彼の声11

1999年

3月30日

まあ他人事ですけど、ユーゴスラビアも大変ですね。NATO諸国も、まさか空爆を始めた途端、コソボのアルバニア系住民に対する弾圧がいっそう激化するとは、まったくの予想外だったでしょう。セルビア人側からすれば、してやったりですか。ざまあ見ろ、と叫びたいところですか。しかしこの代償は後で高くつくかもしれません。ボスニア紛争の時もひどい残虐行為を繰り返していたらしいですから、セルビア人は悪魔の民族、なんてレッテルが張られかねないような気がしますけど、どうなんでしょうか。しかしそれは私が日本人だからそう思うのであって、案外欧米人にしてみれば、異教徒であるイスラム教徒がいくら殺されようと何とも思わないのかもしれませんが(恐いですね)。それにしても、第一次世界大戦後に当時のアメリカの大統領が掲げた一民族一国主義みたいなスローガンが今ごろになって紛争の火種となって、それを今のアメリカの大統領が事態の解決にあたらねばならないのは皮肉なめぐり合わせですね。ま、今までの経過を見るならば、事態はこじれにこじれ、結局は多くの人々が不幸に陥るだけなような気がします。アメリカが推進するハイテク戦争にも限界はあるということじゃないですか。今のところ、味方の被害は少なくて済む代わりにアルバニア系住民の血が流される、という結果に終っているわけですから。もちろん結果論をいえば、軍事力の圧倒的優位を過信しすぎて、いささか和平交渉を強引に進めすぎた、といえるでしょうが、いまさらこのような批判をしたところでどうなるものでもないし、案外こういう事態も欧米諸国の計算の内かもしれなくもないです。セルビア人側に残虐行為をやらせるだけやらせて、それをニュースメディアを使って世界中に行きわたらせ、ユーゴに対する非難のボルテージが最高潮に高まったところで、地上部隊を投入して一気に叩いてとどめを刺す、なんて成り行きにでもなりますかね。それとも、そんなことやったら今和平の道を探っているロシアの大国としての面目丸潰れでさらに険悪な雰囲気になっちゃうから、両者痛み分けという結果を装うために玉虫色の決着を目指して落しどころでも探しているのでしょうか。あっ、これは多分に日本人的発想ですね(それはないか)。

それから、関係ないけど、ノストラダムスの大予言が的中しましたね。以前日本テレビの特命リサーチ200Xとかいう番組でやっていたんですけど、中世フランスが専門の学者さんが言うには、1999年7月に何かが起こるというのは当時のフランス語を誤訳した間違いであって、本当は1999年3月に何かが起こるということだそうです。実際に起こったじゃないですか、空から恐怖の大王ならぬ、NATO軍の空爆が行われたじゃないですか(笑)。


3月24日

ああ、日本海で不審な船を発見しちゃってニュースで騒いでますか。やっぱ、北朝鮮のスパイごっこなんですかね。自衛隊が威嚇射撃して活躍しちゃいましたか。でも今のところ撃沈だとか拿捕だとかの実力行使はやらないみたいだし、あんまり事を荒立てようとはしないようですね。とりあえず意味不明な挑発には乗らずに大人の態度なわけですね。まあ、韓国の金大中大統領なんか潜水艦を撃沈しても宥和政策を堅持して大人の態度をとっているのだから、マスコミの皆さんはともかく日本政府もあんまり調子に乗って騒げませんよね。いいんじゃないですか、その程度で。おかげで有事の予備訓練は一応できたことだし、自衛隊にもたまにはお仕事させないとね。まあ自然災害における救助活動よりは軍事訓練になりますか。一方、北朝鮮は北朝鮮で軍隊ばかり肥大化しているようだから、スパイごっこでもさせて軍人を遊ばせておかないとやることがなくなっちゃうんじゃないですかね(笑)。まあ、農作業よりは軍事訓練になりますか(爆笑)。それぞれお国事情があるわけですね。ま、どっちにしろ、ユーゴスラビアよりはまだ平和だってことじゃないですか。


3月23日

なんと今回からmuleを使ってこのページを書いています。実は来月に届く予定のDOS/Vマシンに入れるOSを何にしようか迷っていて、とりあえずUNIX系OSを使う場合を想定して、今からFreeBSDとmuleで少しでもPC-UNIXの操作に慣れておこうとしているわけです(笑)。まあどのようなOSを使うにしろ、モニターをもう一台買うまではしばらくこのPC-9821Xsとはお別れになるし、当然Win95も使わなくなるでしょうね。でも、夏までには買う予定のノートPCでWin98を使うかもしれません。案外見栄を張ってPowerBookを買ってWindowsとは永遠におさらばしちゃったりして(笑)。それでもPowerBookのMacOSにはしつこくIEなんかが絡み付いてくるのかな(爆笑)。一旦掴んだ顧客は絶対逃さない、PC業界のゾンビかジェイソンか、はたまた執念深い大阪商人か、私ごときが偉大なるアメリカ資本主義の寵児であるビルゲイツの魔の手から逃れることは到底不可能なのか(嘘)?

