわけではないし、普通にやっていることは、やっている時点では正しいと思われることをやっているはずだが、それとは違って偶然に何かをやっている場合というのは、それが正しいか間違っているかという判断とは関係なくやっているわけで、それでもその場の成り行きに従っていることにはなるだろうし、偶然にやっている場合でもその場の状況に合わせて何かをやっていることにはなるわけだが、ただその場合は、自らが積極的にそれをやろうとしてやっているわけではなく、その場の成り行きで偶然の巡り合わせでたまたまやっているに過ぎず、やっていることに関してあまり責任感は感じないだろうし、軽い気持ちであまり重要とは思われないことをやっている気でいる場合も多いのではないか。

 ではそうした軽い気持ちが何をもたらすのかというと、やっていることに対する思い入れがないだろうし、いつやめても構わないようなことをやっている気でいたり、実際に長続きしないですぐにやめてしまうようなことを、その場の気まぐれからやっている場合もあるだろうし、大して重要度の高くないことをやっている気でいるのかもしれないが、たぶんそれが仕事とはならないはずで、最初は偶然からそんなことをやるようになったとしても、それが仕事になってしまうと、いつの間にかやっていることの必然性を感じてしまうのかもしれず、それによって生活の糧を得ているとなると、それだけ重要度が高くなるだろうし、その場の気まぐれで軽い気持ちでやっているわけにはいかなくなって、何か真剣に取り組まなければならないような作業となってきて、それにつれてやっていることに対する責任感も生じてきて、それへの思い入れも尋常ではなくなってくるのかもしれないが、そうした作業へののめり込みが示すのは、やらなければならないという強い気持ちがそうさせているのだろうし、そう思っている時点で少なくともそれが勘違いだとは思えないし、何かやっていることに対する必然性が生じていると思われるのではないか。結局そうだとするとやっていることに対する思い込みが強いほど、それが必然的にやっているように思われてくるだろうし、逆に思い込みが弱いほど、何かのついでに偶然の巡り合わせでやっているに過ぎないような気にもなるのかもしれないが、やっていることの重要度はそうした思い込みとは別の事情が反映しているのかもしれないし、自分にとっての重要度としては確かに思い込みが強いほど重要度も高いように思われるだろうし、その重要度というのが自分の意識の中の重要度でしかなければその通りだとしても、それが誰にとっての重要度でもなく、誰もそんなことは重要だとは思われないとしても、そうしたことがきっかけとなって世の中が変わるようなことが起きれば、歴史的な重要度が高いことにもなるだろうし、実際に現状でも誰もが大して重要だとは思われないことを着実にやっているのかもしれないし、それがのちの時代においては歴史の転換点を象徴するようなことをやっていたとみなされる可能性まであり、今この時代の中でそんなこと意識することは不可能かもしれないが、実際にそれが誰もがやっていることだとすれば、やっていることに対する思い入れや思い込みがどうであろうと、それが重要だと思われようと大したことはないと思われようと、そうした思い自体が大して重要ではない可能性もあるわけで、そうであるなら自らのやっていることに対してどう思っていても、それは自分の意識の中での問題でしかないかもしれないし、実際にやるべきことをやっていると自信を持ってそう思っていても、そんな自分とは立場の異なる人から見ればどうでもいいことであったり、他の人がそう思うようなことであっても、自分にとってはどうでもいいことであったりして、そこに普遍的な価値や正しさを当てはめることができない場合まであるのかもしれないが、問題なのはそうした価値や正しさではなく、ただ他人のやっていることを尊重できるかどうかに関して、そのやっていること自体も、また別の他人のやっていることを尊重しながらやっているかどうかが、それが尊重されるべきか否かを巡って判断されるようなことなのかもしれず、それは相対的なことなのかもしれないが、何かそこに関係してくる物事が独りよがりではない可能性が出てくるのではないか。


5月9日「解釈の恣意性」

 世の中で生じている物事の成り行きは、そこに人の思惑が絡んでくると恣意的な解釈にさらされて、その解釈者の都合が反映したような語られ方がされるものだが、それがメディア上で話題となるような出来事なら、その人以外でもそれについて語ろうとする者も現れて、中にはそうした解釈とは違った意味合いで解釈し直そうとする人もいるかもしれないし、そんな解釈を真に受けるかどうかは、その解釈者自身の姿勢や解釈の内容を信用するか否かで決まるだろうが、解釈者が特定の傾向の主義主張に凝り固まっているような場合は、その凝り固まっている主義主張が反映された解釈の内容になるだろうから、そういう傾向は割り引いて判断しなければならならないだろうし、また最初からレッテル貼りのような決めつけを多用する傾向であっても、それも特有の凝り固まり具合だろうからわかりやすいのかもしれないが、普通に公平な観点から信用できそうな解釈とは、そうした決めつけやレッテル貼りによって攻撃対象を定めるような解釈の内容ではなく、解釈の対象を批判するにしても、批判の傾向が特定の方面に偏らないような解釈なら、それなりに信用できるかもしれないが、偏った方面への批判でも、その偏った方面で活動する人々のやり方があまりにもお粗末なら、そういう部分は批判せざるを得ないだろうし、明らかにおかしいと思われることをやっているのに、それを正当化しようとする態度は、誰が見てもおかしいと思われるのかもしれないが、おかしいと思われることに関して、そうは思わない人が大勢いるようなら、何かそこに常軌を逸した状況が出現しているように思われるかもしれないが、それで取り立てて自分以外の人たちが不都合を感じていないようなら、別に常軌を逸した状況などではなく、そう思ってしまう自分の方がおかしいと疑ってみるべきなのかしれず、おかしいと思われる人たちにもそれなりにまともな面もあるのかもしれず、そうした人たちが通用している部分というのが、社会のある一定の場所に出現しているとみなすしかないだろうし、そうした場所では自分が常識として把握しているようなことが通用しない状況となっているのかもしれないし、自分の常識が通用しなければ、そこでは自分がおかしいと思うような人々の常識が通用している可能性があるのかもしれず、そういうところで社会の多様性が実現していると捉えておけば、少しは許容範囲が広がるかもしれないし、頭ごなしに拒否反応を示さなくても、おかしいと思っている人たちへの対処法などもそれなりに模索していく必要があるのかもしれず、それだけ思考や感性の柔軟性を養えるのではないか。可能性としてはあらゆる方面で調整への努力が可能だと思わないとやっていけないだろうし、それが現実には無理であっても幻想を抱いていれば気休めにはなるだろうし、気休めでは済まない厳しい状況に直面してしまうこともあるかもしれないが、そうしたところからも可能な限りの譲歩を引き出そうとしなければ、安易に対立して敵対関係を装ってしまうわけで、そうした些細な差異を拡大解釈して対立を強調する姿勢は、今までに数限りなく行われてきた経緯があるのだろうし、そうしたやり方では駄目だと思うなら、やはり可能な限り譲歩を引き出そうとしなければならないのかもしれない。

 現状ではどんなに自らの立場を正当化しようと、そうやっていること自体にある種の後ろめたさが醸し出されているように見えてしまうし、自らの立場の正当化は誰もがやっていることでもあるのだが、それよりは自らの否定的な面を認めないと正直さを醸し出せないし、普通に生きているだけで過ちを犯してしまうことすらも、そんなのは当たり前のことでしかなく、そんなことも含めて結局は正当化する必要もないのにせざるを得ないところが、すでにおかしなことになっていて、自らに正直な生き方をしようとするとかえって様々な軋轢に直面してしまうのは、もはや社会が偽装や演技を必要とする仕組みとなっているからなのかもしれず、そうしないとうわべだけでも体裁を取り繕えない事情が生じていて、そうした回りくどい事情を無視できないから、かえって常軌を逸したことをやって、バランスを取ろうとしているのかもしれないが、結果的にはバランスを取る以上に捻じ曲がってしまい、さらにそこに様々な力が加わって、どうにもこんがらがった事態が出現しているのかもしれないが、たぶんそれが当たり前の状況なのであり、そうなる他ないから、そうなっている状態から逃避しようとするわけだが、避けては通れない成り行きを避けようとしているわけだから、当然のことながらうまくいかないわけで、うまくいっていない状況の中でもそれなりに活動していかなければならないから、自らのやっていることを正当化しようとすれば、偽装や演技が欠かせなくなってしまうのだろうが、それを偽装や演技だとは認識できず、そうした自覚すらなければ、当たり前のことを当たり前のように行っている感覚なのかもしれず、そうであるならそれで構わないわけで、何もおかしいわけではなくなってしまうだろうし、かえってそうした事態を批判的に見ている側に、常軌を逸した傾向があるようにも見えてしまうのかもしれないが、それも現状のとりとめのなさの現れだと思うしかないだろうが、そうは思っていても、なお状況を批判的に見ておいた方がいいだろうし、実際に世界中で無理なごり押しが行われていて、しかもそれが今に始まったことではなく、いつの時代でも当たり前のように行われてきたことなのかもしれず、正しいことをやるのを捻じ曲げないと、今ある状況すら維持できないわけで、そこで何かを肯定しようとすると、それと地続きな否定的な面も一緒に肯定する羽目に陥ってしまうわけで、どうあがいてもそれは無理な肯定となってしまい、では現状を否定すればいいのかというと、それも肯定的な面まで否定してしまうことになってしまうから、それも無理な否定となってしまうわけで、結局は安易に肯定したり否定したりできないわけではないが、それをやってしまうと現状から遊離してしまうわけで、現状のうちにとどまるには、肯定しつつも否定的な面にも留意しなければならないだろうし、またその逆が成り立つことも示さないとリアリティを失ってしまうわけだから、そんな状態を恣意的に解釈してしまうとしても、常にそれはとりあえずの暫定的な判断とともに解釈していることは自覚しておいた方がいいだろうし、いつでもその解釈を変更できるようにしておく必要があるのではないか。特に否定的な決めつけやレッテル貼りをやってしまうと後戻りができなくなってしまうわけで、そうなった場合には素直に自らの誤りを認める必要が出てくるわけだ。


5月8日「個人と集団の比較」

 たぶんそのような比較が可能な場合には、個人でできることと集団でできることの間には、何か決定的な差があるように思われるかもしれないが、集団の中で個人が機能している場合は、個人が集団の助けを借りながら何かをやっている実態があるだろうし、現実にはそうした個人と集団との連携によって、世の中のほとんどの活動が網羅されてしまうのかもしれないが、そうだとしても社会の中で個人が単独で何かをやることが果たして可能かというと、たぶん個人が単独で活動しているように思われる場合でも、何らかの形で集団が協力している場合がほとんどで、実際に程度の差こそあれ、社会の中で活動していれば個人が何らかの集団と関わりを持っていて、ただ関わりのある集団からの拘束力が強いか弱いかで、個人としての活動の自由度に違いが表れるわけで、そういう意味で個人としての単独性にこだわる必要はないのかもしれないが、それでも活動の内容として個人の単独性が強調される場合があるだろうし、例えば何らかの偉業を成し遂げたことを賞賛する時には、その賞賛の対象が個人であれば、その個人が単独で偉業を成し遂げたように語られる場合があるだろうが、そうした場合でも実際には何らかの集団のサポートがあったことも語られるだろうし、その証拠に偉業を達成した個人の口からは、それを成し遂げるにあたってサポートしてくれた団体に対する謝意が述べられることも多いだろうが、そうした個人の業績として讃えられるような活動には、たとえその活動を支えてサポートしてくれた何らかの団体が存在したとしても、しきたりとしてはその個人の固有名を強調して、その個人を讃えるような形式が求められるわけで、そうした場合は活動の形態が個人としての活動とみなされるだろうし、賞賛の対象が個人でなければならないような形式が制度として定められている場合もあるわけで、具体的にはそれがスポーツなどの個人競技になるだろうし、また学術など研究発表でも、団体として行われる場合と個人として行われる場合とで区別がつくわけで、そうした個人が実質的にチームとしてサポートメンバーなどを抱えていても、その個人の名前を冠した形態にしなければならないかというと、慣習としてそうなっているとしか言いようがない部分があるにしても、明確にそうなっている面とあやふやな面とがあって、あまり積極的には区別を強調できない面もあるだろうし、実際に個人だろうと団体だろうと、そこを気にする必要など意識せずに、ある場合には個人であること強調して、またある場合には個人でも団体でもどちらでも構わないような成り行きの中で活動していて、何かそこに重大な差異など見出せないのかもしれないが、だからといってどうでもいいわけでもなく、実際に個人で行なっている活動にこだわっている場合には、何かそこに個人であることを強調することによって、何らかのメリットが生じているのかもしれず、そのこと自体に着目して考えてみると、何か今までには気づかなかったことがわかるのかもしれないし、そういうことに関して社会のあり方についての新たな可能性が浮かび上がってくるのかもしれない。

 一般的にはある時は個人であることを強調して、またある時は団体で活動することを優先させる場合もあるし、そこに慣習が働いているとすれば、個人が優先される慣習と団体が優先される慣習とがあり、社会の中のある面では個人が優先されて、またある面では団体が優先されるような成り行きになっているのかもしれないが、制度として明確な規定があるところではわかりやすいだろうし、そこでは個人としてやらなければならないところと、団体として行うところがはっきりと区分けされていて、個人としてやらなければならないのに団体が関与したり、またその逆のケースとかがあると、それは明確な違反行為とされてしまう決まりがあるだろうし、そういうところでは個人と団体のどちらかが有利不利という比較にはならないだろうが、そうした明確な規定がないところでは、普通は団体として動いた方が力を持つような場合でも、個人として何らかの役割を果たせる可能性が生じているのかもしれないし、例えば特定の個人が著名人として社会の中で民衆の広範囲な信頼や信用や支持を得ているような状況が想定されるわけで、そうなっていると何かその個人に力があるように思われるわけだが、その力があるように感じられるところが多くの人が抱く幻想なのかもしれないし、そんなふうにして特定の著名人が優れているように思われて、その著名人が実際に民衆の支持を集めて公の政治に参画して、政府の主要な役職などに就いてみると、大したことは何もできないような状況となることも、結構ありがちなケースとしてよくあることかもしれないが、そうした場合は、その著名人が著名になった成り行きの中で、何か優れたことをやったように見えたから、そうしたところでは確かに優れていたかもしれないが、それとその後に民衆の支持を集めて政治に参画した経緯とは別の成り行きであって、その人が著名人となった成り行きの中では優れた業績を上げかもしれないが、政治家としてはそうでもなかったということになるだろうし、結果から見ればそういうことになるのかもしれないが、政治家となった時の状況の中で、その人に何もやらせないような力が周囲から及ぼされていたのかもしれないし、その人がいくら優れているとしても、周りがサポートしてくれないと何もやれないような仕組みとなっている場合もあるだろうし、また政治制度の中で政府の主要な役職に就いても、それだけでは力を発揮することができず、その役職に就いている人がやることができる権限がそれなりに制限されていて、その制限された範囲内で何かをやろうとしても、他の役職に就いている人との力の相互作用の中で相殺されてしまうような具合になっていたりして、またたとえそれが首相や大統領のように最高権力者のような立場であっても、民主的な三権分立体制が成り立っていれば、いったん議会や司法と軋轢が生じると、うまく政策を推し進められないような成り行きにもなるだろうし、また行政の官僚機構などの助言を受け入れるような成り行きになれば、それだけで当初にやろうとしたことに変更を迫られてしまうだろうし、そうした制度的な妨げの効果というのは無視できない力を及ぼしてくるわけで、そうした面で個人が組織的に集団のコントロールを受けてしまう成り行きも結構あるのではないか。


5月7日「政治的な主導権」

 政治的な主導権というのは、それを握っている側でも、それだけで権力を行使してやりたい放題なことができるわけではなく、実質的にも定められた役割以外のところで何ができるわけではなく、たぶんできることは、その場に及ぼされている様々な作用の交通整理のようなことはできるのかもしれないが、それも絶えず状況に対応したことしかできないのではないか。政府として何かをやろうとすれば、行政の担当者と交渉して、行政機構の活動と折り合いがつく範囲で、やれることが限られてくるだろうし、また行政の活動との兼ね合いで、行政側が用意した段取りに則った形で行われるわけで、そうなっている時点でやりたい放題なことはできなくなっているだろうし、もちろんやりたい放題の中身が何なのかがよくわからないところだが、何よりもそれが行政の活動としてフィットするかどうかが問題となるだろうし、そこから外れた不自然に思われるような活動はできないわけだ。またそうである限りにおいて、政治的な主導権というのは行政機構の活動に依存した形で成り立つわけで、そうなると実質的に主導権を握っているのは、行政機構である可能性が高いのかもしれない。とは言っても政治家が主導権を握っているように装われるのだろうが、その装われ方が政治主導を印象づけるような演出が施されていようと、行政と一体となって動いていることには変わりなく、その集団的な動作の中で、政治家が主導的な役割を担っているような形をとるのだろうが、実際に行われることは行政の内部ですり合わせが行われていて、大抵は行政の意を汲んだ形で政治家が行政側の都合に沿った発言することが多く、少なくともそれは政治家個人としての独自な意見ではないだろうし、政府としての立場に配慮できる範囲内で言葉を選んで発言するような成り行きになるだろうが、そこから踏み出して政治家の個人的な事情を反映させるような内容を述べれば、たちまち政府の方針との間で食い違いが生じてくるかもしれず、そうしたずれを突いて批判されようものなら、結局は政治家の個人的な事情よりは、政府としての都合が優先されるような成り行きになる限りで、主導権を握っているのが政治家側ではなく、行政側にあることがはっきりするのではないか。そういうところで行政の組織的な事情が優先されるような傾向があれば、政治的な冒険などできないことも明らかになるだろうし、またそれが行政の主導権を示しているとしても、特に行政機構の中で、特定の誰かが主導権を握っているというのではなく、集団としての意向がそうした官僚機構全体から滲み出てくるような様相となるのかもしれず、それは特定の誰の意見というわけではなく、そうした意向に逆らえないような空気が、その場を支配しているように感じられるわけで、特定の誰がそう感じられるというよりは、誰もが自然に行動すれば、そうなってしまうような同調圧力がかかっていて、それはそれについていくら抵抗しても、逆らうような契機が出てこない状況ともなっていて、その場で組織的に動いている全員が、その場を支配しているように思われる空気に対して、足並みをそろえて同調してしまう成り行きが生じているのではないか。

 そしてそれの何がいけないというわけでもなく、政府という機関に対応した言動や行動を強いられるのは、政治家としても当たり前のことになるのかもしれないし、そうした役割を演じることが政治的な主導権を握っていることになるのだとすれば、それは演技以外の何物でもなく、民衆に支持されるように演じることが政治的な理想形態と言えるのかもしれないが、その演技形態のバリエーションとしてリベラル的な演技もあれば保守的な演技もあって、その形態に応じた鋳型通りの演技が求められているのかもしれないし、また場合によってはそこから少し逸脱するような人間臭さも必要で、何か義理人情的な発言や行動ができれば、メディアがそれにふさわしい言葉を探し出してきて、肯定的な振る舞いとして評価してくれる場合までもありそうで、たぶんそれで何も問題がなければ済んでしまうようなことなのかもしれないが、時には政府が行なっていることに対する批判や反対運動が起こるような成り行きもあり、そうした時に政治的な主導権を握っている側は、当然のことながら政府側の代弁者として振る舞わなければならなくなり、批判や反対運動を行なっている側から悪者扱いをされるわけで、そこでも行政の官僚が用意した言葉を使って振る舞う限りで、ありふれた政治家の紋切り型としての役割を全うできるのかもしれないが、やはりそうなっていること自体が行政側の主導権を印象付けているわけで、特定の誰がその場で主導的な役割を果たしているわけではなく、制度的な役割分担の中で誰もが台本通りの演技に邁進している状況が構成されていて、それを超える言動や行動は求められていないわけだ。そしてそうだからといって、そうした状況がまずいわけではなく、状況としてはそれで構わないわけで、そこで求められているのはそうした状況に対応した言動であり行動なのではないか。そしてそうした状況への批判も含めてその場で演じられている役割分担なのであって、そこに関わっている限りはそうした役割分担の受け入れは避けられない成り行きであり、誰もがそんな役割分担の範囲内で決められた演技を行うような成り行きに巻き込まれてしまい、それがその場で働いている制度的な拘束であることを実感するしかないのかもしれず、自らがそんな制度に則って発言して行動していることを実感させられるのではないか。そうであるなら無理にそこから逸脱しようとしたり、逆らうような行為は慎むべきなのかもしれず、その代わりに絶えずその場の状況にフィットするような動作を心がけることが肝心で、そうやってうまくその場に適応できた人がその場の主導権を握っているように見られて、そうした人に民衆の支持が集まるのではないか。要するにその場でどう振る舞うかが、政治的な成功の鍵となるわけで、そのためにはその場の状況を見極める必要があり、その場で何が求められているかを素早く察知して、求められている動作を行なって、それが自然な振る舞いであるように見えれば、民衆が好感を持つだろうし、そうした民衆の心理を利用して賛同者を集めながら勢力を拡大してゆけば、政治的な主導権を握ることができるのかもしれず、そうしたことを目指すには現状の政治情勢にフィットするような演技に磨きをかけることが肝要となるだろうか。


5月6日「制度の代表者」

 人が生きて生活していれば、絶えず何かを消費しながら活動しているのは誰にとっても同じことだが、消費しながら利益を上げるには交換を行わないと手に入るものがなく、その交換に際して利益を上げないとならないわけで、得るものと失うものの差額がプラスになればそれが利益となるわけだが、得るものは交換の相手から奪うものとなり、失うものは相手に差し出すものとなれば、より多く奪えばそれだけ利益が大きくなるという理屈になるわけで、実際に特定の相手から奪うだけなら搾取になってしまい、普通は奪われているだけなら得るものがなく、それでは生活が成り立たず、普通に生きていればそんなことはあり得ないわけだが、資本主義経済の中では多くの人から微量に奪って、それを塵も積もれば山となるほど大量に集めているから、結果として莫大な利益となるわけで、しかも奪っている過程においても消費を伴うわけで、消費しながら生産して、生産しながら流通して、流通しながら販売して、販売しながら消費していて、それらの活動が入り混じっていて、そこから利益が出ているとすれば、結果的にその大元においては自然から搾取していることになるわけで、途中の過程で人と人の間で奪ったり与えたりしている分は、そのほとんどが相殺されてしまうだろうし、実際に自然から搾取した分が人が構成する社会の中に行き渡っていることになるのだろうが、それも理屈の上では交換の相手に価値の安いものを与えて、相手からは価値の高いものを奪えば利益が出るわけだが、たとえ価値が安くても大量に集めて、それを合計すれば価値が高くなるだろうし、お互いに相手に与えても困らない程の少ない量を与えれば、いくら交換によって奪われても大したことにはならないわけで、そしてそうした少ない量でも大勢の人から少しずつ集めれば大量になり、結局は多くの人たちが交換によって利益を奪われているとしても、それが一人が奪われる量は少ないから大したことにはならず、また普通に生活が成り立つ程度には糧を得ているから、実際に暮らしていける実態があるわけで、大雑把に言えばそういうことにはなるだろうが、実際に活動に従事して金銭的な賃金の類いを受け取っている形態が、その活動の種類によって偏差があり、ごく少数の人たちが多額の金銭を受け取っている一方で、その他の大勢の人たちは少額の金銭しかもらえないから、そこから貧富の格差が生まれるのは当たり前のことなのだが、そこでいかにして多額の金銭を受け取っている実態を正当化するかに関して、権力の行使が行われていて、そのことに関して文句を言わせないような制度が構築されているわけで、そこに至る過程で様々な経緯から交渉や取引が積み重ねられた末にそうした制度が構築されるわけで、それは今も絶えず交渉や取引が行われつつ制度が維持されながら、その交渉や取引の結果に応じて変容を被っていて、それらは絶えず変動を伴うような動的な制度となっているのではないか。

 人はそうした制度的な構築の過程で思考を巡らせて、自らが社会の中で有利な立場を占めようとしていて、その有利な立場というのが、その中の条件の一つとしては制度的に多額の金銭を受け取る少数者の立場であり、他にも優先的に何かを行える立場というのが様々にあるわけだが、そうなる過程で競争が起こって、その競争に勝ち抜いた少数の者がその立場を占められるわけだが、そうした立場も社会の中の役割分担としてそうなっているに過ぎず、別にその立場を占めたからといって、そのこと以外で何か特別な存在になったわけではなく、それに関してはそういう立場を勝ち取ったのだから、他よりは優れていると思いたいだろうし、実際に何か他より優れた面があったから少数の者がその立場を獲得したと考えられるわけだが、それがその立場を占有している人の存在を正当化できる理由となれば、その立場を獲得できなかった他の人たちも納得するかもしれないが、当然それに関して不満がある人たちは納得しないだろうし、自分たちが選ばれなかった否定的な理由を想像してしまうわけで、そんなところから社会の中で軋轢や対立のきっかけが生じるのかもしれないが、なぜ制度的にそうした立場が必要なのかといえば、制度が人々を代表して何かをやる役割を設けているから、その代表者が制度の中で優遇される傾向になるわけで、そうした代表者を制度が必要としているわけだが、代表者が誰でも構わないわけではないだろうし、他の大勢の人々を代表する立場であるからには、それらの大勢の人々から支持されるような人でないと困るわけで、そうでないと人々が代表者の言うことを聞いてくれないだろうし、そうなると制度が立ち行かなくなってしまうわけで、要するに代表者は自らが代表となった制度に人々を従わせる役割を担うわけで、代表者が制度に従うように仕向けるから、その代表者を支持する人々が制度に従うことになると言えるわけだが、では代表者としての役割がない制度であっても、人々は制度に従うことになるかという疑問も湧いてくるのだが、果たして代表者のいない制度が世の中に存在するだろうか。結局制度というのはそれに従って人々の活動が伴うわけで、そこに何らかの制度があれば、必ずその制度の存在を世の中に知らしめる役割を担う人が必要だろうし、その制度の存在を知らせてその制度へと人々を誘い込む役割を担う人が必要となるわけで、そうした役割を担う人がその制度の代表者だと言えるだろうし、また特定の制度を管理運営する主体として何らかの団体が設立されれば、当然その団体の代表者が必要となるだろうし、制度が人や集団によって管理運営されている限りは、その代表者の存在が必要不可欠となってくるのではないか。そしてそれが制度ではなく慣習となると、その中で一定の役割を担う人が特別な存在でなくても構わない事態も想定できるが、そんな慣習を世の中に広めようとする活動が生じてくると、そうした活動を担う団体が結成されて、やはりその団体の代表者が必要となってくるわけで、それが別に広めようとしなくても自然に世の中に広まってしまうような慣習なら、特にそうした団体が存在する必要もないわけで、団体が不要ならそれを代表する役割も不要となってくるわけだ。


