彼の声108

2015年

5月31日「民主主義という制度」

 批判する相手を敵と見なすことが、批判対象への理解を妨げているのだろうか。しかし批判しているのだから理解しようとしているのではないか。たぶんその対象の素性を理解したつもりになっているはずだ。そう理解した上で相手を敵と見なしているわけだ。つまり相手が敵だと理解したわけだ。しかし敵とはなんなのか。攻撃しようとする相手だろうか。実際に批判することで攻撃しているつもりなのではないか。批判が攻撃と結びついているとすればその通りだろうか。だが敵でもない相手を批判する場合と敵を批判する場合はどう違うのか。その場合批判の仕方を相手によって使い分けることが可能だろうか。では批判には相手が敵である場合とそうではない場合とで、二種類の批判があると言えるだろうか。その辺が微妙なところかもしれないが、どうも批判と攻撃とは別の動作ではないだろうか。攻撃のように相手を打ち負かすために批判であってはならないのではないか。攻撃によって相手を打ち負かした場合、打ち負かされた相手はその後どうなってしまうのだろうか。死ねばそれまでかもしれないが、死ななければ復讐の機会を狙って、今度は相手の方から攻撃してくる恐れがあるだろう。そのような復讐を避けるには、相手を殺すか殺さないまでも二度と襲ってこないように、完膚なきまでに打ちのめさなければならなくなる。要するにそれは知性とは無縁の暴力であり、そのような批判があるとしても、知性を駆使して合理的な答えを探る批判とは言えないだろう。たぶん相手を罵倒することと批判することは違う。相手が罵倒してきたとしても、こちらも同じような罵倒を返せば批判ではなくなってしまう。だから一方的な罵倒の相手をするのはやめた方がよさそうだ。攻撃とか復讐とか罵倒とか、相手をやっつけようとすることと批判とは違うのではないか。だから批判は万能ではなく、批判することで相手をやっつける必要もないだろう。批判することで相手の言い分とは違う可能性を指摘できれば、それでかまわないのではないか。相手がそれを無視したければそれでかまわないだろうし、相手にしないような態度に終始していれば、下手にこちらから攻撃するような事態ともならないだろう。批判とはその程度のことなのではないか。そしてその程度のことである限り、攻撃と批判を結びつける必要がないのであり、平和な状態を保っていられるのかもしれない。だが一方で感情は常にそれ以上を求めていて、相手をやり込めないと気が済まないわけで、相手に参ったと言わせたいわけだが、そんな感情に従う必要はないわけで、気が済まないままに放っておくしかないようだ。その一線を越えてしまうと、一方的な罵倒しまくり状態となって、常軌を逸してしまうのかもしれない。

 ともかく批判によって相手を打ち倒すことはできない。その程度の自覚は持っておいた方がいいだろうか。相手を打ち倒すための批判ではなく、真理を探究するために批判しなければならないわけか。そこで何か道理を見つけられると信じれば、そう考えておいて構わないのではないか。もちろん道理など見つけられなくても構わないし、真理の発見に至らなくてもいいわけで、相手の主張とは違う主張も可能であることを示そうとすればいい。相手の主張が間違っているのではなく、そのような主張に至る過程を説明できればいい。どのようにしてそういう主張をすることになったのか、その経緯を探ろうとすればいい。そこには様々な人や団体の思惑や動作が絡み合っていて、その結果としてそのような主張が出力されてくる。それを説明しようとすればいいわけだ。それが批判となるだろう。とりあえずそのように説明を試みなければならない。そのためにあれこれ調べたり考えているわけだ。そしてそんな行為を正当化しようとしなければいいのではないか。ただそこに疑問や疑念が生じているから、それについて思考を働かせる成り行きになっているのであって、何かそこに自らの行為の正当性などを付け加える必要はないのではないか。何かおかしいと思うから考えているだけで、何がおかしいのか、どのようにしてそうなっているのかを説明しようとしているだけで、相手をやりこめようとしたり攻撃する意図などなく、対象となる行為や主張が特定の誰によるものなのかを問題にしてみても、その誰かに非があるからそうなってしまうとしても、別にその誰かを攻撃しなくても、その非を認めさせなくても構わないのではないか。それが政治なら選挙で判断すればいいし、犯罪なら裁判で判断すればいいことだ。だが本当にそれでいいのだろうか。相手を辞任に追い込んだり有罪に追い込んだりしなくても構わないのか。そういうことをやりたい人たちはやればいいのではないか。そういう目的があるとすれば、攻撃的な批判をしなければならなくなるし、実際にデモ行進や集会などでそういう批判が叫ばれているだろうし、メディアなどに登場する各種の論客もそういう批判を繰り返しているのではないか。そしてネット上でもその手の批判が大勢を占めているわけか。たぶんそれでかまわないはずだ。そうすることで自らの存在と主張を正当化したいのだから、そうなって当然の成り行きだ。そしてそのような現状が良いか悪いかなんて判断しようがないのだが、たぶん民主主義の制度がそこに反映されているのだろう。自らの主張に他人の同意を取り付けたくて、そのような批判を繰り返しているのであって、そうやってできるだけ多くの人たちの同意を取り付けて、多数派を構成したいわけだ。つまり批判者はそれと気づかずに多数決の原理に従っているわけで、多数の力で批判の対象をやりこめたいわけだ。これだけ多くの人たちがお前の行為を批判している、だからお前はやめなければならない、と主張したいわけだ。それは真理の探究とは別の思惑が働いていて、多数派の考えが正しいという論理がそこに含まれている。そういう論理が良いか悪いかは判断しないが、少なくともそのような行為を正当化する民主主義という制度が、人々の心を支配していることは確かなようだ。


5月30日「1度目の焼き直しとしての2度目」

 過去の事例を繰り返そうとすると、それを再現できずに劣化するのは何故なのか。逆に過去よりやり方が進化するような気がするのだが、どうもそうではないらしい。繰り返そうとしているのではなく、新たに新しい事態に対応してやろうとしているのだが、過去への強いこだわりが作用して、それと気付かずに過去の轍へと導かれ、同じことを繰り返そうとするのかもしれないが、周りの環境や状況が過去とは違うので、過去のような結果には至らない。進化しているのはその手法だけではなく、周りの環境や状況も同様に進化しているので、それらの相互作用が過去とは違う結果をもたらすのかもしれない。しかし人の意識は過去を引きずっているので、あたかも過去の悪夢がまた繰り返されるように思われるのだろうか。確かに悪夢が繰り返された例もあり、その代表的な事例が第一次世界大戦と第二次世界大戦だろうか。しかしそれは第一次世界大戦から世界恐慌を経て第二次世界大戦へと至る、連続して起こった一連の破滅的な出来事だったのではないか。そしてその20世紀中期に起こった大規模な出来事を、同じように繰り返すようにして起こったのが、20世紀後半から21世紀初頭にかけて起こった一連の出来事であり、その時はまず東欧の社会主義国の崩壊が起こり、次いでそのあおりを受けて社会主義国の総本山だったソ連邦も崩壊し、さらに東西冷戦時代の対立項がなくなったアメリカが、湾岸戦争から911の同時多発テロを経てアフガン・イラク戦争へと至り、相次ぐ戦争とテロとの戦いによって国内経済が疲弊したところに、リーマンショックと呼ばれる世界金融危機でとどめを刺された形となったのだが、結局半世紀前の破局的な惨状からは程遠く、大したことはなく今に至っているわけだ。同じように世界規模で起こった一連の出来事なのに、明らかに1度目の出来事より2度目の出来事の方が軽く済んでいる。そしてそれと同じような例として18世紀末から19世紀初頭にかけてヨーロッパで起こった、フランス革命からナポレオン戦争に至る一連の出来事と、19世紀中期に起こったフランスの二月革命と、それが伝播してヨーロッパ各地で起こった三月革命を経て、数年後にクーデターで皇帝に即位したナポレオン3世が、十数年後に起こした普仏戦争へと至る一連の出来事があるわけだが、これもやはり全ヨーロッパを巻き込んだ出来事だったのに、1度目より2度目の方が軽く済んでいる。なぜ同じような一連の出来事が約半世紀間隔で繰り返され、しかも1度目より2度目の方が軽く済んでしまうのだろうか。日本でも似たような現象として、1936年に陸軍の青年将校が決起してクーデターを起こした二・二六事件と、1970年に三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地で決起を呼びかけて起こした三島事件、あるいは先日の大阪都構想に関する住民投票も、第二次世界大戦中に東京府と東京市を廃止して東京都に移行したことの焼き直しだったのだが、これも2度目は1度目のようにはいかず、大したことにはならなかったはずだ。

 たぶん忘れた頃に2度目を繰り返そうとする輩が出てくるのだろうが、1度目が前代未聞の出来事であり、人々の意表をついていたから、未経験だから周囲の対応が手探り状態で、わりと出来事に積極的に関与した者の意向が通りやすく、それだけ苛烈にやりたい放題できる部分があるのに比べて、2度目は周囲の人々にも組織や団体にも1度目の経験が蓄積されていて、それだけ冷静に対応できて、それなりに有効な歯止め策も社会に備わっているので、そんなわけでそうそう事件を起こして世の中を引っかき回そうとする者や団体の勝手にはならず、その辺のところで思い通りにはいかない面があるのかもしれず、それだけ成功するためのハードルが高くなっているのだろうか。というかまた同じことを繰り返そうとする意志が、すでに1度目の出来事に魅入られているのであって、やろうとしていることの時代錯誤に気づかないのかもしれず、そもそも1度目とは環境や状況が違うのだから、うまくいかなくて当然かもしれないことにあまりにも無頓着なのではないか。新たな時代が新たな環境と状況を備えているのに、それに過去の焼き直しで対応することに無理があるのかもしれない。だからこれから何かを仕掛けようとする者たちは、これまでにはない全く新しいやり方を発明しなければならず、周囲の意表をつくようなやり方で勝負に出なければならないということか。というかこれから世界的に大きな出来事が起こる時には、その出来事に関与する者や団体は、それと気付かず知らないうちに新しいやり方で事態に対処しているのだろう。結局これまでに編み出されてきた方法では、それに対応した対処法が社会にすでに備わっており、いくらその方法を熟知しやり方に秀でていようと、それだけでは世の中を動かすこともできず変えるにも至らず、やはり全く新しいやり方で他の人々や団体や社会全体の意表をついて、誰もが気づかぬうちにもはや後戻りできないような社会の流れを作らなければ、目指している変革がうまくいくことはないのだろう。そして結果的には目指している状態とは大きくかけ離れた結果に至るのが、これまでの歴史が示しているところのようで、そこでは変革を目指している者自身が世の中に使い捨てられ、変革が成し遂げられた世の中では、もはや生きられないような残酷な結果が待ち受けていたりする。


5月29日「国家総動員体制の無理」

 とりたてて世の中がどうということはない。それはあまりにも楽観的な判断で、本当にそう思っているとすれば、少々世間知らずだろうか。今後の状況次第で未来は良くもなり悪くもなるだろうが、実際に良いか悪いかは未来の人たちが判断すればいいことだ。しかし未来とはいつのことだろうか。何年後なのかそれとも何十年後の未来なのか。現状では人々は何を恐れているのか。地震や火山噴火などの天変地異ならいつの時代でも恐れていることで、いつ起こってもおかしくない状況だが、政治や経済の問題となると、人の力でなんとかなるとでも思っているのだろうか。結果的にどうなるかはわからないが、とりあえずは人の力でなんとかしようとしているわけだ。もちろんこれまでの歴史的経緯からいくと、人の思い通りになることはあまりないようだが、現実に人が動けば世の中も変わるのだろう。そして人が動いた結果として、これから世の中の状況が良くなるのか悪くなるのかはわからないが、多くの人は状況を良くしようとして動いていることは確からしい。そこでそのやり方をめぐって意見の対立があることも確かで、国会でも政治家たちが提出された法案をめぐって、賛成派と反対派に分かれて論争を繰り広げているようだ。またそれで本当に良くなるのか疑念を抱いている人も大勢いて、その中には逆に世の中が悪くなると見ている人もいて、その原因が政治にあると主張しているわけで、さかんに政権を握っている勢力に対して批判を繰り返しているわけだ。そしてその批判が我慢がならない人たちもいて、批判している人たちを罵倒する勢力までいるわけで、そのような批判を受け付けない勢力が世の中にはびこっていること現状に、批判している人たちは危機感を募らせているわけだが、それも全体としては世の中がどうということはないことからすれば、枝葉末節な現象でしかないだろうか。さらに状況が悪化している地域などいくらでもあり、実際に世界各地で紛争によって多くの人が死傷していて、将来に対する楽観的な見通しなどあり得ないだろうか。でもそれは昔からそうだったのではないか。そして昔と比べればよくなっているはずで、民主的な制度や法律に基づいて人々が平和に暮らしている地域が、だんだん増えてきているのではないか。それは平和な地域においては、国家権力を掌握する勢力を批判しても、警察権力によって直接弾圧されないことが、何よりの証拠だろうか。確かにあからさまには弾圧されないが、社会の隅々にまで監視され、個人や集団のの主張や意見が巧妙に管理され制御されているのかもしれない。現状ではそれほどでもないだろうが、政権を掌握している勢力によって、将来的にそのような社会への移行が目指されているのではないか。

 しかしそれは食い止めなければならない事態なのだろうか。現に批判している勢力や将来を危惧している人々は、それを食い止めようとしているのではないか。そしてそれは食い止めようとして食い止められるようなものでもないのではないか。ではどうなってしまうのか。誰も予想だにしない結末を迎えるわけか。むろんそれが結末ではないかもしれず、その後も適当に紆余曲折があるかもしれないが、特定の誰があるいはどんな勢力が、状況を制御しているわけではなく、確かに様々な人々や勢力が制御しようとしているのかもしれないが、そのような勢力を代表するのがアメリカや中国やロシアやEUなどで、むろんその中には日本政府もあるのだろうし、人物としては各国の首脳も含まれているわけだが、たぶんどのような勢力も人物も主導権を握るに至っていないのではないか。それもいつの時代もそうだったのかもしれないが、周期的に必ず世界の覇権を握る国が出てきて、今はアメリカの次の覇権国を決めるための争いの最中なのかもしれず、あと何十年かは混沌とした時代が続くのかもしれない。だがそのような覇権争いが繰り返されるとしても、その争いの内容は以前とは異なり、その度ごとに違った様相を呈していて、いつかその覇権争い自体に終止符が打たれる可能性もあり、それが今の時代の世界的な混沌状態なのだとしたらおもしろいが、どうなるかなんて今のところはなんとも言えないだろうし、相変わらずの人や企業や国などの勢力争いに、誰もが巻き込まれている現状があるわけだ。その中で政権を掌握している側がやろうとしていることはといえば、自分たちが国土や人口を完全に管理して制御しようとしているわけだが、それは行政を司る官僚機構の集団意志のようなもので、そのような意志が官僚や政治家や政党を操りながら、その意志が目指す秩序を実現しようとしているわけだが、一方でそれに逆らう意志も想定できるかもしれず、それは集団意志というより個人の意志のようなもので、てんでばらばらで目指す方向も人それぞれで違うのかもしれないが、そのばらばらでまとまりの欠ける分散状態が、政治的な無関心となって顕在化していて、それも批判勢力が危惧しているところの状態なのだろう。確かにそれらが一つの目的の下に一致団結すれば、政治的な力を発揮するのかもしれないが、目下のところはそうはなっておらず、ばらばらの状態でいることが、むしろ政権を掌握している勢力を利する結果になっていると思われ、それも批判勢力が危機感を募らせる原因となっているわけだが、たぶんばらばらで力を発揮できない状態でかまわないのだろう。このままばらばらで集団としては何を考えているのかわからない状態である方が楽だ。一つの方向性を持った集団として捉えられなければ、いくら監視を強化しても制御できないし、管理しようがないわけだから、たぶんそのような分散状態が、国家に対する最高の抵抗形態なのだろう。国家の下に国民が一つにまとまれないのだから、それでは国そのものが一つの目的や方向へと機能し得ないのだ。その一つの目的が戦争であろうと国家間の経済競争であろうと、それらの争いに勝つためには国民が一丸となって、総動員体制を築く必要があるわけで、その体制が永遠に整わないとすれば、戦争や競争などできはしないだろう。


5月28日「現実の問題と虚構の問題」

 道が一本しかないわけではないのと同様に、やり方も一つとは限らないのだが、一度そのやり方を選んでしまった場合、もうやり直しがきかなくなることが多いだろうか。ちょっとしたことならやり直せるだろうが、やろうとしていることが大掛かりになってくると、一旦それをやり始めれば途中から後戻りができなくなるのではないか。時間が前にしか進まず人も次第に年老いていってしまうのだから、成し遂げるまでに何年も何十年もかかるようなことはそうなりそうだ。中にはそれをやっている途中で亡くなってしまう人も出てくるだろう。引き継いでやる人がいなければ、その人のやっていたことは無駄となってしまうだろうか。最後までやり終えられなければ無駄なのかどうかは、そのやっている内容にもよるだろうが、何かをやる限りはそれをやり遂げようとはするはずで、やり遂げることが目標となるわけか。ではそれが何を意味するのか。それをやることに意義があり意味があるのだろう。では何もやることがなくなったら、生きている意味がないだろうか。意味などなくても構わないのかもしれない。生きていれば何かをやらなければならなくなり、その何かをやっていればそれが生きている意味となる。そうなるしかなさそうだ。そのような水準では何も問われず何も問題とはならない。それが問題なのだろうか。何か問題を見つけなければ答えを求めようとはせず、答えを求めようとしなければ何も考えられない。考える必要がなく、ただ生きていればいいわけで、生きようとすれば何かをやらなければならない。そしてそう語る限りは言葉が循環するばかりで、何の問題もなく何も考えられずに、ただ生きるばかりとなってしまう。それでも生きようとしているわけで、生きようとしているから何かをやっている現状がある。そしてそう語ると言葉が循環して、同じようなことの繰り返しとなってしまう。それを避けなければいけないのだろうか。そして避ければ新たな問題が見つかり、答えを導き出そうとして考えるわけか。では求めているのはそういうことだろうか。それ以上を求めそれ以上考えようとしているのではないか。それ以上とは何か。例えばそれは事物の具体的な様態について言及することか。

 だが現実にそれ以上があるわけではなく、それ以上は虚構でしかなく、実際には現実の世界にそれ以上でも以下でもない事物の様態があるはずだ。だから語るにはそれについて言及しようとするわけだ。そしてここにはない事物を想像しつつも、その対象が現実の事物であると見なしながら、実際にその目で直に見たわけではなく、事物の間近に行けないにもかかわらず、それを想像で語ろうとする。そしてその想像が現実には当たっていたり外れていたりするわけだが、どちらであっても想像でしかないのだから、想像である限りにおいて、それは現実の事物以上でもあり以下でもある。しかし想像以外ではメディア経由で体験する事物は捉えられないのだから、それを現実に存在する事物であると見なし、メディアによって賞賛されたり蔑まれたりする現実以上や以下の事物が存在することを、無意識のうちに信じ込むわけだ。たぶんそれらも現実に存在する事物には違いなく、実際に画面上や誌面上で見ているわけだから、それ自体が虚構であるはずがないのだろうが、それは人工的な現実であり、人工的な事物には人の想像や願望が含まれていて、人の感性を刺激する工夫が凝らされているから、それらの人工的な事物から影響を受けた人の意識は、常に過剰反応を起こしやすくなり、肯定されるべき事物はより激しく肯定され、逆に否定されるべき事物はより激しく否定されるわけだ。そしてそのより激しく肯定したり否定したりする感情が、人々の間で激しい対立を煽り攻撃本能を呼び起こして、主義主張や利害の違いから対立する党派間で罵声の浴びせ合いを生じさせ、互いの連携や団結を不可能にさせるわけだ。また一方でそれは共通の主義主張や利害関係にある者たちの団結をより強固にし、それらの勢力による改革や革命運動の原動力となるわけだが、そのような運動は得てして反対勢力や邪魔者に対する激しい弾圧を生み、大量虐殺などの凄惨な結果をもたらしやすく、後の時代や社会に大きな禍根を残す。それは現在進行形の問題でもあり、世界各地の紛争地域で行われていることの大半はそれに起因しているようだが、平和な地域であっても経済的な利害関係が起因して、それによって利益を得られる勢力と得られない勢力との間で、大量虐殺などには至らないとしても、それなりの対立を生んでいるわけだ。そして経済的な対立には貨幣というメディアが介在しているわけで、その商品と直接交換できる特性が人々の欲望を刺激し、その交換可能性をより増大させるために、常に貨幣を大量に蓄積する衝動を呼び、その衝動に突き動かされながら、人々は時には手段を選ばず必死になって貨幣の収集活動に精を出し、そのための策略をあれこれ考案して、利害を共有する人や団体などと連携しながら、なんとか手持ちの貨幣量を増やそうとする。


5月27日「肩透かし」

 誰が悪いわけでもない。そうは思わない人がほとんどかもしれないが、たぶん特定の誰が悪いわけではない。それどころか誰も悪くないのかもしれず、日頃から非難や罵倒の対象となっている人でさえ、実際のところは何も悪くないのかもしれない。ではなぜ非難や罵倒の対象となっている人が現実にいるのか。対象となっている人物が多くの人にとって気に入らないことをやっているからか。たぶんそうだろう。その発言や行動のすべてが否定されるべき人物なわけだ。そんな人物が日本国の総理大臣をやっているのは許しがたいか。でも選挙で選ばれた国会議員たちによって選出されたのが彼なのだから、ちゃんと民主的な手順を踏んで総理大臣になったわけで、そのような手続き上は誰も文句を言えないわけだ。そういう水準では誰が悪いわけでもなく、そのような制度やシステムが極めて円滑に動作した結果として、あのような人物が総理大臣となっているわけだ。選挙に行かない人たちも含めて、そのような結果が国民の総意に基づいていることは疑う余地がない。その場合の総意とは、彼を支持するかしないかあるいはどちらとも言えないかの、すべてを総合した結果が現状を示しているということだろう。そしてそうした現状が気に入らない人たちは、やはりその人物がやっていることややろうとしていることを非難し罵倒するしかない。もちろんいくら非難しようと罵倒しようと、その人物にとっては馬耳東風でなんとも思っていないとすれば、それはそういうことでしかないわけだが、それはどうしようもないことだろうか。そうではなくデモ活動や集会を開いて批判し続けるしかないわけで、気長に継続していくことが大事なのかもしれない。そして何かのきっかけでその人物が辞めることを期待するしかないのだろうが、なかなか辞める状況にはならないとしても、あきらめずに批判していくしかないだろう。批判したい人はそうするしかない。そして関心のない人は別に無関係を装っていて構わないだろうか。

 その人次第なのではないか。聞く耳を持たなければそれでも構わないが、善意で批判に耳を傾ける気があればそうすればいい。事の重大性や深刻さがわからないなら、そんなものだろうし、わかったところで何ができるわけでもないか。わかっている人たちが批判しているのではないか。では何が重大で何が深刻なのだろうか。また巨大地震でも起きて原発事故でも起これば、福島のように多くの人たちが悲惨な境遇になるわけか。そして自衛隊を紛争地域に派遣すれば中には戦死する隊員も出るだろうし、任務をこなして無事帰国できたとしても、イラク戦争の時のようになんらかの精神的なストレスから、数十人が自殺したりするのだろうか。そうなることを想定したとしても、原発を再稼働したり自衛隊を紛争地域へ派遣した方が、日本にとって利益となると考えているわけだ。たぶんその程度の判断で多くの人が悲惨な境遇になる可能性があるわけだが、それが良いか悪いかは、悪いと思っている人たちは反対し批判するだろうが、その一方で良いと思っているたちと関心がない人たちもいるわけで、良いと思っている人たちは、日本の原子力産業のために原発を再稼働させたいし、アメリカとの関係を重視する立場から自衛隊を紛争地域へ派遣させたいのだろう。要するに国家繁栄のためならある程度の犠牲はやむを得ないと考えているわけか。それがある程度なのかあるいは限度を超えているのか、その辺は政権を支持するか支持しないかで意見の分かれるところだろうか。だがそれは普遍的な必要や必然性があるわけではなく、時の情勢がそのような政策を推し進める必要を感じさせているだけで、たまたま原子力産業に携わっている勢力が政権と癒着しているから、たまたまアメリカと同盟関係があるから、そのようなことをやろうとしているだけで、何か地球の温暖化を食い止めるとか世界平和に貢献するとかの、高邁な政治的な理念が生じているわけではなさそうに思われる。もちろんそれをやるにあたっての大義名分など後からいくらでも付け加えられるだろうが、日本は原子力発電をやめたら産業が立ち行かなくなり、アメリカとの同盟関係を解消したら世界から孤立してしまうだろうか。現に原発をやめられないのだからうまくいかないと思っているだろうし、日米同盟を解消したら世界から孤立してしまうと思っているのかもしれないが、少なくとも現政権にはそれらをやめる力はないだろうし、やめる必要はないと考えているのだろうから、そのような政権を支持するかしないかは、有権者が選挙などの投票行動で示すしかないのだろう。中には在日米軍の基地問題でフィリピンがかつてそうしたように、米軍を日本から撤退させても日米同盟は堅持できると主張している人もいるのだが、そういう人は選挙でそういうことを主張する政治勢力に投票すればいいわけだ。いなければ自分で立候補すればいい。

 国家的な政治問題とはそういうことだ。それらに関しては様々な憶測があり、その憶測から当事者にも批判者にも都合の良い情報をつなぎ合わせて、何かそれらしい因果関係を導き出して、それらしい言説を組み立てることができるかもしれないが、それはあくまでも憶測の域を出ない話であり、それを信じるか信じないかは、どちらでも構わないのかもしれず、一般の個人が信じようと信じまいと、政治情勢がどう変わるわけでもなさそうに思われ、それが興味深い話なら信じた方がおもしろそうだ。要するに話のおもしろさの問題であって、政治の問題とは直接関係ないのかもしれないが、もしかしたらその中に何かしら真実が含まれているかもしれないから、別によくある陰謀論のような話でも内容がおもしろければ、信じてみるのも一興だろう。誰かがそこで主導権を握っていて情勢を操作しうる立場にあるわけで、その誰かがどこかの国の大統領であったり、また別の国の国家主席であったりしたら、何か話に信憑性が出てきはしないか。確実な証言とか文書などが明かされたわけでもなければ、本当のところはよくわからないのだが、何かそう考えるとつじつまが合うような話になっているとしたら、やはりそれは興味深い。ではその憶測話とはどんな内容なのか。中国の習近平が共産党や軍の幹部の汚職を摘発していることは確かだ。またアメリカのオバマがTPP交渉を進めるために議会工作をしていることも確からしい。さらにオバマはネオコンと懇意のイスラエル政府と距離を置いていて、中東紛争の当事者であるイスラム国に対しては、なるべく米軍による直接の地上戦は避け、周辺諸国で対処するように仕向けていることも確かだ。そのような状況証拠から何が浮かび上がってくるのだろうか。何か偶発的な事件でも起こらない限り、今後しばらくは大規模な戦争は起こらず、国連のPKO以外では自衛隊が海外へ派遣されるような事態にはならないということか。では今国会で審議されている自衛隊の集団的自衛権に関する法案の審議はなんのためにやっているのか。将来に起こりうる事態に備えた法案なのだろうか。自衛隊が外国の軍隊と同等に行動できるようにするための突破口なのだろうか。そうした思惑もあるのだろうが、そうした思惑とは別のところで、例えば想定しているホルムズ海峡の機雷除去自体が不要になるような事態を想定できないだろうか。中東が日本にとってそれほど重要でなくなれば、自衛隊が中東まで行く必要がなくなるわけだが、まさかそのような事態が間近に迫っているなんてあり得ないだろうか。サウジアラビアが石油を減産をやらず、ひたすら売りまくっているのは、もしかしたら焦っているのかもしれず、この先何かありそうな予感がするのだが、そこから先は実際に何か事件や出来事が起こってみないことには、はっきりしたことはわからないだろう。今のところは不確かで根拠のない与太話の類いだと思っておけばいいようなことかもしれない。しかも内容をまったく明かせないのは何もないからだろう。


5月26日「時代遅れの主張」

 どんな主張に興味があるわけでもないが、毎日メディア上では様々なことが言われ、様々なことが論議されていることは確かだ。そしてこれといって有効な結論が出ているわけではなさそうに思われる。何に対して有効なのかは、たぶんその主張が標的としていることについては、たぶん何がしかの有効性があると思われるから、そのような主張が一定の支持を集めているのかもしれない。それは気休め程度のことなのだろうか。バカにしてはいけないのではないか。他人からの支持を目的にした主張ならば、一定の支持を集めた時点で、その主張は有効に機能したことになるのではないか。では他人の支持を集めるような主張とはどのような主張なのか。それは他人がその主張に同意しやすいような主張だろうか。他人がそのような主張に同意することで、満足できるような主張なのではないか。他人の意識に心地よく響く主張なのかもしれない。ならば他人の心に響く主張とはどんな主張なのか。人畜無害で当たり障りのない主張だろうか。その主張に賛同する人にとっては自らを利するかもしれない主張であり、自らに危害が及ばないと思われる主張なのではないか。そして日頃から気にくわないと思っている人や団体を攻撃する主張であり、貶め蔑むような主張でもあるわけか。なぜそのような人や団体が気にくわないのかといえば、自らや自らの家族や仲間に危害を及ぼすような行為や言動をしているからか。だからそのような人や団体を攻撃する主張には賛同しやすく、そのような主張をしている人を支持しやすいのだろうか。では要するにそのような主張とは現状に照らし合わせて具体的にはどんな主張なのか。

 人それぞれの立場や置かれている状況によって、賛同や支持を得られる主張も異なるだろうが、先に挙げた条件からその主張の内容もある程度は絞り込まれるのではないか。しかしそれを絞り込んでどうするのか。そのような主張をすることで何がどうなるのだろうか。賛同者が心地よくなり一定の賛同を得られて主張している者も心地よくなる。それだけのことなのだろうか。それだけではなく、例えばその賛同者が多ければ多いほど、その主張が世に広まり、それを主張している人の発言力がより強くなるのではないか。ではそうなるとその主張通りのことが起こるのだろうか。例えば誰かや特定の団体を批判しているとすれば、批判されている人や団体が、批判を受け入れてやっていることをやめたり改めたり、その人が何かの役職についていればそれを辞任したり、その団体が政党であれば、選挙で議席数を減らす結果となったりするわけか。たぶん批判者はそうなることを期待して批判しているのではないか。そして実際にそのような事態になったこともあったのではないか。だからそれを期待して批判者は批判しているのだろうし、その主張を広く世の中に拡散して、できるだけ多くの人の賛同や支持を得たいと思っているのだろう。だが実際にはそうはならずに多くの人の賛同を集められなければ、その主張は少数意見として忘れ去られる運命にあるわけか。それともたとえ少数意見だろうと、心ある少数の人たちの賛同が得られたら、いつまでも少数意見として時代を超えて受け継がれ、いつか日の目を見て、その主張が言わんとすることが実現したりするのだろうか。ほとんど誰からも賛同を得られない主張をしている人は、果たしてそう思うだろうか。

 たぶんそうではない。賛同を得られるように工夫をこらそうとするのではないか。一般大衆にすり寄ろうとして、自らの主張を彼らの好みに合うように軌道修正するのかもしれないが、果たしてそんなことができるのだろうか。そうやって自説を曲げて妥協してまでも、自らの主張を世の中に反映させようとする試みがうまくいくのだろうか。しかもそうやって反映させたところで世の中が変わるだろうか。世の中を変えることではなく、自分の主張を世の中に反映させることが目的なら変わらなくてもかまわないのではないか。一般大衆の好みに合わせた主張をすることで、一般大衆の賛同や支持を取り付けたいのなら、その賛同や支持を背景として政治的な実権を掌握できるのではないか。そうやって大衆を扇動して動員することで、反対勢力を押さえ込み、それが成功すれば大衆の支配者として、すなわち国家の支配者として君臨することができるだろうか。かつてそんな手法を使って独裁者となった政治家もいたかもしれないが、それでは結果的に世の中が悪い方向へ変化したことになってしまうのではないか。だがそれもとうの昔に過ぎ去った現象であり出来事でしかない。現状ではもはやそのような衆愚的な大衆の熱狂などあり得ないのかもしれず、むしろ誰もが無関心で冷めている状況があるのだろう。いくら強力に強引に政治的な権力を行使しても、どうにもならない時代が到来しつつあるのではないか。現に選挙での投票率の低下が示すように、政治家や官僚たちのやっていることに大衆が無関心になりつつある。要するに何を主張しても大して賛同や支持を得られない状況なのかもしれず、政治では世の中を変えられないのかもしれない。しかしそれでも政治制度やシステムが作動していて、それらがなんの結果も出せずに空回りしているわけか。そんな形骸化した状況の中でも決めるべきことは決め、実行すべきことは実行しているわけで、そんなことやっているうちに、さらに無関心の悪循環が世の中に広がろうとしているのだろうか。

 もしかしたらそれは悪循環などではなく変化の兆しかもしれない。そして世の中は人が期待するようには変わらない。では今まさに世の中の変化を期待する人たちの主張が無効になりつつあるわけか。そうではなくそれらの人たちの主張も反映している一方で、彼らが批判している人たちの主張も反映していて、それら両方の主張が反映する形で世の中が変化しつつあるのではないか。それらの賛成派と反対派の二項対立が、結果として政治的な無関心を呼んでいるのかもしれず、その二項対立が予定調和のように感じられ、一般大衆はどちらの主張にも飽き飽きしているのかもしれない。だから彼らがいくら大衆に向かって脅し文句をあれこれ並べてみても、概して反応は鈍く大して効果はないのかもしれない。そして人々はもはや政治家やその支持者たちが妄想する国家や民主主義の理念などとは決別して、それらとは無関係に生きようとしているのではないか。実際にそれらを意識することなく普通に暮らしているはずだ。国家の下に国民が一致団結して何かをやる時代ではなくなっているのかもしれない。そうしなくても生きていけると思っているのだから、彼らにとっては政治家など不要なのだろう。要するに彼らは国民である必要がないのであって、少なくとも政治家が求めている国民とは似ても似つかぬ存在なのだ。それはいくら行政が教育によって洗脳しようとしても無駄なのかもしれず、北朝鮮のように一般人にはネットに接続できないようにでもしない限りは、自分たちを国民だと自覚させることなど不可能なのかもしれない。彼らにしてみれば、韓国を罵倒しまくり中国の脅威を理由にTPPに反対しながら対米追従を黙認する国粋的な人々も、原発放射能被害や改憲による戦争への脅威を言い立てて選挙に行かない無党派層を脅す人々も、どちらもただうっとうしいだけの存在でしかないのかもしれない。


5月25日「自主憲法制定の夢」

 それだけはないことは確かだ。語り足りないことや語り得ないことがある。美学が悪いわけではない。美学的な試みが感動を呼ぶのではないか。人は美しい事物を見聞して感動する。そんな簡単なことではないのだろうが、そんなふうに語ればそれらしいことを述べているような気がする。それでかまわないのだろうか。ひっかかるものを感じるが、何かが足りないような気がするのは、美学に関してそれほど詳しくないことから生じる自信のなさの表れだろうか。たぶん冗談で済まそうとしているのではないか。決め手を欠いているわけで、確かなことが何も言えず、それだけではないとしか言えないところが、その足りない何かを示せないことに起因しているのではないか。求めているのが美学でないことは確かなのだろうが、何か実質を伴った見解を示したいわけで、そして現状に対する有効な処方を語りたいわけか。そんな言説を構成することが果たして可能だろうか。中身のない装飾的な語りで済ませておいて方が楽だろう。

