彼の声107

2015年

3月31日「政治家に望むこと」

 何を知っているとも思えないだろうか。何に関して知りたいのか。偶然に知り得たことがなんの役に立つのだろう。たぶん何を知っているわけではない。他に知っていることがあるのかもしれないが、どうも知識が役に立つとは思えない。それでも何かを知り得たのではないか。知っていることを利用して何をどうしたいわけでもないらしい。本当はどうにかしたいわけだが、結果としてはどうにもならないというのが偽らざる実態か。事の成り行きが人の思惑を上回っている。いつもそうなのではないか。そんな事態に直面して、思い通りにいかないことを痛感させられるわけだ。理想からかけ離れた現実の中で生きている。理想とは思い通りに行くことなのか。そこで何をどうしようとしているのだろうか。もうその時点で良識派を自認する人たちから見放されているわけか。しかし何が良識だと言えるのか。彼らが期待していることは良識に反しているわけか。自分たちの国が繁栄して欲しいと思うのは、そこに住んでいる誰もが思うことだろうか。そう思うことの何が間違っているわけではない。たぶん批判されているのはそうではないのだろう。ではいったい何が批判されているのか。何も思い当たらないのだろうか。そもそも世の中の不条理を政治家が解決できるだろうか。政治家ができるのはせいぜいが、自分を支持してくれる勢力に利益誘導するぐらいなことではないのか。現にそれをやっているから支持されているのだろう。それ以外に何ができるというのか。少なくともそれを批判する勢力に便宜を図るわけにはいかない。では政治家にそれ以上を望むわけにはいかないのか。だがそれ以上とは具体的にどんなことなのか。

 政治家がやることに依存している国の役割とはなんなのか。人々は自分たちが住んでいる国がどうなって欲しいのか。ただ繁栄すればいいのなら、どうやったら今以上に繁栄するのだろうか。政治家はそれを目指しているのだろうか。繁栄とは具体的にどのような状態をいうのだろうか。現状でもそれなりに繁栄しているのではないか。もしかしたら今以上の繁栄はあり得ないのかもしれない。そしてもう政治家の役目は終わっているのではないか。世界的にそうだとすると、誰もが気づいていないことは、現時点で政治家には用がないということだろうか。これ以上は何もできないならそういうことになりはしないか。ではやることがないのに、何かをやっているように見せかける以外に、政治家には何がやるべきことがあるのだろうか。かえって事態を今より悪化させることができるだろうか。もしかしたらそれもできはしないのではないか。何かをやろうとすれば、現状を維持する方向で、各方面から歯止めがかかってしまうかもしれない。改革しているように見せかけることならできそうだが、本当に改革を目指せば、それを阻止する方向で抵抗が生じるだろう。しかし具体的に何をどう改革したいのか。武力や経済の分野での軋轢の根本的な原因は、世界が多くの国々によって分割されていることから生じているわけで、それを解消するには、世界を統一して国家をなくすこと以外にはあり得ないのだろうが、現状を支持する勢力にとっても現状に批判的な勢力にとっても、それはあり得ないことであり不可能なことなのだから、要するにそんなことは問題外で、とにかく世界が各国に分裂している状態で、現状をさらに良くしたいわけであり、結局はそれもあり得ないことなのかもしれないが、その実現不可能性については不問にしなければならないわけだ。そういう制約の中で政治家に無い物ねだりをしているのが、それらの勢力が主張していることの根本的な欠陥なのだろうか。

 そんなわけで今後とも政治家がやるべきことは何もない状態が続いてゆくのかもしれず、そんな政治家を支持する勢力も批判する勢力も、政治家が何かやっているふりを装うことを期待し、要するに欧米の政治家のように政治家を演じて欲しいのであり、その演技についてあれこれ批評したがるわけで、いかにかっこいいきれいごとを主張できるかが、良識派の支持を集められるかどうかのカギとなり、そしてその時期の景気が良ければ支持率が上がり、何か世間の一般常識に照らして、それが失言と受け止められたり見栄えの悪い行為をしたり、実際に景気が悪くなったりすれば、批判され罵倒され役職の辞任を促されるのだろう。あとは諸国間の軍事的あるいは経済的な力関係の中で、具体的に利害関係を共有する国とは友好関係を結び、利害が対立する国とは外交的には敵対関係となるのだろうが、場合によっては直接の軍事衝突になることもあるのだろうか。それも利害関係の範囲内でのことであり、軍事衝突したら利益にならないと判断される地域では、戦争は起こりにくいのではないか。いずれにしても現状でやれることは限られていて、国同士の軍事的あるいは経済的な力の相互作用の中で、一国だけが他の国より飛び抜けて繁栄できるわけもなく、覇権的な超大国と言われるアメリカや中国などでも、国内では貧困層が少なからず存在しているだろうし、ヨーロッパなどでも貧しい国からの移民問題が生じているわけだから、たぶんこの世の理想郷と呼べるような国など、現状では世界のどこにもないだろうし、政治家がいかに立ち振る舞っても、人々が政治家に何を期待しようと、またいくら批判しても、現状の国家形態を維持しようとする限りは、今より劇的に何かが変わるということはあり得ないのではないか。


3月30日「行為の善悪」

 戯言で済めば楽なのかもしれないが、それ以上を望めば、自ずから権力の関係を考慮せざるを得ないだろうか。そこで何を争っているとも思えないとしても、何かしら抵抗を感じているはずだ。だがそんなところから何を述べても無駄だろうか。そうなるのを前提として話を進めなければならないわけか。理にかなったことをやればすべて納得しないまでも、ある程度は物事を進めていけるだろうか。自分が正しいことをやっているように見せかけたいし、そう主張したいのだろう。その反対に誰もが間違っていると思うことをやるわけにはいかないだろう。しかし理にかなった正しいやり方とは何か。そう問う限りは正解を求めているわけだ。それは世の中の常識に照らし合わせても正しいことなのか。何かしら自分を利する結果を求めているのではないか。そうなることを望んでいる。ではあえて間違ったことをやる気になる理由はなんだろう。理にかなった正しいことというのが苦労を伴うことなのではないか。苦労するのが嫌なのは誰もが思うところだが、苦労しないでうまくいくやり方などほとんどなく、正しいことをやるにはそれなりに乗り越えなければならないハードルがあり、誰にもできるようなことでもないのかもしれない。しかもそれをやったところで必ずしも成功するとも限らないとしたら、やるには勇気と忍耐とリスクを引き受ける覚悟が必要なのだろう。それでもやらなければならないことがあるわけか。それは人それぞれであり、何をやるべきかも人それぞれで違うとしたら、いったい人は何をやればいいのだろうか。人はそれを知りたがっているのかもしれない。

 人は実際に正しいと思うことをやっているのだろうか。たとえ犯罪者でも自分のやっている犯罪行為が正しい行いだと思うだろうか。それとも世の中の基準に照らし合わせれば間違っているかもしれないが、自分の基準では正しいことだと思っていたりするのだろうか。自分の基準でも間違っていることをあえて行うこともありはしないか。そしてなぜか間違ったことをやる成り行きになってしまっていたりするわけだ。できれば正しいことをやりたいわけだが、間違ったことをやらざるを得ない状況に追い込まれ、それをやらないと前に進めなかったりする。そして結果的に窮地に陥って、破滅する運命が待っていたりして、ため息をつきながらも黙ってその運命を受け入れていたりするわけか。そしてそういう人たちは滅びの美学に救いを求めたりするわけか。ヤクザ映画や神風特攻隊の物語などにはその手の登場人物が出てくるが、現実の世界では救いなどありはしないだろう。結果がすべてであるのかもしれず、何かしら結果が出ればそれが正しい行為だとされ、うまくいかなければ間違っているとみなされ、正しいか間違っているかは、実際にやってみなければわからなかったりして、とにかくやってみないことにはなんともいえないから、やってみてからその行為が正しいか間違っているかを判断するしかないわけだ。やる以前にそれを知ることはできないのかもしれず、やる前から結果がわかっていたら、人は正しい行為しかやらないだろう。要するに結果が事前にわからないから、人は正しい行為と間違った行為のどちらかをやらざるを得ないわけだ。人は前に進むしかない時間経過の中で生きていて、その時点で絶えず過去にやったことを正しいか間違っているか判断しながら、ひたすら未来へ向かって進むしかない。

 人は自らの行為が正しくなるように予測し予想する。場合によっては占ったりもするわけだが、予想や予測あるいは占いが当たれば、それらに沿った行為をすれば、それが正しい行為となるわけだから、正しい行為をするためには正しい予想や予測や占いが欠かせない。自らが関わっている現象や成り行きに、何かしら法則のようなものを発見できれば、その法則に従った予想や予測や占いができ、そこから正しい行いを導き出せるわけだが、そのためには理論的な模索が必要であり、理にかなったやり方は理論や法則から導き出されるわけだ。そのような理論や法則があり、その理論通り法則通りのことをやれば、それが正しいやり方となるわけだが、そういう理論や法則が世間一般に知れわたっていれば、そのような現象や成り行きの中では、もはや人は正しい行いしかやらないわけだから、人によって差異が生じないのであり、やっていることが正しいか間違っているかの意味がなくなってしまう。そうなるとその行為はどうでもいいこととなり、やることの重要性も薄れ、関心がなくなってしまうだろう。結局行為の重要性は、ほかの多くの人たちが間違った行為をやっている中で、自分だけが正しい行為をやり、それをやった結果として利益が自分だけに入るという状況にあるのだろうし、あえてリスクを冒してやる価値があるのはそういう行為なのかもしれない。人はそういうバクチ打ち的なやり方に魅力を感じているのではないか。理にかなったやり方で努力して、苦労して結果を出すのが正しいやり方だとすると、バクチ打ち的なやり方は間違った行為だろうか。そのどちらを選ぶかは時と場合によるだろうし、人の立場によっても違うのだろうが、やった結果がどうなるにしろ、とにかく人は絶えずそれをやらざるを得ない状況に追い込まれていると言えるだろうか。


3月29日「誰もが知っていること」

 人と人はどこで繋がっているのだろうか。何を目当てに連携したがるのか。金銭的な利益というのが普通の発想だろうか。それ以外に恋愛関係というのもありそうだが、ありえない理由を知りたいわけでもなく、ありふれた理由で連携していることを知って安心したいのではないか。しかし何を模索しているのかよくわからない。ただそこに多くの人たちがうごめいている。社会を巨視的に見ればそういうことだろうか。人と人の関係を想像できなくなれば、そう見えるのも仕方がないのかもしれない。何かを生産して消費する過程の中で蓄積する。蓄積するのは資産であり知識であり幻想でもある。未来の姿を想像し夢を抱き、そこで何かをやりたいと思っているわけだ。そしてそのやりたいことが他人と同じことであるとすると、連携や競い合いのゲームが成り立ち、そこで他人に力を及ぼすことに自己満足を得ようとする。他人の自由を奪うことが自らの勝利であったりするわけだ。それ以外に人は何を求めているのだろう。できればすべてを求めたいところかもしれないが、すべてがなんだかわからない以上は、求められるものは手当たり次第に求めようと欲しているのだろうか。人によりけりなのではないか。何も求めていないわけではないのだろうが、すべてを求められないのはわかりきったことだから、ほどほどのところでやめておくのが常識的なところだ。だがやめるとはどういうことなのか。プロスポーツなら引退ということか。

 そうでなければなんなのか。あとはどうなろうと知ったことではない場合もありうるだろうか。とにかくやりたい放題好き勝手にやりたいというのが本音だろうか。誰もがそんなことができるわけではなく、なんらかの競争に勝ち抜いた一握りの者たちが、好き勝手にやっていいルールでもあるのだろうか。誰がそれを望んでいるのか。それでもそこで何がやられているのだろうか。たぶんいろいろなことが試されているのではないか。何がうまくいくのかわからないから、一通りできる限りのことがやられているのかもしれない。そしてうまく行ったことが継続されて、うまくいかなかったことがそこで途絶えるわけだ。人がやっていることはそんなことの繰り返しだろうか。それ以外の何ができるというのか。絶えず新たに何かをやろうとしているのではないか。何かをそこで試しているわけだ。そしてそれについて語ろうとしている。その未だ定まっていないことについて語ろうとしている。それは語る対象ではないのかもしれない。すでに評価が定まっていることなら容易に語れるのかもしれず、ほかの誰かが語っているように語れば、それらしいことを述べているようになるのかもしれないが、誰にとっても新たなことについて語ろうとすると、どう語ればいいのかわからなくなってしまうだろう。しかし新たなこととはなんなのか。人間社会の中にまだ誰にも知られてない未知の事柄があるだろうか。すでに知られていることだけなら、もはや何も語る必要はないのではないか。でもすでに知られていることを、誰かがすでに語ったように語れば、誰もが安心するのではないか。人は自分の知っていることを他人が話すのを聞いて安心する。誰もが望んでいるのはそのような語りか。

 だが誰かが語っているように、誰もが知っていることを誰かが語っているとすると、他にどのような語りがあるのだろう。その都度新たな語り方を発明しなければならないのではないか。これまでとは違うことを違う語り方で語らなければならない。そういう語り方も求められていることだろうか。誰が求めているのだろうか。何かを知りたい好奇心が求めているのだろう。何か他人とは違うことを知りたいと思うわけだ。他人の知らないことを知って他人を出し抜きたいのか。それもなんらかの競争心がそうさせるのだろうか。他人に勝つためには他人の知らないことを知っておく必要があるわけか。それだけではないだろう。これまでとは違う生き方をしたいのではないか。そのためには他人とこれまでとは違う関係を築きたいのではないか。あるいは他人と無関係でいたかったりするのだろうか。自分一人だけでなんとかなる方法を模索しているのかもしれない。あるいは自分一人だけ生き残りたいのだろうか。だがそのためには方法を語ってしまってはまずいのではないか。やはり何か語るとなるとなると、語りかける他人がいることを期待して語るのだろうから、語りは他者との関係を前提としているのではないか。他人に何か伝えたいのであり、伝えることによって他者との関係を変えたいのであり、広く社会を変えたいのではないか。語ることによって自分も変えることも含めて、たぶん世界を変えるために語りたいのかもしれず、それは意識するしないに関わらず、預言や予言の類いを目指しているのだろうか。


3月28日「悲観論と楽観論」

 今は何かの途中の段階なのだ。過渡的な状態と言えるだろうか。すべてがそうなのではないか。でも定常状態というのもあるにはある。過渡と定常を区別する必要があるだろうか。それらを使って何を語るかにもよるのではないか。では何を語りたいのだろう。広い意味では今が定常状態なのだろうか。世界中で国家の力が拮抗していて、そこへ新たな国家が参入する余地がなく、旧来の国家も表立って武力で隣国を侵略できずにいる。各国家間で同盟が結ばれ、またほとんどの国家が国連に参加していて、そこで国家間の紛争を巡って話し合いが行われる。人間社会は国家のレベルではうまく機能しているのだろうか。企業的なレベルでもうまく機能していて、多くの人々が企業に雇われることで賃金を得て、商品を購入しながら暮らしているのではないか。では何が問題なのだろうか。そういうレベルではなんの問題もないわけか。たぶん生きて行けない人が出て、餓死する人がいようとそれはごく少数なのかもしれず、世界にとってはそういう人たちも織り込み済みで、人間社会はそれなりにうまく機能していると言えるわけか。だがそれは昔からそうなのであり、今まで人類が滅亡してこなかったのだから、そういうレベルではうまくいっているわけだ。

 では人間社会を今まで以上にうまくいくようにしなければいけないのだろうか。そのために様々な人たちが知恵を出し合って、うまくいくやり方を模索しているのではないか。現状に異議を申し立てる人たちも後を絶たず、すべての人たちが納得できるような生き方を目指して、多くの人たちが社会を改善するために努力している最中なのだろうか。そういう意味では今は人間社会が改善されつつある過渡期なのだろうか。これから多くの人たちの努力が実って、より良い社会が実現されようとしているわけか。そうなることを多くの人たちが願っているのだろう。実際にその兆しを感じ取っているのだろうか。それとも現状では悲観的な意見が多数派を占めているのか。悲観的な人たちにとっては、現状の何がいけないと思っているのだろうか。日頃から彼らが批判している特定の政治勢力が国家の権力を握っているのが気に入らないわけか。それは選挙でそうなったわけで、多くの人々がそれらの政治勢力に投票したからそうなったわけだ。彼らは人々のそのような投票行為に逆らって、自分たちの主張を訴えかけていて、選挙では自分たちの支持する政治勢力に投票するように呼びかけているのだろうか。そういう人たちもいるのだろう。中にはそれとは違うことを考えている人たちもいるわけか。

 現状のままでもいいと思っている人たちもいるのだろうか。権力を握っている政治勢力の支持者たちはそう思っているわけか。人にもよりけりなのではないか。他に支持する政治勢力がいないから、消極的に支持しているのだろうか。中にはそういう人たちもいるのではないか。国会内の与党もダメだが野党もだらしない、という紋切り型的な見解で妥協しているわけだ。たぶんそれでもかまわないのだろう。そういうどっちつかずの人たちがいるおかげで、急激な改革にブレーキがかかっているわけか。でも今権力を握っている政治勢力が急激な改革をやろうとしていて、その改革が危険だと反対勢力が批判しているのではないか。それが本当に危険な改革なのかどうかは、また人によって見解が分かれるところかもしれないが、彼らは何をやろうとしているのだろうか。戦後政治の総決算か。それも彼らの宣伝文句の一つでしかないのだろうが、具体的には憲法を改正して、軍隊の存在を正当化できるような憲法の内容にしたいのだろう。要するに平和を守るためには軍隊が必要なわけだ。彼らにしてみればそれがごく真っ当な認識なのではないか。武装しなければ国家は守れない。それはその通りなのだろう。だが憲法を作った人達は、そうではない理想を憲法に込めたわけだ。そのきれいごとの理想論が気に入らない人たちが、今の政治的な権力を握っているわけだから、彼らにしてみれば当然それを改めたい。だが憲法も言葉の連なりでしかなく、一つのフィクションには違いないのだが、そのフィクションをどれほど現実に近づけるかについても、人によって認識に差があり、意見も見解も違ってくるだろうか。


3月27日「誰も気づかないこと」

 現状の中で気づかないことはいくらでもあるのではないか。それは何が邪魔をして気づかせないようにしているわけではなく、単に気づいていないのだ。気づきようがないのかもしれず、それに気づいてしまったらかえってまずいのではないか。何がまずいのかはそれに気づいた時点でわかることだろうか。だが気づいてなお、何がまずいのかもわからないのだとしたら、果たしてそれに気づくことがあるのだろうか。そんなことがわかるとは思えないが、現状でそれに気づくとも思えない。いったい何に気づけばいいのだろうか。それがわかれば苦労はしないだろうし、苦労していなくても気づいていないのではないか。とにかく何かに気づかないまま、人は延々と死ぬまでは生きているらしい。そして生きていればそこに存在しているわけだ。何に気づけばいいのかわからないまま、とりあえずそこで生きて存在しているらしい。生きていることに気づき、そこに自らが存在していることに気づいているのだろうか。気づいているのではなく、知識としてそう理解しているのではないか。そして理解して納得しているわけだ。

 気づくのと理解し納得するのとではどう違うのか。気づくのはそういうことではない。気づくとしたらもっと思いもよらぬことだろうか。合理的なことではなく、感覚的なことなのではないか。ならばそれに気づいたところで何がどうなるわけでもないか。でも思いがけないことに気づいて驚くことは確かだ。気づいたときには驚くかもしれないが、気づかなければ焦れったくなり、なぜそんなことに気づかないのかいぶかしく思うかもしれない。ではなぜそんなことに気づかないのだろうか。そんなこととはどんなことなのか。それに気づけばそんなことがわかるわけだ。気づかなければいつまで経ってもわからずじまいで、周りの人間が気づいていたら、それこそ彼らが焦れったくなることもあるだろうが、気づいていない当人は、いたってそんなことには無関心か。たぶん何に気づこうともせずに、のんきに暮らしているのかもしれない。そんな成り行きや状況を想像することはできるだろうか。要するにそれに気づくか気づかないかは、そういう成り行きではそれほど致命的なことにはならないわけだ。それとは別の状況では、それに気づかないことが何か深刻な事態を招くかもしれないが、時と場合によって、成り行きや状況と結果はその都度違ってくるのではないか。

 現状では何に気づいていないことが、深刻な状況を招いているのだろうか。そもそも現状が深刻な状況なのだろうか。深刻な状況とはどのような状況のことをいうのだろうか。例えば戦争が間近に迫っていると多くの人が危機感を募らせているのが深刻な状況だろうか。あるいは原発事故に伴う放射能汚染が深刻な状況なのだろうか。どちらも深刻な状況だとすれば、危機感を募らせていない人たちは、その深刻な状況に気づいていないわけだ。中にはそれらが悪質なデマだと否定している人たちまでいるわけで、そういう人たちに言わせれば、デマを流しているのは反日危険分子であり、彼らの存在こそが日本を危機に陥れるような深刻な状況をもたらしているとなるのだろうか。対立するそれらの人たちのどちらが何に気づいていないかは、もうしばらく経ったら明らかになることだろうか。あるいは何に気づくこともなく、双方ともに延々と危機感を募らせながら、その深刻な状況の中で悶々とした日々を送るのだろうか。要するにいくら深刻な状況だろうと、その中で人は生きている間は存在していて、死ねば存在しなくなるだけだろうか。そして人は自らが生きて存在しているらしいことを、知識として理解しているわけか。

 彼らは何に気づいていないのだろうか。それは彼らにとっては思いがけないことなのか。それは人類の終末が間近に迫っていることか。あるいはすでに第三次世界大戦が始まっていることか。どちらにしてもそれほど思いがけないことではなく、もうすでに方々で予言されてきたことで、いつそうなってもおかしくないことなのではないか。だからそれらはもはや気づく気づかないの問題ではなく、そうなってしかるべきことだろうか。ならば他に気づいていないこととはなんなのか。それは気づいても気づかなくてもいいような些細なことなのではないか。たぶんいつかどこかで誰かが気づくのだろうが、気づいたところでそれがニュースになるわけでもなく、ほかの誰も知らないだろうし、知り得ないことかもしれず、ふと気づいてまたしばらくしたら気づいたことすら忘れてしまうようなことかもしれない。人が気づくことなどたかが知れていて、気づかなくてもいいようなことを年がら年中気づいていて、いちいち記憶に止めておくことなどないのだろうし、中にはいったん気づいたことをすぐに忘れて、またしばらくしたら以前に気づいて忘れたことをもう一度気づき、前にも一度気づいたような気がするわけだ。そうしたレベルでは何に気づこうとどうしたわけでもないのだろう。


3月26日「賞賛と非難」

 そうではないと思いたいのだろうが、現実の中に存在していることは確かだ。何が存在しているのだろうか。すべてが存在しているのではないか。すべてとは何か。たぶんそれがすべてなのだろう。それは循環論的な逃げ口上だろうか。語る対象をすべてからある特定の事象に絞り込まなければ、何も語れないだろうか。何かしら語れることは確かだろうが、語る対象が定まらなければ内容が取り止めがない。だから語る対象を定めるべく、何がすべてなのかを明らかにしなければならない。だがすべてとは何のすべてなのだろうか。それが問題となっているのではないか。すべてがなんなのかを知りたいわけで、何のすべてなのかも知りたい。要するに語る対象がすべてなのではないか。この世のすべてが語る対象となっている。語り得る限りそれらを語らなければならない。人はすべてを語ろうとして果たせない。語るのが無理なのにその無理についても語らなければならない。そんなことがあり得るだろうか。たぶんありえないと思ってしまうわけだ。現状ではそう思うしかなく、すべてを語り得るわけがない。

 そしてたぶん語ることがすべてではない。人の行為の一部が語ることであり、他に様々な行為があり、それらの行為のすべてを語ることはできない。だが語れる限りは語ろうとするのであり、人は絶えず人が行っていることについて語ろうとする。語ることによって何かを他の人に伝えようとしているわけだ。人の行っていることを伝えようとする。それが素晴らしい行為なら賞賛し、酷い行為なら非難するのだろうが、それだけではなく、やはりそれがすべてではないわけだ。賞賛とか非難とかいうのとは違うことを語ろうとしているのかもしれない。そのどちらでもないことを伝えたいのであり、語ることによって伝えようとしているのではないか。人のその語っていることに耳を傾けなければならず、文章から読み取らなければならないのだろうが、現実にはなかなかそうはならず、賞賛や非難に気を取られ、物事を単純化して捉えようとしてしまう。それ以外は聞く耳を持たないし、読み取る能力もない。現状がどうにもならない事態を招いているとすれば、それは人のやっていることに対して多くの人たちが、賞賛や非難の言葉しか持ち合わせていないことにあるのかもしれない。

 それがすべてだと思うなら、その通りの世界しか認識できないということだ。ではそれ以外に何があるのだろうか。人はなぜそうするのだろうか。そうではなく、人はどのようにしてそうするのだろうか。いかにしてそう行動するのか。どのようにそれらの行為を賞賛したり非難したりするのか。それは語り得ることだろうか。それを語ろうとしているのではないか。それがすべてだとは思わないが、語り得ることの一つとしてはそういうことなのではないか。そこで拙速に良いか悪いかを判断するのではなく、人がどのように行動し、そこで何を語っているのかを伝えだけにとどめ、ひたすらそのように伝えることだけに終始すればいいのだろうか。たぶんそれがすべてではないのだろうが、そこにとどまるのは容易ではないのかもしれず、そういうことはほとんど語らず、すぐに非難の言葉が先行しがちになり、独善的に他人の行為を糾弾して、聴衆や読者に同意を求めようとしてしまうわけか。そうなってしまうと単なる扇動者と成り果て、他人の行為を非難すること以外に、語っている内容にさしたる意味はない。もしかしたらそれこそが無意味な行為であり、それではすべてどころか、何も語っていないことになりかねないのではないか。

