彼の声119

2017年

3月31日「管理と維持」

 何もない状態からは何も生じないように思えるが、そこに何かが存在するように思えるとき、それを言葉で表現しようとすると、そこに何かがあるように装わなければならなくなるのかも知れず、そんな存在を信じているふりをしているわけでもないのだろうが、わずかでも何かが作用して事物が動いているように感じられるなら、それが状況証拠となって言説の対象となるのかも知れず、それについて何かを語っている現状がそこに生じて、それが何らかの現象として広く世の中に認知されるようになれば、懐疑的な人たちも含めて、多くの人たちがそこに何かが存在していることを認めざるをえなくなるだろうか。現に何らかのメディアを通じて、広く情報が行き交っていることは確かなのかも知れないが、別にその情報が何を意味するかとか、何の役に立つのかとか考えなくても良いわけではないが、実際に考えていないだろうし、考えるよりは楽しんでいる感覚なのだろうし、何か興味深い情報の交流が確認されたら、それを受け取ろうとするわけで、それ以上は考える必要を感じられなければ、別に考える必要が生じないのは当然のことで、実際に何も考えずに情報を受け取ったり発信して、それでその場の心地よい雰囲気を満喫しているつもりになれたら、その場での交流はそれで済んでしまうわけで、取り立てて何か形あるものを生産する必要はないわけだ。それで済んでしまうような交流が世の中の主流となるとしても、一方で人が生きていくのに必要不可欠な物質的な生産も欠かせないのはわかりきったことだが、それを必要最小限に抑えるような傾向になるなら、物を介した交流よりも情報を介した交流で間に合ってしまう割合が増えていくだろうが、そうした交流が今後どんどん拡大していくにしても、情報をやり取りする機械が必要なことには変わりなく、機械は依然として物だから、情報を介した交流には依然として物を介した交流の存在が前提条件となっているわけだ。

 そこには何もないのではなく、情報端末としての機械が欠かせないわけで、一方で情報を流通させるインフラとしてネットワークも欠かせないのはわかりきったことだが、機械を世の中に広めてネットワークを維持するには、企業がネットワークを介して情報端末を売り、端末の中で動くアプリケーションも中には有料のものもあり、さらにやり取りする情報量に応じてネットワークの使用料を徴収しているのだから、企業が関わっている部分については資本主義経済が関与しているわけだが、ネットワーク全体を管理するのではなく維持する役割を担ういくつかの団体が、企業から運営費を受け取りながら存在していて、それらがネットワークの世界標準となる統一規格を維持していて、それらの団体がないと、ネットを介して世界中に情報が行きわたらなくなってしまうのだろうが、それに関してわかりにくい表現なのだが、管理しているのではなく維持していることが重要で、企業から運営費を徴収しているのだから完全には非営利でも中立でもないわけだが、管理しているわけではないので権力が生じるわけではなく、ただネットを維持しているだけに、それらの団体は必要不可欠なのであって、それらの団体が維持している統一規格に従わなければ、ネットワークを介して情報のやり取りを行えなくなってしまうわけだから、従わざるをえないにしても、だからといって権力を行使して従わせようとしているわけではなく、ただ従わなければネットに接続できなくなってしまうだけで、それだけのことでしかないわけだ。そこから類推して考えてみると、どうも国家の未来像も浮かび上がってくるように思われるわけで、というか国家という狭い範囲ではなくても構わないのかも知れず、例えば世界的な行政の統一規格を作って、その規格に基づいた行政サービスを提供するような非営利団体を組織して、その団体が国連であれば話が早いのだろうが、その非営利団体が維持するネットワークに世界中の人々がつながればいいわけで、それも管理するのではなく維持するにとどめておけば、そこから権力が発生することもないのではないか。現状では荒唐無稽な話だが、実際にインターネットはそうやって維持されているわけだから、まったくの不可能というわけでもなさそうだ。


3月30日「苦し紛れの迂回」

 メディア上で騒ぎ立てていることに関して何か興味があるとすれば、毎度のことながら事の本質が別のところにあって、それが誰でもわかるような問題として提起されているのに、それが必ずしも争点とはならない情勢なのだろうか。そうではなく今回も議会で政治家の不祥事以外に争点がないように思われているはずがなく、実際には他にも争点があることは誰もがわかっていながら、その争点を隠すために政治家とその関係者の不祥事で騒いでいるわけでもないのだろうが、実際に「共謀罪」に関する法改正を巡る問題でも、一応は議会で争点となっているらしく、複数の人たちが共謀して犯罪を企んだ時点で罪となるので、何かと言いがかりをつけやすく、一方的に警察の捜査権限が拡大するだけだから、与党の一部でも審議入りに難色を示す向きもあるようだが、それは国民向けのアリバイ工作的なアピールかも知れないし、このまま与党の主流派に押し切られていったん審議入りが了承されれば、一定の審議時間を経過したのちに、頃合いを見計らって採決の運びとなって、賛成多数で法改正が成立する可能性があるだろうし、もともと枝葉末節な問題に過ぎない政治家の不祥事以外で、何か不測の事態が思いがけず発生しない限りは、結局は大山鳴動して鼠一匹的な成り行きになりそうだが、マスメディアが与野党共謀の上で演出する政治劇場としては、そうなる他ないような構造があるのかも知れず、実際に不祥事を追求していた野党の政治家にも、過去に不祥事を追求された経歴があって、今回も与党と御用マスコミの一体となった争点のはぐらかし戦術にまんまとはまって、当人は対抗的に提起された疑惑はデマだと主張するのが、今のところは精一杯のようだが、役割的にはその程度で構わないのかも知れず、所詮は昔からいちゃもんつけとカミツキガメ程度の役回りに終始していたのだから、それ以上を求めても意味のないことであり、議会というのは伝統的にそういうことに終始する場なのだということを、理解しておくことが肝心で、他に議論することが何のないわけではないだろうが、マスメディアが騒ぎ立てる内容も、昔から伝統的にそういう方面の話題が多く、別にそれが悪いわけでも良いわけでもないということなのではないか。

 また別に「共謀罪」に関する法改正が成立したところで、警察権力が何かと権限を濫用する事態ともなって、罪なき人々が司法の場で裁かれるようになろうと、それなりに限度があるだろうし、権力に従順な大多数の市民にとっては他人事に過ぎず、一部の極左暴力集団というレッテルを貼られた組織が影響を受けるかも知れないが、また平和的な市民運動にしても抗議活動が激しさを増してくれば、見せしめ的な意味合いで中心メンバーが逮捕されてしまうかも知れないが、たぶんそれにしても事の本質は別ところにあって、それは議会で争点として提起されている問題ではなく、また建前上は法改正の標的となっているテロ活動が起こってしまう理由を探ろうというのでもなく、例えばそれは政治家の不祥事を巡って追求する側とされる側が、別に事前に共謀して示し合わせたわけでもないのに、むやみやたらとどうでもいいような枝葉末節な部分で、煽動合戦を繰り広げるような顛末となったり、イスラム原理組織のテロ活動にしても、実際の戦闘とは無関係な一般市民を巻き込むようなテロを、仕掛けなければならない状況に追い込まれたりするわけで、政治家の不祥事にしてもテロ活動にしても、要するに正攻法でやっていてはすぐに行き詰まってしまうから、あえて迂回して回りくどいことをやって、しかもそれが大した成果など期待できるわけでもないのに、やはり心ならずも苦し紛れにやらざるを得ない行為となってしまうわけで、要するにそこで何かやっているふりをしながら、それをマスメディアに向かって必死にアピールしたいわけで、もうそんなことをやっている時点で行き詰まっているのだろうが、実質的にはそうであるとしても、今のところはそれ以外にはやりようがなく、正攻法の正面突破ができないから、脇道に逸れながらも弱い部分を卑怯なやり方で執拗に攻撃しているつもりなのだろうが、たぶんそれも実質的な被害は大したことはなく、いくらそんなことをやり続けても世の中の全体的な構造は揺るぎようがなく、しかもそんな些細な行為自体がかえって構造の強化に役立っているのかも知れず、いつもそうやって枝葉末節で些細な争いごとを、マスメディアがデフォルメしながら誇大宣伝して、それに対する大げさな対策が整備されて、その結果ますますそこから逸脱するようなことができなくなって行き、誰もが行き詰まりの焦燥感に苛まれて、さらに苦し紛れの迂回を重ねる羽目に陥っているようにも見えるのだが、本当のところはどうなのだろうか。


3月29日「不可避な形骸化」

 たぶん選挙によって議会の議員や行政府の長などを選ぶ方式は今後とも続いていくだろうが、選挙で示される民意が何を表しているのかとなると、それは選挙での争点に対する回答となるだろうし、では選挙での争点というのは、何か人々が求めていることに関係があるのかと言えば、たぶん関係があって、人々が議会や行政府に求めていることが選挙での争点となってくるのだろうが、本当にそうであるなら話は簡単で、極めてわかりやすい成り行きとなりそうで、まず何か人々が主張する何らかの要求があって、それを実現しようとする政治勢力が選挙で勝利すれば、議会の多数派を占めて政権を奪取し、人々の要求を実現するための法整備を議会が推進して、行政府がその法律に基づいて政策を実行すれば、人々の要求が実現する運びとなるはずなのだろうが、果たして実際にはどうなっているのだろうか。人々が何を求めているのかがどうやればわかるのかというと、それは世論調査によって明らかになり、何やら報道機関や内閣府が調査して、定期的にその結果を発表していて、行政府はそれらの調査結果を分析して国民が求めていることを割り出して、それを実現するために必要となる政策を決定し、必要とあらば議会に法案を提出して、議会の承認を得ながら政策を実行に移すわけで、そうであるなら表向きは何の問題もなく、民主主義的な政治制度が正常に機能していることになるわけだが、それの何が問題なのだろうか。例えば沖縄県民の米軍基地に関する要求が実現しているのかと言えば、現状を見る限り多少は実現している面もありそうだが、基地の反対派にとってはそうではないだろうし、また原発反対派の要求も少しは実現している面もありそうだが、反対派にとってはそうではないだろう。要するにそれらの反対派と敵対している勢力があって、行政府はそちらの勢力の要求を尊重しなければならない立場でもあり、しかもそちらの勢力は議会の多数派や行政府の内部にも支持基盤を持っていて、現状では反対派よりも力を持っているから、反対派の要求は実現しづらい状況となっているだろうか。

 そうだとしても形の上では民主主義が実現しているわけだから、現状への不平不満は選挙の時に不平不満を聞き入れてくれる政治勢力へ投票することによって、制度が保証する国民の政治参加が実現するわけで、それ以上の政治参加を目指すには自分が選挙に立候補すればいいわけだが、制度にも地域ごとで一票に格差があったり、立候補するには多額の供託金を納めなければならなかったり、不備や不公正な面が多少はあるにしても、それも一応は今後において改善される可能性はあるのだから、制度的にはそれなりに充実しているわけだが、それが実際に運用されている状況を見るなら、どういうわけか特定の政治勢力が優遇されている事態となっていて、しかもそういう事態が改まるどころか、かえってさらに助長されるような情勢の中で、そういう事態を憂慮する人たちの間で、今ある政治制度に対する不信感が募っている現状がありそうなのだが、制度面の改善としては、地域ごとに生じている一票の格差をできるだけなくしたり、少数政党でも議席を得やすいような選挙の形態を模索したり、諸外国ではほとんど実施されていない多額の供託金を収める制度を廃止したり、他にも色々と改善できる可能性はあるのだろうが、そのような公正公平な選挙のあり方を模索すれば、誰もが納得するような制度が実現するのだろうが、そうだとしても現状はそういう面とは異なるところで、何やらおかしくなっているのかも知れず、そしておかしくなっていても構わないような空気が世の中に蔓延していると言ったら、それこそ何の根拠も証拠もないデマだと思われてしまうかも知れないが、たぶん本当にそれでも構わないのであって、制度というのは絶えず制度を形骸化しようとする目論見にさらされていて、そのような挑戦によって歪められて意味をなさなくなる運命にあるのかも知れず、歴史的に見ても制度が制度としてまともに機能する期間は、制度が制定された直後だけで、その後は時が経つにつれて次第に政治的な権力を握った勢力による制度の恣意的な運用に歯止めがかからなくなって、形骸化の一途をたどるわけで、それを防ぐには制度の定期的な見直しが必要不可欠であり、実際にそんなことは百も承知で、折に触れて定期的な制度の見直しも試みられてきたのだろうが、そうだとしてもやはり現行の制度はだいぶ歪んでいるし形骸していて、現実に世襲議員や元官僚の議員などの特権階級を生み出しているし、それは避けられない成り行きなのではないか。


3月28日「疑問」

 人が普通に生きているということは、それなりに様々な事情を抱えながら生きているわけだが、その人を社会の中に拘束している諸々の事情というのが、社会の中で生じている役割とともにその人を生かしているわけで、具体的には家族関係や交友関係や仕事関係などの社会的な関係が、その人に社会の中で何らかの役割をもたらしていて、結局その人が抱え込んでいる諸々の事情とは、その役割を生じさせている様々な社会的な関係から生じているわけで、そこに何らかの不都合が生じているなら、その人がとらわれている社会的な関係を変える以外に手はなさそうに思えるが、いったんとらわれてそれなりに安定してしまった諸々の関係を、断ち切るのは容易なことではないだろうし、普通は我慢できる程度の不都合なら、関係を断ち切ってしまうことで生じるリスクを恐れて、それなりに安定していてその中で生かされている関係を優先させるだろうし、大半の人たちは様々な不都合や不満を抱えながらも、少々のことには目をつぶって妥協せざるを得ない状態の中で生きていて、そんな事情がある以上は、そうやって何とか保っている安定を、外部からの作用によってぶち壊されたくはないだろうし、それが政治や経済などの公的な次元からもたらされることは望んでいないのはもちろんのこと、そういう次元で危機感を持っているようなら、やはり現状を維持するような安定を望んでしまう成り行きとなるだろうか。

 個人を取り巻く私的な事情と、国家的な政治や経済から生じている事情とは、普通は次元の異なる問題であるように思われがちだが、メディアを通して人々の自己意識が形成されている状況があるとすれば、すべての事情が同一次元で生じている問題であるかのように錯覚してしまう可能性があるかも知れず、それに関して身の回りを直接規定している社会的な関係と、国政レベルや地方自治体レベルでの社会的な関係が、どのようにつながっているのかを考えると、政治家や官僚やメディア関係者などと、直接の家族関係や交友関係や仕事関係がない限りは、あるいは市民運動などに参加して抗議活動などをしていない限りは、マスメディアを介した間接的な関係しか意識できないかも知れないが、それが選挙を通じて自分たちの代表者を国政や地方自治の場へ送り込んでいる感覚があると、さすがに私的な問題を政治によって解決してほしいとまでは思わないにしても、曲がりなりにも自分たちが選んだ代表者なのだから、自分たちのために働いてくれるのが当然だとは思うだろうし、選挙で選ばれた代表者にとっての公私混同は非難されるべきであるとしても、選んだ人たちにとっての公私混同となると、公と私との区別をどうやってつけるのか、その基準がよくわからないだろうし、人それぞれに別々の事情を抱えているとすれば、では代表者はそれらのうちのどの問題を優先して取り組むべきなのか、あるいはそうではなく、国政なら国の問題を、地方自治なら地方の問題に取り組めばいいだけなのか、そうであるなら何のために人々は代表者を選んだのか、ということが何やらこんがらがってきそうに思えるのだが、またそれに関して国政や地方自治と住民との社会的な関係を、もっともらしく説明するようなメディア関係者を果たして信用できるのか、ということまで含めて疑念が湧いてきそうに思われるとすれば、それが民主主義という政治形態における解消しがたい疑問となるのではないか。


3月27日「余計な迂回」

 普通に考えて様々な諸事情から、人にはできることとできないことがありそうだが、たぶんそれが嘘であるなら、人には何も不可能ではないと同時に何も可能でもないとなるだろうか。実際には嘘であるわけがなく、その証拠に現に今やっていることが可能なのであり、それ以外のことをやろうとすると、不可能に直面する可能性があるかも知れないが、また何かが作用して今後やっていることができなくなる可能性もありそうなのだが、今やっていることがやれることのすべてではないにしても、少なくとも他のことをやっているわけではなく、そうである限りにおいては、今やっていることをやる必要があるだろうか。必ずしも必要だからやっているとは限らないだろうし、必要でないことをやっている場合もありそうだが、素直に必要だからやっていると思う方が無難だろうし、それが勘違いだとは思えないなら、それをやっていれば良さそうにも思えるだろうか。だがいくらそんな回りくどいことを考えてみても、実際に今何かをやっている現実があり、そこからいくら別の状況を空想してみても、それをやっている現実が変わるわけではなく、とりあえずは何か別のことを空想している間は、現実から逃避していられるだろうが、逃避ではなくもっと前向きに現状を捉えるなら、今やっていることが成功する未来を空想したいだろうし、成功するのではないかと期待しているから、今やっていることをやり続けているのだとしたら、それが虚しい幻想に終わらないように努力すべきだろうか。そんな邪念が鬱陶しいなら、やることを強いられているのでも自発的にやっているのでもないと思いたいのかも知れず、成功願望のような幻想も信じられないし、やり続けるのが可能でも不可能でもあるような、可能と不可能の境界線上にいるような、さらにそんな雑念も払いのけたくなるような心境になるとすれば、結局は何かをやっていることに伴って、それに対する自覚や感情や思考が生じていることを認めざるを得なくなるだろうか。

 それらが情念となって自らの内側に向かうならそうなるかも知れないが、一方で内部から外部へと向かう作用もあるのかも知れず、それが外の世界に対して向けられる意識になりそうで、実際に身の回りを見渡してみれば、自らがやっていることと世の中の状況との整合性を取りたい気になるのかも知れず、そうやって自らのやっていることの意味や意義を確認して安心したいのだろうが、一方で意識の向きを逆にして、外側から自らを見つめる視点を想像するなら、世の中の状況から何らかの作用や影響を及ぼされている結果が、自らの現状を招いていて、自らがやっていることもそれの延長上に位置付けられて、外部から及ぼされる作用が内部から湧き上がる情念をもたらし、それが衝突し合って混じり合い、そんな内外からの作用が行為となって現れていると考えれば、何やらもっともらしく説明できたつもりになれるかも知れないが、そうだとしてもそんなふうに考える必要があるのかとなると、ただ余計なことを考えているだけかも知れないし、何にせよ語るとは余計に語ることであり、必要もないのに語れるから、そんなふうに語ることが可能となるのであって、必要以上に語らない限りは、それについて記した文章も必要以上の長さにはならず、そんなことをやれるだけの余暇があるからこそ、余計な語りと無駄に長い文章も生じているのだから、必ずしも必要だから語っているわけでも文章を記しているわけでもなく、要するに何かについて言葉を弄する行為というのは、そうすることの理由や根拠を求める必要もなければ、それが余計で無駄な行為だと思っておいた方が無難な場合もあるだろうが、それとは反対に語ることや記すことが是が非でも必要だと思われてしまう時こそが、何らかの危機意識が顕在化する時なのだろうし、もしかしたらそういう危機意識こそが余計で余分な意識なのかも知れず、危機意識が募って切実に何かを訴えかけなければならない必要が生じた時こそ、言葉の力を信じて利用しようとする時であり、そこによこしまな願望が現れていることを忘れてしまう時なのではないか。得てしてそういう時には言葉によって他人を説得する以上に、他人を操ろうと企てていることに無自覚になってしまうわけで、他人を拘束してその自由を奪うことにも、良心の呵責を覚えないのかも知れないが、果たしてそれが余計で余分な意識だなんて、危機意識に囚われた中では知りようがないだろうか。


3月26日「多数意見」

 現実の世界で誰かが何かをやったことと、フィクションの中で架空の誰かが何かをやったことを、一緒に論じるのはおかしいことかも知れないが、例えば小説の中に実在する人物を登場させたり、実際に起こった出来事を物語るのは、史実を恣意的に解釈したい意図がありそうで、意図としては恣意的な解釈を信じさせたいのだろうが、それが小説などの架空の物語ではなく、ノンフィクションと呼ばれるジャンルとなると、虚構ではないことを売りにしているわけだから、現実に起こった出来事を恣意的ではなく、客観的に解釈したい意図があるのだろうし、しかもそれを物語るのだから、物語る以上は物語る必要があって物語るのであり、物語ることによって人々に訴えかけたい何かがあるわけで、その何かが意図的な何かになるのだろうが、一見フィクションの恣意性とノンフィクションの客観性が、両者の違いを際立てそうだが、ノンフィクションの客観性というのが、客観的に見せかけようとする意図があるようにも思われ、要するに意図的に恣意性を装うのがフィクションであり、意図的に客観性を装うのがノンフィクションなのかも知れず、虚構性を全面的に押し出しているのがフィクションであって、現実性を全面的に押し出しているのがノンフィクションだと捉えて、その意図的な装いを無視すれば、たぶん両者の違いはそれほどないのかも知れず、人々に訴えかけて人々に何かをわからせたい、という動機や意図があることは確かだろうし、またそんな動機や意図を超えて、現実の世界が作者というフィルターを通して、その抽出物を人々の前に提示しているわけだが、ニュースなどの報道はノンフィクションから物語的な要素を抑えて、さらに客観的な現実を直接提示しようとしていて、人々に事実をそのまま見せているように装っているわけで、報道している内容が虚構ではなく事実であることを、信じてもらいたいのだろうが、それでもそこには意図的な構成があって、何を見せて何を見せないかの選択も介在しているわけだから、そのようなものを提示する製作者の動機や意図は、フィクションやノンフィクションの作者と変わらないのではないか。

 製作者と言っても大勢の人たちが組織的にやっていることだから、組織としての集団の動機や意図が構成されているのだろうが、そのような集団が人々に見せる提示物が、何を訴えかけているのかといえば、それは様々なことであり、多種多様なことなのだろうが、そこから何が見えてくるのかといえば、世の中の利害調整に携わる立場から主張する様々な発言者の姿かも知れず、簡単にいえば世の中の機能そのものが見えていて、そこで発言する人たちが発言する権利を有していて、なぜ権利があるのかといえば、その人が何かを代表する立場を占めているような場合が多いのかも知れず、具体的に利益団体の代表者であればわかりやすいのだろうが、実際に何らかの役職に就いていなくても、そこでたまたま発言する機会を得たただの一般人であっても、あたかも市民の代表者であるかのような役回りを演じさせられて、それを見させられる人々も、市民の多数意見や常識的な反応としてはこんなものだろう、という先入観に基づいて認識してしまうわけで、実際に見せる側も一般市民の多数意見や常識的な反応はこんなものだろう、という意見や反応を選んで提示している可能性もあるだろうし、代表する意見や反応として不適切に思われるようなら、バッシングの対象になってしまうわけで、そこで報道する側とそれを受け取る側との、暗黙の了解が前提されているわけではないのだろうが、報道によって見せられる光景や語られる内容には、それが世の中を代表する光景であったり、代表する意見であるように思わせる意図が構成されていて、それに対して誰もが関心を示さなければならないかのような善意の連帯が前提となっていたのが、これまでのマスメディア的な共通認識であったかも知れないが、これがネットメディアになってくると、ある程度は個人の好みに応じて受け取る情報も偏向している可能性が生じているのかも知れず、それも相対的なもので、ネット上のどのニュースメディアを見ても同じような話題しか取り扱っていなければ、大差ないのかも知れないが、果たして人々が共通の話題にとらわれていないと、世の中が成り立たなくなるのかというと、ある程度はそうかも知れないが、すべてがそうである必要もないのかも知れず、そういうところで今後必ずしも共通の話題を必要としないような顕著な傾向が出てくるようなら、世の中の多数意見という概念も薄れてきて、そこから政治の面でも国家形態の面でも変化する可能性が出てくるかも知れない。


3月25日「藪の中」

 頭の中で思い描いている光景と現実に眺めている風景の区別は容易につくだろうが、それを言葉で説明するとどちらも同じような説明になってしまうだろうか。わざと同じように説明すれば区別がつかなくなってしまいそうだが、それと同じことではないだろうが、現実に起こった出来事について述べていることと、推測や憶測に基づいて述べていることの区別はつくだろうが、その推測や憶測を真実であるかのように説明することは可能だろうし、それが真実であるかのように装うために、証拠をでっち上げることも可能だろうし、そんなことをやり始めたらきりがなくなって、いったい何が真実なのかわからなくなってしまいそうだが、それがデマを流して騒ぎ立てる人たちの目論見だとしたら、そういう人たちにとっては、戦略的にそういうやり方も普通にありなのだろうし、実際にそういう人たちに与する勢力内では、それはデマなどではなく事実だと信じているわけで、デマを流していると騒ぎ立てている人たちこそが、嘘をついていることになってしまうわけだから、いつの間にか真相は藪の中で、どちらの主張も平等に扱われるようになってしまえば、それだけでもデマの効果が現れたことになってしまい、さらにデマだと見なしていたのが、いつの間にか事実だという認識が支配的な見解となってしまえば、もはやそれはデマではなく事実だと信じる人が多数派を占めてしまい、そういう意味でデマを百万回唱えれば事実に格上げされる可能性まであるだろうし、そういうことをやっている人たちにとっては、些細なデマを執拗に宣伝しまくり、相手が根負けするまで繰り返せば、些細なデマも深刻で重大な事実となることを信じて、そんなことを延々とやりたがるのだろうが、そういう行為とは無関係な人たちがどう思うかで、世の中の情勢も決まってくるのかも知れず、何かを執拗に騒ぎ立てている勢力が気になるなら、その騒ぎ立てている中身が何なのかを、感情的な先入観にとらわれずに、理性的に分析してみる必要があるだろうし、その結果どう考えてもそれが枝葉末節なことにしか思えないのなら、それに関して執拗に騒ぎ立てている側に、何かよからぬ企みがあるらしいことぐらいは推測しておいた方がよさそうだ。

 それがデマであれ事実であれ、そんなこととは無関係な現実もあるだろうし、そんな煽動合戦を繰り広げている人たちが、何のためにそうしているのかを考えてみれば、果たしてそういう煽動や宣伝を真に受けていいものかどうかが、何となくわかってくるかも知れず、実際にそういう人たちと利害関係を共有していなければ、彼らの大げさな煽動が滑稽に思われてくるだろうし、何で騒いでいるのか理解に苦しむようなら、無理に理解する気にはなれないだろうし、その時点で無関心でいられるようであれば、別に問題を共有しなくても構わないのだろうが、メディアが騒いでいれば嫌でも関心を持ってしまうのかも知れず、そういう時には他の国で起こっていることとの比較で考えてみれば、少しは問題の程度や質がわかってくるかも知れず、他と比べて日本だけがくだらないことで騒いでいるように思われるなら、騒ぎを招いている人たちに問題があるのだろうし、しかも騒がれている人たちを擁護する勢力が、煽動や宣伝に加担しているようであれば、そういう人たちとは何らかの利害関係で結ばれていて、それを問題視している人たちとは敵対関係にあるわけで、そこで何らかの利害を巡って対立が起きていると捉えるのが妥当なところだろうが、自分がそこでの利害対立とは無関係だと思われるなら、別にそこで繰り広げられている煽動合戦に加わる必要もなく、黙って蚊帳の外から眺めていればいいのかも知れないが、蚊帳の外からなら、無理な屁理屈をこねて争点を強引にはぐらかそうとしている人たちを、支持するわけにはいかなくなるだろうし、それでも支持したいのなら無関係ではいられなくなって、そういう姿勢をとることについて何らかの責任が生じてくるのかも知れないが、別に無責任だと思っていても、それはそれで問題はなさそうで、そもそもくだらないことを延々と問題視している状況が、まともに責任の所在を決められない成り行きとなっていて、騒がれている人が自分で責任を取るまでは何の進展もなさそうで、しかも当人が自らの責任を明確に認めた時点で、それはそのまま敗北宣言だと受け取られてしまうわけだから、是が非でもそういう結末を回避したくて、煽動合戦に持ち込んで真相を藪の中に隠して、責任をうやむやにしながら事態の幕引きを図りたいのだろう。


