彼の声1142016年5月31日「対象」誰にとっても都合の悪いことはいくらでもありそうだ。少なくともそれは大げさなことではない。あまりに大げさに考えると事の本質を見失ってしまうだろうか。まだ何が事で何が本質なのかが不明確であり、それはいくら言葉を連ねてもわからないことかもしれないが、案外何かのきっかけで簡単にわかってしまうことかもしれず、たぶん大げさなことではなく、指摘されれば誰もが気づくような些細なことなのだろう。それが気づかないのは、誰かが何らかの社会的勢力が気づかせないようにしているわけではなく、単に気づかないとしか言いようがないことかもしれない。誰がそれを指摘するわけでもなく、気づかないから指摘できないのだろうが、気づいたところで指摘する気にはなれないのかもしれず、指摘する必要を感じないだろうし、指摘したところで無反応だろうか。人々が反応するのは興味があることでしかないだろうし、何に興味を持っているのかといえば、他人が興味を持っていることに自分も興味を持っていると言えるだろうか。メディアから興味がもたらされることが最も多いのかもしれず、他人から直接影響を受けるにしても、その他人がメディアから影響を受けている場合も多いだろうから、メディアの情報統制が国家統治にとって重要な位置を占めている可能性はあるのではないか。もちろん全てのメディアを統制できるわけでもないだろうから、テレビや新聞などの主要メディアを統制の対象としている政府もあるのかもしれない。政府に批判的なメディアを取り締まる行為は、ありふれたやり方かもしれないが、世論を気にしているのなら、あからさまにそうするわけでもないだろうし、暗に批判的な報道を自粛させるような圧力が、メディアの内部で働いていると言われているわけだ。そういうことが人々が興味を持つような話題となるだろうか。
それは誰もが気づいていることだろうか。中には気づいていながら、政府がそういうことをやるのは当然だと思っている人たちもいるだろうし、建前としては言論や報道の自由を認めながらも、裏では批判の自粛を求めるのは、戦略としてはありなのではないかとも思っているのかもしれず、国家統治にはそういう面もあることを認識しておかなければならないだろうか。たぶんそういうやり方を否定的に捉えて批判する人が多いにしても、それも誰もが気づいていることだろうか。そして人々が興味を持つのはそういうことなのだろうし、何か裏でよからぬ謀略が巡らされていて、新聞やテレビなどの主要メディアが政府の支配下にあると思い込む人もいるだろうか。それらの主要メディアの政府に対する弱腰姿勢を批判している人たちも実際にはいるわけだから、それも世の中の大半の人たちが気づいていることだろうか。少なくとも批判している人たちからしたらそうだろうし、糾弾すべきことなのかもしれない。そういうことに興味を持っている人たちも大勢いて、ネット上でマスコミをマスゴミと蔑称で呼ぶ習慣も一部では流行っているのだろうし、彼らが興味を持つのは、自分たちの批判の対象を否定的に捉えられる対象とすることだろうか。肯定的に捉えるにしても、自分たちが理解可能な範囲内での言語表現に加工してから肯定するだろうし、そのような加工を施す過程で、自分たちの手に余る部分が削ぎ落とされて、興味を持った対象がひどくやせ細って単純化されている傾向があるのかもしれない。そして単純化された言語表現によって対象が示されると、それを全肯定するか全否定するかの二者択一となってしまい、肯定するか否定するかの判断しか受けつけなくなってしまうのではないか。そうでない部分も示しておかないと興味の範囲が狭まって、その単純化された対象に魅力を感じられない人たちにとっては、興味の対象から外れてしまうわけで、それらの人の無関心を助長してしまう要因となりかねず、そういう面で批判あるいは賞賛しやすいように単純化するのは、わかりやすくなる反面、対象の魅力が薄れ、無関心な人を増やしてしまう結果となるかもしれない。そんなわけで表面的な賛同や同調を期待して、批判したり賞賛したりする対象を単純化して煽るような行為は、短期的な流行り廃りに終わる公算が高そうだ。
5月30日「経済情勢」政府の経済政策が成功と言われようが失敗と言われようが、政府に迎合する人たちは政府の肩を持ちたいだろうし、政府に批判的な人たちは具体的な事例や要因を挙げて失敗だったとみなしたい。仮に失敗という評価が優勢の場合でも、政権交代前の前政権よりはマシだと主張して、あくまでも現政権を擁護したい人もいるらしいが、消費税率の引き上げ時期を再延期することが本決まりになれば、現政権の経済政策が失敗だったとみなすのは当然のことかもしれないが、それでも世論調査で国民の支持が高いようだから、まだしばらくは安泰なのだろうか。そうだとすれば経済政策が失敗だったとしても、現政権への求心力は失われず、今のところは大した問題でもないということになりそうだが、世論の傾向としては現状のままでも構わないというよりは、現状でも仕方がないという認識なのかもしれない。政府の政策によってどうこうなるような状況ではなく、今やっていることを継続して行けば、それなりに小康状態を保てる可能性があり、その状態がいつまで続くのかわからないが、これ以上悪くなろうが良くなろうが、その時にまた世論の動向を見て判断すればいいことでしかないのかもしれない。経済政策の失敗を主張する野党側は、安保法制や閣僚の不祥事も理由に挙げて、内閣不信任案を出してくるようだが、与党側の造反がない限り否決されるだろうし、事態を穏便に済ませようとするならそういうことになりそうだ。現政権としてはこのままでも構わないのではないか。他に何ができるのだろうか。その方面の評論家の類いなら、現状でできることをあれこれ挙げられるかもしれないが、評論家が指摘できることと政府が実際にやれることとの間に、整合性や実現可能性がどれほどあるのかよくわからないし、わかるような立場でもないから何とも言えないが、たぶん今の状態を壊したくないのが、誰にとっても偽らざる本音かもしれず、与野党ともに下手に仕掛けて墓穴を掘るわけにはいかないのではないか。それは昨年の安保法制の反対運動が盛り上がっていた頃からの共通認識かもしれず、法案が可決された後に共産党が動いて、選挙で野党統一候補を立てる方向での働きかけが活発化してきた時点で、とりあえずその結果を見極めないことには、その後の方針を決めかねるような空気となってきたのかもしれず、今のところは模様眺めの様子見程度の認識に推移してきたのではないか。一時は憲法改正を争点に掲げて選挙を戦う成り行きにもなっていたのかもしれないが、憲法改正には否定的な世論調査結果が出ていて、覆すのが困難な情勢だから、うやむやのままトーンダウンしてきているのかもしれず、まだその機会ではないという判断だとしたら、とりあえず内閣支持率が高い現状のままで、選挙を乗り切ろうという算段に方針が傾いてきたのではないか。今年逃したら憲法改正ができないという意気込みも、一部の国粋主義勢力とは違って、与党の主流派にとってはそれほど切実な思いではないのかもしれず、冷静に情勢分析してみると、それほど差し迫った課題ではないことに気づいたのかもしれない。
先のサミットでも明らかとなっているように、先進諸国間ではそれほど世界経済に対する危機感はないようで、各国の国内で深刻化が指摘されている国民間の経済格差も、それをそのまま放置するわけではないにしても、貧富の格差があって当然の社会になってきているのかもしれず、格差を基にした階級社会がそれなりに固定されていれば、国内情勢は安定して平静を保つことができるのではないか。少なくともここ数年で大きく変わるような情勢にはなく、数十年あるいは百年単位で動くような問題なら、数年から十数年の寿命しかない政権でどうこうできるようなものでもなく、何かやるとしてもできることは限られてくるはずだ。そのできることの中に国内の貧富の格差をなくす試みが含まれているはずなのだろうが、少なくとも日本の現政権が積極的にそれに取り組んでいるとは感じられないし、そんな政権が必ずしも国民の支持を失っているわけではなく、それを裏付ける世論調査結果も出ているわけだから、強引に憲法改正を推し進めない限りは、何とかなるような状況なのだろうし、そういう方向で軌道修正が図られている最中なのかもしれない。もちろん選挙結果次第では方針転換して憲法改正に動き出すかもしれないが、それは選挙結果待ちなのだろうし、国民の判断に任されている面があるのではないか。現状で言えるのは野党共闘がどこまで実現して、選挙でどのような結果を残せるかにかかっているのかもしれず、果たして世論を味方につけるようなことを主張できるのか、それにはどのような主張をしてどのような活動をすればいいのかとなると、その辺がどう考えてもはっきりとは定まらない状況となっているのではないか。
5月29日「保守層」保守的な思考というのは、現状の中で生きている実感から生じてくるのかもしれず、今の暮らしに満足しているにしろ不満があるにしろ、その暮らしを守ろうとする意志が強ければ、金持ちであれ貧乏人であれ、現状の延長上で生きていく可能性を模索しているなら、今ある世の中を守ってくれる政治勢力を支持するのではないか。そしてそのような政治勢力を批判する人たちには、社会の秩序を乱す輩とみなして反感を抱くのだろうか。信用できないということかもしれないが、民主的な自由や平等が実現不可能な絵空事と思える反面、厳然とある社会のしきたりや掟、それに基づいた秩序や階層構造などは実感できるだろうし、そこで働いている制度や法に従っている現実もあるわけで、それらに従っている限りは、そういう秩序や規則を守っているのだから、自然に保守的な思考が身についているわけで、そういう意味では反感を抱くよりは従う方が自然な動作かもしれない。しかも実際に従いながら生きているわけだから、そこから生じる保守的な思考や価値観で生きて行ける限りは、刃向かうよりは従う方が合理的に思えるだろうし、そうとは自覚していないかもしれないが、実態としては彼らは支配を受け入れているのではないか。何の支配を受け入れているのかといえば、それは国家の支配を受け入れているとみなせばいいのかもしれないが、否定的な意味での支配ではないだろうし、国を守り社会の秩序を守っているという自覚をどこまで意識しているのかも、そんなにはっきりした自覚ではないようにも思われ、その反面きれいごとを主張する人たちを忌み嫌う傾向にはあるのかもしれず、そういうところで漠然と保守層が形成されているのかもしれない。
法律であれ社会的な規範であれ、そのような世の中の決まりごとを守っていることを正当化するのは当然であり、別に保守層でなくても守っているわけで、また都合によっては守らないこともあるだろうし、ばれなければ守らないのが普通かもしれず、そうであっても守っているふりをしながら、世の中の秩序を維持するには法律や規範を守らなければならないというのが建前なのだろうが、その一方で夫婦別姓とか同性婚とかの、世の中の秩序を乱すような法改正には反対するのが保守層の特徴なのではないか。例えば彼らが反原発運動に反発するのは、原発頼みの地方自治体や電力会社や原発関連企業や経産省などの利権構造が損なわれるということよりも、原発事故に伴う放射能被害を声高に叫ぶ環境活動家たちの正義感が我慢がならないのだろうし、また中国の軍事的な脅威があるのに、国を守っている自衛隊を軽視したり、在日米軍に対する反対運動を行っている平和活動家などにも、同様の反感を抱いているのだろうし、何よりも武力の放棄を宣言した憲法九条は目の敵だろうか。さらに企業活動が経済を支えているのに、労働者を搾取する企業の金儲け主義と言う類いの批判をする姿勢に、何か欺瞞を感じる人も多いのではないか。世の中の酷さや不条理を強調して批判する人たちに、そんな世の中を守っているつもりの人たちが反感を覚えるのは当然のことかもしれないが、彼らにしてみれば反対派の言い分をすべて聞き入れたら、自分たちが守っているつもりの国でも社会でもなくなってしまい、自分たちが反感を抱いている反対勢力の天下になってしまうわけで、それは何としても阻止しなければならない事態なのかもしれない。もちろんはっきりとそう自覚しているわけではなく、ただ現状の社会を成り立たせている不条理や矛盾や欺瞞に目を瞑って、批判できる部分だけつまみ食い的に批判を繰り返す人たちに対する、漠然とした反感や反発があるのは確かなのではないか。そしてそういうきれいごとを主張する人たちに対する反発や反感を糧として、社会を守っているつもりの保守層が形成されている現実があるのかもしれない。
5月28日「捉え方」そんなものがあればの話だろうが、誰が人々の理性に何を訴えかけようと、あるいは感情に何を訴えかけようと、その訴えかけが人々に受け入れられるには、受け入れられるような前提条件がなければならないと考えるなら、ではその前提条件とは何なのかとと言えば、それはその時の社会情勢だろうか。あるいは訴えかける人物の社会的な立場だろうか。要するにしかるべき時にしかるべき立場の人物が訴えかければ、そのような訴えかけが人々に受け入れられるだろうか。そんな単純なことではないのだろうが、ともかく肝心の訴えかける中身が具体的に何なのか、それが一番重要なことかもしれないが、それも世の中の情勢と訴えかける人物の社会的に立場によって変わってくるとすれば、訴えかけの内容一つをとってみても、自分の意志では決められない部分があるということなのかもしれず、公的な場で国を代表する人物が何か発言するにしても、その人物の発言内容には、事前の原稿作成などを通して、原稿を作成する公的な機関の意向が働いていると言えるのではないか。そしてその発言内容を批判するには、発言した人物を批判の対象とするわけで、その辺で発言内容と批判内容と、発言した人物とそれを批判する人物やメディアとの間で、意識的なズレや食い違いが生じるのはやむをえないにしても、それを考慮しないで、ある人物と別の人物との間で、議論のやりとりが成立しているように装うと、やはりそれではフィクションとなってしまうだろうし、議論になっているように見せかけるのがメディアの役目だとしても、それをそのまま信じる気にはなれないし、そこで人々を納得させる目的で何かが演じられていて、それを見て何か思ったり考えさせられ、そういう成り行きに納得するしないに関わらず、そんな見世物を受け入れている現状があるだろうか。それを見ている現実があるのだろうから、そんな状況を受け入れているなら、それ自体をどうしようとしているわけでもなく、そこで交わされているように見せかけられている議論のやりとりに引きずられて、どちらかに肩入れしているわけでもない。彼らは敵でも味方でもなく、見世物の対象なのであり、それを超えてこちら側に何がもたらされているわけでもない。こちら側とあちら側との間にはっきりした境界があるとも思えないが、冗談でなければそれらの何を擁護して何を批判する気にもなれないだろうし、状況を深刻に受け止めるわけにはいかず、それでも何か語るなら戯言の範囲内で語らざるを得ず、当事者意識が欠如しているのはもちろんのこと、当事者になれない人たちがあれこれと批判している現状もあるのだろうから、それらのほとんどは間接的な言及で占められていて、直接的に関わっているのはほんの一握りの人達であり、それも関わっている範囲は常に部分であって、それらの全体を統括する立場などなく、また関わっている部分を全部集めても、全体を構成するわけではなく、全体のない部分が、それに直接関わっている人たちや、間接的に関わっているつもりでいるその他大勢の人たちの思惑に応じて、その度ごとに恣意的につなぎ合わされて、何かもっともらしい言説を構成しているに過ぎないのではないか。そんなものを批判したいのなら、矛盾する部分や不都合な点を突けば、それなりに批判できるだろうし、実際に大勢の人たちが様々なメディアを利用して批判しているのだろうが、それは批判のための批判という趣があるわけで、そうではない批判があるのかといえば、あからさまに批判するのでは意味がないと思われるなら、取り立てて批判を意識する必要はなく、その代わりに批判ではないことを語ればいいのだろうし、たぶん語っているうちに自然とそうなっていくのではないか。
もとからそんなのは幻想には違いないのだろうが、ここ数十年の社会状況の推移からすれば、昔ながらの画一的な自由や平等の実現などありえないと思われるだろうし、社会の中で誰もが同じ立場にはなりえないのはもちろんのこと、個々の立場上の類似や共通点を手掛かりとして団結しようにも、既存の政党は政党の味方であり、選挙時にいくら媚を売っても無党派層の味方ではないだろうし、そもそも無党派層というのが同じ主義主張を共有しているわけではないし、政党の支持者が政党を通じて実現しようとしていることも、他のどのような人たちを利するようにも思われないのではないか。また実質的に国会議員がどのような人たちを代表しているとも思えないし、そのほとんどは政党の代弁者以外ではなく、少なくとも無関係な個人の代表者でも代弁者でもないわけだ。そしてどこからともなく湧いてくる世論調査結果が示す内容に、納得する必要も同調する必要もないだろうし、反発する必要もなく、ただそんな結果を受け止めたり受け止めなかったりするだけで、それに興味を持とうが持つまいが、個人の思考していることの次元からもたらされるようなものではなく、それほど関係があるわけでもなさそうに思われ、自分の意見とは関わり合いがないと思われるなら、それらの政党やマスメディアや世論調査結果などからもたらされる何らかの意見や主張に、賛同したり批判したりしなくても構わないのは当然のことかもしれないが、たとえ世論調査通りの選挙結果になろうと、政党やマスメディアの意向や思惑が選挙結果に反映しているように思われようと、不快に思われるにしても、それを批判する必要はないのかもしれず、批判しないと賛同したことになるわけでもなく、そんなものに惑わされる必要も同調する必要もなく、ただそれらとは違う次元で物事を考えていることに気づけばいいのかもしれない。
5月27日「商品」どう考えてみてもいらないのに、無駄で不要なものを欲しがるのは、欲しがっている対象に魅力を感じているということだろうが、何かそれを入手できれば欲しがっていた理由がわかるだろうか。それとも実際に手に入れてみれば、必要になってくるのだろうか。それとも不要なものを欲しがるのは、欲しがるような脈絡があるからなのか。どう考えてみてもいらないなら、本当に不要なのだろうし、しかもいらないものを欲しがっているわけだから、それに魅入られているということかもしれず、やはりいらないものを手に入れて自己満足に至れば、それで気が済んで終わりなのかもしれず、本当に必要だから欲しいとは限らないのであり、必要でないものを手に入れることが、自己の欲求を満たす上でゲーム的な魅力をもたらし、欲しいものを手に入れるという当たり前の動作から逸脱することで、それと自覚することなく自己の幅を広げようとしているのだろうか。そうではないとは思うが、いらないものを欲しい理由など探っても、まともな答えにたどり着けるわけでもなく、ただ勘違いの可能性が広がるだけだろうか。欲しいと思うなら必要だと解釈すればいいわけで、手に入れても無駄だが、無駄なものを手に入れることが必要なのかもしれず、なぜ必要なのかは手に入れてみないとわからないかもしれないが、手に入れたところで分からない可能性もあり、手に入れるかどうしようか迷っているのが現状だとも解釈できるだろうか。そう述べても何が真実であっても構わないのだろうが、無駄で不要だと思うものが欲しいのなら、入手すれば気が済むのなら、そうすればいいことでしかなく、要するに無駄で不要なものを手に入れたいという欲求を満たすことが、精神衛生上好ましいのではないか。そんなふうにして役に立たないガラクタばかりを収集する癖がついたら、とどのつまりがゴミ屋敷の住人となるのかもしれず、それも心の病の類いとみなせば、何かしらもっともらしい病名がついているのかもしれないが、その原因やそうなる理由というのを、その方面の専門家がもっともらしく説明できるとしても、そんな説明には関心を持てないだろうが、説明よりは実際に不要なものを集めようとする情熱の方に興味を抱くだろうし、ゴミに魅入られてゴミ屋敷の住人となるよりは、宝飾品やブランド商品に魅入られて買い漁る金持ちになりたいところだろうが、そうやって何かの蓄積にのめり込むのも人の習性と考えれば、少なくともそうすることが役に立つ立たないの問題ではないだろうし、それが欲しいのは事実だとしても、欲しいと思うことに関して合理性や妥当性があるとは思えないだろうし、合理性や妥当性がないからといって、入手を断念するわけがなく、欲しいものはただそれが欲しいから手に入れようとするわけで、役に立つとか合理的だとかの、欲しいと思うこと以外の理由などいらないわけだ。そんなわけでその欲しいものが商品なら、その商品の売買が成り立つ範囲内で資本主義経済が生じていることになるだろうか。そうだとすればそのような経済活動を合理性や妥当性から説明しようとするのは無理なのかもしれず、役に立つ立たないの基準だけでは、商品の存在意義の全てを網羅できないだろうし、中には意義も意味も定かでないような商品もあるかもしれず、なぜそんなものを欲しがるのか理解しがたい商品もあるだろうか。なぜそんな商品を欲しがるのかわからないが、とりあえず何らかの魅力を感じるから商品を求めるとしか言えないのかもしれない。
ともかく売れている話題の商品について語ろうとすれば、それがどんな役に立つのかとかなぜ売れているのかについて、誰かがメディア上で説明するような成り行きになるだろうし、その説明に納得すれば売れている理由がわかったつもりにはなれるわけだが、話題となっているからには、それと類似する商品も多数あるのかもしれず、その中でなぜそれが売れているのか、あるいは類似する商品はなぜ売れていないのか、さらにそれらの類似する商品の中で相対的に何が売れていて何が売れていないのか、そこにどんな差異があるのかについて説明するのだろうし、そんな説明ばかりがメディア上に溢れかえっている状況もあるのかもしれず、そんな説明のいちいち全て目を通すことなどありえないし、興味がなければスルーするだけで、そんなケースの方が圧倒的に多いだろうし、個々の人たちにとっては、それらの何が欲しくて何が欲しくないのかなんてどうでもいいことかもしれず、いざ買う段になると、買う商品にもよるだろうが、それを買う合理的な理由やらを自分に言い聞かせながら決断することもあるだろうが、自分に言い聞かせる合理的な理由というのが、後に買った商品に対する関心が薄れてくると、どう考えても合理的でも何でもなく、買う決断を後押しするために無理矢理こじつけた屁理屈としか思えなかったりするわけで、そういう意味でも色々と後付け的な理由や必要性が考えられるにしても、買うに至る何らかの脈絡があるにしても、ただそれが欲しいと思わせる何らかの社会的な背景があって、そういう背景に意識が拘束されることで、後から考えれば無駄で不要でしかないものを買ってしまうわけで、しかもそういう商品の存在が資本主義経済を支えている面が少なからずあるとすれば、もしかしたら膨大な無駄で不要な商品が世の中には出回っていて、それらの生産・流通・売買・消費にも膨大な数の人が関わっていて、本当に必要であったり役に立ったりするものよりもそちらの方が圧倒的に多ければ、それらに関わっている圧倒的大多数の人たちも、無駄で不要な人たちなのかもしれない。
5月26日「心境の変化」自分で自分自身を制御しようとする意志が、その意志に逆らおうとする意志も生じさせ、では自身を制御しようとする意志と、その意志に逆らおうとする意志の、どちらが本当の意志なのかといえば、両方とも自らの意志と言えるだろうし、そこに葛藤が生まれていると認識すればいいのかもしれないが、その葛藤が自身の迷いを表していて、何かをやろうとする時には、そんな葛藤を振り切ってやろうとすれば、自分に逆らいながらやらなければならない気持ちになるわけで、それがそれまでの自分に打ち勝とうとする意志なのだろうし、自分の中ではそれをやることが自己変革につながるのかもしれないが、自己を取り巻く社会との関係からとらえるなら、社会からもたらされる何らかの作用が、そのような自己変革を促していると言えるだろうか。このままでは埒が明かないと思われるから、これまでとは別のことをやろうとして、今までの習慣から脱却を図る上で、自分自身を制御しなければならず、そうしようとする時に、今までの習慣に安住していた自分自身の抵抗に遭遇するわけで、そこに自己変革を成し遂げようとする自己と、それを阻もうとする自己との葛藤が生まれるわけだが、これまでのやり方では駄目だと思わせるような何かが世の中に生じていて、その世の中の変化に対応するために自分も変わろうとする思いが、自己変革を促しているのかもしれないが、あるいは社会そのものは変わっていないが、自己と社会との関係のあり方を変えようとする意志が生じている場合もあるだろうし、さらに社会を変えるには自分がまず変わらなければならないという思い上がりも生じる可能性もあるわけで、どのような場合であるとしても、結果的に自分で自分の制御がうまく行くにしろ、あるいは思い通りには制御できないにしろ、絶えず自己変革の可能性を探っている間は、それなりに生じる葛藤とともに、まだ自己を諦めてはいないということだろうし、自分で自分を何とかしようとしているのだろうが、時と場合によっては、そういうもがきや悪あがきをやめてしまうこともありうるだろうし、もし何らかの心境の変化で諦めてしまったなら、その後はどうなってしまうのだろうか。
諦めの境地になることの良し悪しは、人によって異なるかもしれないが、諦めるか否かも、外部からの作用によってもたらされ、自分の力ではどうにもならないと悟ったら、諦めざるをえないだろうし、諦めたところで別のやりがいを模索して、自分にとって分相応なことをやろうとする場合もあるのかもしれず、そうやって軌道修正しながら、人それぞれができそうなことをやろうとしている状況があるだろうし、諦めると一概に言っても諦める程度も人それぞれで異なるのだから、そこから生じる葛藤にもそれなりの差があって、具体的に何をやろうとしているのかによって、そのやろうとしていることと自分の関係や、それをやる上での社会との関係も変わってくるだろうし、こんなことをいくら語ってみても埒が明かないのかもしれないが、何かをやろうとする上で自己を制御しようとする意志が、そこで生じる自己との葛藤も含めて、自己がいかに自己を取り巻く環境から制限や制約を受けているかを意識させるわけで、それが世の中の規範や規則に自意識が拘束されていることを気づかせるのではないか。自分がやろうとしていることに自分が抵抗しているつもりが、その抵抗している自分というのが世の中の規範や規則に縛られている自分であり、またそれを諦めさせる自分というのも、世の中の規範や規則が諦めるように仕向けているようにも思われ、絶えず何かをやろうとするのを断念するように仕向けている同調圧力を感じるとしたら、そのやろうとしていることは、自分の社会的な立場や境遇では分不相応なことであったり、社会の規範や規則から逸脱するようなことであったりするのかもしれず、そんな世の中の反映として抵抗するもう一人の自分の他に、具体的に他者や集団などが圧力をかけてきたら、なおのことそのような傾向があると思っておいた方がいいのだろうし、それは無視という圧力である場合がほとんどなのかもしれないが、たぶん無視ならやろうとしていることが人畜無害であり、社会に何の影響力もないと思っておいた方がいいだろうし、取るに足らないことをやろうとしているわけで、それではまだまだやっていることのレベルが低いのかもしれず、その程度なら諦めるか否かの判断の対象ともならないだろうし、少なくともその対象になるまではやり続けるべきなのではないか。また戦略的には周囲から無視され気づかれないようにやるという手もあるわけで、そういう方面とやろうとしていることの方向性が一致していると思われたら、勘違いでも構わないからしめたと思っておいた方がいいだろうか。
5月25日「動作」何かをやろうと思えば、何かをやることが目的となるわけだが、その目的を成就させるための手段が選ばれ、その手段を通してやるべきこととして、規範や規則が構成されるだろうか。そしてその規範や規則を守るための決められた動作が生まれ、それが目的へと向かう動作になるのかもしれないが、それをこうして言葉で説明してみると、何か余分に言葉を連ねているだけで、単純に何かをやろうとすればいいだけのことに、そこに目的とか手段とか規範や規則まで加わると、単純に何かをやろうと思っていることとは、別の動作となっているように思われてくるわけだが、やろうとしていることが、複雑な手順と個人を超えた集団的な動作を伴う場合、複数の個人の意図や思惑が絡んできて、それらが全体として集団的な意識を構成していると考えれば、今度はその集団的な意識が個人を縛り、集団に拘束されている複数の個人を律する規範や規則となって、それが集団的な動作や行為をもたらして、その集団的な動作や行為から想定される集団的な目的というのが、個人の目的とは相容れないものとなる可能性もあるだろうし、場合によっては個人の目的を抑圧するようなことにもなるだろうか。憲法とか国家的な法律の類いは、個人の利益を尊重しつつも集団的な利益も尊重しなければならないような、妥協の産物であるようにも思われるが、結局個人の利益と集団の利益が完全に一致することはないのかもしれないし、法律全般で個人や集団の全ての動作を律することはできず、個人にとっても集団にしても、法律の網の目には引っかからない動作があるのだろうし、また法律以外の世間の常識や良識などから生じる社会的な規範や規則などにしても、それらの全ての決まりごとからも規定されない動作や行為があっても構わないのかもしれず、個人にしても集団にしても決まりごとに逆らう動作があり、なぜ逆らうのかといえば、決まりごとを守っていては、やろうとしていることができない場合があり、その何かをやろうとする目的が、それ以前の決まりごとに逆らいながらも、その目的を達成することから、新たな決まりごとを作るような動作も生まれるだろうし、常に様々な決まりごとを更新させるような機能が、個人や集団の動作には含まれているのではないか。
個人が集団に依存する度合いよっても、集団の個人に対する拘束力が異なるだろうし、一概に個人と集団の関係を規定することはできないだろうが、集団が個人に対して集団内の決まりごとを守らせることの他に、個人が自分自身に課す決まりごともあるわけで、集団内での決まりごとも個人の掟も、勝手に恣意的に決めているようなものではなく、決まりを守る上での妥当性や合理性が考慮され、決まりを守ることによって何か利益が得られるなら、それが決まりごとを守る理由となるだろうが、それ以外の理由があるだろうか。何らかの集団内にいれば、決まりごとを守らせるような有形無形の圧力が加えられて、その集団内にいる限りは決まりを守らざるをえないような成り行きになるかもしれないが、個人が自分自身に課すような掟の類いとなると、何がそれを守る上で圧力として働くのだろうか。目的を成就させるにはそれを守らなければならないと思うだろうか。自身が何らかの目的を設けているならそれはあり得ることだろうが、目的を成就させるという決まりごとでもあるわけで、その時点で決まりごとが生じているわけだから、ではなぜ目的を成就させなければならないかということになると、やはりそれは利益を得るためということが理由となってしまうだろうか。たぶんそんな単純な思考回路からは逸脱する決まりごとというのがあるのかもしれず、必ずしも利益を意識せずに決まりごとを守っている場合もあるだろうし、何となくといえばそれで終わってしまうのだろうが、何か決まりごとを守っても目的を成就できないかもしれないと思っている部分もあって、さらにそれが決まりごとだとは意識していないが、後から振り返ってみると、そこに当時は決まりごとを守っているとは自覚できないような作用に従いながら、行動し行為していたことに気づく場合もあるのではないか。フロイトが発見したとされる「死の欲動」もそんなことの類いなのかもしれないが、強迫観念のように過去の行為や行為から生じた出来事が、脳裏にフラッシュバックしてくる現象というのがあり、思い出したくないのに繰り返し思い出されて、思い出される度ごとに不快な感情を呼び起こされる場合があるかもしれないが、それは自分が自分に対して嫌なことを思い出すように仕向けてきているとしか思えないだろうが、それが自分に何らかの利益をもたらしているとは思えないだろうし、何か自意識の中に隠された意図が埋もれていると思ってみても、それが納得できるような理由とはならないのではないか。そうなるとそこに利害関係を当てはめるのはおかしいと思うし、何かをやることの妥当性とか合理性とかいう基準では測りきれない動作があり、そういうことも含めて個人や集団について考える必要もあるのではないか。
5月24日「未知の領域」法律に違反すると罰せられるから、人は法律を守るように仕向けられ、その一方で守れない法律を改正する手続きもあるわけで、法律を改正したり新たに作る役割が、立法機関である国会にはあるわけだが、法律を利用して国の統治を行うのが行政機関としての政府であり、法律違反を罰する司法機関に属する裁判官も、公務員として行政機関と一体化しているわけで、もちろん国会議員も公務員だから、与党側の議員も政府と一体化しているわけで、その意味では三権分立は形ばかりのものとなっていて、三権癒着になるのは制度的には当然のことかもしれないが、権力を握っている勢力が権力を行使するにはその方が好都合だろうし、政治権力を強化するための努力は自然と独裁体制に帰結するわけで、そういう方向での成り行きをなかなか阻止できないのが、民主主義的な政治体制の特徴だろうか。また世の中には法律以外に守るべき規範というのが、不文律のようにして人々の心を縛っている現状もあるわけで、成文律である法律と、文化や伝統などから生じる社会的な規範の両方を守るように仕向けているから、いつの時代でも保守的な政治勢力は人々の支持を集めているわけだ。そして資本主義経済も法律と社会規範の両方を後ろ盾にして成り立っているわけで、たとえ資本主義が貧富の格差を生じさせる矛盾を含んでいるとしても、それらの後ろ盾がある限りは盤石なのかもしれず、資本主義経済の中で成功した人や企業を味方に取り込む保守勢力が、国の支配層を形成するのも当然の帰結と言えるわけだが、そこからどうすれば人々を労働に縛って不自由と経済格差を生む資本主義をやめさせて、真の自由と平等を実現する国家体制を築くことができるか、と考えたのが社会主義者や共産主義者だったのかもしれないが、どうもそこに現実離れした思考の飛躍があったのかもしれず、それが結果として20世紀に試された社会主義体制の失敗をもたらしたわけか。
その失敗の教訓として残ったのが、世界同時革命という政治的な理念なのかもしれないが、いきなりそんな空想的な理念を唱えるのもまだ性急すぎるように思われるわけで、それ以前にまだ思考しなければならないことがあるだろうか。何よりも目標が世界同時革命というのがおかしな感覚だろうし、そんなことを唱えられると非現実的だと思われるのが普通の感覚だろうが、ではどう考えればいいのかとなると、社会に二律背反などの矛盾が生じるのは当然であり、またその矛盾を止揚しようと考えるのも当然であり、止揚しようとした結果が失敗に終わることもあるだろうし、失敗したとしても矛盾を止揚する行為をやめるわけにもいかないだろうし、そんな思考や行為が歴史的な成り行きの中で生じているわけで、世界同時革命などという空想的な理念を唱える人たちの存在も、そんな成り行きの中で生じているのだろうから、今は普通の感覚から外れているように思えるのだが、一方でそう唱える必然性を考えてみたくなるわけだ。フランス革命もロシア革命も一国だけの革命は、周囲の国から干渉を受けるから失敗に終わるのであり、革命を成功させるには世界同時に一挙に行わなければならない、と言う論理から世界同時革命論が生じるわけだろうが、そもそもそれ自体どうすれば実現するのかがわからないわけで、革命を世界同時に起こすやり方が不明のままに残され、それが空想的で実現不可能に思われる唯一で最大の謎なわけだ。要するに実際にそうなってみないことには誰にもわからないことであり、それが起こるなんてほとんどの人が信じていないだろうし、そういう理念自体が誰からも相手にされていないだろうが、その一方で世界各国の政治体制を支えている資本主義経済の行き詰まりが懸念されているわけで、それを打開する方策が様々な方面で模索されている情勢でもあるだろうか。まだそこまでは至っておらず、行き詰まりの程度も資本主義経済の崩壊が間近に迫っている感覚でもないだろうし、例えば民間の宇宙開発が成功して軌道に乗れば、宇宙が新たな人類のフロンティアとなって、宇宙に向かって人類文明が無限に増殖していく可能性もあるわけだから、そうなれば資本主義経済の行き詰まりも幻想に終わってしまうだろうか。今のところはそれも空想的で現実離れした思考かもしれないが、この先数十年で何らかの結果や可能性が明らかとなるかもしれない。
5月23日「バランス」何か明確な基準があるわけではないが、歴史上の人物について評価する場合は、その人物が行ったとされる業績を考慮して、普通は肯定される部分と否定される面を挙げて、功罪半ばするようなことを述べておけば差し障りないかもしれないが、その人物が生きていた当時の状況について、何か特徴的な時代背景などを示して、その時代背景とその人物が実際に行ったこととの因果関係を導き出せれば、語っている内容に説得力を持たせることができるだろうか。そういうのが気に入らなければ、別に人物本位の歴史的な評価でも構わないだろうし、その人物の人柄や性格と実際に行ったことを結びつけて、その人物の偉大な点を挙げてみたり、その人物がそこで何かをやったおかげで、その後の歴史が大きく変わったと指摘したり、そうやって英雄や偉人などの歴史物語を構成すれば、テレビドラマや歴史小説などに馴染んでいる人は喜ぶだろうか。実際にどう語るかによって、歴史そのものの性質や意味合いが変わってくるのかもしれず、しかもそこから現代について何か考えようとすると、現代について何らかの見解や認識が、過去の歴史と地続きであることを想像させたり、歴史上の人物と現代に生きている人物を比較して、何らかの評価を下してみたり、過去の歴史について考えることから、現代についての理解が深まったり、それが勘違いであれ何であれ、幻想を抱ける範囲でそのつもりになれるかもしれないが、現代の情勢や未来の予想や予言に結びつくような原因や理由を、過去の歴史に求めるのは、そうすることによって現代と過去の両方の理解につながったり、その理解から現代に生きる人々の行動指針などを導き出そうとする意図でもあるのだろうか。