 他人の行為に対する賞賛や非難はいらないのだろうか。他人の行為を認めたいなら賞賛するだろうし、認められなければ非難するだろう。ただそういうことだ。そしてそれがすべてではないということであり、それ以前にそれ以外のことを語らなければいけないのかもしれない。語る必要があり、語ることで知識や情報を他人に伝達できるわけだ。賞賛や非難よりそちらの方が重要なのではないか。人がどのような状況で何をやってきたかを伝える必要があり、人はそのような知識や情報を受け取った上で、今後何をやるべきか行動の指針となるわけだ。では何かを伝える側に賞賛や非難はいらないということか。そうではなく、情報を受け取る側に、それらとは違う何かを感じ取る必要があるということか。伝えようとする側の賞賛や非難とは別の意図を感じ取らなければならない。そのような言葉を発する側は、自分と同じ意見を受け手側も共有し、共感し同意して欲しいわけで、要するに自分と同じ価値判断を持って欲しいわけだ。そう述べている時点で情報の受け手側の自由を奪いにきている。同じ価値判断を強要するとまではいかないにしても、言葉によって説得しようとしていることは間違いなく、悪い言い方をするなら洗脳しにかかっている。だから情報の受け手側は、そこに賞賛や非難の言葉を見つけたら、注意してかかる必要がある。


3月25日「国粋主義とリベラリズム」

 人は今ある枠組みの中で何かを主張することを強要されている。そうとは感じられずにそれが当然だと思ってしまう。だから右翼とか左翼とか特定のイデオロギーの範囲内にその思考が収まってしまうわけだ。人がその属している国家に縛り付けられているとすれば、それはそのような作用を及ぼされてそうなっている。実際にそれが当然だと思っているのだから、その枠組みを超えて思考することができず、その中で限られた主張をする以外にはあり得ない。それ以外に何を主張できるだろうか。したところで枠組みを逸脱した主張は無視されるしかないのではないか。

 そもそも主張する必要がないのではないか。決められた枠組みの中で賛成と反対の対立を軸として、両陣営に別れて議論するために主張するのであって、それ以外の主張は議論にならならないから、主張しても無駄なのではないか。だから何かを主張しようとする者は、あらかじめ決められた枠組みの中に入って、そこで議論されている主張に賛成するか反対するか、そのどちらの陣営に入るかを求められ、その陣営に入ってからでないと、まともに取り上げられる主張などできない制度になっているのかもしれない。だからそれ以外の主張などはなから無視されて当然なのだろうか。

 それは違うのかもしれない。人は積極的にそれらの予定調和の枠組みを超えたことを主張して、枠組みそのものを破壊しなければいけないのかもしれない。そして多くの人がそんな枠組みなどくだらないと思うように仕向けなければならない。そのために外れたことを主張し続ける必要があるのだろう。実際にそれらがくだらないと思うならそうするしかないわけだ。そう思う人たちが多ければ多いほど、それらの枠組みが崩れ去る可能性も大きくなるわけか。意図してそれを目指していなくても、それらがつまらなく思えたら無関心になるし、実際につまらなければ廃れるだろうし、何よりも必要がなければなくなってゆくのかもしれない。

 ではもはや右翼も左翼も必要がないと言えるだろうか。たぶん世界が各国に分裂している限り、それらの国家を維持するためには右翼と左翼の存在が欠かせないだろう。右翼の国粋主義と左翼のリベラリズムが、国家に人々を惹きつけるアイテムとなっている。国粋主義は国威発揚によって国民としての自尊心を高め、リベラリズムは福祉によって人々を国家に依存させる。その両輪がうまく作動することで国家を成り立たせているわけか。うまく作動するには経済的な繁栄が不可欠だ。よその国より繁栄することが国威発揚となり、国家財政を潤わせることが福祉の充実に繋がるわけだ。そのためには国家が国内の産業を保護し、他国の産業との競争に勝ち抜かなければならない。

 国家と資本主義との結びつきはそこにあるのだろうが、国内の産業がうまく機能せず利潤を生み出さなければ、国威発揚もままならず、国家財政も潤わず、それでも国家を維持しようとすれば、国民の不満を抑え込むために、北朝鮮のような独裁体制を築くしかなくなり、そうなると国家が人民を支配し搾取ている実態があらわとなるわけだ。民主的な政治体制のもとでも、国家は人々を支配し搾取しているのだろうか。たぶんそれは程度の差で、支配や搾取の度合いが低ければ、人々はそれを感じないわけか。そのためには主権者が国民であることを明記した憲法や、国民の誰もが立候補や投票ができる議会制度や、言論や報道の自由を保証したり、行政立法司法の三権分立などの制度が必要なのだろう。

 民主的な国家では建前としては、それらの制度が成り立っているはずなのだが、それはあくまでも建前としてであり、軍事や経済などの様々な事情で国家そのものに余裕がなくなると、それらを制限しなければならなくなるのだろうか。要するに国民の国家に対する不満が増大するとそうなるわけだ。日頃は政権に対する批判が許されているマスメディアなども、国家を維持するために協力的になり、民衆を扇動するような政権批判を自粛するようになり、そうすることで産業としてのメディアの利益を確保しようとするのではないか。そしてそれらのメディアに広告を出している他の産業とともに、一致団結して国家に協力することで、企業としての権益や利益を守ろうとするわけか。そうやって国家と産業界が連携して、国民の不満を封じ込めようとしているのが、今の現状なのかもしれず、そのような力に屈して迎合するにしても、反発して抵抗するにしても、まずは国家ありきの思想が対立する両陣営に根底にあることは確かだ。


3月24日「快と不快の内容」

 すべてを語ることはできない。誰もすべてを語ろうとも思わないのではないか。すべてとはこの世のすべてだ。すべてを把握するわけにはいかない。では何を把握しているのだろうか。何も把握できないわけではなく、把握したことについて語ろうとする。では誰が語ろうとしているのか。そこが問題なのだろうか。問題が何もないとは言えず、何かしらそこに問題がありそうだ。現状のただ中で生きている。誰が生きているのだろう。いろいろな人たちが暮らし生活しているのだろう。そういうことでしかないが、それ以上に何があるわけでもない。想像することはできるが、その過剰な想像力はフィクションしかもたらさない。あえてフィクションを求め、もたらされた虚構の中に身も心もうずめ、人は快楽に浸っているのだろうか。人とはなんだろう。言葉にすぎないことはわかっている。

 だがたとえフィクションだろうと、この世界の中で思い描いているわけで、そこになんらかの真実が宿っている。では真実とはなんだろう。フィクションを思い通りに描きたいという願望か。話を自分が望む結末に導きたいわけだ。そのような結果に至りたいから、人は何かを語ろうとするのではないか。その何かが自分の願望なのだろうか。しかし自分の願望とは何か。何をどうしたいのだろうか。言葉を操りながら話の結末へと、その言葉の連なりを導くことが願望なのか。文章とはそうやって構成されるものなのか。だがなんの話をしているわけではない。何について語ろうとしているわけでもなく、ただあてもなく言葉を記し連ねているだけではないのか。そう読むならその通りだろう。たぶん自意識はそれ以上を求めていて、そこになんらかの内容が記されていることを期待する。その期待通りに文章を構成したいわけだが、うまくいかないことが多い。あてがないのにあてが外れているのではないか。記す対象が見当たらないことに気づいてしまうわけだ。

 では文章によって何を伝えようとしているのか。伝えるべき内容がないというのはおかしいだろう。でもそれは伝えるべきではない内容が伝わっている可能性もある。意図して記した内容とは違う別の意図を文章が生み出しているわけだ。それを読むとそう読めてしまう場合もありうる。何かが読む者の意識と共鳴しているのだ。だがそれが何を意味するとしても、読んでいるのはただの文章に違いなく、そこには記された言葉が並んでいるにすぎない。そこから何を読み取ろうと読む者の勝手だろうか。勝手には違いないが、果たして読者の願望通りに読み取れるのだろうか。読者は自らの願望が読み取れる書物を探しているのではないか。作者の願望と読者の願望を一致させるように文章は構成されるべきなのか。誰もが望む内容が文章によって示され、それを作り出し提供することによって読者を喜ばせるのが、流行作家と呼ばれる人々だろうか。漫画家もその範疇に入りそうだ。それ以外に何が求められているのだろうか。

 人から求められていない内容を記すべきではないのか。読む者を不快にさせ、不快にさせながらも読ませる内容が、人を変え社会を変える文章となるだろうか。だが実際にそんな文章がどこに記されているというのか。たぶんどこにもありはしないだろうし、誰もそんなものは記せない。そういうことにしておきたいのではないか。実際はそうではなく、快も不快もどちらもすべての文章の中に含まれている。文章は人の思い通りには記されていないし、しばしば人の願望を裏切るような内容が記される。また願望とは無関係な内容も記されているだろう。いちいち他人の願望などに気を使っていられないのかもしれず、記すべきと思うことがあればそれを記そうとするわけで、記すことができるかどうかはわからないが、とにかくそれを記そうとして文章の構成を試みる。では何を記すべきかわかっているのだろうか。その理由を意識できればわかるのではないか。理由とはなんだろうか。要するに世の中が不快な事柄で満ち溢れているから、そこから逃避するために、自らの願望が投影されたフィクションを記そうとするのだろうか。


3月23日「思想とは何か」

 偶然の巡り合わせで思わぬ成り行きに巻き込まれてしまうのはよくあることか。そのほとんどが思い通りになるわけではない。思い通りになるならないとは無関係な成り行きの中で生きているわけだ。生きていなくてもかまわないのであり、作り話の中に出てくる架空の登場人物であってもかまわないわけだ。いったい何がかまわないのだろうか。人が思い描く人の行動がそうなのか。小説でも読めばそんな感慨を抱くのか。たぶんそれを想像しているのだろう。小説など読まずに、誰かが小説を読んでいる人を想像している。それを文章にすればフィクションとなるらしいが、その誰かが文章を書いている人物である必要はなく、他に何を想像していようとかまわない。文章を構成することも、何かを生産していることになるのかもしれない。それ特有の思考を産出していることになるのか。少なくともそれを記している人の思考の一部をなしているのだろうが、例えばその人が読んでいる書物から影響を受けているとすれば、書物から得られた思考も含まれるのだろうか。ところで思考とは何か。思考と思想はどう違うのか。思考が定まればそれが思想となるのだろうか。思想も時の経過とともに移り変わってゆくのではないか。しかし思想があるとして、それが書物の中に定着されているとしても、その思想を利用して何ができるというのだろう。人を動かすことができるわけか。そこになんらかの思想があり、それが多くの人々の賛同を得たり共感を得たりすれば、その思想が世に広まり、思想が理想とする世の中が実現するのだろうか。ではそんな状態を夢見て、人は自分が理想とする思想を編み出そうとしているわけか。人にもよりけりだろう。中には他人をその思想に染め上げようとしている人もいるのではないか。洗脳したいわけか。しかしどうやれば洗脳できるのだろうか。いわゆる自己啓発セミナーとか開いて受講者を集めるわけか。でもそれでは思想を広めながら一方で受講料を取り、金を集めようとしているのではないか。別に金目的で思想を広めることがいけないわけでもないが、やはり思想を編み出すことが自らの利益と結びつかなければいけないだろうか。

 ところで肝心の思想の中身は具体的にどのような内容となるのだろう。フィクションの中で架空の人物が思考を集中して独自の思想を編み出すにしても、その内容が説得力を持たなければ、作り話としても魅力を感じられないだろう。では言葉を記す者は何か魅力的な思想を思い描きたいのか。それが現実の世界でも魅力的な思想であるべきなのだろう。それはどんな思想だろうか。その思想が世の中に広まれば、それに共鳴した人々に利益がもたらされるような思想だろうか。ならばそれとは何か。にわかに都合よくそんな思想を導き出せるわけもなく、結局そこで行き詰ってしまうわけか。答えを出せなければ、そこまで語ってきた意味がないだろうか。答えとはなんだろう。万人に利益をもたらす思想などあり得ないのではないか。物や情報の交換からしか利益が出なければ、交換によって一方が利益を得れば、もう一方が損害を被ることになるだろうか。両方が得をする状態というのはあり得ないだろうか。一方がいらないものをもう一方が必要としていれば、両者ともに交換によって得をしたと思うのではないか。それが生活必需品なら合点が行くかもしれないが、奢侈や娯楽のための品だと、思うだけで本当に必要かどうかはわからない。そして魅力があるのは生活必需品よりも贅沢品の類いであり、もしかしたら思想の類いも人間にとって本当に必要かどうかは疑わしいのかもしれない。ただ食って寝て働いて生殖活動をするだけなら、思想などいらないのだろうが、人はなぜ思想を求めるのだろうか。それが贅沢品で魅力があるからか。少しでも人生を楽しくおもしろおかしく過ごしたいのなら、余暇と娯楽があればいい。何か立派な行いや発言をして他人から尊敬されたいわけか。そのための道具が思想となるだろうか。どうもそういう功利的な価値観と思想とは無関係のような気がするのだが、では思想はなんのために必要なのか。たぶん何かを深く考えたいのではないか。思考することで物事の道理を見極めたい。その道理を含んだ考えが思想となるだろうか。それは利益に結びつくつかない以前の段階で、なぜそうなるのかを知りたいわけだ。人はなぜ思想を求めるのかを知りたいわけで、そのなぜ求めるのかを説明するのが思想の類いだろうか。しかしそれで思想を説明したことになるだろうか。その説明自体が思想だとは思えないのだが、ではなぜそう述べてしまうのだろうか。やはりその辺で安易に答えは出てこないのかもしれず、その答えを探求する行為から思想が導き出されるのだろう。


3月22日「人が変われば世界が変わる」

 結局人が変わらなければ世界も変わらない、というありふれたことを述べたいのか。だが人が変わるには周りの環境が変わらなければならない。そのためには戦争をやって殺し合い、人類が絶滅寸前にまで追い込まれる必要があるわけか。そんな話もありふれているのではないか。では何を予想したいのだろうか。どうせ都合の良い願望が予想や予言に反映されるのだろう。要するにそこまで語ってもありふれた話の域を出ないわけだ。以前からある同じような話の成り行きになるしかないらしい。たぶん意識はそこから抜け出したいのだろうが、なかなか抜け出せずに同じところで話がぐるぐる回るばかりのようだ。だから予言や予想では限界があるのだろう。以前から語られていること以上には語れないわけか。たぶんそのようだ。だからそこから抜け出るには、それとは別のことを語らなければならない。ではそれが語れるのだろうか。語れないから誰も語らないのではないか。語る必要さえないのかもしれず、語るとすれば予言や予想や、あるいは過去の出来事について語っていればいいのかもしれない。他に何があるのだろうか。例えば未知の何かについて、それについての知識もなしにどう語ればいいのか。その辺で考えあぐねているのだろうか。とにかくそれ以上は何も語れないところまで語らなければ、何を語ったことにもならないということか。何を合理化することも正当化することもできはしないが、現状では今まで通りにまずは過去を語り、過去から導き出された経験をもとにして、未来を予想しながら語るしかないのではないか。それでは結局今まで語ってきたことと同じような内容となるしかないのだろうか。

 過去と言っても、例えば他の旧人類とは違う現生人類の生物学的な特徴を云々しても意味がないだろうか。見当はずれなのは承知で、そこから何を述べようとしているのか。何も述べられないとすると、ではどれくらい昔の過去から語れば、未来へと繋がる話を導き出せるのだろうか。しかし繋げようとする未来とはいつのことなのか。地質学的な未来となると、あと20億年もすれば地球の内部コアが冷えて固まり、地球の磁場が消えて太陽風によって大気が剥ぎ取られ、海水も地中に染み込んでなくなり、地球の表面は今の火星のように冷えて乾燥した死の世界となるらしいが、今生きている人類にとっては、それがどうしたわけでもない。意識してわざとそう語っているのかもしれないが、今からあまりにかけ離れた過去も未来も、今語りたいことから大幅に外れた対象でしかないだろう。今生きている人間にとっては、そのような過去でも未来でもどうでもいいことにしかならないのだろうか。そう語ればそうかもしれないが、今から少し前の過去と少し後の未来についてなら、要するに自身が生きている間やその前後数十年ぐらいのことなら、少しは興味を持てる話となるわけか。興味を持ったところでそれをどう語るつもりなのか。

 人々はこの世界の中で何を求めているのだろうか。求めているものやことなど何もないと言ったら嘘になるだろうか。意識の中では何かを求めているとしても、実際に手に入れたものやことがあろうとなかろうと、それとこれとはまったくの別物だろうか。たぶんそれが同じだと思いたいのではないか。そして実際に同じものやことだと思っている。人は思っていることとやっていることが違い、手に入れようと思っているものやことと、手に入ったそれとは違うことを意識できない。だがそれは本当に違うものやことなのだろうか。絶対に同じだと言い切れるかどうかは自信がないにしても、少なくともそれらは似ても似つかないものやことではなく、同じようなものやことではあるのではないか。例えば民主主義とはなんだろう。今世界各地の民主的と言われる国々で実現している政治的な制度が、果たして真の民主主義なのだろうか。それが真であるか偽であるかは、それを支持している人たちと支持していない人たちとでは、正反対の認識かもしれないが、とりあえず普通の選挙で選ばれた人たちが国を代表する議会の議員であったり、政府の代表者であったりする国は、民主的な制度が備わっていると判断されるのではないか。いわゆる西側先進国や新興工業国などではそういう制度が採用されているはずだ。現状で実現しているそれらの制度以外に何があるというのか。不満を持っている人たちは理想と現実の落差を感じている。彼らからすればひどい政治家や政党が選挙で選ばれ、政権を担当しているわけだ。普通に選挙をやった結果がそうなっているわけで、その結果が気に入らないのだとすると、それは無い物ねだりもいいところなのだろうか。彼らからすればそこには民主的でないなんらかのカラクリがあり、そのカラクリを利用してひどい政治家や政党が国の政治的な実権を握っているということになっているわけだが、果たしてそれは真実なのだろうか。その方面の憶測や推測によればそういうわけなのか。ではそれが真実だとすると、どのようにすれば不正なカラクリを打ち破って真の民主主義を確立できるというのか。結局は人が変わらなければ世の中も変わらず世界も変わらないというのなら、なんともやりようがないということになってしまう。


3月21日「政治と経済」

 利益とはなんだろう。金銭的な利益ならわかりやすいが、他に利益があるとは思えないだろうか。とりあえず人は利益を求めているようだが、他人から利益を奪うことでしか利益を得られないのだろうか。何かを生産してそれを売ることで利益が得られるはずだが、材料を買うか採取して、手に入れたものを加工して何かを作り出し、その何かを売ることによって利益を得られるわけだ。加工しなくても取ってきた原材料をそのまま転売したり、自分の労働力を企業に売ったりする場合もあるのだろうが、とにかく何かを売らなければ利益を得られないわけだ。それ以外では利益を得られないだろうか。人が行っている経済活動とはそんなものだろうか。単純化したらそうなるのだろう。自給自足以外では商品を買わないと生きていけないから、買うためには金が必要で、金を得るためには商品を売らないと金が入らない。何かを売って金を得て、その金で必要な何かを買うわけだ。常識的にはそういうことだが、売って金を得るのではなく、他人から金を奪うやり方もあるわけで、要するにそういうやり方は違法行為なわけだろうが、物乞いなどをして金をもらうというやり方もあり、坊さんの托鉢も物乞いの一種なのだろうが、なかなかタダで金を恵んでくれる人はいない。人間社会の中で一人では生きて行けない理由はそんなところにあるのだろう。何かしら他人と関わりを持たないと金を得ることができず、金を得ないと必要なものが買えず、買わない限りは手に入らないわけだ。そして何かを売らない限りは物を買う金が手に入らない。資本主義がなんだかんだいっても、小難しい屁理屈をあれやこれや述べてみても、実際にやっているのはそんなことでしかない。そのものの売り買いをどう変えることもできないから、現状の資本主義市場経済があるわけだ。考えればそれを克服する手立てを思いつけるのだろうか。これまでに様々な人たちが考え、様々な手立てが試されてきたのかもしれないが、どれも一向にうまくいかなかったようで、相変わらずものの売り買いが人間社会の基本的なルールとなっている。ならばこれからもそのルールのもとで人は暮らして行くしかないのだろうか。他に贈与とか強奪とかあるのだろうが、どう考えてもそれらよりは物の売り買いの方が人を納得させるやり方のようだ。

 もちろん人身売買とかは納得できないやり方のようで、それは法律で禁じられているわけだが、一方で労働力の売買はおおっぴらに認められていて、そのほかに売るものがなく、労働力を売らないと生きていけない人たちが、企業などの労働力を買う側との間で、不当に安く買い叩かれているような疑念を売る側に抱かせ、不満や不平等感を生じさせているわけだが、それも需要と供給の関係で、企業が成り立つためにはそこで働く賃金労働者が必要で、賃金労働者が普通に暮らして行ける程度には、企業は労働者に対して賃金を払っているわけか。たぶん建前上はそういうことになっているはずなのだろう。では政治家はそれらに関連して何をやらなければいけないことになっているのか。国内の景気を良くして企業に利益を上げさせて、労働者の賃金が上がるような政策を実行し、そしてそうなると労働者の支持が増えて、国会議員などの政治家は引き続き政権を担う立場でいられるわけか。要するに建前としてはそういうことであり、実際にそれらの政治家たちと懇意の主要なマスメディアも、概ね現状で景気が良くなっていて、政権の支持率も比較的高いし、大手企業も賃上げに前向きだと報じているのではないか。それでかまわないのだろうが、それの何が問題なのだろうか。それを批判している人たちは、実際はそうではないと言いたいのだろう。そしてそれ以外のことでも政権を担っている政治家たちを批判しているわけだが、根本的な疑念として、果たして政治と経済は関係があるのだろうか。たぶん国家を介して政治と経済は関係がある。もしかしたら国家がなければ政治と経済は無関係かもしれない。政治家が直接関係しているのは国家であり、国家があるから国民経済という分野があり、政治家は国民経済を良くしなければならない。たぶんそういう理屈なのだろう。しかし一方で国民経済は世界経済と結びついていて、政治家が何をやろうと世界経済が不景気なら国民経済も良くならないわけだ。経済的な鎖国をやっていなければそうなるだろう。結局国民も政治家もその辺でかなりの認識のズレがあるのではないか。もしかしたら議会制度を維持するために議員は必要だろうが、政治家という職業は不要なのかもしれない。


3月20日「なんの問題もない現状」

 誰の嘘を見破ったわけではない。ではそれが嘘だと気づかないふりをしているのか。嘘の他には何もなく、とりたてて嘘以外の何を信じているのでもないらしい。では尊王攘夷とかいう嘘を信じているのだろうか。後から思えば日本軍による真珠湾攻撃も、尊王攘夷の一環だったのではなかったか。そこまで考えた時点で心が腐りかけているようだ。そういう付け焼きの表現ではうまく状況を語れない。そこで何を語ろうとしているのか。期待を裏切りたいのだろうか。誰に期待されているわけでもないだろう。それ以前にどこかおかしい。自意識によって見出されたのは相変わらずの現状だ。集団による無意識の形成などあり得ないか。それについて語ろうとしているのだから、たぶんそれを意識しているのだろう。でもそれ以降は何も見出せない。あり得ない現象を思い描いているのではなく、体験しつつある今の時代の中で考えている。何十年もの時の経過を感じているわけだ。それでも特定の意識はそこから遠ざかれなくなっているのかもしれず、そこへ留まり続けることしかできず、とうに過ぎ去った時代に思いを馳せながらも、それ以外は何も思い浮かばずに考えあぐねている。その時点で何をどうすればいいのかわからなくなっているのではないか。要するにそれについて語らなければならないのだろう。語る方法が思い浮かばないのに、それについて語ろうとしているわけだ。語れないのに語ろうとするから考えあぐねてしまう。何を想定しても稚拙な言葉遊びに堕する。やはりそこに何があるわけではなく、ただの歴史的な出来事や現象の紆余曲折だけのようだ。それらの何が本質的な出来事というわけではなく、歴史的な主体を見出す必要もないのではないか。形式的には国家が存在するのだろうが、国を歴史的な主体に据えて語ったところで、あるいは国の中心となる主導者的な人物について語ったところで、それ自体は物語的な内容となるだけで、そんな物語なら他にいくらでもあるし、そういうジャンルも確立されているだろうし、そちらの方面の書物でも読めば事足りるわけだ。しかし他にどう語ればいいのだろうか。そうなるのを避けようとするだけでは何も語ったことにならないのではないか。だからその辺で考えあぐねてしまうわけか。だがそれでは語れないことについての、まるでとってつけたような言い訳となってしまいそうだ。やはりどうやら無意識のうちにそこから逃げているらしい。

 結局その手の歴史的な経過から何を導き出そうとしているのでもないようだ。戦争などというありふれた現象では説明できないことがあるのかもしれない。ありふれた煽動家がよくやるように、戦争を持ち出して危機感を煽る行為も、そればかり主張していると狼少年的な紋切り型に堕する。現状の何が問題なのだろうか。何も問題であるわけがないだろうが、冗談として現状の何も問題ではないとすると、いったい現状の何について語ればいいのだろう。いっぺん現状の何も問題でない場合について考えてみなければならないのかもしれない。たぶんこれでいいとみなして考えなければならない。皮肉でもなんでもなく現状を肯定してみよう。そんなことができるだろうか。実際に肯定しているのではないか。否定する要素など何もないから肯定しているわけだ。それが嘘だとは思えない。誰の嘘など見破る必要もなく、嘘だと気づかないふりをしていればいいのだろう。それが現状の肯定に結びつく。予言者いつでも近いうちに人類の滅亡を予言するだろう。今年か来年には滅亡しないと誰も騒ぎ立てないからだ。そうでなくても何か大惨事が起こることを予言しなければ予言者としては誰からも注目されない。だから近い将来において何か破滅的な大惨事が起こることが期待されているわけだ。それが必要であるから期待されているわけで、何事もなく平穏無事な未来が延々と続いてしまっては困るのだろう。そういうわけで逆説的には何かが起こるだろうと思いながら、今を過ごしていればいいのだろう。そんなふうにして今を今として過ごしている限り、現状ではなんの問題もない。それでは何かはぐらかされたような気になるだろうか。別に言い知れぬ不安に苛まれているわけでもなく、何か不可解な引っ掛かりを感じながらも、とりあえず今という時間があり、その時の経過に従って何かをやりながら生きているわけだ。それ以上でも以下でもなく、過ぎ去った過去の歴史を正当化するでもなく、今の現状と過去が地続きとも思えず、そうかといって何をやり過ごしているわけでもなく、ありのままの現状を受け止めているわけだ。現状は現状以外ではない。過去も過去でしかなく、過去と現在とが地続きであろうとなかろうと、過去が現状の何を揺るがしているわけでもない。過去に対する肯定的あるいは否定的な認識など、現状ではなんの役にもたちはしないだろう。何も問題とはなり得ず、それらはただの過ぎ去った現実と虚構とがないまぜになった記憶としか残らない。