5月5日「利益の消尽」

 人の活動は経済活動だけではないが、物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費に関わってくる部分では、経済と密接な関係があり、それらと関わりのない活動などあり得ないだろうが、それでも経済的な面だけでは片付かない事情が活動に様々な紆余曲折を生じさせていて、単なる金銭的な利益だけでは割り切れない価値や信用がもたらされていて、それを単純な経済的な尺度だけから測るわけにはいかない事情が生じてしまうから、話がややこしくなってくるのだろうし、そのややこしい部分に人の感情や理性や思想や哲学などが絡んできて、功利的な損得勘定だけでは片付かなくなってくるわけだが、そうした部分で何とか人としての体面を保ちたいわけで、経済的な利害では割り切れない部分に配慮したいわけだが、そこでそうした体裁を取り繕う余裕が生じるには、経済的に豊かでないとそうしたところまで配慮が及ばないわけだが、しかも経済的に豊かであるほどより貪欲に利益を追求してしまうような成り行きも生じてしまうわけで、結局は貪欲な利益を追求に対抗する側に力がないと、そうした行為に歯止めをかけることはできないわけで、しかもその力というのが経済的な利益を追求に歯止めをかける力となるわけだから、それは経済活動に逆らう力であると同時に、経済活動によって豊かさを維持しようとする力となり、ある意味でそれは矛盾する力となるわけだが、それに関して妥協的な言い方をするなら、貪欲な利益の追求とは異なるやり方によって経済的な豊かさを実現しようとしているわけで、果たしてそんな都合のいいことができるのかというと、ただそれを模索している最中としか言えない部分があって、実現できるか否かというよりは、あくまでも実現を模索しているとしか言えず、常にそれを目指して試行錯誤を繰り返しているような状況であり、要するにうまくいっていないわけであり、そうした試みは失敗する宿命にあるわけだが、それでも経済効率を優先させる功利主義的なやり方に歯止めをかけないと、人としての体面を保てないし、人道的な配慮ができなくなってしまうから、そうしたことをやらざるを得なくなってしまうわけで、経済的な利益を追求する論理では割り切れない部分を、経済活動の中に残しておかなければならないわけだ。それがわかりにくい部分であり、功利的な損得勘定を優先する側からすれば、中途半端で煮え切らないように感じられるだろうし、そうした部分をできるだけ削ってしまった方が利益が出やすくなるのだろうが、それをやってしまうと手段を選ばない弱肉強食的なやり方になってしまい、そういうやり方に対して反発が巻き起こって、面倒な対立や争いを招いて、結果的にうまくいかなくなってくるのだろうが、それもその場の状況次第な面もあるだろうし、絶えずその場の状況に応じて妥協的な方法を模索していかないと、抵抗勢力とうまく折り合いをつけられなくなってしまうわけだ。

 妥協的な方法といっても、なぜか機会を捉えて偶然にそんなことをやっている場合があって、たまたま経済活動から逸脱したことができるような機会に恵まれる成り行きというのもあるだろうし、それは経済的な利益の追求から生じる価値観からすれば、無駄で意味のないことをやっているように思われるだろうが、そこに利益にはとらわれない自由な活動を行える余地が生じているわけで、それも前提として経済的な豊かさがあるからそんなことができるわけだが、そうした活動は社会の中で推奨されることはなく、ただの偶然の巡り合わせからそこで生じていて、意識がそうした機会をとらえることによって、そんなことができることに気づいてしまうわけだが、やっているうちに気づいてしまうこともあって、そこにそんなことをやるような成り行きが生じていると感じられるなら、それも結果的にそうしたことができているからとしか言えない面もあるわけだが、その機会を捉えたことに関しては積極的にそれをやろうとしたからそんな機会が生じたわけで、そういう部分で主体的な意識作用が重要な役割を果たしていることは確かで、そういう意味でやろうとしなければできないことであり、その場の経済論理に従ってしまえばそんなことはやっていないだろうし、経済的な束縛から自由になるには、その場で生じている経済的な豊かさとともに、利益を追求する功利主義的な意識から外れることも重要であり、そうした一件矛盾したことをやれるのが、自由であることの証拠となるだろうし、そんな心の余裕が経済的な豊かさに基づいて生じていることは言うまでもないことだが、たぶん無駄で無意味なことをやれる自由が、経済的な利益の追求とともに生じている実態は、その両者が相殺されてプラスマイナスゼロの実態を表しているわけではなく、そこで行われている活動の中で方向や程度の異なる様々な可能性をもたらしていて、それらの中で利益を追求する功利的な活動がある一方で、無駄で無意味な活動もあって、相反するどちらも可能な活動であるから、実際にそんな活動が行われていて、別にそこで対立や争いが起こっていなくても、そんな正反対の活動が行われる余地が生じていることを示していて、それらが経済的な豊かさからもたらされているとしても、さらなる利益を追求する活動と、その利益を消尽させる活動の二つの方向で活動が行われるのは当然のことであり、それは別に何らおかしなことでもないわけだ。結局経済的な利益を追求する活動には競争がつきものであり、その競争に勝ち残らないと活動を続けられなくなってしまい、そういう意味で誰もがそれをやれるわけではなく、また誰もがそこで成功を手にできるわけでもなく、ごく限られた人にしか成功のチャンスがない活動だと、他の人たちが何をやればいいのかとなるわけだが、それでも他の人たちもそれなりに利益を得ているわけだから、そしてそこではさらなる利益の追求とは異なる活動しかできなければ、当然その活動を行うしかなくなるだろうし、それが利益を消尽させる消費活動となるわけだ。


5月4日「相対的な価値」

 単純な経済活動から生じる生産形態や流通形態や販売形態や消費形態の中では、そこでわかりやすい価値や信用がはっきりした形で出てくるかもしれないが、そこに言葉や映像などを用いたまやかしの宣伝や煽動が伴ってくると、それらに幻惑されて価値や信用がゆがんでしまい、それに関して何か勘違いや思い違いが起こりやすく、そうした宣伝や煽動を真に受ける人たちには、それが勘違いや思い違いとは思えないわけだが、さらに宣伝や煽動を仕掛けている側でも、本気で価値や信用が自分たちの宣伝や煽動によって高まったと思い込むだろうし、そう思っている人々が世の中の多数派を占めていれば現実にそうなったことになってしまい、そういう意味でそこで生じている価値や信用も、それを高めようと画策している人たちによる宣伝や煽動に左右される面があり、さらにそこに安易な宣伝や煽動に騙されないように警鐘を鳴らす人たちまで加わってくると、そこで価値や信用を巡って対立や争いが起こっていることになるわけだが、人の意識がそうした出来事に巻き込まれてしまうと、それに対して無関心ではいられなくなってしまうわけで、そうなるとどうでもいいようなたわいない物事についても、それらに絡んでくる過剰な宣伝や煽動を真に受けて真剣に議論するような成り行きにもなるだろうし、そうした成り行きに疑問を感じられなくなってしまうのであり、そうなると世の中に生じているどんな些細な事柄にも首を突っ込んで、そこで大げさな問題提起をしてみたりする事大主義的な傾向になってしまうわけで、それ以前に何が瑣末な出来事で何が深刻に受け止めるべき重大な出来事であるかについて、明確ではっきりした基準がないことから、とりあえずメディア上で大げさに取り上げられる出来事が、人々が深刻に受け止めるべき重大な出来事であるかのようなコンセンサスがある程度出来上がっている状況の中では、それに関して無関心ではいられない心理状態も出来上がっていて、それも宣伝や煽動を真に受けることと地続きな面もあるわけだが、もうそうなってしまうとそれが勘違いとか思い違いでは済まないような成り行きが制度的に確立されているとも言えるわけで、しかもそれが別に悪いことではなく、メディアが大々的に報じる世の中の共通の話題に多くの人々が関心を持つのは当たり前のことであり、そこに共通の価値や信用が生まれていて、そのような物事に対する受け止め方を基準として、何が瑣末なことで何が重大なことかについて、共通の了解事項が出来上がっていれば、それに追従していればいいことであり、それ以上に認識を深める必要がないと思えば、それで済んでしまうような制度だと捉えておけば、認識としてはそれほど間違ってはいないのかもしれず、そうであるなら別にそれがはっきりとした制度として確立されているわけではないにしても、感覚としてメディアが報じる世の中の話題に関して、それを真に受けるでも逆らうのでもなく、それ以上に幻想を抱かなくても構わないような水準で把握しておけばいいことでしかないだろうし、そこに生じている価値や信用なども、それらの話題を人々が受け止めている感覚の程度に応じて、それらの程度にも人によって差があることぐらいは認識しておいた方がいいだろうし、いずれにしてもそれ以上ではないことは踏まえておくべきなのではないか。

 そして価値や信用が相対的な物事の尺度であり、それを出来事や現象として受け止める人の感覚の強度に応じて差異を伴い、人によって価値や信用に差が出てくるのは当然のことであり、誰もが共通の尺度でそれらの重要性を測れるわけではなく、世の中には多種多様な物事を測る尺度があり、何が重要であって何が大したことはない問題であるかについて、人によっても立場によっても差があるのは当たり前のことだろうが、そうした価値や信用の程度をできるだけ共通の尺度で統一しようとする試みもないわけではないにしても、無理に他人の尺度に自分の尺度を合わせる必要がなければ、それに関してはそのまま放置しておいても構わないのかもしれず、事の重大さに気づいたり気づかなかったりすることが、気づいた人にとっては重大だが気づかない人にとっては大して重大でもないわけではないにしても、そうしたことからそこで起こっていることが重大であると受け止められたり、あるいは大したことはないと軽視されたりするわけで、それを重大だと受け止めた人にとっては、大したことはないと軽視している人たちは勘違いや思い違いをしていることになり、逆にそれを軽視している人たちにとっては、それを重大だと受け止めている人たちこそが勘違いや思い違いをしていることになるわけだが、そうした認識の違いを巡って対立や争いが起こるにしても、それ自体が瑣末な問題でしかなく、世の中で起こっている出来事をどう受け止めるかというよりは、その出来事に直接巻き込まれてしまう人々の振る舞い方が実際に問題となるわけで、それをたわいない瑣末な出来事として軽視している人にとっては、その出来事に巻き込まれて翻弄されながら右往左往している人々が滑稽に見えてしまう一方で、それを重大な出来事として深刻に受け止めている人にとっては、出来事に巻き込まれている人々が何か決定的に重要なことをやっているように見えるだろうし、その差がどこから生じているかといえば、そうした出来事を世の中の話題として報道するメディアの伝え方をどう見るかによって、それに対する受け止め方が違ってくるのかもしれないが、果たして人によって受け止め方にそれほど大きな開きが生じるかというと、どのメディアも同じように報道していれば受け止め方に差が生じるはずがないと思われるかもしれないが、なぜか出来事への違和感や距離感の違いが人それぞれに生じてしまうわけで、それはその人の持っている知識量の差としても現れるだろうし、経験として生きてきた境遇やその歳月の長さや中身の濃さや強度にもよるだろうし、それは意図的に価値や信用を歪ませる安易な宣伝や煽動に対する分析能力にも違いが生じるわけで、そこに軽薄なまやかしが含まれていることに関して敏感に察知できる人と、察知できずに真に受けてしまう人との間に、何か決定的な差が生じるような世の中にはなっていないとしても、わざと道化を演じている人と単に滑稽な状態になっている人の間に決定的な違いがあるように、そこで演じられている意図的な作為の表現には、無理なこじつけが必ず含まれていて、それに関してわざとらしい紋切り型の表現が多用されていたり、中身が希薄な単純化を施されてわかりにくい面が除去されていたり、妙にお仕着せがましい論調に終始していたりして、そうした兆候が宣伝や煽動のあちらこちらから垣間見えるような様相を呈していて、もはやそこにはわかる人にはわかる以上の滑稽さが醸し出されていて、それに関してはもう笑ってしまうしかないような悪意が至るところに散りばめられているのだが、要するにそれを真に受ける人たちが馬鹿にされているのに、逆にそれをありがたがってしまう滑稽さは救いようがないのかもしれない。


5月3日「価値と信用」

 他人の動作ではなく言葉を信用する時には、その言葉を解する人々の間で共通の価値を共有できることになり、動作を行う特定の人物を信用するのではなく、共有する言葉の意味からなる価値を信用することで、その価値を保証するのはもはや特定の人物ではなく、言葉を共有するすべての人々がその価値を保証することになり、その価値がそれらの人々の共有財産となるわけで、財産といってもただの言葉が示す概念でしかない場合は、金銭的な利益とは無縁かもしれないが、共通の価値観を抱いている人々の間で連携や協力ができれば、それが社会を変える力となるのかもしれず、実際にそれが思想や哲学として世の中で一定の力を持つことがあるわけだが、そこでも特定の思想家や哲学者が唱えているから信用が生じている場合もあるわけで、人は時として言葉の内容よりもそれを唱える人物に信用を見出してしまい、それが特定の人物の神格化にまで及んでしまうと、もはやそれは思想でも哲学でもなく宗教となってしまうわけだ。そして普通はそれらが混じり合っている場合が多いのだろうが、そうした思想と哲学と宗教の混合体が特定の宗派を超えた民族として結集することもあるわけで、そうなると言葉だけの価値や信用ではなく、生活習慣などの慣習も共有した集団となって、他の集団との違いを際立たせて、そうした民族集団ごとに凝り固まって、他の民族集団と対立したり争ったりする経緯も生じてくるわけだが、一般的に社会の中では人も言葉も慣習も複雑に絡み合って信用や価値を形成していて、それらの中で何が主体的な役割を演じているとしても、そこに肯定的な幻想が生じていることは否めず、それらの複合体が人や集団の活動と結びついて取り返しのつかない事態を生じさせているから、民族や宗教が人の活動に絡んでくると容易には解決のつかない問題が生じてくるわけで、いったんそうなってしまうと世の中が長期的に混乱状態となってしまうのかもしれないが、そうした状態も混乱の程度に応じて平和から戦争に至るまで、様々なレベルで様々な人や集団の活動が交錯し合っていて、そこに生じている価値や信用にも、それを共有している人や集団の間で生じている力関係に影響されているだろうし、その価値や信用の強弱にはそれを信奉している人や集団の権力の強さが影響を及ぼしていて、強大な権力を持っている人や集団が信奉している価値や信用を体現する物事には、それだけ高い価値や信用が生じているわけだが、中にはそうした権力を背景とした価値観とは異なる価値観もあり、それが言葉の価値であれば、より説得力のある思想や哲学には高い価値があると思われるだろうし、また経済的な尺度からは、より値段の高い商品には相対的に値段の安い商品よりは価値があると思われるわけで、そういう意味で価値観にも様々な種類や方向性があるのだろうが、そういうところで一概に異なる価値観を持った勢力が争っているにしても、部分的には価値観を共有しているところも、また異なる価値観の間で重なる部分もあるのかもしれず、単純な対立や敵対関係では割り切れないし、そういう部分で交渉や妥協の余地があるわけだ。

 国と国との関係も権力関係や経済関係から生じる国力の強さに応じた関係となることが多いわけだが、それが言葉に幻想を抱く人々にとっては、憲法という言葉の集合体が体現している高邁な理念によって世界平和に貢献できると考えられるわけで、そうした価値観が世の中のどこまで信用が及んでいるかは、人によって認識も異なるところだろうが、それ自体がその国が抱えている特殊事情であれば普遍性はないわけで、たとえ憲法の内容が普遍性を含んでいるとしても、それと世界平和に貢献するのとは問題の次元が異なる可能性があり、言葉の集合体としての憲法から現実の活動が生じて来ないと信用されないだろうし、実際の政府の活動が憲法とは無関係であれば、少なくともそういうレベルでは憲法には大した効力もないことになるだろうし、ただお飾りとして理想的な内容を記した憲法があるだけで、その内容が言わんとする理念に関してはあまり顧みられていないことになるのではないか。そういう意味で言葉として多くの人の間で共有されている文言に価値があるとしても、その文言が示している内容を普段の生活の中で役立てていないと実質的な価値はなく、それはただの方便や建前でしかなくなってしまうわけだが、その価値があって信用できる文言の内容をどうやって活動に役立てるかで、それが憲法であればそれを役立てる制度的な仕組みを必要とするだろうし、また思想や哲学であればそれを信用してその価値を認めている人たちが、実践としての態度や振る舞いの中で、その思想や哲学を反映したことをやらなければならなくなるわけだ。それをやらずにましてやそれに反したことをやれば、それらの思想や哲学への信用や価値はまやかしに過ぎなかったことになるだろうし、建前として形式的にそれを敬っているに過ぎないことにもなるだろうし、すでにそうなっている時点でそれらの思想や哲学は形骸化を被っていることにもなるわけだが、その思想や哲学の内容は詳しく知らなくても、それを唱えた思想家や哲学者の名前が広く世の中に知れ渡っている場合があるわけで、そうなるとそれらの思想家や哲学者は権威としての力を持っていて、その名前を権威づけに利用しようとする輩が出てくるわけで、自らの主張を著名な思想家や哲学者から影響を受けていると宣伝するのはよくあるパターンだろうし、中にはそうした主張の内容が影響を受けたと称している思想や哲学とは全くの無関係な場合さえありそうだが、またそれらの思想家や哲学者を批判することによって、批判している自らがそれらの思想や哲学を超えたと主張する場合もあるだろうが、それもわざとそれらの思想や哲学を単純化してお粗末な内容に貶めてから批判するようなやり方もよく行われることであり、権威としてそれらの名前を持ち出してくるにしても、批判の対象として貶めるにしても、それらの内容を詳しく知らない人たちに向かって主張している場合が多いわけで、そうであるならそうした行為の十中八九は信用できないのかもしれず、有名な思想や哲学を権威づけに利用したり、それらを批判することによって自らの主張を正当化する行為は、すでにそうしたやり方を行なっている時点で安易な単純化になってしまっていて、結果的に信用に足る内容とはなり難いのかもしれない。


5月2日「皮肉な現象」

 皮肉ではなく人々に共通の信じられる価値があるとすれば、それは言葉を通じてもたらされる共通の意味なのかもしれず、人々の間で言葉によって意思疎通が図られる限りで、そこに共通の価値が生じる可能性があり、ごく一般的には人は言葉を用いて他者と分かり合える可能性を探っているわけだ。たぶんそれは幻想ではなく、確かに分かり合えることがあるのかもしれないが、そこに共通の価値があると信じるには、それをめぐって対立や争いが生じていることも認めなければならないだろうし、人々が争って奪い合っている物事に共通の価値が宿っているのではないか。奪い取るほどの価値があると思わせる物事には、それを示す言葉の意味以上の何かが宿っているわけではないのかもしれないが、実際にそれを利用して権力という力を行使できる可能性を秘めていて、それを手に入れるために争っているのと同時に、力を行使し合いながら争っているわけだから、すでに争っている時点である程度の権力を手に入れているわけで、争いに勝利することがより強力な権力を手中に収めることにもなるだろうし、争い自体の程度がそこで行使されている力の大きさを示していることにもなるわけだ。場合によってそれは言葉が示しているもの以上に、そこで行われていること自体に力の程度が示されていて、そこで何かを行なっている実態が、そのままそこで行使されている権力の程度を示していて、それは言葉で表現される以前に実際にそこで行われていることになるのではないか。実際にそこで何かを行なっているわけだから、その行われている実態があることを信じないわけにはいかないだろうし、言葉のやり取りによって意思疎通が図られる以前にそれが行われているとすれば、言葉より先に動作が起こっているわけで、何らかの価値を手に入れようとする動作がそこで起こっているわけだ。それを手に入れようとする人々の動作が、手に入れようとしている対象に価値があることを示しているわけだが、他人と意思疎通を図る以前にそれがわかってしまうわけだから、すでにそこで行われている活動を見ているのであり、他人の動作を見て判断している実態があるわけで、わざわざそれを言葉で説明しなくても、その対象に価値があることがわかってしまうのであり、言葉よりも動作に信用が生じていて、人の動作が動作する目的に信用をもたらしているのではないか。結局それは他人が求めているものを自分も求めようとする動作に結びつき、他の人々もそうした動作に続くと、世の中に流行現象が生じるのだろうが、そうした同じような動作の連鎖反応には、言葉で説明を要する成り行きよりは直接的な反応を伴うだけに、より多くの人の信用をいっぺんに獲得できるような効用を伴う反面、そうした信用にはあまり信頼できない面もあり、それが一過性の流行現象に付きまとういかがわしさも醸し出しているわけだが、他人の言葉より動作を信用してしまう時には、理性よりは欲望への働きかけが重点的に行われる場合が多く、そうした他人の欲望を信用してしまうと、その欲望に騙される可能性もそれだけ高くなるわけだ。

 人が求めている信用がそうしたものだと、安易な流行現象に欲望が囚われてしまうことになるわけだが、経済的にはその効用を認めざるを得ないだろうし、世の中の流行現象が経済を活性化しているわけだが、それが一過性の現象であるだけに、人々が騙されて無駄な消費を煽られるような成り行きとなり、それが騙されたり無駄であったりすることに関しては、そうは思わない人の方が圧倒的な多数に上るのかもしれないが、それも言葉の表現としてそう語った方が妥当な場合の方が多いのかもしれず、流行現象の否定的な側面を語るとそうなってしまうわけだが、騙されて無駄な消費を煽られることに価値を見出すこともできるわけで、たぶん気晴らしの娯楽にはそういう面がないと成り立たないのかもしれず、社会は世のために人のためになることばかりで成り立っているわけではなく、騙されて蓄えていた富を消尽してしまう成り行きの中に、経済活動の儚い本質が示されていて、富の幻想がそうやって消費される仕組みとしての娯楽産業を栄えさせているわけで、無駄な蓄積を娯楽に結びつけているのが、価値に関する欲望との等価原理であり、必要以上に蓄えられた富にはそれ以外に使い道がないわけで、そのために高価な贅沢品が売られていて、それを買い求める人たちの虚栄心を満足させるには、法外な価格設定である方が好ましく、それが高価であること自体が、実用的な用途から除外された無駄な奢侈品であることを示していて、ただ飾っておいて眺めるためだけに買い求めるような商品には、他に使い道がないことが明らかであり、その価値が実用的な価値ではなくただの金銭的な価値でしかないところが、すでに価値という言葉の意味から逸脱しているわけで、それを騙されていると表現することは、実際に売買できることから適当ではないわけだが、そもそも実用的な価値のないものをなぜ高い金額を払って手に入れるのかといえば、富への幻想がそうさせる以外に説明しようがないわけだが、騙されていることと幻想を抱かされることは似ているようでいて、幻想を抱いている当人にしてみれば全く違うことになるだろうし、騙されていることは裏切られていることになるのに対して、幻想を抱かされていることは満足感を得られていることになるわけで、それはそのものの価値を信じていることにもなり、実際に高額な金銭を払って手に入れたわけだから、それを売った側がその価値を保証していることにもなるわけで、信用に足る売り手の保証を商品とともに買ったことにもなり、そうした制度的な手続きから価値が生じていて、社会の制度がそのものの価値を保証しているとも言えるわけで、価値が商品に内在しているというよりは、商品を売買する制度が価値を保証しているといった方が、実質的な意味を伴っていて、売買という制度的な手続き自体が価値を生み出す仕組みとなっているわけで、そうした動作から価値が生み出されて信用が生じているわけだから、そこでも言葉による説明よりもそうした手続き的な動作自体を人は信用するわけで、実際に商品の保証書のような言葉による保証が記された書面も受け取る場合もあるのだろうが、それも信用に足る売り手が保証してくれないとただの紙切れとなってしまうだろうし、例えば著名な作者が直接記した文面で保証されていれば、当人が書き記したという行為に価値や信用が宿るわけで、それはただの言葉による説明とは全く違った行為となるわけだ。


5月1日「物事の普遍性」

 何かこの世界に普遍的な価値があるとしたら、それはそうした幻想を抱くことに他ならないだろうが、人は自らの活動を支えてくれるそのような価値を夢想したいのかもしれず、それによって自らが行なっている活動を正当化したいのだろうが、普通に考えて価値というのは相対的な物事の尺度であり、誰もが信頼できる絶対的な価値というのはありえないだろうし、そういう意味で価値の普遍性というのは幻想に過ぎないわけだが、人は自らの行為からもたらされた物事を正当化したいわけで、正当化するには自分がやっていることに価値があると思い込みたいわけだ。だから自分がやっていることを他の人たちも認めて欲しいし、そんなことをやっている自分を支持して欲しいわけだが、当然そこには利害関係が生じて、その人にとって利益になることは支持できるし、そんなことをやっている人の味方にもなってくれるかもしれないが、利益にならないことをやっている人を支持するわけにはいかないし、当然そんな人の味方にもならないだろうし、さらにその人にとって不利益なことをやっている人とは敵対関係となってしまうのかもしれず、もちろんそんな行為をやめさせようとするだろうし、やめさせることができなくても、目障りなら有形無形の様々な嫌がらせや妨害を仕掛けてくるのではないか。そうした利害関係の中では普遍的な価値など生じないだろうし、それらの関係の全てにおいて敵か味方かの相対的な関係しか生まれず、また関心がなければ関係すら生じないわけで、実質的にはそうした無関心や無関係の関係が世の中のほとんどの関係なのではないか。そして世の中で普遍的な価値を持つのは逆説的にそうした無関心や無関係を生じさせる全ての物事であり、それは普遍的な無価値であり、それがその人の活動を限界づけているのではないか。その無関心や無関係の普遍性というのは、自意識過剰な精神には気づかないことであり、しばしば世の中が自分を中心にして回っていると思い込んでしまう意識が陥りがちな自己中心的な感覚の無効性をもたらしているわけで、なかなかその無効性を自己アピールばかりに気を取られた意識が感知できないのは、自分に関係していると思い込んでいる物事がこの世界の全てであるかのように感じられてしまうからであり、それ以外の物事は無視しても構わないと思われるだろうし、無視している限りで自己中心的な感覚が成り立っているわけだが、それが成り立っているように思われるのは、その人が何らかの集団的な共同体に守られているからであり、その共同体の中で主要な役回りを演じていられる立場になれば、その共同体のほとんどの構成員がその人のことを気にかけてくれるだろうし、そうなれば実際にも自らがそこで共同体の中心人物として主役を演じているように思われてしまうわけだが、そうした共同体が社会の全般に渡って影響力を行使している実態があれば、その人の自己中心的な感覚もあながち勘違いではないのかもしれないが、そんな共同体には無関心な人たちが少なからずいたり、実際に共同体とは無関係なところで普通に活動している人々が大勢いるようなら、そうした自己中心的な感覚には普遍性がないことになるわけで、それこそがそうした人が抱く幻想に過ぎないことになってしまうわけだ。

 実質的にはそうだとしても、現代的な共同体のあり方としては、メディアを通じて共同体の存在を絶えず自己アピールしている実態があるだろうし、そこで多くの人たちが関心を持ってくれるように過剰に宣伝や煽動を行なっていて、実際にそうした活動を真に受けた多くの人たちが関心を持ってくれて、進んでそうした活動に関係しようとして、そうした共同体が催すイベントなどに参加してくれるような成り行きも生じていて、そうした宣伝や煽動活動を通して多くの人の間で自己中心的な感覚が共有されているわけで、さすがにそれが世の中の全てだとは思わないだろうが、善意の共感を示す証しとして、そうした共同体が行う自己中心的な演技に賛同してくれるわけで、そんな支持者が多いほど共同体の中で主役を演じているつもりの人も、その気になって我が世の春を謳歌できるのだろうが、何かのきっかけでその人気にも陰りが出てきて支持者が減ってくると、そんな共同体自体にも共同体の中で中心的な役割を果たしている人物にも関心がなくて無関係な人々の存在が意識され始めて、それらが関係する現象にも普遍的な価値があるわけでもないことが明らかとなってくるわけだが、またそうした成り行きによって、この世界に存在する全ての物事には相対的な価値しかなく、それ自体に普遍性が宿ることもなく、そうした物事とは無関係に存在しているように感じられるその他の物事の無関係性に無価値な普遍性が宿っていて、またそれらの間でたまたま偶然の巡り合わせから関係が生じてしまう関係の偶然性にも普遍性が宿っていて、そんなふうにして正当化することが困難な偶然の関係にこそ普遍的な無価値の価値が生じているのかもしれず、それを何とか道理や理屈を駆使して必然的な関係があるかのように取り繕う作業が、人や集団の活動の全てなのかもしれないが、そうやって人工的に生じさせる相対的な物事の価値が、人で構成される社会を支えているのだろうし、そうした価値が人々の間で信じられている限りで経済的な取引も成り立っていて、そこには物事の価値を根拠とした信用も生じているわけだが、もちろんそうした信用も相対的なものに他ならず、何かのきっかけで信用がなくなれば価値も暴落してしまうわけで、多くの人たちがそれを支持している限りでそれらの物事に価値や信用が生じてくるだけで、支持を得られなくなれば雲散霧消してしまうようなものでしかなければ、それらの価値にも信用にも普遍性があるとは言えなくなってしまうのであり、そんな成り行きや経緯を突き詰めて考えれば、社会の中で人がもたらす人工的な物事に価値や信用が生じるのは、それらの物事に人々が肯定的な幻想を抱くから、それらに価値や信用が生じているように思われるわけで、実際にそうした幻想によって人々の活動が成り立っている実態もあって、現にそれらに無関心な人々の間では活動が成り立たず、また活動が成り立たないところでは関係も構築されずに無関係な状態が維持されているわけだ。だから活動を成り立たせるには幻想をふりまいて人々の間に関心を引き起こして、関係を構築しようとするわけだが、そうやって生じるのが利害関係であり、そこに利害が生じているように思われる限りで、実際に関係が生じてくるわけで、そんな幻想を通じて直接の関係が構築されるわけだ。


