彼の声121999年5月27日しかし、 不思議な感覚だ。 何かがおかしい。 何がおかしいのだろうか。 よくわからないが、 何か変な感覚なのだ。 その何かがわからない。 EAGLESの「TAKE IT EASY」を聴いていると妙にハイな気分になる。 一度聴くと必ず繰り返し聴いてしまう。心配するな、気楽に行こう慰めの言葉であり、 励ましの言葉でもあり、 ようするにクサい人生応援歌だ。 しかし、 軽くてポップで乾いた感覚のこのカントリーフォークソングを聴いていると、 無味乾燥な日常で疲れきっている心が自然と和む。 行ったこともないのに、 はるか向こうの遠いウェストコーストに思いをはせる。 70年代、幻想の西海岸。 一時の気晴らしと安らぎの音楽。 それだけで生きて行けるわけでもないだろう。 しかしたまには聴きたくなる。 そういう曲なのだろう。 5月26日何か積極的に主張できないものだろうか。いつも否定的見解ばかりでは気が滅入ってしまうじゃないか。なんとか肯定的な言い回しにならないものか。しかし何 があるというのか。何を主張しているつもりなのだ。今これを書いている時点では知らないしわからない。結局、書き終って読みながらおかしな部分を修正して いるうちに、なんとなく言いたいことが見えてくるにすぎない。しかし、それは最初から言いたかったわけではないし、主張しようとしていたわけでもない。書 く前の自分に明確なはっきりした考えやヴィジョンがあるわけではない。つまり、自分の書いているものは自分の主張ではないかも知れないし、自分が書く前に 主張しようとしていたこととは違う結果になる場合もあるのではないだろうか。ただ何気なしに書きはじめ、書いているうちに、書かれた言葉の連なりから、結 果としての文章に、何らかの主張を、それを読む者が読みとろうとしているだけではないだろうか。しかしこれが積極的な主張なんだろうか。肯定的な言い回しなのか。何に対して積極的なのか。書かれた文章の偶然性に対して?何を肯定しているのか。文章自 体について?まったく何を主張しているのかさっぱりわからない(それは嘘だ、わかっているはずだ)。やはりこんな否定的見解ばかりでは気が滅入ってしま う。しかし何が否定的見解なのか?自分が書いた文章について自身の意図の関与を否定していることか?それもあるだろう。ではそれ以外に何があるというの か?これを書いている自分自身の存在について懐疑的なのだ。自分が存在しなければこの文章は存在しない。しかし似たような別の文章は存在するかも知れな い。かも知れない?それはあくまでも可能性であって、現実には存在しないかも知れない。やはりそれは、かも知れない、という可能性の範囲内 なのだ。しかしこの文章は現にこうして存在している。これは紛れもない事実だ。事実と可能性とは違う。だからこの事実について懐疑的なのだ。なぜこのよう な事実が現前しているのだ。それは私が今こうして書いているからだ。何やらいい加減にこんな文章を書いている私が存在する。しかし、私はこのような私の行 為に対しては否定的だし、これは単なる苦し紛れのゴマカシだとまで思っている。当然このような行為の正当性を積極的に主張しているわけでもない。
では、ここまで書いて来たこれは一体何だったのだ。そんなことはこれを読む者が勝手に考えればいい。私は知らない。これを書いている私は一切関知しない。
これを読んでいる私が考えればいいことだ。しかし書いている私と読んでいる私は同一人物である。そんなことは関知しない。これを書いている私はただ勝手に
書くだけだ。後は読みたければ勝手に読むがいい。しかし、書きながら同時に読んでいるのだ。だから勝手に読めばいい。勝手に書くから勝手に読め!それがこ
れを書いている私の積極的な主張なのだ。つまり私は勝手に書くことを過激に奨励しているわけだ。これは何ら否定的見解ではない。これはまさしく多分に肯定
的な言い回しなのである。しかし私は頭がおかしいかも知れない。だがそれとこれとは関係ない。どうして?別に頭がおかしかろうがどうしていようと、実際に