話は変わって、今、東京都知事選挙が話題となっていますが、このところ一週間の内で火曜の昼から水曜の午前中にかけての僅かな時間しか居ませんが、私も一応は東京都民なので不在者投票にでも行こうかとは思っているんですが、さすがに大方の人と同じようにあんまり積極的に投票しに行く気にはなれませんね。もちろん過去のどの選挙においてもそうだったのであり、選挙権が生じた年齢に達した時には既に選挙に対して何の幻想も抱けない人間になっていたわけですが、それはそれで民主主義を信じて希望に燃えて選挙で騒いでいる人々よりはいくらかましなことじゃないかとは思います。もし投票に行ったら、私は、今回も共産党が推薦している真面目そうで偽善者らしい人に投票するのでしょうけど、まあ希望としては、石原慎太郎あたりが当選したらいいんじゃないかと思います。そして『NO!と言える日本』とかその他それに類する数々の著書で、さんざアメリカに対して「宣戦布告」みたいな大口を叩いて来たんだから、知事となって政治家として今までの自分の言動に対してきっちり落し前をつけてもらいたいですね。確か米軍横田基地の返還を公約として掲げているそうですから、もしそれがトーンダウンしようものならマスコミ各社や各政党および東京都民は、彼に対して一斉に非難の集中放火を浴びせるべきです。各出版社は一致団結して、二度と偉そうなことが言えないように彼の作家生命を絶つべきです。そうしなければ今後きっと似たような口先だけやペン先だけのインチキ野郎が出現し続けてしまいます。それでもいいと言うのなら、もはや言うべきことは何もありませんが、実際、そういうインチキ野郎を批判し続けてきた月刊誌『噂の真相』の全購読者よりも多くの有権者が石原慎太郎や舛添要一に投票するのでしょう。たぶんこのような現実はこれまでもそうであったし、これからもずーと続いて行くような気がします。


3月16日

 どこかで聞いたような台詞から遠く離れて独創的な言葉を紡ぎ出すなんて、所詮あなたにはできっこないんですよ。いくらこけおどし的パフォーマンスでその場限りの気をきかせたつもりの言辞を弄してみても無駄です。結局は苦し紛れの突飛なギャグに頼るしか道は残されていません。しかもそれは使う度に感性が擦り減っていく一発ギャグでしかありません。そう、下り坂をまっしぐら、だんだんマンネリ化していき、ついには沈黙の重圧で押しつぶされて呼吸すらできなくなるでしょう。つまりあなたは死ぬのです。窒息死です。沈黙に支配された人間。永遠の眠り。口がきけない。言葉がしゃべれない。土色の顔、うつろな目つき、瞳孔が開いている。でも逃げ道は一応あります。他人の言葉をかっぱらってくればいいわけです。他人の言葉を受け入れること、しかしそれは自分でなくなること、少なくとも今までの自分ではなくなります。つまり今までの自分を殺すこと。そういう言い方は嫌いですか?新たに自分を生かすとでも言えば安心するのですか。そんなくだらない言葉遊びをしていれば少しは気が紛れますか。そんなの嘘です。もちろん以上に述べた話も嘘です。単なるフィクションです。たとえ話。何の?知りませんね。たとえがないのにたとえ話をする、まったく無責任な文章です。矛盾しています。矛盾しているのではなく根本的に間違っているのです。語るべき対象がないのに語り始めてしまう。そうやって話を続けようとする。悪あがき以外の何ものでもない。見苦しいですね。しかし続けてしまうわけです。

 つまらないですね。こんな感想も嘘です。しかし何かに頼っているのです。それはまなざしです。私の虚構のまなざし。無限遠の彼方から見つめているのです、あなたを。この、あなたと私の間に横たわる無限大の距離が私を安心させる。直接対峙するのを避けるこの距離、この間接的な関係がこの文章を書くことを可能にする。しかも、それほど遠く隔たっているのに、いや、それほど遠く離れているからこそ、あなたを傷つけることが可能となる、言葉によって攻撃することができる。ずるいですか?直接会って面と向かって批判してみろですか。馬鹿ですね、それは負け犬の遠吠えですよ。あなたは私を非難することは出来ません。無理です。私とあなたの関係は、私があなたをただ一方的に批判する、時には馬鹿にしたりおちょくったりする、そういうどこまで行っても一方通行の非対称な関係なのです。こうした関係は未来永劫崩れることはないでしょう。あなたが私を非難する機会は永遠に巡って来ないのです。あなたができることといえば、ただ誰かを批判しているようにほのめかすことだけ、でもそれはどこまで行っても「ほのめかし」でしかないし、その対象はどこまで行っても「誰か」でしかないでしょう。決して私への直接の批判たり得ません。情けないですね。でも中にはそれで悦に入っている奴もいる。何かガツンと言ったつもりになっている。まさかその程度の批判が私に届くとでも思っているわけですか(笑)。そんなレスポンスなどただの残響にしかすぎません。無視です。そうです、あなたも無視すればいいのです。ただ無視していればいいじゃないですか。私の文章など読まなければいいんですよ。読んでも素知らぬ顔をして無視してくれれば何も問題はないじゃないですか。え?それができないだって?じゃあ今まで通りですね。こういう関係が続いていくだけですよ。それじゃイヤですかぁ?困りますね。でも安心してください、そのうち消えてなくなりますから。こんなものほんの一時の磁場の歪みでしかないでしょう。すぐに何事もなかったかのように平静さを取り繕うのでしょうし、平和で退屈な日常がいつの日かまた戻ってくることでしょう。それまでの辛抱です。

