彼の声122

2017年

9月30日「憎悪と怨讐の煽動」

 誰がどんな経緯でそこへと導かれてきたにせよ、人が生きられる時間の中でやれることは限られていて、そこで何をやるかはその人に固有の成り行きの中で決まってしまうのかもしれないが、あらかじめ決められたことをやっているわけではない場合の方が多いにしても、資本主義経済の中では金銭的に予算が許す範囲内でしかできないことが多いだろうし、何をやるにしても金銭的な制約が付いて回るわけだが、それ以外にも世の中の流行現象に影響されて他の人たちと同じようなことをやっている場合もだろうし、また日々の生活の中で家族や交友関係などから特定の人たちと共同作業をやっている場合もありそうで、さらに職業に付いて回る特有の作業というのも、仕事として平日はそれにかかりきりになる場合もあるわけで、普通にそれらのことが滞りなく行われていれば、他に何をやる必要もないのかもしれないが、その人に固有の成り行きというのは、それらの様々な制約や限界を突破して何かをやらざるを得ないような成り行きに巻き込まれてしまうのかもしれず、それが何であるかは人によって異なるだろうし、それが人倫にもとるような行為となれば、周囲の人々から非難されるような成り行きにもなる可能性があるわけだろうが、しかしそれの何が倫理的に許されないかなんて俄かにはわからない場合もあるわけで、それがわからない環境の中で暮らしていれば、そんなことなど気にせずに振る舞えるのかもしれず、法律違反以外ではやってはいけないことを知らずに生きてきたならば、人倫も何もありはしないだろうし、少なくとも周りの人々の態度からそういうことを自然とわかるような環境の中で生きてきたわけでなければ、しかも周りの人々もそうであれば、倫理的に何をやって良くて何をやってはいけないかという意識すら芽生えないのではないか。またそういう人たちの間ではその人たちに固有の倫理というのが生まれる可能性もあるわけで、その倫理というのが他の人たちとは異なる倫理であれば、他の人たちにとってはそれは倫理ではないだろうが、その人たちに固有の倫理というのが別に違法行為でなければ、そういう人たちの間ではまかり通ってしまうような慣習となるのだろうし、それが他の人たちにとっては眉をひそめるような行為だとすると、その人たちとの間に乗り越え難い溝が生じてしまうこととなるだろうか。

 現状の世の中で何か不快な行為がまかり通っているように感じられるならば、それを不快に感じられる人々と平然とそんなことをやっている人々との間に乗り越え難い溝が生じていることは確かかもしれず、そして不快なことを平然とやっている人々が社会の中で主導権を握っているように思われるならば、それを不快に感じる人々には受け入れられないような慣習が、それらの人々の間では当然のことのように行われているわけで、しかも一部のメディアがそんな行為を率先して世の中に広めようとしているならば、そんな状況についてゆけない人々は、もはや世も末だと思うしかないだろうか。しかし過去の歴史を紐解いてかつてそれと同じような現象が流行っていた時期があることを知るに至った場合、何やらそれが世の中の状況や情勢に合わせて繰り返し反復していたことを理解して安心するだろうか。実際に不快なのだから安心するわけにはいかないだろうが、それが彼らの活動様式として歴史的に一定の傾向を示していることは確かめられるだろうし、またそれは資本主義経済の進展とも同期していて、経済的な進捗状況がそれまで一定の形式を伴って社会の中で固定していた倫理観を突き崩して、それが行動や言動の合理性とともに新たな倫理観を構成するのではなく、ただ倫理観が禁止していた行為を社会の中に解き放ち、ある水準では何でもありの行動や言動を許すとともに、倫理観そのものを攻撃するような傾向をもたらしていて、別の面では何でもありとは言えず、敵対する勢力との間で絶えず攻撃の応酬の水準に留まるような習性を示していて、そこで敵に対する憎悪の次元にひたすら留まろうとしているわけで、その次元にとどまっている限りで自分たちに固有のアイデンティティを保持できるような傾向も見せていて、またそうした傾向が仲間たちの間だけで確認し合う合図や符牒などをもたらしているわけで、それさえ守っていれば仲間に入れるが、それを守らない人は合図や符牒を送らない限りは無視し続けるような暗黙の掟が定められていて、それがそれらの人たちの組織的な団結の証しともなっているわけだろうが、別にそれが秘密結社的な様相を呈しているわけではなく、そんな傾向を煽り立てるメディアとともにあからさまにネット上に露出しているから、それ以外の人たちに不快感をもたらすわけだが、たぶん産業革命以降の市民社会の登場とともに周期的にそんな集団が現れてきたのかもしれず、欧米ではそんな集団によって社会の隅々に至るまで執拗に撹乱され荒らされた経緯があるから、ある程度は免疫がついているわけだろうが、それ以外では日本をはじめとして東アジアから中東のイスラム社会に至るまでまだ免疫を獲得していない状況なのかもしれず、これから数十年から下手すると百年単位で、社会の中で執拗に憎悪や怨讐の煽動が繰り返されるのではないか。


9月29日「リベラルの敗北」

 何か特定の価値観やイデオロギーに囚われて、世の中で信用できるものを恣意的に限定してみても、それで済まなくなる事態に遭遇する場合はありそうで、そうなった時に恣意的な限定から生じるこだわりを捨てられないと、その場で生じている環境の変化に対応できなくなる可能性があるだろうし、実際にこだわりを捨てられない人たちが時代の変化から取り残されてしまうのかもしれないが、たとえば政治的な主義主張にある種の普遍性があるとすれば、時代の変化に関係なく変わらない主義主張をいつまでも堅持できるだろうか。そして今の世界情勢の中で試されている主義主張がいわゆるリベラリズムだとすれば、リベラリズムに宿っている政治的な普遍性とはどういうことなのだろうか。とは言ってもリベラリズムという言葉の意味は人によって様々な解釈があって、必ずしも統一された意味で固定されているわけではなく、恣意的な解釈がまかり通ってしまうのかもしれないが、人が慣習として持ってしまう人種や民族や宗派や国家などから生じるアイデンティティを捨てられないことから、異なる人種や民族や宗派や国家などとの間で争いに至るわけで、ひとまず集団意志として頑なに守っている固有のアイデンティティをカッコに入れて、お互いの違いを認めながらも仲良く暮らそうというのが、最大公約としての単純化されたリベラリズムなのではないか。もちろん現状では必ずしもそうはなっていないのだろうし、むしろアイデンティティを異にする集団同士でいがみ合うような成り行きが助長されているわけで、いがみ合い争うことによって現状の行き詰まりを打破しようとしているのであり、対立を煽り立てることを原動力にして政治的な勝利を目指しているわけだ。実際にリベラルな政治勢力は世界各地で政治的な敗北を喫しているのだろうし、その流れは今後も続いてゆく気配なのかもしれないが、そうだとするとリベラリズムに普遍性などなく、時代に取り残された古い政治的な態度ということになるだろうか。たぶんそうであっても構わないのがリベラリズムであり、政治的な敗北と一体化した主張がリベラリズムなのかもしれないが、そもそも政治的な勝利を目指さないのがリベラリズムなのではないか。

 実際にアメリカの民主党でもイギリスの労働党でもドイツの社民党でもフランスの社会党などでも、選挙に勝利して政権の座に就くと途端に保守主義と区別がつかなくなってしまうわけで、それは極端な話、中国やベトナムの共産党政権でも同じことなのだろうが、政府が機能するには保守的な政治をやる以外にはあり得ないのかもしれない。その場合は国家から生じるアイデンティティに染まってしまうわけで、程度の差こそあるものの、それによって他の国との対立を生じさせてしまうわけで、もちろん連携する同盟諸国とともにその時代に応じた何らかの敵国と対立するわけで、21世紀に入ってからは国際テロ組織なども共通の敵として登場しているわけだが、またその一方でリベラル勢力に勝利を収めつつある保守勢力は、必ずしも対立を強烈に煽っているわけではなく、むしろ他国との経済的な結びつきを重視する意味で、決定的な対立に至るのを回避する傾向があるのではないか。というかどの国も決定的な勝利を得られない曖昧な現状に順応しているのかもしれず、もしかしたらそれは日本の現状にも当てはまるのかもしれず、日本の政権がいくら近隣諸国との対立を煽っても、それは表向きのポーズであり、煽られて見せかけの対立を演じている近隣諸国の方でも、日本の政権が自国の防衛以外には何もできないことを見透かしているわけで、虎の威を借る狐のごとく日米同盟の強固な結束を誇示してみせても、それも見せかけのポーズに過ぎないこともわかっていて、日本が対外的には援助金を世界中にばらまく以外は何もできないことは、もはやすっかり世界各国の共通認識となっているのではないか。しかも日本としてはそれで構わないのかもしれず、政治的には何もできないシステムとなっていて、ただそうなると行政機構の組織的な特性が顕在化してきて、国内の統治権限の強化を目指すような成り行きとなり、それは中国やロシアなどと同じようにメディア上の言論統制の強化が目立ってきて、実際に政府に批判的な意見を組織的に封じようとする成り行きにもなっているわけで、そのような行為が国家的なアイデンティティを保つ上でも役立つわけだから、そういう意味でも保守的な主義主張が現状に適合しているわけで、それと表裏一体となってリベラリズムの敗北を決定づけているのではないか。しかも必ずしも政治的な勝利を目指さないのがリベラリズムだとすれば、別にそれでも構わないわけで、勝利を目指さない限りで、これからも少数派としてのリベラル勢力は生き続けるのではないか。


9月28日「誇大な政治宣伝」

 政治に対してどんな政治的な役割を求めるにしても、それ以上の何があるわけでもないのだろうが、少なくとも政治的な役割を逸脱するような期待を抱くのはおかしいだろうし、政治宣伝がそれをはるかに超えるようなことを主張していようと、その大げさな宣伝は宣伝以上の何ものでもなく、実際に政治の場で行われていることは宣伝が誇大宣伝でしかないことを明かしているわけで、民衆がその誇大宣伝を額面通りに受け取ることはまずないのだろうが、それを批判する側は額面通りに受け取るよりもさらに大げさに受け取って、それが取り返しのつかない深刻な事態を招くと警告するわけで、そうなるともはや大幅にフィクションの領域へと批判の言説が踏み込んでいて、下手するとオカルト的な予言者の言葉と同レベルで受け取られてしまう恐れがあり、そういう意味で政治に対する強烈な批判は信用できなくなってしまうわけだが、実際に政治の場で行われていることは、矮小な贈収賄事件に至ったり、ゴシップ雑誌が取り上げるようなスキャンダルを招いたり、誇大な政治宣伝とはかけ離れたことが行われていて、また議会制度が未発達な国では国家元首とその一族が経済的な利権を独占していたり、世襲的な王政を敷いている国まであって、公私混同が当然のしきたりの中で政治が行われている場合もあるわけだが、結局政治が行なっていることとは何かといえば、行政機関が行なっていることへの公的な介入であり、そこで政治家が私的な利益を優先させれば公私混同となってしまうのだろうが、行政機関にとってみればそれはいらぬ口出しであり、行政執行の邪魔をしているだけのように受け取られてしまう場合もあるかもしれないが、政府と議会の与党が渾然一体化しているような場合は、それはもはや政府与党と呼ばれる一つの行政機関であり、政治的な行為を行う余地はないわけで、そうなると政治宣伝は宣伝のための宣伝となり、別にその宣伝内容が全て嘘だとはいえないだろうが、それを受け取る側もそれが宣伝であることは百も承知しているだろうし、その宣伝に対する批判がどんなに的を射ていようと、宣伝とはそういうものだという先入観ができあがっている限りで、その批判には何の有効性もないこととなってしまうのではないか。

 だからと言って政治批判の全てが無効であるわけでもないだろうが、行政機関というのは徴税や治安維持などのように、民衆に対する権力の行使を伴うものだから、放っておけば組織の特性として統治権限の強化を目指して機構そのものが肥大化していってしまうわけで、その肥大化に歯止めをかけるのが本来の政治の役目であり、だからと言って新自由主義者のように無理に小さな政府を目指す必要はなく、民衆が希望するような行政サービスが行える程度の規模が保たれていればいいわけだろうが、それも徴税や公債などで賄える予算の範囲内でしか行えないわけで、そうなるとその国の経済規模や人口などから伺える国力に見合ったものとなるしかないだろうし、いくら何でもやるような誇大宣伝をしたところで、実際にできることは限られてくるわけだ。そんなふうに考えていくと、将来戦争などの未曾有の災害をもたらすような危険性とは無縁の領域で、政治ができることについて考えてゆかなければならないところなのだろうが、何かそれ以前のところで戦争への危機を煽ってみたり、政府や議会与党に批判的な意見に対して言論統制が行われるかのようなおかしな事態を招いている現状があるわけで、たぶんそこに何らかの矛盾や不具合があるわけだが、そうしなければならない事情が生じていることは確かなのだろうし、政府や議会与党に与するメディアや産業界も含めて、自分たちが守っているつもりの体制を今後とも維持し続けたいことも確かなのだろうから、それはそれでそういうものだと捉えておくしかないだろうか。だがそういうやり方を擁護する人たちも批判する人たちも、何か懸命に危機意識に囚われようとしていて、そこで大げさな対決の図式を構成しようとするきらいがあり、そんな対立の構図に巻き込まれてしまうと、別に本来なら対決する必要ない人や勢力まで対決しているような錯覚にとらわれてしまうのかもしれず、少々のことで安易に対決姿勢を鮮明化するのは得策でない場合もあるのかもしれないし、そういう意味でも政治の役割をあまり大げさに考えない方がいいのかもしれないのだが、たぶん選挙がある以上は当選することが死活問題となるわけだろうから、たとえそれが偽りの対立と見られようと、対立しないわけにはいかないのだろうし、そうであるなら民衆の方が冷静に事態を受け止めておく必要があるのかもしれない。


9月27日「社会情勢の変化」

 商品の売買においては確かに安く買って高く売ることでその差額分の利益が得られるわけだが、まずはその商品が生産されなければならない前提があるわけで、その生産活動の中で機械設備が重要な役割を果たしていて、それなしではほとんど商品が世界規模で生産も流通もできないだろうし、そんな当たり前のことはあえていうまでもないわけだが、労働を伴うようなサービスも含めて商品が生産されている現実が商品の売買を可能としていると同時に、実際に商品が流通して売買されて消費されている現実が商品の生産を可能としているわけで、結局は商品が生産されて流通して売買されて消費されている現実が資本主義的な経済活動を可能としていることになるわけだ。だがそんなふうに述べてしまうと循環論となってしまい、原因が結果であり結果が原因でもあるようなまやかしの論理しか導き出せないわけだが、売買によって利益が得られたとしても、その利益は投資に回されるか消費に回されるかのどちらかしか使い道はないわけで、どちらにしても資本主義的な経済活動に貢献することになるのではないか。ただ利益を蓄積するのに要する時間が必要であり、また商品の生産にも流通にも消費にも時間が必要であり、それらの時間と活動するのに要する労力を短縮するのに必要なのが機械設備であり、それらの時間や労力の短縮や節約によって利益を得られる場合があるわけだが、そうやって得られた利益が長時間かかって手間暇をかけて製造された高額な商品を買うのに使われる場合もあるわけで、そしてそんな高額な商品を買うことができるのは、ある程度資金の蓄積のある少数の人たちに限られてくるわけで、そんなふうにして人々の間で経済格差が生じるのも、同種の商品であっても廉価なものと高価なものと間で格差が生じるのも資本主義的な経済活動の結果なのだろうが、そんなふうにして資本主義的な経済活動によって生じている現実の中で、人と人との間にも商品と商品の間にも格差が生じていて、そんな格差に応じた社会が形成されているとすれば、その社会の中で暮らしている人々はそこで生じている格差を当然の前提として受け入れているのかもしれない。

 もちろんそこで生じている格差は近代社会以前の身分社会のように固定されているわけではなく、個人の努力や運次第で経済的に豊かになれる可能性はあるわけで、実際にそうなった少数の人たちがメディア上で話題となることもあるだろうし、そうなった人たちに憧れてそうなることを目指す人たちも少なからずいるわけで、またそういう人たちがいる限りで経済的に豊かになるための資本主義的な経済活動の正当性も社会の中で認められているだろうし、結果的にそうならない人が大多数を占めているとしても、そんな人たちも含めてほとんどの人たちが資本主義的な経済活動の中で生活の糧を得て暮らしているわけだから、少なくともそこで暮らしている誰もがそんな現実を受け入れているわけで、そんな前提の上に社会が形成されているわけだ。たぶんそんな社会を人の意志で変えられるわけはないだろうし、現状を受け入れている人たちが変えようなどとは思わないのは当然のことだろうが、変わる可能性がないとは言えないだろうし、絶対に変わらないとは言えないが、少なくとも個人の意志の力でどうこうできるようなことではないのは確かであり、集団による働きかけでどうなるものでもないのかもしれない。ただそのような社会が機械設備とそれを活用した有形無形の制度やシステムから成り立っていることも確かであり、社会の主流をなす機械技術の形態が変われば社会そのものも変わるだろうし、その方向性や傾向に応じた変化となることは確かかもしれず、機械の活用が経済活動に伴って生じる労力の短縮や節約を目指しているとすれば、そういう方向で社会が変化し続けていることになるわけで、もちろん一方的にたゆみなく変化しているわけではなく、様々な紆余曲折を経ていることも確実で、そのような成り行きで変化しているとすれば、それに伴って社会の変化にもそれなりの紆余曲折が生じているわけで、その過程の途中で現状が形成されているのだろうが、一方で労力の短縮や節約にもそれなりに限界があるとすれば、そういう方向での変化にも限界があって、そうであるならそういう方向とは別の方向への変化も起こるのかもしれず、実際にそんな変化も起こりつつあるのかもしれないが、現状でそんな変化の限界に直面しているからこそ、社会の中で不安や動揺が生じていて、そんな情勢を背景として従来からある方向から離脱するようなわずかな差異にも目くじらをたて、執拗に不寛容を煽り立てる勢力が跳梁跋扈するような成り行きとなっているのかもしれない。


9月26日「過度を避ける対応」

 人が個人でも集団でも活動する上で功利的な動作以外には何が必要だろうか。たぶんそれはバランス感覚で、無理に利益を求めない感覚なのかもしれないが、それがわかりにくいところだろうし、そんなことはできない状況の中で生きている人も大勢いるだろうし、人によってはそんな生ぬるい感覚の持ち主を出し抜いて利益を追求して成功する人もいるのではないか。だからそれは時と場合によっては否定されるべき中途半端な感覚だろうし、それだけでは何の利益ももたらさないような無意味な感覚なのかもしれない。それに単にバランス感覚といっても、何と何のバランスをとるのかよくわからないし、具体的に何をどうしろとも指示されていなければ、やることがわからなくなって途方に暮れてしまうだろうか。そんなわけで何でもないことなのかもしれないが、その何でもないことが何でもないことだけに、行き過ぎた行為の歯止めになるのかもしれず、具体的にはやりすぎなことをやっている人や集団に対して嫌悪感や不快感を抱かせるのではないか。やりすぎなことをやっている人や集団にはそんな自覚などなく、実際にやりすぎた行為によって利益を得ている場合は、自らそれをやめることなどできないだろうし、やっていることに歯止めがかからないわけだが、そういう行為に対して周りが嫌悪感や不快感を示すことが重要だろうし、そうしないとやっている当人たちは気づかないだろうし、そんな時に周りの人間が嫌悪感や不快感を示せば、少なくとも自分たちが周りから嫌われるようなことをやっているという自覚が芽生えるのではないか。そのような周囲からの心理的な圧力が、やりすぎた行為の歯止めにはなる可能性はあるだろうし、もちろん中には嫌われるのを承知でやっている場合もあるわけで、そんな周りからの同調圧力をはねのけてやりたい行為を貫くことに快感や達成感を覚える人たちもいるわけだから、そんな場合は大した効果もなく、無駄に思われてしまうかもしれないが、ともかく他人のやっていることが不快に思われたら、不快だという意思表示をしておく勇気は持つべきだろうし、もちろんそんなことをやって目をつけられて攻撃されたら、さらに嫌な思いをするかもしれないし、それも程度の問題でしかないのかもしれないが、できる範囲内で不快な行為には何らかの形で抗議しないと、いつまでたっても不快感を味わうしかないのではないか。

 バランス感覚とは行為の相互作用から生じるものだろうし、その場の状況に応じて程度や強度が違ってくるわけで、その場に作用を及ぼしてくる相手との駆け引きそのものがバランス感覚から生じて、その場の状況が破綻しないように力の加減を調整したりする配慮なのだろうし、場合によっては不利益を被ることも厭わずに、バランス感覚を保ちながらその場を丸く収めなければならない場合も生じてくるのではないか。丸く収まらない場合は対立や紛争が起きるわけだが、起きてしまってからでも対処しなければならないのだろうし、対立しているどちらか一方につくような愚は避けたいところで、それも功利的にどちらにつく方が利益になるかなんて考えてしまうと、あとで手痛いしっぺ返しを食らう危険性も出てくるだろうし、そこでもバランス感覚が重要となってくるだろうし、別にどう見ても非難されるようなことをやっている側の味方になることはないのはもちろんのこと、そのような勢力を懲らしめる側の味方になることも、場合によっては避けなければならないのかもしれず、あまりにも一方に肩入れしすぎると、どちらにも肩入れしていない第三者から疑いの目で見られてしまうわけで、結局対立や紛争につけ込んで漁夫の利を得ようとしているのではないかと疑われてしまうわけだ。実際にそうやって利益を得てしまうと、懲らしめられた側から逆恨みされてしまう危険性も出てくるわけで、それを避けるにはむしろ懲らしめる側からどっちつかずの優柔不断な態度を責められるくらいがちょうどいいわけで、下手に漁夫の利を得て恨みを買うよりは、対立や紛争からは利益など求めずに、逆にある程度は被害を被ってしまうぐらいが妥当なのではないか。要するに必要以上にはうまく立ち回らずに、分をわきまえた行動や言動に徹する方が、周りからは好印象を得られるだろうし、場合によっては自らの犠牲を顧みずに懲らしめられている側を助けるような行為も必要となってくるのかもしれず、そのことで懲らしめる側からの非難も甘んじて受けるようでないと、その場を丸く収めることができない場合さえありそうで、そうなると一方から全面的な信用や信頼を得るよりは、双方から頼りないと思われるぐらいがちょうどいい場合もあるわけで、何事も型にはまった固定観念だけでは済まなくなり、結局はその場その時の状況に応じた対応が必要となってくるのであり、そしてそんな対応ではうまくいかなくても、うまくいかないなりに活動が継続されている限りで、とりあえず破局的な事態になるのは避けられるのではないか。


9月25日「行政的な手法」

 産業の振興を促す意図で行政の場で行われる手法として、振興したい産業に対する補助金の交付や、税の減免措置などがあるだろうが、さらに産業の振興を阻害する可能性のある競合する他の産業に対して課税の強化や、外国から流入する競合製品に対して関税を高くする場合もあるだろうし、確かにそれによって成長する産業もあるのだろうが、それも産業自体に成長する要素がないと、酪農のように補助金漬けになるだけで、補助金なしでは成り立たない零細業者の延命に湯水のごとく無駄な補助金が使われるような場合もあるわけで、一概にそのような手法がうまくいくわけではなく、また原発を設置した自治体に多額の交付金を出すような場合も、交付金を活用して住民に住みやすい街づくりを目指しても、万が一取り返しのつかないような事故が起こった時には自治体そのものが消滅してしまうわけだから、そのような政治と連動した行政的な手法にも、それによってもたらされる金銭的な恩恵とともに何らかの危険や弊害がついて回る可能性があるわけだ。結局それも民間で行われる投資と同じで、うまくいく場合とうまくいかずに失敗する場合とがあるわけだから、確実にうまくいくとは限らないわけで、かつて毛沢東が無謀な大躍進政策によって数千万人の餓死者を出したような荒っぽいやり方とは無縁かもしれないが、産業上で競合する各国ともに同じようなことをやっているだけに、国家間の経済競争に発展すれば自国だけが特別にうまくいくわけではなく、うまくいくにしても相対的な成功にとどまるだろうし、それによって特定の産業が発展すれば、競合する別の産業が衰退することになるかもしれないし、またそれに連動して発展して欲しくない産業が発展する場合もあるのかもしれず、例えば電気自動車が主流になると、その電気需要を賄うために原発が増設される場合もあるかもしれないし、カリフォルニア州のように風力や太陽光などの自然エネルギーを推進する場合もあるわけだが、日本などのように原発利権が政治的な主要勢力と結びついていると、それが原発の増設の口実に使われる可能性もあるわけで、そういう意味でも行政的な手法がどんな結果を招くかは、各国の国内の政治情勢や産業分野の構成にもかかってくるのではないか。そして国内でどのような政治勢力が優勢になるかは、議会制民主主義のような政治制度が機能している国では、選挙などを通して国民の判断に任されていることにはなっているのだろうが、そのような制度を管理している行政の意向やそれに与するメディアの報道姿勢も強く作用してくるわけで、国民の世論もそのような勢力に誘導されてしまう場合があるわけで、選挙結果もそのような作用を被ってしまうわけだ。

 ともかくどんな結果が待ち受けていようと、そこで暮らしている人々にできることは、結果を受け入れようと拒否しようと、政治的な選択の機会を活かすことだろうし、もちろんそれはやろうとしてもできないことでもあるのだろうが、果たして選択することができるのかもわからないわけで、選挙で特定の政治勢力を支持して投票したとしても、それが行政の意向やメディアによる世論操作を受け入れた上での行為なら、自発的に選択したつもりでも実際にはそれらの作用によって選択させられてしまったことになるわけだから、実質的にはそれが自らの意志で選択したと言えるかどうかも怪しく思われてくるのではないか。しかもそれでも構わないことは確かなのだろうから、個人の意志など所詮はその程度のものでしかないと言ってしまえばその通りで、そのような水準で事の善悪を判断するのは意味のないことかもしれず、政治的にも行政的にも産業的にも結果的にうまくいく程度に応じて、そのような状況下で暮らす人々の状態や程度も決まってくるわけで、それで不満ならその不満が選挙での投票行為に結びつく場合もあるだろうし、不満があってもメディアの世論誘導にうまく乗せられて現状維持に落ち着く場合もあるだろうし、不満を抱きながらもそれを投票行為に結びつけられないようなシステムが構築されているとしたら、そんな自覚もなくそのようなシステムに従っているだけとなってしまうのではないか。そしてそれを特定の誰が制御しているわけでもないだろうし、行政機構の集団意志が作用しているとしても意図して制御しているわけでもなく、世論誘導しているように思われるメディアにしても、あからさまに誰かの指示に従っているわけでもないだろうし、実際にそんな指示を出している人物がいようと、その人物も何らかの集団意志に従っているだけかもしれないし、責任の所在をはっきりさせて攻撃目標を定めて攻撃している対象があるとしても、そのような水準では確かにそうかもしれないが、その攻撃対象が何かのきっかけから失脚することがあるかもしれないが、それと同じような攻撃対象など次から次へと現れてくるだろうし、そういう意味では絶えず闘争を継続させなければならないのかもしれないし、闘争している自覚もないままなのかもしれないし、そんなことをやっているうちに時代も状況も変わって、またそれとは別の方面からとりとめのない障害や弊害が行く手に立ちふさがってくるかもしれないが、そうであるからあまり楽観的にはなれないのと同時に、そうであるからこそかえって気楽な気分にはなれるのかもしれず、どのような未来がやってこようと、そこで人が暮らしている限りで、政治も行政も産業もそんな人々が暮らしている社会に何らかの影響や作用を及ぼしてくるのであり、そうである限りにおいて成り立つようなものなのではないか。


9月24日「世論への不快感」

 政治的な行為には象徴的な意味合いがあり、特に何をやっているわけではなくても、世論の支持を背景としてそれらしいこと発言して、民衆の代弁者のように振る舞うのが政治家であり、それが議会の議員や行政を代表する役職にふさわしく思われていれば、それなりに役割を全うできるのだろうし、そのような地位や役職に就いてしまえば大抵はそうなってしまうわけだが、そのような人をメディア的に盛り上げたり貶したりする成り行きの中では、誰がその対象であっても構わないのだろうし、議会の与党だとか野党だとかいう分類分けの中で、盛り上げる対象と貶す対象とが選ばれて、その標的となった人に対して毎度お馴染みの擁護や攻撃の言葉が用意されていて、その人に関連して何かメディア的に興味を引くような出来事が起こる度に、擁護や攻撃が繰り返されるわけで、それは職業としての政治的な行為にとどまらず、私生活上の問題である方がワイドショー的には盛り上がるわけで、攻撃を仕掛ける側もそういう方面で叩く方が世間的な信用を失わせるには有効であることを心得ているのではないか。そしてそのような問題でメディア的に盛り上げようとする意図が見え見えであるときには、別の政治活動に伴う本質的な問題を隠そうとする意図が現れていることが多いのかもしれないが、その隠そうとする本質的な問題といえども政治的にはどうすることもできない問題である場合が多いのかもしれず、それは意図的に攻撃を仕掛けている側が抱え込んでいる問題でもあるだろうし、そのような仕掛けに乗せられて動いてしまう世論の問題でもあるのではないか。要するに彼らは何が政治的な問題なのかについて明快な答えを持ち合わせていないのであり、そうである限りにおいて何を優先すべきかについてもよくわかっていないのではないか。というかある意味ではよくわかっているのかもしれず、要するに単純明快なことを言えばいいのであり、そんなことを言ったからといって何が解決するわけでもないのだろうが、とりあえず単純明快なことを繰り返し述べて、それ以上は言わないことが肝心なのであって、その単純明快さの中にとどまっていれば世論の支持を得られるような仕組みを、彼らを支持するマス・メディアが作り上げてくれるわけだ。

 それはそのようなことを仕掛けるメディアとそれに乗せられてしまう世論の問題ではあるのだろうが、一方でそれは何を意味する問題でもなく、ただの煽動行為でしかないといってしまえばそれで終わってしまうような問題なのだが、終わってしまってはまずいのだろうし、終わらないように繰り返し煽動し続けるのだろうが、そうなってしまった時点で世の中の仕組みをどうこうするような政治的な議論とは無関係となってしまっているのであり、そういう議論の水準にとどまれないからこそ、煽動して騒ぎながら何もかもうやむやにしてしまうしかないのであり、その代わりにうやむやにできないのは攻撃対象となっている人の責任問題であったり、その世間的な信用の問題であったりするわけで、もはやそれは論理のすり替えという水準でもなく、そのようなシステムとして動作している実態があるわけで、単純明快に敵を非難し言動的に攻撃を加えていれば、それ以外のことは過ぎ去ってしまうわけだが、果たしてそれでも政治に幻想を抱けるのだろうか。それは制度的に民衆が政治に対して幻想を抱くこととは別次元で起こっていることなのかもしれず、メディアの扇動に乗せられて世論が動くことが短期的な政治情勢の変化を示しているのに対して、制度的な政治への幻想は長期的な建前のようなもので、建前としては政治が世の中を良い方向に導いてくれるのではないかと期待しながらも、メディアの扇動には敏感に反応して攻撃対象となっている政治家には嫌悪感を示すわけで、それが世論調査や選挙結果に反映するとすれば、建前としての政治への幻想に何の意味があるわけでもないことにもなりそうだが、それでも何かにつけ扇動するメディアへの信頼と現状の政治への肯定的な幻想が重なっているわけだから、その状態はメディアが作り上げている世論操作的なシステムが揺るぎなく機能していることを示していることになるのではないか。そしてそれが世の中の不快な安定をもたらしていると言えるだろうか。それを不快だと思ってしまう人にとっては確かに多くの人々が意志の自由を奪われているようで不快だろうが、システムに従っている自覚のない人々にはそれほど不快だとは思われないだろうし、かえってあからさまに逆らうような言動をする少数の人たちの存在が目障りに感じられるだろうし、そちらの方が不快に感じられるのではないか。


9月23日「政治の限界」

 世の中では様々なシステムが競合関係にある一方で、システム間の連携も模索されていて、実際にうまくかみ合えば複数のシステムが統合されて、一つのシステムとして動作する場合もあるのだろうが、その中でも絶えず様々な作用から生じる偶然の巡り合わせによる撹乱も起こっていて、その影響でシステム自体も変形を被り、当初からあった目的も変わる可能性まであるだろうし、恒常的に一定の動作が保たれるわけではないのだろうが、そうであるとしてもシステムは相変わらず一定の動作を目指す限りでシステムと言えるだろうし、そこで扱われる人や物や情報を一定の方向へと導く仕組みとして設計されていることは確かで、それに関わる人もシステムが導く一定の方向に同調することで、システムの動作がもたらす恩恵にあずかれるわけで、それで万事がうまくいくなら困らないわけだが、実際はそうではなく、システムの動作は絶えず恩恵とともに弊害ももたらすわけで、弊害がもたらされるからシステムに逆らう人が出現するわけで、また誰もがシステムの動作に同調できるわけでもなく、システムが目指す方向とは違う方向へ行ってしまう人もいるわけで、そんなわけで必ずしも一つのシステムが社会全体を覆っているわけでもなく、そこで複数のシステムが競合関係にあるとしても、各システム間で摩擦や軋轢が生じているとともに、互いに目指す方向が違っている場合があり、全てのシステムを統合できるわけではなく、目的が一つの方向へと向かっているわけでもなく、それを統合する必要も同じ方向へとまとめる必要もないわけで、確かにある水準においては資本主義経済を動作させているシステムが優勢なわけだが、そこには金融システムや生産システムや流通システムや消費システムなどがかみ合っている面もあるが、部分的には噛み合わずにずれている面もあるだろうし、中には消費などのようにシステムのていをなしていない部分もあるだろうし、またそれらのシステムを支えるために保険システムがつながっていることが確かだが、保険は保険で金融システムとの間に補完関係があって、それが場合によっては金融恐慌の時のように保険システムを危うくする要素も持っていて、さらにそれらすべてを制御するために政治システムがあるわけだろうが、その制御がうまく行ったためしはないだろうし、ただの気休め程度にしかならない場合の方が多いわけだが、いつの時代でも人々は制度的に政治に幻想を抱かざるを得ないわけで、政治によって世の中が変わるのではないかと期待しながらも、その期待はいつも打ち砕かれてしまうが、それでも制度的には政治に幻想を抱いてしまうように仕向けられているのではないか。

