彼の声121

2017年

7月31日「過ちの正しさ」

 物と物を取り扱う情報は人の意識の中で結びついて、人はその情報を活用しながら物を操作して、そこから利益を得ようとするわけだが、人が操作する物の中には機械の類いがあるわけで、また生きた機械として人自身も操作の対象にもなるわけだが、逆に機械と成り果てた人も生身の人を操作しようとしていて、さらに機械でしかない人工知能も人を操作しようとすれば、人も機械もお互いにお互いを操作の対象として、そこでSF的に人と機械の融合が実現しそうだが、人や機械の操作には欠かせない情報とは、どんな内容を持っていて、それをどう利用すれば人や機械を操作して利益を得ることができるのだろうか。機械を操作するには、機械に命令を出せば命令通りに動こうとするだろうし、その命令の出し方は一定の操作マニュアルの手順を踏んで出されるわけで、一方人への操作の仕方は、命令通りに動かすにはそれなりの権力を行使しなければならず、軍隊や警察なら職務の遂行に関する範囲内なら、上官が命令を下せば、よほど理不尽な内容でない限りは、部下はできるだけ命令通りに動こうとするだろうが、それ以外の部分ではある程度は個人の判断に任せられている部分もあるだろうし、機械にしても人にしても目的に応じて設置され配備されるようなところでは、その目的を遂行することが命令となるわけだから、そのような部分では命令が絶対に従うべき決まりとして受け止められ、機械は目的以外には設置されない性質のものだから、それ以外の動作はあり得ないのだろうが、それが人となるとそうはいかないわけで、人に操作される物である以外の部分で、予期せぬ行動や行為に及ぶことがあり、それはたぶん機械の誤動作とは性質の異なる面があるのかもしれず、それはまた動物的な行動とも違う面もあるのかもしれないし、合理的には考えられないようなことなのかもしれない。

 人がしばしば間違えるのはもしかしたら誤動作なのではなく、間違える必要があるから間違える場合もあるのかもしれないし、そこで間違えないと大変なことになるのを予期して、わざと間違えてしまう場合もあるとすると、結果的に間違えたことをやったおかげで、その先に待ち受けていた危機を回避できるような成り行きになれば、やはりそこで間違えたことが正しかったことになるわけで、普段から正しいことをやるように心がけていても、たまたま大きな間違いを犯してしまった場合は、その間違いを活かすように心がける必要があるのかもしれず、別にそこで間違えるのが必然的な成り行きとは言えないにしても、どう考えても偶然に間違えたようにしか思われないことでも、その後の状況の推移を注意深く見守っていけば、そこで間違えたことによって、今まで気がつかなかったことに気づいてしまう可能性もあるのかもしれず、そうなるといつもとは違う何かを見つけるきっかけを間違った行為がもたらすことになるわけだが、意識していてもなかなかそれに気づかない場合もあるのに、ある瞬間に突然閃いてしまう場合がありそうで、そのきっかけを間違った行為が作り出したとも言えるわけで、それに気づくか気づかないかは、理屈では計り知れない何かが作用するのかもしれないが、その中でもなぜか間違いを犯したことによって気づくことがあるとすれば、たぶん年がら年中間違っていれば間違っていること自体が普通だから、いつもとは違う心境には至らないところだが、細心の注意を払って間違えないようにしているところで、思いがけずに間違った場合はそれとは違って、やはりそういう時にいつもとは違う心境になれるのかもしれず、そこでいつもとは違う脳の神経回路に電流が流れて、そのおかげで今まで気づかなかったことが気づくような成り行きになるのだとすれば、そういう意味では間違った直後が大事な場面なのかもしれないし、そこで注意深く思考を働かせる必要があるのではないか。

 物を目的に適った用途に使う場面では、人も機械もあまり区別がつかない部分がある一方で、目的以外の動作が可能な面では、人と機械とでは全く異なるわけだが、では人の目的以外の動作とは何なのかといえば、それは人が情報では操作できないところなのかもしれず、人の言っていることを真に受けない部分であり、また人の意識とは無関係を装うような無神経な部分でもあり、受け入れて当然と思われるような慣習や規律を受け入れない部分でもあるのではないか。要するにそれは意図的な情報操作には乗ってこない面でもあるわけだが、いちいち反応するのが面倒くさかったり、生真面目に賛同したり批判したりする気が起きなかったり、要するに怠惰な気分になってしまう時でもあるわけで、ある意味ではこだわっているところがそこではないというのもあるだろうし、別の意味では何かにこだわることに飽きてしまったというのもあるのかもしれず、機械で言えばそれは故障に結びつく箇所でもあるわけだが、人で言うとそれは病気とも疲労とも言えるところでもあるが、別に病気にかかっているわけでも疲れているわけでもないとすると、やはりそれは何だかわからない謎の特性なのかもしれず、それを安易に病気や疲労に結びつけて、治療を施したり充分な休息をとって健康な状態を取り戻しさえすれば、健全な肉体に健全な精神が宿るかのごとくに回復すると考えてしまうと、それとは違う面を見落としてしまうわけで、そうやって事態を単純化して捉えようとする向きもあるのかもしれないが、たぶんそう簡単にはいかないのが人間の物質的な特性なのであり、人を物のように操作する理屈に照らし合わせて、煽動やら誘惑やらとマニュアル的な情報を活用して操作しようとしても、そうはいかない部分があるだろうし、それでも焦って無理に人々を踊らせようとする意図が見え見えに感じられるような空気が満ち溢れてくると、逆にしらけてしまうだろうし、たぶんどう考えても理屈に合わないような何か心躍らせる謎な部分がないと、そうは簡単に人を操縦できないのはわかりきったことかもしれないが、いつまでも欲望と煽動の理屈にこだわっていると、だんだん見え透いている部分を見透かされてきて、今さらいくら煽り立てても何ももたらされないことがわかってしまってからは、意外と簡単に崩壊が早まってしまうのだろうか。たぶん必要以上に早まらなくてもいいのかもしれないし、これ以上急速に早まる必要もなく、できればもっとゆっくりと今メディア上で煽られている戯れ事を堪能しておいた方が、今後のためにもなるのかもしれず、ともかく間違ったことを平気でやってる連中が多い今こそが、今まで気づかなかったことに気づける機会が訪れているのかもしれない。


7月30日「目的と論理」

 人が目指すべき方向には、その人が望んでいることを実現させようとする目的が生じているわけだが、たぶん真の目的はそこにはなく、真の目的とは誰の目的でもなく、それは神の目的でさえなく、それは誰が望んでいるわけでもないことなのではないか。たとえそこで誰かが望んでいることが何らかの結果となって現れるにしても、そんな結果には一瞬の歓喜とその後に延々とフェードアウトしながら歓喜の反芻が続いてしまうわけで、そんな結果を出すことが真の目的ではなく、たぶん結果となって現れるのは目的の断片なのであり、すでにそこでは目的が砕け散っていて、その断片の散らばり具合いが目的を達成しようとする過程において、目的そのものを消費してしまったことを示していて、目的を達成しようとすると、それをすり減らしながら物事を前進させようとするから、そこで目的は摩耗して次第にすり減ってゆき、何かしら結果が出た時にはすでに当初の目的は不要なものとなっていて、あたり一面に砕け散った目的の断片が散らばっているだけとなってしまうのではないか。人はその砕け散った断片から当初に抱いていた目的を再現しようとするのだが、もはやそれは使用済みの廃棄物でしかなく、塵や芥の類いでしかないものを再利用することはできずに、それが過ぎ去った時間の思い出でしかないことを再確認するだけとなり、そうなるとやはり落胆するしかないのかもしれないが、そこまで来た過程の中で経験が蓄積されたようにも思えるわけで、その経験を活かして新たに何かをやろうとするのだろうが、それが新たな目的になるにしても、やはりその目的の水準にとどまることはできずに、目的を達成しようとする過程で、その目的を消費してすり減らしてしまうわけだ。

 それとは別に目的を消費する過程で、目的とは違う何かが導き出されてしまうのはよくあることかもしれず、そういう意味で真の目的とは、目的を消費してすり減らした末に、それとは別の何か思いがけない結果をもたらすことにあるのかもしれない。例えば勝つことが目的で実際に勝ったとしても、その勝利は歓喜とともに一瞬のうちに消費されてしまうわけで、その後に残るのは過去の栄光に過ぎず、そうやっていったん目的を達成してしまうと、その後に待ち受けているのは、ひたすら過去の栄光がついて回る虚しい人生であり、自身が過去の呪縛から逃れられなくなってしまうわけで、できることなら栄光の絶頂で死んでしまえば良かったと後悔することになりかねず、そうやって落胆するだけにとどまりたくないから、それまでの経験を活かして、また新たな目的に向かって挑戦しようとするのだろうが、それではまた同じことの繰り返しとなってしまう可能性があり、しかもそう何回も目的を達成することはできないかもしれないし、それが真の目的ではないことに気づかないままとなってしまうのかもしれない。真の目的とは誰の目的でもなく、誰の目的からも逸脱するような結果をもたらすことが真の目的なのであり、それ自体が思いがけない出来事であり、それが思いがけないことである限りにおいて、落胆とは無縁の出来事となって、場合によってはそこに居合わせた者たちを驚きと感動に導くかもしれないし、それはやろうとしてできるようなことではなく、誰もやろうともしなかったことが実際に起こるわけだ。

 そんな出来事を誰が許容できるだろうか。許すとか許さないとかいう次元ではなく、ただあっけにとられるような出来事なら、もはや誰もどうしようもないのだろうし、やはりそれはそんなことをやろうとしてできるものではなく、そうなることを狙っているわけでもないことが起こるわけで、できることなら起こった後からもっともらしい理由づけなどできないようなことが起こってほしいわけで、もちろん誰がそうなることを望んでいるわけでもないのだから、誰が起こってほしいと思っているわけでもなく、その辺で矛盾が生じてしまうわけだが、ただそうならない限りは事件など起こらないわけで、何かこの世界で新しいことが起こったなどとは誰も認識できないわけだが、人が執念深く追い求めているのは、それとは真逆の目的であって、そこへと必然的に導かれたいわけで、そうなって初めて目的が成就すると思いたいわけだが、果たして歴史上そんなことが実現したためしがこれまでに一度でもあっただろうか。予定調和的にあったということはできるだろうし、そんな例をもっともらしく示すことはできるだろうが、そのほとんどは原因と結果を取り違えているのだろうし、偶然からもたらされる予想外の出来事を意図的に考慮しないようにもしているわけだが、そんな物語の範疇に収まろうとすることが、他の人々に落胆をもたらすわけで、自分がしがみつこうとする必然的な原因と結果の因果関係から導き出される予定調和の理屈以外は受け入れがたく思われてくると、例えばそこからわずかでもはみ出ることを語り出す輩に出会って、烈火のごとく怒り出すような事態ともなれば、そういう人は総じて目的に殉じてしまう人なのだろうし、自分が信奉しているロジックからしか物事を捉えられない人なのではないか。


7月29日「必要の増加」

 たぶん利益がほとんど出なくても、人件費や材料費や光熱費や減価償却費などの必要経費が賄えるだけの売り上げがあれば、事業自体は継続していくわけで、実際に競争にある程度の決着がついて大規模集約化が進んだありふれた分野では、売上に比べて利益は微々たるものだろうし、そういう分野ではもはや新規参入も困難になっていて経済成長も見込めず、その逆に新規参入が相次いで競争が激化して脱落者も多く出ている分野で成功すれば、それなりに利益を確保できるわけで、要するにそういう分野ではハイリスクハイリターンなのだろうが、それがいつまでも続くわけではなく、しばらくそんな状態が続けば寡占化も進んで、成功して生き残った事業者だけがその分野の利益を独占するような状態になるのかもしれず、結局いったんそうなってしまった分野では大企業が数社あるだけの状況となるのではないか。そしてたぶんそうならなかった分野があって、そこでもそれなりに生産と流通と消費のサイクルが保たれていて、もちろんその中にも大企業が部分的に参入している場合もあるのだろうが、当然のことだが誰もが大企業の従業員でも社員であるわけでもなく、実際に大企業とは無関係な人たちが生きて生活している現状があるわけだから、全ての産業分野を大企業が支配しているわけではなく、利益が見込めない分野には大企業は参入してこないだろうし、かろうじて生活が成り立っているようなところでは、利益が見込めないから競争も激化しないだろうし、新規参入がなければそのままとなってしまうわけで、まだまだ世界にはそういう分野が数多くあるのかもしれず、そういうかろうじて生活が成り立っているようなところでは、経済が停滞しているのが普通の状態なのだから、それで何が困るわけでもなく、ただそのままの状態がこれかも続いてゆくだけなのではないか。

 資本主義経済には地域や分野によってある程度の偏差や揺らぎがあって、全ての分野で一律に利益が出ているわけではないのはもちろんのこと、利益が出ない分野でも人が必要とする物資が生産されていれば、それなりに事業が継続していくだろうし、人が生きて生活が成り立っている限りは、そこで何らかの経済活動が行われているわけで、そうでなければ人がそこからいなくなってしまうだけで、そういう意味で人が生きられる範囲内でしか経済活動は成り立たないわけだ。そしてそこで利益の蓄積が生じるということは、人が必要とする以上に経済活動が行われているということであり、しかも蓄積された利益を他の何らかの事業に投資するような成り行きがあれば、そこで新たに必要を生じさせるということになり、それが他の人にとっては必要ではなくても、投資する人や企業にとっては蓄積された利益を活用するために必要となってくるわけで、そうなると必ずしもその必要というのは人が生きていくために必要というわけではなく、人が生きていくのとは異なる必要がそこで生まれることになり、例えばそれは暇つぶしの娯楽であったり人々の好奇心や欲求を満たすためのものであったりするわけで、いったんそういう必要が生まれると、今度はそれを提供することによって生活の糧を得ようとする人々が現れるわけで、たぶんそれがサービス業などの第三次産業と呼ばれる分野に広がって、今ではそれに従事する人の方が多くなってしまっている現状があるわけだ。そんなわけで必要に応じて人も産業も新たに生まれてくる成り行きがあるのかもしれず、実際に太古の昔に古代人が狩猟採集生活をしていた頃は、世界にはそれほど人はいなかったわけで、それほど余分に人がいる必要もなく、もちろん狩猟採集だけではそんなに多くの人を養えないわけだが、その時代にはその程度の人口で間に合っていたのであり、それが何かのきっかけで農耕や牧畜などをするようになると、農耕や牧畜を行うのに必要なだけ人が増え、実際に農耕や牧畜によって養える分だけ人が増えたわけだが、さらに現代のように機械技術による大規模集約的に様々な大量生産が可能となって以降は、やはりそれによって養える分だけ人が増えたことになるわけで、そうやって増えた人が活動するための必要もそれだけ増えたことになるのではないか。


7月28日「破綻の効用」

 どうもマルクス自身はマルクス主義的な終末論には懐疑的だったのかもしれないが、資本主義経済が破綻して労働者たちが資本家たちを倒して革命が起きるという神話は、結果から見れば少し違っていて、資本主義経済というのは成り立っていると同時にすでに破綻していて、実際に起業すればその9割以上は失敗すると言われているし、企業の倒産もひっきりなしに起こっている現状もありそうで、投機的な株式投資や外国為替を利用したFX取引などにしても、そのほとんどは利益を得られない状況にあって、起業にしても投機的な株や外国為替の取引においても、実際に儲かっているのはほんの一握りの人や金融機関であり、そして現実に事業に失敗して経営破綻する企業があるということは、その企業の経済活動は実際に破綻しているわけで、要するに資本主義経済が成り立っているということは、その経済の中で事業に失敗して破綻した多くの企業や個人投資家たちの屍の上で成り立っているわけで、それらの失敗した企業や投資家たちにとっての資本主義経済はすでに破綻しているわけで、つまり労働者たちが革命を起こす前にすでに資本主義経済は部分的に破綻していて、しかもその部分的な破綻があるからこそ、経済競争を勝ち抜いた企業や投資家たちに利益がもたらされ、成功した企業や投資家たちにとっての資本主義経済が成り立っているわけで、そういう意味で資本主義経済というのは全体として成り立っているのはなく、いつでも部分的に成り立っていて、また部分的には破綻しているのであり、破綻している部分では実際に事業が失敗して、投資した資金を回収できずに、負債として残ったものについては債権を放棄せざるを得ない事態も起こっているわけだ。

 逆にいうと金儲けに挑戦して失敗する人や企業がいないと、資本主義経済は成り立たないとも言えるわけで、そこで競争して敗れ去る人や企業が存在するからこそ、そこからほんの一握りの成功して利益を出す投資家や企業が現れるのであり、そのような競争が成り立っている限りで資本主義経済も成り立っていると言えるだろうか。そうであるにしても実質的には世界中で70億人もの人が生きている現状があるわけだから、それらの人々を養えるほどには資本主義経済が成り立っていると言えるのではないか。もちろんその中で巨万の富を蓄えている人はごくわずかだろうし、しかもそれらの富裕層が世界の総資産のかなりの部分を所有しているわけだから、人々の間で極端な資産格差が生じていることは確かで、資本主義経済が成り立っているにしても、それは富の配分が著しくいびつで極端な不均衡を伴っていると言えるだろうか。別に必要以上に富を配分されても一般の人たちには使い道がないだろうから、そんなものは不要で、また一般の人たちを労働に縛り付けておくには、必要以上の富を所有させてはまずいわけで、そんな事情からも富の極端な不均衡が一般の人たちに労働を余儀なくさせて、それが結果的に資本主義経済を成り立たせていると言えるのかもしれない。

 だがそんなふうにもっともらしく理屈を考えてしまうと、何か予定調和のごとくに資本主義経済が成り立っているようにも思われてしまうかもしれないが、たぶん結果的にたまたまそうなっているだけであり、そうなるのが合理的で必然であったりするのではなく、様々な紆余曲折を経てそうなっているに過ぎず、だからそうなっている現状を正当化するのはおかしいわけで、別にそれが妥当な形態でも理想的な経済状態を実現しているわけではなく、もちろんそうならざるを得ないわけでもなく、何かの加減でそうなっているに過ぎないわけだから、そこからの変化や改革を望んでも構わないわけで、それに関して別にはっきりとした要求や期待はないのかもしれないが、予定調和的にそうなるべきだとは言えないだろうし、ではこれからどうすればいいかを考えるにしても、まずは現状の正確な分析が欠かせないだろうか。各人や各企業や各国の政府や政党などが活動した結果が、実際にこんな現状をもたらしているわけで、現に今も活動し続けているわけだから、現状は常に変容し続けていると言えるとともに、それらの活動にもおのずから限界があり、その中で個人の活動が世の中にどのような影響を及ぼすにしても、その影響は微々たるものでしかないだろうが、ひょっとしたら何かのきっかけで個人の思想や著した書物が後世に多大な影響を及ぼす可能性もあるわけで、その代表的な例がマルクスの思想であり、彼が著した『資本論』であるわけだが、そこで彼が分析した19世紀のイギリス経済と現代の世界経済との間で目立った違いがあるとすれば、単純に経済規模がでかくなっただけではなく、その構造も国家との関係もより複雑で錯綜したものとなり、もはや単純な理論では説明し難い様相を呈しているだろうか。


7月27日「不可能な未来」

 世の中で何が蓄積されているかというと、資産と負債とそれに含まれる建造物や機械の類いだろうか。生きている人間の数も史上類を見ないほどの人口に達していることは確かだが、それらは蓄積されたままになっているわけではなく、絶えず活用され消費されていることも確かで、人工的な物は消費されればすり減って、次第に劣化して消滅していくだろうし、一見劣化しないように思えるデジタルデータなどの情報も、それを保持しているハードウェアは物だから、ハードウェアのメンテナンスや更新が何らかのきっかけで途絶えれば、途端に消滅してしまう運命だろうし、もちろん人間自身も生きているだけで老化して消耗していくわけで、消耗しきってしまえば死んでしまうわけだから、そういう意味でどんな蓄積でも消耗しないうちに活用しないと、蓄積自体が無駄になってしまうのだろうが、機械類はそれ自体が労働の蓄積であり、その機械が何かを生産するシステムに組み込まれていれば、それが駆動している限りは資源と機械と機械を駆動させるシステムに組み込まれた人を消費しながら生産物を生産し続けるわけで、そのまま放っておけば生産物が蓄積され続けるわけだが、生産を続けるには資源と人手が必要で、それらを確保し続けるには資金が必要であって、どうやって資金を得ればいいかといえば、生産物を売って得なければならず、そこまでは当たり前の動作であり、そういうシステムになっているわけだが、そこに至るまでに様々な歴史的な経緯を経て発展して、社会に定着しているそれらのシステムを人為的に変えようとして、根本的に変えるに至っていない現状があるわけで、それが誰であれ変える方法を導き出そうとしつつも、その方法がわからないままとなっているのかもしれないが、たぶんそれで構わないのかもしれず、あまりそれらのシステムが自壊するような都合のいい条件を妄想しない方がいいのかもしれず、それらのシステムの犠牲となって悲惨な境遇に陥っている人たちがいるのなら、人道主義者たちが助けようとするのだろうし、またそれが社会問題化しているのなら、良心的なジャーナリストたちがシステムの不具合を告発しようとするのだろうし、左翼的な社民主義に傾倒した政治家なら、政府の力でそれらの人々を救済しようとするだろうし、それらの行為の全てが的外れだとは思えないし、やっていることにもそれなりの効果があることが期待されているのだろうから、彼らは彼らで自分たちのやっていること信じてそれをやり続けるしかなく、それ以外の方法が見つからないから実際にそんなことをやり続けているわけだ。

 人の消費活動に限界がなければ、やがて人類は地球を飛び出して宇宙へと向かって進出していくのだろうが、たぶん全ての人がそうなるのではなく、多くの人がその犠牲になるのかもしれず、だからと言ってそれを押しとどめる成り行きにはならないだろうが、今のところはまだそんなことは夢物語でしかないだろうし、実際に地球以外の環境で人類が生きて行けることが実証されるには、まだ相当長い年月が必要となってくるだろうし、現状でそんなことを考える必要もないのだろうが、結局は現状で生きている人が自身がこれからどう生きていくかしか眼中になければ、別にそれで構わないわけで、そんな人は何も人類の行く末を心配する気など起こらないだろうし、そんな大げさなことにまで考えが及ばない方が、相対的には正気でいられるのかもしれず、たまたま現行のシステムの中でそれなりの恩恵を得ていれば、何もシステムを変えようなどとは思わないだろうし、政治的な選択にしても保守的な勢力を支持することになるわけで、またそのような政治姿勢を正当化する理由などいくらでもありそうで、さらにそんなことにも無関心であっても構わないような境遇の中にいると思えば、それで済んでしまうような場合まであるだろうし、たぶんそうやって全ての人が一つの方向を目指しているわけではない状況なのかもしれず、何かを目指しているのではなく成り行き上そうなっていて、そんな状況に巻き込まれていることに無自覚でいる人が大半を占めているだろうし、そんなことまで考える必要のない境遇の中で生きているのではないか。そういう意味でも人工知能によって全ての人が管理されるような極端な未来を妄想するのはおかしいだろうし、たぶんそれは前世紀の共産主義者たちが抱いた妄想の延長上にしかないフィクションなのだろうが、人為的なシステムが社会全体を制御しているわけではない現状がある以上は、たぶんこれからもそんな傾向は変わらないだろうし、様々な人為的なシステムが社会の中で共存しつつも競合し合い、栄枯盛衰を繰り返しながらも、決して一つのシステムに収斂することはなく、全ての人間を網羅して救済する未来は永遠に訪れないかもしれないし、そうなるには人や物や情報が構成する世界はあまりにも不完全に思われるし、人工知能によるシステムの管理がいかに社会の隅々にまで行き届いても、絶えずそこから逸脱してしまう人も物も情報もいくらでもありそうで、これからもそれを助長するようなサイバーテロの類いが、ウィルスを撒き散らしながら絶えずシステムを混乱させようとするのではないか。


7月26日「自由と選択」

 物のイメージはその物の姿形を映し出す画像や映像から成り立ち、物の性質や働きや取り扱いに関しては、主に文字や音声や数値や図表を含む記号表現を用いて説明されることが多いだろうか。一般的には映像情報と記号情報が一体化して、それが物に関する知識として社会に定着しているわけだが、画像や映像についても見せたい場面や局面を恣意的に切り取って見せているわけだから、それが象徴的な意味を持つ限りで記号表現と捉えられるかもしれず、厳密には映像と記号は区別がつかないかもしれないが、何か見せたい物を見せて、それを音声や文字を使って肯定的あるいは否定的に説明し、その物への肯定的あるいは否定的なイメージを見せた人々の意識に刷り込む、という洗脳的な行為は、メディアを通してよくやられていることだろうし、よく考えたらメディアの機能というのはそれだけかもしれないのだが、別に見せたくもない物を肯定も否定もせずに見せ、それを音声や文字を使って肯定も否定もせずに説明することが果たしてできるかというと、ではなぜそうするのか理由がわからなくなってしまうだろうが、その肯定も否定もしない情報の伝え方というのが、中立的な報道の仕方だと言えなくもないし、すでに何かを見せようとする時点で、見せたいという恣意的な思惑が働いていることは確かで、そして見せた物について説明したり解説したいと思う時点でも、恣意的な思惑が働いていることになるだろうが、ではなぜそうしたいのかと言えば、それを肯定したり否定したいと思うこと以外で、何がそうしようとする動機となっているかについて考えてみる必要がありそうで、ただ何となくそうしたいわけではもちろんないだろうし、伝えなければならないと思うから伝えようとするのかというと、ではなぜそれを伝えなければならないのかというと、何かそういう物事を伝えることが慣習となっているからとしか言えない面がありそうで、本音を言えばそれを肯定したり否定したいからと言ってしまいたいところを、報道の中立性を鑑みてうやむやにしておきたいところなのかもしれず、ただその日に起こった出来事をランダムに選んで伝えているわけではないことはわかりきっているが、できるだけあからさまな肯定や否定は避けながらも、それを中立性を装って伝えていること自体が、伝える側の恣意的な思惑が介在していることを想像するしかないような事態とならざるを得ないのではないか。

 そう思われてしまうことに対する妥協策としては、肯定的な意見と否定的な意見の両論を併記するというやり方もよく用いられているわけだが、その両論併記という一見中立に思われるようなやり方にしても、すでにそんな出来事を話題として取り上げること自体が、政治的な思惑を含んでいて、話題の渦中にいる人や団体を攻撃するために、わざと説得力のないその人や団体への肯定的な意見と、一方的な否定意見とを併記して、一見中立性を装いつつも、実質的にはその人や団体を批判し否定するような印象操作が行われることもあるだろうし、やろうと思えばいくらでもそんなことはやれるだろうが、重要なのはあからさまにそんなことをやっているとは思われないように表現することであり、それを伝えて世間的な話題にする根拠は曖昧に隠しながらも、世論がそれを問題化するように仕向けることだろうし、そういうところに巧妙な仕掛けがあると思ってしまうと、何か良からぬ陰謀が張り巡らされているようにも思われてくるのだろうが、結局はそれに対する説得力のある批判を信用するしかないわけで、できれば他人の批判を信用できるか否かではなく、そのような報道に対して自分がそれを見抜けるか否かの方が重要なことだろうし、見抜けなければ恣意的な報道によって操作される世論を支える民衆の一部となるだけで、別にそれで構わないのかもしれず、それによって何がどうなることもないのだろうが、どうなることもなければ現状の維持に貢献しているわけで、またその種の報道の欺瞞を見抜いたところで、それでも何がどうなることもないのかもしれないが、意識だけでも現状から抜け出ていた方が、世論というフィクションから自由でいられるのではないか。そうであるにしてもそれが現状への気晴らしや気休めにしかならないのか、あるいは未来へ向けて変革の可能性を期待させるのか、現時点では何とも言えないところだろうが、それが良い方向なのか悪い方向なのかわからないが、絶えず現状認識を更新しようとしない限りは現状のままにとどまるしかなく、また妥協して現状のままにとどまろうとすれば、勝手に周囲の状況が変わっていって、状況の変化に取り残されてしまう可能性もあるだろうし、どちらにしても社会の中で定まった地位を獲得しようとすれば社会の慣習に逆らえなくなるように、安定と引き換えに自由を犠牲にしたり、その反対に自由にこだわると不安定な境遇を受け入れざるを得なくなるし、全てを手に入れることは不可能なのだから、どちらか一方を選択するというよりは、なるべく選択の手前で立ち止まって考えるべきだろうか。そうやってどちらか一方を選択せざるを得ない状況に逆らうことが重要だろうか。


7月25日「見込みのない行為」

 何かを切実に願うような事情がない限りは、本気になれるような目的は生じないのかもしれないが、別に何を切実に願わなくても生きていけるし、本気で取り組めない事情まで生じてしまう可能性までありそうだが、どんな成り行きの中でも、そこに巻き込まれている人に特有のこだわりはあるのかもしれず、それにこだわっていないとやっていられないような気にさせる何かがあるとすれば、そこで切実に願っているのはそれにこだわることであり、なぜこだわるかがそこで何かをやっている理由にもなりそうだが、それにこだわる理由というのが、他人にとってはどうでもいい場合もありそうで、他人から共感を得られないようなこだわりは、社会的にもどうでもいいことになりそうで、そのどうでもいいことにこだわることによって、その人が世間から相手にされずに社会の中で孤立するような成り行きになれば、それは痛ましいことだとも言えそうだが、そんな状況に何か可能性があるとすれば、それはその人にしか気づいていないことなのかもしれず、何か他人が気づかないことに気づいているように思われれば、それが自分だけの秘密のように思われて、それを知っている自分が、何か特別な存在なのではないかと錯覚してしまうことにもなるかもしれないが、何かを知ることや理解することにこだわるような場合は、往々にしてそれが自己顕示欲に結びつき、自分だけが知っているつもりの知識をひけらかしたい衝動に駆られて、他人にとってそれがどうでもいいような興味のないことであるのに気づかない場合が多そうで、そうなるとそれをいくらひけらかしても無視されるという痛ましい結果がもたらされて、孤立感に苛まれた末に思うことは、その人が切実に願っているのは結局、他人から共感を得ることだと思い当たるわけで、そこでこだわっていることも、何よりも他人から共感を得られるようなことをやりたいということであり、他人から共感を得ることが目的となってくるのかもしれず、結果的にそんな成り行きになってしまうのは、何か本末転倒なことのように思われるかもしれないが、それと自覚することなく他人の共感を得ようとすることによって、しかもそうしようとする人が多ければ多いほど、孤立を避けて他人のご機嫌とりに精を出す行為が世の中で流行ってくるのかもしれないし、無自覚にそういうことをやっている人たちが世の中の主流を占めている実態もあるのかもしれない。

 しかしそれ以外に何かやるべきことがあるのだろうか。たぶんそれはやるべきことというよりは、やっていることがあるわけで、そのやっていることがたまたま他人の気を引こうとする行為であったり、結果的には他人から嫌われたり無視される行為であったりするわけで、どうすれば他人の気を引くことができるかなんて、普段から本気で考えているわけではなく、そういうことはあまり自覚していないわけで、身の回りの状況がそんな行為を強いていたりする場合もあるだろうし、何かそこで気まずい空気を感じたら、自然と場を和ませようとして、笑いを誘うような言動や行動に出ることもあり得るだろうし、たまたまそんなことをやったからといって、普段からそんなことにこだわっているわけでもないだろうし、別にそれが本気になれるような目的でもなく、何か軽い気持ちで軽率な冗談をかまして、おどけて見せることもあるわけで、その程度のことの積み重ねによって日常の日々が過ぎ去っていく状況があるのなら、それはどうでもいいことでもあり、ある意味では幸せなことなのかもしれないが、何かそれとは別に大袈裟な使命感を抱かせるようなこだわりがあるとすれば、そういう真剣に取り組むべきことがあるだけでも幸いであり、それは生きがいを感じるようなことだろうし、それに取り組んでいる間は幸せを実感できるだろうか。だがそれが他人にとってはどうでもいいようなことで、それを懸命にやっているおかげで世間から無視されて社会の中で孤立してしまうようなことなら、やはりそれは痛ましい状況だと言えるだろうが、それを避けるために他人の共感を得るようなことをやろうとすると、それが自分のこだわっているような行為とは両立しなくなって、疎外感をもたらすような行為と共感を得ようとするような行為との間で板挟みとなって、両者の間で身を引き裂かれるような思いを体験をするようなことになれば、それは不幸なことだとも言えるかもしれないが、たぶんそれは普通なことなのかもしれず、それをやるのに困難や苦難を伴うようなことは、世の中の主流をなしているようなこととは相容れないことなのであり、だからこそ何かしら抵抗感を覚えるのだろうし、世間体を気にしていてはできないようなことなのかもしれず、それだけ失敗する可能性も大きく、実際に何も報われないようなことをやっているのかもしれないし、利益を見込めないようなことをやっている場合さえありそうで、そうなるとなぜそれをやっているのか理由がわからなくなってしまうかもしれないが、ともかくそういうことをやる成り行きに巻き込まれてしまうと、それが何だかわからないがやらざるを得なくなってしまうのではないか。


7月24日「ありえない虚構」

 フィクションに含まれる政治関連の挿話には、過去の歴史的な出来事が反映されている場合が多いが、よくある話の成り行きとしては横暴な支配者による圧政に苦しむ民を、反社会的な境遇のならず者達が助ける話になるだろうか。実際の公式的な歴史の中でそんな出来事が頻繁に起こったわけでもないだろうが、安易に独裁的な国王や皇帝などの支配者を登場させる話ではなく、選挙などの民主的な手続きを経て、民衆の中からさほど目立った才覚を感じられない代表者が選ばれるような話だと、フィクションの内容としては魅力を欠くだろうし、現実の世界で特に有能でもない人物が国を代表するような役職に就いている場合、そのような人物がフィクションの主人公になることはまずないだろうし、何か主人公になるにふさわしい説得力のある理由というのを人は求めたがるかもしれないが、大した理由もなく何となく主人公が設定されているように感じられる場合があるとすると、ではそれは何のための話なのかと問われるわけでもないだろうが、それでも主人公に目される人物にはその人なりの特徴があるにしても、別にその人物が物語の主人公である必然性が見当たらなければ、その人なりの特徴というのが、そのフィクションを構成する話とはあまり関係のない特徴であり、そこで何らかの架空の出来事が話の順を追って起こるにしても、それらの出来事が主人公に目される人物にとって何を意味するわけでもなければ、ではなぜその人物が話の主人公なのか理解に苦しむところだろうし、例えばその人物が虚構を構成する世界から疎外されているとすれば、その世界にコミットできない主人公は単なる世界の傍観者でしかなくなってしまうだろうし、そこでは何もできない主人公とは無関係に様々な出来事が起こっているだけだとすれば、ますます主人公が主人公である理由がなくなってしまうだろうが、たぶん現実の政治はそのように推移するのであり、別に話の主人公が政治に参加しているわけではなく、主人公は常に政治から疎外され遠ざけられているわけだ。そしてそこで誰が主人公であるべきなんてどうでもよく、誰が政治の場で主人公の役割を担うこともなく、誰がそこで権力を行使しているわけでもないのに、実際に人と人との間に権力関係が生じていて、場がそこに囚われている人々を支配し、そんな権力関係を維持しているわけだ。

