彼の声111

2015年

11月30日「不都合な真実」

 しかし世の中で何を肯定できるだろうか。逆に否定することならいくらでもできそうで、安易に政権批判でもしていれば、あるいは政権交代させないように野党批判でもしていればいいのかもしれず、そこでは批判するのに都合の良い理屈や屁理屈を介在させて、批判対象を否定する理由が述べられていて、都合の悪い事情は意図的に避けることで、批判をもっともらしく見せかけようとしているのかもしれないが、どうもそのもっともらしく見せかけようとする思惑が、あるいはその見せかけ方が胡散臭く感じられてしまうのであり、たぶん何かを肯定するには、もっともらしく見せかけようとしてはいけないのかもしれず、肯定する動作に肯定しようとする意識から生じる思惑を介在させずに肯定すれば、要するに意図的に粉飾せずに、ありのままを肯定すべきなのではないか。そうすれば都合の悪い事情に触れないようにする欺瞞も、それほど顕在化することもなく、率直な肯定への意思を示すことができるだろうか。しかし何を肯定すればいいのかわからないままでは、肯定できる対象を見出せなければ、何も肯定できないままに終わるだろうし、肯定できない対象を無理に肯定するわけにもいかないし、やはり肯定できなければ否定するしかないのだろうか。肯定も否定もしないというのが無難なやり方かもしれず、事の白黒をつけずにそれについて書き記していけば、無理な肯定にも安易な否定にも陥らずに、言説を進めていけるだろうか。肯定や否定の判断を下す前に、その対象についての理解を深めることが肝心かもしれず、それについての説明を可能な限り試みてみないことには、そのあとに続く判断には至りようがなく、ともかくそれについて語ってみることが、まずやらなければならないことで、最初から肯定や否定などの結論ありきの言説だと、やはり魂胆が見え透いていて、その人の党派性や主義主張を宣伝するための言説でしかなくなってしまう。それが目的ならそれで構わないのだろうが、そうなると都合の悪い部分を意図的に語ろうとしないから、説得力がなくなり、支持者以外にとっては不快な言説となってしまうだろうか。都合の良いことだけ主張するような言説は、それがわかってしまう人にとっては不快に思われるかもしれないが、そのような主義主張を正当化するような人たちにとっては、そのように述べるのが当たり前のことで、それが欺瞞だともなんとも思わないどころか、言説を成り立たせる上で不都合な部分を知らないのかもしれず、それを指摘すれば嘘やデマだと決めつけて、怒り狂って攻撃してくる人もいるだろうし、そのような状況が蔓延してしまえば、もう何を述べても無駄なのかもしれず、そういう状況が不快だと感じるのなら、なるべく一方的な肯定や否定はやめた方がいいだろうが、批判している相手がそのようなやり方で攻撃してくれば、こちらもついつい同じようなやり方で、相手を全否定せずにはいられなくなり、そうやって非難の応酬へと発展すれば、たぶんそれは仕掛けた方が望んでいることであり、一方的な主張をしてくる人たちにとっては、論争相手もそうなってくれれば、そのような低次元の応酬で済ませられるので、それで相手を自分たちのペースに巻き込んだことになるわけで、たとえ互いの主張が平行線に終始しようと、自分たちの主張が損なわれることがなく、そのような状態でも実質的には勝利と見なされるのではないか。

 現状はすでにそんな人たちが全盛で、ネット上でも他の偏向メディアでも、一方的な主義主張が溢れかえっていて、そうなるような成り行きがあってそうなっているわけだから、それは仕方のないことかもしれないが、だからと言って、そのような流行に乗っかって、あるいはそれに対抗して、こちらも一方的な主義主張で仕返したりすれば、あちらの思う壺なわけで、そうかと言って工夫を凝らしてひねくれた返しで応答しても、意味不明となるしかなく、結局は安易な断定は回避して、肯定も否定もせずに地道に状況を説明するしかないのかもしれない。少なくともわかっているのは、肯定の対象も否定の対象も相補的に互いが互いを必要としていて、対立する二者を合わせてワンセットとなっていることであり、敵対する側を攻撃することでしか、自身を正当化するすべがないのかもしれず、ならば攻撃しなければいいのかとなると、そのような主義主張が相手を攻撃するための主義主張なわけで、対立する主義主張を掲げている時点で、攻撃対象を攻撃する主義主張となるわけだから、そのような主義主張をやめることでしか、対立はなくならないわけで、そうだとすれば主義主張をやめることは、自らの敗北を認めることとなってしまい、そのような主義主張をしている限りは、それはありえないことだろうし、やはりそのような対立はどこまでいっても平行線に終始する宿命なのではないか。そのような構造となっている時点で、事の本質から外れているのかもしれず、そもそも宣伝のための主義主張であってはまずいのであって、宣伝が目的化すれば自分たちの都合でしか語れなくなってしまうわけで、宣伝以外の部分で説得力がなくなってしまい、それがわかる人には通用しなくなる。だから何かを語るとなると、少なくとも語っている自らを正当化できない部分まで語るべきだろうし、また語っている自らが、語っている対象とは利害関係にない場合もあり得るわけで、さらに語ることで自ら不利になる場合でも、語る必要があるならあえて語るべきだろうし、語っているうちに、それについて語らざる得ない状況に追い込まれる場合もあるのではないか。そういう面で宣伝目的の主義主張にはおのずから限界があり、それを強いる功利主義の欠陥がそこであらわとなるわけで、そこに利害関係があるとすれば、利益だけを語るのでは半分しか語っていないことになるわけで、残り半分となる不利益について語らなければ、全てを語ったことにはならず、全てを語らなければ話に説得力がなく、わかる人にはごまかしがわかってしまい、そういうやり方に終始する人たちは、いずれは信用されなくなるのではないか。現状で偏向メディアを使って主義主張のごり押しをしている人たちも、それがいつまで持つかはよくわからないが、永続することはなさそうだ。


11月29日「新製品」

 世の中では様々な方面で現状を改善しようとする動きがあるのは確かだろうが、何をどう改善しようとしているのかを知る機会はあまりなさそうだ。スマートフォンだと操作するボタンの類いが画面の中の画像になったぐらいで、しかも全てではなく、電源スイッチやホームボタンなど、幾つかは相変わらず画面の外につけざるをえないのだろうし、ボタンやスイッチを完全になくすには至っておらず、昔の携帯と比べて何かが改善されたというより、使い方が変わってきたのであり、パソコンと携帯の融合ぐらいに捉えておいた方がいいのかもしれない。そして画面があまりにも小さければ見づらいから、ある程度以上には小型にするわけにはいかないだろうし、より小さな画面のスマートウォッチともなれば、複雑な操作には向かないだろうから、用途もそれだけ限られてくるだろうし、画面を目で見て指で操作する端末の類いは、これ以上は便利にはならそうにも思えるが、まだ何か工夫の余地があるのだろうか。たぶん便利になるというより、新たな機能が増えていく一方で、使われなくなる機能も出てくるだろうし、世の中の変化に合わせて用途も変わり、また新たな用途を付け加えることで、世の中もそれに合わせて変わってくるのかもしれないが、現状でもスマホが流行っていること自体が、世の中が昔とは変わったことの証しと言えるだろうか。もちろんその程度の変化など、何も本質的な変化ではないのだろうが、では本質的な変化とは何なのかといえば、それは変わってみなければわからないことかもしれず、人々が何かの便利さを実感する程度の変化は、少なくともそれではないような気がするのだが、それ以前にその時代の中で生きている人には、たとえ同時代的に本質的な変化が起こっていても、それに気づくことはないのかもしれない。そしてそれに気づく気づかないとは別に、世界的にここ二百年あまり続いている大衆市民社会の中では、本質的な変化など起こりようがないのかもしれず、そこではただ流行り廃りがあるだけで、人が働いて得た金を使って商品を買い、それを消費する循環の中で、働き方や金の使い方や商品の買い方に流行り廃りがあり、もちろん商品の形態や種類にも流行り廃りがあるから、それに合わせて消費の仕方にも流行り廃りがあるだろうし、新しい働き方や金の使い方や商品の買い方などが出てくれば、何か世の中が変わったように思われるのかもしれず、もちろん商品の新製品が発売されて、それに以前とは違う目新しい機能がつけば、その機能を使うことでこれまでとは違った感覚を得るに至り、そのような商品の流行によっても、世の中の変化を実感できるかもしれないが、それでも人間が労働し商品を売買して、それを消費するサイクルそのものは変わらないわけで、それが変わらない限りは、世の中に本質的な変化など起こらないのではないか。そういう意味では、科学技術の発達によって文明が進歩したように思えることは確かだが、その文明の中で人がやっていることは、昔とあまり変わっていないわけで、やっていることが変わらなければ意識も変わらず、人の寿命は昔より多少は伸びたかもしれないが、人のメンタリティは相変わらず同じかもしれず、同じような人たちがそこで生まれては死んでいる現状があるのかもしれない。

 そしてそのような人の動作から生じる問題も昔から変わっておらず、人や企業などの経済活動が、富の集中と格差をもたらし、それを政治的になんとかしようとして、様々な試みが試されては上手くいかずに消えてゆき、中には上手くいっているように見せかけようとして、これも様々なごまかしが試されているのかもしれず、今現在も政治家や官僚などがそんなことをやっている最中かもしれないが、そのような手法にもやはり流行り廃りがあって、社会主義や新自由主義からレーガノミックスやアベノミクスまで、様々に形容される手法があるのかないのかわからないが、その実態は何をやっているのかはっきりしないのかもしれず、それは新商品と同じような効果を狙っていて、目先の新しさを宣伝することで、人々に何かこれまでとは違ったことをやっているように見せかけて、飽きさせないようにしているに過ぎず、何を飽きさせないようにしているのかといえば、それは昔から相も変わらずの動作であり、労働と物や情報の売り買いと消費にまつわる一連の動作で、それによって生じる富の集中と貧富の格差を緩和したり是正したりするのが、建前としての政治の役目なのかもしれないが、それを完全に取り除くような試みは行われず、取り除いたら社会が崩壊するからできないのかもしれず、それができないことに人々が気づいてしまったらまずいのであり、そこから実態として政治がやらなければならないことも生じていて、要するにそれは人々の動作によって生じる社会の矛盾を気づかせないようにすることかもしれず、気づいたとしても矛盾を社会から取り除けないのだから、その代わりにやれることはとなると、人々に幻想を抱かせることしかなく、それは努力して一生懸命働けば、その努力が報われて幸せになれる、といった類いになるだろうか。もちろん実態としては誰もがそうなれるわけではなく、なんらかの競争に勝ち抜いてそうなった一部の人を讃えるわけで、他の人たちも自分たちのやっている仕事に一心不乱に取り組めば、それに成功して讃えられ、富や名誉を手にすることができると宣伝するわけで、その仕事に一心不乱に取り組んでいるうちは、誰もが成功への夢を抱いていられるわけで、そうやって誰もが活躍していられる社会になればいいわけだが、実態として仕事にも様々な種類があって、その職種によっては活躍しているようには感じられない仕事もあり、そのような仕事に従事している人たちに幻想を抱かせるのは無理かもしれないが、とりあえずの世の中の多数派を構成している人たちに幻想を抱いてもらいたくて、行政を司る政治家や官僚などが、あれこれと思案して出てきたのが、一億総活躍社会の実現とかいうキャッチフレーズなのだろうが、それによって何を売り込もうとしているのかといえば、流行り廃りの延長上にある目先の新しさかもしれず、それによって人々が幻想を抱けるかどうかはよくわからないが、そんなふざけた文句に騙されるはずがないと思っている人も多そうだし、流行らせようとしても流行らないかもしれず、そうなるとごまかしにさえならないだろうが、それでもそれに関わっている人たちにとっては、国民のために何かをやっていることになるのだろう。


11月28日「戦術的な誤り」

 政治的な宣伝文句を真に受ける人はまずいないだろうが、それを格好の批判材料にする人やメディアはいくらでもいて、中でも嘘だ詐欺だと罵倒するのはよくあるパターンなのだろう。そういう次元で政治について語るのが良いか悪いかとは別に、政治的な宣伝活動をしている人たちは、罵倒など全く意に介さずに宣伝活動を続けるだろうし、利益目当てでそんな政治宣伝に群がってくる人もいくらでもいて、世の中には政治宣伝を引き受けるメディアとそれを罵倒するメディアと、そのような政治宣伝に関心を示さない人たちがいれば、それで現状の政治情勢を物語っていそうだが、そこで何が行われているのかとなると、政治家や官僚などが協力して、政治宣伝でうたわれている政策を推し進めているのだろうか。ともかく会議を開いて有識者などから意見を聞いている場面は、よくメディアなどを通じて紹介されていて、その政策が効果を上げていたり、あるいは上げていないことを示す統計結果なども、政策を推進する側にとって都合の良いデータや、それを批判するのに都合の良いデータとなって示され、それを選挙の時の判断材料にしてほしいのだろうが、人々はそれに関心を示したり、示さなかったりするわけで、世の中には様々な意見があり、あるいは取り立てて意見のない人もいて、それが世の中にどのような影響を及ぼすのかは、なんとも言えないところだろうが、影響のあるなしにかかわらず、政治家や官僚などはなんらかの政策を推し進めるだろうし、それをメディア上で取り上げて批判する人たちも、いくらでも出てくるだろう。そういう次元ではそういうことでしかなく、他にどんな次元があるわけでもなく、これからもそんなことが延々と繰り返されてゆくのだろうし、そのような成り行きは誰にも押しとどめようのないことであり、それはそこで成り立っている政治的な制度や仕組みに則って推し進められ、そのような制度や仕組みが維持される限りは、それが良いか悪いかに関係なく繰り返されるしかない。政治家や官僚なども、そのような制度や仕組みの中で活動している限りは、いやでもなんでもそうせざるをえないのであり、そうすることが仕事なのだろうから、それをやらないなんてことはありえないのであって、何もしなくていいのなら、政治家も官僚もいらないのだろうが、実際にやらなくてもいいことをやっているのかもしれず、もちろんやらなくてもいいなんて、誰にそれがわかるはずもないことなのかもしれないが、そこに何かをやらざるをえない制度や仕組みがあり、多くの人たちがそれに関わりながら、それについて肯定や否定などの評価を下すメディアも含めて、そこから利益を得ている現実があるわけだ。もちろん全ては私的な利益を得るためにやっていることだと単純化しても仕方のないことで、広く国民のため社会のため国家のためにやっていることだと見なされていて、実際にそのつもりでやっていることなのだろうし、それが仕事なのだから、行政的にはそうでない仕事などありえないわけだ。

 そういう意味ではそれを推進している人たちは、国民を騙しているわけではなく、国民のために政策を推進しているのであり、政策を支持している人たちも、別に騙されているわけではなく、国民のための政策だと信じているのではないか。実際に国民のためになっているのか否かを評価するのは国民自身で、世論調査や選挙結果などで、評価している割合がどの程度なのかがわかるかもしれないが、それをも含めた制度や仕組みなのであり、それも世論調査や選挙の結果が都合のいいように操作されていて、国民が騙されていると主張する人たちもいるわけだが、騙す騙されるの次元で考えてしまうときりがなく、騙されていると主張する人たちがいる一方で、そうは思わない人たちも大勢いるわけで、騙している明確な証拠が見つからない限り、疑惑はいつまでも疑惑のままにとどまり、それを信用しない人たちはいつまでたっても信用しないだろうから、騙されているとする主張が批判として有効に機能することはなく、いくら主張しても無駄なのかもしれない。そしてそのようなどこまでいっても平行線に終わるような主張こそが、そのような制度や仕組みを温存し支えている面もあって、嘘だ詐欺だと罵倒したり、国民は騙されていると主張するのは、その確証がはっきりと示されない限り、批判として有効に機能しないどころか、デマを拡散していると逆に攻撃される危険性もあって、結果的に制度や仕組みの維持継続に貢献してしまい、戦術的に否定されるべきやり方だろうか。そうでなくても他人のやっていることを最初から全面的に否定してかかると、相手にされないか反発されるだけで、何を言っても無駄だと意思表示しているようなもので、まともな論争相手として認めてもらえず、ただ感情にまかせて怒っているだけだと見なされてしまうのではないか。そうなると論争相手ではなく攻撃対象となってしまい、場合によっては卑劣な手段で攻撃を仕掛けてくるだろうし、そういう意味では誰にもはっきりとわかるような、あからさまな敵意をむき出しにしては、攻撃を誘っているようなもので、多数派に属していない限りは不利な立場となってしまい、少数派だと何でもありの誹謗中傷の集中砲火を受けやすく、無防備のまま罵詈雑言をまくしたてるようなやり方は、よほど強力な後ろ盾でもない限りはやめたほうがいいのではないか。わかりやすく正々堂々と批判しようとすればするほど、批判される側は腹が立つのかもしれず、何か後ろめたいことをやっているようなら、なおさら逆恨みするのだろうし、こちらが相手を全否定すれば相手もこちらを全否定するだろうし、そのような敵対関係における平行線状態こそが、相手側の望むところだとすれば、後は口汚く罵り合いや嘲り合いに終始していればいいわけだから、こんなに楽なことはなく、延々とそれを繰り返しながら、そこで働いている制度や仕組みに則って、粛々と物事を進めていけばいいわけで、たぶんそれこそが現代的な制度や仕組みの運営法となっているのかもしれず、反対派は際限のない罵り合いや嘲り合いに巻き込んで、それに呆れた一般の人たちから引き離して、後は疲労困憊させればいいということになりそうだ。


11月27日「宗教」

 社会には人や組織を通して結ばれる様々な関係があり、それらの関係の中で人が生かされているとすれば、関係が人を支え、またその意識に少なからず影響を及ぼしていて、人を関係の中に束縛して自由を奪っているのなら、結果的に関係がその人を支配していることにもなるかもしれないが、それを自覚するのが難しい関係というのもあるだろうし、とらえどころのない関係というのがあるだろうか。社会の中でそれをわかりにくくしている不可視の構造があるとすれば、それは何なのだろうか。それを知りえないことが、それと気づかずにそのような関係に囚われ、その関係が強いる境遇から抜け出られなくしていて、また逆にそれによって強いられた境遇に甘んじている限りは、それなりに安定して生活できる構造となっているのかもしれない。比較的平和で安定した社会の中では、そのような関係が社会の隅々にまで張り巡らされていて、そこに暮らす人を社会につなぎとめていて、そのような関係の拘束力によって社会全体の安定を保っているのだろうか。そのように思われるとしても、具体的にそれはどんな関係なのだろうか。人々を社会につなぎとめておく関係とはなんなのか。例えば戦争によって多くの人が難民となり、国外へ逃れてしまう状況があるとすれば、そこでは人々を社会につなぎとめておく関係が切れてしまったと言えるかもしれないが、そのような非常事態にならない限りは、人はそこに留まろうとするだろうし、そこで生計を立てて暮らそうとするのではないか。たぶんそれは生きていく必要に迫られてそうするのであり、そのためにはある程度の不自由は仕方がないと思うだろうし、そこになんらかの社会的な慣習があるとすれば、地域社会との無用な軋轢を回避しようとして、できる範囲でその慣習に従おうとするのではないか。それが人をその社会に縛り付ける慣習だろうと、慣れてしまえばどうということはないだろうし、慣習に従ってさえいれば、他の住民はその人を排除しようとはしないだろうし、逆に慣習を守る社会の一員として必要とされるのではないか。そのような慣習があることが良いか悪いかではなく、それによって多くの人が自由を奪われ、社会につなぎとめられることによって、その社会の平和や安定が保たれている状況があるとすれば、その社会を支配しているのは、誰もがそれに従わざるをえない慣習そのものであり、その中身がそこに暮らす人々の自由や平等を保障する民主的な憲法などの法律であれば、その地域社会が法治国家としての体裁が整っていることになるかもしれないが、それとは別の慣習が広く社会全体に浸透している場合があるかもしれず、例えばそれが特定の有力部族の地域支配を正当化するものであったり、あるいは特定の有力政党以外の候補者には投票しない、などという暗黙の申し合わせであったりすると、それが不快な同調圧力となって地域社会に暗い影を落とし、住民たちが精神的な圧迫にさらされることで、時折陰惨な殺傷事件などが発生したりするだろうか。

 普通はそういった具体的なものではなく、もっと何気なく、容易にはそれと気づかないようなものかもしれず、例えばそれはネットや実用書などでよく見かける、人との接し方や礼儀やマナーなどの指南に関するものであったりして、それが高じると人生の送り方や生き方などにも及び、こういう時はこうすればいい、とさりげなく語りかけくる類いもあり、そういうものに誘導され同調して、それを実践していくと、自然と社会人としての鋳型にはめ込まれて、他の人たちと同じような価値観を持つようになり、そうやって世の中の多数派が構成されるのかもしれないが、そのような作用を担う人たちは、善意で他人を誘導しているわけで、中には人助けでそんなことをやっている気でいる人もいるのかもしれず、例えば聖書の言葉が人が生きていく上で助けになるとして、布教活動をしている人などはその典型だろうし、実際に世界的な宗教などはそうやって世界中に広まった面もあるわけで、それを否定的に捉える人はほとんどいないだろうし、そのような人生の教えに傾倒する人を批判するような人もいない。だがそれもあえて悪く言えばじわじわと効いてくる洗脳の類いには違いなく、そのような言葉に癒されながら洗脳されるわけだから、別に悪い気はしないわけで、しかもそのような言葉が人生の様々な局面で実際に役に立ったと思えば、感謝の気持ちでいっぱいになって、今度はその人が布教活動に精を出すことにもなるわけで、本気でそのような活動が世界平和に貢献すると思っている人もいるだろうし、そのような人の代表格がローマ法王であったりするわけだ。それはイスラム原理主義が戦争を招いているのとは逆のパターンかもしれないが、イスラム教であっても平和に貢献しようする団体はいくらでもあり、だからこそ世界的な宗教となったのだろうが、果たして人は宗教を必要としているのだろうか。それは結果であり、社会の様々な関係から生じてくる軋轢や摩擦を癒そうとして、宗教に救いを求める人がいるわけで、またはっきりした宗教でなくても、生き方を指南する箴言などの教えに頼ろうとする人もいて、そこから得られる精神的に癒しが救いとなるわけだが、それによって社会的な軋轢や摩擦がなくなるわけではなく、それがあるから精神的な癒しを求める人が出てくるわけだから、そこからもたらされる効果も、問題の解決を目指すような方向には働かないわけだ。つまりその地域で暮らす人たちの間で宗教的な意識が強ければ強いほど、その地域には何か解決することが困難な問題があるのかもしれず、それが解決困難だからこそ、そこからもたらされる不幸からの救いを求めて、多くの人たちが宗教に向かうのかもしれず、宗教を信じてもなお絶望的な状況が変わらなければ、イスラム原理主義のように狂信的な傾向になるのではないか。


11月26日「欺瞞」

 誰もがそれに気づいていないわけではなく、気づいていながらあえて触れたがらないことがあり、それに触れると自分たち立場が不利になる可能性があるから、なるべくそれについての言及を避けているのだろうが、そういう事情があるにもかかわらず、それについては触れないまま自分たちの正義や正当性を主張するから、そのような主張は欺瞞であることを免れ得ないのであり、それが欺瞞であることを言い募る人たちを攻撃する必要も生じてくるわけで、そのような主張をごり押しするには、恫喝的な手段をとらざるをえなくなるのだろう。罵りや嘲りを含む批判は、そのような欠陥を抱えている場合が多いのかもしれず、相手に罵声を浴びかけるような成り行きには、そのように攻撃する側が、自身の欺瞞を自覚しているから、それに触れさせないように脅し文句を使って凄んでみせるのだろうか。そんなことしかできないとしたら、そのような主義主張を肯定せざるをえない成り行きの中にいる人たちは、それを生み出す欺瞞を取り去ることも打ち消すこともできないのであり、欺瞞とともに生きていくことを宿命づけられているのかもしれず、欺瞞こそがそのような主義主張の拠り所となり、それに携わる人たちの言動や行動を決定づけているとしたら、その欺瞞とはなんなのだろうか。彼らは何をごまかしているのか。それ以前に彼らとはどのような人たちを指すのだろう。それは広く一般の人たちのことかもしれず、誰もが何かしら主張するときには、必ず何らかの欺瞞がつきまとい、それに触れないように主張しなければならず、そうしないとそれを主張している自らの存在や立場を正当化できなくなってしまうのではないか。人が様々な社会的な関係の中で生きている限りは、その関係のあるなしで、立場が有利になったり不利になったりするわけで、有利になるような関係を他の人や団体と結んでいるとすれば、そのような関係を結んでいない人は不利な立場となっているわけで、例えばそれが地縁や血縁などのコネであれば、それを利用できる人できない人との間で不平等が生まれ、社会の隅々にまでそのような関係が張り巡らされているようなら、それはいわゆるコネ社会と言われるわけだが、そのような関係に依存している人たちにしてみれば、現実にそこから利益を得ているのだから、そのような関係を否定するわけにはいかないわけで、他の人たちからそれを指摘されて、自身の実力ではなくコネによってその立場を占めていると批判されたら、当然腹立たしく思われるのではないか。その人にとってはそのような関係の中で生きていることにも、それなりに苦しみや悩みがあり、その最たるものが自分の実力を周りが認めてくれないことだとすると、そういうところから周囲に対する憎悪の念などが生じて、それが自身を認めない人たちに対する復讐心へと発展して、何かのきっかけでコネを最大限に生かして攻撃を仕掛けてくるかもしれず、そういう攻撃は実際にもフィクションの中でも陰惨を極めるのではないか。

 確かにフィクションではそんな成り行きに至る話もあるかもしれないが、現実には程度の差があって、多くの場合は復讐心をかき立てるようなところまでは追い詰められず、妥協や打算から馴れ合いの関係に落ち着いて、それが延々と長続きしたりして、そうやって地縁や血縁などのコネもある程度は容認されている現実があり、なるべく事を荒立てないように多くの人がそこから目を背けていれば、そこに欺瞞が生じていることになるわけだが、一方でそのような欺瞞を許さない人たちもいて、そのような人たちは社会正義を掲げ、公正で公平な社会の実現を目指していて、そこには貧困の撲滅や男女同権なども含まれ、そのようなきれいごとの主張を掲げている限りは、欺瞞から逃れられ、一点の曇りもない正義の側に属していられるだろうか。実際にはそのようなきれいごとの正義を不快に感じる人も多くいて、そういう人たちが日本では夫婦別姓などに反対して、欺瞞を隠す方便として、西欧的な価値観とは違う日本文化の独自性というのを顕揚し、それに同調する保守層を味方につけて、政治的な勢力を形成していて、そこにもそのような欺瞞がつきまとっているわけだが、欺瞞を社会から一掃したい人たちは、欺瞞を利用する人たちと敵対しなければならない宿命にあるのだろうか。そのような敵対関係が一般にリベラリズムの限界を物語っているのかもしれず、敵対するのが宿命なら、たぶん社会正義は永遠に実現されないこととなりそうで、もしかしたらそのような社会正義自体に欠陥があるのかもしれず、それが欺瞞を利用する人たちと敵対してしまうことにあるのだろうか。ではそのような敵対を回避しつつも、社会正義を実現させるにはどうしたらいいのだろうか。あるいは実現を断念して、ある程度の妥協や打算は容認せざるをえないのだろうか。敵対を回避する第三の道というのが容易に見つかるとは思えないが、世界を主導しているつもりの西欧的な政治理念の方向性としては、身内に保守的な欺瞞を抱えながらも、外に向かっては欺瞞と戦う姿勢を崩さない形をとるわけで、それがロシアや中国やイスラム武装勢力などの反発を招いているのかもしれず、実際にイスラエルとパレスチナの問題などはこじれにこじれて、どうにもならない事態を招いていて、ここにきてシリアやイラクの内戦もイスラム国の台頭でこじれつつあり、今のところは事態を収集するめどは立っておらず、たぶんそれと同時進行の様相を呈している、アフリカで起こっている紛争も含めて、それらの地域が全面的に平和になるようなら、世界に蔓延する欺瞞に関して、そこで何らかの対処法が確立されたことになるのかもしれないが、このまま紛争が世界中に飛び火するようなら、人間が構成する社会には欺瞞がつきものであることが証明されてしまうだろうか。


11月25日「慣習」

 以前に語っていた地点からだいぶ遠くまで来たように思えるが、意識は依然として元いた場所へと回帰してしまう。思考が思考する対象を巡って堂々巡りをしている感を免れず、その対象を具体的に特定できぬまま、その不可視の対象について延々と同じようなことを述べているのだろうか。それでも何に立ち向かっているとも思えないのは、自身を取り巻く環境の中で安住しているからなのか。そうと気づかぬまま、そうならざるをえない成り行きの中にいるのではないか。だがそう語ってもなお、誰が誰のことを語っているとも思えないのだろうから、そこに架空の登場人物がいるとも思えず、それがフィクションとはなりえず、だからと言って自身について語っているわけでもないのだろうから、なんでもないということになるだろうか。たぶん何が何でもないわけではなく、何らかの事象について語っていることは確かで、具体的にそれは国家と資本主義についてとなるだろうか。だがそれが直接思考の対象とはなりえないようで、その代わりにそれらを取り巻く人の思惑について、あれこれ想像を巡らせているだけで、それを想像してみた結果として何が見出されたわけでもないのではないか。それらの制度や仕組みを改善するための方策が見出されたわけでもないし、それに代わる新たな制度や仕組みを構想しているわけでもない。仮にそれを構想したところで、それを実現させるめどが立つとも思えず、相変わらずの従来からある制度や仕組みの中で、そこから生じる否定的な作用や結果を根拠にして、それらの制度や仕組みを批判することしかできない。それ以外に何ができるだろうか。批判することしかできないなら、延々と批判し続けるしかないのだろうか。制度や仕組みそのものを批判するのではなく、そこからもたらされる弊害を批判するわけだから、批判することによって弊害をなくす努力がなされ、事態が改善することがあるのだろうか。それとも制度や仕組みを根本的に変えない限り、弊害がなくなることはないのだろうか。しかしそれらの制度や仕組みがもたらす弊害とは、具体的にどのようなものなのか。それは改めて問うようなことではなく、広く世間一般で共有されている認識にすぎず、例えば国家がもたらす弊害は、政府の機能を維持するために備わっている官僚機構が人々を管理支配することにあり、資本主義がもたらす弊害は、人々の間で貧富の格差が広がって不平等が生まれることにある。そのような弊害をなくすには、民主的な選挙で選ばれた議会の議員たちが内閣を組織して、大臣や副大臣となって官僚機構の上に立ち、官僚機構を国民の代表者たちが制御すれば、形の上では官僚機構による管理や支配に対抗できるわけで、また資本主義によってもたらされる弊害については、所得や資産などに累進課税して、富める層からなるべく多く税を徴収して、それを貧しい層に対する福祉に利用すれば、やはり形の上では貧富の格差を縮める努力がなされることになるわけだが、結果が必ずしもそうなっていないのは、官僚機構や富裕層の力が増して、そのような方向が捻じ曲げられているからということになり、それを許しているのは国民なのだから、批判されるべきはまずは国民にあるということになるかもしれないが、国民にもそれぞれに異なる立場や境遇があって、利害も一致しておらず、決して一枚岩で団結しているわけではなく、同質な人々ではないということが、そもそもそのような制度や仕組みが、円滑に機能しない原因となっているのだろうか。

 原因がそれであるとしても、それを取り除くことなどできないし、そもそもそのような制度や仕組み自体が、建前として国民に提示されているに過ぎず、行政に関してはその仕組みや権限について知り尽くしている官僚機構の方が、一般の国民より力を持つのは当然だだろうし、企業を運営しているのは労働者ではなく経営者であり、企業に資金を提供しているのは銀行などの金融機関や資本家たちなのだから、資産を持っている層ほど社会の中で力を持つのも当然だろうし、そこに厳然と力の差があることをごまかすためにあるのが、民主的な政治制度であるわけで、富める者も貧しい者も、選挙では一人一票しか投票できないことになっているわけで、人口比で言えば、富裕層はほんの一握りしかいないのだから、それ以外の大多数の人たちが、元官僚や高額所得者などの候補者には投票せずに、普通の一般人の候補者に投票すればいいわけだが、そうはなっておらず、一般の人たちが元官僚や高額所得者などに投票している現状があるわけだ。それはそのような判断基準以前に、政治家としてまともに活動できるかどうかという判断基準があり、それには議会で一定の勢力を持っている政党の推薦を受けていたり、無所属だと何らかの組織票がある団体の推薦を受けていたり、あるいはメディアなどでよく取り上げられる著名人であったりする必要があり、そのような条件を満たすのが元官僚や高額所得者や政治家の世襲後継者であるわけだから、その人の政治的な主義主張の中身以前に、何の実績も後ろ盾のない人が立候補しても、まずは当選できないだろうし、そのような実質的な障壁が、建前としての民主的な政治制度や仕組みの前に立ちふさがっていて、一般の人たちもそのような障壁があるのを当然のことと思っていて、それを前提として選挙で投票しているわけだ。そうだからといって別に一般の人たちはメディアにだまされているわけではなく、そんなことは一般の人たちの方がよくわかっていて、百も承知のはずなのに、大多数の国民とは立場も境遇も異なる、それらの特権的な階層の人たちに投票しているのであり、それは自業自得でしかないのだろうが、それをやめるわけにはいかない成り行きになっている。それが社会的な同調圧力だと言えなくもないが、別に人々はそれを圧力だとは感じていないだろうし、むしろ喜んでそうしているわけで、まさかそうすることが人々の宗教的な信仰現象であるなどと言えば、デタラメもほどほどにしろということになるだろうし、社会的な慣習だとみなした方がより無難なのかもしれないが、そのような慣習が成り立っているところで、その慣習を支えている人々を苦しめる様々な弊害が生まれているわけだから、結局人々はその弊害を根拠に、建前としての政治的な制度や仕組みを歪めているように見える政治家などを批判することはできるが、一方ではその弊害をもたらす社会的な慣習を支えているわけだ。


11月24日「自意識」

 人が立ち向かうのはいつも自らを苦しめている境遇だろうか。だがそれは苦しめられているとともに、そのような境遇の中で自らが生かされている、と前向きに考えた方が気休めにはなるかもしれず、苦しみながらも絶えず自意識や身の回りの環境の改善に努めていれば、それで立ち向かっていることになるだろうか。その自覚がなくてもそうしている人が大半だろうし、それが現状で生きていることの証しかもしれないが、そういう次元で何をどう考えてみても、それで構わないような当たり前の見解しか導き出せないだろう。当たり前でない認識を導き出すのは至難の技かもしれず、その常人では思いつかないようなことを思いつくのは、それ相応の何かが必要なのだろうか。何かとはなんなのか。それがわかれば苦労はしないだろうが、別にそんな認識を導き出そうとして出せるとは思えず、それは無理に目指さなくてもいいことで、普通は自分が思いつく範囲内での、当たり前の見解や認識で満足すべきかもしれない。奇をてらって難しそうな言葉をこねくり回してみても、それを自在に使いこなせるほどの力量はないだろうし、そう感じられる書物などを読んでもちんぷんかんぷんかもしれず、そもそも語ることや記述を何かに役立てようにも、間違ってもそんなことはさせてもらえないような世の中なのではないか。それでも自意識はそんな世の中を理解したいだろうし、この世界の構造がどうなっているのかを知りたくて、それに関係していると思われる書物など読んで、その内容を把握して理解しようと努めるわけだが、納得するような理解からは程遠く、要するにわかりきっていることだけでは満足できなくて、つい他に何かこの世界に重大な影響を及ぼしているような、隠された何かがあると思ってしまうわけで、それを自力で探り当てようとしてしまうのかもしれないが、改めて考えてみるまでもなく、単なる無名の一般人の分際で、そんなことを知ろうとするのは無謀なことで、高名な思想家や哲学者でさえわからなかったことが、わかるなんてありえないだろうが、それでも現状でわかる範囲内では、この世界の構造を把握したような気になっているのではないか。たとえそれが勘違いであろうとなかろうと、それなりに理解しているつもりでいるわけで、そのような理解の範囲内では、隠された何かではなく、全ては人が理解し把握している程度の物事によってこの世界は構成され、そうなって当然の成り行きに従って状況が推移していて、そこで何が起ころうと、人がどんな事件や現象に巻き込まれていようと、たぶんそこで現前している以上でも以下でもないだろうし、それが起こった時点では気づかない何かがあろうとなかろうと、後からそれに気づいて驚いたり感動したりしても、それはそういうことでしかなく、その当たり前のことに納得できなくて、本当はそうではないのではないかと疑念を抱くことが、何やら自身の願望や期待にそそのかされて、都合よく想像してしまうことにつながり、結局そのような願望や期待は、ありのままの現実に裏切られるしかないのだろうが、やはり人はそのありのままの現実を認めたくないのかもしれず、そこに絶えず自分の思いが反映して欲しいと思うのではないか。

 そしてついにはこの世界に自分の思いを反映させるべく、自分の力で何かをもたらしたくなってくるのかもしれず、それが自らの作品であればわかりやすいのだろうが、たいていの場合はそこにはすでに他人の作品があり、その作者が作品を他の人たちに認めてもらいたくて、あれこれ策を巡らせながら認めるように仕向けてきている。そのような状況に直面すると、そこに自分の作品を置く余地さえないことに気づき、それでも作品の提示をあきらめきれなければ、他の作品を押しのけて、まずはそこに自分の作品を置く場所を作らなければならず、そのための抗争が社会のあちらこちらで起きているのだろうか。そう考えれば人と人との争いは避けがたいと理解できるかもしれない。だがそれが本当に自分の作品なのかどうか、そこに疑念を抱くと、何かこれまでとは違った認識に至れるだろうか。この世界の謎を解き明かすことや、この世界に自分の思いを反映させることとは別に、大前提と見逃してはならないのは、この世界の一部として自身が存在しているという事実であって、自分が世界の一部にすぎず、世界と自分とはつながっているどころか、一体化しているわけで、対等の関係でさえなく、圧倒的に世界の方が巨大で、自分を含むすべてを構成しているということだ。そしてそれこそが唯一最大の謎であって、自分を含んでいるこの世界があることが謎の全てなのだろう。しかもその世界の一部である自分は、世界と自分とを分割して、この世界を思考の対象としていて、なにやら世界についてそれなりに知識を持っていると思い込んでいる。そんな自分がこの世界に何かをもたらしたつもりになっても、自分自身がこの世界の一部なのだから、結局それは世界からもたらされたものでしかないのではないか。それこそがありのままの現実であり、そのような現実に納得すべきなのだろうが、意識としては世界から分離して自分の存在を認識しているわけだから、納得しようがなく、納得しない代わりに、自分の都合のいいように世界を理解しようとするわけで、それを試みては世界のありのままの現実に跳ね返されて、跳ね返されればされたで、まだ何かこの世界には自分が知らない秘密が隠されていて、その隠された秘密を発見したり解き明かしたりすれば、その時こそ自分の都合のいいように世界を理解することができ、自分の都合のいいような作品を、この世界にもたらすことができると思うのかもしれず、そこに自分の都合と世界の都合を一致させる困難があり、その困難が解消される見通しがなかなか立たずに、多くの人が困難に直面していて、それを困難と思えば、その困難に苦しめられていると思われ、その困難に立ち向かっていると思えば、立ち向かっている間は、そこから自己満足や気休めを得られるのかもしれないが、それは自らの存在を世界から分離して意識することから生じていて、それが自意識と呼ばれる意識そのものなのだろうか。