 しかし具体的に何が美学なのだろうか。何も美しいとは言えないのではないか。それが眺めている光景だとしたら、美しいと思う以上の何かを求めているはずだ。風景を眺めているだけではらちがあかず、何か獲物を求めて行動しなければならないのではないか。風景を眺めていられるなら、他で何かをやっているからそうしていられるのであって、別の場所で別の時間の中で獲物を求めて行動しているのだろう。獲物とは何か。経済的な利益なのだろうか。それが現代人ならそうなるだろう。しかし眺めている風景の中には何があるのか。心を安らかにさせる何かがそれらの風景の中に含まれているのか。人がそれらの風景を醸し出す自然から引き剥がされているわけではない。それを見ようとすることで別の風景から目を背けているのではないか。別の風景とはなんだろう。それは自らが関わっていることの中で、自らを含んだ光景なのではないか。人はそれを直視することができないのだ。それはあまりにも退屈であまりにも味気ない日々の日常だろうか。そうは思っていないだろうし、そう感じているわけでもなく、それなりに充実した毎日を送っているとしても、それでもここにはない何かを求めているのではないか。それだけでは飽き足らない。できればそれ以上の何かを体験したい。でもそれが眺めている風景の中にあるとは限らないのではないか。たぶんそこにはないのかもしれないが、眺めながらそれを想像しているわけだ。

 風景を眺めながらその中にはないものを想像している。それが美学的な事象だろうか。想像すること自体が美学的な態度だと言えるだろうか。例えばそこに心地よい音楽が流れてきたら、観光案内などの内容を含んだテレビ番組の類いになるだろうか。イヤホンで心地よい音楽を聴きながら観光地巡りでもしている気になれるだろうか。要するに風景を眺めながら心地よい音楽を想像しているわけか。そうなると眺めている風景に足りなかったのは心地よい音楽になるだろうか。要するに足りないものを想像で補うのが美学的な態度となるわけか。では例えば今の日本に足りないものを想像できるだろうか。それが日本人の手で作り上げた日本独自の憲法となるわけか。そんなことを妄想している人たちも少なからずいるようだが、やはり自分たちにとって心地よい環境を確保するには、自主憲法は是が非でも手に入れておきたいところだろうか。そのような憲法を手に入れることができたら世の中はどうなってしまうのか。今誰もが感じている退屈で味気ない日常から抜け出ることができるだろうか。今ある憲法では飽き足らない人にとっては、それ以上の何かを体験することができるわけか。目障りな反日活動家たちを一掃して、政権与党の政治家たちが逆らう者のいない夢の世界へと誘われるのだろうか。それを目指しているのなら実際にそうなるのではないか。あてが外れることはないだろう。そんな妄想の世界に浸る気のない人は無関心でいてもかまわない。反対派は必死で反対票への投票を呼びかけるだろうが、興味のない人なら耳を傾ける必要のないことか。また現実の世界へ踏みとどまれる自信のない者は、自主憲法制定にかけてみるのも一興かもしれない。推進している政治家たちとともに夢の世界へと誘われるとすれば、それは心地よい体験となるだろう。


5月24日「民主主義の特性」

 それとこれとは無関係な現象や出来事など数知れずあるかもしれないが、関係があるとはどういうことなのか。興味を抱いて積極的に関わろうとすれば、それまでは無関係であったとしても、関わった時点で無関係ではなくなるのだろうか。そうやって強引に関係を持とうとすることが、何か自然な関係とは違う特別な関係性を持つに至るのか。特別というわけではなく、そこには自然な関係には欠けている要素があるのではないか。いびつな関係と言えばいいだろうか。あるいは想像力や妄想が働く過剰な思い入れというのも伴ってくるのかもしれない。そういう関係ははたから見ると滑稽に映るだろうか。何かおかしいと感じられる。ではそんな不自然な関係とは具体的に何と何の関係なのだろうか。国家と国民の関係か。たぶんそうではない。官僚と政治家の関係だろうか。それも違うのかもしれない。ではなんなのか。何と何が不自然な関係なのでもなく、それらはただの関係でしかないのではないか。ただの関係とはどういうことなのか。自然でも不自然でもなく、たまたまそういう関係を構成しているに過ぎないのであり、それが必然だとか偶然だとか見なしてみても意味のない関係なのかもしれない。ただそこに関係があり、その関係についてあれこれ考えているわけだ。

 それらの関係はいったいいつから始まったのだろうか。いつの間にか始まっていたわけか。それとは違う関係を構築できないのだろうか。すでにそれらの関係が出来上がっているのだから、人為的には無理なのではないか。では自然に構築されるのを待つしかないのだろうか。たぶんその間に人為的な関係の構築の方が勝ってしまい、人々はそちらの方に目を奪われてしまうだろう。文明の中で暮らしているのだからそれでかまわないわけだ。人為的な関係とともに自然な関係も自然に構築されているのだろうが、それは意識されることのない関係なのかもしれない。台風や地震や火山噴火などの自然災害がもたらされたときに、その関係に気づくかもしれないが、災禍が過ぎ去ればすぐに忘れてしまうだろう。その自然な関係と人為的な関係が重なったのが、福島の原発事故だろうか。

 人も自然の一部なのだろうから、自然と人為を分けるのもおかしな話だが、ともかく人為的な行為によって不自然な構造が作られ、その構造が多くの人々に利益もたらす一方で、多くの人々を苦しめているわけだ。利益は人為的な行為からもたらされ、その利益に与れる多くの人々を喜ばせ、その利益に与れない多くの人々を苦しめる。特定の人々にもたらされる利益が人々の間に格差を生み出すわけだ。利益とはそもそも人々の間で格差をもたらす作用があるわけだから、そうなって当然なのだろうが、すべての人に同等の利益をもたらす構造があるとすれば、それは陽の光や空気と同じで利益とは言えなくなってしまうわけで、常に他人や他の団体より自分や自分が属する団体の方が有利になるようにしたいわけで、そのためには他人や他の団体ではなく、自分や自分が属する団体に利益がもたらされることが肝心なわけだ。それの延長上に国家主義があり、韓国や中国などの外国にではなく、日本に利益がもたらされる構造を作りたいわけで、国家主義者はそのための方策をあれこれ考えているのだろう。そして国家を富ませるためには、自分たちを批判する勢力が邪魔なのだろうし、国家を富ませる行為を邪魔する者たちの利益など考慮する必要はないわけだ。

 自分たちに敵対する勢力にも利益をもたらすようにするにはどうしたらいいのだろか。敵対関係をやめてみれば、それは自ずから明らかになることか。その逆に敵対関係を強調して煽り、自分たちの味方になれば利益がもたらされると誘惑する手法は、世の中でこれまでもこれからもよく用いられる手法なのだろうが、それがどのようなときに用いられるのかといえば、それは選挙や住民投票のときや、あるいは議会での採決のときのように、民主主義を担う構造の中にそのような利益誘導が内包されているわけで、また結局そのような構造から国家主義者や独裁者が生み出されるわけで、それは民主主義が内包する宿痾というよりは、その動作の必然的な帰結として生み出されるものなのではないか。それが自然の成り行きなのか、あるいはそれに逆らって人為的に生み出されるのか、その辺はどちらとも言えるようなことなのかもしれないが、いったんそういう構造で固まってしまうと、行くところまで行ってそのような構造が破綻しない限りは、途中で修正が効かないのが民主主義的な構造の特性でもあるようだ。


5月23日「流行り廃りの世界」

 将来に対する悲観的な展望などいつの時代でもあったことは確かかもしれない。例えば現状では国家と資本主義が世界的に行き詰って、末期的な様相を呈していると言えるだろうか。それもいつの時代でもそうだったのだろうか。平和な高度経済成長の時期であっても、当時は公害問題などが深刻な社会問題となっていたのではなかったか。そして世界では東西冷戦時代で、世界各地で内戦や戦争が頻発していたはずだ。中東ではイスラエルと周りの国々との間では何度か大規模な戦争があったし、南アフリカやローデシアではまだ人種隔離政策が続いていて、ネルソン・マンデラも獄中の身だった。また核戦争による世界の終末もまことしやかにささやかれていた。それらの時代と今の時代では何がどう違っているのか。要するに国家も資本主義も信じられなくなってきたということだろうか。化けの皮が剥がれてその限界が明らかになってきたわけか。貧富の格差などによって社会の中での階層が固定化され、貧困層から抜け出られる可能性が閉ざされてしまったわけか。またヘイトスピーチなどに見られるように、差別が平然と叫ばれそれが助長されている風潮もあるのだろうか。人々の間で精神的な余裕がなくなり、対立や敵対関係を無理にでも煽ろうとする人々が跳梁跋扈している現状もあるようだ。またメディアもそういう人たちに脚光を浴びせ、そうすることで利益を得ようとする節もあるらしい。それらの現象が何を意味するのだろう。単に世も末だということだろうか。世間の良識や常識のタガが外れてきたとも言えるだろうか。でもそうだからといってこれから弱肉強食の暗黒時代が到来するわけでもないような気がしている。もしかしたらそれらの全ては冗談の範囲内で行われていることなのかもしれない。要するにお笑いなわけで、例えば今世界的に注目を浴びているイスラム国の建国理念なども、千数百年前のイスラム帝国の再興などというありえないことを平気で掲げているわけで、その指導者がカリフを名乗っていること事態が時代錯誤も甚だしいわけだが、それでも現実に戦闘によってその支配領域を広げつつあるわけだから、あながち冗談で済ますわけにはいかないだろうが、日本の首相をはじめ、メディアを通して伝わってくるその主張が、子供だましのように感じられてしまうのは否めないところだろうか。

 とても本気で言っているとは思えないようなことを平気で口にしてしまう、といったほうがより正確な印象だろうか。ロシアのプーチン大統領や中国の習近平主席なども、西側諸国の首脳たちの言っていることが信用できないから、自分たちの身や自国を守るために強硬な手段に出ているのかもしれず、それが周辺地域への侵略となって顕在化しているのかもしれない。彼らの肩を持つ気にはなれないが、そうやって絶えず圧力をかけていないともはや広大な国家の領土を維持できないのだろうか。それはアメリカなどとともに、大国という勢力圏が崩壊する一歩手前まで来ていることを物語っているのか。EUも南から押し寄せる移民問題で頭を痛めているようだし、栄えている地域には絶えず周辺の貧しい地域から人々が侵入してくるその構図は、古代の帝国が崩壊する過程と一致しているのだろうか。アメリカも国内で没落しつつある中産階級をなんとか助けようとして、TPPによって工業製品や農産物の輸出を促進して、それらの産業を復興させようとしているのかもしれないが、果たしてそのしわ寄せで日本の産業が崩壊する事態となるのかならないのか。もしかしたら資本主義的な商品の生産・流通・消費の形態でなくても、やって行ける可能性があるのかもしれず、そのような形態が編み出される過程で従来からある産業構造が崩壊するのなら、アメリカの試みが格好のきっかけを作るのかもしれない。たぶんそれは人々が望んでいるのとは、まったく違った方向なのかもしれないが、いったん固まったかに見える社会のヒエラルキーの構造が、これから各国の思惑や企業活動や市民運動などの相互作用から、解きほぐされてまた違う構造に編成し直される過程を、今まさに経験しつつあるのかもしれない。そのような流動性を今はまだ感じ取れないだろうが、現状で不快な思いをしている人が多ければ多いほど、そうなる可能性も高まるのだろう。そして明らかにおかしなことを述べている人たちが、現にメディア上に大勢登場しているわけだから、それらの人たちがいつまでもそのままのさばっていられるとも思えない。大衆社会の中では流行り廃りのサイクルが確実にあり、おかしなことを述べて人気を博している人が、その化けの皮がはがれると、急速にその力が減退して、遠からずその存在は忘れ去られる運命にある。


5月22日「それとは別の選択肢」

 地方自治とか国家統治とか言われる概念に、何か肯定的な意味付けができるだろうか。現に行政が機能しているのだから。行政を活用してそこに暮らす人々の暮らしを助け豊かにしていけばいいのだろうが、それを幻想だと断じてしまうのも、現状から逃げて、何でもかんでも否定的に捉える思考に屈しているだけかもしれない。しかし現状とはなんなのか。人々はどんな現実に直面しているのだろうか。それは人によって異なるだろうし、一部の金持ちなら行政などに頼らなくても、金の力で何不自由なく快適に暮らしていけるのかもしれないが、普通の一般人や貧乏人などにとっては、行政に頼らなければ生活が立ち行かない面もあるのだろうか。医療保険や失業保険や年金などの他に、家賃の安い公共住宅の利用や、冠婚葬祭も費用の安い公共施設があるだろうし、乗り物も鉄道やバスなどかつての国鉄ほどでないにしても、市町村の助成を受けて安い料金で運用させているのもあるだろうし、学費の安い公立の学校などに子供達を通わせ、公務員にでも就職できれば、親方日の丸で食いっぱぐれることもないだろうか。そしてそれでも様々な事情によって生活が立ち行かなくなったら、最後の救済手段として生活保護制度があるわけだが。現状ではそのような制度やシステムを維持できなくなっているのだろうか。財政赤字がその理由となっているわけだが、赤字となってしまった原因としては、公共事業に絡んで役人の天下り企業に便宜を図るために、無駄で必要のない事業にどんどん予算をつぎ込んでしまったことによって、財政赤字を拡大させてしまったのではなかったか。結局そちらの便宜供与のカラクリはそのままにしておいて、そこで暮らす人々に対する福祉関連や行政サービスなどの予算を削ろうとしていることが、人々の反発を招いているのだろうが、役人の天下りによる行政と企業の癒着構造が日本経済を支えていて、それを断ち切ってしまえば日本そのものが崩壊してしまうのだろうか。その辺がよくわからないところなのだが、役人は政権与党にも多数天下りしていて、政財官の強力なタッグを形成しているわけだから、現状では癒着構造など断ち切れるわけもなく、それどころが本来ならそれを批判し糾弾すべき立場のメディア関係者の中にも、元官僚がゴロゴロいるわけで、その強力なタッグは政財官+マスメディアの様相を呈しているわけだから、普通の一般人や貧乏人にはもはやなすすべがないのかもしれない。人々はそんな現実に直面しているわけだ。

 これは絶望的な状況だろうか。行政にすがりつこうとするなら、確かにそうかもしれない。では果たしてそれ以外の選択肢があるだろうか。あるにはあるだろうが、それは人々がどうしても認めたくない選択肢なのだろう。それとは何か。たぶんそれはなんでもないことだ。今まで通りに普通に暮らして行けば、自ずからその道を選択することになるだろう。逆らいたければせいぜい選挙や住民投票で反対勢力に投票すればいいだけだ。その程度のことでかまわない。そして逆らうのが嫌ならその手の投票を棄権すればいいし、また積極的に政財官+マスメディアの癒着連合に忠誠を誓ってもかまわないのではないか。有能な人なら積極的に取り立ててもらえて、甘い汁が吸える立場にもなれそうだ。それらの選択肢のどれを選んでも構わないだろう。しかしそれ以外にはないのだろうか。中にはそれ以外の道を模索している人もいて、行政の助けを借りずに、独自に金銭的な関係を極力排して、贈与に基づく相互扶助的なネットワークを築こうとしている人たちもいるのではないか。実際にそういうネットワークがすでに出来上がっていたりして、それの恩恵を受けながら暮らしている人たちもいるのかもしれない。そんなふうにして人と人の立場も関係も様々にあり、それらのどれを肯定してどれを否定するわけにもいかないのだろうし、多く人たちそれぞれ違ったやり方を駆使して暮らして行くしかないのではないか。そうやって新たな状況を作って行くしかないだろうし、違った道を歩んでいようと、必要とあらば相互に連携してもかまわないのであり、そのような可能性も模索しながらやっていくしかないだろう。資本主義市場経済では金を持っている者が有利だが、それとは異なる経済が成り立つとしたら、そこでは必ずしも金持ちが有利になるとは限らないかもしれず、ネットワークの構造次第では誰にとっても有利不利がなくなる可能性もあるのかもしれない。その辺は今後の成り行き次第なのだろうが、国家主義という一つの価値観に凝り固まっていれば、確かに貧乏人や政治的な反対勢力に属している人にとっては、政財官+マスメディアの癒着連合にやりたい放題やられて、絶望するしかない状況なのかもしれないが、たぶんそれはそれで国家と国民の関係が必然的にもたらした結果だと受け止めるしかないのだろう。


5月21日「効力のない見解」

 陰謀というのもあることはあるのだろうが、世界各地で続いている民族や宗派間の武装闘争がなかなか終わらないのも、そこでなんらかの陰謀が巡らされていて、それらの地域で人や物資の消耗が続いている方が都合が良い勢力が、背後で糸を引いているのかもしれない。メディア的にはそういう見解でかまわないのであって、そんな見解を信じている人も多いのではないか。しかしそうではない見解を導き出すことができるだろうか。それ以外ではどんな原因や理由が考えられるのだろうか。それを説明するとしたら陰謀論でいいのではないか。中東の紛争の背後でアメリカの軍産複合体やイスラエルが陰で糸を引いていると思えばいい。そう思わせる状況証拠があるのだからそう思っていればいいわけだ。イスラム国の兵士たちがイスラエルで軍事訓練をしていたり、アメリカ製の武器を使っていたりする、という情報があるわけだから、それが状況証拠となってそのような見解に至るわけだ。そしてそれでそのような見解に関する興味は失われてしまうわけか。そうではなくそれによってアメリカやイスラエルを非難するわけだ。戦争を継続させて武器を売って金儲けしていると非難する。そうやってそこに住んでいる人々の命や財産を奪っているわけだ。戦争も強盗と同じく略奪や強奪という経済行為なのだろう。相手を襲って金品や土地や人員を奪う行為だ。そのためには武器とそれを使用して戦う兵隊が必要だ。やっている人たちは案外それを割り切って考えていて、相手が誰だろうと武器を売ってくれる人や団体なら、主義主張宗派に関係なく喜んで買い、それを使って敵を襲って人や物を強奪して、さらに奪った人や物を売って金にして、その金で武器を買ってまた敵を襲う、というサイクルを継続させることで生活していて、そういう経済論理で動いているのではないか。そしてそれは別の経済行為とリンクしていて、その別の経済行為とは、自然から資源を奪って、奪った資源を売り、それを買って加工してその加工品を売って金を得て、得た金を使ってまた資源を買ってきて、その資源を加工して加工品を売って金を得る、というサイクルであり、その加工品の一つが武器であるわけで、そこで戦争を生業としている人たちの経済行為とつながる。それが何を意味するのだろうか。できれば経済行為の中に戦争や強盗などの人や財産を暴力で奪う行為は含めない方がいいわけだ。そして同じ奪う行為であっても、徴税行為は国家を維持する上で必要不可欠だから、それは経済行為とは別の分類として法律で定められ正当化されているわけか。

 戦争をやめさせるにはどうしたらいいだろうか。戦争やっている人たちを皆殺しにすればいいだろうか。戦いを挑んで武器を持って向かって来る連中は殺して、白旗を掲げて降伏してくる連中は拘束して裁判で裁けばいいわけか。そして戦いが終息したところで、戦っていた地域を平和な国家として再出発させればいいのだろうか。これまでもそういう試みを繰り返してきたのではなかったか。そしてそれをぶち壊しにして戦争も繰り返されてきたわけか。何かのきっかけでそこに勢力争いが生じて、簡単に戦争に発展してしまう地域があるということか。それまでの歴史的な経緯が災いして、容易には民族や宗教や宗派を異にする人々を和解させることができず、紛争の火種を取り除くことが困難なのだろうか。そんなふうに語れば何か気が利いたことを述べているような気になれるだろうか。たぶん今ある現状の延長上でなんとかしなければならないのだろう。それと関係なく武器の製造や売買を世界的に禁止することなんてできるわけがない。結局できることはといえば人々が戦火のない地域へと避難することぐらいだろう。そして難民となって受け入れ先の国を探すしかないわけか。そして周りの国々が勇気を持って調停を買って出て、途絶えることなく和解や宥和への試みを平和的に継続して働きかけるしかなく、憎しみを煽り相手を罵倒し自分たちの優越性を主張する人たちを非難し続けるしかないだろう。それ以外に特効薬だとか秘策だとかがあるとも思えないし、そういうものを求めるとかえって事態をこじらせてしまうのかもしれない。そして紛争の背後で糸を引いている黒幕が明らかになったところで、その黒幕に向かって何をどうすればいいのだろうか。やはり批判するしかないのだろうか。黒幕のやっていることをやめさせることはできないわけか。批判することがやめさせることに結びつくのだろうか。そう信じて批判を繰り返すしかないわけか。


5月20日「空回りする民主主義」

 民主主義を支えているのは資本主義なのかもしれない。少なくとも今まではそうだったはずだ。普通言われる資本主義に対抗していた社会主義も、国家資本主義的な形態であったのだろうから、資本主義の一種だったのだろう。人は労働して金を稼ぎそれを糧として生きてゆく。世の中の大多数の人がそうやって生きていれば、それで良かったはずだが、稼ぎにも多い少ないがあったり、コネで優遇されている人もいたり、生まれながらに金持ちの家の子息がいたり、そういう不平等があからさまにまかり通ってくると、人々の間に不満が高まり、民主主義によって資本主義から生じている不平等をなんとか是正したくなるわけだ。その結果所得が多い人ほど税負担が重くなるようにしてみたり、それでもダメなら今度は資本そのものに課税するような提案もあるわけだが、根本的なところで、不平等を助長している人たちが、政治的な実権を握っている現状があるわけだから、しかもそういう人たちが政治的な実権を握りやすい仕組みができているわけだから、それを無視していくら民主主義的な平等の実現を訴えたところで、うまくいくはずがないのだろうが、それでも保守的な強権政治を前にすると、訴えざるを得ない状況になっているようで、しかも訴えている人たちが、これまた不平等を助長している比較的裕福な人たちなのだから、そしてさらに不平等を被っている人たちがそういう人たちに共感したり、その主張に賛同したりしているわけだから、実質的には何がどうなっているわけでもなく、たぶんチベット仏教に用いられるマニ車のように、その民主主義の掛け声やお題目が空回りしているだけなのではないか。そしてそのような空回りも資本主義に支えられているわけで、そのような訴えかけが広く世間に伝わるのも、商業的なメディア空間を通して伝わるわけだ。どう考えてもうまくいくはずのない試みを、多くの人たちがひたすらやっていて、しかもそれをやることが生き甲斐となっているならまだしも、中にはそれがメディア的な商売となっている人たちもいるわけで、果たしてそのような民主主義の実現や実効性を信じる必要があるのか、はなはだ疑問を抱かざるを得ないのだが、要するにそうすることが、民主主義的な制度となっているのかもしれず、それこそが民主主義の実態そのものなのではないか。

 人は必要に迫られて労働しているのであって、しなくてもかまわないなら働かないだろう。生活保護受給者が働かないのは、人として当然の態度なのではないか。生活保護に至るまでに労働によって大変なひどい経験をしてきたのだろうから、もう働きたくないのも無理はないのではないか。いったんそうなってしまえば後戻りはできないのかもしれず、そんな二度と立ち直れないような人たちを批判したところで意味がない。結局そこへ至る前になんらかの歯止めをかけて、人々を労働に引き込まないと、行政としても税収が減るし負担が増えるし、その辺をなんとかしたいところなのかもしれないが、果たして食い止めるための有効な手段があるのだろうか。そこで産業を振興して働き口を増やすしかないのかもしれないが、一方で企業の方はなるべく有能な人材が欲しいのであって、しかも経済競争を勝ち抜くためには、無能で使い物にならない人材を大勢抱えていたら、企業自体が倒産してしまうだろう。結局資本主義的な経済競争には不必要な人たちが世の中には溢れかえっていて、しかもそういう人たちが物や情報を買ってくれないと、経済が回って行かずに資本主義が成り立たなくなってしまうとしたら、働き手としては必要ないが、商品の買い手としては必要とされているとすれば、もうすでにそこで資本主義は遠からず破綻する運命にあるのかもしれないが、そこで行政は教育に力を入れて、質の高い労働者を教育によって作り上げ、それを社会に供給することで、資本主義を支えようとするのかもしれないが、しかしそれでも人余りだとすればどうにもならないだろう。企業の方でそんなに大勢の人材は必要ないということなら、いくら人を社会に送り出しても意味がない。現実にはやりたくない仕事なら人手不足で、いくらでも人材が欲しいのだろうが、しかしそれは教育によって作り出された質の高い労働者にとっては、当然やりたくない仕事であり、逆にやりたい仕事ならいくらでも希望者がいて、今度はそれをやりたいのにやれない人が大勢出てしまい、でもそのやりたくてもやれない人たちが、やりたくない仕事をやろうとするかといえば、これも当然のことながら、経済的に追い込まれでもしない限りはやらないだろうし、結局そういうところからも人々の不満が鬱積してくるわけだが、それを民主主義が解決できるとは思えない。そしてそれを保守的な政治家たちが解決しようとするから、独裁的な強権政治になるしかなく、そこで民主主義の危機が叫ばれているわけで、結局その辺の不条理の周りを言葉や主張がぐるぐる空回りしているわけだ。


5月19日「競争原理の不条理」

 不条理に直面しているのかもしれない。だが言葉で示せば簡単なことだ。不条理にも程度があって、直面している不条理はまだ深刻なものではないのかもしれない。不条理とはなんだろう。ただ漠然とそう思うだけで、不条理が示す意味とは少し違うような気もして、厳密にはそうではないような気がする。ではなんなのだろうか。直面しているのは不条理ではないわけか。本当のところはよくわからない。無理にわかろうとすれば、不条理であってもなくてもどちらでもよくなってしまいそうだ。確かにそれが不条理でなくてもかまわない。それらは全て常識の範囲内で行われていることなのではないか。その言葉が示す現象に飛びつけば、それは常識の範囲内で飛びついていることになりそうだが、そこで人々は何に飛びついているのか。それはどんな現象なのだろうか。ただの政治的な駆け引きに巻き込まれているのだろうか。政治的な駆け引きとは具体的にどんなことなのか。現状維持とか改革とか、そんな単純化では済まない現象なのだろうか。相手を批判するときはそれでは現状維持だと批判して、自分たちは現状を改革しなければならないと使命感を強調するが、しかしその改革の中身はどうなっているのか。要するにその中身について賛成か反対か民意を問うわけだ。それ以上を求めるわけにはいかないだろう。しかし実際には何が問われているのだろうか。それは国や地方自治体の行政のあり方が問われているわけか。いったい行政組織はそこに住んでいる住民に対して何をすればいいのだろうか。それは行政改革すればなんとかなるような問題なのだろうか。住んでいる住民がそれに対してどう考えどう判断すればいいのか。たぶんそこに有効だと思われる方法が示され、それを実行したいのだろう。そしてそれが実行されたなら、うまくいくのではないかと改革派は主張するわけだが、そのようなやり方がどの程度説得力を持つのだろう。だからそれが信用できるか否かも賛成か反対か民意を問うわけだ。行政のあり方を問うシステムとはそういうものなのだろう。そしてそれとリンクして、あるいはそれとは別に産業の問題があり、行政が産業振興する必要があるのかという問題もありそうだ。確かに行政が富国強兵政策を推進していた時代もあったのだが、現実問題として他国に軍隊を進攻させ、そこから資源などを略取して自国を富ませる政策はできなくなっているわけで、残るは産業振興策しかないから、住民たちに幻想を振りまくには、自分たちの改革が成し遂げられ成功すれば、経済的に豊かになれると主張するしかないわけだ。

 だが果たして国内だけの行政改革で経済的に豊かになれるだろうか。それ以前に自国だけが豊かになっていいのだろうか。今より経済的に豊かになろうとすることをあきらめたらまずいのだろうか。住民に向かって豊かさの幻想を振りまくことで、支持を集めようとしているのだから、政治家にとってはそうするしかないのだろう。それ以外に選択肢はないのだろうか。福祉の充実とか住環境の快適さなども、経済的な豊かさがあってこそ達成されることだろうか。そうなると他の自治体や他の国との競争に勝つための方法が模索され、他の自治体や国との関係は武力を伴わない戦争状態となるしかないのではないか。そういう経済戦争的な価値観が住民に受け入れられているうちは、経済的な豊かさを勝ち取るための競争をあおる政治家が人気を集めるのだろう。たぶん世界的には国家が積極的に産業育成に関わり、それに成功した国が豊かさを享受していて、それに乗り遅れたりうまくいかなかった国が、貧困国となっている現状がありそうだが、貧困国などの中でも、ブータンなどは住む家があり飢えずに食べていければ、とりあえず幸せだという価値観が住民に浸透しているようで、ただ闇雲に産業育成して先進国を目指すのではなく、というか後進国にはそういうやり方はもはや無理だという認識があるから、現状を維持しつつも変わることは拒絶せず、背伸びせずにできる範囲内で生きていこうという姿勢で、国全体がまとまっている印象があり、それで幸せの国という印象を持たれているらしい。そういう国に工業製品を洪水のように輸出して搾取することがあってはならないだろうし、経済戦争のような価値観で日本が中国と競い合って、アジアの盟主とならなければならない、とか主張するような政治家を果たして支持すべきなのか、その辺はよく考えてみたほうがいいだろう。資本主義市場経済で動いている限りは、そんなきれいごとは言っていられないし実際に通用しないのかもしれないが、経済的な豊かさを追求し効率を重視して競争原理を導入すれば、例えば企業などは正社員は一部の管理職に限られ、誰にやらせてもいい部門はパートタイムで必要な人員だけ雇って、業績が悪化すればそれを解雇すればいいし、業績が良くなれば人員を増やせばいいわけで、そういうことがまかり通るようになるだろうし、豊かさを求めたことがかえって多くの人が貧しくなるという不条理に直面するわけだ。


5月18日「弱肉強食の自然」

 その場の空気を感じ取るというのは、単なる思い込みである場合が多そうだが、やはりそこで何かしら感じ取っていて、感じ取ったことに対処しようとするわけだ。例えば本当に感じ取れたかどうかはわからないが、なんとなく周囲から敵意のような雰囲気が伝わってくることがあり、ここは早々に退散しなければと思ってしまうわけだ。確かにそれが思い違いであったり勘違いであったりする場合の方が多いのかもしれないが、実際にそんなふうに勘が働けば、それに伴った行動や言動になるだろう。それでなんとなくそのままでは陥るかもしれない危機を未然に回避したことになるわけか。思い違いや勘違いかもしれないが、実際にそのように動いて何事も起こらなければ一安心するのではないか。勘が働かなかったとしても何も起こらなかったのかもしれないが、時間を遡るわけにはいかないので、済んでしまったことは仕方がなく、とりあえずそういう成り行きに身をまかせて今に至っているわけだ。それが良いか悪いか判断する気にもなれないだろうし、現実にその先へ進むことしかできないわけだから、やはりその場の空気を感じ取って機転を働かせた結果の上に生きていることになり、その過程で発生した行動や言動を、肯定したり正当化したり逆に否定したり後悔してみても、過ぎ去った時間を取り戻すことはできず、これから体験していく時間の中で何かやるしかない。今までにやってきたことがうまくいっていたのか否かも、判断や評価を保留しておくしかないだろうか。全てが現在進行形でやっていることなのだろう。周囲の環境に影響を受けながら、偶然の巡り合わせや必然的な成り行きで様々な出来事に遭遇しながら、何か考え何か語り何かやっているらしいが、これといって目に見える成果などないのも、偽らざる実感だろうか。そしてそのままでも構わないのであり、淡々と日々を生きてゆくしかないだろう。そういう状態を限られた期間内で保っていること自体が、成果といえば成果かもしれないが、それは自分にとっても他人にとっても周囲にとってもどうでもいいことだろう。弁護士になりテレビタレントになり大阪府知事なり大阪市長になった人と比べれば、取るに足らないようなことでしかない。

 何と何を比べてみても比べる必然性を感じられなければ、そんなことはどうでもいいことになってしまうわけだが、比べることでしか語れないだろうし、何かと何かを比較することから思考が生まれ、それ特有の言説が導き出されるのだろう。何かを肯定したり正当化することは、その何かを宣伝することにつながるだろうか。そしてそれを別の何かと比較して、比較する対象に対して、肯定したり正当化したりしている何かの有用性や優位性を語るに至れば、それはすでに宣伝そのものになりそうだ。そんな宣伝文句で世の中は満ち溢れ、その中で喧伝している有用性や優位性が実証されなければ、それは詐欺やペテンの類いとなりそうだが、実証されるとはどのようなことを言うのだろうか。実際にそれが使われ試されてみないことにはわからないのではないか。だがそれ以前のプレゼンの段階で詐欺やペテンが見抜かれたとすれば、それは試す手間が省かれて良かったのだろうか。原発のようにその有用性や優位性が強調されて、実際に何十年も使われた末に、事故によって取り返しのつかない惨状を招いてしまったとしても、なおもそれを強引に使いたがる勢力もいるわけで、そこにたとえ詐欺やペテンが含まれているとしても、政治的な権力を握っていればごり押しできるわけで、そうなると宣伝云々ではなく、強要してまでも使わせるということになって、そういう強要に慣れてしまうと、それが普通で何も感じなくなってしまうのかもしれないが、とりあえずその手前の段階にとどまって宣伝合戦をやって、どちらがいいか人気投票をやるぐらいの状態がちょうどいいのだろう。それより先に事態が進んで、嫌なのに力まかせに強要しようとする段階にまで至ってしまうと、そこにいる人たちも精神的に耐えられなくなってきて、なんでもありの暴力的なやり方がはびこってきて、社会の常識や良識でかろうじて成り立っているように思われる世の中が、その幻想を剥ぎ取られて崩壊してしまうのかもしれない。要するにきれいごとやタテマエの後ろに隠れていた弱肉強食の自然状態がむき出しになるわけか。


5月17日「メディアのブランド化」

 そこで何を感じ取っていたのか。金の力や暴力以外では、他人の行動や言動を制することができないということか。そんな単純なことではないはずだ。洗脳という手段もあるが、たぶんそれも暴力の類いであり、そうではなく相手の行動や言動の自由を保障しながらも、思惑通りの方向へ誘導していく方法が模索されているのだろうか。それはいったい何によって模索されているのか。国や地方自治体の行政や企業の製品や従業員の管理を担う官僚機構によって、そのような試みが模索されているのだろうか。そしてそれは従来から言われている学校や工場や刑務所などの、閉ざされた管理空間で行われていることとはどう違うのか。あるいはそれは商品の広告宣伝などと似たような手法だろうか。金銭的な利益をエサにして誘導するなら詐欺やペテンの手法となるだろうが、金ではなく健康とか娯楽とか、その延長上で文化や生涯学習の類いだとしても、物や情報をエサにしている点では、金の力と似通っているだろうが、果たしてそれ以外で人を誘導し制御する方法があるだろうか。社会の結束につけ込んで、多数派に従わないと村八分などの不利益を被るようにするやり方もあるが、これも従来からやられている方法だ。ではそれですべてであり、それらのやり方を効果的に使い分けたり組み合わせたりしながら、ある特定の社会勢力がその他大勢の人々を、思惑通りに制御し誘導しようとしているのだろうか。どうもそういう制御する側とされる側の二つに分けて説明するのでは、あまり説得力のある説明とはなりにくいように思われ、もしかしたら制御する側とされる側との間に明確な境界や区別はなく、互いが入り混じった状態で、あるときは制御する側に回ったり別の場面では制御される側に回ったりして、役割分担がそれほどはっきりしていないのではないか。何かそれとはっきりわかるような敵が想定されれば、それを攻撃目標に定めて叩けばいいわけだが、どうも実態はそうではなく、確かにそれと想定されるような特定の役職などがあるにはあるが、必ずしもその役職を占めている人物が全権を委ねられているのではなく、形式的にはっきりとした命令を発して、その命令を遂行する役割を担った人物たちが命令通りに動くわけだが、それとは別に何か空気のようなものがあり、そちらの方が本質的であって、かえって役割分担的な指揮命令系統は形骸化していて、命令を下す担当者も命令通りに動く行為者も、いつでもいくらでも他の人物と入れ替え可能なのであって、要するに誰でもかまわないわけで、誰がその役割を担おうが、同じように動作するシステムになっているのではないか。