 ある意味でフィクションは作者とも主人公とも関係なく、もちろん別の意味で関係があるからフィクションが構成されているわけだが、そこに固有の場が生じていようと、たぶん誰にそこで権力を行使する権利が生じているのでもなく、ただ誰もがその場に囚われているのであり、囚われている程度が各人でまちまちであるにしても、その場から誰も抜け出せないからそこでフィクションが構成されているとも言えるわけで、現実の世界がそれと地続きであるはずがないが、人々はありえない場所から幻想を抱いているわけで、実態としてはフィクションの中で現実の世界を妄想しているわけだ。決して現実の世界の中でフィクションを妄想しているわけではなく、現実の世界には何もないことを信じられずにいるだけだ。誰がそれを確かめたわけでもないのに、そこに世界があると思っていて、誰も現実の世界では主人公にはなれないのはもちろんのこと、それが誰のための世界でもないことを自覚できずにいる。傍観者でいることすらできずに、何に関係することもできずにあらゆることに関係する夢を抱いている。別にその夢がフィクションだとは思わないだろうが、フィクションの中で構成されるのは現実に起こっている成り行きではなく、誰がそこで妄想を抱いているとしても、それらの出来事が現実に起こっているように見せかけようとしているのでもない。その場から抜け出せずにそこへと絡め取られているから、仕方なくそこで何かをやっていると思い込むしかないのだろうか。そんな回りくどいことだとは思わないだろうし、もちろんフィクションの中では誰が何を思い込んでいるわけではなく、たぶんそこでは何らかの架空の話が構成されているのであり、架空の話の中で何らかの出来事が生じている。たとえそれが架空の出来事であっても、人々はそれを体験しているつもりになってフィクションにのめり込もうとしているのだろうから、そんな人々が実在しているか否かが問われているわけではない。現実の世界でもフィクションの世界でもそんなことは問われていないとすれば、それらの人々は現実の世界ともフィクションの世界とも無関係となってしまいそうだが、それでもそれらの人々がその場に囚われているのならば、場が何を求めているかを知ろうとしているのは、その場とは無関係な人々だろうか。その場に囚われているのに無関係だとは思えないが、ではそもそも人々は何に関係していることになるのだろうか。別に無関係だからといってその場の真実を知ろうとしてはならないわけではないだろうし、その場とは無関係な人々が知ろうとしているのは、その場で行使される匿名の権力であり、その場を構成する権力関係の実態なのではないか。それが政治の実態であり虚構なのだろうか。


7月23日「システムの動作環境」

 人の意識を捉えているのはイメージとしての情報というよりは、人が関わり合う物事の働きを制御したり操作する際の理屈としての情報の意味合いが強いかもしれないが、具体的にはプログラミング言語や何らかのシステムの操作マニュアルなどが、そういう方面で役立つ情報となるのだろうが、一方でイメージとしての情報となると、それは絵画であったり何らかの映像表現であったり音楽であったりして、大雑把に言えば人の感性に訴えかけてくるものが多いだろうか。人は物を見聞することによってその物にまとわりついている情報を受け取るわけだが、何らかの理屈を伴うような情報は主に言語表現から生じていて、また図表などからも情報を得られるわけだが、言葉や図表は記号表現であり、画像や映像や音楽などとは違って、特定の意図や思惑をはっきりと表現している場合が多く、もちろん記号表現以外の情報にも人の意図や思惑が紛れ込んでいる場合が多いだろうが、記号などのようにはっきりと示されているわけではなく、わかる人にはわかるがそこで示されている論理や構造に気づかないと、わりとぼやけたイメージがもたらされるだけで、それを解読できる人とできない人との間で理解に差がつきやすいだろうし、また制作者も気づかないような多種多様な情報が含まれている場合もあって、さらに鑑賞する側の事情も時代背景が異なれば違う解釈が可能な場合も出てくるだろうし、そういう面で言葉や図表などの記号表現よりは画像や映像や音楽などの情報の方が、より解釈や理解の幅が広がる傾向にあるかもしれず、同じ作品に接しても人それぞれで異なるイメージを抱く可能性が高くなるだろうか。それに比べて記号表現の方は、まずは言語や図表の理解力に応じて、大雑把でいい加減な解読しかできない人から、詳細で正確な理解に達する人までいて、また見当外れで誤った理解を得てしまう人も中にはいるだろうし、正しい理解についてある程度は模範的な答えが出ていて、その正しい理解や解釈が広く世の中で明らかとなっている場合は、そこに達しない人や誤った解釈をしてしまう人については、正しい理解や解釈に照らし合わせてはっきりと否定されてしまう場合が多いだろうし、その正しい解釈や理解が、世の中の主流を構成する人々に認められている場合はそれほど問題とはならないわけだが、例えば書物の内容が難解であったり、その作品に固有の時代背景などが気づきにくいような場合は、世の中の主流をなす人々が正しい解釈や理解に達していなかったり、あるいは誤った解釈を信じている場合もあるのかもしれず、そうなると正しい理解や解釈に達するのがより困難となるだろうか。

 記号表現を含む情報内容に関して何が正しい解釈であるかは、表現内容がより複雑になるほどわかりにくくなる面があるだろうが、何らかのシステムの操作マニュアルなどの場合は、そこで記されている通りに操作してみて、システムが正常に動作すれば理解が正しかったことになるだろうし、それ以上の理解はシステムを操作するレベルでは不要なのだろうが、様々な作用が異なる方面から及ぼされるような複雑なシステムともなると、必ずしもはっきりした操作方法が確立していない場合があり、その操作に関する内容も曖昧な表現に終始していたり、あまり正確ではなく不完全な情報しか得られない場合もあるわけで、そうなるとシステムそのものも確実な結果が出るようなものでもなく、そのシステムを操作しようとする者の技量によっても、出てくる結果が違ったものにもなりかねず、そういう不完全なシステムが具体的に何なのかといえば、メディア上で政治問題化している社会システムの類いは全てそうなのだろうし、ではそうした社会システムとは何なのといえば、それをシステムというと語弊があるだろうし、普通はシステムとは呼ばないかもしれないし、社会の中で何らかの結果が出てくる成り行きだといえば、そんなものならいくらでもありそうだが、そこに様々な人や集団が絡んでいることは確かで、それらの人や集団がそこで生じている成り行きに介入してくるわけだが、その介入過程で自分たちの信じている理屈に忠実であろうとして、その理屈に反しているように思われる人や集団を敵とみなして、批判したり攻撃するような場合もあるわけだが、それがシステムだと思われるのは、そこで同じようなことが繰り返されて同じような結果が生じている場合があるからだろうし、メディア上で毎度のように同じような批判を繰り返している人や集団が話題となっていれば、そこで何らかのシステムが作動していて、そこではいつも同じような行為が入力されて、それに対して同じような結果が批判となって出力されているわけで、そのような成り行きに関する解釈もメディア上に示されているのなら、それもシステムの出力結果だろうし、そういう情報を受け取る人々が果たしてそんな出力結果に満足しているかどうかはわからないが、そこで何らかの解釈や理解を得ていることは確かで、それらが正しいか間違っているかはともかく、そのようなシステムが何のために動作しているのかを考えてみると、自ずから自分たちの置かれた状況がわかってくるのかもしれず、例えばそこで試されているものは何かと言えば、たぶんそれは記号表現の正しい解釈ではなく、そこで操作されているシステムがどのように作動しているかを理解することにあるのかもしれず、それを理解することによって、システムの動作環境とか動作条件が明らかとなるのではないか。


7月22日「虚構の真実」

 物と情報を結びつけるのは人の意識であり、一般的には物の大きさや色や形や量などの情報を記憶し記録したものが物に関する情報となるだろうが、中には人が物に何らかの作用を及ぼすことに関する情報もあり、例えば食料を道具を用いて調理して食べることに関しては調理法などの情報が得られ、資源は燃料となったり加工して建築材料として使われる他に、加工して道具を作って、さらに道具と材料となる資源を使って機械類を作ると、道具も機械も人によって作り出された物だから、自然の産物である食料や資源とは違った人工的な物となるわけで、そういう面で食料を調理して作った料理や資源を加工して作った道具や機械などに関する情報は、大きさや色や形や量などのような単純な情報だけではなく、調理法や製造法などのようにより込み入った手順を含んだ複雑なものとなる。そういった複雑な情報となると、記憶よりも記録の比重が大きくなるだろうし、書物から電子的な記録媒体まで様々な媒体に記録され、それらはいつでも閲覧可能で比較的長期間にわたって保存も可能であり、そのような知識としての情報の蓄積が人類の文明を支えているわけだが、それらは物に関する情報というよりは人に関する情報でもあり、さらにその中には情報に関する情報まであるわけで、情報は対象がそれ自身に及んでくると、途端に客観的には対象を捉えられなくなって表現の正確さを欠いてくるのかもしれず、それをどう捉えたらいいのかわからなくなり、たぶん際限がなくなってくるのであり、いくら語っても汲み尽くせないような謎が残ってしまい、例えばクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った、というような自己言及パラドックスが含まれてくるのかもしれず、そういう情報は功利的な活用には適さず、そんな社会の中で利用価値の定かでない情報というのが、人類の文明を支えているとは思えないだろうが、無駄に思われるような知識も含めて情報であることは確かで、実際に人はこの世に存在する全ての物を利用しているわけではないし、情報の全てを利用しているわけではないも当然かもしれないが、記録として情報が無駄に蓄積されている実態があるのは、記録しようとする目的に反することも確かであり、何かに利用しようとして蓄積しながらも、結果的に利用されないまま朽ち果てるようなものは、それ自体が蓄積衝動と呼ばれる心理現象を体現していて、それが人の不合理な性質を物語っているだろうし、利用の有無に関わらずにひたすら蓄積して溜めておくことで安心感や満足感を得ている面では役立っているとも言えるわけだが、それもほどほどのところで割り切らないと際限がないだろうし、いくら溜め込んでも不安感を拭えないようなら、それも一種のパラドックスだと言えるだろうか。

 必要が必要以外の効果をもたらすような現象というのは、人の習性全般にわたって起こりうる可能性がありそうで、そこではっきりとした目的を自覚しているとしても、周りの状況が目的を捻じ曲げて無効にしかねない作用を及ぼすこともあるだろうし、目的を自覚させておいてから、それを裏切らざるを得ない境遇に陥らせたり、実際に別の方面からそういう思惑が働いている場合もあるだろうが、誰もが無自覚に作用を及ぼしている場合があるわけで、何だかわからないが結果的にそうなってしまう成り行きというのが、その場に関係する誰の思惑からも外れた結果になっていると、やはり誰もが自覚なしに行動するような事態を招いているわけで、そういう人の意志の力が及ばない領域で物事が動いていると、抗おうとしても抗えないような運命の導きを感じるわけで、理詰めの推理劇がフィクションとしては成り立つにしても、それを逸脱して理屈に合わないような行動が起きてしまうところが、不条理な結果をもたらすわけだが、それが歴史的な経緯を構成していて、それを後から理詰めで分析してみると、もっともらしい因果関係が浮かび上がってくるのだろうが、それを超える何かを取り逃がしているのかもしれず、その何かが何なのかわかりようがなければ、永遠に謎のままとなってしまうわけで、たぶん謎のままでも構わないのだろうし、人が歴史の教訓として利用しているつもりになれるものは、いつも決まって理詰めの分析からもたらされるのであり、それが歴史的なフィクションを構成しているわけだが、その一方でいつもリアリティを感じるのは不条理に思われるような成り行きであり、その不可解な顛末であり結末なのだろうし、謎のままとなっている部分に興味を惹かれるわけだ。そして人はいつも利用できそうな情報を利用しようとしていて、実際に利用しながら何かをやっているわけだが、いつも結果に至ると理詰めで結果に至った理由を考えようとして、結果的に考えあぐねてしまう場合の方が多いかもしれないが、うまく筋の通った話にまとまれば、それはその話にとって都合のいい情報をつなぎ合わせた結果だろうし、内容も見ずにそれをフィクションだと決めつけるわけにはいかないだろうが、中には解読し難い謎が残ったままのフィクションもあるわけで、人がフィクションにリアリティを感じるとしたら、それは理路整然と話が展開する筋の通ったものではなく、謎だらけで不条理な話の展開と結末を伴ったものになるだろうか。人によって好みに違いがあるだろうし、一概には言えないことは確かだが、そこで作者の操作を超えているような面を感じ取れるなら、それはフィクションが現実の世界から何らかの作用を被っていることの証しとなるのではないか。


7月21日「虚像と実像の狭間で」

 たぶんそこには何もないわけではないが、実際に何もないように思われるなら、それが偽りのない実感なのだろうから、何もないと思っておいても構わないが、それでは気が済まないのなら幻想ぐらいは抱くことはできるだろうし、それがフィクションであろうと現実に存在する何であろうと、そこで気晴らしや気休め程度のものを求めている限りは、その程度の幻想なら世の中に溢れかえっているだろうか。少なくともそこに目的があれば、それを追い求めている間は何もないことを忘れていられるかもしれないが、何を求めても確かな実感は得られず、どこまでも虚無的な気分がついて回るような心境なら、別にそれが通常の有様だと思っていても構わないのであり、それ以上でも以下でもなく、こうあるべきという状態がないということだろうし、それではとりとめがないから幻想を抱くのかもしれず、心の拠り所が幻想であっても、その幻想の中身が何であるかにもよるだろうが、疑い深ければ安易なところでは妥協できないだろうし、何が安易なのかよくわからない現状もあるのかもしれないが、安易に思いつくものは全て安易なのだろうし、それ以外のものを探し出すには骨の折れる作業となるかもしれないが、結局幻想を追い求めるというのは、困難な作業を伴うほど幻想にはまり込めるわけで、難しいことを考えたり行ったりすることで、何か自分にとっても世間にとっても重要なことをやっているという実感が湧いてくるわけで、達成感というのもそういう経験から生じてくるのだろうし、難儀しながら何か有意義なことをやっているように思われるなら、それこそが幻想なのであり、何をやるにしても何かしら困難に直面していないとそうは思わないのだろう。そういう意味ではそこに何もないように思われるなら、そこで何かを探さなければならなくなるわけで、何もないところで何かを探す行為が困難をもたらし、あわよくば誰も気づかないような何かを探し出せたら、それは希少価値の高いものとなるだろうし、それを探し出す過程こそが貴重な経験だと思われるのではないか。そうなるとそれが困難な作業であるほど、そこからもたらされる幻想はとどまることを知らず、そうすることに生きがいを感じさせ、それに興味のない他人にとっては何でもないことであろうと、当人にしてみたらそれを追い求めることが最重要課題であったりするかもしれないが、それでも当初に抱いていた何もないような印象が偽りのない実感なのであり、何かのきっかけで途中から幻想を抱いてしまうような成り行きになろうと、それは一方的な思い込みだと思っておいた方が、より妥当な現状認識になるかもしれないのだが、そういう自然な認識に逆らうことによって、その人に特有な困難に直面しているような気になれるのではないか。

 なぜあえて困難な体験をしたがるのかといえば、そうしないと幻想を抱けないからとなるわけだが、たぶんそれは個人的な幻想だけではなくて、集団的な幻想にも言えることなのかもしれないが、その場合は集団で幻想を共有することで実利を伴うのであり、実利を得るとともにそれは幻想ではなくなり、実利を得たという現実を経験するわけで、それが実感されるとともに、それを実感できることが集団内での申し合わせとして機能して、それが社会的な行為として格上げされるのではないか。そしてそんな集団で幻想を共有する行為が、様々なメディアを通して求められていて、そんな行為にはまり込んだ人たちが、勝手な固定観念や先入観を集団内で撒き散らして、そんな中から幻想に対する妥当な解釈を練り上げようとしていて、それを集団内の世論として取りまとめようとしているのだろうが、やはりそこでは何もないなんてあり得ないだろうし、何らかの実感を伴ったイメージが共有されているはずなのだろうが、そんな印象でさえも集団内の各人が感じる程度や強度はまちまちだろうし、決して同じにはならないのだろうが、それでもそこで流布されている単純化された論理に食いついてくる人が必ずいるわけで、固定観念と先入観と単純化された論理を結びつけて、集団で許容できる統一見解を示そうとしてくるわけだが、それを利用することによって得られる実利というのが、人気投票的な実利なのであり、集団内で人気を博した当人にもたらされるものであるだけに、投票した人々には幻想がもたらされるにしても、それは実利ではなくあくまでも幻想であり、実体を伴っていないイメージでしかないのかもしれず、それが現実に実利を得た当人の認識との間で、埋めようのない落差が生じることは確かで、それは当人が一番よくわかっていることかもしれないが、その人の虚像に幻想を抱く人々にはわからないことかもしれず、そんな埋めようのない落差こそが幻想の全てなのかもしれないし、それがメディアを通してもたらされるその人のイメージなのだろうから、それ自体がフィクションだとみなしてもそれほど間違ってはいないのかもしれない。そしてそこにもたらされている困難とは、イメージから連想される幻想と実際にそこに存在している現実とをどう結びつけるかということだろうし、実際に人々は集団内で共有されている固定観念と先入観と単純化された論理に基づいて、現実とフィクションとを一致させようとするのだろうが、それ自体が現実からかけ離れているわけだから、そこには幻想以外は何もないのかもしれないのだが、それを現実だと思い込まない限りは、気休めも気晴らしも得られない現状があるのではないか。


7月20日「インフレの幻想」

 普通に考えると商品の需要が供給を上回って、物不足に陥ると物価が上がってインフレになるのだろうが、もしかしたらそんな単純な理屈だけで構わないのかもしれず、欧米や日本などの先進諸国でなぜインフレが起こらないのかといえば、実際に物不足ではないからで、商品が充分に足りている限りはインフレにならないのが当然であって、それ以上に深く難しく考える必要はないのかもしれず、実際に物不足が深刻なジンバブエやベネズエラなどでは深刻なインフレに直面しているわけだから、理屈としてはそれで正しいのだろうし、それ以外の理屈は不要なのかもしれず、もちろん日本では物価上昇率が2パーセント程度のインフレが期待されていて、それは物不足が深刻になるほどのハイパーインフレとは違うわけだが、そうであっても需要が供給をわずかに上回る程度の持続的な経済成長をもたらすインフレ目標という微妙な言い回しがご都合主義的な表現であって、果たしてそんなことが政治的に調整可能なのかというと、元から無理だったのかもしれないし、政治宣伝としてはそんな目標を掲げざるを得なかったにしても、それと表裏一体の言い回しとしてのデフレからの脱却にしても、脱却しようとしている現状がそれほど深刻だとは思われないような状況であることは確かで、マスメディアの商売上は大げさに騒ぎ立てなければならないのだろうが、結果から言えばインフレ目標にしてもデフレからの脱却にしても空騒ぎの感を免れないわけで、しかもそうであってもジンバブエやベネズエラなどの深刻な状況と比較すれば、何でもないような状況でしかないわけだから、いくら現政権の経済政策を失敗だと批判したところで、それは程度の問題でしかないことは踏まえておくべきで、また逆にベネズエラの深刻な経済状況をすぐに短絡的かつ単純化して、社会主義だから駄目なんだと宣伝したがる輩がいるとしても、それも別の意味で程度の問題でしかないだろうし、石油関連産業による国内経済の独占支配から脱却したくて、アメリカを敵に回した結果がそうなったわけで、それは数十年前のイランでも同じようなことをやってアメリカを敵に回した結果が、核開発の因縁をふっかけられて経済制裁を受けて深刻な経済悪化をもたらしたのと似ているわけだが、そういうのは理屈というよりは歴史的な経緯が絡んでいるわけで、社会主義だから駄目で資本主義だからいいという単純な論理では片づかないことは確かであり、またそれらの事情とは全く程度が違う日本の現状も、理屈だけではどうにもならない問題があるのかもしれない。

 とは言ってもそれについて考えるには、ある程度は理屈から推理していくしかないわけだが、たぶん商品が必要なだけ行き渡っていて、しかも所得に応じた物を買っていれば、それなりに暮らして行ける社会にあって、どうやれば高望みさせて無理な買い物をさせるかということになってしまうと、かえってそう仕向ける方が危ないわけで、返済できないほど借金して物を買って破産しても、誰も助けてはくれないわけだから、分相応な買い物をするのが無難だし、必要以上に買う必然性がなければ、いくらプレミアムフライデーとか言って消費を煽ってみても、そんな軽薄なムードに流されるほど愚かな人はそうはいないだろうし、そういう無理に消費を促すような仕掛けとは違う方面で、無駄遣いとは違った行為が流行っているのかもしれないし、流行っているというよりは、あまり金のかからない楽しみを各人が趣向をこらしながら求めている面があるのかもしれず、例えば定年間近の中高年が、安くてコンパクトなスポーツカーを買って、週末になるとドライブに出かけるとか、バブル時代のような世の中の流行に敏感に反応して前のめりに消費を駆り立てられるようなことではなく、ある程度は余裕を残した消費であれば、それほど過剰な購買意欲など湧いてこないだろうし、そういう意味でよほどの突発的な事件でも起こらない限りは、商品の供給が不足するような事態とはならないだろうし、物資が豊富に出回っている中で質素な生活を心がけられる余裕があり、そんな心理状態を保っていれば、必要以上に見栄を張るような成り行きにはならないだろうし、富裕層はそれなりに見栄を張れるだけの財力があるから、高級ブランドで身を固められるだろうが、財力をあまり期待できない一般市民がそれを羨ましがるかというと、経済格差がはっきりしている中では、別に羨ましがる気も起こらないのかもしれず、中間所得層がそれなりの割合を占めていた時代には、その中で競争や見栄の張り合いが起こって、虚栄心に目覚める人たちもそれなりにいたのかもしれないが、どうあがいても富裕層には近づけないように思われるなら、はなから競争を放棄しているようなところもあるのかもしれず、そんなわけで笛吹けど民は踊らず的な時代背景の中で状況が推移していて、少なくとももはや急激な経済成長は望めないわけだから、分相応な消費でそれほど不満がなければ構わないわけで、政治力によって無理に消費を刺激するには及ばず、商品も必要な分だけ供給されていれば、それで困ることがないようにも思えるのだろうが、それでも政治的に景気刺激策を施さなければならない事情もあるだろうし、絶えず消費を煽るような宣伝活動を行なっていれば、それで何かやっていることにはなるのだろうし、政治とはそういうものだと割り切って見ておいた方が無難なのかもしれない。


7月19日「文明の目的」

 文明は人と物との関わりによって生まれ、そこから物に関する情報が知識として生じ、知識を活かして物を加工して道具を作り、さらに道具を使って機械を製作して、その過程で道具に関する知識や機械に関する知識が複合的に組み合わさり、人や物や道具や機械を総合的に制御するシステムが編み出され、またシステムが動作することによってもたらされる、それらを制御するための情報も文明の中で知識として蓄積して、そんな知識を人が社会生活を営む上で役立てていることは確かだが、傾向としては人の活動を制御しようとして道具や機械は活用されるわけで、人を道具や機械が使われる目的に合わせて活動させ、人はそれを自覚していないかもしれないが、人が道具や機械を使いながら活動するときには、その道具や機械を使うことがまずは目的となっているのであり、そういう面では人は道具や機械によって制御されているとも言えるわけで、それらを使って成し遂げられることが最終的な目的だとしても、すでにそれは道具や機械が動作する方向に限定されていて、それらなしに行為は成し遂げられないわけで、その過程で道具や機械は人の動作を一定の範囲内に押し留める役目を果たしていて、道具や機械がある一定の方向性と範囲内で動作する人間を作り出していると言えるだろうか。もちろんその中でも道具や機械の操作に長けた人と、操作が苦手な人が生じるだろうし、それらの取り扱いに長けた人を、それらを使って目的に導く競争の中で成功に導き、操作が苦手な人を競争から脱落させるわけで、そんな道具や機械を使った競争を成り立たせているのも、その道具や機械が動作する方向に合わせた目的が生じるからで、それに関してはまず目的があって、次にその目的に合わせた道具や機械が作られると思われがちだが、いったん道具や機械が作られてそれが広く社会に普及すると、今度はその道具や機械の動作に対応し、それに適合しようとするような人間が生じてくるわけで、そのような人間は道具や機械を発明した人間や集団とは種類が異なり、その道具や機械の動作に限定されていて、それだけ活動の幅が狭まっていて、それらの操作に関しては専門的に精通しているが、他の面では別に専門家でも何でもないのは当然なのだろうが、そうやって一つの方向に特化してしまった人間というのが、社会の中でどのような影響や作用を及ぼしているのかはよくわからないところだろうが、たぶん誰もがそうなってしまったわけでもないだろうし、誰もがそうなるべきでもないだろうし、そこに競争がある限りで、誰もがそうはなれない仕組みとなっていることは確かなのではないか。

 世の中には様々な種類の道具や機械があって、それらの操作に長けた人間もその道具や機械の種類の数だけ存在していることは確かで、もちろん人の動作の全てが使っている道具や機械に依存しているわけではなく、それとは別の水準では別の動作があるわけで、また使っている道具や機械も複数あるだろうし、それらを複合的に組み合わせて他の人とは違う目的を生じさせることがあるかもしれないし、そういう意味で専門家と称する人たちも、自らが専門とする分野だけに動作が特化しているわけではないのかもしれず、目的も一つだけではなく複数の目的を持ち合わせることも可能だろうし、そうであるなら専門家が一つの方向に凝り固まっているような先入観は捨てるべきかもしれないし、その人が専門とする職業からその人の特徴や人格を捉えようとするのは間違っているのかもしれないが、社会の中での動作を考えるなら、やはりその人の専門的な分野での動作に注目しなければならないだろうし、メディア上で話題となるのももっぱらそういう傾向があり、何らかの分野で秀でた業績を上げた人が話題となるわけで、様々な分野で第一人者として認められる人が確かに存在していて、そういう人たちがメディア上で賞賛を浴びているわけだろうし、メディアの機能自体がある方面ではそういう人たちを話題にして賞賛するシステムになっていて、そういう話題に興味を持って注目する人たちがそういうシステムを支えているわけだが、そのシステム自体の目的が何かといえば、社会の中でその種の専門分野の存在を正当化することかもしれず、実際にそういう分野があってそれが社会の中である種の機能を果たしていることを、その種の話題が情報となって人々に伝わっているわけで、それを伝える意義は何かと言えば、やはりそういう分野の存在を正当化することにあるのかもしれず、別にその情報を得た人たちの全てがそのことに気づいているわけではないだろうが、なぜそんな話題に興味を持つのかといえば、そういう分野の存在がメディアによって正当化されているからで、逆にその存在を否定的に伝えれば、それは世間による否定的な評価へと繋がるのだろうが、そんな評価の代表例といえば、ヤクザやギャングや武装テロ集団などが挙げられそうだが、そういう反社会的な分野であっても、そういう分野を支える道具や機械や社会的なシステムがあるだろうし、そのような分野に限定された人間の特徴も自ずから定まってくるだろうし、やはりそこではそこで使われている道具や機械によって、そこで機能する人間の動作も限定され、道具や機械の操作に長け、そこで作動しているシステムに適合して特化した人間が、その分野で成功することになるだろうか。成功の次元からいえば、どのような分野であっても組織を束ねる技量というのが物を言い、その技量に長けた人間が組織の中で指導的な立場にいる場合が多いわけだが、それもある意味ではそこで作動しているシステムに適合していると言えるだろうか。


7月18日「信用の生成」

 人を騙すにしてもその人が信用されている限りは騙されたとは思われないだろうし、何をやるにしてもそれが詐欺にならないためには信用されていなければならないわけだが、どうやって信用を得るかは、そこで生じている様々な経緯や成り行きの中で信用を獲得できる場合もあるだろうが、信用されないままの場合もあるだろうし、そこに人と人との関係がある限りは、信用されるかされないかの二者択一が迫られる場合もあるだろうし、またある程度は信用されているが、完全には信用されていない場合もあるだろうし、あるいは何らかの条件付きで信用できる面もあればできない面もあるような場合までありそうで、時と場合によっては信用できるが、信用できない時と場合もあるわけで、期待を裏切られれば信用を失ったり、その逆に期待に違わぬ働きをすれば信用を得られて良好な関係を築けるだろうし、信用できるかできないかだけで一概には言えないところもありそうだが、人と人あるいは集団との関係も、お互いがお互いをそれなりに信用していないと関係を構築できず、ちょっとした行き違いからすぐに猜疑心が芽生えてくることもあるだろうが、それによって関係が壊れようと決定的な対立が生じようと、友好関係と敵対関係とにはっきりと別れるようなわけにもいかない場合もあるだろうし、様々な方面で感情や利害が入り混じっているのが普通の関係であり、いがみ合いながらもお互いの利害が一致しているから関係が持続することもあるわけで、そういう面でも相手を信用できるところとできないところが入り混じった関係というのが、妥協の産物として一般的に成り立つ関係なのだろうが、相手を裏切るつもりがなくても結果的に裏切ってしまったり、当人の意志や思惑とは違う結果がもたらされるようなら、そこで信用を失ったとしても、当人のせいとまでは言い切れないような成り行きであっても、信用できないことには変わりなかったり、どうにもならない外部的な要因が関係をこじれさせる場合もあるわけで、そんな人為的には修正できないような成り行きの中では、方法的にも戦略的にもそこに絡んでくる思惑がどうであれ、それとは無関係に必然的な結果がもたらされて、そんな出来事に巻き込まれてしまう人たちを途方に暮れさせることにもなるかもしれないが、そんなどうにもならないような結果に直面することで、人は自らの無力さと限界を悟らざるを得ないし、それでも諦めるわけにはいかない事情があることを知ってしまうわけだ。

 人はどんな状況に直面しても、どうにもならないような成り行きの中でもどうにかしなければならないし、実際にどうにかしようとして何かをやっているわけだろうが、別にそれが報われなくても構わないわけで、とりあえず何らかの状況に直面して、それに対処しようとして何かやっているわけだから、それを否定するわけにはいかないだろうし、たとえ思わしい結果が得られなくても、そんなことをやらせる成り行きに巻き込まれていることは確かで、そんなことをやった結果がうまくいったりいかなかったりするわけで、そんなふうに人の行為には成功と失敗があるように、結果的に成功する原因や失敗する原因を導き出せなくても、何らかの結果がもたらされることは確かであり、その結果をどう受け止めようと、結果そのものは変えられず、またそんな結果を踏まえて新たな活動が始まるわけで、そうやって何かをやっている状況が継続されるわけだ。そしてそのような活動が続いているうちはどうにかなっているわけで、たとえそれが思わしい結果でなくても、どうにもならない状況を切り抜けようとしていて、実際に切り抜けている最中なのであり、かろうじて何かをやっている現状の中に踏みとどまっていると言えるのではないか。そういう意味では状況がいかにこじれていようと、何かをやっている事実が、もはや何もできなくなってしまったわけではないことを証明していて、まだ絶望するような段階ではないことを何かをやっている現状が示しているわけだが、逆に絶望して何もできなくなってしまうような段階を想像できるかといえば、実際にそんな状況に至っていない限りは、そんなことまで想像する必要はないのだろうし、そういう意味でも何かをやることによって、まだ希望が失われているわけではないことを確かめようとしているのかもしれないのだが、たぶんそこから信用が生まれるのであり、それが誰に対する信用であるわけでもないのだろうが、ただ漠然と未来への可能性を信じている限りで、まだそこに現れていない未知の人たちを信じようとしているのかもしれず、これから出現するかもしれない人たちを信用するしかないわけで、その中には将来において出現するかもしれない未知の自分も含まれていて、その現状では形を成していない姿が、今やっていることをやり続けているうちに、いずれ何らかの姿形を伴って現れることを信じていないと、虚無主義に陥るしかないだろうし、実際に今さら何をやっても無駄な面があることは確かであり、何事も手遅れを実感してからでないとやり出さない性分なのかもしれないし、やはりそういう意味ではすでに手遅れな状況であるのかもしれないのだが、だからと言って手をこまねいている状況ではないことは、現に何かをやっている事実が示しているわけだ。


7月17日「経済の虚構」

 どのような産業分野でも経済活動が進展していくと、経済競争を勝ち抜いた少数の企業が大規模集約化してその業種での主導権を握るようになるわけだが、他の中小企業が全てなくなるわけではなく、大企業がやらない分野で隙間産業的に生き残る場合があるだろうし、何らかの専門分野に特化して、その企業でしかできないことをやっている場合は、同業の競争相手が出てこない限りは事業を継続できるだろうし、そういうところで大企業と中小企業との間で住み分けが成り立っている分野がありそうで、そんな中でも多くの企業が規模の大小を問わず互いに連携していて、物や情報の生産や流通や消費などの面で取引があり、人的な面でも機械技術的な面でもサービスのやり取りもあるだろうし、企業は単体で動いているわけではなく、企業と企業との間で取引やサービスのネットワークが築かれていて、垂直方向での統合関係や水平方向での分業関係がある限りで業務提携などが行われていて、それらの関係の中に組み込まれている人数も膨大になるだろうし、企業だけでなく関連の業界団体や監督官庁や一般の消費者などを含めると、さらに膨大な人数がそこに関わっていて、そんなことまで考えてゆくと、商品に関する単純な需要と供給の関係や、生産や流通の面での機械技術やシステムの効率化や技術革新などからでは説明できない部分もかなりありそうなのだが、それに加えて資金繰りなどの金融面や、組織内部での人事や派閥抗争などからも、特有の傾向や性質が導き出せるだろうし、そんなことまで含めて全てが経済の問題かというと、そうでもないような気がするし、経済ではない問題は政治問題と言えなくもないだろうが、それぞれの面が連動している部分もあるだろうし、別々に動いている部分もあるだろうし、それらをひっくるめて一つの理屈や理論では説明できないのはもちろんのこと、それについて考えたり語ったりできるのは、ある一面に過ぎない場合がほとんどだろうし、別にそれで構わないのであり、そこに言説的な限界があることを承知しておかないと、何か現実離れした物語でしかなくなってしまうだろうし、それに関する一面的な思考から何らかのフィクションが構成されるとしても、それは仕方のないことであり、そうなるのが当然の成り行きなのかもしれない。