3月19日「戦争と平和」

 国家的な覇権であれ経済的な覇権であれ、それを目指すどんな勢力にもそれ相応の不都合な事情というものがあり、そこを突かれて非難され、場合によってはテロの攻撃対象になっていたりするわけだが、そのような勢力によって抑圧を受けた側にしてみれば、やられたらやり返すような成り行きになるのは必然かもしれず、攻撃するのに暴力を用いるのはなるべく避けなければならないのだろうが、状況がなんでもありになれば、手っ取り早く暴力に訴える勢力が出てくるのはやむを得ないだろうか。それも武器を揃えるだけの財政的な余裕があればの話だが、いくら武装してもたかがしれていて、例えばアメリカなどの超大国の軍隊にはどうやっても勝てないだろう。その辺で抵抗運動の限界が露呈してしまうわけだが、要するに暴力だけではらちがあかないのであり、例えば人の心に語りかける言葉の力が何よりの武器となるわけか。相手を攻撃するための武器として言葉を使うのは気がひけるだろうか。気がひける以前に実際に批判や非難の言葉が、様々なメディアを通じて世界中で行きかっている現状があるわけだが、そういう方面でも一向に事態が改善する兆しが見えていないのではないか。それ以前にどうなれば改善するかで意見の分かれるところかもしれず、もしかしたら世界的に現状のままでも構わないのかもしれない。構う構わないは人それぞれの立場や考え方によって異なり、一概には判断のつかないところかもしれないが、果たして言葉の活用によって世界の現状を変えることができるだろうか。というか広い意味で人類の文明は言葉の活用によって成り立ってきたわけだから、これからも言葉を活用して事態を改善してゆかなければならないのだろうが、では具体的にどういう方面で言葉を活用して、何をどうしなければならないだろうか。そんなことはわかりきったことで、できる限りすべての方面で言葉を活用しなければならないわけだ。要するに人と人とが連携し協力し合うためには、他者の賛同を得るために言葉を使うわけだ。だが言葉だけでは無理で、例えば金銭的な見返りをもたらさないと賛同を得られないのではないか。でもそうなると贈収賄となるのではないか。そうなる場合もあるしない場合もあり、やりようによってはうまい具合に、合法的なやり方で金銭的な利益をもたらせるのではないか。でも具体的にここで何をどうしようというのではなく、ただ例えばの話で、そんなことを述べられるだけで、そう述べたからといって何がどうなるわけでもないだろう。言葉でそんなことを述べたところで、文章以外の何ももたらせないわけだ。

 しかしいったい世界の現状とはどうあるべきなのか。何か誰もが納得できる理想的な状況というのが想定できるのだろうか。それにはまずは戦争がなくなってほしいのではないか。これは誰もが思うところだろう。では戦争の原因を取り除くにはどうすればいいだろうか。現状としてはそれを取り除けないから戦争が起こっているわけだ。取り除くために努力しているのだろうが、今はその途上にあるわけか。そう信じるに足る証拠がこの世界のどこにあるのか。実際にどこかで武力紛争が起これば、世界各国の首脳や国連の関係者が非難声明を発している。建前では非難するしかないのだが、現実には武力紛争は武力でしか解決できないし、実際に武力で解決してきたのではなかったか。それが世界から戦争がなくならない原因であり、戦争をなくすために戦争をやらざるを得ず、今後ともそうなるしかないのかもしれない。そのような行為に終わりはなく、いつまでもどこまでも人と人とは互いに攻撃しあい、人類が滅びるまでその営みは続いてゆくのだろうか。それは実際に滅んでみないとわからないことかもしれないが、滅んだ後では人類が消滅しているわけだから、人類には確かめようのないことだろうか。そういう語り方が終末論的な思考をもたらすのだろうが、現状はそうではなさそうだ。人々は互いに争いながらも平和を求め、争いのない世界を夢想しているわけで、戦争しながらも、一方で戦争を起こさないための努力も欠かしてないわけだ。そしてどうすれば戦争を回避できるか、絶えずそのための模索も欠かさず、例えばその模索の一つとして日本の憲法9条のような、戦争を放棄する文言も国家の憲法に盛り込んでみたのだが、国家的な価値観を推し進める側にとっては、それがなかなか受け入れがたい内容であったりするわけだ。


3月18日「民主化という幻想」

 単純に宗教=神ではないようだ。宗教=金であったり宗教=国家であったり宗教=民族であったりするかもしれないが、そういう粗雑な単純化では何を語ったことにもならないか。では宗教とは何か。そんなのはいくらでも数限りなく定義が可能だろうか。例えば中国当局が、チベット仏教の寺院に僧侶が群れをなして暮らしているのを見たら、仕事もせずに無駄に暮らしているように思うだろうか。実際はどういう事情でチベットの民衆を弾圧しているのかわからないが、チベット僧が当局の弾圧に抗議して焼身自殺しようと、寺院に群れている赤い布切れを巻いた坊主頭の人数が少し減っただけだとしか思わないかもしれない。教義や儀礼や施設や組織などをそなえた社会集団が宗教教団であるならば、政府も企業も宗教教団と形式的には変わりはない。もちろんそれも粗雑な単純化で、機能的には政府と企業と宗教教団は、それぞれに別種の集団として考えたほうがいいのかもしれないが、それらの集団に属する人々を、集団がある特定の行動に駆り立てる動作は変わらず、教義や規律などによるなんらかの拘束を伴っていないと、人を集団内に留め置くことはできない。宗教的な集団には人をそこに留め置く力がある。人は自発的にそうしているのだろうか。生まれた時からその集団内にいれば、そこにいることが当然だと思うだろうか。中には反発する者も出てくるだろうし、外の世界に魅力を感じれば、そこから抜け出そうとする者も出てくるのではないか。人間の本性は拘束を嫌い、自由を求めているのかもしれないが、同時にそうすることで利益を得られるならば、集団による拘束を受け入れて生活を安定させる欲望も生じてくる。そんな二律背反する欲求を同時に満たすことはできないか。人は時として孤独な自由と集団内の安定のどちらか一方を選ばなければならないだろうか。やはりそれもそんな単純なことではなく、たぶん人は様々な集団に同時に属していて、自分の都合に合わせて、属しているそれぞれの集団を効果的に活用しようとするわけだ。そうやって個人と属している集団は互いに互いを利用しながら、それぞれに利益を得ようとする。現実的な有り様としては、個人と集団はそんな関係を保てばいいわけか。それも時と場合によるだろうし、個人も集団も個人どうしも集団どうしも、互いに互いの力を対象となる相手に及ぼうそうとして、絶えずせめぎ合いをしているのだろう。

 中国当局とチベットの仏教徒やウイグルのイスラム教徒との闘争も、集団と集団の力のせめぎ合いと言えるだろうか。武力なら圧倒的に中国政府の方が上だろうし、実際に弾圧しているのは中国政府の方だということになっているのだろうが、そこに住んでいる人たちを皆殺しにするわけにはいかないだろうから、政府に対する抵抗運動がおさまる気配はなさそうだ。中国国内で多数派を占める漢民族による経済的な侵略行為だと受け取られたら、やはり民族的な抵抗運動が起こるのは必然だろうか。人が集団としてまとまれば、その集団の共通の利益のために対立する集団と戦うのは自然の成り行きか。暴力団やギャングの縄張り争いのようなものを想像すれば事足りるかもしれないが、それも粗雑な単純化でしかない。野球やサッカーなどのプロスポーツのように、それを見世物としてシステマチックに構成するわけにもいかないだろうし、劣勢にある側が被害者意識丸出しで、メディアやネット上で政府や武装組織の残虐行為や、やっていることの不当性を非難したり、世界に向かって助けを求めるのも、もはやありふれた風物誌と化している感もある。今後とも延々とそんなことが繰り返されるのだろうか。それをやめさせるにはどうしたらいいだろうか。大前提としては国家ごとに民主主義を確立して、選挙や住民投票によって物事を決める制度にすればいいのだろうが、結局投票結果の不正操作という疑念もぬぐい去れず、日頃から体制側を非難している人たちも納得がいかないところだろう。何をどうすればいいと問う段階で、自分が属する集団の有利になるような結果を出したいという思惑が働いて、なかなか公平で公正なやり方を確立できないどころか、それを積極的にねじ曲げようとする動作が生じてしまうのだから、そのような民主的な試みがうまく行く可能性は低いだろうか。


3月17日「依存している何か」

 何かが微妙に違う。単純明快に述べればいいのかもしれない。そこに差異を感じられないのだから、そう語るしかないのではないか。フィクションの中では人間の力が不自然に肥大化している。神も虚構であり、人も虚構だ。だから人も神も自然を支配できる。作り話の中ではそういうことになるが、現実の世界では事情が違っているわけだ。神は人を支配できるが、人も神や人を支配できる。自然は中立なのだろうか。人は自然の一部なのであり、神は人が作り出すフィクションの一部だ。実態としてはそうかもしれないが、人が作り出すフィクションの中では、神が人を含む自然の支配者という設定なのではないか。それを神と名付けているのだから、そういう言葉の連なりの上では全知全能の神が全宇宙を支配していることになる。そういう文章を人間が構成している。それは文法的な規則がそうさせるのではないか。文の主語の位置にくる概念として神が生み出されたのだろうか。人々を支配する人物がいるとすれば、その人物が人々の支配を正当化するためには、王が国の支配者である構造を世界に当てはめると、自然や世界や宇宙を支配する主体を想定しなければならず、それが神ということになるわけか。では現代においては王の位置に当てはまる対象が希薄となっているから、神の存在も希薄になっているのだろうか。王とともに神も時代遅れの概念になりつつあるのではないか。といってもまだ宗教は全盛で、特にイスラム教徒は全面的に神の存在を信じているはずだが、学問的なレベルでは特に神という言葉を使わなくても自然や宇宙の現象を説明できる。そういう意味で神や宗教は、昔ほどには必要とされていないのかもしれない。生活全般を宗教に支配されている人も、それほど多くはないのではないか。どういうレベルでとなると定かでないが、はっきりと特定の宗教に頼るような生活を送っているわけではないだろう。たぶん人は宗教以上に経済に頼った生活を送っているはずだ。要するに金を稼ごうとしているわけで、中にはそれがすべての人もいるのではないか。それ以外に何があるだろうか。そう言われてみると、全面的に仕事に従事し、仕事を取り去ったら何も残らないだろうか。

 取り去るわけにはいかないだろう。仕事に従事している人は仕事を取り去れず、宗教的な生活を送っている人は宗教を取り去れない。そう都合良く依存しているものを取り去るわけにはいかず、人は何かに依存していないと生きてはいけないのではないか。何もやらないわけにはいかないのだろうか。全面的に何かに依存しているとしたら、その依存しているものこそが生きる目的となっているのかもしれず、それを取り去ってしまったら生きている意味がなくなってしまう。何かのために生きているとしたら、その依存しているもののために生きているわけだ。それがやるべきことだと思うなら、やるべきことをやるために生きているのだろう。ではそれを信じているのだろうか。たとえ自分のやっていることに懐疑的であろうと、やはり心のどこかでは信じているのではないか。半信半疑でやっていることこそが信じていることの証しとなる。疑いつつもやらざるを得ない状況に追い込まれ、実際にそれをやっている。そしてやりつつも、果たしてこのままやり続けていいのかのかどうか、疑念を抱きながらも、現実にやっている事実を信じながら、それをやり続けているわけだ。もはやその時点で後戻りができない。人はそうやって何かに依存しながら生きているのであり、その依存している何かを信じないと生きられなくなるわけだ。別に信じているそれが神であったり宗教であったりする必要はなく、時にはそれが音楽であったりスポーツであったりビデオゲームであったりするのかもしれないが、特に一つの物事である必要さえなく、多種多様な物事を同時に信じていても構わないわけで、信じているそれらに優先順位をつけなくても構わず、そうなってくるとその中の特定の物事に依存する割合も減ってきて、信じる対象がそれだけ希薄に感じられるようになるのではないか。現代人は日頃から多種多様な物事に接することで、信じる対象も多岐にわたり、その一つ一つの対象との結びつきもそれだけ弱くなっていて、一つのことに集中して何かをやる機会を失っているのかもしれず、だからこそ相対的にあらゆる事象に無関心になりつつあるのかもしれない。仮に信じている対象がおかしくなっても、それほど深刻には考えていないわけだ。要はバランスの問題でしかなく、こちらがだめになってもあちらがあり、あちらがだめになってもさらに違う何かがあるさとたかをくくっていられるのだろうか。たかをくくっていられなくなったらどうするのか。実際に依存しているすべてがだめになるときがくるだろうか。それはそうなってみないとわからないことか。


3月16日「無意識としての意識」

 人は偶然の巡り合わせでは納得できない。運が良かったり悪かったりして、それで自分の運命が左右されてしまうわけにはいかない。確実性を求めている。必然的な成り行きによって成功したい。要するに日頃の努力が報われる形で、晴れて事を成し遂げたいわけだ。身勝手といえば身勝手だが、そんな願望が叶えば言うことなしだろうか。そうなるためにあれこれ戦略を練って、自分のやっていることが有利に働くように画策するのだろうか。それ自体の何が悪いわけではなく、人は誰でも頭を働かせて行動し、他人を自分の味方につけて、自分が有利な立場になれるように画策するものだ。そういうことを述べてみても仕方のないことかもしれない。具体的に特定の人物や団体が何をやっているかを吟味しなければならない。だが結局それについて良い悪いを述べてしまうわけか。たぶんそうなってしまうのだろう。そしてそれがどうしたわけでもない。やっていることが悪いと判断されれば、批判されることになるわけだ。それもそれだけのことだろうか。どう述べてみてもしっくりこない。具体的に何をどうやるかを語る必要がないわけだ。何を主張しようとしているのでない限りは何も語る必要がない。それはどういうことだろう。語らないことも戦略の類いなのだろうか。やろうとすることとは別の関係のないことを語ればいいわけだ。実際にやっていることと語っていることとが無関係であるかのように装い、相手の気をそらし、やる気をはぐらかしてその隙をつき、一気にかたをつけるつもりなのだろうか。だから何についてそうなのだろうか。何についてというわけでもなく、ただそれを語らずに済ませようとしているのかもしれない。そうのべて何も主張していないようでいて、語っている当人が気づかないことを主張しているのだろうか。それは無意識の主張なのだろうか。意識して主張を悟られないようにしているのではないか。無意識が述べている当人に悟られないように何かを主張しているというわけか。そんなことはあり得ないだろう。あり得ないことにしておいたほうが無難なのかもしれない。

 何を考えているわけでもないことになっているようだが、人は偶然の巡り合わせに左右されながら生きている。そしていつでもその偶然を必然に変えるために努力しているわけだ。思い通りの結果を導き出したい。たぶん思い通りでなくても構わないのだろう。誰がそう思っているわけではなく、成り行きとしてはそうなってしまうわけだから、結果的にはそれで構わないわけだ。自意識では思い通りにゆかずに焦っているようだが、無意識ではあきらめている。本当にそうであるかないかなんてどうでもよく、とりあえず無意識を想定してそう思っていることにしておきたい。そんなのはごまかしだろうか。たぶんごまかしに違いなく、ごまかし以外に無意識なとどいう虚構は捏造できはしないが、人は意識せずにそうやって思い通りにいかなかった結果を合理化したいわけだ。それも嘘も方便の範疇に入ることかもしれないが、とりあえずそれで構わないだろう。そういうことにしておかないと、失敗を乗り越えてその先へ進めないだろうか。それは人にもよるのではないか。失敗を合理化する必要はない。たぶんそういうことを語る気ではなかったはずだ。当初は何も語れずに悩んでいたのではなかったか。具体的に語る内容が何もなくて途方にくれていたはずだ。それを無意識の助けを借りてここまで語ってきたわけなのだろうか。そこから外れて何か考えているのかもしれず、外れているそことはここではないどこかだろうか。どう考えても構わないが、なるべく自己言及にならないように気をつけている。すでにそうなっているのではないか。自らの言動について考えているつもりで、そのじつありもないしない無意識を想像し、自分自身から逃れようとしているわけだ。思想とはそういうものなのではないか。誰がそれを求めているわけでもなく、自らもそんなものとは無関係でいたいが、何かを述べているうちに、自然とそこへと導かれてしまい、気がつけば自分自身について語っているつもりで、現実にはいもしない誰かの考えを代弁しているわけだ。それが無意識の考えなのだろうか。たぶんそういうことにしておいても構わないのだろう。そうでなくても構わないのだから、誰でもないだれかの考えではらちがあかないから、とりあえずそう意識せずにそう述べているのであり、無意識がそう述べているのだろう。


3月15日「個人と集団の関係」

 何が前提となっているとも思えないが、人を支配しようとする動作に抗うのは自然の成り行きだろうか。だが世界には国家や企業や宗教団体など、人を大勢その支配下に置いている団体が数多くあり、そのような団体によって人間社会が成り立っていると言っても過言ではない。人は他人と協力しなければ何もできないだろうし、多くの人たちが協力し合えば、自然とそこには団体が生じ、団体が大きくなれば、そこには階級や指揮命令系統が生まれ、団体の代表者を頂点として官僚機構が生じる。そういう動作が生じるのは仕方のないことだが、それが個人の自由を奪うような力を及ぼしてくれば、それに抵抗しなければならないわけで、そのような抵抗としての動作が生じるのも仕方のないことだ。結局は個人と団体との力関係の中で、支配とそれに対する抵抗というせめぎ合いが生じるのが社会の有り様と言えるだろうか。団体によって生じる力を利用しつつ、その恩恵に与かりながらも、同時に団体から及ぼされる支配の力に屈してはならないのだから、個人はその都度難しい対応が迫られているのかもしれず、そこで力に屈して、団体に対する忠誠や服従してしまう人が大勢出てくると、自由がなくなって社会全体が息苦しくなり、個人にとっては不快な世の中が到来するのかもしれないが、集団内で権力を持つ人間にとっては理想的な社会になるだろうか。そして権力欲があり自分も集団内での権力闘争に打ち勝って、権力を持つ階級へと上り詰めようと欲する野心的な人間にとっては、そのような社会は願ってもない理想的な社会環境だろうか。結局そういう人間は集団の意向に従いながらも、その集団内で命令を下す立場になりたいわけだ。だがそういう立場になれるのは一握りの少人数にすぎず、絶えずその地位を巡って競争相手と権力闘争に明け暮れなければならない。そしてそのような競争や闘争も、やがて制度の停滞とともに社会の中で特権階級が出現して、その階級の出身者しかそういう立場になれなくなるだろう。一応は誰もがそのような競争に参加できる仕組みが、いわゆる民主主義社会と呼ばれる社会には備わっていて、建前上は法律によって万人による平等な競争が保証されているわけだが、法律だけではそれを保持することはできず、例えば民主主義の根本をなす国会議員などは、世襲議員や官僚上がりの議員だらけで、特定の階層に属さない限りは、なかなか特定の社会的な地位にはなれなくなってしまうわけだ。

 そんなわけで個人の自由を確保するためには、集団の結束を弱めるしかないわけだが、個人が力を求めるには、集団の結束を強めて、その集団内での権力闘争に勝ち抜いて、他人に命令を下せる立場を占めればいいわけだ。要するに社会の中で個人の自由がなくなるほど、集団内で特定の個人の力が強くなる。その究極が政治的な独裁体制なのだろうが、果たして万人がそうなることを望んでいるのだろうか。もちろん望んでいないのだろうが、一方で社会の中で好き勝手なことをしたい個人などいくらでもいて、そうした権力欲を抱く人たちの利害が一致して、それを目指して多くの人たちが結束すると、やはり全体主義的で不快な世の中が到来するのだろう。それはもはや個人の意志ではなく、集団の構造的な意志となって、集団内の個々人に意識されてしまうようなものなのではないか。そうした集団内にいると、自然とそうした集合的な意志に従うようになって、その集団を守るための意志を動作させる歯車のような存在となってしまうのかもしれない。そうした集団を維持継続させるために個人が犠牲となり、それに歯向かう輩は暴力を用いても排除する仕組みが出来上がるわけだ。そうした事態を避けるにはどうしたらいいのだろうか。現状では避けられない。避けることができないから、主導権を巡って各種の集団同士で対立が起こり、集団内でも権力闘争が起こっているわけだ。そして多くの人たちが闘争に敗れて服従を強いられ、闘争に勝ったごく一握りの者たちが支配者として君臨するわけか。たぶんそうならないために、人々は民主的な政治体制を欲してきたわけだが、今のところ建前上は成立している民主的な政治体制の中でも、人々は集団内で命令を下す立場を巡って権力闘争に明け暮れている。


3月14日「歴史認識」

 言語と文化は作られたものだろうか。自然に発生したように装われている。そうみなせば納得するだろうか。たぶん自然発生した部分もあるのではないか。それを後から国家が取りまとめ、なにやら存在の必然性があるかのように装うわけか。子供に対する洗脳教育によって、それを行っているわけだろうか。歴史教育も自国に都合のいいようなことを教えたいのだろうが、最近は右翼が自虐史観などと過去のの歴史教育を批判しているわけだが、それの反動で自虐史観をやめて自慢史観となってもおかしいだろうし、自国の歴史を自画自賛したところで、そのおかげで自国が経済的に繁栄するわけでもないだろうし、そのような洗脳教育は自国民を精神的に支配するための手段でしかないだろう。歴史教育なんて世界史だけで十分なのではないか。日本はたまたま千三百年ぐらいの信用に足る文献資料があるが、アメリカなどは三百年ぐらいの歴史しかないだろうし、国によってかなりのひらきがあり、世界的に自国の歴史を教える学問分野としては、公平性を欠いているような気がするのだが、だったら人類の歴史として世界史を教えたほうが、思考的に偏りのないまともな人間に育つのではないか。その点で国家が人の心の中にまで立ち入ってくるのは良くないことで、行政としての役所仕事だけに専念して欲しいのかもしれないが、その役所仕事の範囲が官僚や政治家の都合で拡大解釈されて、ゆりかごから墓場まで介入するのが当然のような風潮になっているのかもしれない。なぜそうなっているのかといえば、国民が国土とともに国家の資源であり、政府に従順な人間に成長して、大人になってから国家のために働いて欲しいから、子供のうちから洗脳教育を施して、先行投資しておく必要があるのだろうが、その辺の功利的な思惑が、国家間のいらぬ軋轢や対立をまねく要因の一つとなっているのだろうか。国家の一員である前に世界の一員であるべきだなんてきれいごとを主張しても、そういう類いの人たちの前では馬耳東風でしかないだろうし、経済的な実利の前では理念は無力でしかないだろう。だから反体制的な人々も、今の体制では国民が経済的な損害を被っていると盛んに喧伝するわけで、広い意味では体制側も反体制側も国家主義者の集まりでしかないわけだ。そんな状況で右も左も出し抜いて、国家そのものを形骸化せるにはどうしたらいいだろうか。そこから先は誇大妄想となってしまいそうだ。

 世界的に国家を形骸化させることで、人々にとってはどんな利益がもたらされるのだろうか。それがないと人々の国家に対する依存を断ち切れないだろう。国家がなくなれば戦争がなくなり、世界全体が平和になるだろうか。それだけでは誰も脱国家主義になびいてこないだろうし、現時点で国家をなくすためのうまいやり方があるわけでもなく、いくらそんなことを主張したところで、それでは空想の域を出ず嘲笑の対象にしかならないだろう。そんなわけでまだ方法論に行く以前の実現不可能な妄想の段階にすぎないことだ。そういう意味では個人の力でどうこうできる問題ではなく、わずかにできることはといえば、微細な方面で国家のおかしな動作を批判して行くことしかできないのかもしれない。その一環で自虐史観だろうが自画自賛史観だろうが、どちらも馬鹿げていると主張するしかないようだし、二千年には日本人などいなかったわけで、一千年前ですら現代人とは全く異なる人たちが暮らしていたわけで、日本史と呼ばれる歴史そのものに、国家として一貫した連続性などあるわけもないと主張することで、行政よる洗脳教育を批判していることになるだろうか。そんな個人的な批判の繰り返しで国家がどうなるとも思えないが、黙っているよりは微力ながら少しでも思いつく限りは批判しておいたほうがいいだろう。小さな積み重ねがやがて広がっていき、いつの日か国家を消滅させることができるなんてあり得ないが、ともかくやれる範囲内でやっていくしかない。国家がそこに暮らす人々を管理し洗脳し支配して、そして資本主義が国家と結びついて、官僚機構を維持運営するために税金を搾り取る目的で余計に働かせ、結果として企業が人々を労働力として物扱いしているわけだから、両者ともに批判していくしかない。


3月13日「戦争の予感」

 人々は何を恐れているのか。少なくとも心配性の誰かが何かを恐れているわけか。具体的には国内の反体制勢力が戦争になることを恐れているのではないか。だが実感としてはそんなに深刻な事態ではないと思う。たぶんすぐに戦争になることはないだろう。すでに戦争が始まっているのにそれはないか。たぶんそれは別の戦争であり、恐れていることの延長としての戦争ではないのではないか。それとは別の方面で別の戦争が行われているわけだ。その戦争と人々が恐れている戦争とは結びつかないのだろうか。今のところは結びついておらず、地域的に離れたところで戦争が起こっているわけで、そこではひたすら戦闘が継続され、もう何十年も断続的に続いているのだろうし、それが現状でのリアルな戦争なのではないか。いわゆるテロとの戦いと呼ばれる一連の紛争なのだろう。そしてそれが日々のニュースの題材となり、戦争について語るための材料となっているわけだ。戦争は今まさに紛争地帯で起こっていて、もう何十年も続いていて、一部では終わりが見えずに泥沼化していると言えるだろうか。終わらせる手立てがなく、終わらなくても構わないような政治情勢の中で戦争となっているわけだ。イスラエルなどは周辺国が平和になってしまっては、国が滅んでしまうのではないか。ではパレスチナに対する戦争を継続することで国家の体をなしていると言えるだろうか。だからガザ地区を定期的に空爆して戦車で蹂躙するわけか。なんのためにそうしなければならないのだろうか。アラブを一枚岩にして一致団結させて周りを取り囲まれてしまうと、勝ち目がなくなってしまうからだろうか。ともかくエジプトの軍事政権とは関係は良好のようで、シリアは内戦状態だから、当分は脅威とはならないだろうし、ガザを実行支配している過激派のハマスもどこからも大した援助は受けられずに、孤立無援状態にあるだろうし、パレスチナもガザとヨルダン川西岸地区で政治的に対立しているし、あとはイランとイランが支援している過激派のヒズボラを叩いておけば、軍事的な脅威が分散されて安泰だろうか。その上にイスラム国などに周辺地域をかき回してもらえば、なおのこと安心であり、それはサウジなどの湾岸の王族支配の国家などとも利害を共有している事態だろうか。