 それがなんだかわからないような空気に包まれていて、その中ではなんとなくそうなるような成り行きがあって、あらかじめ結論が決められているかのように動いて、その動きに支配されながら、誰もがそこへ向かって収束していってしまうわけだ。要するに他人と同じように動いていると安心するのであり、それは動物の群れに見られる行動に似ているのかもしれない。そしてその見習うべき他人が、メディアに登場する有名人ならなおさら安心するのであり、その結果その有名人が勧める商品を買い、有名人の服装や趣味を真似、有名人が日頃行っている健康法などを試してみたり、その有名人が地方自治体の首長などになれば、そこの住民であればなんとなく安心してしまうのかもしれず、メディアに対して精神的に依存度が高い人などは、そのことを誇りに思ってしまったりするのだろう。そうだとすると元凶はメディアであり、メディアこそがそのような空気を社会全体に行き渡らせていると言えるだろうか。メディアから情報を得ている限りは、そのメディアを信用してそこからもたらされる情報も信用しているから、そこに頻繁に登場する人物が述べていることや主張も、よく考えずに反射的に信用してしまい、その人物がそこ出てきて、いつものように語っている状況に慣れてしまうから、安心してその主張などに共感できるのではないか。たぶんそのような安心感がその人物への信頼へとつながり、あまり深く考えないでその主張の同調者となってしまうわけで、それが高じてしまうと、逆にテレビの人気番組の司会者や発行部数の多い新聞などが好意的に取り上げる人物ほど、メディア的にはより信用のおける人物となってしまうわけで、そのような人物が述べていることやその主張を支持したり同調する人も、それだけ膨大な数となってしまうのだろう。要するに述べていることや主張の中身ではなく、誰が述べているかがその主張を信用するか否かの基準となってしまうわけで、贔屓にしている有名人が言っていることなら、とりあえずは信用してしまうのであり、逆にどこの誰なのか得体の知れない人物が、ネット上でつぶやいているような意見など、まずはそのような場で発せられている時点で軽んじられてしまうのであり、まともに聞く耳など持つ必要のない無視してかまわない意見でしかないわけだ。結局そのような差別化がもたらす先にあるのはメディアのブランド化でしかなく、それは有名ブランドの商品が値段が高いほど喜ばれ、それの所有者となることが、一種のステータスであるかのように思われることと似ていて、例えばメディア内でも一目置かれるような、ニューヨークタイムズやワシントンポストなどからもたらされる情報なら信用され、読売新聞や産経新聞などの保守系メディアの情報は、左翼系の人たちにとっては、政府の息がかかっているからクズ情報であるかのごとく思われているだろうし、右翼系の人たちにとってはその逆で、朝日新聞や共産党の機関紙の赤旗や週刊金曜日などの情報がクズ情報となるわけだ。そしてそれらの人々はそれぞれが信奉しているメディアに、制御され操られることとなる。


5月16日「本音とタテマエ」

 語っている内容の何が真実であるわけでもないが、語っていることの全てが真実でもある。要するにそこで何か語っているという真実があるわけか。でもそれが文章で示されているとすれば、そこで示されている語りの何が真実であるわけでもなく、その語りが示されている文章こそが真実の全てとなるだろうか。別に何が真実の全てであろうとなかろうと、そんなことを気にしているわけでもない。それが全てではないのかもしれない。そう思っておいて構わないのだろう。そう思うことが間違っていてもかまわないわけだ。正しさを求めているわけではなく、それがいかに機能しているか説明しようとしているのではないか。しかしそれとはなんなのか。それをはっきりと示せなければ説明していることにならず、何を述べているのでもないことになってしまいそうだ。ではそれとはなんなのだろうか。社会の仕組みや制度のことを述べたいのではない。しかし結果としてはそれについて述べているのではないか。何か理想の仕組みや制度を模索しているわけだ。多くの人がそれを求めていて、世の中がそういう仕組みや制度に従って成り立つ日を夢見ているのかもしれないが、それは実現不可能であり得ないことだろうか。たぶんそうではない。目指すべき状態としてはそういうのが必要なのだろうし、それと比べて現状がいかにかけ離れた状態であるか認識したいのではないか。そして世界の中で特定の地域や国だけ、国の中でも特定の階層だけ恵まれていてはまずいのだろう。良くなるなら世界全体が良くなって欲しいわけだが、たぶんその辺で人によって認識のズレがあるのではないか。競争で勝つことを求めている人にとっては、あからさまにそう主張するわけではないが、日本や日本と同盟関係にある国だけが良くなって欲しいわけで、日本政府を批判する国は滅んで欲しいわけだ。そして国内では自分たちの属する階層が良ければそれでいいとも思うわけか。そうは思っていないのだろうし、そう意識しているわけではないが、結果的にそうなろうとしていることについては、それを受け入れるとは表明しないが、そうなればそれを受け入れるつもりなのではないか。全ての人が良くなるわけではなく、努力をした人たちがその努力に報いる形で良くなって欲しいのだろう。そしてその努力というのが自分たちが信奉する価値観に基づいた努力であって、そのような努力をしない人たちは救われなくてもかまわない。そういう人たちの代表格が生活保護受給者とみなされているのかもしれず、どのような事情があるとしても、働かずに行政から生活費を受給されている人たちを目の敵とすることで、同じ考えの人たちと精神的に連帯しているわけだ。

 自分が気に入らない人や団体や国家が滅んで欲しいと思うのは、誰しもが思うところだろうか。たぶんそうなのでありそう思うことの延長上に、自分が信奉する価値観に基づいた思想があり、そんな思想や思考に心を支配されているとしたら、そう思うのは当然のことだろう。そう思うことの何がいけないのか。そう思うのが当然なのだから、その当然の心境に逆らうことは難しいのではないか。難しいからこそ逆らわなければならず、逆らってきれいごとやタテマエを前面に押し出さないと、世界全体が良くなることはないと思うわけか。そうでなくても人は基本的に私利私欲で生きているのに、何か主張するときはそれを隠して、きれいごとやタテマエを語らなければならない。そして語るだけではなくきれいごとやタテマエが実現するように、広く世の中に働きかけなければならないわけだ。そういう矛盾を意識しておかないと、自分や自分の賛同者や団体の利益を優先して追求しなければならなくなり、そんな行為を正当化するようになれば、世の中が競争や闘争に勝った者や団体や国の天下となり、その結果として格差社会や階級社会となるわけだが、きれいごとやタテマエとしてそれは否定されるべき状況であり、そうならないような社会の実現を目指すべきと競争や闘争に勝った者たちは主張するわけで、要するにそう主張する人たちは偽善者なのだが、結局そういう人たちが政治の実権を掌握しているのであり、そういう人たちに格差や階級をなくすような改革の実行が求められているわけで、そういう矛盾した現状があることを認識すべきだし、世の中のすべての人がその現実を直視すべきだ。そして他人の私利私欲を一方的に批判し糾弾すること自体が、欺瞞でしかないことを自覚すべきだろう。実際にそれを非難し糾弾していた当人が、競争や闘争に勝ってその立場になったときにどうなるかは、韓国の二代前の大統領だった盧武鉉(ノ・ムヒョン)氏が崖から飛び降り自殺した現実が如実に物語っている。


5月15日「ファシズムの始まり」

 ファシズムはどうやって生まれるのだろうか。それは過去の歴史でしかない。何がファシズムというわけでもなく、独裁的な権力を振るう政治家をファシスト呼ばわりするだけなのではないか。そして近頃はそのように見える政治家もそう呼ばれるわけだが、要するに批判の対象をファシスト呼ばわりすると、なんとなく批判しているような気になれるというわけだ。もちろんそれだけではないのだろうが、別に特定の政治家がファシスト呼ばわりされようと、何がどうなるわけでもなさそうに思われ、ファシズムやファシストと呼ばれる言葉自体に、どのような効力があるわけでもないようで、そういうレッテルを貼る行為自体がありふれているわけだ。問題はそこにはなく、その政治家や属する政治勢力が今までに何をやってきて、これから何をやろうとしていて、そのやってきたことややろうとしていることを、批判者が批判しているわけだ。ではその具体的な批判の内容について何か述べたいのか。何を述べたいわけでもないのなら、中身のない表面的な批判に終始しているだけではないのか。もしかしたら批判でさえないのかもしれず、実際に特定の批判者を批判しようとしているのでもなさそうだ。そう述べることで何か政治的な思惑があるとも思えず、批判の対象を特定せず名指しもせずにはっきりさせないまま、何か適当でいい加減なことを語ろうとしているのかもしれない。そう語ってもかまわないと思っている。他に何が見出されているわけでもなく、特定の政治家や政治勢力の政治的な行為が、何をもたらしているわけでもない。また国際テロ組織や各国のゲリラ勢力などが、この世界にどんな影響を及ぼしているわけでもない。それらはみんな否定すべき対象であり、批判の対象とはならないのだろうか。今日的なメディアの状況の中ではそんなはずがないだろうが、とりたててそれらに対して、何を述べてみても仕方のないことなのではないか。なぜそう思うのだろう。どうしてそう述べて批判を諦めてしまうのだろうか。確かにそれらはみな国家の内部と、国と国との対立や連携関係の中でしか効力のない問題で、個人の力ではどうすることもできない問題だ。しかしそれ以外に何があるのだろうか。経済的な人や企業の関係だろうか。だがそこにも国家が絡んでくるように思われる。そういう方面ではそれ以外には何もないように思われるが、それとは無関係に何を述べられるわけでもなさそうだ。

 しかし政治的にはいつも金権腐敗の利権をめぐる争いということにされてしまい、それが批判する上での格好の攻撃材料になり、何か政治家や属する政治勢力が、経済的な私利私欲で動いていることになって、そればかりが繰り返し批判されるわけだが、結局その延長上に地域的あるいは国家的な利益が重なっているわけで、その利益のために政治家や政治勢力は動かなければならないことになるのだろうが、果たしてそれでいいのだろうか。国民や市民のために国家のために地域のために、政治家や政治団体は動かなければならない。もちろん政治家も政党もそういう建前を主張しているわけだが、いつもそれを批判する人々は、それらの政治家や政党が私利私欲で動いていると批判するわけで、それが特定の企業のために宗教教団のために同盟国のために、国民や市民をないがしろにして、癒着しているそれらの勢力の利益のために働いていると主張する。批判しなければならないのは本当にそれだけだろうか。確かに人や団体はなんらかの利害関係の中で動いているのだろうが、それでは何か物事を単純化していないだろうか。批判者は絶えず何かを評価しなければならず、語る対象を肯定したり否定しなければならないようだが、そのどちらでもない対象というのがあるとは思えないか。どちらでもない対象についてはどう語ればいいのだろうか。たぶんその対象について説明すればいいのではないか。もしかしたら全てがそうなのかもしれず、それを肯定したり否定したりすること自体が単なる蛇足なのではないか。たぶんそれは批判者にとっては受け入れがたい見解だろうが、その肯定否定が全ての言説は中身が何もない。ただ物事の善悪を語りかける対象に押し付けているだけで、それ以外は何もないのではないか。なんらかの行為に対して賛成したり反対したりして、賛成反対の理由を述べればそれでおしまいだ。それが批判の全てなのだろうか。たぶん全てなのかもしれないが、いったいそれ以外の何が必要なのだろうか。要するにそれは語る対象についての説明なのではないか。もしかしたら人々は行為の善悪ではなく、行為の説明を求めているのではないか。どのようにしてそのような行為に及んだのかが知りたいだけで、それについて語る者のそれについての評価など余計でしかないのかもしれない。しかし語る者が望んでいるのは、その評価に同意してくれることでしかなく、自分の主張の賛同者を求めているわけだ。たぶんその辺に批判者とそれを拝聴する人の間で、齟齬や食い違いが生じているのかもしれない。そしてファシズムとはそういう評価の押し付けや強要から始まるわけか。


5月14日「アメリカの脅威」

 日本ではアメリカ政府のやっていることを批判する人が多いが、テロとの戦いや貿易における関税障壁や各種の規制の撤廃など、アメリカが何の目的でそれらの行為に及んでいるかについては、いまひとつわかりにくくその意図もはっきりしていないように思われる。そこにある統一した意図や目的があるのかどうか、陰謀論的には世界を征服し意のままに操ろうとしていることになるわけだが、果たしてそう見なして、日本を守る立場からアメリカと敵対するようなことを述べているつもりになっていいのだろうか。反戦の立場から日本政府や国会の与党勢力による憲法改正の動きの阻止を訴えているうちは、沖縄の在日米軍の滑走路建設に反対している人たちと共闘できるし、それでかまわないのだろう。また関税障壁や各種規制の撤廃要求についても、日本の農業や企業との正規雇用の形態を守るためにも、アメリカに追従する日本政府を批判する立場からも、そうなって当然なのだろう。また広く欧米の世界戦略に対抗するために、中国やロシアとの関係を深めるべきだと訴えかけてもかまわないのだろうが、その一方で中国に対しては、チベットやウイグルでの民族弾圧や国内の人権状況や、役人の腐敗などを批判してもかまわないだろうし、ロシアに対してはウクライナの政変を利用してクリミアを併合したり、ロシア人勢力を助ける目的で事実上ウクライナ国内に軍を侵攻させていることや、チェチェンでの残虐行為や、国内でのプーチン大統領による独裁的な強権政治を批判してもかまわないわけだ。そんな具合に日本で暮らす一般人ならなんでも批判できるわけだが、それに対してアメリカ政府はどう応えればいいのだろうか。外国の国民感情など無視して、自分たちと同盟関係にある日本政府のやっていることを後押しすればいいだけか。実際にそうしているのだろうか。表向きはそうしているのではないか。マスメディアから伝わってくる雰囲気からはそのように感じられるが、本当のところはどうなのだろうか。関係者ではない一般人にとっては、何が本当なのかまではわからない。このまま世界の警察を自認するアメリカ軍の下請けとして自衛隊が戦地に赴き、各種規制や関税障壁が撤廃されて、日本の農業が壊滅的な打撃を受けたり、低賃金のパートタイムの非正規雇用者ばかりとなったり、国民皆保険制度もなくなって高額な医療費がかかるようになれば、日本が完全にアメリカの属国となったことが、誰の目にも明らかとなるわけか。ともかくそうなることを恐れている人たちが、日本政府と共にアメリカ政府を批判しているわけだ。

 だが本当にアメリカ政府は日本がそうなるように仕向けているのだろうか。それを批判している人たちの目にはそう映っているわけだ。そうなってはまずいだろうか。たぶんまずいのだろうが、実際にここまま日本の政権を掌握している勢力をのさばらせておけば、そうなってしまうのだろうか。そうなることを危惧しているから、そのような政治勢力を批判しているわけだが、その一方でそのような政治勢力を支援している人たちや、賛成も反対もせずに政治的に無関心を装う人たちも大勢いて、今や批判勢力は政治的に劣勢に立たされているのだろうか。そうだとすると原発も再稼動させられて憲法改正も行われてTPP交渉も妥結して、これから日本はどうなってしまうのだろう。単にアメリカのようになるだけか。そうではなくアメリカに支配され植民地のようになるというわけか。民主的とは言い難い中国やロシアに支配されるよりはマシかもしれないが、本当にそうなるだろうか。反対派の脅し文句や言い草はそういうことだろうが、それはあくまでも脅し文句のレベルでそういうことであり、現実には疑念を抱かざるを得ない。果たしてアメリカが日本を完全に支配できるだろうか。というか支配しようとしているのだろうか。今やアメリカが世界の絶対的な覇権を握っているわけではないらしく、その証拠に中国やロシアなどは、アメリカと表面的には友好関係を築きながらも、部分的には対立しているし、それほどアメリカに政治的にも経済的にも譲歩しているわけではない。アメリカから見て日本は同盟国の一つでしかなく、それほど重要な関係だとは捉えていないのではないか。強固な同盟関係を強調する日本政府の主張や見解ほどには、日本の一般人がアメリカを重視しなくてもかまわないのではないか。殊更に植民地化の恐怖を煽る必要もないのかもしれず、なんとか外国のうちの一つだと見なすように、世論を持っていかなければならないのかもしれない。そのためにはどうしたらいいだろうか。避けては通れないのが在日米軍と日米安保条約だ。やはりこの際真正面から日米安保条約の撤廃を主張すべきなのだろうが、残念ながらメディアに操作されている世論は、そういう方向へは向かっておらず、沖縄に集中する米軍基地問題で立ち往生している。その辺を打開しない限りは、また中国や韓国との外交上の対立を改善しない限りは、その次の段階へは踏み込めないのだろうか。たぶんこのままなんらかのきっかけで政権交代したとしても、また数年前の民主党政権のようになってしまうのは、目に見えていることだろうか。


5月13日「価値ある行為」

 価値とは金額で決まるものだろうか。それが商品なら金額で示してあればわかりやすい。人の価値は何で決まるのだろう。所得や持っている財産の額で決まるわけでもなさそうだ。価値が何かを計るための基準となるとも思えない。しかし価値でなければ何を求めているのか。それがわかれば苦労はしないだろうか。価値では示されないようなものを求めているのではないか。それはなんだろう。なんだかわからないようなものなのではないか。本当は何も求めていないのかもしれない。そうであってもかまわないのだろう。何かを求めているとしたら、その場の思いつきでしかない。何か特定の決まりきったものを求めているのではなさそうだ。なんらかの制度を作り上げたり改革したりしようとしている人とは、その辺が違うのかもしれない。要するに決まり切った制度やシステムを必要としない。制度に従ったりシステムの中で動作したりするのが退屈に思えてくるのではないか。社会の中で一定の役割を担って縛られたくないのだろうか。結果的にそういう状況になっていないから、人として無価値であるのかもしれず、その分気楽な立場でいられるわけか。いつまでもいられるわけではないが、限られた時間を生きなければならない。その時間の中で正しいことを主張するわけにはいかないようだ。だが何が正しい主張なのかわかっていないのではないか。気づかないうちに正しいことを主張している場合もありそうだ。なぜそうなってしまうのだろうか。まだそうはなっていないのではないか。正しい主張が何かわからないうちに、そんなことを述べてみても仕方がないが、ではなぜ正しいことを主張してはいけないのか。それもわからないのなら、述べていること自体が意味も価値もないようなことではないのか。わざとそれを狙っているとも思えないのだが、言葉が停滞し逡巡を表しているようだ。意識が迷っているのだろう。別に街頭をさまよっているわけではない。行動が伴わないので、考えばかりが先走っているようだ。たぶん行動する機会が巡ってこないのだろう。いったい行動する理由がどこにあるのか。動く理由が見当たらず、何のために動いたらいいのかもわからない。そうではないのかもしれない。言葉を記せばいいのではないか。なんのためにでもなく、理由もなく言葉を記しているわけではないはずだ。おそらくなんらかの理由があって言葉を記しているのだろう。ただ意識がその理由を感知できないのだ。

 それは理由ではない。ではなんなのか。なんでもないわけではないが、その理由が行動を促すわけではなく、記述を促進させるわけでもなさそうだ。理由がなんなのか、それを知ろうとしているわけでもなく、その理由にたどり着きたいわけではない。たどり着けないと思っている。知らないうちにそれと気付かずに辿り着いているかもしれないが、知りえないままでも構わない。それの何が間違っているのだろうか。正しいのでも間違っているのでもなさそうだ。そのように語ることに価値を見出せなければ、正しいも間違いもありはしない。要するに価値ではない何かを探しているのかもしれないが、その何かが何であってもかまわないし、なんでもなくてもかまわない。そこで利益を求めるようになれば、行動や言動の正しさを主張しなければならなくなり、そうすることの意味や意義や価値を正当化する必要に迫られ、そうなれば社会の中である特定の役割や立場を求めるようになれるだろうか。政治的な主張とはそういう範囲に限られそうだ。それが正しかったり間違っていたりしなければ、人々がその政治的な行為の良し悪しを判断しようがない。そしてそれに賛成したり反対したりする必要に迫られるのが嫌な人が多くなれば、選挙や住民投票などの投票率が低下して、そのような政治的な問題に真剣に取り組んでいる人たちは困った事態となるわけか。困る人とその事態を有効活用できる人や団体もあるのだろうが、何かそこで暮らす人々に不利になるような法律や制度ができたら、政治的に無関心な人たちも困るのだろうか。困る人もいれば困らない人もいるのだろうし、困ったところで法律や制度に従わずに、罰せられる人も出てくるかもしれないが、そうなることにどんな意味や意義があるかは、そうなってしまった人たちの私的な事情にも左右されるだろうか。たぶんどのような状況になろうと、うまく立ち回ろうとする人が出てくるだろうし、そうやってそこから利益を抽出することに成功する人も出てくるのだろう。そんな人は正しい行為をやっていることになるだろうか。金銭的な利益が出たら、それは価値ある行為となり、そのように立ち回れる人が価値ある人間となるのかもしれない。でも全ての人がそれを目指しているわけではない。中には積極的には価値を求めない人もいるだろう。自らのやっていることに価値を見出せなければそうなるだろうか。結果的にそうなればそれでかまわないのだろうか。価値を見出せない人は価値以上の何かを求めているのかもしれない。それはなんなのか。それはいつまでたっても何かでしかなく、なんでもないものなのかもしれず、しかも価値を否定するものでも肯定するものでもない何かなのか。今のところはそれがなんだかわからないということか。たぶんわからないままなのかもしれず、それでかまわないのだろう。


5月12日「住民投票というイベント」

 人は日々を生きているのだから、何か現実に対処しているわけだ。対処している対象は自分自身を含んだ現実そのものだ。他のどこに問題があるわけではなく、ここに問題があると思えばその通りなのかもしれないが、何の問題もないと思ってもその通りとなりそうだ。そんな両義的な状況の中にいられるのは、まだ切羽詰まった状況にはなっていないということか。そう捉えておいてかまわないのだろう。実際に何がどうなっているわけでもない。全てはコップの中の嵐とみなしても、何がコップなのか明らかにしないと、無意味なことを述べていることになりそうだが、それでかまわないのかもしれず、実際に何がコップなのかわからないのだろう。それがコップでも何かの器でも構わないのであり、その器の容量が大きいか小さいかで、述べていることの深刻さも変わってくるのかもしれない。でもそんなことは相対的な量でしかないのではないか。それが都市であろうと都道府県であろうと国であろうと、そこで暮らしていたり仕事していたりする人の量が比較の対象にされるわけで、要するにそれは世論調査であり、結局は人気投票になってしまうのだろう。実際にそこで為政者がやってきた数々の悪行を並べ立てて、批判したい人は必死になって批判しているのだろうが、直接の被害を感じ取れない人たちにとっては知ったことではない。実質的には為政者による行政の私物化であってもかまわないわけだ。最後は選挙であったり住民投票の結果で決まることだが、それが何を意味するのか。当事者たちにとっては何かを意味しているはずで、投票結果に対して肯定的か否定的かどちらかの評価や判断を下すわけだ。そこで何が肯定されるか否定されるかは、投票の対象それ自体なのだろう。とにかくそうやって何かが決まるのではないか。これからの方針を決めるのは重要なことだろうか。それに参加したした人にとってはそう思えるはずで、だから結果に歓喜したり落胆したりするわけだ。ともかくそれで一応のケリがつき、何かが決まって一安心したりするのではないか。投票結果とはそういう心理的な効果を伴っている。だから現状もこれから体験する結果も、そう捉えておいて何の問題もないのではないか。別にそれ以上の何を知りたいわけではなく、そこに何か隠された秘密があるわけでもないのだろう。

 人々はそんな結果を求めている。そこで行われていることに対してけじめがついて欲しいのだろう。いつまでもだらだらと夢を振りまきながら結果を引き延ばされていては、何をどう判断すればいいのかわからないし、判断する機会がいつまでたってもやってこなければ、興味を失ってしまうだろうし、精神の集中を持続できないのではないか。そこで夢を見続けるにしてもなんらかの実感できる出来事が起こって欲しいのではないか。イベントが発生してそれが身に降りかかって、そこで起こっている事件に巻き込まれているような体験を求めている。それがないと退屈にやられて気が狂ってしまうのだろうか。ギャンブルこそが幻想だとしても、そこで人生をかけた大勝負に身をまかせてみたいのではないか。そして結果的にそこで勝つにしろ負けるにしろ、そこで発生したイベントに巻き込まれることによって、生きていることの意味や醍醐味を実感できるはずだ。そんな思い込みがどこまで現実に根ざしているのか定かではないだろうが、それでもそこで何かをやっていることは確かなのだろうし、そのやっていることの結果を真摯に受け止めたいのではないか。だから今まさに安全地帯から飛び出して、一か八かの勝負に出ている最中なのではないか。そう思い込んでいる限りはまだ気持ちが折れずに済んでいるわけだ。できればそのままの精神状態を最後まで押し通すつもりなのだろうが、現状は予断を許さない成り行きだと感じているのだろうか。すでにペテンが見破られて焦っているわけでもないのだろう。しかし何を騙すつもりなのか。そこに暮らす人々は本当に騙されているのだろうか。その行為を批判している人たちはそれが詐欺だと主張しているが、ではそれの何が詐欺なのだろうか。投票結果によっては、詐欺かどうかが明らかになる前に、計画が潰え去ってしまうかもしれないが、でも計画が進行してしまえば、もう後戻りができなくなると批判している人たちは主張しているわけだから、できれば明らかになる前に終わって欲しいわけだ。本当は何でもなかったのかもしれない可能性も無きにしも非ずだろうが、とにかくそれ以上の進行を止めるために、多くの人たちが批判を展開しているわけで、それが予断を許さない現状を作り出している。そんなわけでどうもそれは何かの冗談では済まないらしく、誰もが真剣に取り組むべき問題で、少なくとも介入している人たちにとっては、気が気ではないわけだが、そのイベントの結果次第では、人々の意識に何かこれまでとは違う変化が訪れるのだろうか。だがそれも結局は世論調査に吸収されて、相対的な比較対象になるに過ぎないわけだ。


5月11日「監視と制御」

 同じことを繰り返し述べてはならないだろうか。そのこだわりが思考の固定化を招く。何もかもが可動的に推移しているわけではないが、現象としては絶えず変化していてとらえどころがない。こだわっているのではなく、自然とそうならざるを得ないのではないか。社会を構成する制度と法律が形骸化し、人が思ったようには機能しなくなると、それに代わって幅を利かせてくるのが監視と制御だろうか。人の言動や行動と物や情報の流通を監視し、監視者の意に沿わぬ動作が見られたら、すかさず介入してその動きを意に沿うように制御する。沖縄の在日米軍の滑走路の工事現場で繰り返される、海上保安庁の職員による反対派住民に対する暴力行為など、そのような行為の典型だろうが、法律に沿って制度を作り、それに従わせようとするのとは別に、法律や制度自体を為政者の意に沿うように運用させようとするわけで、原発の運転を差し止めるなどの判決を出した裁判官などのように、その法律や制度を用いて為政者にたてつく者は排除される。そういう人は為政者の意に沿わぬ動きをしたわけで、たとえ法律や制度に従っているとしても、制御から外れた誤動作になるわけだ。それは数年前の民主党政権の時も同様で、たとえ選挙によって政権を握った政治勢力であったとしても、官僚機構の意に沿わぬような政策を実行しようとすれば、途端に有形無形の抵抗に遭い、何もできぬまま政権の座を降りなければならない。為政者自身が為政者を管理する機構に監視され制御を受けなければならないわけで、しかもその機構を運営する主体があるわけではなく、機構自体がそのように動作するシステムに従って動いているに過ぎず、特定の誰が命令を下しているわけではない。どうしても固定観念に囚われている人たちは、そこに何か支配者のような人物や団体を想定して、それをやっつければ支配から解放されるかのごとき幻想を抱いてしまうのだが、たぶんその影の支配者や黒幕と呼ばれる人物や団体など、はっきりとは特定できないのであり、そこには様々な人や団体の思惑が複雑に絡み合っていて、それを総体的に捉えようとすると、何やら世界を支配する黒幕のごとき存在が想定されてしまうにすぎないわけで、その正体を突き止め謎を解き明かそうとして、絡み合った糸をどんなにほぐしてみても何も出てこないだろう。

 ではそのような中心のない分散システム上で、人々はどのようにして体制的な権力に抵抗すればいいのだろうか。現に抵抗している人たちのように抵抗するしかないのではないか。結果的に監視され制御を受けるとしても、抵抗するならそのようにしか抵抗せざるを得ない。要するに抵抗している人たちの思惑や行動も、陰謀論者がそれとみなす黒幕の意志や動作に含まれているのだ。そこに介入している人や団体の一つが、実際に抵抗している人や団体というわけだ。抵抗している人や団体も、権力の関係の中で力を及ぼしているわけで、そこで実際に動作している機構の中の歯車の一つなのだろう。しかしその機構とはなんなのか。彼らが攻撃対象として想定している国家や企業の官僚機構から大きくはみ出して、抵抗している彼らをも含んだ装置とはなんなのか。それは人類の文明そのものであり社会全体なのだろうか。そうみなしてしまうととりとめがなくなり、どうやればそれを改め抵抗勢力が勝利できるのか、勝つ方法など皆目見当がつかなくなってしまうか。結局やれることは抵抗することで、それは数年前に民主党政権がやろうとしたように、米軍基地を沖縄から県外や国外へ移転するように各方面に働きかけたり、高速道路を無料化しようとしたり、ダムの建設を中断させたり、原発事故が起これば脱原発を目指したりするしかないわけだ。そういうことをやろうとすれば、またマスメディアも含めて既得権益に関わっている官民挙げて猛反対の嵐となるだろうが、ともかくそういうことをやろうとしなければ何も変わらず、やらなければ現状維持どころか、ますます監視と制御が強化され、より円滑に効率的に作動するようにシステムの改良が進むのだろう。その機構の目的は自己目的化していて、その維持と継続のためだけに、それがより素早く効果的に動作するように絶えず改良が重ねられるわけだ。その機能はアメリカ軍がテロ対策で使用している無人爆撃機に似ているだろうか。世界中に監視網を広げて監視し続け、危険となるテロ組織の動きが確認されたら、速やかにそれを除去するために無人爆撃機を差し向ける。しかしそれはネズミの駆除と同じように、やればやるほどネズミの方も抵抗力と戦略を身につけ、結局攻撃する側とそれに抵抗する側の双方共に進化していくわけで、延々とそのせめぎ合いが繰り返されることになる。だから権力に刃向かう抵抗勢力もネズミと同じように進化しなければならない。


5月10日「未来への期待と現実」

 切実に感じない問題に関しては、何をどう語っても上辺だけの空疎な印象を免れ得ないか。でも具体的に何をどう語っているのか示せなければ、それ自体が嘘になってしまい、要するに切実に感じていることを語るのが嫌だから、その代わりにどうでも良いようなことについて語っているのではないか。でも思い入れがそれほどないことについて、さも深刻な問題であるかのように装うのも気がひけるのではないか。何を強がっているのでもなく、語ることに飽きていると言った方が本音に近いのかもしれないが、それでも言葉を連ねて語っているように装いたいのだろうか。誰がそう思っているわけでもそうありたいと願っているわけでもない。そんな現状の中に意識があると言ったらいいのだろうか。でもそれは意識ではなく、記された言葉の連なりそのものだ。それを読んで誰かがそこに意識があると想像しているに過ぎず、その誰かも誰でもなく、記された言葉の連なりが示している言葉としての誰かなのだろう。語る上ではどれも虚構の誰かだ。そしてそれがどうしたわけでもなく、語るためにはその誰かという言葉を必要としているわけで、語っている意識とは別に、語りの中でも他の誰かの意識を想定している。なぜそうやって意識が語っている当人と語りの中の誰かに分離しているのか。何か都合があるのだろうか。何かあるのかもしれないが、現状ではそれを知ることができないようだ。別に知ろうとしているわけでもないのだろうが、そこに何か隠された秘密の類いがあるとも思えない。たぶんそれは隠されているのではなく、おおっぴらに白日のもとに晒されているものなのだろう。それは誰もが知っているものなのだろうか。知ってはいても言葉で表現することが難しいものなのではないか。それは人がそれに魅入られながらも、それに直接は触れられず、触れようとして近づいても、近づけば近づくほど、近づく速度が遅くなり、いつまでたっても一向に近づけずに、仕方なくそれの周りをひたすらぐるぐるまわることしかできないものなのかもしれない。それはこの世界に存在していると思っている事物そのものだろうか。物なら触れられるし、その存在も確かめられるのではないか。しかし実際に触ってそれで触れたことになり、存在を確かめたと思っているそれが、果たして物そのものなのだろうか。そう思うしかないだろう。人も人が関係して起こる出来事も事物の一部であり、事物の変化が時間を感じさせ、事物の移動が空間を感じさせる。ただそれだけのことでありそこに因果関係を想像できる。

 人と人の関係や事物と事物の関係や人と事物の関係が、人が感知し想像しうるすべてだろうか。別にそれがすべてでなくてもかまわないが、それだけでは人が人として存在していることの意味や意義を説明できないだろうか。説明できなくてもかまわないのではないか。意味や意義自体が人の都合を反映した幻想で、人にとってだけ意味や意義を持ち、それこそ意識の自家撞着をもたらすものでしかないのではないか。自身の存在自体が意味や意義であり、それ以外の関係性はない。だからそれを深く突き詰めるのは避け、とりあえず周りの事物と関係しながら、また対象と関係することによってお互いに変化しながら、ひたすら未来をめざして歩み続けるしかないわけだ。立ち止まればそこで終わりであり、それは自らの死を意味するわけで、生き続けるということが未来をめざして歩み続けるということなのだろう。人はそれ以上の何を求めるのだろうか。それを幻想だとみなしてしまってはそこで終わりだ。だからもっと違う言葉を用いて表現しなければならないのだが、それを言い表すことが難しい。それは周りの事物との関わりから自己満足を得ることだろうか。それも少しニュアンスが異なるだろう。自己満足だけではくだらなく思えてくるのであり、周りの環境を自分好みに変えたいと思うのだろうか。それも自己満足の延長上であり、自分好みというのが少し違うのかもしれない。たぶん自分が周りの事物と関わることで、自分も周りの事物も、自分の思ってもみなかった想像を超えた変化を被ることを期待しているのではないか。そして人はその変化に驚き感動するわけか。実際はそうではない。感動以上の何かを期待しているのではないか。その何かとはなんだろう。だからその何かが言葉で表現するのが難しいのではないか。要するに今までに経験しなかったような変化を体験したいのかもしれない。それは自己保存本能を超えていて、場合によっては自らが滅びることも厭わぬような出来事に遭遇してみたい。でもそんな風に語っていくと、途端にそれが嘘で、フィクションや作り話の類いとなってしまうのではないか。だから語るのが難しいわけだが、それについて語っていくと、その語りがフィクションと化してしまうような何かに遭遇することを期待しているわけだが、現実はそうではない。ただ未来へ向かっているに過ぎないのに、どうしてもそれだけではないと思いたいだけで、その途上で勝手気ままにあれこれ想像しているわけだ。


