彼の声115

2016年

7月31日「漠然とした未来」

 たぶん利潤を生む新たな産業分野を開拓しないと資本主義経済が行き詰ってしまうのは、これまで産業が発展してきた歴史的な経緯を踏まえると確からしいのだが、既存の産業分野で利益を出そうとすると、製造効率を高めてコストを削減する方向で大規模集約化して、安い製品を大量生産するか、あるいは消費者の意識に幻想を植え付けて、付加価値の高いブランド品を生産するのかの二極化が進んでいて、そうなった時点で業界内で資本の垂直統合や系列化の一方で、水平分業など役割分担から漏れて競争に敗れた企業が淘汰されて寡占化が極まった時点で、その分野では事業者が新規参入することが難しなくなり、そこでその分野の産業の発展は頭打ちとなってしまい、これまでに発展してきた主流の技術から外れた製品が、世の中で注目されて売れるようにならない限りは、既存の製品だけでは収益がだんだん悪化する傾向にあるだろうか。技術的な停滞を打破した新たな製品としては、例えば自動車であればハイブリッド車であったり、あるいはテスラ社の新規参入で話題になった電気自動車であったり、コンピュータであればパソコンからスマートフォンが分岐して、これまでとは違う使い道が新たに開拓されて、電気自動車関連やスマートフォン向けの新たなビジネスなども登場したのだろうが、それらが既存のビジネスに加えて新たな産業分野として拡大したのか、新たな分野が誕生したおかげで既存のビジネスが食われてしまったのか、またはただ全体の容量は変わらず減った分が増えただけなのか、その辺の正確なところがよくわからないのだが、要するに世界全体で見て経済成長しているのなら、一応はまだまだ資本主義経済が拡大していると言えるのだろうか。

 どうも統計的には世界全体ではまだまだ経済成長が続いているようで、たとえ先進諸国の経済が低迷していようと、全体で経済成長している限りは、例えば資本主義の終焉を予言するのはまだ時期尚早だろうか。ただ資本主義の継続に欠かせない新たな産業分野の開拓については、しばしば話題となる人工知能やロボット分野にしても、その分野で就業する人口が増えるというよりは、逆に人々の仕事を奪うような面が懸念されているわけだから、実際に仕事を奪われるような成り行きになったら、どう生活していけばいいのか不安にかられるかもしれないが、まだそういう段階ではないので、現時点ではよくわからないことかもしれない。たぶんそれは一次産業の農業人口が国民の大多数を占めていた時代に、二次産業である工業が全盛になるとは誰も思わなかっただろうし、また二次産業の工業が全盛だった時代に、三次産業の人口が多数派を占めるとは思わなかっただろうし、それの延長上で考えると、資本主義経済の発展とともに、まず一次産業の人口の占める割合が減ってきてきて、減ってきた分だけ二次産業の人口の割合が増えて、さらに二次産業の人口の割合が減ってくると三次産業の人口の割合が増えてきたわけだから、果たしてサービス業などの三次産業の次に、どんな新しい産業分野が生まれるのか、それともカテゴリー分けとしては三次産業で終わりなのか、やはりその辺もはっきりしないところであり、しかもこれまで総人口は右肩上がりで増えてきたのだが、この先世界の人口増加が頭打ちになるという予想があるわけで、そうなってみないことにはわからないのかもしれず、そもそもこれまでになされてきた資本主義についての予想や予言が、当たったためしがあったのかについても、怪しい面がありそうで、やはりそういう方面では確かなことは何も言えないことの方が多そうだ。

 実際に人々は社会の中で暮らしていて、現状で何とかなっている範囲内でしか思考は働かないだろうし、選挙になったからといって、突然民主主義の理念を振りかざして、それに従わせようとしても、普段から職場や学校や地域や家族内では別の論理が働いているとしたら、馴染んでいるのはそちらの方なのだから、付焼きの民主主義が通用するはずがなく、理念を振りかざす人々は挫折感を味わうしかないだろうし、その民主主義とは違う別の論理というのが、資本主義経済から生じていることは疑いようがなく、その中で働いて糧を得ている現実があるわけで、民主主義の理念に逆らうことはできても、資本主義の論理には逆らえないだろうし、実際に政権を担っている政治勢力は、資本主義の論理に則った利益誘導型政治を行っているわけだから、世の中が資本主義の論理に支配されているのは、至極当然な帰結なのではないか。そうだとすれば人々が政治に幻想を抱いている内容は、たぶん人々が商品に幻想を抱いている内容に近いのかもしれず、政治宣伝と商品宣伝の類似を指摘すれば、そのまま世の中の多数派を占める人々のメンタリティについての妥当な説明になりそうで、たとえそれが民主主義を啓蒙しようとする人々の認識とかけ離れていようと、別に奇異なことでもないのかもしれない。そしてそれはそのまま資本主義を批判する人々や、その未来における終焉を予言する人々の認識についても言えそうで、そのことが自分たちが信じている理念や倫理が世の中に浸透しないことに対する焦りももたらしているのかもしれないが、それは彼らの何が間違っているということではなく、彼らの指摘や認識は正しいのだが、政治的な主流派やそれを支持している人たちにとっては、そんな指摘や認識よりも優先順位の高い何かがあって、その何かというのが、資本主義の論理を反映した社会の慣習や規範なのかもしれず、それは彼らが現に行っていることに影響を及ぼしているのではないか。


7月30日「商品」

 商品の価格がどうやって決められるかは、作るのにかかった費用と利潤の合計と考えるのが妥当なところだろうか。それと実際に市場で売買されている価格が一致すればいいのだろうが、競争が激しいと安くなる傾向があるだろうし、安くなっても利益を出すには安く作らなければならなくなり、作るのにかかった費用から何を削減できるかといえば、資本主義の発展の歴史を振り返ると、やはり人件費の削減が行われている事例が多いわけで、確かに農林漁業の一次産業や工業などの二次産業では、大規模な機械化や自動化によって、それに携わる産業人口の割合が、産業別で見ればどんどん減ってきたわけだが、一方でサービス業などの三次産業の分野の割合がどんどん増えてきた面があり、価格競争で物質的な商品の値段が安くなる一方で、三次産業を中心とした情報やサービスを売りにする分野が発展してきて、それらをひっくるめて全ての商品数が爆発的に増加したと考えれば、それが資本主義の発展してきた歴史と捉えれば納得できるだろうか。物質的な商品の価格が安くなったと言っても、高級ブランドなどの贅沢品の価格は高いわけだが、それは商品の材料の値段というよりは、高級ブランドという幻想を供給する富裕層向けの商品であるわけで、要するに幻想を売りにした情報やサービスと連動していると捉えれば、それが価格の高い理由となるだろうか。また物質的な商品の値段が安くなったと言っても相対的なものだろうし、消費者物価指数という明確な基準もあるにはあるが、人々が容易に買えるか買うのが困難であるかの比較的な価格だから、感覚的に高いか安いかでしかなく、そんなにはっきりした基準があるわけでもなさそうだ。

 絶えず新しい商品を開発して人々の興味を引きつけ、そこから利益を引き出すやり方が資本主義の本質だとすると、人件費を削減して労働者の賃金を安くすることによって利益を引き出すやり方には限界があり、そればかりやっていると労働者がものを買わなくなって、消費が減退してしまうという悪循環に陥るのだろうし、資本主義経済の継続に欠かせないのは、絶えず付加価値の高い魅力的な新商品を出して、それを買える消費者を確保することだとするなら、資本主義の発展によって人々の間で経済格差が拡大して貧困層が増大し続けるならば、ものを買ってくれる消費者が減っていくことになるわけで、それでは資本主義自体が自分で自分の首を絞めていることにもなりかねず、何かその辺で矛盾を感じてしまうわけで、何かそんな捉え方自体が間違っているのか、あるいは間違っていないとすると、資本主義自体の近い将来の終焉を予言する羽目になってしまうのか。たぶん現時点での感覚からすると、終焉を予言するのはいかにも短絡的な思考のような気がするわけで、一方的に貧困層が増大するというよりは、破局に至らない程度で何らかの均衡状態に落ち着く可能性の方が高いのではないか。そして所得に応じて買える商品があって、買える商品を買っていればそれなりに暮らしてゆけるような社会となるだろうか。現状でもその傾向があるのかもしれず、そのために値段の高い商品から安い商品まで、様々な価格の商品数が増加したというよりは、実際に安い商品を買っている人たちが継続して買い続けた結果として、その商品が継続して存在し続け、そして商品を買う人たちも存在し続けるという循環が成り立っていて、それはまた高級ブランドなどの高い商品にも言えることであり、そうやって商品の購買層の間に住み分けができていれば、まだまだ資本主義経済は続いていくのだろうか。


7月29日「不快感」

 何をやってはいけないのかは誰もがわかっているはずで、そのやってはいけないことをやろうとする誘惑が生じるのは、ただ単にやってはいけないという社会的な暗黙の申し合わせに逆らいたくなる機会に直面するからだろうか。理由などはやってしまった後からもっともらしく説明できるかもしれないが、生きていくのに不快感を伴うような世の中なら、不快感を生じさせている原因を取り除こうと企むのは、無理のない自然な発想なのではないか。その不快感を生じさせている社会的な背景についても、もっともらしい説明が可能かもしれないが、やってはいけないことをやろうとする誘惑にかられる当人にしてみたら、そんなことはどうでもいいことであって、物事を単純に捉えて単刀直入な行為に及ぼうとするのかもしれず、それに関係する様々な物事が回りくどく複雑に絡み合っている事情など、個人の力ではどうすることもできないから、精神的にも肉体的にも状況的にも追い詰められているとしたら、衝動的な行為に及ぶことしかできないだろうし、それで何かやったつもりになるしかなく、何か自らに不快感を与え続ける世の中に一矢を報いた気持ちにもなるのかもしれない。それを逆に考えれば生活に余裕があって、安定した人間関係や社会との関係を保っていられる環境に生きている人なら、凶悪な犯罪行為に及ぶ発想などありえないと思われるわけだが、そうなればなったらで奢りや虚栄心などにとらわれる可能性も出てきて、そんな慢心から貧困層などの社会的な弱者を見下すようなことを言うようになっているとすれば、それが世の中に不快感を漂わせている背景となっているのかもしれないし、しかもその不快感が快感をもたらすのと表裏一体となっている可能性があるわけで、社会の秩序に守られて快感と共に暮らす人たちがいる一方で、同じ社会の秩序によって虐げられ、不快感と共に暮らす人たちがいるとしたら、その秩序を守ることこそが社会に行き渡っている暗黙の申し合わせであり、それが守るべき社会的な慣習であり規範と結びついていて、そこでやってはいけないこととはそれらの慣習や規範を破ることであり、それを守っている限り、社会の秩序に虐げられている人たちには不快感がもたらされるわけで、その不快感に耐えきれなくなってくると、やってはいけないことをやろうとする誘惑に逆らえなくなるのではないか。

 そうだとすると不快感に耐えきれなくなって暴発するのは、よくある社会現象でしかなく、アメリカでよく起こっている銃による乱射事件などはその典型なのかもしれないが、それは社会的なストレスの発散現象だとも言えなくもなく、戦争や内戦や経済恐慌などの深刻な事態がもたらされてない地域では、社会全体にストレスが溜まっていて、なぜストレスが溜まるのかといえば、経済格差や身分格差などによって人々の社会内での地位や立場が固定されてきて、それが地縁血縁などによって乗り越え難いほどに固まってくれば、現状で不利な立場に固定されている人々には希望がなくなってしまうわけで、下手をすれば不快感に苛まれながら一生を送ることにもなりかねず、また一方で有利なたちに固定されている人々も、自分の生まれやコネで有利な立場でいられるだけで、実力でもなんでもない分不相応を意識してしまうと、やましさに苛まれることになるかもしれず、そんな感情を無理に乗り越えようとすると逆に根性がねじ曲がって、ひたすら自らの有利な境遇を正当化する欺瞞に拍車がかかって、社会的な弱者を見下すことなど当然だと思うようになるだろうか。そのような現象の範囲内で起こっていることなら、それは社会の様相を示しているに過ぎず、そこから社会の変革に結びつくような機運が生まれるとも思えないのだが、以外と無理に変えようと思わなくてもいいのかもしれないし、そんな現象ばかりでもないことも事実なのだろうが、何か衝撃的な事件が起こるたびにそんな状況が意識されるが、普段は何とも思わないのかもしれず、実際に大多数の人は意識せずに社会的な慣習や規範を守りながら暮らしているわけで、それを守っている限りはそれなりに生きて行ける場合がほとんどだろうし、ただごく少数の人たちが行き詰って暴発するわけで、その頻度が多くなればなるほど社会不安が増すのだろうが、それをメディアや行政ぐるみの偽善や欺瞞によって抑え込めているうちはまだ何とかなっているということだろうか。そうだとすると現状ではまだ抑え込めていることになるわけか。この状態がいつまで続くとも限らないが、できれば不満の爆発ではなくて、何か冗談のような不条理に思われるような成り行きを期待している。


7月28日「結論」

 何か集団で心地よい幻想を見ているような錯覚が特定の政治勢力の中で一体感を生んでいるとすれば、たぶんその幻想の中身に魅力があるのかもしれず、魅力的に感じられるような社会的な背景があると捉えておけば、何となくそのような現象がわかった気になれるだろうか。別に何をわかったつもりになりたいわけでもないのだが、人と人とは互いに分かり合えず、そうだからといって必要もないのに対立する気にもなれないし、議論を交わす機会がなくてもそれで済むなら、そんな無関係な関係においては何の問題もないわけで、無理に意見をすり合わせて妥協を図らなくても構わないし、それでもなお他人と何か交流する機会があれば、現状のままで交流すればいいのではないか。それはなかなかできないことだろうか。それとは対照的にその人にとって心地よい幻想を拒否する理由はなく、それが幻想でも錯覚でもないと思うならそれで構わないだろうし、そうであるならその人にとっては信じられる何かになるわけで、その信じている何かがある種の思想であろうと宗教であろうと、その人なりのリアリティを伴っているわけだ。そんな中で分かり合える人が大勢いれば生きていく上で励みになるだろうし、意気投合できる人とともに何かを成し遂げようとするなら、それが仕事であれその他の活動であれ、やっている間は充実感や高揚感を得られるだろう。

 活動には何らかの結果がつきものであり、できればうまくいきそうな活動に参加したいだろうし、勝ち馬に乗れるならそれに越したことはなく、負けると思っている活動に参加するのは気が重いだろう。また勝ち負けを伴わないような活動に参加しても得るものは何もないだろうか。無理にそのような立場に持っていく必要がなければ、状況によっては結果など気にする必要もなくなるわけで、逆にそんなこととは無関係に生きていられたら、その気楽な立場を是が非でも手放したくはなくなるだろうが、いつまでもそんな立場でいられるほど世間は甘くないだろうか。何らかの結果を目指すにしろ、そうなる成り行きを回避しようとするにしろ、何か納得がいくような心境になりたいものだろうか。普通の心境なら突飛なことや滑稽なことをやる羽目には陥りたくないだろうが、何かの巡り合わせで精神的あるいは肉体的に追い込まれて、物事に対する正常な判断ができなくなれば、そこから悲惨な結果を招いてしまう危険性が出てくるかもしれず、そうなるのを回避するには、日頃から様々な経験を積んで直面する事態に対処する術を学び、知性や勘を磨いておくに越したことはないだろうが、経験を積むのにもその人なりの限界や制約があるだろうし、それに応じて人それぞれで技術的な習得にも差が出てくるのは当然で、その人なりの境遇によっては気休めにもならない事情もありそうで、結論に至らなくてもそれは仕方のないことかもしれない。


7月27日「普通で一般」

 ただ世の中について思考を巡らそうとすると、例えば普通とか一般とかいう言葉は漠然としすぎていて、それについてどう判断すればいいのかよくわからなくなるかもしれないが、たぶん普通の人や一般の人が何をどう思っていようと、最大公約数的な世論調査以外でそんなことが人々の興味や関心を引くとは思われないが、それとは対照的に何か特殊で凶悪な殺傷事件とかが起こると、容疑者の性格や行動や言動やそれをもたらした社会的な背景などが事件の原因と結び付けられようとするわけで、それらと犯行との因果関係が言説や論理として構築されるとわかったようなつもりになれるわけだが、どうも普通の人とか一般の人とかいうカテゴリーに入る人たちは、特殊で凶悪な殺傷事件などから世の中の風潮や動向を読み取ろうとして、そこから差別や偏見などの社会の歪みや悪習に言及したり思考を巡らせたりして、それに関して何か語っているふうを装うのは、実際にそんなことばかり取り上げているノンフィクション関連のメディア的な言説から影響を受けていることは確かなのだろうが、なぜ特殊な現象や出来事から社会を理解しようとするのかといえば、普段は隠されている世の中の不具合や矛盾が一つのセンセーショナルな事件に凝縮されている、といった煽動的で挑発的な文句で人々の関心を引きたい思惑もあるだろうし、そんな事件を契機として何とかしなければという掛け声を発するのが、政治家とかメディアにはびこっている社会学者などの役割となるだろうか。それについて語るとなると、そんなことしか語れない現実があるわけで、それを批判するのは屁理屈にしかならないのかもしれないが、特殊な事件には特殊な事情があって、事件を起こす理由や原因があるとしても、同じような理由や原因を背景として持っている人が、同じような事件を起こすとは限らず、それとは違う理由や原因を背景として持っている人が同じような事件を起こすこともありうるわけで、その辺が不確実で不特定なのが社会の一般的かつ普通の有り様なのではないか。

 この先何が起こるか予測不可能であると同時に、実際に何かが起こってみると、それが起こる因果関係が特定される場合もあるわけで、起こってみなければ確かなことは言えないが、起こってからではもう遅いわけで、だからと言っていつ起こるかわからない犯罪を予防できるかといえば、そんなことをやればやるだけ人々の自由が制限されて、普通で一般的な人々が生きづらくなってくるだろうか。ではどうすればいいのかとなると、その手の専門家などが挙げる世の中の不具合や矛盾をもたらす差別や偏見などの歪みや悪習をなくすための努力が欠かせないとなるわけだが、それらが簡単に取り除けるようなら苦労はないし、凶悪事件など起こらないわけで、実際に凶悪事件が起こるたびにそんなことが指摘されてきているわけだ。社会がそのような事件をたまに起こすような構造となっているといえば、結果論からそんな論理も導き出せるわけだが、それが普通で一般的な社会の姿だと捉えるなら、とりあえずはその通りだとみなしておくしかないのではないか。実際に普通で一般的な人たちが暮らしている世の中なのだから、別に社会が特殊で個性的な様相を呈しているわけではなさそうで、もしかしたら特殊で凶悪な殺傷事件を起こした容疑者も、どこにでもいるような普通で一般的な人間だったのであり、それが何かの拍子で史上稀に見る凶悪な事件を起こしてしまったから、普通で一般的な人間ではなくなってしまったわけだ。だからメディアが事件を起こす以前のその人の性格や行動や言動などをいくら異常だったとまくし立ててみても、そんな人は他にいくらでもいるから、事件を起こすまでは見過ごされてきたわけで、要するに事件を起こさなければただの人であり、事件を起こしたから異常な人格を伴った殺人鬼に仕立て上げられてしまい、メディア上でセンセーショナルに取り上げられて、他の普通で一般の人たちから関心を集めたということになるのではないか。


7月26日「生と死」

 人が生きている状態や死んでいる状態に意味がないなら、生きている人を殺すことや、生きている自分が死ぬことに意味を見出そうとする行動を思いつくのかもしれず、中には生から死へと状態を変化させることに生きがいを感じる人もいるだろうか。それが他人の生なら殺人となるだろうし、自分の生なら自殺となり、自分と他人の生なら自爆テロとなりそうだが、いくら殺しても人力では限界がありそうで、その辺が想像力の欠如を思わせるところだが、でも殺したい人がいるのなら、殺しに行かなければならない義務が生じるだろうか。他人から命令されてそうしなければならない立場なら、殺しに行かなければならないのかもしれないが、自分で自分にそんな義務を課すような成り行きも場合によっては生じてくるだろうか。そんな成り行きに関していくら想像を巡らせても、意味のありそうな認識には結びつかないかもしれないが、それが人殺しであれ何であれ、やりたいことをやる自由というのがあるのかもしれず、それをやれるかどうかはその時の状況次第だろうが、果たしてそれが本当の自由なのかどうかはよくわからないし、本当の自由という自由というのがあるのかどうかも、当人がやっている過程で生じる脈絡の中で自由が生じてくる余地がどこにあるのかも、よくわからないところではあるが、たぶん人は何かをやっている時に自由を意識できるような状況にない場合がほとんどだろうし、なぜか知らないが、あるいは理由も原因も分かった上で、やらざるをえないような状況に追い込まれているとすれば、そこには自由などありえないと考えるのが妥当な解釈だろうか。

 そうなってしまう成り行きとともに、自分でも自分をそれをやらざるを得ない状況に追い込んでいる場合は、そう仕向けている自分は、積極的に自らの自由を行使していると言えるだろうか。別にそれが自由な状態と言えようが言えまいが、そんなことはどうでもよく、とりあえずそれが使命感のような感情に行き着くなら、それをやり遂げる上で有効な力となるのかもしれず、そんな状況に自分を追い込みつつも、そうすることに肯定的な感情を抱きながらそれをやるなら、何か良い結果をもたらしそうにも思えるわけだが、そこへ持って行くまでが一苦労だろうし、周りの何もかもが自分をそう仕向けるように働いているわけではない場合が多いだろうし、途中でそれをやる上で何らかの犠牲を強いるような場面も出てくると、そこで岐路に立たされて、伸るか反るかの選択を迫られるようなことになるだろうか。今がそれだとすると、何やら緊張感が増してくるだろうが、中にはそんな局面なのに気づかない場合もあるわけで、それと気づかずに様々な岐路や選択を通過してここに至っているのかもしれず、今現に生きていること自体がその結果であり、現状で何とかなっているなら、すでにそれなりにうまくやってきたことの証拠であるとしたら、そう捉えるならそんなに自らを卑下する必要もないし、少しは自信を持っても構わないのではないか。それも気休めでしかないだろうし、これまでがうまくいったとしても、これからどうなるのかなんてわからないが、たぶん自らに関してなら、自らが理解している範囲で認識しておけばいいことでしかなく、それ以上いくら考えても大したことはわからないのかもしれない。周りの環境とこれまでに歩んできた人生が自らの行動や思考を規定していて、そんな規定や拘束から逃れようとする自由も、周りの環境やこれまでの人生経験と向き合うことから生じてくるのだろうが、それが他人であれ外からの何らかの作用であれ、偶然の巡り合わせであれ必然的な成り行きであれ、外部からの刺激が絶えず自らを外れさせようとしているのであり、その外れ具合によっても今後の可能性が期待されるところだろうか。予感とは可能性であり、それは期待に結びつくかもしれず、何か予感を感じるなら、運命論的な偶然と必然から外れて自らの可能性に賭けるのにも、それなりに根拠があると捉えておいたほうがよさそうだ。


7月25日「悲劇と茶番劇」

 見慣れた風景から何が出てくるのかといえば、簡単な主張と理屈を装った忘却だろうか。そこで何を忘れているのかといえば、自制心を忘れていると言えるかもしれず、攻撃するのを躊躇していたら相手から攻撃されるとは思えないにしても、窮地に追い込まれないうちに先制攻撃を加える必要があるらしく、盛んに攻撃を仕掛けて自陣営が優位に立ちたいのだろうし、目下のところはそれが功を奏していて、優位な戦いを繰り広げていると言えなくもない戦況だろうか。具体的に何がそうだとも言う必要はなく、フィクションだと思われても構わないようで、知りたければ勝手に想像してほしいのだろうか。今がそんなやり方の全盛だと思っている節もあり、実際にまかれた餌に食らいつくように突進する人たちも大勢いるみたいで、そんな攻撃の標的となった犠牲者も若干いて、別に攻撃にさらされて大げさに悲鳴を上げているわけでもないのだが、自分が支持している著名人が、格好の攻撃対象として役割を全うするような成り行きになっていることが、何やら面白くない人もいるだろうし、あまりにひどい人たちが調子に乗って騒ぎ立てている現状を憂い、毎度のことのように将来への危機感を抱かざるをえず、このままでは大変なことになる、とまくし立てることしかできない自らの不甲斐なさに嫌悪感が増しているだろうか。

 そうやって彼らは自滅を招いているわけではなく、むしろ彼らにしてみればそれが正常な動作なのであり、その動作に任せてやりたいことをやっている最中なのだろうから、ここはやらせておけばいいことでしかなく、それをやれる状況の中でやってもらえばいいわけだ。そして彼ら同士で競い合ってしのぎを削り、同士討ちとは行かないまでも、争いが激化するようになればそれで構わないのではないか。少なくともこれまでの歴史的な経緯からすればそうなることの方が多かったように思われ、これからそんなことが繰り返されるかどうかはわからないが、どう見ても今がいっぱいいっぱいのようにも見えてしまうわけで、この先もその状態を持続するとなると、その先に待っているのが破滅でないとしたら、いったいどうなってしまうのだろうか。たぶんその辺に興味があるわけで、まだまだこんなのは序の口だとするなら、さらなるハイテンションな展開が待っているかもしれず、それだけ世の中に多大なエネルギーが放出されることだろう。そうなる前に息切れとなるならそれでも構わないわけで、もとから政治的な茶番劇に過ぎず、その茶番劇が思いの外長引いている最中で、見ている方もやっている方もだんだん飽きてくるようにも思われるわけだが、今のところはまだ煽動する側が元気なので、それも空元気の可能性もなきにしもあらずだと期待はずれとなってしまうだろうか。

 騒ぎが一段落ついた後が見ものかもしれないが、中途半端なところではやめられないだろうし、やめるつもりもないから未だに騒ぎ立てていて、いったん騒ぎ出すとやめようにも歯止めが利かず、どうにも制御できない状況となってしまうわけでもないのだろうが、どうもこの反動は大きそうにも思われ、彼等は犠牲者をいたぶっているつもりなのかもしれないが、もしかしたらその逆の可能性もあり、攻撃している対象こそが自分たちと同類の人たちであり、今が偽りの対立を仮構した上で行われている同類同士の共食いの最中だとしたら、気づいた時には誰もいなくなっていたということにもなりかねず、ともかく全ては茶番劇の舞台に上がっている人たちがやっていることであり、攻撃する役目の人にとっても犠牲者を演じる人にとっても、茶番劇を演じる舞台は是非にも必要であるわけで、舞台がなくなってしまえば彼らの役目までが終わってしまうのかもしれず、そうなった時が真の意味での改革であり革命であればいいわけだが、それが彼らにとっての自滅なのか破滅なのかは、その時になってみなければわからないだろうし、今この時点であれこれ想像してみてもよくわからないところであり、そうなることに賭けたところで、期待してみても裏切られるだけかもしれないし、やはりその辺は現時点でははっきりしないところなのだが、たぶん愉快な結果が待ち受けているような予感がしていて、どう見ても悲劇ではなく茶番劇でしかないわけだから、しかも攻撃を加えている人たちの屁理屈も犠牲者の末路もお笑い小劇場のようだし、恨み節を残して死んでゆく老人たちにしても、同情する余地などあまりないのではないか。確かに外国で起こっているテロや内戦などは悲惨の極みなのだが、それさえも茶番劇で死んでしまうような哀れさが漂っていて、その辺が英雄の死を悼むような悲劇とはだいぶ趣が異なることは確かだ。


7月24日「嘘」

 そんなことはだいぶ以前からそうかもしれないが、もはや労働者が資本家に搾取されているという資本主義の神話は成り立たなくなっているだろうか。社会の支配層が被支配層を搾取しているという比喩としての弱肉強食の関係なら、いつの時代でもそうだったのであり、特にイギリスの産業革命が招いた低賃金長時間労働の時代においては、確かに資本家である貪欲な工場主によって労働者が搾取されているように思われたのだが、周期的な恐慌の発生と投機的な失敗により、資本家もだいぶ淘汰されてきたのだろうし、さらに株式会社の全盛時代になると、法人としての会社そのものが、資本家の上に立つようになってしまって、現代でも莫大な財産を有するごく少数の個人投資家がいることはいるだろうが、大部分は法人が自社や他社の株式を保有していて、個人が大株主として会社を支配するというよりは、社長や会長などの代表者や他の取締役の権力は確かに大きいだろうが、それはあくまでも会社の業績が良い間で、業績が悪化すればたちまち辞任や解任に追い込まれる立場だろうし、ただ単に利益を上げるという企業の宿命が、その会社の管理職から従業員までを拘束しているのはもちろんのこと、その会社の株式を保有している個人や法人も拘束しているわけで、利益を上げるために従業員が過酷な労働を強いられているとすれば、企業そのものが存続していくためにそうなっているのであり、ごく一部に悪徳経営者がいるとしても、その悪徳経営者でさえも利益を出さなくてはならない企業の宿命に従っているわけだ。

