彼の声112

2016年

1月31日「制度の変換」

 立憲主義も民主主義もヨーロッパの君主制から生まれた概念で、君主を国民に替えると、だいたいにおいて立憲主義的な民主主義になるのかもしれないが、一方で資本主義も、君主制下の産業振興と国民を管理して人口を増やす政策によって、ようやく成立した概念なのだろうし、要するに国内の貴族や教会などの勢力から権力を奪って、絶対王政を敷いた時代に、近隣諸国との戦争や貿易などに勝つために、富国強兵政策を推し進めた結果、産業振興によって富を得て台頭してきた資本家階級と、国家統治を強化するために整備され大規模化した官僚機構によって、国を乗っ取られてしまったわけで、それらの勢力が国家を統治する概念として出てきたのが、立憲主義や民主主義や資本主義なのだろうから、少なくともそれらの主義に普遍性はないわけで、歴史的に限界があることは確かで、そのような主義を金科玉条のように信頼してしまうのは危ういのではないか。だからと言って日本には日本古来からのやり方があるというのも荒唐無稽で、天皇制を含む律令制は、中国の隋唐時代に流行った制度を換骨奪胎したものだし、神道も土着の宗教や中国の道教やユダヤ教的な要素が混じり合ったもので、別に普遍性があるわけではなく、歴史的にも地域的にも限界があるわけで、そのようなものを絶対視して受け入れようとするのは、滑稽以外の何ものでもないわけで、主義や制度は全て相対的なものでしかないわけだが、現に国家として機能しているのは、立憲主義や民主主義や資本主義なのだから、政治的にはその枠内で改善や改革を考えて行くしかないわけだ。そして職業として政治家をやっているわけではない人たちなら、別にその枠内にこだわる必要もないのではないか。

 では立憲主義や民主主義や資本主義から離れて、何を思考することができるだろうか。それこそ荒唐無稽なことを妄想してしまうわけだが、国家が国家として機能する上で、それらの主義以外に、行政機構による国土や国民や国家資産などの管理が利いている面があり、少なくとも国は主義だけで成り立っているわけではない。法律を守ることだけで行政が機能しているわけでもなく、法律は一つの基準にしか過ぎないわけで、合法的な範囲内でも様々なことが行われている上に、中には違法行為であっても取り締まりの対象にならなければ、それをやり続けることが可能なのだから、要するに合法であろうと違法であろうと、目的を達成する上でうまく機能するなら、そちらが優先されてしまう傾向にあるのではないか。そして違法行為がバレてマスメディアが騒ぎ始めたら、責任者が辞任したり処罰されれば、その件は一件落着するわけで、またほとぼりが冷めた頃にでも、新たな責任者を立てて、違法行為を再開すればいいわけで、要するに法律違反が罰せられて立憲主義が機能すると同時に、違法行為も機能するわけで、結果的にはそういうことでしかないわけだ。主義というのはそれが成り立つと同時に形骸化も進行するわけで、人や集団の動作が機能する範囲と主義が機能する範囲が、必ずしも重なるわけではなく、主義に反する動作や行為が機能する可能性があれば、人も集団も主義に反したことをやりたがるだろうし、実際に法律違反でも憲法違反でも、違反した方がうまくいくと判断すれば、どのような形であっても違反行為を働くのではないか。では法律などない方がいいのかといえば、そうではなく、法律によって違法行為に歯止めがかかっている状況を利用したいわけで、誰もが法律違反で罰せられるのを恐れて、躊躇している状況を利用して、そこで抜け駆けして法律違反を犯してまでも利益を得ようとするわけだ。

 そうだからといって無理に違法行為を目指さなくてもいいだろうし、公共の利益になるようなことなら、法律によるお墨付きがなくても、積極的に世の中に広めていった方がいいのかもしれず、何が何でも行政の助けを得ようとしなくても、やれる範囲内でやれることもあるのではないか。実際に普通に暮らしている人なら、生活の何から何まで行政を頼ろうとはしていないし、全てを行政や国家に結びつけるのは無理だろうし、そうかと言って行政も国家も現実に存在していて、何らかの機能を担っていることは確かなのだろうから、それらをなしで済ませるわけにもいかないだろうし、あまりにヒステリックに行政や国家を悪者扱いするのも、何か感覚に行き過ぎがあるのかもしれない。たとえ最悪だろうと何だろうと、こんな現状の中で生きている現実があるわけだから、できる範囲で何かをやっていればいいのではないか。たぶん国家や行政も現状が普遍的な形態ではないのだから、今のまま不変であるわけはなく、経済情勢などとともにいずれ何らかの変換が起こるのかもしれず、現に今がその時期なのかもしれないが、憲法も様々な国で様々な内容の憲法が試みられてきた反面、行政的な各種の管理も様々な方面で機能してきたわけで、それらの管理行為すべてに法律的な裏付けがあるかというと、行政指導などのように必ずしもはっきりしない面もあるわけで、それらの行為のすべてに法の網をかぶせようとしても、網の目をくぐり抜けてしまう行為などいくらでもあるのかもしれず、たぶんそういう意味で法律が万能であるわけではなく、中には立憲主義ではうまく対応できない事例も出てきそうで、誰かが必ずその盲点を突いてくるだろうし、そういうところから制度の変換が起こるのかもしれない。


1月30日「敵対の効用」

 それを意識しては思うつぼなのだろうが、思うつぼだと思うだろう対象が架空の誰かなのであり、そう思う時点ではまだ特定されておらず、ただ自意識が誰かの思うつぼだと思いたいのであって、それを意識してはだめだと自らが自らに言い聞かせていて、では何を意識してはだめなのかといえば、それは自意識過剰をもたらす何かなのだろうか。それとも単に自意識過剰になってはだめだと自らに言い聞かせているのか。どちらでもあると思っておいたほうが無難だろうし、単に同じことを意味しているだけかもしれず、簡単に言ってしまえば、自意識過剰になってしまえば敵の思うつぼだと自らを戒めたいのだろうが、その敵とみなすべき対象がはっきりと特定できないわけで、さらに被害妄想的になるとすれば、自分の周りはすべて敵だらけだと思い込めば、自意識過剰が被害妄想へと連結されて、誰もが陥るようなありふれた心理動作に近くなるだろうか。そうなるのを恐れているから、人は仲間を求めて他人と意思疎通を図ろうとして、他人と意思疎通を図るには他人と同じような思考動作や、言葉による表現形態を獲得する必要に迫られているのかもしれないが、そうして獲得されたらしい言語表現が紋切り型的な表現なのか、あるいは自分独自の言語表現だと思っているものが、他人と意思疎通を図る上で障害となっているのか、その辺をどう判断すればいいのかよくわからないが、たぶん同じ価値観を共有しない者同士が仲間になるのは難しく、たとえ利害関係でつながっているとしても、心の内では仲間とは認めていない可能性もあるだろうが、別にそこから自意識過剰な被害妄想に陥る必要はなく、そういうものだと思っていればよく、支障をきたさない範囲内で、そのまま関係していればいいのかもしれない。

 たぶんそれ以上を望むと自意識過剰から被害妄想へと発展して、決定的な敵対状態へと至る危険性があるだろうし、他人の心の中まで覗き込むような真似はしてはいけないのだろうが、その一方で同じ価値観の下に徒党を組んだり、紋切り型的な言語表現を共有する者同士で盛り上がったり、そういう仲間を求める心理的な動作もあるわけで、そのから生じる敵味方の関係は紙一重なのかもしれないが、実際に敵対してみれば、双方の思想信条的な隔たりは歩み寄りが困難なほど大きくなり、感情的にも激しい対立を生むわけだ。そういう意味で世の多数派が抱く同じような価値観とか、誰もがそこへと引き寄せられる紋切り型的な言語表現とか、それ自体はありふれたものでしかないだろうが、敵対関係をもたらす二項対立を形成する上で、欠かせない価値観や言語表現となっているのかもしれず、実際にその対立に参加して二項対立を形成することによって、敵対する対象を共有しながら、敵対を共有することが、同じ価値観や言語表現を共有することにつながり、そのような共有によって似た者同士の仲間を生んでいる状況があり、それが強固な連帯を生んでいるとすれば、共通の敵と価値観と言語表現の共有こそが、連帯を強固にしている要因となるだろうか。しかしその一方で、そこで生じている敵対関係こそが、敵対する者同士の関係を強固にもしているわけで、強固に連帯した者同士の強固な敵対関係というのが、そこで生じている二項対立そのものでもあるわけで、結局彼らはありふれた価値観や紋切り型的な言語表現を強固に信じ込んでいるが故に、そこへと群がっているわけで、それは一般的に言えば宗教と変わらない現象なのではないか。

 そんなふうにして思考的にも感情的にも凝り固まって硬直化すると、自意識過剰から被害妄想へと発展して、強固な連帯関係から生じる強固な敵対関係と至り、ありふれた価値観と紋切り型的な言語表現を共有する宗教集団の一員となるわけか。もちろん自分が狂信的な宗教にイカれているなんて夢にも思わないだろうし、何よりも正義感に突き動かされていることが、その正義を盲信していることに気づかせなくしているわけで、自分たちはまともな主張をしているまともな仲間たちであり、敵とみなしている人たちこそが狂信的な政治的なイデオロギーにイカれているわけで、しかも敵も自分たちをそのようにみなしているのだから、結果として強固な敵対関係に至るしかないわけだが、その渦中から外れると、何かそこには冗談のような光景が広がっていて、無駄で無意味な消耗戦を繰り広げているようにしか見えなかったりして、その敵対の原因となっているありふれた価値観や紋切り型的な言語表現など、思想的にも哲学的にもどうでもいいような低レベルの代物なのだろうが、実際にそれが原因で歴史上おびただしい人々が命を落としたり、悲惨な境遇へと追い込まれたりしている状況もあるのかもしれず、低レベルだからといって馬鹿にするわけにもいかず、できればそのような対立を和らげるような方向で、何らかの言説を繰り出さなければならないのかもしれないが、いったん頭がそういう状態へと凝り固まってしまった彼らは、すでに聞く耳を持たず、何を言っても馬耳東風となるしかないから、たぶんそのまま風化するまで放って置かれるだろう。それが彼らにとっては幸福な状況で、他の人々は気が向いたらそのような光景をただ眺めていればいいのかもしれないが、眺めているだけの心の余裕があるかと問われれば、なかなかそんな余裕がある人はいないわけで、眺めているより参加してしまう人の方が多いのかもしれず、参加者が多ければ多いほど、歴史的な悲劇が繰り返されてしまうのかもしれない。もちろん中にはそれを悲劇だとは思っていない人もいるわけで、悲劇ではなく笑劇や茶番劇だと思ってしまうわけだ。


1月29日「政治的な冗談」

 たぶん何でも構わないのだろうが、構わないと言われると、そうではないと反論したくなるのだろうし、構わないわけがないのだろうが、何が構わないのかが問題となれば、そこに問題として語る対象が浮上してきて、それについて語ろうとする限りは、何でも構わないわけがなく、その対象について語ろうとしている現状があるらしい。問題なのはその対象に何らかの中身があるように感じられないと、それがどうでもいいように思われてしまうのであり、どうでもよければ何でも構わないように思われてしまうわけで、何でも構わないわけではなく、何か語る対象を特定して語りたいのかもしれないが、語ろうとすれば何でも構わないようにも思われてしまい、そのとりとめのない漠然とした印象が、現状の政治経済的な話題を覆っているのではないか。そこで誰が何をやっても構わないわけではないのだろうが、何をやれるわけでもなく、やれることが限られていて、その限られた範囲内で、それをやる立場にある人物が、何かをやっているように見せかけているわけだが、その見せかけている方策や政策について、どんな反応をする気も起こらず、興味がなくなってきているのかもしれず、無理にも興味を持つべきと思われるような状況でもなく、もうどうにもならないだろうと思われる反面、それで構わないとも思われてしまうわけで、政治も経済もどうにもならなくても構わないと思われてしまうこと自体が、いったい何を意味するのかがよくわからないわけで、何も意味しないのだとすれば、いったいそれはどういうことなのかと問われても、何も答えようがない状況なのかもしれず、もちろんそれが今に始まったわけではなく、だいぶ前からそうなのであって、もうかれこれ数十年もそうなのかもしれず、この数十年間で政治経済的には様々な事件や出来事があったはずなのだが、それがどうでもいいように思われてしまうとしたら、現状とは何なのだろうか。

 何でもない現状であり、何でも構わないような現状でもあるとしたら、人々が政治選択とか政権選択にこだわる理由がなくなっているのだろうし、経済の状況もここ数十年は大した変動もなく、定常状態が保たれているのだとすれば、やはり現状のままで構わないことになってしまいそうで、それ相応の立場の人物が何をどうしようとしようと、どんな改革を叫ぼうと、何も変わらない現状が維持されるのならば、そういうことだと認識するしかないわけで、何を期待する必要もなく、そういう方面では何も期待できないような現状なのだとすれば、今さら政治に何を期待する必要もないわけだが、ではこれ以上何をどうすればいいのかと言われれば、たぶん何をどうする必要もないのかもしれない。何を期待する必要もなければ、何を期待すればいいのかもわからないのではないか。それで構わないのだろうか。そうは思っていない人が国民の大半を占めているだろうし、政治に期待している人も国民の大半を占めていることは確かなのではないか。たぶん世論調査でもすれば、具体的に国民が政治に何を期待しているかがわかり、街頭でアンケートでも行えば、政治に対する具体的な要望も判明するだろうし、そういう期待や要望をメディアがニュースとして伝えるのではないか。しかし実際に行われている政治と、世論調査やアンケートなどで判明する政治に対する国民の期待や要望が、どうやって結びつくのだろうか。実際に何らかの形で結びついていて、世論調査やアンケートなどから生み出される世論が、現実の政治に何らかの影響を及ぼしているのだろうか。言葉を弄して民意と政治が結びついていることを示すことはできるだろう。要するにそのように語ることができるわけで、たぶんそう語られていればそれで構わないのだろう。

 だがその語る気になればいくらでも語れてしまう現状を、それを額面通りに受け取って構わないのだろうか。世論調査も街角アンケートも、やろうと思えばいくらでも項目も結果も操作可能だろうし、メディアの都合でいくらでも粉飾可能なのだろうから、自らの主義主張に合致した結果を掲げて、自らがやっていることややろうとしていることが、国民の幅広い支持を受けていると政治宣伝することなども、いくらでもできるだろうし、実際にそればかりが行われている現状があるではないか。そんな現状に何を期待し何を要望すればいいのだろうか。もはや実際に何をやっているかではなく、どれほど国民の支持を得ているかが問題となっているわけで、しかもその支持の内容も真に受けるには到底なれないような、恣意的で御都合主義的な世論調査やアンケートから導き出された支持であり、何をやっているのかわからず、何を信じたらいいのかもわからない状況の中で、いったい何をどう判断したらいいのだろうか。それらの全てがフィクションであるわけがないことは確かだろうが、何が虚構であるかもわからないだろうし、まともに考えようとすれば、確かなことは何もわからない現状に行き着くのではないか。そんな現状から言えることは、確かに世の中では様々なことが起こっていて、物や情報が方々で行き交っていることは確かだろうが、少なくとも政治がそれらを制御しているわけではなく、ただメディア機能を使って、それらに影響を及ぼしたり制御しているように見せかけていることも確かで、その何かをやっているように見せかける術だけは、政治宣伝として日々延々と人々へ伝えられているわけで、たぶんその見せかける術の優劣が、人々の政治選択とか政権選択とかを伴った判断に結びついているのかもしれず、それを真に受けている人の割合が、そのまま選挙での投票率となっているのではないか。


1月28日「静かな煽動」

 何かと何かとの差異を強調して、その違いを煽動のネタに使って煽り立てることによって、それを真に受けた人たちを味方につけたり、敵対関係に導くことができるのは、どうもそういう人たちには知性が欠如していることが、煽動を成功させる上で重要な要素となり、煽動されて興奮状態になったところに、普段の心理状態であればバカにして相手にしないような偏向した政治的なイデオロギーなどを吹き込まれると、それを信じてしまうだろうか。そんな単純なことでもないような気もするのだが、例えばそれを煽動だとは感じられないような煽動というのがあるだろうか。語義矛盾しているかもしれないが、静かな煽動というのが、宗教的な奇蹟などの中でありそうで、例えば聖母マリア伝説がそんな状況を象徴しているだろうか。外から見れば何に熱狂しているようにも見えないのに、多くの人たちがそこへと集まってきて、神への祈りを捧げる光景などが見られるとしたら、それは静かな煽動と言えるだろうか。それが宗教以外となると、例えば多くの人たちがネットに接続して一心不乱に猫の画像を眺めているとか、別にそれは煽動でも何でもなく、単に画像を見て癒されているだけかもしれないが、まさかそこに何らかの政治的なイデオロギーが吹き込まれているなんてありえないだろうか。それが政治的な無関心を招いているわけでもなく、政治に関心を持っている人も猫画像を見て癒されているかもしれないし、それを見ている人たちのほとんどが、働きもせずに猫のように毎日家の中でゴロゴロしているとも思えないし、とりあえずそれが何を意味していると思えず、隠喩的に何を想像してみても当てはまるようなものはなさそうだ。

 それが宗教的なものでもオカルト的なものでもなく、ましてや猫画像などでもなく、人々が静かなる煽動に応じているとすれば、果たしてそれは何なのか。例えばそれが死の欲動をもたらしているとすれば、それは自殺願望のようなものとなりそうだが、何らかの心的外傷から逃れるために、死にたいと思い込んで自死に至るならば、それは静かなる煽動に応じていることになるだろうか。意識がそれを死の欲動と捉えてしまうから、何か否定的な印象を持ってしまうのかもしれず、もっと何か肯定的な捉え方がないだろうか。快楽原則からすれば、通常は快楽を求めて苦痛を避けるように意識が働くのだろうが、猫画像を見て心が癒されるのも、快楽原則に従っていることの表れかもしれず、死への欲動も、現状で苛まれている精神的な苦痛から解放されようとして、自死を選ぶ方向へと導かれてしまうと考えれば、苦痛をなくすことが快楽をもたらすと信じるなら、それも一種の快楽原則に従っていることになるのかもしれず、静かな煽動に応じることによって、人は自らを拘束している何らかのしがらみから逃れようとしていることになるだろうか。そいう意味で静かな煽動とは、自己の解放への呼びかけに応じる動作を伴うのかもしれず、それがどこからやってくるのかといえば、たぶん自己の外部からやってくるのではないか。もちろんその外部とは具体的な外部ではなく、単に意識の外から、呼びかけられているように感じられるようなもので、その呼びかけに応じると、何らかの啓示のようなものが意識にもたらされるのかもしれず、例えばそれが死になさいという啓示なら、自殺してしまうのであり、できれば猫画像を眺めながら心が癒されるぐらいの動作にとどめておく方が無難なのだろうが、実際に境遇的に深刻な状況に陥っているとすれば、そうはいかなくなるのではないか。

 時として魔が差して、その静かな煽動に応じてしまうこともあるのだろうが、意識の外部から呼びかけられるそれが、悪魔のささやきなのか天使のささやきなのか、人によってその人がおかれている状況によっても、感じ方が違ってくるのかもしれないが、不意に天啓を受けて、その通りに行動しようとしてしまう時、一体どこまでその天からの啓示に応じたらいいのか迷うところであり、その理不尽に思われるような命令に応じたとしても、その報いとして何がもたらされるのかも、その時点ではわからないわけで、それを最後まで信じようとして、天啓の通りに行動すれば、旧約聖書のアブラハムのような成り行きになるとしても、それが一体何なのかよくわからないわけで、不条理といえば不条理なのだろうが、冷静な態度で人が論理的にも常識的にもおかしな行動に出るときには、何かそこで静かな煽動に応じようとしていることの表れなのかもしれず、別にそうすることで利益を得ようとしているわけでもなく、世のために人のためにやろうとしているわけでもなく、功利とも良識とも無縁であるならば、何もそこに宗教的な信仰を持ち出さなくても構わないのかもしれず、そこには確かに何らかの衝動が絡んでいるのかもしれないが、それが自意識の内部からではなく、外部からもたらされていると感じられるなら、普通は自らの意思で動いていると思い込んでいるわけだが、どうもそれだけではないことを自覚できるようになるのかもしれず、人の理解を超えた力で動いているとしても、それは神秘的な超能力の類いではなく、ただ自然に動いていると捉えておいたほうが無難なのだろうし、それが偶然にそうなっているとしても、驚くべきことでも何でもありはしないのだろう。


1月27日「全自動」

 理想論ではなく妥協的な方向でもないとしたら、では一体何が言えるのかとなるわけだが、そうなると言えることは理論的な物言いとなるだろうか。そういうのは学者の類いが得意とする分野かもしれないが、政治や経済の方面での理論となると、物理や数学などの科学的な理論とは違い、あまり信用されていない印象もありそうで、理論通りに事が運ぶ成り行きというのも少ないだろうか。政治や経済は変化をもたらす様々な要因が錯綜していて、偶然の巡り合わせのような出来事も多いだろうから、理論と呼べるような確かなものはありえないのかもしれないが、それでも理論にしがみつくとしたら、どんな理論を想定できるだろうか。例えばノーベル経済学賞を受賞した学者の経済理論なら信用のおけるものだろうか。何やら難しそうな経済統計の計算がありそうで、素人には容易には理解できないことかもしれないが、そんな素人が考えそうなことは、理論から導き出した予測が当たることで、何か株や為替で大儲けという下世話なことぐらいしか想像できないのかもしれず、その一方で実際に株や為替の投資を本業としている企業なら、何やらその手の経済理論の理解が欠かせないような部署もあるのかもしれず、そういう一般からはかけ離れた専門分野で、その手の経済理論が役に立っているから、ノーベル経済学賞の受賞者もそういう専門分野では、何か正当な権威とそれなり業績があるのだろうか。だから経済学という学問もそれなりに信用のおける分野としてあるのかもしれないが、一方政治学ともなると、素人目には理論とは無縁の学問のような気がするのだが、そこにも何か権威ある学者というのがいるのだろうか。

 政治学というのだから、政治の歴史と制度と思想という分野が何となく思いつくが、どれも理論という体裁とは少し趣が違うような感じを受け、科学というより社会学の類いになりそうで、社会学というのにもそれなりの理論があるにはあるのだろうが、数値や数式を使った計算に頼る部分は少なそうで、それでも統計的な計算も含むのかもしれないが、たぶん言葉を用いた説明が主な部分を占めるだろうか。特に政治思想や政治哲学などというと、何か一家言ありそうな人たちが出てくるような気がして、若い保守政治家の指南役のような老人がいそうな気配だ。たぶん実名を使った政治小説の類いにはそんな人物が登場するのではないか。別にそんな類いを読みたいとも思わないが、政治というと理論より実践だろうし、飾りとしては政治家に箔をつける思想や哲学などがあり、実践としては政党内の派閥争いなどで、権謀術数がめぐらされているイメージだが、そんな昔ながらの保守的な伝統が今も脈々と受け継がれているのだろうか。何か事件が公になって、その結果有力な政治家が辞職したりすれば、そんなはかりごとがあったかのように、暴露的なメディア媒体でまことしやかに囁かれるのかもしれないが、辞任に至らなければうやむやのままとなって、時が経てばそのまま忘れ去られてしまうだろうか。現状の保守勢力の中では、昔のような反主流派的な派閥力学は働かないのかもしれず、保守派内での抵抗勢力が一掃されている状態ならば、それほど大きな政治的な駆け引きはなく、ちょっと何かが明るみになった程度では、どうということはないのだろうか。

 推測や憶測の範囲内で何を述べたところでフィクションでしかないだろうが、政治には理想も理論も要らず、あるのは妥協や打算や権謀術数などかもしれないが、もしかしたらそれすらも、もはやフィクションと化していて、駆け引きなど無用で、ただ右から左へとベルトコンベヤーのように懸案事項が流れていって、指導部の指示通りに処理されるだけだとしたら、政党というより工場となっているのかもしれず、国会での審議も与党が安定多数を占めていて、野党の中にも与党に憲法改正に向けて協力を申し出ている政党もあるわけだから、どうやら日本の政治はここしばらくはベルトコンベヤー方式の工場と化していく気配だが、たぶんそれが誰の目にも顕著に映るようになれば、立憲主義だの民主主義だのの理想論を唱えている人たちが、日本の政治は死んだ!などと大げさなことを反権力的なメディア上で宣言してみせるのかもしれないが、それで構わないのかもしれず、いったんはそうなってしまうことこそが、その後に何らかの政治的な転換を促すのかもしれない。だからその意味ではまだ現状は行くところまで行っていないわけで、そして行くところまで行ってみないことには、良くなる可能性もないのかもしれず、行くところまで行って良くなる可能性が出てきたところで、すんなり良くなるとも限らないだろうし、手遅れにならないうちに何とかしなければ、と訴える人たちの言い分もその通りかもしれないが、現状でオートメーション的な流れ作業を止めるきっかけが生まれるとも思えない。止めたところで一時停止に過ぎず、また原発のように稼働が再開されるだけだろう。では現状ではもう後戻りが利かないのだろうか。そういう方面では確かにそうだろうが、そういう方面がどのような方面へと向かっているかは、まだ誰にもわかっていないのかもしれず、その向かっている方面というのが、思いもよらぬ方面であったりして、そこに至ればあっと驚くことになるかもしれない。


1月26日「理想論」

 たぶん人はいつも理想を追い求めているわけではない。適当なところで妥協しているのだろうし、妥協したくなくても、諸事情から妥協せざるを得ない場合もあるわけで、妥協に妥協を重ねて、周囲との軋轢から神経をすり減らしながら生きていると、青臭い理想論そのものがバカらしく思えてくるのかもしれない。しかし理想とはなんだろうか。よく他人をバカにする表現として、頭の中がお花畑というたとえがあるが、それは理想主義者を揶揄しているのだろうか。その理想主義者が抱いている理想というのが、どういう理想なのかは、人それぞれで異なるだろうし、何が理想であるとしても、社会の中で生きている限りは、それとは異なる理想を抱いている人と、意見がぶつかり合うことがあるだろうし、そんな他人を説得して、同じ理想を追い求めるように仕向けるにしても、たぶんできることとできないことがあるのだろうから、中には理想を断念しなければならない事態に直面する可能性も十分にあり得るわけだ。そんなふうにして人と人とのぶつかり合いから、だんだん実現可能な理想が選ばれ、最後に勝ち残った理想が実現する成り行きとなるのか、あるいはすべての理想が潰え去り、最大公約数的な妥協が勝利を収めるのか、物事はそんな単純な成り行きで推移するわけでもないだろうが、それを語ろうとすると語りの性質として、途中で被る紆余曲折や語っているうちに生じる矛盾や食い違いを省いて、単純な成り行きとして語らざるをえなくなるのかもしれず、何か理想を追い求める行為を本当らしく語るには困難が伴い、下手に語ると世間が馬鹿にするような青臭い理想論と受け取られかねないような結果となってしまうのだろうか。

 単純に立憲主義を守れと訴えられても、あるいは民主主義を守れと訴えられても、じゃあ立憲主義とは何なのか、民主主義とは何なのか、その意味を検索すればもっとらしい意味が出てくるわけだが、じゃあそのもっとらしい意味が現状では守られていないのか、守られていないとすれば、どのようにすれば正常化されるのか、それらの問いに対しても、その方面の専門の学者や解説者やジャーナリストなどが、もっともらしい答えを持ち合わせているのかもしれないが、どうもそういうことに関して、それらのありふれた問いともっともらしい答えの組み合わせに関して、あまり本気で考える気になれず、ついつい現状のままで構わないのではないかと思ったりしてしまうわけだが、たぶん現状認識と自分ができる範囲との間に開きがありすぎるのかもしれず、政治的な実践といえば、気が向いたら選挙に行って投票するぐらいのことしかできないわけで、たぶんそれ以外に何もやる必要がないのかもしれず、何かやろうとしても相手にされないだろうし、実際にやる気にはなれないわけだが、それでも自覚していないところで何かやっているとすれば、こうしてネット上に適当に書き込んでいることなのだろうが、別に意識して政権批判をしているわけでもなく、政権に対する恨みつらみの自覚もなく、それよりも何か冗談のような雰囲気を感じてしまうから、一応は感じた印象を語っているわけだ。そしてその冗談のような雰囲気は、人々が行っている政権批判の類いにも感じられてしまうわけで、どうしてもそれを茶化したくなってきてしまい、なるべくバカにしたような表現は避けているつもりなのだが、語りの都合上、避けきれないこともままあるらしい。

 それで構わないのではなく、状況に語らされているわけで、自分を取り巻く状況と自身のできる範囲が、語ることのできる範囲を定めているのかもしれず、その範囲内で語っている状況があり、それが語らされている状況そのものなのだろうが、それで構わないと思っても構わないのかもしれないが、構う構わないとは別の次元に、語りの限界があるのかもしれず、もちろんその限界に、これといってはっきりした目印もないようで、自分では何が限界なのかわかりようがないのかもしれないが、たぶん誰もがそんなことに気がついているわけでもなく、ただ状況に語らされていることを自覚できないのかもしれない。自覚しようとしてできるようなことではなく、別に自覚していなくても構わないのだろうし、語らされている状況から抜け出ることなど不可能であり、抜け出ようとする必要もないのかもしれない。要するにそれについて語ろうとすると、誰もがそうなってしまうわけで、それが何か冗談のような印象をもたらしているのかもしれないのだが、そんな予定調和の状況を皮肉るために、無理にそう思い込もうとしているわけではなく、自然とそう思われてしまうところが、何か得体の知れぬ不気味さも感じられるわけだが、何か独裁と言えばすぐにヒトラーを連想してしまう条件反射が、かなり滑稽な動作だということを、誰も指摘しえないところなどは、その得体の知れぬ不気味さの典型例かもしれないが、それを感性のロボット化と表現してしまうと、その手の政権批判をしている人たちをバカにしているように思われて、気が退けてしまうわけだ。


1月25日「見る力」

 その対象を見ることによって、見ている対象に力を及ぼそうとするには、見られていると意識させることで、下手に違法行為を働けば、たちまちバレて懲罰の対象になってしまうと意識させれば、見るという行為だけでも力を及ぼしていることになるだろうか。他人にパスワードや個人情報を盗み見られたり、芸能人の不倫相手との会話を週刊誌がバラしたりすると、見られた側が何らかの損害を被るのかもしれないが、見られた後に、見られた情報を基にして何らかの作用を及ぼされる危険性があるというのが、見るという行為に伴う権力なのだろうか。その究極の状況が、監視カメラや盗聴器によって四六時中監視されている状況だろうが、それは監視の対象が何かよからぬことをやるという前提があるわけで、世の中がそんな監視社会になっているとすれば、人には常に違法行為を働く危険性があり、世の中の常識や良識から外れた振る舞いをする、という暗黙の了解事項があるのかもしれず、そのような前提がなければ監視する必要はないわけで、要するに法律や世の中の常識や良識も、常に破られることを前提とした決まりごとなのではないか。そしてそれらを破った人たちに懲罰を課すことによって、法律も世の中の常識も良識も、その存在意義を持っているわけで、それらの決まりごとには、必ずをそれを破る人の存在が欠かせないのだろうか。逆に言えば、それらを破る人がいなければ無効となるようなものかもしれず、それらを有効に機能させるには、破られやすいような決まりにする必要があり、決まりを破った人たちを取り締まることによって、権力を行使できるわけだから、そういう意味で権力を行使する側にすれば、破られやすい決まりをつくって、自分たちの裁量で破った人たちを処罰したり、あるいは情けをかけて大目に見たりすれば、そのような行為そのものが、自分たちの権力行使そのものとなるわけだ。

 そういう意味では道路での車両の速度制限などは、誰もが簡単に破れるような速度なわけで、警察が速度違反を取り締まりやすい環境が整えられているわけで、そういう方面での警察権力を支えているのが、誰もが簡単に破れる速度制限なわけだ。またそこから類推すれば、税務署の権力を支えているのが脱税しやすい税制であったり、弁護士や税理士なども、素人にはよくわからない法律が細かく膨大にあるから、彼らが権力を振るう機会を得られるわけで、そんなことを言い始めたらきりがなくなりそうだが、法律などの決まりごとには、それを破った人を取り締まる機関の権力を生じさせる機能があるのかもしれず、結果的にそのような機構を維持継続させる目的で、法律などの決まりごとが整備されているわけで、確かに人を殺傷するなどあってはならないと普通に思われるわけだが、自分が直接の被害者でもないのに、メディアなどに煽られて凶悪事件などの糾弾キャンペーンに誘導されてしまうと、まさに権力の思う壺なわけで、罪を憎んで人を憎まずということわざもあるのかもしれないが、その正式な意味からは外れるかもしれないが、罪を作り出しているのが世の中の制度や仕組みだとすると、その制度や仕組みを支える決まりごとを守らせようとする権力機関へと、人々の憎悪の矛先が向かうのは必然なのかもしれず、しかもそれらの決まりごとを守ることでも破ることでも、守っていることはそのまま権力を行使されていることになり、破っていることは取り締まりの対象になるわけで、どちらにしても権力を行使されることになるわけだから、不快に思われるのも当然で、そこから生じている罪を背負わされる立場の人々には、その罪を押し付けてくる権力機関と、その権力機関が支えている国家に対して、憎悪の念が生まれるのだろうか。

 そのような権力機関の権力行使である監視と懲罰にも、取り締まりをやりすぎると、刑務所に囚人が入りきらなくなったりして、おのずから限界があるのかもしれないが、それに代わるやり方なのか、あるいは併用するような方向なのかどうか、今のところはっきりしないようだが、行政機関が人々を管理するような傾向にあることは確実で、マイナンバー制などが人々を効率的に管理する方法として出てきたわけで、法律を作ってそれを破る人を取り締まることで法律を機能させるやり方も、ある意味で人々を管理するやり方ではあるわけで、監視社会=管理社会とみなしてもいいのかもしれないが、行政機関が人々を管理するやり方が、より巧妙に効率的に機能するような方向での努力が、行政機関内でどの程度重視されているのか、それとも行政機関で働いている人たちの意図や思惑とは関係なく、行政機関を円滑に機能させようとすると、おのずからそういう方向での努力に帰結するのか、その辺もよくわからないところなのだが、それとは別に、当事者でもないのに、芸能人の不倫スキャンダルや芸能事務所の内部紛争に関心を抱かせられたり、マスメディアによる世論のコントロールというのもあるわけで、人々がそこに関心を抱くように仕向けている作用が、世の中には様々にあるのかもしれず、餌として関心を引く事象を見せることで、意識がその話題に引き寄せられてしまうこと自体が、一種の世論コントロールなのだろうから、別に行政機関とマスメディアが直接連携しているわけでもないだろうが、そういう方面からも人々は管理されていることになるのだろうか。


1月24日「見ることと語ること」

 当たり前に思われることは不思議なことではないが、何が当たり前であるかによって、その当たり前のことが不思議に思われることがあるだろうか。例えば見えている物事と、語っている物事との間に差異があるとしたら、見ている対象と語っている対象が同じ事物であっても、見ているだけでは気づかなかった差異が、それについて語っていくうちにわかってくるのだろうか。そうではなく、語っている対象は見ている対象ではなく、見ている対象は語っている対象ではないということだろうか。どちらでもあるのかもしれず、どちらでもないのかもしれない。どちらでも構わないのではないか。それについて語っている場合もあり、それを見ているだけの場合もあり、それを見ながら、それについて語っている場合もあるのかもしれない。あまり意識せずにそれを見たりそれについて語っているわけで、取り立ててそこに差異を感じる必要もないし、無理に違いを導き出す必要も感じられなければ、そんなことを問題視する必要もないわけだ。そういう水準では不思議でもなんでもなく、極めて当たり前の意識や思考の動作となるのではないか。ではそれを意識しなければならない場合というのがあるのだろうか。対象を見ていることと、対象について語っていることの間で、その違いを際立たせなければならない場合とは、どんな場合なのか。見ることと語ることの違いから何が導き出されるのか。

 それは対象となる事物にもよるだろうか。事物というよりも、そうなる状況というのがあるのかもしれず、例えば試験などで、それを見てそれについて語りなさい、という設問がある場合があり、その問いに回答したければ、それを見てそれについて語らなければならず、その語った内容について採点される立場になるわけだが、それを見るだけでは、対象を見させられているだけで、その対象に対しても、見るように仕向けさせている何らかの意図や思惑に対しても、ただ受身の立場にあるだけで、要するに自分以外に力を及ぼせないということだろうか。その見ている対象に物理的な力を行使するには、その事物を触って動かしてみたり、あるいは破壊したければ棒か何かで叩いてみたり、武器を使う必要が出てくるわけだが、一方それについて語る動作となると、直接的な力の行使ではなく、対象となる事物に関係している他者の意識に、言葉を使って働きかけていることになるだろうか。語る他には画像や映像や音楽を用いる手段もあるのだろうが、とりあえず語ることによって、その事物に関係する他者に向かって何をどうしたいのかといえば、その事物に対する自分の見解を理解させ、それを信じてもらいたいということになるだろうか。

 それだけではなく、実際には利害が絡んでくると、反発を招いたり対立を深めるために、わざとひどいことをいう場合もあるのだろうが、その辺で語る動作には戦略が関わってくるわけで、直接の暴力を用いた物理的な攻撃だけではなく、心理的なダメージを狙った誹謗中傷という攻撃もあり、肯定的な理解や信仰をもたらしたい場合の他に、否定的な感情に訴えかけて攻撃するための語りというのがあるわけで、その対象を見ることと、その対象について語ることとの違いは、見ることはその対象の情報を受け取ることに重きがあるのに対して、語ることはその対象に関係する他者に力を及ぼそうとする動作が加わるのだろうか。もっともそれについていくら語ったところで、直接の物理的な作用を及ぼす場合とは違って、対象そのものを変化させるには至らないわけだが、語ることでその対象に対する他の人たちの印象とか理解や見解を変えさせるに至る場合があるだけに、そこが言葉を用いた語りの侮りがたいところで、そういう動作に特化しているのが、マスメディアをはじめとする様々なメディアなのだろうが、それらの商業メディアの基本的な動作とは、商品を宣伝して消費者に買わせようとする動作なわけで、政治家や芸能人がどうのこうのという話題は、人々の興味を引きつけるための餌にすぎない、ということは最低限おさえておかないと、何かとんでもない勘違いを招いてしまうのかもしれず、それらの商業メディアに世間的な一般常識以外の、何らかの高尚な価値観や倫理観を求めるのは筋違いなのではないか。それとは違う公共放送のNHKに求めることは、また違うのかもしれないが、NHKに不満があるなら、受信料を払わないぐらいしか抵抗手段はなく、NHKのメディア的な位置付けは、現状ではそういうものでしかないわけだ。


1月23日「虚構の感情」

 直接語るにしても文字を記すにしても、対象を言葉を用いて表現しようとするとき、自分をそのような行為に駆り立てているのは何か、と考える必要があるとも思えないが、ときには何らかの衝動に突き動かされている状況も、考えられなくもなく、それは語っている内容から推察できるかもしれないが、語る理由というのを改めて考える、という行為から何が導かれるのかといえば、やはりそれについての語りでしかないわけで、いくら考えてもそれを言葉で表現しようとすれば、何かについて語っている現実に辿り着いてしまうわけで、改めて語る理由を追求するのは無益な試みかもしれない。そんなわけで語る理由から始めるのではなく、何かを語っている現実から、その語られた内容について考えるしか、その言語表現ついての見解は出てこないだろうか。語る理由としては、その語っている対象について、理解を深めたいということかもしれないが、その対象が何なのかといえば、人がそれを言葉で表現する理由を知りたいということであるなら、それを言葉で捉えて理解し認識して、それを情報として他へ伝達するために、直接語ったり、文字の連なりにして記そうとしているのだろうか。ではそれを伝達する価値があるのかと問われたら、伝えようとしている人からすれば、その価値があると思っているから、伝えようとしているわけで、その情報を受け取った側に、その価値があるのか否かについては、判断が任されているのかもしれない。それが何か興味深い情報なら、その価値があるとみなされるのかもしれないが、受け取る側が発信している側に対して、反感や不快感を抱いているとすれば、価値があろうとなかろうと否定されるのがオチだろうし、何をどう語ろうと、そんなのは無視されるだけかもしれない。

