彼の声124

2018年

1月31日「制度改革の必要性」

 社会の中で管理運営されている様々な制度が何を目指しているのかといえば、制度の目的に利用者を従わせると同時に制度内で働く人員も制度に従わせて、そのような役割を担う何らかの機構がそれらの人々が制度に従うように管理運営を行うことになるのだろうが、その制度を管理運営しているのが行政であろうと企業であろうと、管理運営するための費用を利用者から徴収することにもなるのだろうし、行政であれば利用者から主に税を徴収して、企業であれば利用者に企業が取り扱う物や情報やサービスを買わせることによって管理運営費を捻出するわけだが、その一方で行政はそこで働く公務員に給与を払っているし、企業もそこで働く従業員に給与を払っていて、また公務員や従業員も行政や企業が管理運営する制度の利用者ともなるわけで、そういうところから資金が制度を通して循環している実態があるわけだが、中には循環せずに一時的にどこかに貯まっている状態もあるわけで、それが利益や負債となって預金や株式や債券などの形を伴った金融資産や土地建物や機械類などの物質的な資産としても溜まっているわけで、それらの資産も常時使われなくてもいずれ何らかの機会を捉えて使われるか、ほとんど使われなくても金融資産は物価上昇などによって目減りすることもあるし、その他の物質的な資産は経年劣化したり、貴金属の類いは劣化しなくても盗難に遭ったり紛失することもあるだろうし、全く使用されなければ何の役目も果たさないのだから、あってもなくても同じことになるだろうが、そうであっても売買という目的で活用されてしまうことが多いわけで、いずれにしても社会の中で経済活動として人や集団が行なっている物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程の中で活用されている限りは、そこで機能している何らかの制度の管理下にあって制度のために活用されている実態があるわけだ。そういう意味で世の中の制度は経済活動に関連して存在していると言えるだろうし、実際に制度が何らかの働きを伴って社会の中で機能していれば何らかの経済活動が行われていることを示していて、それがたとえ行政の活動に特化した制度であろうと、その活動費用を捻出するための経済活動に依存しているわけだ。そしてそれが何を意味するのかといえば、経済活動が様々な制度を維持するためには必要不可欠であるのは当然で、個々の制度の目的というのがその本来の目的とは別に経済活動特有の価値観に囚われているということであり、それに関しては具体的に採算が合うのかという判断にさらされる場合があるわけで、企業の場合は特にそれが重視される傾向にあるわけだが、必ずしも採算が合わなくても慈善事業などの社会貢献に関しては、それを行う余裕がある範囲で行われることになるから、本業とは別の微々たる予算を使って行われる限りでその重要度は低くなってくるだろうが、行政となると税金を使うから採算の合わないことを行える可能性が広がるわけで、そうなるとそれがなぜ行わなければならないかに関して、納税者である一般の民衆を納得させる必要が生じてくるわけだ。

 行政が行う採算を度外視した事業に関してそれを行う正当性に関してもっともな理由があるとすれば、例えばそれが人助けを行うことに関しては金銭よりは人の命を救うことの方が大事という論理が成り立つだろうし、また学術文化やスポーツに関連した事業に関しては採算を考慮に入れなくても、支援した人が国際的な名声を博するような賞に輝いたり、世界的なスポーツ大会で活躍したりすれば、それをメディアを通して知った民衆が納得するだろうし、そういう面で金銭的な価値と同等かそれ以上の価値を得ることに貢献するような制度を構築すれば、それなりに民衆を納得させられるかもしれないが、それも企業の社会貢献を意識した文化事業や慈善事業と同じように、それが行政が行う主要な事業とはならないだろうし、予算配分もそれらに関する予算が全体の中で占める割合がずば抜けて大きくはならないだろうが、では他に何に関して採算を度外視しなければならないのかといえば、それは福祉に関連した予算となるのかもしれず、それも人助けの範疇には入るだろうが、直接の行動で助けるのではなく、金銭を支援することによって人を助けるわけで、具体的には医療保険や年金保険や労災保険や失業保険などの公的な保険全般に言えることかもしれないが、それが公共事業と並んで慢性的な財政赤字を招く原因となっているわけだろうし、公共事業に関しても企業を助けるための金銭的な支援である面があるわけだから、採算を度外視した金銭的な支援が軒並み財政赤字を招くのは当然だとも言えるだろうし、もちろん実質的な金銭的な支援である限りは建前上は採算を度外視しているわけではないし、なるべく採算が合うような努力は払われているのかもしれないが、では財政を健全化させるには公的な保険料を値上げして公共事業を減らせば財政赤字を減らせるかとなるわけだが、それでは人助けにも企業を助けることにもならないだろうし、実際には弱者切り捨てと批判されつつも保険料を値上げしたり福祉予算を削ったりしているわけだろうが、それが少なからず政府批判や民衆の反発を招いているだろうし、公共事業を減らすことに関しては産業振興の見地からはあまり積極的には行われていないのかもしれないが、実際に行えば公共事業に頼っている業界が打撃を受けるだろうし、議会や政府内の政治家や官僚たちとそれらの企業が懇意の関係となっている限りは、それを行うのは困難になるわけだが、ではどこから赤字となっている分を工面するのかというと、民衆や企業から徴収する税負担を上げることができなければ、国債などの公債によって未来から借金するしかなくなってくるわけで、実際にもそれが財政赤字の大部分を構成しているわけだろうが、行政改革の困難さも含めてそうなるのが必然的な成り行きとなっている面があるのかもしれず、それが制度的な必然性を構成しているとすれば、現行の制度ではどうにもならないのかもしれないし、だから制度改革の必要性が叫ばれているのかもしれないが、現状では掛け声倒れとなっているのだろうし、実際にそれで何とかなっているうちは制度改革など進まないだろうし、進めることよりもそれに対する抵抗の方が強いから進まないのではないか。


1月30日「制度を超える力」

 世の中で起こっている出来事の中で何が問題だとしても、様々な出来事の間で関連性が見られるようなら、そこに複数の出来事を起こすような世の中の仕組みを想像できるだろうし、何らかの制度が働いているからそれに関連して出来事が起こるとも考えられるだろうが、その一方で偶然の巡り合わせから起こる出来事もその場に無視できない影響を及ぼすだろうし、そうかと言って全ての出来事が偶然の巡り合わせから生じると考えてしまうとそれぞれの出来事の間の関連性など考えられなくなってしまうし、また全ての出来事がその場に構成されている世の中の仕組みから必然的に起こると考えてしまうと、偶然の巡り合わせなど何も考慮しなくてもよくなってしまうわけだが、どちらの要素もそれなりに影響を及ぼしているからそれに対する完全な予測など不可能となるわけで、またそれなりに世の中の仕組みから起こる要素を考慮しないと、社会に関して何も述べられなくなってしまうし、どちらにしても社会の中で起こっている出来事や現象を考える上で欠かせない要素となるのではないか。そして両方の要素を一概に対立した概念として捉えるのではなく、ある時には連携しているような作用を及ぼすこともあるだろうし、またある時には補完するような動作を引き起こすかもしれないし、また必然的な成り行きを偶然の巡り合わせが打ち砕くように作用することもあるのかもしれず、そんなふうにしてその場その時で全く異なる動作や関係をもたらすから、それが偶然の巡り合わせそのものだと言える時もあるだろうし、それに伴って生じる人や集団の行動や言動も一定の思考や思想に基づいてなされる時とそうではない時があるかもしれないし、またそこにその場その時の社会情勢が絡んできて、それが人や集団の判断に影響を及ぼしてくるだろうし、そういう方面から物事を考えていくと考慮する要素が多すぎてきりがなくなってしまうのかもしれないが、考えられる限りでできるだけ詳しく正確を期そうとする時と、大雑把な把握だけにとどめておいた方がいい時と、その場その時の状況に応じてどちらもあり得るだろうし、どちらでもない時とどちらでも構わない時もあるのかもしれず、そこにも偶然の巡り合わせが絡んできて特有の事情が生じてくるわけで、それに関しても一概には判断できなくなってくるのではないか。そして世の中で働いている制度に関して考える時には、その制度の仕組みに伴って生じる必然的な成り行きや結果を考慮しなければならないだろうし、そんな成り行きや結果をもたらすために制度がそこに構成されて、その制度を維持管理する集団的な組織形態が何らかの機構として存在し活動しているわけで、そのような機構が制度の利用者やそこで取り扱われる物や情報やサービスを管理しながら制度を運営しているわけだ。だから制度側から見れば制度の仕組みや動作に則った必然的な成り行きや結果がもたらされることが望まれるわけで、その過程で偶然の巡り合わせから生じる突発的な事故や事件が起こっては困るわけだが、もちろんそのような事故や事件に対する備えや起こった時の対処に関しても、制度の仕組みの中では想定されていて、起こりうる全ての出来事を制度内で処理できるように工夫しようとするわけだが、実際にはそれにも限界があることは確かで、その限界を超えて起こる事故や事件には対処できないわけだ。

 そんなわけで制度からもたらされる利益や弊害も制度特有の仕組みから引き起こされていると考えても構わないのだろうが、それ以外の偶然の作用が制度に影響を及ぼしていないわけではなく、そういう影響は制度から生じる集団的な力をある意味では超えて及ぼされるわけで、いくら制度を利用してその場に影響力を行使しても、それには何らかの限界が伴っているのだろうし、その限界を超える部分に人や物や情報などに関係する自由な生産と流通と消費が生じる可能性が出てくるわけだが、自由であるだけに制度内に拘束されている意識から見ればそんなものには何の力も価値もありはしないように思えるだろうし、実際に人は社会の中で何らかの制度に拘束されている実態が必ずあるわけだからそう思うのも無理はなく、そう思っておいて間違いないだろうが、そうであるからこそそんな間違いや勘違いとともに人の自由な活動が生じる余地が生じているのであり、それはまた偶然の巡り合わせで間違ったり勘違いを誘発するわけで、制度側から見ればそれらは全て否定されるべき要因と見なされても仕方のないところだが、一方でそれがないと何も法律を守ったり制度に従ったりする契機が生じないわけで、要するに人は偶然の災難に遭うのを避けるために制度に依存しようとする傾向になるのであり、制度に従うことで制度特有の仕組みから引き出される必然的な利益に与りたいわけで、だから時にはそういう心理を逆用されて詐欺にも遭ってしまうわけだが、制度に従えば必然的に利益を得られるという思い込みも、制度特有の仕組みからもたらされる心理かもしれないし、そういう意味で制度は人をその中に引き込むための魅力を兼ね備えているとも言えるし、そんな人の思考形態や心理作用を社会の仕組みとして投影しているのが制度だとも言えるわけで、そんなふうにして人と制度との関係は断ち切り難い絆で結ばれていて、たとえ制度の不具合や弊害を指摘して制度そのものを批判する人がいるとしても、その人が制度の恩恵に与っていないわけではなく、たとえ制度から何らかの弊害がその人にもたらされているとしても、社会の中で生きている限りは何らかの制度に拘束されながら暮らしていくことしかできないわけだから、制度をなくすのではなく制度の改良を目指しながら人は社会の中で生きていく以外にはあり得ないわけで、そういう意図で制度批判が繰り返されている状況があるわけだ。そして人が制度の改良を目指すとしても全面的に制度に拘束されることを望んでいるわけではないのも当然であり、全面的に制度に拘束されてしまうと自由に振る舞う余地がなくなってしまうわけで、そういうところで人は制度から利益を引き出したいのと同時に制度から自由になりたいわけで、それを御都合主義とみなしてしまえばその通りかもしれないが、そういう自らの都合に合わせて制度を利用したい心理が、一方で制度を不完全なものにしているのかもしれないが、それも人の習性を考慮すれば当然ことであるだろうし、普通の心理状態から導き出される結論としては何かから支配されたくないと同時に何かを支配したいわけだから、その何かが人であったり物であったり情報であったり、中にはそれらを組み合わせて効果的に機能する社会の仕組みである場合もあるだろうし、実際にそれらを支配している気になっている人や集団も存在するわけだから、それも避けられない成り行きや結果の一つなのかもしれない。


1月29日「戦争と平和のバランス」

 批判は批判している対象との対立関係を装ってなされる場合が多いわけだが、批判という行為に関しては確かに批判の対象としての行為と対立関係が生じているかもしれないが、批判している当事者の社会的な立場や地位が批判している対象の人や団体と必ずしも対立しているわけではないだろうし、社会の中で同じような立場や地位を共有している者同士で批判し合っている場合があるわけで、その場合の批判はやっていることの方針をめぐって対立しているとも言えるだろうし、その人が占有している社会的な立場や地位に伴ってやれる行為があり、そのやっていること自体は批判者も批判の対象者も同じようなことをやっているわけだが、同じようなことをやっているだけにやっていることが競合してくるわけで、それが対立的な敵対関係か競争的な競合関係かあるいは両方が入り混じったような関係なのかはその場の状況にもよるだろうが、両者が同程度の社会的な立場や地位を占有しているわけだから、そのことに関しては別の社会的な立場や地位の人や団体とは無関係だろうし、それとは別に利害関係が生じてくるとすれば、それは批判の対象となっている行為が別の社会的な立場や地位の人や団体と直接関係してくる時だろうし、そのような行為がそれらの人や団体に弊害をもたらしているとすれば、そのような行為に対する批判を支持するような成り行きとなるのではないか。結局それは批判者やその対象者の社会的な立場や地位が問題なのではなく、そのような立場や地位を利用して行われている行為そのものが問題となっているわけで、そのような行為がそれに対する批判によって改められることにでもなれば、問題がなくなって弊害が解消して一件落着となるのかもしれないが、それによって批判の対象者が占有している社会的な立場や地位がなくなるわけでもないだろうし、そのような立場や地位を利用してやっていることが弊害や問題を起こさなければ別に批判されることはないわけだ。そうだとすればそのような立場や地位を伴うような社会的な役割分担も維持されるだろうし、そのような立場や地位からもたらされる特有の利益もそれを占有している人にもたらされ、結局社会の中で様々な立場や地位を伴った役割分担が生じていて、それぞれの立場や地位を占有している人たちの暮らしが成り立つだけの収入がもたらされていれば、それらの立場や地位を伴った役割分担は維持され、結果的にそのような役割分担を構成する社会も成り立っていることになるのだろうが、それの何が問題なのかといえば、限られた人にしかその立場や地位は占有できないわけで、それを占有しようとして人や団体の間で争いや競争が起こっているとすれば、結果的にその立場や地位を得られなかった人や団体の中で不満が渦巻いているだろうし、そのような人や団体は自分たちが優位な立場や地位を占められるような社会を築きたいわけで、それが実際に実力行使などを伴って表面化してくれば、そこで何らかの争いが起こるだろうし、そういう争いが激化してきて事態の収拾がつかなくなってくると、テロや内戦などの泥沼の状況に陥ってしまうわけだろうが、実際にそうなっている地域は世界の中では限られているし、他のほとんどの地域ではそうはなっていないわけだ。

 もちろん平和な地域ではそのような争いが起こっていないわけではなく、争い自体が制度化していると試験や試合で優劣を決めるような成り行きにもなるわけで、そのような競争には特有のルールが設けられて、社会の平和が維持される範囲内で競争が行われるような制度になっているわけだろうが、もちろん全ての競争が制度化されているわけでもないだろうし、逆に制度化されていないような範囲で争っている人には自由が生じている場合もあり、さらに特に争っている感覚を伴わないような成り行きも中にはあるだろうし、そういうところでは人々の間で共通の利益が生じていないわけで、利益の奪い合いが起こらなければ争いも起こらないわけだ。つまりそこでは社会化が進んでいないことになり、特に目的を伴うような役割分担も生じていないだろうし、社会の中でそういう余地が生じているとすると、その部分では平和が維持されていることになるのではないか。結局社会の豊かさを実現するにはそういう部分をいかにして増やしていくかが課題となってくるのかもしれないが、一方で制度の内外で争いや競争を伴うような行為が経済的な富をもたらしているのだろうから、矛盾しているといえばその通りなのかもしれないし、日夜争いや競争に明け暮れていれば豊かさを実感できず、実感するには争いや競争のない余地を社会の中に増やしてゆかなければならず、その両方が必要だとすれば両者の間で何らかのバランスをとる以外にあり得ないのかもしれないが、バランスをとったところで争いや競争がなくなるわけでもないのだから、それは一種のごまかしとなってしまうのかもしれないし、たとえごまかしになろうと相矛盾する両方の状態が社会の中で必要となっているわけだろうし、実際に人も団体もそれをはっきりと意識しているわけではないにしても結果的に両方の状態を求めているのではないか。そして実際に起こっていることは経済的な富を獲得した人たちが余暇を持て余して観光に耽っているわけで、その余裕のない人たちは働いていることになるのだろうが、別にそれで問題がなければ社会を壊すような争いは起こらないわけだが、実際にはそれに不満を抱いている人たちの中から社会の破壊を目指す人や団体が出てくるわけで、現に平和な地域でもテロ行為が断続的に行われているし、それで問題がないわけではないことを示しているのだろうが、根本的には問題を解決できないだろうし、争い自体を平和的な競争に制度化するのにも限界があるだろうし、結局それは人や団体の間で生じている争いに関して暴力的な攻撃から平和的な競争までの間で強度や程度に差があるということを示していて、そこで程度や強度に差が生じてしまうことについては人為的な調整が難しいことも示していて、結果として起こってしまったことについては対処するしかないわけで、また起こるのを未然に防ぐための対処も施されているのだろうが、そういうことの積み重ねの中で現状が維持され、また新たに生じる出来事に影響されて現状がそれなりの変化を被るわけで、それが資本主義的な経済活動を伴いながら世の中に様々な矛盾を生じさせるのだろうが、そうした中でも何らかのバランスが実現している地域では見せかけの平和が保たれ、バランスを欠いた地域では社会そのものを破壊する力の方が優ってしまい、テロや内戦に明け暮れているような状態となってしまうわけだ。


1月28日「制度批判の循環」

 制度というのはうまくいっている時には多少の不具合は大目に見られるものかもしれないが、うまくいかなくなってくるとそれがうまくいかない原因だと強調されてしまうわけで、確かにそういう指摘にはある種の正しさがあるわけだろうが、実際に起こっている現象はそれとはだいぶ違う成り行きが生じているわけで、そこで何らかの制度が機能しているとすると、その制度に合わせて人も物も情報も動いていて、そこで何らかの不具合が生じているとしても、それは制度に合わせて人も物も情報も動いているから不具合が生じるのだろうし、結局制度がうまく働いているからそれに合わせて不具合も生じているわけで、制度がうまく働いていることと不具合が生じていることは表裏一体の関係にあり、そうであるとするとうまくいかない原因が不具合だとは言えない可能性があるのではないか。例えば行政側の財政赤字が取り返しがつかないほどかさんでいるとしても、それは行政機構が管理運営している制度がうまく機能しているからそうなっている可能性があるわけで、逆に無理に財政赤字を削減しようとすると制度がうまく機能しなくなって行政の活動が滞ってしまう危険が生じてしまうわけだ。そうだとすればそのような制度がうまく機能すれば財政破綻を招くのかもしれず、それが制度の欠陥といえばその通りかもしれないが、制度自体の機能としてはそういうことが起こる可能性を内包した制度なのではないか。だからそのような制度を批判する人たちに向かって対案を示せと反論しても、そんなものはありようがないだろうし、そういう制度だからこそ財政赤字が累積してしまうのも当然だし、実際にそうなればそれを誰かが批判するだろうし、それ対して批判するなら対案を示せと反論することも可能なのだろうが、それはそのような結果から起こっている争いでしかなく、それも制度が招いた結果であり機能かもしれないし、そういう争いから他に何が生まれてくるわけでもなく、批判に触発されてそれとは別の制度の模索も始まるかもしれないが、実際に起こる成り行きはそれとはまた違ったものになるのかもしれない。実際の成り行きの経過としては、そこで何かがうまく機能しだすとそれが繰り返される動作をもたらして制度として定着するわけで、そうやって同じような動作が繰り返されているうちに、それとは違った動作が抑え込まれてしまうから、それが制度の不具合として顕在化するわけだが、それでも同じような動作が淀みなく繰り返されていれば制度がうまく機能しているように感じられるだろうし、絶えず不具合を生じさせつつも制度の機能が維持されていることになるのではないか。そしてそうした繰り返しの動作が何かのきっかけでうまくいかなくなると、やはりそれをきっかけとして不具合が誰の目にもはっきりと浮かび上がってきて、それが制度批判の材料として使われることになるわけで、あたかも不具合が原因で制度がうまく機能しなくなったかのような指摘が行われるわけだ。

 人が社会の中で集団で組織的な活動を行っていれば、繰り返しの動作として何らかの制度が生じてしまうわけだが、そのような制度がうまく機能していれば当然のことのようにそれに伴って何らかの不具合も生じてくるわけだが、集団の習性として繰り返しの動作が生じるのも当然の成り行きで、それを繰り返してそのような動作が社会の中で主流を形成すれば、それとは違う動作が主流をなす動作によって抑え込まれてしまうわけで、それが不具合だとみなせば制度の働きは必然的にそれに伴って不具合をもたらすのかもしれないし、不具合を生じさせないような制度はあり得ないのかもしれないが、制度を新たに人為的に作り出そうと画策する勢力は、当然のことのように自らの勢力に有利な制度を構築しようとするだろうし、そのような行為はそれとは別の制度を構築しようとする勢力との争いを誘発させるのかもしれず、そんな行為も勢力争いから生じる副産物の一つでもあるのだろうし、それができるだけ不具合の少ない制度の構築に結びつくとは思えないが、結局は人為的に作り出そうとしても思惑通りの制度ができるわけでもないだろうし、そこに様々な勢力の意図や思惑やそこから生じる有形無形の作用が及ぼされ、その結果として何らかの制度が社会の中で構築されて、それがうまく働けばそれなりに機能するような成り行きになるのだろうが、そのような過程の中で実際に制度がもたらす不具合によって苦しんでいる人や集団が出てくれば、そこから批判が生じてくるのも当然の成り行きだろうし、それも制度の構築に伴って及ぼされる有形無形の作用のうちの一つなのだろうが、そうであるなら制度がいったん構築されてそれに伴って一定の動作が生じているとしても、その動作が恒常不変であるはずもなく、制度自体も少しずつ変化を被ってくる場合もあるだろうし、そのような変化を生じさせている要因の一つが、制度の不具合を指摘する批判であるかもしれないし、そうである限りで制度への批判が全くの無効であったり的外れであるはずもないだろうが、そのような批判はすでに制度がそこに構築されていてそれなり機能している前提に縛られているだろうし、制度に拘束された批判となり、それに伴って制度の限界を引き継いでいて、そうなると批判者も制度の推進者と同じ利害を共有している場合もあって、必ずしも批判者と推進者が敵対関係ではなくなる可能性が出てくるわけで、それに関してよくあるパターンとしては制度を批判していた側が推進している側にいつの間にか引き込まれてしまう場合が出てくるわけだ。要するに制度の批判者といえども何らかの制度の必要性は認めているわけで、制度そのものをなくそうとしているわけではなく、それどころか場合によっては自らが納得するような制度を構築してそれを推進しようともしているわけで、実際に何らかの成り行きを経てそのような制度が構築されるようなことになれば、今度は制度を批判していた側が推進する側となるだろうし、またそれが制度である限りにおいて、その制度が社会の中で機能して一定の動作をするに伴って、何らかの不具合が生じてくるかもしれないし、やはりそうなるとその制度に対する批判も当然のことのように生じてくるわけだ。


1月27日「唯物論の優位」

 利益は少数の人や団体で独占するほど大きくなり、その反対に全ての人や団体に均等にもたらされるような利益は空気と同じでタダ同然にしかならないのかもしれないが、利益が誰もが欲しがるようなものをごく限られた少数の人や団体で独占する時に最大の効果を発揮するとすれば、それが希少性の効果なのだろうが、その一方で利益が少ない人も資本主義経済の中で暮らしている限りは何らかの形で金銭的な収入がないと生活が成り立たないだろうし、そこで人が生きて生活できている限りは、その生活が成り立つだけの金銭的な収入が何らかの形でもたらされているわけだ。そんなわけで企業活動を利用して大掛かりな利益の独占が画策されている一方で、世界中で大勢の人の生活が成り立っている限りでそれなりに利益の分配が実現している実態もあり、そんなふうにして世の中では利益の独占と分配という相反する作用が常に生じていることになるのではないか。そこに何らかの制度が介在しているとすると一方には利益を凝縮させようとする制度があり、もう一方には利益を拡散させようとする制度があって、両方の制度の間で均衡が保たれていれば、それなりに利益の凝縮が生じているとしても同時に人々の生活も利益の拡散の程度に応じて成り立っているわけだろうが、特にそれらの制度の間でバランスを取っている主体はないのかもしれないし、過剰に利益を独占している人や団体が先進諸国を中心にして多数存在している一方で、移民や難民や貧困にあえいでいる人の中には収入を得られずに実際に死んでいっている人も大勢いるのではないか。それが世界の偽らざる現実なのだろうが、たぶん国家の枠内では制度の制御にも限界があるだろうし、行政機構が自らの力の限界を超えて収支のバランスを取ろうとしているわけではないだろうし、現状を見れば特にバランスを取らなくてもどうなるわけでもないのかもしれないし、そんな中で人を生かすのも殺すのも人為的には限界があって、人為的な面以外では自然からの作用が人の生死に重大な影響を及ぼしているのだろうが、人為的な作用の面では、まずは企業活動が自分たちの管理運営している枠内で富の集中を画策しているわけだが、そうした中でも従業員や株主に富を分配している実態もあるわけで、また新たな投資という形で外部へ富を拡散しているだろうし、結局企業活動は富の集中と拡散を同時的に行いながらもその活動を維持継続している実態があるわけだ。そして行政機構の方でも人や企業などから税を徴収することで富を集中させて、また公債という形でも未来から富を借り受けているわけで、そうして得た富を行政特有の活動によって世の中に拡散させているわけだが、しばしば集めている富を超えて富を拡散させようとするから慢性的な財政赤字を招いていて、しかも拡散した富が住民に均等に分配されているわけではないだろうし、そういう意味では平等な富の分配が実現していないわけだが、その良し悪しはともかく、とりあえずほとんどの国ではそれなりに貧富の格差はあるものの、住民のほとんどがそれなりに生きていて生活できている実態があるところでは、企業活動も行政活動もそれなりにうまくいっていることは認めざるを得ないだろうし、それをさらに改善させる余地もあるかもしれないが、その一方でより一層状況を悪化させる要因も同時に発生しているのかもしれない。

 そうはいっても世界の中で昔と比較して人が過剰に多く生きている実態があり、それに関しては産業技術や医療技術の進歩もあるだろうし、何よりも産業分野でも医療分野でも人を生かすことが利益につながるから人を生かそうとしているわけで、行政の側でも公的な保険制度のように人を殺すよりは生かすような制度の方が優先的に整備されている実態もあるわけで、それは民間の医療保険などに関しても同じようなことが言えるのかもしれず、ともかく何らかの金銭的な収入のある人がいれば、商品を購入する消費者として企業などが利用できるわけで、そのためには企業が人を雇用して賃金や給与などの報酬を与えなければならず、しかも商品の売り上げから人件費やその他の経費を差し引いた後に利益が残らないとならないわけで、そうなると物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程の中のどこかから儲けをひねり出さないとならないわけだが、それを制度として見ると破綻している面もありそうで、その破綻している面が負債となってどこかで生じているのかもしれないが、それがある面では行政機構の慢性的な財政赤字となって出てきているのかもしれないし、また別の面では実際に企業が債務超過となった時に一気に表面化するのかもしれないが、債務が残ってしまったとしてもそれがどこにも引き継がれない可能性があるわけで、その辺で債務を抱えた人や企業の死や消滅とともに、債務も消滅してしまうようなことにでもなれば、何かごまかされているようにも思われるわけだが、実際に制度としても相続権の放棄とともに誰も借金を払わなくても済んでしまう事態も生じるわけで、そういう制度が合理的と言えばそうかもしれないし、それ以外にはやりようがないのかもしれないし、そういう意味でも人が生きている限りで経済的な制度も活動も成り立っているわけで、企業の活動も行政の制度や法律を利用した管理統治も、そこに人が生きて生活が成り立っている限りでそれなりに機能するわけだろうが、どこかで負債が表面化して経済活動の矛盾が明らかとなる以外では、負債ではなく株として富が溜め込まれる場合もあるわけで、実際にその株がすべて売却されて現金化されるようなら、当然のことのように株価が暴落してタダ同然の価格となって富の虚構性が表面化するかもしれないが、実際にはそんなことは恐慌でも起こらない限りはあり得ないだろうし、結局株が買い支えられて株に価格がついている状態が維持される限りで、そこから富が生じていることになるわけで、それはその他の債券などの有価証券にも言えることかもしれないが、そこに貨幣とは異なる形で富が蓄積されていることにしておけば、その富の蓄積されているという虚構が信用をもたらすわけで、その信用を担保として資金を融資してもらえるだろうし、そういう面で貨幣以外の有価証券にも企業が主体の資本主義経済を支える上で重要な役割と機能が備わっているわけだろうが、結局貨幣でも他の有価証券でも負債であっても、それらは全て価値を担った情報に過ぎないわけで、何か物質的に不足したり余っていたり足りていたりするという状態とは本質的に異なり、物質を生産したり流通したり交換したり消費したりする上で、それに関係する人や団体の間で通用している取り決めの内容として情報が共有されているだけで、それが物質ではなく情報の貸し借りでしかないとすると、いざとなったらその取り決めを破ればいいわけで、要するに借りた金を踏み倒すような行為を人為的にやってしまえるわけだから、そういう意味で最終的には物質的な論理が優先されてしまう傾向になるわけだ。


1月26日「偽りの希少性」

 市場とは何かと言えば、そこで物や情報やサービスを売り買いする場であるだろうが、そのような固定した場がないと売る側も買う側も相手を探すのに苦労するわけで、そのような探す手間や経費をかけたくなければ、売り買いする場である市場が場所として定まっている方が便利だろうし、そこに行けばすぐに売買の相手が見つかるようなら、わざわざ探す手間も費用もかからずに済むわけだ。小売店舗などもそうしたものの一つであることは確かだが、様々な店舗が一箇所に集まっていればそれだけ品揃えも増えるだろうし、立地条件にもよるが人が集まりやすい場所にそうした市場があれば便利であり、さらにわざわざ足を運ばなくてもネット上に市場があれば、売る側の商品が確実に買う側に届けられて、買う側の代金が確実に売る側に送金される条件などが整えば、実店舗よりネット上の仮装店舗の方が便利な面も出てくるだろうし、商品の種類がそのようなネット通販には適さないものもあるかもしれないが、ネット上の方が便利に思われるものについては、ネット上で売買が済んでしまうような取引が盛んに行われるだろうし、商品の用途や種類や取り扱いや売買の方法に応じて、様々なところに様々な種類の市場が生じている実態がある一方で、市場を通さずに売る側と買う側が直接取引している商品もあるだろうし、一概に市場という制度が売買という行為を全て管理しているわけではないのだろうが、商品の価格に関してはその決定権を市場が握っている場合が多いだろうし、また行政がそれを完全には制御できていない面があるわけで、そういうところに行政機構の管理運営が及ばない領域があり、だから行政機構が国家を管理統治していると言っても全ての面で管理統治が行き届いているわけではなく、完全には管理統治できない制度として市場での物や情報やサービスの売り買いに関わる部分があるわけだ。そしてそういう部分に関しては公的な制度が目指す公平性や平等性などよりも、効率性やコストパフォーマンスなどの合理性に関わる部分の方が重視される傾向にあるだろうし、そういう部分ではできるだけ無駄な人件費を削るような方向での努力が払われる傾向にもあるわけで、そういう面で販売経費の削減が人件費の削減に直結するようなことにもなってくるのだろうから、サービス業的な面で市場の制度に関わってくる部分では人がそこから高額の収入を得るのが難しくなりつつあるのかもしれないし、それよりも直接売る側と買う側の利益が重視されるような成り行きになっているのかもしれず、またそれに伴って売る側や買う側に有利な情報を提供したりアドバイスするような職業としてコンサルタントが新たな手数料収入の獲得を目指して台頭してきている実態もあるだろうし、売買に伴う単純な作業をこなすだけでは安い賃金しか得られない傾向が強まるのに比例して、ごく限られた人が専門的な知識やノウハウを駆使して高額な手数料を稼ぐという公平性や平等性とは明らかに質の異なる傾向が、行政機構の管理統治の及ばない部分から急速に世の中に広がっているのかもしれず、それが情報革命以後で顕著になってきている状況なのかもしれない。

 たぶん手数料というのは直接物や情報やサービスの生産に関わっているわけではなく、その売買に伴って発生する収入であり、そういう意味では金融部門に含まれる金銭的な収入なのだろうが、一方でメディア上で生じる広告宣伝などにも手数料が発生するだろうし、そういう意味では基本的には物質よりも情報から収入が生じるわけだが、それが情報であるだけに実体を伴わずに価値や価格を形成するわけで、しかも情報には必ずそれを映し出す媒体が必要となり、媒体は物質からできていて、また情報を処理したり作り出す装置もコンピューターなどの機械であり、それも物質からできているわけだが、物質の生産費用とそこから作り出される情報の生産費用を足しても、必ずしも情報の価格と一致するわけではなく、それは他の物質から構成される商品にも言えることで、売買を介してもたらされる儲けが大きいほど、生産費用+流通費用+販売費用より高く売れたことになるわけだから、情報革命以後に情報としての商品が飛躍的に増えたことに伴って金融資産も増えたということは、物質から構成される商品よりは情報から構成される商品の方が儲けが大きいことを示しているのかもしれず、またサービスから構成される商品も大勢で単純作業をこなす労働力商品よりも、限られた人が専門知識やノウハウを生かして行う労働力商品の方が儲けが桁違いに大きいことを示しているだろうし、富裕層の構成がそれらの限られた人々によって占められている現状を見てもそれは明らかだろうが、限られた少数の人々によって富や専門的な知識やノウハウが独占されているのは昔からそうだったとも言えるわけで、それが民主的な政治体制によって形の上では権力が民衆のものとなり、インターネットの普及によって情報の民主化も起こって誰でも専門的な情報にアクセスできるようになったこととは矛盾しているように思われるかもしれないが、結局はまだ民衆の意識が世の中の進化に追いついていない面があるわけで、要するに意識が民主化されておらず、メディアがもてはやす著名人を権威のように祭り立てて、自ら考えないでその意見に盲従したり、そういう部分がそれらの著名人の利益を構成しているのかもしれないし、メディア自体がそこからしか利益を得られない特性があって、ひっきりなしにその手の著名人たちを粗製濫造して、そこに人々の関心が向かうように煽り立てて、それに伴って発生する商品の広告収入に依存していて、またそれは民主的な政治体制とともに成立した大衆メディア社会の特性でもあるわけで、その傾向は情報革命以後はさらに顕著になってきたとも言えるわけだろうが、それに伴ってメディアが人々の気を惹くために粗製乱造する著名人たちの質もさらに低下してきたとも言えるのかもしれず、一方でその手の著名人たちと一般人たちとの差がなくなってきたのかもしれず、それがある意味で情報の民主化といわれる現象なのだろうし、両者が同じ情報を共有しているわけだから差がなくなるのが当然だろうし、後は専門的な技能の差だけなのかもしれないが、それもある意味では幻想であって、大衆メディア社会自体の特性として誰でも構わないような一般人の中からその場の都合に合わせて著名人を選んでいるだけかもしれないし、それが限られた少数者であることを示す希少性を伴っていれば誰でも構わないということであり、そのような少数者の選別が日夜メディアを通して行われている最中なのかもしれない。


1月25日「公平と平等の意味」

 制度を管理運営する側と利用する側の関係は、管理運営している側が制度を利用している面が多分にあるわけだから、重なる部分が大きいのかもしれないが、純粋に利用しているだけのユーザーは管理運営している側に制度の使用料などの手数料を払わなければならない場合も生じるわけで、そういう意味でなら行政が徴収する税金の類いは、国民が国家という制度を利用する際に生じる使用料とも考えられるわけだが、それを逆から見れば行政側が税を徴収するための口実として国家という制度を利用しているとも言えるし、そうであるとすると制度を管理運営する側は管理運営する権限を使って制度を利用していることにもなるわけで、そういう面でも制度を利用するだけの人や団体よりは優位な立場を占めている。そして資本主義的な経済活動の面から見ると物や情報やサービスなどを生産する側とそれらを消費する側の間に入って、両者を結びつける制度を管理運営する業者が優位な立場を占めている場合が多いのだろうし、生産する側からも消費する側からも仲介手数料などをとって利益を得ようとするわけだが、そのような業者の間でも競争があるだろうし、生産する側と消費する側の両方の顧客が多いほど仲介手数料も安くすることができて、安いほど顧客が集まってそのような市場の規模も大きくなるだろうし、そういう面で競争に勝つにはなるべく多くの顧客を集めて手数料を下げて競争相手から顧客を奪うような戦略になるのだろうし、そうやって独占的な立場を占めている業者も現にあるだろうし、それは国家を管理運営する行政機関にも言えることで、税を安くすれば企業も富裕層もその国へと集まってきて、その国の産業が栄えて国力が上がることにもなるわけで、税を安くした分予算的に苦しくなるかもしれないが、貧困層への福祉などを切り捨てても、国が経済的に栄えていればその富を目当てに周辺国から移民が集まってくるから、そうした移民を不法労働者として抑圧しつつも、低賃金の劣悪な環境で働かせて使い捨て用の人材として活用すれば、人件費を低く抑えて企業の利益にも結びつくだろうし、それで本当に国家的に繁栄していることになるのかは何とも言えないだろうが、アメリカなどは実際にそういう成り行きになっている面もあるのかもしれないし、それがおかしいと思うなら制度を利用するだけではなく管理運営する側にも加わろうとしなければいけないだろうし、それが国家や地方自治体などの行政に介入したいのなら、結局は政治的な面で参加意識を持たないとならなくなるわけで、無関心を装っていては税金を払うだけの利用者にしかなれないだろうし、そういうところから政治意識が芽生えてきて、選挙などの政治制度に巻き込まれるような成り行きも生じてくるのではないか。そうやって公的な制度を管理運営する側に介入して、なるべく公平で平等な制度にしたいと思う人も多いかもしれないが、中には公平という意味を重視して平等という価値観を葬り去ろうとする人もいるだろうし、つまり公平という言葉を利用して現状で生じている格差を正当化したいわけだが、果たして制度は利用者に対して公平であるべきなのか平等であるべきなのかは、そのような言葉を使う人の恣意的な意図や思惑に左右される面もあるのかもしれない。

 結局制度がそれを利用するだけの人に対して公平であろうと平等であろうと、制度を管理運営する側の優位は揺るぎないわけで、それが公平な税負担であろうと平等な税負担であろうと、管理運営する側に必要な額の税収があればいいのだろうし、そうであるなら制度の利用者に対する公平性を装えば利用者の納得が得られるなら、公平な税負担に関して合理的な仕組みにするわけで、その公平性が誰にとっての公平性であるのかが肝心なのだろうし、それを決めるのがその場で主導権を握っている人や勢力であるとすれば、主導権を握っている側にとっては公平な制度となるだろうし、そのような制度に対して不公平感を抱くようなら、そう思う人の価値観に基づいた公平性と、その場で主導権を握っている側が抱いている公平性とは、違った価値観に基づいていることになるわけで、そういうところで公平の意味にはそれを判断する人の恣意的な主観が介在してくるわけで、では公平はやめて平等にすればいいのかというと、今度はそれでは不公平だと言う人が出てくるわけで、それについて簡単なことを述べるならば、頑張った人が報われて頑張らなかった人が報われないのは公平だが、頑張った人も頑張らなかった人も同じように報われるのは平等だが、それでは頑張った人が損ではないかという論理を持ち出す人がいるわけだが、世の中には頑張れる人と頑張れない人もいるわけで、頑張れる人は頑張って何らかの障害があって頑張れない人も助けなければならないとなると、今度はその障害を取り除いて頑張れない人も頑張れるようにしようとする人も出てくるわけで、ではなぜ頑張らなければならないのかというと、頑張って仕事をして税金を払って国家に貢献しようと言い出す人まで出てくるかもしれないし、そういう論理を持ち出す人はどうしても頑張らない人や頑張れない人の存在を認められないわけで、要するにそういう人の価値観というのは、人は頑張って働かなければならないということであり、国民から公平に税を徴収しなければならない、という制度を管理運営する行政側の価値観に支配されているわけだ。そういう価値観に心を支配されている人にとっては、生活保護制度の恩恵に与っている人などは怠け者であって絶対に許せないだろうし、働かざる者は食うべからず、ということわざなどを使って自らの論理を正当化するわけだが、そういう人に欠けているのは現状に至った成り行きを考えることかもしれず、現状でまだ存命中の人は何らかの形で経済活動である物や情報やサービスの生産と流通と販売と消費の過程に関わって収入を得た人であり、完全に扶養されているとしても扶養している人が収入を得ているわけで、親の遺産で食っている人も親が収入を得ていたわけで、どのような経緯でどのような境遇に置かれていようと、生きている限りはその人を生かすだけの糧を何らかの形で得ていることになるわけで、それが公的な制度であろうと民間の制度であろうと、その人を生かそうとする何らかの制度の恩恵に与っているわけだ。それは制度の公平性でも平等性でもなく、たまたまそのような作用がその人に働いているからその人が生きていて生活が成り立っている現状があるわけで、それが何かきっかけでうまく作用しなくなってしまうとその人の生活が成り立たなくなって、他の制度も利用できなければ餓死するなり病気になるなりして死んでしまうわけだ。


1月24日「制度の矛盾」

 公共の利益とは理想としては誰もが分け隔てなく利用できるものでないとならないわけだろうが、そこに何らかの制限をつけると制限を設けたことで有利になる人々が出てきてしまうわけで、そのような制限は年齢制限や国籍の制限など色々な制限があるだろうし、ある年齢より上の人しか利用できなかったり特定の国の国籍の保有者でないと利用できないものだとすると、やはりそれだけで誰もが分け隔てなく利用できるものではなくなってしまうわけだが、なぜそういう制限を設けるのかといえば、例えば年齢制限なら未成年者にはとりわけ害になる度合いが高いと判断されたものについては年齢制限が設けられるだろうし、またその国の国民でないと利用できないような権利があるとすれば例えば選挙権などはそうだろうし、それはその国の国益に結びつくようなことに関して外国人の介入を許せば国益を損なうという考えに基づいているわけだろうし、それなりにもっともらしい理由がついてくるから大抵の人は納得できるわけだろうが、たぶんその制限を設けなければならないもっともらしい理由というのが、制限を設ける側の都合を反映しているわけで、要するに誰にも分け隔てなく利用されては都合の悪い事情がそこに生じているわけだ。そしてその都合の悪い事情というのが特定の利害に絡んでくる事情なのだろうし、制度というのはそのような都合を反映したものになるわけで、普通は制度を利用することで何らかの利益がもたらされるから制度が利用されるわけだろうし、そういう意味では制度を利用する人の都合が制度に反映されているわけで、さらに言えばそのような制度を管理運営する勢力の都合も制度には反映されているわけだ。だから制度を利用されては都合の悪い人がいるとすれば、そのような人が制度を利用することは禁止するような規約が法律として制度には設けられているだろうし、それが公共の利益に合致しているとみなすなら、そこで規定している公共の範囲内にはその人は含まれないことになるだろうし、それだけ公共の範囲が狭まるようなら、それだけ理想から離れてしまうことにもなるだろうが、その範囲内に含まれる人々にとってはそういう都合が優先されてしかるべき理由があるわけで、それをそれらの人々が共有しているとすれば、そういう都合が反映された制度の中では、公共の定義がそれだけ限定されたものになるだろうし、そうであるとすると制度というものは何らかの限定を施さないとうまく機能しない性質があることにもなるわけで、結局誰もが分け隔てなく利用できる制度というのはありえないのかもしれず、逆に誰もが分け隔てなく利用できてしまうようなら制度とは言えなくなってしまうだろうし、そこに何らかの制限をつけて限定された人々の利益を保護するのが制度の特性とも言えるわけで、そうであるなら制度によってそれを利用できる人とできない人との間に格差がもたらされるわけで、世の中の不均衡や不平等はそのような制度から生じていることにもなるわけだ。