 結局それらの地域で、戦火の中で悲惨な境遇にある人たちの不幸を糧として、イスラエルや湾岸の王国やエジプトの軍事政権やシリアのアサド一族などが、利益を得ていると言えるだろうか。しかもそれらの背後にはアメリカの軍産複合体が控えていて、それに対抗してシリアはロシアの縄張りらしいから、どうにもならない事情があるわけか。そしてその地域のすぐ北のトルコのエルドアン大統領なども、いつ独裁体制を築いてもおかしくないだろうし、イランではようやくイスラム教権支配が少し緩んだ程度だし、ウクライナも欧米に尻尾を振っている割には、ネオナチ勢力が政権の一翼を担っているし、ロシアのプーチンは相変わらずの強権政治だし、イスラエルは右翼のネタニヤフが首相の座に居座り、それらの地域で政権の座にいる連中は、互いにいがみ合いながらも、やっていることは民衆を抑圧するような独裁的な政治ばかりなのではないか。紛争地域で戦火が絶えないから自然とそうなっているのだろうか。それとも世界的に民主的な政治を行う勢力が退潮傾向だからなのか。世界中が政治的に右翼だらけだとすると、やはり全世界を巻き込んだ世界大戦が間近に迫っていると多くの人たちが心配するのも頷けるだろうか。それでも全面戦争にならないと感じられるのはなぜなのか。理由などわかるわけがないが、どうも21世紀は戦争をやる主体である国家が形骸化するのではないかと思っていて、では国家とともに発展してきた資本主義がどうなるかといえば、それも形骸化するのではないかという予感がある。例えば株価が値上がりして市場が活況を呈しているとしても、そのまま青天井でどんどん値上がりして行ってしまい、株価と他の商品の値段の格差が極端に開いて、商品の価格という概念そのものがおかしくなってしまえば、値段そのものが虚構とみなされ、信じられなくなってくるのかもしれない。そして人が値段を信じられなくなってくると、もはや商品と貨幣の交換が成り立たなくなるのではないか。もちろんそう述べてしまうと冗談でしかなくなってしまうだろうが、どうもそれに類するようなことが起こり、価格破壊というか市場破壊ような現象が起こったらおもしろそうだ。今のところはそれに関してはなんの説得力もないし、まだうまく説明できそうもない。もう少し考えてみる必要がありそうだ。


3月12日「歴史からの逸脱」

 人類の歴史はほんの数万年といったところだろうか。農耕が始まる前から狩りによってマンモスなどの大型哺乳類を絶滅に追い込み、農耕の開始によって森や草原を切り開き、他の動物たちの生息域を次第に狭めてきたわけだが、ここ二百年ぐらいの産業の発達による人口爆発で、生物の大量絶滅を招いているそうだが、それもそろそろ限界が近づいてきたのだろうか。それともあとは月や火星に移住して、そこでまた大量繁殖するわけか。そうなるまでには死んでいるかもしれない。それ以前に国家と資本主義の問題はどうなるのだろうか。そんなのは問題ではなく、むしろそれらこそが人類の繁栄の原動力となっているわけか。そうれもあるかもしれないが、別に人類なんていう概念はどうでもいいのかもしれず、それも何が問題でもないのだろうか。人はそこで適当に生きている。そして人でなくてもよく、生きていなくてもいいのかもしれない。そこに希望や期待を抱いてはならない。勝手にそう思っても構わないのだろうか。誰に同意を求めているわけでもなく、そう思えばいいのかもしれず、いい加減に語っている限りはそんなふうにしか語れない。違うことを語ればそうではなくなってしまうのだろうが、そうである限りでの話でしかなさそうだ。だがそれでも前向きに考えなければないけないようだ。まだ少しは未来がある。そして死んだ後も未来があるだろう。だからなんだというわけでもないだろうが、とにかく未来に向けて何かを語らなければならないだろうか。語る理由になっていないような気がするが、なんでもいいから言葉を記そうとしている。言葉を記すことでなんとかしたいのではないか。それが何になるとも思えないのだが、とりあえず言葉を記して、その中で何かを語っているつもりになりたいようだ。冗談だろうか。無駄に語りすぎている。必要のないことを記しているわけだ。誰にとっても必要がないのかもしれないが、誰かにとっては無駄に記すことが必要なのかもしれず、その誰かが記述している当人なのだろうか。

 かなり話の本筋から逸脱していることは確からしいが、何が本筋でもない。科学技術がどこまで進歩しようと、人間の本質が空疎であることに変わりはない。人間とは何か。それは人間という言葉だ。それは労働生産物ではない。記された言葉以外の何が人間なのか。人間と労働とは無関係なのだろうか。無理にそう解釈する必要もないのではないか。では労働も戯れ事の類いか。そう解釈したければそれで構わない。何が本質というわけでもないのかもしれず、全ては枝葉末節な現象の寄せ集めなのではないか。それが自意識であり、自らを人だと認識させているのだろう。本当は人ではなく自分でしかないわけだが、自分と他人の共通点を寄せ集めると、それが人間という外見を形成するのだろうか。外見ではなく言葉としての概念なのではないか。それを人間と呼んでいるにすぎない。それを指し示す言葉をそう読んでいるわけだ。だから言葉にすれば空疎でしかないわけか。その空疎な中身を想像力でおぎなって、何やら中身のある人間という物体が目の前に現れる。そして正気を装う自意はそんなはずがないと思いたい。では違う説明をすればいいのだろう。別に説明するようなことではないのではないか。ただそれを人間をみなせば済んでしまうことでしかない。そこに人間が存在し、地上でうごめいていると思い込めばいい。物質としての人間はその程度の存在だ。物質でなければ言葉としての人間を想像すればいいわけか。それもおかしな解釈だろうか。わざとはぐらかして語ろうとしているようだが、いまひとつうまく説明できていないらしい。それはそうだろう。そんなことなど説明するまでもないのに、わざと遠回しに回りくどく説明しようとしているのだから、それはただのごまかしにすぎないだろうか。要するに人間という空疎について語っているわけだ。そう思っておけばなるほどそういうことになりそうだが、誰が納得するような説明でもなさそうだ。戯れ言だからそれで構わないのか。説明が戯れ言であり、説明しなくても構わないようなことだから戯れ事とみなして構わないわけだ。そんなわけで説明のすべてはなんでも構わないことであり、どうでもいいことの部類に属してしまいそうだが、それでも説明を試みた事実はあるようで、一応はなんらかの言葉の連なりを示したはずだ。しかしそんな説明では何もわからないし、納得できないだろうか。説明を試みた自らも納得できそうもない。


3月11日「平等と公平を目指す理念」

 数年前の今日には何かが起こったらしいが覚えていない。放射能汚染にも慣れが肝心のようだ。とりあえず未だに生きている。いつまで生きられるのかわからないが、いつまでも生きられるわけもなく、死ぬ原因が放射能であろうとなかろうと、死ぬまでは何かやらなければならない。何もやらずに死ぬのはしゃくか。別に何もやっていないわけではないが、現状では何もやっていないのと同じことだろうか。同じではない。たぶん誰かが何かをやっているのだろう。そういうことにしておいて、そんなフィクションを信じるふりでもしておこう。本当はどうでもいいことか。人は労働によって活動の制約を受けている。持っている資産によっても制約を受ける。労働に縛られ資産に縛られ、ほかに何に縛られているのか。広く社会に縛られているのだろう。少なくとも自由ではないらしい。そして何をやるにもカネがいるわけか。そんな状態をどう変革できるわけもない。今すぐにどうこうできるわけでもないらしい。今生きている人間には関係のないことだろうか。長期的な変動なのだろう。人間社会を長期的に変えてゆく計画なのではないか。果たしてそんな計画がどこで進行中なのか。全世界で進行中だとしたら、それはユダヤ陰謀論の類いとなるだろうか。そこから先を語ると冗談となってしまいそうだが、実際はそうではないらしい。計画など何もありはしないと述べておいたほうが無難だろう。実際に何もないのではないか。世の中の不条理を特定の誰のせいにしたいわけでもない。いったい何が不条理なのか。何も常識に反していないが、たぶん世の中に不条理が蔓延しているのだろう。そしてそれらのすべてがたぶんであり、確かなことは何も言えないわけだ。不確かな憶測や推測に基づいて、そんな不条理が語られているわけだ。だからそれの何が不条理なのか、そこが不確かではっきりしないのだから、語られているすべてはたぶんそうなのだろうが、たぶんの域を出ることがなく、はっきりしたことは何もわからないまま、結局すべてはうやむやになってしまうわけだ。それでもそれについて語りたいのだろう。

 そしてそこで何が語られているかはわかっているのに、それについては何も語らず、あえてそれとは違うことについて語ろうとしている。それも不条理の一種かもしれない。なぜ語れないのか。それについては語りようがないからだろうか。理由がわからないが、何も語りようがない。それについての知識が不足しているからか。意図的にそれを避けているのではないか。では例えば保守勢力の政治権力に関する地縁や血縁の罠から逃れなければならないし、官僚制にまつわる行政支配の論理からも無縁であらねばならないだろうか。またアメリカの財界や軍事関連産業に巣食う世界征服の陰謀にも無関心でいたいか。特定の何が覇権を握ろうとしているのではない。たぶんそうではないと思う。だからこそ地域的に偏った権力構造の枠組みから離れて考えたいのだろう。だが理論など何もない。理論でなければなんなのだろうか。何か見落としていないだろうか。人を殺すおもちゃを造る軍事産業も、人や物を運ぶ輸送物を製造する自動車産業なども、世界を制する主要な産業ではない。様々な産業が複雑に絡み合っていることは確かで、一つとして単独では成立しがたいだろうか。でも世界各地でそのような産業が成り立っていて、それらの産業によって世界全体が均質になろうとしているのだろうか。でも現状では様々な地域的あるいは文化的な差異をなくして、世界を平坦にならすことはできない。でも政治的あるいは経済的な制度はそれを目指しているのではないか。この世に生きているすべての人々にとって、平等で公平な制度の確立を目指しているように思える。少なくとも理念としてはそうなのではないか。たぶん目指す方向は間違っていないだろう。そしてそれを阻む要素として、地域的あるいは文化的な抵抗や軋轢があるわけだ。それをどう鎮めながら理念を追求するかが、今後の人々に課せられた使命だろうか。特定の誰がそうするように命令しているわけではない。神がそう命じているわけでもない。それは合理的にそう思われるからで、そのような合理性から導かれた思想なのかもしれず、そんな思想を啓蒙によって世界に広めるように作用しているわけだ。そう思うしかないだろう。どうすればそれが実現できるかではなく、それを実現させるように人々の行動が促されているのかもしれない。そんな現象が世界を覆っているのだろうか。現状ではそう思うのが無難なところかもしれない。


3月10日「通常とは逆の意味」

 今さら何に反対しているのか。政府のやっていることに反対なら、そういう類いの人たちと同じことだ。それが逆らえない運命などではないが、逆らって運命を変えようとするにしても、今度は運命に逆らうことによって新たな運命が待ち受けているはずだ。その運命が気に入らないのだろうか。フィクションの中ではそんな成り行きもあるかもしれないが、別にそれの何が運命というわけでもないだろう。実際に誰がどんな宿命を背負っていようと、出来事が起こってみなければわからないこともある。その出来事が今まさに起こっている最中なのだろうか。どうやらそれに気づいていないようだが、誰が気づいていないわけでもない。じゃあなんなのだろうか。なんでもなければ語る必要はない。そして必要がなくても語っている現状があるというのなら、それは単に無駄なことを語っているのかもしれず、ただそれを誰かが語っているわけだ。それがなんなのだろうか。やはりなんでもありはしないということか。要するにまだ戯れ言の段階のようだ。たぶんそんな空疎な無内容では戯れ言の中でしか語れないのだ。そういう成り行きの中では何事もそれ以上は語れない。またそういう話の設定なのだろうか。誰が何を定めようとしているのでもなく、ただ戯れ言の範疇で語り、そこからもたらされる虚無的な気分を受け入れているのかもしれないが、それ以外に何がそうなのでもない。どうやら否定の否定が肯定には結びつかないようだ。何を否定しているのでもないのに、語り始めると語る行為を否定的に語ってしまうらしい。しかしそう語りながらも何を語り始めているのか。問うまでもなく戯れ言の範囲内で現状を虚無的に語っているのだろう。それ以外に何をどう語れるというのか。そう問う前に語らなければならないようだ。すでにだいぶ語り損ねている。笑ってしまうほど何も語れない。たぶんこれは何かの冗談などではなく、現実に体験しつつある運命の一部だ。その運命に逆らおうとして果たせずにいるのかもしれず、未だに何も語り得ない運命を変えられずにいるのだろうか。それとももうすでに変わっているのだろうか。

 そんなはずがないと思うが、否定できない現状のようだ。実際に何も語らずに言葉を記しているわけだ。そんな成り行きを受け入れている。他の何に気を取られているわけでもなく、記された言葉の連なりに気を取られている。そうではないと言えるだろうか。時にはそんな嘘でもついて、気を取られているそこから、さらに気を逸らせようとしているのか。何かの中毒なのかもしれない。何かではなく語っているそれが中毒の原因なのではないか。ではそれとはなんだろう。その空疎な無内容が心を蝕んでいるのだろうか。たぶんそうではない。単にわからないということだろうか。それは運命などではなく、気まぐれな成り行きに過ぎないのではないか。運命などという深刻ぶった言葉を使わなくても語れる内容でしかない。実際に何がもたらされているわけではなく、そんな言葉が記されているに過ぎない。話のつじつまを合わせられないのかもしれず、それ以前に話の体をなしていないような気もするが、何を語ろうとしているのかよくわからなくなっているようだ。今までは何も語り得なかったはずだったが、ここから何か意味のあることを語れるわけでもなく、相変わらず言葉の並びは無内容に終始しているようで、どうにもこうにも行き詰まりの真っ只中のようだが、それでも言葉を断続的に記し、ここまで記してきたはずだが、それがどうかしたのだろうか。どうもしないだろうし、どうにもならない現状に変わりなく、どうにかなっているとは到底思えないが、なぜかそのまま記述を続けているらしい。どう考えても画期的なアイデアなど思いつく状況にない。認識はこれまで通りであり、相変わらずの国家と資本主義から抜け出られずに、それらの存在と仕組みと動作を前提として何かを考えているわけだ。それらの否定すれば否定的な認識が導き出され、肯定すれば肯定的な認識が導き出され、どちらにしてもそれらなしでは何も考えられず、別の何かを導き出せずにいるようだ。それらの両方とも無効化したり形骸化したりする方法などありはしない。それは考えて導き出せるようなことではないのだろうか。これまでとは別の方面から考えることさえできないのだろうか。今までの人類の歴史というのもありそうなものだが、それとこれとがどう結びつけられるというのか。何と何を結びつければ、これまでとは全く異なる視点から考えられるというのか。いったい何を考えようとしているのだろう。今のところはただ無駄に言葉が連なるばかりのようだが、これでも何か考えているつもりなのか。まず人は言葉を身につけるようになって文明を築いたはずだ。そして自らを有限の存在と認識するようになってから、神から離れて政治経済的な存在となったわけだ。そんな単純な認識から何が導き出せるというのか。焦るにはまだ早すぎるだろうか。もう少しその辺から熟考してみる必要がありそうだ。今さら無限の宗教でもないか。


3月9日「運命に逆らう」

 別に機会が訪れたわけではない。探りを入れているのだろうか。あるいは無内容でも構わないということか。気が滅入ってしまったわけでもないようだ。ではなんなのだろうか。なんでもないと言えば嘘になりそうだ。何もいう気にならないというのが率直な感想か。気晴らしではないらしい。ではなんなのか。無駄に言葉が記される。そんな予感がしていることは確からしい。もう逆らうのはやめにしたいのか。これまで何に逆らってきたのか。何かではない。それは周りの空気だろうか。そういうわけでもない。晴れた空に向かって何か叫んでいるわけではない。何かではなく、それはなんらかの言葉になるだろう。だがその言葉の連なりが何を意味するとも思えず、どんなあてがあるわけでもないだろう。ただそこから声が聞こえてくる。わけのわからない動作かもしれない。相変わらず人がうごめいているように感じるのは気のせいだろうか。いつでもそうだ。何がそうなっているわけでもないのに、何かが絶えず仕組まれ、その仕組みを解明しようとしているのだろうか。誰のためにやっているわけでもない。なんのためでもなく、そこから何が導かれるとも思えないが、答えを導き出そうとしているわけだ。それが答えになるかどうかはわからないが、とりあえず言葉の連なりを記さなければならない。誰に言い聞かせているわけでもないのに、そう思われてしまうわけだ。だが軽はずみに答えるようなことでもないのだろう。まだそこまで至っていない。それは未だ答えにならない返答に過ぎず、いつまでたってもそうかもしれない。返答次第で何が動き出すとも思えない。何も動かないだろう。動いたら負けなのか。そうは思わないが、まだ動く時期ではないような気がするわけだ。

 答えに窮している。答えなどありはしないのだろう。元からそうだ。答えられないから言葉を記しているのではないか。そしてその記された言葉が答えにはならないのだろう。何に対して記しているのでもなく、記している対象が定まっているわけでもなさそうだ。意識がそこで途切れている。そして朝がきて、空が晴れていることに気づき、そこから一日が始まってしまうわけだ。まだ途方に暮れているのだろうか。まだその時ではないのだろう。何をやるときだとも思えない。時がだいぶたってしまったようだ。そしてそれが誰の感慨だとも思えない。誰がそう思っているわけではなく、ただそう記しているわけだ。急いでそれを終わらせなければならないのではないか。その記述を終えて何をやろうとしているのか。何もやらずに眠ってしまうのだろうか。そこから遠ざかるにはそうしなければならないのだろうか。そんな気がしないではないが、遠ざかろうとしたいのではなく、その時間の中にとどまっていたいのではないか。まだそれ以上の何かが見出されていないようだ。何を見出そうとしているのでもないだろうが、やはりそんな時を利用して何かを見出したい。そう思っているらしいが、それは嘘だろうか。たぶん何が嘘でも構わないのだろう。何を問いたいのでもなく、何が問われているのでもなく、答えを出したいのでもないらしい。何と戯れているわけでもない。誰がそこにいるわけでもない。無駄に言葉を記している。無駄であることが肝心なのだろうか。有用なことを記そうとすると途端に行き詰ってしまうらしいが、何が有用であるかもわからないのだから、行き詰って当然だろうか。要するにそれ以上の何かを求めていて、今まで以上の内容を求めているのに、今まで記してきた内容を思い出せない。

 いい加減に記せば雑な内容になり、それでかまわないとは思えないから悩んでしまうのではないか。どうやってもそんな内容になるしかないと思えばあきらめもつくだろうか。それでもどうにかしたいわけで、どうにかしようと思っているのだから始末に負えない。どうにもならない事態をどうにかしたいわけで、どうにもならないからそうなっているわけなのに、それをどうにかしようとしているのだからうまくいくわけがない。うまくいくとは思えないのにそれをどうにかしたいわけだ。なんとかできると思っている。できるできないとは違う次元の話なのかもしれないが、ともかくやるしかなさそうだ。何をやるかはサイの目次第というわけではなく、サイコロがここにはない。何かをやるための道具がないわけだ。だから何もできない人たちは批判するしかない。道具を用いて何かをやっている人たちを批判しているわけだ。そういう話でかまわないのだろうか。たぶんそれとは別のことが起こっているのだろう。誰も気づかない出来事がそこで起こっている。そしてその出来事に操られて人々が動いているわけだ。別にその出来事によって利益がもたらされているわけではない。利益は道具を使いこなした者たちにもたらされる。では出来事からは何がもたらされるのだろう。それはその場に居合わせた者たちの運命だ。出来事は人の運命をつかさどる。そこで操られているのは人の行動であり、言動に他ならず、その思考であり感情であったりもする。人は出来事と共に生きている。出来事に操られながらもそれに気づかずに、出来事からもたらされる使命に従いながら生きているわけだ。それは使命であり運命なのだが、それを逃れることはできないのだろうか。逃れられず逆らえないから運命であり使命であるのではないのか。それを運命とか使命と呼べばそういうことになる。ならば別の呼び方にすれば逆らえるのだろうか。それはきっと気のせいだろう。勘違いともいえるのではないか。だが人はそれを求めているのではないか。人は絶えずそこから逃れる方法を模索しているわけだ。それが勘違いであってもかまわない。


3月8日「批判と体制の維持」

 何がそうさせているわけでもない。ただそこに仕組みがあり、仕組みに精通している人たちが利益にありついているのか。たぶんそうではない。仕組みなどありはせず、地上で人が大勢うごめいているだけだ。ではそれが何を意味するのだろうか。事態を受け止める立場によって感じ方が各々異なるのではないか。誰にとっても共通の意味があるわけではない。意味を求めているのではなく想像してしまうのだ。そこになんらかの仕組みを当てはめようとしてしまう。そして仕組みに精通して利益を求めようとする。そこではそういう試みが繰り返されているわけだ。語りたいことからはだいぶ遠いが、たぶんそう語れば納得してもらえるような気がする。誰に納得してもらいたいのか。それは想像上の架空の誰かだろう。実質的には何を語っているわけでもないらしい。また言葉が不規則に並んでいるようだ。そこから抜け出られない。いったいそこで何が話題となっているのか。そう問われるとなんだかわからなくなり、何もないような気がしてくる。要するに無駄に言葉が連なっているのだろう。そしてその現象をどうすることもできはしない。

 語れないのではないのではなく、語れるのはそういう内容であり、批判の的などどこにもない。何が批判されているわけでもなく、批判の対象などどこにも見当たらない。ではそこには内容のない空疎な言葉が連なっているだけなのか。たぶんそうだ。そう読めば読めないことはない。もしかしたら何も読んでいないのかもしれず、読む必要も感じられないのだろうか。何も読まなくてもわかってしまうのではないか。何がわかるというのか。わかったとしても誰を批判する必要も感じないだろう。そこで何が動作しているわけでもなく、すべてがありふれた状況を示している。しかし具体的に何の状況を把握しているのか。別にこの世界のすべての状況ではなさそうで、部分的かつ地域的な政治情勢に過ぎない。たぶんそこにいる人々がその地域を支配する行政機構に抵抗しているのだ。少なくとも反感を抱いているのではないか。だが支配とはどういうことなのか。いったい何をもって支配と解釈すればいいのだろう。そこにいる人々を特定の意志に強制的に従わせたりしているのだろうか。従わずに抵抗しているわけだから、支配状態が確立しているとは言い難いのではないか。では完全ではなく部分的に支配していることになるわけか。たぶんそのような政治形態を批判する者たちが、それを支配と呼んで批判しているのではないか。要するにそのような批判が表立って出ている限りは、支配が確立しているわけではないということだ。だからまだ可能性があるということだろうか。だがそれはなんの可能性なのか。

 人々は本当に自由を求めているのだろうか。それは何に対する自由なのか。何に対しても批判する自由なのかもしれず、とりあえず批判する自由は確保されている。もちろんその批判者を誹謗中傷する自由も確保されているわけだが、誰がそういう自由を望んでいるのか。望んでいるのではなく、実際に批判しているわけだ。人は他人を批判することでなんとか正気を保っている。現状に対する不満のもって行き場がなければ気が狂ってしまうだろうか。それはわからない。なんとか耐えている人もいるのではないか。満ち足りた生活などあるわけがないか。そうではなく、程度の差やレベルの違いがあり、それを理性に照らし合わせて判断しなければならないのかもしれず、言論を抑圧してくる政治体制に対しては、やはり批判しなければならないが、今やもっと事態は巧妙になってきていると言えるだろうか。要するに誰も批判していないように装われ、批判しているとしても、その批判者に批判の正当性がないように思われるわけだ。一部の反政府的な勢力が批判しているだけで、世論の多数派はそれほど批判的ではないような雰囲気が作られているわけか。それはなんらかの情報操作の類いとみなせばいいのだろうか。たぶんそうではなく、批判者を逆に批判することで、批判を封じ込める勢力がメディア上で活躍しているのではないか。そうやってなんとか批判を中和することで、政治体制を維持しようとしているわけだ。主要メディアもそうした勢力に活動の場を用意することで、体制の維持に貢献したいのだろう。


3月7日「問題が何もないことの意味」

 たぶん個人の力で軍隊に勝てるわけがない。別に武装しているわけでもなく、暴力を用いて勝とうとしているわけでもない。だから勝てるわけがないのだろうか。そうではなく勝とうとしていないだけなのではないか。勝てるわけがないのに勝とうとするわけにはいかないだろう。では何をどうしようというのか。勝たなくてもいいし、勝てなくてもいいわけだ。ただ暴力を用いなければいいわけだ。国家に戦いを挑んでいるわけでもない。そうではなく何かを語ろうとしているのだろう。その何かがなんでもなければ、別にどうということはないだろう。そこが問題なのだろうか。集団的な力の行使に対抗せず、その代わりに何ができるだろうか。たぶん何かを語ることができるわけだ。その語っている内容が問題なのだろう。そして問題は何もなく、このままでは何が危ないわけでもない。このままでもかまわないわけで、なんの問題もなく事態は滞りなく進むわけだ。何が間違っているわけでもなく、何が正しいわけでもないのに、そこで何かを主張しているのかもしれず、またその主張している内容が問題なのだろう。なんの問題もないのに何が問題なのか。問題とはなんだろうか。たぶん問題が何もないように見せかけなければならないのだ。特定の事柄について賛成したり反対したりしているわけではなく、それを問題にしていないということだ。事柄ではなく言葉の連なりでしかないわけだ。そしてその中で何かを語っている。語りながらも疑っているのかもしれない。本当は何もないのではないか。