 以上、今回は自意識過剰な私の心情吐露をお送りしました(はずかし〜い!)。でもこれくらい書いておけば、これを読んでくださるどこかの誰かさんも少しは喜んでいただけたかな。こんなふうに私の脆弱でアンビヴァレントな心の内がむき出しになれば、不快な気持ちも多少は治まって溜飲が下がっちゃいますかぁ?おまえも結局はその程度の奴だよ、とか。ま、本来なら、こういうクサい告白は嫌いだし、書きたくないのですが、下準備も何もしないでその場その場でいきなりぶっつけ本番で書かなくちゃならないんで、たまにはこういう自分自身がウンザリするような“自意識”が図らずも出てきちゃうんですよね。でも、時々こうやって心に溜まった膿を出さないとやってられないです。もしかして、今後そればっかりになっちゃうかもしれませんが(笑)。


3月10日

 しかし短期金利が0ですよ。もう日銀も破れかぶれで経済見通しも常識も理論もへったくれもあったもんじゃないですね。一方アメリカでは相変わらず空前の株高状態だし、なんかヤバイんじゃないですか、これから。まだあんまりみんな騒いでいないですけど、今まさにレッドゾーンに突入状態じゃないですか。これからどうなるのか、なんか期待の高まりでワクワクしてきました。もう何が起きてもおかしくないですよ。こりゃもしかして共産主義者の崇高な夢想が実現しちゃうんですかね。やっぱ、世界同時革命の勃発ですかぁ。それとも、これも一つの「ノストラダムスの大予言」が実現しつつある証拠なのでしょうか。でもまあ、どちらにしろ人間社会で起こっていることなんて大したことないですね。要するにコップの中の嵐にすぎません。ワクワクしているなんて本当は嘘です。では人間社会の外に何があるのか?外?神々の世界か?それも大したことないですね。神なんて所詮張りぼての偶像でしかないんですから。では大自然の脅威か?それは人間社会自体でしょう。大自然とは人間が構成した風景のことです。例えばクジラの世界は?それは海の中の世界でしかないです。人間が勝手なロマンを抱いているだけ。では、例えば石の世界。重力によって圧縮されたり、摩擦によって削られたりする。物理的次元での話。力学法則という人間の思考から構成される世界。知的生命体?そんなもの単なる物質の集合体。複雑な化学反応で動いている。それも人間の思考の範囲内。ま、想像力の限界とはこういうことなんでしょうね。……ああ、また嘘っぱちを書いてしまった。


3月9日

 先週、その前の週に買った『[月刊]ジャバワールド』4月号の付録CD-ROMからJava2(JDK1.2)をインストして、試しにソースファイルのmandelb1.javaMandelbFinder.javaをjavacでコンパイルしてみたら、後者のほうはプログラム自体が古い様式なので警告メッセージが出ますが、一応両方ともコンパイルしてくれるし、Communicator4.5でちゃんと動くじゃないですか。な〜んだ、もしかしてJDK1.2で新たに加わった機能を使わないかぎり大丈夫なんですかね?それともJDK1.2をインストするとPlug-inか何かでブラウザが自動的にJDK1.2対応になるとか?よくはわかりませんが、なんとなくまたJava遊びを再開したくなりました(笑)。

 それで、『ジャバワールド』を読むかぎり、私のレベルなどはまだまだ初級者もいいところですが(上級者はJavaでサーバ用アプリケーションを作るらしい)、自分の体験からいってJavaに興味があってもなかなか取っ掛かりがわからない人が結構大勢いるような気がするので(Winユーザーだと、ソースファイルXXX.javaを作る時に拡張子.javaがつけられなかったり、MS-DOSプロンプトでの操作方法がわからなかったりしちゃうんですよね)、今回はそんな人のために、Windowsユーザー(私自身は来月あたりでWinユーザーでなくなってしまうかもしれませんが、今のところWinユーザーは多数派でしょう)のための“Java初級者によるJava遊び初級編”をお送りします。

 まずは、プログラミングをする上で欠かせないJDK(Java Developers Kit)の入手方法ですが、付録CD-ROMにJava2(JDK1.2)が入っているコンピュータ雑誌を購入してCD-ROMからインストールするのが楽なんですが、適当な雑誌が見つからない場合はこちらからダウンロードすればいいわけですが、サイズが20Mバイトもありますから、かなり時間がかかるでしょう。

 それから、実際のプログラミングについては入門書や参考書を活用すればいいんですが、ソースファイルXXX.javaを作る時に、適当なエディタ・ソフトをインストしていない場合は、アクセサリでついている「メモ帳」よりは「ワードパッド」で作るほうが見やすいしわかりやすいです。ただし作る時には少しコツがいります。いきなり新規作成でファイルを作っちゃうとファイルを保存する時に拡張子.javaをつけても、XXX.java.txtとかになっちゃってうまくいきません。そこで、インストしたJDKの中から拡張子.javaのついたファイル(JAVAファイル)を探し出してデスクトップ上にでもコピーして、その中身をワードパッドで書き換えるやり方をとります(JAVAファイルはjdk1.2/demo/applets/の中にたくさんあります)。またファイルを保存する時には、「名前を付けて保存」を使うとたちまちテキストファイルになっちゃうので、必ず「上書き保存」を使います。便利な使い方としては、デスクトップ上にでもマウス右ボタンクリック・新規作成で適当な名前のフォルダを作っておいて、その中にワードパッドで中身を全て削除した空のJAVAファイルを元ファイルとして保存しておいて、必要に応じてそれをコピーしてファイル名を変更して(コピーしたファイルのアイコン上にマウスの矢印をもってきて右ボタンクリック・名前の変更)使えばいいと思います。