 そもそも利益という概念が何であるかを考えてゆくと、何か特定の人や団体にもたらされるのが利益なのだろうし、またその人や団体が何らかの制度を利用することで利益がもたらされるとするなら、利益はその制度を利用できる人や団体に限ってもたらされることにもなるわけで、そうであるなら誰にも分け隔てなくもたらされるような利益などあり得ないことにもなりそうで、その種の利益が利益の全てならそうことになるだろうが、果たしてそれ以外の利益があり得るだろうか。そうなると利益の概念そのものに何らかの制限を設けないと意味がなくなってしまうのかもしれないが、少なくとも誰もが呼吸に利用している空気というのは、酸素ボンベなどが必要なスキューバダイビングなどの特殊な環境下以外では利益をもたらすとは考えられないし、その延長上で考えてゆくと、理想としての誰もが分け隔てなく利用できる公共の利益とは、何の価値もないものとなってしまいそうだが、その逆の特定の人や団体に優先してもたらされる利益とは、優先的にもたらされるからこそ価値が生じるわけだろうし、優先的にもたらされてもたらされない人や団体との間で格差が生じるから、その格差の分だけ価値が生じて、そこに生じた格差や価値が利益とみなされるのではないか。だから公共の利益という概念は現状では不可能な意味が含まれているのだろうし、特定の制度を利用して特定の人や団体にもたらされる利益が世の中の不均衡や不平等などの格差を生じさせているとも言えるわけだが、その一方で制度を利用しても利益がもたらされないどころか損害まで被ってしまう場合もあるわけで、それが制度の不具合であり改善しなければならないと考えるなら、仮に制度を改善して利用者に利益がもたらされるようになったとしても、その制度を利用できない人や団体が存在するようなら、相変わらず格差が生じてしまうわけで、ならば誰にも分け隔てなく利用できるような制度を目指してしまうと、制度特有の限定や制限がなくなってしまうわけだから、今度は利益が出なくなってしまう可能性があるわけで、そういうところで制度の矛盾が生じてしまうわけだが、そこから合理的に考えるなら、制度とはそれを利用できる特定の人や団体に利益をもたらす仕組みであり、またそれが特定ではなく誰にも分け隔てなく利益をもたらすような制度を目指してしまうと、利益そのものが出なくなる可能性があり、結局利益とは誰にも分け隔てなくもたらされるようなものではなく、何らかの制度を利用できる特定の人や団体にもたらされるものであり、そうであるなら理想としての公共の利益などあり得ないことになってしまうわけだが、可能性としては利益などもたらされなくても人は生きていけるのかもしれないし、そうなると生きていくのに必要な糧というのは利益とは別の概念になってしまうかもしれないのだが、普通に考えて物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費の過程に携わることでもたらされる何らかの収入というのは、利益と呼んでも差し支えない意味合いがあるだろうし、そこで人が生きていて生活が成り立っているとしたら、それぞれがそれぞれの事情や都合に合わせた限定的な利益を得ていることになるのではないか。


1月23日「公共の利益と私的な利益」

 制度を支える集団的な組織形態はその活動を支える糧がないと存続できないが、それが資本主義経済の中で活動しているなら、物や情報やサービスを生産して流通させて販売して消費する過程の中で収入を得ながら活動しているわけだが、行政としては税収や公債の発行によって活動するための予算を確保していて、どちらにしても金銭的な収入がその活動には必要となってくるわけで、そういう意味で制度には経済的な利益の獲得がその目的に絡んでくるわけで、それは慣習などに依存した宗教的な行事を伴う制度であっても、民間からの寄付金や公的な助成金などで支えられていたりする場合があるわけで、それらは経済活動に密接に関わり合ってくる面があって、それがなければ制度そのものが存続できないわけだから、経済活動を考慮に入れないような制度批判は説得力を伴わなくなってくるだろうし、制度の改正や新たな制度の創設を提案するにしてもその制度を維持運営できる財政的な裏付けがないと、提案の段階で実現性のない空理空論とみなされてしまうのではないか。だから公的な制度は軒並み税収や公債などに依存しようとするわけだが、そこで収入と支出を連動させない傾向にもなってしまい、無駄に予算を使って公共の利益に反するようなことをやってしまう場合もあるだろうし、何が公共の利益に合致するかについてはうまく説明できない面もあるだろうから、公的な制度を支える行政の活動に関しては合理的な説明が難しい部分もありそうで、そういうところで果たして民衆にとって行政の必要性をどうやって根拠づけるのかが、行政的な課題となっているわけでもないのだが、行政の在り方について突き詰めて考えると、やはりその必要性について合理的な説明が必要となってくるのではないか。そんなのは必要に決まっていると思われてしまいがちだろうが、なぜ行政が必要なのかについて考えるというよりは、どうやって行政が公的な制度とともに社会に定着したかについては、その成立の歴史的な経緯についてなら説明することが可能だろうし、必ずしもそれが必然的な成り行きではなく、偶然の積み重なりによって現状の形態に落ち着いた経緯についても説明できるのかもしれず、そのような説明からは必ずしも行政の必要性についての合理的な説明は導き出せないのかもしれないが、必要だからそこに存在して制度とともに成り立っているわけではなく、偶然の積み重なりによってたまたま社会の中で生じてしまった経緯があり、しかもその勢力が社会の中で主導権を握っているからこそ、その存在を正当化しようとする成り行きも生じてきたわけであり、その結果としてその存在と活動を正当化するための制度がそれを根拠づける法律とともに整備されてきた経緯も生じてきて、結局制度も法律も後付け的に付け足されてきたわけで、そうであるならこれからも新たな制度や法律が世の中の状況に合わせて後付け的に付け足されてくる可能性もあるわけで、そう考えるなら全ては今ある現状から未来へ向かって変更を被るような成り行きになっていて、それらの存在や活動の根拠づけそのものは過去の正当化にしかならず、未来に向かっては何の意味も持たないようなことなのかもしれない。

 そんなわけで公共の利益というのもそれが必要なら、これから新たに生じさせてゆかなければならないのだろうが、それをどこから生じさせるのかといえば、やはり経済活動からしか収入は生じないわけで、そうなると民間では物や情報やサービスを生産して流通させて販売して消費する過程以外に、収入が生じる余地はないのだろうし、それ以外では行政的な手法による税収や公債の発行からとなるわけで、その中で公共の利益に結びつくものとしては、一般的には行政的な手法によってひねり出すようなやり方が主流だったわけだが、税収も公債も民間の経済活動と連動していて、そこで生じる私的な利益をどうやって公共の利益に結びつけるかが恒常的な課題となっているわけだろうが、その一部を強制的に税として徴収して公共に役立てるやり方が、歴史的な経緯としてはそういうことを行う過程の中で、後付け的に公共の利益の必要性とともに付け加えられてきたわけだろうし、何も初めから税の使い道として公共に役立てようとしてきたわけではないだろうし、初めは王朝や領主の維持経費などに税収が使われていたのではなかったか。それが民主的な国家体制の成立に伴って民衆を納得させるための方便として、公共の福祉などが唱えられるようになってきたのだろうし、制度としては民衆の中から選挙によって代表者を選んで、その代表たちが議員となって構成される議会で税の使い道が検討されて、そこで決定されたことが行政によって実行される成り行きなのだろうが、結果的には議員で構成する議会には政党が生まれて、また行政の中ではすでに官僚機構が生じていて、政党にも官僚機構にも企業と同じように私的な利益を追求する特性が備わっているわけで、そこでいう私的な利益とはそれらの機構が集団的な組織形態としての活動を支える糧となる収入となり、実際にその収入が税収や公債から賄われている実態もあるわけで、そうなると税収や公債で賄われる予算の中でどこまでが公共の利益に使われてどこまでが私的な利益に使われるかは曖昧になってしまうのかもしれず、簡単にいうなら議員や官僚たちの公務員としての報酬は私的な利益となるわけだろうが、では政党の活動や各省庁の活動に賄われる経費はどうなのかというと、それと企業活動に賄われる経費と比較すれば、少なくとも集団的な組織として勢力争いしている分にはそれらの区別はつかないわけで、それに関して党利党略や省利省略を巡らせているとしたらそれは私的な利益の追求となるだろうし、そういうところで勢力争いをしているほど公共の利益からは遠ざかっていってしまうことはわかるだろうが、組織として他の組織との争いを避けることはできないだろうし、そういう部分では私的な利益と公共の利益を明確に区別できなくなるわけで、そうした中で私的な利益よりも公共の利益を優先させることがどういうことなのかについて明確な説明を求めることも難しくなるのではないか。そうだとすると現状では倫理的あるいは哲学的に公共の利益がどういうことなのかを説明できるかもしれないが、それを実利として具現化するまでには至っていないのかもしれないし、それ以前の段階で集団的な組織形態の私的な利益が優先されている傾向にあるのではないか。


1月22日「制度への抵抗」

 集団による組織形態によって制度が管理運営されているのだから、その中では組織の論理が個人の論理より優先されるのは当たり前のことなのだが、その一方で個人が単独の形態で存在していることも確かであり、実際にそんな組織的な活動を利用することで特定の個人に利益がもたらされている場合があるわけで、それが企業との関連でいえば株主の利益であり、個人にもたらされる株配当や株の売却益があるだろうし、また集団内で役割分担されて機械の歯車のように活動している人でも、個人として労働の報酬がもたらされるわけで、給与や賃金は個人に支払われるわけだ。そこに個人と集団との関係で微妙な意味合いが含まれるのだろうし、場合によってはそこから組織や集団の論理がまやかしであることも明らかになるかもしれず、集団に奉仕しているはずの組織内にいる多数の個人が、最終的にはその集団を率いている指導者の役割を担う特定の個人に利用されているに過ぎないことに気づけない事態も生じるわけで、別に指導者の役割を担う特定の個人が意図的に集団を利用する気がなくても、指導者という役割が自分のために集団を利用するような成り行きにしてしまうわけで、場合によっては私利私欲のために集団を私物化しているような状況にもなってしまうだろうし、周りの人たちがそういう役回りに指導者を仕立て上げるような動作も生じてしまうのではないか。そうなってしまう典型例としては絶対君主制のような形態もあるのだろうが、現代において何か独裁体制のような形態が成り立っている状況があるとすると、トップに立つ人物のカリスマ性などよりも周りの人たちがそれを必要とするような事情が集団的な組織体制に生じていて、実際に組織の内外で強引なことをやるには独裁者的な存在が必要となってくるわけで、万が一やっていることが失敗に終わればその責任を独裁者に負わせることが比較的に容易になるから、それを初めから意図しているわけではないものの、やっていくうちに組織的にやっていることが暴走し始めてもはや引き返すことができなくなってきた時に、さらにそれを継続させるには無理を承知で強引にやってしまうような指導力が必要となってくるわけで、そのような指導力をどこから生じさせるのかとなると、有無を言わせずそれをやらせるような雰囲気を纏ったカリスマ的な指導者の存在が必要不可欠となってくるのだろうし、実際に未曾有の人為的な被害を伴うような戦争などを推し進める過程でその手の独裁者的な存在が現れる場合があるわけで、そういう意味で独裁者的な存在のカリスマ性というのは、そのような雰囲気を醸し出すことを狙った当人の演技から生じるというよりは、集団の組織的な活動がそれを必要としている面があり、その活動が既存の社会秩序などをぶち壊すような内容であるほど、それを行わせる理不尽な力を必要としていて、その力が備わっているように装わせるのがカリスマ的な指導者という役柄になるわけだが、実際にそれを行うのは集団的な組織活動であるわけだから、そのような活動の中で特定の人物がカリスマ的な指導者に仕立て上げられるわけで、それも集団的な組織形態から生じる一つの特性なのではないか。

 そういうところで集団と特定の個人とのつながりが生じる場合があるわけだが、その一方で集団内で組織的に役割分担される多数の個人と集団との間では、集団による多数の個人に対する支配体制が成り立っているわけで、その中では個人の自由を制限して集団内の役割を担わせて、その役割に応じた一定の動作を個人に行わせるような仕組みとなっているわけだが、もちろんその役割を全うしている限りでそれなりの報酬が集団から支払われるような契約を集団との間で結んでいれば、契約上は集団と個人とが平等な関係になるわけだが、個人の方でそのような契約を結ばざるを得ないような境遇に追い込まれているとすれば、そのような境遇を作り出している社会環境が個人の側に不利に働いているのかもしれないし、それが有利不利の関係では理解できないような様相を呈しているなら、例えば企業に対して株主として関わるか役員として関わるか従業員として関わるかによって、企業に関わっている個人への企業としての待遇が変わってくるわけで、また株主として関わっているとしても持ち株の量や比率に応じて待遇が変わってくるだろうし、そういう意味で単純な有利不利の関係ではなく、また単純な集団の個人に対する支配体制でもなく、制度の中での役割に応じた個人の立場や待遇の差別化が生じているとも言えるわけで、そうである限りで個人の方は自分に割り振られた立場や待遇を越えて団結できない状況ともなってくるだろうし、結局個人で集団に対抗するには同じ立場や待遇の別の個人と利害を共有して連帯するしかないわけだが、そういう意味で団結しやすい立場としては消費者という立場があるわけで、それも同じ商品を購入している限りで団結できるのかもしれないが、そうであるなら企業の方でも商品の価格や品質に格差を設けて、消費者の利害の違いや虚栄心につけ込んで消費者を分断することもできるわけで、価格が高くて高品質の商品を買える裕福な消費者が安くて低品質の商品しか買えない消費者を貧乏人だと見下したりして、逆に安くて低品質の商品しか買えない消費者が高くて高品質の商品を好んで買う消費者を金持ちだと妬むような成り行きになれば、そういうレベルでは消費者の団結を阻止できるかもしれないが、人口の比率からいえば安くて低品質の商品を買う消費者の方が圧倒的に多い可能性が高いわけだから、単純にはそうはならないわけだろうし、また安くて低品質の商品を買う消費者は金持ちを妬むと同時に憧れているようだと、逆に同じレベルの消費者を蔑んでいる場合もあるのかもしれず、そうなると消費者の団結はそれほど強固なものにはならない可能性もあるだろうし、だから単純に同じ境遇や立場の人たちが団結して自分たちを支配しようとする集団に立ち向かうような成り行きにはなり難いのかもしれないが、何か社会の中で主導権を握っている勢力に対して弱い立場や境遇の人たちが団結して抗議活動などを行う場合は、主導権を握っている勢力に対抗できる他の有力な勢力がその人たちの味方につかない限りは、活動が実を結んで何らかの成果を上げるには至らない可能性が高いのかもしれないし、普通はマスメディアなどがそのような活動を大きく取り上げることで味方を装う場合が多いのだろうが、その一方でそれらのマスメディアが主導権を握っている政治勢力と懇意の関係を結んでいると、大衆の不満を和らげるガス抜き効果を狙っている場合もあるだろうし、その辺の成り行きもどこまで実質的な効果を持つかはその場の情勢次第になるのではないか。


1月21日「集団への依存」

 選挙という公的な制度に関して、それを利用して社会に影響を及ぼそうとしている主な勢力としては、政党とマスメディアが挙げられるだろうが、マスメディアに関しては商売に利用する情報の中の一つという位置付けであると同時に、世論調査に連動した関わりもあるだろうし、そうした政治関連の報道を通して政党や行政とも関係を持ってくる面で、何かとそれらの勢力に配慮しなければならない事態も生じてくるとすれば、そういう部分で単純に批判的な姿勢をとるわけにはいかない事情も生じてくるだろうが、一方でマスメディアの利用者である一般の民衆との関係でいうなら、政治批判を期待している民衆の期待を裏切るようなことは避けなければならないと同時に、政治的な主導権を握っている政党の支持者を取り込むには、その政党に対する批判は控えるような配慮も必要となってくるだろうし、その辺で微妙な言い回しが必要となってくるのかもしれないが、やっているのが商売だと割り切っているなら、一見もっともらしく理解できそうな報道機関としての公正中立な姿勢というのが何を意味するかについて、恣意的な解釈やずらしを施してうまく取り繕うようなやり方も生じてくるかもしれないし、そういうところで何らかのバイアスがかかった報道内容を一般の民衆の方で適切に理解することが重要となってくるのかもしれないが、それを真に受けたり鵜呑みにしたりすることがいけないわけではないだろうし、マスメディアの方でもそれを期待しているわけだから、期待通りにマスメディアを信用してあげることも一般の民衆としては模範的な態度と言えるのではないか。そうやって考える手間をかけない方がその場では効率的でコストもかからず、何よりもマスメディアとの関係が良好となるだろうし、またマスメディアが礼賛するような物事を民衆も礼賛して、マスメディアが批判している物事を民衆も一緒になって批判する姿勢が、現代社会の中で支配的な大衆メディア社会を作り上げていると言えるだろうし、それはマスメディアを通して作り上げられる世論の形成にも、そのような民衆の姿勢が一役買っていると言えるのではないか。またそれは民衆が個人として物事を考えずに集団としてマスメディアの判断に依存している状態も示していて、そのような依存状態がある方がマスメディアとともにそれと関係を持っている政党や行政にとっても好都合だろうし、そのことがマスメディアと政党と行政の三者が一体となって民衆を共同で管理統治できる可能性を生じさせているわけで、それを実現させるには主要なマスメディアの間での連携が欠かせないだろうし、マスメディアの間で共同歩調をとるような環境を整備する必要が生じて、その結果として国会などで記者クラブが開設されたのだろうし、それがマスメディアの利権を保護するための制度として有効に機能している実態があるのではないか。そうだとするとそのような制度で利益を得ているのは、やはり記者クラブを管理運営している側なのだろうし、そこからもたらされる情報を真に受けたり鵜呑みにしている一般の民衆側でないことは確かなのかもしれない。

 そして選挙という公的な制度を最大限に活用しているのは政党なのだろうし、議員個人ではなく集団で構成する組織的な政治勢力として、議会内でも政府内でも主導権を握ろうとしているわけで、多数の議員をその傘下に従えて数の論理で権力を行使しようとするわけだが、それが良い悪いではなく、確かに集団で構成される組織的な形態にしないと、同じように集団で構成される組織形態である行政の官僚機構には対抗できないだろうし、そのような必要から自然発生的に政党が生じる経緯があるにしても、議員が個人として物事を考えずに集団として政党の判断に依存してしまうと、その方が政党の判断や方針に逆らうような異論が出ずに、組織としての政党には好都合なのかもしれないが、それでも絶えず個人の判断と政党の方針との間でジレンマが生じる可能性はあるだろうし、そうでないと集団の中で埋もれてしまうだろうし、そういう意味で議員にとって政党は利用できる面と場合によっては反発しなければならない面の背反する二面性を常に意識し続けないと、その主体的な活動に支障をきたすような存在なのではないか。それは政党の党員なのか議員個人を優先するかの二者択一を選べないのはもちろんのこと、二つの身分を安易に融合するわけにはいかない事情も生じるかもしれないし、突き詰めて考えるとそれは倫理の問題にもつながってくるかもしれないが、それは行政の官僚機構の中に身を置いている公務員にも言えることかもしれず、絶えず個人で判断できる余地を残しておかないと、集団的な組織の論理に巻き込まれてしまった時に、組織の意向に逆らうわけにはいかなくなってしまうのだろうし、そこで安易に妥協をしてしまうと集団への依存度が高まるとともに主体的な活動ができなくなるわけで、結果的に集団内での発言力が弱まってしまうことにもなりかねず、集団内で主導権を握るにはその中で力のある人物や勢力に従っているだけでは、いつまで経っても下っ端に甘んじていることになってしまい、他の構成員を味方に引き込めるような駆け引きや交渉術やカリスマ性などが必要なのだろうが、そのような組織内で勝ち抜く術には欠けている何かが個人の倫理としてあるわけで、それが場合によっては組織と対決したり組織から脱退する上で必要であり、その辺の微妙な意識がないと、何も考えずに組織の歯車として機能したり、組織のために個人を犠牲にすることに関して何とも思わないような人間となってしまうわけで、そのような組織人間が多く組織内にいるほど、確かに組織そのものは団結力が増してより強力になったように感じられるわけだが、実際にはそれは幻想であって、硬さが増した分柔軟性がなくなってもろくなっているのかもしれないし、もろくなっている分ちょっとしたことで崩れやすくなっているというよりは、形骸化が促進しているのかもしれず、集団への依存度が高まると、結局は誰も主体的に物事を考えなくなってしまうということであり、そうなると組織的な動作の誤りに気づけなくなってしまうし、それに気づいたとしても組織に対して対等な立場でものを言えなくなってしまい、そしてついには組織的な暴走に歯止めがかからなくなって、最終的には組織の破滅とともに心中する羽目に陥ってしまうわけだ。


1月20日「選挙のまやかし」

 公的な制度を社会に定着させるには、その制度に民衆を従わせるための法律が制定されることが多いわけだが、その法律の内容としては民衆が守れることを想定した内容となるだろうし、できれば権力を行使して強制的に守らせるようなことはせずに、民衆の方から喜んで法律を守ることを受け入れるような内容にできれば、法律を制定する側が民衆から支持されるだろうし、民衆からの支持を背景として政治的あるいは行政的な主導権を握ることにもなるのではないか。そのような制度を行政が必要としているとしたらそれは具体的に何になるだろうか。それに関してありふれたことを述べるならそれは民主的な政治制度となるわけで、公正で平等な選挙によって議会の議員や行政の長などが選ばれて、そこで政治が行われるような成り行きになれば、一応は民主的な政治制度が成り立っていることになるのだろうが、実際にそのような制度が成り立っているように見せかけられている面はあるのだろうが、世界各国では内情が違っている場合が多いのだろうし、そのかなりの部分で政治を行政側のコントロール下に置いている実情があるわけで、行政が政治制度を通して民衆をコントロールしようとする思惑が働いていて、政治が民衆に対する管理統治の手段となっている面が大きいのではないか。そのような実態が何を意味するのかというと、制度自体に民衆の支持を取り付けているというお墨付きを持たせるには議会の了承を必要としていて、それには民主的な議会選挙が必要であり、また行政による民衆の管理統治という実態を民衆に受け入れさせるには、民衆の代表者が行政の長になっていれば、形の上では民衆の代表者による行政の管理統治が成り立っていることになるわけで、そうなっていれば行政の意向にも民衆が従いやすくなって、結果的にその管理統治もやりやすくなるわけだろうが、実質的には本当にそれで民衆による行政の管理統治が成り立っているかというと、選挙などで選ばれる民衆の代表という立場を占有している人が、本当に民衆の代表者なのかということになるわけだが、民主的な選挙が行われていれば形式的にはその通りだとしか言えないわけだが、実質的にはそうでもない現状があるわけで、実際に選挙で選ばれて行政などの官僚機構の出身者が行政の長や議会の議員になっている場合は多いのだろうし、またそれ以外の一般人が議員や行政の長になっている場合でも、その周りに行政機構の官僚たちが補佐役として配置されて、議員や行政の長がそれらの官僚たちの助言や提言を受け入れる成り行きになっているわけで、そうなると選挙で選ばれた代表者たちの意のままに行政を運営するわけにはいかなくなるだろうし、しかもそもそもの行政の機能や役割というのが一般の民衆の意向を反映させるような余地がない場合まであるわけで、そうなると誰が行政の長になったとしてもその役割や機能に差がなくなってしまうような事態まで生じかねず、そうなると特に行政の長が誰であっても行政自体の役割や機能は変わらないことになるわけだ。

 実質的に行政に民衆の意向を反映させることは何を意味するのだろうか。それ以前に民衆の意向とは何かということが曖昧なのかもしれないが、それに関してはメディアの世論調査などから浮かび上がってくる民衆の意向らしき要望の類を真に受ければ、そういうものだと信じるしかないのかもしれないが、果たして行政に必要なのは民衆の意向に従うことなのだろうか。それに関しても民主的な政治制度の目的を肯定的に解釈するならそうだとしか言えなくなるわけだが、どうもそのようなアプリオリな前提が疑問に思われるような役割や機能が行政にはあるのかもしれず、それが民衆の管理統治という動作なのだろうし、それを正当化するために必要なのが選挙などの民主的な政治制度であるわけで、果たしてそのような制度を民衆が積極的に利用できるのかというと、どうも現状ではそうでもない面があると言わざるを得ないだろうし、もしかしたら選挙という制度自体に民衆を欺くためのまやかしが含まれているのではないかと疑いたくなるわけだが、ではそれ以外に何があるのかという問いを設定してしまうと、当然のことながら選択肢が限られてくるわけで、そういう方面を突き詰めて考えてしまうと、選挙以外にはあり得ないという答えに行き着いてしまって、それこそ民主主義の罠にはまってしまうのかもしれないが、そこに制度があるからそれを利用するという受動的な態度から自由になるためには、制度自体を疑ってみるしかないことも確かで、まずは民衆の意向を行政に反映させることが本当に必要なのかというだいぶ反動的な問いを設定してしまうわけだが、そうなるとやはり行政に反映させるべき民衆の意向とは何なのかという循環論的な問いも出てくるわけで、結局そのような制度はそのような問いを巡って循環しながら、正確な答えが出てこないようなシステムとなっているのかもしれないし、それに対する苦肉の策として選挙を行なって暫定的な答えを出すような成り行きになっているのかもしれず、その暫定的な答えが果たして民衆の意向を反映しているのかは、選挙結果を肯定的に受け止めればそう思うしかないだろうし、結果を否定的に拒絶するような人にとっては、何やらそこに陰謀らしき策略が巡らされていると疑ってしまうような成り行きにもなるだろうし、どちらにも受け取れるところが選挙のいかがわしさを印象付けているとも言えるのかもしれないが、行政側としては選挙結果からはっきりとした民衆の意向が導き出されない方がいいのかもしれず、そうである限りにおいて行政側の民衆に対する優位が確立されていることになるのかもしれない。要するにそれは民主的な政治制度の無効を意味しているわけだが、無効であるからこそそのような制度は維持させるべきで、無効な制度を維持することがその制度の利用者をコントロールすることにつながるとすれば、その無効な制度の利用者には利益がもたらされていないこととなり、ではその利益がどこへもたらされるのかと言えば、制度を管理運営している側にもたらされているわけだ。


1月19日「制度の形骸化」

 制度の形骸化が儀礼への執着を生むのかもしれないが、何か礼儀作法のような決まりきった動作を頑なに守ろうとする態度は動作の目的が薄れてきたことを示していて、かえって何も考えずに同じ動作を繰り返すことが、特に目的を意識しなくても動作の継続を保つ上で重要となってくるわけで、それはすでに儀礼を継続することが目的化してきているとも言えるだろうし、実際にそれを繰り返していることが動作がまだ有効に機能しているような実感を伴うわけだが、そのような繰り返しの動作自体の自己目的化が当初の目的に取って代わってしまったことを明かしているとも言えるわけで、何のためにそんな動作を繰り返すのかを考えなくてもいいように、延々と同じ動作を繰り返すことに執着しているわけだろうが、実際にそうなってしまうとそれを繰り返している共同体の内部では、暗黙の了解事項としてそのような動作が通用するにしても、外部の者には全く理解不能な動作となるわけで、そうなってしまうと動作そのものはある程度の長期間は維持できるだろうが、外部へ向かっての発展性が消失してしまうわけで、実際にそうなってしまったものは伝統芸能とか密教的な宗教とかの閉鎖的な形態を保ちながら続いていくのだろうが、次第にジリ貧となることは確実で、そのようなごく限られた人々の間で保存される制度は社会全体への影響力が欠如しているわけだ。そうだとすると逆に社会全体に影響を及ぼすような制度とは何かとなるわけだが、それは実際に社会全体に普及している制度だと言えるだろうし、例えばそれは商品と貨幣の交換に関する経済行為に伴って動作する制度だろうし、またそれは行政機構が法律に基づいて領土や領民を管理統治するための制度になるだろうが、それらさえも絶えず新たな制度に取って代わられる可能性がないとは言えないだろうし、それに関しては効率とかコストなどを考慮したり世の中の流行現象などから影響を受けて、新たな制度が生じる可能性があるわけだろうが、実際にも商品と貨幣の交換に関しては分割払いだとかクレジット決済などの制度が生じてきたわけで、また行政機構の管理統治形態にも国家の枠を超えたより広域な統治形態として帝国という支配形態や、それよりもゆるい統治形態としては連邦制とか、また多国間の同盟形態として国連という枠組みも模索されている最中だし、実際には取って代わるというよりは複数の制度が競合状態になることの方が多いのかもしれないが、逆に言えば一つの制度だけでは世の中がうまく回っていかないことも示しているわけで、なるべく複数の制度を混在させて、その中から状況に応じて最適な制度を選べるような成り行きになれば、効率やコストや利便性などの観点からすれば理想に近づくかもしれないが、実際には制度が機能する状況が社会の中で生じていないとその制度が利用されないわけで、利用されない制度は廃れるしかないわけだが、無理に儀礼目的で存続させようとするにしても、結果的に何らかの制度が社会の中で動作している状況があるとすれば、実際にその制度を利用している人が存在しているから制度が動作しているわけであり、少なくともそれ以外ではないことは確かなところなのではないか。

 そうであるなら現状で成り立っている制度で実際に間に合っているはずなのだろうが、それだけでは不都合や不具合が出てくるから既存の制度の改善や新たな制度の模索が生じるわけで、絶えずそのような試みが生じないと社会がそこで停滞してしまうとも言えるわけで、それでも構わないのならそう思っている人は、すでにある制度から生じる既得権益の恩恵に与っている人たちだろうし、そうではない人や現状に不満がある人は絶えず自らに有利な状況へと社会情勢を持っていきたいわけだろうし、そのようなことを積極的に行なっている人や団体が社会を動かしているとも言えるかもしれないが、そのような行為からも絶えず不都合や不具合や不均衡や不平等が新たに生じてくる可能性もあるだろうし、結局は利害関係を伴った様々な方面から及ぼされる作用のせめぎ合いによって社会の流動性や可動性が生じているわけだろうが、そこで一定の価値基準が定められている場合はその価値基準の変更を求めるような作用も生じているのだろうが、たぶんその場を支配するような制度とともにその制度を支えるような価値基準も支配的なものとして機能するのだろうし、そうなるとそのような支配に抵抗する勢力も台頭してきてその場を支配する制度や価値基準と対立関係を形成するわけで、そのような対立状態もその場で機能する制度ともなるわけで、対立するどちらかの陣営に属さないと、そのような制度からは外れてしまうわけだろうが、だからと言ってそれだけが制度であるわけでもなく、他の制度も社会の中で並存していればそちらから利益を得られる成り行きにもなるだろうし、支配的な制度がメディアを通じて大々的に喧伝されているような場合でも、そのようなことが行われている時点で別の制度があるからその制度が強調される事態ともなっていることを示していて、そういう面ではその制度の効率性とかコストパフォーマンスとか利便性などよりも、流行現象の面がより大きく関与している可能性が高いだろうし、そういう現象を注意深く探ってみると、その制度のマイナス面が意外に多く指摘されていることも目につくだろうし、そういう意味で何か流行現象のような動きがメディアを中心として出てきたら、あまり深く考えずにそのような現象を煽っているメディアが多いことに気づかされるだろうし、民衆の方でもあまり深く考えずにそのような流行現象に乗っかって支配的な制度を利用してしまうと、後から思わぬ副作用や弊害が出てきてそのことで苦しめられる結果を招いてしまうのではないか。例えばそれがサラ金などを利用しすぎて多重債務を招いたり自己破産に追い込まれたりすることにもなるわけで、また政治家が支援者の地元企業への口利きをやりすぎて、行政と癒着して公共事業の予算を増やしすぎた結果として莫大な財政赤字を出してしまったり、企業の方でも行政と癒着しすぎると産業自体の競争力がなくなって、海外の企業との価格や品質などの競争に太刀打ちできなくなってきて、苦し紛れに製品の偽装や業績の粉飾を繰り返して自滅するような成り行きにもなってきているのかもしれないし、そういうところでも同じ動作を繰り返すための偽装と粉飾という制度の形骸化と儀礼への執着を生むような結果を招いているのかもしれない。


1月18日「目的の変更」

 特にはっきりとした利益を伴わないような制度は、なぜそれが世の中で動作しているのかわかりづらいかもしれないが、その機能すらはっきりしないような制度として何らかの慣習を伴った制度があり、その代表的なのが宗教的な儀礼の類いになるのではないか。そのような制度はかつてはそれを行うことによって何らかの利益が生じていたのかもしれないが、歳月が経つにつれてその儀礼を伴った宗教が廃れてはっきりとした利益が得られなくなった後も、慣習として儀礼だけは継続して行われる成り行きとなり、それ自体が形骸化した制度として存続している場合があるのかもしれない。そのような制度も全く利益を生じないわけではなく、儀礼自体が見せ物として観光的な機能を持っている場合もあり、その儀礼を観に多くの人が集まれば、そこに祭りとしての興行収入が生じるわけで、そのような観光収入で成り立っているような都市も世界各地には存在しているだろうし、中には人々の娯楽的な欲求を満たすために街全体が観光収入を目当てに作り変えられてしまった都市まであるのではないか。もちろん世界の全ての都市がそうなる傾向があるわけではなく、観光都市として成り立つには古い歴史的な建造物が多くあったり風光明媚であったりカジノなどのギャンブル施設が備えられていたりと限られた条件が重ならないと観光都市にはなれないわけだが、都市自体がその周辺域から人が集まってくるような魅力があることは確かで、そこが交易の中心地となるからそこに人が集まって商売が行われることになるのだろうが、商業で街が栄えると人が常駐するために建造物が多く建てられることにもなるだろうし、だから都市になると言えばそれは当然のことなのだろうが、そこで交易に伴う商業の制度や都市の治安を守るために行政の制度が生じることにもなるわけで、さらにそこで蓄積された富を目当てに様々な勢力が集まってきて、自分たちの利権を作り出そうとするわけだが、その利権の一つが税を徴収することであり、都市を武力で制圧して税を徴収してその財源で王朝を打ち立てるような行為が歴史的に繰り返されてきた経緯があり、そのような王朝の儀礼的な部分が形骸化を被ると同時に税を徴収するという実利を求める部分だけが残って、結果的に近代的な国家形態が生じた経緯もあるわけだし、そういう意味ではっきりとした利益を伴わないような制度は、制度が歴史的な変遷を経て形骸化を被った成れの果てを示している場合もあるだろうし、現時点ではその機能がはっきりしない制度も、歴史のある時点でははっきりした機能を伴っていて、それなりに利益をもたらしていた時期もあったのかもしれず、制度にも時代の変遷を経るに従ってその役割や機能に変化が生じるとともに、その有効性にも限りがあり、他の制度に役割や機能を奪われたり、形骸化を伴いながらも儀礼的に存続している制度も中にはあるわけだ。

 そうだとすると制度の目的というのは、制度が形骸化を被った後では当初の目的自体が無効となってしまうのだろうし、それでも制度自体が存続している場合は別の目的が付け加えられている場合があるわけで、例えばそれが観光目的や娯楽目的の制度となっていたり、中には儀礼を継続することだけが目的化していたりするわけで、何かその辺で制度自体の存在意義が薄れてしまうような作用が働いているのかもしれないが、そうであるならはっきりした目的があってそれが社会の中で有効に機能しているような制度であってもそれが永続するとは考えにくいだろうし、現状で有効に機能している制度であっても絶えず形骸化作用が働いているとすれば、制度を管理している機構の方でもそれへの対処が欠かせないだろうし、実際に制度を維持するためにあらゆる手段を講じているだろうし、そのために必要なのが権力の行使であるのだろうが、それをずらすような作用が目的の曖昧化なのかもしれないし、それに関して近年目立ってきたのが戦争の目的がはっきりしなくなってきたことであり、戦争本来の目的である敵国へ侵攻して領土を奪う行為が、国際的に非難されるようになってきたわけで、その非難をかわすための言い訳として出てきたのが国土を防衛するための戦争であり、侵略戦争は許されないが防衛のための戦争なら許されるという屁理屈がまかり通ってしまう傾向にあり、侵略戦争がなければ防衛のための戦争などありえず、両者が一体となって戦争が成り立つのに、その片側だけは正当化したいという現実に行われる戦争の実態を無視した無理な解釈を通用させようとしていて、戦争の定義という言葉の意味のレベルで戦争の目的をずらす行為が行われているわけで、それも実際に戦争を行わずに軍事演習ばかりを定期的に行なっている軍隊の儀礼化とともに戦争という制度の形骸化を物語っているのかもしれないが、実際に戦争が行われている地域では外国へ軍事侵攻するのではなく、国内で武装勢力同士の内戦が行われている傾向があるわけで、それが侵略戦争ではない祖国防衛のための戦争という大義名分をかろうじて成り立たせているのかもしれないが、その現代的な戦争の傾向である内戦の慢性化という自体が何をもたらしているのかというと、単に国土の荒廃をもたらしているだけで特にどの勢力に利益をもたらしているわけでもないだろうし、あえて言うなら武器を供給している側に利益をもたらしているのかもしれないが、結局それは外部から武器が供給されているわけで、そうであるなら別に外国から軍隊が侵攻してくるわけではなく、単に外国から武器が供給されてくるだけで、武器を供給する側の目的は武器を使って消費してくれるだけでいいのであり、特に戦火で荒廃した領土が欲しいわけでもないだろうし、そんな国土など何の利用価値もないわけだから、わざわざ武力侵攻する目的が生じないわけで、そこでも戦争の目的がずれてしまっているのだろうし、制度の目的がずれてその形骸化が進行していると言えるのではないか。そしてそこに武器の代わりに一般的な商品を当てはめてみれば、普通の意味での経済的な輸出戦略が姿を表すわけで、商品を輸出する側にしてみればその国に武力侵攻するのではなく、供給した商品を消費してもらえればそれによって利益を得ることができるわけだ。


1月17日「制度の現状」

 制度を管理運営しているはっきりとした機関が存在する場合は、そのような制度の仕組みや動作は法律によってはっきりと規定されているだろうが、世の中の慣習に基づいているような制度だとわかりにくい部分もあるだろうし、場合によってはそれが制度だとは認識できないかもしれないが、そこで暮らしている多くの人が何らかのしきたりのようなことを頑なに守り従っているような場合は、そのような慣習がその地域に根付いていると考えることもできるが、それを一種の制度だとみなすこともできるだろうし、そういうところで制度と慣習の境界が曖昧になるのかもしれないが、それが宗教などになると自然崇拝などの曖昧なレベルでの信仰が主流となっている段階では慣習的な傾向が強いが、教団などが組織されて集団内の信者の間で役割分担などがはっきりしてくると、戒律などが整備されてそれに基づいた宗教教団の管理運営体制が固まっていくにつれて制度的な傾向が強くなるのではないか。そのような例から考えれば、社会の中で何らかの集団が活動していて、その集団内での役割分担がはっきりしていて、集団として統率が取れているようだと、そのような集団は組織化された制度的な集団だとみなすことができるだろうし、それに比べて特にはっきりした目的がなくて何となく群れているような集団だと、あまり組織化されているとは言えないだろうし、集団内の掟もなければ規律も統率も取れないだろうし、その代わりに自由はあるかもしれないが、そのような集団で間に合っているうちは制度は不要なのだろうし、それで済むならそれに越したことはないのだろうが、それでは済まなくなってくる事情というのが、集団内で起こる争いや諍いなどであり、また他の集団との争いや諍いなども起こるわけだが、そんなことをきっかけとして徐々に法整備が始まってしまうのだろうし、そうなると集団そのものの管理統治が問題となってくるのだろうし、集団の規模が大きくなるにつれてそれを専門に行う組織も編成されてきて、それが官僚機構となるわけだろうが、果たしてそういう成り行きが自然な推移なのかは、歴史的な経緯がそれを示しているとすれば、それが自然な推移であることは認めざるを得ないのかもしれないが、それとは別の方向がないわけではなかったのかもしれないし、現状でもそのような集団的な制度化とは別の方向への作用も働いているのかもしれない。というのも実際に世界が一つの制度では統一されていない現状があるわけで、国も制度もある程度はばらけている現状があるわけだから、そんな現状が制度化の限界を示しているわけで、国連などを通じて世界の統一的な制度基準を作ろうとする動きはあるのかもしれないが、各国の利害が錯綜していてそれに伴って同盟関係や敵対関係も複雑に絡み合っているわけだから、なかなか世界が一つの制度で統一されるには至らないだろうし、その先の一つの行政機構による世界統一も現時点では時期尚早というよりはほとんど考えられないことなのではないか。

 現状から考えられることは国ごとの制度化は一応は実現しているわけだろうが、国家の枠を超える制度化にはうまくいっていない面が多いだろうし、国家の内側でも官民の様々な制度が乱立している状況にもあるわけで、形式的には一つの制度によって国家の統一が図られているわけだが、その制度を規定している法律も、行政機構による権力の行使によって維持されているだけで、法律が守られないことを前提として罰則規定を設けなければならないわけだから、制度による国家や国民の管理統治が完璧に行われているわけではなく、厳密に言えば隙だらけで綻びだらけの制度であり法律なのではないか。そしてそれを完璧なものにする必要はないだろうし、現実にできないのだから現状では絶えず違反者を取り締まらなければならないわけで、そのような取り締まりを通して行政機構が制度を維持管理している実態があるわけだ。つまり自動的に制度によって管理統治が行われているわけではなく、公務員の絶え間ない労働によって管理統治が行われているわけだろうが、それが何を意味するのかと言えば、常に管理統治が行き届かない面があるわけで、実際に違反者を取り締まる度にそのことが発覚して、全ての違反行為が取り締まられているわけではないことを考慮すれば、もしかしたら管理統治されている部分よりもされていない部分の方が大きいのではないかとも考えられてしまうわけで、要するに四六時中管理統治が実現しているわけではなく、取り締まりが行われた時だけ管理統治が実際に行われているのかもしれないし、それ以外の時間帯では国民が善意から制度に従っていることを祈るしかないとも言えるのではないか。もちろん形式的には違反行為を行なっていなければ制度に従っていることになるわけだから、別に従っている意識がなくても従っていることになるのだろうが、結局そういうところは心理的なレベルでそうなっているとしか言えないのかもしれず、客観的に制度に従っているとは言えないのかもしれないし、制度やそれを規定している法律を意識しなくても、普段何気なく暮らしている限りで結果的に違反行為を行なっていなければ制度に従っていることになり、たまたま何かのきっかけで違反行為を行うような成り行きに巻き込まれてしまえば取り締まりの対象となってしまうだろうし、人が意識して制度に従うように心がけるような場合は、普通に暮らしている中ではあまりないのかもしれない。そうだとすると制度やそれを規定している法律は、何も守ることを意識しなければ守れないようなことばかりではなく、また従うのが苦痛であるようなことばかりが規定されているわけでもなく、その大半が普通に暮らしていれば特に意識しなくても守れるようなことや、意識して従うように心がけなくても従えるようなことであり、そのようなことが法律で規定されて制度として守られていれば、少なくともそういうことに関しては特に取り締まる必要はないわけだ。だから世界の多くの地域で平和が実現しているわけだろうが、その反面で複数の制度の間で深刻な相違があるところでは、それぞれの制度の擁護者の間で争いが絶えないわけで、実際に紛争地域では深刻な相違のある制度の擁護者の間で戦闘が起こっているのではないか。


1月16日「制度の在り方」

 法律はやってはいけない行為を規定して社会の中で暮らす人々の活動を規制するわけだが、その一方でやってはいけない行為をやった場合の処罰規定を定めていて、それを厳密に解釈すると法律が重視しているのは、やってはいけない行為よりはそれをやってしまった場合の処罰規定であり、人がそれをやってしまうことに関しては十分に承知していて、やってしまったことが発覚した場合は公的機関が罰則を科すようなルールにしているわけだ。それが何を意味するのかというと、人の活動に公的機関が介入する口実を法律が与えているわけで、介入することが公的機関による権力の行使になるわけだが、人や団体が争ったり交渉したり取引する上で、公的機関の介入を必要としている場合があり、そこで利益が発生すれば課税して、損害が発生すれば損害を与えた側を処罰したり損害を被った側を救済しなければならず、そのような課税や処罰や救済などが公的機関の権力の行使によって実現されると考えれば、その権力の行使の正当性にも納得できるだろうか。少なくともそのような介入によって救われた人や団体は納得するかもしれないが、課税や罰則を科された側は納得しないかもしれず、場合によっては不服申し立てなどの制度も利用できるわけだろうが、公的機関側に明らかな過失がない場合は受理もされないだろうし、法律上は公的機関による正当な根拠に基づいた権力の行使には逆らえないわけだろうが、そもそも公的機関とは何かと言えば、普通に考えればそれは行政機関や裁判所などの司法機関が思い浮かぶわけだが、一般的に言って司法制度が社会の中で有効に機能していれば、人や団体が他の人や団体から一方的に攻撃されたり搾取されるようなことは抑制される傾向になるのだろうし、その抑制される傾向というのが、違法行為が処罰される限りで、という条件がついた上で抑制される傾向が生まれるわけだが、そのような行為が全く行われなくなるということではなく、実際にはひっきりなしに行われていて、そのような行為が発覚しては裁判などで裁かれて、行なった当事者が処罰されている実態があるということであり、それを違法行為が抑制される傾向になると言えるとすると、そのような制度がなかった場合と比較してそう言えるかもしれないということだろうが、すでにそれがある現状の中では比較できないわけだから、もしかしたら別に司法制度があろうとなかろうと犯罪行為が抑制されているわけではないのかもしれないが、少なくとも実際に被害を受けた側にしても被害を恐れている側にしても、そのような制度がないと困るだろうが、そう思うのは司法制度があるという前提の中で暮らしているからそう思ってしまうわけで、それが司法制度がないか機能していない地域や国で暮らしている人々にとってはどうかというと、そのような前提が成り立っている地域や国の住民が想像できるようなことではないのかもしれない。