もうここまで書いてしまったのだ。あとは読んでもらうしかない。いや、もう既にここまで読んだではないか。 5月25日ガイドライン関連法案が国会を通過したようですけど、 どうなんですかね、 本当に近い将来日本の周辺で戦争が起こりますかね。 そして、 法案の中の周辺有事というのは朝鮮半島や台湾あたりを想定しているらしいですが、 まあ実際に戦争になったらなったで取りたててどうということはないでしょう(おいおい)。 いやな思いをするかいい思いをするかはその時の状況次第でしょう。 もちろん大半の人はいやな思いをして、 一握りの人だけがいい思いするのでしょうけど、 でも、 その一握りの人たちも、 戦争に負けちゃうと思いっきりいやな思いをしなければいけなくなるのでしょうけど、 とにかく、 未来にどうなるかなんてあんまり真剣に考えたくないです。それよりも、 法案がいやなら、 あとから適当に因縁つけて修正して骨抜きにしちゃえばいいことではないでしょうか。 ま、実際に骨抜きにできる可能性は低いのかもしれませんが、 そういう方向で行動してくれそうな政党や候補者に選挙で投票すればいいことでしょう。 その程度でいいんじゃないですか。 少なくとも私にとっての日本という国家に対する意思表示はその程度にとどまるでしょうね。 私は軟弱者なので、絶対反対!なんて叫んで熱くはなれませんよ。 そう叫んじゃうことは、 結果として、 自分の意識の中で国家に対する関心が相対的に高まり、 自分の生活の中で国家の重要度や優先順位が増し、 それがいつしか国家に対する情熱に変化し、 要するに国家主義者になっちゃうことでしょ。 それが転向左翼の末路なんでしょうけど、 そういうものが国家の本質だとすると、 なんかアホくさいですね。 やはりそういう方向では国家に対して関心は持てませんよ。 それにこの法案の実質的意義は、 いつ起こるか知れない将来の戦争にあるのではなく、
現在のアメリカの世界の中での勢力範囲を誇示することにあるんじゃないでしょうか。
簡単に言うなら、 ヤクザの縄張り宣言みたいなものだと思えばいいんじゃないですかねえ。
日本はおれたちアメリカの縄張りだぜ、 と中国に向かって宣言しているわけですね(笑)。
トキやパンダなんか送って機嫌を取ろうとしても無駄さ、 おれたちには日米安保条約というかた〜い絆があるのさ(はずかし〜言い方だぜ!)、
とでも言いたいんじゃないですか(説得力ね〜ぞ)。 とりあえず、 アメリカが落ち目になってきたらこういう関係はさっさとやめにしましょうね、
自民党の皆さん。 60年前、当時の世界一のハイテク先進国だったナチスドイツに義理立てして(利用されて)ひどい目にあった時ことを忘れずにね。
相手の落ち目を見分ける判断力や相手に見切りをつけるタイミングが重要だと思いますよ(な〜に偉そうなこと言ってやがるんだよ〜)。
でも、アホにそんな芸当ができるわけないってか、オブチちゃん(爆笑)。 5月20日今、人のWin95マシンでこれを書いているんですけど、恐ろしいことに気づいてしまいました(笑)。このペンティアム100MHzメモリ16MBのマシ ンでは、Netscape Composerが遅すぎて使い物にならない(笑)。キ−ボ−ドで一文字打ち込んでから画面に表示されるまで5秒以上かかる感じです。で、たまらず文字の 入力だけはワ−ドパッドでやっているわけなんですが、それで、ふと思っちゃったんですが、たいしたストレスも感じずにComposerで文章を書ける私の K6-2/300MHzメモリ64MBマシンは、意外と高性能なんじゃないのか(マジで)。まあOSの違いもありますが、でも、だとすると、長い文章を挿 入すると止まっちゃうmuleやスクロ−ルバ−を動かしただけで止まっちゃうXEmacsは一体何なんだろうか。むちゃくちゃ重たいソフトなのか?しかし muleに関しては、ペンティアム83MHzメモリ80MBのPC9821Xsではまともに動いていた。まあ、OSがそれぞれWin95,Linux, FreeBSDと違うから厳密には比較できないのかもしれないけど、何かこの現状を目の当たりにすると、頭がこんがらがります。ただ単にLinuxマシン のメモリをもうちょっと増やせばいいだけだったりして(ああ、また金を使っちゃうよ、このバカ)。5月18日気まぐれに『週間金曜日』を2週間連続して買ってしまいました。本多勝一に2冊分千円もお布施してしまった(笑)。それで、今日買った5月14日号 (No.266)はまだ読んでいないんですが、先週買って読んだ4月30日・5月7日合併号(No.265)の中で、「ゲダンクラブ85 有為転変ツアー」(中山千夏VS矢崎泰久)というところで、かなりひどい発言が載っていたので、今回はそれを紹介します。矢崎 やっぱり、話題を変えよう。