 確かにその全てを包括的に把握するのが難しいとしても、ある一面的な理解から何らかの特徴的な傾向を導き出すことはできそうで、その特徴的な傾向としてわかることは、そこで人が生活していく上で必要とされる物や情報が生産されているとしても、実際に物や情報の生産に直接携わっている人の割合は産業人口全体から見れば驚くほど少なく、その他の人たちが何をやっているのかといえば、生産された物や情報を取り扱っているのであり、それらを広く世の中に流通させ消費する過程で何らかの仕事が生じていて、そんな仕事に就いている人が大半であり、しかも仕事の内容は千差万別なのであり、一概には同じ水準では論じられないような多種多様な仕事があって、それらの仕事を賃金労働として同じに扱うことはできないのかもしれず、別種の労働に携わっている人たちを同じ労働者とみなすこともできないのかもしれないし、そうなると労働者の間で連帯感が生じることもないだろうし、各人が抱えている問題も仕事内容が違えば異なってくるだろうし、そんなふうにして給料も仕事内容も異なる人たちを、同一の基準や水準で考えるのは無理がありそうで、また組織内外での役職や立場から対立関係や敵対関係にある場合までありそうで、しかもそこで生じている様々な関係から必要に応じて何らかの仕事が生じているとすると、関係が変わればそれが必要ではなくなることもあるわけで、何らかのきかっけで業務的な連携関係や協力関係が変わって、仕事を生じさせているネットワークが何らかの変容を被れば、ある日突然その仕事が不要になってしまうこともあり得るわけで、そうなるとそもそも仕事自体がそれほど切実に必要とはされていなかった場合があるわけで、現状ではたまたまそんな仕事があって、それに携わっている人もそれなりに必要であるかもしれないが、その状況が変わればすぐに不要になってしまうような仕事なら、その程度の仕事に有能な人材を配置することもないわけで、またそれが技能などの面で熟練を要する仕事でなければ、貴重な技術者として手間暇かけて教育する必要もないだろうし、そういう面からも労働の内容にも賃金にも格差があって当然だという認識が、労働者の間でも共有されることになるだろうし、ただでさえ労働者の大半が物や情報の生産に直接携わっているわけではなく、また仕事の内容にも賃金にも格差があって当然の状況である限りは、労働者と資本家の対立とか従業員と管理職の対立とかが、もはやフィクションとしか機能していないのではないか。


7月16日「活動の指針」

 物事の成り行きと結果を道理に当てはめて考えようとすると、その道理が何から生じているのかを知りたくなってくるが、人が行動や活動の指針を道理から導き出そうとしているように思える時、その行動や活動を正当化するために道理を求めていて、それはご都合主義の最たるものなのかもしれないが、なぜ道理に適った行為をやろうとするのかといえば、行為の正しさを求めていて、正しいことをやっていれば、とりあえず間違ったことをやるよりはマシだと思えるし、それが他の様々な事情から気休めに過ぎないとしても、心の拠り所として道理ぐらいしかなければそれに頼るしかないだろうか。たぶん間違った行為というのが道理に合わない行為なのだが、それは他人の行為を批判する時に使う物言いで、自らやっている行為が道理に合わないとは思わないだろうし、道理に合うか合わないかを判断するのは、いつも決まって他人の行為に対してであり、自分の行為が正しいか間違っているかを判断する時にはそんなことまでは考えず、それが道理に合わないとは思わないだろう。間違った行為を自分がやる時は、いつも決まって思いがけないことが起こる時なのではないか。そしてやっている時にはそれに気づかないから、他人からそれが道理に合わないことを指摘されて、それを認めたくなければむきになって反駁することもあるだろうが、自分から進んで道理を求めようとする時は、他人がやっている行為が道理に合わないように思えるから、それを指摘する時に道理を求めるわけで、その一方で自分の行為に関しては、それを行なっている時に道理を求めているわけでもないことが多そうで、ただ他人に対する批判として常套句のようにそれは道理に合わないと指摘したいわけで、そういう意味で道理が何から生じてくるのかといえば、それは他人に対する批判から生じてくると言えるのではないか。そしてその批判を正当化するために道理を持ち出してくるのであり、そんなふうに他人との関係の中でしか道理が活用されなければ、自分の個人的な行為に関して道理が持ち出されることはあまりないだろうし、自分がやっていることに関してそれが他人への働きかけを含まない限りは、やっていることの正しさを求める成り行きになることはまずないのかもしれず、自分の行為を正当化するにしても、それは他人に向かって正当化したがるわけで、自分が自分に向かって自分の行為を正当化する理由はなく、自分がやっていることをこれでいいのだと納得するにしても、正しいかどうかを気にしているわけではなく、やってしまったことについては取り返しがつかず、もはや後戻りできないことを確認しているだけなのかもしれない。

 そんなわけで自分に求めていることと他人に求めていることが違っているとすれば、やはりそれはご都合主義的な意味合いが生じているわけで、それは絶えず自己中心的な観点からなされるのであり、果たしてそれが道理に適っているかどうかは甚だ疑問に思われるだろうが、他人の行為には道理を求めておきながら、自分の行為に関しては道理を意識できないのはよくあることであり、それが道理に適っていようといまいと、結果的にうまくいけばそれでいいわけで、うまくいかなければ反省するだろうが、うまくいったことまで道理に合わないことをやっていたとして反省する必要があるだろうか。それよりはうまくいかなかったらそれが道理に合わないことをやっていたと思い込みたくなるのではないか。そういう意味で自分のやっていることと他人のやっていることが異なる立場から判断されるのはもちろんのこと、それが道理に合うか否かも自分と他人とでは判断基準が異なり、自分に対しては甘く、他人に対しては厳しく、自分がやっていることに関しては気づかないことでも、他人がやっていることなら気づいてしまうのはよくあることで、そういう意味でも他人の忠告や指摘には反発しつつも聞く耳を持っている方がいいのだろうし、謙虚になって耳を傾けることが、自分のためになることなのかもしれないが、そうすることが道理に適った行為なのかといえば、それはケースバイケースでしかないことも承知しておくべきかもしれず、自分のためになることを自分がやるべきか否かも同様で、また他人のためになることを自分がやるべきか否かも、いくら情けは人の為ならずと言われていても、その場での状況によってはそうでもないこともあるだろうし、そうだとしてもあえて常識的に考えると間違っているようなことをやってしまう場合もありそうで、その時の勘がそう告げているような気がするなら、やはり間違っているように思われることをやってしまうわけで、他人に向かって批判する場合は軽い気持ちで利いた風なことが言えるのかもしれないが、それと同じ調子で自分を批判できるのかといえば、そんなことはないわけで、それだけに自分への批判は困難を伴うだろうし、反省的に自分で自分を批判できないわけではないのだろうが、果たしてその批判が正しいかというと、それは他人が判断することであり、自分の判断が正しいか否か以前に、それがうまくいっているか否かの基準が立ちはだかっていて、うまくいっていることを否定したり間違っているとみなしたりすることはなかなかできないだろうし、実際にうまくいっていることは正しいことであり、どう考えてもそれが間違っていることだとは思えないのではないか。


7月15日「分析から派生する情報」

 人が利用するのは人であり物でもあり、人の記憶には情報が詰まっているのだろうから、当然自らの記憶の中の情報を利用して、また外部の記憶媒体に蓄積された情報も利用できるわけで、それらが効果的に組織され編成された装置の類いも、様々な様式や形となって人が利用すべき情報を保持していて、その中で人が物を利用しながら人も利用し、結果的にそんな情報が人や集団の活動を支えている実態があるわけだろうが、そうやって人や集団が活動しながら何か目指しているものがあるとすれば、それは現に社会の中で構築されている制度に則った目的に合致していることが多そうで、目指すべきことが制度の中で示されていればわかりやすいわけだが、一方でそれを何の疑いもなく信じているかというと、誰もが少しは疑念を抱いているだろうし、実際にある程度は行為や行動が制度から逸脱している部分も意識していて、それが全面的に信頼できるような制度ではないことは、薄々感づいているはずで、ただ表立って制度に反逆するのは得策でないことぐらいはわかっていて、自分の都合に合わせて制度の中で利用できる面は利用して、都合の悪い面に関しては、その場の状況によっては制度から逸脱することも厭わず、そうすることが利益になるなら違法行為をやってのけるも選択肢としてはあるのかもしれず、その辺のどこまでが許されてどこからが許されないかの判断は、その場の状況に応じて変わってくるかもしれず、大前提としては合法的な範囲内で活動しようと心がけておくのが無難なところだろうが、場合によっては筋を通さず規範も破って行動してしまうのかもしれず、たぶんそんなことが実際に起こるから、人や制度を裏切るような行為にもそれなりの必然性を感じられるわけで、それが避けられないような成り行きに巻き込まれてしまうと、どうやっても清廉潔白ではいられなくなって、自らの行為を正当化できないことを思い知るだろうし、別に正当化しなくても構わないような心境にもなるのではないか。そんな状況の中で無理に正しいと思われることをやろうとすると、それではうまくいかないことがわかってしまって、正しいことをやって失敗しても誰が褒めてくれるわけでもないし、失敗すれば非難されることが目に見えていれば、誰も正しいことなどやりたがらないだろうし、そもそもそれが正しいと思われること自体が間違っているようにも思われるのではないか。

 それが正しいことだろうと間違っていようと、結果的にうまくいっても失敗しても、それらのどれとも異なった判断が下せるだろうか。ただそういう水準では判断しないということかもしれず、行為や行動の何が良くて何が悪いかを判断しないとすれば、ではどのように行為し行動すべきかとなるわけだが、それを決定せずに意識しないことが可能だろうか。可能な場合もあるかもしれないし可能ではない場合もあるかもしれないが、それを事前に決めておくわけにはいかない場合もあるかもしれないし、事前に決めざるを得ない場合もあるかもしれず、どのような場合もあるかもしれないし、事前であってもその時が来ても決められない場合もあるかもしれない。そうであるなら何が言いたいのかといえば、とりあえず様々な場合があるかもしれず、どんな場合もないかもしれないということだろうか。実際に様々な場面や局面に遭遇したり直面したりして、その場その時で対応が異なっていたり同じだったりするのかもしれず、一概には適切な対応が何かはわからないかもしれないし、中にはわかる場合もあるのだろうが、だからと言って思い通りに行動できるとは限らないだろうし、実際にやってしまうことが思っているのとは違う場合もあるわけで、何も思っていなくてもやってしまう場合もあるだろうし、意識より行動の方が早く対応してしまう場合さえありそうで、それが正しいか否かではなく、正しかろうと間違っていようと、とりあえずそんなことをやってしまう場合は、意識による判断など必要としていないわけだ。しかもそれがその場の状況に適合していれば、何がそんなことをやらせるというわけではなく、そんな行為や行動も含めてその場の状況が形成されていることになりそうで、人の行為や行動をその場の状況から分離してその良し悪しを判断すること自体が、その場の状況にとってはどうでもいいことであり、ただそんな状況になっていることと、それが良いか悪いかを判断することが、有機的に結びつくわけではなく、そういう判断がその場には何の効果も影響も与えず、それを分析しようと評論しようと、それもその場の状況の一部であり、状況から派生した行為に過ぎず、状況を変えるにはそれとは違う行為や行動を必要としているのかもしれないが、それが何だかわかる日が果たしてやってくるのだろうか。わからなくても状況は絶えず変化し続けているだろうし、それはわかる必要のないことかもしれないのだが、ではそれを分析することから何がわかるのだろうか。たぶんそれを分析すればするほどそれに関する情報量が増えるだけで、その分だけそれについての言説が余分に構成されるわけで、そうやって分析が分析している以上の何かを語ることになりそうで、それ以上語ることからそれに関する余分な情報が生まれるわけだが、それも状況の一部なら、それによって状況が変化したことになるのだろうか。


7月14日「価値の創造と破壊」

 情報は言葉であっても映像や画像であっても視聴覚映像として意識され、人は意識に取り込まれたそれらの情報から知識を得るわけで、絶えず得られた知識を活用しようとしていて、活用には何らかの判断が伴い、判断するのに情報の価値が必要とされるわけで、そうやって人の活動には情報を得る行為がつきまとい、絶えず情報を得ながら活動している実態があるわけだが、逆に言えば人の活動は得られた情報に左右され、その人にもたらされる情報がその人の活動を規定し限定しているわけで、そうだとするとそれを逆用して、都合のいい情報を与えることによって人の活動を制御しようとする思惑が生まれるわけだ。例えば欲望を抱かせるような情報を提供して、その欲望を満たすような行為へと誘いこむのは、日々メディア上で行われている広告宣伝の常套手段だろうし、実際に様々な娯楽産業が宣伝活動によって欲望を煽り立てているわけで、煽り立てられている一般大衆の方でも、そんなことは重々承知の上で、むしろそれを楽しんでいて、多くの人たちが楽しめている限りで、娯楽産業などの経済活動が成り立っている実態があるわけで、そんな実態によって多くの人々に娯楽を楽しめるような経済的な余裕があることが明らかになるだろうが、そんなふうにして情報によって人々の活動をコントロールしようとする思惑がどこまで成功しているかは、特定の勢力が一括して全ての情報を統制しているわけでもないから、それなりに成功している面もあるとしか言えないだろうが、実際に情報統制をやりたがる側は自分たちに都合の良い情報だけを提供したがり、その反対の都合の悪い情報は遮断したがるわけで、そうする理由としては世の中の風紀の乱れを抑制しようとする思惑があるだろうし、そうなるといたずらに欲望を煽るような行為は禁止され、それは取り締まりの対象にもなって、そういう方面での経済活動が社会に悪影響を及ぼすとみなされたりするわけで、そういう意味で情報をコントロールするのは、欲望を刺激して煽るだけではなく、むしろ人々が節度をわきまえて道徳的に行動するように仕向ける狙いもあるのだろうが、実際にはそこで思惑の一貫性を保つことはできないのかもしれず、そうやって何らかの統制をやっているつもりであっても、やっているうちに何を煽り立てて何を抑制するかの基準があやふやになってくるだろうし、その効果も次第にはっきりしなくなり、なぜそうなってしまうのかと言えば、情報そのものの質や内容が絶えず変化していて、情報をめぐる人や物や社会との関係も同じように変化してくるだろうし、そんな形のはっきりしないものを統制すること自体に無理が生じてくるのかもしれない。

 では情報を統制するのは諦めるべきかというと、統制すること自体が権力の行使なのだから、権力を行使しようとする側が諦めるわけがなく、統制しようとする側は絶えず節度をわきまえない逸脱行為を取り締まることによって、人々の行為や行動の一貫性を目指すわけで、そうやって統制する基準を明確にしようとしていて、基準に適合した情報だけを人々に与えようとして、それは世の中の基準となる価値観の変化を拒んで、適切な情報だけを社会に流通させようとして社会の統一性や一貫性を維持しようとする表れなのだろうが、流通する情報に変化がないと社会が変化しなくなって世の中の停滞を招き、それが経済の停滞にも直結するのかもしれず、もちろん統制する側に経済を停滞させようとする意図はないはずだろうが、そもそも経済活動が活発化したり活性化する現象は、世の中で絶えず新たな価値が創造されて、その価値観を担った商品が世の中で流通するような状況のことを言うのだろうし、それはとりもなおさず従来からある価値基準の変更を求めていて、それに伴って価値を体現する情報も一新されなければならず、そうやって人々の目先を変えるような新製品が発売されるわけで、それもまた欲望をもたらす情報のコントロールに繋がるのだろうが、それでは取り締まりを旨とする情報統制とは矛盾してしまうわけで、むしろそれは情報統制を打ち破って新たな価値観を人々に押し付けるようなやり方となるわけで、しかも同じ価値観にとどまっていては活動が停滞してしまい、活動を継続するには延々と新製品を売り込まなけばならず、そうなると統制するのとは逆の意味で無理が生じてくるように思われるわけだが、一方は情報を統制して同じ価値観を頑なに守るように仕向けてきて、もう一方はそれを打ち破って延々と新しい価値観を押し付けてくるような動作が、たぶん同じレベルで作動しているわけではなく、要するに逆向きに噛み合わないことをやっていて、両者が別々に作動していても一向に構わず、何の不都合も感じさせないのかもしれないし、それに気づいていなくても構わないわけで、とりたてて問題視するようなことでもないとすれば、なぜそうなってしまうのかその理由を探りたくなってくるのかもしれないが、たぶん理由などないのかもしれず、たまたまそうなっているわけで、そういう経緯や事情が歴史的に生じていて、そこに筋の通った理屈があるわけではなく、合理的な理論に基づいてそうなっているわけでもなく、ただそんな結果が社会にもたらされているわけだ。実際にそんな世の中が形成されていて、そんな社会が成り立っている現状があるわけだから、それをどう捉えようとしても、納得がいくような結論がもたらされることはないのではないか。


7月13日「世界の実態」

 物と物に関係する情報は人の意識の中で結びつき、意識の中や意識が媒介する社会の中で物と人と情報とが関係することになるのだろうが、また情報は物に関する説明を要する場合や物を記号として扱うことにも繋がるし、さらに物も人も情報も記号化することもできるわけで、それらの関係を定式化するのは困難が伴いそうで、定まった関係とはいえない面までありそうで、その場の都合に合わせて物と人と情報とを結び合わせて、それぞれを記号として取り扱うこともできるとなると、それらの関係を理路整然と説明するのは困難になるだろうか。その中で物としても情報としても扱われる貨幣は、売買の時には記号として機能するわけで、物の価格を示す記号となるわけだが、それ以前に物も人も情報も文章上では文字記号であり、それらを記号として機能させる時には、それを介して関係する人々の間では、それを何らかの意味を持った記号と認めるという共通の了解事項がないと、記号としては機能しないわけで、結局は人と人とが関係し合う社会の中でしか記号は機能せず、その意味を共通の了解事項として認め合うことによって、初めて社会の中で何らかの意味を持った記号が機能して、それが機能する限りにおいて社会の様々な仕組みが円滑に動作するわけだ。そういうわけで人々が共通の了解事項として共有している記号というのは、人と物と情報を結びつける重要な情報なのであり、記号自体がある種の情報であるのはいうまでもなく、しかも記号の意味も情報であり、記号そのものが記号自身と記号の意味という二種類の情報の結合体を成していて、その記号そのものとその意味との結合という二重性が、記号を正確には把握しがたい概念にしていて、しばしば人を記号に関する誤った理解や単純化した理解に導き、その機能も充分には説明し難い概念としているのかもしれず、例えば貨幣は実際に所有している硬貨や紙幣としては物であり、銀行の口座残高としては情報でもあり、どちらもが売買の際に商品と交換できる記号として機能するし、その記号自身も商品として売買可能であり、為替取引などでは売買される商品でもあり、それ以外の通常の取引では売買を媒介する記号となり、売買される商品にもなるが他の物や情報の売買を媒介する貨幣という記号にもなるわけで、もちろん為替取引においては異なる通貨同士がその場で決まったレートで交換されることになり、それは物々交換でもあり情報同士の交換でもあり記号同士の交換でもあるわけで、そこでは物と情報と記号を厳密に区別できなくなってしまうのかもしれず、説明するのが困難となってしまうだろうか。

 そうであるにしても共通の了解事項として機能する記号の意味を恣意的に解釈して、それを妥当な解釈として世の中に広めることによって、自分や自分の所属する集団を有利に導こうとする思惑が常に働いているのであり、例えば自分たちが生産したり所有している商品の価値を高めようとする試みもその延長上にあるわけで、価値が高い理由をあれこれと考案して、それを他の人や集団に信じ込ませることができれば高く売れるわけで、そうやってもっともらしい理由をつけてプレミアムを獲得しようとするわけだが、それが希少であるとかそれを所有して消費する人々を有利に導くような効用が信じられれば、信じた人々がそれを買おうとするわけで、そういう心理につけ込んで、買う理由が何であれより多くの人が買おうとすれば需要が増えて高く売れ、反対により多くの量を売ろうとすれば供給が増えて価格が安くなり、安くなっても売れなければますます安くなってしまうわけだが、安くなりすぎると儲けが出なくなるから供給できなくなるだろうし、また高くなりすぎると買えなくなるから需要が減るだろうし、その辺で商品の適正価格が自然と形成されるかもしれないが、売る方は儲けを出そうとして絶えず適正価格より高く売ろうとするだろうし、買う方は絶えず適正価格より安く買おうとするだろうし、結局売買に携わる人や集団は、絶えず安く買って高く売ろうとするから、それが一応の売買の理論であり理屈でもあるのだろうが、そのための手法が絶えず考案され実際に試されているにしても、結局儲けが出るような価格で売れる商品というのが必要であることには変わりなく、そのような価格で売れている商品が存在している限りで資本主義経済が成り立っていて、そうなっていること自体に必然的な理由というのがあるかというと、もしかしたらないのかもしれず、結果から見ればそうなった歴史的な経緯を導き出せるかもしれないが、ただ結果的にそうなっているとしか言えないのかもしれないし、そのこと自体の必然的な理由を求めようとすると、理屈の面でも理論の面でも困難を伴い、たとえ世界の全てが資本主義経済の網で覆われているとしても、少なくとも均一に覆われているわけではなく、網目の細かい地域では人為的な活動のほとんど全てが資本主義経済に関係しているかもしれないが、網目の粗い地域では網をすり抜けてしまう要素も多いのかもしれず、実際に貧困が蔓延していたり餓死者が大勢出ているような地域では、資本主義経済が成り立たない面が顕著に表れているのだろうし、世界では資本主義経済が成り立っている部分と成り立っていない部分とが混在している実態があって、資本主義経済が成り立っている地域に住んでいる人には、確かに世界が資本主義経済に覆われているように感じられるが、部分的にしか成り立っていない地域に住んでいる人には、そうは感じられないのかもしれない。


7月12日「自己形成と争い」

 いつもそんなことが起こるわけでもないだろうが、生きていれば稀に遭遇するかもしれない出来事というのが、自分からの離脱現象かもしれないのだが、そんなわけがわからない展開の中では、誰も期待しないような不可思議なことが起こり、それが感動とも落胆とも違う違和感をもたらして、何か人が安易に空想する安手のフィクションにはないリアリティを感じさせるかもしれないが、それほど頻繁にそんなことが起こるわけでもなく、そう滅多にないことだからそれを体験した時には唖然とさせられるわけで、その時には日常の感覚からは得られない体験をして一時的に興奮するかもしれないが、それはつかの間の出来事だろうし、いったんそれが過ぎ去って興奮から覚めてまたいつもの日常へと戻れば、相変わらず退屈な紋切り型的な思考や慣習と戯れている自分を意識できるかもしれず、そうなってしまえば何事もなかったかのように振る舞いながらも、機会を捉えてもっともらしい口調でその時の驚きを語って見せるかもしれないが、それを語る時にはすでに心の平静を取り戻していて、その場で直面した一瞬虚をつかれたような居心地の悪さなど忘れているのかもしれず、どんなにその場での出来事を詳しく語って見せても、直接体験した時からだいぶ経っているといくぶんずれた感覚になってしまうだろうし、その時にはもうすでに恣意的な印象や作り話の要素が入り込んでしまっているかもしれず、そんなふうにして過去の体験は常に変形を被っていて、それを思い出す度に反芻的に新たな情報が付加されて、絶えず記憶が書き換えられながらも更新され続けているのかもしれないが、脳内の神経ネットワークが作り出す意識には、そうやって外部から入り込んでくる情報を自分が消化しやすいように馴致する作用があって、違和感を伴うような部分をなるべく和らげて、できるだけ自分のペースに巻き込みながら、外界からもたらされる変動に対応しようとする機構が備わっているのかもしれない。もちろん全てを自分のペースに巻き込めないから、何らかの破綻や失敗を伴うわけだろうが、巻き込もうとして巻き込めないところが、葛藤や齟齬感を生じさせて消化不良を起こし、うまく対応できずにそのことが原因で心身の均衡が崩れて病気になったりして、それなりに悩みを抱え込む羽目に陥るのではないか。

 だから意識はそれを乗り越えて心身の調和を実現しようとするのかもしれないが、結果的にはそうならなくても構わないのかもしれず、実際にそうはならないわけで、意識と周囲の現実との間に違和感をもたらすような齟齬や軋轢が生じていないと自己を意識できず、軋轢を意識することで自分を周りの環境から区別できるようになり、そのような精神作用が意識が背景に溶け込んで一体化するのを妨げているわけだ。要するに自分が自分であることは、他人とは違う自分がそこに存在することを意識できるかにかかっていて、そうやって他人と同じようには振る舞えない自分がいることを確認する作業が不可欠なのかもしれないが、それが日々行われている限りで、自分という存在を確認できるわけで、例えば他人と意見の一致を見ないようなら、そこに意見の対立があり、それをきっかけとした争いや衝突が起こる可能性があるだろうし、実際に争うことによって他人と対立している自分を意識するわけだが、別に必要以上に対立を意識しなくても構わない場合もあるわけで、争わなくても済んでしまう状況にあれば実際に争わないだろうし、争うことによって相手との違いを際立たせる必要がなければ、他人と違う自分を意識する必要もなくなって、無理に自己を確認する作業を行わなくてもいいわけだが、そうだとしてもそれによって心身の調和が実現されているわけでもなければ、心の平穏が保たれているわけでもないだろうし、軋轢が生じていても実際に争わなければ対立を伴わないわけで、対立しないで意見が噛み合わなかったり、対峙しないでねじれの位置から双方が別々の方角を向いていたり、互いの視線が交わらなければ互いの存在を無視できる場合もあるだろうし、それで同じ環境内で住み分けができているわけでもないだろうが、何かしら位置や場所を同じにしない状況というのがあるわけで、それが立場や在り方の多様性や多元性を実現しているとすれば、ただそこに隔たりがあるだけなのかもしれず、実際にはそんな都合よく個々の人間が隔たっているわけでもなく、時間的にも場所的にも絶えず交錯があるわけで、そこで言葉が交わされて何らかの関係が結ばれる可能性があるわけだが、その関係の強度や程度もお互いの思惑や距離感に応じて、それが共鳴や共振を起こすか否かを左右するわけで、中には一方的なこだわりや思い込みから、他者との関係を必然的かつ絶対視したがる人もいるかもしれないが、それでも共通の価値観を共有するという幻想を抱けなければ争う必要はないだろうし、争いから自己を形成するような成り行きにもならないのかもしれない。


7月11日「現状認識の妥当性」

 現状認識に関して妥当だと思われるのは、とりたてて何がどうなっているわけでもなければ、昨日と今日と明日が連続しているように思われることかもしれず、日々の日常が何事もなく過ぎ去ってゆけば、とりあえず年はとるし、それだけ死に近づいてゆくわけだが、見据えている未来には自分の姿が想像されているのだろうし、そこで自分が生きていて何かをやっていると思っているのではないか。そして自分の死後に世界がどうなるかまでは想像していないだろうか。そういう意味では生きているうちに何かをやらなければならないと思うだろうし、実際に現状の中で何かをやっているわけだが、そのやっていることに関して妥当な解釈にはなかなか至らないだろうし、客観的には自らが何をやっているのかを判断するのは難しく、思い込みの中ではやりたいことをやろうとしているのかもしれないが、それをやっているつもりであっても、たぶんそれを確かめるすべを知らないのではないか。その場の気分でやっているそれが正しいとも間違っているとも思えるかもしれないが、本当にそうであるか否かまでは分からず、それは客観的には判断しようのないことだろうか。全ては曖昧のうちに推移していて、決してはっきりした結論が出ることはないだろうし、具体的に何をやっているのかが問題なのだろうが、ただ言葉を記している程度なら、別にたわいない内容であっても構わず、それも場合によっては記している内容が問題となることもありそうだが、そこで何が語られていようと、それだけでは現状に対して何の効果もないのかもしれず、ただそこに言葉が記されている現状があるに過ぎないだろうが、その記された言葉の連なりが世の中で何らかの影響力を持つには、その内容もさることながら、社会的にしかるべき地位にある人が、しかるべき役割に応じて言葉を用いれば、その地位や役割と関係する方面へ影響を及ぼすわけで、それもそこで認知されている社会的な地位や役割が担う権力が及ぶ範囲内で機能するのかもしれず、だからその権力が及ばないところで自由を得ている人たちにとっては、何でもないことなのかもしれないし、そういう人たちからすれば、単にその内容だけから良し悪しの判断ができるかもしれないのだが、メディアのアナウンス効果などによって、その人の地位や役割から生じる経歴や肩書きから先入観を植え付けられて、そこから何らかの信用が生じてしまうのかもしれず、例えば何らかの分野の専門家による分析や説明がその内容よりも経歴や肩書きから信じられてしまう傾向があるのかもしれない。

 だがそもそも何らかの実績を上げないと、そのような社会的な地位や役割を担う立場には就けないのだろうし、客観的にはその実績が経歴や肩書きを生み、それが社会的な信用につながっていくのだろうから、それに付随して生じる信用が全くの分不相応というのはあまりないだろうし、その人の経歴や肩書きで信用するか否かを判断するのもあながち間違いではないのかもしれないが、たぶんそこで注目しなければならないのは、その地位や役割に応じた言説や発言というのがあるのかもしれず、その人が自発的に語っているというより、その地位や役割がそれに応じた発言をするように仕向けている面もあるわけで、そんなふうに語らざるを得ない立場というのもわきまえておかなければならないのだろうし、例えばそんな人たちの発言に反発して批判したくなることもあるかもしれないが、そういう地位や役割の人たちは、あえて反発や批判を誘発するような発言をしなければならないような成り行きの中で、発言させられている面もあるのかもしれず、それに関して典型的な例を挙げるなら、官房長官という肩書きの人物は、絶えずその手の反発や批判にさらされるような発言をしているのかもしれず、身内を庇うような官僚的な答弁に終始して、内閣に向けた反発や批判を一身に引き受けなければならない立場であって、公式的にはそこから逸脱するようなことは一切言わないだろうし、そうなるとその発言の内容は、その人物の個人的な趣向で発言しているのではあり得ず、その地位や役割がそんな発言をさせているわけだが、だからと言って発言内容の責任はその人物にあるわけだから、批判するならその人を名指して批判するしかないだろうし、その地位や役割に免じて許されるわけでもなく、ややもするとその人の陰険な役回りがその人固有の性格に帰されてしまうきらいがあり、その地位や役割がそうさせていることを忘れてしまいがちになるだろうが、一方でそういう面での批判もジャーナリズム的な批判のあり方というのもあるのかもしれず、そこでもジャーナリストという地位や役割に応じた批判という面で、それに固有な内容や傾向もありそうで、こういう場面ではこれこれこういう批判をしなければならないという決まりがあるわけでもないのだが、そこで捉えておかなければならないのは、官房長官的な発言や答弁に対して、ジャーナリスト的な批判をしていると感じられるようなら、あるいは野党的な批判というのもあるだろうし、そういう〜的な発言や言説を差し引いて、その内容自体に注目しなければならないということになりそうで、現状認識の妥当性というのは、そういう面からも正確に捉えられるかもしれない。


7月10日「部分的で矮小なこと」

 特定の政党が世論の支持を得る上で、何が要因となっているのだろうか。その政党が信用される理由としては、政権を担当しているという既成事実の積み重ねがあり、そうなった背景には特有の歴史的な経緯があって、また官僚機構や経済界やマスメディアなどから手厚い支援があったり、それらとの緊密な結びつきが明らかとなっていれば、人々に安心感を与えるということもあるだろうし、政策の内容や不祥事などがメディア上で話題となる以外では、実際に世の中で主導権を握っているように思われる勢力が、与党として政権運営を任されているのが当然のような空気があって、そういう空気を読むことが暗黙の申し合わせのように感じられて、それが世論調査や選挙結果に反映しているのなら、そういうことだと思うしかないのかもしれないが、そうなっている理由を他に求めても、理由自体があまり重要には思われなければ、そんなことはどうでもいいと思っていても構わないわけで、真剣に考えるようなことでもなくなり、日頃から政治や経済やメディアを巡って主導権争いを繰り広げている様々な勢力の対立関係や連携関係や力関係がどうであれ、普通の一般市民がそのような主導権争いに巻き込まれているようには思えないだろうし、メディア上で特定の政治勢力の応援団のような論調を展開する人たちも、それほど多くいるとも思えないし、そういう人たちなど無視しようと思えばいくらでも無視できそうだが、ではそれ以外で何が問題となっているのかといえば、やはり政治家や官僚の不祥事が明るみに出たり、それに関連して批判をかわしたり争点をずらす目的で、強引な議会運営に終始するようになると、何やら政権への支持率が下がって、それが問題だと認識されるようになるのかもしれないが、その程度で済んでいるならそれでも構わないのかもしれず、それの何が問題というわけでもなく、そうなってしまうのはいつものことであり、これまでも似たようなことが繰り返されてきたような気もするし、これからもそんなことの繰り返しようにも思われるし、政治的な主導権争いの結果として、メディアを通じてそんなことが明るみに出た挙句に、ひとしきり政権批判の類いが盛り上がることになるわけだ。