 人と人との、あるいは組織と組織との非社交的な敵対関係には、そこに利害が絡んでくると、当然否定的な感情もついてくるだろうし、まずは何をどう語ろうと相手にされない場合が多いようで、他人の善意を拒絶する姿勢は終始一貫していて、たぶん人をそんな憎悪の感情に駆り立てるのには、何らかの理由があるのかもしれないが、いったんそうなってしまうと、いくら理由を詮索しても意味がないことかもしれず、そういう初めから不快感を煽り立てられる状況の中で、何かまともなことを語れるとしたら、それはどんな内容にすべきなのか、まずはその辺から考えてみるしかないだろうか。だが何をどう考えるにしても、現実のやり取りを考慮に入れなければ、フィクションとしてそんなことを考えているだけかもしれず、現実に攻撃を受けているわけでもないのであれば、そこからいくら否定的な感情を推測してみたところで、それは想像の域を出ないことであり、たぶんそれもフィクションの中での感情とみなしても構わず、要するに架空の人格から想像される否定的な感情に取り囲まれながら考えているわけで、そこには絶えず疑心暗鬼の罠が口を開けているのだろうか。勝手な被害妄想から何を想像しようと、否定的な心理状態にしか至らないだろうし、心理的な水準でのフィクションの内容も、その程度のことでしかないとすれば、それも無益で無意味な空想の一部でしかなさそうで、その時点で意識が現実の世界から外れているのかもしれない。ではその先へと語りをいくら延長しても、何も導き出せないだろうか。何かはっきりした結論を導き出したいとも思えないなら、ほどほどのところでその手のフィクションから離脱すべきだろうか。

 非社交的な敵対関係には、必ずしも現実の利害が絡んでいるわけでもないのだろうか。感情の範囲内なら、国民感情とか庶民感情とか、メディア的な表現から推測できそうだが、例えば政治家が不正行為を行えば国民感情が許さないとなり、公務員やNHKの職員の給与が民間と比べて不当に高いと感じられたら、庶民感情が許さないとなるだろうか。それともよく考えればそこにも現実の利害が絡んでいるのだろうか。政治家の不正行為が発覚して、刑事事件や民事事件として裁判となって、そこで有罪が確定すればそれ相応の懲罰を課せられるだろうが、それは国民感情が許さないからそうなったわけではなく、ただ法律に違反したからそうなっただけではないのか。また公務員やNHKの職員の給与が高すぎるという世論が盛り上がり、批判を浴びてそれらの給与を下げることにでもなって、その分だけ税金や受信料が下がれば、税金や受信料を払っている人たちの利益となるだろうか。だが感情が許さなくても利害が絡んでいても、それがまかり通っている現状があるとすれば、それらのメディア的な表現が示す国民感情とか庶民感情とかいう感情の実態は何なのだろうか。それは実態ではなく、実態のない言語表現的なフィクションであり、人の想像や推測に基づいた架空の感情なのかもしれず、しかもそれを現実に生きている人がそれを実感しているとすれば、実態としてはメディア的なフィクションによって、実感させられていることになるだろうか。実態が何であろうとなかろうと、人々がそのような感情を抱いた結果が、肯定的に作用するならそれに越したことはなく、国民感情や庶民感情が高まった結果として、メディア的な不正撲滅キャンペーンに警察権力も応じて、政治家の不正行為が次々と暴かれ、また公務員やNHKの職員の給与が民間の企業と比べても適正な水準に改められたら、それは大きな成果と言えるだろうか。


1月22日「世のため人のため」

 事物に対する人の認識は感情が絡んでくると歪んできて、不快に感じれば不快な事物となり、愉快に感じれば好印象を持つだろうか。それを歪みと捉えるのは間違っているのかもしれず、結局のところすべてにおいて感情が絡んでいると見なせば、それに対する快不快の感情が事物の捉え方を左右するだろうか。事物の中に人も含まれるとすれば、それは他人への印象となるのかもしれず、人と人の関係はその境遇や立場上の優劣や上下や性差や年齢差にも左右されるだろうし、相手がその関係を逸脱して振舞っているように思われると不快に感じられ、〜のくせに生意気だ、ということにもなるだろうし、そこにも社会的な慣習が絡んでくるわけで、その時代のその地域の中で主流をなす社会の慣習によって、そこで暮らしている人の感覚がなんらかの制約を受けている可能性は十分にありえるわけだから、何かそこに普遍的な理性や理念や合理性の基準を当てはめると、多くの人々が何か歪んだ感情に突き動かされているように感じられる時もあるのかもしれない。そして社会的に優位な立場にある人物が、自分に有利になるように強引に事を進めるとき、しかもそれがまかり通ってしまう場合、多くの人がそのような事の進め方を不快に感じるのだろうが、そのようなやり方がまかり通ることが、その社会における支配的な慣習に沿って事が進められている現実をあらわにしているわけで、そこに人と人との関係として、その境遇や立場上の優劣や上下関係や性差や年齢差に応じた、その社会の力関係が示されているのではないか。社会の慣習からもたらされるそのような力関係に逆らうのは容易なことではなく、そこから生じる掟に反してその社会の中で生きてゆくことは困難なのかもしれない。

 テレビなどで活躍する芸能タレントにしても、その活動を制約している掟があるのだろうし、その掟に反するような行動に出れば、仕事を干されて何もできなくなってしまうのではないか。ジャーナリズムの類いでも国会の記者クラブような制約をギルド的に作っているのだろうし、世の中には様々な分野でその手の仲間内で利益を独占しようとする様々な勢力がひしめいているわけで、自由や平等などという普遍的な価値観を制限することで成り立つ様々な慣習で社会は成り立っているのかもしれず、立憲主義だ民主主義だときれいごとを主張している人々が、実はそれを歪めるような制度や仕組みの中で利益を共有している実態があるのではないか。しかもそういう人たちのほとんどはそういうことに自覚的でなく、自分たちにとって都合のいい部分しか見えていなかったり、都合の悪い部分を指摘されてもそれを理解できなかったりするわけで、足元の自由を奪っている制約だらけの社会的な慣習に逆らうために、腕をぐるぐる回しているようなもので、彼らの主張そのものがそこから生じているのに、彼らが標的としているものはそこにはないわけで、ある意味ではそれは悲惨な状況かもしれないのだが、彼らが見当違いな方面で決して有効に動作しているとは言えない抵抗運動をしてくれているおかげで、世の中が滞りなく回っている面もあるわけで、社会的な慣習を守っているつもりの人や勢力からすれば、それで構わないのだろうし、彼らには今度とも見当違いなことをやり続けていてもらいたいのかもしれず、世の中のしきたりを維持していくためには、そんな人畜無害で予定調和の抵抗勢力が少数派を形成していてほしいわけで、彼らは適度に叩きやすいサンドバッグのような役割を担わされているのではないか。

 抵抗勢力に見込みがないとすると、ではどうすれば世の中が変わるのかといえば、恣意的には変えようがないのだろうし、誰の思い通りにも変わらないのではないか。だが社会のしきたりや慣習に支配されて、人々が自由や平等などの幻想を抱けなくなってくると、しきたりや慣習からあまり利益を得られない人々は、不快な思いにとらわれて働く意欲が減退して、そんな人ばかりになってくると社会全体が硬直化して来るだろうし、そのような社会はやがて衰退へと向かうのではないか。そうやって世界各地で歴史上様々な文明や帝国などが滅亡してきたのかもしれず、国や地域の栄枯盛衰のサイクルがそこに生まれているのだとしたら、日本もその例外ではないのかもしれず、世の中が閉鎖的で保守的な傾向を示しているのなら、それは遠からずその地域が衰退する兆候なのかもしれないが、別に鎖国状態ではないのだから、物資や人の出入りがあれば、おのずから閉鎖的なしきたりや慣習も崩れて、適当に自由で平等な社会となっていくのではないか。もちろんそれが抵抗勢力の思惑とはかけ離れた状況を形成するのだろうが、一方でしきたりや慣習を守っているつもりの勢力の思惑通りというわけでもないだろうし、案外抵抗勢力の的外れだと思われるような抵抗運動が、思わぬところから利いてきたりして、そういう可能性もなきしもあらずなので、抵抗勢力が現時点で勢力としてあるのかどうかははっきりしないところだが、個人でも団体でも、現状の世の中が息苦しく不快に感じられたら、積極的にあらゆる方面から異議申し立て的な行動に励めばいいだろうし、不快なしきたりや慣習に同調する義理などありはしないし、そういう意味でも無責任に的外れな言動や行動に身を任せておいた方が、逆説的に世のため人のためになるような気がするのだが、それもやれる範囲内で適当にやるに限るだろうか。


1月21日「出来事と虚構」

 あまり出来事と別の出来事との間の因果関係を本当らしく考えてはならないだろうか。日々様々な出来事が起こっているわけだが、その全てを偶然に起こっていることだと捉えても、それに関して何も語れなくなってしまうし、それに興味を持って語るとなると、何やら因果関係を推測してしまうことになるだろうし、その出来事が起こった原因や理由について語ることになるだろうか。何かメディアが注目するような出来事について語るとなると、すでにメディア上でその出来事について語られているわけで、多くのメディアがそれに注目すると、その出来事についての多くの言説がメディアを通じて広く世の中に行き渡ることになり、それが政治経済的な出来事について語る政治経済的な言説なら、そこから世論が形成されるだろうか。考えられることは政治経済的な出来事と、それに触発されてメディア上で語られる政治経済的な言説としての出来事と、世論としての世論調査や選挙の結果という出来事との間で、何かはっきりした因果関係があるのかということだろうが、政権政策の内容や議会でのやり取りや、政治家の不適切発言や不祥事や、景気判断や経済成長率や株価や為替などの経済動向を含む政治経済的な出来事と、世論調査や選挙の結果などの世論的な出来事との間にある、それらについてメディア上で語られる政治経済的な言説という出来事は、何か政権側や反権力側が恣意的に操作可能な部分なのだろうか。可能だと思っているから報道に対する圧力があるだのないだのという問題があり、実際に政権側からの圧力によって、批判的な報道をした放送局が閉鎖されたり、新聞が発行停止となった例も海外にはあるようだが、日本の現状としては、全国紙を発行している大手新聞社や全国ネットのテレビ局などが、政権側と癒着関係にあってまともな政権批判ができないと言われ、そこからメディア上で語られる政治経済的な言説が、政権側に有利になるように制御されているという指摘がされているわけだが、もちろんそれもメディア上で語られていることで、政治経済的な言説としての出来事の一部を構成している。

 そしてすでにそこで政権側と反権力側の対立構図が語られているわけで、どうもその対立の構図をあまり本当にように意識せずに、何かの冗談だとみなしておいた方が無難なのかもしれない。出来事のついて語られる言説としての出来事を、まずは出来事としては真に受けるべきではなく、それは本当らしく語られるフィクションの類いとみなしておいた方がいいのではないか。フィクションだから信用できないというわけではなく、とりあえずフィクションを楽しめばいいわけで、何かメディア上で政治経済に関しておもしろおかしく語られていると認識しておけばいいわけで、その中には政権側と反権力側の対立に関する内容もあり、与党と野党が国会で論戦を展開しているのと同様に、メディア上でも両者が対立していて、なにやら敵対する側を激しく非難したり嘲笑している人たちもいて、そういうのを皮肉を込めてコップの中の嵐とバカにすることもないだろうし、興味があれば観戦している気でいれば、それでその場は済んでしまうような気がするのだが、たぶん双方ともに自らの言い分を真に受けてほしいのだろうから、中身がまともに感じられたら、言説の内容を真摯に受け取っておけばいいわけで、それ以上は深入りする必要はないし、支持したり批判したければしても構わないのだろうが、それについてなにかしら語るとなると、やはりそれはメディア上で語られる政治経済的な言説の一部となり、そうやってその手のフィクション的な出来事に加担することになるわけだ。しかも他にも支持したり批判したりする人が大勢いる場合は、メディア現象としてネットのSNS上などが活況を呈するわけだが、たぶんそれが盛り上がれば盛り上がるほど、人々が語るフィクションとしての言説が大量発生するだけで、出来事としてはそれ以上でも以下でもなく、それについて語る情報量が増大するばかりなのではないか。そしてそれが政権交代などのような現実の政治経済的な出来事に結びつくかどうかはよくわからないのであり、それとこれとの因果関係はあまり意識しない方がいいのではないか。ネット上で盛り上がるようなことがあれば盛り上がっていればいいのであって、また現実に各種の反対運動で盛り上がっていてもいいわけで、盛り上がっている人たちは、それを現実の政治経済的な出来事に結果として反映させたいのだろうが、どうもその辺がよくわからないのところであり、結果に結びつくかどうかは、それだけではあまり確実な要因とは言えないのかもしれず、別の何かが結果を左右している可能性の方が高いのではないか。そしてその結果を左右している要因というのが、現実に起こっている政治経済的な出来事なのではないか。


1月20日「冗談」

 人が普通に感じる感覚は、人それぞれで差異があるだろう。だが他人同士でも分かり合える部分もあるだろうから、基準を大雑把に考えるなら、それほど違っているとは思えず、万人に共通の感覚というのがあるとすれば、それに関しては多くの人で同じような反応が期待できるだろうし、そんな反応を期待して、何か人助けのようなことを呼びかけている人たちもいるわけで、具体的には大雑把な共通感覚が人助けの募金活動など成り立たせているのではないか。それも社会的な慣習だと言えなくもないが、戦争や自然災害などの被災者を助けるために基金を設立して、募金を呼びかける活動などがあるのだろうし、ユニセフもなにやら怪しげな組織のようだが、それの類いなのだろうか。日本ではユニセフ東京事務所と日本ユニセフ協会があるらしく、二つは別組織のようで、どうもユニセフ東京事務所の方が国際連合児童基金(ユニセフ)と直接組織が繋がっているらしく、公益財団法人日本ユニセフ協会は国際連合児童基金 (ユニセフ) の日本事務所ではないようだ。以前募金を呼びかけるダイレクトメールが度々来て、何度か募金に応じたことがあり、そのうち商品カタログも来て、マグカップやネクタイやバッグなども買ったことがあって、数年前に引っ越して住所が変わってからは来なくなったのだが、そういうことをやっていたのが、国際連合児童基金(ユニセフ)と直接組織が繋がっていない日本ユニセフ協会だったわけで、それを後から知って、それが営利目的ではないにしろ、人の善意を逆手に取っているわけでもないにしろ、今になって思うと何か釈源としない気分だ。

 日本ユニセフ協会への批判や悪評は、ネット上で未だに結構出回っているようだが、善意の寄付で成り立っているような組織が羽振りが良く見えてしまうと、何か裏切られたような思いにとらわれるだろうし、自身が経済的に不幸な境遇だと思っている人たちにしてみれば、都心に立派な自社ビル建てやがってふざけるな!と憤るのも無理はないかもしれないが、では巧妙な金儲けに成功して贅沢三昧な生活を送っている人はどうなのかといえば、たぶんそれも金銭的に苦しい人からすれば腹立たしく思われるのではないか。要するに慈善的な寄付だろうと金儲けの商売だろうと、カネ集めが大規模になればなるほど、それをやっている団体も大掛かりな組織になるだろうし、大掛かりな組織になれば、その団体の事務所も立派な建物となっていくのかもしれず、それと関係する各種団体もその規模に見合うような団体となって、例えば政界や財界やメディアや芸能・スポーツ界などとも、何らかの形で交流するようになるだろうし、日本ユニセフ協会ともなれば、そういう方面からも多額の寄付が定期的にあるのではないか。そしてそうやって集められた資金を利用して、世界中の悲惨な境遇にある人たちを助けようとはしているのだろうが、中には助けられた人もいるだろうし、また中には助けられなかった人もいるのだろう。それはそれでそういうシステムで動いている活動があるということであり、それの良し悪しを評価する気にはなれないが、それによって助かる人もいれば助からない人もいるという結果があれば、それで構わないのではないか。慈善的な寄付活動による人助けの効果は限定的なもので、すべての悲惨な人たちが救われるわけではないという結果が、何か他の可能性へと人を向かわせる契機となるのではないか。

 しかし他の可能性とは何だろうか。その中の一つは武装闘争となるわけで、世界各地の紛争地帯で起こっていることが、まさにそれを体現しているのだろう。では他に可能性はないだろうか。助からずに死んでしまう人が多そうだが、援助に頼らずに自力で生きようとする人たちも数多くいるだろうし、その中で生き残り競争に勝った人たちが、何らかの成功を手にすることになるだろうか。それ以外に何かないのだろうか。余分な人たちがあらかた死んで、その地域で自給自足できる人たちだけとなってしまえば、農業なり漁業なり狩猟採集生活なりをやりながら、少数の人たちが細々と生きながらえることができるだろうか。もしかしたら世界が平和になるとは、究極のところはそういうことだろうか。そういう面では確かにそうだろうが、別の面では大規模なカネ集めに成功した企業が、宇宙ビジネスに乗り出している現状もあるようで、これから人類の活動領域が本格的に宇宙へと広がっていく気配もあり、途中で何らかの原因で滅亡しなければ、サイエンスフィクションのような世界がやがて実現するのだろうか。しかしそうなったところで、人々はそこで何をやればいいのだろうか。現状の延長上で今まで通りの生活が成り立つとしたら、宇宙で何をやるとしても夢のない話となりそうだが、要するにそこで資源を獲得して、それを加工して使用しながら生きているだけのことで、簡単に言ってしまえばそうなのだが、あとは暇つぶしに娯楽に興じる他に、意識が何か考えるだろうし、たぶん人は絶えず何かを知ろうとしているわけで、その知りたいことを知ろうとすることが、何らかの欲求を形成し、その欲求を満たそうとする動作が知性に結びつくのかもしれず、そこで生じる知的な探求こそが、他のすべての動作に優先するのだとしたら、それが人の特性ということだろうか。


1月19日「時代状況」

 現在と過去では状況が違うことは確かかもしれないが、どの程度違うかは人それぞれで印象が違うだろうし、過去が現在からどれほど時間的に離れているかも印象の違いをもたらすだろうか。過去の一時期において時代的な断絶があるなら、その前後で印象も大きく変わり、よく言われる戦前・戦中・戦後で、それを体験していない人でも、その前後で何もかもが変わったように思われるだろうか。時代の変わり目がそこではないとすると、たとえば明治維新の前後で大きく変わったのだろうか。普通はそのどちらもが時代の変わり目だと思われているのだろうが、もうすでに明治維新から百五十年あまり、敗戦から七十年以上が経っているのだから、ほとんどの人たちが戦後生まれだろうから、実感など皆無なのだろう。メディアからもたらされる知識によって、その時代の印象を持っているのだろうから、その知識をもたらしたメディアや、影響を受けた思想信条的な傾向の偏差によっても、人によってだいぶ印象が違ってくるだろうし、過去の一時期と比較して現代がどう思われていようと、人は現代に生きているわけだから、現代の中で思考するしかないだろう。

 そして場所や地域が変われば時代区分も変わるだろうし、日本で信じられている時代区分は他の地域では通用せず、その地域ではその地域なりの時代状況の中で、人が物事について考えているわけで、その時代に対する印象になんらかの普遍性があるとは思えず、日本独自の時代状況からもたらされる印象から、思想信条的なこだわりを持つことが、日本だけでしか通用しない物事に対する考え方に結びついてしまうとしたら、何かそれは日本という地域限定でしかないように思われ、北朝鮮のように外国との交流を制限しているわけではないのだろうから、積極的に肯定できるような傾向ではないだろうし、そうでなくても欧米の文化は積極的に受け入れているわけで、都合のいいところだけ日本独自の価値観を保持しようとすれば、やはり世界では通用しなくなってしまうだろうか。もちろん世界が同じ価値観で統一されているわけではなく、地域的な偏差があるのが当たり前なのだろうが、ことさら日本の独自性を主張するのもおかしいわけで、結果として日本の独自性が残るのは仕方がないにしても、それにこだわって積極的に独自性を打ち出そうとするのは見当違いかもしれず、建前としてであれ何であれ、価値観の世界的な標準化作用には従う方が無難なのだろうし、あえてそれを意識しなくても、だんだんそういう傾向になっていくのではないか。

 政治的あるいは文化的な傾向は、経済情勢がものを言うのかもしれず、メディアにしても商品の宣伝で成り立っているようなものだろうから、商品の宣伝に支障をきたさない範囲内でしか言論の自由はないだろうし、ニュースにしても広告宣伝費を出す企業の意向がまずは最優先に反映されたような報道内容となるだろうか。そしてそこから国民の世論形成が影響を受けるとすれば、おのずから結果は見えているのではないか。たぶんニュースメディアの限界はその辺にありそうで、国に予算を握られているNHKとともに、産業界が支持している政権に対して露骨な政治批判はできないだろうし、無理に批判などしなくても構わないだろうし、政権与党の政治宣伝に沿った報道内容でも構わないだろうし、人々もそれ以上は求めていないのではないか。普通に人々が興味を抱くような事件や事故を報道し、それに芸能・スポーツや天気情報を織り込めば、無難なニュースとなるだろうし、反権力的な正義の味方を気取る必要もなさそうに思われる。ネット上のニュースサイトでは、それを見る人が興味を持った傾向の内容が、優先されて画面に出てくる傾向にあるようで、人それぞれで違う画面を見ていることとなり、反権力的なニュースサイトが好みなら、そういうサイトを選んでそればかり観ながら、そういう傾向のメディアに洗脳されてしまうのかもしれず、現状ではその逆の体制翼賛的なネトウヨの大量繁殖を招いているわけだが、多くの人が反権力的な報道の内容をおもしろいと感じるようになれば、だんだんそんな傾向のニュースサイトの閲覧者が増えて、その手の報道を他のメディアでも扱うようになるのではないか。


1月18日「漠然とした」

 価値観の固定化は世の中の変化を妨げ、思考の凡庸化と引き換えにして社会の安定をもたらすだろうか。だが人がそれぞれにどんな価値観に縛られているとしても、当人がそれを気づいていない場合が多く、それと自覚せずに紋切り型的な主張を繰り返していれば、周りがその硬直した言述パターンに気づくだろうか。気づいたところでそれを当人に告げる気にはならないだろうし、告げたところで聞き入れられる可能性は低いのかもしれず、そのほとんどは放って置かれるだけで、そのような主張をいくら繰り返しても無駄であることに気づく前に、その人の寿命が尽きて亡くなってしまう場合が多いだろうか。あるいはそうではなく、同じような主張の繰り返しが無駄にならず、それが実際に効果を上げているように思われる時もあるのだろうか。そう思われるようなら幸いだろうし、その方が手間がかからずに済みそうだが、わざと誰とも違うようなひねくれた主張を考案しなくてもいいだろうし、自分が納得しているのならそれで構わず、気に入らないからといって、それを外部から揶揄したり嘲笑してはならないのだろう。そうだからといって、そういう成り行きになってしまったら、それは仕方のないことで、適当にいい加減にそれとなく嫌味の一つでも述べておくのが無難な線だろうか。

 そこには信念があるとするなら、信念に基づいて主張することが肝心で、その信念を裏付ける論理的な整合性が必要だろうか。そしてその論理的な整合性をもたらす物事の捉え方が、固定化した価値観を可能としているのだろうか。例えば国家を成り立たせている制度や仕組みに合理的な根拠を求めるとすると、なにやら人を納得させる論理的な整合性を伴った言説によって、それが説明できるだろうか。たぶんそれができるならば、そこから国家が存在している合理性が導き出され、国家の存在を前提として、それを成り立たせている制度や仕組みの良し悪しを論じることができ、国家をこれからも存続させていく上で、やらなければならないことを模索していけるわけで、それが国家主義的な正当化であるのは当然だろうが、そういう真面目な議論の方向性から逸脱すれば、そういう方面からは相手にされなくなるわけで、たぶんそんな相手にされない人たちが増えている現状が、政治的な無関心と言われる現象なのかもしれず、もしかしたらそれが正しい成り行きなのかもしれず、そんなことはあえて口にするまでもなく、従来からある紋切り型的な国家観やそこから生じる主義主張とは別に、放って置かれるべき政治的な無関心なのかもしれない。すでにそんなことを述べている時点で、わざと論点をぼかして、議論を成り立たせなくするような思惑があるのかもしれないが、あえて間違ったことを述べている理由が、今のところはよくわからず、今後その無意識の意図や思惑が、言葉を連ねていくにつれて、次第に明らかになってくる可能性もなきしもあらずだと思っているわけで、今はわざとねじ曲げていると捉えておいて構わないのだが、だんだんそれが自然に感じられるようになれば、何かがわかってくるだろうか。

 ここからどこに至る必要もなく、ここに留まっているしかないのかもしれないが、たぶんここが不動の位置というわけでもなく、気がつかないうちに位置も場所も変わってしまうこともあり得るだろうか。何を狙っているわけでもなく、それと自覚せずに狙っている的があるのかもしれず、まだその的を的確に射るまでに至っておらず、そこに至るまでは言説が意味不明にとどまるしかないのかもしれないが、あえて意味不明を貫いているふりをしておいた方がいいのだろうし、別に貫いているわけではなく、そう感じられるだけで、実際には述べていることがまともな内容となるように、試行錯誤を繰り返しているのかもしれないが、まるっきりあてがないわけではなく、ある程度は見当をつけているのだろうが、まだそれがこうだと明確に示せるには至っていないようで、何か余計な逸脱が続いている現状があるらしい。たぶんそれは理論的な模索などではなく、状況や情勢に応じたその場限りの見解や認識となりそうなのだが、それが何らかの普遍性を帯びてしまうと、人畜無害で差し障りのないものとなってしまうのだろうし、国家や資本主義に関して誰もが安心して無視できるような、誰もが述べているような内容となりそうなのだが、別に危機感を煽るようなことではなく、世間から注目されるような意見を述べたいわけでもないのだろうが、ともかく現状で誰もが述べているような内容だと、何かしら限界や欺瞞などが感じられるので、それについて疑念を抱かずにはいられず、何かそれが違うのではないかという思いが募ってくるから、それについて考えているわけで、見当をつけている方向としては、現状で普遍性を帯びるような認識はありえず、人が関係する行為や思考は、そこに限界や欺瞞がないと成り立たないようなことであり、それがある限りは理想的な定常状態などに至れないのだから、何もかもが絶えず動的に変化していき、その変化の中で生きていくしかないわけで、そうやって人が生きていること自体が、動的な変化を表しているのであり、結局は世界が変化し続けるのと人が変化し続けるのは同じ現象なのであり、その現象の一部として人の変化も社会の変化もあるということになり、それ以上は何をどう説明しようもないのかもしれないが、それにしてはもう少しちゃんとまとまった言説を求めているようだ。


1月17日「堕落の効用」

 社会の中で様々な人為的な行為が機能しているから、社会が社会として成り立っているように感じられるわけだが、結果として物や情報が生産され流通して、求めているところへと届いて消費されている現実があり、人為的な行為の機能というのは、表面的には物や情報の生産・流通・売買・消費の流れのことを言うのかもしれないが、それを滞らせる要因として考えられるのが、人や人が集まって構成される各種の組織や団体の間で表面化する対立だろうか。実際にイランに対する経済制裁の解除がニュースとなっていたが、それによって国と国との間の対立が解消したことになるのだろうが、その一方でサウジアラビアは逆にイランとの対立を深めていて、制裁の解除によってイラン産の原油が世界市場に出回ることで、ただでさえ下落している原油価格がさらに下落してしまうと、原油輸出を頼みとするサウジの国家経済が深刻な打撃を被りかねず、意図的にイランとの緊張を高めて、原油価格の高騰を導き出したいとも言われていて、その辺から何やらきな臭い匂いがしてくるわけだが、何らかの対立を煽ることで、意図的に物や情報の流れを滞らせることで、それによって利益を得ようと画策することも、社会の中で働いている人為的な行為の機能の一つだとするなら、人為的な行為の中では、それを円滑に働かせることによって利益を得ようとする意図と、それを妨害することによって利益を得ようとする意図の、相反する意図が交錯しているわけで、そのどちらの意図を介在させるかは、その時の利害関係にもよるのだろうが、人や組織や団体などが、その時々の立場や情勢に応じて、利益を得ようとして様々な画策が行われていることは確かなようで、それはタレント事務所の内部対立から国家間の対立まで、様々な水準で争われていることなのだろう。

 平和な状態が長く続きすぎると、国家的な組織形態が形骸化するかどうかは、一般論としてははっきりしないところかもしれないが、危機感を煽って国民的な団結を訴えかける人たちがいることは確かなようで、危機感を煽るから国民が団結するのか、実際に国家が危機的な状況になるから国民が団結するのか、それとも両方の場合でも国民が団結することなどないのか、それもその時の情勢によって異なるのだろうか。現状では平和が長く続いているおかげかどうかはわからないが、別に国民が団結する気配は感じられず、それ以前に何のために団結しなければならないのかもわからず、右翼的だと言われている現政権を倒すために団結を呼びかけている人たちがいる一方で、反日左翼から国を守るために団結しなければならないと訴えかけている人たちも一部にはいるようだが、国民が団結して一致した民意を示さなければ、国家的な組織形態が危機に瀕するかどうかも、よくわからないところで、たぶん平和であれば団結する必要はなく、民意など分散していても構わないのだろうし、政治に無関心であっても取り立ててどうということはないと思われるわけだが、もしかしたら危機感がないところが逆に危機的な状況なのだと煽動したいのかもしれないが、どちらにしても政治的な対立なら、選挙で決着をつければいいわけで、投票したりしなかったりすることで民意を示せば済むことではあるわけだ。

 それ以上に何がどうなっているわけでもなく、一般の人たちがやれることも大したことではない。デモや集会に参加したい人はすればいいし、したくない人はそのままで構わないだろうし、何か訴えかけたい主義主張があるならSNSにでも書き込めばいいのかもしれない。もしかしたらそういう行為と現実の政治情勢がそのままダイレクトに関係しているわけではないのかもしれず、何をやっても大した影響は及ぼせないのかもしれないが、やっている人たちが自己満足に浸れるならそれで構わないのだろうか。そんなことよりも自分が何らかの社会的な役割を演じていると思い込める方が重要で、何かをやっているつもりになることが、そのまま人々の政治的な無関心の蔓延を阻止することにでもなるのだろうか。たぶん楽観的にそれを信じていた方がいいだろうし、古来より政治はまつりごとであり、宗教的な行事と地続きなのだろうから、その程度の軽い感覚でいる方が、大した意味もなく些細な民意のゆらぎから、頻繁な政権交代を実現できるのではないか。平和な時代にはそんな成り行きがふさわしく、富国強兵などという勇ましい価値観が流行るのよりは、国家的な組織形態の形骸化が緩慢に進行していく方が、そこに暮らす人々にとってはのんびりできるのではないか。


1月16日「国家の本質」

 どうも事の本質から外れているようだ。語るべき対象を間違えているのだろうか。だが語るべき対象というのがあるとは思えず、その反対に何も語らなくても構わないのではないか。そうなると何も語れなくなってしまうだろうか。はっきりと何があるのでもなく、何もなければ空虚な不在が語るべきこととなってしまうだろうか。それを語るべきと思うなら、そう思えばいいのかもしれない。つまらない誘導に乗ってはいけないと思うなら、わざとつまらないことについて語った方が良さそうだ。それは語っている当人にとっては、別につまらないことでもないのだろうが、では誰にとってつまらないことなのかといえば、それを読む人たちにとってなのではないか。そういう人たちにとって差し障りのない内容にできないこともないだろうが、たぶん何が差し障りがあるのかといえば、保守的あるいはリベラルな偽善や欺瞞について語ると差し障りがあるのだろうし、そうなると不快なことを語らざるをえなくなるわけで、もしかしたらそれが語るべき内容なのかもしれず、別に人気取りの目的で語っているわけではないのだろうから、それについて積極的に語るべきなのかもしれない。とりあえずそれを語ることができればの話で、できなければ空疎な内容を語っても構わないのかもしれず、わざとではないにしても、結果的に事の本質から外れたことを語っていても構わないだろうか。

 だがそもそも事とは何なのか。世の中で起こっている様々な事象のことだろうか。しかし事象の本質とは何なのか。それは事象そのものであり、わざわざそこに本質と呼べるようなものがあるのだろうか。事象の種類によっては、その中でこれが本質だと言えるようなものがあって、ニュースになっている出来事などは、解説者などがその本質について語っている場合があるだろうか。例えば事象の中で人が気付きにくい性質や働きがあり、それを語りの中で指摘すれば、何か事の本質について語っているように感じられるだろうか。それが事の本質で構わないのだとしたら、ではそれがなければ事の本質などに注目しなくても構わないのだろうか。その辺がよくわからないところか。

 たぶん国家的な決まりごとの何が本質なのでもない。別に憲法など制定しなくても周りの国から国だと見なされていれば国なのだろうし、イスラム国のように国家を名乗っていても、周りの国がそれを認めなければ、メディア的には国と見なされていない。要するに他の国と国交があれば、あるいは国連などに加盟が認められれば、一般に国だと見なされるのだろうか。昨今の憲法論議も、とりあえす憲法が制定されているから、それを改正するかしないかの論議を呼ぶわけで、別にそれに関心のない人がいても一向に構わないわけで、関心のある人たちが議論に加わればそれで構わないのだろうが、たぶん現状でもそうなっているのだろう。憲法改正に反対している人たちからすれば、今の憲法の存在意義は、日本の軍国主義化に歯止めをかける効果があると思っているから、憲法を守ろうとしているわけで、逆に憲法を改正したい人たちは、ほとんどの諸外国と同じように、自衛隊を正式な国軍として憲法の中で規定したいのだろう。

 そこに何か本質的な意味があるだろうか。憲法を改正したい人たちは、改憲派を国会の三分の二以上の勢力にしてから、改正案を提出して可決し、国民投票へと持って行きたいのだろうから、そのために様々なことを画策して、実行に移しているのだろうし、それについて関心のある人は賛成するなり反対するなりすればいいのだろう。そんな事の推移は何を意味しているのか。そもそも何に対して何が事の本質なのか。その辺がよくわからないのだが、どうも改憲してもしなくても、どちらでも構わないような気がしないでもなく、すでに現状では、憲法そのものが形骸化していて、それは行政が司法を取り込んでしまっていて、最高裁が行政や行政と癒着した立法に、不利となる憲法判断をできないような仕組みとなっているわけで、最高裁がまともな憲法判断ができないのだから、その時点で憲法の存在意義がなくなっているのではないか。今の最高裁にできることは行政の意向を尊重した判断しかできないわけで、例えば夫婦別姓を求める国民の要求は拒絶している現状がある。それを要求している国民がたとえ少数派だとしても、憲法の内容に照らし合わせれば、拒絶してはまずいようなことを拒絶してしまっているわけで、憲法自体が国家の本質から外れた表面的な建前でしかないことが浮き彫りとなっていて、そういう意味で国家の本質とは行政にあり、行政を担う官僚機構が国民を管理する動作が、国家の本質そのものなのではないのか。


1月15日「危うい主張」

 誰にわかるはずもないことをわかろうとしているわけではないのだろうが、たぶんわかっていることは果てしない。少なくとも今は忘れていることを含めれば、わかっていることなど無限にあるのではないか。ただそのわかっていることが役に立たない場合がほとんどなのかもしれず、どうでもいいようなことはいくらでもわかっているのに、肝心なことがわからないのだろうか。まったくわかっていないわけでもないだろうが、それを言葉で表現しようとすると、うまくいかない場合が多そうだ。それを突き詰めて考えることができないのはもちろんのこと、表面的に軽く触れるのがせいぜいで、中には触れることすら思うようにいかない時もあるのかもしれない。そんなわけで今後とも満足いくような説明などできはしないだろうし、延々と的外れなことを述べているのかもしれない。しかもそれが的外れな内容であろうとなかろうと、ごり押し気味に無理やりそれについて語らなければならなくなる場合もあるだろうし、そういう成り行きから抜け出られないままとなってしまい、そんなふうにして人は自ら語りつつある言説の中で行き詰ってしまうのだろうか。そこで何かこだわるべきと思い込んで、そのこだわっていることについて語ろうとすると、語っているうちに語り尽きてしまうか、あるいは語れば語るほど別の方面へ外れていって、こだわっていることに戻ろうとしても、戻れなくなってしまうような成り行きが待ち構えていたりするのだろうか。いくら何を知っていようとそれが役立つとは限らず、語れる範囲も限られていて、語りたくないことまで語らされてしまうと嫌気がさすだろうし、そんな語らされてしまう成り行きの中で消耗してしまい、疲労困憊しながら感性が磨り減り、それに無自覚のまま延々と同じようなことを語っているのかもしれず、知らず知らずのうちにそんな紋切り型の言語表現の中で自足してしまうのだろうか。しかもそんな自分の姿を客観的に見るのは難しいだろうし、見えたところで何をどうすればいいのかわからないのではないか。紋切り型の中で自足している人は、目の前の現象を捉えようとせずに、いつもそこを通り過ぎて、自分が自足している紋切り型へと、強引に思考を自己流へと捻じ曲げてしまうようで、こちらが伝えようとする意図は平然と無視しておいて、その代わりにあちらが伝えたいことを強引にねじ込んできて、そうやって自己満足に浸ってしまう傾向にあるようで、そんなことを述べておきながら、自分もすでにそうなっているのかもしれず、他人のことをとやかく批判する筋合いではないのかもしれないが、多くの人がそんなふうにして凝り固まっている現実に直面すると、何だか無力感が募ってきて、そういう人に何を反論しても無駄なことがわかっているだけに、なおさらなぜそうなってしまうのか、その原因を探りたくなってくるのだが、もしかしたら取り立てて原因などないのかもしれず、人の習性としてそうなるのがごく当たり前のことなのかもしれない。

 たぶん何かの罠にかかっているのではなく、どこに罠が仕掛けられているわけでもなく、全てはそうなって当然の成り行きであり、当然の結果でもあるのだろうが、思考や感性が硬直化してしまう以前に、何か別の可能性がなかったのだろうか。それを模索することによって紋切り型的な帰結から逃れられるとも思わないが、何かをこうだと断言する前に、そう断言できる理由を改めて考えてみることが肝心だろうか。少なくともこちらが知らないことや知りえないことについては、想像や推測や憶測の範囲内で語るしかなく、そこから強引な断言へと至るのはおかしいわけで、紋切り型の人たちは自分が知らないことまで平気で断言してしまう傾向にあり、そこにそう断言することについての確信が生じているわけで、果たしてその確信にどんな根拠があるのかといえば、たぶん他の多くの人たちも同じように断言しているからなのであり、自覚のないままそれを信じ込んでいるわけだ。しかもそれについての知識が他人の受け売りであったりして、それについて記されている書物を読んでもいないのに、その映画を見てもいないのに、やはり無自覚なまま語ってしまうわけで、後からその書物を読んでみると、自分がそれについて語れるレベルではないことを痛感させられたり、その映画を見ても内容が理解できなかったりするわけで、まだそれに気づければマシな方なのだが、書物を読んでも映画を見ても、上から目線で平然とそれらを批判してしまうとすれば、その程度の力量ということになってしまうのかもしれず、それに気づいても気づかなくても、とりあえず謙虚な態度を装いながら、差し障りのない範囲で語ろうとすればいいのだろうが、別に商売でやっていることではないので、疑念を抱いたことについては語っておいた方が良さそうだが、何かについて語る行為は、その疑念から生じることが多く、そこから生まれる疑念こそが、語る対象を理解する上で鍵となってくるのかもしれず、何か引っ掛かりを感じるとすれば、そこに思考を集中させるべきなのだろう。そういう意味で何の引っ掛かりもなく、他人の主張に同調しているとすれば、しかもその主張が他の何らかの主張と敵対しているとすれば、対立する主張の差異に注目した方がいいのだろうし、その対立構図に疑念を抱くのが当然の成り行きだろうし、そのどちらかに味方してどちらかと敵対する前に、双方が正当化している言説を比較して、その立場や姿勢に欺瞞や偽善が隠されていないか探ってみるべきなのだろう。少なくとも対立が生じていること自体が、そこに何らかの争点を強引に捏造している可能性があり、その対立を利用することで自らの立場を正当化している場合が多そうだ。