5月9日「ネトウヨを活かす」

 冗談を真に受けているわけではない。ただそれが冗談だとは思えないだけか。いったい何が冗談で別の何が冗談ではないのだろうか。なぜ人々は固定観念へと誘われるのか。まるでそこでの論争は固定観念と固定観念のぶつかり合いのようだ。そこで互いの主張をぶつけ合い、どちら一方あるいは両方が妥協して歩み寄らなければ、議論は平行線に終始する。それは論争する前からわかりきっていることなのだが、論争そのものを見世物として提示するなら、その白熱した議論が売り物となり、テレビなどで人気番組となるのかもしれないが、そこから何が生まれるわけでもないことは、ここ数十年のその手のテレビ番組の成り行きが示しているところだろうか。彼らが定期的に政治問題について激論を交わした末にこんな現状があるわけだ。こんな現状とはどんな現状なのだろう。見ての通りといってしまえば何がはっきりするわけでもないが、そういう番組に興味のある人なら、見ての通りでわかることかもしれず、それ以外の人がわかる必要はないことかもしれない。別に見なければ関係のないことなのであり、そんな番組があることすら知らなくてもかまわないわけだ。だが例えばそれがテレビの討論番組ではなくて、国会であったらどうだろうか。日本国民なら国会での議論に興味を持たなければならないだろうか。そこで行われている議論や論争の内容やその行方を知ろうとしなければならないだろうか。ニュースで取り上げていることなら知り得るだろうし、テレビの国会中継なども見る機会があれば、すべてではないだろうが部分的には知ることができるのではないか。だがそれで何を知ったことになるのか。確かにニュースで取り上げられている国会関連の話題がすべてではないだろうが、それを伝えるメディア側も国民にとって重要だと思われる内容は優先的に伝えるだろうし、それをテレビや新聞やネットを通して受け取っていればいいのかもしれない。それで済むならそれに越したことはなさそうだ。たぶんそれではまずい理由などどこにも見当たらないだろう。その程度でかまわないわけだが、それ以上を求めようとしなくてもかまわないのだろう。いったいそれ以上とはなんなのか。それは実際に選挙に立候補して国会議員になろうとすることか。たぶんそういう人が実際に国会議員になって、国会の場で様々な懸案事項について他の議員達や行政の担当者達と議論しているのではないか。だからそこで交わされている議論で十分であり、別にそれをテレビの討論番組やニュースショーで蒸し返しているのを見る必要はないわけだ。

 でもメディア的にはそれでは済まないわけで、テレビでは視聴率を取らなければならないだろうし、新聞や雑誌は発行部数を確保しなければならない。ネットでもニュースサイトは有料会員を増やしたり広告収入を上げなければならないだろう。多くの人に興味を持たれるような情報を発信していかなければならないわけだ。テレビの討論番組での白熱した議論や論争も、そういうのが好きな人なら喜んで見るのではないか。そしてネットでそれの真似をしたい人も大勢いるのだろうし、実際に他のネットユーザーとそれの真似事のような論争を繰り返している現状もありそうだ。だが討論番組がどうしたことでもないと思うなら、それも同様にどうしたことでもないか。たぶんそうだ。そのような論争からなんらかの世論形成があり、それが世論調査や選挙や国会での勢力構成に影響を与えているとしても、それもそれでどうということはないだろうか。何が良いとか悪いとかではなく、現実にそういうことが起こっているなら、それについてどうこう言ってみてもしょうがないことだろう。しかしなぜそう思うのか。そう思われてしまう理由はなんなのか。そのどうということはない現状から何がわかるというのか。例えば選挙での投票率の低下や、若者の政治的無関心の原因はなんなのか。若者でもネトウヨと言われる人たちは政治に関心を持っているのではないか。その関心の持ち方と行動や言動に問題があるとしても、政治に関心を持つのは大いに結構なことなのではないか。頼もしい限りで彼らの存在に日本の明るい未来を予感させるものがありそうだが、それが皮肉や悪い冗談でないとしたら、彼らの可能性とはなんだろう。彼らが使い捨てがいのある人材集団だとは思えないだろうか。では彼らを暴れさせておくことが、日本の活路を見出す上で重要なことだろうか。別にそれが日本でなくてもかまわないのではないか。日本でなければなんなのだろうか。日本が日本でなくなる過程で、彼らの活動とその盛衰とともに洗い流さなければならない何かがあるのかもしれず、たぶんその何かが憲法の問題であり天皇制の問題でありアメリカとの関係なのだろう。


5月8日「富裕層と貧困層の関係」

 希望を持っているわけではない。世の中の状況がそれほどひどいとも思えない。比較的ひどくない環境の中で暮らしていると思っているから、そう感じるだけなのかもしれないが、いつの時代でも恵まれた環境で暮らしている人には、ひどい環境で暮らしている人の痛みなど共有できるわけもなく、別にそれでかまわないわけで、社会の属している階層や占めている立場によって、思っていることや感じていることが異なるのは当然だろう。有利な階層や立場にある人たちが、自らの優位性をなげうって、社会の構造を変えようとは思わないのではないか。優位性はそのままにしておいて、社会的な弱者を救済しようとするわけだ。たぶんそれが正しいやり方なのだろう。だが正しいやり方では、社会的な弱者をなくすことはできない。職業訓練や金銭的な援助などによって、彼らの一部を救済することができるだけだ。ではどうしたら社会的に不利にある人たちをなくすことができるのか。たぶんなくすのは無理なのではないか。無理なのに人はそれをやろうとするわけで、なんとか万人が平等な環境で暮らしていけるようにしたいと思うから、様々な試みが考案され、その中の幾つかが実際に試されているわけだが、うまくいったためしがあっただろうか。部分的にはあったかもしれないが、それが社会全体に波及したことはなさそうで、世界の現状がそれを物語っているのではないか。そしてそれでもかまわないのだろう。これからも繰り返し試みられるから、その恩恵を受ける人たちも少なからず出てくるだろうし、それでかろうじてバランスが保たれ、社会が崩壊するのを食い止めているのではないか。富を独占している側の過剰な利益追求を、富める人々による貧しい人々を救う行為が軽減しているわけだ。それにどれほどの効果があるのかわからないが、そのような慈善活動が絶え間なく続いている現状がある限りは、その対象となる人々が確実に存在するわけだから、それになんらかの効果があるとみなしておいた方がいいのかもしれず、焼け石に水だなどと否定的にみなしてはまずいのだろう。

 少なくとも慈善活動をしている富裕層などは、社会が今より良くなる希望を捨てていないから、慈善活動にも積極的に参加しているのではないか。彼らの助けで少しでも多くの貧困層が悲惨な環境から抜け出て欲しいと願っているのだろう。自らが金持ちであることの疚しさや、世間体を気にしてやっているわけではないと思われる。無論現状では彼らが助けようとしている貧困層が現実に存在しているわけだから、彼らの活動によって全ての貧困層が恩恵を受けているわけではなく、ほんの一部がわずかな施しを受けているにすぎないかもしれない。そうだとしても彼らの活動を否定するわけにはいかない理由はなんなのか。やらないよりはやった方がマシだからか。というか富める側がやらざるを得ない立場に立たされているわけで、そうしないと自らの地位に見合った社会的な名誉を得られないのではないか。周りの多くの人々から尊敬されたい衝動が働いているわけだ。多くの人々から支持されるためには、多くの人々になんらかの利益を与えなければならず、金銭の蓄えが多くあれば、その金銭を分け与えることによって、人々から尊敬され好印象を受けたいのだろう。そうだとすれば金を分け与える人の存在が是非とも必要で、また自分が貧者にただで金を与えられるほど金持ちであり続けなければならず、そのためには自分が社会の中で成功者であり続けている状態を保ちたい。そんなわけで富裕層が貧困層に施しを与える社会的なシステムが、慈善活動として確立されているわけだ。これをどう捉えたらいいのだろうか。現状では富裕層も貧困層も社会の中で必要不可欠な存在なのだろうか。少なくとも富裕層が多くの人たちから尊敬や名誉を受けるためには、そこに貧困層がいて、貧困層に定期的な施しを与え続けなければならず、そのような行為が社会の安定に寄与しているとすれば、予定調和的には社会にとっては富裕層も貧困層も欠かせないことになりそうだが、それは欺瞞だろうか。たとえそれが欺瞞だとしても、その欺瞞が今ある社会を成り立たせる上で必要不可欠なのかもしれず、実際にそのような活動に熱心な富裕層は地方自治体や国からその社会貢献を讃えられ、感謝状や勲章などを受け取っているのではないか。


5月7日「やりたくない仕事」

 それは誰にとっても心地よいとは言えないだろうか。金がなければ不満ばかりが溜まる社会なのだろうか。だが果たしてそうでない社会があり得るだろうか。金に困らない程度なら、それほど金に執着する必要はないのではないか。反対に金に困っている人が多ければ多いほど、労働市場は活況を呈し、安く買い叩いて低賃金で人をこき使う企業が増えるだろうか。金に困らないときつい仕事のやり手がいなくなるような気がするが、結局世の中からきつい仕事を無くしていけばいいのであり、今すぐになくなるわけでもないが、徐々に消えて行くような流れで、世の中が動いて行けばいいのだろうか。だが現実はその逆の流れだろうか。大金を得られる仕事には有能な人材が殺到し、そこでの競争が熾烈を極め、競争に勝ち抜いたごく少数の者たちだけが大金をせしめることができるとすれば、その他大勢には低賃金のやりたくないような仕事しか残されていないだろうか。世の中のすべてがそうだとは思わないが、誰が好き好んでやりたくないような仕事をやるだろうか。たぶん生活のためにはやらざるを得なくなるわけで、それでは仕事に対して肯定的な気持ちにはなれないだろうが、誰かがその仕事をやらなければならないのだとすれば、嫌々でもやらざるを得ない人が必要とされているのだろうか。実際に社会の至る所でそういう現象が起きているのではないか。なぜそういう現象が起きるのだろうか。社会の構造がそうなっているわけだ。そしてその構造が容易に変わるわけではなく、変えようとして変わるようなことでもないのかもしれない。そんなわけで人は不満を抱えながら生きてゆかなければならず、そこから抜け出たければ宗教などに入信して、指導者から洗脳でも受けない限りは、不満を抱えている嫌な感じを拭いされるわけでもなく、その方がまともな精神状態なのであり、かえって洗脳されて仕事の苦痛から解放される方が異常なのだろう。それこそがごまかしなのであって、不快感があるからなんとかそれを克服ために工夫をこらそうとするわけだ。

 この世はユートピアではない。人は他人との摩擦や軋轢を感じながら生きているし、利益を得ようとすれば他人から利益を掠めとらなければならず、しかも他人を利用してそうしなければならないので、それを正当化するのには抵抗感が伴うはずで、痛みを感じずに平気でそういうことができるようになれば、それこそなんでもありの弱肉強食社会となってしまうだろう。たぶん低賃金で過酷な労働を他人に強いるような職場環境などでは、そうでなければそこでの監督者など務まらないのではないか。そしてそのようなことをやっている会社が、ブラック企業として非難され、違法行為を行なっていれば摘発されることになるわけだが、結局そうしなければやっていけないからやっているのであり、そこにそうせざるを得ない事情があるわけだ。それがたとえ会社経営者が従業員を搾取して私腹を肥やそうとしている事情であろうと、事情は事情であって、それを許すか許さないかのせめぎ合いや闘争が発生しているのだろう。そして行政がそういう行為を許さないように規制を強化すべきか否かも、そこで経済界と一般市民とのせめぎ合いや闘争が発生しているわけで、それが選挙での争点になっているか否かははっきりしないところだが、労働者の味方を装う共産党などはブラック企業への取り締まりを強化すべきと主張しているのかもしれない。だがそのような主張が通って労働環境が改善されるとしても、人が労働そのものから解放されることはない。現状でそんなことはありえないし、あり得るとしたらそれは現状が現状ではなくなる場合でしかなく、対立する二つの陣営のせめぎ合いや闘争が無効となるときだが、人はそうなることを目指しているのだろうか。たぶん意識してそれを目指しているのではなく、人々の思いや行動が自然とそういう方向へと向かっているのではないか。やりたくない仕事をやっている現状がある限り、自然とそのような状態を不快に思い、そうではないような状況へと至ろうとするのであり、はっきりと意識するしないに関わらず、なんとなく労働から解放されることを夢想している人が多ければ多いほど、集団心理はそのように働き、時が経ち時代が移り変わりながら、次第に社会全体がそういう方向へと動いてゆくのではないか。


5月6日「心地よい管理社会の到来」

 冗談はさておき、メディアに情報を頼らない限りは何も言えなくなっている。それこそが冗談なのかもしれないが、そこに乗り越えられない壁のようなものがあって、得られた限られた情報から想像や憶測を働かせて何かを述べなければならず、そんなわけではじめから不利な戦いを強いられているのだろうか。しかしそもそも何に戦いを挑んでいるのか。それはメディアそのものなのではないか。メディアから情報をもらいながら、そのメディアに戦いを挑んでいる。そんな馬鹿げた戦いがあるだろうか。それも想像や憶測がもたらす勘違いの妄想だろうか。そうだとしてもそれは避けられないことなのではないか。そしてそれでかまわず、メディア自体も一枚岩ではなく、一応は体制に迎合している勢力と批判的な勢力に分かれているわけだから、両者のどちら側を肯定したいわけでもなく、あわよくば体制反体制を超えて、両方ともに批判しようとしているのだから、特定の固定的な立場などありはせず、果たしてそれが批判と言えるのか、よくわからない面もありそうだが、不可能なのかもしれず、現実にうまくいっていないのではないか。なぜそうしなければならないのか。それらは同じものの表裏をなしているとでも言えるのか。それは言い古された紋切り型の表現だろうか。でもそれ以外の表現で語るのには困難が伴う。その困難に今まさに直面している最中だろうか。ただ何も語れなくなっているだけなのか。そうかもしれないが、それでかまわないわけでもなく、そこから抜け出さなければならないはずだった。そしてそれが嘘であり方便ではない証拠も示さなければならず、そこで直面している困難を避けることができないのなら、何も語れないままに終わってしまうはずだった。しかし現状では困難に直面しながらも、乗り越えられず抜け出ることもできないまま、しかも語り続けている現状がありそうだ。そんな現状でもかまわないのだろう。そんなわけでわけがわからないが、とりあえず現状を肯定しておかなければならないだろう。理由はわからないが、その方が無難だと思われる。しかしなぜだろう。いつもの勘違いなのだろうか。

 要するに戦いを挑む相手を間違えているのではないか。真に批判すべきは民意をないがしろにして、暴利を貪っている政府や官僚や政権与党や経済界であり、何が暴利なのかうまく定義できないが、そんなふうにして日本を支配している政財官と、それに追従するメディアを批判しなければならないということだろうか。今まではそう思ってきた面もなきにしもあらずで、実際にそんな支配構図に則した批判も、少なからずやってきたのではなかったか。それを理由もわからないままに、なぜ改めようとしているのだろうか。別に改めようとしているのではなく、今までの延長上でより批判を深化させようとしているのではないか。冗談を述べるならそうなりそうだが、それが冗談にならないレベルで批判を展開したいのだろうが、現状では冗談にしかならないわけか。それを冗談と見なしている根拠も定かでない。ではなんなのだろうか。日本の政財官の複合体や、アメリカや中国やロシアの軍産官学複合体などの、そういった複合体による国家の支配構造そのものの存在を信用できなくなってきたのだろうか。果たしてそれを支配状態とみなしていいのだろうか。それらの対象を批判するには、支配という言葉を使い、支配構造の打破を呼びかける形式をとり、それで何か利いた風な意見となってしまうわけで、実際はそんなこといくら呼びかけても何も起こらず、ただのありふれた紋切り型として、それを真に受ける人々の意識に心地よく響くだけだ。それで批判が批判として機能しているのか。結局誰もが思っていることを確認するだけに終わり、それ以上の進展など何も期待できず、要するにそれは形骸化し無効となった批判でしかない。なぜそうなってしまうのだろうか。もしかしたら支配など人々にとってはどうでもいいことではないのか。そして支配されている実感などこれっぽっちもなく、実生活からかけ離れた空疎な絵空事でしかない。たぶんその手の批判者がどんなに脅してみても、実際に支配構造の中で抑圧された被害者になってみないことには、それを実感できないのは無論のこと、現に実感できないような支配構造が確立されているのではないか。それは人々にとって心地よい支配といえば納得できるだろうか。メディアによって娯楽というアメをいやというほど与えられていて、まだ本格的にムチを入れられていないということか。それともアメとムチもアメが過剰ならムチの痛みなど実感できず、痛みを感じられない心地よい支配が今まさに実現しているから、人々は支配を打破する必要がないということだろうか。それはアメとムチを実感できる規律社会から、まるで抗精神薬を投与されたような無感覚な管理社会への移行を物語っているのだろうか。


5月5日「反日勢力の結集」

 思考が型にはまりすぎているのだろうか。何か理想とする雛形があり、何事も無理にそこへ押し込めて考えようとしてしまうのだろうか。考えうる限り何がそうなっているのだろう。にわかには思いつかない。ではなぜそう考えるのか。考える上で無理が生じているのではないか。そこから抜け出られずにいるわけだ。そのおかげで肯定していいことを肯定できずにいる。たぶんそれを肯定しなければならない。そうしない限りはそこから抜け出られないのだろう。それとはなんなのか。国民という概念に無理が生じていることは確かだ。果たして日本国民が日本国政府を支持しなければならない義務などあるのだろうか。支持できずに反日勢力となるにしても、別にそれが否定される理由はない。政府のやり方に異を唱えるのは一向に構わないのであり、法律で禁じられているわけでもない。それを政府に迎合的なメディアが否定的に取り上げようと、苦にすることはないわけだ。ただそういう動向であり現象なのだろう。特に在日米軍基地が密集している沖縄などでは、米軍機の騒音や墜落事故や軍人による暴行事件などにより、地元民の反発も根強くあるだろうから、一向に基地がなくならない不満が、それを許している日本政府への不満に結びつき、そういう不満が人々の間に鬱積し、その結果として反日勢力を形成するのは当然だろうし、そういうことの経緯を無視して、あるいは都合よく曲解して、政府に迎合的なメディアが批判するのは、理性的に考えればひどい行為なのだろうが、そこに否定的な感情が混じると、そういう行為を平気で正当化できるようになるらしい。そしてそういうことをやるメディアが、日頃から人々が慣れ親しんでいるテレビや新聞などで幅を利かせているとなると、できるだけ物事を理性的に考えようとしている人たちなどの間に動揺が広がり、何かこれから恐ろしいことが起こるのではないか、という恐怖心を生む背景となっているのではないか。

 原因がアメリカにあることは明白だ。在日米軍が日本に居座っている限りはそうだろう。しかも居座っている在日米軍に日本が予算を提供しているわけで、それが長年と慣習となっているから、なおのこと人々の不信感を呼び、なぜ独立国なのに外国の軍隊に金を払って居座らせているのか、たぶんそれについて日本政府が納得のいく説明ができるわけもなく、そのようなところからも反日勢力が生まれる素地があるわけで、そこに生じているタブーに勇気を持って切り込める政治家の登場が待たれているのかもしれない。それを多くの国民が納得のいく形で解決しない限りは、いくら政府に迎合的なメディアを動員して、反日勢力に対する批判キャンペーンを張っても、政府に対する不信感を払拭できないだろうし、強引に弾圧するようなことをやれば、なおのこと潜在的な反日の感情が高まっていくだろう。そういう面ではアメリカに対するXデーが近づいていると言えるだろうか。それが武装蜂起になるとは現状では考えにくいが、なんらかの形で何かが起こるかもしれず、それを日本政府が抑えられるとは思えない。要するに反日勢力は反米勢力なのであり、政府が日米同盟を堅持する限りその構図は変わらず、潜在的に日本国民にとっては、日本政府もアメリカ政府も敵なのであり、当然日本政府に迎合的なメディアも日本国民の敵なのだろう。結局日本国民の側からすれば、反日勢力とは日本政府と政府に迎合的なメディアとアメリカ政府の方なのではないか。だから反日勢力を批判しているメディアこそが真の反日勢力なのであり、そのようなメディアに追従する人々も反日勢力の部類に入るのだろう。果たしてこのような逆説的な構造が転換する日が今後訪れるだろうか。もしかしたらそれをやるためにあるのがXデーなのだろうか。やはりそういう意味では良心的な人々が恐れている事態とは戦争なのかもしれず、それは日本政府とアメリカ政府を敵とした戦争になるかもしれない。そしてその戦争に勝ち目があるとは思えないが、戦争といっても武力衝突といった類いでは到底勝てないから、もっと何か平和的な手段で戦える状況に持っていかなければならず、その時が来たら、日本国民だけではなく、広く世界の人たちと連携して日本政府とアメリカ政府に戦いを挑み、そして勝ち目のない戦いに勝利しなければならないだろう。確かにそれは今の段階では誇大妄想か冗談に過ぎないだろうが、近い将来それが冗談や妄想でなくなる日が来るだろうか。


5月4日「成功者の役割」

 人は何かを繰り返す。何かとは同じ過ちのことだろうか。そうでなくてもかまわない。その逆で繰り返し経済的に成功し続ければ、億万長者にでもなれるのかもしれず、起業家などはそれを目指しているわけだが、その大半は失敗を繰り返して負債を抱え込み、夢をあきらめざるを得なくなるわけか。それでも一握りの成功者が世間で脚光を浴びてもてはやされ、またそうなりたい多くの挑戦者が金儲けに駆り立てられる。それが繰り返されている現状が世界中にある。世間の一般常識からすれば、それを否定してはいけないのだろう。それ以外の成功があるだろうか。挑戦者のうちのほんの一握りしか成功できないのなら、別に成功しなくてもかまわないのではないか。実際に大半の人たちが起業に失敗している現実があるのなら、要するに失敗するのが当たり前というわけで、そんな当たり前の現実の中で多くの挑戦者たちが成功を夢見ながら失敗している。またそういえば確か為替取引のFXも、その9割が損していると言われているらしく、そうだとすればそれも失敗するのが当たり前の現実があり、少なくともそういう方面では、失敗だらけの現実がありそうだ。そんなわけで人は過ちを繰り返す。そして過ちを繰り返してもかまわないのだろう。誰がかまわないと思っているわけではなく、現状がそれでもかまわないことを物語っているわけだ。実際にその他大勢の人たちが失敗してくれないと、一握りの成功者は誕生し得ないのではないか。そういう意味ではそれがゼロサムゲームの真実だと言えるだろうか。そしてそんなことが繰り返されると、人は何に気づくのか。はたして成功の見込みがないことに気づくだろうか。気づかないとしたらその理由はなんなのか。メディアを通じて成功者の幻想を見せられているから、それに気づかないのだろうか。メディア自体がそんな成功者のおこぼれにあずかっているから、気づかせないようにしているわけか。それどころか夢に誘惑されてしまう挑戦者たちからも、成功する秘訣などの情報を提供することで、利益を得ていたりするのだろうか。もしかしたらメディアを通じて提供されるすべての情報が、人々を決して成功することのない夢に惹きつけるためのエサで、エサに食いついてくる挑戦者たちの失敗から糧を得ているのかもしれない。

 そういう場合の失敗とはなんだろう。メディアで活躍する人たちを富ませるような行為をしてしまうということだろうか。贔屓の作家や評論家やジャーナリストなどの著書を買い、それらの子分となって、ツイッターなどでそれらの人々の情報を流し、子分を増やすのに貢献しようとするわけか。自分が誰かの子分だなどという自覚はないにしても、結果的にそれらの人の利益追求行為に加担しているとすれば、子分と同じ役割を果たしているのではないか。子分という言い方が気に入らなければ、サッカーのようにサポーターといえば、抵抗も減じられるかもしれないが、子分であってもサポーターであっても、応援している当人に経済的な利益が得られるわけではなく、要するにそれはボランティア活動なわけで、滅私奉公と言わないまでも、そのような行為を肯定したり正当化するとすれば、それを支えているのは、応援している人に対する幻想でしかないわけで、その人の活動によって、何か世の中が変わるのではないか、という期待の表れなのかもしれない。それは宗教的には、救世主待望論のようなところからきているのだろうか。日頃から失敗し続けていて、そんなうまくいかない世の中に不満を持っている人々は、他力本願的に何か世の中を変えてくれるような救世主の出現を期待しているわけで、できればそういう人が国会議員とか総理大臣になって欲しいとか思うのだろうか。そうだとすれば人々にそんな幻想を抱かせるエサが、メディアによって振りまかれ、そのエサに多くの人たちが食いつき、そんな期待を抱いている間はメディアや救世主と目される人に利益がもたらされ、その一方でその他大勢の人たちが失敗している現実を忘れている。結局それ自体が罠であり、幻想というエサに食いついた時点で罠にはまっているわけだが、罠にはまっている間は幻想を抱いているから、夢見心地で失敗に伴う苦痛を忘れていられるので、やはり人々はメディアが振りまく幻想を追い求めることしかできない。要するにその救世主願望の対象となる人も、ゼロサムゲームがもたらす一握りの成功者の類いなのだろう。結果的にそんな構造自体を、失敗を繰り返すその他大勢の一般人が支えているわけだ。


5月3日「現状からの逸脱」

 特定の国や地域が栄えるとはどういうことだろうか。そこで暮らす特定の人たちが繁栄を謳歌するわけか。少なくとも今はそうではなく、世界中が栄えているわけだ。そう見なしてもかまわないのではないか。そんな現状では何がまずいのか。人間は何か勘違いしているわけか。たぶんそうではない。例えば原発事故ならもっと悲惨な何十万人がいっぺんに死んでしまうような事故を起こしたいのではないか。大規模な産業技術には大事故がつきものだ。パニック映画なら当然そうなるだろう。そうでなくても大地震などの天変地異で多くの人が死傷し、戦争でも同様に多くの犠牲者を出している。自分の身にそれが降りかかってほしくないが、他人の身に降りかかってくるところを見たい。実際にその手の映像には多くの人が群がっている。何かとんでもないことが起こっているのを、身の安全を確保しながら眺めていたいわけだ。それにしても他人の不幸を見て楽しむのもあまりにもひどい話だから、できれば映画とかプロスポーツの観戦ぐらいで妥協しておいた方が無難だろう。だがそこに利害が絡んでくれば、人はいくらでもひどいことやるわけで、数年前の原発事故でも、多くの被災民が国に見捨てられようとしているのに、そういうことをやっている政府を支持している人たちも大勢いるわけで、要するに原発事故の対応だけが、政府を支持するか否かの判断基準ではないということだろうが、ひどい話には違いない。自分が不利益を被るのは断じて許されないが、他人が不利益を被っているのには、見て見ぬ振りを平気でできるわけで、それで少しは良心が咎めようと、その程度のことなら気にならない。そしてそんな人たちが大量に死んでも別に気にならないのではないか。死ぬ人たちがそんな人たちばかりではないにしても、世の中がそんな人たちばかりだと思っていれば、他人ならいくらでも不幸になってもかまわないことになるのではないか。そして多くの人たちがそう思うようになっているとすれば、今まさに人類が滅亡の危機に瀕していると言えるだろうか。そうではなく、もしかしたらそれが今まさに世界中が繁栄している証拠かもしれない。生きようが死のうがどうでもいい人たちが大勢いるわけで、要するに世界が人間で飽和状態にあると言えるのではないか。でもそんなふうに言ってしまったら、人としてまっとうな社会人としてはまずいだろう。本心ではそう思っていても、言葉で表明するときは、それとは正反対の人道的な意見を述べなければならない。

 それも冗談の範囲内にとどめるべきか。何事も本心を明かしてはならず、それが本心ではないことを示さないと、人としてまずいことになるだろうか。それとも本心と思っている内容こそが嘘なのだろうか。ともかく言葉の並びが示しているのは、それとは無関係なフィクションでしかない。誰もそんなことは思っていないし、荒唐無稽な誰かの思いつきですらない。ではなんなのか。虚構などではなく、現実の世界に関する言説だろうか。それどころか偽らざる真実を語っているのだろうか。そうだとするとなぜそんなことを述べてしまうのか。他人に誤解を与え、述べている自らが不利になるようなことを、あえて語らなければならない理由はなんなのか。理由など思いつかないが、ただそう語ることができるということだ。そしてそれは露悪主義を好んでいるわけではなく、人道主義を否定したいわけでもない。露悪主義も人道主義も物事の一面しか捉えていないような気がする。それでかまわないのかもしれないが、それ以外の部分も示してみたい衝動にかられるわけで、それが屁理屈をこねたような内容に過ぎないとしても、あえて語ってみないと、その限界が見えてこないのではないか。だから語るのであって、これまで通りの人道主義やそれを嘲笑する露悪主義にとらわれた内容では満足できないわけだ。だから無理にそこから外れることを述べようとして、結果として矛盾に富んだ支離滅裂な言い分となってしまうのだろう。だがそうなるしかないとしても、それをこれからもやっていかないと、何に逆らい何に挑戦しているのでもない、ただの現状肯定か現状否定の紋切り型的な意見となるしかない。むろんそれでもかまわないのだろうが、少なくともそれに気づいてしまったからには、そこから逸脱したことを述べる気になるわけで、何かこれまでとは違ったことを述べてみたくなるのだろう。現状を変革したいのなら、そうするしかないのかもしれない。それ以上でも以下でもなく、できる範囲内でそれをやらなければ、現状にとどまって、他の人たちと同じようなことを述べて、他の人たちとの絆や連帯を確認して、それで満足する他ないだろう。はたしてそれでかまわないのだろうか。たぶんかまわないわけだが、同時にそこから逸脱を試みてもかまわないわけだ。


5月2日「避けるべき事態」

 別に強がっているわけではなく、そこでうまく立ち回らなくてもかまわない。そこから利益を得る必要はない。得ようとしていないのだから、それは当然のことだ。では他のどこから利益を得ればいいのだろうか。どこからも得る必要はないのだろうか。得ようとしなければいいだけで、得ようとせずに得られたら、その時は得ればいいのではないか。利益とはそういうものだ。そうではないかもしれないが、今のところはそう思っていればいい。本当は利益を得ようとしなければならない。なぜそれをやろうとしないのか。まったくその気がないわけでもないのだろう。そんな気がしないだけだろうか。それともその方法を思いつかないのか。どちらでもかまわないのではないか。ともかく今は無理にそうする必要がないだけか。これといって切り札になるようなものがないのだろう。もとからそんなものなどあったためしはないのかもしれない。だがそれを求めていることは確かかもしれず、勘違いかもしれないが、それを探し求めているのだろうか。そんな気がするだけで、本当は何も探し求めていないのかもしれない。それもどちらでもかまわないわけか。どこへ何を持っていくつもりもなく、どのような状況に至ろうとしているのでもないから、結局利益を求めようとする状況にはないわけだ。ただ違和感を覚える。現状がこれでいいのだろうか。これではだめならなぜ変えようとしないのか。変えようとしているのではないか。変えようとして変えられない。そう解釈すればいいのだろう。実際にそうなのではないか。そしてそんな幻想から抜け出さなければならない。別に実際に感じている現実が幻であるわけはない。ならば何が幻想なのか。空想している内容がそうなのだろうが、たぶん空想するしかないのだろう。思い通りの未来を空想しているわけだ。フィクションの中では誰かがそれを空想していることになっている。幻想の共同体などどこにもありはせず、フィクションの中にさえないものだから、そこに登場する誰かがそれを空想する以外にはあり得ないのだろう。しかしなぜそんなものを空想しなければならないのか。なぜ人は誰もが仲良く暮らせる社会を空想するのだろう。私的に利益を求める行為が邪魔をして、そこで競い合いや争いが起こって、どうやってもそうはならないはずなのだが、思いは誰もが平和に暮らせるユートピアを求めている。それが幻想なのだろうか。実際は他人を攻撃したくてうずうずしているのではないか。そしてそこで引き起こされる争いに勝利したいわけだ。そのような感情があることを肯定した上で、なおかつ争いのない平和な社会を空想できるだろうか。そこで矛盾が発生しているわけか。無論そんな水準でいくら空想しようと、何がどうなるわけでもなく、現実に身の回りで起こっている争いをなくせるわけでもない。

 そんなことについて深く考える必要はなく、ただなるべく争いを起こさないように心がけることぐらいでかまわないのではないか。そして実際に争いに巻き込まれたら、事を穏便に収める方向で努力すればいいだけか。たぶんその程度の心がけでかまわないのだろう。別にユートピアなど空想する必要はないわけだ。黙っていても人と人とは争い競い合うものだし、それを避けることはできず、それに巻き込まれたら、せいぜい詐欺や殺傷沙汰にならない程度に済ませようとするだけだ。それで済ませられなければそれはそれで仕方のないことだが、あまり自らに正義があるようなことは主張する気になれない。正義があろうと非があろうと、それをはっきりとは確定できないような気がするだけだ。そういうことに無頓着というわけではないのだろうが、その場の成り行きに逆らって何かを主張しなければならないような状況には、追い込まれないように心がけていると言ったらいいだろうか。最低限避けるべきはそういうことだろうか。そんな状況になってみなければなんとも言えず、たまには逆上して口論となることもありそうだが、やはりそんな状況になる手前でなんとかしたいようだ。実際になんとかなっているとも思えないが、なんとかなるような結果を空想しているのだろうか。要するにそれも幻想の類いなのだろう。そしてそのような幻想を突き詰めれば争いのない世界に行き着くのかもしれず、心の片隅にそのようなユートピア幻想が絶えず残っているから、やはりなるべく争いを避けようとしてしまうわけか。果たして人は誰でもそんな幻想を抱いているのだろうか。たぶんそう思うしかなさそうで、できれば全面的な衝突などの面倒な事態は避けたいのかもしれない。実際にもなるべく争いごとは話し合いで妥協を計りながら解決しようとする試みが、各方面で辛抱強く続けられているのではないか。その一方で暴力行為も強盗や暴行から軍事衝突まで、世界各地で絶え間なく起こっている現状があるわけだが、たぶん今後ともそのような状況が延々と続いてゆくのだろう。そしてそれが通常の状況で、異常事態でもなんでもないわけだ。別に避けるべき事態でもなんでもなく、深刻に捉えるような状況ではなく、そんな状況下でも人は絶えず争いを避けようとするだろう。そして止むを得ず争いになれば、詐欺や殺傷沙汰になるのを避けようとする。相手を騙したり暴力でねじ伏せるような行為では、決して紛争は解決しないことは承知しておくべきだろう。それを知っていれば自ずからやり方が見えてくるはずだ。


