彼の声113

2016年

3月31日「わざとらしい」

 誰が何をやっているとも思えないのは、誰とも無関係だからというわけでもなく、どんなに孤独でも社会と何らかの繋がりがあるのだろうし、たぶん生きていること自体が、それを証明しているわけで、自給自足の生活をしているわけでもなければ、生活物資を買いながら暮らしているわけだ。何か興味があるとすればそれは社会の中にあり、何かそれ以外に興味があって、その興味を抱く対象を求めて社会の外へと赴くとしても、それは一時的なことだろうし、生きるためには再び社会へ戻ってこなければならない。焦って荒唐無稽な妄想へと飛躍しても、それは意識が幻想の中に閉じこもっているだけで、自身の外部へと飛び出しているわけではない。思考の論理的整合性を求めても、それは矛盾に対して背を向けているに過ぎず、相変わらず自己の内部で自意識と自意識が格闘してわけだ。それ自体が自家撞着を示しているのかもしれないが、それでも考えてみなければならず、何を考えているのかといえば、それは自意識が気づいていないことかもしれない。世の中の構造を知ろうとするのは、考える上で当然の成り行きかもしれないが、それは静的な構造ではないだろうし、常に動いていて、人や集団やその他の自然からもたらされる作用を受けて、変容を被りながら存在していると言えるだろうか。現実に存在しているわけではなく、それを捉える人の思考の中で存在しているわけだが、それをわかりやすく説明しようとすると、何か単純化して語るしかないだろうし、構造の動的部分や語りきれない部分で、説明が矛盾してきてしまうのかもしれず、それでも単純化して説明しないことには、構造とは言えなくなってしまうだろうし、そういう意味で社会の構造的な解釈は、常に不完全で誤謬を含んでいると言えるだろうか。しかしそうでなければ、いったい他にどんなふうに語ればいいのだろうか。社会の中で起こっている具体的な出来事や現象を説明しようとすればいいだけだろうか。それが興味深い出来事や現象なのだろうから、語ろうとするわけで、実際にメディア上で話題となっている出来事や現象なのだろうし、それらが日々ニュースの類いで報道されているわけだ。それ以上は求めなくてもいいのだろうし、興味がなければ不要なのだろうが、一方でなぜそうなっているのか、その理由や原因を知りたければ、それらについて考えてみるしかないわけだが、考えて何らかの結論めいたことがわかったら、それについて語ろうとするわけで、語る上で、社会が抱えている構造的な欠陥や矛盾点を指摘したくなってくるのだろうか。だが構造的な理解ではうまくいかないわけで、そういうわけで出発点に戻ってきてしまうわけだ。

 世の中の制度や仕組みと、それに携わっている人や集団の意図や思惑が複雑に絡み合いながら、それと自然現象や偶然の巡り合わせも加味されて、何らかの出来事や現象が起こっているわけだが、それに触発されて、何か批判めいた言動や運動を展開するにしても、そんな行為がうまくいかないとすれば、うまくいくにはどうしたらいいのか、そのやり方を考えるのが普通だろうが、そういう方面で試行錯誤を繰り返している人も大勢いるのだろうが、どうもそうではない可能性もあるような気がするわけで、戦略的に工夫を凝らすのではなく、うまくいかないことをひたすら繰り返していても構わないのではないか。反原発運動にしても安保法制反対運動にしても米軍基地反対運動にしても、今やっていることを延々と可能な限り続けていれば、それで構わないのではないか。何か主張があって、そんな主張をすることが正しいと思っていて、批判している対象が間違ったことをやっていると思うのなら、可能な方法で主張し批判することしかできないわけで、それを今やっている最中なのだから、実行できているうちはそれをやるしかないわけだ。それ以上は考えられず、それ以外のどんな方法が有効だとも思えないのなら、そういう類いの運動は、それ以上はありえないのではないか。それらも世の中で起こっている出来事や現象の一部なのだろうから、それを支持することも批判することもできるだろうし、それらのすべてがうまくいっていないわけではないし、うまくいっている部分もいっていない部分もあるわけで、まだ運動が続いているのだから、最終的な結果が出ているわけではなく、現状ではどうとでも言えるのではないか。そしてそこに自らの意図や思惑を重ね合わせる必要もないわけで、自らがどんな意図や思惑を抱いているのかを知ろうとしなくてもいいわけだ。その時の気まぐれで賛同したり擁護したり茶化してみても構わないのではないか。たぶんそれらとは無関係や無関心を装っているわけではなく、すきあらばそれについて何か語ってみようと思っているのかもしれないが、それは今後の成り行き次第と言っておけば事足りるだろうか。現時点では面白がっているのかもしれないし、退屈しているのかもしれないが、そんな自意識を探ろうとしているのではない。ただ原発再稼働を強行しつつ、安保関連では憲法改正を模索している人たちの動静を、面白がって見ていることも確かで、何か破滅に向かってひた走っているような印象も感じてしまうわけで、それが愉快でたまらないのかもしれないが、たぶんそれは勘違いなのだろう。今のような国家体制が続く限りは、そこに巣食う保守勢力が主流派を占めるのは当然だろうし、一時的に退潮傾向になろうとも、今後も執拗に国民の支持を集め続けるのではないか。


3月30日「失敗」

 人と人あるいは人と集団または集団と集団などが、互いに連携したり対立したりする際に、それらの関係を生じさせる上で一定の法則を見出せるかもしれないが、一方で偶然の巡り合わせによるところも大きいだろうし、そこに人や集団の目的を巡って、戦略的な関係が生じているようにもみなされるわけだが、その目的というのが、自らの利益を得る為の功利的な目的であれば、目的としてはっきりするだろうが、必ずしもそうとは思われないような人や集団があるとしたら、そのような人や集団は、いったい何のために活動しているのかといえば、それはよくわからないだろうし、要するに人も集団も、一つの目的のために活動しているわけではなく、何かそれが目的としてはっきりと結晶していない場合の方が多いのかもしれず、周りから及ぼされる様々な作用の中で、かろうじて存在しているに過ぎず、中には特定の目的に向かって、まっしぐらに進んでいる人や集団もあるのだろうが、実際に個人の意識の中でも集団の構成員にしても、様々な思惑や思惑にさえならない感情などが、複雑に絡み合い交錯しているわけで、それらも偶然の巡り合わせやその場の思いつきで、様々に他の思惑や感情に影響を及ぼしているわけだから、それらが特定の行動や活動に結びついた時には、何らかの目的として顕在化するわけだが、その目的にしても、周りの諸事情や個人や集団の構成員の気まぐれや体調の良し悪しや諍いなどから、当初に目指していた方向からずれていってしまうこともあり得るわけで、人や集団の目的がはっきりと固定されている期間は、それほど長くはなく、はっきりしているとしても絶えず揺れ動いていて、途中から別の目的が設定されたり、それさえも見込みがないと判断されれば廃れて、個人も志半ばでやめたり、亡くなってしまう場合もあるだろうし、集団も解体したり分裂したりを繰り返す場合もだろうし、そのような可能性を考えると、今何らかの人物や勢力が、はっきりした目的を達成するために、あれこれと関係する方面に働きかけたり、様々に画策しているように感じられるとしても、それがそのまま思惑通りに事が運ぶ可能性は低いだろうし、仮にうまくいったとしても、それで終わりではなく、その後の成り行きが待ち受けているわけで、目的を達成できてめでたしめでたしでは終わらず、そのあとに目的達成を台無しにするような、大どんでん返しのような成り行きが待ち受けていたら、なにやら皮肉な結末となりそうだが、さらにそのあとにも様々な成り行きが待ち受けているのだろうし、目的達成の時点からどんどん時間が経過していって、時が経てば経つほど過去の目的達成などどうでもよくなってしまうだろうか。

 世の中が今の状態で安定しているように思えるとしたら、現状で比較的うまくいっている人や集団としては、なるべくその状態が長引いてほしいわけで、そのためにあれこれと画策しているわけだろうが、そんな状態を保とうとすればするほど、それがうまくいっているうちは安泰だが、だんだんその状態を保つのが困難となるのだろうし、そんな状態がいったん崩壊し始めると、無理に維持した分の反動が大きいと、場合によっては大変動をもたらしてしまうのかもしれないが、中には徐々に崩れ去っていく成り行きも考えられるわけで、それが起こってみないことにはなんとも言えないのだろうが、たぶん誰かが指摘しているように、現状が国家や民主主義や資本主義が崩壊しかかっている時期なのかどうかは、やはり実際にその兆候が顕在化してみないことにはなんとも言えないだろうし、現実に様々な方面で世界的に行き詰まり感が漂っているかもしれないが、意外とそれが杞憂に終わってしまう可能性もなきにしもあらずだろうから、大げさな予言は差し控えた方がいいのかもしれず、できれば現状維持の方向で、差し障りのない程度で政治経済的な分析などを試みるぐらいが無難なやり方なのだろうが、目的を達成させるための人や集団の戦略的な行為が、目的から外れた結果をもたらし、そんな結果の集積が世界的に政治経済的な行き詰まりを感じさせているとすれば、それが国家や民主主義や資本主義の崩壊を直接はもたらさないにしても、それらに何らかの影響を与えていることは確かだろうし、これまで当たり前に思われていたことや気づいていなかったことが、改めて身にしみて自覚させられているとすれば、そこで暮らしている人々も少しは謙虚な気持ちになれるだろうし、戦略的に功利性ばかり追求すると、敵対する人や勢力ばかり増やすし、周りの無関係な人や集団に迷惑をかけるだろうし、結果的にそれが目的の達成を困難にさせるわけで、世の中全体がどんどん行き詰っていくことを実感させられるのではないか。しかもそれで構わないわけで、そうやって行き詰まりを実感する人が多くなればなるほど、そういう人たちは無気力になるか凶暴になるかどちらか極端に振れる傾向にあるのかもしれず、どっちにしろ扱いづらく利用しづらくなって行くわけで、今までうまくいっていた人や集団が、戦略的に一般大衆を利用しながら利益を得てきたのだとすれば、そういうやり方がだんだん通用しなくなって行くわけで、結局は自業自得でうまくいかなくなってしまうわけだが、ではどうすればいいのかといえば、目的を達成できなければいいだけで、要するに失敗すればいいわけだが、失敗しようとして失敗するわけではないのだから、それこそが目的から外れた結果なのだろう。


3月29日「魅力」

 歴史的に社会が進化しているとは思えないが、原始時代と比べれば、今の時代の方が進化していると言えるだろうか。進化という概念に肯定的な意味合いが含まれるわけでもないだろうが、一部で言われているように、今の時代が脱宗教化が進んだ時代だと捉えるのではなく、昔とは趣の異なる宗教が人々の生活に溶け込んでいると考えた方が、何か真っ当な認識のようにも感じられるわけで、では今の時代に人々の心を捉えて離さない宗教といえば、普通それは宗教とはみなされない信仰なのだろうし、それが信仰であることにも多くの人が気づいていない現状があり、そういう意味では脱宗教化が進んだ時代だと思われても仕方のないことなのだろうが、それでも昔から続いている宗教で、今も典型的な昔のスタイルで多くの人に信仰されている宗教といえば、それはイスラム教だろうか。ヒンズー教も宗教人口は多いのだろうが、そのほとんどはインドとその周辺に集中しているだろうから、やはり国際的に世界の隅々にまで広がった宗教で、昔ながらの戒律や教義が形骸化していない宗教といえば、キリスト教よりはイスラム教の方が、より信者の生活全般を支配している宗教と言えるのではないか。アラブ人やペルシャ人やトルコ人などの異なる民族であっても、同じ戒律と生活習慣を実践することによって、かつては国際的な連携を育み、民族同士の対立の解消するのに役立っていたはずなのだろうが、西側列強諸国による帝国の解体と、西欧的な民族国家思想が入り込んできて、対立が取り返しがつかなくなるほど激化してしまった、と紛争地帯の現状を捉えておけばいいのかもしれないが、だからと言って、元のイスラム帝国を復興すればいいのかといえば、どうもそれは違うような気がするし、とりあえずは民主化するしかないのだろうし、西欧の流儀で民主的な議会選挙を実施して、議員内閣や選挙で選ばれた大統領が政府を管理運営するような方式を採った方が無難なのだろうが、どうも国内の民族対立や政界や官界の腐敗が蔓延している国がほとんどかもしれず、さらに王族の支配が続いていて、民主化さえ実現してない国も多数あるだろうが、それでも良心的な人々の絶え間ない努力によって、いずれは民主的な国家形態が支配的になり、戦争のない平和な世の中が訪れるだろうか。

 たぶんそれを阻んでいるのが、宗教とはみなされない現代的な信仰なのだろうし、それが一般には資本主義と呼ばれる宗教であるわけで、悪く言えば拝金教とも呼ばれるわけだが、これ自体は人の欲望が絡んでいるだけに、実際に生活がかかっているわけだから、信仰をやめるわけにはいかないだろうし、ほとんどの人にとっては信仰だとも思えないわけで、それが宗教だなんて信じていないわけだ。そしてその単純な教義である商品と貨幣の交換は、誰もが合理的なやり方だと思っているだろうし、そうすることが当たり前なのだから、合理的か否かなんて考えもしないだろうが、それが一時的にしろ恒常的にしろ、実際に貨幣や資産の蓄積が起こって、そうすることが合法なのだから、結果的に人々の間に貧富の格差が生じるしかないわけで、人々は戦略的に富を増やす競争を強いられているわけで、人も企業もどのような形であれ、商品を安く買って高く売ることにしのぎを削っているわけだ。実際には商品を生産して交換しているだけなのだが、生産するにも労働力や生産する土地や設備や原材料を安く買って、生産された商品を利潤が出る金額で高く売るわけで、他の多くの動植物とともに行っている生産よりも、その売り買いという交換に重点があるわけだ。しかもその交換によって利潤が出なければならないわけで、その利潤がどこから発生するのかといえば、空間や時間の差異を利用して利潤を出しているに過ぎず、実質的なものではなく、あまり根拠があるとも思えないわけで、そこが宗教の宗教たる所以なのだろうが、悪く言えば詐欺とも言えなくもないわけで、昔の人たちが商人や高利貸しを悪人だと思っていた認識も、そういうところからきているのだろうし、工業製品などの絶え間ない技術革新によって、何か利潤を得るだけの正当な根拠があるようにもみなされていた頃もあったわけだが、実際には安く作って高く売るための技術革新であったり、ブランドイメージを人々の意識に植え付けることによって、他の製品よりも高く売る戦略であったりするわけで、何かその辺が合法的な詐欺と言ってはまずいのだろうが、現代的な宗教とみなしておいた方が無難な解釈なのではないか。


3月28日「ぼやけた認識」

 アフガン・イラク戦役はアメリカのネオコン勢力が、石油権益などの国益を守るために起こしたとも言われるが、アメリカと敵対していたアフガニスタンのタリバン政権やイラクのフセイン政権を倒し、後に国際武装組織のアルカイダのリーダーだったビンラディンも殺害したなどの戦果があったわけだが、結果から見ればそれによってアメリカの経済が好転したわけでもなく、逆に世界の覇権を握る超大国としての国力が陰りを見せ、軍事侵攻した国では未だに内戦が収まっていないわけだから、うまくいかなかった面の方が多いのではないか。そこから考えると、戦争によって経済が好転するとは限らないことがはっきりしたわけで、元々大して産業が発達していなかった地域で戦争を起こしても、得るものはあまりないということだろうか。独裁体制を倒すという政治的な意味合いはあったわけだろうが、かえって内戦やテロが多発して混迷の度を深めてしまったのだから、西欧諸国の価値観が世界で通用しなくなったことを裏付ける結果が示されただけだろうか。また国の経済が行き詰まれば戦争になるという単純な認識も、もしかしたら迷信に過ぎないことが証明されつつあるのかもしれず、本当に将来主要国が敵味方に分かれて全面戦争するような第三次世界大戦と呼ばれる事態が起こるのか、疑問を感じざるをえないのだが、そういうのは第二次世界大戦で終わりだったのかもしれない。日本では首相をはじめとして、軍国主義的な妄想に取り憑かれている政治家が実権を握っているようで、それに呼応して危機感を煽る反体制派の人々も戦争妄想に取り憑かれていて、何かそこに経済の低迷を打破する救いがあるような信仰もあるのかもしれないが、果たして北朝鮮が暴走して朝鮮半島が戦場となったとしても、昔の朝鮮戦争のような特需景気の再現にはならない気がするわけで、また仮に中国で内戦が起ころうと、それがそのまま日本を利することにはならないのではないか。

 実際にアフガニスタンの内戦によって、隣のパキスタンやイランの景気が良くなったとは聞かないし、イラクやシリアの内戦がサウジやイランやトルコの景気を良くしているわけでもなく、逆にトルコなどは難民が押し寄せて自爆テロも頻発しているわけだから、また国内のクルド人勢力との軋轢が増しているし、悪いことばかりのような様相を呈しているようにも感じられるが、時代や地域や状況が変われば、戦争の内容も変わってくるわけで、昔の軍国主義時代を懐かしんで夢よもう一度というものでもないし、やみくもに戦争への危険を声高に煽れば人々の支持を得られるわけでもないし、どちらもまるで見当違いなことをやっているのかもしれない。というかそんな対応しかできない現状があるわけで、他に何も思いつかずに何もできないから、軍国主義だの戦争だのに逃げているのではないのか。そちらへと人々の意識を向けさせて、何もなく何もできない現状を隠そうしているのかもしれず、その何もできない手詰まり感が、軍国主義だの戦争だのの妄想をもたらし、その妄想に自家中毒気味に刺激されて、ひたすら双方ともに危機感を煽っているわけだが、そうとはっきり自覚しているわけでもないだろうが、政治家は自分達の役割が何だかわからなくなってきただろうし、その周りでうごめいているメディア関係者にしても、何やら権力を監視するとかいう高邁な建前とは裏腹に、慣例に従って癒着するだけで、他に取り立てて伝えたいことがあるとは思えないだろうし、ただ世の中の規範や慣習がそんな立場や役割をもたらしていて、官僚にしても自分達が属する機構の歯車として動いているだけで、別に日本国民のために何かやっている気にはなれないのではないか。彼らが敵視しているような反原発運動に参加している人たちであっても、一応は日本国民が大半を占めているだろうし、政治には無関心で選挙になっても投票にもいかないような人たちも、一応は日本国民なわけで、だからと言ってそれらの人たちを非国民扱いするのもおかしな話だろうし、特定の制度や仕組みを備えた国家といえども、実体としては人が思い込んでいるほどはっきりした現実感を伴っているわけではなく、突き詰めて思考してしまうと、空疎な共同幻想でしかないのかもしれない。


3月27日「不発」

 知識が何をもたらすかは、それを利用して何ができるかにかかっているだろうか。何もできなくても知りたいという欲求に従いたいのではないか。ただ知りたいだけなのかもしれない。知って理解したいのではないか。自分が何者であるのかを、あるいは身の回りの世界を。そうでないとすると、何を理解したいのかわからない。そうではない方を選んでいるのかもしれないし、何を理解したいのかわからないのかもしれないが、知識を得るのも偶然に支配されているようだと、気まぐれが作用して、不意に無関係に思われることが、それを知ると同時に関係があるように思われてくるだろうか。何を語りたいわけでもないのに、文章を記しているとすれば、その文章の内容が、自らが語りたいことではないように思えてくるかもしれないが、そこにも偶然に知り得た知識が介在している可能性があり、それを説明しようとしているのかもしれない。そしてその記された言葉の組み合わせ次第では、自らが知りもしないことが語られるかもしれず、記された文章が知り得た知識を超える内容になっているとすれば、そこに示されているのは、文章を記している者の知識ではないだろうか。嘘になるのを承知でそんなデタラメなことを述べている気もしないではないが、たぶん文章は他からの引用の織物であり、記している者の知識を超える内容を獲得していると捉えた方が、より妥当な認識なのではないか。あるいはそこに単純な意図や思惑などを当てはめなくてもよさそうに思われ、ただ漠然とした理解以前の印象を感じればいい場合もありそうで、知識というよりは風景のようなものを文章から取り出せば、それで何かわかったような気になるのかもしれない。

 どこまでもそうだとも言えないところだが、書いた作者が何を訴えたいのかを気にする必要が感じられない文章ならば、読んで理解する以上に、作者とは無関係な方面の何かを文章から受け取れる場合もあるのかもしれず、その何かが知りたかったことだと読んだ後から気づくこともありそうで、逆に何を訴えたいのかはっきりした短いメッセージの類いには、あえてそれをはぐらかすような返答を考えたいのであって、特にそれが紋切り型のありふれたメッセージである場合は、なおさらその訴えている紋切り型から逸脱する意味を、そこから抽出したくなるわけだ。それが多くの人が従っている紋切り型的な思考への抵抗であるわけで、そこに抵抗する自由を見出せなければ、たとえそれが体制批判的な内容であろうと、それ自体が反体制的な全体主義への迎合となるわけだから、やはりそんなものには倫理的にも逆らう必要を感じるわけだ。体制だろうと反体制だろうと、そこで発せられている同じような主張の内容に違和感を感じれば、やはりそれは違うのではないかと反論するのが、真っ当な対応だろうし、たとえそれが無視されようと、違和感を覚えるような主張に迎合する筋合いはないわけで、何に迎合したら有利になるかという打算には、可能な限り与しない方がいいだろうし、自由を重視できる立場あれば、功利よりは自由を優先させた方が、倫理的な価値観には適合するのではないか。もちろん何か倫理的なのかといえば、安易に妥協して己を曲げないことが倫理的な態度なのだろう。それが正しいか間違っているかではなく、合理的か否かでもない。

 そんな判断を通用できる範囲内で通用させておいた方が、より自由でいられるわけだが、やはり自由でいられることが良いか悪いかではなく、ただ自由でありたいという意志を尊重するのが、倫理的な態度だとみなしているだけで、人によっては価値観が異なるだろうから、それを倫理的な態度だとはみなさない人も多いだろうし、中には世の中の規範や常識に従うのが、倫理的な態度だと思っている人もいるわけだから、そういう人にとっては、規範や常識に縛られて不自由になる境遇を、ありがたがって受け入れているわけで、そういう人たちこそが紋切り型的な思考の信奉者なのだろうが、問題はその世間を後ろ盾とした横柄な態度もさることながら思考の内容であり、何かそれがおかしいと思われたら、可能な限り逆らうしかないわけで、体制的で反体制的であれ、世論を同じような主張に染め上げることが何を意味するのか、歴史的な経緯としては、世論が同じような主張で満たされた後には、必ずその主張を正当化する独裁者が現れるわけで、そこで待っているのは恐怖政治の類いにしかならないのではないか。そしてそんな恐怖政治こそが、そこに群れ集う大衆の不満のガス抜きとして作用し、不満の爆発こそが恐怖政治そのものなのかもしれないが、もちろんその程度は、過去に世界各地で繰り返されてきたことが、歴史的な事実として免疫となり、昔のような民衆に対する大虐殺には至らない時代背景が、現代の平和な地域には備わっているのかもしれず、その辺がまだ民主主義の歴史が浅い中東やアフリカなどの地域では、大虐殺として顕在化してしまうわけだが、日本ではどうかといえば、何か不満の爆発自体が中途半端な不発に終わるきらいがあり、それが良いことなのか悪いことなのかとは別次元で、民主主義だろうと恐怖政治だろうと、どのような価値観も完全には受け入れない風土なのかもしれない。


3月26日「気楽な世界」

 資本主義経済の中では農産物は大規模集約化しないと利益が出ないだろうし、工業製品も技術革新が行き着くところまで行き着いてしまうと、組み立てラインで働く工場労働者などは低賃金のパートタイムになってしまうだろうし、しかも組み立て工程が機械化されてオートメーションになってしまえば、労働者すらほとんど要らなくなってしまうわけで、大規模農場で農産物を生産するのに、作物の種類によっては収穫時期に人手が多少は必要な場合もあるだろうが、基本的には労働者をほとんど必要としていないように、工場でも人件費が安い地域以外では、製品の種類もよるだろうが、生産工程を全自動化した方が安く生産できれば、ほとんど労働者を必要としなくなってしまうだろうし、農産物にしろ工業製品にしろ、その生産工程ではほとんど人手を必要しなくなっていく傾向にあるのだとすると、では実際に昔ながらの労働者というのが存在しているのかといえば、いるとしても先進諸国ではそれほど多いわけではないのかもしれず、また労働組合のような組織が政治的な力を持っていた時期は、とうに終わっているのだとしたら、そういうところで労働に対する先入観や感覚が、メディアからもたらされる情報からはだいぶずれているのではないか。もしかしたら現状では、大企業の正社員や公務員以外の労働者というのは、みんな低賃金あるいはパートタイム従業員になりつつあるのだろうか。低賃金というのがどのような基準以下が低賃金となるのかは、大企業の正社員や公務員に比べてということだろうが、低賃金では暮らしていけないのかといえば、実際に暮らしているわけだから、日本でも1億2千万人余りの人口がそれほど減らずに済んでいるわけで、そうだとすれば今後もそんな傾向が続いていくのではないか。そしてこんな状況が政治的な政策で変わるとは思えないわけで、賃金が上がらないことに不満を持つ人が労働者の大多数だとしても、大企業の正社員や公務員が全体からみればほんの一握りの数でしかなければ、いくらそれらの人たちの賃金を下げてもたかが知れているわけで、逆にそれ以外の労働者の賃金を上げたら企業の利益が出なくなってしまうとすれば、もはや構造的にもどうにもならない状態ということだろうか。それでも不満のはけ口を政治に押し付けるのなら、選挙で政権交代を実現させるように投票すればいいわけで、それもできないというのなら、それ以外のところに期待するしかないのだろうか。

 そういうところだけ考えればそうなのかもしれないが、それ以外の部分を考慮すれば、結構そういう認識は間違っているのかもしれず、人それぞれで境遇が異なり、そんな画一的な基準で労働者を捉えるわけにはいかないのだろうし、地域的な事情も異なるし、賃金が安かろうが仕事がなかろうが、結構楽しく暮らしている人も大勢いるのかもしれず、要するにそんな政治的な勢力として一定の規模にはなりえないような人が大勢いて、そういう人たちにとっては、政治家が国会や内閣で何をやろうと主張していようと、ほとんど関係ないように思えてしまうのかもしれず、自分たちの味方になってくれるような政党もなく、選挙に行って投票するとしても、誰に投票しようと、自分たちの生活がどうなるわけでもないと感じられてしまうとすれば、そんな人たちが政治的に無関心になるのも無理のないことだろうし、別にそれが悪いことだとは言えないのではないか。それどころか今後もそういう人たちがどんどん増えていった方がいいのかもしれず、政治とは無関係に普通に人々が暮らしてゆけるような世の中が実現した方が、何かと手間がかからなくていいのではないか。ともかく消費者が商品を必要最低限な分だけしか買わなくなれば、それだけ消費も限定されてくるだろうし、技術革新にも限度があるのだろうから、性能がある一定の水準に達すれば、もうそれ以上は大差なくなってしまって、壊れたら新しいのを買う程度の購買サイクルになってしまえば、それが普通だとわかるわけで、今みたいに若者が大して性能も機能も変わらないスマホを、一人で何台も持っている状況がおかしいわけで、そんな状態自体がもう限界なのだから、それも現象の一面に過ぎないのだろうが、こんな情勢がもうしばらく続くにしても、現状の問題は一向に改善されないまま、それとは違う思いがけない方向へと、社会も時代も変わっていってしまうような気がするのだが、それにしても現状にしがみついて、我が世の春を謳歌しているつもりの人たちが、羨ましいとも魅力があるとも思えないわけで、それどころか滑稽に見えてしまうし、愚かな行為と言動によって生き恥を晒しているようにしか見えないのだが、メディアも一般大衆もそういう人たちの周りに群がっている現状があるわけだから、それを否定したり憎悪したりしてはまずいのかもしれないが、もしかしたらそれも全体のほんの一部分でやっていることでしかなく、今度の国政選挙あたりで投票率がさらに下がって、史上最低を更新するようなことにでもなれば、やはりそれが証明されてしまうのではないか。もちろんメディア関係者は、自分たちが提供する話題に無関心な人たちが過半数を占めるなんて、誰一人として認めたがらないだろうが。


3月25日「諦念」

 それにしても始まりは何だったのか。たぶん何が始まりでもなかったのかもしれない。何も始まらないままに、ありふれた人たちがありふれたことを主張しているように思われてしまうと、そのありふれた主張の中身などには興味がなくなってしまうわけだが、他に何があるのかと問うなら、何があるとも思えず、何もなければそれで構わないのだろうが、ではもうこれ以上は何も起こらないということだろうか。何か起こっているように見せかけることすらできないわけでもないのだろうが、その見せかけているのが、メディア的に世間の気を引こうとしているだけのような気もするわけだが、どうもそれが変な方向へと人々の意識をずらそうと画策しているように感じられてしまうわけだ。何もないから悪あがきとして、日本死ね!と呟かざるをえないのか、それとも何か他に興味を持たられてはまずいことでもあって、そこから気をそらしているつもりなのだろうか。報道番組のコメンテーターとしてテレビに出ていた経営コンサルタントの経歴詐称がバレたり、自民党から参議院に立候補予定のタレントの不倫報道があったり、定員オーバーで抽選に落ちて、保育園に子供を預けられなかったから、日本死ね!とネットでつぶやいて、それが国会で取り上げられて物議を醸し、何か流行語的に話題となっているわけだ。それらはすべて一過性の話題で終わってしまいそうだが、ならば一過性ではない話題というのがあるのかといえば、すべての話題は一過性で終わってしまうのかもしれず、それ以上何かを突き詰めて考えるようなことでもないとみなせば、そう思っておいて差し支えはないのかもしれないが、中には原発事故のようにもうかれこれ5年を超えて話題となっているものもあり、事故処理に数十年を要し、放射能被害も深刻だから、それは当然のことで、原発推進派としては早く忘れてほしいのが本音だろうが、現実に事故処理が終わらないのだからどうしようもない。そして事故から5年が経って、早くも原発再稼働に前のめり気味なのだろうから、懸念されている西日本方面の巨大地震でも起これば、また取り返しのつかない事故にでもなって、日本死ね!というつぶやきが現実のものとなる日も近いのだろうか。

 低賃金で保育士のなり手がいないのと、また老人介護の現場でも、これまた低賃金過重労働だから、介護士のなり手がいないと言われていて、保育園や老人ホームなどのシステムそのものが、利益や効率重視では成り立たない現状があるのだろうし、そういった金儲けができない部門は、行政が受け持つべきなのかもしれないが、行政は行政で別の方面に予算を使いたいのだろうし、その辺を政治力でなんとか調整して、必要なところに予算を配分できるようにすべきなのだろうが、現実にそういった問題が出ているわけだから、うまくいっていない面があるわけだ。もちろん選挙運動などでは、立候補者たちがそういった問題を解決しますと訴えているのだろうが、そんな主張をしている人が当選して議員になったとしても、やはり今のところは解決できていないわけで、何もかもがうまくいっていないわけでもないのだろうが、実際にうまくいっていないところが顕在化していて、今回は日本死ね!という挑発的な文句と共に、メディアで紹介されて世間的な話題となったわけだが、だからと言って、こんなことがきっかけとして、事態が改善の兆しを見せるのかといえば、議会の政治家や自治体の首長や行政の担当部署などが、改善するために動くのだろうが、どこまで改善するのかは不透明で、自分たちの努力によって改善したと宣伝する政治家が出てくるかもしれないが、これまで長い間うまくいかなかったことが、そう短期間で劇的に改善するとは思えない。だからと言って、一般のほとんどの人たちには関係のないことかもしれず、すべての老人が介護施設を利用するわけでもないし、保育園の抽選に外れる人もそんなに多いわけでもなく、ごく一部の人たちが困っているわけで、その困っている少数派を助けるのも行政の仕事なのかもしれないが、では世の多数派のために行政が何をやっているのかといえば、たぶんそれなりに何か国民のためになる仕事をやっているはずなのだろうし、そういう方面でプレゼンするような役割の人物がいるとすれば、何かもっともらしいことを主張するだろうし、その主張に多くの人たちが納得すれば、内閣支持率も上がるだろうし、政治的にも行政的にも、国民本位の仕事をやっていることになるのかもしれないが、果たして今の現状にどれほど多くの人たちが納得しているだろうか。納得しているというよりは、何か諦めている人の割合の方が多いような気もするわけだが、諦めている人が多ければ多いほど、政治も行政も形骸化していくのだろう。


3月24日「必然性」

 ルーズベルトがアメリカの大統領でいた期間は、ヒトラーがドイツの首相となり第二次世界大戦に敗れるまでの期間と重なり、1933年〜1945年までの12年間だが、独裁者の代名詞となったヒトラーに比べると、独裁者としてのルーズベルトはあまり否定的な脅し文句や危機感を煽る言説には使われないようで、ヒトラーの他にスターリンやムッソリーニあるいは毛沢東などは、しばしばそれらの言説の中で否定的に語られるのに、何かそれらの独裁者とは正反対の肯定的な印象すら持たれているのではないか。経済が世界対恐慌からの回復期に大統領に就任し、ニューディール政策によって経済を立て直したかのような語られ方をされるわけだが、実際にはそれほど成果を上げたわけではなく、その辺は日本がアベノミクスによって景気が回復したかのように語られるのよりは少しはマシだろうが、大恐慌以前の水準まで景気回復したのは、日本の真珠湾攻撃によって第二次世界大戦に参戦し、軍需産業に人材や資材をつぎ込んでからなのであって、戦争によって景気回復を果たしたのが実情で、その辺はヒトラーが戦争を利用したのとそれほど変わらないわけだ。ただルーズベルトの場合は戦争に勝ったから(正確には勝つ前に亡くなってしまったわけだが)、その軍国主義的な側面が語られることはあまりないのかもしれない。そしてヒトラーやスターリンやムッソリーニなどと同時期に、まさに世紀を代表する独裁者として君臨していたはずなのに、なぜか歴史的な言説の中でルーズベルトの名前だけが抜け落ちているわけで、彼自身がフリーメイスンのメンバーであったこととは無関係なのだろうが、なんらかのバイアスがかかっていることは確かなのではないか。実際に彼が大統領に4選されて、亡くなるまで12年間もその職にあったことが危惧されたわけで、後に憲法が改正されて、大統領職は二期8年までの任期に制限されたわけだ。

 戦時中に日系人の強制収容所を作ったことが有名であるだけで、大量虐殺などに直接は絡んでいないから、否定的な評価が定着することはないのだろうが、戦争や経済恐慌などによって世情が混乱する時期には、独裁的な国家体制が生まれやすいのは、歴史的な必然なのだろうし、ルーズベルトにしても国民の個々の思想信条に関係なく、ほとんどすべての人たちの支持を集めたと言われているわけで、当時の映画産業などでも大手の映画会社が配給する映画の中でルーズベルトを讃えたらしいから、それは北朝鮮が国策映画で首領様を讃えるようなものなのではないか。19世紀のフランスでもルイ・ナポレオンがクーデターを起こして腐敗した議会を閉鎖して、国民投票によって圧倒的な国民の支持を得て、共和制から帝政に移行した時など、国民のほとんどが民主主義を拒否したわけで、現代の日本の民主派が、彼らなりの理想とする民主主義の実現を掲げて、現政権の横暴を糾弾している行為が、必ずしも国民の幅広い層の支持を得ていない現状を、何かおかしいのではないかと思うのは、それほどおかしいわけではなく、数年前の大規模な地震による津波や原発事故によって、何かこれまでにない不安を掻き立てられたわけだから、とりあえず将来への見通しがはっきりしない改革勢力よりは、これまでの実績がある保守的な政治勢力に期待を寄せるのも、自然な心理状態なのかもしれず、世界的に経済情勢が不透明だし、紛争やテロも方々で頻発している現状を考えれば、日本の経済状態が思わしくないのも頷けるわけで、それを必ずしも現政権のせいにはできないと思ってしまうのも、先行き不透明な不安を紛らわすために、原始的な部族意識である愛国心などという風習に頼ってしまうのも、何やらそれなりの必然性があるのではないか。