何であれ歴史を語ることに目的があり、その目的に応じた歴史内容が語られることになると、目的ごとに語られる歴史内容も違ってくるかもしれず、例えばそれが当時の時代背景や出来事の因果関係を探ろうとするのと、歴史上の人物の業績やその人物像を語ろうとするのでは、目的が明らかに異なるだろうから、そのどちらに重きをおくか、あるいは両方のバランスをとりながら語るとか、また他の目的を含めて、いろいろな語り方とそれに応じた内容が構成できるかもしれず、そのようにして語られた歴史自体に、それについて語ろうとしている人の立場や境遇が反映されていることは間違いなく、そこから語る人の意図や思惑を推察できそうな場合もあるだろうし、例えば自身に関係する過去の人物について語っている場合は、その人物を肯定的に評価しているとすれば、それについて語っている自らの立場を正当化したいのかもしれず、過去の肯定的に評価している人物と、その人物について語っている自らの関係も、何か美化しているような内容なら、それは明らかに自己宣伝の一環となるだろうし、過去の好感を持てる人物を利用して、自分の好感度も上げたいような下心が透けて見えるだろうか。当人がそう自覚していなくても、その人が著したのがそういう内容の書物であれば、それを読んだ大抵の人はそれに気づくだろうし、そういう書物が話題作となって売れているようなら、その人自身にもその人が取り上げている歴史上の人物にも、好感を持っている人が大勢いるということだろうか。著者が石原慎太郎で著書の中で取り上げているのが田中角栄なら、両方ともに著名人だから、そうなって当然かもしれないが、そういう書物が売れている現象から、現代に対するどのような理解が導き出されるだろうか。著者を批判したい人なら、何か皮肉なことを述べたいだろうし、それがそのまま著者の現状を物語っているのかもしれない。
5月22日「統治」憲法に基づく国の統治と、行政機構である政府による国の統治との間で、何かズレが生じているとすれば、それは権力の行使に関係があるだろうか。立憲主義では政府の権威や合法性が憲法の制限下に置かれているのを打破するために、改憲して新たに緊急事態条項を加えて、それを使えば政府が勝手なことができてしまう、という危険性を唱える人も多いわけだが、そのためにはまずは憲法を改正しなければならず、そこまで至るとしても、それはまだ立憲主義の範囲内でやろうとしていることであり、立憲主義に則って合法的に憲法を骨抜きにしようとする策なのだろうが、そういうことではなく、現状でも立憲主義とは別のことをやっているのかもしれず、それが権力を行使して統制を強める行為なのではないか。新聞の全国紙や全国ネットのテレビ局の報道番組が、政府に対する批判を遠慮している現状があるわけだから、それは批判を封じる圧力がかかっているからだろうし、企業の広告宣伝に頼っている全国紙や民放各局や、国に予算を握られているNHKに、政府と政権与党と企業などが連携して、それらのマスメディアに圧力をかけているとみなせば、それはすでに憲法に基づく国の統治とは別の、権力による統治を実践していることになるわけだ。そのような権力による統治は、何か命令を発している司令塔のような存在を特定しても、それをどうすることもできないような構造になっているのかもしれず、反体制勢力はすぐに首相官邸からそういう命令が出ているとみなして、官邸こそが悪の総本山のごとくに批判する傾向にあるわけだが、実際はどこを批判してもどうなるようなものでもなく、様々な方面から権力を行使するネットワークが形成されていて、その中で複数あるネットワークの結節点で権力が行使されているわけで、それらのどこが権力の中枢でもなく、政府の官邸や各省庁や与党や企業や広告代理店や全国紙やテレビ局の内部でも、それぞれに権力を行使する立場の人がいるわけだから、それらのどこを批判しても、時には何らかの不祥事がバレて、その批判の対象がダメージを被ることもあるだろうが、その時は今話題となっている東京都知事のように、その立場にある対象者の首をすげ替えれば済むことなのだから、大したことにはならず、政財官+マスコミの利権複合体を崩壊に導くのは無理なのではないか。
もしかしたら立憲主義を守れとかいうスローガンなども、それらの権力体制を温存させておくための、的外れの囮に過ぎないのかもしれず、改憲だ何だのと騒ぎ立てておけば、反体制派の関心は改憲阻止に集中するだろうし、仮にそれが功を奏して、選挙結果が思わしくなく首相が退陣しようが、将来政権交代が実現しようが、政権の受け皿にはしっかりと利権複合体が食い込んでいて、その権力基盤は安泰なのかもしれないし、それは他の民主的と言われる欧米の国々で立証済みのことなのではないか。そしてそうであっても定期的な政権交代はあった方がマシだろうし、権力の分散的なネットワークの結節点において、権力を行使する立場を担う人たちも、政権交代に伴って定期的に入れ替えるような成り行きになれば、その力が不必要に強まるのを防止できるだろうし、何よりも権力体制の固定化が進んで停滞し、世襲議員や官庁や企業や宗教教団などの利権団体の出身議員ばかりが目立ってしまうと、一般の人々にとっては議会が縁遠いものとなってしまうだろうし、政治に夢も希望を抱けなくなってしまうのではないか。そんな人々を諦念や絶望に陥らせないためには、民主主義という気休めの幻想を保たなければならないのかもしれず、政治が公平で公正であるように見せかけるためには、世論調査などで明らかになる民意が、政治に反映しているように見せかけなければならないだろうし、それらが見せかけに過ぎないとしても、そう見せかけるのが政治の役目なのではないか。そして見せかけられなくなってくれば、民主主義など誰も信じなくなるだろうし、立憲主義のきれいごとも形だけの形骸化されたものでしかないことが、誰の目にも明らかとなってくるのではないか。要するに憲法を改正しなくても、それとは別に様々な機会をとらえて様々な場所から、その場所を占有する責任者を通して権力が行使されている現状があるわけで、合法的な範囲内で力を行使された人々の自由が奪われて、拘束され従わされて、何かをやらされているわけだが、それが人々を支配する統治形態として、憲法とは別に機能している現状があるわけだ。
5月21日「主従関係」人が社会の中で暮らしている限りは、個人的な人間関係や集団との関係の中で、そのような関係から生活していくための糧を得ていると、ある程度の不自由は受け入れざるをえず、また何かのきっかけで関係がギクシャクして不快になった時に、関係を断ち切って自由になりたいと思うこともあるかもしれないが、現状が不自由だから自由を求めているわけで、不自由だと思わなければ、別に自由を求める必要もないのかもしれず、さらにある程度は不自由を受け入れないと利益を得られないと判断すれば、自由を犠牲にして利益を得ることを優先するだろうし、また人間関係や集団との関係の中で、自分が権力を振る立場になるように画策して、それに成功すれば、関係する他人に対してあるいは集団内で権力を振るっている時には、自らの自由を実感できるのではないか。要するに関係を断ち切って得られる自由では利益にありつけないが、他人や集団に対して権力を振るえる関係を築けば、自らの自由意志で権力を振るいつつ利益も得られるように思われるだろうか。だがその権力を振ることが、本当に自らの自由意志に基づいているかが怪しいところで、他人や集団との関係の中に拘束されているのだから、その時点で自由ではなく、関係に拘束されている範囲内で、権力を振るえるだけの優位な立場を築いているに過ぎず、そこで権力を振るうとしても、関係が許す範囲内でということになり、関係を超えて権力を振るうことはできず、関係の中で権力を振るう相手に何かさせようとするわけだから、その相手ができる範囲内でやらせるしかないだろうし、そこに様々な制約や制限が生じるわけで、権力を振るうと言っても何でもできるわけではなく、相手との信頼関係や集団内での統率力や指導者としての資質が疑われたら、相手が従わなくなってしまうだろうし、そういう面で権力を振るう関係に自由はなく、人と人や集団内での関係の中で、権力を振るう立場とそれに従う立場が築かれるに過ぎないわけだ。
その中で権力を振るう立場にある者は、自由意志で権力を振るっているわけではないし、従う立場の者も自由意志で従っているわけでもなく、例えばその関係から何らかの利益が得られるとすれば、利益を得る目的で権力を振るい、また利益を得る目的で従っているのだから、その関係が権力を振るう側とそれに従う側との間で、利益を得るという共通の目的を共有しているわけで、そのような権力関係は利益を得られる範囲内で成り立つ関係であり、利益を得られなければ解消されてしまう関係なのだろうし、企業と労働者の間の雇用関係なら、利益を得られなければ解消されてしまう可能性が高いのだろうが、それが国家と国民の間の関係だと、必ずしも一概には言えないところかもしれず、難民や移民などの場合は、その国にいては利益を得られないどころか、命の危険などの損害を被る可能性もあるから、出て行こうとしているのだろうから、そういう面では利益を得るという目的が成り立つかもしれないが、身の安全が確保されていて、平和な状況で普通に暮らしている感覚では、利害関係からその国にとどまってるという意識はないだろうし、特に生まれたときからその国に住んでいる場合は、そこで暮らしていること自体が当然なわけで、わざわざ出ていくという発想は思い浮かばないのではないか。ではなぜ国から出ていくだの国にとどまるだのの事態を招くのかといえば、そこに権力関係が生じるからであり、国が権力を振るって国民に何かをやらせるという関係が生じると、当然そこに国と国民との共通の利害関係が生まれるわけで、利益を得られている間は黙って従う国民が大勢出てくるだろうが、北朝鮮のようにあまり利益を得られなくても強制的に国民を拘束するような体制ともなれば、命の危険を顧みず脱出する人たちが続出するわけで、またシリアのように内戦状態ともなれば、命の危険を感じて脱出する人たちが続出するわけだが、日本の場合は多くの人たちが意識しているのは、国との利害関係よりも、まずは個々の企業との利害関係が優先されているだろうし、企業や個人の間での利害関係や信頼関係や愛憎関係などが意識された上で、国との関係も意識している人もいるにはいるだろうが、それはもっぱら政治的な関係であったり、一部の愛国的なイデオロギーに染まっている人もいるだろうが、そんなにはっきりした実感を伴うようなものでもないのではないか。待機児童関連で子供が保育園に入れなかった人などは、明確な利害関係を意識するかもしれないが、それはほんの一部の人だけだろうし、またタックスヘイブンを利用して税金逃れをする人や企業もほんの一部だろうし、税金に関しては国が国民に税金を払わせるという権力関係があるのは明白だが、保育園に関しては子供を保育園に入れて親を働かせるというのが、国がそうさせているとは思えない人が多いから、ちょっと違和感を感じるのかもしれないが、逆に国民が国に保育園を作らせるという権力関係なのだろうし、そういう国民主権の概念が、国と国民との主従関係を強要したい愛国勢力としては受け入れがたいところだろうか。
5月20日「情念の矛先」今がそれほど不況だとは思えないが、一方で世界的に資本主義経済が行き詰っているとも言われるし、その原因としてよく言われることだが、産業構造が昔とは違って、物や情報の生産や流通や販売に、昔ほど人手を必要としなくなってきことは確かで、その中でも人気があって競争率が高かったり、高度な専門知識や技能が必要とされる特定の職種は、高い賃金が約束されているかもしれないが、それ以外の誰がやっても構わない職種だと、安い賃金になるのは当然だとみなされるわけで、結局ごく少数の高い賃金の職種と、その他の誰でもできる安い賃金の職種とに二極分化して、両者の間の賃金格差が極端に開いていく傾向にあり、また賃金の高い職種を地縁血縁などのコネを利用することで、特定の勢力で独占しようとする傾向もあるのかもしれず、そういうところからも人々の間での経済格差が顕著になっているのだろうか。しかもそうなると大多数の安い賃金で働いている人たちは、安い商品しか買えなくなるから、相対的に安い商品しか売れなくなると、物価も下がって全てがマイナスのスパイラルに陥ってしまうだろうし、要するに産業構造が、ごく一部の高い賃金をもらえる層と、その他大勢の安い賃金しかもらえない層とに、二極分化した構造になりつつあることが、資本主義経済の行き詰まりの原因なのかもしれないが、コンピューターを利用した情報処理技術の発達とともに、その他大勢の安い賃金しかもらえない層も、だんだんいらなくなっていく傾向にもあるのかもしれず、それが産業技術の発達とともに進展してきた資本主義経済の宿命だとしたら、どう考えても人の意志でどうにかなるような問題でもないように思われてしまうのだが、結局人は資本主義経済の宿命的な行き詰まりに対応して、今までとは違う暮らし方を迫られるような成り行きになっていくのかもしれない。そうした産業技術の発達が行き着く先が、人工知能や自動処理技術を利用した、人手を必要としない傾向になっていくのだとしたら、要するに労働を必要としなくなり、賃金を得るための労働がなくなってしまうのだろうか。それとも新たな雇用を生み出す産業分野を創出することができるだろうか。現状の延長上では、どう考えても専門的な職種はごく少数の雇用しか生み出せないだろうし、その他大勢の誰でもできる職種では、差異を生み出せないわけで、最低限の生活が何とか営める程度の安い賃金しか出せないだろうし、今まではなぜ中間層がいたのかといえば、その時点ではまだ過渡状態にあって、格差が開きつつある途上にあったわけで、中間層にいた人たちも、日本や欧米などの先進諸国では多数派に感じられたかもしれないが、実際には途上国や社会主義国にいた人たちを含めると、ほんの一握りの高額所得者層に属する人たちだったのかもしれず、今やその垣根が取り払われて、世界経済が一体化してきたから、高額所得者層が他の国々へ分散していき、それに伴って相対的に日本や欧米でも低賃金層が目立ってきたのではないか。そしてグローバル企業を介した世界的な分業化が進んでいる現実があるのだから、そのような産業や経済のグローバル化は押しとどめようがなく、特定の国だけ経済的に優位に立つようなことはありえなくなってきたのかもしれず、逆に優位を保とうとしてはいけないのではないか。優位を保とうとすれば保護主義となるだろうし、そうなれば国家間や地域間の軋轢が高まって、その行き着く先が戦争となってしまえば、結局多大な被害をもたらすことになるわけだが、どうもそういう成り行きも過去の事例でしかないだろうし、またそれがそのまま繰り返されるとも思えないわけで、繰り返されるとしても、過去とは違った成り行きになりそうだし、どうもまだそうなってみないことには何とも言えない面がありそうだ。
これからどうなるにしろ、どのような形であれ、物や情報の生産が必要である限りは生産され続けるだろうし、生産できればそれを享受する人がいるわけだから、享受できる限りで人は生きているだろうし、必要なだけ生産し必要なだけ消費し、無駄な生産や消費がなくなる傾向にあるのだとしたら、それだけ経済効率がいいだろうし、もしかしたら無駄な人もいなくなってしまうのかもしれず、それだけ人口も減ってくるのかもしれず、そうなると今までとは違った人の生き方や生活が生じてくる可能性が高いだろうし、それを今この時点で予想するのは難しいし、別に予想する必要もないわけで、今生きている人たちは、今生きている現実の中で存在していて、未来のある時点では、今とは別の現実の中で人が生きているだろうし、それはそれでこれはこれでしかないわけだが、今この時点で生きている人たちが、何か自分たちの理想とする変革を求めていて、それを現実に行おうとしている人が少なからずいるとしても、そういう人たちの思い通りに変革が実現できるわけでもないだろうが、それも世界的な資本主義経済の行き詰まり感がもたらしている、何らかの現象である可能性は高いだろうし、また現状の延長上でしか動作しない人たちにしても、そういう人たちを動作させる前提条件に従って動作しているのだろうし、彼らは彼らで改革を目指す人たちから批判を浴びながらも、保守派として現状維持に貢献する機能を有しているわけで、双方ともに現状の世界の中で何らかの役割を担っているわけだ。そして意識してどちらの味方を装う必要もないだろうし、意識しなくてもどちらかに割り振られてしまう場合もあるだろうし、どちらの思い通りにもならないだろう成り行きの中で、とりあえず考えておく必要があるとすれば、それは人それぞれに担わされている立場や境遇があるということだろうし、それを過大に特別視しても意味のないことかもしれず、その立場や境遇に応じて改革勢力にも保守勢力にもなりうるだろうし、その立場や境遇を生じさせている社会的な関係が重要なのであって、その関係性が特定の人物に権力を生じさせているように見えるわけで、その立場を占め特有の境遇を体現している人物それ自身に、何か特別な力があるわけではないと捉えておけば、その人物に勘違いな思い入れや憎悪の感情を抱かずに済むのではないか。
5月19日「要求」政治に何を求めているわけでもなく、少なくとも現状の延長上では何も求めていないのかもしれず、そうだからといって、現状の延長上ではできないことを求めてみても意味がないような気もするし、メディア上で論議されているような、現状の延長上でできるようなことには魅力を感じないだけに、特に政治に求めているようなことはないのかもしれず、現状のままでも構わないし、現状が変わるようなら、それでも構わないといえばその通りだろうし、またどちらでも構わないと言ってもその通りだろうし、そういう面では無関心とならざるをえず、政治家や政党の思惑がどうあれ、思惑通りにはいかないのは当然のような気もするし、実際にそうなっているのではないか。現状の延長上では改革は不要であり、そのままで構わないのかもしれず、そのままで構わないからこそ、現状の延長上で事態が推移しつつあるのかもしれない。要するに情勢は極めて安定しているということだろうか。このまま何もできなければ安定しているのかもしれず、しびれを切らして何か仕掛けてくると、またそれなりに不安定な局面を迎えることになるのだろうか。何もしなければ選挙を乗り切れるだろうし、何かしないわけにはいかないのに、何もしなければいいということになるわけで、その辺がおかしな情勢なのかもしれないが、では何もできないのかといえば、できないわけではないが、何もしない方がいいということになるだろうか。結局その妥協策として、何かしているように見せかけるとなるのだろうが、それが見え透いていて、実質的には何もしていないのがばればれになるだろうが、それでも何もしない方がよく、何かやっているように見せかけておけば、メディア上でそれなりに評価されるだろうし、またそれなりに批判されるわけだが、評価も批判もされないよりはマシだろうし、その辺が妥協点であり、下手に仕掛けるよりはうまくいく部類に入るのかもしれない。それは与野党双方に言えることなのかもしれず、何も仕掛けずに何もやらず、それでも何かやっているように見せかけることが、選挙をそれなりにうまく乗り切るための方策となるだろうか。要するにそれは一種のごまかしなのだろうが、ごまかしていれば済むようなことなのかもしれず、それを超えて何かやるような時期でもないのかもしれない。
現状では政治に何も求められないというのは、たぶん世界中で起こっているありふれた現象なのかもしれず、政治的なイデオロギーの対立が希薄となっている証拠かもしれないが、何か特定の対立軸があるというのが、これまでの常識であり幻想だったのかもしれず、ただ行政が住民を管理するだけのことに、本来はあれこれ政治が口出しするようなことでもないのかもしれず、行政側からすれば、何が問題視されることでもないのかもしれない。その住民の管理のされ方について、妥当性や合理性が打ち出されていれば、文句を言われる筋合いのないことであり、住民が行政による管理について、こんなものだと思っていれば、それなりに不満はあるにしろ、政治が何もできないなら黙って引き下がるしかないだろうし、従えるところは従い、従えなくなったら反抗したりごまかしたりすればいいわけで、少なくとも行政と住民の関係はそれ以上でも以下でもなければ、それで済むようなことなのだろうか。確かに現状の延長上ではそうかもしれないが、現状からかけ離れたことを主張したいなら、現状では実現不可能なことを述べてもいいだろうし、例えば選挙をやめて、立候補者によるくじ引き抽選で議員を決めろとか、憲法九条を厳密に実行して武力を放棄しろとか、憲法を改正して天皇制から共和制に移行し、真の国民主権を実現しろとか、今すぐベーシックインカムを導入しろとか、原発の廃止や日米安保の是非を問う国民投票を実施しろとか、そんなことならいくらでも思いつきそうだが、現状の延長上で考えると、そんなことなどできそうもないように思われるし、では何ができるといえば、待機児童を減らすための方策とか、景気対策とか、地震の被害に対処するための補正予算を組むとか、そういう実務的な範疇に入ることであり、そういうことに賛成も反対もないのであり、やるならさっさとやればいいことでしかなく、ただのやり方をめぐって与野党が国会で論議しているわけで、どちらのやり方がより妥当性や合理性があるのかと言っても、協力し合える余地があれば協力し、妥協が可能なら妥協し、対立しているとしても多数決で決めればいいことでしかないだろうし、実際にそうやって対策やら方策やらが議決されているのではないか。それ以外に何が求められていて、実際に何ができるのだろうか。
5月18日「聖戦」これから世界がどうなるかなんてわかるわけがないが、いい加減な予想や予言ならいくらでもできそうな気もするし、日頃からいい加減なことを述べている立場上は、それでも構わないのかもしれず、それ以外は何も言えないだろうか。でも何かわかっていることもあるような気もするし、その中で確実に言えることは、人々は意識せずに社会的な規範の範囲内で物事を考え、言葉を弄して行為し行動している、ということだろうか。その規範というのが漠然として、はっきりとはわからないのかもしれないが、規範が変わらないわけではなく、これも意識していないところかもしれないが、常に自身に都合のいいような規範を設けようとしている節がある一方で、他人を都合のいい規範に従わせようともしているだろうし、様々な人や集団が構成する勢力が、自分たちに都合のいい規範を社会の中で定着させるために、しのぎを削っていると考えた方がよさそうにも思えるのだが、どうもその定着させようとしている社会的な規範に、他の人や勢力を説得できるだけの合理性や妥当性があるのかといえば、よくわからないわけで、ある人や集団にとって都合のいい規範が、他の人や集団にとっても都合がいいのかといえば、都合がいい場合もあるだろうし、また都合が悪い場合もあるだろうし、さらにどちらとも言えない場合もあるかもしれず、都合が悪かったりどちらとも言えなかったりする場合は、それが社会的な規範として定着しては困る人や集団が当然出てくるのだろうが、すでに定着している規範であっても、そんな規範には従いたくない人や集団がいるだろうから、社会に守るべき規範が存在していること自体が、それを守れなかったり守るのが嫌な人や集団にとっては、様々な不都合を生じさせているわけで、結局そういう人たち行為や言動などが、守るべき規範を変えることによって社会を変えたい、という意図や思惑を含んでいるのだろうし、何か社会の変革を目指す運動の原動力となっているのかもしれない。具体的にそれは同性婚や夫婦別姓を認めさせるとか、原発や死刑を廃止するとか、些細なことから大げさなことまでいろいろあるのだろうが、もっと基礎的な水準で気づきづらい社会的な規範というのがあるだろうか。人は労働しなければならないとか、商品と貨幣を交換できるとか、容易には変えられそうもない規範というのがあり、そういった様々な決まり事を守っている範囲内で社会が成り立っていることは確かだろうし、それが規範だと気づけるものから容易には気づけないものまで、それらを守ったり守らなかったすることを介して関係する、人や集団のネットワークが社会そのものであり、社会を変革するとは、多くの人や集団にとって不都合な規範を変えることなのだろうが、人や集団が意図して規範を変えられることもあるだろうし、意図せずに変わってしまうものもあるだろうし、変えたり変わったりしても、それとは別の不都合な規範が幅を利かせて、社会の中で支配的な規範として機能してしまうこともあるだろうし、特定の規範が特定の人や階層に有利に働き、そのような人や階層が社会の中で支配層を形成して、他の人や階層を苦しめることもあるだろうし、そういう規範を人や集団の力ではなかなか改められない場合もあるのではないか。そして現に今がそんな状況となっているのだろうか。
たぶん社会の中で人々は、その規範を守るように強制されていて、しかもそれが何だかわからないということがあるのかもしれず、何だかわらないが圧迫感を覚えていて、何かを強制されているのだろうが、それが何だかわからないもどかしさがあり、不可思議な感じなのかもしれず、もしかしたら死ぬまで気づかないのかもしれないが、果たしてそれに気づく時がやってくるだろうか。それがこれから世界がどうなるかわからないことと関係しているとすれば、それは日本特有のものではなく、万国共通の規範かもしれない。例えばパキスタンでは同性愛者を助ける運動をしていた人や異教徒のヒンズー教徒が殺されたり、ドイツでは移民の受け入れに反対するネオナチ的な政治勢力が地方議会の選挙で躍進したり、日本ではヘイトスピーチが話題となったり、そういうことなら気づかないわけではなく、異民族や異教徒を排斥する国粋的な規範を守ろうとしている人や集団の勢いが増してきたことになるわけだが、どうもそのような規範を成り立たせるための別の規範というのがあるのかもしれず、それが良い意味でも悪い意味でも、人間主義的な規範なのではないか。人間主義とはヒューマニズムのことになるが、なぜヒューマニズムがいけないのかといえば、別にいけないわけではなく、人道主義とか博愛主義とかの概念で使われると、意味としては肯定せざるをえないし、逆にヒューマニズムの精神によって、人種や民族や宗教の垣根を取り払えるのではないかとも思われるわけだが、それの何がまずいのだろうか。確かに様々な人たちを人間というカテゴリーで括って、人間一般として捉えると、そこに共通の特性や特徴があるように思われてしまうのだが、立場や境遇の異なる個々の人たちを、同じ人間とみなして取り扱うと、すべての人に共通の規範を設ける成り行きになり、その共通の規範というのが、個々の人たちで異なる立場や境遇を考慮せずに適用されることになりかねず、何か抽象的で何の役にも立たないどころか、かえって立場や境遇によっては都合の悪いものとなるのかもしれず、例えばすべての人たちを同じ人間と見なさなければならないという規範が、同じ人間を作り出さなければならないという意志となり、同じ人間にするために規範からはみ出た人間を矯正するような行為にも結びつき、同じ人間にするための何らかの強制的な権力を伴うようになるわけで、それが同じ民族にしなければならないとか、同じ宗教にしなければならないとかになると、そこで民族や宗教や宗派同士の間で聖戦が起こったりするわけだ。
5月17日「不幸」偶然の巡り合わせではなく、たぶん社会の中では人や物事を介して働く必然的な動作があるのだろう。結果があれば原因があり、そこで想定される因果関係から逃げてはいけないのかもしれない。何らかの現象が成り立つ上での前提条件もあるだろうし、場合によってはそのような条件を導き出す必要さえ出てくるわけだが、例えば資本主義経済が成り立つ条件を特定できるだろうか。ただ漠然と様々な要因が関与して経済が成り立っているとは思えるが、では具体的に何が経済が成り立つ要因としてあげられるかといえば、あまりはっきりとは特定できないだろうか。新自由主義という晩期資本主義特有のあり方が世界的に優勢となっている中で、富裕層や大企業が優遇されている情勢であるらしいのだが、一握りの富裕層や大企業だけで経済が成り立つとは思えず、企業の収益の糧となる商品が売れないことにはどうにもならないだろうし、よく言われるように経済格差が深刻な社会問題となり、世の中の99パーセントが貧困層になってしまえば、果たして商品が売れるのだろうか。その辺がよくわからないわけで、どう考えても1パーセンの富裕層だけで経済が成り立つとは思えないわけで、仮に成り立つとしても、残りの99パーセントの人々が生活していけるとしたら、もうそれらの人たちは安い商品しか買えないわけで、そうなると企業が取り扱う商品の99パーセント以上は、貧困層でも買える安い価格でなければならないだろうし、それで経済が回っていくなら、別にどうということはないのではないか。だがいきなり世の中の99パーセントが貧困層になるわけではなく、徐々に貧困層が増えて行くから、その過程で商品が買えずに暮らして行けない人たちが出てくるのだろうか。現状では暮らして行けずに餓死者が続出しているというのではなく、欲しい商品が買えなかったり、豊かな暮らしができないということの方が、庶民の不満として顕在化しているのかもしれず、生活保護を断られて餓死するような深刻な状態の人は、ごく一部に過ぎないのかもしれない。
社会民主主義的な理念を掲げる政党も、まだ資本主義経済を維持しつつも、豊かな中間層の創出という幻想に取り憑かれているようで、福祉を充実させればそれが可能だと主張しているわけで、それができなくなったから新自由主義的な経済政策となったのを認めたくないようだが、果たして国の予算配分を変えればどうこうなるようなことなのだろうか。ともかく早く政権交代を実現させて、彼らが主張する社民的な政策をまた試してもらいたいところだが、たぶんそれをやってみて駄目だったら、資本主義経済が限界に達していて、豊かな中間層の創出というのも幻想に過ぎないこともはっきりするのではないか。それ以前に現政権の経済政策の成否がはっきりしそうな気配も出てきたようで、批判している人たちは失敗に終わったとしきりに喧伝している最中だろうが、それでも何とかなっている面もあるようだし、その筋の人たちから失敗だったと指摘されても、選挙で負けなければどうということはないのだから、下手するとこの先何十年もこんな状態が続いていって、いつしか庶民の皆さんも慣れてしまって、こんなもんだと感じながら暮らしていく可能性もあるのではないか。駄目になるにしても、世界に先駆けて日本の経済が駄目になるということではなさそうで、駄目になったと言われても、悪いなりに何とかなっている状態が、バブル崩壊から30年近くも続いているわけだから、その間に必ずしも国の経済政策が成功していたわけではないのだから、現政権の経済政策が失敗に終わろうと、それは今までの延長上の相対的な失敗でしかなく、やはりそれがどうしたわけでもなく、平然と受け流してしまう人が多いのかもしれない。いくら失敗しても許されるなら、それは失敗とは言えないのかもしれず、失敗し続けることに成功していると捉えておいた方がいいのではないか。そのための批判を封殺するメディア戦略なのだろうし、批判できるのはマイナーなメディアだけにしておけば、何とかなると誰が思っているわけではないのだろうが、結果的にそうなっているわけで、それを世論が許している状況があるのではないか。
5月16日「椅子取りゲーム」誰にどんな思惑があろうと、その思惑をもたらしているのは世間的な体裁かもしれない。よく思われたいからそんな行為や言動に及んでいるのだろうし、批判するのは批判しても大丈夫そうに思われる対象を批判するのであり、政治的な力関係や利害関係から、批判したくてもできない対象がありそうだ。そしてそんな関係から自身の主義主張も生まれるわけで、批判の中身と主義主張の間にズレがあるとすれば、その主義主張に鑑みれば批判して当然の対象を批判できないことにあるのだろうか。だが主義主張でさえ世間的な体裁を取り繕うためにあるのかもしれず、そうだとすればそんな主義主張など大したことはなさそうで、世の中の動向や情勢に応じて生み出される主義主張に過ぎないのではないか。だが果たしてそれ以外の主義主張があるだろうか。為政者の顔色伺いをしながら、為政者の怒りを買わない程度に批判するような輩を侮ってはならないのかもしれず、そういうずる賢い人たちが幅を利かせている世の中であることには変わりないのだから、そういう人たちの思惑通りの世論が形成され、そういう人たちが有利に事が運べるような世の中の情勢になっているのではないか。それ以外にどんな立ち振る舞いが可能なのだろうか。それはそういう人たちの職業的な特性だろうし、そういう形でマスメディアに関わっている人たちなのであり、そういう人たちにはそれ以外の立場はありえないわけで、それ以外の立場や主義主張を求めることはできはしないのだから、それがそういう人たちの世間的な体裁であり、彼らの立ち振る舞いと世間的な体裁が一体化しているわけだ。だからそれ以外を求めるのはおかしいわけで、求めてはまずいのだろうし、そのような立ち振る舞いによって彼らの仕事は成り立っているのだろう。
だから彼らが置かれている立場や、彼らを拘束している政治的な力関係や職業的な利害関係とは無関係な人たちが、彼らを支持したり彼らに同調する必要はないわけだが、世の中の情勢が彼らをのさばらせていると考えれば、状況が実質的には彼らの天下を許しているのだろうし、彼らが活躍できるような社会になっていると考えておいた方がいいのではないか。そしてたぶんそれではまずいわけでもなく、世の中はそんなものだと思っておいた方がいいだろうし、それを超えるような理想的な成り行きにはなかなかならないのではないか。様々な歴史的な経緯と成り行きから生じている現代社会は、そのような特性を持つに至ったのであり、たぶんそれが安定していて長続きするような成り行きになっているのだろうし、現に長く平和が続いている状況となっているのだから、どう考えても多くの人が不満を抱いているとしても、現状の世の中が最適なのだろうし、少なくとも現状の中で幅を利かせている人たちにとっては、うまくいっている部類に入るような世の中なのではないか。そしてそういう世の中の情勢を利用してうまく事を運んでいる人たちに何ができるわけでもなく、そんな世の中に順応したおかげで成功しているわけだから、それらの人たちはただ現状の維持継続を担うような行為や言動しかもたらせないわけで、そうやっている限りにおいて、それらの人たちの成功が約束されているのではないか。そういう人たちにとって最適の環境をそういう人たちが変えようとするわけがないし、自分たちを育んできた環境を守ろうとする方向でしか彼らの活動の可能性はないわけだから、それ以外の可能性を期待しても無駄ではあるわけだが、彼らが自分たちの栄華を守ろうとすればするほど、彼らにとって代わろうとする人たちによって、逆に足元をすくわれる危険性もあるのだから、彼らは彼らで彼らの後ろに控えている彼らと似たようなメンタリティの人たちと競い合い、彼らが占めている立場の奪い合いを繰り広げている最中だろうし、そんな限られたパイを奪い合う椅子取りゲームの中で、中には足の引っ張り合いに巻き込まれて自滅する人もいるわけだ。
5月15日「自由と平等と平和」何か理想があるわけではなく、現状に即した行動や対応の仕方があるということかもしれない。理想を夢見るのは現実逃避したがっている心の有り様がそうさせるのかもしれず、不快な気分を催す状況の中で暮らしているから、現実逃避した幻想を抱いてしまうのだろうか。だがそれが現実逃避と言えるだろうか。例えば世界の恒久平和を夢見たり、人間の自由と平等が実現してほしいと思うのは、それが達成すべき目標とみなせば、それほど否定すべきことでもないのかもしれない。ただ漠然とそう思うのではなく、現実に恒久平和が実現しつつある過程の中で生きていると思ったり、時には自由な状態の中で生きていると思われたり、時と場合によっては誰もが平等でいられる機会もあるだろうし、全てがそうではないが、それらは部分的に実現しているかもしれないのだから、幻想でなくてもそう感じることもあるのではないか。そして実際に自由や平等を感じるのは人間一般ではなく、そう感じる機会に恵まれた特定の個人であり、あるいは他者との関係の中でそれが実現することもあるだろうし、そうでなければ束縛を伴った関係で、指示や命令を伴う上下関係であるのかもしれないが、それも全面的にそうではなく、ある程度は自由であり平等であって、またある程度は不自由であり不平等であったりするのだろうし、仕事や愛情や友情などの何らかの利害や感情を介した関係である限りにおいて、自由と不自由あるいは平等と不平等の間で、ある程度は偏りがあるのは普通であり、全面的にどちらか一方に振れるのはまれであるにしても、まったくの対等な関係というのもほとんどないのかもしれない。また平和であるか否かについても、たとえ戦争状態ではないにしても、社会には犯罪が絶えないだろうし、経済的な利益をめぐる人や企業の間の競争もあるだろうし、何らかの原因による争いがなくなることはないのだろうから、最低限でも戦争を避けられたら、それで一応は平和な状態を保っている程度の認識なのだろうから、恒久平和と言っても実際には全面的な理想状態とも言えないのかもしれない。