5月1日「政治に無関心な有権者」

 選挙は選挙戦を戦える資金を捻出できる人が立候補し、有力な政党の支援を受けられたり、知名度のある人が当選する。選挙期間中に仕事を休めなかったり、いくら政策を訴えても、有力な政党の支援を受けられなかったり、知名度のない無名の一般人が当選することはないだろう。そんな不平等が平然とまかり通っているのだから、選挙に行かない人を非難するわけにはいかない。たぶん一般人は政治参加をあきらめてもかまわないのだ。法律で選挙ゲームへの参加を強制しているわけではないし、それ以前に国民である自覚がなくてもかまわないのかもしれない。果たして国民と呼ばれる人々の総意で国家や政府が存在していると言えるのか。建前上はそうなのかもしれないが、実質的には勝手に国家の名を冠する政府と呼ばれる機関が、その地域に暮らしている住民から強制的に税金を徴収して、その金と国債と呼ばれる借金証書を発行して買わせた金で、何かやっているだけだ。そういう前提で物事を考えないと、何かとんでもない勘違いに至ってしまうような気がする。それを忘れると結局国家主義のフィクションに身も心も飲み込まれてしまうだろう。何かそこに国家があり政府があることを自明ことだと思ってしまうわけだ。人々は何かのついでに善意で選挙や政治ゲームに参加しているだけで、関心がなければ参加しなくてもかまわないのだ。要するに関心のある人たちが勝手にやっていることであり、誰も好きこのんで税金など払いたくはないし、政治家の言うことなどに従うつもりはない。要するに国家と国民の関係は、お互いの契約に基づく信頼関係ではないのだ。政府が国民を駆り立て何かを強制しようとすれば、確かに戦争などの悲惨な結末が待っているかもしれないが、国民の大半が政治的に無関心で選挙に行かないから、政府や政府と連携して議会を牛耳っている政党などの暴走を招いているとしても、国民が悪いわけではないだろう。それによって国民が不利益を被っているとしてもそうだ。結局そんな暴走を食い止めたければ、国民に向かって政治参加を促し、選挙に行って、政府と連携して暴走していると見なされる政党に反対している政党や候補者に投票するように、呼びかけるしかない。なぜそれが国民の不利益を被っているかを丁寧に分かりやすく説明し、できれば自分たちに賛同してくれるように呼びかけることしかできないのかもしれない。実際に多くの人たちが主にネット上で、そういう呼びかけをしている最中なのだろう。

 そのような呼びかけが実を結んで、政府や議会の与党勢力の暴走を阻止できれば、日本の民主政治がまた一段と深化して、国民の政治に対する意識も成熟するわけか。そうなればそれに越したことはない。本気でそう述べているわけではないが、一度ぐらいはそういう民主的な行為が実を結ばないと、国民の政治離れに歯止めがかからないかもしれない。しかし歯止めがかからなくてもかまわないのだ。それが暴走というのなら、そのまま暴走して行ってもらいたいとも思っている。それで本当に日本が破滅するなら、破滅してもいいのではないか。国民と呼ばれる人たちがそれによって地獄の苦しみを味わうなら、是非とも味わってもらいたい。政府の暴走を止められずにそうなるなら、それも一興だろう。興味はそこにはなく、今現に政治的な主導権を握って何かをやっている勢力に興味があるだけかもしれない。果たしてやっていることがうまくいくか否かに興味があるといったほうがいいだろうか。事の成否とその結果や結末を見てみたい。例えば憲法を改正するならしたでどうなるというのだろう。憲法改正の国民投票をやればどんな結果が出るのだろうか。国民の多数意志とは関係なく投票結果が官僚機構によって操作されたりするわけか。そうなればそうなったで興味深いことだ。国民と呼ばれる人々はそれらの政治家や官僚機構を信用しているのだろうか。国家に対してどのような幻想を抱いているのか。新聞やテレビやネットなどにはびこるマスメディアに携わっている人たちに対して、どのような感情を抱いているのか。そこで多くの人々が様々な主張をしていて、時には互いの主張を戦わせて論争を楽しんでいるわけだが、たぶん憲法などなくてもかまわないだろうし、場合によっては国家も政府もマスメディアもいらないのかもしれない。政治は結局そこに蔓延っている様々な勢力間の利害調整をしているだけだろうか。政治家は何よりも国民の暮らしと生活を守るべきだという大義名分が成り立つか。だが国民の間でも利害に違いがあり、何はさておき自分たちを支援してくれる勢力を守らなければならず、自分たちに反対する勢力の言うことなど聞かなくてもいいような、そんな成り行きになっていないか。要するに国民の間で必ずしも利害が一致していないから、大義名分が成り立たなくなっているのではないか。そしてそれは選挙制度そのものが招いていることなのではないか。選挙が様々な利害を代表する候補者たちの戦いの場であり、当選者は当然自分を支援してくれた勢力を代表して議会に臨み、その勢力の利益に結びつくように行動しなければならないわけで、別に国民全体のことなど考慮する必要はないわけで、特定の利益団体の言うことを聞いていれば、次の選挙でも当選する確率が高くなるから、そのように行動するしかないだろう。そしてそんな候補者に他の有権者が投票するだろうか。そうなると一般の有権者は誰に投票すればいいのだろうか。誰に投票すれば自分に利益をもたらしてくれるのか。そんな候補者がいなければ、別に投票に行く必要などないのではないか。そうなれば自然と多くの人が選挙に無関心となり、投票率が下がるのは当たり前のことだ。


4月30日「文明のあり方」

 何かそこに知恵があるのだろうか。うまく立ち回るための知恵が潜んでいて、それに誰も気づいていないというわけか。正直になる必要はないのだろうか。人と人との関係は常に騙し合いの化かし合いかもしれない。自分のみすぼらしい容姿や思考を他人に知られたくないのであり、そのためにあれやこれやと過剰な装飾を施して、夜郎自大な虚勢を張ったり、こけおどしの理論武装をして知性的に見せようとする。もちろんその程度の稚拙なレベルでは、他の多くの人に見透かされて、それを執拗に繰り返せば、次第に馬鹿にされ相手にされなくなって行くわけだが、そうではない知恵者も中にはいて、そういう人たちが他の人たちをうまく利用し操りながら、人々の中から頭角を現してきて、気がつけば社会の中で一定の勢力を率いているわけか。フィクションの中ではそうなのかもしれないが、現実の世界ではそればかりではないだろう。愚かな人でも組織の後押しがあれば指導者になれるし、そういう人が組織の頂点に立っていることによるメリットがあるなら、多くの人たちが周りからその人をサポートしてくれるのではないか。歴史上でも暗愚な人が世襲か何かで国家の頂点に立った例などいくらでもありそうだが、それの良し悪しをどうこう言ってみても始まらない。そこにもそれを成り立たせるだけの知恵があるということか。あるいはいったんそういう成り行きになれば知恵もくそもなく、そういう方向へと事態が進んでしまうのだろうか。なんらかの思惑が介在しているのだろうが、どうすればそれを防げるかではなく、そうなってしまった後からどうするかが問題なのかもしれないが、今のところは何をどうしたいわけでもない。制度は制度としてあり、その制度に則って多くの人たちが良かれと思うことをやっているわけだ。しかし何が起こってしまったのだろうか。例えばそれは原発事故が起こってしまったということか。それが取り返しのつかない大惨事かどうかは、そこから利益を得ているか否かで見解の分かれるところだろうか。それどころではないと言いたい人たちが、大勢で他の原発の再稼動に反対しているわけだが、どうも今のところは体制側には聞き入れてもらえないらしい。動かすことでもたらされる利益をあてにしている人たちにしてみれば、一刻も早く再稼動させてもらいたいのだろう。よその国では実際に多くの原発が稼動しているのだから、たとえ火山噴火や地震が多発していようと、安全対策に万全を期せば再稼動に問題はないはずだと思っているのではないか。もっとも何が万全なのかをめぐっても、推進派と反対派で見解の分かれるところなのだろうが、たとえ再稼動させてまた事故が起ころうとも、原発推進派はまったく懲りないだろうし、そこから現実に利益が得られる限りは推進派であり続けるだろう。

 結局は科学的な効率性や合理性などではなく、要するに功利主義なのだ。人々はそこからもたらされる利益に群がり、その恩恵にあずかりたい。いったん出来上がってしまった利益供給システムをやめるわけにはいかず、そのシステムに多くの人が携わっていることがものを言うわけで、それらの人たちが政治権力や産業界と癒着しているのだから、なおさらやめるなんてありえないのであり、やめることが自分たちの死活問題だとするなら、やはり執拗に原発を再稼動させようとするのではないか。そうなると今後何らかの新エネルギー革命でも起きて、世界の趨勢が原発を時代遅れの遺物と見なすようになるまでは、やはり原発は稼動し続けるだろうか。現状の延長ではなく、真の破局的な出来事によって文明そのものが滅亡して、原始時代に逆戻りにでもなれば話は別だろうが、例えばドイツなどのように理性の力で原発をやめようする試みは、どうも今のところ他の国々へは波及しそうもなさそうだ。無論ドイツは他の分野で功利主義が徹底していて、そっちで稼いでいるから原発をやめても損ではないという皮算用なのだろうし、一方隣国のフランスなどは原発に依存し過ぎていて、今ところはやめたくてもやめられないわけで、その辺は国ごとに事情が異なるわけだが、人や組織の功利的な思惑で成り立っている現代文明が、いったいこの先いつまで続くのだろうか。理想状態では利益など出なくても、必要な量だけ物や情報を生産し、それを必要な人や組織に分配し、そこで必要な量だけ消費されれば何の問題もないわけだが、やはりそれでは気が済まないわけで、他人より良い物や情報をより多く受け取りたいし、そこに格差をつけて、自分はより高級な物や情報を得られる階級に属したいわけだ。なんの理由も根拠もなく万人が平等な立場でいては困るわけで、自分は他人より優れているから、良い家柄の出だから、金持ちだから、人の上に立っていると思いたい。思いたいのではなく無意識のうちに体現しているのであり、それをあからさまに口に出すようなマネはしないだろうし、普段から黙ってはいても、高級ブランド品をさりげなく身にまとい、高級住宅街などに住んでいれば、そのようなオーラが嫌味なく自然とその身から発せられるのではないか。そのような現象こそが文明そのものの特性だと言えるだろうか。果たして今後そのような文明とは異なる新たな文明がどこかで発祥して、それが全世界に広まるような事態になるのだろうか。


4月29日「制度と形骸化」

 それは誰もが抱く妄想だろうか。制度を変えるには政治的な主導権を握らなければならないだろうか。だが制度の中で多数派を説得して味方につけ、多数決でその制度を変えるにはかなりの無理が伴うだろう。世の中の多数派が制度を支えているのだから、その多数派には制度を変える意志はない。制度が多数派をもたらし、多数派が制度を守っているわけで、それでは鶏が先か卵が先かの議論となってしまう。ではどうしたらいいのだろうか。たぶん制度が形骸化すれば自ずから制度が変わらざるを得なくなる。だが制度が形骸化するように仕向けることは難しい。あまり必要性を感じない制度ならば、そんなことをしなくても自然と形骸化するのではないか。ではそこで人は何をすればいいのだろうか。ただ黙って制度が形骸化するのを待ち、形骸化した時に代替の制度を提案すればいいわけか。実際にはそんな都合よく事が運ぶことはなさそうだ。うまく制度を変革する方法などないように思われる。結局その時の状況次第で、事の成り行きは偶然の巡り合わせと、それに関わっている人や団体の力関係に左右され、変革の試みがうまくいかずにいったんこじれてしまえば、その後はどうにもならないような遠回りとわけのわからない紆余曲折を経て、誰もが思っている最善の案からは程遠い、中途半端で受け入れがたい結果しか待っていないのかもしれず、無論それでは誰もが納得しがたいから、うまくいかなかったことに対する負い目や、変革を妨害されたと思い込んで被害妄想に陥ったり、そこから生じる反発や復讐心が入り混じった情念から、後から思えばどうでもいいような空疎な論争が延々と続いたり、場合によっては武力でデモを鎮圧して殺傷沙汰なども招いて、後味の悪い結末を迎えてしまうかもしれないが、それでも変革への意志が絶えることはないだろうか。そういう過程こそがまさに世の中が変革されている最中だと思えばいいのだろうか。確かにそんなうんざりするような時間や人や物や言葉の浪費を経ないと、人は何かが変わったと実感できないのかもしれないが、それで本当に何が変わったのか。それを誰が感知できるだろうか。20世紀の日本の全共闘世代が担った学生運動や、数年前の中東で起こったアラブの春と言われた改革運動などが、それに当たるかもしれないが、一時的な保守への揺り戻しもあるだろうが、たぶんそれも変革の過程なのだろう。といっても変革そのものがなんだかわからず、はっきりとは特定できないのかもしれず、多くの人にとっては何が変革なのか気づき得ない面もあるのではないか。それが変革でなくてもかまわず、相変わらず代わり映えのしない退屈な日常が延々と続いているとしか思えない場合もありそうだ。たぶんそれでもかまわない。

 要するに様々な紆余曲折を経て変革されてきた社会が、今人々が暮らしている社会そのものなのだろう。もちろんそれが最終的な形態ではないのだろうが、今後もそこに暮らす人々が気づかないうちに変革されて行くだろう。もちろんそれでそこに暮らしている人々が納得するわけがなく、相変わらず多くの人たちが政治体制を批判し続けるだろうが、それが必ずしも変革の試みにつながるわけでもなく、むしろそのような政治体制を維持強化していくには、その体制が許容可能な批判勢力の存在が欠かせず、批判している人々をそのような批判勢力に組み込むことによって、そこから逸脱して過激な主張をする人々や、それとは全く別の方面から批判しようとする人々を孤立させ、そういう人たちはいないかのように扱うことで、体制側と許容可能な体制批判をする側の二項対立を構築しながら、安定した政治体制を継続させようとするわけで、それに貢献するような批判なら体制に迎合的なメディアからも歓迎されるわけだ。そしてそのような二項対立の構築も社会変革からもたらされた成果なのではないか。批判勢力にとってそれは否定的な成果なのだろうが、彼らの思い通りの変革とはならずに、彼ら自身が体制側に飼い慣らされるような変革となったわけで、つまりそれは体制批判の形骸化であり、批判による変革の不可能性があらわになったわけだ。しかし形骸化とはなんだろう。形骸化こそが制度そのものなのではないか。制度とは同じ動作を繰り返し要求し行うシステムで、批判も体制側に飼いならされたメディアによって行われるような制度と化したわけで、そのような制度によってメディア側に利益がもたらされるとしたら、それはメディアにとっても有効に機能している制度となっているのだから、それは是非とも既得権益として維持継続させ、そこから持続的に利益を得たいところだろう。要するにそのような体制迎合的なメディアが利益を出している限り、体制批判は形骸化した制度として有効に機能し、不満分子を退ける装置として社会の安定に役立ち、政治体制も磐石なものとして維持継続ができるわけだ。


4月28日「とりとめのない行為」

 別に瞑想の最中であるわけがない。意識が今どこにいるのかわからないのだが、その場で教訓を受け取る必要があるだろうか。いったい誰から戒めの言葉を受け取れるのか。導き出そうとしているのは教訓ではなさそうに思われる。では何をもたらせるというのか。ただ言葉を記して何かを表そうとしている。記している時点ではその内容がわからないのだが、言葉を組み合わせて何かを構成しようとしていることは確からしく、それが文章としてまともな内容を伴えばしめたものか。そううまく事が運ぶとは思えないか。現時点ではそれでかまわない。だがそれでは気が済まなくなるのであり、どの時点でもかまわないから、その内容を知りたくなり、文章の全容を把握できるような成り行きに持っていきたい。でもまだ記されてもいない箇所など把握できるわけもなく、結局その場で記された前後の内容から、その全容を想像してみるしかなく、それがまとまった内容とはなり得ないことは確かで、おぼろげでとりとめがなく、何か特定のわかりやすい主張やイデオロギーに結びつくとも思えず、なんだかわからないようなことを延々と繰り返し述べているだけのような気がしてきて、まるで空気をつかむような気分となり、途方に暮れてしまうわけだが、それでも少しは前進していると言えるだろうか。どこへ向かって前進しているのかもわからない。もしかしたら前進しているのではなく、言葉を記すほど後退しているのかもしれず、何が後退しているのかもわからないのだろうから、それも根拠などないわけで、たぶん後退はしていないような気はする。時間が未来へと向かって進んでいるのと同じように、記述も未来へと向かって前進しているのだろう。そして言葉を記しているつもりの意識は、絶えずその途中にいると思っているのであり、未来が永遠に続いているわけでもなく、いつかは終わりの時が訪れるのだろうが、ともかくその時までは前進し続けようと思っているわけで、そんな意志がどこかで阻まれることは目に見えていて、どうせ途中で挫折してとりとめのないままで終わってしまうのだろう。たぶんそうなってしまってもかまわないのだ。現時点ではそれ以上を望むべくもなく、ともかく今やっていることを続ける以外にはやりようがないわけだ。まともな内容などはなから求めていない。強がりではなくそれが宿命だと思っている。そうなるような成り行きの中で言葉を記しているのではないか。それは疑念の余地がないように思われ、抜け出せるような気がしない。果たしてそれ以外のどこかに至れるだろうか。どこかといったところで皆目見当がつかず、あるのは今ある状況の他には何もなく、可能性もそれを続ける可能性しかないように思われる。

 そんな状況の中で考え、何かを模索しなければならないのだろうが、その何かがなんなのだろうか。もしかしたらなんでもないのかもしれず、いくらそれを探求しても何ももたらされないのではないか。求めているのは空疎そのものなのかもしれない。だがそれでは求める必要がないのではないか。だから空疎を求めていると述べてはおかしいのであって、何かもっと魅力的なものや状態に至ることを求めていると述べたほうがいいわけだが、どうもそうではないような気がするわけで、かえって魅力を伴うようなものやことのほうが嘘であり、それこそが幻想にすぎないように思われてしまうのはなぜだろう。魅力あるように思われる事物に真の魅力があるとは思えず、なんでもない空疎な何かに真の魅力があると思えるのだろうか。要するに真の魅力とは空疎な魅力であり、それが具体的な事物として意識が捉えると、たちまちその事物のみすぼらしさが感じられて、事物に対する幻想が色褪せてしまうわけか。でもそんな簡単にそう断じてしまうのも嘘のように思われ、何かもっと違ったふうに語りたくなるわけだが、それはごまかしでしかないだろうか。もしかしたらなんらかの事物に魅力を感じるということ自体が、意識がもたらすごまかしなのかもしれず、そのなんでもないような事物にこだわりを持つように仕向けることで、かろうじてそれが生きる動機として意識に作用を及ぼしているのかもしれない。でもそれで何を述べているとも説明しているとも思えないのはなぜだろう。その辺に何か大きな勘違いでもあるわけか。そもそも魅力を感じるか感じないかで何をどう判断したいのか。この世が空疎で満たされていないとするなら、やはり何か意識に幻想を抱かせるような事物で満たされていると考えるのが妥当だろうか。でもそれを言葉で肯定しようとするとおかしくなりはしないか。では意識が感知している具体的な事物の存在をどのように捉えるべきなのか。事物の存在でも魅力でもなく、事物そのものを肯定すべきなのか。今この世で現に動作している事物を否定するわけにはいかないだろうか。実際にそのように動作しているのだから、それはそれで存在とか魅力を抜きにしてそのまま肯定すべきなのか。現にそうなっている物事を否定するわけにはいかないだろうか。否定するのではなく、いかにしてそう動作しているのかを解明しようというのが、たぶん一つの逃げ道なのかもしれないのだが、それを逃げ道だと否定的に捉えるのではなく、積極的にそのような解明行為そのものを肯定すべきなのだろうか。でもやはりそう述べてしまうと、どこまでいっても結論に至れないような気がする。至る必要さえなく、どこまでも解明し続けるべきだと主張すればいいのかもしれないが、果たしてそれをやり続けることができるだろうか。そんな疑念を抱きながらもやり続けなければならないわけか。


4月27日「冗談にもほどがある」

 耐えられないような具合に状況が推移しているとも思えず、ただの戯れ言とともに意識があるように思われる。記している言葉の連なりがそれを知らせてくれる。取り立ててどうということはない状況の中で人々が暮らしている。すべては自然現象なのだろうか。人の心理作用もその中に含まれているのかもしれない。そこから何を導き出せるとも思えないし、それでも無理に導き出そうとすれば、それはどのような構造を伴った内容となるのだろうか。現にある言葉の連なりを読んでみれば、その全容がおぼろげながら見えてくるのではないか。それが戯れ言だと思われるわけか。そう見なぜばそれらの惨状を理解でき納得できるだろうか。記された内容が事物を捉えられていないように思われる。その対象となってさえいないのかもしれない。言葉で表されるべき対象とはなんなのか。それがこれだと言えるだろうか。それがこれでないから、これだとは思えず信じられないから、疑念が生じて困惑を呼び込み、何を語っているようにも思われなくなるのではないか。何について語っているのでもなく、その対象ではない他の何かについて語っているように思われてくるわけだが、その何かがなんでもないことやもののように思われ、そこで取り止めがなくなって語りを断念しなければならなくなり、語り終えられなくなってしまうわけか。そこまで至らずに語りをやめてしまっている現状があり、それが中途半端で曖昧模糊とした印象をもたらしている。その時点ですでに迷っていて、どうやれば語り終えられるのか見当もつかず、あとどれほど語ればそこへと至るのかわからず、方向を見失い道に迷ってしまったような感覚になるらしく、何を語っているのかも、何を語るべきかもわからず、その場にとどまり続ければいいのか、あるいはその場からすぐに立ち去ったほうがいいのか、判断がつかない。判断材料がもたらされていないのかもしれず、どのようにすればそれがもたらされるのか、その方法も皆目見当がつかず、ただうろたえるばかりで、何もできなくなってしまうらしい。そしてそれが嘘や冗談だとは思えず、それについて真剣に考えなければならないような気になり、その必要もないのにさらなる暗中模索と回り道を強いられる成り行きとなるのだろうか。たぶんそうではない。それが嘘にも冗談にもなるような成り行きだから、そうならないような道を探さなければならなくなるのではないか。そのままの内容では終われないわけだ。終われないと思われてしまうような中途半端な内容になっている。それを超える内容を導き出したいから、今語っているそれを打ち捨てなければならなくなるのだろう。

 もうどこへも逃げられないというのは嘘であり、冗談でしかないのかもしれない。そこからの移動はいくらでもでき、どこへでも行ってしまえるのだろう。そうすべきなのかもしれないが、現状はどうなっているのか。多くの人々がそこへ留まろうとしているのではないか。今ある現状を前提としか考えられず、それなしでは何も信じられないわけだ。現状の不具合がそこから生じているのを承知で、それを生じさせている構造を壊すなんて考えられず、できることはその構造を利用して利益を得ていると思われる人々を批判することしかできない。そして批判することによって不具合が是正されると思い、それを信じて疑わないどころか、そうすることしかできないと思い込んでいるわけだ。現実にそうすることしかできないのだろうか。今その構造を利用して利益を得ている人々を退けて、今度は自分たちがその構造から利益を得ようとしているのではないか。だから彼らにとっての批判は闘争なのかもしれない。お前らが利益を独占していないで、俺たちにも分け前をよこせとわめくことが批判と思われているのだろうか。それともそんな状況の単純化が嘘であり、冗談でしかないわけか。ではそんなふうにもっともらしく語れば冗談になるしかない現状の中で、それ以上に何を語ればいいのだろうか。そんな状況から逃れられないのはもちろんのこと、それを超えることなども不可能なのではないか。逃げられないし超えられない障害物が前方に立ちふさがっているのが現状だろうか。その障害物とはなんなのだろうか。それは現状を成り立たせ構成している構造そのものだろうか。安易にそれらが国家や政府や企業だとは思わないほうがよさそうだ。確かにそれらも含まれているのかもしれないが、それを支えているのはそこに暮らしている人々自身であり、その中にはそれを批判している人々も含まれるのであり、安易に敵と味方を区別すべきではないのかもしれず、味方と思っている人々すらも、それらの構造物の存在を信じて疑わないのだから、それを解体するような提案など受け入れようがなく、むしろあからさまな無視と無言の反発を招くだけだ。それらの人々にとっては、そんな提案など冗談にもほどがあるのであり、相手にするような対象ではなく、相手にすべきは現状で利益を得ている人々しかいないわけだ。わけのわからないことをほざいている頭のおかしい人に付き合っているほど暇ではなく、まずは批判と反対運動によって目の前の敵を打ち倒さなければならない。そのための道具が言葉であり、言葉によって自分たちに都合のいいイデオロギーを組み立て、そのイデオロギーから導き出される価値観を広く世間一般に広めることによって多数派を形成し、その形成された多数派を動員して選挙で勝利し、自分たちの願いを実現させる体制を築こうとしているわけだ。


4月26日「自分という虚構」

 この世界では何をやってはいけないのだろうか。それがどこかに記されていたかもしれない。確かハムラビ法典にはやってはいけないことでも列挙されていただろうか。目には目をといった程度のことだったような気がする。要するにやられたことを超えて復讐してはならないということか。果たしてその戒めの言葉が実際にどこまで通用するのだろうか。別に誰がそれを嘲笑しているわけではなさそうだが、人は復讐とは無縁でいられるだろうか。ただ一方的にやられっぱなしで、どこまで我慢できるというのか。やる方はやられる方にやるときはこうやるんだと教えているのであり、やられる方が殺されずに生き延びれば、今度はやった方に復讐を企てるわけか。かつてお前がこの身に叩き込んだように、今度は俺がお前に叩き込んでやるとなるのだろうか。無視するわけにはいかないのか。無視できずに影響されてしまうのが復讐の醍醐味というわけか。そんな復讐を扱った物語が興味深いのかもしれず、かつて自ら記した内容に今の自らが影響されて、そこで思いもしなかったようなことを語り出しているのだろうか。別にそれで過去の自分が今の自分に復讐していることになるわけでもないだろう。しかもそこで語っているのは自分ではなく誰でもない。ただの記された言葉の連なりであり、それを記しているのは相変わらず自分自身だ。そしてその内容は決して自戒などではない。何を戒めているのでもなく、相変わらずその石碑は地中に埋もれていて、誰もそれを見つけられずにいるわけだ。なぜその神殿の台座から消え去ってしまったのだろうか。他の誰かによって持ち去られ、すでにどこかで粉々に打ち砕かれてしまったのだろうか。確かにそこには言葉が記されていて、今それを誰かが読んでいるというのに、読んでいる意識が記述の合間に消え去ってしまう。苦し紛れにそんな嘘をついてもわけがわからないが、どうやら埋もれた石碑はハムラビ法典とは無関係で、時代も場所も違うようだ。それどころかもとから戒めの言葉が記された石碑など存在しなかったのかもしれない。では他に何を語りたかったのだろう。自らに課した戒めの言葉など、結局どこを探しても見つからなかったのではないか。やってはいけないことが、戒めを意味するわけではないということか。いつも決まって逆にやってはいけないことをやらざるを得ない状況に追い込まれ、事前に何を戒めても、事後ではその意味合いが変わってきてしまうのだろうか。復讐はいつも決まって復讐を超える破壊をもたらし、そうなっては困るから法律で復讐を規制しなければならず、場合によっては国家が復讐の肩代わりをやることとなり、それを象徴するのが死刑だろうか。もちろん表向きは復讐とは違う行為だとされているわけだが。

 結局それらの意味不明な説明から何を導き出したいのか。それにしてもわざと話をあらぬ方向にずらしていないか。記述内容が自分の意志に従っているわけではない。それを読み返しながら、その中に隠れている自分の意志を見つけようとしているのだろうか。意志そのものが記述から生じている虚構なのか。そう見なして差し支えないと思う。でも誰がそう思っているのだろうか。ただそう思うと記しているだけで、記している当人はそうは思わない。ではそれも嘘なのだろうか。他に何が嘘だと思っているのか。そう思っているのも嘘で、そうは思わないのも嘘だとすると、何かを思ったり思わなかったりすることが嘘なのかもしれず、そこでやってはいけないことは、記述している通りに思ってしまうことだろうか。別に事前に何を思っているわけでもなく、記述した後から、その記述内容が虚構だと自覚するに至るのかもしれない。要するに思うとか思わないとかとは別のことを考えてしまうわけだ。後からそれを読み返しながら、記述していたときとは別のことを考え、それを次の記述に反映させようとするのだが、できるわけもなく、記述しているときは別の心理状態にあるのかもしれない。普段考えているのとは別の神経回路上で動作しているわけだ。だからいつも思わぬことを記しているわけで、それが自分の思考から大幅にずれていることもしばしばだ。それが嘘だとは思えず、それこそが現実の世界を反映した記述内容なのかもしれず、自分の思考から外れたところで何かが生成されていて、その生成物を後から読み返すと考えされられる。なぜそんなことを記すのか疑問に思い、それについて考えているうちに、またそれとは違う何かに突き当たり、それについて記そうとすると、またそんな思いから外れた記述となってしまい、どう記してみても自分とは無関係な何かについて記してしまうようだが、それが嘘だと言えるだろうか。自分とはなんなのだろうか。本気でそれを考えようとも思わないのに、そう記してその場を切り抜けようとしてしまうらしい。なぜその場を切り抜ける必要があるのだろうか。その場にとどまって自分とは何かを探求すればいいのに、なぜそこから外れようとするのか。それはやってはいけないことだからか。それをやれば虚構の自分が導き出され、それについて語ればフィクションとなってしまうから、そういう自分を欺くような行為は自粛せねばならないのだろうか。しかしそれもなんだか嘘っぽく感じられ、そんな記述は信用できかねる。何か冗談でも述べているつもりなのだろうか。たぶんそう思っておいて差し支えなく、記述を真に受けるようなことがあってはまずいのだろう。そんなわけで記述は絶えず記述者を欺いていて、そんな記述内容は疑ってかからなければならないと思わせるわけだ。記述から導き出される自分という虚構の産物に操られないようにするには、とりあえずはそうするしかないのだろうか。それ以外にどうすればそこから逃れられるのか。


4月25日「ピエロとチンドン屋」

 とりたてて何を批判するでもなく、でも結局何かを批判していることになるのだろうが、たぶんそんな状況を嘆きたいわけでもないのだろう。批判からも見放された悲惨な人たちなら世の中にいくらでもいる。でもそんな人たちを哀れんでも仕方ないだろう。そうやって無視されている対象がどこかで幸せに暮らしていようと、あるいは不幸な境遇にあろうと、そこにはなんらかの可能性があるように思われる。それはいつか転機が訪れて、その境遇が変わる可能性ではなく、その状態で何かの兆しを感じ取れる可能性だ。それを感じ取ったところでどうなるわけでもないのだろうが、人は遠からずそれに気づいてしまうわけで、そこでいくら勝手な想像や空想を膨らまして、自分の思い通りになる結末を幻想したり妄想しようと、そうはならないだろうことがわかってしまうわけだ。どうにも変わりようがない状況が、人にそれを悟らせ、そこで行く末が固まってしまう運命にあることを教えてくれるわけだ。そしていったんそうなってしまったら、その後に待っているのは予想通りの結末だろうか。予想通りとは自分で気づいた通りの結果がもたらされる。本当にそうなるだろうか。では実際にはどうなってしまうのか。例えばそこで眠っていたら夢でも見ているのではないか。あるいは目が覚めていたら気が狂ってしまうだろうか。そんなはずがない。どう考えてみてもそれほど深刻な事態ではなさそうだ。別に何を危惧しているわけではない。それどころか至って楽観的に物事を考えているのかもしれない。物事もその推移も変化も、気が狂ったり取り乱したりしない程度に受け止めてしまうだろう。何が起こっても不思議でないわけではなく、予想通りの結末だったのだから、冷静に平静を保ちながら結果を受け止めるだろう。その時点でもはや厄病神から解放されて、肩の荷が軽くなったわけだから、何を深刻ぶっても違和感しか残らず、後はあるがままの現実の中で生きていくしかないのではないか。そして知らない間に転機が訪れていることに気づくわけか。そこまではなかなか気づくきにくく、知らないうちに今までとは別のことをやっていて、それが当然のことのように思われてしまい、疑念を抱く隙もなく、そんな状況の中で生きているわけだ。しかし睡眠中の夢の中でもないのに、本当にそんな状況になるだろうか。ならなければそれが勝手な妄想で、誰かが構築したフィクションの一部だとでも思えばいいのだろうか。それも的外れのような気がする。わかっているのにわかっていることに逆らい、わざと疑念を捏造しているだけかもしれない。

 しかし人は本当にそれを悟れるのだろうか。自らも思考も動作も行く末も固まってしまったことに気付けるだろうか。多くの人たちは気づいているのではないか。中には気づいていながらそれに逆らっている人もいるのかもしれないが、気づいているからこそ逆らうのであり、逆らっている間はそれを忘れていられるから、そういう人は毎日必死で自らの運命に逆らっているわけだ。そしてそういう人を側から見ていると滑稽に見え、その言動の内容が身の丈を大きく逸脱しているから、それを真に受けるわけにはいかず、そういう人とはまともに関わる気になれないのだが、当人もそれに気づいているはずなのに、なぜ強引にピエロやチンドン屋のような行為に及ぶのだろう。本当はそんなことはやりたくないのだろうが、もはやそれしかできないのか。要するにそういう方向で思考も動作も行く末も固まってしまったわけか。それは悲しくも哀れな事態だろうか。別にそうは思わない。そうなるべくしてなってしまったと思っていればいいことでしかない。当人がどう思っていようと、まだ自分にはなんらかの可能性があると思っていようと、周りの人たちはそんな当人の思いなど無視していればいいのではないか。ピエロにもチンドン屋にもそれを本業としている人がいるのであり、まともな神経でそれを演じている限りは、それはそういう演技であり、ピエロもどきやチンドン屋もどきとは異質だ。そのもどきのような行為に及んでいる人はあくまでもアマチュアであり、そんな行為は正当に評価することとも否定することとも無関係なのだろう。だからそれをやり続けたければ、勝手にやらせておけばいいのであり、当人の気が済むまでやっていればいいことでしかない。だから別にわざと冗談の類いだと思っていてもかまわない。そんな人など存在しないかのように振舞っていても、別にひどいことでもないだろう。もしかしたらすでに多くの人たちに見捨てられていて、もはや廃人や隠遁者となっているのかもしれない。たぶん実情がそうなっているとすれば、なおのことそんな受け入れがたい境遇に逆らいながら、ひたすら気丈に強がって見せるのではないか。それを見せたい人を求めているわけだ。自分の生き様を他人に見せつけることが生き甲斐となっているのかもしれない。誰でもいいから振り向いて声をかけてもらいたいのだろう。だが現状ではそれをやればやるほど、ますます惨めな境遇に拍車がかかり、より一層ピエロやチンドン屋のような行為を強いられてしまうわけだ。