3月23日「苦渋の選択」

 どちらとも言えないのだが、どちらでもないような感じで、少なくともどちらか一方ではなく、肯定も否定もしないが、建前としてはそのどちか一方の主張しか受け入れ可能でないらしい。そうでないと選挙など意味がないのかもしれないが、無意味であっても構わないのだろうか。それが制度である限りは、無意味であるべきなのかもしれず、制度に逆らうとか従うとかいう態度を、無意味だと思っておいたほうがいいのかもしれない。しかし本当にどちらでも構わないのだろうか。選択する基準が見つからなければ、そうなるしかないのだろうが、何をどう判断すればいいのだろうか。現状では判断しようがなく、判断しなくても構わないのかもしれない。そのうち争点が明らかとなるかもしれないが、他の人たちが思っているような争点ではないことは確からしく、普通に考えればそれが争点とは言えないような争点となるしかなさそうだ。何をめぐって争っているつもりにもなれないような、空疎な主張同士の争いが演じられるかもしれず、それで構わないのと思うなら、無関心でいてもそれほど違和感など感じないだろうか。今のところは無関心なのだが、これから先も無関心のままなのかもしれず、しかも無関心であるのに投票に行かなければならなくなりそうで、何か棄権するのはまずいような気がするのは、制度に逆らえない心の弱さかもしれず、それが嘘だと思いたいのだろうが、嘘であってもなくても、やはりどちらでも構わないのかもしれない。それが嘘であり、軽い冗談でしかないとすれば、無理に逆らうほどの制度でもないのかもしれず、善意で投票すればいいようなことなのだろうし、個人が一人で一票を入れたところでどうなるものでもなく、誰に入れてもそれほど良心の呵責など覚えるわけでもなく、おかしなイデオロギーに染まる必要も危険性もなく、何にこだわるようなことでもなければ、責任や負い目など感じるのは馬鹿馬鹿しいわけで、そうであるなら何事にも無関心でいるべきなのかもしれない。

 そういう物言いが気に入らないだろうから、あえて無理に述べるなら無意味なことに関心があるのだろうし、何事にも無関心な態度に関心があるのかもしれず、そんな不条理なことを述べなければならない状況なのかもしれず、別に精神的に追い詰められているわけではないのだろうが、何かの選択を迫ろうとしている人たちの主張が理解できず、政治的な批判を繰り返す人たちとも立場を共有できないわけで、そんなことはどうでもいいのだろうが、そのどうでもいいところの次元が、他からずれているような気もするわけで、これでいいとは思えないが、どうすることもできない現状に対して、お手上げ状態なのではないか。そしてこれは誰が望んだ状態だとも思えないが、実際にこうなったからには、何らかの原因があったり、こうなるべくしてこうなったとも言えるかもしれないが、たとえお手上げ状態だとしても、どうしたわけでもないと思ってしまえるのではないか。それ以上に気づきようがないことに気づく必要はないし、実際に気づけないのだから、そもそも逆らうのは無理だろうし、逆らわなくてもいいわけで、無理に逆らいたくない心境なら、現状を追認すればいいわけで、無関心でいることが心苦しいなら、メディアからもたらされる話題に関心を持てばいいわけだが、どうしても現状を追認できなければ、無関心を装うか、追認を迫ってくる圧力に逆らわなければならないだろうか。だがそれは政治的な批判を繰り返している人たちにも逆らうことを意味するわけで、現状を追認する人たちからも、政治的な批判を繰り返す人たちからも、どちらからも無視されるような立場をとらざるをえないわけで、結局は政治的な無関心を装っているようにみなされてしまうわけだが、現状ではどう考えてもそうなるしかないわけで、どちらからも無視されながらも、どちらも批判しなければならないような、批判にすらなっていない現状もあるわけだが、そんな立場から何かを述べなければならず、それが現時点でのまともな態度なのかもしれず、そうとしか思えないような現状の中で生きているのではないか。


3月22日「混沌」

 粗雑なことを述べているはずだが、これが限界かもしれず、話に説得力があるとは思えないだろうか。別にアメリカの経済が行き詰っているわけではなく、また日本の経済が行き詰っているわけでもない。今のところは世界経済が行き詰まる兆候などないのではないか。株価が上がろうが下がろうが、雇用はそれなりに確保されているのだから、うまくいっていないわけではなく、これがここ数年来続いている通常の状態なのではないか。少なくとも恐慌が起こっているわけではなく、これからも起こりそうもないように感じられる。賃金が上がらないとか保育園が足らないとか、文句を言い出したらきりがないかもしれないが、世の中はこんなものだろうし、政治や経済や世の中にも腹が立っている人が多いのだろうが、腹が立つ人たちは何らかの形で文句を言い続けるのだろう。このままでは経済が駄目になって国が衰退すると警告する人たちも、相変わらず警鐘を鳴らす姿勢を変えないだろうし、危機感を煽って政治改革を呼びかける人たちも同様だろうか。そして資源がある限りは、それを利用しながら人の営みが続けられ、物や情報など商品が作られ続ければ、それらの売り買いも止むことはないだろう。よほどのことがない限り、すぐにでも世の中がおかしくなることはないだろうし、現状からかけ離れた状況になるとは考えられない。大規模な地震や火山の破局的な噴火が起こっても、限定された地域的で壊滅的な打撃を被るだけで、それ以外の地域ではあまり顕著な被害はもたらされないだろうか。現状に慣れてしまえば、そこで暮らしている人たちも鈍感になり、原発事故の影響で地域的には放射線量の数値が相変わらず高いままなのかもしれず、福島では子供達の間で甲状腺癌が多発しているそうで、そんな状態があと数十年も続いていきそうな気配だが、それでも多くの人がそこで平然と暮らしていくとすれば、それが次第に当たり前の状況となっていってしまうのだろうか。

 例えば世の中が最適な状態に保たれるにはどうしたらいいかという問いに、どう答えられるとも思えず、現状を生きるので精一杯なのだから、答えを探している余裕などないわけで、そんなたわけた問いを発する以前に、さっさと働いて社会に貢献しろということかもしれないが、一方で勝手気ままに生きてゆきたいという願望もあるわけで、どんなに長生きしてもあと数十年しか生きられないのだろうから、世の中がどうあるべきかなとど考えるのは、自身とはあまり関係のないことなのかもしれない。それでも現状が気に入らなければ、どうにかしたいと思うのだろうし、客観的に考えるなら、世界中の著名な政治家たちが仕事としてやっているのに、どうにもならない現状があるわけだから、無名の一般人が何を考えようと、そんなのは無意味で何の影響力もないのだろうが、やはり暇にまかせて考えてしまうわけだ。中には哲学的な小難しい用語を使いながら分厚い書物を著してしまう学者もいるわけで、そんな書物を読んで、何か世の中を良くするためのヒントを掴もうとしているわけでもないのだが、読めばそれなりに世の中に対する理解が深まったようにも感じられるのかもしれず、理解が深まったところで、具体的には何をどうすることもできないような気もするのだが、今後何かの役に立つような気もするなら、やはり機会があればそんな書物を読んでみるのもいいのかもしれない。また実際に言葉を弄して文章を構成するには、他人の文章を読んで参考にしないことには、文章表現の幅が広がらないだろうし、単純に賛成反対を表明するだけでは飽き足らないなら、何よりもそんな表明ではどうにもならないと思われるなら、少しは他人に伝わるような文章表現に変えて行かなければならない。表現に工夫を凝らしても、どうにもならないような現状があるのかもしれないが、とにかく安易に目的を設定せずに、各自が勝手にやれる範囲内では、自由にやっていた方がいいのではないか。

 現状では何か世の中を良くする確実な方法があるとは思えないし、あれば世界のどこかで実施されているのかもしれないが、メディアから伝わってくるのは、うまくいっていないことばかりで、相変わらずテロが頻発していて、死傷者が多数出ているようで、それがうまくいっていない証拠と言えるのかどうか、普通に考えればそうみなすしかないのだろうが、逆に言えばテロリストの策略が功を奏していることになるのだろうし、そういう面ではうまくいっていることにはなるわけで、それが世の中を良くするきっかけになるとは思えないところだが、テロリストはテロリストで、自分たちが思い描いているような世界にするために、強大な敵と戦っているつもりなのだろうから、そういう意味では、人それぞれで組織や団体にも固有のやり方があり、中には自爆テロによって世界を変えようとしている武装組織もあるわけだ。そして日本では憲法改正によって思い通りの世の中にしたい政治家や政党もあるわけで、そういう試みが今後功を奏して、彼らの思い通りの世の中になるのかどうか、今のところはなんとも言えないが、それに対する反対運動も含めて、やり方はそれぞれに違っていても、世の中を良くしたいのか思い通りにしたいのか、思い通りにすることが良くなることなのだろうが、様々な試みがあるわけで、それらの何が良くて何が悪いのか一概には言えないかもしれないが、相互に敵対したり連携したりしながら、思い通りになるように力を及ぼし合っているわけだから、その関係が錯綜して縺れ合い、何やらこんがらがった情勢になっているのではないか。そしてそうなっている限りは誰の思い通りにもならないわけで、それらの関係が整理整頓されて力の優劣がはっきりしてきて、特定の勢力が優勢になったところで何らかの実力行使に出れば、完全な勝者の天下となってしまうのだろうが、果たしてそうなった方がいいのか、それともこれまで通りの混沌とした状況のままの方がいいのか、それも実際にそうなってみないことには何とも言えないだろうか。


3月21日「ありがち」

 語り方を変えれば適当に別の意味で語っているように思われてしまうのは、ごまかしでしかないかもしれないが、直接何を批判しようと、規範に照らして間違っているとみなして批判するだけなら、その規範がどこから発生しているのかといえば、それは法律とか世間の一般常識とか、社会的な立場や地位から生じる職業上の倫理であったり、そうなってしまうと、社会的なあるいは法的な規範の後ろ盾を得ながら批判している保守主義者でしかなくなってしまうわけで、そういう次元で屁理屈をこねて、規範に逆らっていることを自覚する人を擁護してみても仕方がないのかもしれないが、規範に照らして正しいことを行っている人たちが、社会的にも何らかの形で認められていることは確かなのだろうし、やはりそうやって社会に認められている人を批判するとなると、それは間違った批判だと思われてしまうかもしれず、それでも構わずに批判せざるを得ない場合があるとしたら、多くの人が拠り所にしている規範に何らかの問題があるということなのではないか。しかもその問題を抱えながらも世の中が成り立っていて、もしかしたらその問題を解決してしまったら、これまで通りの世の中が成り立たなくなってしまうとすれば、規範に従いながら現状の立場や地位を得ている人からすれば、問題提起する人が社会の中で顕在化しないようにしなければならず、たとえ問題を指摘する人にはそうすることがおかしいと思われようと、規範に従う範囲内で批判を行うべきで、そんな条件付きの批判を流通させているのがマスメディアであって、彼らは彼らで自分たちの存在が脅かされるような批判を無視したり排除したりすることで成り立っている面があるのだろうし、そのような規範を守っている人たちからすればそれが批判のすべてなのであり、そこから逸脱する批判などありえないことだし、あってはならないわけだ。

 マスメディアにそれ以上を望んではいけないのだろうし、望む必要もないわけで、そういうものだとみなしておけばいいはずなのだが、中にはそういう建前を欺瞞だとみなして批判する人たちもいるわけで、マイナーなメディア上ではしばしばそんな批判が行われ、それをおもしろがっている人も多いから、そういうメディアもそれなりに繁盛しているのだろうし、そういうところからメディアの階層構造が出来上がり、そんなヒエラルキーの中で、各階層に応じた批判が生み出されるのだろうか。別に批判だけがメディアの役割ではないだろうし、その大半は宣伝なのだろうから、批判だけを取り立てて問題視することもないのかもしれず、一般の人たちにとっては何でもないことだと思われるわけだが、政府のやり方に対する批判が、政府にとっては何か死活問題のようにみなされたわけでもないのだろうが、政権内部の人たちの損得勘定からすれば、なるべく政権批判を押さえ込んでおいたほうが得策と思われたのではないか。有名なニュース報道番組の司会進行者が春の番組改編時に立て続けに降板する事態が、政権批判をしたから政府の圧力によって降板さられたと一般に思われることが、損得勘定からすれば損なのか得なのかよくわからないところだが、それによって政権の支持率が下がらなければ、別に一部の人たちからそう思われても何ともないところかもしれず、今のところはその程度の認識でしかないのではないか。今の政権がこの先も長期的に続くのであれば、やがてそんなことは忘れられてしまうだろうし、死活問題でも何でもなくなってしまうわけで、むしろ政府に迎合的なメディアが増える方が、国民にとってではなく政権にとって、後々に深刻な禍根を残しかねないとも思われるわけで、長期政権になればなるほど、批判のなさが政権内部を腐敗させ蝕んでいくのかもしれない。

 メディアに批判されようが批判を抑え込もうが、政権にとってはそんなのは枝葉末節なことなのだろうし、と言うか政治的には枝葉末節なことしかできないわけで、そうではない本質的なことは政治ではできないのかもしれず、では何が本質的なことなのかといえば、行政に寄生しているのが政治なのかもしれず、行政がそこに暮らす住民の意向に沿って活動するように仕向けるのが、政治の役目だろうか。しかし住民の意向というのが、集団としてどのような中身なのか、それを見極めるのが難しいところなのかもしれず、メディアの批判を抑え込むのも、政権を支持する人たちの意向ではあるのかもしれず、それが住民のうちのどれほどの割合の人の意向なのかといえば、たぶん少数意見なのだろうし、世論調査でもしてみればわかるだろうが、政権への批判を招くような世論調査自体も抑え込まなければならないわけだから、そういうのは実施されないだろうし、されたとしても政権批判の割合が少なければ、その結果がどれほどの信憑性があるのか疑わしいところだろうか。それも政権にしてみれば枝葉末節なことなのかもしれず、政治本来の役目からは逸脱することだとすれば、やはりメディアとの関係では枝葉末節なことしかできないわけで、本来の役目を見つけられないまま、延々と長期的に政権が続いていくとすれば、政治の形骸化があらわになるしかないのだろうが、もしかしたらその方がかえって長期政権の特徴を表しているのかもしれず、本質的なことは何もやることができないからこそ、延々と政権が続いた例もあるだろうし、内部では腐敗が蔓延しながらも、数十年にわたって続くような政権は、いわゆる独裁政権にはありがちなことかもしれないが、その手の独裁政権では決まって言論弾圧が行われるわけだから、政権を長引かせる方策としては、メディアからの批判を封じ込めるのは、よくありがちな方法ではあるわけだ。


3月20日「まやかし」

 バーニー・サンダースは富裕層への減税措置の延長に反対して、議会でフィリバスターと呼ばれる8時間にも及ぶ牛歩戦術を繰り広げたらしい。また北米自由貿易協定によって68万人もの国内の雇用が失われたと批判している。そしてそれをさらに悪くしたTPPに至っては、ベトナムやマレーシアの低賃金労働者とアメリカの労働者を競争させるべきではなく、「私たちが本気で中間層を建て直し何百万もの雇用をうみだそうと考えるのなら、私たちの貿易政策を根本から見直すべき」とも述べているようだ。このような主張からは左翼的な保守主義といった傾向を読み取れるが、では北米自由貿易協定によって、アメリカ国内から雇用を奪ったメキシコの労働者や、TPPが施行されれば同じように米国内の雇用を奪うだろう、ベトナムやマレーシアの低賃金労働者をどうすべきかといった問題については、サンダースの関知するところではないのかもしれず、彼としてはアメリカ国内の労働者の賃金を上げて、数年前の日本の民主党政権でも言われた、分厚い中間層を作り出したいようだが、そのための政策といえば、やはり保護主義的な貿易政策になるしかないだろうか。しかしアメリカの高い賃金の労働によって作り出した商品は誰が買ってくれるのだろうか。アメリカ国内の消費者が買えば、それでなんとかなるのだろうか。国内の消費だけでは金と物が循環するだけで、賃金が上がればその賃金で生産する商品価格も上がるわけで、どう考えても富を増やすには輸出しなければならないのではないか。当たり前のことだが貿易には輸出と輸入があり、農産物や資源などの付加価値の低い一次産品だけ輸入して、それを労働によって付加価値の高い加工品に仕上げて輸出できれば、確かに労働者が富んで、うまくやれば分厚い中間層を形成できるかもしれないが、その高い商品を買ってくれる国がどこにあるのかといえば、欧米の先進諸国でないと大口の購買層がいないだろうし、他の国では一部の富裕層に限られるのではないか。でもアメリカだけがそんなことをやれば、付加価値の低い一次産品ばかりを輸出している国はどんどん貧しくなってしまうし、黙ってそれを許すはずがなく、どこの国でもアメリカの真似をすれば、結局同じ品質の商品なら安いものを買うだろうし、アメリカ製の商品がアメリカ以外で売れるとは限らなくなるわけだから、やはりうまくいくはずがないのではないか。

 メディアが一時的にサンダースをもてはやしたりするから、彼が何かまともなことを主張しているような気にはなるだろうが、よく考えてみれば、大したことは主張していないことがわかるわけで、要するにこれでは欧米や日本などの先進諸国が、他の国を経済的に搾取していただけで、今まさにその搾取される立場が、これまで搾取してきた国の労働者に移ってきたから、それらの国の労働者が騒ぎ立てているわけで、今まで搾取されてきたその他の国の労働者からすれば、ざまあみろということになるのかもしれないが、もちろんそれらの国の労働者も、相変わらず低賃金労働によって搾取されている現状は変わらないわけだから、世界的にお互い様な状況になってきたと言えるわけで、労働者が今まで通りの賃金労働をやっている限りは、搾取される現状は変わらないわけで、では搾取しているのは誰なのかといえば、それは直接あからさまに搾取している場合は少ないだろうし、一部の富裕層が贅沢をしていると感じられたら、そちらへ金が流れているのだろうし、国が福祉予算を削減していると感じられたら、国が国民を搾取していることになるのだろうし、労働者が搾取されているとは感じられないような社会状況になればいいのだが、それがこれまでのやり方ではもはやうまくいかなくなっているところなのではないか。例えば日本の現政権がやろうとしているような、道徳教育やら愛国心の高揚やらで、そんなちゃちな幻想で国民を騙せるわけがないとも思うのだが、強権発動で逆らう人々を黙らせるのにも限度がありそうで、このまま自国だけが豊かになろうとしても、他の国との貿易や外交関係があるだけに、それがそんなに長続きするとは考えられないし、結局は物や情報の売り買いの差額が利益となるわけで、時間差や空間差を利用して安く買って高く売るやり方は世界共通であり、労働者も自分の労働力を高く売って商品を安く買い、そこから差額を得ているだけのことであり、それをいつまでも国家ごとの価格差を保ち続けるなんてできないのではないか。自国だけ高い賃金を確保することは、他の国を搾取している証しだろうし、搾取されている国の住民が黙っていないわけで、だからこそ現に欧米へと移民がなだれ込んでいる状況があるわけだ。


3月19日「呼びかけ?」

 それではだめだと思うのは、別にそれが間違っているからだけではなく、たとえ正しいやり方だとしても、結果的に上手くいかない可能性もあるからだろうか。逆に間違ったやり方だとしても、結果的に上手くいけば構わないと思うなら、それは間違っているのではなく、正しいやり方と認識するしかないだろうか。そもそも何が正しいやり方で何が間違ったやり方なのかは、経験や慣習から何となくそう思われることが多いのかもしれず、状況や情勢が変わってくれば、必ずしもそうとは言えなくなることもあるのだろうし、時には一般的に通用しているセオリーを無視したやり方をやらざるをえないような成り行きというのもあるのかもしれない。だがしかしそれは何について行っていることなのだろうか。一般的には法の支配そのものを批判するのではなく、特定の法律が人を苦しめていることを批判するわけで、人を苦しめる間違った法を改めなければならないと主張することは正しく、正しい法の下での支配そのものは肯定されるわけだが、まさか法の支配そのものを批判するわけにはいかないだろうか。たぶんそれでは単純すぎるのであり、法に関係する様々な要素を総合的に吟味してみないと、説得力のある批判は導き出せないのだろうし、国家による住民の支配という本質的な現象まで含めない限りは、うまく説明できないのではないか。しかもそれはこれまでに数々の思想家や哲学者が試みてきたことで、ちょっとやそっとの言説を弄しても、すでにこれまでに言い尽くされてきたことの範囲内にしかならず、改めて問うまでもない問題提起にしかならないだろうか。

 そしてそういう次元で何を語ろうとも、すでにある支配の現状を前提とした制度や仕組みを変革するような試みには結びつかず、現実問題として今ある現状の延長上で変革するしかないわけで、そのような保守的な試み以外では、人々の支持は得られないのかもしれないが、奇想天外で空想的な提案ならいくらでもできそうな気もするし、大胆に語るとすれば、そんな実現不可能なことを語っていれば、それで構わないのだろうか。フーリエはそんな空想的なユートピアについて語っていたらしいが、現実に恐ろしい独裁体制国家を作ったマルクス主義よりは、当時は世の中からまともに相手にされなかった人畜無害なフーリエ主義の方が、書物以外はほとんど何も実現されなかった分、まだ未来への可能性を感じさせるわけだが、これから社会的な変革が起こって、世界の状況が一変するようなことが起これば、もしかしたらそれはフーリエ的な空想社会主義に基づいて起こるのかもしれず、人の快楽に訴えかけるような方向での変革であるならば、人を拘束する民主主義ではなく、未だ概念がそれほど定まっていない、自由主義的な面が今後多くの人や集団によって追求されていくのではないか。そういう意味で法の支配に基づいた民主主義的な政治体制というのは、だんだん過去の遺物となって行き、人をなるべく法によって拘束しない配慮がなされ、法に基づいた制度や仕組みではなく、あらかじめ定められた取り決めを伴わない人や集団の関係が模索されて行くとすれば、人や集団が接触するたびに、言語によるコミュニケーションが行われて、双方にとって必要な物や情報の交換をもたらすような世の中になって行くのではないか。

 法による拘束がなければ、すぐにも暴力を使った物や情報の奪い合いが想定されてしまうのだろうが、どうも法そのものの存在が、それを破ったり侵犯したりする誘惑をもたらしている面があるのかもしれず、法に拘束されているはずの現状でも、世界中で戦争や犯罪を通した暴力がはびこっているわけで、暴力的な行為を禁じる法律が暴力を封じ込めているとは言えず、ただ軍や警察などの暴力装置が国家によって独占されているだけでしかなく、法がなくなればすぐにも人々がお互いに殺し合うというのは、間違った認識なのかもしれない。法をすぐにもいっぺんになくそうというのではなく、法に基づかない行為を広めて行く方向で、人や集団が動作して行けば、何かこれまで考えられていたような、立憲主義的な堅苦しい民主主義の観念から自由になれるような気がするのだが、何か事あるたびに権力者の不正を追及するのとは違った政治的な主張が、政治的に無関心な人々を含めた幅広い層から期待されているのかもしれない。そうなるともはや政治的な主張とは言えなくなり、昔のヒッピーのような漠然とした自由への憧れに過ぎなくなって、やはりそれでは世間からもメディアからも相手にされなくなってしまい、かつてのフーリエ主義者と同じ境遇になるだけでしかないだろうが、何か無視され気づかれなくても、じわじわと慣習として世の中に定着していくような方向で広まって行けばいいのかもしれず、今のところは具体的に何をどうすればいいのか、まったくわからないわけで、運動でも何でもなく、頭がいかれた者による空疎な呼びかけでもないわけで、賛同を募っているのでも支持を期待しているのでもない、ただ妄想とも言えないような漠然とした予感なのかもしれないが、もしかしたら直接何も言えないところが利点なのだろうか。要するに正しくも間違っているのでもないわけだ。


3月18日「これは批判ではない」

 直接の訴えかけが何かを非難している内容であることは、その非難している対象をやめさせたい場合が多いだろうか。それが何らかの行為なら、その行為をやめさせたいということだろう。例えば原発の稼働を停止させたいとか、憲法の改正をやめさせたいとか、そういう訴えかけなら、誰もが理解可能だろうし、非難している対象も一目瞭然だろうか。そのような批判行為に何らかの効果があることは確かだろうし、ある程度は支持を得やすいだろうが、現状では原発の再稼動が続き、憲法改正の動きにも拍車がかかっている最中だとすれば、それらをやめさせたいという目的を達成していないことになる。ではどうするのかといえば、選挙でそれらの行為を推進中の現政権を倒すしかないわけだが、やはり目下の情勢としては。政権交代をもたらすほどの支持は得られていないだろうか。そうだとしても可能性がないわけではなく、その可能性にかけている人たちもいるわけで、様々な方面から反体制的な働きかけがなされているのが現状だろうか。それらを肯定的に捉えるなら、そういうことになるのかもしれないが、それとは別の方面から現象を捉えようとすれば、何かまったく違ったことが言えるだろうか。そうしなければならないというわけでもなく、そうではないような働きかけが、はっきりした形で出ているとも思えないのだが、物事を一面的に捉えすぎると、事態の本質を見失ってしまう恐れもあるだろうし、何が本質であるとも言えないのだが、見逃している動きを捉えておきたいというのではなく、そこから飛躍してありえないことを空想して、荒唐無稽な認識にたどり着きたいのかもしれず、ただ現状が退屈に感じるというだけで、そんなことを述べてみたところで、わけがわからないだけかもしれないが、そう語らざるをえないような気分となってしまうわけで、気分で物事を語っていること自体が、勘違いもいいところなのだろうが、やはりここは退屈まぎれに勘違いを押し通すしかないだろうか。

 たぶん勘違いだとは思っていないのだろう。現状をもたらしている原因や理由を求めていないわけではないのだろうが、求めようとすると対立や敵対にしか行き着かないわけで、しかもそれで構わないのだろうし、現状をもたらしている政治勢力を非難していれば、それがごくまっとうな態度なのだろう。そんな現状に関わろうとする人たちは、誰もがそう思っているのかもしれない。そこから逃げなければそうなるしかなく、逃げたければ無関心を装えば済むことだ。そして無関心を装っていても構わないわけで、別にそうだからといって非難される筋合いもなく、そんな態度を正当化しても構わないのではないか。ではそれ以外でどんな態度があるだろうか。ありうるとすれば現政権を擁護する態度しかないだろうか。現にそんな人たちも大勢いるわけで、現政権に対する批判勢力に対して、屁理屈をこねていちゃもんをつけたり、いわれのないデマを流したり、誹謗中傷を繰り返していると受け取られているのではないか。現政権を批判する反体制的な人たちからすれば、そうとしか思えないのだろうが、たぶんそう思うのが当然なのであり、そんな連中とは違って、どう考えても自分たちに理があり、正義は自分たちの側にあるとしか思えないはずなのだが、恐ろしいことに敵対している相手も、自分たちこそが正義の味方だと思っているのかもしれず、彼らは彼らで現政権に逆らう愚かで邪悪な連中と、正義の戦いを繰り広げているつもりなのではないか。信じている価値観が違えばそうなってしまうのかもしれないが、そうやって対立すればするほど、お互いに相容れなくなるわけで、しかも顕在化している価値観の相違は、一朝一夕にそうなってしまったわけではなく、昔から水面下ではそんな価値観の共存状態が続いていて、それがここにきて政権側の強引な政治手法とともに、一気に噴き出してしまったのが実情ではないのか。要するにある意味では避けられない事態に遭遇しているわけで、この先いくら激しく対立するとしても、双方の価値観の一方を根絶することはできないのかもしれず、これが何らかの形で沈静化するとしても、いつまた何かのきっかけで噴き出してくるとも限らず、妥協しないで断続的に敵対状態を維持するにしても、結局は双方ともに受け入れがたい価値観や主義主張とともに生きていくしないのが、賢い選択かもしれず、現行の体制的な枠組みが続く限り、それは避けられないことなのではないか。

 双方の価値観を両方ともに打ちくだくか形骸化するしか、そのような予定調和の二項対立を解消できないのかもしれないが、それをやるには特定の政治勢力の人為的な活動を超える力が必要なのだろうし、そんな力など現状ではありえないわけだが、それとは逆に何ら力など必要とせず、自然に解消してしまうような成り行きも、同じようにありえないとも思われるわけだが、たぶん現状にうんざりしている人たちは、そんなありえない成り行きを空想してしまうのではないか。もちろんそんな人たちが具体的に存在するかどうかもわからないのだから、すべてはフィクションでしかないだろうが、やり方としては、彼らが拠り所としている価値観を、両方ともに攻撃するしかないわけで、しかも攻撃していると悟られないことも肝心だと思うわけで、こんなことを述べている時点で悟られてしまうわけだから、またずいぶんと間の抜けたことを述べているわけだが、間の抜けたことを述べて、相手を油断させることも肝心だから、何どう述べても、これでいいのだと強弁するしかなく、果たしてこんなやり方では、彼らがしがみついている価値観を打ち砕くことなど、未来永劫できはしないようにも感じられてしまうわけだが、やはりこれでいいのだとしか思えないのが、偽らざる実感であるとともに、逆にありえないことだとも思ってしまうのだが、一方で無関心を装うのも効果があると思われ、それが組織票を持っている体制側を利する行為だと思われようと、形骸化作用には無関心であることが何よりも有効だろうから、無関心を装いつつも、不意をついて意味不明な打撃を加えるような態度が求められているのではないか。双方ともに日頃からたぎらせている憎悪とか怨念とかを無化するような、脱力感溢れる何かが必要なのであり、これからその何かを戦略的に編み出して行かなければならないのだろうが、それも現に行っている批判ではないような批判の延長上でやるしかないのかもしれない。


3月17日「第二帝政期」

 たぶん理由がないことではないだろうが、理由があって何かをやっているように思いたい一方で、よく考えてみるとそうでもないような気がするわけで、自分のやっていることに改めて理由や根拠を求めてしまうと、途端にその意味があやふやに思われてしまうのかもしれず、やっていることの根拠や理由が重要な意味を持つと思いたいのだろうが、実際には身の回りの環境や状況に対応しながら、何かをやっているに過ぎず、そのやっていることの中で、こだわりがあるような気がすることが、自分にとって重要な意味合いがあるように感じられてしまうのかもしれず、そういう意味でも、取り立てて自分のやっていることに理由や根拠を求める必要はなく、周囲を説得する必要がないなら、それで構わないわけだが、理由や根拠をあげて説得するような立場や境遇になってしまうと、それでは済まなくなるわけだ。現状ではそんな説明しかできないわけで、環境や状況によっては、何かもっともらしい説明を要するような立場や境遇の中で、何かをやっている人もいるはずで、そういう人にとっては、自らのやっていることの理由や根拠をあげて、しかも自分のやっている行為に、周囲の人たちも巻き込んでいる場合は、それが周囲の人たちの利益になることだと説得するとともに、実際に利益をもたらして、実証してみせなければならなくなるのだろう。そんな人にとっては、きれいごとを主張するような市民運動など生ぬるいと思われるのだろうし、公共の利益を掲げて金儲け主義を批判したりするのが、腹立たしく感じられるかもしれないが、そういう人を納得させるような解決策などありはしないのだろうし、きれいごとを主張していられる環境を、世の中に広げていくしかないのだろうが、もちろんどうすればそうなるのか、その方法や策について何かもっとらしいことを主張する人もいるわけだが、現状ではそのような理想的な環境が世の中に広がっていくどころか、逆に狭まってきているような世界情勢なのだろうか。

 全ては印象でしかなく、それもメディアからもたらされる情報から推測しているだけで、直接の実感が伴っているわけではない。なんとでも言えるのかもしれないし、境遇も環境も人それぞれに異なり、ひどい状況の中で暮らしている人もいれば、悠々自適に暮らしている人もいるわけで、そんな風に範囲を広げていってしまうと、どうでもよくなってしまい、人がどのように生きていようと、他人のことなど知ったことではなくなってしまうのかもしれず、日本の政治状況などコップの中の嵐に過ぎず、その中で住民が何にこだわっていようと、それが世界の標準から外れるような形態であるならば、ただ滑稽に思われるだけで、それ以上にも以下にも何を意味することもないのかもしれない。では世界標準が何かと問うなら、三権分立で民主的な憲法があり、議会選挙によって議員を選び、そこから選ばれた代表者たちが内閣を組織し、政府を運営することだろうか。大統領制でなければそういうことだろうが、そこから著しく逸脱していないなら、取り立ててどうということはなく、そういう制度の中で何かやっていれば、それで済んでしまうのだろうし、現状ではそれ以上を求めるわけにもいかないのではないか。それ以上が何かといえば、何を想像してみても現実離れしてしまうし、勝手に理想論を主張したいのなら、そうしていればいいだけなのだろうが、そのような制度の中で、特定の役職や立場などを占有していない限りは、ただの部外者でしかなく、実質的な権限や権力などありはしないわけで、そうだからこそ人畜無害な理想論を主張していられるかもしれず、一方特定の役職や立場を占有している人たちは、その役職や立場に限定されたことしかできないわけで、限定されているからこそ、その範囲内で権限や権力を有していて、それに付随してそれなりの利益を得ているわけだろうが、その役職や立場を逸脱するような力を行使できるわけでもない。

 そういう意味で国家の制度や仕組みが、人や集団にそれなりの役割を課していて、その役割の範囲内で人や集団が機能しているわけで、それに関係して法律が定められ、それらの機能を法律の範囲内に限定しているわけだが、法律の根拠や理由がどこにあるのかといえば、国家の制度や仕組みが維持継続されるように、法律が定められているわけで、また近代憲法が重視している建前としては、一応は主権者である国民が幸せに暮らしていけるように、国家が有効に機能しなければならないということだろうが、なぜそうなのかと問うならば、国民があっての国家なのだろうから、国民が主で国家が従である関係を、建前として提示しているわけだろうし、その建前がそれなりに守られるように、国家の制度や仕組みの中で役職や立場を占めている人や集団は、機能しなければならないのだろうが、それが機能しているかどうかは、国民が判断しなければならない制度であるわけで、選挙や最高裁判所裁判官の国民審査などで、審判を下す仕組みにはなっていて、それらが形骸化していると思われるなら、有効に機能していないわけで、それで良いか悪いかも、国民の判断に任せられているのだろうし、そのような制度や仕組みに無関心でいる人が多ければ多いほど、国家やその制度や仕組みから生じる役職や立場を占めている人や集団を、信頼していないということだろうし、しかも信頼していなくても大丈夫だと思われるから、無関心でいられるわけで、危機感があまりないのではないか。現状でやばいと思えば、選挙に行って反対票を投じるはずで、投票率が今後ますます下がり続けるとすれば、それだけ国家自体の形骸化が進んでいる証拠となるのかもしれず、それが良いのか悪いのかは、現時点ではなんとも言えないところで、もちろん現状に危機感を抱いて選挙で反対票を投じたいと思っている人たちにとっては、それこそが危機感を抱かせる原因であり理由であるわけだから、そういう人たちにとっては政治的な無関心が社会にはびこっている現状こそが、まさに危機的な状況であるから、街頭デモで投票を呼びかけているわけだが、少なくとも言えることは、このような政治的な無関心状況が、過去の歴史上なかったことなのか、それともかつてもこんな状況が世界のどこかであったことなら、その時の状況を調べてみれば、何かわかるのかもしれず、それが果たしてフランスの第二帝政時代なのか、全くの的外れでもないような気もするのだが、ともかくフランスではその二十年弱の期間は、現代ではなかったことになっているような無視のされ方だろうか。