 メディアが政治に対して幻想を抱くように仕向けていることは確かだろうし、またそのメディアを通して政治批判を行なっている人も大勢いるわけだが、メディアの中でも様々なメディアが競合関係にあって、必ずしもその中でどのメディアが主導権を握っているわけでもなく、政治批判にも様々な方向性があるだろうし、その対象にも様々なものがあるのだろうが、そこで少なくとも言えることは、メディアが直接政治を動かしているわけではないだろうし、さらに政治が世の中のシステムを直接制御しているわけでもないということだ。メディアも政治も世の中のシステムも、その間には何らかの連携関係や競合関係があるのだろうが、それは常に間接的な関係だろうし、また世の中のシステムといっても、それはあくまでも様々なシステムであり、それをシステムの集合体と捉えても、それぞれが直接繋がっているものもあれば間接的な関係もあるだろうし、中には全くの無関係な場合もあるのではないか。それらすべてが互いに何らかの影響や作用を及ぼしあっているにしても、その影響や作用を及ぼす程度にも強弱があるだろうし、それらを一概に一括りにして判断したり評価したりはできないだろうし、その中で個々の事例に関して政治的に取り上げるにしても、それは外部から作用を及ぼせるだけで、結局は何らかの法律を制定して規制したりあるいはその規制を緩和するようなことしかできないわけで、政治システムではそのようなことしかできないのであり、政治がそれ以上のことをやろうとすれば強制的な執行にしかならず、それは強権的な支配を意味するわけで、そんなことをすれば世の中の硬直化を招くだけで、人々の活動の自由を制限する方向にしか行かないわけだ。そういう意味で政治力には限界があると言えるだろうし、ある一定の方向にしか働かない性質があるのではないか。だから他方向にわたる世の中の様々なシステムをすべて制御することはできないわけだが、政治ができることといえばそれらを規制したり管理したりして、制約を課すということであり、しかも制約を課しすぎるとシステムの活動が停滞して、そうなると人も物も情報も滞って社会そのものの活力が衰えてしまうわけで、それでは人々が期待していることとは真逆の結果となってしまうわけだ。要するにシステムの動作が何らかの弊害をもたらしてしまうとしても、政治がそのシステムに制約を課してしまうと、確かにそれによってシステムの動作が滞って、弊害を減じることができるかもしれないが、それと同時にシステムが弊害とともにもたらしていた恩恵も減ってしまうのであり、人々が期待していたのは弊害を減らして恩恵を増やすことかもしれないが、システム自体がそんな都合のいい構造にはなっていないわけで、しかも政治システムにもそのようなことができる機能はないのではないか。


9月22日「システムの罠」

 物質的な形態を伴う一般的な貨幣である紙幣や硬貨は、いったん生産されてしまえばそれを作り出す機械とは切り離されて存在できるが、銀行口座上に存在する数値情報としての資金は、それを記憶して記録している機械とは切り離し得ず、それを表示するにも通帳などに印刷するにも紙幣や硬貨を出し入れするにもATMなどの機械が欠かせず、数値情報としての資金はそれを取り扱う電子機器という物と結びついていて、それらの情報を取り扱う機械設備とともに存在しているわけで、そのようなシステムを維持運営するだけでも莫大な設備投資と管理費用がかかっているのだろうし、それを利用している人には便利で効率的に思われるが、それは表面上の話であり、その便利さや効率性を実現させるために膨大な量の資源と労力が費やされていて、それを製造したり建設したりメンテナンスを行う側には、便利さや効率性とはかけ離れた複雑怪奇な作業が伴うのだろうし、利用者に便利さや効率性をもたらす技術的な配慮がシステムや設備の複雑さや大規模化に転化されていて、それを利用者が実感できないような仕組みとなっているわけだから、そうなっている時点ですでに一般的な利用者はその種の技術をもたらしている知識から疎外されているわけで、利用者はただ利用するだけの存在となってしまい、システムを制御することはできなくなっているわけだ。もちろんそのようなシステムの全体を制御している者などいないわけだが、ただ部分的に役割分担されている範囲内で決められた手続きに則って操作している担当者はいるわけだが、そのような担当者がシステムの全体を制御することはできないだろうし、またシステムを維持管理している組織のトップに立っている人が制御しているわけでもなく、役割分担されている範囲内であれこれと指示を出しているだけではないのか。そういう意味で利用者も管理者もそれぞれに異なる水準でシステムに関与しているわけで、互いに部分的にしかシステムの動作を把握していないだろうし、関与している部分も異なり、双方ともにそこで動作しているシステムに組み込まれているとも言えるわけだが、そのシステムが彼らにもたらしているのが、彼らが実感していることだけをもたらしているわけではないだろうし、システム自体が彼らを操作して彼らの感覚をシステムにとって都合の良い固定観念へと導いている面があるのかもしれず、それがシステムを維持するのに都合の良い人間へと、システム自体がその利用者と管理者を作り変えるような動作を伴っているのではないか。

 要するにシステムを利用することによっても管理することによっても、利用者も管理者もシステムに逆らえないように作り変えられてしまうのかもしれず、両者ともにシステムに組み込まれることによって、いやでもそこにもたらされている環境に順応しないと生きてゆけないようにされてしまっているのではないか。それはシステムによってもたらされる本質的な効果であり、利用者はシステムがもたらす便利さや快適さと引き換えにして、システムによって馴致されてしまっているのだろうし、管理者はそこで駆動している機械の歯車のようにシステムと一体化して、システムを動かし続けることがその使命となってしまうわけだ。そして両者ともにシステムが動いている限りで生きて行けるわけで、彼らにはシステムを止める権限など委任されていないだろうし、止まってしまっては困ってしまうわけだから、いやでも動かし続けなければならず、いやでも利用し続けなければならないわけで、それをやめることは死を意味するというのは大げさすぎるかもしれないが、いったんシステムに順応してしまった時点でやめられない事情が生じてしまったことは確かだ。しかもシステム自体が時代の変遷とともに徐々にあるいは場合よっては劇的に変化することもありうるわけで、システムに順応しすぎてしまうと変化に対応できなくなる可能性も出てくるのかもしれず、その利用者も管理者も変化したシステムに見捨てられてしまう事態もないとも限らないわけで、結局システム自体がその利用者と管理者をシステムに順応させようとする作用を及ぼしながらも、何かのきっかけでシステム自体が変わってしまえば、その利用者も管理者も変化したシステムに対応しなければならないわけだから、いったんそこに何らかのシステムが確立されてしまうと、その利用者も管理者も絶えずシステムへの従属を強いられて、主導権を握れなくなってしまうのであり、システムの方がそれへの馴致作用によって、そんなことには無自覚になるように作用を及ぼしてくるわけだから、そんなシステムに対して好意的になるしても批判的になるにしても、すでにシステムありきの前提を突き崩せなくなっているわけで、どうあがいてもシステムの呪縛から逃れられないのだろうし、システムの裏をかいて何かやるような発想には至らないのではないか。そしてそのような成り行きの中でどうすればいいのかを考えるよりは、システムへの順応に失敗してしまうことを恐れないことが肝要なのかもしれず、なぜか知らないが失敗してしまう成り行きを活かそうとしなければならないのかもしれない。


9月21日「仮想通貨の信用度」

 単なる情報ではなく物自体に価値があるとして取り扱われている物の代表は貴金属の金だろうか。プラチナは金より希少な鉱物だからさらに価値が高いだろうが、古くから財産として蓄えられてきたのは金だろうし、特別な貨幣として金貨が鋳造されているし、金貨は金の含有量で価値が決まるわけだから、金の量がそのまま価値の尺度として広く世の中で通用していたわけだろうが、現代では市場で取引される金の価格も変動するし、相変わらず確実な資産価値はあるものの、絶対的な価値の尺度ではなくなっているのではないか。というか世の中に絶対的な価値の尺度はなく、場合によっては金の方が他の通貨より確実な資産価値がある時もあるわけで、それも金の産出量がプラチナなどと同様に銀や銅などの他の鉱物と比べて極端に少ないからであり、今後世界のどこかで大量の金が見つかれば、途端にその価格も暴落してしまうのだろうが、そうならない限りは現状の金を尊ぶ文化的な伝統が続いている間は金の資産価値がなくなることはなさそうに思われるが、金自体はただの金属に過ぎないわけで、金がなくても人が生きてゆけないわけではなく、工業的に活用される金属資源や宝飾品の材料としての需要だけなら、他の金属資源や宝石の類いと比較して相対的な価値があるということであり、別に金だけに特別な価値があるわけではないことになるわけだが、ただもはやほとんど使われることはないにしても、金貨という貨幣形態がある種の先入観を抱かせるのだろうし、今でも記念硬貨として少量鋳造され続けられているし、金と貨幣との繋がりは否定できず、工業用や宝飾品としてだけではなく、金貨や延べ棒として貯め込んでおくための需要がなくなることはなさそうだ。そしてそんな資産として保管しておく貴金属の価値は、貨幣を貯め込むことと同じ価値を持つわけだが、貴金属は実際に物がなければ価値がないのとは対照的に、貨幣の方は紙幣や硬貨がなくても銀行の口座残高のように数値的な情報だけで構わないわけで、そういう意味ですでに仮想通貨の性質を持ち合わせているわけだ。それでも各国の中央銀行は金庫に金の延べ棒を大量に保管しているわけなのだろうが、それは発行している通貨の総額を賄いきれる量ではないだろうし、すでに金と通貨との兌換は不可能となっているわけだが、だからといって金の準備をやめるわけにはいかないのだろうし、ある程度はそれが通貨の信用をもたらしているわけだ。

 そんなわけで仮想通貨と通常の通貨との違いは、通貨価値の裏付けとなる金の量をどれほど準備しているかということになるわけだろうが、何も通貨価値の裏付けとなっているのは貴金属の金の保管量だけではなく、通貨を発行している国の国力そのものが物を言うのだろうし、その国の経済力だけではなく軍事力もある程度は物を言うわけだろうし、結局は通貨の純粋な機能だけではその価値を担えない実態があるわけで、それが仮想通貨の弱みなのかもしれないが、仮想通貨も実際に流通している実態がある範囲内では社会的な信用を得ることができるのかもしれず、その通貨を使って商品の売買が行われている限りでは通用していることになるわけだろうが、今のところは通常の通貨との交換レートは明らかになっていて、実際に通常の通貨と交換されている実態があるのだろうが、商品を介した売買に使われている実態がよくわかっていないのかもしれないし、そういう面で詐欺ではないかという疑念を払拭できていないのではないか。そして通貨の本来の機能とは商品の売買に使われることだろうし、利殖目的の運用は副次的な機能だったはずだが、通貨自体が商品としても機能するから、安く買って高く売って通貨自体を増やす目的に使われる面が出てくるわけで、結局仮想通貨も今のところは本来の商品の売買を仲介する機能ではなく、利殖目的で使われている面ばかりが強調されているわけだから、それは本末転倒な使用法であり、詐欺ではないかと疑われるのも無理はないわけだ。だがそうだとしてもそのような用途での使用が限定される性質のものであって、そういう用途で広く世の中に普及すればそういうものだという先入観が出来上がるわけで、金が工業用や宝飾品としての使用以外に貨幣として価値を担ってきたように、仮想通貨も商品の売買に使われるというよりは、他の通貨と交換されて利益を生み出す利殖目的専用の通貨として価値を見出すような使用法が確立される可能性がないとは言えないだろうし、実際にそうなるかどうかは今後の普及次第なのだろうが、そうであるなら利殖目的とは縁のない一般の人々にとっては縁のない通貨となるだろうし、ともかく実際に商品の売買に使われない限りは広く世界的に流通する通貨とはならないだろうし、通常の通貨がそれを発行している国家と強い結びつきがあることから生じる信用を得られるわけでもないのではないか。そういう意味で通常の通貨は単なる商品の売買に使われる以外で、発行している国家やその国家が保管している金の準備量という物と結びついていることで社会的な信用を得ていることは明らかだろう。


9月20日「社会の自由度と契約関係」

 人の社会的な信用が集団への帰属意識に結びついていると、保険をかける意味でも、いざという時に助けてくれることを期待して集団への忠誠を誓うことになり、集団の方でも構成員の忠誠度に応じて人を信用することになるだろうか。帰属している集団への忠誠心が厚い人ほど集団の中では信用され、その信用がその人への信頼に転化するとその人に対する人望も生まれ、何かの時に周囲が助けてくれそうな雰囲気にもなりそうだが、一方で集団にとってはそういう人ほど利用価値が高く、簡単には逆らわないのをいいことに、次第に無理難題を押し付けるようにもなってしまうのかもしれず、そういう意味で悲惨な目に遭う危険性が高いのも、集団の意向に盲従する人々だろうし、実際にそうなると集団への忠誠心は保険の役目を果たさないことになってしまうだろうが、そうであるなら個人と集団との関係は、駆け引きの関係となることが多いだろうし、ギブアントテイクやウィンウィンの関係を保っている限りで、そこには信頼関係が生まれ、お互いに信用し合うことになるのだろうが、一度どちらかが相手に無理強いをしたり信頼を裏切るようなことをやれば、途端に猜疑心が芽生えてきて、何かのきっかけで破局的な成り行きになることも多いのではないか。それが集団との関係でなくても人間関係はそうなることが多いのかもしれないが、そんなわかりにくい駆け引きを嫌う人は、はっきりした金銭を介した契約関係を好むのかもしれず、ちゃんと文章として契約条項が示されていれば、契約はそれ以上でも以下でもなくなって、契約以外のことに関しては無関係となるわけだろうが、もちろんそこでも双方の間で駆け引きがあるわけで、いかに自分の側に有利な契約を結ぶかを巡って、法律の専門家などを交えて交渉の場が持たれるような場合もでてくるだろうし、またいったん契約を結んでからも、絶えずちゃんと契約が守られているか確かめなければならず、そこでどちらかに契約違反が発覚したら、場合によっては訴訟沙汰に発展することもあるだろうし、人や集団との間で結ばれるどのような関係であっても、駆け引きの要素を排除することはできないわけだ。そしてそれが保険契約であろうと雇用契約であろうと保障契約であろうと、関係しているどちらかが有利になったり不利になったりする限りで、そこには何らかの権力関係が生じることになるだろうし、お互いが納得して契約を結ぶとしても、双方にとって平等な契約というのはあまりないのではないか。

 人と人との関係は結局ひどいことをされても相手を許す心の余裕がないと、ドラスティックな関係とならざるを得ないだろうし、もちろん心の余裕など生じ得ない状況というのもあるだろうし、その場その時で状況に応じて猜疑や憎悪の念を押しとどめられる余裕が生じるか否かで、関係の強度や柔軟性にも程度の差が生じてくるのではないか。また関係を結ぶに当たってその切実さにも認識や感覚の違いがでてくるだろうし、簡単に壊れても構わないような関係なら気楽になれるし、それが死活問題に至るような関係ならできるだけ慎重に事を運ぼうとするだろうし、それが自分にとってどの程度の重要性を帯びているかを判断する上で、なかなかそれを適切に評価することはできない場合もあるわけで、しばしばどうでもいいようなことに執拗にこだわったばかりに、肝心な時に判断ミスを犯してみすみすうまくいく機会を逃してしまうようなことがあるとすれば、そこで自分を取り巻いている様々な関係を的確に把握できていないことにもなるだろうし、そういう時にその人がそれまで生きてきた経験が勘となって働けばうまくいくようなこともあるわけで、また偶然の巡り合わせに助けられて運が開けたりもする場合もあるのだろうが、そこに作用する何がうまく働いて何が障害となっているかについて、的確に把握するのにも限度があるだろうし、大概は結果的にうまくいけばその場で生じている関係をうまく利用できたと思うだろうし、うまくいかなければ関係を活用できずにしくじったことにもなるのだろうし、そこで交渉や駆け引きをするにしても、うまくいく場合と不調に終わる場合とがあり、確実な結果が見えてこないときは、それほどその場の権力関係が強固でないことになるだろうが、一方的に契約を結ばされたり、強制的に何かをやらせるような関係があるときは、強固な権力関係によって動かしがたい結果が設定されていることになるだろうし、権力を行使したい側はそれを望むわけで、絶えず権力の行使によってそのような関係を構築しようとする機会をうかがっているのではないか。それが世の中に張り巡らされている制度となれば硬直した社会が実現されていることになるわけだが、何らかの法律が制定される時に、その内容が強制的な措置を含むものであれば、そこに権力を行使する側の思惑が潜んでいるわけで、なるべくそのような法律が制定されるのを阻止した方が、世の中に自由が保たれるわけで、強制措置が多い社会ほど自由のない社会となるわけだろうが、それも強制措置を必要とする何らかの社会的な背景があることを示しているのかもしれない。


9月19日「正しい主張が内包する欺瞞」

 今でも世界には原始的な狩猟採集生活をしている人もごくわずかにいるわけで、今後それらの人たちがどうなるかはわからないが、またその一方で多くの人たちが武力紛争などによって住んでいた地域を追われて難民となり、生活の糧を失い生命の危機に瀕している状況もあるわけで、それを言うなら狩猟採集民たちも森林伐採などの経済活動によって住んでいた場所を追われて、絶滅したり狩猟採集生活をやめて現代文明の中で暮らしている人たちもいるのだろうし、そんなふうにして世の中で理不尽な仕打ちを受けて不利益を被っている人などいくらでもいるのかもしれないが、突発的な事故や自然災害などで死んでしまう場合を除けば、人の経済活動によってそのリスクが高まっているとしても、一般的にはすでにその経済活動に巻き込まれて身も心も絡め取られているわけだから、それによって生かされていることは認めざるを得ないだろうし、人種や民族や宗派などが絡んでくる対立や紛争も、経済格差から生じていることは明らかで、それを人種や民族や宗派などのアイデンティティなどから正当化しようとするのは欺瞞でしかないわけだが、たぶんそうしないと納得できないのだろうし、そうなっていることの理由を求めようとすれば、自然と人種や民族や宗派などに行き着いてしまい、結果的にこうなっていることを正当化する上で、そこに何らかの違いや共通項を見出そうとすれば、人種や民族や宗派などしか思い当たらないのではないか。それで納得しないならさらに細かく分類分けしたがる傾向も出てくるだろうし、例えば特定の大学出身者であったり特定の地域の出身者であったり社会の中で特定の階層の出身者であったり、いくらでもアイデンティティの根拠づけには事欠かないのかもしれないが、中にはそういう分類分けに当てはまらないケースもいくらでも出てくるわけだが、経済活動が集団で行われていることが多いだけに、そこで成功している集団のアイデンティティを求めようとして、例えば金融業界で成功している集団があるとすると、それをユダヤ系の集団であるとみなして納得するという紋切り型的な認識が、社会の中で共通の了解事項として流通している成り行きがあるだろうし、金融業とは無縁のユダヤ人などいくらでもいるわけだろうが、そんなふうに納得しないと人の意識の中では収まりがつかない事情があるのかもしない。

 人の集団への帰属意識というのは自己防衛の手段にもなりうるだろうし、集団の中で生かされていれば個人が危機に陥った時に帰属している集団が助けてくれるという期待も出てくるわけで、それが一定の水準で顕在化しているのが国家への帰属意識だろうし、それを政治的に利用する集団もいるわけだが、実際には国民の間でも経済格差があり、経済的に不利な状況を意識している国民の中には、その格差を国家の力で解消してほしいという期待があるのだろうし、そういうところから社民的なリベラル主義が生じていることも確かなのだろうが、経済活動そのものが格差を生み出す成り行きをもたらしていて、しかも国家財政がその経済活動に依存しているわけだから、そこで生じている矛盾は根本的には解消できないわけで、それでもそんな主義主張を堅持したければ、部分的な修正主義になるわけだろうし、そうなると人種や民族や宗派などから生じる差別をなくそうと主張してくるわけで、さらに同性愛者などの性的なマイノリティの権利を主張したり、経済格差に関しては貧困の問題を取り扱い、経済的に不利な状況にある母子家庭などを助けるための方策を行政に求めたりするわけだろうが、それでも必然的に経済格差を生み出す経済活動の中でそういう主義主張をしなければならないわけだから、特定の集団への帰属意識に支配されている人々にとっては、敵対する集団を利するような主義主張には納得できないわけで、また経済活動の中で熾烈な競争に勝ち抜いて利益を得ようとする人々の間でも、敗者を利するような要求には納得できないだろうし、そういう人たちにとって敗者は成功するための努力を怠っているから、仕事を怠けているから貧困に陥るのだという単純化された大義名分があるだろうし、経済競争は人を他者に対して不寛容な姿勢に導きがちになる面があるから、そうなるのも無理はないのかもしれないが、いずれにしても社会の中で生じている全ての立場や境遇にある人たちを納得させることはできないわけで、そうでなければそもそも対立や争いは生じないのだから、そのような対立や争いがあることを前提として世の中が成り立っている限りにおいて、無矛盾的な主義主張を形成するのは無理なのであり、そんな主義主張には納得できないのが当然だとしても、それでも自らの立場や主義主張を正当化しなければならないとしたら、結局は攻撃や批判の対象として敵を作って、その敵を攻撃したり批判したりしている自らを正当化するために、敵の主義主張の矛盾点をあげつらい、そんなことをやっている自らの相対的な正しさを宣伝するしかないわけだ。


9月18日「経済的な安定」

 例えば何らかの危機に備えて資金を貯めておくのが保険だとすれば、貯めた資金を機会をとらえて積極的に活用するのが投資だろうし、貯めた資金を通して両者の間につながりが生じるのは必然だとしても、資金を貯める行為が投資を通して行われる以外だと、労働を通して行われる場合があり、もちろん投資そのものが投資家の労働とも言えるわけで、様々な労働の中で成功すれば比較的経済効率の良い労働が投資だとも言えるだろうし、それも成功すればの話だろうが、成功する確率を高めるには投資事業そのものを投資ファンドなどの企業形態を通して行うことになるわけだ。また事業に伴って生じるリスクを軽減するには保険が活用されるわけで、また保険そのものも資金を集めて活用する事業であり、投資の一形態として位置付けられて、結局はそれらが互いに連携して様々な事業を推進していくことになるのだろうが、それらの事業の中で労働が行われて必要経費を除いた部分が利益となるわけだろうし、また利益が出なくて負債が膨らめば事業の継続が難しくなって、返済のめどが立たなくなった時点で事業が破綻して負債が残るわけだが、現状では世の中で行われている全ての事業が破綻することはなく、事業が継続している範囲内で経済活動が行われている実態があるわけで、そしてその経済活動が賄えるだけの人が生きていることにもなるわけで、その経済活動が継続できる限りで労働も行われているわけだ。またその経済活動に付随して行政府などの活動も成り立っている現状があり、行政府の方でも経済活動に関与するとともに、社会を法律を伴った制度によって管理し維持しているわけだが、それも経済活動が賄える範囲内で行政府の規模も予算も決まってくるわけで、大した経済規模でもないのに行政機構ばかりが膨張すれば賄いきれなくなって財政破綻してしまうわけだが、そうなったところで企業とは違って行政府そのものがなくなるわけではなく、予算規模を小さくして行政府自体は存続するわけだろうが、資本主義経済がなくならない理由は、その経済規模に応じてそこで生きられる人の数も行政府の規模も決まってくるということだろうし、経済活動によって賄いきれない人は自然にいなくなってしまうだろうし、行政府の規模も経済活動によって賄える範囲内に収まってくるわけで、経済活動の中で行われている様々な事業も、それが賄いきれなくなれば利益が出なくなって負債が膨らんで破綻してしまうわけだ。

 またその経済活動の中では人や企業の間で競争が起こって、人と人の間にあるいは集団と集団との間に格差が生まれて対立や争いをもたらすわけで、それが社会の中で人種や民族や宗派などの対立に絡んでくると内戦の原因ともなるのだろうが、場合によってはそれが国同士の対立にも発展する場合もあって、そうなると国と国との間で経済競争をしているようにも感じられてくるわけで、各国の行政府は自国が有利になるように様々な方策を施すようにもなるわけで、またそれが自国民の人気取りにも使われて、議会や政府内で主導権を握っている政党や政治家はそれを政治宣伝に利用して、世界の中で他の国よりも上手くやっていることを自国民に向かってアピールするわけだ。そしてそんな成り行きに伴って隣国との間で敵対心をあおり立てたり、自国内でも政府や議会与党に批判的な勢力を愛国心が欠如しているとして攻撃する集団も出現したりするわけだが、そんな活動も経済的に賄いきれている限りで行われていることなのだろうし、社会の中で法律を伴った制度が機能しているとしても、行政機構は経済的に賄いきれている人口を管理し統治しているわけで、それ以上のことをやっているわけではなく、賄いきれないほど人口が増加してもらっては困るだろうし、逆に人口が減ればそれだけ経済規模も縮小して行政府の予算も減らさざるを得なくなってしまうだろうから、それも行政府にとっては困った事態となるのかもしれないが、国民が経済的に豊かになるには一人当たりの収入を増やさなければならないわけで、それには国内の産業が果たして高収入を期待できるような産業なのかが問われてくるわけで、実際に国民の間で経済格差があること自体が、ある程度の賃金格差を前提とした産業構造なのだから、誰もが経済的な豊かさを享受できるような仕組みではないわけで、実際に限られた高収入を得られる職業を求める競争も起こっているわけだろうから、今後そのような産業構造や仕組みが大きく変わる可能性が全くないわけではないだろうが、現状が別に内戦状態でも隣国との間で戦争状態でもなければ、そのようなことにはならない程度には平和が保たれているわけだろうから、それでも不満を言えばきりがないかもしれないが、それなりに多くの人が暮らして行ける程度には経済が安定していることは確かだろうし、それが行政府の管理と統治の賜物なのかどうかはわからないが、それなりの安定が行政府や議会与党の政治宣伝に使われる程度には上手くいっていることになるのではないか。


9月17日「信用しないこと」

 国家的な枠組みが何を意味しているのかは誰もがわかっていることかもしれないが、それを当然のこととして受け入れているのも誰もが意識していることの大前提であるだろうし、誰もが国家の存在を当然のこととして受け入れているわけだが、それを否定するのは非現実的な現状認識だろうし、安易に肯定も否定もせずにその存在を相対化して考えてみる必要があると思うなら、国家の代わりを考案するのではなく、それを超える存在を夢想するのでもないとすれば、現状からどんな認識を導き出せるだろうか。そこに住んで暮らしている人々を社会の中に拘束するための制度を維持しているのが行政機関であることは言うまでもないだろうし、その行政機関の活動範囲が市町村や郡や県や州や国などに分割されていて、人や企業などから税を徴収して予算を組んで、足りない分は国債や公債を発行して活動の糧としているわけだが、問題なのはその活動内容であり、その活動によって住民が苦しんでいるようなら活動内容を改めなければならないのだろうが、その苦しみが経済活動や宗派や民族や人種や国籍や性差などに起因するものなら、行政機関には格差をもたらしている不均衡の調整が期待されているのだろうし、経済格差や宗派や民族や人種や国籍や性差などから生じる対立を緩和するような措置が求められているのだろうが、そんな認識もある種の単純化でしかないだろうし、問題ははるかに複雑に入り組んでいて、しかもそんな現状を反映した社会が存在しているのであり、様々な不均衡や格差や利害や権力関係を含んだ社会を維持するのが行政機関の役割でもあるわけだから、選挙向けの政治宣伝の類いなら理想論やきれいごとを主張していられるのだろうが、そんなことを主張したからといって民衆の信用や信頼が得られるわけでもないだろうし、実際には社会の中で格差や利害や権力関係に関して主導権を握っている勢力からの支持を得ないと政権を握れないわけで、それらの勢力は場合によっては民衆の間に経済格差や宗派や民族や人種や国籍や性別などの違いで差別や対立や不均衡をもたらしているのであり、要するに民衆を苦しめている張本人たちの支持を得ながら政治を行わなければならず、そうなると理想論もきれいごとも嘘でしかなくなってしまうのだろうが、そうだからと言って民衆の支持を得られないわけではなく、逆に民衆を苦しめている張本人たちを民衆が支持している現状もあるわけで、要するに民衆の方でもあわよくば民衆を苦しめている張本人たちの仲間入りがしたいわけで、その辺を理解しておかないと世論の保守化を説明できないのではないか。

 そんなわけで世論が信用しているのは、民衆の間に対立や軋轢や不均衡をもたらして絶えず競争に駆り立てる成り行きであり、民衆は騙されているわけではなく、そうなることを承知でそんな成り行きを信用しているわけで、実際にそんな競争に勝ち抜いた一握りの成功者たちを支持しているわけだ。もちろん選挙で当選して民衆の代表者に選ばれる政治家たちもその中に含まれているわけで、それは社会を構成している制度なのだろうし、ある意味では制度が世論を作っていると言えるだろうし、民衆の意識を支配しているのは制度そのものだと言えるかもしれないが、一方では制度に拘束されて苦しんでいるのも民衆ではあるわけで、ではどうしたらいいのかといえば、都合の悪い部分は見ないようにすればいいわけで、意識して見ないようにしているわけではなく、すでにそれが無意識の中で動作する習慣となっていれば、いちいち自らの矛盾を意識しなくてもよく、それを見ないようにするのも社会を構成している制度に含まれることかもしれないし、そうなるとそれは制度というよりは慣習だと理解しておいた方がしっくりくるかもしれないが、それらのどこまでが制度でどこからが慣習と見るかははっきりしないところだろうし、そのようなものが渾然一体となって人々を拘束していると捉えるしかないのではないか。そしてそんな認識に至ったとしてもそこから抜け出ることはできないのであり、いやでもそんな成り行きに巻き込まれていることを自覚するしかないわけで、ではどうすればいいのかといえば、あまり深く信用しないことであり、そのような制度に支配されているからといって、別にそれを信用することはないわけで、いくら信用したからといって競争に勝ち抜いて社会の中で主導権を握れるほんの一握りの成功者になれるとは限らないわけだから、またそれらの成功者たちを応援していくら崇め奉ってみても、成功者たちに利益をもたらすだけで、その他大勢にもたらされるのは成功者たちに抱く憧れでしかないわけだから、結局はその程度のことだと思うしかないわけで、しかも夢を見させてもらっただけでも娯楽の範囲内では満足できるわけだから、それ以上の信用はいらないのではないか。そして真にやらなければならないことは、成功者たちの味方になることよりも、社会の中で苦しんでいる人たちの味方になってあげることだろうし、それも自分たちが守ろうとしている社会が苦しみをもたらしているのだから、矛盾を伴うことは確かだろうが、どちらにしても矛盾は乗り越えられないから矛盾なのであり、自分たちの考えていることや行なっていることが矛盾をもたらしていることは自覚しておいた方がいいだろうし、そんな矛盾だらけの社会も矛盾している自身もあまり信用しないことが肝要なのではないか。


9月16日「信用の不信」

 社会はそこで人を拘束する制度がないと成り立たないことは確かだが、制度を利用して理不尽な権力の行使が行われると、それに刃向かう人や集団が出てくるわけで、もちろん実際に権力を行使する側はそれを理不尽とは感じないだろうし、それが理不尽だと感じる権力を行使される側とで認識や見解が異なるわけで、そうなると両者の間で対立や争いに発展する可能性が出てくるのだろうが、制度自体が社会を管理して維持するシステムを含んでいるだけに、そのようなシステムに組み込まれている人たちは制度に逆らえない境遇にあるわけで、そんな境遇にある人たちが権力を行使する側の人たちを批判すれば、制度に逆らったとみなされて有形無形の何らかの不利益を被ることになるわけだが、制度自体が恒常的に不変であるわけではないので、たぶん制度が変わるきっかけをもたらすのが、権力を行使する人たちを批判する人や集団の活動なのだろうし、双方の対立や争いから制度が変わる可能性が出てくるわけだろうが、そうだからと言ってどちらの思惑通りに変わるわけでもないだろうし、良い方向にも悪い方向にも変わる可能性があるのだろうから、どうなるのが良くてどうなるのが悪いのかも一概には言えないところだろうし、社会の中での立場や境遇によってそれを良いとみなすか悪いとみなすかも認識や見解が分かれることになるかもしれないが、少なくともそこで行使される権力に反発したり逆らったりする人や集団にとって、それが不快だと思われたり、被害まで出ている実態もあるとしたら、それが権力の行使に反発したり逆らう理由となるわけだ。そうなるとそのような人や集団を黙らせるには、合理的に考えるなら権力の行使をやめるか、不快感を減じたり被害の出ないような制度に変更すればいいわけだが、権力を行使する側にそれができない事情があれば、強制的に黙らせようとしてさらなる権力の行使が必要となってくるだろうし、また不満分子を黙らせるような制度の改正も考えられるだろうし、そうなるとますます強権政治の度合いを強めることにもなるのだろうが、歴史的に見ればそのようなやり方をエスカレートさせていった政治体制は長くとも数十年で破綻するケースが多く、今は何とか民衆の不満を抑え込んでいるとしても、将来に禍根を残すことになるわけだから、そのような体制に対する評価は将来の判断に任せるとしても、現状がどの程度の状態になっているかは、案外多くの人が気づいているところかもしれず、たとえそれが世論調査や選挙結果に表れないとしても、実際に権力の行使に逆らっている人の言動や行動から推し量ることができるだろうし、またそのような人たちに有形無形の圧力や誹謗中傷を加えている人たちの本気度からも推し量ることができるのではないか。

 だからと言って何が良くて何が悪いということでもないのだろうが、世の中で活動しているどの勢力を信用してどの勢力を信用していないかで、自らの言動や行動の傾向が定まってしまうとしても、直接どのような勢力の味方をしてどのような勢力と敵対するような関係になければ、そのような対立や争いには巻き込まれていないのかもしれず、無関心でいようと思えばできるわけで、そういう意味で無責任な立場を堅持することができるのだろうが、直接には巻き込まれていないとしても、間接的にはメディアを通してその対立や争いの情報に接しているわけで、そのような問題と浅く触れ合っている程度の状態を保っておいた方がいいだろうし、無理にどちらの陣営の味方になるかを決める必要はないわけで、たとえそのような態度の保留が権力の行使に逆らう人たちを見殺しにすることになろうとも、無関係でいられる限りは見て見ぬ振りを装うことは可能なのではないか。そうすることに苦痛を感じないなら無関係でいられるということであり、逆にそうすることに苦痛を感じるなら、それだけでもすでに関係があることになるのであり、身にしみで痛みを感じるなら何とかしなければならなくなるわけで、そうなればそれなりの言動や行動が伴ってくるだろうし、そのような言動や行動には信用が生じるのではないか。それとは反対に軽薄な煽動やデマの拡散を信用するのは愚の骨頂なのだろうし、そんな言動や行動に浮かれて何かやっているつもりになっている人や集団はどのみち消え去る運命なのだろうし、しかもそれでも構わないことはそれらの人たちが一番よくわかっているわけで、わかっているからこそ焦燥感とともに突飛な言動や行動に出てしまう傾向があるのではないか。そしてそうだとしても世の中の主導権を握っているように見えるのはそれらの人たちであり、実際に権力を行使している側もそのような傾向にある人たちと連携しながら権力を行使しているわけなのだろうが、実際に政治的な権力を行使するような立場や境遇にある人や集団がどのような末路を辿るかは、歴史に示されている通りなのだろうし、そのような末路をどのように捉えるかは人それぞれで認識や見解が分かれるところなのだろうが、世俗的な歴史家たちはそれらの人や集団などの活動を肯定的に捉えたがる傾向にはあるわけで、メディア的にも世間の関心を呼ぶようなフィクションにも仕立てながら伝えようとはしているわけだが、そのような宣伝が実際に世の中に何をもたらしているのかはよくわからないところだ。その対象が何になるにせよ、宣伝は一過性のイベントだろうし、絶えず宣伝し続けるにしても、そこから生じる信用とは宣伝に結びついた信用でしかないだろうし、人為的に宣伝しなければ消え去ってしまうような信用なのではないか。それ以外の信用があるのかと問われれば、そんなものはなくても構わないのかもしれないが、とりあえず軽薄な煽動やデマの拡散の上に世間的な信用が築かれるとすれば、別に信用されなくても構わないような気もしてくるし、世間一般で通用している宣伝行為から生まれる信用がそれと同じだとは思わないが、それらは程度の差にしか過ぎないとも思われるのは間違った認識だろうか。