 だがそこで繰り広げられている勢力争いや主導権争いの内容がそんなことでしかないとすると、実際に政治の場で行われている活動の実態が、何かどうでもいいようなことでしかないようにも思われてくるかもしれないが、直接の利害関係者にとってみれば切実かつ深刻なことかもしれず、その辺で無関心な一般市民との間で認識にずれが生じてくることは明らかだろうし、そのずれが何から生じているのかといえば、メディアから伝わってくる批判の内容と、政治に対して期待していることとの間に無視できない背離があるからだろうし、政治活動によって実際に行われていることが、不祥事などによって明るみ出たことから推察される内容であるとすれば、もちろん政治活動の全てが不祥事に関係することだけではないはずなのだが、それがあまりにも部分的で矮小化されたことであるだけに、それが一般市民による漠然とした政治に対する期待からはかけ離れすぎていて、しかもそれをとりたてて切実に願っているわけでもないだけに、そのどちらもが本質的な問題とは思われず、結局一般市民の方では大して期待しているわけでもないが、主導権を握っている政治勢力に取り入ろうとする人たちは過剰な期待を寄せているわけで、その過剰な期待というのが特定の利害関係についての部分的で矮小なことなのだろうが、そこに直接の利害を持ち込もうとする人たちにとっては、それが切実かつ深刻なことであり、是が非でも自分たちに利益をもたらしてもらいたいわけで、そのための政治活動を積極的に行ってもらいたいわけだ。そうなると政治勢力に所属する関係者の方でも積極的に動かざるを得なくなるのだろうし、一般市民の曖昧で漠然とした期待よりは、利害関係者が持ち込んでくる特定のはっきりした目的を優先することになるわけで、そうやって部分的で矮小なことに首を突っ込んで、政治に頼み事をするぐらいだから、通常の手続きでやっても上手くはいかないようなことなのだろうし、結局は無理なことを積み重ねて首が回らなくなって、強引なことをやらざるを得なくなるのかもしれないが、それは一般市民が期待するようなこととは全くの無関係となるしかないだろうし、また強引なことをやったからには、従来からあるしきたりや慣習にも抵触するようなことなのだろうから、それだけ敵も増えて、内部告発などによって足元をすくわれる結果となるのではないか。


7月9日「技術革新の政治性」

 人にとって受け入れがたいと思われるのは何らかの拘束を伴うような状況であり、それは自由を制限されて理不尽な力に屈することでもあり、自分の価値観から外れたことをそこでやらされる羽目になることだろうか。他にも色々ありそうだが、なぜそういう不快な成り行きになってしまうのかといえば、そういうことをやらざるを得ない境遇の中で生きている人が世の中には結構いて、そのような境遇にある人たちが犠牲になることで、世の中が成り立っていると言えるだろうか。そうであるならなるべくそんな境遇に陥るような行為をなくしていくことが求められているはずだろうが、実態としてはそうはなっておらず、むしろ今あるような世の中が成り立つには、そういう境遇に陥る人の存在が必要不可欠であるのかもしれず、彼らの犠牲の上でしか社会が成り立たない実態があるだろうか。人が置かれた立場によってはそうであるともないとも言えるし、そういう実態を否定したり肯定したり、あるいはそういう実態があることを正当化することもできそうだが、それでもかつての奴隷制が蔓延っていた頃よりはましだと言えるかもしれず、現代では特定の階層に属する人々が有無を言わさず強制労働させられるような社会はなくなりつつあるのだろうが、そうやって今と昔のある時期や地域を比較すること自体が、それほど意味のあることとはいえないのかもしれず、絶えず同時代的な現状の中でどうなのかが問題であり、実際に受け入れがたい境遇から抜け出せる可能性があるように思われるなら、抜け出そうとするだろうし、移民労働者などがその典型例なのかもしれないが、抜け出した先に待っているのが、さらに悲惨な境遇である場合もあるだろうし、世界のどこへ行ってもそれなりに犠牲を強いられている人々が存在していて、それに関しての人道主義的な課題といえば、なるべく犠牲を強いるような境遇をなくすことなのだろうが、それ以前にそういう実態があることを認めなければならないのかもしれず、それを認めないでごまかして隠蔽したり、開き直ってそうすることを正当化したりする態度が非難されるべきで、そういう実態があること自体は肯定も否定もされるべきではないのかもしれない。

 どのような行為であってもそれが社会の中でそれなりに機能しているから、現実にそのようなことが行われているわけで、いくらそれがひどいことだからといって、それに代わる機能を作り出さない限りは、やめさせることは困難を極めるだろうし、たとえ違法行為に認定して強制的にやめさせても、必要とされる限りで隠れて行われている場合があるだろうし、それをいくら取り締まってもなくならなければ、やはりそういう行為は社会にとって必要不可欠な行為だと言えるのかもしれず、それに対する妥当なやり方としては、それとは別の合法的な行為に置き換えるしかないのだろうし、もちろんそれが簡単には置き換わらないから、違法行為をなかなか根絶できないわけで、しかも違法行為が慢性化して定着している場合もあるだろうし、そういう意味でそれが合法か違法かの区別を超えて、それが必要なら違法であっても行われるだろうし、不要であれば合法であっても行われないし、さらに合法であっても違法すれすれの行為もありそうで、普通の神経の持ち主には受け入れがたいようなひどい行為が、平然と行われている実態もあるだろうし、無理を承知でやらないと利益が出ないから、それに携わる人を消耗品のように使い捨てながらも行われている実態までありそうだ。そしてそういう行為をなくすには、産業技術の面での革新が欠かせないのかもしれず、結局かつての奴隷労働を衰退させたのも、機械技術の発達であった面が大きいだろうし、現状で労働者を犠牲にしながらもかろうじて延命しているような産業の分野では、そういう過酷な労働を積極的にやりたがる人はまずいないだろうし、様々な事情でやらざるを得ない状況に追い込まれているから嫌々やっている人がほとんどだろうし、結局そういう分野が労働力不足に陥っているわけで、そういう部門が機械化の対象となっているとすれば、自然とそういう成り行きなっている面があるのではないか。そしてそのような行為の不快さや過酷さを機械技術によって解消しようとする傾向があるのだとしたら、それが実質的な社会変革をもたらしているのだろうし、そういった行為に対する批判や非難などの政治的な主義主張よりは、実際の技術革新の方が社会的にも影響力を持っているのかもしれない。


7月8日「分析と管理」

 現状が何ら特別な状況ではなく、ありふれた日々の中で過ぎ去ってゆく時間を、特に記憶にとどめておく必要がなければ、その時間帯の中で体験する出来事に取り立てて思い入れなど湧いてこないだろうが、そうやってただ漫然とその日をやり過ごしているだけなら、生きていることに何の感慨も抱けないだろうし、無気力な心理状態にとどまっているだけかもしれないが、人は必要に迫られないと積極的に活動しようとはしないのかもしれず、そしてその必要というのがどれほど切実に感じられるにしても、必ずしもそれが優先されるとは限らず、枝葉末節のどうでもいい些細なことに思いの外手間取ってしまって、なかなかやらなければならないと思っていることにまで手が回らないという事態も、結構ありがちな成り行きなのかもしれず、それが容易にやれることならすぐやってしまおうとするだろうが、その反対にやろうとしてもなかなかできないような困難を伴う行為になると、いくらやらなければならないと思っていても、そう簡単には取り掛かるわけにはいかないだろうし、たとえ必要に迫られているとしても、それが困難を極めるような行為ならやろうとしてもできない可能性もあり、実際できないままに終わってしまえば、結局は必要なのにできなかったことになるわけで、そのやろうとすることに失敗する体験というのが、思っていることと実際の活動との間に齟齬感をもたらして、そんな思い通りにいかない状況が、自らが現実の世界に生きていることを改めて実感させられるかもしれないが、たぶん貴重な体験というのはそういうことを言うのかもしれず、真摯な態度で受け止めなければならないのは、成功した体験よりはむしろ失敗して挫折した体験になるのかもしれないし、もしかしたら常に挫折し続けるべきなのかもしれず、思い上がりや勘違いに至らないためにも、失敗し続ける日々とともに生きてゆかなければならないのかもしれないが、それを失敗とみなすことさえも、少しニュアンスがずれているのかもしれず、ただ現実と格闘しているのであり、格闘し続ける限りはうまくいかないことの連続であり、うまくいったと思うこと自体が、現実から目を背けている限りでそう思われるのかもしれず、途中の様々な試行錯誤や紆余曲折を経た上でも、もたらされた結果を肯定したければ、うまくいったと思い込みたいだろうし、うまくいかない部分から目を背けているだけかもしれないが、現状で改善の余地があると思われれば、少なくともその部分に関してはうまくいっていないわけで、そこで妥協を強いられているのかもしれない。

 そんなわけでありのままの現実と真摯に向き合うには、それが思い通りにいかない体験であることを認めなければならないだろうか。そう言う意味で人が試行錯誤の果てにかろうじて作り出すものは、そのほとんどは偶然と失敗の賜物であり、未だ確固とした形を成さないものがほとんどなのかもしれず、作る側から崩れていくようなものでしかないのかもしれないが、いくら徒労に徒労を重ねても形を成さないままかもしれないし、どんなに苦労しても満足のいくものが得られなければ、確かにそれは紛れもない失敗作でしかないだろうが、中途半端に妥協して成功を装うよりは、失敗したままである方が下手なまやかしがない分信用できるのかもしれず、そうした失敗作に取り囲まれながら人は生きていて、がらくたに埋もれながら日々を過ごしていると、この世界にはまがい物しか存在しないかのように思ってしまいがちになるかもしれないが、全ての事物は完成することがないからそう思われるのかもしれず、全ては生成途上の段階にあり、完成を見ることなく放棄されたものがほとんどで、しかも放棄されたらすぐに風化や劣化などの侵食作用を被って、磨耗していってしまう運命なのではないか。それでも制作を一区切りつける上で一般的にはそれは完成物だとみなされるわけだが、完成していても放棄されずに絶えず修繕が施されるわけで、修繕の度にその形や仕様が微妙な変更を伴い、完成物として不動の姿を見せることはなく、材質や形態によって程度の差こそあるものの、それが自然から形成されるものであっても人為的に構成されるものであっても、事物は絶えず変化し続け、決してその変化が停止することなく、そこに及ぼされる作用によって動的に変動し続けるわけで、その運動を人の意志が思い通りに止めたり動かしたりすることができるように思われているうちは、実際にそれを制御しようと試みるわけだが、たぶん人為的に制御できる部分は限られていて、人自身が自らが制御しようとする装置に部品として組み込まれているわけだから、部品として動作する部分以外は制御できるはずもなく、自然現象とも地続きで結びついているそのような装置全体から見れば、人が把握して管理できる範囲はそのごく一部分に過ぎないのだろうが、だからと言って管理を放棄するわけにはいかないだろうし、絶えず管理に失敗して破綻し続けているとしても、どこで失敗したのかを把握するためにも分析し続ける必要があり、そうやって絶えず分析を試みることが管理の本質なのかもしれないが、いくら分析してみても、今のところは全体としてその装置がいったい何を目的としてどのように動作しているかを把握するには至っていないのではないか。果たして装置とは何なのか。


7月7日「平和に関して」

 別に結果を予測できなくても人はそこで何かやっていることは確かで、何の結果も得られなくてもそれをやめるわけにはいかない場合もあるだろうし、やめたくてもやめられない事情に付きまとわれている場合までありそうだが、人が世の中で何と関わりを持つかは、そこで何に影響を受けるかにもよりそうで、興味を持ったことをやる機会に恵まれるか否かも、偶然の巡り合わせには違いないだろうが、そこに自らの意志が介在していると思いたければ、そう思っている限りで自らのやっていることに対して自主性や積極性を実感できるだろうし、主導権を握りながらやっていると思えばそれなりに満足感を得られ、そんなふうにしてそこで行なっていることとの関連で、自らの存在を意識できるのかもしれず、自我や自己の存在は自らの主体性とともにあり、主体的に何かをやっている自らを意識している限りで、自己や自我があるように思われるのではないか。逆にそうでなければ自己も自我も不要なのかもしれず、自分が自分であることをそれほど意識しなくても生きていければ、別に自己主張する必要はなく、自らの存在を際立たせようとする気がなければ、自主性や積極性を感じられなくても済んでしまいそうだし、人の群れの中に埋没していても構わず、そこでそれなりに自制心をわきまえていれば、集団の中で目立つこともないだろうし、他人より優れていなくても生きていけるような環境が整備されていれば、いたずらに競争に加わる必要も感じられないだろうが、ある面ではそうであっても、社会の中で様々に結ばれる人や物に関する関係の中で、他人とは違うレベルや方面で自己満足に浸ることもできるのかもしれず、そこで自分独自の価値観を設定して、その中で自足できればいいわけで、要するに趣味の世界に浸れる余裕がありさえすれば、それほど不満は感じないのかもしれないし、社会的な名声などに関してもある程度は諦めもつくようなら、できる範囲内で自分の世界に閉じこもろうとする傾向が生じて、そこに閉じこもっている限りは、周囲の人々にとっては人畜無害な存在に感じられ、放っておいてもらえる立場を獲得するに至るのではないか。そんな立場にしてもすべての人に与えられるわけでもないだろうが、そんな境遇の人が増えるほど、世の中が平和になるのかもしれない。

 たぶんそれが偽りの平和でなければ、一方でそうではない生き方が世の中の主流を占めていて、主流を占めていると言ってもその中でもある程度は多様性が維持されていなければ、経済的にも権力的にも人々の間で著しい偏りや不均衡が生じてしまうのだろうが、人はその中でも競い合いに直面して、自己顕示欲に導かれながらも争いの激化を避けるために適当なところで妥協を強いられて、不満を残しつつもある程度は満足感を得ることとなり、そうやってかろうじて社会の中である種の均衡が保たれていれば、その中で人々はそれなりに平和を実感できるだろうが、誰もが平和を実感できるわけではないのはもちろんのこと、平和を維持している地域であっても、経済活動や政治活動の中では争い自体が活動を成り立たせているわけだから、そこで争わなければ活動していることにはならないわけで、争いの中で生まれる対立が差異をもたらし、そこに差異が生じるからその差異を利用して利益を得ようとするわけで、差異というのは時間的な差異であり地域的な差異でもあって、利益を得ようとして商品を売ろうとする場所や時間が、他の場所や時間で売るよりも価格が高ければ相対的に利益が生じて、逆に価格が安ければ相対的に損失が生じるのだろうし、もちろんそこで売ろうとする商品が常に同じとは限らず、ある時はより付加価値の高い商品となったり、またある時はよりコストの安い商品となったり、その量も質も様々に異なる商品が様々な機会を捉えて売られていて、経済的には何をどうやって売るかを巡って争いが起こっていて、またどうやって買わせるかを巡っても争われているのだろうが、それとは別の政治的な次元では、いかに自分たちの勢力に都合のいい制度にするかを巡って争われているのだろうし、またその制度をいかにして世の中に定着させるかを巡っても争われていて、その勢力の中には自分たちがやっていることを支持してくれる一般大衆も含まれていて、そんな支持を巡って選挙や世論調査のレベルでも争いが起こっているわけだが、それ以前に法整備された制度を基にして体制が構成されていて、そこに何らかの官僚機構を含んだ政治体制が確立されているわけで、もちろん体制内でも体制外でも争いが続いているわけだが、何らかの支配体制が存在している時点で、支配を巡っては争いに決着がついているとも言えるのかもしれず、その支配体制が磐石でない地域においては軍事的な内戦状態にあるわけで、すでにそれが選挙や世論調査のレベルでの争いであれば、その地域は平和な状態が保たれているとも言えるのではないか。


7月6日「二律背反」

 人が必要としない物はその存在が気づかれず、気づかれても活用しようとは思われないから、大抵は放って置かれることが多そうだが、今は不要でもかつては必要であった物は、それが必要だった頃の記録が何らかの形で残されていたら、そこからそれが活用されていた頃の時代背景や社会情勢が明らかになるかもしれず、またかつて活用されていた物が今はもう活用されなくなった理由を探ることからも、そうなった歴史的な経緯や事情が明らかとなって、そこから時代の変遷に伴って変わりゆく物と人との関係が説明できるかもしれないが、そんなふうにして過去の歴史に関してわかることが、今の時代にどう関わってくるのかといえば、今の時代において必要不可欠に思われる物が、過去の時代においてはそうでもなかったことと、逆に過去の時代において必要不可欠だった物が、今の時代においてはそうでもないことが、過去の時代と今の時代とでは、必要な物と不要な物が異なっていて、そこから推測すると、今の時代において必要不可欠な物が、未来においてはそうでもなくなるかもしれないことが想像できるだろうし、そうなると特定の物に関して今の時代において守るべき規範やこだわりが、何らかの利益をもたらしている状況があるならば、それが永遠に続くとは限らず、もしかしたらそんな関係は遠からず廃れてしまう可能性があるかもしれないし、また廃れずに延々と続いていく可能性もあるわけだが、社会の中で様々な物事が廃れたり存続したりする過去から現在までの歴史的な経緯や事情を知ることで、今の時代に守ろうとしている規範やこだわりに対する見方や捉え方が変わってくるかもしれず、そのような歴史認識が今の時代における相対的な物のあり方を感じさせ、物事の取り扱いに関して頑なに規範を守ろうとするこだわりが薄れてくれば、人と物との関係の可動性や組み換え可能性もそれだけ増すことにもなるかもしれないが、そうであるにしてもすべての物が一様の価値で存在しているわけではなく、その関係の在り方や性質や他の物との結びつきの強度などが、様々な偏差を伴いながら存在していることも確かなのかもしれない。

 人と物との関わりが人と人との関わりを生み出したり、あるいはその関係を解消したりする場合もあるだろうが、物を介して人と人とが関わりあうということは、その関係にとっては人と人とを結びつける物の存在が必要不可欠であることを示していて、そんな物なしでは関係し合えない人間関係というのが、いわゆる経済関係になるのだろうが、物ではなく言葉を通しての関係というのも、言葉を伝達する媒体として物を必要とする場合があるだろうし、器官としての肉体も物であることには変わりなく、言葉を発する器官としての肉体も、人と人とを関係させる重要な物であり、そこから物と物との関係が肉体と肉体との関係になる場合まであるわけだから、人と物とを区別することは厳密にはできず、物の延長上に人が存在していて、物を扱うように人を扱うようなことがあれば、それは非人道的な行為として非難されることもあるわけで、その辺の区別をどうつければいいかに関して、精神という概念を介在させたがる傾向があるだろうし、個人を自意識や意志や固有の人格を持つ特別な存在として尊重しなければならない、というのが人間主義であり、そこから人権の概念も生まれてくるのだろうが、人権も歴史的に生まれてきた経緯があり、物一般から切り離して肉体を区別しなければならない必要が、歴史上のある時期において生じてきたわけで、それが経済の分野では肉体が労働力を生み出す源泉だという認識が出現した時期でもあるのだろうが、そんな必要が生じた背景には、肉体という物を使って効率的に利益をもたらすシステムとして工場の発明や、人と物を組織的に動作させる株式会社の興隆などが挙げられるのかもしれず、そしてそんな人の物化と同時に出現したのが、精神を尊重する人間主義なのであり、一方では人を物のように扱う非人道的なやり方が発達して、もう一方では人は物ではなく人権を尊重される存在として扱われるべきという主義主張が生まれたわけで、そうやって相対立し矛盾し合う価値観が並存していなければならない必要というのが、それらの概念や思想が生まれた以降の社会の成立条件であるとすれば、どちらも現代においては必要不可欠な人と物との関係だと言えるだろうか。要するに人は物であって物であってはならないという二律背反が成り立っているわけか。


7月5日「現状に逆らうには」

 単純な理屈を用いて説明すればもっともらしく思えることも、実際にそうなっているかといえば、どうも現実の世界では理屈だけでは説明できないようなことも起こっていて、実際の状況と説明との間にずれや食い違いが生じている可能性がありそうだが、世の中が理屈だけで動いているわけではないとしても、では理屈で動いていない面についてはどう説明すればいいかというと、理屈で説明できる部分だけ説明して、説明できない部分に関しては無視すれば説明自体が不完全となってしまいそうだが、それを説明することと説明している対象となる現象や事物とは異なる性質や動作を示しているのは確かで、説明される対象が何らかの現象である場合は、説明を聞いて理解した気になることと、その現象の中に実際に身を置いてそれを直接体験するのとでは、全く違う体験となるのはいうまでもないことで、そういう意味で説明は気休めのレベルで理解しておけば済んでしまうようなことでもあり、説明だけで全てがわかった気にはなれないだろうし、ならば説明だけでは何の役にも立たないのかというと、少なくとも知らないよりは知っていた方がましな場合があるだろうし、それが興味を引くことならば、知識として是が非でも知っておきたいことになるかも知れず、そういう意味で説明が必要とされる場合があるわけで、しかもその説明を実践の場で役立てたいとなると、実際に役立つような内容が求められるだろうし、そうなると対処法のような方法を加味した理論となってくるかも知れないが、実際に何の役に立っているかとなると、例えば講演会で人を集めるのに役立ったり、本が売れて印税を得るのに役立ったり、それをメディアで取り上げられて話題となれば、他の様々な面で役立つことになるのかも知れないが、そういう現象と説明の対象となっている現象とは違う現象であることはいうまでもなく、そのような講演会や書物で語られている単純でわかりやすい理屈を用いた説明が何の役に立っているのかといえば、大雑把に言えば人々の関心を集めるのに役立っているわけだが、ではそれが説明の対象となっている現象への理解を深めることになるのかといえば、必ずしもそれに関しては役立っているとはいえない面があるのかも知れず、そうだとするとやはり単純化した理解で済ませることは、もっともらしい説明を聞いてわかったような気になるに過ぎず、それで済んでしまえば状況は何も変わりようがないのかも知れない。

 現状が政治的にも経済的にも行き詰っているとは思えなければ、現状のままでも構わないのだろうが、そう思うか否かは別にしても、わかりやすく単純化された説明で済んでしまう現状があるのだとしたら、そういう説明が世間の注目を集めている限りは、世の中がそれほど危機的な状況だとは思えないだろうし、簡単な理解で済んでいる人たちにとっては、少なくともそういうレベルでは悩んでいないわけで、深刻な面持ちで悩むような事態に直面しているわけではなく、何の抵抗感も違和感もなくその手の知識を吸収できるわけだから、そこに引っかかりを覚えないし疑問も抱いていないだろうし、そうであるなら吸収した知識が世の中を変える原動力とはなり難く、たぶん世間で話題となっていることを好意的に受け止めているだけで、まさかそこから社会変革を起こすような成り行きにはならないだろうし、メディアで話題の人物が講演会や書物などで、現状をわかりやすく説明してくれるので助かる程度の認識にはなれるわけだが、そこから先にどのような行動が生まれてくるのかは、わかりやすい説明で済んでいるうちはそれで満足してしまうだろうし、それ以上の何が求められているわけでもないのではないか。そういう説明に欠けているのは、わかりにくい面だろうし理解できない面でもあるわけだが、だからと言って善意で理解しようとする人たちが、抵抗感や違和感を覚えるような内容が、そこで求められているわけではなく、要するにその手の人々が求めないような説明の内容が、そういう説明には欠けているのであり、しかも欠けていて当然であり、人々が求めたがらないような説明が求められているわけではなく、あえてそんなことを説明する必要もないどころか、それは説明できないことなのかもしれず、話の辻褄が合わなかったり、理屈に合わないような不条理なことを、どう説明すればいいのかわからなければ、そもそも説明しようがないのだろうが、そういう面で人々を途方に暮れさせ困らせるような内容をもたらせれば、そんな説明をもたらしている現状をどうにかしなければならないと思うしかなくなるかもしれず、そんな説明が世間で求められているわけではないだろうが、あえて人々や社会が求めていないものを提示できれば、それが現状維持とは違う作用を生じさせるきっかけとなるのかもしれない。


7月4日「勘が告げていること」

 どのような状況であっても意識して行動できるかというと、必ずしもそういうわけではなく、たぶん行動に目的を担わせようとするときだけ意志を発動させ、それ以外では意識せずに自動的に動いているだけかもしれないし、そこで生じている何らかの成り行きに沿って行動していて、そこから身を引き剥がすのに意志の力を必要とするわけで、例えばその場の感情に流されずに計画的に行動しようするときに、意志の力が発現することになるのではないか。そしてなぜ事前の計画に沿って行動しようとするのかと言えば、その方が合理的に思われるからだろうし、そうやって自らの行動につじつまを合わせて活動の整合性を保とうとしているのかもしれず、そこに理性が働いているように見せかけたいから、合理的な行動を促されるわけで、見せかけたいだけでなく、実際に何らかの効果を狙っている場合があるだろうし、その効果によって利益を得られたり、あるいは世間の一般常識から逸脱してしまうのを免れたりして、それを自分にとっても周囲の人々にとっても、理解可能な行動の範囲内に収めようとして、そんな理由から理性を働かせようとするわけで、それに失敗しておかしな行動や言動がその場で発現してしまうと、何か自分で自分を制御できていないような印象を周囲に与え、例えば意志の力が弱く激しやすい性格だと思われたり、あるいは周囲の人間が全く理解不能な行動や言動が頻発するようであれば、単に精神に異常をきたしていると思われたりもするだろうが、そういう意味で社会の中で生活していると、自然と世間の一般常識の範囲内で活動するように仕向けられるのだろうし、そのように活動している限りは、周囲の人間も安心してその人に接していられるだろうし、自分たちと共通の規範を守っているように思われるから、互いの同胞意識も芽生えてくるのではないか。その反対に周囲と何かが違っていることは、警戒心を抱かせるだろうし、それが人種や民族や宗教や性的嗜好などの面で、明らかな違いが認められるようなら、場合によっては周囲から差別や迫害を受けることにもなるだろうが、それに対して理性を働かせようとする意志が生じるだろうし、たとえ規範の相違に起因する生活習慣や嗜好の違いが顕著に現れていても、仕事や趣味や政治的な主義主張などの面で共通の利害関係を共有できれば、そこから協力関係を築ける可能性が出てくるだろうし、それらを通してお互いの違いを尊重し合った方がうまくいく成り行きになれば、そうする方が合理的だと考えられ、感情的には受け入れ難い違いを合理的に許容しようとする作用が生じて、そのような作用が社会の中で普及すれば、そこで社会変革が起こったように思われるだろうが、現状を考えればすべての違いを合理的に許容できる状況にはないだろうし、そういう成り行きにもなっていないのではないか。

 そうした方が合理的だと思われることの全てが正しいわけでもないだろうし、合理的なやり方が一つであるはずもなく、社会には様々な合理性が混在していて、それらが互いに矛盾し合い対立するような状況というも想像できるかもしれないし、実際にそこで何かを巡って争われているような状況があれば、争っている双方に争いをもたらすような合理的な理由が生じているのかもしれず、それを第三者的な立場から判断してどちらが正しくてどちらが間違っているとは言えない場合もあるだろうし、そう判断しなければならない合理的な理由があれば、争っている双方の行動や言動の正しさを合理性からでは判断できなくなってしまいそうで、逆にそこで争うことの合理的な正しさが証明されてしまう場合もあるだろうし、都合のいい時だけそうすることの合理的な理由を持ち出してきても、そこに揉め事が起こっている場合は、合理的な解決方法を求めても決して良い方向へは行かないのかもしれず、むしろ非合理的な勘に頼って判断した方がうまくいく場合もありそうだが、時として勘は意志の力を超えて発動する場合があり、合理的な判断からは明らかに間違っているようでも、勘がその間違ったことをやれと告げているようなら、なぜかそれをやってしまい、結果的にそれがうまくいけば、たぶんそこに働いている何らかの作用を合理的な思考が見逃していて、意識外の勘がそれを感じ取ったから、そこで意識を超えた行為が発動したと考えられるのかもしれず、そういう意味で一見そうする方が合理的に思われるような場合でも、何かそこに引っかかりを感じるようなら、考え直してみた方が無難な場合もあるだろうし、考え直す余裕がなければ勘でやってしまうこともあるだろうし、たとえそれが勘違いで取り返しのつかない過ちを犯してしまったとしても、そこで過ちを犯すことが必然的な成り行きのように思われる場合さえあり、そこでは確かに間違っているとしても、あえて過ちを犯して遠回りしてみないと、その先へは進めない場合もあるのかもしれず、正しいと思うようなことばかりやっていないで、躓いて転んで痛い目に遭わないとわからないことがありそうで、そうでなくともその場の状況を意識が完全に把握できるわけもないのだから、何をやるにしても試行錯誤はつきもので、どのようなやり方が合理的に思われようと、それでうまくいく保証はないのかもしれず、うまくいったところでたかが知れていて、結果的にうまくいけばそれで満足しなければならないだろうし、満足したらそれでおしまいということになれば、もうそれ以上はあり得なくなってしまうし、逆にうまく行かなければさらに試行錯誤が続くことになるだろうが、試行錯誤を続けていくうちに、当初には思いもよらなかったようなことがわかるかも知れないし、そうやって意識は絶えず思いがけない体験を求めていて、意識の外へと思考する対象を探しに行こうとしているのではないか。


7月3日「見せかけの政治力」

 それに関して誰も疑問を抱かないわけはないだろうし、そうでなくともその疑わしい結果に関して、もっともらしくも都合のいい解釈がまかり通ってしまうのが不可解に思われるかもしれないが、だからと言ってそれとは別の作用を想像してしまうと、それもまた都合のいい解釈を許してしまうかもしれず、そんなふうに考えさせられるような成り行きも疑わしくも思われるのだろうが、ではいったい何をどう考えなければならないのかというと、そんな結果がとりわけ興味を引くように仕向けられていることは確かで、それに対するもっともらしい解釈も、いくらでもメディアを経由して伝わってくることも確かかもしれないが、そんな結果自体が大方の予想通りであるならば、それ対しても大方の予想通りの反応が返ってくるわけだろうから、それが多少は予想を超えた結果をもたらしているにしろ、それとこの先の情勢がどう結びつこうと、うまくいくという楽観的な見通しは立たないだろうし、たぶんそうはならないからそんな結果がもたらされたわけで、うまくいくのにも様々な水準があって、政治的な水準でうまくいくということが、必ずしも世論の水準でうまくいくことにはならないだろうし、その逆もあり得るのかもしれないが、両方ともにうまくいっているように見せかけたいという思惑が介在していて、それが誰の思惑であっても構わず、現状を現状たらしめている理由が、そんな見せかけの水準でうまくいっているか否かが問われていることにあれば、これも誰が問うていても問われていても構わないのだろうが、さらに加えて現状に関して合理的に思われる部分と不合理に思われる部分とが、同じ制度から生じている場合もあるだろうし、そうなると制度を改善するだけでは矛盾をなくすことなどできず、逆に矛盾があるからこそ制度が制度として成り立っている事情もありそうで、そこで何かもっともらしい問題を設定して、それに取り組んでいる姿勢を見せることは可能だが、政治の役割としては問題を解決するのではなく、問題に取り組む姿勢をメディアを通じて見せることで満足しなければならないのかもしれず、あまり深入りしてしまうと解決しようがないことが明らかとなってしまい、かえって政治的な不信感を買って、民衆の支持を失う恐れがあるだろうから、為政者はその辺の微妙なさじ加減に長けていなければならず、そういう意味ではあまりにも実直にやろうとすると墓穴を掘ってしまうわけで、民衆の方でもその辺のところは薄々勘づいているのかもしれず、そういう意味でうまくメディアに乗せられた振りを装いつつも、メディアの期待通りの結果を民衆の世論が導いている実態があるのかもしれない。

 要するに世論の方がメディアの論調に合わせようとしているわけで、確かに世論を自分たちが有利になるように操ろうとする思惑はあるのかもしれないが、そんな思惑にも世論の方が配慮しているのかもしれず、もちろんどこの誰がそんな配慮を利かせていても構わないわけで、現状で主導権を握っている政治勢力に期待する人も中にはいるだろうが、切実にどうにかしてほしいと思っている人は少なそうで、状況を深刻に受け止めている人も同様に少ないのかもしれず、政治に何か期待するのがたわいないことであるはずがないという認識は共有しているものの、そこで演じているに過ぎないことと、実質的な成果を求められていることとの間の関係が、どちらの方向から歩み寄ってきても交わらないような具合になっていて、実質的な成果とは何なのかを突き詰めて考えてみれば、何かやっているように見せかけられたら、それが実質的な成果であるようにも思われ、政治的にそこで何かが行われていることは確かなのだが、その成果が実感を伴わず、誰が実感を求めているわけでもないだろうが、何を実感すればいいのかもわからないような状況にあるのかもしれず、それでも何か批判したいのなら、政治家の不祥事や不適切な言動を批判していればいいことでしかなく、それ以外だと議会の多数派と政府がやろうとしていることが、国民にとってはとてつもなく危険なことで、場合によっては国家存亡の危機をもたらすようなことだと危機感を煽られると、何か大げさに思われてしまうわけで、果たしてそんな力が政治にあるのか疑わしく感じられるわけだが、確かに場合によってはそうなる可能性もあるのだろうが、そうなるには他の様々な要因も絡んでこないとならないわけで、現状が見せかけの演技が大半を占めているように思われるのだから、それが本当にそうなのかは各人それぞれで感じ方も異なるし、一概にそうだとは言えない面もあるだろうが、少なくともそんな実感を伴うような状況だと思っている限りで、何かそこに深刻さの欠如を見てしまうわけで、もはや政治に何を求めても無意味だとは思わないが、現状で政治的な行為が成り立っている範囲内では、見せかけの演技以上の成果を求める必要を感じられず、社会に散在する不具合や不都合を解決すべく、様々な方面から陳情され問題化された課題に真摯に取り組んでいる姿勢を見せていれば、とりあえず何かやっていることになるのだろうし、それ以上に何があるのかと言えば、問題の解決に向けて何らかの提案がなされ、それが法整備や実践的な行為を伴って実施され、結果的に何らかの成果が上がれば、それが政治的な実績にもなるのだろうが、そういうことがどう世論に反映されるにしても、それが世論調査や選挙結果にどの程度結びつくかは、やはりよくわからないところなのではないか。結果を気にせずやるべきと思われることをやればいいだけかもしれないが、何をやるべきかもやったことがどう評価されるかも、その場情勢に左右されるだろうか。