 それは事実だろう。語る以外には何もありはしない。語ることなど何もないのに語っているわけだ。語ることでどこへ力を行使しようとしているわけでもない。語っている自らに何も禁じなければ、無内容ですら語る題材となり、空疎なことを延々と語れるだろうか。それは語ってみなければわからない。ことさらに空疎を求めているわけでもなく、虚無に依存しながら語っているわけでもない。ただ考えている。何を語れるというのか。そんな問いを求めているわけでもないが、問うてみたところで何を語れるというのか。たぶん語るとはそういうことだ。勝手にそう思い込んでいるわけではなく、自然とそうなってしまうのではないか。だからといって語る以外には何もできないわけではなく、ただそう語っているに過ぎない。そう語りながらも言葉の並びを模索しているのだろうか。言葉と言葉を組み合わせて一列に並べると、何やら意味のありそうな文章が出来上がるわけだが、それがどう読まれようと、何を語ろうとしているわけでもないらしく、ただそのような言葉の並びが記されているだけのようだ。それが何を示すというのか。たぶんなんらかの意味の連なりを示しているのではないか。読めばそれがわかるはずだが、記された後からそれを読み返す気になれるだろうか。読み返すまでもなく、たぶん意味は意味としてあるが、それらは興味を引かないような意味の連なりとなっているのではないか。わざと意図してそうしているわけではなく、自然とそうなってしまうわけだ。

 自由に語るとはそういうことではないのか。特定の政治的なイデオロギーに頼らなくても、とりあえず語ることはできそうだ。さして興味を引かないが、ただなんとなく語っているような雰囲気を醸し出すことはできそうだ。それでかまわないのだろうか。要するに問題がないとはそういうことなのではないか。語るに関して問題を感じないならば、それでかまわないことになってしまいそうだが、果たして本当にかまわないのだろうか。暴力装置としての軍隊とはなんの関係もないことを語るとしたら、それでかまわないのではないか。暴力という権力の問題を素通りして、自由に語るとしたら、それらとは無関係に語るしかないだろう。しかしそれでは問題に関して語っていることにはならない。では逃げずにそれらに関して真正面から語るとすれば、そこにどのような問題があるというのか。特に何が生じているわけでもなく、取り立てて何を生じさせようとしているのでもなく、たぶん語り得ないことについて語ろうとしているわけでもないのだろう。現実にどのような危機が差し迫っているわけでもなく、ただの場所取り争いの陣地取り合戦の類なのではないか。目下のところやっているのはそういうことに過ぎず、なんら目新しいことでもなく、押さえ込んでも漏れ出てくる情報によって、それに気づかない人々の意識を刺激しようとしているわけだ。結局暴力に対抗するのではなく、それを知ることに意義があるのであり、実際にどこでどのような暴力が行使されているかを、人々に知らせることに意義を見出しているのではないか。それがメディアとしての戦略であり、ネットに繋がっている個々人に課せられた使命なのかもしれない。従来からあるマスメディアに代わって、個人がネット上でメディアの役割を担っているわけだ。そしてそうすることに、今のところなんの問題も起きていないわけだ。


3月6日「差別の構造」

 たぶん個人の意見とは、テレビや新聞や雑誌やネットや書物などメディアを通じて入ってくる、有名人や芸能人や評論家や作家やジャーナリストなどの意見から、影響を被って構成されるのだろう。結局メディア上で発せされる意見の受け売りと考えてしまうと身も蓋もないが、メディア以外に個人の思考に影響を及ぼす要因があるだろうか。例えば日々の生活の中で、周りの人間や現実の体験などから、その人独自の意見や考えが生まれてくるだろうか。人々は現実の生活の中で何を体験しているのか。曽野綾子が有色人種などの外国人に抱くアパルトヘイト的な感情も、一般の日本人と大差はないような気がしてしまうのは、やはり日々の生活の中での体験から生じる実感かもしれず、建前としては誰もが曽野の差別的なコラムを読んで憤慨するそぶりを見せるわけだが、現実にその種の外国人と隣同士になったときにどうなるのか、欧米などでの事例などから想像すると、曽野的なメンタリティの持ち主が大量に出現するような予感はする。そもそも外国人に日本人がやりたくない仕事をさせるという発想からして、すでに差別意識があるわけだから、曽野のような態度で外国人を扱うことは目に見えているわけで、対等な立場で外国人に接するのは無理なのではないか。

 それでも外国人の出稼労働者などいくらでもいて、中東の石油で潤っている王国など、アジアからの出稼労働者が大量に雇われていたりするらしいから、そういうところでは差別的な待遇など日常茶飯事だろうし、それが当たり前の風土であったりするのかもしれない。経済的な貧富の格差があり、富める者が貧しい者を使用人や召し使いのように雇うなら、当然両者の間には差別が生じるだろうし、身分的な差別がなければ雇い主の威厳が保たれないのではないか。ようは人種的な差別というより、経済的な貧富の格差なのであって、世の中にはやりたくない仕事というのがあり、そのやりたくない仕事を貧しい者が金を稼ぐために、仕方なくやるように仕向ける構造が社会の中にあり、日本では人口が減って、やりたくない仕事をやる者が将来不足するから、それを外国人の出稼労働者とか移民にやらせようという話で、欧米ではすでにそういう社会構造になっているらしいから、日本でもそれを真似ようとしているわけだ。建前上は法律的にも人は平等でなければならないだろうが、そのやりたくない仕事に携わっている人たちが外国からの移民であるならば、実質的には差別されるだろうし、もとからいた日本人よりランクの低い人間と見られてしまう可能性は高そうだ。

 だが現状でも日本には世界中から様々な民族や宗派に属する人が来て住んでいるわけで、独自のコミュニティを作り上げ、一箇所に固まって住んでいたりする。そしてたぶん一般の人たちにの間にはそれほど差別意識は浸透していないだろうし、それらの人たちはそれほどやりたくない仕事に従事しているふうもなさそうだ。もちろん低賃金で劣悪な職場環境の中で働いている人たちも少なからずいるだろうが、それは日本人もそうであり、逆に富裕層に属している人たちも結構いるだろうし、在日韓国朝鮮人たちを誹謗中傷する一部の人たちを除けば、特定の民族や宗派というだけで差別の対象にはなっていないのではないか。たぶん大前提として、日本人のほとんどは欧米人でもキリスト教徒でもないので、他のアジアやアフリカや中南米の人たちと、それほど差異はないのかもしれず、彼らの方でも欧米人の白人と日本人とでは明らかに容姿や外見が違うので、妙に身構えることもなく、敵対的な感情も持っていないのではないか。要するに日本人が思っているほど、世界の中で日本人のランクはそれほど高くはなく、欧米の白人ではないその他大勢の中の一民族にすぎないと思われているのかもしれない。だから別に曽野綾子のような名誉白人的な勘違いは無用であり、くだらぬ自尊心など持つ必要もなく、ほかの日本人たちと変わりなく、それらの人たちに接すればいいのであって、それほど大げさな差別意識を感じることもないのではないか。


3月5日「個人の意志と集団の意志」

 固定観念に囚われている。そう思われてしまうのはなぜだろうか。たぶんそこに同じような観念に囚われている人が大勢いて、そういう人たちが世の中の大勢を占めている。そしてそう思ってしまう自分も固定観念に囚われているのではないか。とらわれるような固定観念がないと、多くの人たちが共通の話題に関して話を通じ合えない。そんな固定観念にとらわれたり縛られたりするのも、他人と話を通じ合うための戦略だろうか。話を他人に合わせることで気を引き、そこから他人の心を隙をついて、自分の意見に同意させようとしているのだろうか。そうやって人は他人に力を及ぼしたいわけだ。では固定観念とはなんなのか。多くの人たちがその観念を受け入れ、同意を得られた観念なのだろうか。人は多くの人たちの同意を得るために、そんな観念を導き出したいらしい。ならばそれは最大公約数的な観念と言えるだろうか。最大公約数というたとえで納得するかどうかは、人それぞれで違うかもしれないが、そんな観念に囚われている人が多いならば、それは最大公約数的な観念だとみなしおいて、それほど間違ってはいないのではないか。

 では多くの人たちが囚われているその観念とは具体的になんなのだろうか。例えばそれは民主主義という観念だろうか。たぶん多くの人たちがこの民主主義という観念につまずき、何か独りよがりな理想を夢想してしまっているのではないか。確かにヨーロッパで民衆が王侯貴族を打ち倒して国の主権を勝ち取った物語は、なんの特権も持たない一般市民を魅了する。日本でも江戸時代から明治維新にかけて、まずは西洋の立憲君主制を模範として近代国家を作り上げ、アメリカと戦争をやって敗れてから、アメリカの指導のもとに国民主権の国家に生まれ変わった経緯がある。そして現状が真に国民主権を実現しているのかと問うならば、政治的な信条や立場によって判断が分かれるところかもしれないが、形式的あるいは法的には、日本は国民主権が実現している国家なのだろう。そしてたぶん人によっては、その形式的あるいは法的にとどまらず、実質的に国民主権を実現させたいと願っているのかもしれず、中には真の民主主義を実現させるために、政治的な運動をしている人たちもいるのではないか。では彼らが信じている国民主権や民主主義という観念は、果たして実現可能なのだろうか。

 もしかしたらすでにそれは実現していて、現状が国民主権や民主主義という観念が実現した姿なのかもしれず、そして現状を乗り越えて、さらなる国民主権や民主主義の理念を押し進めるのは困難なのかもしれない。なぜ困難かといえば、実質的な主権は民衆とは別のところにあるからだ。主権は企業や官僚機構や政党などの集団が握っていて、それらの集団に属さない個人にはなんの権限もありはしないだろう。個人はその最大公約数的な集団の意志に同調しない限り、どのような意見も顧みられることはなく、常に集団から無視されるしかない。そして集団から無視されれば、集団による多数決の前になすすべはなく、なんの力も持ち得ない。要するに国民主権とは集団としての国民主権であり、民主主義も集団としての民主主義であって、そこで個人の意志が尊重されることは皆無だ。尊重されるとすれば、それはいつも最大公約数としての多数意見に個人が屈し、同調する場合に限られ、たとえそれが個人の意志だとしても、同時にそれは集団の意志でもあるわけだ。そんなわけで結局、現状では真の民主主義が実現されていないと思う人は、自分の意志が集団としての多数意見に反映されていないからで、自分が世の中の多数意見に同調できないから、例えばマスメディアによる世論調査の結果に違和感を持ったりするのではないか。


3月4日「愛国教育のすすめ?」

 人は何に頼ろうとしているのだろうか。カネがなければ、自分が属する文化とか言語とか宗教とかにアイデンティティを見出すのだろうか。例えば自分が何者であるかと問うならば、まずは日本人であると思うわけか。そして日本人であるならば、自分が生まれ育った場所である日本国について考えなければならなくなる。そう考えるのは当然の成り行きだろうか。そして自分を今の今まで育んでくれた日本に恩返ししなければならないと思い、その国土を守るために今こそ命を捧げる時が来たと悟ったりするわけか。だがそう思わせる理由がどこにあるのだろう。現実にはどこにも見当たらないから困っていて、これではまずいと焦っていて、誰もそう思わなければ日本が滅んでしまうから、今こそ子供達に愛国心を植え付けなければならないと思うわけか。人々は正義を求めていて、正義のもとに集い団結したいのだろうか。少なくともイスラム国へ世界各地から馳せ参じた戦士たちは、建前上はそうなのだろう。では日本を守るべく決起を呼びかけている戦士たちはどうなのか。どこの誰が決起を呼びかけているというのか。だいいち日本を何から守らなければならないのだろうか。中国や韓国の軍隊や企業からか。そして国土防衛のために日米同盟を強化し、沖縄の辺野古地区にアメリカ軍の滑走路を作らなければならないわけだ。なるほどそう話を進めれば納得がいくだろうか。論理的に支離滅裂で無茶苦茶かもしれないが、これで国土防衛と沖縄の辺野古地区に米軍の滑走路を造ることが繋がった。そんな冗談のように語ると愉快な気分になりそうだ。あまり茶化すのは気が進まないが、この政治的な現状をどう捉えればいいのか苦慮した末に、冗談に逃げるしか方法が思い浮かばず、苦肉の策として馬鹿げたことを語る必然性を感じてしまうらしい。

 しかし資本主義のグローバリゼーションとはなんなのか。日米同盟を強化しつつも、一方では日本を守るためにアメリカが進めるTPPには反対しなければならないらしい。日米間で貿易関税が取り払われてしまえば、日本の農業が壊滅的な打撃を受け、他の産業分野でもアメリカの言いなりになるしかなく、完全にアメリカの属国となってしまう。そうならないためにはTPPには反対しなければならない、というわけなのだが、一方で中国や韓国の脅威から日本を守るためには、日米同盟は強化しなければならない。たぶんこれは冗談ではないのだろう。愛国者の誰もが日本を守るために真剣に考えているわけだ。そして真剣に考えれば考えるほど、冗談のような結論に至るのではないか。それが何かの冗談だと知りながら、冗談である部分については目を瞑り、あるいは顔を背け、次の瞬間には何事もなかったかのように、日米同盟の重要性を力説し、またアメリカが推し進める経済のグローバリゼーションから、日本の産業を守らなければならないと力説する。果たして日本を守るとはどういうことなのか。

 それらの何が冗談なのだろうか。たぶんそれは日本を守ることが冗談なのだ。日本とは守る必要ない概念なのではないか。では日本を守らなければ他に何を守ったらいいのだろうか。そうではなく、実質的に愛国者たちは日本を守っていないのではないか。では彼らは何を守っているのか。彼らが日本を守ろうとしているのは事実だが、そういう守り方では日本を守っていることにならないのかもしれず、その辺が微妙にずれているところなのではないか。実際に自衛隊や海上保安庁や警察などが守っているのは、政府と呼ばれる官僚機構であり、彼らは外国からの脅威とともに、国民と呼ばれる日本の領土内に生まれた人たちからも、日本政府という行政機関を守っているわけだ。彼らが国民を守ることがあるとすれば、国土と国民が日本政府の所有物であり財産だから守っているのであり、日本政府にとって国土と国民は、それらを使って政府を維持継続させるための資源のようなものであるわけで、例えば沖縄で米軍滑走路の工事を妨害するような国民は、政府にとって有用な資源ではないから守る対象ではなく、たとえ自国民であっても、政府にとって害をなすような国民は排除の対象にもなりうるわけだ。結局日本政府にとって守るべき有用な国民とは、国を富ませるために稼ぎ、国の意向に従い、国に命を捧げるような国民なのだ。


3月3日「人間の動作」

 人は他人の真似をする。他人のやっていることが魅力的に映るから真似をする。その上やっていることで儲けていたりすれば、なおさら自分もやってみようと思う。そうやって大勢の人が同じことをやろうとするわけだ。そして同じことをやっている者同士の間で競争が生まれたり、またごく限られた者たちが連携して利益を独占しようとしたりもする。人が他人を真似る行為は、人が集団で社会を形成する上で重要な役割を果たしている。というか人が他人を真似なければ、人が大勢集まって社会を形成したりしないだろうし、真似をするために人は互いに近づき、他人の行為を覗き見して他人を真似ながら、そうした行為の結果として集団で暮らしているわけだ。真似る行為なしに人は今あるように生きてはいないだろう。だから人が他人を真似る行為の是非が問われているわけではなく、真似る行為を前提とした上で、さらにそこから先で、何をどうするべきかが問われているのではないか。ならば実際に人は他人を真似る行為以外で何をやればいいのだろう。

 例えば人は自分独自の行為を編み出さなければならないか。そうすればそれが人と人との差異を形づくり、人それぞれが別々な存在へとなることができるだろうか。だがなってどうするのか。今この時代において、すべての人間にそうなることが求められているわけではないし、真似する以外に何をどうするべきかが問われているとも思えない。実際に独創的なことをやっている人はごく少数で、それを模索する人間は、その他大勢の人たちからは、やっていることがなかなか認めてもらえず、その多くは無視されるか否定されながらも、それでも自らの信念を貫き、自分がやるべきと思うことをやっているわけで、そういう人の発明や発見が社会を変えるとしても、これまでにも変えてきたとしても、特定の誰がそういう役割を担っているわけではなく、誰も意識しなくても、なぜか誰かしらそういう成り行きの中で、何かをやっている人間がいて、そういう人によって独創的なやり方が導き出されてしまうこともあるわけで、それが何かのきっかけで多くの人々に受け入れられて模倣されれば、そこで世の中が変わり、新たにそういうやり方が世の中の主流を占める時代が到来するのだろう。今がそういう変革期なのかどうかはわからないが、もうしばらくしたら何かがわかるのかもしれない。

 たぶん無駄で不必要な商品が売れないと、経済は成り立たないだろう。その一方で必要なものを買うことができずに餓死する人もいる。でも売れている商品の何が無駄で不要なのかについては、人それぞれで違うだろうし、誰がそれをどう判断すしようと、とりあえず人は必要だから商品を買うのであり、客観的にそれが不要だとは判断できない。ただそこには商品を売ったり買ったりしている現状があるだけだ。そしてそこでも無駄で不必要な商品が売られ、それを必要だと思って買う人が大勢いるわけで、必要だと思って買えば、その時はそれが必要だから買われたわけで、後からいらなくなれば、それはゴミとなって廃棄されるかリサイクルされるかのどちらかだろうか。使われずに倉庫とか押入れにしまいこまれることもあるだろうが、要するに必要な時と不要な時とがあり、必要な時には使われ消費されるのだろうが、不要になれば捨てられたりリサイクルされたりしまいこまれたりするのだろう。そしてリサイクルされればまた商品となるし、しまい込まれたものが再び出してきて使われることもあるわけで、それが単に無駄であったり不必要であるわけではなく、物や情報が商品としてあるいはただの物や情報として、採取され生産され流通し交換され蓄積され消費され廃棄される過程で、人がそれを取り扱う担い手になっていればいいということだろうか。そういう物や情報を取り扱うのが人の仕事だとしたらそういうことだ。そして結局必要なのはそういう物や情報を取り扱う人間だけで、何もやらない人間は無駄で不必要だということだろうか。だからそういう過程に関われない人間は餓死するしかないわけか。


3月2日「進化という概念」

 政治的無関心に拍車がかかる。いつものようにそれがなんだかわからない。そしてわからないなりにも、なんとか言葉をつなげて、それを説明しようとしているのだが、現時点ではうまく説明できずにいる。いつもの勘違いかもしれないが、それを説明することで、この世界に対する認識を深めようとしているのではないか。だがそれとはなんでもないのかもしれない。人の活動は絶えずこの世界に影響を及ぼし続け、活動した結果として環境の変化をもたらしている。そんな当たり前の認識から一歩も踏み込めずにいるらしい。そこからどこへ踏み込もうとしているのかわからない。踏み込みたいもう一歩とは具体的にどういうことなのか。何をどう語ればもう一歩踏み込めたことになるのか。それがそもそもの勘違いなのだろうか。やはり具体的な事柄について述べないことには、何を述べているのでもないことになるらしい。あとから読み返すとそれがわかる。わかりようのないことをわかろうとして、ありえない認識を求めているのかもしれない。それがわかってはまずいのだろうか。まずいのではなく、認識すること自体がそんなことではない。それでもわかろうとしているのだから、いつかはわかるのではないか。結果的にはそれをごまかしてしまうのだが、語るにつれてだんだんごまかしようがなくなってゆき、何もごまかせなくなれば、ついには真実について語る羽目になるのではないか。だが真実とはなんなのか。何もかもをごまかしている現状では、それがまだ見えてこないようだ。だからもうしばらくはごまかしの言葉を連ねなければならない。そうやって徐々に追い込まれていってしまうだろう。どこに追い込まれるかは、追い込まれて見ないことにはわかりようがなく、言葉をつないでなんとかごまかしきれているうちは、まだ心に余裕がある証拠ではないのか。でもそれは時間の問題で、そのうちきつくなってくる。

 大前提として、この世界ではすでに人余りなのではないか。余分な人が多すぎて、これ以上は人は要らないのではないか。必要とされていない人が世界中に溢れかえっている。そう思えば納得がいくだろうか。だから余った人たちは殺し合いでもして減って欲しいのだろうか。誰がそう思っているのだろう。神がそう思っているとしたら、神には人口が制御できないわけか。少なくとも神は全能ではないわけだ。だからといってどうしたわけでもなく、そんな神の姿を想像している人間が愚かなだけだ。そのことで誰が苦悩しているわけでもなく、余った人間は戦わずして餓死すればいいわけか。たぶん人間社会が人余りなのはもとからで、絶えず余った人間が社会から排除され追放されてきたわけだが、それでも一向に人余りは解消せず、人が社会の中で何かをやろうとすれば、必ず同じことをやりたかったり、やっていたりする競合相手がいて、その相手を押しのけないとやりたいことができない仕組みとなっているのではないか。そこに人と人との競争や戦いが生じるわけで、それに勝って初めてやりたいことができるわけで、そこで負けてしまうとやりたいことができずに、それでも社会の中にとどまろうとすれば、やりたくないことをやらなければならないわけだ。そのやりたくないことをやっている人が多ければ多いほど、その社会が人余りであることが明らかとなっているのではないか。そしてやりたいことの競い合いがないと、そのやっていることが進化しないというわけだ。競合相手が大勢いて、競い合いがより激しくなれば、勝ち抜くにはより高度な技術を要するようになるわけで、そういう競い合いの中から、やっていることの進化が生じるわけだが、果たしてそれが良いことなのか悪いことなのかはわからない。価値観が異なればそんな進化も無駄とみなされるかもしれない。もしかしたら他人と競争するような状況自体が無駄で無意味なことかもしれない。だがなぜそうなってしまうのだろうか。それがないと社会そのものが成り立たないからか。競争に負けた者がやりたくない仕事をやってもらわないと、というか負けたという自覚そのものも意識せず、なんだかわからないままに、例えばゴミの収集だとか産廃処理の作業員だとか、土木作業員だとか、誰も好き好んでやっているとは思えないような仕事を、現実にやる人がいないと社会が成り立たないことは確かかもしれないが、そのなんだかわからないままにやらせるのが、現状での人間社会の特性なのではないか。


3月1日「社会の外部」

 どうも何かが違っているようだ。何に関して考えるにしても、その考えていることが、何を認識するために考えているのか、それを知らなければならないだろうか。しかし何のために何を認識したいのか。そういうところでつまずいていては、そこから話を進められなくなってしまう。例えばそこで何か論争が起こっていたり、その論争に加わって、片方の側に立って、一方の意見に賛成したり反対したり、そうやってなんとか単純な価値判断で済ませたいのだろうか。誰がそうしたいのだろう。まだ具体的には何も語っていない。その程度で何か考えているように思いたいわけか。誰が何を思いたいのでもない。その時点で何を語ろうとしているのかわからなくなっているようだ。そしてその件についてはなんとも思いたくないのかもしれず、その件がどの件でもないうちに、ともかくなんらかの結論を出す手段として、多くの人々を巻き込んで論争が行われているのではないか。またそれも嘘だろうか。たぶん何を考えていることにもならない。そこで架空の論争をしている人たちなどいはしないし、誰が作り話の中で何を語っているのでもないし、それ以外にも日頃から何を考えているわけでもないのだろうが、とにかく何か考えようとしていることは確からしい。だが考えているだけでは、それが何に結びつくのかわからないままだ。思考が気づかないところで、意識が行動や言動に結びついているはずだが、それが実際に何をもたらしているというのか。だからもたらしているのは、日頃の行動や言動なのではないか。他に何ももたらしていないとしたら、今さら何を考えても無駄なのではないか。そこで考えていることが日頃の行動や言動をもたらし、そして今言葉を記していることにも結びつき、そうした記述ももたらしているはずだ。たぶんそこでも無駄なことを考えているわけだ。そして考えるだけではなく、行動しなければならないと思っているわけか。だが行動とはなんだろう。こうして言葉を循環させているだけでは、行動のうちに入らないだろうか。たぶんこれも逡巡の類いであり、過ちのうちに入るような言葉の連なりに違いない。無為に迷っているだけで、具体的に何を語っているのでもないらしい。

 イエスの行動は何をもたらしたのだろうか。自らの死をもたらし、十字架に磔になった死体を偶像崇拝する宗教を生み出した。ローマ帝国を滅亡に追い込んだ原因を作り出したのもその宗教だったのだろうか。そうではなくその後のヨーロッパの繁栄をもたらしたのか。後からならなんとでも言えるだろう。それについて何かを語ろうとすると、粗雑な内容になってしまうらしい。では彼の先駆となった洗礼者ヨハネは何をもたらしたのか。彼の後継者として預言者イエスをもたらしたのか。社会や宗教の教義や戒律にとらわれた生活を捨て、荒野にいでよと言ったのだろう。それ以上の詳しいことは知らないが、安易に社会や宗教を捨てることはできない。人は他の人たちともに社会の中で生き、それに依存していてそれなしでは生きて行けない。人と人との絆を捨てて荒野で生きよとはどういうことなのか。人が集団で作り出す迷信を信じるなということだろうか。しかしその後キリスト教は社会の中に浸透して新たな迷信を作り出した。宗教の迷信とはなんだろう。いろいろあるだろうが、簡単に言えば、神を信じれば救われるということか。それだけなら人畜無害だろうか。他に様々な戒律や教義を作り、人を社会の中に縛りつけようとするから有害なのか。だが人はそれを有害だとは思わず、むしろ有益だと思うだろう。社会があるからその中で安心して生活できる。仕事があり家族を持ち食っていければ十分であり、たぶんそういうレベルでの安心や安全を確保するのが国家だと思いたいのだ。そしてその中で暮らす多くの人たちが安心や安全に関して満足していれば、その国家が栄えている証拠だろう。そういう価値観で語るならそういうことだと言える。それとは別の価値観などがあるとは思えない。それ以外の何が考えられるだろうか。ただ漠然とその程度のことだと信じていれば、それで間に合ってしまうようなことであり、それで済んでしまうから、それ以上は考えようとしないわけだ。実際に何もない荒野では誰も生きて行けないだろうし、荒野とは比喩的なたとえであり、戒律や教義に縛られた社会の外部が荒野なのだが、そこに何があるわけでもない。ただ外部的な視点を持たなければ、社会の戒律や教義の問題点が見えてこないということだ。それらの何が問題なのかといえば、そういう社会的な縛りが人の自由を奪っているということだろうか。だが自由とはなんだろう。それがわからないから、人は自由について考えているのだろうか。