 そして、ソースファイルを作ったらそれをコンパイルしなければならないんですが、ここから先は、あまり出来はよくありませんが、上に示したmandelb1.javaとMandelbFinder.javaを使って説明しますから、試したい人は上の下線付きのファイル名をクリックした後、ブラウザの左上の「ファイル」の項目をクリックして、「名前を付けて保存」でとりあえずデスクトップ上にでも二つのファイルをダウンロードしておいてください。そしてC:ディスク上(以下古いPC98だとA:ディスク)にtestという名前のフォルダを貼り付けて(C:\testディレクトリの形成)、その中に先ほどの二つのJAVAファイルをコピーしておきます(C:\にJDKがインストされていることが前提)。

 ここまで下準備をしてから、タスクバーのスタートボタンをクリックして「MS-DOSプロンプト」を起動します。最初は

C:\WINDOWS>

となっていますから、ここで

C:\WINDOWS>cd C:\test

と入力してEnterキーを押すと

C:\test>

となって目的のディレクトリ上に移動できます。そして

C:\test>C:\jdk1.2\bin\javac mandelb1.java

と入力してEnterすればファイルがコンパイルされます。それからもう一つのファイルも

C:\test>C:\jdk1.2\bin\javac MandelbFinder.java

と入力してEnterすればコンパイルされますが、こちらはJDK1.0.2対応なので警告メッセージが表示されますが、コンパイルそのものは実行されてます。あとでtestディレクトリを見て多数のCLASSファイルが生成されていれば一応はコンパイル成功です。

 あとはtestディレクトリ上にブラウザで見るためのHTMLファイルを作成すればいいわけです。ここでは例としてmandel.html(あるいはmandel.htm)というファイル名で次のような中身にしておきます。

<HTML>
<HEAD>
<TITLE>mandel</TITLE>
</HEAD>
<BODY>
<CENTER>
<APPLET CODE=“mandelb1.class” HEIGHT=30 WIDTH=80>
</APPLET><P>
<APPLET CODE=“MandelbFinder.class” HEIGHT=30 WIDTH=114>
</APPLET><P>
</CENTER>
</BODY>
</HTML>

今書いているこれ自体がHTMLファイルなのでここでは全角文字を使はざるを得ないんですが、実際に上のように書く時は全て半角英数字で書き込んでください。また、ワードパッドで作る時は、上の内容を書き込んでからファイルをtestディレクトリ上に「名前を付けて保存」する時、保存のダイアログ中で、必ずファイル名はmandel.html(あるいはmandel.htm)と拡張子まで付けて記入し、ファイルの種類は「テキスト文書」を選択しておいてください。

 以上のようにやってからHTMLファイルをダブルクリックすれば、Communicator4.5では起動に多少時間がかかりますが、間違いがなければボタン画面が表示されると思います。操作はこのページのJavaアプレットと同じです。

 はぁ〜、なんだか、結果として“Java遊び”じゃなくて“Javaのお勉強”になってしまったような気もしますが(笑)、はたしてこんなんでわかったでしょうか?それにしてもWindowsって本当に操作が簡単なのかぁ?使いやすいかぁ?私はインターネットに接続するのにもJavaアプレットを作るのにもすごい苦労しました。いたるところにドツボにはまるためのトラップが仕掛けられている感覚はFreeBSDと大して違わないような気がするんですけど、どうなんでしょうか?


3月3日

 ちょっとだけ時間があるのでちょっとだけ書いておきますか。

 一連の臓器移植騒ぎでテレビを見ている人を不快にさせる主な元凶は、簡単にいえば報道陣のナルシシズムでしょう。自分達が活躍している姿を自分達が報道する、これに尽きるんじゃないですかね。現地で興奮ぎみにしゃべるアナウンサーやらレポーターの声や姿をカットして、無意味なヘリコプターや車による追跡取材もやめて、もちろん自作自演で大勢のカメラマンが群がる毎度お馴染みの大騒ぎ映像も流さず、要するに、取材対象だけを扱えば少しは人々のマスコミに対する不快感も和らぐような気がします。それから、だいたいコメントする人も多すぎます。ニュースステーションなんか久米宏一人で十分でしょう。その他の金魚のうんちで足手まといの一言おじさんやお天気おねーさんやスポーツおにーさんやアナウンスおばんさんなんかリストラしちゃえばいいんですよ。その程度の番組おまえ一人でやれよ!と言いたくなりますね。

 ま、臓器移植自体はあんなものでしかないでしょう。私はいやです。ドナーカードなんかには記入しません(そういう奴なんです)。


3月2日

 先月、モーリス・ブランショの『焔の文学』(重信常喜 橋口守人:訳 紀伊國屋書店刊 題名の中の「ほのお」という漢字が実際はちょっと違う…ないんだよね漢字が…)を買ったときに、気まぐれに“読者カード”(ハガキになっている)にブランショについての感想みたいなものを書いて送ったら、(株)紀伊國屋書店ホールセール部営業課というところから、「…貴重なご意見をお寄せいただき、深謝申し上げます。…」というよくありがちな文面の紙切れとともに、『紀伊國屋書店出版部 図書目録』(154ページもある)と『アイ・フィール 読書風景』という紀伊國屋書店が出している雑誌の秋号と冬号が届いていました。…なんかすごいですね、たった一枚の気まぐれハガキに対してこれだけ送ってきたのには驚きました。意表を突かれましたよ。ま、たまたま図書目録と雑誌があまっていたということだけだったのかな(笑)?