大蔵省のノーパンシャブシャブ接待を摘発した大物検事が、女性スキャンダルで辞任に追い込まれた。なんだこいつらは!偉そうに「足の引っ張り合いなんて、実際には何の役にも立たない」なんて言っておきながら、「当然、陥れられたんでしょ」「もちろん。 そうでなければ、あんなスキャンダルが表に出てくるわけがない....」などという勝手な推測や決めつけで『噂の眞相』のスキャンダル記事をおとしめて、 なんで『噂の眞相』の足を引っ張ろうとするのか?ひどいぜ!まったく。「実際には何の役にも立たない」のは、この毎度おなじみの「憲法無視の〜」なんてい う紋切型を平気で口にしてしまうお前のオツムだよ、中山。「憲法無視」だと思っているのはお前個人であって、自民党議員はそうは思っていない、ただそれだ けのことじゃないか。ぜんぜんお前の言説は「改良されたり、改革され」ていないじゃんかよ!しょうーがねーやつだよな。しかし、こんなザツなことを無自覚 に垂れ流しているようじゃ『噂の眞相』の「七人のバカ」に載っちゃうよ(笑)。ま、この程度の奴らが指導者づらしてボランティア活動やら市民運動を引っ 張っているのだとしたら、日本の未来は暗いね(暗くてもいいけど(笑))。 また、同じ号では、石川真澄も「陽の光の下で"沈黙する"田畑の不気味さに心寒くなる春の日」の中で次のように思慮の足りないことを述 べている。 気に入らないのは、農家の人たちは自分らの食べるものは農薬をまったく使わず、または少ししか使わずに作っているらしいことです。去年、新潟県の魚沼地方 に行く機会がありましたので、おいしいおにぎりを頬ばりながら数人の農家の人に真偽を尋ねたちころ、みんな言下に肯定されました。がっかりしました。はたして石川は本気なのだろうか。それとも最近流行りのエコロジストのナイーブな心には、こういう情緒過多な訴えかけの方が有効だとでも思っているのだろ うか。しかしどちらにしろ、これも「実際には何の役にも立たない」言説だろう。こんなことは石川もわかっていると思うが、農民は美しい田園風景を売り物し て生計を立てているわけではないし、ボランティアで米を作っているのでもない。米を生産してそれを売ってそこから所得を得て生活しているわけで、当然それ を市場に出荷する場合は、品質が揃っていて安定した一定量の収穫がなければ売り物にならない。また利益をより多く出すためには生産過程での人件費などのコ ストダウンも必要だろう。そのためには目下のところ一定量の農薬を使わざるを得ないことは石川もわかっているはずだ。また、「日本の稲作は文化である」と いう言説自体にしても、国産米市場を守るための一種の方便であることもわかっているはずだ。要するに農家の心が壊れているのではなく、農薬の使用は安定し た供給を望む市場からの要請に応えた結果だ(中には無農薬米だとか有機米だとかありますが、それは今のところ手間暇がかかっている分、値段の高いブランド 物として小量流通しているだけでしょう)。ではなぜ自分の食べる米には農薬をあまり使わないのか、それは売り物ではないからです。もちろん農薬が人体に有 害だという自覚はあるでしょうが、わざわざ農薬を使わなくともその程度の小量なら収穫できるのだろうし、実際それで自分たちの食べる米には困っていないわ けでしょう。また、それを使用しない分、却って農薬費が減ってコスト削減に結び付くのかもしれません。とにかく、今ある市場流通システムが継続している間 は、農薬無しでも採算のとれる画期的な農業生産技術が発明されない限り、農薬の使用は止まらないでしょう。 5月12日どうでもいいけどNATO軍の空爆も誤爆だらけで超間抜けな感じになって来ちゃいましたね。そして、よりにもよって空爆に大反対している中国の現地の大使 館にミサイル攻撃しちゃったところなんか、なんだか意味不明ですよね。完全に戦略が破綻を来しているような気がしますが、まあ偶然に間違えたにしても更に 状況を悪化させちゃうところは笑えなくもないです(まあ結果として人が大勢死んでいるのだから笑いごとじゃないんでしょうけど)。しかしこれも事態を打開 する解決策が目下のところ何もない手詰り状態を反映しているってことじゃないですか。何しろNATOのメンツを保つには空爆を止めるわけにはいかないで しょうから。もはや空爆によってアルバニア系住民が更に不幸になろうがどうなろうが知ったこっちゃないような雰囲気でしょう。