4月24日「神の導き」

 しかし神は何を待っているのだろうか。誰かが神を想像している。空想していると言ったほうがいいのだろうか。それが神だとは言わないのかもしれない。ではなんなのか。悪魔だろうか。語りたかったのはそんな話ではないはずだ。それの何に魅力を感じるわけでもないだろう。人はまだ有限の存在だ。無限の存在にはなれないし、なれるのは人間以外ではないはずだ。だからそれは何者にもなれないことを意味する。職業的な肩書きならいくらでもつけられるかもしれない。また名前やニックネームを変えれば別人になれるだろうか。しかし別人とはなんだろう。何か覆面をかぶったヒーローの類いに変身できるというのか。プロレスラーになればそんな役回りにもなれそうか。映画の画面上でも誰かが架空の存在を演じているはずだ。しかしそこで待っているのはただの一般人なのではないか。神がその出来事の到来を待ち望んでいるわけではない。天変地異なら神が起こせば済むことか。では神は何を待っているのか。キリスト教徒なら最後の審判の時でも待っているわけか。それは別に神が待ち望んでいるイベントではない。神にも宗派によっていろいろな名前があり、決して統一した名称では呼ばれていないはずだ。神が特定の民族や人物を選び、それらに試練を与える時もある。なぜだろう。なぜ救わずに試練を与えるのか。その辺は一般の人たちには理解できないかもしれないが、僧侶や聖職者ならうまく説明できるのだろうか。もちろんその説明を信じるかしないかで、その宗派の信者になるかならないかが決まるわけか。その説明が宗派によって異なるから、世の中には色々な宗派が存在しているのだろうか。キリスト教でもエホバの証人とかになると、隣近所での勧誘活動を義務付けられているようで、それが信者にとっての試練の場と化しているみたいだ。一度玄関先のインターホンに出たら最後、定期的に訪ねてくるようになり、居留守を使うと執拗に何度も何度も訪ねてきて、数日毎に時間をずらして繰り返し訪ねてくることになるようだが、不思議なことに夜は訪ねてこない。夜なら明かりがついているから居留守は使えないのに、日が照っている昼でないと勧誘活動をやってはいけないような決まりでもあるのだろうか。その辺はよくわからないが、普通の神経なら、毎日来る日も来る日も勧誘活動しなければならないような宗派に、進んで入ろうとは思わないのではないか。そんな試練を乗り越えた先には何が待っているのだろうか。信者が勧誘して信者が増えれば教団が財政的に潤うだけか。

 ツイッターでお金儲け系の人をフォローすると、定期的に金儲けの方法を教えるという勧誘メッセージが来るのだが、こっちが何を返答しても、あちらは延々と同じ金儲けの方法を教えましょうかというセリフしかよこさない。果たしてそんな毎度同じのセリフになびく人がいるのかいないのか、その辺はよくわからないが、そういう人を数人フォローしているので、その人たちはそのセリフに引っかかって、金儲けの勧誘活動に勤しんでいる仲間たちなのかもしれず、なるほどエホバの証人と同じように、金儲けの信者を増やす試練に身を投じている人たちなのだろうか。他にツイッターでは放射能被害を訴える人たちと、安倍政権を批判する人たちもフォローしていて、これも毎日のように原発事故処理と放射能汚染の放置と原発再稼働反対を繰り返していて、政権批判の方は憲法改正と軍国的な右傾化と富裕層優遇の経済政策などの批判を繰り返している。フォローしているということはそれらの批判活動に同調していることになるのだろうか。実際それらのツイートをたまにはリツイートすることもあるのだが、すべてやっているわけではなく、最近では飽きてきてほとんどスルーしてしまっているのだが、やはりせっかくフォローしているのだから、真面目になってできる限り彼らの主張をリツイートして、微力ながら世の中に広める手助けをしなければならないのだろうか。たぶん他にも多くの人たちが世の中に広めているのかもしれない。それをためらう理由はなんなのか。彼らの主張の中身に違和感や疑念を生じさせる何かがあるわけか。それとも毎日のようにそれらの同じような主張に接してきて、単に飽きてしまっただけだろうか。飽きる飽きないの問題ではなく、日本の将来がかかっている大事な問題であり、まさに彼らが主張しているように、日本が軍国化して若者が戦争に駆り出されないように、今がその行方を左右する正念場であり、少しでも良心があるなら、その活動に協力すべきなのだろうか。毎日のように延々とやっているのだから、彼らの必死さがひしひしと伝わってきて、いてもたってもいられなくなり、彼らと同じように政権批判をやる成り行きになるだろうか。たぶんそうではないのだろう。少なくとも現状はそうではない。たぶん世の中の流れはそれとは違う方向へ流れている。何よりも日本に対するアメリカの両義的な政策が気にかかる。単に日本を経済的に植民地化したいわけではないような気がする。そしてもしかしたらこの先そのアメリカの政治家や官僚たちも気づかないような、全世界的な変革のうねりがやってくるかもしれない。期待するとしたらそちらに期待したいし、だからと言って日本で反対運動をやっている人たちを否定するわけでもないのだが、もう少しその辺を考えてみたいと思っている。もちろん考えたところで何がどうなるわけでもないことは承知の上だ。


4月23日「期待外れの現状」

 行動も妄想から発しているのだろうか。誇大妄想を抱かないと大それたことはできないのではないか。綿密な計画を立てて細心の注意を払いながら行動できるのは、組織に守られている者なら可能なのかもしれないが、たぶんなんの後ろ盾もない単独者にとって、それは難しいことであって、何かしら協力者がいてそのサポートがないと、現代では何事もなし得ないのかもしれず、ネットでわけのわかぬ妄言を発している者など、誰からも相手にされないのだろうか。それは現代だけでなくいつの時代でも言えることだろうか。そういう者たちにとっての真っ当なやり方があるわけではない。なんともやりようがなく、八方ふさがりの中から這い出して来なければならないのかもしれず、通常では無理なのだろう。社会の中で確立しているヒエラルキーを飛び越えて、何かやろうというのはほとんど不可能に近いのかもしれない。しかしやるとなるとそれを目指さなければならないわけか。不可能を可能にしないと何もできない。だからその手の輩は自然と大ボラ吹きになるしかないのだろうか。それでかまわないのだろう。もちろんフィクションの中ではそういう大ボラ吹きが成功するわけで、貧乏人から成り上がって国家などの政治的な権力を手中にするわけだが、現実の世界でそれを成し遂げた人物が歴史上にいるだろうか。フィクションとして語り継がれ、しばしばテレビドラマに登場したりする何人かの固有名は、それを代表しているわけか。その方が話が面白くなるのだろうが、いったん自分が権力を握れば、ヒエラルキーの上位者の権威を利用して自分を権威づけするわけで、その上位者の最上位には、神や天があるわけで、それらが自らに征服した領土を統治するように託宣を下したということになるわけだが、現代は民主主義によってそんな過去とはきっぱりと縁を切ったことになるのだろうか。ヒエラルキーの上位階層にいると、比較的選挙に立候補しやすく、支持を集めて当選する確率も高くなり、議会の多数派を占める政党に属していれば、国家の行政を担う立場になれるのが実態なのかもしれない。そしてそのような階層に加われずに、なんの後ろ盾もないような輩が、ネットでわけのわからぬ妄言を発して、世間から認められないうさを晴らしているわけか。でもそれでは救われない話だ。

 ではそれらの主張が実現する可能性は皆無だろうか。何を実現させようとしてそんなことをほざいているわけでもないのだろう。何を実現させたいのでもなく、やはりそれは憂さ晴らしの類いになるのだろうか。たとえ憂さ晴らしだろうと、ネット上が百家争鳴状態になれば、それが世の中が変わる起爆剤になるだろうか。いつか何かのきっかけで思いがけぬことが起こるわけか。でも具体的に何を期待しているわけでもない。期待しているのはそんなことではなく、どうでもいいことなのかもしれない。政治体制など今のままでもかまわないとさえ思う。では何を期待しているのだろうか。それは何も期待しないのと同じことかもしれず、要するに期待がことごとく裏切られて欲しいのではないか。だから何も起こらなければ、期待が裏切られたことになり、それでかまわないと思うわけか。たぶんそれも違うのだろう。人々は何を恐れているのだろうか。恐れていた事態がすでに到来していて、今がその最中であることを認められないわけか。あるいは体験しつつあるこの現状がさらに悪化して欲しいのだろうか。すでに大震災も原発事故も実際に起こったというのに、危惧していたことが起こりそれから数年が経過したというのに、しかもそれをまったくなかったかのように放置し続ける政権が人々から支持され、メディアの大半もそのような政権に迎合しているというのに、さらにもっと何かものすごいことが起こって欲しいわけか。ないものねだりも大概にして欲しいだろうか。たぶん人々はそれを求めているのではないか。富士山が大噴火したり、今度は南海沖で大地震が起こったり、何かもっとすごいことが起こって欲しいと内心思っていて、期待に胸をときめかせ、ワクワクしながら充実した日々を送っているのではないか。そう述べてしまうと嘘になるだろうか。なぜ嘘をつく必要があるのか。嘘ではなくまともに政治批判などしても相手にされないのだろう。だからと言ってその代わりに何を述べようとしているわけでもない。何を期待する必要もないのだから、そもそも期待外れなどあり得ないのではないか。下克上的な時代劇の英雄たちとは無縁の世の中なのだから、誰も世の中を変えようなんて思う必要もなく、世の中自体が個人の力で変えられるようなものなどではなく、集団で連携してなんとかできるものでもなく、ほとんどの人たちはその制度の中で何かやろうとしているわけで、そのために選挙に立候補した人を応援したり、支援したり支持する候補者に投票することで、それで何かが変わるように祈っているわけだ。そして一方でそんな制度自体に関心を持たない人たちもいるわけで、そういう人たちにとって世の中は変えるものではなく、順応してそこから利益を抽出するものなのかもしれない。


4月22日「神秘思想」

 所詮は世界が変わるなんて思うのは幻想でしかない。でも変わることは確かだ。現実に変わり続けていて、誰の思い通りに変わるわけでもないだろうが、いつかは誰にも実感できるほど劇的に変わるのではないか。幻想でしかないのなら、その程度に思っておけばいいことでしかない。だから変わる変わらないかなんてどうでもいいことかもしれない。いずれなんらかの形で転機が訪れるだろう。ただそれがいつになるかはわからない。だからそんな機会を待っていても無駄なのかもしれない。ただ黙って何もせずに待っているわけではないが、ついそれを期待してしまうわけか。現状に批判的な人たちは、確かに何かが変わることを期待してしまうわけだが、誰の期待通りに変わるとも思えず、思い通りの変化を期待しても無駄なのだろう。だから無駄に適当に期待しているわけで、確実に特定の何かが変わることを期待しているわけではなく、ただ漠然とそんな思いにとらわれているだけかもしれない。未来を妄想するばかりで足元の現実から目を背けている。要するに状況を把握できずにいるのではないか。これから何が起こるのか感知できないらしい。でもそんなことは誰もがそうなのではないか。何を把握し何を感知したいとも思えないから、ただ漠然と未来に対して変化を期待することしかできないわけだ。現時点ではそんな認識でかまわないのか。かまわないわけではなく、何か現状を変えるために行動しなければならないのだろうが、そこで手段を見出せずに考えあぐねている。しかもそれでもかまわないと思われてしまい、何もできずにいるままの現状が続いているわけか。いたずらに時ばかりが経ち、気がつけば何もできずに終わっている可能性も無きにしも非ずか。それも未来に関する幻想の一部かもしれず、今は焦らずに転機がやってくるのを待つしかないわけか。そして向こうから何がやってくるわけでもないことを身にしみて感じている最中だろうか。嘘をついているのかもしれないが、それでもかまわないのだろう。

 それは言葉によるはぐらかしであり、否定的に感じられるとしても否定することはできず、現にやっていることを認めなければならないのだろう。そのやっていることをやり続けることしかできない。それが思い違いなのかもしれないが、たとえ思い違いであっても、それを続けている現状があるわけで、今さらやめるわけにはいかないのだろうか。それをやめるやめないに関わらず、そのような判断を超えて現実の中に意識がある。この世界の中には何の神秘もなく、この世界があること自体が神秘だ。かつて誰かがそんなことを述べていたかもしれないが、現実の中に意識があること自体は当たり前のことで、そこから神秘思想など導き出せないのではないか。やっていることがうまくいくわけでもないのにやり続けていることに、どんな神秘があるわけでもない。たぶんこのままやり続けてもうまくいくはずがない。どうなればうまくいくのかという事例や模範的な答えがないわけだ。それともこれでうまくいっていることになるのだろうか。ある部分ではうまくいっていて、別の部分ではあまりおもわしい結果は出ていないとなるわけか。それは妥協的な物言いでしかなく、それでは現状を真に把握しているとは言い難いか。しかしありのままの現状を感じ取ってどうするのだろう。人がそれを感じ取ろうとする限り、それはありのままの現状ではあり得ず、それを感じ取ろうとする思いが反映された現状を感じ取れるだけではないのか。その現状の中にいる者の都合が反映された現状を感じ取っていて、それをフィクションといってしまえばそこで終わってしまうが、そんなふうにしか現状を把握できなとすれば、それがその者の限界であり、それ以上に現状を把握するのは不可能なのかもしれない。そんなわけで人は真の現実を把握できず、人の意識はいつもその人の都合が反映した虚構の現実の中に存在しているわけか。存在という言い方も語弊があるのかもしれず、意識が存在しているように想像しているだけで、それが真に存在しているわけではないのではないか。だが真の存在とはなんなのか。意識で事物を感じ取っている限り、その存在は意識の中の想像物に過ぎず、真の存在とは言えないのではないか。しかしそういう問答に終わりはなく、やればやるほど堂々巡りを繰り返すばかりで、決して真の存在にも真の現状把握にも辿り着けないだろう。もしかしたらたどり着こうとしているそれら自体が、あり得ない虚構でしかないのかもしれず、そんなものに辿り着こうとする必要はなく、意識はそれを想像するにとどまるべきで、何事もそれ以上を求めるのはやめたほうがいいのだろうか。それ以上を求めようとすれば、それは神秘思想に至るだけか。


4月21日「世の中が変わる兆し」

 人は言葉の力を信じている。そんなことはあり得ないか。それを信じられないのではないか。信じられない者たちが暴力に頼ろうとしているわけか。それも時と場合によりけりなのは確かなところだろう。様々なやり方があり、ある時は言葉を用いて相手を説得しようとし、またある時は暴力を行使せざるを得なくなるわけか。現状ではどうなのか。一応は話し合いで解決を図るルールができていて、そのルールに則って話し合いを各方面でやっている最中なのだろう。そのような場では誰も理性的に立ち回っているのではないか。国連やEUなどがそのような場の代表格なのだろう。できれば他の場もそうなって欲しいのだろうが、中東やアフリカではそうはなっていないようだ。それらの紛争地域でもそのうち平和的に物事を解決させる試みが主流となってくるだろうか。世界がだんだんそういう方向に向かっている兆しを、現段階で感じ取れるだろうか。現状ではなんとも言えないところだが、一時的な揺り戻しがあるにしても、今までの歴史的な経緯からすれば、過去と同じことの繰り返しというのはあり得ないだろうし、前世紀の二度の世界大戦以降は破局的な軍事衝突は起こっていないわけだから、これから何か起こるとすれば、それらとはまた違った事態に直面することとなるのかもしれず、実際にそういう事態が起これば、そこから世の中が変わり、新たな時代が始まるのだろうか。

 たぶんこれから何か思ってもみなかったような世の中の転換が起こるのかもしれない。それはエコロジーとかエコノミーとか目に見えるようなところからではなく、人の意識が世界を捉える時の捉え方が、いつの間にこれまでとは変わってしまうのかもしれない。そうなれば何かこれまでとは違ったふうに世界が見えてくるのではないか。例えばこの世界に目的がないということは、人が生きる目的を見出そうという意志を打ち砕くことにように思える。人が何をやろうと生きようと死のうと、それとは別次元の段階でこの世界は存在する。人の行為がこの世界に何か影響を及ぼしていることは確かかもしれないが、いくら影響を及ぼしていても、それは宇宙の片隅のほんの小さな範囲内でやっていることであり、それによって宇宙がどうなるわけでもなく、人の意志や考えが影響を及ぼすのは、人と関わり合いのある範囲だけで、その他の膨大でほとんど無限とみなしても構わないほどの領域では、何の影響もなくただそこに空間が広がり、時間が過去から未来へと一方方向に進んでいるだけだ。このとりとめのない事態の中で、人は何をやっているのだろうか。というかこれは人にとってはどうでもいいことであり、宇宙にとっても世界にとってもどうでもいいことだ。そして人はこんなどうでもいいような事実を知った上で、なお生きる目的を求めるだろうか。例えば目的がなくなった時、人はこれまでと同じように生きて行けるだろうか。はたして自分たちの活動には目的がないことを受け入れるだろうか。

 今のところはそんなはずがないと思えば済むことだが、何かのきっかけでそれを自覚せざるを得なくなるとすれば、その時から人の生き方も世界に対する捉え方も違ってくるのではないか。ともかく今現在はそんなことはなく、人は日々の生活の中で何かしら目的を見出し、自分のやりたいことを自覚し、それをやり遂げようとするわけで、そのやりたいことにエコロジーやエコノミーが絡んでくるわけで、その両面でうまく折り合いをつけながら、何かもっともらしいことをやろうとするわけだ。そしてそのやっていることで、他の人たちから尊敬され、その業績をたたえられたらなおいいわけで、そうなれば一応は目的を達成したことになるのかもしれない。では人が生きる目的とは、自らの存在と自らがやっていることで他の人たちから認められるようになることだろうか。そうでもいいしそうでなくてもかまわない。それはそうであればなおいいという程度のことかもしれず、自ら望んでそうなろうとするのではなく、結果的にそうなれば自己満足に浸れるということでしかないのかもしれない。そしてその辺から人のやっていることのとりとめのなさや、虚無的な無意味さが次第にあらわになりつつあるのではないか。そういう面を認めるわけにはいかないが、実感としては確か感触を覚えるわけだ。だからと言って自暴自棄になるわけでもなく、諦念に至るわけでもないのだろうが、無意味でとりとめのないことをやっていると自覚することで、かえって苦悩や復讐心などのドロドロした情念から解放され、癒され救われた気持ちになるようだ。だからもしかしたらそのようなところから、人々の意識の変化や時代の転換の可能性が導かれるのかもしれない。


4月20日「獲物としての国民」

 特定の主義主張は無力だ。力を感じるとすればそれは見せかけのものだろう。人が特定の思考に囚われることはない。とらわれているとすればそれも見せかけに過ぎない。それを利用して何か気が利いたことを語りたいだけで、それ自身に何か人を動かす力が宿っているわけではない。語る前に行動していて、その行動を言葉で後付けして正当化するわけだ。言葉で行動を止めることはできず、行動には行動で対抗するしかなく、言葉は行動を正当化するために用いられ、行動に正義をまとわせるための見せかけの武器に他ならない。誰も言葉だけでは動かない。動く理由を言葉で説明するだけだ。そこから勘違いが生じるわけで、言葉を用いて人を操ろうとして、操っているように見せかけようとする人たちが出てくる。言葉を用いて命令すれば人が動くのは、その背景に暴力行為があるからで、実際に暴力を用いて逆らう人たちを殺傷している現状があるから、その命令が力を持っているように感じられるわけで、命令だけでは効力はなく、暴力という実力行使と一体化しているからこそ、人は命令に従って動くわけだ。その命令に従って動いている人たちが、何よりもそれに気づいておらず、言葉に反応して自身が動いているように錯覚している。聴覚や視覚と動作が短絡していて、その間に自らの思考を挟むことができないから、理不尽な命令にも従ってしまうのであり、結果的に機械のように動作している自らを変だとは思えないわけだ。

 言葉によって誰も人に対して自由な動作を保証することはできない。保証しているとすれば、それは国家権力による実力行使が保証している。私的な個人や団体が、特定の個人の自由な活動を妨害したとすれば、妨害された個人が公的な権力の行使を要請するわけで、具体的には警察権力の介入を頼んだり、裁判で有罪判決が下されて妨害した相手が罰せられることを望んだりするわけだ。言葉の連なりでしかない法律の類も、それを実行する国家権力の後ろ盾がないと、言葉通りの効力を発揮し得ないということだが、結局は暴力による脅しに屈して、人々は法律の類を守っていることになるのだろうか。実質的にはそうかもしれないが、誰もが法律を守ることによって平和に暮らせると思っているから、そうしているのではないか。確かに法律さえ守っていれば、国家権力による直接の暴力を免れることができるかもしれず、それが平和な状態と言えるのかもしれない。だがその平和とは国家に対する服従と支配を受け入れた上で、初めて成り立つ平和なのではないか。しかしそれ以外の平和などありようがないのではないか。要するに国家のない平和などあり得ず、国家が人々を支配することでしか、平和な状態にはならないということだろうか。それが国家の存在を正当化する論理なのかもしれないが、その一方で国家が他の国家に対して戦争を仕掛けることもあるわけだから、平和の反対の戦争状態も、国家なしにはあり得ないと言えるだろうか。つまり平和な状態も戦争状態も、国家による介在がもたらしているわけか。では国家がこの地上から消え去ればどうなるのだろうか。

 国家があろうとなかろうと、人々の暮らしがどう変わるものでもないのではないか。相変わらず人々は自らの行動を言葉によって説明し続け、なんとかその行為を正当化しようとする。自らが行動しその行動を説明することに、なんらかの意味や意義を見出そうとするわけだ。ただ地球表面上でうごめいているのではなく、そこには何か目的があってそうしていると思い込もうする。そしてその思い込みが幻想なのではなく、自らが思い描いていることが虚構なのではなく、現実の中でそうしているのであり、必要に迫られてそう行動していると思うわけだ。確かに何か行動すれば、そうすることが必要だからそうしていると思うしかなく、言葉でそう説明したがるだろうし、そうしなければそれらの行動について意味や意義を見いだせない。見出せなければそれでかまわないのなら、別に見いだすこともないのだろうが、それでかまうかかまわないかは、その場やその時の状況にもよるだろうか。たぶんそこに利害関係がなければそれでもかまわないのではないか。利益を求めようとすると、利益を生み出すための行動を要求され、利益を生み出すにはどうすればいいのか言葉で説明しなければならなくなる。そして結果的に利益が出れば、それは意味や意義のある行為であり、利益の出る方法を編み出せば、それを言葉で仲間に説明しなければならない。それは原始の狩猟採集民たちが、獲物を取る行為に関して編み出した技術そのものから発しているのではないか。獲物の取り方とそれを仲間に伝える行為が、行動と言葉の連携を生み出したわけだ。国家に関してならそれは、領土を保全しあわよくば拡大させ、そこに暮らす人民を統治し増殖させる方法が求められているわけだ。それが国家にとっての利益であり、そうすることが意味や意義のある行為なのだろう。


4月19日「恐ろしい現実?」

 何を求めているのかわからないか。平和を求めているのではない。何が平和なのだろうか。平和な状態なら今がそうだ。人々はおそらくもっと具体的な何かを求めている。ありふれた真実をいうなら、誰もが金を求めている。金儲けがしたいらしい。そして真にやりたいのは金儲けそのものではなく、何かをやった結果として金が入ればなおいいわけだ。やりたいことがあり、そのやりたいことをやることが世間的に正当化できるようなことをやりたい。同じ金儲けでも銀行強盗では世間的に正当化できず、まっとうな職業でないとまずいのだろう。だが世間にはコネクションが張り巡らされていて、そのコネクションによって利益が独占されていて、それに所属できない者にはまっとうな手段では大金が入ってこない仕組みだ。そんな中で今やっていることがまっとうなことなのかどうかは、世間的に見てどうかという基準だけなのだろうか。そして実際にやりたいことをやっているだろうか。自分がやっていることに納得している者は少ないだろうか。その多くは納得しがたくやりたくないことをやらされているのかもしれないが、またその多くがあきらめてそんな現状を受け入れているのかもしれない。そしてそこに不満が渦巻いているわけだ。納得しがたい現状だがあきらめざるを得ないから、根性がねじ曲がってくる。そしてそれらの屈折し鬱積した感情が複雑に絡み合いながら、社会の中で様々な意図や思惑とも結びつき、不合理で不可解で奇妙奇天烈な動作を生み出す。

 そんなわけでどんなにやっている行為を正当化しようと、すべては冗談に至るしかないかもしれず、真面目な試みのことごとくが間抜けで馬鹿げた結果を生み出すわけだ。それは誰にとっても受け入れがたいことであり、やっている当人にとっては恥ずかしいことだが、それを見ている周りの人々にとっては愉快であり、ざまあみろという感情を引き起こし、そのような不均衡で不合理な立場や受け止め方の違いが、人と人あるいは組織や団体との間に争いや戦いを生み出している。そんな世の中が平和であるはずがないか。全面的な戦争状態でなければとりあえずは平和だと言えるのだろう。争いや戦いをなくすことはできず、恒常的にそれらが続いているのが、普通の状態だと言えるのではないか。そして常にそれらの争いや戦いを収める力が働くと同時に、新たな争いや戦いが生じる萌芽も生まれ、それらの作用が途絶えることはなさそうに思われる。それが途絶えるということは社会の停滞を招き、社会に階層的な秩序が出現することを意味し、社会的な強者が上層階層を占め、弱者が下層階級に押し込められ、力の強弱が固定化し、強者の弱者に対する支配が完成し、弱者が強者に逆らえなくなるわけだ。そうなってはまずいと無意識に感じ取っているから、人々は体制側に逆らおうとして、体制批判を盛んに繰り返すわけだが、体制側に飼いならされたマスメディアが批判者たちの前に立ち塞がり、それを封じ込めようとしている現状があるわけか。

 果たしてそんな現状認識でかまわないのだろうか。それだけでは片手落ちで、そうではない逆の面もあるわけだ。たぶん人々はその一方で、自分が強者の立場になりたいのであり、強者の側に属して社会的に優遇されたいと思っているのではないか。その表れが受験競争や出世競争などに勝ち抜いて、社会的に成功した人々に対する好意的な感情となる。そんな自分たちの夢を自分たちに成り代わって叶えてくれた彼らを応援したいのであり、そのような人々の代表として、マスメディアがもてはやす有名芸能タレントやスポーツ選手などのファンとなり、日頃から彼らの一挙手一投足に注目していて、彼らの成功をあたかも自分のことのように喜び、もし彼らが選挙などに立候補すれば、迷わず彼らの支持者となって、彼らに投票するのではないか。そして既存の政党もそのような需要を当て込んで、彼らを自らの党の陣営に引き込もうとして、引き込んだら党の広告塔として利用するわけだが、一般の人々がそのような誘惑に逆らうことができなければ、結局メディアがもてはやす社会的な有名人を擁する政治勢力によって、世の中が支配されてしまうのではないか。というか実際に支配されている現状があるわけか。そしてそれでもかまわないと思っている人が大勢いるわけで、中にはそれが当然だと思っている人までいるのではないか。様々な社会的な競争に勝ち抜いた人々は有能であり、有能な人々が社会の支配階級となり、その他大勢の競争に敗れた無能な人々を指導する立場となるべきだと思っているわけか。たぶんあからさまにはっきりとした自覚はないだろうが、無意識のうちにそれらの人々に従っている現状があるのではないか。


4月18日「退屈で死にそうな現状」

 それが何事であれ、うまくいく確実な方法はない。ただ結果的にうまくいくことはある。世の中はすべてそういうことなのかもしれない。別にあきらめているわけではないが、うまくいくとは思っていない。でもうまくいくことを願っているのではないか。うまくいけば儲け物だろうか。うまくいったためしがあるのか。それは結果に対する受け止め方でしかない。結局うまくいこうがいくまいが、そんなことをやっている現状があるわけだ。やっているのはそれだけなのかもしれない。どうもその程度のことから抜け出られないようだ。何かもっとマシなことを考えていたような気がするのだが、思い出そうとするとそんなことしか出てこない。大したことはないわけで、言葉をいくら大げさに並べ立てても、実感との落差が大きすぎるのかもしれない。世の中を動かしているつもりの人たちにとっては、現状はうまくいっていると思われ、少々の不具合があるとしても、とりあえずそれでなんとかおさまっていると感じられるのではないか。そういう状況の中で、いくら危機感を煽るような言葉を並べて批判を展開しても、世の中がうまく回っていると思われる人たちからは相手にされず、無視の対象にしかならないのではないか。そのような状況を覆すにはどうしたらいいのだろうか。

 たぶん方法はない。どんな惨状を呈しているとも思えないが、どうやっても現状は覆せないのではないか。そしてそれでかまわないのかもしれない。現状ではそうなるしかないのではないか。何を批判しても無効であり、批判に何の力も影響力もないことを思い知っていればいいのだろう。そういうレベルではそれだけのことしか語れない。無理に大げさに批判している言葉が空回りするだけで、具体的な批判の対象すら定まらないまま、何を述べているのかわからなくなって、そこでおしまいとなってしまいそうな雲行きか。それでもかまわないのだろうか。たぶんそうだ。語れないのなら語らなければいいだけで、語れないのに無理に語る必要はないわけだ。それをどうにかしようとするのはかなり難しいのではないか。やはりうまくやる方法などないだろう。うまくいかないのならうまくいかないように見せればいいわけだ。実際にそうなっているのではないか。ならばそれをこれから覆すことなど不可能だろうか。駄目なら無理に覆そうとしない方がいいだろう。駄目な時は駄目なままでもいいのではないか。

 だが現状がそれほど駄目だとは思えない。これでもかまわないのなら駄目なわけがないか。しかし本心では何がどうなって欲しいのだろう。それを語るわけにはいかないのか。本心そのものが作り事の虚構なのだろうか。何が本心というわけではなく、語っている中から本心が自ずから浮き出てくるのではないか。それがフィクションそのものだろうか。どう語ってもそれは本心ではないのかもしれず、心そのものを架空の概念とみなせば、それについて語ることで、かろうじて人の意識の内容が言説の中に定着され、それが本当らしく思われてくるのではないか。そう語ることでなんとかその場をごまかして、危うい心理的な虚妄から離脱できたわけか。だがそれで誰を説得できるとも思えない。冗談に逃げることもできず、ますます窮地に陥っているのかもしれないが、ここはそう語るしかなさそうだ。何に突き動かされてそう語っているわけでもなく、できればそれ以外のことを語りたいのだろうが、なぜか成り行き的には語っている通りの状況に追い込まれているわけで、そこから抜け出られないままに記述を継続してしまったらしく、もはや後戻りができないところまで来ていると思われ、このまま続けて終わりまで持っていく以外になさそうだ。

 現状はそれほどまでに強固で動かし難いのか。何事も成り行きがあり、現状もなんらかの成り行きの途中なのだろうか。そんな現状に意識が絡め取られているわけか。そしてそこから抜け出ようとしては駄目なのだろうか。その気になっているのをかろうじて押しとどめている何かがあり、その場に留まり続けていた方がいいような気になってくるのだが、それは怠惰のなせる業なのだろうか。どうも現状ではどう判断すればいいのかわからなくなっているようで、それが現状そのものの力であり、そこに引き止めるようになんらかの力が働いているのだろうか。しかし現状は退屈で死にそうだ。たぶん退屈では死なないだろう。そう思うのもフィクションなのではないか。そこで何かを幻想しているのだ。死にそうで死なない現実の中で、死というフィクションを空想している。思い描いているのは現実の死ではなく、フィクションとしての死にそうで死なない死なのだろう。だからそこで終わりとなるわけではなく、真の終わりはまだだいぶ先なのかもしれず、今はその途上で行き詰っているだけなのかもしれない。実際には死からは程遠い状況で、そこに留まろうとしている怠惰な意識が現実の死を遠ざけているわけだ。だから現状から抜け出るわけにはいかず、現状の中でまだやらなければならないことがあるのではないか。


4月17日「金儲けのノウハウ」

 誰かがネットで金儲けのノウハウが書かれた本を売りたいらしい。高収入を得るには他の人たちとは違うことをしなければならないそうだ。そんな宣伝文句を聞いているうちに、なんだかくだらない気分になってくる。宣伝文句に騙されてそのハウツー本を買う人も中にはいるのだろうか。騙されるわけではなく、本当にその本を読んで書かれている通りのことをやれば、高収入を得られるのではないか。そんな成功例も宣伝文句に含まれているわけだ。どうも何かがずれているようだ。そこから何を空想しても虚しいだけだろうか。しかし何を空想しているのか。この世には争いごとしかない。人と人がいれば争いが起こり、不快なことをやってくる。人を不快にさせることが正しいことなのだろうか。その内容にもよるのではないか。世の中には偽善がはびこっているわけだ。誰もが自分に正義があるように見せかけようとして、行為の正当性を主張している。それを偽善とみなすのは間違っているだろうか。それとも偽善ではない別の何かを探しているのか。この世界の中に何があるというのか。人間社会には人間がいるだけか。そして商品がありそれを売って金を得なければならないわけか。それだけなのだろうか。では他に何を求めているのか。金を得るための方法が書かれたハウツー本が欲しいのか。そうではなく無駄な迂回なしに直接金が欲しいのではないか。でも強盗をやって奪うのではまずい。結局他人と違うことをやらないと成功できないのではなく、他人と違うことをやっても、その他人から相手にされなければ成功できないということではないのか。そういうところでハウツー本を宣伝している人は嘘をついているのだろうか。半分は本当であり、残りの半分は嘘なのかもしれないが、何をどうやっても結果論であり、結果的に成功した人にとっては、自分のやり方が正しかったから成功したと主張したいわけだが、その通りのやり方を他人に勧めても、それでその他人が成功するとは限らない。それとは逆に大勢の人たちが同じようなことをやれば、その中の数人は成功するのかもしれず、プロスポーツの世界ではそれは普通で、数多くの人たちが同じことをやって、その競争の中で勝ち上がってきた者だけが成功して、大金を獲得できるわけだ。

 しかし意識は金を得る以外に何を考えているのだろうか。それとは関係のない世界を空想している。他人に物や情報を売る行為が不快なのだ。他人に頭を下げたくないわけだ。それは金を得るには避けては通れない試練だろうか。そういった不快な行為を避け、なおかつ金を得るにはどうしたらいいだろうか。そこで思いついたのが、金儲けのノウハウを書いた本をネットで売るという発想だろうか。この本の通りにやれば苦労せずに不快な思いもせずに、大金を稼ぐことができるというわけか。しかも今なら定価が五千円のところを二千九百八十円で買うことができ、読んで不満なら三十日以内に本を送り返せば、代金を全額返却するということらしい。ここまで言われてそんな儲け話を信用することができるだろうか。金に困って切羽詰まって平常心ではない人なら、中には信じて本を購入する人も出てくるか。普通のネットのサイトにそんな広告宣伝があるわけだから、たぶん本の購入者も結構いるのではないか。広告宣伝費を払ってなお儲かっているのかもしれない。要するに金儲けのノウハウを売って金儲けをしているわけか。それはまるで冗談のようなカラクリだろうか。普通の企業コンサルタントも似たような商売なのだから、あり得ないわけではないだろう。でも企業より企業コンサルタントの方が多いなんてあり得ず、コンサルタント同士の間にも競争があり、一人で何十件もの顧客を抱えていないと商売にはならないはずで、本を読んで多くの人たちが同じようなことをやれば、結局競争となってしまうから、当然そのほとんどは儲からなくなってしまうわけで、要するにその本が広告宣伝費を払っても儲かるほど売れていれば、当然数多くの人がその本を買って読んでいるわけで、中にはその本の通りの金儲けを実践している人も数多くいるとすれば、やはりそこには競争が生じていると考えるのが自然だろうし、競争があればその中で勝ち抜いて大金にありつけるのは、たぶんほんの一握りの人に過ぎず、そうなると本の通りにやっても必ずしも儲かるわけではないとなってしまうわけで、結果的に本の内容が嘘であることが証明されてしまうのではないか。そんなわけでこの本の通りにやれば儲かるというのは、本が売れれば嘘になるという矛盾を抱えているのかもしれない。