1月14日「地縁血縁」

 現代に生きる人々が無意識のうちに求めているのは、高貴な血統だろうか。冗談はさておき、安易に単純化すべきではないだろうが、話題となっているいくつか映画の中では、英雄的な人物との血縁関係が物語の重要なファクターとなっていて、例えば『マッドマックス 怒りのデス・ロード』では、敵の首領となっているイモータン・ジョーは、砂漠のオアシスを支配して、そこで自分の一族がその地を支配する王の一族のような、高貴な家系を作り出そうとしていているようで、また『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』では、やはり敵役のカイロ・レンは、祖父でありイエス・キリストのような処女受胎から生まれたアナキン・スカイウォーカー(ダース・ベイダー)の遺志を継ぐのは、自分だと思い込んでいるようで、さらに『クリード チャンプを継ぐ男』はそのものズバリで、かつてのボクシングの世界チャンピオンの隠し子が、父の栄光を引き継ごうとしているわけだ。そういえば漫画の『ワンピース』や『ナルト』などの主要な登場人物たちも、英雄的な人物と血縁関係にあった。そして現実の世界でも、日本では憲法改正が話題となっているようだが、その空気を煽り立てている総理大臣が、昭和の妖怪と呼ばれたかつての有力な政治家を祖父に持つ家系の人物で、その祖父の遺志を引き継ぐ形で、憲法改正の偉業を成し遂げようと躍起となっているわけで、その手の人たちが傾倒しているされる右翼思想にしても、万世一系の天皇を頂点とする露骨な血統主義が現れている。血統に基づく身分制度が全盛だった頃は、専制君主や王侯貴族が世の中を支配していた時代で、建前としては、そのような身分制度を打ち破って、すべての人たちの身分的な平等を実現したのが、世界的にもうかれこれ二百年ぐらい続いている大衆市民社会なのだろうが、その中でも人種差別や民族差別などが生じていて、それもやはり何らかの血筋や血統から生じる、人種や民族を基盤としているものだろうし、そこに同じ民族内で共有されている宗教や宗派なども絡んでくると、さらに人種間や民族間の対立なども複雑怪奇となってきて、自身が優越感を得たいがために、他人との差別化を図る上で、社会的な地位や名誉や財産などと並んで、安易な選択肢として血統が重視されがちになるのかもしれず、自己同一性の拠り所として、由緒正しい家柄の出であることを自慢したがる人がいるとすれば、やはりそこには、以前の血統に基づく身分制度が全盛だった時代への憧れがあるのだろうか。

 建前として人々は社会的な平等を求めているのだろうが、本音としては自分と他人との間で差別化を図りたいわけで、そもそも何らかの形で他人と競争しようとしているわけだから、競い合っている部分に関しては、自分と他人との差異をもたらしたいのであり、また競争の結果として生じる勝敗については、自分にも他人にも勝ち負けの結果を認めて欲しいわけだが、もちろん負けた方には不満が残るわけで、精神的にも物質的にもダメージを食らうわけだから、それが事前に公正で平等な競争と認識されていても、不平等な結果をもたらし、その建前としての公的な平等から生じる、結果としての私的な不平等というのが、社会的な公平公正性に対する疑念を感じさせるわけで、実際に競争に負けて不利益を被った人たちには、それが欺瞞に思われてしまうのではないか。そしてなりふり構わず勝利を目指すなら、自分ができるだけ有利な立場でありたいわけで、勝つためには何でも利用する上で、建前としての社会的な平等や公平公正さなどは邪魔となるだろうし、その利用可能なアイテムとして、家柄や血統などを利用できる人たちも出てくるわけで、そういう人たちにとっては、地縁や血縁がものをいう社会になってほしいのではないか。一般的には法の下での平等が実現されていれば、建前としては十分とみなされているわけで、その建前としての社会的な平等や公平公正さ目指すべく、一般の人々も政治に参加すべきということになっていて、建前として国民主権が憲法でうたわれているわけで、それを実現するための機関が、立法府としての国民議会であるわけで、それが現状では地縁を拠り所とする元官僚や元芸能タレントや、血縁を拠り所とする世襲政治家などに占拠されていて、もはや建前でさえも崩れている現状があるわけで、実質としての現代は、昔ながらの地縁血縁に基づく不平等な身分制度に基づく社会の延長上にあって、人々が建前として抱いている民主主義の理念自体が、今後とも未だ実現不可能な幻想にとどまっているのかもしれない。もちろん以前の専制的な身分制度の下でも、卑しい下位の身分から成り上がって、国の支配者となった人物などいくらでもいるわけで、それはいつの時代でもあり得ることなのだろうが、では現代は過去と何が違うのかといえば、産業や人口などの規模が違い、人の交通量や物の流通量や情報が伝わる範囲も格段に大規模化しているわけで、そのような各種の大規模化によって、昔ながらの地縁血縁的な人のつながりが耐えられなくなっているのかもしれず、それに対する無意識の抵抗として、メディアなどで高貴な血統などを題材とした物語を流行らせようとする動作が生じているのだろうか。


1月13日「ダボハゼ」

 餌をまかれてそれに食らいついている現状があるとすれば、別に餌をまいている自覚がなくてもまいていて、まかれた餌に食らいついている自覚がなくても、そのような動作を連想させる状況があるのだろうか。たぶん誰が餌をまいているわけでもないのだろうが、多くの人がメディア的な話題に関心を抱いていることは確かだろうし、それが餌というわけでもないのだろうが、話題について語ったりすれば、まかれた餌に食らいついているという表現に当てはまるわけでもないのだろうが、皮肉でもなんでもなく、何かそれを連想してしまうような時があるのではないか。メディア的な話題というより何かもっと普遍的に思われるような事象について、それについて何か引き込まれるように見解を示してしまう時、しかもそれがまかれた餌だとは到底思えないような事象である場合に、結果的にそれが当てはまるように思えてくると、なにやらその状況が真実味を帯びてくるだろうか。ではその状況とは何なのか。それがはっきりとわかるわけではなく、ただその断片が世界の方々へまかれているように思えるだけだろうか。例えばフィクションの中の登場人物が、満ち足りた現状に不満を感じてボクサーになろうとして、ロッキーに会いに行ったり、ダースベイダーに憧れて変なお面をかぶってみたり、現実の世界では、ごく普通のありふれた生活に見切りをつけてイスラム国に参加したり、精神的な拠り所を求めて、国家的な正義の下に大同団結すべくネトウヨになったり、原発事故による放射能汚染を放置し、事故処理もうまくいっていないのに、再稼動を強行する政府の対応を糾弾すべく、環境原理主義者となったり、退屈にやられて勝手に血を吹いた褐色のセールスマンというわけでもないだろうが、今さら20世紀にさかのぼって、砂漠でマッドマックスごっこをやるわけにもいかず、それにもかかわらず怒りをぶつける対象が簡単に見つけられてしまうところが、まかれた餌に食らいついている印象を拭えないわけで、誰が餌をまいているわけでもないのに、世界のあちらこちらに様々な種類の餌がまかれていて、様々な人々が興味を抱いたそれぞれの餌に食らいつくように仕向けられている現状があるとすれば、それは何を表しているのだろうか。別にまかれた餌が幻影であるはずがなく、人々がそれに興味を抱いてそれと関わろうとする現実の事象なのだろうし、たぶんそれは真剣に取り組むべき課題なのではないか。そしてそれに取り組むことで生きがいを感じようとしているのかもしれず、場合によっては命がけで取り組むべき事象であり、取り組むことによってそれ以外では味わえない貴重な体験を得ることができると思っているはずだ。

 中には憲法を改正することが自分の生涯に課せられた使命だと思っている政治家もいるわけだから、憲法改正すらも人々が食らいつくように仕向けられた餌の類いかもしれないわけで、餌に食らいつく人たちが、一概に体制の罠にかかっているとも言えないのだろうが、何か世の中の仕組みが、興味を抱いた特定の事象へと向かうようにできているようで、その興味を抱く成り行きに、興味を抱いた当人にとっての必然性が生じているわけで、まさにそれをやらなければならないという気にさせる何かが、そこに関係していることは確かなのだろうし、そしてその何かがそれ以外の事象を見えなくさせているのかもしれず、一心不乱にそこへと向かうように仕向けられているのではないか。それを強いる何かとはなんなのだろうか。それへと向かう情熱はどこから生まれるのか。また他の選択肢を奪う作用はどうやって生じるのか。やはり何か目標がないと、退屈にやられて気が狂ってしまうから、気まぐれにサイコロを振って、出た目の数が示す事象へと突進してゆく、というだけでは理由が不十分なのだろうし、そこへと向かうのが必然であるような何かが介在しなければ、普通はそんなことに興味は抱かないのだろうが、その普通ではない精神状態にさせる何かがなんなのかを、当人以外に知ることができるだろうか。果たして当人がそれを知っているのか、知る機会があるのかもよくわからないが、たぶん当人に言わせれば、何かもっともらしい理由を語ることもできるかもしれず、それをそうだと思えば一件落着となるだろうし、何か腑に落ちないと感じるから、まかれた餌に食らいついているような印象を受けるわけだが、たぶん時がある程度経過して、その多くの人たちが関わっているそれぞれの事象が一件落着してしまえば、道路工事や建設工事などが終わって作業員がいっせいにいなくなるように、それらの人たちもどこかへ消えていなくなってしまうような気がして、舗装して仕上がった道路を車が行き交い、新築のビルなどに新たに人が入居してくる頃には、それを作っていた人々のことなど忘れてしまうわけで、何かの事象がそこに完成したという事実以外に、事象の種類によっては経済的な資本の蓄積とかも追加されるのかもしれないが、そんな現象を肯定したり否定したりすることの意味を改めて設けるのには骨が折れそうだ。あまり深く考えずに興味が向いたら消費の対象にでもなれば幸いなのだろうか。


1月12日「扇動」

 支配とか服従とかの優劣や主従関係は下克上や裏切りがつきものだろうし、人と人や各種団体が争っている経過の中では、過渡的な一時期を示す状態に過ぎないだろうか。社会の状況が安定しているように見えても、そこでは絶えず何らかの争いが起こっているわけだがら、支配関係はいつも部分的な範囲内にとどまり、特定の人や勢力が世の中の全てを支配するような状態はありえないのではないか。その程度の認識は最低限持っていないと、昔ながらの独裁体制や全体主義社会の到来を煽り立てる言説を真に受けて、勘違いな現状認識の虜となってしまう。危機感を煽り立てる言説そのものが、それを真に受けた人たちを、煽り立てている人たちが信じている、特定の政治思想信条の支配下に置こうとする意図の表れで、その手の見え透いた誘導は相手にしないに越したことはないだろうが、一方で彼らが攻撃対象としている人物や政治勢力を擁護する理由などないだろうし、そんな状況を客観的に判断するなら、敵対している人や勢力がそれぞれに自分たちの正当性を主張する言説を煽り立てて、賛同してくれる味方を募っていると解釈しておくのが無難な線だろうか。民主的な政治状況というのは、常に自分たちに味方する賛同者を募っている状況で、要するに選挙で自分たちに投票してほしいということなのだろうが、たぶんそれ以上は余計な口出しなどしてほしくないのだろうから、支持するのもしないのも、その程度の基準で軽い気持ちで判断しておいた方がいいだろうし、独裁だの全体主義だの大量虐殺だの、そういった深刻な事態は考えない方がいいのではないか。命がけだの何だのとすぐに危機的な状況を口にする輩は、例えば日本を内戦状態のシリアなどと取り違えているのかもしれず、大げさに何かを煽るような口調は、すでに言葉だけが先走っているわけで、それが演技でなければ、頭の中だけで危機感がインフレーションを起こしているのではないか。たぶん世の中が危機的な状況でなくても、事故や病気で人はいくらでも死ぬし、経済的に行き詰る人はいくらでもいるだろうし、倒産する企業もいくらでもあるのだろう。そしてそんな世の中で将来への危機感を煽り立てている人もいくらでもいるわけだ。そうやって人や団体が常に賛同者を募っている状況があるわけで、またその一方で商品などの宣伝も、メディアを通して洪水のように氾濫していて、自分たちの売る商品を買ってくれる人をいつ何時でも募っている。何とかして自分たちを支持してほしいし、何とかして商品を買わせたいし、その手法をめぐって多くの勢力がしのぎを削っている。それがごく当たり前の世の中の状況なのだろうから、そんな状態が続いているうちは、一方的な支配などありえないのだろう。

 人々が軽い気持ちで投票しないと政権交代などありえないのではないか。政権選択によって生きるか死ぬかの選択を迫られているわけでもないことを自覚しておかないと、社会におかしな空気を蔓延させ、それこそ集団ヒステリーのようになって、軍国主義や全体主義を多くの人たちが支持する結果となりかねず、人々の心の余裕のなさが、そういった扇動政治の蔓延を許してしまうのであり、現状で警鐘を鳴らし過ぎている人たちは、自分たちこそがこぞって扇動の片棒を担いでいることに無自覚なのではないか。世の中の動向は誰の思い通りになっているのでもなく、時流に乗っかった人や勢力がより多くの人々の支持を集め、世間の脚光を浴びているわけで、そのような人や勢力が何かを煽り立てているとすれば、それに呼応して否定的な煽り立てをやれば、時流に乗っかっている人や勢力の思うつぼかもしれず、相手が煽り立てれば挑発には乗らずに静観するのが得策だろうし、普通に冷静な対応が求められているわけで、憲法改正だ何だと挑発されても、じゃあやってくださいと返せばいいのではないか。憲法改正自体が絶対にできないわけでもなく、正規の手続きを踏めばできるわけで、改正したければその手順に則って改正すればいいだけのことで、普通に考えれば、それについて事前にどうこう騒ぐようなことでもなく、改正反対運動をやりたい人も大勢いるだろうし、実際にそういう運動を盛り上げるために、また独裁だ全体主義の復活だと危機感を煽り立てる人や勢力も出てくるだろうが、そういう運動に賛同したいのならすればいいだろうが、結局は選挙で投票するだけのことであり、また国会で改正案が通過すれば、国民投票で賛否を投じれば済むことなので、それだけのことであり、やはりそれだけのことに、自らの生死がかかっているわけでもなく、結果的に何に支配されるわけでもないだろうし、大げさな扇動に同調する必要も必然性もないわけだ。たとえドイツのヒトラー政権のようになったところで、植民地を求めて侵略戦争していく先など、もはや世界のどこにもないだろうし、アメリカの戦争に付き合わされたところで、せいぜい自衛隊員が死傷するだけだろう。そしてその程度のことが選挙の争点なら、その程度の認識で投票すればいいわけで、何も大げさな扇動を真に受けるようなことでもなく、淡々と選挙結果を受け止めればいいだけのような気がするのだが、どうも現状では政権側が何か仕掛ける度に、それに律儀に反応してヒステリックに危機感を煽り、逆に自ら墓穴掘っているような人たちが多すぎるのではないか。


1月11日「予感」

 何が終わっているわけでもないらしい。また何が再開されているわけでもなく、何かの終わりを宣言したいのかもしれないが、現状では何を終わらせることもできないようだ。だから再開への道は程遠いのか。抽象的な感覚ではそうかもしれないが、現実には何が終わろうとしているのだろうか。終わりという言葉を弄んでいるうちは何も終わりはしないだろう。たわいない終わりなら毎日のように起こっていて、いくらでも何かが終わっているのだろうが、大げさな終わりは一向にやってこず、人々はこれ見よがしに大げさな終わりを宣言できずにいるのだろうか。しかし大げさな終わりとは何なのだろうか。それは何かが終わってみないことにはわからないことなのか。では何が終わってほしいのか。それも終わってみないことには、何が終わってほしかったのかもわからないのだろうか。もしかしたら何かが終わることに、それほどはっきりとした意味はないのかもしれず、たぶん終わりそうでなかなか終わらなかったりすると、早く終わってほしいと思ったり、もういい加減に終わってくれと思うわけで、その終わりが自分にとって切実に感じられなければ、別に終わっても終わらなくてもどちらでも構わず、何が終わろうと終わるまいと、それほど気にするようなことでもないのではないか。そして取り立てて気にするようなことでもなければ、これから何が終わろうと、また何が再開されようと、そんなことは知ったことではないだろうか。しかしそれでも少しは気にかけているとすれば、では何の終わりに注目したいのか。例えば誰かが亡くなれば何かの終わりを実感できるだろうか。その誰かが何らかの分野で活躍した著名人で、多少なりともその分野に関わりのある人なら、それがその著名人とともに躍動した一時代の終焉を実感させるきっかけともなるだろうか。そしてその著名人の葬儀において時代の終焉が語られるわけか。かつて誰かがそんなことを皮肉を込めて語っていたかもしれないが、皮肉の内容を思い出せず、その時代を代表する著名人の死と、それとともにあった時代の終焉との間で、何が皮肉な結果をもたらしているのか、今さらそれを知りたいわけでもないが、そこに何らかの作品が介在していたのなら、何かのきっかけでその作品を思い出すこともあるかもしれず、もしかしたらそれを思い出した時に、それの何が皮肉だったのかがわかることもあるだろうか。それとも実際は何も皮肉な内容などなく、思い出されるような作品などもなく、それに関わった著名人の死も虚構に過ぎないだろうか。

 かつて誰がどんな一時代を築いたとしても、過ぎ去ってしまえば無理に思い出さなくても構わないのだろうし、興味がなければ忘れたままにしておいた方が無難な場合もありそうだが、語るのが商売な人たちは、それについておもしろおかしく語りたいだろうし、メディアが注目するような著名人などが亡くなれば、まさに商売の書き入れ時となるのかもしれず、生前大して親交もなかったのに、ここぞとばかりに思い出話に花を咲かせてしまう人もいるかもしれないが、別に深刻ぶって時代の終焉を憂うよりは、その程度の話の方が愉快な気分を誘うのかもしれず、そうやって意識せずに大げさな死や時代の終焉を回避した方が、より普通の感覚に近いのかもしれない。もちろんそれで終わりを避け切れたようには思えないだろうが、自意識は自らの死そのものには立ち会えず、それ以前に消えてしまうのだろうし、他人の大げさな死に立ち会えたところで、それを自分の死に役立てることなどできないのだから、人の死に関する終わりをどう受け取ろうと、あるいはどう捉えようと、それ自体にどんな意味を当てはめようとしても、そうすること自体が余分な行為となりはしないか。他人の生や死を美化して飾り立てるのは、葬儀を飾り立てる花輪のようなものかもしれないが、葬儀にも何らかの意味があるとすれば、意味がなければ葬儀などやらないわけだから、意味があるのは確実だろうが、葬儀によってもたらされた意味が、自分の何に関わっているのかといえば、それは自分もその中に属している社会的な慣習に関わっているのだろうし、社会的なしがらみの一部として葬儀があり、故人と何らかの関わりがあれば、無視できない範囲で、それに参列することを強いられる状況も生まれてくるし、葬儀に参列することは、それを取り巻く社会の一員であること意味し、自分が何らかの形で世の中と繋がりがあることを意味しているのだろう。人の死に個人的にどんな思い入れやこだわりがあろうと、それとは別の次元で、社会的な儀式として葬儀が執り行われているわけで、もしかしたら他人の生や死を美化する行為も、そのような社会的な慣習の一部としてやっていることかもしれず、そこで抱いている故人に対する思い入れやこだわりも、社会的な慣習の延長上でそう思っているだけで、他人の死を悲しみ悼むような心理現象も、葬儀という儀式に呼応して起こる無意識の演技でしかなかったら、そのような個人の感情の発露も、案外形式的な条件反射のような現象とみなしても構わないのかもしれず、それ以上の大した意味はないのではないか。そのようにみなすことは、故人や故人に思い入れのある人たちを冒涜することになるだろうか。本気でそんなことを述べているように思われてしまうと、少なからず反感を買ってしまうだろうが、それはかつて誰かが皮肉を込めて語っていたかもしれない内容に近いだろうか。


1月10日「秘密」

 人には誰でも何か告白せざるをえないような秘密があるだろうか。それは人それぞれで異なるだろうし、別に秘密は秘密のままにしておいて、無理にばらさない方が、秘密を握っている当人にとってはありがたい場合があるだろうし、普通に考えれば秘密をばらされたら困るから秘密にしておくわけで、果たしてそれを告白しなければならない状況というのが、どのような場合で起こるのか。それについても人それぞれで様々なケースが考えられるだろうか。ばらされたら困るようなことを自ら告白するというのは、それが罪深いように思われることだから、その罪悪感を晴らして悔い改めようとして、あえて告白してすっきりしたくなるのだろうか。中にはそういうケースもあるのかもしれないが、たとえ罪悪感に苛まれていても、告白しないケースもあるのだろうし、告白せずに秘密を握ったまま、亡くなっていく人も結構いるのかもしれず、そのような中で、何か衝撃的な事実を明かして、世間をアッと言わせた人もいて、それがテレビ番組やフィクションの題材となったりする場合もあるだろうが、自分ではなく他人の秘密を明かそうとする行為には、罪悪感も伴わないのかもしれず、それは他人に対する攻撃となるわけで、何か積極的に秘密を暴露して、それを政治的な権力を握っている人や勢力に対する攻撃材料に使うというのも、ジャーナリズム的なやり方としてあるだろうし、自分にとって都合の悪い秘密を他人にばらされたら、場合によっては致命的な窮地に陥ってしまうだろうから、そうなる前にタイミングを見計らって自分で告白してしまえば、傷も浅いうちに立ち直る機会も得やすくなるという打算も働くだろうか。そうなると秘密をめぐって、それを告白せずに隠し通すか、他人にばらされる前に告白するか、その場での周りの対人関係や利害関係などを考慮に入れなければならなくなるだろうし、関係する人や団体との駆け引きを伴ってくるとすれば、自分だけの力ではどうにもならない事情や問題も生じてきて、そうなると状況も入り組んできて、そこに関わる各人の思惑も複雑で錯綜した様相を呈する場合もあるだろうか。秘密を共有する人が多くなってくると、もうそれは公然の秘密となる事態も起こるだろうし、そうなってしまえば、あえて当人が告白するまでもなく、もうその時点で秘密は秘密ではなくなり、告白するしないの問題も解決済みになってしまうだろうか。

 テレビタレントに記者会見を開かせて、私的な恋愛関係について告白させれば、しかもそれが不倫関係ともなれば、なにやら多くの人たちが注目するニュースとなるのかもしれないが、それは社会的にはありふれた人間関係なのだろうから、しかも多くの人たちにとっては他人事であり、痛くもかゆくもない話で盛り上がるのは楽しいだろうか。たぶん都合が悪いのはそういうことではなくて、タレントが社会的に注目されなくなることだろうから、なんらかの形でニュースネタになっているうちは、たとえそれが否定的な伝わり方であっても、まだその人に商品価値があるということかもしれず、どのような形であれ、話題を提供できなくなるまでは、その人のタレント活動は続けられるということだろうか。それが他人事である一般人にとっては、テレビタレントなど他にいくらでもいて、代わりに事欠かないのがその手の業界だろうし、別に興味がなければないままに終わってしまうのだろうが、人は様々なメディアからなんらかの力を及ぼされていて、そこから影響を受けながら暮らしているわけで、メディアの側でも人々に話題を提供したいのだろうし、自分たちの提供する話題で喜んでほしくて、提供しているのだろうから、たぶんそういう善意は素直にありがたく受け取っておくべきなのだろう。そしてそういう善意の中には、無名の一般人が苦しみ悩みながらも、地道な努力の積み重ねが認められて、なんらかの分野で成功して、著名人へと成り上がるサクセスストーリーも含まれていて、それが実話にしろフィクションにしろ、たぶん世間的にはそういう成功物語に感動してほしいのだろうし、何もそこでひねくれた見解を述べるような動作はいらないわけだが、果たして今後そういう成功物語が廃れるような状況が生まれるだろうか。社会のあらゆる分野で、多くの人たちが同じ目標に向かって切磋琢磨しながら競争して、そこから一握りの成功者を生み出し、それを多くの人たちが讃えるという動作がなくなった時が、その手の成功物語の消滅を意味するのだろうが、もしかしたらその切磋琢磨しながら競争する目標というのが、本当は何でもないことかもしれず、本来的には競争する必要のないことであり、誰もが興味を抱くようなことでもないのかもしれない。そして今後はだんだんそれが明らかになってくるのかもしれず、最終的には競争のない社会が実現するとすれば、そこで成功物語が消滅してしまうだろうか。現状では誰もがそんなことはありえないと思っているだろうが、あえてありえない未来を予言する理由がどこにあるだろうか。まさかそれが未だ明かされない秘密というわけでもないだろうが、秘密を握っている当人は世界のどこにいるのだろうか。


1月9日「自己への配慮」

 それは薬物依存やアルコール依存などにも通じる作用かもしれないが、人が精神的あるいは物質的に何かに依存している場合、その依存している対象との関係が、何らかの権力関係を構成している場合があるだろうか。権力を語る上でよく言われる排除や抑圧という動作より、何らかの依存状態を作り出す方が、権力を行使する側にとっては好都合であり、それなしではいられないような、依存関係をもたらす対象を提供することによって、自分たちの優位を確立するやり方が、権力を振るう上で役に立っていて、もしかしたら権力を行使される対象となっている人々は、自分たちが何に依存しているのかよくわかっていないのかもしれず、よくわからないままに、権力を行使する側を擁護したり批判しながらも、自覚のないまま依存状態を保っていて、それに依存している限りは、相変わらず権力を行使され続けているのではないか。そのようにして人は精神的にも物質的にも、様々な対象と依存関係があり、それなしでは生きられなかったり、生活が立ち行かなかったりする対象を巡って、それを提供している人や何らかの社会的な勢力との間で、権力関係を築いているわけで、それは排除とか抑圧とかの、直接あからさまに感知できるような否定的な作用ではなく、よく考えてみないと気づかないような作用を及ぼされていて、それへの依存を断ち切れないような関係であるだけに、自身が主体的にどうこうできるようなことではなく、これからも社会の中で生きていくには、受け入れるしか選択肢がないような、力の関係となっているのかもしれない。そんな関係について何か思い当たるような節はないだろうか。よく考えてみればそんな関係などいくらでもありそうだが、実際に人が直面している権力関係は、そういう次元で力を及ぼされているわけで、それに対して反対運動したからといって、すぐにどうなるようなものでもなく、表面的な排除や抑圧とは違う方面から力を及ぼされていることに、自覚的であるべきなのかもしれないが、では具体的に何をどうすべきかとなると、はっきりとやるべきことが特定されているわけでもないだろうし、それは反権力闘争などといった勇ましい呼び名では語れないような、その場その時で違う対応が求められているのかもしれず、自覚的であるべきと言っておきながら、それとは矛盾した言い方になるかもしれないが、たぶんそれと自覚できないような、無自覚な抵抗を必要としているのだろうか。というかすでに多くの人たちが抵抗している現状があり、その顕在化している最たる現象が少子高齢化であり、労働者を必要とする国に対して、無自覚な抵抗が起こっている現状があるわけだ。

 何がそのような現象をもたらしているかは、様々な方面からその原因や理由が指摘されていて、それを改善すべく様々な提言もなされているのだろうが、根本的なところで、人々を国家に依存させようとする国の政策は、国が今あるような国の形態をとっている限りは、変えるわけにはいかないのだから、それを巡る権力関係が、人々の無自覚な抵抗をもたらしているとすれば、それに関してはどうにもならないところだろうが、実態としてはそうではないのだろうか。根拠は何もないようでいて、そんなことはありえないとも言い切れず、それに関しては、今のところははっきりしていないだろうか。具体的な各種の反対運動とは別に、わけのわからない水面下での抵抗というのがあるのかもしれず、そのような抵抗を助長するような風潮や成り行きともなっているとしたら、それは人の意識や思考が捉えがたい何かが作用していることの証しなのではないか。それともまだよく解明されていない人と何かとの依存関係があり、その関係をめぐって及ぼされている力が、人々を無自覚な抵抗へと導いているのだろうか。ではそれに関して何か思い当たる節がないだろうか。人が自己との関係を構築する上で、自己への配慮を最優先に考えれば、自己を犠牲にするように仕向けてくる作用には、当然のことながら抵抗するだろう。例えば国に依存しても何の見返りもないと知ったら、その自覚がなくても国家による権力の行使には抵抗するだろうし、また会社に依存しても、あるいは家族に依存しても、さらに地域社会に依存しても、それが何らかのしがらみから生じる自己の犠牲を伴うようなら、やはりそこから自覚のない抵抗が生まれるのではないか。現代に生きているほとんどの人たちが体験しつつある大衆市民社会が、自己への配慮を最優先に考えるような意識的な特性をもたらしているとすれば、人が最も依存しているのは自分自身となるだろうし、自己が自己に依存しているから、何にも増して自己への配慮を最優先に考えるわけで、そうなると自己中心的な性格ともなるだろうし、自己を犠牲にしてまで従うように仕向けてくる対象には、その自覚がなくとも無意識のうちに抵抗しているわけで、それの良し悪しはともかく、国家よりも会社よりも家族よりも地域社会よりも、まずは自分を最優先に考える方向で物事を判断するようになるだろうし、多くの人々がそのような判断を最優先にしている結果が、今ほとんどの人たちが体験しているような社会を成り立たせているのではないか。


1月8日「無関係な関係」

 何をどう考えるにしても、たぶん何かを偶然に考えていて、その偶然を必然だと錯覚して、それが自分の問題であるかのように思い込んしてしまうのかもしれないが、その考える対象と考えている自分との無関係が、その無関係の距離感を縮めるような作用として考えることの偶然性にまとわりついているのだろうか。しかし何を具体的に考えているのだろうか。実際に今まさに言葉を組み合わせて、何を考えているのかを示そうとして、意識の中で具体的に思い浮かべた対象の中から、偶然にそれを選ぼうとしているのかもしれず、選んだそれについて語ろうとしているのだろうし、実際に記しつつある文章上で語れる範囲内で語ろうとするわけだが、語った結果から見れば、それについて語ることの必然性を、語りの中で十分に説明していることになるだろうか。まだ語り終えていない段階では何とも言えないだろうが、ふと偶然に思いついたことについて考え、それを文章に記し、その文章上で何かを語っている現実は、それについて考え記述し語っていくにつれて、思いついた時の偶然から、語ることへの必然へと変化していくのだろうか。要するにそれを言葉で表現しようとする行為が、思考の偶然を語りの必然へと導き、それが錯覚であることを忘れさせるのか。忘れるのではなく、語ってみればそこに何らかの必然性があることを発見するのだろうか。実際に語る行為が、それについて語ってみたいという理由を生じさせるわけで、そんな理由でもそれがある限りは、偶然に語っているわけではない証しとなるだろうし、語ることで語る対象との関係を構築しようとしていて、それについて語っている事実が、語る対象と語っている自分を関係させることは確かだが、何かの気まぐれでそれをふと思いついた時の偶然性は、それについて語っている最中では、すでに忘れてしまっているかもしれず、それを思いつかなければ無関係であったかもしれないのに、その無関係な関係を語りつつある意識が把握することは難しいのだろうか。ではその語る以前の語る対象と自分との無関係は、何を物語っているのだろうか。語る対象と自分との関係は、ただその場その時の偶然に左右されるしかないということか。それについて考えることは、その場その時のサイコロの一振りであり、考える発端はそうだとしても、いざ考え始めると、そこから考える対象との関係が生まれているように思われ、それについて考えれば考えるほど、考えていることの必然性がまとわりついてきて、それを言葉で表現する段階になると、それについて語るべくして語っているような感じになってしまうのだろうか。

 たぶん語っている対象が自分と関係があると思わないと、語る必然性や理由を見いだせず、というか関係があると思われるから、そこに必然性や理由が生まれるのであって、人はそのようにしか語れないのだろうし、自らと無関係なことは語らないだろうし、それについての語りを生じさせる偶然に基づいた当初の無関係は、人にとっては忘れられるべきことなのではないか。そういう意味で思考や言葉による表現の対象となる事物の、本来持っている人との無関係な偶然性は、人には意識できない特性であり、それを意識するとそれについて考えたり語る理由がなくなってしまうのだろうし、それは人が語り得ない性質のものなのではないか。そして人はそれについて考える偶然性を必然性に取り違えて、それとの無関係を関係へと結びつけることによって、自身を含む身の回りの事物について考えることができ、それを言葉を用いて、あるいは画像や映像によって表現することができるのだろうか。もしかしたらその表現するために用いる言葉や画像や映像でさえも、本来は無関係な偶然の巡り合わせによって獲得したもので、それらを表現の手段に用いることすらも、偶然を必然へと、そして無関係を関係へと置き換えることによって、そうやって初めて使えるようになったのかもしれず、そうやって本来は無関係な様々な身の回りの事物を偶然の思いつきで結びつける動作が、何か考えているように感じられたり、何かを表現しているような気にさせるのかもしれず、人がこの世界でやっている動作というのは、要するにそれらのバリエーションなのだろうし、それ以上でも以下でもないことなのではないか。もちろんそれをやっている以上は、自らのやっていることが無意味で無関係な偶然の巡り合わせだとは思わないだろうし、それらが必然的な意味のある結びつきだからこそ、何らの利益を出しているのだろうし、実際にそうすることによって、何らかの満足感を得ているわけだろうが、それはそのような必然的な意味のある結びつきを、社会的に大勢の人々が信じていて、それを信仰として共有しているからこそ、そこから導き出される利益を実感できるわけで、例えば特定の生産物を商品とみなして、それを特定の価格に結びつける社会的な申し合わせがなければ、貨幣と商品の交換すら成り立たなくなってしまうだろうし、貨幣と商品を交換できると思い込む信仰が、人々の間で共有されなくなってしまうと、そこから利益を得られなくなってしまうわけだが、要するに人間社会を成り立たせている基本的な動作というのは、偶然を必然だと思い込み、無関係を関係へと結びつける心理作用なのだろうか。


1月7日「事物」

 見ることと、見たそれを言葉で表現することの間に、動作として差異があることは確かだろうが、見る対象と言葉で表現する対象との間で、何か違いがあるとすれば、それは何だろうか。この世界の中で人は何を見て、何を言葉で表現しようとしているのか。具体的にそれは何だろう。普通は見てそれを言葉で表現する場合は、同じ対象を見て、それを言葉で表現しようとしている。情景描写ならその通りかも知れないが、見てその構造や特性を解き明かして、それを言葉で表現しようとする場合、それは見る対象である以上に、考える対象となるわけだ。そうなるとそれを見ることとそれについて考えることの間で、何か決定的な差異が生じるだろうか。それともただ見ることと考えることで動作が違うだけだろうか。ともかく見るとしても考えるとしても、その対象自体が変わるわけではなく、見方と考え方という違う動作によって、その対象に関わっているだけだろうか。ではそれを言葉で表現するというのはどうなのか。たぶん意識の中では見るとしても考えるとしても、それを言葉で表現しようとしていることに変わりはないだろうか。しかし対象を言葉で表現するとはどういうことなのか。対象となる事物を言葉で解釈するということだろうか。そうなると元となる事物の他に、言葉の連なりという別の事物が生じることになりはしないか。要するにそれを言葉で表現することによって、新たに事物を増やすことになるのだろうか。そうだとすれば、見る対象は対象としてあり、その対象とそれを見た意識が関わって、もう一つの別の言葉で表現された対象が生じることになるだろうか。他にも画像や映像などの対象もあるわけだが、人には見る対象から、言葉で表現された対象や、画像や映像などの対象を派生させることができ、それらもまた見る対象となるわけで、それらは見る対象であると同時に考える対象でもあり、また欲望や幻想などを抱く対象でもあるわけか。そうやって意識を介在させて、なんらかの対象を次々に派生させる動作は、結局のところ人に何をもたらしているのだろうか。ただ人々の間で事物に関する連想ゲームのような遊戯をもたらしているだけだろうか。それと同時に見ている対象になんらかの力を及ぼそうとしていることは確かだろうし、中には自分に都合のいいような解釈を当てはめて、その解釈を他人に信じさせようとする動作もあるだろう。それはその事物を支配したい願望の表れかもしれないし、その解釈を信じる人たちを自分の味方につけたいのかもしれない。それが多くの人たちが興味を抱くような事物なら、そんな解釈を書物にでもまとめれば、賛同者となって多くの人たちが買ってくれるかもしれず、結果として利益をもたらしてくれるのだろうし、またそれが政治的な主張にでも結びつけば、その賛同者を仲間に引き入れて、政党や政党内の派閥を結成するに至るだろうか。

 人がその標的とする事物に言語的な解釈を加えながら、何か自分に都合のいい主張を導き出す時、その主張に引き込まれてしまう他の人の意識には、その対象となる事物が、以前見ていたようには見えなくなる可能性があるのではないか。たぶんそれが扇動効果だろうし、言葉による権力の行使と言えるだろうが、事物自体は以前と変わらないのに、その印象や特性が違って見えてしまうとすれば、対象を見ることと、それを言葉で表現することとの間には、何か決定的な違いがあり、要するに見ることは知ることであり、それに加えて言葉で表現することは、力を行使することになるのではないか。そしてそれが何に対して力を行使しているかといえば、自分とともに見ている他の人に力を行使しているのかもしれず、言葉で表現することによって、他の人の事物に対する見方や考え方を制御しようとしていることになるのではないか。そうやって自分に都合のいい見方や考え方を、他の人にも強要していると言っては語弊があるのだろうが、他の人に向かって何かを伝えようとしていることは確かで、その伝えたいことが自分の主張である場合は、やはりそれは自分の都合が反映した見方や考え方になるしかないだろう。そしてそうやって何かしら主張する行為が、自我を発生させるわけで、何かを主張する限りにおいて、自己が自己であることを自身が確認できるわけか。そのような行為を通じて自分という事物が形成されるのだとすれば、自分という事物を言葉で表現しようとすれば、当然それが自分の主義主張となるのだろうか。だが果たしてその時、自分には自分が見えているのだろうか。自分が語る自分自身と他人が語る自分自身との間に違いがある時、どちらが語る自分が本当の自分だろうか。例えばそれが自分にとって都合のいい自分と、自分にとっては都合の悪い自分とに、はっきり見解が分かれた場合は、自分には見えていない自分を、他人には見えていることになるだろうか。そうなると自分にとって都合のいい主義主張をしている時は、自分が言葉で表現している対象を見えていない可能性があるのではないか。要するに対象を言葉で捻じ曲げ歪ませて、都合のいい部分だけ誇張して伝えようとしているのかもしれず、そういう意味でも、対象を見ることと、それを言葉で表現することとの間には、決定的な次元の違いがあり、ひどい場合には、見ている対象を粉飾したり捏造したりしながら、まったく別の事物に見せかけようとしている場合もあるということだ。