2月28日「言葉としての疑似体験」

 今のところは何を深刻に考えることもないだろうが、気がつかないうちに深刻な状況になっているのかもしれない。すでに今がそうだと断定したところで、実感が湧いてくるわけもないのだろうが、今さら何がどうなるわけでもなく、ため息をつきながらも、それらの実感を言葉にすると、なぜかほとんど戯れ言の類いになってしまい、どうしても真に受けることもできず、すぐにそんな状況から目を背け、その代わりにまったく関係のないことを述べてしまいがちになってしまうのだが、なぜそうなってしまうのだろうか。自分では理由がわかっているのだろうが、そう述べてしまう時点で、事の深刻さから、それについて語ろうとする行為が外れてしまう。どうも述べるべきはそんなことではないらしい。では代わりに何をべてしまうかというと、例えばそれはメディア上で語られるような世の中の状況についてなのだろうか。時にはそういう逃げ方もあるらしい。それをいつでも語れるわけでもないが、時に語りながらも、意識はそこから外れようとしているわけで、そう述べて事の経緯をうやむやにしながらも、一方で語ろうとする状況に戯れ言をかぶせ、自分が体験しつつある現実をごまかそうとしているわけだ。日々それを真に受けながら生きているつもりなのだが、そしてそれがどうしたわけでもないと思いたいのだが、そこでやっていることも戯れ事の類いだと悟ってしまうと、それを語れない理由とは無関係に、それらの何も深刻に受け止める気になれなくなってしまい、たとえそれが中身のない空疎なことであろうと、それをやっている現状に心が押しつぶされそうになってしまうだろうか。しかしそれ以外に何があるというのか。他にいったい何を深刻に受け止めたらいいのか。それは自らの利害に関することだろうか。それだけではない。いつもそれだけではないと思ってしまうわけだが、そう思いたいだけなのかもしれず、自らが否定しがたい事実を、自らが語ろうとする言葉では否定できてしまう。やっているそれらがどんなに深刻な事態を招いているとしても、それを言葉で語れば軽薄に語れてしまうのであり、現実が言葉で語れる範囲内の事態に収まってしまうわけで、それが事実とは異なるフィクションとなるわけだ。そして言葉で語れる限りの戯れ言にもなるわけで、そうやってなんとか深刻な事態をフィクションとして語ることで、やり過ごそうとしてしまう。それで済まそうとしてしまうわけだ。しかし本当にそれで済んでしまうとしたら、深刻な事態とはなんなのだろうか。別に何が深刻というわけでもなく、真に受けるようなことでもないということか。そう思うならそれで済ませられるのであり、もうすでにそこから意識が遠ざかっているのではないか。すでに意識は過ぎ去った事態を忘れようとしているのかもしれず、そこで精神的に窮地に陥っていたなんて、時が経てば覚えてもいないのかもしれない。

 そして忘れたついでに、それ以外に信じられるものがあれば、代わりにそれを信じていればいいのかもしれない。生きている限りは意識するにしろしないにしろ、たぶん何かを信じている。現状に絶望していようと、語る言葉ではそうなのであって、結局そこに記される言葉としての絶望と、実際の絶望との間に差異が生じ、その差異を通じて、それを言葉に記すことでやり過ごしてしまえるのであり、ただ言葉で絶望と記してそれで済ませてしまえるわけだ。そうすれば本気でそう思っていたことが馬鹿らしく感じられてしまうのだろうか。たぶんそれは間違っているのだろう。そうやって真の何かを体験することを回避しているわけだ。今それを体験してしまえば、そこで終わりだと思っているのかもしれない。だから空想から生じたフィクションに依存して、別の何かを疑似体験したつもりになって、それで済ませてその先へと意識を進めようとする。それがごまかしなのだろうか。たぶんそんなごまかしも方便で、それこそが言葉特有の力なのだろう。中には言葉までに至らずに、真の絶望に陥って、そこで終わりとなってしまう場合もあるのかもしれないが、例えば真の絶望に陥り、そこから自力で抜け出られたりするだろうか。たぶんドラマとかフィクションの中では、そういう話の成り行きもあるのだろうが、そんな危機を切り抜けられたら、それはそれで貴重な体験となり、それ以降の人生において何かの足しになるかもしれないが、だからといっていつでもそんな体験ができるとは限らないだろうし、たぶんそこで何かの偶然が作用しないと、そういう成り行きには至らないのではないか。そしてどうすればそんな体験ができるかなんてわかるわけもなく、それができたとしても、それと気づかないうちに深刻な危機を切り抜けていたりするのかもしれない。だから今ここでそれを切り抜けたと意識できたとしても、それはただのフィクションかもしれず、そんなことを述べていること自体が、そう記述したことから生じる疑似体験であり、現実には何を体験しているわけでもなく、ただの想像でそんなことを語っているだけでしかないのではないか。しかし今現実にここで何を述べているのだろうか。これもただの虚構であり、できの悪いフィクションでしかないのではないか。

 


2月27日「『邪馬台国』論争」

 不鮮明な印象から脱するために言葉を弄して、何かはっきりした認識に至りたいのだろうか。なんだか漠然とした気分でいることが歯がゆいのかもしれない。そんなはずがなく、わかっていることはいくらでもあり、そのわかっていることを基として言葉を組み合わせれば、何かはっきりしたことが述べられるだろうか。相変わらず何を語ろうとしているのでもなく、とりとめのない言葉を組み合わせて、焦点の定まらない言葉の連なりを記してしまいそうだ。しばらくは意味不明でしのぐしかないだろうか。

 ユーチューブで「邪馬台国」関連の動画をいくつか見ていて、大して興味を惹かれたわけでもなかったが、メディア的にはいわゆる「邪馬台国論争」と呼ばれる論争があるようで、それに関して自説を熱く主張している人たちがけっこういるようだ。別に「邪馬台国」自体が何か世界史的に重要な存在というわけでもなく、中国の『三国志』の中の「魏志倭人伝」という部分で、ちょっと触れられている程度の国で、紀元三世紀ぐらいの中国の周辺国の一つに、「邪馬台国」と呼ばれる国があったらしく、当時中国で三つの国に分裂していたうちの一つである魏が領有していた朝鮮半島西海岸の帯方郡から、例えば学説の一つが唱えている水行十日陸行一月で行ける場所にあったと判断すれば、そこに行くまでの途中に記されている他の国が、対馬と壱岐と北九州にあったらしいことは、現在の地名などに照らし合わせて確かなようだから、普通に考えればそれらの国と近い北九州のどこかにあったと考えるのが妥当な解釈かもしれないのだが、どうしてもそれを古代の大和朝廷(ヤマト王権)と結びつけたがる人たちがいるらしく、そういう人たちが、九州から遠く離れた近畿地方に「邪馬台国」があったとする説を唱えていて、しかもそれがその手の学会の主流をなしているようで、その辺から話がややこしくなっているみたいだ。

 そういう歴史学とか考古学とかいう学問分野内にも、派閥だとか政治的な権力関係があり、それと現代の国家の勢力関係も結びついて、さらに事態をややこしくしてしまい、そういう権力志向の人たちが、なんとか自分が属する学閥や派閥に有利になるような主張を唱えたがるみたいで、そうした思惑が歴史を歪曲しているとまではいかないにしても、特定の民族だとか国家とかいう概念を過去に投射して、今ある国家的な勢力を正当化する手段にも使いたがる人たちもいるらしく、その辺で歴史の政治利用という、またややこしい思惑がその手の人たちの意識に生じているのかもしれず、結果的に困った事態を招いているのだろうか。

 別に困っているわけではなく、論争を活性化させてそれに関わっている多くの人々を楽しませているのだろうか。ともかく考古学的な発掘作業から、紀元前後数百年間のいわゆる弥生時代と呼ばれる時期において、朝鮮半島南部から日本列島にかけての地域で、倭人と呼ばれる人々が暮らしていたらしいことはわかっているようで、無数の部族単位で小国を形成していたと想像され、その中から山陰の日本海沿岸の出雲地域や北九州の勢力が優勢になってきて、地域ごとにまとまって部族連合国家のようなものを形成し、それらの連合国家同士でも戦争して、さらに大きな国家を形成したりしながら、紀元三世紀ぐらいになると、近畿地方の今の奈良県南部あたりの地域に、ヤマト王権と呼ばれるこれまた有力な部族連合国家が生まれ、他の地域の部族連合国家との争いや連合などを経てさらに勢力を拡大して、ようやく七〜八世紀になると、のちに日本国と呼ばれる広範囲を勢力圏に治める中央集権的な国家になってきたわけだ。もちろんそれも日本が独自にそうなったわけではなく、中国や朝鮮半島で同じように中央集権国家が生まれたから、それに影響を受けて日本でもそうなったわけで、律令制と呼ばれる国家の中央集権的な政治制度も、その時期の東アジア全域で流行った。

 たぶんその程度の認識でかまわないと思うのだが、八世紀の奈良時代と呼ばれる時期になると、『古事記』とか『日本書紀』とかいう、神話や歴史書物の類いが編纂され、それらが国家の存在を正当化するイデオロギーや政治的意向や思惑を含んだ内容となっていて、それが一定の求心力をもち人心を掌握し始めると、やはり事態がおかしな方向へと進展してくるわけだ。そして現代人でさえもそれらを利用して、例えば万世一系の天皇家の神話が、一部の人たちにとってはあたかも真実であるかのごとく信じられていたり、それが世界に誇るべく民族の伝統とか思われ、自己正当化の根拠とされたりして、自信過剰な選民思想とも結びついたりしているわけで、そうなってくると、民族とか国家とかの相対性や流動性が無視されたり、おかしなこだわりや価値観に凝り固まってしまう弊害が生まれてくるのではないか。

 「邪馬台国」自体はその存在を裏付ける考古学的な発見があれば、別にあった場所が近畿でも九州でもかまわないだろうが、そんな国があろうとなかろうと、世界史の中では大して重要なことだとは思えないし、四大文明と言われる世界の主要な古代文明の周辺地域には、その手の国はいくらでもあったのだろう。ただそれが日本ローカルな現象で、何か該当地域でそれらしい遺跡が発掘される度に、マスメディアがセンセーショナルに取り上げた経緯が、いったい何を意味するのか、その辺がよくわからないし、不可思議な現象なのかもしれない。


2月26日「自殺の動機」

 自己の外部に世界がある。自己の内部にも世界があり、世界の一部として自己がある。だがそれがどうしたわけでもない。自己とはなんだろう。言葉に違いない。自己とは自分自身であり言葉でもある。だがそれがどうしたわけでもない。たぶんどうしたわけでもないことを語っているのだろう。これではどうしようもない。何かもう少し中身のあることを語らなければならないと思うが、話の中身とはなんだろう。日々起こっている具体的な事件について語らなければならないのか。だがそのねばならないという理由がどこにあるのか。なんの理由も必然性もないのに語ることができるだろうか。語ってみればそこから理由や必然性が導き出せるのではないか。

 特に何を求めているわけではない。事件とは何か。そんな定義を示したいわけでもなく、ニュースから興味深い事件を選んで、それについて何か述べたいのでもないらしい。事件の何に興味があるのだろうか。ただどこかで何かが起こったということだろうか。それが事件なのだろうか。たぶんそうだ。どうも思考の焦点が定まっていないようだ。ニュースには興味が湧いてこないということだろうか。例えばそこで誰かが死んだりするわけで、その死に方に興味が湧いたりするわけだ。競馬の騎手が首吊り自殺して、それがニュースになっていた。その時点では自殺の動機が不明で、前日までは明るく元気にふるまっていたらしく、関係者は突然の自殺に驚き衝撃を受けている。それが興味深い出来事だろうか。

 そこからわかることはなんだろう。人は時として自殺するらしい。たぶんそれが興味深い出来事なのだろう。放っておいても自然に寿命が来て死ぬのに、わざわざ自分で自分を殺す必要が生じてくる。人には死を先取りしたい動機がある。自分で自分を殺す殺人の動機があるわけだ。それは困ったことだろうか。少なくとも関係者は困っているわけか。中には死んで欲しい人が死んで喜ぶ場合もありそうだが、人が突然死なれると、しかも自殺されると、その知らせを聞いてまずは驚くだろう。驚いた後に自死の動機をあれこれ考えてしまうかもしれず、思い当たる節があればなるほどと思うだろうか。そしてお節介な人は、なぜ死ななければならなかったのか自問して、死んだ原因を取り除くにはどうすべきだったか考えるわけか。そこまで考えるのは関係者に限られそうだが、他人の自殺はできれば防がなければならないと考えるのが、社会人としては健全な発想かもしれない。その反対に自殺を奨励する人は少ないのではないか。

 人間関係は直接であれ、間に組織や団体を介した間接であれ、様々に入り組んでいて、そこからいつどのような動機が生まれるかもわからず、たまたま自殺したい動機も生まれてくることもあるのだろう。それが深刻にそう思ってしまうのか、あるいはちょっとした拍子に不意にそう思ってしまうのか、その辺も当人が死んでしまった後からはなんとも言えないところかもしれず、まれに遺書でも残されていれば、それを読めば納得することも、またさらに謎が深まったり、腑に落ちないこともあったりするのかもしれないが、死ぬ動機や理由があるとして、その動機や理由から何かを導き出そうとすれば、やはりそれはその人の物語となってしまうのではないか。なにやらその人が自殺に至るまでの人間関係や、そこから生じた諍いなどを語りたくなってくるわけだ。そういうところからありふれたドラマが生じ、そういうドラマを求めるのも好奇心旺盛な人の人情だろうか。

 日頃からメディアが注目している有名人でも自殺すれば、大ニュースにでもなるのだろうが、誰が自死しようと自殺は自殺で、人間社会の人間関係によって自殺という現象が発生することに変わりがないか。そこから生きる理由が生じれば死ぬ理由も生まれてくる。生きるのも死ぬのも苦しいなら、人はそのときどちらを選ぶだろうか。その時の周りの状況にも自分の気分にも影響されるのだろうが、たぶんその時になってみないことにはわからないことであり、前もって決めておくようなことでもないのではないか。どのような状況に追い込まれたら自殺するかなんて、わかることもあるしわからないこともあるだろうし、わかったところで、あるいはわからなかったところで、別にそれを自分の状況に当てはめる気にはなれないだろうし、自分の状況に当てはめて自殺したところで、それも自殺でしかなく、そこから何か合理的な教訓が導き出されたところで、それがどうしたわけでもないか。どうもそこから何かわかったような結論を導き出す気にはなれないようだ。


2月25日「問うことの理由と限界」

 何かを問うているうちに、いつしか問うことばかりにかまけてしまって、肝心の問う理由がないがしろになっているのではないか。どうもその辺で語ることの行き詰まりが尋常でないらしく、しばらく考えていることから離れて、でたらめに言葉を記してみようとするが、そういうごまかしにはもはや精神が耐えられないようだ。ごまかさずに内容のあることを語ろうとするのだが、頭の中で考えがまとまらない。どうやら想像力は無限ではないらしい。だが今さらなぜそんなことを語るのか。何も語りようがない現状に嫌気が差してしまったのだろうか。どう考えても語る理由など見つからず、それを探し出そうとする意志が、理由など求めていないような気がして、何が理由なのかわからないまま、ひたすら問いかける気でいるみたいだが、何に対して何を問いかけようとしているのかもわからない。問うことに関して思い当たる節は何もないだろう。わからないのにそれがなんだか思い当てられるわけもないか。そんなわけでもう語ること自体が終わりなのではないか。今ここでそんなことはわかりようがないが、何が終わっているとしても、終わってしまった理由を知りたいわけでもないらしい。では何を知りたいのか。少なくともすでに語ってしまっている内容を理解したいのかもしれないが、後追い的にそれを読み返す気力も減退していて、すでにどうでもよくなってしまった感もある。

 しかしなぜそんなことを語るのか。導き出そうとするその理由が、それを語る理由になっていないのかもしれない。それは文章的なデタラメだと思うが、デタラメ以外には逃げ道が見当たらず、逃げようとしているわけでもないのに、それと気づかずに結果的には逃げていることになってしまっているのかもしれず、そうやって逃げながらも体勢を立て直して、意識を覆う虚無の弱まる隙をついて、そのタイミングを見計らって、不意にこの世界に対する問いを発しようとしているのかもしれないが、それはどこまでも問う対象のない問いでしかなく、問いが問いを発する理由を求めているわけではないらしく、問いはひたすら問うことを求めているだけで、それに対する理由などいらず、ただ純粋に問うことだけを求めているように思われてしまう。なぜそう思われてしまうのだろうか。その理由がないからそう思われてしまうのであり、何もないから理由などありはせず、そう思うことなどあり得ないと思いたいのだ。問われてないことの理由を問うのは、あまりにも馬鹿げているだろうか。もうその時点で日本語として意味が通っていないような気がして、たぶん日本語でなくても意味などありはしないだろう。これは日本語とは関係のない次元で問うていることであり、また日本語で語っている現状から、何を導き出そうとしているわけでもなく、そこに言い訳じみた限界を答えとして示したいわけでもない。かといって答えがない状態を保ちたいわけでもなく、絶えず答えを求めていて、それを探っている状態を保ちたいのではないか。それも答えの出ない状態を肯定する言い訳のような気もしないではないが、とりあえずそうやって問いを発していることは確からしい。

 確かに問うことが何になるわけでもない。ただ問いたいだけなのかもしれず、無性に問わずにはいられないのだろうが、理由がわからないまま問い続けることが、何を問うているとも思えない気分を保ち続けることが、何を意味するとも思えないのだが、少なくともこの世界に対する疑念の表れなのかもしれず、常になんだかおかしいと感じているのかもしれない。だからどうしてそう思うのかと問うてしまうわけで、それが問う理由とするなら、自然に湧いてくる疑念に対する答えを求めているのだろうか。要するに問う理由がないわけではないということか。しかしそれでは理由もなく問う行為を裏切っているのではないか。それ自体が嘘だったのだろうか。なんだかわからないが、当初は理由もなく問うていたのが、この世界に対する疑念という答えを持ち出すと、すっかり理由の不在がなりを潜めてしまうのはどうしてなのか。本当にそれが理由だろうか。別にそれを裏切る必要も感じない。無理に裏切らなくてもかまわないように思えてきて、そんな理由でもとりあえずの答えとしては妥当に思えてきて、それ以上の問いは不要に感じられてしまうが、本当にそれでいいのだろうか。しかしこの世界に対する疑念とはなんなのか。具体的にこの世界の何を疑っているのだろうか。この世界の存在そのものを疑っているわけではない。要するに対象としては規模がでかすぎて、とりとめがなくなってしまい、疑念の中身を思いつけなくなってしまう。疑念が疑念として成り立たなくなって、疑念ではなくなってしまうのかもしれず、この世界に対して疑念を感じていることが確からしいが、この世界の何に疑念を感じているのかと問われると、たちまちそれがなんだかわからなくなってしまうわけで、結局なんでもなくなってしまうのではないか。それは疑念ではない。疑念ではなく、やはりそれも問いなのではないか。なぜこの世界に対して疑念を感じるのかという問いであり、疑念を感じていること自体はどうでもいいことなのかもしれず、ただそこで問いを発し続けていることが、唯一確かなことなのかもしれない。問いの中身がなんでも構わないわけではないのだろうが、やはりそこに問いを発する対象があるらしい。


2月24日「語るまでもないこと」

 また意識が無方向に散らばっているのかもしれない。黙っていても時は止まらず、忙しく時代は進み、やがて人も物も入れ替わる。誰も待ってはくれないし、待ってはいられないのだろう。いったい誰がそこで何を待っているのか。何の到来を待っているのだろうか。待ちくたびれて何を待っていたのか忘れてしまったわけではない。何かの出現を待っていたのではなかったか。しかしそこに自分以外の誰が現れているというのか。疑問を感じているわけでもないのに、意味不明な問いを発している。いつもの嘘には違いないようだが、少しでたらめに言葉を記すとしよう。無駄に無意味に記さないと、過ぎ去ろうとしている時間に追いつけなくなる。しかし時間に追いついてどうしようというのか。悪あがきをしたいのだろうか。それが悪あがきに思われてしまうとすれば、そうではないやり方を模索しなければならないだろうか。夢を抱いているのかもしれない。なんとかなると思っているわけだ。そのなんとかなるが具体的にどうなるのかはっきりしないのだが、とにかくなんとかなると思っている。結果的になんともならないとしても、なんとかなると思っていればいいような気がする。

 誰に同意を求めているのでもない。人それぞれで考えや思いが異なるとしても、個人の力でそれを変えることは難しい。それらの考えや思いの何が間違っていて何が正しいかを判断したいわけでもない。ただそれらの人たちに向けて何かを主張したいのだろう。そしてその何かについて同意を求めているわけではない。ただ彼らとは異なる考えや思いがあることを知って欲しいのかもしれず、それを知った上で、もう一度改めて考え直して欲しいのだろうか。そこまでは求めていないのではないか。人は自らの自由を求めているが、同時に自由をあきらめ、社会が課す諸々の制約や束縛の中で生きている。それが当然だと思うしかない。

 迷っているのかもしれない。気の迷いが生じている。というか何を考えているのでもないということか。問題はどこにあるのか。問題がなければ、ほかに語ることがないのだろうか。たぶん何もありはしない。もう語る必要がないのではないか。というかもとから語る必要などなく、何も語らずに済ませられたのに、必要もなく語り、そしていつの間にか語ることに行き詰まり、嫌気がさして語ることから遠ざかろうとしていたわけだが、後からそれが嘘であることに気づき、そして本当は何も気づいていないことに気づき、語ることは嘘でさえなく、実質的には何も語っていなかったのではないか。そして時が過ぎ、時に置いて行かれ、その場で焦りを感じ、なんとか時に追いつこうとしているわけだ。追いつけるとは思わない。時に追いつくとはどのような状態をいうのかさえわからず、途方に暮れているはずだ。どこに至っているのでもなく、記すべき言葉も見当たらず、現状で語っているすべては余分でしかない。内容が空疎だということは、今まで語ってきたことがまやかしにすぎないことを物語っているのだろうか。そんなはずないと思いたいわけだが、無内容を記しているうちにだんだん自信がなくなってきたのではないか。

 そして不意に空白の時が訪れ、それを無為に過ごしているのかもしれない。それは不意ではなく必然であり、自身にとって思いがけなかったわけでもなく、いつでも陥る危険性があったわけだ。そして今まさにその時が訪れ、その中で悪あがきの最中なのだろう。それでもあきらめてはいけないと思っている。だがいったい何をあきらめようとしていたのか。自らの夢はなんなのだろうか。もはや夢を抱く時期はとっくに過ぎている。冗談でそんなことを思っているのだろうか。人は他人を利用しなければ生きて行けないことはわかっているはずだが、ひとりでなんとかしようとしているらしい。他の誰にも迷惑をかけずに、ひとりでできることをやろうとしているわけだ。すでに周りの多くの人たちに迷惑をかけていることは承知で、それでもひとりで勝手なことをやろうとしている。それがそもそも無理なこともわかっているはずなのに、なぜ好き勝手に振る舞おうとするのか。それができると思っているからなのか、あるいは実際にできていると思い込みたいのか、どちらでもあるだろうし、どちらでもかまわず、とりあえず自由を求めているらしい。

 しかしそれでなんとかなっているつもりなのだろうか。現実にはなんともなっていないのかもしれないが、それでも意地を張っているようだ。それがいつまでもつのかわからないが、今はそうしなければならないらしい。人は過去でも未来でもなく、今の時代に生きているわけで、現状の中でなんとかしなければならない。たぶん現状に落胆しているのだろう。多くの人たちが権力に逆らいつつも挫折して、窮屈な暮らしを余儀なくされている。中には別にそれが窮屈な暮らしなどとは思わない者もいるらしいが、思い違いもいいところか。誰がそう思っているわけでもなく、他の誰かがフィクションの中でそう思いたいのだろうか。どうもその辺のところを文章の中でうまく表現できていないようだが、そこで誰の文章を読んでいるのだろう。読んでいるつもりで、実は何も読んでいないのではないか。それは何かの苦し紛れかもしれないし、冗談のつもりかもしれないが、ほかに何を語ろうとしているでもなく、やはりうまく語れないまま、それから数時間が経過して、すでに時間切れのようだ。語るまでもないことを延々と語っているうちに、どうやらもう何も言葉が残っていない。