11月23日「感覚」

 人はそこに留まりえないが、留まろうとして悪あがきを繰り返すのかもしれず、その悪あがきの繰り返しが老いそのもので、以前はできたことができなくなってから、それに気づいてうろたえるのだろうか。うろたえる人もいるかもしれないが、中には気にしない人もいるのではないか。そして死ぬまで悪あがきを繰り返している人もいるだろうか。今がその悪あがきの最中だとは思いたくないだろうし、まだ成し遂げなければならないことがあると思い、それを成し遂げようと努力することが、無駄な悪あがきだとは思いたくないのかもしれない。でも努力していると思うことが、そもそもの勘違いなのかもしれず、その実態はしなくてもいいことを無理にやろうとして、それをやることへのこだわりが、やっていることが自分の力量を超えていることに気づかず、成し遂げられないことを延々と繰り返す成り行きをもたらしているのだろうか。たとえそうだとしても、そのような成り行きの中で生きているのだろうから、そうすることに生きがいを感じているとすれば、勘違いかもしれないと不安を抱きながらも、やり続けられている限りはやめようとはしないだろうし、断念しなければならない時が来るまではやろうするだろうし、実際にそれをやり続けているわけだ。たぶん実感としては留まろうとしているのではなく、絶えず前進し続けていると思っているのではないか。未来へと歩んでいるつもりでいて、その先に何か願いが叶うような瞬間が訪れることを期待しているわけだ。結果から振り返ればたわいないことにすぎないかもしれないが、まだ過去を振り返る気が起こらず、振り返るのが怖いのかもしれず、ともかく前を向いているうちは、諦めずに努力しているつもりでいられるわけか。それが勘違いの全てだろうか。他にどんな勘違いがあるだろうか。あるいは勘違いではなく、やがて真実を知る機会が訪れるだろうか。別に自らがやっていることが勘違いであることを自覚する必要はないだろうし、それを信じてやり続けることが肝心で、現状では何の結果ももたらされなくても、自信を持ってやり続ければ、いつかは報われる機会が必ず訪れるはずだと思っていればいいわけか。もしかしたらそれも勘違いの類いかもしれず、そのような根拠のない自信とこだわりが、無駄で無意味な努力の日々をもたらし、執拗に悪あがきを長引かせているのだろうか。それとも肯定的であれ否定的であれ、まだやっていることを評価する段階に達していないのであり、現実に何をやっているとも言えないレベルなのに、それでも様々な苦難を乗り越えてここまで来たのであって、その過程で様々なことを犠牲にしながらやっているような気でいるのだろうか。そしてそれも勘違いの一部であり、実態はそんな思いからはかけ離れていて、それと気づかずに要所要所で上手く立ち回っていて、大した苦労もなく継続しているのであって、しかも戯れの範囲内でやっていることで、どう見ても本気であるはずがなく、自分が何を見ているのかもわからず、何に関して何をやっているわけでもない感覚にとらわれていて、もしかしたらそれは嘘なのかもしれない。

 何をやるにしても結果を得られなければ自信にはならず、結果が思わしくなければ不安を覚えるのだろうし、そこから気の迷いが生じてくるのかもしれないが、それとは別にそこに至る成り行きというのがあるらしく、やっていることに対するこだわりの感情や、その感情から生じる努力への思いとは関係なく、なぜかそうなってしまう成り行きというのがあり、人は絶えずそんな成り行きの中で生きていて、それを肯定して成り行きまかせに生きるしろ、そんな運命に逆らってもがいているつもりになるにしろ、そんな思いやこだわりとは違う感覚というのがあるのかもしれず、何を諦め断念しているのではないにしても、自然と導かれるままにそんな境遇となり、それを肯定も否定もできないまま、そんな境遇の中でやっていることがあって、それをやり続けることが良くも悪くもないように思われるのは、例えばそれが使命だと自らに言い聞かせるような強迫観念とは無縁だからかもしれず、それをやることにこだわっているとも、それをやらなければならないとも思わず、それをやるのがごく当たり前に感じられるようになれば、それで構わないのだろうし、余計なことなど考えずにただそれをやり続けていればいいのだろうか。それを誰に問うでもなく問うのは、まだ疑念を拭い去れない証しかもしれないが、たぶんその問いに答えなどないことも、うすうす感じているのだろうし、一応は問いの形を取るが、そもそも問いにさえならないことかもしれず、ただそれを不可思議に思われるほどの感覚で、そのような成り行きの中に自意識があるように感じられる。やっていることを肯定も否定もできなければ、わずかにそう思われるしかないようで、そこに残っているのは不可思議な感覚だけなのかもしれない。それはやるべきことなのでもやらなければならないことなのでもなく、実際にやっていることだ。そしてそこからそのやっていることに応じて、そんな認識がもたらされ、それが何でもないことのようにも思われ、別に悪あがきでも勘違いでもないことを知るのだろうか。そしてそんな感覚の中に意識が留まろうとしているのでも、それを発展させながら前進しようとしているのでもなく、ただそんな認識を抱いているわけか。抱いている以前には、そのような認識へと至ったと考えれば、どこかへと到達して、それが良くも悪くも前進であるように思われたのかもしれないが、どうもそれは前進でも後退でも上昇でも下降でもなく、ただそのような成り行きの中にいる感覚で、それ以上でも以下でもないのだろう。どこからやってきたともどこへ向かうとも思えず、そこに存在していると思えるだけで、存在していること自体にどんな意味も価値もないのだろうが、そのような成り行きの中で何かをやっていることは確からしく、それがやれる範囲内でやっていることなのか、あるいは己の力量を超えてやろうとしているのか、そんなこととも無関係にやっているのかもしれない。たぶんそれは自己肯定とか自己正当化とも違う感覚なのではないか。


11月22日「事の顛末」

 何かに気づく時は不意に思いがけずその時がやってくる。なぜそれに気づいたのかなんてわからないし、それを説明できないのは、その必要がないからなのかもしれない。もちろん必要があっても説明できない時もあるのは確かだろうが、そんな理由など説明する必要も感じずに、ただそれに気づいてしまう時があるわけだ。たぶんよく考えればその理由も思いつくのかもしれず、実際に思いついて理路整然とその顛末を説明できれば気分がいいだろうし、以前より少しは賢くなったと感じるのかもしれない。そしてわけもわからずにそれに気づいた時の感動を忘れてしまうだろうか。忘れたところで、また別の機会に思いがけずその時がやってきて、以前にもそんなことがあったのを思い出したりするかもしれず、その時の感動を思い出して、何かが起こった結果から、それを生じさせた原因を説明しようとするのとは違う、そのような説明を必要としない心理状態があることを、改めて認識することとなるだろうか。同じ現象なのになぜそうなったのかを説明しようとしたり、その必要がないと感じたりするわけで、それは単なるその時の気まぐれで、そう思ったり思わなかったりするだけだろうが、そのような現象について語るとなると、絶えず現象の因果関係ついての説明が求められるわけで、ただの偶然の巡り合わせで何もかもが起こっているだけなら、そのような説明自体が必要ないだろうし、必要がなければこの世界で起こっている様々な現象について語る必要などなくなってしまうだろうか。語る必要があると感じるから語ろうとするわけで、やはり人はどうしてそのような現象が起こるのか、そのわけを知りたいだろうし、できれば理解可能で納得のいく説明を求めているのではないか。そして理解できて納得できる説明を信用するわけだが、なぜ理解できたり納得できるのかといえば、そのような説明をする人と同じ価値観を共有しているからかもしれず、逆に価値観の違う人や思想信条的に対立している人などの説明だと、いくら工夫を凝らして説明しても、無視されるか拒絶されてしまい、無理に同意や同調を求めても、無用な反感を買うだけとなってしまう場合もありそうだ。地球は太陽の周りを回っているとか、人類と類人猿は共通の祖先から進化したとか、小中学校で習うような知識についての説明なら、多くの人が一般常識として理解している程度の範囲だから、それほど強硬な拒絶にもあわないだろうし、逆にそれを拒絶するのは少数派の宗教原理主義などを唱えているような人だろうし、その人の主義主張や説明を一般の人たちが拒絶していることになるわけだが、それが政治的な主義主張を含んでいると、一般の人でも右翼や左翼のなど党派性に絡んでいたりするので、理解したり納得する以前に、容認できるものとそうでないものが出てくるかもしれず、たぶんそのような政治性が、人々の間で感情的で無用な対立や、敵対しているつもりの政治勢力への偏見や否定的な理解を生んでいて、それが平和な世界の形成を妨げる要因ともなっているのだろうか。

 結果としてはそう感じられるかもしれないが、そんな認識を抱いたところで、それが何をもたらすわけでもなく、従来からあるありふれた政治対立を維持継続させるには何の支障もないだろうか。そうだとすれば、ではそのような対立を解消するにはどうしたらいいのか、ということになるわけだが、それは誤った問題設定だろうか。正しい問題設定などする必要はないのかもしれず、対立を解消する必要もなく、敵対しているつもりになっている方が好都合なのだろうから、そういう人たちはそのままでいればいいのだろうか。対立していようと敵対していようと、平和な地域は平和だろうし、戦争が行われている地域では、戦争することで利益を得ようとする人や政治勢力が、実際に戦争をやっているわけだから、そういう成り行きにならなければ、いくら政治的な対立が激化したところで、平和なままなのかもしれない。そこでは政治的な対立と戦争を結びつけるほどの力が働かず、選挙や議会などでの対立で済んでしまえば、普通は内戦などの戦争に至ることはなく、国と国との対立も外交交渉で済んでしまえば、戦争する必要はなくなってしまうわけで、国内外で戦争に至らずに済ませようとする力が働いている限りは、平和が保たれているのだろう。最近は内戦地域の武装勢力や国際テロ組織が国内外でテロを仕掛けて、他の平和な地域も巻き込んで、なるべく戦争を長引かせようとする傾向があるようだが、テロを自分たちの力の及ばない地域で起こすとなると、その準備にも手間や暇がかかって、そう頻繁には起こせないわけで、忘れた頃に起こる程度にしか起こせなければ、とても世界全体が戦争の渦に巻き込まれるような事態にはなりようがなく、軍事大国のアメリカや中国やロシアなどが互いに全面戦争でも起こさない限りは、世界大戦とはならずに、今後も地域紛争のレベルで状況が推移するしかないだろうか。そんな情勢分析に基づいた説明程度で納得できれば、それで構わないわけだが、多くの人はその程度の簡単な説明では納得しないだろうし、現状で続いている地域紛争が、いずれは何かのきっかけから第三次世界大戦へと至るのではないかと危惧しているわけで、中にはすでにその始まりの中にいると考えている人もいて、平和な地域でたまに起こるテロにも敏感に反応して、神経をとがらせているわけで、メディアもそういう人を目当てにして危機感を煽っているのかもしれない。そしてそのような煽りを利用して、ここぞとばかりに排外主義やナショナリズムを主張する人や政治勢力も出てきて、またそのような主義主張によって世界中で対立が激化すれば、テロリストの思う壺だと批判する人もいて、そうやって様々な立場や傾向の人や政治勢力が、テロ事件を利用して自身の主義主張を表明しながら、それが引き起こした現象に加担しようとするわけで、結局人々は興味を持ったそれらの事件や現象について、それが起こった理由や顛末などを説明したいのかもしれない。


11月21日「社会関係」

 昔がどれほど昔なのか明確には言えないところだが、昔と比較して何かが変わっているようで、何も変わっていない現状なのだろうか。人々の意識に取り立てて変化がないのは、今に始まったことではなく、世の中の仕組みや制度が昔から変わっていないと、その世の中で暮らしている人々の意識も、昔とあまり変わらずにいられるのかもしれない。インターネットが流行りだしてかれこれ20年が経つが、それがなかった頃と比較して何が変わったのだろうか。何かが便利になって、また何かの手順や仕組みが複雑怪奇となったのは、実感として感じるところかもしれず、そういう面では確かにそうなのだろうが、それらを活用しつつも、そこに存在している人たちの意識といえば、昔ながらの政治的なイデオロギーにとらわれていて、全く進歩がないどころか、かえって昔よりひどくなっている感も無きにしも非ずで、昨今の偏狭な排外主義やヘイトスピーチ的な言動の氾濫などを見れば、悪貨が良貨を駆逐するような成り行きが進行中のようにも感じられるわけだが、実際に何を良貨とみなしたらいいのかもよくわからず、例えばリベラルな政治思想の持ち主が果たしてまともなのかといえば、どうもそれも違うように思われてしまい、インターネットの普及や経済のグローバル化が進行して、世界が一つになりつつある過程で、国家を基盤とした昔ながらの政治的な価値観では、何が良くて何が悪いのか判断ができなくなってきたのかもしれないが、それでも人々は昔ながらの政治的なイデオロギーにしがみつこうとするから、そこで何かが食い違っていて、状況の変化に意識がついて行けなくなっているのだろうか。あるいはそうではなく、政治的な制度も物や情報を売ったり買ったりする経済の仕組みも、本質的なところではそれほど変化しておらず、それに伴ってそこで暮らす人々の意識も、それほど変わっていないのかもしれないが、ただ昔よりは様々な面で進歩しているような実感があって、科学技術的な面では確かにそうなのかもしれないが、そのような進歩に対する実感が、相変わらずの政治経済的な仕組みや制度や状況との間に齟齬を感じさせていて、そんな現状に多くの人たちが失望しているのだろうか。もはやそれらに期待できないのに、やっているのは相変わらずのことばかりで、しかもそのような仕組みや制度を変える手立てがなく、延々と悪あがきのごとくに同じような人たちが同じようなことを主張しながら、同じようなことをやり続けている現状があり、一向にそれらの人たちがそこから退場する気配もなく、その社会や政治やメディア上で特定の地位や立場を占めていて、そのような状況に失望している人たちでさえ、それは当然のことだとみなしていて、大前提として現行の制度や仕組みの中で、自分たちの願望を叶えてくれる政治家や政党が出現して欲しいと思っているのではないか。それは無い物ねだりだろうか。そもそも人々は何がどうなって欲しいと思っているのか。現政権に対して何らかの反対運動などをしている人たちは、反対している個々の政策がくつがえって欲しいということかもしれないが、果たしてくつがえるような成り行きとなるだろうか。

 実際にそれらの政策が効果を上げたり上げなかったり、あるいは反対運動によって阻止されたりされなかったりして、そういう方面ではそれなりに変化が起こり、それに関わっている人たちが結果に一喜一憂するのだろうし、何かが起こりうる可能性とはそういったことなのだろう。それに関しては相変わらずそうなるしかないわけで、それに関わっている人たちも、そのような範囲内で活動しているわけだし、それはそれでそうなる成り行きでしかなく、人々の期待や願望もそういうところで叶ったり叶わなかったりするわけだ。それの何がおかしいわけでも悪いわけでもない。人の力ではそれ以外にはどうすることもできず、それ以外で何ができるわけでもなく、世の中はそういう方面ではそうなるしかなく、それ以外の何を期待できるわけでもないだろう。そしてこれからもそんなことが延々と繰り返されていくわけで、そのような状況にうんざりしている人たちも、世の中がそういう方面でしか変わらないことに失望しているのだろうが、では他にどのような可能性が考えられるだろうか。そのような傾向は今後とも続き、そのような方面では何も変わらず、延々と同じようなことの繰り返しとなり、何の進歩も発展もないのかもしれない。人々が求めているのが、そのような制度や仕組みの維持と継続であるのだろうから、そうである限りはそうなるしかない。たぶんそのような同じことの繰り返しが、そのような方向での変化を断念させることになり、自然と別の方面での変化を促すのかもしれず、例えばそのような変化によって、従来の制度や仕組みとは異なる何かが出現するのかもしれず、インターネットの普及によって、SNSなどのネットメディアが出現したように、国家を基盤とした昔ながらの政治経済の仕組みや制度は、そのまま残るとしても、またそれとは別の何らかのコミュニティを基盤とした、別の政治経済の仕組みや制度が出現する可能性もあるのではないか。現状でも国家と重なる部分があるにしても、宗教や民族などのコミュニティもあるし、国とは別に地域限定の独自性を打ち出す地方もあるだろうし、アルカイダなどの国際的なテロ組織もあるし、アノニマスというハッカー集団もあるし、イルミナティやフリーメイスンなどの陰謀論で有名な秘密結社などもあり、企業もNGOも家族も一族もSNS内の私的なコミュニティなども、広い意味でそういった類いに含まれるのではないか。また集団に与せずに単独で生きている個人もいるわけだから、たとえ国家の制度や仕組みが形骸化しても、人々が生きられないわけではなく、国家が国民に課す法や秩序だけで社会が成り立っているわけでもなく、人がそこに属する社会的な関係は様々にあり、その中でも様々な力や作用が働いているわけだから、その中の一つが国家を基盤とする政治経済の制度や仕組みであり、しかもそれはそれだけで成り立っているわけではなく、他の様々な社会的な関係と相互に影響を及ぼしあいながら、全体として人間の社会を形成しているわけだ。それを考えれば、ことさらに国家に関係する政治経済的な状況を悲観的かつ深刻に受け止める必要はなく、万が一それが駄目になったとしても、他の関係の中で助け合えば、なんとかなるぐらいに思っておいた方がいいのかもしれない。


11月20日「時代的考察」

 そこに岩山があれば登ろうとする人が出てくる。興味のない人にはそれが何になるとも思えないだろうが、登ろうとして登れば何かしら達成感を得られるのではないか。またそれが見る者を圧倒する巨大な山塊なら、誰もがそれを見て感動するだろうが、写真に撮ったり絵に描いたりして利用するなら話は別だろうが、見て感動するだけでは他に何をもたらすわけでもない。だが人によってはその興味を抱く対象について語ろうとして、語れる範囲内で語ることになるかもしれず、普通に考えればそれを見た時の感動を、他の人たちにも共有してほしいから語ろうとするのかもしれないが、それ以外で何か伝えたいことがあるだろうか。それをじかにその目で見たことを自慢したいだろうか。それが誰もが見られるわけではない山奥の秘境にあり、しかも世界的に有名な岩山だったら、確かにそこまで行ってじかに見たことは自慢になるのではないか。特権的な体験とはそのようなもので、山奥の秘境まで行くにしろ、その岩山の断崖絶壁を登るにしろ、誰もがやれないことをやれた時、それは特権的な体験となり、人はその体験を他の人たちに誇示したくなる。人が他の人たちに語る話としては、そのような自慢話以外に何があるだろうか。語る動機としては語っている自己の誇示という意味合いがほとんどかもしれず、しかもその自慢話の内容が鼻につくようなら嫌われる傾向にあるのかもしれないが、鼻につかないように語るには、何か技術的に心がけなければならないことでもあるだろうか。そういう方面で話術を極めた人もいるのかもしれず、何かを語る職業でその道を極め、世間から尊敬の眼差しで見られている人もいるだろうが、簡単に言ってしまえば、自分については語らずに、他人について語ればいいのだろうし、また興味を持った対象そのものについて語れば、別にそれに関心を持った自己を誇示する必要もないわけだ。さらに自分がそれを直接語らずに、フィクションの中で架空の話者に語らせればいいわけで、そういう話を自分が書き記せばいいのだろうか。そうなると小説家の類いになるかもしれないが、そのようなフィクションにおいても、作者の自己顕示欲があからさまに出てしまうような場合もあるだろうか。登場する架空の話者が自慢話に終始して、しかもそれが冗談でも自虐でもなく、本気で自慢話に夢中になっているように感じられるなら、まともに商業的に出回っている小説の類いでは、そんなことなどありえないかもしれないが、仮にそんな話を読めば誰もが興醒めしてしまうだろうか。でも読者が作者のファンだとそんな自慢話でも盛り上がり、自慢話が尊敬している作者の偉大さを物語っていることにもなるのかもしれず、ファンというのはその対象がすごいことをやっているように見えれば見えるほど喜ぶわけで、たとえ虚構ではあっても、大げさな話がさらに大げさになっていけばいくほど、そこで何かすごいことが起こっているように思えるものだろうか。例えば宇宙規模での大戦争の映画などもそんな類いかもしれないが、そうなるとそれは必ずしも製作者のファンではなく、作品そのもののファンということであって、別にそこに製作者の自慢話が入っているわけではなく、ファンの願望とフィクションの内容が一致していることにでもなるのだろうか。

 要するに自身の願望ではなく他の人たちの願望を語れば、あるいは自身の願望と他の人たちの願望が一致すれば、他の人たちは喜ぶわけで、それがより多くの人の願望を反映した話なら、より多くの人たちがその話に引き込まれ、それが映画や漫画やドラマや小説なら、商業的に成功するのだろうが、一見そのように見せかけながらも、その実それに興味を持った多くの人たちを裏切るような話にしたいのかもしれず、案外フィクションの作者は大衆一般を嫌悪していて、自らが作り出すフィクションによって、他の多くの人たちを一泡ふかしてやりたいというか、感動を目当てに集まってくる人々を茫然自失に追い込みたくて、日夜そのための計画を練っている感じがしなくもなく、大衆の願望通りの作品は作られるそばから消費され忘れられ、それとは違う何か強烈で不気味で不可思議な印象を残すような作品が、人々の記憶に執拗に残り、結果的に歴史に名を残すような作品となるのだろうか。一概にそうとも言えないのかもしれないが、後の世に語り継がれるような作品は、その時代に生きている主流の人々の願望や理想とは違った何かがあり、むしろその時代を覆う闇の部分とか、時代があえて隠そうとした矛盾や不条理などを物語っているのではないか。そしてそれは必ずしもフィクションの作者が意図するものとは違っている場合もあって、作者がそれと意識しなくても作品の中に紛れ込んでいたりして、何だかわからないまま影響を受けていたり、それを当時の作者も読者も気づかずに、後の時代になって初めて気づかれるようなものもあるかもしれず、それがその時代の人々にとっては嫌悪すべき事物であったり、無意識のうちに遠ざけようとしていた対象であったりして、そのように嫌悪したり遠ざけようとすればするほど、時代の空気や雰囲気に色濃く印象を残し、後の時代にはそれがその時代を代表する何かであったりする場合もあるのかもしれず、たぶん現代においてもそれがあって、作者が意識するしないに関わらず、それが作品全体にみなぎっているようなら、後の時代において、この時代を代表する作品と見なされたりするのかもしれない。ではこの時代を代表する何かとは何だろうか。それはこの時代に顕在化している不条理や矛盾の類いだろうし、実際にそれによって多くの人たちが苦しめられているとすれば、それがそうなのではないか。そしてこの時代に生きる人々が等しく抱いている願望とは何なのか。その願望を反映した作品は具体的にどんなものがあるだろうか。そんなことを考えてゆけば、この時代の特徴らしき何かをつかめるだろうか。そうかもしれないが、それはあくまでも現時点でそう思われることで、後の時代にはそれとは異なる見解が主流となっているかもしれず、現状でそれに該当するものを突き止めたとしても、的外れや見当違いであったりするのかもしれないが、とりあえず現時点で考えられるのはそういったことでしかなく、実際に多くの人たちがそういう方向で考え探究しているのではないか。


11月19日「認識の違い」

 受け入れがたい何かが人々の情念に働きかけ、拒絶の態度として現れる時、たぶんそこになんらかの理由が必要とされていて、それはもっともらしい言い回しとして、他の多くの人たちに向かって同調を強いながら顕在化するのかもしれず、その顕在化された理由が反論しにくい内容であればあるほど、人々に対する抑圧として機能し、もちろんその抑圧的な言い回しに従っていた方が、正義を気取っていられるのだろうが、それに屈せずに反抗を試みようとすると、同調に従わない人間として無視や差別の対象となるだろうか。その受け入れがたい何かというのが、人々が日頃から都合よく意識せずに正当化している欺瞞や偽善を突いていると、なおのこと腹立たしく感じるわけで、なんとかそれをなかったことにすべく、もっともらしい言い回しを多用してかわそうとするのだろうが、そうでなくても世の中で生きている限りは、完全無欠の正義を主張することなどできないわけで、ある程度は欺瞞や偽善を容認していないと、たちまちのうちに自らの行動と思考の食い違いが表面化してきて、それをごまかしながら生きてゆくしかないわけで、そこに自らの主義主張を正当化することの難しさがあるのかもしれず、他人がそうやっていることに気づけば、場合によっては容認できずに批判を加えることになるわけで、そうなるとその人の欺瞞や偽善を暴きたてようとするわけだ。だがそうなると自分の欺瞞や偽善は許せるが、他人のそれは許せないことになるわけで、まさにそれではご都合主義そのもので、それを日頃は都合よく意識せずに済ませてしまっていて、実際にそれで済んでいるのだから、それを他人が不意を突いて批判してくれば腹が立つのも無理はなく、自分も他人に対してそうやっておきながら、自分がそれをやられる番が回ってくると、やはり腹が立つわけだが、たぶんそれで構わないのだろうし、他人を批判したければそうやって欺瞞や偽善を指摘しながら批判すればよく、自分が批判される時もあることを覚悟しながら批判すればいいのだろう。批判すべきところは互いに批判し合っていないと、批判されるような行為や言動の何が悪いのかわからないのであって、批判し批判されることによって、少しはそのような行動や言動を改める機会や可能性も出てくるのではないか。批判が何かの役に立つとすればそういう面で役に立つのかもしれず、それが際限のない非難の応酬となると、論争すること自体が無駄で無意味な浪費にしか至らないのだろうが、ともすればそうなってしまいがちなのを、気を利かせて穏便に矛を収めるような成り行きに持っていければ、批判し合うのも少しは何かの役に立ちそうに思えてくるだろうか。そういう意味では他人からの批判は利用すべきものかもしれず、その批判を活用して新たな認識や思考へと到れたら、その批判に感謝しなければならない場合もありそうで、たとえその批判が的外れに思われるときでも、注意深くその批判を拝聴すべきなのかもしれない。もちろん直接面と向かって批判してくるようなケースはあまりなく、ほとんどは皮肉交じりの揶揄の類いか、誰に向かって批判しているのでもないように装いながらも、それを回りくどくそれとわかるように仕向けてくるわけで、こちらもそれを無視しているか、それに気づかないように装いながらも、相手の隙をついたつもりで不意にねじれた返しを仕掛けるのだから、たぶんそうなった時点で意味不明なのかもしれないが、ネット上ではそうなるしかないようだ。

 それも幼稚なままごと遊びだと斬って捨ててもいいのかもしれないが、こちらが被害妄想になって勘違いしているように装わないと、なかなかそういった反応も引き出せないわけで、ニュースメディアから受け取る情報も含めてあらゆる情報を活用して、少しでも納得のいくような世界や社会についての認識に至れば、それで構わないのだろうし、そのような認識に至るためには、やはり自分だけでなく、他の人々の習性や動作を観察する必要が出てくる。そのようにして人々の習性や動作を観察していれば、この世界では誰が正しく誰が間違っているというのではなく、誰もがある程度は正しく、また誰もがある程度は間違っていると認識できるだろうか。もちろんそのような相対的な認識では、何を批判することもできないわけだが、それを踏まえながらも、ある程度は正しいところや、またある程度は間違っていることについて語るしかなく、その正しさや間違いも相対的なもので、人の立場や境遇によってその程度も違ってくるかもしれず、より強力な権限を持った人や政党や企業などの間違いは、強く非難されるべきだろうし、何の権限もないような一般人の間違いなど、場合によっては無視されるようなものでしかないのかもしれない。そしてそれらの行為や言動が正しいか間違っているかとは別に、そうせざるをえないような成り行きになっている面も否定できず、人はそのように行為し、そのような言動に至らざるをえないような、成り行きの中で生きているのかもしれず、自分の欺瞞や偽善はそのままにしておいて、他人の欺瞞や偽善を批判し、糾弾せざるをえないような成り行きがあり、何かを批判しようとすれば、必然的にそのような成り行きになってしまうのではないか。そして実際にそのようなことをやれば、他人からそこを突かれて、自分の欺瞞や偽善が批判され、糾弾される立場に追い込まれたりするわけで、そしてそうなってしまうのを恐れるから、一般にはあからさまな批判や糾弾は避けられる傾向にあり、やるとなると回りくどいやり方となりがちだが、それが公的な立場の人たちであれば、公的な範囲内で遠慮なしの批判や糾弾にさらされるわけで、その公私の立場の境界をどこに設けるのかも、議論を呼ぶところとなりそうだが、場合によっては私的な利害関係こそ批判され糾弾されるべきという考えもあって、公共の場で私利私欲に走れば贈収賄などの対象となり、公私混同は確かに批判や糾弾にさらされるわけだが、何が公私混同に当たるのかも、はっきりしている部分と曖昧な部分とがありそうだ。政治家が国民のためにやっていることであっても、それによって国民を弾圧している場合もあり、果たして国民を弾圧することが公共の利益に合致しているのかといえば、それがその政治家の主義主張に反対している国民であれば、国民のための政策に反対している国民を弾圧するのは、その政治家を支持している人たちにとっては許されることかもしれないが、反対している人たちにとっては許されないことで、政治家の私的な保身のために政策に反対する国民を弾圧していると受け取られ、弾圧そのものが国民主権や民主主義に反した行為だと見なされるだろうが、それを弾圧と見なすかどうかも、政治家を支持する人たちと反対する人たちの間で、真っ向から見解の分かれるところだろうし、例えば沖縄で米軍の滑走路の工事に反対している人たちからすれば、警察や海上保安庁などによる反対派住民を排除する行為は、紛れもなく政治弾圧と見なされるわけで、民主主義を踏みにじる行為だと非難され糾弾されているわけだ。


11月18日「模像社会」

 模像とは何なのか。捉えようによってはマネキンも模像の一種だろうか。誰もが模像と実物の区別はつくはずだが、それが比喩として使われると、何やら神秘的なニュアンスでもまとうことになるだろうか。オリジナルなきコピーはシミュラークルと呼ばれるが、それは模像とは違う概念のようだ。確かに何がオリジナルなのかと問われれば、それを容易には特定できない事物もあるだろう。シミュラークルとはまがいものに近い概念かもしれず、何やら胡散臭そうな人物や商品の類いは、まがいものと呼べそうな雰囲気をまとっていて、それとは逆の本物がまとっている雰囲気は、何か信用できそうな気にさせるのだろうが、あからさまな偽ブランド品以外は、何が本物で何か偽物かなんて、容易には区別がつきそうになく、例えばコカコーラとペプシコーラのどちらが本物でどちらが偽物といえば、そんなことはどうでもいいことであり、どちらも本物の炭酸飲料なのだろうし、同程度の認知度があれば本物と偽物の違いにこだわる必要がなくなってしまい、生産の歴史が古いコカコーラが本物だと言われれば、納得するにはするだろうが、やはりそうだからといって何がどうしたわけでもなく、大して気になるようなことではない。金持ちなら特有のこだわりから、金にものを言わせて値段の高い高級品を買ったり、高級レスランや高級ホテルで至れり尽くせりの各種サービスを受けて、何やら本物の雰囲気を味わった気になれるかもしれないが、その本物感というのが値段の高さに起因している感は否めず、本当に値段の高いものが本物だと言えるのか、その辺に疑問を感じてしまうわけだ。例えばスポーツカーの代表格であるフェラーリとランボルギーニなど、コカコーラとペプシコーラの関係に似てなくもないだろうが、どちらも本物の自動車であることは確かであり、ペプシコーラがコカコーラのまがいものであり、ランボルギーニがフェラーリのまがいものだと言っても、ペプシコーラもランボルギーニも独自のブランドとしてすでに商品価値を確立しているだろうし、コカコーラやフェラーリにしても最初から有名な商品ブランドではなかったのだろうし、何かのきっかけで評判を呼んで、その後世界的なブランドとしてその地位を築いたのだろうから、それはペプシコーラやランボルギーニにも言えるわけで、たまたま先行者としてコカコーラやフェラーリがあっただけで、それらの二番煎じではあるのだろうが、結果的にはどちらがどうだとも言えないくらいに、それぞれに有名な商品ブランドとしてその地位を確立したわけだ。そのように世界的に有名な商品にしても、その商品のファンでない限りは、オリジナルだからこそ優れているとか偉大だとは言えないわけだ。炭酸飲料にしても自動車にしても、そのオリジナルとなる製品は確かに歴史的に特定できるのかもしれないが、そんなものはとうの昔に使用されなくなっているわけで、そういう意味では世の中に出回っている商品は全て、オリジナルなきコピーだと言えなくもないわけで、人々はそうしたシミュラークルに囲まれながら暮らしているにもかかわらず、何かオリジナル信奉を持っているわけで、作者が特定できる美術品などは、その作者の評価が確立していれば法外な価格で取引されることとなり、何かそこにその作品に対して感動を強いるような同調作用が働いているわけだが、それはその作品に対する技巧的な評価とは別の作用なのかもしれない。

 美術品と一般の商品とはその性質も使用目的も異なるわけだから、オリジナルとシミュラークルとの評価法に違いもあるのかもしれず、それを売ったり買ったりする時の都合によって、オリジナルが価値を持つものとそうではないものとに区別されて、取引されているのだろうか。シミュラークル的な商品にしても、著名人の所有物やサインなどが入ったものだと、オークションなどで高値で取引されるわけで、そういうところにまで人々のオリジナル信奉に類する作用があるわけで、そこには商品そのものの実質とは別の、中身のない模像のような働きがあるのかもしれず、要するにそれは偶像崇拝と同じような心理的な動作なのではないか。模像である仏像やキリスト像などを前にして拝むように、作者の模像としての美術品や、著名人の模像としてのその所有物や、サイン入りの品物を前にして拝みたいのかもしれず、そういうところでは人々はシミュラークルをそれとして認識していないのだろうし、何か無意識のうちに都合よく価値を使い分け、一方ではシミュラークル的な商品をその使用目的に応じて消費し、もう一方ではそれとは別に価値の高いものとして拝むわけだが、拝む目的のものに対しては、たとえそれが模像であったとしても、何かしらオリジナルとのつながりを求め、そのつながりが濃いものほど、徳が高く希少なものとして尊ばれる傾向にあり、それが宗教的な偶像崇拝だと気づいていない人がほとんどなのだろうが、そのような人間の心理作用の宗教性は、社会的な動物として自然に発生するような現象だろうか。そうだとしても人はそれが中身のない模像であることや、その一方でオリジナルなきコピーであるシミュラークルが世の中に氾濫していて、オリジナルに価値があるように感じるのは錯覚だと気づくべきだろうか。たぶんそれに価値があるように思われるのは、社会的な慣習によるところが大きく、価値があると思われている間は、人々に何んらかの心理的な作用を及ぼせる力があるわけで、その力がどこから生じているのかといえば、オリジナルを担う人物の名声や業績や権力などになるだろうか。それを利用しているのがブランド商品の類いで、もともとシミュラークルであったものが名声などを得ると、それがオリジナルだと見なされるようになるのであって、社会的にそういう商品を尊ぶような成り行きに持っていくのが、いわゆるブランド商法の戦略で、メディアを利用していかにもそれを買うことがステータスであるかのように宣伝するのだろうが、他の商品と差別化して値段が高いほどよく売れるように仕向けるためには、富裕層の支持が欠かせないだろうし、それ相応の至れり尽くせりのサービスなどを売りにして、付加価値を高めようとしているわけだ。そういう消費者の囲い込みによって、ものを売る側がより多くの利益を得ようとするのだろうが、それによって不利益を被る人たちがいるとすれば、その商品を買えない人たちなのだろうか。それを買えるか買えないかで、社会的な差別意識でも生まれるとすれば、そうなる面もあるのかもしれない。


11月17日「関係性」

 なかなか世の中の成り行きは因果応報とはならず、ひどい目に会う人たちは一方的にひどい目に遭い続け、贅沢な暮らしを謳歌する人たちはいつまでも贅沢三昧に明け暮れ、それが当然であるかのように思い込んでしまうかもしれず、何が良いこととも悪いこととも判断しがたい面もあるかもしれないが、社会的な立場や境遇によってそれなりに価値観が異なるのだろうし、やりたいことや実際にやっていることも千差万別なのだろう。そのやりたいことややっていることを同じにすることなどできないわけで、同じにする必要もなく、それを同一の価値観で判断する必要もなく、そこで何をやろうとしようと、実際に何をやっていようと、やれている現実がそれが可能であることを示しているに過ぎず、それ以上の根拠や必然性を考えても、考えようによってあるいは語りようによっては、何らかの説得力を伴うかもしれないが、そうだとしてもそれはそれに関する説明の上で、そうだと言えるだけで、それ以上の真実味を期待するのはおかしいだろうし、実際に何かをやっている現実以上の何かを求めるのは、自身にとって都合のいい幻想を伴い、それでも構わないのだろうし、何かしら幻想や願望を抱いていないと、やっていることが長続きしないのかもしれない。それが人間の弱さであり、弱いからこそ幻想や願望を抱くのだろうが、そのような幻想や願望を抱くことを、取り立てて肯定したり正当化したりする必要もないのではないか。弱いなら弱いままで構わず、何も無理に強がる必要もないわけで、肯定したり正当化したりできない面を残しておく方が、思考にも行動にも柔軟性を持たせることが可能だろうし、一つの価値観に凝り固まって硬直化すれば、何やらそれなりに正義漢を気取ることはできそうだが、正義だけではやっていけない面も色々ありそうで、例えば価値観の異なる人たちとはひたすら対立するしかなく、やるかやられるかの関係となれば、当然暴力の応酬に発展する可能性も出てくる。だからと言って信念を曲げてまで他人に媚びへつらう必要もなく、その場の状況に応じて、あるいはその場の気まぐれで、さらに無意識に反応して、実際に行動してみなければ、どう行動するかわからない場合もあるだろうし、その辺はそうなってみないとわからない面もあり、実際にそうなったとしても、なぜそんな行動に出たのかよくわらないこともあり、そうなった原因を突き詰めて考えたり、結局どうでもよくなって、そんなことは忘れてしまったりするわけで、語る上ではどうにでも語れるかもしれないが、実際の行動は一つであり、そのように行動した結果だけがあるわけで、その結果を後からあれこれ評価してみたりするわけだが、失敗を悔やんでみても後の祭りで、取り返しのつかないことをやってしまったら、それはそれで諦めるしかない場合もありそうだ。気に入らないことがあると、どうしても否定的な感情に凝り固まって、最初から決めてかかってくるのはよくあることかもしれないが、それも人間の弱さなのかもしれず、他人が自分とは異なる価値観であるように見えたり、実際に受け入れがたいことをやっていたりすると、そういうことをやっている他人もその行為も思考も、全てが否定の対象となるしかないのだろう。