3月16日「救われない世界」

 宗教と文明の関係でいえば、呪術的な宗教から脱していることが、現代的な文明の中で生活している証しと考えるのが、一般的な普通の認識と言えるだろうか。現代人は祈祷や占いではなく、合理的な価値観に基づいて判断を下しているつもりにはなれるのだろうが、その合理的な価値観というのが、本当にそれが合理的と言えるのかどうか、改めて考えてみると、何かそうでもないような気がしてくるわけで、簡単に言えば、それは合理的ではなく功利的である場合が多いだろうし、功利的であることが合理的であると思い込んでいたりもするわけで、両者を混同しているのがごく当たり前の価値基準なのかもしれず、では両者の違いは何なのかと問われれば、たぶんその違いについて、納得できるような説明をするのに誰もが苦労するのではないか。話を極端にすれば、例えば金のために死ねるかと問われれば、その場での境遇や条件を考慮しなければ、死なない程度にほどほどに金を得られる程度で妥協しておくのが、合理的な判断だと言えるのかもしれず、普通は金より命の方が大事となるのだろうが、その場の状況によってはそれが逆転する場合も出てくるのではないか。現実に体験することはそんな単純なことではないだろうし、どう判断すればあるいはどう行動すれば、それが合理的な判断や行動と言えるかは、人それぞれに状況や境遇や条件によって、微妙に違ってくる場合もあり得るだろうし、後から詳細に検討してみないと、それが本当に合理的だったかどうかわからない場合もあり得るだろうか。

 また呪術が本当に非合理や不合理なやり方だと言えるかどうかについても、その場の環境や条件によっても変わってくるのかもしれず、そもそも何をもって呪術だとみなすのかについても、人によって認識の違いがあるだろうか。まさかそんなことはありえないと思われるかもしれないが、物や情報の売り買いが呪術の一種だとしたら、あるいはクレジットカードで買ったり、買うとポイントが付いてくるやり方も、購買意欲をそそる一種の呪術だと言えなくもなく、現代文明も太古から続く呪術社会から抜けきっていないことの証しとなるだろうか。呪術自体が何かと何かを交換する取り決めと言えるだろうし、例えば神に供物を捧げることによって、必要とされる何かをもたらして欲しいということだとすれば、この場合は神に捧げる供物と必要とされる何かの交換を意味するわけで、そのような交換の延長上で人と人や部族と部族との間で、互いに必要とされる物同士の交換が行われ、そんな物々交換と言われる交換方法から、物の中で最も交換しやすい貨幣を通しての交換に至ったわけだから、貨幣と物や情報を交換できるという信仰の上に、現代文明は成り立っていて、今のところは誰もがその信仰が廃れるはずがないと思っているとすれば、現代文明が強力な信仰社会である証しなのだろうが、そんな信仰社会の中で暮らしている現代人が、今後それとは別種の信仰社会や、あるいは信仰のない社会が到来する可能性など、想像できるはずもないのかもしれない。

 歴史上どのような社会でも、物や情報が交換されない社会は存在しなかったのかもしれないが、例えば将来、物や情報を必要なだけ与えて、見返りを求めない社会が到来する可能性を想像できるだろうか。人が生きていくのに必要な物資の全てを、労働を必要とせずに自動的に生産できれば、人から何も奪い取る必要がなくなり、人に対する強制力が消えてしまうわけで、そうなると権力が行使される状況がなくなってしまうわけだが、まさか産業技術の発展が目指す先には、そんな社会の到来が期待されているのだろうか。特定の誰が期待しているとも言えないだろうし、人々の意図や思惑を超えて、発明や発見がもたらされ、それらを応用することで科学技術は発展してきたのだから、これから何か思いがけないことが起こるのかもしれない。例えば人工知能や量子コンピューターなどの情報処理能力が今後飛躍的に進歩して、人類が生きていく上で最適な生活物資の生産量を計算して、労働を必要としない自動生産でなくても、それを賃金を見返りとしない各自に割り当てられた仕事によって作るようなシステムを構築できれば、貨幣と交換しなくても物資が手に入るようになるだろうか。もしそんな物資の生産供給システムが出来上がってしまえば、人自身の特性が今までとは全く変わってしまうだろうし、現状で生きている人からすれば、いくら物や情報の交換に関する呪術から解放されようと、将来人工知能に管理されるような世界では暮らしたくないと思うかもしれず、今の世界で生きている人たちは、他人に力を行使して、他人から利益を奪い取ることを生きがいとしていて、物や情報の交換によって、自分がどれほど得するかを期待しているわけで、あからさまにそう自覚しているわけではないにしても、潜在意識の中ではそれが自己の判断や行動における基準となっているのではないか。


3月15日「夢想」

 あまり極端なことを語れば空想が過ぎて荒唐無稽な内容になってしまい、話にリアリティがなくなるだろうが、陰謀論の特徴としてあげられるのが、偶然を排して必然的な成り行きの首尾一貫した話の運びだろうか。要するに本当らしく装われた配慮があるわけで、それを信じてほしいわけだが、ではなぜそれが嘘っぽく感じられるのかといえば、偶然の巡り合わせや原因不明な点がないということだろうか。そうなった原因がはっきりしていて、それが陰謀だというわけで、何もかもが背後で大掛かりな陰謀が巡らされていて、その陰謀通りに事が運んでしまう点が信じられないのだろうが、しかも話の中で恐れられている、影の組織による世界支配などが、なかなか実感できないということが難点で、現実にもうかれこれ二百年ぐらい前から、ユダヤ国際資本による世界支配が囁かれていながら、未だにそれが表沙汰になっていないわけで、いい加減にもうそろそろ彼らの世界政府が出現してもいいはずなのだが、どうも最近の話だと、今ひそかに行なわれている第三次世界大戦において、彼らは敗れつつあるらしく、世界政府そのものが崩壊過程にあるようだから、またしても世界征服の陰謀が表沙汰にならないままとなってしまいそうだ。しばらく経ってほとぼりが冷めた頃に、たぶんまた手を替え品を替えて、性懲りもなく復活してきそうな気配もしているので、国際情勢でも緊迫してくれば、それらしい話が出てくるのだろうし、できれば陰謀の成果が実って、本当に世界政府が出現して欲しいのだが、いつまでも陰謀論のレベルに留まっていた方が、その手の話の寿命も長続きするのだろうか。

 本当の意味での世界の統一はまだまだ先のこととなりそうで、国を超えた人と人との交流が活発化して、言語の垣根が取り払われ、文化的な差異がなくなってくれば、自然と国に対するこだわりが薄れてくるような気はするが、そのように想像できるだけで、現時点では実感できないわけで、その途上にあるのかないのかもはっきりしないところだが、別に世界が無数の国に分割されている現状に慣れているわけだから、それをわざわざ統一した方がいいと思うのは、少数派に過ぎないだろう。そんな実感がしているうちは、近いうちの世界統一などやはり想像できないが、思考する上では、国と国との紛争や難民問題や経済摩擦をなくすには、あるいは特定の国での独裁体制や内戦などによって、そこに暮らす人が悲惨な境遇になってしまうを防ぐ上でも、世界が統一された方がいいと思うわけで、現状でそのような問題がなかなか解決できないことが、そんなことを考えさせるわけだ。要するにそのような問題を解決するよりは、世界を統一する方がはるかに難しいことかもしれず、そんなことを考えていること自体が、ありえない荒唐無稽な妄想にすぎない面もあり、実際にやられていることといえば、国連や有力国が問題の解決に乗り出しているに過ぎず、それでは焼け石に水のようで、埒があかない現状であることは確かなのだろうが、そんな手詰まり感が、さらに困難な世界を統一させることを夢想させるにせよ、空想するだけなら誰にもできるわけで、別にそれで害はないのだから、なるべくそんな夢想を広めた方が、後々のためにも可能性を予感させるような成り行きとなるのかもしれず、その逆の国家主義的な思考の持ち主が、利己的で強引なやり方を好む傾向があるだけに、そういう人達が世の中で幅を利かせてくると、自由に物が言えない空気となってくるだけに、そういう面からも、現時点ではたわいない夢想でしかないが、世界の統一を夢見ることはそれほど間違ったことではないように思われるわけだ。


3月14日「公益の実現」

 どのような判断が、あるいはどのような行為が合理的であるかは、何が合理的で何が非合理的であったり不合理的であったりするのかについて、どのような基準を設けるのか、人と人の間で、あるいは集団の中で意見が合わないことがありそうで、しかも果たして何かをやる上で、合理的な判断を優先できるのかどうか、その辺もはっきりしないように思われる。どうもほとんどの場合、合理的であるよりは功利的な判断が優先されているようで、自分にとってあるいは自分が属する集団にとって、利益になるような行為が優先されていて、結局一方が利益を得るともう一方が不利益を被るような、そんな行為が世の中に蔓延している傾向があるだろうか。でもそうなると合理性と功利性の一致点というのはないのだろうか。ともかく不利益を被っていると思う人が多ければ多いほど、しかもその不利益が改る可能性がないと感じてしまうと、諦念とともに社会に絶望感がはびこるだろうし、その絶望感の蔓延が、例えばイスラム原理主義を掲げる武装勢力の糧となっていて、テロが横行する状況を招いているのだろうか。日本でも今のところはテロは起こっていないものの、右翼団体のヘイトスピーチが有名となり、ネットでも政治的な争点をめぐって攻撃的な書き込みが一定量あるようだが、功利的な利益と不利益に関して社会の中で所得や資産などで、格差が増大する顕著な傾向がメディアなどで話題になれば、やはり不利益を被っていると思う人が増加するだろうし、政治では格差を縮めることが無理と思われるようになれば、中には過激な武装革命を夢見る人も出てくるのではないか。現状で中核派や革マル派などがどうなっているのか知らないが、極左もさることながら極右勢力も、例えば自衛隊の内部などで支持者がはびこれば、今後政権交代などでリベラル勢力が政権を取った時にでも、クーデターを起こして軍事独裁体制を築く可能性もあるかもしれない。そうならないためにも、功利主義の蔓延によって社会の中で貧富の格差が広がる傾向があるとすれば、それは合理的な価値観からすればまずいことなのではないか。

 だが合理的な価値観とは具体的にどんなことなのか。たぶんそれが功利的な価値観と比較してわかりにくいところだろうし、一口に公共の利益と言っても漠然としているわけで、市民団体の人たちが何か主張しようものなら、きれいごとを言うな!と反発されるだろうし、現実に企業で利益を上げるために働いている人がほとんどなのだろうから、公益を確保するために企業経営が圧迫を受けると思われてしまえば、功利的な価値観を損なうばかりでなく、合理的な価値観にも反しているようにみなされるのではないか。そういう意味で公共の利益が合理的な価値観に合致するとは思われにくいのかもしれず、何が公共の利益をもたらし、それが合理的な価値観にも合致するのか、その辺でわかりやすい説明を主張に盛り込むことが求められているのだろうか。貧富の格差ではなく権利の平等が認められていれば、実際にそれは憲法で保障されているわけだが、一応は民主主義が実現していることになるのだろうし、現状でも問題ないわけだが、その権利の平等というのが何かといえば、政治に参加する権利であり、あるいは人並みの生活を受けられる権利なのだろうし、議会選挙での一票の格差をなくして、貧しくても衣食住が確保されていれば、それが公共の利益となり、合理的な価値観にも合致していると言えるのではないか。それが自爆テロなどが横行している紛争地域では、未だに実現していないわけで、政治に参加する権利もなく、人並みの生活を受けられずに餓死するような状況なら、社会が絶望感に満たされていると言えるのかもしれず、それと比べたら日本の現状はまだマシな方だと言えるだろうし、生活弱者に対する差別や攻撃が一部にはあるにしても、武力革命が起きるほどにはなっていないのではないか。だからまだ平和的に物事を進められる可能性があるわけで、具体的には貧困層を満足させるような行政的な支援が欠かせないのかもしれず、貧しいから不満であることは確かで、資本主義的な経済である限りは、それを完全に解消することはできないわけだが、貧しくても差別されずに人並みに生きていける社会を維持継続させることができれば、少なくとも破局的な事態は避けられるだろうし、その辺を政治的にどのような政策を打ち出すかが、公共の利益を確保する上で今後とも鍵になってくるのではないか。


3月13日「目論見」

 差し迫った危機などありはしないとたかをくくっていると、唐突に何かが起こるだろうか。できれば起こった方がいいのかもしれないが、なかなかこちらの都合通りにはならないもので、暇にまかせて退屈を持て余しているうちに、そんなことなど忘れてしまい、忘れた頃に衝撃的な出来事にでも遭遇してみたい気もするが、大抵はたわいない些細な事件でしかないだろうか。それが大規模な原発事故ともなると、たわいないでは済まされないのはもちろんのこと、後々までに深刻な被害を継続的にもたらすのだろうが、実際に被害に遭った人でないと、深刻には受け止められないのかもしれず、いくら脅されても鬱陶しいだけで、中には反発すら抱く人もいるだろうが、感情だけは人は動かず、さりとて利害だけも動かず、感情や利害で動く人にとっては、動かない人々の気持ちがわからず、腹立たしく感じられるかもしれないが、では合理的に考えながら動く人にとっては、その場の成り行きに従って動く人は、厄介に感じられるだろうか。たぶん勘に頼って行動しているのだろうが、結果から判断すれば、感情や利害で動いているように思われるだろうか。それがその時の合理的な判断だったなら、それでも構わないのだろうが、何が合理的であるかについても、どんな立場や価値観を優先させるかで認識が違ってくるだろうが、少なくとも感情や利害だけで動くのは合理的とはいえず、関係する周りの人たちにとっても、説得力のあるような行動が求められているのかもしれない。そして利害関係や交友関係のない人にとっても、広く一般に支持されるような行動が取れれば、それが公共の利益に合致した行動となるのかもしれないが、では具体的にどのよう行動すればいいかとなるわけだが、それは個々の具体的な状況に応じて違ってくるだろうか。

 そういう逃げ方では無責任極まりないだろうか。合理的な判断に必要な基準があらかじめ定まっているとは思えない。どう行動すれば合理的な行動となるかについて、日頃から考えているわけではなく、すでに行動した後から振り返るのがほとんどだろうし、何か重大な決断を迫られる時には、考えている暇などなく、やはりそれもほとんどの場合は、その場で即決しなければならないのではないか。だから勘に頼らなければならないわけで、普段から勘を鍛えておくわけにもいかないだろうし、こればかりはそのときの運に左右されて、勘が鋭い資質であったり、修羅場の場数を踏んでいたり、その場でアドリブを繰り出せたり、他にも様々な要因があるだろうし、一概に条件も基準も決められず、偶然の要素が多すぎるのかもしれないが、気休めをいうなら、普段からどう行動すれば公共の利益に合致するのか考えておいた方がいいのだろうが、考えるのと行動するのとでは動作が異なり、決断を迫られる状況になった時には、なかなか考えておいた通りには行動できないだろうし、なりよりもそういう時には、想定外の思いがけない事態に直面するもので、とっさの判断で動くしかない場合がほとんどだろうし、そういう類いの時ではなく、よく考えてから行動を選択できる時に、公共の利益についても考慮に入れた方がいいということであり、それよりも優先順位が高い基準があれば、公共の利益を犠牲にして、そちらを優先してしまう場合もあるだろうし、それもその場の状況や成り行きに左右されるのではないか。何かの市民運動のように、集団で一致して行動しなければならない場合でもない限りは、なかなか公共の利益を考えた行動を実行する機会は少ないかもしれないが、他人に見せびらかすような行動でなくても構わないのだから、その場で考える余裕がある時に、それを実行すればいいだけなのだろう。

 すぐに何を優先させるか決められなくても、迷いつつもすでに行動している場合も多く、何らかの行動を起こしているとすれば、それを優先させているわけだ。決断することが重要でない場合も多いだろうし、何を決断したのか自分でも気づかない場合もあるし、人はその時々で考える余裕も迷う余裕もある時でも、よく考えずに迷わず行動していたりする。順序や手続きを決めてから行動しようとしても、いざ行動する段になれば、事前に考えていたことなど忘れて、自然にスムーズな動作が繰り出されれば、それで構わないわけだ。そしてそれを行動した後から説明するような機会があれば、順序立てて秩序正しく説明できれば、何か事前に考えていたことを、そのまま行動に移せたように思うのかもしれず、すでにそう思っている時点で虚構化が起こっていて、実際の行動とそれを説明した内容とが、完全に一致しているわけではなく、ある程度は作り話になってしまうのはやむをえないだろうか。それが普通だろうが、やはりほとんどの人はその違いに気づかないだろうし、気づく必要がないわけだが、何か事件に巻き込まれて裁判にでもなった時には、どうしてもその食い違いが表面化してくるのかもしれず、被告にでもなれば、ありもしない犯行動機を喋らされる羽目になってしまう場合もあるかもしれない。要するにそこで裁判という演劇に参加させられてしまうわけで、法廷という舞台上で被告を演じなければならなくなって、普段の日常では決してやらないような演技をさせられて、自分が別人のように錯覚してしまうかもしれないが、幸いなことに未だにそのような立場になったことはないので、現時点ではフィクションを語っているわけだが、果たしてこんな空想を巡らすことが、公共の利益とは無関係には違いないが、ふいにこんなことを思いつくのは、やはり偶然の巡り合わせであり、そんな成り行きに驚くでもなく、適当にアドリブを利かせているつもりなのだろうし、結果として論点がはぐらかされたように感じるなら、しばらく後から目論見通りだとでも思うのだろうか。


3月12日「無構造」

 民族的な幻想の共同体としての国家ではなく、ただの統治機構でしかなければ、行政としてサービスの向上と効率性を追求すればいいのだろうが、中には感傷的な思い入れが激しすぎる人もいるかもしれず、おかしな思想に入れあげて、何か勘違いしているわけでもないはずだが、それでもやはり人々は政治に期待してしまうのだろうか。実感としてはたぶん期待していないはずなのだが、政治的な茶番劇を報じるメディアとしては期待しているように装いたいのだろうし、そんなメディアに煽られて騒ぎたい人たちもいるのだろうが、ではいったい何を期待すればいいのか。そこでわからなくなるのであり、各論としてはいろいろと要望はあるらしいが、実際に政治的な要望を受けて何がやられているのかといえば、株価を上げるような金融政策と、税金を使った公共事業などが主な政策だろうか。大雑把にみればそういうことでしかないだろうが、それ以上を望まないなら、別に何を期待しなくてもいいわけで、そういうことしかできないとみなせば、別に政治にも行政にも取り立てて失望することもないのではないか。それではまずいのだろう。アフリカでも中東でも民族や宗派間で対立が高じて内戦が起こっていて、南スーダンやシリアでは多数の犠牲者が出ているようだが、それがわかりやすい国家の真実であり正体といえば、その通りなのだろうし、何らかの差異を見つけて対立を煽りたい人や集団など、世界中に存在するのだろう。それを民族的あるいは宗派的な利害の対立とみなしてしまえば理解しやすいのかもしれない。ところで日本で煽られている対立とは、思想信条的な対立だろうか。それを思想信条とみなせば、やはり何となくわかったつもりになれるのかもしれないが、できればそうは思わないほうがいいのだろうか。それどころか対立も見せかけとみなしてしまっても構わないのかもしれず、実際は対立などありはせず、案外騒いでいる人たちの利害は一致しているのではないか。彼らは国民の団結を呼びかけていて、団結して国家を盛り立ててほしくて、対立を演じる二つの陣営に分かれて、互いに互いを罵倒しながら、から騒ぎを演じているのかもしれない。しかし国民を団結させようとする目的は何なのだろうか。目的がないことを悟られないようにしているのだろうか。対立しつつも利害が一致しているとしたら、それしかないだろうか。だが実際問題としてそんなのはありえず、それぞれに目的をはっきりと自覚していて、その目的を実現させるために騒いでいるのだろうが、それが真の目的ではないことに気づいていないだけか。

 では真の目的とは何なのか。そんなものはないのであり、別にそれらはから騒ぎなどではなく、対立に参加している各人各団体ともに、事態を深刻に受け止めているから、本気で騒いているのではないか。そう思いたいのなら思えばいいだろうし、無関心を貫きたいのならそれでも構わない。貫こうとしているのではなく、自然とそうなってしまうのかもしれず、その自然の成り行きにまかせておく方が無難なのだろうか。それが自然の成り行きだと思うのなら、それで構わないのではないか。人為的にどんな思惑が渦巻いているとしても、それだけで何がどうなるとも思えず、誰の目的がどうであれ、目的を超えて作用する何かがあるのかもしれず、それが集団としての人の意志だろうか。そんなものがあればの話だろうが、捉えようのないものかもしれず、それが明確な目的という形では認識できないような作用なのではないか。イスラム国のようにアメーバ状に広がる不定形の運動を巻き起こしていて、司令塔の役割をする中心点がなく、群衆として働く捉えどころのない作用なのであり、制御が利かないような動きをするものなのではないか。誰かが何かを指令しているのだろうが、それが全体に行き渡っているのではなく、別々の箇所から別々の指令が出され、その指令が及ぼされる範囲が限定的であるために、全体として統率が取れないのであって、何をやっているのかはっきりとした傾向がわからない。明確な独裁者などいるわけもなく、そんな役割を担う人物が出現したとしても、周囲から尊敬を集めるわけもなく、権威も何もないような立場でしかありえず、陰口を叩かれ馬鹿にされながらも、その立場に居座り続けられるような権力構造なのであり、その方が周囲も都合がいいわけで、自分たちの権限が及ぶ範囲内で勝手なことをやりたいのだから、中国のような集団指導体制とはまた違った、無責任体制が出来上がっているのかもしれないが、それと対立しているつもりの人や集団にしても、イスラム国のようなアメーバ体質なのだろうし、別に特定の誰が反体制的な中心となっているわけでもなく、各々が勝手に反対したり批判したり罵倒しているわけで、中には組織的に運動を行っている集団もあるのだろうが、今のところはそれが体制を脅かすような勢力を構成していない現状なのだから、体制側にとってはどうということはないのだろうが、別にそれでも構わないわけで、壊そうとする明確な構造が体制側にないわけだから、そうなるしかないのではないか。


3月11日「転機」

 転機はやがて訪れるだろうが、それが自身にとって都合の良い転機であってほしいだろうか。そう願っていてもなかなかそんな成り行きにはならないのかもしれず、それどころか転機が訪れていることを感じ取れない場合もあるのではないか。転機に合わせて何かやるわけにもいかないし、何かやったことによって転機が訪れるのだろうから、そんなことなど気にする必要はないのかもしれないが、外部的な要因によって転機が訪れる場合は、そんな運命に逆らうわけにもいかないのではないか。逆らえないのが宿命ならそういうことだろうが、自身にとって嫌なことが起これば、自然にそこから抜け出そうとするのだろうし、そこで何か工夫を凝らしたり、何らかの働きかけや努力をするのではないか。それがうまくいく場合もあるし、いかない場合もあるのだろうが、それが転機となって、また何らかの決断をしなければならなくなったり、何も決断しなくても自然とどこかへ押し流されていってしまう場合もあるのかもしれないが、それを受け入れたり、受け入れずに逆らう成り行きになるにしても、信念が揺らいだり、信念を押し通したりするとしても、そういう次元では何とでも言えるだろうし、また何も言えない場合もあるのだろうが、少なくともそんな境遇の只中で何か考えていることは確かかもしれない。今も考えている最中かもしれないが、具体的に何をどう考えているのかはっきりしないようで、言説として示せないままとなっているのだろうか。そう思っている時もあるが、それでも実際は何かしら記しているのであり、たとえそれが空疎な無内容だとしても、何か記せば言葉の連なりにはなるわけで、たぶんそれが言説には違いないのだろう。そしてそうは思っていない時もあり、何か世の中の法則らしきものをつかんだ気になって、それを記しているつもりになっている時もあるわけだが、それが本当に法則なのか、あるいはただの気のせいなのかは、自身ではよくわからないのかもしれず、ただその気になって言説を構成することが、何よりもその場では必要なのかもしれず、その気になれずに、とりとめのないことばかり記しているようなら、言葉を記して文章を構成する必要性を感じられなくなり、やがて記述する行為をやめなければならなくなり、そしてそれが転機となって、そこからまたそれまでとは違う成り行きに身をまかせることになるだろうか。できればそう願いたいものだが、今のところはまだ転機が訪れていることを感じ取れず、相変わらず代わり映えのしない内容を記しているようだ。

 もちろん途中で様々な転機が訪れ、それに応じて境遇も様々に変転してきたわけで、その度ごとに記している内容も変わってきたのかもしれないが、一方で固定点のように動かない部分もあるらしく、それが自身の意志を押し通している結果なのか、たまたま成り行き上そうなっているだけなのか、その辺は皆目見当がつかないと嘘をついてみても、何か白々しく感じられてしまうのだが、それが勘違いであろうと、わざと気づかないふりをしているのであろうと、あるいは本当に気づいていないのかもしれないが、やはり自然とそうなっているように感じられるわけで、そうとしか思えず、またそれが言説上の嘘であろうと、やはりそうとしか思えないと記してしまう成り行きの中で、意識が固定されているのかもしれず、もちろん固定されているわけではなく、絶えず揺れ動いているのだろうが、そんな揺れ動きの中でも、そんなことを記している現状があり、何やらくどくどと、どうでもいいような言葉を連ねながら、それをやり遂げようとしているわけだ。それ以上を何を望むのか。何かを望んでいるのだろうが、それをつかみきれていない。つかもうとしていないのかもしれず、つかんでいながらそれに気づいていないのかもしれないが、たぶん何かをつかんでいて、それをまとまりのある言説として示せないだけなのかもしれず、それを示すことができるようになるには、さらなる転機が訪れないことには、うまく示せないのかもしれない。そのためにはさらに言葉を記して文章を構成し続ける必要があるのだろうか。たぶんその時が来るまではそうしなければならないと思っておけば、この先も延々と記述し続ける状態を確保できるかもしれないが、いつまでもそうしている限りは、転機など訪れはしないのかもしれず、それでも構わないのかもしれないが、やはりそういう次元で何を述べてみても、無駄に空疎な内容を記すばかりで、はっきりした見通しなど何も立たないだろうが、やはりそれで構わないのなら、延々とそれを繰り返すしかないわけだ。それが嫌なら無理やり転機を作るべきだろうか。成り行き的にそうなるならそうするだろうが、そんな成り行きになるのを期待しているわけでもなく、ただそこで迷っているに過ぎないのかもしれないが、本心からそう思っているわけでもないようで、それよりも迷いが忘却へと変わるのを待っているようで、今まで記してきた全てを忘れてしまうことを期待しているのかもしれない。たぶんこれかも何らかの転機が度々訪れるだろうが、その時々で何を感じどう判断しようと、絶えず期待が忘却に変わる瞬間を待っているのだろうか。


3月10日「直接の行使」

 人は何に満足しているわけでもないらしい。人といってもその種類は千差万別で、それを嘲笑的に種類分けしてもひんしゅくを買うだけかもしれないが、中には将来を見通せないことからくる不安が高じて苛立ち、現状に対する不満を爆発させている人もいたりして、そんな怒れる人が世の中で脚光を浴びているのかもしれないが、別にその人の主張の中身が単純極まりないとしても、その行動でアピールしているように見えたら、それで構わないのだろうし、何はともあれそれに便乗して、煽動的なメッセージが多方面から発せられているわけか。人がどんな類いの言動や行動に出ているとしても、個人の力では集団的な権力の行使に勝てるわけがないとも思われるが、時と場合によっては、そのタイミングを見計らっているわけでもないにしろ、何かの間隙を突いて力を行使する機会もあるのかもしれず、力が行使されたからといって、結果的に見れば何がどうなったとも言えないのだろうが、確実にどこかへ届いたように感じられる時もあるだろうし、何が届いたのかといえば匿名の言葉でしかなく、届いた時にはすでに当人とは無関係な意図や思惑に侵食されている。要するにそれは偶然の作用なのであって、特定の誰の力が及ぼされたわけでもなく、ほんのつかの間時空に綻びが生じ、それが憩いの時となって世界に到来し、だとしてもそこに神がいるとは思えないし、誰かが気休めに世界の変化を感じ取ったように見えたとしても、それが何の運命だとも宿命だとも感じられず、次の瞬間には跡形もなく消え去り、何が生じ何が消え去ったのか、誰の記憶にもとどまらないような何かなのだろう。それが何でもないといえばその通りだろうし、誰かの影が何か聞き取れないような小さな声で、何か呟いたような気もしたかもしれないが、呟いただけではどうなるわけでもなく、やはり依然として世界に決定的な転換の時など訪れていないし、過去から地続きの退屈な時が平然と刻まれているだけで、時が刻まれているタイミングにも全く乱れを確認できないだろうし、ただ何かが右から左へ通り過ぎたとしか感じないのではないか。その何かはいつまでたっても何かでしかない。

 この地上に平坦な土地があるのは、実感としては確かなことで、起伏に飛んだ地域に暮らしている人にとっては、それが羨ましいのか退屈に感じられるのかは、人によってその境遇によっても、様々に感じられるかもしれないが、住んでいる土地が平坦か起伏に富んでいるかに関係なく、何か一定の力を及ぼされているように感じられたら、それは重力ような類いの力となるだろうか。重力は現実に感じられる自然の力なのだろうが、それが人工的に及ぼされている力だとすれば、果たしてそれは現実の力なのか、あるいは思い込みでしかない架空の力なのか、どちらの力を想定した方がリアリティを伴うだろうか。物理的に作用して実感できる力なら、直接押したり引いたり叩いたりする人為的な行動が伴うだろうし、何か物体が飛んできたり風圧が生じたり爆音がしたりすれば、それが人為的であろうと自然現象であろうと、身の危険を感じるのではないか。また金銭的な損害が生じたり資産が目減りしたりすれば、身体に直接響かないにしても、精神的なダメージが大きいだろう。それらは別に架空の力が及ぼされた結果ではないだろうし、現実に何かが作用した結果として生じる実感を伴うのではないか。では思い込みでしかない架空の力とは何なのだろうか。それは何らかの幻想を抱かせるような力の作用になるだろうか。映像を視聴したり文章を読んだり演説を聞いたりして、人は何らかの幻想を抱くかもしれないが、実際に何らかの運動に参加することによっても、同じような効果があるだろうし、メディアから間接的に影響を受けるよりは直接参加した方が、より強い印象を得られるかもしれず、肯定的な希望や期待としての幻想を実感できるのではないか。直接実感しているのだから、もはやそれは幻想とは言えないのかもしれない。幻想ではなくそれは希望であり期待なのだろうか。幻想としての希望であり期待でもあるのかもしれないが、消極的な意味の幻想を取り去って、積極的に希望を抱き期待していると思えばいいだろうし、それを実現させるために運動しているわけだから、そう思うしかないだろうが、要するにそれが直接的な力の行使なのだろうし、今や人はメディア的な幻想を振り切って、そんな実感できる力を行使したいのではないか。そんな運動が主流となれば、いよいよ日本も動乱の時代に突入する可能性も出てくるかもしれないが、そうなってもならなくても、やはりそれが良い悪いではなく、そんな成り行きになるかならないかでしかないだろう。果たして人々はメディアからもたらされる幻想を打ち破ることができるだろうか。


3月9日「夢見心地」

 何が原因であるとも思えない結果に直面すれば、人はうろたえるだろうか。それでも現実にそういう結果になれば、それはありえない結果ではなくなるはずだ。だが結果とは何だろうか。結果の後にも現象が続いていくなら、それは結果ではなく途中経過だ。人が出会い認識する現象の様々な場面で、それを結果と判断できる時点があるのだろうか。区切りをつけられる場面が結果とみなされ、何か一段落ついたような気にさせるのかもしれない。思いがけぬ結果がもたらされる場合は、現象の中で気づかない作用が働いていて、それを見落としていたから、その作用による状態の変化が顕在化してきた時点で、突然予想外の出来事が起こったように感じられ、思いがけぬ結果がもたらされたように思われるわけか。例えばヨーロッパ諸国による新大陸への侵略過程における思いがけない結果とは、アメリカ合衆国が本国イギリスから独立したことだろうし、しかもそのアメリカが建国二百年もたたないうちに、世界一の超大国に成長したことだろうか。そしてそのアメリカの政治制度が、今日に至ってもなお複雑怪奇な大統領の選出方法を採用していることも、不可解な結果かもしれず、またそこで話題となっている共和党の候補者が、保守やリベラルを問わずマスメディアや他の候補者からも、その非常識で煽動的な言動が集中的に非難されているにもかかわらず、依然として幅広い層から支持を集めている現状も、通常ではありえないことかもしれず、さらに民主党でもアメリカではタブー視されていた社会主義的な主張を掲げる候補者が、劣勢ではあるが健闘していることも、現時点では思いがけない結果だろうか。最終的には本命視されいる候補者が勝つ確率が高いのだろうが、話題となってる型破りな候補者が勝って大統領ともなれば、多くの人が驚きうろたえるだろうし、それが何らかの歴史的な転換をもたらす出来事になるだろうか。

 誰がアメリカの大統領となったところで、大して世の中は変わらないかもしれず、同時多発テロをきっかけとしてアフガンやイラクで戦争が起こったところで、リーマンショックが起こったところで、東北地方で地震や原発事故によって深刻な被害が出たところで、そこではそれなりに世の中が変わったはずなのだろうが、果たしてここ十数年間が世界的には激動の時代だったと言えるだろうか。それはベルリンの壁が取り払われてソ連の崩壊をもたらした東欧諸国の民主化革命の時期もそうだったのかもしれず、当事国や当事者にとっては激動の時代だったのだろうが、傍観者的な立場にある国や国民にとってはそれほど実感がなく、案外前世紀の二度の世界大戦期や世界大恐慌の時期においても、当事者意識の希薄な人々が大勢いたのかもしれない。要するにまだ19世紀的な大衆市民社会が世界中で延々と二百年以上も続いている状態なのだろうか。それは世界的に国民国家と労働者の時代なのだろうし、民主主義と資本主義の時代なのだろうが、いったいこの時代には何が欠けているのだろうか。あるいは欠けているのではなく何かが過剰に顕在化しているのだろうか。例えば欠けているのはリアリティで、過剰に顕在化しているのはフィクションだろうか。誰もが夢見心地に浸りきっていて、現実を忘れようとしている。労働を強いられ国家に拘束されている現実を、娯楽に夢中になることよって忘れようとしているわけで、しかも中でも最も評判の悪い娯楽というのが、政治なのかもしれず、もはや選挙で投票しても候補者に夢を託せないものだから、不満が募っているのだろうし、もっと何か満足のいくような玩具を提供して欲しいのだろうが、政治家が国民の玩具である時代はとうに終わっていて、今では不細工で機能の劣化した人材しか見当たらず、それがとりもなおさず大衆の質から生じている現実であるのを直視できないところが、何もかもが虚構の娯楽として提供されている所以なのだろうが、この現状を否定してはまずいのかもしれず、この世界がそこで暮らしている人々の夢の実現である限りは、肯定できる要素を探してそれを顕揚することが大事なのであり、現状にキレて敵対する人や集団を罵倒したり嘲笑したりしているうちは、まだまだ忍耐が足りないのであって、世界に対する探求を怠っている証拠なのだろうか。