4月30日「微量の利益」

 人の活動には何かしら目的が生じることもあるのだが、目的が活動の中で優先すべきことであるにしても、活動しているうちに目的が生じてくることがある一方で、また活動していくうちにその目的が消滅してしまうこともあるだろうし、目的というのはいつも固定されているものだと思い込んでいると、その目的に裏切られてしまうこともあるだけに、目的とは活動を継続する上で必要な方便ぐらいに思っておいた方がいい場合もあるだろうし、そうなっている理由や原因は定かではないが、とりあえず活動が継続されているなら、それをこれからも継続していこうとするだろうし、そこに確かな目的が設定されているわけではなくても、やっていることがうまくいくように努力はする成り行きになるだろうし、そうしたことの積み重ねによって続いている活動なら、取り立てて目標を定める必要も生じてこないのかもしれないし、それもやっていることの程度にもよるだろうが、無理にやっていることの意味や意義をこじつける必要もなしに活動が続けられていれば、そうなっていること自体の中では、それほど憂慮すべき問題も生じていないことになるのではないか。その逆に憂慮すべき問題が生じている面があるとすると、何かそこで争いが起こっていたり、抑圧された立場の人が存在していたりして、そこで力の不均衡が生じている場合があるだろうし、そこで力の強側が弱い側を搾取している状態が顕在化しているならわかりやすいが、巧妙にそうした実態が隠蔽されている場合も結構あるだろうし、そうやって活動の都合の悪い面を隠蔽するのも、そうした搾取が生じている状態をできるだけ長引かせて、その間にできるだけ多くの利益を搾り取ろうとする思惑が働いているからだろうが、さらに世の中にはそうした搾取が行われている実態がはっきりしない場合まであるだろうし、世の中から広く浅く少しずつ利益を得ているような場合には、利益を取られている側には搾取されている感覚が生じないわけで、実際にそうは感じられないのだからもはやそれは搾取とは言えないだろうし、そうした気づかないうちに微量の利益を取られていることに関して、別にそれが悪いことだとは思えないし、ましてや利益と引き換えにして何らかのサービスを提供している実態があるなら、そうした利益の取得を正当化できるだろうし、具体的にはそれが各種の手数料収入や広告宣伝料などを含んだ何らかのサービスを提供する側に利益をもたらしているわけだが、果たして提供されているそれらのサービスを世の中の人々が拒否することができるかというと、そうしたサービスを利用している成り行きの中では、なかなか難しい情勢になっているだろうし、別に取り立ててはっきりした目的があるわけでもないのに、気がつかないうちに自然とそれらのサービスを受け入れている実態があるわけで、そういう成り行きの中では拒否や拒絶などのはっきりした態度を示す余地がなく、しかもそれがどう考えても深刻な事態には思えないわけで、自らの生き方とか思想信条の根幹を揺るがすようなことではなく、それらのほとんどは些細でどうでもいいことの部類に入るようなことであり、そういうところから微量の利益を得ようとしているわけだから、そこから激しい対立や反対運動などが起こる成り行きにはならないわけだ。

 そうなるとそれは別に問題視するようなことでもなく、普通にそうした活動が当然の行為として世の中に受け入れられている実態があるわけで、誰もそれを疑わずに大した不快感も示さないだろうし、それがちょっとしたことでしかない場合はわざわざ問題視するまでもないことになり、それに関しては誰も何も言わないような状況が生じてくるわけだが、実際にもそんなことでしかないわけだから、普通に何でもないことになっているわけで、そんな何でもないことによって世の中が成り立っている状況があるなら、何を問題視する必要もなくなってしまうわけだが、そうしたたわいないサービスを提供することによって微量の手数料を稼ぎ出すシステムが世の中に蔓延していると、それに対して何か対抗策を打ち出すようなことができなくなってしまうわけで、実際に明確な対抗策などありはしないし、誰もがそれを当然のこととして受け入れている以外はあり得ない状況が出現しているわけだが、実際にそうなってしまうともうそれに関しては意識的な動作としては何も抵抗ができなくなってしまい、そうした微量な利益を追求する側が勝利した状況が生まれているのだろうが、実際にそうした側が提供しているたわいないサービスにしても、それによって何か世の中に深刻な事態をもたらしているわけでもないし、意識的には無視されるようなことでしかない限りで、世の中に何の影響も作用も及ぼしていないと捉えても構わないような状況にもなっているわけで、確かにそれによって塵も積もれば山となるような巨額の富を築いていることは確かかもしれないが、それによって人々から尊敬を集めているわけでも好感を抱かれているわけでもなく、ただの空気のようなものとしてサービスが利用されているだけで、それによって実質的にも富を集積する以外には何の目的もないような事態も生じているのかもしれないが、システム上はそうなっているとしても、そんなことは取り立てて強調するような目的でもないだろうし、成り行きとしていかに効率的に利益を得ることを追求した結果がそうなっているわけだから、それ自体もそれだけなら何でもないことになり、ただの経済活動としてそうなっているに過ぎず、それ以上に何があるわけでもなければ、それはそうしたこと以外には何の意図も思惑もないことであり、まさにそれ以外には何でもないことがそこで行われているわけで、それはただの形式的な動作となっていて、そこに積極的かつ肯定的な意味や意義を担わせる理由も必要もなく、ただのシステムとしてそうしたことが動作していて、そこにそれを提供している側と利用している側が存在するだけの現実が生じているわけだ。そしてそうだとしてもそれがそれなりに関心を呼んでいるからそうしたサービスが利用されているわけで、サービス自体は無色透明で人畜無害な外見を装っていても、それを利用している側に微妙な麻酔作用や中毒作用のような効果をもたらしているのかもしれず、サブリミナル効果のようなあるのかないのかわからない効果を及ぼしている場合が想定されるわけで、少なくともそうしたサービスを利用するのが日常の習慣となっている面に関しては、確実に何らかの影響を及ぼしていることは確かなのだが、それに関して明確にそれを否定する成り行きになりづらい状況がもたらされているとすれば、多くの人がそれに依存していることを事実として受け止めるしかないのかもしれない。


4月29日「機械の改良」

 機械が決まり切った動作を繰り返すと、そこで想定内の成り行きが生じるわけだが、人が機械の動作に求めているのは、想定した範囲内で物事が動くことであり、想定を超えた事態が起こることではないのだが、時として想定を超えた事態が起こると、それは事故の類いとみられることが多いわけで、そんな機械的な動作がもたらす結果としては、想定内の正常な動作と想定を超えた異常な動作の二種類の動作となるわけだが、機械からもたらされる結果がそうだとしても、そこに人の思惑が絡んでくると、何かそれ以外の結果をもたらそうとする動作が生じてくるわけで、人は機械を使って当初には想定されていなかったことをやり始めるわけだ。要するに機械を改良して、それまで以上の結果をもたらそうとするわけだが、そんなことを行う過程において思わぬ副産物が出てくることもあるだろうし、それは異常な動作でも事故でもなく、正常な動作であるのに想定とは違った結果がもたらされて、しかもその結果がこれまで以上の結果をもたらせば、結果的に機械の性能が改良されたことになるだろうし、また副産物としてもたらされた物事に利用価値があればなおのこと機械の改良に伴って成果が上がったことになるわけだ。そうやって人は機械を使いながらも常に機械そのものを改良しようとするわけで、いったん機械が出来上がってしまったらそれで終わりではなく、絶えずその機械を点検しながら改良の可能性を探っているわけで、その機械自体が決まり切った動作を繰り返すにしても、その機械が改造されたり、あるいは改良された新しい機械に入れ替えられると、それまでとは違った動作が加わって、場合によっては当初の想定をはるかに超えた結果がもたらされることもあるだろうし、また何かの拍子にそれまでにはなかった新機能が加わって、新たな成果がもたらされることもあるかもしれず、さらにそうした改造や改良に伴って蓄積された技術を応用して、全く別の用途の機械が生み出される可能性まであるだろうし、そうやって機械自体の進化や変化が起こるわけで、それはその機械が使われ出した当初の状況からすれば想定外の事態であり、誰も予測していなかった事態がもたらされていて、しかもそうした想定外の事態にも機械を作る側も使う側もそれなりに対応しているわけで、対応しているからこそそうした機械が作られて使われている実態があるわけだ。要するに機械の進化や変化とともにそれを作る側も使う側も変わってきているわけで、ただそれに気づいていないだけで、それが対応できる範囲内での変化だから気にとめる必要さえなく、それは当たり前のことだが、作ることが可能で使うことが可能な機械がそこに存在しているわけで、それ以外の機械が存在できるはずもないわけだが、フィクションの中では人の想像力の赴くままに奇想天外な機械が夢想されるだろうし、中にはそんな夢の技術を実現しようとしている人もいて、稀にそうした技術が実用化されて人の生活様式の大変革をもたらすこともあるわけだ。

 結局機械というのは作っているうちも新たな必要が生まれるし、使っているうちにも新たな必要が生まれて、それが機械の改造や改良の場にフィードバックされるわけで、人は機械を作りながらも使いながらも、機械の新たな可能性を模索しているわけで、また人は機械を作り続けながらも使い続けながらも、機械を作ったり使っている人自身の変化が促されるわけだ。そうやって機械の動作に対応しながらも、そこから逸脱する新たな可能性を模索しているわけだが、それが意図してそうしているわけではなく、何らかの思惑があってその思惑通りに事を運ぼうとしているわけでもなく、機械を作っているうちに、そして機械を使っているうちに、何かそれまでにはない新しい発想が生まれてきて、それを実現するために機械に改造や改良を加えるわけで、また機械の使い方を工夫して、それまでにはなかった結果をもたらそうとするわけで、そうした成り行きの中ではかえってこれまで通りの意図や思惑にこだわっていると、機械の改造や改良や使い方を工夫する機会を逃してしまうわけで、そうしたこだわりをいったん捨てないと、なかなか新たな発想を思いつくには至らないわけだが、たぶん意識してそうしようとしているわけではなく、機械を作っているうちに、そして機械を使っているうちに、自然とそうした創意工夫がもたらされるような成り行きが生じてくるのだろうし、それは実際に機械を作ったり使ってみないことにはそういう成り行きにはならないわけだから、そうした実践活動の中から何らかの変化が生じてくるわけだ。そしてその変化が思惑通りの変化ではないのはもちろんのこと、自分自身をその変化に対応させなければならないわけで、変化に対応できればそれが何らかの成果となって現れてくるのだろうし、そうしているうちにもその場で起こっている事態や成り行きへの対応力が身について、それが状況の変化に対応できる柔軟性となって、それがその人が身につけた新たな機能にもなるわけで、それだけ技術的にも以前よりは高度な動作が可能となっていることにもなるのではないか。そうやって機械の改造や改良とともに創意工夫を伴った実践活動が行われるわけだが、一方でそれはそうした技術革新の停滞とともに人の動作もマンネリ化してしまう危険性も孕んでいて、同じ機械を延々と作ってそれを同じ使い方で延々と使っていると、それ以上の創意工夫が望めないわけだが、それは安定を求める意識と並行して生じる動作なのかもしれず、意識して固定観念の中に留まろうとしたり、意識して固定した動作から外れないように心がけたりして、そうしたこだわりを守っていれば済んでしまうような環境が生じてしまうと、そこで進化も変化も止まってしまって、それ以上の変化が期待できないような成り行きになってしまうのかもしれず、そうした風潮を助長しているのが、集団的な同質化の蔓延だろうし、変化が生じるような萌芽を片っ端から摘み取ろうとして、何とか現状を維持しようとするわけだろうが、少なくともそうしたやり方にも限界があることは確かであり、周辺の状況が変わってくると、意識して現状の維持に努めようとしても、周囲との交流を完全に遮断できないわけだから、そうしたところから必ず現状維持の姿勢が破綻してくるのではないか。


4月28日「政治的な成果」

 そこに何らかの社会環境があり、人が個人としても集団としても活動が成り立っている状況があれば、取り立てて深刻な状況とは言えないのかもしれないが、平均的にはそうであっても個々の場合でそれなりに偏差を伴っているとすれば、ひどい暮らしの人もいれば裕福な暮らしを満喫している人もいるわけで、そのような状況をどう捉えるかは、人によっても立場によっても認識が異なるだろうし、それに関して人道的な意識にこだわれば、ひどい暮らしをしている人たちを助けなければならないと主張することもできるわけで、さらに政治的に方策を考える場合、生活や雇用を守るためにセーフティネットの構築を目指すという政治宣伝に結びつくのかもしれないが、具体的に何をどうするかというところで、それなりの財政規模を伴ってくると限界に直面するだろうし、現状の制度からかけ離れたことをやろうとすれば、現状の制度からもたらされる利権や権益などの恩恵に与っている各種の団体が抵抗勢力となって、それらの勢力の反対に遭って改革が進まなくなってくるわけだろうが、そうした政治的な課題や問題に関して、一般の民衆がどこまで自覚があるかといえば、そんなことを主張する政治勢力に善意の連帯を示して、選挙などでそのような政治勢力に投票する人もいる一方で、そうしたことには無関心な人たちも少なからずいるだろうし、またそれとは異なる政治的な課題や問題を掲げて活動する勢力も存在するだろうし、そうした勢力を支持する民衆も少なからず存在するわけだろうが、現実的な状況としては様々な政治勢力の間で交渉や取引が行われている限りで、政治のレベルではそれなりに政治システムが機能していて、そうした状況が維持されていれば、政治活動にも何らかの効果があるのだろうし、少なくともそれ以上のことが行われているわけではないし、平和な状況下ではそれで十分なのかもしれず、下手に戦略的に対立を煽るよりは、実際に交渉や取引を行うことが政治活動の有効性を維持する上では肝心なことだろうし、それ以上を目指す必要もないのではないか。それ以上とは問題や課題が実際に解決することなのだが、解決が何を意味するかを巡っても、様々な解釈が成り立つのかもしれず、どういうレベルでの解決を目指すかも、人によっても立場によっても様々な意見や主張があるだろうし、何らかの結果を得てそれで解決したと捉える人と、まだ何も解決していないと言い張る人までがいる中で、そこで議論を交わしている全ての人や団体を納得させることはできないだろうし、納得できないから絶えず交渉や取引の機会を作り出そうとしているわけで、まずは課題や問題の解決を目指すのは当然だろうが、納得しない限りは解決していないとみなせば、暫定的な解決として妥協が成立することもあるだろうが、そうした中でも交渉や取引の機会を逃さずそれを行うことが、平和的な状況下での政治活動の実態となるのではないか。

 そういう意味で政治的な成果とはあまり実質的な結果を伴うことはないのかもしれないが、絶えず交渉や取引を行うことがその活動の持続を可能としていて、その大部分は見せかけだけのものでしかないかもしれないが、交渉や取引を行なっているところをメディアを通じて民衆に見せることで、何かを行なっているように見せかけているわけで、それが何か実質的な成果を伴っているように思わせれば成功したと言えるのかもしれないし、そうした見せかけの手続きを経ることで民衆の支持を取り付けることができれば、その後から大胆な改革を行える余地が生じてくるのかもしれず、それも手続きとして何らかの決まりごとを定めるわけで、その決まりごとを誰もが守るような成り行きになれば、現実に新たに設けられた決まりごとを誰もが守っている限りで、それが実際の成果となるわけだろうが、その中で政治的な活動ができるのは実質的には決まりごとを設けることになるわけだが、その同意を取り付けるには交渉や取引などの見せかけのパフォーマンスが必要となってくるのだろうし、そうした演技を民衆が信用したり支持するような成り行きになれば、そこで何らかの同意を取り付けることに成功したわけだろうし、もちろんそこで交渉や取引の結果として何らかの合意を発表しなければならないわけで、その合意内容が妥当だと思われるなら、民衆の側でも信用したり支持する成り行きになるだろうし、その妥当に思われるような合意内容を作成するために政治的な交渉や取引が行われているわけで、しかもそれが妥当に思われるような結果になるのなら、別に合意しなくても成果が上がらなくても構わない場合まであるだろうし、たとえ取引が不調に終わって交渉が決裂したとしても、それがその場での状況に照らし合わせて妥当だと思われればいいわけで、下手に妥協して不利な内容で合意が成立してしまうと、民衆の側でも不満に感じられて支持や信用を失い、そうしたことをやってしまった政治勢力は退潮傾向になるだろうし、その反対にその場の状況では合意が望まれるのに決裂した場合にも、同じように支持や信用を失うわけで、その場の状況に応じてどのような結果になるのが妥当に思われるかは、個々の状況によって異なるだろうし、そこで状況に応じた判断が求められるのだろうが、その場の情勢とそこで大勢となっている民意や世論との間で、微妙な意識が形成されていて、そこには直接の利害関係や間接的な影響などから複雑な絡み合いが生じているから、慎重に判断しなければならないだろうし、また交渉や取引の相手との力関係も、どれほど実質的な力を及ぼされているかについては、正確なところはよくわからない面もあるだろうし、さらにメディア的な世論誘導の効果も侮り難く及んでいて、そういう様々な要素を分析した上で、どのような結論に至れば民衆の支持や信用を得られるかがおぼろげながら分かってくるのかもしれず、どこまでそんな作業を行うかも、その場の状況次第な面もあるだろうから、あまり計算づくでわざとらしく演じるよりは、素直に状況に応じたことをやればいいだけなのだろうが、そういうところでも事前の調整がうまくいっていれば、妥当な結果を得られる可能性が高くなるのではないか。


4月27日「環境への適応」

 人には個人としても集団としても何らかの目的が生じている限りで、それに絡んだ活動を行なっている実態があるのだろうが、その活動の実態の中で様々な出来事を引き起こしていて、それが何かをやっていることの全てなのかもしれないが、そんな目的に応じた活動以外で、その場の状況に対応するための活動もあるわけで、普通はその場の状況に対応することが目的とはならず、自分から積極的に何かをやろうとすることが目的になるのとは対照的に、その場の状況に対応しようとするのは、どちらかといえば受け身となるような受動的な活動と言えるだろうし、目的以外で何かをやるとなると、そんな受け身的な活動となるのだろうが、なぜそれが必要となるかといえば、人には自身の外部からも内部からも何らかの作用や影響が及ぼされていて、そのような作用や影響に対処しなければならず、それ以外にも目的に応じた活動からも思いがけずに想定外の出来事が起こってしまう場合があり、その思いがけない想定外の事態に対応を迫られる時もあって、そういう面も含めて対応しているわけだから、それだけ目的のために割く活動も、活動の全体の中では部分的なものにとどまってくるのかもしれず、活動の全てを目的のために捧げているような成り行きにはならないわけだ。そして目的がどうやって生じてくるのかといえば、自身が主体となって何かをやりたいと思わせるような状況から生じてくるわけで、自らのために何かをやろうとするわけだが、それはそこに自我が生じていることの表れであり、自我を生じさせるような成り行きがそこに生じてくるわけだが、なぜ自我が生じるのかといえば、個人としての存在が認められるような世の中になっているからだというと、何やら当たり前のことのように思われるわけだが、集団としての活動に巻き込まれていれば、そこには集団としての目的があるだろうし、そこでは集団が主体となって活動していて、個人は集団に依存しながら活動しているだけで、そこには個人としての主体性があるわけではないのだが、集団の中で個人としての自我を主張するとなると、その集団の中で指導的な地位を確立する必要が出てくるわけで、そうした役割分担が必要となってくると、集団の中では主導的な立場と従属的な立場とに分かれてくるわけだが、集団としての目的を定めるのも、その中で指導的な地位にある人が主導権を握って、従属的な立場の人たちを目的の下に従わせることになるわけで、そうした集団としての目的を遂行する上では、その中で従属的な立場の人たちにとっては主体的な活動ではなくなってきて、そこでは個人としての自己主張ができないわけだが、どちらかといえばそうした活動は集団からの作用に影響を及ぼされて、それに対する受動的な対応という面が大きくなってくるだろうし、そこには内発的な動機が生じないから、ある面では自己責任的な倫理観も生じないし、集団としての活動がどのような事態を招いても、ある程度は他人事を装っていられるのではないか。

 また集団としての目的がはっきりしなくなってくる事態も場合によっては生じるだろうし、それが集団そのものの勢力の維持に多大な労力を要する場合で、集団内の多くの人員がそれだけにかかりきりになってくると、どう考えてもそれが目的化するだろうし、規模の大きな集団であるほどそうした傾向が強くなってきて、結局それはその場の状況に対応するための受動的な活動となってくるわけで、そうした集団が存在している環境自体がそのような環境を維持するための活動が目的化してくる傾向を伴い、そうなってくるとその集団の活動にとって妨げとなるような要因を積極的に排除するような防衛的な活動が主体となってきて、現状維持のために自己防衛的なことばかりやるようになってくるわけで、それが活動の保守化と言える現象なのかもしれないが、そうした現状維持の自己目的化の進行とともに顕在化してくるのが、集団内の人員の精神的な劣化だろうし、何をもって精神的な劣化というかは、その内容に関してうまく説明できない面があるかもしれないが、活動内容が決められた動作以外はやらなくてもよくなってしまうことが、それ以外の物事に関して無頓着になりやすいのかもしれず、要するにそこからは創意工夫が生まれてこなくなって、決められた動作だけ行うような形式主義が蔓延してきて、そこから少しでも逸脱する動作は受け入れられずに、そんな現状を維持する上でもそれ以外の動作を拒否するような態度が主流となってきて、それによって対応の柔軟さがなくなって、そうした決められた動作だけを共有する共同体の中だけで凝り固まって、共同体の価値観を共有しない外部の人間を排除する傾向になるだろうし、とりあえず外部からの指摘には聞く耳を持たず、集団内で立場が上位の者からの指令には何があっても従う成り行きとなるだろうし、そうした組織的な指揮命令系統の範囲内だけで動作が自足する傾向になるわけだが、そうすること自体が自己目的化してしまうわけだから、それだけ決められた動作だけを行う人員のロボット化が進行しているとも言えるだろうし、そうした動作には人としての精神が介在する余地がなくなって、それに代わって短絡的な反射神経が動作の主体となってくるわけで、それは集団の組織的なシステム化とも連動した動作となって、人としての思考力さえ必要としなくなってしまうのかもしれず、そのような傾向が強くなるほど中身のない空っぽな人でも構わない状況にもなってくるだろうし、そのような状態を精神の劣化とみなしても、間違ってはいないだろうが、事態としては劣化というよりは精神自体が不要となっているとも言えるわけで、それもある意味ではその場の状況に対応した結果であり、そうなっていること自体がそこで生じている環境に適応していることになり、現状維持という目的に応じて活動した結果が、そんな結果をもたらしているわけだが、そうだからといってそんな状態が良くないとか、もっと人間らしい態度を取り戻さなければならないとは言えないのかもしれず、そういう環境にはそういう人員が必要としか言えない面があるのかもしれない。


4月26日「集団の掟」

 行政単位としての国には国境線という明確な境界が引かれているが、社会には境界線などないし、どこからどこまでが一つの社会を構成しているわけでもなく、ただ概念として社会というまとまりが定義されているだけかもしれないが、便宜的には国ごとに社会が異なるような認識も一般通念としては世の中に受け入れられているだろうし、社会という言葉を使って語る場合、境界ははっきりしないが、それなりに同質性のあるまとまった単位として語られることが多く、その社会の中で暮らしている人々には共通の何かが想定されているだろうし、それが共同体的なものだと、やはり精神的な同質性や価値観の一致なども想定されるわけで、それが地域社会であれば文化的な同一性や経済的な結びつきなども、ひとまとまりの共通項として浮かび上がってくるのかもしれず、それは言語的同一性や民族的あるいは宗教的同一性などと共に、社会的なまとまりを連想させるのだが、そうだとしてもその社会を構成している人々が集団としてまとまっているかというと、まとまっていると言える面と言えない面とがあるだろうし、行政単位としての国民や企業単位としての従業員や宗教単位としての教徒などとは、重なる部分もあるし重ならない部分もあるだろうから、例えば国家の構成員としての国民と社会の構成員としての社会人を同一視するわけにはいかない部分もあるのかもしれない。普通に社会人というと社会の中で働いている大人を指す言葉であるわけだが、どんな社会にも社会人が存在することは確かだが、非社会人という表現が一般的に通用しているとは言えないだろうし、大人でなければ子供であって未成年というカテゴリーに入るわけで、社会の構成員には大人も未成年も含まれていて、社会人でなければ非社会人というわけでもないし、そういう意味では社会の構成員が社会人だけとは限らず、普通に民衆が社会の構成員であるということだろうし、社会人という言葉の意味が日本語では限定的な意味となっているだけで、そこから社会という概念にも本来の社会からは少しずれた範囲が想定されているのかもしれないが、社会の中で何らかの機能を果たしている人だけが社会の構成員であるわけでもないのかもしれず、もっと何か大衆的な漠然とした存在が社会の中では想定されていて、それに関して社会の構成員をあまりシステム論的にはっきりとは立場や地位などの役割分担を伴って区分けできない面があるだろうし、社会の中にははっきりしない部分があって、少なくとも企業や行政機構などの各種の団体のように組織的な形態を伴っているわけではなく、それらを含む様々な各種団体を合わせたものが社会というわけでもないだろうし、そうした団体に所属していない人も含めた様々な存在が社会を構成していて、そこには常に集団への帰属関係がはっきりしない人が存在しているのではないか。

 そうしたはっきりしないところが社会の定義しづらさを示しているのかもしれないが、積極的に社会の曖昧模糊とした面を強調しても、取り立てて何を言っていることにもならないだろうし、何かそこから社会についての画期的な解釈が出てくるわけでもないのだが、たぶんそれと同様にして社会規範と言った決まりごとを恣意的に定めてみても、やはりそれにはあまり強い拘束力は期待できないのかもしれず、社会のルールやマナーなどを守るような呼びかけにしても、そう言ったものから逸脱する眉をひそめるような行為を諌めるためにそんなことが言われるわけで、そうした良識が社会で通用するには、権力関係を伴わない前提が必要とされるだろうし、一度そこに権力関係が生じてしまうと有無を言わさず従わせるような成り行きになるわけで、そうした行為の中では社会規範などよりは格段に拘束力の強い力が行使されて、場合によっては手段を選ばずに強制するようなことも行われるわけで、そうなると社会というよりは集団的な組織形態の中でそうしたことが行われていて、そうした集団に所属していると社会規範やルールやマナーなどよりも、集団内の権力関係を伴ったルールや掟などが優先される傾向になるのではないか。だからそうした集団ではしばしば世の中の一般常識から逸脱するような過酷な仕打ちが行われて、その集団の構成員がひどい境遇に陥ってしまうこともよくあるわけで、そうした行為を抑制するためにも、社会規範の遵守を強調するような主張がされる成り行きも生じるわけだが、現実の力関係としては社会よりは集団的な組織形態の方が拘束力が強いだけに、そうした集団の構成員には社会規範もルールもマナーも通用しない事態が出てくるだろうし、集団内で目的のためには手段を選ばない成り行きが生じているところでは、社会の一般常識では太刀打ちできないようなことが行われているわけだ。特に政治や行政の領域でそうした行為が横行しているようなら、そうした事態を一般の民衆が支持できるか否かが問題となるのかもしれないが、そこで判断の指標となるのが公共の利益というあまりはっきりとはわからない定義なのかもしれず、民衆がそうした高邁で漠然としている価値を信用できるかというと、功利的には信用できないだろうし、しかもそこで信用しているつもりの功利性にしても、はっきりした利益を得られているはずもないことなのだろうが、どちらにしても公共的な価値観を守りたいのなら、通常とは逆に集団的な組織形態からもたらされる利益よりは社会全体の利益を優先すべきとなるわけだが、そうした面で説得力を伴う政治的な主張というのがあまりないわけで、それよりは経済的な利益誘導という現実的な功利性が優先されているように感じられるのかもしれないが、それも感じられているだけで、実際に民衆に利益がもたらされているかというと、宣伝や煽動ばかりで内容が伴っていないのかもしれず、それに関して民衆が政治や行政に騙されていると主張することもできるだろうが、それを騙されているとみなすのも少し違うのかもしれない。