 そうだとしても現実に人々の間に貧富の格差があり、少数の富裕層が世の中の資産の大半を所有しているだろうし、賃金の安い労働者や貧困層はそのことについて不公平感を抱いているだろうが、一方で会社経営者と末端の従業員の間で給与に格差があることも当然だろうし、そこのことがすでに貧富の格差をもたらす遠因となっているわけだから、その上でさらに大企業に有利な税制になっているとしても、それは人々の間で生じている貧富の格差との関連とは別の次元でのことだろうし、何かその辺で社会に対する理解や認識に欠陥がありそうなのだが、もらっている給与に格差があるわけだから、政治の力で貧富の格差を解消できるわけがないのはわかりきったことだろうし、できそうなことは賃金の安い労働者や貧困層でもそれなりに暮らしてゆけるような政策の推進だろうか。そんなこともわかりきったことかもしれないし、実際に行なっているつもりなのかもしれないが、批判する側は大企業や富裕層を優先していると非難するわけだから、批判する政治勢力が政権を取ったら、さらに貧困者対策を推し進めるつもりなのだろう。実際にはそんなことよりももっと切実な政治的な争点がいろいろあるのだろうが、貧富の格差にしても何にしても、現状で顕在化している社会の様々な不具合や矛盾を政治的な試みによって改善したり解消するのは容易なことではないのもわかりきったことなのだろうが、政治に求められているのは、住民に理解してもらえるような説明だろうし、そう簡単には納得してもらえないにしても、誤解や偏見をなるべくなくすように努めるべきで、何でもすぐに実現するかのような宣伝ではなく、何ができて何ができないのかを示すことがまずは大事なのではないか。これまでは幻想ばかり抱かせて、結局はそれが実現できずに落胆させることの繰り返しによって、どんどん政治に信用がなくなってきたわけだから、安易な人気取りはやめるべきで、そんなことをやっても見え透いた嘘であることはもはや誰もがわかっているのかもしれない。


7月23日「啓蒙の勧め」

 例えば仕事に励むのは良いことであり、そういう水準では何ら非難されるべきでもないわけだが、仕事の内容が非合法であったり、たとえ合法的な内容であっても、他人を苦しめるような仕事であると、何やらそのことで非難されてしまうだろうか。だが一方的に人を苦しめるのではなく、ある方面の人々を富ませ利潤をもたらして喜ばせる一方で、それをもたらすことで間接的に別の方面の人々を苦しませ、貧困に追いやっているような効果が出ているとすると、それは非難されるべき仕事となるだろうか。実際にそんな効果を及ぼしていることがあからさまに証明されたわけでもないし、一部ではそれが明らかとなっていると主張する人たちがいる一方で、実際に利潤追求を旨とする世の中の主要な仕事にすべてそういう効果があるとすれば、それによって世の中が成り立っているわけだから、非難されるような筋合いではないし、むしろ傑出した利益を上げている人や企業は賞賛されてしかるべきだろうか。ブラック企業などのように従業員への搾取が明らかとなれば非難されるだろうが、普通に利潤を上げていて地域や社会に貢献もしているような企業であれば、そういう水準では誰も文句は言わないだろう。しかし例えばそれが原発を稼働させている電力会社であったり、原発の製造やメンテナンスを受け持つ企業であるなら、やはりある方面の人たちから非難される。

 ある方面の人々を苦しませて貧困をもたらしながらも、一方では別方面の人々を喜ばせて富裕にしているような、両義的な作用を及ぼしている活動があるとすれば、それは一方では非難されてもう一方では賞賛されている可能性がありそうだが、たぶん現実はそんな単純なことではなく、もっと複雑で錯綜した肯定と否定の絡み合いがありそうで、ある特定の活動を簡単に非難したり賞賛したりするのは、非難するのは肯定的な側面を、賞賛するのは否定的な側面を、それぞれに考慮に入れていない場合がありそうだ。だから安易にメディア上で行われている非難や賞賛を受け入れる前に、それぞれにそれと反対の側面を考えてみる必要がありそうで、非難や賞賛などの単純化とは違う水準で判断しなければならないだろうか。それでも実際に非難したり賞賛しているわけだから、そうしなければならない理由も考慮した方がいいだろうし、そんなふうに多面的に考えを巡らせてから、自分がどうすべきか判断してみるのも、それなりに世の中の理解を深めることにもなるのかもしれず、そんなふうに思考を働かせる人が多くなればなるほど、浅はかな煽動に乗ってしまう人もそれだけ少なくなって、社会がそれだけマシな方向へと歩んでいくような成り行きとなったら幸いなのかもしれない。

 それでもあらかじめ考慮しておかなければならないことは、絶対に正しかったり絶対に間違っているようなことは、誰も主張しないし実行もされないだろうし、たとえ多くの人が非難し否定するようなことであっても、それが主張され実行されようとしている限りは、それを支持している人たちが大勢いるわけで、支持しているということは、少なくとも支持している人たちにとっては、それは正しいことなのだろうし、正しいと思っているから支持しているのであり、支持されているからこそ主張され実行されようとしているのであり、それが絶対に間違っていると思っている人たちは、少なくともなぜそれが多くの人たちに支持され実行されようとしているのかを考えてみないことには、それに対する有効な対策など立てようがないだろうし、ただ頭ごなしに卑劣だ何だのと非難するばかりでは、それを主張し実行しようとする人たちにとっては想定済みの反応でしかないだろうから、彼らの思う壺にはまっていることになってしまうかもしれず、その辺が困難なことであることは確かなのだろうし、なかなか有効な対抗策が立てられずに苦労しているところなのだろうが、現時点で言えることは特効薬のような処方箋の出現などは期待しない方がいいだろうし、じわじわと啓蒙活動を広げていって、浅はかな煽動には乗らない人たちを地道に増やしていくしかないのかもしれない。


7月22日「思い込み」

 積極的に関わるようなことではないのかもしれないが、面白がっているのだから少なくとも興味があるのだろうし、興味がなければ首をつっこもうとは思わない。しかし依然として何に関わってているのか不明のままだ。どこかで区切りをつければ、語る範囲が限られてきて、対象がはっきりしてくるはずだが、どうもその気になれないまま漠然と語っているらしく、何に関わっているのかはっきりしないまま、語る対象を強引に定めようとすると、取り逃がしていることに気づくだろうか。気づかないはずがなく、何について語っているのか気づいているはずなのだろうが、なぜかわざと焦点をぼかしながら語ろうとしているようで、話をはぐらかしているような気がしてならず、実際にはぐらかそうとしているのだろうが、語っている内容について自信が持てないのかもしれない。はっきりと対象を定められないのは、実際に対象がはっきりしていないからなのかもしれず、しかもそれを利用しているようにも思われ、目下のところは何を語っているのかはっきりしない範囲でしか言葉を連ねることが可能ではないなら、そういうことになるだろうが、なぜそうなのか理由がわかっているとするなら、その理由をはぐらかしながら語っていて、はぐらかすことでしかそれについては語れないのかもしれない。ならばそれは何かと問うならば、それをはぐらかしているのだから明かすわけにはいかず、何でもないとしか言いようがないだろうか。

 何でもないわけがないのだが、その何でもないことに気づいているのか気づかないのか、気づかないから何でもないとは思わないのであり、何でもないわけがないと思っていて、その何でもなさ加減を信じられないのだろうし、自らが体験している現象に実感が伴っていると思い、自分がその現象に関わっているはずだととも思っていて、それが自分とは無関係な現象だとは思いもせず、本当に無関係であるなら、そんなことは信じられないだろうか。そしてにわかには信じがたいことだが、実際に無関係だとすると、そこから何がどうなるのだろうか。関わっている対象だと信じ込んでいる事物から遠ざかれるかもしれず、実際に離れられることがわかり、離れられるということは、それとは無関係であったから離れられることに気づくだろうか。それに気づいてしまったら誰が困るのかといえば、誘惑している人たちが困るのかもしれないが、一人や二人気づいたところで、そんなのは物の数ではなく、世の中の大多数の人たちが気づいてしまうと、彼らのやっていることが立ち行かなくなってしまうわけで、現状ではそんなことはありえないから、たかをくくっていられるわけだが、そんなのはありえないという前提が、広く世の中に行き渡っているのだから、その前提条件を突き崩す契機など永遠にやってこないはずなのではないか。少なくともそれに関わっていると信じ込んでいる人たちにとっては、それは自明のことだろう。

 自らがこだわっていることから離れるのはそれほど難しいことのようだが、そのこだわりがどこから生じてくるのかといえば、それは自らがこれまでに歩んできた道のりであり、その経験に裏付けられた自意識なのかもしれないが、その自意識の連続性を断ち切ってしまうと、これまでこだわってきたことが何でもないように思われてくるのではないか。果たして自ら歩んできた人生を捨てることができるだろうか。それがフィクションなのかもしれず、だがたとえ自意識の連続性やそこから生じたこだわりや人生そのものがフィクションだとしても、そのフィクションを後生大事に育んできた経緯があるわけで、そんな経緯にとらわれることでしか自分が自分として存在できないとすれば、自分を捨てるということはある意味で自殺行為となるかもしれず、実際に死なないとすれば、やはりそれもフィクションとしての自殺行為であるわけで、単にこれまでに育んできたフィクションに飽きたから、別のフィクションへと移動しただけとも受け取られるわけで、自分を捨てることも大したことではなく、ただの不連続なフィクション体験でしかないことになりそうだが、たぶん自らはそんな簡単でそっけない解釈では飽き足らないだろうし、もっと何か大げさで深刻な転機を期待しているわけで、できれば自分を捨てることによって命がけで何かを成し遂げられれば、あるいは成し遂げられたつもりになれれば、そんな結果に満足してしまうのかもしれず、そんな決意で何かに取り組めたら、その取り組んでいる対象が自分とは無関係だなんて思わないだろうし、やりがいを感じられるかもしれないが、現代においてそこまでのめりこめるような対象にはなかなか巡り会えないのかもしれない。


7月21日「きれいごと」

 何もかも否定することはできるのだが、何もかも否定した後に残るのは狩猟採集生活となるかどうかはわからないが、少なくとも文明の中で生きている現状があるのだから、住んでいる社会に何らかの規範が働いている状況を受け入れながら生活していることは確かであり、それを肯定するなら民主主義の幻想も受け入れるしかないだろうし、それが持つ欺瞞を糾弾することはできるが、糾弾して何もかも否定してゆくと、文明の中で生きている現状も否定してしまうことにもなるわけで、そんなことをいくら否定してみても、他の人たちからは相手にされなくなってしまうだろうか。できる範囲内で何かをやろうとすれば、ある程度の欺瞞や偽善を含んでしまうことは覚悟しておかないと、何もできなくなってしまうだろうし、社会の中で規範を受け入れながら生きているのだから、すでにそこに生じている欺瞞や偽善と共に暮らしているわけで、その前提を認めておかないと、何も語れなくなってしまうだろうか。その欺瞞や偽善というのが人々の間に生じている不均衡で不平等な力関係であり、規範というのはその力関係を固定し継続させる方向に働いているわけで、規範に逆らうとはそんな規範を保持している社会に逆らうことであり、しきたりを破ったり掟に背くわけだから、当然権力を掌握している勢力から抑圧され弾圧されることを覚悟しなければならず、社会を変革しようとする行為もそれと同じことだから、何らかの抑圧や弾圧にさらされる可能性があるわけだ。それをいかにしてかわすかが戦略として試されるところなのだろうが、やり方によっては効果的な宣伝やプレゼンによって人々を騙すことにもなるわけで、そこにも欺瞞や偽善がまとわりついてきて、そういうことをやっている人たちは、何やら胡散臭いことをやっているように見なされてしまいがちになり、なかなか信用してもらえずに苦労するのかもしれない。

 何をやるにも欺瞞や偽善に付きまとわれるにしても、それを承知でやっていくしかないだろうし、そこに少しでも善意を含んでいるように思われるなら、頭ごなしに否定することもないだろうし、やっていることと言っていることが矛盾していようと、ひたすらそれを糾弾するのでは、よくなる可能性まで潰してしまうことになるかもしれないから、硬直化した教条主義には陥らないように、柔軟な対応が求められるところではあるのだろうが、何もかも受け入れるわけにもいかないだろうし、そういうところで話し合いによる妥協などによって、何らかの成果をもたらしたいのではないか。世界のどこの国でも政治は茶番劇にしかならないように見えるが、だからと言ってそこに住んでいる人々が介入できるのは、政治の分野しかないわけで、経済の分野では企業内の専制体制に従うしかなく、また介入できると言っても、不均衡で不平等な力関係を受け入れながらであり、そこに生じている欺瞞や偽善を糾弾して、自由や民主主義など絵空事でしかないというならその通りなのだろうが、それでも政治の場で理不尽なことが行われていると感じられるなら、できる範囲内で批判した方がいいだろうし、それに対して何らかの意思表示はしておいた方が良さそうではあるが、果たしてそれが選挙での投票結果に結びつくのかどうかは、現状ではなかなか難しいところだろうか。現状がそうだとしても別に悲観する必要もないのかもしれず、現状で暮らしている現実がある限りは、それなりに何とかなっているわけで、抑圧だの弾圧だのといったところで、人々が暮らしている範囲内で行われていることだろうから、今のところは不快に思われる程度のことで済んでいるのではないか。だからこのままでは大変なことになると危機感を煽る余裕も生まれるわけで、その段階ではまだ狼少年のたわごとだと思われても仕方がないわけだが、そこからどういうふうに状況が進展するかとなると、はっきりしたことはまだわからない。どうなるにしても今やれることは、社会に欺瞞や偽善をもたらす不均衡で不平等な力関係を解消する方向で努力している人たちを支持した方がいいということだろうか。少なくともそういう人たちの勢力が拡大した方が、社会の在り方が民主主義の理念に近づく可能性はあるということか。


7月20日「予感」

 予感があったのだが、なぜそんな予感がしたのかはわからない。でもそれで構わないと思っていて、冗談のような世の中なのだから、それもありなのではないか。理不尽なことがまかり通っているうちが楽しいわけだ。では理不尽なままであった方がなお楽しいだろうか。いつまでもそんな状態が続くはずがないと思っていると、いつしかそれに慣れてしまって、そうでない状態の方がおかしいように感じられてしまう。だからここは理不尽なことがまかり通っている状況に嫌悪感でも抱き、不快感でもあらわにしておいた方がいいのかもしれないが、そうなると楽しいわけがなく、強がって楽しんでいるふりをするのは、理不尽なことをやっている側の思う壺だろうか。こちらからは何もできないとなると、どう振る舞うのも無駄に思われてしまい、反抗する気力も失せてしまうと、やはり理不尽なことをやっている側の思う壺なのだろうから、何かやっているふりでもしておくべきなのだろうか。しかし実際に何をやっているふりをしているのか。そこがよくわからないところで、ふりではなく実際に何かやっているつもりなのかもしれず、それがつもりではなく本当に何かやっているのなら、それが理不尽な扱いに怒りをあらわにしているということであり、疑惑は事実無根だと主張するのだろうが、真相は藪の中だとしても、イメージ戦略としては成功したことになるのではないか。だが果たして予感がそれだったのか、今のところはよくわからないのであり、もっと別の何かを感じ取っているのかもしれず、さらに何か決定的なことが起こりそうな予感がしているのかもしれない。

 そして何か決定的なことが起こったとしても、それとは違うレベルで社会は安定していて、何が安定に寄与しているのかといえば、事の善悪を判断する基準が、世の中の価値観に基づいたメディアによるイメージ操作に基づいているところであり、そもそもその価値観自体がメディアによるイメージ操作から生じているとすれば、事態は循環的な様相を呈しているわけで、建前としては人々は軽薄なイメージ操作に乗ってはいけないのだろうが、そこに功利的な思惑が働くと、都合のいい面ではイメージを利用しようとするわけで、都合がよければイメージ操作を歓迎し、都合が悪ければイメージ操作を糾弾するわけで、そんな成り行きを示している範囲内では社会は安定していて、そのような態度が世の中の多数派を形成している限りは、決定的な変革など起こりようがないわけだが、それでも構わないのかもしれず、そうであるからこそ、そんな状況を批判する人が後を絶たないわけで、それがそんな批判者の存在理由となっていて、それも社会の安定要因の一つであるのかもしれない。果たしてその程度で構わないのかどうか、そんな軽薄な状況に業を煮やして正義の徒となるのにも、何だか安直すぎてリアリティを感じられないとしたら、判断基準を複数にするのも手であるだろうし、イメージ操作とは別の判断基準を設けるなら、自らの境遇や立場に照らし合わせてみて、様々な判断基準の中で何を優先すべきかが自ずから明らかとなるのではないか。それでも迷うところなのだろうし、迷っていればいいのだろうが、判断すべきなのか判断しなくてもいいのかは、たぶんどちらでも構わないのではないか。迷うとしてもその程度のことでしかなく、何か理由の定かでない予感がしているのも、そんなレベルで感じていることなのかもしれない。


7月19日「知識と経験」

 一朝一夕にどうなるわけでもないのは当然だろうが、長い目で見て理解した方がいいのは、歴史的な成り行きだろうか。現状でこうなってしまった成り行きがあり、現時点から過去を振り返るとそれが必然的な成り行きだと思われてしまい、それ以外の可能性などありえないように感じられ、それが現状の肯定をもたらして、肯定している自らの立場を正当化することにつながりそうだ。長期的な視点が未来にも過去にも適用されると、そこに物事の時間的な連続性も見出され、さらに過去から現在を通って未来へとつながる物事の必然的な成り行きを肯定せざるをえなくなり、そうなると現状の何も批判する気がなくなってしまうだろうか。認めなければならないのはこれまでの歴史的な成り行きであり、ただ経験としてそれを理解することしかできないわけで、それを特定の誰かが経験したというだけではなく、経験が知識として蓄積されている様々な書物の中に示されている内容を読んで理解することしかできないわけか。それが直接未来へとつながると思えないかもしれないが、過去を知ることは何らかの経験であり、意識できないところで経験が活きてくる可能性に期待してもよさそうだ。過去から現在までの成り行きを踏まえて未来を予言したくなるだろうが、予言ではなく予想するぐらいにとどめておけば、それほど歴史の連続性にこだわらなくても済みそうで、必然的な予言ではなく想定される幾つかの可能性に言及できるかもしれず、その程度であるならまだ柔軟な対応ができそうで、未来が不確実であることを受け入れられるのではないか。

 不確実性を受け入れるなら、経験を今後何らかの形で活かせるかどうかも不確実であることも受け入れなければならないだろうし、今後直面するだろう様々な局面において経験が勘として働くとしても、それはその場の対応であり、今からそれを予想することはできないわけだが、今後予想される様々な可能性にしても、予想される事態を想定してそれに備える動作は、現状で出来る範囲内に限られるわけだから、未来の不確実性を減じることにはならないのではないか。それでもいざという時に勘が働くように経験値を高めておくことは重要だろうし、未来に対する備えもそれなりに合理的な説明がつく範囲内で対策を講じておくべきなのだろうし、そのための予言や予想であり、当たらなくても想像力を働かせる上でそれらを参考にしておく程度には役に立ちそうで、はなから否定するのではなく、思考を働かせる材料と捉えるならば、勘を磨いたり未来に対する備えを講じる上でも、予言や予想を活用できそうだが、それはあくまでも活用するために必要なだけで、予言や予想に依存した思考や思想を信じるようでは、宗教と変わらなくなってしまうだろうか。もちろん宗教でさえもはなから否定してはならないのであり、過去の経験や歴史の蓄積が宗教を成り立たせている面は否定できず、それなりに合理的な思考や思想を備えているからこそ、一定の慣習を伴った社会勢力を形成し得るのであり、そんな理由から多くの人々が心理的にも経済的にも宗教に依存しているわけで、彼らも勘を働かせて未来に備えながら生きているわけだ。


7月18日「語らない」

 何に対する批判もすべて的外れであるわけがないが、別に批判する対象が批判に対していちいち反応する必要はなく、大抵の場合は無視すればそれで済んでしまうことの方が多いだろうか。そうである限りは批判は無効なのかもしれず、批判者と批判の対象が同じ土俵に上がっておらず、そこに批判を苦にしないような関係があって、批判者も批判もその関係を打ち破ることができず、何を批判しても批判する対象には届かず、その存在を脅かすには至らない場合がありそうだが、そんな批判者と批判の対象が直接対峙できない状態は、両者にとって好ましい状態だろうか。批判者は不満に思うかもしれないが、批判される対象にとっては自らの優位が保たれているだけに、できればそんな状況が維持されてほしいと思うのではないか。直接の批判というのはそうなりがちなのかもしれず、批判者は批判している対象と対等な立場で対立したいわけだが、やはり力関係が不均衡である場合は、そもそも両者が同じ土俵に上がっていなければ、対立するにしても議論がかみ合わないだろうし、無駄な争いは避けようとするのではないか。そんな形で批判せざるをえないような状況に追い込まれているとすれば、もはや何を批判しても無効な状況が出来上がっていると見ておいた方がいいのではないか。そんなわけで今や無名の一般人から反体制を気取るジャーナリストや選挙の泡沫候補まで、そのほとんどが無視されても仕方がないような立場から批判を繰り返すしかないような状況なのだろうか。要するに相手にされていないということか。

 そうだとすればそれらの批判者からすれば深刻な状況だと言えるだろうが、見方を変えれば批判者にとっても批判される対象にとっても、無用な対立や強権的な権力の行使を避けられて、楽な展開だと言えるのかもしれず、批判するだけならいくらでも批判できるような状況である方が、世の中の風通しが良くなって自由度が増しているように思い込めるだろうか。それは錯覚といえば錯覚なのかもしれず、メディアにおいて何らかの影響力がありそうな著名人の批判なら封じ込まれて、影響力のなさそうな人たちが批判する分には、どうぞ勝手におやり下さいという状況だとすると、さすがにそれで構わないとは誰も思わないだろうが、現状がそうであるなら、今後も無名の一般人や左翼のレッテルを貼られて馬鹿にされているジャーナリストなどは、無効だと見なされる批判を繰り返していればいいだろうし、それが批判されている対象を油断させる上では必要なのではないか。彼らを慢心させて驕り高ぶらせるような状況の進展が必要かもしれず、確かに今批判を繰り返している人たちには何の可能性もないだろうが、次の世代とか別の方面から新たに何かを試みようとする人たちには、何かしら次の時代を担いうる資質が備わる可能性を期待できるだろうし、現状では表面化していない何らかの動きが顕在化した時には、もしかしたらすでに時代が変わっているのかもしれない。今こんなことを語っても気休めにもならないだろうが、どう考えても状況を深刻には受け止められないのであり、メディアを通して伝わってくる世の中の状況は茶番としか感じられず、世界中でテロや内戦などによって多くの人たちが死傷しているにもかかわらず、意味も理由もなく楽観的な未来を空想している。


7月17日「肯定の力」

 忘れていることがまだあるだろうか。それを思い出すのではなく、想像しようとしているのかもしれないが、予言してはまずいのかもしれず、予言しようとすると否定的な終末論へと落ち着きそうで、いつの時代も人を驚かし脅すような終末論的な予言が流行っていて、予言といえば終末論というのが、人の思考を拘束するありがちな思考形態であり、それ以外の楽観的な予言など予言の内に入らず、常に危機感を抱いていないと気が済まないタチの人が多いようで、それも終末論とセットで作用する人のありがちな思考形態なのかもしれず、自分を何がしかの目的へ向かって追い込むために、絶えず危機感を抱きながら気を抜かないように心がけるという姿勢で、自分を駆り立てる課題に臨んでいるわけで、それは危機感を持っていることに安住して、逆に安心してしまうという入り組んだ心の隙を作りかねず、危機感を持っている割には大したことはやっていないことに気づかない、という負の側面もあるのかもしれないのだが、裏を返せば危機感を持っているだけではダメなのかもしれず、危機感を持とうが持つまいが、結局はやっていることが状況に対して有効に作用するのかを見極められないと、いくら危機感を持って事に当たっても、うまくいかないものはうまくいかないわけで、たとえ状況を深刻に受け止めていても、ただそれだけで終わってしまうことにもなりかねず、何やら危機感を抱きながら深刻ぶって何かを語っている人がいるとしても、やっていることが大したことがなければ、深刻ぶった語りも終末論的な予言と変わりなく、人の思考を拘束するありふれた思考形態から生じた、多くの人が同じように語ってしまう言説に過ぎないことになるだろうか。

 たぶん忘れていることは、悲観的な将来への予言の類いでも、危機感を持って事に当たる心構えでもなく、現状を冷静に見極める観察眼だろうか。そんなものがあったら世話がないが、都合良く考えるのでも都合悪く考えるのでもなく、ただ考えることに落ち着くとすれば、観察眼にはすでに思考が影響を及ぼしていて、世の中の慣習に従うことで見ずに済ませているものを見るには、それを見させないようにしている慣習を意識しなければならず、意識するにはそれを思考するしかないだろうし、終末論なら終末論をもたらしている原因を突き止める必要が生じるだろうか。自分たちのやっている努力が何か重大なことであり、ここで自分たちが頑張らなければ大変なことになる、と自らに言い聞かせるには、やはり状況を深刻に受け止めながら自他共に危機感を煽る必要に迫られるのが、心理作用としてはありがちなのだろうが、それは同時に自分たちのやっていることを正当化することにもつながり、その辺でやっていることの意味や意義を確立したいわけだ。自分たちは意味や意義のあることをやっていて、決して無意味で無効なことをやっているわけではないという主張も内包されているだろうし、そのような価値設定であるならば、やる価値のあることをやっていると自らに言い聞かせられるわけで、それをやっている自分たちを信じられるし、信じてやっているならやる気も持続して、途中で投げ出すことにもならないだろうか。しかしそれはあくまでも自己の内面の心理作用しかもたらさないだろうか。

 大勢で同じことをやっているなら、信じることが集団の結束力を生んで、やっていることの成功にもつながるかもしれないが、それでどうにかなることとならないことがあるだろうし、どうにかなることは集団の内部的な要素であり、どうにかならないことは集団の外部との関係性にあり、外部とは集団を取り巻いている世の中の情勢であり、内部で通用していることが外部では通用しない場合は、世の中の情勢がその集団の方向性とは異なっていて、集団の意向が世の中では通用しない状態となっているわけだが、その通用しない状態を作り出しているのが、世の中の慣習であり、その慣習に従いそれを味方につけて利用することで権力を握っている、その集団と敵対する別の集団であり、それが支配的な勢力となるだろうか。そしてその慣習というのが商慣習であり資本主義経済でもあるわけで、その中でうまく立ち回って商売に成功して、資本主義経済を管理する立場の行政機構とも連携や連帯関係を築いて、利権複合体を形成している集団であり、その一大勢力と敵対しているとなると、どうあがいてもやっていることがうまくいくとは思えないし、事態を深刻に受け止めて危機感を抱かざるをえず、うまくいかないことを悟ってしまうと、中には絶望して終末論的な予言にすがりつくしかないだろうし、自ら資本主義はもう限界だのもうすぐ終わるだのと予言してしまうわけだが、予言するだけでは危機感を煽るのと同じことであり、ではどうすればいいのかを考えることができないわけで、現にやっていることとは何の関係もなくなってしまうわけだが、やっていることは資本主義経済の中でやっているわけで、資本主義の論理に従いながらやっているわけだから、口先では否定しても、やっていること自体が資本主義の肯定につながってしまうわけだ。


7月16日「間接的な意見」

 忘れていたことを思い出した時、その思い出したことから、さらに過去へと記憶を順に辿って行けば、やがて知りたかった記憶にたどり着き、その記憶が示す過去の経緯を思い出して、なぜそんなことを知ろうとしていたのか、その理由を知るに至れば、それを理解する上で鍵となる何らかの記憶をたぐり寄せたことになるかもしれないが、その記憶というのが、他人が思い出した記憶と一致していなければ、すでに当時から思い違いがあって、身勝手な思い込みが含まれている可能性もあるわけで、過去の記憶が思い出した時点で恣意的に解釈されているとしたら、すでに脚色されているかもしれず、今の自分の立場や境遇を反映した記憶である限りにおいて、記憶自体に独りよがりな誇張や強調が入っているわけで、今の自分を正当化するために過去の記憶を利用したい意図や思惑が働けば、過去に同じ場に居合わせて同じ体験を共有している人がいるとしても、現在の立場や境遇の異なる人の記憶とは違ってくるのではないか。

 過去を恣意的に解釈することが、その人の現在の思想や思考の土台となっているとすれば、その過去への解釈が現在の解釈や未来への空想にも地続きでつながっているわけで、その人は過去にとらわれていることになるだろうが、たぶんその人は自分にとって都合のいい過去を思い出しているつもりだろうし、自分の思想や思考を構築する上で、過去の恣意的な検索は欠かせない動作であり、都合の悪い過去は意図的に除外されていて、現在の思想や思考につながる過去だけが思い出されているのかもしれず、少なくともその思想や思考を基として何か主張するときには、決まってその主張を裏付ける過去だけが取り上げられ、主張が否定されるような過去については語られず、語られても都合のいいように脚色されるならば、その人を利するだけの平板な内容になるしかないだろうか。浅はかな人たちなら、あるいは利害を共有する人たちなら、そんな主張でもありがたがって受け入れてくれるかもしれないが、果たしてそれ以外の人たちはどう思うだろうか。