9月15日「ニュートラルな政治感覚」

 政治とは民衆の信用を得るために行う一種のパフォーマンスであり、プレゼンテーション的な意味合いもあるだろうが、そういう面だけだと実質的な効果はあまり期待できない行為となってしまうが、とりあえずは民衆やメディアに何かできるのではないかという期待や幻想を抱かせることに成功すれば、政治的には一応の成果が得られたことになるわけだろうし、そうであるなら事前に民衆やメディアから不用意なレッテルを貼られないように慎重に事を運ぶ必要があるのかもしれず、そのためには政治的な中立を装うのが民衆やメディアを騙すには最適な戦略かもしれないし、世の中の広範囲な支持を取り付けるのにも、急進的な主義主張を鮮明に打ち出すよりは有利に事を運ぶことができるのではないか。そして常に心がけなければならないのは、民衆の代表者を装うことであり、民衆からもメディアからも自分たちが信頼されていることをアピールし続けることだろうか。そのためには何か政治的な争点が顕在化するたびに、民衆の判断を仰ぐ必要が出てくるわけで、メディアによる安易な世論調査などでは信用できなければ、具体的には選挙などの住民投票を実施する成り行きになるだろうし、そこで住民の信任を得た上で政治を行うことになるだろうか。それは別に民衆やメディアを騙しているわけではなく、実際に民衆の意向に沿った政治を行なっていることになるのだろうが、そう思わせるのが住民の投票を伴う政治制度の特性であり、住民の代表者が政治に参加しているように見せかける上で有効なシステムとなっているわけだ。実際には住民の意向というよりはそのような制度やシステムを維持管理している行政機構の意向が少なからず反映されていて、もちろん行政機構としては政治的な中立を装うわけで、そうである限りにおいて住民から信用を得られるわけだろうが、実質的には啓蒙と称して何かにつけて制度を守り従うように住民を指導しているわけで、また行政機構の意向を反映した政治体制にする上で、政策を巡って議会と行政が対立しているようでは政治が滞ってしまうと考えるなら、議会を構成する政党や議員も行政の意向が反映するような勢力が多数を占めて欲しいわけだ。そしてそのような傾向が議会や行政に関わっている政治家や官僚の個人的な思惑から生じているというよりは、集団的な意志となって議員や閣僚や官僚などの意識を覆うような成り行きを制度がもたらしていて、そこで機能しているシステムに従っていると、政治家も官僚も自然とそのような集団意志に従うように仕向けられてしまうのではないか。

 制度にはそれを維持し管理する機構の存在が欠かせないわけで、それなしでは制度が制度として社会の中で機能しなくなってしまうし、民衆も制度に従わなくなってしまうのではないか。もちろんそれを維持し管理する機構のない制度などありはしないのだろうが、そこに集団で構成される組織形態が現実に施設や予算を伴って存在していると、そのような集団と民衆の間に権力関係が生じることは明らかで、実際に組織の内外で権力を行使する機会が生じるわけで、その代表的なものが住民や企業に対する徴税行為だろうし、また国によっては住民に対して徴兵制を採用しているところもあって、徴兵された住民には命をかけて国を守らなければならない義務が生じるわけで、それと比べて権力とは無関係なように思われるが、義務教育なども行政機構が権力を行使できる関係だろうし、さらに住民に戸籍や国籍や住所などを登録させるのも、それを徴税などに利用するわけだから権力関係が働いているわけだ。そしてそのような権力関係は義務と権利という別々の関係の中で捉えられてしまいがちだが、民主的な国家体制が成立する歴史的な経緯から、それらが住民の権利として行政に対して主権や言論の自由などの権利を勝ち取ったかのように説明されてしまい、そうなると義務と権利とが表裏一体であることが忘れられてしまうわけで、住民から行政に向かって権利を行使しているように見えることが、行政から住民へは義務を課していることになるわけで、例えば義務教育は住民が教育を受ける権利を得たのと同時に、住民はその子供達に義務教育を受けさせる義務が生じていることになるわけで、それに違反すれば何らかの処罰を受けるわけだから、そこで生じている権力関係は住民が行政機構に従う関係となっているわけだ。権力関係は一方的に権力を行使する側が優位に立っているように思われてしまうのだが、あからさまにそうなってしまうと従わされる側が反発してそこで対立が起こって、権力闘争が始まってしまうのだろうし、実際に警察権力による強制排除などを伴う各種の反対運動などは権力闘争であるわけだが、その一方で権力関係を義務と権利の関係に分解してしまうと、権利という面だけを強調すれば、従うというよりも行政から何らかのサービスを受けているように感じられてしまうわけで、住民には行政サービスを受ける権利があるかのように思われて、そこで行われている権力闘争を見ないように振る舞うことができるわけだ。そういう意味で住民の反発を最小限に食い止めるやり方として、民主主義という政治制度が確立された経緯があるわけで、何かそこで住民側に主権があり、主導権を握っているような制度に見せかけているわけだが、実態はそうではないことは踏まえておくべきだろうし、あまりにも権利という面を強調して錯覚を起こさないためにも、どちらか一方には振れないニュートラルな政治感覚を保っておいた方がよさそうで、何かあった時にそこから前進でも後退でも機敏に動けるようにしておくべきだろうか。


9月14日「自己の消失」

 それほど必要でもないものを欲しいと思うのは、その欲しいものに魅惑されていることになるのかもしれないが、それが商品の宣伝によるものならわかりやすいだろうし、ましてやメディアが注目しているものならなおのこと欲しいと思わされてしまうのかもしれない。それが時と場合によってはそうは思わないこともあり得るだろうし、実際にそれを手に入れて時が経てばまた新製品が発売されて、今度はそれが欲しくなってしまうのだろうが、そうなるとその期間だけそれが欲しいと思っていたことになるわけで、別の時期にはそれほど欲しいとは思わないことになり、結局欲しいと思うものは時と場合によって欲しいと思うわけで、その場その時の状況に応じて欲しいと思ったり欲しいとは思わなかったりするわけで、恒常的に欲しいわけではなく、商品の宣伝やメディアの報道につられて一時的にそれが欲しいと思ってしまうのではないか。そしてそんな欲望を回避するには商品の宣伝やメディアの報道を見ないようにすればいいだろうか。それもあるかもしれないが、要するにそれとは別のものを欲しがるように仕向ければ、それを欲しいとは思わなくなるのかもしれず、何か他の物事に夢中になっていれば、それを欲しいと思う暇がなくなってしまうだろうし、そういう方向へと自身の意識を持っていけばいいのだろうか。人為的にわざとそんなふうに仕向けるよりも、何か自然とそうなってしまう場合もありそうなのだが、そうなるには機会を捉えないとそうはならないわけで、では機会を捉えるにはどうしたらいいのかと問われてしまうかもしれないが、なぜか理由はわからないがそういう機会が巡ってくることがあるわけで、それまではひたすら固執していたことが、ある時期からどうでもよくなってしまい、まるで憑き物が落ちたようにその物事に対する関心が後退していってしまう時がその機会なのかもしれず、そのようなことは一度体験してみないと実感が湧いてこないのかもしれないが、ともかくその機会を捉えるというよりは自然とそうなってしまうわけだから、実際にそうなってしまったら本当に今までのこだわりが嘘のように霧散してしまうのであり、それが人為的ではないことは確かであり、策略や計略とは無縁の自然現象とみなすしかなさそうで、そんな境地になることを望んでいたわけでもなく、望まない境地に至ってしまったわけでもなく、そうなるべくしてなってしまったと思うしかないのではないか。

 別にそれを目指せということでもないだろうし、目指さなくても自然とそうなってしまうことを受け入れるわけでもなく、意識しなくても自然とそうなっているわけで、結局それは何でもないことであり、とりたててどうということでもないわけだが、少なくともどこかの宗教が説く大げさな悟りの境地ではないだろうし、何を信じているわけでもないのだから宗教とは無縁かもしれないが、誰が求めていることでもない境地に至っていると思わなくてもいいだろうし、案外普通に暮らしていれば誰もがそんな境地に至ってしまうのではないか。とりたてて修行する必要はないのだろうし、徳の高い人に教えを請うようなことでもなく、そうなると制度的な教育の類いとも異なるだろうし、誰に教わるわけでもなく自然にそうなってしまうとすれば、それに何の価値があるわけでもなく、誰もが求めるようなことでもなく、求めなくても自然にそうなってしまうようなことなら、別にその効用について偉そうに説いて回る必要もないわけだが、ただそうなってしまうと今まで欲しいと思っていたこだわりから解放されるわけで、そうしなければならないという目標や目的からも遠ざかってしまうわけだが、ではその先で何をやればいいのかとなると、そうではないと思うしかないだろうし、その何をやればいいのかという問いから解放されて、実際に何をやっているとしても、それに目標や目的とは異なる何が当てはまるわけでもないだろうし、その何かをやっていること以外ではないことをやっているわけで、それ以上でも以下でもないのだから、それ以外ではあり得ないこととなってしまうのかもしれないが、果たしてそれでいいのかとなると、良くも悪くもなく、良くも悪くもあるわけで、要するにやっていることに対して何をどう判断すればいいのかわからなくなってしまうのではないか。要するにそうなると誘惑だとか魅惑だとかの外部的な動機が消失してしまうのかもしれないし、商品の宣伝やメディアの報道がきっかけとなって欲しいものが定まるという成り行きから抜け出てしまうと、こだわる点が見失われて、意識の中でうまく論理的な因果関係を構築できなくなってしまうのではないか。そういう意味でも自身の意識を形作っている自己とは絶えず外部からの作用や影響にさらされながら存在しているように思われるのだろうし、それを意識しなくなってしまうと自己そのものが意識の中で消失してしまうのかもしれない。


9月13日「平和な時の政治感覚」

 投資家は資本を投資してさらなる資本の蓄積を目指し、事業家は投資された資本を事業に活用してさらなる事業の拡大と資本の蓄積を目指し、事業の拡大と資本の蓄積は社会的な信用を生み、信用されている事業は確実な利益を期待できるから投資の対象として魅力が増して、結果的に資金が集まりやすくなるのだろうが、そんな社会的な信用をもたらしているのが何かと言えば、それは資本の蓄積なのだろうし、一概に資本の蓄積といってもそれはキャッシュフローなどから読み取れる資金の蓄積だけではなく、事業規模や売り上げや収益なども資本の蓄積を裏付ける根拠となるだろうし、またそれは国家的な信用にも言えることであり、いくら財政赤字が膨大なものとなっていても、その国の経済規模が一定の水準を保っていて経常収支などが悪化していなければ、一応は国際的な信用が保たれていることになるのだろうし、そこで人や企業などによる経済活動が行われている限りで、絶えず資本の蓄積が目指されていて、結果的に一定規模の資本の蓄積が実現されれば、それが投資に回されてさらなる資本の蓄積が目指されることになるのだろうが、そのような資本の循環の中で、資本を蓄積する手法の一つとして保険も活用されていて、危機に直面した時に金銭的な助けを得られるように、大勢の人や企業などから保険料を徴収して資金を蓄積しておくわけだが、そうやって集められた資金も資本として投資に運用されている実態があるわけだから、それも経済活動の一部を構成しているわけで、何ら特別な資金ではなく、それは行政上の予算にも言えることであり、税収は経済活動からもたらされ、国債や公債などの債券も金融市場で取引され、全ての資金が経済活動に関係しているわけで、他の資金の活用と繋がっているわけだから、それらのうちの特定の資金だけを操作して都合のいいつじつま合わせをやろうとしても、他の資金にも作用が及んでしまうわけで、結果的に期待するような効果は得られないのだろうし、そういう意味で政治的な操作がうまくいかない事例はいくらでもありそうだが、ではそんなことをやっても無駄なのかというと、政治の場でできることはそういうことでしかないのかもしれず、うまくいかないことはある程度承知しつつも、制度的にはやらざるを得ないような成り行きとなっているのではないか。

 そうであるならたとえそれがうまくいかなくても、人々を納得させる意味でも政治的な操作は欠かせないものとなるのだろうし、経済に作用を及ぼす行為として政治的な操作があるわけで、実際に他の様々な作用とともに、政治的な作用も人や企業などの経済活動に何らかの影響を及ぼしているのだろうし、その影響はメディア的にも無視できないものとなっているのではないか。そして確かに無視することはできないが、その作用や影響は限定的なものにとどまるだろうし、全てを政治的な操作によって調整できるわけではなく、操作できないところも調整できない面もあるのではないか。そんなわけで行政上の予算を活用して住民の生活を守るのにも限度があることは確かなのだろうが、住民の生活を守るための予算を削ろうとすれば、住民から反発を招いて政治家が選挙で当選が危うくなってしまうだろうし、そういうところでも政治的な操作に制約が課せられているわけで、住民の側でもあまりにも盲目的に現状の政治に信頼を寄せてしまったり、メディアによる煽動行為に踊らされて選挙で誤った選択をしてしまうと、自分たちで自分たちの首を絞めるようなことにもなりかねない可能性もないとは言えないだろうし、そういうところで政治に対する監視の目を光らせておいて損はなさそうにも思われるのだが、そうであっても政治に万能の力があるわけではなく、また一般市民が全くの無力であるわけでもなく、あまり事を大げさに考えないことが肝要なのだろうし、実際に大げさに考えていないから日本では平和が維持されているとも言えるわけだが、他の紛争地域では実際に政治的な権力闘争によって多数の死傷者まで出ているのだから、いやでも大げさに考えざるを得ない事情が発生しているわけで、しかも公然と政治家や官僚の汚職が行われて金権腐敗が蔓延しているような地域では、もはや政治に対する信用も信頼も地に堕ちている状況にもなっているわけで、そういう地域と比較して日本の現状を肯定するわけにはいかないのだろうし、また日本よりはるかにうまくいっている地域と比較して日本の現状を卑下するわけにもいかないだろうが、選挙での政治的な選択がそれなりに何らかの作用を及ぼしていることは確かなのだろうから、現状のゴリ押し的な自画自賛や自虐的な卑下や悲観とは別に、なるべくニュートラルな感覚を保ちながら政治に関わることが大事なのかもしれない。


9月12日「理性への信用」

 人々はメディアを介して世の中で何が信用されているのかを認識することは確かで、それが何であれ人気がある物事は多くの人の関心を引きつけているのだろうし、人々がそれに対して好意的な関心を抱いているとすれば、それが人々に信用されていると考えても良さそうで、それとメディアが好意的に取り上げる物事とが一致すれば、世論とメディアとが共通の価値観を共有していることになるのではないか。もちろんそんなメディアに対して批判的な意見を持っている人も多数いることは確かで、そんな人たちはメディアに騙されないように心がけているわけだろうし、またメディアの中でも必ずしも同じ価値観を共有しているわけではない面もありそうで、メディアに批判的なメディアという姿勢のメディアもあるのだろうから、全てにおいて一枚岩ではないのはわかりきったことかもしれないが、その中でどんなメディアを信用してどんなメディアを信用していないかで、人それぞれに好意的に受け止める物事と嫌悪している物事に関して違いが出てくるだろうし、中にはメディアが取り上げる何にしてもそれほど好意的でもなく嫌悪しているわけでもなく、そんなものだとしか受け止められないような感性の人もいるのではないか。そういう人は安易な煽動行為には乗ってこないだろうし、互いに対立を煽っている両者の間にそんなに違いはないとも思っているかもしれず、メディアに批判的なメディアという姿勢についても、そこにある種の欺瞞が介在していることを見抜いているのかもしれない。ではそういう人にとっては何が信用できるのかといえば、そこでメディアが安易に人心を煽動して何らかの価値を巡って対立せざるを得ない状況を作り出す成り行きを信用できるのかもしれないし、メディアに対しても世の中に対しても、そこで形成される何らかの価値観が何に起因しているというよりは、好意的に取り上げる物事が現状の社会を維持するのに役立っていて、また嫌悪すべき物事が現状の社会にとって脅威となる危険性があることをメディアが知らせようとしていることは信用できるのではないか。もちろんそれの良し悪しは抜きでそういう成り行きがあるわけで、必ずしもメディアが好意的に取り上げる物事が良く、批判的に取り上げる物事が悪いということではなく、そうなっては困るような物事は絶えず批判的に取り上げようとするだろうし、そうなるべきだと思われる物事は好意的に取り上げるだけで、メディアが困るような物事が世間一般の感覚でも困るよう物事だという認識を人々の意識に植え付けようとしていることは確かなのではないか。

 そしてそういうことをやっているメディアを信用できるのかというと、それを好意的に受け止める人は信用するだろうし、批判的に受け止める人は信用しないだろうし、しかも信用するか否かの水準ではそうだとしても、メディアが伝える物事が常に信用できるか否かの水準で受け止められるわけでもなく、そのどちらでも構わないような物事も話題としては伝えられているわけで、むしろそちらの方が圧倒的に多いのかもしれないし、それを受け取る人々の意識の中では興味を抱かず関心を引かないような物事がひっきりなしにメディアを介して伝えられているわけで、その中のほんの一部が興味を持たれ関心を引くような話題なのだろうし、そうなっている時点で信用するか否かの水準よりははるかに低レベルの水準で意識されているわけで、そういうことに関してはいちいち取り上げて好感を持ったり批判したり嫌悪感を抱いたりすることもなく、ほとんど意識されない物事として頭の中で処理されるのだろうし、逆にそれが無意識の世論を形成しているとも言えるのかもしれないが、意識できないことだけに思考の対象ともなり得ない物事かもしれないが、一方でそれは逆らうこともできないし操作することもできないような物事なのだろうし、実質的にはそのような人の深層心理にこびりついた無意識の世論が世の中を支配しているとも言えるのかもしれないが、そのような世論に対抗するには意識して思考を働かせなければならないのだろうが、常にそんなことを心がけている人は世の中にほとんどいないだろうし、そういう意味で意識した思考力に勝ち目はないのかもしれないが、勝ち目がないにしても意識して思考を働かせなければ、無意識が作り出す世論を捉えられないのだろうから、そうするしかないのだろうし、そんなことを考慮するとメディアが意図的に煽動して対立を作り出している面があるにしても、そこには意識できない攻撃的な闘争本能が働いていたり、例えば社会の中で異質な文化や伝統や慣習を持つ人々に対して、意識して理性を働かせても埋めることのできない溝を生じさせて、結果的に嫌悪感や不快感とともに異質な者を排除するような成り行きをもたらしてしまう場合もあるだろうし、そういう否定的な感情をストレートに表現することに何のためらいもなくなっている状況が作り出されているわけで、そういう面でも無意識の世論が意識した思考力に優っている結果がもたらされているわけだが、だからと言って安直に理性の復権を訴えるような主張では歯が立たず、いつの時代でも理性よりは感情の方が優っていたのだろうから、結局はありのままの現実を体験するしかないのかもしれないし、現実に誰もが体験し続けているわけだが、それでもまだ世の中の共通の価値や信用に対して幻想を抱く習慣から抜けきれていない面があるのだろうか。


9月11日「ゲームの参加者たち」

 人や集団が行なっていることが社会の中で一定の支持を得ているとしたら、支持している人たちには信用されていることになるだろうが、たぶん信用されていなくても社会の中で行われていることがあるわけで、その人々に支持されていなくてもやれてしまうことの中には、制度的な強制力が利いている場合があるだろうし、それが多くの人たちの反対を押し切って行われているようなら、そこに権力関係が生じている場合もあり、警察権力による強制排除や強制執行などはその典型だろうが、そのような行為に対しても社会的な信用が生じているとすれば、そこで生じている権力関係から何らかの恩恵を受けていると思っている人や集団にとっては、そのような権力行為は信用できるものだろうし、そこで警察権力による強制排除や強制執行が行われているということは、そのような行為に抵抗している人や集団が存在していることになるわけで、警察権力を信用している人たちにはそれらの人や集団は信用できないだろうし、権力に刃向かう行為自体がやってはいけないことのように思われるかもしれないが、まずはどういう経緯でそれが行われているのかを知らなければその是非は判断できないことであり、それを知ることが大切なのだろうが、なぜ制度的な強制や権力関係に基づいた行為が成り立つのかというと、人々がそこで生じている制度や権力に従うように仕向けられていて、そこに社会が構成されていること自体が、その社会が内包している制度や権力関係に従う人々によって世の中の秩序が維持されていることを示していて、すでにそうなっている状況があるとすると、なぜそうしなければ制度や権力関係が維持できないのかといえば、そうしないと制度や権力関係に刃向かう人や集団を抑え込めないからだろうし、そうやって社会の秩序を維持している人や集団は、彼らが守ろうとしている制度や権力関係に刃向かう人や集団と戦いながら維持していることになる。そしてそうである限りにおいて、そこで生じている制度や権力関係を信用している人や集団と信用していない人や集団との対立や敵対関係も生じているわけだが、それらを信用していない人や集団も同じ社会の中で暮らしていることは確かで、彼らにしてみれば自分たちが信用できる制度や権力関係に変更したいのであり、そういう意味では社会に変革をもたらすために既存の制度や権力関係に刃向かっている事情があるわけだ。

 制度とは社会を統治するために必要な情報の蓄積であり、権力関係とは制度を利用する権利の蓄積でもあり、社会はそこで生じている制度や権力関係によって統治される人々の信用の蓄積に基づいて構成されているのだろうし、ではなぜ人々が制度や権力関係を信用して従っているのかといえば、そこに信用できる情報の蓄積があるからであり、彼らもその情報を利用したいからでもあり、当然そこで生じている蓄積の中には富の蓄積もあるわけだが、それを利用するには制度を活用する側になりたいわけで、そのためには制度が定める権力ゲームに参加して、そこで勝利しなければならないだろうし、要するに権力を行使する立場になる必要があるわけだが、そのような立場になれば、人々に制度を強制する側になれるわけで、制度に刃向かう人や集団に対して権力を行使することもできるわけだが、そのような立場になったからといって権力関係から自由になれるわけでもないし、勝手気儘な振る舞いができるわけでもなく、建前上は制度に従っているように装わないと、社会的な信用を失って競争相手から追い落としの対象ともなるだろうし、そこで構成されている制度に従う限りで権力を行使する立場でいられるだけで、俗に権力者と呼ばれるような人たちも、当然のことながら制度に従い権力関係を担うゲームに参加するように仕向けられていて、それも制度的な範囲内で行われていることであり、できれば制度自体を自分たちに有利になるように作り変えたいところだろうし、絶えずそうした試みを行いながらも、その作り変えようとしている制度に従っているように装うわけだが、彼らも彼らと敵対している反権力的な行動や言動を行なっている人や集団にしても、自分たちが理想とする社会を実現するためには、人々を拘束する制度や権力関係が必要であることは承知しているだろうし、結局はその制度や権力関係がそこで暮らす人々にとって有益であってほしいとは考えているのではないか。そうだとするとそれがどのようなものであっても、社会の中で構成される制度や権力関係には従わなければならない前提は変わらないわけで、ただそこで暮らしている人々にとって不利益となるような制度や権力関係は変えて行かなければならない点では、両者の意見は一致しているのではないか。そういう面では両者ともに制度に従い権力関係を担うゲームに参加しているのであり、ただどちらがゲームの勝者となるかを巡って争っているに過ぎないのかもしれない。


9月10日「行為を正当化する口実」

 それが何にしろ不寛容を煽り立てる人たちに特徴的なのは、単純な論理にこだわる傾向にあるだろうか。要するにやられたらやり返せということだろうし、やり返すことに正当性があると思っているわけだ。やり返せなければ負けてしまうからやり返さざるを得ないわけだが、そのやり返す発端となったやられたことに関して、なぜやられたのかを考える上で、やられた方に非があるとは思わないだろうし、やられた経緯が理不尽なことをやられたと主張したいわけで、だからやり返さなければならなくなるわけだが、その際やられたら倍返しだ的な煽動を伴うことは言うまでもなく、やり返すと同時にその場で起ころうとしている争いをエスカレートさせようとする傾向にあるのではないか。そんなこれ見よがしな騒ぎ立てが不快感をもたらすわけだが、世の中に向かって何かをアピールすることは、それがどの程度のものであろうと、多かれ少なかれその手の騒ぎ立てを伴っていることは確かで、そう言う面では仕方ないのだろうが、それが不快だと思ったらその不快感を何らかの形で表明しなければならないだろうか。その必要がないと感じたら無理に表明することもないのだろうが、そのやられたらやり返せ的な応酬が延々と続いていくような事態になれば、いつまでたってもそう言う成り行きから抜け出せないことも確かで、もちろん煽動している人たちは延々とそれが続いて欲しいのだろうし、そうでないとわざわざ煽動している意味がないのだろうが、それが不快に感じるならやり返す的な行為は慎んだ方がいいのだろうし、そのやり返し方が理不尽だから抗議せざるを得なくなる成り行きも一方では生まれるわけだが、いったんそんな成り行きに巻き込まれてしまうと、煽動している人たちの思う壺で、そうならざるを得ないのならそれも仕方のないところだが、少なくともそんな成り行きに巻き込まれていない人たちは、見え透いた煽動に呼応して何かを表明してしまう愚は避けたいところだろうし、できればその内容に言及しないことが賢明な判断となるだろうか。

 関係ないと思うなら野次馬根性に染まって火に油を注ぐような真似はやらない方はいいのだろうし、善意から首を突っ込んで要らぬとばっちり食ってしまうと藪蛇だろうから、静観している人は多いだろうし、それで構わないことは確かなのだろうが、そんな一般人には手の出しようがない問題がメディア上で話題となっていることも確かだろうし、やはり考えさせられるのはそんな問題なのかもしれず、またやられたらやり返して倍返しに成功するとは限らないことも確かだろうし、ただそんなやり返し的なアピールに賛同できなければ、なぜそうなるのかを考えてみる必要がありそうで、考えたところではっきりした結論が出るとも限らないが、それを考えているうちは煽動には加わらない成り行きにはなるだろうし、そこで立ち止まって考えることが何らかの歯止めとなっているのではないか。そこで争っているどちらが良くてどちらが悪いかと言うことよりは、そうなってしまう成り行きを考えてみることで、無理に事の良し悪しを判断する必要がなくなるような成り行きに持っていければ、そこで抱いてしまう不快感の落とし所が見えてくるわけで、落とし所として安易に良し悪しの判断を下さない状態を保てるのではないか。見え透いた煽動行為を不快に感じているのは確かだとしても、そうした行為をやめさせるような立場にはないのだから、どうあがいても煽動に巻き込まれて、巻き込まれたら煽動に対して不快感を表明する成り行きになってしまうわけで、その煽動に言及すればそうなるしかない状況の中で、ではどうすればそんな成り行きを回避できるのかといえば、無視する以外ではそのような煽動に至る経緯を考えてみるしかないわけだ。なぜそうなってしまうのかと言うよりは、いかにしてそのような煽動行為が行われるのかを考えてみることが、原因と結果の因果関係から外れる見解を導き出せるだろうし、必ずしもやられたからやり返したと言う因果関係がそれを成り立たせているわけではないことを理解できるのではないか。実際はやられたと因縁をつけたいわけで、初めからやり返す理由を探しているのであり、やり返すと言う行為の正当性を主張したいから、彼らはヤクザと同じようにやり返す口実を見つけようとしているわけだ。


9月9日「ブランドと社会的な信用」

 広く社会の中で信用を得た企業やその企業が取り扱う商品は、固有のブランドとして世の中に定着して優遇される傾向にあり、その企業の製品を買ったりサービスを受ける固定客がいるから、例えばその企業が新製品や新サービスを発表すればメディアが優先的に取り上げて、それが話題となって一定の宣伝効果をもたらして、結果的にそれなりの収益を上げられるわけで、そのような企業は無理な安売り競争などをしなくても安定した利益を得られるわけだが、そのようなブランドを確立するまでには、それなりに同業他社との熾烈な競争を勝ち抜いてきた経緯があり、中にはブランドを確立できずに競争に敗れ去った企業もあるのだろうし、結果的にはそのような業界内での覇権を確立して製品やサービスのブランド化に成功した企業はほんの一握りの数社に過ぎないわけで、そうやって世間的な信用が得られれば、その成功した数社がその分野で独占的な利益を得られる立場になるのだろうが、そうなるとその分野での新規参入は難しくなるだろうし、参入しても資本の面で手厚い支援を行う後ろ盾がいないと、成功して世間的な信用を得るのは困難になる。また新規参入してきた企業がそのような困難に打ち勝ってある程度成功してしまうと、業界内での独占状態が崩れて利益の配分が変わってきてしまうだろうし、その分野がもはや成長が見込めない状況だと、事業が成り立つ企業が増えた分だけ各社が得られる利益の取り分が減ってしまう事態にもなりかねず、それを避けるには各社ともに新規の顧客を開拓しなければならないわけだが、そうなるには人口が増えてしかも増えた人口の中から、それらの企業の製品を買ってくれたりサービスを受けられるような経済的な余裕のある顧客が出現しなければならないわけだが、そうならなければその分野は拡大できないだろうし、拡大できなければその分野で事業が成り立つ企業は自ずから限られてくるだろうし、いったん社会的な信用を得られたブランドであっても、いつ何かのきっかけで信用を失って没落しないとも限らず、ブランドを維持するために限られたパイの中での熾烈な顧客の奪い合いに発展する場合もありそうで、現状でも先進国の少子高齢化を背景としてそんな事態に陥っている面もあるだろうし、またこれから人口が増加して産業が発展すると見込まれる地域では、新規の顧客を開拓するための競争も激化するのではないか。

 そのようなブランド戦略が成り立つ分野は基本的にはどのような分野であっても構わないのかもしれず、その製品やサービスの品質や特徴が世の中に受け入れられれば成り立つのであり、絶えず性能を向上させたりデザインが魅力的であったりサービスが行き届いていたり、顧客を満足させてメディアが好意的に取り上げるような要素があればいいのだろうし、そのブランド以外の製品やサービスと差別化できる要素があれば、それが固有のブランドとして世間的に認められるわけで、もちろんそれ以外の製品やサービスを提供する企業も、あわよくば自社ブランドが世間的に認められることを狙って、メディアが好意的に取り上げてくれるようにアピールしてくるだろうし、そのような宣伝攻勢が功を奏して世間的に認められるようなブランド化に成功すれば、パイが限られていればその煽りを食って没落するブランドもあるだろうし、パイが広がれば世間的に認められたブランドの数が増えるわけだ。そしてまたブランドの高級化に成功すれば製品やサービスの価格を高くして利益を増やすことにも成功するだろうし、そうなるとそのブランドの製品を持っていたりサービスを受けられる人は社会の中でも経済的に裕福な上流階級に限られてきて、広く世の中で憧れを抱かせるような力を持つわけだが、そうなるとますますその企業は安定した収益を上げられるようになるのかもしれないが、それと同時にパイが狭まってさらに企業の数が絞られてくるだろうし、世界的に数社だけがその種の地位を獲得している実態があるわけで、そのような分野への新規参入はますます困難となるだろうし、ほぼその数社でそのような分野は独占状態のままとなってしまい、そのような産業の分野が廃れない限りはそんな状態が今後も続いてゆくのではないか。そしてそういう分野が廃れるということは、何も特定の産業の分野が廃れることを意味するだけではなく、社会構造が根本的に変化する場合もあるわけで、そのような産業の分野を支えていた社会の中での上流階級というのが没落する場合もあるのかもしれず、例えば数世紀前の欧米の市民革命などによって貴族階級が没落した時に、それと同時に貴族御用達の産業が衰退した事例があるのかもしれないが、現状で予想されるのは今後中東の産油国などで市民革命が起こって、現状で支配階級となっている王族などが没落すれば、王族達が上顧客の高級ブランドを取り扱う企業が打撃を被る可能性があるのかもしれない。


9月8日「人間的な動作と機械的な動作」

 人と人とが目的意識を抱いて連携して集団を形成すると、集団内で秩序や序列や役割などが生じて組織的な動作が可能となり、目標に向かって効率的に動くことができるようになるのかもしれないが、集団で活動することのメリットとしては、一人ではなく多数で知恵を出し合って最良と思われるやり方を試すことでき、また何よりも一人の力よりは多数の力の方が優っていることは確かだろうし、そういう面で一人でやるよりも集団でやる方が有利な行為があることは確かだろうし、集団的な行為にはそれなりに弊害もあるのだろうが、それが組織的な動作を伴う限りにおいて効率的に作業をこなせるわけだ。そしてそれが機械的な動作だと機械に置き換え可能な動作となるのだろうが、個人の動作もそれが機械的な動作なら機械に置き換え可能だろうし、別に機械的な動作に集団も個人もないわけだが、機械的な動作ではない人間的な動作というのが人工知能が真似ようとする動作であり、そのように動作する人工知能の製作に多くの人が組織的に携わっているとしたら、それは人間的な動作でもあり機械的な動作でもあるわけで、要するに組織的な動作と言えるのかもしれないが、そこで人が人工知能という機械を製作しようとしていることは確かであり、その機械が機械的な動作ではなく人間的な動作を真似ようとしているのだから、別に人間的な動作を人間が行なおうと機械が行なおうとそれを区別する必要はないのかもしれず、機械固有の動作というのが現代文明を支えていることは確かだとしても、その機械を人と人とが連携した集団の組織的な動作が作り出しているのだろうし、集団としての目的が機械を作り出すことに向けられているわけで、そうやって作り出された機械の動作が人間をシステム的に動作させるように誘導している面もあるのかもしれず、人は機械を操縦することによってシステム的に動作するだろうし、そもそも人が集団となって組織的に動作すること自体がシステムそのものであるわけだから、機械を操縦することも機械の指示に従いながら動くこともシステム内での人の動作となるわけだ。そこに何らかの制度があってその制度に従うということは、そこで求められているのは機械的な動作なのかもしれず、それに対して人間的な動作は制度に逆らうことになると思われてしまうが、制度自体が制度に逆らう動作も考慮されている場合があるわけだから、単純に制度に逆らうのも機械的な動作に含まれるのかもしれない。

 そうなるとでは人間的な動作とは何なのかと問うことになるが、機械自体が人間が作ったものなのだから、機械的な動作も人間的な動作に含まれるのかもしれないし、人間的な動作には機械的ではない動作があると思われるなら、その機械的ではない動作も人間的な動作に含まれるのではないか。そしてその人間的な動作の中には機械を使って人を操縦しようとする動作も含まれるのだろうし、誰かがスマホのニュースアプリなどを利用して恣意的に厳選されたニュースを配信し続けて、都合のいい世論形成を画策しているわけではないだろうが、少なくとも人々が関心を持つようなニュースを優先的に配信するプログラムが組まれている可能性はあるだろうし、そうやって常に世間の多数派が持つような関心へと人心を誘導するような傾向があるのだとすれば、そのような動作も人間的な動作に特有のものかもしれないし、そうやって世の中で多数派が形成されているとすれば、それはシステム的に構成される機械的な動作であるとも言えるのではないか。例えば人が暇つぶしにスマホを見ているだけだとすれば、暇つぶしに合うようなたわいない話題を優先的に求めるだろうし、そこで真剣に考えるような話題はいらなくなるわけで、統計的にそのような話題に多くの人が関心を持っていると判断されれば、機械的にそのような話題ばかりが優先的に配信されることになるわけで、多くの人がそれを見ればそれだけ広告料も稼げるだろうし、ますます暇つぶしの話題ばかりがニュースとして配信されることになると、それが世論形成にどのような作用を及ぼすのかはよくわからないところかもしれないが、果たして何か真剣に考えなければならないような話題がスマホで見るようなニュースに含まれているのかというと、全くないわけではないだろうが、別にあったところで暇つぶしに画面を見ているのだから、何かそこから真剣になって物事を考えるような成り行きにはならないだろうし、そうならなくても構わないわけで、くだらない話題ばかりで飽きてしまったら画面を消してスマホから関心が離れてしまうだろうし、そんなふうに人々が関心を持ちそうな話題を優先的に配信するプログラムを作った側の思惑から外れてしまうような動作が人間的な動作だとも言えるわけで、スマホの機械的な動作に対して意識して裏をかくわけでもなく、そうなるのが自然な成り行きになってしまうのが人間的な動作なのかもしれない。