それは現実のアルバニア系住 民の命ではなく、単なるかけ声でしかない「アルバニア系住民を救おう」という大義名分(スローガン)だけが一人歩きしている感じさえします。もうこの辺が 潮時なんでしょうけどやめるにやめられないつらさがありますね。どうやら最初からユーゴ問題には、誰もが納得するようなすっきりした解決策などなかったよ うですね(それはパレスチナやクルドにも言えることですが)。まあ試験問題やクイズとは違い、現実の社会では答えの出ない問題ばかりなんでしょうけど(私 も今そういう問題(しがらみ)にハマっていて出稼ぎ生活状態を強いられているわけなんですが(笑))。ところで、ついにこの文章はNetscape
Composerで書いてしまっているのですが(メールソフトもWin95からの惰性でCommunicatorのおまけでついているやつを使っちゃって
るから、もうLinuxじゃなくてNetscape使ってるだけですね(笑))、なんだか変なタグが勝手にどんどん付いちゃって大丈夫なのかなあ?とりあ
えずこの文章はNavigatorでは普通に見れるんですが、IEの人達はどうなんでしょうか?もしかしてめちゃくちゃになってたりして(笑)。それから
今日、このCommunicator4.5Jは日本語のフォントが何種類か選べて、読みやすいきれいな文字に設定できることにようやく気づきました。いや
実は今日15インチTFTモニター(iiyama
TXA3811HT)を買ったんですが、高い金だして買った割には、液晶画面にドット落ちが一箇所あるし、32ビットフルカラー表示ができないし(なぜか
1024x768だと16ビットハイカラーまでしか表示できない)、画素ピッチが大きいのでブラウザの文字が読みにくいし、マジで発狂寸前だったんですけ
ど、また例によって再インストの繰り返し(ハードディスクの寿命を確実に縮めているような気がする)をやっているうちにブラウザのフォントが選択できるこ
とにやっと気づいちゃいましたよ。なんだかな〜、わけの分からない回り道をこれでもかこれでもかとしたあげくじゃないと答えにたどり着かないんですよね〜
ぼくちゃんは。まったく、こんなんじゃあんまりNATOに対する悪口なんか言う気になれませんね(笑)。しかし、これ本当にCommunicatorの
FTPでプロバイダーのサーバーまで送れるのかなあ(やり方がいまいち分からん)。 5月5日自然との語らいですか。安らぎを求めて森を散策する。なぜ人は緑の中に憩うのだろうか。そういう疑問に答えは求めない。雰囲気を醸し出すための問いにすぎ ない。別に目的があるわけじゃない。ただ薄暗がりの中をさ迷い歩いている。木立の切れ間から途切れ途切れに陽の光が差し込む。安らぎを求めているのではな かったのか。さっきまではそうだった。はじめは安らぎを求めていたはずが、歩いているうちにどうでもよくなってきた。別に目的があるわけじゃない。歩いて いるうちにしだいにそう感じはじめた。もう安らぎはいらない。そうだ、刺激が欲しいんだ。周りの景色が移ろいゆくように心も勝手に移ろいゆく。何かを求め ているのだ。刺激だ、刺激が欲しい。刺激を求めて歩いているのだ。そうだ、その場その場で勝手な目的を捏造しているわけだ。何かギラギラするもの、そんな ものが欲しい。それは森には無い。何か鋭角に切れ込んでくる衝撃。鋭い切先。人工物の硬い肌触り。路上のうす汚れたアスファルトの上を疾風のごとく駆け抜 ける一匹のドブ鼠。しばらくして何かが潰れるような嫌な音がかすかに聞こえた。車にひかれたらしい。脳裏に甦るのは道路に貼りついたヒキガエルの死体。す るめイカの香り。それを酒飲みがしゃぶっている。犬の腐乱死体。ウジが大量に湧いてでる。血が乾いて路上に黒い染みを滲ませる。乾き切っていない部分には 銀蝿と蝶が取り付いている。血を吸って養分を吸収しているのだろう。安らぎからは程遠い、そんなアスファルトの自然に惹かれるのか。たぶん心が歪んでいる せいだろう。そう思うことで安心を得たい。しかしそれは嘘の記憶を貼り合わせた想像上の自然でしかない。安心を得ようとする行為自体がフィクションに依存 している。人はフィクションによって安らぎを得ようとするのだろうか。しかしこれもそれらしい雰囲気を醸し出すための疑問にちがいない。当然それに対する 答えは求めない。5月4日どうやらやっとまともになってきたみたいです、このOSは。