4月16日「見世物興行」

 何かこの先想像を絶することが起こってほしいのだろうか。地球上に巨大な隕石でも落下して大惨事でも起こることを期待しているわけか。それは宝くじに当たるより確率の低いことだろうか。それとも直接の被害は免れたものの、数年前に地震と津波と原発事故を経験して、そう思う癖でもついてしまったのだろうか。というかそんなことを期待してしまうこと自体が気が滅入っている証拠で、本当にそんなことぐらいしか希望がなくなってしまったとするなら、すでに何もかもが終わっているのではないか。終わっているということは、人間としてもはや廃人状態ということか。冗談の範囲内ではそうかもしれないが、いくら冗談だと強がってみても、実際はそうでもないのではないか。現実に何が示されているわけでもなく、それが不快なのは誰もがわかっていることだろうか。できればそれに気づかないままにしておきたいのだ。話の細部を語らなければならないのに、いい加減なままにしておきたい。それらの関係をはっきりさせてしまうと逃げ道がなくなってしまい、面と向き合うことになり、ごまかしがきかなくなるわけで、そうなるとまずいわけだ。だから人はいつまでも幻想を抱いていたいわけで、なるべく真実に直面しないようにしている。自分が思っていることもやっていることもなんでもないことでしかないのに、そうであってはまずいし困るのではないか。そんなことを自覚してしまったら何もできなくなってしまう。ではそうならないようにするにはどうしたらいいだろうか。自分のやっていることや思っていることに関して、それらが何か意味や意義があるように見せかけなければならないわけか。結局はそれを信じることしかできないのであり、自分が思っていることややっていることが、必ず何かをもたらすと信じていていたいわけだ。自分に報い世の中に報いるようなことをやっているつもりにならないと、やはり何もできなくなってしまうだろうか。だからそれが幻想そのものなのだろうか。

 たぶんそうであり、そんなことは百も承知のはずだが、納得していないのではないか。それでも人は人に期待している。何かをやってくれることを期待しているのではないか。政治家やテレビ番組の司会者などからプロスポーツの選手まで、彼らを見ている人たちは、見ている対象となる人物や団体や番組に期待しているのだろうし、自分たちの願望をそれらの人たちに託しているわけだ。自分たちの代わりに何かやってほしいのであり、自分たちができないことをやってほしいのではないか。それが身勝手な要求なのかもしれないが、彼らには夢を託すだけの何かがあるのだろうか。彼らにはそれをやる責任があって、彼らはその責任を引き受けているわけか。なぜ彼らは引き受けなければならないのだろうか。みんなの希望を叶えるために、人々を代表してそこで何かをやっている自覚でもあるのだろうか。彼らが本当にそう思っているのなら、是非それを実行してもらいたいだろうか。彼らが一般人には到底手にできないような大金を稼ぎ出すのと引き換えにして、彼らに期待している人たちの夢や願望を叶えてやっているわけか。しかしそれは本当に人々の夢や願望なのだろうか。国会議員は彼に投票してくれた人たちの夢や願望を叶える義務があり、テレビ番組の司会者はその視聴者がやってほしいことを、番組の中でやらなければならず、プロスポーツの選手は試合に勝つことで、応援している人々の声援に応えなければならないわけか。たぶん彼らにはできることとできないことがあるのではないか。できることといえばそれは、応援している人たちに感謝することぐらいだろうか。そしてそれとは別に彼らには彼らなりにやるべきことがあり、そのやるべきをやれば大金がもらえて、それが彼らが稼いだ報酬なのであり、彼らが受け取るべき金で、彼を応援してくれる人々が受け取るべき金などではなく、応援してくれる人たちは逆に、なんらかの形で彼らに金を払っている人たちなのではないか。国会議員には税金として金を払い、テレビ番組の司会者には番組を提供しているスポンサーの商品を買うことで、そこから金が回っていくのだろうし、NHKなら受信料から金が回っていくわけで、プロスポーツの選手なら直接見に行くなら観戦料から出ているし、テレビ中継なら放映権料から出ているわけだ。ではそれが何を意味するのだろうか。それらを見ている人々と彼らの間にはどんな関係があるわけか。なんの関係もないわけではないが、何か直接のやり取りがあるわけでもなく、ただ何かをやっている人たちとそれを見ている人たちという関係でしかないわけだ。しかし他の二つならまだしも、国会議員はそれらとは違うだろうか。彼らには彼ら特有のやるべきことがあり、それは彼らに投票した人たちに成り代わってやらなければならないことか。法律的にどうかは知らないが、なんとなくそうではないような気がするわけで、彼らにそんな責任はないような気がしてくる。


4月15日「いったいそれで誰が困るのか」

 それはいつものとりとめのない疑念なのだろうか。とどのつまり人類は暴力以外では何も解決できないのではないか。過去に話し合いで何か問題が解決した事例があるだろうか。あるにはあるだろうが、果たしてそれが解決と言えるのかどうか。どのような結果が解決というのかで見解の分かれるところだろうか。では暴力で問題が解決できたのか。それは解決ではなく終わりのない暴力の連鎖や応酬を招いているだけか。しかし根本的な問題の解決とは、どのような結果がもたらされることを言うのだろうか。争いのない平和な状況の到来がそうだとしたら、それは人類がこの世から消滅すれば済むことでしかない。だが人類が存在する限り解決はあり得ないのだとしたら、問題は人類の存在そのものなのだから、別にそれが解決する必要はないのではないか。それどころか問題が解決して、人類が消滅してしまっては困るのではないか。いったい誰が困るのだろうか。人類がいなくなれば誰もいなくなるのだから誰も困らないか。ならば結局どうなればいいのだろうか。もしかしたらどうでもいいことかもしれず、人類など滅亡してもしなくても構わず、そういうレベルでは問題があろうとなかろうとどちらでもかまわず、それが問題だとしても、そんな問題など解決してもしなくてもどちらでもかまわないのではないか。要するにそんなことに疑念を抱く必要などないということだろうか。そんな疑念を抱いてもとりとめがないか。

 結局は些細な差異や利害関係の中で考えるしかない。政治や経済の問題はそういうところにしかないのではないか。例えば直接の金銭のやりとりや、法案に対する賛成や反対の数にこだわらなければならない。別にそれが現実の問題であり、虚構や幻想ではないはずで、とりとめのない話でもない。具体的に物や情報を売ったり買ったりして利益を出さなければならず、議会で多数派工作をして法案を通さなければならない。学生なら少しでも評判の良い企業に就職したいし、できれば給料もそれなりの額をもらえたらなおいいだろうし、見栄を張りたいし贅沢がしたいのではないか。また性格が良くて見栄えのする相手と結婚したいだろうし、悩みの少ない幸せな人生が送りたいのではないか。そのためには今具体的にどうするかが問題となってくるわけだ。そんな下世話な夢を叶えるために、人は努力したり苦労しなければならず、実際に思い悩みながらも、良かれと思うことを何かやっているはずか。

 ところでそんな現状の何が問題なのだろうか。現状を批判するのは勝手だし簡単だが、その批判によって現状がすぐに変わるとも限らない。批判ばかりしている現状があるすれば、なかなか現状が変わらないから批判ばかりせざるを得ないのではないか。では批判しても変わるわけではないのが問題なのだろうか。逆に批判は現状を維持するためにされる場合もあるかもしれない。現状を批判しているのだから、批判者は現状を変えたいのだろうが、何かの具合で現状を変えようとすることと現状を批判することが、無関係になってしまうのだろうか。無関係というわけではなく、ただ必ずしも両者が結びついて有効に作用するとは限らないのではないか。現状が変わろうとしていることに危機感を抱いて、それを阻止するために批判する場合もありそうだ。変えようと画策する者たちを批判する。中にはそんな批判者もいるのではないか。というか保守派の批判者というのは、現状を変えようとする者たちを批判する防波堤のような役割を担っているわけだ。現状を変えようとして現状を批判し、その批判する者をまた他の誰かが批判する。彼らは何を批判しているのだろうか。具体的には何が問題なのだろう。批判者はそれについて語らなければならない。自らが批判しようとしている事柄について語り、その問題点を指摘するわけだ。ではその具体的な事柄とはなんなのか。そしてその問題点とは何か。現状で何か問題があるわけだ。気に入らない点があり、それについて言及しようとしている。そしていつまでたってもその段階に留まっているわけにはいかず、そこから一歩踏み出して、それについて指摘しなければならないのだろう。ではいつそれを実行するのだろう。これから誰かが何かについて言及するわけか。たぶんこれは冗談ではない。確かにそれをやれば冗談では済まなくってしまうのかもしれないが、実際には未だに何についても語っていないのではないか。それどころかこのまま何も語らずに済ませようとしているのだろうか。これから誰かがまともな言説を構成しようとしているのなら、文章の中でそれについて語られなければならないはずだが、一向にそれが出てこないのはどうしたわけだろう。

 


4月14日「この世界の真理」

 人間とは何か。たぶん冗談の類いだろう。それは語る対象とはなり得ないのではないか。それでも語ろうとすれば、ただ闇雲に語っているうちに、語っていること自体が無駄に思われてくる。実際に無駄なのかもしれず、人間について何をどう語っても意味のないことなのかもしれない。しかし何について語ろうとしているのか。何についても語ろうとしてないのではないか。ただ苦し紛れに言葉を記しているだけなのかもしれない。どう考えても語るべき対象にたどり着けないようで、記している言葉の連なりを読んでも、そこで何が語られているとも思えなくなって、何かの壁に突き当たっているように思われてくる。なぜそうなってしまうのだろうか。何かの偶然が作用してそうなってしまうわけか。できればその何かを知りたい。実際にその何かが作用して、相変わらずそれについて言葉を記している境遇にあるわけだ。そしてそれを偶然と思えばそういうことになりそうだが、他にどう説明できるというのか。現状ではうまく説明できないのだから、それを超えて無理に説明できるとも思えないのだろう。そうなっていることに変わりはなく、それ以外にどうなっているわけでもなさそうだ。もしかしたら人間について語る必要がないのではないか。

 市民社会の中では誰もが普通のありふれた人間だ。たぶんそれ以外ではないだろう。それ以外の何になろうとしてなれるわけもなく、現状ではそれ以外の人間など存在し得ないのではないか。そもそもそれ以外の人間とはどんな存在なのだろうか。そんないい加減で安易な思いつきから何を導き出せるだろう。例えばフィクションの中に登場する人間はそれ以外の人間なのか。誰かが想像した物語によって、その願望から生じた特別な力を付与された架空の存在が、それ以外の人となり得るだろうか。だが現実と虚構の存在を比較する必然性がどこにあるのだろうか。それ以前に比較して何を明らかにしたいのかわからない。何の当てもなく比較するという偶然の思いつきから、取り立てて何を明らかにしたいのでもなく、そういう安易な発想に頼っていること自体が、すべての人間がありふれた存在であることを証明しているのだろうか。自分によってそれを証明したいわけでもない。自分がそうだとしても他人はまた違うことを思いつくかもしれない。だがそうであったとしても、それを自分が語るとしたらそれはどこまでも自分の発想であり、他人のそれではあり得ない。だからそんなことは必要のないのかもしれず、語っても意味のないことかもしれない。そして別にありふれているのなら、人間などについて語る必要はないのではないか。では他の何について語るべきなのか。それが何か特別な存在である時、それについて語る価値が生じるわけか。だが人間が特別な存在であると考えること自体が、誰もがそう思うようなありふれた思考から生じているのではないか。現状ではそうなってしまうから、ただ闇雲に人間について語ろうとしても、結局苦し紛れにありふれたことしか語れないのではないか。実際に人間について何が言えるのだろうか。ありふれた存在であること以外は何も言えないか。人は人間の何に興味があるのか。知性を有した存在であることに興味があるのだろうか。知性とはなんだろう。それがありふれたことなのか。それこそが人間だけに備わっている特別な能力である、と考えること自体がありふれていることは確かで、いったいその知性によって人間が何を知り得たと言えるのだろうか。数多くのことを知り得たはずだが、それは人間にとってしか興味のないことなのではないか。だがそれ以外のことを語ろうとして語れるのだろうか。誰が語るのだろうか。それは人間である自分自身でしかない。

 すでにここまで語っている段階で、屁理屈をこねまわしたような自己言及の繰り返しに陥っていないか。そう語りながらも具体的には何を導き出したいのだろうか。それは人間に関する特定の出来事や事件の類いだろうか。他に興味を惹くようなことがあるだろうか。メディア的に人の興味を惹くのはその類いであり、それ以外には何もないのではないか。そしてそれがニュースそのものとなり、そんな情報に人々は日常の中で取り囲まれ、それに浸りながら生きているのではないか。しかしそれ以外には何もないのだろうか。それだけでは何かまずいのか。別にそれで何の問題もなさそうに思われるが、人は現実の世界の中でそれを体験している。人や人以外が関係するなんらかの現象や出来事を体験しているはずだが、その体験の中で自らが生きている意味でも見出したいのだろうか。見いだせたら満足できるだろうか。満足したからといってどうだと言うのだろう。でも実際にそれで満足している人もいるのではないか。ならばそれ以外で満足できるだろうか。それ以外とはなんなのか。幻想を抱いているということだ。何かを想像してそれが実現してほしいと願っている。ではそれを想像し幻想しているだけで満足するわけか。それとも願っていることが実現しないと満足できないだろうか。その方がより満足できるだろうから、人はその夢を叶えるために努力するわけだ。そしてその努力が実ったり実らなかったりしているうちに、人をありふれた人間にしてしまうのだろうか。なぜそれがいけないのだろうか。では別にそうであっても構わないはずで、そうなるしかないのではないか。それ以外に人間に何ができるだろうか。あきらめることができるはずだ。だがあきらめた方がいいわけではなく、あきらめずに努力した方がいいに決まっているが、それが人間のあるべき姿なのだろうか。もしかしたらあきらめなくてもあきらめても、どちらでもかまわないのではないか。そしてそのどちらでもかまわないということが、人にとっては受け入れ難い世界の真理なのかもしれない。


4月13日「廃人への成長」

 次第に疑念が湧いてくるとしたらそれはなんだろう。人は何を裏切っているのだろうか。誰もが期待を裏切っているのではないか。自らの期待を裏切っているわけか。では何を期待していたのか。それは様々なことで、現状では期待を裏切るようなことをいろいろやっているわけだ。誰も彼もそうであるとは言えないのかもしれない。不安に感じていたらそう思っていればいいのだろう。そのうち何かが変わる。そう期待しながら誰もが死んでいくわけか。誰もがそういうわけでもないだろう。うまくいっていない事例は数知れずだが、そんなことは忘れてしまったらしい。今では何を期待していたのかさえ思い出せない。いつもそうやって嘘をついているらしい。たぶん覚えているはずだ。あの時何を期待したのかはっきりと覚えている。それも嘘かもしれないが、何が本当なのか自信がない。フィクションの中でそう語っているのかもしれない。たぶん無内容を埋め合わせるごまかしとなりそうだ。そこで耐えられなくなって言葉を記している。やはり冗談にほどがあるわけではないらしい。フィクションの底は割れていて、記された言葉は虚無の空洞へとこぼれ落ちてゆき、何を構成することもなく、ただ記されるたびに無意味な連なりとなる。そこで意味を担えないなら、いつまでたっても無意味なのだろう。どんな文章でも考えている間に違った方向へと話が進んでしまい、どう記しても別の何かになってしまうらしい。ならばもう考えるのはやめたほうがいいのだろうか。フィクションの中ではそうなるらしいが、実際はどうなのか。意味不明のままでもかまわないのだろうか。実際に何を考えているわけでもなく、ただ適当にいい加減に言葉を記して行けば文章が出来上がる。それを記している当人はどう捉えればいいのだろうか。たぶん当初はそんなことを記すつもりではなかったはずだが、勝手に言葉が連なって、気がつけばわけがわからないことを記している状況なのだろうか。やはりそれではダメで、そこから意味を担うように修正を加える必要があるだろうか。

 何を語っているわけでもないが、しかし何が問題となっているのだろうか。人の心が紋切り型の言葉の並びに支配されているわけではないが、そこで問われていることが的外れな議論でも呼び込んでいるわけか。何が争点となっているとも思えず、争われるような論点も見出せない。誰もが同じようなことをやろうとしているのではないか。もちろんの同じようなことの中でも微妙に差異があり、そのわずかな差異が議論の争点となっているわけだが、果たしてその差異をめぐって賛成反対が成り立つだろうか。成り立たなければどうなるのか。論争しても意味がないということにならないか。それでも無理に論争したいなら、中身のない不毛な論争となるしかないだろう。そしてそれに気づかなければ延々とそれが繰り返させるわけだ。そして論争しているように見せかけないと人の気をひくことはできず、だから気をひくためには無理でも論争に持ち込んで、何やら真剣に激論を交わしているように装いたい。意識していなくても状況がそうさせてしまうのではないか。要するに論争している人がそう思っているからそうなるのではなく、論争の舞台が人にそういう気を起こさせるわけだ。そういう見せかけの論争を見せられている人は、何よりもそれに気づかなければならない。そうしないといつまでたってもくだらないレベルでどうでもいいような相対的な差異に惑わされ、本質とはかけ離れたところで不毛な議論に付き合わされる羽目となる。しかし状況がそうさせているのだとすると、それは逃れようもないことだ。誰もがどうでもいいようなことに惑わされ、それ以外には何もないように思われてしまい、そのこだわっているどうでもいいようなことがなくなってしまうと、本当に何をどうしたらいいのかわからなくなってしまうわけで、信じられるものやことが何もないことに気づくわけだ。しかもそこで終わりではなく、そのどうでもいいようなことに関わっていないと生きられないわけで、生きていること自体がどうでもいいように感じられてしまったら、もはや心が虚無の餌食となって、そういう人は廃人同然だ。そしてそれでも生きてゆけるわけだ。


4月12日「誠実な人の価値」

 問われているのは誠実さだ。誰もが誠実であろうとするが、誰もがそれを裏切ってしまう。事の成り行きが誠実であろうとする意志を打ち砕いて、自分を裏切り他人の信頼を裏切るようにそそのかす。その誘惑に負けて自分も他人も裏切った末に、結局何も得られずに自滅してしまう成り行きもあるだろうが、たぶんそれが誠実な事の成り行きなのではないか。現実には裏切ればそれ相応の利益がもたらされ、裏切ったことで逆に他の人からの信頼を得られ、何もかもがうまくいったように思われるとすれば、人は誠実である必要がなくなってしまう。だがそれでも誠実であろうとすることは確かだ。人を裏切って利益が得られてしまうと、後ろめたく感じられるからだ。やましいことをやって利益を得ると不安になってくる。いつか因果応報で何か悪い報いを受けるのではないかと不安になってくる。場合によっては生涯そんな葛藤と戦う羽目になるだろうか。それも精神的に克服できるだろうし、サイコパスな人にはそんな葛藤すら生じないのだろう。でもサイコパスな人にもその人なりの誠実さがあるのではないか。ただその誠実さが一般の人の誠実さとは正反対なだけで、一定の行動原理を守っているのかもしれない。一般常識からかけ離れた自らが決めたルールに忠実であることが、その人にとっての誠実さとなる場合もありそうだ。誠実さも人によって千差万別なのだろうか。何かその人特有の倫理観が身についてしまった人にとっては、その倫理に忠実であることが誠実さの証しとなるのかもしれない。そしての倫理観が一般の社会常識と一致していれば、その人が倫理的である限り、社会の中で誠実な人として認められるのではないか。社会の中で一般に問われている誠実さとはそういうことだろうか。それで納得が行くならそういうことだとみなしておけばいいのだろう。

 人の誠実さにはどのような価値があるのだろうか。誠実な人は行動や考え方も一定で、付き合う上で安心して連携できたり協力関係を築ける。要するに利用価値が高いということか。できるだけそういう人を大勢味方につけていたり、配下に抱えている人は、社会的に有利な立場にあると言えるだろうか。その人が社会の中で成功するとすれば、周りにそういう人たちが大勢いて、サポートしてくれたから成功するわけだ。そういう成功の物語ならメディア上にいくらでもありそうだが、現実の世界ではどうなのだろう。たぶんそれは結果論であって、何らかの分野で名を挙げ功をなした人に関して、メディアがその人となりを伝えるとすれば、その人に関わり励まし支え助けてくれた周りの多くの人たちも伝えることとなり、やはりそういう人たちを誠実な人柄として紹介すれば、話に説得力が出て、その話題を受け取る多くの人たちも肯定的な関心を持つのではないか。そしてそのような話題は社会全体に肯定的な影響を与えるだろうか。iPS細胞の研究でノーベル賞をもらった人の話題などはその典型とみられているのではないか。そしてその逆の話題の典型がSTAP細胞の研究にまつわる話題となるわけか。若い女性研究者が研究結果を捏造して周りの人々の信頼を裏切り、研究の指導をした責任者が自殺するに至って、ようやく幕引きとなったようだが、そこから得られる教訓とはなんだろう。それとも安易にありふれた教訓など導き出すべきではないだろうか。その世間の顰蹙を買った若い女性研究者が、別にサイコパスだったわけでもなさそうだが、ともかく事の成り行きには成功例と失敗例の二種類があるらしい。結果論としてはそんな単純化も可能だが、同じような研究の両者の明暗を分けた原因はなんだったのだろうか。その手の研究に対する誠実さの有無だけで、結果の違いは説明できないだろう。でも人と状況の違いと偶然の巡り合わせだと言ってしまえばそこで終わってしまう。別にそれを誠実さと関連付けて説明する必要もないか。自分が取り組んでいることに対して誠実であろうとすることは、それが結果的にうまくいってもいかなくても、ともかくそれに臨む最低限の心構えとして、誠実であらねばならないということだろうか。そしてやるなら最善を尽くさなければならず、結果がどうなるにしろ、絶えずそうあるべきなのかもしれない。


4月11日「これとは何か」

 確かに何か反応があるようだ。微かだが脈があるのだろうか。そう思うのは幻想なのかもしれない。ようするにそう思いたいわけだ。実際には勘違いの類いかもしれないが、それでも構わない。そう思い込んでいられるうちは、まだ前向きな気持ちでいられるわけか。しかし何を前向きにやろうとしているのだろうか。前向きにやろうとすると、実際にやっていることはその反対となってしまうわけか。皮肉な結果だが、やむを得ないことかもしれず、もうすでに力の均衡が崩れていて、手の施しようのないこととなっているのかもしれない。しかしそれでも権力の関係があり、力を及ぼそうとしている側が、その力を信じきれていないから、それを全力で及ぼす気になれないのだろうか。迷いがあるのかもしれない。得られた情報から結論を得るのは間違っているだろうか。その疑念が躊躇をもたらしているのだろうか。今のところはなんとも言えないが、仮に間違っているとしたら、それではまずいのだろうか。できれば正しい結論へと至りたいのではないか。しかしどうすればそこへ至れるのかわからず、その方法さえ皆目見当がつかない。このままではたぶん至れないだろう。だからとりあえず間違ったことを述べなければならないのだろうか。それも全力で語らなければならないわけか。しかも自らの過ちを認めながら語らなければならない。ならば過ちとはなんなのか。今ここで語っている内容が過ちなのだろうか。確かに過ぎたるは及ばざるが如しというが、何が過ぎているのだろうか。別の方面で出過ぎた真似をしていることは確からしいが、ここでは何が出過ぎているのだろうか。たぶん何も語らないに越したことはないのだろう。だが語らざるを得ず、語ることに迷いながらも、明らかに間違ったことを語っているようだが、たぶんそれはここに記されている内容ではない。ここではなんとかこの状況で踏みとどまっていると言ったほうがいいだろうか。ではこれ以上はそれに触れてはならないのか。これ以上のこれとはなんなのか。現に記されている言葉の並びのどこにこれがあるのだろう。それともここにはこれがないと言えるだろうか。いったいこれとはなんなのだろうか。

 人の思考の絶え間ない変遷を全て語れるとは思わないが、これがなんなのかはっきりと示さなければならないだろうか。はっきりとどころか全く示されていないのではないか。言葉の並びをいくら読み返してみても、まだ何も述べていないことに気づく。危うくそれを述べてしまうところだったかもしれないが、かろうじて踏みとどまったのだろうか。なぜそれを述べてしまってはまずいのか。まずいわけではなく、全くの取り越し苦労で、逆にそれを述べることこそが正しい結論そのものなのではないか。ではそれは具体的になんなのか。なんでもないことなのではないか。そして語らなくても構わないことか。矛盾しているが、あえて語らなくても構わないことを、やはり語らずにおくことが賢明だと悟ったのだろうか。それはやはり語りようのないことなのか。実際に語り得ていないのだから、話にならないだろうか。ならなくても構わないのかもしれず、なってしまったら逆に面倒な事態に巻き込まれてしまうのだろうか。面倒な事態とはなんなのか。それも言えない領域だろうか。そうなるとやはり話にならなくなってしまい、何も語らずに記述を終えてしまうようだ。要するにそこから外れようとしているのか。それはいつも外れようとしているそれだろうか。いったい何から外れようとしているのか。また問いの繰り返しとなってしまいそうだが、それは意味のある問いとなるのだろうか。意味がなければまずいのだろうか。できれば意味のある問いを発して、意味のある答えを導き出したいところだが、現状ではそのどちらにも失敗しているとしたら、なぜそうなってしまうのだろうか。できれば戯れ言程度で済ませたいところだったのではないか。それも叶わぬ事態に陥ってしまったわけではないと思う。そこで何かを感知したことは確からしく、感じ取って迅速に対応したのかもしれないが、割に合わないことだったのだろうか。でもまだその先に記述を求めているのではないか。その先があると思っている。今はそんな気配を感じ取っているわけだ。そちらへは行かないように、うまく言葉を並べて防波堤を築いたつもりなのだろうか。結果的には失敗しているようにも思えるのだが、本当にそれでかまわないのか。

 人と事物の間に幻想が介在している。その幻想があるときは国家になったり、またある時は経済となったり、その国家と経済をまとめて幻想しているのが政治家であったりしているわけか。でもそれで何を語ったことになるのか。それについてこれから語ろうとしているのだろうか。これとは何かのこれはそれらの幻想ではないはずだ。ではこれとはなんなのだろう。幻想を介さない事物そのものだろうか。その事物を言葉でどうやれば捉えられるのだろう。これとは事であり物だ。事や物の束が言葉で捉えられた事物だ。事物が出来事を形成し、その変化が時間として意識に感知される。果たして政治家の幻想によって、物や情報の動きである経済を制御できるのだろうか。たぶん制御しているのだ。話の上では制御していることになっている。実際に制御しているのではないか。何かしら策を講じていることは確かで、その講じている策が有効に機能しているように装うのが、政治家の技量となり、有効に機能しているようには感じられないと、あちこちから批判が噴出する。その装われたり感じられたりしているのが幻想なのだが、では幻想を取り除いた後に残る現実とはなんなのか。それはそこから批判が生じている当の事や物なのだろう。それは人や物や情報が行き交っているこの世界そのものなのだ。政治家がそれらの行き交いを制御していると信じてもいいが、それはあくまでも信じるか信じないかのことで、幻想のレベルでそう思われるだけのことだ。しかしそうだとすると結局何が確かなのか。確かなことは何もないわけではないが、そこから何か法則のような人や物や情報の関係を導き出して、それを適切に配置することで最適の関係でも得られるのだろうか。そのよう試みを模索してみたいのだろうし、実際にそれを探求している人もいるのかもしれない。うまくいった事例があるのだろうか。人にはそのような試みしかできないのだろうか。それさえも不可能なのかもしれないが、なるべく幻想に浸かっている部分を取り除いて事物の真の姿を見極め、その性質や特性を知る努力が欠かせないわけか。しかし果たして知ることができるのだろうか。たぶん多くの人が知ろうとしていることは確からしい。


4月10日「役割分担を超えて」

 まだ何ももたらされないのだろうか。何がもたらされることを期待しているわけではないが、そこに疑念を抱かせる何かがあるらしい。人々はそこから遠ざかろうとしている。すでに何かがもたらされているのだろうか。何が正しく何が間違っているかではなく、何を信じているかによって、人の言動や行動が決まってしまう。そう思われてしまうのはなぜだろう。それはその人が信じていることがその人にとっては正しいからか。それもありそうだ。では他にどんな理由があるのだろうか。正しいと思われることを信じているのではないか。正しいからこそ信じていると言えるだろうか。それが正しいことのすべてか。間違っているからこそ信じているというのは、単なるひねくれ者の屁理屈になるだろうか。では何が間違っているから信じられないのか。戯れに世界征服の野望が間違っていると口走ってみたいのか。それとこれとは無関係で、それもこれも虚構でしかないのではないか。真実がどこにもないから何も信じられなくなってしまうのか。真実なら言説の外にありそうだ。言説の内側がフィクションの世界で、その外側に現実の世界があり、現実こそが真実そのものだろうか。その現実の中で暮らしていて、言葉によって虚構の言説を構成し、それを読んで幻想を抱いているわけだ。それはいったいどんな幻想なのか。正しいと信じている思想なり宗教なりの教義がそうなのではないか。人はその種の正しさから逃れられず、それを信じていないと気が狂うだろうか。というか狂信的に信じていること自体が、その種の狂気をもたらすのではないか。

 だが自らが狂っていると自覚するのはおかしいだろうか。狂気と正気の境目などはっきりとは区別できないのではないか。集団の中で他人とあまりにもかけ離れたことを述べると、おかしいと思われてしまうから、人はなるべく集団で構成される思考に沿った考えを述べようとするだろう。しかしなぜかけ離れ考えが導き出されてしまうのか。それは現実の中にそのような考えが導き出される要素があるわけだ。集団で構成される思考と現実との間にズレが生じていて、人の感性がそのズレを感知してしまうわけで、そのズレから導き出されるのが、集団で構成される思考からはかけ離れた考えとなる。そしてそれを表明した者は、頭がおかしいと思われるか、何か預言者の類いだとみなされることもある。イエスやその先駆けとなった洗礼者ヨハネなどは後者の部類に入るのだろう。そして預言者は集団によって迫害され悲惨な死に方をするが、その死後に偉人となって人々の尊敬を集める。そうしないと集団内が納得しがたいのだろう。ともかく危険人物は殺しておいてから褒め称えるわけで、それが集団を維持するためのやり方なのだ。集団から外れた考えの人たちを生きたまま野放しにしておくと、そのような人たちの方が魅力的に感じられるので、集団から離反者が出てしまって、集団の秩序を保てなくなる。集団の秩序とは身分や階級を伴う階層構造を構成していて、身分や階級に関係なく、勝手な言動や行動が出てしまうと、集団で守っている階層構造そのものが意味を持たなくなってしまい、集団にとっては危機的な状況に陥ってしまうわけだ。だから集団内ではその役割分担を超えて、何が言ったりやったりすることは、秩序を乱す行為として厳しく戒められているのだろう。

 それは今の日本の政治構造でも言えることかもしれず、保守と革新あるいは右翼と左翼の役割分担を超えて、何か好き勝手なことを主張することは、役割分担を守っている人たちにとっては腹立たしいことであり、彼らが守っているルールの中では、やってはいけない行為なのかもしれない。だが共産党や社民党などの左翼政党が、いつまでも右翼による罵倒や嘲笑の対象であるのは、客観的に言って不公平だと思われるのだが、それらの左翼政党に決められた役割分担を壊すことが可能だろうか。現実に社民党は消滅の一歩手前で、残るは共産党ただ一つとなった場合、左翼という概念がもはや対立軸となり得ない状況となり、右翼やそれに肩入れするメディアの攻撃対象はどこへ向かうのだろうか。現状では民主党なのだろうが、民主党は完全には左翼でないから、民主党内の左翼的な派閥を攻撃し、それを民主党全体に広げて拡大解釈すれば、かろうじて罵倒や嘲笑の対象となりうるだろうか。それを封じるためには民主党は自民党と同じようなことを主張するしかないか。実際にその路線が民主党が再び政権政党となるためには必要だろうか。実際に欧米の左派政党の多くはそのような路線転換によって、政権を担う勢力を維持しているわけか。民主党が数年前に一時的に政権を担った時も、メディアなどによってそのような役割が期待されていたのだろうが、実際はどうだったのだろうか。正直言って期待はずれだったのかもしれないが、今後またそんな機会が訪れるのか。あるいは今後世界的にはそのような見せかけだけの政党政治は衰退してしまうのだろうか。そもそも政治家がやれることとはなんなのか。右翼と左翼の役割分担とはなんなのだろうか。どうもそのへんがよくわからない。要するに議会という劇場での論争相手や攻撃相手がほしいだけなのではないか。それもフィクションの類いだろうか。一応はフィクションではなく、原発の再稼動や米軍の基地などの争点があるわけだから、それについての賛成反対を選挙の争点とすればいいわけか。


4月9日「既存のシステムの中で」

 わざとそんなことを述べているのだろう。そこに本心も含まれているのだろうか。たぶんそうだ。そしてそれは本心ではあっても、いくらでも取り替え可能な本心だ。そんな本心などどうでもいいのかもしれない。では何が大切なのだろうか。それは人によって異なるわけか。何も大切ではないのかもしれず、語っているすべてが戯れ言だとすると、それは救いようのない状況だろうか。でも必ずしもすべてが戯れ言というわけでもないだろう。時には真剣に考えているようなことも表明されているのではないか。だがそれがどうしたわけでもなく、納得には程遠く、どのような結果ももたらされていないようだ。そこまでたどり着いていないのだろう。どう考えてもたどり着けないのではないか。少なくとも結論には達していないようだ。要するにまだ試行錯誤の途中らしい。具体的に何を導き出そうとしているのでもなく、何について考えているのでもない。ただこの世界の成り行きを説明したいだけか。それもどのレベルで説明しようとしているのか定かでない。それについての取っ掛かりも何もありはしないのだから、すでに何も語らないうちからつまずいているわけだ。それではどうにもならないだろうか。何もないのにどうにかしようとしているのだから、無理もいいところか。

 何もないというのはどういうことなのだろうか。世界には空間があり時間があり物質がある。そう捉えることはできる。でもそれでは何を説明したことにもならないか。一応は何かを説明しているのではないか。ただそういう説明では納得しがたいということだろうか。しかし何を説明しようとしているのか。何もないとはどういうことなのか。それはいつものように問題が何もないということだろうか。人間社会の中での争いごとなどはどうでもいいことなのか。どうでもよくはないが、関心を示せない状況なのかもしれず、それについて言及しようにも、言及の対象から相手にされていないのだから、何を述べても無駄なような気がする。そんな状態で何を批判したらいいのだろうか。それ以前に批判の対象とはなんなのか。政府の対応とか総理大臣の言動とかを批判すればいいのだろうか。たぶん以前はそんなことを述べていたはずだが、飽きてしまったのか。というか他の人の批判に接して、これではダメだと思うようになってしまったのかもしれない。何かうまく言い表せないのだが、批判することが現状維持に貢献してしまってはまずいと思われ、それなら批判しないほうがマシに思われてくる。ではなぜ批判することが現状維持に貢献してしまうのか。批判することで、くだらないことがあたかも大切なことのように思われてしまうからか。そもそも批判の対象がくだらないように感じられてしまうのだろうか。なぜそうなってしまうのだろうか。

 批判する人たちがくだらないレベルで批判するように仕向けられている現状がある。だいだい卒業式で国歌を歌わせたりするのは、どうでもいいような枝葉末節なことでしかなく、それを強要しようとするから反発を招き、そんなことで強要しようとする側を批判しなければならなくなってしまうわけだ。そして枝葉末節でない問題があるのかと問われれば、何もないわけで、捉えようによっては、沖縄に在日米軍のための滑走路を作る工事だって、枝葉末節な問題だと言えてしまうわけで、そこで反対運動をして大変な思いをしている人たちが、かわいそうに思われることは確かなのだが、そういうところで批判すれば批判するほど、批判の泥沼にはまって身動きが取れなくなって、挙げ句の果てに見捨てられてしまうのは、例えば成田空港反対闘争がそうだったのではないか。いったいそこから人々は何を学んだのだろう。何も学びはせずにいつまで経っても同じようなことを繰り返しているだけなのではないか。結局悪いのはそういうことを強要したり強行しようとする側で、しかもいつもそういうことをする側が権力を握っているわけで、そんな成り行きを招くようなシステムを変えない限りはどうにもならないわけなのに、人々はいつまで経ってもそんなシステムにしがみついているばかりで、システムを守ろうとさえしているわけで、決して変えようとはしないわけだ。そしていつまで経ってもそれらの枝葉末節な問題に心を奪われ、そこで勝てる見込みのない戦いを強いられ、身も心も疲弊しているわけだ。これからもそんなどうでもいいような無意味な闘争がいつ果てるまでもなく繰り返されてゆくのだろうか。それとも何かのきっかけで思いもよらぬところからシステムを変える機会が訪れるのだろうか。