3月8日「遠因」

 現実に起こっている些細な出来事が世の中に何らかの影響を及ぼしていることは確かで、人や物や金や情報などが動いた結果として様々な出来事が起こっているのだろうし、そこに各方面からの様々な思惑も働いていて、それらが混ぜ合わさって社会的な現象を引き起こしているのだろうか。それを党派的あるいは思想信条的な偏りを重ね合わせながら批判的に語ることはできるし、そこにも語っている人の思惑が介在していて、それを含めた社会的な現象の一部を構成しているわけで、その人が属しているつもりの党派的あるいは思想信条的な連帯を形成する集団の中では、そんな批判的な言説が流行っているのだろうし、何やらそういう傾向の同じような内容が日々あちらこちらで語られているのだろう。だがそれ以上の何をそれらの現象から引き出せるだろうか。とりあえず敵対していると思われる金銭スキャンダルを起こした政治家を批判することはできるし、国会でお粗末な答弁を繰り返している大臣を批判することもできるはずで、権力に媚びへつらうマスコミ関係者を批判することもできる。また政府の政策によって不利益を被っている人たちがいることを強調することもできるし、世の中の大半の人たちが不利益を被っていると主張することもできるわけだ。そしてそれらは今までに延々と語られてきたことであり、またこれからも延々と語られるだろうことは確かなのではないか。中にはそういう現象に対する反発もあるだろうが、報道関連のメディアの役割としては、そういう部分があるのが当然だろうし、そういう批判的な内容が世の中に流通するのが、通常の成り行きではあるのだろう。それ以上を求めることはできないのかもしれず、他に何を期待するわけにもいかないのかもしれない。あとはそんな内容を受け取った人々が、選挙や世論調査などでどう判断するかだろうし、それに共感したり反発したり無関心であったりするわけだ。

 それとは別に世の中がどうあるべきかについても、党派的あるいは思想信条的に語られることがあるだろうし、そこに暮らしている人々の利益となるような政治的な体制や政策が夢見られているのだろうが、それについても広く世間的な賛同が求められているわけで、自分たちの主張を選挙や世論調査などの時に判断材料にしてほしいのだろうし、それに対する人々の反応も、それに共感したり反発したり無関心であったりするのだろうが、現実的にはそのような主張によって、すぐに世の中が急激に変化することもないだろうし、選挙の結果として議会内での党派的な勢力図が変われば、それに応じて内閣の顔ぶれも変わることにはなるのだろうが、一方で行政を担う官僚機構はそのままそこに居座っているだろうし、記者クラブなどのギルドを構成するマスコミ各社も、大手新聞社や全国ネットのテレビ局などが幅をきかせている状況は変わらず、議会や内閣はそれらの利権団体に包囲されているわけで、それらの団体が衰退しないような方向で、現状維持を図ろうとする圧力が常に働いているのではないか。つまり短期的に見ればほとんど変わりようがない状況だと言えるのかもしれず、日頃から党派的あるいは思想信条的な主張を繰り返す人々の主張が実現するのは困難なのかもしれないが、それでも長期的には変化するのだろうし、これまでも何らかの転換点を境に変化してきたのだから、これからもなんらかのきっかけで変化するだろう。どのように変化するかはその時になってみないことにはわからないが、現状を見れば、例えば憲法9条の改正のように、これまでも保守陣営から執拗に唱えられてきたことが、その実現に向けていよいよ具体的な行動として顕在化してきたわけで、またバブル崩壊から続く長期的な経済の低迷が、ここにきて無謀とも受け取られる金融政策を招いたりしているわけで、さらに昔に遡れば、帝国主義と軍国主義化がもたらしたアジアに向けた侵略戦争と、そこから生じたアメリカとの最終決戦が、その敗戦によって民主的な憲法をもたらし、それがまたその後の朝鮮動乱によって新たに編成された自衛隊との間で矛盾を生んだりして、過去に起こった何らかの出来事が、後になって様々な現象を引き起こしているわけだから、現状の各種の反対運動も数十年前の全共闘運動などから影響を被っているとも言えるだろうし、それが反体制的な政治運動であるにしても、実際に世間一般から注目を浴びるような現象を引き起こせば、それが出来事として歴史上に刻まれ、後になって何らかの政治的あるいは社会的な転換をもたらす要因の一つとなる可能性はあるのではないか。


3月7日「混沌」

 大雑把に考えれば経済規模は人口が増加した分が増えればいいわけで、日本は人口が減少しているのだから、その分が減っても構わないのだろうし、減ったところで微減でしかないだろうから、それほど生活水準は変わらないはずだが、生活が苦しくなったと実感している人が多いとすれば、富める者がますます富み、貧しい者がますます貧しくなって、貧富の格差が広がっている可能性もあるわけで、それを政治の力でどうにかしてほしいとなると、富裕層に対する所得や資産に対する課税強化と、それ以外の層に対する減税と福祉の充実、という昔ながらの社会民主的な政策となるわけで、さらに大企業に対する課税強化も共産党あたりが唱えているようだが、今のところはそんな主張をしている政党が、政権を取るような状況とはなっていないようだ。これからも社民党や共産党の主張が、政権内で受け入れられる見込みがないとすると、国内の貧富の格差はますます広がる一方だろうか。そうなったとしても貧困層が依然として存在しているなら、それなりに人が暮らしていける状況があるだろうし、中には暮らしていけずに死んでしまう人も出るだろうが、少なくとも死ぬまでは生きているのだから、一応は貧しいなりにも人の暮らしが成り立っていることになるだろうが、そんな可能性があるというだけで、実際にどうなるかはわからない。たぶんそうなるだけではないだろうし、日本一国だけの問題ではなく、今後世界情勢がどうなるかによって、日本の将来も左右されるだろうし、どうなるにしても単純でわかりやすい成り行きにはならないのかもしれない。またそれについていくらでも荒唐無稽な空想は可能だろうが、正確に予想したり予言したりするのは難しいだろうし、こればかりは実際に未来になってみないことには確かなことはわからない。

 もしかしたら世界的に経済成長が止まった時点で、資本主義は終わりかもしれず、どうあがいても世界の人口が今後減少に転じる確かな予測があるのだから、資本の膨張はそこで終わりかもしれず、それでも膨張するとすれば完全に実体のないバブルになるだろうか。あるいは民間の宇宙事業に投資資金が流れていって、宇宙開発に必要な膨大な資金を捻出するために、全人類が永遠に働かなければならないだろうか。少なくとも現状とは違う経済になるだろうし、例えば誰もがタダで生活物資を手に入れられるような世の中になったりしたら、貧富の格差など無意味になってしまうだろうが、そんな荒唐無稽な空想をしてみたところで、今の時代の現状は変わらないし、中にはベーシックインカムに希望を託す人もいるみたいだが、今後ヨーロッパのどこかの国がやるようなことがあれば、それで実現可能性がある程度わかってくるかもしれない。現状では普通に人にとっては必要のないところで莫大な物と金と人材が使われているわけで、その最大の消尽行為が戦争だろうし、それをなくすだけでもだいぶ各種資源の節約にはなるだろうが、ある意味でそういう行為に生きがいを感じている人や集団が存在しているわけで、そうでなくても人や集団が物や金や土地や人的資源を巡って争わないことには、資本主義も国家も成り立たないわけだから、戦争もそんな争いの一つだと考えれば、何ら特別な行為ではないのだから、それはそれとして必要とされていて、それなりの必然性があるのではないか。国家の中でやってはいけないことを法律で決めれば、必ずそれを破らざるをえない人や集団が現れるし、富める者の自尊心を満足させるには、数多くの貧しき者が必要だろうし、富める側からすれば貧富の格差がなければ、自分たちが存在する価値観を正当化できない。

 そんなわけで今の世の中で広く認められている価値観を成り立たせるには、そのままの現状が必要なのだろうし、あるいは今以上のメリハリがあればなおのこと都合が良く、自尊心をくすぐられるわけだから、人や集団の立場や資産などの境遇が均一になってしまうと、世の中でそれなりに成功しているつもりの人や集団にとってはまずいわけで、また少なくとも成功している人や集団が世の中の実権を握っているわけだから、そう簡単に自分たちに有利な状況を手放すわけにはいかないだろうし、そのためにもそれらの人や集団は、大して成功していない一般大衆に媚を売って、それらの人たちを味方につけることによって、我が世の春を謳歌している状態をできるだけ長引かせたいわけだ。そのための競い合いであり、競い合いをメディアを通じて見せることによって、そこにはメディア自体も含まれるわけだが、一般大衆の観客を魅了していることになるだろうか。現実に貧富の格差が広がっているとしたら、やはりそれに多くの人が魅了されていて、一般大衆は富める者たちを支持し、富める者たちに奉仕していることになるだろうか。そんな社会の構造なのだとすれば、そんな誘惑に逆らえないのだろうし、逆らっている人たちが逆に世間から非難され、攻撃されている現状があるのではないか。そしていったん出来上がってしまった構造を壊すのは容易なことではなく、反体制的な大衆運動だけではビクともしないだろうし、実権を握っている人や集団の失敗や躓きが必要不可欠で、それらの人や集団間の争いも自滅を誘う要素があるのかもしれず、それらのマイナス要素の複雑な絡み合いの中から、世の中そのものを転換させる契機のような機会が生じてくるのかもしれない。それが今なのか数ヶ月後なのか数年後なのかは、実際にそうなってみないことにはわからないだろうし、現状では様々な立場や境遇の人や集団などが、それぞれの思惑で動いている最中なのだろうか。


3月6日「可能性」

 そもそも現状で景気が良くなる政策というのがあるのだろうか。外国でそう簡単に経済搾取できない時代だろうから、国単位では劇的に良くなるというのはありえないだろうし、ほどほどに改善するようなやり方さえないのかもしれず、政策ではなく世界的な景気循環の中で、良くなったり悪くなったりする時期があって、経済メディアの中では景気が良くなった理由や悪くなった理由がそれなりに語られているのだろうが、政府の政策によって景気が左右されるというのは、何か説得力がないように感じられ、それよりは普通に考えれば、世界の中で人口が多い地域が経済発展すれば、そこへ商品を輸出するか資本を投資すれば利益を得られるだけで、それ以外で景気が良くなることはないような気がするのだが、今後大規模に経済が発展しそうな地域といえば、少し前までは中国とインドとアフリカのサハラ以南の地域と言われていて、その中でも既に中国の経済発展が限界に近づき、インドは今まさに経済発展が進んでいる最中かもしれないが、今後どれほど発展するかは未知数だろうし、アフリカのサハラ以南は確かに人口爆発が予想されているのだろうが、そこから顕著な経済発展が起こるかどうかは、今のところはよくわからない段階なのではないか。日本では人口が減少してきているし、それだけ商品を買う人数が減ってくるわけだから、国内だけではこれ以上の経済発展は期待できないだろうし、昔は主にアメリカに輸出や投資したり、少し前までは主に中国に輸出や投資したりして、それなりに利益を得てきたのだろうし、それ以外の地域にも輸出や投資によって、今でも貿易や投資によってそれなりに利益を上げているから、貿易収支は赤字だが経常収支は黒字で、通貨の円も日本国債もそれなりに国際的に信用があるのだろうが、たぶん国内の現状を考慮すればそれ以上は望むべきではなく、現状維持で構わないのではないか。要するにもはや経済に関しては、政治に過大な期待をかけるのは間違っていて、政治に関しては、行政サービスの面で国民を納得させるぐらいしかできないような気がするのだが、どうもその辺で何か政治家も国民も幻想を抱いているのかもしれず、どうしても産業振興を図ろうとして、結果として悪あがきにしか映らないようなことをやってしまっているのかもしれない。

 そうだとしても政治的にも行政的にも、現状からかけ離れたことはできないだろうし、現状の延長上でしか何もできないのかもしれず、それに対して批判があるのなら、納得のいく説明をすればいいわけだが、逆に批判を抑圧しようとする傾向が顕著になってきているとすれば、やはりそれは政策的に行き詰っているから、そんな行動に出ているとしか考えられないわけで、あるいは支持者を失望させたくないから、選挙で議席を減らしたくないから、さらに言えば憲法改正に向けて地ならしをしたいから、そんな推測やら憶測やらうがった見方をすれば、なんとでも言えるのかもしれないが、いよいよ手詰まり感をごまかしきれなくなったら、政権を手放さざるをえなくなるだろうし、そうなるきっかけとしては選挙で大敗するぐらいかもしれず、結局は有権者の判断次第なのだろうが、仮にそうなって政権交代したとしても、現状はそれほど変わらず、相変わらず景気刺激策などを無理にやろうとすれば、同じことでしかなく、それ以外でやれることといえば、教育の無料化とか子育て支援とか保育園の増設とか、現政権ではやりたくない部類のことしかないのだろうし、それと同時に行政改革によって無駄を省く政策を取れば、今度は官僚機構からの反発が予想され、数年前の民主党政権のように潰される顛末になるだろうが、またそうなるとしても、そういう方面での努力に国民の期待があるのなら、それを辛抱強くやらざるをえないのではないか。国家機構の弊害として、放っておけば官僚機構の絶え間ない膨張を許してしまうことは、もはや周知の事実であって、ある意味で世界の常識なのかもしれず、それに歯止めをかけて行政の無駄を省くだけでも、その分が国民に利益となるだろうし、ある方面の経済評論家は、国の借金がいかに膨大になろうと、財政破綻など起こるわけがなく、それは財務省の洗脳だと主張しているわけだが、他の国の財政状態と比較して異常に突出した財政赤字だとすれば、やはりそれはおかしいわけで、日本だけが特殊でいいはずもないだろうし、そうであるなら、国民の期待が大きい福祉とは別の方面で、財政のスリム化を図るしかないだろうし、それと同時に福祉の分野でも無駄を切り詰める努力が欠かせないのだろうが、そこで昔からメディアなどで語られているのは、行政と業者や業界との天下りや事業の入札を通しての癒着体質なわけで、それをできるだけなくすことが、行政改革の本質であることはわかりきっているはずだろうが、それこそが官僚機構が死守したい部分だろうから、やろうとすれば当然抵抗が強くなるわけで、やれば政権が潰されるのかもしれないが、これも辛抱強くやるしかないのではないか。


3月5日「期待」

 現状で不都合なことがあるとすれば、その不都合を改めるのが不可能なことになるだろうか。ではいったい何が不都合なのだろうか。何をどうしろというのではないとすると、何もどうにできないようにも思われてしまうが、主張すべきはそんなことなのかもしれず、何も主張していないように見せかけているのではなく、要するに取り立てて主張していないようだ。矛盾しているようだが、そんなふうに思われてしまい、矛盾したことを述べている状態を放置して、不都合な真実を知りたいのではなく、まずはそれが何にとって不都合なのかを知りたい。抗議の声を上げている人にとっては、確かに不都合なのだろうし、抗議の対象となる人や勢力にとっては、改められないことなのだろう。現状を改められないから抗議の声が上がるわけで、改められない理由があるのだろうが、取り立てて改めることを拒否しているわけではなく、単に改められないということでしかないのだろうが、そのまま放置されるのが嫌だから、抗議の声を上げているわけで、そこに対立や敵対関係があるわけで、双方が力の及ぼしあいを演じているわけだ。少なくともメディアからもたらされる巷の話題の中では、そんな構図が示されているだろうか。それが何を意味するのかといえば、批判する人たちと批判される対象があるわけで、どちらが正しいか判断してほしいわけだが、大概は批判している方が正しいように語られるわけで、中には批判する人たちをさらに批判し返す人もいるのだろうが、何となくそれは屁理屈を述べているようで、あまり説得力がないようにも感じられ、批判が正しいなら現状を改めなければならないと思うわけで、そう思う人が多いほど、そのような世論が形成されるのではないか。そういうことの積み重ねによって、何をどうすればいいかの世論が作り出されるとすると、その世論通りに現状が改まれば世論に賛同する人たちは納得するのだろうが、そうならなければ、世論形成の試みが不発に終わるわけで、そんなことが連続すれば、世の中に諦めムードが漂い、世論形成を担っているつもりもメディアの信用もがた落ちとなり、厭世感が蔓延してしまうわけだろうが、やはり今この時点で必死になって批判を繰り返している人たちは、それを実感していないのだろうか。それとも諦めムードを感じ取っているが、強がって虚勢を張っているだけなのだろうか。

 そう決めつけてはまずいのかもしれず、選挙などによって何らかの結果が出るまでは、判断を保留しておいた方がいいのだろうし、まだ何とも言えない状況にあるのではないか。またそれ以前になぜ現状が改まらないのか、あるいは改めようとしないのか、その理由や原因を考えてみた方がいいだろうし、それが我田引水的に批判する人たちの都合や論理ばかりが反映されると、なにやら批判そのものの説得力がなくなってくるだろうし、無理難題をふっかけているような印象も生じてくるわけだが、批判する側とされる側の双方にとって公平で公正な議論などありえないだろうし、どちらも自分たちに有利となるような論拠を用意してくるわけで、そこから議論が平行線に終始することが多く、結局どちらが正しいかは有権者の判断にまかされているわけだ。もちろん正しいとは思わなくても、別の事情から正しくない方を応援する人たちも多く、正しいと思われる主張をしている人たちが必ずしも勝つわけではなく、正しいことばかり主張している政党が、議会内では少数派でしかない現状もあるわけで、主張の正しさがそのまま議会内で多数を占めることには直結していないわけで、その辺も現状で何を主張した方がいいのか、様々な角度から検討してみた方がいいわけで、選挙に勝つには、あるいは勝つ可能性を高めるには、どのような体制にしてどんなことを争点にすべきなのか、充分に戦略を練っておいた方がいいのかもしれない。八方美人的に正しいことばかり列挙して、一方的に非難を繰り返せば、どうもうまくはいかないような気がするし、現状でできそうなことと、現状ではできそうもないことなどを交えながら、あまり一方的には非難せず、穏便な批判に終始しておいた方がいいようにも思われ、支持者からは歯切れが悪く焦ったくなるように感じられるほどの優柔不断な態度を装っておいても構わないのかもしれず、しかもそれで負けてもいいのだろうし、大して勝てなくても、それで結果的にはうまく立ち回ったことになるのかもしれない。そしてそれ以上の結果など期待しない方が身のためなのかもしれず、長期的に徐々に力を蓄える方向で戦略を練るべきなのだろう。少なくとも毎日のようにヒステリックに罵倒を繰り返すネット民に体制を転覆させる力はない。


3月4日「作為」

 人は社会の中で作為的な動作を強いられているだろうか。そもそも自然な動作とはなんだろう。自然な振る舞いを心がけようとしても、自然であることと作為的であることの違いがよくわからないのではないか。それとは別に目的に忠実に生きるとは何か。具体的な状況の中で考えてみないことには、すべてが抽象的で何に対して何を述べているのかはっきりしないのかもしれず、そこに語ることの限界があるのかもしれないが、抽象的な限界内で語ろうとすれば、何かそれふうの人生訓的な心地よさがもたらされるのだろうし、そうやって毒にも薬にもならないことを述べていれば、それで済んでしまうような社会状況の中で生きているのかもしれない。そういう次元ではいくらでも作為的になれるだろうか。わざと具体的な現実には触れずに語ることができれば、それによって現実の困難を避けることができそうだ。そうやって避けているうちは、語りの中で都合のいいフィクションを保持していられるのだろうが、そこから一歩踏み出て、自らが体験しつつある具体的な事象に触れようとすると、途端に何も言えなくなってしまいそうで、否応なく直面している具体的な現実の前では、何を言ってみても無力であることを思い知らされるだろうか。しかしその直面している現実とは何なのか。世の中には達成できそうな目標というのがあまりないということか。理想を高く設定すればその通りかもしれないが、妥協して低く設定すれば、達成できそうな目標などいくらでもありそうだが、自らのプライドがそれを許さないのではないか。しかもそのプライドいうのが、外部から強いられたプライドであり、人と人の関係から、他人より自分を上位に置こうとする、心理的な競争本能から生じているわけだから、それは人に生じる自然の動作であるとしても、誇示するような感情でもないだろうし、場合によっては生きていく上で邪魔になることもあるのではないか。それも時と場合に応じて強調してみたり、あるいは逆に引っ込めてみたりすれば、うまく立ち回ることができるのだろうか。そうなると立ち振る舞いのすべてが演技っぽくなって、動作がわざとらしく作為的に見えるようになってしまうだろうか。

 そんなことを気にしていること自体が不自然なのだろうし、意識せずに立ち振舞えれば、それが自然な動作と言えるのかもしれないが、それについて語るとなるとそうはいかない。実際とは違うことを語っているのだとすれば、すでに内容がフィクションとなっているわけで、要するに語らなくてもいいことまで語らざるをえなくなっているのだろうが、それについて語っていることが不自然な動作なのかもしれず、意識しないところで作為的になっている可能性もあるわけで、その作為が施される主な原因としては、うまく語ろうとしていたり、文章をまとまった分量にしたかったりする意図があり、そういうところで作為を施さないと、納得がいく文章を構成できないのだろう。自らを納得させるためにはそうしなければならず、そのために語ろうとしていて、文章を構成したいわけだが、そこに目的が生じ、目標が納得のいく文章を構成することだとすると、では文章の中身はどうするのかといえば、それもそれなりに納得がいく内容を記したいのだろうし、なにやらその辺で自家中毒気味に、空疎な思いが循環しているようで、また自尊心が絡んでいるようにも思われ、それを意識すればするほど、不快感や嫌悪感が増してくるのかもしれないが、乗り越えなければならないのは、そんな内面の発露でしかないだろうか。そこに自己があればあると言えるし、自己を乗り越えたところで、そこに何があるとも言えず、ただ逡巡が繰り返されているだけかもしれないが、そうやって言葉を記している現状が何なのかといえば、自分でこしらえたつもりのフィクションに直面しているだけで、他に何があるとも思えないところが、一方では空疎を醸し出しているように感じられるわけで、文章を構成すること自体が作為には違いないだろうのが、たぶん作為を表現することが、そこでの自然な成り行きになっているのかもしれず、作為が自然をもたらし、自然から作為が生まれる、と言う循環を意識することで、かろうじて何かの均衡を保っているのだとしたら、その何かが何なのかといえば、それは精神であり自意識だと言えなくもないが、やはりそれが自分でこしらえたフィクションだと思うしかないのだろう。


3月3日「虚構」

 現実と虚構の区別をつけるとなると、何が現実で何が虚構なのか、どこまでが現実でどこからが虚構なのか、普段はその辺をはっきりと区別しているわけではないだろうし、意識の中では両者が混ざり合っているようにも思われるわけで、現実を虚構的に認識していたり、その逆もありうるかもしれないが、客観的には現実の中に何もかもが存在しているように思いながらも、それを認識しているのは虚構の意識かもしれず、それが具体的な現実であったり、メディアからもたらされるフィクションであったりすれば、それが現実であるか虚構であるかを断定できるだけかもしれないが、現実でも虚構でも話に真実が含まれているように感じられると、それを信じないわけにはいかないだろうし、嘘や偽りが含まれているように感じられると、普通は話を信じないわけだが、たとえ信じていなくても、あたかもそれが真実を含んでいるかのようにみなして、その話をもとにして、現実に起こっている現象や出来事を説明しようとすると、なにやら現実について語っているかのような嘘偽りの言説を構成できるだろうか。たぶん世界中に秘密結社があることは事実らしく、それらの秘密結社が活動していることも事実なのだろうが、それらの秘密結社が影から人や団体を操っているとなると、その人や団体が社会の中でどのような役割を担っていて、またどれほどの権力を持っているのかについては、はっきりしたことはわからない。操られている人がどこかの国の大統領や首相だったり、操られている団体がグローバル企業だったり国家だったりすれば、何か嘘くさく思われたり、その話を信じない人が多くなるのかもしれないが、フリーメイスンやスカルアンドボーンズなどの有名な秘密結社に所属している人が、どこかの国の大統領だったり首相だったりする例は、過去にも現在にもいくらでもあるようで、それらの人たちが秘密結社に操られていたかどうかは定かでないが、一応はその構成員だったのだから、なんらかの影響は受けていただろうし、場合によっては便宜を図ってもらっていた例もあるのかもしれない。普通に考えればそれ以上のことはわからなくてもいいのではないか。要するにそれらの影響や便宜は、現実の政治や経済の情勢に反映されているわけだ。

 普通はそれ以上を知る必要はないのかもしれないが、話を脚色して興味深く思われたいのなら、なにやらそこに世界支配を企てている陰謀組織が介在してくるのだろうが、そこからなにを知りたいのかといえば、その陰謀組織の意図や思惑や秘密工作の実態だろうか。一般の人たちがそれをどうやって知り得るのかといえば、それを知らせてくれるなんらかの情報源と繋がっていないと無理なわけで、何か秘密のサイトにアクセスできるような資格や権限を、一般の人たちが持ち合わせているのだろうか。そうでないとすれば、やはり想像力を働かせて、陰謀組織の意図や思惑を推測するしかないだろうが、メディアがセンセーショナルに報道する事件や事故が起こったら、あるいはイスラム武装勢力やそれが活動している周辺国の情勢や、そこに介入しようとする大国などの動きを注意深く観察すれば、陰謀組織がそこでなにをやったのか、あるいはこれからなにをやろうとしているのかを想像できるだろうか。さらに株や為替や債券や資源価格などの値動きなどから、それらの価格操作によって、市場をかく乱したり特定の国を攻撃していることを察知できるだろうか。ともかく何か異変が起これば、すぐさまそれが陰謀組織の仕業であることがわかり、そこで世界を支配するための秘密工作が行われている証拠や兆候を見出せるのだろうか。それとももうすでに支配されていて、この世界に暮らすほとんどの人が気づいていないだけなのかもしれないが、気づいていないのなら無理に気づく必要もなく、気づかないままこれまで通りに暮らしていればいいわけで、なにを恐れることもないだろう。またすでにその組織に洗脳されているというのなら、洗脳を解くやり方が見つからない限りは、そのまま洗脳されっぱなしだろうし、現状ではどうしようもない。ともかく世界支配を企てたり実際に支配しているような組織に、一般の人たちが立ち向えるはずがなく、立ち向かう方法があるとしても、それをやったらすぐさま消されてしまうかもしれない。そんなわけでそれのどこまでが現実でどこからが虚構なのかについても、今のところそれを知る手がかりはないだろうし、何かの拍子にそんなことが暴露されたらおもしろそうだが、そんな陰謀組織の実在に期待しつつも、とりあえずはその存在が実証されない限りは、それ抜きで世界情勢や国内情勢について考えるしかないだろうし、別に疑念を感じないならそれで構わないわけだ。


3月2日「達観」

 国の制度や仕組みをいくら改めても、また憲法やその他の法律をいくら改正してみても、それなりに限界があり、なかなかうまくいかない面もあるのかもしれないが、立法府である議会は、法律の改正や新たに作られる法案を審議して、議決する役割を担っているわけだから、議員がそれを行うことは当然の職務なのだろう。それとは別に国家や憲法そのものが、果たして必要なのかどうかについては、議会で論じられる次元ではないだろうし、政治家は国や憲法があることを前提として、それをどのような内容にすべきなのかを論議するわけだから、そんなことまでは考えなくてもいいのだろうし、考えてしまうと荒唐無稽な空理空論となってしまい、まともな議論を求める人たちからは相手にされなくなってしまうだろうか。無害な夢想家だと思われてしまうかもしれないが、たぶん世の中の方向性としては、何もかもが形骸化していくように感じられ、国の制度や仕組みも、また憲法やその他の法律も、だんだん無用の長物となっていくとしたら、それだけ世の中の価値観が多様化して、また人々の生活も人それぞれで異なっていても、それほど気にならないようになってきたら、あまり人と人とが争わなくなって、凶悪な犯罪も減ってくるだろうし、そうなれば取り立てて人を法律で縛ったりしなくても、それなりに治安が保たれ、それでもほとんどの人が生きていけるようなら、わざわざ国家がどうこう意識しなくても構わなくなるのではないか。そんな楽観的な将来の見通しなど、今は誰も信用しないだろうし、今後も信用されないまま忘れられるだけかもしれないが、そういう傾向に逆らえば逆らうほど、なにやら法律で人を拘束して国家に従わせるような、不快なことをしなければならないだろうし、いくら人々を締め付けても、やる気にならないとどうしようもないわけで、なにをやる気になるのかといえば、生きがいとなるような行為を示さなければ、誰も乗ってこないわけで、昔はそれがファシズムや全体主義だったわけだろうが、もうそれは一度経験してしまったから、歴史に刻まれて過去の遺物となってしまい、それをもう一度繰り返そうとしても、それはそれで過去とは別の性質を帯びるだろうし、過去と同じような結果をもたらすとも限らず、今後そういう成り行きになったらなったで、現状の傾向からすると、何か気が抜けたような展開や結果をもたらしそうだが、そんな兆候を感じ取った人には気がかりなところなのだろう。

 何が起ころうとあまりヒステリックに騒ぎ立てない方がいいのだろうが、何も起こらないと言ったら嘘になるだろうし、少なくとも近い将来何か起こるのだろう。そして起こるとしても国家総動員で何かやるということにはならないのではないか。それが戦争なのか経済危機なのか、それとも両方が同時に起こるのかは、まだ何とも言えないところなのだろうが、何か杞憂に終わるような気がしてならない。多くの人たちが軟弱なままでいれば、何が起ころうと命がけとはならないだろうし、日頃から市民運動などによって助け合いの精神を養っておけば、危機が訪れても助け合いのネットワークを通して、少しでも多くの人たちを助けられるかもしれず、そういう意味でも行政とは別に民間でもやれることが有るだろうし、協力し合えるところは行政とも協力し合い、人と人あるいは団体と団体との信頼関係を築いておくことが大事なのかもしれない。中には労働組合や共産党や環境団体や宗教団体などとの連携も模索しなければならない場合もあるだろうし、そういう時にはあまり個別の教義や党派的なイデオロギーには踏み込まずに、限定的な協力関係となるしかないのだろうが、なるべくなら敵対はしない方がいいだろうし、何とか平和的な範囲内で連携を模索した方がいいのかもしれない。人が孤立して根無し草になってしまうと、またそういう人がどんどん増えていってしまうと、憎悪や怨恨の感情に染まりやすくなり、そういう人は人で、暴力的な組織からの勧誘を受けやすくなる傾向があるのかもしれず、そういう組織が世の中にはびこると、人の気分も雰囲気も荒んでくるだろうし、虚無的な感じが好きな人にはたまらない社会となるのかもしれず、今後そういう成り行きになっていくのなら、それも仕方のないところかもしれないが、あまり不快な気分になりたくないなら、きれいごとを言っていられる世の中の方が気楽だろうし、欲張ってみてもたかが知れていることを誰もが自覚できるなら、自然とそういう方向に進んでいくのではないか。現状でも何らかの分野で成功している人たちをメディア経由で眺めてみても、取り立ててどうということはない境遇に思われ、何よりも脚光を浴びている人たちが何をやっているかといえば、一応はその人でないとできないことをやっているのだろうが、だからと言ってそれを羨ましく思ったり、憧れたりするようなことでもないのかもしれず、羨ましがったり憧れたりする人も大勢いるから、脚光を浴びていることは確かなのだろうが、所詮は他人は他人で自分は自分でしかないような世の中で生きていることも確かであり、人には様々な境遇や立場があるということの一例にすぎないのではないか。


3月1日「条理」

 現実に何が起こっているとしても、意識は過去にとらわれ、過去を都合のいいように解釈しながら、自分の立場や意見を正当化するのは仕方がないとしても、都合の悪い解釈も受け入れようとすると、精神が混乱をきたすだろうか。何が精神なのかもその範囲がはっきりしないだろうし、意識していないところまでが、自分の精神に含まれているとすると、それは意識にとっての外部となりそうだが、たぶん外部からの作用も精神に影響を及ぼしているだろうし、それが自分にとって都合の悪いと思われる解釈をもたらしていることは確かで、それを受け入れることで生じる矛盾を意識できれば、自意識の中で都合のいい解釈と都合の悪い解釈が共存していることを確認できるだろうか。そんなことはありえないと思われるかもしれず、そう思っていながらも、意識していないところで、都合のいい解釈と都合の悪い解釈の均衡が保たれていたりするのかもしれず、その表れがしばしば主張や言動に一貫性が欠如していることを示していて、その時々の状況に合わせて言葉を選んでいるわけで、他人からそれを指摘されるまでもなく、矛盾したことを述べているのを意識できるわけだ。そういう意味で精神の統一などありはせず、その時々の状況の変化に応じて精神が揺れ動いていて、それ応じて価値観も変わってくるのではないか。言動や行動の首尾一貫性にこだわる人なら、絶えず意識しながら補正を繰り返して、言い訳を用意する用心深さを持ち合わせていて、自らが許容可能な範囲内での振幅に抑えようとする配慮を心がけているのかもしれないが、そういった保守的な取り繕いが、時にはみっともなく見えてしまうこともあるわけで、権力を揮える立場にあるなら、周囲からの一貫性を欠くとする批判を、力で抑え込もうとするのだろう。どう見ても矛盾した言動や行動に出ているのに、それを言わせないようにすることで、そこに精神の統一を保ってはいるわけだが、それはフィクションの中で保っていることでしかないのだろうし、周りに文句を言わせないだけの力があるうちは、その状態を保っていられるだけで、何かのきっかけで、力が衰えてきたり失われたりすれば、途端に暴露の対象となってしまうのだろうが、そういう人にはいつまでも身をかくまってくれる何らかの共同体が必要なのかもしれない。

 人を人以上の存在に押し上げるには、他の人の協力が欠かせないだろうし、そのためには集団を構成する利益共同体が必要で、その共同体の代表者になれば人の上に立つことができ、人を指揮命令する権限を得るに至るだろう。そこに至るには集団内でライバルを蹴落としたり派閥争いに勝利したり、そういった権力闘争の末に一つの共同体を掌握するのだろうし、それなりに場合によっては命がけのリスクを負わないと、なかなか人の上に立つことはできないわけで、それが平和的なやり方で選ばれるようになるには、人々を納得させる法整備や、法の違反者を取り締まる組織の創設や、共同体全体を取り仕切る官僚機構が欠かせないのかもしれないが、組織が大掛かりになればなるほど、その種の官僚機構が幅を利かすようになるわけで、しかも他の共同体との関係も同盟したり敵対したりの状況に応じて、交易が行われたり紛争になったり、そこから様々な交渉が取り持たれるわけで、そうなると個人の一存では対処できなくなり、共同体の意向が最優先される場合が多く、共同体内での地位が低い者の言動や行動の首尾一貫性などどうでもよくなってくるだろうし、そういう人たちは地位が上の者の命令に従っていればいいことになってしまう。他の共同体との競争に打ち勝つために、共同体の体制を強化しようとして、そのような上意下達を徹底させることになれば、地位が下位の末端の者達は、ただ上からの命令通りに動くロボットであっても構わないということになるだろうし、地位が高位の指導的な地位にある者とすれば、下克上を阻止するためにもそんな傾向へ体制を強化したがるのではないか。それが実際に共同体間の競争に打ち勝つ結果をもたらすかどうかはわからないが、少なくとも共同体内では、そんな体制に反抗してくる者達を粛清できている間は、そして反抗者をできるだけ少数に抑え込んでいる間は、それなりにうまく機能し続けるのだろうが、競合関係にある他の共同体の体制が魅力的に見えてしまうと、その共同体からの離反者が続出するだろうし、北朝鮮などはその顕著な例かもしれず、共同体内では合理的に考えられている体制の秩序が、その外部では通用しない例も結構あるのだろう。人も多数の人が集まって構成する組織も、その場その時の状況に応じて、柔軟なやり方が求められていることは確かだろうが、それでも言動や行動の首尾一貫性や体制の維持が求められてしまう成り行きも一方では生じてしまうわけで、どちらにしても矛盾をきたすことが多いだろうし、何かをやった結果から何が良くて何が悪いと判断されても、そうやらざるをえない成り行きの中では、悪いやり方に固執せざるをえない立場の人たちが必ず出てきてしまうのではないか。