4月25日「社会全体の利益」

 誰もがはっきりとそう思っているとは限らないかもしれないが、人は社会の中で自分を活かしたいと思っている反面、自分にとって利益となるようなことをやりたいとも思っているだろうし、活かしながら利益を得られたらなおいいのだろうが、自分を活かすことと利益を求めることが相反するような事態が生じるかというと、すぐには事例が思い浮かばないかもしれないが、何かその辺で微妙な違いがあって、自分を活かすには利益が邪魔となるようなこともあるのかもしれず、例えば集団で既得権益を守ろうとする場合などは、集団の利益を確保するために、その集団内にいる人が犠牲となるような成り行きが生じているとすれば、自分を殺して集団のために尽くすという美学が成り立つのかもしれず、それが果たして自分を活かしていることになるか否かは、その人がやっていることに対する評価にもつながってくるだろうが、社会の中で自分を活かすことと集団の中で自分を活かすことが一致すればいいのだろうが、そうなると社会という概念の定義にも関わってくる問題となるのかもしれず、そういった面を考慮すると一概には判断がつきかねるところかもしれないが、社会の中で自分を活かすということが、社会全体にとっての利益につながれば、何か理想的な自分の活かし方のように思われるだろうが、社会全体の利益というのが具体的に何を意味するかがよくわからないところでもあるわけで、それに比べて特定の集団にとっての利益となると、すぐに利権とか権益とかが思い浮かんでしまい、社会全体にとってそれらは否定的な意味合いを生じてくるだろうし、そうした集団としての利益を得るために集団内の人たちが活かされている状況が、社会の中で自分を活かしたいと思っていることと背理してくる可能性があるのではないか。それに関して社会全体の利益という漠然としていて抽象的なものを求める姿勢自体が実感を伴わないことであり、それに比べて集団の利権や権益の方は具体的で実感を伴っているだろうし、普通に集団の構成員として活動していれば自然とそちらの方を優先してしまうわけで、集団の論理としてもそれが正しいと思われてしまうだろうし、そうした利権や権益を守ろうとする姿勢を批判する側の方が偽善や欺瞞だと思われてしまうかもしれないし、そういうところではっきりとした判断を示せないことが、社会全体の利益を考える上で障害となってくるのかもしれず、それに対する妥協策としては、正しいことをやろうとは思わない方がいいのかもしれないし、何事も利益を求める方へと一辺倒に進まないことが肝心で、何かそこで調整すべき要因を探さなければならず、それは論理的な正しさを求めることとも少し違っていて、調整を行うことが論理的には間違っているかもしれないし、もちろん調整が成功するとは限らないわけで、そこで激しい対立があると調整が難航して、場合によっては交渉が決裂することもあるわけだが、それでも利害調整を行う以外にはあり得ないところが不条理感を抱かされるかもしれないが、だからと言って主張や行為の正しさばかりを追求していてはどうにもならないわけだ。

 そんなことを考えてゆくと、結局は自身や自身が属する集団の利益を得ようとするときに、他の人たちや他の集団の利益も念頭に置いて、そこで何らかの利害調整を行うような成り行きに持っていかないと、結果的にうまく利益が得られたところで禍根が残ってしまうのかもしれず、もちろんどうやっても禍根が残ってしまうような場合もあるだろうが、そういう成り行きから争いが起こっても、双方が痛み分けのような状況をもたらすことが妥当な決着のつけ方なのかもしれず、それでは正確には決着がついていないわけで、それ自体が将来への禍根となる可能性もなきにしもあらずかもしれないが、そういう意味で社会全体の利益というのはよくわからないところがあって、あまりにもはっきりとそうしたものを強調してしまうと、他からの支持を得られなくなって、信用されなくなってしまうのかもしれないが、それだけ微妙な意味合いや傾向があるのかもしれず、簡単に言えば社会全体の利益など幻想に過ぎないと思ってしまった方が気楽になれるかもしれないが、だからと言って自分の利益や集団の利益を求めることが正しいとは限らないわけで、別に正しいとは思わなくても自然にそうなってしまうのであり、自然にそうなってしまうところを理性の力で押しとどめようとするのも、何か不自然でぎこちない動作となってしまうだろうし、そういうところでも妥協的なやり方としてバランスを重視するような傾向となってしまうだろうが、そうすることが正しいわけではないが妥当なやり方となるのかもしれないし、その辺でともすれば煮え切らない態度に終始しているように思われてしまうのかもしれないが、すでに行き詰っているような状況から先へと事を進めなければならないとすれば、何事も一筋縄ではいかないのは当然だろうし、うまくいかないなりにも何かやっているように装わなければならないだろうし、そうなっている時点で論理的にも倫理的にも正しいやり方からはかけ離れていることが予想され、それ以上はどうにもならなくなっている事態を何とかしようと悪戦苦闘する羽目に陥ってしまうわけだから、いくら原則論を持ち出して正しい主張を戦わせてみても、説得力も信用も得られないような状況となってしまうわけだ。そうなると交渉自体が何の意義があるとも思えないだろうし、やるだけ無駄な気がしてしまうのかもしれないが、たぶんそうした状態から本格的な交渉が始まるのだろうし、そんな状態では社会全体の利益など全く念頭から除外されているのかもしれないが、そういうものは意図して得られるものではなく、結果的にもたらされるものなのかもしれないし、集団と集団との間の利害調整においては、単に双方の利害が問題となるだけで、そこから社会全体の利益が導き出されるような成り行きにはならないわけだが、それとは別次元のレベルで双方が痛み分けとなって、そこに何らかの均衡状態がもたらされることが、社会全体にとっては利益となるのかもしれず、要するにそこで争いが一段落して平和な状態が実現することが、社会全体の利益となるとすれば、少なくともそれは争っている集団の衰退を招くような成り行きなのではないか。


4月24日「そこに至る経緯」

 世の中には知っていることよりは知らないことの方が確実に多いはずだが、知識として知っていることが何かの役立つこともいくらでもありそうで、普通に知っていることを生かしながら多くの人が日々活動しているわけだが、その人が経験と勘によって蓄積している知識にもおのずから限界があるだろうし、特定の方面ではいくら豊富な知識量を持ち合わせていても、それとは別の方面では知らないことばかりなのはよくあることで、足りない知識を補うには単純に調べれば済む時もあるだろうが、様々な方面で知識を持ち合わせている人たちと連携すれば、互いに足りない部分を補い合うことで他人の知識を有効活用できそうだが、それも連携するメリットがないとなかなか連携してくれないだろうし、自由な立場で連携するとなると、互いに利用し合える成り行きが生じないとうまく連携できないわけで、またそういう部分で他人に利用されていると思うと疑心暗鬼になってしまって、連携がうまくいかないことも多そうだが、制度として何らかの集団を構成するような仕組みがあれば、すでに知識もそれを生かすためのノウハウもある既存の集団に入って、その中で確立されている組織的な構成の中で決められた役割分担をこなしてゆくような成り行きになれば、それによってゼロから赤の他人との連携を模索する手間も苦労もいらなくなってしまうわけだが、実際にそうした集団が社会の中で活動している実態があって、そこで成り立っている様々な制度に連動して働いていると、一概に知識を生かして何かを行うといっても、それをやるための条件や必要な形態などによって様々な制約があって、主体的にやろうとしていることがそのままできるというわけではなく、何らかの手続きを経た上でないと何もできないような仕組みであるなら、実際に何かをやっている現状があるとしても、結果的にたまたまそんなことをやっているだけで、それをやるに至るまでには様々な紆余曲折があって、もとからそんなことをやりたかったわけではないことをやっていたりするわけで、そういうことの大半は、そこに至るまでの経緯の中で、次第にやることが決まってくるような成り行きがあるのだろうし、またいったんやることが決まっても、やっているうちにそこからずれてきてしまうこともあるわけで、そこにも集団の意向が反映されていたり、制度に則ってやっていくと、自分がやりたかったことからかなりずれたことをやらざるを得なくなってきたり、そういう経緯の中で何かをやっているわけだから、必ずしもやりたいことをやっているとは言えない場合が多いのかもしれず、そんなわけで人は何かをやる以前に、すでに自らが持ち合わせている知識において限界づけられていて、また知らない部分を補うにしても、他人と連携すれば他人のやりたいことも絡んできて、そこでお互いにやりたいことを調整しなければならなくなり、さらに何らかの集団内で何かをやるとなると、必ずしも自分がやりたかったことをやっているわけではない可能性も高くなってきて、そうやって妥協を強いられながらやっていることが、いつの間にかやりたいこととすり替わっていることにすら気づいていない場合もあるのかもしれない。

 たぶん結果的にやっていることが現状の活動なのであって、その活動内容が特に主体的にやっていることではないとしても、そこに至る経緯の中でそんなことをやっている成り行きが生じていて、それに関して不満も文句もそれなりにあるかもしれないが、何かしらやらざるを得ない状況となっていれば、実際にやりながら経験と勘が積み重なってくると、そういう成り行きの中で必然性を感じられるようになるわけで、そうなると自信が生じるとともにやっていることを正当化したくなってくるわけだが、そのやっていることをさらにやり続けるためにも、やっていることの必然性を求めようとするわけで、何かそこに至る必然的な成り行きがあって、やることになった原因と実際にやっている結果とを結びつける因果関係を説明したくなってくるだろうし、そこに理屈や道理を導入できれば確固たる連続性を構築できるし、やっていることの正しさも信じられるようになるのではないか。たとえ後付けであってもそこまで正当化する余裕が生じてくれば、そうした活動は制度としても充分に確立することができるだろうし、活動するにあたっての大義名分のごとき確かな意味づけも可能となって、場合によっては世間的にも公認されるような活動ともなるのかもしれず、そうした成り行きが活動の制度化となるのだろうが、たぶん世間的に公認された活動というのは、それをやっている当人の意志でやっているというよりは、世論や民意の後押しを受けながらやっている部分の方が大きいのかもしれず、そこに同調圧力のような集団意志が介在していて、やっていることに関して世間を納得させられなければ批判を浴びてしまうような成り行きにもなってくるかもしれないし、実際にメディア経由で批判を浴びせている人が大勢いるようなら、そんな批判も考慮しないわけにはいかなくなって、それだけ自らの主体性が減じられることになるのかもしれないが、そうだからといって世の中の注目を意識している分には、別に悪い気はしないわけで、やっている内容がどれほどくだらなくても、何かしら世の中の反応が期待される限りでやり甲斐が生じてきて、他人の共感や反感とともに活動していることになるわけだから、それだけ公的な活動という意味合いも生じてくるわけで、不特定多数の人々と一緒に活動しているような気分となって、何やら自分の活動が世の中に影響を及ぼしている気になってくるのかもしれないが、そうなるとそれと自覚することなく世論や民意が示しているような価値観との関係の中に自らの活動を位置付けようともしてくるのかもしれず、場合によっては世間体を気にして世間に媚びるような態度も生じてくるだろうし、何かその辺で自意識が個人から形成されているのではなく、漠然と多数意志に同調するようなあやふやさが生じてきて、その結果として誰でも言えるようなことを自分の意見として述べているようにもなってくるわけで、実際に世間を代表して活動しているような形態は、大衆市民社会に特有な現象なのかもしれず、別にその人が代表であってもなくても構わないのに、とりあえずその人が世間を代表するようなことをやっているわけで、そんな誰でも構わないのにその人がやっているとすると、そうした活動には何の重要性も伴わなくなってくるのではないか。


4月23日「疑念と留保」

 現象にはそれが起こるにあたって原因があると思われがちだが、これといって原因を特定できない場合もあるだろうし、原因を特定できなければ原因から結果を説明できず、そこで現象に関する説明が行き詰ってしまうのかもしれないが、もちろんそんなに内容の厳密さや正確さが求められていなければ、推測や憶測で話のつじつまが合うような原因を適当に設定して話を間に合わせれば、それで何か説明しているような雰囲気を醸し出せて、それで済んでしまう場合もあるのだろうが、たぶん原因が一つというわけではなく、複数の原因が複雑に入り組んでいて、それらが相互に作用や影響を及ぼし合いながら、何らかの現象を引き起こすこともあるだろうし、そういう場合は一つの原因によって説明すること自体が困難になるわけだが、確かに原因がはっきりしていてそれを特定できれば説明に説得力が出るかもしれないが、そうした説得力が単なる話のつじつま合わせから生じてしまう場合もあるだろうし、そうなるとそれはフィクションとしての説得力になってしまい、たとえ説明に説得力があるとしても、それによって現象を正確に捉えているかというと、それは誰もが安心して信じられる話でしかなくなって、そうであるなら別に話に虚構が含まれていても構わないわけで、結局そういった説明は真実味を帯びたフィクションになってしまうわけで、しかもそれで構わないとなると、そこで実際に起こっている現実の現象と、話の中で説明されている現象とが一致しなくなるわけで、また実際に起こっている現象の中で、話のつじつま合わせに都合のいい部分を誇張して説明してしまうと、実際に起こっている現象を直に体験している感覚と、それについての説明からもたらされる印象との間に開きがありすぎるようにも思われてくるわけで、できれば説明からもたらされる虚構の部分を最小限に抑えてくれると、不自然な違和感を抱かなくても済むのかもしれないが、そういうところで説明している側の意図や思惑や都合が話に反映されてしまうわけで、そうなってしまうのはある程度は仕方がないとしても、その説明が心地よく感じられるようだと、人を心地よくさせるようなフィクションが少なからず説明に含まれているのかもしれず、そうした心地よさが世の中の支配的な価値観を反映している場合があるわけで、それに関しては感動を呼ぶような話の内容に仕立てあげることも技術的に可能だろうし、気晴らしの感動話を世間が求めている事情もあって、そんな形式に合う実話を寄せ集めて提供するようなメディアもいくらでもあるだろうし、そうではない話もいくらでもあることは踏まえておかないと、そこから勘違いが生じてしまうのかもしれず、実際に世間が求めている感動話にしか興味を示さないようになってしまうと、実際に見えている不都合な部分を見ようとしなくなったり、体験している現象を都合のいいようにしか解釈できなくなってしまうわけだ。

 何かを語るということは、常に語り手にとって都合のいい部分を誇張して語るわけで、誇張という表現では語弊があるなら強調という言葉を使ってもいいだろうが、ではなぜ話のある部分を強調しなければならないかというと、そこに興味があるからだろうし、語り手にとって興味がある部分を強調して伝えたいのは当たり前のことだろうが、語っている対象には興味を惹かれない部分もあるだろうし、そういう部分が語っている内容には反映されないわけで、興味を惹かない部分が語られないとしても、語り手にとってそれが虚構だとは言えないだろうが、説明を受け取る側にとっては事実がそのまま語られているわけではないのだから、その部分がフィクションだと思われても仕方のないところかもしれず、誰が語ってもそうなってしまうのだから、事実をありのままに語っているということ自体がフィクションでしかないわけだが、中には語り手の意図していない部分まで語られてしまうこともあるわけで、語り手が自らの語りを制御できていない部分もあるだろうし、語り手が体験した現象によって語らされている部分があるとすると、それは語り手の力量を超えている部分であって、語り手が自らが語っている内容を把握しきれていない部分でもあるのだろうし、たぶんそういう部分からお仕着せの感動とは違った驚きを伴った真の感動がもたらされるのかもしれず、それがあると世の中の支配的な価値観とは無関係な内容になるだろうし、語り手にとって都合のいい話ではなくなるわけだ。そしてそうした部分は意図して強調しなくても強い印象を伴うだろうし、そこが体験しつつある現象が語り手を通して伝えたいことなのかもしれないし、それについて語っていることを含んだ現象の一部始終なのだろうし、それについて語り手が語っていること自体までが現象に含まれると同時に、それを受け取っている人も現象に巻き込まれているわけで、それらすべてが一つの現象を構成していて、その中には同時に様々な現象が入り組んでいて、それらが互いに影響や作用を及ぼし合いながら、ある部分では繋がっていて、またある部分では繋がっていないとしても、また同時に繋がっていることと繋がっていないことを含んだ両義的な関係を構成していて、だからそれについて語ろうとすれば、言葉では捉えきれない部分については語りようがなく、語りようがない部分について語らなければフィクションになってしまうのだろうが、しかしそうなるのは致し方のないところであり、全てを語れない以上は、その中で興味のある部分や現象によって語らされてしまう部分を語っているわけだから、語り得ない部分に関してはそれを受け取る側の想像力から構成されてしまう面もあるだろうし、そこに語り手が語り得ない部分があることを想像するしかなく、それとともに現象を体験しているのだから、そこから得られる印象としては常に謎の部分が残っているわけで、それが心地よさとは違った感覚をもたらすのだろうし、そうした留保する部分がないと、説明だけでわかった気になってしまうのではないか。


4月22日「意識が把握している世界」

 人が関わって起こる出来事には、そこに関わっている人たちの意図や思惑が介在していることは確かだろうが、その意図や思惑が活動と結びついている限りで、主体的に何かをやっているように感じられるのかもしれないが、それとは違ってただ漠然とその場の状況に合わせているようだと、主体的に活動しているとは思われないのはもちろんのこと、ただその場の状況に依存しているだけの従属的な活動となってしまい、それではその場の状況にその人の意思が反映していないことにもなるだろうし、その場の出来事に関わっているにしても、積極的に関わるというよりはどちからといえば受動的かつ消極的に関わっていることになり、少なくともその場で主役としての役割を担っているわけではなく、例えば他に主体的に関わっている人がいて、その人から指図を受けながら動いているような脇役的な役回りでの関わり方もあるのだろうが、中にはそんな役割分担さえはっきりしないような関わり方もあるだろうし、自分の意思とは無関係にその場の出来事に巻き込まれているような場合は、積極的にも消極的にもそこで何をやれるわけでもなく、ただそこで生じている成り行きに翻弄されているだけになってしまうと、それが運命だと思ってあきらめの境地に至ってしまう場合もあるだろうし、それでも否応なく巻き込まれているのだから、直面している状況に対応するしかないだろうし、何とかその場を切り抜けるために努力するしかないような境遇だと、自らの力ではどうにもならないような出来事に巻き込まれていることになるのかもしれず、人がその場で起こっている出来事の威力に圧倒されているような場合だと、どんなに傲岸不遜な人でもそうした出来事の前では謙虚にならざるを得ず、そこに圧倒的な力の差が生じていることを認識できる人は、自然と傲慢な態度ではいられなくなってしまうわけだが、そうした感覚が欠落している人だと、思い上がって自分の力で状況を変えられるような妄想を抱いてしまうのかもしれず、そんな怖いもの知らずであるだけで、かえって大胆なことがやれるのかもしれないが、仮にやったからといって何がどうなるわけでもないのもよくある顛末だろうが、たぶんその場の状況に応じて何かやるというのは、結果を気にしないでいられる限りで大胆なことがやれるわけで、ある程度は身の程知らずな態度で臨まないと大したことはできないだろうし、その大したことというのも自己満足を求めようとしているのではなく、何か思いがけないような結果になることを狙っているわけではないとしても、現状で予想される以上の何かをもたらそうとしているのかもしれず、その辺で保守的な考え方から逸脱するような意志を必要としているのではないか。

 人の意図や思惑を介在させてもどうにもならないような現状があるとすれば、それは人が自らの意思とは無関係に巻き込まれている状況があるということだろうし、そうした状況を把握しきれないからそこに意図や思惑を介在させることができないのであり、そうなるとそこにもたらされている状況は人の認識を超えていることにもなるだろうし、実際に人の意識がこの世界の全ての物事や事象を把握できないのは当然で、常に把握していることよりもはるかに多くの物事や事象によって世界が充たされている状況があるのだから、そういう部分に関しては意識の埒外にあり、思考力がそこまで届かないわけで、思考力が届かなければやりようがないのかもしれないが、人自身も意識が把握していることよりもはるかに多くのことをやっている可能性まであり、意図せずに何かをやっていて、そのやっていることについては意識が制御できていないのかもしれず、それについてよく言われるのは本能の赴くままに行動している場合があるわけで、そんな欲動に活動を支配されていると、そういう部分に関しては制御が利かず自制心が働かないから、衝動的に行動してしまうわけだろうが、たとえそんな感情まかせの行為があるとしても、さらにそれとは違う活動もあるのかもしれないし、なぜかその場の思考や推理から導き出された理屈には従わないで、安易に成り行きまかせの行動に出た結果、取り返しのつかない失態を演じてしまったとしても、結果的にはそれで構わないような状況がもたらされて、そこでの失敗によって、かえって他のことがうまくいくような成り行きになってしまったとしたら、どうにも判断がつきかねるような状況となってしまうのかもしれず、要するにどのように行動したとしても全てがうまくいくわけではなく、うまくいく成り行きとうまくいかない成り行きとが複合的に絡み合って、その場の状況がもたらされていることがあって、うまくいっている部分ではそれで構わないのだろうが、うまくいっていない部分では不都合な結果がもたらされているわけで、しかも全てがうまくいくようには制御できないわけだから、ある程度の犠牲はやむを得ない状況がもたらされているわけで、そういう部分を部外者が批判するのは簡単かもしれないが、いくら批判したからと言ってうまくいくはずもなく、どうやってもうまくいかない部分に関しては批判を甘んじて受けながらも、それ以上はどうにもやりようがない部分となるだろうし、それでも活動が成り立っていれば、とりあえずそんな活動を継続していくしかないわけで、世の中で人や集団が行なっている活動も、必ずしもその全てがうまくいっているわけではない活動を行なっているわけで、そういう部分については絶えず批判を浴びながらも、そうした批判に対処しながらも活動の継続を図ろうとしていて、それが現状で示されている問題を構成しているのだろうが、そういう部分では問題の解決を目指しながらも、別の部分では問題が解決しなくても構わない状況が生じているわけだ。


4月21日「状況に依存した活動」

 人は集団で組織的に機能することによって、一人ではできなかったことができるようになるのだが、逆に集団による組織的な動作とは相容れないことが個人として行える可能性もあるだろうし、集団の中にいる時には集団としての形態に応じたことをやっているとしても、一人でいる時には個人として行えることを模索している場合もあるだろうし、どちらの場合でもその場の状況に合わせたことをやろうとするのかもしれず、そのような活動からそれ相応の恩恵や弊害がもたらされるにしても、その場でできることをやろうとするから、その場の状況に依存するような活動となるわけで、人が社会の中で機能するのは、その場の状況に合わせた活動を行なっている時であり、そうすることによって何らかの利益や損失がもたらされて、そんな結果を踏まえて、さらに結果的に生じたその場の状況に対応した活動を続けようとするのだろうが、そこで恩恵も弊害も利益も損失ももたらされなければ、それでは何もやっていないのと同じことになってしまいそうだが、もたらされている結果を認識できない場合もあるわけで、それが自身にとってプラスなのかマイナスなのか判断できないような結果を前にして、ただ困惑するしかない場合もあるだろうし、それが想定外の思いがけない結果となって、これまでやってきたことから逸脱してしまうような作用を及ぼすのかもしれず、何か新たなことをやる成り行きというのは、そうしたことをきっかけとして生じるのかもしれないし、たとえ日々頑なに同じことを繰り返していても、いつ何かのきっかけからそうなってしまうとも限らないわけで、それが偶然にもたらされる作用であることは言うまでもなく、それは求めようとして求まるわけでもないだろうし、そんな結果になるのを誰が望んでいたわけでもないのに、やはりいったんそんな結果がもたらされてみると、その場の誰もがそんな結果に対処しなければならなくなるだろうし、そこで講じられる対処にしても、それまでとは異なるやり方を試みなければならなくなるのかもしれず、要するにそこに生じた新たな状況に対応して、人も集団もこれまでとは違った新たな活動を行う成り行きになれば、結果的にも状況の変化がもたらされたことにもなるだろうし、そこで誰もが思いもよらなかった変化が起こっていることになるわけだが、それは今ある現状からは予測不可能なことなのかもしれず、そこで人や集団が状況に対応した活動を行おうとすることが、そのような結果をもたらすわけではないにしても、そこで原因と結果の因果関係から外れた思いがけない成り行きがもたらされるとすれば、たぶんそれに抵抗するのではなく対応しようとすることが、状況の変化を促進させることになるのではないか。

 無理に状況を変えようとしなくても、変わる時には状況が変わるだろうし、なぜ変わるのかといえば、そこに無理が生じているから変わるのではあり、その無理がどこから生じているのかといえば、現状を維持しようとするから無理が生じるわけで、現状を維持しようとするのではなく、現状に対応しようとすればいいわけで、誰もが現状に対応しようとすれば、状況は自然に変化していくのかもしれず、変化に抗おうとしなければ、抵抗が生じないから自然に状況が変化するわけで、そういう意味で状況の変化とは人や集団が人為的に作り出すというよりは、自然に変化している状態に人も集団も合わせようとすれば、無理のない対応が可能となるのかもしれないし、結果的にそこから利益が出ようと損失が出ようと、それも自然な結果として受け止めるような気構えでいれば、それに対応した活動に結びつくのかもしれないが、そこで過去の経緯にこだわって変化に抗おうとすれば、無理な力の行使をしなければならなくなって、そうした無理が祟って活動に支障が生じてくるのかもしれないし、そんなところから何かがおなしくなっていくのだろうが、そのおかしくなってきたこと自体が状況の変化を反映した状態であって、状況の変化に抗うことで無理が祟って活動がおかしくなること自体も、そこでの状況の変化を示しているわけで、そうなると変化が新たな変化をもたらしていることにもなるだろうが、それが変化に抗おうとする動作から生じているわけだから、変化に対応しようとしても自然な変化を促進させることにもなるし、また変化に抗おうとしても新たな変化をもたらすことにもなるし、どちらにしても変化の中で活動していることになるわけで、人為的にはそんな変化の流れを止めることができないのかもしれないが、一方でそれは変化する状況の中でそれに対応しようとする活動と、それに抗おうとする活動の二通りの活動がもたらされているとも言えるわけで、正確には変化に対応しつつも抗おうともしているという同時的で両義的な活動の実態も示しているのかもしれないし、そのどちらがどうというわけでもなく、それが両極端に振れて分裂した活動となっている場合もあるだろうし、また両者が融合していて、対応と抵抗が入り混じった活動となっている場合もあるだろうし、たぶんそのどちらが良くてどちらが悪いというよりは、その場の成り行き次第でどちらにも振れてしまうのかもしれず、一見その場の役割分担がはっきりしていて、両者が対立関係を形成しているように見えるとしても、どちらも大して変わらないのかもしれず、単にその場の偶然の巡り合わせで、たまたま変化に対応する活動に巻き込まれている人や集団と、変化に抵抗する活動に巻き込まれている人や集団に分かれているとしても、それはあくまでも形式的な役割分担でしかなく、本質的にはどちらもその場の状況の変化から生じてきた活動であり、その場の状況に依存して行われている活動なのではないか。