 比較するという行為がいつも理不尽な比較を当然のこととしているわけではないのだが、司法制度が正常に機能している状態というのが、どのような状態を正常とみなすかによって、それに対する認識も異なってくるだろうが、正常と異常とを分ける境界をどう取るかによっても、認識が異なってきてしまうだろうし、結局は現状で機能している司法制度をどう評価するかということであり、それとの比較で何が正常で何が異常な状態なのかを相対的に判断するしかないのかもしれないが、個々の事例に関する司法の判断が公正かつ公平な判断とは思えなければ、判断された当事者が抗議するしかないだろうし、それに世間的な話題性があればメディアなどを通じて社会問題化されて、抗議の輪が世の中に広がって行く場合もあるだろうし、さらにそれが政治問題化されて議会などで取り上げられるようなことにでもなれば、場合によっては司法改革などの機運が高まる可能性も出てくるのだろうが、それに関しては純粋な司法判断とは言えないような事例もあって、例えば政権や行政が推進している事業などの反対運動をやっている団体が、それに関する差し止め請求などの司法判断を求めているような場合もあるわけで、そういう場合に司法が政権や行政寄りの判断を出せば、反対運動をやっている団体が行政と司法の癒着だと批判してしまうわけで、実際に構造的にも司法機関は行政機関から派生しているような形態であるから、そういうところで法の下での公正な判断がどうあるべきなのかは微妙なところかもしれないが、そこから司法の欺瞞を暴くような印象操作もできないことはないだろうが、それは同時に政治的な問題でもあるわけだから、そのような事例は執拗に司法判断を求め続けるよりも、政治活動の方で解決を図らなければならない面もありそうで、実際に政権交代を実現させて行政が推進する事業を転換させるしかやりようがないのではないか。またそうである限りにおいて純粋に制度の無謬性や完璧さを期待するのは無理なのかもしれないし、制度はそれを活用して権力を行使したり利益を得たりするものと認識しておくべきなのかもしれず、制度だけで成り立っているわけではなく、それを活用する機関とともに成り立っていて、それを活用して権力を行使したり利益を得ている機関が制度を管理し運営していて、その運営機関に対して利用者が求められるのは、その機関自体に害が及ばないような範囲内でしかないだろうし、その機関の在り方を決めるのはその機関が属している権力機構の意向が絡んでくる面が大きいだろうし、結局はそのような権力機構が何から生じているのかが、その一翼を担っている制度を管理運営している機関にも影響を及ぼしているわけで、やはりそうなってくると最終的には政治問題として民衆と行政との関係をどのような形態にしていくかが問われてくるのではないか。それに関しては果たして民衆は行政の主人になれるのか、それとも民衆は行政の管理対象でしかないのか、という二者択一とは異なる関係を模索することが果たして可能だろうか。


1月15日「制度の擁護者」

 制度の中でも仕組みや動作が法律で細部まで詳細に規定されているものは公的な制度であるわけだが、宗教や生活習慣などに伴った制度は法律で規定されている範囲を超えて、慣習的な決まりによっても規定されていて、そうなると法律を守っていても制度に従うには不十分な部分が出てくるわけで、その法律では規定できないような部分が、制度に従う上で理不尽に思われてくるのだろうし、そこで暗黙の了解事項のような慣習的な儀礼を損ねると、そのような儀礼を守っている他の人たちから非難されたりするわけで、場合によってはそのような儀礼を守れる人たちとそれを知らない人たちとの間で争いが起こってしまったりするわけだ。だからと言って人の全ての動作や習慣を法律で規定することはできないのかもしれないし、その必要がないから慣習的な決まりが法律を補完するような形で世の中に浸透しているのかもしれず、それを守るか否かは法的にはその人の自由な裁量にまかされているといった方が無難なのかもしれないが、普通に社会の中で暮らしていると同調圧力のような形で有形無形の従うように仕向ける動作が伴ってくるわけで、普通は従わないと角が立つからなるべく従うように心がけるのだろうし、そのような慣習的な決まりは地域ごとに異なる場合もあるわけで、郷に入れば郷に従えということわざもあるように、長い歴史があるような独自性の強い地域で暮らすようなことになれば、なるべくその地域独自の慣習に従った方が無難なのだろうし、その場の状況次第の面もあるのだろうが、理不尽に思われるような制度には従わない場合には従わなくても暮らしていけるような何らかの力が必要とされるだろうし、それが政治的な権力であり金銭的な経済力であるとすると、近代的な国家と資本主義経済の繁栄に伴ってそれ以前の伝統的な儀礼や慣習に基づく様々な制度が破壊されてきた歴史的な経緯があるわけで、それと入れ替わって主流となってきたのが、法律によって動作や仕組みを細く規定された公的な制度だと言えるのかもしれず、もちろん旧来からある伝統的な制度も全てが破壊されてしまったわけではないし、時代状況の変化や国家や資本主義経済の中で、状況に合わせた様式に変形を被りながらも生き残っている制度も数多くあるのかもしれないし、それらの制度と法律で規定された公的な制度とが社会の中で複雑に絡み合いながらも並存していることは確かで、それらの制度の中で何を優先させるかに関しては人とそれぞれの制度に対する関わり合いの中で決まってくるのだろうし、たまたま伝統的な制度には関わり合いのない立場でいられる人からすれば、伝統的な制度に従っている人のこだわりには理解しがたい面があるのかもしれないが、逆に伝統的な制度に生活の隅々にまで浸されている人には、それとは無関係な人は単なるよそ者にすぎないのかもしれないし、そういうレベルでは両者の間に相互理解が生まれるきっかけはないのではないか。

 そうだとしても対立するような接点がなければ両者の間で争いが生じることはないだろうし、たとえ同じ地域や国の中で暮らしていても交わることがなければ取り立てて問題は起こらないわけだが、そこにメディアが絡んできてお互いがお互いの存在を知るようにでもなれば自然と無理解な両者の間で反感が芽生えるかもしれないし、両者ともにメディアを通して自らの立場を正当化したい衝動に駆られる事態も予想され、そんなふうにしてメディア上で何らかの制度を擁護したり批判するようなイベントが生じれば、それに呼応して他の人たちも擁護するか批判するかのどちらかの陣営に分かれて対立するような成り行きになるかもしれず、そうなるとメディアという制度が何らかの制度に起因する対立感情を煽っていることにもなるのだろうが、だがメディアという制度自体も取り上げて流通させる様々な情報に付加価値をつけることを介して利益を作り出そうとしていて、そのような情報の発信源としての立場を固定化して守ろうとする傾向にもあるわけで、その情報を他の競合するメディアや関わり合いのない一般人に勝手に流用されてしまえば、著作権という権益を侵害されたことになるだろうし、場合によって法的な制度に訴えて損害賠償を請求するような成り行きになるかもしれず、要するに制度の擁護者は自分たちの権益を侵害されることを最も嫌うわけで、伝統的な制度の擁護者にとっては、制度に無理解なよそ者が土足で自分たちの領域に踏み込んできてその場を荒らすような行為を恐れるわけで、たぶんメディアによってそのような伝統的な制度が紹介されてそれに関してよそ者がああだこうだと癇に障るようなことをコメントしてしまう事態は許されないだろうが、しかしもしかしたらそういうことを積極的に行うのがメディアという制度だとしたら、結局メディアを通じて何らかの制度に関して人々の間で対立感情が煽られるような事態が、メディアという制度が社会の中で機能した結果として生じる必然的な成り行きなのかもしれず、メディアを通して世界を知るという行為はそれを利用して情報を受け取る人々の間で何らかの争いを招く可能性があるということであり、確かにメディアを介して人々の間で相互理解をもたらす面もあるかもしれないが、無神経な接触や理不尽な宣伝行為を介して無用な対立や争いが起こる可能性もあるわけで、そうなるとメディアという制度を利用することでも恩恵と弊害の両方がもたらされるわけだが、それに関して普通は弊害が起こらないような配慮がメディア側に求められるだろうが、どんなに気をつけていても起こる時は起こってしまうわけで、メディアという制度はそうやって社会をかき回すような作用があるかもしれないのだが、もしメディア上で癇に障るようなコメントや不快な情報の取り扱いに遭遇したら、そんなふうに不快に感じられてしまう自分自身がそうやってメディアが伝えている対象となる何らかの制度の擁護者であることに気づかされるのではないか。


1月14日「制度の機能」

 世の中で起こっている様々な現象や出来事の中から、ある特定の現象や出来事だけを選んで説明しようとすると、説明者の論理や理屈に適合する現象や出来事だけを説明しようとしていることになるわけで、説明とはそういうものだと割り切っているならば、説明を鵜呑みにして信じきってしまう危険も生じないのかもしれないが、それが世の中の全ての現象や出来事を説明しているわけではないことに気づかないと、説明者にとって都合の悪い現象や出来事を見落としてしまうわけで、一見合理的で辻褄の合った説明をしているように感じられる時は、そういう説明にとっては不合理で辻褄の合わない事例を探し出せれば、それが説明者の意図や思惑を知る上で重要な鍵となるのかもしれない。制度とはそれを維持して守っている人々にとっては都合のいいことを行いやすくしてくれる仕組みであり、制度があるおかげでうまくいっている事例をいくらでも提供してくれるものなのかもしれないが、その一方で制度の批判者にとっては批判の材料をいくらでも提供してくれる格好の仕組みなのかもしれず、制度の推進者はそれを推進するにあたって合理的で辻褄の合った説明を行いたいわけだが、制度の批判者の方はそれを批判するにあたって合理的で辻褄の合った批判を行いたいわけで、双方とも説明者の論理や理屈に適合する事例を世の中の様々な現象や出来事から選り抜いてきて、自身の合理的で辻褄の合った説明に利用しようとするわけだ。簡単に言えば制度の推進者は成功した事例を持ち出して推進の材料に使いたいわけで、逆に批判者は制度の失敗例を持ち出して批判の材料に使いたいわけで、そして双方ともにその説明に説得力があるとすれば、両者ともに自身の説明にとって都合の悪い事例を取り上げようとしないからであり、結局そのような説明を用いて制度を推進することも批判することも欺瞞的な詐欺行為になってしまうのかもしれないし、双方ともに欠けていることは、制度によって恩恵を受けている面と弊害を被っている面の両面を伝えないことにあるわけで、その両面がないと世の中で実際に制度が機能していることがリアリティを伴わなくなってしまうわけで、制度の推進者にとっても批判者にとってもその説明自体がフィクションとなってしまうわけだが、もちろん世の中にはリアリティを伴うようなフィクションもあるわけで、そのようなフィクションにはその作者や話者の意図や思惑を超えるような作り話が構成されているからリアリティを伴うのだろうし、制度もその推進者や批判者の意図や思惑を超えて機能している面があるから、その推進者や批判者も巻き込みながら人々を一定の動作に導いているわけだろうし、その一定の動作の中には当然のことながら制度を推進するような動作も含まれるわけだが、さらに制度を批判するような動作も誘発しているのかもしれず、例えば制度への批判が批判者を特定して黙らせようとしたり、黙らせることができなければメディアの周縁地帯に放置して無力化したりする機能も作動させるのだろうし、そういうことも含めて制度が世の中で機能しているのではないか。

 だから安易に説得力のある制度に対する批判を信じてはまずいわけで、特に論理や理屈を用いて批判を展開している場合はそれに合うような事例しか持ち出して来ないわけで、特に一方的な批判には独善的な傾向があって、そんな批判に乗っかって自分も同じように批判しだすと途端に梯子を外されてそれっきりとなりかねず、そのような批判詐欺には引っかからないようにしておかないと、いつまでたっても二項対立を用いた単純で予定調和的な論理や思考から抜け出せなくなってしまうのではないか。現に世の中で制度が機能しているということはそれによって恩恵を被っている面があるということであり、少なくともそこで一方的な搾取が行われているわけではなく、制度の利用者にも何らかの利益をもたらしているから、搾取を受けながらも制度を利用している人が大勢いるわけで、そこに恩恵と弊害が同時に生じているから、しかも弊害だけを取り除くわけにはいかない事情があるから、実際に制度が成り立っていてそれなりに利用者の役にも立っているわけで、しかもそういう人は必ずしもそうした制度の批判者の味方とはならず、逆に制度の推進者の方に恩義を感じている場合まであるわけで、実際にそのような制度を利用しているから生活が成り立っているとなると、もし制度がなくなってしまったら生活が成り立たなくなる危険もあるわけで、そうなると制度の弊害だけを訴える批判者は制度の利用者からは支持されなくなる可能性が出てくるわけで、そうなるとそのような批判を支持しているのは制度を利用していない部外者だけとなってしまう場合まであって、批判自体にリアリティが伴わなくなってしまうわけだ。ならばどうすれば批判にリアリティが伴うのかとなるのだろうが、たぶん批判だけではリアリティが伴わないだろうし、結局は制度の批判者は制度の利用者との連携を模索しなければならず、批判しているだけではなく、制度の利用者を助けるような行動を起こさなければならなくなるわけで、そうやって利用者との関係を構築しながら制度の改善に取り組まなければならなくなるわけだが、そうなると結局は批判者も制度の利用者となるしかないだろうし、利用者の立場から制度の管理者や推進者と交渉や取引を行わなければならなくなるのではないか。そうやって制度に巻き込まれていってしまうことは、いわゆるジャーナリズム的な立場とは違った傾向を伴うだろうし、あまりにも制度に近づきすぎると制度の推進者と変わらなくなってしまうこともあるだろうが、そうなってしまうのも制度の機能なのかもしれないし、制度と自身との距離の取り方によって批判が成り立つ場合と成り立たない場合があるのかもしれず、要するに制度に関わって近づきすぎた人は制度の推進者となり、制度と常に距離を保ちながら直接の関係を持とうとしない人は制度の批判者となるのかもしれないし、そのような立場の違いをもたらしているのも制度の機能とみなしても良さそうに感じられなくもなく、ともかく世の中で何らかの制度が動作していて一定の機能を保っていると、その機能の一つとして制度に対する推進者と批判者を生み出すような機能も制度自体に備わっているのかもしれない。


1月13日「偶然の活用」

 社会の中で一定の働きをしている決まり切った動作というのが、制度の特性と言えるかもしれないが、それが一定の動作を保っているとすればそこで何らかの機能を果たしているわけだろうし、その機能というのがその制度に依存している人や団体に何らかの恩恵をもたらしているとも言えるかもしれないし、その制度からもたらされる恩恵というのが直接の金銭的な利益でなければわかりにくい面もあるかもしれないが、たぶん全ての制度が金銭的な利益につながるようなことはないのだろうし、もっと漠然とした社会の中で活動している人や団体を活動しやすくしているのが何らかの制度だと考えれば、制度が人や団体の活動を助け支えていると考えてもそれほど間違ってはいないだろうし、そのような活動によってそれらの人や団体に何らかの利益がもたらされているとすれば、間接的には制度のおかげでそうなっているとも言えるのではないか。またそうなっている反面、その制度によって恩恵を受けている人や団体とは別の人や団体は、制度があるおかげで活動しにくい状況となっているかもしれないし、そうやって活動を押さえ込まれている人や団体にとっては、制度が活動の障害となっているわけで、そうだとするとそれらの人や団体にとっては、できればそんな制度は社会から取り除きたいわけで、そうだとするとそれらの人や団体は制度によって恩恵を受けている人や団体とは敵対関係にあると言えるわけだが、そこで単純に考えればそこに制度があるから社会の中で人や団体の間で対立が生まれていることになるわけだが、そうやって社会の内部で不均衡や不平等をもたらす制度そのものを悪者扱いするのは、結果から物事を見てしまう悪癖であり、もともと社会の中では様々な人や団体の間で主導権争いが起こっていて、たまたまそこで主導権争いに勝利して主導権を握った人や団体が、自分たちの主導権を永続化させるために自分たちが有利になるような制度を作って、他の人や団体に向かって制度に従うように権力を行使している場合があるわけで、そうだとすると問題なのは制度そのものの存在ではなく、特定の人や団体が社会の中で主導権を握っている状況にあるわけで、何かのきっかけでそのような特定の人や団体の主導権が崩れてくれば、それに伴ってそれらの人や団体が維持している制度も崩れてくる可能性があるわけで、そうであるから制度は制度だけで成り立っているわけではなく、それを支え守りそこから利益や恩恵を受けている人や団体とともに成り立っていると言えるわけで、そのような制度によって他の多くの人や団体が損害を被っているとすると、それをなくすには単に制度を改めるよりも、そこから利益や恩恵を受けている人や団体との争いが避けられなくなることを意味するわけで、実際にそれが世界各地で起こっている宗教や宗派間の争いなのではないか。また制度が特定の人や団体の生活習慣全般を形成していると、そのような制度を守っている人は民族と呼ばれるわけで、またそれも世界各地の民族紛争の原因を作っているわけだ。

 さらにそれが特定の人や団体の資産を飛躍的に増やす働きがあるとすると、その制度は経済活動に関する制度となるだろうし、そんなふうにして何か社会の中で特定の人や団体が主導権を握っていたり有利な状況を実現していると、すでにある既存の何らかの制度のおかげでそうなっているというよりは、新たにそのような制度の成立とともにその制度の恩恵を受けて繁栄する人や団体が社会に存在するようになっているのであり、制度の成立とともにそのような人や団体が出現して、制度の衰退とともにそのような人や団体も消滅していくような成り行きが、歴史的な経緯を形成しているのだろうし、そうであるなら単に議会で法改正をして世の中の制度を変えるようなやり方が、果たしてどこまで有効性があるのか疑問に感じられてしまうわけだが、そのようなやり方も選挙制度や議会制度などの制度を利用して行われるわけだから、それ自体が制度上で機能している制度内の制度であると言えるわけで、それは根本的な制度の栄枯盛衰とは無縁の動作であり行為なのかもしれないが、人や団体が制度内で操作できるのはそういう部分であって、それを超えることはないのかもしれず、それを超える制度外から制度そのものに揺さぶりをかけるような作用は、人や団体が意図して行うような限度を超えていて、そのような意図や目的とは別に、何らかの争いやあるいは争いを止めるような行為から派生的に生じる作用なのかもしれず、意図して制御できるような作用ではないのかもしれないし、制御しようとしなくても自然にそうなっていくような作用なのかもしれないが、そうであるからこそ人や団体ができることは制度内での意図的な操作しかないとも言えるわけだが、それを積極的に行うとしても、行なった結果が必ずしも思惑通りとはならないわけで、その意図や思惑とそれを行なった結果とのずれが、人や団体の意図しない制度の変動や変化を構成しているのではないか。だから世の中の人や団体の間で不均衡や不平等を生じさせている制度の改革は積極的に行うべきではあるとしても、結果にこだわりすぎてはいけないのかもしれず、無理に意図したような結果に導こうとして急進的なことを強引に行なった結果、改革の全てがご破算になってしまうこともありうるわけで、そのような失敗を恐れないとしても、まずはできることから少しずつ行わなければならないという矛盾を抱え込みながらも、制度内でその制度そのものの改革も試みなければならず、そんなことは原理的に無理なように思われるかもしれないが、やっているうちに当初に抱いていた意図や思惑とは違う方面で何かができることに気づいてくるようなことにでもなれば、また実際にそうやって今ままでは思いもしなかったことができたとしたら、それこそが改革そのものなのではないか。それを偶然の巡り合わせと言えばその通りで、結果から見れば簡単に言えることなのかもしれないが、やはりそこに至るまでの間で様々な偶然が重ならないとそうはならないわけで、そんな計算や理屈とは無縁な作用をうまく活用できなければ、改革を成し遂げることなど不可能となってしまうのかもしれない。


1月12日「紋切り型の威力」

 世界の様々な地域や国において、その国や地域の事情から法律や制度もそれなりに異なる傾向を示すにしても、例えば商品の売り買いに関しては同じような慣習があるだろうし、商品と貨幣の交換に関しては交換する貨幣の種類は違うが、交換自体は商品と貨幣が同じように交換されていて、また信仰されている宗教に関しても、宗教の種類や内容は違うが、信仰の対象である神という概念については同じようなものであるだろうし、さらに生活習慣の全般に渡っても仕事や子育てやそれらに絡んだ冠婚葬祭などに関しては、その種類や内容に違いがあるものの、同じような出来事に絡んだ行為としての共通点があるわけで、そういうところから見てゆけば世界全体で共通の法律や制度にしていける可能性はあるのだろうが、その一方で様々な面で差異があることは確かで、その差異を強調しようとすれば、その地域や国の独自性を正当化したがる傾向も出てくるわけで、特に近隣諸国との外交的な対立があると、その対立をテコにして自国の独自性を強調したがるわけだが、無用な対立をなくすにはその正当化したがる差異や独自性を政治問題に絡めないことが肝要だろうし、政治や外交の問題は政治や外交のレベルで近隣諸国と協議すればいいわけで、それをその国や地域の文化や慣習のレベルに持ち込むことがおかしいのはわかっているわけだが、やはり国内の世論に訴えかけるには、そういうやり方になびいてくる人や勢力が少なからず存在している現状があるだけに、そういう方面で理性的な対応を期待するのは無理なのかもしれないが、何かその地域や国の独自性にアイデンティティを見出そうとする姿勢は、国家的あるいは地域的な不均衡や不平等をもたらす可能性があるのは確かだ。そしてそれが経済的な利益を求める姿勢と直結してしまうと国家間や地域間の経済競争へと発展するのかもしれないが、そういう成り行きが高じると文化的あるいは慣習的な対立も経済的な対立も政治的あるいは外交的な対立も混ざり合って、それに領土的あるいは軍事的な対立が加われば戦争の危機が生じてしまうわけだが、過去にそんな成り行きを経て実際に戦争を起こした経験があると、二度目はそう簡単には行かなくなってしまうわけで、実際に世界各地で国家間の戦争が起こりにくいのは、過去に戦争を起こした経験から戦争を起こすハードルがそれだけ高くなったことを示しているのではないか。そしてそういう成り行きを政治が利用している現状もあるのかもしれないし、極右的な勢力や極左的な勢力が体制側と反体制側から戦争への危機を煽っているような状況をメディア的に演出しながらも、その他大勢を占める中道的な部分で世論の支持を得るために、それらの極端な政治姿勢とは異なることを行うわけで、それが経済的な方面での政策の推進であり、また国民の生活を豊かにするような政治宣伝なのかもしれないし、そのような政策に実質的な実効性があるかどうかは定かでないとしても、経済的な面で例えば株価が上がったり失業率が下がったりしてくれば、それが何らかの効果が上がっていることの証拠ともなるわけで、そのような雰囲気を醸し出すことが政治的な手腕として世論的な評価の対象となってしまうのではないか。

 制度というのは何も法律ではっきりと規定されていなくても機能することがあるわけで、近隣諸国との対立から戦争への危機を煽る体制的な極右勢力の政治主張も、それに呼応して体制側が戦争の準備をしていると主張して危機を煽る反体制的な極左勢力の政治主張も、それが延々と主張されているにも関わらず、実際に戦争が起きていなければ、そのように同じことを延々と主張すること自体が制度として確立されていると考えた方がいいだろうし、いったんそのようなことが紋切り型として世の中に受け入れられてしまうと、主張内容としての実質的な効力はなくなるわけだが、そのような制度的な主張を政治的に利用する価値が生じてくるわけで、その中で体制側の極右的な主張は野放しにしつつも優遇することで極右勢力の支持は得られるだろうし、その逆に反体制的な政権批判に関しては、起こりもしない戦争への危機を煽る極左勢力の主張と同一視するように仕向けて、世論の信用を失わせることに成功するわけで、その一方で経済政策に関しても罵詈雑言的な政権批判しかできない経済評論家の類いも、戦争への危機を煽る極左勢力と同一視するように仕向ければ葬り去れるだろうし、実際に株価が上がって失業率が下がっている事実を突きつければ、それ以外の否定的な要素をいくら挙げて批判されても無視できるだろうし、そういう意味で戦争への危機を煽るという行為は、実際に戦争が起こらない限りはフィクションでしかないだけに、それが制度としての紋切り型の政治主張になってしまうと、本気でそんなことを主張している側にとってはマイナス要因にしかならないわけで、やってはいけないことの教訓として、政権批判を行なっている勢力には身に染みて反省しなければならない材料となるかもしれないが、たぶん何事も経験であり、かつての経験から学ばなければいけないことは、同じことが二度繰り返されるのではなく、一度目は確かに悲劇的な結末を迎えたとしても、二度目はそうならない可能性の方が高いということであり、しかも政治的な主導権を握っている勢力が一度目と同じ過ちを繰り返すほど愚かではないことは確実であり、確かに同じような傾向が見受けられるとしても、少なくともその愚かさは一度目の愚かさとは質が違うことを認識しておくべきで、一度目と同じような傾向が見受けられるとすれば、同じ過ちを二度繰り返しているわけだから、それ自体が誰が見ても滑稽に見えるわけで、それを演じている当人もそのことは自覚しているはずなのかもしれないが、そのそぶりも見せずに大真面目で猿芝居を演じているように見えるなら、さらに見ている人たちは疑念を深めないとおかしいわけで、要するにそれが茶番劇に過ぎないことに関して明らかな兆候があるにも関わらず、一度目の悲劇をまた繰り返しているような気になっているとしたら、そう思ってしまう人たちは悲劇と悲劇の間には茶番劇を挟まないと場が飽きてしまう演劇に関する制度を知らないことになるのではないか。「ヘーゲルはどこかで述べている、全ての世界史的な大事件や大人物はいわば二度現れるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と、彼は、付け加えるのを忘れたのだ」とマルクスが述べたことが、果たしてどんな歴史的な経緯にも当てはまるとは思えないが、こうして世界的にも各国の首脳たちの二度目の滑稽な演技に遭遇しているわけだから、少しはそこから学ばないと、いつまでたっても勘違いが治らないのかもしれない。


1月11日「民度」

 議会などの政治の場を利用して政治的な勢力が何を法制化したいのかというと、自分たちを支持してくれている人たちも含めて自分たちの勢力に利益がもたらされるようなことを法制化したいわけで、また法制化することによって自分たちへの支持がさらに広がることを期待している場合もあるだろうし、そうであるなら万人に利益がもたらされるようなことを法制化すれば、そのような行為によってそれらの勢力が万人から支持を得られることになるわけだろうが、なかなかそのような条件を満たす法制化は困難だろうし、実際には世の中の特定の勢力に利益をもたらすようなことが法制化されて、そのような法制化に対して不利益を被る恐れのある勢力から反対運動が巻き起こるのだろうが、利益を得られる可能性のある勢力が世の中で主導権を握っている場合は法制化されやすいだろうし、そうでない場合は法制化が困難になり、無理に法制化しても絶えず反対運動に直面して、それが政権交代の要因ともなれば、実際に政権交代が起こればそのような法制化を無効にするような新たな法制化が行われるわけだが、普通に民主的な政治制度が確立されていて、理性的な態度が世間一般に普及している場合は、合理的に思われることが法制化される可能性が高くなるだろうし、そうすることが世論の支持を得やすいような社会情勢となっていれば、特定の勢力に優先的に利益をもたらしたり、特定の勢力が不利益を被るような法制化は、たとえ被害を被るのが世の中の主流から外れた少数派であろうと、そのような不均衡や不平等をもたらす法制化は行われないだろうし、無理に行おうとしても世論の支持は得られないのではないか。それが民主的な政治制度の理想形態ではあるのだろうが、そこに資本主義的な戦略や戦術が絡んでくるとそうはならないだろうし、絶えず世論の良心的で理性的な部分を欺こうとして策略が巡らされてしまうわけで、それに関して例えば特定の勢力を社会や国家の敵に見立てて憎悪する感情を煽り立てようとするだろうし、そうやって世論の公正で公平なバランス感覚に揺さぶりをかけて、偏った敵対感情を増殖させれば、特定の勢力に利益が得られて特定の勢力が不利益を被るような法制化も実現してしまうわけで、そういうところで世論を構成する民衆の意識が問われてくるのだろうが、そのような民衆の意識が世の中の支配的な政治情勢をもたらしている面はあるわけで、何か特定の政治勢力が主導権を握って偏った法制化を実現して、その恩恵を受けた特定の社会階層に偏った利益がもたらされるような状況となっているとしたら、結果的にそのような政治勢力を支持する世論を構成する民衆の意識がそうした状況を受け入れていることにもなるわけで、その結果として不平等で不均衡な社会が実現しているとしたら、世論のバランス感覚が崩れていることになるのかもしれないし、それをもたらしているのが他ならぬ資本主義的な利益の追及を優先させる姿勢なのかもしれないが、単純にそう述べてしまうと、ではそれに対してどうすればいいのかがわからなくなってしまうだろうし、その中で具体的に何を優先させて何を自重すべきかは、個々のケースによって異なってくるのではないか。

 少なくとも全体的な視点から見て公正かつ平等な判断を下す立場には誰もなれないだろうし、その判断が世の中にもたらす影響力もそこで暮らす各人や活動している各団体によって異なってくるわけで、その場その時の各人や各団体がする判断の積み重なりが世の中の状況の推移をもたらすわけだが、そうやってもたらされる状況自体も決して一様ではないわけで、均質で均等な空間が世の中に広がっているわけではなく、その場その時の時間の流れもそこに加えられる力の強弱によって違ってくる可能性まであるわけだから、少なくとも自分の身の回りの状況がそのまま世界中に広がっているわけではないことは誰もがわかっていることなのだろうが、自分が何か判断する段になると自然に身の回りの状況から影響を受けた判断になってしまうわけで、それがそれとは別の状況の中で暮らしている人の判断とは異なってしまうのは当然のことだろうし、そうであるからこそ自分とは違う状況の中で生きている世界中の人たちが暮らしている実態を知ろうとするのは有益なことかもしれないし、実際にそれを知るためのツールがある意味ではインターネットからもたらされる情報環境であるかもしれないのだが、その中でも情報の取捨選択が行われている実態もあるわけで、何か偏った思考や思想に導くために偏った情報しか提供しないメディアが世界中で蔓延っているとしたら、そのようなメディアにしか接しない人たちは偏った思考や思想の持ち主になるしかないのかもしれないし、しかもまだインターネット環境が普及している地域も世界の中では限られている可能性もあるだろうし、その中で得られる情報も特定の国や地域に偏っている可能性があるわけだから、知らないうちに偏った思考や思想の持ち主になっている可能性まであるのだろうが、そうならないためにはなるべく自分とは異なる状況の中で暮らしている人の実態を知ることが肝心だろうし、そうすることでそのような人たちの思考や思想が自分とはどう違うのかを知ろうとする興味も湧いてくるだろうし、そうやってなるべく世界標準となるような公正かつ平等な判断を養うような努力を行なってゆけば、現状で普及しているインターネット環境を活かすことにもなるのではないか。もちろんそうした中でも自然と自分が暮らしている環境を守ろうとするような判断が優先されるだろうし、それを優先させることが他の地域で暮らしている人々の迷惑になるようなことにでもなれば、難しい対応を迫られるわけだが、そこから双方の地域で暮らしている人々にとって利益となるような判断への模索が生じるわけで、そのためには異なる環境で暮らしている様々な地域の人たちとの連携も必要となってくるだろうし、連携するにはそれ相応の交渉や取引が欠かせないわけだが、結局そういうことが政治の場で行われるようになれば、世界的なレベルで公正かつ公平な判断が養われることになるわけで、それに関してそう述べるのは簡単だが実際に行うとなると様々な困難が立ちはだかってきて、現状では到底うまくいくとは思えない事情もありそうだが、一応はそういうことを積極的に行うような成り行きに持っていくことも、世の中の世論が果たす役割となるのかもしれないし、理想を述べると現実離れしてきりがなくなるのを承知で言うなら、そこでも民衆の意識の程度が問われているとしか言えないだろうか。


1月10日「それ以外の部分」

 政治を行う上で法制化と制度化は避けては通れない成り行きなのかもしれず、それは主に議会で検討されることになるのだろうが、何か法律を作ろうとすると必ずそのような法律を作った場合に生じる不具合や不都合を挙げて反対する勢力が出てくるわけだが、それが場合によっては選挙での争点となったりすることもあるのだろうし、法律を作ろうとする勢力が選挙で勝利すれば法律が制定される成り行きになるのだろうが、そうなると法律を作った場合に生じる不具合や不都合が生じる可能性が出てきて、実際にその不具合や不都合が社会問題化すれば、そのような法律の制定に反対していた勢力が優勢となって、それが選挙での争点となれば、今度は法律に反対していた勢力が勝利する可能性が出てきて、実際にそうなれば政権交代が実現する運びとなるわけで、そのような成り行きを通して民主的な政治制度が健全に機能していることが示されるわけだろうが、実際にはそう簡単には事が運ばないだろうし、それに関わってくる政官財+マスメディアなどから生じる思惑も関与してきて、それが議会で主導権を握っている勢力の味方をしている場合は、法律の不都合や不具合をできるだけ隠蔽しようと画策してくることもあるだろうし、そうやって社会問題化するのを抑え込めば、世論が反対意見になびいてこない場合もあるわけで、そうなれば法律の不都合や不具合は世の中の主流をなす世論の中ではあまり問題視されないことになるわけだ。またそうやって実際に社会問題化しなかった場合には、法律に反対していた勢力の指摘は杞憂にしか過ぎず、法律の制定によって予想された不都合や不具合も幻想だと見なされてしまう場合もあるのかもしれず、そんな成り行きを通して世の中の多数意見としての世論が形成されるとすれば、そのような世論は多分に心理的な要素が大きいのかもしれないし、それに影響を受けて人々が感じる世の中の実情というのも、はっきりした事実や現実に基づいていない場合もあるわけで、そのような世論に後押しされて政治的な主導権を握っている側が制定しようとする法律自体が、はっきりした実利や損害とは無関係な実体の定まらない曖昧模糊とした内容になってしまう場合もあるのではないか。そうなると法制化や制度化自体が世の中に何の影響も与えないような行為となりかねず、政治的な行為自体の実質的な効力がなくなってくるのかもしれないし、それと同時に反体制的なメディアなどが現状の政治情勢から煽り立てる危機的な状況というのもフィクションでしかなくなってしまうだろうし、政治的な主導権を握っている側が反対派の民衆に対してはっきりとした弾圧などを加えて多数の死傷者などが出れば、本当に危機的な状況というのも真実味を増すわけだが、それは程度の問題だろうし、また反体制的なメディアからすれば民衆の感覚が麻痺しているように感じられることもあるかもしれないが、たぶんその麻痺しているような感覚が主導権を握っている政治勢力とそれを支援しているマスメディアなどが意図せずに演出している世の中の情勢そのものなのかもしれない。

 そういう意味ではっきりとした結果が出ないような法制化や制度化は、政治的な主導権を握っている側には有利に働くのかもしれないが、一方でそれは政治的な停滞を意味するのかもしれず、そこで世論が麻痺しているような世の中の状況が醸し出されているとすると、そうなっている間は政権が維持されるだろうし、その状態が長続きすれば長期政権となるわけで、意図して狙っているわけではないにしても、成り行きとしてそうなってしまう場合があるとすれば、どのような状態であるにしてもそれを否定的に見做すことも可能だが、世の中の安定がそれをもたらしているとも言えるのではないか。そしてそのような世の中の状態の中で政権を担っている勢力は、別に状況判断に優れているから政権を担っているわけではないだろうし、そうであることよりも世間並みに凡庸であることの方が世論の支持を得られるわけで、それは結果的に優れていると思われるような政治力を発揮する機会がないわけだから当然かもしれないが、逆に政治的に優れた手腕を発揮していると思われるのは、危機的な状況をうまく乗り切れた時にそう思われるわけで、それがないと誰も政治に関心がないような場合には、政権を担っている勢力が優れていようがそうではなかろうが、取り立てて問題にすらならないのかもしれないし、そのようなことを判断する機会が巡ってこなければ、どのような勢力が主導権を握っていても構わないような状況となってしまい、そうであるならなるべく世の中の慣習に逆らわずに波風を立てないような態度が好まれるのかもしれないし、何よりも世の中で主導権を握っている政官財の各勢力とそれらの広報を担当する体制的なマスメディアなどと懇意になっていれば、それらからは批判されないばかりか支援さえ受けられるだろうし、それらとの関係を重視して忖度することが長期的に政治の場で主導権を握る上で重要となってくるわけだろうし、そうなると政治の場で何をやれるのかとなるわけだが、既存の制度や慣習に逆らわないことが政治的にできることであり、もちろんあからさまにそうしているように見えてしまわないように、常に改革を目指していることにしておかないと世論の支持を得られないだろうし、その改革を目指していることを装うための法制化や制度化が、批判勢力にはごまかしに見えるとしても、世の中の主流をなす世論がそれを支持している状況をメディア的に演出しておけばいいのだろうし、そうなると批判勢力の中でも劣化している部分を誇張して取り上げることもメディア的には重要となってくるだろうし、何かあまり説得力のない稚拙な論理を用いて批判を繰り返しているような人や団体が、体制批判の代表格のような存在としてメディア上で過大に取り上げられるようなことがあるなら、それこそが世論を体制側に誘導するための格好の宣伝材料となってしまうわけで、その辺を抜かりなく演出しておけば、直接の外的な脅威がなければ世の中の安定を保ちながらも長期政権を維持できるのかもしれないし、確かに政治的な行為としては議会での法案の審議や行政の長としての立ち振る舞いなどが形式的には世間の注目を集めるわけだが、そのような行為が形骸化を被っている時には、それ以外の部分が世の中の世論に影響を及ぼしている面もあるのかもしれない。


1月9日「癒着と連携の違い」

 行政機構も企業も組織として現実に存在していて活動している実態があるわけだから、人々がそれらを利用することで世の中が成り立っていて、その現実を否定するわけにはいかないし、それらの組織のマイナス面ばかりを批判してもリアリティに欠けるだろうが、プラス面を活かすとなると、それらを利用する人たちの得になるような活かし方が求められるわけで、そうなると単純に考えるなら組織の利益を減らせば、その分が組織の利用者の利益となって還元されることになるのかもしれず、行政機構に限って言えばそれは組織の肥大化を防げば無駄な予算を使わずに税金も安くなると考えてしまいがちになるが、必要なところにはちゃんと予算をかけなければならないだろうし、何が必要な予算で何が無駄な予算なのかが社会の様々な立場によって見解の分かれるところであり、場合によっては住民の生活を助けるような予算が削られて、産業振興に関する予算や国防予算などが増やされることにもなりかねず、住民の福祉の充実を訴える政治勢力はそういうところで政府を批判しようとするわけだが、どうもそれも単純すぎる毎度お馴染みの批判となってしまうわけで、その単純なわかりやすさが世論の広範な支持を得られない結果を招いているわけだ。単純すぎることを主張すると世の中の構造もその中で機能している行政も企業も単純な活動から成り立っているわけではないだけに、主張の内容にリアリティが生じないわけで、そうなるといくらでも詳細な反論が成り立つことにもなり、場合によってはその反論の方が説得力があったりするわけで、それでは人々が真面目に考えてくれないことになってしまうわけだ。それに関する妥当な考え方として、住民に対する福祉サービスも産業振興も国防に関してもそれなりに予算を使うとしても、そのような予算を使って活動している組織の機能を効率的にして、なるべくその活動のコストを抑えるような努力が求められるのかもしれないし、そういう方面で政策的な論議を深めてゆけば、それに関する政治的な主張にもそれなりに説得力が出てくるだろうし、それに連動した法制化などにもそれなりに合理的な正当性が生じてくるのではないか。要するにその活動に関して工夫を促すような措置が求められ、活動を活性化させるような工夫が求められるわけだが、それに関しても安易に競争原理の導入とか民間の活用とかキャッチフレーズ化するばかりで中身のない宣伝文句ではなく、行政の組織自体を活性化させるような方策が必要なのかもしれないが、それに関しては従来から言われているように各省庁ごとの縦割り行政ではなく、各省庁間の連携を深めて場合によっては複数の省庁にまたがるような予算編成が求められるのかもしれず、それに関して各省庁の上にさらにそれらを指揮命令するような機関を置くのではなく、平等な立場で各省庁の活動を調整するような役割が求められるとすれば、具体的には総務省がそうした役割を担っているのかもしれないが、他の省庁とはっきりとした役割分担がされているようだと、そういった調整がうまくいかないだろうし、それに関して癒着ではなく連携という行為が何を意味するかが、そういった方面では重要となってくるのかもしれない。

 組織内での上下方向の指揮命令系統とは別に横方向での連携の模索というのが、それぞれの組織の足りない部分を補い合って、連携することによって効率的な活動が可能となるのかもしれないが、それには組織間の対立を解消しなければならず、それには交渉や取引を試みるしかないだろうし、交渉や取引を行うことによって他の組織の内情や活動や機能を窺いしれるだろうし、そうやって各組織間で互いの理解が深まれば、活動が重複している部分や足りない部分がわかるだろうし、重複している部分を統合して足りない部分に割り当てれば、それだけ各組織間の連携も深まるし、効率的な協力体制を構築できるのではないか。それがやたらと行政改革の推進本部とかを増設したり、国家戦略室とかいう部局を増やしたり、行政組織を肥大化させる口実に行政改革が使われるという本末転倒なことをやろうとするわけで、それこそが税金の無駄遣いなのかもしれないが、現状で活動している組織間で連携を模索するという効率を重視したやり方がとられれば、多少は行政自体の活動が活性化されるだろうし、無駄に予算をかけずに改革を実行できる可能性も出てくるのではないか。そして民間の企業がそういうことをやっているから行政もそれを参考にしろというのではなく、民間の企業がやりたがらないような採算の合わないことを行政が行うことが求められるわけで、しかも民間企業が利益を追求するとそのしわ寄せが一般の人々に及ぶから、そういう部分を補完するような機能が行政には求められるのだろうが、社会が複雑な構造であるほどそれが具体的には何なのかがわかりにくいわけで、そういう部分を明らかにするのが政治の役目なのだろうし、社会には様々な制度や慣習があって、それによって不利益を被っている人たちを助けるようなことを行政にやらせれば、行政の活動としては補完的な役割を全うすることになるのだろうし、もちろんそればかりが行政の活動ではないだろうし、政治の側でも大雑把な主義主張を表明するのが大事な時もあるだろうが、具体的に世の中にどんな不具合や不都合が生じているのかを見つけることが政治の役目なのだろうし、それを是正するための予算配分も組織構成も利益を追求する企業とは異なるわけで、その辺が民間の企業の感覚では無駄なことをやっているように思われるとしても、行政がそれを行う必然性があるとすれば、それを行う必然性に関して説得力のある説明が求められるのだろうが、説明が要領を得ないと信用されないだろうし、そういうところから偏向した意見が入り込む余地が生まれて、そういう面倒な作業から逃れるために、自治体の首長などが地産地消だのふるさと納税だのの軽薄なキャッチフレーズのような宣伝文句に踊らされる事態を招くわけだが、本質的なところで行政機構が何をやっているのか、その活動内容が問われるような成り行きに世論の関心を持っていかないと、いつまでたっても行政改革は掛け声倒れに終わるしかないだろうし、そうなるような結果の中で得をしているのが当の行政機構である可能性が高いだけに、やはり単純に公務員と民間の企業との賃金格差を批判するようでは、そこから何をやればいいのかが出てこないだろうし、政治の側でも批判から先に活動が進まないわけだが、結局そこでも政治と行政の癒着ではなく連携を模索すべきなのだろうし、対等な立場での交渉や取引を公の場で行うような環境を整えてゆかなければならないのかもしれない。