2月29日「信用」

 何を単純に断定するわけにはいかないと思っていても、そうと断定しない限りは、何を語っていることにもならないとすれば、それでも断定する気になれなければ、何を語っているわけでもない状態を受け入れ、そういう範囲内で言葉を組み合わせて、文章を構成すればいいだろうか。虚無的な感情とはありえない感情だから、それは感情のない状態を示すだろうか。間違っていないわけではないだろうが、それほど間違っているとも思えず、とりあえずそういうことにして、内容の定かでない話を進めることになるだろうが、社会問題についても政治問題についても、それほど真摯に受け止めるような気になれないとすれば、それは偽らざる実感から生じた気分だろうし、その実感に忠実な人たちはそれらの問題に無関心でいられるだろうか。当事者意識がなければそうなって当然かもしれず、直接関与している気になれなければ、それも当然のことだろう。だが果たしてそう断定して構わないのだろうか。実際に政治に関与する気にならなければ、無関心でいられるなら、それでも構わないのかもしれない。それが世の中の状況や情勢に対応した態度だと言えるだろうか。世の中を静的に結果から見ればその通りだろうし、しかもそんなことを語ってみたところで、何にもならないことも確かなのだろうが、この何を語っていることにもならないということが、政治的な無関心そのものの無効性を示しているのかもしれず、その無効性の中にとどまっている限り、政治的には人畜無害な存在であり得るだろうか。それが人畜無害な状態であることにも無関心であるなら、平常心を保っていられるだろうし、それが取り立ててどうということはないのかもしれないが、果たしてそのような状態から抜け出す必要があるかどうかは、それは今後の状況次第だろうか。果たして無党派層に政治的な関心を抱くような状況の変化が訪れるだろうか。今政府に反発して批判している人たちは、そんな状況を変えたいのだろうし、そのための運動を展開中なのだろうが、変わるか否かは次の国政選挙の結果からわかるのではないか。

 もちろんそれは途中経過でもあり、下手をするといつまでたっても途中経過でしかないのかもしれず、今の政権に反対する勢力が政権を奪取するまでは、それ以外の結果を拒否し続けるしかなく、それがいつまで続くのか、現時点ではなんとも言えないところだろうが、そういう成り行き自体はそれほど重要なことではなく、彼らにとっては何か生きがいのようなものがある方が充実した人生を送れるだろうし、それが反政府的な運動なら、それなりにやりがいのある行為なのではないか。一般市民が権力に立ち向かうのは、勇気のいることだろうし、何かのきっかけで運動を制御しきれなくなって、まかり間違って暴動にでも発展してしまえば、警察機構によって鎮圧される恐れもあるだけに、少しは大それた行動に出ているわけで、この先政権交代でも起これば、場合によっては英雄的な気分を味わえるかもしれず、そうなれば政治に対して無関心を装って、見て見ぬ振りをしているよりは、なんらかの達成感を期待できるかもしれない。もちろん途中経過のままでは達成感も何もありはしないだろうが、仮に運動に挫折したとしても、その経験を行かせる機会がいつか訪れるかもしれず、何もしないよりはやってよかったと思える日がいつかやってくるかもしれない。そうであるならそれらの運動に参加すべきかというと、人それぞれであって構わないだろうし、人によってはいつまでたっても無関心であっても構わないだろうし、それ以外のことで手一杯ならそうなるしかないだろうし、余裕があるとしても傍観者でいられるならそれに越したことはないわけだ。では何をどうすればいいのかといえば、人それぞれで構わないし、各自がやりたいことをやっていればいいのだろう。もちろんやりたいことができない状況もあるわけで、仕方なく別のことをやっている人もいるだろうが、さらにそれでも構わないと言えるだろうか。構わないと言える人は言えるだろうし、それではだめな人もいるだろうが、そういう次元ではどこまでそんなことを述べてもきりがないわけで、そのようなとりとめのない連鎖をどこかで断ち切らないと、やはり何も語っていないこととなってしまうだろうか。

 何かを断言しなければ、虚無的な次元にとどまれるのかもしれず、事の良し悪しを決めない限りは、いくら言葉を連ねても意味のない文章となってしまい、ただの戯言が循環しているだけとなって、それが無関心な傍観者の立場を正当化しているとは思えないが、それ以上の何かを求めようとすれば、やはりその何かとは、実質的な効力を狙った断言となるだろうか。効力とは言説の賛同者を集めるのに必要な効力となるかもしれず、それが断言の中身に宿る力そのものになるのだとしたら、効力を伴った断言とはいかにあるべきなのか。それが大衆の心を鷲掴みにするような内容となるだろうか。そういうところで、例えばヒトラーの断言口調は、魔力的な効果を発揮したらしいが、それを有効に機能させる社会的な背景があったのだろうし、時代状況が違えば少しも魅力のない内容に受け取られかねないようなものかもしれず、それを魅力的に感じさせる社会的な背景や時代状況と、その発言の口調や内容が合致していることが、言説が効力を持つ条件となるだろうか。では今の時代に効力を持つような言説とはどのような内容になるだろうか。それは巷で流行っているような言説を思い浮かべれば、それで事足りるだろうか。事足りるとともにそんな言説など信用しない方がいいのかもしれず、大事なのは言説に対する自分の判断であって、言説の中で述べられている事実と、その事実に対する解釈を判断材料にすればよく、事実としての事件や現象を肯定的に語っているか否定的に語っているかで、語っている者の立場が分かるだろうし、そして肯定の仕方や否定の仕方が、その者の力量を物語っていて、その者の政治的な立場と、事実に対する肯定や否定の仕方が一致していればいるほど、要するにそれは政治的なプロパガンダの色彩が強く出ているということだろうし、自身の政治的な立場とは異なる見解を打ち出しているなら、そこに少しは良心の呵責が紛れ込んでいるのであり、たぶんそういう部分は一方的なプロパガンダとは無縁の誠実な内容である可能性が高く、少なくともその部分は信用に足る内容となっているのではないか。見極めるべきはそんなことでしかないような気がするわけで、自身の感情を裏切るようなことを述べているなら、そこに真実が含まれているわけだ。


2月28日「社会正義」

 人の思考や行動から誘発される現象は、時には人を苦しめる場合があるだろうが、苦しめられながらもそれを利用しない限り、苦しめている当の人や勢力と敵対して争う成り行きになってしまうかもしれないが、争いながらも互いに互いを利用しあっている面もあるだろうし、それがどんな結果を招こうとも、そこから何らかの理解を得ることもあるだろうか。理解したところで何の足しにもならない場合もあるかもしれないが、それについて語るとなると、やはり自らが体験した現象を説明しようとするのだろうし、それについての言説化を促されているのかもしれず、それが何によって促されているのかといえば、メディア現象の中に身を置いているからだろうか。自分を苦しめている現象について語れば、苦しみが軽減されるとも思えないが、そんな体験から、それについて語るという現象がもたらされていることは確かで、少なくとも苦しめている現象と語っている現象は関係しているはずなのだが、あからさまにそうと意識しないにしても、それについて語ることを通して、その現象を解明しようとしているのかもしれず、完全には解明できないとしても、理解し納得するための手がかりぐらいは求めているのではないか。人を苦しめる原因が何なのか、それがどこからもたらされるのか、そのような現象が起こるのにはどんな背景があるのか、などと考えがちなのかもしれないが、中にはそこから利益を得ている人もいるのかもしれず、敵対する一方に利益をもたらしているとすれば、もう一方には苦しみがもたらされている現象というのは、人が関係する現象としては、結構ありがちな性質なのかもしれない。

 国家が法律によって国民に与えている権利というのは、たぶんその国の国民でないと適用されない権利となるのだろうが、人間が生まれながらに持っている権利だと、国籍や人種や性別や宗教や思想信条などによらず、どんな人間にも適用される権利だと思われがちだが、実際にそうみなすしかないのだろうが、どんな人間にも適用されるということは、逆に国籍や人種や性別や宗教や思想信条にこだわりを持つ人々の反抗心を掻き立てるわけで、そのような権利の侵害を助長する行為を招くわけだ。相手がそれによって優遇されていると思ってしまうと憎悪を掻き立てられ、自身が不平等な扱いを受けているように思われてくるのわけで、しばしばそれが人権侵害の温床になっているのだろうし、人間が生まれながらに持っている権利だからこそ、全人類の平等に貢献しているはずが、逆にそれが特定の国籍や人種や性別や宗教や思想信条によって優遇されている思われてしまうのだから、逆恨みもいいところなのだろうが、実際に今年のアカデミー賞の候補者が白人ばかりだから、怒りをあらわにして授賞式をボイコットした黒人映画監督が話題となっているし、在日朝鮮・韓国人が優遇されていると主張するヘイトスピーチがここ数年の話題となっていたし、中には基本的人権どころか、憲法の定める国民主権すら有害だから停止すべきだと主張する右翼の学者まで出現しているわけで、実際に特定の国籍や人種や性別や宗教や思想信条の共有を基にして、なんらかの利益圧力団体を形成している現状があるわけだから、そのような団体に所属している人からすれば、自分たちは様々な形で社会に貢献しているのに、何も貢献していないように見える人たちが、それどころか自分たちが守っているつもりの社会に害を及ぼしているように見える人たちが、自分たちと同等の扱いを受けていること自体が、そもそもおかしいわけで、そのような不平等を改めることこそが、そういう人たちが信奉する社会正義の実現となるのではないか。


2月27日「制度」

 現状は何を示しているのだろうか。現実から離れて空想的なことを述べるなら、未来について語ればいいだろうか。では空想的な未来についてしか語れない現状の中で考えているのだろうか。そうでなければ理論的なことを語るべきなのか。そうなると語るには知識が不足している可能性があるが、知識といったところで、すでに手垢にまみれて各方面からその限界や欠陥が指摘されている理論しかない。そうではないことを自ら導き出さなければならないのだろうか。だがそうなると理論ではなくなるのではないか。理論でなければ何なのだろうか。政治的にはその時々の政府のやり方に、賛成したり反対したりすればいいだけで、これといって特定の主義主張を挟む余地などいらないのかもしれず、それだけに徹してくれればいいわけだが、実際にはそうはいかず、メディアを使った煽動やら洗脳やらがはびこり、賛成反対の理由が恣意的に捻じ曲げられて、何をどう判断したらいいのかわからなくなってしまう状況があるだろうか。たぶんそれは避けられない作用だろうし、そんな各方面から作用の及ぼしあいの中で、人々は判断を迫られているのかもしれないが、もちろん判断そのものを避けて、無関心を装うこともできるわけで、少なくとも日本の現状では、賛成や反対の表明を強制されているわけではなく、表明などしてもしなくても構わない自由はあるのだろうか。そしてそれは無関心を強いられる自由で、政治的な無関心層を増やして、選挙での組織票を生かそうとする思惑があるのだろうし、そうなるともはやそれは、真の自由とは言えなくなってしまうのかもしれないが、そうなると賛成するか反対するか判断を回避するかの、三種類の選択肢がある中で、判断を回避する人が多ければ多いほど、組織票を持っている勢力が選挙において有利に働くわけだ。そこでも人々は結果を考慮した賢い動作が求められているわけだが、メディアを使った煽動や洗脳がはびこっている中で、賢明な判断ができる人がどれほどいるかが、まともな政治を実現させる鍵となっているのかもしれないが、どのような結果が出ればまともな政治が実現されるのかについても、様々な立場や主義主張の違いによって、判断や認識も変わってくるのかもしれず、現状の政治についても、それがまともであるかまともでないかについても、それを受け止める人それぞれの判断にまかされているだろうし、本質的にはそれで構わないわけで、その程度のことでしかなく、最終的にそれが選挙結果として示された判断となるわけだが、それを煽動だの洗脳だの戦略だの戦術だのを介した、恣意的な操作の結果だと思わなくても構わないのかもしれない。たとえそれらを介した結果であろうと、一応は民主的な過程を経た上での結果とみなすしかないだろう。

 この先どのような政治状況となろうと、それがどうしたわけでもなく、どのような経済情勢になろうと、それは世界中の人や勢力や企業や国家などが様々に作用を及ぼした結果なのではないか。そのような状況や情勢から影響を被って、人々の思考や動作もその場の環境に順応しようとするだろうし、順応できないような環境となれば、そこで死ぬかそこから逃げるしかないわけだが、あるいはそこで戦って環境を変えようとする動作もあり得るだろうか。現状で戦っているつもりの人たちは、世の中を変えようと思っているのかもしれず、変えられるかどうかはわからないが、そのつもりで何かやっているのならそれに越したことはないだろうし、少なくとも世の中を良くしていこうとする意図があるとしたら、その善意は失わない方がいいだろうし、悪意を抱いているよりは健全なことなのかもしれない。自分のやっていることが善意に基づいているのか悪意に基づいているのかなんて、そんなところまで気が回らない可能性もあるだろうし、それが自然な感情の発露からもたらされた行動である場合もありそうで、そういう場合はやはりそのような行動をもたらすような状況があり、そのような行動を強いられるような環境があるわけだろうが、それはその渦中にいる人には気づきにくい環境であり、気づいたとしてもそうしなければならないと思ってしまうわけだから、それが自発的な動作である限りは、なかなか外部の力によってそれをやめさせることはできないわけで、損得勘定や合理的な判断を受けつけない動作なのではないか。それをやり続けると確実に損害を被る可能性があろうと、人をそのような状況に追い込んでしまう成り行きがあるわけで、心に固く誓ってそれをやり遂げようと決めたら、その信念はてこでも動かないだろうし、なるべく善良な人たちをそんなふうに追い込んではならないのだろうが、行政などが強引に事を運ぼうとすれば、必ずそんな少数の反対者に直面してしまうわけで、昔の封建時代ならそういう住民は殺害されてしまったのだろうが、現代では一応は国民主権が憲法で保障されていることになっているので、そんな事態となってしまうのだろう。そしてそんな事態となってしまうことに関して、それを否定的に評価することはないのかもしれず、そうであるからこそ、それが一般の人々が政治に参加していることの証しとなるのだろうし、そういう行動に腹が立つ人々は行政に逆らうそんな人々を「プロ市民」と揶揄したりするわけだが、どちらが正しくどちらが間違っているかではなく、事の良し悪しを早計に判断しなくてもいいわけで、どちらを応援するにしても、どちらを助けるにしても、それが政治的な問題だとしたら、選挙の時の判断材料にもなるだろうし、そんな事態を踏まえて、賛成するか反対するか、それとも判断を避けるかの選択をしたらいいのではないか。


2月26日「今後」

 人や集団の思考や行動に影響を与える作用としては、人が個人で判断することと集団の合意としての見解と、そのような人や集団の意図や思惑を醸し出す作用とは異なる次元で、それらを拘束し何らかの方向へと導いてゆく作用があるだろうし、そのように思考させ一定の行動へと導いてゆく作用が、結果としてある特定の時代の中で、そこにとらわれている人や集団に、なにやら特徴的な傾向をもたらすのかもしれず、現状の中で暮らしている人々にも、思考や言動や行動の中で何か特有の傾向を示していて、その特徴的な傾向が、世論調査などで示される世論の中にも現れるのかもしれず、しばしばそれが政治にも影響を及ぼしているのだろうか。しかし政治にしても国際情勢との兼ね合いがあるからから、国内の世論に従ってばかりもいられない面もあり、国内外の様々な人や集団の意図や思惑や言動や行動が複雑に絡み合っている上に、経済情勢や軍事情勢や気候変動なども何らかの影響を及ぼしているのだろうし、それらのしがらみを断ち切れないから、誰の思い通りにも事が運ばない事態を招いているのだろうが、それでも時流に乗って思い通りに事が運んでいると思い込める状況の中に身を置いているつもりの人も中にはいるだろうし、ありとあらゆる策を弄して、それが功を奏していると思い込める状況になれば、その人は幸せなのだろうか。その辺はその人の心理状態がどうであろうと、他の人や団体にとってはどうでもいいことかもしれないが、それでもどうやってもうまくいかないと落胆するよりはマシだろうし、ともかくうまくいっているように見せかけることが大事なのだろうし、見せかけることに成功すれば、メディア的にはうまくいっていることになるのだろうから、現代的な意味での政治とは、そういう水準で認識されるようなものでしかないのかもしれず、それ以上の実質な成果など求めようがないのかもしれない。要するに政治的な行為によって何らかの結果がもたらされたとしても、そのような結果を招いた形式上の責任は政治にあるのだろうが、実質的には誰のせいでもないようなことなのかもしれず、それについて結果が悪いと判断すれば批判したり、良い結果をもたらしたと判断すれば賞賛することは可能なのだろうが、何を基準にどう判断するのかも、基準をどこに置くかで良し悪しの判断も変わってくるだろうし、それが政治についてなら、有権者が選挙の時にでも判断すればいいのではないか。

 人々が心がけることがあるとすれば、政治家の判断が国民の生死を握るような状況に陥らせないことが肝心だろうし、政治家が国防などで勇ましいことを主張するのはかっこよくは映るだろうし、北朝鮮がミサイルを発射すれば断固たる口調で非難するのはお決まりのパターンだろうが、そういう水準で政治家の主張や発言の良し悪しを判断する必要はないだろうし、例えばアメリカの理不尽に思われる要求を断固たる口調ではねのけるような政治家なら、少しは信頼のおける政治家と言えるかもしれないが、現状ではそういうのはありえないだろうから、政治家にそれほど多くを望まない方がいいのかもしれず、日本の現状からすれば、あまり冒険的なことは言わずに、とりあえず現状を維持できれば、それで政治家としての役目を果たしていることになるのではないか。あとは原発事故で多大な被害を出した経緯があるのだから、なるべく原発に依存しないようなエネルギー政策の推進が、世論に沿っていることになるだろうし、なかなか諸般の事情で実現は難しいのかもしれないが、なるべくきれいごとを実現するような方向で努力しているように見せかけた方がいいのではないか。産業として日本企業が衰退傾向にあるとしても、政府が焦って無理な梃入れなどしない方がいいようにも感じられ、世界の経済情勢に合わせて、民間の創意工夫にまかせるくらいがちょうどいいのではないか。経産省あたりの官僚の言いなりになってしまうと、かえって世界情勢を見誤って見当違いの産業政策になってしまう可能性があるだろうし、大事故を起こしたのに原発の輸出に躍起となっている現状も、何か奇異な印象を受け、中国がより安く売り込んでいるのだから、しかもイギリスで受注に成功した実績もあるだろうから、価格競争で中国に負ける可能性が高いだろうし、また中国製の原発がずさんな施工と管理によって大事故でも起こせば、いよいよ世界的に原発を廃止する機運が高まるのではないか。そういう面で中国と価格競争を招くような分野では、なかなか太刀打ちできないだろうし、日本が産業で世界経済に貢献できる分野もそれなりに限られてくるのではないか。そして国家が国民への管理統制を強めるのは、画一的な傾向になってしまうから、かえって多様性を損ない、将来に向けて人材難を招く危険性もあるだろうから、国家が国民を指導して、国家の都合に合わせた国民を作るのではなく、国家は行政機関としてなるべく各種届出や手続きなどの事務的なサービスに徹していたほうが、無駄で強大な権力を行使する必要もなくなるだろうし、かえって今後ともに楽な展開に持っていけるのではないか。要するに火のないところに煙は立たないわけで、軍や警察機構などを大げさに強化して、国民の生殺与奪権などを保持しようとすると、状況次第では治安維持法なども整備しなければならなくなるわけで、そういう意味で官僚制の強化は逆に国家の破滅や滅亡の機会をもたらすのかもしれない。


2月25日「新局面」

 人の全ての動作を法律で定めるわけにはいかないだろうが、法律の他に政令を出すことによって、行政機関が一般の人々の行動を制限できるだろうか。それも合法的な範囲内に収まるような内容となるのだろうが、法律をこと細かく膨大に制定して、誰もが何らかの形で法律に違反しているような状況を作り、行政機関の都合に合わせて政令や強制執行を駆使すれば、官僚機構の思い通りに人々を管理することができるかもしれないが、そのためには立法府である議会を傘下に置く必要があるわけで、まさか日本の現状がそういう方向へ進んでいるわけでもないだろうが、国家を司る権力の三権分立のうち、司法を担う裁判所は仕組みの上で行政機構に取り込まれているわけだから、選挙で選ばれる議会と議員で構成される内閣が、行政機構の暴走を止める役割を担っているわけだろうが、制度上はそう捉えることが可能なだけで、実質的に三権分立が三権癒着となっていれば、制度的に効力があるとは言えないだろうし、人の全ての動作を法律で定めるわけにはいかないのと同じように、司法・行政・立法を担うそれぞれの機関の動作を、いくら法律で縛って分立するように制限をかけようとしても、分立しているより癒着している方が権力が増すわけだから、放っておけば自然とそういう方向へと事態が進んでいってしまうのかもしれない。もちろん実態として行政機構だけが暴走するとは限らず、する時は議会も内閣も一体となって暴走するのだろうし、暴走する原因としては、国内の経済的な行き詰まりが主な理由となり、それによって国民の不満が高まって暴動が発生して、治安が悪化してくると警察権力で鎮圧したり、場合によっては軍隊までが出動する場合もありそうだが、戒厳令を敷いて反体制派を大量に拘束して拷問したり、さらにかつてのように外国への侵略戦争に発展するとなると、そうなれば国家ぐるみの暴走と言えるのかもしれないが、とりあえず現状では、まだそういった方向へと発展していく気配はないだろうし、時代の進展がそういった状況とは異なる成り行きを示しているのかもしれず、もはや国家と国民が一体となって戦争へと暴走するだけのエネルギーを失っているようにも感じられるわけだが、ではこれからどうなるのかといえば、現時点ではまだ先が見通せるほどのはっきりした方向性はないのかもしれない。

 昔のように日本から侵略戦争を仕掛けるほどの事態ではないのだろうが、一応は経済的な行き詰まり感が世界的に蔓延していることは確からしいし、それなりに人々の不満や不安が高まっているわけだが、一方で戦争があろうと革命があろうと大虐殺が行われようと、そういう大事件を抜きにしても歴史を語ろうと思えば語れるわけで、世界の主要各国が経験してきたそれらの大事件とは無縁の、それなりに特徴を示す時代の変遷というもあるらしく、その中で何やらそこに暮らす人々が影響を受けている何らかの作用があるのかもしれず、もしかしたらそれが今後の世界について語る上で重要な鍵となってくるとしたら、あるいは現状を構成する上でもその作用が欠かせないとしたら、それは何なのだろうか。たとえば経済的な富の蓄積が昔とは比較にならないくらい多量だから、またメディアからもたらされる情報量が昔とは比較にならないくらい大量だから、さらに世界の総人口が昔とは比較にならないくらい多いから、その他に昔とは比較にならないくらい増えた要因をあげればきりがないかもしれないが、全ての面で昔とは比較にならないくらい大規模化していることは確かだろうし、それが昔とは異なる状況をもたらしていると言えるだろうか。要するに文明が世界的に膨張しきっていて、もしかしたらこれ以上膨張するのが無理なくらいに膨張しているのかもしれず、何もかもが限界に達しているとすれば、もはや主要各国が全面戦争するような余力がないのではないか。あるいは国家や経済の制度や仕組みも、戦争を必要としないような形態に近づいているのかもしれない。そうだとすると時代として世界は新たな段階に入っていて、もはや大々的に戦争を起こせないような時代になったのだろうか。それでも起こるとすれば中東で起こりそうだが、果たしてそれが最後の戦争となるだろうか。少なくとも北朝鮮が起こしても地域的に限定された小規模な戦役となるだけかもしれず、石油資源が今後とも紛争の原因となるのなら、中東で戦争が起こる危険性があるわけだが、それが大国を巻き込んだ全面戦争に発展するかとなると、今のところはそうでもないような気配だし、そのような形態の戦争はもはや時代遅れとなりつつあるのかもしれず、国家間の紛争が戦争に発展する可能性は低くなっているのではないか。それよりも人々が主体的にどう生きるかが、人々の意識の中では主要な関心事なのだろうし、人と国家との関係や政治との関係は、あまり意識されていないことなのではないか。現状に不満があるとしても、国や政治家の対応が悪いから不満だということより、家族や職場や交友関係の中で不満が生じているように思われるのかもしれず、それと国家や政治との関係は別次元の問題なのだろうし、しかもほとんどの人たちは、メディアからもたらされる情報から影響を受けているわけだから、芸能タレントやスポーツ選手の動向と、政治家の動向が同次元で意識の中では捉えられているのではないか。それらの人たちには市民運動家にあるような当事者意識はないわけだから、政治家の不祥事や不適切発言などに対しても、それほど敏感に反応する必然性もないだろうし、必要も感じないのではないか。そういったところから現状が構成されているわけだから、昔のように中国に戦争を仕掛けたり、追い詰められてアメリカに奇襲攻撃を仕掛けたりしていた時代とは、様変わりしていることは確かなのだろうが、昔のような緊迫感はないにしても、現状の行き詰まり感も、真綿で首を絞められるほどの表現ではないしろ、なにやらいやな感じがしているのだろうか。


2月24日「忘却」

 危機感を抱かせるような現状ではないと思われるとしたら、何がそう思わせているのだろうか。もうこれ以上は良くなるとは思えないから、諦めの境地に至ってしまったのだろうか。少なくともある方面では諦めているのだろうし、また別の方面ではまだ可能性が残されているとも思えるのだろうが、その可能性というのがあやふやな可能性であり、まだ何もなし得ていないから可能性があるように思われるだけで、それをやり始めると、途端に諦めざるをえないような障害に突き当たってしまうのだろうか。それはやり始めてみれば分かることだろうし、わかれば諦めもつくだろうか。そうではなく、諦めをつけるためにやろうとしているのではなく、可能性を見つけるためにやろうとしているのだろうし、その方面での可能性を探っている最中なのではないか。探っていると言ってもただ考えているだけかもしれないが、現状の中で考えているわけで、それが取り立てて危機感を抱かせるような現状ではないと思われるわけだから、何か感覚がずれているのかもしれず、その感覚のずれが自らの置かれた境遇を表しているのかもしれないが、一方ではそのずれを利用して言葉を記している現状があり、もしかしたらそこから付け入る隙を探っているのかもしれず、何かしらこれまでにないことを語れる可能性を模索しているのだろうか。だが隙を突くだけでそれほど多くのことを語れるとは思えず、それだけではちょっとした差異を語っておしまいとなりかねず、それ以上に語るとなると、外部から利用できそうな知識を仕入れてこないことには、ある一定のまとまりのある言説は構成できないのかもしれず、その辺でどう判断したらいいのか迷うところなのだろうか。それ以前にそもそも何について語ろうとしているのか、それが未だにはっきりしていないところなのかもしれず、ただ現状から感じられるのは漠然とした違和感以外にはないわけで、メディアからの情報や書物を読んでみても、その違和感を説明するようなはっきりとした言説に巡り会えないわけで、それを探求すべきなのだろうが、まだこれだという方向性も感触も得ていない。それが偽らざる実感だろうか。

 ただ勘が示すところでは、やはりこの現状について説明すべきだと思われるわけで、まともに説明できれば、それなりにまとまりのある言説になりそうな気配が感じられ、この先も興味が持続するようなら、何らかの結果を伴ったものになるだろうか。少なくとも言えることは、これが何らかの陰謀が絡んでいるとは思えないわけで、これまでも特定の人や勢力の意志や意図で世界が動いてきたわけではなく、後から考えれば何らかの法則が見出せる範囲内で、特定の視点から見れば、そこに歴史があるように思われるわけだが、その歴史にしても、様々な論点や視点を基にして、様々な歴史を作り出せるだろうし、そのような歴史を作り出そうとする意図や思惑が、その歴史を利用して何か語ろうとする人たちによって生じているのだろうし、実際にそれらの意図や思惑によって世界が動いてきたように見せかけたいわけだ。それが人々の語りによって構成されたフィクションとも言い切れないところかもしれないが、そういう語られた言説に接すると違和感を感じてしまうわけで、実感している世界に対しては、それほど疑念も違和感も感じられないのかもしれない。世界に含まれている人の思考が世界自体を完全に捉えられるわけがなく、それについて語ろうとすれば、その人の立場や境遇から生じる視点や論点が生じてしまうのは致し方のないところなのだろうし、立場や境遇が異なれば、また違う視点や論点が生じてしまい、そこにずれが生じるわけで、そのずれを感じてしまうことが、そのまま違和感となって感じられてしまうのだろうが、そうだとしても、何かそれとは違う方面で可能性を求めてしまうわけで、その違う方面というのが、どういう方面なのかはっきりとは定まらず、定まってしまえば、またそれ特有の視点や論点が生じてしまうのかもしれないが、やはりそれを模索しなければならないのだろうか。そこから生じるずれや違和感を受け入れ、それ特有の限界もはっきりと認識できれば、それに基づいて何やらまとまりのある言説を構成できるのだろうか。

 普通に目指すべきはそういうところかもしれないが、結果としてはそうはならないような気がしているわけで、ある一定の方向でまとめてしまってはだめのようにも思われ、その辺で躊躇と逡巡があるのだろうし、もしかしたら迷ったままでも構わないのかもしれず、何もまとめなくても、何か利いた風な言説にならなくてもよく、それどころか支離滅裂で何を述べているのか定かでなくなってしまうのかもしれず、それがある意味では現状を表しているのだろうし、そんなとりとめのない現状について語っているのではないか。そしてまとめる時期が来るまではそうしておた方がいいのかもしれず、時期が来なければそのままで終わってしまってもよく、まとまったことは何も語らずに終わるべきなのかもしれない。下手に何かまとまったことを語ろうとする人たちなら世の中にいくらでもいて、そういうまとまった言説にはあまり魅力を感じないわけで、いくらそういうものを積み重ねても、そのような行為自体が浅はかに感じられ、現状から見放されているようにも思われるわけだ。そういうのなら語っても語らなくても同じことなのではないか。語る必要があるから語っているのだろうし、その必要が生じている限りは、いくらでも語っていても構わないのだろうが、何か必要があってもなくても、どちらでも構わないように思われ、必要が感じられなければ、その感じられないようなことを語っていればいいのかもしれず、そういう意味では、無理に必然性を追い求めて、それらしく体裁を整える必要はないのかもしれず、ただ漠然と必要を感じられないようなことを語っていればいいような気がしてくる。やはりそれは時期があるのかもしれず、まとめなければならない時期が来るまでは、無理にまとめる必要はないのではないか。そして時期が来なければそのままでも構わないわけで、無理にまとめてもまとめなくても、どちらにしてもその先に待っているのは忘却でしかないのかもしれない。この世に救いがあるとすれば、それは存在を忘れ去られることなのだろうから、救われたければ忘却を受け入れるしかないわけだが、その忘却作用に逆らいたい人は無理にまとめようとするだろうし、この世に何かを残したいと思うわけだが、たぶん無理にまとめたものなど残るはずもなく、それは浅はか極まりない行為に思われてしまう。


2月23日「願望」

 未来を占うことは、占っている人が抱く願望から生じる行為だろうか。願望通りの未来が訪れることを欲しているわけではないだろうが、占った結果が願望とは違う結果になるとすれば、何がそのような結果を生じさせるのだろうか。占うやり方が占い師の願望を反映しないような方法なら、そういう結果が出る可能性もあり得るだろうし、占う場での偶然が左右するような占いであるならば、占う人の願望が占いの結果に影響を及ぼす可能性が低くなるだろうか。だが占う人の願望が、未来を知りたいということであるとすると、その結果が未来のことはわからないとなると、占いそのものが成立しなくなってしまう。そうなるとやはり、占いが占いとして成立している限りは、未来のことを知りたいという願望を叶えるために、占いの存在意義があるということになるだろうか。それが必ず当たるかどうかはわからないにしても、占いは未来を知りたいという願望から生じた行為であることは確実なのかもしれず、そういう意味で占いは予言と似ているだろうか。予言にも予言者の願望が反映されていて、未来が予言通りになってほしいから予言するわけで、それは占いが当たってほしいのと変わらないようにも思われるわけだが、占いと予言は似ているのではなく、同じ行為なのだろうか。厳密に区別するようなことでもないのかもしれないが、これが予言ではなく預言ともなると、預言は神の言葉を預かる意味だから、少し違った意味を伴ってくるわけで、神が未来を予言した言葉を人間に預けたという間接性が伴うのだが、広い意味では占いも予言も、それ特有の何らかのやり方で、神の言葉を人間に預け伝える行為だと解釈すれば、同じようなカテゴリーに入るのかもしれず、そうなると形式的にはそれは人間の願望ではなく、神の意志の反映となってしまいそうだが、神の存在そのものが、人間の願望から生じていると解釈すれば、これも広い意味では、人間の願望の反映とみなせるだろうか。

 そんなことを述べてみても、粗雑な混同でしかないだろうが、未来を知りたいと思うのと同時に、自分に都合のいいような未来になってほしいのだろうし、そう願うと同時に、そんな未来を実現したいとも思うわけで、実現に向けて何やら画策している人もいるだろうし、そんなことをやっている集団もあるのだろう。それを肯定的に捉えると、夢を実現させるための努力となるだろうし、なにやら正しいことをやっているようにも思われてしまうのだろうが、その努力の中身が他の人々を困らせるようなことだと見なされると、非難を浴びるのだろうし、現に憲法改正の夢を実現させるための努力が、そんな傾向にあるのかもしれず、憲法を守ろうとしている人たちを怯えさせているのだろうか。そういう語られ方をしている面もあるだろうが、そのような試みもあっても構わないのだろうし、やりたい人や集団がやったらいいことでしかない。ただそれだけが未来を決めるわけではなく、他の様々な要因との絡み合いが、人々がそれぞれに抱く理想の未来像とは異なる未来をもたらすのかもしれず、人や集団の単純な願望からはずれてくるのだろうし、それとはかけ離れた未来が到来するのかもしれない。そしてそんな未来の到来にも、現時点で様々な方面からなされる占いや予言の反映が見出されるのだろうか。そこに神の意思が反映されているかどうかは、なんとも言えないところだろうが、人々が抱く願望の最大公約が神の意志とみなして、それが少しでも実現されていれば、神の意志にこじつけることも不可能ではないのかもしれず、未来にいる信心深い誰かが、そこに神の意志を見出してしまうのかもしれない。だからと言って今を生きている人にとっては、そんなことなど知ったことではないのだろうが、どのような未来になるにしろ、そこに人ではなく神の意思が反映されている方が、宗教的な伝統からすれば望ましい未来とみなせるだろうか。