1月6日「闘争」

 社会の中で暮らしている人は、多くの人が似たような類型的な境遇にあるとしても、それぞれ人の意識の中では、自分特有の他とは違う境遇にあると思っているだろうが、それを職業や性別や年齢や住んでいる地域などの項目によって選り分けて、統計的にデータベース化して数値で示してしまうと、何か集団の中の一個人として、相対的な情報の束として認識されてしまうだろうか。行政としての官僚機構による人々の管理が、今後そういった傾向をますます深めていくとすれば、より効率的できめ細やかな行政サービスが可能となるだろうか。それが何を目的としたサービスなのかが、マイナンバー制度などに危惧の念を抱いている人たちからすれば、関心のあるところだろうし、管理されることによって自分たちが不利な境遇に追い込まれる心配をしている人が多ければ、反対運動などで危機感を煽るような成り行きになるだろうか。国家の一員なのだから国民が国家に管理されることは当然と言えば当然だろうが、国家と国民の立場を対等の関係にするなど、実質的にはありえないことなのだろうが、反対運動をしている人たちは、建前や理念としてそうあってほしいと思っているのだろうし、その辺が国民の管理を目指す人たちとは、意識の食い違いがあるのかもしれない。行政機構で働いている人たちの意識がどうであろうと、機構そのものの機能が人を管理する働きがあるのだろうから、それを円滑に動作させようとすれば、そうなるのが当然の成り行きだろうし、だからこそそういう機能から生じる動作に、反発したり反感を抱く人が出てくるのであり、それが行政的な人の管理によってもたらされる宿命ではあるのだろうが、何かそうではないような行政と住民との関係を模索している人もいるのかもしれず、そういう人の主張もたまにはメディア経由で目にすることもあるのだが、実感としてはそれほど画期的なことを提案している印象はない。現行の制度を変えようとして変えられるような状況ではないことはわかりきっているので、期待する方がおかしいのかもしれず、管理する側と管理に反発する人たちとのせめぎ合いからしか変化は生まれないのだろうし、今後もそういう傾向は変わらないのではないか。そうやって人は絶えず戦い続けているのだろうし、戦っている自覚がなくても現実にそうしているわけだ。管理するにしろされるにしろ、人に何らかの力を及ぼそうとすれば、及ぼされた人からの抵抗を伴うのは当然であり、それを承知で力を及ぼそうとするのだから、どのような水準であっても戦いを招くわけだ。

 では国家的な行政はどうあるべきかと問うのは愚問であり、たぶん現にやっている通りのことしかできないのではないか。それがやれている間はそうするしかないだろうし、うまくいかなくなってきたら、別のやり方が試みられるだろうし、試みがうまくいくようなら、そのやり方に取って代わられるのだろう。その過程で何をどう変えればいいかの議論となるだろうし、絶えずそんなことが言われ続けるのだろうが、そういう議論とは別に、国家に対する認識そのものを変更する機会が訪れないだろうか。それも国や政府のやり方に反発する人たちによる闘争的な活動次第なのだろうか。それともいつか人の社会的な活動の傾向や特性を説明する上で、画期的な見解が示され、そこから行政的なあり方としての最適な構造が導き出されて、その通りに行政機構を構築すれば、ほとんどの行政的な問題が解決するような成り行きになるだろうか。現状ではそんなのはありえないようにも思えるわけで、社会の中で人や組織間で利害をめぐる対立がある限りは、そういう方面での平等や公平さを求めるのは困難だろうし、しかもその利害をめぐる対立の中には当の行政機構の存在から起因している事象もありそうで、利害をどのように調整しても、必ず利益を得られる人や組織と、不利益を被る人や組織が出てしまうのではないか。だからそれを放置していいわけではなく、絶えず利害を調整して社会的な平等や公平さを目指すべきなのだろうが、現に利害をめぐる人や組織間のせめぎ合いや対立がある以上は、闘争がなくなることはありえないが、それが各方面で人や団体が、何らかの権力を行使する動作そのものなのだろうか。そういう次元で考えると何も結論めいた見解は示せないのだろうが、それでも何か人にとって最適な社会構造を模索しなければならないだろうか。それは社会学とかいう学問上の使命かもしれず、実際にそこで利害をめぐって闘争している人や団体にしてみれば、自分達が利益を得るために戦っていれば、それで構わないのかもしれないが、それをなくすには利益が出ない社会を作っていくしかないのだろうか。あるいはそのまま各人や各種団体が闘争を繰り返して行けば、自然と利益が出なくなってゆくというのもあり得るだろうか。利益が出なくても人が生きて行けるなら、利益をめぐる闘争も起こらないかも知れないが、現状では利益を出さなければ生きて行けないと誰もが信じているわけだ。


1月5日「気まぐれに」

 例えばフィクションの中でのチャンバラ対決において、力の優劣を示すには、強い者が弱い者を斬り倒す場面を表現すればいいのだろうが、映画などで複数の対決を比べて観た場合、以前の対決では圧倒的に強かった敵役が、物語的な結末をつける都合上なのかもしれないが、最終的に大して強そうに感じられない主人公などに負けてしまう時、何かそこで腑に落ちない気分となってしまうのだが、映画の製作者などは、その辺の登場人物の間の力の強弱の加減と、物語的な話の進行や結末との整合性に無頓着であるはずがないと思うが、どうでもいいことではあるのだが、スターウォーズはエピソード1〜7の全体を通して、ライトセイバーのチャンバラ対決において、力の優劣にぎこちなさを感じてしまう。最近観た7ではダースベイダーもどきの馬づらのあんちゃんが、オタクのような仕様のライトセイバーを駆使しながら、最初はものすごい力を見せつけながら戦う相手を圧倒していたのに、そのそれなりに修行を積んでフォースに覚醒した人物と、ライトセイバー初心者の黒人のあんちゃんや主人公のねーちゃんとが戦ってしまったら、普通に考えれば二人とも瞬殺されてしまうような結果になりかねないところだろうが、そこで殺されてしまったら話が終わってしまうからにしても、どうしても観ていて納得できない結末となってしまい、そこからそういえば以前に観た他のエピソード上でも、観ていて疑問を感じてしまったことを思い出した。

 最初の4ではライトセイバー初心者のルークが扱い方の練習をしている場面などもあって、師のオビワンがダースベイダーと対決して倒されるシーンにしても、まあそんなもんなんだろうな、という感じしか抱かなかった。次の5でもそれはダースベイダーの方がルークよりは強いに決まっているという結果だったので、別に違和感は感じなかったのだが、その次の6となると、大して強くなったわけでもないのに、ダースベイダーがルークに負けてしまった時に妙な感じがして、次いで息子のルークを勝たせるために手加減したのか、とも思ったのだが、どうも話の展開上は敵に対する憎悪が増すとフォースの暗黒面に目覚めて強くなり、それで一時的に力が増してダースベイダーに勝つことができた、と解釈すればいいのかもしれないのだが、それにしては肝心のチャンバラシーンが、ただ力まかせにぶったたいているだけの動作なので、ルークが急に強くなったにしても子供の喧嘩のようなお粗末な感じがして、どう見てもダースベイダーが手加減しているようにしか見えない。

 そしてそれからかなり時間が経ってから観た1は、メカのおもちゃ感が強くて、おもちゃの兵隊さんにライトセイバーで挑んでいくジェダイの騎士たちが、妙にユーモラスな感じが出ていて、子供時代のアナキンの活躍も、『ホームアローン』を思い出してしまったわけだが、敵役のダースモールが強い設定だったのだろうから、最初の急襲シーンやオビワンの師が倒されたまでは、それなりに臨場感に溢れたチャンバラシーンに感じられたのだが、最後の最後でオビワンが勝つにしても、倒す動作が妙に間が空いていて、そんな簡単に倒されてしまったら、今までの強さはなんだったのか、と感じるとともに、自分のライトセバーを蹴り落とされて、両手でぶら下がり状態の絶体絶命のピンチから、なぜそこで剣術の達人のダースモールが油断してしまうのかが予定調和的で、さっさととどめを刺せばいいものを、それがよくあるパターンなのだろうが、どうしてもその辺の演出がちゃちに感じられてしまった。

 2になるとジェダイの騎士となったアナキンも師のオビワンも超人的な強さとなり、彼らよりさらに強いドゥークー伯爵やヨーダもチャンバラに加わって、チャンバラ対決にも凄みが増してきた印象はあったが、話の展開上は仕方のないことかもしれないが、ドゥークー伯爵はアナキンもオビワンも十分に殺せるのに手加減して殺さないところが、ダースモールにしてもドゥークー伯爵にしても、殺せる時に殺さずに、結果的に殺されてしまうわけで、もっと何か別の事情をこしらえて、話に説得力をもたせた方がいいような気にさせられるわけだが、他のジェダイにしても、おもちゃの兵隊さんたちと戦って倒されてしまう人が続出してしまうところが、何か妙な感覚となってしまい、いくらライトセイバーを持っているからといって、銃撃の標的になるために登場しているようなもので、ドゥークー伯爵でなくても、愚かだと思われても仕方のないような登場の仕方をしている。

 そして3なのだが、殺せる時に殺さない病がジェダイにも感染して、ダースシディアスを追い詰めながら倒されてしまうメイス・ウィンドゥは、2においてドゥークー伯爵に愚かだと言われた人物なのだが、2においては圧倒的に強かったドゥークー伯爵が、余裕でオビワンを退けたのに、アナキンにはあっさり負けてしまうし、ドゥークー伯爵には余裕で退けられたオビワンが、最終的に暗黒面に落ちて強くなったはずのアナキンを倒してしまったり、他のジェダイを何人も倒してきたグリーヴァス将軍を倒したり、メイス・ウィンドゥにほぼ負けたも同然のダースシディアスが、ジェダイ最強のヨーダには勝ってしまうし、観ていて何か疑念が頭の中をぐるぐる回っている感じで、意識が話の中に入っていけず、それに加えてとってつけたようなアナキンとパドメとの話も、なんで死んでしまうか理解できなかった。そしてそういうおかしな部分を割り引いてもスターウォーズには魅力を感じてしまうから、今まで観てきたわけだが、今まで文句を並べてきた部分は、やはり枝葉末節な部分なのだとすれば、では面白さの本質的なところはどこにあるのかと問われたら、どうも明確にこれだと言い切れないところが、スターウォーズの魅力なのだろうか。


1月4日「国家の枠組み」

 何もせずにいることが何を意味するわけでもなく、どこへも力を及ぼしていないことの証しとなるだろうか。別に何もしないことに幻想を抱いているわけではなく、何もさせなければ、それも力を及ぼしていることの証しとなるかもしれない。また何かをやらせることが、本来の力を及ぼしていることの標準的なあり方なのかもしれないが、たぶん力を及ぼす対象に、何かをやらせたりやらせなかったりすることが、権力を行使していることになるのだろう。単純に考えれば、国家が国民を働かせることが、あるいは国民を国家に従わせることが、国家権力を表していることになるのだろうが、例えば国民を国家に逆らうように仕向けることも、そこに国家権力があることに証しとなるだろうか。もちろん国家がそう仕向けているわけでもないのだろうが、政権を握っている政治家や政党や官僚機構のやっていることが気に入らなければ、国家に逆らおうとするだろうか。国家以前に政府に逆らっていることになるのだろうか。具体的にどんなふうに逆らっているのかは、はっきりしないところかもしれないが、普通に働いているのなら、また税金を払っているのなら、国家に貢献していることになるのではないか。別に選挙で野党に投票するのは反逆行為ではないだろうし、NHKの受信料を払わないのも国家に対する反逆行為とは位相が違うような気がする。また左翼的な各種の反対運動にしても、反対と反逆は違う意味なのではないか。要するに誰も国家そのものがあることは認めているわけで、その存在を認めた上で、もっと自分たちの民意を反映したことをやって欲しいわけだ。そういう意味ではそれらの人たちはみんな国家権力に従っているわけで、国家的な権力の行使には従順な人たちなのではないか。国民主権を信じていて、国家権力の行使には国民の意向を反映させて欲しいと思っているのではないか。では国家に対する反逆行為とはなんなのか。例えば国家をなくせと主張することは反逆行為となるだろうか。主張するだけなら言論の自由だから許されるだろうが、具体的に国家をなくそうとする運動とはどんなものになるだろうか。世界を統一して国家をなくせと呼びかけることはできるだろうが、それが具体的な運動につながることはないだろうか。たぶんあからさまにそれを主張するのではなく、また表向きは国家に従順に従いながらも、裏で何かを画策するのでもなく、その意図がなくても結果的に国家が解体するような活動というのが、現状では求められているのだろうか。誰がそれを求めているというのでもないのだろうが、例えばダボス会議と呼ばれる世界経済フォーラムの活動などが、経済による世界的な一体化によって、国家の垣根を取り払う試みなのだろうか。

 それを強く意識している人はまずいないだろうし、そのために何かを試みるというより、力を及ぼそうとする対象や権力の行使の仕方が変容してくると、従来からある典型的な国家による権力の行使も、その性質が変わってくるのではないか。現状で世界のほとんどの国では、昔のように世襲的な国王が国家権力の中心だった時代からは様変わりしているのと同じように、将来において、現代のように行政を司る官僚機構が国家権力の中枢を担うのとは違う体制が現れるだろうか。権力の中枢という概念とは違う分散的な権力の形態もあるとしたら、あるいは権力とは違う力があり得るだろうか。力を行使する権限のない力というのを想像できるだろうか。それは法律的な裏付けのない力となるだろうし、そのような力を行使する場合は、あまり他人に無理強いをさせないことが肝心だろうか。なるべく自然の成り行きにまかせて、力を行使している自覚を抱かなくても済むような成り行きに持っていければ、何事もうまくいくような気がするのかもしれないが、そうするには具体的には何をどうすればいいのだろうか。たぶん方法などなく、逆に方法を決定してしまうと、その方法に合わせようとして無理強いを迫るような成り行きになるだろうし、そうしないとうまくいかないような行為が、権力の行使そのものなのかもしれない。そういう意味で無理強いさせようとすれば、当然のことながら反発や抵抗を招くわけで、現状で反対運動などを招いている行為には、必ず無理強いなどの強制が含まれているのだろうし、権力を行使した結果として、そのような反発や抵抗活動が起こっているのだとすれば、仮にそれが法律的な裏付けのある力の行使だろうと、まだそこに改善の余地があるということだろうか。改善するのではなく力で押し切ろうとしているのが、沖縄の米軍基地の滑走路工事なのだろうし、それに対する反対運動や抵抗活動をしている人たちも、それが国家に対する反逆行為であるとは思っていないだろうし、憲法で認められた国の主権者として、当然の権利を行使しているまでかもしれないが、自分たちの意に反することを政府がやろうとしていることに反発しているにしても、その政府を打倒しようとしているのではなく、政府に自分たちのいうことを聞かせようとしているわけで、彼らにしても国家が存在することを前提として、そんなことをやっているわけだ。そういう意味で国家の中で暮らしている人たちは、国家の枠組みを超える観念や理念を導き出せない。


1月3日「ありふれた認識」

 人が見ていると思っている対象と、それについて語っていると思っている内容に違いがあるとすれば、その違いについて語ることが可能だろうか。まずは何を見ているのかについて語らなければならない。例えばそれは文字の連なりとしての文章だったら、それを見ながら読んでいることになるのだろうが、読んでいる内容が何らかのフィクションだとすれば、読みながらその文章の中で描写されている光景を思い浮かべ、それを見ているような感覚になるだろうか。それが見ていると思っている対象であるとすると、そのフィクションについて語るとすれば、書かれている文章についてではなく、文章を読みながら思い浮かべている光景について語ることになり、書かれている文章を見ているのに、見ている当の文章については語っていないことになるだろうか。ではそれが文章ではなく映像なら、見ている映像について語ることが、その映像の内容について語ることと一致するだろうか。それが何らかのフィクションだとすれば、映像の中で展開される物語の内容について語るとすれば、直接映像そのものについては語っていないこととなるだろうか。あるいは映像が醸し出す効果について語るとすれば、それも映像そのものについては語っていないことになるだろうか。だがそうなると映像そのものとは何だろうか。文字の連なりとしての文章そのものに対応するような映像とは何だろう。明るい部分があったり暗い部分があったり、様々な部分で色彩が異なっている光景が映像の表面上に見られることは確かだ。それは文章についても言えるだろうし、白い表面に黒い文字記号が散りばめられた光景が見ている文章そのものだろうか。そう語れば文章についても映像についても、見ている対象と語っている対象が一致していることになるだろうか。たぶん普通はそれ以外について語られているわけで、要するに文字の連なりや映像を解読したり解析しながら語っていて、その解読や解析に何らかの傾向があって、その傾向が他の人たちの傾向と合うと共感を呼んだりするのだろうが、人は社会の中で他の人たちと協調しながら生きているのだから、嗜好も価値観も似通っていて、だいたいにおいて他と似たような傾向を示しているのだろうし、メディアを通じて示される標準的な傾向から、そうかけ離れた傾向の解読や解析はあまり見かけないのではないか。別に何かそれとは違う画期的なものを求めようとも思わないだろうし、探しても見つからないだろうか。冗談としては探して見つかるようなものではなく、自分で作り出そうとしなければ駄目だろうか。

 ともかく人はそれを錯覚しているのではなく、そうみなしているのであり、そうみなすことによって、文章を文章として理解できるだろうし、映像に関する印象や認識や解釈を得るに至るだろう。それが現実に目にしている光景の一部を構成しているわけで、場合によってはそこに全神経と全思考を集中させて、その解読と解析を行っているわけか。その全体を把握したいのではないか。そこに力を及ぼそうともしている。見てそれについて語ることで何らかの影響を行使できるとも思っているのではないか。あるいは語らずにあからさまに無視することによっても、それを行使しようとしていて、無視できなくなったら批判し攻撃することによっても、それを行おうとするわけだが、中にはそれらとは違うアプローチを探っている場合もありそうで、それらに言及しながらも、全く別の方面から別の事柄を強調していたりして、その結果としてメディアを経由して流行っているような通常の解読や解析からかけ離れたものとなるのかもしれず、初めからそれを狙っているわけではないにしても、解読や解析を行っているうちに、そうなってしまう場合もあるだろうし、たまにはそんな内容の書物を読んで感動することもありそうだが、何も無理に感動を狙わなくても、世の中のありふれた事象について、ありふれた見解を述べていれば、それで何らかの内容を語っていることになるわけで、逆にその方が勘違いな幻想を抱かずに済んでしまい、うまくいく場合もありそうだ。現状でも別に大げさな問題を抱えているわけではないだろうし、何も人類の命運を握るようなミッションに参加しているわけでもないのだから、何事も現実に経験してきたことの延長上に、現状に対する認識が形成されているのだろうし、それを超えるような認識に至ろうとして至れるわけでもなく、身の回りやメディアからもたらされる情報の解読や解析にしても、標準的な傾向から逸脱することはできないだろう。それで構わないと思えばそれで終わってしまうかもしれないが、何かの巡り合わせによって、思いがけない認識に至れるかもしれないし、やはりそれを探そうとしたり、自分で編み出そうと試みることも必要だろうか。たぶんその必要がないのにそれが見出されてしまった愉快だろうが、それを目指すのではなく、何かのついでにふと考えてみるのにも魅力がありそうで、現状ではそれを狙わずに、ありふれたことについてありふれたことを語ろうとしているようだ。


1月2日「スピルバーグの限界」

 例えばスピルバーグは間違ってもジョージ・W・ブッシュやドナルド・トランプを主人公に据えた映画など撮らないだろうが、ブッシュが二期8年間もアメリカの大統領だったことや、トランプが今のところは共和党の大統領候補者の中で支持率がトップであることを踏まえれば、彼らを支持している人たちが確実に存在することは確かだろうし、しかも統計的にも世論の面でも無視できないほど多くの人たちの支持を集めているのだろう。一方でスピルバーグが好んで映画の題材として取り扱う、ナチス政権下で数多くのユダヤ人を助けたオスカー・シンドラーや、奴隷解放に尽力した大統領のリンカーンや、周囲からの非難を浴びながらもソ連のスパイを弁護して救ったジェームズ・ドノバンなどの、いわゆる世の中の多数派に逆らって人助けをした人たちは、当時の世の中の多数派の意向に逆らうようなことをやって、しかもそれにある程度は成功したから、その業績が後世に語り継がれて映画の題材にもなり、その映画を現代の世の中の多数派の圧倒的な支持を集めているスピルバーグが撮っているのだから、現代の世の中の多数派もその映画を観て、映画の中で主人公が行う人助けに感動するのだろう。だがその映画の中の人助けに感動する世の中の多数派を構成する人々は、それと完全に重なるわけではないにしても、ブッシュが同時多発テロの報復としてアフガニスタンに軍事攻撃をし、また大量破壊兵器を所有していると因縁をつけてイラクにも軍事攻撃した時は、圧倒的に支持したのだろうし、今も移民やイスラム教徒に対して暴言まがいの発言を繰り返すトランプを支持しているかもしれず、映画の主人公が生きていた当時でも、世の中の多数派を構成する人々は、ユダヤ人排斥を支持していたし、黒人奴隷がいるのが当然だと思っていたし、ソ連のスパイなど死刑にしろ思っていたわけで、スピルバーグがそのような多数派の意向に逆らう人物を主人公に据えて映画を撮り、それが多数派の支持を集めて感動を呼ぶにしても、どうもそれによって現代の多数派の意向や意見が変わることはないのではないか。もしかしたら今も昔も将来においても、世の中の多数派は必ずブッシュやトランプのような人を支持するだろうし、ドイツではヒトラーが圧倒的な支持を集めていた時期もあったわけで、日本の現状もそれとあまり変わらないのではないか。そこにスピルバーグ的な試みの限界があり、もちろんスピルバーグ自身もそれを心得ていて、だから執拗にその手の人物を主人公に据えた映画を撮り続けているのかもしれないが、スピルバーグの視点や思考に欠けているものがあるとすれば、それはなんだろうか。

 例えば蓮實重彦は百田尚樹のような人物を主人公に据えて『凡庸な芸術家の肖像』を著したし、フローベールは『ボヴァリー夫人』にしても『ブヴァールとペキュシェ』にしても、世の中の多数派を構成するありふれた小市民を主人公にして小説を書いた。多数派に逆らう英雄的な人を題材とするのではなく、多数派を構成するありふれた人を題材としたら、たぶん多数派は喜ばないだろうし、感動もしないのではないか。それではスピルバーグの映画にはならないだろうし、別にそれをやって欲しいとも思わないが、そこに現代の大衆市民社会の特徴があるのだろうし、それを見逃すと、左翼的な各種の反対運動をしている人たちのような境遇を理解できないのではないか。彼らはいつだってスピルバーグの映画に出てくるような、英雄的な行為をしたいのだろうし、実際にやっているつもりなのかもしれないが、そうであるからこそ多数派の支持を得られないわけで、今後もそれが変わることはないのだろうが、だからと言って信念を曲げて多数派に媚びたりしたら、百田尚樹と同じに見えてしまうからそれはできないだろうし、やはりある意味ではスピルバーグと同じように、また別の意味ではスピルバーグとは違って直接の活動として、執拗に英雄的な行為をやり続けるのではないか。そして多数派を構成する人々にとっては、自分たちの意向に逆らうようなことをやられては困るわけで、不快に感じるのは当然であり、できればそれは現実の世界ではなく、スピルバーグのようにフィクションの中でやって欲しいわけだ。そういう意味で、例えばイエスや仏陀のような人物が隣人となっては困るだろうし、実際に自分の子供が感化されて、何もかも捨てて出家して、そんな人物の弟子入りするようなことにでもなれば、オウム真理教と同じで、普通の親なら悲しみ怒り狂うのではないか。だからイエスも仏陀もあるいはムハンマドにしても、聖書や経典の中の登場人物だから、安心して彼らの教えや行為を支持できるのだろうし、あるいは教会の牧師やお寺の僧侶などの、世の多数派に認知されたしかるべき立場の聖職者が教えを垂れるから、ありがたがって拝聴していられるわけで、現実にイエスや仏陀が生きていた当時のままの姿で目の前に現れても、乞食や物乞いとみなして追い払われてしまうのではないか。そしてそれは別に世の多数派が悪いわけではなく、彼らははっきりとは自覚はしていないまでも、世の中のしきたりに従って生きているわけで、そのしきたりから外れた行為をする人物は排除するしかなく、そんな彼らが守っているしきたりの中には、彼らが絶賛する偉大なスピルバーグの映画を観て感動する行為も含まれている。


1月1日「他人事」

 普通に語れば大したことではないのに、大げさに語れば大げさに感じられることがあるだろうか。今のところは何を大げさに語りたいのか不明だが、少なくとも現実に存在する事物について大げさに語ろうとしているようだ。たぶんそれについて語る必要を感じられない細部にまで詳細に語ると、何かそれが大げさな事物であるように思われてくるのかもしれず、その事物を何度も何度も様々な角度から、あるいは様々な側面から、さらには様々な次元や水準から分析すれば、普通の感覚ではそこまで気づかないところまで気づくことができ、一回見ただけではわかりづらい見落としていた点まで、指摘することが可能となるだろうし、そうやって詳しく濃厚に語ることによって、その事物に大して関心を抱いていない人が持っている、その事物に対する通り一遍の感覚とは、明らかに異なる次元の感覚を表現することができるかもしれず、そのような次元にまでこだわっていない人にとっては、何かそれが大げさに語られているように感じられ、そこで語られている対象も大げさな事物に感じられるかもしれない。それとは違う語りの名人芸というのは、普通の人にとって心地よく感じられる語りとなるのかもしれず、大げさな感じではなく、ある程度は詳細に語っていながら、その一方でさりげなく自然に感じられるような語りとなるだろうか。他にも様々な傾向の語りがあるだろうし、その中には大げさなことを大げさに語る語りから、大げさではないことを大げさではないように語る語りまで、千差万別な位相の幅があるのだろうが、何か特定の事物にこだわることが、他の誰にとってもこだわるような事物ではない場合、その実物についての語りが大げさに感じられる要因となるのかもしれず、たぶんそれが個人の趣味についての語りとなり、そういう趣味ではない人にとっては、大げさに思われてしまうのではないか。そしてその大げさに思われるか思われないかの感じ方が、人によって異なるのかもしれず、その差異に応じて語りの受け止め方にも違いが生じるだろうし、それも個人の趣味として片付けてしまえば問題とはならないのかもしれないが、それがメディア上で取りざたされるような話題ともなれば、誰もが関心を抱かなければならない問題のような気にもなるわけで、その辺に問題となるか否かの基準があるのかもしれず、その基準を満たせば、なにやら社会的な善意の連帯の証しとして、著名人などがその問題について発言するような成り行きをもたらし、またテレビの討論番組などでそれについて論議が交わされるような状況も生まれるのだろうか。

 確かに例えばヨーロッパに百万人を超える難民が押し寄せた現実は、それについて大げさに語りうる絶好の機会を与えているようにも思われ、大げさなのではなく、普通に考えても大問題のように捉えたほうがいいのだろうが、そのような大問題に対して善意の連帯の意志を示せない人は、それについて語る資格などないだろうし、それを外部から茶化したり皮肉ったりしてはいけない問題なのだろう。それでも当事者的な関連の薄い地域に住んでいる人にとっては、それほど関心を抱けない他人事の問題でしかなく、またそれとは異なっているようにも感じられる、隣国との関係をこじらせる原因ともなっている従軍慰安婦問題にしても、70年以上も前の戦争での出来事であり、それも今さら蒸し返されても腹立たしいだけかもしれないが、たとえ隣国との関係ではあっても、現代に生きる人からすれば他人事でしかなく、その辺のところで当事者意識を抱くこと自体が、たぶん勘違いをもたらしているのだろうし、別に70年以上前の戦時中の日本政府や日本軍の行為を、ことさら正当化する必要はないわけで、その必要がなければ他人事のように事務的に処理すればいい問題なのだろうし、今の日本政府もそんな対応に落ち着いているようにも見えるわけだが、それについても文句をつけだしたらきりがないだろうし、文句を言いたい人は言うしかないのだろう。たぶん現代人は、それを自分が関わるべき問題として引き受ける必要のない社会で暮らしているのかもしれず、メディアからの作用によって、他人の問題に善意の連帯を示しながらも、自分が関わっているような自分の問題については、それについては語る必要を感じていないのではないか。少なくともメディアを介して関心が持たれるのは他人の問題であり、それを自分の問題であるように思い込もうとすると、何かずれや違和感を伴うのは当然のことかもしれないが、それを自意識過剰などによって克服してはいけないのかもしれず、あくまでもずれや違和感を保ち続けてないと、メディア的なフィクションの虜となってしまうような気がするのだが、そのフィクションが何かといえば、それは予言の言葉であり、物語的な結末への恐れでもあるわけで、このままでは日本が駄目になってしまう、といった類いの危機感を煽る言説が多いのではないか。そしてこのままでは駄目になってしまうからこうしなければいけないとなり、またそれを信じるか否かの二者択一を促されるわけで、それを他人事として受け流すわけにはいかないとしても、とりあえず善意の連帯を示す前に、できる限り現状を把握しておくべきなのだろうか。


2015年

12月31日「力の格差」

 現状では言論としては政治的に何が有効に機能しているとも思えない。何をどう呼びかけてもそれに説得力があろうとなかろうと、たぶんそういうところでそのような主張が政治的な力を持つわけではなく、論理的にも感情的にも言論の範囲内で何をどう語っても、その主張だけでは賛同を得るには至らないだろう。それでも批判する人たちはひたすら政治的な手法から生まれる欺瞞を批判しているのかもしれないが、それで構わないのと同時に、別に批判が批判者の思い通りの効果を上げているわけではなく、ただメディア上でそんな批判がなされているに過ぎず、それ以上に何がどうなっているわけでもない。批判する側もされる側も、そんなことはわかりきっているのかもしれないが、批判するとしたらそんな批判をせざるをえないわけで、別に架空のフィクションについて語っているわけではなく、現実の政治について何か批判しているはずなのに、やはりそれがどうしたわけでもなく、その批判にはメリハリがなく、相変わらず一方的な批判に終始しているから、そんな批判には何の効果もないというのではなく、どう批判しても批判そのものは何の効果もないわけで、効果のない批判に関しては言論の自由が確保されているのかもしれないが、別に効果のある批判をする必要がないわけではないが、では何が効果のある批判となるのだろうか。それは時と場合にもその批判者の立場にもよりけりで、さらにその時の政治情勢にもよるだろうか。あるいはタイミングが合わなければ、どんな正論を主張しようと効果がないだろうか。たぶんそこから批判だけ取り出して、それの良し悪しを判断するわけには行かず、その時期の情勢から批判が発せられ、しかも批判をしたからといって、批判だけではどうにもならないわけで、たぶん何らかの行為に対して批判がなされるのだろうから、行為とそれに対する批判とでワンセットなのだろうし、批判もその時の情勢の一部に過ぎないのではないか。だから批判の効果云々ではなく、ただ何らかの政治的な行為に対して批判がなされて、それがそこでの一連の現象であり、人はそのような批判がなされた事実を受け止めればいいわけだ。その批判を真に受けて、そのような行為はけしからんとか許せないと思うなら、それを受け止めた人がそう思っただけのことで、だからといって他の人がその人と同じように思うとは限らないわけで、他の人たちもそのような行為をけしからんとか許せないと思えと強要することはできないだろう。批判的なマスメディアに煽られて、世論誘導のような行為に同調しようと、一般の人たちには同じような世論誘導はできないわけだから、そこでメディアと一般の人たちの間には明らかな力の格差が生じていて、メディアの世論調査などから導かれる世論に、一般の人たちが従うとしても逆らうとしても、メディアからは相手にされないのだから、世論は世論としてそのような一方的な行為から導かれるわけで、それに対して自分独自の意見や主張があろうとなかろうと、それを世論と比較しても、それとこれとは異なる次元と経緯から出てきたものなのだから、比較すること自体が的外れで意味のないことなのではないか。

 メディア上で誰かが政治批判をしていても、それに同調したり反感を抱いたりすること自体が、それは二次的な動作であり、その場で生じる感情でしかないだろうし、その政治批判の対象について自身がどう考えているのかを確認しておくべきで、それはその批判者を応援したり非難するのとは別問題で、たぶん批判されている対象とは無関係とは言えないまでも、少なくとも批判されている対象と批判者の存在は、区別しておかなければならないのではないか。その上で批判者に同調したり反感を抱いたり、批判者を応援したり非難したりするのは、政治情勢そのものとは別の水準であることぐらいは認識しておかないと、何かとんでもない思い違いや勘違いのもととなりそうで、果たして批判の対象となっていることやものが、そもそも批判する必要のあることなのか否かについて考えておかないと、批判者の誘導に乗ってどうでもいいようなことやものについて、一緒になって批判していたりするような事態になる危険性があるだろうし、その辺は批判者が批判している対象について、自分の意見なり主張なりを持っておく必要があるのではないか。また批判者の肩に乗って批判しているような感じなってしまうと、虎の威を借る狐のような立場となってしまうだろうし、そんな批判が批判として意味のあることとは思えないだろうし、そんな批判ならやらない方がマシだろう。批判者に同調したり反感を抱いたりするのではなく、まずはその批判の中身を理解すべきで、批判者の批判に関しては、それ以上は特に何もしなくても構わないのではないか。批判者の批判に影響されて自らもその対象を批判したいのなら、その批判者に影響を受けていることを確認しておくべきで、もしかしたら批判者の世論誘導に乗っかっている可能性も自覚しておくべきだろう。もしそうだとすれば、批判者が何を意図して世論誘導を画策しているのか、その理由も考えておくべきだろうし、果たしてそうやって自分がその批判者に利用されることで、何がもたらされるのかも考えておくべきことなのではないか。自分が批判者に肩入れすることで、果たして批判者が意図するような世論の盛り上がりが起こるのかどうかも、気にかけておいたほうがいいのかもしれず、また一緒になって盛り上がっておいて、梯子を外されたらみっともない結果となりそうだし、その辺は批判者がいくら誠実で信頼できるように感じられても、周りの状況次第ではどうにでもなってしまうことだろうし、都合が悪くなったら自己責任で片付けられてしまう危険性もあるのだから、最終的には自分の身は自分で守らなければならない。


12月30日「予想される結果」

 どうも人は自らが置かれた立場や境遇の中で、その立場や境遇に合った役柄を演じているに過ぎず、それをうまく演じられれば好人物に思われたり、逆にうまく演じられなくて周囲との間で軋轢を起こしてしまったり、元の素材としての人そのものには大した違いはないのだろうが、その人が置かれた立場や境遇に伴ってそれ特有の性質が生じ、その社会的な役柄に合わせて、人格や思考や行動が形成されているように感じられるわけで、そこに見出されている人格や思考や行動自体が、その人に課せられた役柄を演じることから派生していて、元からそんな人格ではなかったのかもしれず、それが役柄をこなすことによって後天的に生じた性格だとすると、その思考や言動や行動も、やはりその人が置かれた社会的な立場や境遇から派生しているのではないか。もちろんその人の意識の中では、自ら進んでそのような立場を選び取ったと思い込んでいたり、偶然の成り行きでそのような境遇になってしまった場合もあるのだろうが、例えば怒りっぽい性格だと、周りに怒る対象がいないと怒れないわけで、多数の部下を従えていたり、教師のように生徒を教える立場になると、うまくいかないとすぐに部下や生徒に怒鳴り散らすような立場にもなれるわけで、そういう行為がその場で通用していれば、延々とそれをやり続けて、怒りっぽい性格のままになってしまうのだろうが、それではうまくいかない状況になってくれば、別のやり方を試すしかなくなってくるだろうし、そうやって怒るのとは違う指導の仕方がうまくいくと、怒りっぽい性格は鳴りを潜めてしまうのかもしれない。また特定の思想信条に傾倒して、ネット上で対立しているつもりの陣営を誹謗中傷している人たちも、SNSや掲示板などのネット上のコンテンツがそれを可能としているわけで、そのような人たちの性格や思考や行動に、同じような一定の傾向が見られるとすれば、それはネット上のコンテンツから派生していて、その自覚がなくても彼らはそこから派生している役柄を演じているわけで、それを演じさせる社会的な立場や境遇が、そこに生じていると言えるのではないか。そして役柄を演じることと実際に思考し行動することの間に、差異を感じ取れなければ、それが演技であるという自覚など生じないだろうし、誰も自分が特定の役柄を演じさせられているなどとは思わず、そんなことは信じられないだろうが、演技の舞台となる特定のコンテンツがなければ、そのような現象では盛り上がらないと考えるなら、特定の思想信条に凝り固まるのが、果たして自発的にやっていることなのかどうか、その辺に疑問を感じざるをえないのだが、敵とみなした人や勢力をヒステリー気味に罵倒したり、無理に屁理屈をこねながら嘲笑したりする表現が、紋切り型で画一化されすぎている印象があり、それを自発的にやっているとしたらお粗末すぎるだろうし、やはりそれらのコンテンツに踊らされていたり、特定の役割を演じさせれているとみなした方が無難なのではないか。

 そうなることの良し悪しではなく、誰に頼まれたわけでもないのに、自発的にそうしていると思い込めてしまうところが、そのような社会的な現象の特徴なのかもしれず、他の多くの人たちと一緒になって、同じようなことをやっていることに、それほど違和感がなく、別におかしなことを考えていたりやっているわけではないと感じられるだろうが、それは自らに関わりのある周りの状況に適合しているからなのかもしれず、そう感じられている時点で、自らの立場や境遇から生じている役柄を反映した性格になっていて、その役柄に沿った思考と行動を伴っているから、やっていることにも考えていることにも違和感がなく、周囲とのずれや軋轢を感じないのではないか。それは自らを取り巻く状況と自らが一体化している証しだろうし、そのような状況や成り行きに対しては、正しい姿勢で正しい行いをしていることになり、そうなると状況や成り行きに踊らされていたり、それに応じた役柄を演じさせられている自覚など抱けないだろうか。そんなふうに自らが考えていることややっていることに疑問を感じないとすれば、それは幸せなことで、そんな幸福な状況がいつまでも続くなら、それに越したことはないのかもしれないが、そうすることで他が迷惑を被るような現状があるなら、やはりそれは何かがおかしいわけで、そこで社会の矛盾が露呈していることになるのだろうか。あるいは別におかしいわけではなく、それが当たり前だとすれば、その社会が深刻な対立を内部に抱えていることにでもなるのだろうか。社会の中で何かをめぐって対立や軋轢がないなんてありえないならば、それは当たり前のことだろうし、その存在には他との対立や軋轢を生むような特性があり、そのような立場や境遇を担っている人が、その立場や境遇にふさわしい動作をすれば、やはりそこから当然のごとく、その動作によって他との対立や軋轢を生じるのではないか。そしてそのような結果を当然のことと思っていれば、そうすることによって他との対立や軋轢が生まれることにも疑問を感じないだろうが、それに疑問を感じるようなら、何かがおかしいと思うだろうし、正しいと思ってきた自分の考えや行動に疑念を抱くことにもつながり、自分を取り巻く社会の構造や動作が問題を抱えているように思われてくるだろうか。そうは思わずに、自らの考えや行動の正しさを信じるならば、それと対立している人たちの方が間違っているのであり、その間違っているとみなされる考えや行動の担い手たちを、より一層激しく非難し攻撃することになるだろうか。実際にそうなればさらにより一層自らが担っているつもりの立場や境遇にふさわしい考えや行動を押し通すことにつながり、対立する双方の正しい動作によって、社会の対立から生じる亀裂がより一層深まることになりそうだが、果たしてそのどちらかが勝利してどちらかが敗北すれば、そのような対立は解消されるのだろうか。どうもその辺が違うような成り行きと結果を伴うのではないか。


12月29日「善悪の彼岸」

 人が興味を抱く対象について思考するとき、思考した結果として導き出された認識が、その対象を語る上での内容となるだろうが、特定の何かについて語ろうとすれば、それを肯定的に評価したり、否定的に評価する成り行きにはなるだろうし、その対象を肯定したり別の対象を否定したり、あるいは語る対象の肯定的な部分と否定的な部分を区分けしたり、評価するとは何らかの基準に基づいてそこに差異を設けることになるわけで、何かについて語ることはそういう動作を含んでいる場合があるだろう。もちろん語る内容はそれだけではないだろうし、そのような肯定あるいは否定の評価とは別に、そこで対象そのものを説明しなければならず、ただ終始それを説明するだけにとどまろうとする語りも可能なのではないか。要するに評価せずに、語る対象を肯定も否定もしない態度というのがありそうだ。その場合は積極的に肯定も否定もできない対象について語ろうとしているのかもしれず、それで構わないような立場であったり、そんな姿勢をとる理由としては、その対象とは直接の利害関係にない場合があるだろうし、ではなぜ利害関係のない対象について語ろうとするのかといえば、利害関係とは別の方面に興味があるからだろうか。人もその人が語る対象も、同じ世界の一部であるからには、直接的であれ間接的であれ、わずかではあっても、そこに利害関係を見つけ出すことができるかもしれないが、それよりも重要に思われる関係を見出すことができれば、何も利害関係の面から語る必然性を感じられなくなるだろうし、利害を重視しなくても、それとは別の方面から語った方が興味深く思われるなら、そちらの方面から語ろうとするだろうし、語る対象からそのように語れる可能性を感じ取っているのかもしれない。そしてそのような可能性に導かれながら語っている現状があれば、それに従いながら語れば、より一層対象の本質に迫ることができるかもしれず、そのような語りから確かな感触を得られるなら、改めて別の方面から語る必要も感じないのではないか。しかし利害関係とは別の関係とは具体的に何なのか。また肯定や否定の評価を伴わない対象とは何なのか。それは他と比較することが意味をなさない対象だろうか。たぶんこの世界全体について語ろうとするなら、他がないから比較も肯定も否定もできないだろうし、利害とは別のことについて語らなければならないだろうか。逆に考えるなら、この世界の一部分を切り取って、それを対象として語ろうとすると、他の部分との比較が可能となり、その部分と比較して肯定したり否定したり、そこから利益を得ているなら、他からは利益を得ていないことになるかもしれず、そうやってこの世界の一部分との利害関係が生じるだろうか。