7月2日「語りの匿名性」

 たぶんそれがどのような程度であるにしても、意識して現状を変えようとして実際に変えるのは難しいことだが、容易に変えられるようなことなら変わらないこともないだろうし、実際に何らかの現状を変えようとして変えている現実もあるわけで、誰もができる範囲で現状を変えようとして、結果として思い通りに変えられるわけでもないにしても、何かしら変わっている状況もあるだろうし、そうであるなら何かをやることは絶えず現状の変化に結びついているのかもしれないが、その一方で変えようとしても一向に変わらない現状というのもあるだろうし、そんな現状の変わらない面というのが、変えてはならない面であるわけでもないのだろうが、実際に変わらない現状の中で何かを行なっているとすれば、そこで結果的には同じようなことが繰り返されているから変わらないのかもしれないし、逆にひたすら同じようなことを繰り返すことができれば、それを繰り返している限りは現状が変わっていないとも考えられるが、それでも何かのきっかけでいつもとは違うことをやれたならば、すでにその時点で現状が変化していることになり、それが思い通りとはいかないまでも、いつもとは違うことをできれば、それだけで現状を変えたことになるだろうか。それが変えたのか結果的に変わってしまったのかは、その時の成り行きにもよるだろうが、どちらにしろ現状を変えるには、いつもとは違うことをやればよく、実際に違うことができれば現状が変わったことになるのかもしれず、逆にやろうとしてできなければ、現状を変えることができなかったことになるのではないか。安易に言えばその通りかもしれないが、それでは大方の人は納得しないだろうし、何か現状を変えるというのは、変えたいと欲している現状を変えたいわけで、意識して目的や目標に従って現状を変えようと試みることであり、そこに個人や集団の変えようとする意志が介在した上で、それらの思うような変化を引き起こそうとするわけで、思っているのとは違う変化が起こることは望んでいないだろうし、そうあってはならないような変化が引き起こされるとすれば、逆にそういう変化は阻止されなければならず、そういう面で一概に現状の変化を望んでいるとしても、それは望んでいるような変化を引き起こすために努力した結果としての変化にしたいのだろうし、そうなると変化の過程も範囲もそれだけに限定されてきて、そうやって目標や目的が定まってくれば、変化の方向性や度合いを恣意的に固定するような思惑も生じてきて、望み通りの変化を引き起こすのはより一層の困難が伴うだろうか。

 ただ具体的に何をどう変化させたいのかが不明のまま、一般論として変化について語ろうとすると、そんなふうに語ることができるだけで、語るのと実際に何らかの変化を起こそうとするのとはまったく違う動作になるだろうし、何にしても語るだけではただ語っているだけにすぎず、実践としての行為の方が重要に思われるだろうし、実際にやってみないことには何もわからず、実践として何をどう変えたいのかによっても、そのやり方も困難の度合いも違ってくるのだろうが、一応はそれを語ることによっても、語っている水準に限ればそれ相応の変化を起こすだろうし、語ることは全くの無駄ではなく、語ることから行為として目的や目標が生じるなら、それについて語ることにも何らかの効果があるだろうし、それを目指して語っていることにもなるわけだが、中にははっきりした目的を見出せない語りというのもあるだろうし、例えば一見何も語っていないように思われる語りは、ただ語るためだけに語っているのかもしれず、そうなると語る目的がその目的自身に折りたたまれて、語ること自体を目指して語っているに過ぎなくなってしまうわけだが、そうであるにしても意識の中では語ることの意義や意味が見出さなければならないのかもしれず、そうでないと語りそのものが現状とは無縁の空疎な内容になってしまい、それに関していったい何のために語っているのかを明らかにする必要がなければ、そこに具体的な語る目標や目的が生じてこないのかもしれないが、それを明らかにできないまま漠然と語ろうとしてしまうと、焦点が定まらずに語っている内容から意識がずれてきて、語っているうちに何について語りたいのかわからなくなったり、語れば語るほど語りたいと思っていた内容から遠ざかっていってしまい、そういう成り行きに従うべきか否かも、その場の判断として何か重要に思われるようなら、そんな成り行きになってしまう事情についても考える必要も出てきそうで、そうなると想定外の事態がもたらされて、そこからあらぬ方向へ思考の迂回路が分岐していって、語ることが一つの目的では収まりがつかずに、語る理由をうまく説明できなくなってくるのかもしれず、そんな分散作用によって語っている内容と語る目的とが一致しなくなってくると、当初に抱いていた目的が語りから除外されても構わないような成り行きにもなりかねず、その結果として語り自体もその内容も語っているつもりの意識とは別に独立した思考対象ともなってくるわけで、そうやって語りが語り手の意識から分離して、語りの匿名性が生じてくるのかもしれず、実際に語ることによって実践的な行為を促すような効果が期待されるのは、特定の誰かが語っているような内容ではなく、誰かが語っていることであり、誰もが語り得るような内容なのではないか。


7月1日「公共の利益」

 信用は人や集団のやっていることが社会的に認められることから生じる。そうした社会的な信用が得られる過程で、人や集団が過去の意匠を借り受けるやり方というのが、よくありがちな手法と確立されているのかもしれず、誰もがそれとなくわかるような伝統的なスタイルを纏うことで、保守的な安心感を得ようとするわけで、そうやって伝統的な権威に配慮しつつも、時事的な流行現象の中で利益を追求するやり方というのが、いわゆる新自由主義的な手法だったのかもしれないが、その中身はもはや受け入れられた当初におけるような好意的な反応を伴っていないだろうし、理論的にもその有効性が証明されているわけでもないし、実際に行政の無駄を省くような構造改革を標榜しながらも、旧来の官僚主体のやり方から抜け出せていないわけで、既得権益を守ろうとする官僚主義的な縄張り意識から脱却できずに、財政面での肥大化に歯止めがかからないままに、目下のところは掛け声倒れの形骸化が進行中なのかもしれないが、構造改革自体はまだ看板を下ろすわけにはいかないのだろうし、例えば水道事業の民営化などが取りざたされているわけだが、仮に水道事業が民営化されたとしても、財政赤字が減るような成り行きとなるわけでもないだろうし、結局民営化された事業への監督官庁からの天下り先が確保されることにでもなれば、民間業者による公共事業への食い込みと官僚の天下り先の確保を目的として、従来通りの官民癒着的な構造が保たれ、それによって官僚主義的な非効率が解消されるどころか、かえって既得権益の強化が図られて、無駄な公共投資への税金の無駄遣いと、監督官庁による民間企業への指導に名を借りた管理傾向が強まるだけで、そうなると新自由主義というのも、国家主義という過去の意匠を現代風に模様替えしただけとなってしまいそうで、それによって何が改まるわけでもなく、既得権益に与する政財官の各勢力が、自分たちの利権を確保する目的で、何やら偽りの改革勢力を装っていることにもなりそうで、果たしてそんなやり方が今後ともまかり通ることになるかどうかはわからないが、どうもそれによって国家が危機的な状況になるというよりは、そういう傾向は昔からあったわけで、それが国家の本質的な傾向だと言えなくもなく、それに対して政治的にどのような新機軸を打ち出せるかが問われているとしても、新機軸というのが改革を装った過去の意匠の踏襲以外に何があるのだろうか。

 現状の延長上では機能的にもシステム的にもそうなるより他はあり得ないのかもしれず、そういう水準で考えても他には何も出てきそうにないだろうが、それとは別の方面から考えればまだ何か現状が改まる可能性を想像できるだろうか。例えば規制緩和というのも、それによって利する勢力が政府と結託してやろうとしているわけで、公的な事業の民営化も各種の規制緩和も、それを行うことによって利益を得られそうな勢力が推し進めようとして、一方でそれによって不利益を被ると予想される勢力は、当然のことながら抵抗勢力となって反対するわけで、事を単純化すればそれだけのことなのだろうが、直接の利害とは別に効率性や安全性などといった判断基準を設けても、最終的にはそれを行うことによって利益を得る勢力と不利益を被る勢力との対立が解消されるわけではないだろうし、そこで行うかやめるかの政治判断が迫られるわけだが、それが建前論的に国民のためになる政策なのかどうかというよりは、国民の中で利益を得る人がどれほどいて、不利益を被る人がどれほどいるかについて、何か説得力のある説明ができるのかとなると、実際にやってみないことにはよくわらないことの方が多いだろうし、反対派はやってからでは遅すぎで、いったんやってしまえば取り返しがつかなくなると主張するだろうし、そうだとしても後戻りができないことが実際に行われている最中なのだろうし、行われた後から様々な弊害が指摘されるのだろうが、実態としては何かをやってしまった後から、弊害が指摘されることに関しては改善案を検討して、それが後から付け足されていくわけで、そんな試行錯誤が今後も繰り返されるしかないわけだが、結局そんな中でも何が信用できるのかと言えば、一部の支援者の利益を確保しようとするよりは、公正で公平なことをやろうとする勢力の方が信用できるだろうし、そういうことの延長上で言えば、自国の利益よりは世界の利益を尊重する勢力の方が信用できるという理屈も成り立つのかもしれないが、そこまでいくと疑問を感じる人が大勢出てくるだろうし、そこにも国家という枠組みの限界が出てくるわけで、自国の利益と世界の利益が一致しないということ自体が、国家の矛盾そのものかもしれないが、それ以前に自分の利益と国家の利益が一致しないかもしれないし、自分と国家と世界の利益も一致しないかもしれないのだが、自分が不利益を被ろうとも公共の利益を優先させるのが政治であるならば、その公共の利益というのが何なのかをうまく説明できない限りは、政治を信用するわけにもいかないのではないか。


6月30日「社会の自由度」

 生産とは資源を消費して物や情報を作ることであり、その資源の中には人的資源も当然含まれるだろうし、人が労働して何かを作るということは、その労働力を消費することによって、生産物としての物や情報が生産されると捉えれば良さそうだが、ではそうやって生産された物や情報を消費するとはどのようなことなのだろうか。その一部はさらなる物や情報を生産するための資源として消費されるだろうし、生産物は新たな生産物を生産するために必要な資源として消費されるわけで、そこに消費という行為が実態としてあれば、消費した後には必ず何かが生産されることになるだろうか。そんなことが繰り返された挙句に、最終的にはゴミが生産されるわけだろうが、ゴミも何らかの資源として生産に再利用されれば、生産と消費は循環しているとも言えるだろうし、生産過程において資源の消費と同時進行で生産が行われていて、生産と消費とは分割できない表裏一体の運動であり現象だろうか。逆に言えば何らかの運動や現象が起こっているならば、そこでは常に何らかの生産と消費が同時進行的に起こっていると言えるだろうか。そうだとすれば人為的に何らかの運動や現象を起こしている実態があるとすると、人は絶えずそこで何らかの生産と消費を制御することにもなり、そうせざるを得ない必要が絶えず生じていることにもなりそうで、なぜそうする必要があるのかと言えば、そこで行なっている生産と消費を役立てたいからであり、人が生きていく上で必要とされることに、それらの生産と消費を役立てるために、わざわざ人為的な運動や現象を起こしていることになりそうだ。たぶん実態としてはそうであっても、人為的な行為の全てを生産や消費や運動や現象に結びつけて考えても、それ以外の作用を考慮に入れないことになってしまい、説明の単純化や簡略化にしかならないのかもしれず、人はそれだけでは収まらないような活動を行なっているつもりになっていないだろうか。そうであるなら必要だからとか役に立ちそうだからではないような活動とはどのような行為なのだろうか。

 どのような理由をつけようと、最終的にはそうする必要があるからとなってしまうかもしれないが、そこに至るまでの間に、何かそうではないような成り行きや経緯が発生するわけで、そんなことをやっている事情というのが、やっている当人の意志とは無関係であったり、場合によっては意志に逆らうような成り行きとなっていたりして、そうなってくると必ずしも必要でなくても強制的にやらされていたり、あるいは強制ではなくても、なぜかそうなってしまうような成り行きの中で、そうすることが必要だと自覚せずにやっている場合もあるだろうし、そんな理由なき行為というのが、自意識から活動を外れさせるわけで、そこで自らを納得させるために後付け的にもっともらしい理由をつけてしまうと、そんな理由はフィクションでしかなくなってしまい、かえってそういう活動の実態がわからなくなってしまうのかもしれず、何だかわからないがうまく説明できないような活動というのは、無償の行為だとも言えるだろうし、そういう行為に理由などいらないのかもしれないし、それをもっともらしく説明する必要もないのかもしれないのだが、そうなると少なくともそれは労働ではないだろうし、そこで何らかの生産と消費を伴うにしても、それを必ずしも利益に結びつける必要はないわけで、そうしなければならないという強制的な強迫観念に囚われているわけでもなく、そうかと言ってやる必要がないとは言えないようなことでもあり、そんなことをやれる状況の中で生きているとしたら、その人にはよく言えば自由があると言えるかもしれず、悪く言えば必要から見放されているとも言えるかもしれないが、何をやっているにしろやっていることに理由が必要だとすれば、それは周囲の人を納得させるには理由が必要だからであり、何か理由がないと納得してくれないのはもちろんのこと、ただ遊んでいるようにしか見えないだろうし、そう思われるとすれば、必要に駆られて何かをやっている人から見れば、それは許されないことだろうか。それが許容されているようなら、そのような社会は自由度が高いと言えるのかもしれない。


6月29日「物と情報」

 物には情報が張り付いている。食物としてなら摂取することによって栄養を得ることができるし、資源としてなら加工して別の有用な材料となったり、燃料として機械類の動力や電力などを生み出したりもするが、物に張り付いている情報は価値そのものだ。簡単に言えば値段がついている。価格がついていれば貨幣と交換が可能だ。物が商品とみなされていればそうなるが、それが売っていれば買うことができるわけで、売り物でなければ買うことはできないだろうし、それだけ買える物は限定されてしまうだろう。全ての物が商品であるわけではない。そうなると貨幣と交換できる物は限られてくるだろうか。だが物に張り付いている情報はその手の価値だけではない。物には名前がついている。物の性質も言葉で説明されている。それが物に関する情報であり、人と物とが関係することによって付与された情報だ。物には情報が張り付いているというのは、人から物を見たイメージであり、物が社会の中で利用されるその使用法に則った情報ということになりそうだ。もちろんその中には物の売買に起因する情報があるわけで、それが物の値段であり価格なのだが、物と交換する物としての貨幣も、実際に商品と交換する時は物の一種なのだが、クレジットや銀行などからの振り込みとなると、物であるよりは数値的な情報でしかなく、買い手から売り手へと価格を表示する数値情報が加算されるに過ぎず、物としての端末からその操作が行われるにしても、売り手から買い手へと物が受け渡される一方で、買い手から売り手へは情報が伝達されることになり、さらに商品が物ではなく情報であれば、それは単なる双方による情報交換ともなるわけだろうが、売り物が物ではなくサービスということもあり得るわけで、そうなると買い手は売り手からサービスを受けることになるわけだが、一般的に言えば人が行うサービスとは労働の類いとなるだろうか。人ではなく機械が行うサービスというのもあるだろうし、例えば自販機から物を買うと、表面的には物と貨幣との交換となるにしても、部分的には金を払って物を受け取る機械的なサービスを受けたことにもなるだろうし、機械自体の製造やメンテナンスには人が絡んでいるだろうから、その部分に関しては人的な労働をサービスとして提供されたことになるだろうか。

 貨幣には価格という情報が張り付いている。商品としての物と物とを交換するよりは、物の価格を決める貨幣と物とを交換する方が、便利で使い勝手がいいから、物と貨幣を交換するやり方が商売を通して広まったことは確かで、貨幣の利便性というのは何よりも蓄積に適していることだろうし、さらにそこから利便性を追求した結果として、銀行口座などの数値情報への置き換えが普及してきて、将来はその先の進化形態としてビットコインなどの仮想通貨へと移行するかどうかはわからないが、商品が物であり人が物を利用しながら生きている限りは、その生活には物と物との交換や物とサービスとの交換が介在することになるわけで、交換のすべてにわたって情報だけとはならないわけだが、文明や文化自体が人や物の利用に関しての情報の蓄積から成り立っているだろうし、人が機械を利用することでそういう傾向を飛躍的に増大させた結果が、現代文明となって現れているわけだから、そんな情報の蓄積の一部でもある貨幣の蓄積には、その傾向が顕著に表れているだろうし、蓄積が利用を生み利用が蓄積を生んで、蓄積と利用の相乗効果によって経済活動を活発化させ、蓄積と利用の双方を増大させようとする傾向にあるわけで、物としての資源の利用に限界があるとすれば、その限界を突破するために情報の利用に活路を見出そうとして、物の生産と流通と消費だけなく、情報の生産と流通と消費に、人的資源を重点的に割り当てようとする傾向が、情報革命と言われる20世紀末から続いている産業構造の変容が示しているところなのかもしれないが、人に情報を提供したり人から情報を摂取しながら、人を情報によってコントロールしようとするサービスが、経済的な水準ではやはり貨幣の蓄積と利用の増大に貢献しているのかというと、ある面ではそうだとも言えるだろうが、別の面ではそれと同時に負債の蓄積と利用の増大にも貢献しているだろうし、貨幣の蓄積と利用を増大させるにはまずは金を借りなければならないわけで、金を借りれば負債ができるわけだが、そうやって負債を絶えず増大させながらも、借りた金を運用しながら貨幣の蓄積を実現しなければならず、要するに経済活動を活発化させることは、貨幣の蓄積としてのプラスと負債の蓄積としてのマイナスの両方向への拡大を伴うことになるのかもしれず、果たしてその収支がプラスマイナスゼロよりはプラスに振れていることを信じられるかということになりそうだが、どうも実態としては収支がゼロであってもマイナスであっても構わず、その振れ幅が大きければ大きいだけ経済活動が活発化しているように思われてしまうのではないか。


6月28日「批判の有効性」

 批判はその批判が的を射ていて、しかもそれが批判の対象となる相手が困るような点を突いているなら、その点を突かれると不快になるのは当然だろうが、なぜ批判されるに至るのかといえば、批判されるようなことをやったからだろうし、ではなぜそのような行為が批判されるのかといえば、そのような行為によって被害や損害などの不利益を被った人や集団がいるからだろうか。そうだとしてもメディアを通して批判されるような人や集団は、社会の中でそれなりに影響力や権力を持っているだろうから、その味方となるような人や集団もそれなりにいるだろうし、批判によってそのような行為が改められるとは限らず、批判者が批判することによって望むような結果が得られるわけでもないだろうが、実際に批判せざるを得ない成り行きになれば、批判の内容とともに批判の仕方や批判の在り方が問題となってくるのかもしれず、何をどう批判すればいいかに関して、正しいやり方が定まっているわけではないのもちろんのこと、絶えずその場の状況に応じた批判のやり方を模索しなければならないだろうし、それが正しいか間違っているかではなく、批判が成り立つような状況の中で、世の中に何らかの影響や効果を及ぼすような批判が求められているのかもしれず、そうなると予定調和となるような現状の維持にしか貢献しない批判ではまずいのだろうし、批判することによって批判が成り立つような状況を変えなければ、結果的に批判が現状に対して有効に作用したとはいえないのではないか。それとは逆にいつまで経っても同じようなことを批判していられる状況が続いているとしたら、批判が現状を変えようとする面では有効に機能していない証拠となるだろうし、批判によって状況を変えられないのなら、そんな批判はいくらやっても無駄であり、無効でしかないことを示していると言えるだろうか。つまり年がら年中飽きもせず同じ批判を繰り返しているような人や集団がいるとしたら、そういう勢力はそんな批判を可能とする状況に生かされていて、そういう批判こそが批判が成り立つような状況の維持に貢献してしまっていることになるだろうか。

 それでもその批判に正当性があるように思われるなら、別に批判している側が悪いわけではないのだろうが、批判によっては変わらない状況があるとすると、何か批判とは別の方面から状況を変えようとしたり、批判のやり方に工夫を凝らして、現状に対する批判の有効性を高めようとするしかないのかもしれないが、どうもそれに関してはっきりした方策が見つからないのだとすれば、批判の有効性に関しては懐疑的にならざるを得ないし、それでも批判せざるを得ないのなら批判し続けるしかなさそうだが、たぶん批判がうまく機能せずに困っている現状があるのなら、困ったままでいた方がいいのかもしれず、見当はずれなところに責任転嫁せずに、批判しながらも困り果てているべきであり、困っていれば何か妙案が思いつくというわけではないだろうが、とりあえずは困ったままの姿勢を維持しながらも、批判を継続することが肝心なのかもしれないし、いずれそんなどうしようもなさが世の中を変化させるのかもしれない。それは理屈ではなくただの態度であり姿勢なのだろうが、下手に工夫を凝らそうとするとかえって事態をこじらせたり、必要以上に状況を長引かせることになるのかもしれず、そういうその場限りのごまかしはやめて、ありのままの現状を受け入れて、現状の問題点を指摘し続けることで批判的な態度や姿勢を維持できるだろうし、いくら批判しても現状が改まらないことに業を煮やしながらも、そんな境遇の中で困り果てているべきなのであり、そうやって小手先の対策を逃れて迂回し続け、要するに失敗し続けることに成功する道を歩んでいた方が、見苦しい自己正当化を回避できるだろうし、いつまでも批判する立場にとどまれるだろうか。だがその批判する立場というのが、批判している自らを正当化できない立場だとすれば、誰も好き好んでそんな立場を死守しようとはしないだろうし、批判することから利益が得られなければ、商業的にはそんな立場など成り立たなくて当然かもしれないのだが、それが成り立っているように思われるとしたら、それこそがフィクションなのかもしれず、批判者に利益がもたらされるようなシステムが構築されているようなら、もしかしたらそんなのは詐欺かもしれないし、詐欺でなければ批判している当人は、批判とは別のところから利益を得ているのではないのか。それが何らかの創作活動だとしたら少しは納得できるだろうか。


6月27日「存在の自在さとは裏腹の不自由」

 その存在の何が悪いというわけではなく、何も悪くないということもなくはないのかもしれないが、とりあえず人を迷わせているのはそこに目的があるからではない。迷う暇もなく働いているとしたら、それは幸せなことだろうか。それだけの理由では幸せであるか否かの判断はつかないのかもしれず、そんなわけでもないのに惑わされているのは政治的な問題に関してではなく、社会的な問題に関してでもない。迷うということは何も不都合なことだとは限らないのかもしれない。そうなっているのが偶然であろうと必然であろうと、そこに真実があることを確信しているのなら、その真実を利用してこけおどし的な効果を狙っているのではなく、ただそうなっていることを認める必要がありそうで、そんな現実の中で考えているからこそ、迷わずにはいられないわけで、迷っているからこそ、そこから一歩を踏み出すのが容易なことではなく、迷った末に一歩も踏み出さないままにとどまってしまうとしても、そんな現状維持的な判断を責めるわけにはいかないのかもしれない。現状に直面しないままにとどまるとすれば、フィクションの中で思考すればいいのだろうか。現状こそがフィクションだと思えばそうではないかもしれないが、現実の世界の中で構築されるフィクションにはそれ相応の真実が含まれているのであり、それ以外のフィクションなどあり得ないのかもしれないが、真実を伴っているから考えさせられるのであり、そんなフィクションが構築されてしまう現実について考えようとするわけで、考えているだけでそこから一歩たりとも動かない理由はなく、その自覚がなくても現状の中で何かしら活動している実態があるのだろう。だからとりとめのない現実に直面しているように思われるのだろうか。理由をフィクションが醸し出す何かに結びつけようとすればそうなるかもしれないが、直面している現実がとりとめがなかったら、それについて考えあぐねてしまうだろうし、何をどう考えればいいのかわからない状態の中で、思考がひたすらさまよっているだけかもしれず、具体的な思考対象にたどり着けないまま、言葉を無駄に費やすだけかもしれないが、フィクションは現実を補って余りあるほどの魅力を伴っていて、そこに誰かの願望が投影されているのだろうし、人格を伴わないような欲望がむきだしのまま、言葉や映像の塊としてそこに置かれているのだろうか。

 そういう意味でフィクションは欲望の展示物なのだろうか。それだけではないことは確かかもしれないが、現に体験しつつある現実の世界からエネルギーが備給されていて、どのように備給されているのかといえば、何かのついでに間接的に備給されているのだろうし、その明確な役割を担えないままの中途半端な構成が、それ自身とは別の何かを想像させるのであり、何かというのが何でもないとしても構わないような自在さがあって、明確な目的が提示されていないことが、がらくたの類ではないかと思わせるところもありそうで、それ以上の詮索が無駄なようにも思わせるのだが、そんなフィクションの幻影が社会の余剰物となって、暇つぶしの余興である限りの楽しみを与えてくれるのだろうが、それ以上の何を期待しても無益なのかもしれず、その有害性を強調しても的外れにも思われてしまうわけだが、たぶん楽しむという目的すらも外されて、普通に何でもないように思われてしまうところが、フィクションが示す真実なのであり、そんな真実を見ないようにする限りで成り立つ構成物としても幻想を抱けるのであり、それが頽廃として広く世の中に認知されているかもしれないが、実際にそんな構成物が存在しているのだから、それがいくら無意味に思われようとも、何らかの生産物であることには変わりなく、またそれを生産する人々にしてみれば、生産することに生きがいを感じている場合もあるだろうし、そうでなくとも何となくそれに携わることで、やはりそこからエネルギーの備給を受けているのだろうし、たとえそれががらくたにしか見えないとしても、そうであることが当然のことのようにがらくたであることを認めて、がらくたそのものとして受け入れるような余裕が社会に備わっているのではないか。そしてそれを意識しようとする視線がフィクションに向かって逸れてゆく感覚が、それ以外の何物にも囚われない自由をもたらし、それ自身に囚われていることを忘れさせ、それが人々を盲目へと導いているわけではないが、とにかく不自由な現状を見ないようにするためにフィクションを利用しているわけでもないのだが、そこで構成される目的に囚われない自在さが、まったくの嘘であることを忘れてしまっている現実があるだろうし、他の何かを忘れさせるためにフィクションが存在していると思われても、フィクションの方は現実の不自由さにつなぎとめられているのであり、フィクションの過酷さはその存在が何でもないことの過酷さに由来するのかもしれないが、そんな不自由を自由として受け取ることで生じるずれの中に、フィクションが存在する余地があるようにも思われるのだから、それを大袈裟に捉えて過酷な現実を体現しているとは思わない方が無難かもしれない。


6月26日「大衆心理」

 この世界では絶えず何かが生じていて、それが興味深い出来事であれば、それを感知する意識に何らかの心理作用をもたらしているだろうが、そこで時間が経過しているように思われること自体が、自身を取り巻く世界とその世界に含まれる自身が、時間の経過とともに変化しているようにも思われるだろうし、その中で起こっている出来事も自身や世界の変化と連動していると感じられるだろうか。そこからさらに考えれば、時が経つにつれて世界も自身も変化しつつあるから、そこで何らかの変化が生じていることの証しが時間の経過そのものであり、その中で何かが生じていることは変化が生じていることにもなり、要するに世界に存在する全ての物事が何らかの変化を起こしていることになるだろうが、変化する物事に合わせてそれに関わる人も物も動いていることにもなるだろうし、その動きも変化であり、人や物が動いた分だけ意識は変化を感知し経験するわけで、そんな経験から人や物に対する考えや感覚もそれだけ変わることになるだろうか。その変化が規則的に起こっていれば、そこで人や物に関する共通の規則を見出せるのかもしれないし、そうなるとその規則に基づいて、この世界の秘密を解き明かすような一定の理論が導き出されるかもしれないが、物理学的な水準では確かにそんな理論が求められていて、古典力学から相対性理論や量子力学など、事物の運動を説明する理論が色々と導き出されているわけだが、社会的な水準での人や物の動きに関する理論となると、恒常的に成り立つような理論を求めようとしても、決定論的にも確率論的にも部分的な現象は説明できても、一定のレベルで様々な動きや情勢を包括的に説明するまでには至っていないだろうし、それが成り立つことを妨げるようなノイズや偶発的な要素などからの作用が著しい場合が多そうで、何らかの出来事や現象が起こった結果を説明するには、何らかの一つまたは複数の理論から演繹的に説明するよりは、歴史的な経緯をそのまま帰納的に説明する方が、時間経過に伴う変化の成り行きや概要を正確に説明できるだろうか。

 そうであるにしても連続的な時間変化にとらわれてしまうと、突発的な出来事が起こった理由を説明できなくなるだろうし、原因の定かでない出来事や現象を説明する必要も生じないのかもしれず、それが起こった結果としてどうなったかがわかればいいだけで、全ての結果の起源を求める必要はなく、過度に起源を求めようとすれば神話に行き着くしかないわけで、神話になってしまうと虚構が含まれてくるわけで、それが実際に起こった何らかの出来事に触発されているとしても、それを後から物語るのに都合のいいような作り話の部分の割合も大きいだろうし、その物語るのに都合のいい部分というのが、それらの神話を共有する部族や民族に見られる共通の規範や慣習を反映していたりするのだろうが、そういう場合は過去の経験や記憶から抽出された認識の確からしさから、彼らの共通のアイデンティティを作り上げていて、そこに時が経ち時代が移り変わっても、確固とした風習として信じようとする意志が介在しているのだろうし、そのアイデンティティを基に構成される集団的な自我を保ち続けている場合もありそうだが、そうやって変わらない伝統の類いを保持し続けていることを確信したところで、集団的な自我では意識できない部分で変わり続けている面もあるのかもしれず、例えば遠い昔の記憶が意外に新しい時代の創作だったりする場合も多く、そういう場合だと伝統などの起源を遠い昔に求めることで、近い過去に起こった伝統の断絶を覆い隠そうとする意図が介在していたりもするのであり、そうでなくても人は時の経過とともに老いてゆくわけだから、過去の自分と今の自分とでは容姿が違うことぐらいは充分に感じ取れるだろうし、それをはっきりと意識しているにもかかわらず、変わらない自己を誇示したがる性分もあるわけで、実際に過去と現在が違っていることをしみじみと身にしみて実感するような出来事に遭遇すれば、そこから物事に対する真摯で謙虚な認識や態度が生じて、時の経過とともに身の回りの事物が変わってゆくのに合わせて、自らも変わり続けていることを認めざるを得なくなるのかもしれず、そうやって周囲の環境や状況の変化に意識を対応させたいところだろうが、たぶん多くの人が長期間にわたってそれなりに安定した世の中で暮らしている分には、ある程度は似たような共通感覚にとらわれているのだろうし、そういう部分では自分の経験や経験から導き出された認識や感覚が他人にも当てはまるようにも思われるだろうし、そういう共通感覚を想像できるところが、社会の中で同じ規範を共有していると思われている人々のアイデンティティとして、大衆心理のような集団で共有する感覚をもたらすのかもしれない。そしてそんな何となく肯定できるような雰囲気や空気が、選挙結果や世論調査などにも反映されて、とりたてて何をやっているわけでもない政治勢力に対して、それを支持する人々に安心感や居心地の良さをもたらしているのではないか。


6月25日「状況の流動化」

 何か意志を持って自発的に活動する場合は、そこに目的が生じているのが当然のことように思われるが、自らが気づかないところで目的が生じている場合は、その目的によって自らが操られていることになるのかもしれず、もちろん気づかないのだから操られている自覚もなく、当人は何だかわからないが、何かに誘導されるがままに活動している状況を想定できるだろうか。自覚がないのだからそれを目的とは言わないかもしれないが、最終的に自らが気づくにしろ周囲の誰かが気づくにしろ、あるいは誰も気づかないままとなってしまうにしろ、何かの拍子に何でこんなことをやっているのか疑問に感じられるようなことをやっているとすれば、自らが意識できないような目的がその活動に秘められている可能性がありそうで、後から思いもよらぬことが起こって、それが自分にとって何かしら重要に思われるような結果となれば、そんな結果をもたらすことが活動の目的だったと実感できるだろうか。それは意識が後付け的に目的を導き出したとも言えるだろうが、そうであるにしてもやっていることの種類にもよるだろうが、何かをやっている最中には何のためにやっているのかわからない方が、目的にとらわれない自由な気分を味わえるし、それ以前に目指すべき目標がはっきりしない場合には、すでに目的を見失っている場合もあるわけで、はっきりした目的を定められないような境遇に陥っているようだと、無理に目標を定める気にもなれないだろうが、ではそもそも目的とは何から生じるのかと言えば、人や集団が介在する社会的な人間関係から生じると考えれば、それほど間違っているようにも思えないし、何かしら目的を意識している時には、すでに活動を介して他の人や集団と関係していて、それらと共に活動していく中から目的を意識し始めるのだろうし、そうであるなら目的の有無はそれほど主要な問題ではなく、それよりも人や集団が社会の中で様々な関係を構築しながら活動している状況が問題となってくるのだろうし、そんな活動の実態が他の人々にどのような作用を及ぼしているのかも問題となってくるのではないか。

 何かをやらなければならないと使命感に燃えている人がいるとすると、そこにやらなければならないと切実に思わせるような目的があり、それをやらせるような成り行きが生じていて、そのやらなければならないことに関して、競合関係にある他の人や集団の存在も意識されているのかもしれないが、その人を急き立て駆り立てるような目的というのが、そこで人や集団が社会的な関係を通して活動する原動力ともなっているだろうし、そのような活動によって何かが生産されるなら、それを生産することが目的なのだろうが、狭い意味での生産というよりは、今ある状態を何らかの傾向を持った別の状態に導くというのも、人や集団が活動する目的としては普遍性を持ちそうで、変えるべき目標が数値や量などを伴ってはっきりと提示されていれば、その活動の内容も分かりやすくはなるだろうが、当人が自覚できないような目的はそういう類いではないだろうし、数値や量などの達成目標を伴った分かりやすい目的とともに、そんな目標を掲げながらも別のことをやろうとしている場合もあるわけで、たぶんそれをやろうとして実際にやっていることが、どうもはっきりした目的からずれているように思われる時には、意識できない部分で何かを察知しているのかもしれず、結果から見れば当初に掲げた数値目標の類いよりは、そちらの方がメインだったこともあり得るのかもしれないし、そういう意味でひたすら目的意識を強めて初志貫徹しようとすると、意外とつまらない結果に至ってがっかりしてしまうのもありがちな結末なのかもしれず、目標は目標で定められるような状況なら定めておいても構わないだろうが、その場の状況や環境が恒常的に一定であることはまずあり得ないだろうし、何らかの目的に向かって活動していくうちに、身を取り巻く状況や環境がどんどん変わっていくのも充分にあり得ることで、そうであるならその場の状況の変化に合わせて目的も変えてゆかないと、現場の状況とやっていることがかみ合わなくなって、目標を達成するどころではなくなってしまうだろうし、そうなると目標を定めて初志貫徹を目指すこと自体が、失敗の原因ともなってしまうのかもしれず、別にそれでも構わないようなことなら、たとえ失敗しようとあまり深刻にはなれないわけだが、そういう部分も含めて余裕や遊びを伴った活動が望まれるのだろうか。もちろんそれを望んでいるなんて意識できない場合がほとんどなのかもしれない。