 で、ブランショですが、その評論集の中で相変わらずこんなことを述べています。

 詩は危険を冒さずに危険のなかに身を置く手段であり、最も確実な自己肯定に都合のよい場所を残しておく自己破壊の、つまり自殺の方法である。こうしたことを思い起すのは正しい。それはこの批判が文学そのものから要求され、事実文学は、作家が自分を共犯者だと思っている詐欺のなかで、作家によって生きられた情熱としてのみ意味と価値とを持つからである。しかし詩人の曖昧さを強調しはじめると、曖昧さの動きを止めて、それに名称を与えるためにそれを一点のうちに安定させる権利まで失ってしまう。停止と名称から逃れるのが曖昧さの特性なのだ。悪意が行われているかぎり、それはたしかに善良すぎていつまでも受け入れられない善意の歩みであると同時に、真の危険に加わってそれを冒すことを断る詐欺の無責任な行為でもある。

「ボードレールの敗北」より


 ミシェル・レリスは「人間の年輪」という本の新版に先立って、その本の最も正しい註釈で他の註釈などすべて無用にしてしまう論文を、序文の形で書いた。「闘牛としての文学について」と題するこの論文の中で、彼は、いわゆる近代文学の中心的作品の一つであるこの本が由って来るところの意図を完全に明らかにしている。彼はそれを書こうとする時に何を望んだのか。先ず、文学作品の無償性から逃れて現実的行為をなしとげることである。その行為とは、それを行なうものには脅威となり、行為自身にとっては《水牛の鋭利な角》が他の勝負で示す危険と同じ危険を意味することのできるような行為のことだ。さらにまた、彼自身について自分を解明し、彼に関して他人をも啓発すると同時に、彼をある種の固定観念から解放して真の《生命の充実》に到達させてくれるような作品を作ることである。そして最後に、《カルタの裏を》示しながら、つまり彼の他の作品の《輝かしい外面の下に多少とも隠されているからくりを形成する現実を、少しも刺激的でないむき出しの状態の中に》見せながら、彼の他の本にとっても文学一般にとっても危険な本を書くことである。

 すべてこれらの意図は、文学と離れられない諸問題と結びついている。書くことが、どうにかして作家を変えるような危険に満ちた運動に、彼を引き入れるのでなければ、書くことは無意味である。もしもこの活動が、大胆な経験とならず、その経験の中でそれを追求する者が、出口のない道に入りこんで、自分の知らないものを学び、知るのを邪魔するものを捨てることが出来なければ、書くことは価値のない活動にすぎない。それから書くことだ、そうだ、もっとも書くことが書く行為を常にますます困難にし、その行為から、語が上手な者の手から絶えず受けている便宜を奪い取るようにならなければ話は別だ。

「死後の目」より


 不可能です。おそらくここに述べられていることは真実でしょうが、それらは少なくとも私にとっては不可能な要請ですね。このようなブランショの不可能な要請を真に受けてものを書こうとする者は、きっと次のような幻聴を聞きながら身を滅ぼすのでしょう。
「さて、これで、おまえは破滅だ」
「それでは、私はやめなければならないのか?」
「そうではない、もしおまえがやめれば、おまえは破滅だ」

『来るべき書物』より


 実際ブランショの評論の中に出てくるのは、書くことによって破滅した人間ばかりです。ではブランショ自身はどうなのか?彼のプライベートについてはほとんど知られていないそうですが、この1997年の新装復刊版の「訳者あとがき」には「モーリス・ブランショ(一九〇七〜)」と書かれているからまだ存命中なんでしょうか(生きているとしたら90歳を超えていますが)。昔何かの本で、ブランショはある時期から心を病んだあちら側の人間になってしまった、というような文章をチラッと読んだ気がするのですが、ちょっと記憶があやふやで確証はありません。それは、彼の、それを読む者をじわじわ精神的に追いつめて行き、ついには袋小路で読者を発狂させてしまうようなヤバイ小説から来る印象とない混ぜになったフィクショナルな記憶かもしれません。もかく今のところ彼については、彼という伝記的な人間ではなく、彼によって書かれた書物を読むことしかできないことが(例外としてミシェル・フーコーによるモーリス・ブランショ論『外部の思考』という著書があるらしい)、彼の書物を低劣な「人の顔をした文学」の罠から逃れさせているのでしょうね。

 しかしそんなレベルでものを書きたくないですね。こういうマイナーな場で、安全地帯で、情けない自分自身を常に保護しながら、適当にくだらないおふざけ混じりの軽い文章でお茶を濁しているほうが幸せであることは確かだと思います。この先どうなるかわかりませんが…。