 もちろんそこに利害関係が生じていたら、そうせざるをえないだろうし、他人のやっていることや考えの全てを肯定し受け入れていては、自分であることができなくなってしまうわけで、人によって好き嫌いがあるように、どうしても否定すべき対象と肯定すべき対象ができてしまうのは、仕方のないことかもしれない。そしてその仕方のなさが人と人との対立につながるとしても、そういうものだと捉えるしかなく、それ以上の理由を探さなくても構わないのだろうし、そういうものだと割り切る以外には、やりようがない場合もありそうだ。それで良いか悪いかではなく、そうなってしまったものを修復しようとしなくても済んでしまうなら、そのままとなるしかないだろうし、実際にそれを放置しておいても構わない場合もありそうで、ネット上の人間関係などそういうことの方が多いのかもしれず、そういうことにこだわっていても、何も得るものがないのなら、そのままにしておくしかないのかもしれない。何を得ようとしているわけでもなく、そこに目的も目標もなければ、そうなるだけなのかもしれないが、無理に目的や目標などを決められない現状があるわけで、そこに社会的な慣習や秩序などを見出そうとしなければ、世の中はただ漠然としてとりとめのない世界であり、そこに何もしない自由や何も考えない自由も想定できるわけだが、そこに何らかの価値観や社会常識を当てはめようとすれば、何もかもが自由であることは受け入れ難く、絶えず人を何らかの価値観に基づいて束縛しようとするわけで、それが当然だと思えば、その人は立派な社会人として、他の多くの人たちから信用を得られるのかもしれず、そういう面では他人と同じことをして、同じ思考でいるように装うことが、その人が社会から利益を引き出す上で必要なことで、社会人とは本来そうあるべきなのかもしれない。もちろん常にそういう姿勢でいるように心がけていても、思わぬきっかけから転落の人生となってしまうことも十分あり得るわけで、こう振舞っていれば絶対大丈夫ということなどありえないわけで、その辺はその場の成り行きと偶然の巡り合わせに左右され、運が悪ければどんなに常識人のふりをしていようとうまくいかないだろうし、またなぜか非常識な立ち振る舞いが許されてしまう境遇の人も中にはいるだろうし、結果から見れば、その人の持って生まれた素養や気質がものを言っているようにも見えてくるわけで、やはりそれも説明の範囲内ではなんとでも言えることかもしれないが、自分には大した才能がないと思えば、自然と謙虚に振る舞うようになるだろうし、逆に才能があると勘違いして、傲岸に振舞って墓穴を掘る人もいるだろうが、それも程度の差でしかないだろうし、なんにしても結果がものを言うわけで、なんらの競争に勝ち抜いてその分野で成功すれば、それが才能のある証しとなるだろうし、そうでなければ才能があろうとなかろうと、その他大勢の中の一人でしかなく、いくら勘違いしてもホラを吹いても、そのような価値基準からすれば、全ては結果でしかないのだろう。


11月16日「歴史の正しさ」

 歴史を自分の主義主張の都合に合わせて解釈するのは、誰もがやっていることかもしれないが、そうした歴史が何を物語るのかといえば、自分の主義主張の正当化とともに、自説にとって都合の悪い歴史的な史実の忘却だろうか。それは多くの人が指摘していることで、それらの批判はいつも決まって不都合な史実を示すことに尽きるわけだが、今度はそれに対する反論が出てくるわけで、そこから互いに自説を主張し合うだけの、不毛な歴史論争でも始まれば、どちらが正しい歴史観を持っているかなんてどうでもよくなり、自説にとって都合の悪い史実は捏造されたものだと主張するのが、お決まりのパターンとなり、あとはそんな主義主張に群がる人たちが、自分たちが支持する歴史観を宣伝しまくって、都合の悪い批判や反論を抑え込もうとするわけで、それがそれらの人たちの政治家活動でもあるわけだから、その歴史観が正しいか間違っているかではなくて、正しいのが当然であるとともに、その正しい歴史観を広めて、間違った歴史観を葬り去るために活動しているわけだから、反論や批判する人たちを攻撃して、彼らこそが間違っていると主張しながら、それを他の人たちに信じ込ませなければならず、そのための宣伝活動を様々なメディアを通じて行っているわけだ。そしてそのような行為が社会の中で優勢となれば、それらの人たちにとって都合のいい歴史観が、そこに暮らす多くの人々の間で信じられることになるわけだが、そうした宣伝活動は一過性の流行り廃りを伴うので、世の中の政治情勢の変化とともに、都合のいい歴史観も変化するわけで、いつも政治的に実権を握った勢力によって、歴史が都合のいいように塗り替えられ、時の政権にとって都合のいい歴史を信じ込まされる人も、大勢出てくるのだろうが、それがどうしたわけでもなく、歴史とは結局その程度のことで、過去の史実の何が正しいか間違っているかではなく、政治的な宣伝行為によって都合のいい史実が取捨選択されるだけで、いつの時代でも都合の悪い歴史は忘れ去られようとしているわけで、実際に忘れてほしいわけだから、忘れさせるように権力関係の圧力がかけられているのが歴史であり、そのような方向でバイアスがかけられているのが、政治宣伝に使われる歴史観となるだろうし、そうやって政治宣伝に使われるような歴史は胡散臭いのが当然で、政治宣伝をしている人たちが主張するような内容なら、まず自分たちの立場を否定するようなことは語らないだろうし、自分たちを肯定し正当化するようなことしか述べられず、そうでないものは自虐史観として否定するしかないわけだが、普通に考えれば過去に間違った行為がないなんてありえないわけで、権力を握った側による圧政や住民の大量虐殺などは、世界史的に見てあるのが当然だろうし、そうでなくても失政など数知れずだから、様々なひどい出来事が史実として歴史に刻まれているわけで、それらをすべて肯定的に捉えることなど不可能だろうが、物は言いようで、そういう否定的な部分は語らずに、ひたすら自分たちが正当化したい国の歴史を自画自賛すれば、なにやら正しい歴史認識となるのかもしれず、そういうのが流行っているのなら、そういうことだと受け止める以外にはないのだろう。

 そういった行為を肯定するなら、やはり歴史とはその程度のものだと認識しておいた方がいいのかもしれないが、そのような権力を握った側の都合だけが反映したような歴史を、果たして学ぶ価値があるだろうかと問うならば、それが学問だと見なすならば、学問とはその程度のものでしかないと認識しておいた方がいいのかもしれない。そうやって否定的な見解を述べていると、では何をどうすればいいのかという話になってしまいそうだが、それで済ましてしまっても一向に構わず、真の学問とか真の歴史など、あるとしてもその程度だと思えばそうなるだろうし、そうではないと主張したければ、またその主張に応じた歴史や、それを学ぶための学問もあることになり、その程度が気に入らなければそういったものを選べばいいわけだ。何が正しく何が間違っているかとは別の次元で、様々な歴史が語られ、それに基づく史観も多種多様にあり、世の中にはそういうものがあると受け止めておけば、それでいいわけで、興味がなければそれ以上に考えることもなく、別に真の歴史を無理に求める必要もないわけだ。そしてそのような歴史を自分の主義主張に合わせて合理化する必要がなければ、自虐史観と思われるような歴史を信じていても構わず、国家の責任で行われた過去の出来事が、現代の政府にとって不利になると思われても、それはそれでそういうことだと受け止めておけば、それで構わないのではないか。それが気に入らなければ不満を表明すればよく、政府を陥れるための捏造だと思うなら非難すればいいわけで、そんな現状があるのかもしれないが、それがどうしたわけでもなく、相変わらず政治宣伝に歴史を利用している人たちはいくらでもいて、そのような政治宣伝化した歴史を信じている人も大勢いるわけで、それ以上のどんな作用も働いていないわけだが、そもそもそれらの人たちは歴史に何を望み、何を求めているのだろうか。歴史に否定的な意味や行為が含まれていることの何が不都合なのか。どうしてそれが自虐史観と結びつくのだろうか。それは歴史を政治利用するという行為から、不都合な内容を隠蔽したり削除したりする必要が生じてくるのであり、政治利用しなければそれらがあからさまに顕在化していても構わないわけで、要するに政治利用をやめれば、面倒なことはなくなって、おかしな事態も論争も招かなくなるのかもしれないが、それはできない話で、政治的な主義主張は絶えず自己肯定や自己正当化を強いられていて、現状を肯定し正当化するのは、過去からの延長として肯定し正当化しなければならず、現状の延長としての過去も肯定し正当化しなければならないから、結果として自分たちは過去から連綿と続く正しい行いを継承する立場であることを、喧伝する必要に迫られるのではないか。それが自分たちの立場や行為の正統性をもたらし、その正統性を裏付ける根拠が正しい歴史となるのだろうか。


11月15日「事件と歴史」

 何がそうさせているとしても、それはそれとして一つの行為なのだから、そのような行為から現象のような作用が生じていることは確かだが、その作用を被ると人はどうかしてしまうだろうか。そのどうかしている人が何かを主張しながらさらなる行動を起こして、世間を騒がせているとしても、それがどうしたわけでもなさそうで、それについて普通の人が普通のことを思い、それをありふれた意見として主張することで、そのような意見に同調する大勢の人たちとともに、そこで起きた事件を無化しようとしているのも、実際に世の中で起こっている現象であり、無化しようとする作用も、それに逆らって事件の事件性を忘れずに記憶に留めようとすることも、その後の世界に何らかの影響を及ぼして、その相反する作用のせめぎ合いが、歴史でも形作っているのだろうか。でもその歴史は結果でしかなく、人は結果ではなく経過の中に生きている。結果としての過去の歴史から学びながら、それを経過の中で役立てようとしているのかもしれない。少なくとも歴史を学ぼうとしている人たちは役立てようとしているのではないか。それが勘違いの始まりだろうか。彼らが歴史を何に役立てようとしているのかといえば、それは事件を無化するために役立ている可能性があり、例えばテロを宗教と結びつけて非難してみたり、また自らが信じる宗教と結びつけて正当化したりするわけで、それがあたかも過去から連綿と続く、宗教の歴史の中で起こった出来事であるかのように事件を語り、一方は自爆テロなどを引き起こす狂信的な宗教はいらないと非難し、もう一方は神は偉大なり!と叫んで自爆攻撃を仕掛けてくる。どちらもが宗教を利用して現実の世界情勢から目を背けるわけで、そこに経済的な利害関係が絡んでいることに触れたがらないわけだ。それが神や信仰の問題ではなく、世俗的な金銭が絡んだ問題であることに目を向けたがらないのは、そこに欺瞞や偽善が介在していて、損得勘定だけで動いていては正義を語れないからではないか。金のためではなくイスラムの同胞のために戦っていると主張したいわけで、そうでないと戦う大義がなくなってしまい、広く支持を得られないわけで、またそれを非難する側は、自分たちがテロの標的になるほど繁栄しているのは、他の貧しい国々を経済的に搾取することによって繁栄しているわけで、そういった先進国と途上国との経済格差をもたらしているのが、他ならぬ自分たちの経済的な利益追求活動によってであることに気づいていながら、それを言ってしまったら自分たちの被害者意識が多少なりとも減じられ、一点の曇りもない正義とはならないわけで、だからテロは狂信的な宗教信者がやっていることにしておけば、とりあえず自分たちの非の部分については不問でいられるわけだ。そしてそのような対立は話し合いなどでは解決不可能だから、一方は空爆によって武装組織を殲滅しようとしていて、もう一方は報復テロを仕掛けてきているわけだが、一般の人たちはそうした暴力の応酬を非難して、話し合いによる問題の解決を訴えているのだろうか。そうだとしてもその平和な地域に暮らす一般の人たちは、それらの暴力の応酬を招いている経済的な利益追求活動の恩恵を受けながら、平和な世の中を謳歌しているわけで、そして武装組織の方はその平和な世の中をぶち壊そうとして、テロを仕掛けてきているわけだ。

 事件の事件性とは、そうした不条理性を物語っているわけで、世の中の矛盾や不合理がそこに集中するから事件が起こり、人々はそうした矛盾や不合理を認めたがらず、歴史の助けを借りて、自分たちの立場を正当化するように語ろうとして、それでその場を取り繕うわけだが、その取り繕い方が巧妙なら、他の大勢の人たちもそれを信じてなんとか事なきをえるわけで、これまで通りの日常に戻って、自分の仕事に精を出して、そうやって社会の秩序が保たれ、一応の平静を取り戻すのだろうか。自分たちの正義を主張することによって、自分たちのやっていることを正当化したいのは、自分たちの利益や利権を守るためには必要不可欠で、そのためのプレゼンが広くメディア上で行われている現実があるわけで、そのプレゼンが必要としているのが歴史的な知識やそこから生じる認識だろうか。それが利益や利権を共有する仲間や組織の団結力を高め、その組織の強固な団結力によって武装闘争に勝ちたいのかもしれないが、そういうのは国家間の経済競争などを信じている人たちも共有していて、何かと国家の歴史を持ち出して、それを自己正当化と国民的な団結の拠り所としている感もなきにしもあらずで、確かにそういう面ではそのような歴史観の共有に基づく団結力が、狂信的な宗教性を帯びる源泉ともなっていて、イスラム武装組織の自爆テロと旧日本軍の神風特攻との間の共通点が、その狂信的な宗教性だと言えなくもなく、それが原因で自己の命を顧みない自爆テロや神風特攻が可能となったと説明できるかもしれないが、それ以前に経済的に物資が不足して戦力的に劣勢を強いられたら、あとは精神力で戦うしかないわけで、洗脳や薬物投与などによってそのような攻撃を可能としているのかもしれず、それも結局は経済力がものを言うわけで、欧米の方は金にものを言わせて高性能な武器を開発していて、実際に戦闘員をできるだけ失わないように無人機を使って攻撃しているわけで、武装組織の方は今のところは独自に武器を開発するノウハウもないだろうし、戦力にも経済力にも圧倒的な格差があるわけだから、それを補うためには、狂信的な宗教性に頼るしかない面もあるわけで、要するにその手の狂信的な宗教は原因ではなく結果であり、戦力や経済力の圧倒的な差が原因で、その結果として劣勢に立たされた側は、狂信的な宗教やそこから生じた自爆テロに頼るしかないわけで、狂信的な宗教はいらないとテロを非難する欧米の市民は、意図しているか無意識なのかはわからないが、そこで論理をすり替えて、そのような事件を生む不条理性から目を背けているわけだ。しかも自分たちの行動や活動である経済的な利益の追求を正当化するには、そうせざるをえない面もあるわけで、彼らの原因と結果の取り違えを批判しても、それはどうにもならないことなのかもしれず、それが容易には解決できない問題であることは確かだ。


11月14日「テロ対策」

 たぶん何かが起こるのはそこに至る様々な偶然の巡り合わせが作用しているのだろうが、一方でテロが起こるのは必然的な成り行きなのだろうか。偶然と必然にどのような違いもなく、何かが起こるとそれが人為的に計画が練られたものであれ、たまたま起こる事故ような成り行きであれ、その結果がものを言うのかもしれず、それが起こった時と場所が、それなりに話題を呼びそうな要因となりそうだが、だいたい一回のテロで人が死亡する上限は数百人規模が限度だろうか。911の同時多発テロの時は数千人規模だったわけだが、それ以降はテロに対する警戒も強まり、数千人規模で死者が出るような大規模なテロを起こすのは困難を極めているのかもしれないが、そのテロの温床となっている内戦や紛争では数万人から数十万人、ひどいところでは百万人規模ですでに犠牲者が出ているかもしれず、それを勘案すれば、数百人規模ではまだまだ死者の数が足りないのだろうか。それに対する復讐であるならもっと殺したいところかもしれず、今後も世界のどこかでテロが計画され続け、年に何回かは確実に起こるのかもしれないが、果たしてテロをなくすことができるだろうか。人や企業の経済活動が地域的あるいは民族・宗教的な格差を生み続ける限りは、何かしら紛争は避けられないし、それが高じて戦争状態となれば、テロも武力攻撃の選択肢の一つとして出てくるわけだから、テロがなくなるはずがないだろうし、現状がそれを物語っているわけか。紛争地帯でのこじれにこじれた歴史的な経緯は、今さら修復不可能な事態にまで発展しているわけだから、そのような事態を招いた欧米諸国が経済的にも国力も落ち目にならない限りは、それらの諸国がテロの標的を免れるすべはなく、結局は国家間の経済格差が縮まるような成り行きになるのを期待するしかないだろうか。そういう意味では中国やインドなどの経済発展が今後のカギを握るのかもしれないが、果たしてそれらの新興国が今後も発展し続ける余裕が世界経済にあるのかどうかも、現状ではよくわからないところで、今後も自業自得のテロとの戦いが延々と続いて行き、それが欧米諸国の力を弱める効果をもたらすのかどうかもわからないし、もしかしたらそのような現象が収束するまでには、途方もない長い年月を必要として、下手をするとあと数百年も続く現象なのかもしれない。思えば十字軍と呼ばれるヨーロッパ諸国による中東地域への攻撃も、数百年間断続的に続いたし、また新大陸発見から続く世界全体への攻撃も数百年間も続いたし、現在ではそうした攻撃が逆転して、数百年間延々と軍事的あるいは経済的に攻撃され搾取され続けたアジアやアフリカから、欧米諸国への逆襲が開始されているのかもしれず、それの一環がテロ攻撃として表面化しているのではないか。テロも武力衝突も悲惨な結果をもたらすから、どちらかといえばやらない方がいいわけだが、やっている人たちにはそれなりの必然性があり、その必要があると思っているからやっているわけで、酷い行為だが止められない現状があり、それを根絶しようとして空爆によって紛争地帯にいる武装勢力を攻撃している現状もあり、その空爆に対する報復としてテロが行われるとすれば、悪循環とも言えなくもないが、空爆の効果があがっていると判断されるとやめるわけにはいかないだろうから、それをやめられないから悪循環だとも言えるわけで、やめるきっかけがなかなか見当たらないのが現状だろうか。

 人や武装勢力がテロを止めるきっかけを探すのではなく、そのような状況が不意に訪れるといった事態が今後起こるだろうか。起こるかもしれないし起こらないかもしれない。今栄えている地域や国家が落ち目となり、魅力がなくなればテロ攻撃する理由も目的もなくなり、テロ攻撃によってそのような事態を招きたいからテロ攻撃をしようとするのだろうし、テロ攻撃される側はそうなっては困るから、テロを根絶して今ある繁栄を保ちたいわけで、そのような作用や働きかけは、やはり戦争の延長上にあると言わなければならないが、そうだとすると、攻撃する側と防御する側の、どちらかが勝ちどちらかが負けるまでは攻撃が続くわけで、現状ではその決着がつかない状況で、決着をつけようとしてつく状況にもなく、世界の紛争地帯にはいくらでも様々な武装組織が群雄割拠している状態で、一つの武装組織を壊滅に追い込んでも、その空いた空白を埋めるように、また別の武装組織が勢力を増してくるだろうから、紛争自体が終結しない限りは、武装勢力の武装解除などありえないとなるだろうか。そして武装組織の資金源がその地域の地下資源であったりすると、欧米や最近は中国の企業なども群がってきて、採掘された資源をそれらの企業に売りさばいた金で武器を購入するわけだから、世界の経済活動が武装組織を育て、また武装組織に武器を売ることでもさらにそれを空爆することでも、その両面で世界の軍需産業が潤っている現状もあるわけで、世界経済の一端に武装組織による活動も組み込まれていて、その副産物としてのテロも世界経済に貢献していると捉えれば、それは非人道的なひどい解釈となってしまうが、現状では戦争行為に加担する活動も、それをやめさせようとする活動も、どちらも経済活動の類いと考えれば、どちらか一方が他方を押さえ込んで勝利するのはほぼ不可能に近いだろうか。実際には武装組織に協力する企業や個人や国家の資産凍結などを行い、その資金源を絶って壊滅に追い込む試みがなされてはいるだろうが、欧米だけではうまくいかないわけで、ロシアや中国や北朝鮮まで武器の売り込みに加担しているらしく、それらの国々との関係が悪化すれば、抜け道だらけで何の効果もなくなり、実際にそうなっている現状があるから、テロとの戦いに勝利するめどが立っていないのかもしれない。欧米諸国がいくら優れた武器を開発していて、その圧倒的な武力と経済力をもってしても、地上の人類を根絶やしにするほどの核兵器なども持っているわけだが、数十人から数百人を殺傷するテロを防げるわけではなく、いくら警戒したところで人の移動を完全に断つことはできないわけで、しかも実際に武器弾薬を売りさばいているわけだから、何らかの手段でそれを買うか盗めば、すぐにでもテロが可能となるわけだ。だからテロだけをやめさせることは困難で、テロに至る様々な経緯や行為や現象などを注意深く探り出して、それらに対策を講じてテロに至らないような成り行きに持っていくしかなく、現状でもそれをやっている最中ではあるのだろうが、大規模なテロが起きるたびに、そのような対策が効果を上げるにはまだまだ取り組みが不十分だと認識するしかなさそうだ。


11月13日「環境」

 どうも誰が何を考えているわけでもなく、誰もが周りの環境に順応しようとしているのではないか。もちろん多くの人が順応できなくて思い悩み、現状を不快に感じることしかできないのかもしれないが、それでも生き延びるためには順応しなければならず、実際にやっていることと思っていることの間で葛藤があるのかもしれないが、そのやっていることが、果たしてやらなければいけないことなのかどうかについても、迷いと疑念が生じているのかもしれない。そんなことはどうでもいいと思うと、それは思考を放棄したことになってしまい、放っておけば周りの環境に順応すべく、それ相応の努力をするように仕向けられてしまうのだろうが、やはり順応するように強いてくる圧力に逆らって、そのような作用について考える必要を感じてしまうわけで、必要がなくなってしまえば、もうそんなことについて語らなくてもよく、その語る必要がなくなってしまう成り行きに身をまかせれば、周囲の環境に順応したことになるのだろうか。語るということはそうなる成り行きについて語ることでもあって、その過程を無視できなければ、まだ語る必要性を感じている証拠かもしれず、なぜ必要なのかははっきりとはわからないにしても、環境に順応するとその環境の一部となって、それ以上は何も考えなくても、ただ環境からもたらされる作用に従って動いていればよく、動いていれば生きていけるならそれに越したことはないわけで、それがその環境で生き延びるための掟なら、その掟に従っていれば何とかなる環境が、そこで成立していることになるのではないか。たとえ現状では成り立っていなくても、環境が自身を守ってくれると信じていれば安心できるだろうか。安心はできないだろうが、その環境に順応したければ信じようとするしかなく、自分を生かしてくれていると信じる環境に服従していれば、とりあえずそれ以上は考えなくてもよさそうだ。もちろん人は環境に付き従うだけでは満足しないだろうし、絶えず環境に働きかけて、その環境から利益を引き出したいのだろうし、そのような働きかけによって、環境を自分の有利になるように作り変え、思い通りに制御しようともするわけで、環境に付き従うふりをしながらも、あわよくば環境そのものを支配したいとも思うだろうか。そこまで大それたことは思わないにしても、そのような下心があるから媚びへつらうわけで、それも環境に順応するためには必要な動作かもしれない。そのような欲が環境に投影される余地がないと、付き従っている意味も旨みもないわけで、思い通りになるような幻想を抱かせるのも、人を環境に順応するように強いるには必要な仕組みだろうし、人を惹きつけてやまない環境には、惹きつけるための誘惑の罠でも張り巡らされているのだろうか。そのような環境に身を投じてしまった人に何を言っても無駄かもしれず、すでにそのような環境下でそれなりの成功を収めた人なら、さらにどうにもならないだろうし、逆に成功者に対する妬みや僻みと受け取られて、哀れみの言葉などを皮肉を込めて送り返してくるのではないか。そしてそのどうにもならないことについて考えようとすると、考えることやそれについて語ることを阻害する、様々な不自由に直面してしまうだろうか。

 考えなくてもそれについて語らなくてもよく、ただそれに順応するように心がけていれば、すべてがうまくいくわけではないが、思い悩んでいることにも不自由を感じていることについても、それはそれで仕方のないことだと納得できるだろうか。納得はできないだろうが、自らの力ではどうにもならない環境の中で生きていることぐらいは、認識できるかもしれないが、認識したところでどうなるわけでもなく、順応できなければ生きていけないわけで、順応するには心身ともに痛みを伴うから、それなりには逆らいつつも、同時にそれが無駄な抵抗であることも思い知らされ、思い知らされているのに、なおも無駄な抵抗を試みている自身にも気付くわけで、たぶん無駄な抵抗を試みることこそが生きがいなのかもしれず、その肯定も正当化もできないような行為こそが、それについて考えることであり、それについて語ろうとすることにつながっているわけで、それを続けていることが無駄な抵抗であり、何ももたらされないことを思い知らされつつも、とにかく考えなければならず、そして語らなければならないのだろうが、それが不要となれば、そこで環境への順応が完了したことになるのかもしれず、その完了が何を意味するのかといえば、何らかの得体の知れぬ圧力に屈したことにでもなるのだろうか。それはそうなったとしてもわからないことで、それも身の回りを取り巻く環境からもたらされる幻想であり、勝手な思い込みには違いないだろうが、そんな幻想や思い込みがないと、無駄な抵抗など続きようがないわけで、その無駄だと思っていることが、何かのきっかけで無駄ではなくなるかもしれないと思い込むことも、そんな幻想や思い込みの延長上にあり、そんな微かな希望などを抱くようなら、すでに環境の中で張り巡らされた罠にはまっていることになるのかもしれないが、たぶんそうはならずに、今後も延々と抗い続けながらも、それらの環境の表層に留まろうとするだろうし、表層にとどまっている限りは、それはいつまでたっても無駄な抵抗であり続け、それを継続させている限りは、それについて考え語っている現状に留まり続けることになりそうだが、それがいつまで続くかは何とも言えず、本当にいつまでも続くのか、あるいはすぐにでも途絶えてしまうのかは、実際にそうなってみないことにはわからないのであり、それがわかったところで何がどうなるわけでもなく、そうなったことがわかるだけだろうか。わかってしまってはまずいわけで、わからないままでいることが実践の中にいる証しで、わかってしまえばもうそこから離脱していることになり、単なる物分かりのいい人になってしまうわけか。物分かりのいい人は他人から好かれるだろうし、安心されるだろうが、それだけ利用価値があり、利用することによって利益をもたらしてくれるありがたい人かもしれないが、やはりそうなってしまったらおしまいだろうか。そういう意味でも疑念を抱いていることはまだ抵抗してることの証拠となりそうだ。実際に疑念を抱かざるをえない環境であり、そんな環境の中で生きている。


11月12日「教訓」

 現状で何が見出されているわけでもなく、何が示されているのでもないらしい。政界再編を画策している人も中にはいるのかもしれないが、保守勢力だけで二大政党制をやりたいわけで、どうしても共産党や社民党などは排除したいのだろうから、それなら自民党だけで間に合ってしまい、自民党との違いを見出すのは困難を極めそうだ。結局は現状で何を画策しようと、選挙で民意が示されればそれに越したことはないわけで、野党がまとまらないならそれも仕方のないことで、別に今後も自民党の政権が続くのならそれでも構わないわけだ。まとまらないことを無理にまとめようとしても、無理がたたってうまくいかないだろうし、すぐに反自民で野党が結集するような幻想を抱くべきではないのかもしれず、様々な方面から野党に対する分断工作も仕掛けているのだろうから、それはやらせておけばいいことでしかなく、一般の人たちに何ができるわけでもないのかもしれない。また選挙は選挙で投票結果を操作しているだのと言われているわけだから、疑念を抱きたい人は抱いていればいいし、民主的な政治制度と言っても、不信の念を持ち始めたらきりがなく、そうした政治に対する不信感が民意を形成して、政治的な無関心に至るならそれでも構わないし、無関心となってしまっては負けだと思うなら、投票に行けばいいことで、一般の人たちがやれることは選挙で投票に行くことと、政治的なデモや集会に参加することぐらいなのではないか。あとはネット上で主義主張などを書き込むことぐらいかもしれない。政治活動も合法的に反体制を貫くなら、リベラル的な非暴力を掲げて穏便に事を進めればいいことだし、非合法の暴力革命でも目指すなら、武装集団でも結成してテロ活動でもやればいいことかもしれず、現状の日本では自衛隊でも味方につけない限りは、暴力革命など成功するわけがないだろうが、中核派や革マル派などが現在どうなっているのか、素人にはその実態など知る由もなく、無難な線なら粘り強く平和的なデモや集会などやっていけば、それでいいのではないか。そんな生ぬるいやり方ではいつまでたっても政権を奪取できないと言われても、それぐらいしかやりようがなければそれをやるしかなく、数年前には現実に民主党政権が3年間も続いたわけで、これからも何かしら政権交代の機会は巡ってくるかもしれず、現状で野党がまとまらなくても、それほど悲観することもないのかもしれない。危機感を煽りたい人はいくらでもいるだろうし、本当に現状に危機感を抱いていて、このままでは独裁体制の全体主義国家になってしまうと思っているのだろうから、それはそれでそういう人もいる事実は真摯に受け止めておくべきで、次の選挙ではせいぜいそういう人たちの危機感を解消するような方向で投票すればいいのではないか。また現実に独裁体制の全体主義国家となったところで、どうということはないのかもしれず、人々はそれなりに生きて行けるのかもしれないし、国家の政治形態は常に国際情勢に左右されるだろうから、日本政府だけで好き勝手なことができるわけでもなく、周辺諸国との関係や相互作用によって、うまくいかなくなれば政治的に行き詰ってしまうだろうし、すぐにでも北朝鮮のような体制が築かれるわけでもなさそうだ。

 もしかしたら政治的には現状では現政権がやっているようなことしかできないのかもしれない。もちろんそれは反体制勢力から批判されるようなことでしかないわけだが、実際に批判されながらもやっているのだから、やれる範囲内でやれることをやっている現実があるのではないか。実際に他に何がやれるのだろうか。またそれをやったらどうなるのか。たぶんそういう話はなかなかメディアから伝わってこないようで、ただやっていることに対する批判ならいくらでありそうだ。それは実際に政権を担ってみないとわからないことかもしれず、わかっている範囲内では少なくとも官僚機構や同盟国のアメリカあたりからの要求や要請は受け入れなければならず、それ以外にはやることは何もないのだろうか。数年前の民主党政権のように独自に何かをやろうとすると、そのことごとくが跳ね返されて骨抜きにされ、何もかもが中途半端なままに終わってしまった感もあり、結局何かをやるとなると、官僚機構やアメリカなどにお伺いを立てて、事前に十分に根回してそれらの了承を経ないと、何もできない仕組みとなっているのかもしれず、選挙公約を独自に立ててそれを掲げて選挙で勝利しても、それだけでは不十分であるような政治的な現状があるのではないか。自民党でさえ選挙の時はTPPに反対していたのに、政権についた途端に態度を変えて推進の立場となったわけで、そういう意味では民主的な政治制度といえども、必ずしも民意が国政に反映するわけではないと認識しておいたほうがよさそうで、政治はまず第一に官僚機構の意向や諸外国との国際協調ともに、国内外の経済情勢に左右されるものなのではないか。実際に民主党が掲げた高速道路の無料化など、それを政権公約に掲げて選挙で勝利して政権についたのだから、実行して当然なのに、官僚機構からマスメディアに至るまでに反対されて、実証試験まで非難轟々で、たぶんそこには様々な利権が絡んでいたのだろうが、全くそれに歯が立たなかったわけで、八ッ場ダムの建設を中止したのまで圧力がかかって撤回せざるをえなくなり、官僚機構やマスメディアの了承無しに作成した政権公約など、絶対に実行不可能なのかもしれず、それは米軍基地の県外移設も石油関連の道路特定財源の廃止もそうだったわけだし、事業仕分けなど中身のない単なるパフォーマンスとなってしまったし、そういうところから日本社会の保守的な同調圧力は、民主的な政治制度さえ歯が立たない状況があるのかもしれない。もうそれから数年が経って、誰もがそんなことなど忘れてしまった感もあるわけだが、今後何かのきっかけから政権交代が実現したとしても、現状を変革するのは相当難しく、原発産業などもそうなのだろうが、様々なところで利権がガチガチに組まれていて、それを簡単にやめさせることなどできない実態は把握しておくべきで、野党の立場であればいくらでも理想論を語っていられるだろうが、いざ政権を担って与党の立場になってみるとそうはいかないことは、有権者が理解しておくべきで、安易にメディアの論調に流されて、失望したり裏切られたと思うにしても、たとえ無謀な政権公約だと思うにしても、せっかく政権交代したのだから、それをやり遂げさせるように世論の後押しをしてやることが大事なのではないか。それが前回の政権交代の失敗から得られた教訓だろうか。


11月11日「事の本質」

 偶然の巡り合わせが何かと何かの出会いをもたらし、その出会いがこれまでにない事件や出来事を生むのかもしれないが、そのような事件や出来事に驚き感動する人もいれば、それを都合のいいように解釈して、自説を裏付けるための事例に利用したい人もいるのではないか。そのような解釈を施せばどのような物事もこれまでの歴史の延長上で生じたり起こっているように思われて、そのような解釈に同調する人たちを安心させるかもしれないが、それがこれまでにない新しい可能性を見せる現象を伴っているように感じられると、不安や困惑を引き起こすのかもしれない。だからその感じられる新しい可能性というのを大急ぎで打ち消そうとするわけで、たとえばデモ活動で脚光を浴びた学生などは、出る杭は打たれるように様々な方面からバッシングを受けたのだろうか。従来からある権力関係の枠組みから逸脱するような行為は、右翼や左翼などの二項対立を形成する双方にとって邪魔であり、それを排除できなければ味方の陣営に引き入れて、その独自性や可能性を削いで無力化してしまえばいいわけで、今後それがどうなるかわからないが、一時的なブームで終わるようなら、そのような作用にさらされてしまったと解釈するのが妥当かもしれない。たぶんそれがそのまま終息してしまうとしても、また偶然の巡り合わせから思いがけない出来事が起こるだろうし、その場の状況によっては、それがこれまでの権力関係を覆すような作用をもたらすかもしれず、現状に不満がある人たちは、そのような機会をとらえて行動を起こすべきだろうし、もちろん起こしたとしても成功するか失敗するかはわからないし、通常は現状で権力を握っている側の方が強力だろうから、失敗する可能性の方が高いわけで、行動を起こした人たちの多くは、権力闘争の犠牲となり敗残者となるわけで、でも行動を起こさなければ可能性そのものがないわけで、とにかく行動を起こすだけでも大変なことで、沖縄で政府に抵抗している人たちは、負ける可能性が高いのにあえて反旗を翻しているだけでも、それは大したことなのだろうし、直接の利害関係を感じられなければ、そういう人たちの行動を称賛した方がいいのではないか。右翼の人たちにとっては、それが敵対している中国を利する行為と映るのだろうから、非難し罵倒を浴びせるのも理解できるが、それ以外の人たちにとっては、せいぜい応援しておくべきことかもしれない。大阪の地域主権を掲げている人たちは、その独善的な利権体質が害を及ぼすとして、だいぶその方面の人たちから批判されているようだが、沖縄の場合は日米両政府を相手に戦っているわけだから、かつてベトナム戦争で超大国のアメリカを相手に勇敢に戦うベトナム側を応援する人が大勢出たように、今回も沖縄を心情的な応援したい人が大勢いるのではないか。

 世界的に国家がなくなることは当分はありえないとは思うが、スペインのバスクやカタルーニャ地方など、あるいはスコットランドもそうだし、国家からの独立を目指す地域は結構あるし、実際に南スーダンはスーダンから独立し、カナダのケベック州やデンマーク領となっているグリーンランドなども、独自の地域主権を確立しているらしいし、アジアでは台湾が中国から独立を目指している勢力が政権を奪取しようとしていて、一つの中国を確認するために中台の首脳同士が急きょ会談したり、中国に関してはウイグルやチベットなどでも地域主権を求める運動があるだろうし、国家は国家として行政的な枠組みがあるにしても、その枠組みのおかげで不利益を被っていると地域の住民たちが感じるようになれば、国家とは別に地域の自治権を確立しようとする動きも当然出てくるわけだ。沖縄の場合は在日米軍の基地が沖縄に集中していることが原因であるのはわかりきっていて、それをどうにかしない限りは住民の国に対する反発や反感が高まるのもわかりきっていることだから、日米両政府も対応を迫られているわけで、しかもその対応がさらに沖縄県内に米軍の滑走路を造ることになったわけで、どう見てもそれが理解されないこともわかりきっているわけで、そこに至る過程で様々な紆余曲折があったにしても、やはり当分はそのような反発をさらに招くような対応に対する反発は収まりそうもないだろう。大阪の場合は、韓国にソウルと釜山があるように日本にも東京と大阪があり、何かと釜山がソウルに対抗するように大阪も東京に対抗したいわけで、東京を中心とする一極主義に反発を覚える地域感情に巧みに取り入って、独自の地域主権を確立したい政治勢力が一定の勢力権を築きつつあったわけだが、その独断偏向的なやり方に反発を覚える人も多くいて、だんだんとその政治手法の化けの皮も剥がれてきて、雲行きが怪しくなってきたわけで、地域主権のあり方が実質的にその地域の住民に何をもたらすのかが問われているわけで、そういう面では原発の再稼働に反対している新潟県知事や、もっと狭い範囲で行政の独自性を打ち出している世田谷区長などの試みも、メディア的に脚光を浴びているようで、これからも行政的な方面で、現状の国家や資本主義などからもたらされる弊害を改善しようとする、何らかの試みが続けられてゆくのかもしれないが、そのような試みを従来からある政治的な価値観や慣習に結びつけて解釈してしまうと、その独自性が見えなくなってしまうのであり、多くの人たちが原発の再稼働を反対しているのは、実際に原発事故という事件があったから反対運動が高まっているわけで、それを政治的な左翼勢力と結びつけて批判しようとすると、原発事故という事件を無視していることになるわけで、また沖縄の問題にしても、在日米軍基地が沖縄に集中しているという事情を考慮に入れずに、反対運動に携わっている市民を「プロ市民」などと誹謗中傷しても、その魂胆が見え透いていて、あまり批判内容には説得力がないだろう。


11月10日「見せかけ」

 現象にこれといって決まり切った法則がないと思われるとき、それをどう捉えればいいだろうか。紆余曲折の果てにこじれにこじれた成り行きを単純化したら、それは嘘になってしまうだろうか。そこに一定のパターンを発見したら、そこから法則らしき成り行きを導き出して、その法則を他の現象にも当てはめられたら、それに類する現象一般が説明できるかもしれないが、結局はそれも単純化でしかないだろうか。何かを説明するとなると、そんな単純化に頼るしかないように思われてしまうわけだが、それ以外にどんな現象の捉え方が可能だろうか。言葉を用いて何かを説明するという行為自体が、対象となる現象からそのような法則を導き出して、それを用いるやり方そのものかもしれず、それ以外はありえないのかもしれない。そして世の中にはそのような単純化では説明不可能な物事がいくらでもあり、説明できないから、それらについてはわからない部分があると言えるだろうか。わかっていることよりわからないことのほうがはるかに多いのかもしれず、だから人の思い通りにはならないのだろうし、なかなか思い通りにいかないことが多いから、そうなってしまう原因や理由を探ろうして、人はあらゆる分野で探究を繰り返すのだろうか。そうだとしてもなおわからないことが減るとは思えず、知ろうとすればするほど、かえってわからないことのほうが増えていくのかもしれず、探究の行き着く先などありえず、世界の全ては取り止めがないのかもしれないが、それでも相変わらず法則や理論を求めて探究を繰り返すのだろうから、そのような試み自体が不可能に直面していて、その部分的には適用できる説明可能性に望みを託しながらも、いかにそれが説得力を得るかについては、その法則や理論を信じてもらうしかなく、都合のいいデータを取り揃えたりして、あたかも理論通りに事が運んでいるかのように見せかけるわけで、そのような他人を信用させる戦略や戦術ばかりが跋扈している現状もあるのではないか。そしてうまくいっているようにデータを改ざんする羽目になってしまったら、後はもういかにばれないようにするかを考えなければならず、それもそれに応じた戦略や戦術を駆使してごまかしを隠蔽し続けるしかなく、そういう手法ばかりとなってしまうと、世の中は嘘ばかりが罷り通るようになってしまうのかもしれないが、もともと人が好むのはフィクションなのだろうから、人を楽しませるために発達してきたその手の仕掛けが、実際の現象や成り行きにまで影響を及ぼしているわけで、その思い通りに事が運んでいるように見せかけるための技術こそが、人が求めている当のものであり、そこに人の願望が投影されているのではないか。