そして世の中の在り方が、人を拘束して自由を奪い、指示したり命令できるように、人と人の間に上下関係を作ったり、人と人あるいは所属する団体や勢力が競い争うような関係を前提としていて、その中で絶えず自由と平等と平和が脅かされているわけだ。結局そういう状況の中で、どれほど他人の自由を奪って従わせ、敵対したり対立する人や勢力と競い争うかが、そういう権力を持っている人や団体の目的となってくるわけで、逆に言えばそういう権力が弱まれば、人の自由と人と人との間の平等と社会の平和が実現されやすくなるとも言えそうだが、ある特定の人や団体の権力が弱まれば、それらと競い争っている別の人や団体の権力が、相対的に強まる傾向にあるわけで、人や勢力が競い争っている中では、相手を打ち負かすために、絶えず権力を強めようとする作用が働くのだから、世の中に自由と平等と平和を拡大させようとするのなら、相手を打ち負かすようなやり方を控え、競い争うことによって得られる利益や名誉をなくすように努めなければならないだろうか。なくすのでは納得がいかないだろうから、得られる利益や名誉とは異なる価値観を創造すればいいのかもしれず、人や団体が得る利益や名誉などに魅力や嫉妬を感じないような世の中にして行けばいいのではないか。要するにメディアが煽り立て賞賛するような富や栄光とは無縁に生きていける人が多ければ多いほどいいのだろうし、実際に世の中に暮らしているほとんどの人が無関係に生きているはずなのに、なぜそれらに多くの人たちが羨望の眼差しを向けるのかといえば、メディアの煽り立てを真に受けているからで、そういう煽動に心踊らさせるから、そこから富や栄光が生じているわけで、それこそが幻想に過ぎないとも言えるのだが、現実に利益がもたらされ賞賛を浴びているのだから、それらが幻想から生じているとは信じられないわけだ。そしてそのような幻想が自分たちの自由と平等と平和を奪っているとしたら、それは自業自得と言えるのかもしれないが、逆に言えば、文明人というカテゴリーに含まれる人々は、自分たちの自由と平等と平和を犠牲にすることで、権力を用いて他人の自由を奪って従わせたり、敵対したり対立しながら競い争う習性を手に入れたわけで、南の島で魚を取ったりタロイモを食って平和に暮らしている人々にはない幻想に魅入られているのではないか。
5月14日「現実」意識が何らかの制度に拘束されている時、人は何を見ていることになるのだろうか。何らかのフィルターを通して現実を見ていることになると、そのフィルターが制度なのだろうか。そうなるとフィルターを通してしまうと見えなくなってしまうのが、真の現実となるだろうか。ならば制度の中にいると見えない現実とは何なのか。そしてそもそも現実を見えなくさせる制度とは何なのか。現実を見ないでおくためにはどんな制度が必要なのか。そんな都合の良い制度があるとは思えないだろうか。それ以前に何が現実かもわからないはずがないとも思いたいのではないか。何かそれをやりたいのに抵抗を感じるとすれば、その抵抗をもたらしているのが、自らを拘束している制度だろうか。それもあるかもしれないが、逆に嫌なのにそれをやらざるをえなくなる時、それをやらせようとしているのが、自らを拘束している制度だろうか。どちらの場合も自らの意思に反して行為させるのが、世の中を律している制度と言えるのかもしれない。制度は規範的な拘束力を持っていて、それに逆らうと、場合によっては社会的な制裁を受けることもありそうだが、普段は制度に従いながらも、時には逆らわざるをえず、あるいは従っていることにも逆らっていることにも気づかないのが、制度なのかもしれず、ただ何となく制度の中で生きているだけなのかもしれないが、それが制度だと気づくことはあまりないのではないか。ではそれに気づくのはどんな時だろうか。例えば選挙制度に抵抗感を覚えるとしたら、投票する理由が見当たらないからかもしれないが、自分の投ずる一票がほとんど大勢に影響がないとしても、それでも投票したくないと感じるとすれば、そこに見えていない何らかの現実があるからだろうか。だがすでに否応なしに制度の中にいるわけだから、その見えない現実を見ることはできないだろうし、たぶんそれを見ようとしているわけではない。では見えない現実を知ろうとしているのだろうか。あるいは見えないのだから知り得ないのだろうか。さらにそのどちらでもなければ何なのか。投票してもしなくても、どちらでも構わないという現実を見ないでおくためにあるのが、選挙制度なのだろうか。そうでなければそういう選択肢ではなく、与党や野党などの対立しているどちらかの候補者に投票するか、または棄権するかという選択肢かもしれない。そして制度がもたらす社会規範が要求しているのは、なるべくなら棄権しないで投票してほしいということだろうか。しかしたぶんそれは見ないでおくための現実ではなく、すでに知っている現実なのではないか。誰もがそんなことなど知っていて了解済みの現実だろうか。では選挙制度があることによって何が見えていないのか。候補者の誰に投票したとしても、何を選んだことにもならず、選ばれた人は何を代表しているわけでもなく、少なくとも選挙民の代表者ではないということだろうか。ある一定数の有権者がその人を選んで投票したことは確かであるから、当選した人に投票したの人々にとっては、実質的にはどうであろうと、制度の上では当選者がそれらの人々を代表していることになるのではないか。では実質的には違うのだろうか。その辺が微妙なところかもしれず、少なくとも投票した有権者一人一人の意見と当選した人の意見が違っている場合はあるだろうし、一致している場合もあるだろうが、その人を自分たちの代表者と認めるなら、意見が一致していると見なさなければならないのかもしれないが、政治にそれほど関心がない人にとってはどちらでも構わないことかもしれず、そして自分が投票した候補者が落選してしまった人たちは、自分たちの意見を代表する人を議会に送り込めなかったことになるのだとすれば、自分たちの意見を政治に反映させる機会を失ってしまったことにもなるだろうし、そうであっても支持政党が政権を担っていれば、その政党を支持しているのだから、形の上ではそれを支持している自分たちの意見が国政に反映していることになるわけだが、果たしてそれを信じている人がどれほどいるだろうか。それはただ政党の主張に同調しているだけではないのか。
たぶんメディアを通じて示され、その政党や勢力のものとされる何らかの意見や主張に、同調させられているか反対させられているか、あるいは無関心であるか、そんな選択肢の中の一つを選ばされているのかもしれないが、ところでそもそもそれらは見えている現実なのだろうか。もしかしたらそれが現実を見ないでおくための選択肢なのかもしれず、それを選ばざるをえないようにさせているのが制度であり、実際にそれらのうちのどれかを選んでいるとすれば、その人の意識の中に制度が入り込んでいるわけで、そんな制度に同調させられていて、制度の支配を受けていると言えるだろうか。だがそうだとしてもそれらのうちのどれも選択しないという選択肢があるのだろうか。判断を保留しておけば選択していないことになるだろうか。政党や政治勢力が出してくる特定の意見や主張を支持するか否か、あるいはそれに無関心であるか、それらのどれでもない立場を保つことができれば、それに対する判断を保留していることになるだろうか。要するに支持することも反対することも無関心でいることもできない、という立場になるわけで、支持するのもおかしいし、反対するのもおかしいし、無関心でいるのもおかしいと思うなら、そうなるしかないのかもしれず、そういう選択を迫る制度そのものが胡散臭く感じられるのだろうが、それはそこに政党や政治勢力やそれらの意見や主張を伝えるメディアに対する不信感が生じているのではないか。そしてその不信感こそが制度が見させない現実から生じているのかもしれず、それらの意見や主張を支持しても、またはそれに反対であっても無関心であっても、何がどうなるわけでもない現実があるのではないか。そうだとするとそのような制度そのものが形骸化しているということだろうか。それだけではなく、そのような意見や主張をもたらす政党や政治勢力や、それらが関わっている議会や政府も形骸化していて、何ら有効な政策を打ち出せないでいるということかもしれないが、それが見えていない現実だとしたら、ではどうすればいいのだろうか。
5月13日「弱点」歴史に興味がないわけではなく、過去のことなら少しは知っているような気になるが、過去と言っても実際に体験して得た知識だけではなく、書物やメディア経由で得た情報が主な知識となっているだろうし、実際にそこから何か学んだとも思えないのだが、気がつかないうちに偏った知識を身につけていて、その自分なりに知り得た範囲内での偏った知識をもとにして、何か語ろうとしているのだろうし、実際にこれまで何か語ってきたのだろうが、まとまりに欠ける支離滅裂で分散した内容だったのだろうし、これからもその延長上でしか語れないのかもしれず、結局は大したことは何も語らずに終わってしまうのかもしれない。別にそれで構わないのだが、その中途半端な理解から語っているうちに実感してしまうことは、世の中のことはよくわからないということだろうか。世界について知り得たことも、歴史から知り得たことも、大して足しになっていないようだ。何の足しになっていないのかといえば、それがよくわからないということかもしれない。何の足しにもなっていないわけではなく、少なくともここまで語っているのだから、語る足しにはなっているのだろうが、それ以外に何の足しになっているのかよくわからない。ひょっとすると足しになっているのではなく、語ることによって何かを失っているのかもしれないが、たぶんそれは時間を失っているのだろうし、その他にも失っているものは多そうだが、何を得ていようと何を失っていようと、それはさらに語るためには必要な成り行きなのかもしれないし、語らないためにも必要な成り行きなのかもしれない。たぶん語っていないことの方が多いのだろうし、文章を構成する上ではそれが必要なことなのだろう。わからないことまで語ろうとしているのかもしれず、わかっていると思い込んでいても、それがわからないことなのかもしれない。そのわからないことも含めて、中途半端に語っているのだろうが、それ以上に何を知っているのだろうか。知っていることについて語っているとも思えず、もしかしたら知らないことについて語っていることに気づいていないのかもしれない。何を知っているわけでもなく、知っていると思っているだけなのかもしれないが、知っていると思いながら語るしかないのかもしれず、そのつもりで語っているらしいのだが、たぶんそれは間違っているのではないか。語っている内容が間違っていると思いながら語っているのだろうか。確信があるわけではないが、たぶん間違っていると思うわけだ。そして間違っていても構わないとも思っているのではないか。だがあえて間違っていることを述べておかないと、何がまずいのだろうか。それもわからないことかもしれないが、述べていることが正しいと確信する気になれないから、間違っていると思っている方が気楽なのだろうか。その程度のことなら間違っていても構わないのだろうが、そうではなくそれどころか、それが取り返しのつかない間違いであっても構わないような気がしているわけで、かえってそうであった方が可能性があるのかもしれず、少なくとも中途半端な正しさに惑わされてはいけないのかもしれない。何が中途半端な正しさなのかといえば、それは批判的な言説を操る人たちに特有の言い回しを思い浮かべればわかることだろうか。述べている範囲内では正しいのだろうが、そこには必ず述べられない要素があり、それには意図的に触れないのか、あるいは本当に気づいていないのか、そのどちらかであり、またどちらでもないのかもしれないが、その述べられていない要素に気づいてしまうと、何かそこに欺瞞が生じているように思われ、しかもいつまでたってもそのことには触れないまま、ひたすら正しさの範囲内にとどまろうとしているように感じられるわけだ。
なぜ彼らは正しさのうちにとどまろうとするのだろうか。どう考えてもそれをごまかしきれていないように思われるのに、批判できることだけ語ろうとして、なぜ批判できないことについては絶対語らないのか。わからないならわからないと述べておけばいいのに、自分たちの限界を潔く認めておいたほうが信頼できるのに、そういうことは口が裂けても言わないでおくつもりなのだろうか。批判している相手に弱みを握られるのがそんなに怖いのか。それもあるのかもしれないのだが、もしかしたらそれに気づいていない可能性もあり、そういうところもよくわからないうちの一つだが、果たしてその程度で構わないのだろうか。物事について語っているうちの、そういう部分が抜け落ちていると、何か部分的にしか語っていないように感じられ、現象のすべてを言葉で説明しきれないのはわかるが、明らかに矛盾が生じているのに、その矛盾を避けて語ることでしか、述べていることの正しさに至れないのだとしたら、どう考えてもそれはごまかしてあり、しかもそれは見え透いたごまかしなのだから、他の人たちも気づかれている可能性が高く、要するに嘘がばればれなのに強弁し続けていることになっているのではないか。もちろん政府与党関係者のその手の強弁を批判し、その見え透いたごまかしを批判しているわけなのだが、一方でその批判内容が、批判できる範囲でしか批判しないわけで、自分たちの批判が矛盾をきたしたり、弱点になるような部分については、巧妙に避けている気がしてならず、そうやって批判が正しく思われるように取り繕っているのではないか。政府与党関係者の強弁がひどすぎるから、そういう部分は目立っていないのだろうが、信用できるのは批判している部分でしかなく、それにあえて言及していない部分も加えてしまうと、どうしても胡散臭く感じられるわけで、たぶんそういう部分で疑念を抱いている人たちが大勢いるのかもしれず、その完全には信用されていない印象が、彼らに対する支持の弱さを物語っているのではないか。
5月12日「焦り」それを知ることが何の役に立つとも思えないが、自分の運命を知ることができるだろうか。気づいた時にはもう手遅れかもしれず、逃れられない運命のただ中で、その逃れられない運命を知ることになるだろうか。その自覚があるということは、逃れられないことを悟っているのかもしれないが、一方でそれが勘違いであってほしいとも思っているのではないか。どちらにしても自意識過剰なのかもしれず、運命と言っても普通の一般人にとっては大したことではないだろうし、何が普通で何が一般なのかもあやふやなところだが、どう考えても現状では地域的にも時代的にも、普通の一般人が何をやれる立場にもなりえない状況の中で生きているようにも感じられ、現実に政治的にも経済的にもどうということはない世界情勢の中で暮らしているのではないか。それは普通の一般人でなくてもそうなのだろうし、例えばどこの国の大統領が世界を変えるようなことをやっているわけでもないし、ただそのような政治的な立場を全うしているに過ぎないのではないか。たぶん世界を変えるのは人間ではなく、変わりゆく世界の中で人間と呼ばれる存在も動作しているということかもしれない。そして自分がたどってきた成り行きに必然性があるように思われる時、それが運命だと感じられるのだろうか。取り立てて主体的に生きているとは思えないのに、何かに導かれるように興味深い経験をして、普通では考えられないような境遇になってしまったと感じるなら、数奇な運命だと思うだろうし、運が良いとか悪いとかではなく、何か独特な結果を招いているのかもしれず、それが真の結末ではなく、その先があるのだろうが、振り返ってみれば奇妙な成り行きを経験してきたと思われ、それがこれから先も続いていくような気がするのであれば、やはり運命だと感じるしかないのではないか。それで運命を知ったことになるなら、まんざら勘違いでもないのかもしれず、その運命に驚きや感動を感じるようなら、運が良いと思っておいた方が無難だろうか。否定するよりは肯定しておいた方が気分がいいだろうし、まだ全てが終わったわけでもないと予感しているなら、その先の展開に期待した方が前向きに生きられるのではないか。何も期待していないわけではないだろうが、何も起こらなくても構わないだろうし、何かが起こるような状況でもないのかもしれない。たぶん特定の人物が何かを起こすのではなく、誰かが何らかの出来事に巻き込まれるだけなのかもしれず、その誰かが誰でも構わないのだろうし、誰でもないのかもしれない。そして巻き込まれる出来事も何でもないのかもしれない。では期待が空振りに終わるということだろうか。具体的には何も期待していないのかもしれないが、妄想しているのではないか。フィクションの中で架空の人物が妄想しているわけでもないが、妄想の中身を知りたいわけでもなく、誰かが妄想している姿を想像しているわけでもない。では何を妄想しているのだろうか。つまらない政権交代などを妄想している人もいるのかもしれないが、もっと大袈裟なことが起こってもらいたいのではないか。しかし人間に何ができるというのか。大したことはできないだろうが、大したことをやりたいわけではなく、誰かが期待するような大袈裟な妄想にとらわれたいのでもなく、たぶんほんの些細なことが知りたいのではないか。それは逃れられないと思っている運命が、今後どうなっていって、どのような境遇や状況の変転を経験できるのだろうか、ということか。それとも何も起こらず、何も得られないのだろうか。実際に何かが起こっている最中であり、何かがもたらされている最中であることは確からしいが、その実感は希薄だろうか。少なくとも世の中の変革につながるような実感ではない。
確かな実感ではなく、かすかな予兆といった感じかもしれない。たぶんメディア上で騒がれている人たちが変革をもたらすわけではない。彼らが巻き込まれているのは、誰が仕掛けたわけでもない反動的な現象なのではないか。もちろんメディア的には仕掛けているつもりの人たちが、政治的な実権を握っていることになっているわけだが、またそれに危機感を抱いて立ち上がったのが、現状維持に必要な反対勢力なのだろうし、魅力のない人たちだ。これまでメディア上で維持されてきた政治的な枠内で活動しているのが一目瞭然だから、魅力を感じられないのだが、かすかな予兆を感じるのは、それ以外の政治とは無関係の領域からだろうか。もしかしたらそれは既存のメディアとも無関係な領域なのかもしれない。もちろんネットメディアとも関係なく、社会の中で人々の関心を持たれないような領域で、人の意識では捉えられないようなところから、何かが感じられるような気がしているわけで、ただそんな気がしているだけで、別に勘違いでも構わないのだろうが、メディアや政治とは無関係に世の中が変革されるとすれば、人々の意志や力とも無関係なのではないか。それは歴史的な経緯からもたらされる成り行きだろうか。それは人にわかるようなことではないのかもしれず、わからないまま変革が起こったようにも感じられないのだとしたら、要するに人が認識できるような変革でもないのかもしれないが、ともかく今も世の中が変わりつつあり、人がそれに気づくには、気づくような何らかの出来事が起こらないとならないのかもしれず、まだそこまでは至っていないのではないか。現状でわかっていることは、政治的な反動勢力にも反対勢力にも決め手がないということであり、決め手を見出せるような状況でもないのかもしれず、それが双方の焦りをもたらしているにしても、焦ろうが焦るまいが、世の中の変革はそれとは無関係なのだろうから、取り越し苦労には違いない。
5月11日「立場」自力で辿り着いたとは思わないが、少なくとも偶然に放り込まれたわけでもない環境の中で、何かの拍子にいい加減な根拠の定かでないことを考えてしまうわけで、とりあえずそこに至る成り行きを意識してしまうと、そこにいること自体が必然的な成り行きの結果だと思い込みたいのかもしれない。別に偶然であっても構わないのだろうが、今ここで文章を記しているのが誰でもいいわけでもなさそうで、できれば自分が記述していることを実感したいのではないか。そんなことを記している間も、意識は何気なしに思いを巡らせているようで、言葉を連ねて行く先に書く目的を見出したいようだが、取り立ててどこかへ向かって何を書いているわけでもないだろう。特定のどこかへ向かって思いをめぐらせているとも思えず、具体的な行き先が見えてこないようで、また気が向けば寄り道をして、そこで気まぐれに惑わされてしまえば、やっていることの意図がわからずに意味不明となってしまいそうだが、とりあえず単純な行為には目的がつきものかもしれない。そうだとしても意図せずに目的から外れたことをやっている場合もあるだろうし、意識的に設定した目的に惑わされずに、自然の成り行きに意識をまかせながら言葉を連ねてゆけば、自ずから書いている内容が定まってくるだろうか。それでも結局は成り行きまかせなのは相変わらずだろうし、もし何かの巡り合わせでまとまった内容を導き出せたとしても、意識して言葉を操作した結果として得られたわけでもなさそうだが、それを意識せずにはいられないようだ。そう意識している時点で結果から原因を推し量ろうとしているのかもしれず、何やら意図してそんな内容を導き出そうとしていたように思われてしまい、そこに書く目的が生じて、そんな内容を書き記すのが目的だったように思われるのかもしれない。果たして意識はその手前で踏みとどまれるだろうか。特に踏みとどまる理由があるわけでもないのに、なぜ踏みとどまろうとするのだろうか。しかし目的から外れるとはどういうことなのか。具体的な目的があれば、様々な事情からそれを目指すのが嫌になったりするのかもしれないが、目的も定かでないのに、目下のところありもしない架空の目的から外れられるだろうか。それ以前に目的を定める機会を探っているのかもしれず、何らかの巡り合わせから目的ができるのを待っているのではないか。もちろん目的がないままでも構わないわけで、それほど目的に執着しているわけでもないだろうし、ただ漠然と目的を求めているわけでもないが、まったく求めていないわけでもなく、その気もないのに目的を得られる必然的な巡り合わせを感じ取ろうとしているわけで、それが意識的に構成するその場の成り行きかもしれず、その場で構成されたフィクションなのだろうか。そこへ至ったのが必然的な帰結であってほしいようにも思われ、できれば何らかの使命を帯びてそこまでやってきたようにも思いたい。そしてその使命が目的を達成することだとすれば、すでにそこへ至ろうとした目的を達成しているのだろうか。そこへ来ることが目的だと思うならそれでもいいのではないか。そしてそこで文章を書き記す使命があったわけだ。そうなると後からどんどん目的や使命を付け加えられそうで、そこで何かをやればそれが目的だったと思い込み、そうすることがそこでの使命だと思い込めばいいのかもしれず、思い込もうとして思い込めるわけでもないのだろうが、一連の動作をフィクションと考えれば、そんなフィクションを書き記しながら、そこで行うつもりの動作を逐一目的や使命に加えればいいのかもしれず、そんな物語を構成すればいいだろうか。そうだとしてもそれはその場の思いつきに過ぎず、後からその場での都合に合わせてフィクションを構成しているだけで、別にそんなわけのわからぬフィクションをはじめから構想していたわけでもなかったことは確かで、当初はどんな内容にするのかも決まっていなかったはずだ。 そんなことを述べている時点で、架空の目的などどうでもいいように思われてくるだろうか。わざとそうしているわけでもないのだろうが、まったく意識していないわけでもなく、何か目的も定まらないうちから目的から外れてみたくなったのかもしれず、もちろん架空の目的なのだろうから、そこから外れるのも架空のことだろうし、目的そのものに関してどうこう述べているような内容ではまったくなく、ただそこから外れた文章を記してみると、何だか勝手気ままで自由な雰囲気を味わえるような気がしているだけかもしれず、実態としては意味のない内容に終始しているだけなのかもしれない。それでもなお述べるとすれば、政治に目的がないと言ったら嘘になるだろうか。政治家には目的があるだろうが、政治は国を治める活動であり、権力を使って集団を動かしたり、権力を得たり保ったりする現象のようだが、そういうことをやるのが政治の目的だと言えるだろうか。少なくとも架空の目的ではないらしいし、客観的にはそうだと言えるのかもしれないが、そういう定義には何が欠けているだろうか。国を統治するだけではなく、国民を幸福に導くのが政治の目的であり、役目だと自負している政治家も少なからずいるはずか。そんな目的も役目もフィクションだと言えば嘘になるだろうか。一般的に言って虚構は嘘には違いないが、嘘は人を楽しませ、楽しませながら騙したりするものかもしれず、人を騙すのが政治の役目だと考えれば、理にかなっているかもしれないし、政治の本質をついている可能性が高いだろうし、そうであるなら人は騙されるのを楽しめばいいのではないか。しかし楽しめない人たちは怒り出すのだろうし、怒り出すのは野暮な人たちかもしれないが、怒り出すのにはちゃんとした理由があるのだろうか。取り立てて理由が見当たらなければ無関心を装っておいたほうがよさそうだが、怒りをあらわにする人たちは、怒りをあらわにする政治家とともに、政治に対して真剣に取り組もうとしている人たちだろうし、そういう人たちを馬鹿にしてはいけないだろうが、たぶんそんな思いを軽く凌駕するほどの嘘偽りが政治には含まれているのではないか。
だからと言って政治から逃げていては、ますます状況がひどくなってしまうだろうか。そう思う人たちが怒り出すわけか。そう思っていても無関心を装う人もいるだろう。中には無関心を装わなくても怒り出さない人もいるのではないか。またひどい状況だとは思わない人もいるだろうか。うまくいっていないのはわかっているが、それほどひどいとは思わない。立場が違えばそう思うのは当然かもしれない。そうだとしても欺瞞に気づかないのはお互い様で、しかもそれで構わないのだろう。ひどい状況であっても構わないし、むしろひどい状況であった方が好都合なのかもしれない。ひどい状況だからこそやれることもあるだろうか。ではそのやれることとは何なのか。それを考えてはまずいのかもしれず、考えることが目的となってしまうと、何かそれとは別のことが目的となってしまうのかもしれない。意識してそれをやろうとするから、別のことをやってしまうわけで、政治に真剣に取り組んでいる人たちは、それを意識せずにはいられないのだろうが、そうでない人たちなら、わざわざ意識するには及ばないだろうし、せいぜい茶番劇を楽しんでいればいいだろうし、真剣に批判しなくても構わないし、悲壮感を漂わせて人々に反政府的な連帯を訴えかけたりする必然性も感じないだろう。要するにひどい状況になっているのだから、そんなひどい状況の中で暮らしている自分たちこそが、ひどい人たちなのだと自覚できれば大したものかもしれず、少なくともひどい状況の中で政治的な圧政の下で苦しんでいる被害者気取りにならなければ幸いなのだろう。そして別に被害者気取りの人たちの欺瞞に気づく必要はないだろうし、それを指摘するにも及ばず、政治的な茶番劇を楽しめなければ、無関心を装っていても構わないのではないか。たぶん誰もが共犯者なのであって、被害者など一人もいないと思っておいた方が、まだ民主主義を信じていられるだろうし、信じられなくても構わないのだろうが、信じているふりを装っていても構わないだろうし、そういう嫌味な態度が気に入らないのなら、被害者気取りであっても構わないだろうか。どのような態度であっても構わないのなら、どのような態度にも正当性はないだろうし、そんな誰もが自分の立場を正当化できない現状なのではないか。
5月10日「タックスヘイブン」企業や著名人のタックスヘイブンを使った税金逃れが批判されるのは当たり前のことかもしれないが、税金逃れという発想自体は、人や企業にとって普通の動作かもしれず、できることなら税金など払いたくはないだろうし、所得や収益が多いほど節税対策に工夫を凝らすのは、人も企業も同じなのではないか。そういうところで人や企業から税金を取って財源とする国家とは対立するはずなのだが、一方で資本主義経済は取引に関して国の法律面での後ろ盾がないと成り立たないのだろうし、国の助けを借りて金儲けをしておきながら、一方で課税逃れをして国を裏切っているわけで、そういう行為が明るみなれば批判されて当然なのだろうが、そうだとしても人も企業もそういう行為をせざるをないのは、資本主義経済が人や企業にもたらす習性なのではないか。利益というのは他人や他社を出し抜いて得るのが普通だろうし、それも継続的に利益を上げ続けなければならないとすれば、複数の企業や人と連携して利益共同体をつくり、他の人や企業を排除しながら、グループ内で利益をもたらす生産や金融や流通の体制を独占するしかなく、そうやって他と差異を生じさせることによって、その差異から利益を得るわけだから、タックスヘイブンにしても、ごく限られた人や企業しか利用できない仕組みとなっているのだろうから、資本主義経済の中で利益を追求する活動にとっては、それも一つの選択肢となるのではないか。もちろん他の国にしてみれば、自分たちに入るべき税金がかすめ取られていることになるわけだから、できればそういう場所がない方がいいわけで、なくす方向で何らかの対策をとっているのかもしれない。しかし国ごとに税制が異なるのはどうしようもないところだろうし、国によっては税金を安くして人や企業にとって魅力的な国づくりをしたい事情もあるだろうし、そういう抜け駆け的な国をなくすには、税制の世界統一をすればいいのかもしれないが、そうなると税制だけではなく国家に関する他の制度にも世界標準を設けて、できるだけ各国がそれに従うようにすれば国ごとの公平さを実現できるだろうが、そうなってしまうと結局は世界を統一すればいいということになってしまうが、それができないから世界が各国に分裂している現状があるわけで、そういうところで解消できない矛盾が生じているのではないか。
人や企業は資本主義経済の中で国家の法的な保護の下で利益を得ているが、一方で国家に対しては絶えず課税を逃れようとする傾向にあるわけで、その傾向を利用してタックスヘイブンと言われる他の国や地域が、税金を安くすることで人や企業の資金にありつこうとしているわけで、それをなくすには究極的には世界を統一したほうがいいのだろうが、それは現状ではできないから、タックスヘイブンを利用した人や企業に対して制裁を課すようなことが行われるのかもしれないが、タックスヘイブンにしても人名や企業名がばれないように工夫を凝らしているわけだから、実際に今回明るみなったのは氷山の一角に過ぎないのだろうし、また世界中の人や企業が大々的に利用できるわけでもないだろうから、ごく一部の人や企業が今後も秘密裏に利用するだけなら、各国政府もばれない限りは大目にみるしかないのではないか。そしてもしかしたら国ごとに税制や関税などの制度が異なるから、その違いを利用することで利益が出ている可能性もあるわけで、そうでなくても各国政府は国内の企業を優遇して保護したいわけで、その究極の形がタックスヘイブンなわけだから、程度の差はあるにしても、国とそこに住んでいる人や企業の関係は、税金を取る面では敵対関係でありつつも補完関係にあり、同時に資本主義経済の面では保護の対象でもあり、そういう矛盾した関係を考慮に入れないと、とんでもない勘違いを生じさせるわけで、その勘違いから生じているのが国家主義や民主主義などのありふれた主義主張であり、それは自分が国民だと自覚している人々が抱く幻想なのかもしれないが、もちろんほとんどの人たちは勘違いだなんて思ってもいないだろうし、とんでもないのはそれを勘違いとみなすことなのだろうが、そういう人たちがタックスヘイブンを使った課税逃れをしている人や企業を批判するメディアを当然のことだと思っているわけで、そういうメディアも批判を当然のことだと思う人々も、国と人と企業の矛盾した関係や動作を考慮に入れていないだろうし、世界を統一しなければならないなんて夢物語であるとも思っているだろうし、それこそが自分たちが信じていてリアリティを感じている国家主義や民主主義からかけ離れた幻想に過ぎないとも思っているのではないか。
5月9日「既成事実」過去の歴史的な経緯が現代の情勢を拘束しているように思われるにしても、現代においても日々様々な経緯が積み重なっているわけだから、過去の経緯に抗って何かをやろうとする人や団体は、自分たちの都合に合わせた経緯を積み重ねて、それを既成事実として社会に受け入れさせながら、今までにまかり通ってきた決まりごとを覆そうとしているのだろう。その一方で自分たちが守ってきたつもりの都合のいい決まりごとは、覆されるわけにはいかないから、それについては頑なに守りぬこうとしているわけで、都合の悪い部分は変えようとして都合のいい部分は守ろうとするのが、そういうことをやっている人や団体の習性なのだろうが、そう都合よく変えたり守ったりできないのが歴史的な経緯なのだろうし、実際に変えようとして変えられず、守ろうとして守れなかった結果が、現代の情勢に帰結しているのだろうし、それもある意味で既成事実の部類に入るのだろう。それを受け入れられないから、逆らっているわけなのだろうが、逆らう理由というのがあまり説得力に欠けると、支持を得られにくく、彼らにとっての変革もうまくいかなくなる可能性が高いのかもしれず、実際に政治的にも経済的にもうまくいっているとは言えない状況だろうか。そうだからといってそれで構わないのだろうし、やっていることがうまくいこうがいくまいが、そんな成り行きの中で何かやっていればいいのかもしれない。そしてそのやっている状態を維持していれば、それが新たな既成事実となり、それをやり続けている限りはその状態を保っていられるのだろう。それが世の中の政治や経済の状況なのだろうか。すべてが惰性でやっていることではないのだろうが、当事者の意志が反映しているとは言い難い面があるだろうし、その場の成り行きに合わせて言動を弄して行動に出ているわけで、少なくともそれが自由意志の反映ではないだろうし、そうする上での何らかの前提条件があり、その条件を満たす範囲内でやっていることなのだろう。彼らが何か主張しているとしても、それはその主張を受け入れそうな人々に向かって主張しているわけで、支持者に向かって支持を訴えかけているのだから、そういう主張に好意的な印象を持っている人が大勢いると考えておいた方がいいだろうし、そういう政治的な主張をする政治家の背後には、それを支持する人がたくさんいるから、そういう主張をしているわけで、別にそれがその政治家独自の考えでそういうことを主張しているわけではなく、多くの支持者が受け入れ可能なことを主張していて、それは政治家とその支持者たちとの共通の主張でもあるのではないか。そういう意味で政治家は支持者が容認できないようなことは主張しないわけで、自分の支持者に受け入れられているから、選挙で当選して議員となり、また大臣となっているわけで、その政治家の存在が有権者の意志を反映していると言えるのではないか。少なくとも政治の制度としてそうみなしておいて構わないのかもしれず、それは選挙で当選者を選ぶ制度であり、有権者の支持を集めた候補者が当選する制度なのではないか。そうなると人々が支持しないことは、選挙で主張するわけにはいかなくなるわけで、対外的な事情や国内の事情で、支持者が支持しないようなことをやらなければならない場合は、選挙が終わってから支持者を裏切る形でやらざるをえないのかもしれず、それをやってから支持者を納得させるような理由をこしらえて、それで支持者が納得すれば、また次の選挙でも投票するだろうし、そんなごまかしがまかり通るようなら、それも既成事実となるだろうし、そんなことの繰り返しが政治的な制度の形骸化を招いているとしても、それを受け入れる人々がいる限りのことであり、それに反発する人が大勢いて、そういうことをやる政治家が選挙で落選するようなら、そんなことにはならないわけで、そうならないとすれば、それも民意を反映した結果なのだろうし、別にそうであっても構わないわけだ。
そして政治家でなければ、別に多くの人から支持されないようなことを主張しても構わないだろうし、歴史的な経緯や社会の規範や自分特有の事情とは無関係なことを主張しても構わないのだろうが、そうなると多くの人たちから支持されないことを覚悟しておかなければならないだろうか。なぜそんなことを主張したがるのか、その理由というのが興味あるところなのかもしれないが、主張するのだから理由がないわけではないだろうし、その主張に多くの人たちが注目してほしいから主張するのだろうし、そうなるとその主張によって、多くの人たちの賛同を集めたいということになるだろうが、それが多くの人たちが支持するような主張でないとすると、何かそこで矛盾が生じてしまうのかもしれないが、そう主張することによって、多くの人たちの意見を変えたいという願望の表れとみなせば、要するに世の中を変えるためにそんな主張をしたいということになるのだろうが、果たして人々の意見を変えさせるにはどのような主張をしたらいいのだろうか。今まで多くの人々の支持を集めていた主張の誤りを指摘すれば、それで簡単に意見を変えてくれるだろうか。それが誤りだと気づいて受け入れる人が多ければそうなるかもしれないが、納得できない人が多ければ無視されるだろうし、無視できないような社会的な立場の人がそんな主張をすれば、迫害されたり弾圧される可能性が高いだろうし、場合によってはその立場を失うだろう。そうなるとしても世の中が変わる可能性があるのは、そういうことの積み重ねでしかないのかもしれず、そんな迫害されたり弾圧された人々の犠牲によって、世の中が変わってきたとするなら、そうした犠牲者たちは、変革が行われた後の世の中において、聖人や英雄扱いされることがあるだろうし、その代表格がイエスをはじめとする殉教した預言者たちになるだろうか。もちろんそこで終わらないのが歴史の皮肉なところかもしれず、現代においては自爆テロによって世の中を変えようとする人たちもいるわけで、殉教という行為が短絡的な解釈を招き、過剰な行為の原因となって、多くの人たちの命を巻き添えにしながら、新たな既成事実になろうとしているのだろうか。