2月24日

 やはり久米宏は馬鹿ですね。所沢のダイオキシン問題では結構まともなことを述べていたらしいですけど、ユーゴのコソボ問題では、かつてその地で繰り広げられた東ローマ帝国やらオスマン=トルコやらの歴史的経緯や、コソボが現在はほとんど居住していないセルビア人のかつての文化的中心地だった、といった毎度おなじみのナショナリズムの亡霊(このような観念は近代ヨーロッパの国民国家の成立とともに生じたのではないか)を持ち出して、そこから考えなけりゃダメだとか言っている。おいおい、誰かに入れ知恵されたのかぁ?それとも自分で歴史のお勉強をしちゃったんですかぁ?だいたいさあ、ニュース番組の司会進行役ごときが問題を解決させようなんて思っちゃいけませんよ(久米はそうは思っていないだろうが(?)、結果的にそう見えるような発言をしちゃっている)。所沢のダイオキシンの件を思い出せよ。あんたがああいう発言をしたおかげで(私は直接聞いていないから伝聞として)、少しは状況が変化したんだろ。過去の経緯ばかりをいくら強調しても無駄なんだよ。今ある現実の利害関係を露呈させることがジャーナリズムの使命であり役割ってもんだろ。まず第一に最低限そういう“報道における倫理”を踏み外さない範囲内で過去の経緯を述べるべきじゃないのか。所沢の場合では民間の調査機関が調査した所沢産の野菜のダイオキシンの含有量を番組で公表したおかげで現地の農民が多大な経済的損失を被ったから、じゃあどうしようかとこれまで状況を放置してきた国や県や市がようやく重い腰を上げて事態の改善に乗り出したんでしょう。

 まあコソボ問題であんたが何を発言しようと現地の状況は何も変わらないだろうけど、あんたの不用意な発言を真に受ける馬鹿な視聴者がにわかナショナリスト気取りになって、現代人とは直接関係のない明治以降に捏造された“日本の古代史”とやらから、くだらない自分達の“民族的アイデンティティ”を構築しちゃうんだよ。頼むから世の中に馬鹿な思想を蔓延させないでくれよ。現実のコソボの状況を変化させるには、現代の世界の常識である人道主義的観点から考えるなら、紛争に介入している欧米諸国が主張しているように、強者(セルビア人側)が弱者(アルバニア系住民)に対して譲歩するしかないでしょう。それとも、隙あらばイスラエルが聖地エルサレムでやろうとしているように、現代の十字軍よろしく、セルビア人が自分達の聖地であるコソボを武力で制圧してイスラム教徒を追い出すのを黙って見てろとでも言うのか(まあ今のところNATO諸国が軍事的威嚇でそうなるのを防いでいるわけですけど)。そういえば日本政府は土建業者の利益のためにアイヌ人の聖地をダムの底に沈めちゃったんですよね(むごいな)。まあ第三の方法として日本的手法をとるなら問題の先送りでしょうね。状況を放置しておけばなるようになるでしょう。それじゃあイヤなんだろ。じゃあせいぜい今実際にコソボで起こっている現実の利害関係の反映としての事件を取材して、それを番組で発表してればいいじゃんかよ。

 ま、知ったかぶりで大上段に偉そうなこと(お勉強の成果か?)をしゃべるとたちまち馬鹿をさらけ出しちゃうところがクメのクメたるゆえんですか(意味不明)。


2月23日

 ははははは、三流プログラマーですか。いい響きだ。でも確かLinuxを作った人はフィンランドのアマチュア・プログラマーだったんですよね。つまり、フィンランドのアマチュア・プログラマーが作ったOSを日本の三流プログラマーが支援している、こういうエリート意識からはかけ離れたファンキーな構図がLinux人気を煽る一つの要因なんじゃないですか。

 また、件の三流プログラマーが物書きの真似事をして、マイクロソフトに対してぐだぐだ文句を垂れてくれたおかげで、ずいぶんその方面の風通しはよくなったんじゃないですか。そして、もちろん彼自身はそんな役割を演じているつもりはないし御免被りたいでしょうが、結果的に彼が“弾除け”になってくれたおかげでものが言えるようになった人は大勢いらっしゃるんじゃないですか。そういう人は少しは中村正三郎氏に感謝しなけりゃね(笑)。もちろん彼を過度に英雄化したり神格化したりするのはナンセンスですけど。

 しかし、彼がそういうふうに英雄化・神格化されているものと勝手に思い込んで、そういう自分自身の勝手な思い込みに勝手に反発して、自意識過剰の決闘メールを送りつけてくる“正義の味方”って結構笑えますよ。いい味出していますよ。がんばれ小川さん!あなたは正しい!あなたの言う通りだ!Linuxは初心者には難しすぎる(私はまだ使ったことありましぇ〜ん(笑))。難しいソフトをつかませてパソコン初心者を混乱に落とし入れるエリート気取りの三流プログラマーに今こそ正義の鉄槌を食らわせろ!