 そしてそうやって見せかけて、他人を信用させれば勝ちなのであって、うまくいっている部分を過大に宣伝して、うまくいっていない部分は過小に見せかけ、全体としては大成功しているように見せかければ、その手のプレゼンの類いを見た人の多くがそれを信じて、プレゼンターを信用してしまうのだろうし、そのようなプレゼンターがメディア上で幅を利かせて、日々様々な物事について説明しているわけで、それは企業経営者や政治家やジャーナリストの領域にまで進出して、そのような人を信用させる術に長けた人たちが、プレゼン力によって多くの人を味方につけて、社会の中でその権勢を誇っているのかもしれない。そして人々はそのプレゼン力が見せかけの技術であることに気づかず、彼らの説明の中に仕込まれた洗脳術によって心を奪われ、それらの人々の言いなりになっているのだろうか。世の中で普通はそうなるだろうと思う道理や良識が通用していないと感じられたら、それを疑ってみた方がいいかもしれないが、疑う対象は敵ではなく、味方だと思っている人たちに向けてみた方がいいのかもしれない。その説明が心地よく感じられるようものをまずは疑うべきで、あからさまにおかしい物言いは誰もがおかしいと思っているので、大した影響力はないのだろうし、逆にもっともらしいことを述べている人たちが怪しいわけで、そのような物言いの中では、不都合な真実や事実には意図的に触れないことで、話に説得力をもたせている場合があるように思われ、そのようなもっともらしい話こそ、注意深く吟味してみる必要がありそうだ。そしてそのような正しいと思われる意見をいつまでも信じていると、なぜその正しい意見を述べている人が批判している対象が、政治的あるいは経済的な実権を握っているように見えるのかがわからなくなるわけで、それを単純化して世の中では悪徳が栄える宿命にあるとか考えてしまうと、善と悪との二項対立の類いの罠にはまってしまい、あとは単に世の中の悪を糾弾しているだけとなり、人畜無害な主義主張となるしかないだろうか。それは納得がいかないこととなりそうだが、まともな道理や良識に基づいて正しいことを述べていると思われる人たちと、そのような人たちが批判し糾弾している人たちとは地続きなのであり、両者の間に本質的な差異はなく、ただ社会の中で役割分担があるわけで、建前や良識だけ述べていても構わない人たちと、実際に手を汚さないとやっていることが成り立たない人たちが世の中にはいるわけで、また持ち前のプレゼン力に長けた人たちは、汚れ仕事の部分を他人に見られないようにしているから、好感度が上がって多くの人たちから信用されるわけで、さらに汚れ仕事を他人から見られざるをえないような人たちは、当然好感度が下がって嫌われる傾向にあるのではないか。


11月9日「ご都合主義」

 わからないことをわかろうとするのは、人として自然な動作だろう。とりあえず現状を理解したいのだろうか。直接そう思うこともあるかもしれないが、そのほとんどは無意識のうちに現状を把握しようとしているのであり、把握した上でそれに対処しようとするのだろうし、何かを画策して自らに有利な状況を作りたい。その画策がうまくいけば、何らかの社会的な成功を手にする場合もあるだろう。人が目論むのはそんな類いだろうか。その画策がその人がおかれた状況に応じて様々な種類があり、人や組織が社会の中で様々に策を弄して、自身や自身が所属する組織に有利に事が運ぶようにしようとするわけだ。そんな行為が権力関係のゲームにも手法として用いられ、人や組織が対立したり連携したりする現象となって、それらの進行状況や紆余曲折が時にはメディアを通じて面白おかしく語られて、人々の興味を引きつけるわけだが、それが何を意味するかは、ゲームに参加している当事者たちにとっては、ゲームの中で有利に事を運んで最終的に勝利することに意味があるわけで、ゲームを見ている人たちにとっては、見て楽しめればそれに越したことはなく、贔屓にしている人や組織が勝てばなお嬉しいのかもしれない。そのゲームの延長上に戦争などもあり、ゲーム感覚で人を殺傷しながら勝利を目指しているのかもしれないが、それのどこまでが人道的に許させる行為なのかは、はっきりとした基準などありはしないのだろうし、戦争そのものが非人道的な行為だといえば誰もが納得するだろうが、実際にやっている人たちは命がけでやっているわけだから、そんなところまで気が回る余裕はないのだろう。そして戦争に至る過程で社会に様々な不都合や不合理が山積していて、そうした社会問題が解決不可能なことが、人や国家を戦争へと駆り立てるのだろうから、戦争によって社会そのものを破壊して、山積した問題を帳消しにしようとするわけで、貧富の格差や経済的な行き詰まりや、政治や宗教や民族の対立などの問題を解決できなければ、何かのきっかけで戦争が起こることも十分あり得るのかもしれず、これまでもそうしたことから戦争が起こってきたわけだが、一方で戦争ができないような状況も徐々に現れてきているわけで、それが国家間の経済的な結びつきであって、国と国とが政治的に対立しているとしても、双方の経済が相互に浸透し合っていて、武力衝突したら双方の経済が壊滅的な打撃を被るから、共倒れにならないためにも双方ともに全面戦争は避けなければならず、そのためにも対立があろうとなかろうと、双方の首脳同士が定期的に会って、対立の解消に向けた話し合いの機会を持つようになり、だんだん戦争そのものをやりにくくなっていることは確かで、事態がこじれて収拾がつかなくっている紛争地帯以外では、表面上は平和な社会が保たれているのかもしれない。

 平和な社会でも様々な争いが絶えず、それが合法であれ違法であれ、争いを画策する人や組織を支持する人もいれば、積極的に他人の争い事に関わって、そこから利益を引き出そうと画策する人や組織まであるわけで、さらにそれを批判したり非難したりして、またそうすることからも利益を引き出そうともするわけで、それらの錯綜して絡み合う関係を解きほぐすのは困難を極めるだろうし、社会の様々な問題が容易には解決しない原因もその辺にありそうだが、特定の主義主張や認識や判断を用いて、それを肯定と否定や善と悪の二項対立により分けても、そういうやり方がどれほど説得力を持つかは、そのような主義主張や認識や判断を信じられるか否かにかかってきて、そこから導かれる価値観を共有しない人にとっては、何の説得力もないことかもしれず、だからそれを批判し否定する人がいる一方で、支持し肯定する人もいるわけで、それらの人や組織が行っていることに関して、それらの二項対立の煽り方が安易で単純であればあるほど、信用できないものと感じられるのだろうし、実は対立させるような必要などありはせず、互いによく似ている面の方が多かったりして、対立を煽ること自体がそこから利益を引き出すための戦略であって、逆に絶えず対立をアピールしていないと成り立たないような構造であったりするわけで、それがよく言われる右翼と左翼の概念なのだろうが、両者ともに国家主義とかナショナリズムで括れば、同じカテゴリー属する人や団体になってしまいかねず、それを避けるために激しく対立しているように装い、時折罵倒しあったり嘲りあったりしているのかもしれない。そしてそうやって対立を煽り、違いを際立たせようとすることに無理が生じていて、国と国とが戦争しづらい状況となっているのと同じように、右翼と左翼も対立しにくい情勢となっているのかもしれず、彼らが拠り所としている国家自体が世界経済に侵食されて、政策的に何をやってもうまくいっているのかいないのかも判然とせず、掲げている主義主張とはあまり関係のないことをやっているわけで、どのような政治勢力がやっても、同じような政策をやらざるを得ない状況へと追い込まれているわけで、結局それは経済政策にしかならないわけで、各国ともに世界経済に対処しているだけで、それが政治的な主義主張とはなりえず、具体的には国内の産業を保護する一方で外国に対しては自由貿易を求めて、自国の輸出に有利な産業だけは関税を引き下げて欲しいわけで、それがご都合主義でしかないことも、もはや隠しようがない状況となっているわけだ。


11月8日「解決法」

 どうもはじめに結論ありきでそんなことを述べているのかもしれず、その結論というのが毎度おなじみの論理となってしまうだろうか。そしてその論理として導き出される、単純化された損得勘定を批判しても意味がなさそうに思える。何事も突き詰めるとそうなってしまいがちだが、そこに至る過程こそが人をまどわせ、結論に至る単純化を見えなくしてしまう。そして結論ありきとなり、その結論の言葉が正義を体現しているのだろうか。では結論の言葉とはなんなのか。それによって特定の誰かや、政治的あるいは社会的な立場や役職の人を批判することになりそうだが、批判したらそれで終わりだろうか。それとも何か他に付け加える必要があるのか。そのような出来事や行為をもたらす背景となる、社会状況とか政治情勢などを付け加えれば、話に説得力を増すだろうか。そうではなく、何を批判する必要もなく、社会状況とか政治情勢なども大して重要ではなく、ただ事の成り行きを説明すればそれで済んでしまうような気がするのだが、それで何が済んでしまうのかといえば、話が済んでしまうわけで、話の中で特定の誰を批判する必要もないのではないか。現象としてはただそうなっているにすぎない。誰が何を発言して、どのようなことをやったかを示せばそれで済んでしまう。何かを語るとはそういうことなのではないか。それ以外に何があるというのか。それに関する評価や認識を示せばいいのだろうか。そしてその評価や認識が批判となるわけか。その辺はそれでも構わず、それも批判のうちだと判断しておけば無難だろうか。だがそこから何をどうすべきか、という主義主張へと論を進めていくと、なぜか途端に荒唐無稽な空理空論が展開されて、実現不可能な理想論を一方的に語り始めている。それもそれで構わないのだろうか。たぶんそうだ。そういう部分はスルーすればよく、説得力のある状況の説明だけを拝聴しておけば事足りる。知識は状況の説明からもたらされ、自説の正当化など単なる付け足しに過ぎない。その人の主義主張などあまり重要ではなく、そのような主義主張をするに至った社会状況や政治情勢を理解しておけばいい。だから話の結論となる主義主張だけを提示されても、そんなものは無意味でどうでもいいことかもしれない。批判されている特定の政治家や学者やジャーナリストなど物の数ではなく、批判されるようなことをやったり、述べたりしているだけでも、社会の中でそれなりの力があるわけで、その力の源泉はそれらの人々を支持する人達にあり、そのような行為や言動によって、彼らの支持者たちの願望を叶えているわけだ。それはそれで大したことであり、それなりに評価されるべきことかもしれず、実際に彼らの支持者たちは評価しているわけだから、それらの行為や言動を否定する人達がいくら批判しても、支持者が付いている限りは、その立場も地位も役職も安泰なのだろう。

 それがメディアの社会的な特性なのであり、そのような人達に脚光が当たるような仕組みになっているのではないか。そういうものだと認識しておいたほうがよさそうだが、それを変えようとして変えられるわけでもなさそうで、一般の人がネット上などでそれを批判することもできるだろうが、無難なところでは、それについて説明するだけにとどめておいたほうがよさそうだ。批判ばかりしていると次第にそれが主義主張へと発展して、気がつけば空理空論の理想論ばかり繰り返し主張している事態となって、はじめにそんな結論ありきで、特定の誰かを批判することになってしまいそうで、当人はそれが悪循環だとは絶対に思わないだろうが、批判の対象が特定の誰かである限りにおいて、批判すればするほどその誰かに対する憎悪の念が強まってゆき、ついには激昂して罵倒にまで行き着いてしまうと、同じ罵倒を共有する人以外には相手にされず、そういう人はそこで放って置かれるしかなさそうだ。そしてそれでも構わないのであり、そういう人たちのためのメディアでもあるわけで、憂さ晴らし的な動作を誘発するのも、メディアの社会的な特性の一つなのかもしれず、そういう人たちの溜飲を下げるために、特定の人物を罵倒したり貶したりするメディアもあるのではないか。それがメディアの全てではないにしても、批判している人も、その批判の対象となる人も、メディア的な処理を施されると、誇張や歪曲を伴ってたちまちリアリティを失い、それを語る言説にとって都合のいい人物像に変形され、要するに批判されるべき人として、批判という物語の登場人物となって、それを語る人の心情が投影される対象となってしまうわけで、そこで他者の他者性が消失して、その人について語られる範囲内では理解可能である反面、それ以外の何かが欠けてしまうわけだ。そしてその何かが、その人がその批判させるような行為や言動に至る経緯であり、そのような行為や言動に至らざるをえない社会的あるいは歴史的な背景であったりするわけだ。それを見落としてしまうと、その人は単なる悪者として憎悪の対象となるしかなく、あとはその人をその人たらしめている、社会的あるいは政治的な立場や地位や役職から引き摺り下ろす以外に、問題の解決はありえないわけで、たとえ何かのきっかけからそれが実現したとしても、ほとぼりが冷めた頃にまた同じような役柄の人物が登場して、憎悪を一身に集めながら活躍することとなり、そのような人が出現する社会的あるいは歴史的な素地がある限り、代わりはいくらでも現れ、いくらでも再登場を可能としているのが、社会の構造であり国家の仕組みであり資本主義市場経済の特性なのかもしれない。そしてそこで暮らす人々はいつも安易な解決法にすがるわけで、それが特定の人物を憎悪の対象に祭り上げる方法だ。


11月7日「宿命」

 そこから目を背ければ、それで済んでしまうだろう。そして時と場合とその場の気分次第で、目を背けずに対処しなければならなくなる時もありそうで、それも自分の都合でそんなことをやっているつもりなのに、あとは自分が思っていることと自分が行っていることとの間で、どう整合性を取るかになるかもしれないが、整合性など取ろうが取るまいが、そんなことにはおかまいなしに、周囲の状況がそうさせている面もあるわけで、自分の思いと周囲の状況が同期すればうまくいくような成り行きになるかもしれず、それは自分にはどうすることもできないことかもしれないが、自分なりに周囲の世界に働きかけないと、ただ与えられた状況を受け入れるだけとなってしまい、それでも構わないどころか、それが運命だとしたら逆らわずに受け入れるべきなのかもしれず、そこで思い悩んでしまうこともあるだろうか。悩んだところで何がどうなるわけでもなく、決断する時は不意に決断してしまい、その場の都合などとは無関係にそうなってしまうところが、それがまさに運命であり宿命なのかもしれず、社会や自然の現象を説明するための理屈などいくらでもきりがないほどあるとしても、それらはそうなってしまった結果からしか説明できないもので、そして結果を基にした将来の予測や予想なども、いくらでもこれもきりがないほど可能なのかもしれないが、それを超えて作用する運命のような成り行きがあるように思われ、そうなってしまった時は説明など何の効力もなく、現実にそうなってしまうわけで、そうなってしまった事実の前では、いかなる説明も解釈も用をなさなず、ただ事実を受け入れるか拒否するかの択一を迫られ、それを無視すればそれ相応の報いを受けるか、あるいは放って置かれるかしてしまうのかもしれないが、進んで受け入れておいたほうが無難な場合が多いことは確かで、そこにも無意識の意図や思惑も介在していたりして、後から考えれば説明のつく成り行きでもあったりするわけで、状況を悲観しても楽観してもどちらでも構わず、別に気にしなくても構わないのかもしれないが、何らかの成り行きの中に自身がいることを自覚せざるをえない時がくることは確かにありそうだ。今がその時なのだろうか。今がその時でもあり、今でもいつでも常時その時なのかもしれず、意識するしないに関わらず、常に決断を迫られていて、その都度決断してしまっているのだろうか。二度と取り返しのつかない決断をしてしまっていて、後戻りのできないことを絶えず行っているのかもしれず、後になってそれを知らしめられたり、それに気づかないままであったりするのかもしれないが、どちらにしてもそれだけ前進しているということであり、過去から現在を通過しつつ未来へと前進しているのだろう。

 その歩みこそが自身が体験しつつある成り行きであり、立ち止まろうにも立ち止まれない時間的な経過だろうか。時間の経過は早めることも遅らせることもできない作用であり、それを拒否できないから受け入れるしかなく、運命や境遇も時間の経過に従ってやってくるわけで、人にはどうにもできない現象となって、その人の身に降りかかってくるものだから、人はそれに対処しながらも、どうにもならない部分は受け入れるしかなく、受け入れるほど老いて自らの死に近づく。それが今のところは変更不可能な運命であり宿命なのだろうか。人の意識や意志もそれに左右され影響を受け、そこから生じているのかもしれず、死ぬまでに何かをやり遂げたい、という願望や使命感まで引き出すのかもしれないが、自らの死に対する漠然とした不安と、死によって限られた生からもたらされる意識との相関関係が、その人の行為や行動に対する意味や意義付けを強いているようにも思われ、何か自分が納得するようなことをやらないと気が済まなくなり、そこからそれをやっているような自覚が生まれて、そのような自覚とともに、自分が受け入れざるをえない時間の経過と死ぬ運命から離れて、何か普遍的な価値を見出したような気になるのかもしれないが、それによって自らの行っていることが正当化されるとすれば、その普遍的な価値観に奉仕することが、自分の使命だと悟ることにでもなるだろうか。そんな価値観に囚われた人たちが、同じ価値観の下に集い徒党を組むと、何やら特定の民族や宗教や国家などを核として、特有の思想集団を形成するのかもしれないが、そういう人たちが掲げる普遍性は、形成した集団の内部では通用するが、その外では通用しない場合が多く、そうなると普遍的ではなくなってしまうのだろうが、そうなってしまう運命や境遇を考慮に入れないと、それに気づけなくなってしまい、自分たちが普遍的だと思っている特殊な価値観を、他の人たちにも強要するような運動を展開するようになり、それが広く一般に受け入れられると全体主義的な社会となるかもしれないが、過去にはそういう事例もあったかもしれず、現在でも一部の独裁的な国家では、それに似た現象も起きているのかもしれないが、そこにもそうなった結果からしか説明できない、不合理で理屈抜きの成り行きや歴史的な経過があり、そうなることが避けられない宿命が、その地域で暮らす人々に降りかかったわけで、その都度人々は取り返しのつかない決断を迫られ、実際に取り返しのつかない惨事を招いているわけだ。


11月6日「夢を叶える」

 語る上で何かと何かを比較して語ると、何か意味のあるようなことを語っているように装えるかもしれないが、実際に何と何を比較しようとしても、それが自身にとって都合の良い比較となるのは避けられず、自説を裏付けるような比較なのだろうから、語っている当人にとって都合の悪い比較などするわけがないのは当然で、都合の良いような比較ばかり繰り返すと、話に説得力が増すことは確かなようだ。もちろんそれもあえてそうしているのか、あるいは本当に気付いていないのかどうかは、その時々で異なるだろうが、話者が語らずにいる都合の悪い事情に気付いた人には通用しないわけで、それを批判する側は、話者にとって都合の悪い事情や比較を持ち出して批判するわけで、それがいったん論争などに発展すれば、いつも決まって論争しているどちらもが、論争者自身にとって都合の良い事情や比較を持ち出して、論争相手を論破しようとするわけで、普通はその比較にどれほど説得力があるかが、論争に興味を持った他の人たちを味方につけ、その勝敗を決める鍵となるかもしれないが、始めから特定の政治や思想や宗教などの団体が味方についている場合は、その団体が掲げる主義主張に沿った意見を述べることで、その論に説得力があるなしにかかわらず、どんなに反駁されようと馬耳東風を装えるかもしれず、どこの誰から批判されようと非難されようと、そのような団体がバックについている限りは、延々と同じような主義主張を繰り返していられるわけで、ネット上などで同じようなことを延々と繰り返し主張している人たちは、そういう人たちなのだろうし、そういう人たち専用のメディアもあって、そこには同じような主義主張の人たちが大勢集っているのかもしれず、そのようなメディアをそのような人たちが支えているわけだ。そのような人たちやメディアが、右翼と呼ばれようと左翼と呼ばれようと、そのような組織的な固定観念に支配された人たちや組織が、世の中の変革を妨げていることは確かなのかもしれないが、一方で組織的な固定観念こそが社会の安定に一役買っているのかもしれず、そこから世間一般に向けて同調圧力が常に発せられていて、世の中の空気や雰囲気や世論そのものを形成しているのだろうか。その圧力に屈した人が多ければ多いほど、固定観念やそこから生じる紋切り型的な主義主張が、広く世の中でまかり通るのかもしれない。何か自分たちと特定の敵対しているつもりの人やメディアなどを攻撃していれば、それで済んでしまうような事態となり、敵と味方という単純化した論理を守っていれば、あとは何も考えなくてもよくて、味方の人たちと同じような主義主張を延々と繰り返していれば、それで味方の人たちで構成される共同体に受け入れられるわけか。その共同体が仮想的なものなのか、あるいは実利を伴ったものかはわからないが、それほど実利を伴わなくても、趣味や娯楽程度でも十分通用するような世の中なのかもしれない。

 中東やアフリカなどの紛争や内戦と違って、敵を殺したり町や村で略奪したりというレベルではなく、そのほとんどが言論の範囲内なのだから、口汚く相手を罵倒したり嘲っていると言っても、直接的な暴力の行使までは発展しない場合がほとんどだろうし、デモ参加者が大量に殺されるといった事態には至っておらず、それも法治国家であるとともに、組織的な固定観念によって人々の行動や言動を束縛して、そこから外れることがほとんど起こらないようにする社会かもしれないが、たまに自暴自棄となって無差別殺傷事件を起こす人がいたり、いじめや過労などで精神的に追い詰められて自殺してしまう人もいるわけで、平和な世の中と言っても、そこに住んでいる人に対する周囲からの同調圧力によって、具体的には多くの人たちが学校や会社での指導によって決まり切った鋳型にはめ込まれて、周囲をガチガチに固められて、決められた動作以外は何もできないようにする構造なのかもしれず、そんな平和の息苦しさに耐えられなくなって、自由と冒険を求めて紛争地帯へと引き寄せられていってしまう人や、また逆に紛争地帯での悲惨な境遇に耐えられなくなって、平穏な生活を夢見て外国を目指す人もいるわけで、紛争地帯へと引き寄せられていってしまう人は、ジャーナリストや戦闘員として戦争ビジネスの餌食となり、難民となって平和な国を目指す人々は、低賃金の単純作業用の労働者として搾取の対象となるかもしれないが、ともかくそうやって紛争地域と平和な地域の間で、そのような状態を生み出して維持継続させるための、人材資源の流出や流入などの交流があり、どちらにしてもそれがこの世界を状況や情勢をもたらしている。そこで暮らしている人々は絶えず現状以上の何かを求めていて、それが金銭的な欲望の充足へも向けられ、そこに何らかの可能性があるように期待するわけで、そういう人たちはアメリカンドリーム的な成功を目指して、同じ志を共有するライバルたちとしのぎを削り合いながら、実利としての富や名誉を手に入れようとするのかもしれず、実際に様々な競争に勝ち残った人がそれを手にするわけだが、そのような夢を叶えた人がいるという事実が、また多くの人たちに夢を与え、それを目指す人々を生み出すわけで、そのような循環を利用して国力を高めたのがアメリカかもしれず、未だに成功を夢見て、世界中から有能な人材がアメリカへと集まってくる現状もあるわけで、それは富や名誉だけではなく、学術研究分野やスポーツや映画などの娯楽産業まで多岐にわたり、やりたいことがアメリカにあり、そこで競争に勝ち抜いてやりたいことをやれる境遇を手に入れたいわけだ。


11月5日「状況の違い」

 何を根拠にそんなことを述べているわけでもないとしたら、そんなことを述べている理由を詮索するわけにもいかないだろうか。そして述べていることが自らの主張でないとすると、根拠や理由もなしに何かを述べていることになるわけか。その何かとは何なのだろうか。世の中の雰囲気だとか空気について語っているわけでもないし、特定の政治的な主義主張を語っているわけでもない。ではいったい何を目指しているのか。それは語ることそのものだろうか。たぶんそれは違うと思うが、違っていても構わず、そういうことであってほしいのだろうか。それは理想でも何でもなく、目指していることにもならないだろう。では語りたいのが主義主張ではないとすると、他に何があるのだろうか。語りたいことがなくても語っている現状があるのかもしれず、何かに語らされているのかもしれない。世の中に語らされ、世界に語らされ、言葉に語らされている。そして語らされているだけではなく、他人の言葉に踊らされている。それで構わないのだろう。そうならないと世論の形成など不可能だろうし、多くの人たちが同じ話題を共有できない。それが今の世の中を構成する大衆市民社会の特徴だろうか。人が大勢でひしめき合って暮らしていれば、そうなって当然だろうし、それは今に始まったわけではなく、昔から世代を超えて連綿と受け継がれてきたことかもしれない。社会を構成する原理とまでは言えないにしても、繰り返しそのようなことが起こっているから、メディア的なおしゃべりによって、多くの人たちが連帯感を得ている現状があるわけだ。そういうレベルでは何が危機に瀕しているわけでもなく、どのような横暴がまかり通っているわけでもない。大勢で寄ってたかって騒いでいるうちが華であり、騒がなくなってしまっては、祭り事にも支障をきたしそうだ。政治に対する幻想が人々を民主主義につなぎとめているのであり、ここ二〜三百年の間は、それが国家を繁栄させる原動力となっているのではないか。そうやって民衆を惹きつけてやまないのが政治的な幻想であり、それによってたえず変革が起こり、世の中を活性化させてきたのだろう。実質的にはそうでなくてもそう思いたい。昔よりは確実に良くなっているはずで、例えば19世紀のフランスでは、武装蜂起した労働者たちが軍隊に鎮圧され、何度も数千人規模で殺されている。そうした血なまぐさい衝突が、今まさに中東などの紛争地帯で起こっているのだろうか。

 現代のフランスでは確かにテロなどは起こったが、労働者たちが武装蜂起することもないし、軍隊に鎮圧されて数千人規模の犠牲者が出ることもないわけで、同じ時期に起こったアメリカの南北戦争でも確か50万人もの戦死者が出たはずで、やはり今起こっているシリアの内戦でも、最終的には同規模の死者数まで行くのかもしれないが、あと百年も経てば中東地域も平和になって、今の欧米のような世の中になる可能性があるだろうか。場所も地域も時代も状況も違うわけだから、いい加減な見通しは控えるべきかもしれないが、欧米や日本などの時代の変遷などを考えると、悲惨な出来事のあとには必ずそれを克服する試みがあり、過ちを二度と繰り返さないという風潮なども生まれ、だんだんそれを回避しようとする世の中の流れになっていく傾向があるように思われ、実際中国などでも20世紀中期の、毛沢東などによる大躍進政策や文化大革命など期間では、数千万人の死者が出たらしく、その時から比べたら、金儲け主義がはびこって腐敗と汚職だらけの現在のほうが、はるかに死者数は出ていないだろうし、毛沢東がいかに偉大な指導者であろうと、それに比べて現代の指導者がいかに小粒であろうと、世の中が活況を呈しているのは現代であることは間違いなく、それは日本でもそうで、第二次世界大戦前後に活躍したエリート官僚や政治家たちの方が、現代の官僚や政治家たちよりはるかに有能で政策実行力もあり、人物的にも好感が持てるかもしれないが、やはり世の中が栄えているのは圧倒的に現代だろうし、無能な政治家や官僚でもそれなりに間に合っているのだろうし、非難され罵倒されながらも、それを超える人材がその地位や立場につけるような制度とはなっていないわけだから、現状でちょうど釣り合いが取れているというか、悪く言えばこの程度の国民にしてこの程度の政治家であり、そういう言われ方が心外なら、有能な若者がなるべく政治家や官僚を目指すように、啓蒙活動でもするしかないのだろうが、それ以前に現状で有能な政治家や官僚が必要とされているのかどうかも疑わしく、さらに何をもって有能かどうかの判断をしたらいいのかも、その基準からして曖昧で、結局は時代状況に対応した人材しか出てこないのかもしれず、今いる政治家や官僚たちが、ちょうど今の時代状況に対応した人材である可能性もなきにしもあらずなわけだ。それでも気に入らない行為や間違っていると思われる政策に対しては、容赦なく批判を加えるべきで、そのような態度でいることが、より良い世の中を目指す上で欠かせないのは当たり前だろうが、だからと言って過去の政治家などを偉大だと持ち上げてみても、それは時代状況が過去と現代とでは異なる、と認識しておくべきことなのだろう。


11月4日「問題の解決」

 世の中は政治的には解決不可能な問題で満ち溢れているだろうか。解決できないが対処しなければならず、対処できなくても対処しているように装わなければならない、ということだろうか。だが何をもって解決と見なすかで、人々の間で認識の相違があるだろうし、必ずしも解決不可能とは見なされておらず、とりあえず事態に対して適当な処置を済ませて、それで対処が一区切りついた段階で、解決したことにしてしまうわけで、別にそれが解決不可能だとは見なされないのかもしれない。要するに問題が解決するということが、それが本当の解決なのか否かで、人々の間で見解の相違があるということだろうか。しかし具体的に世の中では何が解決しているのか。原発の問題も核廃棄物の最終処分場の処分地が決定して、施設が建設され稼働し始めれば、全ては解決へ向かうだろうか。今のところはその可能性がないから、原発に対する反対運動が盛り上がっているのかもしれない。原発の問題についての最終的な解決は、燃料となるウラン資源が枯渇するか、価格が低迷して採掘するのに採算が合わなくなるか、価格が高騰して発電コストが他の発電方法より割高となるか、そして別の発電方法が優勢となるか、さらに発電所で発電する方式が廃れるか、など様々な可能性が考えられるかもしれないが、そこに至る成り行きがまだまだ予想できるような段階ではなく、世界的には未だに原発を推進している国の方が多いわけだから、今後どうなるかはよくわからないだろうか。今でも安全対策の費用や発電所のある自治体への交付金などを含めると、他の発電方法より割高とも言われているわけだが、その産業に携わっている人々や企業などが政府と結びついているので、やめたくてもやめられない状況となっていることは確かかもしれない。そうやって特定の産業が政治や行政と結びつくと、そこに利権が生まれ、単純な経済的なコストなどでは計りがたい持続性が生まれ、理詰めでいくら原発の危険性や経済的な非効率性を訴えても、政権を支える保守的な感情の前では歯が立たず、都合の良い材料を持ってくれば、原発の優位性を説明することなどいくらでも可能であり、後はそれを信じるか信じないかということになって、また原発に反対する政治勢力や市民運動などに対する誹謗中傷などもいくらでも可能だから、そうやって否定的なレッテルを貼って攻撃していれば、それが続く限りは原発産業も安泰だろうか。

 それらの産業と政府の連携の中から、原発産業だけ抜き出してそれを批判しても、そのような構造と関係が維持される限りは、それを突き崩して新たな構造と関係を作ることは難しいだろうが、たぶんそれは国内だけの問題ではなく、世界的に原発産業が衰退することでしか可能ではなく、それは今現在原発産業を強力に推進している、中国などの動向も絡んでくるのかもしれない。また他の石油や石炭や天然ガスなどの資源エネルギーの需給問題も絡んできて、太陽光や風力などの自然エネルギーから発電する方法も含めて、競合する発電方法との兼ね合いから、原発が今後とも一定の割合を占めるかどうかが決まってくるだろうか。そしてそのような関係の中で、原発は危険だから廃止すべきと主張する反対運動も、一つの要因として原発問題に影響を及ぼすことは確かだろうが、どうも反対運動だけで原発を廃止するだけの力は、今のところはないように思われ、他の様々な要因と上手くかみ合うことで、なんとか廃止への機運が高まるように、注意深く政治経済的な情勢を見極めていくぐらいしかできないだろうか。中でも中国がどこまで原発を推進し続けるかが、今後の原発産業の命運を左右しているように思われ、中国で原発が廃れたら世界的にも廃れていくかもしれず、今まで原発推進の中心的な存在だったフランスで、原発への依存を減らす方向で政策転換が図られる雲行きだから、後は原発施設の製造コストの安さで世界中に原発を売り込んでいる中国が、最後の砦であるなら、やはり中国が今後どうなるかが、原発産業の行く末に深く影響を及ぼすのではないか。そして中国の産業は原発以外でも、その安全性に疑問が投げかけられることが多そうだから、中国製の原発で大事故でも起こればその安全性に疑問符がついて、一気に原発産業が衰退していく可能性もあるわけだが、他国の事故待ちというのも、倫理的にはあまり褒められた戦略ではないだろうし、その危険性を広く啓蒙していくとともに、結局は他のエネルギー産業が原発産業にコスト面で打ち勝つしかないだろうが、原発産業は国が後押ししているだけに、それだけでも優遇政策で保護されているわけだから、最後は原発に対する反対勢力が選挙で勝利して、政権交代を実現するしかないのかもしれず、そこが原発を廃止する上でいちばんのネックとなるだろうし、政権交代への道が遠ければ、現状での与党勢力の中でも原発に反対する機運を盛り上げて行かなければならないだろうか。


11月3日「多様性」

 現実は捉えどころがないだろうか。現実を興味深く見せようとするなら、フィクションに頼らないと上手く表現できないのかもしれない。そこにフィクションとしての現実があり、人はフィクションの中で興味深い現実に出会うこととなる。映画でも観に行けばそれがわかるだろうか。わからなくてもフィクションを楽しめるのではないか。そこで人が思い描く興味深い現実の様々な傾向を知ることができる。わからなくても興味深く感じれば、映像が記憶に焼きつくかもしれず、それが何らかの体験となって、それ以降の人の生き方にも影響を及ぼすだろうか。別にそうならなくても構わず、単に娯楽として楽しめればいいのかもしれず、娯楽を体験することが、社会の中で生きていく上で必要不可欠というわけでもないだろうが、時としてそれを体験して、少しは気晴らしでもしないと、息が詰まってしまうかもしれない。それが何かの役に立つとか、そういうことではなく、単に興味深い対象に接しようとすることが人の習性で、別にそんな習性に抗う必要もないわけだ。その興味が持続しているうちは、それに関わっていくことになるのではないか。そうするようにメディアが促しており、そのようなメディアが世の中の空気を作り上げている。もちろんメディアに特定の意志や意図が介在していることもあるのだろうが、様々な傾向のメディアが様々な媒体を通じてひしめき合っている状況がある限り、その特定の意志や意図が社会全体に浸透するには至らず、特定の政治経済的あるいは思想宗教的な勢力を形成することはあっても、世の中がそれ一色に塗り上げられることはないだろう。そういう意味ではメディアの多様性が保たれていることが、その社会の健全性を表していることになるだろうか。健全であるかないかではなく、人や人が寄り集まって形成する勢力が、世の中に及ぼそうとする力が複雑に絡み合っている証しとなるだけで、そんな社会の実態を示しているに過ぎないのかもしれず、そのような状態の中では、社会全体を制するような権力を行使できない構造となっていて、そのような状況を一掃するような政治的な試みが全体主義であり、独裁体制を構築する試みとなるわけで、それが軍隊や警察などの暴力装置を使って推し進められる傾向にあるわけで、これまでのところはそれが一国では可能となる場合が多かったのだろうが、世界全体をそれによって制するには至っておらず、そのような試みにもおのずから限界があることは確かで、特定の政治経済的あるいは思想宗教的な主義主張で世界を統一するのは不可能なのだろう。

 そのように放っておけば多様化し分散する力を、一つに結集させ統一しようとする意志や思惑が働くのも、人や組織の習性と言えるのかもしれず、世の中を自分や自分たちの勢力の思い通りにしたい、という人為的な作用なのだろうが、それも社会の中で働いている力の一つなのかもしれず、そしてそれに抗おうとする力とのせめぎ合いが起こっていて、それが体制側と反体制側の闘争という形となって顕在化していることは確かだが、一方でそのような闘争に対する傍観と無関心という無効化作用も働いていて、その闘争に幻想を抱けない人が多ければ多いほど、熱狂とは違う冷めた無反応が社会の中で支配的となっていくのかもしれない。そのような傍観や無関心が何に向かうかといえば、娯楽へと向かうわけで、体制側も反体制側も娯楽を通じて人々を自分たちの勢力に引き込もうとするのだろうが、娯楽には娯楽特有のそのような闘争とは別の方向性があり、闘争の価値観と娯楽の価値観の間で容易には重ならない部分があるのかもしれない。要するに娯楽は娯楽として自己完結していて、そのような闘争が娯楽へ影響を及ぼすことも、娯楽から影響を与えることがあるにしても、人は娯楽の中で自己満足に浸ることもできるわけで、時として闘争に敗れた者の逃げ道として娯楽が用意されていることもあるのではないか。その娯楽が高尚なものとなると芸術や文学となり、政治経済的な闘争に絶えず目配せをしつつも、主な活動の場が芸術方面となれば、実際の闘争には敗北しつつも、とりあえず居場所は確保されるようなこととなるのかもしれず、そのような人はその人なりのフィクションを構成し続ければ、それで世間が認めてくれるような成り行きとなり、政治経済的な闘争とは別の次元で自己主張が流通するのではないか。もちろんそのような立場を手に入れるのは並大抵のことではないし、限られた人にしかそのような居場所は用意されていないのだろうし、それはそれで希少価値を伴った著名人として、活躍の機会が与えられているのだろうが、それも一つの方向性に収まらないメディア的な多様性を支える現象と見なせばいいだろうか。それは直接の行動や行為とは違う間接的な表現形態なのかもしれず、その手の著名人が市民運動のデモや集会に参加して発言し、政治経済的な闘争に直接影響を及ぼすこともあるだろうが、職業として議会や官庁や企業経営やメディアなどに専従している人たちほどには、直接権力を行使する立場にはないと言えるのではないか。それは市民運動に参加している一般の人たちにも言えることであり、結局彼らが権力を行使できるのは、選挙や住民投票などの時に限られ、それも実質的には一人一票に限られているわけだ。


11月2日「単純化」

 意味のないことよりも意味のあることのほうが安心できる。意味は他の多くの社会的な価値観に支えられて生じるもので、世の中に認められ評価の対象となることが、意味のあることとなるだろうか。一方意味のないことは無価値で無駄なことなのかもしれず、他の何ものにも束縛されずに、評価の対象とはなり難いことなのではないか。社会的に認められたければ意味のある行為をしないと、他の誰からも相手にされないかもしれないが、やっていることに意味が生じるようになるのにも、他の人や団体との関わりがないと、そのまま放って置かれるだけで、無視されたら無意味なままにとどまるしかないだろうか。だが意味を得るために謙虚になって、やっていることの宣伝活動でもしたところで、それが利益に結びつかなければ、他の人や団体との結びつきが生まれるわけもなく、その結びつきの強度も利益が出る量や質に左右されるだろうか。何の利益も出ない行為なら強固な結びつきなど生まれるはずがなく、せいぜいが善意の連帯ぐらいがちょうどいいのかもしれないが、それだけではやっていることが長続きしないだろうか。他で利益を得ている余裕のある人たちが、善意の連帯で結集するのが市民運動などになるだろうが、その市民運動が批判している対象が、利益目当てで集まった強欲で資本主義的な行為だとすれば、どちらの結びつきが強いかは一目瞭然で、ボランティア活動より企業活動などの方が利益目当てである限りにおいて、強固な結びつきを保ち得る活動であり、利益を出している限りはそちらの方が強力だろうか。だが市民運動と企業活動を比較すること自体が無意味かもしれず、世の中には様々な現象に応じて様々な活動があり、種類の異なる活動は方向性が違い、中には金銭的な利益には結びつかない活動もあるということだろうか。たぶん公共の利益を優先させれば、個々の利益を目指す金銭を得るための活動からは離れるしかなく、そういう意味では公共の利益とはわかりにくく、具体性に乏しいのかもしれないが、それがないと世の中は成り立たず、個人や企業の金銭的な利益追求もうまくいかなくなってしまうだろうか。生活保護制度を悪用して金銭をだまし取る行為は罰せられるわけだが、悪用が絶えないからと言って制度を無くすのはおかしいし、生活保護を受けている人達を批判するのも筋違いだろうが、そのような制度があることが、公共の利益に合致するという論理はわかりにくく、何か事情があるにしても、働きもせずにのうのうと暮らしているのが、腹が立って仕方がないという人達にとっては、公共の利益も私的な利益も同じに感じられてしまうだろうか。