3月24日「事の本質」

 簡単に言えば煽動は誘い込まれて騒いでいる人たちの理性や平常心を失わせるために仕掛けられているわけだが、煽動がどのような結果をもたらすにしろ、煽動に誘導されて騒いでいる人たちに思い通りの結果がもたらされることはないだろうし、ある程度は騒ぎを起こして誘導している人たちの思うつぼなのだろうが、それとは別に思いがけない要因が作用して、その場をうまく制御できなくなれば、煽動を起こした側の思うつぼな展開にもならなくなるだろうし、そうなると流動的な情勢となって状況は混沌としてくるだろうか。だからと言ってそう都合よく不測の事態が生じるわけでもないだろうし、どちらの思うつぼにもならなければ、煽動が効果を上げなかったことにもなるだろうから、そうなるのが煽動を不快に思う人たちにとっては妥当な結果なのかも知れず、何事もフィクションのようにはいかないのが、現実の世界の不確実な特性だと思いたいわけだが、フィクションでさえも作者の思い通りの結果にはならない場合もありそうで、やはりそこでも外部的な要因が作者を迷わせ戸惑わせるように作用すれば、思い通りの結末に話を誘導するのをためらうような成り行きとなるだろうか。それと状況が似ているわけでもないのだろうが、煽動を仕掛ける側もフィクションの作者のように、頭の中で思い描いた話の筋書きに疑念が生じるような事態ともなれば、そこで迷いやためらいが生まれて、必ずしも自分たちにとって都合のいい結果をもたらすのが、最善の策でもないような気にさせる成り行きになれば、誰も思ってもみなかった結果がもたらされるかも知れず、はじめからそれを期待するのはおかしいが、政治的な不祥事を巡って対立する立場にある陣営が、議会やメディア上で煽動合戦を繰り広げている現状があるのなら、何か思いがけない不測の事態が起こることを期待してしまうのが、野次馬的に状況の推移を見守っている人たちが抱くありがちな思いだろうか。

 事の本質がそうでないことはわかりきっているが、本質から外れて煽動合戦を繰り広げているうちに、何が本質なのかがわかってくる場合もありそうで、それがわかったとしても、そこから外れるように煽動を仕掛けているのだろうから、事の本質を巡って議論が交わされることもなさそうで、仕掛けている側にも本質が何なのかわかっていないのかも知れず、ただこのままではまずいと思うから、成り行きを危険地帯から逸らそうとして、わざと挑発的な言いがかりをつけながら、そちらが話題の中心となるように煽っているわけだが、それはあくまでも枝葉末節な詭弁でしかないのだろうし、そんなことを言うなら騒ぎを招いた問題も枝葉末節な不祥事でしかなく、騒ぎ自体が本質から外れたどうでもいいことでしかないのかもしれないが、どうでもいいようなくだらない行為がまかり通っていること自体が、事の本質なのかも知れず、それがくだらない行為であることが、広く世間一般における共通認識として定着してしまってはまずいから、それよりもさらにくだらない煽動を仕掛けて、世の中の人々をうんざりさせることによって、普通にまかり通っているくだらない行為を見過ごさせるように誘導しているのかも知れず、煽動を仕掛けている側にはそこまではっきりとした認識はないのだろうが、彼らの勘が警戒警報を鳴らしているのは確からしく、だからこそ議会やメディア上で盛んに争点をずらすような言いがかりをつけているのではないか。そしてそれが功を奏してうまい具合に危機から逃れられたところで、やはりはじめからそれは枝葉末節な問題でしかなかったのだろうから、うまく丸め込まれて批判をかわされた人たちも落胆することはないだろうし、それによって世論も動かないなら別にどうということはないわけで、あまり恨み節のようなことは言わないで、尾を引かないようにしなければならないだろうし、良識ある人々が少しでもいることを信じて、本質的な問題を争点にして論議を呼ぶような成り行きに持っていかなければならないのかも知れないが、しかし事の本質とは何なのか。


3月23日「主体性」

 言葉と人間の関係は、人間が言葉を話したり聞いたり記したり読んだりする関係でもあるが、人間同士の情報のやり取りは主に言葉を通して行われ、言葉なしでは意思疎通が図れないわけではないが、普通に文明的な生活を享受するには、言葉による意思疎通が欠かせないだろうし、身振りや手振りだけでは限界がありそうで、身振りや手振りも頭の中でその意図を解釈する上で、言葉に変換しているだろうし、そういう意味で人の意識は常に言葉につきまとわれていて、意識そのものが言葉によって成り立っていると言えるだろうか。それ以前に視聴覚や触覚や味覚や嗅覚などの五感によって、自身の内外から情報を取り込んでいるわけだが、それらの情報を頭の中で処理して整理整頓するときには、やはり言葉を用いているだろうし、他に光景が見えていることは確かだが、人がイメージする心象風景には、それを言葉によって解釈しようとする欲求がつきまとっていて、それを都合良く解釈したつもりになっている意識が、何かしら思い違いや勘違いを引き起こしていることに、自覚的であるか無自覚のままでいるかが、それを思い抱いている当人にはわかりにくいところかも知れず、何か解釈が間違っているように思われる時が、何らかの岐路や運命の分かれ道上にいる時なのかも知れない。そこで何かに気づけばその先に道が開けるかも知れないが、気づかないまま成り行きにまかせて進んで行ってしまうと、機会を逸して手遅れとなってしまい、後からそれに気づいたとしても取り返しがつかないことになっていて、そこで何かをあきらめざるを得ない事態となってしまうのかも知れないが、逆に余計なことは考えずに成り行きにまかせて進んで行った方が、良かった場合もあるわけだから、運命の分かれ道上で何に気づき何に気づかないかが、その後の運命を分けるとしても、そこで感じた直感を言葉で論理的に解釈するか、あるいは余計なことは考えずに勘に頼るかの選択は、やはりその場の状況や心理状態から影響を受けるだろうし、そこで発生している困難な状況を切り抜けるには、自力だけではなく他力を必要とする場合がほとんどだろうか。

 自力と他力を区別する必要はなく、そこで生じている状況の一部として、自身も状況に組み込まれていると考えれば、すべてが一体化している中で、果たして自らが何か選択する余地があるのか疑問に感じられるかも知れないが、たぶんそれでも選択しているのであり、それが意識された意志に基づいて選んでいるのか、無意識の内に選んでしまっているかに関わりなく、その場で何か感じるものがあるとすれば、自己と外界が何らかの反応を引き起こしているであり、その反応が行為や行動となって現れるなら、それがそこで何かを選択した結果としての行為や行動だと捉えておけばいいのではないか。そうなった時にはすでに運命の分かれ道を通過しているわけで、そこである一つの道を選んで進んでいて、それが取り返しのつかない行為であるかも知れないが、たとえそれが最善の選択とはならなくても、何かしら決断を下したわけだから、自己の内外で何らかの状況の進展があったと言えるだろうか。要するに自己の内外から取り込んだ情報を処理して何らかの決断を下して、それが行為や行動となって現れるわけだが、その一連の動作がその場の状況を変化させたように見なされるなら、自己が主体的に動くことで周りの環境を変えたことになるのかも知れないが、その一方で状況の変化に対応して自己が動いたように思われるなら、自己の主体性は否定されて、ただその場の流れや成り行きに従って動いているだけとなってしまうのかも知れないが、確かにそういう面があるにしても、その結果うまくいっているように思われるなら、その場の流れや成り行きを的確に捉えた結果として、それが的確な判断だったからうまくいっていることになり、そう判断した自己の主体性が認められるのかも知れず、そんなふうに考えると自己の主体性は、その場の状況の変化と自己の判断を伴った行為との相互作用から生じる解釈なのかも知れず、行為した結果をどう解釈するかで、そこで自らの主体性の有無を想像できるだろうか。


3月22日「判断と選択」

 何が良くて何が悪いかは、そこに明白な判断基準があれば容易にわかりそうなものだが、あいにくそう都合良くわかりやすい基準を設定できるわけでもないだろうし、そこで何か判断せざるをえないような成り行きになっても、どう判断したらいいのかよくわからないことが結構ありそうで、風力や太陽光などの再生可能エネルギーを普及させるために、料金に上乗せさせる賦課金を値上げするから、電気料金を大幅に値上げするとなると、まるで再生可能エネルギーが悪いかのようなイメージが世の中に広がるかもしれず、だからと言って廃炉費用に莫大な金額が必要であることが明るみに出た原子力発電が、相対的に良いイメージになるわけでもないだろうが、原因と結果を都合のいいように短絡して煽動する人たちがいるとしたら、高い電気料金を払ってでも再生可能エネルギーを普及させるなんて、割に合わず非効率だと主張したいかもしれないが、では原発をもっと増設すべきかといえば、事故への恐怖から用地の取得が難航することは目に見えているし、また原発を稼動すれば必ず出る放射性廃棄物の最終処分用地も、同じように用地の取得が困難なのだろうから、これ以上原発を増設するのは難しいだろうし、どちらが良くてどちらが悪いかのような対立軸からは判断しない方が良さそうで、実際にできることは経済効率を重視するなら、電気料金の安い電力会社から電気を買えばいいだろうし、また志が高く反原発の立場を鮮明にしたければ、費用の都合が許す限りで自家発電するなり、またそういう選択ができるようなら、再生可能エネルギーから発電している割合の高い電力会社から電気を買えば良さそうで、他にも都市ガス会社が供給する電力ならガスタービン発電がメインかもしれないし、製鉄会社が供給する電力なら石炭火力発電が予想できそうだが、一応は電力の自由化によって複数の選択肢がある地域に暮らしているなら、それなりに判断基準を設定可能な場合が出てきそうだ。

 いずれにしろ何をどう判断したところで、一人の無名の一般人の判断が社会に影響を及ぼす範囲は微々たるものだろうし、軽い気持ちで判断すれば良さそうなものなのだが、そうであるなら何も社会への影響力など考える必要もなさそうで、そんなところから周囲に気兼ねなく判断する習慣が身につけば、社会からの同調圧力にもそれなりに抗う気にもなるだろうし、そういう習慣が身についた人が多いほど、それだけ社会全体の自由度も上がって、そういう面ではそれなりに快適に暮らせる世の中になりそうなものだが、それも相対的な感覚でしかないだろうし、一方では社会の慣習や制度に従わざるをえない部分もあるわけで、何もかも全面的に自由を求めるわけにもいかないのはわかりきったことで、脳天気に自由を謳歌する未来像を幻想する気にはなれないだろうが、極端な束縛や極端な自由ではなく、ほどほどの束縛やほどほどの自由を実感できれば、常識的な範囲内ではそれが幸福な状態だと言えるのかもしれず、それが中途半端で生ぬるいと思うなら、それ以上を目指すしかないだろうが、そうなると誰もが目指せる限度を超えてきて、そこにある種の狂気に通じるような、こだわりや思い込みが介在してくるのではないか。そうなるとそれが意味するところのものは、特殊な幻覚作用を伴うようなものにもなるのかも知れず、何か常人では辿り着けない境地を求めて、自らの生命を過剰にすり減らすような行為へと及び、それが命がけの大冒険となるのか、はたまた幻覚剤を常用しながら廃人への道を歩むのか、それとも未だかつて誰も味わったことのない快楽を堪能できるのか、それも個人の空想や妄想の結果かもしれず、大抵の人はそちらへの道を断念して、手軽な娯楽やフィクションの観賞へと落ち着いてしまうのだろうが、そこにもそれなりに判断と選択の機会があり、何かしら判断して行く道を選んだ結果が、今ある現状を構成しているわけだから、それ以上のことではなく、すでに極端な快楽を求めた人はどうにかなってしまったかも知れないし、その一方でありふれた束縛と自由を選んだ人たちが、無名の一般市民として普通に暮らしている世の中があるのだろう。


3月21日「国家形態」

 ヨーロッパ式の民主主義国家という形態は、今の世界で主流となっている国家モデルではあるのだろうが、それに対して日本には日本独自の国家形態が必要だと主張しても、すでに立法と行政と司法という三権分立を建前としている限りは、ヨーロッパ式の民主主義国家でしかなく、今の時代にそれ以外の国家形態は何らかの独裁形態になるだけで、国家といえばヨーロッパ式の民主主義国家が妥当な形態なのであり、それ以外の国家形態を模索することは欺瞞となってしまい、そういう意味で他の国家形態への幻想を抱くべきではなく、国として独自の何かが必要だと主張することは、その内容がどんなに魅力的に思われようと、ある種のまやかしになるしかなさそうで、そのまやかしが宗教的あるいは民族的なまやかしを含んでいるとしても、それもすでにヨーロッパ式の民主主義国家に含まれていたまやかしなのだから、国家に宗教的あるいは民族的な独自性を付与する試みは、それがアラブであってもイスラエルであっても日本であっても、ヨーロッパ式の民主主義国家の形態から抜け出たことにはならず、いくら古代に遡って国家の独自性の起源を導き出そうとしても、それはヨーロッパが古代ギリシアまで遡って起源を求めたことの模倣にしかならず、やはりヨーロッパ式の国家形態からは抜け出られないわけだ。しかもすべての国家形態には資本主義経済が絡みついているわけで、そうなると国民の間に貧富の格差や、社会的な階級意識や権力関係が生じて、当然のことながら貧者と富者の間で、あるいは階級間で解消不可能な対立や争いが生じてしまうわけで、そういう矛盾や不条理の類いをいかにごまかすかが国家運営の要となってくるわけだから、そこに暮らす民衆の誰もが納得するような国の在り方など、はじめからありえないわけで、その中で誰かが得をして優遇される一方で、他の誰かが損な役回りや犠牲者の立場を引き受けなければならないのはもちろんのこと、そういう人々の間に生じる不平等や不均衡を、放って置かずに絶えず是正する役目を、政治家や国家官僚が担っているはずなのだが、それは現状と国家と資本主義が絡み合う状態の中では、終わりのない作業になるだけに、建前としてはそれをやっているようには装えるが、実際には放置されがちな現状があるのではないか。

 具体的に人々の間に生じる不平等や不均衡をなくすにはどうすればいいのかといえば、なるべく各自がやっていることを分散させて、やっていることが競合しないようにするしかないだろうし、行為の錯綜や絡み合いをほどくのではなく、お互いに距離を設けるようにして、互いが互いのやっている別々の行為を干渉せずに尊重し合う環境を作れば、争いや対立が軽減されそうに思われるのだが、そういう面でネット環境の中に意識を置くと、一つの問題に関して無理に煽動して意見の集中を画策しても、それに乗ってくるのは組織的な大量動員以外にはありえないことを認識しておけば、意外と無関心でいられるだろうし、そういう意味で普通にこれまでの民主主義な手法に則った、人を組織的に大量動員して大衆の意見集約を実現しようとするやり方を、ある程度は無効化することが可能なようにも思われ、そこにこれまでの国家形態から脱却できる可能性が垣間見えると言えば、今のところは言い過ぎでしかないが、現状の国家形態にも国家としてのまとまりが崩れる可能性が内包されていて、例えばアメリカが州ごとの地方分権が強まる可能性を秘めた国家形態であったり、イギリスからスコットランドが独立する可能性を残していたり、日本で道州制によって地方分権を進める可能性が模索されたり、またメディア形態では衆愚的かつ国家的な一体感を保っていたテレビの一強状態が、ネットメディアの普及によって徐々に崩れ始めているならば、一部の新聞やテレビ資本と一体化した、ネット上で話題となっている国粋的なポピュリズム現象も、一過性の流行でしかなくなるだろうし、そうなれば大衆的な意見の集約を必要としないような、脱政治的な世界が実現する可能性まで夢想したくなるのだが、まだそんなことを考える段階ではないだろうし、それ以前に資本主義を起因として生じる社会的な経済格差の問題が残されたままだし、ネット環境自体が一部の富裕国の国民だけが享受している特権的な場でしかないかもしれず、具体的にはまだ何も変わっていないのかもしれないが、少なくとも現状でわかっていることは、社会の制度や慣習に囚われた人々が思い描くような、国家単位で人間の同質化を推進するような試みは、これまでの歴史的な経緯の中ではうまくいったためしはなく、しかもうまくいかなくてもそれを推進しようとするのが、国家意志として動作する行政的あるいは政治的な傾向なのであり、それは右翼的な国粋主義も左翼的な社民主義も同様に内包している、無意識的な国家共同体の顕われなのではないか。


3月20日「テロ対策」

 なぜテロが起きるのかといえば、直接には政府の民衆に対する抑圧が原因と考えられるが、ではなぜ政府が民衆を抑圧しなければならないのかといえば、民衆が政府に従わないからだろうし、それに関して民主主義の観点から考えれば、政府の方が民衆の意向に従えばテロが起きなくなりそうだが、選挙によって政権を担う政府なら、確かに民衆の中の多数派に従うことはできるが、民衆の中の少数派が多数派から抑圧されて、追い詰められてテロを起こす場合がよくありそうで、では政府は民衆の中の少数派にも配慮すれば、テロは起こらないのかといえば、シリアの場合のように民衆の中の少数派が政治的な実権を握っていて、多数派を長年抑圧してきたから、結果的には泥沼の内戦状態になってしまった場合もあるわけで、結局は民衆の間で解決困難で深刻な対立があるところでは、対立するどちらの勢力が政治的な実権を握っても、実権を握った側がもう一方の側を抑圧しにかかって、権力闘争に敗れた側が追い詰められると、テロに訴えるしか反撃の手段がなくなる場合があるわけで、政治的なテロをなくすには確かに政治的な民主化が必要だが、それだけでテロがなくなるわけではなく、社会の中で民族や宗派などに絡んで深刻な対立があるところではテロの根絶は難しいわけで、日本でも例えば在日米軍関連で、あまり苛烈に沖縄の反対派を弾圧すれば、血気にはやる若者の中からテロリストが出てくる可能性もないとは言えないが、それは治安関係者の望むところであり、テロ対策で活躍するには実際にテロリストが出てきてくれた方が好都合なのだから、まさにテロ対策にはテロリストの登場が望まれてしまうところが、逆説的な真実でもあり、実際にテロとの戦いにはテロが欠かせないのであって、効果的なテロ対策によって未然に防げるテロも確かにあるだろうが、テロを誘発する原因がある限りは、テロを根絶できないのはわかりきったことであり、それがわかりきっているだけに、現状ではテロを誘発する根本原因をなくすための試みが必要なのだろう。

 また一般的にテロへの対策というと、テロを口実として民衆への管理を強化するのが、行政的には妥当な目的となるだろうし、テロを未然に防ぐにはそうしなければならない、という大義名分を掲げることによって、最終的に民衆への管理の強化に結びつけばいいわけで、行政の仕事自体が民衆の管理でしかないわけだから、例えば爆発物の探知や人の監視に関して、それに携わる人員と装備とシステムを充実させるための予算でも確保できれば、その方面で行政の権限の強化に結びつくわけだから、とにかく何かの口実を見つけては行政の管轄範囲を広げて、しかも管轄区域内での取り締まりを効率的に行えるような体制にするとなると、取り締まりをスムーズに行うためには、取り締まりの根拠となる法整備が欠かせないわけで、そうやって実際に管理を強化して、民衆の自由を奪う方向で法整備が進んでいるとしても、それは行政機構の役割や性質上は当然の成り行きだろうし、それを議会の少数派が止める手立てがないとしても当然のことだろうし、少数派の支持者たちにしても打つ手がないのではないか。少数派が主張するようにそれが悪いことだとすれば、その責任は現政権を支持している民衆の中の多数派にありそうだが、別に悪いことだとは思っていないのなら、制度的には何の問題もないことかもしれず、実際に取り締まりを強化してあまり苛烈に少数派を追い詰めれば、少数派の中からさらに少数の過激な勢力が分離して、かつての日本赤軍のようなテロ組織が誕生するかもしれないし、そうなればテロ対策に携わる人員と装備とシステムが効果的に活用されて、その方面での行政機構の機能が有効に動作して、事前の法整備も活きてくるわけで、結果的には行政側の大勝利となるのかもしれないが、民衆の側からすればテロ対策の強化がテロをもたらすのだから、何か狐につままれなような不条理感を抱くだろうか。実際にそうなる可能性は低いだろうし、なったとしても諸外国に比べたらテロの規模も死傷者の数も大したことはなく、せいぜいがかつての地下鉄サリン事件程度の規模かもしれない。


3月19日「未来への感性」

 人は生きている限りは絶えず消耗し続けていて、実際に人体を構成する細胞も、細胞分裂する度にテロメアが短くなって、やがてその生のすべてをすり減らして死んでしまうのだろうが、意識の中では死ぬまでは何かしら生きる目的があるような気がするだろうし、過去から現在まで生きてきた過程を振り返って、何らかの必然的な成り行きを把握したつもりになれるなら、現状がこうなるより他がありえたかも知れないが、結果的にこうなってしまったことについて、その理由や原因も求められるかも知れず、それに関して現状に満足していたり不満だったりすることが、何から生じているのかといえば、生きる目的への達成度に対して、現状がどれほどの段階にきているかによって、その満足度が計れるかも知れないし、そういう方面で生きている実感や充実感とともに、何やら計画的に人生を歩んでいる気になれるかもしれないが、その計画というのもその場その時の成り行きや結果から、場当たり的に導き出された幻想でしかないのかもしれず、それを信じるに足る結果が出なければ、すぐに放棄されてしまうようなものなのだろうが、どう考えてもこうなるより他はないような結果に直面してしまって、そうなってしまったことに何らかの必然性を実感せざるをえないとすれば、それが当初から仕組まれていた計画というよりは、途中でどのような迂回を経ようと、結局はそうなる運命に導かれているように思われる場合もありそうで、そうなると下手に考えても無駄なように思われて、その場で生じている成り行きに素直に身をまかせていれば、自然に運命の導きを受けながら、あり得べき結果へとたどり着けるように思われてしまうだろうか。それもある種の幻想に過ぎないと言ってしまえば、その通りでしかないだろうが、たとえ偶然の成り行きだとしても、今に至るまでに遭遇した様々な出来事の巡り合わせが、あまりにも辻褄が合い過ぎているように思われてしまうと、やはりそれは神の導きのように感じられても不思議ではないだろうか。実際は数奇な運命に翻弄されているだけでしかないとしても、それを肯定的に捉えようとすれば、その先にきっといいことがありそうに思われてしまうのではないか。

 そういう意味で将来に期待する気になっているうちは、たとえ悟性が悲観的な現状認識を抱かせても、運命による導きの方を信じようとするだろうし、そんなある種の信仰心が前向きな心理状態を支えていて、それを糧として困難な現状を乗り越えて前進させようとしているのだろうが、前進した先に何が待ち受けているのかまではわからないまま、ただ漠然とした期待感だけが心の拠り所となっている場合、そこには根拠のない自信がみなぎっているのかも知れず、その根拠のないところが逆説的に自由の源泉となっているのであり、それは社会の慣習や制度といった後ろ盾を欠いた自由であって、そういった自由を求めている人たちは、社会の後ろ盾を拠り所して権力を振るおうとする保守勢力とは、相容れない自由の力を信じているのかもしれないが、それも根拠がないだけに幻想でしかなく、他に何の結びつきもなければ、実際には無力でしかないだろうし、世の中の多数派を説得できるような主張も持ち合わせていないだろうが、やはりそうであるからこそ、世の中のしがらみを欠いた自由を想像させるのであり、それが現状の延長上ではあり得ない理想状態を思い描き、実現不可能な未来社会を夢想するのかもしれず、場合によってはサイエンスフィクションを志向したりするのだろうし、それが高じて例えば将来の火星への移住を真剣に検討するような成り行きが出てくるわけで、そういうところが荒唐無稽に思われるとしても、それが実際に金融資本や産業資本と結びついて、保守的な感覚からすれば無謀とも思われる宇宙開発に乗り出そうとしている現状もあるだろうし、単なる大国の国威発揚的な虚栄心をも取り込んで、SF的な未来を切り開こうとしているのではないか。たぶん今後そういう蛮勇的な試みがうまくいくか否かという結果ではなく、失敗を恐れずに挑戦し続けることが、自由に対する信念や信仰心を生み出していて、今ある後ろ盾としての社会的な慣習や制度ではなく、未来に向かって自らを投機できる自由を信じることが、自分たちの起源やアイデンティティばかりを求める後ろ向きな感性とは違う、未来への期待感だけが心の拠り所の前向きで自由な感性を生じさせているのかもしれない。


3月18日「行政の肥大化」

 社会の中で何か決まりを作ることは、その決まりの標的となる行為に歯止めをかけたい思惑があり、決まりを利用して状況をコントロールしたいのだろうが、そうやって何らかの決まりを伴った制度が制定されれば、その制度を対応する形で、また新たな行為が生じてくるわけで、そうなると今度はその新たに出現した行為にも歯止めをかけなければならなくなって、制度を修正したり新たな制限事項を設けたり、場合によってはその行為に対応した新たな制度を作ったりして、そんなことを繰り返しているうちに、制度自体がどんどん複雑怪奇になってくると、状況の把握やコントロールもままならなくなってきて、制度の複雑化に応じて多様化する行為にも歯止めがかからなくなる恐れも出てきて、それを放置すると結局は抜け道だらけの形骸化した制度になってしまうかも知れないが、そうなると逆に制度を運用する側にもメリットが生じてくるのかも知れず、何も公正公平な運用をしなくても、制度自体が複雑怪奇だからごまかしてもわかりづらくなり、外部から不正を指摘するのが困難となれば、内部の制度に精通した者たちにとっては、自分たちに有利になるように、恣意的な制度の運用が可能となってくるのではないか。そしてそういう成り行きが進んでいくと、制度を管理運用する機構の肥大化を招くわけで、維持経費ばかりかかって何のためにあるのかわからなくなるような組織というのが、それ自体が何やら強大な権限まで有してくるわけで、そのような機構の意向に逆らうと何もできなくなるような事態まで招いてしまうと、そういう機構に支配された社会というのは、改革も変化も不可能な停滞した状況となるだろうか。ある意味では放っておけば必ずそうなるのが国の行政機構の宿命かも知れず、内部からは自助努力が働かないような仕組みとなっていて、外部から絶えず監査するような制度を作らないと、効率的な機構にはならないのかもしれないが、実際にそのような制度があるとしても、制度であるだけに運用次第ではすぐに形骸化してしまうのかも知れない。

 一方で機構の肥大化と制度の形骸化というのは、国の繁栄を表しているのかも知れず、肥大した行政機構を維持できる国力があるわけで、そこから国が衰亡の兆候を見せ始めれば、行政機構もだんだん収縮してくるのかも知れないが、何がどうなればそうなるのかは、その時期に生きている人たちには知りえないことかも知れず、現状ではまだ肥大化している途中なのだろうか。少なくとも国民総生産が前年割れしてくれば、衰亡の兆候を示していることになりそうで、急激にではなく微減するぐらいならまだまだ現状維持の段階で、また何かのきっかけで盛り返す可能性もありそうだが、長期的に低落傾向にあるならもはや限界だと認識すべきだろうか。限界であろうと衰亡の兆しを見せていようと、そこで暮らしている人の数が減っているなら、それに対応にして行政機構も小さくなればいいことであって、そういう面での国力の低下なら、自然の成り行きでしかなさそうで、そういうところで何をもって国の繁栄と定義するのか基準がはっきりしないし、国民一人当たりの所得が他の諸外国に比べて高ければ、裕福な国であることは確かだろうが、それも生活費が安く済むようなら所得が低くても楽に暮らせるわけで、一概には言えないところかも知れず、国が繁栄するか衰亡するかの状態ではなく、そこに暮らしている人たちの気が済むような生活環境が実現されていれば、それで構わないのだろうが、果たして現状の行政機構にどのような傾向があるのかは、よくわからないわけではないが、多面的な傾向があるのだろうし、その中で住民を管理する傾向は、税金を徴収する上で必要不可欠な機能だろうし、また健康保険料を徴収しているのだから、住民の健康管理にも介入したいだろうし、税の中でも所得税を住民から徴収したいのだろうから、できれば住民が定職について安定した収入を得るための手助けもしたいのだろうし、さらに住民の就職先である企業が、住民が生活していけるだけの賃金を払って、しかも住民の健康を配慮した仕事をさせているのか、などの面で企業を監督したいのだろうし、そうやって管轄区域内の様々なことにどんどん行政が介入していってしまうと、きりがなくなりそうだが、そういうことをやればやるほど行政機構の肥大化を招くのではないか。