1月8日「法制化と制度化の問題点」

 歴史的な経緯としては情報革命とインターネットの普及によって、従来からある人が寄り集まって集団的な組織形態を構成して、それを権力関係から生じる上下的な立場や地位を利用して管理統括する官僚機構の形成とは別の方向性として、上下関係ではなく分散的な横方向でのネットワークを介した平等な連携を模索する動きが出てきたわけだが、インターネットにしても原理的な構造は縦方向でのツリー状の上下関係があるわけだが、それが一部の独裁的な国以外では権力関係を伴わずに単なる情報の流通経路として機能していて、形式的には管理主体とは言えない国際的な複数の非営利団体が管理していることになっているので、上から都合の悪い情報を遮断するような権力の行使は表向きは行われないことになっているのだろうし、もちろん企業が運営する部分的なソーシャルメディアなどではその企業の独自の判断で、都合の悪い情報を削除することもあるし、都合の悪い利用者をメディアから締め出すこともあるだろうし、そうやって部分的には官僚機構の管理統治が成り立っていて、それは独裁的な国の行政機関と形式的には変わらないわけだが、根本的になぜそれが都合の悪い情報であり都合の悪い利用者となるのかについては、やはりそれは企業でも国などの行政機構でも、それらを運営している官僚機構の上下方向での権力関係を利用した管理統治形態にとっては都合が悪い情報であり利用者なのだろうし、その管理統治形態を維持するには上下方向での権力関係を維持しなければならないわけで、それを単純に言うなら立場や地位が下の者が立場や地位が上の者に逆らってはまずいわけだ。そうであるから官僚機構によって上から管理されているメディア内では、官僚機構の方針に逆らうような都合の悪い情報は削除されるし、その方針に逆らう都合の悪い利用者はメディアから締め出されてしまうわけだが、インターネット内にはそうした複数のメディアがあるわけだから、それらの間で統一した管理基準があるわけではないので、あるメディアでは削除されたり締め出されたりしても、別のメディアではそうはならない場合があるわけで、それは国などの行政機関にも言えることだろうし、世界には様々な国や自治体などの行政機関があるわけだから、同じようにある行政機関の管轄内では締め出されてしまう人でも、別の行政機関の管轄内では受け入れ可能であれば、その人の行き場がなくなることはないわけだが、そもそも民主的な政治制度の理想としては民衆が行政機関に逆らうことが許される制度だったはずで、そこで理想と現実のギャップを構成しているのが官僚機構の特性に由来する動作なのかもしれないし、しかも制度としてそれなりの合理性を伴って実際に機能しているわけだから、その弊害を弱める意味でも縦方向での立場や地位を伴う上下関係とは異なる、横方向での平等な関係を伴う分散的なネットワーク化が、可能性としては模索されるべきなのかもしれないが、どちらか一辺倒を目指すのではなく、その場の状況に応じて使い分けたり混在させたりしているのが現状だと言えるだろうか。

 それに関してこれまでの様々な政治的な試みで失敗の要因となってきたのは、目指すべき方向を固定してそれを制度化しようとすることにあるのかもしれないが、政治的な目的自体が理想の統治形態を制度化することにあるのかもしれず、それが失敗の要因だと言われるとでは他にどうやればいいのかということになってしまうわけだが、そうした政治本来の目的である法制化や制度化の試みを一概に否定しないとしても、それ以外に何がやれるのかを模索するしかないだろうが、それが保守的な政治家に特有の懇意になっている特定の業者に対する口利きや忖度になってしまうと、それは制度ではなく慣習となってしまうわけだが、ではそうした制度や慣習ではないことを行えるかとなると、ではないことではなく、既存の制度や慣習に合わせながらもそこから生じる不具合や不都合を是正していくしかないだろうし、そうしていくことが結果的に制度や慣習を世の中の状況に合わせて変えていくことになれば、それが政治的な試みとして現状の中では妥当なのかもしれない。つまりそこに政治的な試みの可能性と限界があるわけだろうが、人のどのような試みにも可能性と限界は付き物だろうし、それ自体としてはそうであるしかなく、それを越えて理想状態を目指すと、今度はその目指すべき理想状態が実現不可能な妄想の産物でしかなくなってしまうわけで、確かに分散的なネットワークを介した人々の平等な立場での連携という理想状態を思い描くことはできるだろうが、現実には経済的な利害関係があるわけだから、現状のネット上では常に自らに有利な立場を築こうとするだろうし、実際にそれに成功して巨万の富を手にした人物も中にはいるわけで、そういう経済活動を行なった結果としての不平等な現実は認めるしかないだろうし、そのような不平等な現実を政治的に是正するのは困難だろうが、だからと言ってネットに法制化や制度化の網を被せることが何を意味するのかというと、それによって行政機構のネットに対する管理統治が行われることを意味するわけで、それは一部の独裁的な政治体制の国で実現していることかもしれないし、部分的には企業などのソーシャルメディアなどでも行われていることかもしれないが、それは不平等な現実を是正するのではなく管理統治する官僚機構の意向に利用者を従わせる行為となるわけで、何かその辺で特定の制度は特定の目的とともに特定の結果しかもたらさない典型例のようなことが起こるわけだが、そういう目指すべき方向を固定化した法律や制度の限界を法律や制度によって打ち破ることはできないだけに、その場その時の状況に応じた柔軟な対応が求められるといっても、具体的に何をやればいいのかが出てこないわけだが、そのような限界を補う上でも可能性として横方向への平等な立場での連携が求められると述べてしまうと、何か詐欺的な言説となってしまうかもしれないが、お互いに足りないものを補い合うには平等な立場での連携が妥当なのかもしれず、そこには足りないものを交換する商慣習として売買があるわけだが、売り買いするどちらかが利益を得るような交換となると等価交換とは言いがたく、そこで交換に納得できないと問題が発生するわけだが、そういう問題の是正も含めて横方向への平等な立場での連携が現実に模索されているのではないか。


1月7日「制度の不都合」

 人が集団で寄り集まって組織的な形態をとると、個人のままでは持つことができなかった力が生じて、その力を利用して個人のままではできなかったことができるようになるわけだが、それと引き換えにして個人でいる時には持っていた自由を奪われ、組織内での立場や役割の上下関係から生じる権力関係の中で拘束されることになるわけだが、社会の中では個人でいるよりは集団でいる方が力があるから、自然とそこに集団が構成されてくるわけで、より広い視点で見れば社会そのものがそのような集団だとも言えるし、社会全体を一つの組織的な集団に編成するような試みが全体主義的な政治勢力によって行われていた時期もあったことは確かだが、そのような一つの方向へと世の中の全ての人たちを導く試みには、たぶんどうやっても無理が生じるのかもしれないし、そこまで人の組織力を高めることができない何らかの要因が世の中には生じていて、そうであるからこそ人と人とはお互いに反目し合い争うことになるのだろうし、それは何よりも組織的な集団内で頻繁に起こっていることであり、個々人が離れている時よりも集団でまとまっている時の方がそういう傾向がより強くなるわけで、人と人との距離が近いほどお互いの不快な面がより鮮明に見えてきて、些細なことでもしょっちゅう衝突するようになるのではないか。だから人と人の間で一定の距離が保たれていた方が無用な争いには至らずに済むのかもしれないが、それを避ける意味でも組織内で権力関係が構築されるわけで、他人を不快に感じつつも立場や地位が上の者には逆らえない構造が制度的に構築されるわけだから、そういう意味では集団的な組織形態は合理的にできているとも言えるわけだが、その合理性ゆえにかえって組織内にいると、逃げ場がなくなってストレスが増すことにもなるだろうし、それが高じて病気に至るようなことにもなるのだろうが、そのようなマイナス面を補って余りある利益が生じるから、人は集団で寄り集まって組織的な形態をとるわけで、またそのような集団に対抗するためにも同じような集団を構成しなければならなくなるわけで、そうであるから人の集団的な組織化は避けられない現象となるのかもしれないが、その一方でそのような現象の渦中で嫌気がさして、集団から離脱する人も後を絶たないわけで、それも社会の中で生じる人の離合集散というある意味では避けられない現象を示していて、そのようにして集団的な組織化とともに絶え間ない分散化も繰り返し起こっているとも言えるわけだが、離合集散のどちらの方向への運動も可能である反面、どちらへ向かった方がより大きな力が得られるのかといえば、集団的な組織化へと向かう方が力を得られる傾向にあるわけで、経済的な利益を求めようとする思惑も政治的な権力を求めようとする思惑も、大概はそちらへと向かう成り行きになるのだろうが、それとは異なる方向性として分散化とネットワーク化の組み合わせが情報革命以後のインターネットの普及とともに試みられているのかもしれないが、現状ではまだそれがはっきりとした形態を伴っていないのかもしれない。

 それに関してより妥当な言い方をすれば、集団的な組織化を補完するのが分散的なネットワーク化と言えるのかもしれないが、どちらの方向でも制度として確立しようとする傾向があるわけで、集団的な組織化では得られない力を分散的なネットワーク化で得ようとすれば、それも一つの権力への意志を構成してしまい、そこから利益を得るためにそんな試みが行われているとしか言えなくなってしまうわけだが、そのような意志や思惑が生じているとしても、結果的にそうはならなければ面白いことになるのかもしれないし、その辺で安易な決めつけから否定的なレッテルを貼ってしまっては、それとは異なる可能性を削いでしまうことにもなりかねないが、単純に考えて分散的なネットワークからは力の集中は起こらないわけで、特定の団体に権力の一極集中を起こさせないシステムにするには、分散的なネットワーク化が必要だと考えられるとしても、それにはネットワークを管理している団体が力を持ち得ない構造にしなければならず、具体的にはその管理団体内に官僚機構を生じさせないような工夫が求められるわけで、そうなると究極の状態を考えるなら、複数の人工知能が協議しながらネットワークを自動的に管理するような形態も考えられるのかもしれないが、それによってネットワークを管理している団体は利益とは無縁になるとしても、ネットワークを通して個人や企業が利益を求めようとしている現実は変わらないわけだから、結果的に利益をより多く得られた人や企業に力が集中するような事態は避けなければならないとしたら、現状ではそうはなっていないわけで、ネットワークの活用にいち早く成功した企業が莫大な利益を得てグローバル企業へと成長した歴史的な経緯があるわけで、実際に力を得てしまったのだから、その現実をどう捉えたらいいのかうまく説明できないのかもしれないが、少なくともそれらのグローバル企業が国家的な行政機関と共通の利益を巡って癒着しているとは言えない面もあるのかもしれないし、また独自に政治的な影響力を駆使して独自の権力を欲しているとも言えないだろうし、それがこれまでの国策企業と行政機構との癒着関係とは異なるところかもしれないが、それも相対的な差異でしかないのかもしれないし、分散的なネットワーク化からは本質的にずれる方向で起こっていることかもしれないが、では分散的なネットワーク化に関してそれまでの制度とは違う点は何かと言えば、それは権力関係を伴わないで連携の可能性を探ろうとしていることであり、ネット外では確かに官僚機構を築けるだろうが、ネット上で構築するのは無理かもしれないということなのではないか。そこでも勘違いしている人たちが一部にはいるわけで、何とかネット上でもメディア的な権威を作りたい思惑が働いていて、その権威を頂点として役割や地位の上下関係の構築を模索しているわけだが、どうも実際問題としてそのような階級制度にどんなメリットがあるのかというと、要するにそれを想像するのが難しいのかもしれないし、果たして権威に従う必要があるのかというと、権威を敬い従って、権威の下僕のような立場や役割をネット上で表明しても、はっきり言って嘲笑の対象にすらならないのではないか。そんなわけでそこに権威を作れなければその権威を頂点とした官僚機構を作るメリットも生じないわけだ。


1月6日「法律と制度のずれ」

 法律はそれに基づいて構築される制度を文章によって規定していることは確かだが、制度の方は法律を超える部分を含んでいて、法律で規定されている範囲を超えるような作用を世の中に及ぼしているとも言えるのかもしれないし、いったん制度が機能しだすと法律が制度の働きに追いつけなくなってしまい、法律の方は後追い的に法律の規定していない制度の機能を追認するか、それを怠れば形骸化して法律自体が有名無実となってしまうのではないか。それが日本で言えば憲法第九条なのかもしれないし、まだ有効に機能している部分もあるのかもしれないが、その一方で後追い的にでも憲法を改正する動きが出ていることは確かで、現状に合わせて憲法を改正することが、現状のさらなる変化をもたらすかもしれないが、その変化の方向が果たして正しい方向なのかどうかは、それについての立場や主義主張によって見解の分かれるところかもしれないが、一方で制度の勝手な暴走に歯止めをかける役割も法律には期待されていて、法律の有効性を信じる人たちはそれが法律の重要な役割であることを説くかもしれないが、現状で民主的な政治制度が機能しているのなら、世論を構成する民衆の意識が法律の有効性をまだ信じていて、現状で政治的な主導権を握っている勢力が推進している制度が法律から逸脱していると認識していれば、そのような制度側の勝手な暴走を民主的な政治制度の要である選挙を利用して、暴走を止めようとする政治勢力に投票することによって止めることも可能かもしれないが、それ以前に現状で起こっていることが本当に制度に与する側の暴走であると判断できるかどうかも、それについての立場や主義主張によって見解の分かれるところであり、さらに言えば世論や民意がそんなことにまで関心がないという事態もありうるわけで、そんな中で法規範の根本原理である憲法を持ち出す人々は、何かというと政治的な主導権を握っている側の憲法違反を声高に叫ぶ成り行きになってしまうのだが、憲法も法律の類いには変わりなく、文章として定めていることである限りは、その文章で記されている決まり事を守っていると意識している人がどれほどいて、果たしてそのような人たちが国政のレベルで主導権を握っている実態があるのかというと、どうも実質的にはそうではなく、文章で規定していることよりも実際に働いている制度を有効活用することの方が重要視されているわけで、結局そこで有効活用されている制度に文章で規定されている内容が合わなくなってくれば、単に文章の方を書き換えれば済むような成り行きにリアリティを感じられるのではないか。実際に世界各国の憲法自体がそういう成り行きに合わせて絶えず書き換えられてきた歴史的な経緯があるわけで、現状で動作している制度にお墨付きを与えるような内容に憲法を書き換える行為が、憲法違反を告発する行為と並んで同程度に行われているのかもしれないし、実際に憲法を改正する手続きが法律で規定されているわけだから、制度に合わせて法律を変える成り行きになるか、また法律が制度側の暴走の歯止めになるかは、どちらも可能であることは確からしい。

 そうだとしても法律は文章として記されている限りは絶えず過去の記述となり、それに対して制度の方が現在進行形で働いている作用であるわけで、どちらかと言えば制度に与する側の方にリアリティが伴ってしまうことは確かで、その制度を活用して権力を行使したり、何らかの利益を出している側からすれば、そのような活動を阻害する要因があればそれを除去したいだろうし、たとえそれが国を定める法規範の根本原理であろうと、それを変える手続きがあるのだから、それを利用しない選択肢はあり得ないだろうし、そうなると絶えず現状で主導権を握っている側がその主導権を握っている現状を正当化するために、自分たちの勢力に都合のいいように法律も変えようとするわけで、そのような行為の断続的な積み重なりが国の法律や制度の変遷を歴史的に構成してきたわけだろうが、そうだとすると現状で主導権を握っている側がどんな勢力なのかが問われてくるわけで、その勢力が民衆の支持を背景として政治的な主導権を握っているのなら、民主的な政治制度の中では当然のごとく正当化されるだろうし、その正当化の根拠は制度的には選挙の結果であり、選挙結果が政治的な主導権を正当化する上では欠かせない条件なのだろうから、少なくとも他の条件よりは優先されるだろうし、それに対して世論調査結果を主導権を握っている政治勢力に対する批判の根拠とする場合もあるわけだが、選挙結果と世論調査結果のどちらが優先されるかと言えば、制度的には選挙結果が優先されることは言うまでもなく、制度を有効活用する側は当然のことのように選挙制度も有効活用していて、それらの勢力が握っている政治的な主導権を正当化する根拠は選挙結果にあるわけだ。そして選挙も制度であることには変わりなく、その制度自体を特定の勢力が有利になるような内容にすれば、その勢力を利することになるだろうし、それも制度の有効活用となるわけで、政治的な主導権を握っている側が制度を自分たちの側に有利になるように作り変えようとすることは、常に起こりうる動作であり、実際にそうやって特定の勢力が長期間にわたって政治的な主導権を手放さない例はいくらでもあるだろうし、そうだとすると確かに建前上は公正で公平な法律とその法律に基づいて構成される公正で公平な制度の下に世の中が統治されている状態が理想であることは確かだろうが、何らかの勢力によって世の中が統治されている状態自体が、その勢力の政治的な主導権を正当化するような法律や制度が構成されていることを意味するだろうし、そこで行われる政治的な主導権の正当化が、絶えずその正当化に合わせた法律の制定や制度の構築を促していて、その統治や支配を磐石なものとする方向で法律や制度を変えてゆこうとする傾向があるわけで、それに関してまずは現状で動作している制度が有効活用されて、いったん制度を利用して政治的な主導権を握れば、その主導権を盤石なものとしようとしてさらに制度を自分たちに有利なものに変えてくるだろうし、その過程で必要な法整備も行われ、自分たちが主導権を握っている制度に法律を合わせるわけで、それに成功すれば確かに世の中の統治や支配が盤石なものとなるかもしれないが、結局制度自体が人や団体を選ばないのかもしれず、制度に固執する者は制度に裏切られる可能性もあるわけで、実質的に特定の勢力が握っている主導権の源泉は法律でも制度でもなく、その場で行使している権力にあるのかもしれず、何かのきっかけでそこで生じている権力関係が崩壊してしまうと、いくら自分たちに有利な法律や制度に守られていても、それらが有効に機能しなくなる場合があるわけで、その辺が法律や制度で構成される形式的な構造の盲点となってくるのではないか。


1月5日「政官財+マスメディアの利権複合体」

 国家主義的な傾向でよくありがちな成り行きとして行政側が富国強兵的な方針を打ち出すと、まずは国を富ませるために経済活動を活発化させる政策がとられるわけで、それに関連して経済活動の利便性を高めるには、各種の規制緩和などを促すような法整備と連動した政策もとられるわけだろうが、その経済の面での改革解放的な政策の一方で、言論や思想信条の自由を抑圧する政策がとられることは、ある意味では表裏一体をなしているのかもしれないし、その富国強兵的な政策の不合理で矛盾に満ちた面が広く世の中に知れ渡ってしまうのを防ぐ意味で、言論や報道などの面で統制を強めるわけだが、そこで顕著になってくるのが法律とそれに基づいて構築される制度との間に生じる矛盾であり、経済活動を活発化させるような制度は自由主義市場経済であることが不可欠で、そこでは個人の判断で自由に経済活動を行えるような制度にしなければならず、そのような制度の中から経済的に成功して莫大な資産を形成する資本家階級が生まれてくるわけだが、その一方で法的な措置として個人の言論や思想信条の自由を抑圧するとなると、自由な経済活動を認める一方で、自由な政治活動は認めないというジレンマに直面してしまうわけで、現状でその問題に直面している典型例が中国とロシアかもしれないが、最近の例ではスペインのカタルーニャ州の独立騒動でもそれに直面してしまったわけで、結局は政治と経済は連動していて、経済的な自由を手にして力をつけてくるということは、政治的な自由を求める活動にも直結してしまうわけで、国を富ませるためには経済活動の自由を人々に与えなければいけないが、政治的な主導権だけは行政の側で確保したいのが国家主義的な立場の特徴であり、一方では自由を与えてもう一方では自由を抑圧しなければならない矛盾が、何かのきっかけで破綻してしまうわけで、そのきっかけというのが富国強兵で言えば強兵の面であり、歴史的な経緯からすれば国家間の経済競争が高じてそれが軍拡競争へと発展して、経済的な競争では不利な側がそれを補うために軍事的な増強を行ってしまうと、軍事面での暴走を招いて国家的な破滅に追い込まれてきたわけだが、軍事的な暴走を招いてしまう国内的な要因としては、個人の言論や思想信条の自由を抑圧する姿勢であり、経済的な自由は与えるが政治的な自由を与えないということが、行政側の軍事面での暴走に歯止めがかからなくなるわけで、考えてみればそれは当然の成り行きであり帰結なのかもしれないが、行政側が政治的な主導権を確保するにはそうせざるを得ないわけで、それが国家主義的な立場の欠陥とも言えるのかもしれないが、行政機構の特性としてはそういう方向にしか行かない面もあるわけで、それに歯止めをかけるには民衆の側で政治的な主導権を握るような努力を怠ってはならないわけだが、そこでも制度的な面で不都合や矛盾があるのかもしれず、現状では制度面で行政と民衆との間で生じる権力関係を平等にするようにはなっていないわけで、そこで生じてしまう関係の不均衡や不平等をなくすように法的に文章で定めることは可能だが、制度としては絶えず行政側が力を持つようになっているのではないか。

 個人と集団的な組織の間での力関係で言えば、当然のことながら集団的な組織の方が力が強くなるわけだが、そのような集団的な組織に対抗するために個人の側でも同じ主義主張を共有する同志を集めて集団的な組織を結成すると、それで対抗できる可能性は出てくるだろうが、対抗しているそれ自体が個人ではなく集団的な組織となってしまうわけで、それが集団的な組織となってしまうと、個人である時とは異なる論理が組織内でまかり通るようになるわけで、結局それが個人が対抗しようとしていた集団的な組織となってしまい、そうなると個人と集団的な組織の間での力関係そのものは維持されて、個人ではいつまでたっても集団的な組織には勝てないことになり、だからと言ってその個人が同志を集めて集団的な組織を結成すれば、そのような組織の中では個人の力が抑え込まれてしまうわけだ。そんなわけで行政機構が集団的な組織形態をとっているわけだから、それに対抗するために同志を募って政党などを結成して、その政党が力をつけて議会内での与党の立場を占めるようになっても、そうなった時にはすでにその政党と行政機構との間で集団的な組織形態のレベルでは差異がなく、差異がないから同じ利害関係を共有して両者が癒着するわけで、いくら民主的な政治制度を法的に規定しても、制度によって実現された現実が法律を超えて動作して、それが法的な形骸化をもたらすわけだが、そんな問題が発生する度に法改正や新たな立法を行なって制度を修正したり改善する以外に制度的にも法的にもやりようがないだろうが、いったん立法機関と行政機関が癒着すればそういう成り行きにはならないだろうし、そうなる前に民衆の側が機転を利かせて政権交代を促せばいいのだろうが、今度は二大政党制などの制度が自然と形成されて、どちらの政党に政権が移っても癒着が解消されないような事態ともなるだろうし、複数の政党が選挙の度ごとに離合集散を繰り返して政権を作るにしても、今度は政党と行政機関との間の力関係が行政側の有利に傾いてしまい、そうなるといくら政党の側で改革を行おうとしても、行政側の抵抗によって途中で頓挫してしまう事態も予想されるだろうし、行政機関が恒常的に国家と国民を管理統治している実態がある限りは、そういう方面では行政機関の側に権力の優位があるのは当然かもしれないが、行政側が何のために管理統治しているのかというと、その集団的な組織形態を守り維持するために管理統治を行っているとしか言えない面があるわけで、そこから民衆との間に権力関係の不均衡や不平等が生じていて、また民衆の側でも経済活動によって貧富の格差やそれに伴って権力関係の不均衡や不平等が生じていて、さらにそのような不均衡や不平等が民衆に不満を感じさせるから、そこから政治的な主義主張が生じるわけで、そうなると政治的な主導権を握っている側でも経済的な主導権を握っている側でも、そのような政治的な主義主張を抑え込みたい衝動に駆られるわけで、結局そこからも共通の利害関係が生まれて、政治的な主導権を握っている側と経済的な主導権を握っている側との癒着が生じて、それが政官財+マスメディアの利権複合体となるわけだ。


1月4日「法律の意義」

 法律にはその適用の用途や範囲によって一方的に禁止したりするだけではなく、逆に権利を保障したり自由を認めたりするものもあり、例えば未成年には禁止する一方で大人にはそれを行う権利を認め保障する法律があるし、また権利を認める一方で義務を課すような法律もありそうだが、それは人の活動をコントロールするには単に禁止するだけではなく、特定の活動を行う権利を保障することで、そのような活動を盛んに行わせることによって利益をもたらそうとする目的があるのだろうし、法律を課す側がそこから利益を得られると判断したものについては、そのような活動を積極的に推奨したり振興する成り行きとなるのではないか。そのような活動の代表例が経済活動なのだろうが、経済活動は行政がそこから税収を得るには欠かせない活動であり、税収によって予算を確保する制度であれば行政は経済活動を振興するしかないだろうし、まずはそれが前提としてないと、足りない分を公債などで賄うにしても、国家的な信用が得られないだろうし、債券の引き受け手がいなくなってしまうわけだ。そのようにして活動に使う予算を確保するわけだろうが、では行政の活動目的は何かというと、それが管轄する領域内で活動する人や団体の活動をコントロールすることにあるとすれば、法律を用いて人や団体の活動を規制しながらコントロールすることになるわけで、では何のためにコントロールするのかといえば、活動するための予算を確保する目的で人や団体をコントロールしていると言えば、何やら循環論になってしまうのかもしれないが、それでは住民が納得しないだろうし、世の中の世論を味方につけるには、行政サービスによって住民が安全で平和に豊かな生活を満喫できるように活動しているとでも宣伝しておけば、それなりに世論を納得させられるだろうか。行政の活動目的を肯定的に定義しようとすると何やらそうした宣伝文句のようなものとなってしまうのかもしれないが、それが行政ではなく企業となると、事業を継続させるために活動を行なっているとみなしても、それほど間違ってはいないだろうし、それの延長上で考えるなら、やはり行政の活動目的も行政活動を継続させるために活動しているとみなしても構わないわけで、その活動の一環として住民の支持を得るために行政サービスを充実させているとも考えられるわけで、そういう傾向を考慮すれば、法律も高圧的な禁止一辺倒ではなく、何らかの権利の保障や自由な活動を行えるような領域を増やす方向での規制の緩和を法律に盛り込む動きも出てくるのだろうが、たぶんそれも行政活動に支障が出ない範囲内に留めようとするのだろうし、その辺でいかに住民を納得させるかが、民主的な政治体制を採用している国では工夫を凝らす部分なのかもしれないが、独裁的な傾向の強い国となってくると、その辺の工夫を凝らさなくても体制を維持できるだけに、そういう部分では強権的で高圧的な態度でいられるかもしれないが、経済活動の振興という面では人や団体の活動が萎縮してしまう危険性が出てきて、その辺がマイナス要因となってくる可能性もあるわけだ。

 行政の活動が人や団体の経済活動抜きには考えられないとなると、その法律も経済活動に関する内容が主なものとなってくるのだろうが、純粋に権力関係から考えてしまうと、強権的で高圧的な面しか出てこないのかもしれず、またそれとの対立軸として民主主義に関する抑圧に抵抗するイデオロギーも出てくるわけだが、それらの活動の糧となってくる経済活動を抜きに考えてしまうと、途端にリアリティを失ってしまうわけで、その辺が民主主義や国民の福祉を中心に考える人たちにとっては躓きの原因ともなってくるのかもしれないが、だからと言って資本主義的な経済至上主義を礼賛してしまうと、人々の間で現実に生じている貧富の格差やそこから生じる権力関係の不均衡や不平等を是正する方向性が出てこないわけで、そういうところで従来からある政治的な主義主張が行き詰ってしまうわけだが、それらを全体的な視点から捉えて一定の政治的な主義主張を伴った一つの方向性を打ち出すと無理が生じるわけで、そこには社会の中で互いに錯綜したり絡み合っている複数の部分的な活動があるに過ぎないと考えると、相対主義に陥るしかないわけだが、どちらにしてもそれぞれの視点から考えればそれなりに正しいようにも思われるだろうし、何らかの妥当性も持っているわけで、そのような思考や思想自体が無用なものだと捉えることも可能かもしれないが、実際に行政機構や企業などが社会の中で活動している実態があり、法律に基づいた制度の中に人を引き込んでその活動をコントロールしようとしているわけだから、それに関して不都合や不具合が生じていれば、それを改善したり是正しようとする機運が生じてくることは確かであり、そういう面では何らかの方策を打ち出さなければならず、実際にそんな活動を行なっている人や団体も存在するのだろうし、そこで政治的なイデオロギーとは違った具体的な活動の方向性が模索されているわけだろうが、それに関して法改正とか新たな法律の制定とかが具体的な方策として提案されてしまうと、絶えずそうした方向での努力が議会制度や行政機構を必要としてくるわけで、結局は現状の政治的な枠組みの中で不都合や不具合の改善や是正が求められてしまうわけだが、果たしてそれ以外のやり方を模索することができるだろうか。そこでも現状の政治的な枠組みを単純に否定するのではなく、そのような方向で努力していくうちに、自然とそこから外れる方向性が出てくるのを期待した方がいいのかもしれないし、そういう意味で現状を否定しないと同時に現状にこだわリ過ぎない態度が求められるわけで、これまでの歴史的な経緯がそのような成り行きを示していて、絶えずその時点での状況からしか改革の機運が生じてこないのと同時に、人々の期待を一身に背負った急進的な改革の努力が絶えず人々の期待を裏切りながらも、期待外れの状況の中でも何らかの改善や是正が図られているわけで、それが期待からかけ離れた成果しかもたらさなくても、結果的にはそれがその時点で可能な成果でしかなかったわけで、それが歴史的な経緯が明らかにしているところなのではないか。


1月3日「法律を守れない事情」

 世の中には制度として人や集団が行う一定の活動形態があり、制度が機能するには人がその中で一定の動作を行わなければならず、その動作を規定しているのが法律と言えるのかもしれないが、人が法律を守りながら規定通りの動作を行なっていれば制度が機能するはずなのだろうし、制度が機能していれば社会の秩序が保たれて、その結果として争いのない平和な世の中が実現していれば、何の問題もないのかもしれないが、実際には制度は一つではなく、競合して錯綜する複数の制度が混在していて、それに合わせてそれらの制度を規定している法律も、複数の制度間の整合性を確保するために複雑に定義されていて、法律に詳しい専門家でないとその全容を把握できるわけではないだろうし、もちろん一般の市民がその全てを知っているわけではなく、自分が従っていると認識している部分では大雑把に把握しているかもしれないが、だからと言ってそれでも普通に暮らして行けるのだから、専門家でない限りは法律の細かな規定まで理解している必要はなく、細かな部分は必要に応じて調べたり専門家に聞けば済むようなことでしかないだろうし、そういう意味で人は自分にとって必要な部分だけ把握しようとするのだろうが、それ以外の部分は知らなくても構わないし、そうである限りにおいて、意識の中では法律に従っているつもりでも、実際にはその全てを把握しているわけではないのだから、中には従ってはいない面もあるかもしれないし、他から違反行為を指摘されて初めて気づくようなことも起こり得るのではないか。それが何を意味するのかというと、確かに社会の中で法律が張り巡らされていて、その法律の規定に基づいて何らかの制度が機能していることは確かだが、実際にその制度に直接関わっている人は制度を規定している法律を遵守しているかもしれないが、制度に直接には関わっていないか、間接的には関わっているとしてもそれを意識していない人は、その制度を規定している法律を遵守している意識はないのかもしれないし、そうだとすると確かに法律の網が社会全体に被せられていて、実際にその違反を取り締まる側に違反行為が見つかれば取り締まられてしまうかもしれないが、見つからなければそれで不都合が生じない限りは、違反したままでも平気でいられるわけで、そうなるとそこでは法律が守られずに制度が機能していないことになるわけで、結局何らかの制度が社会の中で機能するには、制度を規定する法律があって、人々にその法律を守らせるための社会を管理統括する官僚機構などの組織が存在していて、実際に社会全体にその監視の目が行き届いていないとならないわけで、もちろん監視の目が行き届いていないところでは法律が守られずに制度が機能していない可能性があるわけで、そうであるなら法律の網の目に引っかかる部分ではその監視の目も行き届いているとしても、その網の目に引っかからずにすり抜けてしまうようなところでは、監視の目が行き届かずに制度が機能していないことになるだろうか。

 法律を守らせるための監視の目が行き届かなくても、人々が自主的に法律を守っていれば、その法律に基づいて整備された制度が機能しているかもしれないし、その制度が人々にとって有益であるなら、法律を守って制度に従うだろうが、逆になぜ監視の目が必要なのかといえば、人々が法律を守らずに制度に逆らう可能性があるからで、監視されないと守られないような法律なら、人々にとってその制度はあまり有益だとは思われていないのかもしれないし、さらに人それぞれで利害が異なる場合は、法律を守って制度に従うことが利益に結びつく人と、そうでない人とが存在していて、そうでない人を取り締まるために監視する必要があるとすると、ではそうでない人がなぜ社会の一員として存在しているのかということになるわけで、またそうなるとそのそうでない人を取り締まって社会から排斥する必要があるのかとも問われてしまうわけで、根本的に人を取り締まったり排斥することを目的とした法律が必要なのかということにもなると、たぶんそれが必要だからそんな法律が存在するのだろうし、具体的には他の人に危害を加える人や団体を取り締まる法律があるわけで、取り締まって罰則を科す法律もあって、そのような法律を対象の人や団体に適用することによって、社会の秩序を守ろうとしているのだろうが、やはり根本的なところでなぜそういう人や団体が社会に生じてしまうのかについては、今のところ法律や制度では解決できていないし、それは解決しようのない問題なのかもしれないが、現実に法律や制度を巡って社会の構成員の間で利害が異なる場合は、そのような法律や制度は守られず従わない可能性が出てくるわけで、いくら監視や取り締まりや罰則規定を強化しても、根本的なところで各人の利害の一致を実現できない限りは法律も制度も完璧なものとはならないわけだが、そもそも法律や制度より社会の方が先にあるわけだから、そこに社会が存在している時点で、その中で暮らし活動する各人の利害が一致していない可能性が高いわけで、つまり必ずしも同じ利害を共有する人だけで社会が構成されるわけではなく、人や集団の間で生じる様々な利害関係の中から社会が構成されるわけで、そのような前提がある中で全ての社会の構成員を同じ利害の下に管理統括しようとすれば無理が生じてしまうのは当然であり、そんな中でも行政としては法律や制度を作って、それに基づいた特定の利害を優先させようとするのだろうが、それはあくまでも最大公約数的な利害になるしかないだろうし、そうでないと世論の支持を得られない可能性が出てくるのかもしれず、その利害を守ることを社会の構成員の全てに周知徹底させようとはするだろうが、必ずしも利害関係はそれだけではないし、その利害と他の利害が競合したりぶつかってしてしまえば、それを守れない事情が生じてしまうわけだ。


1月2日「法律の制定」

 行政などが世の中を管理統治するにあたって、人や団体などの活動を規制する上で法律の制定が有効であることは確かだが、制定しようとする法律が世の中の制度や慣習からあまりにもかけ離れた内容であると、そのような制度や慣習に依存している人や団体などの激しい反対や抵抗に遭って、制定が困難になるだろうし、強権を発動して無理にでも制定したとしても、今度はその法律を維持することが難しくなるだろうし、絶えずそれらの制度や慣習から状況に合わない法律を廃止したり改定する機運が生じてくるのではないか。そんなことを考慮するなら制定しようとする法律の内容は世の中の制度や慣習に沿ったものとなりやすいわけだが、それならわざわざ法律を制定する必要はないわけで、大抵はそのような制度や慣習を変えるために、それらに反した法律を制定しようとするわけで、そうやって法律を制定することによって世の中の改革を目指すわけで、そのような法律が周囲の反対を押し切って制定されて、その法律が人々に受け入れられて世の中に定着すれば、世の中が変わったことになるわけで、古くて不合理な世の中の因習などが、それらを変える法律を制定することで一掃されるような事態にでもなれば、新たに制定された法律が有効に機能したことになるわけで、そういう意味で法律の制定は社会変革の手段として用いられるわけだが、現実問題として一般の人々に法律の遵守を周知徹底させるには、法律の制定とともに権力の行使が必要となり、それを担うのは行政の役割になるわけで、啓蒙活動や取り締まり活動などを通して人々が法律を守るように仕向けるのだろうが、それには行政と連携したメディアの側でも協力するだろうし、そうなると宣伝活動となるわけで、場合によっては世論喚起という世論誘導のようなことも行われるわけだが、そのような試みが功を奏して民衆の支持を取り付けて、法律の制定とともに世の中の変革が成し遂げられれば、そのような画策を行なった議会や行政の中で主導権を握っている勢力の思惑通りとなるわけだろうが、現実にはそこに至るまでの途中で様々な勢力からの抵抗が予想されるだろうし、その過程で意に反する妥協を強いられるようなことにでもなれば、法律の制定自体が頓挫しないまでも、交渉や取引によって反対意見を考慮した修正を施しながらも、何とか反対派を説き伏せて法律の制定にこぎつけたとしても、その内容が骨抜きにされたりして、結果的には変革をもたらすような法律ではなくなってしまうかもしれないし、そうだとすると法律の制定によって世の中を変革するというよりは、たぶん法律を制定を促すような世の中の情勢の変化がないと、法律の制定自体がうまくいかないのかもしれず、情勢の変化も何もないのにいきなり法律の制定を試みるというのではなく、何らかの情勢の変化に合わせて、その情勢の変化には今までの制度や慣習では対応できずに不都合が生じるから、それに対応できるような法律の制定が求められるわけで、正確にいうなら世の中を変えるために法律を制定したり改定するというよりは、世の中の変化に合わせて法律を制定したり改定することが求められているわけだ。

 そういうところで法律の制定と世の中の情勢の変化とその世の中で成り立っている制度や慣習などとの関係が複雑に絡み合っている状況があるのかもしれないが、制度としての法律の制定自体は、議会勢力や行政機関などがその実現を目指すわけで、一般の民衆がそれを目指すにしても議会に代表者を送り込まなければならないわけで、立法機関である議会で審議されて多数の賛成を経て何らかの法律が制定されれば、それを行政が実行に移すわけで、公的な手続きとしてはそのような経過をたどるわけであり、それ以外の何を意味するわけでもないのだろうが、そのような制度的な手法によって何が変わるかといえば、普通に考えるなら制度が変わるわけで、それに合わせて慣習も変わり人々の生活も変わるかもしれないが、そのような制度的な変更によって世の中を変える試みは、それと並行して世の中の状況が変わりつつあるような成り行きを伴えば、それ自体が自然な推移のように感じられるかもしれないが、制度的な変更と世の中の状況の変化のどちらが先行するにしても、そこに暮らす人々が受け入れ可能な範囲内での変化にとどまれば、それほど激しい反発や抵抗などは巻き起されないわけで、そうであるならむしろそれは人々が望んでいた変化となるわけだが、その一方で人々の激しい反発や抵抗を巻き起こすような制度の変更もあるわけで、そのような制度変更はそれを推進する勢力とそれに反対する勢力との間で対立が生じている場合が多いだろうし、世の中の世論が賛成と反対とで二分しているような状況があると、そのような制度変更や改革に伴って様々な問題が生じるだろうし、それがもとで場合によっては内戦の危機に直面することもあるだろうし、なぜそういう状況が生じるのかといえば、そのようなことが起こる国ではしばしば公的な政治領域で権力の不均衡が生じている場合が多いだろうし、国内で特定の勢力を優遇するような政策がとられている場合はそうなりやすく、すでにそうなっている時点で、優遇政策から外れた人や勢力などが制度変更を求めているわけだろうが、そうなると制度を守る側と変更を求める側とで対立や抗争が起こるわけで、そのような状況下での制度変更や改革はうまくいかない場合が多いわけだ。そういう場合も含めて法律を制定したり改定して世の中の制度を変更するような試みは、変更する内容にも程度にもよるのだろうが、制度を取り巻く政治情勢や経済情勢にもその影響や成否が左右されるだろうし、変更を切実に願っている人が多いほど、変更する前の制度によって不利益を被っている人も多いだろうし、しかもそうであるほどその制度のおかげで一部の特権階級の人たちが多大は利益を得ている場合も多いのかもしれず、そうであるならそれらの特権階級の人たちが世の中の主導権を握っている可能性が高く、そうなるとそれらの人に権力が集中していて、制度の変更が困難となっている可能性も高いだろうし、そういう意味でも法の下での民衆の平等状態を実現するのがいかに困難であるかがわかるだろうが、そこで問題となっているのは法律の制定や改定だけなく、その法律の利用状況なのかもしれないし、それはまた法律を取り巻く世の中の状況であり、そこで生じている権力関係でもあるわけだ。


1月1日「法律の実態」

 法律は基本的に人々の活動に制限を加えることを目的として制定されるものかもしれないが、なぜ制限を加えなければならないのかといえば、活動を制限しないと世の中の秩序が乱れて行政としての管理統括ができなくなる恐れがあり、また人や集団に危害が及んだり、その財産や名誉などを毀損する恐れのある行為や言動などを取り締まらないと、社会そのものが成り立ってゆかないだろうし、そのような行為や言動を含むような活動が法律によって規制される傾向にあり、そのような活動を犯罪行為として行政の中で主に治安を維持する部門が取り締まるわけで、そのような種類の違反行為は主に刑事事件として告発されて裁判で裁かれるわけだが、また争いを調停する目的でも法律的な取り決めがあるわけで、その場合は損害賠償請求などに関しての権利や義務や、土地や財産などの所有権に関してとか、離婚時や遺産の相続に関する財産分与などの取り決めが法律として定められていて、それらに関する争いは主に民事事件として裁判で調停が行われるわけだが、他にも人や団体が行うことができる権利とか行わなければならない義務とか、それを巡ってなるべく争いが生じないように、あるいは争いが生じたときに調停できるように、さらには違反行為を行政の側で取り締まれるように、その権利を侵害された時に告発できるように、その義務を怠った場合に指導したり罰則を科せるように、そのような様々な取り決めが法律によって規定されているわけだ。そして法律が人や団体に守られている限りで社会の秩序が保たれていて、また人や団体が法律を守るように指導や監督を行政が行なっているわけだろうが、逆にそれらの指導や監督を行なっている行政側の人や団体が法律を守っているかを監視している団体などの機関もあるわけで、場合によっては行政側の人や団体も違反行為を行なっていることが明らかになれば、そのような機関から告発されて裁判などで裁かれることもあるのだろうが、そういう部分で権力関係が生じていて力の不均衡があると、なかなか力の弱い側が強い側を告発できない場合もあるだろうし、告発しようとしてもその手前で阻止されてしまう場合もあるわけで、その辺が法の下での平等という理想が実現できない部分であり、力の強い側によって法を捻じ曲げられる可能性が常にあるとすれば、そういうところで法の万能性が揺らいでしまうのではないか。要するに法律だけで社会の秩序が保たれるわけではなく、確かに人や団体が法律に従っている部分では、その法律が定めている取り決めが有効に機能しているかもしれないが、それ以外の部分ではその場で働いている力関係の中で主導権を握っている側が、自分たちの都合に合わせてその場を管理統治している場合もあるだろうし、場合によってはそこで行われている管理統治が法律から逸脱していることもあるわけで、その典型例がギャングやマフィアなどによる管理統治になるだろうし、それに近いような形態の組織が国家そのものを乗っ取っている場合もあるわけだ。

 だからいかに立派で合理的な法律が定められていても、それを守ろうとする人や団体がいなければ法律そのものが機能しないわけだが、それを守る側も取り締まる側も、あるいは法律を制定したり改定する側も、さらには法律に基づいて裁いたり調停する側までも含めて、果たして全面的に法律に従っているのかというと、たぶんそうでもない面があるのかもしれず、取り立てて法律に頼らないで活動している面も少なからずあるわけで、わざわざ法律を持ち出すまでもなくその場を丸く収めてしまうこともあるだろうし、いちいち法律に違反している行為を告発しない場合もあるだろうし、実際に法律に違反した方がうまくいくこともあるのかもしれず、そうやって事を荒立てずに何とかその場を乗り切ってしまうことの方が多いかもしれないし、それはその場の状況や事情にもよるわけだが、その場の争いがこじれてその場に居合わせた人たちではどうにも対処ができなくなった時に、最終手段として法律に訴える場合も多いだろうし、最初から何でもかんでも法的な手段に訴えるような社会ではない場合の方が普通なのかもしれず、そういうところで社会の構成員である市民は、あまり法律の有効性を信用していない面もあるだろうし、いちいち些細な揉め事でも法律に訴えていたら世の中の人間関係が壊れてしまうかもしれないし、そうだとすると社会の秩序を維持しているのは法律だけではなく、そこで実際に暮らしている人々であり、そこで活動している人や団体の中で、それぞれの人の判断が交錯している中でそこにまとまった社会が構成されているわけで、その判断の中には確かに法律に基づいた判断も何らかの作用を及ぼしている場合もあるだろうが、それ以外のその場の状況に応じた判断もいくらでもあるだろうし、中には判断を伴わない活動もあるだろうし、そうした中で法律が関係している部分というのはそれほど社会全体には浸透していないのかもしれず、確かに法律関係の仕事に従事している人々にとっては、仕事が法律関係なのだから法律に関する知識やそれを活用する経験が豊富にあるわけで、そのような実体験に基づいて構成される意識の中では、社会の中での法律の重要度は他の人よりだいぶ高いだろうし、実際に法律の怖さやありがたさを身に染みて感じているだろうが、たぶんそうした社会の中で法律に関係する仕事に従事している人の占める割合は、高いどころかほんの一握りの少数の人たちでしかないだろうし、そういう人たちの実感とそれ以外の人たちの実感にはかなりの落差があるだろうし、また法律違反で告発される人や裁判などで裁かれる人の割合も同様に少数にとどまるだろうし、結局世の中の大半の人は法律に関しては素人であり、その知識に関してもそれほど詳しく知っているとは言えないだろうし、法律自体が日常生活の中では身近な存在ではなく、法律違反で告発されたり裁判で裁かれること自体が非日常的な特別な体験となるのではないか。そしてメディアを通して知識として間接的に知る法律には様々な誤解や偏見が含まれているのではないか。