5月8日「錯覚」世の中で起こっている様々な現象について考える上で、そこに関係する物事の因果関係に基づいた必然的な成り行きだけを考慮に入れると、何か足らないように思われ、それに加えてそこに絡んでくる物事の偶然の巡り合わせを考慮に入れると、それなりに納得のいく現象についての説明をもたらせるかもしれないが、その一方で考えている現象がその場限りの特異な成り行きを示していることにもなるわけで、過去に起こった現象についてはそれでも構わないのだろうが、これからやらなければならないことを主張するときには、それをやる根拠を示す上で、これまでの必然的な物事の因果関係に基づいた成り行きを持ち出して、こうなってしまったからこそ、これからはこうしなければならないと主張するわけで、そこでこうなってしまった必然性が強調されることになるわけだが、その過去から現在までの間にこうなってしまったことについて、それが果たして必然的な成り行きだったのかどうか、そこで何か思い違いが発生しているのかもしれず、たまたま偶然の巡り合わせでこうなってしまったのだとすれば、それがこれからやらなければならない根拠とはならないわけで、こうなってしまったのは必然なのか偶然なのか、あるいはどの程度の必然が作用して、どの程度の偶然が作用してこうなってしまったのか、その辺を考慮に入れた上でも、これからやらなければならないことが、本当にやらなければならないことなのか、あるいは別にやらなくてもいいことなのか、それを判断するのは難しいことなのだろうが、そのやらなければならないことというのが、現状でやれるかどうかについての判断も絡んでくるわけだから、簡単にできそうなことならやろうとするだろうし、容易にはできそうもないことなら、どれほど主張に説得力があろうと、やるのは難しいだろうし、やろうとしてもうまくやれる可能性も低いのではないか。よくありがちなのが、簡単にできそうなことをやる行為を積み重ねることで、絶えず何かやっているように見せかけることだろうし、これまでやってきたことをこれからもやり続けるのも、やり続けられる状況がある限りはやり続けられるだろうし、また理論やマニュアルがあって、その通りにやればうまくいく環境が整っていれば、やるのはたやすいだろう。人々が現にやっていることの大部分はそういうことなのではないか。そしてそういうことばかりやってきた結果として、行き詰まりに至っているとしたら、そういうことばかりやってきた人に、失敗を恐れずに何か新しいことをやる勇気などないのは当然だろうし、行き詰まりに至った時点でもう終わりだろうか。そこで何が終わるのかといえば、これまでやってきたことが続けられなくなるわけで、終わりとはそういうことでしかないだろうし、それ以外の終わりなど考えられないかもしれないが、別にそこで時間が終わってしまうわけではないのだから、その先でも生きているとしたら、当然そこで何かやっているのだろうし、そこから先ではこれまでやってきたことが通用しない状況になっているということだろうか。そこではもしかしたらこれまでやってきたこととは別のことが、簡単にできる環境になっているかもしれないし、それはこれまでやってきたことが邪魔をしてできなかったことかもしれず、それができなくなったから別のことができるようになったのだとしたら、これまでやってきたことの根拠が揺らいでしまうわけで、それをやることの必然性を信じていた人々も、あまり信用できなくなってしまうわけだが、そうなるとこれまでやってきたことと、それ以降にやっている別のこととの間に連続性はないわけで、そのやっていることの転換点を境にして、それまではそうやってきたからうまくいかなくなってしまったわけで、だからそれ以降はそれまでやってきたこととは別のことをやらなければならなくなった、という説明が成り立つだろうが、そこからそれまでやってきたことの必然性や、それ以降にやっていることの必然性を導き出せるだろうか。
もしかしたらそれも偶然の巡り合わせと考えておけば済んでしまうことなのではないか。資本主義の終焉を予言する人たちが結構いるから、今後近いうちにそういう転換点に至る可能性もなきにしもあらずだが、そういう人たちは資本主義が終焉する必然性を説くわけで、なぜ資本主義が終わらなければならないのかの理由や終わる根拠を説明するわけだが、その説がいかに説得力を持っているとしても、たぶん終わってみないことには何とも言えないところだろうし、終わってからでないとそれらの説の正しさは証明されないわけだ。しかも資本主義が終わろうと終わるまいと、終わるまでは資本主義的な経済活動をやめるわけにはいかないだろうし、実際にもう限界だからといって、資本主義に代わる新たな経済活動を模索しようとしても、それがうまくいくとは限らないわけで、実際に20世紀の社会主義的な試みがことごとく失敗した経験もあり、資本主義が終わらないうちは、資本主義的な活動が社会の中で支配的な規範として人や集団を拘束しているのだから、別の経済活動が取って代わる可能性は低いと見ておいたほうがいいのではないか。それは恐竜が全盛の時代に哺乳類も生きていたのと同じようなことかもしれないが、恐竜が絶滅した後に哺乳類の全盛時代になったと言われるのは、別に必然でも何でもないだろうし、たまたまそう見えるだけで、恐竜がいてもいなくても昆虫の全盛時代が続いていることも確かだろうし、またそれ以前に植物の全盛時代が続いていることも確かだろうし、見方や視点を変えればそれに応じた説明が可能なのかもしれず、また様々な物事の偶然の巡り合わせが作用してそうなっているとしか言えない部分もあるのだろうから、資本主義の間近な終焉を信じて何か別のやり方を試みるにしても、資本主義の間近な終焉を信じることと、何か別のやり方を試みることとの間に、連続的なつながりを想定するのは難しいだろうし、必然的な因果関係を設けるのも、何か間違っているように思われるわけだ。
5月7日「建前」ありえない妄想を述べるならば、果たして日本が世界全体を転換するきっかけを作れるだろうか。現状では少なくとも国家として主導的な役割を果たすようなことはないだろうし、人材としても今後世界を主導するような働きをする人が出るとは思えない。社会にも世界の見本となるような規範は見当たらないだろうか。その一方で世界的に見て特殊なのは軍事力を放棄した憲法九条と天皇制の存在だろうが、それらが成立した背景を考えてみても、他の国が見習うべきようなものでもなさそうだ。では日本が世界に貢献する可能性などありえないのだろうか。漫画やアニメで世界に貢献しているとでも主張したいわけか。それは主張するようなことではないのかもしれない。普通に考えれば日本と呼ばれる国や地域が世界に貢献するのではなく、そこに住んでいる人々が世界に貢献するのでもなく、無理に世界を変えようとしなくてもいいのではないか。ただそこで生き、普通に暮らしていればそれで構わないのかもしれず、それ以外に積極的に何をする必要もなく、世界に貢献するだの、世界を転換するきっかけとなるだの、大げさに考える必要もないのかもしれない。世界の他の地域を考えてみればそれがわかるだろうし、何の脈絡もなしに、例えばオーストラリアが世界を転換するきっかけを作れるとは思えないし、またバングラデシュやインドネシアにそんな役割があるとも思えない。そもそも世界に貢献するだの、世界を転換するきっかけを作るだの、そんなことを考えること自体が、思い上がり以外の何ものでもないのかもしれず、世界の一地域でしかない場所に暮らす人々が、なぜことさらに世界を転換したり先導したりする役割を担わなければならないのか、その理由も根拠も必然もないような気がするのであり、要するに経済や政治や軍事力などを用いた国や地域の間の勢力争いに、人々も巻き込まれていることが背景となっていて、自分たちや自分たちが属する国や地域が、世界の国々の中で優位に立ちたくて、何やら世界を指導し先導するような地位を得たいという願望を抱いているだけなのではないか。ではそういう考えは捨てたほうがいいのだろうか。捨てたくないなら捨てなくても構わないし、関心がなければないままでも構わないだろうし、どちらでも構わないのかといえば、どちらでなくても構わないのかもしれない。憲法九条も天皇制も日本独自のローカル・ルールのままでも構わないだろうし、ことさら世界に広める必要もないといえばその通りかもしれず、もしそれらを参考にしたい国や地域があるなら、その国や地域が日本を勝手に見習えばいいことでしかなく、日本がそれらの国を指導するようなことではないだろうし、また日本も日本に住んでいる人々も、他の国や地域の制度や規範やそこに住んでいる人々を見習いたければ、勝手にそうすればいいだけなのではないか。世界中の国や地域やそこに住んでいる人々がそう思えばいいと同時に、そうは思わなくてもいいわけで、そうするかしないかはその国や地域やそこに住んでいる人々の自由な判断にまかせたらいいわけだが、現状でもそうなっているのかもしれず、あえてそんなことは述べなくてもいいのだろう。しかしそうでないとしたら、世界の中での日本の役割とは何なのだろうか。世界に関しては特定の国に決まった役割があるとは思えないし、役割をどうこう考えるようなことでもないのかもしれないが、それでも行政単位として国があり、そこで形の上では統治が行われているはずなのだが、本来の統治形態という定型があるわけでもないのだろうが、なるべく国家間で統治形態に差異がない方がいいのだろうし、世界中の国が同じような制度や仕組みによって運営されていれば、その中で暮らす人々にもそれほど文句が出ないのかもしれず、また富める国がある一方で貧しい国があってはまずいから、国家間の経済格差をなくす方向で努力するとともに、各国家の国内で住民の間の経済格差もなくすべきなのだろうが、それが実現されていない現状があるのだろうから、建前としてなら各国家の制度や仕組みをできるだけ共通にして、国家間の経済格差や国内の住民間の経済格差を縮めるように努力すべきなのだろう。
具体的にどのような制度や仕組みにすべきかは、やはり建前としては、住民の自由と平等を確保するような制度や仕組みを構築しなければならず、そういう方向で改革を進めるべきなのだろうし、行政としては地域的あるいは宗教的な独自色を出すのは慎むべきだし、人々がどの国でも同じように暮らせる環境にした方がいいのだろうが、実際にそれができない理由としては、国家的あるいは地域的さらには宗教的なエゴまであるわけで、資本主義経済の中での富の蓄積の不均衡から、国家間や国内での経済格差が生じるわけだが、それらの各種のエゴと経済格差が複雑に絡み合って解消しがたい不平等と対立をもたらしているわけで、それを行政的に解決するのが困難を極めているから、人々の不満がなかなか解消しないのだろうが、それを一挙に解決する手段や方法があるとは思えないわけで、少なくとも現状の制度や仕組みの中では、世界的にうまくいっていない現状があるのではないか。それについて幻想を抱いてはまずいだろうし、実現可能なうまい解決策があると思ってもまずいのではないか。もちろん人々は解決策があると主張している人や政治勢力を支持してしまう傾向にあるわけで、中には本当にそれらの人や勢力の主張通りにやれば、解決できると信じている人もいるわけだから、幻想を抱いてしまうのだろうし、さらに悪者を設定してそれのせいにしている人たちも多く、富裕層の税率を上げて、徴収した税金を何らかの形で貧困層に再分配する、という行為ができると信じている人も、結構大勢いるのではないか。そして実際にそれができていないのは、行政やそれと結託している政治家が悪いからだという話になってしまうわけで、どうしてもそうやって悪者を設定してそれを批判していれば、自分たちの主張の正しさを正当化できると思ってしまうのかもしれず、そうなっていない現実に納得がいかないのはもちろんのこと、それを阻んでいる人や勢力を延々と批判するしかない状況に慣れてしまって、いつまでたっても一向に効果の出ない自分たちの批判に疑問を抱きようがなくなってしまい、独善的な傾向になっているのではないか。しかもそういう人々を批判してはならないわけで、批判するのは政権側に迎合する人々なのだろうから、独善的にならない方がおかしいわけで、そういう面でも解決策がないことを自覚できないわけだ。
5月6日「死体解剖」皮相な次元でしか物事を説明できないとしたら、事の深層というのが何を意味するだろうか。表層と深層の対比としてではなく、皮相な次元で語られている内容そのものを肯定しておけばいいのではないか。深層に隠された意味を想像する必要はないのかもしれず、文章として書かれてある内容を読んで理解した範囲内で考えるしかない。物質的な次元では物事に深層があるかもしれないが、文章は表面に記された文字列であり、記されてある以上の何が隠されているとも思えないなら、それを読むことで何かそれが記された背景でも想像してみたほうがいいのだろうか。記された理由や当時の状況やそれを読んでいる現在の状況との間に、何か因果関係のようなものを構築できれば、それについて語るに至れるのだろうか。どうもそうではないのかもしれず、語る必要はないのであり、ただ読めばいいだけなのかもしれない。語る必要を感じられなければそうなるだろう。それ以前に読む必要も感じられないのなら、要するに興味がないということだろうし、たとえ皮相な次元であっても、物事を説明する必要もないのかもしれない。ただ物事が関係して生じる現象を感じればいいのだろうか。しかし感じるとはどういうことなのだろうか。認識するということだろうか。粗雑な記述に終始しそうな気配が感じられてしまうが、記述もその現象の一つであり、それを感じるとは読むことにもつながるのではないか。そして読むことによって生じる現象の一つが書くことであり、書くことによって生じた記述の中で、何かが語られているわけで、その中で何かを説明している記述に直面することもあるだろうし、それが皮相な次元で物事を説明しているように感じられるとしても、やはりそれを批判する気になれるだろうか。取り立ててそれ以上を求めているのでなければ、批判しておいても構わないだろうし、実際に批判すればいいわけだが、どうも躊躇しているようにも思えるわけで、無理に批判する必要も感じられなければ、スルーした方がいいのかもしれない。そうでなければ理解すればいいだろうし、批判するのではなく理解し、理解した範囲内で説明すればいいのだろうか。まともな説明が既に出ているのに、あえてそれを無視した上で、その説明を抜きにして、これまで通りの党派性に依拠した批判を繰り返しているとすれば、それは欺瞞でしかないのかもしれず、そんな批判をさらに批判するのはやめておいた方がいいのかもしれないが、そんな呆れるしかないような現状の中で、それでもあえて辛抱強く説明するのは、何か徒労感とともにやるせなさも漂ってきそうで、結局はそういうのはやめにしておくべきなのであり、それ以上は何も語らない方がいいのだろうか。それでもなお語らざるを得ない状況に追い込まれるとしたら、それは不条理以外の何ものでもないのかもしれないが、現状ではそうならないことを祈るしかないだろうし、あえて語らずにおくことを選択しながらも、絶えず語る機会をうかがっているのかもしれず、そうやってどっちつかずの状況を長引かせることも、語ることの一つの可能性ではあるのかもしれない。それ以上語るにはそういう選択肢もあるわけだ。何も語っていないようでいて、その裏返しの状況を示唆させるために、何も語らずにいるように見せかけようとしているわけで、その見せかけこそがほのめかしであり、対象の定かでない嫌がらせなのかもしれないが、そうせざるを得ないようなアンビバレント感情の虜になってるのだろうか。
文章の中で想定される語り手がそうなっているとしても、それを記している者が感情にとらわれているとは断定できないだろうし、偽装としてそんな感情を醸し出そうとしているのかもしれず、そう読み取れるとしても、事の真意がそこにあるとも思えないわけで、直接語るわけにはいかない事情などを想像してしまいがちになるのだが、そもそも党派性に依拠した批判を繰り返していること自体が、もはや批判の自由を抑圧した形骸化に他ならないわけで、もうその時点で批判の役目を終えていることは確かであり、そこからいかなる言説をつけたそうにも、死体解剖のような形となってしまい、それは批判ではなく分析として、それ以外の新たな事象を説明する上で役に立つ可能性があるということだろうか。しかしそれ以外の事象とは何なのか。にわかには思いつかないが、現状で続いている見え透いた対立が崩れるようなヒントが、批判の言説の中に埋もれているとは思えないし、批判は批判として対立関係を維持する上で欠かせないのだろうから、それ以外の言説から導き出さなければならないのかもしれない。そして対立を対立とみなしている限りは、対立を構成する言説内に意識が囚われてしまい、そこから抜け出す契機が見出せずに、いたずらに対立を煽り立てる言説を弄する他なく、対立を画策する政治勢力の思う壺となって、ただ対立を長引かせることに貢献するばかりとなり、それでは現状維持を強化するだけだから、変革をもたらせないばかりか、変革の芽を摘んでしまう結果ともなるわけで、少なくともそれは避けなければならないところなのだろうが、ではそれについてどう語ればいいのかとなると、対立している双方を批判しながらも擁護し、否定しながらも肯定するような言説の内容を模索しなければならないだろうか。そうであると同時にそうではなく、対立関係そのものを無効にするような言説の構成が必要なのだろうか。
5月5日「代替案」嘘をついているわけではないが、嘘をついていないわけでもないらしい。嘘をついているという実感が湧いてこないとすれば、自分が嘘をついていることに気づかないということだろうか。それもありうるかもしれないが、実際はそうではないようだ。それをうまく説明できないというのが、偽らざる実感だろうか。それが偶然の巡り合わせだとしか言えないにしても、それでも必然的な成り行きとみなしておいたほうがいいのだろうか。偶然とか必然とかに関係なく、理由を見つけられないのだから、目下のところは不可思議な成り行きの中で生きていると認識しておくしかないのかもしれず、納得できるはずもないことだが、先行きが読めないから、置かれた状況について、何を理解しているわけでもないのかもしれない。しかし何を理解しようとしているのだろうか。その自覚がなければわかるはずもないだろうが、ただ漠然と世界を理解しようとしているのだとしたら、どうもその理解の程度が皆目見当がつかず、ほどほどのところで構わないのかもしれないが、それがほどほどだと感じるわけでもなく、いつも理解が不足していると思うところなのではないか。底が見えないと同時に天井も見えてないと言ってしまうと、何かの比喩でしかなくなってしまい、具体的に何をどう語ればいいのかわからなくなってしまいそうになるが、その語る基準が見出せないのだから、ただ漠然とした実感だけしか語れなくなってしまうとすれば、それでは空疎な内容となってしまうだろう。当然それ以上を求めているのだろうし、それに気づいていながら、それ以下の内容しか導き出せなければ、落胆するしかなく、現にがっかりしているのかもしれない。語る目的がどこにあるのかもわからないのなら、語る必要はないのかもしれないが、語ること自体が目的だとも言えるなら、最低限の空疎な内容で我慢すべきかもしれないのだが、実際にはそうではなく、そのあるかないかもわからない目的に気づいていないのは当然だとしても、語る目的を求めていながら、一方で目的以上の何かを求めているのかもしれず、その何かが何なのかを突き止めようとしているのでもないのに、ただそれ以下とみなしている目的にとらわれたくはないのだろうし、要するにありえない何かを求めているふうを装っているわけだ。そうみなしておいても構わないのだが、一方では語りながらその何かが見つかることを期待しているわけで、語り続ければそれに突き当たると信じている節もあるわけで、その辺に脈がありそうなのだが、何やら遠回りしているようにも思われ、その遠回りも脈絡が感じられず、お目当ての何かからはどんどん遠ざかっているのではないかとも思っていて、もしかしたら遠ざかってみないと見えてこないものなのかもしれないし、何から遠ざかっているのかわからないが、振り返って眺めてみれば、その全体像が見えてくることも期待しているのではないか。今望んでいるのはそれを見ることだろうか。それは嘘であり、空疎なフィクションを語っているつもりなのかもしれない。だが嘘をついているのは必然的な成り行きなのではないか。実際に誰もがとりとめもなく嘘をついている状況がありそうで、本当のことを語る代わりに、批判しても構わない対象を批判することで、本当のことを語るのを回避しているのではないか。
ごまかしは批判の中でありそうで、何かを批判している人たちは、真実を語らずにいると言えるだろうか。では彼らが語りたがらない真実とは何なのか。それは解決策がないということだろうか。しかしそれは何を解決するための解決策なのだろうか。それは批判している当の対象がやっていることに関わってくることだろうし、批判対象が事態の解決を目指してやっている行為を批判しているのではないか。そんなやり方ではだめだと思って批判しているわけで、やっていること自体が人々に害をもたらしていると批判しているわけだ。そして批判者は解決策を持ち合わせていないわけではないのだろうが、その解決策というのが解決をもたらしそうもない解決策であり、実現性の低い空疎なフィクションの類いと見なされても仕方がないような代物なのではないか。つまり批判される対象がやっていることは批判されてしかるべきことでありながら、では批判している人たちが何をやれるかといえば、批判することしかできないわけで、しかも批判している人たちが持ち合わせているつもりの代替案というのが、批判されている人たちがやっていることとあまり大差がないばかりか、状況によってはさらにひどい代物になりうるかもしれないということだ。もちろんそうではないと思いたいだろうし、実際にやらせてもらえばそうではないことが証明されると主張したいのだろうが、いざやる段ともなれば、そんなことはやらせてもらえない可能性があるわけで、やれることが限られていて、その限られた中でやっていることが、彼らが批判している当の対象がやっている行為なのではないか。もしかしたら本当にやらなければならないことは、批判の対象となっている行為でも、それを批判している人たちが持ち合わせているつもりの代替案でもなく、他にあるのかもしれないのだが、それは批判の対象となっている人たちにとっても、批判している人たちにとっても、どちらにとっても受け入れがたいことなのかもしれない。
5月4日「目的意識」世界は人間を中心にして回っているわけではないが、言葉の連なりの中で語られる人間とは別に、記憶の中に住まう人影は、それほど出しゃばって意識を制御しようとしているのではないだろうし、無言でその不在の存在感を示しているのだろうか。自分が自分にとっての中心でないとは言えないだろうし、普段から自己中心的に物事を考える習慣がついているのだから、それを差し引いても、やはり自分が主体的に生きようとしなければ、何をやるにもその気になれないだろうか。自分がやっていることすら他人事でいられるわけもないだろうし、少なくとも自意識と連携しながらやろうとしている場合が多いのではないか。だがそれを意識せずにやっている場合もあるだろうし、自分がやっていることを理解できない場合もありそうだが、無理に理解しようとせずにいられるだろうか。それを意識しなければ理解しようとする機会も生まれないのかもしれないが、意識して理解しようとするとき、それは反省に基づいて意図的な動作をもたらそうとするときだろうし、そういう動作とともに目的や目標が形成され、自分が自意識に操縦されるロボットのような存在となるときだろうか。学校や職場などで訓練を受ける内容は、そんな自分で自分を操縦する訓練なのかもしれず、またその延長上に自分が他人を操縦したり、他人から操縦される状況に慣れさせるための訓練なのかもしれない。そういう意味で自分で自分を理解しようとすることは、自分のやっていることに対する反省に結びつき、その反省が何をやらなければならないのかという目的をもたらし、さらにその目的を達成するためには自己による自己の制御を必要とし、そして自己の制御の延長上に他人の制御が目標として浮上するわけで、その裏返しが他人による自己の制御となるだろうか。人間関係の中で他人との間で生じる葛藤が自意識を意識させ、他人に対して優位に立てば他人を制御しようとしたり、自分が劣勢になれば他人に制御されることを受け入れたり、そんなやり取りを介して、客観的な存在としての人間を意識せざるをえないのかもしれないが、その人間の存在こそが虚構だと言ってしまえば、そこで興味が終わってしまうのかもしれず、そうではなくそれは人間単体の存在ではなく、社会の中では人と人との関係が実質的な意味を持っていると言えるだろうか。そしてそのような人間関係を介して、人と社会との関係も問題として浮上してきて、自己と社会との葛藤も意識されるようになると、場合によっては何やら社会を支配しているとみなす政治的な権力に歯向かっているような気にもなれるだろうか。そういう成り行きが何かありふれた物語じみていて、フィクションであるような気もしないわけではないのだが、そんなふうに意識せざるをえないような気にさせるのがマスメディアの役割なのかもしれず、政治権力に抑圧されているように思わせることによって、政治との関わりを持たせて、メディア的な術中に引き込みたいのかもしれないが、果たしてそれがどこまで社会の中で効果を上げているのだろうか。それを知るバロメーターが世論調査となるのだろうし、同時にそれが世論誘導や世論操作の契機ともなるわけで、何やら政治権力がメディアを通じて画策しているように思わせたいのかもしれないが、そこまで意識するとなると、何やら陰謀論めいてきて、別の物語に引き込まれそうにも感じられ、その辺であまりその気になってしまうと、メディア的な宣伝活動の餌食となって、自意識がメディアに絡め取られ、主体的な判断ができなくなってしまうだろうか。
大衆メディア社会の影響下で個人による主体的な判断というのが、果たして可能なのかどうかもわからないところだが、かつて政治的な権力に反抗していた人々の中から、実際に政治的な権力を握ろうとして、その関係者となった人も少なからずいるのかもしれず、権力の反発する学生運動などから、権力側に与する保守的な論客や実際に政治家になった人たちは、メディア的な術中に引き込まれた当事者たちなのではないか。そうなることの良し悪しはよくわからないところだが、一方でまで初心を忘れずに反体制的な活動を続けている人たちもいるわけだろうし、また権力に近寄ったり遠ざかったりしているどっちつかずのメディア関係者もいるかもしれないし、そういう様々な立場や境遇の人たちが、政治的な言論空間の中で発言したり文章を書いていたりするのだろうが、そのような活動に対して、主体的に何をどう判断しようとしても、判断しようとすること自体が、すでにマスメディアの術中に引き込まれているような気がするし、あまり善意で近寄ろうとしてはいけないのかもしれず、常に距離感を保ち続けることが、メディア用の自意識を意識しないための秘訣かもしれないが、また自分で自分を制御しようとすることが、メディアによる制御に屈しやすくなっている原因かもしれず、その辺は必要以上に目的意識を持たない方がいいのかもしれない。目的意識ばかりを持つように心がけてしまうと、目的を達成するための自己制御に気を取られて、その分意識外の行為や行動がおろそかになり、ロボット的な動作の傾向が強まるだろうし、そうなると思考や行動の奥行きや柔軟性が減じられて、賛成反対を伴う単線的な論理を駆使する、メディア的な政治宣伝を真に受けるようになってしまうのではないか。
5月3日「構造」何でも語れるようでいて、実際に語れることは限られている。敵対していれば敵を攻撃する言葉しか思いつかず、敵は敵でそんな言葉を引き出すために挑発し煽動してくるわけだ。だが敵対している双方ともに意識してやっているわけではないし、そんなやりとりを可能とする場が双方の関係から形作られているといえば、その通りかもしれないが、それも把握するのが難しい認識かもしれない。どう語るにしろ、どう語ればいいのか考えているにしても、やはり自由には語れないわけで、その場の状況に対応した言説しか繰り出せない。しかしそれ以上に何を語ればいいのだろうか。その場に生じている言説空間から逸脱して語れるだろうか。少なくとも場に拘束されていることを認識する必要があるだろうか。認識できるような場ではないから、意識が絡め取られて、状況に対応したことしか語れないのだろうし、そう語らないと、その場に拘束されている他の人たちの同意や理解も得られないのではないか。だが場に支配された紋切り型しか語れないと、状況が変わって場の特性が変化した時、その紋切り型的な言説も陳腐化した時代遅れの内容となるしかなく、過ぎ去った時代と共に忘れ去られてしまう恐れがあるだろうが、それで構わないのだろうし、時代の変遷と共に、その時代の空気に染まった紋切り型的な言説も移り変わっていくのではないか。だから今は今の時代に合った言説を探り、それを駆使しながら語れば、他の人々の共感や同調も得やすいのだろうか。だがそれを語るには、語れる立場にならなければならず、その立場でもない者が語っても無視されるだけで、その立場にない者は、語る立場にある者の言説に共感したり同調することによって、語る立場の者とそれに共感し同調する立場の者たちが構成する階層構造を受け入れるのだろうか。そういう言説に共感できなければ、勝手に違うことを語ろうとするしかないだろうし、そういう構造を感知できる限りにおいて、階層構造によって増幅される紋切り型的な言説から逃れられるかもしれず、それと同時にそうした構造を守る人たちから無視される自由も手に入れるのだろうが、手に入れるのではなく、実質的には勝手に無視されるだけで、そういう無視に耐えられなければ、その場を支配する構造を受け入れて、その中で役割分担された立場に忠実に従うしかないのではないか。しかしそれ以上に何ができるというのか。その場を支配する場の制約を受けて、語る立場の者が語れることも限られているし、共感する立場の者が共感できることも限られていて、実際にそんな状況の中で何を語っているのかといえば、その場に拘束されている誰もが理解可能で受け入れ可能なことを語っているわけで、そう語るのが妥当と思われるようなことを語っているのではないか。そしてそれをあからさまには意識できないところが、それ以上は語れないことを示しているのだろうか。
勝手に違うことを語ろうとしても語れないのかもしれず、語ろうとすればその場の制約に拘束されるしかなく、その制約が許容する限界内で語るしかないのかもしれないが、それに対する共感者が同調者がほとんどいなければ、そういう構造内で語る立場ではないことを示しているのかもしれず、語る立場でないことを語っても無視されるだけなら、無視されている範囲内で自由でいられるのかもしれず、逆に共感者や同調者を求めたければ、構造内で支持を得られるような内容を語らなければならず、当初は語る立場ではなかった者が、支持を得られるようなことを語りながら支持を増やして行けば、自然に構造内で語る立場を得られるのかもしれない。そうやって構造を受け入れた誰もが共感し同調できるようなことを語れば、多くの人たちの支持を背景として語る立場を獲得して、その支持者とともに構造を守る側になっていくだろうし、そういう構造こそが人間社会そのものなのかもしれず、その中で敵対する者や勢力が論争を行う場なのかもしれない。では果たしてそういう場にはそぐわないことを語る意味があるのだろうか。わかりやすく言うなら、その紋切り型的な構造自体が気入らないから、それを揺さぶり壊したいから、わざと外れたことを語りたいのかもしれないが、構造内にはそういう外れたことを語る役割も用意されているような気もするし、そんなアウトロー的な言動に対する支持者も一定数はいるだろうから、わざと外れたことを語るのは、予定調和の反抗にしかならないだろうし、どうもそういうことではないのではないか。
5月2日「虚飾」この世界の中で人は何から逃れようとしているのだろうか。安易な回答を求めるならば、自らの死から逃れようとしていると言えるだろうか。中には自殺する人もいるわけだから、死にたくて積極的に死を求めている状況というのもあるかもしれないが、今のところは逃れたくても逃れられないのが、自らの死であり、少なくとも生きようとしている限りは、確かに死にたくはないわけで、生きられる限りは生きたいと願う人がほとんどだろうか。生きることと死ぬことが逆の現象ならわかりやすいのだろうが、一方で生きることが死につながる成り行きであることは確かで、生と死はつながっていると考えれば、語りようによっては生と死を分けて考えるのもおかしいのかもしれず、生きることから逃れようとすれば死につながり、死から逃れ続けている過程が生きていることと同じだと言えるだろうか。説明すればそうなるかもしれないが、生きていることだけではあまり興味深い現象ではなく、生きれいる中で何をやっているかが常に興味の対象となるだろうし、死ぬまでの間に何かをやっているわけだ。人が存在している限りは、生からも死からも逃れられないとすれば、何かをやらざるをえないことからも逃れられないだろうか。最低限は呼吸しているわけだから、それもやっていることの一つであり、そういう水準では何かをやらざるをえないわけで、そういうところから人間が生物の一種であるとは言えるのだろうが、それは人間が人間であることとはあまり関係ないだろうか。他のほとんどの生物も呼吸しているだろうから、十分条件だが必要条件ではないと言えるだろうか。呼吸していることと社会の中で生きていることとは、別次元で考えないとおかしいわけで、生物として生きていることと、人間として生きていることとは、次元の違う話だとも言えるだろうが、人間を人間として人間らしく取り扱うとは、どういうことなのだろうか。また人間であるとともに、労働者として取り扱うとはどういうことなのか。労働者を人間扱いしないとなると、しばしばそれは奴隷労働にたとえられ、低賃金で長時間にわたって拘束するような労働が、人間としての尊厳を踏みにじっている典型例とされるかもしれないが、経済活動としてそのような労働が必要とされ、その必要に応じて人的資源を供給できる体制が整っていれば、そういう労働はなくならないだろうし、機械製品の組立作業などで、今なおそうしたことが行われている現状があるのだろうか。中国などの組立工場では自殺者も結構出ているような報道があるが、多少は死んでも構わないような生産体制なのだろうし、死んでも新たに労働者が補充されるような仕組みにはなっているのだろう。そういう工場では労働者が死にたくなるようなストレスがかかっているのだろうし、確かに生きている間は労働しているのだろうが、ごく一部の労働者にとっては、それが自らの死につながるような労働となっているのだろうか。そういう人にとっては、生きていく上で欠かせない労働が死に結びつくのだから、生と死が隣り合わせの環境の中で働いていて、ほとんどの人は労働と引き換えにして、安い賃金にありつくだけにとどまるのだろうが、まれに自らの死にもありつけるという不幸もついてくるわけで、それはどんな職場でも起こり得ることなのかもしれないが、社会的にはそれほど重要とはみなされない低賃金労働によって死んでしまうと、しかも危険を伴うような作業ではない場合、死の価値もそれだけ低いように感じられ、より一層人権が侵害されているように思われるだろうか。
しかし人間に見合った労働とはどういうものだろうか。他の人たちから羨まれるような仕事なら、どうもそれは労働とは言われないだろうし、またそれは作業とも見なされないのではないか。なにやらクリエイティヴな仕事とか言われる職種なら、それなりに馬鹿にされることはないだろうが、単純作業に従事するような仕事なら、一般的に低賃金だろうし、コンビニや居酒屋チェーンの仕事などは、作業内容がきつくてしかも低賃金だろうし、何よりもパートタイム労働であることが、仕事に誇りを持つとかそういう水準ではなく、片手間でやっているほどの余裕もないだろうし、負い目を感じるような境遇になってしまうだろうか。それが当たり前の世の中になってしまえば、なんとも思わなくなるかもしれないし、仕事とはそういうものだと割り切ってしまえるような心持ちでいられるのかもしれず、もはやそんな時代なのかもしれないが、そういう意味で労働の種類に格差などいらないのかもしれず、低賃金だろう高賃金だろうと、クリエイティヴだろうと単純作業だろうと、そんな仕事をしながら生きていければそれで構わないのかもしれず、あまり見栄を張ったり幻想を抱いたりするような状況ではないのではないか。なにをやっていようと仕事は仕事だし、ただの労働でしかなく、それなりに作業をこなして賃金を得て、それで食っていければ、少なくとも死ぬまでは生きていけるだろうし、それ以上を望めなければそれで我慢するしかなく、そうやって現代人は生きて死んでゆくだけなのではないか。いったいそれ以上のなにを求めればいいのだろうか。果たしてどれほどの人がメディア上で煽られている価値観を信じているのだろうか。多くの人にとってどうもそれは虚飾以外の何ものでもないように思われているのではないか。