2月23日「企業の利益追求活動の結末」

 何もなければ、語るとなるとフィクションとなるしかないだろうか。そんなわけでこれも一つの作り話となってしまうのか。近頃は言葉の組み合わせの加減の調整がうまくいっていないようで、結果的に思いがけずおかしな方向への語りとなり、気がつけば話がこんがらがっているようだ。別に金を稼ぎたいわけではなく、できれば稼がなくても手にできるような方法があればいいと思っている。だがもうそれだけでさもしい魂胆が見え透いているだろうか。金は世の中にはいくらでもあるが、ただその金をいくらも手にしていない現状があり、仕事をしなければ金など入る当てなどないわけだが、仕事がないわけではなく、仕事はいくらでもあり、ただやりたくない仕事ならいくらでもあるわけだ。しかしやりたい仕事とはなんだろう。要するに仕事をやりたくないわけだ。仕事をやらずに遊んでいたいわけで、遊ぶためには金がいるということか。人がやりたがっているのは遊ぶことだろうか。無い物ねだりとはこういうことだろうか。その理想と現実との間の落差が大きければ大きいほど、そこで感じる絶望も計り知れないほど大きいだろうか。人はやりたいことを断念してから、その代わりに何をやるのだろうか。その場の成り行きに従って、何かをやっているのではないか。そしてそのやっていることがやりたくないことだったりするのだろうか。だがそれがどうしたわけでもなく、要するにやりたくないことをやりつつも、まだやりたいことをあきらめてしまったわけでもないということか。そこに袋小路があり、行き詰まりがある。結局何もできなくなっているわけだ。やりたくないことすらできなくなっていて、すでに何もやれずに寝たきり老人と化しているわけか。そうならないうちに手を打たなければならないが、たぶん取り立てて打つ手もなく、何もできない架空の誰かが死に瀕しているわけだ。しかしそんなくだらぬ想像から何を導き出せるだろうか。自らの精神の危機と、架空の誰かが死に瀕していることとはなんの関係もないことだ。そんなフィクションで語られる偽りの死が救いなのではないか。誰かが信じている宗教的な逆説とはそういうことかもしれない。そして自分が生きているうちに何かをやり遂げなければと思うことも幻想の類いかもしれず、実際には何もできないまま死んでしまうのではないか。それが今ここで直面している現実だろうか。要するに何も危機ではなく、ただ死の幻想とそれが危機だと勘違いしていることと、何もできない現状とがシンクロしていて、ただそんな言葉を記しているとわけがわからなくなって、心身の変調と妄想とが勝手に結びつき、なんとか行き詰まりを打開しようと焦ってしまうらしい。そしてそれが何をもたらしているのでもなく、記している言葉の組み合わせの傾向が、いつもとは趣が異なるような気がしているだけかもしれず、それで何が解決するわけでもないことはわかっているが、とりあえずそれで現状を変えようとしているつもりになりたいのだろうが、それでもまだそれほど自らの死が差し迫っているとは感じられないのは、まだその先に何かがあるような気がしてならないからか。そうだとしてもおかしな方向へと外れながら言葉を記している現状を、どうすることもできはしないのではないか。そんなわけでいくら意識しても、記述が人の意志から外れて暴走してしまうことはありそうだ。

 経済活動とはつまるところ市場の独占を目標としているのだろうか。例えばアップルだのアマゾンだのグーグルだのマイクロソフトだのエクソンモービルだのウォルマートだのの巨大多国籍企業にとっては、その企業が取り扱っている産業の分野での市場の独占が、活動目標となるだろうか。そのつもりで活動していないと、たちまちライバル企業との競争に負けてしまうだろうか。国家はそんな巨大多国籍企業から国民を守る義務でもあるわけか。だが守るとはどういうことなのか。それらの企業に利益を吸い上げられて、自国民が窮乏すれば自国も窮乏してしまうということだろうか。それとも自国の企業がそうなってしまえば、自国に利益がもたらされるから、自国の企業がそうなるように国家が後押ししなければならないだろうか。そしてそうした企業同士が熾烈な競争を繰り広げれば、競争に勝ち抜いた企業が負けた企業を吸収合併しながら寡占化が進み、やがて世界には各産業分野で一社ずつの超巨大企業しか存在しなくなり、それで企業間競争も終わり、結局必要な物資を必要なだけ生産する共産主義社会が到来したりするだろうか。結局なんだかんだ言ってみても、神の見えざる手によって、世界は共産主義社会に向けて歩んでいるわけか。たぶん今のところは誰もそんなフィクションなど信じていないだろうし、数知れぬ企業が世界中で活動している現状から考えれば、そんなのはあり得ないことだろうが、人の意識とは無縁の企業の利益追求活動の究極の目標は、それに携わっている誰の意志からも外れて、そんな結末を目指しているのではないか。


2月22日「国家をなくすには?」

 人が人として、あるいは集団としてやっていることは、簡単に言えば、物や情報を採取し、生産し、流通させ、交換し、蓄積し、消費することだ。そしてそれらの過程において、人や集団が互いに連携し、協力し、競争し、抗争しあいながら、互いが互いに力を及ぼしあい、そんな動作を延々と繰り返している。そして人が扱っている物の中には人自身も含まれ、人は人を採取し、生産し、流通させ、交換し、蓄積し、消費しているわけだ。もちろん人が人を利用するときに使われる言葉はもっと穏便で、人材活用とか、教育とか、啓蒙とか、なるべく抵抗感を抱かせないような語彙を使っているわけだが、本質的に人は人を物として扱い、人の動作に活用し、役立てていることに変わりない。そしてそれらの動作が、なんのためにそのような動作が行われているのかについては、たぶん明確な理由はないのではないか。ただ人は個人としてあるいは集団として、そのように動作している。そこに目的やその根拠をなす欲望や、利益や名誉や栄光のためになどという、自己満足的な理由付けをしてみても、それらはただ言葉の言い換えに他ならず、意識の中で似たような意味を担う言葉がぐるぐる回っているだけで、明確な動作の根拠にはたどり着けないのではないか。例えば人は人という種の存続のためにそんなことをやっているのだろうか。それも生物学から導き出された学問的な理由付けに過ぎない。時として人はそういう理由付けや根拠付けにすがって、なんとか自らの存在と動作を正当化しようとするわけだが、そのような正当化願望こそが、そんな存在と動作を認識することからきているのであって、やはりそこでも答えにならない言葉がぐるぐる回っているばかりだ。だから安易な理由付けや根拠付けの思想にとらわれるわけにはいかないのであり、そういう思想をもととした信仰や宗教の類いにも、知り得ないことを知っているかのように装う欺瞞が付きものなわけで、そういったものに無理にすがりつく必要もないわけだ。そしてそういったものの最たるものが、国家を中心とした制度や仕組みなのだろうが、そこに実際に世界のほとんど全ての人たちが束縛されている現実がある限りは、どうしてもその存在や存在の理由付けを信じるしかない立場に、ほとんど全ての人たちが追い込まれているわけで、何をやるにも何を考えるにも、国家の存在を前提として思考し行動している現状があるわけだ。

 国家の何が問題となっているのだろうか。それは暴力によって人を支配しようとする行為だ。暴力はそれを及ぼす相手の同意を得ずに、一方的に力を及ぼそうとする行為だ。国家が存在するためには、その暴力が欠かせない。それは力が及ぶ範囲内に人を拘束し、そこから強制的に税を取り、その税金によって国家を構成する官僚機構を養おうとする。その税金を強制的に徴収する行為が、国家を合法的な強盗団に仕立て上げている。たぶん税金のない国家はあり得ないだろう。税金がなければ国家を担う官僚機構を自前で養うことはできない。今後国家の存在と国家による暴力行為をなくすには、税金をいかにしてなくすかが、その鍵となってくるのではないか。それにはまず人が金がなくても生きて行けるようにしなければならないだろう。しかもそれは大昔の狩猟採集生活に戻るというのではなく、今ある資本主義市場経済の中でそうならなければならないわけだ。要するに現状をさらに推し進めればいいということだ。そして現状に新たな何かを付け足せばいい。その付け加える何かが、世界を変えるきっかけとなる何かだ。今のところそれはあり得ない妄想でしかないが、時が経ち、時代が進むにつれて、それが次第に明らかとなってくるのではないか。金がないと生きていけない資本主義市場経済の中で、なぜ金がなくても生きて行けるようになるのか、その二律背反を生じさせるにはどうしたらいいか、現状ではそんなことなどわかるわけがないし、下手なこじつけや屁理屈なども無用だろう。要するに必要に応じてそうなるのではないか。このまま貧富の格差が広がれば、極端に金を持っているほんの一握りの人たちと、ほとんど金も資産もない大多数の人々に分かれれば、ほとんど大多数の人たちは金も資産もないのだから、それでも生きてゆく方法や手段を自ずから見出すだろう。今の時代ではそんなことはあり得ないかもしれないが、そんな状態が当たり前の時代になれば、それに応じた生き方が大勢を占めるようになる。今想像できるのはそんなことでしかないが、そんな時代が到来すれば、現時点での想像を超えたありえない事態も生まれているはずだ。それを今から想像するのは無理だろうが、結局大昔の狩猟採集生活をしていた人々には想像もできなかった生活を、現代人がしているわけだから、現代人が想像もできないような生活を、未来の人々がしている可能性は十分あるだろうし、現時点で問題となっていることが、人の同意なしの暴力で人を支配しようとすることであるからして、未来に向けてそのような暴力をなくそうとする試みも、当然なされていくのではないか。そのような試行錯誤の過程で、有無を言わさぬ暴力を背景とした国家の支配が、次第に弱まっていく方向での努力がなされなければならないだろうし、現状でも非暴力的な抗議活動や市民運動で、そういう方向での努力がなされているのではないか。


2月21日「賛成と反対以外の何か」

 なぜ賛成したり反対したりするのだろう。それらの物事の単純化は何を目指しているのか。そうしないと何事も前に進まない。多数決の原理というやつだ。そういう成り行きの中で何も決まらなければ何も実行できない。だから多数決をとって決まったことをやろうとするわけだ。とにかくそうやって何かをやろうとしているわけで、それ自体が悪いというのではない。ただそこに至るまでの紆余曲折の経緯を大事にしなければいけないということだろうか。多数決をとって賛成多数でやるべきことを決めて、それをやろうとすれば、反対していた者たちがそれで納得するわけではないが、少なくともそれをやる口実はできたのだから、事を進めたい側にしてみればうまく行ったことになるのだろう。そこまでこぎつけるには並大抵の努力ではなかったかもしれず、よくやったと自分に言い聞かせて、自画自賛でもしたいところだろうか。だがそれでかまわないとは思わないようだ。何か気に入らないことでもあるのだろうか。そういう手順で物事を進めるのは仕方がないにしても、途中で何かが抜けてしまっているらしい。それはそれ、これはこれとして、そこに至るまでの経緯にこだわりたいのはどうしてなのか。そもそものやり方が間違っているのではないか。だがこうなった以上は、すべてを白紙に戻すことはできず、できるのはその上に何かを付け足すしかない。一度決まったことの上に、さらに新たな採決を足して、そうやって反対派を追い詰め、うまく排除しようとしているのかもしれず、たぶんそういう思惑で事を進めようとしているのだが、それがうまく行ったとしても、まだ何かが足りないと思っている。足りないのはなんなのか。ただそこで行われている物事の複雑な構造を捉えきれていないだけか。感覚がそれらの現象を捉えようとしているのではない。ではやはり説明するために単純化しているわけか。そういう意志が感じられるのかもしれないが、しばらくは眺めているだけで満足しているのであり、満足してしまえば余計な説明など不要だろうか。しかし付け足しに過ぎないにしても、説明しなければ感動が伝わらず、ほかの誰にそれを伝えようとしているのか、伝えるあてなどないのだが、それにしても説明が雑すぎないか。なぜ人は言葉と現実を区別できないのか。現実の体験も言葉による説明を要するからか。だが実質的には現実を説明しているのではなく、結果的に虚構を語っているのではないか。そんな疑念がわざとらしくもそう思えるのは、言葉が現実を捉えきれていない理由だと思いたいのかもしれない。しかしなぜその理由を導き出したいのか。そしてそれがなんのための理由にもなっていないところが、まだ意識が現実に囚われている証拠だろうか。どうやらまたいつもの調子ではぐらかされているらしい。自分で自分を欺いてどうするのか。少なくともここは虚構の世界ではなく、感知している全てが現実であり、作り事なのは、それを説明する言葉の組み合わせだけだ。言葉を組み合わせて何かを語ろうとしていること自体が現実だろう。語ろうとしている自身が、それをわざとわかりにくく語ろうとしているのだろうか。その理由はなんなのか。わざとではなく自然とそうなってしまうのかもしれず、実質的にはまだなんの説明なのかわからないままであり、意識がとりたてて何を説明しようとしているのでもないらしい。ただ言葉を組み合わせて文章を構成しようとしている。そういうことにしておけば、自由な感覚でいられるだろうか。でも自由を目指しているのではなく、何かをわかりやすく語ろうとすることを目指しているのであり、しかもそれに失敗しているのではないか。意識の内部から何を説明しようとしても、そうやって何を保とうとしているのでもなく、ただその体験しつつある現実を語ろうとしているのではないか。しかし相変わらずまともな説明になっていない。そう思っている時点ですでに現実から意識が外れているようにも思われ、現実とはなんなのかと改めて問うてみても、その現実の中で生きていることに変わりはなく、これが現実なのだと実感するしかないのではないか。でもそれで何を説明したことになるのか。そう語ることが現実なのではないか。そう語れなくなればフィクションになってしまうかもしれないが、たぶん実際にはそうはならずに、フィクションになるような作り話さえ、現状ではまともに語れなくなっているのではないか。結局実質的には話など何もありはせず、空疎な気分に満たされた心の内を語っているつもりなのかもしれないが、実質的には何も語っていない現状がある。これ自体が実質を伴わない空虚そのものなのではないか。


2月20日「根本的な社会変革の必要性」

 たぶんそれはわかっていることだ。この世界について知っていることは限られている。それに関して疑問がいくらでも湧いてくるはずもないだろうが、根本的に何がおかしいのでもない。それは極めて当たり前のことではないのか。人は単独でも集団でも、様々な物や情報を生産し、それらの生産物を交換したり消費したりする。そんな現状をふまえて何をどう判断すればいいのだろうか。そもそも世の中の現状がどうなっているのか。そしてそれをどう説明すればいいのだろう。何かそこに制度的な不具合があって、その不具合を指摘すればいいのだろうか。指摘することができるだろうか。しかし制度とはなんなのか。何が制度として人を拘束しているのか。人はどんな制度にとらわれているのだろうか。どうもその辺のところで、何か思い違いが生じているのだろうか。自らがそれを信じていないようだ。それとはなんだろうか。富の蓄積行為は当たり前のことだ。様々な生産物の交換に使われる貨幣を蓄積したいと思うのは当然の衝動だ。人は蓄えられるものを貯め込みたい。たぶん貯蓄を禁止する法律はない。他にどんな衝動があるだろうか。生産し交換し消費し貯蓄したいだけか。他人のものを奪いたい。奪ってまでも自分の所有物を増やしたいのは、貯蓄衝動の一種だろうか。合法的に奪うには合意の上で貨幣と交換すればよく、物や情報を買えばいいというわけだ。そうやって単に貯蓄するだけではなく、自分の所有物を活用したいのではないか。なんのために活用するのだろう。さらに自分の所有物を増やすために役立てたいのだろうか。それが投資の動機だろうか。しかし最終的な目的が貯蓄だけだとは思えない。ではなんのために投資するのだろう。物や情報を自分のものにして消費するためだろうか。では消費とは何か。それを使うということだろうか。なんのために使うのか。自分が楽しむために使うわけか。では最終的な目的は快楽だろうか。たぶん最終的な目的というのが、誰にでもあるわけではないのだろう。最終とか究極とかいうのではなく、途中を楽しみたいというのもあるのではないか。何かに一心不乱に取り組んでいたいわけだ。生きている間は何かをやり続けたいのであって、それが生産であったり交換であったり消費であったり貯蓄であったりするわけだ。それらの行為をやり続けることが目的なのかもしれず、それができなくなった時が、自らの終わりであり、死であったりするのかもしれない。だから人は必死になって自らがやろうとする行為をやり続け、実際に死ぬまでやり続けているわけだ。そんな人が少なからずいるわけで、要するにそういう人たちは死ぬまで引退できないということだ。仮に引退したところで、また別のやりがいを求めて、日々模索し続けるのだろう。

 そういった行為を社会全体で制御することが求められているのだろうか。多くの人たちが勝手なことをやりすぎてしまうと、社会全体の秩序が保てなくなってしまうわけか。では人の行動を制限するために法律があるのだろうか。それはそうで、そうであるから人はしばしば、合法的にやりたいことができるように、社会の中でその人のやり方を通すための、戦略や戦術を絶えず編み出そうとしているのではないか。もちろん誰もが勝手なことができるわけではなく、誰かが譲歩したり妥協しないと世の中が上手く回って行かず、社会そのものが崩壊してしまうのかもしれず、それが戦争という形を取るにしろ経済恐慌という形を取るにしろ、なんらかの社会崩壊があるのは、そこで社会が上手く回って行かなくなったことの表れだろうか。ともかく特定の階級や立場に属する者たちが、利益を独占してやりたい放題やっているように見えてしまうと、それによって不利益を被っていると思われてしまう者たちの不満がたまり、その不満が限界を超えて爆発すると、暴動や革命が起こり、社会の崩壊に至るのかもしれないが、そうならないためには社会の秩序を保ち、そのために法律を作り、それを社会の制度として機能させる必要が生じてくるわけだ。そこに暮らす人々がそんな法律や制度に従っている限りは、公正で公平な競争が保証されなければならないとなるだろうか。誰もがやりたいことができるわけではないが、公正で公平なルールに基づいた競争に勝ち抜いた者ができるようにすれば良く、要するにそういうルールや競争が、誰もが納得できるようなものにすればよく、それが制度というものだ。少なくともそうした社会制度を作る側からすれば、建前上は公正で公平なルールに見せかけなければならないはずだ。見せかけられなければ、それが不公平で不公正だと思われてしまい、それに気づいた者が多ければ多いほど、社会不安がそれだけ高まり、社会が崩壊するリスクも高まるわけか。そんな人々の不満をどう抑え込むかが、社会の秩序を維持しようとする側に課せられた課題となってくるわけだが、果たしてそれらの大前提となる公正で公平なルールに基づいた競争というものが実現可能なのだろうか。結局それは実現不可能であり、ただそう見せかけるための努力が絶え間なく試みられているだけではないのか。そう思われてならないからこそ、そうしたごまかしの先にある根本的な社会変革こそが求められているのではないだろうか。そのためには人間の根源衝動である、物や情報の生産・交換・消費・蓄積などの行為から、改めて考え直してみる必要があるのかもしれない。考えるというより、実際の行為そのものから変革してゆくべきなのだろう。


2月19日「夢のある話」

 何かどこかへ昇ったら、梯子を外された感じがする。考えているつもりだったが、何かが足らないようだ。またそれに関して言葉も足りていないようだ。他は足りている部分もあるのかもしれないが、やはりその部分では何かが足りない。そして実際に足りていないそれをどう表現すればいいのかわからない。しかし一体何を表現しようとしているのか。それもはっきりせず、よくわからない段階で、思考や言葉が足りないとかいうのもおかしいだろうか。実際に足りていないように感じるそれとは具体的になんなのか。たぶん足りていないから困っているのだろうし、困っているから足りていないと思うのだろう。足りないのは言葉ではなく概念だろうか。その概念がそれを表現する言葉によって示されなければならないのだろうか。ここ最近はそれが表現できずに、行き詰っているというわけか。

 問題となっているのは世の中の仕組みや制度なのだろうか。例えば理想とされる社会の姿を思い描いているのではなく、人としてどう生きるべきかを考えているわけでもなく、政治家がどうすべきかなんてことでもなかったはずだ。では考えているのはなんなのだろうか。世界はどうしてそうなってしまうのか。人がなぜそうするのか。その理由なのだろうか。あるいは社会はいかにして成り立っているのか、それを説明しようとしていたのだろうか。改めて考えてみると、そういうことを考えていたような気もするが、説明しようとしてそれに成功しているとは到底思えない。だが何を説明する気でいたのか、はっきりとはわからず、たぶん何かを説明しようとしたのだろうが、その説明しようとする対象が、うまくつかみ切れていなかったのかもしれない。今もその対象をつかんでいない。たぶん今後もつかめないのではないか。いつまでたっても何を語ればいいのかわからずに語ろうとするだろう。

 目下のところ何も問題とはなっていないのではないか。戦争への懸念などない。実際に戦争しているのではないか。紛争地域へ行けばそういうことになるのだろう。経済については金余りの株高が続いていて、今後もどこまで株高が維持されるのかわからないが、それは人の思惑とは関係なく続いてゆくのかもしれず、世界的に危機感を募らせた投資家たちが、無意識のうちに買い支えていくのではないか。予想など占いと同じで当てにならないが、そう予想しておけば一安心だろうか。それは予想ではなく希望的観測でしかないのは、わかりすぎるくらいにわかっていることかもしれない。でもどこから危機感が生じているのだろうか。経済そのものに対して疑念を抱いていることは確かだ。もはや誰もが豊かになれるわけではないことに誰もが気づいているはずで、政治によってもそれができないことも誰も気づいているはずだ。そして経済的に豊かになるということがどういうことかについても、誰もがわかっているはずで、それが必ずしも魅力があるとは言えないことも気づいているはずだ。

 この世界でどのように生きても、それで何がどうなるわけでもないことも誰もがわかっているのではないか。要するにこの世界は夢も希望もない世界なのだ。それも誰もがわかっていることだろうか。たぶんそれは違うのであって、そう語ればそう思えるが、どの程度そうなのかについては、人それぞれで感じ方も異なるだろうし、案外まだ多くの人たちが幻想を抱いているのかもしれない。物心両面で豊かになる夢を抱いているはずだ。そう思わなければ虚無の虜となってしまうだろうか。すぐにそうなるわけでもなく、ただ淡々とその日暮らしの毎日でしかなく、それが当たり前としか思えない人も大勢いるのではないか。この世界には大勢の人が生きていて、各地で暮らしている。やりたいことがあり、やりたいようにやっている人もいるだろうし、またやりたくないことを我慢しながらやっている人も大勢いるはずだ。そのどちらがいいかではなく、どちらでもかまわないような現状があるのではないか。それらの何が良くて何が悪いかなんて一概には決められず、ただそういう現状の中で生きてゆくしかないわけだ。

 そうした中で人は何に価値を見出せばいいのだろうか。それも人それぞれで異なったり、あるいは同じ価値観を抱いている人が大勢るとしても、それがどうしたわけでもないのだろう。どのように生きても、それがなんになるわけでもなく、あるいは何かになり、何やら満足の行く生活を送れたりすることもあるのだろう。そしてそんなふうに語ってはまずいのかもしれないし、もっと何か人が前向きに暮らしていけるような語り方というものもあるのかもしれない。この世界にあるいは人間社会に、何か幻想をいだけるような心持ちにならなければいけないのかもしれず、人に夢を与えるような言説が求められているのかもしれない。しかし人はどうなればいいのだろうか。それも人それぞれで違うのかもしれず、あるいは同じ夢を抱いて、多くの人たちが競争していても構わないのかもしれないが、それもどちらでもいいのかもしれない。やはり何も一概には言えず、なんでもいいのであって、他人がどう考えていようと、何をやっていようと、直接の利害関係にない限りは知ったことではないのかもしれず、直接的にも間接的にも、人と人との間にある種の関係が生じると、そこで初めて他人のやっていることが気に食わなかったり、あるいは気に食わない部分があるにしても、ある程度は妥協して協力関係を築けたりするのかもしれないが、とりあえずはそんなことをやりながら、人は何かをやっているわけで、それ以上でも以下でもなく、それを超えて何を望むべくもないのかもしれない。


2月18日「言語ゲーム」

 この世界は誰も何もやる必要がない世界なのだろうか。でも実際にだれかが何かをやっている。それに関して何か気づきかけているのかもしれないが、いざ言葉を記す段になると何も語れない。そんな状況がいつまでも続いている。それでも何かに気づきかけているのだろうか。たぶん気づいているのだろう。もう何も語る必要がないということだ。それは以前からわかっていたことかもしれず、わかっていながらあえてそれに逆らいながら、何かを語っていたのではなかったか。そして語る必要のないことを延々と語ってきたのかもしれず、たぶんそれに気づいてしまったわけだ。今それに気づいたのではなく、だいぶ前から気づいていたはずだが、なかなかそれを言葉にできなかったのではないか。そう思えば納得がいくわけではない。なぜ今さらそんなことを述べなければならないのか、理由が思いつかず、述べる理由などないのかもしれず、ではなぜ述べているのか、その辺がよくわからない。そう考えてしまうと、何も語れなくなってしまうだろうか。でも実際にこう語っているのではないか。この状況をどう語っているのだろうか。語っている通りに語っているはずだ。それでかまわない。そして納得しているはずだ。何もやる必要もないのに何かやり、語る必要もないのに語っている。たぶんそういうことなのではないか。現状はそこから生じ、この世界はそんな現状の中にあるらしい。それは間違った認識だろうか。そう思いたいのだろう。本当はやるべきことがあり、そして語るべきことがあり。実際にやるべきことをやっていて、語るべきことを語っている。そう語らなければならないわけだ。そんなふうに語ってから、実際に語りたいことを語ろうとしている。それは嘘かもしれないが、たぶんそう語らないと、本当に語りたいことにたどり着けないのではないか。そのためには、先ずは語る必要のないことを延々と語り、語っている己れを疲れさせないと、そこまで行けないのであり、それを語る状況にもならないのではないか。

 なぜそうなのだろうか。だからといって何を語っているわけでもなく、たぶん中身のないことを延々と記しているのではないか。きっと今もそうだ。語りたいことへと言葉の連なりを持って行けず、その代わりに出てくるのが無内容となるのだろうか。少し変化をつけなければならない状況となっているわけか。その変化が何をもたらしているかというと、やはり虚無的な無内容となるのだろうか。実際にそうらしい。きっかけを未だにつかめないのだろうか。それは本当に語りたいことを語るきっかけなのか、そうではないかもしれず、語らなくてもいいことを語ろうとしているのかもしれず、実際にそのきっかけをつかんで、現に語らなくてもいいことを延々と語っているのかもしれない。なぜそうなってしまうのかわけがわかないが、どうやらそれが通過しなければならない状況らしく、いったいいつまでそれを語らなければならないのか、この先も延々とそれを語って行ってしまうのか、まったく見当がつかないが、現にそれを語っている現状があるらしく、未だにそうだ。そうやって何かをつかんでいるのかもしれず、それが語り続けていることの本質なのかもしれず、語るとはそういうことの積み重ねなのではないか。しかし何を理解しているとも思えない。それは理解しなくてもいいことかもしれず、理解しようのないことかもしれない。焦りは禁物で、無理に理解しようとする必要がないことかもしれない。勘違いのままでもかまわない。そう思っておけばいいのだろうか。たわいないモノローグでしかないのかもしれないが、いったんはこれを通過しておかないと、どこへもたどり着けなくなってしまう可能性でもあるのだろうか。さあそれはどうなのか。とりあえず今日のところはこのとりとめのない自己対話に終始するしかないかもしれず、さらにそれを続けておく。いつまで続くのかわからないが、とりあえず語るべきことはこれらしく、記すべきもこれらしい。要するに語りたくないことを延々と語り、記したくもないことを延々と記している現状があるわけで、なぜか今まさにそんなモードに突入中だ。この現状はなんなのか。いったいいつまで続けられるというのか。