2017年

12月31日「制度や慣習の違法性」

 忘れてはならないのは企業でも行政機関でも、取り立てて活動に支障が出ない場合は通常の業務が普通に行われているわけで、しばしばメディアなどで取り上げられて批判されるような不正行為ばかりが行われているわけではないのだろうが、不正行為や違法行為ではなく、合法的な通常の業務の中で行われていることが、社会の制度や慣習によって支えられていて、活動がそのような合法的な行為だけで成り立っていれば、取り立てて問題はないわけだが、実際にはそれだけでは済まないから不正行為や違法行為が行われるわけで、なぜそうなってしまうのかといえば、そのような行為を行わなければならない成り行きや事情が生じてしまうわけで、なぜそういう成り行きや事情が生じるのかといえば、社会の制度や慣習によって支えられているのは、合法的な通常の行為だけではなく、不正行為や違法行為までもがそれらの制度や慣習によって支えられているからだと言えるだろうか。業務が合法的な活動だけではうまくいかなければ、法律に違反するようなことを行ってまでも業務を遂行しなければならない制度になっていて、そういうことを行うのが企業でも行政機関でも慣習となっているとすれば、それらの業務には違法な活動までもが含まれると解釈した方がいいのかもしれないが、なぜ活動には合法と違法の二種類の活動があるのかといえば、普通に考えれば違法な活動は非常手段であって、合法的な活動で間に合っている限りは無理に違法なことを行う必要は生じないわけだが、それだけでは業務をうまく遂行できない時に違法な手段がとられるわけだろうが、法律違反を犯してまでも業務を遂行する必要があるのかというと、しばしばそのような行為が起こっていれば、少なくとも慣習としてはそうなのだろうし、それが常態化しているようならば制度としてもそうなっていると言えるだろうし、そういう意味では制度や慣習は少なくとも法律だけで支えられているわけではなく、違法行為によっても支えられていると言えるのかもしれないし、さらに言えば企業や行政機関の業務は違法行為をも含むような制度や慣習によって支えられているとも言えるのではないか。そしてそこで優先すべきなのは法律を守ることでも違反することでもなく、業務を遂行することであり、優先順位として最も高いのはそれで、次になるべくなら合法的な範囲内で行うことができればそれに越したことはないとなり、さらにそれでは業務を滞りなく遂行できないとなると、非常手段として違法なことを行なってでも遂行しなければならなくなるのではないか。そしてそれがしばしば行われていて、場合によっては常態化しているようなら、もはや非常手段でも何でもなく、そのような行為は慣習となっていて、さらに周知の事実として黙認されているようならば、制度として違法行為が成り立っていることにもなるわけだ。

 そのような違法行為となってしまうと、たとえ一部のメディア上で激しく糾弾されても、関係者の間ではさほど問題視されないわけで、場合によってはむしろ必要悪として世間一般でも容認されているのかもしれないし、その逆に別に違法でもない行為が、制度や慣習上は許されないような場合があるわけで、むしろそちらの方が世間一般においては激しく糾弾されることにもなり、例えば政権中枢の違法行為が不問に付されて、それと時を同じくして著名人の不倫行為が激しく非難されるような事態まで生じるわけで、それとこれとは別問題と言われればその通りかもしれないが、メディアの取り上げ方が著名人の不倫行為ばかりを騒ぎ立てている実態があるとすれば、政権中枢の違法行為に世間の意識を向けさせないための世論誘導だと思われても、それは仕方のないところかもしれないが、そこで問われているのは合法か違法かの判断ではなく、そこで成り立っている制度や慣習に照らし合わせて、それが許される行為か否かの判断であることは確かかもしれないし、そのような論理のすり替えがメディア主導で行われている場合もありえることなのかもしれず、別にそれを論理のすり替えとは認識していない人たちが世の中の大半を占めている場合まであるわけで、そうなるとその場の状況次第ではあからさまな世論誘導でさえ、それがそこで成り立っている制度や慣習に照らし合わせて許される行為だと判断されてしまう可能性さえあるだろうし、そういう意味で世の中で行われている様々な行為や言動の中には、その全てを合法か違法かのような一つの基準では判断できない場合があることは確かだろうし、しかもそれを判断する人の恣意的な判断と、制度や慣習に依存しているような世間的な判断とが、必ずしも一致しない場合があることも確かだろうが、どちらを優先させて判断するかも、その人の立場によって異なるだろうし、その辺をどう考えるかがその先の行動や言動へとつながっていくのだろうが、それに関して誰がどんなことを述べようと、たとえ述べていることに説得力があるように思われようと、そう思ってしまう意識が世の中の制度や慣習から影響を受けていることも確かであり、そのことと自らの社会的な立場や地位から生じる損得勘定とは無関係であっても、それを肯定的に受け止めたり否定的に感じたりすること自体が、自らの社会的な立場や地位を反映していることも確かなのかもしれず、そういう立場や地位が世の中の制度や慣習から生じているのだとすれば、少なくとも意識がそれらに影響を受けていたり依存している限りで、どう考えても普遍的な感覚にはなれないわけで、そんな感覚になる必要もないのかもしれないが、社会の中で自らの立場や地位に依存した限定的な感覚というのが、他の立場や地位に依存している他人の感覚とは多少のずれが生じているとしても、その中には社会的な階層構造や職場や地域社会での役割分担に応じた特有の感覚という共通要素もあるだろうし、そのような感覚で構わないのか否かも含めて、そこで少しは謙虚さを装うなら、そのような事情もその場の判断に反映させるべきなのかもしれない。


12月30日「距離感」

 人が興味を持っていることの中には社会で起こっている様々な出来事や現象があるが、その中で身の回りで起こっている出来事や現象については自分が関わってくる部分で直接の実感を伴うが、メディア経由で見聞する出来事や現象については間接的な感触しか得られないから、直接の利害関係を意識の中で構築するのが難しいし、何らかの部分で自分に関係してくる面があるにしろ、情報がメディアを経由しているだけに一定の距離感を伴い、それらの出来事や現象の方から自分に近づいてこない限りは、自分から出向いて行って直接の関係を持とうとは思わないし、それに関して何か言及する気にもなれないだろうし、そのままやり過ごすことができればそれでも構わないような状況の中で、時が経てば次第に忘れてしまうような成り行きにもなるのかもしれず、そういうところで無理に距離感を縮めようとはしないのが普通の対応なのではないか。人と社会で起こっている出来事や現象との間にそうした距離感が保たれていれば、そのような社会では比較的平穏無事な状態が保たれていると言えるのかもしれないが、誰もが自分とは無関係に思われることにまで多大な関心を持ち、それに関してメディア経由でもたらされる情報を切実に求めているような状況になると、何か尋常ではないことが世の中で起こっているように思われるのかもしれず、それがポピュリズム的な熱狂ともいわれる現象なのかもしれないが、それが人と社会の関係あるいは人とメディアの関係として正常だとは思えなければ、何かそのような感情を煽り立てる要因が社会の中にあるいはメディアの中にあるように思われてしまうわけだが、とりあえず誰もが興味を惹くような話題をメディアに求めていることは確からしく、そのような話題に気を取られていると、誰も興味を惹かないような出来事や現象を感知できなくなってしまうわけで、そうでなくても普通に暮らしている限りでそんなものを感知できるとは思えないのだが、その普通に暮らしている感覚というのが、メディア経由でもたらされる誰もが興味を惹くような話題に気を取られている感覚かもしれないし、そういう感覚が実際に世の中で起こっている出来事や現象がそれだけではないことを忘れさせるわけだ。そして誰もが興味を惹くようなことばかりがメディア上で取り上げられて話題となり、その種類や内容によってはそれが政治問題化したり社会問題化したりするわけだが、その共通の話題なり問題なりがその社会に暮らしている人々にとって本当に身近な話題であり切実な問題であるかは、誰がそれを判断するわけでもなくメディア上で話題となっていること自体がそんな気にさせるわけで、たぶんそれは世の中の慣習としてそんな気にさせるのかもしれないが、誰もが興味を惹きそうな話題をメディアが取り上げるのは、制度としてそうなっているとも言えるのかもしれないし、そこでメディアという制度とメディアが取り上げる話題は誰もが興味を惹く話題だと思う先入観が人々の慣習としてあり、そんな制度と慣習が一体となって社会の中で暮らしている人々を一定の方向へ導いていて、そのような方向性が政治的にも経済的にも社会の中で共通の価値観や思考形態を生じさせているのではないか。

 だからそこで生じている価値観や思考形態に合わない物事は人々の興味を惹かないという先入観もあるのかもしれず、それも人々の意識の中で慣習として定着していて、そのような無意識の方向づけから外れる要素が可能性として、これから社会の行く末を占う上で鍵となってくるのかもしれないし、それらが思わぬところから社会を変革させるきっかけとなってくるのかもしれず、それは何かと知ろうとしても知り得ないかもしれないが、その一方で誰もが興味を惹く話題としてメディア上で取り上げられている物事は、制度的にも慣習的にも世の中を今ある状態に保とうとする上で役に立つ物事なのかもしれないし、もしかしたらそこに社会の変革の可能性はないのかもしれない。そうだとすると逆に社会の変革が人々の期待に沿うような変革でないことも考えられるし、人々の期待から外れるような変革が真の変革だと言えるかもしれないが、人々はそれを変革だとは意識できないかもしれないし、人々の方でも今まさにそれを意識しないで社会変革を行なっている最中なのかもしれないし、制度的あるいは慣習的な社会のルールから外れることを現に行なっている最中かもしれないし、政治的あるいは経済的なルールからも外れることを行なっていて、それを意識せずに世の中に定着させようとしている最中なのかもしれない。そして実際にメディアが取り上げないような話題性のないことを、日々の生活の中で黙々と行なっているかもしれないし、それを行なっている人自身も気づかないようなことが、この先の世の中で社会変革のきっかけとなるかもしれず、たぶんそれは人々が興味を持ち切実に求めていることとは何の関係もない物事なのかもしれない。要するに人々が関心を抱くことは、関心を抱くことによってすでに一定の方向づけがされており、なぜ関心を抱くのかというと世の中の制度や慣習が人々に関心を抱かせるのであり、それらが関心を抱くように仕向けてくるわけだ。そして関心を抱くことによってある意味で安心するわけで、共通の話題を共有できたことによって人々の意識の中で安心感が広がるわけだが、それがとりも直さず現状の肯定につながるわけであり、他の人々と話題を共有できる世の中があることを知って安心するのだろうが、その一方で話題を共有できない事態を恐れるわけで、そうならないようにしなければならないと思うと、今ある現状を守らなければならないとも思うわけで、そうなると現状を混乱に陥れるような行為や言動には反感を抱くだろうし、そのような活動をやめさせたり抑え込まなければならないとも思うのではないか。そしてそれも現状で成り立っている制度や慣習が求める方向性であり、それらを守ろうとする人々が抱く率直な思いでもあるわけだ。そうであるならば現状を変革するきっかけをもたらす要素というのは、制度や慣習を守ろうとする意識でもそれに刃向かう意識でもないのかもしれず、そのような意識に呼応して起こる行為でも運動でもないのかもしれないし、そのような意識が取り逃がしているような行為であり言動でもあるのではないか。そしてそのような行為や言動を意識して目指すというよりは、まずはメディア経由で見聞する出来事や現象とそれを見聞している自己との距離感を意識することが肝要なのかもしれない。


12月29日「恩義と見返り」

 人が社会のため国家のため人のために尽くさなければならないと思うのは、社会に対し国家に対し人に対して恩義を感じているからだろうが、そういう成り行きになるには、社会が人に対し国家が人に対し人が人に対して恩を売る必要があるだろうか。あからさまに見返りを期待するような振る舞いをしては何をやってもありがたみが薄れるだろうが、見返りを期待せずに困っている人を助ければ、こちらが困っている時には人が助けてくれるかもしれず、そういう意味で社会が見返りなしに人を助けたり、国家が見返りなしに人を助けたり、人が見返りなしに人を助ければ、社会や国家や人が困った時に、民衆が見返りなしに社会や国家や人を助けようとする成り行きになるかもしれないが、そういう因果応報の振る舞いが資本主義のルールには欠けていて、基本的にはそれは等価交換のルールであり、同じ価値のものを交換して双方ともにほしいものを手に入れて納得すると同時に、しかも同じ価値のものを交換したにも関わらず儲けを出さなければならないわけで、そうなると儲けを出した側が相手を騙していたことになり、交換した後から騙されたことに気づいた側が不快な思いをすることになるわけだ。だから働いて企業から報酬を受け取る労働者の側からすれば、企業が利益を上げていることを知れば、自分たちが不当に安い報酬で働かされていると思うだろうし、報酬額の面で企業に対して不満や不信感を抱くのは当然かも知れないが、企業は等価交換によって利益を出さなければならないわけだから、労働者への報酬を高くして利益をゼロにするわけにはいかないだろうし、それは実質的には等価交換を装いながらも不等価交換でしかないわけだが、現実の交換に際しては等価交換を装うしかないわけで、結局企業が利益を出すには不当に安い報酬で労働者を雇って、不当に高い価格で顧客や消費者に商品を売ることになるわけで、それ以外では利益が出ないわけだ。そうしないと企業の活動が成り立たなくなってしまうだろうし、できればそれらを不当な報酬額や価格だとは思わせないようにするための工夫が企業には求められているわけだ。そうなると金銭的な額以外の何かが必要となってくるわけで、例えば労働者が雇い主の企業に対して恩義を感じたり、顧客や消費者がその企業の商品の熱心な愛好家になったり、そういうのを総称して企業の社会貢献の成果が出たと言えるのかもしれないが、そういう面で企業がそこで働く労働者や商品を買ってくれる顧客や消費者に支えられていれば、それなりの利益を出していても文句は出ないかもしれないし、それらの人たちにとっては自分たちが支えている企業に利益が出ていることを喜んだり誇らしく思うこともあるのかもしれず、そのような付加価値とともに社会の中で特定の企業が活動していれば、社会全体がその企業を応援するような成り行きにもなるのかもしれないが、それは国や地方自治体にも言えることで、そこに住んでいる住民がそれらの行政機関に対して恩義を感じるような成り行きになれば、喜んで税金を払い、機構による管理統括にも喜んで従うようになるのかもしれない。

 実質的に企業が等価交換を実現するには、事業規模をできるだけ大きくして雇う従業員の数も可能な限り増やしていけば、従業員一人当たりの利益額はどんどん少なくなっていくだろうし、また商品もできるだけ薄利多売にしていけば、一商品当たりの利益もどんどん少なくなっていくだろうし、実際にそうやって大規模な小売業などで可能な限り等価交換に近づけている分野もあるかもしれないが、そういう安売りの分野で生き残れる企業は数が限られてくるだろうし、何よりもそういう安売り合戦をやってしまうとそれと競合している他の企業が安売り競争に巻き込まれて、体力のない企業から廃業に追い込まれたり他の企業に吸収合併されたりして、それらの企業で成り立っていた地域経済や地域社会が破壊されてしまう事態にもなるわけで、そうやって正直に正々堂々と効率やコストを重視しながら等価交換に近づけようとすればいいというわけでもなく、結局企業が活動していく中で生き残る道を模索していけば、結果的にそこで生き残って活動が成り立っている企業の活動内容が、その企業を取り巻く経済情勢にうまく適合していることになるわけで、個々の企業でその活動内容も活動分野も千差万別だろうし、それも企業規模や業種などで特有の傾向が出てくるのだろうが、現状で活動が成り立っていれば、それがその状況下での最適な事業形態なのかもしれず、そこから状況が変わればまたそれに合わせて事業形態も変えてゆかなければならないだろうし、状況の変化に対応できなければ事業の継続が困難になってくるわけで、状況の変化に何らかの法則性があるようなら、それに対応できる企業活動にも何らかの最適な条件が導き出せるかもしれないが、それも変化した結果からしか導き出せない法則なら、それに対応しようとしても時すでに遅しとなってしまうだろうし、確かにそうなった結果を分析すればその時点でどう活動すればよかったかがわかるかもしれないが、その時点以降ではどう活動すればいいかは、予測としては何らかの方針に結びつけられるかもしれないが、その予測が当たるか否かは偶然の要素も絡んでくるわけだから不確実であり、だからこそ結果的に状況の変化にうまく適合して栄える企業がある一方で、うまく適合できずに衰退する企業もあるわけだ。そして無理な経営がたたって不祥事などが続出するようならそれをメディアで批判されるだろうし、結果的にそのような事態になれば批判されて当然なのかもしれないが、そうなってしまった過程における成り行きについては後戻りができないだけに、それをうまく取り繕ってその先も事業を続けていくには困難がつきまとうのだろうし、場合によってはそれがもとで倒産する企業もあるのではないか。確かに企業ならそうなるかもしれないがそれが国や地方自治体となると、無理な行政運営がたたって財政赤字がかさんでしまうケースがあるにしても、行政機構自体が消滅することはまずないだろうし、たとえ他の国や地方自治体に吸収合併されるにしても、今度はその国や地方自治体の行政機構がそこで活動するようになるわけで、そのような結果をどう見るかはそこに住んでいる住民感情にもよるかもしれないが、その国や地方自治体に対して恩義を感じているのなら、そうなるのを阻止しようとするかもしれないが、制度があまり変わらず取り立てて不都合も恩義も感じていなければ、大した抵抗もなくそんな結果を受け入れようとするのではないか。


12月28日「組織的な動作と個人の意識」

 人が何らかの職業に就いて働いていれば、その人は社会の中でその人を働かせる何らかの制度に従っていることになるわけで、働いて報酬を得ることが、人を働かせるのと交換で報酬を与える制度の中で人が動作していることを示しているわけだ。その大半が労働と金銭の交換に関する制度なのだろうが、それと重なる制度として商品と金銭の交換に関する制度があるわけで、労働も労働力商品とみなせばそれに含まれてしまうわけで、労働力商品とはいわゆるサービスに含まれるわけだが、そういう意味で金銭と交換できる商品には物や情報とともにサービスがあるわけで、そのサービスに人の労働が含まれていて商品として取引の対象となっているわけだが、そこで肝心なのは他の商品である物や情報は人から分離して他の人に渡すことができるわけだが、労働自体は人と一体となっていて分離することができず、かといって人自身を他の人に売り渡してしまうと人身売買となって、それでは違法行為とみなされてしまうわけだ。だから商売などの経済活動の中で商品として労働を取り扱うとなると難しい対応を迫られるのだろうし、労働者自身が売り買いの対象となってしまうと奴隷と変わらなくなるだけに、その人の所有権をその人が保持したままでその人に働いてもらわなければならず、その上で働かせる側の意向に同意してもらわないとならないし、それも脅して働かせるような強要はやはり違法行為となってしまうのだろうし、結局働かせる側としては労働者が働かざるを得ない成り行きにどうやって持っていくかが、労働力が商品として成り立つ上で重要となってくるわけだ。そのような環境として労働者が労働力以外に売り物がない環境が制度として整備されてきた歴史的な経緯があるのだろうし、具体的にはそれが都市環境であり、そこで人は畑を耕して農作物を収穫して売ることはできないし、森や海や河川に行って獲物を採集してそれを売ることもできないから、商人となってそれらの収穫物や採集物を売るにしても、買ってくれる不特定多数の大勢の人がいないと商売が成り立たないし、また職人となって生活必需品を作るにしても、それを買って使ってくれる不特定多数の大勢の顧客がいないと商売が成り立たないだろうし、結局それらの物を買ってくれる不特定多数の大勢の人たちは何をやって生活の糧を得ればいいのかとなるわけで、そうなると残された売り物は自らの労働力しかなくなるだろうし、必ずしもそういう成り行きで労働者が生まれたわけではないだろうが、ともかく都市環境の整備が労働者を生んできた歴史的な経緯があることは事実なのかもしれず、そして労働者は都市の中で職人に使われることになれば工業的な労働の担い手になるだろうし、商人に使われることになればサービス業的な労働の担い手になるわけだが、工業においてもサービス業においても集団として組織的な企業形態を取らないと経済活動が成り立たないわけで、またそれは他の農林水産業でも次第にそうなっていった歴史的な経緯があるだろうし、何がそのような企業形態を取らせるようになってきたかというと、結局それは資本主義的な効率やコストを重視する経済活動が、絶えず人を集団化して大規模集約的な作業に駆り立ててきたわけで、そうやって物や情報やサービスの大量生産と流通と販売と消費を可能とする社会を形成してきたわけだ。

 またそれとともに組織化された集団を管理統括する部門だけが独立した組織形態を構成するようになってきたのが官僚機構であるわけだが、それ自体は何を生産するわけでもなく、強いて挙げるなら権力関係を生産する部門と言えるのかもしれず、権力関係を構築しながらその関係を利用して労働者を働かせる役割を担っているとも言えるわけで、そこで労働者が働かざるを得ない成り行きに持っていく上で、そこに権力関係が構築されていると上位の者から下位の者へ働けという命令がスムーズに伝達されることになるわけで、そういう意味ではそれも集団で行う協業活動を効率的に進める上で欠かせない部門であるのだろうし、大規模集約的な作業を行うにはそれを管理統括する官僚機構の存在が必要不可欠となってくるわけだ。また官僚機構は行政の中でも主要な役割を果たしていて、行政は何も生産せずに何らかのサービスを提供していることになるわけだが、そのサービス自体が民衆を管理統括するサービスであり、では何のために民衆を管理統括しているのかというと、表向きは民衆のために民衆を管理統括していると言えるわけだが、それと同時に国家のために民衆を管理統括しているとも言えるだろうし、国家とは何かと言えば行政が管理統括する対象であり、実質的には行政のために民衆を管理統括しているとも言えるわけで、国の憲法などを率直に解釈すればそうではなく、あくまでも主人は民衆であって、民衆のための国家であり行政であると解釈しておいた方が無難なのかもしれないが、すでに企業の経済活動を円滑に行うために官僚機構が労働者を管理統括している実態があるだけに、その論理の延長上では国の行政活動を円滑に行うために官僚機構が民衆を管理統括しているという実態の方が説得力を持つのかもしれず、そのための方便として民衆を騙すために、憲法でそのような実態とは真逆のことが記されていると解釈するのは、あまりにも憲法を曲解しすぎていると言えるのかもしれないし、理想としても普通に解釈すればそんなことにはならないわけだが、官僚機構の実質的な動作内容を考えると、そうなりがちな面も否定できないし、そうなってしまう成り行きに政治の場で歯止めをかけることができない面もあるだけに、絶えず政治的に民衆の世論に訴えかけなければ、民衆は行政の官僚機構に管理統括されるだけの存在となってしまうだろうし、また企業の中では企業の官僚機構に管理統括される存在であり続けるわけだが、もちろんその中のごく一部の人たちは官僚機構に入って民衆や労働者を管理統括する側になれるわけだが、そうなったとして制度の中でそういう立場になるだけであり、自らを拘束する制度に従う限りでそのような立場や役割を担うに過ぎず、自らの主体的な判断で管理統括ができるわけでもないだろうし、あくまでも集団的な組織形態の中で働いている装置の歯車としての機能を担うわけで、その中でうまく機能すればそれなりに評価を得て組織の中で地位が昇進するかもしれないが、そういう成り行きに満足できればそれなりの達成感を伴って充実した職場生活を送れるのだろうし、別にそれで構わないわけだろうが、何のために民衆や労働者を管理統括しているのかについて、何か明確に肯定できるような理由を求めてしまうと、その辺で漠然とした疑問が湧いてくるかもしれないだろうし、その一方で答えなどないと言ってしまうと虚無感に包まれてしまうのかもしれず、どちらにしても組織の中で主体的な活動を目指すのには困難が伴いそうだ。


12月27日「制度や慣習の変革」

 世の中に様々な制度や慣習がある中で、人や集団にとって都合の悪い制度や慣習を改めようとするのは当然のことだとしても、何をどう改めるべきかを巡って様々な人や集団の間で意見の相違があるだろうし、そのことで対立や軋轢が起こるのも当然であり、その改めるべき理由が妥当であるか否かを巡ってもそれぞれの人や集団で見解の相違があるだろうし、それが政治的な課題となれば議会や行政の中で議論を重ねながらも何らかの結論に至れば、その結論を尊重するような方策が採られて、それで一応の制度的な解決が図られるだろうし、企業でもそれに類する何らかの懸案が取締役会や株主総会などで議論されて、企業としての方針がまとまることもあるだろうが、それらの方策や方針通りに事が進められてそれなりに事態が進展することがある一方で、その進展具合が期待通りであっても期待外れであっても、絶えずそれを巡っても異論や反論が出てくるのも当然の成り行きなのだろうが、それが世の中の制度や慣習に起因して起こっている事の成り行きで、そのような事の成り行き自体が制度や慣習に依存しながら推移しているわけで、それらから絶えず影響を受けながら事態が推移しているわけだから、普通に考えてそれは制度や慣習の枠内で行われていることであり、別にそこから逸脱するようなことが行われているわけではなく、要するに制度や慣習を改めようとしてそれを制度や慣習の枠内で改めようとしているわけだ。もちろんそこで改めようとしている制度や慣習と、改める手続きとしての制度や慣習は異なるわけだが、同じ社会の中で機能している制度や慣習であるなら、全く関係がないとは言えないだろうし、それらは社会の中で密接に関係し合い、互いに絡まり合っている場合もあるかもしれないし、そこで互いに関係し合って絡まり合っているような制度や慣習の中で一部だけ取り出して、その部分だけ改めようとしているわけだから、当然その部分とつながっている他の制度や慣習も何らかの形で作用を及ぼしてくることは想像に難くないわけで、そのような制度改革に対する異論や反論も、改革の対象とつながっている他の部分の制度や慣習から生じる不都合を理由としてなされる場合が多いだろうし、その異論や反論に説得力があるようならその理由ももっともな内容となるわけで、そうなると制度を改革する理由ももっともな内容であると同時に改革に反対する理由ももっともな内容となってしまうだろうし、どちらも正当化できる根拠があるとしたら、結局その場の多数決で決めるにしても、決めた後にしこりやわだかまりが残ってしまうだろうし、どのような結果が出るにしてもその結果に納得しがたい人が出てしまい、そんなことが尾を引いて改革がうまくいかずに中途半端なままとなってしまう場合もあるだろうし、そういうところで制度改革が頓挫してしまう事例は多いのかもしれず、考えてみればそれは当然の成り行きであり結果なのかもしれないし、世の中には様々な制度や慣習があってそれらが密接に結びついていたり複雑に絡み合っている中で、ある特定の制度や慣習が都合が悪いからといってそこだけを改めようとしても、それに結びついていたり絡み合っている他の制度や慣習が邪魔をして、うまく思い通りに改めることができないわけだ。

 だから制度や慣習の枠内での制度や慣習の改革はうまくいかないことが多いのかもしれないが、それでも世の中が変わっていく可能性はあるのだろうし、実際に制度や慣習も不変ではないわけで、たとえそのような改革が失敗に終わったとしても、失敗したにも関わらず結果的には制度も慣習も変化を被ってしまうこともあるわけで、それが改革者の思い通りの変化でなくても、同時にそれは改革に抵抗した側の思い通りにもいかない場合もあるだろうし、そういう意味では改革しないよりはしようとした方が何らかの変化には結びつくわけで、たとえそこで失敗してもそれを教訓として新たな改革の足がかりにできる可能性もあるだろうし、失敗を重ねながらも前進できるのではないか。たぶんそのような試みが絶えず続けられるから世の中が変わってゆき、なかなか思い通りにはいかない変革の試みも、少しは制度や慣習の変化に結びつくのかもしれず、改革しようとするからにはその場での変革を目指すのだろうが、そのような試みが挫折や失敗に終わる可能性は高いにしても、失敗したからといってその結果をあげつらって批判ばかりしてみても、あまり生産的な方向へは至らないわけで、とりあえず現状を変革したい切実な理由があるわけだから、その理由も説得力があると感じるなら、そのような改革には賛成した方がいいのかもしれず、それが結果的に失敗したからといって、変革する理由が間違っているとは思えないなら、やはりさらなる変革への試みに期待するしかないだろうし、変革自体を否定するわけにはいかないし、ただ変革のやり方は失敗を教訓として、さらなる改良を施さなければならないだろうし、今度は変革のやり方を巡って議論を進めていくことになるのではないか。そういう議論の進め方が合理的に思われるだろうし、それなりに妥当なやり方を導き出すにはそうするしかないようにも思われるのだろうが、だからと言って確実に合理的かつ妥当なやり方が見つかるわけではないだろうし、変革の機会を捉えてはその場でやれる最善を尽くすような成り行きにしかならないのだろうが、そういう試みはそれでいいとしても、実際に世の中の変化も制度や慣習の変遷も、そのような試みとは全く違った方向に進んでしまうこともあるだろうし、それが実際の歴史的な経緯を形成していて、そこに何らかの偶然の巡り合わせや世の中の権力関係や、そこで生じている様々な勢力の間で行われる争いの経過や結果が作用してくるわけで、そのような現象や行為から制度や慣習が生まれてくるわけだから、時にはそれを変革しようとする意志や思惑からはかけ離れた変化が生じることもあるだろうし、またいくら変革しようとしても失敗に終わる可能性もあるわけで、たぶんそのような試みも様々な勢力の間で行われる争いそのものが変革の試みであったりするわけだろうし、それをやることの良し悪しというよりはそうせざるを得ない試みとしてそのような行為があるのだろうし、客観的にそれを肯定したり否定したりできない面があり、それを判断する意識そのものがすでにそういう争いの渦中の中で判断しようとしているのかもしれず、そこには客観的な立場などなく、そのような試みに加担するか抵抗するかのどちらかの陣営に属していることになってしまうのではないか。


12月26日「制度と人の関係」

 企業なり行政なりの中でいったん出来上がった制度を守る側というのは、既成の制度に依存している限りにおいて、その制度に従わざるを得ない立場に置かれてしまうわけで、しかもそれまでに制度に従うことによって利益を得てきた経緯があるわけだから、それをやめる選択肢などありはしないし、そのきっかけが生じることもなく、ただ制度に従う限りにおいて自らの立場や役割を全うすることができ、従うことをやめてしまったら自らの立場も役割も失うしかないわけだから、そうなると今まで制度に従うことで築き上げてきた自らの業績も信用も失ってしまうことを覚悟しなければならないわけだ。しかし制度自体が時代状況とともに変わってゆくものなのであり、状況の変化によって制度自体が立ち行かなくなれば、そのような制度に依存している人も立ち行かなくなるわけで、そのような人は制度の衰退とともに消え去るしかないのかもしれず、制度に従いながら仕事をしていて、その仕事がうまくいかなくなるような事態に直面したら、その従っている制度自体が時代状況に合わなくなってきたからかもしれないし、そのような事態に直面してもなお依存している制度を信じて今まで通りのやり方を押し通そうとすれば、場合によっては身の破滅を招きかねない危険にも直面してしまうのではないか。だがそんな事態にうまく対処できるのかというと、すでに制度に依存しきっている状態ならば対処するのは無理かもしれないし、結果的にその人が破滅してしまうような事態となってしまったら、やはり時代状況の変化に対応しきれなかったということになるだろうし、時代状況の変化そのものがそういった人たちの破滅とともに加速していくような成り行きを呈するのかもしれない。何が破滅なのかといえば過労死とか自己破産とか色々な場合があるだろうが、そういう意味で制度の変更はそれに依存している人の破滅を招く危険性があるから、別にその危険性を意識して察知しているわけではないにしても、制度に依存している人たちは頑なに制度を守ろうとするのだろうし、制度を守ることが自らの死活問題であることを肌で感じているからこそ、制度の変更には激しい抵抗が起こるのかもしれないが、そのような抵抗が生じている時点で制度が変更しかかっていることを示しているとも言えるわけで、それに関して何か社会の中で深刻な対立や軋轢が発生している状況があるとすれば、それは世の中が変化する兆候を示しているのかもしれないし、それは何もテロや内戦などによって多数の死傷者を出すような成り行きでなくてもありえることかもしれず、そういうはっきりしたことでなくても、世の中のほとんどの人が気づかないところで着実な変化が起こっているのかもしれないし、逆にほとんどの人やメディアなどが気づかない変化の方が、社会やその中で暮らす人にとっては重要な変化なのかもしれない。そしてそのような変化は起こってからだいぶ時間が経たないと意識できないのかもしれず、世の中の大半の人たちが気づいた時にはすでに後戻りできない状況となっているのではないか。

 たぶん現状で普及しているネット上で起こっているメディア現象なども、もはや後戻りができない状況となっているのだろうし、その中では人々の気づかないところで従来とは異なる価値観や思考形態が生じているかもしれない。それらが現行の制度や慣習などに変更をもたらすような作用を及ぼしている可能性もあるだろうし、それはその表層でうごめいている一見誰もが批判できるようなくだらない流行現象に寄り添いながらも、そのような現象に気を取られて流行の担い手たちを小馬鹿にしている人たちを欺くような作用があるのかもしれないし、場合によってはそんな流行の終息とともにそれらを小馬鹿にしていた人たちも一緒に葬り去るような力があるのかもしれず、そのような流行現象を演出しているのがそこで生じている制度であって、そんな制度に依存しながらネットメディア上で批判的な言動を弄んでいると、流行の終息とともにそれらに対する批判的な言動も用済みとなってしまうわけで、くだらない流行現象の担い手たちとそれを小馬鹿にすることで批判的な言動を弄んでいる人たちの両方が、そこで生じている制度に依存していることになるわけだから、結局そのような制度は次から次へと流行現象を巻き起こしては人々の関心を惹こうとする機能があるわけで、その中で一つの流行現象だけに対応していると、それが終息してしまうとそれ以上の進展が望めなくなってしまうわけで、それとは別の流行現象には別の言説が必要となってくるのなら、以前の言説では対応できなくなるわけだ。それが何を意味するのかといえば、そこで生じている制度を守ったり利用するにしても、あまりにもそれに深くのめり込んでしまうと逆に制度自体に裏切られてしまう事態に直面するわけで、制度自体は特にそれを守ったり利用する人たちを守ってくれるわけではなく、確かにそれを利用する人に利益をもたらす場合もあるが、時と場合によっては困難や苦難をもたらしたりすることもあるわけで、結局制度とはそれを利用するすべての人に利益をもたらすわけではなく、その中で主導権を握っている人には利益をもたらすかもしれないが、他の人たちには時には犠牲を強いることもあるだろうし、また制度を守ってさえいれば主導権を握れるわけでもなく、その中で行われる競争に勝利しないと主導権を握れない場合があり、さらにいったん主導権を握ってしまえばその地位が磐石なものとなるわけでもなく、絶えず競合してくる人や勢力とのやり取りの中で工夫を凝らしていないと、何かのきっかけで主導権を奪われてしまう事態も出てくるわけで、そうであっても世の中には様々な制度が並存していて、それらが互いに影響を及ぼし合いながらも錯綜している現状があるわけだから、その中の一つの制度に依存しきってしまうのは危険であり、特定の制度に依存して仕事をしながら生活している現状があるにしても、依存している制度に忠誠を誓っているからといって、いざという時に制度が助けてくれるわけではないことは肝に命じておくべきだろうし、制度の方からも利用価値のなくなってしまった人は見捨てられてしまうわけで、そういう意味で制度と人との関係は利用価値がある時だけお互いにお互いが有効に機能するのではないか。


12月25日「問題の解決と事態の進展」

 現代文明は産業技術や科学技術などの発明や革新などによって、人が生活していく中で遭遇する様々な不具合や困難を解決してきた経緯があることは確かで、今後もそういう方面での解決が図られていく可能性はあるのだろうが、全てがそのような技術的な解決で事足りる可能性さえあるのかもしれないものの、解決しようとする行為に対する抵抗も当然生じてくるわけで、それが制度的かつ慣習的な抵抗となって現れてくるだろうし、世の中の制度や慣習を守っている側にしたら、当然それらを守ることで何らかの利益を得ているわけで、そのような既得権益を守るためには解決してもらっては困ることも一つや二つではないのかもしれないし、特に何らかの犠牲を伴うような制度や慣習となると、そのような犠牲をなくそうとする行為には激しく抵抗するのではないか。そもそも権力を行使するということは、行使される側に犠牲を強いる行為であるわけで、そのような行為をやらなくても物事がうまくいってしまうと、権力そのものが不要となってしまい、権力を行使する側の権威が消滅してしまうことを意味するわけで、そうであるなら権威を守ろうとする側にしてみればそうなっては困るのはもちろんのこと、権力の行使を介して成り立っている世の中の秩序を守るためにも、制度や慣習の変革には頑なに抵抗するのではないか。またそれには権力を行使される側も抵抗するかもしれないし、世の中で権力を行使されるという役割を担っているわけだから、その役割がなくなってしまうと自らの存在意義自体も消失してしまうわけで、そうなるとその先はどうやって生きてゆけばいいのかわからなくなってしまうだろうし、だからたとえ権力を行使される犠牲者ではあっても、犠牲者がいらなくなってしまったらもう用はないということになってしまうと犠牲者自身も困ってしまうわけだ。たぶんそれが人工知能やロボット技術などによって職を奪われる労働者の立場なのかもしれないし、またその場合は権力を行使する立場とはそのような労働者に命令する側の中間管理職の立場なのかもしれないが、いずれにしてもそれで利益が出るならそういう方向で物事が進行するだろうし、現にそのような分野も世の中にはあるのだろうし、今後それが産業の全ての分野に浸透するかどうかは定かではないが、そのように事態が進展していくにつれて新たな問題も生じてくるだろうし、その問題の中には当然そのような進展を妨げるような抵抗も起こるのではないか。そしてそんな抵抗とともに世の中も変わっていくのだろうし、事態を進展させようとする思惑とそれを阻止しようとする思惑が複雑に絡み合いながらも、双方の思惑から外れるような新たな事態も起こりながら世の中が変わっていくのだろうし、そうやって変わっていった先に何が待ち受けているかは、そこまで実際に到達してみないとよくわからないことが多いだろうし、今から何を予想してみてもそんな予想はほとんど裏切られてしまうのかもしれず、人はただそのような変化の過程を体験するので手一杯となってしまうのではないか。

 少なくとも加害者と被害者の双方の存在が事件を成り立たせているわけで、問題の解決とは双方の存在をなくすことにあるとすれば、そうなると事件から利益を得ている側にとっては死活問題となりかねず、そうなっては困るなら事件があった方がいいわけで、問題を解決して事件をなくすような行為は阻止しなければならなくなるのかもしれないが、それを事件という比喩で語ること自体も間違っているのかもしれず、では何なのかというと経済的な活動というしかないのかもしれないが、集団で行う経済活動にはその集団自体の維持存続が欠かせないわけで、物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費という経済活動が行われている中で、それを行う役割を担っている集団の維持存続が何よりも優先されること自体は、そのような集団の組織形態としての官僚機構の都合が優先されることになるわけで、その官僚機構の中で行われているのが権力の行使という事件になるわけだが、仮に権力を行使する側が事件の加害者で行使される側が被害者という立場を担っているとすると、そのような権力の行使が問題だとすれば、問題の解決とは権力の行使をなくすことになってしまうわけだが、そうなると権力の行使で成り立っている官僚機構そのものが崩壊してしまうという結果が想定されるかもしれないが、それでは物事を単純化しすぎているように思われるだろうし、実際に現状の世の中ではそうはならない現実に直面しているわけで、ではそうなっては困るからそれを阻止するような作用が働いているとみなすと、それを実際に阻止しているものは何かというと、それが世の中で働いている制度や慣習といってしまうと漠然としすぎているわけで、ではそれらを守っているのは何かと言えば、その制度や慣習に従っている人々だろうし、その中には権力を行使する側の人もいるし行使される側の人もいるわけで、まさに加害者側と被害者側の双方が権力の行使という制度と慣習に依存している実態があるのではないか。もちろんそこでは力の不均衡や不平等があって、そこで主導権を握っているのは権力を行使する側であるわけで、主導権を握っている側が自らが有利な状況を改めるつもりにはなれないのはもちろんのこと、そのような権力の行使に抵抗する側でも抵抗活動をやめる気にはなれないだろうし、その抵抗活動が権力の行使の口実になっているとしても、悪いのはあくまでも権力を行使する側だと主張するしかないわけだが、そうであるならではどうしたらいいのかという問いが出てくるしかないわけだが、そのような関係から外れるようなやり方を模索するしかないのかもしれず、問題の解決とは別のやり方を模索すること以外にはあり得ないのかもしれず、そこで生じている二項対立をずらすようなやり方が模索されるべきで、それがある意味では産業技術や科学技術などの発明や革新がもたらしてきたことなのではないか。そして現状でも人工知能やロボット技術などの進展がそれらの構造的な権力行使の問題を解決するきっかけをもたらす可能性があるのかもしれないが、実際にそういう成り行きになったところでまたそれとは別の新たな問題が生じてくる可能性もなきにしもあらずであることは容易に想像できるところだろうか。


12月24日「無理難題」

 人と企業と労働の関係は、人が企業の枠内で労働に従事する制度が社会的に定着していることから、それが世の中で一般化しているわけだが、そのような成り行きを招いている結果として、集団的な組織形態としての企業の役割や活動が社会の中で重要な部分を占めているわけで、家族や国家などとともに人の生活に多大な影響を及ぼしているわけだが、その中でしばしば企業の論理と人の生活との間で軋轢が生じていることも確かだろうし、多くの人が企業で働いて生活の糧を得ている一方で、自分の生活を犠牲にしてまで企業に尽くしたいとは思わないだろうし、またそれと同じように自分の命をかけてまで国家に尽くしたいとも思わないのだろうし、さらに自分を犠牲にしてまで家族に尽くしたいとも思わないのかもしれないが、とりあえず企業の集団的な論理からすれば、そこで働いている労働者を犠牲にしてでも利益を追求するような成り行きになりやすいわけで、そこにはそうしないと利益が出ないような企業を取り巻く経済情勢になっている場合があるわけで、それは企業間の競争がそういう状況を作り出しているのかもしれないが、そこで競争せざるを得ないような状況になっているとも言えるだろうし、様々な集団が何らかの形で競い合えば、必ずその集団の構成員に何らかの負担がかかってくるのは当然の成り行きかもしれないが、それが国家間で行われる戦争であれば双方の国民に犠牲者が出るのが当然であるように、競争にも犠牲者がつきものなのかもしれないし、それは避けられないことかもしれないのだが、労働していること自体が報酬と引き換えにして企業という集団に尽くしているわけだから、絶えず犠牲になりやすい立場であるのだろうし、そのような労働形態自体がもとから不利な立場ではあるわけだ。そして企業の組織形態も官僚機構のような階層構造になりやすく、競争の他にも企業間の談合という手法も行政との間では取られるわけで、そこでも絶えず企業という組織の論理が優先されて、元請けの大企業が談合によって利益を確保する一方で、下請けの中小企業に犠牲を強いるような階層構造も生じているわけだ。そうやって企業間でも系列などの序列関係ができあがって、立場の弱いところに犠牲を強いるような論理がまかり通る傾向があるわけだが、それも社会に受け入れられている限りで成り立っているわけで、実際に弱い立場にある人たちの生活が成り立っている現状が、それが成り立っていることを示しているわけだが、もちろん生活が成り立たなくなる人たちが続出するような事態になると、社会そのものが崩壊に向かう可能性もあるわけで、犠牲者のなり手がいなくなってしまうとそんな論理も通用しなくなってしまうのかもしれないが、今のところはまだ立場の強い側に利益が出ているとすれば、まだ犠牲を強いられる人たちが持ちこたえていると言えるのかもしれないし、持ちこたえられている限りで企業や社会の中での階層構造も維持される傾向が続いてゆくのではないか。だがそうだとするとそのような構造の維持継続は犠牲を強いられる弱い立場の人たちの耐久力にかかっている面があるのかもしれない。