 人が私利私欲で生きているのは当然のことで、それと公共の利益が結びつかないのも当然のことかもしれない。そして人や団体が関わっているすべての活動を、金銭的な損得勘定で評価しようとすれば、無駄で無意味な活動などいくらでもありそうに思えるだろうが、それらがないと金銭的な利益の追求も成り立たなくなるわけで、一つの価値基準ですべてを推し量るのに無理があることは当然なのだろうが、ひとたび金銭的な利益追求活動がうまくいかなくなると、他の活動にもしわ寄せが来るのも当然で、金銭的な損得勘定を優先させれば、その価値基準からすれば無駄で無意味な活動は、批判の対象となってしまうのだろう。国の予算でも支出ばかり多く、収益の少ない福祉予算などは真っ先に削減の対象となるだろうし、逆に軍需産業を振興させる目的で国防費は増やす傾向にあるのかもしれず、公共の利益を重視する市民活動家からすれば、人の命を守る福祉予算を削って人の命を奪う軍事費を増やすなど、あってはならないことのように思われるかもしれないが、右翼の保守勢力に属する人たちからすれば、国民の命と財産を守るために国防費を増やすのは当然で、逆に仕事もせずにのうのうと暮らしている人々のための、生活保護予算こそ削るべきだと主張するかもしれない。国が金銭的な損害を被って人を助けることが、批判されるのも無理はないが、人がいないと金銭的な利益を追求できないことも確かで、生活保護を受けている人の数など大した割合ではないにしても、支給される金銭を使って商品を買って生活していることは確かで、商品を売ることで利益を得ている企業活動にも、わずかであっても貢献はしているわけで、また防衛費を増やして軍需産業を振興するよりは、はるかに少ない金額で済んでいることも確かだが、国防予算と生活保護予算を比較するのも、その目的や方向性が全く違うのだから、やはり比較すること自体に無理があり、無駄で無意味な比較であり、特定の利益追求活動を擁護したり批判したりするときに使う、不自然で奇妙なこじつけなのかもしれず、そういう言説を用いる政治家や評論家などの言動にも注意しなければいけないのだろうが、それに気づかない人たちがそのような言動に丸め込まれ、一つの価値観ですべての現象や活動を評価して、そのような価値観に基づいた行為だけ評価して、他の行為全般を否定し、中には誹謗中傷する輩までいるわけだが、どうもそのような単純化を正当化してそれに凝り固まってしまうのにも、何か社会全体の余裕のなさが影響を及ぼしているのだろうか。


11月1日「自画自賛」

 人が抱く妄想が現実の生活から飛躍して、全世界を巻き込む陰謀説へと向かうのは、世界の中で自分の置かれた立場や状況が、あまりにもみすぼらしく無力で小さな存在であるので、そこから目を背けると、自然と世界的な誇大妄想へと意識が現実逃避してしまうのだろうか。妄想を抱いたとしてもそれをどうすることもできず、個人が世界的な陰謀を止められるわけでもないのに、警告を発してしまうのは、世の中が自分の思い通りにならないことの原因が、それらの陰謀にあるわけでもないのだろうが、この世界がちっぽけな自分の存在など無視しているように思われ、相手にしてくれないことに対する不満の表れかもしれず、陰謀説を広めることによって、何とかかまってくれない世界に一矢報いたいのだろうか。それとも全世界を支配するために陰謀を巡らせている巨大な悪の組織と、正義のヒーロー気取りで対決している気にでもなっているのだろうか。たぶんどちらでもなく、そのような陰謀があることを信じ込まされているだけで、話のネタとしてそんな陰謀があることを語ると、危機を煽り立てるその手のメディア関係者と、同じになったような気になるのかもしれない。確かにそんな陰謀を巡らす巨大な悪の組織が実在していれば、子供の頃に見た漫画やテレビの特撮ヒーロー番組のようで、面白いといえば面白そうにも思えるし、興味をそそられる話ではあるのだが、それを現実の世界情勢に当てはめて考えてしまうと、何か荒唐無稽な誤解を生む原因となるだろうか。それが誤解と言いきれるかどうか、単なる一般人には確証を裏付けるような証拠など見つけられないし、真実を突き止めることができないわけだから、それは荒唐無稽な誇大妄想ではないのかもしれず、それを信じるか信じないかはその人の勝手であり、別に信じていても構わないだろうし、どうせ世界から相手にされていないのだろうから、一個人がそれを信じようと信じまいと、世界情勢には何の影響もないことかもしれない。ただそれが大勢の人たちに信じられていると、何らかの偏見を生むことはあるだろうし、場合によっては差別意識となって、将来紛争などの火種となる可能性もあり、なるべくなら特定の民族や宗教や国家を悪者扱いするのは控えた方がいいのかもしれない。

 すでにそのような差別意識や偏見が、陰謀論の類いを生んでいるわけで、人々の意識の根底にそれがあるから、そこから派生する陰謀論の類いも信じられやすく、信奉者の人たちがそれに気づいていないだけだろうか。気づいたところで信じるか信じないかはその人の勝手で、そのような関連づけをする以前に、興味深く思われるから世に広まっていて、広まっているということは、それを信じている人も多く、差別意識と陰謀論の関係は、鶏が先か卵が先かという循環論の域を出ない話かもしれない。ともかく世の中が自分たちの思い通りにならず、絶えずどこかで紛争や軋轢が生じていて、その思い通りにならない原因として、どこかに悪者たちがいて、悪だくみを企てていると考えがちになってしまうのだろうが、それがおかしいのは、その悪者たちや悪だくみを企てているのが、自分たちとは関係のない人や勢力であり、自分たちに非があるわけではなく、悪いのはいつも決まって外国や外国人勢力となり、あくまでも自分たちは加害者ではなく、被害者だという立場が貫かれている点にある。たぶんそんなことにも気づいていないのだろうが、その辺が責任逃れ的なご都合主義で、この世界では様々な民族や宗派や国家や企業などが、互いに影響を及ぼしあい、その影響力や権力の行使が錯綜し相殺しているから、どの民族も宗派も国家も企業も、世界全体を席巻するには至らず、その力が及ぶ範囲は部分的な域にとどまり、それが自分たちの思い通りにはいかない原因であるわけで、そういうレベルで考えればなるほどその通りかもしれないが、やはりそれでは当たり前すぎて、話が面白くないだろうし、興味を引かないわけで、興味を引かないから当たり前のことに気づかず、その代わりに興味を引くような話にすり替えようとして、そこに自分たちの都合や願望などが注ぎ込まれると、陰謀論のような話となりやすいのではないか。要するに自分たちの都合や願望が反映されやすいのが、よそ者に対する差別や偏見を伴う意識であり、自分たちは悪くない代わりによそ者が悪いということにあり、それが自己正当化の温床となって、自分を含む民族や宗派や国家や企業の正当化につながり、そこから自画自賛的な思考も生まれてくるのだろうか。


10月31日「機会をとらえて」

 人の行為は社会の中で評価される。人が何かをやった結果から富や名声が付いてくることもあれば、非難や批判が付いてくることもありそうだ。何を目指して何をやっているつもりがなくても、結果的には何かを目指して何かやっているとみなされたり、その目指している方向が他人と同じだと、そこに競合関係が生じて競争となったり、場合によってはその他人と対決する羽目になったりするだろうか。そういう現象に興味が湧いてくれば、そんな内容の漫画でも読めば事足りるかもしれないが、現実の世界ではそう都合よく対決とはならないだろうし、プロスポーツのようにそれが見世物として整備されているのでもない限りは、対決は往々にして悲惨な結果に終わるだろうか。時と場合によって対決したり、それを回避しようとしたりするのかもしれないが、現実に何が奨励されているわけでもなく、そのような現象に巻き込まれた各自の判断に任されている面が大きく、人の思惑や意図などとは無関係に、そういう成り行きになってしまえば、様々な水準で人と人とが対決することなどしょっちゅうあるだろうし、何かしら共同作業などをしていれば、お互いの意見が合わなくて衝突することなどあって当然だろう。それが何を意味するわけでもないのだろうが、その一方でほどほどのところで妥協しようとすることも、よくあるのだろうし、そんな衝突や妥協を繰り返しながら、そこで行われる共同作業は何らかの結果をもたらすのであり、たとえ自分一人だけで何かをやっているつもりでも、それが世間一般に発表する機会を持てば、そこで何らかの評価を得て、それを気にすることになれば、その外部からの反応とそれに対する自身の反応との間に、やはりある種の共同作業が生まれ、そこから生じる行為はその反応に対する返答となって現れるわけで、そこでも衝突や妥協のような作用が生じているのかもしれない。何かをやっている限りは、そのような作用から逃れることはできず、逃げても向こうから追いかけてくるだろうし、追いかけてこないようなら、それは世間からの無視となって圧力を加えてくるわけで、些細なことでしかないのに、それを意識すればするほど、社会からの同調圧力に屈するか争うかのせめぎ合いの中で、不安に駆られながら何かをやらなければならなくなって、そうなると自分勝手にやっているなんてありえないこととなり、それが周囲からの無視であれ嘲笑であれ、大なり小なりそんな被害妄想に逆らいながら、その行為を継続させようとしてしまうわけだ。そしてそんなことを重ねていくうちに自分を見失い、知らず知らずのうちに、それと気づかずに同調圧力に屈しているのに、自分ではなおも世間に逆らい争っているようなつもりで、延々とどうでもいいようなことをやり続ける羽目に陥ってしまうだろうか。

 それがどうでもいいことがどうかは、やっている当人にはわからず、それに興味のない人にもわからないだろうし、何とも判断のしようがないことをやっている場合があるのかもしれないが、それをやめられなければ延々とやるしかなく、そのような無理矢理の継続が常軌を逸しているのか、あるいは趣味の範囲内でほどほどのところでとどまっているのか、それもやっている当人にはよくわからないところで、それに対する周囲の反応があってもなくても、いったんやり続ける成り行きにはまってしまうと、外部からの反応などもどうでもよくなって、自分の納得がいくまでやるのが筋のように思えてきて、結局はやり続けられるうちはやっているかもしれないが、それが世間的な富や名声と無関係である限りは、その行為はどこまでやり続けても、独りよがり以外の何ものでもないだろうか。それを否定的にとらえるならそういうことになりそうだが、結果的にそうなるしかありえないのだとすれば、気にはなるだろうが気にしたところでどうなるわけでもなく、やはり気が済むまでやるしかないわけで、それがどのような結果も得られないとすれば、どう評価する必要もなく、肯定も否定もしないままでも構わないのかもしれず、やっていることを正当化する必要もないだろうか。それが趣味だというならそうだろうし、趣味でも仕事でもなく、無為の行為と捉えるならそういうことでもあるだろう。なんでもなくどうでもいいようなことを、延々とやり続けていることに肯定的でも否定的でもなく、利害とは無関係だからそう思われてしまうのかもしれないが、ではなんなのかと問われれば、そんな風に問う必要のない行為となるのかもしれず、やる理由など問わなくてもいいのだろうし、現実にやるに際して何も問われていないのではないか。そして何も問わないことが継続の秘訣かもしれず、それを肯定したり否定したり、またやっている自らを正当化したりすれば、たちまちそれ以外の何かを求めることになりそうで、その何かが虚しくもはかない世間的な富や名声への幻想となるのか、あるいは自己否定的な無への境地を空想するのか、そういうありもしない状態を思い描いてしまうと、やはり継続などありえないように思われてくるかもしれず、もっと何か具体性があって、社会の役に立つようなことを語ろうとしてしまうのではないか。それもある種の幻想で、社会の役に立つか立たないかという基準自体が、世間の同調圧力から出てくるような価値基準なのだろうから、あまり真に受けるようなことでもなさそうだ。


10月30日「自然状態」

 現状では世の中に何がもたらされているのだろうか。そう問うのがおかしいのかもしれず、実際には特定の誰かや何かによって、何がもたらされているわけでもないかもしれない。そして何かがもたらされるべき状況などありはせず、ただあるのは現実のみで、その現実によって構成されている状況が、そこに住んでいる人々を苦しめているのだろうか。誰もが苦しんでいるわけでもなさそうだが、状況について語る者は誰でも、現状の苦しさについて語り、その苦しい現状をもたらしている何かを、批判の対象としているわけだ。では何かとは何なのか。それは自然現象から政治経済現象まで様々にあり、批判の対象となるのは主に政治経済現象なのかもしれず、槍玉に挙げられるのはいつも決まって、政府や議会与党の政策なのだろうが、そのような批判も政治経済的な現象の一部と捉えればいいのだろうか。そう捉えたところで何がどうしたわけでもないかもしれないが、そのような現象から距離を置く必要も感じられず、日々メディアが報じるニュースの類いに接していれば、いやでも関心を持たざるをえないのだろうし、関心を持ったらそれについてネット上で論じれば、何か述べている気にはなれるが、果たしてそれでいいのだろうか。たぶんそれでいいのだろうし、そうするしかないのだろう。それ以外にできることは何なのか。政府などの政策に批判的な意見を持つ人は、その気があればデモや集会に参加すればいいし、選挙で批判的な立候補者に投票して、政権交代を実現しようとすればいいのだろう。それでも飽き足らなければ世の中を変えるべく政治家を目指せばいいだろうし、それが嫌ならメディア関係の仕事でも探して、ニュースを報じたり解説したり評論したりする側になろうとすればいいわけか。政治家やメディア関係者は人気のある職業だからそれだけ競争率も高く、なろうと思っても運や資質やコネがないとなれないものかもしれず、そのような競争に勝ち抜いて選ばれた人々が、政治経済的な現象に携わっているわけで、それなりにその方面の仕事に長けた人々がやっているわけだ。だからそういう方面はその手の人々に任せておいて間違いはないとは言えないが、そんなことをやっている現状があり、それについてあれこれ文句のある人たちが批判しているわけで、それはそれで当然のことなのだろう。それ以上に何がもたらされているわけではなく、それ以外の何があるわけでもなさそうだ。

 それ以外には何ももたらされていないから、何がもたらされているわけでもないと感じるのだろうか。そうではなく何かがもたらされていて、それが自然現象だと言えるだろうか。その自然現象に対処しているのが政治家やメディア関係者や官僚たちで、彼らは何とかそこから利益を引き出そうとして、あれこれ画策しているのかもしれないが、自然現象とは具体的に何のことなのか。それは天気などの気象や季節の変化や、時折起こる地震や火山噴火や台風などがもたらす自然災害もあるのだろうが、人や企業が物や情報を売ったり買ったりするのも、広い意味で自然現象の一種かもしれず、彼らが制御しようとしてもなかなか制御できない類いの現象だろうか。制御しようとするから管理しようとして、管理しようとするから人の自由が奪われる傾向にあるわけだが、それでも完全には管理できないから、あちこちから人々の不満が漏れてきて、さらに管理しようとして人々に対する締め付けを強化しようとすれば、反発を招いて逆に世の中が混乱するのであって、そういう意味では彼らの自然現象を抑え込もうとする傾向には限界があるらしく、そこで自然現象と政治経済現象との間にせめぎ合いが起きていて、それも一つの闘争状態を形作っているわけで、彼らは彼らが統治しようとする人々と戦っているのかもしれないが、どうも当の人々の方は必ずしも戦っている気にはなれない人の方が多いのかもしれず、それが政治的な無関心となって表れているわけで、いくら何か挑発の類いを試みても、一向に絡んでこない人もいるだろうか。そしてそういう人が多ければ多いほど、政治的な対立を煽りづらくなり、何をやっても無反応ならば、何をやっても無駄なのかもしれず、それも一種の自然現象であって、メディア的にはいつも騒ぎ立てている人たちに焦点が当たっているわけだが、もしかしたらそういう騒ぎをスルーして、ひたすら無反応の人たちの方が、今後出てくるだろう新たな変化の可能性を担っているのかもしれず、今盛んに騒いでいる人たちは、それに対処しようとする政治家やメディア関係者や官僚など共に、滅びゆく人たちなのかもしれない。彼らには今後も何ももたらされず、から騒ぎの中で消滅していく運命なのかもしれず、その最後の断末魔の叫びが各種の反対デモとなって立ち現われているわけで、燃え尽きる前にひときわ明るく輝くろうそくの炎を表しているのではないか。そしてそのような騒ぎがおさまり一段落つけば、後には何も残っていない廃墟のような状況となって行き、それらの人為的なから騒ぎの後には、もはや制御も管理も無効となるような、ただの自然状態があるだけだろうか。


10月29日「ゲーム」

 果たして自らが主張していることが正しいと言えるだろうか。なるべくなら正しいと思うようなことを主張したいだけで、それが正しいかどうかはわからないが、要するに自分にとって正しい主張をしたいわけで、それが他人にとってや広く社会的に正しい主張かどうかわからないが、社会の中で暮らしている限りは、おそらくは自分がやっていることが、社会の中でも正しい行為だと認められたい願望はあるかもしれないが、例えば家族や職場やメディアなどからもたらされる同調圧力に逆らってでも、それを主張しようとする時、果たしてそれが正しい主張だと自信を持って言えるだろうか。たぶん自信を持たなくても、主張が間違っているかもしれなくても、何かを主張せざるをえない成り行きになれば、それが正しかろうと間違っていようと、とにかく主張してみるしかないような、そんな状況に追い込まれてしまったら諦めるしかないのだろうが、なぜそういう成り行きになってしまうのか。たぶんそれは天からの啓示のような、理由の定かでないような衝動から、時として無謀とも言えるようなことを主張してしまうのではないか。そして世論に迎合的な主義主張が人畜無害であることに気づいてしまうのだろうか。世論の方が正しいのかもしれず、それに逆らうことは間違っているのかもしれないが、あえて間違ったことを主張しなければならないと思っているわけでもなく、主張したところで無視されるだけなのだろうが、それでも主張しなければならないと思う時、頭の中では功利的な損得勘定とは違う何かが働いているのかもしれず、それが何だかわからないが、少なくとも世間の一般常識や倫理や道徳などとは違った作用かもしれない。そう主張することで、今までない可能性が開かれることを期待しているのかもしれず、何らかの理解を得たいのではないか。たぶんそれが何だかわからないから、あえて世間の多数意見に逆らうようなことを主張していて、世論が気付いていないようなことを示したいのかもしれない。それを知られては都合が悪いようなことに気づこうとしているのではないか。それは世間一般の良識が避けたがる欺瞞性だろうか。ただ漠然とそう述べてしまうと、具体的には何がそうなのか知りたくなるわけだが、それは様々な方面に広がっていることであり、一概にこれだと断定できないような曖昧模糊とした現象であり、世の中の特性と言えるようなものかもしれず、それによって世論が形作られる一方で、都合の悪い部分が隠蔽されてしまうから、人々は世論の正しい部分だけに注目して、それを成り立たせている都合の悪い部分を見ようとしなくなる。

 それは具体的には何なのだろうか。それは世の中の構造のようなものであると同時に、人が意識せずにそれに従っている制度のようなものかもしれない。具体的には何なのかわからないが、それを取り去ってしまうと、左翼と右翼などの二項対立が成り立たなくなって、建前と本音の区別もつかなくなり、そのような対立に寄りかかりながら、何かを主張している人たちが困ってしまうわけだ。それがその手の主張を成り立たせている何かなのだろうが、それが具体的に何なのか、はっきりとそれだと示すことができないから、何か二項対立のようなものが成り立っていて、人々もそれを前提として何か利いた風なことを主張できるわけで、それによって世間の一般常識や良識や倫理や道徳がもたらされ、何とか社会の健全性を保っているわけだが、たぶんそれをいかにして破るかが、利益を得られるかどうかの決め手となっていて、しかも破ったらその侵犯行為を隠蔽しなければならず、隠蔽しなければ世間から非難を浴びることになり、利益を得るにはそれ相応のリスクを冒さなければならないわけで、それも時期や状況によってそれを得るためのハードルが高かったり低かったりするわけだが、それは新規参入者には高く、古くからそれに携わっている者には相対的に低くなっているのだろう。そして規模が大きくなればそれだけ求心力が生まれて、動かし難くなるから黙認されるしかなく、逆に名も知れない一般の個人となると相手にされず、徒党を組んで組織をでかくすることでしか、世間の壁を突破する方法がないように思われ、人々はなるべく多く寄り集まって、赤信号みんなで渡れば怖くない、といったなし崩し的なやり方で、そこから利益を奪おうとするわけで、要するに共犯者をより多くすればいいわけで、そのためには宣伝活動をして賛同者を募って、加害者であると同時に被害者にもなる人たちを、自分たちが主催するゲームに参加させるわけだ。そしてそのゲーム内で誰かが得して他の誰かが損するとしても、主催者たちは常に儲かる仕組みで、参加人数が多ければ多いほどより儲かるわけだ。世の中はそういう仕組みで溢れていて、人々はそれに気づかないか、気づいていても気づいていないふりをしているか、どちらであっても自分が得する側にいると信じていれば文句は言わないわけで、それをいかにして信じさせるかが、それらのゲーム主催者たちの腕の見せ所なのだろう。


10月28日「敵対関係」

 特に何と敵対しようと思ってもいないにもかかわらず、何かをやっていくうちに自然と誰かや何らかの勢力と敵対関係になってしまうことはありうる。敵を作りたくなければ、何もやらなければいいわけだが、何もやらなければ生きる気力を失って、死んでしまうのではないか。だから何かをやっていくうちに敵対関係ができてしまうのは仕方のないことだ。ただその敵対関係を憎悪に発展させてしまうと、後々面倒なことになるのかもしれず、しばしば対立を固定化させてそこから利益を得ようとして、戦略的に憎悪を煽り立てる手法が用いられることが多いのかもしれないが、それが大規模となると戦争やテロなどが起こり、他の多くの人たちを巻き込んで、取り返しのつかない禍根をもたらすこととなり、そうなるのが嫌なら、なるべく対立はゲーム的な範囲内にとどめておいた方が無難だろうか。もちろんゲームといっても賭博などで金銭が絡んでくると、支払いをめぐって殺傷沙汰なども起こるだろうし、程度の問題かもしれず、要するに人は何かと敵対するのを楽しんでいるのかもしれず、憎悪に駆り立てられることも娯楽として機能し、喜怒哀楽の感情を過剰に出すことで、ストレスを発散させている面もあり、敵を憎悪することを楽しみ、感情にまかせて敵に暴力を振るう機会を待ち望んでいたりして、戦争もテロもある意味では、命がけで日頃の鬱憤を晴らす機会となっているのかもしれない。たぶん戦場は血湧き肉躍る魅惑のワンダーランドであり、しばしば映画やアニメなどでもそのような戦闘シーンが見せ場となって、観客を魅了しているわけで、そういう意味では敵に対して憎しみ怒ることが、感情の自然な発露なのかもしれないが、その自然な発露を抑えていないと、世の中の平和が成り立たないから、実際に暴力を振るうのではなく、映画や演劇やドラマなどの暴力シーンを見たり、格闘系のスポーツや戦闘系のゲームをやったり見たりすることが、その代わりをしているのかもしれない。もちろん人はそんなものでは飽き足らないから、実際に暴力沙汰が起こるのであり、殺傷事件からテロや戦争まで、様々な機会をとらえて暴力が顕在化して、その被害に遭う人たちを苦しめている反面、苦しめることに快感を覚える人も大勢いるわけで、そのような暴力行為が今後もなくなることはないだろうが、なくす方向での努力は絶えず続けられるだろう。

 放っておけば社会に暴力がはびこるから、それが禁止されてなくす努力がなされるのだろうが、一向になくならないのは対立があるからで、対立が激化すれば暴力が行使されやすくなり、憎悪を掻き立てられれば、暴力の行使に至るケースが多くなるからだろうが、なぜ憎悪を掻き立てられるのかといえば、それは対立によって不利益を被るからで、なぜ不利益を被るのかといえば、一方が利益を得るから、もう一方が不利益を被るのであり、例えば他人が利益を得ているように見えれば腹立たしく、逆に自分が利益を得ていると愉快でたまらないわけで、その腹立たしさが憎悪や嫉妬に結びつけば、時としてそれが暴力に発展することにもなり、その程度のことが戦争やテロになるとは考えにくいが、誇大妄想的な思い込みに際限などなく、また利益を得ている側も、それがコネや地縁や血縁などの一方的な優位性を利用しているものであれば、何かのきっかけでいつ他の勢力に取って代わられるとも限らず、ちょっとでもその兆候があれば、容赦なく弾圧を加えようとするのではないか。結局はそのような功利主義が対立を招き、それが高じれば激化して紛争の原因にもなるのだろうが、利益を求めようとする行為をやめるわけにもいかないだろうから、なるべく公平なルールに基づいて、競争を行うような成り行きにはなるのだろう。しかしすでに既得権益を手にしている人や勢力が、そう簡単にそれを手放すわけがなく、その既得権益を巡る争いもテロや戦争に発展する可能性があり、公平な競争状態を作るのにも、既得権益を手にしている人や勢力を暴力によって打ち倒してからということになり、実際にそうなるとそれが革命と呼ばれるわけで、しかもそれに成功したとしても、すぐに公正な競争状態が確保されるわけではなく、憲法や何かで自由と平等と友愛などを強調したとしても、革命勢力が一枚岩で団結しているとは限らず、すぐに内紛などが起こって、主導権争いから内戦に発展したりして、内戦に勝利した側に有利な制度などが採用され、公平なルール作りなどとは無関係に軍事的な独裁政権などが誕生してしまい、一般の人々が長期間にわたって苦しめられるわけだ。それでもそのような試行錯誤の過程を通過しないと、民主的な制度とはなりえないわけで、そのようなひどい時代への反省とともに、平和のありがたみを実感できるようになればいいのだろうが、ひどい時代の記憶が薄れてくると、また勇ましいことを主張する輩が人々の憎悪の感情につけ込み、暴力的な言動を駆使して人を敵と味方に分けて、対立を煽り立てるのだろう。


10月27日「権力ゲーム」

 人は立場が変われば、それに合わせて主義主張も変わる。それを批判するのは当然のことかもしれないが、批判によって何がどうなるわけでもなければ、立場や状況に応じて主義主張を変えた方が利益になるということだろうか。そのような状況判断がまかり通るのが政治の世界であり、経済の分野でもそうなのではないか。そのような主義主張をコロコロ変える政治家や政党を国民が支持しているとすれば、そういう政治や手法もまかり通るということだろうし、経済の分野では利潤を得るためなら、できることは何でもやるのが当たり前だろうから、主義主張を変えなければならない事情が出てくれば、喜んで変えるだろうし、政治家や政党や企業の主義主張は、その場の状況に応じて出てくるものであり、それに首尾一貫性などを求めるのは無理なのかもしれない。実質的にはそうだとしても、選挙の時の公約のように、投票した有権者は公約を守って欲しいと思うだろうし、守らずに違うことをやれば、それをまともに信じた人達は、約束を破った裏切り行為と見なすかもしれないが、果たして有権者は選挙の時の公約などを、投票する時の判断材料としているのだろうか。本気で判断材料にしている人が有権者のほとんどなら、日本ではすでに政権交代が何度も頻繁に起こっているはずだが、実際はそうではない。要するに政権公約も一つの判断材料ではあるが、それが全てではないということだろうか。政権を批判する人達は公約違反を指摘して、それを批判するための材料とするわけだが、選挙で投票する人達と政権を批判する人達との間で、政権公約に対する評価や判断にも違いや差が生じていて、それは政権を批判する人達に対する評価や判断にも表れていて、必ずしも政権を批判する人達を全面的に信頼しているわけではなく、場合によっては政権批判を繰り返す人たちを嫌って、それらの人たちを非難したり攻撃する人達までいるわけで、そういう人たちがメディア上で幅を利かせていると、それだけ政府に対する批判もしづらくなっていくのだろうか。政権公約よりそんなメディア情勢の方が、選挙の投票に影響を与えるのかもしれず、政府与党はそれも利用したいから、新聞やテレビなどの主要メディアを自分たちの勢力側に引き込みたいわけで、主要メディアの側も政府与党と仲良くしておくことで、取材や情報提供の面で利益があると判断しているのかもしれず、テレビなどは放送事業免許などの許認可権で、行政に弱みを握られている場合もありそうだ。

 建前としては言論や報道の自由が憲法で保障されていて、何を主張しようと批判しようと構わないわけで、実際にそれを実践している人も少なからずいるはずだが、そのような実践が社会的に無視できないような力を持ち始めて、しかもそれが政府与党に敵対している場合だと、やはり干渉を受けるわけで、政府与党を批判する自由は確かにあるが、そのような批判者を批判する自由もあるわけで、権力側が合法的な範囲内で有形無形の圧力を加えてくるのは当然のことで、そこで闘争が始められることになり、闘争の舞台がメディア上となれば双方の宣伝合戦となるしかなく、多くのメディアを味方につければそれだけ露出度も増えるわけだから、それが政治宣伝なら有利に事を運べるだろうし、主張や批判の中身よりも露出を増やすことが優先され、政府に批判的な主張や意見をなるべく国民の目から遠ざける方向で、戦略が練られるのも当然のことで、実際に政府与党に対する本質を突いた批判は、なるべく主要メディアでは出さないようにされ、どうでもいいような人畜無害な批判と、無難な政府与党寄りの主張が取り上げられ、そうすることで何とか国民の政府与党に対する不満が噴出するのを、押さえ込んでいるのかもしれない。それがフェアなやり方なのか、あるいはアンフェアなやり方なのかについては、国民が選挙の時の判断すればいいことかもしれないが、たぶん判断する以前にそういう環境に慣らされてしまうので、判断材料とはならずに、自然と政府与党に有利に働いて、それが選挙結果に反映されてしまうのではないか。つまり批判勢力がどうあがいても政府与党には勝てない状況かもしれないが、それは実際に国民の多くが不利益を感じるようにならない限りは無理なのであって、例えば経済状況でも悪化して生活が苦しくなるようなことが起これば、さすがに政府与党に対して否定的な感情を抱き始めるかもしれないが、その時にはもう遅く、たとえ政権交代してもうまくいかないだろうし、経済情勢の悪化は政治的なミスが原因ではなく、経済情勢を政治的な手法では完全には制御できず、景気が悪化すれば政府の経済政策の失敗だと批判する人たちもいるが、もしかしたら経済政策には成功も失敗もなく、効果のあるなしの問題でもなく、そうせざるをえないことをやるしかないのかもしれず、それをやって成功したり失敗する以前の問題なのではないか。確かに国家の制度や仕組み上は、議会の議員や内閣の各大臣などに政治家が必要不可欠かもしれないが、政治家の政治的手腕によって、国が栄えたり衰えたりするように感じられるのは、幻想に過ぎないのかもしれず、実際には政治家なしでも国は成り立ち、さらに国がなくても経済は回っていくのかもしれず、人々は無駄で無意味な権力ゲームに参加させられているだけなのかもしれない。


10月26日「社会現象」

 人はただ地上でうごめいているだけではなく、そこで何か試みていることは確かで、その試みが何であれ、試みている間は、何とか正気を保っているような感じがするものだろうか。何もできなくなれば精神的にうつ状態となって、後は破滅へのスパイラルが待ち受けているかもしれないが、それほど深刻に物事について考え込んでしまうこと自体が、何か危険な兆候であるような気がしないでもなく、いくら考えたところで、頭の中で情報がぐるぐる回っているに過ぎないだろうから、それが実践を伴わなければ大したことではなく、実践とは何かと問うならば、それは考えを文章にする行為だろうか。それも一つのやり方だろう。また何もやらずに考えていたことを忘れてしまうのも、時には最善の方法かもしれない。だが簡単には忘れられないから考え込んでしまい、考え込むからいつまでも忘れられなければ、忘れてしまうことなど無理かもしれないが、別に忘れようとしているわけでなく、忘れようとして忘れられるほど人の頭は便利にはできておらず、別のことに気をとられるようになれば、以前に考え込んでいたことは、いったん意識の表層から消えてしまうのだろうし、忘れた頃に何かのきっかけで思い出されることもあるだろうが、そうなればしばらくは煩わしい問題から遠ざかれるだろうか。何を忘れようと思い出そうと、そんなこととは無関係に現実の事態が動いて、外部からその人を別の動作へと導くような出来事が起こり、それがきっかけとなって人の成長を促進することもあるのではないか。そしていくら考えてもわからなかったことが、不意にわかってしまう時も訪れるだろうか。結果的にそうなればありがたいかもしれないが、それもなかなかそう都合よく事態が進まず、いつまでもこだわっていることは、そのままマンネリ化してつまらないことの一部となり、どうでもよくなって放置されるがままで、あとは風化作用にさらされて改めて考えてみる機会を失い、無駄に歳月が流れていくに従って、どんどん忘却の彼方へと遠ざかっていってしまうだろうか。そうなればそれでも構わないと思うしかなく、それについては考えることを諦めざるをえない。実際に諦めかけていることは否めず、もうこの辺でそれについては見切りをつけて、何か他のことを考えてみるべきだろうか。しかし他のこととは何なのか。そして今考えていることとは何なのだろうか。

 少なくとも避けているのは政治的な問題で、具体的に政党がどうの内閣がこうの述べたいのではなく、人々の政党や内閣に対する評価自体に興味があるのでもない。そういうことにこだわればこだわるほど政党間の差異に着目して、与党と野党の政策的な違いについて評価を下し、固定観念的な認識へと到達してしまうのであり、そういう認識から抜け出られなくなって、それとは違うことを考えられなくなってしまう。そして考えたいのがそれとは違うことだとすれば、それとは何なのだろうか。あまりにもせっかちに変化を求めても期待外れに終わることが多く、機が熟すにはそれ相応の時間が必要なのであって、それを待つ必要もなく、待つことに意味も意義もないようにも思われ、では期待外れを批判しなければいけないのかといえばその必要もなく、そんなことはよくある成り行きで、これまでも何度となく繰り返されてきたことで、その何度も繰り返されてきたことに対する批判も何度も繰り返されてきたことで、今さらそれをどうこう批判しても仕方のないことであり、それについて何を語ってもやはり固定観念の域を出るものではない。そういうことの繰り返しもそれについての批判も一連の動作であって、批判は人々を諦めさせることを目的として、昔から絶えず繰り返されていることでもあるわけで、だから与党も駄目だが野党もだらしない、という紋切り型へと人々の意識を持って行きたいのだろうが、それが罠であることも百も承知であるはずなのだが、たぶんそれを罠だと見なしてはいけないのかもしれず、それが罠なんだと思うこと自体が、自分で自分が仕掛けた罠にはまっているのであり、それも一種の陰謀論の延長でしかなく、罠でもなんでもなく現実なんだと思うしかないわけで、そしてそうなるのが当然の成り行きで、与党も駄目だが野党もだらしないで構わず、それを批判する人もそう思うから批判しているわけで、そういう批判が出るのも当然の成り行きなのだから、今さらそれにどうこう反論しても始まらないのであって、それはそれでそういうことだと受け止めておいたほうが無難で、それ以上にそういう批判を否定する必要も肯定する必要もない。要するにそうなって当然の成り行きに下手に惑わされてしまうことが、それが誰かの陰謀だと邪推することにつながり、不必要にそれらの成り行きを否定して、その否定的な評価を固定することにつながってしまう。それが現状で巷に溢れかえっている否定的な固定観念の正体なのではないか。そして自分が自分で作り出した妄想に取り付かれて、それを信じて諦めてしまうのは自業自得以外の何ものでもなく、そういう人たちが多ければ多いほど、それが固定観念となって人々の意識に染み付いて、空気のように世の中を覆うことになるのではないか。そしてそうなっても構わないわけで、そんな空気の中で厭世的な気分となり、諦念からくる政治的な無関心に拍車をかけることも、要するにこれまでも何度も繰り返されてきた当然の成り行きの一つなのであり、それら全てが社会現象としての一連の動作なのかもしれない。


10月25日「前提条件」

 誰が何かを仕掛けてそれが功を奏して、世の中が誰かの思い通りになっていると感じられるとしても、たぶんそういう部分ではそうだとしても、だからと言ってそれだけであるはずがなく、それだけであるはずがないところが、その思い通りになっているとされる誰かを苦しめているわけで、部分的には誰かの思い通りに事が運んでいるように見えるわけだが、全体としてはそうではなく、それは国家にも地域にも言えることで、別に世界がアメリカや欧米の思い通りになっているわけではなく、そうかと言って中国やロシアの思い通りにもなっていないだろうし、イスラム原理主義勢力の思い通りにもなってない。世の中には様々な人や組織があって、それらから生じるそれぞれに異なる意図や思惑が、交差して錯綜しているわけだから、特定の人や組織の思惑通りに事が運ぶとしたら、それはあくまでも部分的な範囲内で、それが世界全体を制することなどありえないのではないか。だから世界全体を覆っている資本主義市場経済は、特定の誰かや組織の思い通りになっているわけではなく、様々な人や組織の意図や思惑が交差し錯綜している状態なのだろうし、それを各国が制御しようと試みているのかもしれないが、なかなか思い通りには制御できず、それどころか逆に振り回され、結果的に政治が経済に侵食され、経済情勢の言いなりになっている面もあるのではないか。制御しきれずに対処するだけで手一杯となり、いつの間にか企業の経済活動の促進が最優先とされて、それに伴って国民が多少の不利益を被ってもやむをえない成り行きとなっているように思われ、実際に不利益を被っていると感じる人たちの反発や不満が強まっているように感じられるわけだ。実際に政府の政策によってそうなっているかどうかは、政府に迎合的な人と批判的な人との間で見解が分かれるところかもしれないが、政府の政策自体が経済情勢を反映しているわけで、経済情勢に対処するためにそういう政策を行わざるをえないとすれば、元凶は政府の政策ではなくて経済情勢そのものにあるのではないか。そして政府が世界経済の動向に逆らえない状況があり、決して政府の思惑通りに事が運んでいるわけではなく、そうなっていないことを隠すために様々な画策を仕掛けてきて、あたかも思い通りに事が運んでいるように見せかけているに過ぎないのではないか。そしてそれは今に始まったことではなく、さかのぼれば明治維新以来連綿と続いていることかもしれず、うまくいかなくなるたびに何か対処してきたわけだが、その対処の集大成が太平洋戦争でアメリカに負けたことに帰結したわけだ。