9月7日「信用のネットワーク」

 ある面においては社会的な信用を得るために人や集団が社会の中で活動していることは確かであり、社会的な信用というのは人や集団が活動する上で欠かせないものとなるだろうし、信用を得る以外の目的を成し遂げようとする時、信用を得ることでその活動が円滑に運ぶことを期待しているわけで、目的を達成するにはまずそれに必要な人や集団からの協力が欠かせなくなるだろうし、それらから協力を取り付けるには信用されなればならず、そういう意味で周囲の人や集団から社会的な信用を得ることが当面の目標となり、それが目的を達成するための必要条件となる場合が多いのではないか。ただ社会的な信用というのは得ようとして簡単に得られるものでもないだろうし、また活動している過程で誠実な対応を心がければ自然と得られてしまうこともあるだろうし、いくら誠実な対応をしているつもりでも、活動そのものが周囲の反感を買うような性質のものなら、いつまでたっても信用されない場合もあるだろうし、活動を通じて関係し合う人や集団に好印象を持たれるような活動の内容になっていれば、たぶん信用されることになるのではないか。それがどのような活動なのかといえば、関係し合う人や集団に利益をもたらす活動となるだろうか。そしてその利益が経済的な利益なら金銭を介した関係となるだろうし、それに関係し合う人や集団の間で経済的な利害の絡んだネットワークが生じることになるのではないか。もちろんそれが経済以外でも成立する場合があるわけで、中には怪しげな秘密結社的な友愛組織が生まれる場合もあるだろうし、また宗教教団などを形成する場合もあるだろうし、そんな大それたものでなければ、趣味の集まりや主催者の家に集まって談話を楽しむサロンのようなものまであるのではないか。そうやって結束のゆるいものから強固なものまで様々な関係のネットワークが社会の中で張り巡らされているわけだろうが、そんなネットワークを通して何らかの情報が蓄積される場合があるだろうし、そのネットワーク内で蓄積され共有された情報がそのネットワークの性格を表していて、その中に特有の論理や様式が生まれると、それらを共有するネットワークで繋がった人や集団と、それ以外の人や集団との間に差異が生じるわけだ。

 その差異がネットワークを共有する人や集団にとって利益になるとすれば、その利益を求めてネットワークに繋がっていない人や集団もネットワークに繋がろうとするのだろうし、ある意味でインターネットというのも多くの人や集団が利益を求めて繋がろうとして世界中に拡大したわけだろうし、それが実際に利益を得られたかどうかはともかく、多くの人や集団がネットに繋がれば、そこで得られる利益を巡って競争が起こって、競争に打ち勝った人や集団に何らかの利益がもたらされたことは確かであり、一部ではその利益を独占することでIT関連の巨大企業が生まれたわけで、そんな利益を巡る競争は今も続いているわけだが、すでにいくつかの巨大企業が存在していること自体が、ある方面での競争はあらかた決着がついたことにもなるのだろうし、今さらゼロからスタートして巨大企業が生まれることはないのかもしれず、あとは同業他社との吸収合併などの離合集散が繰り返されるだけかもしれないが、いったんそうなってしまうとそこで形成されている社会的な信用というのは、競争に打ち勝った数社の巨大企業が独占している状態にもなるわけで、ネットに繋がっている他の人や集団もそれが当然のことのように思うだろうし、すでにそんな前提がそこで出来上がってしまっているわけだ。だがそうなってしまうとそれ以上の進展がそこから生じるのかということになるわけだが、世界中のほとんどの人や集団がネットワークに繋がっているわけではないとしても、主要な人や集団がネットを通して情報を共有しているとすれば、それらの人や集団の間では差異は生じないだろうし、ただネットから情報を受け取っているだけでは利益など得られないのは当然のことで、また情報発信者になるだけでも信用は獲得できないだろうし、ではどうやって信用を得て利益を獲得できるのかといえば、そこで起こっている何らかの競争に勝ち抜くしかないだろうし、たとえそれがたわいない内容だと思われようと、そこで構築されている利益を生み出すシステムに従うしかないわけで、実際に広告収入などを得るための競争が行われていて、絶えず少しでも提供する情報の閲覧者を増やすための創意工夫が求められているのではないか。そうなっている時点でそのようなシステムを構築してネット上に普及させた巨大企業の思う壺なのかもしれないが、そこで競い合っている人や集団にとっては、そのような前提を受け入れることで成り立つ競争なのだから、それに逆らうことなどできないし、逆らったところで何の利益にもならないわけだ。


9月6日「信用と保険」

 人や集団が社会の中で何らかの機能を果たしている実態があり、それがその機能に関係する人や集団の間で社会的な信用を生んでいるとして、それに伴ってそれらの人や集団が取り扱う物や情報やサービスも信用されていて、それらの人や集団の活動から物や情報やサービースが生まれているとすればそれは当然のことだろうが、またそうやって社会的に信用されている人や集団の機能が何らかの原因で阻害されるリスクに対して保険がかけられ、それらの人や集団が支払い可能な保険料と、実際に機能が阻害されて保険会社や公的な機関が保障可能な保険金の額の限度内で、保険料も保険金の額も決められているわけだろうが、それが社会の中で信用や信用が失われるリスクに対して支払われる妥当な金額だとすれば、保険というサービスにも支払われる保険料や保険金の額の範囲内で信用が生まれていて、信用されている限りで保険というサービスも社会の中で機能していることになるだろうか。そうだとすると結局社会的な信用というのは、金銭のやり取りを介した経済的な信用ということになりそうだが、人や集団の社会的な機能というのは金銭のやり取り以外で信用を得ることが可能だろうか。愛情関係や信頼関係などを構築する上で相手の信用を得るのは、金銭のやり取りを介した経済的な信用とは別のことのように思われるのだが、中には愛情関係と信頼関係と金銭関係が入り混じっている場合もあるだろうし、金の切れ目が縁の切れ目と言われるように、そこに金銭関係が入り込んでくると、愛情関係も信頼関係も信用できなくなってくる場合もあるだろうし、常にそこで何を信用するかでそのような関係に直面した人が試されているのかもしれず、そこで人や集団が何に基づいて機能しているのかを捉えておかないと、そこで成り立っている関係が何から生じているのかがわからなくなってしまうこともありそうだ。金銭的な経済関係が世の中で成り立っている全ての関係の土台となっていると考えるなら、まず優先されるべきは金銭的な経済関係となるわけだが、それよりは愛情関係や信頼関係などを重視したければ、要するに関係する者同士が経済的に同等の立場である必要があるのだろうし、経済的な束縛から自由である限りにおいて愛情関係や信頼関係が成り立つとすれば、それは富裕層の中での関係となってしまうだろうか。

 そうではない関係があるとすれば、例えばネット上の掲示板などで無神経な言葉を投げ合う関係となったり、いいね!ボタンを押すだけにとどめておくような関係となるだろうか。そこで信用とか信頼関係が生まれるとは思えないが、それらも一応は社会的な関係であり、何らかの機能がそこで生じているのだろうし、そのような機能や関係の良し悪しは別として、社会現象の一部としてそこに人や集団が関わっている実態があり、場合によっては金銭を介した経済関係もそこへ入り込んでいるのではないか。またどうしても金銭関係よりも肯定したくなる愛情関係や信頼関係などにしても、何かのきっかけで憎悪や不信や懐疑などの否定的な感情が入り込んで関係が崩れることがあるわけで、そういう意味で社会的な関係というのは繋がったり離れたりする性質のものであり、いくら関係の絶対性を強調したところで必要でもあり不要でもあるような不安定なものなのではないか。またそんな中でも意中の人や集団から信用や信頼を得ようとする者は、社会の中でその人や集団の役に立つような役割を担って機能しようとするのだろうが、そういう社会的な役割や機能に特化して得られる信用というのは、それを果たしている限りでの信用であり、何らかのきっかけで役割や機能を果たせなくなれば、途端に信用を失うわけで、結局は愛情関係も信頼関係もそのような関係を維持する上での役割を果たせなくなれば解消してしまうものなのかもしれず、それを永続させようとしてできるようなものでもないのだろうし、それは金銭的な経済関係にも言えることで、そのような信用を失うリスクに対して保険が入り込んでくるわけで、リスクを恐れて保険料を支払う余裕があれば、信用を失った時の金銭的な見返りを期待してしまうのだろうし、それが本当に金銭的な見返りで埋め合わすことができるかどうかはよくわからないところかもしれないが、やはりそういう部分では金銭的な経済関係を信用しているわけで、どのような関係にしても、そのような関係が失われるリスクに対して保険をかけるような行為に及べば、すでにそこには金銭的な経済関係が入り込んでしまっているわけで、そういう面では社会のあらゆる関係に金銭的な経済関係が入り込む余地があるのかもしれないが、それを拒む意志がどこから生じるのかといえば、それは時として金銭関係に対して抱く不信や懐疑の念だろうか。


9月5日「信用の創造」

 人や集団やそれらが取り扱う物や情報やサービスに生じる社会的な信用には、それらが構成する社会が抱え込んでいるある種の差別や偏見が潜んでいて、しかもその社会の構成員にとって差別や偏見は否定すべきことではなく、それを共有する程度や度合いに応じて社会内での信用が生まれ、そうやって生じる信用に基づいて、社会の中での階層や地位や立場などが人や集団によって構成される。例えばその社会内で信用できる者は、社会内で共有され認められた階層や地位や立場などをわきまえた行動や言動ができる者であり、そのような行動や言動がその社会の秩序をもたらし、その秩序から生じている階層や地位や立場などを守るような作用を行動や言動によってもたらすことが、それらの階層や地位や立場によって構成される社会全体を守ることだと認識されているのではないか。それは差別というよりは階層間の区別であり、偏見というよりは地位や立場に応じた見解となるのだろうが、低い階層の出身者からしてみれば差別に思われるだろうし、地位や立場にこだわらない意見を述べようとすれば、それは地位や立場をわきまえない思い上がった意見とみなされてしまうのではないか。また何らかの集団が世間一般的に信用できる集団だと思われているとすれば、それは社会内で成り立っている制度や秩序を守っているからだろうし、さらにその集団の活動が社会に利益をもたらしていると思われるなら、社会にとってその集団は信用できるし有益な集団と思われるのではないか。さらにそれらの人や集団が取り扱う物や情報やサービスが信用できると思われるなら、やはりそれは社会の制度や秩序を守る上でそれらが有益だと思われる限りで信用されるのだろうし、逆に人や集団やそれら取り扱う物や情報やサービスが社会の秩序を乱して制度を破壊するような作用が認められるなら、それらは社会にとって有害で信用できないものとなるだろうし、それらを信用して利用したり追従するような者や集団は、場合によっては社会の敵とみなされて非難や弾圧の対象となるのではないか。そういう意味で社会的な信用とはその社会そのものを守り維持するような作用を及ぼす物事に生じるのであり、一般的には社会の秩序を乱したり制度を破壊するような作用を及ぼす物事は信用されないわけだ。

 しかし実際には社会の秩序を乱して新たな秩序を構築して、旧来の制度を壊して新たな制度を作り上げるような人や集団が歴史上必ず現れるわけで、そのような人や集団は新たな秩序や制度の中では信用されるわけで、そのような価値の創造者たちによって社会が刷新されることになるわけだが、刷新される過程で旧来の価値観を守ろうとする側からの激しい抵抗に直面するだろうし、そこで改革勢力と旧主派勢力との衝突が起こるわけだ。そう捉えてしまうと単純化された相関図を想像してしまうわけだが、どうも実態はそうではないようで、改革派と称する人たちは自分たちが社会の中で主導権を握るためには利用できるものは何でも持ち出してくるわけで、場合よっては旧主派の価値観もそのまま利用しようとするし、そういうところでは彼らこそが古き良き伝統の体現者のように振る舞うだろうし、例えば通俗的な歴史家の間では時代の革命児のごとくもてはやされる織田信長が、その前の時代の室町時代に全盛だった伝統芸の能を愛好していたり、その部下で天下統一を果たした豊臣秀吉もその後を継いだ徳川家康も、自分たちの支配の正統性を根拠づけるのに朝廷の権威を利用したり、その伝統はその後の明治政府においても受け継がれたのだろうが、新しい秩序を構築するたびに、その都度古い権威との連続性を強調して、古い秩序にしがみついて抵抗する人たちを屈服させると同時に、権力を継承した自分たちを信用するように強要するわけで、要するに文句を言わせないようにするために古い意匠を利用するわけだ。実質的にはそこで歴史的な断絶と不連続が生じているわけだろうが、その古い意匠を換骨奪胎した新しい秩序というのが、歴史的な連続性を装っているわけで、それはある種のまやかしでしかないのだろうが、敵対する勢力を取り込むにはそれが必要なのだろうし、そうすることで信用が生まれるわけだが、信用というのはそれが形式的な傾向であるほど、その中で本音と建前との間で隔たりが大きくなるのだろうし、それが形式的な信用であるほど、本音の部分では信用していないわけだが、社会通念上は儀礼的に信用していることを装わなければならなくなり、世の中に向かって社会の秩序や制度を守っていることをアピールすることで世間的な信用を得ようとするわけだ。そして守っているはずの秩序や制度を自分たちに有利になるように作り変えようとするのではないか。そういうやり方の自称改革派は世の中にいくらでもいるだろうか。


9月4日「リスクの分散」

 誰がどこの国が決定的な主導権を握っているわけでもなさそうな世界情勢の中で、別に国や国の中で指導的な地位にある人物に何が求められているとも思えないが、その一方で議会や行政機関やメディアなどを介して生じる政治的な思惑から外れたところで、何か世の中を変えるようなことが行われているとも思えないだろうし、そうでなくても世の中など誰の思惑とも関係なく勝手に変わっていってしまうようにも思えるのだが、逆に特定の誰かとかどこかの国家とかが何らかの主導権を握っているように見える時は、かえって世の中が危機的な状況に陥っている時なのかもしれず、世界中で争いや対立が絶えずに、各地で起こっている紛争が解決の目処すら立たずに慢性化しているのが当たり前の状況である方が、それが健全な状態とはいえないものの、とりあえずはそれが力の均衡とは無縁の錯綜状態となっていることの証しなのかもしれず、特定の勢力による武力的な支配が効力を失っているから、いつまでたっても紛争が集結しないのかもしれない。それが世界の混沌と無秩序に拍車をかけているとも言えるかもしれないが、そこに社会が構成されている限りはそれなりに秩序が保たれているのだろうし、もちろんだからこそ秩序に刃向かう気にもなれるわけで、そこから紛争が生じる可能性が出てくるわけだが、そんな行為によっていったん秩序が破壊されれば泥沼の内戦状態となるのかもしれないが、そこまで進展せずに破壊工作を抑え込んで一応の秩序が保たれていれば、そこで経済活動が行われてそれなりに世の中の平静が保たれるのだろうし、もちろん平静が保たれているように見える世の中でも様々な対立や争いが絶えないのだろうが、やはり内戦状態に至ってしまう地域では、特定の勢力が主導権を握って世の中の支配を強めようとする過程で、取り返しのつかない対立や不均衡が社会の中で表面化してしまうわけで、そこで対立が決定的に見えてしまうような状態になってしまうと、ごまかしが利かなくなってしまうのだろうし、そういう意味で社会的な対立を煽るような行為は紛争のリスクを高めてしまい、リスクを回避するには社会の中でくすぶっている人々の不満を絶えず散らすような作用が生じていなければならないのかもしれないが、社会の中でそんな役割を担っているのは、やはり娯楽の類いなのだろうか。

 だが娯楽を楽しむには世の中が平和であることと経済的な余裕が必要だろうし、また平和であることは仕事に追われて秩序に刃向かうことも娯楽を楽しむ余裕さえない状況も作り出しているだろうし、要するに世の中が平和であることは、経済的に余裕のある人は娯楽を楽しみ、余裕のない人は仕事に追われる日々を過ごさなければならない状況を作り出していて、それが平和な状態における社会の秩序だと言えるだろうか。確かに仕事があればそうなるだろうが、仕事がなくて娯楽を楽しむ余裕もなければ、秩序に刃向かって暴動でも起こす可能性が出てくるだろうか。それ以前に生活の糧を得られなければ餓死するしかないわけだが、実態はもっと事情が複雑に入り組んでいて、経済的に余裕があって暇を持て余している人たちが、反体制的な活動に身を投じている場合もあるだろうし、また中には仕事と娯楽と反体制的な活動を両立させている人もいるだろうし、ニートのように仕事もやらずに親に食わせてもらいながら娯楽に興じている人もいるだろうし、一口に反体制的な活動と言っても、暴力的な武装闘争とは無縁の平和的なデモ活動にとどめている人たちもいるだろうし、議会に代表を送り込んで政治の場から世の中を変えようとしている人たちもいるだろうし、一つの方法で何かに取り組むというよりは、多元的に様々な方面から社会に影響を及ぼすようなことを試みている人たちもいるのではないか。そして別に世の中を変えようなんて大それたことは考えずに、気楽にいい加減なことをやりながら自然と社会の主流から外れていってしまう人も中にはいるのだろうし、そうやって絶えず多方面に分散していってしまいがちな人々の関心を、一つの目的へと収斂させることなど無理なのかもしれず、むしろ人々の関心が分散していってしまう成り行きに身をまかせていた方が、相対的な権力の弱体化に貢献できるかもしれないのだが、たぶんそれではまったく説得力がないわけで、ただでさえ同じここざしを持つ同士を集めて集団でまとまって力を発揮させようとしている人たちには、そんな態度では何もやらないのと同じだと思われてしまうだろう。だがそう思われてしまうことも含めて世の中で生きている人たちの事情は複雑に絡み合って錯綜し合い、その結果として何らかの秩序が構成されているように思われるところと、無秩序としか感じられないようなところがあるのかもしれず、必ずしも一つの方向でまとまっていないところでは、価値観や嗜好の多様性が実現されていて、人や集団の間の敵対関係が相殺されて減じられている限りで平和が実現していると言えるのではないか。


9月3日「信用の実態」

 人の社会的な信用がどこから生じるのかと言えば、その人の行動や言動の確実性から生じるだろうか。たとえ経歴や社会的な立場や地位が立派でも、信用できない人はいくらでもいるだろうし、何を信用するかでもその信用度は変わってくるかもしれないが、時と場合によって、その場その時の状況や雰囲気によって、例えばそれが何らかの交渉の場であれば、交渉の内容や交渉相手を信用したりしなかったりする場合がありそうで、一概に信用できる条件をあげても、状況が変われば条件も変わってくるのかもしれず、その場の状況に応じて臨機応変な対応や判断が求められ、信用度を他と比較可能な数値や記号で表せれば、それが一般的な目安にはなるだろうが、今度はそのような数値や記号を用いた比較が果たして信用できるのかとなるわけで、大抵は信用格付けを行なっている業者や機関を信用することになるわけだが、一般的にはその国の経済状態が悪ければ信用度が下がって格付けも下がり、その国が発行した国債の市場価格も安くなり、またその企業の業績が悪化すれば信用度も下がって格付けも下がり、その企業が発行した社債の市場価格も下がることになり、格付け会社が決める格付けが高い債券ほど信用度が高くてリスクが低く、格付けが低い債券ほど信用度が低くてリスクが高いわけで、社債や国債も信用リスクが高い債券ほど金利が高くなり、信用リスクが低い債券ほど金利が低くなり、リスクが高いと金利が高くなって市場で取引される債券価格は安くなり、リスクが低いと金利が低くなって債券価格は高くなる。金利だけを見るなら、信用度が高い債券ほどローリスクローリターンで、信用度が低い債券ほどハイリスクハイリターンとなるわけだが、信用の低い債券は市場での取引価格が下がって額面割れを起こしてしまい、売ってもハイリターンとはならない。またそれが国債となると、信用の低い国の通貨が安くなるわけで、いくら金利が高くなってもその国の通貨が安くなってしまえば、それが外貨建ての外国の国債なら買っても利益は期待できないだろう。

 もちろんそんな単純な基準だけから信用度が決まれば、わかりやすくて誰も困らないわけだが、例えばアメリカは支配的な国際通貨のドルを発行しているので、どんなに経済状態が思わしくなくても財政赤字が拡大しても、アメリカの国債が債務不履行になるリスクは低いと判断されれば、格付けは高いままなのだろうし、またアメリカの大手証券会社の取り扱う金融商品なども、ローンが払えなくなる危険性の高い低所得者向けの住宅ローンを他のローンと合体して証券化すれば、その分信用度が増して格付けが上がるという操作を施して、そんな証券を金融商品として売り出して、結果的に住宅バブルが弾けて住宅価格が下がって、ローンが払えなくなった住宅の担保価値も下がって、それがリーマンショックと要因となったわけだろうが、そうなると信用格付けそのものが信用できない面も出てくるわけで、実際にアメリカのニューヨーク証券取引所の平均株価が異常な高値で推移しているのも、何か企業の信用度に公平中立性を逸脱した偏りが生じているのかもしれず、それに関連して年間数万台の自動車しか生産していないテスラ社の株式の時価総額が数百万台も生産しているGMを上回ったという事態もそれを象徴していると言えるだろうし、実際にメディア的な話題性からいえば、かっこいい電気自動車を製造販売しているテスラ社の方が世界的に注目度が高いだろうし、そのようなメディア情報からもたらされる印象によって株価も信用度も形成されてしまうのだとすれば、各国の政府も大手企業もメディア上での印象操作を重視するのは当然だろうし、そのテスラ社やロケット打ち上げ事業や新交通システムなどを手がけている企業経営者がメディア上で一躍時の人として祭り上げられ、その言動や一挙手一投足までが世界的に注目されていることも、まだ業績の定まらないそれらの事業の信用度を高めるのに多大な貢献をしていることは確かであり、その株価の高騰がいつまで続くのかは今後の事業展開の成否にかかっているのだろうが、すでに彼を好意的に取り上げるメディアとともに世界的な世論を味方につけているわけだから、それだけでも事業を成功に導く上で有利な状況となっているわけだ。


9月2日「保険と保障」

 世の中で身の安全と資産や財産の保全を金銭面で助けるのが保険の機能なのだろうが、それで全面的に保障できるわけではないだろうし、保険の加入者が納得できる範囲内での保証規約に同意したから契約を結んで、それなりの額の保険料を払っていることになるわけだ。ただ保険の種類にもよるだろうが、全ての加入者が保険金を請求するような事態になれば、とてもじゃないが対応できなくなるだろうし、損害保険などの場合は加入者のほとんどは保険金を請求するような事態に遭わないまま保険料を払い続けているわけで、医療保険などの場合も加入者が病気にかかる割合を統計的なデータを基にして割り出した結果から計算して、保険会社が収益を得られるような額の保険料を設定しているわけだろうから、結果的に保険事業が何らかの人助けに貢献している面はあるのだろうが、それはあくまでも金銭的な面においてであり、保険会社も加入者も金銭的な損得勘定を介して互いを利用し合っているわけだ。また公的な社会保険も行政と行政的なサービス受ける側の住民との金銭的な契約関係なのだろうし、健康保険や年金保険や雇用保険や労災保険などの社会保障を受けるには、住民が保険料を払っていることが前提となるわけで、それも金銭面だけの保障となるわけだろうが、それ以外の保障となると民間の警備会社などもあるが、主に警察機構による防犯や治安の保障や軍隊による安全保障が行政の役目にはなるわけだ。それらすべてが住民が社会の中で暮らしていく上で身の安全と資産や財産を保全する助けにはなっているのだろうが、身の安全はともかく資産や財産は経済活動によって得られるものだから、経済活動に関わらない限りは資産も財産も得られないわけで、それが金銭的な価値や価格を伴うものであれば当然売買の対象となり、保険サービスも行政サービスも金銭的なやり取りによって成り立っていて、民間の保険サービスは住民が任意で選べるのに対して、公的な保険サービスや行政サービスは制度による強制的な行為を伴うものであり、それは売買とは異なる金銭的な契約関係であり、しかも民間の売買を基本とした金銭的な経済活動を前提として、それに寄生して成り立っているような強制的な契約関係であるから、民間が不景気になれば税収が減るし、税収が減っても予算規模を確保したければ赤字国債を乱発するような事態にもなるし、民間の経済状態から影響を受けやすいことは確かだ。

 人が身の危険や安全に対価を払うような成り行きは、そこに社会が構成されていて金銭的な契約関係が広く普及していることが前提となっているわけで、それなしでは行政的な制度も維持できず、現状であるような国家自体が成り立たないのかもしれないが、そういう水準で物事を考えても、それを前提として社会が成り立っている以上は、そこで暮らしている人々には関心のないことかもしれず、逆に関心があるのは狭い金銭を介した契約関係上のことであり、軋轢や争いが起こっているのもそうした水準でのことであり、そうした水準では民間の保険や公的な社会保険も社会の中で何らかの役割を果たしていて、実際に事故や災害などが起こるような様々な場面や局面で有効に機能しているのだろうし、そのような保障や補償のサービスや形態が広く世の中に受け入れられている実態があるわけだ。それが資本の元となる資産や財産を守ってはいるわけだが、一方でそのようなサービスが広く世の中から資金を集める役割も担っていて、集められた資金の活用先として金融市場での投資が行われているわけだ。要するに資本を守るようなサービスが資本を増やす行為に転化されている実態があるわけで、金銭を介したサービスは常に資本の増加を目指すことに結びついていて、それがそのようなサービスの究極の目的だとも言えなくもないが、資本が増加すれば増加した資本の新たな投資先を見つけなければならなくなって、見つかったらさらに資本を増加させるための投資を行おうとするのだろうが、そこでも金銭を介したサービスが開発される傾向にあるのだろうし、それが民間の保険業の範囲内で行われるとすれば、新たな保険商品の開発となるわけで、何やら至れり尽くせりのサービスを謳った保険の広告宣伝をメディア上で見かけることも多いかもしれないが、そのようなサービスが金銭的な利益を度外視した親切心から行われる、人と人との間で生じる助け合い精神を圧迫しているとまでは言えないだろうが、全ての社会的な関係を金銭的な関係に置き換えることは無理だろうし、功利的な利害関係から生じる活動以外の活動も社会の中で行われていることも確かだろうし、はっきりした契約関係がなくても家族関係や交友関係がなくても、他人を助けるような行動を起こしてしまうことも時にはあるだろうし、別にそういう行動を率先して行う必要などありはしないのだろうが、必要がなくても行ってしまうような成り行きがいつ生じるとも限らないわけだ。


9月1日「保険の機能」

 保険料はリスクが高いほど高く、リスクが低いほど低いのが普通だろうが、それは保険の対象となる行為や現象の信用にも言えることで、信用がないほど保険料が高く、信用があるほど保険料が低いわけだが、そのリスクと信用をどう判断するかで保険料も変わってくるわけで、それに関してはそれなりに妥当な保険料の積算根拠も基準も示されているのだろうが、人や団体の行いや状態や、あるいは自然災害を伴うような自然現象に、何らかの物的、精神的、金銭的な損害や損失をもたらすような危険性があれば、それらから損害や損失を被りそうな人や団体が保険の対象となり、それらを対象とした保険に加入すると、公的な機関や民間の保険会社に保険料を払ったり積み立てたりするわけだが、そして実際に保険料を払ったり積み立てたりしている人や団体が損害や損失を被れば、それ相応の積算根拠に基づいた保険金が払われることになり、積立金の方は一定の期間にわたって積み立ててきた合計金額から、契約時に決められた期間にわたって小口に分割されたり場合によっては一括して償還され、その際に利息も払われることがあるわけだが、その種の保険だと保険会社が積み立てている期間の間に資金を運用して増やさないと利益が出ないわけで、掛け捨て保険なら加入者が保険が効力を持っている期間内に実際に損害や損失を被らなければ、払った分がそのまま保険会社の収益となるわけだろうが、どちらにしても人や団体が保険に加入すれば公的な機関や保険会社に資金が蓄積されることは確かで、その蓄積された資金を運用して利益が出れば、その分だけ金融資産が増えるわけだ。保険会社と保険の加入者との間で取り交わされる契約内容を記した保険証券自体は、それを介してたとえ金銭のやりとりが行われるとしても、他の有価証券とは違って厳密には金融商品には含まれないのだろうが、保険を取り扱う公的機関や保険会社が集めた資金を金融市場で運用している実態はあるわけで、そこでは有価証券などの金融商品の売買が行われるわけだから、そういう部分で公的機関も保険会社も金融資産の形成に関わってくるわけだ。

 銀行などの金融機関の方でも資金を集める手段として保険を取り扱っていて、それは同じ金融グループの傘下の保険会社と提携している場合もあるのだろうし、直接保険商品を取り扱っている場合もあるのだろうが、また会計事務所や警備保障会社などにも保険会社が食い込んでいて、警備保障会社が一般の顧客向けに売り出すホームセキュリティなどのサービスとともに保険商品も売り込む場合もあるし、会計事務所は取引のある企業の従業員や法人向けに損害保険や生命保険を売り込むわけで、加入させれば提携している保険会社から会計事務所や警備保障会社などにマージンが払われる仕組みなのだろうし、また法人となると従業員を雇用する上で健康保険や年金保険や雇用保険や労災保険などの公的な社会保険に加入する義務があり、その支払いだけでもバカにならない額に達するわけだが、結局事業の収益が慢性的に悪化しているような場合は、まずはそれらの公的な保険料の支払いを免れようとするわけで、それらの労働者を守るための公的な制度も、経済状況が悪化すれば意味をなさなくなる場合があるわけだ。そんなわけで世の中の経済状態が良ければ人や企業に保険料を払うだけの余裕が生まれる一方で、経済状態が悪化すれば真っ先に切られそうなのが保険料の支払いとなるのかもしれないが、しかし本来の趣旨からすれば保険そのものは危機的な状態となった時に頼りにされるものなのだろうし、リーマンショックなどの金融恐慌で大手の保険会社が経営危機に陥ったり、景気の悪化で公的な保険料の未払いが増加したり年金制度の破綻が取りざたされたりするということは、逆に保険そのものがいざという時に機能しない危険性がありそうで、保険自体の存在が矛盾している面もあるわけだが、実質的に資本主義経済の中での保険事業の機能というのは、広く世の中から資金を集めて、集めた資金を投資に回す役割が期待されていると考えるのが妥当なところで、実際に経済が好調な時には世の中の金余りを背景にして、保険業界の収益が増える傾向にあるのだろうし、実際に保険業界の資金運用が株や債券や為替などの取引の活況に貢献しているのだろうが、また経済があまり好調でなくても金融市場を支えるために、積極的に公的な年金や保険などの資金が投入される傾向にあるのかもしれない。


8月31日「機械の使用」

 機械は一定の作業をこなすのには欠かせないもので、決まり切った動作を正確に行うように設計されている。それは道具の進化形態だとも言えるが、道具とは違って人の手を離れて機械自体が作業の主体となって、人力ではできないことをやるようにできている。もちろん機械自体は人が手で操作することが多いわけだが、駆動している部分は人力ではなく、人から独立して駆動しているわけで、それは家畜などの動作に近いだろうか。家畜と違って生命体ではなく、エンジンなどの内燃機関やモーターなどは電力で駆動するわけだが、電力は発電施設から送電されるわけで、自家発電も含めて発電には資源となる燃料や水力や太陽光や風力などの自然エネルギーを利用している。機械は人力で行うよりは飛躍的に大量の作業がこなせるので、資本主義経済の中で生産量の増大と富の蓄積には欠かせないものとなっているわけで、機械の技術革新と資本主義経済の拡大が一体化して進行してきた歴史的な経緯があるわけだが、それに伴って人口も飛躍的に増大して、増大した人口を養うために経済もそれだけ拡大したわけだ。経済の拡大には人口の増大とともに、一人当たりの消費量の増大も相乗効果となってその拡大に貢献してきたわけだが、人口が増えずに一人当たりの消費も増えなければ経済が拡大する必要はなく、実際に経済の拡大が止まるはずなのだろうが、機械の技術革新の方もより少ないエネルギーで効率的に作業をこなせるように進化してきたわけだろうし、また人工知能などを利用した自動化技術の進化とともに、より人手がかからずに作業できるようになると、人そのものが必要でなくなってくる可能性があるわけで、そうなるとますます人口が増える必要がなくなって、それと同時に一人当たりの消費量も増えなければ、経済の拡大が望めなくなってくるわけだが、そうなると経済が停滞して富の蓄積が難しくなってくるだろうか。

 実態としてはまだ世界的には人口の増加が続いている状態だろうから、はっきりしたことはわからないのかもしれないが、富の蓄積には富の集約が欠かせないだろうし、実際に世界的に貧富の格差が増大しているとすれば、絶えず富裕層に向かって富が集約し続けていて、経済的な不均衡が拡大しているとも言えるわけだが、一方で金融資産の増大とともに負債も拡大しているとも言えるし、負債も資産の一部なのだろうから資産が増えて富の蓄積が続いていることにはなるのだろうが、蓄積した富を投資に回さなければ経済活動が停滞してしまうわけで、経済活動が停滞すれば富の蓄積も停滞するわけだから、そうなると簡単でわかりやすい理屈では説明しづらくなってくるのかもしれないが、結局は富の蓄積が絶え間なく続いているとしても、一方で失われる富もあるわけで、その中には事業の失敗なども含まれるのだろうが、その大部分は富を消費する行為が蓄積する行為と同時に起こっているからではないのか。富を蓄積しながらも消費し続けているから、絶えず蓄積する行為を行わないと富が消尽してしまうわけで、例えば蓄積と消費の収支がプラスマイナスゼロなら均衡が保たれていることになるだろうが、もちろんそこで蓄積と消費が時間的に前後しているのが普通で、一つの成り行きとしては蓄積した後にそれを消費していることになるわけだが、複数の成り行きが錯綜しながら同時進行していることを考慮すれば、蓄積しながら消費していると同時に消費しながら蓄積していることにもなるだろうし、結局は大量に富を蓄積して大量に富を消費する過程と少量の富を蓄積して少量の富を消費する過程の間で、様々なケースがあることが考えられるわけで、たぶんそこに機械が関わってくると大量の富の蓄積と消費が実現していて、その反対に機械が関わってこない部分では少量の富の蓄積と消費が行われていることになるのではないか。そして機械がそれほど関わってこない分野で生きている人は少量の富の蓄積と消費で間に合っているのだろうし、実際にそうやって生きている人も世の中にはいくらでもいるのかもしれない。