3月17日「イメージの共有」

 人が思うイメージは社会の共通了解へとつながっていて、意識がイメージにとらわれている程度に応じて、それ以上に想像力を働かせる度合いも限定され、社会の共通了解としての世間一般に流布されているイメージに基づいて物事を判断している限りは、イメージを流布しているメディア的な幻想の中に意識がとどまるより他はないだろうか。例えば教育勅語に関しての肯定的なイメージは、儒教的な道徳観を強調する面であり、親孝行して兄弟仲良くして夫婦仲睦まじくして友情を大切にして、勉学や仕事に励んで国の法律を守って世の中の役に立つ立派な社会人になりなさい、といったイメージを広めたい人たちが一方にはいて、当然もう一方には否定的なイメージを広めたい人たちもいて、これは皇室が先祖代々受け継いできた遺訓であり、天皇の臣民としての守るべきことであり、有事の際は臣民として奉公しなさい、という時代錯誤的な面を強調して、国民主権や民主主義を否定する危険な内容だと主張したいのだろうが、そうだとしても内容のすべては建前論だし、発布された当時の歴史的な時代状況を考慮すれば妥当な内容なのだろうし、それを現代の子供たちに教えようとすることが時代錯誤なのは当然としても、思想信条の自由は憲法で保障されているので、皇国主義の人たちが広めようとしていることも、脈絡としてはそういう成り行きにならざるを得ないのではないか。それよりも肝心なのは、内容が建前論でしかないことであり、わかりきったことを守らせようとする姿勢であって、実際に守ろうとしても守れない事情が出てくるわけで、親子ゲンカも兄弟ゲンカも夫婦ゲンカも友達同士の喧嘩も起こってしまうわけで、勉学や仕事に励めない事情も、国の法律を破らざるをえない事情も出てきてしまうわけだから、子どもに向かっていくら守れと説いて回っても、それは世間体を気にする大人のアリバイ工作でしかなく、要するに学校の入学式や卒業式で訓示を垂れる校長用の形式的な決まり文句と同レベルでしかないわけで、1945年以前は実際そうであったかも知れないが、それを今の時代にそっくりそのまま使うのは、何か別の意図があると勘ぐられても仕方がないだろうが、内容としてはやはり儀式用の決まり文句でしかないわけだ。

 そういう社会的な建前としてのイメージの共有というのは、内容ではなくそれ以上に想像力を働かせないようにするための防波堤の役割をしていて、それ以上は深く考えるなという共通了解を守らせるために、有効に働く符牒のようなものであり、実際は教育勅語に記されている文言など理解していなくても良く、ただ黙って天皇陛下の有難いお言葉が記された額縁の書状に向かって頭を深く下げていれば、その場の儀式はつつがなく済んでしまうのだろうし、それについてどうこう述べること自体が憚られることなのだろう。またそんな大げさな論議を呼ぶイメージでなくても、例えば金持ちのイメージとして世間的に共有されている記号を集めれば、山の手の高級住宅街に住み、高級ブランドの衣装や腕時計や宝飾類を身につけて高級車に乗り、子供を幼稚舎から大学までエスカレーター式に進める学校で学ばせている、とか容易にイメージできそうだが、別に金持ちに個人的に縁がなければ、それ以上は深く金持ちについて想像を巡らす必要はないわけで、その代わりに抱くのが金持ちへの憧れや嫉妬であり、自らも欲望の対象としての金持ちになりたくなるわけだが、そういうイメージにとどまっている限りは、なぜ世の中に貧富の格差が生じているのかとか、人々の間で生じている経済格差をなくすにはどうしたらいいのかとか、そういう方向には想像が働かなくなって、ただアメリカンドリーム的な成功神話を夢見て、格差社会を無自覚に肯定してしまうわけだが、世間的に共有されているイメージは常に世の中の現状を肯定する傾向があるのかも知れず、金持ちやブルジョアに関しては世間的な成功者のイメージとなり、逆に労働者のイメージは虐げられた者たちとなるだろうし、それに対して会社員やサラリーマンとなると肯定も否定もない中庸なイメージで、ニートとなると責任逃れで蔑みのイメージとなるかも知れないが、それらのイメージにはすべて個人的な事情が省かれていて、それぞれの個人を取り巻く環境や直面している事態にまで踏み込んでしまうと、そんな肯定や否定のイメージでレッテル貼りするだけでは済まなくなって、世の中の矛盾や不条理が明らかとなってしまうから、とてもじゃないが現状を肯定するわけにはいかなくなってしまうのかも知れず、そういう矛盾や不条理を見ないようにするために、イメージのレベルで思考停止する必要があるのかも知れない。


3月16日「嘘としての言語」

 昔の感覚は今ある現状には当てはまらないだろうが、昔の感覚というのが、今ある現状の中で昔を思い出して想像した感覚であるとすれば、それは昔の感覚ではなく、単なる想像上の架空の感覚だろうか。そうであるなら昔と今を単純に比較しても、それほど意味のある比較とはならないかも知れないが、今の感覚というのも何なのかよくわからないかも知れず、感覚というのが何から生じているのかが明らかにならないと、それについて何を述べればいいのかもよくわからないだろうか。ただ漠然と感じることは、取り返しのつかない今があり、しかもその今を無駄に浪費しないように、最善を尽くそうとしているのかも知れないが、どうも結果はそうはなっておらず、絶えず譲歩を強いられている現状の中で、別にもがき苦しんでいるわけでもないが、安易に現状を否定する気にもなれず、かといって全面的に肯定できるような現状でもなく、そういう漠然と感じることではなく、何か具体的な事象に関して述べる必要があるのかも知れないが、それが何だかわからないといったところが、やはり漠然とそう思うしかない現状であり、そこに何もないはずがないのだが、そこにある物事が言説の対象とはなり難く、語るまでもない出来事に取り囲まれて、言葉が出てこないような状況に陥っているだろうか。それは嘘で実際には何かしら記しているのだろうが、言葉を記している水準と意識が捉えている現状とがかみ合わず、何か記述の内容が現状からかけ離れているようにも感じられ、何を記しても現状に対しては無効であるように思われ、結果的にはどうでもいいような内容となっているだろうか。たぶんそれも嘘であって、意識が捉えている具体的な出来事というのが、それほど明快な解釈を必要としない事象であり、事の善悪の判断を必要としないわけでも、批判も擁護も受けつけないわけではないが、別に判断しなくてもあえて批判も擁護も回避しても、それで済んでしまうようなことであり、それが問題といえば問題なのかも知れないが、それでも問題化とは無縁でいられそうで、そうなるとやはり何も語る必要は無くなってしまうわけだ。

 今ある現状の中で確からしいことは、何をどうやれば最善を尽くしていることになるのか、という問いは不要なのかも知れず、すでに何もかもがわかってしまったわけではないのだが、大方のところは決着がついていて、その決着がついているところを見てはまずいのだろうが、わざと目を背けるのも見え透いた動作であって、あえてそれについては触れず、それとは別のことを語るのが大人の対応かも知れないが、その大人の対応がうまくとれずに苦労しているわけでもないのだろうが、だからと言ってそれについてあからさまに語ろうとしてできるものではなく、あからさまには語れないからこそ、わざと目を背けて無様な醜態をさらしているとは思えないわけで、いかに見えている光景を語らずにおくかが、人々の間でもメディア上でも競われているわけでもなく、普通に立ち振る舞っていれば、自然とそれについては語らずに済むわけで、実際に語らずに済んでいる現状を当然視していれば、それで何事も起こらなかったのだろうが、実際はどうなっているのだろうか。たぶん昔の感覚とは違っているはずだし、今さら何もかもがわかっているとは思えないのだろうが、別にわからなくても構わないのかも知れず、実際にわかっていないはずだと思いつつも、何かしら認識しているのではないかと期待はしているのだが、その認識が昔の感覚でいうと、ありえないことだと思うしかないだろうか。何がありえないのかといえば、現状がありえないわけで、しかもありえない現状がありえているのだから、信じろと言われてもにわかには信じられなくて当然なのだが、別に信じなくても構わないわけで、信じようと信じまいと現状の中で生きている現実が変わるわけではないのだから、そういう意味で現実の重みを実感せざるをえないわけだ。ならばその実感せざるをえない現実とは何かといえば、ただの何でもないような日常でしかないだろうか。もちろんそれも嘘であって、あえてそれについての言及を避けているのかも知れないが、それが語ろうとして語れるようなことでもないとすれば、こう語っておいた方が無難だし妥当なのかも知れない。すべての現実がフィクションに結びついているわけではないが、それを語れば嘘になってしまうだろう。


3月15日「経済戦争」

 イギリスは19世紀にインドと中国の経済に大打撃を与えることで覇権を確立して、アメリカは20世紀に二つの世界大戦でアジアとヨーロッパが主戦場となって荒廃したことから覇権を確立したわけだろうが、当時のイギリスのやり方は、インドから綿花を輸入して、イギリスからは産業革命で進歩した紡績機や機織り機を駆使して、製造した綿製品をインドに輸出して、また中国からは茶を輸入してその代金を銀で払っていたのを、それだと中国へ銀が流出してしまうからまずいので、アヘンをインドから中国へ密輸して、中国からはアヘンの代金として銀を回収していたらしいが、それに関連して嘘か本当か知らないが、インドへ綿織り物の輸出量を増やすために、多数のインドの機織り職人の腕を切り落としたとかいう伝説まであって、今の基準からすればかなり悪どいやり方で、世界的な経済覇権を確立したわけで、しかも本国のイギリスでも人口の多数を占める労働者階級は、劣悪な労働環境によって悲惨な生活を余儀なくされていたわけだから、一部の成功したブルジョア階級以外は誰も得しない、倒錯した資本主義社会だったようだが、それでも次第に資本が蓄積して相対的に国全体が豊かになって、低賃金で長時間労働の劣悪な労働環境になる職場も、今やそのほとんどがアジアやアフリカや東ヨーロッパや中南米の国々へと移転して、イギリス国内の平均的な水準では、当時と比べればだいぶマシな生活を享受できるようになったのだろうが、果たして今劣悪な労働環境の中で働いている労働人口の多い国々が、将来イギリスのようになれるのだろうか。今と昔では状況も地政学的な条件も歴史的な経緯も違うから、一概に比較できないだろうが、例えば日本の労働環境はどう捉えればいいのだろうか。

 とりあえず最近話題となっているのは、アメリカのグローバル企業であるアマゾンの宅配荷物を扱っているヤマト運輸が、運転手の人手が足りず、長時間労働と残業代の不払いが表面化したようだが、また少し前では同じアメリカのグローバル企業であるアップルの下請けで液晶画面を作っていたシャープの経営状態が悪化して、台湾の企業へ身売りとなって、さらにアメリカの原発企業を買収したばかりに多額の損失を出して、経営危機に陥っている東芝も話題となっているが、それぞれのケースは互いに関連性はないにしても、タカタのエアバッグに関するリコール問題とか、トヨタ車のブレーキが利かなくなる件では、アメリカ国内のバッシングが相当盛り上がったし、別にかつてのイギリスがインドや中国に仕掛けたように、アメリカが日本に対して国家ぐるみで経済戦争を仕掛けているわけでもないのだろうが、アマゾンの日本での躍進の煽りを食って、同業他社の楽天や他の通販業の収益が悪化しているらしいし、アップルのスマホは相変わらず日本だけで突出して売れているようだし、それでも全体としては経常黒字を出しているのだろうから、そのことで日本経済が大打撃を受けているわけではないのだろが、それ以外でも例えばトヨタが世界中で車を売った額と同じくらい、国内のパチンコ産業が稼いでいるそうで、そのパチンコ産業の多くは韓国朝鮮系の利権らしいし、また高級車と言えばベンツBMWポルシェと言ったドイツ勢が占めているし、それを経済戦争と呼ぶのは極端な表現だが、日本はアメリカをはじめとする外国に対して、それほど勝っているわけでもないし、それほど負けているわけでもない、という現状認識になりそうだが、労働環境としても何とか生きていける程度には維持されているのだろうか。


3月14日「国家と資本主義」

 国家と資本主義経済は相互依存関係にあり、国家による産業の保護育成なしには経済発展もなかったわけで、また19世紀におけるイギリスや20世紀におけるアメリカなどの、覇権国家が世界経済を牽引することによって、世界全体が経済発展したとも言えるだろうが、そういう面から現状で国家の存在意義を強調したければ、いくらでも肯定的なことがいえそうだが、一方でそのような現状維持の犠牲となっている人もいくらでもいるだろうし、そういう面で国家や資本主義を否定したければ、いくらでも否定できる現状もありそうだが、それは国家や資本主義経済が現に機能している前提の上で批判しているのだろうし、別に批判したからといって、現に機能している国家や資本主義経済を変えようとしているわけではなく、できれば不具合が生じている面を是正したいのだろうし、現状を改善するための策を提示できればいいのだろうが、それがなかなか見つからないから、批判している人たちには、現状が行き詰っているように思われ、一部の人には国家も資本主義も、その終焉が近づいているように感じられるのではないか。そしてその最後の悪あがきが、世界的に流行っている国粋的なポピュリズムであるかのように見なしても、それに反対する人たちを鼓舞する挑発的な宣伝文句にはなるだろうが、どうもそれは周期的な反復現象でしかないようにも思えるし、その手の国粋的なポピュリズムは、ある状況になれば自然と流行る傾向があり、そんな状況が今もたらされていて、国家や経済の状態が、それが流行る条件を満たしているから流行っているのであり、以前の流行と状況がまったく同じというわけでもなく、今の流行にはそれなりにこの時代に特有な背景や脈絡があって、それが以前とは違った結果をもたらす可能性は十分にあるだろうし、その結果が国家や資本主義経済の終焉となるかどうかは、現状ではわからないが、現状で国家や資本主義経済の限界や欠陥が露呈しているとすれば、それは以前の流行の時にも露呈していたことかもしれず、その時は世界恐慌や世界大戦によってリセットしてしまって、限界や欠陥はなかったことになってしまったのか、あるいはそれなりに修正や改善が施されたのかもしれず、現に未だに国家も資本主義も健在であり、しぶとく民衆の心を捉えて離さない状況を維持しているのではないか。

 その中で生きて暮らしているのだから、そんな自覚さえないだろうし、それを前提として生計を立てているわけだから、それ以外はあり得ないのだろうし、そう思っていること自体を批判する必要も変える必要もないのだろうが、その中でポピュリズム勢力とそれに反対する勢力が、敵対しながらも協調して何をやっているのかといえば、危機を煽っているのであり、その危機がどこから生じているのかといえば、言うまでもなく国家と資本主義から生じているわけだが、一方で国家も資本主義も至って正常に動作していて、その正常の動作というのが当然のことのように国家と国家との対立をもたらし、軍事的な緊張関係や経済摩擦ももたらすわけだが、さらに一方で国家と資本主義は経済のグローバル化を推進していて、他方では国内産業を保護しようとしているわけで、その相矛盾するどちらもやらないと、国家も資本主義も行き詰ってしまうだろうし、ではどうやってその矛盾を解決しようとするのかといえば、要するに自国の経済が行き詰まらないようにするために、敵対関係にある国の経済が行き詰まって欲しいと願っているわけで、だから例えば日本のポピュリストたちが、敵国として想定している韓国や中国の経済が崩壊することを祈って、ネット上で韓国経済崩壊とか中国経済崩壊とかいう内容の経済本や、それを予想するニュース記事の類いで騒ぐのも当然であり、彼らは彼らでそうと自覚していなくても、国家と資本主義の矛盾や欠陥をわかっているわけで、敵国を打ち負かさない限りは、自国の繁栄はあり得ないことを、彼ら自身の主張が示しているのだろうが、それに反対する勢力が何を主張しているのかといえば、在日米軍に関する問題でも明らかなように、同盟国であるアメリカの支配に反発して抗おうとしているわけで、アメリカが日本の農業を崩壊に導くのではないかと危機感を募らせていて、また他の産業もこのままではアメリカのグローバル企業に席巻されて、日本企業はその下請けに甘んじて、奴隷労働を強いられるかのような恐怖感を煽る人たちもいて、何とかアメリカのくびきを外して、自主独立の対外関係を構築しないと、アメリカの巻き添えをくって日本が滅んでしまうと主張したいのかもしれないが、どちらにしても国家と資本主義を前提としながら、国家と資本主義から生じている危機に対処しようとしていることは明らかで、その場当たり的かつ相対主義的な主張も、やはり国家と資本主義から生じているのかもしれない。


3月13日「存在意義」

 軍備増強が何をもたらすかといえば、増強した分だけ国防予算が増えて、その予算を使った分だけ関連する産業が潤うだろうか。装備は実際の戦闘で消費しなければ、定期的な軍事演習で消費されて、古くなった装備も刷新しなければならないから、それも定期的に買い換えられるだろう。そういう次元では単純なことかも知れないが、実際は国と国との勢力争いが事態をこじれさせて、様々な方面に解決困難な問題を生じさせている。イエメンを空爆して街を破壊し多数の死傷者を出しているサウジアラビアの国王が、莫大な費用をかけて多数の随行員を従えて、世界行脚の途中で日本にも立ち寄っているらしいが、国としては北朝鮮がやっているミサイル発射などの行為は非難できるが、サウジアラビアがやっている行為は非難できないだろう。同様に中国が南沙諸島に軍事拠点を造った行為は非難できるが、アメリカが沖縄やグアムに軍事拠点を確保していることは非難できない。またアメリカがメキシコからの不法移民を食い止めようとして、国境の壁を建設したいらしいが、メキシコを侵略して戦争によって奪った、カリフォルニアやアリゾナやニューメキシコなどの広大な土地を、メキシコに返すつもりがないのは言うまでもなく、メキシコ国民してみたら、19世紀には国土の三分の一もの面積を奪われて、今さら国境の壁を建設するなんて、身勝手にもほどがあると思われても不思議ではないだろうか。そんな歴史的な経緯を考慮すれば、サウジアラビアが今後空爆だけでなく、現状ではそうなる可能性は低いだろうが、何かの拍子にイエメンに向けて本格的な軍事侵攻しても、果たして国連が非難決議を採択できるか微妙なところだろうし、場合によったらアメリカが拒否権を行使するかも知れないし、日本は棄権にまわる可能性が高いのではないか。そうはならなくても北のシリアではロシアが介入して、南のイエメンではサウジとアメリカが介入して、両方とも出口の見えない泥沼の内戦から抜け出せない状況のようだ。

 しかし一方でそこに国があることを前提としてなら、そんなことが言えるだけで、国家の存在自体にあまり肯定的な根拠がなければ、是が非でも国家を前提として考える必要もないのかも知れず、中東で起こっていることは、未だ部族や宗派間対立の延長上で、地域一帯の支配部族や支配部族の信仰する宗派が、そのまま政府を名乗っているだけで、部族や宗派を超えて国民を形成できないジレンマがあって、いくら公正な選挙によって議会制度の体裁を取り繕うとしても、それ以前に部族や宗派の壁があるわけで、日常の生活習慣に基づいた心の壁を越えるのは困難を伴うのだろうし、そのような地域では無理に国民国家を作ろうとするからおかしくなるわけで、もしかしたら国連に専門機関でも設けて、国家が根付きにくい地域には、広域的な行政代行サービスのような統治のやり方を考えた方が良さそうにも思えるが、そういう時に必要なのが、国連軍や独自の治安警察組織や税の徴収サービスシステムになるだろうし、そうやってまずは内戦が絶えない地域から、徐々に国家をなくす試みを行えたら、世界から戦争をなくすような成り行きに持っていけるだろうか。要するに国連による委任統治や信託統治などの地域から、新たに独立国家を作らないで、そのまま国連が管理する方式を確立すればいいわけだが、それには行政サービスのあり方を見直す必要も生じてくるだろうし、そもそも選挙によって住民の代表者を選ぶやり方がなぜ必要なのかを、よく考えてみる必要がありそうなのだが、果たして議会や政府の中で住民の代表者である政治家は何をやっているのだろうか。彼らがやっていることが本当に住民にとって必要なことなのかどうか、どうもその辺に何か思い違いやずれが潜んでいそうなのだが、例えば政治家が国家にとってだけ必要であるとすれば、国家がなければ政治家も不要となってしまうだろうか。国家にとって必要なことが住民にとっても必要であれば、住民によって選ばれた政治家にも存在意義が生じるだろうが、国家や政治家のやっていることが、住民の生活を脅かしているとすれば、国家も政治家も住民にとっては要らない存在でしかなくなってしまうが、逆に国家や政治家にとって住民は必要不可欠な存在であり、住民から養分を吸い取る寄生虫のような存在だろうか。その辺をあまり単純化せずに考えてみなければならなそうだ。


3月12日「世の中の矛盾」

 信念はそれを抱いている者の行動や言動を縛り、信念に基づいた一定の傾向や方向性を与えるだろうが、誰かがその信念に逆らうようにそそのかすのには、何やら悪意が感じられそうで、またつまらぬ信念に凝り固まっているように思われる人をからかうのにも、同様な傾向があるのかも知れないが、それはその信念や信念に基づいて行動し言動に及ぶ人が、何か鬱陶しく感じられるからかも知れず、場合によってはその人を除け者扱いすることも辞さないような空気があるとすれば、そう感じてそのような空気に同調している人たちが、その場で多数派を占めている可能性が高く、また信念にこだわっている人には、多数派には見えていないか、見ようとしない何かが見えていて、その何かに気づいていることが、その信念を曲げずに、頑なに守ろうとする行為に結びついているのではないか。ではなぜそれが多数派には見えていないのかといえば、そこに見たり気づいたりすることを妨げる何かがあるとすれば、それは多数派の同調圧力を形成している何かかも知れず、その場に何らかの力が働いていて、しかも多数派はその力を感知していないのかも知れないし、自覚できないのかも知れない。もしかしたらその力というのは同調圧力そのものだろうか。そう捉えても構わないのかも知れないが、それではそれ以上の詮索が不可能となるだろうし、何が同調圧力をもたらしているのかを特定することは困難だろうか。ならば多数派には見えていない何かとは何なのか。それは多数派が保持していると思い込んでいる何らかの価値観が、あまりはっきりした根拠もなく、正当化することが難しいような代物であるということだろうか。そうであるなら多数派が抱いている価値観こそが、何やら怪しげな迷信の類いであって、その人がそれを信じられないから、多数派にとってはその人が、何やらつまらぬ信念に凝り固まっているように映り、それが理由で多数派への同調を拒否しているのなら、多数派はその人の取り扱いに苦慮していて、何か面倒臭く鬱陶しい人物に感じられるのではないか。

 そうだとしてもそうなる原因は他のところにもあるのかも知れず、そもそも世の中に同じ価値観を共有する多数派が構成されていることは、それなりの必然性があるからそうなっているのであり、たまたま偶然の巡り合わせでそうなっているのではなさそうで、何か多数派を結びつける利益となっているものがあって、その利益に与ることで多数派としての存在意義も生じていそうなのだが、それは何かと言えば世の中の安定感や安心感なのかも知れず、同じ価値観を共有する人が世の中の多数を占めていて、社会の主導権を握っているように思われれば、そちらの勢力に付き従っていた方が安心だし、同じ価値観を共有している者同士で仲間意識でも芽生えれば、お互いに助け合えるし、強固な結束を作り出せれば、社会もそれだけ安定するだろうし、そのためには同じ価値観や規範を共有しなければならないとなるのだろうが、そうなると何らかの事情でそれらを共有できない人や、意識して共有を拒む人を排除したくなるわけで、場合によっては敵視までするようになれば、排他的でよそ者や異分子を受けつけない偏狭な社会となるだろうし、多様性や多元性の欠如した、身内だけで凝り固まったようになる可能性まで出てきそうだが、たぶんそうはならないのであり、凝り固まる方向とは逆の力も働いていて、あまりに社会の同質性を強めすぎると自由がなくなり、自由がないと次第に不快感が増してくるわけで、そうなると人と人との間で適度な距離感を保とうとしたくなるわけで、孤独でいられる自由も求めたくなるだろうし、好き勝手なことをやれる時間も欲しくなり、他人や社会から同調を求められるのが鬱陶しくも思われるようになるのではないか。確かに安心感や安定感にも惹かれるだろうが、その反面社会のしがらみに付きまとわれるのも面倒なことだろうし、相反する方向性の間で引き裂かれるのもごめんだろうし、そう簡単に都合の良い環境にはならないところが、世の中の矛盾しているところなのだろうが、人はその場の都合に合わせてどちらも求めたいわけだから、結局はどっちつかずでうまくはいかないのではないか。


3月11日「運次第」

 何か守るべきものがあると思えば、それを守るように心がけるかも知れないが、誰にとっても守るべきものがあるかというと、とりあえず法律の類いは守るべきことになるのだろうし、そういう方面ではそれだけかも知れないが、人によっては守るべき道徳規範や社会規範をはっきりと意識しているだろうか。普通は漠然とそんなものがあるくらいの認識だろうし、ただやってはいけないことをやってしまってから、あやまちに気づくのだろうし、やる前から気づくことはあまりないのかも知れず、何がやってはいけないことなのか、そのすべてを事前に把握している人はあまりいないのではないか。そういう意味で人は絶えずあやまちを犯しながら生きていて、絶えず行為の修正を迫られているのかも知れないが、それでも何かしらあやまちを犯してしまうのだから、それに関しては反省し続ける宿命にあるのかも知れず、何か反省するようなことがあるとすれば、それに関連して守っている規範のようなものも、おぼろげながらあるらしいことは意識できるのかも知れない。もちろんその規範のようなものが、一般的な道徳規範や社会規範と完全に一致するわけではないだろうし、中にはそれらに反しているようなものもありそうだが、普段ははっきりとは意識していないわけで、また自らを取り巻く状況次第では、どのような規範も破らざるをえないような機会が巡ってくる可能性もあるかも知れないし、そんな状況に直面したときに、うまく臨機応変な対応ができれば、その場を切り抜けられるのだろうが、ある意味ではそれもそのときの運次第かも知れず、結果が良ければ運が良かったと思えばよく、悪かったら運が悪かったと思う程度で済んでいるうちは、まだ運がいい方かも知れないし、それでは済まなくなるような状況に陥ったときが、その人にとっての深刻な事態なのだろうし、そうなった先に待ち受けている運命というのが、場合よってはその人が真剣に取り組むべき課題となったりするのかも知れず、自らの運命と格闘しなければならない状況ともなるのではないか。