 その後も70年間対処してきた結果が現状となっているわけで、また日本に集大成の時が訪れるかどうかはわからないが、日本以外の他の地域では、欧米の植民地政策や米ソ冷戦などの集大成が中東やアフリカなどの混迷に帰結していることも確かで、それは世界の様々な地域や時代で、事態がこじれてどうにもならないような混迷に帰結した事例など枚挙にいとまがなく、それがいわゆる戦国時代と呼ばれる現象で、場合によっては数百年も続く状態だろうか。今までにはそんな時代も世界各地であっただろうが、これからもそれが繰り返されるとすれば、中東の混迷もあと数百年も続くことになるだろうか。現状で解決が困難ならそうなっても不思議ではないが、総決算や集大成が解決なら全面戦争となるわけで、それがなければこじれた状態がひたすら延々と続く成り行きとなる可能性もあり、すでにそんな状態がオスマン帝国の崩壊以来百年近く続いているわけだから、混迷状態が慢性化していることは確かだ。それは誰の思い通りにもなりえない現象で、そこで様々な政治的あるいは軍事的な勢力が、何かを画策しているのだろうが、その政治力や軍事力に明確な優劣がつかないから、どの画策もうまく機能せずに、何かをやればやるほどこじれて混迷が深まる結果となっているのだろうし、圧倒的な軍事力を誇るアメリカでさえ、イラクの独裁政権を倒したまではうまくいったが、そこに民主的な国家を作るのは軍事力だけではうまくいかず、イスラム教の宗派間対立やクルド人勢力などの民族問題も絡んで、西欧的な民主主義の欠陥が露呈した格好となったのではないか。西欧的な民主主義は国民が同質で、特定の宗派や民族などの支配体制が確立されない限り機能しないのであり、そこには同質化を推し進める非民主主義的な征服過程が伴い、暴力による支配と征服を隠蔽するための民主主義なのであって、日本でも戊辰戦争や西南戦争などとともに、北海道への入植に伴うアイヌ人の同化政策や琉球の統治にも、そのような支配と征服の過程があったわけで、ドイツでも北部のプロイセンによる他の地域の支配と征服によって国が形成され、アメリカでは先住民を根絶やしにしてイギリスから渡ってきたアングロサクソン系の人々が支配層を形成し、その後南北戦争によって奴隷制の南部に勝利して国を再統一した経緯があるわけで、イラクでもシリアでも独裁政権を倒せば、これまでに押さえ込んできた宗派間や民族間の対立が浮き彫りになって、結果的に内戦状態となるしかなく、そこからまた民主主義的な国を確立するには、また非民主主義的な支配と征服をやり直す羽目になってしまうわけで、イスラエルでも同じように民主主義を確立するために、パレスチナに対する支配と征服を遂行中なのだろう。


10月24日「21世紀の娯楽」

 特定の誰かの意志ではなく、そのような方向に行くしないような状況の推移があり、そんな流れで物事が決まってしまう成り行きがあるのかもしれず、そのような経緯の結果から見れば、その何らかの行為に関する責任者に当たる役職の人物の意志で、それが行われたこととされ、その人物の業績として称えられたり、否定的な評価であればけなされたりするわけだ。それが何を意味するだろうか。そのようにして特定の人物の業績が作られ、確かにその時その場所で何かをやったことになるわけか。911の同時多発テロの時は、アルカイダのテロリストたちが旅客機を乗っ取って、ワールドトレードセンターなどの建物に自爆攻撃を仕掛けたわけだが、それは21世紀の幕開けを象徴する出来事であり、その後アフガニスタンやイラクで戦争となって、そこで生じた混迷が今も続いている状況だろうか。それ以前も湾岸戦争やイラン・イラク戦争などがあって、イスラエルの周辺ではその建国から絶えず武力衝突が繰り返されてきた経緯もあるわけで、それらの紛争における死傷者の累計は911どころではなく、十数年前にアメリカで起きた同時多発テロは、あくまでも象徴的な意味合いしかないだろうか。当時はこれから国と国の戦争ではなく、国と国際テロ組織との戦争だとまことしやかに囁かれ、これこそが戦争の新しい局面であり、今までとは違う時代の幕開けだとされたわけだが、その後は国際テロ組織のアルカイダのテロが全世界に広がったわけではなく、ほとんどは紛争地帯やその周辺へと封じ込まれているようで、忘れた頃に散発的に起こる程度で、平和な地域で大した被害は出ていない状況なのだろうが、そんな現状をどう捉えたらいいだろうか。対テロの封じ込めがある程度は功を奏していて、少なくとも欧米諸国ではほとんど被害を免れていると解釈しておけばいいわけか。懸念された超大国アメリカの没落も、それほど急激に衰えているわけではないし、新たに台頭してきた中国のGDPがアメリカを上回るようになれば、また違った状況になるかもしれないが、未だに世界情勢は国家を抜きに語るわけにはいかず、大国の覇権争いとして今まで通りの歴史の延長上で語るしかないだろうか。だが商品そのものがアメリカで中心的に作られているわけではなく、下請けに出されて中国やその他のアジア諸国や、隣国のメキシコなどで作られている現状があり、製造業という点ではすでにアメリカは空洞化していて、情報産業や金融業などで世界に中心的な地位を占めているわけで、それが果たしてアメリカの没落を意味するのか、それとも知的な情報分野や金融分野を握っていれば、世界の中心として君臨していられるのか、その辺がよくわからないところではある。

 その情報分野で優位に立とうとして、中国が官民一体となってネットからハッキングして、アメリカの企業や研究機関から情報を盗もうとしているらしいが、そんなことをやっているうちは、別にアメリカに戦争を仕掛けて叩き潰そうというわけではなく、経済的な利益が目的である限りは、戦争という選択肢はありえないだろうし、前世紀の世界大戦期の場合は侵略戦争をやっていたから全面戦争に突入したわけで、それと21世紀の現状は大きく異なっていて、主要各国はともに植民地を獲得しようとしているわけではないし、今のところは国と国との全面戦争などありえない状況なのかもしれない。では世界的に原理主義勢力などが、対立を煽って敵を作ろうとしている原因はなんなのだろうか。やはり敵と味方との差異から利益を出そうとしているわけか。何かをやるには協力関係と敵対関係が必要で、仲間たちと一緒に敵と戦うことが、人や組織の行為そのもので、社会的にはそれしかやることがないのだろうか。でもそれでは少年漫画の世界と変わらなくなって、単純極まりない理屈に支配された世界の捉え方になってしまうが、人や組織が行う社会的な行為としては、他にどんなものがあるだろうか。その戦っているところを見せて利益を得ようとするのが少年漫画の世界で、マスメディア全般がその見せる行為から利益を得ようとしているわけで、人々が興味を持つような現象や行為を見せようとするか、それについて語るかして、そのような見せる行為を通して利益を出そうとしてくる。あとは人々が必要とする物や情報を生産して売ることによって利益を出すやり方があるが、他にどんな行為があるだろうか。趣味や娯楽などの消費するだけの行為があるが、消費するには他で利益を出さなければならず、その得た利益を利用して消費するわけだが、そのような利益を出そうとする行為の結果が、その人や組織の業績となって、メディアによって評価の対象となるだろうし、その行為や結果についてあれこれ肯定されたり否定されたりするのだろうが、そのような評価自体も政治的に利用されて、否定的な評価を下すことで、評価の対象となる人物や組織を攻撃したい人たちも多く、それが単純化すると罵声を浴びせたり誹謗中傷を行って、結局はそうやって対立を煽って戦いに持ち込みたいわけで、なんとか他の余分で迂回的な過程をなるべく省いて、対立そのものを鮮明化したいようで、そうやって肯定か否定のどちらかの立場に至りたいわけだ。そして否定すべき対象を攻撃したいのだろうが、果たしてそれが本当に否定すべき対象なのかどうか。あまりにも性急に否定的な判断に至りたいらしく、ひたすら否定し罵声を浴びせ誹謗中傷することが、それを行っている自らの自己アピールになるとでも勘違いしているのかもしれないが、そうやって自ら墓穴を掘っているように感じられ、それの究極の形が自爆テロとなるのかもしれず、そこから判断すると21世紀の攻撃形態を象徴しているのが自爆テロであり、それはやはり911の同時多発テロに端を発しているような気がしてならない。敵と対立したいだけでそれが目的化すると、敵と見なした対象への誹謗中傷しか眼中になく、それが娯楽としても機能しているかもしれず、誰かを誹謗中傷することが楽しみとなっている傾向もあるのではないか。


10月23日「権利と実践」

 政治もメディアで面白おかしく取り上げているうちは、娯楽の一種なのかもしれないが、場合によってはそれで人が大勢死傷してしまうわけだから、戦争とか起こせばたちまち命がけとなるだろうし、それのどこからどこまでを本気と受け取ればいいのかわからないが、人と人あるいは組織と組織が争う口実となっているのが政治なのかもしれず、そんな政治も人々から税金を取る口実として、国民が参加しているように装わなければならず、それが選挙ということになるだろうか。どうもその辺が口実としか思えないところがおかしいわけだが、果たして国民が政治に参加している振りを装う必要があるのだろうか。振りでもなく装っているのでもなく、実際に直接政治に参加していると思っている人が、大多数を占めているはずなのであって、それが建前としての大前提でないと、民主主義ではないことになってしまい、国民主権が成り立たなくなってしまうわけだが、やはりそこが信用できないところでもあり、果たして政治家がやっていることが主体なのか、あるいは官僚機構の意向が政治に反映しているだけなのか、どうも後者が主だったところで、政治家はただ主体的に何かをやっているように見せかけているにすぎず、要するに舞台の上で演技している俳優と同じなのかもしれない。もちろん舞台にもドラマにも映画にも俳優が欠かせないことは確かで、演出家の完全な操り人形ではなく、俳優にも主体的に振る舞う余地があり、見た目と演技で観客を魅了することがあるから、製作側は高額なギャラを払って特定の人気俳優を使いたいのだろうし、そこで醸し出されるフィクションの中で、俳優の存在が重要性を帯びるわけだ。もちろん政治家も俳優も自らが主体的にやっていることに関与することもあるだろうし、その権限も大きくなることもあるし、権限のない単なる操り人形でしかなくなることもあるだろう。その辺の政治家と官僚との力関係や俳優と監督やプロデューサーと力関係は、様々な場合があるのだろうが、政治家と官僚の権力関係の間に、国民の意向が反映されることがあるのかどうか、国民はそれらの演技を見せられる観客と同じ立場でしかないのか、その辺もよくわからないところであり、映画やドラマなどのフィクションも、人気がなければ早々に打ち切られる場合があり、それと同じように世論調査で内閣支持率が下がってメディアによる政権批判が噴出するようなことになれば、確かに内閣総辞職や選挙で議会の与党側が負けて政権交代となるわけで、そういう意味では国民が単なる観客の立場であっても構わないわけだが、何かそういう部分ですっきりしない部分が残ることは確かで、果たしてそれでいいのかと思うところでもある。

 人々はフィクションに見物料を払うように税金を払っているわけではないし、強制的に取られている現実があるわけで、税金を払わないという選択の余地はなく、収入などの違いによって払う金額に多い少ないがあるとしても、金を取られて見たくもない茶番劇を見せられている現実から目を背ければ、政治的に無関心となるわけだが、それでも税金は払うしかないわけで、その税金を使って福祉や教育など行政サービスが受けられる場合もあるわけだが、そのようなサービスに国民の意向が反映しているかとなると、それも人によって受け止め方が異なるだろうし、それに不満があれば政治が国民の満足するような行政サービスにしなければいけないわけだが、どうもそういう方向にはいっていないようで、逆に行政が国民を指導して、無理やりサービスを受けさせるような事態となっている面があるのかもしれず、マイナンバー制度などはその典型だろうし、行政が国民を管理しやすくするために、一方的に進めている経緯があるわけで、いつの間にかやることが決まっていて、国民は黙って従うしかない状況となっている。要するに国民が黙っていれば、行政にいいようにやられてしまう状況なのかもしれず、不満があれば声を上げて行かないと、どんどんそんな事態が進行していってしまうだろうし、それも結局は政治家と官僚と国民の間の力のせめぎ合いで、そういう意味でデモ活動などが盛んになるのは、やはり政治や行政がやっていることに対する不満の表れで、そのような市民運動に参加するのは勇気がいることで、周囲からの圧力もかかる中で、それでも参加する人が大勢いるわけだから、それも状況の変化なのかもしれない。そうやって国民がただ傍観するだけの観客に過ぎない立場から、徐々に政治にコミットするようになれば、それにも限界があることは確かなのだが、以前よりは少しはマシな政治状況が構築される可能性が見えてくるのではないか。たぶんそういう契機がないと、行政を司る官僚機構が政治家と国民を管理するだけの、非政治的な世の中になっていくのかもしれず、それでもいいならそれで構わないのだろうが、それでは嫌だと感じるなら、国民が積極的に政治に関与しようとするしかなく、保守派からの脅しに屈することなく、なんらかのやり方で声を上げていくしかないのではないか。


10月22日「必要とされるもの」

 果たして人は人にとって必要とされているのだろうか。企業にとって必要とされているのは、働いてくれる労働者と商品を買ってくれる消費者かもしれないが、労働者や消費者以外は不要だろうか。あとは株や債券を買ってくれる資本家が必要かもしれないが、個人投資家もいることはいるだろうが、銀行や証券会社などの金融機関がその役割を担っているだろうから、そういう部分で企業にとって必要なのは、取引先の別の企業だと言えるかもしれず、金融機関にとって株や債券は商品であり、資本家や個人投資家などはそれを買う消費者と見なせば、やはり企業にとって必要なのは労働者と消費者となるだろう。そして企業活動を奨励する国にとって必要なのも、労働者と消費者になるだろうか。逆に言えば働かずに商品を買ってくれない人は、社会の中で必要とされていないのかもしれず、そのような人たちが貧困層と言えるのだろうか。国や企業にとって役に立たない人が冷遇されてしかるべきであり、役所が生活保護申請を簡単には受け付けないのも、働かざるもの食うべからずで、貧困層を厄介払いしたいのだろう。利益を追求する功利主義が行き着く先にはそんな結末が待ち受けていて、実際に世の中はそういう成り行きになりつつあるのかもしれない。要するに人にとって何が必要とされているかではなく、国や企業にとって必要とされているのは利益であり、働いて商品を買うことによって、国や企業に利益をもたらしてくれる人が必要とされているわけだ。ではそういう必要とされる条件から漏れた人たちはどうすればいいのか。社会から厄介払いされて死んでしまえばいいのだろうか。そうではなく死なない程度に生きていればいいのかもしれない。国や企業から見放された人々が、より多く生きられるような社会になれば、功利主義的な風潮もだんだん勢いがなくなっていき、全世界を覆う資本主義市場経済も衰えてくるかもしれない。ではそうなるには何をどうしたらいいだろうか。現状ではそうなってもらっては困る人たちが世の中の大勢を占めているわけで、必死になって現状を維持しようとしているのかもしれず、それらの人たちの力が強いうちは、働かずに商品も買わずに生きられるなんてありえないことで、実際にそんな方法を思いつく人などいるわけがない。だから現状で可能なやり方としては、なるべく必要以上には働かず、必要以外の商品は買わないことかもしれないが、それも実際に行われているわけで、物価が上がらずに消費が低迷していることが、それを裏付けていて、また格差社会で地縁や血縁などのコネがないと大金を稼げないとなれば、労働意欲も自然に減退してくるだろうし、働くのもほどほどにして、贅沢三昧な生活を夢見るのもやめておこうとなるのではないか。

 功利主義という方向に世の中の趨勢を持っていこうとすれば、それとは逆向きの反作用が抵抗となって出てくるのかもしれず、競争社会で功利性を突き詰めようとすれば、より競争を有利に進めるために地縁や血縁などのコネクションを張り巡らして、特定の階層が利益を独占しようとして、そうなるとその他大勢の人たちが競争しても無駄と分かって諦めてしまい、意欲が減退して利益を追求しようとしなくなるから、経済格差がさらに開いて物が売れなくなって、景気も悪くなるだろうか。まだそれが極限にまで行き着いていないから、かろうじて経済が持っているのかもしれず、また経済に国境はなく、一国だけではなく世界全体がそうなるには、まだかなりの紆余曲折があるだろうし、日本の場合は一応は先進諸国の一つで、相対的には利益を独占している特権的な階層に位置しているわけだから、まだまだ余裕があるのかもしれないが、国内で貧富の格差があることは確かで、それは他の多くの国でも言えることかもしれず、国ごとの格差と国内の格差が同時進行で開いてゆく傾向にあるのだろうか。そして世界的に特権的な金持ち階層と、その他大勢の貧困層とに固定されたところで、物が売れずに景気が悪いままとなって、経済的な功利主義も終わりを迎え、資本主義の行き詰まりもいよいよ決定的になるのだろうか。それでも人々が必要としている分は物や情報が生産されるだろうし、それらを生産するために多くの人々が働くだろうし、その生産物が売り買いを伴う商品となるか、あるいは単に配給されるだけのものとなるかはわからないが、なんらかの手段で必要とする人の手に渡って、手に入れた人がそれを消費するのではないか。そのように人が存在し続ける限りは、物や情報の生産と消費は続いてゆくだろうが、ただその過程で金銭的な利益が生じるかどうかは、なんとも言えないところかもしれず、どうも金銭的な利益というのが、これからの人間社会を存続させてゆくうえで、次第に障害となってくる可能性があるのかもしれず、金銭的な欲望が働くうえでの原動力となっていることは確かだが、人々の間での経済格差が開けば開くほど、金持ちが買う商品と貧乏人が買う商品の値段の格差も、とんでもなく開いてゆくだろうし、それは現状でも高級ブランド品などで言えることかもしれないが、大して品質が変わらない商品の値段が数十倍から数百倍違ってくると、もはやその値段自体がフィクションとなりかねず、それが詐欺ではないとなると、物の価値自体が崩壊していくのではないか。


10月21日「解決策」

 人や団体が互いに対立して競い合い、また連携して協力し合うことで、何らかの政治的あるいは経済的な活動が生まれ、それらの活動や動作によって社会の中で様々な現象が発生するわけだが、戦争もそれらの現象の一つと捉えれば、それを含めた活動や動作が、何らかの利益の奪い合いから生じていることは確かだろう。そして時期や地域的な状況の変化から、それらの動作や活動の中で、やってもいいこととやってはいけないことの境界も変化し、法律が有効に機能している平和な地域では、合法的な活動がやってもいい行為で、非合法な活動がやってはいけない行為とされるわけだが、内戦などで無法地帯となって法律が機能しなくなると、合法と非合法の区別がなくなり、暴力と資金に物を言わせれば何でもできる状態となるだろうか。人や団体もやれる可能性のあることなら何でもやれる状態となれば、利益を得るためには手段を選ばないだろうし、性悪説をとるなら人は犯罪に手を染めて、団体はギャング団となるかもしれない。確かにそうすることで利益がもたらされるならそうなるだろうが、暴力を使うにもそれなりの武器を揃えなければならないし、そのためには資金もそれを取り寄せるコネクションも必要だから、誰もがいきなり暴力を使えるわけではなく、それ以前にもその地域特有の因習や風土などがあって、それに囚われている人は自由が利かないから、何でも好き勝手にできるわけではない。単純に社会を利益の奪い合いだけで語るわけにはいかない面があって、金銭的な利益だけで社会が成り立っているわけでもなく、それがないと地球上のほとんどの地域では生きていけないことは確かだが、それ以外にもあまり人々に気づかれていないところで、社会を成り立たせる上で必要な要素があるのかもしれない。また確かに法律に違反しない範囲での合法的な経済活動なら、何でもやっていいことにはなるのだろうが、実際には何でもできるわけではなく、地域的あるいは時期的に、さらに人や団体の性格や社会の中での立場や力関係などにもより、それらを考慮すれば自ずからやれることは限られてきて、実際にやっていることが様々な要因が作用した結果となって、その活動に反映されているのではないか。そのような活動をするに至る様々な紆余曲折があって、そんなことをやっているわけだから、それを度外視していきなりやっている行為を批判されても、批判されている当人や団体にしてみれば、どうにも改めようがないのかもしれず、そう簡単に今までやってきた行為をやめるわけにはいかないのだろう。

 だからと言ってやっていることが理不尽に感じられるなら、批判しないわけにはいかないだろうし、批判しても改まらないなら、その人物や団体と対立するしかなく、そうやって社会には対立が生じて、それがエスカレートすれば、場合によっては小規模なら殺人事件などが起こり、また大規模なら紛争や戦争が起こることもあるだろう。そのような現象は簡単に解決できるようなことではないのはもちろんのこと、根本的に解決不可能な問題なのかもしれないが、だからと言って解決への努力を放棄するわけにもいかないのであり、さらに解決への努力が新たな対立を生んでしまうこともあるわけで、そのような対立の循環作用から抜け出ることはできないのかもしれないが、それでも対立の解消へと向かわなければいけないのだろう。少なくとも何か決定的な解決法がないことは了解しておくべきで、それは否定すべきことでも肯定すべきことでもないだろうが、それを了解し理解しておくことが、対立している双方が歩み寄れる可能性を示しているのかもしれず、たぶんこのまま対立し続ければ共倒れとなるという危機感が、お互いが妥協を模索する契機をもたらすのかもしれない。悪い言い方をすればそれは談合を助長することにもなるわけだが、状況によってはそうなるのも致し方ないケースもあり、一概に競争原理が善で談合体質が悪だとも言えず、公平な競争というのが幻想である限りは、何もかも全てを競争で統一するわけにもいかず、様々な方面で協調や融和が必要な時もあるのではないか。また個人や家族の幸福を追求するのは、人として当たり前の行為なのだろうが、幸福というのは自分の思い通りになることだと捉えれば、そこに競争がある限り、自分の思い通りになることが他人の思い通りにはならないこととなったり、その逆もあり得るわけだから、そのような競合関係が幸福追求を断念させることにもなるわけで、それも競合関係から対立へと発展するのはよくあることで、結局は幸福の追求もほどほどのところで妥協する羽目になる人がほとんどだろうし、そう思い通りに行く世の中ではないことも、了解事項であり理解しておくべきことなのかもしれず、その妥協の度合いも個人や所属団体の社会的な立場や力関係によって、それぞれ異なってくるのも了解し理解しておくべきで、そのような不公平がまかり通るのが理不尽に感じられるなら、やはりそれも批判しないわけにはいかなくなるだろうし、実際に経済格差や貧困問題で政府の対応を批判している人も大勢いるわけで、その批判内容に説得力があれば賛同し支持する人もさらに大勢出てくるだろう。


10月20日「想像力」

 何もなくても何かありそうに思えるとき、ありそうな何かを想像しながら、そこに浅はかな知識でも付け加えると、何らかの偏見でも芽生えてくるだろうか。策略というのは大いにありそうだが、策を弄しても空振りに終われば、初めから策略などなかった方がいいということになり、空想の中では何か策略のようなことを考えていても、それを実行に移して成果を上げるのは大変なことで、それに関わる様々な方面との協力関係がないとうまくいかないだろうし、一朝一夕にそんな関係が築けるわけでもなく、そういうところでフィクションと現実とは違いがあるだろうが、映画などの大衆娯楽としてフィクションを成り立たせるにも、それを制作するにはやはり膨大な費用と時間を費やして、おびただしい数の人を動員しないと作れないわけだから、映画の中のフィクションとそれを作っている現実の作業との間に、何らかの関連があるにしても、フィクションは現実の作業の一部を映像として見せているだけで、観客には見せられない作業過程の方が、圧倒的に多い分量となるのだろうし、その部分に制作者たちの策略が隠されているわけだ。また想像を働かせてそれを語るとなると、生半可な知識量と感性では通り一遍のことしか語れないかもしれず、あまり説得力のない話となってしまいそうだが、それにも世の中に広まっている語りの定型というのがあるかもしれず、物語のあらすじについてネタバレしない程度に説明して、監督や俳優の過去作に触れ、また彼らの人柄や技量などを語れば、何か語っているように思われるかもしれず、あとは作品の内容について批判や賞賛できる点でも付け加えればいいだろうか。映画に限らず何か人によって作られたり演じられる物事について語ろうとすると、その人たちの意図や思惑を想像しながら、そこにどのような策略が張り巡らされているか考えてしまうわけで、彼らの真意というのを勝手に設定してしまいがちになる。確かにTPPを推進するアメリカ人はアメリカの国益を考え、日本人も日本の国益を考えているわけだが、それを批判するアメリカ人はアメリカの国益が損なわれると主張し、日本人も日本の国益が損なわれると主張するわけで、さらに日米ともに大企業を利する一方で、労働者が割りを食うと批判する人たちもいる。そんな風に様々な人たちが様々な立場から、その協定を推進したり擁護したり批判したり非難するわけだが、それについて語るにはやはりそれらの人たちの意図や思惑を想像しながら、そこに何らかの陰謀や策略が想定されるとすれば、それについても考えたほうがいいだろうか。

 実際にそのようなものがあるとしても、それについて語るには想像の範囲内でしか語れず、交渉に参加した当事者たちの思惑も、国ごとに微妙なズレや違いがあるだろうし、一概には言えない部分のほうが多いように思われ、たぶん真相はこれから協定が発動した後に起こる変化がそれを物語るだろうし、その変化によってそれが悪い方向での変化なら、それなりに対処しなければならないことも出てくるだろうし、良い方向での変化であれば、その協定が利益をもたらしたことになるのではないか。そしてそれが後戻りができないような悪い方向での変化であれば、それを推進した人たちや政党や政府の責任が問われることとなるだろうか。具体的に選挙で敗北して政権交代ということになればわかりやすいだろうが、そうはならずにうやむやのままに済んでしまうなら、別にそれでも構わないと国民が判断したことになり、結果的に無責任体制が温存されて、政治的な無関心に拍車がかかることになるかもしれないが、それならそれでTPPもその程度のことで、国民の意識の中では大したことではなくなるかもしれない。またそれは日本だけの問題ではなく、その協定を締結する各国の国内事情も反映されるだろうから、今後どうなるか今のところなんとも言えず、現状ではわからない面の方が多く、賛成や反対などの態度を決めるような時期ではないのかもしれない。だから世論調査で賛成が反対を大きく上回っているとしたら、それは政府とメディアの宣伝効果かもしれず、まだ何も結果が出ていないうちから、期待感を込めて賛成している人が多いとしても、それがどうしたわけでもなく、それこそ国民の多くが賛成しているという政治宣伝でしかないわけで、そういう空気に流されて内閣を支持するのは愚かなことだろうか。別に愚かではなく、世論調査自体がそういうものでしかないと受け止めるべきで、世論調査の結果に一喜一憂することこそが愚かなのであり、政府に批判的な人たちは世論調査で内閣支持率が下がって不支持率が上がると、すぐにそら見たことかと政府に対する批判のトーンを上げるわけだが、自分たちにとって都合の良い時だけ世論調査の結果を信じてそれを利用するのも、やはり愚かとしか言いようがなく、それはメディアにいいように振り回されて踊らされるようなもので、結局今回のように内閣支持率がわずかでも上がれば意気消沈して、これは何かの陰謀であって、マスメディアと政府がグルになって、情報を操作しているなどと妄想を抱いしてしまうかもしれず、そこに悪だくみのような策略を空想して偏見を助長してしまうだろうか。そこまで妄想してしまう人は少数派なのかもしれないが、失業者の増加や景気の悪化などの兆候や結果が出たら、政府を批判するぐらいが無難なところかもしれない。


10月19日「政治の必要性」

 今後の成り行き次第で何が災いして何が幸いするかわからないが、可能性は可能性でしかなく、確実にどうなるわけでもなく、どうにかなった結果からしか何も判断できないだろうか。判断材料は過去にしかないのかもしれず、過去の経過をもとに何を予想しても、未来が予想通りの成り行きで推移するわけでもないから、将来の展望は不確かなものとなるしかないだろうか。それでも予想したいわけで、その予想に当人の希望や期待が紛れ込んでいるのはよくあることで、希望や期待が実現してほしいのだろうし、そう語ることによって、多くの人がそれに賛同してほしいのだろう。中には用意周到に策を弄して、強運にも恵まれて願望の実現にこぎつけることもあり、そうなればしめたもので、思い通りに事が運んだことになるのだろうが、たとえそうなったところで、さらにその先があるわけで、いつまでも強運に恵まれるわけでもなく、いつかはうまくいかなくなる時が訪れるかもしれない。人はたかだか数十年間生きているだけだから、その数十年の間に浮き沈みがあろうとなかろうと、一般人の個人的な事情など世の中に大した影響はなく、市民運動の類いでもメディアが伝えるのは決まって著名人の動向や発言だが、それも別に大して影響力があるわけでもなく、何か画期的なことを述べているわけでもなく、誰もが同じようなことを述べている。決まりきったことしか述べられないのは、誰しもが共有している事情なのかもしれず、何かそれとは別のことを述べる人は無視されるわけだから、決まりきった文句がメディアを通じて世の中に広まり、いつしかそんなことしか述べられない状況に陥っているとしても、人々は疑念を抱かずにひたすらそんな決まり文句を繰り返し、そのような行為が何の効力もないことにも気づかない。それは人間が集団となった時の習性かもしれず、そのような意識の集団化が社会に影響を及ぼして世論を形成し、何か特定の主義主張を後押しすることになり、そしてそんな主義主張に囚われた人々が多数派を構成して、少数派を無視することによって、社会の安定化と停滞をもたらしているのだろうか。それはメディア的な見せかけでしかなく、その見せかけ状態を人々に信じ込ませるために、絶えず多数派が醸し出す世論の動向を人々に伝えようとするのだろうが、そこに合理的な認識や理性的な判断が反映されているわけではなく、それは流行現象であって、今何が巷で話題となっているかを伝えようとしているわけで、その話題こそがメディアが作り出している当のもので、要するにそれは自作自演でしかないのではないか。

 自作自演と言っても、もちろん一般市民が参加しているわけで、メディアによって作り出された主義主張に踊らされている面もあり、それは雰囲気とか空気の類いで、「アベ政治を許さない」といった文言も、メディアを通じて広く世の中に拡散したのかもしれないが、「日本を取り戻す」と同様に、それはキャッチフレーズとしての空疎な煽り文句となるわけで、政治を許す許さない次元で捉えるところが、そもそもそれは感情の問題で、知性や理性が介在しているわけではなく、稚拙なプロパガンダ戦略でしかなかったわけだ。そういう安易で短絡的なことはせずに、地道に筋道を立てて説明する以外にまともには受け取られないのかもしれないが、単純な決まり文句しか発することができないのが、世の中の多数派を形成する人々であり、しかもそれらの人々が、他の意見を述べようとする少数派を無視して排除しようとしているわけだから、これからも感情に訴えかけるしかないのかもしれず、衆愚政治と言われる状況は、そんな成り行きから形成されるのだろうし、今後もそれ以外はありえないのではないか。そしてそれが世界的な政治の形骸化を生み、紛争地帯では内戦の慢性化をもたらしているのかもしれず、政治家は何もできずに行政組織である官僚機構に組み込まれて、国家統治の管理対象となって官僚の言いなりになるだけだろうか。現状でもそうかもしれないが、たぶんそれでも構わないのであり、政治家自体の役割がだんだんなくなってきているのかもしれず、政治家がいなくても国家が成り立つような状況にだんだん近づいていて、政治そのものが必要なくなっているのではないか。要するに官僚が決めたことが国会で通って、国民の承認を得る成り行きになればいいだけで、国会はあくまでも国民を納得させるための儀式的な飾り物で、ただ何か型通りに討議しているように装えば、それで済んでしまうような現状なのかもしれず、もちろん先の国会で成立した安保法案には、多くの国民が納得していないわけだが、納得しようがしまいが、そのまま事が進められてしまうとすれば、もはや国民の納得すら必要としない状況になりつつあるのかもしれず、このままでは国民は官僚機構に管理されるだけの対象となり、主権も何も方便にすぎず、憲法すらもどうとでも解釈できるということは、民主主義というのはもはや機能していないということなのではないか。というか元からそうだったかもしれず、ただもう嘘をつく必要がなくなってきたということであり、それでも国家が成り立つならそれで構わないのかもしれない。


10月18日「教育」

 歴史を自らの主張に利用しようとしても、それは過去の集積でしかなく、少なくともそれの延長上に未来があるとは限らず、すでに起こってしまったことと、これから起こることには違いがありそうだ。ではこれから何が起こるのだろうか。それを予想することに意味などないだろうか。ただ予想するだけならそうかもしれないが、その予想が当たれば自己満足に浸れるのではないか。それだけのことかもしれず、他に何を期待しているわけでもなさそうだ。確かに人はこれから起こることを予想して、それが当たれば喜びそうだが、それ以外に大した意味などないだろうか。これから起こる事態を予想して、それに備えるというのはありそうだが、備えたところで予想が外れたら、備え自体が台無しになってしまうことだってありそうだが、それは予想する事態の性質にもよるだろうし、備えの種類にもよるだろう。具体的に何を予想したいのかはっきりせず、何が起こることに備えているわけでもないのに、ただ漠然とこれから何かが起こるような気がするだけでは、予想とは言えないだろうが、これまでの前例になかったことが起こってほしいのかもしれず、思いがけない事態に遭遇してみたいのかもしれないが、ここで現実に遭遇している事態がそうなのであり、人は絶えず新たな事態に直面しながら生きているのではないか。現在進行形で動いている成り行きがそうなのであり、そんな事態に直面しながらも、それに対処しつつ生きているわけだ。世の中で生きている人々がそれぞれに直面している事態が、別に前もって予想されていたかどうかは、それほど重要なことではなく、その事態に対処していることこそが、人が現に行っていることの全てなのかもしれず、対処することによってなんとか生きながらえているのではないか。それに対処できなくなればそこで息絶えてしまうことになるのかもしれず、とりあえず死んでいないなら、なんとか対処できていることの証しであり、それが当たり前のことなのだろうが、その当たり前のことが重要であり、まずはそれが必要最低限のことであると同時に、それだけでも構わないのかもしれない。それ以上を求めなければそういうことになりそうだが、人は常にそれ以上を求め、その求めているものを巡って他の人たちと競い合い、その種類によっては闘争の中で命を落とすこともあるかもしれないが、生きている以上はやはり争わずにはいられない成り行きになってしまうらしい。

 求めているものが富や名誉や権力ならわかりやすいだろうが、それ以外に何を求めるべきなのだろうか。求めるべきなのではなく、求めようとするのでもなく、ただ結果的に求まってしまうものならいくらでもありそうで、たぶんそれは求めたくはないものであり、例えば死や病や貧困などがありそうだが、他に何があるだろうか。それは良くも悪くもなるような運命だろうか。そして運命と共に未来もやってくる。人はそれまでにやってきたことを正当化して肯定せずにいられないが、国家主義者も自国がやってきたことを正当化して肯定せずにはいられない。人も国も自虐史観では困るのだろうし、自分の半生や国の歴史を誇りたいのだろう。それが精神の拠り所だとしたらそうなるしかないだろう。果たしてそれ以外に拠り所があるだろうか。たぶん支えてくれるものがなくても人は生きているのではないか。何が支えになっているとも思えなくても、何となく生きているのかもしれず、それを意識する必要がない人も中にはいるのではないか。過去から現在に至り、その延長上に未来がやってくると考えれば、過去を肯定することで現在も肯定でき、それらを肯定できれば、さらにこれからやってくる未来に対する備えもできるような気になれるかもしれないが、それは過去を守っていることになり、自分たちに都合の良い歴史を守り、それを未来に伝えようとしているのであり、未来の人たちをそれによって拘束したいのかもしれない。未来の人たちが自分たちの教えを守らずに、好き勝手なことをやられては、今の自分たちが許さないと思っているのかもしれず、未来が自分たちの思惑通りになってほしいのだろうか。国家や文化の伝統を未来の人たちにも継承してほしいのかもしれないが、いくらそれに向けた備えを施したところで、未来の人たちは過去の人たちや歴史を讃えてくれるだろうか。とりあえずそうなるようにしたくて教育熱心になって、子供達が愛国教育や伝統的な文化に親しむように仕向けているのかもしれない。そのような備えが実を結んで国民が愛国者ばかりとなれば、それはそれで結構なことかもしれないが、国がそれらの愛国者たちに対して報いることができるだろうか。その時になってみないことにはわからないが、その時が果たして訪れることがあるのかどうかも、今のところははっきりせず、そうなる前に国家そのものがなくなってしまえば、それらの愛国教育の類いは無駄で無意味なものとなってしまうだろうか。そんなことは今生きている人たちには知ったことではなく、とにかく未来に対する備えをしっかりとやることで、自己満足が得られるならそれで構わないのかもしれず、そのためにも愛国教育が欠かせないのだろうし、それが未来の人たちにとって利益となるのか、あるいは足かせとなるのかはわからないが、少なくとも今そういう方向で動いている人たちにとっては、そうせざるをえない成り行きとなっていて、それなりに国の将来に危機感を抱いているから、そんなことをやりたがるのではないか。


10月17日「政治的な暴挙」

 幻想を抱くのは勝手だが、別に幻想を抱かずにはいられないというわけではなく、現実の世界の中で何がどうなっているとも思えず、相変わらず代わり映えのしない状況としか思えず、それがまぎれもない実感であり、現実に起こっていること以外は何も起こらない現状に、がっかりしているわけでもないのだろうが、では世の中がどうなってほしいのかといえば、特に何か目指すべき理想があるわけではなく、どんな幻想を抱いたところで虚しいだけかもしれないが、それでも結局は世の中の現実に幻滅して、何かしら幻想を抱いてそれを追い求めているのだろうか。たぶん現実離れしたことを思い描いているのかもしれず、それが実現不可能であることがわかっていながら、あえてそんなことを思い描いてしまうのは、やはり世の中が矛盾やごまかしに満ちていて、しかもそれがないと社会が成り立たない現実があるから、人々は矛盾やごまかしのない理想的な社会の実現を目指すのかもしれないが、それが実現不可能なありえない幻想だとしたら、諦めた方がいいのだろうか。たぶん諦められないから、多くの人たちが政府のやっていることに抗議して、反対運動をやっているのではないか。矛盾やごまかしを前提とした社会の中で生きていながら、絶えずそれに突き当たっては幻滅してしまう現状に嫌気がさして、そのような現実が一向に改まらないことに苛立ち、政治家に対して罵詈雑言を浴びせる人も多く、そんな風潮がある一方で、体制翼賛的な勢力が相変わらず各方面ではびこっていて、社会に根深く浸透しているから、矛盾とごまかしに満ちた現状がなかなか改まらないと思われてしまうわけで、そう考えた方が話のつじつまが合いそうなのだが、つじつまを合わせようとすることが、現状の現状たる所以を見えなくしているのかもしれず、むしろ誰もがつじつまの合わないようなことをやっている現状があり、世の中に矛盾やごまかしがある限りはつじつまなど合わなくて当たり前で、しかも矛盾やごまかしがないと世の中が回っていかない現実があるのではないか。そしてつじつまが合わないことを利用して利益を出すのが、資本主義市場経済なのだろうから、つじつまが合わないことをごまかして、矛盾を未来へと先送りすることでしか、現状の制度は成り立たないわけで、それが人々につじつまの合う理想的な社会を幻想させ、その実現へと向かわせるのではないか。

 とりあえず現状のままで構わないということではなく、体制側でも反体制側でも現状の改革を訴えていて、その改革のやり方に相違があるだけで、世の中の矛盾やごまかしをなくして、つじつまを合わせたいのは誰もが思うところだろうか。だが物事のある一面だけを捉えて、その方面の不具合を是正したところで、それでうまくいくはずがなく、そうやればまた別の方面で不具合が発生してしまうのはよくあることで、改革をやる側にしてみれば、それによってその方面の状況が改善したと成果を強調するわけだが、それを批判する側は、それをやったことで別の方面で不具合が生じて、それでは改革ではなく改悪だと主張するわけで、あらゆる方面で事態が改善することなどありえず、何かをやればそれによって良くなる面と悪くなる面の両方が生じるわけで、改革をやる側は良くなる面を強調して、それに反対する側は悪くなる面を強調して批判するわけだから、結局は双方の宣伝合戦の様相を呈して、そのどちらを信用するかは判断の分かれるところではあるのだろうが、それが政治的な駆け引きとなると、世論調査や選挙の結果から判断するしかない。そして結果が出てそのように判断されたとしても、本当にその判断が正しいかどうかはわからず、わかるのは何やら改革のようなことが行われ、それについて世論が何らかの評価を下したということだけで、それについても結果を肯定する人と否定し批判する人に分かれるのではないか。実態としてはそのような改革によって利益を得たと感じた人が多数を占めれば、肯定的な評価につながり、それによって損害を被ったと感じた人が多数を占めれば、否定的な評価につながり、どちらとも思わない人が多数を占めれば、はっきりしない曖昧な評価につながるのかもしれないが、それも宣伝効果による面も大きいのかもしれず、マスメディアの報じ方によって人々の感じ方も左右され、実際に直接利益を得たり損害を被ったように感じる人はむしろ少数派で、大部分はメディアが醸し出す空気に感染してしまい、その雰囲気に流されて何となく肯定的に感じたり否定的に感じたりするだけで、本当に身に浸みて感じる人は少ないのかもしれない。そして民主的な政治環境で政治家ができることは、その程度のことでしかありえないのかもしれず、民意を無視する強権的なやり方がそれほどまかり通ることはないのだろうが、それを批判する側が民意を無視した暴挙だと非難するのが常套句化しているのは否めないところだが、果たしてそれが真の意味で暴挙なのかどうか、これからの世論調査や選挙の結果で明らかになるだろうか。