先週、カスタムインストールでパッケージを全部入れたら、ワークステーションインストールとは 違うmuleがインストールされたみたいで、なんだか調子がいいです(でも、やはり先程、文中に追加の文章を挿入したら数秒間ストップしました)。また、 メモリが全部認識されていない場合を考えて、/etc/lilo.confのなかでmem=64Mを指定したら、Communicatorが速くなったよ うな気がするんですけど、気のせいかなあ(笑)。でもこのブラウザはftpに不具合があって、ファイルをダウンロードするとファイル名がおかしくなっちゃ うんですよね。ガイドブックによると日本語化が原因らしいですけど、おしいですね。まあダウンロードした後コマンドmvで正しいファイル名に書き直せばい いんですが。その他いろいろデスクトップの周辺でバグがあるみたいなんですけど、何とかそういう不具合を解消してからリリースできなかったものなんですか ねえ。やっぱ締め切り間際のやっつけ仕事になっちゃったのかなあ。まあ、Linuxに詳しい人なら自力でカスタマイズして使いやすい環境にできちゃうんで しょうけど、中途半端な知識しかない私の場合なかなかうまくいきません(笑)。何とか次のヴァージョンではこういうつまらない不具合はなしにしてもらいた いものですね。それに、いつまでもWindows経由のユーザーをあてにしてないで、はじめからLinuxを使うユーザーを想定しないとまずいんじゃない のかなあ。インストールした時点でiMacレヴェルの操作性を実現すれば、パソコン初心者も使う気になるかも知れませんが(でもそれは、Unix系OS特 有のカスタマイズの自由さとは相容れないものなんだろうか?)、PC初心者が使うには大手メーカーがプリインストールマシンを大々的に売り出さないと無理 なんでしょうけど、なかなか実現は難しいのかな。 しかし、中村正三郎氏は
MS Watch 5月4日で、新しく買ったデルのマシンに、この「日本語 redhat Linux
5.2」を入れて、「Win98よりめちゃくちゃ軽くて速い」と大変喜んでいるようですが、じゃあ私のこのPCにWin98を入れたら、むちゃくちゃ重く
て遅くて使いものにならなくなるんだろうか(爆笑)。ほんとかよ!ああ、そういえばこのPCをどこで買ったかぜんぜん話していませんでしたね(忘れていま
した)。マウスコンピュータージャパンと
いうところの通信販売で買ったんですが、今はもうこのA4サイズのマシンは売っていなくて、これより更に小さいB5サ
イズのPCが売っています。仕様はこのPCと大体同じなんですが、ハードディスクが2.1GBから4.3GBに増えて同じ値段(9万9800円)
なのはちょっと悔しいところですね(笑)。 4月28日何とか気をとり直して、設定ファイルをいじってしまって収拾がつかなくなったので、またもや再インストールしてしまいました。そして、今回は安易な自動設 定はやめて、カスタムインストールでスワップ領域を多めにとり(70MB)、また、モニターの性能を考慮してヴィデオカードの解像度も更に下げて256色 にして、何とかマシンが安定するように工夫してみました。これでまだ不具合が出るようならもう本当にあきらめよう。ひ〜疲れた。でもまだ執念深くCPU替 えてみたりメモリを増やしたりモニターを買ったりして、無駄な抵抗を繰り返すんだろうな(私は馬鹿です)。しかし、もういい加減PC馬鹿話もこのへんでやめにしましょう。ホントにきりがないよ。 そういえばワールドユースで日本が準優勝したんだっけ。やっぱ浦和のオノチンとかすごいのかなあ。それに坊主頭のチンピラ フォワードとかいたよね。ロベカルに顔が似てる奴もいた。いろいろ若い奴が出てきたってことかあ。もう日本代表はオノチンや中村俊輔とかが中心でいいん じゃないのか。中田君はいらないかもね。彼はヨーロッパのプロリーグで遊んでいればそれでいいんじゃないかなあ。まあ中田君が出るときは、前薗と城を呼ん で"地獄の大ボケトライアングルパート2"を結成して、オカマのトルシエと熱血日本サポーターを絶望のドン底に叩き落すときでしょうけど。彼ならやってく れるでしょう。中田君は期待を裏切らない男だ。それから、ああそうだ、忘れちゃいけない、2002年にはカズも呼んであげなけりゃね。とりあえず大声で国 歌を歌える人がいないと右翼の皆さんもいじけちゃうだろうからさ。今ユーゴのなんとかビッチっていう大統領が世界中から非難の集中放火を浴びているときだ から、似たようなメンタリティのナショナリストの皆さんもさぞや肩身の狭い思いをしていることでしょう。こんなときこそカズが大声で「君が代」を歌って、 傷心の国粋主義者の皆さんを勇気づけてあげなけりゃね。 ああそれからガイドライン法案ですか。なんだかわけの分からないつぎはぎだらけでどうにでも解釈できる意味不明な法案だか