 見え透いた嘘をつくのが嫌なら、自分にとって都合の悪いことも含めて語る必要があるだろうし、自らの限界も示した上で、それでもなお協力をお願いするような局面を迎えているのなら、独りよがりな自己正当化は慎むべきだろうか。それもある意味で戦略の一環となってしまう場合もあるのだろうが、他人によく思われたいのは誰しもが思うところだろうし、それを計算に入れながら語る人もいるのかもしれないが、下手な小細工はしない方が身のためであり、そうかと言って他人に対する配慮を怠るわけにもいかないだろうし、こちらの一方的な思い込みなどたかが知れていて、結局は現在置かれている自らの立場や境遇に忠実であるしかないのかもしれず、それを他人に判断してもらうしかないのではないか。そういう意味では何かと批判を浴びている政治家なども、人々からそう判断されているだけで、それについてどう思っているかは、人それぞれで違っていてもいいだろうし、何もああだこうだと批判している人たちに同調しなくても構わないわけで、その気になれなければ、一緒になって批判する筋合いのものでもないだろうし、別に擁護するつもりもなければ、そういうものだと思うしかないのかもしれない。


7月15日「理想と現実」

 企業の利益は果たして従業員の労働から生まれるだろうか。普通の企業なら従業員の労働がないと収益を上げられないだろうし、利益の全てを従業員の賃金を安くしていることの差額から求めるのは、企業が労働者を搾取していることの証しとして、批判的な言説の中で用いられる常套句となっているだろうか。企業が多額の利益を上げている一方で労働者が困窮しているのなら、そう思う人が多くなるだろう。しかし企業が収益を上げて利益を出すのは、企業活動としては当然の動作だろうし、また従業員が会社側に賃金の上昇を求めるのも、労働者としては当然の権利だろうし、どちらも合法的な範囲内でやっていれば問題はないだろうか。それらは全て資本主義経済の中で起こっていることだから、企業と従業員の関係からそれ以上の何を引き出すこともできないのではないか。安く買って高く売るのが商売の基本だろうし、その安く買うものの中に労働力も含まれるわけで、同業他社との販売競争の中で商品を高く売れないなら、商品をさらに安く作る工夫が求められるわけだから、その安くする工夫の中には従業員の賃金を安くすることも選択肢の一つには含まれるだろうか。

 労働者の賃金は労働者が暮らして行ける程度に保たれていることは確かで、暮らして行けなければ労働が足り立たなくなるわけだから、暮らして行けるということは、その暮らしを成り立たせるための必需品を買えることにもなり、その必需品を商品として売っている企業にも収益があるということだから、その企業と労働者が存在する社会が成り立つ程度には、企業にも収益が出ていて、従業員にも賃金が払われていることになりそうだが、それ以上に人々は何を求めたらいいのだろうか。現実はそんなものではなく、もっと厳しいだろうし、人々にも様々な境遇があり、ブラック企業をはじめとして労働者が苦しめられている事例も数多く、そういう方面で不満を抱いている人が多ければ多いほど、何やら政治の力で人々の不満を解消するような政策が求められているということだろうか。その政治の力で何ができるということが、何かメディア的な幻想をもたらしているのかもしれないが、幻想ではなく実際に効果のある政策があるのかといえば、どうも現状では疑念を抱かざるをえないわけで、個々の具体的な政策や主張というのが、人々が期待していることと結びついているのかどうかが、何かはっきりしないわけで、全てはメディアの中で言われていることであるだけに、それを信じるか信じないかの水準でしか判断できない。

 自分の実感とメディアで言われていることの間で、関連性がないように思われたら、政治に対して興味が湧いてこない可能性もあるだろうし、興味がなければ信じるか信じないか以前に、無関心でいられるのかもしれず、関心を持つ必要性を感じられない人も大勢いて、そういう人たちは選挙で投票することが重要だなんて思わないだろうし、また政治全般に反感を抱いている人なら、わざと無視するかもしれないし、民主主義の理念に敵意や反感を抱くのは、現実に体験している職場や家族や地域の環境が、民主的ではなく抑圧や支配や強制を感じさせるからだとすれば、民主主義が建前だけのきれいごとだと思われるのは当然かもしれず、そういう人たちにとっては、民主主義の理念を強調する政治勢力などが憎悪や嘲笑の対象となる可能性もあるのではないか。実際にユーチューブなどでデマや中傷を撒き散らす映像を見ると、そんな雰囲気を感じてしまうのであり、しかもやっている当人にしてみれば、デマや中傷ではなく、正しいことをやっているように見受けられるわけで、日頃からそういう水準で政治に接していると、どう見てもそちらの方がリアリティを得られるだろうし、空疎な民主主義の理念よりは職場や家族や地域の環境からもたらされる実感の方が信じられるのではないか。そんな人たちは空疎な理念が実現すべき理想であることを理解できず、理想を実現しようとしなければ現実は変わらないことを知らずにいるのかもしれない。


7月14日「立場」

 過去の情勢からどれほど隔たっていようと、現状を考える上で過去の情勢が参考になるだろうか。何か幻想を抱いているとすれば、それは過去からの地続きで考えているからで、都合の悪い過去からの継続を断ち切った先に何があるかといえば、現状をさらに肯定することだろうか。中には現状を肯定する人たちをさらに否定したい人たちもいるわけだから、現状を肯定するにしても否定するにしても、そうする理由が過去からの継続にあるのかもしれず、継続したい過去からの延長と、断ち切りたい過去からの延長があるらしく、それが何であるかによって、今現在の主義主張に違いが出てくるのだろうか。要するに都合の良い過去からの延長は肯定されるべきで、都合の悪い過去からの延長は否定されるべきなのだろうが、そのような主義主張自体がご都合主義的であり、普通の考えるなら信用のおけない主義主張になりそうだが、そんな主義主張の虜となっている人たちは、一向に意に介さないようで、都合の良いことだけを盛んに主張してくるわけだ。しかも世の中に溢れているのはそんな主義主張ばかりなので、それ以外の主義主張がどんなものなのか皆目見当がつかず、今自分たちが生きている時代をどう捉えるべきなのか、それについて肯定も否定もしない形で捉えたいのだが、それを捉える上での手がかりが見出せずにいるのかもしれない。

 簡単なことならすぐに言えそうだが、果たしてそれでいいのだろうか。中東やアフリカでは戦争を終わらせるための戦争が続いていることは確かであり、それ以外の地域では軍事的な緊張はあるものの、新たに戦争が起こる気配はなく、今現在で内戦となっている地域以外は比較的平穏なのではないか。あるのは散発的に起こるテロだけだろうか。それが何を意味するのかといえば、何を意味しているわけでもないのかもしれず、どんな傾向を示しているとしても、それを肯定したり否定する必要はなく、あるがままの現状があるだけかもしれないのだが、そこで特定の国家が状況に介入して主導的な役割を果たすような情勢とはなっていないのかもしれず、アメリカや国連がその役割を担っていることは確かだろうが、今ままではそうだったのであり、過去にはソ連が役割を担っていた時期もあったわけで、これからは中国が一定の役割を果たそうとしているのかもしれないが、そうだとしても、たぶん直接の軍事介入はやりづらい状況にはあるだろうし、表立って他国を軍事攻撃するような事態は、311の同時多発テロを発端としたアフガンやイラクでの戦争が最後になるだろうか。これから新たな戦争でも起これば、そんな楽観的な見通しは間違っていたことになるわけだが、戦争をやる口実というのがすぐには思い浮かばず、領土紛争的な小競り合いの他には想像するのが難しい状況なのではないか。

 今までは格好の口実となっていた宗教や民族などの対立にしても、資本主義経済が全世界を覆ってしまった状況下では、あまりリアリティを持ち得ないのかもしれず、政治的な主義主張にしてもかつての社会主義陣営が総崩れとなってからすでに三十年近くが経過していて、現状での保守派と社民勢力との対立は完全に議会制度の内側で起こっていることだから、戦争とは無縁であるわけで、これから問題となってくるのは中東の産油国などで続いている王族支配や、中国共産党の一党独裁体制ぐらいなものだろうか。それらにしても資本主義経済の浸透によって、なし崩し的に形骸化しつつあるのかもしれず、要するに金権腐敗体質が政治体制を内部から虫食い状態に至らしめているとしたら、それは人々が求めている民主化とは違う作用であり、経済的な利権をめぐる勢力争いによって、地域によっては内戦状態のところもあるし、中東の産油国は石油収入の王族による独占状態が維持されていて、中国では表向きは国を挙げての腐敗撲滅キャンペーンの最中なのかもしれないが、その実態は共産党や軍も巻き込んだ権力争いとなっているのだろうか。そんな中で日本でも何やら選挙戦レベルで各勢力が争っていることになるのだろうが、統計的には争いに参加してくれない人たちがかなりの数に上っているようで、いまひとつ盛り上がりに欠けている感もなきにしもあらずだが、そんな状況を肯定するにしても否定するにしても、民主主義を信じている人の中では、どちらかといえば批判的に捉えている人たちの方が多いのかもしれないが、これから政治の制度や仕組みがどう変わるかも含めて、選挙に参加してくれない人たちの立場も一応は尊重しておくべきかもしれない。


7月13日「貧乏人の自由」

 こんなことは実際にはありえないだろうが、単純な比較として考えるなら、例えば金持ちが一人で3千万円のフェラーリを毎年1台ずつ50年間買い続けると、買った費用は合計で15億円となり、それは300万円のカローラを50年間で500人の普通の人が1台ずつ買った合計と同じ金額になるわけで、かなり乱暴でいい加減な比較だが、金持ちが一人で500人分の金額の商品を買えるとなると、だいたい0.2パーセントの金持ちの購買力が残りの99.8パーセントの人々の購買力と同じになり、そこからさらに論理的な飛躍を伴いながら類推すると、世の中の0.2パーセントを占める金持ちの資産の合計が、残り99.8パーセントの人々が所有する資産の合計と同じであっても構わないだろうか。実際に世界の半分の資産を0.2パーセントの金持ちが所有しているとなると、現状とそれほど変わらなくなるだろうか。その手のことを言いたがる人たちは、そこに不平等や不合理を見出したいのだろうが、資本主義経済である限りは各人の資産や購買力の不平等はあって当然だろうし、普通の人は無理に高価な贅沢品を買わなくてもいいわけだから、別にそれが不合理ではないのかもしれないのだが、問題なのは普通の人が貧乏になって、普通の商品を買えずに暮らして行けなくなることであり、そんなひどい境遇を放っておいて構わないのかと言われたら、倫理的にも道徳的にも放っておけないとなるだろうし、そうならないように行政が何とかしなければならない、というのが誰もが安心して受け入れるような政治的な主張になるだろうか。

 一方では贅沢品の魅力に惹かれて、それを購入できる資本主義経済を肯定したくなってくるだろうし、もう一方では合法的な投資によって資産を増殖させる魅力によっても資本主義経済を肯定したくなるわけで、それに成功している人たちの社会的な地位も高く、それに伴って政治的な発言力も大きいだろうし、実際にそんな成功者のための世の中になっているのかもしれないが、現状でそれを覆すことはできないように思われ、それで構わないとなると、ではそれ以外の人たちはどうしたらいいのか、と問う必要があるのかどうか。世の中には金持ちから貧乏人まで様々な階層の人たちがいて、各階層の人たちがそれなりに生きて行けるようにするには、たぶん資本の増殖を目指す活動とは違う作用が必要だろうか。実際に人々の間に貧富の格差があるという欺瞞を取り除こうとすると、それは容易なことではなく、無理にやろうとすれば、かつての社会主義革命のような悲劇を招くしかないだろうが、一方で貧乏人でも明るく楽しく暮らして行けるという、熾烈な経済競争を繰り広げている人たちからすれば、許されないような欺瞞も許容することで、二つの相反する欺瞞を両立させられるようなら、金持ちでも貧乏人でもどちらでも構わないような、矛盾した世の中を実現できるだろうか。要するに貧乏であることが悲惨な境遇ではなく、抑圧とか強制とかとは無縁の、それなりに充実した生活であればいいわけだが、果たして貧乏人の自由を実現するにはどうしたらいいだろうか。


7月12日「対策」

 人は自然現象に逆らえるだろうか。それは商品の生産・流通・売買・消費のサイクルを伴う動作として構造化されていて、各人はすでにそのサイクルを回す担い手となる労働者という労働力商品の売り手として、その中に絡め取られている状況だろうか。人口爆発を伴った人類の増殖過程が、資本主義経済の世界的な浸透とともにあることは否定しようがないし、部分的には個々の企業活動やそれを統括する国家活動は一応は計画的に推し進められているものの、その全体的な動作を見れば人為的な計画とはほとんど無縁の行き当たりばったりである点で、それは自然現象とみなしておくべきかもしれない。それが人為現象だろうと自然現象だろうと、そうみなすことに取り立てて重要な意味はないだろうが、それに代わる経済システムを人為的に考案するとなると、すでに偶発的な変動を伴って回っている資本主義経済を調整しながら、全体として計画的に動作させるようなシステムを構築するのは難しいだろうし、それが気象現象ような自然現象なら全体的な制御を考えるよりは、予報の精度を高めながら災害に備え、ひとたび災害が起こったら復旧作業に力点を置くのが、現実的な対策であることは言うまでもなく、現状で企業や国家が資本主義経済の中でやっているのも、そういう対策の部類に入ることなのではないか。人が関わっているから人為的な現象だとみなして、それを制御しようとしてうまくいかなかった歴史的な経緯があるわけで、現状でも様々な対策を講じて制御できていると思っている人も多く、実情はたまたまうまくいっている部分もあって、気象現象にしてもオゾン層の破壊や地球温暖化や砂漠化などの問題については人為的な現象も絡んでいるわけだから、それらの現象も経済現象と同じように制御の対象となっているわけで、制御しようとする試みを否定するわけにはいかないところだが、少なくとも全体的にすべてを制御できるとは思わない方が良さそうだ。

 そういう部分的な対策と制御という両義的な意味での試みとなると、大げさなことではないはずで、地道な努力程度のこととなりそうだが、例えば収入が少なければ倹約を心がけ、なるべく安く生活しようとすることだろうし、それ自体が人為的な自然現象ではあるのだろうが、実際に多くの人が心がけ実行していることだから、個人消費が伸びないわけで、それで暮らせていればそれで構わないわけだ。それ以外に何ができるだろうか。個人や家族単位ではそんなことしかできないが、企業単位で同じことをやるとすると、内部留保の割合を高めて体力を維持することになるだろうか。それこそ企業版の質素倹約だろうが、個人や家族と同じく企業も質素倹約を目指しているとすれば、これも人為的な自然現象と考えた方が良さそうで、個人も家族も企業も同じ方向を目指していることになるのではないか。そうなると国家も緊縮財政にして質素倹約を心がければ、同じ方向性となりそうなのだろうが、実際には景気刺激策などの財政出動をやろうとしているらしく、結果的に赤字国債を増やして大盤振る舞いになってしまうと、個人や家族や企業の質素倹約傾向が相殺されて無駄となってしまうだろうか。それとも他が質素倹約を目指しているからこそ、それらとバランスを取る上で大盤振る舞いが必要なのだろうか。国家までが緊縮財政になってしまうと、経済規模が縮小し続ける負のスパイラルから抜け出せなくなってしまう、ということだろうが、これも人為的な自然現象だと考えれば、結果的に持ち直すか財政破綻するかは、行き当たりばったりの偶発的な結果でも構わないとなってしまいそうだが、実際に生活している一般の人々のところにまで金が降りてこないことには、それらの人々の消費には繋がらないだろうし、企業レベルで金融的な投資やマネーゲームの水準で金が回っているだけなら、大半の人々には関係のないことだろうし、それが資本主義経済の進化形態だとすれば、一般の人々はそうやって徐々に資本主義経済から抜け出すような成り行きとなるのだろうか。現時点ではそんなことはありえないと思うしかないが。


7月11日「振る舞い」

 危機感を煽って人を脅す気にはなれないが、どうも脅し文句というのが冗談のように感じられ、それがメディア経由となると、それはいつも比喩としての脅し文句で、脅しの内容とは真逆のことが起こっているようにも思われるのであり、今回も取り立ててどうということはなく、ほとんど誰も踊らされていないのに、象徴的な意味で何かを成し遂げようとしているのかもしれず、成し遂げること自体に大した意味はなく、成し遂げようとしている姿を宣伝したいだけのように感じられ、そんな姿に共感してほしいのではないか。果たしてそれに共感できるかどうかはともかく、そうやって何かをやっていることを評価してしまうと、もう結果などどうでもいいということはないのだろうが、何か成果らしい成果というのが、何かをやった結果から生じた成果なのかについては、やっていることとやった結果を結びつける前に評価しようとするわけだから、まだ結果が出ていないうちにそれを強引に先取りして評価するにしても、何だかその評価自体が怪しいのは当然だとしても、何かをやっていること自体も、そのやっている姿を見せつけるためのパフォーマンスだろうし、それをメディア的なごまかしだと非難する気にもなれないが、実質的に何がなされているわけでもないし、実質が伴っていなくても構わないような雰囲気の中で、それらしいパフォーマンスが演じられているわけだから、それ以外を期待する方がおかしいのであり、それを中身はないなどと非難するのは空気が読めないとしか思われないだろうか。

 確かに脅し文句で危機感を煽るのは愚の骨頂なのかもしれないが、開き直って愚の骨頂を極めるには、立場も境遇もまだまだ中途半端すぎるのかもしれず、その中途半端さ加減が現状を持続させている原因であるだけに、現状維持を心がける人々にとっては、中途半端に脅し文句で煽っているのが、最適な生息環境と言わないまでも、ほどほどのところで妥協を享受できる環境なのかもしれない。それなりに生きて行けるのは、まずまずの在り方なのだろうし、是が非でもそんな立場を死守したいわけでもないが、とりあえずの居場所を確保できているのだから、まんざらでもないわけで、理想状態など追い求めたら今いる環境が壊れてしまいそうに思われるなら、世間体を気にして追い求めるふりは装うものの、その姿勢に身が入っていないことを悟られないための演技に余念はなく、そんな演技が高じて、メディア向けのパフォーマンスで乗り切ろうとする戦略が主流となっているのではないか。それは日本だけに限ったことではなく、今や世界中がその手のパフォーマンスで溢れかえっているのであって、考えようによっては、イスラム武装組織が仕掛ける自爆テロでさえ、その手のパフォーマンスの一種だと見なされてしまうような現状なのではないか。もはやありふれていて大した成果など期待できないものの、にもかかわらず死をかけてテロ遊戯に挑んでくる心境は、世の流行に身を捧げる快楽主義的な気分かもしれず、世の中に真の快楽を体験できる対象などありえないかもしれないが、快楽に浸っている姿勢を見せつける演技は可能なのだろうし、それがパフォーマーとしての今時の流行形態なのではないか。

 そんなやり方がいつまでも流行り続けるとは思いたくはないが、中身のない空疎な政治宣伝が何の効果も意味もないのは承知しつつも、ただ何かやっている姿勢を見せつければいいわけで、それをメディアを通して大量に発信し続ければ、大半の人たちは納得はしないだろうが、少なくとも投票する口実にはなるわけで、危機感を煽っている人たちは正気の沙汰でないとは思うだろうが、彼らが感じている危機感の原因こそが、中身がなく実態の定かでない期待以前の好感を持たれる雰囲気であり、人々は騙されているわけでも本気で信じているわけでもないが、とりあえず根拠のない安心感に導かれていることは確かだろうし、パフォーマーが繰り出す空疎で軽薄な宣伝文句を信じているふりを装うわけだ。しかもそれで危機に陥らないならそれに越したことはないわけで、軽いノリでそんなふりをしているのだから、野暮な脅し文句を連発する人々を煙たがっているのは間違いなく、とりあえずこれから何が起ころうとも、そんなことは眼中になく、危機感を煽る人々が、そら見たことかとなじっても意に介さないのではないか。あとはそんな状態がこの先どれほど続くかだが、いくらひどい状態になってもたかが知れているなら、ひどい状態自体がたかが知れているということは、もう何が起こっても感知しないということかもしれず、絶望とは無縁の心境で居られるわけだから、かなり執拗に持続すると考えておいたほうがよさそうで、そんな人たちと無理に我慢比べなどしない方がいいだろうし、なるべく平静を保ちながらできる範囲内で理性的に振る舞うしかないのではないか。


7月10日「成功の代償」

 とりあえず力は使ってもらうに越したことはないのかもしれない。それがごり押しだと言われようと、力を使うことで都合の良い結果が出るなら、やはり使ってもらった方がいいだろう。そして思い通りの結果が出たら満足すべきであり、それが悪いことだとは思わない方がいい。実際に思う存分力を発揮できる環境になっているとしたら、それは時流に乗っている証拠だろうか。少なくともその時点では勘違いではないだろうし、それなりの結果が出ているとしたら、ひとまず肯定的に状況をとらえるべきなのではないか。現実にうまくいっていると思っているだろうし、良い結果が出ているのだからうまくいっていないとは思えないだろう。ではもう準備が整っているのだろうか。たぶん冗談ではなく本当に準備が整っているのではないか。ならば今がその機会なのだろうか。しかし何が行われる機会なのか。まさか今この時点が変革の機会だとは思わないだろうか。良い結果を得られた人たちはそう思っておいて差し支えなく、実際に自分たちが信じるような変革を行おうとするのではないか。そうなら話は簡単で、やるならさっさとやってもらった方がいいだろうし、それが今後にも良い影響を与えそうで、そのやろうとする変革によって、邪魔な人たちが一掃されるようなら、なおのこと好都合なのかもしれないが、実際にそうなるだろうか。ともかくやってみれば分かることだろうから、彼らがやりたいように改革をやらせればいいのかもしれない。そして彼らを信じている人たちも、彼らを応援し続けたらいいと思われる。

 とにかくこれからが面白いところであり、マスメディアも一緒になって彼らのやる改革を盛り上げたらいいだろう。少なくとも悲観することはないだろうし、否定したり批判してみてもいいだろうが、それは責任逃れのアリバイ工作と映るだろうから、往生際の悪さをさらけ出すだけだとも思われかねず、できれば最後まで彼らのやることを支持するのが、マスメディアとして責任ある態度だろうし、途中で裏切るのは信用されなくことを覚悟しておかなければならないだろうか。まだこの時点では逃げ出す必要はないだろうし、彼らと翼賛体制を組みながら、彼らの指し示す道を一緒に歩むべきなのではないか。たとえこれから事態がこじれにこじれるとしても、こじれているように思われてはならないのかもしれず、努めて平静を保つべきだろうし、もしかしたら何がこじれているとも感じられないままに、時が過ぎ去ってゆく可能性もなきにしもあらずで、それを意識できない方が、彼らにとっては良いことだろうし、一度翼賛体制が出来上がれば往々にしてそうなるようで、過去の事例もそれを示してはいるようだが、たぶん過去とは同じ成り行きにはならないだろうし、今回は今回で独自な成り行きや展開を見せながら、後から振り返ってみれば、また興味深い事例となりような予感もしているわけだが、果たして今主流派を構成する人々に、後から振り返る余裕や時間が生じるとは思えないのであり、後の世の人々がこの時代を振り返って、どんな感想を漏らすとしても、今の時代に生きている人々には関係のないことなのだろう。

 それにしても傍観者を決め込む人には絶好の観察の機会が与えられてしまって、中には今からわくわくしている人もいるかもしれないが、たぶん自らが傍観者だと思い込む余裕のない人が大半を占めるだろうし、これから始まる茶番劇に参加する人が国民の大部分だろうし、茶番劇だなんて斜に構えることすら許されないのかもしれないが、少なくとも悲劇にはなりそうもなく、愉快な顛末となりそうな予感がしているわけで、その一部始終が後々までの語り草となるようなら、ひとまず成功なのだろうし、現状でもかなり成功しているのではないか。それは失敗することに成功しているような苦い成功などではなく、ごく当たり前のように成功しているのだから、もう怖いものはないのかもしれないが、それは怖いもの知らずの成功なのだとしたら、何も成功している現状を恐れる必要はなさそうだ。その怖いもの知らずになることが、愉快な顛末を引き起こす可能性を示しているのかもしれず、今の時点ではまださすがに彼らも半信半疑なのかもしれないが、これから数の力を背景にして調子に乗ってくれば、だんだん怖いもの知らずになるだろうし、たぶんそうなった時以降が面白いのであり、主要登場人物も期待に違わぬタカ派揃いだろうから、自分たちの求めるものを奪取しようとして、さらに力を行使しようとするのではないか。そしてそうなってしまえば、そこから先に待ち受けているのは、さらなる成功であるべきだろうし、そうあるべき成功に向けて、もう後戻りなど眼中になくなるだろうし、退路を絶って前進するしかなくなくなり、それまでにやってきた所業も積み重なって、何か想像を絶する結果をもたらすかもしれない。架空の傍観者はそれに期待しているのであり、現時点では誰も期待していないような結末に至るだろうか。


7月9日「思考の対象」

 どちらでも構わないと思っていれば、興味が湧いてこない。そうではなく、どちらにも興味を抱いているのかもしれない。ただどちらでも構わないと思わせる対象があるということだろうか。その対象は何なのだろうか。明日の天気が晴れでも雨でも構わないが、晴れたら晴れたで、晴れ渡った空を見上げれば気分が爽快となるかもしれず、雨なら雨で、雨曇りの空を見上げながら、風情があると思うだろうか。心にゆとりがあれば、そう思ったりそんな気分となるかもしれないが、他のことで手一杯なら、空模様までは気が回らないのではないか。どちらでも構わないのが明日の天気ではないとすると、他に何か思いつきそうな物事としては何が挙げられるだろうか。挙げることはできるが、それについて何か述べる気が起こらず、述べなくても構わないような気になっているのではないか。取り立てて述べる義務などあるわけもなく、無理に述べようとすると、述べている内容がくだらなく思われてくるかもしれない。そう思うならどちらでも構わないわけではなく、それについて述べるのを差し控えていることになりそうだが、無理に述べる必要もないこととは何なのか。それを述べてしまったら、差し控えていることにならないだろうか。何を差し控えているのかを示さないと、何を述べていることもならない。それを示しても示さなくてもどちらでも構わないのなら、何を述べていることにもならなくてもいいわけか。

 どちらでも構わないのなら、それもまだ心にゆとりがあることを示している、と受け取っておいても良さそうなものだが、自粛しているとも受け取れるかもしれず、それを肯定的に捉えるにしろ、否定的に捉えるのしろ、それもどちらでも構わないと思うところかもしれず、どちらにしろそれについて語る決心がつかないまま、逡巡しているわけだ。そうやって何か思わせぶりなほのめかしへと誘われたら、秘密が暴露される成り行きが期待されることにもなりそうだが、あいにく自ら暴露して他人を驚かすような秘密などにわかには思いつかず、秘密を捏造する気も起こらないだろうし、要するにすでに語るのに必要な虚構が尽きているのかもしれず、これ以上は空疎な文章を長引かせるわけにはいかないだろうか。しかし実際に何がどうなっているのかといえば、何もどうにもなっていないわけではないが、何かをどうにかしようとする思惑が、あからさまに顕在化しているような世の中ではないのかもしれず、語られるのは常に思惑とは違う内容であり、思惑自体も人が思っているような思惑とは違い、人を取り巻く環境の中に滲み出てくるような類いであって、容易には人の意識が捉えきれないようなものなのかもしれない。それが何を意味するとも思えないのだが、意味を突き詰めて追求してゆくと、その途中で消え去ってしまうような意味であり、そうと意識せずに無意味なことをやってしまうような世の中になっているのではないか。

 取り止めがなく漠然とした思いというのが、何をやる上でもつきまとい、明確な目的意識を腐食させ、何かがっかりするような結果を招いしてしまう成り行きの途上で、誰もが生きているのかもしれず、誰もそうは思わず、そんな意識など全く感じないとしても、結果が示しているのは、どちらでも構わないような内容であり、意味の不確かな対象に依存しながらやっているわけで、それをやっている当人たちは、特定の主義主張の操り人形と言わないまでも、人形でさえなく、ましてや人間と言えるような内容も伴っておらず、では何なのかといえば、ただの空疎でしかないと言えなくもない。やっていること以外は何事にも無関心であるならば、ただの動物なのかもしれないし、動物であっても生きて行ける環境が整備されているわけで、動物であれば悩む必要もないだろうし、ただ生きて死んでゆくだけはないにしても、生きている間は何かしら動いていて、その動きが滑稽なら、他の人たちの笑いも誘って、それが社会に貢献しているように装うことも可能なのかもしれず、実際にそんな映像を眺めながら薄ら笑いを浮かべていれば、それが暇つぶしの効用といったものかもしれない。それなら何事にも無関心であるはずがないだろうし、少しは関心のある対象もあるらしいが、実際にそこに存在している事物が人間である必要もなく、心のない機械が画面を眺めているのでもないだろうが、心という虚構などなくても構わなければ、何か特定の人格を纏うこともないだろうし、纏わなくても喜怒哀楽を表現できるわけで、それはその身を取り巻く周囲の環境や接しているメディアからもたらされるものなのではないか。要するに人は人であってもなくても構わないのであり、人が人でないなら、人が思考の対象ともならないだろう。