4月20日「持続的な効果」

 行き過ぎた経済至上主義からもたらされるのは、人も物も情報もひたすら効率的に機能させる仕組みの追求となるのかもしれないが、その一方で何のために経済効率を追求しているかに関して、その目的が利益を上げること以外にはあり得ないだろうが、その利益が誰にとっての利益となるかについてはよくわからない面があるのかもしれす、企業が利益を追求しているとしても、企業内で働いている労働者にも商品を買う消費者にも利益がもたらされないとは考えにくいだろうが、実態としては企業自体やその経営者や株主などの利益を最大限に確保しようとすると、そのしわ寄せが労働者や消費者に及んでくるのは明らかかもしれないが、労働者はともかく消費者が商品に満足しなければ買ってくれないだろうし、少なくとも消費者には利益がもたらされていると思いたいところだが、そう思わせるために企業が力を入れているのが商品の広告宣伝だろうし、それについて悪い言い方をすれば消費者を騙して買わせるようなやり方にもなりかねず、もちろん企業側でもそれなりの販売努力を行なっているわけだから、騙している感覚にはなれないわけだが、営業担当者が必死の売り込みを行なった甲斐あって、商品が売れて利益を上げることができれば、どう考えても正当なやり方で利益を出しているとしか思えないだろうし、そうした成り行きが正当化されるのは当たり前のことなのだろうが、果たして利益とは何なのかについて、金銭的な利益以外にはありえないとは思えないのかもしれず、では他に何が利益なのかについて何か説得力のあることが言えるかというと、それは人の受け止め方にもよるだろうし、そんなものが利益であるわけがないと言われてしまえば、その通りとしか言えないかもしれないが、例えば心理的な余裕が確保される状況がもたらされると、何か豊かさを実感できるかもしれないし、またあくせく働かなくても暮らしていけるなら、そうした生活を実現していること自体が、そこに何らかの利益がもたらされているから、余裕のある暮らしが送れていることになるわけで、それも具体的には金銭的に余裕があるからそうなっているといえば、その通りだとしか言えないだろうが、たぶんそれほど物質的に豊かではなくても、ほどほどのところで余裕を持って暮らしていける場合があるだろうし、その辺は気持ちの問題でしかないのかもしれないが、広告宣伝に煽られてクレジットカードなどを使って必要以上に商品を買い込んでしまい、生活がぎりぎりのところでかろうじて成り立っているような場合は、物質的には豊かかもしれないが、経済的に余裕がないことは確かであり、またその余裕のなさが心理的にも追い詰められている感覚をもたらすだろうし、そうなると商品を過剰に購入することによって利益を奪い取られていることになっているのではないか。

 結局は労働者としても消費者としても余裕のない暮らしを強いられていること自体が、心の余裕という利益を経済活動によって奪い取られていることになるのかもしれず、一般市民があくせく働いて商品を大量に購入させられている実態が、商品を製造して流通させて販売している企業とその関係者に利益をもたらしていることは確かだろうが、そうなっていないと金銭的な利益が生じないことも確かであり、その金銭的な利益が一部の人たちに偏ってもたらされているとすれば、ごく一部の人たちには豊かな暮らしがもたらされている一方で、その他大勢の一般の民衆には経済的にも心理的にも余裕のないぎりぎりの暮らしがもたらされていることになるのかもしれないが、それも程度の問題でしかないのかもしれないし、商品の購入を煽る広告宣伝を真に受けないで、必要以上に買い込まないように心がけている人なら、人並みの収入しかなくてもそれなりに余裕のある暮らしを実現できているのかもしれず、そうであるなら単純に収入の多い少ないとは別に、支出の多い少ないも豊かさを実感できる尺度となるのかもしれないし、また生活に関しての価値観の違いによっても豊かさの実感が左右されるだろうし、極端に収入の少ない貧困層でない限りは、大半の人たちがそれなりに暮らしていける程度の状態が保たれていれば、暮らし方の工夫次第で余裕のある生活が実現できるのかもしれないが、例えば結婚して家族が増えて住宅や車などのローンを抱えている状況であれば、心理的な余裕などは生まれにくいだろうが、それでも生活の充実感がもたらされている場合はあるだろうし、仕事もせずに暇を持て余している人との間で価値観の相違があるとしても、どちらの生活がいいかは人によって異なるかもしれないし、また広告宣伝に煽られて欲しいものを買っていると思い込んでいる人も、それなりに充実感や豊かさを実感しているだろうし、そんなふうに生活の質や内容に関して人によって傾向が異なるようだと、それだけ多種多様な暮らしがあり、その豊かさや充実度にも違いが生じていることにもなるだろうが、そうやって価値観が人によって異なる傾向を示していることが、世の中の文化的な多元性を生じさせる可能性ももたらすだろうし、しかも価値観が異なっていても、それを巡って対立や争いが起こらなければ、平和な世の中が実現していることにもなるのだろうが、広告宣伝や政治宣伝などを利用して煽っている側からすれば、人々がそれを真に受けて一つの価値観に凝り固まってくれた方が、より大きな利益にありつけると考えているだろうし、実際にそれを目指して盛んに煽動しているわけだろうが、年がら年中騒いでいると疲れてしまうだろうから、やはりそうした煽動の効果も一時的なものにしかならないのではないか。


4月19日「出来事に絡んだ商機」

 人が経済活動から利益を得ようとしているのは当たり前のことだが、物や情報やサービスを売ったり買ったりすることだけからしか金銭的な利益が得られないことも当たり前のように思われるだろうが、それ以上に経済活動から何がもたらされているのかといえば、金銭以外ではそれとの交換によって普通に物や情報やサービスがもたらされていて、人々がそれを一方では提供しながら、また一方では享受している現状の中で、人の暮らしが成り立っているわけだが、それらの全てが売買されているわけではなく、売買を介さないで提供されているものもあり、また売買を介さないで享受されているものもあって、全ての活動が売買を通して成り立っているわけではなく、中にはただで提供されていたり、ただで享受されているものもあるだろうし、また提供されたり享受されたりといった概念では表現できないような活動もあるのかもしれず、さらに活動とは呼べないような動作もあるかもしれないし、そういう動作は動作として意識されずに行われていて、人がそこで生きて暮らしているだけでも何かやっているわけで、それが売買などの経済活動には結びつかないことをやっている場合の方が多いのかもしれず、そういったものはただ生産されて流通して消費されているだけで、それが売買を介さないから金銭的な利益には結びつかないのだが、そうした利益を得られないからといって、やりたいことをやっている限りで満足感を得られ、また別にやりたいとは思わないこともやっている場合さえあり、何かをやっているという意識もなしにやっている動作もいくらでもありそうで、そうした動作を金銭の授受に結びつけることはできず、要するに商売としては成り立たないようなことを多くの人たちが現に行なっているわけだ。そしてそんな利益をもたらさない行為を支えているのが、売買を伴った経済活動だと言えるのかもしれないが、逆にそんな行為によって経済活動が支えられている実態もあるわけで、例えば人が生まれたり死んだりすること自体は売買とは無関係だが、そのような出来事に絡めて経済活動が行われている実態もあるだろうし、そういった便乗ビジネスが経済活動の全てだと言えなくもなく、もともとは何らかの出来事を伴った人の活動に絡めて物や情報やサービスなどを提供しようとするのが、商売の基本だったわけで、世の中で何か出来事が発生する度にそこに商機が生まれたわけだが、それが資本主義経済が発達していくにつれて逆転現象が起こったわけで、現代ではそこで商売を成り立たせるために、何らかのイベントを起こそうとするわけで、何か興味深そうな出来事を人為的に発生させて、それに絡めて物や情報やサービスの売り込みが行われるようになったわけだ。

 たとえそんな歴史的な経緯があるとしても、世の中で起こっている全ての出来事が商売に結びつくわけでもないだろうし、資本主義的な経済行為の担い手たちの活動内容がそういう傾向にあるとしても、民衆の中には出来事を商売に結びつけようとする行為には反感を覚えるような場合も出てくるわけで、さらに商売に結びついている行為を妨害して、そこで商売が成り立たないようにしてしまう行為も現にあり、またそこで行われている商売から利益を掠め取って、自分たちが主導権を握っている別の商売に利用しようとする行為まであって、それが商売となってしまうと利益を奪い合う仁義なき戦いが繰り広げられてしまうわけだろうが、果たしてそのような商売に倫理を持ち込むことが可能かと言えば、やりすぎを規制する立場の政府としては、一方では産業を振興しておいて、もう一方では行き過ぎた経済至上主義の蔓延に歯止めをかける役割が求められているのだから、両義的なことをやらなければならないだろうし、それに対する最低限の対応として法律違反を取り締まることが行われているのだろうが、さらに特定の商売を保護する法律とか消費者の利益を守る法律とかの制定となるわけだが、それは議会と連携して行われることになるだろうし、そのような法整備には選挙などに絡んで民衆の支持を取り付けなければならないわけだが、そうした制度的な対応だけでうまくいくわけではなく、最終的には民衆の自覚に負うところが大きいだろうし、結局は民衆が商売とは無関係な政治活動をどこまで支持できるかにかかってくるのかもしれず、それが商売に絡んだ政治活動との間でどこまで区別がつくかも問題となってくるのかもしれないし、世の中の全ての出来事が商売に結び付けられてしまうのが不快なら、少なくとも利益を出さない政治活動を行なっている勢力を支持するしかないだろうし、政治活動によって経済的な利益を上げているような勢力は支持すべきではないことになるのかもしれないが、果たしてそれらの間で区別がつくのかと問われるなら、たぶん現状で経済的な利益を上げている勢力が政治的な実権を握っている状態であるとすれば、区別がつかないどころか、経済至上主義を民衆の方でも支持している実態があるだろうし、そんな状況を不快にも思わない風潮が世の中に蔓延していることになるのかもしれないが、それ以前に何でもかんでも金儲けに利用されている実態に気づいていない面の方が大きいのかもしれず、それもあからさまに金儲けしている感覚ではなく、広告宣伝料だとか手数料とかの、世の中に広く浅く満遍なく少額の利益を徴収するやり方が普及していて、それが塵も積もれば山となるような類いの利益の出し方として確立されていて、そうやって利益を上げているのがグローバル企業と呼ばれる一部の大企業なのかもしれないし、またそうした大企業が提供する物や情報やサービスを、民衆が大した違和感も抵抗感もなく享受できる仕組みが、世界的に構築されている実態もあるのではないか。


4月18日「苛立ちの原因」

 人の動作は実際には制度や慣習からの制約があって、限られた動作しか行えない場合が多いだろうが、可能性としてはやれる範囲内であらゆることが想定されるわけで、それは集団で行う組織的な動作にも言えることかもしれないが、たとえ様々な事情によって活動が制約を受けていても、実際に事前には想定されていなかった動作が思いがけずに起こってしまう場合があるだろうし、そんな想定外の事態に直面すると、これまではやらなかった対応を迫られるわけだが、結果的にはこれまで通りの対応しかできない場合があるわけで、世の中の制度や慣習に囚われているとそうなってしまうのが当然の成り行きなのだろうが、現実問題としてあらゆる事態に対応できるはずもなく、できないことはやれるはずがないだろうし、大抵はこれまで通りの対応しかできないから、活動がうまくいかなくなってしまうのだろうが、そうなってしまうからそこで問題が生じて、それへの対応を迫られるわけだ。要するにそこで物事が循環してしまうわけだが、うまくいかないなりにも活動が続いていればそれで構わないわけで、実際に活動が続いている実態があれば対応していることにもなり、うまくいかないから様々な方面から批判を浴びるだろうが、批判している勢力が役割を取って代わろうとしない限りは、批判を浴びている勢力が活動の主体であり続け、しかも批判を浴びながらも主導権を明け渡さなければ、いつまでもそんなことをやっていられる状況にもなるだろうし、世の中の制度や慣習がそれらの勢力を支えている場合は、やめさせたくてもやめさせられない状況が生じてしまって、そうなるといくら批判しても全くダメージを与えられないことにもなり、批判している側は批判することによってダメージを与えていると思いたいのだろうが、結果的に批判されている側がその場の主導権を握っている限りで、批判が無効な状況となっているわけで、ある意味ではそれも想定外の事態であり、一概に世の中の制度や慣習がその場の主導権を握っている勢力を支えていると言っても、それも想定外の作用が及ぼされているからそうなっている場合があるわけで、そのような状況自体が批判している側とされている側の双方にとっても想定外の事態なのではないか。

 その場で制度や慣習が有効に機能していても、それによって支えられている勢力のやっていることが有効には機能しないこともあるわけで、その勢力がその場の主導権を握る分には、世の中の制度や慣習が助けてくれるわけだが、その勢力がやっていることまでは助けてくれないわけで、だから主導権を握ることができても、必ずしもやっていることまでがうまくいくはずもなく、だからうまくいっていないことについては批判を浴びてしまうのだろうが、だからと言ってその場の主導権を明け渡すような成り行きにはならず、その辺で微妙な食い違いが生じているはずなのだが、そんな状況を伝えている側も、そんな状況の中でひたすら批判している側も、どうやればそんな状況を変えられるのか皆目見当がつかないのだろうし、それに関して別に途方に暮れているわけではないのだろうが、また自分たちがやっていることの限界を思い知らされているはずなのだろうが、だからと言って自分たちの至らなさを認めるのは口が裂けても言えないことだろうし、だから自分たちの領分に関してはひたすらできる限りのことをやっているはずであり、それについて自分たちに非があるなどとは思ってもみないだろうし、実際に非があるのは主導権を握っている側であることは、火を見るよりも明らかなのだろうが、しかし現状がなかなか変わらないのが想定外の事態であることは認めざるを得ないだろうし、そうであるなら現状が世の中の制度や慣習からもたらされているわけではなく、何かそれらとは異なる未知の作用がその場に及ぼされていて、結果的に現状を生じさせていると考えるのが妥当なのかもしれず、それが何かといえば、単なる物事の偶然の巡り合わせでそうなっていると捉えてしまうと、それ以上は何も考えられなくなってしまうのだが、それは理由や原因として特定できるものではなく、結果的に想定外の事態となっているだけであり、そんな想定外の事態の中で、誰もが自分たちの体裁を取り繕うことに汲々としているから、何か見苦しい言動や行動が目立ってしまい、それがどうやってもうまくいかない現状の一部始終を構成しているわけで、しかも自分たちが占有している立場や地位を放棄するわけにはいかない事情も生じていて、それ自体は世の中の制度や慣習によって支えられているのだから、そうである限りにおいてはいつまでもそこに居座り続けられるわけで、居座り続けてうまくいかないことをやり続けられている現状があるわけで、それに対する批判もいくらでも受け流すことができるわけだ。


4月17日「誇張表現の信用度」

 社会の現状の中で行われていることに関して、何かそれとわかる特徴があるとすれば、それは確かな技術に裏付けられた動作を伴うものから、気晴らしや気まぐれ程度のいい加減に行われているものまで、千差万別なことが行われていることは確かだが、その中でも確実な結果が伴うような行為には、それ相応の技術が用いられていて、特定の技術を使った制度的な行為によって、それに携わる人たちが満足できるような結果がもたらされるのだろうが、その一方でなかなかうまくいかないことをやっている人たちは、試行錯誤の繰り返しの中で思わしい結果がもたらされるように、それなりに工夫をこらしながら物事を取り扱っているわけだろうが、その工夫をこらす試みがうまくいけば、そこでそれ相応の技術が確立されて、いったん確立された技術からは確かな結果がもたらされるようになり、それによって活動が一定の形態に落ち着くようになって、そうなると確かな技術に裏付けられた動作がもたらされるわけで、それに伴って一定の結果がもたらされて、そのような行為が制度的な動作とともに繰り返されることになるわけだが、同じような動作が繰り返されながらも、絶えずシステムの微調整が行われていて、それが機械のメンテナンスの類いとなると、それを専門に扱う業者が作業を行うことになり、それもその場で成り立っている制度に含まれる動作となるわけだが、そのような動作であれば別にそれを超えた結果を期待することもないだろうし、ただ当たり前のことを行なって当たり前の結果がもたらされるような成り行きの中で、同じような動作が繰り返されていることに関しては、取り立てて誰も不満や文句を言うこともないだろうし、そうなっている限りで何も問題視されることもなく、別にそれがメディア上で話題となるわけでもないだろうし、それらの作業や行為とは無関係な人たちから注目されることもないのだろうが、それが何かの不具合が原因で事故でも起こると、しかも大規模な障害でも発生すれば、たちまちメディアが取り上げて世間の話題となって、それに関して部外者が意見を言うような成り行きにもなってくるわけだ。

 それでも滞りなく動作しているシステムのほんの一部で障害が発生している程度なら、それほど深刻な問題にはならないのかもしれないが、システムの根幹を揺るがしかねない深刻な障害だとみなされると、そのようなシステムは一新されなければならないようなことを主張する人たちが出てくるわけで、それがどの程度のものなのかは、人によっても立場によっても様々な受け止められ方がされるだろうが、それに関して言えることは、少なくともその場で主導権を握っている人たちの意向が優先されることは確かで、もちろん主導権を握っているのはそのシステムの運用に携わっている人たちであり、その一方でそれについて不満や不平を言うような人たちは、主流から外れた人たちであることが多く、それらの人たちの意見はあまり尊重されない傾向になるだろうし、そういう人たちからすれば、自分たちがその場で主導権を握るには、従来のシステムが一新されて、自分たちの都合が反映されたシステムにしたいわけで、そうした意図や思惑があるからあえて大げさに騒ぎ立てるようなことをしたがり、その手の人たちからすれば、そこで生じている障害が大したことでないと困るわけだが、メディアを通じて報道されるそうした物事をどう受け止めるかは、そこでの論調にも意識が左右されるだろうし、特に部外者にはどう判断したらいいのかわからない面があるだろうが、大抵はメディアの論調を信用するしかないのかもしれないが、それが政治的な問題となれば選挙や世論調査などに一般市民の意向が反映されることになるだろうが、それ以外の場合はシステムを運営したり利用する当事者の問題でしかなく、関わりのない部外者がどう判断しようとそれほど影響が及ぶわけでもないだろうし、ただ世間的な話題に興味を持つか無関心でいるかのどちらかの反応しかもたらさないだろうが、それが世間的な話題である限りにおいては、話題を共有している人たちが確実に存在していて、それに関して何か固有の意見を持っている人たちもいるだろうし、そういう意見の大半がメディアの受け売りでしかないとしても、そこに何らかの共感作用がもたらされていることも確かなのではないか。

 人のやっていることや人の意見に共感する作用の存在は、社会が一つのまとまりに保たれていることを示しているだろうし、そういう話題に無関心な人が多いほど、社会としてのまとまりが薄れていることを示しているのかもしれず、果たしてそれが深刻な問題なのか否かは、そうした話題への関わり具合にもよるだろうし、共感力の強い人にとっては、他の誰もがメディアから提供される話題に関心を持って欲しいと思っているのかもしれないし、共感力の弱い人には自分が直接関わっている問題以外に共感を示すような人がいること自体が、メディアの報道に踊らされているとしか思えないのかもしれず、それもそうした受け止め方には人によって千差万別の差異があるのかもしれないし、それも程度の問題でしかないと思うなら、それで終わってしまうようなことかもしれないが、それについても何か普遍的な基準があって、それに照らし合わせれば程度の良し悪しがわかるような仕組みになっていればわかりやすいのだろうが、あいにくそうした基準にしても人によって偏差があるだろうし、それは世間的な話題に対する受け止め方にも偏差があるのと同じようなことだろうし、そうした受け止め方の偏差が、事の深刻さの程度も表しているのかもしれず、結局はそれを深刻に受け止める人が多いほどそれが深刻な問題となり、深刻に受け止める人が少ないほど逆に大したことはない問題となるだろうし、世間的な話題の深刻度はそうしたものでしかなく、システムの技術的な問題とは違うレベルで生じている問題なのかもしれないが、人が共感を示すのも専門的な技術に関してというよりは、それについての語られ方に左右されることの方が大きいのかもしれず、どのような些細な問題であっても、大げさに語られると深刻度が強まり、どんなに重大な問題であっても、大したことはないように語られると深刻度が弱まるだろうし、中にはどうでもいいような話題であっても、何か深刻な雰囲気を煽るようなBGMを使うと、それらしく感じられるような心理状態となることもあって、それについての語られ方の中で誇張した表現がどれほど含まれているかで、それを伝える側の意図や思惑が透けて見えることにもなるわけだが、何かの冗談でやっているのならともかく、本気でそんな誇張表現を駆使しながら語られているように感じられてしまうと、少なくともそれに気づいた人には信用されないだろうし、できれば気づいた方がいいのではないか。


4月16日「独自性や特殊性の宣伝」

 人がやっていることは、他の人がやっていることと比べると何か違いがあって、それが興味深く思われるなら、その違いが思考の対象にもなるだろうし、なぜ他人と違うことをやっているのか、その理由や原因を考察したり想像して、そこから人の様々な行為に関する法則のようなものが導き出されるなら、考察してみた甲斐もあったと言えるだろうが、実際にはそこに偶然的な要素も関わってくるから、あまりはっきりした結論には至らないのかもしれず、またたとえそこで法則のようなものを見つけたとしても、なるほどそこには当てはまるかもしれないが、別の行為には当てはまらなければ、当てはまるものと当てはまらないものがあるということ自体も、比較することから導き出された違いとなるわけで、そうした違いを強調することによって、そこで行われていることの独自性や特殊性などを導き出せれば、そうした行為によって何らかの利益を得られている人にとって、その独自性や特殊性のおかげで利益を得られているという論理が成り立ち、そうであるなら是が非にも、そうした独自性や特殊性を守らなければならないことにもなるだろうし、そういう面では他のとの違いを強調することにもそれなりのメリットがあるように思われるだろうが、その一方で他と同じようなことをやっている人には、他との違いを強調するわけにはいかないにしても、他の人も同じようなことをやっている分、安心感を得られるのではないか。また他も同じようなことをやっているわけだから、自分のやっていることがそれほど間違っているとは思えないだろうし、他の人が利益を得られているなら、自分も利益を得られるかもしれないと思われるだろうし、そうやって多くの人が同じようなことをやり始めると、そういう行為が世の中で流行ることになって、そんな流行現象の中で利益にありつける人もそれなりにいるようなら、少なくともそれが経済活動としても成り立っていることになるのではないか。

 それに関して普通はやっていることの独自性を強調しつつも、それが他と同じような強調の仕方になると、その独自性を強調する行為自体が世の中で流行っていることにもなるのかもしれず、他の人も同じようにやっていることの独自性を強調しているから、自身がやっている独自性の強調もそれほど間違ってはないと思われるだろうし、さらにそうした独自性を強調する行為から何らかの利益を得られる成り行きがあれば、利益を求めて他の大勢の人たちもやっていることの独自性を強調したがるかもしれないが、そんなことをやっていること自体が、他の人と同じような行為にしかならないわけだから、独自でも何でもないということになってしまうわけで、なぜそうなってしまうのかというと、実際に他人と違うことをやっている人は、そのやっている行為そのものに関して他とは違うことをやっているのであり、それとは違ってやっていることの独自性を強調したがるのは、別に独自でも何でもなく、他の誰もがやっていることであって、要するに他と違うことをやっていることを宣伝しているに過ぎず、宣伝することにメリットがあれば、他の人たちも同じようにやっていることを宣伝したがるだろうが、宣伝していること自体ではなく、宣伝している内容である行為が他とは違うのあり、しかもそれが他の人にとっては興味深く思われるのなら、今度は率先して興味深く思われるようなことを宣伝したがるだろうし、世の中で行われている様々な行為を比較して、それらの中で何が興味深く思われるのかを調査すれば、その調査結果が宣伝に役立つだろうし、結果的に興味深く思われる行為を分析して、その傾向に合致するような行為を積極的に宣伝すれば、それが世の中の人々の興味を惹いて、結果的に興味深く思われる行為を宣伝することが流行るのではないか。つまりその国や地域で行われている独自な行為や特殊な行為を宣伝することが流行るわけで、宣伝していること自体は独自でも特殊でもなく、広く世の中で行われている行為となるわけだ。

 その辺の違いがごっちゃになっていると、それが大きな勘違いの原因ともなるのかもしれず、独自で特殊なことをやっている人たちとそれを宣伝している人たちとでは利害が一致しない場合があって、宣伝によって宣伝対象に対する誤解や偏見が生まれるとすれば、それが弊害となる可能性が出てくるわけで、それらの行為とは無関係な人たちが宣伝を真に受けて幻想を抱いてしまうと、実際に行われていることとの間に落差も生じるだろうし、それがそれらの行為に関する誤った情報ともなるわけで、宣伝による誇張表現によって行為自体が世間に正確に伝わらなくなると、かえって幻滅さえも伴ってくるかもしれないし、やっている人たちが気を利かせて宣伝に合わせようとすれば、やっていることが変質したり歪んだりして、うまくいかなくなってしまう事態も起こるかもしれないし、そうなってしまう時点で宣伝から何らかの影響を被っているわけだが、それでも宣伝から経済的な利益を得られるなら宣伝しないわけにはいかないだろうし、またそうした宣伝によってそれらの行為の独自性や特殊性が薄められるようなら、行為の独自性や特殊性を宣伝すること自体が逆効果となるのかもしれないが、それらの行為が広く世の中に知れ渡るに従って、誤解や偏見や幻想を伴うにしても、それらの行為に対する理解も深まり、そうなるとそれらの行為と同じようなことが他の国や地域でも行われていることに気づいてしまう可能性まで出てくるわけで、結局人のやっていることにはある程度は共通の要素があって、地域的な独自性や特殊性にしても、歴史を紐解いてみれば、よその地域から伝播してきた経緯も発見されたりして、例えば人が話したり書いたりする言語にはインドヨーロッパ語族のように文法的な共通性があって、完全に独自で特殊な行為などあり得ないことが証明されてしまうのかもしれず、そうだとすると今度はそれらの行為の中で強調される独自性や特殊性自体が誤解や偏見や幻想でしかなかったことになってしまうわけで、結局は宣伝自体がやぶ蛇になってしまって、他と同じようなことをやっているなら、別にそれが興味深い対象ではなくなってしまうわけで、そうなる宣伝が逆効果となってしまったことにもなるのではないか。