 すいましぇ〜ん、またいつものくせで照れ隠しのおふざけが発動しちゃいました〜。でもまあ、ここ一年くらいFreeBSDをいじってみた実感としては、デスクトップで使うぐらいならどんなOSでも難易度にそれほどの大差はないような気がします。ようするに、基本的にマニュアル通りにインストしてマニュアル通りに設定してマニュアル通りに使っている限りマニュアル通りに動作する、ってことじゃないですか。それで不具合が生じるようなら、これまたマニュアル通りに対処するしかない、ということでしかないでしょう。ま、マニュアルでちゃんと説明されていない場合は手探り状態になっちゃうんですが、そこから先は本人のやる気と根気がどこまで持続するかでしょうね。とまあ極々平凡な結論になっちゃいましたが、実際によろこんでLinuxを使っているユーザーが存在するみたいですし、一応はパソコン初心者にも使える可能性はあるってことでしょう(笑)。普通の人が使えないようなOSに人気が出るなんてありえないです。


2月16日

 なんだか気力が失せました。もはや言うべきことは何もないみたいです。くだらないおふざけもマンネリ気味だし、書物からの引用も飽きがきましたね。これ以上意地になって書いてもしょうがないような気がします。マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye)のアルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』(What's Going On)から湧き上ってくる心地よいグルーヴ感に浸っているとそんな気分になります。怠惰な気分に流されてもう何もやる気が起きません。歌詞の内容は政治的な反戦メッセージ・ソングなんかもあるんですけど、英語をわかろうとしない自分にとっては、まるで軟弱な“安らぎの歌”です。この落差はなんなんですかね。まあどのような態度で聴こうがCDを買ったユーザーの勝手ですけど、こんな気分では、リリースを渋ったモータウンと軋轢を生じながらも「デュエットのパートナーだったタミー・テレルの死を乗り越え、対人恐怖症を克服し、身を削るようにして心血を注い」で、ラヴ・ソングがひとつも入っていないという当時としては画期的なアルバムのリリースに強引に踏み切ったマーヴィン・ゲイの勇気と革新性に対して申し訳ないかな。

 それからそうそう、ナツメロのマーヴィンとともに今風のも買ったんですよ。レコード店のテクノ・コーナーでインベーダー・ゲーム(古いじゃん!)のジャケットに惹かれてDJスプーキー・ザット・サブリミナル・キッド(DJ SPOOKY That Subliminal Kid)の『リディム・ウォーフェア』(Riddim Warfare)というのを買いました。…はずれでした。まあテクノといえばテクノなんですけど、これってなんだかビートルズの「レヴォリューション9」の焼き直しみたいなんですよね。あとは過激な方向性がパブリック・エナミー風にキング・クリムゾン風といったところですか。どうも去年のリリースにしてはいささか感性が古すぎな感じです。また、解説を読むとDJスプーキーってどうやら法螺吹き野郎みたいです。「彼は大学でフランス文学と哲学を修め、美術雑誌や思想誌などにシャープな論文を寄稿したりもする、いわば“哲学者DJ”」(爆笑)なんだそうです。そして、その思想的背景にあるのはSF作家フィリップ・D.ディック(フィリップ・K・ディックの間違いじゃねーの?)と、フランスの哲学者ドゥルーズ&ガタリ(フェリックス・ガタリのほうは精神科医じゃねーの?)なんだそうで、ジル・ドゥルーズの追悼CD(そんなものがあったんですか、浅田チェンチェイ?)にも参加したらしいです。「ヒップホップ、ダブ、テクノ、ドラムン・ベース、アンビエント、エレクトロ・アコースティックetc…といった複数のジャンル/スタイルをダイナミックに横断するスキゾフレニック(分裂症的)なサウンド」ですか。う〜む、命名だけは大袈裟なサウンドだ。どうもインチキくさい奴ですね(笑)。そして解説の最後に「DJスプーキーの有名なフレーズ」というのが紹介されているんですが、“Gimme two records and I'll make you a universe(2枚のレコードをくれたら宇宙を作ってあげるよ!)”だってさ。勝手に作れ!バカヤロウ!こういう奴のことを“Big Mouth”って言うんですかね。などと批判しつつも、今風のクラブ(行ったことないけど、それらしいルックスのDJとかがそれらしい雰囲気のレコードをかけてて、カッコイイおべべ着たおにーさんやおねーさんとかがたむろっているらしい所)とかで聴けば結構それなりにはまるサウンドかも?

 はぁ〜、今回もテンション低いでちゅ。このまま低空飛行で「彼の声」はフェイドアウトかな(笑)。


2月9日

 いやー、ここ2週間、コーヒー依存症で胃が荒れたところにインフルエンザの直撃を受けたらしく、最悪のコンディションでした。何とか意識が朦朧とした状態からは抜け出たようなんですが、まだ嗅覚や味覚が完全に戻っていないので何を食べても美味くないです。

 で、何も書く気が起こらないので、今回はテキトーなおふざけでお茶を濁しておこうと思います。

かなとローマ字表記での発音のズレについて

 どうでもいいことと思いつつも以前から疑問を感じていて、あるとき気まぐれに集中して思考したこともあったわけですが、例えば私の名前“武志”をローマ字で書くと“Takeshi”あるいは“Takesi”となりますが、この“し”が“si”と“shi”の二種類の書き方があるのは、“shi”と書くほうが“ヘボン式”と呼ばれる表記方法で、アメリカ人のヘボンにとっては日本人の発音する“し”は“si”と書くよりも“shi”と書くほうがより日本語の“し”の発音に近いと思われたのでしょうが、どうもこのかなとローマ字表記の一対一対応という考え方に疑問を感じた次第です。日本語の“し”にはある程度の発音の幅があるのではないかと思いました。と思ったのは英語でも“si”が含まれる単語によってそれぞれ“サィ”とか“スィ”とか“シ”とかいろいろな発音のしかたがあるからです。