7月8日「比較」

 人は生と死から逃れられない。そんなことは当たり前なのだろうが、人それぞれで境遇が異なるのだから、各自が獲得する富の配分が不均衡で不平等なのも当然だろうし、不利益を被っていると思えば不満が募ってくるだろうし、自分以外の特定の個人や団体が優遇されているように思われたら、やはり不満が募ってくるだろう。優遇されるような制度や仕組みとなっているのなら、それを変えてほしいと思うだろう。国は不利益を被っている人たちを救済すべきだとも思うだろうか。人々が政治や行政に求めているのは、大体においてそんなところだろうか。その優遇されている人や団体や、不利益を被っている人や団体が、どのような人や団体なのかについて、何か納得のいく判断基準があればいいのだろうが、例えば原発が再稼動されないから不利益を被っている人や団体の要望を優先して、保育所の空きがなくて困っている人の要望を後回しにする、という判断も場合によってはあるわけだから、その二つの要望に優先順位をつけるのは荒唐無稽だからありえないだろうが、何かそうやって一見関係のなさそうな事柄を比較して、それを批判材料にしてしまうやり方が結構はびこっているのかもしれず、そういうところからおかしな論理のこじつけが生じて、人々の判断を惑わしている傾向があるのかもしれない。

 では一見もっともらしいような気がする比較とは具体的に何か。国際競争力のありそうな大企業を税制面で優遇し、個人の給与からはきっちり所得税を差し引くのは不公平だろうか。法人税と所得税は種類の違う税金で、一概に比較はできないが、一般に企業は儲けが出ていなければ法人税を払わないことにはなっているから、法律に違反しない範囲で何らかの会計処理をして、儲けが出ていないように装うことも可能ではあるのだろうし、法人税を払わなくても固定資産税や消費税や従業員の所得税などは払っているだろうから、もちろん消費税を払っているのは消費者で、所得税を払っているのは従業員ではあるわけだが、消費税が生じる商品を売って所得税が生じる従業員を抱えているわけで、そういう意味で資産も売り上げも従業員も多い大企業なら、国に税収の面では多大な貢献をしていることになるわけで、定期的に国税局の税務調査なども入っていて、たまに不透明な会計処理を指摘されて追徴課税を受ける場合もあるだろうが、国としては大企業にはそれなりに配慮せざるをえない成り行きになるのではないか。それを日本は大企業にとってはタックスヘイブンと同じだとか、貧富の格差を増大させている元凶だと批判することができるだろうし、そういう批判を日ごろからやっている方面では筋の通った論理にはなるのだろう。

 そういうもっともらしい比較や批判が、何か税制の平等や公正さを実現しているかといえば、はっきりしないところであり、現政権は大企業や金持ちを優遇して一般庶民をないがしろにしている、と批判することはできるのだが、そういう批判を行っている急先鋒の共産党あたりが政権を奪取しないことには、現状は変わりそうもなく、そもそも共産党が政権を奪取すること自体が、ほとんどの人たちがありえないと思っていることだろうし、いくらでも批判できる批判は批判にしかならず、批判によって制度や仕組みが改まることはないなら、その手の批判は無効だとみなしておくべきだろうか。また例えば憲法改正についても、このままでは改憲勢力が議会で3分2を超えてしまうと危機感を煽るのは、誰もが安心できる主張であることは確かなのだが、矛盾すると指摘を受けている武力を放棄した9条と実質的に武力を所持している自衛隊の問題でも、9条を改正して自衛隊の存在と役割を9条に明記しようと主張してもいいのではないか。そうやって改憲が悪で護憲が善であるかのような価値観を突き崩して、改憲するか否か以前に、改憲にも多様な改憲内容があり得ることを示して見せた方がいいのではないか。そして現状の政府与党の改憲内容には反対だが、将来的には妥当な改憲案を示して、国民投票で国民の判断を仰ぎたい、というような趣旨の発言もすべきなのかもしれない。政権交代をまともに目指すなら、そうやってなるべく人々が比較検討できるような選択肢を提示し続ける必要がありそうだ。


7月7日「対症療法」

 商品をいくら製造しても売れなければどうしようもないことは確かだろうが、商品を買わなければ暮らして行けない人が世の中の大部分を占めているのだから、売れなければどうしようもないのと同時に、買わなければどうしようもないわけで、現状では商品の売買から経済がどうなることもないのだろうか。要するに商品の売買を基本とした資本主義経済を覆す可能性はありえないとなるだろうか。資本主義経済が自然発生的に生じたものである限りにおいて、人為的には乗り越えられないのかもしれず、別の経済が今後主流になるにしても、それも自然発生的に生じるしかないだろうか。そうだとすれば人にできることはといえば、現状の資本主義経済の中でいかにうまく立ち回ること以外にはありえないだろうか。それとも人為的に資本主義経済の矛盾や不具合を是正する試みを推し進めるしかないだろうか。国家権力によって資本主義経済を規制したり制御する試みは、これまでに様々に試みられてきたわけで、例えば資本による労働者の搾取を緩和するためには、労働時間の規制や最低賃金の設定などがあり、失業者の保護には失業保険の給付や、破産者には生活保護制度などがあるわけで、最近では一律に国民に対して現金を給付するベーシックインカムが取りざたされているが、あまりに労働者を保護を手厚くすると産業の競争力が削がれて、国家財政が悪化するなどの弊害が出てくるという主張もあるわけで、どの程度まで国民に対する福祉を優先するかは、国民経済の状況にも左右されて、長期的に経済が低迷しているとみなされる場合は、景気刺激策に予算を回して福祉予算が削られる傾向にあるわけだが、そういう方向性がどの程度まで成果をあげるかは不透明であり、本当のところは誰にもわかっていないのが実情だろうか。

 それも資本主義経済と国家権力とそれに関わっている国民と政治家と企業などが絡み合って展開している自然現象と捉えておけば、それなりに納得がいく成り行きなのだろうか。それにしても何か解決する糸口が見つかっているわけではなく、それに対して様々な立場から百家争鳴的な議論がなされるだけで、こうすればうまくいくという明確な答えがない状態で状況が推移するしかなく、要するにこれも一種の自然状態なのであり、それ以上に何が言えるわけでもないだろうか。そんな明確な解決策が見つからない状況の中で、対症療法的なやり方以外に何か根本的な変革を期待するのは無理かもしれず、政権を担っている政治家が主張する欺瞞的な宣伝と、その見え透いた嘘を批判すること以外に、選挙での争点が見当たらないのであり、そこに政治的な試みの限界があるだろうし、政治に対する無関心を招いている原因もその辺にありそうなのだが、それに関しては誰も真正面から言及できない現状もあるわけで、結局それについては直接触れずに、自分たちの立場から生じる一長一短のある百家争鳴的な言い分以外には、政治に関心を持とうだの、選挙に行って投票しようだの、このままでは大変な事態になるだの、何か奥歯に物が挟まったようなもどかしいことしか言えないわけだ。それも自然現象だとみなせば、人々の政治的な無関心もそれに含まれるわけで、それを招いている原因もそんな感じでわかっていることなのだろうが、それに関して明確な解決策がないこともわかっていることなのだろう。仮に危機感を煽って投票率を一時的に上げることに成功したとしても、それも対症療法的なやり方の一種なのだろうし、今のところは根本的な解決策などありえないことが、依然として放置されたままとなるしかなく、対症療法的なやり方をその場その時の状況に合わせて繰り出して行く以外にはなさそうに思われる。


7月6日「楽観視」

 商品が売れなくなれば企業は立ち行かないし、実際に売れているから世に無数の企業が存在しているわけで、売れているとすれば買っている存在があるわけで、その買っている存在というのが消費者としての個人なのか、あるいは企業同士で売り買いしている場合もあるだろうが、商品を買いながら暮らしている人が世の中の大半を占めている現状もあるのだから、少なくとも多くの人たちが商品を買えずに困っているとしても、それは買いたい商品を買えずに困っている一方で、生活するのに支障をきたさない程度には商品を買えているわけで、買いたい商品を買えない不満が残るにしても、暮らしていけないわけでもなさそうで、そういう水準では経済が行き詰っているわけではないのだろうか。大雑把に現状を捉えるならそうなるだろうか。だがそうだとしても、そんな現状認識が何をもたらしているわけでもないだろうし、要するにそれで構わないわけだ。

 だがその程度の幼稚な認識では、選挙への関心には結びつかないだろうし、もっと何か状況を深刻に捉えなければならない理由を考える必要に迫られているのだろうか。その必要がなければ仕方のないことかもしれないが、それ以外に投票する上での判断基準があるわけで、それがあると思っている人たちが状況を深刻に捉えているのだろうし、差し迫った危機を回避するためには、是が非でも特定の候補者や政治勢力を勝たせなければならないと考えれば、選挙に対する本気度も違ってくるだろうか。ふざけているのではないにしても、何かそれなりにこだわりがあって、そのこだわりを判断基準にして、投票する候補者や政党を決めている人もいるだろうし、真面目に考えるなら、中には民主主義を守るため、あるいは憲法を守ることを、是が非でも投票の判断基準にしてほしい人たちもいるわけで、すべての人が今起こっている事態を深刻に受け止めて投票するなら、自ずからそれらの人たちが望むような選挙結果を得られるはずなのだろうが、今のところはメディアの世論調査結果が、残念ながらそうはなっておらず、まさにそれが今起こっている深刻な事態だと危惧するような結果となっているわけだ。

 それが取り越し苦労だとは言わないが、逆に杞憂に終わらない方が面白そうで、憲法改正の是非を問う国民投票もやってみたい気もするのであり、その方が面白いと言ったら不謹慎だろうが、彼らが恐れている深刻な事態に国民を直面させた方が、かえってはっきりした結果が出るのではないか。そんなごまかしのきかないところまで事態が至れば、一応の決着がついてすっきりしそうな予感もあるわけで、結果によっては不正投票だ何だのと言う往生際の悪い人も出てくるだろうが、たとえ民主主義を守る護憲派の人たちを絶望のどん底へ叩き落すような結果になろうと、それはそれで中途半端なモラトリアムな気持ちが吹っ飛んで、将来へ向けて明るい展望が開けるのではないか。改憲を推し進める人たちの勝ち誇った満面の笑みを想像すると吐き気を催すような人たちも、そこから何か吹っ切れて、新たなる戦いを開始する成り行きになれば、その先の展開に期待が持てそうなのだが、果たしてそこまで事態が進展するのかどうか、現状では甚だ疑問に思っているわけで、途中でこじれて中途半端な妥協に陥る可能性の方が高いのかもしれない。


7月5日「衝動」

 やりたいことをやろうとするのは人の習性だろうか。習性以前に当たり前のことだろうが、やりたいことがあるというのが不思議なのかもしれず、それをやりたくなった理由や原因を追求していくと、人にそれをやらせようとする社会的な背景を知るに至るだろうか。そうではなく他の誰かがそれをやらせようとしているなら、話が早いのだろうし、ごく一般的に考えるなら、仕事をしなければ食っていけないからやらざるをえないとなるわけで、そういう差し迫った状況に追い込まれていれば、それをやる上ではっきりとした理由や原因が生じていることになりそうだ。だがそれはやりたいことではなく、やらざるをえないことであり、そうなると仕事はやりたいことの範疇から外れるのではないか。逆にやりたいことをやるには仕事をやめなければならなくなる場合も出てくる可能性もあるわけで、自分の生活を犠牲にしてでもやらなければならないことがあるとすると、それをやることで自分が不利益を被るかもしれないのに、それでもやらなければならないとなると、何かそれをやろうとする上で真っ当な理由を導き出せるだろうか。考えられる否定的な理由があるとすれば、何か勘違いしているということだろうし、それをやろうとすることによって得られる幻想を追い求めていることにもなりそうで、それがやりたくない仕事をやることで得られる利益に勝っていることにもなりそうだが、その自らが不利益を被ってでもやりたいこととは、それをやりたくなった理由や原因を超えて発動する使命感のような衝動からもたらされているのかもしれず、やろうとしている時点では理由や原因などは眼中になく、冷静に考えればやるのを躊躇させるようなそれらを忘れることによって、それをやるに至るのであり、やるきっかけは衝動的であったとしても、結果的にやることに成功したり失敗したりした時点で振り返ると、何かやるに至らせる理由や原因を知ることができ、なぜそれをやってしまったかに関して、つじつまの合うような説明も可能ともなるのかもしれない。

 それを説明する上では理由や原因は重要だが、それをやっている当人にとっては、そんなものは無視してやっている場合もあるだろうし、特に不合理なことをやっている場合は、ただその場の感情に任せて勢いでやっているかもしれず、そうでなければ、何かその場では説明不可能な作用が及んでいる場合もあるだろうか。それは外部からでも内部からでもなく、そのやっていること自体から力が生じていて、それをやっていることがやり遂げさせるような力をもたらしている場合があるのかもしれず、時間的な前後の脈絡からではなく、同時進行でやっていることがやることを可能としていて、それは実際に生きていることが生き続けていることになっているのと同じなのかもしれず、それがそれ自身の存在の証明ともなるだろうか。何かをやっていることがやっている当人の存在を示していることは確かだが、その存在していることに意味を求めてしまうと、存在する理由や原因を求めてしまうことになりそうで、そこから先はつじつまの合うような説明を試みてしまうだろうし、そんな説明が理由や結果から存在する必然性へと至るなら、いつしかやりたいことをやっていること自体が忘れ去られてしまい、やっていること自体がどうでもよくなってしまうことにはならないだろうが、やっている当人がそれをやっていることとは別の方面へと関心が移っていってしまうだろうし、それが説明によるはぐらかしではないにしても、そんな説明自体もそのやっていることに影響を及ぼうとしていることになりそうで、それを説明することによって、当人がやっていることに介入してきて、そこに説明の合理性とやっていることの必然性を導入して、やっていることを変質させてしまうのかもしれず、やっていることとやっていることに関する説明とは傾向も方向性も違うは当然としても、そこで力点が移動して、それに関する説明こそがやりたいことである場合もあるだろうし、何かやっていることに関して疑念を抱いているとすれば、それを説明すること自体が疑念を解明したいという衝動そのものになっているのではないか。


7月4日「兆し」

 現状で支配的な組織形態の集団が世の中を牛耳っていると考えると分かりやすいが、その集団が企業であれ政党であれ官庁であれ、人はそれらに依存しそれらを利用しながら生きているわけだから、何か不祥事がある度にそれらの集団がメディア上で批判にさらされることがあるにしても、集団の中で責任ある地位を占める人が辞任したり交替したりして、何かそれで一件落着して批判も沈静化するわけで、依然としてそれらの集団が社会の中で支配的な立場を保っている状況に変わりなく、そのような社会構造が変革されるには至らないのであり、変革される必要があると考えている人もそれほどいるわけでもないのではないか。どのように変革したらいいのかもわからないだろうし、変革するような作用を及ぼせる何らかの社会勢力が存在しないのかもしれず、それらの集団や集団内の責任者を批判することはできるが、批判と変革とは違うことだろうし、批判して責任者が辞任しても組織は温存されるわけで、慣習などのような組織的な特性から不祥事が発生する温床が生じているとすれば、責任者が交替したところで組織的な特性が変わることはないだろうし、変わることはないと言っても、責任者が替われば組織も変わったように思われてしまうから、組織そのものの構造的な変革までは至らず、それが逆に社会の安定と構造の堅固さ示しているとすれば、それらの集団を支えているのは、そこで暮らしている人々や人々がとらわれている慣習などを含む社会そのものだろうか。

 人と社会とそれらの集団が一体化していると捉えれば、それらが互いに支え合っているから、変革を起こすのは難しいだろうし、人が意識して変革を起こすのではなく、社会情勢の変化によって変革が起こるかもしれないが、人が望むように変革されるわけではなく、思いがけない形で変革が起こることがあるわけで、変革が起こった後からつじつまの合うような説明は可能かもしれないが、起こった時点では思いがけないことだろうし、その時点では何を意味するわけでもなく、ただ不意に驚くようなことが起こるのだろうか。フランス革命にしてもロシア革命にしても、起こった当時は驚くしかないような事件だったのだろうが、時かが経つにつれてだんだんとその原因や理由に関して、つじつまが合うような説明ができるようになってきたのだろうか。そうだとすると今起こっている様々な社会的な事象にしても、後になってみないことにはうまく説明できないことの方が多そうだが、しかし今の時代で起こっている驚くべき事件とは何だろうか。フランス革命やロシア革命級の驚くべき事件が起こっているのだろうか。まさかそれに気づいていないということはないだろうが、時代状況が昔とは違っていて、安易に昔と今の時代を比較すべきではないのかもしれず、今の時代には昔とは違う特有な現象が起こっていて、それが取り立てて驚くような事件ではないかもしれないが、将来の社会変革につながるような現象が現に今起こっているのかもしれない。

 それは何だろうか。それは逆に変革を阻むような現象かもしれず、確かに安易なポピュリズムと政治的な保守化が世界的に顕著になってきている一方で、国と国との全面戦争とは無縁のイスラム武装勢力によるテロの蔓延も深刻化していると言えるだろうか。昔とは違って人間の自由や平等や友愛とは無縁で、万人が肯定できるような高邁な理念とも無関係である一方で、経済的な利益だけはひたすら追求している面もあって、それが宗教的なまやかしによって偽装されていると見るべきだろうか。従来の価値観からすれば誰もが求めているとみなされた政治的な民主化を嫌う人々が、ポピュリズムにも保守勢力にもイスラム武装勢力の中にも台頭してきたようにも思われるし、経済的な実利を優先することと民主的な政治を実現することが両立不可能であるように思われてきたのかもしれず、人々の自由や平等を犠牲にして、国家や企業や宗教の利益を優先する傾向にあるようにも見受けられ、何はともあれまずはそれらの社会の中で支配的な組織形態である集団が安定的に存在すべきであり、人々はそれらの集団の意向に従うべきだという規範を確立しようとしているのかもしれず、それが集団内で指導的な立場を占有している人たちの一致した思惑だとすれば、やはり集団的な意向となってそういう方向で権力が行使される傾向があるだろうし、それを集団の意志と捉えるなら、人々はそんな意志に従うか逆らうかの選択を迫られていると言えるだろうか。そこまで意識する必要はないのかもしれず、特に意識せずに何となく従っていたり逆らっていて、個々の人たちは意識していないが、結果として集団の意志となって顕在化しているように感じられるわけか。それも社会が変わってきていることの表れではあるのだろうが、人々が望むような変革でないことは確かかもしれない。


7月3日「現実からの遊離」

 無意味なことを言うなら人はいくらでも生きていていくらでも死んでいる。ただ漠然と現状を表現するならそういうことになるだろうか。もう少し詳しく具体的な事柄について語ると、人間社会は問題だらけで、しかもこの世界には何の問題もない。わざと矛盾したことを述べるならそうなるかもしれないが、言説の中では特定の人が一般的な人間として問題化され、問題化された人間が社会の中で不平等と不均衡を利用しながら他の何かに力を及ぼそうとしていて、実際に権力を行使しているように思われる。それが権力と呼ばれると、その何かというのがわかりやすく言えば他人であったりするわけで、そこに人間関係が生じているように思われるのだが、そこで何が不平等で不均衡なのかといえば、さらにわかりやすく言えば富の配分が不平等で不均衡なのだろうか。そう述べている時点ですでに何らかの力が及ぼされた結果がそうなのだろうが、力の作用はそこからさらに不平等と不均衡を拡大する方向で力が行使されているわけで、力を行使していると思われる人間は、社会の中で不平等で不均衡な関係を定着させているように思われるわけだ。思われるだけではなく、実際に定着しているのだろうか。そう思われるとすればその通りかもしれないが、絶えず力を行使し続けることによって定着しているわけで、力の行使をやめてしまえば、それに対する反作用として生じている抵抗する力に押し戻されて、いきなりその関係が崩れてしまうから、それをやめられない面もあって、定着しているように感じられるにしても、それは絶え間ない力の行使が作用している限りでそうなっているのだから、力を行使し続ける人たちにも大変な苦労が伴っているのかもしれない。まさに一時たりとも気を抜けない現状があるのだろうか。ある場面ではそうかもしれないが、その場面というのが誰もがその場に居合わせるような場面ではないのかもしれず、気づかないうちにその場を通り過ぎてしまう人も大勢いるのかもしれず、中には力の行使に対してまともに抵抗してこない人たちもいるのではないか。わざと見過ごしているわけではないが、心に余裕があるなら経済的にも余裕があり、その身を取り巻く社会関係の中で楽な位置を占めている可能性もあるのではないか。

 そこがつけ込む隙なのだろうか。実際につけ込んで何かやっている人や勢力が、いったいどれほどいるかに関しては、にわかには感知できないところだが、うまく立ち回るに越したことはないようで、すでに生じている有利な条件を利用して、さらに好き勝手なことができる余地を広げようとして、何やら姑息なやり方を積み重ねながら生きている人たちも結構いるにはいるのではないか。無理に偽装しているわけではないのだろうが、貧乏人の味方を装う煽動者などは馬鹿正直でまかり通っているようだが、そう見えるように仕向けているわけではないにしても、そういう煽動の光景に目を奪われるのはもはや一部のネットメディア上だけのようで、他の大半は気晴らしの娯楽で占められているかもしれず、娯楽を楽しんでいるように思われるとしても、そこに何か計算や打算が働いている場合がほとんどで、ただやっている当人にもそうは思われないから、そんな状況を楽しめるのかもしれず、そこで直接の権力行使の実態がはぐらかされているわけだ。自らに力が行使されていると思わなくてもいいわけで、そんな成り行きに身を任せている感覚しかもたらされないから、自らの置かれた状況の真実が見逃されているわけだが、それでも当人にしてみれば上手く立ち回っているつもりなのだから、それで取り立てて不都合は感じられず、その場の流れにフィットしているように思われるのではないか。要するに流れに逆らう人たちには感じられる権力の存在を感じられない限りで、自由に振る舞っているつもりになれるわけで、逆らう人たちの方が無理に抵抗してわざと不自由を装い、その装われた不自由を誇張して表現しているように思われるのかもしれず、そこから権力に抵抗する人たちに対する違和感が形成されているのかもしれない。彼らにとってはそれが不自然に思われるわけで、不自然さを強調する一方で自然さを無視しているように思われるだろうか。そして自らが自然に振る舞っている環境から遊離しているように思われるなら、抵抗する人たちは敵になる可能性もあるが、そう思う人は少ないだろうし、ほとんどは戯れ事の範囲内なのではないか。それが娯楽の効用であり、恐ろしくも愉快な現実なのかもしれず、例えば死に際の老人などがその感覚から遊離しているのだろうか。


7月2日「おめでたい」

 世の中にはテロに巻き込まれる人もいる。思いがけない運命が待ち受けている。それがどんな運命であろうと受け入れざるをえない。運命だから仕方がないのだが、運命でない場合があるだろうか。偶然の巡り合わせを避ける術があるとしても、勘が働くのは気まぐれのなせる業だろうか。意識しなくても身体に条件反射的な自動制御機構が働いていると思っておけば、気休め程度の効用はありそうだが、実際にテロに巻き込まれて死んでしまう人がいる一方で、今のところはそんなことはごくまれに起こる程度のことに過ぎず、統計的に見れば交通事故死の方が確率的には遥かに高そうで、交通事故死と同じ人数が毎年テロで亡くなれば、それは深刻な事態だと言えるだろう。もちろんそんな比較が意味をなすとは思えず、たとえ数人でも日本人がテロで死亡すれば大きなニュースとなるだろうが、そんな生死を分けるような場面で勘が働くのとは別に、何気ない日常の中でも常に勘が働いているだろうし、その勘の働き具合がその後の運命に重大な作用を及ぼしているだろうか。その後であると同時にその時であり、すでに起こったそれ以前の運命にも影響を及ぼしているのかもしれず、過去から現時点を通って未来へとつながっている成り行きの中で、何かやっているような気でいるわけで、どうしてもそこに連続性を意識してしまい、その何だかわからない一連の成り行きの中で自身が動作している思い込んでいるわけだ。

 それが何を意味するのだろうか。意味を求めてもわかるとは思えないのだが、未来のある時点で何らかの結果を得れば、その時までに自分のやってきた行為の意味を悟るに至るかもしれない。たぶんそれが求めている意味であり、それは何らかの結果を得られなければわからない意味だろうし、意味とはそういうものだと理解するなら、何の結果も得られなけば、無意味なことをやり続けていたと実感するだろうか。それは何かをやっている途中では実感できないことだろうし、やっている途中では何だかわからないまま、ただ何かに導かれているような気がするわけで、そんな気がするならそこで勘が働いていると思っておけば、それほど外れているわけでもないだろうか。結果的に何も得られなければ勘違いだったということであり、やはりその勘違いを悟るまでは何かを続ける必要があるのかもしれず、将来を楽観するにしろ悲観するにしろ、現時点ではとりあえず勘を頼りに何かやっているような気になっているわけだ。そしてその中には気まぐれでやっている部分もあるだろうし、時折何か確証を得たような気になることもあるだろうか。それもそれ相応の結果が得られなければ勘違いだったことになるだろうが、絶えず何かをやっている途中のような気がしているなら、何らかの結果を得られるまではその途中の行為をやり続けようとはするだろうし、どう考えても何も得られないような気がするまではそれをやり続けようとするのではないか。

 そしてやりすぎてしまう場合もあるかもしれず、後戻りもやめることもできなくなっている状況に気づき、行き詰まりを実感するだろうか。きりのいいところでやめておくべきだったと反省するかもしれないが、もはや反省している場合ではなく、反省する暇があったらさらに続けるべきではないのかと迷う場合もあるだろうし、そんな迷いが行き詰まりの延長上で抱く疑念には違いないが、行き詰まりを経験しないと、そのような成り行きから抜け出ることができないかもしれず、違うやり方を模索するという発想も生まれてこないのではないか。そんなふうに思うようになれば、今までやってきたことと距離をとる余裕も生じるだろうし、それが自らのやってきたことを振り返る機会にもなり、行き詰まりを招いた反省の延長上でそんなことをやっているわけか。だが結果的にどんな動作や心境に至っているとしても、自意識過剰の独りよがりな思い上がりではどうしようもないだろうし、何をどう思っていようとそれは自身が勝手に思っていることでしかなく、何を成していることもならないだろうか。何かに巻き込まれているのではなく、外部を巻き込むようなことをやっていなければ、何もやっていることにはならないだろうが、それが外部に存在する何かとの関係を築くことになるのだろうし、その何かが特定の人や組織的な集団であったり、不特定多数の一般大衆であったりすると、社会の中で何かをやっているような気にもなるし、その気になって社会に対して何らかの影響を及ぼしているような気にもなるだろうか。そうなれば後はそれが独りよがりな思い上がりでないことを祈るばかりかもしれないが、そんな心境に至れる人はおめでたいのかもしれない。


7月1日「信じること」

 今の世の中で労働者を苦しめているのは、個人としての資本家や官僚よりも、企業や行政などの組織である場合の方が実感を伴うだろうし、個人としての資本家や官僚なども、それらの集団である組織に組み込まれているわけで、金持ちや企業や行政の幹部たちが、労働者を直接搾取しているというよりは、集団が個人を拘束し搾取しているように感じられるのではないか。しかも労働者とひとくくりにして捉えるのは大雑把すぎるようで、労働者にも上は取締役などの幹部役員から中間管理職を経て、下は平社員から非正規労働者までの階層構造があり、もちろん管理職を労働者には含めないかもしれないが、一応は役員報酬という賃金とは異なる種類の金銭をもらって働いているわけだから、企業のオーナーが代表取締役と重なる部分はあるにしても、昔ながらの資本家とは区別して捉えるべきだろうし、何かその辺で搾取される側とする側という関係とは違う構造になっているのではないか。中でも株式会社という組織形態が、資本と経営を分離している構造であり、資本を出資しているオーナーではなく、傭われ経営者が社長になっている場合も多く、また官庁などの行政機関ともなると、トップの事務次官に権限が集中しているわけでもないだろうし、組織が一体となっていて、その中で働いている個々の官僚たちは、機械装置の内部の歯車でしかないのかもしれず、外部からは組織全体の意向に従っているに過ぎないように見えてしまうのではないか。それは大企業などにも言えることだろうし、ワンマン経営者と呼ばれる社長や会長の独裁体制が敷かれていようと、ちょっとしたはずみで取締役会で解任されてしまう場合もあるようで、組織の意向と代表取締役の意向が合わなくなれば、あっけなく失職してしまうケースが多いだろうか。