 何かについて語る上で、語る対象を特定すると、そこに焦点が当たることになり、他との違いを語ることになるだろうし、それを肯定的に評価すれば他を否定的に評価したり、またその逆もあるだろうし、そんな肯定否定の指標となる基準を設ければ、そこから語るターゲットとなる対象と、それと比較する他の対象との差異が明らかとなるだろうか。そしてその比較の前提となる指標や基準を明確に示せれば、なにやらその語りに説得力があるように思われるのではないか。だがそのような語り興味がなければ、それとは違う別の何かについて語る余地が生まれる。世界の一部分だけ切り取って、それについてだけ語るのは、ある意味でずるいのではないか。正義を語り語っている自らを正当化するとき、そうすることで他の面についてはあえて語らないことの欺瞞を回避できるだろうか。それと同時に正義や自己正当化から生じる欺瞞についても語らないと、話の整合性が取れないのではないか。そういう意味で話の内容を信じさせてはまずいのかもしれず、それが信仰に結びつくような内容は避けたほうがいいだろうか。一方的な善や悪について語ってはまずいだろうし、何が善で何が悪かの決めつけは周到に回避すべきかもしれない。それが世間的に悪い行為だと見なされている状況があるなら、そう見なされている経緯について説明すべきだし、そのような行為に至った過程についても説明すべきだろうか。たぶん興味深いのは善悪の判断ではなく、善悪の判断がなされる経緯であり過程なのであり、人が世間的に悪いと見なされる行為に至る説明なのだろう。だから別に語りの中で対象を非難したり糾弾したりする必要はないのであり、一方的に悪だと決めつけ、決めつけている自らに正義があるように見せかけたり、語っている自らを正当化するには及ばないのだろう。それこそが語りの範疇から逸脱しているのかもしれず、誰かがひどいことをやっているように感じられるなら、そのやっている行為を説明すればいいだけで、それをひどいだの許せないだのと、わざわざ自分の感情に基づいた感想を述べるまでもなく、語っている対象にも、それを語っている自分にも肩入れすることなく、中立的に語れば済むことで、場合によってはそこに肯定や否定の評価を挟む余地もないのかもしれない。とりあえずは善も悪も肯定も否定も、それら全てを含んでいるのが、この世界そのものなのだから、この世界で行われていることのすべては、それをやることができるからやられているわけで、誰もやるのが不可能なことはやっていない。つまりそれをやっている現状があるのだから、たとえそれがひどい行為だろうと、そのひどい行為をやれる状況があり、それをやめさせることができない現実があるわけだ。


12月28日「装置」

 装置とは何だろう。世界は人が作った装置で覆われていて、街中や工場地帯などの人工的な環境では特に何らかの装置だらけだろうか。人が社会の中で暮らしていれば、何をやるにも装置に頼りきりだろうか。ほとんどの人は社会の外では暮らしていけないだろうし、普通は社会の内部で身の回りが何らかの装置に囲まれながら暮らしているわけだから、装置とは何かと改めて問うまでもなく、文明的な生活環境ではそれを維持するための様々な装置を必要としていて、人工的に作られた装置こそが人類の文明そのものを表しているのではないか。ならば装置とは何か。すでに語ってきたそれが装置なのだろうか。具体的には人が何らかの形で利用している機械類全般が装置と言えるだろうか。それ以外の装置があるだろうか。比喩的には人そのものが社会的な装置と言えなくもない。つまり人が利用する装置の中には人自身も含まれ、それをロボットのような存在と捉えている場合もあるのではないか。人は装置としての道具を作る一方で、人自身を道具に見立てて操作している現状があるなら、操作される対象としての人は、機能的には何らかの装置とみなしても、それほど不思議ではないだろうか。そんな人の道具化が人類の文明を特徴づけているなら、人を生かすために人が人の道具と化していて、道具を使って人を生かす文明自体を一つの装置と考えれば、単純化すれば人が繁栄し、人を繁殖させる装置が文明なのかもしれない。比喩的にそんなことを述べて行くと、いつの間にかそれは装置としての目に見える具体的な機械類から離れて、何やら思考や想像力が生み出す言語表現から導き出される装置について述べているように感じられてくるが、そんなふうに人が作り出す装置と、その結果として現れる文明と、さらに人自身を混同して、それら全てを装置とみなしてみても、一方で人は人であり、人以外の何物でもないと同時に、例えば人は考える葦であるといった歴史上の著名人もいたはずだが、人を何か人と関係する別の事物に見立てることによって、逆説的に人の特徴を浮き彫りにしたい、という何やら難解な哲学的な観念に至りたい衝動は、人の思考作用の中で魅力的な動作に感じられるだろうか。そんなわけで人が人であると同時に、機能的に何か別の事物であるとしたら、人を何に見立てたら説得力を伴う対象となるかといえば、人を何らかの装置に見立てる思考へと至るだろうか。しかし装置とは何だろうか。社会の中で人を何らかの状態に変容させるのが装置なのかもしれない。それとも人を何らかの状態に保っているのが装置だろうか。両方とも装置だと解釈しても構わないのかもしれないが、ではそういう機能を担っている装置とは具体的に何なのか。

 フーコー的に言えばそれは学校や企業や病院や刑務所などの、人を収容する施設だろうか。可視的な施設なら他にもいくらでもありそうだが、例えばそれがメディアとなると、文字や映像や音声によって、人をある状態から別の状態へと変容させたり、あるいはある一定の状態に保つ機能があるだろうか。それによって人をどのような状態へと変容させたり、あるいはどのような状態に保つのかが問題となり、結果から考えれば、現実の政治情勢や経済状態の中で、何か有利に事を運んでいるように思われる政党や企業や行政機関などが、様々な社会的な装置を有効に利用していることになるのだろうか。それが権力を行使していることとみなされるのだろうが、誰もが各種装置を有効活用できるわけでもなく、活用できる権限や立場というものがあって、特定の団体や個人にその権限が委ねられているように見えると、何か不平等で不公平な感じがしてくるわけで、できれば誰もが平等に各種の社会的な装置を活用できるようにしたいのかもしれないが、それを活用することで利益がもたらされるならば、やはり自らが有利になるように利益誘導を画策するだろうし、そうなると利益を得るための闘争や競争が起こるのは必然で、実際にそうやって利益の奪い合いが社会の様々な水準で発生しているのだろうか。そんな闘争や競争に加わることが人の社会参加であり、それもある種の戦争状態を醸し出しているのかもしれず、そこでは自らや自らの陣営に有利に事が運ぶように、装置の効率的な有効活用や装置自体の絶え間ない改善が試みられ、様々な方面からのそのような働きかけが、社会全体を人類の文明として一つの装置に仕立て上げているのかもしれない。そして近頃はその装置の稼働が地球の温暖化をもたらしていて、そのままの状態で稼働し続けると大変なことになるから、どうにかしようという論議まで起こっているわけだが、たぶん人はその装置自体の特性や機能を完全に把握しているわけではないので、どこをどういじればどうなるかについて、よくわからない箇所がかなりの部分を占めているのかもしれず、いろいろな面で予想や予測はされているのだろうが、必ずしも予想通りや予測通りになるとは限らないだろうし、実際にやってみなければどうなるかわからないのではないか。しかも何をどうするのかについても、その方針をめぐってもめている現状があるのだから、結局今のところはその装置の全体像を把握するまでに至っていないのだろうし、もしかしたら装置に対する知識が不足していて、そこから勘違いや思い違いまで生じているのかもしれず、下手に制御しようとすると誤作動を引き起こす可能性もあるのかもしれないが、それでも人は制御しようとするだろうし、人類にとって利益を引き出すような試みが今後も続けられるのだろうか。


12月27日「政治的な解決」

 少し謙虚にならないといけないだろうか。国家の力を侮ってはならず、政治力で問題を解決させる能力があることが証明されつつあるのだろうか。しかし何が問題となっていたのだろうか。だいぶ昔のことなのでもう忘れてしまっているかもしれないが、たぶん大したことでもなかったような気がしていて、無理に対立を煽り立てなければ容易に解決する問題だったのではないか。そしてそれがどうしたわけでもないことに誰もが気づき始めるまでに、大して時間がかからないことが証明されてしまったのだろうか。そうなってしまえばもう問題なども解決したも同然だろうか。それで解決したことになるなら、大した問題ではなかったのだろう。騒ぎ立てて対立を煽るほどのことでもなかったわけだ。それでどちらかの面子が潰れるわけでもなく、双方が痛み分けとなるわけでもなく、元から大した問題でもなかったことが明らかとなったのだろう。しかしこの世界で政治的に解決すべき大した問題と呼べるような問題があるだろうか。いくらでもあるのかもしれず、未だ解決できていない問題がそうなのかもしれないが、それも解決に向けて様々な方面で協議が行われているとすれば、それらの問題もいずれは解決する可能性もありそうだ。それはただそういうことでしかないのだろうか。問題化している問題ならそういうことなのだろう。一方で問題化していない問題というのが果たしてあるだろうか。そもそも問題化しなければ問題とはならず、別にそれを政治が解決するようなものでもないのではないか。具体的にそれはなんなのか。例えばそれはフィクションの問題であったりするだろうか。歴史認識の問題などは虚構の問題に属するのではないか。それに関してはおおもとの西洋と東洋の対立図式自体がフィクションであるだろうし、古代にさかのぼって何が文明の起源であろうと、それが現代にそのままつながっているわけでもないのだろうから、現状の世界情勢に過去の歴史的な経緯などをいくら絡めても、過去は過去であり現代は現代で、現代において認識している歴史的な経緯が問題となるだけで、過去の恨みつらみなど他人事として突き放してみるしか、妥協がはかられるきっかけは生まれないだろうし、別にそれで妥協したとしても、そんな妥協にどんな意味もないだろうし、そこに否定的な感情を挟む余地などないのではないか。歴史的な経緯から生じるフィクションに思い入れがあるとしても、それはフィクションとみなして済んでしまうことで、現実は現実として別にあると考えておいた方が、少しは冷静な現状認識に至れるだろうか。実際には利害の絡んだ打算がつきもので、損得勘定から妥協がはかられる傾向にあるだろうし、政治的な交渉などそんなものでしかないのだろうし、政治的な解決もそんな範囲内で行われるのではないか。もちろんそれ以外の何が求められているわけでもなく、それで構わないわけで、何も否定されるものではないだろう。

 その一方でフィクションは解決を必要としない。それは問題ではなく虚構なのだろうし、虚構であるがゆえに問題とは違う位相があるだろうか。いつまでも数十年前の戦争にこだわりたいのも、そこにフィクションとしての魅力が見出されているからだろうか。では人はフィクションとして構成された戦争から何を得るに至るのだろうか。それが史実に基づいた戦争なら、当時の歴史的な背景でも知ることになるだろうか。例えば戦争を題材とするフィクションから戦争以外の何かを得ることになるとしたら、それは何になるだろうか。人それぞれで異なるだろうが、戦争も人が集団で行う活動の一つであることは確かだろうし、集団で殺し合うのも人の社会的な習性には違いなく、そうやって社会を絶えず活性化してきた歴史があり、それを契機として人類の文明も新たな段階へとステップアップしてきたのだろうか。それは集団での殺し合いを抑制するような効果と、促進する効果の両方を同時に生み出してきたのかもしれず、無駄で無意味な殺し合いを避けて、そこにはより効率的で効果的な殺傷を目指すように、戦闘そのものを進化させる傾向があるだろうし、それは戦術や戦略面での工夫であると同時に、兵器や武器の戦闘局面での用途に合わせた改良をもたらし、よりスマートかつ迅速な戦闘行動を促す結果をもたらしているだろうか。要するにそれは戦争の目的に応じた専門化と細分化を促進させ、専門的な知識と技能を必要とする戦闘に特化した集団の編成が要請される結果を招いているだろうか。そうしたプロ集団に対して、一方では義勇兵的なアマチュアの戦闘集団も存在しているだろうし、世界の紛争地帯では両者が混在している事態となっているのではないか。たぶん戦争に幻想を抱いているのは、そうしたアマチュアの戦闘集団だろうし、彼らはフィクションとしての戦争から幻想を得ているのかもしれず、戦闘に参加している自分たちが、何か崇高な大義のために戦っているような幻想を抱いているのではないか。そしてそれをもたらしているのが歴史認識だろうし、彼らにとっては過去の歴史的な経緯が現代にもつながっていて、それが例えば西洋文明の侵略から、自分たちのアイデンティティを取り戻すための戦いとみなされたり、過去においては西洋以上に栄えていた文明を再興させることが、自分たちの使命であり大儀であると思い込んでいたり、そういう幻想を戦争に絡めると、やはりそれは現実以上に魅力的なフィクションとして戦争が機能するのではないか。そういう意味で彼らは戦争によって社会を活性化させようとしているのであり、その自覚がなくても彼らの思考や活動が人の社会的な習性を示しているのだろう。果たしてそんな彼らに政治的な妥協の余地があるだろうか。たぶん崇高な大義を信じている限りは聖戦を遂行しているつもりだろうし、損得勘定をもとにした打算や妥協は許されないかもしれないが、それが建前で本音が違うところにあるのだとすれば、まだ政治的な解決の可能性もあるだろうか。


12月26日「無力感」

 悲惨な最期を遂げた独裁者といえば、最近ではリビアのカダフィ大佐が有名だろうが、過去にはルーマニアのチャウシェスク大統領や、古くはイタリアの元祖ファシストであるムッソリーニなどがその典型だろうか。それらの人たちは栄華の絶頂期に死んだのではなく、反乱を起こされて惨めな敗走の末に無残な殺され方をしたわけで、現状でそうなる危険性を十分に認識しているだろうシリアのアサド大統領などは、やはり死に物狂いでそういう運命から逃れようとしているだろうし、あらゆる手段を使って自らの権力を守ろうとしているのだろう。そしてそんな境遇の独裁者を生み出さないためには、民主的な選挙と政治制度が必要であり、実際に世界の多くの国でそのような制度が採用されているわけだが、実際に大統領や首相などの国を代表するような役職に就いた人たちは、自らの権力基盤を磐石にするために動くだろうし、自らに敵対するような批判勢力を押さえ込もうとするのではないか。そのような行為を受け入れるか否かは、そのようなことをやっている人を支持するか否か、ということになるだろうし、最終的にはその国の国民の判断に任されているのだろう。もちろん国家の行政を司る官僚機構や、経済的な影響力を持つ産業界や、国民の世論形成に影響力を持つマスメディアなどを味方につけていれば、権力基盤はより磐石になって、長期的に政権を担うことも可能となってくるだろうし、日本の現状もそんな成り行きになろうとしているのかもしれない。だからと言って権力者と目される人物に何ができるわけでもないだろうし、国内の官僚機構や産業界やマスメディアなどの動向とともに、同盟関係にあるアメリカや、中国や韓国などの近隣諸国との外交関係なども絡んでくるわけで、それらから及ぼされる影響などから、やれることもおのずから限られてくるのではないか。それは歴史上の独裁者と呼ばれた政治家などにも言えることで、彼らが取り立てて好き勝手に振舞っているように見えたのも、周囲から及ぼされる様々な力関係の上でのことで、カダフィ大佐などは長期政権を築いていた割には、意外に権力基盤が脆弱だったようで、反乱を起こされてあっけなく殺されてしまったが、それを見ていたシリアのアサド大統領には学習効果もあったのだろうし、軍事基地を置いている大国ロシアの後ろ盾もあって、今のところは粘り強く権力の座にしがみついているわけだが、内戦の状況も混沌としていて、シリア政府側の支配地域も限られて、とてもここから全シリアを掌握するまでに勢力を挽回するのは不可能かもしれないが、それでもアサド大統領は無残に殺されるような運命から逃れて、どこかの第三国へでも亡命して、悠々自適な余生でも送れるのだろうか。

 そんな他国の独裁者の運命など知ったことではない、平和な地域に暮らしている人たちにとって、現状の政治について何か望むことがあるだろうか。日本に関していえば、現政権やその取り巻きの国粋主義的な幻想を抱いている人たちを退けて、もっと何か欧米流の自由と平等を愛するような人たちに政権を担ってほしいだろうか。たぶんそれも絵に描いた餅のような幻想に過ぎないのだろうし、欧米流の自由と平等の建前さえ、その欧米で危機にさらされている現状もあるのかもしれず、世界的に資本主義的な利益追求原理から生じた、貧富の格差などの社会の矛盾が露呈している現状があるのだろうか。それは今に始まったことではないだろうし、昔からそうだったのだろうが、どれほど昔なのかは判然としないが、とりあえず経済状態がうまくいっていたように思われていた昔は、まだ幻想を抱いてもそれほど疑念を感じられずに済んでいたのだろうし、バラ色の未来を夢見ていても、そんなにおかしいとも思われなかったのだろうが、長期的に経済成長が頭打ちになってくると、将来に漠然とした不安を感じるようになってくるのかもしれず、そうなるとこ心に余裕がなくなってきて、民主主義のきれいごとを主張するような人たちを受け入れがたく思われるようになるのだろうか。長期的には経済的な利益追求原理が社会の主流となっている風潮の中で、だんだん競争相手が多くなってくるとともに、競争そのものも熾烈になってくると、きれいごとを言っているようでは通用しなくなってくるのかもしれず、それが自分たちとは主義主張が異なるように思える他者への不寛容につながっていて、場合によっては攻撃対象にもなってくるのだろうし、現状でうまくいっている人たちは、利益を共有していると思われる人たちと、自分たちが担っているつもりの利権を死守しようとする一方で、他者に対する寛容を説いてまわるようなきれいごとを言う人たちを敵視するようになるのだろうし、そういう人たちは利益を共有しない他者として、排斥の対象ともなってしまうのかもしれない。そしてたぶん今後もそんな傾向が続くような経済情勢なのかもしれず、現状で権勢を振るっているように思える不寛容な人たちの存在は、世界的な政治経済情勢を反映した結果なのだろうし、とても日本一国だけで解決できるようなことでもないのではないか。それでも民主的な政治制度が一応は機能していると信じるなら、できれば寛容精神に富んだ人たちを選挙で選んだほうが、国力は退潮傾向になるとしても、民主主義のきれいごとを言っていられる環境に近づくだろうし、その反対に利己的な利益追求原理を目指す人たちを選ぶなら、何やら国家間や企業間の競争が激化しているように感じられる世の中になるだろうか。どちらにしてもそうなる以前に、世界経済を政治では制御できないことが明らかとなり、政治そのものが形骸化や空洞化を被って、何をやっても大して影響力がなくなってしまうのかもしれない。すでに現状でもそうなっているのではないか。


12月25日「世界像」

 人と人との出会いはフィクションの中では何をもたらすだろうか。語る上で重要な人物たちが出会わないと、話が前に進まないだろうし、出会って対立したり共闘したり、そんな成り行きが物語そのものを構成しているわけで、そこで出会った人々のやり取りが興味深く感じられ、それがフィクションの魅力となるのだろうが、物語的な虚構の話にそれ以外の何を期待できるだろうか。主要な登場人物たちが全く出会わないまま、すれ違いのままで話が終わることはないだろうか。それでは話にならないだろうし、そんなつまらない話があったとしても興味を抱けないだろうか。普通に考えれば、人と人とが出会わない限りは話にならないだろうし、話にならない話というのは不条理そのものだろうか。例えばイスラム国の戦闘員たちがアメリカやロシアの大統領に出会うことはまずないだろう。話を単純化するなら、そんなありえないことが起こるのがフィクションかもしれず、話の主人公が末端の戦闘員として戦っているうちに、何かの巡り合わせで敵の最高実力者に遭遇して、それを倒す話になれば興味深いだろうか。もちろん話にリアリティを持たせるためには、何か主人公が特殊な任務を帯びていて、それが敵の最高権力者の暗殺であったりするのだろうが、そういう特殊な事情を設定しない限り、なかなか一兵士に過ぎない身分の者が、敵の最高実力者を倒す成り行きには持っていけないだろうか。普通に荒唐無稽さを排除するなら、末端の戦闘員が末端の戦闘で死んで話が終わってしまえば、何かそれが戦争の悲惨を訴えているような感じになるのではないか。そしてそんな話の映画やドラマでは儲からないと製作者側が判断すれば、やはり荒唐無稽な娯楽超大作を製作したがるかもしれず、そうなると敵の最高実力者と主人公との間には、何やら浅からぬ因縁というのが設定されて、また主人公が超人的な力の持ち主であったりして、末端の戦闘などで死んでしまうわけにはいかなくなるわけで、必ず敵の最高実力者と一戦を交えるような展開に話を持っていかないと、娯楽超大作である意味がなくなってしまうだろうし、主人公と最終的に戦う敵の最高実力者も、主人公を凌駕するような超人的な力を持っていたり、とっておきの強大な兵器などを駆使して、フィクションの中では絶大な力を誇示していたりするわけで、その強大な兵器が使用されて大規模な破壊や大量虐殺が起こったり、そういう大掛かりな仕掛けが娯楽超大作のファンの願望を投影しているだろうし、それは現実の世界に対する人々の願望をそのまま映し出しているだろうか。娯楽超大作と言っても一概にそんな傾向のものばかりとは限らず、史実を基にしたものであれば、例えば実在したどこかの国の大統領などを主人公に据えれば、荒唐無稽な感じは薄れ、そんな歴史上の政治的な権力者や、それと関わりがある人物が世界を動かしたような話なども、いくらでもありそうだが、ともかく娯楽超大作となると、主人公が大それたことをやらかしたことに焦点を当てるような類いの話となるわけで、それ相応の大げさな仕掛けを伴い、それが一般の人々の誇大妄想的な願望にうまくフィットすれば、それだけ絶大な人気を博して、メディア的な話題を呼んで社会現象化するのかもしれない。

 そうやって現実の世界で地道に生きている人たちの気晴らしとなれば、それ相応に評価されるのだろうが、一方で現実をありのままに表現しようとするフィクションもあるかもしれず、しかも何か大げさな事件や事故ではなく、ただのありふれた日常しか描き出されなければ、それは興味深い内容となるだろうか。例えば何の誇張も歪曲もないありふれた人のありふれた生活を、改めてフィクションとして体験したいだろうか。それが批評的な視点で肯定的や否定的に描き出されていれば、何か興味深く思われてくるのかもしれないが、その批評的な視点というのが、そこに製作者のこだわりが含まれてくるわけで、そのこだわりが日常の誇張や歪曲と言えなくもないわけで、興味深く思われるとしたらそこに焦点が当たっていることにもなり、その点が誇張されて話全体が歪曲を被り、何やらそこに製作者の主張が盛り込まれているような感じとなってしまうのかもしれず、それをフィクションとして再構成しようとする意図そのものにも、それがあらかじめ含まれているのだろうから、話がフィクションである限りは、何の誇張も歪曲もないありふれた人のありふれた日常とはなり難いのだろうし、そこに製作者の意図や思惑が含まれていると捉えておいたほうが、話に真実味がより増してくるのかもしれない。要するにそれは普通の人々のありふれた日常への批評として機能するのかもしれず、時としてそこに普通の人々が抱いている夢や願望が映し出され、そこから生じる錯覚や勘違いも導き出されたりして、それを普通の人々に見せれば、不快に思われるような現実も描かれてしまうかもしれず、そういう部分から何やら教訓や啓蒙的な意味合いが生じれば、そのようなフィクションが気晴らし以外で評価される可能性もあるだろうし、娯楽として消費されるだけではない、フィクション特有の社会的な役割を担うのかもしれないが、たぶん初めからそんな役割を担うためにフィクションが作り出されるわけでもないだろうし、人々の興味を引きつけるための娯楽超大作でも構わないわけで、商業的にはそれ以上の何をフィクションに求めるわけにもいかないだろうし、実際にそれを目指して大掛かりなフィクションが作られている現状があるわけだから、一般の人々にとっては大衆娯楽として消費されることを目的としたフィクションで十分なのではないか。そこに教育的価値や啓蒙的な効果などを期待してしまうと、途端に政治的なイデオロギーを挟もうとする意図や思惑を感じてしまうわけで、しかもそれが一方的な政治宣伝しか含んでいないように思われると、作品自体の質云々以前に興味を失ってしまう。別にそれは右翼的な政治思想だけを言っているわけではなく、リベラル的な平和思想やエコロジカルな自然思想であってもそうなるわけで、たとえ人間愛に満ちたヒューマニズムであってもおかしいと思われるわけだ。要するに一方的ではなく、それら全てを含んでいないと何となくリアリティを感じられないわけで、この世界と地続きな感覚を得られないのかもしれない。


12月24日「現状の把握」

 語る対象を否定したり批判すればわかりやすいだろうが、あえてずれた結果をもたらすことを恐れずに、支持や共感を得られないようなことを、わざと語っているわけでもないだろうが、結果的にそうなってしまうとすれば、それはまだよくわからないことについて語っていて、うまく説明できないことを説明しようとしているのかもしれず、これからもそんなことが繰り返されるだろうか。他人が関心を抱いている事象についてケチをつけようとしているわけでもないのに、結果的にそう受け取られるようなことを述べているのかもしれず、沈黙をもたらすために攻撃を加えているように思われるとしても、魅力を感じられなければ無視をもたらすだろうし、意味不明なことを述べながらも、意味をもたらそうとしているように感じられるとしたら、たぶんそこに意味を見出しているのではないか。語ることに意義があるとしたら、それは幻想や勘違いではなく、本当に意義があるのかもしれず、そう語ることによって、何らかの理解に至りたいのかもしれない。今は理解していないかもしれないが、いつかは理解する気でいることは確かかもしれず、それを今も理解しようとしているのではないか。そして何を理解しようとしているかは、それは今語っている内容となるのだろうか。そこからずれて、言葉を組み合わせながら何か語ろうとしていて、それが適切な表現とはならないかもしれないが、やはり他からの支持や共感を得ようとする行為とは違い、まずは自分の理解から外れようとして、思いがけない理解を期待し、自分がそう思うのではなく、文章上に構成される内容が、それを読んでいる誰かに思いがけない理解をもたらし、その誰かの中に自分が含まれないとなると、その自分とは別に、文章上で語っているように構成される語り手も、理解の範疇から外れてしまうのかもしれず、自分がそうしようとしているのではなく、語り手もそう語っているのでもないのに、文章を読むとそう思われることを期待しているわけでもないのだろうが、それがよくわからないことなのかもしれない。そしてわからないまま文章を記しながら、思いがけない内容になるのを期待しているとしたら、それこそが勘違いの幻想なのだろうし、別にそれを実践しようとして書き記しているのではないのだろうが、結果的にそうなるようにしたいわけでもないのに、なぜか自らが書き記しつつある文章の内容を、自意識は理解しようとしない。自分から外れるとはそういうことだろうか。現実にはそんなはずがないのだろうが、そうなることを狙っているわけでもないのに、語り手がそれを期待しているような内容となってしまえば、結果的にはそう感じられるのだろうし、実際にそんなことを記している現状があるとすれば、自意識にとっては思いがけないことなのではないか。果たして記された文章の内容は、実際にそうなっているのだろうか。そんなことはないと思いつつも、幾分かはそれを期待しているようで、後からそれを読み返してみるのが楽しみというわけでもないのだろうが、そんなことを思いつつも現状を把握しようとする。

 まだ現状の何が終了しているわけでもないのだろうが、終わらないまでも終わった気でいたいのだろうし、何かを終わらせようとしていることは確かかもしれない。少なくとも語っているつもりでいる以上は、それについて考えているわけではなく、考えていないことを語っているつもりで、実際には言葉を記しているのだろうが、たぶん考えてしまうと語れなくなり、語れなくなると文章が成り立たなくなり、結果的に記述が停滞していることになるわけだが、今はそれを楽しむ余裕が感じられず、ただそれを語っているように見せかけたいのだろうし、具体的には何について語っているのかはっきりしないにもかかわらず、それを意識しないまま言葉を記しているわけで、それは少なくとも他人の語りにケチをつけようとしているのではないにしても、何か軽い気分を装いながら、世の中の情勢に対する批判から逸脱しようとしているようで、自意識の狙いはそこにあるのかもしれないが、そこに至らずに語りが継続されてしまいそうで、意識して批判を避けているのではないだろうが、現実的に批判する状況にないことも確からしく、何を批判するつもりもないのだろうし、具体的な批判の対象を素通りしながら、それを無視するでもなく眺めているつもりで、なおかつ言及は避けているのかもしれない。その必要がないわけではないのだろうが、今さら何を批判する気も起こらないとは言えないし、批判すべきことは山ほどあるにしても、それを批判してはまずいような気もして、あえて批判せずにおいた方が、現状の理解につながるような気もするわけで、聞く耳を持たない人たちが、実際に政権批判を続けた結果が現状を醸し出しているのかもしれないが、ならば他にどんなやり方があったのかと問われれば、こんな成り行きになるしかなかったのだろうし、それで構わないのだろうし、結果から見ればなるべくしてなった結果なのだろう。しかもそれで構わないわけで、状況的には予定通りの結果なのかもしれず、愚かな人たちが徐々に黙り始めれば、それに越したことはないだろうし、誰がそうなることを狙っていたわけでもないだろうし、結果的にはざまあみろかもしれないが、それでいいわけで、さらにそのざまあみろ感が増長するにしても、増長させるのが無意識の狙いとも言えるわけで、誰がそうなることを狙っているでもないのに、結果的にそうなってしまうなら、やはりそれが狙い通りの結果なのだろうし、それを目指してそうなったわけでもないのだから、それは思いがけない結果がもたらされていると捉えた方がいいのではないか。世の中の状況や情勢は常にそうやって作り出されるのだろうし、誰がどんな意図を持って作り出しているのでもないのに、結果的にそうなってしまうわけだ。そして今後ともそんなふうに状況は推移するのだろうし、誰の思惑通りでもなくそうなっていくのだろう。そんな自然の成り行きに逆らうのは愚かだろうし、愚かであっても構わないのだろうが、愚かであれば愚かなりの理解を得られるのではないか。そしてそれが何の理解であるかは、実際に愚かな行為を続けている人にしかわからないのかもしれない。だからそれをわざわざ批判する必要はないのかもしれず、よくわからないことにしておけば事足りるのだろうか。


12月23日「韓国終了!中国終了!」

 単純な予言などすべきではないかもしれないが、どうしても何かの終わりを予言せずにはいられないのが世の中の風潮かもしれず、対立しているつもりの近隣諸国の経済情勢が悪化すれば、そら見たことかと終了!終了!と叫ばずにはいられないわけではないのだろうが、一方で日本政府や議会与党の政策のまずさを言い募って、近い将来に起きるだろう日本の終了を予言せずにはいられない人たちもいるのかもしれず、あるいはまた原発事故が起こる危険性を指摘しながら、それに絡めて日本の終了を予言する向きもあるだろうが、それらの人たちは無意識のうちに終わりを望んでいて、その終わりへの期待というのが、その裏返しとしていつまでたっても終わらないことに対する、漠然とした不安があるのかもしれず、自分の意に反して執拗に繰り返される事象に対する嫌悪感や、それがこのまま延々と繰り返されるだろう不安から逃れるために、不安を掻き立てる事象の終了を予言したり断言する心理的な動作が生まれるのだろうか。それを多くの人たちが強迫神経症に罹っていると見なせば、話が単純化されてしまうのだろうが、仮にそんな終わりが訪れたからといって、それは本当の終わりとなるのだろうか。たぶん仮の終わりには続きがあるだろうし、それが終わりではないことは証明されてしまい、落胆した人々はまた新たな終わりの予言を捏造する羽目になるのかもしれず、要するに終わりはいつまでたってもやってこないが、そこで絶えず繰り返されるのが、終わりの予言と断言になるわけで、いつまでたっても終わらないことから生じる不安を紛らわすために、人は終わりを期待せずにはいられないという心理状態からよりいっそう逃れられなくなるだろうか。そういう意味で終わりを予言したり断言する人たちは、心弱き愛すべき人たちなのかもしれず、韓国終了!中国終了!とネットに書き込まずにはいられない人たちも、このままでは独裁政治によって日本が終了してしまうと危機感を煽っている人たちも、基本的には同じ類いなのだろうし、しかもそれらの人たちの意に反して、何も終わらないとすれば、そんな終わらなさ加減が、この世界の真の姿を表しているのかもしれず、その特性こそが多くの人をそんな心理状態へと追い込んでいるのだろうか。そして何かが終わることで、自分がその中にいる状況に区切りがつき、それ以降は新しい世界が始まるかのような幻想を抱いてしまうのも、この世界がもたらす心理作用なのかもしれず、酷い世の中を終わりに導く救世主の出現を待ち望む心理なども、その類いになるだろうか。そんなふうにして人は実際に体験しつつある現状に、願望としてのフィクションを重ね合わせて、終わりなき日常をやり過ごそうとするのかもしれないが、それが果たして錯覚や勘違いであるのかないのかは、終わりが来ない間は錯覚や勘違いであり、実際に終わりが来て初めて真実となるわけか。

 だが実際には何をもって終わりとみなすかが、終わってみないことにはわからないかもしれず、仮にそれを終わりだとみなしても、そのあとに続いてしまえば終わりではないだろうし、そのあとに何かが続いてしまう現象があるとしたら、それが本当の終わりだと言えるだろうか。そういう意味で終わりを予言したり断言することに、大した重要性はないのかもしれず、それを予言したり断言することで、自らの不安な心理状態を紛らわす効果しかないとするなら、それは内面的な自己満足をもたらすだけで、それに同調しない人にとっては何の気休めにもならず、うちわで終了!終了!と確認し合うだけでは、たぶん状況的に何がどうなったわけでもないのではないか。とりあえずその手の安易な予言や断言を繰り返していれば、あとは何もやらなくていいというのなら、それを流行らせればそんな予言や断言が行き交う世の中になるわけで、そういう世の中の方が居心地がいいというのなら、そういう人たちの天下となるのかもしれず、そんな予言や断言が延々と繰り返されるとすれば、それもある意味で終わりなき状況なのだろうし、終了!終了!と叫びながら、終了を叫ぶ行為が終わりえないというのは、要するに終わりの無限循環という様相を呈することになるのだろうか。現実に終わりえなければ、終了!と叫ぶ行為も廃れて、また別の予言や断言が流行するのかもしれない。それでもまた別の予言や断言が流行るとしたら、予言や断言が延々と繰り返される状況が終わりえず、そんな終わりえない状況に不安を覚える人たちが、それを紛らわすためにひたすら予言や断言を繰り返すという悪循環が待ち受けていたりするのだろうか。そうなるとやはり終わらない状況の無限循環に陥り、それらの予言や断言が錯覚や勘違いであることが証明されてしまいそうだが、現実には錯覚や勘違いに気づかないことが証明されてしまうのかもしれず、果たしてそれでも予言や断言が終息する気配がなければ、予言や断言が錯覚や勘違いからもたらされ、しかもそれに気づかないまま予言や断言を繰り返すしかないのであり、そんな人たちの行為によって錯覚や勘違いが証明されているのに、行為に励んでいる人たちは、自分たちの行為によって、自分たちの行為が錯覚や勘違いであることが証明されているのに、それが証明されていることすら気づかずに、ひたすらその種の予言や断言を延々と繰り返す羽目になるのであり、そのような行為によって、終わりが永久に訪れないことも証明していることにもなるのだろうか。もちろん話の途中から何かと何かを混同して、意図的にはぐらかしているから、そんな結果を招いているのだろうが、ともかくそんなごまかしの範囲内では、終わりを予言したり断言するのは愉快な行為なのではないか。


12月22日「結論」

 大した目的意識もないまま、ただ語っているつもりの現状を維持しようとすると、語る必然性を感じられないようなことを、無意識のうちに語ろうとしているのかもしれないが、語ろうとする限りは、あえてその必然性を装うしかないだろうか。実際には何を深刻ぶって語りたいのでもないだろうし、その必要がないから語る必然性を感じられないのだろうが、例えばそれを現状に結び付けない限りは、何を語ろうと無関心の範囲内に収まるだろうか。しかも現状に対して危機感を煽らない限りは人の関心を惹かず、人は過去と現在を結びつけて、将来の危険性について大げさに騒ぎたいのかもしれず、そうすることによって他の人たちの関心を惹きたいのであれば、いかに危機を煽り立てるかが語る上での問題となるのだろうが、そうすることが目的と化せば、それが語る上での技巧と結びついて、危機感を煽り立てる上でお手本となるような語り方が推奨されてしまうだろうか。そんなお手本があればの話だろうが、そんなものを無理に捏造しなくても構わないのだろうし、その必要もないと感じれば、目的意識とは無縁の語りを続けるしかなく、誰に向かって語っているのでもない語りとなるしかないだろう。そうなれば将来への危機意識など生じないだろうし、思いがけず大げさな出来事に巻き込まれたところで、平常心を保っていられるだろうか。別にそこで平常心を保っている必要もなく、大げさな出来事に遭遇したら驚けばいいのだろうし、実際に驚くのではないか。そこで目的が見出せなければ、無理に先回りして事態に備える必要もないだろうし、何に対しても目的意識と無縁でいられるわけでもないだろうが、無理に関わろうとしなければ素通りできるような事象ならば、そのまま無関心を装えばいいのだろう。装わなくても無関心であればそれに越したことはないわけだが、いやでも無関心ではいられなくなるような成り行きに巻き込まれる時もあるだろうし、そんな時には自分が巻き込まれつつある事態に対処することになるだろう。実際に誰もが現状でそうしているのだろうし、誰もが自らに関わりのある事象に巻き込まれていて、自分なりに対処しながら生きているわけで、その対処の仕方も人それぞれに、状況や情勢に応じてそれなりにやっているわけで、そこに無理やり目的意識を設けなくても、実際にやっていることが、目的に沿ったやり方となっているのかもしれない。そしてそれ以上に何か求めたいなら、なにやらそれに関する理論を求めて、その導き出された理論に基づいて、やり方を洗練させるのかもしれないが、それでうまくいけばしめたものかもしれないが、何事も理論通りに事が運ぶことはまずないのかもしれず、自らのやっていることを理論に当てはめる行為が、自らを納得させたいだけの人よがりな行為に結びついてしまうとしたら、やはりそれも目的意識と同じように、あまり必要のない余分な動作なのかもしれない。