 たぶん人の願望が実現される未来とは、破滅しかないのかもしれず、願望の成就とは繁栄することであり、実際に繁栄の行き着く先には破滅が待っているのではないだろうか。そういう決めつけこそが虚無的な精神を表しているのかもしれないが、果たして神への信仰を拒否すれば虚無へと至るのか、虚無へと至れば人は破滅するしかないのか、それも根拠のない決めつけでしかないのだろうか。そうなるとあまり論理的な合理性を追求するわけにはいかなくなり、そこから外れたいい加減さのうちにとどまりたくなってくるわけだが、人の感性が求めているのは、案外そうした類いなのかもしれず、人は誰もがそうであるわけではないのだろうが、論理的な確実さは占いや予言には宿らないだろうし、それが現状の延長上にないとすると、さらに予測不可能となってくるのかもしれず、将来を見通すことが困難なら、人はまず身の破滅を恐れるだろうし、できればそうなってほしくないと願うわけで、それがとりあえずの願望となるのではないか。その破滅を回避したいという願望こそが、繁栄を願うことと同義かもしれないが、結局は不確実な未来の可能性は繁栄か破滅かの二者択一しかないだろうか。そのどちらでもないとすると、それはどのような状態を示すだろうか。要するにそれは思いがけない状態と言えるのかもしれず、繁栄か破滅かの二者択一から外れた状態となるのではないか。そしてその現状から予想不可能な思いがけない状態というのが、神の意思が反映された状態を表すとすれば、旧約的な不条理をもたらす神の概念に近づくのかもしれず、そこでは神が人類を滅ぼそうとするだろうし、破滅した人々に信仰を強要するだろうし、人々の願望を裏切るような預言をもたらすのではないか。それを試練と受け取ってはならないだろうし、ましてや試練を乗り切れば幸福になれるというのでもなさそうで、ただ人の思い通りにならない運命を示しているだけなのかもしれず、その辺をあまり深く考えようとしても、得るものは何もなさそうで、人はただ不条理な運命に弄ばれているだけなのかもしれない。


2月22日「不意の事態」

 結局は事件に発展する可能性も絶たれて、丸く収まってしまう方向で、物事が回り始めているわけだが、これもそれも偶然の巡り合わせだろうし、ちょっと成り行きが違えば、たちまち深刻な事態に陥ってしまう可能性があるとは思えないが、その場の判断が、しかもこちらが不利になるように思われる振る舞いが、結果的には両義的でよくわからないのだが、そのセオリーから外れて批判を招くような振る舞いが、その場の状況にしっくりはまってしまったと言えるのだが、だが結果から見ればそういえるだけで、お世辞にも賢明な判断とは言いがたく、なぜその場でそういう振る舞いをしてしまったのか、自意識では理解できないのだろうし、今でも不可思議に思われるわけだが、その時はそう振る舞っても嫌な感じがしなかったので、やはりそれが正解だとは言えないが、そうするしかなかったのだろう。そんなふうに自分に都合よく考えればその通りなのだが、客観的な判断としては間違いだらけの稚拙な振る舞いでしかなく、成り行きまかせでその場しのぎの振る舞いでしかない。しかしその場では苦し紛れというわけではなく、うまいこと切り抜けた感覚しかなく、その場のアドリブが功を奏したと言えるのかもしれない。それでも全体としてうまくいっているかといえば、必ずしもそうではないわけで、普通に考えれば、やはり間違いだらけで過ちだらけの中で生きているわけだ。やってはいけないことを平然とやり、やるべきことはことごとく無視して、そのおかげでわけのわからぬ境遇へと追いやられ、良かれと思ってやった行為のほとんどが失敗に終わっているのかもしれず、そういう面では取り返しのつかぬことばかりやっているわけで、もはや後戻りなどありえないだろうし、今のところは路頭に迷っていないことだけが、せめてもの救いと言えなくもないが、これから先に何かのきっかけでそうなる可能性もあるだろうし、先行きは不透明なままだが、そのうち何とかなるのではないかと期待していないわけでもなく、その期待がことごく裏切られている現状もあるわけだが、しかも裏切られていることが、一方では何とかなっているという感触をもたらしているのだろうし、そんな感触も思違いの勘違いなのだろうが、こんなふうにしかならないという諦めも一方では感じているわけで、たぶんこのままやってもこんなふうにしかならないのではないか。それが偽らざる実感だろうか。

 自分で思っていることと客観的な現実の間には、かなりの違いがあるのかもしれず、そもそも客観的な現実というのがフィクションだろうし、そんなものなどないといえば、この世は各人がそれぞれに感じている世界でしかないのだろうが、そこでそういうことを語るには、あからさまにそれとして示すのではないにしても、やはり基準として客観的な現実というのを、信ぴょう性のありそうな概念として提示しないと、語りも説明も成り立たないだろうし、誰もが信じられるような現実が、語りや説明の中で示され、それとの比較で個々の事例について検討される形をとるのだろうし、その個々の事例というのが、社会の中である特定の立場や役割を伴う主体となると、そこに固有の性格が付与されるのだろうか。そしてその立場や役割に最適な行動様式や思考が導き出される場合もあるのだろうが、そのような考え方に欠けているのが、動的な時間性や場所や位置の変動要因なのかもしれず、社会の中では立場や役割は固定されていない部分もあるわけで、導き出される行動様式や思考の変動性が考慮されていないと言えるだろうか。人は変化の中で生きていて、状況や情勢の転換が、行動様式や思考の確実性や最適性を常に脅かしている。変化が大したことがなければ、これまで通りの行動様式や思考が世の中で通用するのだろうが、要するに通用していると思われる範囲内で、そのような行動様式や思考が成り立っていて、しかも世の中の変化や転換が起こっているのに、そこに暮らす人々がそれに気づいていない事態もありうるわけで、多くの人たちがそれで大丈夫だと思っているうちに、それはうまくいかなくなっている事例が頻発しているのに、やはりそのような行動様式や思考を頑なに守ろうとするわけで、そこから逃れられないところが、なにやらある時点で劇的な転換をもたらすきっかけとなるのかどうか、その辺がよくわからないところではあるわけだが、現状でも明らかにそれらを頑なに守ろうとする人々が大勢いるのだろうし、そういう人たちがどこまで耐えきれるかが、その先の劇的な転換の度合いを決めるのだろうか。多くの人たちが執念深く頑なに信念を曲げずに頑張れば頑張るほど、そこに踏みとどまろうとすればするほど、情勢が行き詰って耐えきれなくなり、それらの信念や行為が一気に瓦解すれば、世の中の劇的な転換をもたらすのだろうか。それともそうではなく、誰も転換に気づかないまま、あるとき不意に世の中が変わっていることに、誰かが気づく場合もあるのだろうか。


2月21日「漠然と」

 生きていると思いがけないところから、不可思議な出来事に巻き込まれるようで、わざと罠にはまったわけではないのだろうが、吸い込まれるように事件の現場へと出向いて、結果的におかしなことになっていることに気づく。それが事件というほどのことでもないのだろうが、人と人とが関わり合うのは偶然の巡り合わせである場合が多い。少なくともそこに法則性はないように思われ、別にそれをきっかけとして、さらにおかしな事件へと巻き込まれるような兆候は、今のところはないのだが、些細なことでしかないのだろうが、今後の展開が何やら不安でもなく期待でもなく、今のところは予想や予測も不可能なだけに、とりあえず不安を抱いていればいいのかもしれないが、どうも実感としてはどういうことでもないようにも感じられ、何でもなくはないことは確実なのだろうが、肯定的にも否定的にも期待するようなことでもなさそうだ。しかし過去の経験に照らし合わせると、何やらこれをきっかけとして、きっかけであるはずがないような、とんでもない成り行きに巻き込まれていきそうな気配も漂っていて、そういう面では期待しないわけにはいかないような事件への巻き込まれ方なのだろうし、それ自体は些細などうということはないことなのだろうが、それとはまったく無関係である方面から、おかしな成り行きへと誘われてしまうことが、過去にもあったようにも思われ、もしかしたら今回もそうかもしれず、ありえないことではあるのだろうが、それを密かに期待してしまうわけだ。過去に経験した思いがけない成り行きも、どう考えてもまったく無関係な複数の出来事が連なったあげくに、現状をもたらしたわけだから、もしかしたら今回もその可能性があり、すでに無関係な複数の出来事が、ある状況をもたらしており、その状況の中で何やらそれに応じた手続きに追われている最中で、その手続きをしたところで何がどうなるわけでもないのだろうが、なぜかそうしなければならない成り行きとなっているわけだ。

 事件に巻き込まれたつもりになったのを楽しんでいるのだろうか。それがこれから事件に発展すればそうなるかもしれないが、そうなったところで何がどうなるわけでもないのなら、何を期待してみても始まらないのかもしれないが、たぶんわざと隙を作って、それにつけこんでくるように誘っているのかもしれず、意識の中ではそんなことなど夢にも思っていないのだが、結果を思えばそうとも言えなくもなく、あちらが何やら画策して欲しいのかもしれず、こちらを困らせるようなことをやってほしくて、わざと隙を作ったような格好になったとしか思えず、自分が何を思っているのか自分ではわからず、偶然の巡り合わせで起こった複数の出来事が罠であるわけもないのに、結果的にはそれらが罠となっているように思い込まされて、それに引っかかって苦しんでいるつもりになりたいのかもしれず、そうであるなら苦しまなければならないのだろうし、実際にこれから苦しむかもしれないのだが、そうだとしても罠自体があまりにもお粗末な感じで、どう考えても身の破滅をもたらすようには思えないのだが、それどころか苦しませようとすればするほど、苦しませようとする側が、一時的には利益を得るのかもしれないが、何かを画策した分、その悪知恵的な画策がマイナスポイントとして働き、この件とは関係のないところで、ひどい目に遭うような気もするし、しかもより大きな災難となって、その身に降りかかる危険性もあるわけで、下手な小細工でもないのだろうが、策を弄すれば弄するほど、後々に響いてくるのかもしれず、そういう意味でもせこく悪知恵を働かせる機会を与えてしまって、こちらが悪いことをしてしまったのだが、何かその場の状況がそうさせてしまうわけで、わざと隙を作って、その隙をついて何か仕掛けてくるように振舞ってしまい、たぶん相手の態度や口調から、何かを感じ取って、それに合わせるような行動と言動に出てしまったのだろうか。そうなったらなったで構わないのだろうし、この先の展開に期待するしかないのだろうが、期待するのではなく、不安を募らせるべきなのだろうが、何かここ数年で神経の糸が何本か切れているような状態となってしまった感があり、何をどうされようと何とも思わないような気がして、実際にそうなってしまった時に、それがわかるのかもしれず、自分が被害者づらなどしたくはないし、相手に憎悪を掻き立てられることもないだろうし、別にせこい小市民だと見下す気にもなれないし、もしかしたらそのような心境に至ってしまったら、もはや死が間近に迫っているのかもしれないが、この先死のうが生きようが、そんなことはどうでもいいことのように思われてしまう状況なので、強がりでも何でもなく、状況を楽しまなければならないのだろうか。もちろん現状では無自覚で無感動でしかないのかもしれない。


2月20日「責任の不在」

 信じられるのは自分にとって都合がいいと思われる主張かもしれない。あるいは都合が悪くても合理的な主張なら信じられるだろうか。さらに合理的でなくてもおもしろい主張なら信じられるだろうか。別に信じているわけではないが、内容がおもしろければそれで構わないだろうか。そんな主張なら批判するまでもなく、賞賛しても構わないのかもしれず、主張を信じるということと支持することは違うだろうし、信じていなくても利害関係から支持することもあり得るだろうし、合理的に思われても利害関係から批判したり、歪曲して貶めようとしたり、都合の良し悪しや利害関係から、いくらでもまともな主張を葬り去ろうとする思惑は出てくるのではないか。そもそも自分にとって都合が悪ければ、それをまともな主張だとは思わないだろうし、屁理屈を持ち出せばなんとでも自らの立場を正当化できるならば、あまり主張の合理性にこだわる必要もなくなり、それを支持してくれる人や集団がいる限りは、いくらでもそんな主張を堅持することはできるだろうし、最終的には自らの主張を曲げずに死んでしまう可能性も出てくるわけだから、人が何かを主張するという行為自体に、その主張の内容を信じるか否かの判断も含めて、あまり客観的な合理性などは期待しない方がいいのかもしれない。世の中にはそんな主張をしている人がいて、それを広めようとする集団もあり、そこに政治的な問題が絡んでくると、そんな集団の跋扈を危険視したくなってくるのだろうが、そこから実際に全体主義的な独裁体制が生まれたら、それもそれでそういう主張に魅力を感じる人が多かったということになるのだろうか。

 そもそもそこに大衆市民社会がある時点で、そのような社会をいかにして維持していくかが、政治的な使命なのだろうし、その中で市民の不満をいかになくしていくかが問題となり、そんな問題を解決しているように見せかけなければならず、見せかけるための手法の一つとして、マスメディアを用いた情報操作もあるのだろうが、できれば真正面から問題に取り組んでいるような姿勢を見せる必要が生じていて、そのための政策をあれこれ実行しているわけで、その政策の評価を求めるのが、間接的には世論調査であり、直接的には選挙になるわけだが、そのような評価の制度や仕組みもうまく機能しているように見せかけなければならず、それらすべてが単なる見せかけではなく、実質が伴っているように思われるようなら、大衆市民社会で暮らしている人々も、安心して政治に信頼を寄せることになるのかもしれない。それも市民が安心して政治に信頼を寄せているように見せかけようとする思惑が働いているとなると、いったいどこまでが見せかけで、どこまでが実質を伴っているのか、一般の人たちにはよくわからなくなってしまうわけだが、実際に自分たちの生活が苦しくなってきたり、不満が高まってきたら、それが見せかけではなく、実質を伴った実感なのだろうし、その生活の苦しさや不満を政治のせいにできれば、世論調査でも実際の選挙でも、現政権に対する否となる結果が出るのだろうが、政治のせいにできなければ何なのかといえば、現政権の他に非難の矛先を向ける攻撃対象を探さなければならなくなるわけだが、それが国内の異分子や外国人勢力となれば、それに対する排斥運動に発展する可能性もあるわけだが、生活の苦しさや不満を排斥運動に結びつけようとする主張も、そこに客観的な合理性など期待するわけにはいかないだろうし、そういうことを実際にやっても、状況が大して改善するわけでもない事例も、探せば海外にはいくらでもありそうだが、やりたければやれる範囲内でやってもらうしかないのではないか。

 別に世の中が今あるような大衆市民社会である必要があるのかといえば、現状でその恩恵にあずかっている人たちにとっては、これまで通りの状況が続いていってほしいと思うだろうし、恩恵を受けているようには感じられない人なら、別に現状でなくても構わないようには思うのだろうが、すでに仕事の面でも家族や資産の面でも、子供の養育費や家のローンなど、現状が保たれてないと死活問題となってしまう人なら、何が何でも現状を維持したいと思うだろうし、そういう人たちがすがりついているのが現政権だとするなら、そういう人が多ければ多いほど、現政権に対する支持は堅固なのかもしれない。それがその前の民主党政権では何が駄目だったのか、その辺の説得力を伴った分析というのがあまりないようで、そこが未だによくわからないところかもしれないが、政権が変わったら円安となって株価が上がってよかったよかった、ということで、そういう肯定的な空気や雰囲気の中で、何となくここまで来てしまったようにも思えるのだが、期待していたほどには円安も株高も進みづらくなってきて、先行き不透明な雲行きとなってきたわけで、海外で激変を伴うような情勢の変化が起こらない限りは、この先もこんな感じが続いていくしかないようにも思われ、これで良いのか悪いのか、悪くてもこのままの状態を保とうと躍起となっている人や集団も、結構メディア的には目立っているようで、そういう人や集団がどこまで現状維持を保っていけるかが、今後の国内情勢を占う上で鍵となってくるのだろうか。別にそんなことなど、誰も占う必要も予想する必要もないのかもしれないが、中にはそういうのが商売な人たちもいるのだろうから、今後も暇つぶし程度には、メディアを経由してそういう人たちの主張や分析を読むことになりそうだが、とりあえずそれらの内容がおもしろければ、その客観的な合理性などはあまり気にかけずに、興味が持続することになるだろうか。


2月19日「性格」

 古い型の歴史的な記述からは、そこに登場するかつて実在した人々の思考的な方向性が、そこで論じようとする内容の傾向に合わせて、固定されているように感じられ、語られている社会の中での立場や役職に沿った人格が付与されているような印象を受けてしまう。社会の中でこういう立場の人々はこういう思考形態を持ち合わせていて、こんな性格であり、また別のこんな役職についている人たちは、こんな思考形態を持ち合わせていて、こんな性格でこんな行動様式の中で生活している、と言った類いの内容に出くわすと、現実の生活の中で感じている実感からはかけ離れているような気になってしまうわけだが、常識的に考えれば、今この社会の中で生きている人たちは、実際に社会の中で担っている立場や役職とは別に、人それぞれに異なった思考形態を持ち合わせていて、また異なった性格を持ち、異なった行動様式の中で生活している気でいると思われるのだろうが、たまたま未来の歴史家がこの時代の人々について論じようとした場合、やはり社会の中での立場や役職に応じて、その立場や役職に特有の思考形態や性格や行動様式が導き出されてしまうのだろうか。

 現代でも社会を構造的に分析する人たちには、そんな傾向があるのかもしれず、特定の社会的な地位や立場に関して、その地位や立場特有の人物が、それについて語る言説の中で登場する傾向があるだろうか。ジャーナリズムの文章の中でも、権力を持った人たちが悪く書かれる場合には、傲慢で身勝手で猜疑心が強く威張っているようにも書かれるだろうし、社会的に抑圧される人々はいつも清廉潔白な性格であるかのようにも書かれるかもしれず、また人の興味を引こうとする目的かどうかはわからないが、何かそのような紋切り型からは外れた、意表をつくような性癖を持っていたりする場合もあるだろうが、例えばいつも批判を浴びている日本の首相が、清廉潔白な政治家であるとは誰も思っていないだろうし、そんなことを書くのは政権与党に与する御用ジャーナリズムだと見なされてしまうだろうか。メディアの中で批判されるのはいつも決まって性格の悪い人物で、賞賛されるのはいつも決まって性格の良い人物になってしまう傾向はあると思われるが、賞賛されていた昔は良い性格だったが、成功するに従ってだんだん傲慢になり、そこから何らかの不祥事を起こして落ち目になると、その傲慢さが仇となったようにも書かれる傾向もあり、やはりその辺で、社会の中でこうなればこういう性格となり、そこから変化して別の境遇になれば、その境遇に合わせた性格が用意されているような事態となってしまうのかもしれず、人の性格というのは、当人はあまり気に留めていない面もあるかもしれないが、その人を見ている人たちが、その人の行動や、行為が行われた結果から導き出すものなのかもしれず、要するに本人よりも他人の判断なのであり、しかもその他人の判断がメディア経由でもたらされると、やはりその人の境遇に応じた性格が付与されてしまう面が大きいだろうか。ある意味そうなるともはやフィクションとみなしても構わないような面も出てくるのかもしれず、確かなことはその人の性格からではなく、その人の行為や言動から判断するしかないのではないか。逆に言えば不祥事が明らかとなった政治家などで、その人の性格云々を述べながら、その政治家を弁護するような報道は信用できないとみなすべきだろうか。

 本物のフィクションであっても、話の中での役割分担から、おのずから登場人物の性格が導き出されてしまう場合があるかもしれないが、フィクションでもすでに史実としての結果が分かっている歴史ドラマともなると、主人公を選ぶ上でも、歴史上何らかの活躍をした人物を選ぶのが、常識的な線だろうし、その活躍の内容に合わせて、その人物に対する性格付けが行われるだろうし、文献的な資料からその人物の性格を示すような部分が見つかれば、それも加味されるのかもしれないが、あとはドラマ自体を面白くしたいという意図からも、見ている人の興味を引くような性格にしなければならないだろうし、そうなると通常の歴史に関する言説とは、かなり趣の異なる内容となるかもしれず、その人物についての語られ方も、場合によっては全く違った性質のものとなるだろうか。そういう意味でその手の歴史ドラマを構造分析すれば、例えば戦国時代を題材としたドラマと明治維新を題材としたドラマで、登場人物の性格が重なる部分が結構あったりして、中には同じ俳優が戦国時代と明治維新において、同じような役回りの同じような性格を持った人物を演じていたりする場合もありうるのではないか。視聴者がそんな歴史ドラマの内容を史実通りの歴史として信用しているわけではないだろうが、たとえ歴史研究者が歴史について語る場合であっても、実在した歴史上の人物の性格にまで言及してしまうと、確かにその人の性格を示す歴史的な資料が豊富に残っているにしろ、その歴史研究者が歴史上の人物の性格にまで言及しながら、何を示そうとしているのかについて、注意深く考えてみるべきなのではないか。


2月18日「正論」

 日本独自の思想や哲学があるとしても、それをことさらに強調しようとするのは意味のないことかもしれない。周囲の地域とのつながりがあるのだから、そこに政治的あるいは文化的な関係があるのだろうし、その関係について論じれば、おのずから日本特有の問題が浮かび上がってくるだろうか。だがそこから日本人がどうすべきかとか、日本国がどういう体制であるべきかとか、そういう方向で論じて行くと、何か独善的な自己正当化にしかならないような気がして、なるべくそういう方向性は避けたいところだが、そういうことについて論じようとするならば、避けては通れない方向性だろうか。そういう点をうまくごまかしながら語ろうとすると、なにやら意味不明で焦点の定まらない内容となってしまいそうだが、現状ではそれで構わないだろうか。たぶんそれでは間違っているのだろう。そしてあえて間違ったことを語らなければならない。そう語らざるをえないのかもしれず、真正面から語ってはいけないのかもしれない。国家について語ろうとすると、それでは国家について語っていることにならないのかもしれず、政治や経済について語っているつもりが、政治的なイデオロギーを語っていることになってしまうのかもしれない。では何について語れば国家について語っていることになるのかといえば、それは宗教について語ればいいのだろうか。例えば戦争について語れば政治について語っていることになるだろうか。また株価や為替の値動きについて語れば経済について語っていることになるとか、そんなふうにして様々な関連分野について語れば、やっと国家について語っていることになるのだろうか。たぶんそういう語り方が間違っているとは思われないだろうが、理由は定かでないが、何かそこから思いっきり外れた内容を追い求めてしまう。要するに内容など気にしなくてもいいのかもしれない。

 何を語るにしてもかろうじて語っている程度にとどめたい。あまり特定の分野に深入りしたくないのかもしれず、深入りできるだけの知識も教養も持ち合わせていないのかもしれないが、何について語ろうとしても、何か違っているような気になることは確かで、途中で気の迷いが生じて、結果として内容が空疎であるか支離滅裂であるかのどちらかとなっている。そんな気がするだけで、それが客観的な認識ではないことは確かだが、積極的にそうなるべきだとも感じられるようで、なるべくまともだと思われる内容からは遠ざかろうとしているのかもしれない。わざとそうしているのかもしれず、無意味な遠回りと迂回を楽しみたいようにも思われる。それらはすべて気のせいなのだろうか。それらの言説のすべては欺瞞と偽善で覆われているのかもしれないが、別にそれに気づく必要はないのかもしれない。できることはなるべくそれを正当化しないことであり、正義を気取らないことなのではないか。世の中の規範を外れるようなことを述べるべきで、間違っても語っている意識が国家とともにあってはならないだろうし、国家批判であってもならないのではないか。何を代表しているわけでもないし、何を代弁しているわけでもなく、たぶん冗談でそんなことを述べているつもりなのだろう。自由であるとは何を述べても構わないということであり、それは語ることの不自由にもなり、言葉を記すことの困難でもあるわけだ。必要だからという理由から逸脱しながら、語っているつもりなのかもしれないが、感情や欲望とは異なる領域に記述している世界があるのだろうか。意識はそれを制御したがっているわけだが、なかなか思うようにはいかず、思い通りに制御しようとすればするほど、かえって思いがけないことが記されてしまう。

 現時点でも思ってもみなかったことを記していて、内容が当初に思っていたことから遠く離れているようで、何を語っているのでもない空疎な内容が延々と記されているような感じだが、現状に半ば呆れながらも、少なくとも不快な気分ではないようで、言説の正しさや正当化を求める意志からは遠ざかっているのではないか。その一方で抱いている疑念の解決を目指しているわけではないし、その疑念について語ろうとしているのでもない。しかしどんな疑念を抱いているのか、それを知ろうとしていないのなら、元から疑念などありはしないのだろうが、たぶんそれは確実にありそうで、現にその疑念のおかげでここまでずれているわけで、なぜずれてしまうのかといえば、政治家の発言に関してくだらぬ問題が浮上すると、途端に正論を語ろうとする人々が、なにやら羨ましく感じられるのかもしれず、羨ましいと同時に虚しくも思われるのは毎度のことだが、わざわざ発言が許される機会を設けてもらって、そこで決められた手順に則って決められた内容の発言をして、それで何か語っているような気にならなければならないのは、何だか馬鹿げたことのように思われてくるわけで、正論というのはそうやって多くの人々に共有されているのかもしれないが、それが何を意味しているのかといえば、まやかしや幻想によって、正論が正論として成り立っているように思われるわけで、そこで人々はただ正解という目的地に向かって、高速道路上を車に乗って走っているだけで、それは途中で一般道に降りられない一本道なのではないか。なぜそれとは逆のことを述べられないのか。それでは高速道路を逆走しているようなものだろうか。そうだとしてもそうしなければならないのであり、高速道で車を運転しているという比喩が冗談でしかないのだろうし、この場合は正論を述べてしまうことの方が危険なのであり、もちろんその危険というのも比喩でしかなく、誰も何とも思わないことを危険だというのが倒錯でしかないのだろうが、そう自覚せずに思わず正論を述べてしまう動作は、そんなことを述べている自らの人畜無害さにも気づいていないのだろうから、やはりここでは何でもないかもしれないが、別のところでは危険なのではないか。


2月17日「保守」

 何か政府が行っている政策に反対したければ、選挙で野党候補にでも投票すればいいのだろうが、果たして人々にそんな簡単な行動がとれるのだろうか。例えば政府が年金財源などの公的資金を株式投資に回していて、多額の損失が出ている現状があれば、自分が受け取る年金が減額されてしまう可能性があり、そうであるならば、次の国政選挙ではそのようなやり方に反対している野党候補者に投票する成り行きになるだろうか。どうも実態としてはそうではなく、それ以外に複雑で感情的な要素があり、感情以外でも様々な要因があるのだろうが、それだけの理由で投票する動機とはならず、仮に自分が受け取る年金額が減らされる可能性があるとしても、絶対に政権与党の候補者に投票する人が大勢いるのだろうし、メディアなどの事前の予想では与党の圧勝というのが大勢を占めているのではないか。それも民主主義的な民意を反映しているのだから、仮に結果がそうなったとしても、それで構わないのかもしれないが、人々の生活がそのような政治に左右されるとしても、実際に民意を反映してそのような政治が行われている現状があるわけで、その中には政治には無関心で、選挙に行かない人も大勢いる現実も含まれているわけで、そういうことを含めて形成されている民意なのだろうから、政権与党と官僚機構のやり方に反対している人たちとしては、歯がゆいところかもしれないが、メディアの予想としては、また苛立ちがさらに増すような選挙結果になる可能性が高そうで、民主主義とはそういうものだと諦めるしかないような事態となるだろうか。

 実際にそうなってしまったらどうするのか。民主主義に理想があるとしたら、それは空想的で実現不可能な民主主義でしかなく、少なくとも現状が民主主義のありうべき姿なのではないか。別にこれ以上の民主主義を求める必要はなく、無理に求めなくてもだんだん変わっていってしまうのかもしれないし、変わらずにこのままの状態がこの先も延々と続いてゆくとしても、民主主義に希望を持とうと絶望しようと、そんな人々の思いとは関係がないのかもしれない。無理にでも社会を変えようとして、歴史上世の中に革命を起こそうとした人は数多いが、そうした人たちがその後どうなったかは、ネットで検索してみればいくらでも出てくるのかもしれないが、それらの人たちが関与した社会は、現状の世の中よりはだいぶひどい状況だったはずだが、現状でも人々が憧れるようなユートピアみたいな地域は、世界のどこを探してもありはしないだろうし、あったらそこへ移住すればいいだろうが、移住しようとしても受け入れてもらえないかもしれず、受け入れ可能であっても、今ある生活環境を変えてまで、そんなところまで行きたくないのが本音としてはあるのではないか。その程度の現状の中で暮らしているわけで、いくらでも政権交代など可能なのに、現政権を支持している人たちが根強くいるのだろうから、そういう人たちの好きにさせておくのも、仕方のないことなのかもしれず、今はそういう人たちに頑張ってもらうしかない現状なのだろう。その程度の部分ではその程度のことなのだろうし、別にそれで困っているわけでもない人が多いから、この程度の現状があるわけだ。実感としてはそう思われる。

 国家の権力構造を論じてその欠陥を指摘すれば、何か色々改善すべき点が浮かび上がってくるかもしれないが、その一方で歴史的な経緯で今あるような状況となっている面もあり、たとえ現状の制度や仕組みの面で、さまざまな欠陥や改善すべき点があるように思われても、それをなかなか改善できないから現状があるわけで、それに気づいているなら、今後も地道にその欠陥や改善点を指摘し続けるしかないのかもしれないが、そういう方向での改革がお望みなら、そういう人たちを支援していけばいいのだろうか。しかし現状で何を改革すればいいのだろうか。それがわからなければ改革しようなどは思わないほうがいいだろうか。現状で納得できるような改革案が思い浮かばなければ、その通りかもしれず、納得できるような改革案を提示する政党や政治家が現れたら、それを支持すればいいだけかもしない。また政治的な革命というのは、動乱期でないと起こせないような行為だろうから、もっと深刻な事態とならない限りは期待できないだろうし、革命を期待するような状況となれば、もっと人々は悲惨な境遇にあるだろうから、現状とはだいぶ違った世の中になっているのかもしれず、これからそんな世の中が到来するとしたら、もうその時点で戦争状態にでもなっているだろうか。そうなるならなっても構わないだろうし、戦争を経験して悲惨な思いをすれば、また生き残った人たちが反省するのだろうし、そしてまた反省を忘れた頃に惨劇を繰り返するのかもしれないが、この先戦争や革命が起こるにしても、ほとんどの人が思ってもみないような予想外の事態に直面するのだろうし、そういう事態に直面してみないことには、人々の心変わりも期待できないのかもしれない。要するにこのままの現状でもなんとかなっていれば、このままの状況が続いていくことになりそうだ。


2月16日「説明不要」

 何と何が関係しているのかよくわからない時、そこでは思いがけない物事と物事の関係があるのかもしれず、その関係に気づかないから、事象が偶然に起こっていると判断するしかない場合があるのだろうし、その偶然性をそのままにしておけないと思えば、それが必然的な出来事として説明できるように、そこで関係しているらしい様々な物事について、詳細に考えてみる必要がありそうだが、現時点では何とも言えないようで、偶然に起こっている事象だと思っておいたほうがよさそうだ。そのままにしておけないとは思うが、考えてみてもわからないことだらけだろうか。少なくとも政治的な領域では政治家たちが何か発言しているわけだが、また何らかの政策を実行しているのだろうが、それが何に結びつくとも思われないのだとしたら、要するに信用がないということになるだろうか。生産がどうあれ流通がどうあれ消費がどうあれ、株式や債券や為替の値動きや金利がどうあれ、信用がなければどうにもならない面があるのかもしれず、その信用の元となっているのが景気動向なのだから、そこで暮らしている人たちが景気が悪いと感じているなら、世界的にそう思う人が多ければ多いほど、回り回ってすべての面で景気の悪化を招くというか、それとも実際に景気が悪化しているからそう感じるのか、どちらが先なのかよくわからないが、ともかくそういうことなのではないか。そんなふうにして世界経済が後退局面にあるという説明を信用していいのだろうか。専門家は結果から判断して、その判断を元にして予想していることは確かなのだろうが、短期的な結果を元にして、長期的な予測はできないだろうから、短期的に景気が悪くなればそれは短期間で収束し、長期的にだんだん景気が悪くなっているとすれば、それはこの先も長期間にわたって続く可能性があるということだろうか。現状の傾向は果たして短期的なのか、あるいは長期的な傾向なのか、それが中国における過剰投資や過剰設備が原因だとすれば、短期間で収束するとは考えにくいのかもしれず、それをすぐにもインドやアフリカの経済成長がカバーするような成り行きではないとすれば、日本の政治家や官僚が何をやっても、直接的には効果が上がるとは考えにくいということになるだろうか。世界的な連携が求められているのかもしれないが、各国や各地域の思惑もバラバラだろうし、あまり期待しない方がいいだろうし、最終的には自分の身は自分の身で守るしかないだろうし、別に守れなくても構わないのではないか。

 少なくとも国は国民を守らない。政府は国民を利用するだろうが、別に守っているわけではない。国が守っているのは国自体だろうし、政府が守っているのは行政的な官僚機構だ。それさえ守って維持していれば、あとは国民を管理して人口を増やせばいいのだろうし、仕事ができるように教育して、産業を振興して国民を働かせればいいわけだ。国民が増えすぎたら、余分な国民や働けなくなった国民は死んでもらえば済むことだ。近代の国家資本主義的な考え方からは、そんな国家のあり方が抽出されるのかもしれないが、現状ではどうなのだろうか。歴史的な成り行きとしては、そんなことの延長上に現状があるのだろうか。国家としては現代でもそんなふうに機能しているのかもしれないが、そこに暮らしている人たちは、無理に国家を意識することもないわけで、働ける範囲内で働くしかないだろうし、働けなくなっても蓄えがあれば生きて行けるかもしれず、その辺をうまくやりくりしながら暮らしているわけだ。うまくやりくりできなくなれば、最終的には死ぬしかないのだろうが、そういう次元ではそうなってしまうわけだが、国民の次元では行政に参加していることになっているだろうし、議会の選挙で投票もできるわけだから、そこで自分たちの意向を反映させたいところだろうが、人それぞれであり、個人のレベルではそれぞれに同じ意見を持ち合わせているわけではなく、選挙結果によって議会での議席が決まり、内閣が組織される段階になると、国民の代表である政治家たちの思惑と、国民一人一人が抱いている思惑とが、必ずしも一致するとは限らないわけで、自分がメディアが世論調査などでまとめあげる多数意見に同調していると思い込めば、なにやら自分の意見が国政に反映しているような気になれるかもしれないが、実態としてはそんな気になれるだけで、果たして自分が元からそんな意見だったのか、あるいは自分が国家に対して何か意見があるのか、もしかしたらメディアの論調を信じ込んでいるだけではないのか、その辺がよくわからないわけで、家族や職場や地域で身の回りの人たちと交流しながら、あるいはメディアから情報を受け取っているうちに、自然と他の人たちと同じような意見を持つようになってしまうのだろうし、大抵はそれを自分の意見だと信じ込んでいるわけで、そんな意見を持ち合わせている人たちが選挙で当選すれば、なにやら自分と同じ意見を持つ人が議員になってくれて、まんざらでもないような気になってしまうのかもしれず、それが政党の有力議員であれば、また内閣の大臣ともなれば、自分の意見が国政に反映されていると思うのかもしれないが、そうだとしても、そのような政治家の掲げる政策がうまくいかなければ、自分のことは棚に上げて、その政治家を非難することになるのかもしれないが、政策だけで国民の生活が改善されるわけでもないのだろうから、他の様々な要因が絡み合った中で、人が勝手にそんな思いを抱いているだけなのかもしれない。