5月1日「思い込み」思い込みというのは思い込んでいる当人には気づかないものだろうし、それが間違いだと気づいて初めて思い込みだとわかるかもしれないが、思い込みが正しかったらやはりはそれも思い込みだろうか。思い込みの正しさがどうやって証明されるのかにもよるだろうが、その思い込みが正しい限りはそれが思い込みだとは気づかないのかもしれず、その思い込みへの執着が他の人たちの共感を得るに至れば、やはりそれは宗教的な現象として社会に蔓延する可能性もだろうし、そんな集団催眠的な先入観や固定観念が集団意志となって社会の安定に寄与しているとすれば、まさに現代社会は様々な思い込みによって構成されているとみなしておいた方が無難なのかもしれない。思い込みの共有こそが人々を連帯させ、共有された思い込みによって形成された価値観によって、それに共感し同調する人たちの集団的な活動をもたらしているのではないか。だがそんな説明をしてみたところで、人が思い込む行為を阻止できないだろうし、思い込みが人が行為し行動する支えとなっていて、それなしでは何もできないのだから、何かを思い込む動作は、人が活動する上での前提条件となっているのだろう。そしてそれが間違いだと認めざるをえなくなるまでは、思い込む行為をやめないだろうし、そんな思い込みに基づいた信念を頑なに保持している限りは、行為や行動をやめさせることはできないだろうか。では果たして人は自らの思い込みの誤りに気づいて、それをやめるに至ることがあるのだろうか。誤りに気づかないからやめられないわけで、やめられない人たちがやめざるをえなくなった時、やめさせた相手に抱くのが憎悪の念かもしれず、いつまでたっても許せないから憎み続けるのだろうが、完全にやめさせられなくても、何か競争相手に卑劣な手段を講じられて敗れたりすることでも、憎悪の念が生じるのだろうし、そうなると復讐を誓い、復讐を果たすまでは執拗に敵に向かって攻撃を仕掛けるのかもしれないが、その場合は復讐という行為こそが、やらなければならない使命となるだろうし、そのきっかけとなった、卑劣な手段によって敗れたという出来事も、その人にとっての思い込みかもしれず、相手にとってはやって当然の行為であるなら、そういうことになるだろうが、そうなると競争している両者の間での認識の違いということになるだろうし、それが卑劣であるか否かは、それを用いて勝った側はやって当然と思い込み、負けた側は卑劣な行為だと思い込む場合以外だと、勝った側も卑劣な手段を使って勝ったと自覚しているなら、負けた側への負い目を感じるかもしれず、そこから生じるやましさを心理的な重荷として背負い込むことになるだろうか。それも思い込みの類いには違いないだろうが、そんな行為を介して生じる様々な思い込みの強弱や、そこから生じる喜怒哀楽の方向性などによって、社会の中で人と人の間の関係が生じるのだろうし、関係の中で行使される力の交錯が複雑に絡み合って、解決の難しい感情的な敵対関係も生じさせているのだろうか。
しかし人はそれを解決しようとしているのだろうか。その必要がないと感じたら、そのまま放って置かれるだろうし、いつまでもそんなことにこだわっていたら、他のことがおろそかになり、否定的な感情に凝り固まったままの、それ以外に可能性のない人となってしまうのではないか。そしてもしかしたらそんな型にはまった人の存在が、他の人たちを安心させるのかもしれず、そんな人たちを誘惑して手なずけ、攻撃すべき対象を設定して攻撃させている勢力があるとしたら、それはメディアやネット上に存在する煽動者たちを擁する政治勢力とみなしておけばいいのかもしれないが、そうした煽動者の役割を担うにしろ、それに敵対してそんな行為を批判し糾弾するにしろ、そこに敵対関係が生じている限りにおいて、それを多くの人たちが注目しているほど、それらの行為が社会に対して有効に作用を及ぼしていることになるのかもしれず、その作用を減じるには、敵対関係を解消するように働きかけるしかないのだろうが、そうされてはまずいから、煽動者たちはますます反感を煽るような言動を弄するわけで、それに煽られて憎悪の念を募らせるように仕向けているのに、一般の人たちがそれをそのまま真に受けてはまずいぐらいの認識を持っていれば、そういう行為がそれほど有効に作用することはないわけで、その程度の認識も抱けないような、否定的な感情に凝り固まった人たちが多ければ多いほど、煽動者たちの安心感をもたらすわけだが、そんな手を替え品を替えて煽動を継続させている現状があるとしても、もうそろそろそんな煽動にも飽きてきた頃なのではないか。
4月30日「前近代性」人が脱し切れていないのは、先入観や固定観念の支配からだろうか。逆にそのおかげで文化や伝統の継続を保っているようにも思われるし、それ自体は悪いことでもないのかもしれないが、その過去との連続性を維持しようとする意志が、新たな試みを抑圧してくるわけで、それは意志とも言えないような慣習の一種なのかもしれないが、抑圧する主な理由としては、すでに出来上がって安定して動作している社会の階層構造を壊されたくないということになるだろうか。何にしても世の中の変化を拒む風潮はあるにはあるが、そうだからといって変化しないわけでもないだろうし、様々な作用が及ぼされているから、その中で暮らしている人の気づかないところで移り変わっていくのだろう。人はその変化を捉えようとしているのではなく、変化に順応しようとするだろうし、意識も変化に合わせて変わっていくのではないか。あからさまに変化させようとする行為や行動には逆らうが、気づかない変化には順応しようとすることしかできないわけで、気づかないのだから、順応しようと意識しないで順応しているのではないか。自分たちが保持していると信じている文化や伝統を頑なに守ろうとする保守的な人々は、若者たちが勝手に流行らせている振る舞いには眉をひそめて目くじらをたてるが、自分たちの変化には気づかないのかもしれず、保持していると信じている文化も伝統に対する意識も、自分たちの都合に合わせて変えていることにも気づかない。彼らは何を変えているのだろうか。そんなことなど知りようがないし、知ったところでそれを信じないのではないか。文化も伝統も昔のままではないし、それは現代から見た過去でしかなく、自分たちの都合が反映したフィクションでしかないだろうか。そうであったとしてもそれが文化や伝統の本質であり、自分たちが許容できる範囲内で加工された価値観そのものなのではないか。
先入観や固定観念もそれと変わらないのかもしれず、都合の悪い部分は否定され、都合の良い部分だけ保持しようとするわけで、肯定できる部分以外の文化や伝統に言及することはない。その都合の悪い部分に言及されると腹が立つのであり、それを指摘されれば無視するか、無視できなければ強硬に否定するだろうか。そんな文化や伝統がどこにあるのだろうか。心の中で自分たちの都合に合わせて勝手にそう思っているだけなら、自分たちにとって都合の悪い文化や伝統などありえないのではないか。しかし文化や伝統とは具体的に何なのだろうか。彼らが肯定する価値観に基づいた慣習を文化や伝統とみなしているに過ぎないだろうか。例えば夫婦別姓に反対しているのだから、その価値観から肯定されるべきは、夫婦は同性であるべきだし、男女の社会の中での役割を伝統的な固定観念に基づいて別々に規定すべきだろうか。また学校教育において道徳の時間の中で、国を愛する心を養わせるべきだろうか。あるいは国民の主権を制限して天皇を頂点とした国づくりを進めるべきだろうか。そこまでは求めていないだろうが、それらが全て彼らの価値観の前近代性の表れとみなされるべきではなく、少なくとも近代以前の江戸時代においてはそうではなかったし、そこで暮らしていた庶民はそもそも天皇の存在など知らなかったわけで、国も各藩ごとに分裂していて、また明治時代に入ってきたキリスト教以前に愛はなかったのだから、国が愛の対象とはなりえなかっただろうし、さらに庶民に姓はなかったわけだから、姓を有する人もほんの一部に限られていたはずだ。明治維新以降に国家の中央集権化が進み、天皇が国家の主権者として規定され、全ての人が姓を持つように強制されてから、まだ百数十年しか経っていないわけだから、彼らが都合に合わせて選択的に保持しようとしている文化や伝統もそれほど古いわけではない。
4月29日「生活実感」誰もがいつかは死ぬ運命にあるわけで、死ぬ時期が人によって異なるのは当然だとしても、生きている時間の長さを競っているわけでもないし、短い一生でも長い一生でも、その長さは相対的なものでしかないと思えば、生きている間の中身が気になるところだが、それもどうということはなければ、では何のために生きているのかとなるわけだが、何のためでもなければ、人の生きている時間も中身も問題とはならなくなってしまうだろうか。たぶん問題がないわけではなく、いかに興味を抱かせる問題を生じさせるのが、その人にとっての問題であるのかもしれず、何かしら問題を設定したり捏造したりして、その問題を解き明かしたいのかもしれず、その問題がもたらす謎に挑んでいるうちが、その人の生きている時間であり中身だろうか。それが政治問題であったり経済問題であったりすればわかりやすいだろうが、それについての気に入らない世の中の動向や情勢に、反感を抱いたり疑問を感じたりするわけで、そうだとすればそんな世の中の動向や情勢に逆らう形で、その人の主張なり意見が形成されるだろうし、その主張なり意見なりが他の人にとっても興味深いものであれば、共感やら同調やらがもたらされ、それがきっかけとなって多数の人による主張や意見の集約が起これば、それが世論として社会の中で機能することになるだろうか。実際にはそんなふうに事が運ぶわけではなく、マスメディアによる世論誘導や世論操作が横行していて、話題作りのための宣伝キャンペーンばかりなのかもしれず、もちろんそれが一般の人々に興味を持たれるかどうかは、偶然の巡り合わせみたいなもので、宣伝の中の何が話題となるかは、それほど確実にはわからないのかもしれない。そして結果的に何が話題となるにしても、そのほとんどは一過性で、早晩飽きられて、それらが廃れるのと入れ替わりに、また新たな話題作りのための宣伝キャンペーンが開始されるだろうし、もしかしたら政治などもそんなものでしかないのかもしれず、現状ではもはや飽きられているのにもかかわらず、必死になって御用メディアを総動員して世論の引き留め工作の真っ只中なのだろうか。良心的な人はその程度だとは思いたくないだろうし、実際に政権側の誤った政策や圧政によって、多くの人たちが苦しめられ困っていると思いたいのかもしれないが、それもメディアからもたらされるそんな情報のどこまでが本当なのか、実際に苦しんでいるわけでもない人たちにとっては、半信半疑な面もあるのかもしれず、それさえも政治宣伝の類いなのではないかと疑念を持っている人も大勢いるのではないか。それでも良心的な人は世間の良識に訴えるしかないだろうし、政府関係者やメディア関係者の不公正な態度や行いを糾弾するしかないわけだが、それはそれで一定数の支持は得られているだろうし、その一定数の支持が政権交代に至るほどの支持に至るのにはまだ程遠く、その辺でそういう人たちの思惑通りには世論が盛り上がらない現状があるのかもしれない。そうだとしてもそれ以外の思いがけないところで、なんらかのきっかけとなるような機会が巡ってくるのかもしれないし、今回の九州中部での地震も、ほとんど誰も予想だにしなかった出来事なのだろうから、今後もいつ何が起こるのか予断を許さない状況だろうか。そういう意味では誰の思惑とも無関係に情勢が推移している面もあるだろうし、予想外の出来事をうまく利用した人や勢力が政局の主導権を握れるのだろうか。
もちろんそんなのは印象でしかなく、そうなった結果から語れば何とでも言えるわけだから、何の実質もないわけだが、すべてはその程度のことだと思えば、そんなふうに受け止めておけば済むようなことでしかないのかもしれず、そういう雰囲気に逆らって、ひどいことをやっているように報道されている人や勢力の倫理だとか道義的責任だとかを問題視するような意識がどこから生じてくるのかといえば、政権に批判的なメディアからしか生じてこないのかもしれず、そんなメディア上で語られる言い分を真に受けずに毎度のことだと聞き流していられるようなら、もうそれ以上は何の問題もなく、そこで一件落着とは行かないまでも、他が忙しいならそちらを優先するだろうし、関心もなくなってしまうのではないだろうか。それで構わないとは思いたくない人もいるだろうが、それも一種の現実を見ないでおくための処世術なのかもしれず、毎日やっていることを滞りなくできていれば、それで何とか生きているわけだから、それ以外に関心を持つ必要はないわけで、わざわざ他人の主張や意見に同調しなくても生活できているという実感が、それ以上を望むべくもない意識を構成してしまうのかもしれず、そういう精神状態の中で安住している人たちは、逆にそこから離れて何か行動を起こすことを恐れるのではないか。そうしたところで何の見返りも期待できなければ、今のままで構わないと思うのかもしれず、実際にそのままでどうにか生活している人が周囲にいくらでもいるのなら、そちらのほうを信じるだろうし、現状維持にリアリティを感じるのかもしれない。要するにそういう意識もその程度の次元にとどまるわけで、しかもそれで何とかなっている現実の中で生きているのだから、わざわざそれを変えようとは思わないだろう。そんな空気が社会に蔓延しているとしたら、そんな現状の中では変化の兆しなど感じられないだろうし、それでも変わるとしたら、やはり思いがけないきっかけからでしかないだろうか。
4月28日「憲法九条」人は常に世の中の規範や規則を意識しながら生きているわけではないが、行為し行動する時には自然とそれらに従っている可能性もあり、やってはいけないことをやろうとしたり、あるいはやるのを思いとどまった時、そこで規則や規範を意識するわけで、それを意識できるということは、規則や規範が自然と身についている証拠となるだろうか。また意識して規則や規範に従おうとした時にも、その自覚を得るに至るだろうが、それを意識するということは従うことに抵抗感があるからそうなるわけで、そういう場合は規則や規範に自由を奪われていることになるのではないか。そこで規則や規範に従うか否かの葛藤が生じていることは確かだろうし、その葛藤を生じさせているのが世の中の規則や規範であり、具体的には法律や一般常識や儀礼や倫理などがありそうだが、法律は破ると罰則規定があるから従うのだが、一般常識や儀礼や倫理ともなると、表向きは従うか否かの判断はその人に選択権があるわけだが、社会の同調圧力とその人の社会的な立場や境遇との兼ね合いから、状況によっては自分の意志に逆らってでも従わざるを得ない場合も出てくるのではないか。例えば親族の冠婚葬祭などは絶縁関係にない限りは出席せざるを得ないだろうし、町内会費なども隣近所との軋轢を避けるためにも支払わざるを得なくなるのではないか。そういうところは世間の一般常識や儀礼などの範囲内ではあるのだが、それが倫理ともなると、あえて一般常識や儀礼に逆らうことを強いられたり、場合によっては法律に逆らってまでも行為や行動に訴えかけなければならない場合も出てくるかもしれず、状況次第では命がけの行為や行動となってしまう場合もあるわけで、その辺が周囲の理解を得にくいところかもしれない。普通の民主的と言われる政治体制の国家では、倫理的な行為や行動が命がけになってしまうことは少ないかもしれないが、中には駅のホームから線路に落ちた人を救い出そうとして電車に轢かれて死んでしまった人もいるわけで、いつどんな場所で思いがけないところでとっさの判断を要する場合が出てくるのかわからないわけだから、倫理的な行為や行動を強いられるような機会に直面した時、自分がどうすればいいかの判断を事前に決めておくのは無理だろうし、仮に決めておいたとしても、それを実行できるかどうかは、その時になってみないことにはわからないのではないか。
そういう意味で倫理に従う行為や行動は、一般的な規則や規範に従うのとは少し違う面があり、世の中の同調圧力に逆らって作用する力があるのかもしれず、それが自由という概念と一致するのかどうかは定かでないが、方向性は似ていると思われ、そのような倫理観が広く世の中に普及することはありえないだろうが、世の大半の人たちが一般的な規則や規範に従いながら生きているのは事実だとしても、何かのきっかけでまれに発動してしまうのが倫理的な行為や行動なのかもしれない。それは一般的な規則や規範に従うのが疑わしく思われるような場合に顕著になるのかもしれず、世の同調圧力に疑念を感じる人が多くなればなるほど、発動する機会が増える可能性があるだろうし、特に法律や規則や規範に逆らってもいないのに、特定の行為や行動の自粛を迫られるような空気が世の中に蔓延すると、それに対する反発となって現れるだろうし、それもほとんどの場合は、大半の人たちは空気を読んで自粛しているのに、ごく少数の人たちが自粛するのはおかしいのではないかと反発するわけで、その程度ならば世の中の大勢には影響がないのかもしれないが、同調圧力や自粛ムードが過剰に作用すると、どこかで均衡が破られ、暴動のような事態に発展することがあるのだろうか。少なくとも日本の現状ではまだそこまでは進展していないことは確かだし、昨年の安保法制に対する反発も、かなり大規模な反対運動を招いたが、暴動にまでは発展しなかったわけで、たぶんその辺は反対運動に参加した人たちに、一線を越えて暴力沙汰になってしまうと、体制側の思う壺だという倫理観が働いた結果だったと判断すればいいだろうか。あるいは反対運動をするにも法律を守って節度を保ちながら行動すべきという規範意識が作用した結果だろうか。どちらにしてもそこで世の中の同調圧力や自粛ムードに逆らう機運が生まれていたことは確実で、それをもたらしたのは、体制側が解釈改憲というこれまで守ってきたことの一線を超えた行為に及んだからだろうし、無理なことをやって強硬手段に出れば、それ相応の反発を招くという良い例だったのではないか。その時点ではパンドラの箱を開けたと思われたかもしれないが、その後の情勢を見れば、その程度で済んでいる現状もあるわけだから、まだまだ世の中に柔軟性があって、許容できる限度を超えたわけではないとも言えるのかもしれず、この先も何か決定的な破綻に至らずに済んでしまうだろうか。そういう意味では憲法九条が人々の深層心理に及ぼしている力が未だに大きく、それに逆らおうとする勢力のやり方もずさんでお粗末と言わざるをえないだろうか。たぶんそれが国家の憲法でありながら、国家主義に逆らう力を宿した矛盾や不条理を含んでいて、その矛盾や不条理をいつまで許容し続けられるのかについて、人々の倫理観が試されているのではないか。もしかしたら世の中は合理性や功利性だけは成り立たないのかもしれない。
4月27日「背景」現実の世の中で実感があるのは、現実に起こっている現象ではなく、勝手な思い込みの方がリアリティがあり、思い込みに基づいて生きている方が、何か主体的に生きているような気になれるのではないか。何をやっても思い通りにならなければ、ストレスがたまってどうしようもないだろうし、些細なことでも思い通りになっていることを実感できれば、誰でも上手くいくような些細な行為を積み重ねれば、何か思い通りに生きているような気になれるだろうか。あるいは何かをやって上手くいった結果だけ意識に留めておけば、上手くいかなかったことは早く忘れようとすれば、あまりストレスを感じないで生きて行けるだろうか。たぶんそれだけでは不十分で、意識できない自らの行為や行動も考慮に入れなければならず、もちろん意識できないのだから制御できるわけでもないのだろうが、少なくとも自分で意識しているよりも多くのことをやっていることは自覚できるのではないか。意識していなくても考えていることもあるだろうし、意識せずに何かやった後から、自分のやったことを改めて認識することもあるわけで、そういう時は自動車の自動運転のような動作になっているのかもしれない。そんなわけで自分の考えていることややっていることのすべてを自分で把握できるわけもなく、意識が把握できるのは部分的な範囲内にとどまるのではないか。それにもかかわらず、法律的には自分のやっていることの全責任を自分で負う必要が出てくるだろうし、過失や心神喪失などの場合を除けば、建前としては自意識が自分を制御していることになっているのではないか。もちろん制御できない部分があるから、思いや目的とは裏腹なことをやってしまうわけで、思いや考えと行為や行動が矛盾して、首尾一貫性を保てないのだろうが、たぶんそれは気まぐれなどの偶然からそうなってしまうと考えておけばいいのかもしれないが、それ以外にも周りの環境から様々な力を及ぼされているだろうから、それらに影響されて思い通りに振る舞えないこともあるわけだ。そしてその程度のことだと思っていればそれで済んでしまうのだろうが、それで済んでしまえば世話がないのだろうが、それでは済まなくなってくると、何か思い通りにいかない原因や理由を詮索してしまうわけで、そこから突き止めたと思った原因や理由を信じれば、それが本当の原因や理由なのか、あるいは思い込みすぎないのかは、たとえ意識の中での思考結果と、実在する証拠とが一致したとしても、それだけではないだろうし、その原因や理由が生じる原因や理由もあるかもしれないし、さらにその原因や理由も想像できるだろうし、原因や理由を求めすぎると際限がなくなってしまうのかもしれず、そうなってしまうと自意識を納得させるための方便にしかならないのではないか。
物事が動作するすべての因果関係を知ることはできないと思っておいた方が無難であることは確かで、そこに謎が残っていれば、その謎を解き明かしたいと思うのが人情かもしれないが、そんな興味を繋ぎとめておくのが謎でもあるわけで、知りえないことを知ろうとする欲望が、人を行為や行動に駆り立てているのだろうし、またその欲望は自意識が意識している自分の全てを把握できないことからも生じているのかもしれないが、知りたいという欲望が自己の外部へと向かえば、自分以外の事物を知ろうとする動作になるし、自己自身へと向かえば自分自身を知ろうとする動作にもなるわけだが、何を知ろうとしているとしても、それが謎である限りは、解き明かそうとすればするほど、それだけ対象についての知識が増えるだろうし、知識が増えた分わかったような気にもなれるだろうし、対象を少しは理解できたようにも思われるのではないか。そしてその身につけたように思われる知識を基にして文章を構成すれば、何か語っている気になれるだろうか。文章の中で何を語っていようと、それが記された文章である限りにおいて、それを読んで理解した内容が、文章を記すにあたって用いた知識と一致する部分もあるだろうし、また一致しない部分もあるのではないか。一致しない部分については、用いた知識とは別に、文章を書き記すにあたって生じた内容だろうし、また読解した者の思考と文章の内容が結びついて生じた理解でもあるだろうし、そういうところで、文章を書き記した者とその文章を読解した者との間で、文章の理解にずれが生じているのだろうが、なぜずれが生じるかといえば、両者の生きている環境が異なっていて、時代も地域も違えば、それだけ異なった理解をもたらすかもしれず、同じ文章でも接している人によって捉え方が異なるのは当然のことかもしれないが、それが広く世に知れ渡った書物なら、それに対する何らかの定番となるような解釈が生まれることもあるだろうが、その解釈が正しいのかといえば、広く支持されているような解釈なら、正しいといえば正しいのかもしれないが、他の見方や視点から異なる解釈をしても構わないだろうし、何が正しい解釈だと思われようと、必ずしもそれに従うこともないのではないか。広く知れ渡り多くの人から支持されるような解釈があるとすれば、そのような解釈をもたらす時代背景や世の中の情勢が生じている可能性もあるだろうし、そのような前提条件にとらわれた思考を共有する人が大勢いるのかもしれず、例えばマルクスの書物やマルクス主義に対する解釈も、それが受け入れられた時代や地域によって変わってくるのも当然の成り行きなのかもしれない。
4月26日「物言い」その起源を考えれば、優生学や人種思想などのヒューマニズムや自国民優先の国民国家から生じた民族主義が、ヘイトをもたらしていることは明らかだが、ヘイトスピーチをやっている人たちは、自分たちがそれらの西洋思想に染まっていることに気づかないばかりか、同じヒューマニズム的な概念でも、博愛主義や人道主義を忌み嫌い、それらの価値観からヘイトを非難する人たちと敵対しているのだろうが、博愛主義や人道主義は国家や民族などの分け隔てなく人助けをしようとする思想なのだろうから、国家主義や民族主義などの自国民や自民族を優先する思想を奉じている人々にとっては、拒否すべき思想なのかもしれない。ヘイトも自国民や自民族を優先する思想と結びつき、建前としては排外主義を掲げながら、賛同する人々を集めて運動を組織しているのだろうし、助ける人を国家を信奉する自国民に限定するという意味で国民国家との親和性が高いのだろうか。要するにヘイトな人たちは国家を信奉する自国民とその同盟者を助けようとしていて、博愛主義や人道主義を奉じている人たちは、国家や民族に関係なく困っている人たちを助けようとしているのだろうから、両者ともに人助けという面ではヒューマニズムのカテゴリーに入るわけだが、一方でヘイトな人たちは国家に敵対しているとみなされた人たちを攻撃する特性があり、そういう面では反博愛主義であり反人道主義であると言えるだろうか。自国民を守るために敵と戦うのが人の道と見なせば、建前としては人道主義と言えるのかもしれないが、自国民でも国家に逆らう人たちは敵とみなされて攻撃の対象となるわけで、実質的にはそうでもないとなるのかもしれないが、国家に逆らうことと政府に逆らうことが混同されている可能性もあり、反政府活動をしている人たちは、政府が売国奴になっているから、それを退けなければならないという使命感に燃えている場合もあるわけで、彼らからすれば売国奴の政府に忠誠を捧げるヘイトな人たちこそ国家の敵であり、売国奴の政府もろとも倒さなければならない対象となっているのではないか。そういう論理からすると反政府的な国家主義というのも成り立ち、親政府的な国家主義者と反政府的な国家主義者との対立関係があるのだろうか。その実態がどうなっていて、それに関係する人たちがどんなふうに状況を捉えているにしろ、それらの関係を言葉で説明しようとすると、当事者たちの意図や思惑とは無関係な図式としても説明可能なのかもしれず、こんなふうに語るのが正しいか否かは、それを受け止める人によって様々に判断されるところかもしれないが、当事者たちにはリアリティを伴う現実認識にしても、それをもたらしている各種の思想から考えてみると、あまり根拠の定かでない妄想や幻想から、それらのリアリティが生じているようにも思われてくるわけだ。
ヒューマニズムを肯定や否定を交えないで中立的に訳せば、それは人間主義と言えるのだろうが、人間という概念自体が何かどうとでも言えるような響きがあるようにも思われ、人間を敵と味方に分けて、味方を守って敵を攻撃するというやり方も、敵とみなして攻撃している相手が本当に敵なのかどうかは、実際に戦ってみないことはわからないだろうし、ヘイトな人たちは実際に戦っているふりをしているとも見えてしまうわけで、彼らの意識の中では本当に戦っているのかもしれないが、その戦いや攻撃すらも、言葉による暴力の範囲内で行われているわけで、ただ暴言を吐いているだけとしか見えないし、敵とみなした相手に向かって暴言を吐くことが攻撃であり戦いであるとすると、そういう攻撃や戦いと実際に武器を用いた攻撃や戦いとは異なるだろうし、プロスポーツなどの攻撃や戦いとも異なるわけだが、それが言葉を用いているだけに、その言葉の意味がわからないと攻撃だとは気づかないだろうし、攻撃だと気づくようなら、敵と味方で同じ言語を共有していることになり、言語を共有する者同士の戦いであるならば、戦いではなく、穏便な話し合いで妥協を図るという手もあるわけで、きれいごとを言うなら、敵とのコミュニケーションによって不毛な戦いを回避する手立てを模索しなければならないだろうか。ある面ではそうかもしれないが、別の面では言葉が通じる相手ではないということになるだろうし、話し合いなどありえず言葉が通じる相手ではないからこそ、暴言を浴びせかけているという逆説が成り立ち、言葉が通じない相手に向かって攻撃的な言葉を投げかけて、話し合いの言葉ではなく暴言なら相手も理解するはずだという信念があるのかもしれず、その辺で身勝手な思い込みと妄想にとらわれているようにも感じられるわけだが、それがパフォーマンスとしての演技だとしたら、大衆向けの政治宣伝の類いとみなしておけば事足りるだろうか。日本は今外国人勢力や反日勢力の攻撃にさらされ未曾有の危機に直面していて、我々はそれらの売国奴たちを日本から追い出すために立ち上がったわけで、日本を愛するみなさんは我々とともに戦い、売国奴たちに勝って真の平和を取り戻そう、といった主張を訴えかけているのかもしれず、そのためのヘイトスピーチだとみなせば納得がいくだろうか。そうだとすれば国を守ることの本質が、それらのヘイト行為に含まれているのかもしれず、それらを頭から否定するわけにはいかなくなるだろうか。要するにそれは具体的な行為と抽象的な物言いの結合であって、ヘイトなどの具体的な行為が現実であるが、それと結びついている国を守るとかいう抽象的な物言いが、フィクションだと捉えれば事足りるのではないか。
4月25日「改革」人と人との間で対話が成り立つ条件として、対等な関係でしかも共通の利害関係の中にある時は、共闘する上で対話を必要とする成り行きになりやすいだろうし、何よりも相手に対して寛容であることが対話が成り立つ上では必須の条件だろうか。それ以外にも様々な条件がありそうだが、敵対関係を伴う戦略的な討論などは、対話と言っても相手をやり込めようとする傾向にあるから、不快な状況を招きやすいのではないか。人と人とのコミュニケーションを重視したい人は、コミュニケーションを成り立たせる前提条件の範囲内でコミュニケーションを積極的に活用しているわけだが、結果的にそこで対話を成立させる前提条件が働いていると言えるだけで、まずは対話を試みなければそれがわからないわけで、自らの主張を社会に広めようとする人なら、対話を通して広めようとする戦略をとるのも一つの手ではあるだろうし、様々な人達と会って対話する機会を設けて、そこで対話して交流を深めようとするのが、市民運動などに見られる典型的な活動となるだろうか。そういう活動の中から世論が形成されるのが、健全な社会民主的な世の中のあり方なのかもしれないが、そういうやり方が、経済的な利益を優先する企業活動や国家統治を優先する行政の活動などと、拮抗するような水準までは、なかなかいかないのが社会の現状なのかもしれず、市民運動家の議員も議会の中では少数だろうし、市民運動から生まれた世論を重視する政党も、議会の多数派を形成できずに、なかなか政権を取れない状況かもしれない。もちろん全く政治的に通用していないわけではなく、市民活動家の自治体の首長も若干はいるし、原発事故が起こった時の首相はかつては市民活動家だったのだから、それなりに世の中に認知されているわけだ。世襲議員や官庁や企業や宗教教団などの特定の利権団体の後押しを受けた議員よりも、市民運動の後押しを受けた議員が増えれば、それだけ民主的な政治状況となるだろうし、そういう人たちが議会の多数派を形成して政権を取れば、社会民主的な政治体制となるわけだが、そういう理想的な政治状況を実現するには、まだまだ人々の理解が得られにくい風潮があるだろうし、多くの人たちが市民運動に無関心か、場合によってはそれらを左翼とみなして敵視している人たちも大勢いるだろうし、謀略によって反発を煽り立てている人たちまでいるわけだから、それらの妨害工作によって市民運動が盛り上がらないようにしているとも言えなくもないが、それよりも政財官+マスメディアの利権複合体の政治支配体制がそれを許さないと言った方が適切だろうか。
それらを利権複合体としてひとくくりにすれば、そんなふうにも思われるわけだが、はっきりとした境界があるわけでもなく、何やらひとかたまりに見立てれば、批判しやすいということだけで、必ずしも一枚岩でまとまっているわけでもなく、もちろん市民運動にしてもマスメディアを利用している面もあるだろうし、それらをはっきりと敵と見立てるのはまずいようにも思われ、行政だろう企業だろうと宗教教団だろうと、それらの関係者と対話する機会があれば粘り強く対話を重ねて、合意できる部分は合意した方がいいだろうし、味方に引き込めるのならその方がいいわけで、反対運動するのは仕方がないとしても、合意や連携できる面を探りつつ、業種や分野によってはそれらの団体と交流を深めた方がいいだろうし、主張として譲れない部分があるにしても、それ以外で妥協できる部分はなるべく妥協した方がいいだろうし、場合によっては経済的な利益を追求する部分もあってもいいのではないか。そうやって世の中の各方面に浸透を図っていけば、世論を味方につけやすくなるかもしれず、反発やら妨害工作やらも受けにくくなっていき、コミュニケーションを成り立たせる前提条件も緩和され、昔は敵対していた人たちとも容易に対話できるようになれば、それだけ合意や連携への可能性も出てくるだろうし、そういう努力が実れば、自分たちで世の中の多数派を形成できるかもしれないし、そうやって多数派の世論を背景として議会の多数派を占めるまでになれば、自分たちが理想とする社会民主的な政治体制を実現できるのではないか。もちろん現状ではありえないことだろうし、それ以前に議会制民主主義を基盤とする国家形態や政治制度が、果たして今のままでいいのかという問題もあり、そういう民主的な国民国家は長く見積もっても、まだ二百年あまりしか続いていないのだから、この先も永続する可能性があるかどうかは、たぶんはっきりしないところだろうし、もしかしたらこの先また新たな体制が出現する可能性もあるわけで、そんなまだありもしない政治体制を予想したところで意味のないことかもしれないが、現状で問題となっている世の中の不具合を改善するように働きかけることが、その新たな政治体制の構築につながる可能性もあるわけで、当然市民運動の方向性も、世の中の不具合や不都合を改善するように働きかける運動とならざるをえないのではないか。
4月24日「弁解」何か考え行為した結果として、思いとは裏腹の結果を招き、あるいは思い通りになったと思い込めるかもしれないが、それはどちらも思い込みに過ぎないだろうか。気に入らなければそう思わなければいいわけで、ただ行動し行為すればいいのかもしれない。結果がどうなろうと、またその結果に対応すればいいのかもしれず、対応しきれなければ行為や行動の首尾一貫性が崩れるだけで、またその破綻した結果に対応しようとすればいいわけか。そしてその対応こそが行為や行動そのものなのかもしれず、そんなふうにやっているうちに、いつしか成功を目指したり失敗を恐れたりする思いとは無関係になっているのだろうか。そこで何か考えているにしても、それはその場の状況に対応する上で考えていることであり、思考だけが状況とは別にあるわけではなく、考える対象が状況からもたらされていて、それについて考えざるを得ない状況に直面しているわけだ。要するに人は思考することを強いられた状況の中で思考しているのであり、やっていることがうまくいってほしいと思うのも、その行為からもたらされているのだろうし、その行為は行為するように強いている状況からもたらされているわけだ。そんなふうに人の思考や行為を状況から説明しようとすれば、思考や行為の自発性がなくなってしまい、すべてはその人が絡め取られている状況から生じていて、状況が思考や行為を促していることになるのかもしれないが、それでも人は自発的に思考し行為しようとしているわけで、そう思っている分には、自らの意志で考え、何かをやっていると信じられるだろうか。たぶんこれもそう信じたいのなら信じていればいいことでしかなく、信じられなければ、状況が思考し行為するように強いていると思っておけばいいのではないか。その時の気分次第や都合でそう思ったり思わなかったりするのかもしれないが、たぶんそんな思いと実際に考えたりやっていることは、まったく無関係ではないにしても、少なくとも思う思わないとは別に、考えたりやっていることなのではないか。それを考えざるをえないから考えているのであり、やらざるをえないからやっていると思うこともできるわけで、そこにもっともらしい理由や根拠や原因を付け加えようとすると、何やらそれを語ることがフィクションのように思われてくるわけで、そういう意味でフィクションとは、自らが考えていることややっていることの理由や根拠や原因をもっともらしく語る行為なのではないか。
もちろんそれもそう語らざるを得ない状況の中で語っているのかもしれず、自己主張とはそういうことであり、自らの主張の理由や根拠や原因を語るのが自己主張なのであり、人は社会の中で自己主張しなければならない状況に追い込まれることもありそうだ。そんなふうに自らの考えていることややっていることを正当化しなければならないのは、特に文章を書く上ではよくありがちなことかもしれず、論文の類いでは、なぜ書かなければならないのか、まずはその理由や根拠や原因を事細かに説明しなければならないだろう。自分のやっていることを説明することが、やっていることの正当化になるわけで、中には終始そればかり語るような文章に出くわすこともあるだろうが、それ以外に何か語ることがあるだろうか。語る対象が自己正当化以外であればいいわけで、他者の行動について説明したり、自然現象について解説したりすれば、語っている自己から離れた内容を語れるだろうか。また自分がそう思うのではなく、それに対する自己の判断や評価や認識などを交えず、ただ他人が何か自分とは違うことを思っているらしいことを説明すれば、何か自己正当化とは別のことを語っていることになるだろうか。それでも詳細に語り過ぎれば、自ずから他人の思いを借りて自己主張しているような雰囲気がにじみ出てくるかもしれず、特に他人の主張を強調するような内容となると、その他人の主張に語っている自分が同調するか否定するかどちらかにみなされてしまうだろうし、その同調するか否定するかの判断が、自分の主張そのものになってしまうだろうか。そういう意味でなかなか自己の判断を保留したまま他人の主張を取り上げるのは難しいことかもしれず、その辺をうまく処理できないと、何かと自分の意見を挟んでしまう癖から抜けきれずに、他人の主張に惑わされたままとなってしまうかもしれないが、結局それも他人の主張に呼応して語らされてしまっているわけで、元から自分がそんな主張を持っていたわけでもないのに、それを否定するにしろ肯定するにしろ、他人の主張が自己に感染して、その影響を受けて自分がそんな主張をしてしまっていることに気づかないことが多いのかもしれず、そんな主張を強いられる状況の中で主張してしまっているとしたら、要するにそれは周囲の同調圧力に屈していることになるのではないか。そして屈していることに気づかない人は、何かと弁解がましく自己正当化を繰り返しているような気がしてならない。