 何かをやりたいと願うことは、それをやる目的を必要としているだろうが、別にやりたくもないのにやっている場合は、それをやらされていることになるかもしれず、何によってやらされているのかわからなければ、やはり目的を見いだせないことになるのではないか。最初は何らかの目的があったのかもしれず、やっているうちにそれが見失われてどうでもよくなってしまったのに、なおもそれをやり続けている現状があるとすれば、要するに惰性でやっていることになり、それで構わないならそのまま惰性でやり続けていればいいわけで、もちろん何かをやっている限りは、そこからやっていることに対する見返りを期待して、そこから欲が出てくるわけで、そんな欲得がらみで、やっている内容が変容してしまうのはよくあることだろうか。無意識のうちに結果を出そうとしてしまうのだろうし、思い通りの結果を期待して、それを出すのが目的となって、そんなやっていることの目的化が、時と場合によっては無理な動作をもたらして、自意識過剰な思い込みや、それを認めて欲しくて周囲への働きかけに発展したり、そんな動作によって社会との関わりが生じて、そうやって自らを取り巻く環境に対する認識を深める結果となるのかもしれず、自らの行為がどのような結果に至ろうとも、それなりの変化を生んで、その変化を感じ取ることができれば、自らのやっていることに対する幻想や自己満足も得られるのではないか。それは単なる気休めに過ぎないかもしれないが、初めからそれを求めていたわけでもなければ、そんな思いがけない結果に驚いたり感動できるのかもしれず、何が目的でもない行為をやり続けた甲斐もあるのではないか。その逆に何か目的意識が生じていることに気づいているのなら、その目的がどこから生じているのかを考えた方がいいのかもしれず、その目的によって関心を抱かせるような作用にさらされているのかもしれず、それが社会からの同調圧力であったりするわけで、何か世の中の共通の話題に関心を持つように仕向けられていることを自覚していれば、それほど危機感を抱くようなことにはならず、それなりに冷静な対応が取れるだろうし、それに気づかないまま危機を煽っている人たちの滑稽さにも気づくかもしれない。もちろんそんなことに気づかなくても構わないのだろうし、他の人たちと一緒になって騒いでいれば楽しいだろうし、楽しさがもたらされただけでも騒ぎ甲斐があったことになるだろうし、そうやって何かの渦中にいることは、やっていることにもそれなりの意義を感じ取れるだろうから、それだけでも何かをやる目的が達成されたことにもなるのではないか。どちらにしても人は自らのやっている行為から、何らかの結果を得るに至るだろうし、それに気づかないこともあり得るわけで、しかも気づかなくても構わなかったりするのではないか。


12月21日「実感の虚構性」

 ほどほどのところでは済まないのが、競争原理の行き着く先に待ち受けている結果だろうか。それがプロスポーツなどの場合は感動を呼ぶのだろう。世の中には人が大勢いるから、そのような現象が起こる。ほどほどのところで済ませてしまうと、中途半端に思えてくるのかもしれない。実際に競争しているなら、中途半端では競争に負けてしまう。競争原理の弊害を指摘しても意味のないことかもしれず、なんらかの分野で成功した人がいる現状が、競争原理がそこで働いていることを示している。傍観者としてそれを受け入れるなら、競争原理が支配しているように見えるプロスポーツなどを観て楽しめばいいわけだが、自身がなんらかの競争に巻き込まれていることを実感できるだろうか。それは人それぞれの置かれた境遇によって異なるだろう。競争にも程度の差があって、過酷な競争よって多くの人が著しく不利益を被るようなことがあれば、そう判断されれば是正されなければならないだろうし、実際になんらかの緩和措置がとられた事例もあるのかもしれないが、相対的な問題でしかないだろうか。競争原理も場合によっては肯定しなければならないだろうし、場合によってはその弊害を指摘しなければならない。その成り行き次第でどちらにもなり、場合によってはどちらにもならなかったりするだろう。人はどんな境遇にもなるだろうし、結果的にはその人独自の境遇の中で生きているのかもしれないが、それはその人の思い込みなのかもしれず、世間的にはありふれた境遇の中にいることになってしまうだろうか。そこに差異を見出せなければありふれているように感じるだろうし、何かこだわりがあるように思い込めば、独自な生き方をしていることになるのだろう。それが他人事ならどちらでも構わないことになりそうで、関わりを持てば、それについて何らかの感慨を抱き、時には何らかの評価を下したりするのかもしれず、肯定したり否定したりする場合もあり得るだろうか。社会の中で生きている限りは、身勝手なことをやっていると周囲から何らかの圧力がかかる場合が多いのだろう。それが気に入らなければ否定的な評価を受けるかもしれないし、それほど害がないと思われれば放って置かれるだろう。そうなればとりあえず競争とは無関係になるのかもしれず、そんな境遇を楽しめるようになれば、気楽な人生を送れるかもしれない。たぶんそれを目指してそうなるのではなく、そこへ至るまでの過程でそれなりに紆余曲折を経験するだろうし、不快な思いを何度も経験しないと、そんな心境にも境遇にもなれないのではないか。別の何かを目指していたのに思いがけずそうなってしまう場合もあるだろうし、そうなってからもまだ諦めきれずに、何かを目指している場合もあるのではないか。そんな心ならずも気楽な境遇にある人は不幸だろうか。興味がなければどちらでも構わないのかもしれない。

 全てを相対的な問題と捉えるわけにもいかないだろうが、何が全てとも思えないなら、とりあえずは現状について考えてみるべきだろうか。人それぞれで境遇が異なるだろうし、一方で多くの人が社会的には類型的でありふれた境遇の中で生きていることも確かだろうし、そんなことに興味がなければそれで済んでしまう。メディア的には自爆テロを起こすような境遇の人たちに注目が集まるのだろうが、そんな事件が頻発しているようなら、それも類型的でありふれた境遇とみなしておけば済んでしまうだろうか。そんな事件が連日のように報道される次元ではそうなるかもしれず、それによって確実に多くの人が死傷しているのだろうが、事件が起きたからといってどうなるわけでもない現状の中で多くの人が生きている。それがありふれていれば、人の生や死に何か特別な意味があるとも思えないし、いくら人が死んでもセンセーショナルな報道がなされても、時が経てば忘れられてしまう。人の行為が他の人の意識にインパクトを与える場合でも、インパクトを与えた人の存在がどうだというわけではなく、それが肯定されるようなインパクトなら賞賛されるだろうし、逆なら非難されるようなことになるだろう。フィクションの中でそんな経過が語られたら興味深いだろうか。ある種のフィクションではそればかりかもしれず、なるべく大きなインパクトを与えるような工夫が凝らされているだろうか。その方が印象に残るだろうし、いつまでも忘れられないかもしれないが、インパクトの種類によってはホラー映画のようにありふれたものもあり、類型的でありふれたインパクトならすぐに忘れられてしまうだろうし、それがあまりにも見え透いていてわざとらしいと、ギャグや嘲笑の対象になったりするかもしれない。そうなるとまた笑いを誘ううようにわざとそれをやったりするのかもしれず、何かが定着されそうなると、すぐさまそれを逆手にとって、違った効果を醸し出すような試みがなされ、そんな差異と反復の応酬が繰り返されるのが世の中の現状だろうか。そんな行為の中であるものは流行り、またあるものは廃れ、そんな現象の中で人は時代の変化を感じ取るかもしれず、時が確実に経過していることを実感するのではないか。そしてそんな時間の経過の中で自らの老いも実感し、確実に自らの死が近づいていることを悟るだろうか。そんなことを感じる余裕のある人は少ないのかもしれず、意識してそれを避けている場合もあるだろうし、そこから目を背けることによって、まだ前向きになれると思えるだろうか。中には末期ガンを宣告された次の日から、急に勉学に励むような人もいるそうだが、今さら勉強しても仕方がないとは思わないのだろうし、急に自らの生に限りがあることを知らされて、生きている間に何かやっておこうと思うのかもしれず、それがたまたま勉強であったりするのだろうが、結果から見ればどうせいつかは死ぬのだから、若いうちであろうと死ぬ間際であろうと、意識の中では勉強することにあまり違いはないのかもしれない。


12月20日「エピソード7」

 どうもその時間帯での記憶が定かではなく、なぜかそこで何を観てきたとも思えなくなる。たぶん何かを観たのだろうが、意識はなかなかそれを認めたがらず、後からどう記憶を辿ってみても、それが何でもなかったようにも思われ、その辺の記憶と辿っているつもりの意識が釈然としない。それについて語るのを避けたがっているのかもしれず、できればそれとは別のことを語りたいのではないか。だが語りたいと言ってもその対象がはっきりしないし、意識がそう感じているわけではなく、思考していることを書き記そうとすると、それとは違うことを記してしまうらしい。思っていることと記していることが一致しないのはよくあることだろうか。意識してそうしているわけではなく、時々思い出したように記憶の断片をつなげながら、そうやって記された文章上で語られる内容が気に入らないのかもしれず、それが何かに語らされているように思われるならば、そう思わされるのが気に入らないのだろうが、気に入らないながらもそれを受け入れないことには、何も語れないのかもしれず、社会の中で暮らしているのだから、客観的には世の中の状況や情勢に語らされているわけだが、それとは別次元では、直接語っているのではなく、言葉を組み合わせて書き記している現状があるのだから、文章を構成しながら文章上で、何かを語っているように見せかけているわけだ。要するに文章上には虚構の語り手がいて、そこが何かを直接語っている場合とでは違いがあるのだろうし、言葉を書き記しながら意識が何かを語っていると感じるなら、それは錯覚かもしれず、実際には書き記しているわけで、そんなことはわかりきっているだろうが、わかっているのに錯覚しているのではないか。そしてその錯覚から生じているのが、文章上の虚構の語り手と書き記している現実の作者との混同であり、書き記している意識が書き記しつつある文章上の語り手を、完全に制御できると信じ込んでしまうのかもしれい。もちろん文章を構成するのに四苦八苦している現状があるなら、現時点では記述を制御しきれていないことを自覚しつつも、なんとかまともな内容になるように、あれこれ工夫を凝らしながら記述しているつもりで、文章の完全な制御を目指して記述しているのだろうが、果たして文章上の語り手には、それとは別の思惑があるように文章が構成される可能性があるだろうか。そしてそこで想像される語り手の思惑が、作者の思惑と完全に一致することがあるだろうか。実際に書き記した文章を後から読み返してみると、自身が思っていることが、そのまま文章上の語り手が思っていることになれば、書き記しつつあるときの意識と、後から文章を読み返しているときの意識が、同じ意識であると思えるだろうから、その文章が自分の思っていることをそのまま語っていると感じられるかもしれないが、ある程度時が経ってから読み直してみると、書き記しているときの記憶が定かでなくなり、何か今考えていることとは違うようなことが語られていると感じられるなら、その時の意識と今の意識との差異を感じ、今と昔とでは物事の見方や考え方が変わってきていると感じるかもしれないが、それも語り手と書き手の差異を混同した錯覚だと言えるだろうか。

 わざと話をこんがらがらせている感もなきにしもあらずだが、いったん書かれてしまった文章には、その時の書き手の意識が反映されていると考えるのが普通だろうし、そうみなしておけば取り立ててそれを問題視することもなく、それで済んでしまうのだろうが、記された文章上の語り手が、その文章の書き手との間に何らかの差異が生じていて、その差異をめぐって何か語ることができるとしても、その文章の内容について論じる場合は、作者が語っているとみなして論じてしまうだろうし、物語の登場人物が語っている場合でも、その物語の作者が登場人物に語らせているのだろうし、登場人物を介して作者が語っているように単純化しても構わないだろうか。その物語の内容にも語る内容にもよるだろうが、そもそも物語の作者について何を語らなければならないだろうか。それも語る内容にもよるだろうが、例えばそれが映画となると、製作者や脚本家や出演している俳優などよりも、監督について語られる場合が多くなるだろうが、それも映画の種類によって、作品に占める監督の重要度も変わってくるだろうし、その作品における監督の役割に応じて、作品について論じる上で、監督について語る内容も変わってくるだろうか。無難なところでは作品そのものについて語ればいいのだろうし、映画監督や小説の作者などに特別な思い入れがなければ、それで構わないのだろうが、語る上で監督や作者の存在が欠かせなくなれば、自然と〇〇の映画とか〇〇の小説と語らざるをえなくなるわけで、それが『スター・ウォーズ/エピソード7』となると、監督もさることながら、制作元のディズニーの影響力が強いのかもしれず、ディズニー映画とみなしておいたほうが、その特徴を語る上で妥当な解釈が可能となるだろうか。そうみなすならそれほどわけのわからない逸脱などありえないだろうし、それを期待するのもおかしいわけで、スター・ウォーズファンが期待している内容の最大公約数的な作りとなるのは当然かもしれず、それとかけ離れた実験的な内容などに挑戦するのは、何よりもディズニーが許さないだろうし、ディズニー映画である限りは、公序良俗と節度をわきまえた健全な作品になるのは当然だろうか。それとも監督の技量がすごいと、ディズニーを納得させた上でさらなるプラスアルファを作品に付け加えられるのだろうか。何かディズニーが気づかないところで、ディズニー映画にあるまじき内容を作品に盛り込めれば、後世に残るような作品となるかもしれないが、今後そんな幻想を抱かせるような作品へと発展して行けば面白そうだが、現状では作品の鍵を握ると思われるフォースの力が、主に戦闘場面でしか発揮されていないように感じられ、戦闘を有利に導く超能力のような位置付けではなく、戦争を終わらせ平和に導くような力として発揮されるようになれば、これまでのシリーズにはない新機軸となるような気がするのだが、『エピソード7』を観た限り、その可能性として、フォースの力に導かれて人と人が出会うような設定となっているのかもしれず、広大な銀河の中でいかにワープ航法があろうと、偶然の巡り合わせだけで主要な登場人物たちが次から次へと遭遇してしまうのは、かなり不自然で無理があるように感じられ、もしかしたらフォースの力に導かれて人と人が出会い、出会った人達が力を合わせて銀河を平和へと導くような話なら、ディズニー的な健全性にも合致するのかもしれない。


12月19日「賽の目」

 どうも偶然の巡り合わせにしては、話の辻褄が合いすぎている場合、それがフィクションなのだから仕方がないにしても、そうでないと話にならないように感じられるなら、しかも結果的に物語が成立する上で、偶然の巡り合わせだけではリアリティを伴わないわけだから、そこに何らかの納得のいく必然性を設定しなければならなくなるのではないか。しかしそれにしてもそうなるのが必然的な成り行きであるとしても、それによって過去と同じような物語が反復的に回帰していることが、そこで見出されつつある事の真相を物語っているとも思えない。それ以外で何か知りえない秘密がどこにかに隠されているとしても、現状についての説明で間に合っている限りは、それに加えて何か他に秘密を知ろうとは思わないだろうし、とりあえずは現状で知り得る範囲内で物語が展開するだけで、それ以上は何も語らなくてもいいと思うなら、虚構の物語の中で語る存在が誰であろうと、それについて言葉を記す上で、その存在に対する配慮が欠けていても、話の展開の必然性は揺るがないだろうか。いくら偶然の巡り合わせによって事態が進行しようと、結果から見ればそこに必然性が見出されてしまうのだろうし、そのような事態の進行によってしか物語が成り立たないのなら、それはそれとしてそのような事態の進行を受け入れるしかないわけで、他の何かがそのような話の展開を操作していたという挿話が後付けされようと、やはりそこから生じる話の不自然さも受け入れるしかなさそうだが、それ以上の何を求めるわけにもいかないのではないか。物語の中ではさまざまな登場人物が何かを語っているわけで、その様々な語りを総合すると話の辻褄が合っているように思えるなら、最初に感じた不自然な偶然の巡り合わせにしても、それを受け入れつつ物語の中へと入って行けるだろうし、そこで何らかの感情移入も起こるかもしれず、そういうところでフィクションの成否が決まるなら、それはそれでそういう種類の物語なのかもしれず、それ以上に何を受け止める筋合いもないのだろうが、フィクションにそれ以上の何を求めるわけにもいかないだろうか。ではそこに何かが欠けていると感じるならば、その欠けている何かとは何なのか。それが現状で隠されている秘密となってしまうとすれば、その物語が続いてゆく上で、隠された秘密を軸とした話の展開となってゆくのかもしれず、その秘密が徐々に解き明かされてゆく過程が、物語そのものの本体となりそうだが、もしかしたらその秘密は物語が始まると同時に、すでに物語内で明らかとなっていることかもしれず、たぶんそれが不自然な偶然の巡り合わせそのものなのではないか。物語を展開させる上でそれが欠かせないとすれば、それは賽を振った時の出る目を言い当てる動作となるだろう。

 人は偶然の巡り合わせと必然的な事の成り行きを結びつけたいのであり、それを結びつけたものが物語そのものとなる時、その不自然さを克服するために、話のつじつま合わせが必要となり、絶えず恣意的に捏造された不自然な事の成り行きから目をそらすための何かを求めている。その何かが過去の話との類似であり、すでに世の中に広く知れ渡っている話を、もう一度丁寧になぞることによって、世の中の信用を勝ち取りたいのであり、そうやって世の中の許しを求めているのかもしれず、話の不自然さは過去を反復することによって、覆い隠せるとは思わないだろうが、少なくとも過去に容認された話と似ているのだから、受け入れられる可能性があるわけで、実際に話の出来が良ければ許容の範囲内とみなされるのではないか。意識してそれを狙っているわけではないにしても、物語を続ける上で過去との類似は必要不可欠で、話の連続性を確保する上でもそうする以外にないのかもしれず、そのような動作が同じような出来事の反復を生み、そこに至るまでに不自然な偶然の巡り合わせが必要とされるにしても、それがないと過去と同じような出来事を起こせないのだとすれば、その出来事が起こるきっかけとしては、不自然な偶然の巡り合わせは許容の範囲内に収まっているとみなされ、それを介して過去の物語と現在の物語をつなげることができ、それがつなぎ目として効力を発揮する挿話となるなら、繰り返されるのが同じような出来事にしても、そこに過去とは違う新たな解釈や意味が生まれるかもしれない。そしてそこでどんな解釈や意味が生まれるにしても、それも偶然の巡り合わせに左右させるのかもしれず、すでに話の中でそれが起こっているのだから、それがこれから新たな話の展開を呼び起こす可能性もあり、そうやってすでに賽が投げられている状況の中で、そこから出た目にまた必然性を担わせようとするのだろうし、必然的な結果が見出されてしまうのが物語なのだろうから、そこからずれるには、人はそこに失敗を見なければならず、失敗に成功しなければ、新たな可能性を見出せないわけだ。果たして過去の轍からずれて失敗することができるだろうか。しかもその失敗を成功と見せかけたいのだから、それはある意味で不可能と隣り合わせなのかもしれず、安易な不条理に逃げるわけには行かず、人々を納得させた上で、しかも失敗することに成功しなければいけないのだから、当然のそのような結果がもたらされることは稀であり、普通は安全な成功を目指すのだろうが、たぶんそれを目指しながらも、偶然の巡り合わせによって、それ以外の目が出ることが期待されているのかもしれず、そう意識していなくても、物語からの不意の逸脱に感動してしまうだろう。


12月18日「誇大妄想狂」

 自らが体験しつつある現状について、人は何を知ることができるだろうか。思考からどんな認識が得られるにしても、何か勘違いをしているような気になり、それ以上いくら考えたところで確かな実感がもたらされるわけでもなく、こだわるべきはそんなことではないとしたら、では真にこだわるべきことなんてこの世の中にあるのだろうか。こだわるべき物事が何も見つからなければ、物事について深く詳しく考えることでもたらされる幻想などにこだわってはいけないのだろうし、それ以前にそれを幻想とみなすのも間違っているのかもしれず、少なくとも自らが体験しつつある現象を、自らに都合の良い物語を当てはめることで、現象そのものを単純化する思考動作があるのを認めなければならず、それを自覚しないままそうしてしまっている現実を受け入れることが肝心なのかもしれない。今ここで何かを考えているとしても、それをもとにして自らの何か突拍子もない動作を期待しているわけではなく、例えばこれから人類の滅亡に関する大げさな予言をしようとしているのでもないだろうし、また政府の憲法を無視した強権的な政治手法に恐れおののき、このままでは戦争となって国が滅ぶと感じて、国を支配する独裁政権に対抗すべく、大規模な抵抗戦線を組織しようと画策しているわけでもないのだから、実際に考えていることもやっていることも、それとは別次元の些細なことであり、それらの誇大妄想的な虚構とは無関係な状況の中で普通に暮らしているわけで、そんな現状の中で生きていると思っているから、自らが正気でいることに疑いの余地はないのかもしれず、実際には狂気とはかけ離れた退屈な日常から抜け出られない境遇にあるから、その手の荒唐無稽なフィクションによって気を紛らわすぐらいが関の山で、空想の範囲内で誇大妄想と戯れるのも仕方のないことかもしれない。確かに語ろうとする対象を安易な物語に当てはめて単純化してしまうと、それによって話がわかりやすくなるのだが、その反面わかりやすい物語が現実に体験している状況からずれて、語っている対象と語っている内容が合わなくなっていることに、それを語っているつもりの当人は気づいていないのではないか。特定の人物や政治的な勢力が国を支配している設定の物語などはその典型であり、批判したい人物や勢力を物語に登場する悪の支配者に当てはめて語る人たちは、現状ではなく現状を単純化している物語に支配されているのであり、さらにそれを政治宣伝として語っている場合は、そう語ることでもたらされる物語的な効果を信じているのかもしれず、国民を苦しめ圧政を敷く独裁的な政治家による支配からの脱却を呼びかけているつもりの自らを、その自覚がなくても悪の支配に抗う正義の戦士になぞらえているわけで、そんな風にして批判の対象を典型的な物語の登場人物のように語っている時点で、それを批判している自らも物語の登場人物になってしまっていることに気づいていないのかもしれない。

 人は自らが体験しつつある現状よりも、それをもとにして語られるフィクションと同調する傾向があるのかもしれず、実感としてはなかなかそれに気づきにくいのであり、気づかないうちに現実と虚構とが意識の中で入れ替わっていて、現状について語っているつもりが、メディアからもたらされる事実に基づいた情報を組み合わせて、そこに自分の立場を加味したフィクションを構成しながら語っている可能性があり、そのような語りによって自らを取り巻く現実が都合よく再編成されているのであり、そのような作用によって自らが感知しているつもりの世界像が変容を被っていることに気づかず、できればそこで世界を捉えているつもりの自らの認識に疑念を抱くべきかもしれないのだが、事態としてはなかなかそういう方向にはいかないようで、多くの人たちは自らが構成しつつある物語世界に、自意識過剰気味にのめり込んでしまう傾向にあるのかもしれず、しかもメディアからもたらされる情報を不特定多数の人たちが共有している現実があるのだから、多くの人たちがそれぞれに思い描く物語世界が、それについて語り合うことで共鳴現象を引き起こし、その結果として多くの人たちが同じような物語世界の住人となっている現状があるのかもしれない。もちろんそのような悪と戦う戦士的な物語とは異なる物語もいろいろあるのかもしれず、国家的な破滅の兆候を感じ取りながら悲壮感を漂わせて、例えば原発事故に伴う放射能汚染によってこれから人がバタバタ死んでゆくと予言している人たちもいるだろうし、あるいは共産主義は大量虐殺をもたらすとして、最近の選挙での共産党の躍進に警鐘を鳴らしている人もいるだろうし、さらに民主党は外国人勢力と結託して日本を乗っ取ろうとしている、とひたすらネットで危機感を煽っている人たちもいるだろうし、そうかと思えば自民党こそが売国奴であり、アメリカ政府のいいなりになって、アメリカの巨大企業による搾取を許し、日本の産業を壊滅に追い込んでいると訴えている人たちもいるわけで、その人の政治的な主義主張に関係なく、誰もが危機を煽らずにはいられない心の病に感染している様相を呈し、何かしらこれから大げさなことが起こってほしくて、それと自覚できないまま破滅の物語と戯れているわけだが、それこそが退屈な日常から逃避して娯楽にうつつを抜かす、という現代人特有の兆候を示しているわけで、しかも現代の大衆メディア社会の中では、そのような人たちはありふれた存在であるわけで、別に自らが心の病だなんてこれっぽっちも感じていないだろうし、精神科医も間違ってもそんな診断など下さないだろうから、精神の病であるはずがないのだろうが、兆候としての誇大妄想狂が比喩でしかないにしても、人々が不安を掻き立てられる要因はいくらでもあるのかもしれず、そこをメディアにつけこまれて、誇張と歪曲によって煽られ、商売の種にされている現状があるのかもしれない。


12月17日「職業としての政治」

 平和な地域に暮らしている人たちにとっては、テロも戦争もフィクションのようなものでしかない。だからそれについてメディアから得た情報を基にして語ることはできるが、語っている範囲内でその人なりのリアリティは感じているのだろう。それが平和な地域で暮らしている人が感じているテロや戦争についてのリアリティになり、それはメディアから情報を得た範囲内で語っているリアリティとなりそうだ。別にそれ以上のリアリティを求めて紛争地域へと出かけていく人などほとんどいないだろうし、そんなことをやる必要もないのだろうが、それについて語っているからといって、テロや戦争そのものが自分にとっての問題となるわけでもないだろうし、ただ興味を持ったから語っているに過ぎないわけで、テロや戦争の当事者からすれば、ただの無害で無関係な部外者でしかないだろうか。それで構わないわけで、平和な地域で暮らしている人は、彼らとは別の問題を抱えているかもしれず、それがその人の身の回りで、その人が直接関わっている問題なのかもしれず、その問題に直接関わっている範囲内では、その人が当事者意識を抱いている問題なのだろう。その人にとってはメディアを介して興味を抱いている間接的な問題と、その人の仕事や暮らしに関わる直接的な問題と、二種類の問題に関わっていることになるのかもしれないが、直接手を下している身の回りの問題と、語りの対象となっているメディア的な問題の間で、意識の中で何かはっきりした区分けができているだろうか。たぶんそうではなく、全てを一緒くたに捉えているのではないか。そしてメディア的な問題でも、自身から遠く離れた紛争地域で起こっているテロや戦争などとは違い、国内の政治や経済の動向となると身近な問題と感じられるかもしれず、たとえメディアを経由して間接的に情報を得ているにもかかわらず、何か自分がその問題の当事者であるように感じられてくるのではないか。実際に政治に関しては参政権を持っているわけで、選挙で投票することもあるわけだから、何かそれについて語る権利があるように思われてくるのも当然で、政治に関して無関係な部外者だなんて思ってもいないのだろうが、その一方で職業として政治に関わっている政治家がいるわけで、選挙に立候補して当選した人たちは、確かに議会に出席して、あるいは内閣に関わる形で、仕事として何かをやっているわけだから、それらの人たちは当然のことながら、当事者意識を抱ける人たちであり、当事者である権利も持っていて、またそれを報道している人たちも、ジャーナリズム的には当事者であるだろうし、それを職業としているわけだから、仕事ととして政治にかかわる権利があると思っているかもしれない。そのような人たちと、職業でも仕事でもなく、メディアから間接的に情報を得て政治に関心を持っている人たちの間で、何か明確な区別や権利の上で、両者を分けて考えなければならない境界といったものを設ける必要があるだろうか。

 たぶん民主主義の原理や国民主権の建前や理想からすれば、両者の間に明確な区別などありえないのだろうが、現実問題として職業的に政治に関わっている人たちにしてみれば、一般市民を無関係な部外者として扱うのは当然だろうし、自分たちのやっていることに勝手な口出しをされては迷惑に思われるだろうし、そんなのは無視するに越したことはなく、彼らにとっては自分たちの支持者がお客様であり、自分たちに利益をもたらしそうな支持者以外の、勝手な批判をしてくる一般市民など、敵以外の何者でもないわけだ。政治に関わるような仕事が成り立っている時点で、功利主義的にはそうなって当然だろうし、建前や理想論などは宣伝文句としていくらでも言えるだろうし、実際に政治宣伝としてそういうことを言っているわけで、それは商品広告と変わりなく、人の関心を惹く目的で、自分たちを支持してくれるお客様を獲得したいがためにやっていることであり、その辺で一般市民との間に意識のずれがあるのだろう。それに関して例えば政権批判などを繰り返している人たちは、国民の声をなんで聞かないのかと批判するわけだが、それはその人たちが批判している対象の支持者ではないからで、支持してくれるお客様でない人の声など聞いても利益に結びつかないのだから、それは当然のことなのだが、もちろん職業的に政治に関わっている人たちが、はっきりとそう自覚しているかどうかは、たぶん怪しいところで、たぶん自分たちは政治に関わる者として、当たり前のことをしていると思っているだろうし、批判は批判として支持してくれる人たちの批判なら聞く耳があるだろうし、支持者でもないどころか敵対者と見なされるような人たちの批判など、無視するか逆に攻撃するのが当然だと思うのではないか。それは民主主義の原理や理想がないがしろにされていると思われるにしても、それとは別に職業として政治に関わる制度や仕組みがもたらしている作用であるのは明らかで、それを批判する一般市民の側でも、そのことに気づいていない人が多すぎるのかもしれず、気づいていないからこそ、効果のない理想論に基づいた批判を延々と繰り返す羽目に追い込まれているのかもしれず、批判する側もされる側も共に、そのことに気づかずに批判し対立を煽り深めながら、ひたすら平行線状態を維持継続しながら、そのような立場や姿勢や状態の中で安住している現状があるのではないか。このままでは両者の間の溝はどこまでいっても埋まらないだろうし、両者ともに自分たちのやっていることの正当性を延々と主張し続けるだろうし、そうすることが現状の維持につながっているわけだから、それによって自分たちの立場を守っていられるわけで、たぶんこれからも彼らがそれに気づくことはないのかもしれない。


12月16日「因果関係」

 何かと何かを結びつけて考えるとき、その結びついていると思われる何かと何かが、それぞれに別の何かに結びついているとしたら、最初に考えていた何かと何かの結びつきというのは、果たして他の結びつきと比べて重要な結びつきなのだろうか。例えば戦争や経済危機が起こった時期は、それらの起こっていない平和で経済の状態もよかった時期と比較して、語る上でより重要性が増す時期なのだろうか。戦争や経済危機が起こっていること自体が、それに関わった国家的な指導層の誤った政策や政権運営などを象徴していると言えるかもしれないが、では平和で経済がうまくいっている時期の国家の政策や政権運営は正しい方向でなされていると言えるだろうか。国家の政権運営がうまくいっている時期とうまくいかなくなった時期は、少なくとも時間的には連続しているのであり、うまくいっている時期の後にうまくいかなくなった時期が続き、さらにその次にうまくいくようになった時期が続いているとすれば、戦争や経済危機が起こっている時期の政権運営だけが間違っているとも言えないわけで、もしかしたら平和で経済がうまくいっていた頃の政権運営が、次の時代において戦争や経済危機を引き起こす原因を作っている可能性もあるわけで、戦争や経済危機やそれに伴って起こる国家主義的な独裁体制に至る遠因が、その前の時代に発生していたりするかもしず、しかもその発生を平和な時代では防ぐことができなかったのかもしれず、また国家や経済の制度や仕組みが戦争や経済危機をもたらすのだとすれば、政権運営などでは防ぎようのないことなのかもしれず、結果的には戦争や経済危機を招いたとして、その時期の政治が槍玉に挙げられるにしろ、それは物事を結果から見る限りで言えることであり、では戦争や経済危機に至らないようにするにはどうすればいいかという問題設定も、それと同じような限界があるのかもしれず、もちろん現状でもそうならないようにしているつもりなのだろうが、そうならないようにしていながらそうなってしまう可能性もあるわけで、逆にそうなることを望んでいるのにそうならない可能性もあるわけだが、さらに現状で戦争や経済危機が間近に迫っているように感じられるとしたら、慌てて現政権の政治姿勢を批判したところで、すでに手遅れなのかもしれず、もっとだいぶ以前の段階で今に至る萌芽を摘み取っておかなければならなかったのかもしれない。もちろんそれがいつの段階でそうだったのかなんてわかるわけがないのかもしれず、どこで道を誤ったのかもわからないなら、人に戦争や経済危機を防ぐ手立てなどないのかもしれない。ではどうすればいいのかと考えている時点で、すでに結果から原因を見ようとしているわけで、そのような思考にはそれ相応の限界が付きまとうことになりそうだが、ならばそれ以外にどのように現状を考えればいいのだろうか。

 長い目で見ればそれは景気変動のようなもので、地域的には戦争をしている時期と平和な時期が交互に繰り返されている状況がありそうだが、ただそうやって状況が長期的に変動するのが人類の歴史なのだとすれば、人にはどうすることもできないような成り行きなのだろうか。それをどうにかしようとするのが、これも人類の歴史なのかもしれず、過去の戦争に至った経緯を踏まえて、今後はできるだけ戦争に至らないように、何かと工夫を凝らしているわけで、そのための地域的な和平協議なのだろうし、国連の活動でもあるわけだが、国内でも戦争に参加する危険性のある法整備に反対する運動もあったわけで、今後も何か事ある度にそんな活動が繰り返させるのではないか。そういう動きは肯定した方がいいだろうし、そのような反戦運動などに参加する機会でもあれば、参加しておけばいいだろうし、現状でできることはそんな類いなのだろう。戦争の当事者ではない平和な地域で暮らしている人たちにとっては、他人事でしかないし、他人の問題でしかないわけで、また戦争体験者の戦争体験もとりたてて特別な体験ではなく、戦争に行けば誰でも敵を殺そうとするのが当たり前の日常になるわけで、それを戦争を体験していない人には共有できないのも当たり前のことで、戦争体験をいくら想像してみても、戦争の悲惨さをいくら訴えてみても、また戦争の資料や戦争映画などのフィクションを観ても、それと実際の体験とは違うのだろうし、どこまでも他人の問題であり、他人の体験であり、それがフィクションととなると他人の物語となるわけだが、別に思いを共有できないからといって、それは仕方のないことなのだろうし、戦争の悲惨さを自覚できないからといって、それで戦争を望む成り行きにはならないだろうし、戦争を賛美するような世の中の空気にもならないのではないか。逆に実際に戦争状態の地域にいる人々は、戦争の悲惨さを嫌という程思い知らされ、戦争の継続を望んでいないにも関わらず、それでも戦争を止められない状況にあるのかもしれず、要するに個人の思いや願望では戦争を止めることはできず、そこに独裁者や軍事政権があるにしても、ミャンマーや北朝鮮の例を見ても、それだけですぐに戦争になるわけではなく、内戦状態のシリアやイラクやアフガンなどにしても、そうなるきっかけがあったわけで、それは戦争の悲惨さを訴えるような行為で、どうこうなるようなものではないはずだが、だからといってそのような行為が無駄であるわけではなく、無駄か無駄でないかとは違う次元で、戦争によって悲惨な思いをした人が、そのあとの平和な時代まで生き残ったならば、平和の尊さを実感して、二度と戦争を起こしてはならないという思いになるのは当然だろうし、そこで後世に悲惨な戦争体験を語り継ぐような成り行きになっていくのではないか。


12月15日「善意の連帯」

 たぶん語る必要や必然性があるとすれば、それが自分に関わる事象であることが求められるのかもしれないが、その全てが自分の問題となるとは限らず、特にメディアからもたらされる情報を基にして何かを語る場合、他人事のまま無責任に語ることができるだろうし、それは何かを語るという行為自体に起因する特性かもしれず、それが自分に関わるような問題であれば、語る以前に行動していて、解決を必要とする問題なら、解決に向かって動いているだろうし、それは語ることとは無関係な行為に及ぶ場合がほとんどなのかもしれず、逆にそれについて語っている状況があるとすれば、語る余裕があるから語っているわけで、余裕がある時点で、自身にとってはそれほど緊急かつ切実な問題ではないのではないか。またそれが緊急かつ切実な問題であるとしても、解決に向かって動かず、それについて語っている場合があるとするなら、語るしかないのかもしれず、それについて語っている時点で解決が困難で、場合によっては不可能に思われるから、とりあえず解決に向かうのとは別に語っているのかもしれず、それについて語ることと、それを解決しようとすることとは別問題なのかもしれない。例えばメディア上で語られているような国家や世界に関する問題も、容易には解決が困難な問題ばかりだろうし、現状では問題を解決できないから語られていて、それについて語られている間は、少なくとも問題が解決していないことを意味し、延々と何十年も語られているような問題については、もはや解決することが不可能な状況になっているのではないか。そして解決できない問題とは、忘れられることによってしか、それがなくなることはないのかもしれず、もしかしたらそれが忘れられ、メディア上で論じられなくなった時点で、問題が解決したことになるのかもしれず、そういう意味で問題が解決することとは、問題としてメディア上で論じられるような話題性がなくなるのと同じことなのかもしれない。そんなふうにしてメディアは常に解決困難か不可能な問題を必要としているのであり、そのような問題がメディア上で話題となり、論じられることによって、メディアがメディアとしての機能を果たすのであり、そういう解決が難しい社会的な問題がなくなってしまえば、メディアそのものが不要となってしまうのかもしれないが、そのような問題とともにメディアが発展してきたのだとすれば、問題とメディアは相互依存関係にあるのはもとより、大衆市民社会が恒常的に多くの問題を抱えていることの反映がメディアを存在させ、それをメディアが次々と問題提起することによって、そこに暮らす人々に問題意識を植え付けることで、そしてそのような問題意識を共有することによって、人々はメディアとともに社会的な一体性を確保しているのかもしれないが、その社会的な問題の共有というのが、そこに暮らす人々とって本当に必要なことなのだろうか。

 それは社会の構造や制度や仕組みと、それを利用している人々との関わりから生じてくることなのだろうが、問題について語るという問題提起から問題意識が生じ、問題を解決させるために政治的な活動が必要とされるなら、そのような活動による行政や立法や司法に対する働きかけが行われ、その働きかけが実を結べば、それらの機関によってなんらかの判断が下され、そのような問題を改善するための方策が検討されて実行に移され、それによって問題が解決するのかしないのか、その時々の状況や問題の性質によっても結果は異なるだろうが、普通は問題を提起する部分でメディアが関わってくるわけで、またそれの解決過程や解決したか否かの結果を伝える役目も果たしているのだろう。そしてそういう建前論的なことだけなら、メディアも無害であるように感じられるだろうが、一方でメディア自体が問題の当事者である場合があり、メディアの存在自体が社会問題となっているとしたら、果たしてメディアは自身のあり方そのものを問題提起できるだろうか。一般的にはメディアにも様々な種類があって、それぞれに性質も特性も伝える内容も異なり、運営している資本関係も別々になっていて、異なるメディア同士が連携や競合や対立の関係にあれば、メディアが他のメディアを批判することにもなるわけで、互いに悪い点を批判しあうことで、メディアの健全性が保たれることになるのかもしれず、そういう方面での問題は、そういう方向で解決に向けて努力が図られるのかもしれないが、他にメディア自体が抱えている問題はないだろうか。例えば政治的な権力を握る勢力と癒着して、その政治勢力を利するような偏向報道を行うようになるというのは、一般によく言われることではあるのだが、それは他のメディアがそのような行為を批判することで、メディア同士の相互批判の延長上で改善を図るしかないだろうが、それとは別次元で、メディアが促しているつもりの、社会問題の共有という人々の善意による連帯というのが、その善意によって人々をおかしな方向へと導いているような気がしてならず、例えば地球温暖化の関連では、石炭を使うことが大気汚染と地球温暖化を招いていて、世界的に石炭の消費を抑制させようと呼びかけているメディアがあるわけで、確かに石炭を利用した発電においてはそうかもしれないが、一方で世界で最も広く使われている金属である鉄の精製には石炭が欠かせないわけで、製鉄企業が鉄を精製すると同時に発電も行っている場合がほとんどかもしれず、人類が金属である鉄を必要とする限り石炭も必要とされ、鉄の精製過程で発電もしているのだから、いくら石炭を大気汚染と地球温暖化を招く悪者に仕立て上げても、鉄を必要とする限りは石炭は使われるのであって、そういうところで人々に善意の連帯を呼びかけているメディアの矛盾を感じざるをえない。