2月15日「倫理観」

 何を知っているとしても、その知っていることで有利になるわけでもなく、逆に知らない方が大胆に行動できて、結果的にうまくいく場合もあるだろうし、知っていることをうまく活用できない場合もありそうで、要するに何かを知っているだけでは、それが取り立ててどうということはないのであり、他の人たちが知りたいことを知っていたり、それをうまく説明できることの方が、時として重要であったりするのだろうか。自らが有利になるように事を運ぶには、他にもその場の状況に応じて、様々な策を弄さないとならないような成り行きもあるのかもしれず、それをやらなければならないような状況に直面してみないことには、何をやるべきかなんて判断がつかないだろうし、判断がつかず手探り状態のまま、勘だけが頼りとなってしまう場合の方が、実感としてはリアリティがありそうだが、個人ではなく集団で活動する場合は、必ず事前に戦略や戦術を立てて、計画通りに行動するような成り行きが多いだろうし、集団を統率する司令官のような立場の者が、その場その場で的確な指示を出せば、うまく事が運ぶような段取りになっていればいいのだろうが、それにしても実際に何をやるかについての倫理的な判断というのが、何を基準にどう判断すればいいのか、そういうところで合法性というのが必要となってくるのかもしれず、やろうとすることが合法であるか違法であるかが、一つの判断基準になることは確かで、そのために法律が必要となってくるのだろうが、中には違法であることを承知で、やらざるをえない活動というのが出てくるわけで、そういう活動というのが、利益を得ようとする活動である限りは、いくら警察機構が取り締まっても、違法活動によって利益を得られる可能性がなくならない限りは、そのような活動に手を出す輩や集団が後を絶たなくなるだろうか。その利益を得られる可能性というのが、社会の中で人や集団の活動を促しているのだろうし、それが合法であれ違法であれ、そのような活動に挑戦しようとする人や集団によって、社会が成り立っていることは確かなのだが、利益を得られる可能性とは別に、人や集団が活動する上で判断材料となるべき倫理性というのは、どんな内容をどのように決めたらいいのだろうか。それを決めたとしても、それを人や集団が守れる可能性があるだろうか。

 結局やっていいこととやってはいけないことを法律で定めて、それを守らない人や集団を警察機構が取り締まるのが、一般的に行われてきたやり方なのだろうが、それ以外に自己の判断で、やるべきかやめるべきかを決める機会があるわけで、そこで利益を期待する以外に、倫理的な判断として何があるのかということなのだが、その人が何らかの宗教や哲学や思想などの価値観に染まっていれば、あるいは社会規範やしきたりや慣習などの価値観に染まっていれば、その価値観に沿った行動をしていればいいわけだが、それらでもない場合、例えば霊感や天啓などの啓示を受けることがあるかもしれず、それは倫理とは違い、時としてそれに反した行動を促され、そうなった場合は自己判断を超えた行動となってくるわけで、もしかしたらそれが、人が行動する上で最も強い動機と言えるのかもしれない。もちろんそれは人の意志では決められない行動なのだから、動機でさえもないのだろうが、それは意識の表面に浮いてこないから意識できないだけで、実際には潜在意識が活動を促していて、それも脳の動作の一つであるとするなら、それを潜在意識とか無意識とかいう言葉で表現するしかないのだろうが、何かしらそこで脳内の神経ネットワークが働いているのだろうし、そのような動作を示す働きがあって、そんな働きによって、自分では意識できない活動を行っているのではないか。それも一種の勘だと言えないこともないのだろうが、そのように動作した結果として、何か深刻な危機を回避したように思われると、例えば信心深い人なら、神のご加護に救われたとでも思うのかもしれず、大抵の人ならそれが元で自分の勘を過信してしまい、過信して勘に頼りすぎると、今度は失敗して反省したりするのだろうが、それは社会規範などの外部的な倫理に背いているとしても、自己の内部で自然に形成される内部的な倫理というのがあるとすれば、それには適合している可能性もあるわけで、霊感などの啓示に従って行動して、それによって満足感を得ることになれば、その人が長年の経験によって培ってきた、その人独自の倫理観には適っていて、そうなると自分では意識できない行動規範というのが備わっているのかもしれず、結果的にはその人は意識せずに備わっている行動規範通りに行動していることになるのだろうか。


2月14日「アメリカ」

 アメリカのナショナリストは、自由と民主主義を世界に広めるために戦っているつもりなのかもしれず、場合によっては従わない国や武装勢力と戦争をして、独裁者やテロリストを排除しようとしているわけだ。また不公正な貿易によって暴利を貪っていると見なされる国には、関税障壁や非関税障壁と見なされる、その国独自の商慣行や行政的な措置や制度を改めるように迫ってくるわけで、そうやって国家間の公正で公平な自由貿易を、世界に広めようとしているつもりなのかもしれない。もちろんこのような建前としての主張を、アメリカ国内にいる人や他の国にいる誰もが信じているわけではなく、アメリカの国益が最優先にされて、アメリカの世界覇権を確立し維持継続させるために、そのような活動が行われていると思っているのだろうか。建前としての主張にもある程度は真実味が有るだろうし、アメリカの国益が最優先されていることも事実なのではないか。アメリカと同盟関係にある国にとっては、アメリカの軍事力に頼っている面も有るだろうし、アメリカを本拠地する巨大企業が世界中で活動していることも事実だし、軍事活動と企業活動によって世界中とつながっていて、プロスポーツや映画などの娯楽産業でも、世界の覇権を握っていることは確かかもしれない。そして世界の公用語として英語が使われ、宇宙開発などの科学技術の分野でも、アメリカなしではやっていけない状況となっているだろうか。それをアメリカという地域で括れば、そんなことが言えるかもしれないが、それが必ずしも国家という枠で一括りにはできない面もあって、そこには多種多様な勢力が混在していて、それらが同じ次元や水準でアメリカという国家と直接結びついているわけではなく、中には国という枠からはみ出たり、ほとんど無関係な勢力もあるのかもしれず、たまたまアメリカに活動拠点があったり、アメリカと主に関わっていた方が都合が良かったりするから、アメリカとともにあろうとしているのだろうか。

 ともかく広大な土地があり、しかも先住民が一掃されてしまったおかげで、古い社会的な因習がなく、人や集団が自由に活動しやすい地域なのだろうし、そこに世界中から人材が集まってくるわけだから、他の閉鎖的な大国や地域よりは有利な条件が揃っているわけで、そんな現状だから世界の覇権を握っているように思われるのだろうか。実際に覇権を握っているとみなしてもいいのだろうし、そういう前提で話を進めても構わないのかもしれない。その中でも国家としてのアメリカという部分は、それほど大きな割合を占めているわけではないのかもしれず、なにやら世界にはそういう何でもありの地域があり、それがたまたま北米大陸に広がっているということであって、そこではすべての面で行政的な管理体制が整っているわけではなく、物質的または人的に甚大な被害を加えない範囲で、ある程度は自由放任のような社会形態であるのかもしれず、日本のようにすべてにおいて同質であることを強要するような、狭い範囲での管理統制は成り立たない空間的な広がりがあるのだろうか。そういう意味では同質であることを求める民主主義よりは、異質であっても容認される自由主義の方が勝っているのかもしれず、世界中から様々な人たちが集まってきたわけだから、自由を容認しないことには成り立たない社会なのだろう。それが良いか悪いかではなく、移民で成り立っている社会では、人的には極端な同質性を強要することは不可能なのだろうし、もちろん経済的あるいは人口的に、同質性を伴った特定の人種や民族集団が優勢である実態はあるのだろうが、そのような同質の集団が社会全体を支配しているわけではなさそうで、同質な価値観や風習を持った集団が、異質な人たちを排除しようとする傾向が常にあることは確かだが、まだまだ社会に異質な人たちを受け入れる余地が残されているとみなせばいいのだろうか。それも程度の問題かもしれず、たまたま歴史的にそういう時期にあるだけで、今後時代が進むにつれて、人や集団の同質化や固定化が進み、何かのきっかけで停滞や衰退を招くような状況も生まれてくるのだろうか。


2月13日「主張」

 わかりやすい主張には穴があり、穴のない主張は一般の人たちには難しすぎて理解が困難なのだろうが、何か主張しようとすると、やはりわかりやすいことを言わないと相手にされず、そんなわけで一般の人たちが理解可能なわかりやすい主張には穴があり、主張に矛盾があることを指摘すると怒り出すわけだが、では穴のないなるべく矛盾を伴わないことを主張すれば、難しくなって理解してもらえないだろうから、ではどうすればいいのかといえば、わかりやすいことを主張しながら、そこに生じている矛盾を隠蔽したり、場合によっては矛盾を指摘しようとする者を弾圧しなければならないだろうか。あるいは他の人たちに矛盾が露呈しないように、徹底的に無視すればいいのかもしれないが、著名人ならともかく、一般の人が矛盾を指摘しても誰からも相手にされないだろうから、多くの場合は放って置かれるのかもしれない。そこに一般人と著名人との格差があり、体制的な権力機関が相手にしなければいけない階級と、相手にしなくてもいい階級の区別があるのかもしれず、そういうのが格差社会であり階級社会の特徴なのかもしれず、現実にそういう社会的なヒエラルキーが構成されているのだろうか。たぶん一般の人たちはそれを利用すべきなのかもしれず、勝手なことを主張していられる自由があるのだろうし、何も著名人の言っていることに従う必要などなく、逆に多くの人がそれに従ってしまうから、著名人という権力者が生じてしまうわけで、大衆の支持がなければ著名人ではいられないわけで、そういう意味で反権力を目指すなら、なるべく著名人を支持せず、著名人の言うことを聞かないことが、効果があるのかもしれず、もちろんその著名人の中には体制側に属している政治家や学者や文化人も含まれるわけで、またしばしば反体制的な主張をして、英雄的な行為に出る政治家や学者や文化人もいるのであり、そのどちらの主張にも無関心な人が増えれば増えるほど、相対的にそれらの人たちの権力が弱まるのではないか。

 そうはいってもなかなかそれができないだろうし、メディアから伝わる言語表現に興味を抱き、言語表現を駆使して大衆を扇動しようとする人たちに丸め込まれて、そんな煽動や誘導に屈指してまう人が多いだろうし、そんな誘惑から逃れるのは至難の技かもしれない。だが少なくとも言えることは、世の中に対立関係や敵対関係がある限り、人の主張には必ず穴があり、わかりやすい単純化された主張だとそれが特に大きく、要するにそれは一方が得すればもう一方は損するような主張なのであり、また穴が小さく矛盾が少ないような主張だと、述べていることが複雑で理解するのが困難になるだろうが、そのような主張は損得の利害関係を伴わないような主張となるのかもしれず、ほとんど対立や敵対を伴わないような主張となるのではないか。そしてわかりやすく単純化された主張に従うとすれば、利害の対立する敵と戦うことになるわけで、だから各種の反対運動や反体制的な活動には、単純化された主張が不可欠なのであって、また強権政治などを目指す勢力の主張も単純化されたものとなるわけで、要するに敵を倒せと賛同者に呼びかけるわけだ。そして倒すべき敵がいるということが最大の矛盾点となるわけで、場合によっては暴力を使ってでも敵を倒さければ主張が成就しないというのは、それこそがまさに悲劇であり不条理なのであって、わかりやすい主張に賛同するのであれば、そのような悲劇や不条理と直面する覚悟がいるわけだ。だから反権力を目指すなら簡単でわかりやすい主張には賛同しないことであり、メディアを通じで呼びかけられる煽動には、なるべく乗らないことが肝心なのではないか。もちろん強権的な政治状況には反対したいのだろうから、そういう時には反権力で一つにまとまりたいのは至極当然の感情だろうし、賛同者を募ってデモや集会を開いて気勢をあげたければやればいいだろうし、中にはそんな活動にのめり込んでしまう人も出るだろうが、無責任な言い方だがそれはパフォーマンスとして楽しめばいいわけで、そんな中でも自分たちが主張する単純明快なスローガンには穴があり、矛盾を伴っていることを自覚しておけばいいのではないか。もちろんこんなことを述べている内容自体が穴だらけで矛盾だらけなのだが、こう述べることで何らかの理解が得られることを期待しているから、こうなってしまうわけだ。


2月12日「妥協」

 安保法制にしてもTPPにしても、戦争になるだの独裁国家になるだの、アメリカ企業に支配されるだの日本の産業や制度が壊滅するだの、そういった恐怖を煽って反対した人たちが、結果的に敗北したことになり、体制側から何かを仕掛けられ、それに過剰反応して大げさにその危険性を訴えかけると、見事に梯子を外されて、後から人々がついて来ないで孤立してしまう現象なのだろうか。たぶんそうではなく、安保法制やTPP自体が見掛け倒しの空疎な決まり事でしかなく、時が経てば忘れ去られるようなものなのかもしれず、誰が勝って誰が負けたわけでもなく、メディアがセンセーショナルに騒ぎ立て、それに煽られた人たちがその気になってしまっただけなのだろうか。少なくとも強硬に反対しているメディアが指摘するような危険性はあり、危惧した通りのことが起こるのかもしれないが、それが起こったところでどうということはなく、相変わらず人々はそこで暮らしているだろうし、それなりに制度に順応して生きていくのではないか。日本にしてもアメリカにしても、そこに国家や企業の食い物となる納税者や消費者がいないことには、やっていけないわけだから、企業にとっては利益が出て、国家にとっては税収が確保されるだけの、それなりの規模の人口が必要とされるわけだ。要するに国家的あるいは産業的な繁栄が期待されているわけで、そのための制度や政策であるのだろうから、何も日本を壊滅させようとしているわけではなく、その逆を狙っているのだろうから、そういう点で滅亡の恐怖を煽って反対するということ自体が、根本的に間違っているのではないか。

 別にアメリカは奴隷を求めているわけではなく、商品を買ってくれる消費者を求めているわけだから、日本人を貧乏にしてはまずいだろうし、裕福な日本人から金を巻き上げようとしているわけだから、日本もそれなりに経済的に豊かになっておいてほしいだろうし、基本的には共存共栄が建前であるわけで、現にアメリカの傘下に入っている北米地域のカナダやメキシコも、どんどんアメリカから富を吸い上げられて、国全体が貧困になっているわけではないのだろう。ただ貧富の格差がますます顕著になって、格差や階級がはっきりしてくる可能性もあるのだろうが、それは資本主義市場経済であるから避けられないところなのかもしれず、日本やアメリカ政府がどうこうというより、そこで暮らす人々が、自分の生き方をどうするかという問題なのかもしれない。貧しければ貧しいなりに生きていけるような、暮らし方を模索していかなければならないし、現実問題としてそこに暮らす大半の人たちが、商品もろくに変えないような貧しい暮らしとなったら、国家経済が衰退するだろうし、国家間の貿易量も減ってきて、TPPが目指す方向とは逆向きになるわけだから、TPP自体が効力を失って、反対していた人たちの勝利となるわけだから、別にそれで構わないわけで、またそうなれば戦争どころではなく、安保法制などどうでもよくなってしまうだろうし、みんな貧しいなりにも平和に暮らせる世の中が到来するのかもしれない。そんな冗談のような世の中が将来に実現するかどうかはわからないが、少なくとも現状を悲観する必要はなく、結局国家主義者が国家を栄えさせようとして、無理な制度を国民に強要すれば、国民の意識にストレスが加わっておかしくなり、経済がうまくいかなくなってしまうかもしれないし、強引なことをやれば回り回って自業自得なのだろうから、その辺は歴史的な必然でもあり、冷静に考えておいたほうがいいのではないか。

 マスメディアを使った小手先のごまかしも、そうそう永続的な効果など期待できないだろうし、くだらぬ煽動によって国民の気を惹きつけようとすればするほど、そんなことを真に受ける国民が多ければ多いほど、国民の知的な質が低下して、結果として無能な人々ばかりとなって、国際競争力を失ってゆくだろうし、そうなれば国力の低下は避けられず、それでもやり続ければ、やがて北朝鮮のような事態になるしかないだろうか。また恐怖を煽って反対する人たちは、何かというとすぐにナチスやヒトラーを引き合いに出すのが常套句と化しているが、その何十年も前に失敗したやり方が、また同じように繰り返されることはありえないだろうし、その時と今では時代も状況も地域も異なっているし、そういう紋切り型的な煽り方自体が無効なのかもしれないが、当人たちは無効だとは思っていないのだろうから、それを続ける自由はあるわけで、やりたければいつまでもやれる限りやっていられるわけで、それがどうしたわけでもないのだろうが、それも何らかの流行現象だと思えば、特に肯定も否定もする必要はなく、そういうものだと思うしかないわけで、何かその辺で行きづまり感を拭えず、何となく起死回生の秘策などを妄想してしまうわけだが、やはりそれはどこまで考えても妄想の域を出るようなことではなく、真剣に考えるようなことでもないのかもしれない。すべては現状のあるがままなのであって、それ以上でも以下でもなく、そこに国民と呼ばれる人々の限界があり、国家と呼ばれる地域の限界もあり、個々の企業の経済活動の限界もあるだろうし、そんな状況の中で何かしら反対運動している人たちもご苦労なことなのだが、反対するばかりではなく、人々の市民運動も行政と協力し合える部分もあるのかもしれず、そういう部分では協力関係を築いていけばいいのかもしれない。


2月11日「逆説」

 たぶん言葉をこねくり回したようなことを述べても相手には通じないだろう。単純明快なことを述べないと何も伝わらず、特定の人や集団の活動に賛成だの反対だのを表明すればそれで済んでしまうのだろうし、実際にそうやって人々は意思表示しているわけだ。何が良くて何が悪いではなく、何が無効で何が有効なのかも、はっきりとはわからないわけだから、とりあえず意思表示したい人たちは、そうやって賛成か反対かの意思表示をするしかないのではないか。それはそれでそういうことだ。そして何かを語ろうとすると、事の賛否とは違う次元で述べようとするわけだ。なぜ彼らは賛成したり反対したりしているのか、また彼らはどうやって賛成したり反対したりしているのか。そして彼らが賛成したり反対したりした結果として、何がどうなっているのか。何もどうにもなっていなければ、賛成したり反対したりしている活動は無意味で無効なのだろうか。あるいはそれが良かったり悪かったりするのだろうか。そんなことを語れる範囲で語ろうとすると、何かまとまったことを語れるのだろうか。果たしてそれが何かの役に立つような内容となるのだろうか。たぶんそんなことを語りたいわけでもないのではないか。では何が語りたいのかといえば、それは実際に語ってみないことには、よくわからないことだろうか。それとも語ったところで、何やら意味不明で、言葉をこねくり回したような結論のはっきりしない循環論の類いとなってしまうのだろうか。

 意識しなくてもわざとそうやっているのだろうし、その賛成したり反対したりする対象そのものの存在を疑っているのかもしれず、そこから生じる疑念が、事の賛否そのものの無効性を予感させるのかもしれない。予感させると言っても、将来それがなくなるかどうかではなく、現状でもまともに機能していないような気がするわけで、たとえその対象が国会で議決された法制であっても、法制度が目論見通りに機能するかどうかはよくわからないのかもしれず、もしかしたら見掛け倒しに終わってしまうか、成立と同時に形骸化が進んでいるようにも思われ、またそれが社会制度の類いであっても、現状でそのような制度になっていること自体について、賛成したり反対したりしたからといって、何がどう変わるとも言えないのではないかと思うわけで、結果としてそのような状況になっていることに対して、個人がいくら賛否を表明してみても、それはただ現状認識として、その現状を肯定的に捉えているか否定的に捉えているか、ということでしかなく、それが直接その状況に影響を及ぼすわけでもないのではないかとも思われるわけで、それならただ現状を肯定も否定もせずに説明すればいいだけのような気がするわけで、そうやって事の賛否を迫る議論から外れようとするのは、やはりわざと外れようとしているのだろうし、事の賛否を迫ってその議論の中に人の意識を拘束しようとする圧力を感じているから、それに逆らい抵抗しようとする意識が生じるのかもしれず、人を賛成反対の二項対立の中に押し込もうとする権力の行使に抗っていることになるのではないか。

 そうやって安易な誘いには乗らないことが、反権力を貫く上で必要なのかもしれず、たとえそれが勘違いであろうと、罠から逃れようとする意識は、条件反射的に作動するのだろうし、そこで勘が働くとすれば、やはり勘が示す通りに動いた方が良さそうで、そう動いた場合の結果の良し悪しなど考えずに、罠だと感じたらさっさとそこから外れた方が良さそうだ。たぶんそれの何が罠なのでもなく、実際に事の賛否を表明してしまう人が多数いるのだから、それはそれでそういう人たちの態度や姿勢を尊重すればいいのだろうし、その結果として何らかの政治的な転換が起これば、それに越したことはないのかもしれず、そうした転換を受け入れたつもりになっていればいいのではないか。そしてそれはそういうことでしかなく、たとえその手の政権交代が起ころうと、大して世の中が変わるわけでもないと思っていればいいのだろうし、あまりそういう表面的な変化に敏感に反応しない方がいいのかもしれず、それなりに期待はさせるだろうが、そこに暮らしている人たちは、同じメンタリティの人たちが相変わらず暮らしているのだから、また社会の制度はそのままだろうから、そう何もかもが変わるわけでもないと思うしかないわけで、目先の変化を楽しむぐらいにとどめておくのが無難なところなのだろう。アメリカの大統領選挙でも民主党の候補者が社会民主主義を掲げて一躍脚光を浴びているらしいが、確か現大統領が選挙戦で脚光を浴びた時もそんな類いであったし、人々が求めているのはそういう水準での変化や転換なのではないか。少なくとも国家をなくして世界を統一するとか、そういう空想的な期待ではないことは確かだろうし、現状の国家制度を維持した上で、何か目新しいことをやってほしいわけだ。


2月10日「枯渇」

 何か違っているように思われることが、実はあっているようにも思われ、どちらとも言えないまま、それについて言葉を記してみると、思いがけない内容となってしまい、後からそれを読み返してみると、それほど驚くようなことが書かれているわけでもないのだが、そのときは確かに思いがけないことを記しているように思われたわけだ。今となってはそれが何を意味するとも思えないのだが、何か重大なことに気づいていないのだろうか。しかしその重大なこととは誰にとって重大なことなのだろうか。もしかしたらそれが誰にとっても重大なこともなく、取り立てて気づかなくてもいいようなことでもあるのかもしれず、では何なのかといえば、気づいた人だけ気づいてもらえればいいようなことでしかないのだろうか。要するにそれは気づかない人にとっては重大でも何でもないことで、気づいた人にとっても、それが重大だとは気づかないようなことかもしれず、そうであるならそれは重大でも何でもないことなのではないか、とも思うわけだが、ただ疑念はいつも残っているわけで、いつか何かのきっかけで、それが重大なことだと思われてしまうかもしれず、やはりその時が来て初めてそれが重大なこととなるのかもしれない。だから今のところはそれは重大でも何でもなく、取り立てて気づかなくてもいいことなのだろうか。実際に気づいていないのだから、それが何だかわからないわけで、気づくまではそれが何であろうと、気づきようがないわけで、それに気づきたいのなら、気づくまで待つしかなく、待つと言っても、待っていることすら忘れてしまうだろうし、いつの間にか気づいていたとしても、その気づいていることにすらも気づかないという事態もあるのではないか。そうなればそれが重大なことであったとしても、たとえそれに気づいたとしても、それが重大であるかどうかもわからなくなるだろうか。

 その人にとって重大であるかないかなんて、その人には気づかないこともあるだろうし、重大なことだと気づいたように思われても、それが勘違いである場合もあるだろうし、当人にとっては重大であるかのように思われることが、その人とは関係のない赤の他人にとっては、重大でも何でもなく、重大と思われることに気づいた人が、それによってどうなろうと、赤の他人とっては何でもないことであって、取り立てて気づく必要さえないことでもあるとしたら、その重大性とは何なのだろうか。要するに人それぞれで異なる相対的な重大性といったものだろうか。例えば誰かが癌にかかって、医師から余命宣告を受けた場合、果たしてそれは重大なことなのだろうか。赤の他人にとってはそうではないかもしれないが、当人にとってはどうなのか。もしかしたら当人にとっても、それだけではどちらとも言えないようなことなのかもしれず、その後宣告通りに亡くなったとしても、当人にとっても周囲の人たちにとっても、どうということでもない場合もあるのかもしれず、それが重大なことであるか否かは、その時の当人の置かれた境遇にあるわけで、そこで当人が突然いなくなってしまうと、当人も周囲の人たちも困るような場合は、何かそれが重大なことであるかのように思われるわけで、しかもその時は確かにそう思われたとしても、結果的に当人がいなくなってもどうということもなければ、それが重大なことであるように思われたのは、勘違いだったことになるだろうか。不謹慎な言い方だが、建前としてはそんなことはなく、その家族を支える働き盛りの父親が、突然死んでしまったら、家族にとっては深刻な事態だろうし、たとえその人がガン保険か何かに入っていて、多額の保険金が入ったとしても、悲しむべきことなのだろうが、そういう事情を考慮すれば、何かそれが重大なことであるかのように思われるのであって、そういうことなら気づかないわけはないのであり、たぶん何か重大なことに気づいていないというのは、少なくともそういうことではないわけだ。

 では今気づいていない重大なこととは何なのか。たぶん自意識はそれを想像したいのであって、そこから何らかの内容を導き出したいのではないか。だからそれは想像上の重大なことであり、想像である限りはフィクションでしかないだろうし、それは虚構の重大性を担っているのではないか。もちろんそれは嘘であって、虚構である限りは重大でも何でもないとも思われるわけだが、フィクションを思いつくことが重大なこととなるように、思いついたフィクションをこれから何らかの事象へと成長させ、自意識にとって重大なことに思われるようにさせたいのかもしれず、それにはさらなる想像力が必要とされるのかもしれない。とりあえず今はそれが冗談や誇大妄想とならないようにもしなければならず、興味の対象から外れないように、そこから導き出される虚構の方向を吟味してみようと思っているのだろうか。それも嘘かもしれないのだが、その想像に関して何を調べ何を確かめたいのかは、後々分かってくるようにしなければならず、分かってくるまでは興味を持続させるべきで、途中で投げ出してしまっては、すべてが無駄となってしまうだろうか。しかしすべてとは何なのだろうか。それはその場で思いついた想像のすべてであり、そこから言葉を使って組み立てようとするフィクションもすべてに入るのだろうか。たぶんそうなのであって、今はそのフィクションを構成しようとする意志を持続することこそが重要なのであり、さっきまでは気づいていなかったが、今気づいた重大なこととは、フィクションを構成しようとする意志を持続させることだろうか。しかしそれが冗談や誇大妄想とならない理由がどこにあるのか。では冗談や誇大妄想となる理由を想像できるだろうか。自分が組み立てようとするフィクションを信じきれなくなったら、やはりそこから冗談に逃げてしまうだろうし、それを構成していくにつれて、何かの加減で目も当てられないようなくだらない内容となっても、なおもやり通そうとすれば、いつしかそれは誇大妄想のような内容となってしまうだろうか。現時点ではそういう結果も想像可能だが、まだ何もやっていない段階で何を想像しても始まらず、もしかしたら気まぐれの戯言でそんなことを述べているだけかもしれず、実際には何もやらない可能性の方が高いだろうか。


2月9日「模索」

 世の中には格差社会と階級社会の違いをご丁寧にご教授してくれる人もいるらしいが、現実に格差があろうと階級があろうと差別があろうと、それは人が抱くありふれた認識の一部として、そういう言葉を使って何かを語る上で、何らかの社会的な機能が備わっているようだ。人は言葉を使って他人に影響を及ぼしたいのかもしれず、その及ぼされる影響というのが、例えば大勢の人が同じような言語表現を使って語るように仕向けさせることで、その言語表現が実際に効力があるかのように信じさせる動作なのだろうが、そういうのは一般的にマスメディアが使う手法であり、そのマスメディアからの影響を被って、同じような言語表現を駆使する尖兵たちが、ネット上でも幅を利かせていて、そういう人たちの何気ない動作がマスメディアのネット支配を助長しているとも言えるわけだが、ではそれ以外にどんな言語表現を使えばいいのかといえば、日頃マスメディアから情報を得ているのだから、当然そこから影響を蒙るしかないのであり、それは仕方のないことだと言ってしまっては、身も蓋もないわけだが、書物などを読んでいると、そうではないような言語表現に出くわして、そこで思いがけず不意打ちを食らったような気分となり、そこから勝手な幻想やら妄想やらがひらめいてしまい、これまで使っていた言語表現がいかに薄っぺらくて一方的で偏狭なものであるのかがわかってしまうようなことはないだろうか。それも勘違いの類いなのかもしれず、ただマスメディアからの影響に加えて、読んでいる書物からの影響が加わってしまっただけなのかもしれないが、何かそこで考えさせられてしまうことは確かで、これまで普通に使っていた言語表現を改めた方がいいように思われてしまうわけだ。

 例えば村上春樹の小説を読むと、読者はそこで語っている語り手とともに、そこに登場する視野が狭く愚かで欠陥だらけの小市民たちの物語を、上から目線で見下しながら、心に余裕を保って読み進めることができるのかもしれないが、それがフローベールともなると、何か少し事情が違っているように思われてくるわけで、ここに登場する視野が狭く愚かで欠陥だらけの小市民たちこそが、お前たち読者なのだ、と思わせようと仕掛けられているのではないか、という疑念を抱かせるのかもしれず、そんな疑念を抱きながら読み進めていくと、だんだん嫌悪感が増してきて、不快な気分となってきて、読むのをやめてしまいそうになるわけだが、その辺で村上春樹とフローベールとでは、言語表現に違いがあるように思われるわけだが、結局現代のマスメディアの論調は村上春樹的であるように思われてしまうわけで、おバカな政治家やテレビタレントなどの活動を上から目線で小馬鹿にしたり嘲笑するようなスタイルをとっていて、しかも逆にそういう政治家やテレビタレントたちをよいしょする手法からも、何かバカっぽい印象を受けるわけで、そんな言語表現に接していると心地よくなってしまい、実態として一般の人々が、それらの政治家やテレビタレントたちの食い物となっていることを忘れさせてしまうのかもしれず、もちろん一般の人たちが消費者としてのお客様だからこそ、そのような心地よい待遇でいられるわけで、マスメディアを通じて大衆娯楽的な見世物を提供している政治家やテレビタレントと、それを享受しているつもりの消費者としての一般市民という関係が、何か現代の世の中を状況を象徴するような構造となっているのではないか。

 そのような消費者としての一般市民に媚びを売るような表現こそが、一般市民を籠絡する手法なのであり、そのことに多くの人々が慣れきってしまったのが、大衆メディア社会の特性なのだろうし、そのような表現に接して心地よくなって、上から目線でいい気になって芸能ニュースなどに心を奪われながら、多くの人たちが牙を抜かれた状態となっているのかもしれないが、たぶんそれではまずいというのではなく、それで構わないのであり、そんな世の中を安易に肯定も否定もしない方がいいのであって、そこで、お前ら目を覚め!マスメディアに騙されるな!とか呼びかけてしまっては、それこそ思う壺なのかもしれず、少なくともフローベールの言語表現はそれとは違うように思われるわけで、お前ら目を覚ませ!と呼びかけてしまうような言語表現こそが、マスメディア的な言語表現の範囲内に位置するわけで、それこそが何かにつけ対立を煽り立てて、それについて考える隙を与えないようにしながら、その対象へと人々の興味を誘導するような手法によって、視野が狭く愚かで欠陥だらけの小市民を大量生産しているのではないか。だからと言って別にフローベールの真似をすることはないだろうし、普通にこういう世の中なんだと思っていればいいだけのような気もするわけで、日本は格差社会ではなく階級社会なのだ、と力説する人がいれば、そうですかと思うしかなく、そうだとしても個人の力ではその階級社会を作り変えることなどできないわけで、現状でできるのは微々たることでしかないのだろうが、その中でも、とりあえず今までの語り方を変えてみようとは思うわけで、そう思わせるのが、世の中の状況や政治情勢だとすれば、それも一つの抵抗表現のような気もするわけで、今まで使ってきた言語表現になんらかの限界があるのだとしたら、そういう方面での模索も必要なのではないか。


2月8日「きっかけ」

 世の中の慣習や慣行に合わせて生きるように心がければ、人は社会の中で幸せに生きて行けるだろうか。現実に大部分の人たちは多かれ少なかれそうやって生きているわけだから、それを幸せに生きているとみなせば、そういうことになるのかもしれない。それとは逆に不幸な人たちは世の中の慣習や慣行に逆らって生きようとするから、不幸になるのかもしれず、実際に多かれ少なかれ不幸になっているのではないか。そんなわけで幸福になるとか不幸になるとかいうのは、世の中の慣習や慣行に自分の生き方を合わせられるか否かによって決まるのかもしれず、合わせられれば幸せになれるし、合わせられなければ不幸せになるということだろうか。中には不器用だから合わせようとしても合わせられない人もいるのかもしれないが、たぶんそれが天然体質なのだろうし、わざとやっているわけではないにしても、何かをやって行くと必ず世の中の主流から外れていってしまう体質というのがあるのかもしれず、そういう人は一般的には不幸に見えてしまうのではないか。本人にその自覚があるかどうかはわからないが、何かの具合でそういう成り行きに巻き込まれている人もいるだろうか。もしかしたらそういう人は世の中では希少な部類に入る人なのかもしれず、そういう人が普通に生きていけるような世の中なら、比較的自由度の高い社会が成立していることになるのだろうが、慣習や慣行に合わせられないので、周囲から孤立していたり攻撃されていたりすると、そういう社会は自由度が低く、やや全体主義的な傾向になっていると見ていいだろうか。

 社会の中で人の置かれている立場も、その人の動作や性格に影響を与えているだろうし、周りの様々な階層の人たちと絶え間なく交流がある人などは、自然に慣習や慣行に合わせざるをえなくなるだろうし、周囲の人たちとの交流がそれほどなくても生きていける人なら、慣習や慣行に無理に従わなくても不都合ではないかもしれず、そういう人は周囲に孤独な印象を与えるだろうし、それに関して当人がどう思っているとしても、不幸な人のように見えてしまうのかもしれない。そういう面から考えてみると、大勢の人に囲まれながらにこやかに談笑しているような人は幸せに見えるし、孤独な一人暮らしをしているような人は不幸に見えてくるだろうし、幸せか不幸せかの基準は見た目の印象で判断されるようなものかもしれず、必ずしもそれが良いか悪いかの基準とはならないのではないか。例えば毎週のように社交界のような集まりに出て、着飾って見栄を張らなければならない境遇というのがあるとして、そのような集まりに出られることがステータスだと思っている人がいるなら、果たしてその集まりに出ている人たちは幸せなのかとなると、そこで見栄の張り合いをしている人たちがいるとすれば、それがその人たちにとっては競い合いなのだろうし、一種の闘争状態であるわけで、それは幸せか否かとは別次元のことのような気がするし、そんな人たちが少数いる一方で、その他大勢の人たちが経済的に貧しい境遇にあるとすれば、そういう社会は不幸な社会だと言えなくもないわけで、それは絵に描いたような格差社会であり、そんなのはフィクションかもしれないが、比喩としてならそういう状況がこの世界に当てはまるだろうし、そんな喩えを交えて貧困や格差などについて語る人もメディア上に結構いるのではないか。

 そうだとしても経済的に豊かであるか貧しいかという基準と、幸せであるか不幸であるかという基準も、それが良いか悪いかとなると、どちらとも言えないわけで、貧しかろうと不幸せであろうと、それでも普通に生きている人もいるだろうし、経済的に豊かであろうと幸せであろうと、それで普通に生きている人もいるわけで、両方の境遇にある人が比較の対象とならないこともありうるわけで、世界のすべての人が同じ境遇である必要もなく、そうしなければならない理由も、それほど切実に思われているわけではないのかもしれない。中には経済的に豊かであったり貧しかったり、幸せであったり不幸であったりしても、人それぞれでそのような偏差があっても構わないと考えられる場合もあるのかもしれず、たぶん現状で世の中の慣習や慣行に合わせて生きている人たちにとっては、それが当たり前のことのように感じられるわけで、もちろん慣習や慣行して慈善事業や活動があるだろうし、募金活動にも参加したり募金に応じたりしていて、貧しく不幸な境遇にある人たちを助けようと思っている人が大勢いることは確かだろうが、だからと言って慣習や慣行から逸脱してまで助けようとは思わないだろうし、あくまでも世間的な付き合いとして募金などに応じているわけで、そのような次元を超えることはありえないわけだ。そこに現状があるのだろうし、そのような慣習や慣行が現状をもたらしている面もあるのだろうが、人々がそれを超えて何かやらなければならないような契機が果たして今後訪れるのだろうか。そうでなければ、そういう面においては今まで通りなのだろうし、そこから世界が変わる可能性はないような気がするのだが、何か世界が変わるきっかけは、誰もが予想しえないような思いがけないところから現れるのだろうか。