4月23日「地続き」人は実際に体験していることのすべてを意識しているわけではなく、意識しないことまで体験しているのだろうが、意識していなくても学習効果を発揮しているのかもしれず、後になって思わぬところでその学習効果に助けられたりするだろうか。具体的には普通に世の中で暮らしていくうちに、その一般常識や慣習が自然に身についたりするのかもしれないが、いったん身についた生活習慣の類いを意識して理解するのは容易なことではないのかもしれず、自分が普段から何を考えどう行動しているのかなんて、改めて検証してみるまでもなく、大して重要なことでもないだろうが、他の誰が何をどう考えどう行動しているのかを想像してみたところで、やはりそれも大して重要なことだとも思えないわけで、では何が重要なのかといえば、人それぞれでその置かれた状況や境遇によって異なるのはもちろんのこと、何に直面していて、その直面している事態をどうしようとしているのかによって、その人がやらなければならない重要なことも異なってくるだろうか。また別に重要だとみなしていなくても、普段から普通にやっていることがあるわけで、やっていることがそれだけであるならば、別に何が重要でなくてもいいわけで、そこでどのような事態に直面しているのかといえば、取り立てて何が重要だとも思えない事態に直面しているのかもしれず、もしかしたらやらなければならない重要なことに気づいていない場合もあるかもしれないが、それでも構わないのだろうし、それに気づかずに後で取り返しのつかない事態を招いてしまったら、その時は悔やむしかないだろうし、その時になっても気づかなければ世話がないわけだが、気づかなくても気づかないなりに生きて行ければ、別に気づかなくても済んでしまうだろうし、気づかなかったおかげでひどい目にあっても、その時はその時でしかないのだろう。人のやっていることが因果応報であれば世話がないが、必ずしもそうとは言えないような結果を招いてしまって、困った事態に直面し、焦って勘違いな行動も誘発して、さらに深刻さを増してしまうのも、よくありがちではないものの、ありえないわけでもないのかもしれず、そうなったとしても何とかしようとするわけで、何とかしようとした結果がどうなるにしろ、その結果から何らかの教訓を得られたら幸いなのだろうか。とりあえず全ては途中経過であり、そこにもたらされている状況の中で何か考えているだろうし、何かしら行為し行動しているのだろう。それが公的な立場にある人たちの公的な行為や行動や言動なら、メディア上でそれが良いだの悪いだのと評価されることもあるだろうし、気に入らなかったりおかしいと思われたら批判されるだろうし、その評価に異を唱えたり、批判に反論することもあるのだろうが、そうしたやり取りですら大して重要なことでもないと思われるなら、そういうことに無関心である証拠かもしれないが、たぶん無関心であっても構わないのだろうし、積極的に無関心であるべきなのかもしれないが、無関心であってはいけない理由が果たして見つかるだろうか。見つかりづらい世の中なのかもしれず、関心を持つようにメディア上でなされる問題提起を真に受けない理由も見つかりづらいのかもしれないが、社会や政治に対する問題に関心を持ったり持たなかったりする理由というのが、あってもなくても構わないような状況の中で生きているのかもしれず、そのどちらでも構わないと思われるところが、世の中が安定している証拠で、それなりに平和な世の中で暮らしていると思い込んでいる限りは、メディア的な政治や社会の問題に無関心でいられるのだろうか。
それは別に悪いことではないのかもしれないが、世の中が安定しているように思えるということは、大半の人が世の中の一般常識や慣習を受け入れ、それに従いながら暮らしている証拠かもしれず、保守的な傾向が強い社会になっているということだろうか。そうだとすれば全国紙や在京のテレビ局などから影響を受けている人が多数派を占めるのだろうし、それらのマスメディアが伝えないような政府批判には関心がなくて当然かもしれないが、そのくらいがちょうどいいのかもしれないし、無理に激しい抗議活動や反対運動に関心を持つ必要はなく、それらに参加する必要もないのではないか。少なくとも自分が生活している実感から判断すればいいだけでしかなく、例えば生活が苦しければ、果たしてそれが政治的な手段で解決できるのか否かを考えてみればいいことで、たぶん考えてみることから自ずから政治的な問題に関心を持つようになるだろうし、関心を持てなければ、政治的には解決不可能だと思うか、あるいはそもそも政治とは無関係な問題か、そのどちらかかもしれないし、またそのどちらでもないということかもしれないし、そんなふうにして自分が直面している状況と、メディアが伝えている政治的あるいは経済的な状況が、どの程度つながりのあることなのか、その辺から考えればいいことでしかないのではないか。大して関心を持てなければ、それほどつながりのあることでもないだろうし、そうであるなら政治的に無関心であっても構わないわけで、また少しは自分の状況とメディアが伝える状況と間につながりがあるように思えるなら、その思える程度に応じて関心を持てばいいことだろうし、何も政治的な宣伝文句や煽動文句に踊らされる必要はないわけで、自分の暮らしと地続きの水準で考えていれば、それほど感情的に反発することもないのではないか。
4月22日「慣習」世の中の同調圧力が、人々に社会の常識や慣習にとらわれた行為をするように促し、例えば国会議員や大臣などが靖国神社に参拝したりすることで、それが人々が見習うべき行為として、デモンストレーションのような効果を発揮するのかもしれないが、たぶんそれは個々の議員や大臣などの意志から生じていることではなく、彼らの生息環境の中では当たり前の慣習になっていて、そのような環境の中で生きてきた人たちにとっては、選択の余地などなく、参拝して当然のような空気があって、それに逆らうことの方がおかしく感じられるような心理状態となっているのではないか。そういう人たちに向かっていくら批判しても無駄なのだろうし、敵対心や憎悪の感情がもたらされるだけで、一層対立が深まるだけだろうか。やって当然の慣習を世の中に広めるのは良いことであって、近隣諸国が反発するのは内政干渉ぐらいにしか思っていないだろうし、そういう外交圧力に逆らって日本の伝統と文化を守ることが、自分たちの使命だとも思っているのではないか。そんな人たちに向かって何も批判しなければ、ますます日本の伝統と文化を守るように圧力をかけてきて、ついには社会全体が彼らの推進する慣習に支配されてしまうだろうか。そもそも誰も彼らに向かって批判しないわけがなく、批判があるから彼らもそれに反発して、頑なに靖国神社に参拝しようとするわけで、彼らは彼らでそうした圧力に逆らって、彼らが信じている日本の伝統と文化を守ろうとしているのではないか。だからこれまで通りに彼らが靖国神社に参拝する度に、それを批判したい人たちは批判するしかなく、韓国や中国もこれまで通りに反発して批判するしかないだろうし、何かのきっかけでそういう慣習が廃れるか、あるいは批判する人たちが弾圧されていなくなるまでは、延々と双方の対立状態が続いていくだけなのかもしれず、そんな行為が日本の伝統と文化として定着するか否かは、それを広めようとする人たちと食い止めようとする人たちのせめぎ合いの結果によるのだろうか。それは靖国神社が創建されて以来、百数十年にわたって繰り返されてきたことで、今もその過程が続いているわけで、参拝を続けている議員が選挙で落選しても、当選した保守派の議員の中から新たな参拝者が現れるだろうし、そうやって慣習を維持継続させるような作用が働き続けるのではないか。
現状で続いている社会的な慣習は強制的な手段以外ではやめさせることができないのかもしれず、しかも法制化するなどの強制的な手段は、それをやろうとする勢力が議会で多数派を占めていないとならないだろうし、またそれは明治維新や敗戦時などような、社会に激変をもたらす出来事に伴う形でしか、実行することは難しいのではないか。また神社に参拝することが取り立てて社会に害をもたらしているわけではないだろうし、個人の思想信条の自由を制限するわけにはいかないから、法律で参拝を禁止するようなやり方は馴染まないわけで、結局は近隣諸国から批判されるような行為はなるべくしないような人たちが議員や大臣になるしかなく、それが社会的な慣習として定着すれば、事態が丸く収まるのかもしれないが、現状はそうはなっていないわけで、その逆の傾向の方が顕著なのかもしれないし、なかなか人々の理性的な思惑と世の中の慣習とは一致しない。たぶん理性は慣習に逆らうことから生じ、不合理な慣習を改めなければならないと思うことが理性そのものなのかもしれず、だから理性的な意識は慣習を守ろうとする意志と対立するわけで、理性的な主張をする人は慣習を守ろうとする人々から忌み嫌われるわけだが、理性は理性で絶えず理性的に考え続けることによってしか、理性的には振る舞えないわけで、常に理性的に振舞おうとしている人でも、一度慣習から利益を得られる立場になれば、その利益を得ている慣習を守ろうとするわけで、そうなればたちまち慣習を守る保守派になってしまうのかもしれず、得られる利益というのが、不利益と対になっている場合が多いのかもしれず、利益を得ている人や勢力があれば、一方にそのことで不利益を被っている人た勢力もいるとしたら、理性的にはそのような慣習は改めなければならないとなるわけで、そうなるとその慣習から利益を得ている人や勢力と対立することになるわけだ。そして分け隔てのない万人の利益を追求するのが合理的なやり方とみなされるわけだが、その合理的なやり方というのがまやかしなのかもしれず、誰かが利益を得れば他の誰かが不利益を被るというゼロサム的な関係がすべてのやり方に働いているとすれば、合理的なやり方がないということになってしまうわけだ。そのことが理性を働かせて合理性を追求する人たちに困難をもたらしているのかもしれないが、資本主義市場経済の中で果たして誰もが利益をもたらす合理的なやり方が見つかるだろうか。少なくとも国家単位での利益の追求は他の国の不利益をもたらしているようだ。
4月21日「通常の行為」未開社会ではそれが普通かもしれないが、現代の文明社会でも人は部族単位で行動することがあるだろうか。たぶん現代的な部族とは、有名大学の同窓会や社交クラブなどから、秘密結社のスカルアンドボーンズとかフリーメイスンとか、いわゆるエリート集団のことを言うのかもしれず、何かちょっとやそっとでは入会できないような仕組みになっていて、そういう会に入ると何からしら便宜を図ってもらえるような立場になれるのかもしれず、そこでコネクションを築けば、何やら確実に利益が出るような情報にありつけるのだろうか。金融的な株や為替や債券などへの投資でも、何のコネもない素人が手を出したら、だいたいがカモにされるか詐欺られるかして、大損するのがオチなのかもしれないが、そうやってカモられたり詐欺られたりする人が多いほど、そのむしり取られる金額が大きいほど、コネクション経由で投資する人や企業の儲けも大きくなるとしたら、必ずしも投資による資産の運用が、労働によって収益を得るよりは有利であるとは言えないのかもしれず、もしかしたら投資によっても労働によっても、大金を稼いでいるのはほんの一握りの富裕層でしかなく、どちらにしろそれ相応のコネクションがないと、まとまった額の金額を得ることは不可能なのかもしれない。そうだとすれば、現代社会も未開社会と同じように部族社会であり、有力な部族に属している人たちが、より多くの利益を得られるような仕組みになっていて、それに属していないか、あるいは中小企業などの弱小部族に属しているような人たちは、宝くじにでも当たらない限りは、なかなか大金を手にすることはできないのではないか。別に危険を冒して大金を得ようとするよりは、普通に生活できる程度の金額を得られた方が、一般の人たちにとっては無難なところかもしれないが、一方で部族社会なのだから、国会議員の世襲制や元官僚が議員になったり、各官庁の関連法人などに天下りして、大金を稼ぐ成り行きになるのも、それが部族社会特有のコネクションだと思えば、そういうやり方が民主的ではないにしても、納得するしかないだろうか。納得できなければ、そういう風潮に逆らうしかないわけだが、もしかしたら逆らうどころではなく、そんなことを自覚している人すら少数派なのかもしれず、しかも利益にありつけるという淡い期待とともに、積極的に政財官+マスメディアの有力部族を支持している人の方が多数派なのではないか。
それが良いとか悪いとかいうことではなく、そんなふうに現状を解釈するのもあまり正確ではないのかもしれないが、現代の社会が過去の様々な社会と比べて、取り立てて変わっているわけでもなく、過去からそれほど隔たっているわけでもなく、特に民主主義という価値観を、人々は過去に前例がないほど高く評価しているわけでもないのかもしれず、それほどありがたがってもいないのではないか。法律で規定された空気のようなものだと思えば、取り立てて守ろうとはしないだろうし、それよりも社会の慣習を守ることの方が優先されていて、慣習から逸脱した行為や言動を弄した人を叩いたり、政権を擁護するにしても批判するにしても、慣習に基づいた行為や言動を擁護し、慣習から外れた行為や言動をやれ不謹慎だ何だのと糾弾するわけで、別に彼らは民主主義の価値観に基づいて、何か政治家の良し悪しを判断しているとは思えないのだが、どういうことを主張したり行動したりするのが、民主主義の価値観に基づいているのか、その辺がよくわかっていないのではないか。というかそんな主張や行動があるとも思えないわけで、少なくとも政治家のやることは、世の中の一般常識に照らして判断するしかなく、その一般常識というのが、どの程度民主主義的な価値観を含んでいるか、ということになるわけだが、もしかしたらそれもよくわからないのではないか。果たしで世間の一般常識の何が、民主主義的な価値観を反映したものになっているのだろうか。例えば今回の熊本で起こった地震について、大変タイミングのいい地震だ、と述べた政治家が陳謝して発言を撤回したが、それは被災者の感情を逆なでするような発言で、世間の一般常識に照らしてみれば不謹慎となるわけだが、それと民主主義的な価値観とは全く無関係ではないかもしれないが、それよりは社会の慣習から逸脱した言動と言った方が適切ではあるわけで、官房長官が熊本地震は大震災級という状況ではないと言えば、これも被災者の感情を逆なでするような不謹慎な発言と非難することもできるだろうし、また近くにある稼働中の原発を止めないのは正気の沙汰でないと批判している人も大勢いるわけだが、止めないことにより今後どうなるかわからないが、今のところは何とかなっている状況なのだろうし、それもそういう政治判断をしているだけで、さらに大規模な地震が起こったり火山が噴火して、取り返しのつかない事態ともなれば、どうしてあの時原発を止めなかったんだ!と非難が集中することは目に見えているが、今のところは何とかなっているわけで、世論を無視しているから、民主主義の価値観に反していると言えなくもないが、政治判断の範囲内なのだろうし、地震に便乗して政権側が何かやっているとしても、それを一般の人々がどう評価するかということでしかなく、このままそれなりに事態が沈静化してしまえば、人々もそんなことは忘れてしまうのではないか。
4月20日「抵抗の勧め」行政による市民生活への介入は、保育施設を増やしてほしいなどの、市民側からの要望に応える形でなされ、それによって市民側の不便が改善されるようなら、一定の世間的な評価を得られるだろうが、そうした要望に応えるのも、市民一人一人の不便を改善しようとするまでには至らないだろうし、どこまで介入するかについての明確な基準があるわけではないだろうし、その辺は行政側の判断に任されているわけだが、もちろん社会問題としてマスメディアなどで話題となれば、それに絡んで市民運動なども活発化する場合もあるだろうし、それへの取り組みが、議会や首長選挙などに影響を及ぼすことにでもなれば、行政が問題の改善に向けて介入してくる可能性が高くなるだろうし、産廃施設の建設などのように、行政の介入がさらに問題をこじれされる場合もあるだろうが、激しい反対運動などを引き起こすにしても、行政が介入して何らかの公共の施設や設備は建設されたり、それらの運用に付随してきめ細かな法整備が行われたり、そういうことをやればやるほど、行政の管理する範囲が多方面に広がり、行政機構の規模も拡大することになるかもしれないが、一方でそれを運営するための予算が限られているのだから、限られた予算内で機構を維持するには、機構内部の効率化が求められているわけで、マイナンバー制も一応はそういう趣旨に基づいて進められていることなのだろうが、住民に対する管理の強化につながる面もあるだけに、反発も大きく、住民情報の取り扱いについても、不信感を招くような疑念も生じているだろうか。また行政に携わる公務員の待遇が民間よりも良いという先入観も、あながち間違っているとも言えないので、人々の反発を招く原因にもなっているわけで、そういう面も含めて、納得のいく説明ができない現状もありそうで、一般市民の行政に対する根深い不信感や反発を晴らすのは容易なことではないだろうし、不信感や反発を示す人たちの行政に対する批判にも一定の説得力があるだけに、行政機構自体が様々な問題を抱えていることも確からしい。
問題の一つが独立行政法人などに対する高級官僚の天下りや、政権政党の政治家への転身など、それらの団体との行政機構の癒着であり、天下りや政治家への転身を招く行政機構内部の慣行も問題視されているわけで、そういう慣行を改めるための行政内改革が行われる気配もきっかけもなく、そのような慣行を利用して、行政機構が取り込んでいる政権政党や、機構と癒着する各種法人も含めて、それらの連携を通して政治経済的な利権を擁する一大勢力を築き上げている現状がある以上は、一般の人々の行政に対する不信感や不満が解消するどころか、ますます疑念が深まるばかりなのだろうが、たぶんそのような一大勢力を一挙に解体することは、現行の国家的な制度内ではほとんど不可能だろうし、数十年単位の長い時間をかけて、数年ごとに政権交代を繰り返す過程で、徐々にそのような政官財+マスメディアを含む利権複合体の力を削いで行くしかないだろうが、果たして現政権を支持している人たちはそれに気づいているだろうか。気づいているからなおさら利権のおこぼれに与かろうと、それらの一大勢力に加わろうとして、近づいていく人があとを絶たない現状もあるだろうし、そのような勢力はたとえ経済危機や戦争などによって国家が破綻しても、温存される傾向にあるだけに、結局そのような勢力を築く上でもたらされる利益や権力がなくならない限りは、維持継続されるのだろうから、やはり現状の国家的な制度を変えてゆくことでしかなくならないだろうが、果たしてすでに利権や権力を有している勢力に自己改革などできるわけもないだろうし、現時点では不可能なのかもしれないのだが、それでもできることは何かといえば、果たしてそのような利権複合体を維持継続させていくことが、一般の人たちとって良いことなのかどうか、と言うことについて考えてもらうしかなく、良くないと思う人が多ければ多いほど、定期的な政権交代の可能性が高まり、現実にそうなることによって、利権複合体を完全になくすことはできないにしても、その膨張を少しは押しとどめる可能性も出てくるのではないだろうか。一般の人々ができることはその程度のことであり、右翼だの左翼だのの政治的なイデオロギーとは無関係に、政権のやり方が上手くいかなくなったら、野党勢力に投票するという習慣が人々の間に身につけば、全面的とはいかないまでも、少しは行政的な国民の支配に抵抗できるかもしれない。
4月19日「未来」人が集団となって組織的に動作する場合、集団内での団結力を維持するために、目的や価値観に合致した共通の規則や規範を作って、組織の構成員に守らせようとするのだろうが、何が目的なのかといえば、企業ならそれは利益を追求することだろうし、宗教教団なら信仰を守り広めることだろうし、集団の形態に合わせて目的も変わってくるのだろう。人も社会の中で暮らしている限りは、好むと好まざるとに関わらず、何らかの集団に属していることになるのだろうし、その集団の拘束力や結束力にも強弱があって、集団内での立場によっても集団への依存度が変わってくるだろうが、相対的に見るならば、拘束力や結束力が強くて、構成員の集団への依存度が高いほど、その集団の力も増してくるように思われ、もちろん集団の規模にもよるわけだが、そういう集団は得てして内部で独裁体制が築かれていて、構成員の自由がない場合が多いだろうか。そういう単純な解釈からすると、集団としての力を強化するには、全体主義とか独裁体制とかが有効に思われてしまいそうだが、そういう集団は周囲から不快に思われるだろうし、敬遠されがちになれば、社会から孤立してしまい、場合によっては危険視されて排除の対象にもなってしまうだろうから、力が強くてもその力を発揮できない傾向があるのではないか。そういう面で重要になってくるのが、集団と集団の連携であり、また集団の個人との連携もあるわけで、様々な集団や個人などが連携するネットワークを築ければ、集団の内と外での活動がスムーズに行われ、ネットワークを介しての活動によって、連携している集団にも個人にも利益がもたらされる可能性が出てくるだろうか。そうなると集団としても、集団内だけではなく、集団外の他の集団や個人の立場や活動も尊重しなければならなくなるだろうし、集団内で全体主義や独裁体制を敷いていれば、他の集団や個人からの理解が得られにくいし、場合によっては利己的とみなされて、ネットワークから外される可能性も出てくるから、そういう特定の集団だけが特異な体制となるのは避けられるのではないか。理想を言えば様々な集団や個人が自由な立場でネットワークに参加できるようになればいいわけだが、参加しても利益が得られなければ、参加する理由も目的もなくなってしまうわけで、結局利益を追求する功利主義に阻まれて、そのようなネットワークは絵に描いた餅に過ぎなくなってしまうのかもしれない。
それに対する妥協案としては、利益ではなく幻想を抱けるようになるなら、娯楽程度の軽い気持ちで各人がネットワークに参加することになり、今のところは、インターネット上のネットワークに個人が参加する動機がなんであれ、参加した結果としてもたらされるのは、利益ではなく幻想がほとんどなのではないか。たぶんそれで構わないのかもしれず、利益を得られない代わりに幻想とともに自由があるわけで、ネット上では自由は幻想に過ぎないのかもしれないが、幻想ではない自由というのが幻想なのかもしれないし、何が自由であるとしても、それを感じられるか否かでしかないわけだから、利益を得る行為とは無関係なのだろうか。そして今後の世界も利益を得ることとは無関係に変わっていく可能性もあるだろうし、その中で人々はいかに物や情報を買わずに暮らしてかの、節約生活を求めるような成り行きになっていくだろうか。意識してそうなっていくのではなく、そういう生活を強いられる人が多くなっていくとしたら、自由意志ではない分、世の中の風潮として強力に作用しそうだが、それでも暮らしていければそれで構わないのだろうし、またそうなればなるほど、自由を犠牲にした集団主義的な行為も下火になっていくのではないか。幻想や利益を得られなければ、集団に属している理由はないだろうし、そういう魅力がなくなれば集団的な行為も廃れていくかもしれない。そうはいっても、現状では組織的な利益追求活動に対する幻想があるから、また実際にそういう活動によって利益が確保されている現状があるから、まだまだ企業活動も全盛なのだろうし、利益追求競争に勝ち残った企業の規模も、どんどん大きくなっていく傾向にあるのかもしれないが、そうなればなるほど企業内で文節化が進むだろうし、連結決算で見た目の売り上げは増えている分、実情としては事業ごとに分社化しているわけだから、様々な組織が寄り集まって一つの企業集団を形成していて、企業外との関係も他の企業との連携や系列化もあるわけで、結局は企業内外で利益を共有したネットワーク化が進んでいるのではないか。TPPなどに反対している人たちは、グローバル企業を目の敵にしているわけだが、ネット上で批判しているなら、グーグルを利用していないわけがないだろうし、アップル製品を使ってアマゾンで買い物をしたり、PCを使っている人はマイクロソフトのOSを使っているだろうし、グローバル企業を利用していながら、利用しているグローバル企業を目の敵にしているという欺瞞に直面してしまう。
4月18日「終わらない動作」煽動的で謀略的な宣伝はその場しのぎだが、持続的に安定して利益を得られたら人は安心するし、利益をもたらす対象を信用するだろう。そしてそれに依存して生きるように仕向けられたら、逆らう気も起こらなくなるだろうか。それが人を支配するやり方と言えるかもしれないし、実際にそうやって何らかの支配を受け入れている人は世の中に大勢いるだろうか。それが悪いことだとは思わないだろうし、逆に逆らうことの方が悪いことになってしまいそうだが、持続的に利益を得られることと、持続的に搾取されることとの違いは何だろうか。果たして支配を受け入れることは、搾取を受け入れることになるだろうか。その辺で認識の違いが浮き出てくるのかもしれず、何が利益で何が支配で何が搾取なのか、思い違いではないにしても、利益=支配=搾取とは考えられないにしても、それらの概念に共通していることは、自由を奪うという機能なのかもしれず、実際に利益を得られるのと引き換えに自由を奪われても仕方がない、と思わせることが支配につながるだろうし、実際に利益を得られていることは確かだが、利益をもたらしている対象がそれ以上の利益を得ているとすれば、それを搾取とみなすか否かは微妙なところだが、労働を提供して利益を得る側と、資本を提供して利益を得る側の関係や、機能や立場の違いがそこで明らかとなるのではないか。そのどちらが有利でどちらが不利であるかは、一般論としては資本を提供して利益を得る側の方が有利だと言われているが、現代の経済体制の中ではどちらも必要不可欠であり、中には労働して貯蓄した資金を元手に投資を始める人もいるわけだから、それだけの判断基準では、どちらが良くてどちらが悪いとも言えないのかもしれないが、有利か不利かとなると、資産を持っている人の方が有利ではあるわけだ。有利と言っても、資産を持っている人は資産に縛られて、資産の管理に明け暮れて、それで人生を棒に振る場合もありそうだが、資産のない人は労働に縛られて、働くことが生きがいならそれで構わないのだろうが、働くのが嫌なのに働かざるをえない人などは、それに伴うストレスで早死にしたりするだろうか。人それぞれで境遇が違うから、共通の基準を適用するわけにもいかないだろうが、人の境遇を個別に良いだの悪いだのと評価するのもおかしいし、そこから何か改善しなければならない点が出てくるとしても、それが万人に当てはまるわけでもないのかもしれない。そういうこととは無関係に政治的な課題とかがメディア上に提示されているわけで、政治的な領域ではそれらの課題への取り組みに対して、肯定的であったり否定的であったりする世論の形成が行われていて、世論の動向によって議会での主要な政党の議席配分が決まるのかもしれないが、厳密に考えるなら無関係ではないのだろうが、国家的な課題として政治が取り組むべきことが、人々が日常生活の中で取り組んでいることとの間で、人の立場や境遇によって良いか悪いかが両義的な面があるのではないか。メディアが世論調査結果として伝えるほど、世論の方向性がまとまっているわけではないのかもしれず、事の賛否を問うような意見集約ができるとしても、賛成するにしても反対するにしても、たいていの人は身にしみてそう感じているわけではなく、関心があまりないからどちらとも言えないが、どちらかといえば賛成であったり反対であったりするだけで、煽動に惑わされている一部の人たちが感じるような、敵対している勢力に対する憎悪の感情はそれほどなく、対立もほどほどのところで妥協してもらえば、それで構わない程度の心持ちなのかもしれない。
そうだとすれば、まずはメディア的な煽動はやり過ごしておいて、関心が薄ければ、政治的な課題に対する賛否などには、安易に加担しないことが肝心だろうか。どうも政治経済的な現状認識を基として、政治勢力が介在することによってもたらされている作用には、何か守るべき共通の規則や規範を決めようとしてくる傾向があるのかもしれず、その共通の規範や規則が万人に利益をもたらすとは限らないのに、政治的な課題を推し進めるには、そのような規範や規則によって万人を拘束せざるをえないわけで、そうやって規範や規則を用いて拘束しておかないと、彼らの政治的な活動や行政的な管理が成り立たなくなるのかもしれず、出来れば多くの人たちがメディア的な煽動を真に受けて、国家的な課題の賛否をめぐって激しく対立し、賛否を鮮明にする政党の候補者に投票してほしいのだろうが、果たしてそういう従来通りのやり方に従う必要があるのだろうか。彼らが決める守るべき共通の規範や規則の拘束を受け入れるなら、それだけ自由が奪われてしまう反面、万人に共通の利益がもたらされるわけでもない代わりに、人々を拘束することによってもたらされる権力を利用することで、彼らの活動が活発になるだけのような気がするし、彼らがやっていることは彼らを栄えさせるためにやっていることでしかなく、要するにそうやって国家の統治に関与している人たちが、統治される人々を搾取していることになるのではないか。もちろん国家統治に関与している人たちも、国家に束縛されているわけだから、国家という非人格的なシステムに搾取されているともいえるかもしれず、そうやってすべての人々は、自分たちが受け入れた共通の規範や規則の中に拘束されていることになるのだが、もちろんそれは完全ではなく、部分的な拘束に過ぎないわけで、その部分的な拘束を徐々に強めていく方向で、システムが作用する傾向にはあるのだろうが、現状では必ずしもうまく作動しているわけではなさそうに感じられるわけで、システムの完成は永遠にやってこないが、絶えず完成に向けて作動し続けているのではないか。
4月17日「病の経過」自分は自分のことがわかっていないし、自分という存在を信じてもいないが、自分が何かをやっているらしいという自覚がある。自覚があるなら自分の存在を信じてもよさそうだが、自意識が主体となって、何かをやっているのではなさそうで、空疎な内部に周囲から力が及ぼされた結果として、何かやっていることになるのかもしれず、どうもその辺が上手く納得がいくような説明ができずにいるようだ。自分で納得できないのだから、信じられないということになるのかもしれないが、言葉を使った説明も自分がやっていることであり、自分の存在が信じられないのに、自分が何かをやっていることは認めざるをえず、身の回りから何か操作されて自らが行為していることになれば、では操られている自分は何なのかといえば、ただの機械に過ぎなくなるのかもしれないが、ではその機械を操作しているのは誰なのかということになると、たぶんそれは特定の誰でもないのかもしれず、特定の誰が操作しているわけでもないのだから、少なくとも従来型の機械ではないようだ。自動制御型の機械なのかもしれないが、それならわざわざ機械という比喩を当てはめなくてもいいわけで、ただの生物とみなしておけばいいわけだ。要するに自分は生物という次元では確かに存在しているわけで、周りの人間と同じように、また他の生物と同じように何やらこの世界でうごめいている。そんな説明では物足りないだろうか。そこから人間特有の何かを導き出さないと、自分という自意識を持った存在を信じられないだろうか。どうも自分に関しては信じる信じないではなく、存在するしないでもなさそうで、そういうこととは無関係の次元で、自分が何らかの指令を受けて、その指令を遂行しなければならないように思われ、実際に指令を遂行してしまってから、驚いたり感動したりするわけだが、それが誰からの指令なのか一向にわからないし、何か特定の傾向があるとも思えず、それを遂行することが、かろうじて生き残る結果をもたらしているのかもしれず、そう思い込んでしまうような成り行きと結果を示しているように思われ、それもそう思い込んでいるだけで、別に指令を遂行しなくても、それなりの成り行きと結果がもたらされるのかもしれないのだが、やはりそれを実行しなければいけない、という強迫観念に取りつかれているようで、やばいなと感じつつもそれを行ってしまい、その結果がどうであれ、損であっても得であっても、うまくいっても痛い目にあっても、何とかそれで事なきを得たと思い込んでしまうわけだ。
精神病理学的にそんな自覚症状があるのかもしれないが、なぜ突然そんな指令が下されるのだろうか。要するにそれは啓示ということだろうが、どこからそれがやってくるのかはわからないし、天啓や預言だとみなせばいいのかもしれないが、もちろんそれを信じているわけでもなく、指令を下す存在がいるとも思えないのだが、そこから言えることは、要するに自分は不在とか非在の何かから指令を受けて、意味も脈絡もわからずそれを遂行していることになるのだろうか。意味や脈絡ならある程度はわかっているはずで、後から振り返ってみれば、何か筋の通ったことをやっているように感じられる場合もあり、それなりに説明がつくのだが、しかし指令が来るタイミングというのが、ここしかないというタイミングで来るわけで、別のタイミングでやれば穏便に事を済ませられた可能性があるかもしれないのだが、また別のやり方を実行すれば自然な成り行きとなるのかもしれないが、何か事を荒立てるようなことを、やらざるをえないようなタイミングとやり方を、選択せざるをえないような成り行きとなってしまい、わざと事件を起こしているように思われても仕方がないのかもしれないし、機会を捉えて用意周到に騒ぎを起こしているような事態となっているのかもしれず、後から思うと恐ろしくなってしまうこともあるわけだが、最近ではそろそろ来るなという勘まで働くようにもなっているわけだから、もうこれは自意識の一部であり、自分で自分に指令を出しているという自覚がないだけで、わざとそれに気づかないようにしているだけなのかもしれず、なぜ気づかせないようにしているのかといえば、そうするのが嫌だからということだろうか。そしてその指令というのが、それをやりたいという意志の裏返しかもしれず、しかも一方でそのやりたいことをやるのが嫌なのだから、指令という形をとって無理矢理やりたいことをやらせようとしているのかもしれず、だからやってしまった後においては、その結果がどうであれ、やるべきことをやったという満足感や安堵感を抱いているのかもしれない。そしてそうするのがなぜ嫌なのかといえば、事を荒立てるのが嫌なのであって、それをやることで周囲との関係がギクシャクしてしまうわけで、そこから不快な気分が生じていて、それにもかかわらずやらなければならないわけだから、やはり指令を感じた瞬間に、すでに面倒な事態に直面していることになるわけだ。だがこんな説明に納得したところで、どうも今後も不意の指令から逃れられそうもないような気がするわけで、逆らってはまずいように思い込んでいる。
4月16日「つかの間」切れ目のない時間の連続を意識していると疲れる。疲れたら眠たくなり、眠ってしまえばそこで意識を途切れさせてくれるから、かろうじて時間の連続から解放されて、その程度の範囲内では正気を保っていられるのかもしれないが、意識しようとしているのは自分の正気でも狂気でもなく、意識の内部と外部からもたらされる情報だけだろうか。内部からもたらされる情報はたぶん幻想で、外部からもたらされた情報との間の共振現象が、妄想として内部に定着すれば、それが特有のこだわりにでもなるのかもしれない。それが意識を一つの方向へと向かわせる力となって、自身を動作させるのかもしれないが、そうやって何かやる目的を見いだせたとしても、持続力はそれほど長続きしないだろうし、絶えず意識の内部で、自身が作り出したと思い込んでいる妄想を糧にして反響させ、場合によっては増幅させるように努力しないと、新たに湧いてくる別の関心との競合関係の中で減衰してしまうだろうし、そういう意味で終始一貫した態度や意志を保つのは難しいことだろうか。それも外部環境との相性の問題かもしれず、外部から自身に向かって行使される、自然の力や社会の拘束力や権力が圧力となり、保持しようとする態度や意志を打ち砕くように作用すれば、たちまちやめるか続けるか逆らうかの試練にさらされるだろうし、そうなった時にどうするかは、その時の自らを取り巻く内外の状況次第だろうし、それが自力であれ他力であれその両方であれ、それを利用して危機を脱して、自分の意志を押し通せたとしても、思い通りの結果を得られるのかどうかはわからないし、人は結果ではなく経過の中で生きているわけで、その何かをやっている経過を正当化する必要はないし、それをやり通した成果として、なんらかの結果を得られたとしても、それを誇示する気になれなければ、黙っていればいいのではないか。どうもその辺で世間的な価値と重なる部分に巡り会えないようで、何をやればいいのかという社会的な規範とも関係がないように思われるし、結局は自由という概念に従おうとすれば、功利性とは無縁の活動をもたらせるわけだが、それを守れる範囲内での経済的な余裕がなければ、活動を継続させることは難しくなるわけで、そういう面での自由の追求は、功利性に逆らえるだけの経済的な余裕を必要とするわけだ。そこから行動や行為の自由を享受する富裕層特有の欺瞞が生じてしまうわけだが、そんな富の蓄積を前提とした制限付きの自由から自由になるには、自由を目指すことが価値と結びつかないようにしなければならないだろうか。だが取り立てて価値を意識しなくても、何かをやっている過程で目的を意識してしまえば、それを成し遂げることが価値となってしまうだろうし、価値から自由になることは難しいのだろうが、そうならないようにしようとするのではなく、そうなっても構わないと思うしかないのかもしれず、それが自然の発露なら、やりたいことをやろうとすればいいだろうし、社会状況が人々に欲望を抱かせるなら、そんな状況に沿った欲望を抱けばいいのではないか。たとえその欲望が経済的な功利主義をもたらし、それが富の蓄積を追求する行為となるにしても、できる範囲内でそれに従いながら生きていければ、それなりに社会に順応できるだろうし、周囲との摩擦も破局的な結果をもたらさない程度には調整可能だろうか。それもその時の状況次第かもしれないが、こうして自由を求める内容の言説を記述しようとする限りにおいて、何をどうしろと述べるのは、求めている自由そのものに反しているわけで、そういう面で自己矛盾をきたしてしまうわけだから、そうなるのを承知の上で、ほどほどのところで、目的と言説内容を裏切り続ける方が、自己矛盾をできるだけ目立たせないようできるかもしれないが、そういう配慮も欺瞞の類いではあるわけだ。