 だからといって進んで困難な状況に身を投ずることもないのだろうし、平穏無事に日々を過ごしているのなら、それを享受していればいいような気にもなるだろうし、別に大げさなことは何も成し遂げずに生涯を閉じても、それが悪いというわけでもないだろうし、世の中の大半の人たちは実際にそうなる運命なのではないか。だとしたら子供たちに何を期待しても、大半は期待はずれに終わる公算が高いだろうし、あまり大げさな要求を突きつけても、それは無理な課題となるしかなさそうだが、その反面大げさな要求を突きつけないと競争が起こらないから、そういう方面で世界的に名をはせるような人物が出現しにくくなってしまうだろうか。特殊なスポーツや学芸の分野では、そういった英才教育が流行っているかも知れないが、大勢で競争させても大半は才能が開花せずに、脱落する運命なのだろうから、酷なことかも知れないが、そうであっても誰もがそんな過酷な競争に参加させられるわけでもないし、脱落する大半の子供達にしても、それがすべてではないだろうし、実際にそれでも普通に生きているわけだから、そういう方面にこだわる必要もないのかも知れないし、何にこだわろうと、こだわっているものから報酬を得られるとは限らないのだろう。意外に思いがけないところから恩寵を得られるかも知れないし、期待していないのにそうなれば、余計に嬉しくなってしまうだろうから、そういう意味でもあまり過度な期待や欲望は抱かない方が、気楽な状態でいられるかも知れず、何に対するこだわりも程々に保てれば、軽快な気分でいられるかも知れないが、身の回りの状況がそれを許してくれない場合はあきらめが肝心だろうし、心の内でいくら規範を守って理想状態を保とうとしても、内外の事情がそれを許さなければ、黙って自らが巻き込まれている状況に対峙しながら、その場でできる限りのことをするしかなさそうだが、それを成し遂げられるか否かも、やはりその場の運次第だろうか。それ以外のことは他人が評価したり判断することでしかなく、努力や才能の有無は自分ではわからないことかも知れない。


3月10日「上下関係」

 銀行は預金者などから利息の低い資金を集めて、それを収益の見込めそうな利子をつけて、個人や企業に貸し出して、利子と利息の差額で収益を得ることになり、資金を借りた個人はローンを組んで、長期間に渡って利子を加算された金額を分割して返済し続け、資金を借りた企業も同じように返済し続けるのだろうし、個人も企業も返済可能な額の収入や収益がある限りは返済し続けるだろうし、銀行も返済できない個人や企業が増えて、不良債権が嵩んで破綻しない限りは存在し続けるだろうが、あるいは資金の貸出先がなくなってしまえば、経営が成り立たなくなりそうだが、結論から言えば借り手である企業や個人の資金需要がある範囲内で、銀行も存在しているのだろうし、資金需要が過剰にあれば、銀行もそれだけ数が増えたり規模が大きくなるのだろうが、経営効率を考えれば数が増えるというよりは、規模が大きくなる傾向があるのだろうし、逆に資金需要がなくなれば、規模の小さい銀行の経営が成り立たなくなって、大銀行に吸収合併されることになりそうで、それは一般の企業にも言えることで、戦争や災害が多発する歴史的な動乱期においては、あるいは産業革命のような急激な経済成長を伴う時期においては、何かのきっかけから雨後の筍のように多数の小企業が乱立することもあるだろうが、そのような起業ラッシュが一段落すると、次第に企業の淘汰が進み、結果的にはごく一握りの企業が競争を勝ち抜いて生き残り、規模の大きな大企業へと成長するのだろうし、例えば太陽光や風力などの自然エネルギーを利用した電力事業なども、今倒産する企業が相次いでいるとすれば、淘汰が進んでいる最中なのかも知れず、また原発推進派の牙城である経産省などの思惑から、電気の買い取り価格を下げられて、苦しい経営を迫られているのかも知れないが、そのような淘汰が一段落した段階で、採算ベースに乗った収益を上げている企業が少しでもあれば、それは既存の大企業の系列会社かも知れないが、まだまだ産業として成長する可能性があるだろうか。それも核融合による発電でも成功すれば、そちらが主流になってしまうのかも知れないが、今のところはまだ実験の初期段階でしかないから、実現するとしてもかなり先の話になりそうだ。

 普通に考えれば銀行や証券会社や保険会社などの金融機関は、資金需要のある産業に寄生して存在しているようなものだろうが、昔のロスチャイルド銀行などは、国家や王侯貴族などに資金を貸していたわけで、王侯貴族も国家に寄生して存在していたわけだから、大まかに言えば国家に寄生したユダヤ金融資本だったわけだが、現在成り立っているような産業と金融機関の寄生関係というのも、ヨーロッパのロスチャイルド全盛時代や、さらに昔の手工業者や商人と高利貸との寄生関係などとは、その規模や形態や在り方もだいぶ異なるのだろうが、資本主義経済の命運を握っているのは、あくまでも実際に物や情報を生産している産業の方であり、単に資金を調達するだけの金融機関ではないように思われるのだが、例えば言葉と物において、人はどうしても物を表現する言葉の方を重視する傾向があるように思われ、それと同じように物や情報を生産する産業より、通貨によって生産物の価値を推し量る金融機関の方が主であるようにも思われてくるのだが、確かに資本そのものである資産の価値を決めるのは金融機関だろうし、それは物を表現する言葉と似た機能を持っていて、資産の表現である価値や価格を決めて、その価値や価格に見合った資金を提供する金融機関に、資本主義を主導する権力があるのだろうか。ならばそれらの産業や金融機関を監督する権限を持った、国家の行政機関の位置付けはどうなのかといえば、やはり権力のヒエラルキーからいえば、産業や金融機関の上に位置するのだろうか。それに関しては実際に現場で働いている労働者たちを、外から監視しながら制御しようとする監督者の役割が想起されるわけで、人間社会は絶えず働いている役割よりは、働かせている役割を担う立場の者に、権力や権限が付与される傾向にあるといえば納得できるだろうか。実際に現場で働いている人たちは納得できないかも知れないが、要するにそこで労働に拘束されている者は、労働する以外には何もできないわけで、それを外から見守っている者は、労働しない代わりにあれこれ命令を下すことができるわけで、そういったところから立場の上下関係が構築されるのであり、もちろん立場が上の者が下の者に寄生しているわけだ。


3月9日「政策の程度」

 経済に関して何か考えるにしても、政府と中央銀行と民間の金融機関との間の資金や債権の流れや、その仕組みや貸借りの理屈が未だに詳しくはわかっていないのかも知れないが、民間の金融機関が保有している国債を中央銀行が買い取ると、民間の金融機関の資金量が増えて、増えた資金を民間の企業などに貸し出すなりして、経済活動が活発になるというのが、いわゆる金融緩和と呼ばれていた政策なのだろうが、国が発行した国債を直接中央銀行が買い取るのは禁じられているらしいから、民間の金融機関を経由して買っているわけだろうが、そうだとすると理屈の上では国がいくら国債を発行しても、最終的には中央銀行が引き受けてくれることになるわけだから、一見大丈夫なように思えてしまうわけだが、そうなると国が国債を発行する度に民間の資金量が増え続けることにわけで、それだと普通は通貨の価値がどんどん下がってしまうように思えるが、世界の主要各国がそれをやっているなら、相対的には通貨の価値は下がらず、しかも日本の場合は輸出を増やすのには、通貨の価値が下がった方が好都合なのだろうから、国債をどんどん発行しても大丈夫ということなのだろうか。短期的はそうかも知れないが、何か通常の経済状況からは逸脱しているようにも思えるし、将来何かのきっかけで行き詰ったり破綻する危険があるような気もするのだが、現状がそうやって危うそうな均衡を保っている間に、だんだんと正常化していくような何らかの努力がなされているのだろうか。それとも民間でだぶついている資金需要は、株や債券などの購入資金に割り当てればいいだけの話なのだろうか。それにしては値上がりしすぎているアメリカの株価に比べて、日本の株価は頭打ちで一進一退の様相を呈しているようだが、それでもほんの4、5年前に比べれば平均株価が二倍以上に値上がりしているわけだから、そういう面では金融緩和策がひとまず効果を上げていて、庶民の暮らしがどうしたとか、給料が上がらず消費が伸びないとかいうのではなく、今のところは決定的な破綻を免れているという意味で、それなりに経済政策が成功しているということなのか。

 仮に世界的に経済破綻したり戦争になったところで、世界恐慌や世界大戦後のように復興すればいいだけで、民間では多大な犠牲や被害を伴うが、それでも国家は存続するわけだから、行政を担う官僚機構にしてみれば、そうやっていったんはリセットしてしまった方が、かえって手間が省けるというものかも知れないが、そんなふうに悲観的な推測はしない方がいいのかも知れず、現状で間に合っているのなら、それ以上の贅沢など望むべくもなく、別に贅沢を望んでいるわけでもないのだろうが、現状で我慢がならないのなら、政権交代でも期待するしかないだろうが、政権交代と経済情勢とが多少なりとも関係があるにしても、経済情勢が好転したところで、人々の生活実感が改善するかといえば、どうもそれよりは政治的な権力関係の質が変わるかも知れないということぐらいで、国粋的なポピュリズム勢力が強いときには、議会や政府やメディア上で威張っている人たちが益々威張り出し、反対に社民的なリベラル勢力が盛り返してくれば、国内でも対外的にも弱腰な印象を受けるだけなのではないか。それが良いか悪いかはそういう勢力を支持している人たちの問題であり、政治的に無関心な人たちにとっては、それに我慢できるかできないかの問題でしかなく、何か不快に感じられるなら、政権交代でも促すような投票行動を取ればいいだけで、その際は政治勢力と官僚機構との兼ね合いもあるのだろうが、結果がどうなるにしろ、どうも政治勢力が大胆な改革を行うには、今の世の中の情勢においては常に力不足であり、いくら高邁な理想を掲げても妥協を強いられることは確実で、もちろん大胆な改革や高邁な理想というのも、現状の地続きで掲げるような政策なのだから、結論から言えば大したことにはならないのだろうが、しかもそうでなければ荒唐無稽で実現不可能となってしまうのだろうが、いずれにしても現状の制度内で何かやろうとするのが政治的な試みであり、それが些細な試みでしかないとしても、良心的なやり方なら落胆せずに支持しておいた方が無難なのだろう。


3月8日「思考する理由」

 たぶん思考は常に理屈を求めていて、それによって物事の必然的な因果関係を導き出そうとしているのだろうが、それ以外に思考が求めていることはないだろうか。何らかの出来事が起こった原因や理由を見つけたいのなら、やはりそれは原因と結果の因果関係に属することだろうし、その出来事が起こる理屈を知りたいということであり、それが出来事に関する理論的な模索につながるだろうし、そういうことも含めて物事が起こったり変化する道理を探求することが思考の動作となるだろうか。思考以外の意識の作用としては一般的に喜怒哀楽があるだろうが、それ以外となると何かの存在を察知することがあるが、それは気づくことであり、また何かを求めることとなると、それは欲望の類いとなるだろうか。期待は欲望に近いかも知れないが、忘却となるとそれらのどれにも当てはまらない動作かも知れず、何かを忘れる作用というのは、普通はマイナスの価値しか持たないようにも思えるが、嫌なことを忘れることについてはプラスの効用もありそうで、それも思考することと何か関係があるのだろうか。それよりも何かを選り分けたりすることの方が思考に近い動作かも知れず、それに関連して計量したり分類したり計算したりする動作があるだろうし、そういう面はコンピュータが代替可能な動作になりそうで、さらに人工知能になると喜怒哀楽を表現させる工夫が施されるだろうが、忘れる動作もデータの自動消去に相当するから可能だろうし、欲望したり期待したりする動作も、何らかの意識作用の組み合わせとして表現することが可能だろうか。それに関してなら、果たして人工知能は夢を見ることができるようになるだろうか。なぜかだいぶ途中で寄り道や回り道や逸脱を重ねてしまったが、そんなことを考えて行くと、思考というのは自己の内外にある有形無形の様々な物事の事象や現象を観察して、それらの動作の時間的かつ位置的な状態を予測したり推測したりする想像力から生じる精神作用と言えるだろうか。

 何かと何かを結びつけたり引き離したりする動作がその根底にはありそうなのだが、その結びつけたり引き離す動作を現実の世界で行うには物理的な力が必要だろうし、それを他の人にやらせるには権力が必要であり、人が集団で社会を構成するには、そのような権力が必要不可欠ともなるだろうが、集団が大きくなって社会が広範囲に及ぶようになるにしたがって、人力だけではなく目的や用途に応じて機械力が多用されるようになって行き、今もその傾向が拡大し続けているのだろうが、人が人を操る権力関係に成り代わって、人が機械を操る動作が主流になるにつれて、人が他の人による権力の行使から徐々に解放される傾向にあるとすれば、政府の民衆に対する政治的な権力の行使というのも、徐々にその役割が廃れていく傾向にあるだろうか。人の労働が機械の駆動に置き換われば、そもそも労働者が要らなくなって、今あるような国民を働かせることで資本主義と結びついた国家形態も、労働者に対する権力の行使がなくなってしまうと、何のために必要なのかわからなくなってしまいそうだが、まだ現状ではそこまで状況が進展していないし、現時点では今後労働がなくなるなんて想定していないだろうし、あり得ない空想の域を出ない話でしかないのかも知れないが、例えば現状で顕在化している人々の政治的な無関心というのも、多少なりともそんな空想から影響を受けているのかも知れず、人々の思考が未来の予測や推測に向かっているとすれば、もしかしたら科学技術の発達によって、労働から解放されるかも知れないという期待も、まだ漠然とした予感でしかないとしても、可能性がゼロだとは思えないだろうし、そんな未来への期待がある一方で、では現状の政治は何をやっているのかといえば、自分の生活に結びつくところでは、あまり肯定的な実感が湧いてこないだろうし、実際にメディアを介した煽動的な敵対関係に興味を持てなければ、無関心となるしかないようにも思われるのだが、たぶんそれは特定の政治家や特定の政党や政府が悪いからではなく、現状がそう思わせているだけなのではないか。確かに無関心に関してはそうであるかも知れないが、政治家や政党や政府に対する批判には、それなりの理由や根拠があるのだから、それはそれとしてそういうものだと受け止めるしかないだろうか。


3月7日「ルールなきルール」

 ゲームに興じることはゲームのルールに従っていることになるわけだが、ルールを破ることは反則であり、また他の参加者と共謀して勝敗を恣意的に操作するのは八百長になるわけで、ルールを守る範囲内で勝てるに越したことはないわけだが、場合によってはルールを破ったり、八百長に手を染めたりしながらも、結果的に勝てればそれで構わないと判断するような状況もあり得るだろうか。でもそうなると結局はルール外でどれほどイカサマをやれるかが、勝敗を分ける分岐点となりそうだが、そんな下衆な志ではゲームに興じる資格などありはしないだろうか。気晴らしの娯楽程度なら、卑劣な手段まで使って勝とうとは思わないかも知れないが、多額の金銭がかかっていたり命がけの状況なら、勝つためには何でもありとなってくるかも知れず、それが高じて真剣勝負ともなれば、究極的は殺し合いになるしかないだろうし、フィクションならそんなのはありふれているのだろうが、現実の世界では裏社会のギャングやヤクザの対立抗争から戦争まであるわけで、それを考えたら平和な国で法律を守りながら暮らしていけるのが、どれほどありがたいことか身にしみて感じられるなら、善良な小市民を演じているのも、それほど苦痛ではないかも知れないが、たぶん実感としてはそうはならないわけで、中には小市民の平和ボケ体質に退屈しきっていて、死ぬほどの苦痛を感じているつもりの人もいるのかも知れず、そういう人がたまに暴発して、大量殺傷事件などを起こすわけでもないのだろうが、ともかくゲームのルールを固定すると勝者も固定してしまうのが、現状の有形無形の世の中のルールが指し示している傾向なのかも知れず、そうなると敗者に固定されてしまった人たちが勝つには、バレないように反則を犯したり、八百長やイカサマに手を染めるしかなくなってきて、それがバレてしかも政治的な権力を握っている人が手を貸していたりすると、マスメディアが騒ぎ立てる成り行きになりそうなのだが、中には権力者の味方となっているマスメディアまでいるわけで、そういうメディアが渦中の権力者を守るために暗躍していて、というか最近はあからさまに情報操作に励んでいると言った方が正確だろうか。

 別に正確ではないし、こんなのは粗雑でいい加減な現状認識でしかないだろうが、とりあえず世の中のルールを守って生きていける人は、できるだけそうした方が無難なのだろうし、守れない人はできる範囲内で、反則や八百長やイカサマをやろうとするのかも知れないし、建前としてはルールを守るように心がけることが、世間的には推奨される態度であるのは当然だが、しかし実質的にはやりたい程度に応じて何でもありなのが、世の中のルールなきルールだとも言えるのかも知れず、そうなると功利的にはバレないように効果的にルール違反するのが、最善策のように思われてくるわけで、実際にそんな不文律のような掟が、世の中に行き渡っているのかも知れず、社会の中でそれなりに争いごとを経験して、しかもそれをうまく切り抜けてそれなりに成功した人なら、自然とそんな掟が身についているようにも思われるのだが、そんな人が成功するのが現状の世の中であるならば、建前としては誰もが平等な立場でゲームに参加できる公平なルールを作り、そのルールをすべての社会の構成員が守るように心がけよう、という民主主義の大原則には、それなりに限界があることがわかりそうなものなのだが、では限界をなくすにはどうしたらいいのかといえば、それにもルールを守らせるために警察権力を行使するやり方が、建前としてはあるわけで、そしてルールを守らせる側は絶えず警察権力の強化を訴えるのだが、しかし警察権力は行政の一部門であるから、より強い権力を握っている政治権力や行政権力には頭が上がらず、そうなると政治や行政のルール違反には、手心を加えざるを得ない場合も出てくるわけで、それは司法にも言えることで、そういうわけでなかなか理想的な三権分立を維持するのは難しいのだろうが、そういう限界がわかった上でもなお民主主義の理想を追求する姿勢が、やはり建前としては有効ではあるのだろうし、誰もが功利的に行動しては競争が激しくなって、しまいには弱肉強食の世界になってしまうから、できるだけルールを守っていればそれなりに生きていける、という幻想を多くの人が信じていることが、現状の世の中が成り立つ上では必要不可欠なことだろうか。


3月6日「想像力の賜物」

 例えば小説などのフィクションの中で語っている話者は、そこで繰り広げられる物語のすべてを語れるわけではなく、そのフィクションの世界では話者によって語られないところでも、話者が語っている話と並行して、あるいはそれと前後して、話の本筋に関係していたり、あるいはあまり関係のないところで、作者や話者の与り知らない架空の物語が進行中だと考えられるだろうか。小説の類いとは違って話者があまり出現しない映像や漫画などにおいても、画面から外れたところで別の出来事が起こっていることを、話の脈絡や背景から推測することはできそうだし、現実には語られていないし描かれてもいないわけだが、それらを読んだり観ている人たちが、そこで語られても描かれてもいない内容を空想しているとすれば、それもそのフィクションに含まれるだろうか。そのような空想はそのフィクションによってもたらされたことは確かだろうから、フィクションの世界というのは、フィクションの製作者が思っているよりもはるかに広く、その読者や鑑賞者の空想まで含めると無限の広がりを持っていて、ことによるとそれらの空想をはみ出る領域にまで広がっているかも知れないから、ある意味でフィクションは現実の世界と同等の広がりを持っているとも考えられそうだが、もしかしたら現実の世界の方でも、人々の想像や妄想や誤解や勘違いの類いまで含めると、実際に起こっていることだけではなく、人の想像や妄想までが現実に起こっている事象に作用を及ぼすわけだから、それが超能力などのオカルト的な力ではないにしても、架空の何かが現実の物事に力を及ぼしているようにも思えるわけで、それは宗教的あるいは思想的な力だとも言えるだろうし、または迷信的あるいは魔術的な力である場合もありそうだが、それによって何が動くのかといえば、超能力のように直接物体が動いたり、変形したりするのではなく、人を動かして人の力を利用して物事を動かしたり、さらに人を働かせて機械を作って、機械の動力を利用して物事を生産するわけで、もとは架空の妄想であっても、そこから何かを動かしたり作り上げる可能性があるわけだ。

 そういう意味でフィクションと現実は人の想像力を介してつながっていて、現実を変える力も人の想像力とつながっていそうだが、想像力が現実を変える力に結びつくには、何が必要だとも言えない面があるのかも知れず、結果的に人の力が作用して何らかの現実が変われば、その結果から何が結びついたかわかるかも知れないが、それは結果からしかわからないことで、事前にはっきりとはわからないから、どのような程度で現実を変えようとするにも、いつも手探り状態であるのかも知れず、なかなか思い通りには行かないのだろうし、だから何をやるにも失敗がつきものなのだろうが、よくありがちな考え方として、現実を変えるための理論を模索しようとする傾向があるだろうか。そしてその理論こそが想像力の賜物だとも思えるだろうし、実際に科学技術の実用化の裏付けとして理論の構築が不可欠だろうし、しばしば新しい科学的な理論の構築に功績のあった学者などが、ノーベル賞を受賞したりして話題となり、実際にそんな理論を応用した科学技術によって、世界が変わったかのように言われることもあるわけだが、実際にそうやって現実が変わったとしても、事前にその理論の登場を予期していた人がいるとも思えないし、何かの実験や観測において偶然に見つけた現象から、何らかの理論を閃いてしまう機会が訪れるわけで、そのほとんどは予想外の結果をもたらして、思いがけないことが起こるわけだから、その思いがけない結果こそが現実を変えたことだろうし、それが想像力の賜物である理論と結びついているとしても、結果的にそうなったわけで、現実を変えようとして理論を導き出したのではなく、実験や観測中に何かのきっかけで、思いがけず偶然に理論が閃いて、そこから現実が変わったのだから、少なくとも事前に思い描いていたようなことではなく、また思い通りに現実を変えたわけでもないだろうし、その辺が誤解や勘違いなのかも知れず、しかもそんな誤解や勘違いによっても人を動かそうとしているわけで、そこにも現実を変える力があり、実際に思い通りではないしても、現実を変えているのではないか。


3月5日「在日米軍」

 果たしてアメリカの政府はアメリカを支配しているのだろうか。いったい何を持って支配とみなすのか、その辺がよくわからないところで、普通はアメリカ政府はアメリカを統治していて、日本政府が日本を統治していることにはなるだろうし、形式的には日米合同委員会が日本を支配しているのでも統治しているのでもないわけだが、日本の官僚や在日米軍やアメリカ大使館の幹部などが、月2回の秘密会合を開いていて、それが在日米軍の日本の占領統治が今も継続中であることの証拠であり、日本は実質的には未だ独立国ではなく、アメリカの占領下に置かれていて、その証拠に世界的でも類を見ない、莫大な額の米軍駐留経費を負担させられているとともに、米軍の大規模な駐留が終わる気配はなく、アメリカの大統領も選挙期間中には、米軍の日本や韓国からの撤退をほのめかしていたが、いざ選挙に勝利して大統領になってみれば、手のひらを返したように持論を引っ込めて、逆に予算を増やして軍備増強を進めようとしているわけだから、大統領といえどもアメリカの軍産複合体の意向には逆らえないことが、図らずも露呈したことになるだろうか。これだけ材料が整っているのだから、アメリカの日本支配はもはや動かしようのない事実だろうか。そう思いたいのならそう思っておいて結構だが、それはそれとして何か不都合があるのだろうか。米軍基地の反対闘争に加わっている人たちや、基地周辺の騒音被害に悩まされている人たちなら、できるだけ早期に米軍が撤退して、日本から米軍基地がなくなってほしいと思っているだろうが、それ以外の人たちにとってはあまり関心のないところかも知れず、また都合悪いことには近年中国の軍備増強が進んでいるし、尖閣諸島をめぐる領土問題も悪影響を及ぼしているし、日本政府も日米同盟の強化ばかりを推し進めようとしているのだろうし、不都合があろうとなかろうと、今のところは現状は揺るぎないように思われ、それ以上の何を物語っているわけでもないのだろうか。

 そういう次元ではそんな状況になっているように思われるが、だからといって平和的な反米闘争のすべてが弾圧されているわけでもなく、反米的な内容の書籍の出版が差し止められているわけでもないわけで、反米闘争をやり続ける余地も残されていて、実際に行われている現実もあるわけだが、ただそのような政治勢力が沖縄県を除いては政治的な主導権を握るような状況にはなっていないから、現状が維持されているわけで、そういう面ではどうにもならない現状がありそうだが、そうだとしてもほとんどの人たちは、深刻な状況を招いているとは思っていないのではないか。だからこそ現状が維持されているわけで、もとはといえば戦争が招いた結果だから、それを変えるにはまた戦争でも起こらない限りは、状況は変わらないのかも知れないが、別の可能性もないわけではなく、経済情勢や政治情勢次第では、平和的に米軍を撤退させることも可能かも知れないし、何らかのきっかけで米軍の撤退を望む機運が高まれば、そんな世論の高まりを背景として、米軍の撤退を実現させようとする政治勢力が、主導権を握る機会も訪れるかも知れず、そのためには現状の東アジア情勢を対立から宥和に導くために、朝鮮半島を取り囲む中国やアメリカやロシアなども含んだ、包括的な和平を推進するような国際的な枠組みを構築するための国際会議などを定期的に開いて、関係各国で協議する必要も出てくるのではないか。そんな中でニ国間ではなく多国間で協議を進めて行って、日本や韓国に駐留する米軍をどう扱うかを決めるような展開に持って行ければ、すぐにはうまくはいかなくても、長期的には徐々に兵力を減らすような流れに持っていける可能性も出てくるかも知れず、そういうことをやるには今までの日米関係を見直すことのできる勢力が、政権を取るしかないのかも知れないが、現状ではその可能性は無に等しいだろうか。そんな面倒なことはやるまでもないのかも知れないし、実際にそうならなくても構わないような国際情勢であり、各国ともに現状でやっていることで精一杯なのかも知れない。


3月4日「運試し」

 目指すべき理想とは現状の不具合を是正した先にあるのかも知れないが、目指してもいないのに偶然の巡り合わせや成り行きから実現してしまう状態が現状であるだろうし、すでに現状自体が理想からかけ離れた状態であるなら、現状の不具合をいくら是正しても、理想状態にたどり着くのは至難のわざかも知れないが、一方で人が思い描く理想というのは、現に体験しつつある現状の延長上に想像する状態であり、そうであるなら偶然の巡り合わせや成り行きから生じている現状の状態も、前提条件として織り込み済みであって、現状が現状の延長上にある理想からかけ離れているとは言えなくなるかも知れないが、ならば現状の延長上に設定する理想が、本当に理想状態なのかといえば、そんなふうにしか理想を思い描けないのだから、理想は理想であると同時に理想ではないのかも知れないし、もっと範囲を幅広く考えるならば、世の中には各人が思い描く様々な理想があって、ある人や団体にとっての理想は、他の人や団体にとっての理想からはかけ離れた状態となるのではないか。それに関して極端な例を挙げるなら、キリスト教徒にとっての理想郷である神の国は、どう考えても他の異教徒が思い描く理想郷からはかけ離れているだろうし、また日本の極右思想に染まった人たちが思い描く理想を実現させようとすれば、どう考えても北朝鮮のような政治体制に近づいてしまいそうだし、それが冗談で済んでいるうちは人畜無害でしかないのかも知れないが、実際に彼らの理想を実現するための尖兵となる人たちを、英才教育によって育成するプロジェクトが進行中だとすると、そういう試みがどこまで成功するのか見ものだが、もしそういう人が大人にまで成長して、国家と国民を管理するエリート将校みたいになったら、今や現状のネット上で大繁殖しているネトウヨと呼ばれる人たちとはひと味違う品格を体現しているだろうか。