4月8日「生存競争を繰り広げる者たち」

 何か思い違いをしているらしい。それが未だにわからないのだろうか。わからないままならそれでかまわないのではないか。問題に気づいたところでその都度対処すればいい。気づかないのならそのまま暮らしていればいいのだろう。そのうち何かに気づくだろうか。そう願いたいものだが、気づいてみないことにはそれがなんだかわからないはずだ。しかし意識は何に気づこうとしているのか。そんなことが意識にわかるはずがなく、気づくまではわからないわけだ。気づこうと努力しているわけではなく、気づくまで待とうとしているわけでもなく、気づくか否かとは無関係に暮らしているのではないか。だから気づかないわけか。といっても気づきようがないのなら、それでかまわないはずで、これからもそのまま暮らしていくしかないだろう。それにしてもいったい何に気づいていないのか。思違いをしているというのが嘘なのかもしれない。何も間違ってはおらず、それは思った通りのことなのではないか。では何が思った通りのことなのか。別に何に気づいているわけでもないことが、思った通りのことでもないはずか。

 物は言いようだ。物がいうわけではなく、人が何かを言っている。何か情報を伝えようとしているのかもしれない。文章を読み、それについて何か語ろうとしているのかもしれない。言っているのは文章の中でのことか。語ろうとしているのは誰でもない。では何をはぐらかそうとしているのか。何をはぐらかしたいわけではなく、そのように語っている成り行きの中に意識がある。物が何を言っているとも思えないが、人も物の一種だ。それは動く物であり、動物という範疇に入るのだろうか。そしてしゃべる動物が人の定義となるだろうか。インコや鸚鵡もしゃべるが、人の真似をしてしゃべっているのではないか。それはしゃべるのではなくさえずっていると表現され、イルカやクジラの類いもしゃべるらしいが、それは鳴いているとなるわけか。何かしら意思疎通の手段として、動物にはそのような機能が備わっているのだろう。ネアンデルタール人などの旧人類は、現生人類よりしゃべる能力が劣っていたから、それが原因で絶滅したという説があるが、チンパンジーやゴリラなどの類人猿は、生息域が競合していなかったから絶滅しなかったのだろうか。

 人類同士でも過酷な生存競争があり、競争に敗れ去った者たちは生息環境を追われ、死ぬか別の土地で生きてゆくしかないのだろうか。表向きはそういう時代ではなくなったはずだが、ネット上や実社会の中で居場所が競合関係にある者たちは、自分の居場所を確保するために、対立する相手と競争の最中なのかもしれない。なかなか共存共栄とはいかず、自分が繁栄するためには邪魔となる者たちを攻撃してやり込めなければならないらしく、その際競合相手に対して自らが存在する正当性を主張したがる輩が多い。そこで言葉が物を言うのだろうか。相手の主張がいかに不当か、そして自分の主張がいかに正しいか、その理由を語らなければならないのだろう。そしてその理由に説得力がなければならないようだ。自分の主張に賛同する仲間を必要としているわけだ。そしてその仲間と連携して相手を攻撃し、あらゆる手段を使って攻撃対象を排除しようとする。人間社会の中で日々繰り広げられているのは、そんなことの繰り返しでしかないのだろうか。だが一方でそんな不毛な争いから脱したいとも思っているはずだが、そこで及ぼされる力は常に不均衡で、そこに居座り続けられる場所にも限りがあり、すべての者が居座るには狭すぎ、力のない者は排除され、挑戦者を退けた強者だけがそこで存在し続けることができるわけだ。

 そのような競争に勝つことが正義なのだろうか。何が正義であるかは立場や状況によって見解の分かれるところかもしれないが、人が活動している限りはなんらかの競争は避けられず、狩猟採集民でさえ他の大型肉食獣と競合関係にあるわけだ。そしてそこに農耕民が入って来れば、森が切り開かれて田畑に変わり、狩猟採集民は森の奥地へと追い立てられ、森がなくなれば絶滅する運命にある。そして農耕民も他の産業に従事する人々との競争に負けて、利益を出すために少人数で大規集約化を強いられ、かろうじて他の産業に従事する人々の食料確保のためだけに、利益率の低い農業は儲けるな、などと差別的に見下されながらも、必要最低限の生活ができるだけの不快な境遇に甘んじているわけか。他の産業でも、最底辺で低賃金の肉体労働に甘んじている人たちがいて、どのような業種であれ、そこで人が人を使う関係が成立すると、人を使う立場の人間が相対的に高い賃金を得るようになり、そこに階層構造が出来上がり、競争に勝ち上がって上の階層の立場になればなるほど、少人数で高い賃金を得られるわけだ。そしてその競争に勝ち残った一握りの少数者に権力が集中する。またそれらの階層構造の総体が官僚機構や企業などの組織や団体となっていて、その存在そのものが人間同士の競争を正当化しているわけだ。


4月7日「不可能なレベル」

 何がくだらないわけでもないのだろうが、的が定まらないのは語りようがない。権力の関係が幻想でないことは明らかだが、そこからでは何も語れないだろうか。具体的に何がどうなったかについて語らなければならない。では何がどうなったのか。何もどうにもなっていないと言ったら嘘になるか。嘘ではないような気がする。この世界では何もどうにもなっていない。物質のレベルではそうなのではないか。たぶんそれではダメで、人間の思考のレベルで何かがどうにかなっていなければならない。そうでないと誰かが自己満足に浸れないのではないか。なぜその必要があるのだろうか。何かがどうにかなることで自分を納得させたいのかもしれず、考えたり思ったりしたことを主張して、それがなんらかの行動に結びつき、その結果として何かの事態が思惑通りに進展して欲しいのかもしれない。今はそうなることを願っている段階なのだろうか。現実にはまだ何も進展していない。そう感じられないだけのようだ。もう少し時が経ってみないとわからないか。

 時ならすでにかなり経っているはずだが、一向に考えがまとまらない。まとまる時期を逸してしまったのかもしれない。それでもかまわないのだろうか。何かに導かれていると信じているのではないか。それが錯覚だとは思えず、思い違いだとしても、もうだいぶ時が経ってしまったはずだ。もはや引き返すことができない段階まできているのだろうか。そうだとしてもまだ何も語っていない。今さら信じすぎるということもないはずだ。どこかへ導かれていることは確かなのだから、このままさらに語ってゆけばいいのではないか。疑念を抱いたらきりがない。他に何を求めているのでもなく、ただなんらかの思考を導き出したいのであり、それについて語りたいのではないか。少なくとも以前はそう思っていたはずだが、いつしかその想いも劣化して磨り減り、もはやどうでもよくなっているのかもしれない。このままではどこにもたどり着けず、何ももたらせないままとなってしまいそうだが、それでもかまわないのだろうか。それは目指していたのではなかった状況かもしれない。ではそれ以前に何を目指していたのか。

 そんなことはとうの昔に忘れてしまったらしい。今はもう目指すべき状態などなく、どこへも至れない地点まできてしまったのかもしれない。語るべきことなど何もなく、メディア上で語られていることにもあまり興味を感じられない。ふざけたことならいくらでも述べられるような気がするが、真面目に語られるべきではないことが語られ、それについて真面目に語ろうとすると、途端に他の誰かが語っているような紋切り型的な内容となってしまい、語っている途中で嫌気が差してしまうのだが、もはや世の中は新たな思考に至り得ないような飽和状態となっているのだろうか。そこに全てが出尽くしていて、そこで同じような考えがうんざりするほど繰り返し語られ、飽き飽きすると同時に不快感を覚え、どうしても厭世的な気分となってくるのだが、それでもまだ見落としている何かがあり、辛抱強く探求してそれを見出さなければならないのだろうか。ともかくここまできてなおまだ何も語っていないような気がするので、さらに言葉を連ねて何かを語らなければならないのかもしれない。たぶん求めているのは思想のような定まった思考ではなく、常に変化し、その都度状況に合わせて違ったことを述べなければならないのかもしれず、総体としてはとりとめのない内容となってしまうのかもしれないが、たぶんそこにとどまるべきで、その先で何かに凝り固まってしまってはいけないのだろう。

 それは求めているような内容ではなく、目指すべき状態でもないのかもしれない。だがそう語らないと、他の誰かが語っているような紋切り型的な内容となってしまう。言説の調和などあり得ず、動的に語らないと、それらの不均衡な現象を静的に捉えてしまい、誰も安心するような物語となり、そこで繰り広げられている成り行きを、語りに定着し損なってしまうのではないか。定着させてしまうこと自体が物語であり、その時点ですでにフィクションでしかなくなってしまうのかもしれないが、それでも絶えずそこから逃れるように語らないと、やはりそれでは退屈な内容となってしまう。だが果たしてそんなことが可能なのだろうか。求めていることが求められないことであり、何も求めていないのと同じ結果となっているのではないか。それでかまわないのだろうか。かまわないわけではないのだろうが、やはりのその状態にとどまらないと、すぐにわけ知り顔で語る輩の利いた風な意見となってしまうわけだ。だからそこから外れて語ることによって、そうではないことを示さなければならない。しかし本当にそんなレベルで語っているのだろうか。たぶんそこまで達していないから、何も語れなくなってしまっているのだ。だからさらに語り、絶えずそう語るように心がけながら語らなければならない。本気でそう思っているわけでもないのだろうが、とりあえず語るとなるとそう語るしかないわけだ。


4月6日「アイヌ人と称する民族」

 時と場合によっては戯言であり、別の時と場合によっては深刻に受け止めなければならないのだろう。時が経ち状況も変わってくるらしいが、やれることは限られていて、しかもやるべきことをやっているとも思えないが、やはり何かやっているようだ。どうもそういうところからしか語れない。段階が前過ぎて準備不足も甚だしい。そう感じられるのだから拙速なのだろう。それは語るべきことではないが、それを語らないと次へ進めないのはいつものことだ。

 そしていつものように問題は何もない。あるとすればそれは問題ではないわけだ。問題でないとするとそれはなんなのか。事の成り行きに違いない。北海道でアイヌ人と称する民族が優遇されているのが腹立たしいそうだ。誰かがそんなことを述べているのだろうか。それと似たようなことが言われているのかもしれないが、詳しいことはわからないし、わかる必要も感じられない。何に首を突っ込んでも他人事であり、それについていい加減に言及するぐらいが関の山だ。直接何に関わっているわけでもない。何かを問題視したい人がいて、それについて何か言及したい人も出てくる。明治政府による北海道開拓の歴史があり、その成り行きの中で先住民に対する扱いを定めた法律の類いができて、それを今さらなしにしたい人たちが、何か騒いでいるのだろう。もう必要ないからやめたいわけだ。アイヌ人と呼ばれる人たちが目障りなのだろうか。何か経済的な利権でも絡んでいるわけか。

 そんなことを国家や民族の原理から解き明かそうとしても徒労に終わるだけか。しかし原理などというのがあるとも思えず、何か定まった理論にパラメータを代入すると答えが出てくるようなものだとは思えない。アメリカの西部開拓史と北海道の開拓史が似ているかもしれないが、規模も時期も違い、開拓民に追い立てられて居場所を奪われた先住民の、その後の境遇も異なるだろうか。民族同化の試みに失敗して、凄惨な大量殺戮を招いた台湾の先住民とも、違う経過をたどったかもしれない。台湾の先住民の場合はアマゾンの先住民と似た結果を招いたわけか。ニューギニアの先住民なら、未だ開発の脅威に遭遇せずに、先住民のままで暮らしているのだろうか。

 その土地が耕作可能であったり資源が豊富にあったりして利用価値があれば、それの獲得を目指して新たに人が侵入してきて、時期的に先に住んでいた人たちと争いが起こるのは、人類の歴史の中ではよくある現象だ。後から入ってきた人たちが、軍事的あるいは経済的に元からいた人たちより強力なら、先に住んでいた人たちは征服されてしまうのだろう。それは人類以外でも言えることで、南北アメリカ大陸に人類が入り込んできてから、そこに生息していた大型哺乳類などがたちまち絶滅したらしいし、動物同士でも生存競争に負けて絶滅に追い込まれた種は数知れずだ。

 では北海道あたりでアイヌ人に対して何か行動を起こそうとしている人たちは、民族としてのアイヌ人を今まさに絶滅に追い込もうとしているのだろうか。もはや日本人との同化が完了したから、優遇している法律の類いを改めようとしているわけか。そういう成り行きには逆らえないのだろうか。そういうことをやりたい人たちには逆らう理由などないのではないか。そしてそういう人たちが勝者となってきた歴史的な成り行きがあるわけか。敗者の側にいるより勝者の側にいる方が功利的には正しいはずだ。では敗者の立場を正当化する論理はないのだろうか。正当化しなくてもかまわないのではないか。論理も必要ないだろうか。論理とは常に勝つための論理であり、負けるのは論理的ではない。では敗れ去る人たちには何が残されているのだろうか。たぶん何も残されていないだろう。では敗者は絶滅する道しか残されていないのだろうか。滅びゆく人々は民俗学者の研究対象となるわけだ。


4月5日「狂犬の破天荒な武勇伝」

 彼は狂犬のような人物だったのだろうか。例えが古いのでそれではわかりにくいのではないか。テレビで何を批判していたのだろうか。元官僚でテレビのコメンテーターをやめてから大阪府の特別顧問になったわけか。何かきつい政府批判をしてテレビ局の上層部から圧力がかかってやめた、とかいう経歴が物をいう世の中らしい。成り行きが人を作る。大したことはない成り行きでもそれなりに人を作り上げるのだろうか。人などという存在はフィクションの中にしか出現しないのではないか。ではその存在はなんなのか。紛れもなく人ではないのか。そんな話の中に存在するだけなのだろう。それは常に部分的なエピソードの寄せ集めでしかなく、その人自身の完全な姿を体現したものではない。話の内容自体も不正確で、しばしば誇張され尾ひれがついていたりする。武勇伝として半ば伝説と化していたりする場合もありそうだ。ではそこから何がわかるのか。人が興味を持つような内容となって語られているわけか。興味を持てなければ、わざわざ話として語られる必要もないのではないか。ではその誇張された武勇伝の類を真に受けないようにしなければならないのか。語られる話を楽しみたければ信じてみるのも一興か。でも誰が語っているわけではなく、言葉として記されているだけではないのか。それを読んで楽しみたいのではないか。実際にその狂犬のような人物の破天荒な武勇伝を冗談だとは思えないのだろう。実際は何が武勇伝でも破天荒でも狂犬でもないのかもしれないが、話を面白くするためには、そんな言葉を使って誇張してみせるわけか。

 誰がそんな話を仕組んでいるわけでもなく、ただの偶然の巡り合わせでそうなってしまうのだろうか。童話作家の宮沢賢治は、早く死んだからそれほど目立たなかったようだが、もっと長生きしていたらファシストになっていたと言われている。国柱会という当時の日本の対外侵略政策を思想的に支えた国粋主義的な宗教の熱心な信者だった。もちろん当時はそれが多くの人たちに肯定的に思われていたのだろうから、同時代の人や宗教に対する評価ほど当てにならないものはないと言えるだろうか。今の時代は比較的平和な時代なのだろうから、それほど偏った評価ではないと思うが、まさか今日本の政権を担っている勢力が、後の時代に肯定的に評価されることはないだろうか。先ほどの狂犬のような人物なら、あと数十年もすれば跡形もなく忘れ去られるだろう。今日のような情報化社会ではその武勇伝の賞味期限も殊の外短いと言えるだろうか。後の時代に何が残ろうと、今の時代に生きている人たちには知ったことではないのかもしれず、たとえその死後に肯定的な評価が定まろうと、生前に何をやったかは変わらない。フィクションによって脚色されたら変わるかもしれないが、死んでしまった後では関係のないことか。宮沢賢治の場合はもっと長生きしてファシストとしての汚点を残していたら、その作品の評価も今とは違ったものとなっていただろうか。不幸で短命な生涯だったことが、その作品を後の時代の肯定的な評価に結びつけたわけか。それとも彼がファシストであったかなかったに関わらず、今日の評価は変わらないだろうか。

 とりあえずなんの作品も残せない無名の一般人は、その死後はただ忘れ去られるだけで、そんな自分の死後のことまで気にかけるのは、よほどの自意識過剰と言えるだろうか。しかし生きている間は何に気をかけるべきなのだろうか。何を気にかけている余裕などなく、ただやりたいことをやることだけの人生でいいのだろうか。やりたいことがなければどうすればいいのだろう。そうなってから考えればいいだけで、たぶん暇つぶしにそんなことを考えながらつまらない余生を送るのではないか。やりたいことがあり、それをやれるならやればよく、やれなければやれないことを思い悩めばいいわけだ。では今は思い悩んでいるわけか。誰がそうなのか。多くの人がやりたくないことをやらざるを得ない現状の中で、思い悩んでいるのではないか。しかもそれでかまわない世の中なのだから救いようがないか。救いようがなくても生きている現状があり、そんな現状を呪い、呪うほどではない人たちは現状を楽観視しているのではないか。個人の力ではどうすることもできないことがほとんどかもしれないが、とりあえずそれでも生きているわけだ。まだ死んでいないのだから生きていることは確かだ。別に生きていることに価値があるとも思えないが、生きている限りは何かをやろうとするだろうし、実際に何かをやっている。たぶんこれからも何かをやろうとするだろう。そしてそのやった結果をどう評価する気にもなれないが、何かしら結果が出るのだろうし、その結果に一喜一憂するのかもしれない。あるいは結果に至れずに中途半端なところで死んでしまうのだろうか。たぶん宮沢賢治の場合は何かの途中でやりかけのまま死んでしまった事例になるだろう。


4月4日「メディアに踊らされる人々」

 制度は制度としてあり、制度に則ってその地位に就いたのだから、それをやめさせるのも制度に則ってやめてもらわなければならないだろう。別に無理にやめさせることはない。期が熟すのはまだまだ先のことかもしれない。しかし待っていればなんの期が熟すというのだろう。そのとき誰が役職をやめなければならないのか。さあその時が来たら誰かが辞めるのではないか。ではすぐにそうなるのだろうか。それはわからない。わからないが、たぶんこの時点では何について語っているのでもない。あやふやな予想や予言は慎まなければならない。何も語れないと言った方がいいのかもしれない。語る必要のないことだ。必要のないことを無理に語ることはなく、それでも語ろうとすればくだらぬ内容になりかねない。実際にくだらぬ内容になっているのではないか。それは語ってみないことにはなんとも言えず、これからそれについて語ろうとしているのかもしれず、あるいは語ろうとして語れず、語りそこねているのかもしれない。語る必要がないのに語ろうとして語れず、それでも記述してしまうわけだから、空疎な内容になって当然で、その辺が矛盾しているわけだが、かまわず言葉を記してゆくしかない。偶然の巡り合わせと運が良ければ、何かまともな主張に行き着くかもしれず、そんな成り行きに身をまかせ、その続きを語ろうとしているわけだ。どこにも至らなければ空疎な内容であることも覚悟しなければならない。そうなればその程度のことだったとあきらめるしかなさそうだ。そこに限界があり、なかなか限界を超えられずに、空疎な内容に終始している現状があるのだろう。

 やるべきことは批判ではないが、それに逆らって批判しているわけだ。それが成り行きであり、成り行きに逆らうのもその場の成り行きであり、そこで進行中の成り行きに巻き込まれ、それについて何かを述べようとしているのではないか。具体的には何が進行中なのだろうか。国と国とが外交で駆け引きをやっているわけか。そんなことは一般人には知ったことではない。では一般人は何を知っているというのか。メディアからもたらされる情報に基づいて、あれこれ予想や詮索をしているわけか。その一部が国と国との外交ゲームのゆくえなのだろうか。そこで政治的に勝ったり負けたりしていると吹聴され、一喜一憂することで、何やら自分もそれらの外交的な駆け引きに一枚噛んでいるような錯覚を覚えるのだろうか。たぶんそれではメディア商売の格好のカモとなっている。制度的にはなんの権限も与えられておらず、選挙以外では何を行使する立場でもないのに、売文業者に乗せられて、力の及ばないことについて考えさせられている。それに気づかないと、それらの業者の思惑通りに、賛成か反対かあるいは右か左かの二項対立の一方側に囲い込まれ、どちらか一方の飯の種にされてしまうだろう。彼らに誘導されて特定の立場の指定席に座らされ、彼らの観客や応援団になってしまってはまずいわけで、そういうメディアが及ぼす権力の作用に逆らって考え行動しなければ、いつまでたっても予定調和の二項対立から抜け出ることはできず、結局現状の追認にしか結びつかないわけだ。

 現状の追認とは何も政治的な権力を握っている勢力を認めることだけではない。彼らと対峙している反体制勢力の側に立つことも、現状の追認に繋がっているわけだ。何も反体制勢力がダメだと決めつけるのではなく、体制側と反体制側のどちらも変えないと、現状の予定調和から抜け出すことはできないということだ。対立を煽って相手を全否定し、どちらか一方の立場にしがみつくことが、二項対立を形成しているわけだから、まずはそういうやり方を改めなければならない。それにはそのような対立そのものがフィクションであり、どちらも大同小異でしかないことを自覚すべきで、自分の都合でしか物事を考えられない視野の狭い人たちが、些細な差異を強調して誇大に見せかけ、その微細な差異を利用して対立を煽り、その過程で導き出される単純化された論理を、周りの人々に信じ込ませようとしているにすぎないことに気づくべきなのだ。それは右も左も自国の国益や自国民の生活しか眼中にない現状を考えてみれば明らかだろう。


4月3日「富や名誉や栄光とは無縁の人生」

 予測がつかない結果がもたらされているわけではない。自分が意識できない部分で何かを考えているのかもしれない。では具体的に何を考えているのだろうか。しばしばそれが意識して考えていることの上をいってしまう。結果がそうだからそう思われるだけで、本当のところはよくわからないようだが、いくら考えても無意識にかなうわけがないのかもしれない。どう考えてもわからないのなら、無意識に委ねるべきなのだろうか。実際に何を委ねているのだろうか。そうではないのかもしれないが、何かしら行動した後から、考えて行動したわけではないことを思い知る。時にはそれに驚くこともあり、いくら意識して考えても思いつかず、わからないことがあることは確かで、何か予測のつかない偶然の巡り合わせで、何かの拍子に思いつくことを期待するしかないのかもしれず、意識から外れてその場の偶然に思考を委ねるしかないわけだ。そうやって何を思いつこうとしているのか。それは思いつくまではわからない。思いつかない場合は、わからずじまいとなりそうだが、それでもかまわないだろうか。まだ無駄に時間がありそうで、その時間を利用して何かを考え、思いつこうとしているのかもしれないが、現状ではよくわからない。何について考えたらいいのかわからないまま、たぶん何かを語ろうとしている。そしてその語ろうとしている内容が空疎なら、何も語っていないと同じになるだろう。それでも言葉が記されているわけだ。それを無駄な悪あがきと思ってもかまわない。意識はそれ以上を望んでいるのだろうが、現実になんの内容ももたらせなければ仕方がない。

 何に影響を受けているのかはわかっているのかもしれないが、意識はひたすらそれを批判するための材料を探しているのだ。批判が有効に機能しているとは言い難く、そのほとんどが揚げ足取りに堕している感も拭えないが、とりあえずそれでも批判しなければならないのだろう。その批判のほとんどは全否定に近い。すべてを否定しなければ気が済まないわけだ。やっていることのすべてが間違っていることを証明して見せたい。だから執拗に批判しているわけか。だがいくら批判しても決して批判相手と対等な勢力とはなれず、そして実際にも論争にも至らず、その手前で無視されているだけなのかもしれないが、そうであるからなおさら怒りは収まらず、相手されない相手のやることなすことを全否定せざるを得ない。そんな現状がどこにあるのだろうか。今の政治情勢がそうだと言えるだろうか。批判する側からすればそういうことになりそうだ。ではそんな情勢から何が言えるだろうか。安易なことを言うなら、批判する側とされる側の両方が滅び去って欲しいと言えるだろうか。すべてが無に帰すべきなのか。無ではなく、その成り行きが記憶されるべきなのか。それ以前に道理が通って欲しいのかもしれない。その場合の道理とはなんだろう。選挙で議会の野党勢力が勝ち、政権交代が起こって欲しいのではないか。それを阻止するために政官財がタッグを組んで、現状での自分たちの優位が揺るぎないように、自分たちのやり方をさらに推し進めようとしているのではないか。だがそんなありふれた情勢分析はフィクションでしかないだろう。実態はそれとは違うと思いたいわけだ。予定調和の対立の図式に逆らって、何か奇妙で変わった見解を示したい。それだけ現状が退屈でくだらなすぎるということだろうか。要するにおもしろくないわけだ。

 しかしおもしろくなくても何も起こらないだろう。すべては期待外れに終わるのではないか。退屈な現状が延々と続くのだ。飽きるほど同じことの繰り返しとなりそうだ。すでに飽きているのにそれを終わらせることはできず、いい加減うんざりしているのに、なおうんざりしたままとなり、期待するような変化は一向に起こらず、いつまでたっても政権交代など起こりようがなく、批判している人たちの寿命が尽きるまでこの状態が続くとしたら、それはそれで画期的なことだろうか。数年で終わると思っていたことが、数十年単位で続いたら、それは驚くべき現象かもしれない。もしかしたらそんな覚悟が必要な成り行きかもしれず、現状はそれほどなんともないようでいて、そのなんともないことが延々と継続するような停滞状態なのかもしれない。そのうちこのままでは戦争だなんだと危機感を募らせていた人たちが音を上げるだろう。いつまでたっても何も起こらないことに耐えきれずに、強がりながらも変節していってしまうのではないか。政治的な敗北者は芸術に走るのがわかりやすい変節かもしれないが、もはや芸術などなんの価値もない時代においては、彼らは何になれるのか。結局は御用文化人や御用知識人や御用学者の仲間入りとなるわけか。うまく立ち回れた人はその筋の権威となり、死ぬ間際に文化勲章の類いをもらってご満悦となるだろうか。批判者の成功への道はそれしかないわけか。それ以外に何があるだろう。そんなふうに成功できるのはほんの一握りであり、大半は誰からも相手にされずに、寂しい老後を送る羽目になりそうだ。良心的な一般の人たちはほとんどがそうだろう。そしてそんな富や名誉や栄光とは無縁の人生が一番マシなのではないか。


4月2日「資本主義に終わりなどない」

 行き着く先などありはしない。人は他の人や多くの人が寄り集まって構成する企業などの組織を活用して、資源を採取してその資源を使って何かを作り、それを他の何かと交換し、消費し蓄積する。そのような行為や動作の中で、交換に使うアイテムの貨幣を蓄積した者たちや企業などが力を持ち、さらなる貨幣の蓄積を目論んで、物や情報の生産や流通を支配し、さらなる消費を促しているように考えられているわけだが、彼らの真の目的は貨幣の蓄積なのだろうか。それとも貨幣の力を利用して人々を支配しようとしているわけか。どうもそう考えるのは間違っているように思われる。人はゲームをやり、それを楽しんでいるのではないか。それは物や情報を売ったり買ったりしながら利益を出して貨幣を蓄積して、その蓄積した貨幣を利用して、さらに多くの物や情報を売ったり買ったりするゲームをやっているわけだ。そしてそういうゲームに参加している他の人や企業と競争している。物や情報を生産し流通させ交換し蓄積する行為や動作が、快楽を生み出しているのではないか。もちろんそのような過程の中には、他人を自分の思い通りに動かそうとする行為も含まれ、そうやって人や組織に力を及ぼそうとする行為にも快楽が伴うのだろう。そのような快楽が伴う行為をやめるわけにもやめさせるわけにもいかないだろうし、人為的に制御するのも至難の技なのではないか。ではどうすればいいのだろうか。それも自然現象の一種だとみなしてあきらめればいいのか。

 魅力的なゲームの数をできるだけ増やして、一つのゲームに人々の興味が集中しないようにすることで、人や組織が及ぼそうとする力を分散させれば、人や組織が他の人や組織を支配しきれなくなって、人や組織の権力関係も相対的に弱まるだろうか。特定の事象へ人の興味を引きつけようとするメディアの多様化は、成り行きがそのような方向へと進んでいることの表れだろうか。一方で巨大企業による特定の業種での寡占化も進行中で、それとこれとはどう関係するのだろうか。人々の趣味や興味の多様化と企業の生産や流通過程の寡占化の両方が同時に進行中ということか。そうなるとどのような結果をもたらすのだろうか。行き着く先などありはしないというのはどういうことなのか。現状が果てしなく続くことなどあり得ない。人々の関心は長続きせず移ろいやすく、企業にも栄枯盛衰があり、時代とともに人の生活環境も変わっていってしまうことは確かだ。ゲームにも絶えず新たなルールが付け加わり、そのルールに適応できない者や組織は衰退するだろうか。それでも状況の推移を楽観しているわけではない。また人知を超えた超自然的な力の発現に期待しているわけでもない。ここから人々が何かをどうすべきだと訴えかければ、それは嘘になり裏切られるのではないか。たぶんそのような主張は無効になるしかない。そうではなくそれとは別の何かを語らなければならない。それも嘘なのかもしれないが、とりあえずそういう類いの嘘をついて、正しい行為の訴えかけを避けなければならない。

 資本主義の終わりを告げる類いの紋切り型的な予言に組するわけにはいかない。資本主義に終わりはない。あるのは何かの終わりではなく執拗な継続だ。快楽の源泉が尽きることはない。それによって人類が滅亡しようとも、延々と続いて行くだろう。その担い手が人類である必要がないということだ。ただそこで何かが生産され流通し交換され蓄積され消費されていればいいわけだから、別に人間ではなく虫けらの類いがそれをやっていればいいわけだ。人はそれらの資本主義的な行為の中で幻想を抱き、何か人間特有の行為をやっていると思いがちだが、それは生物的な動作の一種でしかないのではないか。そこに何か肯定とか否定とか判断する要因は何もなく、ただそのような動作が現象としてあるだけで、それを意識するしないにかかわらず、人はそのように動作するしかないのかもしれず、そのような動作とともに人がそこに存在し、そのような現象の総体として、人類の文明と言われるものがあるわけだ。そのような捉え方をすればそう言えるかもしれないが、それも一つのフィクションには違いないから、信じているわけではなく、ただ考え方のバリエーションの一つとしてそんな風に語れば、何か述べているように装えるだけで、特段画期的なことを述べているわけではない。たぶん画期的な解決法など何もないのが資本主義的な行為なのではないか。だからといってあきらめろとか諭すつもりもないのだが、不快な動作には抵抗しなければならないだろうし、実際に抗ったり逆らったりしている人が大勢いるのだろう。そしてそれらの行為を改善しようとする試みや、新たなやり方を模索する試みも続けられているが、やはりそんなことの総体として現状があるわけで、そんな現状を肯定したり否定したりしながら、これからもその中で生きて行くしかないのだろう。


4月1日「人間の昆虫化」

 肝心なことは何もない。何が重要でもないのかもしれない。人は管理されて生きている。組織の中ではそうだ。その方が効率がいいからだろう。組織は人の動作を利益に結びつけるために管理しているわけだ。その一方で人は自らが自由であることに価値を見出す。できれば組織の管理から逃れて勝手気ままに行動したい。だがそれでは利益に結びつかないから、嫌々管理されながら、組織がもたらす恩恵に与かっている。その二律背反を解決するにはどうしたらいいだろうか。進歩的な知識人は組織を自由で上下関係のないシステムにしたい。その考えは矛盾しているだろうか。人々を目的のために動作させたければ、それ以外の動作を制限しなければならない。同じ目的のために組織内のみなの気持ちを一つにしなければ、うまく組織が動いて行かないだろう。人は組織の中で何を納得したいのか。自由と引き換えに利益を手にしたいのだから、妥協は不可欠だ。そうやって自らを納得させたいのだろうか。それでもまだ自覚が足りないのだろうか。不条理だと思っておけばいいのではないか。どう考えても納得しがたいのなら、そのような動作は不条理なのではないか。すべてが自由というのはありえないし、生活のすべてを管理されているわけでもない。仕事をしている間だけ管理されていることで妥協したいわけで、そのために企業形態があるのだろう。そのような形態に不満があるなら、不満を言えばいいわけだ。実際に不満ばかり言っている人も大勢いるだろう。不満を言うことで組織と戦っているわけだ。組織内にいながらも組織と戦っている。戦うことで組織内において自らの自由になる領域を増やそうとしている。条件闘争というやつだ。組織内でも組織外でも組織同士でも、そのような争いごとの中で、絶えずせめぎ合いが行われ、主導権をめぐる駆け引きがあり、そうやってなんとか自由になる領域を広げようとしているわけだ。

 人間社会にはそのよう争いごとが不可欠だろうか。人と人あるいは人と組織または組織と組織が隣りあわせれば、必ず争いごとが起こり、また争いごとをしずめるための話し合いも起こる。なんとか互いの妥協点を探り出して、争いごとにけりつけるための算段が用意され、うまく事が進めば妥協が成立する可能性もあるわけだ。そんなことが繰り返され、これからも延々と争いごとが続いてゆくのではないか。それが国家であったり企業であったりするわけで、それらの諍いが終わることはなく、終わらないからこそ、組織による人間の管理はいつも破綻をきたすのだろうか。管理が完成した時点で抵抗する人間がいなくなってしまうとすれば、それでは人間が人間でなくなり、ロボットのような決められた動作しかしなくなってしまうから、そんなのはありえないことだと思うなら、やはり組織に対する人の抵抗は、組織がある限り未来永劫続いてゆき、決して終わることはなく、抵抗が続く限り組織による人の管理が完成することはないわけで、結局組織と組織を構成する人間との関係は、永遠に二律背反の不条理な関係となるしかないのではないか。そこで行われているのは、争いごとであり力のせめぎ合いであり、要するに常に戦争状態のわけだ。そしてその戦争状態が終わり、かつそこで組織が存続しているとすれば、組織による人間の管理が完成したことになり、そこで人類の終焉が訪れるわけだが、つまり組織が目指している状態とは、人が組織に敗北して、その意味するところは、人間が人間でなくなるようにすることであり、要するにそれは人類の滅亡ということではないか。結局人は効率的に利潤を得るために組織を作り、人を組織に依存させようとするわけだが、それを突き詰めて行けば、組織が効率的に動作するように人の自由を奪い、組織の目的に沿うように人を作り変えることになり、そのように作り変えて行くと、人が人でなくなってしまうことになり、そして最終的には人類の滅亡に至るのではないか。果たして今後そうなる可能性があるのだろうか。それとも人は人でなくなっても人でしかないのだろうか。どうしても究極の組織形態とは、昆虫の蟻や蜂の群れを想像させるのだが、人も蟻や蜂の群れのように効率的な組織形態へと進化を遂げるべきなのか。