6月24日「保険と資本」

 今この世界でどんな危機が生じているとしても、それを直接体験しなければ実感が伴わないだろうが、たとえメディア経由で間接的にであっても、危機を実感できる感性というのが、果たして現代人に備わっているかとなると、現代人であろうとなかろうと、平穏無事な日常のただ中では何を意識することもできないだろうし、危機が間近に迫っているのに気づかなくても、平穏無事に暮らせているうちは何の問題もないわけで、危機を煽るメディアに触発されて必要以上に危機感を募らせるのは、ただの神経過敏症の類いでしかないかもしれないが、そういう意味でそこにどんな危機が生じていようと、実際に何らかの危機に直面していることに気づかなければ、それを危機だと認識することはできないだろうし、さらに言えば実際に危機に直面して痛い目に合わないとなかなか身にしみて実感できないし、実感したところで個人の力でできることは限られているわけだが、それでも危険が迫っているのを事前に察知したり、しかもうまく対処して深刻な事態になるのを未然に防いだりするのには、前もって危険の程度を予測して、そうなった場合に備えて何らかの保険をかけておくことも必要となってくるだろうし、そのような事前に保険をかける慣習が世の中に広まったおかげで、社会がそれなりに安定してきたことは確かだろうし、そのような慣習から発達した公的な保険制度や民間の保険業者を介して保険金を積み立てる仕組みが、莫大な資金の蓄積をもたらして、それが資本主義経済の資金需要を支える一翼を担っていることは言うまでもなく、保険金を積み立てる余裕があると言うことは、そこへ資金を還流できるほどの利潤が生じていることにもなり、その分だけ経済活動が余計に行われていることにもなるだろうか。それを余分な経済活動と判断するのは保険という制度を否定することにもなりかねないが、少なくとも保険金を払うだけの経済的な余裕があれば、ないよりはあったほうが安心できるだろうし、例えば交通事故などで多額の損害賠償が必要とされるような実態もあるわけで、自動車の所有者は自賠責は当然としても任意保険にも入っておきたいところだろうし、そんな事故が多発するような社会状況が保険を必要としているようにも感じられるし、他の損害保険や医療保険や生命保険なども含めて、将来に生じるかもしれないリスクに備えて、保険が必要と思われるような社会的な背景があることは確かだろうか。

 そうであるにしてもそもそも他の産業分野で利益が出ない限りは、保険に回す資金が生じないわけだから、保険分野が単独で際限なく増大することはありえないだろうが、一定の水準で保険に回す資金が生じるように、必要経費として保険の分を上乗せするような仕組みは構築されているだろうし、また保険金として集められた資金も利益を出すために投資に回されるわけで、他の株式などの有価証券や銀行などから還流する直接の資金と同様に、利殖目的で資金を運用する形態としては、保険も金融資本が提供する金融商品に含まれるわけで、国民健康保険や国民年金などの公的な資金までが、利殖目的の派手な資金運用をやった挙句に多額の損失を出してしまうと、最終的には税金や国債で穴埋めされるだろうから、セーフティネットとしての役目を果たせないということにはならないだろうが、危機に備える手立てが新たな危機を呼び寄せていることにもなるだろうし、その辺が資金の循環とともに危険も循環するという資本主義経済特有の皮肉な側面を物語っているだろうか。保険を利用する人にとってはそうかもしれないが、人々が期待するような保険を用意して資金を集める側からすれば、それも一つの事業なのだろうから、保険事業も事業であるからして破綻する危険がつきもので、民間の保険会社が事業に失敗して破綻した場合に備えて、保険業の協会などに積立金の類いは用意されているだろうし、そうなるとそれは保険の保険とも言える類いの資金となるだろうが、そうやって様々なところで様々な種類の資金が蓄積されて、それが様々な用途で運用される可能性があるのだから、資本主義経済が全体として崩壊するとかしないとかを予想するのは、何か意味のないことのように思われるわけで、まとまった一つのシステムで運用されているわけではないのはもちろんのこと、部分的にも様々な経路で複数のシステムが競合状態にあるのだろうし、その中のどれか一つのシステムが故障しても、別のシステムがその代わりを担ってしまうだろうし、代わりがなければ別にそのシステムが途絶えたままでも構わないわけで、他のシステムだけでも充分に機能を果たせるようにできていて、これがなければ資本主義経済が立ち行かなくなるようなものは何一つないのかもしれず、時代の変遷の中で絶えず消滅するシステムと新たに生まれるシステムが交錯しているの確かだろうが、特に両者の間で事業が引き継がれるような関係がなくても構わないのかもしれず、時代のニーズに応えられない事業は勝手に消え去り、必要に応じて新たな事業が形成されるような成り行きとなっているのではないか。


6月23日「立場の可動性」

 現状で世の中に影響を及ぼしている諸々の作用のうちで、どれを強めてどれを弱めれば理想とする社会が実現するか、などという問いが、政治の実践からはかけ離れた抽象的な問いに過ぎないとしても、理想的な社会に模範例があるわけでもないから、もとから問いに対する正しい答えなど期待できないのかもしれず、そもそもそういう問いの立て方自体が間違っているのかもしれないが、ただ漠然と社会の理想像を夢想するぐらいならいくらでもできそうで、それの実現へ向けて活動している政治家がいるという作り話も、選挙ポスターなどに記された政治宣伝の類いにはありふれているかもしれないし、現実にその人が社会の中で置かれた立場や境遇が、見当はずれな夢想を許さないような問題に直面させるだろうし、そこで政治家という立場や境遇に置かれた人物がどのような発言や行動を促されているかは、その活動を現実の問題に結びつける上で必要な政党や行政などとの関係から、自ずから定まってくるようにも思われるが、そんな政党や議会勢力の枠組みから受ける制約の中でも、それなりに理想に向かって活動している人がいれば、有権者はその行動や発言の中身で支持するか否かの判断を下せばいいのだろうが、その一方で諸々の社会的な関係の中で、政治家がどのように機能しているのかを考えてみる必要もありそうで、議会での機能や行政の長や大臣などの役職としての機能などにおいて、彼らを取り巻く人や集団との関係がどうなっていて、その関係の中で政治家がどんな役割を果たしているかが、たぶん彼らの行動や発言を規定しているのかもしれず、それらの関係の中で実際にやっていることが、彼らの行動や発言となって現れているわけだから、メディアなどを通じて明らかとなる行動や発言の中身が、彼らを取り巻いている諸々の関係と結びついていることは確かだろうし、そうだとすれば実際に彼らが何をやっているかで支持するか否かの判断を下すしかなく、本来それは政治家個人の人柄や思想信条などとは別次元の話なのだろうが、メディアが取り上げなければ何をやっているのか定かでなく、その活動に関する情報があまり得られない場合には、やはり人柄や思想信条に加えて経歴や学歴などが判断材料となってしまうし、またどの政党や会派に属しているかも重要な判断基準ともなってしまうのだろうが、そうなると政党や会派などの集団的な動向で判断することにもなってくるわけで、そこでどのような決定がされるにしても、その意味するところが、果たしてメディアが伝えるようなことなのかどうかに関して、自分なりに考えてみる必要があるだろうか。

 政治的に何が決定されるにしても、議会や行政といったすでに出来上がった制度の中で決定されるわけで、またそれに対して世論の次元で不安や懸念が表明されようと、それもメディアなどの制度的な枠内で表明される不安や懸念であり、別にそれらの制度が悪いわけではなく、制度的な枠組みで決定されないと政治的には何も決まらないだろうし、世論というのも世論調査の結果として一応は信頼のおける統計的な数値を伴っているわけだから、そこで何かはっきりしたことがわかるのだろうが、それが全てではないこともわかりきっているわけで、それが全てでなければ何が全てだとも言えないが、そこでなされる決定が全てでなくても構わないわけで、別に政治の場で全てを決定する必要もないわけだが、その政治的な決定が世の中のほんの一部の分野に影響を及ぼすに過ぎないということが、メディアなどの報道からでは伝わりにくいことなのかもしれず、政治家の方でも自分たちの活動が世の中の全てを決定するわけでもないことを自覚すべきなのかもしれないが、政治的な制度もメディア的な制度も、それが社会の方向を決定してしまうような重大な制度のごとくに思われ認識されてしまうような傾向が、それらの制度に携わる人や集団の間で共有されている可能性があり、そうやって事を大げさに捉えすぎるあまりに、かえって政治的な選択や世論的な動向の面で身動きが取れなくなってしまうのかもしれず、主義主張の面で今ある現状から一ミリたりとも動けないように思わせる空気が蔓延していて、そこに固定観念と昔ながらの対立形態を維持しようとする思惑が介在しているのかもしれず、何か特定の立場や境遇の中にとどまっていないと信用できないような融通の利かない状態を懸命に保とうとしているのではないか。しかしそれは意識の面ではそうであっても、実際にやっていることはそうでもないわけで、それらのこだわりや対立に大した根拠はないのかもしれないし、対立が双方の間に決定的な亀裂を生じさせているわけでもないのかもしれず、立場が固定されているように思われても、主張の中身は可動的にいつでも揺れ動いていて、よく見れば対立するどちらの主張も大して変わらない面もあるだろうし、同じような主張でも立場が異なれば、場合によっては激しく批判され反対されるが、それが同じ陣営からなされる主張ならば賛同され賛成されることもあるわけで、そこで賛成する立場と反対する立場とに便宜上は別れるにしても、その中身にそれほどの違いがないのならば、別にどちらであっても構わないのであり、議会などで激しく対立しているとしても、それほど深刻で切実な問題とは言えないのかもしれず、そうであれば実質的には激しく対立しなくても構わないわけだが、役割分担上はそうせざるを得ないところが、何か無自覚な演技としか感じられないわけで、そういう意味でもはや政治的には激しい非難の論調はいらないようにも思えるのだが、やはりそうせざるを得ないところが、政治的な限界を形作っているようにも思われてしまう。


6月22日「思考を阻む障害」

 現実に身の回りで起こっていることは、自らが考えたり行動しながらやっていることと何か関係があるのかもしれないし、そんな自らの動作も含まれるようなことが身の回りで起こっていると考えるべきかもしれないが、何かそれについて考えようとすると、普通はそうなる理屈を考えてしまうだろうし、それが単なるその場の思いつきで、思いつくきっかけを作るのが偶然の巡り合わせとしか思えないとしても、思いつきの中身に関しては何らかの理屈を思いつくわけで、身の回りの状況やそれに関連する自らの境遇について、何かこの世界には人の動作や思考を統御する原理があるように思われるのは、そうなることに関して何らかの理屈があると思わないと、思考を働かせることに積極的な意味を見出せないからかもしれないのだが、そんなふうに思考した結果として、その場の状況に適合した原理が見つかったり見つからなかったりするのは、そこで体験しつつある現象をうまく説明できたりできなかったりするような試行錯誤の中から見つかることもあるわけで、たまたまうまく説明できればそこに何らかの原理が働いているように思われ、そんな原理に従ってその場の状況が推移しているようにも思われるだろうが、その場ではうまく説明できても別の場でうまく説明できるとは限らないし、説明がうまくいくための条件というのが、その場に特有の原理に従っているか否かだとすれば、現実にはその条件を恣意的に選べないことも確かで、与えられた条件に適合する原理を模索することになるわけだが、たとえその場が原理に関して最適な条件を満たすような人工的に整備された環境であっても、そこで思いがけない未知の現象に遭遇することもあるわけで、そういう不確実な要素を考慮すれば、そこで思いつく理屈というのも完全とは言えないのはもちろんのこと、その場限りでしか通用しないことなのかもしれないし、そうであるならたとえその原理が、何らかの普遍性を伴っているように思われるとしても、あまり信じすぎない程度にとどめておいた方がいいのかもしれないし、そんな原理を導き出す思考作用というのも、大して信頼のおけるようなものでもなく、ひらめきとしてもたらされるその場の思いつき自体が、そうなる成り行きの偶然に左右されるのだから、少なくともたまたまそうなってしまう偶然を、そうならざるを得ない必然と取り違えないことは肝心だろうか。

 なぜそうなるかの理由が必然のように思われるのかは、実際にそうなったからであり、場合によったらそうなるのが運命のように思われ、そうなった結果から物事を考えようとするからだろうが、物事が起こった結果から説明しようとすれば、説明自体がそうなる必然性を求めているわけで、単なる偶然の巡り合わせでそうなったとすれば、そもそも説明する必要がなくなってしまい、そうなる理屈も原理も必要ではなく、逆に説明や理屈や原理が、そうなってしまう必然から求められるわけだから、それについて考えている限りは、なぜどうしてそうなったのかについては、そうなる必然的な理由や根拠を導き出すしかないわけだ。そうである限りにおいて偶然にそうなってしまったこと関しては、関心が払われなくなってしまうのかもしれないが、それでも偶然にそうなってしまうことを考慮に入れて物事を考える必要があるのかもしれず、絶えず決定論的な思考形態によって結果から考えてしまう誘惑から離脱するには、結果として現に存在しているように思われる現状から、未来への可能性を考える上で、現状の延長上で何らかの予測を導き出すのとは違う道を模索する必要があるだろうし、それには現状を一つの定まった原理から説明しようとすると、そこからはみ出てしまう要素があることを考慮に入れて、現にそうなっていることを構成する現状が、様々な方面から及ぼされる様々な作用から成り立っていて、現状で成り立っている関係も様々にあり、そこに及ぼされる作用もそこで成り立っている関係も不変ではなく、それぞれの強度も持続力も様々にあり、そのような作用と関係の束が過去から現在を経て未来へと、絶えず変動を伴いつつ存在していることになるのだから、その中で主に何と何が作用し関係し合って現状を構成しているかについては、それが全くの偶然の組み合わせから構成されているとは思えないだろうし、そこに何らかの規則性と複数の作用や関係の編成が認められるかもしれず、またそのような規則性や編成が世の中の慣習を形成している事情もあるだろうし、さらにそれを守るための制度が整備されている場合もあるだろうし、そしてそのような慣習や制度を保持するための規範も広く世の中に浸透している場合もありそうで、そうなっているのが必然的な成り行きからではなく、偶然の巡り合わせによってそうなっているのだとすれば、今後将来においてそれが変わる可能性もあるわけで、そのようなものが必ずしも社会にとって必要不可欠だとは思わない方が、自然な感覚なのだということを、広く世の中に知らしめることができれば、慣習や制度や規範に対する保守的なこだわりが薄れてくるかもしれないのだが、それが偶然の巡り合わせでしかないことが、人々の思考や関心の対象とはなり難い面もあるのかもしれない。


6月21日「関係の相対化」

 人と物と情報との関係はそれぞれを効果的に活用することによって、あるいはそれらの組み合わせやその活用の仕方を巡って、その場の状況に応じた特有の関係が築かれるのだろうが、資本主義社会は様々な関係の中で主に金銭を介した関係で築かれていて、他の地縁や血縁や愛情や友情などの諸関係も、それに付随して複合的に絡んでくるのだろうが、金銭的な関係によって他の諸々の関係から生じる不合理な面を、覆い隠したり清算することができるように思われるから、他の関係に勝る有効な活用法として社会の中で重宝されているのだろうし、皮肉を込めて世の中には金で買えないものはないと言われるのにも、それ相応の真実が含まれていて、例えば権力関係に伴って生じる服従の強制や、それに対する抵抗や反発などの抗争から逃れる術として、金銭的な解決策があるだろうし、逆に金銭的な関係から服従の強制などの権力関係が生じている現実もあるだけに、どちらにしろ金銭を介した権力関係というのが、資本主義社会では決定的な優位を保っている状況にあるだろうか。もちろんそれを打ち砕く方法として武力が行使されることもあるわけだが、武器も金銭的な権力関係から生産されるわけだから、全ての面において万能な方法というわけでもないし、軍事力や警察力などを担う暴力装置の大部分は国家が占有している実態もあるわけで、武力の行使にはそれが行使される条件や状況が限定され、金銭を介した権力の行使よりは有効範囲が狭いだろうし、行使に伴って生じる損害や損失など危険もそれだけ増すような事情が出てきそうだが、そんなことも含めて結局はその場の状況に応じて様々な関係が構築され、構築された関係に伴ってその場で生じる権力の行使にも様々な形態があるのだろうし、その中で金銭を介した関係や他の様々な関係が入り混じって解きほぐし難い様相を呈していて、そこで特定の勢力が他の勢力を圧倒するような力の差があれば、一方的な力の行使によって役割分担や階層的な序列が定まって、安定した関係が構築されることもあるだろうが、またそうでなければ権力の行使を伴う抗争が慢性化して、不安定で流動的な成り行きとなることもあるだろうし、いずれにしてもどのような関係がそこで主導的な位置を占めたとしても、関係を築く上で合理的に思われるやり方が見つかることもあるし、なかなか見つからないこともあるだろうが、少なくとも自然の流れとしては、その場に関係する誰もが納得するようなやり方を模索しようとはするだろうし、納得できない者が抗議するのも当然のことのように思われるだろうか。

 そういう水準で何がどうなるにしても、強引なやり方は周囲の反発や抵抗を伴い、関係者のほとんどが納得するようなやり方になるのが望ましいわけだが、その一方で誰も抵抗できないように策略を巡らすやり方も模索されるだろうし、手段を選ばずありとあらゆることをやりながら、自らに有利な関係を定着させようとすれば、結果的にそのようなやり方がうまくいくにしても、そこで周りが容認できないような不均衡や矛盾が生じることにもなるだろうから、表面上は平静が保たれ反発や抵抗が沈静化されるような状況が実現されるにしても、不利な立場を強いられる勢力にしてみればおもしろくはないだろうし、そこかから恨みや妬みなどが生まれて、何かのきっかけで溜まりに溜まった不満が爆発するような事態も起こりかねないし、そういう意味で策を弄して不満や反感を言わせないように弾圧したり抑圧するようなやり方は、一時的にはうまくいくかもしれないが、将来に禍根を残すわけで、不公平や不均衡が何の改善の可能性もなく放置されている場合には、一時的に抑え込んでいる不平不満が何かのきっかけでいつかは爆発する危険を孕んでいるわけで、もちろんそれも程度によるだろうが、状況的に言って社会の中で特定の勢力が理不尽に優遇されている場合などは危ないだろうし、逆に特定の勢力が理不尽に差別され虐げられている場合などでも、それが少数派であっても多数派であっても、メディアや市民運動などによって社会問題化されるだろうし、また極端な場合にはテロの温床ともなるのだろうし、結局はそれが不安定要因となって社会の中で主導権を握っている勢力を悩ませることになるだろうか。人種であれ民族であれ宗教や宗派であれ、大勢の人たちが一つの勢力としてまとまりを保っている限りは、そこに何らかの利害関係が生じて、その利害を巡って他の勢力と対立する可能性があるわけだが、そのような特定の関係を特別視することで、一つの勢力としてアイデンティティーが確立されるわけだから、実際にはそれ以外にも様々な関係が社会の中で構築される可能性があり、その複数の関係の中で一つだけが重視されていなければ、その関係だけが特権的に取り上げられて、その関係から生じる利害関係が死活問題となることもないわけだが、現代社会ではその中の金銭的な利害関係と、他の地縁血縁的な人種や民族や宗教などの関係を結びつけることによって、容易には解消し難い対立や不均衡を生み出してしまう傾向にあるのかもしれず、理屈の上では他の諸々の関係を強化することで、それらの特権的な関係を相対化させることが求められているのかもしれない。


6月20日「外の世界」

 例えばどこかの国の政府が自国の不利にならないように貿易不均衡を是正するような措置や対策を講じて、それがある程度は功を奏して不均衡が多少は解消されたところで、相対的に貿易量や額が増減する程度で、貿易そのものが滞るわけでも収支が激変するわけでもなく、多少は商品の価格が上下したり物価の変動が起こるだろうが、それによって現状で機能している制度や仕組みを根本から変えることにはならないだろうし、そもそも政府はそれらの制度や仕組みを変えるのではなく支える側なのだから、わざわざそれを根本的に変える理由などないわけで、政府というのは現状で成り立っている秩序を維持するための組織であり、そこから大幅に役割をはみ出して何かをやろうとしているわけでもなく、たとえ政府内で主要な役職を占めている勢力が、現状で成り立っている秩序を歪めるような行為に及んでも、そのような行為に対しては必ず組織内から反発が起こって、場合によってはそのような勢力が粛清されるような事態も起こりうるのではないか。そういう意味で政府が全体として組織内の特定の勢力への支配を強めることはあるとしても、逆に特定の勢力が政府内で他の勢力への支配力を増そうとすれば、そのような勢力は秩序を乱したことを理由に政府内から駆逐されてしまう危険性もあるのかもしれず、一時的に特定の勢力が改革派として政府内で栄華を誇っても、何かのきっかけで思わぬところから足元をすくわれてしまうこともあるだろうし、絶えずやろうとしていることや実際にやっていることが、現状を維持する方向へと収束していってしまうのかもしれず、だからと言って現状でできることだけをやろうとするのでは、世論的にもメディア的にもあまり魅力を感じられないだろうし、そうであるからこそ政治的な宣伝の範疇ではいつも大風呂敷を広げて見せるのだろうが、それを実際にやろうとすれば様々な障害に直面して、途中で立ち往生してしまうことにもなりかねず、それでもやっているように見せかけないと世論の支持を失ってしまうだろうし、そんなわけで政府などの行政の水準でやろうとすることは、実質的には現状で機能している秩序が維持される範囲内でしかできないことだろうか。

 政府が社会の秩序を維持している範疇ではそうなるのかもしれないが、それが機能していなければ何かしら混乱を招いて、しかも混乱の収拾がつかずに慢性化すれば、国内で様々な勢力が群雄割拠する内戦状態となる可能性もあるのかもしれないが、少なくとも平和な地域にある国家では政府がまともに機能していて、国内の秩序を守り近隣諸国との関係も戦争にならない程度には維持されているのだろうし、世論もよほどのことがない限りは、可もなく不可もなくといった程度の水準で政府への支持が保たれているのかもしれないが、逆に大したこともやっていないのに極端に支持率が高かったり不支持率が高かったりする場合は、どうもメディア経由で怪しいバイアスがかかっている可能性があって、特定の政治問題に関して対立する政治勢力への偏向した批判キャンペーンが行われていたり、そうした批判キャンペーンの裏で争点隠しや争点ずらしが横行して、また争点からずれたところでそれとは別の話題で不自然な盛り上げや煽り立てが行われていたりするのかもしれないが、そういった人工的な世論の形成というのが、何か重大で深刻な事態をもたらしているかというと、そういうわけでもないのかもしれず、メディア経由で偏向した批判キャンペーンが行われようと、特定の政治問題に関して争点がずらされようと、行政的には大して問題ではないのかもしれず、メディア上で煽り立てられる有形無形の政治問題とは無関係に、行政が滞りなく機能していることが肝要で、何が起ころうとも実際に秩序が保たれ平和裡に事態が進行していれば、大したことは何も起こっていないようにも思われるかもしれないが、それが平和以外のどんな状況を示しているのでもなければ、そんな中でも着実に何かが進行中なのかもしれず、それがとりたてて危険だとは認識できないような現象だとしても、そのような現象に注目すべきなのだろうか。あるいはそれに関して現状では何の問題も起こっていないように思われるのなら、それを無理に問題化すること自体が間違っているだろうか。たとえ問題化したところで解決しようのないことなら、放っておいても構わないようなことかもしれないが、それは行政が守っているはずの秩序でも、その結果として実感できる平和な世の中でもなく、現状で絡み合い縺れ合いながらも錯綜する様々な出来事の束としての現実だろうか。たぶんそれを分析することはできるだろうが、肯定や否定の判断は不要かもしれない。


6月19日「資本の定義」

 普通に考えれば、世の中では人が生きていくのに必要な物資が生産され流通して消費されているわけだが、それ以外で必ずしも必要とされていないものまで生産されているのかもしれず、生産されるからには何らかの生産される理由があるだろうし、人が生きていく以外で他の何かに必要とされるから生産されているのかもしれないが、例えば何らかの利益を得るために生産されている場合があるだろうし、中には人を殺傷することで利益を得られるような武器の類いも生産されていて、もちろん武器の類いは他人を殺傷することによって自分を守る護身用としても存在するわけで、それもある意味では人が生きていく上で必要だと言えるだろうが、他にも何に必要なのかわからないものまで生産されている現状もあるのかもしれず、必ずしも必要であるか否かが生産する理由になっていないものまで生産されているとすれば、物資が生産される理由は様々だとしか言えなくなってしまうが、いったん生産された後から何らかの必要に応じた目的が定まれば、その必要が生じている人や集団の間で物資の取引が行われるだろうし、その生産物に対する需要がある限りはそれなりに流通して消費される可能性があるだろうか。必要があるということは需要があるということであり、需要がはっきりしていればそれをあてにして生産されて供給されるし、供給が滞らないように前もって生産して蓄積される場合もあるだろうし、生産された物資が最終的に消費されるまでの間で、生産や流通や交換などの各段階で在庫として蓄積されていて、その物資が備蓄されたり貯蔵されている状態が資本となっているのだろうが、目に見えるような商品の在庫だけでなく、資源と生産設備と人員のまとまりとしての生産能力も資本の一種だと言えるだろうし、それに関して一番わかりやすいのが貨幣の蓄積であり、まとまった額の貨幣さえあれば資源と生産設備と人員を揃えることができるから、資本の中で最も価値が高いのは貨幣の蓄積なのかもしれず、次いで貨幣と交換可能な有価証券の蓄積や、土地や建物や機械類などの動産や不動産などの蓄積もあるだろうし、さらに労働力としての人間の蓄積も資本だと言えるだろうか。

 途中の過程がどうなっているにしろ、実際に生産されて取引可能な状態で物資として蓄積されると、それが売買などの取引の際に資本として機能するだろうか。それでは資本も商品も変わらないことになってしまいそうだが、資本も売買できるのだから商品の一種とみなしても構わないのかもしれず、商品が蓄積された状態が資本だとも言えるのかもしれないが、そうである限りにおいて貨幣と交換可能であることが求められるだろうし、価値の度合いを示す価格として計算可能であることが、資本として流通や交換などの取引を可能としているだろうし、実際に取引されている実態が公の信用を生じさせて、それが資本であると認知されることになるのだろうが、その価値を保証するものとして証券の類いが発行され、証券も蓄積してその額面が増えてくると資本として機能し出すだろうし、株式などの有価証券を取引する市場も形成されることになるわけで、そんなことも含めて一般的に資本主義経済が成り立つには、物資を取引する量や額が飛躍的に増大して、多数の国家を包括するほどに拡大しなければならないのかもしれず、そうやって国際的な市場が形成されて、市場と市場の中で取引を専門とする集団やシステムなどが手数料で維持できる限りで、資本主義経済が成り立っていると言えるだろうか。市場を通さずに生産業者と販売業者が直接取引するにしても、売買価格を決める上で市場価格が目安となるだろうし、取引の基準を決める上で市場が規範としての役割を担っていて、そういう意味でも市場は資本主義経済が成り立つ上で欠かせない存在となっているのだろうが、当然そのような市場の機能は国家による一元的な管理と一致するものではないだろうし、市場を通して多国間の取引が成り立っているから、一つの国家が市場を完全に支配することはできないわけだろうが、国家を担う行政機関の方でも、国家の枠内で住民や企業やそれらが保有する資産を管理しているわけだから、それに関連する法律の適用や行政指導などによって、ある程度は市場を制御しようとするだろうし、そんなふうにして国家と市場との間で資本主義経済が成り立っていると言えるだろうか。


6月18日「文化の多元化」

 何か世の中で人が人であることの証しがあるとすれば、例えば生きていて言葉を使って労働しているという条件が思いつくが、では生き方や言葉の使い方や働き方に関して、各人の間で他と区別がつくような特性があるかとなると、社会の中で人と人とが様々に交流している中で、その交流の様式に応じてそこに関わっている人の役割や機能が、その人に特有の形態を伴ってくるのかもしれず、それがその人の特性として他と区別することができるかもしれないが、それもある一定の形態に凝り固まって、そこでの役割や機能が一つの傾向で固定化されるようだと、その役割や機能に応じた生き方や言葉の使い方や働き方が規範として定まって、その範囲内で定められた動作を行なっている限りで、社会の中でその人が携わっている何らかの仕組みの中で動作する装置に組み込まれていることにもなるだろうが、そんなふうにして決まり切った作業をやる機械的な動作が生じているとすれば、場合によっては維持経費などのコストの面で割りに合うようなら、その機能に特化した機械と置き換え可能となり、そうなると装置として動作する中で人が占める割合が減って、機械が占める割合が増えてくるかもしれないし、そのような場合だと人であることの必然性というのは、それが装置として動作する限りにおいてそれほど欠かせないものではなく、そこで決まり切った機械的な動作が求められるほど、人であるよりも機械であることの方が望ましい場合もあるわけで、そうなるとそこでは必ずしも人としての動作が求められているわけではないのかもしれない。ならばそういう動作とは異なる人としての特有の動作とは何なのかといえば、普段生活している中で漠然とやっていることがそうだとも言えるが、そこで人が動作している実態がある限りでの動作でしかなければ、人が人であることの証しというのが、社会の中で何か主要な様式として確立されているわけでもなく、かといって人はいかようにも動作する可能性があるわけでもないが、実際に人としての妥当なあり方というのが、はっきりと提示されていたりいなかったりする水準では、それほど問題となっているわけでもなさそうで、ただその場の状況の中でうまく機能している限りで、その存在が周りの人たちにも認められ、その人が必要であると感じられるわけで、必要でなければいなくても構わない場合もあるだろうが、必ずしも人であるからこそ必要とされているわけでもないらしい。

 そうだとすると必ずしも人は人でなくても構わないのかとなると、どのようなあり方が人でないような存在の仕方なのかということになりそうだが、これといって定まった様式はないだろうし、人でなければ何なのかと問われようと、人である限りは人であるしかなく、それは意味のない問いにしかならないのかもしれないが、人であろうとなかろうと、何らかの存在として生活の実態があれば、それなりに何かやっているのだろうし、そのやっていることが人としての生き方や言葉の使い方や働き方から外れていようと、そこに存在して何かをやっている以上は、社会に何らかの影響を及ぼしているのかもしれず、その生き方や言葉の使い方や働き方が社会の中で一定の様式として定まらなければ、それが規範として定着することもないだろうし、そんな規範とならないようなやり方が他でも増えていけば、それだけ生き方も言葉の使い方も働き方も多様化して、そうなれば規範から外れるやり方も社会が認めざるを得ないような成り行きとなるのかもしれず、社会が認めるということはその中で暮らしている人々も認めることになるわけで、そのようなことも含めて文化的な多元化が進むような状況とは、人が人であることの証しがないような状況になることなのかもしれないし、模範となるような生き方も言葉の使い方も働き方も定まらない状況となって、だからといって何をやっても許されるわけでもないが、何をやればいいのかが一つの方向で定まっているわけではなく、多種多様な方向で生き方も言葉の使い方も働き方も可能な社会が実現されればいいわけだが、もしかしたらすでにそうなりつつあるのかもしれず、絶えず人は人であることを逸脱しながら、新たな人であることの可能性を模索しているのかもしれない。なぜそうならざるを得ないのかといえば、その理由として考えられるのは、規範を基とした一つの方向への努力が競争を激化させて、競争を勝ち抜いて成功できるのはほんの一握りの人たちであるとすれば、その他大勢の人たちは必ず途中で競争から脱落して、それまでの努力が報われなくなるから、そうなると嫌でも他のやり方を模索せざるを得なくなるわけで、それでも今までは競争に勝ち抜いた一握りの人たちを頂点としたピラミッド状の階層構造が秩序として成り立っていたわけだが、ネットを介して様々な情報が世界中に行き渡るようになってからは、一つの規範にこだわることが必ずしも正しいわけではないことがわかってきて、それに伴ってその他大勢の人たちが犠牲となって頂点に君臨する成功者たちを支える必然性が揺らいでいて、そのような頂点も世界中に無数にあることがわかっているだけに、その中で特に何を規範として崇め従う必要も感じられなくなっているのではないか。


6月17日「批判の封じ込め」

 うまくいっていることだけを宣伝すれば、すべてがうまくいっているように思われるが、必ずしもそうではないことが明らかになれば騙されたと思うだろうし、少し考えればすべてがうまくいくなんてあり得ないのは、すでに誰もがわかっていることなのかもしれず、そうであるならうまくいかなかったことだけを取り上げて批判するのも、何か不公平な気がしてくるし、批判する側にはそうせざるを得ない事情があるにしても、別に批判する側に与する必然性を感じられなければ、そんな批判を真に受ける気も起こらないのかもしれないが、なぜ批判するのかといえば、やっていることがうまくいっていないから、あるいはうまくいっていないことを隠そうとするから、それを批判したいのだろうし、とにかくうまくいっていないことは批判されなければならず、それを批判したからといって、うまくいっていない現状が改められるとは限らないが、批判されたくなければ改めようとするだろうし、実際に改めようとしても改められなければ、延々と批判され続けることになるのかもしれないが、一方で批判をかわしたり封じ込めようとする行為も出てくるわけで、たとえやっていることがうまくいっていなくても、批判をかわし続ければやり続けられるような場合もありうるだろうし、実際にはうまくいかないことから利益を引き出せれば、それを延々と継続する理由ともなるだろうし、その辺をうまく取り繕えばやり続けることが可能となるのかもしれない。だがそういう場合はうまくいかない部分で絶えず犠牲が生じているのかもしれず、何らかの犠牲を出しながらもそれが継続されるような実態があるとすれば、そこが批判の対象となるのだろうし、現実に被害や損害を被っている犠牲者の立場から批判がなされ、そんな批判をかわしたり封じ込めようとする側との抗争が繰り広げられることになるのではないか。