 犠牲を強いられる最下層の労働者がどこから供給されるかは、普通は移民労働者などが最下層で犠牲を強いられる役割を担うのだろうが、移民が供給されない場合は中間所得層がどんどん下位の階層に下がっていってしまう場合も考えられるわけで、それが貧富の格差の増大となって現れるのかもしれないし、それに関しては国境があって国家的な枠組みでは把握しにくいのかもしれないが、ある国の国内では富裕層ばかりが増えているような状況があるとしても、その反動で別の国では貧困層ばかりが増えている可能性もあるわけで、それもその国でテロや内戦などの政情不安が慢性化していると、それらの人たちは貧困層とは呼ばれないで難民扱いとなってしまうわけで、そういう人たちの一部が移民となって富裕国を目指す場合もあるのだろうが、どのような場合でも犠牲を強いられる層に供給源があれば、社会や企業などの階層構造が維持される傾向にあるのかもしれず、そういう人たちの犠牲によって企業活動や国の経済成長がそれなりに持続するのかもしれないが、最下層の労働者も人であるからには生き続けようとするわけで、生き続けていればそれなりに人口が増えてきて団結力がそれほどなくてもそこに何らかの力が生じてくるわけで、職にありつけなくても生きて行くために強盗や窃盗などの犯罪行為に手を染める人も多くなってくるのかもしれず、そうなると社会の治安が悪化してきてギャングなどの抗争事件も頻発してくるのかもしれないし、それによってそれ以外の層の生活が脅かされてくるわけだ。だがそうなると富裕層の方でも警備会社などを活用して自分たちの生活圏の防衛に乗り出すのだろうが、警備会社などでも利益の追求を目指すなら下っ端の警備員などは貧困層から安い給与で雇うかもしれないし、そこでも階層構造が生じてしまう傾向にあるのかもしれず、そうやって絶えず人が労働者として企業の利益追求に活用される成り行きの中で、社会の維持が図られることになるのではないか。そしてそのような社会構造が維持される限りにおいて、企業の側でも富裕層の側でも行政の側でも、それを経済的な悪循環だとはみなさないだろうし、ともかく企業活動から利益が得られて富裕層に富が蓄積されて行政の側でも税収が確保される状況が続いていけば、そういうレベルでは何の問題もないわけで、あとは行政の側で治安対策や貧困対策や移民対策などで対症療法的な対策を施して、それに関して世論や議会などの了承を取り付けられればいいわけだが、根本的なところで社会の構成員の中で誰かが犠牲を強いられるという成り行きは変えようがないわけで、それを矛盾や不具合や欠陥と捉えるわけにはいかないだろうし、それによって経済が回って企業や国家が成り立っているのだとすれば、それが必要不可欠だとも言えてしまうわけだから、そういう問題に関しては避けて通るか不問にするしかやりようのないところかもしれず、そのような問題を積極的に解決しようとしてしまうと、現状で成り立っている経済そのものが回って行かなくなり、企業も国家も成り立たなくなってしまうのだろうし、たぶんそれが旧来の共産主義や社会主義について回る無理難題なのではないか。


12月23日「絶望とは無縁の絶望的な未来」

 人が集団として組織的に機能しながら何かをやるには、組織内の各人に役割分担を課す体制とそれを管理統括する官僚機構が必要不可欠となってくる事情があることは確かだが、それが制度として世の中に定着している背景として、その官僚機構を内包する国家という枠組みが社会を成り立たせている大前提として人々の共通認識を形成しているからかもしれないが、果たして官僚機構なしに人が集団として機能するかというと、それは集団の形態にもよるだろうし、たぶん部族社会ではまだ官僚機構と呼べる集団は存在しなかったのかもしれないが、広範囲な領土を要する帝国となると宦官や職業的な軍隊などを統率する上で官僚機構が必要となってきたわけだろうし、国家として最も重要な行為である徴税を機能させるには、それを専門に行う役人の集団が必要となり、そのようなところから官僚機構が生じてきた経緯があるのかもしれないが、企業における官僚機構となるとやはり大企業のレベルで事務処理や分業的な各部門を統括する専門の集団が必要となってきて、そこから官僚機構が生じてくるわけだろうが、またその部門だけ多数の子会社を束ねる持株会社として別個に存在する場合もあるだろうし、そうなると財閥といった性格を帯びてくるわけで、金融系の会社ではホールディングスとかフィナンシャルグループとかいう呼び名が流行っているのかもしれないが、そのような形態にした方が企業経営に関して効率的かつ機能的に事業を進められるからそうしている面があるのだろうし、分業している部門に様々な事業の可能性を探らせて、利益が出る可能性が高くなってきたら、その部門に資金や資材や人材を集中的に投資して可能な限り高い収益の確保を目指して、逆に事業の収益が悪化する兆しを察知したらさっさとそこから撤退できるように分社化しているわけで、手足をもがれても最悪頭だけ残ればいいような形態といえるのかもしれず、そこまで深刻な状況は想定していないだろうし、せいぜいがトカゲの尻尾切り程度の感覚なのかもしれないが、投資の効率性や機能性を重視すれば自然とそのような形態に落ち着くわけで、それは国家形態でもいえることなのかもしれない。またそうである限りにおいて官僚機構自体の存在が他の何よりも優先されるのだろうし、それ以外の部門で働いているとその部門を管理統括している官僚機構の犠牲となりやすく、現場で働いている労働者がそれを指揮している管理者の糧となってしまう構図がそこで出来上がっているわけだが、そもそも人が集団となって組織的に働くという形態自体がそうなりやすい要素を含んでいて、そこに階層的な構造が出来上がっていれば上位の階層から下位の階層へと命令が下されるわけで、その命令を専門に下すエリート集団として官僚機構が様々な部門を束ねる上位の階層に位置する関係は、社会の中では自然に形成される成り行きにあるのかもしれないが、そのような関係に下位に位置する集団の中から反発が生まれるのも自然の成り行きではあるわけで、そこに権力を巡って不均衡な力関係が生じていて、その中で不利な立場にある者は有利な立場にある者に反感を抱くわけだ。

 そしてそういう権力関係の中で下位の階層に属する不利な立場の者たちが上位の階層へと成り上がろうとする野望も生まれるわけで、そのような野望によっても権力関係は維持されるわけで、野望を成就させるには是が非でもそこで生じている不均衡な権力関係が必要であり、野望を抱いている者には権力関係の解消を目指すような意志も活動も生まれず、そのような者たちが権力ゲームに加わろうとすること自体が逆に権力争いを活発化させ権力関係を強化することにもなってしまうわけだが、では権力関係の解消を目指すにはどうすればいいかというと、原理的にはそのような権力関係を生じさせる社会の階層構造の解体を目指せばいいわけだが、それでは集団の組織的な機能を阻害することになってしまうだろうし、そうなるとそのような社会自体の解体を目指すことになってしまい、現にそんな社会の中で生きている人たちが自らを養っている社会の解体を目指すわけがないだろうし、少なくとも意識してそのような行為に及ぶことはないのではないか。だが意識せずにそんな行為に及んでいる場合があるのだろうし、それが成り上がり的な野望の欠如した人の出現なのかもしれないし、また社会で生じている権力関係に対する無関心な人の出現もそうした兆候の表れかもしれないが、そうした人が生きて行けるような社会環境が現に生じつつあるのだとすれば、社会の階層構造や現状の社会そのものが解体する兆しを示しているのかもしれないし、そのような人たちの出現が何に起因しているのかを突き止められれば、それを積極的に活用することで社会変革が可能となるのかもしれないが、それに関して遊牧民の社会の中で、例えば羊の群れを統率する牧人とその牧人に付き従う羊の群れの関係を社会に当てはめて、成り上がり的な野望を抱かずに一般の民衆がただ黙って羊のように牧人に付き従うだけの存在となってしまうと、その牧人の役割を担うのがエリート官僚たちになってしまうわけで、それでは階層構造が解体するどころか固定化して永続してしまうことにもなりかねず、成り上がりの野望を抱ける権力関係が下克上的で動的な関係だとすると、牧人的な権力関係は成り上がりのない静的で絶望的な関係だと言えるわけで、もちろん羊の群れの中にいれば絶望感など抱かないわけで、ただ黙って統率者である牧人について行けば、餌を与えられてそれなりに生きて行けるわけで、いったんそうなってしまうとそれが日常化してしまうから、別に統率者に対する反抗心など湧いてこないだろうし、それを何とも思わないような静かな日々を送って行けるのではないか。そしてその中にいると、その状態の良し悪しを自分では判断できないのかもしれないし、そのような気さえ起こらなければ完全にそのような構造に身も心も支配されていることになるのかもしれず、それをエリート官僚たちが意識して目指しているわけではないにしても、官僚機構の役割や機能を推し進めてゆくと、自然にそうなってしまうのだとすれば、構造的にそうなっているとしか言えないのかもしれないし、誰もそのような作用に抗う術がないのだとしたら、もはや現状の中で生きている人は絶望するしかないだろうが、いったんそうなってしまえば絶望とも無縁となってしまうのではないか。


12月22日「制度と格差社会」

 仕事になぜ専門的な知識や技能が必要なのかというと、競争の中で他人との知識や技能の差を利用して、自らの有能さをアピールしたい思惑が生じるからで、知識や技能を利用して他人より優れた仕事をすれば、より多くの利益が得られる傾向や成り行きがそこにあるからだろうが、それがいらない仕事なら誰でもできる仕事となり、専門的な知識や技能がなくてもできる仕事というのは、一般的には安い報酬しか手に入らない仕事となるわけだが、人によって報酬に差をつけるために専門的な知識や技能が必要となってくると、それの有無を客観的に判断するための試験や資格が必要となってくるわけで、試験をしてそれに合格すれば専門的な知識や技能があることが証明されて、それを判断する専門の機関から専門的な知識や技能があることを証明する認定資格を付与されることとなり、そのような資格を有する者にはその資格の難易度に応じてそれなりの報酬が保証されるような制度になるわけだ。そしてそのような資格認定を行う機関というのもやはり官僚機構の役割となるわけで、世の中に何らかの制度が生まれると必ずそれを管理統括するための官僚機構が必要となってきて、何らかの制度を管理統括するということが結局は社会の階層構造を作ることになるわけで、そうやっていったん階層構造が出来上がると、その中で暮らす人々はより上位の階層を目指して努力を惜しまず、より多くの人が努力しようとすればやがてそこで何らかの競争が生まれて、そうなるとそのような競争を管理統括する官僚機構の支配力が強まるわけで、競争率が高くなるほどそのような機構が付与する認定資格にもそれなりの価値が生じてくるとともに、それを試験して認定する機関の権限も強まってくるわけだ。つまりそうやって社会の中で官僚機構が一定の権力を持つようになるわけだが、それは何らかの制度とともに存在しているわけで、それが社会を管理統治するための制度ともなっているのだろうが、そもそも社会を管理統治するというのはどういうことかというと、そこで暮らす人々に一定の役割分担を課して、人々がその役割を担って働いている状態を実現することが、その社会を管理統治していることになるのだろうし、その中で人々がなぜ働くのかというと、具体的には生活の糧を得るために働くわけで、その必要に迫られるから働くことになるわけだが、実際には生活の糧を得るだけではなく、それ以上の利益を得ようとする動機を官僚機構が作り出している面もあるわけで、それが他人より有利な立場や待遇を得るにはどうしたらいいかということになり、それを実現するための手段として試験や資格が物を言う場合があり、官僚機構が課す何らかの試験に合格して何らかの資格を取れば、社会の中でより有利な立場や待遇を得ることができ、そのような資格を得るためには官僚機構に従いながら努力して、資格を得るための競争に勝ち抜かなければならなくなるわけだ。

 そのような制度があり官僚機構がそれを管理統括している限りは、放っておいても社会の中で格差が生じるわけで、日頃から格差社会を問題視して、社会の最底辺で従属的な労働を強いられる人々を擁護するような姿勢を保とうとするジャーナリズムに携わる人々も、実際にはある程度の格差は容認せざるを得ない立場にあるわけで、何らかの競争を勝ち抜いて今の職業に就いている人たちは皆そのような格差社会の恩恵に与っているわけだ。ただそこで行われる競争が公平で公正に行われている限りで競争自体は肯定され、地縁血縁などによって依怙贔屓があるとそれを不正行為として問題視するのだろうし、そうやって何とかそこで生じている格差を正当化したいわけだが、ある程度は正当化できてもどこかで正当化するのが難しくなってくるわけで、結局は自らの立場に関係する部分については正当化して、それ以外のところで社会問題化している部分については批判的に取り上げざるを得なくなるわけで、一般的には社会の中で不利な立場や待遇を強いられている人々に対して人道的な配慮を求めるわけで、そのような配慮を欠いている行為や仕打ちを批判したり非難するわけで、どのようにしてそういう行為や仕打ちに至るのかについて、その経緯や成り行きを改善しようがない場合は、それをやめさせることはできないわけだが、そうであるにしてもそうなってしまった結果については批判したり非難できるわけで、批判や非難ができる範囲内でジャーナリズム的な仕事が成り立つわけだが、その辺が社会の制度にしてもそれを管理統括する官僚機構にしてもそこから生じる格差社会にしても、根本的な部分では改革しようがないことは確かで、ただ対症療法的に社会の中で不利な立場になっている人たちに対して、人道的な配慮を求めるしか主張がないのが実態なのではないか。もちろんそんな主張が改革に結びつくとは思えないだろうし、改革とは制度改革しか念頭にないだろうし、制度そのものをなくすことも官僚機構をなくすことも制度改革のレベルではできないわけだから、そんなことはやりようがないし、やろうとしてもそれ以外の面で多大な不都合や不具合が生じてしまうだろうから、現実的な話ではないわけだが、そのようにして制度面での改革は行き詰まるにしても、制度以外の部分で生きて行ければいいわけで、制度以外の部分で生きられる余地を作っていくことが、制度に逆らう人たちがやらなければならないことになるのだろうし、世の中の制度が硬直して次第に改革も袋小路で行き詰まるような様相を呈するほどに、それ以外の部分が広まる余地も生まれていくだろうし、実際に制度とは別の方面で生きていられる人が多くなるほど制度そのものが形骸化してくるわけだが、官僚機構の方もそんな状況に手を拱いているわけではなく、絶えず新たな分野で新たな制度を構築しようとするわけで、そうやって自らの所轄の領域を社会の隅々にまで行き渡らせようとするのだろうが、そういうところで制度に逆らおうとする人たちと官僚機構とのせめぎ合いが絶えず生じているのではないか。


12月21日「ポピュリズムの時代」

 社会の中での分業的な役割分担に伴って、誰もが自分の専門分野外のことには疎くなる傾向にある中で、どのような勢力が力を増しているのかといえば、まずはそれらの専門分野をまとめて管理統括している官僚機構の力が増すのはもちろんのこと、また様々な専門分野から情報を得て、それらの情報を取捨選択しながら都合のいい情報を人々に配信しているマスメディアの力も増しているわけで、官僚機構とマスメディアが連携すれば世の中の主導権を握れる可能性が出てくるわけで、実際に現代の大衆メディア社会と呼ばれる状況の中で主導権を握っているのは官僚機構とマスメディアなのかもしれないが、それはだいぶ以前からそうなのかもしれず、別に今に始まったことではなく、産業革命や市民社会や民主的な政治体制などが世界的に広まるにつれてそうなっていった経緯があるのかもしれないが、情報革命以後に特に顕著になってきたことは、メディア自体が一部の特権的な人々に占有されていた状態が緩和されて、インターネットの普及に伴って誰もが好き勝手に情報を配信できるようになって、全体的な情報の質は途方もなく劣化したかもしれないが、それは政治体制が一部の王侯貴族や僧侶階級のものではなくなって、普通選挙が実施されてポピュリズムが全盛となってしまったことと似ているのかもしれず、第一のポピュリズムがナポレオン体制に始まってヒトラーのナチスドイツで全盛を迎えたように、今また情報革命に刺激を受けて第二のポピュリズム時代が幕を開けて全盛を迎えつつあるのではないか。もちろん第一の時代と第二の時代とでは状況も経緯も違うし、同じような悲劇が繰り返されているわけではなく、結末も前の時代とは全く違ったものになるかもしれないが、似ている面で言えばそれは極右的な思想が世界的に流行していることだろうか。また前の時代では産業革命の進行によってヨーロッパやアジアなどであぶれた人たちが、移民となってアメリカなどの新大陸を目指したわけだが、今の時代の移民はアジアやアフリカや中米の国々から欧米の国々を目指していることだろうか。そのような社会現象がポピュリズムや極右思想を煽り立てているわけだが、産業革命が人口爆発を招いたのに対して情報革命は金融資産の膨張を招いたわけで、今も世界で人口が増加している地域はまだ産業革命が進行している最中の地域であって、特に情報革命と人口の増加は無関係なのかもしれないし、また移民も主に内戦やテロなどの政情不安が招いている面も大きいのかもしれず、そういうところであまり対照的な時代の比較はできないわけだが、ただ従来からあったマスメディアの権威が崩れてきたことと、旧体制下で世の中の主導権を握っていた王侯貴族や僧侶階級の権威が崩れてきたことの経緯は似ているのだろうし、第一の時代ではそれに代わって資本家階級が社会の中で台頭してきて国家的な主導権を握ったのだろうが、第二の時代ではまだどのような勢力が社会の主導権を握るのかは現状ではよくわかっていないだろうし、確かに第一の時代と同じように金融資産の膨張を背景として資本家階級の力がさらに増してきたと言えるのかもしれないが、まだ状況が一段落したとは言えないだろうし、これから先がどうなるかはよくわからないのではないか。

 ただ旧来のマスメディアの権威が崩れてきたということから、それに代わって新しいネットメディアの権威が確立されることを意味するわけではないだろうし、せいぜいが双方の競合状態になったと言えるぐらいで、両方にまたがったメディアもあるわけだから、どちらが主導権を握るわけでもなく、世の中の様々な方面から情報を得てそれを不特定多数の人たちに配信するという役割が変わることもないのかもしれないが、ただそれを受け止める人々の意識は確実に変わってきたのかもしれず、要するに相対的にメディアに対する信用度が低下してきているかもしれないし、何か特定のメディアを権威として崇め奉るような信仰とは無縁になりつつあるのではないか。それは大衆市民社会の中で旧来の王侯貴族や僧侶階級の権威が失墜したと言っても、それに代わって台頭してきた資本家階級を特別な権威として市民が崇め奉るようなことはしなかったのと似ていて、何か特定の人物や勢力を特別な存在として崇め奉るような風習が情報革命以後はより一層弱まってきたと言えるのかもしれないが、もちろん今でもメディアを通じて話題の著名人を特別な存在として煽り立てる風習は変わっていないわけだが、それはあくまでも特定の分野に限ってのことであり、世の中の全体に影響力を持つような存在としては扱っていないわけで、それも社会の中で分業的な役割分担がより一層顕著になってきたことの証しかもしれないが、もしかしたらそのことの影響が必ずしも第一の時代ほどにはポピュリズムが世の中の全体には広まらないことの原因なのかもしれないし、ほとんどの人は熱狂とは無縁の冷めた目線でそれらのわざとらしい煽り立てを見ているのではないか。もちろん煽り立てているメディアの側では皮相上滑りの感を呈しながらも熱心に洗脳活動に勤しんでいるつもりなのかもしれず、またそれに危機意識を抱いているメディアの側でも盛んにその手の洗脳活動に警鐘を鳴らしているつもりなのかもしれないが、どうもそれが社会全体としては盛り上がりに欠け、それを肯定するにしても否定するにしても人々がそれほど熱狂するわけでもないのは、やはりマスメディアの権威が崩れてきたことが大きく作用していて、心底から信用していない人が世の中の大半を占めていて、相対的には情報に対する関心が分散していて、それの良し悪しがどうこうというよりは、そのような分散や分業の傾向に対して、情報を配信する側も対応していて、あまり一つの情報を特別視して煽り立てるようなことはしなくなってきたのかもしれず、情報を受け取る人の好みに合わせて様々な情報を分散的に配信するような傾向を示しているのだろうし、そのような傾向が特定の情報を集中的に配信して煽り立てるようなやり方を抑制しているのではないか。またそれがそうする必要性を低下させているのかもしれず、特に煽り立てなくてもそれなりに利益を得られるような情報の配信システムへと移行しつつあるのかもしれないし、情報を受け取る人の好みに合わせて情報を配信するということは、それはそのまま社会の中の分業化や関心の分散化を単に反映していて、それをわざわざ特定の一つの話題へと人々の関心を集中させる必要性がなくなってきたことを意味しているとすると、それはとりもなおさず人々の関心を集中させることによって成り立つ民主主義的な政治システムの崩壊の危険性をも意味するのかもしれず、また同時にポピュリズムの効力が薄れてきたことも意味するのではないか。


12月20日「公私混同の意味」

 仕事は結果的にうまくいっている仕事だけが続いていく成り行きにもなるわけで、事前に立てた計画通りに物事が進まないのはよくあることで、そうなった時にその場での調整力が問われるのかもしれないが、事前に計画を立てて計画通りに事が運ぶように各方面に根回しするようなことは官僚機構が得意とする分野だろうし、連携している各組織間で利害調整を行なったり、意に沿わない業者をそこから締め出したり、そうやって組織の利益を確保しようとするのだろうが、一方でそれは競争原理と相容れない面も出てくるわけで、競争に勝って利益を出す見込みがあれば競争して、正々堂々と公正な競争をするよりは、事前に談合して利害調整を行った方が利益を得やすいと判断すれば、競争を回避して談合する選択肢も出てくるわけだが、公共事業などの入札を巡ってそれが違法行為だと知りつつも行われる実態があるとすれば、そこで競争を促す公的な制度よりも仲間同士で通用する商慣習が優先される状況が生じているわけで、そういうところでいくら制度改革を行おうとしても慣習が障害となって、制度自体も公的に公平で公正なものとはなり難い面があるだろうし、制度を管理する側にも官僚機構があるわけだから、そういう場合は制度を管理する官僚機構に都合のいいような制度になりやすく、またそれが制度を適用される側の民間の企業の官僚機構とも天下りなどで繋がっている場合は、互いの官僚機構同士で利害調整が生じやすいだろうし、根本的なところでそれらの機構が何に利益をもたらそうとしているのかといえば、やはりそれは官僚機構という組織に優先的に利益をもたらそうとする傾向になるわけで、そこで組織の中の交渉を担当している個人の意向ではどうにもならない構造的な力が組織内や組織間で働いてしまうのではないか。もちろん交渉担当者は組織の意向に従うしかないだろうし、しかも談合などの違法行為が発覚したら責任を取らされるわけだろうし、そうなると個人をトカゲの尻尾切りのように犠牲にして組織が生き残るわけだろうが、そのようなことが長年の慣習として繰り返されているとすれば、そのような違法な慣習自体が制度となってしまっている実態があるのではないか。そして談合などを行うことによってもたらされる組織の利益はその構成員の利益となるわけだろうが、確かに公平な競争を行って仕事を受注できなければ利益を得られないことになるわけで、そうであるなら複数の企業で談合して仕事を分かち合う方が確実に仕事にありつけるし、公共事業などの入札価格もそれなりに利益が出やすい価格で落札できるだろうし、企業側にとってはその方がいいに決まっているわけだが、公共事業などを発注する行政の側でも官僚の天下り先である気心の知れた企業に仕事を請け負わせたい思惑もあるだろうし、そうなると行政側と企業側が持ちつ持たれつのウィンウィンの関係となるわけで、それで組織と組織の間では何の不都合もないのかも知れないが、そこで問題があるとすれば公的な資金を活用して事業を行なっているということだろうし、公的な資金で私的な企業を違法に儲けさせるという成り行きが問題となるわけだが、そこに公的な制度に関する何らかの不具合が浮かび上がってくるだろうか。

 果たして公私混同は避けなければいけないことなのだろうか。その一般的な意味からは若干ずれてくるかも知れないが、行政側の中にある官僚機構も組織自体の利益を優先する限りにおいて、それは私的な利益を追求していると言えるのかも知れず、それとは異なる公的な利益とは特定の組織を超えた社会全体の利益となるわけだが、その社会全体の利益というのがうまく合理的には説明できないのかも知れないし、場合によってはそれは特定の国家を超える範囲を指すものだとすれば、国家的な利益ですらが私的な利益の範疇に入ってしまうだろうし、そうであるなら行政は何のためにあるのかという話になってきてしまうだろうし、そこまで範囲を広げることに関しては否定的な態度をとる人が世の中の大部分を占めるのではないか。それに関しては絶えず相対的なレベルで物事を考えるしかないのかもしれないし、公的な資金を活用する公共事業などに関しては、制度として行政側の官僚機構の利益も企業側の官僚機構の利益も私的な利益とみなすしかなく、公正かつ公平な競争を実現するにはそれらの官僚機構の利益を考慮しないような制度にしなければならないだろうし、そこで違反行為が行われたらどちらの官僚機構も処罰の対象となるしかないだろうが、現状では違法行為を行った双方の責任者が処罰の対象となっていて、また民間の企業には法的に罰則が設けられているものの、行政機構そのものは関係者を処分する以外には罰しようがないだろうし、その官僚機構自体はどうやっても温存されてしまう傾向にあるのではないか。もちろん行政改革の対象とはなるだろうが、機構自体をなくすわけにはいかないし、どうやっても官僚機構が残るような仕組みになっているわけで、それがないと行政そのものが機能しなくなってしまうわけだが、それは民間の大規模な組織形態を伴った企業にも言えることだろうが、それらの組織自体を中立的な形態にすればいいのかもしれないが、その中立的な形態というのがやはりわかりにくいだろうし、その辺で思考が停止してしまいがちになるところかもしれない。組織の中立的な形態とは組織自体の利益は求めずに、組織を運営する上での必要経費だけを得られるような形が求められるのかもしれないが、では利益はどうするのかというと、組織を利用する人たちに何らかの利益がもたらされればいいわけだろうが、それが金銭的な利益となると、誰でも分け隔てなく組織を利用できるようにしないと公正かつ公平だとは言えないだろうし、そんなことを述べてしまうと実現不可能な理想論にしかならないわけだが、行政機構とは本来はそういうものなのかもしれないし、その中の官僚機構やそこで働く官僚に利益をもたらすのではなく、その機構を利用する一般市民に利益をもたらせばいいわけだが、公共事業などに関してはそれを受注する企業に利益をもたらすような制度となっているし、原理的にはそうならざるを得ない面があるにしても、できるだけ公正かつ公平な姿勢を示さないと公的な信用を失う可能性があるだろうし、そのことに一般の市民が敏感にならないと、なかなか悪弊が改まらないだろうが、それを悪弊だとも思わない人が世の中の多数派を占めているような状況ならば、一般市民の利益よりは相変わらず官民の様々な官僚機構の組織的な利益が優先される状態が続いてゆくのではないか。もちろん一般市民は一枚岩でまとまっていないし、利害も様々なレベルで錯綜しているわけだが。


12月19日「制度的な弊害」

 企業の中で労働を担っている人たちはその企業のシステムに組み込まれているわけだが、その企業が手がけている事業の形態に応じて労働内容もそれなりに変わってくる部分があるだろうが、一方で事業形態が変わっても労働内容が変わらない部分もあるだろうし、それは事務処理的な部分であり管理業務的な部分でもあるわけだろうが、そういう部分では企業全般で似通った業務を構成する部分だろうし、また企業でなくても行政機構や他の各種団体などでも共通する業務形態を伴ってくるのかもしれず、そういうところで集団的な組織形態特有の階層構造が生じていて、それがその企業特有の専門的な業務を管理し統括していることになるわけで、要するにそこで官僚機構が構成されていることになるわけだ。つまり集団的な組織形態を構成する官僚機構は企業特有の専門的な業務から生じているわけではなく、そのような業務を管理し統括するために存在しているわけで、それは行政機構や他の各種団体でも同じように、そこで行われている業務を管理し統括するために官僚機構を必要としているわけだ。そして企業でも行政機構でも労働組合などでも、いったん官僚機構が組織全体を管理し統括し始めると、その官僚機構自体を維持継続させることが最優先される傾向が出てくるのかもしれず、その官僚機構の維持継続とその団体の専門的な業務との間で背理が生じてくると、組織内での権力バランスが崩れておかしくなってきて、組織自体の運営が立ち行かなくなってくるのではないか。優先すべきはそれが企業ならその企業が手がけている専門分野に関わる業務であり、それが成り立たないことにはそれを管理統括している官僚機構も成り立たないのは当然だろうが、官僚機構の側が経営の主導権を握ってしまうと、業務の技術的な面よりも採算面でのコストや効率性を重視する傾向になってくるだろうし、そうやって利益優先主義になってしまうとその企業が取り扱っている商品そのものに魅力がなくなってくるわけで、そうなると場合によっては消費者にそっぽを向かれて、それでも価格が安ければそれなりに売れるかもしれないが、商品の熱烈なファンがいなくなって、やがて同業他社との安売り合戦などが生じてしまうと利益が出なくなり、場合によっては事業が立ち行かなくなってしまうのではないか。それは商品の種類や質にもよるかもしれないが、業務の専門的な技術水準を保つにはそこで働いている労働者の質に関わってくるわけで、労働者が専門的な技術を身につけなければならない仕事内容であるなら、そういう仕事に携わっている労働者はそのような業務を主に手がけている企業にはなくてはならない人材となるわけで、そういう人材を粗末に扱うようなことはしないだろうし、その労働者にはそれなりの待遇や報酬も用意されることになり、企業と労働者との関係も場合によっては対等に近い関係となるのではないか。またそのような人材は単に労働者とは呼ばれないだろうし、一般的には技術者に分類されるのかもしれないが、企業内の管理や統括を重視する官僚機構側の思惑としては、できればそういう特別な労働者がいなくても困らないような業務内容にしたいだろうが、その企業が取り扱う商品の存在価値を高めるには必要な場合も出てくるわけだ。

 官僚機構が組織全体を管理統括しやすいような体制にすると、これといって特徴のない平板な組織構成と内容になるのかもしれないが、それでは集団内の個々の構成員にとってはつまらない組織になってしまうのかもしれず、その人が仕事に対して積極性や主体性がある場合は、集団内にあっても独自のことをやりたくなるだろうし、周囲との協調関係には配慮しつつも仕事の面で他人より目立ちたいと思うのではないか。そして目立ちたいということは良い意味で目立ちたいわけだから、仕事の面で自らの有能さをアピールしたくなるだろうし、他人より優れていることを示したいわけで、そういう人が多いほど組織内での競争が活発になってくるのだろうが、それを管理統括する側としては業績の向上に結びつけたいわけで、そのような競争心のある人たちを生かすような組織運営を行いたいわけだ。そうなると業務の中で何らかの基準を設けて、それを基に各人の成績を設定して、それに応じて成績の良い人の報酬をアップしたり昇進させたりして、そうやって各人に格差を設けることがそのような組織形態に特有な階層構造をもたらすことになり、それが官僚機構そのものだと言えるのかもしれないが、なぜそれが平板な組織構成なのかといえば、それでは必ずしも適材適所な人材配置とはならないわけで、仕事の内容に対する向き不向きを考慮していないことにもなるのかもしれないが、では組織内の役割分担として適材適所な人材配置にするにはどうやればいいのかというと、必ずしも共通の基準があるわけでもないだろうし、誰もが納得するような人材配置が適材適所というわけでもないのではないか。もちろん人によって得手不得手があることは確かだろうし、中にはその仕事には向いていないと思われる人がいることも確かなのではあるが、そうだとしても得意なことをやらせることが適材適所になるわけではないだろうし、当初は苦手であった仕事内容にも果敢に挑戦して努力の甲斐あってうまくこなすようになる人もいるわけで、そういう事例からも適材適所な人材配置が最初から何の障害もなく組めるわけでもないことがわかるのだろうが、では適材適所な人材配置ということ自体が幻想に過ぎないのかというと、そうでもありそうではないこともあるわけで、結局誰もが納得のいくような仕事の成績や成果に応じて報酬のアップや昇進を行うやり方が妥当に感じられてくるわけだが、そのような妥当性を突き詰めていくと自然と官僚機構のような組織形態となっていくわけで、何らかの試験において優秀な成績を収めた者がエリート官僚として出世していくような成り行きにもその傾向が表れているわけだが、世の中の制度や慣習がそのような成り行きの妥当性を保証している場合もあるだろうし、実際にほとんどの人がそんな制度や慣習の中に身を置いているわけだから、そういう成り行きを当たり前のこととして信じて疑わない人の方が圧倒的な多数を占めているのだろうし、現状ではそれで構わないとも言えるのかもしれないが、実際にそのような官僚体制に苦しめられている人たちもいることは確かで、官僚制の弊害に直面しながらも他にどのような制度にすればいいのかわからない人も結構多いのではないか。そういう人たちは制度的な変革を目指すわけだが、制度そのものの存在を疑わず、それが全てだと思い込んでいるのではないか。


12月18日「社会の中で働いている力」

 世の中で自分が管理しているつもりの物事は自分の権限でどうにでもなるわけではないが、その物事については自分に優先権があるように思われるだろうし、時にはそれについて権力を行使しているつもりにもなれるだろうが、そのようなことを行う以前に制度的にも慣習的にも動作を縛られていて、またそれを機械を使ってやろうとすれば機械の動作の範囲内で行うしかないだろうし、それが何を意味するのかというと、同じような制度的で慣習的な制約の中で行われる他の人の動作と同じようなことになる可能性が高く、また機械を使ってもその機械を使っている他の人たちと同じようなことをやっている可能性が高くなるだろうし、結局自分と同じような物事について同じように管理しているつもりの人が他にも大勢いて、それらの人たちと同じように同じようなことをやっている可能性があるわけで、自分の含めてそんな人たちの集合体が社会を構成している実態があるのではないか。もちろんそのすべての動作が全く同じというわけではなく、それぞれでその人に特有の事情を抱え込んでいるから、それなりに差異はあるのだろうが、それもその社会を構成している制度や慣習の許容範囲内の差異であって、その許容範囲から逸脱するようなことをやると必然的にその社会の中では違反行為をやっていることになり、そうなると懲罰などの何らかの形式を伴って社会から締め出されるような措置を受けることになるのではないか。そういうわけでたとえ自分が管理しているように思われる物事について自分に何らかの権限があるように思われる場合であっても、その権限は自分を含んだ社会を規制している何らかの制度や慣習が許容できる範囲内で権力を行使できるにすぎず、それを逸脱して権力を行使することは制度的にも慣習的にも許されていないわけだ。だからと言って実際にそのような許容できる範囲内で権力の行使が収まるのかといえば、必ずしもそうはならないだろうし、絶えず成り行きとしてそこから逸脱してしまうことをやってしまうから、世の中では様々な違法行為や道義的に許されない行為がはびこっているわけで、逆にそのような行為を抑止する意味で制度や慣習があると言えるのかもしれず、そういう意味では制度も慣習も人々が過ちを犯す歯止めとなっている面はあるのだろうが、またそれと同時に人々の自由な活動を抑圧する面もあるわけで、そこでも制度や慣習が人々に恩恵を与えている面と弊害をもたらしている面があって、必ずしも恩恵を与える良い面ばかりを制度や慣習に持たせることはできないだろうし、それに関して何か問題が起こる度に、制度的な変革を行う機運が生じてくるのだろうが、それも制度的な手順に則って変革が行われる場合でも、それで人々が目指す理想的な状況になるわけでもないだろうし、結局は絶え間なく変革し続けるような成り行きにしかならないのかもしれず、そのような経緯に伴って慣習の方にもそれなりの変化が表れるのだろうが、そうであっても常に慣習から逸脱する行為が行われる可能性があり、場合によっては逸脱した方がマシに思われることもあるわけだ。

 そんなわけで何かが行われる場合には、常に制度的かつ慣習的な規制の圧力がかかっている中で行われるわけだろうが、人がそれに関してどれほど自覚的になれるかはその人が置かれた状況にもよるだろうし、またその人の意識次第な面もあるだろうが、その場の成り行きの中でそれと気づかずにそれらの規制の圧力に逆らっている場合もあるだろうし、圧力を意識しながらも逆にそれを利用しようとして、場合によっては周りの人たちと連携しながら自らに有利な状況へとその場の成り行きを変えて行こうとするかもしれないし、規制に従うか逆らうかの二者択一以外に、むしろ規制を利用して有利に事を進めようと画策する場合もあって、規制への対応といっても一筋縄ではいかない厄介な面があるわけで、そこで二項対立的な認識にとらわれてしまうと対応を誤ってしまう可能性が出てくるわけだろうが、戦略だとか戦術だとか言われる行為のレベルでは絶えずそのような対応に基づいて周囲との交渉や取引が行われることになり、そういうところで軽視されるのが道義的な側面であり倫理的な対応となるのだろうが、それに代わって安易に依存しがちな傾向になるのが損得勘定であり功利的な対応となるわけで、一見合理的に思われるような対応というのがその種の功利性に基づいた対応であり、戦略や戦術もその場で勝つための手法として功利性を重視するわけで、それでうまくいっているように思われているうちはそういうやり方に傾斜しがちになるわけだが、そういうことをやり過ぎてしまうと道義的な面でも倫理的な面でも世の中の荒廃が進んでしまうのかもしれず、戦略や戦術を有効に活用して成功した勝者が世の中の主導権を握ってしまうと、その一方でそれらを活用できずに失敗した敗者が民衆の大多数を占めるようになり、そうなると富や権力の不均衡や不平等がより一層顕著になって、そのような社会を規制し統制している制度や慣習に人々が幻想を抱けなくなってしまうのかもしれず、それは世の中で主導権を握っている一握りの勝者たちに対する信用の失墜を意味するわけで、それに呼応して革命への機運が高まってしまうのかもしれないが、現状の世の中でそうなっているのかといえば、そういう傾向が顕著になっている地域ではすでに何らかの紛争状態にあるわけだろうし、平和が保たれていればまだそれほど極端な不均衡や不平等は生じていないことになるのだろうが、それも程度の問題であるのかもしれず、特定の人や勢力が一方的に勝ち続けるような成り行きにならなければそういう極端な状況にはならないわけで、普通は民衆の意識や世論にバランス感覚が働いて、民主的な政治制度が確立して機能している状況では、選挙などで特定の人や勢力に一方的に勝たせても独裁的な政治体制が確立して、民衆にとってそれは活動の自由を奪われて自分で自分の首を締めるだけだから、それでは何事においてもあまり得にはならないという認識が世の中に広まれば、そういう結果になるのを回避するような動作が生じるわけだが、マスメディアも一体となって特定の人や勢力を勝たせるような行為に走れば、そういうバランス感覚に打ち勝つことができるかもしれないが、そうであっても相変わらずその場の前提としては、良い意味でも悪い意味でも制度的かつ慣習的な規制の圧力がかかっていて、規制から逸脱する行為を抑制するような作用が働いていることは確かなのではないか。


12月17日「社会的な分業体制」

 資本主義経済の中で成り立っている分業的な労働の形態は、物や情報やサービスなどの生産と流通と販売と消費の過程で、限られた範囲内で部分的な作業を受け持って、そこで限定的な労働を行い、それぞれの作業を企業などが連結して管理しながら、全体として資本主義的な経済活動として生産から消費に至る連続性を保っていることになるわけだが、中には一つの企業で全ての過程を受け持っている場合もあるだろうが、大抵は特定の過程に特化した作業を受け持っている企業の方が多いかもしれないし、そんな中でも人の行う労働はさらに細分化され個々の役割分担も多種多岐に渡っていて、そのような部分的な労働を行なっている限りで、他の役割を担っている作業に精通しているわけでもないし、その必要もないわけだが、では仕事以外のことについては、例えば社会全般の情勢やそこで起こっている物事について知る必要はないかといえば、必要がないとはいえないだろうし、日々の生活の中でニュースメディアなどからそれなりに情報を得ているわけだから、知らないはずはないだろうが、とりあえず法律を守って制度に従っている限りで、大して世の中の事情に精通していなくても何の不都合も生じないのかもしれず、それで何が悪いわけでもないのだろうが、とりあえず日々の労働をこなしてそれなりの報酬を受け取って生活できている限りで、それ以上に余分なことに関心を持たなくてもいいのかもしれず、そうであるなら私的な生活の他に何かやらなければならないのかといえば、特に何もやることがないと思われても、それは当然の成り行きなのではないか。果たしてそれ以外で何か行わなければならない事情が生じる余地があるのだろうか。たぶんそれは法律を守れなくなったり、世の中の制度に従えなくなった時に、やらなければならないことが生じてくるわけで、例えば法律を守れない正当な理由が生じていると思われれば、法律があること自体が不都合なのだろうから、法律を変えるために何らかの活動を行わなければならなくなるわけで、また同じように世の中の制度に従えない正当な理由があるように思われるならば、その制度を変えるために何らかの活動を行わなければならなくなるわけだ。それが政治活動の始まりなのだろうし、そのような事情に対応するために公的な政治制度が整備されているわけだろうが、果たして一般の市民がそれを利用することができるのかというと、一人では無理だろうし、他に大勢の賛同者を集めないと選挙を通じて議会に代表者を送り込めないし、議会でその賛同者が多数を占めないと不都合な法律や制度を変えることができないわけで、それを実現するために政治活動をしなければならなくなるわけだが、そのような政治活動を専門に行うのが政党となるわけで、それも分業的な労働形態から生じた作業と類似していて、政治という限られた分野の範囲内で部分的な活動を受け持っていると言えるのかもしれず、それは法律の分野で専門的な業務を受け持つ弁護士や、納税に関して専門的な業務を受け持つ税理士などと似たような傾向があるのかもしれない。

 そのようにして世の中が全て分業的な業務によって細切れとなっている実態がある中で、一般の市民が仕事と私生活以外で何かやることがあるのかというと、法律的にも制度的にも何もやることがないといえばその通りかもしれないが、肝心の法律や制度に逆らう活動があるわけで、ある意味ではそれは違法行為になる場合もあるだろうが、それを法律や制度内に取り込むために政治活動として法律や制度の範囲内に限定したいわけで、そこでもやはり分業的な傾向を持った政党活動が幅を利かせているわけだ。そうやって何かが人々を何らかの業務に専念させながら管理する傾向にあるわけだが、その管理している主体というのが集団としての組織形態を持った各種の団体となるのだろうが、その主なものは行政や企業などであり、政治的な面においては議会や政府などで管理権限を持っているのが政党となるわけで、合法的な範囲では一般の市民が何かをやろうとすると必ずそのような管理団体の壁にぶち当たるわけで、もちろん非合法な範囲でもヤクザやギャングやゲリラなど、特有の傾向や役割を担った管理団体にぶち当たることになるわけだろうが、社会を分業的に管理し統括しているそれらの団体の間でもそれなりの交流があって、対立や連携の中で互いに交渉や取引を行いつつ勢力争いに明け暮れている状況もあるのかもしれないが、一般の市民がそれらの各種団体に所属することで自身の主体的な活動を制限されたり奪われたりするのは当然の成り行きかもしれず、それに代わって優先されるのが組織的な活動となるだろうし、それらの各種団体を生かすために働かなければならなくなるわけだろうが、しかしそうである以前にそもそも私生活でやっていることが主体的な活動の全てだとみなせば、各種団体の中で働いている時間以外は主体的に活動していることになるわけだが、その中でも娯楽という制度に時間を奪われたり、またそれを制度というと語弊があるかもしれないが、一応は家族というのも社会的な制度には変わりないわけで、家族のために時間を費やすのも、それを主体的に行なっていると思っている人もいるわけだが、さらに各種団体の中でも主体的に仕事をしていると思っている人もいるわけで、その辺で何が主体的な活動なのか人によって異なるのだろうが、ともかく人は社会の様々なレベルで重層的に様々な団体の管理を受けながらも、自身もその管理に加わっている場合もあり、その中で自身が主体的に行なっていると思えるのは、自分で直接管理しているように思われる活動になるわけで、つまり主体的な活動とは自らの責任で何かを行い、それを自身が管理している範囲内での行為となるのではないか。結局そうだとするとやはり個人も社会の中で役割を分担されていて、その個人が責任を持って行える範囲での作業に関して、管理権限を社会から譲渡されていることになるのではないか。それが主体性の正体であり、社会的な分業体制の中の一部門として個人が行う主体的な活動があって、その人が何か主体的に行なっていることがあるとすると、その行なっている作業が社会の中でその人が受け持っている活動だと言えるのかもしれない。