 日本の今の政治的な現状で言えば、どうしても首相の個人的な性格や思想や言動が否定的に脚光を浴びてしまうのは仕方のないところで、批判するにはそこを攻撃せざるをえないにしても、一方で世論調査の内閣支持率が依然として高いわけで、どう考えてもそこには集団の意向が反映されているようで、そんな世論の支持を背景として首相とその取り巻き達が調子に乗っているように見えるわけだが、本当に調子に乗っているとしても、調子に乗らせているのは世論であり集団の意向なのだろうから、権力に迎合するマスコミが悪いと簡単に言えないこともないわけだが、その迎合しているように見えるマスコミにしても、結果的には世論が醸し出す集団の意向に同調しているようにも感じられ、もはやそんな集団意志によって多くの人々の意識が凝り固まっている状態とも言えなくもなく、ちょっとやそっとではそれを覆すことはできないのではないか。そしてそう思っていると当てが外れる事態も起こりそうでもあり、あっさり予想とは真逆の結果が出たりして、やはり結果が出てみないことには何とも言えないが、現時点で言えることは、政治的には多種多様な意見や方向性や運動の形態があっても構わないだろうし、一つの方向性に凝り固まった政府与党側が選挙で圧勝しても構わないのであり、その結果として憲法改正が実現しても仕方のないところだが、危機感を募らせて有権者を脅すような主張を強めれば強めるほど、世論は頑なに逆の方向へと向かうのかもしれず、どうもその辺で微妙な感触があるわけで、今のところは首相への個人攻撃も憲法改正の危険性を訴える手法も、世論には逆効果となっているような気がしてならないのに、やはり相変わらず批判する人たちはそうせざるをえないような成り行きの中でそうしているわけで、その辺のこんがらがった感じが、批判する側にとっては行き詰まりを感じさせているのかもしれないが、どう見てもそうせざるをえないような成り行きの中でそうしているわけだから、それが正しいやり方なのだろうし、批判する人たちはこれまで通りに批判していればいいと思われるし、今さらそれ以外のやり方を模索するにしても、もう手遅れかもしれず、そんな雰囲気を敏感に感じ取っている人たちは、すでに違うやり方で何か主張しているのではないか。この後に及んで逆転の秘策などありはしないだろうし、そんな集団の意向を背景とした世論の方向性がおかしいと感じても、取り立てて陰謀論めいた思考に陥らなくてもいいわけで、あまり感情的にならずに、自分たちが信じてやっていることをやり通せば、それで構わないのではないか。


6月30日「怪しげな理論」

 トリクルダウンだのヘリコプターマネーだのインフレターゲットだの、ここ数年で怪しげな経済理論の有効性を唱える識者が次々に現れては消えていった感があるが、もちろん彼らはそれらの理論の有効性に疑問が投げかけられようと、いっさい責任を取らないだろうし、流行り廃り程度の認識なら、本気で信じている人もそれほど多くはないのかもしれない。経済的な利益は富の不平等と不均衡から生まれるものだから、絶えず人々の間や集団と集団の間や国家間や地域間に格差がないとまずいわけで、それらの間に平等や均衡が実現しないように、無理やり差異を作ろうとしたのが、それらの理論の狙いだったのではないか。だとすれば以前よりは貧富の格差が深刻になっていると感じるなら、それらの理論の提唱者たちの思惑通りとなっているはずだが、主旨は誰もが豊かになれるという宣伝文句の下に、豊かな人だけ豊かになれるという真理が隠されていたわけでもないだろうが、それは資本主義経済の構造的な宿命なのだろうし、一方で賃金労働者が普通に暮らせて、商品が買える程度には豊かになっていないとまずいわけで、企業が製造して売りに出す商品の買い手として、消費者が存在できる範囲内で成り立っている経済ではあるのではないか。だから金持ちが値段の高い商品を買って、貧乏人が値段の安い商品を買えている程度には、それなりに平等や均衡が実現されているわけだ。

 世の中の大半の人たちが商品が買えずに暮らして行けなくなるほどになったら、資本主義経済もいよいよ行き詰ってくるかもしれないが、そうなる前にやばくなっていることに誰もが気付くだろうし、果たして今がそのやばくなってきた時期なのか、それとも人々が気づかないうちに危機が忍び寄ってきて、或る日突然それが明るみに出るのか、仮にそうなったとしてもそれは世界恐慌のようなもので、一時的に経済がリセットされて、一定期間が過ぎればまた次第に回復してくるのか、その時になってみないことにはわからないのかもしれないが、少なくとも現時点では資本主義経済とは別の経済体制への移行を想像するのは難しそうだ。この先どうなるにしろ、現状の経済情勢が予想の前提条件となるだろうし、現状の延長上で想像するしかないわけだが、危機感を煽りたい人たちはすぐに煽るための否定的な動向を嗅ぎつけて、それを誇張しながら騒ぎ立てるのだろうし、それがしばらくして一段落すれば、また新たな懸念要因を探り当てて、それをネタにして危機感を煽る動作の繰り返しになるだろうが、そればかりだと狼少年とみなされて信用されなくなってしまうので、煽動の合間には楽観的な予測も織り混ぜながら、なんとか自らの信用を保とうと努力するのかもしれない。

 それが終末論的な予言ともなると、オカルト的な話題に興味のある人たちは喜ぶだろうし、信心深い人たちは本気に受け取るかもしれないが、人類の滅亡とか地球上の生物が全滅するとか、そういう大げさな極まりない予言などは、現状の政治や経済の範疇から外れることだろうから、それを信じるにしても、誇大妄想だと嘲笑するにしても、今の時代に生きている人たちにはどうすることもできない問題だろうか。地球の温暖化を食い止めようとする議論などは、それに近い問題かもしれず、メディアの煽動キャンペーンに引きずられて、真に受けている人も大勢いるのかもしれないが、それが政治や経済などの問題とリンクしてくると、にわかに利害が絡んでくるわけで、温暖化を食い止めるには原発を推進すべきだという主張に賛同する人たちも出てきて、そのような次元の異なる問題の絡み合いが、解決の困難さを認識させられるわけで、どこからでも人や政治勢力や企業の利害や思惑に結びついてきて、自分たちに有利となるような利益誘導が、絶えず繰り出される言説や主張に織り込まれ、怪しげな理論や思想を信じ込ませようと仕掛けてくるわけで、それを真に受け信じ込んだ無知な大衆が、煽動者たちに操られながら、集団となって特定の攻撃対象と敵対していたりするわけで、そういう人たちが理性的な啓蒙を阻んでいる現状があるのだろうが、啓蒙する側にも信用されないような欺瞞を抱え込んでいる部分もありそうで、それを自覚できるか否かが、今後世の中がどうなっていくかに影響を与えるのではないか。


6月29日「体質」

 自衛隊は軍事演習で人を殺す訓練をしている一方で、災害地に派遣されると人命救助も行っているのだろうから、防衛予算を「人を殺すための予算」と述べた共産党の議員が、保守派に格好の攻撃の機会を与えてしまったわけで、保守派に迎合するマスコミがここぞとばかりに騒ぎ立てるのも無理はなく、保守派に有利な選挙結果をもたらすべく、機会をとらえては共産党の議員の発言を蒸し返して、野党共闘に対するマイナスイメージを有権者の心に植え付けようとする戦略もありそうだが、詳しくは「軍事費は戦後初めて5兆円を超えた。しかし人を殺す予算ではなくて、人を支えて育てる予算を優先していくべき」と述べていたようで、軍事予算を削って福祉予算を増やすべきという、いつもながらの野党的な紋切り型なのだろうが、国民総生産に対する軍事費の割合だと、世界の中ではまだまだ低い方だという統計結果も出ているようで、そういう捉え方が正しいかどうかは意見の分かれるところだろうが、その程度の発言で大騒ぎして、それが選挙結果に響くようなら、有権者のレベルもその程度だということだろうから、それはそれでこの国の民度が反映していると述べておくのが無難なところだろうか。

 人も高齢になればなるほど、それまでに生きてきた経験が脳みそで凝固して、生意気な若造の説教や啓蒙など容易には受け付けなくなる体質となってしまい、また高齢なほど選挙での投票率も高くなるようで、ただでさえ少子高齢化が進んで、若者の人口が少なくなっているところに持ってきて、若者の投票率が高齢者に比べて格段に低くなるのだから、若者の意見が政治に反映する機会もあまりないのかもしれないが、政治よりは少年ジャンプの方が興味があると思っている若者がいるかどうかは知らないが、また最近の少年ジャンプの読者は若者よりは中高年の方が多かったりするのかもしれず、政治と少年ジャンプは無関係だと思われるし、その無関係の関係というのがこじつけなのは承知の上で、気晴らし程度に何か述べてみると、ジャンプで人気の漫画といえば、今も昔も相変わらず暴力的な殺し合いが繰り広げられる内容が多いわけで、そんな漫画を毎週楽しみにしている人たちに向かって、防衛予算を「人を殺すための予算」と述べたところで、現実と虚構の違いがあるにしても違和感はないだろうし、いざとなった人を殺さなければならない状況に陥る可能性が高いから、値段のバカ高い武器弾薬を使って定期的に訓練を重ねているわけで、軍隊である限りは日頃から軍事演習を行っていないと、いざという時に役に立たないことになりかねず、そういう意味で普通にスルーされるような発言かもしれない。

 保守派が黙っていないのは当然だとしても、この程度の発言で蜂の巣をつついたような大騒ぎにしてはまずいのかもしれないが、確か911以後の戦役でイラクへ派遣された自衛隊員は、直接には一人も敵を殺さなかったようだが、戻ってきてから五十数人がストレスが原因で自殺したらしく、本来とは逆の意味で、防衛予算が「人を殺すための予算」であることが証明されてしまったようで、共産党の紋切り型とは違う次元で、軍隊には人の死がつきものなのかもしれない。また聞こえの良い「人を支えて育てる予算」と言う軽薄なキャッチフレーズが、何を意味するのか考えてみると、国家が予算を使って人を管理しようとする傾向が伺え、そうしなければならない事情が国家の側にあるとするなら、できれば保守派の側でもそうしたいだろうし、国家にとって都合の人材を育成したいという魂胆が透けて見えるわけで、予算を使えばそこに官僚機構の権限が付いてくるのは当然だとしても、人々の生活や人生のどこまで国家が介入すべきかについて、共産党にしても保守派にしても、明確な歯止めが提示されていないところが、主張は真逆でも体質的には似た者同士の印象を与えているのではないか。


6月28日「生活様式」

 今の時代が人類史において何らかの発展段階にあるとすれば、賃金労働者と資本主義経済の組み合わせが、人の生活様式の主流の時代となって二百年は経っていて、今後現状とは違う新たな生活様式が主流になるとは考えられないが、今の時代に新たな生活様式の兆しのようなものを感じ取れるだろうか。感じ取れないとすれば、まだまだ現状の生活様式が続いていく可能性が高いかもしれないが、よく言われるような資本主義経済の限界が近づいているという言い回しは、ここ数年の流行文句なのだろうし、どのようにして今の生活様式が主流となったのかを考えれば、今後を考える上で何かヒントのようなものを思いつけるだろうか。少なくとも時代が逆行することはないだろうし、今話題となっているような日本国憲法をその前の明治憲法に近づけるような試みは時代錯誤だろうが、日本で言えば明治維新前後が現代の生活様式になる上での転機だったのだろうから、時代錯誤なことをごり押ししたい保守派にしても、その転機となった時期に、今の時代を変えるヒントのようなものを嗅ぎ取っているのかもしれない。確かに立憲主義に基づく国民国家が成立して二百年ぐらいが経っていることと、賃金労働者と資本主義経済の組み合わせの生活様式が主流化した時期と、ちょうど重なるわけだから、立憲主義と国民国家の組み合わせも、それらとセットになって主流化したのであり、ヨーロッパの歴史的な流れから考えれば、キリスト教会と封建領主から権力を奪って、国王を頂点とした中央集権体制が整備されていくにつれて、富国強兵政策が推し進めれられて、その一環の産業振興と官僚制の強化から、貴族に成り代わって新興の産業ブルジョワ階級の力が増してゆき、国家官僚層と結託して国王から実権を奪うことによって、立憲主義と国民国家と賃金労働者と資本主義経済などのセットが主流化したのだと考えれば、おおざっぱすぎる説明かもしれないが、それほどずれた認識でもないといった程度のことだろうか。

 今の日本で時代錯誤なことをやりたい人たちは、彼らが敵視している人権軽視で一党独裁体制の中国あたりからの影響が甚大であるかもしれず、産業振興と官僚制の強化によって富国強兵政策を推し進めるには、民主的な制度に制限をかけて、天皇を頂点とする立憲君主制に戻したいという思惑があるのかもしれないが、そういう思惑が本当にあるのかどうかは疑わしいところだが、危機感を煽っている反対派の主張からは、そういう印象を感じられるわけで、本当にそうだとすればそこから読み取れるのは、弱まっている部分を強化したいということだから、要するに現状では産業が弱体化していて、官僚制も形骸化していて、その弱体化したり形骸化したりしている部分を立て直せば、富国強兵政策が成功するような期待があるということだろうか。そうだとすると復古調の時代錯誤に期待する人たちも危機感を抱いているわけで、時代の順を追ってゆくと、まずヨーロッパでキリスト教会と貴族層の力が弱まり、それに続いて実権を握った絶対王政の力も弱まったわけだから、順番から行けばそれに続いて力が弱まるのが、今度は資本主義と国民国家の担い手であるブルジョワ層と国家官僚層の力が弱まる番だとすれば、それが危機感を抱く原因となるだろうか。そしてマルクス主義的な歴史観からすると、次に実権を握るのが労働者階級ということだったわけだが、そもそも今の時代の主流は賃金労働者のわけで、もしかしたらブルジョワ層や国家官僚層の没落とともに、労働者階級も没落していく可能性があるのかもしれず、それらは資本主義経済の興隆とセットで繁栄した階層なのだから、資本主義経済が行き詰まれば労働者階級も行き詰るのは当然の成り行きなのではないか。そして労働者階級が行き詰まれば、それに寄生して繁栄していたブルジョワ層や国家官僚層も、搾取する対象がなくなってしまうのだから没落するしかなく、ブルジョワ層と国家官僚層が結託して労働者階級を搾取しているという構図そのものが成り立たなくなってしまうわけだ。今の時代に主流の生活様式が変わるというのはそういうことなのではないか。


6月27日「混沌」

 国民投票の結果通りにイギリスがEUから抜ければ、その筋の人たちが危機感を煽るタイミングではあるだろうが、すでにヨーロッパ諸国の関係も、移民問題や各国の財政健全化の度合いや経済的な利害対立からこんがらがっているから、今回の件でさらに混乱に拍車がかかったと捉えておくべきなのか。とりあえずEUの旗の下に一応まとまっていた時期からは、状況が変わってきたということであり、ヨーロッパは長年にわたって国家や民族の離合集散が繰り返されてきた地域ではあるわけで、その延長上で起こっている事態であることは確かだ。そんな歴史的な連続性を想像できるが、ここからさらに一方的に分裂が加速してEUが崩壊するのかといえば、スコットランドなどはイギリスから独立してEUに入りたいという思惑もあるようで、結局は離合集散の繰り返しでしかないのかもしれず、またヨーロッパ内で昔のように国同士の覇権争いから戦争が勃発する可能性は低そうで、離合集散は昔の延長上であると言っても、昔とは明らかに違う面もあるようで、内輪揉めがあるにしても、平和裡に話し合いで解決や妥協が図られそうな成り行きではあるのではないか。

 はっきりしているのは昔のような戦争が起こらないし、経済恐慌も起こらないから、経済の行き詰まりをリセットできないということであり、経済が本当に行き詰っているのかといっても、街に失業者が溢れかえっているわけでもなさそうで、例えば財政破綻したギリシャにしても、それほど国民が悲惨な状況になっているわけでもなさそうで、それよりも内戦状態のシリア国民の方が深刻な状況にあるわけだから、世界が未曾有を危機に直面しているという表現からは程遠い状況なのではないか。もう誰も普遍的な恒久平和が実現できるなんて信じていないし、その一方で特定の主義主張に凝り固まることもなく、政治経済的な理論を社会に適用すればうまくいくとも思っていないだろうし、民主主義などの理念を人々に啓蒙しようとしても、それが正しいかどうかは自信を持てない状況なのかもしれない。良心的な人々なら状況がそれだけ悪化していると思い込みたいところだろうが、悪化しているか否かを測る基準というのがよくわからないわけで、善悪の判断がつかないような世の中なのかもしれず、世界的に混沌とした状況になっていると判断しておくのが無難なところなのかもしれない。

 はっきりした価値観がなく、どのような状態でもそれなりに暮らしている現状があり、それは昔からそうなのだろうが、現状において求めるべき理想状態というのがないのかもしれず、どんな目的を持って何を求めてもいい反面、無目的で何も求めなくても構わないのだとしたら、ではどうすればいいのかといえば、それは個々人が決めればいいことである反面、別に決めなくてもいいということであり、各人の置かれた状況に合わせて暮らして行けばいいことでもあり、そこから抜け出したければ抜け出そうとすればいいことでもあり、信用に足るような規範や道徳もあるにはあるが、それに逆らいたければ逆らっていてもいいだろうし、誰もが認めるような確固とした立場も在り方も、たぶんないような状況の中で生きているのではないだろうか。全てが相対的で絶対的な価値観がありえないというか、ことによると絶対的な価値観を多くの人が信じていた時代が異常だったのかもしれず、むしろ現状の方が自然な人や社会の在り方なのかもしれないのだが、その寄りかかるべき価値観や規範や道徳や慣習がはっきりしないことに苛立っている人々が、苦し紛れに昔の使い古された論理を強引に復活させようとしているのだろうか。


6月26日「煽動」

 アジテーターは権力と結びつかないと力を発揮できないだろうか。そうだとすると反対派のアジテーターは派手で目立つが、世の中を変える力にはなりえないだろうか。そういうことではなく、世の中を変えるとは別の次元で、アジテーターには騒いでいてもらいたいような気がはするし、反権力的な姿勢を貫いていてほしいところか。だからどうだというわけではなく、別の次元がどんな次元だとも言えないのだが、普通に考えれば人々の理性に訴えかけることが、現時点では何の効果もないにしても、将来に向けても大した影響も及ぼさないにしても、だからと言って人を騙すような戦略は取るべきでなく、現時点で正しいと思うことを誠心誠意アジテートすべきだろう。それが謀略的な煽動に打ち勝てるとも思えないが、すでに謀略も見え透いているようにも思われるし、もとから謀略でも何でもなく、謀略のように思い込んでいた人が多かっただけなのかもしれない。危機感を煽るために謀略だ何だのとアジテートするのが、手法として定着していたわけで、そればかりだった印象もあるので、現状ではそんな煽動も信じるに足る内容ではなく、今さらその手の煽動を利用して何を訴えかけても、空しくメディア上でこだまするばかりだろうか。飽きられたということかもしれないが、そうだとすれば流行り廃りの現象でしかなく、結局煽動は大衆の気晴らしの道具でしかなく、それを真に受けても世の中が変わるとは思えない。煽動によって変わるような世の中であってはまずいだろうが、実際に変わるにしても目先が変わるだけで、大勢に影響はないと言えるだろうか。

 だが何がどうなるわけでもないという前提が、そもそも疑わしいわけで、何がどうなっても構わないという前提も疑わしいだろうし、アジテーターは煽動によって何がどうなっても構わないとは思わないだろうし、思惑通りに何かがどうにかなってほしいわけだから、アジテートしているわけで、その思惑通りの展開というのが、なかなか現状はそういう展開になっていないから、次から次へと新たな煽動を繰り出すわけだが、そうなっている時点で、当初の思惑とはだいぶ違う状況になっていることは確かだから、そんな苦し紛れの煽動を繰り出している状況に、アジテーター自身が絡め取られていると見ておくのが無難な解釈だろうか。そういう面で煽動は煽動によって自滅する傾向にあるのかもしれず、謀略的な煽動を繰り出すのは、自身の墓穴を掘る行為に等しく、そうならないためには、大した効果は期待できないにしても、人々の理性に訴えかけるような内容に終始しておくべきで、そもそも煽動行為で世の中が変わるような期待をしてはならず、世の中が変わるにはそこにいる人々が変わらない限りは、変わりようがないと思っておいた方が無難なところかもしれず、衆愚政治だ何だのと厭世的な気分になろうとも、人を騙すような煽動はやめておいた方がよさそうだし、実際に謀略的な煽動を繰り出しながら、政権与党に媚びを売るような人たちは、嘘がばればれなことばかり騒ぎ立てている現状があるわけだから、どう考えても長期的にはうまくいくはずがないように思われ、軽薄な流行り廃りのうちに終わってしまうのではないか。


6月25日「理由」

 普遍的な理論が成り立つには、それを成り立たせるような前提条件が必要だろうか。それでは普遍も何もあったものではないか。特殊な条件下で成り立つような理論があるということか。ナショナリズムとポピュリズムは意味が違うが、位相が違うだけで対立する概念ではなく、両者が重なり合うこともある。時代的には今がその時期なのではないか。またポピュリズムは官僚的なエリート支配層と対立しているように装うが、それは大衆向けの宣伝であり、大衆の支援を受けて政権の座に着いたら、エリート支配層と手を結ばない限りは、政権運営がうまくいかなくなる。日本の現政権で言えば、しばしば財務省と対立しているように装うわけで、例えば財務省の反対を押し切って、消費税率の引き上げ時期を延期したという形をとって、国民の味方であることをアピールするわけだ。それが国民にとって良いことなのか悪いことなのかよくわからないだけに、効果のほどは不透明だが、経済政策の失敗から争点をそらすことには成功しているのだろうか。経済政策が失敗しているとの批判も、失敗を裏付けるデータがそろっている反面、そうとは言い切れないデータも提示できるのだろうし、消費税の引き上げ時期の延期自体が失敗を物語っているとの主張も、物は言いようで、なにやら屁理屈をこねて反論することもできるのだろうか。その辺はなんとでも言えるから、あとは選挙時の国民の判断に任せられているわけだが、国民も国民で、メディアが設ける争点に関心がなかったり、投票する判断基準がどこにあるかなんて、投票する人の勝手だろうし、経済政策が成功してようが失敗してようが、生活が苦しくなっていようが、反権力メディアから連日連夜のように批判されていようが、それでも前回と投票先が変わらない人も大勢いるだろうし、要するにメディアが押し付けてくるような判断材料では、投票先は動かないのかもしれない。それ以前に投票に行かない人も多いだろうし、選挙もその程度のことだと割り切っておくべきだろうか。

 たぶん選挙結果もそれほど影響はないだろうし、なにに影響がないのかといえば、世の中に影響がないと述べておけば、差し障りはなさそうで、とりあえず現状に変わりはなく、取り立ててなにがどうなるわけでもなく、要するに無関心でいても大丈夫ということか。なにに無関心でいてもいいのかといえば、とりあえず政治的に無関心であっても大丈夫なのだろうか。他人の意識や意見を変えようとしてなにを述べているわけでもないし、社会を変えようとしてなにを主張しているわけでもないとすれば、その逆の消極的な現状維持を目指しているわけでもなく、またそういう次元でなにを述べているわけでもないということになりそうだが、そうなってしまってはダメなのだろう。選挙によって政治情勢を変えることはできるだろうし、政治情勢が変われば国民の意識も変わるかもしれず、そうなれば世の中が変わったことにしておいたほうがよさそうで、実際にそうなることを望んでいる人たちも大勢いて、そういう人たちが選挙運動に関わっている場合が多そうで、政権与党を批判しながら何か主張しているわけだ。そういう人たちをどう捉えておけばいいのだろうか。批判することも肯定することも同調することもできないわけではないが、ともかくその存在を否定しなくてもいいわけで、無理に同調も共感もできないとしても、そういうことをやっている人たちがいることを好意的に捉えておけばいいのではないか。彼らの危機意識を共有することはできないが、危機感を抱く気持ちもわからないではないし、それらの運動に真剣に取り組む姿勢にも好感を持てるが、上から目線でそんなことを述べる筋合いもなく、無関係と言ってしまえばそれで終わりかもしれないが、社会の中で置かれている立場が違うような気もするし、要するに傍観者というか疎外されているというか、積極的に同調できないのはその辺に理由がありそうだ。


6月24日「格差連合」

 だいぶ以前からそうだったかもしれないが、世界的にナショナリストやポピュリストが政治的な実権を握ることが多くなってきたようだ。イギリスがEUから離脱しようとしているのも、ナショナリズムの高まりだろうし、フィリピンの新大統領にはポピュリストがなったようで、アメリカの次期大統領はかろうじてポピュリストが退けられそうな状況だが、ロシアと中国の長期政権は昔からナショナリズムで凝り固まっているし、トルコや日本も同じような状況だろうか。もうこれ以上は何をやっても上手くいくということはないだろうから、ナショナリズムを煽って国民を従わせること以外に何もやりようがなく、あとはごまかしのような経済政策によって、何かやっているように装っているのだろうが、それでも保守派の支持を取り付けている間は安定しているのだろうし、どうせ反対勢力も強引なやり方に反対するしかなく、反対派に何もやらせないという点では、上手くやっていることになるだろうし、圧倒的な支持ではないにしても、ある程度の国民の支持は揺るぎようがない状況となっているのだろうか。反対派に比べれば相対的に支持で勝る程度のことなのだろうが、他に選択肢がないと思わせている範囲内で、政治的な実権を握っているわけだ。

 もちろん国によっては言論弾圧も行っていて、政権への求心力を保つ上でマスメディアに対する懐柔工作も積極的に行われている面もあるだろうし、その辺が微妙なさじ加減なのかもしれないが、世界的に経済情勢が先行き不透明だから、国家にすがりついてくる人や企業も多そうで、そういう勢力と利害を一致させて便宜を図っているうちは、政治的な求心力が確保されている状況なのだろうか。そういうこと以外に何をやれるわけでもないだろうから、結局政官財+マスメディアの利権複合体を形成して、自陣営になびいてくる人や勢力を取り込みながら、勢力を広げていくやり方しかないのではないか。そういうやり方が良いのか悪いかではなく、利益になるかならないかの問題かもしれず、反対勢力にとっては許せないことであっても、現実に人は様々な状態で生きていて、極端な話地域によっては狩猟採集生活でも生きられるわけで、たとえ貧乏だろうと貧富の格差が極端に開いていても、そこで実際に人が暮らしているわけで、ブラジルなどの状況を見れば、スラム街で極貧の生活を強いられている人たちが多数いるし、またフィリピンの大統領選挙からは、無知な貧乏人はナショナリズムにとってもポピュリズムにとっても格好の標的となっていることがわかるだろうし、もともと富裕層が利権複合体の一員であることを考慮すれば、貧富の格差があった方が保守勢力にとっては有利なのであり、グローバル資本主義の進展によってそうなっている現状があるとすれば、まさにそれらの勢力の増長させている原因がそれなのであり、いくら左翼勢力が貧乏人の味方を装っても、貧乏人の方は利益の幻想を求めて保守勢力を支持する傾向にあり、最近世界的に流行っている極右勢力などは、金持ちと貧乏人の連合から成り立っているのではないか。経済的な利害が絡んでくると、啓蒙ではどうにもならないのかもしれず、啓蒙よりも幻想の方が優っている現状があるのではないか。もちろん経済的な利益にありつけるのはほんの一握りの人たちだが、その他大勢は幻想を見させられているのかもしれず、それが国家幻想であり民族幻想なのだろうし、そんな幻想にしがみつきながら、反対勢力と戦っている幻想を抱いているのだろうか。そして幻想を信じられなければ政治に無関心となるしかないか。


6月23日「歴史の重み」

 たいていの流行り廃りは一過性で終わるだろうが、それが十年やそこら続くと、何かそれが社会に定着しているように思われてくるかもしれないが、実際に何が定着しているのだろうか。人が容易には気づかない何らかの慣習が定着していると見ておくべきなのかどうかは、実際にそれに気づかない限りは、わからないところではあるわけだが、たぶん何らかの慣習が定着していて、それが世の中を制御するような効果を発揮しているのかもしれない。現状で何かしら世の中の傾向を感じ取ることができたら、そこで何らかの慣習が定着していて、その慣習によって世の中を安定化させているのかもしれず、ではその慣習が何かといえば、例えばそれは何か都合の悪い現実を見ないようにする意識的な縛りの類いだろうか。その都合の悪い現実とは何か。それに気づけば何か人が容易には気づけない現実に気づいたことになるのかもしれないが、気づいていないからわからないのだろうし、現状では何が人の意識を縛っているとも思えないか。

 少なくとも言えることは、危機感を抱かせるような出来事がいくらでも起こっているのに、決定的な破局がまだ訪れてはいないということだろうか。そしてこのまま延々と破局が先延ばしにされ続けるような状況ではないか。脅し文句はいくらでも発せられていることは確かだが、そのほとんどは半信半疑のような受け止められ方だろうし、911や311のような予期せぬ出来事は結構起こっていて、その度ごとに世の中にも人々にも衝撃を与えて、その影響は後遺症となって未だに尾を引いているのだろうが、それが今のところは決定的な破局ではなかったわけで、少なくともそういう受け止められ方をされているのではないか。そして地球温暖化にしてもテロの頻発にしても、毎日のように将来への懸念材料として、危機感を煽る言説の中で取り上げられているわけだが、今のところはまだ間近に迫った破局とは意識の中でつながっていないような気がするわけで、どうも最近はその手の終末論は現実の世紀末から離れていくに従って、意識の中でも遠のいているようにも思われるわけだ。別に将来を楽観視できるような材料は何もないわけだが、逆に不安材料が人々の間でマイルドに共有されている限りで、そのマイルドさが世の中の安定をもたらしているのかもしれず、将来に向けて大した夢もないが大した絶望もなく、とりあえず現状で暮らして行ける限りでの未来はありそうな予感はしているのではないか。