 各人の理想を目指して日々邁進するのは肯定されるべきことであり、それが他の人に迷惑をかけない範囲で行われていれば、文句をつける筋合いはないだろうが、何かを目指す行為とは別に、その場の成り行きに従うことにも、人の行動や思考が反映されていて、その場の成り行きというのが、何かに従うだけではなく、逆らうことになる場合もあるわけで、しかも逆らうことによって不利な立場になったり、多大な被害を被ることにもなるのなら、普通は逆らわずに従う方を選ぶのだろうが、なぜかその場では逆らう方が、自然に思われるような成り行きもあるわけで、そういう成り行きに直面したときに、それまでの経験に裏打ちされた勘が働く場合があり、その場では不利な立場になろうと、長い目で見れば、あるいは後から振り返れば、そう判断しておいて正解だったように思われるのかも知れず、それはとっさの判断であり、一種の賭けなのかも知れないが、無難な選択や損得勘定に惑わされて、その場では事なきを得たが、何か大事なものを失ったような気がするなら、後悔することにもなるかも知れないし、そんな自覚がなくても、大魚を逃したことに気づかないだけかも知れないし、そんなことを後から考えてもきりがないのだろうが、どうも人は人生の岐路において、そんな一見不利な選択を迫られる機会が何度かあって、そこで勘が働くか否かがその後の人生を決めるのかも知れず、それは結果論でしかないかも知れないが、その場での自然な成り行きが、何かに逆らうことを促しているように感じられるなら、その瞬間がやってきたと思った方がいいのかも知れないが、実際に逆らってひどい目にあっただけで、そこからいくら経ってもひどい境遇のままなら、勘違いだったことにもなるわけだから、選択はあくまでも各人の自己責任で行うしかなく、そういう時は一種の運試しの機会なのかも知れない。


3月3日「装置の目的」

 行き先がなければ迂回もないだろうし、どこを目指して進んでいるのでもなければ、何のために遠回りしていることにもならないのだろうが、たぶん遠回りしないと価値が生じないのであり、入手困難な状況に打ち勝って、やっとの思いで手に入るのようなものが、価値があるように思われるのではないか。あるいはそれを手に入れるには莫大な投資を必要としていたり、多大な犠牲を強いられたり、多くの人との連携を必要としていたり、それらすべてがそれを手に入れるまでの紆余曲折を構成しているとしたら、そもそも何を手に入れようとしているのかといえば、それは何らかの希少性を伴った価値そのものだろうか。手に入れようとしているものがわかれば、おのずから行き先も決まって、そこを目指して進んで行けばいいのだろうが、それがわからないとなると、やはり何のために遠回りしていることにもならず、何をやろうとしているかさえ不明になってしまいそうだが、それでも迂回しているように思われ、何だかわからないが延々と続く道を歩んでいるような気がするのなら、そもそも目指すべき目標を決めないことが、遠回りの原因となっているのかも知れないし、それを決められないことが迂回そのものなのではないか。しかしそんな状況の中でそもそも誰が何をやっていることになるのか。実際に誰かが何かをやっているとすれば、それだけで目標も行き先も決まってしまうだろうか。何かをやればそれをやった結果を伴い、その結果こそが結果的に行き着いた先であり、たとえ目標や行き先が定まっていなくても、それにも関わらず遠回りしていると感じていても、何かをやってたどり着いた地点があり、たぶんその地点の先にさらにたどり着ける地点があるような気がしているならば、現にたどり着いているのは途中の地点であって、その先の地点まで行く必要を感じているのかも知れず、そしてこれといって達成感を感じられなければ、いつまで経っても途中でしかなく、しかも進んでも進んでも一向に先が見えてこなければ、遠回りしているような疑念も生じてくるだろうか。

 無から有は生じないと思われがちだが、無と有を程度の度合いと考えれば、無の中にも有があり、有の中にも無があることにもなり、無から有へと進むにつれて、密度が濃くなるような事物の状態を示していて、価値という概念もそれと同じように考えれば、例えば人の関心がそこへと集中しているような事物は価値が高く、関心を持たれないような事物は価値が低いことになりそうだが、メディア的にはその事物への言及が増えれば、世間的な関心もそこへと集中することにもなるだろうし、そんなふうにして事物の価値を高める操作もあるわけで、そのような操作は迂回とは逆の短絡に結びつくのかも知れず、事物によってはそのような短絡と相性の良いものもあるだろうし、世間を騒がすスキャンダルの類いは、だいたいマスコミが騒ぎ立てることによって火がつくわけで、もともと火種があったから火がつくのだから、マスコミが騒ぐ必然性もあるわけだ。たぶんそのような短絡的な煽動とは無縁の領域で、延々と迂回が続いているのかも知れず、執拗に遠回りしながら時間をかけて、何らかの熟成が起こりつつあるのだろうか。それは目標も目的もないような事物の変容の過程であり、表面的には歴史的な進行を思わせる成り行きでもあるのだろうが、ではそれが何の歴史なのかと問うならば、どうもそれは人類の歴史だとは言えない面もあるのかも知れず、人もその中に含まれているのだろうが、歴史を動かす原動力となっているのは、人とは別の何かかも知れないし、人を部品や歯車に使った何らかの装置なのかも知れないが、人自身は単なる部品や歯車でしかないから、装置全体を見渡すことができないのであり、それが何だかわからないし、その仕組みを理解できないのではないか。だから装置の目的も目標も知る由もないし、どこへ向かっているのかもわからないまま、歯車となってぐるぐる回っているわけだが、そうだとすればそもそも人には疑念を抱く必要さえないのだろうか。たぶんその装置が国家だと思っている人たちには疑念など不要で、ただ国家の部品となっていれば満足なのかも知れない。


3月2日「自己の在り方」

 運命には逆らえるが逆らうのも運命だから、何かやった挙句の死がその人の運命であるとしても、死がその人の運命を操作していたわけではなく、ただいつかは死ぬ運命にあるのが今のところは各人共通であるとともに、死ぬまでの成り行きにはその人なりの独自性が認められ、それがいつかは死ぬ運命とは違う、死に至るまでのその人固有の運命となるだろうか。最終的には死に至るのだから、途中の過程でどんな紆余曲折があろうと、死んでしまったらすべては無に帰すだろうが、少なくともその人が経験する紆余曲折の成り行きの中では、それなりに運命とともに生きているのではないか。運命が外部から何らかの作用を及ぼして、その人の行動や思考を拘束する場合でも、それが運命だと言ってしまえば、その運命に従おうと逆らおうと運命であることには変わりなく、何の差異も感じられないが、では運命でなければ何なのかと言えば、それでも従わせたり逆らわせたりする何らかの作用でしかないだろうし、自分に何らかの力が加わっているのを実感できれば、もしかしたら自己の外部からも内部からも、そんな力が加えられていて、その力に従ったり逆らったりすることで、どれほど従いどれほど逆らったかの度合いによって、それに応じた自己形成がなされているのかもしれないが、別にそんな力を実感できなければ、自己の中で無意識の割合が大きいのかもしれず、そうであるならわざわざ自分を待ち受けている運命に、意識的に対応する必要も感じられずに、ただ自動制御的に立ち回って、それで何とかなってしまえば、それに越したことはないのであって、そんな力を意識せずに立ち回れるようになることが、無為自然の思想が目指している至高の精神状態かもしれないが、少しでも欲があれば、すぐに他人から及ぼされる圧力の類いに敏感に反応してしまうだろうし、実際に疑心暗鬼や被害妄想から、余計なトラブルを抱え込む羽目にでもなれば、身から出た錆だと言われても、反駁したくなるだけかもしれないが、しかし無欲になれるには限度があるだろうし、無欲になれない環境の中で生きていることが、それに伴う様々な紆余曲折をもたらしているわけだ。

 またそれに従っているとか逆らっているとかの感覚とは別に、皮肉ではなく普通におもしろいと思うことが、自己の内外からかかる圧力や拘束力からの出口となるかもしれず、無理に思い込もうとするのではなく、おもしろそうな何かを探そうとすることも肝心で、それを探し出しておもしろさを体験できて、おもしろいことをやっていられる環境の中で生きていられるようなら、それで何の不都合もないのだろうが、自分だけがそうであっても、そのことで他人にしわ寄せが及ぶような場合は、他人が不快になってしまうわけで、そうなると他人を不快にさせるような力を、自分が他人に向かって及ぼしていることになるわけで、しかもそうしていることに自分が気づかなければ、自覚なき権力の行使ともなるわけで、タチが悪いと思われてもしかたのないところだが、結局は気づいている範囲で、しかも自分ができる範囲で、他人様に迷惑が及ばないようにすることしかできないわけで、それも欲が出てしまえば、わかっているけどやめられなくなるのであり、やめられないということは、周囲から止める力が働かないということであり、そうなると王様気分となってしまうかもしれないが、たぶん客観的に見たら、世の中の制度や慣習にその人が守られていることになるのかもしれず、そういうことができる社会的な地位や立場を、その人が何らかの経緯から占めているのかもしれない。だがそうなるとその人が抱いているつもりの欲望でさえ、その社会的な地位や立場が抱かせていることにもなるわけで、そういう地位や立場になれば、自動的にそんな欲望を抱いてしまうとすれば、その人自身の自発性というよりは、そのような地位や立場を生み出す社会が、その地位や立場に応じた欲望をもたらしていることになり、人はただそんな社会に拘束されて、社会が抱かせる欲望にも囚われながら生きているだけで、それでは無為自然な状態など目指しようがないかも知れないが、それでも社会と自己との関係や他人との人間関係などから思考すれば、自分にとってどのような状態が好ましいのかを自覚するに至れるだろうか。


3月1日「武士道」

 天下泰平だった頃の江戸時代においては、主君が死ねと言えば死ぬことが、建前としての武士道精神だったかも知れないが、戦国時代においては弱い主君を裏切ってより強い別の主君に仕えるのが当たり前だっただろうし、時代状況に合わせて武士道精神も変わっていくのは当然であるが、明治天皇が亡くなった後に殉死した乃木希典は、そもそも天皇は武士ではなく公家だし、乃木希典ももとは武士だったが軍人だし、長州藩の同郷の数多くの知人たちが士族の反乱などで切腹しているし、日露戦争では二人の息子を始め数多くの戦死者を出してしまったし、死に場所を探していたのだろうから仕方がないにしても、当人は武士道精神に則った死に方をしたのだろうが、それは時代状況に合わない武士道精神だったことになるだろうか。またそこからさらに時代が下って三島由紀夫の割腹自殺ともなると、彼が皇国主義者として知られていたとしても、やはりその対象は武士ではなく天皇だし、そもそも三島由紀夫は武士でも軍人でもなく小説家だし、果たしてそのハラキリパフォーマンスが武士道精神の表れなのかと言えば、当人は武士道精神に則って自決したのだろうが、では腹を切って自殺すればそれが武士道精神なのかとなると、現代にもいるかもしれない武士道精神の体現者に問えば、そんな単純で人を馬鹿にしたような解釈では怒られてしまうだろうが、実際に江戸時代は比較的平和で大規模な戦闘は少なかったから、武士が武士としての働きができずに、単なる役人か官僚でしかなかったわけで、武士も武士道精神も形骸化していたはずで、その時代の武士道精神というのは、単なる礼儀作法の類いだったのではないか。ある意味では世の中で礼儀作法ほど大事なものはなく、礼儀をわきまえない人はまともに扱ってもらえない面もあるから、そういう面ではその時代の武士道も武士にとっては必要不可欠だったのだろうが、少なくともその時代の武士道精神と、現代もごく一部で愛好されているらしい武士道精神は、その意味合いが全く違うだろうし、要するに戦国時代の武士と江戸時代の武士と現代の武士道愛好家とは、中身の全く違う存在なのではないか。

 そんなことはわかりきっているかもしれないが、人々が思い描くイメージとしての武士道精神が、各時代に合わせて様々に移り変わる武士道精神のうちのどれなのかと言えば、たぶんどれでもなく、それは架空の武士道精神でしかないだろうし、大方が時代劇などでよく出てくる切腹シーンなどから妄想されたものだろうし、罪を認めて自ら責任をとって腹を切るのは潔く、男らしいような態度に思えて、過酷なことを平気でやってのける精神力の強さに感動して、それが武士道を連想させるのだろうが、それも実際に江戸時代に切腹した武士たちがどんな心境で腹を切ったのかは、現代の人たちには知る由もないことかもしれず、当時の文献などに切腹する時の精神状態が記されているとしても、それは辞世の句の類いだろうし、普通はそういう時は心境を詩的に美化するものだから、そういう句を読むと余計に感動してしまうのでないか。そしてそういう良いイメージとしての武士道精神が、メディアによって都合の良い場面で都合良い意味合いで都合よく活用されて、例えば日本のスポーツ選手が海外で活躍すれば、何でもかんでもサムライだし、保守系の大物政治家が不祥事の責任をとって涙ながらに役職を辞任すれば、これぞ武士道精神だなんて喧伝する人たちまでいるし、日本の伝統を重んじているにしてはチャラすぎるような気がしないでもないが、もともとが形骸化した礼儀作法でしかないなら、茶道や華道などのように、そこにいくらでも肯定的で厳かな意味づけをできるのかもしれず、一般的に〜道と呼ばれる形態は、本来の実用的な意味合いが抜かれて、型だけの形式化された形骸化を被ると、その抜け殻の空疎な部分に使用者の都合に合わせた中身を詰め込めるのであり、そういう処理を好むのは別に日本固有の習慣でもないのだろうが、うがった見方をするのなら、大和魂とか日本精神とかいうイメージの神髄はそういうやり方にあるのではないか。そしてそういう見せかけに騙されてはいけないというよりは、騙されたつもりになっていれば、空気を読んでいることになるのだろうし、そういうものと理解している限りは、本気で信じることもないのだろう。


2月28日「溺れる者たち」

 溺れる者は藁をもつかむという喩えと、枝葉末節な問題を必死に騒ぎ立てることは同じではないだろうが、相通じる傾向もなきにしもあらずだろうか。もはや万策尽きて苦し紛れにそんなことをやっているわけではなく、事と次第によっては世論を動かす可能性があるかも知れないから、ある種のメディアではそんな話題を大きく取り上げ、また別種のメディアではあからさまに無視を決め込んでいるわけではないだろうが、事実経過を淡々と伝えるにとどめているのだろうし、たぶん枝葉末節な些細な問題という判断なのかも知れず、だからこそ下手に騒ぎが大きくなると、不祥事好きの世論を動かす可能性があり、そうなっては困るからあまり騒ぎ立てずに、場合によっては批判されている側を擁護したいのかも知れないが、翼賛体制に与する一部のネットニュースなどは違い、一応は公正中立な態度を堅持しているように見せかけているのだろうか。そうだとしてもそんなことなどお構いなしに、時は過ぎ行きニュースメディアの話題も次から次へと移り変わるだろうし、その問題がどんな結末を迎えるとしても、それによって今ある政治体制が揺らいでも揺らがなくても、何がどうなるわけでもないわけではないが、前途多難であることには変わりないと同時に、そんなことなどどうでもよければ、前途がどうなろうと知ったことではない心境にもなれるだろうし、実際に無関心な人が多そうなのだが、たぶん人々が共有できる関心事や話題が少ない方が、世の中の人心が分散していることになるのだろうし、それがある種の政治勢力には好都合な場合もあるのかも知れず、現に今がそんな状況なのだろうか。政治情勢が世の中の状況に連動している面は確かにあるのだろうが、無関係な面も結構あるのだろうし、無関係であるからこそ、両者をくっつけて関連しているように見せかけるのが、メディア的な権力が用いる常套手段なのかも知れないが、それは政治的な権力もやっていることであり、政治情勢と経済情勢をくっつけて、政治が経済を支えながら動かしているように見せかけたいのであり、両者の間にどれほどの関連性があるのかは、政治勢力が喧伝しているほどではないのかも知れないし、また逆の関係でしかない可能性も十分にありそうだ。

 しかしそうだとすると政治的な領域から、何か世の中に影響を及ぼしている作用があるのだろうか。一般的には政治的な権力闘争に敗れた勢力が反体制派となって、政権を掌握している側を絶えず批判することになるわけだが、権力闘争に敗れたからには弱小勢力に堕するしかなく、政権に対する批判も負け犬の遠吠えの域を出ない内容になりがちで、それをさらに翼賛体制に与するメディアが攻撃して、世論までが翼賛体制の味方となってしまえば、その時点でまともな方法では政権交代などありえない状況となるわけで、それを避けて民主主義の見せかけを守りたいなら、反体制勢力が翼賛体制側に歩み寄って、大政翼賛会のような一極的な政治構造を作り上げるにしても、形の上では二大政党制にして交互に定期的に政権交代があれば、何とか民主主義的な政治体制が保たれているように見せかけられるのかも知れないが、実質的にはそんなのはまやかしに過ぎないだろうし、日本ではそんなまやかしでさえもうまく機能できない状態だし、西欧諸国でよく見受けられる二大政党制や連立政権の形態も、政権交代しても実質的には何が変わるわけでもない状況なのではないか。それを打破する思惑でリベラル勢力を敵視するポピュリズムが世界的に流行っている現状もあるわけだが、あとどれほどそんな状態が続いていくのかわからないが、リベラルが掲げる人道主義的な対話重視の普遍的な理性も、歴史的に形成されたものであることは明らかで、人々が思い込んでいる理性の普遍性も、時代とともに変わっていくものかも知れず、その普遍性が不変ではないとすれば、達成すべき理想にもその時代特有の限界があり、時代が変われば理性も理想もその普遍性も変わるのなら、では今の時代には何を目指せばいいのかとなるわけだが、今目指している状態を目指すしかないだろうし、たとえ負け犬の遠吠えと言われようと、批判したいのだから政権を批判するしかないだろうし、たとえ世論が翼賛体制の味方だろうと、人々に向かって現政権のおかしなところや自分たちがやりたいことを訴えかけていくしかないだろうし、それで結果がどうなるわけでもないとしても、一応はやるべきことをやっていることにはなるのではないか。


2月27日「装置と資源」

 世の中になくてはならないものは、今現にあるものなのかも知れないが、少なくともそれに依存している人にとってはなくてはならないものだろうし、依存していない人にとっては、なくても構わないと思われるものなど、いくらでもありそうに思えるかも知れないが、そこにある事物がなぜ存在しているのかといえば、その事物に関係してそこに存在させている人たちがいるから、そこに存在していることになるわけで、そんな存在理由の他に何があるわけでもないようにも思えるのだが、そういう事物があると不都合だからなくそうとしても、簡単になくなるわけではないし、その事物に関係してそれを支えている人たちがいる限りは、そのような人たちの抵抗や妨害にあって、なかなかなくならないだろうし、行政が強引に権力を行使してなくしてしまえば、それを支えていた人たちと行政との関係がこじれてしまい、政治的にも社会的にも悪影響が及ぶ可能性もありそうだが、これまでもそうやって様々な事物をなくして、それに代わってまた新たな事物をこしらえて、その事物と人との新しい関係を築いてきた経緯があることは確かだろうし、またなくしてほしい事物はなくならず、逆になくしてほしくない事物はなくなってしまうと、どちらにしてもその事物の取り扱いが社会問題化して、メディア上での批判や反対運動などが起こることもあるだろうし、その事物が人々との間に公共的なつながりがあるものほど、社会的な関心も高くなる傾向がありそうだ。

 そんな事物が人を拘束して人が事物に依存する関係は、これから先も恒常的に続いて行くのだろうし、人の活動を支えるような事物を人が作り出しているのだろうが、まずは人がそれを作り出すにしても、いったん作り出された事物は人の活動を規制して、人そのものを管理するような性質を帯びるのかも知れず、世の中で何らかの制御システムが稼動中なら、当然そこで人も物も情報も制御されているのだろうし、事物の中でそれらの役割や動作が調整されているようなら、その事物は何らかの装置であるだろうし、何かを生産し流通し消費するような装置だとすれば、そのような装置が集まったものが社会なのかも知れず、そういう視点から社会を見れば、人も物も情報も生産ー流通ー消費のサイクルの中でぐるぐる回っているだけで、何の目的もないようにしか見えないのかも知れないが、ぐるぐる回っているサイクルの途中で蓄積が起こっているわけで、資産価値のあるものを蓄積することが目的化したのが、資本主義経済の特徴であり、それを蓄積するために生産し、蓄積するために流通し、蓄積するために消費するわけで、人や物や情報も資産を蓄積するために活用されているのだが、そもそも何のために蓄積するのかが、わかっているようで本当のところはわかっていないのかも知れず、安易に人の欲望や幻想を叶えるために蓄積しているといえば、その通りなのかも知れないが、それにしては蓄積しすぎている人が数多くいるわけで、根本的なところではやはり蓄積するために蓄積しているのであり、人によっては肯定的なもっともらしい理由を述べるだろうが、資本主義と呼ばれる装置は資産を蓄積する機能があり、人も物も情報も資産を作り出すのに使われる資源でしかなさそうだ。


2月26日「起源の不要」

 物事の始まりがあるとしても、すでに始まってからだいぶ経っていると、始まりそのものはどうでもいいことではないとしても、それ以降の経過の中で、今に至る上で何か重要な契機や転機を経験しているかも知れず、そちらの方が今を成り立たせている理由や原因とも言えるのかも知れないが、ならばそもそもの始まりの方はどうだったかといえば、どうということはない様々な始まりのうちの一つとして始まっていて、その中から何らかの巡り合わせによって、後の世の中において重要度が増してくるような物事が選ばれてしまうのかも知れず、なぜそれが選ばれるのかといえば、ごく簡単に偶然に選ばれると考えれば、それで済んでしまうことなのだろうが、そこで選ばれてしまう必然的な理由や原因を導き出そうとすると、困難を極めるのかも知れず、場合によっては説明不可能となってしまうのかも知れないが、現状でそれが世の中を成り立たせる上で重要な役割を担っているように思えるなら、すでにそう思っていることから、その物事の存在理由や原因が求まってしまい、要するに世の中にとって必要不可欠だから、それが選ばれて今に至っているように思われてしまうわけだ。それに関して例えば日本の特殊事情から言えば、それは天皇制であり、また左翼的な特殊事情から言えば、それは平和憲法となるわけだが、その存在を正当化する上で、それが日本にとって必要不可欠だからとなると、在日米軍も原発も必要不可欠な理由が述べられてしまうだろうし、その存在を正当化する側からしたら、世の中にとって必要不可欠だと言えば済んでしまうのかも知れず、その必要不可欠な理由を説明するには、それが存在することによって利益をもたらす理由を述べればいいわけで、もちろん不利益がもたらされる要素もあるわけだが、それが必要不可欠だと主張する人々は利益を強調して、またそれが不要だと主張する人々は不利益や被害を強調するわけで、その存在の是非を巡って対立が起こっているとすれば、それが世の中を成り立たせる上で重要な役割を担っている証拠だろうか。

 そうだとしてもそれがなくても済んでいる地域が他にあれば、そこでは別に重要な役割を担っているどころか、単にそれが不要な世の中となっているだけなのだろうが、ではそれがない世の中とある世の中を比較して、どちらが良いのかなんて一概には言えないかも知れないが、そこにはこちらにはない別の何かがあるかも知れず、またその存在の是非を巡って社会的な対立が起きている可能性もあるだろうし、そのような特殊事情を抱えた地域が、世界のあちらこちらに散在している現実もあるのかも知れない。そんなふうに考えてしまうと、その特殊事情があるおかげで成り立っている世の中というのは、それにこだわる人々が形成している世の中とも言えるだろうし、それにこだわることが直接政治的な主張を形成していて、そこに政治的な争点が生じているとも言えるだろうか。それだけが政治的な主張の中身でもないだろうし、他にも政治的な争点が生じているのだろうが、少なくともそれに関しては主張も争点もはっきりしていて、必要不可欠なのか不要でありなくても構わないのか、という存在の是非を巡って対立していることにはなっていそうなのだが、一方で争点をぼかしてわかりにくく見せかけようとする戦術も、同時進行している可能性もあるわけで、実際にそれがなくても済んでいる地域が他にあって、そこと比較してそれがあるという特殊事情がどの程度世の中にとって重要なのか、ということにも関係してくるだろうし、それがなくても構わないという世論が高まることを警戒して、政治的な争点となることを逃れようとする傾向も出てくるだろうし、そんな争点化を避ける戦術として、別の話題をことさらに強調することもあるわけで、そんなごまかしによって巧みに現状の維持を図っている事情もあるのだとしたら、やはりその存在が今ある世の中を成り立たせる上で重要な役割を担っている証拠かも知れないのだが、一方でそれがなくても済むような世の中もありなのだとすれば、別に今あるような世の中である必然性もないわけで、その存在が今ある世の中では重要で必要不可欠だとしても、別の世の中では単にいらないだけかも知れないし、そんな世の中を実現させようとするのもありなのではないか。


2月25日「作為不自然」

 社会の中で生きている限りは、すでにそんな状態ではないのだろうが、無為自然な状態でいられなければ、策を弄して何かをやっているようにも思われるのだが、その一方で偶然の成り行きに身をまかせているようにも思われるなら、偶然に巡ってきた事態に対応しようとして何かやっていることになるだろうし、少なくとも事前に備えていたわけでもなければ、それは作為的ではないだろうし、何かしら対応しているのだから無為ではないとしても、自然な対応だろうか。しかしそうだとすると作為的な対応とはどんな対応になるのだろうか。自然の反対の不自然な対応ではうまくいくとは思えないのだが、たとえ作為的な対応であっても、自然な対応に見せかけられたら、不自然な対応であってもうまくいくことがあるだろうか。そうではなく何をどう対応しようと、結果的にうまくいったら自然な対応のように思われて、うまくいかなかったらその原因として、対応の中で不自然な箇所を指摘されたりするわけか。うまくいくのが自然で、いかないのが不自然ということもないだろうが、先入観としては滞りなく動作が終了すれば、自然な動作だと思われるだろうし、挙動不審でぎこちない動きが目立てば、不自然な動作だと思われるだろうが、慣れない動きだと自然にぎこちなくなってしまうし、何か隠し事があって、それがばれないように焦ってしまうと、自然と挙動不審となってしまうから、そのような原因があるなら、自然と不自然な動作となって、疑いの目で見られてしまうから、そういう場合は作為的な対応となると、自然に振る舞っているように装う動作となるだろうか。自然であることと不自然であることと、無為であることと作為があることとは、それぞれの結びつき具合によっては、無為不自然であったり作為自然であったりするということだろうか。

 何が自然で何が不自然であるかは、社会的な慣習から影響されて、自然であったり不自然であったり思われるのかも知れないが、それとは別に何か他の判断基準があるとすれば、例えば普遍的な理性に照らし合わせて、自然か不自然かを判断するような機会もあるだろうか。それ以前にこの時代の人々にとって、果たして普遍的な理性という価値が共有されているのかどうかは、甚だ疑問に思われるのだが、世の中の状況に合わせて社会的な慣習も変わるのと同じように、世論も変わるだろうし、それと同じようにして理性的な対応も変わるとしたら、そもそも理性に普遍性など宿らないわけだが、歴史的な傾向が一つの価値基準を作り出していて、そんな従来からある説に従うなら、それは民衆による支配に対する抵抗に関するものだったわけで、そこに理性を働かせる余地があるとすれば、人々の自由を奪う行為に抗うのが、普遍的な理性に照らし合わせて自然な行為だと判断されるのだろうが、この時代においてそのように行為することが自然だとは思われないとすれば、その原因は何だろうか。安易に考えるなら、それは政治的な主導権を握っている翼賛体制に同調することが、自然な行為であるように見せかけられていて、人々がそのような作為自然に騙されているとなるのだろうが、果たしてそんな単純なことで納得できるだろうか。どう見てもその手の翼賛メディアによる見え透いた挑発や煽動行為がまともだとは思えないし、作為的で不自然極まりない大本営発表的な宣伝としか感じられないわけで、そういうメディアに巣食う煽動者たちも浅はかで下卑た攻撃ばかりで、何か狂っているような言動ばかりなのだが、もしかしたらそれこそが見せかけで、反体制派勢力をおびき寄せる罠であって、そういう連中と泥仕合いのような煽動合戦を繰り広げているうちに、反体制派勢力の方も不自然で作為的に見えてきてしまい、結果的に民衆の支持を失い続ける、という悪循環に陥っているのかも知れないが、さらにもしかしたらそれでもいいのかも知れず、そうやって自滅する勢力はどんどん死滅していってくれないと、まともな人たちの立つ瀬がないのかも知れない。