4月15日「普遍的な価値」

 人が社会の中で守り従うべき普遍的な価値とは何だろうか。少なくとも人それぞれで価値観が異なれば価値に普遍性など伴わないのかもしれず、そこで何を重視するのかは各人が行なっている活動の内容にもよるだろうし、各人のやっていることが異なれば、その中で重視することも異なり、それらは全て相対的な価値しかないのかもしれないが、そうであるとしてもその中に何か共通の価値が含まれているとすれば、それは各人が行う共通の動作から求まるようなことかもしれず、それに関してまず思い浮かぶのが、経済活動から生じる金銭的な価値だろうし、それは商品の売買からもたらされる利益であるわけだが、売買以外でも徴税によって納める金銭にも価値が生じているだろうし、そういう意味で金銭的な価値には普遍性があるように思われるだろうが、物事の全てを金銭的な価値によって測ることはできないだろうし、例外があれば金銭的な価値には普遍性がないと言えるのかもしれないが、それも各人によって異なるのかもしれず、全ての物事を金銭的な尺度で捉えている人がいれば、その人にとっては金銭的な価値には普遍性があることになるだろうし、またその一方で金で買えないものがあると主張する人にとっては、金銭的な価値に普遍性があるわけではないことになるだろうし、どのような価値に普遍性を見出すかも、人それぞれで異なるとすれば、価値自体に普遍性などないと言えてしまえるのかもしれないが、そもそも社会の中で普遍的な価値を守り従う必要があるのかというと、その人の都合で普遍的に思われる価値よりは特殊な価値の方を重視する場合もあるだろうし、そうであるなら物事を取り巻く環境下での大前提として、必ずしも普遍的な価値を守り従わなくてもいいということになれば、普遍性自体には何の価値もないということになってしまうのかもしれないが、果たしてそれも人それぞれで異なるとみなしてしまうと、ではなぜ人々は共通の法律を守り制度に従い、また同じ生活習慣からもたらされる慣習に従っているのかということになるわけだが、とりあえず制度や慣習には普遍性があるわけでもないだろうし、実際に国や地域が異なれば制度や慣習も変わってくるわけだが、では制度や慣習がそうではないとすると、普遍的な価値とは具体的に何から生じるのかということにもなるわけだが、たぶんそれははっきりとは定まらないものの、やはり人が物事の普遍性に直面することはあるのかもしれず、しかも必ずしも人が守ったり従っているわけではない物事に普遍性が宿っている場合があり、それは制度や慣習の限界に直面する時に現れて、何らかの事情でそれを守れなくなったり、それに従えなくなったりした時に、そうした制度や慣習に逆らってまでやらなければならない行為がもたらされるわけだ。

 例えば法律を守れなくなった時に行うのは犯罪行為だろうし、個々の犯罪にはそれを行うに至る特殊な事情が絡んでいるのだろうが、法律を破るという行為自体には普遍性があるのかもしれず、法律が制定されていること自体が違法行為が行われる可能性を生じさせ、法律には違反がつきものだという実態は、犯罪に普遍的な価値をもたらしているのではないか。もちろんそれは普通の感覚からすると否定的な価値であるわけだが、価値であることには変わりなく、いつの時代でも犯罪者には普遍的な魅力が備わっているのではないか。また経済的な商慣習である売買には詐欺行為がつきものだろうし、やはりそれも犯罪が普遍性を示している例となるわけだが、そうした否定的な普遍性ばかりでなく、肯定的な普遍性があるのかというと、例えば暴力には否定的な普遍性があるだろうが、それに対抗するやり方として非暴力という活動もあるだろうし、それが非暴力運動として大衆レベルで広範な支持を得られれば肯定的な普遍性を実現していると言えるだろうし、そこでは暴力に対する非暴力が普遍的な価値を担っていることになるのではないか。また貧しい人々に対する慈善活動なども、慈善団体が無料で施しを与えるような活動をしていれば、そこでは売買という有料の行為に対して無料の奉仕活動が肯定的な普遍性を示すだろうし、実際に奉仕活動を行なっている人々には、そうした活動には普遍的な価値があると思われるのではないか。結局そうした行為や活動は、普段行われている行為に逆らうような性質があるわけで、そうした活動を行うことによって、普段行われている行為に限界があることが明らかとなるわけで、そういう意味では普段行われている行為を補完するような活動だとも言えるのかもしれず、それだけではうまくいかないからそれを補うような活動が行われるわけで、そのような活動も含めなければ普遍的な価値が生じないのだとすると、人が社会の中で守り従うべき普遍的な価値とは、常に両義的な性質のものなのかもしれないし、普遍的な価値とはそれだけで間に合うような単純なものではなく、必ずそれとともにそれに逆らうような行為を誘発する性質があり、そうした価値に逆らうような価値も含んだ形態を構成していて、両者が互いに作用を及ぼし合っている限りで価値を担うのかもしれず、少なくともそれだけ守り従っていればいいようなものではなく、絶えずその場の状況に合わせてそれを行うとともに、場合によってはそれに逆らうようなことも行わなければならず、それを行うこととそれに逆らうことを同時に行うような成り行きにもなるかもしれないし、それではやっていることの整合性がとれなくなってしまうかもしれないが、実際に両方ともに必要な場合があるわけだから、片方だけ推進するようなことはやるべきではないのかもしれない。


4月14日「リスクを負う覚悟」

 人も集団も社会の中で何らかの形態を伴って存在していれば、そこでその形態に応じた何らかの活動が行われるわけだが、それが政治活動であろうと経済活動であろうと、法律に基づいた制度や生活習慣から生じる慣習との絡みで、何らかの妥当性が感じられる限りで成り立っている活動となるだろうが、それが妥当だとは思われなければ批判されるだろうし、またそれをやっている側としては妥当なことをやっているつもりでも、その行為が批判されている実態があれば、批判している人や集団には妥当だとは思われないから、その妥当でない点を批判するわけだが、たとえ批判されても活動をやめるような事態とはならなければ、それへの批判を跳ね返しながらも活動が継続できていることになるだろうし、そうやって活動が継続されている限りで、その活動を行なっている人や集団には何らかの利益が発生していることになるだろうし、活動するための糧を得ながら活動が継続されているわけだが、それでも批判されるような成り行きが続いている限りで、活動に伴って何らかの弊害も生じていることになるだろうし、そうなると活動を続けている人や集団に利益がもたらされるのと、そこから弊害が生じているのとは、表裏一体の関係を形成していることになるのかもしれないが、活動している人や集団にとっては弊害よりは利益の方が大きいから、活動をやめるわけにはいかないのだろうし、そこで活動を続けられるだけの糧が得られているから、実際に活動が続いているわけで、少なくとも活動することによって生じる弊害が問題視されて、それが原因で活動をやめるような成り行きにはなっていないわけだ。だから活動を批判してやめさせようとする人たちは、活動から生じている弊害を強調して、彼らの活動がひどい弊害をもたらしていて、それを放っておけば取り返しのつかない事態となるから、一刻も早く活動をやめさせなければならないと主張するのかもしれないが、それが政治活動ならそうした世間への訴えかけが功を奏して、その場で主導権を握っている勢力が民衆の支持を失って失脚するような成り行きになればいいだろうが、その一方でそう簡単に事が運ぶとは思えないような事情があるとすれば、それを生じさせているのはやはり制度や慣習であるだろうし、それらからもたらされる先入観や固定観念が人々の意識にこびりついていて、容易には今ある政治体制を変えようとはしたがらない世論が形成されていれば、それなりに批判されながらも、またそこから生じている弊害を指摘されながらも、現状の体制が続いていってしまう成り行きとなるのではないか。

 結局活動というのは、それが成り立っていて、現に続いている実態がある限りで、それを続けさせるような作用が及ぼされているのであり、そのような結果から見れば、何か活動を続けさせる原動力となっているものが特定できるかもしれないが、だからといって現状の中ではそれを取り除くことはできないわけで、それとともに現状が構成されている実態がある限りで、すでにその存在が織り込み済みの要素となっていて、そんな現状があることを認めた上でないと、その先へと活動を継続できないように思われる一方で、それなしの現状などありえないわけで、そんな現状の中に存在している人や集団自体が、現状で活動を続けさせる原動力の一部となっているのではないか。それは現状に対して批判的な人や集団にも言えることであり、そうであるなら現状を変えるには、それに関して批判的な人や集団も変わらなければならないのかもしれず、たとえ現状を批判しているからといって、自分たちは変わらずに批判している対象だけを変えようとしても、それは無理な話なのかもしれないし、まずは自分たちがこれまでやってきたことを変えないと、現状を擁護する勢力と批判する勢力とが形成する予定調和の二項対立は変わらないわけで、これまでと同じようなことをやっていたのでは、これまでと同じような成り行きにしかならないわけで、その辺のところを理解していないと、これからも延々と同じようなことをやりながらも、そのやっていることに応じた状況が続いていくことになってしまうのではないか。それが批判してもなかなか変わらない現状の特性なのだろうし、誰もがそこで同じようなことを繰り返しているから、同じような状況が続いていくのであり、もちろんそれを支えているのが、同じような動作をもたらすように作用している制度や慣習なのであって、人も集団も制度や慣習の助けを借りながら日々同じような動作を繰り返しているから、そんな現状が維持されていて、それが維持継続されている限りで活動が成り立っているわけだ。だから現状を変えようとするには、まずは自分たちの活動の内容を変えなければならないわけだが、それが容易には変えられないから、現状が現状のままにとどまっているわけで、そこで何らかの均衡状態が実現されていて、その均衡を崩すにはそれ相応の力が必要だろうし、しかもそれをやる勇気も必要となり、現状の中で同じような動作を保っているとすれば、たとえ現状に不満があるとしても、そこから何らかの糧を得ているから、人も集団も現状の中で存在していられるわけで、そこで生じている均衡を崩すとなると、場合によっては今まで得られていた糧が得られなくなる可能性もあるわけだから、それなりのリスクを負わなければならず、リスクを負う覚悟がないと現状を変えることはできないわけだ。そういう意味で現状を批判している勢力にその覚悟が求められていることは言うまでもなく、そうであるならそれらの勢力にとっては割に合わないことをやることになってしまうのかもしれず、だからと言って自分たちが変わらなければいつまでたっても現状も変わらないわけだ。


4月13日「目的外の実行」

 世の中で様々な出来事や現象が絡み合うと、その場に誰もが未だかつて経験したことのない特有な成り行きをもたらすのかもしれないが、人が巻き込まれているその場の成り行きからは、様々な方面から及ぼされる力の偶然の巡り合わせから、さらに思いがけない出来事を起こしてしまうこともあるだろうが、それがそれまでは当然のことと思われるような必然的な事の成り行きに変更をもたらすには、実際に世の中で必然的な事の成り行きをもたらしている社会の制度や慣習に打ち勝つ必要があるだろうし、そこで制度や慣習が継続される限りにおいては、思いがけない偶然の出来事などほんの一瞬だけ人々に驚きをもたらすに過ぎず、大抵はそれが起こった後には何事もなかったかのように、また制度や慣習からもたらされる同じような動作に人々が巻き込まれていくのだろうが、しかしたとえそれが一瞬の出来事であっても、その鮮烈な印象が忘れ難く感じられるとすれば、人々の意識の中にじわりと染み込んでいくようなインパクトを与えていて、それが後から徐々に効いてくるようなことにでもなれば、制度や慣習を守っている側でも、それに対して何か策を講じなければならなくなってくるのかもしれないし、そのような動きを誘発しただけでも、それによって世の中が多少は変わったような印象を抱かせるのだろうが、思いがけない出来事がその程度で済んでいる限りは、まだまだ制度や慣習に裏付けられた力は健在だろうし、それ以上は何が起こることもなければ、社会変革などという妄想からは程遠い状況がもたらされていることになり、結局人が意識してやるような行為では大した成果は期待できないだろうし、またそうであるなら無理に変わったことなどをやろうとせずに、通常通りの制度や慣習に則った同じような動作で構わないわけで、意識してそこから外れる必要も生じないのではないか。そしてそのような動作を超えて何かやるとなると、意識の外から及ぼされる影響の方が大きいのかもしれず、実際に偶然の巡り合わせから生じるちょっとしたきっかけが、人に制度や慣習から引き剥がすような動作をもたらすわけで、そんな行為に及んでしまう人を見ると思わず驚いてしまうわけだ。

 しかもそのような行為は取り立てて変わったことをやろうとしたからそうなったわけではなく、むしろ同じようなことを繰り返して行ってきた経緯があり、世の中の制度や慣習に従いながら、同じようなことを延々と繰り返してきたのに、そんなことをやってきた結果としてもたらされた状況が、そんなことを行わせてきた制度や慣習から著しく逸脱しているとしたら、なぜそんな結果になってしまったのか謎に思われてしまうだろうが、要するに身の回りの環境が制度や慣習がもたらす同じような動作の繰り返しに耐えられなくなってくるわけで、それが文明がもたらす環境破壊になるわけだろうが、それは通常の意味での自然破壊だけではなく、人の心を壊すような作用も伴っているのかもしれず、ひどい行いを何とも思わずに実行させるのが制度や慣習の特性だとしたら、それが制度や慣習の否定的な面になるのかもしれないが、例えば地方の田園地帯で特に深刻に悩んでいるふうもない物静かな若者が、家族全員を殺してしまうような事件を起こせば、周囲の誰もが驚くだろうし、しかも動機がはっきりしないで途方に暮れてしまうのかもしれず、それでも裁判ではありふれた動機をあてがうのだろうが、フィクションならそこに恨み辛みの感情や、友人同士の些細な諍いやいじめなどが災いして、それらが積み重なって恐ろしい殺人事件の引き金を引いてしまったかのように語られるかもしれず、そうであるならわかりやすいし、そんなありふれた地方の若者像に誰もが納得してしまうかもしれないが、そうやってどんなに些細なことでも理由として導き出すのが、世の中の制度でもあり慣習なのかもしれないが、本当にそんな些細な理由で納得できるのかというと、そんなことは誰もが経験しているだけに、しかも誰もがそこから殺人事件を起こすような成り行きにはならなかっただけに、そんな大それたことを行なった若者に落ち度があるということにして納得できるわけで、何とかそうやって凶悪な事件が社会に及ぼす悪影響を最小限に食い止めようとするのかもしれないが、しかしそれがどんな影響を及ぼすのかと言われても、本当のところは皆目見当もつかないわけで、普通は理由なき殺人事件として興味深い印象を人々の意識にもたらすのだろうが、だからと言って世の中の制度が慣習が原因であるわけでもなく、それらが直接犯人の心を壊したわけでもないだろうが、むしろ周囲の人間の心が壊れている可能性があるわけで、繊細な神経の持ち主だとそういう空気を敏感に察知してしまうのかもしれず、その自覚もないのに空気の重圧に耐えられなくなってきた結果として、家族の殺害に及んでしまったのかもしれないし、それが動機であるとは普通は認められないだろうが、知らないうちに不快感が募ってきてきて、当人にもその自覚がなければ、案外そうなってしまう可能性もあるのではないか。


4月12日「目的の遂行」

 目的は人を単純な動作へと導くが、目的だけがその人の動作の全てではなく、他の動作も行なっている限りで、目的から外れる可能性があるわけで、目的がなくても生きていけるし、そうであるなら目的がその人にとっての最優先事項とはならない場合もあるだろうし、また目的を遂行している途中で思わぬ紆余曲折に巻き込まれて、当初の目的を見失ってしまう場合もあるだろうし、実際にそうなってしまうと、場合によっては目的を軽視することもできるかもしれないが、それでも一応は目的を設定しないと、改まっては何をやる気にもなれないだろうし、とりあえず何かをやるための方便として目的を設定して、それに向かって努力するような成り行きの中で、何かをやっている状況が構成されることが多いのではないか。また困難に思われるようなことをやるには、それをやることを目的としないと、わざわざやる気にはならないだろうし、躊躇ったり怖気づいている自らを奮い立たせる意味で、それをやることを目的に設定して、意識してそれをやるように仕向けているわけで、そういう意味で目的というのは、それを達成することが困難だからこそ、あえて目的を設けてそれを自らにやらせようとするわけで、それ自体はただ目的を遂行するという単純な動作を目指すわけだが、それをやるに至る思惑としては、そこに至るまでに躊躇いや戸惑いや逡巡を伴っているわけで、結果的には単純な動作を目指すにしても、途中で迷いを振り切るための精神力を必要とする限りで、様々な邪念や否定的な感情の発露を乗り越えなければならず、また他にも外部からの作用も入り込んできてうまくいかなくなる場合もあるだろうし、そういう意味では単純な動作とはならずに、気の迷いに悩まされるような紆余曲折を伴いながらも、初志を貫徹するには常に様々な困難に直面することになるわけだ。

 ではなぜそうした目的が設定されるのかといえば、意識が現状のままでいることをよしとしないわけで、そこで現状から離脱するために目的を見出そうとするとわけだが、逆に現状の維持が目的とはならない理由は、すでにそこに現状があるわけで、その現状が変化しようとしていれば、現状を維持するために変化を抑えるという目的が生まれるかもしれないが、そのままの現状を保つ上で何も必要でなければ、当然目的も必要ではなくなるわけで、だからそこに目的が生じているとすれば、絶えず現状に何かを付け加えようとする動作になるわけで、その何かを付け加えることが目的となるわけだ。そしてその何かを付け加えることに対しては、必ずそれを阻む要因があるわけで、現状でうまくいっていることから恩恵を受けている人たちもいるだろうし、そこに余分な何かが付け加えられてしまうと、それによって現状を支えている均衡状態が崩れてしまって、うまくいくものもいかなくなってしまう可能性が出てくるわけで、だからそれを阻止しようとする作用が働くのは当然で、そうなるとただでさえ困難な目的の遂行が、より一層の困難に直面することになるのではないか。ではなぜあえて困難な目的をやり遂げようとするのかといえば、やはり現状に不満があるからだろうし、そうした不満が生じている要因としては、現状の中で利害関係が生じていて、そこから利益を得ている人たちがいる一方で、利益を得られないか逆に損害を被っている人たちもいて、そうした現状の中で不利益を被っている人たちに目的が生じるわけで、その目的とは現状を自分たちが利益を得られるような状態に作り変えることであり、そのような目的が現状の中で遂行されると、今度は現状の中で利益を得られている人たちが利益を得られなくなることを恐れて、そのような目的の遂行を阻止しようとするわけだ。

 そうなるとそこで必然的に争いが起こるのだろうが、その争いにも様々な状態があるだろうし、全面的な武力衝突からルールに則ったゲーム的な性格のものまで、その場の状況の程度に応じて争いの形態も変わってくるのだろうが、中には争わない方が双方にとってメリットが大きければ、交渉や取引によって妥協が図られる場合もあるわけで、争っている間にも交渉や取引が断続的に行われている場合もあるだろうし、そういう場合は部分的に争いながらも、部分的には交渉や取引によって妥協が図られて、その硬軟両面で事が進行している中でも、絶えず相手の隙を伺って、有利となる見込みがあれば争いを拡大させるし、また不利になれば争いを中断して、交渉や取引を持ちかけるような成り行きともなるだろうし、それは争っている双方で絶えず腹の探り合いをやっている状況だとも言えるのではないか。しかしそうなっているとしても、争っている途中から双方ともに当初の目的が見失われて、目的よりは現状の中でいかに自分の陣営に有利な状況を築くかに、やっていることの重点が移ってくるだろうし、しかもそんなことをやっているうちに、双方ともに疲弊してくると、それらの勢力の隙を突いて、漁夫の利を狙って第三の勢力が台頭してくるような事態を招いて、その結果状況が当初の勢力関係から様変わりすれば、結局は目的の遂行が思わぬ結果をもたらしたことにもなるわけで、それ以前の状況の中では誰がそれを狙っていたわけではないとしても、状況の推移がそれに応じた成り行きをもたらして、目的とは違う動作を誘発して、誰もが思ってもみなかった状況をもたらすわけで、誰もそうなることを目指していなくても、そうなってしまう可能性があるわけだから、やる前から困難に思われるようなことも、実際にやってみれば、とりあえず何らかの結果がもたらされることは確かかもしれず、それが当初に抱いていた期待とはだいぶ違う結果であっても、少なくともやる前とは違う状況をもたらすことができれば、それが何らかの成果だとみなしても構わないだろうし、やってみた甲斐があったと思っておいた方が良さそうだ。


4月11日「虚構の力」

 現状を変えようと思うのは、現状の何を変えようと思っているかで、それが実現できるか否かも含めて、実践への可能性が違ってくるだろうが、思っているだけで変えようとしない場合もあるだろうし、また変えるべきだと主張しているだけの場合もあり、思うのと主張するのと実践するのとでも違うことなのだが、変えられない現状を変えたいと思うのはよくあることかもしれず、そんな場合はたぶん不可能に直面して思い悩んでいるわけだろうが、実践の面では全く見込みがない可能性が高いのかもしれず、そうなると現状を変えようと思うのは、妄想の域を出ない話となってしまいそうだが、それについて語ったり主張する分には、もっとも気楽な内容となるだろうし、本気で変えようとしていない人たちがよくそんなことを語るわけだが、もちろん語っている当人は本気で主張しているわけだが、実践が伴っていないから他から相手にされない場合も多いのかもしれないし、しかも相手にされないという状況が、さらに実現不可能な誇大妄想を抱かせるわけで、そうなると語っている内容の全てがフィクションとなってしまい、それでも話が面白ければ興味深いだろうが、話の面白さを求めてしまうと、それではただの消費対象でしかなくなり、フィクションとして大衆娯楽を楽しむような成り行きとなってしまうのではないか。

 それでも大衆娯楽として面白ければ世の中の話題となるわけで、そうしたフィクションを楽しむだけならそれに越したことはないわけだが、そこから何か教訓話のような肯定的な意味合いを抽出しようとすると、内容がフィクションでしかないだけに、実践からかけ離れた人畜無害な単なるためになる話として、世の中の安定や現状維持に貢献するような機能を果たしてしまうのかもしれず、いくら話題となっても現実に何がどうなるわけでもないことになってしまい、現状を変えたくても変えられない人たちの慰みものとして消費の対象となってしまうわけだ。またフィクションによって何か世の中の不条理に関して問題提起するような行為となるにしても、それが直接現実の世界に何をもたらすわけでもないだろうし、そんな作品に触れて心を揺り動かされるかもしれないが、たぶんそこから先にどんな実践活動が行われるわけでもないのではないか。もちろんそうではないと思いたい人も多いだろうし、実際にそんなフィクションから影響を受けて、何らかの活動を行なっている人もいるのかもしれないが、またその活動もフィクションの製作になってしまうとしたら、結果的にフィクションの領域から現実の領域へと力が及ばなかったことになるわけで、それもフィクションの製作を継続させる上では重要な影響力かもしれないが、それ以上のものではないだろうし、別にそれ以上を求めているのでもないことになってしまうのではないか。

 だが世の中には様々な活動があって、その中にはフィクションを製作する活動もあるのだから、別にそれで構わないのだろうが、現状を変えようとする動機からはだいぶずれていることは否めず、少なくとも何かそれとは違った活動に結びついているように思われるのだが、それとは別の面ではそういう成り行きが自然なのかもしれないし、そうであるなら否定すべきことでもないだろうし、フィクションの製作には絶えずそういう人たちが集まってくるような特性があるのかもしれないし、中には世の中を変えるためにフィクションを作っているという正当化が成り立つ場合もあるのかもしれず、それは直接世の中を変える行為には結びつかないかもしれないが、何か回りくどいやり方で結果的に世の中が変わるような効果があると信じられていれば、そういう面は肯定すべきことであり、そうでなければフィクションを作っている意味がないとも言えるようなら、そういうフィクションを作っている人たちには反骨精神が宿っているとも言えるだろうし、たぶんそういう人たちが政治的な反体制派の応援団となるような成り行きも生じているのかもしれず、そういうことに関してはその手のフィクションも、世の中を変える上で何らかの役割を果たしている面もあるのではないか。だからと言って世の中を変えるためにフィクションを作っている人ばかりではないし、他にも様々な理由からフィクションが作られていて、また中には理由も定かでないようなフィクションも作られている現状もあるだろうし、そういうことも含めて世の中で行われている活動にも多様性があるのと同じように、フィクションにもそれなりの多様性があるわけだ。

 そして人がフィクションから何らかの作用や影響を受けるとしても、それを肯定したり否定したりするというよりは、ただフィクションと共に時間を過ごすためだけにフィクションが利用されていて、それ以外ではない場合があるわけで、それ以外の現実生活とは無関係にフィクションを楽しんでいると思っているのなら、そういう人はフィクションからの作用や影響に気づいていないのかもしれないし、また現実の世の中がフィクションに与えている作用や影響にも気づいていないことにもなるのだろうが、そういう作用や影響をはなから拒絶する人も中にはいるだろうし、フィクションは単なる作り話であって、現実の世界で起こっていることとは無関係だとみなして、相互の関連性を全く認めようとしない態度を取ろうとする人もいるだろうし、また自分の主義主張にかなう部分だけをフィクションに投影して、それがあるフィクションは肯定するが、それに反したフィクションは否定するような態度を取ろうとする人も中にはいるだろうし、そうやって自分からフィクションに歩み寄ろうとはせずに、絶えず狭い価値観に凝り固まって、その価値観に照らし合わせてフィクションを評価することしかできない人もいるわけで、そういう人たちはフィクションが映し出している様々な面を見逃しているだろうが、では果たしてそういう偏狭な人たちをフィクションが変えることができるかいうと、実際に変えられたらそのフィクションは世の中を変える力を持っていると言えるだろうし、人を変えるような力がフィクションに宿っていれば、そのフィクションを作った人たちは現状のある面を変えることに成功したと言えるのではないか。


4月10日「勘違いの原因」

 現状で何が正しくて何が間違っているかを決めるのは、人が行なっていることの妥当性に関して、それに対して違和感を覚えるようなことをやっていると、何か間違っているように思われるだろうし、論理的に間違っていると証明できるならはっきりするのかもしれないが、また人の道を踏み外すようなことをやっているとみなせるような場合にも、そう思う人にとってそれは間違ったことになるだろうし、結局人のやっていることに対して他の人が判断することになるかもしれないが、自分で自分のやっていることを判断する場合もあるだろうし、その辺はその場その時の状況次第といってしまえばその通りでしかないのかもしれないが、やっていることを正しいと判断したり間違っていると判断しても、それが正しい判断だと確信が持てない場合もありそうで、別に確信を持てなくてもそう判断すれば、その判断から正しいことをやっていると思えばそのままでいようとするだろうし、間違っていると思えばやっていることを改めようとするだろうし、判断とはその程度のことでしかないわけだが、それはやっていることの程度にもよるだろうし、自分にとっても周囲にとっても何か重要なことをやっていると思われる場合には、その判断がその後の成り行きに深刻な影響を及ぼす場合もあるだろうが、その重要と思われる行為が本当に重要なのかどうかは、それも自分や周囲が判断することでしかないだろうし、深刻な状況だと判断したところで、結果的にそれが間違った判断だとわかれば、そんなのは杞憂でしかなったということになってしまい、単なる取り越し苦労で済んでしまえば、どうでも良かったことになって一安心してしまうのだろうが、現実の成り行きがそんな判断とは無関係に進行してしまうこともあるわけで、人がその場で何を思っても何を考えても、それに関してどう判断しても、それとは無関係に物事が動いて、その人を置き去りにしてしまうような成り行きになってしまえば、そうなった時にはその人はその場で起こっている状況から外れていることになるだろうし、結果的に自身とは無関係なことについて勝手に思考していたことになってしまうと、それが勘違いでしかなかったことになるのかもしれないが、世の中で起こっている様々な状況や情勢について思考することは、それとどう違うのだろうか。

 自身もその世の中の一部を構成しているのだから、全くの無関係だとは思えないにしても、直接の関わりがなければ、それほど深い関係があるとは思えないだろうし、興味がなければ別に無視していても構わないと思ってしまうのかもしれず、それ以前に気づかない関係というのもあるのかもしれないし、そもそも自身に関係する全ての物事について思考することはできないだろうし、たとえ自身に深刻な影響を及ぼしているような物事であっても、それに気づかなければどうしようもなく、実際にそんな気づかない物事に囲まれながら、深刻な影響を及ぼされながら暮らしているのかもしれないが、そうであるならかえって気づかない方が、余計な不安を掻き立てられないで好都合なのかもしれないし、気づいたところでどうしようもなければ、その方がいいこともあるだろうし、そんな状況の中で暮らしているうちに、たとえその深刻な影響によって悲惨な目に遭っても、それに気づけなかったのだからどうしようもないわけで、そうやって悲惨な境遇に陥ってしまう人など世の中にいくらでもいるだろうし、そういう人は運が悪かったとしか言いようがないわけで、大抵はそれで済んでしまうようなことなのではないか。だからそれで済まされないためにも、できるだけ感性を研ぎ澄まして、自身に降りかかってくる災難に早めに気づいて対処できるように心がけたいものだが、それはなろうとしてなれるものでもないのかもしれず、そうなるための方法を指南するような人も世の中にはいくらでもいるのかもしれないが、またそういう人たちの言いつけを守っていればうまくいくときもあるだろうが、そうやってうまく危機的な状況を切り抜けて、それで喜んでいればいいのかもしれないが、それも一つの成り行きであることには違いなく、それとは違う成り行きもあったかもしれないが、たまたまその時はそうなっただけで、それ以上に特に何があるわけでもないのかもしれない。