10月16日「わかりやすさ」

 どうも同じような人々がお互いに反発しあっているようで、要するに対立の原因は差異ではなく同質性にあるようだ。同じようなことをやりながら競い合い、時に嘲りあって相手を小馬鹿にしているのだが、その小馬鹿にしている相手が自分と同じような人間であるとしたら、大同小異で自身も小馬鹿にされるような人間であり、相手を嘲るほど自分も相手から嘲られ、要するに愚か者同士で喧嘩していることにしかならないのではないか。そんなわけで両者の間に大した違いはないのであって、どこまで対立しても似た者同士であることを免れず、いくら激しく反発しあっても、反発しあうこと以外の意義も目的も見出せないわけで、そうやっていつまでも反目し合うだけだ。結局それは仲間内で反目しあっていることになるのかもしれず、お互いに似たようなことをやっているのだから、そういう点では日本と韓国には仲間意識があって、お互いに無視できないから対立し合うのであり、対立し合うような仲間なのかもしれず、対立することによってそのような関係を保っていられるわけで、そうすることが双方にとって利益となっているのだろうか。具体的に何が利益となっているのかはわからないが、同じ穴の狢であることを隠すためにことさらに対立を装っているのかもしれず、政府による内政の失敗から国民の目をそらせようとする目的で、隣国と対立せざるをえないのではないか。だが日本と韓国との間ではそうであっても、例えばアメリカとロシアとの間ではどうなのだろうか。アメリカ側としては無用な対立は回避したいのかもしれないが、ロシアのプーチン大統領は事情が違っていて、ロシアの権益を守るためには手段を選ばず、やれることは全てやる気になっているのだろうか。かつての大国としての威信を取り戻すために、シリアの内戦にしても、イラクとシリアにまたがる「イスラム国」への対処にしても、積極的に介入してそれらの国々を自国の陣営へと引き込み、そうやって欧米に対抗する勢力圏を築きたいのだろうか。現状ではそこまでの野望はないのかもしれないが、かつての米ソ冷戦時代へと時代を引き戻そうとしているのではないにしても、国の指導者として覇権を目指すのは、広大な国土を持つ国の大統領ともなると、自然とそういう成り行きになるのかもしれず、それは中国などにも言えるところかもしれないが、欧米の民主主義的な政治風土とは相容れない強権的な志向があることは確かなようだ。

 広大な国土と多くの風習の異なる民族を抱えている国では、欧米的な民主主義が有効に働かない宿命があるのかもしれず、アメリカのように先住民をほぼ根絶やしにして、一から国家を作れない以上は、国内にいる各民族を束ねる皇帝的な権限を持った指導者が必要とされ、中国では毛沢東がそうだったわけだが、今のロシアではプーチンがその役割を担っているのだろうか。それは象徴的な役割ではなく、実質的な権力を伴っていて、国全体を支配しているような形態をとり、それだけ権限が一人の人物に集中していることになるだろうか。それはアメリカの大統領の権力や権限とは比較にならないほど強いのかもしれず、要するに制度的にそれが与えられているのではなく、実力でその座を奪い取った結果として生じるような権力なのではないか。だからギャングのボスのように形容され、一応は独裁者であるのだろうが、こけおどし的な飾りは一切ないので、ファシズムのようなごまかしがない分、より直接的で単刀直入なことをやるわけで、ある意味でわかりやすいのかもしれず、日本の政治家のようなエセ右翼とは違って本物の右翼だから、やっていることの善悪はさておき、筋の通ったことをやるし発言している印象はある。実力がものを言う世界では小手先のごまかしがきかないのだろうし、裏表のないことをやらないと敵からも見方からも信用されなくなってしまうわけか。そういうことをやる人間には正義があり、その正義によって多くの人たちが犠牲になるとしても、周りの人間はその人物について行くのであり、それが良いか悪いかは別問題だが、その人物が自ら掲げる正義を裏切らない限りは、ごまかしに基づく偽善や欺瞞は排除されるのかもしれず、ごまかしが通用しないことをやっていると、あいまいなグレーゾーンがなくなり、政治がわかりやすくなる反面、しばしば酷薄なことが行われ、シリアに関して言えばロシアが支援しているアサド政権に敵対する反体制派勢力が、ロシア軍によって空爆され、ロシアと友好関係にあるイスラム教シーア派勢力のイランやイラクの要請を受けて、スンニ派の「イスラム国」も空爆されようとしている。それによってアサド政権による長年の圧政に抗議して反乱を起こした勢力も大打撃を受けるだろうし、そんなことは百も承知で無情にも空爆してしまうのだから、敵と味方の区別がはっきりしている分、わかりやすいといえばわかりやすく、民主主義というあいまいで偽善や欺瞞の要素を含んでいる概念とは無縁である分、やはりヒューマニズムとも無縁なのだろうか。


10月15日「民主主義」

 人は何かを主張することによって、他の人々から賛同や共感を得たい。そして自らがやっていることの成果を強調することによっても、他の人々から賛同や共感を得たい。それは広告宣伝の類いとならざるをえず、いかに賛同や共感を得るかが世の中で競われているわけで、それらを得ることが目的化すれば、人々が不快に感じる対象や内容は避けられるようになることは明らかで、結局は世の中で流行っている現象に左右されるような主張や行為になり、それに依存している方が人々の賛同や共感を得やすく、世の中に受け入れられる可能性が高いだろうか。人々から安心されることは確かで、要するに人畜無害だと思われるわけだが、特に世間やメディアから注目を浴びることはなく、その他大勢の中の一人として無難に取り扱われるだろうか。一般大衆はそうあるべきという意図や思惑が世の中に働いているわけではないだろうが、他の人から賛同や共感を得ることは快感を伴うから、自然とそうなっていくのかもしれず、わざわざ不快感を煽って悦に入るひねくれ者でない限りは、人と人のつながりを重んじて親交を深め、仲間を増やしたい思うなら、そういう方向で努力しようとするのではないか。それが人々の間に連帯感を生じさせ、集団として力を発揮する場合もあるだろうし、世論を形成して政治にも一定の影響を与えるかもしれない。それを利用して利益を得ようしているのがマスメディアであり、主張や行為の流行り廃りを煽って、多くの人たちがそれに注目するように報道し、それを批判したり称賛したりする著名人などの意見を取り上げ、それに一般大衆が共感したり不快感を覚えたりするように仕向け、そんな反応もネタにして、それに対する評論なども広く世間一般に拡散させ、そうやって世論をコントロールしたがるのであり、自分たちが世の中の流行り廃りを作り出している気でいるのかもしれないが、その気になっている間は、それらのマスメディアに権力があるかのように見なされ、そうした世論形成の操作者としての役割を、マスメディアが担っているかのように思われるわけだ。そのように見なしたり思われる範囲内では確かにそうかもしれないのだが、それが実際に機能しているかどうかは、はっきりそうとは言えないところであり、たとえそうなっているとしても、現象としてそうなっているだけで、特定の誰かが意図的に操作しているわけではなく、その中では多くの人たちの思惑や意図が複雑に絡み合っていて、全体として一定の方向性が見受けられるだけで、決して権力者が強権を発動しているわけではないことに注意すべきで、それを短絡的に解釈して、特定の誰かの独裁体制だと批判するのは稚拙であり、たぶんそれを信じる人も少ないのではないか。

 そして信じる人が少なければそれに対する共感や賛同も限られ、それを繰り返せば繰り返すほど磨耗し、延々とそれをやればやがて飽きられ、誰からも相手にされなくなるだろうか。だから何を主張するにも他の人々から共感や賛同を得られる可能性があるのは、世の中の流行り廃りの範囲内でしかなく、廃れてしまったことをいくら主張しても相手にされないわけで、だから世間の流行り廃りに敏感であらねばならないというわけではないが、何かしら信念を持ってそれを主張しているなら、たとえ他の誰からも相手にされなくても、ともかく主張するような成り行きになってしまうのであり、そういう人達が世の中には一定数いるのかもしれず、ネット上ではたまにそういう主張を見かけるわけで、そういう塵や芥の類いの主張が積もりに積もるのがネットの特徴かもしれず、そうなればなるほど、世の中の流行り廃りが相対的に薄れてきて、マスメディアによる世論操作もうまくいかなくなってくるのではないか。人々が意識して自分固有の意見や主張を保持するように心がけているわけでもないのに、ネットそのものの分散的な構造が、そこに多種多様な意見や主張の保存を可能としているわけで、そこでは意図や思惑よりも構造が支配的な作用を及ぼしていて、特定の政治勢力の独裁を阻むのも、特定の主義主張に多くの人達が賛同したり協力したりする集団の団結力ではなく、誰もが好き勝手に様々なことを主張し合う仮想空間かもしれず、そうすることでマスメディアによる世論形成を阻み、そのような力を形骸化させることによってのみ、政治的な権力の一極集中にはならない状況が形成されるのであって、デモクラシーの多数決原理から生じる独裁的な政治体制への収斂を頓挫させることができるのかもしれない。多くの人達が誤解しているはそこであり、民主主義的な制度が独裁体制をもたらすのであり、その逆ではないのはもちろんのこと、民主主義と独裁的な政治体制は対立する概念ではなく、民主主義の究極の形こそが全員一致の独裁体制なのであり、そこには常に異物を排除する原理が働き、多数決には多数意見に全ての人を従わせる力があるわけで、少数意見に配慮するのが民主主義だという主張は、民主主義を人々に受け入れさせるための方便にすぎず、建前と本音のごとく、いざとなったら本音を出して多数決で押し切る以外に、解決の手段はありえないわけで、少数意見に配慮する余裕がなくなれば、必然的にそのようなことが行われるわけだ。そこに民主主義の矛盾がありごまかしがあるわけだが、そのことに言及しないで、意図的に建前や方便だけのきれいごとばかり主張しても、そんな主張に多くの共感や賛同など得られないわけで、はっきりとそうは意識していないにしても、世の中の多数派はそんな矛盾やごまかしを前提とした民主主義的な政治制度を信じているわけだ。


10月14日「無意味な批判」

 物事にはそこに至る成り行きがあり、何かをやっていくうちに、様々な紆余曲折を経てそこへと到達して、さらにそれを続けていくと、その先へと歩を進められるかもしれないが、それが何を意味するわけでもなく、ただ時間の経過にしたがって、どこかからどこかへと移動したに過ぎない。当初から何を望んでいたわけでもなければ、そういうことになるかもしれないが、そこへ至るのが目的なら、到達することで目的を達成したことになるのではないか。そして達成できたことを喜べばいいのだろうか。そうなればその行為は無意味ではなく、自らのやりたいことをやり遂げたことになり、それで自己満足に浸れるだろうし、やることに意味も意義もあったことにもなりそうで、それによってその行為を正当化して、やっている自らを肯定できるかもしれない。確かに自意識の中ではそうなのだろうが、他人がそれをどう評価するかは別問題で、気に入らなければ無視するか批判するかのどちらかかもしれないが、それを肯定したり称賛する場合は、それを利用してその人もそれにあやかろうとする意図があるだろうか。もちろん批判する場合も、批判を自らの自己主張に利用しているわけだが、その利用している当の行為が、特に取り立てて言及するようなことでもなければ、それらの称賛や批判は誇張された内容となるしかないだろうか。だがそれについて言及すべきかどうかの判断は、そのやっていることに興味があるかどうかにかかってくるわけだから、称賛や批判をしている人たちからすれば、そうするように依頼されたのでなければ、それに興味を持っているわけで、取り立てて言及するようなことなのだろう。少なくとも称賛や批判をする人にとってはそうなのだ。そしてそれがメディア上で行われていることなら、共感したり賛同したり、あるいは批判する人も、一般大衆を意識してそうするのだろうが、それが一般大衆にとっても興味のあることなのかどうかは、世の中で話題となっていることについて語ろうとするのだろうから、多くの場合それは興味を引くような話題なのだろう。そして興味を引くような話題なら、メディアとしてはその役割を果たせるわけで、一般大衆が興味を引くような話題を取り上げて、それを報道するのがメディアとしての役目なら、そういうことになりそうだが、その他に人々を啓蒙して社会をより良い方向に導くのがメディアの役割であり、それが使命だと言えるだろうか。そのより良い方向というのが、世論を誘導して一般大衆が政府の言うことを聞くようにさせることだとすれば、現状でメディアはその役割を果たしているわけか。

 それで社会がより良くなるのだとすれば、その良くなる方向というのが、政府とメディアが連携して、人々を効率的に管理する方向となりそうだが、政府は行政組織だからそういう方向へ進むのは当然だとしても、それにメディアが手を貸すのは、政府に対する批判を放棄していることになるだろうか。そうではなく、政府に対する批判はそれなりにやる一方で、政府との協調や連携も批判が許される範囲内でやるというのが、メディアの両義性と解釈すればいいのだろうか。取材する側とされる側が癒着するのはよくあることで、それがメディアの宿命かもしれず、それほど社会的に影響力のないマイナーなメディアなら、政府や政治家に対する罵詈雑言でもなんでも、好き勝手に言っていられるが、それがテレビや大手新聞社となるとそうもいかなくなって、様々な面で行政と交流やつながりができて、そうなると勝手に批判ができなくなるかもしれず、政府と対立するより協調した方が利益になると判断すれば、企業としてはそういう方向へと行くのではないか。そうでなくてもNHKなどは予算を政府に握られているから、対立などありえないし、政府自体が選挙によって選ばれた議員が内閣を編成して、行政の長となっているわけだから、いわば国民を代表しているわけで、その国民を代表する政府と協調するのは当然という論理も成り立つかもしれず、実態はそうでなくても、都合のいいように解釈することだってできるわけだから、政府を批判するのもそれと癒着する大手メディアを批判するのも、回り回って結局は国民への批判となって跳ね返ってくるのではないか。たぶん民主的な制度が機能している国家において、政治的な批判は全てその国の国民への批判と解釈しておいた方がいいのかもしれず、政治がひどいとするなら、それはその国の国民がひどいということになりそうだ。ならば政治的な批判をする人々はそのことを自覚すべきで、安易に特定の政治家を罵倒して溜飲を下げるような行為は慎まなければならないか。別に慎む必要はなく、やりたければ大いに罵倒していればよく、それで溜飲が下がるならそれでも構わず、それが回り回って国民に対する罵倒となっているとしても、特定の政治家に対する罵倒が、それによって何か状況が変わるとも思えなければ、そんなのは無効であり無意味なのかもしれず、だからいくらネット上で罵倒しても警察に逮捕されるわけもなく、罵倒しっぱなしのまま放置されるだけなのかもしれない。それと同じように政治的な批判も無効で無意味だとしたら、その原因は何なのだろうか。


10月13日「実感と齟齬」

 何が変わったわけではない。変わりつつあるのかもしれないが、それを実感できないから、何が変わったわけではないと思う。だが何も変わらないわけではない。ただ世の中の変化に敏感である必要がないのかもしれない。現状を否定的に捉える必要もなく、専制は王政から生じるとしても、独裁は民主的な政治からも生じるわけで、独裁には必ず民意が反映している。政治的な独裁を許しているのは民衆だ。だが独裁体制を倒すのは容易なことではなく、議会の与党と官僚機構と産業界とマスメディアが独裁体制を支えているわけだから、一般の民衆がいくら寄り集まってデモや集会で体制批判を叫んでも、それらの翼賛体制を倒すのはほぼ不可能に近いだろうが、やらないよりはやったほうがマシで、日本の今の政治体制が独裁に当たるかどうかはわからないが、不満があれば表明したほうがいいことは確かだ。要するに批判を継続させるしかなく、それが改まらない限りは批判を続けるしかないのだろう。一般の人たちにできるのはそんなことでしかなく、今のところは武器を使って暴力に訴えかける必要のない政治体制なのだから、それが気に入らなければ批判するしかなく、あとは選挙で野党の候補者に投票するしかないのだろう。そんなわけでやることは簡単でたかが知れている。それ以外には取り立ててやる必要がないのだから、それをやればいい。別に武装闘争をやる必要はないし、自爆テロとかも不要だ。戦争のない平和な地域にいるわけだから、体制批判をしたからといって、何を恐れる必要もないわけだが、体制側にとっても体制批判の何を恐れる必要もなく、体制に迎合的なメディアと連携して、世論をコントロールできれば問題なく、実際にそうなっているから、何も言論弾圧などする必要もないのではないか。もちろん著名人などが体制批判をしようものなら、様々な方面から圧力がかかるのかもしれず、公的な警察権力を使わないまでも、仕事に支障をきたすなど、陰湿な嫌がらせの類いが行われるのだろうか。人によって立場の違いによって程度の差がありそうだが、もしかしたらそういう村八分的な集団意識も、薄れつつあるのかもしれず、薄れつつあることに対する危機感が、国粋的な主張をことさらに強調する人々の跋扈につながっているのかもしれないが、そういう面では世の中は確実に変化しているのであり、その変化を押しとどめようとする勢力が現政権と結びつき、なにやら復古調の世の中の実現を夢見て、そういう傾向のメディアやネットなどで盛んに活動しているのだろうか。

 それもどこまで勢力が拡大しているのかよくわからず、どう考えても今さら過去には戻りようがないので、たぶん弱肉強食の新自由主義的な資本主義が、むき出しになってしまうのを隠すための方便でしかないのかもしれず、その経済活動が国家に貢献しているように装うための国粋主義で、国家に貢献することがなにを意味するのか、それが国家の中のどのような勢力にとって利益となるのかが、一般に民衆にとってはよくわからないところかもしれず、単に政財官の利権複合体とそれに迎合的なマスメディアにとって利益となるのかも、利益を得ているとされる側にとってもその辺ははっきりしないところかもしれない。なにやら権力関係のゲームをやっているつもりなのだろうが、あるいは経済振興などをやっているつもりなのだろうが、それがなにをもたらすかは、実際に何かがもたらされてみなければわからないような状況なのだろうし、同盟国とも対立国とも様々な機会をとらえて首脳同士が顔を合わせて会談したり、関係する部署の責任者たちが交渉したりしているのだろうが、そのような活動が果たして有効に機能しているのか、それともただの気休めに過ぎないのか、その両方なのかもしれず、しかもそうすることに大した意味も意義もないのかもしれないが、とりあえず何かをやっているふりをしていないと、他にやることもないだろうし、やれることもないわけだから、とにかく自分たちの役割分担がされた範囲内で活動しているわけだ。そうやって誰もが操り人形のように操られながら、形式的には動き回っているわけで、折を見てそれに関して何か型通りに発言しているのだろうが、実際に誰がそれらの人々を操っているわけでもないし、何に操られている自覚もないのだろうから、会談やら交渉の場が用意周到にセッティングされているとしても、あらかじめ用意された原稿を読んでいるだけなのに、それでも自主的に発言しているように思っていても、とにかくそれが当たり前のことなのだから、自分たちが操り人形や装置の歯車に過ぎないなんて気づくわけもなく、何やら国家や国民のために勢力的に活動中なわけだ。そう認識してはまずいのかもしれないが、そこに主体がいないからそうなっているのかもしれず、真の意味で目的がないのではないか。何が誰にとっての利益なのかもわからない状況で、景気が上向いたり国民総生産が増えれば、その分が利益なのだと認識するしかないのかもしれないが、人々の実感としてはそうでもなく、何が良くなっているのかわからないまま、とりあえず日々の生活に追われる毎日でしかないのではないか。


10月12日「増殖する何か」

 否定したければそれを否定すればいいのかもしれないが、どうも否定する気にはなれない。政治の延長が戦争なのだろうし、そこには政治的な駆け引きがあるのではないのか。そしてその政治的な駆け引きが戦地に暮らす人々を苦しめている。だがそこから遠く離れた平和な地域に暮らす人々にとっては、そんなことはどうでもよく、要するに戦地に近づかなければいいわけだが、関係国の軍隊に入っていれば、嫌でも戦地に出かける可能性が出てきて、出かけて行って何らかの形で戦争に参加すれば、自らが死傷する可能性が出てくるわけだ。戦場カメラマンや記者などのメディア関係者も、「国境なき医師団」などの医療関係者も、戦地で活動していれば同様に死傷する可能性があり、メディア関係者は戦場の様子を伝えるために、医療関係者は負傷した人々を救うために、それぞれの活動内容から生じる使命感を抱いて活動しているのだろうが、実際にそこで戦っている兵士たちにも、それ特有の使命感があり、彼らが信じている正義のために戦っているのだろう。それを否定しても無駄なのかもしれず、兵士たちが戦場で残虐なことをやっても、そういうことをやるのが戦争だと解釈すればいいわけで、そんな残虐行為を後から否定しても、それが何を正当化することもにならず、そこで戦争が行われた事実が変わることはない。伝え聞く残虐行為は戦争から生じた枝葉末節の出来事だ。サウジアラビアの一般家庭で、外国人の出稼ぎ家政婦を処罰するのに、右腕を切り落としたというニュースが最近あったが、戦争でなくても人は平気で残虐なことをやるわけで、サウジアラビアに残酷な風習が残っているとしても、それが他と比べて特異なわけではなく、日本でも猟奇的な殺人事件などいくらでもあり、人はやれる可能性があることは、その場の状況に応じて何でもやるのではないか。そういうものだと認識しておいたほうがよさそうだ。だから人がいくら死のうと、国民の半数が家や財産を失い、難民となって国外へと逃れようと、シリアでは独裁者の大統領は全く辞任する気はないし、それと連携関係にあるロシアも、シリアからの要請に応じて、空爆して反体制派を潰そうとしてくる。日本の漫画家がそんなシリア難民に偽装してドイツにやってくる移民を揶揄して、「そうだ難民しよう!」という風刺画を描いて、世界で顰蹙を買っているようだが、偽装難民も漫画家も、別にシリア難民に同情しているわけでも、彼らを支援しようとしているわけでもなく、彼らを利用して、あるいは彼らを題材として、それぞれに自分たちの信じることをやっているわけだ。移民が偽装難民となって祖国から出て行くのも、漫画家が風刺画を描くのも、それぞれにそうするに至った彼ら特有の成り行きがあるのだろう。

 自分たちの価値観に基づいて偽装難民を否定したければ、勝手に否定していればいいわけだが、否定したところで偽装難民がなくなるわけではなく、そこに至る様々な事情があるのだろうから、そんな事情が変わらない限りは、これからも同じような行為が続いてゆくのではないか。そうやって人々は国から国へと移動してゆくのであり、その国の国民だからといって、嫌でもその国にとどまっている義理はなく、やっていられなくなれば、出て行かざるをえなくなるわけで、迫害されていようと金目当てであろうと、理由が何であれ移民が発生している現実があり、それをいくら否定して批判しようと、現実は何も変わらないだろうし、それとは関係のないところで、移民とは違う成り行きの中で暮らしている人が、何やらもっともらしい意見を述べているに過ぎないだろうか。しかもそんな意見を述べても構わないわけで、場合によっては無神経な風刺画を描いて顰蹙を買っても、その人にとっては炎上商法のような肯定的な効果があるのかもしれず、その人にとってはそういう成り行きとなっているわけだ。そしてそれとは無関係に移民も難民も命がけで、目的の国を目指して危険な旅をする。中には運悪く途中で力尽きて死んでしまう人もいるわけで、彼らは彼らなりに、自らの行為に対する報いを受けていると言えるかもしれず、そんな彼らを少なからず受け入れようとするドイツを、人道主義的なきれいごとを嫌う人々が何かと批判したいらしく、揚げ足取りをする機会を狙っては、何かとシニカルで冷笑的な物言いで、ドイツの欺瞞性や偽善性を語ろうとするわけだが、そこにもドイツ特有の歴史的な経緯と事情があって、そうせざるをえない成り行きがあるわけだから、それらの批判の有効性は同じようなメンタリティの仲間内だけだろうし、それがなかなか当のドイツまで到達するには至らないようだ。批判の対象が批判によってどうにかなるのは稀なことなのかもしれず、大抵は批判しっぱなしで、面と向かって批判されても聞く耳を持たない人が圧倒的な多数のようで、批判をかわそうとするか無視するかの、どちらかしか選択肢を持たないわけだが、そういうことが度重なると、批判が無効な状況が生まれ、それを受け取る人の善意にしか批判は有効に機能しないのかもしれず、批判を拒絶しようとすればいくらでも拒絶できるのが、批判の弱点であり、また批判はその拒絶に向かって、絶えず投げかけられているのかもしれない。実際に批判を拒絶する態度が、それに対する批判を増殖させる。


10月11日「利益の源泉」

 それとこれとは関係ないのだろうが、関係を疑えば疑うほど疑心暗鬼にとらわれる。直接は関係のない物事と物事を結びつけて、そこに何らかの関係を想像してしまい、そこからの作用が自分に及んでいると疑い、被害妄想にでも陥れば、そこから憎悪の念が生まれてくるだろうか。彼らは何を憎んでいるのだろうか。だが憎悪の対象がどこに存在するのか。自らの心の中にそれが潜んでいたりするのだろうか。たぶんそんな内省的なことではなく、具体的な対象として社会の中にそれが潜んでいると思いたいのではないか。特定の民族や宗派を弾圧することによって、憎悪の対象としてそれが生み出される。もちろん行政の長としての個人もその対象となり、何やら権力を振るっているように見えるのだが、その背後には関係する様々な団体や組織が暗躍していると思われ、それらも憎悪の対象となりやすく、ひどいことをやっているのはそいつらだということになりがちだ。実際にそうなのだろうか。そうだと思い込んでその対象を攻撃していれば、何かやっているように思い込めるのだろうが、具体的には何をやっていることになるのだろうか。対立を煽り立ててそれに対する攻撃を正当化している。やっているのがそれだけでは不満だろうか。他にやることが何もなければ問題ないのではないか。それが通常の状態なのだろうか。常態化していればそういうことになるのではないか。世の中はうまくいっていないことだらけであって、そのうまくいっていないことにつけ込んで、利益を得ようとする行為が後を絶たず、要するにそこに差異が生じるわけで、その差異こそが利益の源泉なのではないか。そういう意味ではうまくいっていないことを象徴する現象が対立で、対立があるからそこに差異が生じると考えた方がよさそうだ。対立がなければ二つの物事は等価であり、等価であるということは差異がなく、差異がなければ利益は生じないということなのではないか。だから利益を求めようとする者たちは、盛んに対立を煽ってそこに差異を生じさせようとして、実際にそれが生じればそこから利益が生じるわけだ。そして利益が生じるということは、対立する双方のどちらかが得をして、どちらかが損をする関係となり、損をした側は得をした側に対して、憎悪を掻き立てる結果となりがちだ。そしてその損した分を取り返すために、得した側に攻撃を仕掛けることになるのではないか。そしてその攻撃のバリエーションの一つとして、自爆テロ攻撃もあるわけで、戦力が不利な側はそれを補うために捨て身の攻撃を仕掛け、そうやって得した側に一矢を報いたつもりになって、成功すればさらに繰り返そうとする。

 そういう意味では対立を煽るという行為は、政治と経済と戦争に共通していて、その究極の状態が戦争なのであり、戦争こそが人類の文化そのものなのではないか。政治に関しては議会で対立しあう与党と野党という構図があるわけだが、経済に関してなら、競合する商品との違いを際立たせて広告宣伝するやり方があり、そうやって宣伝する商品の優位性と差別化と魅力を訴えかけるわけで、まさにそうすることによって他の商品と対立しているのであり、自社の商品が売れて利益を上げることによって、競合する商品を売っている他社を打ち負かそうとしているわけで、それも戦争と同じ形態をとっていることになりそうだ。そして社会に暮らす人々はそういう成り行きや現象を敏感に感じ取っていて、影響されて何かと言えばすぐに対立を煽りたがり、些細な差異を大げさに誇張して、人や団体を敵と味方に差別化して、敵と見なした人や団体に対して憎悪を掻き立てる。そして敵を攻撃して倒すことで利益を得ようとするわけで、その利益とは自分や自分が属する勢力を拡大させることであり、対立を煽りながら勢力を拡大させようとすれば、当然他の人や勢力との対立や衝突は避けられず、結局そういう行為は戦争状態をもたらすしかないだろう。そしてそれとは逆に敵との和解や平和的な共存を求めようとすれば、たぶん対立がなくなって利益が出なくなるのではないか。それは利益を追求する功利主義者たちにとっては致命的なことで、例えばイラクやアフガンから軍を撤退させて、キューバやイランと和解しようとしているアメリカのオバマ大統領の評判が悪いのは、そういうところからきているのかもしれない。またネトウヨが同じ新自由主義的な価値観を共有している韓国と対立したがるのは、従軍慰安婦問題や韓国による竹島の実効支配だけではなく、韓国と日本が経済的な競合関係にあることからもきているのではないか。そんなふうにして同じようなことをやっている人たちの間で、利益を求めようとする限りは、必ず対立関係を招き、対立を防ぐにはお互いに利益を断念するか、共通の利益を共闘して求めるしかないわけだが、共闘するとなるとまた他に利益を求める対象が必要となり、プロスポーツなどではゲームではお互いに対立し合う関係にあるわけだが、それを見せることによって、観客から利益を得ることになるわけだから、観客から利益を得ることに関しては共闘関係にあるわけだ。そういう面から考えれば、人や団体の間の対立を解消するには、共闘して新たな利益を求める対象が必要となるのかもしれないが、たぶんそれは新たな対象ではなく、大昔から利益を得ている対象であって、要するに人類は共闘して自然から利益を得るしかないのではないか。と言ってもすでにそうやっているわけであり、自然から利益を得ながらも、人間同士で対立し合って自然から得た利益を奪い合っているに過ぎないわけだ。


10月10日「思考と実践」

 たぶんそれは冗談なのではないか。それを頭で考えようとすると何も考えられなくなり、考えられなくなると別のことを考え込んでしまう。いったい何を考えようとしているのか。それは幼稚なことに違いなく、ずるいことでもありそうだ。世の中でうまく立ち回るにはどうしたらいいだろうか。そう考えると自らに嘘をついていることになるだろうか。本当はそうではなく、世の中が自分の思い通りになるには、どうすればいいのか考えているのではないか。自分がそうしたいのではなく、世の中が自分のためにそうして欲しいと思うわけだが、そもそも思い通りとは、具体的に何をどうして欲しいのかわからず、それを考えあぐねている最中なのかもしれず、いくら考え込んでも何も出てこないとなると、もとからそんなのはありえないと思うしかないだろうか。思い通りになるとは後からそう思うのであって、何かをやった結果が自分に都合がよければ、思い通りの結果になったと喜んでいるわけで、自分に都合の悪い結果なら、世の中は自分の思い通りにはならないと嘆くわけだ。だから人はうまく立ち回って、自分に有利になるような結果を引き出したい。そして有利になるような結果を得られたら、思い通りに事が運んでくれたと安堵する。では世の中でうまく立ち回るにはどうしたらいいだろうか。戯れにそんなことを考え、いくら考えても答えなど出ないだろうし、あるいは調べればいくらでも答えなどあるだろうし、またそんないくらでもあるような答えに興味はないだろうし、では何か気の利いた納得できて魅力的な答えがあるかといえば、あるとしても怠惰が邪魔をして、それを実践するには至らないのではないか。では何のために考え込んでいるのかといえば、暇つぶしかもしれないし、他に何も考えることがないのかもしれないし、別にそんなことはどちらでも構わないような気がしてくる。要するに深刻に考えるようなことではないのだろうが、結局はそんなことを考えてしまうわけだ。その程度のことではあるのだが、その程度のことしか考えられないのは、貧困なる精神なのかもしれず、それを深刻に受け止めるべきなのか、あるいはどうということはないのか、たぶん後者であると思っているのだろうが、そのどうということはないことが、精神の貧困をもたらしているとしたら、事を深刻に受け止めるべきだという結論に持って行きたい衝動にかられるかもしれず、そんなことが頭の中をぐるぐる回っていると、気の迷いか心の病か知らないが、どちらでも構わず、そのどちらでもないこともわかりきっているわけだが、そんな冗談のついでに自己厭悪という言葉が引き出されるのかもしれない。

 たぶん思考がどのような答えに依存していようと、またどのような答えを導き出そうと、それでうまくいくがどうかは、実際にやってみないことにはなんとも言えず、どちらかといえばその思考から導き出された答えが、大して役に立つわけでもないことの方が多いのではないか。だから何か机上の空論みたいなことをいくら述べてみても、それがどうしたわけでもないことは明らかで、そこから何が生じるわけでもないらしい。実際には何も生じないわけではないが、結果的に生じるのは言葉の連なりと思考の堂々巡りと、あとは何が生じるのか。それはいわゆる諦念の類いかもしれないが、虚しく思うことの中に、何かまた新たに思考するきっかけを探しているのかもしれず、机上の空論を諦めさせる盲点のようなものを探しているのかもしれない。現状ではどう考えても物や情報を売ったり買ったりするルールを変更することはできなそうだし、それが世界全体に行き渡っているのだから、それ以外のやり方を模索するのは不可能に思われ、そういう方向での変革はありえないのではないか。だから貨幣を介した物や情報の売り買いというルールを前提として、そのようなルールの範囲内で、何か改良すべき点を考えなければならないのだろうか。もしかしたらそうではなく、別に現状でそんなことなど考える必要はなく、実際にそのようなルールでの営みが行き詰まってきたら、それとは別のルールが人々の間で自然に行われるようになるのかもしれず、結局人は考えるよりもまずは行動が先に来て、その行動の結果として生じた現象について考えるわけで、そのようなフィードバック機能が、人に備わった本来の思考作用なのではないか。そして思考の結果が文章となり、その文章を構成する行為の結果として、他の人々にもその思考内容が伝達されるわけだ。だからまず考えてからその考えを実践に移しているように思えるにしても、そのような考えをもたらす行為がすでに他で行われていて、そのような行為こそが別の場所や別の時代において行われた試みであったり、その内容を書き記した他人の文章であったりするわけだ。そして現状では貨幣を介した物や情報の売り買いから利潤を求めるやり方が、次第にうまくいかなくなってきていて、経済格差や貧困問題などの様々な弊害を生み出しているわけだが、それを解決する方法を模索する人々が、別の場所や別の時代に行われた試みや、そのような試みの結果を踏まえて著された書物などを参考にして、なにやら思考し、その思考した内容を文章として発表したりしているわけで、さらにそんな文章を読んで、また新たに思考する輩も出てくるのだろう。果たしてそんな試みや模索が、それらの弊害を解消する答えを導き出すことができるだろうか。あるいはたとえ導き出せなくても、本当に行き詰まってきたら、自然とそれとは違うやり方が登場するのだろうか。少なくとも貨幣を介して物や情報を売り買いするルールは、自然に人々の間で発生して、自然に世界中へと広まったルールであることは確かだ。


10月9日「人畜無害」

 彼らは具体的に何をどうしたいのだろうか。何をどうしようと、それを否定したければ、何か今後に起こるだろう劇的な展開でも予想すれば溜飲が下がるだろうか。でも実際には何も起こらないのかも知れず、その方が否定したい対象にとっては好都合なのだろうし、何が起こるわけでもない弛緩しきった状況が、できるだけ長続きしてほしいのだろうが、そう都合よく事が運ぶだろうか。そのために何やら彼らが画策しているのではないか。彼らとはいったい誰を指すのか。たぶんそれは空疎で人格のない人ではない何かかもしれないが、そこに実在する特定の人物を当てはめると、途端におかしなことが起きるのかもしれず、何やらそれが憎悪の対象となったり、時には崇拝の対象となったりするのだろうか。そういう意味で彼らとは、人々が思い描く物語の登場人物なのかもしれず、人々とは世の中で実際に存在する人々のことなのではないか。そして誰かが思い描く一億総白痴化の登場人物たちが、それにあたるのだろうか。だがそれらの登場人物たちはいったいどこで活躍しているのか。それは日本と呼ばれる架空の国で活躍しているのかもしれず、何か彼の地ではおとぎ話の世界ような様相を呈しているのかもしれない。誰かの頭の中がお花畑だと批判する人もいたようだったが、今やそれが頭の中から外界へと広がり出して、世の中を侵食中なのかもしれない。それも誰かが思い描く妄想の世界での話なのだろうか。そして日本という架空の国は美しい地域になろうとしているのではないか。お花畑の中で誰もが活躍できる場所が日本という美しい国なのだろう。そこは何の具体性もいらない架空の世界なのだから、何とでも形容できるかもしれないが、現実の世界で生じる醜い現象については語る必要がないわけで、自身が肯定できる現象や兆候について語っていれば、何やら明るい未来が開けてくるわけで、それだけを見ていればそんな気がしてくるのではないか。それで済むのならそれに越したことはなく、彼らのあずかり知らぬところで民の不満が渦巻いているとしても、そんなことは無視できるような環境の中で意識を保っていれば、それで何とか世の中の醜い部分を見ずに過ごせるのだろう。現実の世界でもそういう成り行きになりつつあるのかもしれず、これから世の中で活躍できる人たちの頭の中では、心地良いお花畑の世界が広がってゆくのではないか。そして彼らの視界の届かないところで、何やら不満だらけの敗残者たちがデモ行進したり集会を開いて、口々に不満を叫んでいるのだろうが、そういう鬱陶しい言葉には耳を傾けなければいいわけで、マスメディアもそんな不快感を催す騒音は無視して、伝えないように大手各社の会合で申し合わせておけばいいわけだ。

 それも誰かの妄想が反映した架空の物語に過ぎないのかもしれない。彼らはすべて夢遊病者の類いなのであり、彼ら自身の妄想の世界で騒いでいるだけで、放っておけば自然に騒ぎ疲れて、何処ともなく散り散りに姿を消すだろう。ある者は地下へと潜ってそのまま土と同化して溶けてしまうかもしれず、またある者は水の中へと潜って無色透明の液体となってしまうかもしれない。それらの汚い泥人形や透き通った液体に人格を付与していたのは、他でもない彼ら自身が思い描く物語に登場する架空の人物たちに他ならないのだから、お花畑にいる人々は何も恐れることはなく、時折吹きつける心地良いそよ風の音に耳を傾けていれば、自然と周囲の雑音や騒音もやんで、気がつけばいつもの日常へと戻っているだろうし、平常心を取り戻せるだろう。そして今後は何気兼ねすることもなく、日本という美しい国の中で思う存分活躍できる。ただし美しい国の中で活躍するにはルールに従わなければならず、それは国のやっていることに不平や不満を言ったりしてはならないというルールであり、ルールを破れば美しい国では活躍できなくなり、言った者は反日のレッテルを貼られて、国外へ出て行けと罵倒される。それも架空の話の延長上にある虚構だろうか。誰もがそんな作り話を信じているわけではないが、一部の妄想に取り憑かれた人たちは信じていて、それが虚構であることを頑なに認めようとせず、実際に自身の妄想の中では、美しい国を守るために反日勢力と日々戦っていることになっていて、何やらその戦いが連戦連勝で、今まさに勝ち戦の真っ只中にいて、美しい日本を汚そうとして、不平不満ばかり叫んでいる反日勢力を撃退しつつあり、そうやって誰もが自分の思い通りになっているような妄想を抱いているようだが、現実はどうなっているのだろうか。そもそも彼らは現実と虚構の区別をつけられるのか。何を本当の現実だと思っても、思い描いている物語にそれを当てはめなければ、それを現実と認識できないのだから、意識の中では何が現実なのでもなく、全ては妄想の世界で起きていることなのではないか。そしてその妄想こそが彼らの思い描く理想の世界であり、理想の世界は美しく、思い通りに事が運んで至れり尽くせりの環境なのだろうから、決して居心地が悪いわけではないので、そこから抜け出ることができずにのめり込んでいくばかりだ。目を覚まさせる役割の者たちを排除すればなおさら症状が進行して、後戻りができなくなるのだろうが、そんな現象に行き着く先があるのだろうか。別に恐怖を煽るわけではないが、お花畑の美しい国がやがておかしくなることはないのだろうか。それともそれらの世界はどこまでも架空でしかないから、そんな妄想にどれほどのめり込んでも人畜無害なのだろうか。