12月16日「活動の二面性」

 企業や行政などの組織的な活動と個人の活動は必ずしも全面的に対立しているわけではないが、相容れない面もあるだろうし、時として個人としての活動と自らが属している集団内での活動との間で整合性が取れなくなる場合もあるだろうが、資本主義経済の中では誰もが何らかの形で企業や行政などの活動に依存している面があるだろうし、それらから何らかの恩恵を受けているわけだろうし、それなしでは個人としての活動も成り立ってゆかないのではないか。つまり恩恵を受けながらも対立する面では弊害も出てくるわけで、絶えずその恩恵と弊害の間で調整を強いられていて、その調整の様々な局面で交渉や取引を重ねているわけだ。それがその場限りの一時的なものになるか、あるいは法改正や制度改正などの恒久的な改善につながるかは、その場での成り行きや状況次第になるのだろうが、そのような交渉や取引も個人で行うにしても団体として行うにしても、それ自体が活動の一部ではあるわけで、時として交渉相手や取引相手を批判することも、それ自体が交渉や取引に含まれるパフォーマンスの一種と捉えても、それほど間違ってはいないのかもしれないが、たとえそのような批判に端を発して交渉や取引が不調に終わったり決裂しても、そのような結果を招いたことすらが事態の何らかの進展を物語っているのかもしれず、どのような状況になろうともそこで何らかの活動が行われている限りで事態の進展が起こっているのではないか。時にはその活動が軍事的な戦闘行為であっても事態の進展を促している面もあるのだろうが、メディア上で行われているのは、識者や専門家などによる事態の打開だとか状況の改善などを促すための提言が行われている場合が多いわけで、そういった提言の類いが直接事態の打開や状況の改善に結びつくわけでもないが、世論の喚起を促して、それを政治問題化させたり選挙の争点になるような成り行きへと持ってゆきたい思惑もあるのかもしれないが、そのような活動が結果的に何らかの法改正や制度改正へと至るまでの間にも様々な紆余曲折があるわけで、実際にはそこまで至らない場合の方が多いのかもしれないが、個人の活動や組織的な活動が目指すのが何らかの結果だとしても、その結果に至るまでの間で活動を続けることがそのような活動の自己目的化となってしまう場合があるわけで、メディア上で提言する人は絶えず提言し続けることが自己目的化してしまい、提言することから一歩も先へ出なくなってしまって、では何のために提言しているのかというと、提言することだけが仕事となってしまい、そこで活動が止まってその先の提言を実現する活動へと結びつかなくなってしまうわけで、そのような自足状態がメディア上で蔓延すると、そこから先で事態の進展が起こらずに停滞してしまうわけだろうが、そのような停滞状態を打開するには政治や行政の側がメディア上でなされる提言を汲み取る必要が出てくるのだろうが、その橋渡しとなる上で安直なやり方かもしれないが、メディア上の提言者がそのまま政治家になったり、その逆に政治家がメディア上の提言者になるようなことも起こるわけだ。

 だがそうなると政治とメディアとの連携や癒着を招くことにもなって、場合によってはメディア上で政治批判ができない事態も生じる危険が出てくるわけで、そのようなことも含めてそれらの活動の至るところで恩恵と弊害が出てくるわけだろうが、そういう恩恵と弊害の二面性は人のどのような活動にもつきまとってくるわけで、弊害が生じて困るようならそれを改めようとする活動を行わなければならなくなり、そうした活動が絶えず自らの活動に含まれてくるのだろうし、それが活動自体の自己目的化という弊害の原因となる場合もあるわけで、自らの活動の弊害を改めようとするばかりで、肝心の活動の目的までたどり着けなくなってしまうわけだ。それも活動からもたらされる恩恵と弊害の二面性に含まれるのかもしれないが、少なくとも活動している人は目的に向かって活動しているわけで、その中で最善を尽くそうとするだろうし、その最善が他の人には受け入れがたいような傾向があればそこで争いが起こる場合もあるだろうし、争いを収めようとすればそこで交渉や取引の機会が巡ってくるわけだ。そして交渉や取引を重ねてゆけば何らかの妥協に至る可能性も出てくるわけで、そうなると事態の進展が起こるわけだが、それが当初に目指していた活動の目的と一致しない場合も出てくるだろうし、そうやって対立する相手との交渉や取引によって、ややもすると独りよがりに陥りがちな活動が修正される可能性も出てくるわけで、それが交渉や取引によってもたらされる恩恵だと言えなくもないが、活動が修正されてしまうのを嫌う意識にとっては、交渉や取引は弊害しかもたらされないと認識してしまう可能性も出てくるわけで、そこでも恩恵と弊害の二面性が生じてくるわけだが、そのような二面性は活動していく上で絶えず意識されつきまとってくるわけで、いちいちそこで立ち止まって確認するまでもないことかもしれないが、そういう意味で活動には終わりがなく、その目的自体も真の目的とは言えない暫定的な目的に過ぎないのかもしれず、そうでなくても活動の自己目的化への誘惑を振り払えないばかりか、そこで自足せざるを得ない状況や成り行きも自らの意志に反して生じてきてしまうわけで、そのような状況や成り行きに逆らう気力も活動していくにつれて失せてくるのかもしれないが、社会が集団の組織的な活動で成り立っている実態がある限りで、そうした前提の上に個人の主体的な活動が許される余地が生じているわけで、自己目的化してその中で自足してしまう個人の活動というのも、集団の組織的な活動によって生じる分業体制にその活動が取り込まれた結果としてそうなるのかもしれず、分業の一部門としてその活動の周りを集団的な労働が支えているわけで、そこで企業や行政やメディアなどから役割分担が付与されるから、そのような自足した活動が成り立つ余地が生じて、だからメディア上で何らかの社会問題に関して提言を行う役割が成り立っているとすれば、それは集団の組織的な活動と個人の活動が対立しているのではなく、妥協して折り合いをつけた結果としてそのような活動が生じていることになるのではないか。


12月15日「組織内の個人」

 組織的な労働は集団内で連帯し連携する動作を必要として、他人の動作に自らの動作を合わせようとする意識を生み出すわけだが、それが協業として効率的に作用すれば生産性が上がって、分業体制で作業を行なうメリットも生まれるわけで、そのような作業形態を通してしか商品の大量生産と流通と販売ができないことは確かで、資本主義的な経済活動もそのような形態に依存しているわけだが、人が普段生活している中ではそれを意識できないわけで、それよりは絶えず個人の創意工夫などに目がいってしまうのかもしれず、メディアなども自分たちが贔屓にしている特定の人物の意見や活動を取り上げようとするわけであり、それを真に受けると何か特定の人物の発言や活動が世の中を動かしているような錯覚を抱いてしまうわけだが、実際には集団的な分業体制で世の中が成り立っているのに、その中で特定の個人の活動がクローズアップされるのは、絶えず物事を単純化して捉えようとする意識が生じていて、その脚光を浴びせる特定の人物に物事を説明する上での象徴的な役割を付与したい思惑があるのかもしれないが、別の面ではそれが集団的な動作の隠れ蓑としても機能しているのかもしれず、例えばその集団を代表する個人を批判して、その個人が何らかの不祥事などで失脚すれば、それによって集団そのものの動作も変わるかのような錯覚を抱くわけで、しかしそうやって集団の代表が次々に不祥事などで入れ替わったとしても、相変わらず集団の活動が変化なく持続している場合があるわけで、何らかの危機的な状況に陥った時には、確かに集団の中から改革を唱えながら特定の個人が指導者として登場してくる場合があるわけだが、またそういう個人を民衆が選挙で選んで政治的な期待を寄せたりもするわけだが、その批判の的となる否定的な作用や不祥事などを起こすのが、集団的な動作から生じている場合、集団の代表者をやめさせたり、改革に関して期待の持てる人を新たに集団の代表者に選出したりすることで、集団の動作そのものが改められ変わることがあるかというと、一時的にはその新たに選ばれた代表者による尽力で何らかの改革に成功することもあるのかもしれないが、それが長続きするのかというと、たぶんそうではないのかもしれず、確かに集団が一時しのぎ的には改革者の言うことを聞き入れる場合もあるのだろうし、そんな成果を人々が実感できるような瞬間も訪れるかもしれないが、あくまでもそれは一時的な現象であり、そうやって賞賛された特定の個人が集団内で長期間にわたって指導者の地位にあると、ミイラ取りがミイラになってしまうように、集団の論理に次第に同化していってしまうのであり、そうなってしまう主な原因は集団内の階層構造と役割分担に起因しているのかもしれず、いくら自分の意見を集団全体に反映させようとしても、代表といえども階層構造の中ではその頂点としての役割分担が課されてしまうわけで、その中で機能している様々な階層の様々な役割を担っている人々の立場にはなれないわけで、実際にはそういうところから集団的な動作が生じているわけで、それぞれの立場にまでは目が行き届かず、その結果として自らの意に反した動作を許してしまい、そのような動作をトップの立場からは制御できない現実が露呈してしまうわけだ。

 一般的には法律などの改正を行なうことで制度的な改革を行なうことはできるのだろうが、それによって慣習までは全面的には変えられない部分もあるわけで、明文化されている部分については確かに文章を変えられるだろうし、明文化されていない部分については新たに明文化して変えればいいのかもしれないが、それでも直接の不祥事や弊害の原因となっていない部分については、取り立てて変える理由が見当たらないわけで、変える理由を見つけられない部分を変えるわけにはいかないし、そういう変えられない法律や明文化されていない慣習などが、組織的な動作を支えている主要な部分であるなら、不祥事や弊害をもたらす部分は組織にとっては枝葉末節な部分でしかないのかもしれず、そこをいくら変えても組織全体の体質は変わらず、まるでトカゲの尻尾切りのように次々に明るみに出る不祥事や弊害などに対処して、関係者を処分したり法改正などを行なっても、一向に組織的な動作を変えることはできないままとなってしまうのかもしれず、動作というのは刻一刻と動いていくものであって、その結果として明るみに出る不祥事や弊害はその時点での出力でしかなく、結果に関して対処することはできても、動き続けている途中では何も明るみに出ないわけで、組織的な動作によって次から次へと何らかの出力結果が出て、それに関して不都合だと判断されればそれを改革しようとするのだろうが、そうなった時点ではすでに組織はその先へと動き出しているのであり、その良し悪しを決める判断はいつも後追いでしか出されず、過ぎてしまったことについて侃侃諤諤の議論を行なっている最中にも、組織的な動作は弛みなく続いているのだから、議論そのものが周回遅れとなってしまい、そのような議論は結果として明るみに出た不祥事や弊害などに関しては何らかの対応策を出せるかもしれないが、現に進行中の動作に関しては無策となるしかないのであり、そういうところで法改正などを伴った制度改革などが空振りに終わる公算が大きくなるのかもしれない。それでも起こったことの後始末をつける意味でも手続きとしてそういうことをやらなければならないわけで、それも制度の類いであるわけだが、集団内で制度や慣習が一定の決まり事として守られていることは確かだとしても、それは事後処理的に正当化される掟であり、そのような掟を守っていればとりあえず周りから文句を言われる筋合いはないということであり、掟を守りつつ手続きとしても正当な手順を踏んで活動していれば、その活動内容が特定の個人に対する理不尽な仕打ちとなってしまったり、その人を不利な状況へと追い込んでしまったとしても、掟を守りながらそういうことをやっているわけだから、とりあえずそういう面では行為を正当化できるわけで、実際にそんな経過を辿りながら組織内の権力争いが陰湿に繰り広げられる場合もあるわけで、そういうことをやっている実態がなかなか明るみに出なければ対処しようがないわけで、大抵の場合は争いに決着がついて、組織の中で誰かがあるいは特定の勢力が争いの敗者として組織外に弾き出された後から、事の次第が明るみに出てくるわけで、いったんそうなってしまうともはや原状回復が難しくなり、理不尽な仕打ちを受けた人たちは泣き寝入りするしかなくなってしまう場合も出てくるわけだ。


12月14日「労働以外の事情」

 これから世の中のシステムがどうなるにしても、とりあえず現状の中で人が暮らしているわけで、また現状の中で資本主義的な経済システムが働いているとしても、そのようなシステムから導き出される合理性を過剰に追求してしまうと、利己的に利益を追求するあまり、それに成功して利益を出すほど、他のところで損害を被る部分が増えてくるのかもしれず、世の中の全体の損得勘定がプラスマイナスゼロだとは思えないが、一部で過剰な利益の追求が行われると、その反動で別の部分が損害を被ってしまうような事態が起こり得るだろうし、そういうところでシステムやその原理から導き出される合理的な活動よりは、利益の追求以外の要素も加味したバランス感覚に基づいた調整的な活動の方が必要になってくるのではないか。そのような活動は過剰な利益の追求によって現実に取り返しのつかない被害を出してしまったことの反省から生まれるのであり、経済的な利益の追求から人々の間に貧富の格差や権力の不均衡が生じてくると、社会の中でその格差に応じた階層も生じてきて、そのようにして生まれた階層間での対立が深まると、世の中の空気が険悪なものに変わっていってしまうのかもしれないが、そうした空気に呼応して世の中で憎悪を煽り立てる感情や極右主義などが流行ってくるのかもしれず、一方でそれは資本主義的な市場経済が活況を呈していることの表れだとも言えるわけで、その中で投機的な株や為替などの取引がもてはやされているようだと、すでにその時点で市場のバランス感覚が失われていて、過去に取り返しのつかない被害を出してしまった反省が忘れ去られていることを示しているのかもしれないが、そうなるとやがてとんでもない出来事が起こって、これまでに築き上げてきた信用が崩壊して相場がリセットされてしまうような事態も予想されるわけだが、実際にそうなってみないことには反省など生まれないわけで、そういう意味で行き過ぎた利益の追求に調整を促すようなバランス感覚というのは、取り返しのつかない事態が起こった後でないと発動しないものなのかもしれず、それはいつも手遅れになってから活動を開始するような実質的にはほとんど役に立たないものなのかもしれないが、それでも時代状況は完全な過去の繰り返しとはならず、過去の再現のようなひどい状況だと思われる中でも、少しは過去の教訓が役に立っている面も出てくるのかもしれないし、それが過去の経験の反省として現状の行き過ぎを是正するような作用を及ぼして、何らかの歯止めとなって被害を最小限に食い止めるような効果を発揮するのかもしれない。そしてそれが何なのかははっきりとはわからないだろうし、その実態がつかめないのが歯がゆいところではあるのかもしれないが、たぶんそれは偶然の巡り合わせとしか言えないものなのかもしれず、結果として過去の繰り返しにならなければ、偶然にそうなっただけとしか言えない面があるわけで、それがフィクションなら何かそこで英雄的な活動を行なった特定の人物や団体が物語られるわけだが、実際には特定の人や団体が尽力してそうなったとは説明できないことの方が多いのかもしれない。

 たぶんフィクションの中で物語られる活動もそのようなフィクションを物語る行為も労働とは呼ばれないだろうし、労働とは何らかのシステムの中で部分的に繰り返し行われる行為であり、少なくともそれは英雄的な行為とは無縁の活動だろうし、他の人々から賞賛されるような行為だとは言い難い面もあるわけだが、そのような地道な行為を利用して利益が追求されるわけで、資本主義経済の中で経済的な利益を追求するには、それを支える名も無き者たちによる労働が欠かせないとも言えるのかもしれないが、それらの労働に従事する人たちは寡黙に課された作業をこなすだけで、それ以外のことには何の発言権もないかのように扱われているのかもしれず、その代わりに娯楽として英雄の物語などのフィクションをあてがわれて、それに気を取られているうちに不平等な格差や不均衡な権力関係によって虐げられている実情をごまかされているのかもしれないが、結局それも部分的な事情であって、娯楽も労働も生活の一部を占める要素の一つに過ぎず、そこに過剰な思い入れをすることをはぐらかされているわけで、何によってはぐらかされているのかといえば、それはそれ以外の生活から生じる煩雑な日常の作業によってかもしれず、そうでなければメディアからもたらされる様々な情報に心を奪われることによってかもしれないが、それらは全て部分的な些末事の集合体となっているわけで、その中のどれ一つとして本質的な物事とはなりえず、結局貧富の格差も不均衡な権力関係もそれが生活の全てを覆っているわけではなく、それが自らの生活や人生に深刻な影響を及ぼしているとは思えない人の方が、そうである人よりは圧倒的に多いのではないか。そしてそれが世の中の世論の傾向を決定していて、政治的な現状を醸し出していると言えるだろうか。だがそうした主体的な活動の機会を奪われた人たちに向かって、メディア上で活動する煽動者たちは何を呼びかけているのだろうか。実質的には特に何を呼びかけていることにもならないのかもしれず、何か特定の話題について自らの主張に対する賛同を呼びかける時があるにしても、部分的な同調者を得るだけで、それが決して社会の全体に広がることはないのかもしれないが、それでは良くも悪くも本来の煽動者としての役目を果たせないわけで、確かにメディア上で何らかの煽動が行われているにしても、それが世の中に部分的な影響しか与えられなければ、そうである限りにおいて煽動はいつも不発に終わるような結果を招いていて、良い意味ではそれが世の中の多様性を物語っているのだろうが、悪い意味では世の中が資本主義経済の中で分業的な分散にさらされているとも言えるのかもしれず、そのような状態をどう解釈すればいいかは、あまり肯定的にも否定的にもこだわらない方がいいのかもしれないし、ただの分散状態と捉えておけばそれで妥当な解釈に近づくのかもしれないが、そうした状況下ではどうやれば主体的な活動を実現できるのかとなると、何もかもが分散している状況なだけにこれといって特定の活動形態が推奨されるわけでもないだろうし、よく言われるような与えられた状況の中で最善を尽くすということが何を意味するかは、人によっても状況によっても異なるとしか言えないのではないか。


12月13日「売り手と買い手の関係」

 労働によって受け取る報酬にはその役割や種類によって格差があり、それが受動的な労働ではなく自らが主体的に行なう仕事であっても、受け取る報酬の額に同様の格差が出るのは当然のことだろうが、それも社会的な制度や慣習からその妥当な金額が大体は決まってくるのだろうし、明らかに高額の報酬を個人や団体が得る場合であっても、それは売り手と買い手の需要と供給のバランスから決まる市場価格のようにして決まり、そのような市場も社会的な制度の類いであることは確かで、報酬を払う側も受け取る側も納得している限りでどのような金額で取引が成立しようと構わないわけだ。それが契約という制度の特性なのだろうし、制度的な賃金労働も自由契約に基づいて何らかの報酬を受け取る主体的な仕事であっても、そこで売り手と買い手が契約に同意した金額の受け渡しが行われるわけだろうが、労働力を売る側にとっては安い金額であっても他に買い手が現れなければ、不満があっても他に収入を得る手段がなければ契約を結ばざるを得ないだろうし、そこが労働力の買い手である企業などのつけ込むところであり、経費を削減するには人件費を削減できるに越したことはないわけだから、たとえ人手不足が深刻化している中でもなるべく安い金額で労働力を買おうとするだろうし、場合によっては安い労働力を求めて海外にまでその食指を伸ばしてゆくわけで、それに関して一見売り手と買い手とは対等な関係に見えるかもしれないが、どちらに権力があるかでその力関係が決まってくるのだろうし、労働市場の場合は労働を行う設備や施設などのシステムを持っていて、それを利用して作り出される物や情報やサービスを買ってくれる顧客を抱えている企業側の方が有利であるのは当然のことであり、労働力以外には何も売り物を持っていない労働者は、企業で働いて報酬をもらうしか生活の糧を稼ぐ手段がなければ、たとえ不満があるような金額であっても企業と労働契約を交わすしかないわけだ。ではそんな不利な取引はやめて自ら起業して労働者を雇う側になればいいではないかと主張する人もいるかもしれないが、もちろん誰もが起業して成功するわけではなく、資本主義経済の中で存在できる企業の数はその経済規模に合わせて限られていて、その中で競争に打ち勝った企業だけが生き残れるわけだから、人の数より企業の数の方が圧倒的に少ないのは当然のことだろうし、その圧倒的に少ない企業が多数の労働者を雇って事業を行なっているわけで、結果的に起業して成功する人よりは企業で雇われて労働する人の方が圧倒的に多いのも当然のことであり、そういう意味で企業に雇われて労働するのが嫌なら起業して労働者を雇う側になればいいという論理は、現実にはほとんど通用しないわけだ。それでも起業するための資金を得る機会に恵まれて起業する人はいるわけで、またそうやって起業に成功して大金を手にした人も実際にいるわけで、そんなふうにして実際に成功してしまった人にとっては、現実にはほとんど通用しない論理が成り立つことをその身をもって証明してみせたわけだから、それなりの実感を伴っていて、だから安い賃金で企業に雇われて労働するだけの不利な立場でいるのが嫌なら、起業して人を雇う立場になればいいと言い放っていられるわけだ。

 だが労働者のままでいるにしろ起業して労働者を雇う側になるにしろ、あるいは企業の中で昇進して管理職や最高経営責任者にまで上り詰めるしろ、また株式投資などに成功して投資家になるにしろ、それらのどれであっても結果的に企業に関わって資本主義経済を支える側になっているわけで、それとは別の経済を構築する担い手になっているわけでもないし、それは企業とは別の行政側に身を置いていても、またジャーナリストになって企業を批判する側に回っていても同じようなことになってしまうのかもしれず、それが嫌なら、果たして現状の経済システムに依存しないで生きていけるかということが今後の課題といえば課題になってくるのかもしれないが、どうあがいてもそれを人為的にゼロから構築することは不可能なのかもしれず、それに関して妥当なやり方としては、現状のシステムに依存しながらもそれとは別のやり方を積極的に模索していくのか、あるいは現状のシステムの方向性をさらに極限にまで推し進めて行き着いた先に、またそれとは違う別のシステムが自然に生じてくるのを待つのか、そのどちらでもないとすればすでに別のシステムの萌芽が至るところに生まれていて、まだ誰もそれに気づいていないだけなのか、その辺のところは何とも言えないが、そのどれでもなく現状のシステムがこれから先も延々と続いていくとしても、とりあえず現状で生じている経済的な不均衡や不平等の原因は売り手と買い手の間の力関係にあるわけで、企業と労働者の間でそれが生じているとすれば、その間で不利な立場にある側を助けるような配慮が求められるのだろうし、それを助けられる立場にあるのは行政だと言えるのかもしれないが、もちろん行政も予算を確保する上で企業活動に依存している面があるわけだから、全面的には不利な立場にある労働者の側に立てないわけで、またジャーナリストなどの企業や行政などの不正行為を告発する側でも、広告収入などの面で企業活動に依存している面があるわけだから、これも全面的には不利な立場にある労働者の側には立てないわけで、また企業側でも労働者の生活が成り立たないと労働者として使い物にならないわけだから、一方的に労働者を搾取するわけにはいかない面があるわけで、さらに労働者が消費者として商品と買ってくれないと利益が出ないわけだから、労働者の購買意欲を保つ上でもそれなりの賃金を支払わなければならなくなるわけで、そのようにして利害関係が錯綜してもつれ合った面があって、そのような関係の上に結果的に資本主義経済が成り立っているわけだからそういう面を考慮すると、とてもじゃないがそれに変わる経済システムをゼロから人為的に設計して構築するのは不可能に思われてしまうわけだが、少なくとも誰にもわかりやすい単純で合理的なシステムではうまくいかないことは予想できるだろうし、その一方で政治的な主張というのは誰にもわかりやすい単純で合理的な主張しかできないのであり、そうでないと民衆の支持を得られないわけで、そうなると政治的にそのようなことをやるのは不可能にも思われてくるわけで、そういうところで政治的な限界が露呈してくるのではないか。


12月12日「労働と世界情勢」

 それが労働や仕事だとは言えないものまで含めると、とりえず人の活動は普遍的な行為だと言えるのかもしれないが、例えば人の活動と他の動物の活動を比較するとすれば、人には人の活動として特徴的な形態があることは確かで、そういう比較が意味を持つような研究分野もあることも確かだろうが、経済活動の範囲内では別に他の動物の活動まで比較の対象として意味を持つわけではないだろうし、人の経済活動に関しては同時代的にも過去の他の時代との比較でも、そこでの人の活動に特有な現象というものがあるのかもしれず、ここ20年ぐらいの傾向が他の時代と異なるように感じられるのは、情報処理技術の進歩に端を発したいわゆる情報革命と言われる現象に関してだろうし、それをことさらに重要視するのも何か偏向した認識に陥ってしまう危険があるかもしれないが、その情報革命以後の世界で人の活動が他の時代と著しく変わってきたことがあるとすれば、それは何だろうか。それが誰の目にもはっきりと明らかになるにはまだ時代が近すぎて時期尚早なのかもしれず、歴史的に見ればそれよりも産業革命以後の近代市民社会の成立の方が、それ以前の社会と比較して劇的に変化したように思えるわけで、具体的にはそこで労働力を提供して賃金を得るという労働形態の世界的な普及が急速に起こったわけだろうし、しかもそれと同時並行的に社会主義や共産主義的な資本主義経済への対抗概念も世界的に流行したわけだが、少なくとも情報革命の到来直前にそれらの対抗概念は急速に衰えてしまって、今や世界は完全に資本主義経済に覆われている状況となり、かつての社会主義や共産主義の理念を掲げる政治勢力も世界的に皆無となりつつあるのかもしれないが、しかしそれらの政治理念が批判していた資本主義経済に伴って生じる弊害が全て解決されたわけではないし、見方によっては全く放置されたままとなっていると認識している向きもあるわけで、その主要な問題としてあるのが、主に賃金労働という労働形態から生じる貧富の格差の問題だろうか。しかも情報革命によって情報処理技術が進歩したおかげで、金融資産が飛躍的に増加して以前よりはさらに貧富の格差が増大したわけだろうが、それを問題視する政治勢力の方は以前よりは確実に衰退してしまったのだろうし、政治的な課題としてはそのような問題はあまり取り上げられなくなってしまったのかもしれず、しかもそれを直視させないようにするために極右的な政治勢力が台頭してきた傾向にもあるわけで、現状で生じている貧富の格差から目を背けさせる目的で、それを排外的な移民の敵視へと問題をすり替えているわけだろうが、企業としては移民などの安い労働力が必要な分野もある一方で、労働者の方は移民に職を奪われたり、移民が安い賃金で働くから賃金が安く抑えられてしまうという懸念が生じてしまうわけで、結局もとからそこに住んでいる住民としては移民の排斥に賛成するような成り行きになりやすいだろうし、そこに極右的な政治勢力のつけ入る隙が生じるわけで、また富裕層などを取り込んで主導権を握っている保守的な政治勢力の方でも、資本主義経済の中では貧富の格差の解消は不可能なだけに、移民排斥などを主張する極右勢力が台頭してきたおかげで、うまく論理のすり替えに成功している面があるのだろうか。

 しかしなぜ移民が生じているのかというと、テロや内戦などの地域紛争によって住みなれた故郷を捨てざるを得ない人たちが移民となるのだろうし、それだけが全てではないかもしれないが、いわゆる経済移民となる人たちも本国で暮らしていけない事情が生じていることは確かだろうし、その大部分が貧しい人々なのだろうから、それも経済的な貧富の格差から生じている現象なのであり、そういうところからもそのような問題は全く解決の目処が立っていないことを示しているわけだ。また富裕層であれば国籍を買えたり、それなりに受け入れ可能な国が世界のあちこちにあるわけで、そこでもその人の資産や経済力に応じて待遇に格差が出てくるわけだろうが、ともかくそうやって生じた貧しい人たちは必然的に安価な労働力の予備軍となることは確かで、そのような労働力に頼っている経済分野では貧富の格差が経済活動の原動力となっている面もあるわけで、そのような需要を満たす限りで貧困ビジネスが成り立っているわけだろうが、もちろん労働の種類によってはその職種に対応したスキルを求めている分野もあるわけで、そういう分野ではそれ相応の賃金や報酬が保障されていて、貧しいだけでスキルのない移民労働者ではそういう職種に就くのは難しい場合もあるわけで、そうしたスキルを身につけるにはそれなりの教育課程を経ないと身につかないわけだろうし、中には独学でそうしたスキルを身につける有能な人材も稀にはいるかもしれないが、そうした人はほんのわずかな人数だろうし、ともかく貧富の格差があればそれに応じた労働力の需要が生じて、安い賃金でも職にありついた人はそれなりに生活していける場合もあるし、職にありつけなくても政府や民間の援助にありつければ、一時的にしろそれによって生きていける人も出てくるし、運悪くどちらにもありつけなければ中には死んでしまう人も出てくるわけだろうが、たとえ多くの人が死んでしまっても資本主義経済が打撃を受けるわけではなく、その中で主要な経済活動を担っている企業にとっては、働いてくれる労働者と商品を買ってくれる消費者が必要なのであり、それ以外の人は不要でも困らないのかもしれないし、労働者と消費者が間に合っている限りで企業活動は成り立ち、企業活動と政府などの行政的な管理によって資本主義経済は回っていると言えるだろうか。そして行政的な管理がうまくいかない紛争地域では移民となって国外へ脱出する人が後を絶たず、戦火の中で国土が荒廃して産業も成り立たず、そうなるとまともに資本主義経済が回っていかない状況となるのかもしれないが、そんな中でもその国に地下資源などが埋蔵されていれば、その資源を巡って武装勢力やその背後で糸を引いている宗主国や覇権国などが争奪戦を繰り広げているのかもしれないし、そこで行われている内戦自体が資本主義的な経済競争の延長上となっている場合もあるのだろうし、単純に民族的あるいは宗派的な争いというよりは、経済的な争いの延長上で特定の民族や宗派の間で利権争いが起きていると言えるのかもしれない。


12月11日「労働の意味」

 企業の経済活動が成り立つには、物や情報やサービスなどの商品を製造して流通させて販売するのに携わる労働者と、最終的に商品を買ってくれる消費者の存在が欠かせないが、途中の時間的な経過を無視すると、絶えず労働者に支払う賃金などの報酬よりは消費者が買ってくれる商品の売り上げの方が多くないと利益が出ないわけで、労働者が消費者だとするとその差額はどこから出るのかという話になってしまうわけだが、時間の経過とともに物価が上昇すれば辻褄が合うのかもしれず、要するに商品を製造して流通させて販売する間に時間が経過するわけで、その間に物価が上昇していればその分商品の価格が高くなって辻褄が合うかもしれないが、しかしそうなるとその高くなった商品を買えるように労働者の賃金も上げなければならないわけで、そして労働者の賃金が上がればその分だけ経費がかさんで商品の価格も値上がりして、そして商品の価格が上がればそれを買えるように労働者の賃金も上げなければならず、以下そうやって物価の値上がりと労働者の賃金の上昇が順々に起これば、物価の上昇と賃金の上昇の時間差を利用して企業に利益が出るという理屈が成り立つのかもしれないが、実際にはコストや効率などの改善や、もっと複雑に様々な要素が絡み合って、それらがもつれあって錯綜した成り行きとなっているのだろうし、また企業が商品を製造して流通させて販売する際に生じる必要経費も、労働者の賃金だけではないようにも思えるのだが、例えば材料費である資源価格がどうやって生じるのかといえば、資源が地中にあるとすればそれを掘削するための必要経費が生じるわけで、その内訳は主に掘削する労働者の賃金と、掘削に要する施設の建造費や掘削する機械の購入やメンテナンスなどの経費と、機械を動かすのに使う燃料費や電力料金となるだろうが、施設を建造するには建築労働者の労働と建材と建築に要する機械が必要で、それらの機械の製造にはやはり労働者の労働と材料が必要で、燃料の精製や電力の供給にもやはり労働者の労働と材料と機械が必要で、それらのすべての経費の源泉を順に辿っていくと、最終的には労働者の労働に行き着くわけで、結局商品は労働者の労働によって造られて流通して販売されていることになり、それにかかるすべての経費は人件費だと言えるわけで、原理的にはそのすべての過程で機械化できればただで商品を製造して流通させて販売できるようになるのだろうが、それには機械が機械を自動的に製造できるようにしなければならず、またそうなってしまうと人は機械が供給してくれる物や情報をただで受け取るだけとなってしまいそうだが、現状ではそんなところまで事態が進展するとは思えないから、ありえない話でしかないわけだが、理屈の上では人工知能やロボット技術などの進展はそういう方向を目指していることになってしまうのだろうし、それは人が意識してそういう方向を目指しているのではなく、成り行きとしてそうなってしまっていると言えるのだろうし、そのような技術革新の進捗状況を人が制御しているわけでも制御しようとしているわけでもないのは確かなのではないか。

 そういう意味で人が行なう労働とは、絶えず歴史的な経緯として認識される過渡的な状況の中で生じているものなのだろうし、労働そのものが人の本質的な特性を反映しているわけでもないだろうし、ましてや賃金労働となると完全に株式会社などとともに経済活動を行なう上での社会的な制度である面の方が強いだろうし、それは人の歴史上のある時期に生じた活動形態の一つであることは確かであり、昔からあったわけではなく、これから未来永劫に渡って存続していく可能性があるとも言えないものなのではないか。だがそうであるとしても現状の資本主義経済を支えているのが賃金労働であることは確かだろうし、労働者の賃金労働と消費者の商品の購買がセットになって企業活動を成り立たせているわけだ。そしてこの時代の人の生活には商品の製造と流通と販売と消費が欠かせないとすれば、企業も行政もそのような経済システムや物や情報の生産と消費のサイクルを維持存続させようとするのは当然のことだろうし、それらに加えてメディアも含めて世の中の世論をそのような営みを正当化する方向へと導こうとするだろうが、それはそれでそうなって当然のことではあるにしても、今までの歴史的な経緯を見れば、そのような試みが必ずしも思惑通りの成り行きや結果をもたらさないのも事実なのかもしれず、人や集団の思惑とは違う方向へ世の中が変わっていってしまうことは十分にあり得るだろうし、だからと言ってそのような試みはやめた方がいいとは言えないだろうし、人や集団がそのような方向への活動を維持継続しようとするから、それらの人や集団が思いもしなかったようなことが起こるのであり、そうなるとその思いもしなかったような出来事に人も集団も翻弄されて、それに対処するのに精一杯となってしまうわけで、そしてそんな対応に追われているうちに、気がついてみれば以前にやっていたことなどはどうでもいいような世の中になっているのかもしれず、そんな未来を今からああだこうだと予想してみても始まらないのだろうが、一般の人々が認識しておかなければならないのは、この時代の中で当たり前のように思っていることが別の時代にはそうでもないことの方が多いのかもしれないし、そうだとすればあまり企業や行政やメディアの主張を信じても、それらの企業や行政やメディアなどに利用されてしまうだけで、どのように利用されるのかといえば、労働者として利用され消費者として利用されるのだろうし、別のところでは国民として利用され有権者としても利用され、さらに視聴者や世論調査の対象としても利用されるわけで、そしてそれが何のために役立つのかといえば、それらを利用する側の企業や行政やメディアの活動に役立つわけで、では利用されている一般の民衆には利益がもたらされないのかといえば、とりあえずは生活が成り立っている限りで何らかの利益がもたらされていると信じればいいのかもしれないし、また知的好奇心や欲望が満たされたり、他の何らかの快楽がもたらされることで満足できれば、それが利益だと言えるのかもしれないが、それも別に普遍的で本質的なものではなく、この時代に特有な特殊な利益なのかもしれない。


12月10日「労働の必要性」

 労働というと生活の糧を得るために行なうという一般的な認識があるが、それが労働ではなく仕事となると、仕事をするために生きているとか、人生を仕事のために捧げているとか、他の何よりも仕事を優先させるのが美徳であるような生き方も世の中では肯定的に捉えられているかもしれないが、たぶん誰もがそのような意味で肯定的な仕事をやれるわけでもないだろうし、多くの人がどちらかといえば否定的な意味での労働を強いられている実態があるのかもしれないが、それは世の中で通用している価値観に照らし合わせて、肯定的な仕事と否定的な労働があるように思われるからだろうし、またそれは実際に働いている人の自分がやっている作業に対する満足度にも関係してくることで、やりたいことをやっていると思われればそれが肯定的な仕事となりうるだろうし、やりたくないことをやらされていると思われればそれが否定的な労働だと見なされてしまうのではないか。それに関して一般的なことを言えば、世間で脚光を浴びている仕事につければ満足感を得られるだろうし、そうでなければ不満を感じる場合もあるだろうが、別に脚光を浴びていなくても自分のやっている仕事が好きなら満足感を得られるだろうし、満足感を得られるようなことをやれている状態であれば、それはやりたい仕事をやっている感覚になれるだろうし、別に世間で脚光を浴びている仕事に就いていても、何かの加減でこんな仕事をやっているべきでないと思われるなら、それは不快な労働となってしまうかもしれないし、そういう意味で肯定的な仕事と否定的な労働の境界が曖昧であることは確かだが、そこに様々な思惑や要因が絡んできて労働を肯定的に捉えたり否定的に捉えようとする気にさせるわけで、とりあえずやっていることから金銭的な利益を得られようと得られまいと、人がそこで何らかの活動を強いられているとともに、それが自らの意志で主体的にやっている活動と思われるなら、その活動を肯定せざるを得ないだろうし、受動的かつ隷属的に何かをやらされているような状況となっていれば、そのような活動には否定的な感情を抱いてしまう成り行きとなるのではないか。そしてそうであるとしても、誰もが肯定的な感情を抱けるような仕事に就けるわけではないだろうし、また誰もが労働に対して否定的な感情を抱いてしまうわけでもないのだろうし、それが肯定的に思われるにしろ否定的に思われるにしろ、現に行なっている仕事や労働があるわけだから、そのような仕事や労働は人が行える範囲内の仕事や労働だと言えるわけで、たとえそれをやることによって心身の健康を害して悲惨な状況に陥ろうとも、とりあえずそんな状況に追い込まれるまではそれを行えることが、その人の身をもって証明されるわけで、それをやらせる側の思惑からすれば、その人がおかしくなって使い物にならなくなれば、その人を廃棄して別の人にやらせるまでだろうし、そうやって代わりが見つかる限りはそういう労働が成り立つわけだ。

 また社会の中で行われている仕事や労働の大抵は分業体制でやっていることが多いわけで、同じ企業内でもやりたい仕事とやりたくない労働というものがあるだろうし、同じ仕事でもやりたい役割とやりたくない役割というものも出てくるのかもしれないし、それらをどう調整するのかという課題が絶えず生じてくるわけで、結局はそこで人道的な配慮をするとなると、やりたくない役割ややりたくない労働をやらされる立場の人に何らかの配慮をしなければならなくなるのだろうが、その辺が微妙なところであり、配慮するためにコストをかけたくなればその分だけ利益が出るかもしれないし、実際にコストをかけた分だけ利益が減ることになれば、そんな配慮はやめてしまえという意見が大勢を占める場合もあるわけで、しかし仕事のシステム上必ずやりたくない役割や労働が生じてしまうとなると、ではそれをやる犠牲者をどうやって調達するのかということになるだろうし、調達が困難になってくればそういう役割や労働をできるだけ生じさせないようなシステムにしていかなければならなくなるわけで、そのような課題に対する一つの答えがそのような役割や労働を機械に肩代わりさせるという選択肢が出てくるわけであり、そうやって産業の機械化が進展してきた歴史的な経緯もあるのかもしれず、何も作業のコストや効率性だけなく、人がやりたくない作業を機械に肩代わりさせるという必要が絶えず産業技術の革新をもたらしてきたとも言えるのかもしれない。もっともやりたくない作業をやらされる側としては、やりたくないのにやらされているわけだから士気も上がらないし、その分自然と作業効率が悪化してコストも嵩むし、しかもそのうち作業のやり手自体が集まらないようになれば、やはりそういう部分は必然的に機械化するしかなくなるのかもしれないし、それも自然の成り行きといえば言えないこともないわけだが、そういう成り行きとして現状で直面している分野があるとすれば、それは軍隊であるのかもしれず、例えば現状の世界の中で命の危険を晒してでも軍事的に戦わなければならない相手がいるのかと言えば、どう考えてもそんな相手がいるとは思えないだろうし、またそれと同じように命の危険を晒してでも軍事的に守らなければならないような国家体制なのかと言えば、どう考えても現状の国家体制にそんな義理があるとも思えないだろうし、そういう思想信条的なことではなく、単に職業として他に選択肢がなく、あるいはそんな成り行きの中でたまたま軍隊に入ってしまったら、そういうものだとあきらめるしかないだろうが、それも普通の感覚なら戦闘で死傷したくはないだろうし、戦争させる側でも兵士が死傷するコストや効率が割に合わないと判断すれば、自然の成り行きとしてなるべく味方の兵士の死傷を少なく抑えるようなシステムにしたいだろうし、そうなるとできるだけ機械化するような成り行きとなるのではないか。もちろん機械化するには高度な産業技術が必要となり、それを持っていないか購入するだけの資金がなければ、そのような軍隊や武装組織で戦闘が行われている場合は相変わらず兵士の死傷が日常茶飯事となっているわけだ。


12月9日「大義名分」

 人が目的を持って何かをやろうとする際には、その目的がどこから生じてくるのかを考えているわけではないし、少なくとも自らの意志で自発的に行為しようとするだろうし、目的を抱かせている対象が自分以外から生じているとは思わないのではないか。企業の経済活動は何をやるにしても結果的に利益を出すことが重視されるわけで、それは株式会社などの会社制度が利益を出すことを宿命づけられた制度であり、どのような形であっても最終的には利益を出さないと継続していかない制度なのであり、損失を出し続けて資金供給が止まってしまったら事業の継続が困難となってしまうのは当然だろうが、その一方で事業内容に関して出資者に夢を抱かせるようなことをやっていれば、その夢を求めて資金が集まる可能性が出てくるのだろうし、その夢の事業というのが事業を行う者の目的となるわけで、それがある時には社会貢献という大義名分を纏うこともあるだろうし、また別の方面では人々の共通の夢を実現するためのプロジェクトという体裁を帯びることもあるわけだ。そういうのはまかり間違うと詐欺と紙一重な面もあるだろうが、とりあえずそういう事業が株式会社などの企業形態を伴って進められれば、必ず最終的には利益の獲得を目指す試みとなるだろうし、また国家プロジェクトのような体裁を纏う場合は国家予算で賄える範囲内で行われることになるだろうが、そのような大げさなことではなく、個人の身勝手な夢を実現するためのプロジェクトであっても、出資者を募って資金が集まるような成り行きになるなら、やはりそれはその人の夢だけではなく金銭的な利益を求めて出資を申し出てくるのだろうし、普通は金銭的な利益が得られる可能性があると思われるから資金が集まるのだろうが、中にはそれが金銭的な利益目当てでない場合もあるだろうし、その利益を上げた先で行われる事業というのもあるわけで、まずは利益目当ての事業を成功させて大金を得てから、その資金を使って世の中を変えようとするプロジェクトを立ち上げたりするわけで、そうしたプロジェクトの場合は金銭的な利益目当てとは別の利益が優先されるのだろうし、場合によってはそれが自分のためというよりは、社会全体のために資金を使うような成り行きとなるのかもしれず、そこまではっきりと意識していないかもしれないが、何だかわからないがやっているうちにそういう成り行きとなっていることに気づかなくても、満足感を得られていれば資金が続く限りはそれを継続しようとするだろうし、案外それが目的だという自覚がない方が継続する可能性が高いのかもしれず、目的を正当化する手間がかからない分、大げさな使命感や無駄な労力や心労を伴わずにやっていけるのではないか。

 だがそうなると当人は結果的に社会の役に立ったという認識には至らないだろうし、当人以外でも誰もそうは思わないかもしれないが、結果的にそうなるようなことを行なっているとすれば、それは誰にも意味がわからないような行為となるのかもしれないが、可能性としてはそのような成り行きもあり得ないことではないだろうし、そういう意味で何かをやるのに必要な目的というのはそれほど重要ではないのかもしれず、とりあえず多くの人を巻き込んでやる組織的なプロジェクトには、それをやるに際してそれに関わってくる人たちが納得できるような大義名分が必要となるだろうし、本当はそうでないにしてもそれらの人々を騙すための事業目的を設定しておくべきなのだろうし、目的のためにやるというよりはそれをやり続けるために設定しておく目的というのもあるのかもしれず、結局そのような事業が継続されている間は、それに関わっている人々が満足感を得られていればそれで構わないようなことが行われている可能性もあるだろうし、そういうところで初めに目的があってそれを目指して事業を行なうという順序とは違うことが行われる可能性が出てくるわけだ。そして一般的な生活の糧を得るために行なう労働という概念も、それが生活の糧を得るために行なうのではなくなった時から目的がずれてくるわけで、生活するにはもう十分な資金を確保した先に、何かそれとは違う行為が生じてくるのではないか。そしてそのような行為には目的を設定しづらいのかもしれないし、あえて目的を付け加えるとすれば、結局そこで何かをやっていること自体が目的だとも言えるような成り行きになってくるわけで、そうなると社会貢献とかいう大義名分とは無関係となってくるのかもしれないが、そのような行為に他の大勢の人々を巻き込んでいる実態があるとすれば、何かそれらの人々を納得させる大義名分が必要となってきて、そのような大義名分として世の中に受け入れられやすいのが社会貢献となるわけだ。そしてそのような事業が多くの人々を巻き込んで行われる場合は資金が必要となって、そのような資金の蓄積がどこで生じるのかといえば、資本主義的な経済活動が生じさせるのだろうし、具体的には企業を中心とした利益を追求する活動が資金の蓄積を生むわけで、それ以外では行政による徴税行為や公債の発行などで資金の蓄積を生む場合もあるわけだが、そのようにして蓄積された資金を活用する場合はそこに多くの人や団体などが絡んでくるわけだから、それを正当化する目的というのが世間を納得させるようなものでないと受け入れ難くなるわけで、そうなると世の中の慣習や制度からもたらされるような大義名分が目的として出てくるわけだ。そしてその最大公約数的な大義名分を単純化するなら、社会全体のために資金を活用するという目的になるのではないか。