 そうであるなら後からどう思ってみても仕方のないことかもしれないが、それでも済んだことは振り返って反省するなりして、今後の活動に生かそうとすればいいことでしかないが、本気でそう思うような出来事に遭遇するのは稀なことかもしれないし、現状で何事もなく平穏無事に過ごせていれば、気づかずにやり過ごしてしまうことも多いだろうし、普段がそうであれば危機的な状況になるのを未然に感知できるはずもなく、そうだと思えば何もことさらに感性を研ぎ澄ます必要も感じないし、自身がその程度で構わないと思えば諦めてしまうだろうし、それが別に悪いことでもないのかもしれないが、またそれも自身の判断でしかなく、人はそうやって周りから及ぼされる様々な影響と折り合いをつけながら生きているわけで、結果的に折り合いがついているか否かは、その人の気持ちの持ちようだとも言えるだろうし、気持ちの持ちよう程度のことであるならば、大して深刻なことでもないのかもしれないが、たぶん折り合いをつけられずにやり過ぎてしまうと、心身のどこかに支障をきたすようにもなるのだろうし、そんな結果がもたらされるようだと、周囲からの影響も深刻なレベルであったことがわかるのかもしれないが、そうなった時点でまだ持ちこたえているような状況なら、そこから何らかの対処をして状況の改善を図ろうとすればいいことであり、そうなった時の対処法を指南するような人も世の中にはいくらでもいるのかもしれないが、やはりまたそういう人たちの言いつけを守っていればうまくいくときもあるだろうし、そうやってうまく危機的な状況を切り抜けて一安心したいと思うのかもしれないが、そんなことをやっているだけでうまくいくならそれに越したことはなく、その程度のことならそれほど深刻な事態でもないのかもしれないが、世の中には他人の諫言を受け入れてもうまくいかないこともあるだろうし、また他人に諫言したい人もごまんといるだろうし、そのごまんといる人の諫言がそれほど効くとは思えない場合もあるだろうし、たぶんこうして言葉にしてしまうと、その状況をいかようにも解釈できるし、程度の設定も恣意的にできるわけだから、こんなふうに述べている時点でフィクションにしかならないわけだが、実際に現実の世界で起こっている出来事というのも、それを意識して思考している限りでフィクションの要素が含まれてしまうのかもしれず、それによって絶えず勘違いを引き起こす可能性があるわけだ。


4月9日「システムの差異と閉塞状況」

 行政などの公的な機関が管理運営している徴税システムと民間企業などが管理運営している売買システムは、労働などのサービスを提供して手数料を取るという形態で交わる部分があるのかもしれず、サービスは労働以外でもレンタルで機械や道具などを提供するものもあるだろうし、その機械や道具などを修理するサービスもあるだろうし、サービスの利用者がやってほしいことを行なったり提供することで料金を請求するわけだが、果たして行政サービスの見返りに人々は税金を払っていることになるだろうか。一般のサービス料や手数料などのようにサービスを行うことに対して料金が設定されているわけではなく、税金として所得や売り上げや所有している資産などに応じて税額が決められていて、そうやって集められた税収と国債などの公債によって賄われる予算を使って行政サービスが行われるわけだから、サービス内容と料金などの価格が対応していないわけで、それは所得も売り上げも資産もない人にも平等にサービスを提供する趣旨でそうなっている面があるのだろうが、ある程度はサービスを行うことによって発生する経費に応じて予算が決められていることは確かだとしても、行う必要があるという判断に関して疑問を感じるようなものにまで予算が計上されてしまう可能性があって、その点は民間の料金システムでは実際に使われた分しか料金が発生しない場合が多いわけだから合理的にできているわけで、使われる可能性が定かでないものにまで予算が計上されてしまうと、その点が不合理に感じられるわけで、そういう部分で無駄な予算の削減がなかなか進まないことにもなって、それが制度の不具合として指摘されるような成り行きがあるわけだが、それとともに別に行なってほしいとは思わないことにまで予算が使われる場合もあるわけで、そういう面に関しては行なってほしいと思う人と行なってほしくないと思う人がいれば、行なってほしいと思う人が少しでもいれば行う必要が生じてくるだろうが、それとは別に行政の都合で行うことになってしまう場合は、それに関して反対している人が大勢いれば、場合によっては反対運動などが起こって世間の話題にもなるだろうし、そういうことに関しても制度の不具合として指摘されるような成り行きが生じてしまうわけで、そんなふうにして行政の行なっていることに対して目くじらを立てようとすればきりがないような状況にもなるわけで、そのほとんどが徴税システムと行政サービスから発生する不合理な食い違いに起因しているわけだろうが、その背景として民間の売買システムや料金システムに関しては、合理的な仕組みであるように感じられるのに対して、それと比べて行政の徴税システムや予算の使われ方に関しては不合理に思われてくるのだろうし、その両者の間で生じている落差や差異を認められない人たちは当然のことながら批判的な意見になるわけだが、それがシステムの違いに起因していることに関しては改めようがないわけだから、その点に関しては不問にするしかないだろうし、そうなるといくら批判しても状況が改まらないから焦りも出てくるだろうし、また延々と同じような批判を行う成り行きにもなってくるわけで、そういう批判自体が予算の無駄遣いならぬ批判の無駄遣いのような様相も呈してくるわけだ。

 結局は行政の徴税システムや予算の使われ方を民間と同じようにはできない事情が生じているのだから、民間の基準で判断するようなことでもないのだろうが、その代わりに民間にはない特有の事情が徴税や予算の使われ方に関して生じてくるのだろうし、批判している人たちはその特有の事情をどうにかして合理的に感じられるようにしたいのだろうが、それがなかなかうまく整合性を取るような成り行きになっていかないから、結果的に不合理に感じられるままとなってしまい、いつまでも同じ不合理に関して同じような批判を繰り返すしかなくなってしまうだろうが、徴税にしても予算の用途においても、そこに関わってくる世の中の勢力との関係の中で、現状のあり方でもうまくいっている面があるから、それがなかなか改まらない事情を生じさせていることは確かだろうし、批判している人たちにとっては不合理に思われるようなことによって実際に恩恵を受けている勢力があるから、そのことに関しては不合理に思われるシステムが有効に機能している面があるわけだ。そしてその有効に機能している面を改めるわけにはいかないから、行政としてもそれに関係する勢力にしても不合理に思われるようなシステムを維持しなければならない事情が生じているわけで、それを批判している人たちにとって合理的に思われるような徴税のやり方と予算の使い道にしてしまえば、現状のシステムから恩恵を受けているそれらの勢力が困ってしまうから、そうはさせない思惑と事情が生じていて、そういうところで何が合理的で何が不合理なのかについて、あるいは不合理に思われてもそれを改めるわけにはいかない事情に関して、それを批判している側と現状の維持を継続させている側とで意見や見解の相違があることは確かなのだろうが、実際に権限を握っているのはそのようなシステムを管理運営する行政機構であるわけで、現状が改まらないとすれば批判している側に現状を変える権限も権力も備わっていないことになり、ただその代わりに批判することはできるわけで、だからそれらの人たちには批判することしかできなくなっていて、実際に批判し続けている状況が続いているわけだ。そうだとすると現状を改める以前の問題として、まずは現状を改める権限を持たなければならないわけで、批判する側にはそれができない事情も生じていて、その事情を何とかしないと次の現状を改める段階には進めないわけだ。たぶんそうした現状にもそのような状況をもたらすような世の中の仕組みが介在していて、結果として現状を批判する人たちには現状を改めることができない事態を生じさせているのではないか。そうした現状を批判することはできるが現状を改めることはできないという事態に関して、何をどうすればそうした閉塞状況を打破できるかということに関して、たぶん今のところは打開策も妙案も何もないと思っておいた方がいいのかもしれないし、それがあると思っている人たちにも実行する力がないから、力がなければそれは打開策でも妙案でもなくなってしまうわけで、結局はそうした単なる思いつきの段階ではいくらでも意見を述べられる環境が用意されていて、そのような環境の中でいくらでも意見を述べていられるわけだが、そこから先がないから現状が閉塞状況だと言えるのだろうし、そうした批判勢力はその中に押し込められて何もできない状態に留め置かれているだけなのではないか。


4月8日「管理運営する側の権限」

 国という存在に関して何が国を統治しているかといえば、普通に考えれば政府が国を統治しているわけだが、その中でも行政と司法と立法の三権に分かれていて、これも通常では三権が分立していることが望ましく、それぞれが持っている権力の乱用を防ぐために、三権が相互に力を及ぼし合って権限が一極集中しないような仕組みになっているわけだが、その中で立法機関としての議会の中で主導権を握っているのは、議員の集団として勢力を形成している政党であるだろうし、また議会の多数派を構成する政党が政権政党となって、そこから行政の長である大統領や首相を出すことが多いわけだが、国の名目上の主権者である国民の中から選挙によって議会の議員が選ばれて、議院内閣制であれば議会で多数派を構成する政党が内閣を作って、そこから首相をはじめとする行政機構の各省庁の大臣などを議員が務めることになり、また大統領制であれば直接国民が選挙で大統領を選んで、大統領が閣僚を指名して政府を構成するわけだが、そうなると大統領制であっても議院内閣制であっても、立法機関である議会と行政機関である政府の両方で、政党が主導権を握ることになるわけで、三権の中の二つを政党が手中に収めることとなり、また残った司法も行政との結びつきが強く、国によってはなかなか独立した機関として機能しない場合もあるわけで、そうなってしまうと三権分立が保てなくなってくるわけだが、三権分立状態が原則としては望ましいにしても、国民の意向を反映した政党に権限が集中しているのであれば、それが民主的な政治体制を保っていれば取り立てて問題はないかもしれないが、行政には集団的な組織形態である官僚機構が構成されていて、また政党も同じように集団的な組織形態となっていて、それらが集団としての利益を追求し始めると、国民の意向とは異なる意向が形成されてくるわけで、また国民の意向というのも、何か特定のまとまりのあるはっきりした中身を持っているわけでもない場合があるだろうし、それについてはマスメディアなどが実施する世論調査によって、政府や政党などの支持率やその政策に関して賛成している割合や反対している割合が示されることもあるわけだが、果たしてそれが国民の意向だと言えるのか、あるいはそれを反映した統計的な数値なのかについては、そうだとみなすこともできないわけではないだろうし、概ねそれで構わないのかもしれないが、それの何が問題かというと、集団的な組織形態を伴った政党や行政の官僚機構やマスメディアなどが、それぞれに集団としての利益を追求する上で、互いに連携することにメリットが見出されてしまうわけで、またそれが連携よりはさらに繋がりが深まった形態として癒着することがあるわけで、そしてそれらに加えて政党などを介して行政と関係を深めようとする民間の企業なども連携を深めてくると、公共の資産を持っている国をそれらの集団的な組織形態が食い物にしてしまうような事態が生じてきて、その結果として国の財政赤字が取り返しのつかないほど膨張してしまう可能性が出てくるわけだ。

 国を食い物にしているのは何もそれらの集団的な組織形態だけではなく、福祉などの公共サービスを望む国民自身が国を食い物にしているのではないかという疑問も抱かれてしまうわけだが、それに関しては社会は様々な制度によって成り立っていて、それは公的な制度から民間の企業が運営する制度まで様々な種類があって、それらが競合しつつも複雑に関係し合っている面もあるわけだが、普通に考えてそれらの制度を管理運営しているのが、行政や政党やマスメディアやその他の企業である場合が多いわけで、制度を管理運営するということはその利用者から運営に必要な手数料などを徴収しながら管理運営しているわけで、公的な制度は税収や公債などで賄われていて、企業が管理運営している制度はその制度に特有なサービスを提供して料金を徴収しているわけで、いずれにしても利用者から金銭を徴収している実態があり、制度の主導権は利用者よりも制度を管理運営している側にあることははっきりしていて、そして公的な制度の利用者が国民であるとすれば、その制度を管理運営しているのは行政となるわけで、そうであるとすれば制度に関して主導権を握っているのが行政であることもはっきりしているわけで、しかも現状が三権分立ではなく三権癒着状態にあるとすれば、行政に対するチェック機能が果たされていないことも予想され、その結果として国の財政赤字が取り返しのつかないほどの膨張を招いてしまっていると考えられてしまうのだが、それが構造的な制度の欠陥が原因でそうなっているとしても、少なくとも制度の利用者よりは管理運営している側がどうにかしなければならない問題であることは間違いないだろうし、そうなると行政をチェックする役割となるのは立法機関である議会となるだろうし、議会が行政の機構を改革するための法律を成立させて、それを政府に実行させればいいのだろうが、議会と政府で主導権を握っている政党にそれができるかというと、現状ではそれができていないということになるだろうし、ではそれができない政党を誰が支持しているのかというと、国民が支持していることになっているわけだから、現状が憂慮すべき事態であるならそうなっている責任は誰にあるのかといえば、回り回って国民に責任があることになってしまうわけだが、もちろん現状が憂慮すべき事態ではないと思っている世論が大勢となっているなら、国民の大部分はそれは杞憂に過ぎないと思っていることになるのかもしれないが、その辺が微妙なところだろうし、確かに制度的には国民の支持を得て特定の政党が政権を担っていることになっているのだろうが、その制度を管理運営している行政に主導権があるとすると、制度を利用している国民に果たして制度を管理運営している行政をコントロールすることができるのかという疑問が湧いてくるのだが、制度の規定ではそういう内容になっているとしても、その制度を運営している側が主導権を握っているわけだから、簡単に言えば運営次第でいくらでもイカサマができる可能性があるわけで、そういうことを考慮すれば制度の利用者に過ぎない国民にはどうすることもできないのかもしれず、ならば国民が制度を管理運営する制度にすればいいということになるのかもしれないが、公的な制度の全てを直接民主主義の管理下に置くことは原理的に無理なのではないか。


4月7日「適正な価格」

 社会の中で法律によって守られている部分は、法律に違反した行為が取り締まられている部分であり、また人が取り締まりを恐れて法律に違反するのをためらう部分でもあるかもしれないが、法律に違反する行為をやって何らかの危害を加えた時点では、たぶんまだ法律に守られてはいないだろうし、しかも警察などによる取り締まりを逃れながらも違反行為を繰り返している時点でも、それによって被害を被っている人は、まだ法律には守られてはいない状態にあるだろうし、違反者が警察によって身柄を拘束されて、もうそれ以上は被害が拡大しない状況となった時に、初めてそこから先で想定される被害が未然に食い止められて、違反行為から誰かが守られたことになるのではないか。もちろん守られたのはその件だけで、他の違法行為によって被害を受ける可能性は残っているだろうし、結局は人々が法律を守っている限りで、それらの人々が法律を守っていることに限っては、法律によって守られているかもしれないが、法律を守らない人が違反行為によって他の人々に危害を加えている状況があるとすれば、実際に危害を加えている時点では、別に法律によって守られているわけではないだろうし、例えばそうやって被害を受けた人々が後から法律によって救済されれば、その時点では法律によって守られたことにはなるのだろうが、危害を加えられて死亡してしまったら、その人については救済されようがないだろうし、ただ残された遺族が何らかの救済措置の対象となることはあるだろうし、そういう部分については法律によって守られていることになるのではないか。だから社会が法律によって守られていると言っても、完全に守られているわけではないだろうし、違反行為を取り締まる側が何らかの対処をしている範囲内では守られているかもしれないが、また違反行為によって被害を受けた人やその家族が何らかの救済を受けた部分についても、法律によって守られているかもしれないが、それ以上は守りようがなく、そういう意味で法律が万能であるわけがないだろうし、法律とは言葉で記された規約の類いでしかないわけだから、規約である限りにおいて一定の効力を持っていることは確かで、それに違反したことが発覚すれば取り締まりの対象となり、その程度によっては処罰の対象ともなるわけだ。そして取り締まる側は社会の中で暮らしている人々に法律を守らせようとしているわけで、人々が法律を守ることによって秩序が維持されることになるわけだが、その一方で法律を破る行為を行わせないように、違反した場合の罰則規定も法律に盛り込まれていて、実際に法律に違反して取り締まりを受けて、裁判で有罪が確定すれば、それ相応の処罰を受けることになるわけだが、処罰されること恐れて違反行為を思いとどまる人も中にはいるかもしれないが、実際に違反行為が繰り返されている現実もあるわけだから、捕まれば処罰されることを承知で違反行為を行う人も後を絶たない実態もあるわけだ。それだけ法律に違反することによって何らかの見返りが期待されている場合もあるだろうし、また止むを得ず法律に違反してしまう成り行きにもなるのではないか。

 経済活動に伴って法律違反する場合の主なものとしては、まずは詐欺行為があるだろうし、人を騙して金を巻き上げれば詐欺になるわけだが、本来その価値のないものを高く売りつけても詐欺にはなるだろうし、それに関しては偽の高級ブランド商品を売りつければわかりやすい詐欺行為となるわけだが、別にブランド商品ではない普通の商品を安く買って高く売りつける行為になると、それのどこまでが合法でどこからが違法かについては、うまく定義ができなくなるのかもしれず、商品に適正価格というものを設定できる場合とできない場合があるだろうし、また高いのを承知で買った場合は別に騙していないわけだから詐欺には当たらないだろうし、騙されたと思って告発するとしても、売った側が別に騙したわけではないと言い張る場合も想定されるだろうし、普通は著しく不当な高値で売れば誰が見ても詐欺だと思うだろうが、高値で売ることに合理的な根拠があれば詐欺だとは思わないだろうし、それがどの程度なのかは基準がなければよくわからないところであり、買った時の数倍の価格で売れても、それがオークションなどの場合ならあり得るだろうし、そういう場合はオークションで売ることが合理的な根拠となるわけだろうが、例えばそれ以外の場で骨董品がプロの鑑定額より不当に高い価格で売れた場合、売る方が素人で適正価格を知らなければ、買った側が不当に高い値段で買わされたと告発しても、別に騙すつもりで悪気があって売ったわけではないのだから、詐欺とはみなされないとは思うが、やはりそういうところで法律に照らして詐欺とみなされるか否かははっきりしないだろうし、そういう点についてもしかしたら法律の中で明確な基準が定められているのかもしれないが、法律の素人にはわかりようがないだろうし、普通に売買を行う上で儲けを出したければ、安く買って高く売るしかないわけで、別に騙しているつもりがなくてもそうせざるを得ないわけだから、制度としての株や為替などの取引や競売などでは、法律に守られているから、いくら安く買って高く売っても詐欺にはならないだろうが、それ以外の場で誰が見ても不当に思われるほど安い価格で買って、不当に思われるほど高い価格で売れれば、その不当に思われるという基準がはっきりしないことは確かだろうが、やはり安く買い取られた側も高く売りつけられた側も騙されたと思うだろうし、買ったり売ったりする側が明らかに騙し文句で売買を成立させれば詐欺に間違いないかもしれないが、プロの詐欺師ならそんなヘマはしないだろうし、そのプロの詐欺師という喩えも、普通に商売上手なやり手の営業マンとプロの詐欺師の違いをどうやって見極められるかも、やはり一般の素人にはわからなくて当然だろうし、実際に銀行マンが詐欺罪で捕まるケースもよくあることだろうし、そういう意味で通常の売買行為自体がまかり間違えば詐欺と紙一重な面があるのかもしれないし、しかもその売買行為によって世の中の全ての経済活動が成り立っているわけで、そういう現実があることを承知した上で、正義とか倫理とか道徳とかについて大真面目に語れるかというと、大真面目に語っていること自体に欺瞞が潜んでいるように思われてしまうのかもしれず、そんな建前よりは功利的に戦略や戦術を駆使して金儲けをやる方がリアリティを感じるかもしれないが、たぶんその辺に思い違いも潜んでいて、建前と本音の間で両極端に振れない態度が求められているのかもしれない。


4月6日「実態と現実」

 そこに平和な状態がもたらされていれば、そんな世の中では多くの人が働いている実態があるのだろうが、それを労働という言葉で表現すると何か否定的な響きを伴って受け取られ、実際に雇い主にこき使われていかにもつまらない仕事をやらされている場合もないわけではないが、そんな自由のない拘束された環境で受動的で主体性の欠如したことやらされるのが労働だと定義したら、それではあまりにも卑小で偏向していると思われてしまうだろうし、そうではなく誰もが普通に行なっている仕事が労働であり、一般的に言って働いていること自体が労働だとみなせば無難な解釈になるだろうが、労働と言えば普通は賃金労働を指すだろうし、経済活動において物や情報やサービスを生産して流通させて販売して消費する過程の中で、サービスが労働であり、生産にも流通にも販売にも消費にも労働が伴い、サービスが生産されるということは労働する機会が生じることになるだろうし、サービスが流通するということは派遣先まで労働者が赴くことになるだろうし、サービスを販売するということは労働して賃金をもらうことになるだろうし、サービスを消費するということは単純にそこで働いてもらうことになるわけで、結局は経済活動の全ての工程において何らかの労働が必要となってくるわけだが、労働と競合するものとして機械があるわけで、それも機械を作る時には人の労働が必要となり、今のところは全面的に機械が機械を作るようにはなっていないわけで、部分的には全ての工程が機械化されて、自動的に機械が生産物を作ったり、さらに機械が機械を作る工程もあることは確かだが、その機械を作る機械設備や機械を作るその機械を作る時にはやはり人の労働が絡んでくるわけだから、どんなに自動技術が発達していても、今のところは依然として人の労働によって何かが行われている実態があるわけだ。そして何かが行われているということの中には、人と人とのコミュニケーションなどの交流も含まれるだろうし、そこで交渉が取引などが行われている場合もあるだろうし、会議や説明会などのように何かを発表したり討議したりする状況まであるわけで、そこでも賃金などが発生する場合は会議の司会者や議題の発表者などが労働していることになるだろうし、そうした労働は一応サービス業に分類されるのだろうが、そのような状況の中では何を持って労働とみなすかが曖昧になってくるのかもしれず、普通は会議や説明会などを経て何らかの商品を発表して、それを製造して発売することになってから、その商品を顧客や消費者が購入することになれば、そこで金銭的な収入を得ることになって、そうした収入の中から必要経費として会議の司会者や説明会の発表者などの賃金が出てくるわけだが、一応の理屈としてはそうであっても、司会者が司会をすることが専門であったり、発表者が発表することが専門であったりする場合は、発表者はともかく司会者は別にその商品の製造にも流通にも販売にも消費にも直接は関わってこないだろうし、もちろんその手の人は限られたごく一部の人であって、そういう人が他に大勢いるわけでもないだろうが、何かそこで余分なことが行われているように思われるわけだ。

 たぶん商品の生産に伴う手続き上の過程で、その手の会議や説明会などを経ないと製造にまでこぎつけられないのだろうし、そのような手続きに費やす経費も商品の開発費や製造費や販売額などに比べたら微々たるものでしかないだろうし、主に事業の規模の大きな大企業などでそういう手続きが普通にあるわけだろうが、果たしてそこで判断されることがどれほどの重要性を持つのかというと、それはその時の状況にもよるだろうし、何か社運をかけて行うような新規事業に関して会議が開かれているような場合には、いかにも重要なことが話し合われているようにも思われるだろうが、年がら年中そんな状況になっているわけでもないだろうし、またそういう時にしか会議などが開かれないとすれば、緊急に行われるようなものでしかないだろうし、それ以外で定例会などの形で月に一度ぐらいの間隔で惰性で行われるようなものなら、親睦会程度の意味合いしか持たないのかもしれないし、何かの付け足し程度で行われているだけのことなのかもしれないが、集団的な組織形態の中ではそういう一見無駄に思われるようなことが結構行われている場合が多いのかもしれないし、そういうことをやっている人たちにとっては、それをやることに関してそれなりの必然性を感じている人もいるのかもしれず、惰性で行なっていると思っている人が結構いる中でもそれが有意義であると思っている人も一部にはいると、そういう人が会議の中で積極的に発言するような成り行きにもなるわけだが、やっている人たちの中でもそうした温度差があると、微妙な空気がその場を支配することにもなるわけで、たぶんそういう空気を察知するとだいぶ真剣味が薄れてきて、それが儀礼的な慣習であるような気にもなってくるわけだが、企業でも行政機関であっても、活動の中でそうした儀礼的な慣習となってしまっている部分が結構あるのかもしれないし、またそうした面があるのにも関わらず、一方で作業効率だとかコストなどをシビアに計算しようとする面も一部にはあるのだろうし、何かその辺で合理性一辺倒には事態が推移しないわけで、そういうところがいい加減と言えばそうとしかいえない部分があることは確かで、またそういう面をしゃかりきになって批判することも可能なのかもしれないが、そういう批判をする人は実態を知らない外部の人かもしれないのだが、そうした全体のほんの一部で行われていることが意識の中では割と大きな部分を占めているわけで、何か本来の集団的な組織形態だと、そこではまるで機械のようにシステマティックに全ての物事が淀みなく進行していると思われるかもしれないが、実際にそこに人が関わってくるとそうではなくなってくるわけで、それはまつりごととしての政治的な実態を示しているのかもしれず、そんな組織であっても末端で働く労働者は過酷な環境の中で死に物狂いで作業を行なっている状況があるのかもしれないし、それでも何かのきっかけで作業に遅れが出始めると残業しても仕事をやりきれなくなって、そんな状況の中で責任感にかられて仕事を仕上げようとする意識と、それとは裏腹に心身に溜まった疲労との間で板挟みとって、精神を病んでしまう人も出てきてしまうのかもしれないし、そういうところで不条理な状況が生じてくるわけだが、たぶんそういう状況というのは解決不可能なのだろうし、そんなどうにもならない状況が普通に生じてしまうのが労働の現場なのではないか。


4月5日「機械の機能」

 世の中で人の活動を規制する決まり事に関して制度と慣習があるが、制度はそれが公的な制度であれば、法律によってその仕組みや機能や動作が規定されていて、民間の企業などが管理運営している制度でも、その利用にあたって守るべき規約などを定めて、それに同意しないと制度を利用できないようになっているし、そこでの決まり事は法律や規約などによって文章で示されていることが多いが、それが慣習となると、普通は文章でははっきりとは示されておらず、暗黙の了解事項としてその地域の住民などが日常の立ち振る舞いとして、同じようなことを行なっている状況があるわけで、それが生活習慣として特定の地域社会や特定の集団の中に根付いているわけだが、それらに加えて人の活動を規制するものとして見過ごされがちなのが機械や道具であり、普通それは人の活動に役立てるために出現したものであり、実際に道具を活用することによって人類は文明を築いてきたわけだが、特定の道具を使うことによって誰もが同じ動作を行うことは確かで、厳密に言えば道具を使う動作が同じ動作になるわけだが、それは使う目的が同じだから同じ動作をもたらすことが多くなるのであり、そうなると慣習の中でも同じ道具を使って同じことをやる成り行きも生じるだろうし、またそれが制度になると道具とともに機械を使う場合も出てくるだろうし、道具にしても機械にしてもそれを使って誰もが同じ目的で同じことをやろうとするから、それが慣習に結びついたり制度の中で使われることにもなるわけだ。そして現代のような産業社会をもたらしたのは機械の使用によるところが大きいだろうし、産業と呼ばれる形態はほとんど全てが機械を使った活動になるわけで、それは物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費に関係する活動になるだろうし、その中で機械はなくてはならない操作物となっているわけだが、機械そのものが一つまたは複数のシステムを内蔵していて、その中で仕事を行なっているわけだが、それが大掛かりなものとなると設備と呼ばれて建造物の一種にもなるわけで、人が人力で行う仕事を機械が人力よりもはるかに効率的に行うから、機械が人手に代わって使われるようになり、さらに人ができないことまで機械ができるようになったおかげで、人類の文明が飛躍的に進歩したようにも感じられるわけだが、それを実現した機械の技術革新は科学技術と呼ばれる分野が担ってきた成果であり、そうした技術革新の成果によって人々の生活も、ほんの数百年前からは想像もつかなかったような変貌を遂げていて、今後の世界も科学技術の進歩によって劇的に変わる可能性も予想されるだろうが、それでも人の活動を慣習や制度とともに機械が決まり切った動作へと限定していることは否めず、活動の自由を奪うような拘束力が備わっていることは確かで、そこで機械の仕組みが体現しているシステムへと人を封じ込めるような作用が働いているわけだ。