12月14日「暗黙の了解事項」

 この世界で起こっている事件や出来事は事実としてあり、その事実に対する人々の受け止め方が様々にあることは確かなのだろうが、場合によってはその受け止め方の何が良くて何が悪いのかという判断もあるようで、例えばこういう事件が起こったらこういう受け止め方をして、事件についてこう語らなければならないという良識のようなものも、メディアを通じて世の中に広まっているのかもしれず、その事件についてどう語らなければいけないのかという良識から逸脱するとまずいわけで、著名人がそれに反するような反応を示すと、たちまち一般の人たちや他の著名人やメディア関係者からの抗議が殺到して、炎上と呼ばれる現象を引き起こすのだろうが、その前もって示されている良識というのが、広く世間に行き渡っている暗黙の了解事項のごとき性質のもので、それを共有している人達が世の中の多数派を構成しているのだとすると、世の中は民主主義という建前以前に、その暗黙の了解事項に拘束されているわけで、法律や憲法などを守る以前に、その暗黙の了解事項を守るように仕向けられていて、守らなかったり逸脱するようなことを語ったり行ったりすると、途端に多数派から非難されるような成り行きとなるのだとすれば、なんらかの政治的な勢力が多数派を味方につけようとする過程において、暗黙の了解事項を活用しない手はなく、その中に自分達の主義主張を織り込めばいいわけで、しかも多数派が逆らえないような行為や言動を、そこに挟もうとするのかもしれない。それは人々に身近な教育や娯楽やスポーツの分野で、現にあからさまに行われていることだろうし、具体的には国旗や国歌を象徴的な形で使わせるわけで、国旗を掲げて国歌を歌わせ、それとなく人々が国家に対する忠誠を誓わせる形をとるわけだが、なんのために国旗を掲げて国歌を歌わせるのかについて、そこに居合わせた人達があまり深く考えずに、そういうことをやるのが習慣化してしまえば、それが暗黙の了解事項として機能することになり、学校の卒業式や入学式において、意識して国旗の掲揚や国歌の斉唱に従わない教員などが、弾圧されることについて、世の中の多数派を構成する人々から理解を得にくいのは、それらの教員が暗黙の了解事項を守らないことに対する反発があるわけで、そういうところで国旗や国歌の象徴的な使用は利いてくるわけだ。保守的な政治勢力やそれに迎合するマスメディアなどは、それを広く国民の間に定着させたいわけで、何か事ある度に誘導的な発言を繰り返し、そのような発言が当たり前であるような状況を作りたいわけで、最近は憲法改正に向けて、新たな暗黙の了解事項を定着させたいようで、それは憲法9条があると有事の際に国を守れないという認識で、それを多数派の人々の共通認識にしたいのかもしれず、そういう方向での運動を活発化させているのだろうが、それがどこまで国民の間に浸透するかは、まだなんとも言えないところだろうか。

 何か明確な意図や思惑のあるなしに関わらず、メディアなどで取り上げられる世間的な話題というのは、誰もがその話題を口にしうるような成り行きになっていて、たぶんその時点で、それについては誰もが知っていて、誰もが興味を持ち注目している、という暗黙の了解事項が働いているわけで、昔はそれが大晦日の紅白歌合戦や朝の連続テレビ小説や日曜日の大河ドラマなどに関する了解事項だったのだろうが、最近はそれらのNHK的なコンテンツは徐々にそうではなくなってきているのかもしれず、NHKの報道番組があからさまに政府や与党勢力の干渉を受けるようになったのは、NHKを利用して国民に暗黙の了解事項を広めようとしていることの表れなのだろうが、それは昔からそうだったのであり、NHKが公共放送とは名ばかりの国営放送局であるのは、広く国民の間に行き渡っている共通認識で、それこそ暗黙の了解事項だったはずなのだが、どうも最近はそれをあからさまに支配しようとしているように感じられてしまうのは、NHKに限らずテレビ自体の国民への影響力が低下していることの表れなのかもしれず、それを政権側も認識しているから、自分たちの言うことを聞く会長を送り込んだり、あからさまなテコ入れを行っている最中なのではないか。もちろんテレビ自体の影響力が低下しているのだから、いくらNHKを意のままに支配しても、そこから国民を誘導するのにも限界がありそうに思えるが、やらないよりはやった方がマシだと考えているのだろうし、その辺で政権側の焦りがあるのかもしれない。彼らが何に焦っているのかといえば、野党勢力の攻勢などではなく、それはまちがいなくネットの普及にあるのだろうが、ネット上でもSNSやユーチューブなどで、右翼の宣伝ばかりが目立っている現状があって、そこでも保守的な政治勢力の圧勝の感もあるわけで、そんなに焦ることもないとも思えるが、ネットはテレビとは違い、官僚の放送局への天下りや記者クラブなどを使った、上からの押さえが効かない面があるだろうし、そういうところであからさまに制御することができず、目下のところネットは俗悪かつ低劣なメディアという位置付けにすべく、ネトウヨなどを徘徊させて恫喝や罵声が行き交うようにさせて、そうやって影響力を削ぐ方針なのかもしれないが、結局テレビや新聞や雑誌などの商業メディアでは、限られたごく一握りの人達しか意見を述べることができないのであり、それに比べてネット上ではほとんどの人は誰からも注目もされず、著名人などにはなれないが、その代わりに好き勝手なことを好きなだけ主張することはできるわけで、世間的な暗黙の了解事項などを気しなくても構わず、そういう面で従来のマスメディアがやるような世論調査を使っての国民の意見集約が難しいのかもしれず、そうなるとサイレントマジョリティなどの世間的な多数派の形成も困難となり、そこに保守勢力が昔から行ってきた政治手法の限界が露呈しているのかもしれない。


12月13日「相互補完」

 何かについて語る上で、何かと何かを区別しなければならないのは、人が物事を考える上で、避けては通れないある種の決断を必要としているだろうか。そこに差異を設けないと説明できず、何かと何かを区別してその違いを説明することで、思考している対象を理解しようとするわけだが、そこで生じる何かと何かを区別するという決断は、時として区別したどちらか一方に肩入れするような事態を招き、一方を肯定してもう一方を否定し、その肯定する対象に与するような立場をとらざるをえなくなった時、そのような態度表明をすることが、果たして良いのか悪いのかについての判断も迫られる。例えば政府に迎合的なメディアと批判的なメディアを区別して、どちらか一方を擁護してもう一方を批判する身振りは、自身が何か特定の政治的な立場をとることにつながり、特定の政治勢力の支持者だとみなされてしまうわけで、そうみなされてしまうことが、現状を語る上で偏った見方や考え方に基づいているようにも思われ、その辺で現状認識に誤りがあるような疑念を抱かれるかもしれず、別にそのような疑念を抱かれても構わないのなら、それに越したことはないのだろうが、そのような潔さが一方で何らかの見落としにつながっているのかもしれず、実際にそのような区別を前提として話を進める以前に、人にそのような区別を決断させる何かが、社会の中で働いていることは確かで、たぶん人にそれを促す作用が、人にその作用に沿った政治的な現状の理解を信じさせる一方で、そのような政治的な主義主張の虚構性から目を背けさせているのかもしれない。それの何が虚構であるのかといえば、政府のやっていることのことごとくが、特定の政治的な主義主張に基づいて行われているわけではないし、それを伝えるマスメディアにしても、その全てにおいて迎合的に伝えているわけでも、批判的に伝えているわけでもなく、ある特定の政策に関して迎合的であったり、あるいは批判的であったりするような立場が成り立つわけで、もちろんその迎合性や批判性が売りのメディアでは、迎合一辺倒であったり批判一辺倒であったりして、そういうメディアに対しては、そのような報道姿勢を快く思わない人々も大勢いて、そこからそれらのメディアに敵対的であったり、あるいはその反動として、それとは逆の迎合的な報道姿勢のメディアを支持する人たちも存在するわけで、それはその手の偏向的なメディア報道に人々が惑わされ翻弄されることで、結果的にそれを真に受けて踊らされる人々が少なからずいるということになり、そのような現象から特定の政治的な主義主張を想像することができるわけで、その想像された主義主張を支持したり批判したりする人々もいる現状があり、何か特定の政治的な主義主張というものが最初からあるわけではなく、メディアの報道とそれに反応する人々による相互作用の結果として、なにやら一定の主義主張というのが形成されるのだろうが、形成されるといっても人々がそれを意識するのであり、客観的に一つの政治信条として固定されているわけではなく、その中身は情勢の変化に伴って絶えず揺れ動いて変化し、その時々の出来事や言説の流行よってもその隆盛が左右されるわけで、そこから世の中の情勢に応じて中身がコロコロ変わってしまうのに、あたかも確固たる主義主張として成り立っていないと、擁護も批判も出来ない虚構性が生じてくるのではないか。

 実際に既成事実として、そのような主義主張があることを前提として、それを擁護したり批判したりする行為がまかり通っている現状があるわけで、その時点でその主義主張とそれに対する擁護や批判は、それを擁護したり批判したりする限りにおいて、その存在を保障されるような虚構性をまとっていて、そのような擁護や批判などの行為が成り立つ範囲内で、それらに関わっているつもりの人々の意識の中で機能していて、それが虚構であるという自覚があるかないかに関わらず、そんな主義主張が成り立っていることを受け入れる限りにおいて、それを受け入れた人々に対して、そこから生じている主義主張とそれに対する擁護や批判は影響を及ぼしていて、それを受け入れた人々は、それが虚構であるという自覚があってもなくても、結果として主義主張が成り立っている虚構の世界の中で振る舞うことになるわけで、中身が状況に応じてコロコロ変わる主義主張を擁護したり批判したり、場合によってはそこで、賛成や反対の立場に分かれて議論を戦わせたりして、そこで繰り広げられる闘争やらせめぎ合いの担い手となるわけだが、それが実際に政府などの政策に対する反対運動や擁護活動などと同期してくると、虚構のイデオロギーと実際にやっていることの間に、食い違いや歪みが生じてくるようにも感じられ、時として虚構が虚構でしかないことが明らかとなる場合があるのかもしれず、そこで人々は虚構のイデオロギーを守るために、その論理的な破綻を隠すために、あれこれ策を弄したり、屁理屈をこねることにわけで、敵対しているつもりの勢力との対立を煽ることで、そちらへ目を向けさせたり、大げさな会議を開いて全世界に危機を訴えかけたり、そのような方面でもメディアを通じての啓蒙活動が欠かせないのかもしれないが、別にそこで論理的な破綻があらわになっても、それを補完する新たな理屈をもってくればいいわけで、そこに対立する主義主張がある限り、対立している陣営を批判し攻撃することで、対立している現実を世の中に示せるのであり、その対立しているという事実が現にそれがあることを人々に信じさせ、中身が論理的に破綻していたり、状況に応じて都合のいいように中身が変化するとしても、それでも確固たる主義主張が存在しているという虚構性を覆い隠せるのかもしれず、そうなるともはや対立していることが、対立し続けることによってしか、それらの主義主張を成り立たせることができなくなっているわけで、逆に言えば、対立を解消してしまえば、虚構の主義主張など信じられなくなって、その存在は雲散霧消してしまうわけで、もしかしたらそんなことは誰もが分かっていることかもしれないのだが、実際にそうなってもらっては困るから、それらの主義主張を信じている振りを装いながら、偽りの対立を煽り、そうすることでそこに差異を見出し、その差異を利用して自分たちの存在意義を確保している現状があるのかもしれない。そしてそのような手法によって生じているのが、政治的な右翼と左翼や与党と野党や二大政党制の幻想なのだろうか。


12月12日「メディアの特性」

 知っていることは知っている以上には知り得ず、知らないことは知らないままにとどまり、知らないことを知ろうとするなら調べればいいわけだが、人は知らないことや知り得ないことまで語ろうとして墓穴を掘るのかもしれず、語ることで知っているつもりになれるわけでもないだろうが、メディアの助けを借りて門外漢の領域にまで語りの範囲を広げようとしてしまう。その結果直接の経験や体験を離れて、見聞から得た知識をもとにした語りが可能となるだろうか。何かを語ることの本質はそういうところにありそうで、間接的に知り得た知識をもとにして、さらに想像力を働かせて、推測や憶測に基づいて語っている場合もありそうだ。別に不確かな内容でもそれを承知していれば構わないのだろうが、語ることで何らかの理解に至りたい場合もあるのかもしれず、たぶん語っている対象を理解したいのだろうし、現実に語っているのだから、それについて理解しているつもりでいるのかもしれず、少なくとも語っている範囲内では、語っている内容を理解している気になるのではないか。確かに実感としてはそう思うだろうが、それがまともな水準での理解となっているのか否かは、語っている段階ではわかりようがなく、後から生半可な理解でしかなかったことに気づく場合もあるだろうが、どの程度の理解なら語る必然性が生じるかなんてわかるわけがなく、結局それについて語りたいから語っているとも言えない部分もあり、周囲やメディアからもたらされる情報に語らされている状況があるのかもしれず、何かを語るように仕向けられているのかもしれない。何を語らされているのかといえば、それは趣味や娯楽についてであったり、政治や経済の情勢であったり、テロや戦争についてであったり、恋愛や人生の過ごし方であったりするのかもしれないが、要するにそれはメディアからもたらされる情報について語ることで、さらにそれを社会に広く拡散させるように仕向けられているのかもしれず、結果的にはそうやって様々な情報によって社会全体が満たされ、世の中が均質化する効果があるのかもしれず、人々はそれと自覚することなく、メディアからもたらされる情報について語らされている現状がありそうだ。そうすることに何か意図や思惑が介在しているとも思えず、ただ興味深い情報がもたらされると、それについて語りたくなるのだろうし、それが興味深く思われてしまう状況の中で生きているわけで、すでにそんな情報化社会の中で暮らしているわけだから、メディアからもたらされる情報が興味深く思われてしまうのかもしれない。それをメディアによる洗脳を受けていると捉えればそうかもしれないが、特定の意図や思惑を受けてそうなっているのでもないのだろうから、それは比喩としての洗脳であり、そうだからといって何をどうすることもできず、これからもメディアから情報を受け取りながら生きていくしかないわけだが、それに逆らって批判し、メディアにだまされるなと声高に叫んでしまうのは、そうすること自体が反権力的なメディアによって、そうするように仕向けられていることになるわけだから、それも比喩としての洗脳の類いを受けていることにもなるわけで、そのような行為ですらもメディアから受け取った情報について語っていることの一つでしかないのかもしれない。

 ではどうすればいいのかといえば、どうもしなくてもいいわけで、これまで通りにメディアから受け取った情報について語っていれば、それで構わないのではないか。自らが語っていることが、メディアによって語らされていることを自覚していれば、それほどムキになってメディア批判をすることもないだろうし、ことさら対立を煽る行為にも加わらずに済むのではないか。そして場合によっては、メディアが讃える対象をメディアとともに讃えても構わないだろうし、またメディアが批判する対象をメディアとともに批判しても構わないのではないか。要するにメディアとともにやってはいけないことは何もなく、逆にやってはいけないことをことさらに強調したり、誇張して伝えるのがメディアの特性なのだから、そのような特性がメディアにあることを認識しておけばいいわけで、自らもメディアが強調したり誇張したりする意図に従いながら、語らされているかもしれず、その語らされていることを自覚しようとすればいいのではないか。そしてその意図に背きながらメディア批判をすることも、メディアの対立を煽る特性に従いながら、語らされていることになるわけだから、それも自覚しようとすればいいのだろうし、そうすることによって、おのずからメディアの特性を知ることになるだろうし、メディアに対する理解も深まり、メディアに騙されていたり従わされていたりすることに気づくかもしれないが、だからと言ってそれをメディアによる洗脳だとして批判するのではなく、それはそういうことだと受け止めておけばいいだけで、批判して事を荒立てようとするのは、対立を煽ることにしかつながらず、それもそのようなメディアの特性に従いながら、そうしていることにしかならないのではないか。そうやって人が行う様々な社会的な主義主張がメディアを経由して表明されるのが、大衆メディア社会の特性となっているわけで、その中で暮らしている限りはそこから抜け出ることはできず、その中で何を批判しても、それはメディア経由でメディアの特性に従って行われることになり、それはとりもなおさずメディアによるメディア批判としてメディア内に吸収され、フィードバックされてメディアの特性や機能の一つになり、批判者はメディアを批判しながらメディアを利用していることになる。その時点でその手のメディア批判は、メディアの自己言及パラドックスに捉えられていて、クレタ人は嘘つきだとクレタ人は言った、という効果に絡め取られていることになり、批判が批判者が意図するような批判とはなり難くなる。それもメディアがもたらしている特性の一つであり、そのような効果や特性も、批判するなら批判と同時に自覚しておくべきことなのではないか。そういう意味で人々が自覚しておくべきことは、メディアを経由すると、批判が必ずしも批判としての効果をもたらすとは限らず、またメディアを利用して対立を煽れば、それはメディアそのものの特性に従っていることになるわけで、これも対立を煽ることによっては、必ずしも対立している敵を倒すには至らない場合があり、ただ対立を煽るようなメディアの特性が浮き彫りになるだけだったりするわけだ。


12月11日「インフレーション」

 たぶん理解の域を超えたことは説明できない。何が理解できないのかといえば、それはその時々で変わってきて、それを理解できないままにしておくと、様々な水準や次元で理解できないことが積み重なってくるだろうか。実際には理解できないことはすぐに忘れてしまうから、実感としてはそれほど積み重なっているようには思えず、今もそれを忘れているのかもしれず、さっきまで何が理解できなかったのか忘れているのではないか。一般論としては神秘的な体験は理解できないが、説明のつかない現象を体験すると、何かそれがこの世界の神秘に触れたような、本質的な体験であるかに感じられるだろうか。だがそれを後から考えてみれば大したことではないようにも思えるのであり、実際に知覚できたのはほんの些細な理屈に過ぎなかったりするわけだ。個人の力でどうにかできるのは、客観的には身の回りの些細な現実でしかないが、それがメディア的な現象となると、何か世界を相手に個人が何かやっているような気になれるのかもしれないが、そんな錯覚を生じさせてしまうのが想像力で、現実の世界でもフィクションの中でも、何か特定の個人が世界全体を揺り動かしたように思われてしまう事態が生じて、それが意識と現実とのギャップを産んで、勘違いや妄想を生む原因となっているのかもしれない。それはとりわけ虚構の物語の中で顕著な傾向を見せるのだろうが、現実の世界でも歴史上の著名な人物が、世界に多大な影響を及ぼしたように語られてしまう場合が多く、歴史について語るとなるとそう語らざるをえないのが慣習となっているわけで、その人物の業績が過大に評価されてしまう場合がしばしばあり、過大に評価しないと偉人を主人公とした歴史的な物語とはならないのだから、そうなるのは致し方のないことかもしれないが、その人物が現実の世界で行ったことが事実であるのは確かなのだろうが、それがメディアを通して語られると、虚構の物語と同じような効果を発揮して、なまじ行ったことが事実であるだけに、多くの人々が物語的な効果の部分を信用してしまう。その物語的な部分とはその人物が何かを行ったことにより、世界が大きく変わったという部分であり、それが単純化されると、その人物の行為というより、その人物の存在が世界に多大な影響を与えたとなるわけで、かくして歴史上の偉人と呼ばれる存在が物語上に誕生して、そのような偉人たちの列伝がメディア的な興味の対象となり、それがしばしば人類の歴史と混同される場合があるわけだが、実際にはある何らかの人為的な現象によって、世界情勢が変化した時期について語られるとき、その現象に関わった人たちの中から、代表的な人物がスポットライトを浴びるのであって、それが物語の物語たる所以で、それが個人の名を冠した発明や発見であったりすると、特にそれが顕著になる傾向があり、その個人の業績として語られるわけで、物語にはその人物の存在が欠かせなくなり、そこから伝説としてのその人物の人となりや、その発見や発明に至る努力の経緯が語られ、結果的にその人物がいたからこそ世界が変わったとなるわけだ。

 そしてそのような人物の物語的な伝説から幻想が生まれ、幻想を抱いた人たちによる原因と結果のすり替えが起こり、歴史に名を残す偉人を生み出すにはどうしたらいいかという話になるわけで、そのバリエーションとしてノーベル賞受賞者やオリンピックの金メダリストや東大合格者などを生み出す試みにも行き着くのかもしれず、そのような原因と結果の短絡と不可逆性への挑戦は、人々を捉えてやまない夢を形成しているわけだが、フィクションの中でそればかりが強調されると、かえって話がわざとらしくつまらなくなってしまうのかもしれない。例えばスターウォーズで言えばそれはジェダイの騎士やシスであり、ガンダムで言えばニュータイプの存在であるわけだが、彼らが何か特別な力を持っていることが観客の幻想を煽り、客寄せとしての効果はあるわけだが、話の中でフォースの力やニュータイプの力が強くなりすぎると、何かそれが万能性を発揮してしまって、力のインフレーション効果が生じて、それによって全世界を変えるような話の展開となってしまうと、人々が現実に体験している世界とのギャップが生じて、話にリアリティを感じられなくなってしまうのかもしれず、ジェダイの騎士やシスやニュータイプが話の中で活躍するのは、それが話のメインなのだから当然であり、その活躍を描く話なのだろうし、ファンもそれが目当てで観にくるわけだが、それが世界全体と拮抗するような力となってしまうと、つまらなくなってしまうのかもしれず、その力の所有者がピンチになった時に、その力によってかろうじて危機を脱する程度に止まっているなら、観ている人たちの興味も持続するのかもしれない。そういう意味でスターウォーズのエピソード1〜3は、力のバランスがおかしかったのかもしれず、フォースの力の設定とシスが銀河全体を支配する過程が安易すぎたのかもしれない。話がでかくなりすぎたというか、そういう話なのだから矛盾してしまうのだろうが、その辺でごまかしが利かないというか、銀河帝国とか銀河皇帝とか荒唐無稽すぎて、そこに話の焦点を当ててしまうとリアリティを失い、そういう話の設定にしてそれを話のメインに据えてしまうと、破綻しているように感じられ、そこにジェダイの騎士のライトセーバーを使った、個人的なチャンバラ劇が加わるわけだから、ジェダイの騎士とシスのチャンバラ対決とスターウォーズと呼ばれる全銀河を巻き込んだ戦争との規模が、余りにも不釣り合いで、観客が観ていてそれに気づいてしまうのだから、やはり失敗だったのではないか。それなら最初のガンダムでのモビルスーツ同士の対決が、あくまでも戦争全体の中のほんの一部分を占める戦闘でしかないという位置付けは、正解だったように思われる。ガンダムもその後力のインフレーション効果で、ニュータイプがわけのわからない強大な力を持ってしまって、荒唐無稽さを増してしまうわけだが、結局それは現代人の自意識過剰から生じる、人間という存在に対する過大な思い入れが、そんな話を可能にしていて、それが多くの人々を魅了している現状があるのだろうか。


12月10日「法律の活用」

 宗教を批判したところで、神は何も語らない。神に代わって人が語り、その語りに感銘を受けて、人は神を信じるようになる。聖書やコーランが読み継がれ、語り継がれて今に至る。そして今に至った結果がこの有様だ。全てを宗教のせいにはできないのはもちろんのこと、宗教のせいにしたがる人々の言わんとすることもよくわかる。何が宗教で何が宗教でないかを区別できるだろうか。全てが宗教で他は何もないというのもあり得るかもしれない。人は神に支配され、世界は神に支配されている。この世界は神によって創造されたもので、創造物の中には人も含まれている。そうだとすれば人はこの神が創造した世界の中で何をやればいいのか。実際にやっていることを続けていればいいのだろうか。そうだとすればやっていることのすべては、神の意向が反映されたものなのではないか。そうなると人を殺めたり物を盗んだりする行為も、神の意向で行われていることとなり、それらを肯定する宗教は信じられないから、神の他に悪魔を登場させ、人に害を与える悪い行為は、悪魔にそそのかされて行っていることだとすれば、神の無謬性が保たれるだろうか。だがそんな幼稚な原理では、他人から馬鹿にされてしまうかもしれない。では現代において、普通の一般人に信じてもらえる宗教とは、いかなる教義を必要とするだろうか。その辺はあやふやにしておいて、例えば冠婚葬祭を仕切る役割に徹していれば、何とかその体裁を保っていられるかもしれず、一般の人たちにはあまり教義云々は明かさず、教会や寺社にくる人たちには、儀式以外では人生相談の問答などで乗り切れば、宗教教団として一応は成り立つだろうか。もちろん中には真面目に宗教について考えている人たちもいるだろうし、宗教哲学みたいな学問もあるのではないか。そこで宗教的な意味での世界を律する原理なども提示されているかもしれないが、一般の人たちはそういう方向で宗教について考えることはなさそうで、何か特有の服装や習慣によってその宗教や宗派に帰依しているのを認めるだけで、それ以上は詮索しないだろう。要するに宗教の中身にはあまり関心はないが、特定の宗教や宗派に属する人たちが、それを利用して他の人々に害をなすような行為に及べば、場合によっては差別したり弾圧するだろう。テロに及ぶ人たちがイスラムの名においてやっているから、イスラム教徒が差別されたり弾圧されるのは、ある意味で当然のことなのだろうが、イスラム教徒にしてもキリスト教徒にしても、あるいは仏教徒やユダヤ教徒にしても、異教徒と戦って、勝って異国を占領して、そこに国家を築いた歴史的な経緯があるわけだから、テロを繰り返す武装組織なども、それの再現をやろうとしているのだとすれば、彼らの論理ではそれほど間違ったことはやっていないのかもしれない。そしてそうだとすれば彼らにとっては敵である異教徒側も、応戦しなければならなくなり、現状がそんな宗教的な聖戦のただ中にあるとすれば、そういうことになってしまうのではないか。

 宗教的にはそんな解釈で構わないのかもしれず、それはそれとしてそんな捉え方をしておけばいいのだろうし、別にそこに戦争反対などの人道主義を紛れ込ませる必要はないのかもしれない。宗教であれ何であれ、世界に原理を導入しようとする人たちは、それを受け入れない人たちと戦う宿命なのであり、それが武装闘争なのだろうから、戦争をしているつもりなのだろうし、聖戦に勝利すれば、自分たちの宿願を達成したことになるのではないか。冠婚葬祭や人生相談などではなく、真面目に宗教について考えて行くと、宗教の性質上そこに原理を導入せざるをえなくなって、そこから世界を律する法のようなものが導き出されるとすれば、その法によって世界を従わせるには、法を受け入れない人たちと戦うのは避けられないだろうか。イスラム法を厳格に守らせるために戦う大義があるとすれば、戦うことが正義ともなるだろうが、イスラム法でなくても、国家が規定する法律を守らせるために、警察や軍隊などのように暴力を行使できる機関があることは、法律を守らない人たちとの戦いが、世界中で行われていることを意味し、それらの戦いの延長上に戦争があると考えれば、紛争地帯でも平和な地域でも、それがどのような形をとるのであれ、戦いは日常茶飯事で行われていて、そこには合法や違法や超法規的な戦いがあり、そこで効力を発揮している法律に照らし合わせれば、やっていい戦いとやってはいけない戦いがあるのだろうが、それが戦いである限りにおいて、やっていい戦いからやってはいけない戦いへと、移行したり発展する可能性は常にあり、警察などの治安機関が正常に動作している地域であれば、やってはいけない戦いは取り締まりの対象になるわけで、それによって地域の治安が保たれ、そのような法に基づく秩序を人々が受け入れていることになる。そういう意味で世界中で行われている戦いは、法を守らせ従わせるための戦いであり、それがゲームやスポーツともなると、ルールを守りルールに従いながら戦うことにもなるわけで、宗教の戒律であれ国家の法律であれゲームのルールであれ、守らせたり従わせたりすることは、人の自由を奪う行為になるわけで、それは必ずそれに逆らったり破ったりする者の出現を許すことになる。そうなるとそれを守らせたり従わせたりする側と、それに逆らったり破ったりする側との戦いになるのは避けられず、つまり世界に戒律や法律やルールがある限り、それを巡る戦いは永遠に続くことになり、やはり人は人と戦う宿命にあるのではないか。そして法によってやってもいい戦いとやってはいけない戦いとの間に、境界を設けるのだろうが、その境界はいつでも侵犯され越境の対象となり、やってもいい戦いからやってはいけない戦いへと発展するのだろうし、法の類いには戦いをやめさせる効力はなく、逆に法を巡って戦いを活性化させるのであり、法を用いて戦っている自身を正当化するわけで、要するに人は人と戦うために法を必要としているわけだ。


12月9日「制度の矛盾」

 今の情勢は世界的に革命期に入っているとみなしたほうがいいだろうか。しかし何をもって革命と呼ぶのかについては、中東やアフリカなどの動乱が果たして革命と呼べるのか、にわかには信じ難い面もあるかもしれないが、それらの地域で武装勢力が行っている戦闘行為が、イスラム革命であるはずがないという認識は、まともな人なら誰もが共有する了解事項だろうか。では他に革命と呼べる現象があるだろうか。例えば情報産業分野で進められている人工知能や量子コンピューターの開発が成功して、それが一般に普及した暁には、人類の文明に画期的な革命をもたらすだろうか。そう述べている人もいないわけではないが、それは昔起こったフランス革命やロシア革命などの政治的な革命とは、次元や性質が異なり、革命そのものというより比喩としての革命かもしれず、では政治的な革命は起こりえないかといえば、世界のどこかの国で超法規的な政変が起これば、それが革命と呼ばれる可能性はあるだろうし、そのような政変が世界各地で続発すれば、世界全体が革命期に突入したとみなされるだろうが、法律に基づいて政権交代が起こりうる民主的な地域では、その手の革命は起こりえないかもしれず、起こるとすれば独裁体制によって民意が歪められている地域に限られるだろうか。そして日本の現状が果たしてそれに該当するのか否かについては、政権に批判的な人たちからすれば、その通りということになるかもしれないが、これも本物の独裁体制というより、どちらかといえば比喩としてそう言われている傾向なのかもしれず、その辺でどこまでそれらの批判を真に受ければいいのか、判断に苦しむところだろうか。日本の場合は超法規的な革命ではなく、法律に基づいた選挙によって政権交代が起これば、今の政権に批判的な人たちも納得するだろうが、今後しばらくはその可能性があまりないように思われる一方で、民意を無視した原発再稼働や憲法軽視や批判的なメディアへの圧力など、もちろんそれに対する支持もあるわけだが、その手法が強権的な独裁体制のやり方だと批判されていることは確かで、それが一定の成果を上げているのかいないのかについても、なんとも言えないところで、それ以前に政治的な成果とはなんなのかについて、はっきりした基準がなく、何をもって成果とみなすかについても、政権を支持する側と批判する側で、判断にも見解にも共通の基準がないわけだから、それについて議論したとしても、互いの主張が平行線に終わるしかないだろうし、そのような状況下で果たして何が言えるだろうか。やっていることのことごとくが、その目的も目標もよくわからないようないい加減なものに感じられ、それ自体が的外れなことをやっているようにも思われ、しかもそんなことしかやれない状況かもしれず、彼らにそれ以上を求めるべきではないのかもしれない。彼らとは現政権に関わっている人たちと、それを支持している人たちのことなのだが、ではそれを批判している人たちに何ができるかといえば、仮に今後何かのきっかけから政権交代が実現したとしても、たぶん政権を担うだろう人たちに、多くを期待してはいけないのかもしれない。

 もしかしたら政治に期待するような状況ではないのは、すでに全世界的な傾向となっているのかもしれず、人々が実現を求めていた民主的な政治体制は過去の理想でしかなく、まだそれが実現していない地域もあるだろうが、それによってできることは、人々が期待し求めていることからずれていて、ではそもそも人々は何を求め期待しているのかといえば、それは人によって異なるだろうし、その最大公約数的なものでは、多くの人が納得できないのかもしれず、そういう意味で今の政権がやっていることは、多くの人にとっては納得しがたいことかもしれず、それが人々の望んでいる最大公約数的なものかどうかはわからないが、少なくとも今の政権にはそんなことしかできないわけで、それ以上を求めるのが無理であるのも多くの人もわかっていることだろうし、何よりも現政権を批判している人たちは、そんなことはわかりすぎるくらいにわかっているのではないか。だから政権交代を望んでいるのだろうが、彼らにしても政権交代が実現した後の見通しなど何もないだろうし、そこで何ができるかなんて、実際にその時になってみないことには、何とも言えないだろうが、たぶん彼らの期待とは違った結果になるだろうことは、容易に予測がつくように思われ、だから政権交代などしない方がいいとは思わないし、現状が行き詰っているならさっさと政権交代して、現状を批判している政治勢力に政権を担わせて、このどうにもなりようのない現状と格闘させた方がいいだろうし、現状が政治に期待するような状況でないことを、多くの人にわからせた方が、政治とは違った方面へと目を向けさせる良い機会にもなるのではないか。では何に目を向けてもらいたいのかといえば、それはありのままの現状そのものだろうし、多種多様な価値観や思考が介在することによって、決して一つにはまとまり得ない現状そのものであり、特定の一つの意志によっては制御しえない社会の有り様だろうし、要するにそれは特定の政治的な指導者を必要としない社会の現状なのかもしれず、そういう意味で社会の現状が、特定の政治的な指導者を必要とする民主的な政治体制を必要としていないのかもしれない。それはイスラム原理主義の武装勢力が、強力な権限を持った指導者に率いられているのではないのと似ていて、一人の人物に権限が集中しないような組織へと、自然な移行があるのかもしれず、国家的な政治制度がそんな現状を反映する上で、障害となっているのが、その根本をなす選挙制度なのかもしれず、選挙によって有能な代議員を選び、その中から首相を選んだり、大統領制の場合は直接人々の投票で選ばれるわけだが、その人を選ぶ基準というのが、必ずしも一定ではなくなっているのに、それでも選ぶわけだから、当然のごとく選ばれた人がどのような基準によって選ばれたのか、それがはっきりしないわけで、そこで有能な人物を選ぶという建前が崩れ去ってしまい、選ばれた人物が何によって代表されているのかわからなくなり、そうなった時点で選挙は単なる、形骸化した通過儀礼になってしまっているわけだが、すでに現状でもそうなっているのかもしれず、しかもそれを有能な人物を選ぶという理想状態にすることなど不可能なのではないか。人々はすでにそんなことは経験的にわかっているはずなのに、実際に特定の人物を暗愚な宰相呼ばわりしているのに、それでも制度にしがみつくしかないわけだ。


12月8日「役回りの変更」

 万事が万事そうはならないかもしれないが、なぜかそうなってしまう成り行きの中で、そうなってしまう成り行きに逆らう人たちがいるわけで、それに逆らうのも含めて、そうなってしまう成り行きだとすれば、逆らう人たちはいつも割りを食う立場になるだろうか。役割分担上は損な役回りなのかもしれないが、損する人たちがいなければ、得する人たちが生まれないのであれば、やはり損害を被ることで割りを食う人たちが必要不可欠かもしれず、そこに損得勘定が成り立つとすれば、必ず損な役回りを担う人たちが出てくるのかもしれない。そして割りを食った人たちはそんな結果に納得するわけがなく、自分たちが損害を被った分だけ得した人たちが許せないだろうが、どうも損得勘定がはっきりせず、誰が得したのか損したのかはっきりしない場合は、その状況をどう捉えたらいいのかわからなくなるだろうか。たぶんそんな割り切れない思いを抱く機会の方が多いのかもしれず、下手に損だの得だのと割り切ってしまうと、何か思い違いをしてしまっている可能性があり、そう思うことでやっていることの本質を見失ってしまう恐れがあって、特に目的がはっきりせずに、ただ漠然と何かをやっている場合は、あまり性急にやっていることの目的や理由を求めない方がいいのかもしれず、なぜかそれをやる成り行きとなってしまい、いったんやり始めると、どうもそのままやり続けていた方がいいように思われて、それでいいように思われる理由が、今ひとつはっきりしないのだろうが、こんなことをやり続けていても何の得にもならないと思うわけでもなく、積極的に肯定することも正当化することもできないまま、ただ何となくそれをやり続けている場合があるとすれば、やはり強引にそこに目的や理由や根拠を設けず、とりあえず判断を保留にしておいた方がいいように思われてしまう。やり続けている現実があればそれで十分なのかもしれず、続かなくなれば自然とやめざるをえなくなるのかどうかは、その時になってみないことにはわかりようがないが、そうなると続けられる限りは続けるだろうし、やめるような転機が訪れない限りは、自らの意志でやめる決断は下せないのかもしれない。それで良いか悪いかはわからないだろうが、それを続けさせるような状況の中でそうしているわけで、そのような成り行きがそこにあり、そのような行為を後押しするような作用も働いているとすれば、状況を味方につけながらそれをやっていることになるわけで、そのような行為が結果的に長続きしているのならば、たぶんその可能性が高いのだろう。そうなると外部からそれをやめさせるのは困難を極めるかもしれず、例えば気に入らない政治状況を批判する人はいくらでもいるだろうが、気に入らないからといって、それを批判している人たちがそれをやめさせることは難しいのかもしれず、実際にそれらの批判者たちの批判行為が実って、政治状況を変えた例はあまりないのかもしれず、実際に政治状況が変わる時は、それとは別の方面からの作用によって変わるのかもしれず、その大半は思いがけないきっかけから変わるのであり、しかもそのきっかけからもたらされる作用が、批判者たちを利することはあまりないのかもしれず、そうなってしまう成り行きに逆らって、批判を繰り返す人たちは、いつも利益にはありつけない損な役回りの人たちであって、批判している状況が変われば、顧みられない人たちなのではないか。

 だからと言って批判をやめるわけにはいかないだろうし、いつも損な役を引き受けながらも批判を繰り返すしかない宿命なのだろうし、その人たちが置かれた状況がそうさせるのであり、状況に後押しされながらそうしているわけで、いったんやり始めると後には退けなくなり、退くことは負けを意味し、負けるわけにはいかなければ、結果的にそれが負け戦になろうと、負けるまではそれをやり続けなければならなくなるだろうか。負けると決まったわけではないと思っているのだろうし、批判を続けている現実があるのだろうから、それを続けられているうちは、それが負けていない証拠と言えるのかもしれず、批判を続けている現実さえあれば、自らに不利な状況であろうとなかろうと、とりあえず続けられているのだから、勝つ可能性が皆無だとは思えないわけで、他の誰かには圧力がかかって、実際に辞めさせられたとしても、自分は現実に批判しているのだから、それを可能な限り続けようとは思うだろうし、時には妥協を迫られる時もあるかもしれないが、かかってくる圧力をかいくぐって隙を見つけ、そこを突いて批判できる可能性を探りながら、可能な限りどのような形であっても、工夫を凝らして批判に結び付けようとするだろうか。今もそうやって、どこかで誰かが批判している最中かもしれないが、もしかしたらそれらの批判は報われない方がいいのかもしれず、報われないままに、いつまでたっても批判をやめられないような状況になった方が、それらの批判者たちのためであり、批判することが生き甲斐となってしまった方が、そのような状況につなぎとめられ、報われない状況から目を背けていられる効果があり、目を背けていられる限りは批判を繰り返せるのかもしれない。そしてそこから目を背けられなくなった人たちが、現に批判の対象となっているわけで、なんの報いも得られないことに気づいて、批判をやめ利益を求めて批判していた対象に近づいていった人たちが、実際に批判者たちが批判している対象を支えているわけで、そういう人たちは損な役回りから得な役回りへと、態度変更した人たちであって、変節してしまった人たちであるわけだが、それはある意味で批判者たちの成れの果てと言えるのかもしれないが、立場が批判する側からされる側へと変わったとしても、もしかしたら本質的には何も変わっていないのかもしれない。どちらの立場であるとしても、政治の舞台上で何かをやっているつもりになれる立場ではあるわけで、そのやっている何かとは、メディア上で批判したりされたりする役回りであり、批判を巡って何らかの役が割り当てられていて、彼らにはその役を演じることが求められているのではないか。要するに何か事ある度に発言しなければならず、それを怠れば一般大衆から忘れられて、メディア上から退場させられてしまうわけだ。退場するのが嫌なら、絶えず発言し続けていなければならないわけで、それが批判なら批判し続ける必要があるわけで、しかもその批判がどのような形であれ評判を取らないと、人気がなくなって退場させられてしまうから、常に人の関心を引くような批判を心がけていないと、たちまち忘れられて過去の人となってしまう。実際にそうなってしまい、それでも退場するのが嫌でそこへしがみつきたければ、かつて批判していた対象へと近づいていって、そこで媚びを売るしかないのかもしれない。