 一般的にいって個人や集団を巻き込んで社会の中で行われているような行為には、その犠牲となる人の存在が欠かせないのかもしれないが、犠牲が大きければ批判もそれに比例して大きくなるとすれば、批判をなくすにはなるべく犠牲を出さないようにすればいいわけで、理想的には誰も被害も損害も被らないような行為が推奨されるだろうが、現実問題としてそれでは何もやらないのと同じことになってしまうのかもしれず、実際にやられていることは、ある程度の犠牲が出るのは承知の上で様々なことが行われていて、やってしまった後から犠牲者に対して補償や賠償が行われれば、法的には問題が解決するかもしれないが、他の問題は解決しないだろうし、解決しないうちは批判にさらされながらも、それをうまくかわしたりごまかしながらそのような行為が継続され、場合によっては批判を封じ込めたり、封じ込めるような法整備が行われたり、そんなことが行われているうちは、やっていることついての正当化が何らかの形で表明されるだろうし、行為を正当化する理屈が導き出されて、そんな理屈への賛同者たちが連携し協力しながら、そのような行為を維持しようとするのだろうが、そういう意味で何らかの行為がメディアを通じて公な批判にさらされるような行為は、まだマシな部類に入るのかもしれず、それどころかメディアまでもがグルになって、批判を封じ込めるような行為がまかり通るようになれば、相当悪質なことが行われていることの証しともなるだろうし、それに関して少しは良心的な態度を示すには、批判されればそれを真摯に受け止めて、少しは改善する方向で努力しているように見せかけなければならないだろうし、それが見せかけではなく実質的に改善されたような効果が見られれば、良い意味で批判に対処したことにもなるのだろうが、実際にそうなるのは稀なことかもしれず、現状で批判への対処として主流を占めているのは、批判を封じ込めることになるのかもしれないし、いかにして批判を封じ込めるかが、目下のところは様々な方面で切実に求められていることだろうか。


6月16日「優柔不断」

 結果的にそうなってしまうことがそれなりに当然のことのように思われるなら、それが最善だとは思われないにしても、概ね妥当な結果がもたらされていると思うしかないが、そのような結果をもたらすそれなりの事情が反映されて、そんな結果がもたらされたのだとしたら、実際にそうなるのが当たり前のこととなるように事が運んだと思えば、別にそれほど事態の推移も結果も奇異には感じられないだろうし、たとえある種の価値観からすれば許し難い結果であろうと、結果的にそんな状況がもたらされていることに関して、それほど違和感を持たれるわけでもなく、もはやそんな状況に慣れてしまった感覚からすれば、とりたててどうということはない事態でしかないだろうか。今のところはそうかもしれないが、またそこから何かのきっかけで状況が一変すれば、現状で当たり前のように思われることが、極めて異例な異常事態であったことが明らかとなるかもしれないが、現状の延長上でそうなる可能性はあまりないだろうし、それよりも時が経てばそんなことはどうでもよくなってしまう可能性の方がなきにもあらずで、現状で主導権を握っているように思われる政治勢力が、いくらごり押しのような行為を積み重ねて既成事実をこしらえてみても、やっていることが状況に合わなくなれば、それなりの形骸化作用を被るしかないだろうし、そんな対策によって彼らが対峙していると思われる対象というのが、疑心暗鬼の心理状態から作り出された幻影というわけでもなく、それなりに現実感を伴った事物であることは確かかもしれないが、そうだとしても世の中のかなり狭い範囲に限られた現象から構成されていて、そうした現象もそれを含んだ時代の大きなうねりの中で形成された些細な挿話に過ぎなければ、遠からず意味をなさなくなるような現象でしかないのかもしれないし、そんなことに今さらのごとくに気を取られていることが、それを含んだ状況の本質的な変化を見ないようにしていることにもなりそうで、それに関して世間で話題となっている表層的な現象に多少は気をとられるとしても、それ以上の深刻さを示しているわけではないことはわきまえておかなければならないだろうか。

 政治の表層に浮かび上がってくる様々な不祥事や、議会などで演じられるこれ見よがしのパフォーマンスなどが、事の深刻さを示しているとは思えないにしても、それが深刻だとは思えないところが深刻なのでもなく、世論の支持を背景として政治的な主導権を握っている勢力がそれほどお粗末なことをやっているのでもなく、実際にそんなことをやっている現状があるのだから、それがまぎれもない現実なのであり、やっていることが期待通りだろうと期待外れだろうと、そこに作用している様々な関係の中でやっていることがそれなのだろうから、それを当然のこととして受け止めるしかないだろうし、何も奇異で不自然なことをやっているわけではないと思っておいた方が良さそうで、現実に存在する人や集団がそういうことをやろうとしてやっているわけだから、それをやっている人や集団にとっては、そうすることが必要不可欠なのであり、そうしたい意図や思惑も介在しているだろうし、やっていることに関しては充分に意識しているわけで、はっきりした意志があってそんなことをやっているわけだから、それを自覚している分には、そうすることに関して別におかしいとは思わないようなことをやっているつもりなのだろうし、彼らにとってはそれが当たり前の行為なのであって、そんな当たり前の行為が世論の前に示されているわけで、それを世論も支持しているのだとすれば、それで何の問題もないのかもしれないのだが、例えば必ずしも世論が支持しないようなことをやっていて、しかもそのようなことをやっている勢力を世論が支持しているとしても、世論の方がおかしいことにならないのかもしれず、それを世論の支持が充分に得られていない対抗勢力や反対勢力のせいにすることはできないし、論理的整合性を重視するなら世論がおかしいとみなしておけばいいわけだが、そもそも自分たちが支持しないような勢力に何を求めるわけにもいかないのであり、そのような状況も別に深刻な事態でもなく、そうなって当たり前の事態だと思っておいていいだろうし、それの何がおかしいわけでもなく、政治情勢としてはそんなことでしかないのかもしれず、無い物ねだりのようにそれ以上を求める方がおかしいのであり、そんなふうにして世論という漠然とした水準では、具体的に何をどうすることもできないだろうし、そこで何が求められているわけでもないのではないか。


6月15日「見て見ぬふり」

 平和な期間が長引けば戦争の記憶が薄れてしまうのも当然のことだろうし、内戦やテロが頻発する紛争地域から遠く離れた地域で暮らしていれば、そんなことには無関心でいられるのも当然だろうか。そうであるにしてもこの世界で起こっていることは取り返しのつかないことであり、そうである限りにおいて同じことは二度と繰り返されないのかもしれないが、完全には同じことが再現されないにしても、そこで同じようなことの再現や繰り返しを見てとり、それを現状への批判に結びつけようとする人たちも中にはいるのであり、そんなふうに批判している人たちに向かって、それが同じことの繰り返しではないことを指摘しても、批判を妨害しているとしか思われず、聞き入れられないのも当然のことかもしれないが、実際にそのような批判の対象となっている人や集団は、過去の因習や迷信に囚われて過去と同じ過ちを繰り返しているように思われるから、批判の対象となっているのだろうが、それを批判している人や集団もそれとは別の方面で過去の因習や迷信に囚われている可能性もあるわけで、実際には過去とは違う状況がもたらされていて、それを過去の因習や迷信に囚われた思考で認識しようとするから、そのような固定観念が現状からずれていることに気づけないのかもしれず、そんな中で双方ともに批判の対象となりつつも互いに批判し合っている状況となっているだけに、ただ相手を批判しているだけでは済まないような、複雑で込み入った事態に直面しているのかもしれず、それが迷信だとは思われなかった過去の時点においてもそうだったかもしれないのだが、現状では過去とは事情が異なるところがあることは確かで、それに気づいているのだとすれば、その点を考慮しなければならないのだろうし、そこが必ずしも過去の再現や繰り返しとはなっていないところなのだろうが、それ以前に彼らが囚われているのが過去の因習や迷信だと決めつけること自体が、それらに囚われている人や集団に対する批判ともなっているわけで、それも安易な決めつけに基づいた批判でしかないのかもしれず、その手の批判がある種の単純化を避けられないとしても、何かそれとは違う方面から語る必要が生じているのだろうか。

 それが過去の因習や迷信に囚われた認識だと思われるにしても、彼らにとってはそうではないのはもちろんのこと、大げさにいえば今も昔もそれは、彼らが権力を行使したり行使されることに逆らう対象となる全ての人が、一様に信じるべき普遍的な価値だと主張したいのかもしれず、あるいはそこから少し範囲を狭めて、それは肯定的には日本人に備わった誇るべき特質であり、否定的には唾棄すべき悪習であり、それが守るべき慣習だとみなしたいのなら、民族主義やナショナリズムに結びつけられるわけで、そういう類いの主張を批判したい人たちにとっては、批判すべき格好の理由を形成することにもなるだろうが、そういう批判も含めて現状からずれている感も否めないわけで、守るべきあるいは批判すべき価値の普遍性を強調するにしても、それを日本と呼ばれる地域の特質として顕揚するにしても、それを万人に当てはめようとするところで躓いてしまうのではないか。結局問題となっているのは、万人に向かって何かを強制しなければならない事情が生じているということであり、実際にそういう事情が生じてしまうような状況となっていて、そんな状況を維持するために必要な法律なり制度なり慣習なりを、万人が従うべき規範として定めようとすることから、それに対する抵抗や反発を生じさせてしまうわけだが、そこで抵抗や反発が生じている問題を解決するために、新たに強制を課すような成り行きとなると、さらなる抵抗や反発に直面してしまうわけで、なぜそのような強制を課さなければならないのかといえば、それが現状を維持するのに必要だからとなると、現状で生じている抵抗や反発を和らげるためではなく、それを抑え込むと同時に煽り立てることを目指しているわけで、そういう意味での扇動的な強制措置は、抵抗や反発を招くような社会の不均衡をそのままにして、そうやって現状を維持しつつ顕揚することになるわけだろうが、なぜ不均衡をそのままに保たなければならないのかといえば、不均衡から利益を生じさせる仕組みが社会に生じているからであり、例えば沖縄に米軍基地が集中していることに関しては、地政学的な立地条件に恵まれていて、東アジアの軍事戦略上の拠点として欠かせないものとなっていると同時に、それに付随して戦争とその事後処理を伴った歴史的な経緯もあって、そういったことの全てが過去の因習や迷信に囚われた認識だとは思われないだろうが、米軍を沖縄に押しとどめておくことで利益が得られているみなされる限りで、そんな現状を維持しようとする思惑が生じていることも確かであり、そんな当たり前のことは誰もがわかっているようでいて、実際に現状を打開する方策が求められているのに、それに関しては誰もがつぐむしかないだろうか。


6月14日「把握を逃れる要素」

 現状で思考が囚われている不自由さは、思考の限界の外に意識が把握できない何かがあって、しかも絶えずそれについて考えていて、それを知ろうとしていることから生じているのかもしれないが、知り得ない何かを知ろうとしているのだから、そんな無駄で無理な思考作用が思考する前提としてある以上は、そこで思考が破綻していることは確かで、それが思考の不自由さを示していて、そこから知り得ることを知ろうとするような妥協的な態度へと、思考する対象を修正するように迫られているのかもしれず、そんな妥協をもたらしているのが現状であり、現状が思考を限界づけているとも言えるかもしれないのだが、その一方で何が現状を構成しているのかといえば、過去からもたらされ現状を現状たらしめている経緯であり事情なのだろうし、そこに現状を現状として固定するような歴史が、現状に付随しているとも言えるのかもしれないが、そんな現状を現状たらしめる固定的な面が現状の必然性であり、そしてこれから未来に向かって新たに起こる出来事が、現状に変更を加える可能性のある偶然的な要素だろうし、いったん出来事が起こった後から、それが起こるべくして起こったような必然的な経緯を知ることがあるとしても、起こるまではまだそれは可能性の一つでしかなく、他にも別の可能性があったかもしれない中でそれが起こるわけだから、実際にそこで何かが起こるまでには、それが起こることへの期待がそれが起こるように努力する行為をもたらして、未来に起こる出来事に無視できない影響を及ぼすかもしれないが、そこでも意識できない何かが出来事に作用している可能性があるだけに、努力が有効に作用する範囲内で単純に期待通りに何かが起こる可能性もある反面、努力の及ばないところで思いがけないことが起こる可能性もあるわけだから、期待通りの結果が起こるまでは安心できないだろうし、努力が結実するまでは努力を惜しまない姿勢を保とうするわけで、そんな努力から逃れない事情も、現状の不自由さを物語っているのではないか。

 たぶんその不自由さはある不安を生じさせているのであり、意に反して思いがけないことが起こって途方に暮れてしまう結果というのが、努力に囚われている意識が恐れることなのだろうが、果たしてそれが期待に反したことなのかどうか、逆にそれを期待して努力するというのは、何かそこに倒錯的な精神作用が介在していることを疑わざるを得ないが、結果として受け止めなければならないわけでもないにしても、受け止められないような結果が得られることを期待するというのは十分にあり得ることで、未来が努力の結実を期待させるような何かに向かって収束していくのではなく、期待を超えて努力を台無しにするような、思いがけない多様性へと導かれることを期待できるのかもしれず、そう期待することで思考の不自由さから解放されるわけでもないのだろうが、現状で意識の把握を逃れてしまう事物の多様性を想定するしかない以上は、実際にそうなっていて、これからもさらにそうなっていくと考えられるわけで、限られた思考対象を超えて世界が広がっているだけに、それを知ろうとする努力にも限界があり、そんな把握を逃れ去るところで起こっている出来事まで考慮に入れるのは不可能かもしれないが、それでも自己の思考が及ぶ範囲外へと思考していることは確かだろうし、そこで知り得ない何かを知ろうとする精神作用が矛盾をきたすことは、ある意味で必然的な帰結なのであり、そんなふうにして思考の限界を把握することも、思考することでもたらされるのだろうが、その一方で思考そのものが思考する対象への詳細で正確な把握を促していて、それについて思考し続けることで自然にそうなっていくのだろうし、そういう傾向は止めようのないことなのかもしれず、そんな対象へのこだわりがそれについての詳細な知識を形成して、得られた知識を記憶や記録に留めようとするわけで、そうやって知の蓄積がもたらそうとして、そんな知識を繰り返し再利用することで、自らの思考の限界を越えようともしているわけで、人類の文明自体が絶えずそうした知の蓄積を促している傾向があるのだろうし、またそのような傾向も意識の把握を超える未来をもたらそうとしているのではないか。


6月13日「理性の活用と固定観念」

 理性と感情は繋がっていて、判断の正しさを求め行為の正しさを求めるのが、理性的な感情がもたらす作用かもしれないが、そうする上で思考が介在しているだろうし、絶えずそれについて思考する動作が働いていて、それを思考し続けることで、理性的であろうとする態度を保とうとしているのだろうが、そういう場合は意識して思考しているわけで、絶えず意識していないとその場の感情に流されたり、考えるのをやめて勘に頼ろうとしたり、世の中に蔓延る因習や迷信に囚われてしまったりするわけで、そんな中で自らがやっていることを完全には意識できないにしても、なるべく意識できる範囲内で意識しようとして、意識できる分には合理的な判断基準を当てはめて、それに則った正しい行いをしようとするわけだが、なぜそうやって理性的に振る舞おうとするのかといえば、意識が合理的な価値観に囚われていて、その合理的な価値観というのも社会の因習や迷信から生じているのだとすれば、そこで循環論の堂々巡りになってしまうのかもしれないが、その行為や判断の合理性と不合理性や非合理性を分け隔てる基準というのも、絶えず思考し続けていることではあるわけで、それがその場の状況に適合した合理的な判断や行為であるか、あるいは過去の因習や迷信に囚われた不合理な判断や行為であるかも、意識して考えていることであり、あるいは考え続けることによって培われた勘が告げるようなことでもあり、常にそこでも何らかの判断が付きまとい、ただそれを考え続けようとする態度が理性をもたらすわけで、考えることをやめてしまえば、社会の因習や迷信に囚われた判断しかできなくなってしまうのかもしれない。そういう意味で時間経過や環境の変動に伴って、その場の状況に応じた合理的な判断基準も変わってくるわけで、絶えずその時点で考えていないと判断がずれてきてしまい、固定観念に囚われている限りで、それは過去にうまくいった合理的な判断基準に頼っていることになり、かつての状況下では正しかったかもしれないが、現状で正しいかどうかはわからず、そんな固定観念というのが因習の類いなのだろうし、昔は迷信ではなかったものが現在では迷信となっている信仰もあるのだろうし、絶えず今現在において何が適合するのかを考え続けないと、認識が現状からずれていってしまうのかもしれない。

 そんなわけで理性的に考え振る舞おうとすることは、現在においてどう考えどう振る舞えばいいかを模索し続けることでもあり、実際にそう考え振る舞いながらも、それを絶えず修正し改めながらもさらに考え振る舞い続けることに繋がってゆき、そんなことをやり続けていくときりがなくなってしまうわけだが、絶えず現状に対応しようとする限りでそれを強いられているわけだから、すでにそうやって生きている現状にもなっているわけで、そんな現状から逃れて固定観念の中で安住しようとする怠惰な感情をうまくかわさないと、理性などたちまち失われてしまうのかもしれず、理性を押さえ込んで固定観念に基づいた安定を求める感情が、集団意志や世論となって世の中で強まれば、現状からずれた因習や迷信が社会の中で蔓延り固定化して、それに伴って様々な社会的な不均衡が顕在化してきて、そんな不均衡を利用して利益を得ている勢力が社会の中で主導権を握って、自分たちの利益を出すためにますます不均衡を増大させようと画策してくるのだろうが、そんなふうにして社会の停滞と安定と不均衡が同時に達成されるような状況が、理性的に振る舞おうとする態度を抑圧しにかかるのだろうし、抑圧しつつも絶えず固定観念に留まろうとする怠惰な感情を煽り続けるわけで、いつの間にかそうすることが正義であるかのような屁理屈も、固定観念として社会に定着してしまっている現状もあるのかもしれないが、どのような社会であっても多かれ少なかれそのような傾向を持っているのかもしれず、力の作用と反作用が同時に働くように、流動的な現状の中で流動に合わせて振る舞おうとする態度と、流動に逆らい流動を押しとどめるように振る舞おうとする態度が、同時に生じている状況があるわけで、そこでも流動に合わせるか逆らい押しとどめようとするかの判断が迫られていて、そこでどう判断しどう振る舞うかを思考し続ける限りで理性が働いているわけで、そうやって絶えず現状の中で考え続けることによってしか理性は保てないのだろうし、考えるのをやめてしまえば、その場の感情に流されたり、過去の因習や迷信に囚われるしかないのかもしれず、実際にそんな立場や態度の固定化をある程度は受け入れざるを得ない事情も、社会の中で絶えず生じているのではないか。


6月12日「自立と理性」

 メディアを通して世の中に影響力を持っているように思われる特定の権威的な思想や、それを体現しているように思われる人物というのが、今の世の中にはとりたてて存在しているようには思われないかもしれないが、そうであるなら人々は何ものにも頼らず精神的に自立しているのかとなると、その精神的な自立というのがどのような精神状態なのかということに関して、これといってはっきりした定義など思いつきそうもなく、何か特定の権威に隷属しているような状態もにわかには想像できないだけに、そういう方面でははっきりしたことは何も言えないような気にもなるのだが、人に自意識というものが宿っているにしても、果たしてその自意識を制御しようとしているのか否かも不確かに思われるようなら、感情を制御しようとする理性も何もありはしないということにもなりかねず、そういう状態で何から自立したいのかと言えば、そもそも何から自立したいのでもないのかもしれず、ただ社会が醸し出しているように思われる集団意志に一体化しているだけかもしれないし、そこから自己を分離して自分固有の存在となりたいわけでもなく、別に社会と一体化していても構わないような精神状態でいる限りは、精神的な自立など何の意味も持ち得ないだろうか。そんなことを考えるような人などいるはずもない世の中なのかもしれず、そういうところにこだわりなど生じ得ないような状況なのかもしれないが、でもそうなると理性とは何なのかと問うならば、それも意味のない問いとなるだけで、人が理性的ではあり得ないなら、それはただ感情にまかせて行為していることになりそうだが、必ずしもそうでないとすると、あとに残されているのはそこに損得勘定が働いていることにもなりそうで、それとも違うとなるといったい理性が働くとは何を意味するのかと言えば、何か感情まかせでも損得勘定でもない精神作用を想定しなければならないだろうか。またそれに関して精神的に自立している人は、理性的な振る舞いができる人のことを言うのだとすれば、なおさらその精神作用を特定しなければならないだろうか。

 一般的に考えて精神的に頼るべき権威がなければ、そこから自立する必要はなく、すでに初めから個の精神を持ち合わせていて、自立しているとも言えるかもしれないが、人が社会と一体化していれば少なくとも社会から自立しているわけではないだろうし、自然と一体化していれば自然から自立しているわけでもないだろうし、そもそも社会からも自然からも自立する必要はないのかもしれないのだが、それが自立しているように装うとなると、何か超越論的な態度を連想してしまうわけで、それは事の是非を問う代わりに、是と非の境界線上に立つような態度とも言えるかもしれないが、たぶん是非が問われるようなこと自体を疑っているのであり、それが是非を問うような制度であり、法律でもあり慣習でもあるようなことなのであり、そんな制度にとらわれている自らを自覚できるようなら、そこで理性的な精神作用が働いていることにもなるのかもしれず、そのような制度にとらわれ従わせられていることを疑い、それを疑うことからそのような制度に対する批判が生じるのであり、だからと言って制度そのものを疑うことで別の制度を求めるのではなく、制度に従わなくても自ら判断できるようになれば、そこから自立していることにもなるだろうし、そこで働いている理性は、制度という権威からの自立を促していることになるのではないか。そうであるにしても人は法的な権威に頼らざるを得ない面も出てくるだろうし、その法的な権威を打ち負かすために国家権力に頼るようなことまで、実際には行われている現状もあるわけで、個人が理性を働かせてそれらの権威主義的な態度からの自立を夢見ても、何を実現できるわけでもないのかもしれないのだが、態度としてはそれらの権威への懐疑を抱くことができるし、それらに対する批判も可能なのだろうから、そのような態度に徹している限りで、それらからの自立を装っていることになるのかもしれず、実際に自立しているとみなしても構わないのではないか。そしてそういう意味での自立となると、場合によっては損得勘定の規準では損な立場ともなるだろうし、理性を働かせて権威から自立するような態度は、自らを社会的には不利な状況に招くことにもなりかねず、あまり他人に勧められるようなことでもないのかもしれない。


6月11日「規範の妥当性」

 社会が一定の形態を保つにはそこに暮らす人々が守るべき共通の規範が必要で、それが法律や慣習や制度としてその社会を拘束しているように思われるなら、そんな社会がそこに成立していることになるのだろうが、その中で個人や集団がそこから外れるような行為をやっていないわけではなく、何かそこに守るべき規範があるとすれば、それを守らせようとする作用とそれを破ろうとする作用が同時に働いている限りで、そこに規範と呼べるような決まりごとが成り立っているわけで、規範を守ることでも規範を破ることでも何らかの利益がもたらされるかもしれないし、そうでなければ守ることも破ることも動作としては起こらないわけだが、ただ社会全体としてもその中に存在する個人や集団としても、規範を破るような行為によって何らかの被害や損害を被るようなら、そのような行為に対しては罰や制裁が課せられる成り行きともなるわけで、規範を守ろうとする個人や集団にとっては、それを破るような個人や集団が出現してはまずいわけだが、そのような行為を取り締まる立場や役割を担った個人や集団にしてみれば、それが仕事として成り立つ限りで、規範を破るような個人や集団が出現しないと仕事が成り立たないわけで、いわば必要悪としてそのような個人や集団が必要とされているわけだ。そのような状況が成り立っている結果から語ればそんなことが言えるかもしれないが、そうなった経緯から語れば事はそれほど単純ではないだろうし、そのような規範が成り立っていることを巡って、それを守ろうとする個人や集団と破ろうとする個人や集団との間で絶え間なく抗争が続いていて、それを守る側が優勢に戦いを進めている範囲内でそのような規範が成り立っているわけで、ひとたびそれを破る側が優勢になれば規範など成り立たなくなるだろうし、またそれを破る側にしてみれば自分たちに都合がいいような規範を成り立たせたいわけで、これまで成り立っていた規範の代わりに別の規範を作りたいわけで、そのためにそんな抗争を繰り広げている中で、戦いを優勢に進めている個人や集団が社会の中で主導権を握って、自分たちに都合のいい規範を成り立たせようとしていることは確かなのではないか。

 議会で法改正や新たに法整備が行われるのもそのような経緯が背景にあるのだろうし、そこで自分たちを利するような何らかの目論見や企画などが提起されて、それを巡って敵対する勢力との間で利害や主張が対立して抗争に発展することになるわけだが、その一方で行政府は行政府の都合のいいように議会をコントロールしようとするだろうし、議会で主導権を握っている勢力と行政府が癒着するのも、双方の思惑や利害が一致する限りでそうなるしかないのだろうが、果たしてそうすることが社会に暮らすすべての人々にとって必要なのかといえば、必ずしもそうとはいえないだろうし、それが世の中のためになっているのかといえば、それも必ずしもそうとはいえないと思うなら、そう思う人は法改正や法整備を行おうとする勢力を必ずしも支持しているわけではないということになるだろうし、様々な経緯や成り行きや紆余曲折を経て、何らかの法律や慣習や制度などが社会に定着しているとしても、実際にそうなっているからといって、そこに暮らす人々がそれを全面的に受け入れているわけではないのはもちろんのこと、それを認めているわけでもそれに賛同しているわけでもなく、普段からそんなことを意識しているわけでもないだろうし、それほど興味があるわけでもなく、ただそんな規範が成り立っている状況に対応しようとしているだけなのではないか。そして時にはそれが煩わしいと思ったり、何かの弾みでそこから外れることをやってしまったりするわけで、意識して故意にそうしてしまったり、気がついたらそういう成り行きになっていたり、終始自覚のないままそうなっていたりもするわけで、別に利害関係を意識して特定の個人や集団と敵対しているとも思わない場合もあるだろうし、敵対勢力と抗争を繰り広げている自覚などない場合まであり得るだろうから、そのような規範の程度にも強度にも差があることは確かで、それほど拘束力を意識できない規範なら人畜無害と思われても仕方のないところなのだろうが、何かそれを守ったりそれに従うことに抵抗を感じるような規範があれば、それを巡ってあからさまな利害関係が生じている場合もあるだろうし、感情的に不快感を生じさせるような内容であれば、そういう規範はなくなってほしいと思うだろうし、それによってはっきりとした損害を被っているようなら、切実にそう思われるだろうし、それが社会問題化しているようなら、それに関して法改正や法整備が行われる背景となるのだろうか。


6月10日「マイルドな保守化」

 人は状況の不快さにどこまで耐えられるだろうか。不快だからといって直接不快さをもたらしている原因を取り除けるわけでもなければ、ひたすら耐えるしかないのかもしれないが、その一方で不快さに耐えながらもそこから利益を求めていることも確かであり、不快な状況にも耐えられるのは、そこから何らかの利益を得られているから耐えられるのであり、そこで絶えず不快さと利益とを天秤にかけていて、例えば状況が耐えられる限度を超えているように感じられるとすれば、もはや耐えていても割りに合わないように感じられるから耐えられなくなってしまうのかもしれず、そうなると状況によっては暴動が発生したりするのだろうし、そこまでいかなくても何らかの政変が起こるのは、そこに耐えられる限度を超えた不快な状況がもたらされているからではないのか。そんなわけで意図的に政変を起こそうとする勢力は、不快な状況をもたらしているのが自分たちの敵であることを強調して、民衆が何らかの手段を用いて敵を倒すように呼びかけるわけだが、民主的な政治体制が確立されている国であれば、選挙に勝利して政権交代を目指すわけで、敵といっても命のやり取りを伴うような戦いの相手ではなく、議会で与党と野党を構成する政治レベルであれば、それほど深刻な状況がもたらされているともいえないのかもしれないが、政変に乗じて主導権を握った側が政敵を捕らえて処刑するような状況ともなれば、もはや平和な状況とは言い難いわけで、例えばクーデターが起こって元大統領に死刑判決が下されたエジプトなどは、民主的な政治体制ではないことが一目瞭然なのだろうが、未だにそんな可能性があるような国々と、総選挙をやって与党が過半数割れになっても、まず暴動やクーデターなどは起こり得ないイギリスなどの民主的な国々との間には、どう考えても民衆に不快さをもたらす程度に著しい違いがあるだろうし、そこで命がけでテロを起こすような人々は、それが移民やその子供たちであるならば、国を捨てざる得ないほどの母国の惨状と、移民先の国の状況との落差が不条理に思われるだろうし、移民先の国での移民やその子供たちへの有形無形の差別も耐え難く感じられるだろうか。

 だからと言って誰もがテロを起こすわけでもないし、一部の過激で狂信的な思想に取り憑かれた人々がテロを起こすのだろうが、実際に移民系の人々がテロを起こせば、それを口実に移民排斥を掲げる勢力が勢いづくだろうし、そうやって何かしら攻撃対象を作って対立を際立たせて、それを政治問題化して民衆の不快感や不安感を煽り、やはりそんなことに乗じて政変に結びつけたい思惑も生じるのだろうし、直前に起こったテロが直接の原因だとはいえないのかもしれないが、大方の事前の予想に反してイギリスの総選挙で与党が過半数割れとなった結果に、相次ぐテロが何らかの影響を及ぼしたと考えても、それほど間違ってはいないのではないか。そして現状がそうだとしても歴史を遡れば、かつてはイギリスでも政敵にあらぬ嫌疑をかけて処刑するような時代があったわけで、それは他の民主的な政治制度が確立している国々でも言えることで、それに関して状況が時間の経過とともに進化してきていると思うのは勘違いかもしれないが、現状で内戦やクーデターなどが頻発している地域であっても、何かのきっかけで民主的な政治制度が確立される可能性はあるだろうし、そこでおびただしい数の犠牲者を出すような悲惨な出来事が数多く積み重ねられた上でないと、そうはならないのだとすれば、そういう過程が今現に進行中だと言えるだろうか。そうだとしても一方的に一つの方向に進化するのではなく、絶えず途中で揺れ戻しがあるのだろうし、日本でもあからさまな暴動や内戦が起こるような時代へと逆戻りすることはないにしても、多少は体制の強化とそれに逆らう勢力への締め付けが目立つ状況にはなってきているのかもしれず、そういう傾向がどれほど民衆に不快感をもたらすかは、まだ何ともいえないところかもしれないが、今後世論調査や選挙で何らかの変化が起これば、そういうことが影響を及ぼしている可能性はあるだろうし、それが場合によったら政権交代をもたらすかもしれないが、もしかしたらそのような進化もある一定のレベル以上には進まないのかもしれず、いったんそうなってしまえば政治的にはそこで停滞するしかなく、そんな定常状態が総じて民主的な政治制度が確立された諸国では起こっていて、それがマイルドな保守化とでも言えるような状態なのではないか。


6月9日「意外な真実」

 何か出来事を説明しようとするとき、物事の因果関係によって結び付けられる原因と結果以外にも物事があるのは確かだが、それ以外の物事の因果関係まで求めることはできないのかといえば、たぶん世の中の全ての物事の因果関係を想像することはできそうだが、物事が無限にあるとすればその因果関係も無限にあるだろうし、無限にあるとすればそれらを一つ一つ説明することは不可能だろうが、ならば無限にあるそれらの物事の中から、特定の物事とその因果関係を説明することに何の意味があるだろうか。たまたま興味を持った物事についてその因果関係を説明しようとするのであり、その説明の中ではそれ以外の物事とその因果関係は無視されているわけで、無限にある物事の中からその説明に必要な物事が選び出されて、それに関する因果関係が説明されるわけだが、なぜ選び出されるのかといえば、その物事に興味があるからということになれば、そんな当たり前のこと以外に大した理由もなさそうに思われるが、そもそもそれに関して因果関係が導き出されたら何がどうなるのだろうか。要するにその出来事に関する説明が成り立つということだろうし、そこで起こっている出来事に関してそうなった原因がつきとめられて、その原因と結果が結びつけられ、原因と結果を結びつけるように説明できたということなのだろうが、場合によってはそんな結果を招いた原因が重視されて、例えばそれが何らかの事件に関する説明となると、事件を起こした当事者がその事件の原因そのものなのだろうし、起こした結果に関して責任を問われることになりそうだが、そうなると物事の因果関係を特定することは、法的な範疇では必要不可欠なことであり、必要に応じて原因と結果が結びつけられると考えれば、それ以外の不要な物事は無視すればいいことになるだろうか。

 無視できなければ物事の因果関係を特定しようとするだけでは不十分になるわけだが、そうなると原因がわからないことや結果に至らないことまで説明の対象となってくるだろうし、世の中に無限の物事があり、それらすべての因果関係を特定することなど不可能に思われるのだから、わからないからといって無視する必要はなく、わかることだけ説明するのでは不十分と思われれば、わからないことまで説明する必要に迫られるだろうし、そこでどこまでがわかっていて、どこからがわかっていないことなのかを説明すればいいとなると、場合によってはわかっていることとわからないことの区別が不明確な領域まで出てきそうで、そういうところは推測で語るしかなさそうだが、そういうことまで含めて何をやろうとしているのかといえば、できるだけ説明の範囲を広げて詳細に語ろうとしているのだろうか。わかっている事実だけをつなぎ合わせて説明すると、一見それが真実であるように思われるだろうが、たぶんそのもっともらしく思われる部分というのが、事実と事実をつなぎ合わせる手法から生み出される効果なのだろうし、そこに説得力を伴うような論理があって、そんな論理に適合するような事実が意図的に選ばれているわけで、そうやってそこで起こっている様々な出来事の中から取捨選択が行われているのであり、悪くいえば説明するのに都合がいい出来事だけが選ばれて、都合の悪い出来事が無視されている場合があるわけだが、そういうことまで考慮に入れてうまく語るには、説明に都合のいい出来事を意図的に選んで説明するとともに、それ以外の出来事もあって、それがそこでの説明の範囲外であることが示されていればいいわけで、特に示されていない場合であっても、それが全てを説明しているわけではないことがわかるような説明になっていれば、いらぬ邪推からも免れられるかもしれないが、それを批判する側はわざと邪推するわけではないにしても、そこで語られていること以外から援用して批判する場合もあるだろうし、そこでも批判するのに都合がいい物事が選ばれているわけで、それが意図的であるか否かはともかく、物事に関する説明には絶えず必要に応じてそのような取捨選択が行われていて、その取捨選択の仕方がその説明のもっともらしさを生んでいるのだろうが、案外そのもっともらしさから外れたところに、説明しようとする意図とは別の真実が含まれているのかもしれない。