2月24日「教育勅語」

 今の時代には誰もが尊重すべき普遍的な理性というのがあるわけではないし、経済的あるいは政治的な価値を恣意的に煽り立てる人々がいるくらいで、そんな価値にしても相対的なものでしかなく、これといってすがるような対象など求めるべきではないのかも知れず、ただありのままの現状を批判的に解釈していれば、くだらない誘惑に取り込まれることもないだろうか。それをくだらないと思うにしても、拒否せずに軽く接していた方が、それなりに免疫がついていいのかも知れず、そんなものばかりであるわけでもないのだろうが、何事も大げさに批判すべきではなく、そういうことが行われる必然性について考えを巡らせてみれば、自ずと納得がいく解釈ができるのかも知れない。といっても取り立てて何を批判しようというわけでもなく、できれば翼賛体制に与するネットメディアがやっているような、見え透いた挑発とも煽動とも無縁でありたいのだが、たぶんどんなにそれについて語ってもそうはならないのだろうし、結局どうということはない政治的な批判に引き寄せられて、くだらない話題について言及する羽目になるらしい。しかしそうだとしても、今この世界でいったい何が危機的な状況なのだろうか。人によってはそれが危機的だと思われるかも知れないが、そうは思わない人もいるだろうし、くだらないことならそれが何だかわからないままに済ますこともできるのだろうが、いったいそれとは何なのだろうか。例えば反体制的なニュースメディアで騒ぎ立てている問題がそれなのか。そうだしてもそれは一過性の話題でしかないだろうし、そこから新たに何が明らかとなったところで、すでに明らかとなっていることから逸脱するようなことでもないだろうし、そこにはありのままの現状があるだけだ。そしてそのありのままの現状というのが、今ある政治体制や経済構造を成り立たせていて、それに与する人たちや団体がそれを支えていることになっているのではないか。だがそれがくだらないことのすべてなのだろうか。

 すべてがくだらないわけではなく、別にそれをくだらないと思う必要もないのであり、かといって少なくとも無理に素晴らしいことだと思う必要もないのだろうが、それでも中にはある種の人々が狂信的に関わりたい対象というのもあるらしく、それが人を統御したいという願望に結びついているわけだから、時として児童を教育するという甘美な享楽にも進展してしまうのだろうし、正気の沙汰でない人たちにとっては、またとない絶好の機会が巡ってきたわけだが、いったいそれが何だというのだろうか。教育と称するしつけによって子供の心を変形させる喜びは格別だろうし、自分たちが思い描いた通りの型にはめ込んだ精神の持ち主が、自分たちの期待を一身に背負って成長していく姿を見守るのも、教育者としてこの上ない幸せであり最高の悦楽なのではないか。果たしてそれが悪いことなのか。見るもおぞましい人体実験というわけでもないだろうし、人の精神をたくましく作り変えるのが教育であるなら、これほど理にかなった行為は他にないだろうか。あるいはそこで何が理なのかが問題となっていて、その答えとして国家の臣民を製造することこそが教育の義務であり目的であるとすれば、やはりこれほど理にかなった行為はないと言えるだろうか。教育者の心の中で何かが弾け飛んでいるのかも知れないが、その何かが弾け飛んだ先にあるのが狂気と正気を分割する境界ではないようで、別の何らかのカテゴリーを必要とする領域なのかも知れず、また何がそこで弾け飛んでいるのかと言えば、それが普遍的な理性でないことは確かだとしても、そうかといって日本古来より伝わる伝統的な風習であるわけでもなく、想像してみるに何かの出来の悪いパロディだったとしたら、極上の教育的な効果をもたらしたかも知れないが、何を想像してみたところで詳しくは知らないので、実態からはかけ離れているだろうから、こんな言説自体がくだらないフィクションでしかないのだろうが、別にそこで何かの亡霊が徘徊していたわけでもないのだろうし、何をやっても茶番劇にしかならないご時世で、やはり世間の笑いを取ることが最上の教育的な効果なのかも知れず、そこでどのような実態があろうと、あまり深刻にならない方が精神衛生上は良いのではないか。


2月23日「対抗手段」

 現状では国家を中心として権力を行使するシステムが出来上がっているのだろうが、それをあからさまに変えられるわけがなく、国家に対抗できる勢力があるわけでもない。だがグローバル企業は国家に直接対抗しているわけではないが、国家への依存をある程度は軽減できているだろうし、領土も軍隊もない代わりに、複数の国を結んだ物や情報の流通ネットワークを有しているだろうか。そうだとしてもそれが国家を衰退させる要因だとは思えないのだが、例えば中国の大企業は、やはり中国政府と一体化しているのだろうか。世界中に広がっている華僑系の資本は、シンガポールやマレーシアなど東南アジアの国々と関係が深そうなのだが、あとは台湾や香港を拠点としている大企業もありそうだし、そういう面で国家と企業が必ずしも一体化しているとは言えない面もありそうで、アメリカのグローバル企業がアメリカの経済を支えているとしても、やはりアメリカの国家と一体化しているわけでもないだろうか。そうだとすればやはり国家を中心として権力を行使するシステムと、企業が経済力を背景として権力を行使するシステムが共存していて、両者のシステムが重なり合ったり、場合によったら競合することもありうるかも知れないが、現状では相互補完的に共存共栄している面の方が大きいだろうか。そうなると国家にあからさまに対峙しているような勢力はなく、一時流行っていた国際テロ組織のアルカイダなども、アメリカやその同盟国を中心としてまだテロとの戦いは継続中だが、国家そのものを滅ぼすような力はないと言えるだろうか。逆に日本などでもそうだが、テロへの脅威を口実にして国家権力を強める法整備も進んでいて、完全に根絶しないで、忘れた頃に大規模テロでも起こしてくれた方が、国家にとっては好都合なのかも知れない。

 そういうわけで国家も資本主義も、現状では終わる兆しが見えないのかも知れないが、終わらなくてもそれらに対抗する方法を模索できないだろうか。それはできない話であるとともに、終わらせようとしなくても、不要になれば勝手に瓦解してくれればいいのだが、それも違うような気もするし、とりあえず対抗できなくても、抵抗はできるだろうし、意識して抵抗しなくても勝手に抵抗している現状があるのではないか。どのような形であっても、意識せずに抵抗していれば、抵抗している限りにおいて、否応なく国家や資本主義に対峙しているわけで、抵抗を意識できなければ、意識して抵抗をやめることもできないだろうし、その無意識の抵抗が少子高齢化や移民や難民をもたらしているのであり、またそれらが権力を行使している現状があるから、まだ人々に自由に振る舞う余地が残っているということだろうし、自由が完全になくなってしまって、人々が国家や資本主義に完全に服従しているようなら、それはもう奴隷状態であり、服従している奴隷に権力を行使する必要はないわけで、奴隷には単に命令を下せば済むことであり、命令に従わなければ殺せばいいことでしかなく、人工授精でも何でもやって、無理やり子を産ませて労働力を確保して、移民や難民を防ぐために、逃げられないように鎖でつないでおけばいいわけで、そういう意味で現状ではまだ人々に自由があるからこそ、絶えず権力を行使して従わせようとしているわけだ。そうだとすると国家も企業も人々を奴隷化できないから、否応なく権力を行使せざるをえないということだろうか。成り行き的にそうなっているのであり、政府や企業に指導的に関わっている人たちも、あからさまに人々を奴隷化しようとは思っていないだろうし、実際に奴隷よりは労働者である方が経済効率は良いのだろうし、また今のところは労働者をすべてロボットに置き換えるほどには、科学技術が進歩していないのではないか。


2月22日「実質的な変化」

 たぶん世の中を変えることはできないが、世の中を変える方法を模索することはできるだろうし、またそれとは無関係に世の中が変わることはありそうで、さらに自分が世の中を変えたと思い込めるような人も、まれに出現するのかも知れないが、世の中を変えたとみなされる人物も、歴史の中で見出されるような場合もありそうで、その中で何が正しいとも言えないだろうが、普通の一般市民が、自分は世の中を変えることはできないと思えば、それは当たり前の認識だろうし、政治家や活動家や思想家などが、世の中を変える方法を模索することも、普通にあり得ることだろうし、そういう模索とは無関係に、世の中が変わってしまうこともあるだろうし、また何らかの分野で偉業を達成した人が、自分はこれによって世の中を変えたと自負するかも知れないし、歴史家がある時代のある地域で世の中を変えた人物として、歴史上の偉人を挙げるのもよくある話なのではないか。ではそこから何が言えるのかとなると、それぞれの認識や思いがそれほど間違っているわけではないが、それぞれをそれぞれに結びつけようとすると、何か無理な話になってくるのかも知れず、世の中を変える方法を模索している人が、世の中を変えることはできないとは思わないだろうし、実際に世の中が変わったように思えた時、誰のおかげで変わったのかを知ろうとすれば、何やら政治指導者とか革命家とか、特定の人物が浮かび上がってくるかも知れないが、その人が世の中を変えたと語ることはできるが、変えた要因がそれだけではないことは、容易に指摘できるだろうし、そういう意味でも特定の人物の力だけで世の中が変わったわけではないし、その人物が世の中を変えようとして、結果的に世の中が変わったと思われても、何が変わったことをもって、世の中が変わったのかを判断する場合、例えば政治体制が変わっても、世の中は変わっていないかも知れないし、逆に政治体制が変わらなくても、世の中が変わったように思える場合もあるのではないか。

 そういうことと関係があるのかどうかはわからないが、現状の世の中を成り立たせている要因は何なのかと問うなら、複雑に絡み合った様々な要因が思い浮かぶかも知れないが、その中から政治体制なり産業構造なり、特定の要因に狙いを定めて、それについて語ろうとすれば、何かそれらしいことが言えるだろうし、それの問題点もそれなりにはっきりしてきて、不都合な点や矛盾点を突いて、もっともらしく批判できるかも知れないが、たぶん言説を用いてやれるのはそういうことであり、それ以外にやれることは思い浮かばないのだが、そういうことができるとしても、それはそういうことができる限りでやれることでしかない。要するにそれは政治体制なり産業構造なりを、より良く改善させるための提言であって、すでに今ある体制や構造を前提としていて、それとは別の体制や構造を模索しようとしているわけではなく、そのような観点からすると、そうすることが世の中を変えることには結びつかないのかも知れず、しかもそれで構わないのかも知れない。別に世の中を変えようとして批判しているわけではないし、現状の延長上で改善できれば、いらぬ混乱を引き起こすこともないだろうし、そういう意味でもそのような提言には妥当性があるのではないか。少なくとも現状の政治体制や産業構造に依存している人たちにとっては、説得力のある提言なら歓迎されるだろうし、学者や専門家に期待することは、その種の有益な提言をどんどんして欲しいわけで、逆に現状の体制や構造をぶち壊して、体制や構造に依存している人たちに多大な被害や不利益をもたらすような提言など、 歓迎されるべくもなく、普通に無視されるか非難されるのではないか。だがそうであるとしても、もしかしたら世の中を変えるとは、本当はそういうことかも知れないし、実際そんなことが起こってしまえば、誰もが世の中が変わったと思うだろうし、歴史的にもこれまでもそんなふうにして世の中が変わってきたのではないか。


2月21日「若気の至り」

 時が経っていることを感じ取るには、事物の変化を見てとればよさそうだが、人の心変わりを感じ取るのにも、やはりその人を取り巻く事物の変化を見ればいいだろうか。もっと直接にその人の態度や言動が以前とは様変わりしていれば、そう思うしかないだろうし、状況の変化に対応するために自然とそうなってしまったのなら、それなりの必然性がありそうだが、それだけ以前とはその人の立場が変わったとも受け取られるだろうか。そのような変化に対して奇異な印象を受けるなら、その人が首尾一貫した態度や言動をとることを期待していたのかも知れず、その豹変に驚くとともに裏切られたと思うなら、そうせざるを得ない事情が生じていて、そんな事情については否定的な態度をとらざるをえないだろうか。ではその悪い意味で期待を裏切られたように思われる事情とは、どんなものがあるだろうか。主義主張が昔とは正反対なら裏切られたと思うのが当然だろうし、実際に不正行為などを行っているのが発覚してもそうは思うだろうが、当人にしてみればそうなる必然的な成り行きがあれば、今さらそんなふうに思われようと、知ったことではないのかも知れず、意外とそうなってしまった事情を肯定的に捉えている場合もあるかも知れないし、逆に裏切られたと思っている側がいつまでもそんなことにこだわっているのは、愚かなことだとでも思っているのだとすれば、やはり昔とは立場が変わってしまったと解釈するしかないだろうか。それをどう解釈しようと、その人を取り巻く状況が変わり、その変わってしまった状況に合わせて、態度や言動も変えなければならない事情があるなら、そんな事情を優先させるのが、その人にとってはやるべきことだと思われるだろうし、そうすることが妥当だと感じるのではないか。

 そこで何を優先させるべきかは、そこで何ができるかによっても変わってくるだろうし、実際にその人がそうやって現在の立場を得たのなら、良かれと思ってやったことだろうし、それが人の期待を裏切ってまでやるようなことなのかは、その人にとってはそうであり、裏切られたと思う人にとってはそうではないのだろうが、そこに当人と裏切られた人との認識の違いがあり、そうすることによって得た立場というのが、当人の行為を正当化する根拠であり、そうしないと得られない立場であるなら、それを得ようとするのならそうすべきとなるだろうし、それが社会的な立場として価値があるなら、社会の慣習や制度が当人の味方となるのではないか。ではそのような立場とは何なのだろうか。それは当人が若かりし頃、抵抗や反抗の象徴として否定し批判していた立場となるだろうか。そうなると割とわかりやすく、ありふれた若気の至りについて語っているに過ぎなくなってしまうだろうが、では若い頃から体制に従順な人たちは、終生そのままなのだろうか。その可能性が高いのかも知れず、歳を取ってから反抗的になる人をあまり見かけなければ、現状に満足しているか、あるいは不満があっても妥協を強いられているか、どちらかといえば後者の方だろうが、そうだとすれば現状に耐えている人が多いだろうし、忍耐を強いられることに慣れ、そうするのが当然だと思い、逆に文句を言う人を抑える側にも回るだろうし、そうやって協力して今ある社会体制を維持しようとするのではないか。もしかしたらそれが事物の変化に逆らうことかも知れず、時が経って時代が移り変わり、人々の意識も変化しようとしているのを押しとどめるために、頑なに社会の慣習や制度を守ろうとして、反抗的な若者たちが社会規範から外れようとするのを非難し、慣習や制度に従わせようとして、何やら策を講じている現状があるのだろうか。それとも若者の方から体制側に媚びているのだろうか。


2月20日「フィクションの価値」

 この世界で誰が何を求めていようと、架空の人格にとっては知ったことではないかも知れないが、その人格を構成する製作者にとっては、とりあえず話の中で誰かが何かを求めていないと、フィクションを構成できないだろうか。そのフィクションが誰かが何かを求める話ならそうなるだろうが、誰がフィクションに登場しようと、その誰かがフィクションの中で求めているものを、現実の世界で求めようとは思わないのではないか。話の内容や状況よっては、フィクションの中でも現実の世界でも同じものを求めていることもありそうだが、フィクションに登場する人物が何を求めようと、それはフィクションの中で求めているものでしかなく、フィクションの人物が体験している世界はフィクションの中にしかないだろうし、客観的に考えるなら、フィクションの世界と現実の世界は区別した方が良さそうだが、例えば現実の世界に存在する俳優がフィクションの人物を演じる制作現場では、現実の世界でフィクションが演じられているわけだから、そこがフィクションの世界であると同時に現実の世界でもあるだろう。そうなると両方の世界で求めているものが同じになる場合もありそうで、求めているものを獲得できるような話の筋書きなら、とりあえずフィクションの世界でも現実の世界でも、同じものを獲得したことにはなるのだろうが、あくまでもフィクションは演じられているにすぎないから、現実の世界から見れば、それを獲得したように演じているだけとなってしまうだろうか。少なくともフィクションの中では獲得したことになっているのだから、現実の世界から見ても、フィクションの次元では登場人物が求めていたものを獲得したことにはなるだろうし、別にそれは不思議なことではないだろう。

 不思議なのは現実の世界で生きている人物が、フィクションの中に求めているものがある場合だ。まずフィクションの製作者は多かれ少なかれそうだろうし、フィクションに惹かれる人たちも大体は同じようなもので、フィクションそのものを求めていて、その中にも求めているものがあり、それを簡単に幻想と言ってしまえば、何のありがたみも幻想もなくなってしまうかも知れないが、ともかくそこに求めているものがあるからこそ、フィクションに惹かれているのだろうし、他の何かの代替物というよりは、他の何よりもフィクションを求めてかいるのかも知れないが、そんな彼らは現実の世界では何を求めているのだろか。要するに現実の世界でフィクションを求めているわけか。それ以外にも色々と求めているものはありそうだが、その中の一つとしてフィクションを求めているのだろうが、もしかしたら彼らは現実の世界もフィクションの世界のようになってほしいと思っていないだろうか。そして最も求めているのがそれだとしたら、何かそれは普通にとんでもないことかも知れないが、誰もが普通に思うことでもあるのかも知れず、フィクションの中に現実の世界の理想像を求めているような場合は、そんな思いが過剰に投影されているのではないか。それはおかしなことだろうか。別におかしくはないだろうが、普通に考えるなら、現実の世界に現実の世界の理想像を求めるべきかも知れず、フィクションを経由せずに、直接現実の世界に求めるような成り行きにならないとすれば、様々な事情から現実の世界では求められないから、その代替物としてフィクションの世界に求めていることになるのだろうが、それとフィクションそのものを求めるのは違うことなのだろうか。たぶんそれは違っていて、フィクションの世界に求めているものと、現実の世界に求めているものを区別していて、フィクションの世界にはフィクション特有の価値に基づくものを求めていて、現実の世界では現実に求められるものを求めていて、そうやってフィクションを現実離れした虚構として割り切って捉えておけば、フィクションが現実の世界に及ぼす作用も、限定的なものとなるのかも知れないが、たぶんフィクションの製作者はそう受け取られては困るのではないか。


2月19日「権力の行使」

 何をやるにしろ、やっていることに無理が伴うならそれを批判され、では何もやらなければ、今度はやらないことが批判の対象となってしまうだろうが、批判されていることをやり続けるには、それなりの権力が必要となってくるだろう。何かをやるというのはそれ以上のことではなさそうだが、それについて語るというのも、それ以外のことはいくらでも語れるとしても、いくら語ってもどうにもならないことはありそうだ。ならばできるだけ面白おかしく語ろうとする方が、気がまぎれて愉快な気分を引き出せるかも知れないが、それでは逃げていることにしかならないだろうか。しかし何から逃げていることになるのか。それは無理を伴う行為を批判しなければならない、という強迫観念から逃げていることになりそうで、無理な行為を続けさせる権力の行使を放置して、そんな権力の行使によって、誰かを束縛して自由を奪う行為を容認することにもなりそうだが、それで構わないだろうか。具体的に何を批判しているかが明らかとならない限りは、何とも言えないところだろうが、明らかとなったところで、その批判が何に結びつくのかがはっきりしないと、ただ批判しているだけでは虚しいだけだろうか。しかし実際に何を批判しているのだろうか。世の中のあらゆる権力の行使を批判できるわけでもないし、そんな権力の行使によって世の中が成り立っているのを承知しながらも、その中でも悪質であったり理不尽な権力の行使を批判すればいいのだろうか。批判を正当化するにはそれ以外にはないだろうし、だからといって行使される権力の良し悪しを誰が決めるわけでもなく、そこにあるのは権力を行使せざるをえない物事の成り行きと、行使する側とされる側との力の不均衡しかなさそうだ。

 それをどう捉えてみても、世の中では絶え間なくそんなことが行われているだけなのだが、権力を行使する側はそれを正当化しようとするだろうし、権力の行使によって不利益を被っている側は、それを批判し非難するしかないわけで、そんな関係がありふれているのはもちろんのこと、それに関して無関係を装うこともできるだろうし、また行使する側やされる側を応援する側につくこともできるわけで、そうやって権力関係に介入したがる人たちもいるわけだが、さらになぜそこで権力が行使されているのかを解明しようとしたい人たちもいて、どのようにして権力が行使されているのかを知ろうとしたり、権力が行使されることになった経緯や脈絡や、その背景まで探ろうともするのだろうが、やはりそのことと権力の行使を止める手立てを講じることとは無関係なのかも知れず、批判しても非難しても権力の行使は止められないし、権力が行使される理由を解明しても止められないだろう。では権力の行使を止める方法はないのだろうか。行使する理由がなくなったら行使しなくなるだろうし、また権力の行使をやめざるを得ない理由が生じたらやめるのではないか。そこで成り立っている利権構造が変化したら権力関係も変化して、その行使の仕方や対象も変わってくるのかも知れず、そのような変化は誰かが意図して変わるのではなく、その種の意図や思惑から外れることによって変わるのかも知れない。そういう意味で権力を行使する側の意図や思惑から外れるような変化が起これば、権力の行使も場合によってはやめざるをえないことになるのかも知れないが、それは同時に権力を行使される側や、批判したり非難する側の意図や思惑からも、外れるような変化なのではないか。果たして今後そのような変化が起こるだろうか。もしかしたらそれはこれまでも度々起こってきたことで、時代の変遷によって権力を行使する主体も対象も変わってきたし、行使の仕方も方法も範囲も変わってきたのではないか。


2月18日「政治の未来」

 たぶん社会には秩序が必要であり、秩序があってこそ、それに逆らうこともできるわけで、実際にすでに何らかの秩序があるから、その秩序のあり方を批判したくなるわけだが、絶えずその秩序によって不利益を被っている人たちがいて、そういう人たちとその人たちを応援する人たちが、社会の中で批判勢力を構成しているわけだ。そしてもう一方には秩序を守っている人たちがいて、そういう人たちが保守勢力として社会の中で主流派を構成しているわけだが、そう単純に割り切れない面もあるだろうし、批判勢力の中にも保守勢力がいて、保守勢力の中にも批判勢力がいるわけで、双方ともに様々な局面で改革を訴えたり、秩序を維持しようとしたりするわけで、その中で何が良くて何が駄目なのかを判断する上で、明確な判断基準があったりなかったりするのだろうし、果たしてそれが政治的な判断を要することなのか、そして選挙の時に投票する判断基準になるかならないか、ということに関してはっきりしていなければ、世論は消極的な現状維持になってしまう可能性が高そうだが、単に社会秩序がどうこうというよりは、それによって不利益を被っているかどうかも、はっきりしないような世の中かも知れず、何がどうなっているかについて、信用に足る現状認識もなく、どう判断したらいいのかもわからないのかも知れず、世の中のどこを批判しても、とりあえずもっともらしいことは言えるのかも知れないが、だからと言ってそのもっともらしいことを言っている人を支持する気にもならず、支持したところでそれが政治的な行動に結びつくわけでもなく、そういう方面では何もできないような秩序が形成されているわけでもないのだろうが、実際に何もできないとすれば、批判勢力の批判が機能していない現状があるのだろうか。

 結果的には批判が保守勢力を利するように機能している面もあって、保守の中で保守を批判するのが正統的な批判勢力であるような、そういう価値観を掲げる批判勢力が世論的には一定の評価を得て、それ以外の批判勢力を駆逐しつつあるわけでもないのだろうが、ではそういう勢力が具体的に何を批判しているのかといえば、批判しているような雰囲気を前面に押し出しているのかも知れず、保守の中には旧守派みたいなのがいて、それに対して改革を訴えているという主張なのだろうが、それを保守系のメディアも後押ししているのかも知れないが、ともかく現状維持ではなく改革を訴えていて、もちろん保守の中で批判されている保守も、それなりに改革を断行しているはずなのだが、その改革の中身が保守的な改革といえば、何やらもっともらしく聞こえそうだが、それ以外の批判勢力は、保守を批判する保守を保守の別働隊だと批判しているわけで、ともかくどこまでも保守なのであり、保守勢力こそが真の改革勢力であり、真の批判勢力だという印象を社会に定着させるために、保守勢力は改革を訴えているのかも知れず、そんな改革の邪魔をする勢力として設定されているのが、第一には保守勢力内にいる旧守派であり、第二には財務省をはじめとする官僚機構であるわけで、国民の利益を守るには利権にしがみついているそれらの勢力から、主導権を奪わなければならないと主張しているのかも知れないが、実際にはどうなっているのだろうか。何らかの成果を上げていて、それが世論の支持に結びついていて、着実に勢力を広げているのだとすれば、それで構わないのだろうし、政治情勢もそういう流れになっているのなら、別に何の問題もないわけだが、それ以外の批判勢力にとってはおもしろくないだろうし、もっと深刻に考えるなら死活問題だろうし、このままではまずいから巻き返しの方策でも練っているのかも知れないが、この先巻き返しの機会があろうとなかろうと、世論的には現状が妥当な状況なのではないか。


2月17日「問いの中身」

 特に理由もなく思いつきで問いを捏造してしまうが、人の限界は人工知能の限界とどう重なるだろうか。それは考えることの限界でもあり、計算することの限界でもありそうなのだが、思考することもある種の計算に含まれるとすれば、それを間違えることによって、それらの限界を突破できるわけでもないだろうが、間違える可能性があるということは、正しい計算結果が間違っていた場合には、それを修正できる可能性を秘めているのかもしれず、そういう意味で間違えることにも特有の役割が備わっていて、間違えることによって思考や行動などの動作に、ある種の幅をもたせていると考えれば、誤動作にも肯定的な意味や意義を見出せるだろうか。しかし人工知能に完璧さを求めないとすれば、何か計算以外に使い道があるのだろうか。ありえないことかも知れないが、趣味で人工知能を作り出そうとしているのなら、別にこれといって使い道のない人工知能に仕上げても構わないのかも知れず、何やら誤動作ばかりしているようなものを作り出せれば、人工知能らしくなくて皮肉を好む人なら愉快この上ないだろうし、予測できないような動作を延々と続けるような機械になれば、それ自体を安易に一種の抽象芸術とみなせるかも知れないし、そもそも役に立たないものを作ることが、人がやる行為としては最も贅沢なことかも知れず、世の中には結構そういうものを作ることに異常な情熱を傾ける人も多いだろうから、そういう奇人変人の類いがわけがわからないものを作って、世間をあっと言わせるような結果ともなれば、それで世の中が変わるわけでもないだろうが、少なくともそういう人が、人の限界を超えていることにもなるのかも知れず、また何の役にも立たない人工知能を作り上げたなら、それも人工知能の限界を超えた人工知能だと言えるだろうか。