10月8日「集団意志」

 同じような成り行きを辿るにしても状況に違いはあるだろう。だからその同じような成り行きから連想される結果をもとにして、比較する対象を同じこととして扱ってはいけないのかもしれず、違いを明らかにしなければいけないだろうか。ではいったい何が違っているのだろうか。そもそも何と何を比較して何を述べたいのか。今後の政治的な成り行きについて予想したいのだろうか。今までの成り行きから推察することぐらいは可能かもしれない。だがそうすることが何を意味するのか。何の意味もないことかもしれず、それは世論調査の結果が反映するようなことだろうか。それで構わないのであり、それ以上の何を期待しても無駄かもしれず、実際に期待してはいけないのかもしれない。主張していることが空理空論というわけではないだろうが、企業でも政党でも団体を作って仕事を様々な部署ごとに分担すれば官僚化するしかなく、官僚組織内に民主主義があるわけではないし、官僚組織が議会に人員を送り込むシステムが機能していて、議会はそれによって制御されているとすれば、人々は官僚組織が選んだ候補者に投票するしかない。民主主義の定義がどのようなものなのかはっきりとは定まっていないかもしれないが、官僚機構の組織的な力の前では無力なのだろう。そのような官僚機構に属さない無名の一般人が選挙に立候補しても無視されるだけで、メディアも官僚機構が推薦する有力候補者以外はほとんど取り上げないから、無名の一般人が当選するのはほとんど無理なのではないか。だから政治に関わろうとする人々は民主主義とは無縁の官僚機構に所属しようとするのであり、そのような官僚機構が政党となっていて、議員が数人でやっている政党なら官僚化するには至らず、個人の立場で自由に物が言えるかもしれないが、議会の多数決の前では無力だ。さらに議会の大政党は国の官僚機構とも癒着しているから、なおのこと民主的な個人の自由と平等を尊重することなどありえず、組織的な集団意志に個人を従わせようとする傾向が強く、そのような風土と空気の中で個人がいくら逆らっても無力だ。そもそも国自体が国民の集団で構成されているのだから官僚化するしかなく、そうなるのが当然の帰結なのだから、それを否定するのはありえないことで、人が何かを集団で行う限りは、そこに官僚機構が生じるのは当然のことと認識しておいたほうがよさそうだ。では民主的ではない官僚組織内からどうやれば民主的な作用を引き出せるのだろうか。それが選挙であり、メディアが仕掛ける世論調査から導き出された国民の声を聞かない政党の立候補者を、落選させればいいのだろうか。

 だが世論はメディアによって作り出され、個人はその世論に同調するように、絶えず無言の圧力をかけられているのではないか。たぶんそこにも集団意志が働いていて、それに同調しない個人はメディア上では相手にされず、いくら逆らおうとしても無視されるだけなのかもしれない。そしてその集団意志というのが物事を単純化した紋切り型的な主張なら、なおさらそれに異を唱えることがためらわれ、多くの人たちがそれに屈しているのではないか。結局は官僚機構を動かしているのも世論を形成しているのも集団意志であり、それの前では個人は無力だ。どうも議会制度というのもそんな集団意志を実現する場であり、それこそが誰もが民主主義と思っている制度の実態なのではないか。しかし集団意志とは違う個人の意志とはなんなのか。それを自由と平等という単純化した概念で言い表せるだろうか。権力志向というなら官僚機構の頂点を目指せばいいわけで、そういう意志を個人が抱いているとしても不思議ではないが、それとは別に、集団意志に逆らう自由であって、誰もが平等に逆らう自由があるということだろうか。たぶん権力志向は集団意志からもたらされたもので、集団内に入ると、誰もがその内部で権力闘争に加わることとなって、その闘争に勝って集団の頂点に立つように仕向けられるのだろうし、闘争に負けた者は勝った者に従うような仕組みとなっていて、それが民主的な自由や平等とは相容れないから、機構内で官僚的な思考の虜となった人たちにとっては、個人の自由や平等など建前以外ではありえないことなのではないか。だから盛んに人々を管理しようとするのだろうし、機構の意向に沿うように人々を管理し制御したいわけだ。そしてその機構の集団意志を体現するのが、集団内の権力闘争に勝ち残った勝者の意志であり、その頂点に立つ者が官僚機構の集団意志を保持しているわけで、その機構が国家なら行政の長がそれであるかもしれず、その人物の意志が官僚機構の集団意志そのものなのだろうか。そしてその意志を覆すには別の集団意志が必要で、それが世論調査から導き出された国民の声なのだろうか。だが果たしてそんな単純化で多くの人たちは納得するだろうか。たぶん個人としてはどちらにも逆らいたいのであって、逆らいつつもそのような官僚機構なしでは生きて行けない現実も把握していて、そこから世の中で生きていくための戦略や戦術が編み出されてゆくのかもしれない。


10月7日「批判」

 人は何から逃げているのか。自身にとって都合の悪い事実から逃げているのだろうか。例えばやっていることや主張していることが、以前の行いや主張とは異なっているなら、それがその人にとって都合の悪い事実になるだろうか。それが隠しようがなければ素直にそれを認めればいいことでしかないのだろうが、認めてしまうのが都合が悪ければ、なるべくそのことについては触れずに、その話題を避け続ければいいわけか。そんなことをやっても逃げ切れるわけがなく、いずれはその都合の悪い真実と向き合わなければならない時がやってきたりするだろうか。どうせ忘れた頃にそれを突きつけられて気分を害される程度なら、よくあることでしかないのかもしれないが、それ以外で何かそれが致命的な弱点となることはないだろうか。たぶんそうではなく、その場の状況に順応することが優先された結果として、過去とは違うことをやったり主張したりするわけで、状況が過去とは違うのだから、過去のことが忘れてほしいだろうか。自分はそうかもしれないが、それが他人となるとそうもいかないわけで、他人を批判するときの常套手段として、過去の言動を持ち出して、現在の言動との矛盾点を指摘するやり方があり、そうやって相手を批判すると、相手も同じように過去の言動を持ち出して批判し返して、互いに同じような批判の応酬によって、議論が平行線に終わることがあるかもしれない。それは自分が相手を批判したいという都合で、相手の過去の言動を持ち出し、相手も批判し返したいという都合で、過去の言動を持ち出すわけで、双方ともに自身の都合を優先させて、相手をやり込めようとしているに過ぎず、そのような批判をまともに受け止める必要はないのかもしれず、そういう水準での批判なら大したことはないのだろうが、それ以外の批判があるとしたら、それはどんな批判になるだろうか。少なくとも相手の過去と現在の言動の違いを説明しなけばならず、その説明が相手にとって納得のいくものでなければならない。そしてどのようにして言動が過去から現在の間に変化してきたのかも、説明しなければならないだろうか。批判によって相手を打ち負かそうとするのではなく、過去から現在までの状況の変化を説明して、自身や相手も含めて、人々の過去から現在にわたる言動の変化を考察する必要がありそうで、そのような言動と状況の変化を踏まえて、今後どうするべきかを批判のやり取りによって模索していくべきだろうか。果たしてそんなやり取りが可能な場がどこにあるとも思えないが、不毛な非難の応酬をそういう方向へと持っていく努力が必要だろうか。少なくともそういうことを心がけておけば、いずれ実践する機会も巡ってくるのではないか。

 もちろん巡ってこなくてもよく、延々と相手の揚げ足取りをやっていれば、それで済んでしまう場合もありそうで、そういう水準での批判ならいくらでもできそうで、それで何かをやっている気にもなれることは確かで、そういうやり方が広く世の中でまかり通っている限りは、誰もが安易にそんなことを繰り返している現状があるわけで、そんな現状を維持し続けることに、それらの批判が貢献しているのかもしれず、そういう批判を繰り返している人たちは、そうすることで自分たちが批判を繰り返せる状況を維持したいのだろうか。はっきりとは意識していないだろうが、自分たちと同じことをやっている人たちに、仲間意識を抱いていることは確かなようで、ネット上などでそういう批判ばかりが拡散する傾向にあり、中には悪質なデマのような効果もあるらしく、その内容に共感する人から人へとあっという間に広がって、批判される対象の著名人たちを苦しめている場合もあるようだ。彼らにとってそれは誹謗中傷の類いと思われているようで、日々不快な思いをしているのだろうか。人気が落ち目の著名人なら、それによって世間から注目されることを目的とした炎上商法に利用できる場合もありそうだが、そんな攻撃が執拗に続けられている状況そのものが不快に感じられ、やっている人たちはざまあみろで気分はいいだろうが、そういうのを頻繁に目にする関係のない人たちには、世の中が荒んでいるように思われるだろうか。そういう行為は飽きられるまで続けられ、飽きられることがなければ、それは娯楽の類いでしかなくなって、実質的には何の効果もない人畜無害な行為となるかもしれないが、多くの人がそれを不快に感じるなら、やがてそういうことをやっている人たちは相手にされなくなっていくのではないか。他人が嫌がるようなことを執拗にやり続けていると、それが回り回ってそんなことをやっている自身に返ってくるのかもしれず、返ってこなくても次第に周囲から孤立していってしまう可能性もあり、とりあえず多数派にはなれそうもない。そして多数派になれないからこそ、多数派がやるご都合主義的なごまかしを嫌ってきれいごとをいう人たちに、狙いを絞って攻撃を繰り返し、そうすることで多数派に媚びているのだろうか。


10月6日「政党政治」

 約束は約束であって、それが守られたり守られなかったりするものだ。交渉には妥協がつきもので、結果的に約束が反故にされたからといって、それが交渉なのだから、あとは交渉結果をどう受け止めるかにかかっているわけだ。事前の約束が守られなかったと批判する人もいるだろうし、やむをえないことだと理解する人もいるのではないか。それが妥協の産物である限りにおいて、交渉に参加した人たちにしてみれば、満足している部分もあるし、不満が残った部分もあるのではないか。TPP交渉が大筋で合意したようだが、交渉参加各国の受け止め方もそんなものなのではないか。それによって劇的に何かが変わるわけではないだろうし、効果が限定的なものになるのは、それが交渉である限りにおいて当然のことなのかもしれず、これからも参加各国や他の国も含めて、様々な交渉が行われてゆくのではないか。国同士が交渉しているうちは平和な関係を保っている証拠だろうし、そうやって少しでも対立している点を確認しあっておいたほうがいいのだろうし、絶えず妥協点を探りあっておいたほうがいいのではないか。もちろんそんなことをやっても大して効果があるわけではないだろうが、やらないよりはやったほうがマシなのだろうし、そういうことを積み重ねておいた方が、双方の信頼関係が長持ちするのではないか。そうやって少しずつでも国同士の差異を縮めておくべきなのかもしれないし、そうすることが良いか悪いかとは別に、様々な面でつながりがあると、特定の国だけが勝手なことができなくなるのかもしれず、今回のTPPに批判的な人たちは、アメリカだけが一方的に得をするというわけだが、交渉で妥協した内容については、双方ともに守ることを約束したわけだから、それをいったん批准すれば一方的に反故にするのはまずいわけだ。果たして今後アメリカの議会が、協定を批准するかどうかはよくわからないが、アジアインフラ投資銀行(AIIB)設立構想を主導した中国との関係を含めて、様々な紆余曲折があるのではないか。ともかく誰を悪者扱いしようと、嘘も方便のような功利主義がまかり通っているのだから、そういうものだと理解しておくしかなく、選挙目当ての政治宣伝が嘘であったとしても、そんな嘘を真に受けてその政党に投票した人たちが愚かなのか、それとも嘘を承知で投票するのか、そのどちらでもあるのかもしれず、有権者も嘘とごまかしで生きている部分もあって、そういう部分には意図的に触れないようにしているだろうし、自分たちの都合の良い部分だけ正義を主張しても、良心の呵責など感じないのかもしれない。だから以前の選挙の時はTPPに反対していたのに、裏切られたと本気で思っている支持者などいないのかもしれず、状況が変われば主張も変わるのだろうし、そういうものだと理解するしかないのではないか。

 実際に政権与党はTPP交渉に積極的な官僚や大企業中心の産業界やアメリカの意向に逆らえないわけだから、総論賛成各論反対の意見をいかにごまかすかが腕の見せ所なのかもしれず、意見集約を図っているように見せかけながらも、あらかじめ決めておいた方向へ持って行こうとして、力の弱い反対派へ譲歩を迫って、なんとか事なきを得ようとするのだろうが、それでなんとかなっているうちはそういうやり方を押し通そうとするだろうし、反対派の中からある程度は離反者が出るとしても、郵政民営化の時のように、またほとぼりが冷めたら、復党したい人は一定数いるわけだから、大して問題とはならないのだろうか。今回の場合は離党するほどの意見対立には至っていないのかもしれず、党執行部のやることには誰も逆らえない状況となっているのだろうか。というかもはや逆らう必要もないような、挙党一致体制が築かれているのかもしれず、それだけ反主流派の力が弱まっていて、党内の政治的な駆け引きや意見集約という行為自体が行われない状況かもしれない。それだけ政治の形骸化が進んでいるということだろうか。TPPにしてもAIIBにしても政治家が何かやっているように見せかけたいのだろうが、実質的には参加各国の経済的な利害調整の場でしかないのかもしれず、民主的な政治理念とは無関係で、公共性とは無縁の私利私欲を国利国益に置き換えて、関係団体が動いているだけような様相を呈していて、そこではもはや国や企業や各種団体や特定の職業を離れた個人というのが、存在しないことになっているようで、たぶんそれが現状でのリアリズムなのかも知れないが、国家を含めた各種団体の利害が優先されて、個人としての人という概念などありはしないのかもしれず、そういう次元ではすでに神どころか人も死んでいる現状があるわけだが、人として倫理観を持って、現状について正直に語るというはありえないようで、どう語れば自分にとっても所属している団体にとっても利益になるか、という次元で語るわけで、その延長上に国益があるのだから、国益が国民全体にとっての利益というわけではなく、それは自分たちの所属している政党にとっての利益であり、またその政党と協力関係にある企業や官僚機構などの各種団体にとっての利益なわけだ。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが、政党政治と功利主義を突き詰めればそういう結果に行き着くのではないか。


10月5日「終わりなき世界」

 今や世界は慢性的な内戦地域と平和な地域とに分かれている。昔からそうだったかもしれないが、内戦地域ではいつ果てるともなく戦闘が続いていて、そこへ絶えず武器が供給される一方で、難民も大量に発生し、事態は混迷の一途をたどりながら、収束する見通しが立っていないようだ。今のところは和平へと導こうとする機運が生まれず、ただ闇雲にやっているわけではないのだろうが、アメリカやロシアやEU諸国などが、まるで害虫駆除のように空爆を繰り返しているだけだろうか。とりあえず内戦地域から平和な地域へと戦闘が拡大する気配はないようだが、平和な地域でもテロの危険が高まっていて、忘れた頃に何かが起こる程度には、世界各地でテロが起こっていることは確かだ。たぶんテロがなくなるめども立っていないだろうし、完全に世の中にテロを起こす武装組織が定着してしまった感もある。武装組織の間でも対立があるようで、国際テロ組織のアルカイダはイスラム国を非難していたりして、それに加えて昔からやっているヒズボラやハマスなどもあるのだから、それらの武装組織に資金を提供している国や企業などもありそうで、要するに戦争がビジネスとして機能していて、仕事として成り立っている限りはなくならないだろうし、軍需産業などがそこから利益を得ているわけだから、もはやそのような戦闘行為が必要悪として存在していると言えるだろうか。悪でも善でもなく、ただ戦争が終わる気配がないということでしかないのかもしれず、いったんやり始めたらあとは勝敗がつくまではやらざるをえず、しかも勝敗がつくほどには戦っている双方ともに決め手を欠き、もはやだらだらと延々と続いてゆくしかないのかもしれない。そしてそれが何を意味するわけでもなく、到達すべき目標や目的が見えてこないような様相を呈しているのだろうし、それだけ世界的にこれといって明確な政治的な理念がなく、何をどうしたらいいのかわからない状況となっているのかもしれないが、それでも金儲けの営みが絶えることはないようで、残っている目的や目標は結局それだけなのだろうか。だがそれだけのために生きていると気持ちも心も荒んでくるから、結果として内戦地域では戦闘が絶えず、平和な地域では犯罪が絶えないことになるのだろうか。少なくともそこに至る経緯や成り行きがあるだろうし、それを無視して物事を単純化して、心の問題と捉えるのは粗雑すぎる考え方だろうが、全てを資本主義のせいだとしても、それによって世の中が成り立っているのだから、それもどうしようのもないことなのだろうし、やはり解決の糸口も出口も見えてこないような状況なのだろうか。

 それについて考えようとすると、どうしても理由や原因を探そうしてしまうわけだが、それがないなんてことがあり得るだろうか。アフガニスタンにしてもシリアやイラクにしても、内戦に至った理由や原因がはっきりしているわけで、そんなことはわかりきっているのかもしれないが、では内戦が終わらない理由や原因はなんなのか。大国が軍事介入して事をこじらせてしまったのだろうか。でも軍事介入する理由や原因もあったわけで、そうなってしまった理由や原因などいくらでも特定できそうだが、それをいくら探してみても、現状を変えることはできないのだろうか。それとこれとは違うわけで、ただそれについて語るにはそうなった理由や原因を指摘しなければならなくなり、そうすることによって、それについて語ることができるわけだが、語ったからといってそれをどうすることもできない。それでも一応はこれからどうすべきか提言することはできるわけで、たぶんそんな提言や指摘もいくらでもなされているのかもしれないが、現状では一向にそれが改まることはなく、今後ともそんな状態が続くなら、そんな提言も指摘も無効だと言えるだろうか。結局は理由や原因の探求も、それを改善するための提言や指摘も、全ては現状の分析から生じていて、現状なしにはありえないわけで、現状に依存することで導き出された答えの類いなのだろうから、現状から離脱することはできないわけで、もちろん離脱する必要もないわけだが、現状の中で行為し動作している人たちができることは、現状の中で戦うか現状から逃げるかのどちらかしかなく、戦っている人たちは日々戦闘の最中だろうし、そこから逃げる人たちは難民となって安全地帯を目指して移動中のわけで、それも現状に対する解決法であり答えなのだろう。全ては現状の中でつながっていて、それが現状を表しているわけだが、そんな現状を変えるにはどうすればいいだろうか。答えはすでに出ている。現状を分析してそこに至った理由や原因を導き出して、これからどうすればいいか提言したり指摘する人々やメディアが一方にいて、和平の可能性を探る政治家や国家も一方にはいるだろうし、また現地で戦っている武装集団がいて、それを空爆する大国があり、そして逃げまどう人たちが難民となって国外へと流出し続けていて、さらにそれらの現象を傍観している人々がいるわけか。中には被災した人たちの支援活動をしている人たちもいるわけで、そんな活動に資金提供をしている人や団体もあるわけだが、そんな現状を前にして、テロに屈しないなどと言い放ってみても、何の意味もないことは確かなのかもしれない。


10月4日「批判の有効性」

 考えられることはたかが知れていて、人はどこまでも愚かかもしれないが、愚かなりにも考え、考えたことを実行に移しているつもりになれるだろうか。少年漫画の世界のように、そう都合よく強大な敵が現れて、それとの戦いをエスカレートさせていくうちに、なにやら必殺技のごとき攻撃手段が編み出されるわけでもない。何かと戦っているつもりになっても、相手にされていないことも多いだろうし、誰かがメディアによって注目を浴びると、それが面白くない人も大勢いることは確かなのだろうが、安保法案の反対デモを呼びかけた人たちの中で、たまたま学生のグループが注目を浴びて、他の大勢の人たちがそれに乗っかって、その運動が全国規模の盛り上がりを見せるようになったと考えておいた方が、特定の政治勢力による陰謀だとして攻撃するよりは、差し障りがなく無難なところだろう。実情がどうであれその程度のことだと見なしておいた方が、注目を浴びてしまった学生のリーダーのためにもなるだろうし、別にその人に大衆を扇動するための特異な才能などがあるとは思えないし、それほどはっきりした行動原理が運動方針などが固まっているわけでもないだろう。それを大げさに取り上げて賞賛したり批判するのは、メディアの誇張表現なのだろうし、もちろん世間の注目を浴びたわけだから、そうなるのが当然の成り行きかもしれないが、メディア関係者でない人たちなら、取り立てて問題視するようなことでもないだろう。彼らと敵対しているつもりの人たちはそうはいかないのだろうが、流行り廃りのブームは飽きられたら終わりで、話題性がなくなればさっさと忘れられてしまうだろう。それがたとえ政府が理不尽な法律を成立させて民を苦しめていると思われようと、それをいくら批判しようと糾弾しようと、どうにもならないのではないか。そのような忘却に手を貸すメディアなどいくらでもあるだろうし、実際にそれらの反対運動はそんな作用にさらされているのかもしれない。終わったことは終わったこととして、別の話題にすり替えたいのではないだろうか。そんな忘却作用に逆らいながらこれからも運動は続けられていくだろうが、果たしてそれが選挙結果に結びつくかどうかは、政財官プラス御用メディアが世の中を牛耳っている現状では、なんとも言えないところか。本当にそんな現状なのかどうかもよくわからず、批判的な言説の中でよくそういうことが言われるだけで、案外牛耳っているという程度が、どうでもいいような範囲内でそうであって、それとは無関係なところに意識がある人がほとんどなのかもしれず、例えばマイナンバー制度というのも、それによって国民の生活情報が管理され、官僚が国民を支配するための道具となる、と恐怖感を煽りながら批判する人たちがいるわけだが、そうやって大げさに騒ぎ立てようとすればするほど、実態や実感とはかけ離れて、やはり飽きられ忘れ去られてしまうのかもしれない。

 たぶんそれらの批判が必ずしも的外れなのではないだろうが、安保法案やマイナンバー制度、あるいは派遣法の改正にしても、恐怖感を煽って批判するやり方そのものが、平和な世の中で弛緩しきった人々の心に響かないことは否めず、ではそれ以外にどんな批判が可能かといえば、要するに批判が有効に機能しない状況なのではないか。しかもたとえ有効には機能しなくても、批判しなければいけない状況なのだろうか。批判している人たちにとってはそうであり、無関心な人たちにとってはどうでもいいわけか。どうでもいいわけではないのだろうが、大したことではないと感じていて、自分にそれほど害はないと思っているのかもしれない。そうでなくても何をやるにしても使うにしても利用者登録などの登録が必要で、その度にアンケート調査のような類いがついて回り、カード会社や通信業者からスーパーのポイントカードまで、世の中の様々な場面で情報の管理がついて回り、すでに管理社会の真っ只中に生きているわけだから、その中の一つとして国家からの管理も強化されようとしていて、実際に個人情報が管理されているわけで、管理されることについては実際にそれがもとで事件に巻き込まれるなどしなければ、恐怖感も実感もわいてこないのが正直なところかもしれず、何もなければ何とも思わないのは当然だ。そういう性質の統治であり、全体主義や恐怖政治などとは違って、直接の痛みを伴わないやり方なのだろう。そして直接の暴力を伴わずに国民を管理できれば、そんなに楽なことはないのかもしれない。そして国民の方も統治されているという実感がわいてこなければ無関心となり、どちらにとっても有益に思われるのかもしれず、恐怖感を煽って批判する人たちは、そういうことがわかっていないというか、彼らもそれに気づかないほど実感が湧いてこないのではないか。だから批判が有効に働かなくなってしまうのだろうか。全体主義や独裁体制のもとでは、そういう批判をすると処罰の対象となるから、やるには勇気がいるだろうし、実際にやって処罰されたり処刑された人たちも数知れずかもしれないが、そうではない体制のもとで同じような批判をしても、処罰の対象にもならず、確か学生のリーダーは殺すと脅迫されているらしいが、体制側からの言論弾圧はそれほどあからさまではなく、命の危険にもさらされないはずなので、いくらでも批判できるわけだが、いくらでも批判できるということは、それが無効だからいくらでもやることができるのではないのか。


10月3日「資本主義」

 物事を単純に考えれば単純に判断できる。たぶんそれで構わないのだ。政治的な判断は賛成か反対で構わないだろうし、好きか嫌いでもいいわけだ。後から適当な理由をつけて、その判断を正当化しても構わない。ただそういう主張によって他人を説得して、その意見や判断を変えようとするのには困難が伴うだろうか。自分だけがそう思っている分には、いくらでも思い込んでいられるかもしれないが、それを他人に押しつけようとしても、意見が合わなければ拒絶されるだけで、論争をやればお互いに譲らず、議論が平行線に終わるしかないだろう。結局その信奉している意見や主義主張が変わるのは、周りの環境が変わって、もはやそれを信じられなくなった時だけだろうか。例えば人々が資本主義を信じられなくなるのは、実際に資本主義では生活が立ち行かなくなるか、それによってひどい目にあうか、そういう実体験がなければならず、資本主義の限界や矛盾を指摘した書物を読んだぐらいでは、その信仰は揺るがないのかもしれず、資本主義的な環境の中で、働いて給料をもらって、それで生活が成り立っている限りは、頭ではその限界や矛盾がわかっていても、その恩恵を受けている当の制度から抜け出すことはできないし、無理に抜け出そうとしなくてもいいのではないか。ではどうすればその限界や矛盾を克服できるのか。克服はできないが、幻想を抱くことならできるだろうか。例えば政府が公的資金を活用して株を買い支え、株価が下落しないように歯止めをかけているとすると、それによって資本主義が円滑に機能しているように幻想を抱くことならできそうだが、実質的にはその限界や矛盾を、ごまかしによって隠蔽していることになりそうだ。また建設国債を発行してその資金で公共事業を行い、民間の土木建設業者が倒産しないように仕事を発注するのも、資本主義だけでは経済がうまくいかなくなることを物語っているだろうか。それも資本主義を補完するための制度と見なせばいいわけで、政府が公的資金を注入することで、大手銀行などの金融業者の倒産を防いだりするのもそうだし、逆に国が債務超過となって財政破綻すれば、金融機関が貸し付けている債務を、圧縮したり棒引きしたりするのだろうから、その意味で国家と民間の企業は、持ちつ持たれつの関係で結びついているわけだ。そういう関係を抜きにして、ただ資本主義を人々を搾取する悪者呼ばわりしても、そこに限界や矛盾があるにしても、そう簡単に覆すことはできず、何か別の新たな制度を人為的に導入するわけにはいかないのであって、結局はうまくいかなくなるたびに、そこにケインズ主義などの補完的な手法を付け加えてきたのが、歴史的な経緯なのだろうし、現状で様々な方面で囁かれている公的資金による株価の買い支えにしても、その一環だと捉えるしかないようだ。

 今後もどうにもならなくなるたびに、何かごまかし的な手法を駆使して、国家と資本の相互補完の関係を保とうするだろうが、果たしてそれがいつまでも未来永劫続くだろうか。それをやっていけば自ずからわかることかもしれず、続かなくなるとすればその時が来たらわかるのではないか。そうなるまでは人々はその限界や矛盾に苦しめられそうだが、それがあるからこそ、それを利用して富める者は大いに富むのかもしれないし、政府も欺瞞的なごまかしをやらざるをえないだろう。そしてそれを指摘して批判する者も相変わらず後を絶たないだろうが、批判者に何ができるかといえば、せいぜいが批判の書物を著わすことぐらいだろうか。中には資本主義に代わる制度を実践しようとしている人もいるかもしれないが、今のところはそれが広まったという話は聞かないし、前世紀の社会主義的な試みも、すでに下火となってから数十年が経過しているはずだ。そんな現状からこれまでの歴史的な経緯や現状の延長上で考えられるのは、欺瞞的なごまかしや補完的な手法を駆使しているうちに、資本主義的な制度自体が変容していって、その金儲け的な性質が根本的に様変わりしてしまう可能性だろうか。要するに物や情報を売り買いしても儲からなくなってゆき、物や情報を生産して販売するための必要経費を差し引くと、利益が出なくなる状況というのが、いずれは全世界的に到来するのではないかと言われているわけだが、それがいつやってくるかはわからないだろうし、いつまでもやってこないかもしれない。例えば各国の中央銀行が絶えず余分に通貨を発行し続け、かつ商品の価格が未来永劫値上がりし続けて、値上がり分が通貨発行量の増加分で釣り合えば、未来永劫物や情報の売り買いによって利益が出続けるだろうか。そんな単純なことではないのは確かなのだろうが、実際にインフレターゲット論などはそれに類似した手法なのだろうし、それもごまかし的な手法なのか補完的な手法なのかわからないが、時間的にも場所的にもどこからでも利益を得ようとするのが資本主義であり、それはリーマンショックをもたらした金融工学などにも言えることで、その方面の有能な人たちが常に金儲けの手段を模索しているわけだから、簡単に終焉を迎えるような性質ではないことは確かだ。


10月2日「自明性」

 何が重要というわけでもなく、誰がどのような役職についていようと、そこでどんなことをやっていようと、そんなことはそれほど気にならないものだろうか。会社であれ役所であれ、普段から接する機会がなければ気にかけないだろう。そこにそのような機構があって、何かしら組織や団体として活動しているなら、それなりに機能しているわけだが、そんなのが世の中にいくらでもあれば、その地域はそれなりに繁栄しているのかもしれず、そうやってそこに住んでいる大勢の人達が活動しているのだろう。それ以上のことではないわけだが、どうもそれでは済まないわけで、何かそこに思惑があって、その思惑通りに事が運ぶと、何か良いことがあるかもしれないと期待するわけで、何も見返りが期待できなければ、活動している意味がないだろうか。無意味かもしれないと思いつつも活動している人はいるかもしれないが、組織や団体となるとそうもいかないだろうし、ボランティアでなければ、そこで働いている人たちに賃金を払うことになるわけだ。そうやって人を働かせないと世の中が回っていかないのだろうし、働かざる者食うべからずの建前を、守らせるような成り行きに持って行きたいわけだろうが、人が嫌がる仕事をやりたがる人がなかなか集まらない現状を変えるために、誰かが何かうまい方策を思案中なのだろうか。そんなものを考えなくても、他で食いっぱぐれた人たちが、働かないと食っていけないから、やむをえずそんな仕事を嫌々やる羽目になるのかもしれず、そういう人たちが世の中の底辺で働くことで、社会がなんとか成り立っているのだろうか。そんな仕事をなくす努力というのが、どこかで行われているという話は聞いたことがないなら、そういう仕事があること自体が、元から世の中が格差社会であることを物語っているのかもしれないが、それが自明のことであるという前提で、政治的に格差社会をなくすにはどうすればいいかなどと議論されているようなら、要するにそれは欺瞞なのだろうが、偽善や欺瞞がないと世の中が回っていかないことも確かかもしれず、一方でそれを赤裸々に告発して、社会の暗部を暴いてみせるメディアなどもあるわけで、そういうメディアはそれをやることで商売しているわけだから、それをやったところでどうにもならないとすれば、そのような行為も一種の欺瞞だと言えるのではないか。もちろん人が嫌がる仕事も本当にやり手がいなくなれば、そんな仕事はなくなるだろうし、なんとか工夫を凝らして、嫌がるような作業をできるだけなくす方向で、改善が図られるだろうし、実際に絶えずそういう方向で努力が払われているのかもしれない。

 逆に人がやりたがる仕事には応募者が殺到して競争率が高くなり、なかなかその仕事にありつける人は少ない現状だろうし、そういう面でも人々の間に格差が生じるわけで、人気のある職業に就いた人は、その人の努力と才能と強運のおかげだという正当化も可能だから、それも欺瞞だとは思わなければ、人の職業にも格差があることを肯定できるだろうか。人気のある職業にありつけた人は、おごり高ぶらずに謙虚な気持ちを失わなければ、職業に人気があるだけに、他の人々からも注目されて、メディアが目をつけてその人のことを伝えれば、著名人となれるかもしれず、そうなると自己満足に浸れるだろうか。少なくとも悪い気はしないだろうから、なんとなくそれが望み通りの結果であったような気もするのではないか。社会的に人気のある職業であるからそこに多くの人をひきつけ、その職業に就けた人は周囲から羨望の眼差しで見られることで、当人もその気になって何か大それたことができるような錯覚が生じるのかもしれず、実際にそれを成し遂げようとするとき、その人にあたかも権力があるように見られるだろうか。大勢の人の中から選ばれた人が政治的な権力を振るうのは当然という認識が、人々の間に広がり定着しているとすれば、それはそのような経緯から生じていることで、そのような経緯が制度として社会に定着したのが、選挙であり議会制度や大統領制などの政治制度だろうが、果たしてそれが自明で当然のことだと思い込んでも構わないのだろうか。社会に定着した何らかの制度を自明のこととして認めた上で、そこから議論を進めようとすると、その制度をやめるという発想には行き着かないのではないか。例えば選挙をやめてくじびき抽選にするというは、そんなのは荒唐無稽で絶対にありえないことだと思い込めば、はなから選択肢にさえならないわけだが、それが社会の常識という偏見なのかもしれず、人々を捕らえて離さない認識というのは、それをどれだけ自明のことと思い込んでいるかに依存しているのかもしれない。事故の影響でその自明性を疑問に思う人がだいぶ増えてきてはいるだろうが、今でも原発推進派にとっては、原発をやめるなんて絶対にありえないことだろうし、また日本の有権者の大多数は、共産党が政権を取るなんて絶対にありえないと思っているはずだ。そして真に世の中が変わってほしいと思うなら、それはそのような社会がもたらす、思い込みや偏見の原因となっている物事の自明性を取り払って、どれほど多くの人が公平な判断ができるかにかかっているのではないか。


10月1日「判断」

 何かに気づくとき、一瞬それが勘違いかと思うのだが、よく考えてみれば、やはりそれでいいような気がして、心の中で迷っていることは確かだとしても、それを決断する成り行きに引きずられて、気がつけばそんなことをやっているわけだ。たぶんそれでよかったはずであり、いまさら後悔する気にはなれないのだろう。それが些細なことであれ、深刻かつ重大なことであれ、やってしまった後からそんなことに気づき、理由もなしにそのような行為に及んだわけでもないのだろうが、やはり後から思えば不思議に思われるのかもしれない。人はそこで何に気づくのだろうか。気づくより先に行動している自らに気づいているわけか。やっていることがうまくいけば、それで構わないのだろうが、うまくいかなければ、先走らずにもっと慎重に事を運べばよかったと後悔するわけか。だが今の境遇からすれば、それほど勘が冴えているとは思えないのではないか。論理的に物事を考えているからうまくいくわけでもなく、感情的な好き嫌いだけでここまでやってきたわけでもないだろう。では何が良くて何が悪かったのか。要するに現状では、うまくいくはずのない機会と時間を与えられていると見なせば、納得がいくだろうか。一応はそうではないと思って、何かをやってみるべきなのだろうが、やったからといってたかが知れていて、何か画期的なことができるわけでもなく、これまで通りの延長上で、その場の思いつきで、何か新しそうなことを付け足せればいい方だろうか。だが思いつきのほとんどはくだらないことで、それが何に結びつくとも思えず、ただ無駄で意味のないことを、思いついた端から忘れてしまうようなら、何をやってもうまくいかないのは自業自得と言えるだろうか。そこまで症状が進行すると、もはやうつ病の類いかもしれないが、自覚症状があるわけではなさそうだ。実際には何をやっているわけでもなく、何を考えているわけでもないだろうが、ただそんなとりとめのないことを空想しながら、物思いにふけっているのかもしれず、世の中のすべての成り行きが他人事のように思えてくるのだろうか。結局いくらでも考えることはできるが、考えているだけではらちがあかず、暗中模索しようにも模索する対象がない状況なのかもしれず、何か考えているつもりが結果的には何も考えられずに、暇に任せて過去の記憶をひたすら反芻する日々へと追いやられそうになるが、機会をとらえてそこから離脱して、何か新たな考える対象に巡り会いたいのだろうか。

 どうもそうではないようで、考えるべきことはあらかじめ決まっているのではないか。何が決まっているのかといえば、それは興味の向く対象であり、それはいつでも自分を取り巻く世の中にあるものかもしれず、心の中も世の中の反映だと考えれば、人はいつでも自らが体験しつつある世の中について考えていることになるだろうか。いつでもというわけでなく、それを意識するのはたまにかもしれないが、その際できるだけ考える手間を省きたい人も結構多いのではないか。メディアから入ってくる情報の中で自分の嗜好に合うものだけ取り入れて、そうでないものは意識の外に排除する。それで何かを考えているように錯覚しているかもしれないが、他人の考えを自分の考えであるかのように思い込む現象はよくあることだろうか。それは共感や同調という意識の作用がもたらす現象かもしれないが、ではそれ以外に何か自分独自の考え方を模索できるのかといえば、そもそもそんなことができるわけがなく、人は他人を真似ることしかできないのかもしれず、真似しながら真似しやすいことと真似られないことをより分けながら、なるべく安易に理解できることを取り入れようとする傾向にあるようで、その最たるものが他人を敵と味方に分ける考え方で、それは味方を肯定して敵を否定するという単純明快な思考なのだろうが、物心ついてから自分が育ってきた環境の中で、身につけた思考の枠組みを離れるのは容易なことではなく、いったん出来上がってしまった人格が、そう簡単に変容することがないように、そういう人は自分が育んできたつもりの人格の中で、自意識が安住している場合が多く、そこで固定化された自己から離れて冒険するわけにはいかないのだろう。そんな風に思っている自らを絶えず正当化する癖がついてしまえば、その人が真似ている思考以外の考えを受け入れることは不可能なのではないか。そこで止まっていると真似ている以上の何かを模索する気がなくなり、絶えず心の中で真似ている思考の論理を繰り返し反芻し続け、それと異なる思考を無視して、敵対する思考を否定することだけが生きがいとなり、中でも他人を敵と味方に分ける思考の興味の対象は、常に敵対する思考に向かうわけだが、それはいつしか論理的に正しいか間違っているかではなく、愛憎の対象となっているわけで、敵を憎んで味方を愛するという、これまた単純明快な感情の問題となってしまうわけだが、それ以外に何が考えられるだろうか。敵や味方に対する愛憎を抜きにして、ただ論理的に正しいか間違っているかを言えばいいだけだろうか。だがその論理というのが、正しいか間違っているかで判断できるものなのだろうか。あるいは論理的に正しいという判断が本当に正しいのだろうか。さらに正しいことを果たして肯定していいのだろうか。他人を敵と味方に分けたり、正しいか間違っているかで判断することが、果たして万人に推奨できるやり方なのだろうか。たぶん現実の世の中では、人それぞれの立場やその時の状況でも、判断が違ってくる場合がほとんどなのかもしれない。