2月7日「諸刃の剣」

 人が集まって形成される組織の論理として、その集団を栄えさせた功労者というのは、内輪の和を乱したとして、その組織から排除される危険性が高く、組織が栄える上で、組織を盛り立てる功労者は欠かせない存在である反面、その功労者が組織内での権力を強めてしまうと、トップの座が危うくなるわけだから、その組織の経営中枢を担っている勢力からすれば、目障りな存在となるわけで、特にその組織が同族経営である場合などは、一族以外の者が力を増してくると、組織そのものが乗っ取られる危険性も高まるわけだから、たとえ功労者であっても、あまり権限が強まってしまうとまずいので、機会をとらえて追い落としの対象となってしまう場合があるわけで、最近メディアで話題となった男性アイドルを多数抱える芸能事務所の内紛などは、その典型例と捉えておいたほうがいいのではないか。それは戦争や内乱において、国を統一に導く上で、最大の功績があった武将などが、真っ先に粛清の対象となってしまう例などでも言えるわけで、源平合戦で活躍した源義経などがその典型かもしれないが、室町幕府を築く上で功績のあった高師直や足利尊氏の弟の足利直義なども内紛から粛清され、明治維新で言えば西郷隆盛が代表例であろうか。中国の漢帝国で言えば、劉邦の宿敵の項羽を打ち破った韓信などは、韓信なしでは項羽を倒せなかったのだから、劉邦やその一族にとっては脅威でしかなかったのではないか。豊臣秀吉の軍師だった黒田官兵衛などは、そういう事情を心得ていたらしく、天下統一が果たされた後はさっさと隠居してしまったらしいが、参謀だった千利休はやはり秀吉の近くにいたから殺されてしまったし、ロシア革命の功労者だったトロツキーも暗殺されたし、ナチスを長年にわたって支えてきた突撃隊も、ヒトラーが政権を掌握したら、国内の保守派や国軍と連携する上で邪魔になって、その幹部たちが粛清された。

 テレビのバラエティ番組やCMなどで大活躍していた女性タレントも、今までテレビタレントとして優等生のような態度で、あまりにも上手く立ち回りすぎていたために、逆にその成功や優れた点を見てたまらなく嫌な気持ちになる人たちから、妬みややっかみなどの反感を招くような原因を作ってしまって、ちょっとネガティヴなことが起こると、それをきっかけに利用されて、たちまちそれらの人たちから総攻撃を受けて、精神的におかしくなってしまったらしいが、そのような環境に特化して順応して成功してしまうのは、諸刃の剣なわけで、他の環境では使えない人となってしまうのかもしれないが、そのようにしなければ成功できないわけだから、それはそういう場所で成功する上で、被らなければならない宿命のようなものかもしれず、要するにそういう場所で成功するには、賞味期限が過ぎたら使い捨てられることも覚悟しておかないと、やっていられないような仕組みなのだろうし、別にその手の人たちに同情する気にはなれないわけだが、今までかなりの長期間にわたって活躍してきたのだから、そういう人たちの中では大成功した部類に入るのではないか。

 元プロ野球選手の覚せい剤事件にしても、現役時代に大活躍してなんども優勝を経験したような選手なのだから、その人の野球人生は大成功だったのだろうし、もうそれでいいわけで、メディア的には十分であり、その人の社会的な役割としては、他に何を期待する必要もないわけで、直接関係のない人たちが彼を批判する筋合いはないのではないか。これもテレビタレントと同じで、特定の環境に特化して順応しすぎて成功してしまうと、他の分野で成功することは難しくなるだろうし、そこで成功することは諸刃の剣なのだろうし、プロスポーツの指導者なども、現役時代にあまり活躍できなかった人が、優れた監督やコーチになる例も、海外では多いようで、プロバスケットのNBAやアメフトのNFLなどは、大学の監督やコーチがそのまま、プロの監督やコーチとなる例もあり、スター選手が現役を引退してから優れた指導者になる例はあまりないらしく、選手は選手として指導者は指導者として、それぞれに特化していかないと成功できないような仕組みとなっているのかもしれず、どのような分野であっても、そのような分野が世間的に注目を浴びて、そこで成功を収めると多額の金銭を得られるようなシステムになればなるほど、そのような分野にだけ特化しすぎた人材が必要とされるようになり、現実にそういう人たちが成功を収めているのだろうから、やはりそういう方面では、その分野にだけ秀でた専門職的な人がもてはやされるとなると、その分野に限ってはその成功した人の栄光を讃えても構わないのだろうが、そういう人にその分野とは別の面で、あれこれと批判するのも、何か気の毒なような気がするわけで、件のテレビタレントは、世間の一般常識を気にする人にとっては、ちょっと気に入らない対応をしたから批判にさらされ、元プロ野球選手は違法な薬物を所持していから逮捕され、その使用も認めたらしいが、メディアがそれらをセンセーショナルに騒ぐから、一緒になって騒ぎたい人もいるだろうし、そういうのを騒ぐのが専門のテレビ番組や週刊誌や新聞などの暴露メディアもあるわけだから、それを楽しみにしている人も大勢いるわけだ。要するにそれはそういうことでしかない。


2月6日「憲法改正」

 たぶん右翼にも左翼にも理想とする国家の決まりを作りたという願望があるのかもしれず、それが憲法であり法律なのだろうが、そのような決まりごとを作って、それを守らせようとして、従わない者や集団を処罰しようとする働きが、果たしてどこまで有効なのか、またそれとは別に社会には、不文律のような常識やしきたりや掟などのようなものもあるし、それが空気のように人々の同調を促している作用もあるわけで、そこいる人や集団に決まりごとを守らせることで、なんらかの国家的あるいは社会的な秩序を構築しているわけだが、何か従うべき理想的な決まりを設けて、それをみんなで守ればうまくいくだろうという考えは、たぶん矛盾を抱えているだろうし、立場や境遇やその場の状況によって、決まりを守れない人や集団が必ず出てくるわけで、そういう面ですべての人や集団が絶対に守れる決まりというのは、決まりにはならないわけで、守れない人や集団が出てきて、それが取り締まりや処罰の対象となるようでないと、決まりではなくなってしまうところが、矛盾と言えるのかもしれないが、さらに何でもかんでも決まり通りにやらなければならないということになってしまうと、いったいどれほどの決まりを設けたらいいのか、そんなことをやりだしたらきりがないわけで、人や集団のすべての動作の一つ一つに、こうしなければならないという決まりを設けて、それを必ず守らせるようにすれば、そんなことはできるはずもないわけだが、それではプログラム通りに動作するロボットとなってしまうわけで、結局は決まりごとの数にも、それを守らせようとする範囲にも、それ相応の限界があるわけで、そこから言えることは、ほとんどの人や集団が、たとえ合法的な範囲内で動作しているとしても、それで国家や社会はうまくいくとは限らないわけで、理想的な憲法や法律を作って、人や集団がそれを守っていればうまくいく、というプラトン的なイデア論の類いは非現実的な考えなのではないか。

 そうだとしても現実に国家には憲法や刑法や民法や税法などの法律があり、社会や企業や学校や地域的な共同体などにも、無数の慣習的な決まりごとがあるだろうし、そのような決まりごとをそこに所属するほとんどの人や集団が守ることによって、それらの社会的な集団が成り立っているように見えるわけで、人や集団が守るべき基準として設定されていて、社会的な集団が有効に機能する上で欠かせないと思われているわけだが、一方で以前とは状況が変わって、それらの社会集団が機能する上で決まりごとが障害となる事態ともなれば、必要に応じて変えたり、改善して行かなければならない場合もあるのかもしれない。国家関連の法律の類いにはそのための手続きも整備されていて、日本では憲法の改正が論議を呼んでいるわけだが、その改正の必要性と、改正することによって、国家がどれほど有効に機能するのか、という程度の問題がはっきりしないだろうし、そもそも国家にとっての憲法の役割自体も、それがあることによって、どれほど国家が有効に機能しているのか、というのがよくわからないわけで、それに加えて改正派の主張というのが、果たして日本に住んでいる人たちの都合を反映しているのかどうかも、疑念を抱かせるような政治的な事情もあるわけで、改正派にはそれなりの事情や理由があることは確かだが、それ以外の人々にとっては、それほど切実な問題でもないように思われてしまうわけで、そういう面で現代に生きる日本国民にとっては、改正しなければ著しく不都合なわけでもなく、そのことによって国益を損なうわけでもない問題なのだろう。

 ただ国家にとって必要不可欠だと信じられている軍事力の有無に関して、現状と矛盾していると思われる面があるわけで、そこをどうにかしたい人たちがいることも確かで、そういう人たちにとっては、その内容もさることながら、今の憲法が制定された歴史的な経緯にも不満があるわけで、そのような事情から、自分たちに都合の良い内容の憲法を制定することが、彼らの悲願であったりするわけだ。それを一般の人々が真に受けるかどうかが問われているのかもしれず、彼らとは反対の立場をとる人たちによれば、彼らの思い通りの憲法になったらとんでもないことになる、ということで危機感を煽っているわけだが、そのような憲法改正と擁護の両陣営による煽動に惑わせることはないわけで、たぶんそれよりも世界情勢に敏感になっておくべきなのかもしれず、メディアが好んで取り上げている面もあるのだろうが、日本も含めて世界の政治的な指導者による戦闘的な発言が目立ってきていることは確かで、実際に世界各地でテロが続発しているのだから、それも仕方のないことなのだろうが、一方で世界経済が行き詰まりの兆候も見せているわけで、テロの続発と経済の行き詰まりを結びつければ、平和が脅かされている傾向を感じざるをえず、今後起こるかもしれない大規模な戦争を予感させる要因はいくらでもあるのかもしれない。それと憲法改正を結びつけようと思えば、なにやらもっともらしい物言いがまかり通る可能性もあるだろうが、そういう物言いを真に受けるかどうかも問われているだろうし、憲法を擁護している人たちが主張しているように、改正派の思い通りに改正されてしまったら、日本はまた軍国主義化して戦争への道を突き進んで悲惨なことになるのかどうかも、現時点ではなんとも言えないところなのだが、とりあえず人も社会も国家も、決まりごとだけで成り立っているわけではないし、一般の人たちの意識の中では、憲法を守りながら生きている感覚はないだろうし、また憲法を不都合に思う感覚もないのではないか。


2月5日「自意識」

 何か思いがけないことが身に起こり、そのまま翻弄されてしまう時、それを偶然の巡り合わせと思うしかない場合は、あまり理由や原因などを詮索せずに、そんな成り行きに身をまかせておいた方がいいような気がして、運命に逆らうのではなく、逆らう運命であったりするのかもしれず、逆らうのもその場の偶然に左右されていたり、何でもかんでも偶然だと決めつけるわけにもいかないだろうが、考える暇を与えない成り行きの中で、決断を迫られてしまい、その決断が良いか悪いかも判断する間もなく、次々と出来事が起こり、どんどん遠くへと押し流されてしまう。それでもまだ生きているとすれば、やはりそれは幸運な証拠だろうか。そう判断しておいても構わないとすれば、偶然の巡り合わせをうまく利用できたことになるのかもしれない。それ以上の何を求めているのでもなく、偶然からそれ以上を求めるわけにはいかないのだろうし、あとは自力で何とかしなければならないだろうか。何とかなればの話で、果たしてそれが自力でやっていることになるのかどうかも、それを自力だとも言えないような成り行きというのもあるのかもしれず、流れ流され、たどり着いた地点が、もはや自分ではどうにもならないようなところなら、やはりそんな運命に従うしかないだろうか。

 何かを語るとはそういうことなのかもしれず、自分で題材を選んで語っているようには思われないとしたら、どうも状況に語らされているとしか感じられず、自力とか自助努力とか、そういうものとは縁がないのかもしれず、語ることで自らが囚われている状況を肯定しているような気もしてくるわけで、それを否定できないとしたら、やはり状況に逆らっているのではなく、状況に語らされていると認識しておいて構わないのではないか。そうなると逆らう気もなくなり、語っている状況に身をまかせていることになるわけだが、その語っている内容が自意識から外れている場合、何だか不思議な気分となってしまうわけだ。それは別に語りたいとも思わない内容であり、語るべきでもないのだろうが、状況的にはそう語らざるをえないのかもしれず、実際に語っているわけで、それで構わないのだろうし、成り行きとしてはそうなるしかないのだろう。そしてそうなると、目指しているのとは違った内容の語りとなるのだが、それ以前に何を目指しているとも言えなくなるわけで、普段とは異なる内容に取り組んでいるつもりになるわけだが、もしかしたらそれは何でもないことであり、単に自らを取り巻く状況によって、自らが進もうとしている方向から逸らされているだけなのかもしれない。

 何か状況から逸らすような力を及ぼされていると考えれば、進路を曲げて何処かへと誘導されていることになるのかもしれず、たぶんその誘導されて行った先で、何かが待ち構えているのかもしれず、そんな成り行きを期待してしまうわけだが、そうではなく、何もない場所へと誘導されているのだとすれば、その先には廃棄処分でも待ち構えていることになるのだろうか。またそこで何が廃棄されるのかと言えば、自意識でも廃棄されてしまうとすれば、比喩的には合点が行くのかもしれず、人は何かを語ろうとすることで、常に廃人への道を歩み続けていることになるだろうか。その場の成り行きから生じる感性からすれば、それで構わないのかもしれないが、そんなありふれた滅びへの美学ではなく、何か冗談のような雰囲気を得たいのなら、自意識を拒否したり廃棄しようとしたりするのではなく、自意識から外れて、自意識が興味を示さない物事について思考した方がいいようにも思われ、自分のおかれた状況から外れて考えるとはそういうことだとも思われるわけだが、具体的に何について考えているのかといえば、不意をついたり意表をついたりしたいと思っているだけで、これといって思考の対象となるようなものは何もないわけだ。そういう認識であるとすれば、もはやここで思考しているつもりの自意識も廃棄処分間近なのだろうか。だから状況に語らされていることに逆らおうとしているわけか。

 それでも自意識は自己へと問いかけ、自ら抱いている疑念の正体を知ろうとしているのかもしれず、そうやって自らが自らに探りを入れているつもりかもしれないが、それは自己などではなく、自らを取り巻く状況の反映でしかないのではないか。そしてそんな状況の中へと自意識が逃げ込もうとしていて、成り行きまかせに空疎な内容を語っているとすれば、やはりそれが状況に語らされていることの証拠となるのかもしれず、そんな状況の中で語らされ踊らされている人々が、その何もない空疎な状況を見ようとしないのであって、その中で何かを考え、考えたことを語っているつもりになっているわけだが、そのつもりになっている人々の自意識こそが、まさに廃棄処分間近な状況を醸し出しているのだろうか。たぶん政治も経済も形骸化の極みに至っているわけではなく、それについて語っている内容が空疎であるだけで、そこで人も物も情報も駆け巡っている状況は変わらず、そこに中身があり実質的な動作が働いているわけだ。ただそれについて語る言説が状況を反映していない。諦念と否定的な物事の捉え方だけでは語りきれない何かがあるわけで、状況をあるがままに捉えないと、自意識から生じる感情に押し流されて、ひたすらそれを否定するしか語りようがなくなって、結局既存の価値観であるありふれた二項対立に助けを求めてしまうと、それを超えて語ることができなくなってまう。そうなるとそこで生じている現象を説明できなくなってしまうのだろうか。そうだとするとやはりありのままの現実を語るには、既存の価値観から外れてみるしかないだろう。


2月4日「鍛錬」

 それは考えるまでもないことだろうか。人は欲望を抑えながら暮らしている。それで自分で自分を制御しているつもりになれるだろうか。自らが自らに打ち勝ってこそ、世の中からもたらされる様々な誘惑にも打ち勝つことができ、自分に勝つことこそ、自分をコントロールできることこそ、人が社会の中で生きていく上で、最も重視しなければならないことだろうか。だがその自分自身の制御はどこから生じくるのか。たぶん周りを取り巻く環境からも力を及ぼされているはずだが、それに抗うにはまずは自分を鍛える必要が生じてくるのだろうか。抗うだけでなく、周りの環境と同調するにも自身を鍛える必要があるだろうか。社会から必要とされる人間になるために、自らを作り変えてゆく必要があるだろうか。でもそれは学校教育によって作り変えられるのではないか。あるいは就職してから各企業で行われる社員研修で行われることだろうか。しかしそうやって作り変えられる前の自己とはどのような状態だったのだろうか。そうした類いの修行全般に言えることかもしれないが、それ以前にすでに自分で自己の鍛錬を行っていて、それでも足りないと思われるから、なおもそれ以上に鍛錬しようとしているわけだ。

 そこで疑問が生じるわけだが、自分に勝つことと他人に勝つことの違いはなんなのか。果たして自分に勝つことが他人に勝つことに結びつくのだろうか。たぶん他人に勝った段階で、自分にも勝ったと思うのかもしれず、他人に負けたら、自分に負けたとも実感するのではないか。その鍛錬が他人に勝つことを目的とした鍛錬なら、そう思われるのかもしれず、それに関してすぐに思い浮かぶのは格闘技の類いだろうし、またゲーム一般にも言えるのかもしれず、他人に勝つためには、厳しい修行を自らに課して、それをやり抜くことが自らに勝つことだろうし、その修行の試練を乗り越えて自らに勝った成果が、試合において発揮されて、他人に勝つことをもたらすかもしれない。そして成果が出ずに他人に負ければ、自分にも負けたことになるだろうか。自分にも他人にも勝ったり負けたりするのは、そのような結果をもたらすゲームの特性なのだから、勝敗を決めるゲームに参加したことから生じる結果であり、そこで決定される勝敗に関して、そこで自分とともに参加している他人に勝ったり負けたりするのは、ゲームのルールからもたらされているわけで、事前にルールによりうまく同調できるように訓練するのが修行であって、そのルールこそがその修行者に力を及ぼしていることになるのかもしれない。では修行を強いているのはゲームのルールなのだろうか。

 ゲームが行われているのが社会だとすると、社会の仕組みにうまく適合できるように人は自らを鍛錬しているわけか。そこに勝ち負けを当てはめようとすれば、そんな単純化も成り立つかもしれないが、社会の中で行われているのはゲームだけではないとすれば、では他に何が行われているのだろうか。あるいはゲームの中で行われているのは、勝ち負けを目的とした行為以外に何があるだろうか。そこで競い合う者同士の間に生じる熱い友情だろうか。人は誰でも幸福という同じ目的に向かって競い合う仲間なのだろうか。そこに仲間意識が生まれるからこそ助け合いが生じて、誰もが幸福に向かって努力できる素地が生まれ、そのような切磋琢磨こそが自己に打ち勝つための鍛錬を可能としているわけか。もちろん世の中で生じているのはそれだけではなく、肯定的な作用もあれば否定的な作用もあるだろう。あるいは肯定も否定もできないような作用もあるだろうか。否定的な作用としては挫折や堕落があるだろうが、場合によっては肯定とも否定とも捉えがたい作用として、逸脱や脱線があるだろうか。そこから外れてしまうのは、挫折とも堕落とも受け取られかねない場合もあるだろうが、果たして勝ち負けという結果を回避するような行為は、どのような場合に可能となるだろうか。途中棄権ならばまだ勝ち負けにこだわり続けることを意味するだろうし、引退というのなら、もはや勝つことを諦めたとみなされるだろう。

 自己鍛錬が嫌なら、人は勝ち負けのない社会の実現を目指すだろうか。社会に勝敗を必要とする部分と必要としない部分を共存させるような試みとしては、ベーシックインカムという仕組みを実現させればいいのかもしれないが、自己鍛錬というのが勝ち負けを目的としない鍛錬になるとしたら、それはどんな鍛錬となるだろうか。それが社会のゲーム的な仕組みから外れるための鍛錬となるのかもしれないが、具体的にそれはどのような行為となるだろうか。それは勝敗に至るような成り行きから絶えず外れるような自己制御を目指した鍛錬になるだろうか。勝とうとする意志を断念するのではなく、抑制するような精神の働きというのが、他人に対する思いやりなのかもしれないが、そんな甘っちょろい気持ちでは、絶えず負け続けることになるかもしれず、実態としてはどうもそうではなく、ゲームが成立しないようなはぐらかしの動作も可能性としてはあるのかもしれず、例えば会話のやり取りが平行線に終わるのではなく、ねじれの位置から力が行使されるような関係というも想定でき、会話をしている双方ともに、対立や同調する接点を見出せないようにする動作があるような気がするわけで、それは双方ともに痛み分けというのではなく、またウィンウィンの関係というのでもなく、意識してわざとそうしているのでもなく、自然とそういう成り行きになってしまうことがあり得るのではないか。もちろんそれで双方ともに生きて行ければそれに越したことはないわけだが、冗談としては今後そういう方向での模索が求められているのかもしれない。


2月3日「小波乱」

 自意識としてはそんなはずがないと思いたいところなのだろう。政治体制や社会秩序からそこで暮らす人々の思考や価値観が形成されていて、その体制や社会に順応した人々がそこで活躍できる。そう思っておいて差し支えないのだろうか。実際はそうではなく、そう思わされているだけなのかもしれないが、何によってそう思わされているのか、メディアから得られる情報からそう判断してしまうのだろうか。それを認めつつも肯定するわけにはいかないだろうか。否定したところで代わりに何を肯定できるわけでもなく、肯定も否定もせずに、感じたままの現状を感じたままに認識しておけば、それで何か考えていることになるだろうか。自覚はないが何か考えているに違いなく、時たまそれに気づいてはっとさせられることもあり、昔よりはこの世界に対する理解が深まっているようにも感じられるわけだが、それが何になるとも思えない状況は変わっていないようで、何になるかといえば、すぐに何らかの利益になることを思い浮かべてしまい、そういうところで現状と思っていることの食い違いが生じているらしく、安易に利益を得られるような幻想を抱いてはいけないのかもしれない。

 では考えるべきは利益ではなくて何なのだろうか。それは出来事であり現象だろうか。しかしそれではあまりにも漠然とし過ぎていて、もう少し対象を絞り込まないと、何も語っていないことになってしまうのではないか。では具体的には何について考えているのだろか。個人の力では覆しようのない政治情勢というわけでもなく、そうかと言って、各種の反対運動や、その逆の体制迎合的なマスメディアを批判したいのでもない。どうもそういう次元で考えているのではなく、もっと抽象的でどうでもいいようなことにこだわりたいのだろうか。偶然の巡り合わせについて考えることが、抽象的であるわけがないとも感じられるのだが、そこからはっきりとした理由や原因がつかめないとなると、何か論理的な物言いから遠ざかってしまうようで、話が具体的でなくなるような気がすることは確かで、その辺で戸惑いや躊躇が生じているわけだが、今さらオカルトじみた神秘主義や誇大妄想的な陰謀論というのもおかしいし、その方面で具体的な内容に踏み込めずにいるらしい。たぶんそうやって迷っているのだから、何かしら考えていることは確かなようで、それが産みの苦しみというわけでもないのだろうが、ある日突然そんなことを閃いてしまったら、我ながら驚くのではないか。

 今のところはそんな冗談でしかないわけで、何を考えているとしても、それについて語ろうとすると空疎な内容となるしかないわけだが、語っている内容が空疎であることが、ある意味では救いとなっているのかもしれず、少なくとも反体制的な内容は意識して避けているようで、それが別の何らかの可能性を感じさせていて、まだ何か別の方面について語る余地を残しているのではないか。たとえ意識が周りの環境によって影響を受け、限界づけられているとしても、思いついたり巡り合ったりする偶然が、その限界を打ち破ってくれることを期待しつつも、さらに別の事象へと語る対象が向かうことを願っているのかもしれず、今はそれがつまらない対象であったり、何だかわからない予感であったりするのかもしれないが、だんだんとその輪郭がはっきりしてきたり、不意に視界が開けてきたりしたら面白いだろうが、思い通りにならないのが世の中なのだから、このまま何もわからず、何にも巡り会えずに終わってしまうとしても、それはそれで諦めた方がいいだろうし、それ以上の何かを望むわけにもいかなくなるのだろう。やはりそこに思考の限界があり、今まで通りのお粗末な語りで満足はしないだろうが、結果がそうならそれまでのことなのだろうし、そこで止まってしまいかねないが、もうしばらく考えていた方がいいと感じているわけで、不思議と焦りは感じないようだ。

 たぶん語るべきでもないことを語ろうとしていて、考えるべきでもないことを考えているのかもしれず、不可能に挑戦中というわけでもないのだろうが、実態としては語っているし考えてもいるわけで、そして行き詰ってもいるのかもしれないが、それで構わないのだろうし、そうでなければ同じことの繰り返しとなってしまうのだろう。考えてみるべきはそういうことであり、語ろうとしているのもそういうことなのかもしれず、わざとはぐらかしているわけではなく、実際に語りでも思考にも行き詰っているのだろうが、やはりそれで構わないわけだ。前進しているのでも後退しているのでもなく、滞留しているのでもないはずで、その全てかもしれないが、それが偶然の巡り合わせなのかもしれず、そうではないのかもしれない。そのどちらでも構わず、どちらであってもそれは気のせいで、本当は何も考えていないのかもしれず、空疎で無意味なことを語っているのかもしれない。だがわざと迷路で迷っているわけではないらしく、本当に迷っていて、危機に直面していて、それが危機だと気づいているのかもしれず、そんなふうに語ってはいけないことにも気づいているのだろうし、具体的な事象について語るべきだと思っているのではないか。そして自意識の裏面にそんな言葉が連なってしまうのを、何かの冗談のようにも思っているのだろうが、こればかりは制御しようがなく、今は黙ってそんな記述を眺めるしかないようだ。たぶんこれは本当の危機ではない。


2月2日「分散状態」

 立憲主義と法治主義と法の支配は厳密には差異があり、日本は立憲主義であり、政府の活動も憲法の拘束を受けているから、憲法違反はできない仕組みになっていると主張する人もいるわけで、実際に政府のやっていることが告発されて、最高裁で違憲差し止め判決が出れば、原理的には政府のやっていることを差し止められるかもしれないが、実際にそうなった例があるだろうか。あるいはこれから安保法制が告発されて、最高裁で違憲差し止め判決が下されるだろうか。たぶんそうなれば日本が立憲主義国だと証明されるかもしれないが、そのような判決が出てみないことには、何が合憲なのか違憲なのかわからないし、一応はそれを判断するのが最高裁なのだろうから、立憲主義を目指すと言っても、政権を掌握してから目指すしかないのではないか。憲法は建前上は守るべきものだろうが、憲法自体に不満がある勢力は、自分たちに都合のいい憲法に改正しようとしているわけで、手続き上は改正できるわけだから、そういう人たちにしてみれば、現状の憲法を守る守らないなどという判断は眼中にないだろうし、気に入らない憲法だから、自分たちが気にいるように作り変えればいいことであり、立憲主義がどうのこうのという主張は抽象的な空理空論なのではないか。

 彼らが重視しているのは現実の利害関係であったり、貿易相手国や同盟国や近隣諸国との関係であったり、自分たちの支持者や支持勢力との関係であったり、社会的な階層秩序であったり、その中で働いている決まりごとや、立場上の上下関係や連携関係や敵対関係などの人間関係だろうか。その中で同盟国や国内の支持勢力などからの要請としては、憲法を改正してもらいたいということかもしれず、それを実現させようとしているのだろうし、そのための画策をあれこれとやっている最中なのではないか。そういう方面ではそれ以上に何があるわけではなく、取り立てて何がどうしたわけでもないのだろうが、彼らの置かれている立場とか、彼らを取り巻いている状況とかが、彼らの思い通りになっているかといえば、必ずしもそうではないのかもしれず、世界がこれから向かっていくだろう方向と、彼らが向かっていこうとしている方向が、必ずしも一致しているとは言えない部分もあるだろうし、その方向性のズレが、彼らにとっては抵抗となって生じてくるだろうし、ズレが大きければ大きいほど、彼らの思い通りには行かない可能性が高くなってくるのだろうが、もしかしたら現状でもだんだんと行き詰まりの気配が漂ってきているのかもしれず、彼らも彼らで必死な状態なのかもしれない。

 とにかく社会的もメディア的にも彼らが一定の支持を得ていることになっているわけで、そうした支持がなくなるには、支持している人や集団が衰退することが欠かせないのかもしれず、現状で言えばそれは経済の行き詰まりであったり、マスメディアが国民的な支持を失うことであったりするわけで、並大抵なことではそうはならないだろうし、多くの人たちがそれらに依存している現状があるわけだから、依存している限りは、基本的にはそれらの勢力の支持者であると考えておいた方がいいのではないか。社会構造の根本的な変換がない限りは、現状がいつまでも続くのかもしれず、その根本的な変換というのがどのようなものなのか、現状では想像がつかなければ、それに向かって働きかけもできないだろうし、要するに今のところはそういうものは幻想に過ぎないわけだが、可能性があるとすればそれはインターネットの普及なのかもしれず、それもすでに大手メディアや新興メディアによって囲い込まれて、従来通りのマスメディアが仕切る階層秩序から離れると、無名の個人では何もできなくなりつつあるのかもしれないが、少なくとも今までのメディアにはない機能が生まれたことは確かで、それもたちまちSNSなどを仕切る新興企業などに独占されて、その中でもメディア的な階層秩序が形成されてしまったわけだが、それでも気づかないところで、何らかの地殻変動のような現象が起こっているのかもしれない。

 個人ができることは、そのようなマスメディアが押し付けてくる、有名無名を区別する階層構造に抵抗することだけであり、マスメディアが広めようとする紋切り型的な言語表現がおかしいと思われたら、各個人が思い思いに工夫を凝らして、そういう紋切り型の押し付けに逆らわなければならないだろうし、そしてそのような言語表現から生じる、ヒエラルキーを伴った価値観にも、紋切り型に感染して頭が硬直化するのが嫌なら、できるだけ逆らった方がいいだろうし、別に大して支持してくれる人がいなくても、他人から関心を持たれなくても、せっかく普通に発言する機会を得たのだから、マスメディアからもたらされる硬直した二項対立の価値観と紋切り型的な言語表現を用いて、著名人が語る内容の劣化版として、他人と同じようなことを主張する必要があると思わされているとしても、そう思わされて同じようなことを語らされている現状を、少しは疑ってみた方がいいのではないか。誰もが同じようなことを語るから、その語っている言説が効力を発揮して、それを語らせているマスメディアの権力が発生するわけで、そうなれば誰もがマスメディアのコントロールを受けていることになってしまい、そんなことを語らされている人々は、頭が空っぽで同じ動作を繰り返すだけのロボットでしかなくなってしまう。まずは自分がそのような動作に陥っていないかどうか、よく考えてみた方がいいのではないか。権力が最も嫌うのは、同じような抵抗形態の増大ではなく、それが抵抗なのかどうかもよくわからない、意味不明な言説や動作の漠然とした分散状態なのかもしれない。


2月1日「漠然とした思考」

 わざと粗雑なことを述べているわけではないのだが、自然とそうなっているのではないか。まだわからないことが多すぎて、厳密に語るまでに至っていないのだろうか。わからないことは今後もわからないままに終わる可能性もあるが、疑念を抱いていることについては、放置しておくわけにはいかないだろうし、それに気づかないのか、あるいは気づいていながら放置しているとしたら、それでは欺瞞を温存させていることになってしまうのだが、どうもその辺について語ろうとすると、途端に雑で穴だらけなことを述べてしまう傾向にあるようで、その疑念を抱かせられる事象の周辺が、世の中で流通している支配的な言説と、それによってもたらされる予定調和の二項対立を生む原因となっているよう思われるのだが、やはりそれについて語ろうとすると、何かぎこちない言説となってしまい、疑念の対象をわかりやすく説明できないままに終わっているようだ。

 多くの人たちもその辺でつまずいているのだろうか。当たり前のように思われることが、不条理とは行かないまでも、何か割り切れない事態を生じさせてしまう時、それを合法性と違法性によって区別して、事の善し悪しをはっきりさせてしまうのは、当たり前といえば当たり前のことなのだろうが、果たして違法行為を批判する必要があるのか、ということになると、やっていることが違法だから批判するという動作は、合法と違法を区別する法律の側に立っていることになるわけで、仮に権力を握っている勢力に属する人物の違法行為を批判したのだとすれば、それが国家権力の思う壺だとはならないだろうが、何かそれではまずいような気がするわけだ。それは政府の推し進めている政策を憲法違反だと糾弾する行為にも感じられることで、中にはそれを違法性だけではなく、実際に損害を被りかねないから、不法行為だと糾弾する人たちもいるわけで、法律的な決まりごとを用いて、法律的な決まりごとを仕切っている側を批判することが、果たしてどれほど有効なのか、その辺でどうしても疑念を抱かざるをえないわけだが、体制側に対する批判や糾弾は、やっていることの違法性や不法性によってしか可能ではないのだろうか。

 大雑把に言えば、国民にとって不利益になると思われるから批判する理由となるわけで、なぜ不利益になるかを説明するわけだが、その説明が世論の支持を得られなければ、国民は政府に騙されていると主張してしまい、そんな主張を繰り返してしまうと、何か否定的に見られて、それこそ国家権力の思う壺なのかもしれないが、本当にそれが思う壺なのかどうかもよくわからないわけで、もしかしたらそれでも構わないのかもしれず、その手の批判はそうなるしかなく、そんな批判を延々と繰り返すことが、批判する側もされる側も、双方にとってメリットがあるのかもしれず、その対立する双方をひっくるめたものが、全体として国家体制そのものなのではないか。少なくとも双方ともに法律の支配下にあり、一応は法律をめぐって、合法か違法かの見解を示すわけで、また国民にとって利益となるか不利益となるかの見解も示されて、そのどちらを支持するかが、世論調査や選挙などで問われているわけで、要するに国家体制の枠内で、予定調和の二項対立を演じているわけだ。たぶん政治的な問題について何か語るとなると、そうなるしかないだろうし、そこから逸脱する主張は相手にされないわけで、わざわざ誰からも見向きもされないような非政治的な次元で、二項対立を演じる双方の欺瞞を語ろうとしてはいけないのかもしれない。

 要するに双方ともに国家権力の存在は否定していないわけで、政府のやっていることを憲法違反だと糾弾している人たちは、憲法を遵守する国家権力なら支持するのだろうし、反原発や脱原発を掲げている人たちも、原発のない国家なら支持するのだろうし、要するに彼らの主張が受け入れられる国家権力なら従うのではないか。国家権力を否定するのではなく、正しい国家権力であるなら従うとなると、広い意味で彼らは国家主義者の範疇に入る人々であり、そういう意味では別に反権力の側にいるわけではない。ならば正しい反権力があるのだとすれば、それはどのようなものになるだろうか。それはできるだけ権力の行使を弱めて、国家権力を形骸化させる方向での努力となるのかもしれないが、たぶん一国だけの国家権力を形骸化させても、隣国から攻め込まれたらどうするのだという反論を招くわけで、全世界的に国家権力を形骸化させるとなると、誇大妄想の類いとなってしまうわけで、そのような方法があるわけではなく、たぶんそれは人や集団が恣意的に行為する方法とか手法とかではなく、特定の意図や思惑からはかけ離れた動作や現象となるのではないか。もしかしたら人が考えつくようなことではないのかもしれず、それを考えようとしても無駄なのかもしれないが、そこに疑念を抱く原因があるのだろうし、やはり考えないわけにはいかないわけだ。