ら、実際はあんまり機能しないような気がしますが、まあ、現実に戦争になってからどうするか考えるんでしょうね。とりあえずは、今のところ戦争に対する危
機意識なんてほとんど存在しないんだから(ユーゴも東チモールも台湾も朝鮮半島もすべては対岸の火事でしょう)、どのような法案であっても国民的合意なん
て形成されるわけないし、議論する気さえおきないところでしょう。したがってああいう風になるよりしかたないんじゃないかなあ。それに、あんないい加減な
法案を無理矢理作らされて、かえって日本人のアメリカ政府に対する反感や不信感が強まったんじゃないですか。こんなうんざりするような法案を強引に作った
ばかりに、アメリカ軍に積極的に協力するようなお人好しはひとりもいなくなっただろうから、結果的にはアメリカの東アジア戦略は大失敗かもね(笑)。少な
くともイメージ戦略は失敗だね。 4月27日なんだ、Wnn6はとんでもないです。インストールするにはしたんですが、まるで設定がうまくいきません。OSのパッケージにチラシが入っていたから買っ たのに、ぜんぜん使えないじゃん(怒)。腹立つなあ。もうLinuxはやめよう。4月21日はっはっはっは!懲りずに再インストールしてしまったぜ(まったく、馬鹿の一つ覚えだよ、もっと他にやりかたがあるんじゃね〜のか!)。でもわかりまし た、xdmを有効にするとNetscapeが起動できなくなる。へんなの。まあいいや、startxのままでいいや。でも再インストしたら、ちょっと安定 性が増したような気がする。また馬鹿の一つ覚えでmuleを使っているんですけど、さっきフリーズしかかってかろうじて持ち直しました。しかし今日これか らオムロンのかな漢字変換システムWnn6を買おうと思っていたら、中村正三郎氏のページからリンクをたどっていったらなんとLinux用のATOKや一 太郎が出そうな気配じゃないですか。困りましたね〜、まあWnn6はBSDにも使えるから買っておいて損はないような気もするけど、どうしようかな (笑)。4月21日あまり気が進みませんが、とりあえず書いてみます。炎の色と空の青さの隔たりの間に何を想定したらいいのでしょうか。いきなりわけのわからないこと書いてますね。あなたの人 格はあなたのものなのでしょうか。そんなこと知りません。このような曖昧な言い回しでこの空っぽな心をごまかせるものなのでしょうか。音楽を聴くことで何 を忘れ去ろうとしているのか。スポーツにどのような気晴らしを期待しているのか。書物の中に虚しい言葉を発見をして何を喜んでいるのか。生きることや死ぬ ことに勝手な意味を貼り付けてそれで真剣に生きているつもりなのか。なぐさめや励ましの言葉で立ち直ったことにしておくのか。既存の思想を何もかも否定し てそれを越える可能性を考えているふりを装うのか。まったく馬鹿げた問いの連続です。自家中毒です。 もうだめです。このOSとこのPCの組合せではmuleでまともに文章が書けません。途中に長い文章を挿入しようとする と、必ず画面がフリーズしてしまいます。別のソフトを使うべきみたいです。また、最初からXの画面にするためのxdmを有効にするとインターネットにつな がらなくなってしまいます。ネットの設定をやる前にxdmを有効にするべきだったのか。もう一回再インストかな。やっぱ、やせがまんはやめて、Win98 でも入れるべきだったのか。そうするとこのキーボードについている Power off ボタンと Wake up ボタンと Sleep ボタンが使えるようになるのか。ようするにPC自体がWin用に最適化されているところに別のOSを入れているわけだから、はじめからハンディを背負わさ れているようなものですね。 しかし、フリーズの連続で6時間でたったこれだけしか書けませんでした。まいったまいった。 4月14日先週の水曜日、出かける間際にDOS/Vマシンが届いて、一週間待たされて戻って来てようやくセットアップしました。