 動作の正しさや考えの正しさに対して、誤動作や誤解を対置してみても、それだけで動作や思考の可能性が広がるわけでもなければ、皮肉なことでもないのかも知れないが、正しさの基準というのが曖昧な方面で、何をどう考えてどう行動するのかが、いつの時代でもどういう世の中でも問われていることかも知れず、実際には誰がどこで問うているわけでもないのだろうが、これでいいのかと思うことが結構あるようだと、自身が問うているわけだが、そんな疑念を抱かせるような状況の中で生きていると思えば、世の中が問われているのだろうし、時代状況もそんな問いを発しているのかも知れず、自分もそんな問いに応じたいのかも知れないが、はっきりした答えなど持ち合わせていないのは毎度のことで、無理に答えようとしても間違ってしまうような気がするし、いくら探しても間違った答えしか見つからないのかも知れないが、それでもそんな状況に迎合せざるを得ない成り行きなら、答えを間違ったついでに批判を繰り返すのだろうし、時代状況を批判して世の中を批判してしまうわけで、何かを語ろうとすれば批判しているわけだ。いったいそれ以外にどう語ればいいかなんてわかるわけもなく、ただ気がつけば批判を繰り返している中で、批判している自らを正当化するわけにはいかなくなってくるわけで、何か間違った批判を繰り返しているのではないかと疑いながら、それでも批判しているものだから、そんなことばかりやっていると、だいたい批判することに行き詰ってくるわけで、ついには批判しかできないことに飽きてくるのではないか。そして自らが何を問われていたのかなんてすっかり忘れているわけだ。実際に何も問われていないなら無理に批判など繰り返す必要もなく、生きることを楽しめばいいのかも知れないが、楽しめないから批判するのだろうし、楽しめない現状の中で生きているのかも知れないが、では問いの中身は何なのかといえば、これでいいのかという疑問でしかないのだろうか。


2月16日「自然な対応」

 何の確証もないことだが、なぜかその場の成り行きに身をまかせながら思考し行動していくと、結果的にうまくいっているかどうかはわからないが、こだわりや信念に基づいて思考し行動するよりは、心身に過度なストレスをかけることなく、直面している状況を乗り切れるような気がするかも知れないが、それも結果的に乗り切っているのかどうかは、それを乗り切ったと解釈するか、あるいはただ何となく状況に対応しているうちに、何とかなったような気がするだけで、その結果をどう判断してみてもしっくりこないような気がするなら、別に難局を乗り切ったわけではなく、はじめから乗り切ろうとはしていなかったのかも知れないし、もしかしたら状況に翻弄されているだけとでも解釈しておいた方が、より正確な認識なのかも知れず、あまりその時の体験を特別視しない方が、そこから面倒なこだわりや信念にとりつかれることなく、平静を保っていられるのかも知れない。だがそうは言っても生きていれば、自然と記憶や勘として経験が蓄積していって、そこからうまくいった経験や失敗した経験を反省することによって、こだわりや信念が形成されてしまい、そのこだわりや信念に基づいて、人として一定の傾向に凝り固まってしまうのかも知れず、そうした凝り固まり具合の程度に応じて、その人の後天的な個性が顕われているわけだから、状況として日頃から心身ともに過度なストレスを感じていたら、その場の状況に合わない個性が生じてしまっているのかも知れず、その人の凝り固まり具合がその場の状況にフィットしない形状になっているのかも知れない。

 別にそれが客観的に何を意味するとも思えなければ、普通にそういうことでしかなく、過度なストレスを減じたければ、その場の状況に適合するために何らかの改善策が必要とされているのかも知れないが、長年かけて凝り固まってしまった個性が、一朝一夕にどうこうなるようには思えないなら、諦めることも選択肢としてはあるだろうし、あとはその場から逃走するとか、その場の流れに身をまかせていたら、自然とそこから離れていってしまうなら、それが唯一の解決策ではないにしても、それはそれとして仕方のないことかも知れず、一つの対処法としてはそんなのもありなのではないか。またそういう時にも何が良くて何が悪いことなのかを、あまりはっきりとは決めつけないことが肝心なのかもしれず、それ以降も生き続ける限りは何が解決するわけでもなく、いったん身につけてしまった個性は、凝り固まり具合が強固だとなかなか変わらないかもしれないが、変わらないなりにも何とかなっているから、現実に生き続けていられるのだろうし、実際に生きているのだから、その個性が何かしら役に立っている面もあるのかもしれず、そういう意味ではそれ以降の行く末を悲観することもないだろうし、もしかしたら何かのきっかけで個性が変わる可能性もあるし、また状況がその個性を活かせるように変わる可能性もあるかもしれず、そんな可能性を信じようと信じまいと、その場で生きている限りは何とかなっている現状の中で、それをさらに自分に有利になるように画策しようとしまいと、何とかしようとはしていることは確かだろうし、その何とかしようとしていることが、生き続けている現状をもたらしていて、それが直面している現状に対応していることにもなっているのではないか。


2月15日「超越論的な認識」

 哲学用語で超越論的な認識とは何やら不可解な概念だが、何が超越論的なのかといえば、経験論的な認識と対立する概念としてあるのかも知れず、例えば便器はトイレで人の排泄物を受け止めて流す器だが、その便器が美術館でオブジェとして展示されていれば、人はそれを芸術作品として認識するわけで、人の経験から得られる感覚では、同じ便器をトイレに設置されているものと美術館に展示されているものとでは、別々の価値を伴って認識される、というのが超越論的な認識だろうか。また貴金属の金は経験的な感覚では、宝飾品などにも利用されて高価な価格で売り買いされる貴重な金属である一方で、原子の構造的には何の変哲もないただの金属にすぎない、と認識するのが超越論的な認識だろうか。あまり正確なたとえではないかも知れないが、経験的な先入観にとらわれていれば、わけがわからない抽象芸術の類いであっても、世界的に名声の高い芸術家の作品という触れ込みで、美術館にただの便器が展示されていたら、人はそれをありがたがって鑑賞するかも知れず、また宝飾品の材料となる以外にはあまり使い道がなくても、ただ希少にしか産出しない金属であるから、金は高価で取引されていて、高価であるからこそ貨幣としても価値があり、いくら輝きが美しくても大量に産出されるようなものなら、宝飾品の材料には使われないだろうし、使われていたらおもちゃやまがいものにしかならないだろう。

 それと同じことではないだろうが、生身の人間としては大して使い道はなくても、たまたまその中年男性が北朝鮮の最高権力者の兄であることが災いして、政治的には利用価値も生じてくるだろうし、実際にその言動や行動が危険視されたようで、暗殺されてしまったらしいが、またそれと同じことでもないだろうが、大言壮語で大ぼら吹きの老人が、たまたまアメリカの大統領になってしまったばかりに、一応は政治的にもメディア的にもその人を大物扱いするしかないだろうし、関係各国もそれなりの対応を迫られているばかりか、当人にしても一応は超大国の大統領として、それなりの見識を示さないと格好がつかないだろうし、議会の政治家や国家官僚たちの意見にも耳を傾けなければならず、そしてリベラルな民衆やメディアからの批判も含めて、そういう周りからの同調圧力によって、どれほど馴致されてしまうかは今のところは未知数だが、一方で大統領の独断でいったいどれほどのことができるのかも、今後は興味深いところかも知れないが、彼が親近感を抱いているロシアの大統領ほどには、独裁権力をほしいままにできるとは思えないだろうし、ロシアにしてもアメリカに続いて他の国々でも、国粋的なポピュリズム勢力が政権を担うように、各国に働きかけてネットを経由して様々な工作を仕掛けているらしいが、それがある程度効果を上げて、世界的により一層のリベラル勢力の退潮傾向が鮮明化しようと、果たしてグローバル資本主義勢力の攻勢を食い止められるかというと、国家の行政的な枠組みをいくら国粋的に強化しても、それとこれとは必ずしも利害が対立する関係ではないのかも知れず、どれもこれも見当違いなことをやっているわけでないにしても、大局的な傾向としての歴史的な流れに逆らっているわけでないのかも知れない。


2月14日「生きること」

 例えば自分が何によって生かされているのかといえば、とりあえずは偶然に生かされていると思い込んでおけば、それが無難でもあり無責任にもなれそうだが、何か生きていることに責任を感じるような事情でもあれば、場合によってはそれが心理的な重荷にもなるだろうし、そこで生じている何らかの責任を全うしようとすることが、生きていく上で励みにでもなれば、何やら生きることに積極的な意味や意義が生じる契機にもなるだろうか。そのような責任が生じることも偶然のめぐ合わせであるかも知れないが、安易になぜ生きているのかと問うならば、いくらでも生きている理由が思い浮かぶわけでもないだろうが、そこで主体的に何かをやっているとすれば、それをやるために生きているという簡単な理由がすぐに求まるだろうし、大半の人にはそれ以上の理由など必要なさそうで、そうやって生きていることに対する問題提起は済んでしまいそうだが、そもそも生きていく上でそんな理由など不要なのかも知れず、それ以外のことに関する理由が山ほどあって、いちいち生きていることに関して何か考えてみる暇などないのかも知れず、それが偶然であろうと必然であろうと、生きていることには変わりなく、そんなことをわざわざ肯定したり正当化するには及ばないだろうか。そういう次元で何かを問うことは、それよりもはるかに切実な問題があることを忘れるためには必要なことかも知れないが、その切実な問題というのが、自らがやっていることややろうとしていることに関して生じる問題なのだろうし、それがより深刻な次元では、自らの生死をかけてやらなければならないことであったり、場合によっては他人の生死までも巻き込むような行為なら、何やら真剣味が出てくるだろうか。

 たぶんそうでなければ問う価値のない行為というわけでもないだろうが、別にそんな状況に直面していないなら、相対的には気楽に構えられるようなことかも知れず、また世の中には人の生死に関わるようなこととは質の異なる次元というのもありそうで、例えば社会の中でそれなりに世間的な脚光を浴びるような立場の人であれば、そこで何かをやることに社会的な責任が付いて回るようなことにもなるわけで、特にその一挙手一投足にメディアが注目しているような場合は、社会的な行動規範から外れるようなことをやれば、直ちに関係方面から非難を浴びるだろうし、現にそういうことがニュースネタになって世間の話題ともなり、それはそれでそういう次元では必要不可欠なことなのだろう。だが自分の関心がそれに巻き込まれていなければ、自らが生きていく上では無関係なことであり、それとは違う方面に関心があるのかも知れず、実際にそちらの方面で思考し行動しているのなら、そういう方面で生きていることにもなるだろうし、それをやることが自分にとっての生きる理由であり目的だと思い込めれば、そこに何らかの必然性が生じていることにもなるだろうし、たとえそれが勘違いの幻想であろうと、当人にとってはリアリティを感じられる状況であり、そんな成り行きに絡め取られて、人はそういう傾向に凝り固まってしまうのかも知れないが、それが良いか悪いかも当人の思い込みの程度によるところが大きいだろうし、一概に外部から判断するようなことではないのかも知れない。たぶんそうやって人の興味も関心も適当に分散してくれれば、それなりに世の中も平和になるのかも知れないが、実際にはそうなる一方でそれとは逆の現象も顕著に見受けられ、しかも分散ではなく一箇所に集中することが、メディア的にも資本主義の面でも利益をもたらす傾向があり、人為的にそうなるように仕掛けることが、利益を得るための戦略でもあるわけだから、やはり多くの人がそれなりにそんな仕掛けに乗せられている現状があるから、それが良いか悪いかは別にしても、こんな世の中になっているわけだ。


2月13日「集団の特性」

 人が集団として組織される時は、集団の目的に従わせるように集団内の人を拘束するしかないわけで、どのような分野でも集団が組織される限りは、そこに集団の目的に従わせられた構成員がいて、集団のために働いているのだろうが、集団内で働く拘束力にも、集団の性質や性格に応じて、その強度にも差が出るだろうし、わりと拘束力の弱い集団に属しているなら、その構成員も集団内で比較的自由に振る舞えるだろうし、人が何らかの理由で何らかの集団に所属していないと生きていけないなら、他の条件を考慮に入れなければ、できれば拘束力の弱い集団に入ろうとするのではないか。またそれに関して人が構成する社会が、果たして同じ目的を共有する集団であるのかについては、日頃それほど意識することはないだろうが、行政が絡んでくると、ある一定の人口を擁する集団として認識することになるだろうし、それが管理の対象として、何やらもっともらしい目的を担わされてしまうのかも知れず、それが管理するための口実となるだろうし、目的に合わせた管理システムなどが適用されてしまうのかも知れないが、一方で管理の対象となっている人たちは、自分たちの思想を規制して行動を拘束するようなやり方には反発するだろうし、自らが何らかの形で管理されていることを意識すれば、普通は不快に感じるのではないか。

 そういうことが管理する側に回ると軽視されてしまうのかも知れず、どのような形態であれ、管理するということは権力を行使することになるだろうし、他人の自由を奪って、思い通りに操っているような気にもなるだろうし、それが他人を従わせる上での快感や優越感にもなるのかも知れないが、そういう気分をもたらすのが、集団内の管理職的な特権意識だろうし、それが組織化された集団に生じる特性なのではないか。そしてそれこそが人を集団に引き込む魅力であり、集団内での競争に勝ち抜き、人を管理する特権階級になりたいという欲望が生じるわけで、そしてそんな欲望を成就することが、集団内に生きる人の目的となると、競争や権力争いが激化して、ますます他人の自由を奪って従わせようとする傾向が強まるだろうし、そういうことがエスカレートしてくると、どんどん管理が強化されて、自由が奪われることになるだろうか。たぶん実際にはそれとはまた別の傾向もあるのかも知れず、他人を思いやり他人の自由を尊重するような配慮が集団内に行き渡れば、集団を維持できる範囲内で人への拘束を弱める傾向にもなるのかも知れず、実際にそういう方向での模索も、世界各地で試みられているのかも知れないが、それには集団の存在意義や存在目的をどう定義するかが問題となってくるだろうか。

 人は単独でいるよりも集団となっていた方が有利な面があるから、集団が組織される傾向があるのだろうし、集団内で自由が制限される弊害も生じているのだろうが、たぶん弊害を放置するよりも改善する方が、気分が良いことは確実で、自由に振る舞える方がストレスもかからず、健康にも良いのだろうが、集団内での管理術もなるべく構成員にストレスをかけないような管理の仕方も模索されているかも知れず、浅はかなマインドコントロールのような類いではなく、誰もが普通に納得する方向での改善となると、自由の拡大となるしかないだろうし、快不快の意識を尊重するなら、管理強化的な自由の削減や特権意識や差別化の増長をやめる方向性が求められるのかも知れないが、競争心や権力欲が煽られるような状況の中では、それは望むべくもなく、たぶん現状で集団的な利益に与っていることに意識的である人なら、当然のことながら競争心や権力欲の虜となっているだろうから、無理な相談なのかも知れないが、現実にはそういう勝ち組に属している人は、社会全体ではほんの一握りしかおらず、大半の人たちはどちらかといえば負け組に属しているのにもかかわらず、自分たちを支配し場合によっては搾取しているとも言える勝ち組に憧れ、勝ち組の応援団に組み込まれてしまっているのではないか。しかもそうすることによって世の中が成り立っている現実があるのかも知れず、それも人が集団に所属していると思うことによって生じる特性だろうか。


2月12日「社会変革」

 何か気晴らしに奇想天外なことを思いつこうとしても、フィクションを構成すること以外に目的がないような気がするが、現実の世界を変えたいと欲することが、奇想天外な思いつきに寄与するとは思えないだろうか。かつてはフーリエなどの空想社会主義者と呼ばれた人が、実現不可能な奇想天外な思いつきによって社会変革を夢想したらしいが、例えば今から30年前の世界ではスマートフォンは奇想天外な思いつきになるだろうか。スマートフォンの登場によって何か社会が変わったのだとしても、それを社会変革とは言わないだろうし、社会変革という言葉から連想する社会の変化と、スマートフォンによって変わったと思われる社会の変化は、だいぶ違うようにも思われるのだが、夢想家が思い描く社会変革と、何らかの革命によって実際に成し遂げられる社会変革も、だいぶ趣が異なるだろうし、誰かが思い描く社会変革は、そのほとんどは実現しない夢想に終わる宿命なのかも知れず、その誰かが生きている時代に特有の理屈や道理に基づいて、合理的な理想を実現するために社会変革を目指すにしても、目指している過程でその理屈や道理が変質してしまい、いったん変質してしまった理屈や道理では、もはや夢想している理想の社会を実現できなくなるような事態が待ち受けているのではないか。その具体例が社会主義的あるいは軍国主義的な独裁体制だろうし、革命やクーデターなどによって政治的な全権を掌握して、理想の社会を打ち立てようとすると、必ず強権的な独裁体制になって、政敵を粛清したり抵抗する民衆を弾圧する結果を招きそうなのだが、現状で成り立っている社会的な制度や慣習は、すでにそれに依存して社会自体が構成されているから、人も物も情報もそれらの制度や慣習に従って動いているところを、いきなり変えようとすれば、強権的な手法で強引に変えざるを得ず、そうなると自然と独裁的な政治権力が必要になってしまうわけで、結局そういう手法では今まで成り立っていた社会全体が破壊されてしまい、うまくいかなくなるのは目に見えているわけだが、その辺が思考によって導き出された合理的な理屈や道理と、実際に成り立っている理屈に合わず道理に反した制度や慣習との違いでもあり、単にそれを非難したり強引に変えようとしても、実際にそれらが成り立っている前提条件がある限りはどうにもならないのだろう。

 だがそうだからと言って、理屈に合わない制度や、道理に反した慣習を守ろうとするのは、現状維持的な保守主義にしかならないわけだが、そうした制度や慣習が廃れたり行き詰ってくると、自然に社会が変わらざるを得なくなるわけで、実際に過去と現在とでは、社会を支えている制度や慣習もだいぶ異なっているわけで、もちろんすべてが変わったわけではなく、比較的長期間にわたって維持されているものも、あるいは短期間で目まぐるしく変わるものもあるのだろうが、そんな中でも急激に社会全体が変わるような節目となる時期もあるわけで、そういう期間に登場するのが、政治的な独裁体制なのかも知れず、何かしら社会が行き詰ってくると、このままでは先行きが危ないという危機感が社会全体に行き渡って、そういう危機的な空気に乗じて社会変革を目指す政治勢力が台頭してきて、それが民衆の熱狂的な支持を集めると、状況によっては革命やクーデターの機運が高まって、いったんそれが勃発したら、民衆の期待通りに成功したり、あるいは成り行きによっては失敗に終わったりもするのだろうが、そのような時期においては、現状維持を目指す側も変わらざるを得ないのかも知れず、仮に革命やクーデターが失敗に終わっても、それへの対策によって、体制側の政権内部でも何らかの変質を被るわけで、例えば日本では二・二六事件で陸軍の青年将校によるクーデターは失敗に終わったが、それをきっかけとして軍部が主導する軍国主義的な独裁体制が成立したわけで、そこから中国やアメリカとの戦争を経て、結果的には社会が大幅な変更を被り、以前よりは民主的な政治制度にもなり、社会変革が成功したことになるのだろうが、そこからさらに70年が経過して、以前とは違う成り行きだが、また何らかの社会的な行き詰まりが生じている可能性もあり、それが民衆の危機意識として社会全体に行き渡っているかどうかは、現時点では何とも言えないところだが、たぶん二・二六事件の当時も、それほど危機感を抱いているような実感はなかったのかも知れず、当時の人たちの多くは、まさかそこからアメリカとの戦争に行き着くとは思ってもいなかったろうし、実際にアメリカ占領下で社会変革が行われて、戦前よりは民主的な政治制度になるなんて思いもしなかったのだろうが、この先も社会的な行き詰まりを背景として、何らかの社会変革が行われるとすれば、今生きている多くの人々が思いもしないような変革となるかも知れない。


2月11日「日米首脳会談」

 今さら何をやってもどうということはないのなら、別に危ういことをやっているとは思えないだろうが、一方でそれがどうでもいいはずがないとしか思えなければ、少しはやっていることに対して危機感でも持っておいた方が良さそうでもあるのだが、現状で何が具体的に危ういのかと言えば、たぶん危ういどころか結構うまくやっているように見えてしまうことが、やはり危ういのかも知れず、しかもそのような対応しかできないというか、彼らにしたら状況にうまく対応しているつもりなのだろうし、そんなことをやっていること自体が、普通は奇異な印象を抱かれても仕方のないような行為なのだろうが、成り行きとしてはそうなっている現状があるわけで、それがどうしたわけでもないとしか思えないところが、あるいは何でもないことのように思えてしまうところが、逆に危ういと判断しておいた方が妥当なのだとしたら、実際にそれは危うい行為なのだろうか。本当のところはよくわからないわけで、案外どうでもいいことを何かあるように見せかけているだけかも知れず、そういう煽り立てを真に受けても構わないのだろうし、実際にマスメディアはそれなりに騒ぎ立てているのかも知れないが、それについて言及する気が起こらないなら静観するしかないし、その煽り立てが単なる空騒ぎでしかないのなら、別に危ういことでもないはずなのだが、少なくとも奇異な印象を受けることは否めず、それを下手に皮肉や冷笑的なニュアンスを込めて馬鹿丸出しと言ってしまうと語弊があり、それでは結局煽動に乗せられて反発して否定的な評価を下さざるをえないことになり、心ならずもそれについて言及したことになってしまい、煽動している側の思う壺な展開を招いてしまうわけだが、そのパフォーマンスの意図するところも、奇異な印象を餌にして人心を引き込み、予定調和の二項対立に大衆を絡め取ることにあるのだろうか。

 それがマスメディアと結託した政治的なパフォーマンスでしかないとしたら、普通の感覚でも騒がざるをえないのだろうし、騒ぎ立てている現状を正当化するしかなく、別にそれで構わないのだろうが、そういう煽り立てに乗せられたところで、一過性のお祭り騒ぎでしかなく、それによってそのような政治姿勢を支持したりしなかったりするのも、騒ぎを仕掛けた側の思う壺なのかも知れないが、当然のことながら早速世論調査を実施して、その煽動行為によって民衆の支持が高まったとなるのかも知れず、そうなればその手の政治パフォーマンスも大成功なのだろうし、実際にそうなる公算が大きいのではないか。しかしそれが危うい兆候なのだろうか。たぶん危ういと感じたところで、具体的に何が危ういかまではわからないだろうし、具体的には何も危うくないのかも知れないが、奇怪な成り行きになっているとしか思えないわけで、それをすぐに戦争が間近に迫っているとかの危機感に短絡してしまうのは、普通に勘違いなのかも知れず、何かもっと軽薄なお笑いの類いに結びついてしまうような予感がしているわけで、関係者にしてみれば笑い事では済まないだろうし、実際に世界では多くの民衆が死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされている地域もあるにはあり、またそうは言っても幸いなことに、無責任な傍観者のつもりでいられる側の人たちが、圧倒的な多数派を占めている現状もあるわけだが、もしかしたら危うい傾向とは、今後はだんだん無責任な傍観者のつもりではいられなくなって、危機感を持って政治状況に対処せざるを得なくなるのだろうか。あるいは今のところはそうは思えないのが危うい傾向なのか。どうもそのどちらも違うのかも知れず、ただその危うい政治パフォーマンスを、とりあえず傍観していれば良いのであって、浅く接して肯定も否定もせずに、それらの狂態を黙って眺めておくことが肝心なのかも知れず、またそれに飛んで火に入る夏の虫のごとく誘い込まれて、思わず肯定や否定の評価を下してしまう凡庸なメディア関係者たちの狂態も、黙って眺めておけば済むようなことだろうか。


2月10日「まやかしの安心感」

 自らがやっていることに関してどう思うにしても、自分以外の何が評価の基準になるとも思えないが、社会の中では定まった価値を担う物事もあるだろうし、それに関われれば何らかの社会的な評価を得られるかも知れないが、そこからかけ離れていることをやっているなら、勝手な思い込みで自意識過剰にならない限りは、社会的な評価とは無縁だと思っておいた方が無難だろうし、それでも構わない面があるにしても、自分の中での評価基準は社会的なそれとは無関係だと思うしかないだろうか。そこから得られる認識は、自分以外には通用しない価値基準にとらわれているとしか思えないのだが、それが独りよがりであるにしても、その基準に照らし合わせて満足できるならば、それで構わないということなのかも知れず、構わないと思っているうちは実際にも何とかなっているわけで、それが打ち破られるような事態に直面しない限りは、そのままになってしまう恐れもありそうだが、案外自分では気づかないところで、自分の基準をぶち壊すような出来事が用意されているのかも知れず、そうなることを期待しながらも現状を維持しているわけで、そういう意味でも現状でやっていることには両義的な方向性があり、外部からもたらされる状況次第では、どちらに向かっても不思議ではないのだろうが、その一方でどちらに向かっても、やっていることが変わらない可能性もあるわけで、それが何を意味するわけでもないとすれば、自分が維持しているつもりの評価基準も変わりようがないということだろうか。

 たぶんそれを狙っているというよりは、やっているうちにそうなってしまう成り行きがあり、そんな成り行きまかせだからこそ、自分以外の評価とは無縁でいられるのだろうし、自分が自分のやっていることについて何をどう評価するつもりがなくても、それで構わない現状を、そうなってしまう成り行きが構成しているのではないか。だからたとえやっていることの脈絡が感じられなくても、そこでやっていることの連続性を感じられ、その連続性が安心感をもたらし、不安を抱かずにやり続けられる現状をもたらしているのであり、そんなことをやっている自らを正当化する気にもなるわけだが、別にそこに落とし穴があるわけでもなく、そんな独りよがりでも構わないわけだから、結果的に相変わらずの現状に埋もれてしまっているわけでもあり、何が埋もれているのかといえば、それはそこから逸脱する可能性とともに、外部への出口が経験の地盤に埋もれて閉ざされ、それがないから連続する記憶と、連続していることから生じる安心感がもたらされていて、そのような状況が自らにとって安住の地となっているのかも知れないが、現状がそうだとしてもそれがすべてでもそこで終わりでもないだろうし、その先にそんな安心感を打ち砕く何かの到来を期待しているわけで、いずれそんなまやかしの地から出て行くような成り行きの到来にも期待していて、それを誰が期待しているのかといえば、現状に安住している自分とは別の自分なのではないか。しかもその別の自分が今の自分とは重ならなくても構わないわけで、そんな自分が何を考えどう行動したいのかなんてわからなくても構わないわけだ。


2月9日「優先事項」

 普通に考えて経済的な利害以外で、あるいは自らの欲望を充足させようとすること以外で、何か納得がいくような振る舞いができるだろうか。そうでないなら納得がいかないなりにも、その場の状況に合わせて振る舞うしかなければ、それを強いられている自らを許せるだろうか。別に許せなくても強いられているのだから、そう振る舞うしかない場合もあるだろうし、そうやって絶えず自らの意志に反したことをやらされれば、ストレスが溜まって寿命が縮んでしまうだろうか。病気になろうが過労死しようが、その場でそれなりに機能している限りで、人には利用価値があるのだろうし、集団内で組織的に労働していれば、そこで駆動している何らかの装置に組み込まれていることにもなるだろうが、一方でそんな状況にとらわれながらも自己を制御しようとして、また強いられた動作に対する心理的な葛藤に苦しみながらも、正気を保とうとしているのかも知れず、そういう面で心理的にも肉体的にも調整しながら動いていて、何とかその場を切り抜けようとしているわけで、また実際に切り抜けられているから、そこでの役割を果たしている現実があるわけだが、当然そんな現実の中では、単純な経済的な利害や欲望の充足などでは割り切れない振る舞いを強いられていて、周囲から及ぼされる複合的な作用の絡み合いに対応しようとして、実際には対応しきれていない面もあるのだろうが、結果的に切り抜けられているから今があることは確かで、切り抜けられなければそこで死んでいるかも知れない。