8月30日「判断の正しさ」

 正しい判断というのは結果的な正しさを求めているのかもしれず、結果的にうまくいけばその時の判断の正しさが証明されたように思われるだろうし、また結果的にうまくいかなければ判断が間違っていたと思われても仕方のないところで、正しい判断をすればうまくいくという認識自体が間違っている可能性もあるわけだが、実際には正しい判断をしてもうまくいかない場合があるなどとは考えられず、間違った判断をしてもうまくいく場合があるとも思われないだろうし、必ずしも判断の正しさと結果が結びつかないとすれば、では正しい判断とは何なのかということになってしまうのだが、とりあえずその場で下される判断は、わざと間違った判断を下すようなことはまずないだろうし、誰もがその場では正しい判断を下そうとするのではないか。そして正しい判断をしたつもりでも結果がうまくいかなければ、その判断は間違っていたと思うだろうし、実際に間違いの原因が突き止められれば、その判断が間違っていたとみなすしかないわけだが、はっきりとした原因や理由が定かでなくても、ともかく結果が思わしくなければ間違っていたと思うしかないわけで、そうなるとうまくいくような結果を導き出すためにそこから試行錯誤が始まるのかもしれず、その結果たまたまうまくいくような結果が出せれば、そんな結果を導き出した判断が正しいように思われるだろうし、実際に判断の正しさを科学的にも論理的にも証明できれば、その判断は正しいとみなすしかないわけだ。そんなわけでその場では誰もが正しい判断をしようと心がけるわけだが、それが正しいかどうかは結果に左右され、いくらその場での判断が正しいと言い張ってみても、結果が伴わなければなかなか周囲には納得してもらえないだろうし、その結果というのもそれをどう判断するかで、うまくいった結果なのかうまくいかなかった結果なのかについて、人によって判断が分かれるところだろうし、そこで何らかの権限や権力のある立場の人なら、自分が判断したことについて、どのような結果がもたらされようとも、それが正しい判断だったと強弁できる場合もあるわけで、周囲の人が逆らえないような状況にあるなら、その人がどう判断しようとどんな結果がもたらされようとも、自らの判断の正しさを譲らないようなら、そういう状況の中ではその人の判断の正しさは揺るぎようがないわけで、その人の権限や権力が失われるまでは、その判断の正しさが保持されるようなことになるのではないか。

 そういう意味では判断の正しさは相対的なものなのだろうし、まずは結果に左右され、また判断を下す人の権限や権力にも左右されることになるだろうか。それはとりもなおさず判断の不確かさを物語っていて、結果がどれほど偶然にさらされているかが問題となるだろうし、またその場で作用する権力関係も判断の正しさを左右する重要な要因ともなるだろうし、そこで何らかの判断を下す立場の人がそのような要因からどれほど自由であろうと、そこに何らかの社会的な制度や仕組みが構成されている上で、判断が下されるような成り行きが生じているわけで、当然そのような制度や仕組みが課す制約がその人の判断にも影響を与えるわけだから、判断するのがその人の裁量だとしても、そこで構成されている社会的な制度や仕組みに基づいて判断が下されるのであり、当然そこから外れた判断が下されることはなく、その人が担っている権限や権力に依存した判断が下されるわけだ。そして判断した結果がどうであれ、その権限や権力の範囲内で、その権限や権力をもたらしている社会的な制度や仕組みを守る上で妥当な判断ならば、まずは正しい判断をしたと認められるだろうし、その結果どんなひどい惨状がもたらされようとも、その場を覆っている社会的な制度や仕組みが維持される限りは、相変わらずその判断が間違っていたことにはならないだろうし、そんなことを起因として結果的にその場の社会的な制度や仕組みが崩壊して、それに代わって新たな制度や仕組みが構築されるような成り行きになれば、そうなって初めてその時の判断が間違っていたと認定されるのだろうし、そうなる前からいくら判断の間違いを指摘しても、無視されるか場合によっては弾圧されて言論が封じ込められてしまうような成り行きとなってしまうのではないか。それは言論の自由が制度的に保障された現代においても、それなりに機能していることなのだろうし、そこに社会が構成されている限りは、そこでは何らかの制度や仕組みが機能していて、そのような制度や仕組みの中で一定の権限や権力を担う立場の役職も設けられているわけで、そんな役職に就いている人にはそれなりの権限や権力が伴っているとともに、その人はそんな役職をもたらしている社会的な制度や仕組みを守る役割を担わされていて、そうなると制度や仕組みを守ることを優先した判断を下す必要に迫られるわけで、実際にそう判断することがその場での正しい判断となるのではないか。


8月29日「世論の変遷」

 世の中では実際に何が起きているのだろうか。何も起きていないわけではなく、絶えず何かが起きていて、それが事件としてメディアで取り上げられなくても何かが起きていることは確実なのだろう。それが興味のないことならすぐに忘れるし、興味深いことならいつまでも覚えているかもしれない。また楽しいことならすぐに忘れ、不快なことならいつまでも覚えていて、定期的に脳裏に不快な記憶としてフラッシュバックしてくるだろうか。人は誰でも心的外傷の一つや二つは抱えているものだろうが、それが数え切れないほどあるとすれば、いちいちそんなことにはかまっていられなくなるのかもしれず、次第に歳を経るに従って鈍感になっていけば、何とも思わなくなるのかもしれないが、それは慣れてきたとともに周りの状況も変わってきたことを意味するだろうか。誰でも昔とは状況が変わってきたことぐらいは感じ取れるだろうし、その昔がどれほど昔なのかも把握しているのではないか。絶えず意識の中で記憶を整理していれば時間感覚が正確さを増して、過去において世の中で起こった出来事と自らの意識の変遷との間の相関関係を知り得るかもしれないが、それは相関関係であって因果関係ではないのだろうし、メディア経由で知ることになる出来事は、自らの意識を変えるきっかけになるというよりは、メディアが用意した世論に意識が同調することに貢献しているのではないか。そうであるとすると自らの意識の変遷は世の中の世論の変遷を示すことになるだろうか。大雑把なところではそうなっていると言えるのかもしれないが、世論を構成する主要メディアに反抗していたり世論を唾棄すべき対象とみなしていても、やはり世論の変遷とともに反抗する内容も変わっていくだろうし、結構昔は唾棄すべき対象であったものが、今の自分であったりすることもあるのではないか。そうだとすると世論と世論に逆らう自分が時代の変遷とともに次第にずれてゆき、ちょうど一回転して、今や世論とそれに反抗する自分とが正反対の立場となったことにもなるのかもしれないが、果たしてそんなことがあり得るだろうか。本当にそうなっていればこれほど愉快なことはないのかもしれないが、たぶんそうなっているとしても、そういうところだけは意図して鈍感なのかもしれず、それがわかっていてもあえてそうだとは思わないのかもしれず、なぜか自らの立場や主張が昔から変わらず首尾一貫性を保っていると思い込んでいるのかもしれないが、その一方で果たして世論が時代の変遷とともに変わってきたと言えるだろうか。

 たぶんそれとは違う変わり方というのもあるのかもしれず、昔は世の中の世論に反抗していたのが、今では大して気にならなくなっているのかもしれず、むしろ世論に同調するというよりは無関心になってきているのかもしれないし、無関心になってきたからとりたてて反抗する気も起こらなくなってしまい、何か自らの意識と世の中の世論との間で、同調も反抗も起こらないような隔たりが生じていることに気づき始めているのではないか。それは昔からそうだったとは思えないし、昔はメディア的な話題に積極的に関わろうと意識していたのかもしれず、何やらテレビの討論番組などを真に受けて、それに反抗することから自らの主張や思想を導き出そうとしていたと言えるだろうか。もちろん誰もがそうだとは言えないだろうし、今もその手の討論番組に関心を抱いている人は結構いるのかもしれないし、それを真に受けるだけのリアリティを感じられる人もまだ相当いるとすれば、世の中の世論の形成にそういう人たちの意見や主張がそれなりに影響を及ぼしていることになるだろうし、それはそれでメディア的な機能を今なお保持していることの証しとなるのではないか。しかしそうだとしても果たして世論が時代の変遷とともに変わってきたと言えるだろうか。またそれ以前に時代の変遷というものが人々の意識に何らかの影響を及ぼしていると言えるだろうか。それはそれなりに影響を及ぼしているのだろうし、時代もそれなりに変遷しているだろうし、世論もそれとともに変わってきたとも言えるのかもしれないが、その一方で今も昔もそんなことには無関心な人もいるのかもしれないし、昔はそれなりに関心があったかもしれないが、今では無関心となってしまった人もいるだろうし、そういう人にとっては確かに昔と今とでは意識に変化が生じていて、世論に同調するにしろ逆らうにしろ、昔は確かに世論に関心があったかもしれないが、世論が時代の変遷とともに変わってきたことによって、今では世論に対して無関心となってしまったと言えるだろうか。そしてメディア自体が人々に世論に対する無関心を促しているのかもしれないし、そういうところでメディアそのものの機能も昔と今とでは様変わりしてしまったのかもしれず、確かに一部のメディアでは今でも人々の関心を引きつけようとして盛んにセンセーショナルな煽り立てをやっているところもあるのかもしれないが、逆に無理に煽り立てようとはせずに、できるだけ世の中の平静を保つような配慮を心がけている面もあるのかもしれず、政治的な問題に対して人々がなるべく関心を持たないように仕向けているのではないか。


8月28日「信じるメリット」

 信仰を単純に否定したり批判しても、信仰心が揺らぐはずがなく、そういう意味で否定も批判も効果がないように思われるかもしれないが、否定したり批判したりする材料はいくらでもあるように思われ、そんな材料を用いて否定したり批判したりできるわけだから、そんなことをやらざるを得ない成り行きに巻き込まれてしまう人は大勢いるのではないか。ではちょっとやそっとでは揺るがない信仰心がどのように崩れるのかというと、さらに強い信仰に取り憑かれる時であり、安易に他人の信仰心を否定したり批判している人であっても、いったんそんな成り行きに巻き込まれると、何か強制的にそれを信仰させられてしまうような場合もあるのではないか。信仰とはそれを頑なに拒否する人ほど、いったん何らかの信仰に取り憑かれてしまうと、他の誰よりも強力に信仰するようになるそうだが、そうだとすると軽い気持ちで何か手軽な信仰に取り憑かれていた方が、信仰に対してそれなりに免疫がつきやすいのかもしれず、その方が大事には至らないのかもしれないが、世の中で何らかの信仰が流行る時には、軽い気持ちで信仰に取り憑かれる人が大半を占めるのだろうし、その中からごく少数の狂信的な信者が出現するわけだから、免疫がついたつもりになってもそれほど安心していられるわけでもないのかもしれない。そして別に狂信的な信者になったところで、当人はそれに生きがいを感じていたりするわけだから、そういう人にとっては他の流行り廃りのレベルでしか信仰していない軽薄な人たちが哀れに思われてくるのかもしれず、中にはそういう人たちに向かって強い口調で説法するようなことまでやる成り行きになってしまう場合もありそうで、やわな心の持ち主なら説伏させられて、狂信的な信仰の世界に引きずり込まれてしまうこともありうるわけだから、そういう意味では軽い気持ちで信仰に取り憑かれている方が危険な場合もありそうなのだが、やはりその軽さのレベルにとどまり続けるのにも強靭な精神力が必要だと言えるだろうか。

 強靭さとともに柔軟さも必要なのだろうし、それも言葉のたとえでしかなく、どのような状態が強靭であったり柔軟であったりするのかうまく説明できないところなのかもしれず、ともかく信仰に対処するには軽さと強靭さと柔軟さを兼ね備えていれば、それでうまくいくとも言えないだろうし、たぶん何を信仰するかにも注意が必要で、勧誘してくるということは勧誘できたら勧誘してくる人にメリットがあることは確実で、必ずしも勧誘された人にメリットがあるわけではないことは考えておくべきだろうし、また自分から進んで信仰するのでない限りは、そこで何らかの搾取が待ち構えていると考えておいた方がよさそうで、勧誘とは他人を利用して利益を得る行為なのだろうから、それは詐欺の常套手段にもなりうる行為でもあり、その辺は微妙に逃げ道を確保しておくべきで、強烈な熱弁を振るわれてたじろぐようなことがあればやばいと思っておいた方がいいだろうか。そしてその狂信的な信仰の対象というのが、あからさまな宗教だとは思われない場合があるわけで、それがオカルティックな似非科学ならまだしも、政治や経済学や物理学や数学などだったら、ちゃんとした世間的な権威と結びついている場合まであるだろうし、そうなると当人たちは自分たちの思想や学説が狂信的な信仰などとは思っていないだろうし、実際に世間的にもそうは思われていないわけで、それを狂信的な信仰だとみなす方が狂っていると思われてしまうのではないか。そうである限りにおいてどこからどこまでが狂信的な信仰でどこからがそうでないとも言えなくなってしまうわけだが、その辺で柔軟な対応が求められているのかもしれず、何やら世間的な権威を笠に着て断言口調で強引に論敵を攻撃し始めるような人はやばいと思っておいた方がいいのだろうし、その人の述べていることがいかに論理的で正しいように思われても、ディベート的に相手を打ち負かそうとしている時点で、そうすることに何らかのメリットがあると考えられるのではないか。そしてそれがその人にとってはメリットがあるとしても、他の人にとってはデメリットしかない場合もあるわけで、そのメリットとデメリットを考えてみる必要があるのかもしれない。


8月27日「目的の強化」

 投資ファンドというと投資信託によって投資家から資金を集めて、何らかの手法を使って投資して、利益を上げて出資した投資家に利益をもたらすとともに、利益の何割かを成功報酬として受け取るイメージがあるが、それがヘッジファンドともなると、市場の仕組みやシステムの盲点を突いて、結果的に市場から利益を奪い取るようなダーティなイメージを伴い、本拠地をタックスヘイブンに置いたりして、あらゆる手法を駆使して利益を追い求めるのだろうが、その一方で企業の再生を請け負うようなファンドもあるわけで、業績の悪化した企業の値下がりした株を買い占めて、株主総会の議決権を得て役員をその企業に送り込んで、企業の業績を立て直して株が値上がりしたところで売れば、確かに利益が出るわけだろうが、実際にはその企業を再生させる以外にも、業績の良い同業他社との合併や子会社化を模索したり、業績の悪い中でも他社が欲しがるような産業技術や顧客を持っている部門だけ切り離して、それを欲しがっている企業に売りつけたりして、そこでもファンドに出資している顧客に利益をもたらさなければならないわけだから、株を買い占められた側の企業にとってみれば、ファンド側から厳しい要求を突きつけられて、場合によっては再生するどころか利益を残らず搾り取られた挙句に消滅してしまうようなこともあるのかもしれない。そういうケースもあるとすると、投資ファンドという存在自体が弱肉強食的な経済至上主義を促進していることにもなるわけだが、蓄積した資金の再投資を促進することに関しては、それなりに経済を活性化させている面もあるのだろうし、一概には否定できないというよりは、必要に促されてそんな投資専門の集団が生み出されたと考えるのが妥当なところだろうか。

 政府が期待するのは経済成長を伴う生産的な投資なのだろうが、国民が生活する上で必要な生産物が足りているとなると、もはや経済成長を促すような投資はあまり必要ではないことになるだろうか。日本の場合だと他の国の国民が必要な生産物を作って、それを輸出することによって経済成長をもたらしてきたことも確かで、輸出先の国では自国民が生活する上で必要な生産物を自国の産業で間に合わすことができないから、足りないものは輸入に頼るしかないことにもなるわけだが、その国の国民にしてみれば、たまたま買える範囲内で欲しいものを買うとすると、その中には日本産の商品が含まれているわけで、別に日本政府の期待に応えて日本が経済成長するように日本製の商品を買っているわけではないだろうし、またその国の国民にとっても日本国民にとっても、とりあえず日々生活していること自体が生活に必要な物資が足りていることを意味するわけで、必ずしも産業によって生産されているものがその国の国民にとって必要なものだとは言えない面もあり、経済成長することもその国の国民にとって必要だとは言えない面もあるのではないか。しかしその産業の中で働いて生活の糧を得ている人にとっては、商品が売れないと困ったことになるわけで、生産物が売れて経済成長が起こるならそれに越したことはないわけだが、その生産物が物や情報やサービスを伴うものであり、一方でそれを買って消費することによって人が生活している現状があって、本当にそれが必要であるか否かはともかく、必要に促されてそんなことが行われていることは確かであり、誰もそんな行為を促しているのが何なのかを突き止めようとはしていないだろうし、突き止める必要が感じられないから突き止めようとはしないのだろうが、必要もないのにそれを突き止めようとして、何かもっともらしい答えを導き出したところで、果たしてそれを真に受けることができるだろうか。

 ともかくこれまでは持続的な経済成長に合わせて国家体制が構成されてきたわけで、それがいつの間にか経済成長がままならなくなってきて、今度はそれに対応して国家体制も構成し直さなければならないと考えたいところなのだが、どうも実態はそうではないのかもしれず、いったん構成されてしまった国家体制を持続させようとする力が働いているわけで、既存の国家体制に関わる政治家や官僚などがいくら構造改革や行政改革などを試みても、一向にその手の改革が成果をあげることも実を結ぶ気配もないようで、それも現状で曲がりなりにも成り立っている国家体制がそれなりに機能している事実がある限りは、そうした機能の必要に促されてそんなことが行われているわけで、本当にそうした機能が必要であるか否かとは別の次元でそうなっている現実があって、そうした現実に対応して人も物も情報も動いているわけだから、そこから外れて何か別のことをやる必要など感じられないわけで、そんな状態の中で国家体制に新たに別の機能が加わったり、国家体制とは別の機能を持った新たな体制が世の中に構成されたりする余地が果たして生じるのかといえば、少なくとも現状の中で現状の機能を維持するような行為からは生じないだろうし、何かそれとは別の思いがけないところからそういうものが生じるのではないかと想像したくなるのだろうが、それが思いがけないものである限りは想像できないのであり、それが何であるかを突き止めようとする必要も生じないのだろうが、投資ファンドが投資を促す目的に対応して構成されるように、国家体制も国家体制を強化する目的に対応して構成されていることは確かだろうし、人が集団でまとまって組織的に何かを構成しようとする目的は、絶えずそれ自身へと向かってゆく傾向があるわけで、本当にそうすることが必要であるか否かというよりは、絶えずその必要を強化しようとするわけで、そういう意味で必要は必要だから必要であり、必要以外の何物でもないわけだ。


8月26日「ビットコインとブロックチェーン」

 金融機関を介して資金を貸したり借りたりすれば利息がつくのは当然だとしても、それはどのような通貨であっても同じであり、それは通貨自体の性質がそうであるというよりは、資金を貸したり借りたりする行為から生じるわけで、それを専門に行っている金融機関がどこから収入を得るのかといえば、一応は金利収入が主だった収入源であり、後は金融に関係した様々なサービスに伴う手数料収入となるのだろうが、資金を貸したり借りたりする行為も何らかの事業を行う資金を得るための手段としては欠かせない行為なのだろうし、ただその金利が相対的に高いか安いかあるいはただになるかは、その時の経済情勢や金融機関の種類によっても異なってくるのだろうし、政府系の金融機関だと場合によってはただに近い金利で資金を貸す場合もあり、その場合は特定の産業を振興するためにそうする事情が生じたりするのだろうが、そういう金融機関は金利収入とは別の収入源があったりするのだろうし、それも市場メカニズムを損なう恐れのない範囲内で行うことが建前となっているのではないか。そういう面を含めて金融制度が成り立っていることになるわけだろうが、それは仮想通貨のビットコインなどにも言えることだろうし、ビットコインを貸したり借りたりすれば金利が発生して、借りた資金を返す時には金利分の利息を払わなければならず、それは他の一般の通貨の場合と変わらない。ただ取引が仲介者なしでユーザー間で直接行われ、その取引がネット上のブロックチェーンと呼ばれる公開分散元帳に記録され、その取引の検証や記録作業をコンピュータ上で専用ソフトを使って行った者に、新たに一定額のビットコインが報酬として発行されるという仕組みであり、結局はビットコインを得るための検証や記録作業を行う人や業者の間で競争が起こって、大規模で高性能なコンピュータと人員をそろえて組織的に行う業者でないと、作業がコスト的に割りに合わなくなってきて、その方面で利益を得たのは、ビットコインが世間的に騒がれる前から検証や記録作業に関わってきた人や業者と、騒がれ始めてから大規模かつ高性能な設備と人員を整えて同業他社との競争に勝ち残った業者となったらしく、そういうところは他の産業分野と変わらない成り行きなのではないか。

 ただ金融機関などの仲介者を通さずに取引ができるから低いコストで決済が可能で、それだけ資金の流れが迅速になる利点があるのだろうが、それも今までの経済活動の延長上でそうなっているわけで、既存の市場メカニズムや金融システムを根底から覆すというよりは、それに新たな方向性が加わったと考えるのが妥当なところだろうし、今後ビットコインが既存の通貨に代わって優勢になったところで、別に金融機関が駆逐されるわけではなく、ビットコインの大口ユーザーになればいいだけで、ビットコインを集めて貸し借りを行えば金利収入が得られるわけで、そういう面での変化は期待できないわけだが、通貨自体は確実に国家の枠組みを超えているので、そういう面ではより一層のグローバリゼーションが進行することは確かだろうし、それだけ国家の形骸化も進行するのかもしれない。もちろん現状ではビットコインで買い物する人はまだまだ少数派だろうし、そんなに普及しているわけではなく、何かのきっかけで廃れる可能性さえあるわけだから、現状で極端な未来を予言する気にはなれないが、新しい通貨によって世の中が変わるというよりは、新しい通貨の利用法によって新たな産業分野が生まれて、その産業分野が話題となれば何か世の中が変わったように思われるのではないか。ビットコインの場合でも真っ先に世間の話題となったのはそれをめぐる詐欺事件だったわけで、何やら怪しげなことが行われてそれが詐欺などの犯罪の温床になっている程度の認識だったのが、それがいつの間にかブロックチェーンというシステムが話題となって、それに関連して金儲けの手段としてのビットコイン採掘業者という摩訶不思議なネーミングの仕事が一部で脚光を浴びて、すでにそんな話題がメディアを通じて出てきた時にはその方面での競争が過熱していたわけだが、結局それがカリフォルニアのゴールドラッシュのような一過性の出来事で終わるのか、あるいは何らかの役割を担って、広く社会に定着するような職業となるのかはよくわからないが、例えば、契約等の法律行為の適法性等について、公権力を根拠に証明・認証する者として公証人という職業があるように、ブロックチェーンの公証人として今後そんな役割を担う職業が世の中に定着する可能性もあるのではないか。


8月25日「経済の破綻と崩壊」

 現在では株や債券などの有価証券は電子化されていて、それらの売買に使う証券会社や信託銀行などの口座で管理されているわけだが、一方で手持ちの現金以外の資金もほとんどは銀行などの口座で管理されているわけで、それらの金融システム上では物質としての有価証券や紙幣や硬貨とは無縁の環境が整備されているわけで、それは口座振替などの送金や入金に関しても同じことなのだが、口座残高が増えたり減ったりする分には、物質としての金銭そのものは不要であり、実際に現金で買い物をする分だけ口座から下ろすのが習慣となっているだろうし、金融資産といっても自分で金庫を持っていて、その中に金銭を貯めるにしても、凄まじくでかい金庫でも持っていない限りは、莫大な金額を所持することはできないわけだから、貨幣や有価証券のほとんどはその金額の情報として、口座残高のように電子化されているのであり、そうなると物質としての紙幣や硬貨などの流通額は、全体から見ればほんの一部で、そうだとすれば有価証券などの価値がいくら値上がりしても、またその種類や量がいくら増えても、電子化されている限りはそれらの売買によって何らかの生産物が増えるわけでもなく、もちろん担保や信用などの面で制約があるから、資産の裏付けのない有価証券の類いを際限なく発行することはできないわけで、確かにそれらの売り買いを活発化させれば、株や債券などの価格が事前の資産評価額からはかけ離れた高額で取引されることもあるのだろうが、企業業績などの実態からかけ離れた額で取引が行われていれば、暴落への警戒感から利益確保のための売りが入って値下がりするのだろうし、そういう成り行きにもそれなりの限度があるのではないか。また物としての資産である土地や建物などの不動産も需要が増えて価値が値上がりすれば、値上がりした資産評価額を担保として借りられる資金も増えるだろうし、借りた資金でさらに土地や建物を増やして、さらにそれを担保として資金を借りて、不動産の値上がりが続いているうちは、そんなやり方でどんどん資産を増やせるわけだが、値上がりしすぎると土地建物の賃貸価格にしても分譲価格にしても高くなりすぎて借り手も買い手もいなくなって値下がりするだろうし、そこでもそれなりの限度があるわけだが、結局は実体や実態の定かでない資産の膨張には自ずから限度があるわけで、売買の過熱によって高騰するものは、いずれは過熱が沈静化して適正な価格へと落ち着いてしまうものなのかもしれず、途中で様々な紆余曲折があるものの、結果的には歯止めのない資産の膨張とはならないのではないか。

 もちろん予言する側は歯止めがかからない危険性を訴えるわけで、歯止めがかからなくなって経済が破綻したり崩壊すると予言したくなるわけだが、そうなったとしてもその破綻や崩壊が歯止めとなるわけだから、実際には破綻や崩壊の後に経済がそれなりに必要に応じて再生することになるのではないか。そういう意味でも根本的な解決はあり得ないのだろうし、何をもって解決だと判断してもその後があるわけで、人の活動が続いていく限りは終わりは永遠にやってこないわけだ。またそうであるからこそ、人は過去から現在を通過して未来へと続いてゆく歴史の連続性を夢想してしまうわけで、実際に過去の意匠を使って自らの存在を正当化したくなる。具体的にはそれが国家的な連続性であり反復性なのだが、それは洋の東西を問わずある一定の形式を伴うのかもしれず、例えばアジアの中心である中国では秦の始皇帝の意匠を頑なに反復しながら歴代の王朝が繰り返され、それは途中の隋唐王朝から派生した朝鮮半島や日本の統一王朝などにも同じような傾向が受け継がれたわけだが、ヨーロッパではローマ帝国の意匠を引き継いでカール大帝とか神聖ローマ帝国とか19世紀のナポレオンの帝政や20世紀のドイツ第三帝国などまで、断続的にローマの意匠の利用が続いたわけで、それらの大元はエジプトやメソポタミアの統一王朝にまで遡るのかもしれないが、それは東と西の間の東ローマ帝国やイスラム帝国やモンゴル帝国やロシア帝国などにも見られることであり、また近代以後の民主的な議会にしても古代ギリシアのアクロポリスの意匠が引き継がれて、何やらパルテノン神殿のような大理石の列柱を模した建物がアメリカなどでも作られていたりして、何かと過去との連続性を強調したがる傾向が世界的に広まっているわけだが、それらの連続性が人々のメンタルな部分に影響を与えているとしても、実態は全く違っていて、逆に歴史的な断絶や切断を見ないから、連続性に惑わされてしまうわけで、破綻や崩壊を予言してしまう人たちは、連続性が保持されることを前提としているから破綻や崩壊の兆候に敏感に反応して危機意識を抱いてしまうのではないか。もちろん現状の制度から利益を得ているわけだから、それが破綻したり崩壊してしまってはまずいことは当然なのだろうが、破綻したり崩壊してしまってはまずいと思うことと、実際に破綻したり崩壊することとは別次元で起こっている現象であり、それも当然のことであって、あえて言うまでもないことなのだろうが、誰が予言してもしなくても、破綻するときはするだろうし崩壊するときはするのではないか。それとも予言者のアナウンス効果によって破綻や崩壊を未然に防げるような効能が期待されているのだろうか。


8月24日「金融資産の膨張」

 20世紀末の情報革命以来、金融資産が増えているということは、単純に考えれば銀行などの金融機関の預金量が増えていることにもなるわけで、預金量が増えるということは、預金者が銀行に資金を貸していると捉えれば、金融機関にとってそれは負債となるわけで、もちろん金利がただ同然の利率なら貸している感覚も借りている感覚も薄れて、銀行に資金を預けているだけとなってしまうわけだが、金融機関はそれを個人や企業に資金として貸し出さないと利息などの収入を得られないから、当然それを貸し出すことになって、そうなれば資金を借りた側の個人や企業の負債になるわけで、要するに金融資産が増えていることは、同時に負債もそれだけ増えていることにもなるわけだ。資金を借りた個人や企業などが何かのきっかけで一斉にその負債を返すめどが立たなくなれば、金融恐慌ともなるのかもしれないが、普通は借りた資金を返済する過程も一気に全額返済するのではなく、小口に分けて分割払いによって長期間にわたって計画的に利息とともに少額ずつ返済されるわけで、通常の経済状態ならば預金が一気に全額引き出されることは稀であると同時に、借りた資金の返済もそれなりに分割返済が継続していれば何の問題もないわけで、また原理的には金融資産は借りた側が払った利息の分だけ増えるわけで、預金金利よりは貸出金利の方が高いのが常識だろうから、金利の差額分だけ金融資産が増えることにもなるわけだが、それも物価上昇などによって他の資産の価格が上がれば相対的に金融資産の額が増えても資産の割合は変わらないわけだが、物価の上昇率や経済成長率よりも金融資産から得られる利子の方が高ければ、やはり金融資産だけが膨張することになるのかもしれない。もちろん金融機関の収入は他に各種の手数料収入もあるわけで、手数料は資産運用などの顧客が金融機関に払う手数料であるから、利子から得られる収入と手数料収入と金融機関自体の維持経費の収支がどうなっているのかも考慮しなければならない。

 そうなると結局は金融機関自体の維持経費と預金者に払う利息と、資金を貸した個人や企業などから入る利息と顧客の資産運用など各種の手数料収入と、金融機関自身が行う株式や債券などの売買や為替取引から得られる収支がプラスになっていれば、金融機関に利益が出ていることになるわけだが、全体として金融資産が増え続けている成り行きがあるとすれば、直接個人や企業に貸し出す資金需要が弱く、顧客の資産運用から得られる手数料や自身が行う株式や債券などの売買や為替取引から利益を出すしかなく、そうなると金融資産の枠内だけで資金が循環していくことにもなるわけで、それ以外の、例えば個人が住宅ローンを利用すると、個人が金融機関から借りた資金が住宅を建設する企業や土地を売買する会社へと還流するわけで、また何らかの商品を製造販売する企業が事業を拡大するために銀行から資金を借りる場合は、その資金が新たに雇用した企業の従業員の給料や、商品を製造する機械設備や工場などを建造する企業などへと還流して、そのような資金の還流が促されるとそれが経済成長へとつながるわけで、たぶん金融資産の枠内で資金が循環しているだけでは経済成長へはつながらず、経済成長がなければ金融資産以外の資産が増えないから、相対的に金融資産だけが膨張していくことになるのではないか。もちろん資産運用先で何らかの生産的な事業が行われていれば、それが資産運用先の国での経済成長へとつながるわけで、たぶんそういうところで経済のグローバリゼーションが関与してくるわけで、資産運用先はより大きな利益を求めて自然と経済成長が著しい地域へと移っていき、経済活動が停滞している地域よりは活発化している地域の方が利益を得やすいのは当然であると同時に、損失を被るリスクも高まるわけで、また仮に投資がうまくいって多額の利益を得られたとしても、そうやって資産運用している人の資産が増える以外では、あまり経済効果は期待できないのかもしれず、例えば資産を増やした人が贅沢品を買ったところで、それは資産運用とは無縁の一般人とは無関係なことでしかないわけだ。


8月23日「偽りの限界」

 人は単純に制度に逆らうのではなく、制度に依存しながら逆らおうとするのだから、単純に逆らっていると思っても、依存している面がある限りは、逆らえない部分もあるわけで、結果的には制度に逆らいながらも制度を守ろうとして、そういう部分で煮え切らない対応をせざるを得ず、ある意味では偽善的な態度をとるしかないわけだ。そしてあまりにも純粋に反体制的な態度を保持しようとすると、自らがやっていることと主張していることとの間に食い違いが生じてしまい、そこを敵対する勢力に突かれて、世間的な信用を失う危険性があるわけだが、実質的には態度や行為などの首尾一貫性を保持しようとすること自体が無理なのかもしれず、逆に自らの言動や行動に生じている矛盾や食い違いを自覚しておいた方が賢明なのかもしれず、そういうところはあまり姑息に隠そうとしないで、あらかじめ限界があることを示しておくべきなのかもしれない。そしてその限界を超えようとするのではなく、限界内で何かをやろうとするのでもなく、やっている時には限界を意識しないことが肝心だろうか。では何のための限界なのかといえば、それは一種の方便に過ぎないのだろうし、自らの行動にも言動にも限界があることを示しながらも、その限界とは無関係にやるべきであり、やっていることには矛盾や食い違いや首尾一貫性や論理的な整合性などとは別の基準を設けるべきだろうか。ではそこに設けるべき基準とは何なのかというと、その場でできることをやるべきなのであり、その場で何ができるか否かが設けるべき基準となるだろうか。だからすでにそこで何かやっている現状があるのなら、そのやっていることがその場でできることとなってしまうわけだが、たぶんそれだけができることではないだろうし、そのやっていることに加えて何か他にできると思われることがあれば、それもやってみるべきなのだろうし、実際にやってみてできるならそれもその場でできることに含まれるわけだ。そうやってできそうなことを試していくと、あらかじめ示しておいた限界とは違う方面で何かができることに気づくのではないか。もちろん中にはできることを試す機会や余裕のない境遇の人もいるわけだから、それを試せるだけでも贅沢なことなのかもしれないが、一つのことにかかりきりになってしまうと視野が狭まって、それ以外にも可能なやり方を見逃しているかもしれないわけで、やれることに限界があるのは確かかもしれないが、その限界とは違う方面でできることがあるのも確かなのではないか。

 それと関連して言えることは、まず他人の求めに応じてやる必要のないことを探してみれば、何かそういう方面でこれまでにない可能性を見つけることができるのではないか。その一方で他人の求めに応じてやるような制度の枠内でやっていることも重要だろうし、自らができることの大半がそちらにあるのは確かかもしれないが、自らが何らかの制度に束縛されているのが不快に思われるのなら、自然と不快に感じられることに逆らいたくなってくるわけで、そんな自然な振る舞いである抵抗を実践する必要があるのかもしれないが、そこで制度によって講じられている様々なしがらみを強引に断ち切ることができなければ、あからさまに断ち切るそぶりを見せない方が賢明だろうし、その場の成り行きに順応しながらも自然に逆らえる道を模索する必要が出てくるのではないか。別にそこで逆らっているのを意識する必要はないのだろうが、不快に感じられることは意識できるはずで、その不快さを減じようとすれば、それが状況に対する自然な抵抗となるわけだ。もちろん簡単に不快さを減じられるような状況ではないから不快に感じられるのだろうし、その辺でやろうとしていることと実際にやっていることの間で食い違いや矛盾が生じるわけだが、それも意識しておいた方がいいのだろうし、そこで無理に態度と行動との間で首尾一貫性や論理的な整合性を確保しようとすれば、やろうとしていることにも実際にやっていることにも不自然な制限が加わってしまい、どちらの可能性も狭まってしまうわけだが、むしろ矛盾や食い違いが示す方向とは違う方面へと可能性の視野を広げてみる方が、新たな可能性が開けるのかもしれず、そこで矛盾や食い違いが生じているということは、そこに何らかの限界があって、その限界が示す方向に向かって限界を超えようとしているから、結果的に矛盾や食い違いが露呈してしまうわけで、実質的にはそういう方面ではそこが限界点であり、それ以上は先へは進めない状態にあるのではないか。だからといって別の方面を模索するとなると、何か限界から逃げているように思われるかもしれないが、逃げることを卑怯だとか妥協的な態度だと思ってみても、そう思っている限りで限界と向き合うしかないわけで、自らの限界を乗り越えて前進することができると思うならば実際に試してみればいいわけで、中にはそうやって限界を克服した人もいるのかもしれないが、結果的にそうなったとしてもそれが自然な成り行きに思われるだけで、そういう成り行きの中で前進している人には、自らの態度や行動に矛盾も食い違いも感じられないのだろうから、それで構わないわけだ。実際にそうなればそれはまだ限界ではなかったことになるしかなく、限界を超えられた時点でそれは限界ではなくなってしまうわけだから、そうなれば矛盾も食い違いもないわけだ。