マシンはCPUがK6-2 300MHzで省スペースのクライアントPCといったところです。OSは日本語 redhat Linux 5.2を入れてみました。まっ、とりあえずこのマシンでしばらくこのページを更新していきたいと思っています。そのうちノートPCでも買ったらそちらでや るようになるかもしれませんが、どうなることやらです。6月ぐらいには何とか買おうかとは思っているんですが、なにせ値段が高いし、それにDOS/Vだと もれなくWin98がついてきちゃうし、また、PowerBookだと、インターネット上のアップルストアではクレジットカードがないと買えないんですよ ね。まいったなあ〜、まさかそれを買うためだけにカードを作るのも変だし、やっぱ、ショップで店員さんとグダグダお話ししながら買うことになるのかな〜。 あ〜めんどくさいなあ〜、いやだなあ〜。ぼくちゃんは自閉症で対人恐怖症なんだよね(半分本当)。 しかし、昨日はOSを十数回も再インストールしてしまいました。モニターとヴィデオカードの組合せが悪かったみたいで、何
度インストし直してもXの画面がぐしゃぐしゃになってしまい、マジでパニック状態でした。十数回目でやっとヴィデオカードの解像度を下げればいいと気づい
て何とか事なきを得たんですが、何だか私はいつもドツボにはまりやすい体質みたいです(笑)。しょうがないですね。はやくもっとましなモニターも買わなく
ちゃね。しかしこのOSは不安定ですね。マシンのせいかもしれないですけど、muleでこの文章を書いていて、すでに2回もフリーズしてしまい、マシン自
体にリセットボタンがないもんだから(ホントかよ!)、そのたびに電源スイッチを切ってまた立ち上げて文章を書き直しているんですけど、もういい加減書く
のがいやになってしまいました。書き直すたびに文章が短くなって来てしまいました(笑)。まあデスクトップの画面はこちらの方が断然カッコいいんですけ
ど、これじゃあ、先週までのPC98+FreeBSDのほうが安定度は高いんじゃないかい。もういいや、やる気が失せたから今回はこれで終りです。
4月7日今回はまず『批評空間』2-21の共同討議の中から浅田彰のこの発言を紹介します。浅田すごいですね、田中康夫も宮台真司も「立派だ」の一言で相対化してしまう。浅田彰は実生活ではゲイだそうだけれど、言っていることはギミック一切なしの極 めてストレートな言い方だ。おっと、浅田はまったくコンスタティヴに述べているのに、それを褒めている私はといえば、ゲイとストレートを引っかけたりし て、コンスタティヴからは全然かけ離れた中途半端にパフォーマティヴな言い方になってしまいました(笑)。 それで、ついでに、共同討議の中から、浅田とは対照的な福田和也のこの発言も紹介しておきます。 福田すごいですね(嘘)、村上龍を「田舎者」の一言で馬鹿にしている。さすがデブ右翼!浅田彰とは正反対に極めてパフォーマティヴな言い方だ。まあ良く言えば ジャーナリスティックとでも言えばいいんですか。でも私は、こういう述べ方は『噂の真相』的だと言いたいですね。福田和也の言説は極めて『噂の真相』的な んですよ。岡留編集長は彼を連載コラムに起用すべきでしょう。きっと田中康夫との二枚看板で人気がでると思いますよ。それに保守陣営からの攻撃をかわすた めの予防注射としても便利に使えるんじゃないでしょうか(意味不明?)。 それで『噂の真相』です。やっと『噂の真相』までたどり着きました。そこで(どこでだ?)、田中康夫、宮台真司、村上龍と 相対化されたついでに、『噂の真相』も相対化してしまいましょう。同じく『批評空間』からスラヴォイ・ジジェクのこの文章を紹介します。 わいせつ(漢字がないぜ!もしかしたら、かな漢字変換のやり方がわかっていないのかも?)な父の究極的な事例は、聖 書そのものに記されているのではないだろうか。ようするに、『噂の真相』とは、「父(=権威)の隠しようもないわいせつさについて意地悪く騒ぎ立てる」「悪い息子」なんですね(笑)。それに対して、全 国紙やNHKなどの大手マスコミは、父(=権威)の威厳を守るための「自発的な盲目に基づいているのであり、知るまいとする意志といったもの、「それ(父 の隠しようもないわいせつさ)については何も知りたくない」という態度を伴っ」た「良い息子たち」なわけです。