 確かに機械を直接操縦していれば他のことがほとんどできなくなるわけだが、種類や用途によっては機械には自動的に仕事を行う機能も付いているわけで、全ての機械に自動運転機能が付けば人がその活動に拘束されることもなくなるかもしれないが、人の活動そのものを機械が代わりに行なってしまうと、それだけ人の活動が機械が行わない活動に限定されてくるだろうし、それが活動の幅を狭めるようなことになれば、やはり活動の自由を奪われるような成り行きに思われるだろうが、実際に機械を消費者に向かって商品として宣伝する時には、それとは真逆な宣伝文句で買わせようと仕向けてくるわけで、例えばSUV車に乗ってアウトドアスポーツや冒険の旅へと誘ったり、ミニバンに乗って家族でレジャーに出かけようと呼びかけたり、消費生活を楽しむために機械を買って活用するように仕向けてくる場合が多いだろうし、中には宇宙船に乗って火星へ向かうように煽動する荒唐無稽な宣伝まで出てきたわけだが、要するに機械を使うと目的が限定されて、それだけ活動の自由度が狭まるようにも思われるわけだが、逆にそれを活用して何かできるように思わせるところが逆説的な不条理感を醸し出しているわけで、例えば歩いて行くよりは乗り物に乗った方が行動範囲が広がることは確かだろうし、風景を描くよりはカメラで撮った方が正確にその場の光景を写し取れるだろうし、紙に書いて計算するよりは電卓やコンピューターを使った方が飛躍的に計算能力が上がるだろうし、特定の目的に特化すれば機械を使った方が迅速かつ正確にやってのけることは確かであり、無駄に時間をかけないから余った時間で他のことまでやれて、それだけ多くのことができるわけだから、活動の幅が広がるし自由に時間が使えるようになったとも思えるわけだが、実際に機械化された文明社会の中で人々が何をやっているかというと、誰もが同じようなことしかやっていないように思われてしまうのはなぜだろうか。特に先進諸国の中では経済的に裕福で暇を持て余している人も結構いるはずなのに、それらの人々が判で押したように同じようなことをやっている現実があるだろうし、まるでやることが事前に決められていて、それ以外のことができないような世の中の仕組みになっているかのように、何か特定の活動を行うように仕向けられているわけだが、要するに人々が日常の中で見聞しているメディアからの情報がそう思わせているのだろうし、メディアが見せる人々の活動が同じようなことばかりなのであり、要するにメディアで話題となっている人の活動が同じような活動であり、それに関して人々が興味を抱く活動も同じような活動になるだろうし、それ以外には何をやったらいいのかわからないわけで、特に機械を使って何かやるとなると、機械の機能に限定されたことしかできないのは確かであり、それ以上に応用が利かないのかもしれないし、応用を利かせようとすると途端に難しくなるのは、機械の機能から外れたことをやらせようとするからできなくなるわけで、そうであるなら機械の機能に限定された範囲内での活動になるしかないだろうし、そうした活動なら他の多くの人もやっていることであり、少なくともその機械を使っている人はみんな同じようなことをやっているわけだ。


4月4日「制度と宣伝」

 企業活動は物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程の中で、部分的にしろ全面的にしろ販売を経由する部分に関わって、そこから何らかの収益を上げることによって成り立っているわけだが、民間の経済活動は物や情報やサービスのいずれかか、あるいはそれらが入り混じった商品を売ることによって収入を得るわけだから、企業自体がそのような行為を集団的な組織形態によって制度化しているとも言えるわけで、それは行政機構が企業とは異なって税を徴収する行為を集団的な組織形態によって制度化しているのとは対照的な活動なのだが、どちらの組織形態でも売買益を上げることや税を徴収することだけが活動の全てではないだろうし、それらを糧として人々が興味を持つような物や情報やサービスを提供することが活動の主な内容となり、人々が期待しているのもそういうところにあるのだろうが、欲しい物や欲しい情報や欲しいサービスが企業や行政からもたらされるなら、買える範囲内で喜んで買うだろうし、税金も払うかもしれないが、人々は買ったり税金を払うことによってもたらされる以外の物事も求めているだろうし、そうした物事の中には制度的なやり方でもたらされるのではない物事まであるのかもしれず、そういう面では企業や行政などの制度的な活動は人の生活の中では部分的な範囲内にとどまるだろうし、それらだけが全てではないことはわかりきったことかもしれないが、一方で制度からもたらされる物事には決まりきった形式的な動作を通してもたらされることから生じる特有の性質があって、それを利用者が使うだけでも制度的な意図が反映されて、制度的にもたらされる物事から心身に影響を及ぼされることになり、そうやって制度を担う集団的な組織形態の活動に巻き込まれていってしまうわけだ。しかしそれが問題であるとか悪いことだというわけではなく、現代文明の中で生活していればそれは当然の成り行きなのだが、当然であるだけに気にも留めないことでもあって、それがどうしたわけでもないと言ってしまえばその通りなのだが、人々が欲しい物事を提供するのがそうした制度的な集団の使命であると思われる以前に、それを欲しがらせるような成り行きを制度が作っている可能性があるわけで、そうしたことをやるのがメディア的な宣伝や煽動などの行為となるわけだが、それを多くの人が欲しがって欲しいからそういうことが行われるわけで、なぜ欲しがらせるように仕向けるのかといえば、それが民間の経済活動ならそれが多く売れれば利益が得られるからという理由が成り立つわけだが、それが行政の活動なら事情も違ってきて、行政的なサービスの利用者が増えるとそれが行政活動の拡大に結びつくわけで、要するにそれだけ勢力が拡大して活動の領域が広がるということであり、それが何を意味するのかというと行政機構の膨張につながるということだろうし、それは民間の企業でも言えることで、取り扱う商品が多く売れれば利益が得られて商売が繁盛して事業規模も大きくなって、やはり勢力が拡大して活動の領域が広がるわけだ。

 単純に欲しいものを提供するのが制度の役目であり、人々にとって必要な物事を提供するのが行政の役目だと解釈できるレベルがあることは確かだろうが、その一方で制度は欲しがらせるように仕向けたり必要だと思わせたりする仕組みも兼ね備えているだろうし、それが公的な制度なら誰にとっても必要な物事を提供するのが使命だと活動を正当化したいところだろうが、その誰にとっても必要になってしまう成り行きを制度によって作るような活動も、行政としては目指しているのかもしれないし、日本ではその典型的な事例が原発であり、誰にとっても原発が必要となるような電力供給システムを行政が主導して作り上げてきたわけだろうし、それが大規模な原発事故が発生して疑問に思う人が多くなってきた今でも、なおそうしたシステムを維持したいがためにあれこれと画策しながら推進勢力が立ち回っている現実もあるわけだが、そうやって組織の都合を世の中に反映させるのも制度の役目である面もあるわけだから、あまり単純かつ肯定的にそれらの活動を解釈するわけにはいかなくなるわけで、それ以前にそこに誰の都合が反映しているのかを見極めることも大事となってくるのだろうが、まず認識しておかなければならない前提としては、利用者の都合が反映された制度であるように装うのはどんな制度にも言えることで、利用者が利用しにくい制度であれば利用したがらないから廃れてしまうだろうし、公的な制度を強制的に利用させるのにも限度があるだろうし、その点は合理的な認識や見解に落ち着くだろうが、そういうレベルでは確かにそうであっても、それ以前に制度を多くの人に使わせたいという意図や思惑が必ずあることも事実だろうし、制度を利用してほしいということは、利用してくれれば都合がいいということであり、そこに制度を管理運営する側の都合があることも確かだろうし、そうした都合を反映させたものが制度であり、その都合が利用する側よりも管理運営する側を利することも明らかなのかもしれず、そうでなければ制度を作るメリットがないだろうし、管理運営する側にとって都合が悪く、利するよりも害をもたらすような制度を好き好んで作って運営するはずがないわけで、制度を利用しようとする前にまず考えなければならないのはそういうことであり、何かそこに思い違いがあるとすれば、それに関して宣伝や煽動は誰のために行われているのかというと、それは宣伝している側や煽動している側を利するために行われているわけで、宣伝や煽動を真に受けた人たちを利用したいがためにそんなことをやっているわけで、要するに制度の利用者は制度を利用していると思っているわけだが、制度を管理運営する側は制度の利用者を利用して利益を得ようとしているわけで、それが必ずしも両者を利することになるとは言えない場合があって、そして制度を利用するように呼びかける宣伝や煽動があまりにも頻繁かつ大規模に行われるようなら、逆に裏がある思われても仕方がないだろうし、要するに利用者に危険や害が及ぶ可能性の高い制度であるほど、それを悟らせないようにするために大々的な宣伝や煽動を繰り返すわけで、そういう制度は利用者が求めているような制度ではない可能性が高いとみなした方がいいのかもしれない。


4月3日「良い面と悪い面」

 人は事故や災害や病気などの不慮の事態に備えて保険に入ることがあるが、保険には他の大勢の人も入って保険料を払い、その資金がある程度の額に達しないと、実際に不慮の事故などに遭って保険金の払い戻しを受ける時に、契約した保険料の額を受け取れないだろうが、実際にはそんなことはあり得ないだろうし、現実に大勢の人が保険に加入して保険料を払っているから、その中のごく一部の人が不慮の事故などに遭った時に多額の保険金が降りるわけだが、保険にも年金のように定期的に少額ずつ払い続けて、満期になったらその額に利息をつけた額が一定期間にわたって払い戻されるようなものまであって、どちらの場合でも保険会社はただ加入者から支払われた資金を貯金して眠らせておくわけではなく、金融市場で株や債券や為替などに投資して利益を得ようとするだろうし、そうやって運用益を出した中から積立型の保険の払い戻しなどの際に利息として支払われるわけで、大勢の保険の加入者から集めた資金も資本として機能している面があるわけだが、多額の資金の貸し借りには利子がつくという制度が、資金運用していく中のどこかで利益を出さない限りは、利子をつけて借りた資金を返せない困難さを生じさせるわけで、そこでどうやっても安く買って高く売るという行為を行わないと利益を出せないわけだから、そこで詐欺にならないような手法を考え出さなければならなくなるわけだ。それに関して普通は物や情報やサービスなどの商品を生産して流通させて販売して消費する過程の中で、経費を安く抑えて利益の出る価格で売るようなことが行われるわけだが、金融市場での資金運用ともなればどのような手順に売買を行うとしても、株や債券などの金融商品を安く買って高く売ることでしか利益を出せないだろうし、買う相手を騙して売っているわけでない限りは売買そのものに関しては詐欺にはならないだろうが、同じ金融商品を大勢の人が売ろうとすれば安くなるし大勢の人が買おうとすれば高くなるということ自体が、商品の価格という価値基準が人の心理状態で変わってくるという不条理を明らかにしているわけで、そうした不確かな要素に左右されながら値動きが起こる商品を果たして信用できるかいうことに関して、そこで行われている活動を正当化できなくなるわけではないものの、少なくともそうした売買を伴う経済活動自体に明確な正当性や合理性があるわけではないことは認識できるのではないか。別にそうだとしても売買を行わなければ経済が回ってゆかないし、現代文明を支える全ての活動が滞ってしまうかもしれないが、実際にそんなことはあり得ないわけだが、普通の保険にしても保険料を払い続けても事故などの不慮の事態が起こらない限りは、支払った保険料が支払った本人には返ってこないし、生かされないことになるから無駄に金を払ったと思っても構わないわけだが、だがもしもの時を考えれば金銭的に余裕があれば保険に加入する気にもなるだろうし、そういうところで人の心理状態が無駄になるかもしれない保険料を払わせるわけで、それは商品を安く買って高く売らないと利益が出ないという当たり前の事実と同じように、どう考えても理屈に合わないことをやっている感覚をもたらすのではないか。

 とは言っても普段はそんなことまで考えないし、考える余裕すら与えないようにされている面があって、そうさせているのが制度であり慣習であるわけだろうが、商品を安く買って高く売るのが当たり前だと思うのは、売買という商慣習に従っているからそう思われるのだろうし、実際にものを売って儲けが出たら嬉しいだろうし、他の人たちもそうやって儲けているのだから自分が儲けて悪いわけがないし、誰もが儲けを出そうとして必死になって努力しているのだから、そういうことを当たり前のように行なっている環境の中では、それが悪いことであろうはずがないし、逆にものを売って金を儲けるのは良い行いだとも思われるのではないか。というかそれが当たり前のように行われている中では、そうした行為に善悪の判断基準を当てはめようとすること自体がおかしいわけで、ただそれが良いとか悪いとか思う以前に売買を当たり前のように行っているわけで、しかも儲けが出るように売らないとまずいわけで、そこでの合理的な判断基準は売買そのものが善悪の基準ではなく、いかにして儲けるかということにかかっていて、そうなると安く買って高く売らない限りは儲からないわけだから、それに関する合理的な判断基準としては儲けが出れば良いことであり、損を出せば悪いことになるわけだが、それでも同じ商品を安く買って高く売るだけでは売買以外は何もやっていないわけで、どこから儲けが出てくるのか、儲けを出していることの正当化が難しくなるのかもしれないが、市場の値動きを的確に読んで売買のタイミングを見計らうにはそれなりの努力やセンスが要求されるだろうし、また自動的に売買を行うAIソフトを開発するのにも高度なプログラミング技術や数学的な知識を要するから、そういう努力を行なっているから儲けを出すことができるという理屈によって正当化できるわけで、また普通に物や情報やサービスなどを生産して流通させて販売して消費する過程で儲けるにしても、生産に関しては他よりもコストを削減できてしかも高品質な製品を製造する技術を開発したり、流通に関しても効率的な流通手法や流通システムを開発したり、販売に関しても営業努力によって良い商品を適正な価格で買ってくれる市場を開拓したり、そうした顧客を確保したり、消費に関しても無理に大量に売らなくても安定して持続的な消費に結びつくように売り方を工夫したり、そうした努力が実を結んだから儲けが出るようになったと正当化することができるかもしれないが、そうなると単純でいかがわしくも思われるような安く買って高く売るという儲けを出すための論理を、技術的に克服することによって正当化できる理屈を編み出したことになるわけで、結局それが現代文明が産業技術によって成り立っていることの証しとなるわけだが、その一方でそうではない側面もあるから全面的には正当化できないのだろうし、それが労働者を過労死させるほど働かせたり、従業員を安い給料でこき使っている一方で経営者が贅沢な暮らしを自慢したりすることが、何か倫理的に間違っているように思わせるのだろうし、そういうところで言いわけできないような行為や振る舞いが出てしまうのが、人の弱さでもあるのだが、そこでも良い面と悪い面が表裏一体であることを踏まえておくべきだろうし、やっていることを正当化するということよりは、常にやっていることから生じる弊害に対処するように心がけることが肝心なのではないか。


4月2日「機械の部品」

 投資には資金が必要であり、資金は経済活動によってもたらされるわけだが、資金がどこで集められるかというと主に銀行や証券会社などの金融機関で集められることになるわけで、銀行は預金者が預けた金を融資に回すのであり、事業資金が必要な企業に融資することで、その資金を企業が返済する時に受け取る利子が銀行の収益となるわけだが、そうした資金の貸し借りが企業が行う事業を支えていて、企業は機械化された設備がないと商品の生産ができない事情があり、設備を整えるには多額の資金が必要で、それは商品の生産だけでなく流通にも販売にも必要なのだが、企業が行う経済活動には機械設備が必要不可欠な面があり、資財を投資して生産設備を用意してからでないと生産が始まらないわけで、それなりの生産規模の設備を整えるには自己資金だけでは賄えない場合は銀行から融資を受ける成り行きになるわけだが、他にも株式や社債の発行によって資金を確保する方法もあって、いずれにしてもまとまった資金を得るためにそのような金融関連の制度を利用するわけで、資本主義経済の担い手である企業活動には多額の資金が前もって必要であり、その資金を用意するのが金融機関の役目となるわけだが、金融機関も機械化された設備が必要であるのは同じで、多額の資金を使って金融業に必要な設備を整えないと活動が成り立たない事情があるのは他の企業と変わらないわけで、その設備を整えるために必要な資金も、他の金融機関からの融資によって得る場合もあるかもしれないが、どのような経済活動を行うにしてもまずはそれを行うための設備が必要であることが、多額の資金を必要とする事情となるわけで、資本にそれらの設備も含まれているのは当然だが、その設備を伴った制度が人をそこにつなぎとめておく仕組みを作っているわけで、その設備を建設したり制作するのに人手を必要としていて、また出来上がった設備を駆動させて何らかの経済活動を行うにも人手が必要とされるわけで、そうやって何らかの設備を伴った制度が人を必要としているわけだが、そうした制度が現代人を構成しているとも言えるだろうし、何か特定の機能に応じて人が構成されているから、そのつなぎとめられている制度の中で有効に機能していれば、他のことはなおざりにされてもいいわけではないが、それに関して人として備わっているべき普遍的な価値観が欠けていても構わないような風潮が世の中に蔓延している可能性を指摘できるかもしれないし、その普遍的な価値観とは何かというと、他人に共感する能力に関連する価値観であり、もっというなら他人の境遇に共感する価値観というと、利己的な行為を戒めるような成り行きが想像できるのだが、その戒めが利かない人たちがそうした制度によって構成されているのかもしれず、制度の外部に意識が存在できないから制度に同化できるわけで、そうなると制度の仕組み通りに動作しているだけで、それでは制度に逆らう理由が生じないから、制度の外部に位置する人たちの境遇に共感することができないわけだが、そうなると制度から生じる利害関係が自身の利害と一致して、それ以外の利害関係を共有することができなくなって、そうした制度から疎外された人たちの境遇には共感できなくなるわけだ。

 その場に生じている制度上の特殊な利害関係にしか興味のない人は、その利害関係から外れた人たちや利害関係の中で敵対している人たちを思いやる心が欠けていて、その制度が構成する利害を共にする共同体の中だけで凝り固まって活動することになるわけで、そうなるとバランス感覚も他と利害調整を行う能力も養われないだろうし、要するに交渉や取引ができない人たちとなるわけだが、そういう人たちを使う側からすれば便利な駒として重宝されるかもしれないし、設備の付属物や機械の部品といった取り扱いになるわけで、もはや人間扱いされないということだが、それで何が困るかというと、その制度が世の中の全てではないということであり、そして制度が世の中の全てでもなく、制度から外れたところで生きてゆけなくなるだろうし、制度から外れた対応がとれなくなるから制度外の常識が通じなくなるわけだが、しかし制度外にどんな常識があるかというと、制度が常識を作るという感覚からは考えられないだろうが、それは世の中の一般常識というのとは少し違うのかもしれず、むしろそれは制度に逆らうことに生じてくるような常識と言えるのかもしれないし、それについてわかりやすく言うなら制度の問題点を指摘する行為は制度に逆らうことによってしか可能ではないわけで、制度に付き従うだけの人には制度の問題点など指摘できないだろうし、制度のある部分に問題があると気づくこと自体がすでに制度に逆らっているわけで、そこで言う常識とは制度の外に身を置いてみて初めて気づくようなことでもあるのだろうし、制度の内部で凝り固まっている人たちには気づけないことであり、それらの人たちは制度に外部があるなんて思いもつかないだろうが、それらの人たちが気づくのは自分たちに敵がいるということであり、敵が制度の外部にいるわけではなく、敵対し合う関係自体が制度を通して構成されるわけだから、敵も制度の一部であり敵も何らかの制度に従っているから敵として認識できるわけだが、制度に逆らうということは敵が従っている制度にも逆らうということであって、敵対し合うどちらかの制度に逆らうが、どちらかの制度には従うという態度ではなく、ただ制度の問題点を見つけるために制度の外に身を置いて考えるような態度のことであり、哲学用語ではそれを超越論的な態度と呼ぶのかもしれないが、別に難しい哲学用語など使わなくても、外の思考は常識として制度に逆らって考えることを示しているだろうし、制度外の他人に共感を示すには自分のこだわりを捨てないと共感できないわけで、そのこだわりがどこから生じているのかといえば、制度に従っていることからこだわりが生じてくるわけで、同じ動作にこだわっているとすれば、それは制度の仕組みに従うことから自然と同じ動作を繰り返すことになるわけで、それが型にはまった動作となり、そのような動作が制度内の常識ともなるわけだが、そういう常識であれば制度と共にあるといえるだろうし、世間の一般常識というのも世の中の多数派が従っている制度から生じてくる常識となるわけだが、それとは反対に制度の外で考える態度には常識にとらわれない思考が要求されるわけで、制度外の常識は制度内で通用する常識にはとらわれない態度から生じることになるわけだ。


4月1日「経済活動がもたらす矛盾」

 近代から始まった国民国家的な国の統治形態は産業の工業化の進展とともに世界中に広がっていったわけだが、工業化はそれまでの農耕や牧畜が中心の産業構成から工業や商業が産業の中心になっていく過程で生じたわけだろうが、それに伴って農耕や牧畜も工業化の進展に伴って機械が導入されて、機械化された農耕や牧畜の形態が主流となってゆき、それは他の第一次産業である林業や水産業でも同じように機械化されたわけだが、同時に国民国家の統治機構も機械化されていったわけで、それに伴って戦争の形態なども目まぐるしく変化して、人を大量に殺傷したり建物や施設を大規模に破壊する技術が急速に進歩した挙句に、原子爆弾や水素爆弾の発明によって、もうそれ以上大規模に破壊しても意味がないほどの極みに達した後には、そこからもっと限定的な規模で効果的に敵の戦力を無効化する技術やシステムの開発の方へと、戦略の重心が移っていくような経緯も生じているわけで、それは産業の機械化に伴う国家的なシステムの機械化にも規模の拡大が行き着くところまで行き着いた先には、限定的な範囲内で管理統治の綿密化が進展する傾向も生じているのかもしれないし、20世紀末の情報革命以後は情報処理技術の進歩とともに、社会の隅々にまで管理統治の対象を広げていくような成り行きが生じてきたわけだろうが、一方ではそれがうまく機能せずに、逆に情報処理技術の進歩が社会を混乱させるような作用も及ぼしていて、世界中に張り巡らされた情報網を通じて、ネットワークに障害を引き起こさせるような攻撃が蔓延している状況も招いてしまったわけで、結局は技術の進歩が諸刃の剣のような効果を生んで、便利になった反面でその便利さをもたらした技術を逆用して混乱を引き起こす行為も可能となったわけで、国家機構によるに管理統治技術の進歩にしても、それを利用して統制を強めて人々の自由を奪うような危険性も同時に生じているわけで、産業技術は使い方次第で良い方にも悪い方にも利用可能であるから、それを使う側の倫理が求められているのかもしれないが、実態としてはそれよりも経済的な利益を得るために利用されている度合いの方がはるかに大きいだろうし、現実に産業の機械化の進展を促したのが経済的な利益の追求にあったわけだから、使う側に倫理を求めるような機運が生じることはあまりなかったわけで、それでも原爆や水爆などの核兵器の使用に関しては、倫理を求める世論が強いから実戦ではほとんど使われていない状況となっているわけだが、戦争に関してはそうかもしれないが、経済的な利益と倫理のどちらを優先させるかとなると、無論経済的な利益を優先させている実態があるから、その結果として世界的に富の不均衡な状態が出現していると言えるのではないか。そうだとしてもでは倫理を優先させればどうなるのかというと、そんなことは誰にも想像がつかないのかもしれず、どのような状態が倫理を優先させた状態なのかがよくわからないわけで、それについての明確な定義などないだろうし、ただ行き過ぎた経済論理の追求が世の中を荒廃させるように思われるから、それについては経済的な利益の追求によって不利益を被っている人や集団を助けようとしている人や集団が存在するばかりなのではないか。

 その経済的な利益を追求する論理がどこから生じているのかといえば、端的に言ってそれは物や情報やサービスなどの商品の売買から生じているわけで、それも安く買って高く売れば儲けが出るという単純な論理であり、それを詐欺とは言わせないような制度が世界中に張り巡らされていて、それを制度と言っては語弊があるかもしれないが、普通に考えて商品と貨幣を交換する行為は一つの約束事であり、それを制度と言ってもそれほど間違っているとは思えないわけだが、別にそれを国家が定めているわけでもないし、むしろそれに依存して近代的な国家が成り立っていると言えるだろうし、売買によって儲けが出てそれが利益となるから、国家がそれに課税できるわけで、国家に税金を払ってもまだ手元に金銭が残っているから、どう考えてもそれは商品を安く買って高く売ってその差額が生じていることになるわけで、そのような売買が違法では国家による課税が成り立たなくなってしまうだろうし、実際にそのような行為によって国が栄えて人々の暮らしが成り立っているわけだから、どう考えても詐欺や違法行為ではあり得ないわけだが、なぜそういう仕組みが成り立っているのかというと、制度というよりは商慣習として昔からそうした行為が行われてきた経緯があって、それが世の中で定着している実態があるから、結果的にそのような行為が普通に行われているだけでしかないわけだが、どうやってその仕組みが成り立っているのかとなると、なかなか上手く説明できない面があり、誰もが安く買って高く売れるわけがないだろうし、当然その中には儲けている側と損している側が同じ数だけいるような気がして、一見辻褄が合わないようにも思われるのだが、時間経過に従って徐々に商品の価格が高くなっていく実態があるだろうし、それが物価の上昇を示しているわけだが、世界には物価がほとんど上昇しないような状況に悩まされている国もあるわけで、そういう場合はどうなるのかというと、その国ではそうであっても商品を輸出している国で物価の上昇が起こっていればそこから利益が得られるわけで、世界全体として物価の上昇が続いていれば交易によって利益が確保されるような成り行きになり、そうなっている限りで経済的な利益の追求が行える状況にはなっているわけだが、それは結果的に生じていることであって、人の心理状態としてはとにかく少しでも安く商品を買いたいわけで、またいつでも商品を買えるように十分な額の金銭を持っていたいわけでもあり、そのためにはなるべく買わずに節約して貯蓄したいという思いも生じているわけで、そういう傾向の思いが人々の間で強くなると物価の上昇が鈍ってくるわけで、また労働によって十分な額の賃金が支給されないようだとさらにその傾向が強まるだろうし、労働もサービス的な労働力商品である面があるわけで、労働者は安く商品を買って高く自らの労働力を売りたいわけで、自らの労働力を企業などが高く買ってくれなければ、それだけ商品の購買力も下がってくるのは、安く買って高く売る理屈に照らし合わせれば当然であるわけだが、企業の方でも安く労働力を買って高く商品を売りたいわけだから、そういうところで労働者の利害と企業の利害が背理してくるのは当然かもしれないが、それに関してはたぶん世界のどこかで詐欺的に騙されている部分が露出しているのかもしれないし、それが低賃金で長時間労働の多い国であるか、あるいはテロや内戦で国土が荒廃してしまった国であるかは、おそらくはその両方の国の中で資本主義経済がもたらすひずみが顕著に表れているのかもしれない。