6月8日「秩序の安定」

 いったん出来上がった世の中の秩序なり体制は、それなりに安定しているように思われるほど、そうなる必然性があったように思われるだろうし、いったんそうなってしまえば容易には揺るがし難く、覆せないようにも思われるのではないか。そうなる途上や過程においては、そこに介入してくる様々な偶然の成り行きや巡り合わせに左右されるものの、そういう成り行きが一段落して事態が収束した後では、必然的にそうなったように思われるのだろうし、何事も起こった結果から見ればそれなりの必然性が導き出され、そんな必然性を肯定することで、結果的にそこから利益を得て、その社会の中で有利な地位や立場を占めた人や集団が、自らの存在を正当化することになるわけだが、そうやって確立された社会の秩序や体制は、変えようとして変えられるようなものではないだろうし、たとえそこで住民の間に経済格差や差別などの不均衡が生じていようと、そこに優位な地位や立場を得て主導権を握っている人や集団が存在する以上は、そういう勢力を弱めたり排除することで不均衡を是正するのは困難を極めるだろうし、それよりも放っておけば必ず特定の人や集団の有利な地位や立場を固定化させる方向で事態が進んでいくのではないか。だからそのような社会の不均衡の固定化を阻むような試みというのが、果たして人為的に可能なのかどうかが、一応は政治に問われている課題なのだろうが、もちろん社会で主導権を握っている勢力が政治的にも主導権を握っているわけだから、自分たちを有利に導いている現状を変えようとは思わないだろうし、有利な地位や立場を自ら手放したりする愚など犯すはずもなく、そんな課題など理想主義者が抱く空想や妄想の類いだと言われてしまえばその通りであり、その代わりに政治的な課題は自分たちにとって有利な現状をいかに維持するかということになれば、現状で不利な状況になっている人や集団にとっては、それは受け入れがたいことにもなるだろうが、あからさまにそう言ってしまうと差し支えがあるだろうから、何かそこに不利な現状を受け入れさせるごまかしや方便が必要となってくるのであり、それがかつては国家主義的な理念としてあったわけだが、その国家の臣民として課せられた各自の立場に応じて割り振られた役割を全うすることが、各自を幸福に導くというのが、果たして今の時代に通用するのか否かも、現状では何とも言えないところだろうか。

 たとえ現状で不利な立場にあろうと、それなりに生きて行ければ、生きていくうちに次第にそんな現状を受け入れるしかなくなるだろうし、また不利な立場にある人や集団もそれなりに活かさないと、有利な立場にある人や集団も生きてはいけないわけで、結果的に大多数の不利な立場にある人や集団がほんの一握りの有利な立場にある人や集団を支えることで、社会が成り立つ状況が固定化される傾向にあるわけで、その内容に違いがあるにしても、それは昔から変わらぬ傾向なのかもしれず、相対的には昔も今も世の中は一握りの特権的な人や集団に支配されているとも言えるわけだが、その支配の形態が昔ほどにはあからさまではなくなってきたとも感じられるとしたら、それが民主主義的な政治体制の効果なのだろうし、できるだけ公正公平な選挙によって代表者を選ぶような政治システムが、あたかも特権階級の支配から脱却したかのような幻想を生むのだろうが、ある程度はそれなりに成功している面もあるのだから、たぶん誰にとってもそれを維持する方向での努力が欠かせないのだろうし、そのような傾向を歪めようとする行為には反対していかなければならない状況にもなっているのではないか。その一方で現状で主導権を握っている勢力は、当然主導権を手放したくはないわけで、できれば自分たちの立場や地位を固定化して、完全なる支配体制を確立したいわけだから、それが嫌なら絶えず反体制的な勢力を応援せざるを得なくなるわけで、そこにもそれなりに必然的な傾向が見られるわけで、しかもそういう傾向でさえも放っておけば固定化してしまいかねない状況もあるわけで、体制派は体制派の立場を安定化させたいし、反体制派の方でも絶えず反対する立場の中で自足したいし、たとえ現状で不利な立場を割り振られていても、その立場の中でそれなりに自足できれば、そのような立場の固定化に抗えなくなってしまうわけで、そこから抜け出ようとしなければ、それなりに存在し続けられるわけだから、そのような固定化であっても社会の中で一定の支持を得ながら受け入れられる傾向にあるのではないか。そうやって世の中は絶えず安定しようとする傾向にあるのかもしれず、そしてそれも人や集団が行使する権力の不均衡の固定化につながるわけで、要するに世の中が安定しているということは、そこに生じている力の不均衡が固定化しているということであり、別に誰もが公平で平等であるような理想的な社会が実現しているわけでもないわけだ。


6月7日「戦争への杞憂」

 ちょっとした差異や歴史的な経緯があるところに宗派間対立が生まれるのかもしれないが、キリスト教徒の中でカトリックとプロテスタントとの対立が目立たなくなったのは、いつの頃からだろうか。それ以前にローマ帝国の東西分裂以降は東方教会と西方教会との対立があったわけだし、さらにキリスト教の母体となったユダヤ教に対する差別も断続的にあったわけだ。そして現在はイスラム教の中でのスンナ派とシーア派との対立が、内戦を誘発するほどに激化しているわけだが、それはそれぞれの宗派の中で主導権を握っている民族であるアラブ人とペルシア人との対立であり、国でいえばサウジアラビアとイランとの対立となっているわけだが、アメリカが敵視しているイランは、一応は圧政を敷いていた王朝を倒して曲がりなりにも民主的な国家を樹立したわけだから、欧米諸国に近い歴史的な経緯があるわけだが、その倒した王朝というのがアメリカの傀儡勢力だったわけで、しかも革命によって成立した国家体制も、欧米と比較すれば民主的な体制とは言いがたく、宗教色の強い独裁体制が数十年も続いたわけだが、ようやくここ数年で宗教の呪縛がいくぶん緩和されて、それに伴って欧米との対決姿勢も軟化する傾向にあるのだろうが、しかしそうなると困るのが、アメリカの後ろ盾を背景にして独裁的な王朝や首長体制を築いている他の湾岸諸国なのだろうし、国家を特定の一族が支配している現状があるわけだから、欧米諸国からはかけ離れた国家体制であり、そこに埋蔵されている石油や天然ガスなどの資源がなければ、民主主義の理念からすれば許し難い状況なのだろうが、経済的な利益がそれを許している事情というのが、その地域の民族や宗派間の対立も絡めて情勢を混沌とさせているわけで、さらにイスラエルの存在もそれに輪をかけてどうにもならない事情だろうし、そこからイスラム原理主義勢力によるテロも生じているのだろうから、現状で解決などあり得ないように思われても仕方がないのかもしれず、実際にここ数十年間は何も解決していない状況が続いているのだろうか。

 そしてなぜか唐突に湾岸諸国の一つであるカタールが、過激派やイラン寄りの武装勢力とつながりがあるとして、周りのサウジやバーレーンやアラブ首長国連邦やエジプトなどが国交を断行して、多額の経済的な損失が懸念されているわけだが、直前にアメリカの大統領がサウジを訪問していたのだから、裏で糸を引いているのがアメリカであることは歴然としているのだろうし、それにアラブの盟主であるサウジが乗っかって、そこでイランと敵対しているアメリカとサウジアラビアの利害が一致した格好になっているわけだが、果たしてカタールとイランとの関係というのが、アメリカとサウジほどに緊密な連携関係なのかといえば、なんともいえないところだろうし、例えばカタールの衛星テレビ局のアルジャジーラというのが、湾岸戦争以後中東のCNNとして脚光を浴びていて、その反権力的で改革開放的な報道姿勢が宗教的な保守派の目の敵となっていて、今回の国交を断行した国々で真っ先に放送が遮断されたそうだが、そのような放送局自体もイランの政治体制と同じように、どちらかといえば欧米寄りの姿勢なのだろうし、逆にアメリカ政府が片方入れしている勢力の方が、欧米の価値観とは真っ向から対立するようなことをやっているわけで、サウジアラビアの王族支配やエジプトの軍事独裁政権や、最近はトルコでもクルド人勢力のテロを口実として大統領による独裁傾向が強まって、軍事クーデターも未遂に終わったりして、不穏な空気に包まれているのだろうが、それに輪をかけて今回の周辺諸国によるカタールとの国交断行だったわけだから、関係者にそんな自覚がなくても、戦争を望んでいるとしか思えないような事の成り行きとなっているわけで、そうなってしまう背景があるだけに、その地域のどうにもならない様々な事情を、戦争でも起こして一気にリセットしてしまおうとする思惑が、誰彼問わずにそんな機運が高まっていることだけは確かなようで、果たしてそれが実際に周辺諸国を含んで大規模な第三次世界大戦とまで形容されるほどの戦争に発展するかどうかは、その前の第二次世界大戦からはだいぶ間が空いているので、そんなのは杞憂かもしれないが、あるとしたら前世紀末の湾岸戦争に始まり、今世紀初頭の同時多発テロをきっかけに勃発したアフガン・イラク戦役を経て、ついにアメリカ本土までその戦禍が拡大すれば、かつてそれを目指した旧日本軍の亡霊たちも殊の外喜ぶだろうか。


6月6日「情報の質」

 試されているのは良識ではなく倫理でもない。いかにして制度に逆らうかでもないらしい。では何が試されているのかといえば、それは積極的には何もいえないようなことだろうか。そうであるなら消極的には何かに従っているのだろうか。従うとか逆らうとかではないとすれば、そのような対象などあり得ないということか。どうも何を試すような世の中ではなく、何に従うような世の中でもないらしい。そこで何が試されているわけでもなく、何に従わせようとしているのでもない。では何なのかといえばそれは誘惑の対象となっているのだろうか。それとは人のことだろうか。どうもそれは必ずしも人というわけではなく、人の意識でさえないのかもしれない。ならば果たして人の身体が操作の対象となっているのだろうか。それもあるのかもしれないが、厳密には身体でさえなく、人を取り巻く空気とか環境とかが、技術的に制御の対象になっているのだろうか。ではそこに人が含まれているのだろうか。もはやそれは人とはいえないような何かなのではないか。それは集団意識のようなもので、人からもその身体からもはみ出ていて、場合によっては人も身体も含まないような実体のない何かなのかもしれない。それはネットなどの情報網を経由して端末の画面に映し出された画像や映像や文字の連なりのようなものなのではないか。もちろんそれらの集合体は瞬間的あるいは恒常的にテレビの画面にも映し出されているし、新聞や雑誌などの紙面にも印刷されているのだが、それが視聴覚映像として人の脳内にも取り込まれて、記憶として定着する場合もあるわけで、そんな何らかの処理を施された情報が、この世界のあちこちに行き交い、電子機器やディスクや紙媒体や人の脳内に保存されたり蓄積され、そこでまた離合集散や変形などの処理を施されて、さらに世界のあちこちへと伝播していくわけだ。それだけのことだろうか。そう考えればそれだけのことかもしれないのだが、それがそれ以上の何かを意味することもあるだろうし、何の意味も持ち得ない状況もありそうで、たとえ言葉の連なりとして何を意味しようと、そんな意味が何らかの意味として受け取られたり、場合によっては無視されていたりするだけか。

 加工された言葉の連なりに意味を担わせようとはしているのだろうが、それがそのままの意味として受け取られるわけでもないらしく、恣意的に解釈されるしかないのかもしれないが、どう解釈されたところで、またそれがどのような形で利用されたところで、劣化したり消去されたところで、所詮は様々な情報のうちのいくつかでしかないのだから、また新たにいくらでも再生可能なのかもしれず、情報そのものの価値というのは、その必要性に応じて高かったり低かったりすることは確かだろうが、たとえ希少だろうと貴重だろうとそう思われるだけで、そう思われる一方でそう思われない場合もありそうで、思われるか思われないかもその場の状況に依存しつつも、恣意的な判断や解釈に委ねられているのではないか。そしてどうもそれが世論を構成するような多数派の意識に同調したところで、同調できるような変形を被っているだけで、それだけ内容が劣化するような変質を被っているだけなのかもしれず、誰の意志によって変えられているわけでもなく、それによって誰の意志を変えようとしているのでもなく、ひたすら同調するような内容に変質し続けているだけではないのか。そしてそのような作用を積極的に肯定しようと消極的に受け入れようとしても、何が報われるわけでもないのかもしれず、たとえそれを否定して批判してみても、そのような作用を止めることはできないのかもしれないが、だからと言って無理に同調する必要もないわけで、無視しようと思えばいくらでも無視できるだろうし、そうと自覚することなく無関係を装うこともできそうで、関係者や当事者でなければ直接の影響を被るわけでもないのかもしれず、特に意識が恣意的な解釈にさらされることもないだろうか。他者や何らかの集団が介入してこなければ、それ以上の進展はあり得ず、進展がなければ変形も変質も被らず、他の何に利用されることもないのだろうが、利用されない限りは無価値のままなのだろうし、利用価値がある限りで価値があるということになるのだろうが、価値がなくても情報を生産できることは確かで、生産された膨大な情報の中から、あるものは利用価値が見出されて利用され、他の大半は蓄積されるだけ蓄積される一方で、蓄積する余地がなくなれば廃棄されて消去されるだけだろうが、別にそれで何の不都合があるわけでもないらしい。


6月5日「行為する事情」

 世の中には絶えずそうすればいいとか、そうしなければならないとか、そうせざるを得ないとかいう規範が様々に生じていて、そのような行為をさせる制度や慣習があるのだろうが、それらがある一方で、そうしてはいけないという禁止事項が法律などで設定されていて、しかもあえてそうせざるを得ない状況が生じてしまう成り行きまであるわけで、状況的にはそうせざるを得ないが、そうしてしまうと法律に違反したり、慣習に反したり、制度に逆らってしまう場合があるわけだから、そうすることが正しかったり間違っていたり、正しいことができなかったり、間違っていることをやらざるを得なかったり、さらにそのどちらとも言えないような行為まで含めると、やっていることの程度にもよるだろうが、それを世間が許容できるかできないかという判断基準があるにしても、実際にそれができてしまうし、やろうとしてやってしまったり、やろうと思わなくても思わずやってしまうような状況があるわけで、それが社会に害を及ぼすようなことなら、やったことに対して何らかの制裁が課せられる場合もあるわけだが、一方でそんな行為が後を絶たない場合は、そうすることが必要だから絶えずそういうことが行われる成り行きが、社会の中で形成されている状況もあるわけで、それも現状の社会が成立している上では欠かせない条件ともなっていて、社会に危害を及ぼすように思われる行為が社会の成立条件となっているとすれば、それもある種の慣習であり、たとえ悪習と言えどもそれが常習化している現状があるということは、ある種の人や集団がそれをやることによって利益を得ている現状があり、しかもそれを取り締まる側にも、取り締まるという行為を生じさせている限りで利益をもたらしているわけで、実際に取り締まっている現状がそのような行為に携わる人や集団を存在させているわけだ。それが良いか悪いかとは別に、法律違反をする側と違反を取り締まる側との間には、双方の行為を継続させることに関して利害関係が成り立っていて、どちらにもそれをやめられない事情が生じているのではないか。

 そのような利害関係が様々な水準で成り立っている限りで、現状の社会が存在していて、その中で対立し合う者同士が一方では支え合い、そう自覚しているか否かに関わらず、結果的には双方が関わっている利害関係を維持し守ろうとしているわけだが、それについて極端な例を持ち出すなら、テロリストはテロを行える社会環境を守ろうとしているのだし、テロと戦う側はその戦いが継続するような環境を維持したいのだろうし、ではそれらの利害関係を共有する人や集団が実際にどうすればいいかと言えば、やる側は延々とテロを繰り返すしかなく、それと戦う側は監視を強めたり、取り締まりを容易に行えるような法整備を進めるしかないわけで、そうなると結局は利害関係が強化されつつ拡大していくような成り行きとなるのかもしれず、そういう水準ではやるべきことややっていることの際限がなくなってしまうようにも思えるわけだが、では根本的なところでテロをなくすにはどうすればいいのかとなると、それに関しては何かもっともらしい提案ができそうにも思われるかもしれないが、それを実際にやるとなると荒唐無稽となってしまい、全く実現性のないような提案ならいくらでもできる反面、すぐに効果を上げてかつ実現できるような提案となると、現状ですでにテロを巡る強固な利害関係が成り立っているように思われるわけだから、それを突き崩すのは容易なことではなく、実際に世界各地でテロが頻発している現状がある以上は、今のところはそれを防止する効果的な手立てはないと言えるのかもしれない。そのような行為をやることに凝り固まっている人や集団が存在している以上は、そこにそう仕向ける事情があるということだが、そんな事情を直接根絶しようというよりは、人や集団をそれとは違う方向へと導くような事情が生じれば、自然とそちらへと向かうような成り行きになりそうなものなのだろうが、意識してそういう方向を模索するのではなく、それとは全く無関係に思われるところで、何らかのムーブメントがすでに発生している可能性もあるわけで、それを見つけるきっかけが生まれればいいのだろうが、それに関してメディアの本来のあり方というと、本来も何もありはしないのかもしれないが、メディアがそういう何かを見つけて流行らせるような成り行きとなれば、思いがけないところからテロが下火となったりする可能性もありそうだが、今のところはそれも気休めの無責任な願望でしかないだろうか。


6月4日「空疎な現象」

 何か物事に核心があるように思われるのは、それは事件を起こした動機だとか、その中心となるような何らかの現象があることかもしれないが、逆にそう言うのが見当たらないとなると、何かそこで様々な出来事が複雑に入り組んでいて、全体として何らかの現象を構成しているとしても、そこに作用している要因を順々に取り除いて行くと、最終的には何も残らず、何がそれの中心となって作用していたわけでもなく、その現象の主体となるようなものは何もないのに、何やらそこで何らかの興味深いことが起こっていて、それがつかみどころがないような様相を呈しているように思われるだろうか。そうなるとそれに関してはっきりしたことは何も言えなくなってしまいそうだが、たぶんそこで何もかもが偶然の巡り合わせのように介在しているとなると、それに関して何をどう説明すればいいのか皆目見当がつかなくなるだろうし、たとえそれに複数の人物や何らかの集団が介在しているとしても、それらのうちの誰が主導的な役割を果たしているわけでもなく、誰に責任を転嫁するわけにも行かなくなってしまいそうだが、それでも全体としてそのようなことが行われていて、それによって社会が少なからず変動を被っているように思われ、そこに暮らす人々に無視できないような影響を及ぼしているように感じられると、やはりそれが思考の対象として何らかの重要性を帯びているように思われるだろうし、多くの人がそれに言及せざるを得なくなるのかもしれないが、実際にメディアを通して行われるそのような言及や説明がことごとく的外れに思われるとすれば、何かそこに誰も気づいていないような物事の核心があるのかもしれず、それがその現象を解明するための鍵であると思われれば、当然それを探り出したくなるだろうし、実際にそんなことを語りたがる人が後を絶たないような現象があるとすれば、そこに未だ解明されない謎があるようにも思われるだろうし、そんな謎を解き明かすことが、それに言及しようとする人たちの使命であるかのように思われてくるだろうか。

 謎が謎である限りはそんなことが言われ続けるのだろうが、何かのきっかけで謎が解き明かされて謎でなくなれば、解き明かされた時点では話題となるだろうが、それ以後は次第に興味が失われて、事態が一段落すれば誰もそんなことに情熱を掻き立てられなくなり、そうなるのが当然のことように思われる現象でしかなくなってしまうだろうが、まだそれが謎だとも思われていない段階の現象もあるのかもしれず、それの何が謎であるとも思われず、誰にも興味を持たれないような現象というのが、実際に社会を揺り動かしていて、そこに暮らす人々をとらえて離さないような状況を形成しているのだとすれば、まずはそこに人々の注意を向けさせる必要が出てくるのかもしれず、それに関して具体的に啓蒙や宣伝活動をするような成り行きとなると、そこでメディア的な煽動が介在してきて、それに関して何らかのキャンペーン活動が行われることにもなるわけだが、そんな中で世間的に気づかれているようなこととは別に、ごく一部の人々によって何らかの隠された意図のようなものが想定されてしまうと、そういう意図を持っているような人や集団が、そこで何らかの陰謀を巡らせているようにも思われてくるだろうし、そんな陰謀によって世の中が操られて、そんな人や集団の思惑通りの成り行きが今まさに進行中のようにも感じられてしまうのだろうが、そういううがった見方こそが妄想でしかないと主張したい人々も世の中にはいるわけで、そんなことを巡って何かの事情通のような立場を占有したくて、それが陰謀だと主張したい人々との間で抗争を繰り広げている状況というのもあるのかもしれず、それらのどこまでが事の真相を語っていて、どこからが虚構でしかないかは、それらの事情通を自認している人々の間でもよくわかっていないところかもしれないが、そのほとんどが憶測や推測の域を出ないような話ならば、どこまでが真実であろうとどこからが虚構であろうと、とりあえず興味深く思われるなら、たとえ虚構であろうと信じてみるだろうし、さらに信じることによって何らかの利益がもたらされるように思われるなら、たとえ嘘だと思っていても、それが真実であるかのように語ろうとするだろうし、そんなデマを嬉々として世の中に広めようとするだろうか。


6月3日「障害物」

 現状を分析することが何をもたらすのかと言えば、現状をよりよく理解することにつながると思われるが、では現状をよりよく理解することから何がもたらされるのかと言えば、それ以上に何がもたらされるわけでもないだろうか。過去を分析することからは教訓の類いがもたらされるかもしれないが、それと同じように現在を分析することからもやはり教訓がもたらされるとなると、過去と現在の違いは何なのかという疑問も湧いてくるが、分析できるのは過ぎ去った時間内で起こっている現象でしかないわけだから、現在といっても現時点から時間的に近い過去でしかなく、何やらそこから教訓や反省がもたらされるとしても、それは総じて過去でしかないだろうし、それが今ある状態のように感じられても、すでに起こってしまっていることであり、それが今まさに起こりつつあることであるように思われるのだから、そこでは絶えず過去と現在の連続性を確認し続けていることになるだろうか。そうだとしても今ここでこの時代で何が起こっているのか、と問わずにはいられないとすれば、それと同時的に今ここに今この時代に存在している自分とは何なのか、という問いも導き出されてくるようにも思われるだろうし、何が自己を存在させているのかとも問うことができれば、現状の中で自分は何をしているのか、あるいは何をやらざるを得なくなっているのか、さらに何を強いられているのか、ということを自分は理解したいのだろうか。そんなふうに絶えず自らに向けて問いを蒸し返してみることが、果たして現状を分析していることになるのだろうか。そんな果てしない自己へと向かう堂々巡りから逃れるには、分析の対象を自分以外に向ければいいわけだが、たぶんその対象に興味を持ったから分析したいと思うのだろうし、興味を持ったからにはそれが自分と何らかの関わりがあるように思われるだろうし、それを分析することによって、それに興味を持っている理由を知ろうとすることにもなるだろうし、そこからそれに興味を抱いている自分とは何なのか、という問いに回帰してくるように思われるなら、結局は最終的に自己への問いに突き当たってしまうわけだが、それが自意識過剰な捻じ曲げやこじつけでないとするなら、そんなふうに思わせる現状とは何なのか、という問いに答えようとすることが、自己を含めた現状の分析へと自らを駆り立てているのだろうか。

 自分が絶えず現状につなぎとめられていることは確かかもしれないが、それは現状のほんの一部分にすぎず、自分とは関わりのないところで構成されている現状がほとんどだとも思われるだろうし、自己中心的に世界が構成されているわけでもないのは、誰もが承知していることではあるのだろうが、一方でそんな世界を認識しようとする自己が存在しているのも事実だろうし、そんな自己と自己が分析する対象となる世界との関係を理解することが、自己分析にも繋がると考えれば、そこで思考の対象が自己へと引き戻されてしまうわけだが、性急に自己へと戻ってくるのではなく、まずは自己を遠ざけて世界の現状を客観的に理解しようとしなければ、そんな自意識過剰の罠からは逃れられないだろうし、なぜ自らに自意識過剰がもたらされるのかと言えば、自分を良く見せたがるような環境の中で暮らしているからだとも言えそうだが、そんな虚栄心を煽り立てるような風潮が世の中に蔓延している状況というのもあるのかもしれず、周囲が自己の存在を認めてくれるように振る舞いたいし、世間に自分の存在を認めさせたいという欲望を抱かせるのも、そういう風潮の中で生きているからだとも言えるのかもしれないが、それを敏感に感じ取っているからこそ、逆にそんな時代の傾向に逆らいたくもなるのかもしれず、それが自己を減じてあるいは自己抜きで、客観的な現状認識へと至ろうとさせるのかもしれないが、果たしてそうなれば認識の客観性へと至れるのかと言えばそうでもないのかもしれず、認識の客観性を求める意識自体が、それを認識しようとする自らの限界を考慮していないわけで、何かとすぐに虚栄心や欲望にとらわれてしまう自己を忘れたいという思いが、潔癖症的な理性の顕現を求めてしまうのかもしれず、要するにそれは全てを見通せるような神の視点に立ちたいという欲望の表れで、それも結局はある種の虚栄心や自意識過剰に引き戻されてしまう心理現象であり、そんなふうにどうあがいても自己から逃れられない宿命にあるわけで、そんな自己の限界を考慮に入れた上でないと、現状をよりよく理解することは不可能なのかもしれず、自己を考慮に入れない客観的な現状認識に何が欠けているのかと言えば、そんな認識を導き出そうとする自己であるのは言うまでもないことであり、そこで絶えず障害物として目の前に自分自身が立ちふさがっている現状を見ようとしていないわけだ。


6月2日「日常の盲点」

 意表をついた振る舞いは、相手の意表をついて隙を作るようなフェイクの動作から意識的にもたらされる場合と、結果的にそう思われてしまうような偶然の巡り合わせからもたらされる場合とがありそうだが、意図せずにそうなってしまう場合は、相手だけでなくそんな動作をもたらした自らも驚いてしまうわけで、その場で自らの動作を意識的に制御できていないことに驚いているわけだが、そういう経験が自分で自分をコントロールしようとする傾向を生み出すのかもしれず、そんなふうに自分で自分を制御し支配しようとすること自体が目的化すれば、そうすることによって自分に何らかの利益がもたらされるような幻想も生まれるだろうし、具体的には自らの健康に気遣っていれば長生きできると思われたり、節約して浪費を抑えれば資産を保てると思われたり、常に笑顔を絶やさずにおおらかな気持ちでいれば、周囲の人間関係もうまくいくと思われたり、そうやって自らに配慮することから様々な幻想が生まれてくるのだろうが、スポーツの球技や格闘技などに見られるフェイクの動作も、相手の隙を作ってそこに攻撃を加えて、ポイントを稼いで勝利する目的があるわけで、そのために日々練習して身体を鍛えているわけだが、そのような鍛錬によって動作を極めれば、もはや意識せずとも自然に体が動くようにもなるのだろうし、それが高じて常に意識を省略して条件反射のように動作できるようになれば、自らの自らへの制御が完璧に行われていることの証しともなるわけで、そんな境地に至れば自分で自分を支配しているような気になれるだろうし、そのような動作によって実際に何らかの利益がもたらされれば、その効用を実感することにもなるのではないか。そのような無意識の条件反射は意図してそうなるように仕向けることで、それが起こっているわけだが、意図しなくてもそんなことが起こってしまう場合は、自分が他の何かに操られているようにも思われるわけで、薄気味悪くも思われて、場合によってはそうならないように心がけることによっても、逆説的に自らを鍛錬する目的が生じてしまうのだろうが、直そうとしてもなかなか直らない癖というのもあるわけで、その意図せずに身についてしまった癖というのは、それによって不利益が生じていると思われれば、意識してそれが出ないように心がけるし、懸命に直そうともするわけだが、それが利益をもたらしていると思われれば、自分の才能だと実感されて、そんな自らの長所を活かそうと心がけるのではないか。

 そんなふうに自らに配慮することを、自分だけなく他人に働きかけるとなると、そうさせることによって他人の自由を奪うような動作が生じていることにもなるわけだが、そのような動作はそうしなければならないという命令から、そうした方が利益になるという勧誘までの間で程度の差があって、その場での状況や人と人との間の力関係に応じて働きかけの手法も異なってくるだろうが、そうすることがもっともらしいように思われるような場合は、それが社会の中で規範として定着していて、制度や慣習としてそうするのが当たり前のこととなっている場合もあるだろうし、そうやって人の思考や行動を制御するような機構が、社会に備わっていると考えれば、そんな社会の中で生きている限りは、人の動作もある一定の範囲内に収まっているようにも思われるだろうし、そこに何らかの規格化作用が働いているとも感じられるわけだが、実際にやってもいいこととやってはいけないことが法律などで定められている場合は、やってはいけないことというのが、自らの意志に反してやってしまうようなことなのだろうし、あるいは故意にやってしまうことなのだろうが、日頃からやってはいけないことだと意識していても、その場の状況から思わずやってしまうようなことでもあり、なぜやってはいけないことをやってしまうのかと言えば、そこにやりたいという欲望が介在していて、やりたいと思わせるような社会的な状況もあるわけで、たぶんそんな欲望を煽るような働きかけが社会の中で生じているわけなのだろうが、そのような働きかけであっても、やはり社会に存在する制度や慣習がそうさせているのだとすれば、時にはそんな誘惑に負けてしまうのも、自己への配慮を促す要因にもなっているわけで、暴飲暴食が高じて生活習慣病に罹ったり、性欲と攻撃的な衝動が高じて強姦事件を起こしたり、それが自らの制御を欠いた思いがけない出来事のように感じられるとしても、そうなってしまう成り行きの中で絶えず自らに配慮しているわけで、自らに配慮し続けた結果がそうした出来事をもたらしているのだとすれば、自分の中で節制を心がけるような鍛錬と、欲望を増長させるような鍛錬とが、同時進行的に起こっているとも言えるのではないか。自分では何か一つの目的に向かって鍛錬しているつもりなのだろうが、意識できないところでそれが思いがけないような効用をもたらしていることを自覚できないわけで、それが効果となって実際に現れてみると、何かそこでちぐはぐなことを起こしている現状があるわけで、それが自らが日頃から行なっている鍛錬の結果だとすれば、そこで愕然とするしかないのかもしれないが、大抵はそんなことにも気づかずに日々を漫然と過ごしているのではないか。


6月1日「錯覚」

 物事を対立する観点から捉えようとすると、そこから肯定的なものと否定的なものが導き出されるように思われるが、何かと何かを区別するということは、そこに境界を設けることになるわけで、区別したからといって両者の間に相違点も共通点も認められるようなら、全く別々の物質や性質から構成されているわけではなく、区別できるような違いを言い表すにしても、地続きな部分を無視するわけには行かず、それを肯定しながらも否定し、否定しながらも肯定するような曖昧な部分も、同時に見ていかないと納得しがたいのかもしれず、実際に違いを強調しながら区別はできるが、それが違っていること自体に肯定も否定もできないようなニュアンスも付け加えられるとすれば、そもそも何かと何かを区別するとはどういうことなのか、という疑問に直面してしまうことにもなるが、ただ区別できること以外に別の答えを探そうとしても無駄だろうか。区別しなくても構わないのなら、別にそれを混同してもいいわけで、区別することにどんな意義も見出せなければ、それは無意味な区別となるしかなさそうだが、それでも区別せざるを得ないとすれば、そこに差異を設けないと説明できないようなことなのだろうし、その差異が微細になるほどより詳しい説明が必要になるのかもしれず、大雑把でいい加減な説明では満足できないからそうなってしまうとしても、果たしてそこまでやる必要があるのかとなると、説明する側にはその必然性があるにしても、それを受け止める側にとってはそうでもなければ、そんな説明には興味がないということになるだろうし、興味がなければそこで強調されている微細な差異など無視できてしまうわけで、無視できる限りで違いがなくなって、それらを区別する必要もなくなってしまい、その必要がない人にとっては、そこで強調されている対立も、それに対する肯定的あるいは否定的な評価も意味がなくなってしまうだろうか。

 それは区別がつきにくい微細な差異だけでなく、誰もがはっきりと認識できる違いについても言えることかもしれず、実際に激しく対立している現実があれば、両者が区別されて当然のことのように思われるだろうが、なぜどういう経緯で対立しているのかを考えてみると、対立している両者を結びつける共通の事情が浮かび上がってきて、場合によっては違っているからではなく、似ているからこそ対立せざるを得ない経緯まで想定できるわけで、そういう場合は両者を区別する微細な差異が問題となっているのではなく、両者が同じ問題を抱えているからこそ対立していて、しかもそれを隠蔽しながら対立している可能性まであるわけだ。そして両者が抱え込んでいる同じ問題とは、まさに対立そのものにあるわけで、対立することによってしか自らの存在を正当化できないという事情がありそうで、対立しなければ両者の違いを見分けられず、混同され同化してしまうのだとすれば、そこで問題となっているのは両者の違いではなく、両者が同じ構造から成り立っていることになるのではないか。同じであるから対立していないと区別できないということになると、対立していること自体には意味があるが、両者を区別することに大した意味はなさそうに思われるだろうが、両者がこれ見よがしに激しい対立を演じるほどに、何かそこに決定的な違いがあるように思われてくるわけで、そこで起こっている対立という出来事が、そんな出来事に魅了されている人々の間で錯覚を生じさせていて、よく敵対している両者が投げ合う無理なこじつけとか屁理屈のようにしか思えない言いがかりでも、実際に激しく対立している光景を見せられてしまうと、何かそれがもっともらしく思われてくるだろうし、そこで問題となっているちょっとした違いが、誰もがそこにこだわらないと済まないような、善意の連帯を誘っているように感じられてしまうと、やはり意識がそんな空気に呑まれてしまうわけで、そういう空気がメディアなどを通じて世の中に蔓延しているような状況というのが、どうでもいいようなことを絶賛したり拒絶したりする煽動によって形成されているのかもしれず、そういう意味でも何か世の中で激しい対立があるような状況は疑ってかからなければならないだろうか。