8月22日「制度の変容」

 それが必要であるかどうかはわからないが、ともかく今日も世界のどこかで何かが作られていて、それが商品ならば売られている現状もあるのだろうが、中には商品ではないものも作られていて、別にそれは売る必要のないものなのだろうし、売る必要のないものを作るのに費やされる労働は、賃金を伴うような労働でないことは明らかだろうし、そんなものを作っている時点で暇を持て余しているのかもしれないが、そんなことをやっている間は賃金を得るのとは無関係なことをやっているわけだ。それも労働のうちに入るだろうか。たぶん労働には違いないが、賃金を得るのとは違う目的があるのだろうか。別に目的をはっきりとは意識していなくても、自然に何かをやっている状態は想像できるが、その目的というのが自らが意識している目的とは異なる場合もあるのではないか。そういうのは目的とは言わないのかもしれないが、後からそんな目的を想定できる場合もあるだろうし、何かをやっているうちにだんだん自分が何をやろうとしているのかがわかってくる場合もあるわけで、その何だかわからないうちに勝手にその場の意識とともに目的を決めてしまうのは、後でそれが全くの勘違いとなってしまう場合もありそうで、何かをやっている最中にはあまり目的を意識ない方が賢明な場合もありそうだ。だが果たしてそんなことを思っていられるだけの余裕を持ち合わせている人が世の中にどれほどいるだろうか。たぶん現状で余裕があろうとなかろうと、そんなことには関係なく人は何かをやる成り行きに巻き込まれてしまうのだろうし、その実際にやっていることが何に結びつくのかもわからないうちに、すでに何かをやっている場合があるのではないか。事の良し悪しは結果からしかわからず、また何らかの結果を得たところでわからない場合もあるだろうし、それでも多くの人が関わっていることについては、そこでやっていることに対して何らかの評価が下されることが多いだろうし、そうしないとそこに関わっている人たちが納得しないだろうし、その下された評価についても納得できない人まで出てくるのだろう。そこで何らかの評価を下すことも何かをやっていることに含まれるのは当然で、そんな評価を下すことを専門とする職業まであるのだろうし、そういう人は他人のやっていることを評価することを生業として、それによって生計を立てている人までいるのではないか。

 制度とはそれに関わる人たちが各人の専門とする分野を生業として、それによって生計を立てている状態を言うのだろうし、そこに何らかの制度があるとすれば、その制度内で人々が働いていて、そこでその制度に基づいた専門分野が形成されていて、そこで形成されている専門分野内で組織的な役割分担が決められ、役割に応じて人員が配置されて、役割に応じた地位や身分が制度によって保証されているわけだ。そうした制度が世の中の変化に伴って今後何らかの変容を被ることは想像に難くないが、これまでもそれなりに変容を被ってきた経緯もあるだろうし、一旦出来上がった制度が永続することはないものの、その制度に守られている人たちは、制度内で生きることを強いられているわけだから、制度を守ろうとするだろうし、制度の変容には抵抗するのが当然であり、そうした人々を制度の内外から旧主派として批判するのはたやすいが、制度を守ろうとすることについては、それなりに正当化できる事情もあるわけだから、制度を守ろうとする人々を批判するよりは、制度の不具合を指摘してそれを改善しようとする方が、より建設的な提案をしているようにも思われるのではないか。しかもそれが制度を守るために行なっていると思われればしめたものかもしれないが、実際にはそう都合よく改善しようとしてできるものではないだろうし、そこには軋轢や対立が付き物だろうし、誰かが犠牲にならないと何も動かないこともあるわけで、そうなってもなおあらゆる面で妥協を強いられて骨抜きの中途半端な改革となり、期待はずれの試みに終わることがほとんどかもしれないのだが、それでも制度が何らかの変容を被っているとすれば、そうなることが当初の目的であるかのように思われてしまうわけで、結果から考えてしまうと後から目的などいくら追加されても構わないような成り行きにもなりかねず、そう言う意味で目的に惑わされて制度の変容そのものを捉えられなくなってしまうこともありそうで、そこで何をどうすべきかがわからなくなってしまい、その場の成り行きに任せて何かをやっているつもりになれるのかもしれず、現実にそうやってその場に関わっている多くの人たちが何かをやっているつもりになれるのが、制度の制度たる所以なのではないか。そうなれば誰もが自らがそこに拘束されている制度を支えていることになるだろうか。そこまで意識できる人は少ないのかもしれないが、実際にそうなっている現状があるのなら、制度の存在を正当化する人たちにとって、制度は居心地の良い環境となっているのではないか。


8月21日「契約関係」

 現状では賃金を伴う労働が産業を支えていることは確かで、それが現行の経済活動が成り立つ上での前提条件であるわけだが、一方でそんなことは言うまでもないことであり、それ以外の労働などあり得ないと言っても過言ではない状況なのだろうが、そのこと自体が問題なのではなく、そのような賃金労働をなくそうとすることが現実的に可能なのでもない。それよりは機械技術の助けを借りて過酷な労働をなくそうとする傾向に現実的な改善の余地があるのだろうし、また普通に労働していればごく一般的な水準の生活が確保されるような状況を作り上げることも、現実的な政治課題となっているのではないか。そしてたとえ失業しても路頭に迷うことなく必要最低限の生活が送れるような行政的な配慮がなされていることが、普通の国家のあり方として人々の共通認識になっている実態があるわけだ。だがその一方で普通の労働や一般的な水準の生活や必要最低限の生活や普通の国家のあり方などを巡って、どの程度であればそう言えるのかが政治的にもメディア的にも見解の別れるところなのだろうし、福祉の充実を推進したい政治勢力やメディア関係者などは現状ではまだ不十分だと主張するわけで、そのためには政府や自治体などの予算をどの分野にどれくらいの額を割り当てるかを巡って、主張や見解に違いがあるのだろうし、また福祉に関連して公的な保険制度などの面でも、財政面での悪化を防ぐために何らかの制度的な改善を求めているのではないか。そうであるからには別に労働そのものの是非が問われているわけではなく、年金生活者や扶養家族などを除くと賃金労働者として働くのが当然であり、それ以外は個人事業主や企業経営者やオーナーとなるわけだ。それらは全て労働にも消費にも関わることであり、要するにそこで暮らしている人々は皆経済活動に関わっているわけだが、労働は富を生み出す過程で労力を消費する活動であり、そういう意味で生産的な消費活動とも言えるわけで、人の活動は一方では富を生み出すために自らの体力を消耗し、もう一方では生み出された富そのものを消費する活動となっていて、どちらも何らかの消費を伴うわけで、富を生産する過程で労力の消費が生じ、また富を消費する過程で楽しみの生産が生じると言えるだろうか。そういう意味で説明の都合上は生産活動と消費活動を便宜的に分けて考える傾向があるが、厳密に考えるなら生産と消費は一体となった活動であり、生産と消費は対立するというよりは同時的に生じる活動なのかもしれない。

 労働に関して問題視されているのは、過酷な労働が苦しみを生産している現状があるからだろうが、それが苦しみに耐えなければ幸福をもたらせないような苦しみではなく、苦しみに耐え続けることが不幸そのものであるような状況となっていることが問題なのだろうし、そこで賃金的な見返りでは埋め合わせが利かないような場合は過労が生産させるわけで、それが場合によっては死や病に至るわけだが、経済活動が人そのものを消費しながら成り立っている現実があるわけだから、労働を起因とする躁うつ病や過労死なども人がそこで消費された結果として生じているわけだ。そうである限りにおいて賃金と労働との等価交換が成り立っていない状況があるのだろうし、等価交換という概念自体がそれをそうみなすかどうか疑わしく思われるわけで、労働の見返りに賃金を受け取るような契約関係が、平等な関係だとは言えない事情もあることは確かで、普通に考えても労働者を雇う側の方に権力があるのは明らかであり、行政の側で労働者の権利を保護するような法律が設けられているにしても、そんな法律が設けられていること自体が、労働者側が不利な立場であることを物語っているわけだが、たぶん企業内の組織形態が今後変わってゆく可能性はあるだろうし、それが機械技術の革新に伴って生じるかどうかは今のところはよくわからないが、それは特殊なケースでしかないが例えばNBAのプロバスケットボールだと、チーム内のスター選手の意向でヘッドコーチやGMが替えられてしまうこともあるわけで、それもチームの成績不振などが理由でそうなるのが普通なのだろうが、中には地区でぶっちぎりのトップを快走しているチームで、他の地区の強豪チームに大敗したことから、このままでは優勝できないとスター選手が発言したことが発端となって、ヘッドコーチが交代させられて、そのスター選手と仲の良かったアシスタントコーチがヘッドコーチに昇格して、そのまま優勝してしまった経緯もあり、そのスター選手の権威が他の誰よりも強くなっていることが明らかとなってから、その次のシーズンでは優勝できなかったことが発端となり、チーム内のナンバー2のスター選手が自分がチーム内で主導権を握れるチームへのトレードをGMに要求する尾ひれまでついてしまった顛末もあるわけだが、企業でも株式会社という組織形態が全盛になるにつれて、会社に資本を出資する側と会社を経営する側との分離が可能となって、会社の創業者やその一族の権限が制限される事態も出てきて、それがそのまま従業員の権限の強化に至っているわけではないが、これから企業や行政などの組織形態が変わる可能性が全くないとは言い切れないだろうし、それとは別の次元で労働の見返りに賃金を受け取るような契約関係にも何らかの変化が生じる可能性はあるのではないか。


8月20日「幻影の実在」

 幻影は実体のない情報だと思えるが、それが何に結びついているかというと意識に結びついていて、意識が何に結びついているかというと脳に結びついていると言えるだろうし、それは物であり脳は人体の一部であるから、結局は幻影は実体のない情報ではなく、人自身と結びついた情報であると言えるだろうか。そういう意味で情報は実体のある物と結びついていることになり、幻影の一種である幽霊なども幽霊の出る場所と結びついていると言えるだろうし、そこで誰かが幽霊を見たとすると、物である誰かがその場所で幽霊という幻影と結びついたといえるのかもしれず、そこで物と人と情報が意識の中で結びついたとも言えるのではないか。そんなわけで幻影が実体を伴うのは物である人と結びついた時であり、幻影は人の意識から発生した情報であり、また画像や映像によって幻影を捉えたとしたら、その画像や映像を人に見せているメディア媒体と結びついた幻影だと言えるだろうか。つまりメディアを介して幻影が世の中に広まるのは世の常だと言えるのかもしれないが、そのような幻影が標的としているのは世間が構成する集団的な意識なのかもしれないし、集団という実体はそうした幻影を共有することによって力を持ち、そうした幻影に煽られて集団で同じ行動を起こすことでその力が実体化するのだろうが、彼らが見ている幻影というのが彼らの力と行動で示されるとしたら、簡単に言えばそれは選挙結果であり世論調査の結果なのかもしれないが、それ以外にも彼らが守り従っている法律や慣習などもその部類に入るのかもしれず、また彼らが支持している政治勢力や、彼らが好んで消費する何らかの商品を生産させる力ともなるだろうし、そうなるともはやそれは幻影ではなく実体を伴っているわけだが、彼らが見ている幻影と実際に存在する物とが重なり合うとすれば、それは彼らの意識の中で重なり合うわけで、そこで何らかの物質的な実体を生じさせるエネルギーは、やはり労働によって実現されるのかもしれず、実際に人は限りある時間の中で労働によって何かを作り出し、その作り出された何かが人も社会も変えてゆく成り行きがあり、そんな成り行きが歴史そのものなのだろうが、人は労働によって歴史をも作っていることになるだろうか。

 だが人が見ている幻影は人でも言語でも労働でもなく、たぶん神でもないのかもしれない。幻影はそれらすべてを含んだ別の何かかもしれないが、例えば神を見た人は幻影を見たのではないのだろうか。神の存在を信じている人にとってそれは幻影ではなく実体だ。ならば幻影とは何なのか。幻影とは世界そのものだろうか。たぶん幻影を見た人はそれが幻影だとは信じないのかもしれず、それは実在する何かだと思うのではないか。その存在を信じて疑わない人にとって、それは幻影ではなく実在しているのであり、この世に存在する何かだと思うのではないか。では人は存在しないものを見ることはできないのだろうか。それが存在しないものだと信じれば幻影は存在せず、それが存在していると信じれば、それは存在しているのだから幻影ではなくなる。ならば存在している幻影というのはあり得ないのだろうか。たぶん画面やスクリーンに映し出されているのは幻影であり、それは実際に存在しているのではないか。そこに存在しているのは画面やスクリーンでしかないわけだが、その表面には幻影が映っていて、人はそれを見ることはできるが直接触ることはできない。要するに幻影に直接手を下すことはできないが、個人や集団が何らかの作用を及ぼすことはできるのではないか。具体的にはそれを見なければそこから影響を受けることはないわけで、だから幻影を使って人や社会に影響を及ぼそうとする人たちは、あらゆる手段を使って幻影を見せようと画策してくる。では幻影を見せようとする誘惑に逆らえるだろうか。たぶん逆らえないから人は暇さえあれば四六時中画面に映し出された幻影を見ているわけで、幻影を見ている間はそこに視線が釘付けになってしまうので、他のことをやれなくなってしまうわけだ。もちろんやってできないことはないだろうが、意識が幻影に夢中となり、他への注意力が散漫となって、やるべきと思う作業が中途半端に終わってしまうだろうか。たぶんそれだけではなく、逆に幻影を利用して何かをやろうと画策する人も出てくるわけで、現状では多くの人たちがネット経由で幻影を見せる側に回っているわけで、実際に文字や画像や映像や音などを用いて何らかの幻影をもたらしているわけだが、そのような行為も労働だと言えるだろうか。あるいはそうやって次第に労働から外れてゆく成り行きを作り出しているのだろうか。


8月19日「価値の幻影」

 物と物に関係する情報は人の意識の中で結びついてはいるが、実際に社会の中で物と人と情報とが錯綜して複雑に絡み合って様々な作用や影響を及ぼしている場合は、その種類と組み合わせに応じて様々な利用と機能を形成するが、物と人とを結びつける情報は物に関する説明や物を記号として扱うのに必要な内容となり、物を記号として取り扱う説明の中で物と人との関係がある水準では定式化され、定式化を可能とする理屈を伴って、社会の中で物や人や情報を操作する際に利用されるわけだが、理屈が説明される度に説明に使うのに必要な様々な記号の組み合わせが試みられ、それらは部分的には恒常的に定まった関係とはいえない面まであり、そういう部分では物と人との関係は定式化できないし、実際に物を伴わない情報が幻影として人の精神に作用する場合まであるわけで、一概に情報が物に結びついているとはいえない面まであって、物も人も情報も単独で記号として機能する場合もあるが、大抵はその場の都合に合わせて物と人と情報とを結び合わせて、それぞれを複合的な記号として取り扱うことになり、それがその場限りの関係であればそれを一定の理屈で説明するのは困難になる。そしてそれが物としても情報としても取り扱われることが可能な貨幣となると、売買の時に物の価格を表す記号として機能する以前に、蓄積された数値情報としての量を示していて、しかもその量が必ずしも物としての貨幣の量とは一致していないわけで、実際に紙幣や硬貨として流通している貨幣の量は、数値情報として金融機関などに蓄積している量のほんの一部でしかなく、それで間に合っている限りで物としての貨幣が存在しているわけで、全ての貨幣が物として実体化する必要がないからそんな実態となっているわけだが、そうなっている時点ですでに貨幣は物としてよりは情報としての機能が優っているわけで、それ自体が物質的な実体がなくても機能する記号的な働きを担っているわけだ。

 例えば物も人も情報も文章上では文字記号であり、それらを記号として機能させる時には、それを介して関係する人々の間で、何らかの意味を持った記号として取り扱うことに関して共通の了解がないと、記号として人々の間では機能しないわけで、結局は人と人とが関係し合う社会の中でしか記号が機能しないのは当たり前のことだが、記号の意味を共通の了解事項として認め合うことによって、初めて社会の中で何らかの意味を伴った記号が機能して、それが機能する限りにおいて社会の中で定められた様々な仕組みや制度が円滑に動作するわけだ。人々が共通の了解事項として共有している記号というのは、人と物と情報とを結びつける符牒であることはいうまでもなく、しかも記号は記号自身と記号の意味という二種類の情報の結合体を成していて、その記号そのものとその意味との結合という二重性が、記号を正確には把握しがたい概念にしている。それがしばしば人を記号に関する誤った理解や単純化した認識に導き、その機能も充分には説明し難い概念にしていて、例えば貨幣は実際に所有している硬貨や紙幣としては物であり、銀行の口座残高の上では数値情報でもあり、ただ所有している硬貨には数値が刻印され、紙幣にも数値が印刷され、預金通帳にも数値が印刷され、銀行などにあるコンピュータ上の記録媒体にも数値などのディジタル情報が記憶されているわけで、どれもが売買の際に商品と交換できる記号として機能する。しかもその記号自身である貨幣も、商品として売買可能であり、実際に貨幣は為替取引などでは一定のレートで売買される商品ともなるが、その一方で実体を伴わない情報としての貨幣の額が、金融工学と呼ばれもする怪しげな取引を通してむやみやたらと膨張する傾向にもあるわけで、それが間接的には何らかの債権と結びついているのだが、直接接することはない実体のなさが、いずれ金融市場の破綻を招くような深刻な事態を予感させているのだろうが、それが人が生活していく上で必要とされる物の生産と流通と消費にどんな影響を及ぼすとしても、実体を伴っている物と伴っていない情報との間には、乗り越え難い質の差異があることは確かで、情報は容易に生成することができて、容易に取り扱われて、容易に修正可能で、容易に消し去ることも可能かもしれないが、それに比べれば物は取り扱いにくいし、作るのにも取り扱うのにも修理するのにも消し去るのにもそれなりの労力を要し、そういう面でそれに関わる物としての様々な存在が情報が膨張する上で障害物となっていて、物と情報とが結びついている実態が、情報に偏向した市場が暴走するのを食い止めている可能性はある。


8月18日「グローバリゼーション」

 20世紀末の情報革命以来、世界的なグローバリゼーションの流れは止めようがなくなってきたわけだが、そこでよく言われるように国境を越えようとする人や物や情報や資金の流れを止めようがないわけではなく、行政的な面では有形無形の様々な制度や慣習によってある程度はそれらの流れが国境で止まっている現実があるのだろうし、そうした流れに反対して抗う人たちにも主義主張や実際の行動や言動などの面で変わってきた兆候や傾向があるのだろうか。主にアメリカを本拠地とするITやSNSなどの関連企業は、情報を扱うことを本業としているので、インターネットを経由して容易に国境の壁を突破している現状があるわけで、実際にそれをテコにして広告収入を得たり物や情報を売り込んで利益を出していて、そうやってアメリカ本国とアメリカ以外の地域から利益を吸い上げている構図がはっきりしている。また他のグローバル展開している各国の主要な企業もその企業が専門としている様々な産業分野で、世界中から利益を吸い上げている構図もあるのだろうが、そうした現状からわかることは、まだ国ごとに関税障壁やその他の非関税障壁があるものの、そうした障壁を乗り越えてそれなりに利益を出しているのだから、そうした実態が現状でのグローバリゼーションの進捗状況を表しているのだろうし、そうした流れに反対して抗う人たちも、自国の主要な企業がグローバル展開していることに関してはそれほど反対していないのかもしれず、そういうところでは昔のような戦争をして自国の領土を拡張するようなあからさまな侵略行為は、今や国際的な政治状況の中では許されていないので、それよりはかなり後退した国家主義的な感覚として、自国の主要な企業が世界各国に展開して利益を吸い上げてくる行為なら、それほど抵抗感なく肯定できるのだろうし、またその逆に外国の企業が自国で利益を吸い上げていることに関しては不快感をあらわにするわけだが、その延長上で自国の産業を守るために外国からの経済開放要求には反発するわけで、そうした相対的な是々非々の立場を取っている限りは、良くも悪くも世界の現状を追認していることになるのではないか。そこに矛盾を認める必要はないのだろうし、実際に矛盾でも何でもなく自然な感情の発露なのだろうし、それに関してあまり理性的になって正しい認識を示す必要は感じられないのだが、そういうところで思考停止している方がかえって現状に順応しやすいのかもしれず、それがグローバリゼーションに抵抗しながらも受け入れようとする自然な姿勢なのかもしれない。

 日本国内では米軍基地や原発事故などの問題も絡まって、かなりこじれたことになっているのかもしれないが、それらにしても抵抗しながらも受け入れている現状があるわけで、その辺で微妙な均衡状態が成り立っているように見えながらも、事態は水面下で少しずつ何らかの突破口を目指して進んでいる可能性もあるのかもしれず、あからさまに抵抗の意志を示すことは大事なのだろうが、そうやっても事態の解決が望めないからといって諦めるのではなく、ただ普通の感覚として抵抗していることが自然な感情の発露となるのかもしれず、何もそこから意志の力を借りて激情に駆られる必要はないのだろうし、すぐには事態の解決を望めないとしても、不快な成り行きには淡々と抵抗していくことが肝要なのだろうか。そして何かに抵抗していることが、実際にはっきりした行動や言動となって現れるのは稀なことかもしれず、それを日頃から意識していなくても、何かのきっかけや機会が巡ってきた時に、自然に出てしまうことがあるわけで、そうなる可能性に期待しているならば、メディア上でなされるこれ見よがしの煽動行為にいちいち腹を立てるにしても、そうした見え透いた行為には惑わされないように心がけていれば、そんなに苦にはならないのではないか。ともかく現状で進行しているのがグローバリゼーションなのであり、危機的な状況を煽り立てている人たちの予言している内容がそうなのではないことは確かで、一方が現実でもう一方がフィクションであるのはもちろんのこと、しかもフィクションの方が興味深く感じられる一方で、実際に体験しつつある現実の方は結果がはっきりしないから、いつまで経っても謎のままなのかもしれず、予言者や予想屋などが断言口調でこうなるとは言えないものでもあり、どうなるかわからないからこそ、とにかく不快に思われることには自然に抵抗し続けることしかできないのではないか。そしてそんな漠然とした抵抗に見切りをつけて総論賛成各論反対的な単純化によって問題を整理整頓してしまうと、予言者的なフィクションに足元をすくわれるしかないわけで、実際に単純明快かつ安易な解決方法などあり得ないからこそ、それがあり得ないような現状の中でグローバリゼーションを体験し続けているわけだ。この先選挙などで何らかの選択の機会が巡ってくるわけだが、その選択結果によって問題が解決するようなことはないのはわかりきっていて、そこで安易な解決法を提示したがる政治勢力が政権を担っても、それがうまくいかなくなって落胆しかもたらさないこともわかりきっていることかもしれないが、実際にそうなるとすれば、案外そうした人々の落胆がグローバリゼーションの真実を物語っているのかもしれない。


8月17日「貨幣と商品」

 人類には太古の昔から物を加工して道具を作り、さらに道具を使って物を加工するという相乗効果によって、自分たちに都合のいいようにその生活習慣や身の回りの環境を作り変えてきた歴史がある。また一方で自分たちが生活していく上で必要となってくる物を獲得して、それを摂取したり使用しやすいように加工したり、またそれを蓄えておくのに伴って生じる保存方法などに関して、そのような様々な行為に必要な道具や建物などの作り方やその使い方に至るまで、人自身もそれに含まれるような物に関する取り扱いの方法を知識として社会の中で共有してきた。そしてそれらの知識を情報として共有し伝達し保存する方法として、音声や文字などで表現する言葉の組み合わせとしての言語を発明し共有して発展させ、それを使うことによって人と人の間で、あるいは人が構成する集団内や他の集団との間で意思疎通を図り、その内容を文字として石や粘土に刻んだり木や紙に記して、いつでも閲覧可能な状態で保存して残そうとしてきたわけで、人類はその歴史を通じて物を取り扱うための道具や機械を作って、それを用いて物を加工して利用する技術と、それらの扱い方に関する情報を知識として社会の中で共有して定着させるやり方の両方を発展させてきた。そしてそのような技術や方法が活用される中で、物と物とを交換する際に用いる媒体として、貨幣という物の価値を示す情報を担った媒介物が生み出された。

 社会の中で活用される物の存在様式や形態とその機能を理解するには、物の取り扱いに関して保存された記憶や記録から得られる情報を知る必要がある。意識が捉えようとする物体としての物には、その物に関して知り得た物自体の性質や形や色や量や他の物との相互作用などの一般的な情報の他に、社会の中でその物がどのように作用して使用されて機能しているかを示す情報も含まれ、それらの情報が社会の中で物に関する知識として共有されている。そして物の作用や機能を示す情報の中には、まずは物自体の名称があり、それを何と呼ぶかに関して共通の名称がないと、社会の構成員がその物についての知識や認識を共有できない。そして人々の間で名称が共有されている物が社会の中でどのように役立っているかを示す情報としては、例えばそれが食物ならば直接摂取することによって栄養を取ることができるとか、資源ならば加工して別の人工物を形作るのに有用な材料となったり、燃料として機器や機械類の動力や熱や電力などを生み出したりもするわけで、物に関するそのような情報が知識として社会の中で人々の間で共有され活用されている実態があるわけだが、貨幣に関する知識としては、売買と呼ばれる行為の際に、物と同じ価値を示す数量の貨幣を物と交換する等価交換の原則があり、それによって交換に関わる双方が納得でき、お互いの価値観が合わなくても交渉することによって、双方の間で売買価格のすり合わせが行われて妥協が図られる可能性が生じるわけだが、貨幣はその際、交換される物の量や質に関しての価値を決め、実際にその価値を担う数量の貨幣と交換されることで、その物の価値が交換されると同時に決まり、またその所有権が貨幣を受け取った者の手から貨幣を払った者の手に移る。

 物のイメージはその物の姿形を映し出す画像や映像などから成り立つが、一方で物の性質や働きや取り扱いに関しては、主に文字や音声や数値や図表などを含む記号表現を用いて説明される。一般的には物に関するイメージを含む画像や映像などの情報と物の性質や働きや取り扱いを含む記号情報が一体化して、それが物に関する知識として定着しているわけだが、実際に思考作用によって理解を要するのは、主に文字や数値や図表などの記号を用いて表現される情報であり、それらの情報を活用する上で、その物に関する文字や数値などの記号を用いて説明している内容が視覚的にわかりやすく示されている場合があり、それを物に直接貼り付けて他の社会の構成員の誰でも一目でわかるように表示して、例えばその名称、内容物、製造番号、製造年月日、所有者などの物に関連する記号的な情報が物に貼り付いた状態で、それが標識として機能するように記載されている。そしてその中でも物の価格が最も重要な情報として記されているのが商品であり、要するに商品に値札がついている状態で見せているわけだが、一方で商品の売買に際して使う交換媒体である貨幣にも、価値の度合いである価格の指標となる数値が記されていて、売買に際して買い手が商品の価格と貨幣に記された数値の合計が一致するだけの量の貨幣を所持していれば、商品と貨幣との交換が可能になるわけだが、貨幣も現物で所持していてばそれは物の一種であり、実際に紙に価格の指標なる数値が印刷されているのが紙幣であり、金属片に価格の指標となる数値が刻印されているのが硬貨であり、それらが商品に貼り付いている価格と同じとなるだけの枚数の紙幣や硬貨を合計で持っていれば、その商品と交換できるわけだが、実際に交換されている実態や慣習があるから、貨幣自体は商品が体現している価値の度合いを示す価格の指標となり、売買に伴って交換される貨幣の合計が商品の価格を示す指標となり、指標となるその数値が貨幣の本質であり、数値情報以外の情報としては、その貨幣が本物であることを保証する情報が記載されていて、それが本物であることが貨幣を発行している機関によって保証されて、それが社会的に信用されている限りで、商品の売買を媒介する役割を果たせる。

 商品は売ることによって貨幣と交換され、それを買うことによっても貨幣と交換される。つまり一般的な売買で商品を買うには貨幣が必要で、貨幣を得るには借りるか商品を売らなければならず、そうした機能が社会の構成員が社会の中で様々な役割を分担されることを可能としていて、自らの活動からは得られない生活必需物資を買うことによって得られ、また他の構成員が必要な物資を売ることによって与えることができ、そうやって社会の中で各人が足りない物を補い合うシステムを成り立たせることが売買という行為が担っている機能でもあるわけだが、またそれは各人を労働という貨幣を得るためのサービス活動に導いていて、それが社会の構成員が社会の中で様々な役割を分担させられていること自体ともなっているわけで、結果的に商品を生産して流通して消費する活動に人々の労働が関与していることになる。それは地縁血縁的な贈与や供与では得られない物を得られる機会を人々に提供し、氏族的あるいは地域的な繋がりのない集団の間での交易を可能としている。そしてそうした因習的なしがらみのない商品を買ったり売ったりするに伴って、そのような取引を安全に行えるようにするための何らかの保障や信用を求める機運が世の中に生じて、ひどい商品をつかまされて詐欺に遭ったり詐欺を行わせないようにするための措置を、国家などの行政機関に求めるような動きが出てきて、そうした成り行きの中で売買に関する法律が制定され、法律を人々に守らせる役割を担った警察などの新たな機構が行政機関の中から生じてきたわけで、またそのような法律の整備が進展するにつれて、法律を破った者を裁くための司法などの機構も、行政府から権限を委譲されて独立してくるような歴史的な経緯があるわけだ。


8月16日「比較から生じる幻想」

 国という行政単位は国力という幻想をもたらしそうな意味合いがあるが、実際に国力は幻想ではなく予算規模や経済規模や軍事力などによって測れる尺度だろうし、何かと国ごとの優劣や序列をつけたがる向きには格好の指標となるのかもしれない。だが国力がどのような時に役に立つのかというと、国際的な政治や外交などの駆け引きの場において、相手国との交渉の席上で何か物を言うことがあるのかもしれないが、よほどのことがない限りは国家と国家との戦争は回避されるのが近年の傾向だし、何らかの事情で国内で隣国との敵対関係を煽り立てる人々がいても、そこから軍事衝突などに至る可能性はあまりなさそうだし、そういうきな臭い面で国力を役に立てようとする成り行きにはならないのかもしれず、いくら国力に差があろうと外交上は表面的には対等を装う場合がほとんどだろうし、戦争ではなく外交的な関係に限れば、双方の国力を比較してどうこうということはあまりないのではないか。むしろ最近は各国とも国内の政治経済情勢にも絡んだ社会問題ばかりがメディア的には取り上げられることが多いのかもしれず、それは国内の住民同士の対立であったり、住民と行政府との対立であったり、住民と企業などとの対立であったりするわけで、それが何に起因していようと、その国の国力がどうであろうと、いかに住民が平穏無事に暮らせるかが、メディア的な関心事なのかもしれず、世の中の話題といえば大抵は何らかの揉め事や争い事が脚光を浴びるのだろうが、それが解決しようのない不条理を感じさせるようなことだと、その国の社会には何やら重苦しい不幸が満ち溢れているようにも思われてしまうわけだが、たぶんそれはある程度までは世界共通なのかもしれず、そこに根を張る様々な因習による束縛が人々に文化的なまとまりをもたらすと同時に、勝手気ままに自由を謳歌する機会を奪っていて、それがある種の苦しみや同調圧力をもたらしているとも言えるのだろうが、また貧富の格差などの経済的な不均衡が社会的な階層の存在を意識させていて、階層間の対立や軋轢や主従関係などももたらしていて、それがその地域特有の文化や慣習などにも色濃く影を落としている場合もあって、それらが複雑に絡み合うことでしがらみを作り、そんなしがらみからなかなか抜け出られないことが、そこにつなぎとめられていることによって、生かされていると同時に不快な不自由さももたらしていて、そこから社会を守るとともに社会的なしがらみから自由になりたいという二律背反的な感情が生じることになるだろうか。

 そうなると国という行政単位とも国力という概念とも全く無関係なことを述べていることになるのかもしれないが、両者を結びつけるのも二律背反的な感情であるのかもしれず、国と社会とが重なるような対象として捉えようとすると、国民という存在と住民という存在を同一の存在として扱うことにもなるわけで、人々を拘束しているその地域特有の文化や慣習を、その国特有の文化や慣習として認めることにもなり、そうなると例えば京都周辺の文化的な景観が日本特有の文化的な景観として海外に向けて紹介されようとしたり、地域と国とを同一視するような錯覚も生まれるわけで、たぶんその辺から人々の間で認識のずれが少しずつ生じているのではないか。別に行政単位としての国の存在が無意味だとは思わないが、京都周辺に住んでいる人と東京周辺に住んでいる人が、同じ日本国民であるとしても、サンフランシスコ周辺に住んでいる人とニューヨーク周辺に住んでいる人が、同じアメリカ国民であるとしても、京都周辺に住んでいる人とサンフランシスコ周辺に住んでいる人との間で何か違いがあるとしたら、日本国民であることとアメリカ国民であることとの違い以外には、あまり積極的に違いを際立たせるものはないのかもしれず、それは文化や慣習の違いというよりは、国としての行政単位上の違いであり、それが形式的なものだと捉えることには抵抗があるかもしれないが、逆に文化や慣習の違いを際立たせようとすれば、同じ国の国民である京都周辺に住んでいる人と東京周辺に住んでいる人との間でも違いが際立つわけで、また京都周辺に住んでいる外国人と東京周辺に住んでいる外国人との間でも、文化や慣習の違いが際立つかもしれないし、さらにそれが観光的な視線で見る限りでの違いである場合もあって、結局は京都周辺に住んでいても東京周辺に住んでいてもサンフランシスコ周辺に住んでいてもニューヨーク周辺に住んでいても、たとえ言語や文化や生活習慣が違っていても、同じような仕事に就いて同じような家族構成や交友関係を持っていたら、案外同じような毎日を過ごしている可能性もあるわけで、そこに些細な違いを認めて日本人とアメリカ人の違いを説明することは可能だろうが、それを説明する人やその説明を真に受ける人にとっては興味深いことかもしれないが、実際に生活している人にとっては別に気にかけるようなことではないのかもしれず、さらにそれが北朝鮮の平壌周辺に住んでいる人であっても、平穏無事に暮らしている限りは大したことではないのかもしれない。そしてそこに平穏無事では済まない揉め事や争い事を認めると、途端に国ごとの違いを強調して対立を煽りたくなってくるわけだ。