当然、サイレント・マジョリティの皆さん は、建前上は「良い息子たち」の味方であり、彼らは「悪い息子」など無視して、そんな雑誌などあたかも存在しないかのように振舞うのですが、実際は隠れて こっそり読んでいるのです。つまり『噂の真相』は、意外と広く読まれているにも関わらず、公式的には無視され続ける雑誌なんじゃないでしょうか。ノアは農夫になり、葡萄畑を耕し始めた。ノアはその畑から穫れた葡萄で作った酒を飲んで酔い、天幕のなかで裸の まま横になっていた。カナンの父ハムは自分の父の裸を見て、外にいる二人の兄弟に知らせた。セムとヤペテは着物を取って肩に掛け、後ろ向きに歩み寄って父 の裸を覆った。二人は顔をそむけていたので、父の裸を見なかった。ノアがハムをじかに呪うのではなく、ハムの子孫(息子)を呪っているという謎めいた事実は、奴隷制を正当化するものであると解釈されることもある(カナン はしばしば「黒人」と呼ばれているのだ)。だがそれはさておき、重要なポイントは、明らかにこの場面が無力でわいせつな<父ー享楽>と〔息子と〕の対立を ドラマ化しているという点である。良い息子たちは、敬意をもって顔をそむけつつ父に着物を掛けることによって、父の威厳を守ったわけだが、これに対して悪 い息子は、父の隠しようもないわいせつさについて意地悪く騒ぎ立てるのだ。したがって象徴的権威とは、自発的な盲目に基づいているのであり、知る-ま いとする意志will-not-to-knowといったもの、「それについては何も知りたくないje n'en veux rien savoir」という態度を伴っているのだ。知りたくないものとは、父のわいせつな側面である。(「四つの言説、四つの主体」より) 4月6日まあ言葉遊びに過ぎませんが、例えば、本を読むことを「読書」、あるいは音楽を聴くことを「音楽鑑賞」という言葉に置き換えて、その「読書」やら「音楽鑑 賞」一般を肯定したり否定したところで、そのこと自体には何の意味もありません。読むことや聴くこと、あるいは見ることを肯定したり否定したりすることは 無意味です。彼自身がそれらを肯定したり否定したところで、彼が生きている限り、彼は読んだり聴いたり見たりせざろう得ないからです。自らの目を潰したり 鼓膜を破ったりしない限り、将来において必ず文字を読むことは「読書」に、音を聞くことは「音楽鑑賞」につながってしまうでしょう。どこまでが文字を読む ことでどこからが「読書」なのかについての明確な境界線は存在しないし、音についても一旦音楽から快楽を引き出す神経回路が脳にできあがってしまえば、聞 こえない記憶の中の音も含めて無意識に耳で聞こえる音からサンプリングしてきて心の中で音楽を構成してしまうでしょう。また、たとえ自ら目を潰したり鼓膜 を破ったりしても、過去の「読書」や「音楽鑑賞」の記憶が何かの拍子に突然よみがえり、もはや読めない文字を読み、聞こえない音楽を聴くことになるので す。かつて本を読んだ記憶や音楽を聴いた記憶を都合良く捨て去ることはできないのです。いや、そんなことなんかできやしないのに、過去を捨て去ったと思い 込むことでカタルシスを得る。過去との見せかけの決別に自分で感動したりする。自らの精神を制御できるような幻想がナルシシズムを生む。ヒステリー者は短 絡的です。常に激しい劇的な精神状態なのです。ようするに興奮しているわけです。ヒステリー者は自らが味わった苦痛や苦労した体験から主体を構築する。か つての自己崩壊の危機から今の彼が生まれたのだ。そして過去の苦痛や苦労がその経験と同レベルの激しい否定の身振りを引きだし、結果として他者に対する無 関心を装させる。彼には脆くて強固な自我しか存在しない。危機を乗り切ったと自負する彼はもはや他者を必要としない。苦労話をすればするほど、そういう自 家撞着神話にのめりこみ、その自分に都合良く脚色された虚構の物語の中に安住の地を見い出そうとする。今や彼は、彼自身が作り上げた「苦難克服物語」の主 人公だ。しかもその物語の登場人物は彼一人だ。彼は孤独だ。そこで彼は、何でも自殺に結びつける。もちろんその自殺を強烈に拒否してみせるために、どんな 些細なことでも自殺に結びつけるわけだ。と同時に、自らの死に対する恐怖心も断固として拒否してみせる。いつでも死ねるが、オレは自分自身の意志で生を選 びとったんだ、というわけである。偉いじゃないか、ヒステリー者は立派な人格者だ。しかしヒステリー者の偉大な孤独はどこまで行っても独りよがりの孤独な のだ。それはヒステリーそのものだ。 |