12月8日「交渉の余地」

 組織の中での主導権争いは無駄なエネルギーを使うばかりで弊害しかもたらさないかもしれないが、争う理由や事情が生じる限りそれは避けられないことでもあるだろうし、その一方で争うというよりは交渉や取引によってその場を収めようとする成り行きになる場合もあるだろうし、その場での対立や軋轢の程度と対立する双方の力関係などの諸事情によってどうなるかが決まってくるのかもしれないが、企業などの場合は争う以前に本来の業務があるわけだから、そちらにかかりきりになっている人は争っている暇などないわけで、争うとしたら本業である仕事の方針を巡って争うことが多くなるだろうし、どのように仕事を進めるべきかを巡って争っているのだとすれば、少なくとも不毛な泥仕合になることは少ないのかもしれず、争った末に何らかの結論が出たら、その結論を尊重した仕事の進め方が同意の上で採用されることになるのではないか。結局そうやって争いの中でも交渉や取引などによって仕事の方針が決まれば、一応はその場の誰もが納得した形をとるのだろうし、そうやって物事を推し進めるやり方は他のどのような類いの組織でも行われていることかもしれず、別に取り立てて推奨するようなことでもないのかもしれないが、それとは違って立場が上の者から下の者へと一方的に指示を出すということは、すでにその時点で争うことも交渉することも取引することもできない命令として従わなければならないことになるわけで、そのような指示に納得できなければ反発してしまうわけだが、反発を伴いつつも従わせてしまうのが権力の行使の特性なのだろうし、そこには従わなければならない事情が生じているわけで、指示に従わないと何らかの損害を被ったり不利な立場を強いられたり、ひどい状況になることが予想されるから従わざるを得なくなるのだろうが、すでに指示に従わざるを得ない状況になっている時点で不利な立場に置かれていることは確かで、逆に指示などの命令を出す側は、相手が不利な立場であることを知っているから指示を出すわけで、それはそこで明白な権力関係が生じていることを示しているわけだが、何がそのような権力関係を生じさせるのかといえば、それはそこで構成されている指揮命令系統を伴った組織的な階層構造が権力関係を生じさせていると言えるのかもしれないが、それを人が意識している限りでそのような組織が生じているわけで、確かにそのような組織が所有している目に見える施設などがあって、その中で実際に人が集団で活動している実態があるのかもしれないが、その実態は形をなさないものであって、たとえその組織に所属している人々の名簿や所属に関する関係書類があるとしても、そこで生じている権力関係はそれに関わっている人の間で共通の了解事項として信じられ認められている限りで成り立っているものなのではないか。

 だからそこに権力関係があることを信じているとしても、指示には絶対に従わなければならないということではなく、その指示を巡って争ったり交渉したり取引する余地はあるのかもしれず、逆にそうしないから権力関係が成り立っているわけで、指示や命令を出して権力を行使しようとする側はそれを巡って争ったり交渉したり取引するような行為が生じてほしくないから、立場の上下関係を伴った組織的な階層構造を構築しようとするわけで、しかもそのような構造があることを組織の構成員に信じ込ませようとして、法律などの決まりごとを組織内の掟として定めて、それを構成員に守らせようとするわけだ。そうだとすると国家的に決められている法律などに関しても、それを利用して権力を行使する側の都合が反映されているものなのかもしれないし、法律を利用した権力の行使とは具体的に何なのかといえば、行政的には徴税行為や警察的な行為などがあるのだろうが、普通はそのような行為には黙って従うしかなく、そのような行為に対して異議申し立てして裁判などで争っても、権力を行使する側によほどの過失がない限り勝ち目はなさそうに思われるだろうが、意識しておくべきは権力の行使の正当性を信じるというよりは、絶えずそれに関して争ったり交渉したり取引する余地を考えておくべきなのかもしれず、そういうところから世の中で成り立っている支配的な権威などへの依存から脱却する余地が生まれるのではないか。そしてそれは反体制的な政治姿勢をとるというよりは、体制的な権威にも反体制的な権威にも精神的に依存しないことを意味するだろうし、そこで装われている二項対立的な予定調和のフィクションから脱却して、可能な限り現状に適合するような姿勢を目指すことにもなるのかもしれないし、それは現状の中で生じている様々な対立や軋轢を増大させるのではなく、それを巡って争いながらもそこで絶えず交渉や取引への可能性を模索することになるだろうし、対立や軋轢を維持して停滞をもたらすのではなく、交渉や取引によって状況を前進させて事態の進展を促すことになるのではないか。現実にはそれが容易でないから争っている勢力は互いに対立や軋轢の中で自足しようとするのだろうし、そのような状態を煽ることで自分たちの支持者を増やそうとするわけで、そうやって集められた支持者たちは敵対する勢力と戦って、極端な場合には争いの中で負傷したり命を落とすことにもなるわけで、そうやって戦闘で流された血の上に組織的な階層構造が実現されると、それこそが軍隊そのものなのかもしれず、軍隊の中では部下は上官の命令には絶対に服従しなければならないだろうし、そこでは交渉や取引の余地のない権力の行使が日常の隅々に行き渡って常態化するわけだ。人が集団で構成する組織の中で権力の行使がどのような程度になるかは、その集団の置かれた状況にもよるのだろうが、そこに交渉や取引の余地があるほどより平和な状況が実現していると言えるだろうか。


12月7日「社会システムと政治」

 日常の生活の中で毎日の日課のごとく同じ行為が繰り返されていると、そのような状態を肯定的に捉えることができるようならその日常は安定していると言えるだろうし、同じことをやっているだけなら退屈かもしれないが、それなりに同じ日課を繰り返し行なうことができるだけでも安心するだろうし、それと同じように経済活動においても企業などの集団で構成する組織的なシステムが噛み合って、一定の動作が弛みなく行われてそこから一定の利益が恒常的に生み出されていれば、その企業の経営は安定していると言えるだろうし、それなりに健全な経営状態にあると言えるのではないか。それはその企業で働いている人たちの感覚としても安心感を覚えるだろうし、安定した職場が確保されて安定した報酬が得られている面では誰もが安心できるわけだが、それでも企業の組織的なシステムの中で不利な立場にある人には不満があるだろうし、また企業内で主導権を握れていない人もそれに関しては不満を抱いているのではないか。そしてそういう不満を抱いている人たちの中には有利な立場を目指したり主導権を握るための画策を巡らせたり、それなりの野望を抱く人が出てくるかもしれないし、そうした野望が企業内で何らかの争いを生じさせたりするのかもしれないが、一般的には各自の組織的な役割分担の中で優秀な働きをした人はその功績が認められて、昇進して企業内の地位が上がって主導権を握れる立場になったり、報酬もそれだけ増えることになれば満足するのだろうし、そうした不満に配慮したシステムも企業内ではそれなりに働いているわけだが、そのような功績に応じて立場が昇進していくシステム内でも、功績が認められるか否かを巡って、自分の功績が認められずに昇進できないと思っている人は不満を抱くわけで、そういうところから昇進する人への羨望がやっかみに転じて、職場内の人間関係がおかしくなっていくことがあるわけで、そのような昇進制度などの人事的なシステムが合理的に設計されていても、その運用の面で不合理な人の感情が介在してくるわけで、企業自体の業績が好調で経営が安定している中でも、その内部では何らかの不満が渦巻いている場合もあるわけで、それは集団で構成する組織的な体制には付きものかもしれないが、組織の中では地位や役割に応じて権限や報酬に差をつけないと、指揮命令系統が正常に動作しないのだろうし、何かあった時に責任の所在もわからなくなってしまうわけで、そのような組織的な構造が権力関係を生じさせて、立場上の不均衡と不平等が生まれていることは確かなのだが、それが企業内で働く人々に生じる不満の原因ともなり、システムの構造上はそうなって当然な面があるのだろうし、そうやって不満が生じること自体はシステム上の欠陥でも不具合でもないわけだから、それを改めたり改善したりする機運は生まれにくいだろうし、結局そこには必要不可欠な権力関係がある一方で、そうした権力関係が人々の間に不満や不和をもたらすと言えるのではないか。

 システムが同じ動作を一定に保つには絶えず力を加え続ける必要があるのだろうし、力を加え続けるには人と人の間に権力関係が必要となり、絶えず立場の上の者から下の者へと力が加わる仕組みとなるのかもしれないし、そこで立場の違いをはっきりさせるには役割の上下関係とともに報酬にも差を持たせないと、どちらの地位が上なのかがわからなくなるわけで、報酬が高い人ほど組織内での地位も高く、より重要な人物だという認識を組織全体で共有する必要が出てくるのかもしれないが、実質的には組織全体が一つのシステムとして動作するわけだから、その中で誰の重要度が高いか低いかはあまり関係がないのかもしれず、中身の構成がどうなっていようと、システムとして安定して動作していればいいわけで、そのような地位や立場の上下関係や報酬に差が出ること自体は、システムの動作とは別の次元で認識されるべきことなのかもしれないが、そこで生じている成り行きや歴史的な経緯としては、そのような組織的な体制が当然のことのように構成されてきたわけで、それは産業の発展とともに衰退してきた旧体制下の身分制度を反映したものなのかもしれないし、また絶対王政下で組織された官僚体制に起因したものなのかもしれないが、原理的にはそのような権力関係を伴った体制が絶対に必要というわけでもなく、例えば管理職より従業員の報酬の方が高くてもシステムとして上手く動作するならそれで構わないわけで、部分的にはそういう職場環境もあるのかもしれないが、また従業員の中から組織の最高責任者が選ばれても構わないのかもしれない。それに関して議会制や大統領制では、原理的には無名の一般人が選挙によって代表に選ばれても構わない制度となっているわけだが、慣習的な面から言えば社会の中でそれなりの名声を得た著名人の中から代表が選ばれるような成り行きになってしまうわけで、そこにはマスメディアを通して情報統制のような作用も働いているだろうし、原理的には誰が代表に選ばれても構わないものの、実際はメディア上の選別を通過した人の中から代表が選ばれるような結果がもたらされてしまうだろうし、その一方で企業内でも組織の中での活動を通じて、その功績に応じて次第に頭角を現してきた人が自然と周囲の人望を得て代表になる場合もあるだろうが、実際には政治的な権謀術策を用いて取締役会で多数派工作に成功した人が主導権を握って代表に選ばれたりして、システム的な動作とは別の政治的な思惑が働いてしまう場合もあるわけだ。そういうわけでそこで働いている制度などのシステム的な動作に加えて、またそれとは別の、あるいはそれを利用した政治的な動作も生じるわけで、それがその手のシステム論だけでは世の中で生じている物事をうまく説明できない理由ともなっているのかもしれないが、別に両者が全面的に対立しているわけではなく、相互に利用し合うような補完関係にあると言える面もあるのかもしれず、片方の政治的な面だけを強調して状況を説明しようとすると、場合によっては説明者に都合のいいフィクションとなりかねないし、どちらかといえばその方が面白いし魅力があるのかもしれないが、政治小説などであればそれで構わないのかもしれないのだが、その人にとって面白かったり魅力的に感じられるところが現状を恣意的に歪めていることになるのだろうか。


12月6日「労働と仕事の違い」

 普段の日常の生活の中でやっていることが仕事としてやっていることと違うのは当たり前のことだが、日常の生活と仕事が分離しているわけでもないだろうし、仕事も日常の生活の一部であることは言うまでもなく、仕事からの影響が日常の生活に及んでいる可能性もありそうで、仕事上当たり前のように行われていることが日常の生活の中では違和感を伴うわけでもないだろうが、それが当たり前だと思うのは仕事上の習慣として身についているからそう思われるわけで、逆に仕事をやらなければ身につかないような習慣があるのかもしれず、例えばそれは集団の中での協調性の類いだろうか。集団で仕事を行なっていれば確かにそうかもしれないが、では単独で仕事を行なっているような人には協調性が身につかないのだろうか。たとえ単独で仕事を行なっているとしてもそれだけで仕事が自立して成り立っているわけではなく、他と接触する部分が必ずあるわけで、それは何らかの取引であり交渉であるのだろうし、具体的に言うならそれは何かと何かの交換をもたらしていて、それが生産物であれ獲得物であれ、あるいは何らかのサービスであれ、それらとの交換で利益を得ていることは確かで、一般的にはそれは金銭的な利益なのだろうが、たとえ自給自足で生きているとしてもその場合は労働と自然との交換があるわけで、畑を耕すなり狩猟採集するような労働が自然の恵みをもたらすわけだから、それが資本主義経済の中では労働と金銭との交換となるわけだ。しかしその場合は労働であって仕事とは違うと思われるのかもしれず、労働とは生きていくためにはやらざるを得ない仕方のない行為だとみなせば、では仕事とは何かというと、自ら積極的にやる行為が仕事であって、自らの意志で主体的に働くような行為なのかもしれないが、たぶん現代においては労働と仕事の区別は曖昧であり、どちらも同じような意味で使われていることが多いかもしれないが、それが労働と呼ばれるのを嫌う人たちは、消極的にやらされているのが労働で、積極的に行なっているのが仕事だという区別をつけたいのかもしれない。とりあえずはどちらも人の活動であることには変わりなく、当人としては積極的に仕事を行なっているつもりが、実は何らかの思惑が作用してそう思い込まされている場合もあるのかもしれず、実際にはやらざるを得ないことをやらされていることに気づかないだけの場合もあるわけで、だいたいはそれは世の中の慣習や制度がそうさせているのかもしれないが、それが企業内では集団が構成する組織的なシステムがそうさせているのだろうし、その中に身を置いていると例えば組織のトップを目指さなければならないという立身出世欲が生じるわけで、出世するために自らが行なっていることが消極的な労働だとは思わないだろうし、自分の野望を実現するために積極的に働いているように思われるのだろうが、やはりその場合は組織の中に身を置いているからそう思い込まされてしまうわけで、もちろん誰もが思うわけでもないが、少なくとも自分の前途が有望だと思えるようなエリート的な立場の人なら、そう思うのが当然の成り行きなのかもしれない。

 またそのような区別を敷衍すると、世の中で権力を行使する立場の人が積極的に仕事を行い、権力を行使される立場の人が従属的な労働を強いられているとも考えられるだろうし、確かに権力を行使する側とされる側の間で生じる力の不均衡や立場の不平等を考えるならそんな解釈も成り立つかもしれないが、それが対等な取引や交渉の場では成り立たないだろうし、また集団の中で誰もが協調関係を守っている場合は、誰が誰に対して権力を行使しているのかが曖昧となってしまい、そこに醸し出されている空気や同調圧力に従っているような場合だと、誰もが権力を行使される側となってしまう一方で、実質的に権力を行使する人物が不在となってしまう場合もあるわけで、そうなると誰が組織のトップになろうとその人が権力を振るっているわけではなくなり、その人でさえも集団が醸し出す空気や同調圧力に従いながら活動していることにもなって、そうなると活動の積極性も消極性も意味をなさなくなってしまうわけだ。それはある意味で制度や法律に従うような場合でも似たような構造になるだろうし、また神に従う場合でも形式的にはそうなのかもしれないが、しかし実質的にはそれが制度であっても法律であっても神であっても、それらを利用してそれらに従っている人たちを支配するというやり方が成り立つわけで、それが司法官であれ司祭であれ、それらに従っている人たちの最前列に自らを位置づけて、制度や法律や神に従うように説教する指導者の立場になろうとするわけだ。そして自らの権力の行使を制度や法律や神の力の行使と同一視するわけだが、それは制度や法律や教典などの戒律に則って権力を行使するわけだから、それらの思想に帰依している人々の間では何か絶対的に正しいことをやっているように信じられてしまうのだろうし、そのような制度や法律や宗教の教典などの内容を絶対視することは、思考や活動の柔軟性を欠いて状況の変化に対応できなくなってしまう危険性を伴うのだろうし、そういうのを教条主義というわけだろうが、たぶん集団内で空気や同調圧力に従うように仕向ける作用はそれとは少し違い、要するに戒律的なはっきりした内容がないわけで、内容がないだけにある意味では沈黙の圧力としてもっと陰湿な力を持っているのかもしれず、何だかはっきりしないが目配せのような仕草で暗黙の了解事項を守るように仕向けてきて、それに従わない人をのけ者扱いにして村八分にしようとするのだろうが、その何だかわからないがとりあえず集団の同質性を維持しようとする動作は、そのようなことを強いている人々の間でもはっきりしたことはわかっていない場合があるわけで、ただ単に同調圧力に屈しない人に違和感を抱いていて、そういう人は村のしきたりや掟を守らない人だということはわかっているのだろうが、それ以外ではないわけだ。だからそういう人を非難する内容は妙に情緒的な言い草になってしまい、論理的には筋が通らないようなことを言いながらも非難する姿勢は変わらないわけで、それは知性の感じられない否定的な感情の発露という以外には何の内容もない非難となるのではないか。


12月5日「トップダウンとボトムアップ」

 企業で働くということはそこで動作しているシステムに組み込まれることを意味していて、人を組み込んだシステムとしての体制は、ある面ではその中で機能している分業から成り立っていて、また別の面ではその分業している各部門を指揮統括する中央集権的な組織を必要としていて、分業によってそれぞれの役割分担が分散するとともに、その分散した各部門を指揮統括しようともしているわけで、分散体制と中央集権体制が同時に成り立っているような構造があり、それがその場その時の都合や情勢に対応して、ある時はトップダウン方式で上から命令を下したり、また別の時にはボトムアップ方式で下からの提案をトップが受け入れたり、一つの方式で凝りかたまるのではなく、より柔軟な組織形態を維持していないとうまく情勢の変化に対応できなくなるわけで、そのような構造もそれを外から見れば何か二律背反しているような矛盾を感じるのだろうが、上からも下からも主体的に活動していなければならず、どちらもどちらへの依存状態ともならないような構造が求められているのではないか。だから上からの指揮命令系統だけを頼って企業の構造を把握しようとすると骨格や骨組みが見えてくるだけで、確かに何か上から命令して動いているように見えるわけだが、肝心の活動の内容がよくわからなくなってしまうわけで、逆にその活動内容だけを見ているとてんでばらばらなことを勝手にやっているとしか見えないだろうし、実はその二つの方向性が直接繋がっているのではなく、同時的に重なり合っているわけで、企業の規模が大きくなるほどその傾向が顕著になってくるのではないか。だから常にトップに権力が集中しているわけではなく、分業している各部門の中で働いている小さな権力の集合体がトップを頂点とする指揮命令系統を成り立たせていることは確かだが、各部門の中で行われる小さな権力の行使には、トップからの力が及ぼされているわけではないのだが、トップダウンで何らかの指令を発する時には、各部門に分散している小さな権力を素通りして下へと力が及ぼされるわけだ。そのような権力の行使は小さな権力には与り知らないことであり、逆に各部門の中で行われる小さな権力の行使はトップを頂点とする指揮命令系統には与り知らないことになる。そのようにしてトップダウンとボトムアップがうまく互いをすり抜けるようにして重なり合っていると、その企業の組織的な柔軟性が確保されることになるのだろうが、どちらか一方がもう一方を制御するようなことをやりたがると、途端に混乱が起こって、企業内の勢力や派閥の離合集散にも拍車がかかって、互いの勢力や派閥の間で疑心暗鬼が蔓延して収拾がつかなくなるのだろうし、結果的に組織が分裂したり全体として崩壊したりすることになるのかもしれないが、それも組織的な新陳代謝の一環なのかもしれず、そのような闘争が結果的にどのようなことになるにしろ、それが不可避な成り行きだと言える面があるのかもしれないし、そういう闘争は企業活動にはつきものなのではないか。

 企業で働いていると日常の業務とは別の面でそういう政治的な活動も生じてきてしまうわけで、そういうことを調整する具体的な部署が総務課なのかもしれないが、それも具体的な業務とは別に行われるわけで、上から取り仕切るのではなく下から突き上げるのでもなく、微妙な均衡を保とうとする上で上と下との調整を行い、また横の連携も調整するのだろうが、そういうことのどこまでが業務とも言えない面も出てくるわけで、業務とは別に何かやっているようでもあり何もやっていないようでもあり、中小企業ならなくても困らないが、ある一定規模以上の企業になると必ず必要になってくるわけで、それとは対照的に庶務課というのはいわゆる事務職なのだろうし、コスト削減や機械化の対象となりやすい部門でもあり、場合によってはそれ専門の下請け企業というのも可能な部門なのではないか。またそういう意味で企業は利益の追求という単純な経済目的だけで成り立っているわけではないのはもちろんのこと、そのような組織形態を維持するのに多大な労力を費やしている面もあるわけで、組織形態の維持と組織的な目的や目標とが必ずしも一致しているとは言い難い面まであるのかもしれず、トップの言動や行動ばかりがメディア上で注目を集めているとしても、企業の中で分散した各部門で行われていることがトップ経営者の直接の管理下にあるわけではない場合が多いだろうし、また各部門の責任者がその部門で独裁体制を敷いているというわけでもなく、そういう特定の人物が管理や独裁などに関して何らかの権限を握っていることは確かかもしれないが、それはあくまでもそこで形成されている集団的な意向に配慮する限りで裁量が生じてくるわけで、比喩的にはワンマン経営が成り立っているように見える企業であっても、そのワンマン経営者が組織的なシステムが醸し出す集団的な意向から自由であるわけではなく、その集団的な意向に適切に対応して配慮しているから、その人の手腕がその人独自の才覚や技量から生じているように見えてしまうのではないか。そういうことからも企業のトップに立つ人物が担っているのが政治的な役割であることがわかるわけで、経営者が産業技術に長けていたり営業的なセンスがあるというよりは、政治的なセンスが求められている限りで企業の最高経営責任者であるわけで、時にはトップダウンで何か指示しているように見えるとしても、別にボトムアップ的な提言を無視しているわけではないだろうし、相反するどちらの作用にも対応していかなければならないのであり、特にボトムアップ的な行為を制限したり制御しようとしてはまずいわけで、しかもそこで絶えず経営の主導権を握っているように見せかけなければいけないのではないか。そしてそう見せかけられていること自体が経営の主導権を握っていることになるわけで、下から上がってくる意見というのがまるで経営者の意向を尊重しているような意見となっているように見せかけるわけだ。そしてそのような見せかけの体制を演出するのが総務課の役割でもあるのかもしれない。


12月4日「企業と従業員の関係」

 人が何かをやっていることが世の中にそれなりの影響を及ぼしていることは確かなのかもしれないが、その程度から言えば個人でやっていることよりは集団で組織的に行なっていることの方がより強く影響を及ぼしているのだろうし、資本主義経済の中では企業が行なっていることがその主要な役割を担っていて、企業活動がその恩恵を受けている人の生活や活動に都合がいいような環境に変える原動力となっているのだろうが、直接そのような使命を担って活動しているわけではなく、企業の主要な目的である経済的な利益の追求をやっている結果として環境を変えてしまっているわけだから、確かに企業活動に関わりそこから利益を得ている人にとっては都合のいい環境となるわけだが、逆に企業活動によって損害を被っている人にとっては、環境の変化によって生活しにくく活動しにくく変わってきているのかもしれず、実際に辺境の地で狩猟採集などを行いながら暮らしている人々は、他の人々の活動に追い立てられて世代を重ねていくにつれて徐々に辺境の地に追いやられてしまった歴史的な経緯があるのだろうし、実際にそれは企業活動よりもさらに広範囲な産業規模で起こった変動なのだろうが、企業活動の中でもグローバル企業の活動がより規模の小さい地域に限定された企業の活動を圧迫している事例もあるだろうし、単純に企業活動によって利益を得ている人と損害を被っている人を区別できない面もあるだろうが、具体的に特定の企業で働いてそこから報酬を得ている人にとって企業活動はなくてはならないものだろうし、金銭的な利益を得ている反面で多大なストレスを背負いこんで寿命を縮めている面があるかもしれないが、そこから一概に損得勘定など計算できないだろうし、そういう成り行きの中へと絡め取られているだけなのかもしれないが、ともかく企業活動にとって都合のいい環境を維持していく上で、企業内で働く人たちに報酬と引き換えにしてそれなりの犠牲を強いているのかもしれないが、企業活動にはそこで働く人員が欠かせないわけだから、とりあえず働くに値する報酬が確保されなければならないのはもちろんのこと、絶えず競合している他の企業との比較でその企業で働くことのメリットも求められているのではないか。そのメリットというのが報酬以外では職場環境の良し悪しになるだろうし、企業はそれなりに有能な人材を確保したければ、例えば福利厚生の充実を図ったり、他にも働く上で無用なストレスがかからないような職場環境を整備しなければならないのかもしれないが、それも需要と供給の関係で、黙っていても就職希望者が殺到するような企業なら、企業内での競争も熾烈なのかもしれず、むしろ去る者は追わずで、企業内の熾烈な競争を勝ち抜いた者だけが残って出世して、負けた者は閑職に追いやられた挙句にリストラの対象となってしまうような運命も待っているだろうし、そのような職場環境ではストレスがあるのが当然で、ストレスに耐えて打ち勝ってこそ一人前の企業戦士として活用されるという論理がまかり通っているだろうか。

 その企業内での競争というのが企業自体に活力を生んでいるのか、あるいは勢力争いや派閥争いに明け暮れていて、逆に企業を衰退させている要因となるかは何とも言えない面があるのかもしれないが、結果的に業績の好調を維持している企業ならそれが良い方向へと作用しているのかもしれないし、逆に派閥人事などが悪影響を及ぼして無能な人材が出世して最高責任者にまで上り詰めてしまったような場合には、業績が低迷して場合によっては経営危機に陥ってしまうような結果をもたらすかもしれないし、別にそうした要因がなくてもそれ以外の要因が作用して業績の好不調に表れるわけだから、一概に企業内での競争や争いが企業の業績に影響を及ぼすとは言えないのかもしれないが、それとともに企業間での競争も業種や企業が立地している国との関係で様々な影響を世界に及ぼすのだろうし、それが貿易摩擦などに発展すると国家間での国際的な緊張関係をもたらすし、乱開発や環境汚染などは企業間競争の過熱によってより一層の悪化をもたらすかもしれないし、結局そうした場合の歯止めとなるのは行政の役目となるわけで、場合によっては多数の国による国際的な協調関係を利用して貿易摩擦の調整や環境汚染などを食い止める方策が話し合われている現状があるわけで、またグローバル企業による市場支配にも、さらにタックスヘイブンなどを使った企業や富裕層などの課税回避行為にも、国際的な協調体制による歯止めが不可欠となるだろうし、行政と企業の関係は企業活動が税収をもたらして行政の財源となる面に関しては、行政が企業を保護育成したい思惑がある一方で、その活動が行き過ぎてしまう面に関しては、行政がその歯止め役にならざるを得ない面があるわけで、その二面性がお互いに相殺してしまってはまずいわけで、二律背反する面の両面で上手く舵取りしていかないとならないわけだから、政府や企業に批判的なメディアからしてみたら、結果的には嘘やごまかしと見られても仕方のない面があることは確かなのだろうが、行政だけに責任があるわけでもないだろうし、企業だけに責任があるわけでもなく、その行き過ぎてしまうところを絶えず批判するチェック機能がそれらのメディアには求められているわけで、もちろんそうしたメディアだけがあるわけでもないし、行政や企業と癒着してそれらの宣伝ばかりしているメディアの方が、そのメディアの企業活動としては業績が好調となるのだろうから、メディアの方でも批判と擁護という二律背反的な二面性を抱え込んでしまっているわけで、そちらの方も互いに相殺してしまうわけにはいかないだろうし、絶えず両面の方向で活動していかなければならない宿命にあるわけで、そういう面でもそのメディアから情報を受け取っている一般の民衆にとっては、欺瞞であり偽善であるようなことをメディアが行なっていると疑ってしまうわけだが、それは民衆の側にも言えることかもしれないし、それらの民衆の中には批判されている企業や行政やメディアなどで働いている人も含まれるわけで、結局は互いが互いを批判したり擁護するような立場が生じてしまうことは確かで、しかもそれらを相殺してチャラにするわけにはいかず、時には耳が痛い批判を甘んじて受けないと、当の批判されている事態を改善することはできないわけだ。


12月3日「公共の利益」

 産業の大規模集約化はそれに伴って人の集団的な組織化をもたらし、そのようなシステムとして資本主義的な体制が形成されたわけだが、それは一方で体制内の人に細かな役割分担を課して専門化が促進され、役割ごとに部分的に機能する労働者の集団が生まれたわけだ。またそれはその体制を離れて別の職種に就いた場合、以前の体制内で養われた専門知識が新たな体制の中ではあまり役に立たないことを意味して、その職種に特有の専門知識に普遍性がないことが明らかとなり、そこでしか通用しない仕事に関する知識と社会人として日常生活の中で生きることが分離してしまったわけで、仕事の中で専門家として通用している限りは、公の社会の中で民主主義の理念など尊重しなくても構わない風潮も生まれてしまったのかもしれず、それを促進しているのがメディアを通して伝わってくる政治情勢だろうし、マスメディアが政治的に主導権を握っている勢力に配慮して政治批判をしなくなれば、そこから影響を受けた民衆の側でもそれで構わないと認識するだろうし、民主主義の理念から外れた強権的な行為をメディアが批判しなければ、やはりそこから影響を受けた民衆の側でもそれで構わないと認識するだろうし、そんなわけで公的な社会領域で主体的に思考する意識が欠落すると、人は仕事と趣味の中に埋没してしまい、社会人としては慣習と制度に依存して生活するばかりで、その慣習と制度にとって不都合な面までは気づかないだろうし、世の中をより良くしていくには慣習と制度を状況に合わせて絶えず変えてゆかなければならないとまでは考えが及ばないのではないか。もっともそんなことは社会の中でそれ相応の権限を持っている政治家や官僚や、メディア上で発言権があるオピニオンリーダー的な著名人が考えればいいことで、一般の庶民が考える必要はないことだと思えばそれで事足りてしまうのかもしれず、そこにも役割分担に伴う分業的な専門化が影響していて、自分の専門外のことには口出ししなくても構わないという風潮も生じてしまっているのかもしれないが、それに関して社会全体のことを考える公的な社会領域という概念が必要なのかというと、仕事と趣味の狭い領域にしか興味を示さない人にとっては不要なのだろうし、それで構わない状態が維持できる限りは、それで済んでしまう状況が続いていくのではないか。そしてそれでは済まない状況というのが果たして一般の人々に生じる時が来るのかというと、今この時がそうなのかもしれないし、その時が来ているのに未だに多くの人がそれに気づいていないのかもしれないし、今後も気づかないままなのかもしれない。そして気づかないままで構わないのかというと、それは各人の判断にまかされていて、気づかないなら気づかないなりに、誰もが気づかない状況が続いていくのだろうし、多くの人が気づいたらそれが世論に表れてそれなりに世の中の情勢が変わっていくのかもしれないし、結局世の中の情勢はそこに住んでいる人の意識の変化に左右されるものなのではないか。

 少なくとも公共的な社会空間がアプリオリにあるわけではなく、そこに暮らしている人々が意識しないとそんなものは存在し得ないし、存在しなくても済んでしまうのならそれだけのものなのかもしれないし、そこに住んでいる人々の意識や活動に応じた社会がそこに形成されてゆき、またそれで安定するわけではなく、それなりに対立や軋轢も起こるし、それを通して社会が変化してゆくのだろうし、なぜ対立や軋轢が生じるのかといえば、それは社会の中で暮らしている人が他の人には受け入れがたいことをやるからであり、そしてその人の活動が社会の中で一定の支持を得るようなことになると、それを支持する人たちとそれに反対する人たちとの間で対立や軋轢が生じて争いが起こるわけで、そのような争いの中で社会が変化してゆくのだろうが、その中で誰がどのような勢力が主導権を握るとしても、今のところはそのような勢力の思い通りの社会が実現している地域は世界の中では限られているわけで、世界全体が一つの勢力の思い通りになることはないわけだが、ただ資本主義的な価値観が世界全体を覆っていることは確かであり、それがある意味では普遍性を持っていて、それに対抗しようとする公共の利益を重視する価値観を圧迫しているわけで、それを単純化すれば個人の利益と公共の利益の対立となるわけだが、厳密に言えばそうではなく、集団の利益と個人の利益も対立しているわけで、そして集団の利益が公共の利益に反している面もあるわけで、そこで集団の利益を個人の利益と混同してしまうと、その個人が集団に組み込まれていることに気づけなくなり、そのような錯覚が資本主義的な経済活動からもたらされる利益の正当化にもつながるわけで、実際にそのような利益によって特定の個人が潤っている一方で、別の個人が損害を被っていることには無自覚でいられるわけだ。要するに正確に言うなら集団に組み込まれた個人に利益がもたらされると、その集団に組み込まれていない個人には利益がもたらされず、しかもそれが公共の利益に反していることになるのかもしれないし、実際にそのような集団に対して公共の利益を重視する人々から批判がされる場合には、特定の集団による活動が社会全体から見ると目に余るものに映るわけだろうし、時にはそれが資本主義的な利益の追求に関してそれが行き過ぎた追求とみなされてしまうのではないか。またそれは資金に物を言わせて強引なことをやっていると受け取られる場合もあるかもしれないし、さらに政治的な権力の行使と連動していると、民主主義の理念に反していると思われるだろうし、そういうところから逆説的に公共の利益がどういったものなのかが浮かび上がってくるかもしれないのだが、たぶんそれは世の中の制度や慣習などとは違ったものになるのかもしれず、絶えずその場の状況に合わせて制度や慣習を変えてゆく作用をもたらすものなのではないか。


12月2日「労働の特徴」

 労働だけで生計を立てている人は、原理的には労働力を売った報酬として金銭を得ていることになるわけだが、そこで成り立っている労働力と金銭の交換という売買が他の売買と違うところは、物や情報の売買だと金銭を払って買った物や情報が手元に残るのに対して、労働力はその場で消費されて残らず、しかも大抵の場合は労働力を使った後から金銭が支払われるのに対して、物や情報の売買ではそれを使う前に金銭が支払われ、ローンになると使っているのと同時に分割払いされてゆくわけだが、それでも変動する金利の支払い以外は事前に決められた額を分割払いするだけなので、払っている間に物価が変動するとしても、決められた支払額そのものは変わらないのだが、賃金などの報酬を後払いで支払う場合は、事前に想定していた労働量より多く働かせても支払う額は変わらないので、支払う側がそれだけ儲かる場合があるわけで、もちろん残業代などの取り決めの範囲内で働かせるわけだから、時間給としては長時間働かせれば残業代も増えるわけだが、結局時間当たりの労働量を増やせばいいわけで、いかに時間内で効率的に働かせるかが人を雇う側の腕の見せ所となり、また機械技術などの技術革新によって人件費を減らす目標ともなるのではないか。労働量を増やすといっても達成困難な過酷なノルマを課して、達成できなければ逆に罰金として賃金を削るような理不尽なことは普通の企業ではあまりやられないだろうし、従業員が気づかないところで自然に作業能率が上がってくるような管理体制や作業工程が模索されるわけで、そして労働量を増やすことが生産量の増加に直結してくればいいのだろうし、さらに機械を改良して労働量を増やさなくても生産量の増加につながればなおいいわけだろうが、もっと言うと労働量を減らして人件費を削減しても生産量が増えればもっといいのかもしれないが、そういうところで人的な労働力の代わりに機械を稼働させた方が安上がりになるような場合は、積極的に機械化されるだろうし、人の労働力を使うところでも雇用条件が時間給ならば、単位時間内でより生産量が上がるような工夫が凝らされるだろうし、絶えず生産経費の中で人件費を減らそうとする傾向にはなるのではないか。そして生産以外の流通経費や販売経費の中でも作業の効率的な運用によって人件費を減らす工夫はされるだろうし、物や情報の生産や流通や販売などの過程で人的な労働力が必要になる場合は、人を雇う側から見ればそれは絶えず必要経費として見てしまうわけで、経費を削減すればそれだけ利益が出るのは当然のことであり、そうなると作業に支障を来さない範囲で経費の削減ができれば、それをやらないわけにはいかなくなるだろうし、そういう面では労働力を売って生計を立てている人にとっては不利な状況となってくるわけで、場合によっては何かそういう成り行きとは異なる方向での労働力の活用が求められてくるのかもしれない。

 それに関しては効率とか能率とは関係のない方面で人を使う場合を考えなければならなくなるわけで、例えば人としての知性や理性などを使って顧客を満足させるサービスとか、また専門の技能などによって顧客を満足させるサービスを提供するとか、そうなると専門的な技能に長けた少数の人材しか必要ではなくなるわけだが、誰にでもできるような労働となると必要経費としか見られず、その人にしかできない専門職となると少数の人材しか必要でなくなるわけで、それらの間で様々な労働力が産業の中で必要とされている実態があるのではないか。そして少数の人材しか必要でない専門職になるほど高給になる傾向があるだろうし、それだけ人気も高く競争も激しくなり、結果的に誰でもできるような職業ではなくなるわけで、その反対に誰でもできる職業ほど賃金も安くて、パートタイムで主婦や学生などが片手間でやるような職業となるのかもしれないが、そのように各職業の間で報酬に差が出るのは誰もが納得するしかないだろうし、結局最も安い賃金の職業でも生活していけるようなら構わないわけだが、行政などの政策によってそれが実現するとしても、必然的に給与の格差は貧富の格差をもたらすわけで、それは避けようのない成り行きであり事態なのではないか。そして実際にも現状では貧富の格差はなくならず、政治的にも行政的にも解決できないわけだが、そうなるとそもそもそれを問題視するのがおかしいとなるわけで、ただ最も安い賃金でも生活できる状況を実現できれば、さらに無職でも生きられるような状況を実現できれば、生活に行き詰った人が餓死するようなことはなくなるわけだが、そのためには大多数の人が職業を持って普通に生活している状態が実現されて、ごく一部の人だけが行政などの援助を受けながら暮らしているような状況となれば、それほど不満は出てこないのかもしれないが、経済状況が悪化すれば失業者が増えてそのような均衡を保てなくなるだろうし、また経済状況がそれほど悪化せずに雇用もそれなりに確保されている状況下でも、給与が上がらず消費も横ばいの状態が続くと、それはそれで不満が出てくるわけで、粗探しをすればいくらでも不満の種が見つかってしまうことは確かだが、行政や政治などの場でそれらの些細な不満に対応するような政策を打ち出せれば、それなりに世論の支持を得られるだろうし、民衆の側から少しでも不満が出ればそれをメディアが積極的に取り上げて政治問題化するような成り行きに持っていくことが、現代的な政治情勢を活性化させる上では重要なことなのかもしれず、そんな水準で状況が安定している限りは平和な状態が維持されるわけで、メディアを通じて出される政治への不満も不祥事への対応ばかりでなく、もっと何か建設的な方向へと向かうような成り行きが期待されているのかもしれないが、そうなるにはそれ以前に片付けなければならない問題が多すぎるのかもしれないし、不祥事などの片付けられない問題ばかりが出てきてしまう状況となっているわけだ。


12月1日「サービスと労働の関係」

 サービスというのは簡単に言えば人が他の人に対して何かやってあげることを言うのだろうが、やるだけで具体的に物のやり取りはなく、やった後に何も残らないような行為をサービスというのかもしれないが、それが報酬を受け取るのと引き換えして何かをやるとなると、何も残らないわけではなく報酬が支払われるわけだから、それもサービス業などの類いとしてはサービスだろうが、いわゆる賃金労働と解釈されるのだろうし、サービスの中には労働も含まれるし、サービス業の中での労働もサービスには違いないわけだ。それとは違って何かを生産してその生産物を渡すのはサービスではないだろうし、生産をしないでただ生産物を運ぶだけならサービス業となるのではないか。また何かを販売しているのは商業だが、小売業者に雇われて店員の類いになるとサービス業だろうし、また生産者に雇われて製造過程で労働力を提供するのも厳密にはサービス業と言えるのではないか。その辺は定義上は間違っているかもしれないが、直接商品を作ったり販売しているのではなく、労働力を提供するだけの人はサービスを提供していることになるのだろうし、そういう意味で労働者に分類される人々はサービス業者になるのかもしれないが、労働というのは常に何か道具を用いて行うものだろうし、それはサービスを提供する人にも言えることで、道具を使用しないサービスというのはまずあり得ないだろうし、生産者や小売業者にとっては雇用している労働者も道具でしかないのかもしれないし、そしてその生産者や小売業者にしても個人がやっているというよりは企業などの法人である場合がほとんどであるから、何か特定の個人が労働者を道具扱いしているというよりは、集団的な組織形態のシステムが人を道具のように取り扱っているとみなした方が妥当なのかもしれず、もちろんそこで道具の延長上に機械があるわけで、人を道具であると同時に機械のようにも扱っている可能性もあるだろうし、その辺は表現の問題だから何と言っても実態は変わらないわけだが、人と道具と機械を厳密に区別することは可能だが、役割や機能としてそれらが混同されるような状況はあるだろうし、産業はそれらを使って利益を出せれば事業が続いていくわけだから、使う用途によって道具を持たせた人を使ったり全面的に機械化したりするわけで、必ず人を使わなければならない事情というのがそれほど切実ではないところでは、コスト的に割りに合えば容赦なく機械に置き換えるだろうし、そういうところの判断基準としては人道的な配慮はあまり働かないのではないか。それよりは採算がとれるかどうかが優先されるだろうし、それ以前に人は常に道具を改良して作業効率を上げてきた歴史的な経緯があるわけだから、そして道具の改良の延長上に機械の発明と使用とその改良が続いて生じてきたわけで、そのような成り行きの連続性を認めるなら機械を使うことに何の躊躇いもないわけだ。

 そしてコストや効率を重視する姿勢が機械の改良に結びつき、さらにコストよりも機械の性能を高めることにも人は魅力を感じるわけで、また効率にも様々な方向性があって、至れり尽くせりのサービスを提供してそれに伴って価格を高くしても、採算がとれるだけの利用者がいれば効率的に利益を上げられる可能性があるわけで、消費者や顧客に魅力的なサービスを提供できればそれが利益に結びつくわけだ。そういう意味でサービスを提供する面でそれなりに筋の通った理屈がある場合もあるかもしれないが、それは結果論である場合が多いのかもしれず、結果的に利益を上げられるようなサービスが商業的には継続して行われている実態があり、そういうサービスにはそれなりに顧客が満足するような魅力があるわけで、確かにコストや効率が重視されている面もあるわけだが、それ以外のところでサービスを受ける側の嗜好が重要な要素となる面もあるだろうし、それに加えて世の中の流行現象も重要な作用を及ぼすこともあり、何かが流行ってそれがある期間を境にして急速に魅力を失って衰退した場合、それを後から振り返ってみると、なんでそんなくだらないことが流行っていたのか首をかしげるようなこともあるわけで、それはサービスだけではなく商品の流行現象にも言えることかもしれないが、人が何に魅力を感じるかは実際に魅力を感じるような物事が出現してみないとわからない場合があるわけで、そういうところでは単純なコストや効率の追求だけでは利益に結びつかない場合があるわけだ。そこに成り行きの偶然的な巡り合わせがあるわけで、それは誰から見てもお粗末な人物が民主的な手続きを経て首相や大統領となっている現状を見ても十分に理解できるところだろうが、それは人が行なっているサービスの内容にも言えるのかもしれず、誰が見ても非効率で無駄だらけのサービスが慣習や制度の助けを借りて平然と行われている場合がある一方で、いくらコストや効率を重視しても全く流行らないサービスもあるだろうし、そういうサービスが現れては消える一方で、特定の勢力にとって利権となっているサービスはそのような勢力が権力を行使して継続させるような成り行きにもなるわけで、そしてそのような勢力と連携しているメディアがサービスの宣伝に力を入れていると、そのような宣伝を真に受けた人々にはそれが魅力的に感じられてしまうわけで、そういう宣伝の欺瞞性に気づいている人にとってはくだらないことにしか思えないのかもしれないが、宣伝しているメディアの方が社会の中で影響力を持っている場合が多いのだろうし、そういうところで強引に権力を行使したり宣伝によって魅力的に見せかけたりしながら続いているサービスもあるわけで、何か少数派に属する人たちがくだらないと思われることが世の中で流行っている場合は、それらの人たち認識の方が勘違いでない限りは、多数派の属する人たちが特定の勢力による過剰宣伝や権力の行使によって欺かれていることになるのかもしれない。