8月15日「製品開発と広告宣伝」

 人が欲しいと思うものは貴重であったり希少であったりするものかもしれないが、それが商品である場合は一般的に高価なものとなるだろうし、それを所有していることを自慢したくなるようなものとなるだろうが、欲しいものであると同時に必要だと思う商品となると、誰もが買える廉価なものである必要があるだろうし、それを使用したり消費すると得した気分になれるようなものとなると、そのような商品の広告宣伝の内容としては、安くて便利で使い勝手が良いなどの経済効率が強調されることとなりそうで、高くてきれいで無駄に性能が良い商品から、安くて便利でお買い得な商品まで、商品の種類は様々にあるわけだが、商品の用途や価格に応じてその製造時における技術開発の方向は違うだろうし、例えばコストの安さを実現する技術と性能の良さを実現する技術とでは目的が違うわけで、一般的にはコストの安さを重視して性能を犠牲にすると廉価な商品が生まれ、コストを無視して性能の良さを追求すれば高価な商品が生まれるが、他にも見た目のきれいさや、マニアックな人向けに派手で奇抜なデザインにしたり、大衆向けに地味で穏当なデザインにしたり、様々な方向があるのは確かで、必ずしも利益に直結する製造経費の安さを追求するだけに技術革新が進むわけではなく、いくら経費を安くしても売れなければどうしようもないわけで、実際に同じ種類の商品でも必ず安い商品が数多く売れるわけではなく、食品なら安くても不味いものは売れないだろうし、外国産だと原産国のイメージがつきまとい、その国の土壌や大気や河川や海が汚染されていたり、食品の安全基準があまり信用できないようなものなら、いくら安くても敬遠されがちになるかもしれず、また機械類だといくら安くても壊れやすいものだと売れないだろうし、またメンテナンスなどアフターサービスがしっかりしていないと、安心して買えない製品もありそうで、単純に考えれば経費を安くして充分に利益の出る価格で売れればいいわけだが、その商品につきまとうブランドイメージなど、製品の製造技術とは少しずれた要因が価格も利益も左右するのではないか。

 もちろんある種の商品のブランドイメージを保つには、その製造技術が信頼されている必要もあるわけだが、一方でデザインが洗練されていたり、ある種の憧れを抱かせる国の企業であったり、そのブランドの製品を持っていることが社会的なステータスを示すと信じられていたりすることもあるわけで、そうなるとかえって安物であっては困る理由も出てくるだろうし、そのブランドを製造販売する企業を儲けさせるために、限られた消費者があえて一番高価な製品を競って買うような事態ともなれば、そのような企業は製造経費の安さだけを追求する技術開発を行う必要はなくなるわけだ。また壊れやすい製品を作ってブランドイメージが傷つくのを避けるために、従業員に無理な労働を強いて製品の質を落とすようなことはしないかもしれないし、そんな企業ばかりではないのはわかりきったことであり、有名ブランドを扱う企業でも、下請けの労働者に過酷なノルマを課すような実態もあるのかもしれないが、企業イメージやブランドイメージを売りにする企業は、実態がどうであれ少なくともイメージが傷つくようなメディア報道には神経をとがらせているだろうし、それだけ悪どい金儲けが公にならないように細心の注意を払っていることは確かであり、そのようなメディア圧力が多少なりともその企業で働く労働者の身を守るような要因にはなっているのではないか。そういう意味でもメディア上で商品の広告宣伝を広く行えるような企業は、それなりに真っ当な活動を余儀なくさせられる傾向にはあるのだろうし、不祥事を嗅ぎつけるのが生業のジャーナリスムの方でも、企業の広告宣伝費が主な収入源である場合は、その企業をあからさまに批判できなくなる事情も出てくるのだろうが、広告宣伝費をもらっていない別の企業の不祥事なら取り上げられるのだろうし、そんなところでも真っ当なメディア報道ができる範囲内でしか、ジャーナリズムも力を発揮できないわけだが、全てを単純化して事の善悪を見極めるわけには行かないわけで、確かに経済活動では利益を上げることが何よりも優先される傾向にはあるのだろうが、それ以外の枝葉末節な部分でもそれなりに気を使う必要が出てくることは確かで、その活動を目標や目的などで単純化して捉えないことが肝要なのかもしれない。


8月14日「資本主義経済の崩壊」

 現状が維持されている限りにおいて、現状維持のための投資が行われているわけで、また経済成長している分には事業を拡大させるための投資が行われているのだろうが、そうなっている限りにおいて、経済成長するような何らかの利益が生じていることにもなるだろうが、そうであるにしてもその中で事業が破綻して企業が倒産している現実もあるだろうし、経済活動がうまくいっている部分とうまくいっていない部分との間で、収支がゼロなら現状維持でプラスなら経済成長していると単純に考えてしまいがちだが、全体としてそう考えることが果たして意味を持つのかというと、統計的な面では確かに意味を持ち、それによって株価や為替が変動したりするのだろうが、個別の事例に限って考えてみると、事業が失敗して企業の経営が破綻している状況があるとすれば、それに伴って生じる不良債権も生じているわけで、もちろん不良債権を全額回収できなければ回収できない分については債権を持っている企業や金融機関の方で、最終的には債権を放棄して損失計上するしかないわけだが、一方で世の中には利益を出している事業も確実にあるわけで、当たり前のことだが利益が出ている事業があるから資本主義経済が成り立っているわけで、結局は利益を出ている事業が残って、債務がかさんで資金繰りがつかなくなった事業が消え去る一方で、全体として物や情報やサービスの生産と流通と消費が継続している限りで、資本主義経済が成り立っている現状があるわけで、少なくとも生産される物や情報やサービスが利益を見込んだ価格で売れていれば、資本主義経済が成り立つことになるわけで、そしてそれらが売れない場合もあって、売れない物や情報やサービスを生産すれば損失が出て、あるいは生産して流通させる経費を下回る価格でしか売れない場合も同じように損失が出るわけで、そして損失を補うだけの投資がなければ事業は破綻するわけで、結局は利益が出る価格で売れる分だけ生産すればいいことになるのだろうが、そうやって生産調整すれば無駄に生産することもなくなり、利益を継続的に出し続けることになるわけだが、そうなるにはこれまでの生産実績や販売実績から生産量を調整することになり、そういうことが可能な分野もあるのだろうし、そうした分野では実際にそうやって生産調整しながら価格の維持を図っているのだろうが、もちろん全ての産業分野でそれが可能であるわけではないだろうし、必ずしも計画的には行かないから事業が破綻するケースが出てくるわけで、その計画的には行かない部分を過大に捉えれば、全体として資本主義経済が将来うまく行かなくなって、そう遠くない未来における崩壊を予言する気にもなるわけだ。

 だが現実に起こっていることは、うまく行かなくなった事業が消え去る一方で、うまくいっている事業は継続していくわけで、またうまく行かなくなった事業に代わって新たな事業が出てきて、その中でもうまくいった事業だけが残るわけで、全体としてうまく行かなくなるのではなく、絶えず部分的にうまく行かなくなって、そのうまく行かなくなった部分は切り捨てられる。損失がかさんで負債が雪だるま式に増えるのにも限度があって、どうにもならなくなった時点でその部分を切り離して損失計上するとともにリセットしてしまうわけだ。それはトカゲの尻尾切りと同じ原理かもしれないが、負債を抱えた人間がいつまでも生きているわけではなく、寿命が尽きれば死んでしまうわけだから、そんなことをしているうちに人も数十年で入れ替わって、そういうところで損失も負債もうやむやになってしまう部分があるのではないか。もしかしたら経済的にうまくいっている部分はほんの一部分であっても構わないのかもしれず、これまでもそうであったかもしれないしこれからもそうなのかもしれないし、現状がどの程度うまくいっているかついても、どのような基準でどうなればうまくいっていることになるのかは、これといって説得力のある基準などないのかもしれず、ただ漠然と業績の好調な企業が脚光をあびる一方で、稀に有名な大企業の業績が悪化して話題にもなるのだろうが、全体として数パーセントの経済成長が維持されていれば、経済がうまくいっていることになるだけで、その中でもほんの少しのうまくいっている部分とうまくいっていない部分と、その他大半の現状維持的な部分があると捉えておいた方が良さそうで、それが数パーセントの経済成長が示している現状なのではないか。そして現状維持的な部分が大きければ大きいほど状況は安定しているわけで、現状が維持されている限りは全体的な資本主義経済の崩壊はありえないこととなりそうで、現状を維持できるだけの資本の蓄積があるということも言えそうで、そこで物や情報やサービスの生産と流通と消費が行われている実態があれば、とりあえずはそれが今後も高確率で継続していくことは確かなようで、大した利益は上げていないとしても、それらの生産量と流通量と消費量が長期的に維持されている現状があれば、今後も長期的にそれらが維持される可能性はあるだろうし、何らかの天変地異や戦争などが起こって状況が激変することもあるだろうが、それがかえって累積した国債などの負債をリセットする格好の機会になる可能性もあるわけで、そういう面でも楽観的に資本主義経済の崩壊を予言する気にはなれない。


8月13日「自然な感情」

 物事を単純化して捉えるならば、何らかの事業に資金を投資することによって利益を生み出して、その利益の蓄積によって生じた資金をまた事業に投資することによって、経済活動の継続的なサイクルが生じるわけだろうが、その事業に組み込まれる人の取り分に関して、その労働に見合う賃金が支払われているかどうかについては、労働者が賃金で実際に生活できるかが一応の基準となるだろうし、生活できなければ働けないわけだから、その事業が成り立っている限りでは、そこに組み込まれている労働者には、それなりに生活できるだけの賃金が支払われていることにはなるのだろう。もちろんぎりぎりのかろうじて生きながらえるだけの生活では不満だろうし、そのような悲惨な境遇の労働者が社会の中で多数派となれば、社会に不満が充満して共産主義革命への機運が高まるかもしれないが、そのような労働者が少数派にとどまっている限りで現状が維持されるのだろうし、実態としての現状が実際にどうなっているかは、人によっても立場によっても見解が分かれるところだろうし、別に現状で共産主義革命への機運が高まっていないからといって、労働者が現状の賃金で満足しているとは言えないだろうし、もらえるものならいくらでも賃金を上げて欲しいのが人情だろうが、個々のケースで過労死するほど働かされたり、賃金が安すぎて人並みの生活が送れずに苦しんでいる人や、何よりも不快な労働をさせられるのが最も心身に堪えるわけで、嫌悪感を抱きながら我慢して働いていると、そこで生じるストレスが他者への攻撃的な感情に転化するわけで、そのような感情を糾合してぶつける的として、安易に用いられるのが国家的な敵であったり、様々な差別の対象としての民族や宗派や人種となるわけだが、保護や援助を必要とする身体障害や精神疾患を患っている社会的な弱者を攻撃するのも、やはりそういう感情に起因しているのだろうし、自分たちが苦労して働いているのに、彼らは何もせずに生かされていると思われてしまうわけだが、そんな他者の境遇を尊重できない偏狭な余裕のなさは、自分たちの境遇の余裕のなさから生じていることは確かだろうし、もちろんそういう感情を糾合して焚きつける指導的な立場の人たちは、経済的にも仕事的にも恵まれた環境の中で生きているわけだろうが、そういう人たちにも不快にさせる事情があるのかもしれず、例えば自分たちを認めてくれないアカデミックな権威に対する劣等感を感じていて、そのような鬱憤を晴らすべく、彼らも彼らで自分たちを三流ぺてん師扱いする左翼的なメディアに対して、攻撃的な感情を糾合して戦いを挑んでいるのではないか。

 不快なストレスを生む労働が世の中からなくならない限りは、攻撃的な感情もなくならないのだろうが、そんな攻撃的な感情が革命へは向かわずに、社会的な弱者や異分子へと向かうのは、現にそんな社会の中で生かされているという実感から生じていて、自分たちもあわよくば社会の支配層になりたいという願望もあるのだろうし、社会のお荷物である弱者や異分子を排除すれば、より豊かになれるという思い込みもあるだろうし、彼らは彼らなりに共産主義者とは違った意味で、社会を全体として捉えているわけで、それが部分的な絡み合いでしかないことを理解していないのではないか。社会は全体として成り立っているわけではなく、成り立っている部分もある一方で、成り立っていない部分もあって、実際に成り立っていない部分では争いが絶えないし、その中で人も集団もいがみ合い敵対して攻撃しあっていて、成り立っている部分でもいつ何かのきっかけで成り立たなくなるのかもしれず、成り立っていない部分でも何かのきっかけで成り立つようになるのかもしれず、そんな中で人も集団も様々な次元で離合集散を繰り返していて、そこから絶えず社会的な弱者や異分子が生み出されているわけだから、それらをいくら排除しても次から次へと生まれてくるわけで、それらをいちいち攻撃して排除していたらきりがなくなってしまうわけだが、それも社会が成り立っていない部分で生じている争いでしかないわけで、もちろんそのような行為に対して反発や非難も繰り返しなされているわけで、それもそこでの争いに含まれているのだから、どうあがいても人の攻撃的な感情がおさまる気配はないだろうし、それの元凶となっている不快なストレスを生む労働にしても、社会の中で何らかの競争が生じている限りは、労働の内容に優劣が生まれるのは当然であり、競争に勝った者からやりたいことをやれる成り行きとなるなら、負けた者はやりたくないことをやらなければならない境遇に追い込まれるわけで、そこでは勝ち負けの実感さえ意識できないこともあるのかもしれず、何だかわからないが成り行き上やりたくないことをやらされる役割を担わされる場合もあるわけで、自分が何に負けているのかもわからず、ただひたすら不快なことをやらされる羽目に陥ってしまえば、もはやそれは競争でさえないわけで、それが嫌なら仕事をやめればいいわけだが、やめられない事情もあるだろうし、やめたところで嫌な仕事しかなければ我慢してやるしかないわけで、そしてそんなことを延々とやり続ければ、もはや不快だとも思わないわけで、自覚のないまま不快な仕事をやり続ければ、ストレスも感じないのに攻撃的な感情だけが湧き上がってくる事態となり、そういう人たちにはこんな説明自体がデタラメとしか思えないのではないか。


8月12日「制度の必要性」

 社会の中である一定の仕組みが確立されると、その中で物や情報やサービスなどの持続的な生産と流通と消費の循環が生じるわけだが、そういった仕組みを維持するために様々な決まりが定められ、そういう決まり事も含んだ上で一定の仕組みが形成されるのであり、それが制度と呼ばれるものかもしれないのだが、社会にとってはそういった制度が必要不可欠であり、人も物も情報も制度の中に拘束しておく必要があり、制度によって社会が維持されていると言えるのかもしれないが、そうした制度そのものが完全に社会全体を掌握しているとはいえないだろうし、制度にも不備や不具合が少なからずあるわけで、そうした制度の不備や不具合を指摘し告発するジャーナリストなども存在していて、その不備や不具合を絶えず修正し改善するような働きかけもなされているわけだが、一方でそこに暮らす人々は必ずしも制度を守ろうとは思っていないのかもしれず、とりあえずできる範囲内でできることをやってみて、それが自分にとって都合のいいことならできることを続けようとするわけで、それが制度から外れて制度が課す決まりを守らないような行為だと、違法行為となってしまうわけだが、別に違法行為だろうと何だろうと、自分にとって都合が良ければやろうとするだろうし、場合によってはそのような行為を取り締まる警察権力と対決しなければならなくなるかもしれないが、そういう意味で制度自体には、人が可能な行為をやらせないようにするために権力の発動を促す力があり、行政機関のような制度を守る立場の組織は、社会の中で制度が確立されている限りで存在しているわけで、また制度に背いて違法行為に手を染める人たちも、そのような制度が確立している限りで存在しているわけだ。逆にいえばそのような制度がなければ行政機関も犯罪者も存在し得ないわけだが、同じ行為でも制度があると犯罪に認定され、制度がなければただの行為でしかないわけだから、制度があってもなくてもそうしたことをやる人は存在するのかもしれないし、そうした行為が他の人たちに迷惑が及ぶ行為ならば、そのような行為を取り締まることを正当化する制度があった方がいいと思われるだろうし、実際に制度が課す決まりを守らせるための行政機関が必要となるわけだ。

 だが周知のようにただでは制度も行政機関も維持できないわけで、人々から税を取り立てて行政機関とその活動のための経費を賄う必要が出てくるわけで、さらに制度を守らせるために人々を指導する必要も出てきて、それには人々に教育を施さなければならなくなり、人々を教育して制度に従うような人間を作り出さなければならなくなって、そうなるとそのための経費も税金から賄う必要が出てくる。また人々を外国の武力侵攻から守るためには軍隊が必要となるだろうし、軍隊には軍人と武器が必要となるだろうし、そのための経費も税金から賄う必要が出てくるし、そんなふうにどんどん必要経費が嵩んでいくと、今度は人々が税金を払えるようにしなければならないだろうし、そのためには産業を振興して税収を増やさないとならなくなるわけで、まずは産業振興に必要な道路や鉄道や港湾施設などのインフラを行政機関が整備する必要があり、その建設に必要な経費を税収から賄う必要が出てくるわけで、さらに産業の振興に必要な人材も教育によって作り出さなければならなくなるし、そのための経費も税金から賄う必要が出てくる。またそもそも制度自体が社会やそこで暮らす人々にとって有効に機能しているかどうかを知る必要が出てきて、そのためには人々の意見を聞く機会を設けなければならなくなるわけで、そのためには人々の代表者を選挙で選んで議会を開催して、そこで意見を聞いて社会やそこで暮らす人々にとって有効に機能するような決まりを作る必要があり、そのような仕組みにも経費がかかり、それも税金から賄わなければならない。また人々に意見を聞くからには人々の不満を抑えなければならなくなり、そのためには人々が社会の中で健康で快適な暮らしをさせる必要が出てくるわけで、そのためには福祉を充実させる必要があり、そのための経費も税金で賄う必要が出てきて、賄いきれない分については国債などの債券を発行して借金で賄うしかないわけだが、そうなるともはや人々を守るために行政機関が必要なのではなく、行政機関や制度を維持し守るために人々が働かなければならないような逆転現象が生じてくるわけで、そのような逆説に疑問を抱いてもらっては困るから、しきりに愛国心が喧伝されたりもするわけだが、それらのどこまでがどの程度必要であるかについては、たぶん誰にもわからないところだろうし、考え出したらきりがないのかもしれない。


8月11日「必然的な成り行き」

 人が金銭を得るには何かを売って得るのが普通だろうが、何を売るかでその後の状況が違ってくるのかもしれず、単純化すれば物を売るか情報を売るかサービスを売るかであり、しかもそれらが混ぜ合わさったものを売っている場合がほとんどかもしれず、売っているものの中でそれが物である部分と情報である部分とサービスである部分とが、どのような割合で混ぜ合わさっているかでも、そこで何を売っているかが異なってくるわけで、そこから得られる利益にも差が出てくるだろうか。単純に物だけを売っているように思われる場合でも、その物を作るには労働というサービスがついて回るわけで、また売る行為自体も労働であり、その物を採取したり作ったりする労働と、その物を売り場まで運んでくる労働と、実際に売る労働とがあり、それらの労働が必要経費として売っている物の価格に加算されないと、利益が出る以前に採算割れを起こしてしまうわけだが、売る際にも商品が売れるように広告宣伝することになれば、売る側が広告宣伝する機会をメディアの中で確保しなければならず、広告宣伝という情報を専門に作る広告業者とその情報を広く世の中に伝えるメディア業者にサービス料を払う必要が出てくる。そしてそのような広告宣伝に費やされた費用も商品の価格の中で必要経費として含まれるわけだが、物を売る上でそのような成り行きの中でそれなりの費用がかかっているとすれば、現状の各種メディアの活況を見ても、その額は無視し得ないほどの莫大な額になっていることはわかるし、しかもその材料費までも含めた必要経費に利益となる分を上乗せした価格で売らないとならないわけで、さらに実際に売れないと利益は出ないのであり、そういう意味でものの売買に関する部分ではかなりの面で効率的なシステム化がなされていることはいうまでもなく、それに絡んで特定の役割を担っている業者の寡占化も進んでいるだろうし、そこに偶然の巡り合わせのような要素が入り込んでくる余地もないようにも思えるのだが、例えば商品の広告宣伝を独占的に手がける業者というのが、その方面での利益を独占していることは確かかもしれないが、結局は寡占化が進んでその中で生き残って他を吸収合併した数社というのが、それがどの業者でもよかったのにたまたま数社が残ったという成り行き自体は、事の経緯からすると必然的な成り行きなのだろうし、また特定の商品を製造販売している企業の中でも寡占化が進んでいて、その中で残った数社というのが巨大企業に発展した経緯も、同じように必然的な成り行きなのであり、何かを売って利益を出すという行為が、それが特定の分野の特定の商品に収斂することから、それを商う特定の数社による寡占化と企業の巨大化を生み出す成り行きをもたらしているわけだ。

 その寡占化と企業の巨大化をもたらすシステムというのが、一方では勝者と敗者をもたらす競争であり、同種の商品のうちのどちらが売れるかを競うシステムなのだろうが、それが同じ商品をめぐって繰り広げられているうちは、競争が進むにつれて勝者が特定の数社に絞られてくるわけだが、そのうちにそれとは少し違う商品を売ろうとする業者が出てくることもあり、例えばエンジンを駆動装置に使った自動車とは違う電気モーターを駆動装置に使う自動車を売ろうとする業者が出てくるような場合があって、しかもそれが巨大な資本を後ろ盾にして攻勢を仕掛けてくると、やはり自動車業界の寡占状態が崩れる可能性も出てくるのかもしれないが、それとは全く違った自動車とも鉄道とも船舶とも航空機とも違う移動や輸送手段が出てきて、それが広く世の中に広まれば、世の中が大きく変わる可能性も出てくるだろうか。現状ではすでに商業的な移動や輸送手段は自動車や鉄道や船舶や航空機によって独占されているわけで、そうであるかぎりにおいて、自動車業界においても鉄道業界においても船舶業界においても航空機業界においても、寡占化と企業の巨大化に行き着いているわけだ。それらは人力や家畜を用いるよりははるかに効率的に移動や輸送が可能だから、広く世の中に普及したわけで、ではなぜ人力や家畜を使用する行為が寡占化や企業の巨大化をもたらさないのかといえば、それが同じ一つのシステムとしては成り立たないからであり、家畜の場合だと食肉や羊毛や皮革などの産業においては、それぞれの専門分野として産業的なシステム化が可能となって、それなりに寡占化と企業の巨大化に行き着いている面があるが、移動や輸送手段に関しては、個人や商隊で利用する他に、戦争に使う目的でモンゴル人などのような部族や国家単位でシステム化した歴史的な経緯もあったが、やはり産業革命以降の効率化と機械化において、他のより優れた移動や輸送手段に取って代わられた経緯があり、移動や輸送手段に使う目的での家畜の生産と売買に寡占化や企業の巨大化は不要だったわけだ。そしてなぜ寡占化や企業の巨大化が必要なのかというと、それらを製造する機械設備の維持管理がそれらの分野のシステム化と表裏一体だからだろうし、効率的に製造販売するには多数の人員とともに大量の機械設備が必要不可欠となり、それを効率的に維持管理するためのシステムも必要となって、それらに関する技術革新を行うための研究開発にも多額の投資を必要としていて、そうなると多額の投資を行えるだけの資本規模が必要となってくるだろうし、それを行えない企業は競争から脱落するか競争相手に吸収されてしまうかしかなく、結果的に特定の産業分野内での寡占化と企業規模の巨大化が進行するわけだ。


8月10日「代替物」

 資源にはそれが利用価値を持つ限りにおいて地政学的なリスクがつきものだろうが、その代表的な例は石油だろうし、埋蔵量に地域的な偏りがあり、それが産出される地域ではその利権をめぐって争いが絶えなかったり、特定の支配層が利権を独占して政治的な民主化を阻んでいたりするわけで、そのような事情や経緯が地政学的なリスクをもたらしているわけだが、それは石油以外でもレアメタルと呼ばれる資源にも言えることだが、そのような資源に依存する産業があることは事実で、その産業によって作り出された製品が広く世の中に普及している限りは、そのような地政学的なリスクは常に潜在的な脅威となって、それが資源の供給を危うくする要因とも思われているわけだが、資源は需要がなければ供給しても売れず、その資源の代替物がある限りはあとは採算面で折り合いがつくかどうかであり、供給が不足して値上がりすれば、別の資源で代替可能ならそちらを使うわけで、そう都合よく代替資源が見つからない場合もあるのだろうが、現実に石油にしてもレアメタルにしても供給が滞る状況にはなっていないらしく、今のところは資源に関する地政学的なリスクは杞憂に終わっている現状があるらしいのだが、それとは別の地政学的なリスクとして、北朝鮮とアメリカとの対立が話題にはなっているようで、それに関しては資源ではなく軍事的なリスクであることは確かで、厳密には北朝鮮によるミサイル発射などの挑発行為がエスカレートしているわけで、それも今のところはニュース的な話題の域を出ない程度のことなのだが、しかもこのままニュース的な域にとどまるだけなら、いつもの北朝鮮でしかないわけで、どうということはないと思われてしまいそうで、北朝鮮にとってはそうであっては困るのか、あるいは困らないのか、どちらであっても構わないのかもしれず、現状を打開しようとして打開できなくても現状があるだけで、果たして現状がいつまで続いてもどうなるわけでもなく、いつかはどうにかなるとしても、そのいつかがいつであっても構わないような現状があるわけで、そういう意味で軍事的なリスクは延々と待ちの姿勢をもたらしていて、いつまでたっても軍事衝突が起きない限りは待つしかないわけで、しかもひたすら待ち望んだ軍事衝突が起こったところで、事前に力の差が歴然としていれば、結果は予想の範囲内でしかないだろうか。それでもなお地政学的なリスクがあるとすれば、それは予想を超える結果がもたらされるというよりは、予想を下回る結果となって落胆と安堵がもたらされることだろうか。

 それの何がリスクなのかというと、中途半端で消化不良の結果しかもたらされず、いつまでたっても決着がつかないところだろうか。もはや国家には政治的にも軍事的にも決着をつける力は持っておらず、それは国家の連合体である国連やEUにも言えることかもしれないが、そうかと言って国家に取って代わるような代替組織があるわけでもないし、もちろんグローバル企業が国家に取って代わることはあり得ないだろうか。今さら世界に広域国家として帝国が生まれるわけでもないだろうし、たぶん国家そのものが変容してきているのではないか。それがどのような変容を被っているかは、様々な歴史的な経緯の延長上で変容しているとも言えるだろうが、具体的にはもはや政治家にはやることがないのであり、それは昔からそうだったのかもしれないが、それでも昔はまだ政治に幻想を抱くことができたのであり、しかもその昔とはいつのことでもなく、いつでもそれは昔であり、いつの時点でもその時点から思えば昔になってしまうわけだ。要するに実質的には昔とは空疎な虚構でしかないわけだが、政治は常に昔に形成された歴史的な経緯にこだわっていて、その経緯によって導き出される固定観念から抜け出られずにいて、いつでも過去の経緯にこだわっていて、過去を引きずりながら対立関係を構築しようとして、実際に対立している限りで政治家の仕事が生じるわけで、何やら国家と国家の対立を背景として敵対する国家と交渉したがるわけだ。軍事的な威嚇をチラつかせながら交渉するのが昔ながらの政治手法であることは確かだろうが、他に経済制裁という威嚇もあるわけで、それで何かをやっていると国内に向けてアピールしているのだろうし、そうやって政治家にはやることが何もないという懸念を払拭したいのだろうが、別にそれで不安を払拭しているようには思えないのだが、たぶん国家という存在自体が過去から現在までの歴史的な経緯の蓄積から成り立っているのだから、その中で政治家のやることもその歴史的な経緯を肯定して正当化すること以外にはあり得ないだろうか。中にはそれを自虐史観と蔑んでそこからの脱却を目指しているつもりの人もいるようなのだが、そういう人たちが主張することが結局は復古調の歴史を尊ぶことでしかないわけだから、そういう意味でも過去の歴史的な経緯からの脱却は容易なことではないのだろう。しかし政治家が真に過去へのこだわりを捨てて、未来へ向かって改革しようとすれば、国家はどうなってしまうのか。そうなれば国家ではない何かが生まれることになるのだろうか。


8月9日「関係の相対性」

 投資という行為が成り立つには資金の蓄積がないとならないだろうし、資金を蓄積するにはどうしたらいいのかと言えば、何らかの方法で資金を集める必要があるわけで、それに関してもっとも説得力のある方法は、経済活動によって得た利益を溜め込むことだろうし、そうやって自己資金を蓄積していけば、それを元手にして事業を拡大してさらに利益を出せば、さらに蓄積した資産を担保にして金融機関から資金を借りる方法も出てくるだろうし、行なっている事業を法人化すれば、株式や社債などを発行してさらに資金を集められるだろうし、普通はそうやって投資という行為を継続させると同時に、事業を拡大させて資産を増やす成り行きにはなるのだろう。もちろんそれらの経済行為が順調に発展すればそうなるだけで、発展しない場合もあるし破綻してしまう場合もあるわけだ。その一方で民間の投資では賄えないほど大規模なプロジェクトを行うときには、国や地方自治体の予算を使って事業を行うことになるわけで、その場合は利益が出る見込みがなくても、政治力によって公的資金をつぎ込めば延々と事業が継続されるわけで、世の中がそれ一辺倒だとかつての社会主義国のように経済が停滞してしまうわけだが、社会主義的な政治体制の国でも資本主義的な経済手法を取り入れたところでは、中国やベトナムのようにそれなりに経済が活性化している国もある一方で、資本主義的な経済体制の国々でも社会主義的な経済手法を取り入れて、行きすぎた利益一辺倒の経済至上主義にブレーキをかけているところもあるのだろうし、投資という行為が利益の蓄積を前提としている限りで、経済至上主義になるのは当然の成り行きであるにしても、一つの手法だけに偏向してしまうと必ずその弊害が出てくるわけで、民間投資にしても公共投資にしても、様々な方法が共存できるような環境が結果的に形成されていれば、それらの力が打ち消し合って極端な不均衡には陥らずに済むのかもしれず、何か一つの解決法を求めようとしてしまうのは、状況を単純化して捉えようとする傾向から生じてしまうのだろうが、そういうところで安易な答えにたどり着こうとしないことが肝要なのだろうし、そういう意味でその場で選択可能な様々な手法の長所と短所を把握しておけば、状況に応じた手法を選ぶことにもなるだろうし、また特に何も選ばない選択も出てくるのではないか。

 利益を求めすぎてはいけないし、かといって利益を求めないわけにはいかず、どちらにしてもそれが正解ではない場合もあるし、正解である場合もあるだろうし、こう述べてしまうとごまかしにしかならないだろうが、世の中で行われている経済活動の全てが成功することはあり得ないわけで、成功しているところがある一方で失敗しているところがあるのは当然の成り行きであり、それを全体的に見てしまうと、全ての経済活動を成功させるにはどうしたらいいかというあり得ない問いを設定して、答えの出ない問いに答えを出そうして苦悶することになるわけで、いくら有能な人材を育成して競争させても、競争に勝ち残る人がいる一方で競争に敗れる人も当然出てくるわけだから、そこに競争がある限りは参加した全員を勝たすことは原理的にできないわけだ。そして競争自体が勝ち負けの不均衡を生んでいるわけだから、いくら公正で平等な競争を実現しても勝ち負けの不均衡をなくすことはできず、だからと言って競争をなくすわけにはいかないわけで、そこで何らかの競争が生じている実態を否定するわけにもいかない。また競争で成り立っている社会であれば、勝者の意向を尊重しなければならないだろうし、勝者の立場がそれなりに優遇されるのも当然で、またそうしないと競争した意味がなくなってしまうし、競争で成り立っている社会の存在意義もなくなってしまう。そしてその一方で競争に参加しない自由もあるわけで、別に勝者を敬う必要を感じない人たちがいても構わないわけで、そういうところでは競争で成り立っている社会の価値観を共有しない人がいても構わず、実際にそういう勝者の価値観に背を向ける人々も結構いるのではないか。その辺が微妙なところであり世の中の矛盾したところでもあるわけだが、人はいつでも結果的に生きている場合があり、社会の中で様々な成り行きが錯綜していて、一つの価値観だけが支配的な作用を及ぼしているわけではなく、もちろん支配的な価値観を宣伝して、そうした価値観のしもべになる人を取り込もうとする集団などいくらでもあるわけだが、いくらでもあるだけに一つの集団が社会の全てを支配するには至らないのかもしれず、至らない限りで社会の多様性や多元性が実現されていると言えるだろうか。そうだとしてもそれが理想的な状態であるわけでもないし、別にありもしない理想的な状態を目指す必要もないわけだ。


8月8日「公共事業と慈善事業」

 利益を優先するのではなく必要に応じて投資を行うやり方としては、国や地方自治体などが行う公共投資があるが、公共投資が行われる経緯としては、議会などで何らかの公共事業の必要性が強調されて、あるいは市民団体や業界関係団体などが行政に対して、何らかの公共事業を行うように陳情がなされて、そのような要請の必要性が認められれば、それをやるための予算がついて何らかの公共事業が行われることになるのだろうが、そのための予算がどこから出ているのかといえば、税収や国債や地方債などの公債によって予算が確保されるわけだろうが、その事業を民間業者が請け負うことになると、民間業者としては当然利益が出ることを期待して参入するわけで、そういう部分は資本主義経済の延長上で起こっていることであり、そうやって国や地方自治体の予算を使って民間業者を儲けさせてやる分には、役人や政治家が業者に便宜を図り、業者と役人と政治家の間で不透明な金銭の授受が明らかとなれば、贈収賄事件にも発展してしまうわけで、そういう部分で不祥事が露呈するのはよくあることだが、公共事業を行うための公的資金がどこから出ているかとなると、税収は主に民間の経済活動に対して、所得税や関節税や法人税や固定資産税などの税を課して得るわけで、また国債や地方債などの公債にしても、民間の金融機関を通じて売りに出されるわけだろうし、現代が低金利時代であるにしても、一応は金利から生じる利息を期待して買われることになるわけで、そういう意味ではどちらも資本主義経済の範囲内で行われていることであり、そうであるとすれば当然のことながら利益が優先されることになるわけだが、では利益よりも必要が優先される面があるのかといえば、誰もが民間よりも安い料金で、あるいは場合によっては無料で、公共事業としての公共サービスを利用できればいいのだろうが、例えば図書館とか公園などは実際に無料で使えるし、一応は高速道路などの有料道路以外の道路は無料で通行できるが、ガソリンや軽油などには特別な税がかけられているし、また上下水道は有料であるし、ゴミの収集も粗大ゴミに関しては有料であったり、他に一般市民は様々な税金を払っているわけだから、それが国や地方自治体の利益となっているとはいえないものの、金銭を介した関係であることは言うまでもなく、そういう意味では資本主義的な契約関係の一種だと言えるのかもしれない。