 そして決定的な破局はまだ当分起こりそうもないが、一方で革命的な社会変革も期待できそうにはなく、誰もそれを実行できるとは思っていないだろうし、革命を信じるに足る材料もなく、それをやるきっかけも探し出せないような現状だろうか。その代わりにあるのは昔ながらの普遍的な理想論だけだろうか。そんな理想論を打ち砕く材料にも事欠かないだろうし、資本主義のグローバル化がもたらす貧富の格差の拡大とか、現状を否定できる材料はいくらでもあるのだろうが、どうすればそれを是正できるのかについても、いくらでももっともらしいことを主張できるのかもしれないが、それを実際に試す機運が生まれず、今のところはそれをやる機会も訪れない。とりあえず現状で蔓延しているマイルドな悲観論が絶望に振り切れることはないのかもしれず、その状況こそが消極的な現状維持を可能としていて、しかもそれを絶望のどん底へと突き落とすような行為は差し控えられているというか、突発的な暴発を押さえ込むような安全装置が、世界的に張り巡らされているのかもしれず、それがこれまでに人類が歩んできた歴史がもたらす経験的な蓄積なのだろうし、なんらかの平衡状態が実現されているのかもしれない。


6月22日「現実」

 時の経過とともに世の中も人の意識も変わっていくのだろうが、自分を変えるのは容易なことではなさそうで、思い通りには変わらないのはもちろんのこと、どう変わりたいのかもわかっていないようだ。それでも自分が変われば意識も変わるのかもしれず、自分が変わろうとしなくても周りの環境が変われば、環境に適応しながら変わらざるをえないだろうか。適応できなければその環境から脱落してしまうか。しかし脱落とはどのような状態になることなのか。たぶん変わるのは今ではなく、過去の一時期なのかもしれず、そこで何らかの転機が訪れて変わってしまった時点があり、今の自分はそれを忘れているのではないか。今はそれを見極める必要があるのだろうか。その時が来たら気づくのではないか。その時とはそれに気づく時であり、今はその時ではないらしい。意識は過去に向かってしか開かれていないから、過去の方ばかり振り返りながら、未来へ向かって後ろ向きに歩んでいるのではないか。未来が見えていないわけだが、想像することはできそうで、想像と違う未来へと到達したら、その時は過去と地続きの自分とは違う自分へ変化したことになるだろうか。今考えているのがそんなことだとしたら、それは期待はずれの変化であり、そもそも何を期待していたのではないとしても、自らが肯定できるような変化を求めながらも、没落や破滅といった否定的な変化を避けているわけで、そんな自分にとって都合の良い変化を求めながらも、そうではない変化に直面して焦っているのではないか。

 一方で何も変わらずに焦っているのではないか。変わろうが変わるまいが、そんな結果など心配する余裕などあるわけもなく、ただこれから自分が何をやるかが問題なのだろうか。それも問題でもなければ、何も問題ではなくなってしまうかもしれないが、自己を統治するなんて意識することすらできず、世の中の慣習に絡め取られそうになるのを、かろうじて逃れようとしているに過ぎないのかもしれず、もちろん完全に逃れることなど不可能で、社会の中で暮らしている限りは、ある程度は慣習に従いながらも、絶えず自分の自由になる部分を探り、そこに自分の都合を反映させようとしているのではないか。それが生き方として定着すれば、それが様式化して、一定の動作を続けられるようになるのだろうが、その動作が自分にとっての慣習となるわけか。そしてその慣習が世の中で認められれば、社会的な慣習の一部に組み込まれ、自分も社会と一体化してしまうのだろうか。それで満足できれば幸福感がもたらされ、社会的な成功と言えるのかもしれず、そのような動作を伴う人たちによって、世の中が構成されていることになるのかもしれないが、その社会の中で一定の立場を占めて動作している人たちが、社会そのものを統治していると言えるだろうか。物は言いようで、そんな説明で納得できるならそれで構わないだろうが、それも結果からみた説明でしかなく、そこから何ら積極的な変化の可能性など導き出せないだろうし、具体的に何をどうしたいのかを示せなければ、何を述べていることにもならないだろうか。

 ではいったい現状で何をどうしたいのだろうか。何か主張することはできるだろうが、それは主張するにとどまり、たぶん直接の行動に結びつくとは考えにくく、今のところは言説を弄することしか可能ではないように思われ、実際にそれをやっている最中なのであり、その中で何をどう語るかが問題となっていて、絶えずをそれを思案し続けているわけか。果たしてそこからどう離脱できるのだろうか。離脱しようと思っているわけではなく、その水準にとどまり続けようと思っているのであり、しかもとどまり続けることによって、離脱したいとも思っているのかもしれず、背反し矛盾した思いと行為の中で考えているといえようか。だが一方でそんなふうに記述している内容がフィクションでもあり、少なくとも本心からそう思っているわけではなく、逆に記述によって本心をはぐらかそうとしている。迷わせ惑わせようとしている。何か混乱と錯綜の中で考えていたいのかもしれないが、その何かというのは漠然としていて、そう記して現実から逃げている感も否めないが、それも一つの現実なのだから、逃げても逃げてもそれが現実になるわけで、結果として逃げていることにはならず、相変わらず現実の中にとどまっていることは確かであり、それが一方で変化を恐れていることにもなるのかもしれず、さらに変化を恐れながらも、その恐れが自身の変化をもたらしていることにも気づこうとしているのではないか。要するにどうあがいても、何らかの変化を受け入れようとしているわけで、あがきながら変わろうとしているのではないか。それが自分にもたらされている現実だろうか。


6月21日「言説の果実」

 ただ漠然と言葉を記してみても、それが目的ではないこと以外には、何も分かりそうもないようだが、そうしなければならない理由はあるのかもしれず、その理由を明らかにしたところで、大して興味を引くような内容になるとは思われず、かといって安易に政治的な対象を批判するのも、他の誰かがやっていることであり、それが安易だとは思ってはいないだろうし、実際に批判する切実な理由もあるかもしれないし、それを取り立ててどうこう述べる気も起こらず、ただ興味がないだけかもしれないし、興味があっても言及するのをためらってしまう事情もありそうだが、それについて語る価値があるかといえば、どうも価値のあるなしとは別の方面から語りたいのかもしれない。価値があるから語ろうとして、語る必要があるから語るという動作が信じられない。価値という意味が担う内容を信じていないから、そんなことを述べてしまうのだろうか。だがそんなこととは何なのか。漠然とそんなことを述べている限りは、どこへも至れずに空疎な内容に終始するかなく、語る目的を見いだせなければ、目的も価値も必要も定かでないままとなってしまうだろうか。

 何か特定の政治的な立場に基づいて行動しようとすれば、そこから生じる目的に合わせた言動を導き出せそうで、当然その目的に沿った言説の内容にもなり、そういう面で分かりやすい主張となってくるのだろうが、その主張に共感したり同調したりする以外に、あるいは反感を抱いたり拒否したりする以外に、何が引き起こされるのだろうか。それ以外は考えなくてもいいことかもしれないが、政治的な主義主張以外なら、何か別の動作が期待できるのかもしれない。直接は何を求めているのでもなく、価値も目的も明らかになるようなことでもなく、ただ語っているだけしかない内容の文章なら、何を語っているとしても、何が語られているように感じられても、それ以上でも以下でもないような内容をもたらせるかもしれないが、それが何になるのだろうか。なんにもならないように思われる限りで、目的からも価値からも離れられるかもしれないが、それでは人畜無害で何の役にも立ちそうもなく、だから価値も目的も生まれないのだろうが、一方でそれを狙って語るような芸当ができるとは思えないし、そこで生じている何らかの価値や目的に気づいていないだけかもしれない。

 求めているのは不透明さであり、言説の厚みと言ってしまうと、何やらそこに限界づけられる中身を装っている気になれるだろうか。たぶん中身があり、その中身について述べようとしているのかもしれない。しかしその中身があやふやで、それについて具体的に語らない限りは、空疎な言説のままとなってしまい、中身が何だかわからないが、とにかく何か語っているように装うばかりで、それ以上に語るのは無理で、思わせぶりのままで終わってしまいそうだが、言葉を記すことが何か考える動作に結びつき、そのきっかけを探る上でも、それなりの内容が必要とされるかもしれず、それが語る目的として定着すれば、何らかの語る方向性が生じ、その方向に沿って語って行けば、中身も語っているうちに形成されてくるようにも思われ、そういう面でも言葉を記している現状があるだろうし、そうやって文章を記す練習ばかりしている状況の中で、さらなる内容に至るために、試行錯誤が繰り返されていると思えば、いくらか気休めを得られるかもしれず、そんな気休めに勇気づけられるほどでもないだろうが、そういう水準で語る価値を得られるとは思えないだろうか。そうは思えないから漠然とした記述に終始し、価値とも目的とも無縁な文章が構成されているわけか。しかしそれでも現状を卑下するには及ばず、まだ何かの可能性が感じられるのかもしれない。


6月20日「救い難さ」

 止むに止まれぬ行為というのは、普遍的な価値観の実現に結びつくだろうか。それを実現させようとするのであって、実現できるわけではない。絶えず実現を目指しながら行動することになりそうだが、実現されていないからそうするのであって、それを目指しながら行動し続けるわけか。そうしなければ不平等かつ不均衡な人と人との関係が維持され、弱い立場の人たちが苦しむことになるから、普遍的な価値観である社会的な平等と均衡を求めて、人々は行動すべきだろうか。実際には各人のやれる範囲内でやるしかなく、善意で行動しなければならない。もちろんその善意がどこから生じているのかといえば、それは社会規範の類いなのだろうし、社会の中でやっていいこととやってはいけないことがわかっている必要がありそうだが、はっきりとは自覚していなくても、やらざるをえない機会に直面したら、それまでに生きてきた経験上わかってしまうことが多いだろうし、自然と普遍的な価値観が身についているのではないか。それが普遍的な価値観だと自覚していても、本当はその時代や地域や状況によって限界づけられた価値観でしかないわけだが、その環境の中で生きていれば限界に気づかないことの方が多いだろうし、何か自らが信奉している価値観が普遍性を持っているように感じられるのだろうし、善意とともにそれを信じている限りは、ひどいやり方がまかり通っている状況があるとしたら、黙っていられなくなり、何とかしなければと思うのが人情なのではないか。

 それが原発や米軍基地や安保法制などの問題に対して怒りの声を上げる人たちの活動をもたらしているのではないか。いくら屁理屈をこねてそういう人たちを攻撃しても、頑なな態度を引き出すだけかもしれないが、やっている人たちはデマを流したり卑劣な手段を使ってでも攻撃するのだろうから、それも頑なな態度であることに変わりはないわけで、そこにもその時代や地域や状況に限定された正義を信じ込める環境が出来上がっているのではないか。そうなれば価値観の異なる両者は戦うしかないだろうし、実際に各種の反対運動やそれに対するカウンター活動が繰り広げられていて、一応は選挙の争点となっているはずなのだろうが、世の多数派としては景気回復などの経済問題が争点となっているように装いたいわけで、それにしても実感としては景気が良くなっているとは思えないのだろうから、政権与党側には投票しづらい材料は揃っているはずなのだが、それでも政権与党側に投票する人たちの方が多いのかもしれず、そういう人たちにとっては選挙の争点など問題ではなく、死んでも野党候補には絶対に投票しないと固く心に誓っているわけでもないのだろうが、そういう人たちが多数派を構成する社会環境が整っていると捉えておけばいいだろうか。

 多数派と言っても組織票的に多数派であって、与党側に投票する人たちと野党側に投票する人たちと、投票に行かない人たちとに3分割すれば、全体としては選挙に投票に行かない人たちの方が多数派かもしれず、人々の善意に基づく普遍的な価値観を共有していない人たちが大勢いるわけで、そういうところからも普遍性があるとはいえず、その実現には程遠い現状があるのかもしれないが、これも時代と地域と状況に限定されてはいるが、普遍的な価値観を共有しなくてもいい環境があり、また政権与党側が信奉する正義の価値観も共有しなくても大丈夫なわけで、何かそれらを生じさせ守るように同調圧力がかかる社会規範から外れられる状況があるのではないか。簡単に言えば価値観の多様化といえてしまえて、何のことはない大衆市民社会に典型的な様相を呈しているに過ぎないのだろうが、それを肯定しても否定してもどちらにしても、もっともなことが言える可能性もなきにしもあらずで、選挙結果がどうなるにしろ、その結果を受けてどのような情勢になるにしろ、その結果や結果から生まれる情勢から外れている部分が、結構大きな割合を占めるのではないか。もちろんその情勢の中で行動し発言するような人たちには関係のないことかもしれないが、たぶんその関係のない部分が情勢を支えていて、情勢を情勢として成り立たせているのではないか。それはどういうことかというと、そんな情勢を許容できる余裕が生じているということであり、その余裕が普遍的な価値観の実現を阻み、屁理屈をこねたり見え透いたデマを流す人たちを容認する土壌となっているのかもしれない。しかもそれで世の中が成り立っているとしたら、それはどうしようもないことだろうか。


6月19日「思惑」

 何か模範となるようなやり方があれば、それをやるだけでいいわけだが、そうはならないわけで、批判を招くようなことしかできないのであり、それに対して当然のことながら批判されて、批判する側とされる側の対立関係ができあがり、権力を行使する体制も出来上がるわけだが、そうならざるをえないのは、対立を招くようなことしかできないのが原因だろうか。そうだとしてもその原因を取り除くわけにはいかないのであり、対立することでしか成り立たないようなことをやっていて、それ以外にはやりようがないのかもしれない。なぜそうなってしまうのかといえば、そこに至るまでに、すでに相当な無理を積み重ねていて、後戻りなど不可能なのであり、残された道は強行突破しかないわけだ。だからこそ権力を振るうことが必要なのであり、権力を振るうことができるような環境を整えてから、強引な手法を連発しているわけだが、それだけ余裕がなくなっているわけで、なりふり構わず仕掛けているのだろうが、世論がそういうやり方を支持しているからこそ、やれている現状があるのではないか。それがそれ以上の何を意味するわけでもないし、やらせておけばいいだけで、それを批判できる立場の人たちも批判していればいいのだろうし、そのようなこう着状態を超えて何ができるわけでもないだろうか。

 奇をてらってもスルーされるだけだし、納得がいくような抵抗の仕方があるわけではない。だから対立させておけばいいだろうし、そうなるしかないような成り行きの中で対立しているわけだから、それに加わりたくなければ、外れたことを述べておけばいいのかもしれない。それでは納得のいかないのは当然だとしても、納得がいくやり方を追求しても、目下のところそれがあるとは思えないし、そうであるならば納得がいかないなりにも、それを反映させた粗雑な物言いに終始しておくべきであり、それが現状での無難な対応となりそうだが、では無難ではない対応があるのかといえば、中には手厳しい批判や言動を繰り返す人たちもいるのではないか。そういう人たちならそれなりの自己満足が得られそうだが、自己満足に至ってはまずそうな気配も感じていて、そうであるなら気の進まぬ対立関係に絡め取られないように、少し我慢してわざとお粗末な物言いを用いて、それで批判の鉾を収めておくべきだろうか。その気になれなければ無理に批判しなくてもよく、批判を装う程度で構わないのかもしれず、そもそも批判するような状況でもないのかもしれない。

 というか批判する立場にはなりえず、対立するどちらの陣営とも無関係だろうか。関係がないわけではないが、対立そのものが虚構だとでも思っているのかもしれないが、その虚構こそがリアリティを感じさせるわけで、そんな虚構の対立こそが政治的な対立そのものなのではないか。そうだとしても一般大衆の気を惹くには対立を装わなければならず、無理に対立を装うから、権力を行使しなければならないのだろうし、それは対立関係を維持するためには欠かせない動作であり、反発や反感を抱かせる不快な行為が必要不可欠だろうか。それだけ余裕のない状況なのだろうし、何が何でも対立を煽ってでも成し遂げなければならないことがあるらしい。たとえそれがフィクションの実現だとしても、信じている目標に向かって突き進まなければならないのだろう。その目標というのが憲法改正だとしたらわかりやすいだろうが、煽動者たちの目標がそうだとしても、それらの政治勢力が醸し出す集団的な目標は違うところにあり、それは当人たちの思っているのとはかけ離れた結果を要求しているのかもしれない。それが事前にわかれば予定調和なのだろうが、実際にはわかるはずもなく、やってみなければわからないことであり、誰が何をやってみたところで、思惑とは違う結果がもたらされるのではないか。


6月18日「強制」

 そこに何らかの対立関係があれば、そこで権力が行使される。そこに不平等で不均衡な関係があれば、そこで権力が行使される。単純に考えればそういうことかもしれない。権力を行使する側は支配を目論んでいて、支配するために権力を行使し、支配に抵抗する人たちに対して権力が行使され、完全な支配体制が確立されるまで権力が行使されるわけで、現状では支配体制が確立されていないから、支配を確立するために権力が行使されていて、支配に抵抗する人たちがいる限り、権力が行使され続ける。そして誰も抵抗しなくなれば、支配が確立して権力は行使されなくなり、誰もが支配体制の中で従順に従うようになるわけだ。だが現実には支配体制が確立されることはなく、延々と不平等で不均衡な対立関係の中で、支配を狙う人や集団が権力を行使し続ける状況が続いてゆくのだろうか。もちろん一方的にそうなるわけではなく、闘争に勝って権力を行使する立場になる人や集団の入れ替わりがあり、古くは王朝の交代や現代では政権交代などが、それを体現しているわけだ。しかしこんな単純な説明で納得できるだろうか。

 社会の中でうごめいている人や集団の複雑な絡み合いの中では、対立が単純に割り切れるような関係ではなく、権力を行使する対象もはっきりしないような関係もあるだろうし、中には権力の行使が空振りに終わっている事例もありそうだが、たとえ無関係に思われても、その無関係を強引に関係づけるのが、権力の行使に当たる場合があるわけで、何か言いがかりや因縁をつけて恐喝するような行為が、その典型的な例かもしれないが、マスメディアを通して行われている特定の人物や団体に対する批判キャンペーンというのも、それの類いだろうか。そこで用いられる何かもっともらしい批判の理由というのが、自分たちが味方につけたい一般大衆に媚びているというか、庶民感覚に訴えているような形をとり、その庶民感覚というのがマスメディアによって作り出された感覚であり、一般庶民がマスメディアに見下されているような卑俗な感覚なのだが、因縁をつけられて叩かれている人物にも落ち度がないわけではないのだが、その叩き方が不平等で不均衡であるのは、メディア内での党派性や力関係が作用しているわけで、そこで活動している人物や勢力の相関関係を考慮してみないと、そのまま真に受けるわけにはいかないところだろうか。

 そのメディア上で仕掛けられている批判キャンペーンというのに乗っかって、一緒になって批判していると、それを仕掛けている勢力の思惑に取り込まれていることになり、そういう勢力の思う壺にはまってしまうわけだが、現実にそんな勢力が存在していて、特定の思惑通りに仕掛けてきているのかといえば、結果的にそういう勢力や思惑を特定できるだけで、批判キャンペーンをやっている最中ははっきりしてないわけで、何か横並びでキャンペーンを張っているように見えるだけで、そこでよからぬ陰謀の類いが渦巻いているわけではなく、明確な戦略があるわけでもなく、そんなことをやっていくうちに批判がエスカレートして、煽動が煽動を呼び、集団で特定の人物をいじめているように見えてしまうのだろうし、その結果攻撃されている人物が失職したり、辞任に追い込まれたら、攻撃している人たちもしてやったりで、ご満悦なのだろうが、そうやって権力を行使している人たちも、権力関係の虜となっているわけだから、行き着くところまで行きつかないと、批判をやめられないし、絶えずやり過ぎてしまうだろうし、ほどほどのところで鉾を収めるのは容易ではなく、そこから外れられない不自由を体験しているのではないか。


6月17日「神の国」

 現状で世の中で何も問題がないわけではないが、問題を解決できるかというと、例えばメディアなどが取り上げる社会問題の類いに有効な解決策などないように思われ、その大半は解決しようとしているのではなく、むしろ問題を利用して何らかの勢力が権力を行使しようとしているのであり、自分たちの力の及ぶ範囲を広げるために、何か問題が必要とされている面があるのだろうか。問題というか問題を発生させている根本的な原因は、国家と資本主義なのではないか。そこから全ての問題が発生しているといえばその通りで、戦争やテロや貧困や環境破壊など、その手の問題を挙げていけばきりがないかもしれないが、その一方で人々が依存しているのが国家と資本主義なのだから、肯定するのも否定するのも、要するに全ての問題がそこから生じているとすれば、それをやめれば問題が解決しそうだが、一方でそれに全面的に依存しているわけだから、やめるわけにはいかないだろうし、やめることなどできはしないのだから、そこから生じている問題も解決できないということになるだろうか。それでもそれらの制度や仕組みを維持したまま、そこから生じている問題を解決しようとして、実際にやっていることはといえば、さらなる国家化であり、より一層の資本主義化となっているだろうか。

 要するに体制の強化ということだろうが、体制の強化ということは国民に対する支配の強化となるだろうか。やろうとしていることはそうかもしれないが、必ずしもそれがうまくいっているわけではなく、何か策を打ち出せば、当然それに対する反発や批判を招くわけで、大ざっぱに言うなら、いわゆるテロとの戦いも、反発や批判している勢力との戦いの一種だと捉えられないこともなく、平和的な市民運動から原理主義的な武装闘争まで、幅広い領域で様々なレベルで戦いが繰り広げられているわけだ。それと同時に国家間の紛争もあるわけで、また資本主義経済の中では企業同士の競争もあるわけだから、それらも含めると世界中で無数の戦いが起こっていて、それぞれの戦いには問題が含まれていることになるだろうか。それが問題をめぐる戦いであり、それを解決するために戦っているにしても、結果的にはむしろ問題をその周囲に拡散し、さらに戦いを続けるための戦いとなっている様相を呈してして、まさにテロとの戦いなどは今や世界中に拡散しつつあるだろうし、それはここ二百年余りで欧米諸国による植民地化に続いて国民国家が世界中に拡散し、さらにそれに続いて資本主義経済が世界中に拡散した後に起こっている現象であり、それは一方向に進む必然的な成り行きなのではないか。

 ではそれが何を意味するだろうか。今後より大規模で壊滅的な戦いが起こることを予感させるだろうか。どうもそうはならないような気もしていて、さらなる戦いの分散が起こるのではないか。世界中で小規模なテロが散発して、いつどこでテロが起こってもおかしくないような状況となり、もはや安全地帯と呼べるような地域などどこにもなくなり、毎日そこかしこで交通事故のようにテロが起こるようになれば、人々もだんだんテロに慣れてきて、近くで突然爆発が起こったり銃撃戦が繰り広げられても、大して驚かなくなるだろうか。そうなれば世界中で治安が保たれなくなり、それは無政府状態のようなものかもしれず、そのような万人が万人に対して戦っているような状態が、自然状態だと言えるのではないか。ではそこまで状況が進展すればテロが勝利したことになるだろうか。国家や資本主義経済に勝利したことになるかどうかはわからないが、世界中が荒廃することは確実で、貧困や環境破壊などの問題もより深刻化するのではないか。そういう意味でたぶん国家化と資本主義化とテロの頻発は連動していて、まだ日本ではあからさまなテロには発展していないが、ヘイトスピーチなどの煽動活動が話題となったり、隣の中国による挑発行為などもあり、不穏な空気が社会に蔓延している感も何きしもあらずだが、それでもなぜか日本には将来を楽観できるような余地がありそうで、それが国民の平和ボケ体質なのかもしれず、そう言える根拠は何もないのだが、少なくとも全てにおいて不徹底な体質であるかもしれない。


6月16日「拒否」

 何が見えていないわけでも勘違いしているわけでもなく、見た通りに世界であり感じた通りの世の中だと思えたら、それが真実だと思うしかないだろうか。そんなものがあったらの話だが、世界の真の姿を見たいわけでも感じたいわけでもなく、何か隠された真実を知りたいわけでも突き止めたいわけでもないだろうか。そうする理由がなければその気になれないのは当然なのではないか。そんなことより具体的に何をやっているのかが問題だろうか。それを問題だと思わなければそれに越したことはないわけだが、何をやるにしても他との関係の中でやることになるわけだから、やりたいことをやりたいようにやれるわけでもない。しかしこの世界の何が問題なのだろうか。誰がどんな勢力が意図的に何を操作しているように思えるから問題なのではないか。情報を操作して人々を騙しているのだろうか。そう思われてしまうから問題なのだろう。でもそれで何がどうなるのだろうか。そこから先は憶測だとか推測の話になってしまい、危機感を煽るためにそんな風に思わせたいのだとしたら、そんなことは信じない方がいいのかもしれず、見たとおり感じたとおりに現状を捉えておけばそれでいいのではないか。

 騙されているならそれでも構わないのかもしれない。真実を知ってしまえばそれでも構わないだろうが、騙されていようとそれに気づいていようと、大して変わらなければ、自分にとってそれは無関係なことだろうか。騙されていると思ったり、それに気づいたと思ったりすることが、そもそも勘違いなのかもしれないし、しかも今はどちらとも思っていないのだから、架空の話で、何を騙されているのかもわからないのであり、そうであるなら現状では無関係なことでしかなさそうだ。まだそんな段階ではないのであり、話がそこまで達していないのだろう。何の話かもわからないし、自分には関係のない話だとすれば、話でさえないのかもしれず、関わり合いのないことでしかないだろうか。それでも興味を持っているのだとしたら、いずれ何かのきっかけで関わることもあるかもしれないが、今のところは関わり合いがなく、無関係のままに隔たっているらしい。たぶん無理に関わろうとしなくてもいいような気もするし、実際にそうなるのではないか。まるっきり無関心ではないのだろうが、こちらからどうこうするとか、そういう成り行きにはなりそうもなく、そうなることを求めているわけでもなく、ただ見たとおり感じたとおりの現実の中で考えているようだ。

 しかし何を考えているのだろうか。それは未来についての予言だろうか。希望を語りたいわけではないが、現状に絶望しているわけでもなく、それどころか現状のままでも構わないとも思っていて、それで何を考えているのかといえば、安易に希望を語るわけにはいかないということだろうか。楽観論も悲観論も違うような気がするわけか。語る必要がないというのではなく、語らなくても困らないということか。他の誰かが希望を語り、何かその人にとって都合のいいような予言について語るだろう。その内容が楽観論であったり悲観論であったりするかもしれないが、少なくとも自分が語らなくてもいいような気もしている。考えているのはそんなことではなく、たぶんありのままの世界についてどう語ればいいのかを考えているのではないか。果たして自分がそんなことを考えているのだろうか。嘘かもしれないが、不意の思いつきで述べるにしても、今それを語ろうとすれば嘘になってしまいそうだ。考えもしていなかったことを述べようとしているわけで、実際には何を考えているのでもなかったのかもしれないが、少なくとも現状を否定的にみてはいけないし、現状の延長上の未来を悲観的に予言してはならないのではないか。だからと言って現状を積極的に肯定するつもりもないわけだが、現状には現状に至る必然的な成り行きを想像することはできそうだ。それが現状の真実だとは思わないが、想像できれば否定することもないだろうか。


6月15日「マッチポンプ」

 人がどう生きていくかなんて当人が考えればいいことでしかないが、特に考えなくても、ただ生きて行けばいいだけのような気もしてくる。家族や他人や社会との関係の中で、いやでも何かしら対応せざるをえない成り行きになってしまい、それについて決断したり判断したりする機会も巡ってくるのではないか。そうなる過程で妥協したり不快な思いもするだろうが、それは誰もが経験するありふれた境遇でしかなく、そういう水準ではそれで済んでしまうような問題なのかもしれない。済まなければ関係がこじれてきて、揉め事が起こってさらに煩わしい事態となってしまうかもしれないが、そうなったところで個人的な事情の範囲内だろうか。果たしてそんなことの延長上で公の問題が起こるだろうか。個人が個人の立場で居られる範囲内では、私的な揉め事で済ませられるのかもしれないが、それが訴訟沙汰に発展してしまったり、その人の立場によってはメディアで取り上げられて、なにやら社会的に批判を浴びるような事態となるのかもしれず、それについてああだこうだと論評されると、興味を抱く人も出てきて、メディア的な盛り上がりを見せるのかもしれないが、それも他人事だと思えば、さして真に受けるようなことでもないだろうか。他人事であるからこそ無責任に面白がれるわけで、そんなことにうつつを抜かしているうちに、感覚が麻痺して、そんな三面記事の虜となってしまえば、人畜無害な一般大衆の出来上がりな状態なのかもしれず、そういう人たちが多数派を占める大衆市民社会という枠内で、著名人の不祥事が明るみになればけしからんと思う世論が優勢となれば、恣意的にその手のスキャンダルをバラすような仕掛けによって、世論操作可能な状況が形作られていると捉えれば、現状がまさにそうなのかもしれない。