述べようとしている方向へと述べようとしたり、そうしているうちにそこから外れていったり、それを元の方向へと修正したり、その述べていることのブレが、言語表現に厚みをもたらしているだけなのかもしれないが、そんなふうに目的から外れる自由として自由を示していることに、何か積極的な意義や価値を認めるのはおかしいのかもしれず、意識せずにそれが行える範囲内では、ある程度の文章表現の自由を実現していることになるのかもしれない。何を求めるにしても完璧とはいかないことは承知しているはずで、それを追求しつつも過剰な追求から外れることで、その外れ具合のうちに自由を認めてもいいのではないか。そういう面で人類の歴史が過剰な記憶として積み重なって、その記憶が抵抗や摩擦として機能することで、単純な行為や行動によっては目的を達成できなくなり、その行為や行動がうまくいかない程度に応じて、様々な可能性が社会の中で錯綜してくると、特定の価値では人々を満足させられなくなってくるのかもしれず、そんな状況がもたらす人々の不平不満が、社会が全体主義的な方向へと進む流れを食い止めているのかもしれない。たぶん日本の場合は北朝鮮とは違って、メディア的な情報操作によってそれらの不平不満を隠蔽するには、国家の規模が大きすぎるわけで、それは日本の十数倍もある中国についても言えることだろうし、行政を司る官僚機構の制御にも限界があるだろうし、その完全に制御できない部分から人々の行動や行為の自由が生じているのではないか。また有形無形の社会的な規範からも、それによって完全に人々を従わせることができない部分から、そこからはみ出る程度に応じて、自由が生まれている現状があるのかもしれず、人々が行政的な制御や社会的な規範に不信感を抱く範囲内で自由があるのではないか。行政による不快な圧力や、メディアを通した特定の行動や行為に対する弾圧など、そんな力の行使に不信感を抱いて、それに抵抗する意識が生じている間だけ、意識するだけではなく実際に行動や行為によって逆らっている間だけ、つかの間の開放感とともに自由を享受できるわけで、それ以外の概念として定まった自由は幻想に過ぎないだろうか。
4月15日「理解」人が抱く願望にはっきりした理想形態があるわけでもないのだろうが、とりあえずは漫画の世界のように立ち向かうべき敵がいればいいのだろうか。意識ではそう思っていなくても、成り行きによっては敵を求めて、そこで闘争したいのかもしれず、その場の印象としてはそんな単純な動作を求めているように思われるとしても、その人が直面している事情にもよりけりなのだろうか。状況とリンクしていなければ、本音がどこにあるとも思えないのだが、たとえ闘争が避けられないように思われる具体的な状況があるとしても、相変わらずそこで誰がどんな団体が敵なのでもなく、敵という言葉が指し示す対象の何が具体的なのでもなく、そこで繰り広げられるすべての現実が、具体的な事物や情報から形作られているのかもしれないが、必ずしもそれがすべてではなく、それらとは一切無関係に、その場に居合わせた誰も意識していない闘争の物語が、彼らとは隔たったどこかで、フィクションなどの文章や漫画や映像としてあるわけで、彼らもそれを見たり読んだりした経験があるだろうし、今も暇なときにでもそんなフィクションを楽しんでいるのかもしれないが、彼らが実際に体験している闘争も、それらのフィクションと同水準で行われているわけではないのだが、人が娯楽として楽しめるレベルのフィクションの中での闘争が、自分たちが実際に体験中の闘争に拘束力を及ぼしているのかもしれず、何かフィクションを理解するレベルで現実を理解しようとしているような、理解している水準がフィクションと現実の間で、それほど差異がないのかもしれない。そうだとすれば、現実により近いと思われるフィクションを理解することが、そのまま現実を理解することにつながるのだろうか。しかし彼らが実際に娯楽として楽しんでいるフィクションが、彼らが体験しつつある現実により近いと言えるだろうか。それともそういう捉え方では現実を把握できないのであって、フィクションも現実に体験していることの一部でしかなく、ただ現実の一部としてフィクションを楽しむ行為があるだけだろうか。そもそも現実とフィクションを体験として比較すること自体が意味のないことだろうか。だが人は物事の道理をフィクションから学んでいる場合があるとすれば、それがその人の動作に影響を及ぼしていることは確実だろうし、特にその人の行為や動作が、何か特定の小説の登場人物のように思われたら、その人がその小説を直接読んでいる場合なら、それが素直に当てはまりそうだが、直接読んでいない場合にしても、その小説が社会状況や、その中で暮らしている人の習性をうまく捉えているとすれば、フィクションと現実が重なる部分が十分にあるということかもしれない。
ではそのような現実に対する理解が世の中に何をもたらしているのだろうか。大衆娯楽としてのフィクションの蔓延が、世の中の安定をもたらしていると思えるなら、それの何が問題なのだろうか。何も問題ではなく、それで構わないのではないか。そして現実に対するフィクションのような理解が、フィクションに影響を及ぼして、フィクションのような理解に基づくフィクションをもたらしているのかもしれず、それがフィクションの問題をもたらしているのだろうか。ではフィクションの問題とは何なのか。それはフィクションが現実の世界に影響を及ぼしていると思い込むことだろうか。しかしそれの何が問題なのだろうか。その思い込みが勘違いであることが問題なのだろうか。たぶん勘違いであっても構わないのであり、フィクションと現実を同等に扱い、フィクションに対する解釈が現実に対する解釈に役立つと思い込むことが、何らかの勘違いを生むとしても、現実とその解釈の間に差異をもたらすことが、解釈に使う言語表現の虚構性を認識させるかもしれず、その虚構性を認識できるかもしれない可能性が、現実を理解する上で役立つのかもしれない。現実に対する理解が言語表現を介したフィクションそのものであり、大衆娯楽としてのフィクションも、現実に対する一つの解釈なのであって、フィクションこそが現実に対する理解を反映させた言語表現なのではないか。またたとえ言語表現の一切ない映像であったとしても、何を映像の題材にして、どのような意図や目的を映像に反映させるかについて、製作者が考えている時点ですでに言語表現が介在しているわけで、それもある意味で言語表現を介在させた映像表現の類いであり、現実をそのまま撮った映像であるとしても、映像の四角の枠内に光景を切り取った時点で、撮影者の何らかの意志が反映している可能性があり、その映像表現を見て感動するとすれば、共感を呼んだわけで、意志も共感もそれを伝える上で言語表現を使わざるをえないわけで、モノローグであれ対話であれ、そのような行為に及べば、自ずから言語表現を用いてフィクションを構成してしまうのではないか。要するに人は言語表現によってフィクションを構成するという現実を日々体験していて、それを理解しようとすることが、現実に対する理解になると同時に、フィクションに対する理解にもなるわけだ。
4月14日「ヘイト」何らかの現象に巻き込まれていることを意識してしまう時、それが偶然の巡り合わせではなく、そこに法則や仕組みがあるように思われ、そのような現象が起こる理由や原因を考えてみたくなるのだが、しばらくするとそれが勘違いであるような気もしてきて、偶然の巡り合わせでも構わないようにも感じられると、理由や原因を探るのが面倒になってきてしまうわけだ。直接の利害関係を感じられなければそれで済んでしまい、そうなると考えるという思考動作にも身が入らず、そんな動機の不在が気を緩ませ、他に何もやる必要がなければ怠けるばかりとなってしまいそうだが、たぶんその必要というのが、本当に必要なことなのかどうか、ただの思考に関してはよくわからないところがあるわけで、もしかしたら何も考えずに本能に従っていても、それなりにやっていけるのかもしれず、それも考えてはいるのかもしれないが、思考というのは意識して思考するよりも、思考していることを意識していない時の方が、うまい具合に思考と動作とがかみ合って、スムーズな立ち振る舞いが可能ではないかと思ったりもして、何か追い詰められて焦り、必要に駆られて考えようとするのよりは、余裕があれば自然と妙案を思いつくまで待った方がいいのかもしれない。もちろん思考と連携する動作としては記述も含まれるわけで、記述しながら思考を働かせているのだろうが、内容を考えてそれを記述するという動作ではなく、記述している時は思考していることを意識できず、それを意識している時には記述していないのかもしれず、その辺の絡み合いがよくわからないわけで、たぶんそんなことを考える必要などないのだろうが、どうも記述する主体と思考する主体が一致しているとは思えず、何かを行為する主体としての自己というものが、果たして明確に意識できるのかといえば、そんなことはないわけで、実態としては何だかわからないが、とりあえず何か考えている時もあり、また記述している時もあり、たぶん自身が考えていて、自身が記述していることになるのだろうが、その何かを考えたり文章を記述する自分自身というのが、何か実質的な中身があるわけではなく、理由とか原因とか必然とか偶然とか、その動作の前後の脈絡や、そういう動作が起こる背景から推測はできることもあるわけだが、必ずしもそういう行為の主体として想定される自分に、何かまとまりがあるわけでもないのではないか。
自己の内部について考えようとすると、そこには何もないように思われ、意識や行為や動作の集合体として、自分という単位を考えなければならないのだろうが、自己の背景を構成している自然環境や社会的な規範からもたらされる脈絡や影響と、自己とは直接的にも間接的にもつながっているから、それらが自己に対して力を及ぼして意識させ行為させ動作させると考えれば、そういう要因も含めると、自分という単位の外部も自己に含まれるのかもしれず、自分を取り巻く環境も自己に含まれるとすれば、自己の内部と外部の境界が曖昧になってしまうわけで、どこまでが責任を取れる範囲なのかは法律によって定まっているとしても、実質的にはよくわからないだろうし、例えばヘイトスピーチを行っている人や団体を罰する法律が制定されたら、法律に違反した個々の人や団体が処罰の対象になり、実際に処罰されることで活動が下火になる可能性はあるだろうが、彼らをそういう行為に駆り立てる強力な社会的な背景があるとすると、それがなくならない限りは、また性懲りもなくやり始める人や団体が新たに出てくるだろうし、もしかしたらそれを生み出す社会的な背景というのが、国家や経済の成り立ちやそれらの相互作用と、切っても切れない関係があるとすると、そういう行為が発生するような状況となれば、必ず一部の人たちがそういう行為に駆り立てられてしまう成り行きが生じてしまうのではないか。そうなる背景としては、近隣諸国との外交的な軋轢があったり、その軋轢があった当事国の出身者や子孫が、国内でまとまった民族共同体を形成していたり、また国内の経済情勢がおもわしくなかったり、そして政治的に実権を握っている勢力が国家主義的な傾向を強めていたり、さらに数年前の地震と原発事故も要因としてあげられるかもしれず、それらの条件がたまたま重なると、ヘイト的な主張をする人や団体の活動が活発になるのだろうか。そうだとすればそれを取り締まる法律を制定するだけではなく、政治的な外交努力や国内の経済対策や、もっと言えば政権交代して別の政治勢力が政権を握るとか、そんな成り行きによってヘイト的な行為が発生する条件を緩和することが、ヘイト対策には有効であると思われるのだが、やはりそうするには、単なる偶然の巡り合わせだけではなく、人々の努力や意識改革が必要となってくるだろうか。きれいごとを言うならそうなるだろうが、人そのものが周囲の自然環境や社会的な背景から影響を及ぼされている現実があるわけだから、努力や意識改革がなかなか進まないわけで、結局は回り回って循環論になりかねず、それがそれらの行為を根絶できない理由や原因ともなっているわけだろうか。
4月13日「トレンド」全体主義といえば古くはボナパルティズムからファシズムやナチズムやスターリニズムなど、様々な傾向を示す独裁体制があったわけだが、今のところはほとんど一過性に終わっていて、長くてもスターリニズムの30年余り続いたのが最長だろうか。強力な独裁体制である全体主義が一過性で終わる原因はなんなのだろうか。例外として北朝鮮の政治体制は70年近く続いていることになるだろうが、普通の民主的な政権であっても10年も続けば長い方だろうし、特定のカリスマ的な独裁者が失脚すれば、後継者争いなどの内紛が発生して、そこで終わるのがありがちな成り行きだろうから、半永久的に続くようなことはないのかもしれない。しかしそうした特定の独裁者を擁する全体主義ではなく、官僚制の発達によって社会全体に規格化が進み、同一の価値観によって支配されてしまうような傾向は、常に起こりうることだろうし、もちろんそうなって世の中が安定するのではなく、絶えずなんらかの規範を社会に適用する過程が進行中の状態で保たれ、その進行中の過程が支配の状態を表しているわけで、社会全体が官僚機構によって支配されるのではなく、例えばマイナンバーの交付によって住民の情報を一元管理できるとすれば、マイナンバーに関連する分野で支配が徐々に進行中の状態となるのではないか。もちろんその場合でも、特定の人格を持った独裁者に支配されるのではなく、マイナンバーを基にした管理システムに住民が支配されるわけで、たぶんその辺が感覚としてわかりにくいところで、官僚機構になんらかの人格が宿っているわけでもないのだが、戦略家なき戦略によって住民の管理が推し進められる成り行きになるわけで、そのような組織的な動作を人が止められるとも思えず、もちろん住民の抵抗や諸々の障害が発生したりして、うまくいかないケースがほとんどなのかもしれないが、特定の人や勢力の意図や思惑で動いているように感じられるとしても、実態は非人格的な管理システムが動作していると認識しておいた方が、国家の圧政に苦しむ民衆の典型例と捉えるよりは、少しは正確な理解を得ることができるのではないか。もっとも理解したところで何がどうなるとも思えないのだが、余計な感情を排して行政と対峙できるかもしれない。
そして様々な全体主義にも歴史の変遷やその時の国内事情などによって、その特性や傾向にも違いがあるだろうし、その全てをファシズムと単純化して説明してしまうと、ただの軍事独裁政権と変わらなくなってしまうわけで、それぞれの全体主義の何が問題だったのかわからなくなってしまいそうだが、少なくともそれらが発足した時には、国民の圧倒的支持を得ていたはずで、人々が幻想を抱く何かがそれぞれの全体主義には備わっていたわけだ。現代でも国民の圧倒的な支持を背景にした全体主義体制が生まれる可能性はあるわけで、どうも今もっともその可能性があるのが、ベーシックインカムを基盤にした全体主義体制なのではないか。社会を一つの価値観で一元的に管理する方法としては、この方法が国民の支持を得やすいことは確実だろうし、特に低所得者層は生活可能な額の現金を国家が支給する方法に反対する理由はなく、それと引き換えにして何らかの管理を受け入れることを迫られたら、多くの人が受け入れざるをえなくなるのではないか。その管理が何になるのかが問題なのだろうが、たぶん自由の制限や、場合によったら徴兵に応じなければならないとか、官僚機構としては現金を支給するのと引き換えに、何らかの見返りを求めてくる可能性が高いだろうし、それもこれまでの機構の動作から判断するなら、国民を何らかのシステムの中に拘束する方策を打ち出してくるのではないか。そういう脅しが不快でなければ、全体主義的なベーシックインカムでも可能であるなら導入して、国家的な実験をしてみればいいのかもしれないが、前世紀の社会主義国家はそういう社会の激変を伴う実験をやって、軒並み失敗に追い込まれた過去があるわけで、果たして今後そういう国家的な実験をやる機会がくるだろうか。歴史的な成り行きからすれば、国家的な実験ではなく、国家を超えた何らかの仕組みが出てきてほしいような気もするわけで、何とか人が官僚機構に拘束されながら生きてゆくのではなく、拘束から解放されて、自由に生きて行ける方向で改革が求められているように感じるのだが、現実問題として国家があって、多くの人が企業に拘束されていて、そこで労働を強いられている状況の中で生きている以上は、その延長上でしか世の中は変わらない可能性が高いのだから、現実離れしたことを夢想しても意味がないだろうか。
4月12日「大衆心理」人を命令に従順な人間に仕立て上げるには、規律を守らせるように訓練を施せばいいわけで、主に学校や工場や軍隊や刑務所などでそんなことが行われているのだろうが、別にそこで人を奴隷化しようとしているわけではないらしく、どうも人には自由がないとまずいようで、少なくとも自由に振る舞えるような機会が与えられていて、さらにそこへ理不尽な命令などの圧力を加えて、そうした抑圧に抵抗しながら生きていると信じ込ませるわけで、自分が圧政などに耐えながら生きているという信念が、そんなことを思い込んでいる人たちを支配する上で不可欠な要素であるらしい。支配とは結果ではなく、絶え間なく圧力をかけ続ける過程であり、圧力をかけ続けるには、人がそれに抵抗する自由がなければならないわけで、完全に降参してしまったら、圧力をかけ続ける動作が要らなくなってしまうわけだから、それでは支配ではなくなってしまうわけだ。だからこそ抑圧に抵抗しているように思い込ませなければならず、そのためには人々を絶えず煽動に駆り立て、対立を激化させる必要が生じてくる。そんなわけで抑圧に抵抗していると思い込んでいる人には、権力に対する反感を植え付けなければならず、為政者はわざと良心的な市民の反発を招くような言葉を発して、執拗に反抗心を煽るわけだが、一方で権力側になびいてくる人たちにも、対立の激化は必要な状況で、権力に反抗してくる敵に勝つために、権力の支配を受け入れるように迫るわけだ。そして支配を受け入れた人たちには、規律を守らせるための訓練が施されるわけで、その過程でも絶えず圧力が加えられ、抑圧に抵抗しながら生きていくことを強いられ、権力に屈するにしろ逆らうにしろ、どちらの場合でも、抑圧に抵抗しながら生きているように思い込まされるシステムが出来上がるわけだ。
しかしそれは思い込みにすぎないのだろうか。それだけではないことは確かだろうし、例えば不倫がバレた著名人に会見を開かせ、そこで世間一般に向かって不倫したことを告白させて謝罪させることで、不倫は悪いことだという倫理規範を、世間一般に周知徹底させる効果を狙っているのだろうか。たぶんそういうことではなく、人の習性として規範を破る動作があるわけで、規範を破る自由がそこに生じているわけだが、倫理規範はしばしば破られてしまうから、わざわざ倫理規範として提示されているわけで、規範を破った人が罪を意識する制度となっているのであり、そこから罪を意識した人がその罪を告白するシステムが構築されていると考えればいいのかもしれない。そしてその罪を告白させるのが権力の機能としてあるわけで、耐えず告白するように圧力をかけ続けるわけだ。それは具体的な法律違反を取り締まる警察権力などと共に、マスコミなどのメディアを含んだ広く社会の一般常識を基にした圧力があるわけで、そこでは破られやすい規範を設定しておいて、破った人たちに罪を意識させ、それを告白せよと絶えず圧力をかけ続ける動作が働いているのではないか。そしてこれも規範を守るように絶え間なく圧力をかけ続ける過程において、規範を通した社会の支配が成り立っているわけで、ここでは規範を破る自由が攻撃対象となっていて、法律違反でない限りは具体的な罰則規定はないわけだが、規範を破った人に対して、自主的な謹慎や活動の自粛を迫られているなら、そういうところで権力が機能していると言えるだろうか。重要なことは、抑圧に抵抗しながら生きることを強いられるにしても、罪の意識を告白するように強いられながら生きるにしても、支配とはそのように思い込まされることから生じるわけで、そう思い込まずに生きていければ、そのような形態の支配を受けずに済む可能性があるのだが、それを受け入れさせるための煽動や挑発などの圧力が、社会全体に絶えず加えられている現状があるわけで、しかもそれが各種のメディアを通して行われているわけで、現代の支配とはメディアに依存した人間の心に巣食っているのかもしれず、それを利用しているのが政治的な権力機構なのだろうか。
4月11日「抵抗の利用」権力は権力に対する抵抗を必要としていて、抵抗を通して権力は機能するそうだが、敵を直接攻撃することでしか権力を行使できないわけではなく、挑発的な言動で煽り立てて、敵と味方の対立を激化させることも権力の機能と言えるだろうか。そうすることで人や物や情報が動いて社会を活性化できれば、煽動が功を奏したことになるのだろうか。騒ぎを起こして民衆を踊らせ、それによって経済効果を得られればいいわけだが、オリンピックや万博などのイベントは期間が区切られているから、一時しのぎにしかならない可能性もあるわけで、そうなると持続的な経済成長などは期待できない。そういうことではなく、民衆の反発や抵抗を通して権力を機能させるとなると、民衆が嫌々苦しみながら従うような状況を作らなければならないだろうか。それが労働を強いるやり方であり、コンビニのフランチャイズ方式などがその典型だろうか。権力を行使する本部側と行使される側の加盟店側は対等な関係ではありえず、加盟店は一方的に搾取される立場になっているのだろうか。それでも加盟店に利益が出ている間は問題ないのだろうが、立地条件によってはなかなか利益が出ずに、中には店主が多額の借金を背負って、過労死したり自殺に追い込まれてしまうケースも出ているらしいが、広告収入頼みのマスメディア側としては、コンビニに対する否定的な報道は慎まなければならないようだ。だがなぜ権力は権力に対する抵抗を必要とするのだろうか。わざとではないにしても、民衆の抵抗によってうまくいかない場合が、権力が介入する口実となるわけで、沖縄の米軍のための滑走路建設工事が、反対派住民の妨害活動によって支障が出るようになると、機動隊や海上保安庁が介入してきて、集まっている住民を強制排除したりすれば、この場合などが、抵抗を通して権力が機能した典型例と言えるだろうか。また安保法制や原発などの反対運動にしても、反対しているのが共産党などの特定の左翼政党や、中核派や革マル派などの極左暴力集団の息のかかった勢力だと宣伝することで、左翼を毛嫌いする保守的な人々を幅広く味方に引き入れて、そういう人たちの団結を強化できれば、やはり民衆の抵抗を通して権力が機能したことになるだろうか。
例えばセンセーショナルな報道をきっかけとして、保育園の待機児童問題が騒ぎになれば、担当省庁にその問題に対する対策部署などが設置されて、有識者などが呼ばれて会議が開かれ、そこで対策が協議されたりすると、騒ぎのきっかけとなったブログに文句を書き込んだ人の抵抗が、担当省庁に専門の部署を一つ増やす、という権力の機能を発動させたことになるわけだが、実際にはどうだったのだろうか。確か待機児童問題が深刻な東京の世田谷区などでは、騒ぎになったから慌てて保育士を増やす決定をしたわけでもないのだろうが、それでも権力の機能を促進させるきっかけとなったわけか。ともかく民衆の抵抗があれば、行政がそれに対応するために、何かしら動き出すわけで、それが権力の機能であるわけだから、やはり権力は権力に対する抵抗を必要としていることになるのだろうし、民衆の抵抗を利用して、それを社会に介入する口実として、問題に対応する新たな法整備をしたり、対策のための専門部局を設置したりすることで、結果的に民衆に対する支配の度合いを強めようとするのが、行政的な権力の機能と言えるわけで、時の為政者がわざと民衆の反感を買うような発言をしているわけでもないのだろうが、それがマスメディアを巻き込んで、煽動的に世の中に作用して、それを支持する人や勢力と、反感を募らせる人や勢力との対立が激化するようなことになれば、それを利用して権力が機能する機会を与えているわけで、シリアの内戦などはそれとは違うきっかけで起こってしまったのだろうが、民衆の間で対立が激化したことには変わりなく、そこでは戦争という権力の機能が、民衆の抵抗運動を通して顕在化したわけで、そうなってしまうと民衆の側にはそれを防ぐ手立てがないだけに、いったん起こってしまうとどうすることもできないわけだが、日本は日本でシリアとは別次元の行き詰まり状況を示しているようで、それが日本の民衆の権力に対する抵抗の結果なのかどうか。例えば少子高齢化は子育ての家庭負担に対する民衆の抵抗の結果なのだろうし、それに対して権力は、介護老人ホームという監獄を用意したわけだが、もちろんその運営がうまくいっていないから、社会問題化しているわけで、しかもそのうまくいっていないのを利用して、後期高齢者医療制度などという対策も打ち出しているわけで、そうやって今も着々と権力は民衆の抵抗を利用しながら機能し続けているわけだ。
4月10日「使い分け」それを宗教だとみなしても、そのような行為をやめさせることはできないが、それに代わるやり方を提案できれば、そのやり方が合理的だと見なされれば、そのような行為にとって代われる可能性があるだろうか。だが現状では誰もがそれに依存しているのだから、そう簡単に別のやり方への転換などできる状況にはないのかもしれない。貯蓄することによって交換可能性の増大をもたらす貨幣という媒体が、価格に見合う量を所有していれば、あらゆる商品と交換できる自由と、誰もが商品との交換に依存しているので、それ以外の交換方法が社会から締め出されている不自由をもたらし、また従っていれば身の安全を保証する法律などの制度が、制度に束縛される不自由をもたらしているわけで、人は社会の中でそれらに関わっている自分の都合に合わせて、それらのシステムの自由や安全をもたらす面を強調すれば肯定的な評価をし、不自由をもたらしている面を強調すれば否定的な評価を下すわけだが、その中で生きている限りは、そのような行為に依存しながら生きているわけで、それに代わるやり方を模索する機会がなかなか巡ってこない。貨幣の蓄積による交換可能性の増大は市場や企業間での信用を生み、信用を得れば様々な事業に投資することで、さらなる貨幣の蓄積する機会を得られるわけで、事業に投資するために金融機関から資金を借りて、利益を出しながら信用を得て、さらなる投資資金を借りるというサイクルの中で、事業の拡大と資産の蓄積を目論むわけだが、そんなやり方が続けられる限りは、少なくとも利益が出なくなって事業が行き詰まるまでは続けるわけだ。果たして今後すべての産業分野で、利益が出なくなるような事態が訪れるだろうか。利益が出なくなっても銀行などの金融機関が国有化されれば、金利をゼロにすることで各種事業は延々と続けられるのだろうか。現状で利益が出ているから各種の産業が成り立っているわけで、成り立っている限りはそれらが継続されるわけだから、そういう方面で何をどう考えてみても、画期的なアイデアなど思いつくはずもないだろうか。それに代わるやり方がないわけではないのだろうが、現行のやり方が全盛である間は、陽の目を見ることはないだろうし、何か思いついたところで、それを実行する機会などやってこないだろうか。人々ができることは、メディアからもたらされる情報に基づいて、不正を働いた人や勢力を批判するぐらいしかないのかもしれないが、メディアの情報自体が恣意的に操作されている疑いも拭い去れず、情報に踊らされて見当違いの批判を繰り返すようなことになれば、影でメディアを操っている人や勢力の思う壺となってしまうのだろうが、そういう陰謀論の類いの信憑性も疑われているわけで、何を信じればいいのかわからないまま、右往左往しているうちに、権力を握っている人や勢力の手玉に取られて、いいように操られているだけでしかないだろうか。そんな単純な実態ではなく、一定の利害関係を示すことなく、情報も様々に錯綜していて、誰かが得をして誰かが損をしているような、はっきりとした関係はあまり見当たらないのかもしれず、誰もがどんな勢力も、ある程度は得をしてある程度は損をしていて、ある程度は事態を掌握しているかもしれないが、一方で掌握しきれていない部分もあり、様々な方面から力が及ぼされているのだろうから、そうなるのが当然かもしれず、力を及ぼしている人や勢力の一つに脚光を当てれば、その人や勢力を中心として、それなりに理路整然とした因果関係を説明できるかもしれないが、別の人や勢力に脚光を当てれば、またそれとは違った因果関係が導き出されるだろうし、どちらが正しくどちらが間違っているかではなく、それらの複数の人や勢力の関係が複雑に絡み合っているわけで、そこから納得のいく因果関係や説明を導き出したところで、そこから漏れてしまう要素や要因があるとすれば、そんな説明は信用できないだろうか。ある程度は信用できるかもしれないが、完全に信用するわけにはいかない水準での認識となりそうだ。
一般大衆がそれ以上の認識を得られるはずがないのかもしれず、得たとしても活かせないわけだから、猫に小判となってしまいそうだが、世論形成などを伴う上で、特定の利害に絡んだ煽動を真に受けないことが肝心だろうし、世界中のどの国にも民衆が存在していて、たとえ北朝鮮であっても一般大衆がいるわけで、別に日本の一般大衆と北朝鮮の一般大衆が敵対しているわけではなく、敵対を装っているのはあくまでも政府間の関係であり、日本政府をはじめ数多くの国の政府が北朝鮮の政府と敵対関係にあるとしても、北朝鮮の民衆と敵対しているわけではないことは認識しておくべきで、それは中国や韓国の民衆にも言えることかもしれないが、どうしても国家的な煽動行為によって、各国の民衆が分断されてしまう傾向にあるようで、そんなふうにして世界の民衆が一つに団結できないようにしているのが、各国の政府だとすれば、いったい民衆の敵は何なのかといえば、自ずから答えが出てしまうのかもしれない。民衆を守っているように思われる自国の政府が、同時に民衆の敵でもあるのかもしれず、要するに外国と敵対している時は、自国の政府は民衆を守っているわけだが、国内で圧政を行っていれば民衆の敵でもあるわけで、その敵と味方の二重性に民衆は気づくべきなのだろうが、やはりそれもその場の都合で、政府という同じ対象をめぐって、言語表現上は敵と味方のどちらか一方で言い表そうとするわけで、政府に迎合する人や勢力は、国内外の敵に対して政府を擁護しようとしていて、政府を批判する人や勢力は、政府が国内で民衆に向かって圧政を行っていることを根拠に、それを批判し糾弾しているわけで、両陣営ともに自分たちの都合に合わせて、擁護や批判の言説を用いて自分たちの立場を正当化しているわけだ。一般大衆はそのような言説の使い分けを認識しておくべきだろうか。
4月9日「風穴」人は様々な現象に巻き込まれている。それを現象とみなしても、事件や出来事の集合体のようなものでしかなく、意識はその中で説明可能な具体的な事例を探しているのかもしれないが、それが説明する上で模範解答があるような分野として特定されているわけではなく、説明の中で何を解釈しようとしているのかもはっきりしない面もありそうだ。自分がどんな現象に巻き込まれているのかを、正確に認識することなど不可能だろうし、さらに語りうることは、興味を抱いたり気づいたりした部分でしかなく、なぜ興味を抱くのかについては、その理由として思いつくのが、それを不快に感じることであったり、言葉を用いて攻撃したくなったりすることが、興味を抱くきっかけとなりそうだが、好感を抱かせる現象については、わざわざ言及するまでもなく、気分良くその現象に関わっていられるのかもしれず、その現象と心地よく一体感を保っていられるうちは、取り立てて文句を言う筋合いはないわけだ。その逆で不快に感じられたり、自分の思っていることや自分自身を否定されたり、無視されたりすれば、俄然何か批判を加えたくなるわけで、場合によっては対象や対象となっている相手を、打ち負かすような画策を企てて、機会をとらえて仕掛けてしまうのではないか。それも当人が関わっている現象の一部であって、そんな現象を構成する要因として人や組織が動作していて、巻き込まれている人は、自分の意志や思惑が、現象を構成する人や組織との関係から生じていることを自覚できるが、それに逆らうことはできず、そこから生じている意志や思惑通りに動作しようとするだろう。その結果としてもたらされるのが、紛争や闘争の類いであり、妥協や勝敗の決着がつくまでは、人も組織もそんな現象に巻き込まれたままとなる。
それが何を意味するだろうか。何を意味するかはその時の立場や状況によって異なるだろうし、何とも思わなければ、取り立てて意味など知ろうとはしないだろうし、そこにもたらされている成り行きに身をまかせて、その場での役割を受け入れて、あとは台本通りに役を演じるだけだろうか。紛争や闘争において、事前に決められた台本や役割があるとは、にわかには信じられないかもしれないが、例えばその現象が、企業の取締役会での最高責任者の解任劇のようなものなら、あるいは裁判での原告や被告などの立場なら、さらに言えば国会での質疑応答のような場合なら、ある程度は役回りが決まっているだろうし、関係者の事前の打ち合わせにおいて、台本のようなものが作られているかもしれない。そしてそのような制度的に確立されていて、役割分担がはっきりしている現場では、その場でいくらアドリブを利かせて、意表をついた行為や言動に出ようとも、大した効果は得られないのかもしれず、何事も事前の打ち合わせ通りに経過が推移していくだけだとすれば、それを題材とした映画やテレビドラマなどのフィクションとしてはつまらないわけで、それらのフィクションでは必ず、事前の打ち合わせにはない想定外の出来事が起こるわけで、それが人の願望を投影した成り行きなのだろうし、フィクションを制作する人たちも、それを楽しみにしている観客も、なんとか決まりきった制度に風穴を開けたいと思うわけだが、そういう意味では国会の質疑において、「TPP断固反対と言ったことはただの一回もございません」と平然としらを切った首相の答弁は、制度に風穴を開けるのではなく、逆に制度を形骸化された制度としてさらに強化させるような発言であり、そういう方向として意表をついたは答弁だと言えるだろうか。そう自覚しているかどうかは不明なところだが、わざと見え透いた嘘をついて、それに対する反感を煽り立てるとともに、嘘をついたところで自らの地位は安泰なのだ、と大見栄を切っていると解釈するのが妥当かもしれず、そうやって自分が制度に守られていることを強調したわけだが、果たしてそれに対して国民がどんなリアクションを返せばいいのかは、素直に反感を抱いて、選挙で政権与党に反対票を投じるような人が、どれほどいるのかよくわからないが、もしかしたらリアクションなしの無関心を示す人が圧倒的大多数かもしれず、そうなると選挙には何の影響も与えないだろうか。逆にそれの方が政権にとってはきついことかもしれず、このまま行き詰まりの手詰まり感をまったく解消できないまま、延々とボロボロになるまで政権を降りることができなくなってしまう可能性もあり得るのではないか。
4月8日「外部」状況から外れるとはどういうことなのか。それが必然的な成り行きだとは思えないが、そうなってしまう過程で、何かはっきりした傾向が認められるのだろうか。原因となる事情や脈絡がないわけではないだろうが、その事情や脈絡というのがはっきりとはわからないわけで、推測の域を出ないことばかりとなってしまう。それが後からわかることもあるのだろうが、わかった時にはもう何もかもが済んでしまっていて、わかったところでどうなるわけでもないことを悟ってしまい、そんな成り行きの中で取り立てて何を知りたいとも思わず、知り得るのは興味のない知識ばかりだろうか。そもそもそれ自体が興味を抱くようなことでもなかったのかもしれず、ただ漠然と自分がとらわれている成り行きを眺めているようでいて、それで何を眺めているとも思えず、それらはただの風景だと感じるしかないのだろうか。自分を取り囲んでいる風景には違いないが、その中に自分が溶け込んでいるようにも思えず、ただ疎外感だけが日増しに強くなっていく状況の中で、自分がそこから外れていることに気づいてしまうのだろうか。そうなった時には、すでにそこに至る事情や脈絡も洗い流されていて、どうでもよくなってしまうのかもしれないが、それらが自己をそこまで運んできたことは確かだろうし、別に運んできた理由などありはしないだろうが、そこから外れるとは事情や脈絡がリセットされてしまうことかもしれず、そうなれば世の中から放り出されてしまったことを実感できるかもしれない。もちろん完全に無縁となってしまったわけではなく、放り出された先にも世の中が続いていて、そこではこれまでとは異なる事情や脈絡が生じていて、その事情や脈絡が規範をもたらし、そこでの判断や評価や行為などの指針として機能するわけだ。そんな規範にとらわれながら行動したり思考したりするわけで、時にはそれが鬱陶しく邪魔に感じられたりするのかもしれないが、それがあるおかげで、世の中とのつながりを実感できるわけで、まったく見捨てられたわけでもないと安心してしまったりするのだろうが、もちろんそれは気休めに過ぎず、実際にはまったく相手にされていないわけで、ただのまとまりの希薄な一般大衆の中の一人でしかないわけだ。そんなとりとめのなさが、時には自由を感じさせ、また別の時には虚しくも思われるわけで、そんな境遇に耐えられなければ、他の人との社会的なつながりを求めようとするのではないか。そのつながりがどのようなものであっても、人とのつながりを確保すれば安心感を得られるのだろうし、場合によっては社会の一員として認められたような気分になれるだろうか。