12月7日「フィクション」

 フィクションを理解することが、そのまま世界を理解することに結びつくだろうか。フィクションはフィクションであり、世界は世界なのだろうが、両者を結びつけるのが人の想像力となるだろうか。人がフィクションを好むのは、そこに人が好むような成り行きや結果が反映されているからかもしれず、それが人為的に感動や驚愕をもたらしているように感じられ、その人為性が人を安心させるのかもしれないが、人も自然の一部として世界に属している以上は、時としてそこに人知を超えた自然の脅威が顔を覗かせていたりして、人が作り出すフィクションといえども、侮りがたい部分があるのかもしれず、フィクションにあってもそれを感じ取れるとしたら、そこから世界の理解へと至る場合もあるだろうか。世界を理解するためにフィクションを利用しようとしているわけではなく、ただの娯楽でしかない場合がほとんどかもしれないが、学問とは違う意味で、どうもそこから何かしら学んでいる可能性があるのかもしれず、世界に対する認識や、社会の中で人が行動する上で、典型的な動作などが、フィクションの中に現れていると思われたり、また現実の世界と比較した場合、フィクション特有の限界がそこに現れていると感じられると、それがとりもなおさず世界に対する人の限界であるように思われてしまうわけで、そこに登場する架空の人物が、その環境からもたらされた固定観念にとらわれたまま、何かのきっかけで身の破滅を招いたりすれば、何やら現実の世界でもありそうな話だと思ったりするわけだが、一方でそんな風に原因と結果を簡単には結びつけられないような話となれば、そこに自然からの作用として偶然の巡り合わせが働いているとも思われ、人の行動や言動が必ずしも理路整然と合理的な過程を通らずに、思いがけない結果を招いたり、わけのわからない紆余曲折や、話のつじつまが合わないのに、そうなる方がおもしろく思われたり、ありふれた話の展開や予定調和の結末に安堵する楽しみもあるのだろうが、それ以上の何かを期待して期待以上の驚きや感動がもたらされたら、そちらの方がはるかにいいのだろうし、そういう意味で人がフィクションに求めているのは、フィクションを超えるような何かがもたらされることかもしれず、そしてそのフィクションを逸脱するような何かの中の一つが、自分たちが生きている世界の理解に結びつくことになるだろうか。別にフィクションにそれを求めるのもおかしな話かもしれないが、人を世界の理解へと導く文化的な作用の一つとして、フィクションがその役割を担っている可能性もなきしもあらずかもしれず、初めからそうと認識するのではなく、それを目的にフィクションを利用しようとするのでもなく、何かのついでぐらいにそれに接していると、思わぬところから思わぬきっかけとなったりするのかもしれず、別にそれがフィクションでなくても、ニュースでもドキュメンタリーでも構わないのだろうが、ニュースの伝え方やドキュメンタリーの構成自体が、どうもフィクションから影響を被っているように感じられて、そこに登場する現実の世界で生きている人々が、あたかも俳優が演じているかのような動作をなぞっているように思われ、そこでカメラに向かって何かを伝えようとするそぶり自体が、自然と俳優の動作をもたらしてしまうのではないか。

 直接何かを伝えるにしろ、それを書き記すにしろ、ここにはない何かを伝えようとしているわけで、それは何かが起こっている現場で、その起こっている状況をリアルタイムで伝えようとするのであっても、それに関する話は、時間的にさかのぼって、過去に起こったことを伝えたり、これから起こるだろう未来の出来事について予想したり、やはりここにはないことを伝えようとするわけで、そうなるとフィクション的な要素も話に入り込んできて、話の中で伝えようとする現象を部分的に取捨選択したり、その自覚がなくても話を誇張したり歪曲したり、そのような編集作用が伴うわけで、それこそがフィクションそのものの特性かもしれず、そのようにして人が現実に生きている世界の中から、伝えたいことを伝えようとする動作が、フィクションをもたらしているのではないか。もちろんそこで伝えたいことが伝わらなかったり、また伝えたいこととは別のことが伝わったりする現象も起こるわけで、必ずしも思惑通りに事が運ぶわけでもないのだろうが、ともかく何かを伝えたいという意思を持ち、それを実現させようとする行為がフィクションを生み出し、その意思通りに事を運ばせようとして、様々に工夫を凝らしてフィクションを構成する過程で、その意思を超えて世界の情報が注入されてくるのかもしれず、そのようなフィクションに接した人たちは、その自覚もないまま世界に関する情報をそこから得ているのかもしれない。そしてその得られた情報を通して世界を知ろうとしているわけで、それがそれと自覚できるものから、それとは気づかないものまで、様々な水準で人の意識に取り込まれることで、人の意識に影響を及ぼし、その人の人格や行動や言動に反映されるわけで、場合によってはその取り込まれた情報によって、その人が制御されるようなことになれば、それは洗脳と呼ばれる現象かもしれないが、そもそも自分に思惑通りに何らかの現象を制御したいと思うこと自体が、やはりフィクションの実現へと向かわせるわけで、その自分が制御しているつもりになれる現象がフィクションなのではないか。そういう意味で人は、自分の思い通りのフィクションを作りたいわけで、それが自分が伝えたいことを伝えようとする行為そのものであり、作家でなくてもあらゆる人間は、そのような思いから生じるフィクションにとらわれていて、その自覚がなくてもフィクションを構成しようとしているのではないか。そして絶えず構成することに失敗しているのかもしれず、その失敗をもたらしているのが自然からの作用であり、その中には他の人たちが邪魔する行為も含まれるだろうし、邪魔をしようとする意思がなくても、人がやろうとする行為に他の人が関わってくると、他の人の思惑も働いてくるから、その人の思い通りに事が運ばなくなり、結果的に出来上がったものは、当初にやろうとしていたことからずれていたり、かけ離れたものであったりして、またそれが出来上がる過程で、それを製作しようとする人たちを、その作品が変えてしてまう現象も起こるかもしれない。作品を作ることによってその製作者が、作品からの作用によって変貌させられる可能性があり、そうなると作品が出来上がる頃には、もはや当初に抱いていた目論見などどうでもよくなっていたりするのではないか。


12月6日「統治形態」

 普通は何かと何かの間に差異を見出そうとすることから思考が始まり、その何かと何かの違いを説明しようとするのだろうが、その何かと何かとは具体的に何なのか。それを知り得なければ差異も生まれず、思考も言説も出てこないのではないか。実際にそこに差異があるとは認められず、何かと何かの区別がつかないのかもしれず、何かが具体的に何なのかさえ分からないだろうか。それがわからなくても構わないなら、取り立てて差異を見出す必要などないのかもしれないが、ではその区別のつかない何かと何かとは何なのか。はっきりと区別できなければ、安易にそれを特定するわけにはいかないだろうか。昔がどれほど昔だったのかはっきりとはわからないが、たぶん昔と今とでは、そこへと至った過程が異なるのだろう。昔と今との差異を見出せなければ、なおさらそうなのかもしれず、逆に差異を見出してしまっては困るのかもしれない。このままでは昔のようになってしまう、と危機感を煽る人たちにとっては特にそうなのだろうか。確かに昔と今とでは状況が違うとなれば、今からどのように事態が進展しても、昔ようにはならない可能性が高くなり、煽るはずの危機感が減じられて、それを真に受ける人もあまりいなくなってしまうかもしれない。実際にそうなってしまうと、危機感を煽ろうとする人たちも焦ってくるだろうか。そして状況を把握しようとする人たちにとっては、そのような焦りこそが、昔と今の違いを示す証拠と映るのかもしれないが、実際に危機感を煽っている人たちは焦っているのだろうか。現状ではなんとも言えないところかもしれないが、事態がだんだん進んできて、昔とは明らかに異なる兆候が出てきたら、それらの人たちは素直に自分たちの勘違いを認めて黙るだろうか。それともそれこそが自分たちが危機感を煽った成果だとして、自分たちの行為が昔のような事態なるのを防いだと胸を張り、そんなふうにして彼らの自己正当化に余念がないような結果をもたらすだろうか。願望混じりに予想するとすれば、おそらくそうはならずに、彼らが胸を張るような結果とはならないだろうし、そうかといって昔のようになるはずもなく、ではどうなるのかといえばどうにもならず、いつまでたっても相変わらず現状のままとなるのではないか。それ以上にも以下にもなりようのない現状の中で、事態は停滞の一途をたどり、何もかもが形骸化するにまかせ、多くの人たちがその件については無関心となって、さらに時が経てばそんなことなど忘れてしまうだろう。そういう意味では今は危機的状況ではない。そうでないとすれば今はどんな状況なのか。停滞している状況なのではないか。しかもその停滞で構わないのであり、停滞以外にはありえない状況なのではないか。間違ってもここから躍進する可能性などないだろうし、無理に躍進させようとしても、そのきっかけも材料も見つからず、どうすることもできないから停滞するしかなく、誰もが停滞に耐えるしかない状況なのではないか。そしてそれ以上を求めても求まるわけがなく、なにやら見え透いた掛け声は常に発しているようだが、掛け声倒れであるのは誰もが分かっていることなのではないか。

 そして今は誰もが、世界中の国々が悪あがきの最中であり、従来からある価値観に基づく繁栄を維持し、継続させようとしているのかもしれないが、それがうまくいかずに行き詰っているのかもしれず、その行き詰まりを打破しようとして、悪あがきの最中なのだろうが、掛け声ばかりが虚しくこだまする一方で、肝心の方策がないのかもしれず、だから世界が停滞のただ中にあるのだろうし、取り立てて打破する方策がないのだから、それで構わないにもかかわらず、やはり誰もが、世界の主要な国々が、悪あがきをせずにはいられないのであり、そうしないと国家としての体面を保てないのではないか。何か対策を施しているふりをしていないと、民衆を納得させることができないのであり、国を統治する役割を担っている行政機構や、各省庁の中でその役割を担当する部署に配置されている人員や、そこで指導する立場にある、しかるべき地位にある人々が、何かをやっているように見せかけておかないと、それらの機関とそこに配属された人々は、無駄で無意味なものとみなされてしまうので、それを避けるには、彼らには何かもっともらしい理由を得られるような仕事を、割り当てておかないとまずいわけだ。そんな仕事があればの話なのだろうが、国を統治する仕事というのが、もっともらしい理由を得られるような仕事なのかどうか、統治するのが当然のことだと思われていれば、何はともあれ何とかそれで、それらの機関とそこに配属されている人員の必要性や根拠が示されたことにはなるだろうが、果たして統治とはどのようなことを意味するのだろうか。統治と支配はどう違うのか。例えばそこに暮らす人々が納得できるような支配形態が統治と呼ばれるのか、あるいは支配者が支配を合理化し正当化するために、支配を統治と呼び換えているだけなのか。支配と統治が本質的に違わないのなら、では実質的にはそこで誰が何を支配し統治していることになるのか。それに対する明確な答えを持ち合わせている人はいくらでもいるかもしれないが、その明確な答えに納得できるかどうかは、その人の立場や主義主張によって異なるだろうか。そして納得できない人たちは、統治や支配について明確な答えは持ち合わせてないだろうし、ただそこに統治機構としての三権分立を担う諸機関が存在していて、それらが国を統治している事実は認めざるをえないだろうが、その理由や根拠や必然性ついては、それがないと困る程度の認識かもしれず、実際にそれがあるのだから、やはり必要だからあるのだろうし、あるものがなくなれば困るのは当たり前のことで、そこからそれらの諸機関がなければ困る理由が導き出されるだろうが、なければ困るという思考自体が、すでにそれらの存在を前提として考えてしまっているのであり、例えば三権分立ではなく、実質的には三権癒着構造になっている可能性もあるわけで、そうだとすると三権分立が機能しておらず、すでに困った事態となっているのかもしれず、しかもそれが当然だと思っている人たちが、それらの機構内で幅を利かせている可能性があり、だから分立ではなく癒着しているわけで、癒着することで共通の利益が得られる構造となっているのかもしれず、従来からある建前のように、行政と司法と立法の諸機関が、相互に相互の権力を監視し合って、どれか一つの突出を他の二つが抑える機能というのが、有名無実化している方が三機関ともに都合がいいとなると、その時点でそれらの機関の存在意義そのものが無化しているわけで、三権が分立している理由がなくなってくれば、三権分立という統治形態そのものの根拠や必然性について、合理化も正当化もできなくなってくるわけだ。


12月5日「構造的な理解」

 人はまだ知りえない謎を解き明かしてみたい。それが誰にも当てはまることだとは限らないだろうが、それを知りえたつもりになれば、少しは不安が解消するだろうか。人がやっていることについて、やっていることの意図や思惑が見えてこない時、人は不安にとらわれるだろうか。何に対してそう思っているわけでもなく、ただの気まぐれから何かをやり始めた時、それが思いがけず長続きしてしまった場合、果たしてこのまま続けていっていいのか悪いのか、その判断がつかない時、人はただ成り行きにまかせて、それを続けようとしてしまうだろうか。もちろん人によりけりだろうが、実際にやっているのがそんなことでしかない場合、そこに必然性があるとは思えないし、そのやっていることを肯定する気も正当化する気も起こらず、それでも何となくやり続けている状況がありそうで、その程度で済んでしまうなら、それを改めてどう捉えようとしても、それ以上のどんな認識にも至らずに、そのままとなるしかないのかもしれず、そんな肯定も否定もできないような心境になれば、やはりそれはそういうことでしかないのかもしれない。それ以上はわからないなら、その程度の水準を超えることはなく、たぶんそれは謎ではなく、すでにわかっていることであり、それ以上はわかりようがなく、その時点で解き明かすべき要素がないことになるだろうか。そしてそれについて知りえたことの範囲内で、それに対する理解をとどめておけば、それはそれとしてわかっていることになりそうだが、それでは飽き足らないとしても、それ以上を求めて、今度はそれについての空想や想像から、それについての理解と似ているようで全く異なる恣意的な幻想を得るに至ると、そこから先は後戻りのできない宗教的な領域へと踏み込んでしまうだろうか。常人には見えないものが見えてしまう人などは、自覚のない無意識の空想や想像が、そこに事物の幻影をもたらしてしまい、例えばそれは壁の汚れが血痕に見えてしまったり、写真の背景に映り込んだ陰影が人の顔に見えたりするのと似ているのかもしれず、感情的な思い込みが、その思い込みにとって都合の良い構造を見出して、それで謎が解けたと勘違いしてしまうのだろうか。ではその構造とは何だろう。それは警察機構や警備会社が監視カメラや盗聴機器を用いて社会を監視するシステムから想像されたり、クレジットカードやポイントカードの利用状況や、あるいは行政による個人番号カードから、住民のプライバシーを監視される不安が、そのような構造を想像させるのかもしれず、一般の人々にはうかがい知ることができないところから、支配者が監視しているという構造であり、監視され秘密や弱みを握られて、支配者に逆らうことができなってしまう恐怖というのが、なにやら空想や想像の領域で膨らんでくると、まともな判断能力が失われて、すぐにでも個人の自由を制限する全体主義社会が到来するかのように思われて、危機感を煽りたくなってくるのかもしれないが、そもそも現代において支配者の位置に収まるべき存在とは、具体的に何を指すのだろうか。

 もしかしたらそれを特定できないのが、現代社会の特徴かもしれず、誰が何が人々を支配しているわけでもないのに、そこに支配者を想定しておかないと、恣意的に思い描いている構造が成り立たなくなってしまう。そういう意味で人が思い描く構造を社会そのものが超えていて、そうかと言って、人は社会の構造をツリー状にしか認識できないが、実際にはツリーではなく、セミ・ラティスとかリゾームであるとか言ってみたところで、そこに特定の構造を当てはめてしまうと、どうもそうではないような事例が出てきてしまうのかもしれず、そういう意味で人が寄り集まって構成しているはずの社会は、人の認識を超えていて、人が導き出す構造は、部分的には当てはまるのだろうが、社会全体には当てはまらず、そこに構造を当てはめると、構造の範囲内では社会の傾向を説明することができ、それ相応の理解も得られるのかもしれないが、たぶんそれが全てではなく、その構造を超える部分については説明できず、理解不能な部分もあるのかもしれない。しかしそれでも人は、自分が導き出した構造を社会に当てはめて、それによって社会を説明し理解しようとするのかもしれず、その辺で人の思考の限界が露呈すると同時に、その構造から導き出された法則や知識が、社会に暮らす人々にとっては受け入れやすく、それを導き出した当人としては、まだまだ社会を完全に理解したつもりはなく、これからさらに探求や研究を続けることによって、より深く詳細な理解に至りたいのかもしれないが、それを受け入れた社会の多数派にとっては、それで何か画期的な理解を得られたつもりになって、得られた法則や知識を使って、何かわかったようなことを言いたがるのであり、そんなふうにして社会についての不完全な理解が、社会全体に蔓延することとなってしまうのかもしれず、それを助長するのが、新たな知識をもたらした人を、何かの教祖様のように祭り上げるマスメディアなのだろうが、そのマスメディアによる祭り上げそのものが、ある意味で社会が特定の言説によって支配される現象をもたらし、その言説を信じる人が多ければ多いほど、その言説が多くの人々の意識に影響を与えることになるわけで、結局支配とは信じるか信じないかの宗教的な作用によるところが大きく、支配する側の権力よりも、支配される側の支配者への信仰や崇拝が物を言うわけで、その信仰や崇拝を仲介するのがマスメディアだとしても、最終的には人々の側に責任があり、物事の単純化から生じる安易な理解が、特定の何かへの信仰や崇拝をもたらし、お粗末で穴だらけの理論や論理の虜となって、滑稽な行動や言動に及んで、そこで目を覚まさない限りは、自滅への道を歩んでしまうのではないか。


12月4日「不均衡」

 たぶん世界は様々な水準で不均衡な状態の中にあり、その中でも人は絶えず人と人の間に、あるいは人や組織の間に不均衡な関係を作り出して、それを意識するしないに関わらず、そのような関係を利用して利益を出しているのだろうが、自分を利するための不均衡な状態を作り出すに際して、初めから公平かつ公正なやり方というのがあるわけがなく、まず他を出し抜いて不均衡な状態にするには、欺いたりごまかしたりする行為が欠かせないだろうし、利益を出すにはそれをやらざるをえないと同時に、そのような行為を正当化して、それが合理的な行為であるように見せかけなければならず、そのためには他の人たちの支持を取りつけなければならず、それらの人や組織と共犯関係を作って、その支持してくれる人や組織にも利益を配分する必要があり、それをやるに際しての一般的な方法が企業活動となるわけだが、その他を出し抜くために欺いたりごまかしたりする行為の、どこまでが許されてどこまでが許されないかについて、合法か非合法以外で、はっきりした基準があるわけではなく、合法であっても倫理的に許しがたい行為もあるだろうし、非合法であっても状況的にはやむをえない行為もあるだろうし、そのような行為の公平さや公正さを求めるのは無理だとしても、それが合法的な行為であっても、あるいは非合法な行為であっても、その場で関係する人や組織の間の不均衡な力関係から、おのずから許される行為と許しがたい行為というのが導き出されて来るだろうか。例えば利益を最優先させるあまり、関係する人々を不幸に陥れてしまえば、いくら合法的な行為であっても、それが許しがたい行為となるだろうし、また時には損失を覚悟で、他人を助けなけばならない時もあるだろうし、それが非合法であるとしても、なおそうしなければならなくなったりするわけだが、それをやって他人を助けたとしても、他の周りの人たちからは損失を出したことを非難され、自分が不利な立場となってしまうこともあるのではないか。そして助けたつもりの人からも非難されるような状況もあるかもしれず、そのような行為は決して正当化されえない行為だろうし、それをやってしまった当人にとっては、不条理そのものかもしれないが、世の中が様々な面で不均衡な状態にある時、良かれと思ってやったことが、必ずしも周囲の人たちに支持されるわけではなく、逆にひどいことが平然と当たり前のように行われている実態もあるのかもしれず、そうすることで利益がもたらされると信じられ、しかも大多数の人たちがそのような行為を支持しているとすれば、それは広く世間一般に受け入れられた行為として認知されているわけで、それの代表格が死刑制度なのかもしれないが、他にもそうすることが当然と思われているような行為の中で、ひどい結果をもたらすような行為などいくらでもありそうで、そのようなことがまかり通っている現状が、まさに世の中が不均衡な関係で成り立っていることを証しているだろうか。

 もちろん人はそれを改めたいと思っているかもしれないが、欺いたりごまかしたりすることでしか利益を出せないとすれば、根本的なところで均衡状態に至るのは不可能なのかもしれず、それはそれとしてなし崩し的に容認せざるをえなくなるだろうが、周りの状況や成り行きが、あるいは気まぐれな思いつきが、時としてそのような容認を超えて、とんでもないことをしでかすように仕向けてくるのかもしれず、そうなると人は、自らが不利益を被ったり、そのことで不利な立場になってしまうのを承知で、あるいはそうなることに気づかずに、そのような行為に及んでしまい、それが時と場合によってはとんでもない事態を引き起こして、それをきっかけにさらに世の中が混沌とした状況に陥るかもしれないが、実際にそんな現状の中で誰もが生きているのかもしれず、直接の利害関係だけでは割り切れないのが人の行為や行動であり、せこい損得勘定や打算を超えて、時として大胆かつ無根拠に何か意図や思惑から外れたことをやってしまうのであり、逆にそれをやってしまうから、まだ救いがあると言えるのかもしれず、もちろん世間の一般常識に照らし合わせれば、そんな行為を肯定も正当化もできないだろうし、嘲笑されけなされることはあっても、決して褒められはしないだろうが、やはり人がやっていることで救いとなるのは、そんな行為でしかなく、他の行為はそうすることで世間的に安心されこそすれ、それによって利益がもたらされ、場合によっては賞賛され、世間的な名声を獲得したりするだろうが、そのような価値観に沿った行為ばかりとなると、それによって過酷な競争や闘争が起こり、競争や闘争に勝った者と負けた者との間で、勝つことでもたらされる富や名声をめぐって不均衡が拡大し、しかもそれが固定化する格差社会となるのかもしれないが、どうも人もそれが構成する社会も、そのような価値観ばかりを追い求めるようにはできていないのかもしれず、要するに真面目一辺倒では遠からず飽きてしまうわけで、ロボットのように決められた動作をいつまでも続けられないのかもしれない。もちろんロボットもプログラムミスや様々な要因が作用して誤動作する可能性もあるのだろうが、人の場合もそれが誤動作と言えるのかどうかわからないが、どう考えても合理的ではなく、中には不条理と思えるようなことをやってしまう場合があり、その全てがそうだとも限らないのだろうが、中には世間的な価値観や一般常識を打ち破るような可能性もあるのかもしれず、それに期待してはまずいのだろうが、その思いがけない行為を利用して、人や組織との新たな関係を構築できれば、今までの状況から少しは自由になったことになるのかもしれず、それも一時的な幻想や気休めにすぎないかもしれないが、それ以前に現状がひどいと感じるなら、世間を覆っている嫌な空気が、どこから生じているのかについて考えてみることでも、それなりに世間的な価値観や一般常識から離れた気になれるのではないか。ともかく世間的かつ政治的な対立は、対立しているように見える双方の力が不均衡であることは確かであり、そこで戦わせている価値観や主義主張は、決して公平かつ公正な判断などもたらさないことは、承知しておいたほうがいいのではないか。


12月3日「頭の温暖化」

 地球の温暖化と政情不安との間に関係があるとすれば、温暖化がもたらすとされる気候変動によって、干ばつや集中豪雨などが頻発して農業が被害を被り、食料生産がうまくいかなくなると、食料を求めて民衆が暴動を起こして、政府がその対応を誤れば政情不安をもたらすということだろうか。地球が温暖化しなくても、干ばつや集中豪雨などの自然災害は起こり得るのだろうが、温暖化によってそのような自然災害の頻度が高くなり、規模も大きくなると言われているわけだが、果たして人の経済活動がもたらしていると言われる地球の温暖化を、人為的に抑え込むことができるのだろうか。石炭や石油や天然ガスのような、二酸化炭素などの温室効果ガスを排出する資源の使用を抑制すれば、それが可能となるそうだが、そこには当然のことのように人体に有害な放射性廃棄物を出す原発の抑制は含まれていないし、また再生可能なクリーンエネルギーと言われる太陽光発電にしても、人体に有害な半導体物質やレアメタルなどを材料に使っているし、風力発電にしても風車の回転から発生する低周波騒音が健康被害をもたらすようだが、それは程度の問題で、温室効果ガスを発生させる産業と比べれば、その程度の危険性は物の数ではなく、まずは最優先させるべき課題として、温室効果ガスの抑制こそが差し迫った問題であると主張しているのかもしれないが、何かそこに見え透いた論理が介在しているような気がしないでもない。たぶんそのように主張しているのは、主に比較的裕福な欧米諸国であり、彼らにしてみれば、自分たちがこれまでに経済的に発展してきたのと、同じようなやり方で他の国々が発展しては、地球が温暖化するから困るのであり、できればそのような発展を抑え込むと同時に、自分たちが進むべき方向に他の地域も従わせようとしているわけで、そのためには引き続き世界の中で、自分たちの指導的な立場を堅持したいのではないか。要するにそれは、温室効果ガスの抑制という世界的な課題が推進されている限り、欧米勢力による世界支配の構造が保たれることになりはしないか。もちろん現状で温室効果ガスを排出しているのは、アメリカが最も多いだろうし、これからそれを追い越す勢いの中国やインドにしても、経済発展を犠牲にしてまで温室効果ガスの排出を抑制できないだろうし、また経済発展と温室効果ガスの抑制を結びつけられるかといえば、別に欧米の指導でそれを成し遂げるというよりは、それらの国は必要とあらば、自力でそれを行おうとするだろうし、そういう意味で必ずしも欧米諸国の思惑通りに事が運ぶとは思えず、それ以前にまず最大の排出国のアメリカが他国に先駆けて範を示さなければ、温暖化防止に向けた世界的な連帯など絵空事にしかならないわけだが、何かそんな主張をすることが、あたかも正義であるような風潮をメディアが煽っているように感じられ、またそんな風に煽ることで、原発の問題を脇に追いやろうとする思惑も働いているのかもしれず、また中東やアフリカなどの政情不安を地球の温暖化と結びつけるのは、過去にその地域を植民地支配したり、天然資源を今なお搾取し続けている、欧米勢力による責任逃れのための口実のような気がして、何やらそういうところで胡散臭く思われてしまうわけだ。

 考えてみれば人の経済活動が原因とされる地球の温暖化を防いだところで、それとは別に氷河期などの地球の寒冷化は防ぎようがなく、地球が寒冷化したら農作物が育たなくなって、人類にとっては大打撃となるだろうし、地球規模の気候変動と人の活動との間の因果関係というのは、どのような水準までが人類の活動による影響なのか、よくわからないことの方が多そうだが、確かに樹木の伐採などで砂漠化が進んだ地域もあるだろうし、当時世界第4位の面積だったアラル海は、そこへ流れ込んでいる川の流域で行われた、綿花栽培などに伴う灌漑事業によって、その大半が干上がってしまったし、環境破壊の例などはいくらでもあるから、それの反動としての環境保護運動というのも活況を呈しているのかもしれず、それの延長上に温室効果ガスの抑制を推進する国際的な機運の盛り上がりもあるのだろうか。それにしては地域的な実情があまりにも違いすぎて、世界全体で同じ基準を当てはめるのはあまりにも不公平だろうし、それ以前にやらなければならないことが多すぎるような気もするし、結局はクリーンエネルギーなどの利用を推進できる地域や国は、それを推進していく一方で、それが無理な地域や国では、その地域や国の状況に合ったエネルギーを利用していくだろうし、それを無理にやめさせることはできないし、やめさせる権限もないのではないか。そしてできることは、クリーンエネルギーを利用することで生じるメリットを示すことで、それが魅力的に感じられるなら、徐々に世界中に普及していくかもしれず、魅力を感じられなければ普及は難しいように思われるが、このままでは地球環境が深刻な事態になるからという理由で、世界各国が温室効果ガスの排出量に規制をかけるような成り行きに持っていけるだろうか。例えば公害のように人に直接の健康被害が出るような顕著な事例が発生するならそれもあるかもしれないが、人も他の動物も呼吸によって二酸化炭素を出しているし、植物はそれを利用して生きているわけで、それ自体が別に有害物質というわけでもないわけだから、その排出に規制をかけるのは矛盾している面もあるわけで、また排出された二酸化炭素を集めて地中に封じ込めるような試みも行われているし、やるとするなら排出量の規制ではなく、排出量を減らすような技術革新だろうし、また排出されたガスを集めて封じ込めるような産業技術の開発や普及になるだろうか。どちらにしても経済論理が優先されるだろうし、そこから利益を得られるような産業構造を必要としている限りは、エコロジストが抱くような人と自然の調和を目指すユートピア的な世界像の実現からは程遠い現実がありそうだ。そういうところでメディア的なきれいごとの宣伝文句とは相容れない現実が顔を覗かせているように感じられ、その手の報道には抵抗感があり、世界の首脳たちが一堂に会し国連の事務総長も交えて、なにやら共同宣言のようなものを発して、それが政治的なパフォーマンスとして、メディアを通じて全世界に向かって報道されたりするのだろうが、それを素直に受け止められるほど、能天気な気分にはなれそうもない。


12月2日「実感」

 現状がどのような情勢になっているとしても、どうもこの先も大したことは何も起こりそうにないように思われ、実際には何かが起こるのだろうが、起こったからといって、何の感動も感慨も湧いてこないような気がして、自分が直接巻き込まれでもしない限り、面倒臭がってそれをやり過ごしてしまうような気がする。いつの間にか何事にも無関心となっていて、そうならざるを得ない成り行きに流されているのだろうか。別にすでに世の中の全てを理解しているわけでもなく、何が起こってもうろたえない自信があるわけでもなく、時勢を達観しているわけでもないのに、そのくせ妙にわかったふうなことを語りたいのかもしれず、要するに他人よりはわかっているふうを装いたいのだろうか。その証拠かどうかははっきりしないが、これから起こることに関して、誰が何を予想しているとしても、もはや予想すること自体が、どうでもいいことのように感じられてしまい、メディアに登場する識者の予想など、どうせつまらない予想ばかりで気が滅入ってしまうから、目を閉じ耳を塞いで、何も見ず何も聞かなかったことにしたいところかもしれず、また現実に予想通りに誰が何を起こそうとしても、実際に起こしても、結果としてもたらされるのは、起こそうとしたり起こしたりしたことからはかけ離れた、予想外の結果がもたらされるのであり、しかもその予想外というのが、何も起こらなかったのと同じような予想外の結果でしかなく、何か想像を絶した物凄いことが起こるわけではなく、実際に起こるのはその手の識者が狼少年になるような、予想をはるかに下回るような結果でしかない。だが本当に全てがそうだろうか。たぶん実際はそうだったわけではなく、予想以上の思いがけない結果に遭遇しているはずなのだろうが、それを忘れているのではないか。実際に数年前の地震や津波や原発事故でさえ、予想をはるかに超える災害だったのに、放射能汚染はこの先も何十年も続くはずなのに、世間的にはすでに過去の出来事として忘れ去られようとしている。それは何かが起こった後から施される対処が功を奏しているからなのか。それが批判されるような対処であることは間違いなく、実際に批判を浴びているわけで、またその批判をかわすようなことも行われ、それも批判を浴びていることは確かなのかもしれないが、批判を浴びている人たちはどこ吹く風で、着々と既成事実を積み重ねて人々の忘却作用にまかせ、それらの出来事が世間の話題に上らないようになるまで、そのように対処し続けるのかもしれず、それが功を奏して、それらの出来事が大半の人々の記憶から消えて、風化してしまえば、そのような対処をしている人たちの思惑通りとなるのだろうか。そうなってもならなくても、原発事故に関してはこれから何十年も事故処理が続くわけで、事故の記憶を風化させようとする人たちの対処も、これから先何十年も続いていくことになるのではないか。そしてそのような努力が何を意味するわけでもないようにも思われ、結局それはそれらの人たちの自己満足をもたらすだけなのではないか。

 たぶんこれからも思いがけず予想外の出来事や事件に遭遇して、またそれに巻き込まれることもあるかもしれないが、遭遇したり巻き込まれたからといって、それを体験してなお生き残っていれば、その経験を利用して何かやろうとするのであり、とんでもない被害にあい、悲嘆に暮れて絶望のどん底で死んでしまえば、それまでのことなのかもしれないが、生きていれば多かれ少なかれ、その経験を生かさざるをえない成り行きになってしまうのではないか。それが生き続けることそのものなのかもしれず、死ぬ理由がそうであるならば、生きる理由も同じこととなり、そのような経験が死ぬことにも生きることにもつながってしまうのは、不条理かもしれないが、同じ理由で死んだり生きたりするのは、死ぬ動作と生きる動作が、それほどかけ離れたものでなく、要するに死ぬまでは生きているということであり、そのような経験のすぐ後や、それからしばらくたってから死ねば、それが原因や理由で死んだことになるかもしれないが、しばらくたってからも相変わらず生きていれば、そのような経験を糧にして生きていることにもなるわけで、死や生は結果でしかなく、そこに至るまでの過程で、その経験が人にどのような影響を及ぼすかは、人それぞれで異なるのかもしれず、またそれに遭遇したり巻き込まれた時の状況によっても、偶然の巡り合わせが作用して、ある人はそこで死んだり、またある人はかろうじて生き残ったが、その痛手から立ち直れずに死んだり、またしぶとく生き残って、さらにうまく立ち回って、あるいは幸運に恵まれて、その後も平然と生き続けている人もいるのかもしれない。だから同じようなひどい目にあっても、そこで人の生死を分けるのは、後から改めて考えてみても、ほんの些細な要因かもしれず、そういうことからも死んでしまうのと生き残ることにはそれほど違いはなく、その人の親族や交友関係にある人でなければ、その人が死んでいようと生きていようと大した問題ではないのかもしれない。だから戦争や災害で大勢の人が亡くなっても、メディアが騒ぐほどには深刻に受け止められない人は、案外多いのではないか。その辺のところで、人道主義を訴える人などには誤解が生じていて、他の多くの良心的な人たちが、ともに戦争や政治的な弾圧に反対していると思い込んではいけないのかもしれず、戦争でも圧政でも、それによって多くの人たちが死んでしまうとしても、生き残った人々はそれを利用して利益を得ようとしているのかもしれず、他人や近親者の屍を踏み越えて生き延びること自体が、そもそもそういうことなのではないか。それを人道的に美化してはいけないだろうし、実際に身の回りが死体だらけなら平然としていられるのかもしれず、特に見ず知らずの他人の死を悲しむ人など、そこにメディア的なお涙頂戴の演出がなければ、あまり見かけないのではないか。


12月1日「徒労感」

 そこに目指すべき何かがあるわけではなく、何かをやっているとそこへと引き寄せられてしまうのかもしれず、その引き寄せられて行った先にあるのが、興味深い何かとなるだろうか。そこに至るまでに困難な何かを乗り越え、また何らかの障害物に行く手を阻まれ、結果的に途方もない迂回を経て、やっとの思いでそこへたどり着いたとしても、そこにあったのが取り立てて何でもないものだとしたら、そこに至るまでの苦難の道のりは、意味のない無駄足となるだろうか。それで構わないのかもしれず、苦難の果てにつかんだ何かとは、何か拍子抜けするような、どこにでもありふれた何かであった方が、自然な成り行きのように感じられ、そこで抱く感動とは無縁の徒労感こそが、そこにたどり着くまでの苦難の経験にはふさわしい。フィクションとは異なる現実の世界で発見する興味深い何かとは、実際に何でもない物事である方が多く、ただその何でもないものに、それを見つけるまでは幻想を抱き続けていて、見つけるまでの期待感がそうさせるのであり、それがいらぬ誤解を招くこともあるかもしれないが、期待も誤解も含んでいるのが苦難の道のりであり、その期待や誤解が人に苦難をもたらし、しかもその苦難を乗り越えて、そこへとたどり着くことを強いるのであり、その結果的としてもたらされる徒労感こそが、人を悟りへと導くのではないか。そしてそこで何を悟るのかといえば、期待や誤解からもたらされる幻想に突き動かされてきた自分の愚かさを悟るわけだ。それは行く手に立ちふさがる様々な苦難を乗り越えることで、人間として成長したつもりになっている自分への幻想であり、そうやって何かを追い求めた先にあるはずの、達成感という名の感動への幻想であるわけで、そんな幻想を覚ましてくれるのが、やっとの思いでたどり着いた先にある、何でもないようなありふれた事物だろうか。ではそのありふれた事物とは何か。簡単に言うならそれは自らの老いであったり、さらにいえば自らの死であったりするのかもしれないが、それでも幻想を抱きたがる人がいるとすれば、自らの老いや死に感動してしまうかもしれず、何かそこに都合の良い意味を見出そうして、言葉を弄して詩作などに耽り、そんな悪あがきをしながら老いて死んでゆく人もいるかもしれない。そしてそれも苦難の道のりの途中で生じる挿話となり、何やらそれが人生という感動の物語を構成してしまうかもしれないが、そんなふうにしてひたすら感動を追い求める行為も、苦難の道のりの果てにつかみ取るはずの何かに由来しているだろうし、それをつかみ取って感動のゴールに至る自らの姿を幻想しつつ、絶えず前方に立ちふさがる苦難を乗り越えようとするのではないか。それは人間の有限性がもたらす幻想であり、死という終わりに向かって成長し続け、死ぬ前に自らを納得させる何らかの達成を目指していて、それこそが探し求めている何かなのかもしれず、できればそれを達成して感動したいわけだが、そう事がうまく運ばなければ徒労感だけが残り、幻滅して自らの愚かさでも悟るのだろうか。

 人そのものは大した存在ではない場合が多いのだろうから、そうなった方がその人のためでもあり、人は誰でもいらぬ幻想から覚めた方がいいのかもしれず、下手に幻想の中で生きているままだと、たぶん人は遠からず、人間の偉大さを証明しなければならなくなるのではないか。そうなるとその手の誇大妄想にはきりがなく、例えば人間の特性として顕揚される知性によって作り出された、文明や文化などを賛美し始めると、次には国家や民族や宗教まで賛美しなければならなくなり、それらの自画自賛に歯止めがかからなくなってしまったら、それらがもたらす差別や格差などの弊害の上にあぐらをかいて、弊害を改善しようと試みる人たちを攻撃して、弊害そのものを維持しようするだろうし、弊害によって国家を主導するエリート層や知識人階級が形成され、一部の特権階層が他の人々を支配する構造が出来上がるだろうか。昔はそんな幻想によって、国家が成り立っていた時期があったかもしれないが、現代では必ずしもそうはなっていないようで、国家を主導しているつもりのエリート官僚たちも、一応いることはいるのだろうが、国民を支配する以前に、完全に管理するにも至っておらず、法律の運用や整備不足から生じる様々な不備や不具合から、そのような構造は構築しようとする側から崩れていて、実情は砂上の楼閣と化している感を否めず、このままでは国民を支配する構造など永遠に完成しないだろうし、また完成しえないから絶えず構築し続けているのだろうが、それも何らかの達成を目指した試みであるだけに、達成できないままでは人間の偉大さを証明することもおぼつかないだろうから、そのような試みは是が非でも達成を目指すしかないわけで、結局人類の歴史は、そのような達成への試みが、機会をとらえては何度も繰り返されることによって生じるのだろうか。そしてそのような繰り返しこそが、人間の偉大さを物語っていると感じられるなら、人類の歴史そのものが、人間の偉大さを物語っていることになるかもしれないが、一方でそれは、人を大量に殺傷する戦争の歴史という否定的な側面もあるわけで、そうなると戦争によって活気づく国家や民族や宗教の賛美は、戦争の賛美に結びつくのかもしれず、その達成を目指すことは、やはり人の死と切り離せないだろうか。そこから強引なこじつけになってしまうが、生と死の間に存在する人間をたたえることは、その有限性を示す死をたたえることになり、人間の賛美はその死を司る有限性から来ていて、有限であるということは死ぬ存在であるということであるから、一方で死を克服できなければ、そのような賛美もいつまでたっても完成し得ないのではないか。いくら賛美してもやがて死んでしまうのだから、賛美を死によって途切れさせないためにも、死んでからも絶えず賛美し続けなければならず、それもきりのない繰り返しとなるしかないだろうし、その繰り返しの中で死人も生き続けなければならず、そんなことをやり続ければ結局は疲弊するしかないわけだ。そうやってすべては徒労に終わるしかないのかもしれないが、果たして現実の人の死が、虚構の中で生き続ける死人の徒労感を打ち消してくれるだろうか。