 それのどこまでが恣意的な仕掛けなのかははっきりしないだろうが、特に政治家というのは昔からスキャンダルまみれにならないと出世できないし、人気も出ない仕組みになっているのかもしれず、どこの国でも保守政治というのは金権腐敗と隣り合わせの面があるわけだから、何かのきっかけから追い落とし工作が活発化すれば、当然その手のスキャンダルが表沙汰になるわけで、今更そんなことに目くじらを立てても仕方ないと思えば、きれいごとを主張する人たちから批判されそうだが、そういう人たちに投票する人たちのほうが、清廉潔白な人たちに投票する人たちよりも明らかに多い実態があるから、いつまでたってもそんなことの繰り返しの状況なのだろうか。メディア上で注目される政治家というが、いつも決まってその手の政治家であり、しかも同じ政治家が追い落としに遭うと、決まって批判に転じるのも、その手の政治家に注目し盛り上げていたメディアであるわけで、そんなマッチポンプな対応ばかりの反面、無名の清廉潔白な人たちを排除しているのも、やはりその手のメディアであるわけだから、そういうメディアによって世論操作されているのが大衆市民社会であり、一番悪いのはその手の政治家を盛り立てているメディアと言えるのかもしれないが、そういうメディアだけ取り出して批判しても無効だろうし、政官財+マスメディアの利権複合体となっていて、一蓮托生でつながっているわけだから、そんな連合体を崩さない限りは、マッチポンプの予定調和的な循環を止めることはできないだろうか。


6月14日「経験値」

 それのなにが本質でも根本でもないとすると、枝葉末節なことでもないのかもしれず、では具体的になにについて語りたいのかといえば、世の中で起こっている出来事や現象について語りたいのだろうし、それを語りながら考えているわけで、また考えながら語っているその内容が、世の中で起こっている出来事や現象となるのは、それ以外に語ることがないからだろうか。だがそれとは具体的になんなのだろうか。その根本でも本質でもないことについては語れないのだろうか。それと同時に根本でも本質でもあることについても語れないのかもしれず、少なくとも記しつつある文章の中で言葉が自在に連なっていれば、そこで何かが語られているような気になるわけだが、何かが語られているにしても、それについては語られていないのかもしれない。それが何だか分からなければ語れないというわけでもないのだろうが、語っているうちに、なにについて語っているのかがわかることを期待しながら語っているのかもしれず、その語るまではわからなかったことが、あるいはいくら語ってみてもわからないことが、語ることの本質であり、根本的な何かなのだろうか。それは方便にもならないような嘘かもしれないが、語っている意識は、自身がなにについて語っているのかを知りたいだろうし、それを知っているとしても、その知っている内容に疑念を抱きながら語っているのではないか。たぶん疑念を感じなければ語る必要を感じないのかもしれず、すでに知っている自明のわかりきったことを改めて語ることはないのではないか。

 語ることというより、何かを探求することの本質は、それを文章にすることによって、疑問に対する答えを示すことを目指しているのだろうか。具体的に探求の内容を示すことが、何らかの結果を導き出したことの証拠となり、それで一応の納得を得たいのだろうか。はっきりした答えが出なくても構わないのかもしれず、ともかく文章を記すことが、疑問に触発された何かをやっていることになるだろうし、それが自己満足にしか結び付かない場合であっても、文章という結果を残せれば、頭の中だけの思考であるよりは、何かやった気にはなるのではないか。文章を記すこと自体が思考することであり、頭の中だけの思考とはまた別の思考なのであり、頭の中だけで考えていることがそのまま文章になるわけではなく、また文章を記しながら考えていることが、頭の中だけで考えていることには直接結びつかない場合もあるのではないか。両者は似ているようでいて違う動作なのかもしれないし、文章を書くことのほかに考えることも同時並行でやっているとすれば、二つの動作を一緒にやっていることになるのだろうが、二つの動作が相互に絡み合うことにより、頭の中で考えているだけとは違う思考が働いていて、考えている内容もそれだけ違ってくるのかもしれず、どちらがどうとも言えないのだろうが、文章を書きながら考えている方が、それだけ経験として厚みが増すようなこととなり、またそれとは違い、例えば相手と対話しながら双方の意思疎通を探るような場合でも、会話しながら考えているわけで、文章を書くとは別の方面で経験の厚みが増すだろうし、頭の中で考えているだけでは経験できない思考の働きを駆使しているわけだ。またさらに書物などの他人の文章を読みながら考えている場合もあるだろうし、何か他の作業をしながら思考を巡らす動作が、人の経験の幅を広げていることは確かだろうか。


6月13日「可視性の可能性」

 現状に関して別に危機感を募らせているわけでもないのだが、現状にもいろいろありそうで、ただ漠然と政治や経済についての現状だと、それを否定的かつ批判的に捉えるにしろ、あるいはわざと肯定的かつ楽観的に捉えるにしろ、ただ恣意的かつ都合の良い根拠や理由を並べているだけでは、何を把握したことにもならないように思われるが、何か思い違いをしていないだろうか。把握する必要のないことまで把握したいと思っているだけか。すでに語っていることと現状とは無関係かもしれない。また政治と経済とは無関係だとは思えないが、少なくとも憲法改正と経済情勢とは無関係だ。では中国の軍事的脅威と経済情勢とも無関係だろうか。まったくの無関係とは言えないだろうし、経済情勢の悪化が軍事的な膨張政策を招いた歴史的な事例もあるだろうから、その方面の専門家が懸念を表明するのももっともなことだろうか。そうなると中国の軍事的な脅威に対抗するためにも、憲法改正を急がなければならないだろうか。要するに中国経済の悪化が軍事的な膨張政策を招いていて、そんな現状把握が憲法改正の口実として使えるだろうか。それが改憲に向けての恣意的かつ都合の良い理由になるとは思えないが、中にはそんな主張をする人もいるだろうか。

 いるとしてもどうということはなく、そういう人たちの存在は織り込み済みの現状だろうか。そして間近に迫った参議院選挙の結果がどうなろうと、国内の経済情勢に影響はないだろうし、中国経済とも軍事的な脅威とも無関係だろうか。では何がまずいのだろうか。与党勢力が国会の3分の2以上の議席を確保して、憲法改正に向けて動き出すのはまずいだろうか。国民投票の実施にこぎつけたら面白いかもしれないが、それが良いか悪いかは何とも言えないところで、結局は投票する人たちの判断に任せるしかないのではないか。日本の憲法がどうなろうと世界の趨勢は変わらないのかもしれず、日本に世界を変えるような力あるとは思えないし、世界の他の国の人々もそんな認識なのではないか。そもそも世界を変えるとか変えないとか、そういうことではなく、誰もが国家の制度や経済の仕組みに依存しながら暮らしているのだから、その依存関係が断ち切られない限りは、何かこれまでは違う行動に出る可能性は低いだろうし、思考できる範囲も依存の度合いに応じて決まってくるのかもしれない。

 思考できる範囲が情報を受け取っているメディアによって制限されているとしても、現実に生活している実感から大きく外れることはないだろうし、メディアから刺激を受けて妄想を抱くにしても、直接の経験とは違う次元で思っていることであり、それが選挙での投票に結びつくとすれば、政治に関して抱く妄想や幻想の類いにしても、生活実感からはかけ離れた次元で思っていることかもしれない。国政の場で行われていることは、現実の延長上で行われていることかもしれないが、それがメディアを介して見ている光景である限りは、直接見ている現象ではないだろうし、メディアを通して見ている様々な光景の中の一つでしかないことは確かで、それも現実に体験していることの一部であることは確かなのだろうが、そこに差異を感じ取っているわけでもないにしても、やはり差異が厳然としてあるのではないか。その違いを意識できないだろうが、実際の行動に表れていて、例えばそれが選挙結果となって、メディアを通じてこれから示されることになるだろうか。それは民主主義という幻想を信じている人が世の中にどれほどいるかが示される時でもある。


6月12日「影響と効果」

 影響を受けるとはどういうことなのか。それが何んであれ出会わないことには影響も何も受けないだろうか。たぶん出会うは偶然に出会うわけで、それが直接の出会いであれ、メディアを介した間接的な出会いであれ、惑わされていると感じるなら、影響を及ぼされているということでもあり、何も感じないとしても、それに気づかない場合もあるだろうし、何に出会っているのかも、それから影響を及ぼされているのにも、気づかない場合もあるのではないか。だから何事もそれに気づかなければ、出会いも影響も言説上には顕在化しないだろうか。それとも顕在化していることにも気づいていないだろうか。何かを語るということは、それは直接であれ間接であれ、その何かに出会っているということであり、すでにその何かの存在を知っていることにもなりそうだが、その何かに影響を及ぼされているから、それについて語る成り行きにもなるのだろうか。そういう説明で納得できなければ、他にどう説明すればいいのか。それ以外に説明できなければそれで納得しておいても構わないのではないか。

 悪い意味でも良い意味でも、何か特定の思考や思想の影響下にあると思われるのは、何かそれとわかる思考形態にとらわれていると自覚しているからだろうか。自覚がなければそうは思わないだろうか。他の誰かがそうなっているのを指摘することはできそうだが、指摘されてもそれが悪い意味でなら否定するだろうし、強い否定を込めてそうではないと反論する場合もありそうだが、悪い意味で特定の思考や思想の影響下にあるということなら、その思考や思想は一般的に否定的な価値観をまとっていることになるだろうし、例えばそれはファシズムだとかポピュリズムだとか、政敵に対する攻撃に使われるような概念となりそうで、攻撃目的で指摘するのは、メディア的なネガティブキャンペーンである場合が多く、間違ってもそれらの良い面を強調するような内容とはなりにくいだろうか。

 しかしファシズムやポピュリズムの良い面とはなんだろうか。まさか為政者が自分のやっていることがファシズムでありポピュリズムであると認めるわけはないだろうし、認めるのは世の中で肯定される主義主張になるだろうか。そうだとしても民主主義な政治体制において、強権的な政治がおこなれていると判断されればファシズムだと批判され、大衆に迎合しているとみなされればポピュリズムだと批判させるわけだから、どちらにしても民主主義の枠内で批判されているわけで、民主主義の価値観からそれほど逸脱しているわけではなさそうだ。選挙によって為政者が選ばれる政治体制である限りは、実質的には民主主義的な政治体制なのであり、選挙そのものが形骸化していると指摘されようと、選挙民の支持を背景として政治を執り行う形態をとっている。だからファシズムと非難されようがポピュリズムとけなされようが、そういう批判されている限りにおいては、民主主義の枠内で政治が執り行われている証しとなるのではないか。批判そのものが封じられている現状があるなら話は別だろうが、方々からそのような批判の声が挙がっていて、なおも政権の座にとどまっているのなら、それは紛れもなく選挙民の支持を背景とする政権であるわけで、批判する側が少数派である証拠となってしまうだろうか。


6月11日「集団の動作」

 人が欲望を抱くとしたら、利益への期待が欲望を抱かせる理由となりそうだが、人が集まって集団として動作するとき、何らかの団体を結成する各個人の思惑としては、利益を得たいから参加するのだろうし、実際に各人が利益を得られる限りにおいて、その団体も人の集団として維持されるのだろう。だが集団そのもの動作として、参加している各人の思惑からもたらされるのとは違う、集団特有の動作が生じる可能性があるのかもしれず、それが参加している各人の自由を奪う動作であったり、各人にやりたくないことをやらせる動作であったりするのだろうが、それらは集団の維持に欠かせない動作となり、他にも構成員の自己犠牲を強いるようなケースが起こり得るだろうし、人が集団を構成するメリットは、集団内にいる誰かに、個人でいるときにはやりたくないだろうし、決してやらないようなことをやらせる、ということかもしれず、悪く言えばそれはヤクザの鉄砲玉のような役割を特定の誰に押し付けることができるわけだが、そんな否定的な面を差し引いても、協業や連携の面で、個人でやるときには計り知れない利益がもたらされるから、現に人は集団がもたらす不自由や抑圧を我慢しながら、組織的に群れ行動するわけだ。企業など民間の各種団体なら、それで文句はないかもしれないが、それが行政ともなると、行政による統治を受けている個人や市民は、行政によってやりたくないことをやらされたり、犠牲を強いられるようなことにでもなれば、納得がいかないのは当然だろうか。

 行政の動作としては絶えず市民生活へと管理の触手を伸ばしていって、行政の権限が社会の隅々にまで行き渡るように、その力を及ぼしていく傾向にはあるのだろうが、その口実として使いたいのが、個人や市民への福利厚生だろうか。実際にそんなことを行政の担当者や政治家が考えているわけでもないだろうが、行政を人を統治するための装置とみなせばそんな動作も考えられ、たとえ福祉関連予算を増やすような成り行きなろうとも、予算を使ってやろうとしていることの中身を見極めないとならないだろうし、市民の要望に答えつつも、福祉を餌にして市民の管理を強化するようなやり方なども想定できるだろうか。具体的には市民が何らかのサービスを受けるにはマイナンバーへの登録が欠かせないとか、これは福祉とは今のところは関係ないが、例えば登録者に対する住民票や印鑑証明の発行などの行政サービスは、役所の時間外でもコンビニで発行を受けられるとか、より便利になるという触れ込みではあるのだろうし、今後その延長上で何かやってくることは十分に考えられそうで、その際メリットととして主張してくるのが、機会均等や効率性の重視など、反論や反対しづらいような理由を挙げてくるだろうし、市民一人一人に向けてきめの細かいサービスを実施するには、まず各市民の生活状況を把握しておかないとならない、という口実を市民側が受け入れざるをえなくなれば、そこに付け込んで管理の強化が行われる可能性はありそうだ。


6月10日「見ることと語ること」

 語ることができるものは見ることができるものとは少しずれているだろうか。対象を見てそれについて語ろうとすれば、そもそも見る対象というのが、見させられている対象であり、何を見させられているのかといえば、メディアに見させられ、メディアが提供する画像や映像を離れて、現実の光景の中で何を見ようとするのかといえば、メディアが提供する画像や映像から影響を受けた意識が、その画像や映像と似た現実の光景を見ようとするわけで、そんなふうにして意識がそれを優先的に選んで見てしまうという動作に支配されてしまうと、それ以外の光景は、見ているのに意識されず、印象に残らないわけで、印象に残り記憶を構成するのは、メディアによって刷り込まれた光景であり、その位置であり角度であり方向であり配置になってしまうだろうか。それが見ている光景のすべてでないことはわかりきっているが、自覚せずにメディアから物の見方を学んでいるとすれば、では見ているそれについて何をどう語るのかといえば、その語り方さえも前もってお手本がメディアによって示されているだろうか。見えている光景についてどう語ればいいのかもメディアから学んでいるとすれば、人々はメディアが示しているものの見方の通りに見ているであり、見えているものについて示されている通りの語り方で語っていると言えるだろうか。それもすべてがそうだとは言えないだろうが、ものの見方や語り方を学んでいないはずはなく、またそのお手本があからさまにメディアによって示されているわけでもないだろうが、何かしら影響を被っていることは確かだろうし、それを悪く言えば紋切り型の見方や語り方が身についている人は大勢いるのではないか。それでいいのだろうし、そこから無理に外れようとしても、意識できないところでそうなっているのだろうから、意識して紋切り型とは違う見方や語り方を実践するのは至難の技だろうか。

 それを目指して物事を見て語ろうとするのはわざとらしいし、意識すればかえって不自然なものの見方や語り方となって、見方にしても語り方にしても、奇をてらっているだけとなってしまいそうだが、ではどうすればいいのかというと、たぶんどうもしなくてもいいのだろうし、ただ見て語りたければ語ってみればいいのではないか。見ることが見させられていることだとすれば、見てほしいのだからそれを見ればいいだろうし、わざと外れたところを見る必要はなく、なぜ見てほしいのかを考えればいいだろうし、見させたがっている理由がわかれば、それを見させることがメディアの狙いであり、目的であることに気づくのではないか。またそれを語らせたがっているのだとすれば、それについて語らせることがメディアの狙いであり、目的であることに気づくのではないか。メディアは人々に見てほしいものを見せ、語ってほしいことを語らせようとしているわけで、誘惑し欲望を抱かせるように仕向けているわけだが、たぶん見ることは受け身の動作であり、語ることは攻撃の動作なのであり、一般の人々は見るだけにとどめておきたいわけで、語るのはもっぱらメディアによって選ばれた人に語ってほしいわけだ。そしてその選ばれた少数の人たちがメディアの代弁者となって、メディアが伝えたいことをそれらの人たちが一般の人々に向けて語るという構造を維持したいわけで、その代弁者が語る光景も一般の人々が見てほしいとなるのだろうが、どうもネット時代に入り、メディアから選ばれない一般の人々も語る手段を得た結果、メディアとしてはそこにヒエラルキーを導入したいわけで、選ばれない人々の語る内容は低レベルであり、選ばれた人が語る内容こそが高級で価値のある内容だと見せかけたいわけで、実際にそうであることを見せつけたいのではないか。そこに違いを見出せなければ、メディア上で選ばれた少数の代弁者たちが語る内容に魅力がなくなってしまい、誘惑したり欲望を抱かせる力がなくなってしまうのではないか。

 ネットを利用する一般の人々が考えておかなければならないことは、自分たちが受身の立場になっていることについて自覚がないということであり、仮に攻撃的に語っている自覚があるとしても、メディアが選んだ代弁者の煽動に踊らされている可能性もあるわけで、自分たちが代弁者の意見に賛同したり代弁者を支持している自覚があるのなら、その可能性が高いのではないか。代弁者と同じような主張をしているならそういうことだろう。それに気づいたら自分が受身の立場であることを自覚すればいいわけで、無理に違うことを主張する気になれなければ、あるいは違うことを主張する方がそもそもおかしいと思うなら、それを洗脳とかそういう否定的な表現で攻撃される筋合いはないのだろうが、とりあえずメディアに対しては受身の立場であることぐらいは自覚しておいた方がいいのではないか。そして自分たちが支持し賛同するメディアとともに積極的に発言して行けばいいのだろうし、利害を同じにする運命共同体の一員として、特定の社会勢力を築いていることを認識すればいいだろうか。しかしそこから外れて何か主張すべきことなんてありはしないだろうし、そもそも主張すべきこととはそういうことなのではないか。そして主張すべきないことや主張しなくても構わないようなことを語るなら、それは煽動や攻撃や宣伝とは無関係に語れる可能性があるのかもしれず、そうなると何か主張しているように装わなくても構わないのではないか。要するに見させられていることを語らなくてもいいわけで、さらに見ていることについて語っている自覚もいらないのかもしれず、そうなると考えていることについて語っているような気にもなれるだろうし、それさえも意識しなければただ語っている状態へも近づけるかもしれない。


6月9日「地縁」

 自分自身に何らかの規律を課すという動作は、自分で自分を一定の規範に縛りつけることを意味するのだろうが、そんなふうに自己を規格化せざるをえないとしたら、その人を取り巻く社会環境がそのような動作を強いていると言えるだろうか。たぶん目的があって、目的のためには規律を課すような成り行きになるわけで、その目的をもたらすのが身の周りを取り巻く社会環境であり、その場の状況なのではないか。しかし目的とは具体的には何なのだろうか。自分自身に規律を課すのが目的なら、それはその人自身の目的ではなく、社会が人を規律を守る社会の一員として必要としていると考えれば納得がいくだろうか。社会を維持し安定化する目的で、その中で暮らす人々に規律を課しているのだろう。そして具体的に誰がどんな組織が規律を課すというよりも、人々の振る舞いがそれを見ている人々に影響を与えるのであり、規律から外れないように人と人とが相互に監視し合うような成り行きになるのかもしれず、結果的に規律を守る人々によって社会の安定が維持される仕組みになっているのだろうか。何かあからさまに物理的な手段によって圧力を加えて従わせるのではなく、自分から進んで従うように仕向けることができれば、争いもそれほどなく、平和裡に安定した状態を保つには欠かせない動作だろうか。だが場合によってはその無言の同調圧力というのが厄介なのかもしれず、村八分ようなしきたりなどはそんなものの類いだろうが、何らかの事情から同調圧力に逆らう立場になってしまうと、不快な思いを強いられそうで、不快な思いから逃れるには、嫌々ながらも同調圧力に屈した方が得策で、程度の差はあるにしても、倫理観などから逆らっている場合は頑なに同調を拒むかもしれないが、損得勘定を優先させるなら、長い物には巻かれろ式で、従っておいた方が得策と判断されるのではないか。

 何にしても社会的な規律とか規範に従うか否かという判断は程度の問題だろうし、その場の空気や雰囲気である程度は判断できそうで、理不尽な要求を課されない限りは、大抵のことは受け入れざるをえないような気持ちにはなるのではないか。具体的には町内会とか消防団とか寺社の檀家とか学校のPTAとかは断れない立場に立たされることが多そうだが、そういうところからじわじわと社会の構成員として、役割分担が割り振られる成り行きになってくるのだろうし、中には積極的にそういう活動に関わろうとする人たちも出てくるわけで、自治体の行政や保守政党なども、それを通じて自分たち支持基盤を構築している面もあるのではないか。きれいごとの理性や倫理ではなく、情動や地縁的な仲間意識などで絆を構築できれば、その連帯はより強固になるかもしれず、そのような組織のレベルでは、絆を断ち切って勝手なことをやる理由もなくなるだろうし、そこで公私混同がまかり通っているような状態を改める機運が生まれるとも思えない。もちろんそこで構成員が何の問題も感じられなければ、そういう組織形態は長続きして、それを基盤として成り立っているその種の共同体も安定的に維持されるのではないか。そしてそのような地縁的な組織が崩れ去る懸念が生じているとすれば、それは社会構造の変化に起因しているだろうか。例えば少子高齢化によって組織の構成員の年齢構成が以前とは様変わりしてきているだろうし、老人ばかりが多くなってくると活動に支障が出てくるのは当然だろうし、そもそも人口が減ってくれば、構成員そのものが減ってくるわけだから、自ずから活動は下火になってきて、それを支持基盤にしている各種団体も衰退してくる可能性もあるのではないか。そうなれば同調圧力も弱まるだろうし、規律や規範を課すような成り行きも減ってくるだろうか。


6月8日「そら見たことか」

 たとえばサイコロを振ると1から6までのいずれかの目が出るのは必然だが、出た目が何になるかは偶然に左右され、サイコロを振って目が出るまでの動作には必然的な成り行きと偶然の結果が含まれる。人はその必然的な成り行きを想定して何かやろうとするのだろうが、結果がどうなるかはその場の偶然に左右されるわけで、こうすればこうなるはずだという信念を過信しすぎると、結果の偶然性までは考慮できずに、とんでもない失態を招く事態にもなりそうだが、人が気を配ることができそうなのは必然的な成り行きまでで、偶然にもたらされる結果はどうしようもできないだろうし、思わしい結果が出ずに責任を取らされるような事態となれば、納得がいかなくても結果責任は認めざるをえず、人事を尽くして天命を待つとも言われるわけで、できる範囲内のことは誠実にやって、力の及ばない範囲は運まかせとなるしかなさそうだ。そしてできるなら偶然に左右される部分はなるべくなくそうとするだろうし、そのための技術や戦略や戦術を効率的に高める必要が生じてくるわけで、そうやって人は自らの力の及ぶ範囲を広げようとする傾向にあるのではないか。できることなら100パーセント確実に結果が出る方法にしたいとなると、権力を行使してガチガチにやり方を固めてくるわけで、それが組織的な人員構成をもたらし、命令通りに動く人材を必要として、不確実な要素を排除する過程で抑圧や規制が強化されることになりそうだが、社会のあらゆる分野でそういう傾向が出てくると、それこそ全体主義的な体制となりかねない可能性もあるだろうし、そういう人や物や情報を管理する体制が、人が集団的に構成される組織形態には必ず生じてくるのではないか。

 そういう動作をほどほどのところで済ます余裕が生まれないのは、競争しているからだろうし、競い合う他の集団に勝とうとする目的意識が強ければ強いほど、集団内の全体主義的な支配の傾向が強まる可能性がありそうだが、それで成功するかといえば、必ずしもそうはならない事例の方が多いのかもしれず、実際に全体主義国家は戦争を仕掛けて自滅するパターンや、組織が硬直化して産業分野で他国に遅れをとり、経済的にうまくいかなくなるパターンなどが顕著であり、要するに結果がどうなるかはその場の偶然に左右される運命から逃れられず、今のところはどのように策を弄しても、動作は思惑通りに行く必然的な成り行きと、偶然に左右される結果の組み合わせになっているケースがほとんどなのではないか。そういうところから考えてみると、政治にしろ国家統治にしろ企業経営にしろ、これをやれば絶対に大丈夫だと言えるやり方などほとんどないだろうし、その時々で実権を握って権力を行使する人物や集団が何をやるにしても、思惑通りにやれる部分と偶然に左右される結果がつきもので、結果が思わしくなければ、あれこれ批判されるのは当然のことだとしても、批判する側が頑なな信念で凝り固まってしまうのは、何だか機会をみすみす潰しているようにも感じられるわけで、悲壮感を漂わせての硬直化した紋切り型的な批判の繰り返しでは、それこそ全体主義的な自滅するパターンに似通っているのではないか。こんなことを述べても理解など得られないのは承知であえて言うなら、いい加減で構わないし軟弱なことを述べていても一向に構わないのではないか。具体的に何をどう述べればいいかは、取り立てて思い浮かばないのだが、怒っていても怒らなくてもいいだろうし、相手をバカにしたような皮肉な言い回しにこだわらなくてもいいだろうし、感情をむき出しにせずに、無理に嘲笑したりせずに、冷静におかしな点を指摘するぐらいがちょうどいいのかもしれない。

 何を批判するのも場当たり的にならざるをえず、景気が悪化したらそら見たことかと政府の経済政策を批判したり、原発事故の後始末が不手際ばかりだからそら見たことかと批判するわけで、沖縄で米軍関連の事件が起こればそら見たことかとやはり批判するし、熊本で地震が起こればそら見たことかと原発の再稼動を批判するのだから、そら見たことかのオンパレードになるのは致し方ないとしても、保育園に落ちた日本死ねという話題も、福祉関連予算を削ってそら見たことかの類いの批判しかできないかもしれないが、東京都知事の不祥事に関しても、誰が前知事を退任に追い込んだんだ、誰が彼を知事に推薦したんだそら見たことかと批判するにしても、批判とはそういうものかもしれないが、どれもこれも偶然に左右される結果を必然的な成り行きに結びつけることによって、批判を可能にしている面もあるわけで、うまくいかなかった結果を批判に利用するのは当然のことであり、安保法制にしても外国に派遣された自衛隊員に死傷者が出ればそら見たことかと批判されるだろうが、批判するのはいいとしても、何か他に積極的に訴えたいことがないだろうか。そうなるとやはり、こうすればうまくいくという根拠の定かでない約束手形を乱発するような成り行きになってしまうだろうか。実際にそうしたから、そら見たことかという批判を招いているのが現政権の現状だろうか。政策がうまくいかなくなればそうなるわけで、必然的な成り行きなのだろうし、そら見たことかと批判する側にしてみれば、うまくいかなかった結果こそが必然的に招いた結果なのだと強調したいわけだ。たぶんこれからも現政権のままでもたとえ政権交代しても、繰り返されることは決まりきっていて、必然的な成り行きから生じる偶然に左右された結果と、結果が思わしくなければ、そら見たことかと批判されることの繰り返しとなりそうだ。


6月7日「受け止め方」

 国家予算を外部から批判的に見れば、無駄に思われるところで予算を浪費して、必要と思われるところには予算を回さない、と指摘されるのは毎度のことで、毎年のようにそんな批判がなされるのだろうが、最近でやり玉に挙げられているのはオスプレイの購入とか、稼働する見込みのない高速増殖炉もんじゅに数十年間も莫大な予算をつぎ込んできたりとか、その筋の専門家が調べあげれば他にもいくらでも見つかりそうだ。国の予算を有効活用するために、予算枠を死守しようとする官僚機構に逆らって、国会や内閣において、大胆な見直しの決断が下される成り行きにはならないようだし、数年前の民主党政権時の事業仕分けなどは、完全な腰砕けで骨抜きにされたようなパフォーマンスにしか感じられなかったし、また自民党政権に戻ったら完全に官僚の制御下に戻ったみたいに思われるが、現状で何か政治的な決断ができるようなことがあるのだろうか。消費税率の引き上げも景気悪化が誰の目にも明らかだから、選挙対策も含めて再延期されたようだが、財政規律の健全化というのも、そもそも消費税率引き上げによって可能かという疑念も、色々言われてきた経緯もあって、中にはこのままでも大丈夫なのだと力説している評論家の類いもいて、財務省の嘘に騙されるなと盛んに喧伝するわけだが、実際に財政破綻するまでは本当のところはわからないのだとしたら、要するに予算の無駄遣いにしても借金財政にしても、政治によってどうこうできるような問題ではないのかもしれない。国によってはどうこうできるような体制になっているところもあるのかもしれないが、少なくとも日本では難しいように感じられてしまうわけで、今現在国家的な次元でやっていることにブレーキはかかりそうもないようだ。そうなると景気対策とかも、他の国がやっていることと足並みをそろえてやるようなことになるのではないか。一時話題となった日銀の部分的なマイナス金利導入とかも、ヨーロッパの国々では結構幅広く行われているようだから、日本もそれに見習ったということかもしれず、それほど奇異なことではないだろうし、景気悪化の原因とされる中国経済のバブル崩壊とかも、日本をはじめ他の国々でも起こったことだろうから、似たような経過をたどるだろうし、中国政府にとっては深刻な状態かもしれないが、たとえこの先長期的な景気低迷に突入するにしても、それは他の国々が経験した事態とそれほど変わらないのではないか。