 それで私なりに日本語の発音の幅というものを考える上で次のような表記方法を考案してみました。例えば50音のサ行は次のように表されるのではないか。

サァサィサゥサェサォ
シァシィシゥシェシォ
スァスィスゥスェスォ
セァセィセゥセェセォ
ソァソィソゥソェソォ

これをすべて区別して発音できるかはともかく、“さしすせそ”の5音は日本語では5x5の25通りの発音が可能で、表記としてはこれで日本語のサ行の発音はすべて網羅されているように思えます。なおここで一般の表記法との対応としては

シァシィシゥシェシォ→シャシィシュシェショ

です。

ここでなぜヘボンが“si”ではなく“shi”だと思ったかについて考察してみますと、ヘボンにとっては“さしすせそ”を“sasisuseso”と書くと

スァスィスゥスェスォ

と聞こえたのではないでしょうか。そして彼は日本人の一般的なサ行の発音

サァシィスゥセェソォ

と比較して“スィ”と“シィ”だけ際立った違いだと感じられたのかもしれません。それは例えば“スァ”と“サァ”の違いよりもより敏感に感じ取れるものなのでしょう。それで子音と母音の規則的な配列“sasisuseso”に、敢えて自分の感じ取った発音に忠実に“シァシィシゥシェシォ(シャシィシュシェショ)shashishushesho”から“シィ=shi”を取ってきて“sashisuseso”としたのでしょう。このことはタ行についても同様です。

タァタィタゥタェタォ
チァチィチゥチェチォ
ツァツィツゥツェツォ
テァティテゥテェテォ
トァトィトゥトェトォ

において

タァチィツゥテェトォ

tatituteto

と書くとどうしても“チィ”と“ti(ティ)”の発音の間にズレが生じてしまうのです。ようするに今度は“ti”の代わりに

チァチィチゥチェチォ(チャチィチュチェチョ)→chachichuchecho

の“chi”を持ってくるわけです。またハ行については

ハァハィハゥハェハォ
ヒァヒィヒゥヒェヒォ
ファフィフゥフェフォ
ヘァヘィヘゥヘェヘォ
ホァホィホゥホェホォ

において

ハァヒィフゥヘェホォ

hahihuheho

と書くと今度は“フゥ”と“hu(ヒゥ、ヒュ)”の発音の間にズレが生じます。ここでは“hu”の代わりに

ファフィフゥフェフォ→fafifufefo

から“fu”を持ってきます。

まあヘボンは日本語の発音は不規則だと思ったかもしれませんが、それはかなをローマ字で表記するときに生ずるズレであって、以上に述べたように、かなで5x5=25で示せばきわめて規則正しいものだということが分かるでしょう。では子音+母音なら示せるが母音だけのア行はどう表記するのかといえば次のようにすればいいだけです。

アァアィアゥアェアォ
イァイィイゥイェイォ
ウァウィウゥウェウォ
エァエィエゥエェエォ
オァオィオゥオェオォ

ここでは完全に

アァイィウゥエェオォ→aiueo

が一致します。


2月2日

 あのー、どうも私の知る限り誰も指摘してないようなので言いますけど、今アメリカの国家財政は空前の黒字状態なんですよねえ。一方、日本はといえば赤字国債乱発の危機的状況なんでしょ。ここで何か思い浮かびませんか。そうです、在日米軍に対する“思いやり予算”という名のヤクザの用心棒代のことですよ。確かこのような予算が計上された元々の経緯は、アメリカの財政逼迫と日本の物価高で米軍の維持経費が賄えなくなったという理由で生まれたものだったと記憶していますが、今アメリカは財政黒字でしかも国防予算まで増額したそうじゃないですが。しかも日本はアメリカからの景気対策内需拡大の要求に応えて、大幅な借金財政に陥ってまで公共事業や銀行救済や地域振興券などの“バラマキ政策”を推し進めているわけでしょ。今こそ財政逼迫を理由にして“思いやり予算”を止める絶好の機会じゃないですか。大体アメリカは日本からの鉄鋼輸出が増えたらすかさずスーパー301条を復活させて日本製品を排除しようとしているじゃないですか。なんでそんな国家にヤクザの用心棒代をいつまでも支払い続けているのでしょうか。なぜ是是非非の態度がとれないのか、なぜ対等な外交関係を築こうとしないのか。

 しかし、なんでこの程度のことを誰も指摘しないのでしょうか。それとも既にクメやチクシあたりは指摘したんですかね。見ていないのでなんとも言えませんが、こういうことこそ連日トップニュースで批判キャンペーンを張るべきだと思いますが、どうなんでしょうか。やはりマスコミ関係者は鈍感なんですかね。まったく、なんでこのようなマイナーな場で私ごときが正義の味方みたいなことを主張しなくちゃならないのでしょうか。世の中歪んでますよ。まあ共産党が以上に述べたようなことを国会で主張しても無視されるだけでしょうから、本来なら民主党の菅あたりが主張すべきことなんでしょうけどね。