そこから外れたままになってしまうと、何か尋常ではないような精神状態をもたらすだろうか。そうなってみればわかることかもしれないが、なったところで何でもない場合もあるだろうし、なるべくそうであってほしいわけだが、なぜ外れてしまうのかといえば、自然に外れてしまうとしか言えない面もあるのかもしれず、現実にそうなってしまえば、あまり理由などを神経質に詮索しない方がいいのかもしれず、ただそういう成り行きを眺めていれば、それで平常心を保つことができるだろうか。そんな風景に心身が溶け込んでいるうちは、それで何とかしのげるのかもしれないが、やがてそんな状況にも飽きて、そんな状態から離脱しなければならない時がやってくるのかもしれず、その時のために戦略的に何かやっておくというのでもないだろうが、それも自然にやるべきことが見つかれば楽な展開だろうし、やるべきと思わなくても、自然にやっていることを継続させるのも、一つの方やり方ではありそうで、たとえ目的が不明確であろうと、完全に無目的とは感じないなら、気づかない目的というのが意識のどこかに紛れ込んでいる場合もあるだろうし、今のところは気づいていないにしても、やっていくうちに気づくか、あるいは気づかないままに何かを成し遂げられたら、さらに楽なことだろうか。やっていることすべてを肯定的に受け止められるわけでもないだろうが、少なくとも暇つぶし以上の足しにはなるだろうし、たとえそれが害を及ぼしているとしても、そんな効果を感じ取れたら、それが経験として知識の蓄積となるだろうか。回り道や迂回を楽しむほどの余裕があるとも思えないのだが、人は誰でも限界を超克しようとする自らの能力に限りがあることを自覚せざるをえないのだから、やっていることが悪あがきだと卑下することもないだろうし、無駄であろうと悪あがきであろうと、それをやる成り行きの中にいるとすれば、やらざるをえないのかもしれず、そういうところで下手に成り行きに逆らうべきではないのだろう。どんな状況から外れようとも、外れた先の状況の中で何かをやらざるをえず、やらざるをえない成り行きにとらわれているのなら、そこで自然をやるべきことをやっている状況が形成されてしまい、そんな状況の中で自らの意志が生じてしまうのだから、その意志に従うと、やらなければならないと思い込んでしまうわけで、そうやって状況が意志を生じさせ、その意志がまた新たな状況を生じさせて、そんな循環と繰り返しがやっていることを継続させるのではないか。
4月7日「場違い」世の中の仕組みをそれなりに理解したところで、世の中を変革できるわけではないし、理解していなくても、暴動でも起こせばそれが変革のきっかけとなることもあるだろうし、何が変革のきっかけとなるかは、実際に変革が起こってみないことにはわからないのかもしれず、現状の世の中を変革する必要があるのかどうかも、人によって社会的な立場や境遇によって、意見が分かれるところかもしれないが、現状に不満がある人が多いことは確かなところだろう。また将来に対する不安があれば消費を抑えようとするだろうし、先行き不透明感がデフレを招いていると指摘する人もいるが、必要最低限の消費しかしないというのは、理にかなった生き方だとも言えるし、別に悪いことではないわけだ。普段から倹約や節約を心がけておけば、いざという時の心構えができているだろうから、この先未曾有の危機が訪れたとしても、比較的冷静に対処できるかもしれない。消費や商品の購買意欲を煽るというのは、後先を考えない行為かもしれず、賢くありたければ、そういう煽動には乗らない方がいいだろうし、低賃金や低年金生活を強いられている人なら、乗りたくても乗れない事情があるだろうから、無用な心配ではあるわけで、取り立ててそれの何が問題でもないのだろうか。余分な金を持っているような人は、それだけ傲慢になるか、ずる賢くなるだけなのかもしれず、それも人によりけりなのだろうから、気にするようなことでもないだろうし、要は程度の問題で、人それぞれでやっていることも考えていることも千差万別だと思っておけばいいのだろうか。そういう方向へはそれ以上は立ち入らなくても、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないままでも構わないことかもしれない。それよりも人が大勢集まって役割分担を定めて、組織的に動くようになると、個人が組織には逆らえなくなり、勝手に生きられないような方向へと、世の中が進化していく傾向にあるようで、それが極端なまでに推し進められると、身分の上下関係を構成する階級社会になってくるのだろうか。一概にそうとも言えず、たとえ貧富の格差があったところで、貧しい人たちが富める人たちに媚びへつらうような成り行きにはならない場合もあるだろうし、その辺をあまり一方的に単純化して考えない方が良さそうで、将来どのような社会へと変貌するかは、今のところは未知数なのだろう。過去の社会は詳細な資料が揃っていれば、それなり詳しく説明できるだろうが、未来の社会は現状の延長上で予想したり推測したりしてみても、予想や推測の域を出ない話で、なってみなければわからないことであり、ただ不快な時が過ぎ去るのを指をくわえて待っているわけにもいかないのだから、現状では嫌なら、嫌な部分を改めるべく、何らかのアクションを起こすしかないわけだが、その前に立ちふさがっているのが、諸々の制度の壁であり、制度を守り維持しようとする様々な組織が、人々の行動や活動を阻止し制御して捻じ曲げ、回り回って結局は制度を守り維持させるように仕向けてくるわけだが、そこに敵味方の対立を煽って、予定調和の二項対立をこしらえてしまえば、状況が安定してしまうわけで、そうなれば制度を守る側の思う壺なわけで、できればそれに逆らう人たちはそうならないように心がけてほしいわけで、二項対立を構成している両陣営を攻撃したり、敵対そのものに無関心を装ったりしながら、対立をはぐらかして脱臼状態に陥れてほしいわけだが、血気盛んな若者などは、どうしても感情的にどちらか一方に肩入れしてしまう傾向にあるわけで、二項対立の実現こそが制度の目的であることに気づかないわけだ。
それに気づかせないように対立を煽っているわけだから、気づかなくても仕方のないことかもしれないが、所詮は個人が制度の裏をかくことなんてできはしないわけだから、ここまで語ってきたことに実効性はないのかもしれず、フィクションだと思ってもらっても差し支えないわけだ。制度は世の中の規範や具体的な法律に守られて、厳然とあるわけだから、それに逆らうとか楯つくとかいうのは、どう考えても無理な話かもしれないが、攻撃するつもりもないのに自然と外れていたり、予定調和的に対立させられている人たちに嫌悪感や憐れみを抱くことが、無関心を装う態度として表れたり、権力にすり寄って、デマや屁理屈を用いて反権力側を攻撃する人たちの醜さを実感できれば、自然と不快な気分になるだろうし、不快な気分になったところで、必要以上に憎悪を掻き立てられてしまうと、結局二項対立の仲間入りをしてしまうわけだが、その辺が微妙なところではあるわけだが、権力にすり寄る人たちはわざと不快なことをやってくるわけで、理性ではなく憎しみの感情にとらわれることを期待してやっているわけだから、そうなったら相手の思う壺だということを自覚しておいた方がいいのだが、別に理性的になれというわけでもなく、皮肉な嘲笑にとらわれてほしいわけでもなく、平常心を保っていれば、それでいいのではないか。それが一番難しいことかもしれないが、対立を煽らないと何もできないというところが、彼らの弱点であり欠点なのだろうし、そこさえ押さえておけば、いざという時にはまともな判断ができるかもしれない。もちろんまともな判断というのが、どのような判断であるかは、その時が来てみないことには何とも言えず、今から判断を固定させておくのは危険だろうし、その場その時で臨機応変に対処できるように、心構えをしておけばいいだけの話で、所詮政治的にやれることは、選挙で投票したりしなかったりすることぐらいなのだろうから、別に大したことではないわけだ。暴動を起こすとか革命を起こすとかいうのは、地域的にも時代的にも場違いな話なのだろう。
4月6日「方便」近代のすべての思考は思考されぬものを思考するという法則に貫かれているそうだが、哲学的に思考する上でならそうかもしれないが、普通に思考する限りでは気にする必要のないことだろうか。何が哲学的な思考かといえば、それも素人にはよくわからないことであり、例えば人間という言葉の定義について、普通に考えれば自明なこととして人間という表現を使っているわけで、人間という存在について、何も哲学的に思考を巡らす必要も感じないし、その辺はいい加減に人間だとか人だとかいう表現で済ませているわけで、文章の中で使うとすれば、何となく前後の脈絡から、妥当だと感じるような使い方として、人間とか人とかいう言葉を用いるだけで、その場合は人間そのものについて特に疑問も感じないし、その存在を疑っているわけでもなく、人という存在があることは疑いようがなく、そのものについて考えているわけでもないので、考える必要がなければ考えないのは当然のことだろうし、その程度でとどめておかないと、他にどんな表現や言葉遣いをすればいいのかわからなくなってしまうだろうから、とりあえずはそれらを人間とみなしておけばいいのではないか。それらとは何なのかと問うことが、思考をこじらせる原因なのかもしれず、自己言及は避けなければならないことであり、とりあえず思考の対象を人間以外に定めておけば、とりとめのない逡巡や循環に陥らずに済みそうなのだが、たぶん暇な人は自己矛盾だとかパラドックスには魅力を感じるのだろうし、自己について考えるという自己言及パラドックスに浸っていると、何か哲学的なことを考えているような幻想を得られるのかもしれないが、本気にならなければ戯れ事の範囲内で処理できることかもしれない。クレタ人がクレタ人は嘘つきだと言った、というのがどういう意味に解釈したらいいのかわからなくなるようなパラドックスとして知られているが、他人に向かって私は嘘つきだと言えば、同じような効果を得られるかもしれないが、会話の相手はただ単にそうかと思えば済むことであり、また文法的な意味どおりに解釈しなくても、その前後の脈絡からどうとでも判断できることだろうし、そういうのを真に受けなければ、どうということはないだろう。
それだけでは真剣に考えるような問題とはならないだろうし、真剣に考えるべき対象というのが、マスコミの論調などから世間的に決められている面もあり、社会問題や政治問題について、なにやら国民が真剣に考えるべき対象として提示されていて、実際にそれを真に受けてほしいのだろうし、問題の内容にもよるだろうが、普通はそれを冗談だとは思わないのではないか。しかし具体的に何が問題なのかといえば、社会問題にしても政治問題にしても、明確な解決策がないということが問題なのだろうし、関係する様々な機関やそこに所属する人たちによって、対症療法的な政策や方策が取られていて、それについて経過報告的にマスコミがニュースなどで報道しているわけだが、要は政府や自治体がやっているそれが、うまくいかなくなったと判断したら、選挙などで反対票を投じてほしいということなのだろうし、その程度のことだと認識しておけば済むのかもしれず、当事者や関係者でない限りは、それ以上はあまり深く考えない方がいいのかもしれず、それらの問題について真剣に考えるということが、どういうことなのかについて考えてしまうと、やはり明確な答えがないだけに、煽動的な宣伝文句を真に受けて、否定的な感情に囚われてしまうと、うまくいっていないのに、うまくいかなくしている政治勢力を支持することになって、ややこしい事態を招くことになってしまうのかもしれないが、そういう面で社会問題や政治問題について、スポーツや芸能関連の娯楽のように感情移入するのは、それについて真剣に考えているような勘違いを生じさせてしまうだろうし、メディア的には癒着しているとしても、それとこれとは種類の違う分野であることぐらいは、最低限の認識としてわきまえておくべきなのではないか。芸能人やメディア関係者が知名度を生かして政治家になるとしても、消費税の税率が何パーセントが適当であるかの問題とは無関係だろうし、待機児童をいかにして少なくするかの問題とも無関係だろうし、そういうことと政治的なイデオロギーは関係ないし、煽動的な政治宣伝とも本来は無関係なのだが、憲法改正の問題にしても、事実上の日本の軍事力である自衛隊と、軍事力を放棄した憲法との整合性をどうするかということであり、そこに特定の政治的なイデオロギーや周辺国の軍事的脅威を煽る政治宣伝を介在させようとする意図を感じるとすれば、まともなやり方ではないと判断するしかないのではないか。
4月5日「音量の低下」境遇が自由であろうと不自由であろうと、そう感じているだけで、それだけでは何がどうしたわけでもない。条件や前提がなければ何も語りようがなく、何かを語ろうとすれば言葉に囚われ、何かを買おうとすれば貨幣に囚われ、何かをやろうとすれば権力や法律や慣習に囚われ、情報を発信したり入手しようとすればメディアに囚われ、人は社会の中で様々な媒体に囚われていることは確かだ。国家は絶えず権力と秩序を増大化させる方向で、人々の行為や行動に介入しようとするだろうし、放っておけば人々は不自由になっていってしまうのかもしれないが、もちろんそうなるのが嫌だから、権力に逆らうのだろうし、そういう人たちが団結すれば、各種の反対運動も盛んになるわけだ。そういう意味では人々は自由を求めていることは確かなのだろうが、一方では自分たちの思い通りになるように、権力を求めているのだろうし、自分たちが安全でいられるように、法や規範に基づいた秩序も求めているのだろう。結局人や集団は、言葉や貨幣や権力や法律などの媒体を使って互いに力を行使し合っているわけで、そうやって絶えず何かをやっているわけで、改めてそんなことを自覚するまでもないことかもしれない。では何を自覚すべきなのかといえば、その場の状況に合わせて自覚すべきことが明らかになったり、ならなかったりするわけで、自覚できないこともいくらでもあり、何に気づいていないからといって、取り立ててどうということはない場合もあるし、その反対に何か重大なことに気づかずに、窮地に陥ってしまうこともあるだろう。やはりそういう水準でも取り立てて語るようなことは何もないのだろうか。何かあるはずだが、それは人によって、その立場や境遇によって異なるだろうが、少なくとも言葉に囚われているわけだから、言葉から離れて、言葉を使わないで語るわけにはいかないが、語る意図や思惑を隠しながら語ることは可能なのではないか。語りながらもその真意を明かさずに、何かをごまかそうとしていて、それをごまかすことによって、その語りを受け取る人達を思い通りに操ろうとしたり、どこかへ誘導しようとするわけだ。そして誘導して行った先に、語り手の利益をもたらすような何かがあるわけか。
戦略的なやり方は、それがバレたら信用されなくなるような場合もあるだろうが、利益を共有しているつもりの人たちなら、わざと乗せられて騙されたふりをしながら、誘導されていってしまうような場合もあるのかもしれない。では人々は今この時点で何に騙されたふりをしているのだろうか。そして誰が嘘がバレバレの言説を用いて、見え透いたことを語っているのだろうか。衆参同日選挙があるだのないだのと、何やらメディア上でそんな話題を煽り立てて、そちらへと人々の関心を誘導しているのかもしれないが、中にはうがった見方や考え方をする人もいるだろうし、それが何かの罠だと警告している人もいるだろうか。政治的にも経済的にもめちゃくちゃなことをやりすぎて、収拾がつかなくなってきたと捉える人もいるかもしれないが、それも表面上のことであり、現状はまだほんの序の口で、これからもっと信じられないような展開があるとすれば、それは何なのか。アゼルバイジャンのナゴルノ・カラバフ自治州での戦闘が、クリミア戦争以来のロシアとトルコの戦争に発展すれば、それが第3次世界大戦の引き金になると期待する人もいるかもしれない。そうやって何とか行き詰まりを打破すべく、何か仕掛けてきている勢力があるとしたら、それはどのような勢力なのだろうか。いつの時代でも民主主義と資本主義の間には葛藤があり、経済がうまくいかなくなれば、人々の不満を抑え込むために、政府が強権を発動して民主主義を制限するような成り行きになるのかもしれず、今マスメディア上で起こっていることは、そんな状況を感じさせるわけだが、何かそれが茶番じみていて、ポンコツな人たちが見え透いた嘘ばかりついていて、それを無理やり信じ込もうとする人たちが、言論や報道の自由を主張する人たちに向かって、威張り散らしているのだろうが、それも三文芝居で、別にあからさまに政府が強権を発動しているわけではなく、それとなく各方面から圧力を加えていることは確かだが、それさえもうまくいっているわけでもなく、政府に批判的な報道番組の司会進行者が何人か交代したことも確かなのだろうが、それ自体が何か的外れで、実質的にはどうでもよかったことだったのではないか。何事もそのふりやつもりの段階にとどまっていて、何もはっきりとはしないまま、次第にフェードアウトしていくような気配を感じる。
4月4日「論理」法律は人を守ると同時に自由を奪う。国家が人を法律に縛りつけようとするわけだが、一応は法律を作るのは、国民の代表者で構成される立法機関である議会だろうが、法案を提出するのは政府であることが多いだろうし、そこには行政機関の意向が働いていて、行政機関である各省庁のトップも、議員などで構成される内閣に所属する各大臣が務めるわけだが、それらの大臣が各省庁の意向に逆らえるかといえば、どうも意向に沿った振る舞いをしないと、官僚たちの抵抗にあって、何もできなくなってしまうようで、結局はその集団意志である行政機関の意向によって法律が作られ、法律を用いて国民の行動を規制することによって、国家を統治する手法がとられているわけだ。立憲主義の理想はそうではないはずなのだろうが、国家を制御する官僚制がそれを許さず、それは人の意志ではなく、制度や仕組みから生まれた集団意志によって動かされているのであり、そのような集団意志に人々を従わせるようなシステムになっていて、官僚組織が増殖するにつれて財政赤字が際限なく膨張したり、その赤字を埋め合わせる目的で消費税率が上げられたりする成り行きに、国民の意向が反映することはなく、それを止めることは難しいのかもしれない。そんな成り行きに歯止めをかけるのは、経済がうまくいかなくなる以外にはないのかもしれないが、実際に経済がうまくいかなくなったから、予算が頭打ちになって、官僚組織の増殖が止まりつつあるのかもしれないが、官僚組織は何も行政機構だけではなく、企業などもその中核は官僚機構であるわけだから、大企業であるほどその組織が大きくなり、やはりそこで機構の増殖目的で利潤の追求が行われているわけで、そういう方向で集団意志が働いているわけだ。そんなふうに世の中をシステムとして捉えると、そこに人の意志や意向を反映させる余地がなくなって、人を守ると同時に自由を奪う法律とは、官僚機構の維持継続を優先させるためにあるわけで、人はただ機構の構成員である限り、その身を守られていて、それと引き換えにして、機構のために自由を犠牲にして働かなければならないわけだが、戦争ともなれば、命を犠牲にして機構を守らなければならなくなる。安保法制を戦争法だと糾弾している人々は、はっきりとは自覚していないまでも、そういう非人間的なシステムの論理に恐怖感を覚えているのかもしれない。
人は結局そういうシステムの論理からは否定される自由を求めているわけだが、実際にはそれに気づいていないわけで、逆に勝手気ままに振る舞おうとする人々を煙たがり、組織の論理で排除しにかかるのかもしれず、そうやって似た者同士で群れて、そこから生じる集団意志に従うことで、なにやら安心感を覚えるわけだが、その安心感と引き換えにして自由を奪われ、組織の団結を促す硬直した紋切り型的な思考の虜となってしまう。それと気づかずに自由を求めているのに、安心感を得たいがために、妥協してシステムの論理に身を委ねてしまい、その不自由な身の上が嫌悪感をもたらし、それが組織外の他者に対する憎しみや妬みに反映されるのではないか。だが実際に人が集団で組織的に動作している現状があるのだから、それを社会から取り除くことは不可能であり、社会そのものが人の集団が構成する組織とも言えるわけだから、そこから絶えず非人間的なシステムの論理が生じていることは疑いようがなく、人にとってその論理が必要とされているとみなすしかないのではないか。人にできることは、自由を求めてそこから自然に離脱しようとする成り行きに逆らわないことぐらいで、それは人の意志ではなく、作用反作用のような自然の力なのかもしれず、機会をとらえて及ぼされる偶然の作用であり、それを逃さずにものにできた人が、かろうじてつかの間の自由を手にすることができるに過ぎず、普通は妥協して組織内に留まろうとする傾向の方が強いだろうし、そうすることで利益が得られるのだから、そちらの方が正しい振る舞いなのではないか。もちろんそれは必ずしも自由か束縛かの二者択一を迫られるような構造ではなく、賢い人は複数の組織に属しながらも、属している様々な組織の傾向や特性の違いを利用して、その差異の中で相対的な自由を確保しようとしているだろうし、要するに組織への忠誠心の度合いによって、度合いが高いほど安心感と引き換えにして不自由になり、度合いが低いほど不安感と引き換えにして自由でいられるわけで、複数の組織に表面的に弱い束縛とともに入りながらも、組織の複数化による足し算で安心感を得て、しかもその分加入している複数の組織への忠誠心が弱まることによって、相対的な自由を確保するという戦略が成り立つわけで、それを実現するには他者や組織を相手とした交渉力が必要となってくるだろうし、その辺で個人的な技量と周囲との連携力がものをいうわけだろうが、結局非人間的なシステムの論理に対抗して自由を手にするには、賢くなるしかないということだろうか。でもそれは誰もができることはないような気がするわけだ。
4月3日「延命治療」選挙に向けての人気取りとして、消費税率を上げるのを延期したり、それは政府の経済政策の失敗した証拠だと批判したり、主張している内容はわかりやすいが、ではいったい税率を何パーセントにすればいいのか、ということになると、適切な数値など確定できないだろうし、また消費税率を上げれば財政赤字が縮小するのかといえば、それは国家予算の規模や内容についても検討した上でないと、何とも言えないだろうか。結局国民の人気取りや政府に対する批判では、何をどうしたらいいのかはわからないし、もちろん何をどうしたらいいのかを、一応はそれらの主張に盛り込んでいるのだろうが、主張通りのことが実行できるのかといえば、主張している人たちが政権を握ってみないことには、やはり何とも言えないところだろうし、現政権の政策がうまくいっていないとみなしているから、それを批判しているのだろうが、それも状況の捉え方次第で何とでも評価できるだろうし、現状でも内閣支持率がそれほど下がっていないのだから、それを多くの人が評価していることの証しとみなせば、必ずしも政策がうまくいっていないわけではないとも言えるのかもしれず、多くの人たちが批判しているのに、経済情勢のデータもうまくいっていないことを裏付けているのに、それはないだろうとも思うわけだが、要するに政策がうまくいっていないとしても、現状の内閣を支持している人が多いということだろうか。そうだとすれば、政策の成否では内閣支持率は下がらないのかもしれず、それも程度の問題かもしれないが、内閣を支持している人たちからすれば、現状は許容の範囲内なのかもしれない。そうだとすれば政権批判を繰り返す人たちには、端から勝ち目はなく、現状では選挙で勝つ可能性は低いと見ておかなければならないだろうか。たぶん選挙での勝ち負けが問題なのではなく、政府がやっていることでおかしいと思うことは、批判していかなければならないだろうし、それは必要条件であり、政権交代への十分条件ではないが、では何が政権交代への条件なのかといえば、選挙で勝つことなのだろうが、現状では勝つための条件などわからないわけで、ただ批判すべきとみなしたことを批判することしかできないのではないか。
何が良いことで何が悪いことなのかを決める判断基準が、よくわからないことは確かで、批判の対象があるとしても、批判する人たちはそれが悪いことだと判断して批判しているのだろうが、一方でその悪いことをやる理由や原因があるのだろうし、政府の政策ともなると、それがはっきりしていることは確かで、原発推進政策のように、その政策を支持しないからといって、別の理由から選挙で政権与党に投票する人が大勢いるわけで、批判している人たちからすれば、それは考えられない行為かもしれないが、そういうことをやる人たちにとっては、思想信条的にはそうする以外にありえないのかもしれず、それなりの理由や根拠を持ち合わせているわけだ。そういう人たちにとっては、原発推進政策が必ずしも投票の判断基準としては優先されないわけだから、そういう人たちに向かっていくら原発反対を訴えかけても無駄ではないかもしれないが、要するにそういう人たちにとっては、今の政権与党内で原発反対派が優勢となってほしいわけで、政権与党内で反原発の立場を表明している議員を応援しているのかもしれない。そういうのを欺瞞だとして糾弾している人もいるだろうが、政治に対する受け止め方は、人によって様々な考え方があっても構わないわけだから、必ずしもわかりやすい単純な価値観や判断基準では統一できないわけで、特に理性的な判断やきれいごとの主張を憎む感情が絡んでくると、そんな憎しみの感情に支配された人たちを味方につけようとする政治勢力に対する支持となって、世論形成に影響を及ぼすわけで、そういう人たちは憎むべき敵を倒すためなら、平気でデマを流すしそれを信じようとするし、仲間たちで団結して誹謗中傷を用いて敵を攻撃するだろうし、そういう人たちがはびこる環境もネットを中心に用意されているだろうし、マスメディア上でも世の中に憎しみを拡散させようとする意図を持った著名人も少なからずいるのではないか。たぶんそういう状況も含めて、それが当たり前のことだと受け止めた方がいいだろうし、ことさらにそんな否定的な状況の側面を糾弾することもないのではないか。その理由や根拠は示せないのだが、無理に示さなくてもいいような気がするわけで、そういう感情的な人たちの憎悪や嫉妬の念を爆発させ発散させる役目としても、政治の存在意義があるのかもしれず、そうやって喧嘩腰で敵対しながら戦争ごっこでもやらせておけば、気が済まないまでも不満のガス抜き程度の効用はあるのだろうし、国家統治と経済活動の行き詰まりから一般大衆の目を逸らせることで、少なくとも延命的な時間稼ぎにはなるのではないか。
4月2日「指令」身の程をわきまえずに及ばないことをやろうとすると、挫折して及ばないままに終わってしまいそうだが、及ぼそうとしているのが、何らかの力だとしても、及ぼうそうとしている対象が定まらなければ、それが何を意味するとも思えない。だがそれをさらに続けようとしても、わけがわからぬままに困惑の度が深まるばかりというわけでもなく、やっていくうちに力を及ぼうとしている対象が定まってくる場合もあるのかもしれないが、力とは何なのか。影響力というのなら漠然としていて計りがたく、権力というのなら、それ相応の社会的な地位に就いていなければ、及ぼすことのできない力だ。それを力と捉えるのがそもそも間違っているのかもしれないし、記した言葉の連なりを、定まったあてもなく、世界に向かって投げかけているに過ぎず、そのような行為が何らかの力を生じさせているとしても、やはり量や強度など計りがたいだろうし、逆に外部から力を及ぼされた結果として、そんな行為を強いられている面もあるだろうし、その外部から及ぼされている力として挙げられるのが、様々なメディアを通じてもたらされる情報であり、そうやって意識に入ってくる情報量が膨大で、意識の中では脈絡を感じられない雑多な情報から、興味を持った情報を選び出して、それを恣意的に結びつけて、筋の通った言説を構成しようとしているのかもしれないが、そんなことをやりながらも、ただ漠然と情報を受け取っているわけでもなく、少なくともメディアを選んで、そこからもたらされる情報を受け取っているのであり、そこに趣味や嗜好だけでなく、何らかの倫理が働いていて、その倫理というのは厄介な観念なのかもしれず、自らの都合を反映しているようでいて、それがご都合主義的な都合ではないような気がするわけで、堕落を戒めるような効果があるのだろうが、あえて不利になるような選択を強いるわけで、その辺が功利的な価値観からは導かれないことは確かなのだろう。倫理的に振る舞うことによって、最終的には利益を得ようとする魂胆があるわけではなく、それが自分のためになるとも思えないわけで、では何のための倫理なのかといえば、どうも社会のためというわけでもないような気がするわけで、社会のために犠牲になるというような観念とは違い、社会など滅んでしまっても構わず、では何のために倫理的に振る舞おうとするのかといえば、たぶん何となくそうしているとしか言えないのかもしれず、あえて言うなら天からの指令が下りてきて、それに逆らうことができないと言ってしまえば、神がかり的な神秘力に身を委ねていることになってしまうだろうが、そんな大げさなことではなく、取り立てて神など信じていないだろうし、それは宗教が示すような特定の神ではなく、偶然の巡り合わせをもたらす神なのかもしれず、神と呼ばなくても済んでしまうような、その場その時の些細な気まぐれに過ぎないだろうか。要するに気まぐれに忠実であろうとしているわけで、そうであろうとしている限りにおいて、自由を感じるわけで、世の中の規範に逆らうのではなく、従おうとしているのに外れていってしまうような感じなのかもしれず、逆に無理に逆らおうとすれば、結局それが規範に忠実であるような行為に縛られてしまうのかもしれず、意識して逆らおうとする人々は、別の規範を作ろうとしてしまうわけで、自分たちに都合のいい新たな規範を作って、その規範に他の人々を従わせようとしてしまうわけだ。そうやることが正義だと思い、その正義を世の中に通用させようとすることが、まさに功利的な価値観に基づいていると言えるのだろうし、たとえその正義が他の人々を納得させるような正義であるとしても、すべての人を納得させようとする正義である限りは、全体主義的な正義となるしかなく、倫理的にはそんな正義には同調できないわけだが、やはりそれに逆らおうとするのではなく、そんな意志や意識とは別の力が働いて、そこから外れていってしまうわけだ。
別の力と言っても、何だかわからないわけで、力ではないかもしれないのだが、結果的に意志や意識とは関係なく外れていってしまうとすれば、そこに何らかの力が働いていると考える方が、説明としては妥当で無難なような気がするわけで、しかしそれが何だかわからないのだから、説明自体が不十分なのだが、あえて信用できない表現を使うとすれば、神からの指令には逆らえず、そこから外れざるをえなくなってしまうといえばいいのだろうか。考えてみればそれは倫理でも何でもないのかもしれないが、やはり倫理としか言えないわけで、そうすることが正しいとは思えないわけだが、事の良し悪しとは関係なくそうなってしまうだから、たとえそれによって不利益を被ろうと、別に悪い気はしないわけで、現実に自分が困った状況に陥ってしまっているのに、何だか愉快な気分でいられるわけで、これでいいのだという台詞が意識に降りてきて、別に一件落着などまったくしていないのに、不安から解放されてしまう。実際には何ともならなくても、何とかなっているつもりになれるわけで、つもりでしかないことを承知で、そのままでいられるのは不可思議なことだろうが、逆に物事をうまく解決しようとして、努力の甲斐があってうまくいってしまうことの方が、危険なのではないかとも思ってしまう。たぶんそれは一時的な勝利でしかなく、そこからそのような解決によって不利益をこうむった人たちによる逆襲が開始されるのではないか。そのような解決法が合理的なやり方だと思われているからこそ、世の中には争いが絶えないわけで、そんな合理性の追求こそが功利的な戦略の蔓延をもたらし、何とかして有利に事を運ぶためのやり方が追求されればされるほど、事態のより一層の混迷に拍車がかかるわけだろうが、そこには自然の成り行きが介在しているわけではなく、要するに偶然の巡り合わせを制御して、必然的な結果をもたらそうとする人為が絡んでいるのではないか。そうしようとするから無理が生じて、それによってもたらされる一時的な利益と引き換えにして、その後に続く果てしない闘争を誘発している。
4月1日「不在」現代において人の自由がどうやって剥奪されるかといえば、それは組織的な官僚化と労働や借金などによる金銭的な拘束によるだろうか。企業や官庁に雇われて組織の歯車となることによって自由を奪われ、生活していくためには労働しなければならず、借金をして家や自動車などを購入すれば、長期間にわたってローンの返済に追われるわけだが、現代の産業社会を支えているのは、そうした人の自由を奪うシステムによるところが大きいだろうか。それをシステムとみなしてしまうと、否定的なニュアンスを伴ってしまうのかもしれないが、今やそうしたシステムにさえ組み込まれない人が多くなってきているのかもしれず、パートタイムの低賃金生活を強いられ、ローンで家や車を買えるレベルには届かず、そうなると否定的な意味で、かえって自由に行動できる時間が多くなるのではないか。そういうギリギリの生活をしている人が多くなってくると、商品が売れなくなり、景気がますます冷え込んでしまいそうだが、贅沢をせずに無駄な出費を控える生活の方が、欲にとらわれずに健康な状態でいられる可能性もありそうだ。結婚しても子育てする費用を稼げないなら、出生率が下がって人口も減ってくるだろうし、人が減ればそれだけ各種の競争率が下がるから、もしかしたらあくせく働かずに住みやすく生活しやすい未来が待っているのかもしれず、今生きている世代はそれなりに苦労するかもしれないが、世代交代が進み、資産的に余裕のある人しか子を産まないような世の中になれば、ある時期から快適な世の中になるのだろうか。そういう意味では、今低賃金で余裕のない生活を強いられている人たちは、未来の世代が余裕を持って暮らしてゆくための犠牲となるしかないのかもしれない。それを犠牲と捉えるのも、少し意味がずれているような気もするが、仕事と子育てと家や車のローンに追われる日々が、果たして充実しているのかと問われたら、それも人によって感じ方が違ってくるだろうし、人それぞれで置かれた立場も境遇も違うと捉えておくしかないのかもしれず、ともかく人は様々な境遇の中で生活しているわけだ。どのような環境で暮らしていようと、生きている限りは、そこでなんとかしようと試みるわけで、それなりに試行錯誤を繰り返しながら暮らして行けばいいのではないか。どのような生き方が良いわけでも悪いわけでもないだろうし、人によっては良し悪しを判断してしまい、その人が理想とする生き方を極めようとするだけの余裕があれば、求道的にそれを求めるだろうし、そういうやり方が虚しい振る舞いだと感じるなら、あるがままの境遇を受け入れるしかないのではないか。それを受け入れられないから、試行錯誤を繰り返すのだろうし、それが無駄な悪あがきではないことを証明したいのかもしれないが、そんなことをやっているうちに年老いてしまい、寿命が尽きる頃には諦めの境地に至れたら、少しはまともな人生を送ることができたと実感できるだろうか。少なくとも今はそんなありふれたフィクションは拒否しなければならないだろうし、現実と向き合い、そこから何かを引き出そうとしているわけで、必ずしもそれが問いに対する答えでなくても構わないわけで、世界に対する納得できるような解釈を求めているわけでもなく、それ以上に世界そのものを知りたいのかもしれない。そういう方面でそれ以上言葉を尽くそうとすれば、なにやら抽象的な物言いになってしまうだろうが、それは決して理由や根拠とはならないだろうし、何に対してそう思っているのでもなく、ただ漠然と思考を巡らせているのかもしれない。
わざと思い違いをしようとしているのではないし、できればまともな解釈を導き出したいのだろうが、たぶんそれを求めてしまうと、出口のない迷路に迷い込んでしまうのではないか。思考力に限界があることは確かだろうし、それ以前に言語表現に限界があり、対象を正確に表現できず、矛盾をはらんだ説明に終始して、何が言語表現の対象なのかもはっきりしなくなり、ただ漠然とそれを世界だとか世の中だとかみなしてしまうだろうが、果たしてそれ自体について述べているのかといえば、何か論点がずれているのであり、世界のシステムだとか社会のシステムだとかいう表現を使ってしまうと、自分があたかもそのシステムの外側から眺めているかのごとく語ってしまうわけで、実際にはシステム内にいるはずで、システムの中からその全体を見ることはできないわけで、どうしても不正確で部分的な説明になるしかなく、語っていること以外があることを無視して語るしかないわけだ。そうでなくても語っている対象を正確に捉えるほど、言葉が記号として事物に完全に対応しているわけではなく、言葉では捉えきれないほど事物の方が多いわけで、量の不均衡とともに質の不均衡もあるだろうし、語っている当の対象が、本当にそれなのか、語る人によって、あるいは語る角度や視点によって、量も質も特性も違うのかもしれず、その辺は説明の内容から判断するしかないのだろうが、同じ言葉を用いていても、必ずしも同じ対象について語っていない場合もあり得るわけで、そういうところから齟齬や軋轢が生まれるとすれば、それについての議論がかみ合わず、了解や合意を得られないだろうし、仮に了解や合意が得られたにしても、双方ともに自分たちに都合のいいように解釈しているだけで、妥協が妥協として機能しない結果もあり得るだろうか。議論が平行線に終わるのが、一番わかりやすいわけだが、それでは何ももたらされないことになり、結局はそれ以外の強硬手段で優劣を決めるとなると、何のための議論なのかわからず、その無効性を確認するだけに終わってしまうだろう。
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