 個人のレベルで出現している状況はそんなところなのかも知れないが、集団のレベルでは組織的な動作があって、その集団を維持するための組織的な機能や役割分担に合わせて、要所要所に個人を配置して、組織的に連動しながら集団全体で動いているわけだろうが、集団内の個人がどこまで組織的な動作に耐えられるかも、課せられた役割の性質と担当する個人の能力や、そこに絡む他の役割を担う他の個人との兼ね合いが影響してくるだろうし、組織内で個人が労働力として機能している状況は、そこで個人が何をやっているというよりは、組織的な動作に合わせて何をやらせられているかが、普通に集団のレベルでの行為であり、個人の意識の中ではその場の状況に合わせて振る舞っているわけで、そこでうまく振る舞っているつもりなら、自らの行為に納得するかも知れないが、そこでは自分の経済的な利害や欲望の充足よりも、集団の利害や目的が優先されていることは確かで、集団内の個人も集団から恩恵を受けている限りは、集団の利害や目的が優先されていることにも納得するだろうし、そのことで取り立てておかしいところはないだろうが、もしかしたらそれが集団に依存した集団内での行為であっても、またそれが法律に照らし合わせて判断するような価値基準とは別に、自己自身への配慮を伴う上で、自分が納得するような動作を優先させるような機会に直面することがあるだろうか。たとえそれが集団の利害にも目的にも合致せず、世の中の一般常識や社会の慣習の類いからも逸脱するような行為だとしても、自己への配慮を優先させるには、そうせざるを得ないことがあるとすれば、何よりも優先させてそれをやるべきだろうか。


2月8日「困難な対応」

 当たり前のことは当たり前に思えるようなことかも知れないが、しかしその当たり前のことを考えていない場合が結構ありそうだ。簡単に言うなら、それを批判することはできるが、それをやめさせることはできない。世の中で問題となっているのはそんなことばかりだろうか。批判している内容がそんなことばかりかも知れず、やめさせることができないから批判するしかないわけで、やめさせることができたら批判は鳴り止むのかも知れず、だからそれに対して延々と批判が続いているようなら、批判の対象となっているものが、容易にはやめさせられないような権力と結びついているか、あるいは関係する人や集団の利害関係の中に深く根を張り、社会の慣習や制度と固く結びついていて、絶えず批判を浴びせられながらも必要悪として継続せざるをえないようなものなのかも知れない。それが原発と在日米軍だろうか。両者ともに政府が強引に批判を抑え込もうとしている姿勢が顕在化しているわけで、それだけ反対の声も根強くあるわけだから、まったくやめさせる可能性がないとは言えず、反対勢力はこれからも粘り強く反対し続けるしかないだろうが、結局は政権交代によってしかやめさせることができないならば、反対すること以外で、人々に向かって政権交代をアピールできる材料を探さなければならないだろうか。

 それに関して大衆的な煽動を背景とした狂信的なポピュリズムの勢力の相手をしていては、おそらく勝ち目はないだろうし、ごく穏健な政治姿勢を堅持しつつ、それなりに筋の通ったことを主張するしかないのかも知れず、何か批判を受けたら道理をわきまえた範囲内で修正できるところは修正し、どう考えても実現不可能な突拍子もない主張は控えればいいのではないか。マスメディアを介した煽動的な批判にいちいち反論することもないだろうし、できるだけ穏便な対応に終始しつつ、枝葉末節なことで不必要に騒がず事を荒立てず、議会内でも礼儀をわきまえて淡々と振る舞えば、すぐにどうこうなるわけでもないだろうが、長期的にはその方がまともに感じられるだろうし、何よりも絶えず理性的に行動することが肝心なのかも知れず、あえて大衆迎合的な人気取りはやらずに、今政党内で主導的な地位にある人たちは、長期的な視野に立って捨て石になる覚悟で事に当たれば、もしかしたら次の世代の政治家たちが、それなりに頭角を現してきて、長期政権を担えるような人材が育ってくるかも知れず、そのためには今が大事な時であり、軽はずみな大衆煽動には乗らずに、できることとできないことをしっかりと見極めて、道理に適ったことを理性的に主張するしかないとは思われるが、何でもできるような八方美人的な主張はやめて、道理に適った反対意見にもしっかりと筋の通った対応ができるような体制にしなければならないだろうか。

 そうは言ってもたぶんこんなことはいくらでも言えるわけで、それを実現することが極めて難しいのだろうが、別に実現できなくても、実現しようとしなくても構わないのかも知れず、今流行りのポピュリズム的な大衆煽動勢力が政権を担ったままであっても、何が問題であるわけでもなく、政治というのはそういうものだと捉えておくだけで、それ以上に何がどうなるわけでもないのだろうし、またこのままでは戦争への道だとか、原発事故で日本が滅びるとか、そうやって危機感を煽る行為が、空振りに終わっている現実もあるわけで、そういうのは実際に戦争になったりまた原発事故が起こるまでは、何とも思わないようなことなのだろうから、またなったところで小狡く別の方面に責任転嫁するだろうし、戦争が終わり原発事故が収束すれば、また何事もなかったように平静を取り戻すのだろうし、さらに戦争が終わらず原発事故が収束しなくても、別にそういう状況が続くだけなのだから、だからと言って危機感を煽るのが悪いとは思わないが、少なくとも執拗にやっても効果が上がらないことはわかったのではないか。人々が愚かなままで構わないのなら、大衆迎合的な煽動合戦を繰り広げればいいのだろうが、愚かなままでは困るのなら、あえて人気の出なそうなつまらない主張で構わないだろうし、そうだとしても実現できそうなことを主張すべきで、夢を語るなとは言わないが、地に足の着いた誠実な対応を心がけ、政策を実現する上で必要な専門家の意見にも謙虚に耳を傾けて、必要とあらば敵対している政治勢力との連携も模索して、やはりこんなことはいくらでも言えるのだが、それを実現させるのが難しいのだろうか。


2月7日「粗雑な認識」

 株や債券などの有価証券を売って現金を得たところで、普通は銀行の口座残高がその分だけ増えるだけで、物質としての紙幣や硬貨を手にするわけでもなく、それは口座振替などの送金や入金に関しても同じことなのだが、口座残高が増えたり減ったりする分には、金銭そのものは不要であり、実際には現金で買い物をする分だけ、口座から下ろす習慣となっているだろうし、自分で金庫を持っていて、その中に金銭を貯めるにしても、凄まじくでかい金庫でも持っていない限りは、莫大な金額をため込めるわけにはいかないから、貨幣のほとんどはその金額の情報として、口座残高のように電子化されているのかも知れず、そうなると物質としての紙幣や硬貨などの流通額は、全体から見ればほんの一部だと考えられるだろうか。そうだとすれば有価証券などの価値がいくら値上がりしても、またその種類や量がいくら増えても、貨幣が足りなくなることはないだろうし、もちろん担保や信用などの面で制約があるとしても、有価証券の類いをどんどん発行して、それの売り買いを活発化させれば、金融資産がどんどん膨れ上がることになるだろうか。

 土地や建物などの不動産も価値が値上がりすれば、それを担保として借りられる資金も増えるだろうし、借りた資金でさらに土地や建物を増やして、さらにそれを担保として資金を借りて、不動産の値上がりが続いているうちは、そんなやり方でどんどん資産を増やせるのかも知れず、またその不動産を他に貸したり、土地や建物の中でまた別の事業を興したり、事業が拡大すれば事業主体である企業の収益も増えるだろうし、株価も上がったり株式の発行額も増えるだろうし、そういう面でも資産をどんどん増やせるのかも知れないが、果たしてそのようなやり方で資産を増やす試みに限界があるのだろうか。単純に不況になれば株価が下がったり事業の収益が悪化したりして、相対的には資産が目減りするだろうが、それでも実際には前世紀末の情報革命以降は世界的には資産が増える一方かも知れず、主には金融資産が圧倒的に増えているのだろうが、資産があればその資産を利用することで、資本主義的な事業が行われるのだろうし、その事業に関係して働いている人に賃金が支払われる限りは、その賃金で消費や貯蓄は行われるわけで、そういう面からすると、資本主義経済の終わりが見えてこないわけだが、それに関して何か見落としている点があるだろうか。

 見落としている点はいくらでもあり、粗雑なことを述べているだけかも知れないが、何か大がかりな天変地異でも起こって、情報でしかない金融資産を管理している電子機器や通信網などのインフラが、すべて使い物にならなくなれば、大打撃を受けることは確かだろうが、現状でそんなことを想像してみても、それは単なる突発的な出来事でしかなく、人がある程度生き残っていれば、また同じような経済形態が再開されるだけで、本質的な変化ではないわけだが、そうなるとやはり資本主義経済に取って代わるような新たな経済形態が出現しない限りは、現状の形態かそれに似通った経済形態が続いて行くしかないだろうか。思いつく限りでの可能性としては、情報としての金融資産と物資を伴ったその他の資産との不均衡が拡大し続ければ、何かこの先おかしな事態が待ち受けているような予感もするのだが、ある時点でマネーゲーム的な錬金術が限界に達して、不均衡の拡大が収まるような可能性もあるだろうし、また別に資本主義経済の下でも人々の間の資産格差や貧富の格差を是正する方法が編み出されるのかも知れないし、そういう面では先行きも不確実なのは確かなところで、実際に様々な人や団体が今後とも資本主義経済で問題となっている現象を解決するための方法を模索していくのだろうが、少なくとも現時点では現状の継続を前提として、人も物も動いているのだろう。


2月6日「つけ入る隙」

 始まる前からこんなことを述べてはまずいのかも知れないが、できないことをやろうとして、結局できないことがわかってしまえば、それでも一応はやった甲斐があったと言えるだろうか。事前にそんなことを承知していながら、それでもやろうとしているわけではないのだろうが、今がチャンスとばかりにアピールしていることが、無理なごり押しというわけではないにしても、今さらそれはないだろうと思われてしまうようなことだとしたら、過去の失敗が性懲りもなく繰り返されるのかも知れず、その性懲りもなく繰り返される執拗さが、世の中の現状から生じていて、その現状に絡め取られながらも貼り付いている粘着質の人心が、何らかの信仰を正当化していて、具体的には保守層による、何が何でもアメリカに追従しなければならない、という確信的な使命感を伴った政治意識を生んでいるのかも知れず、当然のことながらそういう傾向は、現状ではそのまま是認されるしかないだろうが、何に熱狂的に支持してつき従おうとしているのかといえば、誰もが眉をひそめるような行いにつながるようなことかも知れず、まだそれが十分にはエスカレートしていない段階で、先物買いのごとく我先に飛びついて、相手の信頼を勝ち取りたいのだろうが、もちろんそれが吉と出るはずの皮算用でやっていることであり、取らぬ狸の皮算用とはなるはずのないことであり、これに飛びつかなかったら何に飛びつくのか、と思うほどの惚れ込みようなのだから、まさにどんぴしゃのタイミングで登場した政治情勢なのだろう。

 それがつけ入る隙となればおもしろいのだろうが、どうも今回の日米同盟の相手は、巷で言われているような、仮想敵としての中国などではなく、他の何とも言えないような、定かでないわけではないが、本来なら相手にならないような人々なのかも知れず、もちろんそれは現状で顕在化している批判勢力でもなく、支持者たちが真っ先に離れていくわけでもなく、要するにすでに無関心となって顕れている層であり、そこに利害を意識できない人々なのかも知れない。そうだからといって無関心層が批判層に加わるわけではなく、ただ無関心なままなのだろうが、と言うか内心嫌悪感を抱きながらも無関心を装っていて、なおかつその嫌悪感を表に出して強調するほどのこととは思われず、だから表面的には無関心であるように見えるだけで、しかもそれがどうこう言うような水準に達しているわけでもなく、今後そういう水準に達することもないのかも知れないが、その程度のことが今後とも行われ、相変わらずことが延々と続けられて、それがどうしたわけでもないことになるのだろうが、それの何がつけ入る隙なのかと言えば、より一層の政治的な形骸化であり、アメリカの大統領制や日本の議院内閣制や、他の国々を含めた議会制民主主義といった制度の類いが、無効であることが周知の事実となる日がより一層近づく上で、人々の無関心が、岩の割れ目に入り込んで氷となって膨張し、ついには粉々になるまでつきまとう水のように、それらの制度の隙間に入り込んで浸食しているように思われるなら、まさに今がどんぴしゃのタイミングで、無関心のつけ入る隙を方々に穿つような作用を政治が及ぼしているのではないか。


2月5日「自由な状態」

 執拗にやらざるをえないことは、たぶんやるように仕向けられていることなのかもしれないが、少なくともそこには自由な態度を許さないような力が働いていて、ある一定の態度を取っていることが前提となって、その前提を認めない限りはその先へと進めないような成り行きが、人の行動を拘束しているようにも思われるのだが、その一方でそのような拘束から解放された自由な態度というのが、何の前提もなしにとれるかというとそうではなく、何に対して自由であるのかが自由であることの証であり、自由というのは常に自由を束縛する対象を前提としていて、その束縛してくる対象から自由であることが、相対的な自由として実感させられるわけだから、例えば勝手気ままに生きることが自由を実感できるような気がするわけだが、実際にはそれでは欲望の奴隷となっている可能性もあるわけで、そういう場合は欲望から解放されることが自由であることの証となるわけで、心を拘束している欲望をいかに抑え込めるかが、自由を得るためには必要となってくるような気もするのだろうが、一方で欲望を抑え込もうとする態度そのものが、不自由そのもののようにも思えてくるわけで、要するに欲望を抑え込もうとすることに心が拘束されてしまっているわけだが、それに対してとれる態度といえば、過度な欲望にとらわれないように、節制を心がけるようにすることであり、それが自由であるのかと問われるなら、欲望をほどほどに抑えている限りで、過度な欲望に心をとらわれることからは自由であるとは言えるのではないか。

 執拗に節制を心がければ、節制を心がける態度には拘束されて、そういう面では不自由であるが、節制を心がけている限りにおいて、過度な欲望にとらわれることは避けられて、そういう面ではそれなりに自由を得ていることにはなるのかも知れず、節制と欲望の板挟みになる状況というのも、容易には想像がつかないところだが、どちらにもほどほどに触れる程度の状態を実現できたら、それが相対的に自由な状態とも言えるのかもしれず、もちろん何事にもある一つの態度にのめり込まないと、真の状態を味わい尽くしたことにはならず、ほどほどの節制も欲望も中途半端な状態であり、そういうどっちつかずのまやかしは否定して、ある面では究極の節制であるのと同時に、別の面では究極の欲望の成就を実現できれば、それこそが究極の束縛であるのと同時に、究極の自由を得たと実感したことになれば良いのだろうが、たぶんそういうのは誇大妄想の類いであって、フィクションの主人公が体験するような状態かもしれないが、生身の人間がそれを目指すと死に至りそうで、一般人が目指すような境地ではないのはわかりきったことかも知れず、そういう意味でもほどほどの節制とほどほどの欲望の充足を目指すというよりは、普通に思考し行動している限りは、そうなるしかないようにも思われるわけで、別に目指さなくてもそうなってしまい、心配するようなことでもないのだろうが、ではそれにのめり込んでしまうような状態になってしまうのは、どんな状態なのかというなら、たぶん歯止めがかからなくなる状態であり、何かに拘束されている状態から解き放たれて、自由になってしまった時なのではないか。


2月4日「政府と国家の混同」

 今の時代において民衆が戦っている相手は、政府でも企業でもマスメディアでもなく、民衆を作り出している社会そのものだろうか。それが社会であるならば、戦っているというよりは、民衆は社会に含まれていて、社会の構成員として何らかの役割を担っていて、その中ではもはや民衆というひとかたまりの集団ですらなく、そこには様々な事情と経緯を持った個人が存在しているだけだろうか。言説の対象としては民衆という言葉があるが、何かそこに一定の役割や性質を付与できるかとなると、どうも疑わしく思えてくるわけで、政府にしても企業にしても、管理しようとしているのは民衆という大雑把な単位ではなく、個人に狙いを定めて管理の対象としているのだろうし、はっきりと特定できる個人こそが、利用可能な資源として有効活用されているのではないか。だから胡散臭いジャーナリストや活動家がいくら民衆の味方を装っても、そこにはもう誰もいないのかも知れず、政府や企業の方は民衆を介さずに特定の個人と直接関係を持とうとしていて、それが民衆との戦いを回避しながら解消するための有効な対策となっているのかも知れず、民衆という何か一定の力を持っているように思われた存在そのものを無効化しようとしているのではないか。

 そんなふうに民衆を無効化するのと引き換えにして、政府や企業が個人に対して具体的に何をやるのかといえば、個人の様々な特徴をデータベース化して、きめ細かい顧客管理といった類いになるだろうが、そうなると戦いではなく単なる情報サービスであって、そこから個人に必要な物や情報を提供したり、反対に個人から徴収したり、個人と何らかの契約を交わしたり、そんな関係になるしかないのだろうが、他に何かやることがあるのだろうか。究極的にはそんなことでしかないのだろうが、そこに至るまでの成り行きがあるわけで、今の時代はまだ途中の試行錯誤や紆余曲折を伴った模索の段階で、その長い道のりの途中がどうなっているのかはわからないが、戦っているつもりの人もまだ大勢いるようで、メディアを介して盛んにシステムの拙劣な部分に関して文句を言っているのだろうし、その文句が的を射ているかどうかはあえて言う必要はないが、たぶんこの先どうなるかなんてわからないし、個人をいくら管理したところで、それはただの管理システムになるだけで、何かそこに目的を見出そうとしても、それは管理すること自体が目的であり、それ以外は幻想に過ぎないだろうが、幻想がないと魅力が生まれないだろうから、人心を惹きつける幻想が必要とされているのかも知れない。

 一般的に言って人が個人である以外には、組織的な集団を形成していることは言うまでもなく、政府や企業もそんな集団でしかなく、集団としての目的はその集団を維持することであり、集団を維持するために、集団を組織する構成員は活動しているわけで、それらの構成員が何と戦っているのかといえば、他の組織の構成員と戦っていたり、稀に一匹狼で組織に挑んでくる個人と戦うこともあるかも知れないが、そのような戦いが何なのかといえば、単なる勢力争いの類いなのかもしれず、ではそんな集団の顧客として何らかのサービスの提供を受けている個人が、その手の勢力争いに加担すべきかと問うなら、もしかしたら無関係であっても構わないようにも思われるのだが、それに関して果たして国民は政府という組織の構成員かとなると、たぶん政府の構成員は公務員であり、必ずしも国民とは重ならず、そこが政府と国家との違いであって、結構混同されがちなところでもあるのではないか。そしてわざと誤解を誘うように述べるならば、国家を守るのは政府であり、政府の構成員である公務員の仕事であって、国民の義務ではないと主張したら、それは間違いだという人が大勢いるかもしれないが、現実には政府と国家とは別にあるわけで、政府とは公務員で組織された集団であって、公務員ではない人たちが政府に従う必要がないということを、行政サービスを受けている個人は認識しておくべきかもしれない。


2月3日「道理の矛盾」

 当たり前のことを予想するなら、たぶん資本主義経済はこの先も延々と続いて行くだろうし、少なくとも今この時代にこの世界で生きている人は、そんな前提で物事に関係していて、そういう前提で世の中が成り立っていて、そういう前提に依存しながら、政治的な行為も経済的な行為も続いているわけで、それがこの時代の世界の道理を形成していて、政治的な行為も経済的な行為も、そんな道理に基づいて行われているはずであり、政治も経済も道理から外れたことは行われていないはずで、たとえアメリカの大統領が各方面から非難を浴びるようなことをやっているとしても、当人は道理に適ったことをやっているつもりなのだろう。しかもアメリカの大統領と対立する意見の持ち主であっても、道理に基づいて非難を浴びせているのであり、どちらにしても別に道理から外れたことをやっているわけでもやろうとしているわけでもない。つまり道理そのものが両義的であり、相対立する複数のやり方を可能としているのではないか。もちろんそんな道理では困るわけで、道理に適った一つのやり方しかなければ、何の問題もないわけだが、それでは今あるような世の中は成り立たないわけで、この世界で様々な対立が現にあるわけだから、対立している誰もが、道理に適った正しいことを行っているつもりならば、道理に適うような正しい行為が複数あり、しかもそれらの行為が対立をもたらしているということであって、誰も間違ったことはやっていないのに、そこで対立が生じていることになるのではないか。

 簡単に言うなら、自国の産業を保護するには保護貿易と自由貿易とがあり、世界で自国の産業が不利なら、輸入関税を高くして保護貿易にすれば良く、反対に世界で自国の産業が有利なら、他国の関税を下げさせて自由貿易にすれば良いわけで、正確には自国の産業で不利な分野は関税を高くして、有利な分野は他国の関税を下げさせれば良く、他国がそうやっているのに自国がやらないのは不公平であり、アメリカの大統領がそれを行おうとしているなら、それは道理に適った行為であり、当人からすれば当たり前のことをやろうとしているのに、非難される筋合いはないと思っているのかも知れず、これまでは国力が他国より圧倒的に勝っていたから、同盟国を繁栄させるために手加減してきたが、現状ではその余裕がなくなってきたと認識しているのかも知れないし、そうではなくても戦略的に自国の利益を最優先させる必要を感じているのかも知れないが、当人が自分の信念に照らして間違ったことをやろうとは思わないのは当然だとしても、それを批判する側も批判が間違っているとは思えないだろうし、そうなるとどちらが権力を行使できるかが問題となっているだけで、そういう水準で権力争いが生じているのではないか。またテロ支援国と見なした国からの入国を拒否する大統領令を出して物議を醸しているが、これも自国内でのテロを未然に防ぐためという筋の通った道理に基づいているわけで、これもテロリストでない人まで入国できなくなる、という別の道理と対立してしまうが、どちらの道理を優先させるかで意見が分かれるだろうし、確かに今までの慣例を破っていて、無理なごり押しばかりやろうとしている印象はあるだろうが、やはり当人にしてみれば、それなりに理屈があって、少なくともそれが屁理屈だとは思っていないし、それをやれるかやれないかは、権力闘争の結果でしかないのだろう。


2月2日「不平不満」

 自己と社会との関係を捉えようとするとき、一概には捉えどころがなくても、何かそこで複数の物事が複雑に絡み合っていて、その絡み合いの中に自己がとらわれて、身動きが取れないように感じられるなら、だいぶ居心地が悪いということだろうし、できればそこから抜け出したいとも思っていて、実際に絶えずその機会をうかがっているとすれば、少なくとも自分がとらわれている状況に満足はしていないだろうし、今ある現状を何とかしたいとも思っているのではないか。ただ漠然とそうは思っていても、具体的に何をどうするかまで考えていなければ、半ば諦めている兆候もあるのかも知れず、また何をどうするかといっても、実現の見込みがありそうもない妄想にとどまっている場合もありそうで、そんなふうに本気で抜け出そうとはしていない場合は、意外と思っているほど困っているわけではないのかも知れず、実感として自分の立場が安定しているように思われれば、そこから抜け出られないのは確かに不満だが、一方ではその場で安住している現実もあるわけで、少々居心地が悪くても我慢しながら、そこから抜け出るよりもその場にとどまる方を選んでいて、不平不満はいくらでも言うが、その立場にしがみついている現状は守りたいわけで、その辺で自らの思い違いさえ正当化していることに、気づいていながら自覚がないのかも知れない。

 現状に不満があるとしても、それが耐えられる限度内の不満なら、別にその不満が解消できなくても、不満を感じながら生きていくだろうし、生きていくうちには不満に慣れてしまうわけだが、不満を抱きながらもその不満と共存しようとするのは、たぶん誰もが実践していることであり、誰もが我慢強く実践しているからこそ、社会の安定が保たれているのだろうし、暴動や内乱が頻発するような事態になっていない理由でもあるのだろうが、そういう不満を耐えられる限度内に保ち続ける力として、すぐに人々を押さえ込むような、抑圧的な権力の行使を考えてしまいがちになるが、実態はそれだけではなく、絶えず煽動しているわけで、何を煽動しているのかといえば、対立を煽り立てているのであり、不満が相殺するように対立を煽っているのではないか。具体的には社会的な弱者や少数派をあぶり出して、そこへと攻撃が向かうように煽り立てるわけで、弱者や少数派を攻撃する側と、そのような攻撃を人道的な見地から非難する側との対立に、その規模も範囲も矮小化させていて、絶えずそこで対立が煽られるから、多数派を巻き込むような社会を二分する深刻な対立には発展せずに、その影響も社会全体には波及することなく済んでいて、そういうところへと気を取られてしまうから、民衆の不満も高まらずに分散してしまう傾向にあるのかも知れない。他にもテレビタレントが交通事故を起こしたり、未成年と淫交に及んだり、そんな些細なことを重大ニュースのごとくに取り上げて、人々が非難するように仕向けて煽るわけだが、それも民衆の不平不満を別の方向へと逸らす作用があるのだろうか。もしかしたらわざわざそんなことをやらなくても、人々は不平不満があってもそれを何に結びつければいいのかわかっていないのかも知れないのだが。


2月1日「歴史的な傾向」

 現実の世界で起こっていることは、人為的には社会の各方面から何らかの作用が及ぼされて、それに付随する様々な思惑が絡み合って起こっているのだろうが、それをまた人為的に制御するとなると、法整備して法律の基準に照らし合わせて、法に触れる分には、行政や警察権力が取り締まる場合もあるだろうし、合法的な範囲内では関係する人や団体の間で協議が行われて、起こっている出来事に対して影響を被って分には、各人の利害が調整されて、影響の度合いに応じて何らかの配分が行われて、そうやって関係者や関係団体を納得させる方向で、収拾が図られることもあるだろうか。そんな過程や手続きの中で、人の意図や思惑を超えて及ぼされているのが、歴史的な成り行きから生じている傾向なのだろうが、そのような傾向には人も団体も従うしかなく、その意図や思惑もそのような傾向に沿う形で構成されていて、しかもその傾向というのが、社会の中で対立する立場の両方を成り立たせている傾向でもあり、人や団体も当然のことのように、そのような対立のどちらか一方に与して、自分たちの立場を磐石にするために対立を煽って、他の人や団体に向かって、どちらか一方に与するように二者択一を迫る傾向にあるだろうか。

 そんな対立を介して何らかの価値を生み出す手法が、その価値を守ろうとする勢力と価値に逆らう勢力を生み出していて、両者の間の対立という現実ももたらしているわけだが、何が原因で何が結果というわけではなく、対立によって対立する価値が形成されるとともに、対立する勢力が生まれるわけだから、価値も勢力も対立とともに、対立を体現する形で生み出されるわけで、要するにそこに対立という現象が起こっているだけで、それ以外の何が起こっているわけでもないのだが、ことによると対立そのものは本質的な問題ではないのかも知れず、案外枝葉末節な部分で対立していて、その問題への対処の仕方を巡って対立していたりして、対立しているどちらの勢力が優勢になろうと、どちらの勢力のやり方が採用されようと、結果は大して違わない場合がほとんどなのかも知れない。

 たぶんそういう表面的な対立によって、押し進められていることがあって、政治的には絶え間ない国家化と言えるような作用であり、経済的には絶え間ない資本の蓄積なのだろうが、国家化というのは国民を管理することであり、国家にとって都合の良い国民にするための方法を模索し、それを行政機関を通じて絶えず実践的に試みることが、国民を管理することになるのだろうが、管理には監視がつきまとうし、国民に対して規律を課して守らせ、守らない国民は処罰することにもなるのだろうが、どのような国民が国家にとって都合の良い国民であるかについて、まずは対立が生じるだろうし、また国家にとって都合の良い国民にする方法や、そのために必要な国民の管理方法についても対立が生じているだろうが、そういうところで対立していて、実際にそのような対立を煽っている勢力に共通する認識は、まずは国家ありきであり、国家の存在が何よりも必要不可欠であり、そのような大前提の上で対立しているわけで、どちらの勢力が優勢になろうと、どちらが政治的な主導権を握ろうと国家化に寄与しようとしていることに変わりなく、国家の役に立とうとして政治に参加しているわけで、そのような傾向に沿うように行動しているのではないか。