 そして間近に迫った参議院選挙の争点が、景気対策と野党勢力が恐れる憲法改正となりそうな気配だが、そんな争点をまともに受け止める気にはなれないし、義理で投票はするかもしれないが、義理で投票するぐらいがちょうど良いのだろうし、悲観も楽観も感じられず、淡々と滞りなくお祭り行事が進行してくれれば、それで構わないのかもしれない。とりあえずメディア的な話題作りのための景気対策であり、憲法改正なのだろうから、何かそれについてメディア上で語られることは確かであり、選挙活動でも立候補者や政党の幹部や応援の著名人などが、何か主張し何か語るわけで、それを投票の判断材料にしたければすればいいだろうし、しがらみから前もって特定の政党や候補者に投票するのが決まっている人は、該当する候補者や政党に投票すればいいのではないか。アメリカの大統領選挙で社民主義を掲げるサンダースの支持者みたいに、政治に幻想を抱けなくてもいい構わないだろうし、そう深刻にならずにみんなが軽い気持ちで投票すれば、その気持ちが選挙結果に反映するかもしれず、棄権だ白票だなんて、斜に構えてひねくれた行為をする必然性などないようにも感じられ、誰にどんな政党や団体に投票しても、投票する理由がちゃんと筋の通った理由でなくてもいいのではないか。そうでなくても各種団体の組織票が幅を利かせている現状があるのだろうから、なるべく投票するハードルを下げるような試みが必要なのかもしれず、矛盾した言い方だが、投票に行こうが行くまいがどちらでも構わないのであり、行くなら個人の自由意志で投票してくれれば、自由意志など幻想に過ぎないとしても、否定的なリアリズムに凝り固まるよりは、いくらかマシなのではないか。その否定的なリアリズムというのが何かといえば、憎悪の対象を糧にして生きるということだろうか。


6月6日「荒唐無稽」

 世の中の仕組みがどうなっていようと、日々生活している中で興味がなければ気にとめるわけでもなく、その必要がなければ学ぼうとは思わないし、学んだところで理解の程度にも人それぞれで差異があるだろうか。粗雑で大雑把なことなら言えるかもしれないが、その方面の専門家でない限り、普通の一般人が気づかないところまでは指摘できないだろうし、一般人が気づいている程度のことなら、あえて語るまでもないことだろうか。それについて語りたい人が興味を持った範囲内で語るしかないだろうが、その問題点は指摘できるとしても、現状の仕組みを変えるのは容易なことではないし、語ることができるのは問題点を指摘することぐらいで、ではどうやれば変えられるかについて何か提案してみても、やはり実現にこぎつけるのは容易なことではないだろう。実際そんな提案ならメディア上で日々数多くなされているだろうし、特に政権与党の政治家たちが主張する憲法改正などの提案には、各方面から批判が相次いでいる現状があるだろうか。手続き上は改正できるわけだから、手順を踏んで議会に改正の提案を出せばいいわけで、3分の2以上の議会勢力を確保したらやってもらえばいいことでしかないだろう。そして議会で議決されたら、国民投票でその賛否を国民自身が判断したらいいわけだ。憲法が改正されたからといって、すぐに世の中の仕組みが変わるわけではないだろうが、反対勢力が危惧しているような事態にでもなれば、彼らにとっては世の中が悪い方向へと変わったと実感されるかもしれないが、それもその先に待ち受けている何らかの変革のきっかけにでもなれば、後から振り返ってみれば、そこに至る成り行きにも何らかの必然性があったようにも思われるだろうか。必然性が感じられようと偶然の巡り合わせを実感しようと、国内だけの状況でなく、国内外の情勢と連動していることだろうから、シリアや北朝鮮のようにはならないとは思うが、日本の政権与党や官僚機構などが目指しているのは、シンガポールのように自由経済でありながらも言論報道の自由を規制する管理型独裁体制だろうか。

 目指しているのではなく、保守勢力の理想を実現しているのがシンガポールであるわけで、一方で反対勢力が理想としているのが北欧的な福祉国家なのだろうし、どちらにしても国家による国民の管理が行き届くような方向性があるように思われ、何かその辺に違和感を感じざるをえないわけだが、では何が理想なのかといえば、誰もが勝手気ままに暮らせる社会となるだろうか。ただ漠然とそう思っているだけで、実現するも何も何をどうすればそうなるのか皆目見当がつかないし、それが今までに類例や模範がないような状況になってほしいと思っているのかもしれず、一般の人たちからすればその方が違和感を感じざるをえないだろうが、あえて見当違いな類例を挙げるとすれば、ソマリアのような無政府状態になってくれたらおもしろいような気がするわけで、しかも戦争状態でなく平和な無政府状態が実現されれば、それこそ世界で類例がないような地域になるのではないか。そうはいってもいきなりそうならないだろうし、まずは政治が形骸化して行政が空洞化して産業も衰退して、しかもそこに暮らす人々が暮らして行けたら何の問題もないわけで、現状でもそんな兆しを感じられるところがあるとすれば、政治的無関心がもたらしていると思われる、選挙での投票率の低下傾向があげられるわけだが、後はメディアが政権批判を控えている状況も、批判できないのなら無関心でも構わないという風潮になれば、政権を擁護する報道よりはいくらかマシだと思われるだろうか。それこそ北朝鮮のようにあからさまな国家翼賛報道などが毎日のように行われたら、かえってほとんどの国民が危機感を募らせるだろうから、それはできないとなれば、やはり政権批判報道の自粛となれば、しかも自粛しているのを悟られないようにしたいのだとすれば、政治とは無関係な報道ばかりとなって、国民の政治的な無関心が助長されるのではないか。そうだからといってそれで無政府状態に近づくとは思えず、せいぜいがシンガポールのような事態なのかもしれないが、地域も国情も違うから、何とも言えない部分もありそうだ。


6月5日「自己の制御」

 そんなことはわかりきっているように思えるだろうが、経験とか体験と言われるものは自己に何をもたらしているのだろうか。簡単に言えば今までに経験してきたことが自己を作り上げているように思われるが、一方で絶えず自己を制御しようする自意識は、経験が作り上げてきた自己を制御することによって何がやりたいのだろうか。例えば自己の願望を実現したいわけか。それだけならせいぜい自己を努力させればいいのかもしれないが、それだけではないとしたら、他に何かあるのだろうか。願望を断念させたり、自己を今までの自己から外れさせて、新たな自己を構築しようとしたり、そんな動作も自意識が担っているとしたら、自己の一部である自意識とは何なのだろうか。外部からの作用が自意識の判断に何らかの影響を及ぼしていることは確かだが、その際自意識が自己の味方であると信じてもいいのだろうか。心の中に悪魔と天使がいて、悪魔が自己をそそのかして良からぬことをやらせて、自己を破滅に導くようなイメージでは幼稚すぎるかもしれないが、そこに現れる悪魔と天使も自意識の分身だと捉えるなら、そこで自意識が善と悪に分裂しているイメージを抱けるだろうか。そんな自意識自体が自己の想像物だとするなら、経験は自己を作り上げ、作り上げた自己がさらに自意識を作り上げているイメージとなりそうだ。もちろん本気でそんなものを信じているわけではなく、自己も自意識も虚構でしかないのだろうが、その虚構の想像物を省いてしまえば、ただ外部からの作用が身体を突き動かしていて、それが身体の中に蓄積されたのが経験だと言えるのではないか。

 具体的には経験は脳の表面や内部に情報として蓄積されているわけだが、情報以外にも内臓などの各種の臓器や手足の形状や皮膚や皮下脂肪まで、身体のあらゆる部分に外部からの作用が影響を及ぼしていて、暴飲暴食によって胃腸が痛めつけられたり、喫煙によって肺やその他の臓器が障害を負ったり、日光が皮膚の日焼けを起こしたり、他にも疾病や打撲や傷害や刺青などによって、様々な経験の痕を残すのではないか。それらが精神作用となって自己や自意識といった幻想をもたらしていて、そういう次元では自己保存本能以外に自意識が自己を制御しようとする理由を導き出せないだろうし、ただ外部からの作用に従ったり対処しているにすぎないことになってしまいそうだが、人々が社会を築き維持していく上でやらなければならないことは、共通の価値観や規範に基づく同質の集団を作り上げることであり、それには社会の成員に共通の経験をさせることによって、その共通の経験に基づいた自己なら同じような自己になるのだとすれば、共通の経験をさせるには外部からの作用を共通にする必要があり、具体的には子供達を学校に押し込めて、共通の作用を及ぼそうとするのであり、結局そういう各人の人格の規格化作用が、自意識が他人と同じように動作するように、自己を制御しようとする作用を生むのかもしれず、それはそうした訓練よって身につく動作であるわけだ。たぶんそれだけなら何の問題もなく、各人が共通の目標に向かって努力していればいいだけなのだろうが、資本主義経済の中では当然のことながら競争があるわけで、競争のふるいにかけられて脱落してしまう人が大勢生じてしまうわけで、各人が社会の維持や安定のために同じ人間になるように仕込まれているのに、結果的には同じ立場や境遇にはなれないわけだ。そしてそんな結果から社会が建前として掲げている共通の価値観や規範が欺瞞であることがわかってしまい、人それぞれで程度の差はあるものの、その事態にどう対処するかを迫られる時に、自意識が自己を制御しなければならない必要が生じるのではないか。具体的には他者に勝つためにはどう振る舞えばいいのかとか、あるいは他者との競合を避けるにはどう振る舞えばいいのかとか、そのための戦略とか戦術とか、あるいはその場の状況に応じた合理的な方法とか妥当なやり方とか、考えられる様々な振る舞い方の中から最善のものを選ぶには、やはり冷静になったり欲望を抑えたりの、自己の制御が欠かせないだろうか。


6月4日「変革の意志」

 意識が捉えているのはあるがままの現状ではなく、自意識が捉えている現状だ。それがあるがままの現状なのではないか。恣意的に現状を解釈しているとしても、解釈していることに何か目的があるとも思えないのだが、解釈している自分の意図を意識できないとしたら、やはりそれは意図的に解釈しようとしているのではないはずだ。意図的に捻じ曲げられない現状認識があり、それは肯定も否定もできない認識なのではないか。ではそれがあるがままの現状の反映だと言えるだろうか。それが正しい捉え方かどうかはわからないが、現状を変えたいと思い、実際に変えようとしているのなら、現状を否定的に捉えているわけで、なぜ否定的に捉えているのかといえば、自身が現状にうまく適合しているとは思えないからだろうか。それなら現状に適合できるように自分を変えたいと思う場合もありそうだが、思い通りの現状にしたければ自身よりも現状を変える方に努力の比重を置きたいところか。努力しても変えられないことの方が多そうだが、自分が変わることで現状も変わり、現状が変われば自分も変わるなら、現状と現状の中で生きている自身が連動していると捉えられ、それが妥当な認識のように思えるのだが、では自分と自身が置かれている現状を変えるためには、実際にどうしなければならないのかとなると、まずはあるがままの現状を把握しなければならないとなるだろうか。そこで思考が一回りしたわけで、果たして自意識が捉えている現状があるがままの現状なのか、という疑念とともにもう一度現状について思考を巡らすのはわざとらしいが、意図的に思考を循環させているわけではなく、またいくら循環させても堂々巡りで、解決の糸口など見つかりそうもないが、ただあるがままの現状の中で思考を巡らせている現状がある。

 現状と自己の関係は、現状の一部が自己そのものなのだから、対立する概念ではなく、現状について思考を巡らせている現状があり、思考を巡らせているのは現状の一部を構成する自己であり、現状を変え自己変革を図ろうとする意志も、現状からもたらされているわけで、そう思うことに何の不思議もないのだろうが、あるがままの現状とはそれら全てを含み、意識できない自己の内部や外部まで含んでいて、その中には現状を変えようとする意志を生じさせている現状があるわけで、要するに現状が現状を変えるような自己変革を促していると捉えておけば良さそうだ。現状を否定的に捉えているのではなく、現状を変えようとする意志を肯定的に捉えるべきかもしれず、その意思が現状から生じているのだとすれば、現状と自己との関係は自己変革を絶えず促すような関係であり、現状に不満を抱く意識が現状からもたらされているわけだ。それを意識できる人が世の中にどれほどいるかは、現状に対する満足度によって明らかになるかもしれないが、現状に満足しているからといって、自己変革を免れるわけではなく、それを変革とは言わないかもしれないが、当人が意識していないところで変わっていってしまう部分があるだろうし、それに周囲が気づくか否かに関係なく、例えば保守的な意識でさえも昔とはだいぶ様変わりしている部分もあるのではないか。そしてそんな現状を肯定しても否定してもどちらでも構わないのだろうが、あるがままの現状を受け入れるか拒否するかしている人たちが意識しているのが、現状に対する肯定的あるいは否定的な認識だとしても、それらの現状認識が意図して示されているわけではなく、そう認識している人たちの意図を超えた、それらの人たちの社会的な立場や境遇からもたらされていて、社会の中での存在位置がその人の意識を拘束しているわけで、何かのきっかけからそこからはみ出ようとする意志が生じると、その人が占有している地位や居場所を失ってしまうのではないか。そしてそれが自己変革の結果だとすれば、現状を変えたことになりそうだ。


6月3日「空気」

 偶然の巡り合わせで経験しているとしか思えない様々な出来事に巻き込まれ、その場の成り行きまかせで何かやっているとしても、後から振り返ってみればその時々で合理性や妥当性を求めながら行為に及んでいるように思われ、何かやっているのにもそれなりの理由があるように思えてくる。その理由の一つとして世の中を理解したいという願望があり、理解したところでどうなるわけでもないと思いつつも、何かやってみてその反応を伺うことで、そこで人々が何を思い何を考えているかを推測して、その思いや考えに基づいて何をやろうとしているのかを知ろうとしている。人が関わっている人為的な現象からその現象の中で活動している人達の言動や行動の特性を理解しようとして、たとえ偶然の巡り合わせで何かが起こっているとしても、そうなる必然性を求めようとするわけで、何かを推測し理解しようとする行為は、必然的な理由や根拠を求めようとする成り行き中で思考を巡らせていて、それについて語る中でその理由や根拠を示そうとするわけだ。そうだとするとやはりわからないでは済みそうもなく、理由も根拠もわからないと語るのでは、その時点でどうでもいい内容となっているだろうか。しかし具体的に何がわかっていないのか、それを知ろうとしているわけで、それについて考える上で何がわかっていないのかを認識しようとしているのではないか。少なくともそれらの人や団体が関わって起こした現象の結果に関して、否定的な要素を並べて安易に批判的な言説を弄する前に、なぜそれらの行いが否定的に捉えられているのか、その批判している人たちが否定せざるをえない部分について考えてみなければならないだろうか。

 彼らは何を否定しているのか。だが興味があるのはそんなことではなく、批判勢力が否定するようなことしかできないということか。それが煽動的な効果を狙っているのなら、否定されるのも計算のうちなのではないか。確かにそういう面ではそうかもしれないが、批判勢力に否定されるようなことをやっておいて、何のメリットがあるのだろうか。たまたま成り行き上そうなっただけで、計算してそうなったわけではなく、世間の賞賛を得たいがためにやっていることであり、それが思うように得られなかったので、否定的な批判を封殺しようとして、各方面に圧力をかけたわけだろうか。そんな解釈であっても構わないだろうし、実際に批判の自粛を求めていると捉えておいた方が、批判勢力にとってはそんな同調圧力に逆らって批判している自分たちの立場を正当化したいだろうし、水を得た魚のように振る舞えるだろうか。たぶんそうではないような気がするわけで、暗に批判の自粛を求めたり、同調圧力をかけているように感じられるなら、それでも構わないどころか、積極的にそう思われておいた方が好都合なのかもしれず、批判勢力が危機感を抱くほどの深刻な状況だと思わせておいた方が、やりやすいのではないか。何をやりやすいのかといえば、煽動しやすいということだろうか。死に物狂いで何かやっているように見せかけないと、味方も批判勢力と真剣に戦ってくれないだろうし、大げさに煽り立ててもその気になってくれないだろうか。しかし何を煽り立てているのだろうか。それはこれからわかるかもしれないし、わからないままでは煽動が不発に終わってしまうだろうか。実際に何と戦っているのかといえば、実質的には批判勢力と戦っているわけではなく、世の中を覆う空気と戦っているのかもしれず、空疎な世論を自分たちの味方につけようとしているのではないか。世論を味方につけるための戦いであるとすれば、それはイメージ戦略でしかないだろうか。

 合理性や妥当性ではなく、良いイメージを持たれれば、それで選挙に勝利できるだろうか。そうではなくイメージとは悪いイメージであり、敵に悪いイメージを植え付ければ、こちらに勝利が転がり込んでくるやり方だろうか。そのために多用するのがネガティブキャンペーンなのだろうが、煽動するのは敵の悪いイメージであり、批判勢力とともにこのままでは日本がダメなるという喧伝を共有するわけか。対立する双方が否定的なイメージのなすり合いに終始すれば、有権者はどちらに投票する気にもならず、投票率が下がって組織票がものを言うから、敵にも味方にも否定的なイメージが蔓延していてほしいところだろうか。そんなわけで批判勢力が深刻ぶるのは大いに結構なことであり、危機感を募らせて激烈な調子で体制側のやっていることを糾弾してほしいのかもしれず、しかも日頃から反体制を標榜している少数派の人たちがやってくれれば、なおのこと好都合なのかもしれない。虐げられた少数派が過激になるのは毎度のことで、多数派がそれを傍観しているような状況になってしまえば、それに越したことはなさそうだが、別に意図してそうやっているというより、自然とそういう成り行きに落ち着いてしまうのかもしれず、一般大衆は世の中で成功している人たちの味方であり、成功するには体制側の味方になる必要があるというより、成功した人たちが体制側を形成しているのであり、一般大衆もできれば成功して体制側に入りたいわけだから、批判ばかりの少数派の味方をするわけにはいかないのではないか。何よりも少数派に味方しても利益のおこぼれに与れないだろうし、それだけ正義感や倫理観に燃えているような人たちが、少数の批判勢力を形成しているなら、そういう人たちが世の多数派になることは絶対にありえないだろうか。そういうイメージが世の中に蔓延しているとすれば、いつまでたっても多数派の勝利が続くのかもしれないが、どのような人たちが多数派を構成しているとしても、そこで支配的な世論というのは空気みたいなもので、はっきりした実体などないのかもしれない。


6月2日「やるべきこと」

 現状でやるべきことはやれることだろうか。やるべきことをやれと主張できるとしても、それがやれないことだとしたら、主張そのものが嘘になるだろうか。それともただやるべきことをやれない状況にあるわけか。そうだとすればやるべきことを主張しなくてもいいのかもしれないし、実際にやっていることを継続していけばいいのかもしれず、それはやるべきことではないと主張されても、そんな主張など無視するしかなさそうだ。しかしなぜやるべきことがやれなくて、やっていることはやるべきことではないのだろうか。やるべきことではないことをやっている政治勢力を世論が支持しているから、それを批判する勢力としてはやるべきことをやれない状況にあるわけか。しかしなぜやるべきことをやれない状況にあるのか。それは世論の支持がないからやれないわけか。議会で多数派となればそれをやれるようになるのかもしれないが、それは現状では無理そうだ。政治的にはそんなことでしかないだろうし、今のところはどうということはなく、今後もどうなるものでもないのだろうか。だからそういう方面で何を主張しても、それはやれないこととなりそうで、まずはやるべきことに挑戦できるような環境を作らなければならないわけか。しかし現状でやるべきこととは何なのだろうか。それは人によっても立場によっても異なるだろうし、政治的な話題から離れたら、他人にとってはどうでもいいようなことかもしれない。個人にとってやるべきことというのは、勝手な思い込みから導き出されることもありそうだが、何らかの利害で動いているのなら、それに関係する他人を巻き込んでいる場合もあるだろうし、利害で結びついている集団に属しているなら、その内部での位階関係から生じる役割分担に拘束されながら、何かやることになりそうで、それは勝手なことではないだろう。

 その集団の利害に拘束されながらやるべきことというのが、政治でいえば政党の利害に拘束されながら政治家がやるべきこととなるだろうし、それが一般市民の感覚からするとやるべきことではないように思われる場合もあるわけで、それは役人が所属する官庁の利害に拘束されながらやるべきことをやっている場合も同様に思われる場合もあるだろうし、その党利党略や官利官略と一般市民の利害が一致しないように思われるのは、以前から盛んに指摘されていることかもしれないが、別に一般市民が特定の利害で一致し団結しているわけでもないだろうから、党利党略や官利官略が政治の場で優先されるのは当然だろうし、政治家や役人は仕事でやっているわけで、それが一般市民に奉仕する仕事であるのは建前だろうが、直接は所属する政党や官庁のために働いているわけで、しかも自分たちが盛り立てている国家のために働いている、という抽象的な概念が絡んでくると、国民は支配や統治の対象となるわけで、日頃から国民主権を信じていて、政府に批判的な一般市民からすれば、そんなのは政治家や役人の勝手な思い込みだと批判したくなるだろうが、建前や理想論はともかく、実質的には政治家や役人が一般市民の上に立って、国民を指導する立場になっていて、それが当然のことのように思われているのかもしれず、実際に一般市民は行政に監視され、法律に違反すれば処罰される立場なのだから、国民主権の方がまやかしの概念になりかねないわけで、そんなのは昔からそうだと言われればその通りかもしれず、行政に管理され服従を強いられている面を強調すれば、暗澹とした気分になりそうだが、それだけではない側面もあるわけで、金持ちや企業などはタックスヘイブンを利用した課税逃れをしているし、少なくとも国家に完全に屈しているわけではなさそうだ。

 従う部分と従わざるをえない部分と、実際に逆らっていたりごまかしている部分もあるだろうし、支配だとか管理だとかいう概念だけでは説明できない部分もあるだろうし、一筋縄ではいかないのが国家と国民の関係だろうし、そこに暮らしている一般市民と自分が何よりも国民だと思っている人たちとの間にも、意識や認識のズレがあって、法律が規定する国民としての権利と義務の間に優劣関係を設けて、国民の義務を強調したい人たちもいて、そこから生じる勝手な論理を他の人たちに押し付けたい衝動にかられるのかもしれないが、政治に介入したい様々な人たちが様々な立場で、その立場に起因する勝手な論理や勝手な解釈を掲げて、勝手なことを主張している現状があり、もちろんそれが全くの勝手なのではなく、自分のたちの社会的な立場から導き出される特殊な利害に基づいているとも言えるのかもしれず、要するに自分たちの立場を擁護し正当化するための主張なのであり、それが国民全体の利害に結びつくように見せかけたいのだろうが、様々な場面や局面で利害を異にする人たちと対立し合い、非難合戦や論争を繰り広げている実情を考えれば、少なくとも実際に対立している人たちとは利害が食い違っているのだろうし、そういう面ではそれらの人たちの利害が国民全体の利害とは結びついていないわけで、そういう部分で党利党略や官利官略が幅を利かせているにもかかわらず、建前としては国民全体の利益となる政策を推し進めているように見せかけたいわけで、そこに矛盾や欺瞞が顔を覗かせているのだろうが、勝手なことを主張する当事者たちがそんなことを認めるはずもないだろうし、あくまでも国民全体の利益が国家の利益であり、個々の人たちの利害が対立することなどを考慮していたら、まともに政治的な主張などできなくなってしまうだろう。そういう意味でやるべきこととは国民全体の利益を導き出すことであり、個々の人たちの利害が対立しているのなら、当然それは国民全体の利益とはなりえない、ということになるかもしれないが、果たして利益の最大公約数的なものを導き出せるのだろうか。


6月1日「偶然の結びつき」

 他人の単純な主張を批判しながら、結局は単純なことしか言えないのだが、例えば平和は法律によって守られているのだろうか。世の中で生じる争いを防止するのが法律の機能だろうから、具体的には争いそのものである暴力行為や、争いのもととなる詐欺行為などを禁止する法律があるわけだ。それとともに個人が自らの行為として平和を守っているという実感があるとすれば、面倒なことにならないように、無用な争いを避けようとする動作は誰にでも備わっていそうだが、欲得づくで勝てる見込みのある争いなら、時と場合によってはやろうとするだろうし、そうすることが合理的な判断だったりするだろうか。物事の平和的な解決というのが無理な場合、話し合い一辺倒では埒が明かない場合などは、何らかの力の行使に出ることもあるわけで、イスラム武装勢力を無人機で攻撃するような、テロとの戦いも行われている最中だろうから、平和を守るのもきれいごとでは済まない状況があるだろうか。争いの全てが経済行為から生じるわけでもないのだろうが、争うことがすなわち経済行為の一部を構成している現状があるのかもしれず、要するに力づくで富を奪い取る行為が戦争だろうし、そういう意味で平和的な戦争はありえないだろうか。平和的な共同作業というのがあるとすれば、物や情報の生産と流通と売買と消費の循環が思い浮かぶが、その一連の動作の中で争いがないわけではないし、戦争も武器という商品とともにその中に組み込まれているわけだから、経済行為には争いが介在していると見た方が良さそうだ。

 そうはいっても誰もが平和な世の中になることを望んでいるだろうし、経済行為も平和裡に行われてほしいと思っているのではないか。そんな願望を胸のうちにしまいこみながらも相争っているのが現状かもしれないが、売買そのものが争いの一種だろうし、いかに安く買っていかに高く売るかを競い合う争いであり、その争いの中で詐欺や暴力行為へと発展する可能性があり、法律で禁じているのもそういう方面になるのだろうが、経済を国家権力によって管理し、争いを最小限に抑えるための方策もそこに含まれていて、それが間接的に作用しているとしても、国家権力自体が軍事力や警察力などの暴力装置を背景として成り立っている面もあり、経済行為から生じる可能性のある暴力を、国家権力の背景となっている暴力によって押さえ込んでいることを考慮すれば、とても平和的なやり方とは感じられないわけで、平和という安定した秩序を維持するためには暴力による威嚇が必要という構図が、逆説的な皮肉を物語っているように思われるわけで、そのような矛盾をなくすための理念として掲げられているのが憲法九条なのだろう。

 ともかく世界的な傾向としては、なるべく武力は使わないで、話し合いによる紛争の解決が目指されているわけで、武力で威嚇しつつ、あるいは経済制裁をチラつかせながらも、紛争当事者を話し合いの席につかせようとする努力が払われていて、今のところはそれが功を奏しているから、地域紛争はあるにしても世界大戦などの破局的な事態は避けられているのだろうか。状況を楽観視するわけにはいかないだろうし、いつでも思いがけないきっかけから全面戦争に突入する可能性は捨てきれないところかもしれないが、それにしてもイスラム原理主義勢力による自爆テロは、いつまでたっても執拗に続いている現状があり、それを防ぐ手立てはなさそうに思われるが、他の宗教と結びついた自爆テロが起こっていないとすれば、やはりそれはイスラム教と結びつけて考えるしかないだろうか。確かチベット仏教の僧が焼身自殺をして中国政府の弾圧に抗議したりする事件もあったかもしれないが、日本でも焼身自殺による抗議はあったし、他の国でもあったかもしれず、焼身自殺と仏教との結びつきはそれほどでもないのだろうが、どうもイスラム教というと思い浮かぶのは自爆テロであり、テロの原因を特定の宗教に結びつけるのは避けた方がいいのだろうが、どうしてもニュースから連想してしまうわけで、それはヨーロッパ中世のキリスト教が異端審問や魔女裁判による火あぶりの刑を連想させるのと似ているかもしれない。チベット仏教と結びついたのが焼身自殺であり、中世のキリスト教と結びついたのが火あぶりの刑であるように、イスラム教と結びついたのが自爆テロだとすると、何らかの圧力が特定の宗教に加えられると、自己破壊的な現象が引き起こされるのだろうか。そのような結びつきに必然性はないだろうし、原因を宗教に求めるのは筋違いで、その宗教に加えられた圧力こそが、破壊的な現象を引き起こしたと捉えるしかないだろうが、一方でそのような圧力が宗教改革へと至るのではないか。敗戦が日本に憲法九条を押し付けたように、西洋文明からの圧力がイスラム教に自爆テロ経由の宗教改革をもたらすだろうか。