 また民間の慈善事業は寄付を募って利益を度外視して行われる事業であり、確かに慈善事業自体は採算を無視して行われるようなことなのだろうが、それを行うための予算がどうやって確保されるのかといえば、大口の寄付者の中には著名な実業家が名を連ねることが多いし、中にはその実業家の名を冠した慈善事業団体まであるだろうし、事業団体自体も株式投資などの資産運用によって予算を確保しているところもあるだろうし、結局は資本主義的なやり方で利益を蓄積して、それを慈善事業に使うわけで、しかもそれは資本主義的な経済活動で得られた資金のほんの一部が慈善事業に使われるわけだから、別に慈善事業団体が資本主義的な経済行為を否定しているわけではなく、場合によっては資本主義的な行為によって悲惨な境遇に陥ってしまった被害者たちを助けるようなことをやっているとしても、それに使われるのは資本主義的な経済行為によって蓄積された資金である限りにおいて、そういう面では利益が優先されているわけで、全ての面において採算を度外視して慈善事業が行われているわけではなく、何事も採算を度外視しては事業が成り立たず、利益を優先させなければ慈善事業の予算といえども確保できなくなってしまう。そして慈善事業がなぜ必要なのかといえば、日頃から貪欲な金儲けを繰り広げている人たちの罪滅ぼしのために必要というわけではないだろうし、社会の中で名誉欲を求める対象として慈善事業があるわけで、社会のために役立っていることを示すために、また利他的な奉仕活動を行なって、世間から賞賛されたいと思うから、慈善事業に熱心になるのかもしれず、要するにそうやって世間体を気にしているわけだろうが、世間の方はそういう行為を否定するわけにはいかないだろうし、やはりそれも資本主義的な経済活動から派生した副産物と捉えておくのが妥当なのではないか。全ては経済的な利益を優先させるにはどうしたらいいか、という目的に結びついていて、一方では国や地方自治体などの行政活動と連動して、民間の経済活動を補完するような公共事業を行わせ、また一方では成功した実業家の世間的な名誉を確保するために慈善事業が活用され、どちらにしても資本主義経済が社会の中で円滑に作動するための方便のようなことが行われていると考えておくべきだろうか。


8月7日「必要なものと欲しいもの」

 突き詰めて考えると人は何を必要としているわけでもなく、ただ必要だと思い込んでいるわけで、例えば他人が羨むようなものを手に入れたら自慢したくなるだろうし、そうでなくても社会の中で人並みの生活を送りたいだろうし、社会人として恥ずかしくないような身だしなみを整えたかったりするわけで、そうすることが必要だと漠然と思われるのは、実際に社会の中で暮らしている実態があり、とりあえずは身の回りの環境から何かしら影響を受けているからそう思われるわけで、そういう部分で必要だと思われることは、その人が個人的にそう思っているだけではなく、他の人たちも漠然とそう思っていると想像できるわけだが、本当は何も必要でなければ、そのまま何もやらなくなって餓死するしかないだろうか。たぶんそうはならないだろうし、実際には何もやらなくなったから餓死するのではなく、何もやれなくなったから餓死するのであり、では餓死しないように働いて日々の糧を得ているのかというと、そこまで追い込まれている貧困層は全体の中では少数派だろうし、多数派は餓死する危険性を感じているから働いているのではなく、もっと次元の異なる欲望を抱きながら働いているのであり、具体的には欲しいものを手に入れるために働いていて、また実際に手に入れたものを保持し続けたいから働いていたりするわけだ。そしてその欲しいものや実際に手に入れたものがその人にとって必要であるかというと、当人は必要だと思ったから手に入れようとして、実際に手に入れたものも一つや二つではなく、様々なものをこれまでにも手に入れてきたわけだろうが、確かにそれらを必要だと思い込むことはできるのだろうが、本当に必要であったかどうかは確信が持てないのかもしれないし、そんなことを突き詰めて考えてしまうと、必要とはどのような水準で必要だと定義すればいいのか、その辺が曖昧でよくわからなくなってしまうのかもしれないが、もしかしたら必要であるかないかということ自体が、当人にとってはどうでもいいことなのかもしれず、確かにそれを切実に求めているような心理状態になることがあるだろうが、その切実に求めているそれが何なのかといえば、どちらかというとそんなに必要でもないものを執拗に求めている場合があるわけで、そういうものに魅力を感じてしまうのは、メディアをはじめとする周囲の環境から影響を被った結果として、それを欲しいと思い込んでしまうようなものなのではないか。

 そうである限りにおいて欲しいものは人から人へと伝染するのかもしれず、他人が欲しいと思うから自分も欲しいと思い、その一方で商品の広告宣伝からも影響を受けてしまうだろうし、それは必要か否かよりはそれを欲しいと思うことが優先されてしまうわけで、何らかの商品が世の中で流行していれば、それを人々が欲しているから売れている以外ではなく、必ずしも必要だから売れているわけではないのかもしれず、確かに衣食住に絡む生活必需品と呼ばれるものは、人が社会の中で生活していく上で必要だとされているのだろうが、それでさえも様々な種類があるうちで特定の商品が売れていれば、別の商品ではなくその商品である必然性は希薄なのかもしれず、それも必要だからというよりはそれが欲しいと思う人が多いから、特定の商品が他の商品より売れている実態があり、そういうところでもその商品の必要性は二の次となっているのではないか。そうだとすると本当に必要であるものを欲しいとは思わない場合もあるのかもしれず、例えば人にとって水は必要不可欠であり、実際に夏場の暑い時期には小まめな水分補給が欠かせないし、それを怠ったばかりに熱中症にかかって死にかけることもあるわけだが、そういう次元で水が必要であることと、特定のブランドのミネラルウォーターを欲しがるのとは全く別のことだとは思われるが、金銭的に余裕のある人たちは水道から直接水を飲まないで、浄水器を通した水を欲しがったり、ペットボドルで売っている水を飲もうとするだろうし、そこで余分な一手間をかけられるだけの経済的な余裕を求めているわけだ。そういう人たちにとっては、例えば車は単なる移動の手段であるだけではなく、また荷物を運ぶ手段であるだけでもなく、エンジン音が心地よかったり、車内のインテリアが贅を尽くされていたり、スピードが出たり加速が良かったり馬力があったり、そこに様々な付加価値が加わったものを欲しがるわけで、結局はそういうところで金銭的な手間をかけられるかどうかに関して、人々を社会の中で競わせる成り行きになっているのかもしれず、何がそれを競わせているのかといえば、商品の広告宣伝がそれを煽っているのだろうし、実際にそういった付加価値の高いものを買って欲しいわけで、それを買った人たちが優越感に浸れるような社会情勢であって欲しいのではないか。そして付加価値の高いものが売れるほど、それを製造販売している企業に利益が出るわけで、できれば多くの人が背伸びして付加価値の高い商品を買ってもらいたいのだろうが、それが必要であるかというと、必要であるはずがないのだろうが、宣伝効果によって欲しいと思わせていることは確かであり、そういう成り行きが本当に必要としているものをわからなくさせているのかもしれないが、果たして人にとって本当に必要であるものがあるのだろうか。たぶん自分にとってならそれは思い込みにしかならないのではないか。


8月6日「流行と利益」

 世の中で何らかの流行現象が起こっていれば、その流行っていることに人々は投資するだろうが、流行る前からそれに投資していていた人や企業は、その流行っていることが何らかの経済効果があるようなものなら、流行ったことによって何らかの利益を得るだろうし、実際に流行っているものが何らかの商品であるなら、その商品を製造販売している企業ははっきりした利益を上げることになるだろう。また流行っていることが土地や株を買う行為だとすると、流行る前の安いうちに土地や株を買っていた人や企業は、それらを買うことが流行りだして値上がりした時に売れば、やはり利益を得ることができるわけだが、何かが流行るということは、それが何らかの行為であれば、世の中でその流行っていることをやりたがる人が増えるということであり、またそれが何らかの利益をもたらすようなことなら、すでにそれが流行っている時点で利益を手にした人がいるわけで、たぶんそういう人はそれが流行る前からやっていた人であり、そしてそれが流行ったおかげで利益を得られたとなると、結局それが流行ってから利益目当てでやり始めた人は、すでにその時点で出遅れているわけで、しかもそこで競争が発生していれば、競争相手が他にも大勢いる中で勝ち抜かないと利益を得られないような仕組みだと、たぶんそこで利益を得るのは至難の業であり、実際に利益を得られる人もごく僅かとなってしまうのではないか。そんなわけで世の中で何かが流行っていて、その流行っていることから利益が得られるような成り行きがあるとすれば、すでにそれが流行っている時点で、そこから利益を得るのは難しくなっていて、実際にそこから利益を得られたのは、流行る前からそれをやっていた人や、流行ってから競争に勝ち抜いた人などであり、そういう意味で流行現象とは世の中の多くの人に夢を抱かせるかもしれないが、実際にそこから利益を得られるのはごく僅かな人たちでしかないわけだ。

 実際には流行現象は利益よりは消費を促進するわけで、多くの人がそこへとエネルギーをつぎ込んで、そのような行為が過熱して労力が消費される。それが何らかの商品なら当然のことのようにそれを製造販売した企業が儲かるわけだが、それを宣伝したメディアも儲かり、それに言及したメディア関係者にもある程度は利益がもたらされるだろうか。ある特定の何かを多くの人が消費すると、その特定の何かを提供した関係者に利益がもたらされるとすれば、それが特定の商品ではなく何らかの話題なら、やはり話題を提供した人に利益がもたらされるだろうか。何を利益と定義するか微妙なところだが、何かを煽り立てるような行為は、そんなことをやりたがる人たちに利益をもたらすように思われるから、それを執拗にやりたがるのだろうし、実際にやっている人たちはそれを期待しているのだろうが、そのような行為が世の中で流行っているからといって、そんな流行に乗っかって見え透いた煽り立てをやっている人たちに本当に利益がもたらされているのだろうか。そこでも利益が何なのかが微妙なところなのだろうが、案外そんなことをやっている人たちが、実際にそうすることによって何らかの成果が上がって利益がもたらされたと思っていることは、思い込み以外の何ものでもないのかもしれず、彼らは彼らなりの夢を抱いているのかもしれないが、その夢が実際に実現しない限りは、利益を得られたことにはならないのかもしれず、夢が夢のままにとどまっている状態で自己満足に浸っているうちは、たぶんそれでは実質的な利益を得られたことにはならず、その夢に自分たちのエネルギーをつぎ込んでいるだけでは、単に夢を消費しているだけで、それ以上の何が実現しているわけでもないのかもしれない。要するに彼らが得られたと思っているのは空疎な夢でしかなく、そんな夢を抱き夢を語ることだけで満足しなければならない境遇に陥っているのではないか。

 しかし利益とは何なのか。利益が蓄積したらそれを投資しなければならず、投資しないと利益には利用価値がない。しかも一見無駄に思われるようなことに投資している現状もあるわけで、それが世の中で流行っていなければ、いくら投資しても無駄に思われ、実際にいくら投資しても利益が出なければ、そんな投資は無駄に思われるだろうし、実際に投資に失敗しているようにも思われるのではないか。そしてその投資が報われるのは、それが流行りだしてからであり、それが世の中で流行ってメディアでも話題となれば、実際に利益が出始めるのではないか。そんなわけで投資するには利益の蓄積が不可欠で、利益を出すにはある程度は無駄な投資を続けなければならず、しかも無駄に投資しているうちは利益を得られる保証はなく、いつかは利益が得られることを信じながらも無駄に思われるような投資を続けなければならない。もしかしたらそれらの投資の大半は無駄に終わる可能性の方が高いのかもしれず、実際に無駄な投資によって資産を使い果たしてしまった人や企業の事例などいくらでもあるのではないか。それもある意味では消費の類いであり、実質的には富の消尽であるわけだが、一方で消費とは夢を見ることであり、実際に利益を得られる夢を見ながら富を消費しているわけだ。そして普通の一般的は消費は利益など念頭においていないわけで、消費とは第一に楽しむことであり、具体的には金銭を使って娯楽を楽しむことになるわけで、そこから儲けるという発想は出てこないのではないか。もちろん娯楽を提供する側は現実に儲かるわけだが、果たして娯楽を提供する側が娯楽を享受する側を儲けさせるだろうか。それが娯楽である限りは娯楽を享受する側が儲かることはないだろうし、それでも現実に娯楽を享受する側が儲かるようなことがあるとすると、それは宝くじのようなものであり、確かにくじに当たった人は多額の当選金を得ることができるが、その他大勢の当たらなかった人たちは、宝くじが当たる夢を買っただけであり、実際には何の利益も得ていないのではないか。それでも夢を見させてもらっただけでもありがたいと思うだろうか。


8月5日「判断とは無関係な異議」

 人が政治に参加していると思えるのは特定の政治家や政党を支持したり批判したりする時だろうか。実際に選挙に行って投票する時が政治に参加していると思える時なのかもしれないが、それは実質的には間接的に政治参加しているに過ぎず、実際に政治に参加しているのは選挙で当選して議員や首長になった人たちだろうか。それが議会や行政において何らかの仕事を行うということならその通りだろうが、それよりは広い意味で政治参加というと、何やら曖昧なことにしかならないだろうが、複数の人が集まって協議して何かを決めることが政治であり、その協議に参加することが政治参加となるわけで、そのような手法で何かを決めなければならないこと自体が、社会の慣習となっていて、そのようなやり方で何かを決めることによって、その協議に参加した人たちの了解を取り付けるのが政治の目的であり、参加者たちがその社会で暮らしている人たちを代表していれば、そこで決められたことを他の人たちも守らなければならなくなり、守れない人が何らかの処罰を受けるような成り行きになれば、そこで決められたことが社会の中で有効に機能していることになるのだろうが、それ以外にやり方がないのかといえば、たぶん色々とあるのだろうが、政治的に何かを決めるということに関しては、そういうやり方が妥当なやり方として、他の社会の構成員も個々の事例に関しては反発することもあるだろうが、概ね認めざるを得ないやり方なのだろうし、そうすることの全てが正しいとは思えないにしても、政治的な手法としては、選挙で選ばれた代表者たちが集まって協議を重ねて、人々が従うべき決まり事を練り上げることが、一応は普遍的な方法として世の中で定着しているわけだ。

 そんな原則論をいくら述べたところで何がどうなるわけでもないと思えるかもしれないが、ともかく政治家と呼ばれる人たちにあまり過度な幻想を抱く気にはなれないし、政治家にできることもそう多くはないだろうし、政治家や政党や政権を支持したりしなかったりすることが、それほど重要なことだとも思えないが、彼らが実際にやっていることに注目することぐらいしか、選挙の時の判断材料はないような気もするし、あとは彼らの政治宣伝をどこまで信用できるかが判断材料となるわけだが、それ以外のところは枝葉末節などうでもいいことかもしれず、その中にはメディアが醸し出す同調圧力などの空気が支持したりしなかったりする上で重要な要素となる場合もありそうで、それがメインになってしまうと実質的にはそれは空疎な判断材料でしかないわけだから、そういう空気に同調して支持したりしなかったりするのは、やはりどうでもいい結果しかもたらさないのかもしれないし、しかもそのどうでもいい結果が選挙結果と一致すれば、政治自体があまり意味のないもののように思われてきて、たぶんそれがまぎれもない政治に対する実感であっても構わず、その程度のことだと思っていてもそれほど間違ってはいないような気もしてくるわけだが、そうなると政治不信になるのが当然の成り行きになるわけで、別にそれでも構わないのだとすると、では何のために政治は行われているのかといえば、たぶん何のためでもなく、誰のためでもないようなことが行われているはずかもしれないが、実質的にはそうではないにしても、そう思っておくのが妥当な認識かもしれない。そしてそうであるなら誰もが政治に参加している気になるようなことにはならず、選挙で当選した人たちが政治に参加すればいいようなことでしかなく、それ以外の人は政治に無関心であっても構わないのではないか。

 政治の場で何が決まるにしても、別に決まったことに異議を唱えてもいいわけで、実際に多くの人たちが異議を唱えているわけだが、それが政治不信を象徴する出来事であるにしても、たぶんそのこと自体がおかしいわけではなく、それが当たり前のことだと思っておいた方がいいのかもしれず、別にそれは異常事態でも何でもなく、逆に政治不信がない方が異常事態だと言えるのかもしれず、誰もが政治家のやっていることには異議を唱え、逆らうような意思表示をしても構わないわけで、またそれと同時に政治に無関心であっても構わず、政治に参加しなくても構わないわけだ。そういうところでメディアが醸し出す同調圧力に屈する必要はないわけで、また同調圧力に屈しても構わないわけで、さらに屈しているつもりがなくても、政治に参加しているつもりになっても構わないわけで、その辺で選択の自由を確保しておいた方が、メディアを通じて促される見え透いた煽り立てに同調しない心の余裕が生まれるのではないか。何にせよ世の中で広く行われているような慣習が、制度として守るべきものとして人々に共有されると、途端に同調圧力を伴ってくるわけで、それに屈するか屈しないかではなく、そのような選択を強要してくる空気を感じ取ることが重要かもしれず、結果的に同調圧力に屈しても屈しなくても、そのこと自体を判断基準にはしない態度を取っていれば、何かそれなりに納得できる判断が行えるのではないか。そしてその判断が間違っていようと正しかろうと、その判断に固執するのではなく、その場の状況に合わせて判断を気軽に変える勇気が必要だろうし、いつまでも固定観念や先入観ばかりで判断していないで、それらに矛盾するような判断を頻繁に下しても構わないわけで、逆に固定観念や先入観ばかりにこだわっていると、メディアを通じて醸し出される同調圧力に屈するか逆らうかが、最も重要な判断基準だと思われてしまうわけで、それが枝葉末節などうでもいいことだとは思えなくなってしまうわけだ。


8月4日「仲間意識」

 別にあからさまにそう思っているわけではないだろうが、人はメディアを介して他人と話題を共有したい。他人が自分と同じ趣味嗜好を持っていることを望み、その趣味嗜好を通して他人と意思疎通を図りたい。実際にそうなれば孤独から解放されて幸せな気分になれるだろうか。そうなれば他人との関係が仲間同士の関係へと発展したり、場合によっては家族関係にも発展するだろうか。そして親密な仲間関係が仲間以外の人たちとの関係を敵対的なものにしたり、仲間内での内部抗争へと至ることもあるだろうが、そんな仲間を募って他者とアイデンティティの共有しようとすることが、社会の中で様々な関係のネットワークを張り巡らせていくことに貢献しているのだろうか。だがそれがメディアを介した関係である限りは、まずは話題の対象が何をやるかではなく、何を見せてくれるかに人々の関心が集まることは確かで、そこからただ受動的にメディアが提供するものを見ているだけでは済まなくなるだろうし、メディアがゲームを提供してそれを不特定多数の大衆が興じる場合もあるし、またメディアが推奨するものを買わせる場合もあり、そうなるとメディアは広告宣伝機能を果たすことになるのだろうが、そうやってあらかじめメディアが大衆の進むべき道を整備していて、その整備され舗装された道路を通って人々は娯楽や買い物へと出かけていくことになり、娯楽施設や買い物をする場所以外はどこへも行けないという事態となっているかもしれず、もちろんそれは比喩でしかなく、今では出かけていくというよりは、ネット上で娯楽も買い物も全て間に合ってしまうわけで、それでは気晴らしにならないから実際に出かけてゆくことになるのだろうが、しかし実際に出かけるにしても、一応は外食も娯楽に含まれるだろうし、あとは買い物だけだとすれば、他に何か出かける目的があるだろうか。普通は仕事に出かけていくわけだが、仕事は目的そのものだから、それ以外で目的もなく出かけるとすると、それは何のために出かけるわけでもないだろうし、そうなって初めてメディアの呪縛から逃れられるだろうか。

 しかし仕事でも娯楽でも買い物でもないとすると、人々は何をしに外へと出かけるのか。メディアが誘導する目的に逆らうためというわけでもないとすると、人々はどこへ向かうことができるだろうか。メディアが提供する娯楽を通じて知り合うような仲間に出会うためではなく、ただの他者に出会うために出かけるというわけでもないだろうし、どこでもいいからどこかへ出かけないと退屈で死にそうだから、という皮肉な孤独とは無関係でありたいわけでもないとすると、別に必要がなければ出かけなくても構わないのかもしれず、世間体を気にしなければ引きこもっていても構わないわけだが、どこへも至らない道というもあり得ないわけで、たぶん引きこもっていてもどこかへ至ってしまうだろうし、メディアによって整備された道を通って向かう行き先へと向かわない選択肢などいくらでもありそうにも思われるが、別にメディアが誘導する施設へと向かっても構わないわけで、そこでメディアが提供する娯楽や買い物を楽しめばいいのだろうし、それで何がどうなるわけでもないどころか、かえってひねくれて道なき道をゆくよりは、よほど効果的で有意義な時間を過ごせたことを実感できるのかもしれず、そうであるからこそ人はメディアに依存しながら生きているわけだ。だからそれ以外を探そうとするのは、骨折り損のくたびれもうけ的な結果を招く可能性が高いのではないか。実際にそうなるからこそ人々の関心はメディアに登場する著名人の周りに群がり、その人物から御利益を得ようとするのかもしれないが、実際に何らかの御利益があるのかもしれず、その中でもそれが共通の話題となって仲間同士のコミュニケーションが成り立つことが、何よりも重要なことだと思われるのかもしれず、実際にそうならないと意思疎通が図れずにコミュニケーションが成り立たなくなってしまうのではないか。結局はコミュケーションができている限りで仲間なのであり、実際に話題を共有できない者は仲間だとは思われないはずだ。そういう意味で仲間とはコミュニケーションの次元で成り立つ概念なのであり、そうだとすれば漫画の中で示されるような命をかけて守るような対象とは違うのではないか。


8月3日「投資」

 投資とは何らかの事業を行うために資材を投じる行為であるが、個人や企業が事業を行なって利益を上げて資産を形成したら、その資産をさらに事業に投じて資産を増やそうとする行為でもあり、まとまった金額の資金を何らかの事業に投資する方法として、まず資金を必要とする事業主に直接資金を貸す場合は、資金を貸す役割を担うのは主にまとまった資金を集めるのに有利な銀行などの金融機関となり、資金を貸す側はその定期的な返済とともに貸した資金の利息を受け取ることになる。また事業主である企業が発行する株を買う株式投資だと、個人も企業などともに証券会社などの金融機関を介して株を買うことができ、その場合は投資先の企業から買った株式の額に見合う配当金を受け取ることになる。さらに企業が発行する社債などの債権を買う場合も、金融機関を通して個人や企業が債券を買うことになるが、その場合は資金を直接貸す場合と似たように、満期となって資金の返却を受けるまではその利息を定期的に受け取ることになるが、直接の資金の貸し借りとは異なり、株式や社債は金融機関を通して市場で売買が可能で、企業の業績が好調で株や債券に人気が出て、高値で売れれば配当金や金利を受け取るより多くの利益を得られる一方で、企業の業績が悪化すれば株価も債権の価格も下がり、安値でしか売れなければ利益を得られるどころか損害を被ってしまい、さらに企業が倒産すれば株式はただの紙切れとなってしまい、社債などの債権にしても投資した資金を全て回収するのは難しくなる。

 投資は物や情報を動かして資産を増やすゲームと見立てればわかりやすいが、ゲームとして機能するのは投資先の経済活動が順調に推移している間だけで、投資していた事業が破綻して企業が倒産すればゲームが成り立たなくなり、そうなると投資した資材が無駄になってしまうリスクがあり、自身が事業主体である場合も含めて、長期的に安定した経済活動が見込まれる事業に投資すれば、長期的に安定した利益が得られる可能性はあるが、その額は投資した金額に比べれば微々たるものとなるだろうし、その反対に短期的に経済成長が期待できる分野に投資すれば、短期的に得られる利益も相対的に大きくなるだろうが、短期的に成長する分野では競争も激しく、それだけ競争に敗れて事業が破綻するリスクも大きくなる。

 また短期的に成長が著しい分野が実際に成長してくると、長期的に安定している分野と競合関係に入ることがあり、そうなると長期的な安定状態が崩れて、長期的に安定して利益を上げていた分野でも事業が破綻するリスクが高まり、実際に事業としては成長しきった大企業などが稀に倒産することもあるわけだが、確実に利益が見込める安定的な経済成長というのは、そういう分野だけ見れば確かにそうなっているように感じられるかもしれないが、そうなっていることの代償となるような不安定な経済混乱が他で起こっていたり、遠からず破綻をきたすような無理な経済活動が他で行われている場合もあるわけで、そのような面を考慮して全体として経済的な不均衡が著しい状態となっていれば、うまくいっている部分ではすこぶる安定している一方で、うまくいっていない部分では混乱の極みに達していたりするわけで、うまくいっている部分に投資できればそれなり安定した利益を得られるが、うまくいっていない部分では損害を被るリスクが高くなると同時に、そういうところで投資に成功すれば莫大な利益を得られる可能性もあるわけだ。またうまくいっている部分ではすでにその分野で成功した人や企業が利益を独占しているので新規参入は難しく、新規参入したければうまくいっていない部分に参入して、そこで成功しなければならず、そこで成功してうまくいっていない部分をうまくいっている状態に引き上げる必要があり、それに成功すればその部分はうまくいくようになって、その分野で成功した人や企業が利益を独占できる可能性が出てくる。

 そういう意味で投資は、すでにある程度の資産を持っている人や企業なら、経済活動が安定している分野に多額の投資をすれば、利息や株配当などからそれなりに安定した利益を得られるが、そのような相対的にリスクが低くて少額の利益では満足できなければ、まだ不安定で成長途上かこれから成長する見込みのある分野に投資するか、さらに資金を借りて全くのゼロから起業するかして、ハイリスクハイリターンの賭けに出るしかなく、それに成功してその分野が安定して利益を出せるように成長させることができれば、その過程で莫大な利益を得ることができる。もちろんそうなる過程で事業に失敗して破綻する人や企業が続出するかもしれないし、またそうなる人や企業が多ければ多いほど、そんな中から成功するごく少数の人や企業には莫大な利益がもたらされる。


8月2日「やめられない事情」

 投資とは何らかの事業を行うために資材を投じることだが、すでに事業を行なっていて、その事業からもたらされる利益が蓄積されて資産が形成されているような場合、その資産を事業に投資してさらに資産を増やそうとするだろうし、そんなふうに投資の目的が資産を増やすことだけだとすれば、ひたすら事業を拡大していくことになりそうだが、事業を拡大するのも資産を増やすのもそれなりの限界はあるだろうし、単純な目的は方便にすぎないのかもしれず、実質的には事業を継続させることが目的として妥当であったり、またある程度資産を築いたらそれを使って生活を楽しんだりするだろうし、一概に全てを目的のために犠牲にするわけにもいかない事情も出てくると、そういうところで苛烈な競争原理は弱められてしまうのかもしれないが、目的が何であれそれを愚直に追求する気になれなければ、中途半端な妥協を強いられてもそれほど否定的な気分にはならないのかもしれず、何を実現しようとしても、それを実現できなくてもそれほど困った事態にならなければ、実現を諦めてしまうことだって可能となり、その辺でいくらでも妥協ができる成り行きとなってしまうのだろうが、そもそも別に定まった目的を自覚していない場合もあるわけだから、人の意志というのはそんなにあてになるようなものでもなく、目的が何であれ、目的よりは実際に行われていることにその人は依存しているわけで、人はその場で何かをやりつつも、やっている現状の中に囚われているのであり、たとえそのやっていることが目的と一致しなくても、そんなに困った事態とはなっていないのではないか。それよりやっていることと目的とを一致させようとすると、かえって無理が生じて困った事態となってしまう場合もあるわけで、そうなるとそこで何が信用できないのかといえば、当然目的を追求しようとする意志が信用できないわけで、自らが実際にやっていることが目的とは背理してしまっていることを無視しようとしているわけだから、それではそこで何かをやっている現実を見ていないことになってしまうし、目的とは背理したことをやっている自らを認められないわけだから、そうなってしまった時点で自家撞着を修正できなくなっているのではないか。

 ひたすら事業を拡大させて資産を増やすことが無意味な行為だとは思えないだろうが、実際にそんな成り行きになれば、人の意志とは無関係にそうなっていくのだろうし、現実にそういう方向で事業展開している企業などもあるにはあるのだろうが、それを阻む要素がなければ、事業も企業も特性としてはそういう方向へと向かっていく反面、ひたすら延々とそうなるとは思えないし、現実に何らかの限界があるようにも思われるわけだが、そのような成り行きに巻き込まれている人たちが何を考えているかなんてあまり重要なことではなく、実際にそういう方向へと動いている人たちにしてみたら、意志の力でそれに逆らうことなどできないわけで、それよりもそんな方向へと動いている自分たちを肯定し正当化する必要に迫られているのかもしれず、切実に思っているのはそういうことだろうし、その場の状況に依存しているからそう思えるわけだが、たぶんそういう成り行きを批判するのは、そこから距離を置いた人たちなのだろうし、そこに巻き込まれている人たちとは立場が異なるから批判できるだけで、批判している人たちが同じ状況に置かれたら批判することなどできないばかりか、やはりそんな成り行きに巻き込まれている自分たちの立場を肯定し正当化することしかできないのではないか。そういう意味でも人が何を思い考えるかはその場でやっていることに依存するのだろうし、しかも思っていることや考えていることをやっていることに一致させることはできるが、その逆はなかなかできないのであり、そこで優先されるのは現実にやっていることであり、考えや思いが優先されることはまずあり得ないのかもしれない。つまりもうすでにそんなことをやってしまっている現実があるわけだから、どれほどそれが理不尽なことであろうと、それをやってしまっている当人たちには、そのやっていることを肯定し正当化することしかできず、そんなことをやっている現状がある限りは、いくらそれを批判されてもやめられないだろうし、実際にやめるわけにはいかない事情が生じていて、その事情とはそれが継続されている現実そのものなのだろうし、そんな現実に加担している人にとっては、現実を拒否し批判するような思考にはリアリティを感じられないわけだ。


8月1日「ゲームのルール」

 人がやっていることは結局はゲームでしかなく、誰もがゲームに勝つために最善を尽くさなければならないと考えるなら、そのような単純化の中で見失われるのは、ゲームとは関係のないところで行われている行為になりそうだが、いったんそれをゲームに見立ててしまうと、たぶん何がゲームとは無関係であるとも言えなくなってしまうのかもしれず、人が行なっていることの何もかもをゲームに関連づけようとすれば、できないこともないのかもしれない。それだけそれをゲームだとみなしたい衝動に駆られるような社会情勢の中で人は生きていて、誰もがゲーム的に人生を楽しんでいるつもりになりたいのだろうか。それともそれは根拠の定かでない妄想に過ぎず、ゲームとみなしたいそれとは何かによって、それを楽しめるかどうかが異なるのかもしれず、実際にそれとは何なのかをはっきりと確定しなければ、何がゲームだとも言えなくなってしまうだろうか。実際には人はそこで何をやっているのか。ただ世界の中でさまよっているだけはないはずだ。たださまよっているだけなら、少なくともそこで何を探しているのでもなく、何と戦っているわけでもない。さまよっているように思われてもそこに目指すべき何かがないわけではなく、探しているそれはすでにそこにあり、戦っているつもりのそれは仮想現実の相手ではなく、生身の人間であり組織的な集団だろうか。戦うのが嫌な人ならそんなことはないと思いたいだろうが、思っているだけでは済まないのであり、実際にそこで何かをやっている現実があり、そんな現実がある限りは誰かと対峙せずにはいられなくなるだろうか。しかしどうやれば目の前の現実を攻略できるだろうか。そう考えること自体がゲームと変わらないのかもしれないが、特に何に参加しているわけでもないのに、現実の攻略法を考えているようなら、すでにそこでゲームにはまっている証拠だろうか。中には実際に特定のゲームに参加している人もいて、それが遊びだろうがスポーツだろうが、ゲームに興じている実態があれば、思考がゲーム的な方法に依存するのも無理はなく、遊びやスポーツと仕事の類いは違うとしても、そこに明確な区別がつけられない事情があるなら、そんな事情に囚われながらゲームに興じているのではないか。もっともそれがゲームだと自覚していない場合もありそうだが、果たして勝ち負けの定かでないゲームがこの世界にあるだろうか。見方や考え方によってはそればかりかもしれないのだが、勝ち負けが定かでなければゲームとは言えず、世の中がそればかりならゲーム以外のことばかりとなってしまい、そもそもそれらをゲームとみなすこと自体が間違っていそうだが、いったいそれらとは何なのか。要するにそれは人と人とが関わり合うことの全てなのかもしれず、それをいちいち勝ち負けの基準で判断しようとすること自体がおかしいのかもしれない。

 確かに遊びやスポーツの範疇で行われるゲームには勝ち負けがつきものだが、その勝ち負けというのが遊びの範疇である限りは、あまり深刻に受け止めるようなことではなく、そこで勝っても負けても遊びである限りは、それ以上の何がもたらされるわけでもなく、それらは娯楽の延長上で行われていることであり、そういう認識に固執する限りはそこからむやみに逸脱することもないわけで、それが遊びで済んでいるうちは、まだ心に余裕があるだろうし、心に余裕がある限りで、いくら勝負が過熱しても遊び相手との関係が壊れないように配慮するのではないか。ではそれが遊びではなくなればそうもいかなくなるだろうか。勝負がその人の実生活に深刻な影響を及ぼしたり、例えば多額の金銭が絡んでくれば、遊びではなくなる可能性も出てくるだろうが、そういう成り行きになった時に、なりふり構わず手段を選ばずに勝ちに行けば、それがエスカレートすると漫画の中での殺し合いのような様相を呈することにもなるだろうか。そこに何らかのルールがあれば、お互いがルールを守る限りでルールの範囲内で勝ち負けが定まって、別に殺し合いでなくても構わないようなことになるのだろうが、はっきりしたルールも決まりもなければ、かえって直接対峙する機会がなかなか得られずに、そのほとんどはすれ違いに終わるのかもしれず、相手に向かって勝負を挑むような機会など、そう簡単には巡ってこないのかもしれない。中には偶然にそうなる場合もあるだろうが、その大半は意図的に勝負を避けているのであり、普通は面倒なことが起こらないように戦いを避けるのであり、何から何まで勝負にこだわっていたら身がもたないだろうし、些細なことにいちいち因縁をつけて喧嘩していたらきりがなく、どうせやるなら身の安全が確保された上で、勝っても負けても恨みっこなしの申し合わせを共有した状態でやりたいわけで、そうなると真剣勝負はあり得ないだろうし、できれば遊びやスポーツで対決する方が無難であり、それ以外でもルールに基づいて公平で公正な判断を下す審判が必要となってくるし、そういう意味でゲームとは制度的にはっきりと規定されたルールの範囲内で成立するものであり、それ以外はゲームとは呼べず、そこで何かしら対決が起こっているとしても、それはゲームではないわけで、中にはゲームを装いながらも、なりふり構わず主導権を握っている側の都合に合わせてルールを勝手に変更したり、相手には勝手なルールを課しながらも、主導権を握っている側は何でもありで、勝つためには手段を選ばず、自分たちの負けは絶対に認めようとしないばかりか、相手の言い分がどんなに筋が通っていても、そんなのは無視していくらでも屁理屈で言い返し、相手のやっていることは全て否定して、自分たちのやっていることは全て自画自賛するようなことが平気でやられているなら、そこではもはやゲームなど成り立っていないわけで、そんな状況の中で主導権を握っている側がいくら勝ち誇って見せても、味方以外は誰も勝ちなど認めないだろうし、そんなことばかりやっていると、いずれ味方からもそっぽを向かれて、裸の王様になるしかないだろうか。