 まったくきりがないだろうか。語り出したら止まらないというわけではなく、実際に止めようと思えばいつでも止められるのかもしれない。しかし今はこれが必要らしい。これをやらないとこの先へ進めない。なぜか知らないが、これらの無駄で無意味な言葉の連なりが必要らしい。わけがわからないまま、ともかくさっさと語り、さっさとこのターンを終わらせなければ、先が出てこないようだ。しかしこの先に何が出てくるのか。何も出てこなければここで終わりだろうが、たぶん終わらせないような何かが出てくるのではないか。終わってたまるかという思いが強いわけかどうか知らないが、なんとなく何かが出てくるような気がしていて、今はそれを待っている状態なのかもしれない。それはガラクタか何かだろうか。何を予想しているわけでも想像しているわけでもないが、出さなければならないのは何かの技か。今この言語ゲームで技を出して他人の気を引かなければならない状況なのか。しかし技とはなんなのか。思い当たる節はなく、皆目見当もつかず、わけがわからなくて途方にくれてしまうだろうか。実際に困っているのではないか。しかし誰が困っているのだろうか。それは架空の誰かだろうか。そういうことにしておきたい気持ちもあるにはあるだろうが、困っているのは自分自身なのだろう。語ろうとしていたことからだいぶ外れて、不毛の荒れ地へと迷い出てしまったのだろうか。なぜそうなってしまったのか原因も理由もわからない。思い当たる節がないのが原因であり理由でもあり、そして架空の誰かには、君には何もわからないと言い放たれ、そのままどこかへ意識が飛ばされてしまったようだが、それはいつもの言葉がいつものように出てきただけで、本当の原因や理由はわかっていて、ただ記している言葉の連なりが、その原因や理由へと向かわないだけで、なぜかそれとは別の方向へ言葉が連なっていってしまう。どうやら制御が効かなくなっているようで、それが原因であり理由なのかもしれないが、それでかまわないのだろう。今日のところはあきらめておいたほうが良さそうだ。語れば語るほど、また言葉を記せば記すほど、内容のない空疎な言葉の羅列となってしまい、語らなくてもいいことばかりを延々と語っているわけだ。


2月17日「やる必要のない批判」

 なぜかユーチューブで昔の大瀧詠一の曲を聞きながら思う。はっぴいえんどの頃の曲が一番ロック的にとんがっている印象があり、その後の音頭とかやっていた頃も評価は高いようだが、なんとなくユーモアが空回りしているように感じられ、80年代にアイドル歌手に歌謡曲を提供していた頃は一番古くさく感じてしまうのだが、その頃が一番売れていた時期なのだから皮肉だ。別にその古い雰囲気を馬鹿にするつもりも、音頭などをやっていた頃を笑い飛ばすつもりもなく、特にずれた感覚を味わうこともできずに、他に何を意識しているわけでもないが、一番はじめのロックをやっていた頃の、乾いたヴォーカルと皮肉の利いた歌詞に魅力を感じていて、なんとなく今でも時々聴いてしまうだけのことだろうか。

 何に噛みつこうとしているわけでもない。ワニの映像でも脳裏をよぎったのだろうか。とりあえず現状からは何も生まれてこないようだ。ニュースにもあまり興味はなく、考えているのは政治的な問題ではないらしい。政治については語ることに興味がなくなってしまったのだろうか。何も語れなくなってしまったのではないか。もはや語る理由がないのかもしれない。それでも意識は言葉を記そうとしている。なぜか以前よりは論がだいぶ後退してしまったようだ。皮肉なことなど何も述べられない。論理的な思考からも遠ざかり、結果的には鈍くなった感性で何かを語っていることになるのだろうが、錆び付いて融通の利かなくなった知性の中に、何らかの停滞を感じさせる構造があり、その崩れかけの構造に囚われながら、他人が何かをやっていることは確かなのだろうが、そのやっていることが、多くの人たちがそこで生きている中で生まれているとしても、その場の成り行きと固有の事情から、それをやれる人とやれない人が出てくるのは仕方のないことだろうか。実際にそれをやれずに終わっている人はそう思うしかないだろう。この世にはやりたくてもできないことが確実にあり、それ以前にやりたいことがなんだかわからないこともあるから、そこで何をやるにしても、実際にやっているにしても、そのやっていることについて語っている内容に、現実感が伴わないのかもしれない。それでも無理に語るにしても、その語っていることが語りたかったことだとも思えず、それでもそれについて言葉を記している現状があるらしく、とりたてて何を語りたいのかわからなくなりつつも、とりあえずそれについて語っているわけだ。もはや立て直したくても立て直せないことが、はっきりしてきたのではないか。まともなことは何も語れなくなってしまったらしい。少なくともそんな現状を認めなければならないようだ。ではその現状とはなんなのか。言葉と意識を分散させるデタラメが現実のどこで始まっているわけではない。たぶんそこに社会の秩序があるわけだ。その秩序を言説のデタラメによってかき回すほどの力もないのだろう。しかし誰が力を持っているというのか。それは個人ではなく特定の政治的な団体だろうか。政党の類いなのかもしれないが、特定の政党を名指しして批判するには、なんとなくその気になれないような、気だるい虚無感の類いを感じてしまうのだろう。あきらめているのかもしれず、それが何の批判になるわけでもないと思ってしまうのだろう。ともかく現状では安易に現政権など批判しないほうがよさそうで、批判するだけの内容が伴っていないので、何を批判しようとなんでもないことになってしまいそうだ。どう考えても無内容に内容のある言説を対置することはできない。

 いくら語っても、言説として成り立たないような、まともには扱えない言説となってしまうのかもしれない。いくら批判しようとしても、それが政治的な言説にさえならないような状況なのだろうか。実際にその意図も思惑もなく、ただの断片的な思いつきにしかならない。しかしそうだとすると、現状では何が優先されるべきなのか。やる必要のないことをやってはいけないのか。なぜ必要がないのだろう。そう思われて当然の現状なのだろうか。政治家はやる必要のないことをやり、無理なことをごり押しをしている最中なわけか。それを批判する人たちにとってはそう思われて当然のことをやっている。しかし立場上はそうしなければならないのだろう。そのやっていることを国民に向かってアピールしなければならず、常に何かをやっていることを知らしめなければならないのだ。そうしないと選挙で投票してくれないだろうか。それは選挙とか投票とは関係のないことか。何もやらないと野党からの批判もそれだけきつくなるわけか。そうでもなさそうで、現状では何もやらないほうがよさそうに思える。特に景気対策などやる必要はなく、原発も無理に再稼働させる必要もなく、沖縄に米軍滑走路なども作る必要もないだろうか。だが現実にはあえて何もしないという選択はなさそうだが、やはり何もしないことが望ましいと思っている人も多そうだ。なぜそう思うのだろうか。なんとなく現政権のやっていることに反対しているのかもしれず、一度国民に何もアピールしないという政治選択をしてみたほうがいいとも思われる。なぜそう思うかは反対以外には、何もそうする理由になっていないことは確かだが、今の政権なら何もやらなくても窮地に陥るようなこともなく、それを招くような非難も追求もされないのではないか。少なくとも主要メディアを抑えている以上は、それが可能なはずだが、やはりそんなことはあり得ず、それをやるのが当然のように何かをやっているわけで、反対派が主張しているように、戦争への道をまっしぐらに歩んでいるわけでもないにしても、現実に何かが進行中なのだろう。どこからかそうしろと要請が来ているわけか。それをやれと急かされているのだろうか。何をやっても何もやらなくても、どちらにしろ反体制のチンピラジャーナリストたちからは、いつなんどきでも必ず非難の大合唱が湧き上がるだろうから、それを今まで通りに無視してやり過ごしていれば、それで済んでしまうようなことでしかないのだが、それでもやらないよりは何かをやろうとしてしまうのだろうし、実際に何かをやっている。では彼らは具体的に何をやっているのか。何らかの政治ゲームをしている最中なのだろう。そうみなしておけば済んでしまうようなことなのか。たぶんそうに違いなく、具体的に何をどう語ってみても、なんの意味も担えないようなことをやっている最中なのだろう。のちの時代になれば誰も思い出せないようなことをやっているのかもしれない。危機的な激動の時代を除いて、政治家のやることはいつの時代もそういうことかもしれない。


2月16日「罠もないのに罠に陥る人々」

 相変わらずの陰謀論なのだろうか。政治に対する不信感は根深い。黒幕的な誰かが何かをやっていて、そのやっていることによって世界が動いているのだとしたら、この世界が人の思惑によって回っていることになるわけだ。そんなことがあり得るだろうか。誰がそんなことを唱えているわけではない。物事の表層を捉えることに飽き足らず、その深層を勝手に想像し、そこに何やら真実が隠されていると思い込むわけだ。たぶんそこに何があるわけでもないのだろう。そう勝手に想像しておても構わないだろう。表層を分析するだけにとどめておいたほうが無難だ。これはゲームでしかなく、ゲームがすべてなのだから、勝手深読みして話をおもしろく想像して、わけ知り顔の妄想に行き着いてみても構わないのだろうが、そんなことをするだけの必要を感じないのかもしれず、そうやって自分だけが知っていると主張するのは、詐欺師的な売り文句でしかないのではないか。別にメディア的に言葉を売る商売をしているわけではないのだから、わざわざそんなふうにもったいぶったことはせずに、ありふれたことを語ればいいわけだ。誰もが理解できることをわかりやすく語ればいい。そしてそういう建前の中に何を忍ばせることもなく、事の真相とは無縁のつまらない事実について語ればいい。たぶんそのつまらない範囲内に、人が気づいていながらあえて語るまでもない内容が、むき出しのまま放置されているはずだ。その放置されている事柄について語ればいいわけだ。自分だけが知っているつもりの秘密などではなく、誰もが知っていて、知っているがゆえに無視されていることを語ろうとしている。

 しかしそれで何がわかるのか。わかっていることを語ることで新たに何がわかるわけでもない。そのわかっていることを確認する意味で、それを語っているわけなのだろうか。では具体的に何がわかっているのか。誰かが何かを働きかけていて、その働きかけによって、物事が動いているということか。たぶんそれが当たり前のことなのだろう。それは自分でも意識せずに働きかけていることかもしれず、自分で自分のやっていることに気づいていないのかもしれない。罠を仕掛けているわけではない。気づけないようなことは何もなく、誰もがそれとわかるようなことを述べているはずだが、別にそこに落とし穴があるわけでもないのに、それを語ることによって、言葉の上では働きかけになっているのかもしれない。それはごく当たり前の自然な働きかけであり、それによって誰かを出し抜くつもりもなく、ただ自然に当たり前のように、ありふれた言葉を作用させようとしているわけだ。それでかまわないはずだが、ほかの人たちは納得がいかないのかもしれず、何かそこに隠された秘密があって、その秘密を握っている誰かが、その場の状況を自らに有利に運ぼうとしている、と勘ぐることで安心しようとしているわけだ。何もないわけがないわけがないだろうと思わずにはいられない。そんな思いが人の弱さを証しているのかもしれないが、その弱さに頼ってさらに重大な事の真相などを探ろうとすれば、そこから先はフィクションの世界となってしまい、あとは誇大妄想狂への道が待っているのかもしれないが、やはりそう考えてしまうことが、人の動作としてなんらかの魅力を伴っていることは否定し難く、誰にとってもそれが罠となっていて、それに抗し難く、そこへと陥ってしまう人が後を立たないわけだ。

 そこにそうならなければいけない、あるいはそうなるはずだという、合理的な理由付けが求められているわけだ。人は意識で捉えた現状がなぜそうなるのかを知りたい。そこに何かそうなるについての秘密が隠されていると思いたい。その現象そのものから外れて、現象が起こる理由や根拠へと向かい、なにやらそこから自らを納得させる言説を導き出そうとしている。誰かが裏で何かを画策していて、その画策によって人を驚かす事件が発生したことにしたい。実際にそうなのではないか。例えばテロ攻撃とはそういうものだろう。だがそうだとしても、それで何がわかるのだろうか。素人探偵気取りで事の真相を探って行くと、そこに複数の国家や政府や企業や闇の組織を巻き込んだ、隠された巨大な陰謀が明らかとなるわけか。昔落合信彦というその手の小説を書く作家がいたが、彼の書いた小説を真に受けた人々がその後どうなったか、今となってはそんなことはどうでもいいことだろうか。今もネット上でそんなことをまことしやかに語る人が大勢いるわけで、何やら武装テロ組織を陰で糸を引いているのが、どこかの国の政府だったり、その国が資金提供していたりして、それらの紛争や戦闘から利益を得ていたりするわけだ。だがそういうことを信じて、そういう認識に心を支配されていてかまわないのだろうか。例えばそれと、選挙制度に基づいて議員が選出されて、国会で議員や政党が活動していること、あるいは内閣が組閣されて何か行政的な仕事をやっているとと、それらの陰謀の類いがどう結びつくのだろうか。それが政治の表の顔で、各国の政府にはそれとは別に裏の顔があり、そこで組織されているスパイなどが、国際的に暗躍しながら、世界を動かしているとなるのだろうか。それがその手の人たちが知りたい秘密というわけか。だがそんな政治のカラクリを理解して、そこから何をどうしたいのだろうか。隠された秘密を暴いて、それをネット上で語り、そんなことが語れることを自慢したいのだろうか。たぶん娯楽とはそういうことなのではないか。


2月15日「根拠のない変化の予感」

 この世界の中で人は何を認識しているのか。自分が生きていて、他人も生きていて、生まれたり死んだりしているらしい。そんな当たり前の認識以外に何があるだろうか。それがどんな認識だろうと、今誰かが抱いている現代的な認識も、歴史的な経緯から生じたものだろう。それが何を肯定するものであれ、あるいは否定するものであれ、肯定したり否定したりする対象も、歴史的な経緯から生まれてきたものだ。快や不快の感情が絡まって、それを肯定したり否定したりすることもある。過去の不快な出来事を忘れようとしたり、無視したりする行為もそこから生じてくる。たとえそれが今の自らには無関係な出来事であっても、同じ国内や地域の周辺で起こったことなら、まるで自分が受けた仕打ちであるかのごとくに、感情移入してしまうこともあるだろう。たぶんそれがフィクションだとしてもそうなのではないか。大した話の内容でもないのに、何か大げさに考えてしまいがちだが、それに関して様々な偏見が交じり合い、その中の何が重要で何が取るに足らないことなどと、判断できるような状況にはなく、現実に何を被っているわけでもないことなのかもしれず、ただメディアが何かを伝えていて、それらから伝えられる情報を受け取り、それについてああだこうだと、言葉の上では良いか悪いか判断しているつもりでいたが、それ以外の何を理解していたようにも感じられず、結局差別が悪いだとか、政治の強引なやり方がけしからんだとか、その程度の善悪の判断から、何やら批判していたことでしかないらしく、思想だとか思考だとか哲学だとか、要するにそれ以前の感情論でしかなかったのかもしれず、そう言ってしまえばおしまいとなってしまうが、どうも合理的な判断というのが、よくわからなくなっているのかもしれず、そのよくわからないまま、事態ばかりが先へと進行し、何かこの先とんでもない事態となるような予感を抱きながらも、一方ではそれでも構わないような雰囲気も感じ取っていて、例えば人の生死などどうでもいいような軽さで、物事が執り行われていることが、それについて何も感じないとことが当たり前の状況となっているわけで、どこかの紛争地帯で人が数十万人死のうが、たぶんなんでもないことなのだという感覚が、世界中に蔓延しているというか、これまでもそうだったことに、改めて気がついただけだということを、また再確認して、だからそれがどうしたという問いに、どうにも答えようがなく、そのことに別段苛立ちもせず、平和な日々をのうのうと送っているだけで、それで済ませてしまっているわけだ。その何が済んでいるわけでもないのに、それで何かが済んでしまうという感覚が、何かおかしいように思われてしまうのだが、現実には何もおかしいことなどなく、戦火から遠く離れた平和な地域では、それが当たり前の現実だということを、改めて思い知ること自体が、なんとなくおかしく感じられてしまうわけだ。

 そんな状況の中で一体何をどう思えばいいのか、なんてわかるわけもなく、にわかには何も思い浮かばず、たぶん意識の表面になんの思いも浮かんでこないのではないか。別にそれ以外のことにかかりきりというわけでもないのだが、忘れているわけでもないのに、世界のどこでテロが起こっても、関係のないことに感じられ、実際に事件に巻き込まれなければ関係のないことなのだから、巻き込まれたら死傷してしまうわけだが、それでも何を身に染みて感じているわけでもなく、感じられないのは当然のことで、想像したところでそれはフィクションでしかなく、たぶん自然と覚悟ができているのかもしれず、例えばテロを防ぐにはどうしたらいいかなんて、自分の考えることではないと思っているのだろう。たとえ今まさに本当にテロが身近で起きようとしていて、自らの死が間近に迫っているとしても、もはや騒ぐ気になれなくなってしまったのではないか。また福島の原発事故で、もうすぐ放射線被害がはっきりしてきて、一部ではパニックが起こると言われているのに、実際に大勢の人が次々に死んでいて、葬儀場が大忙しだとネット上では噂が絶えないわけだが、やはり今のところはなんの実感も湧いてこないわけで、事故の収束のめども未だに立っていないのに、放射能で汚染された地下水が海に垂れ流し状態なのに、だからどうしたとしか思えず、つい数年前に地震や津波で数万人が死んだというのに、時が経てばこんなものなのだと思うしかないわけだ。メディアがいくら騒いでも、間接的なことでしかなく、たぶん自分がこれから放射線被害で癌にかかろうとも、もうすでに癌になっていようとも、やはり現状は現状のままなのだろう。また反対派を排除しながら、沖縄でアメリカ軍の滑走路を作っている人たちにしても、どうせ現場の人たちは、上からの命令で仕事で工事をしているのだろうから、たぶん大して罪悪感など湧いてこないだろうと想像してしまい、現地で珊瑚礁がいくら潰されようと、何をどうすることもできない自らに腹を立ててもどうしようもないことであり、結局それは十数年前に長崎の諫早湾で行われた環境破壊と同じことなのだ。あの時から何か状況が変わったのだろうか。一度は政権交代があって、ダム工事などは中止となったわけだが、数年後にはすぐに撤回されて、今ではそのダム工事も着工されている。たぶんダム工事が中止になろうとなるまいと、米軍の滑走路が出来ようとどうしようと、その現場の近くにいるわけでもないので、なんの痛みも感じないだろうし、ほとんど大部分の人たちはそう感じるだろう。そういうことなのだ。そしてそういうことなのだからといって、それでいいわけがないと思わなければいけないわけだ。人々が想像力を働かせて、これではまずいと思い、そういう状況判断を、選挙の時に投票行動に結びつけない限りは、結局は何も変わらないわけだ。そういう人の善意がないと、民主主義という政治制度はまともに機能しないのではないか。そういう意味で、単なる損得勘定や功利主義や事なかれ主義や政治的無関心が、民主政治を駄目にしているといえば、その通りなわけで、そういうことでしかないにもかかわらず、現実にそういうことを否定する輩が多いことが事実だし、政治家がその手のきれいごとを言うと非難されてしまうのだから、こればかりはどうしようもないことなのだろう。そしてたぶんその手の民主主義のきれいごとが通用しなくなった以降に、なぜかそれとは違うなんらかの可能性を期待してしまうわけで、これはほとんど強がりなのかもしれないが、原発事故が収束せずに放射線を浴び続けようが、ダムが建設されたり、米軍滑走路ができて、自然環境が破壊されようが、それに関してなんの心の痛みも感じなくても、それでもこの先何かが変わる可能性に期待しているのであり、実際に変わる予感がしている。


2月14日「人がやっている行為のすべて」

 人が一つの行為を極めると、常人では到達不可能な領域にまで、その行為から生じる効果を高められる。名人と呼ばれる人たちは、そういった水準で何かをやれる人たちのことを言うのだろう。人は誰でもそれを目指さなければいけないのだろうか。目指してもそこまで到達できない人がほとんどかもしれず、到達できる領域にも個人差があるのかもしれない。またたとえそのような領域まで行けたとしても、そこでも人それぞれで違う高みがあり、そこに行為の優劣が生じていのかもしれない。現時点で自らのやっていることが、そのような領域に到達しているとは思えないのは、たぶん誰しも抱く確かな実感だ。だがそれが正しい認識だとして、人はそれ以上の何ができるだろうか。実質的にはどこでもないそこへ、到達することを目指して努力できる。そしてそんな努力が報われるかどうかはわからない。だからと言って、いったんやり始めたことをやめるわけにもいかないだろうし、これ以上はやる必要がないという境地があるわけでもなく、たぶんそうやって、同時にそうすることに迷い逆らいながらも、やっているうちに、目指している方向とは違うどこかへと移動してしまうのかもしれず、その移動した先でも、それと気づかずに何かをやっているのかもしれない。そんなわけで結果的にそこで何やらやっている現状があり、そしてたぶん当初に目指していたそれからだいぶ外れているのに、それを目指していたわけでもないのに、そこで何かやっているわけで、たとえやっているそれが、自らの思惑とは違う行為であっても、それが完全に無方向で無目的であるわけがなく、それをやりながら、当初に抱いていたのとはかなりずれた、新たな方向と目的が生じているのかもしれないが、たぶんそれも一時しのぎの方向であり目的であったりするのかもしれない。もしかしたらそれは、どうやってもとりとめのないことであり、実際にはどうにもやりようのないことを延々とやっているにすぎず、やることによって何がもたらされているとも思えず、いくらやってもどうでもいいことにしかならないのかもしれない。それでもそれをやり続けられるだろうか。

 何をやるにも、少なくとも当初はそこに目標がある。やるやらないは自由であったかもしれないが、人は何もやらないことの自由を目指しているのではなく、そこにはある限定された目的を設定して、その目的に縛られながら何かをやろうとするわけで、そこで具体的に何をやっているかが問題となり、それをやることによって、人はその人独自の特性を有することとなり、それが人の特徴や個性として、その人の魅力となるわけだ。人の魅力はその人がやっていることから生じる。そしてそのやっていることが、人並み以上の何かを感じさせるものであれば、それだけ魅力を伴い、その魅力に惹かれた他の人たちから好感を持たれるわけだが、それが他人の気を惹かないような目立たぬものであれば、そのやっている行為は、他の人たちにとってはなんでもない行為であり、直接の関係がなければ、どうでもいいような行為でしかないのだろう。そしてそんなどうでもいいような行為が、多ければ多いほど、人の興味がそれだけ分散していることの証しとなり、そんなことはあり得ないだろうし、ある必要もないのだろうが、全ての人がそれぞれ他の人たちとは違うことをやっている状況になれば、そのやっていることを巡って、争い事など起こらないだろうし、他人のやっていることにあれこれ干渉しなくなるのではないか。そしてその逆に、人と同じことをやりたいと思わせる状況が、その同じ行為に魅力がある証しとなり、多くの者たちがその行為に惹かれ、自分もそれをやりたいと思う者たちが、さらに増えてくると、同じことをやっている人たちの間で競い合いが生まれ、そのやっている行為において、他人より優れていると思われたくなり、また自らがいかに優れているかを自慢したくなり、実際に自らの行為を他の大勢の人たちに知らしめたいと思うようになり、その行為を見せびらかしたくなるわけだが、そんな過程において、やっていることの価値や、やり方の基準が設けられ、それに伴って何やら制度やルールが生まれ、大勢で同じことをやるに際して、やっている者たちにとって、それが公平で公正になるように、そのやっていることを管理運営する組織や団体までが編成され、次第にそれらの行為が大掛かりになってくるわけだ。たぶんそれが現在、世界各地で人々によって行われている行為の、ほとんど全てなのかもしれない。たぶんメディアによって伝えられている行為は全てそれだろう。


2月13日「ピケティ『21世紀の資本』を読んでわかったこと」

 昨年末から一カ月ぐらいかけて話題の『21世紀の資本』(トマ・ピケティ著 みすず書房)を読んだので、読んでわかったことをいくつか指摘してみようと思う。自分なりに理解したことなので、客観的に正しいかどうかはわからない。

 r>g

r:資本の年間収益率、利潤、配当、利子、賃料など資本からの収入を資本の総価値で割ったもの。
g:経済成長率、所得や産出の年間増加率。

 資本の収益率が経済の成長率を大幅に上回ると、相続財産は産出や所得よりも急速に増えるので、資産を持っている人といない人との間での所得格差が増大する。

 ピケティは現代の民主社会は、勉学に励み努力した人が報われる、という能力主義的な価値観や社会正義の原理で成り立っていて、働かずに食っていける資産家の存在が社会正義の原理に反していると考える。

 ピケティは資本主義市場経済が完全になればなるほど、rがgを上回る可能性が高まると考えている。

 ピケティは所得格差の増大に対抗できるような制度や政策の一つとして、資本に対する世界的な累進課税制度を提案するが、その確立には高度な国際協調を必要とするので、各国のナショナリズム的な反応もあり、実現は難しいと考えている。

 人口は増加するとそれだけ相続財産が分散するので、格差の低下につながりやすい。人口が横ばいかまたは減ると、先代が蓄積した資本の影響は高まる。

 経済の停滞または低成長だと、資本収益率は成長率より大幅に高くなる。

 21世紀は世界的に人口の増加が止まり、経済の停滞または低成長時代となる可能性が高いから、r>gの効果により、放っておけば格差が増大する。

 20世紀の経済成長神話の原因は、二度の世界大戦と1930年代の世界恐慌によって、資本が打撃を受けたからで、そこで経済がリセットされたので、その後の急激な経済成長につながった。

 各国政府の公的債務は大戦後のハイパーインフレによって帳消しになった経緯がある。

 結局r>gの不等式は、20世紀中期の二度の世界大戦とその間に起こった世界恐慌の時期を除いては、恒常的に成り立っている。

 所得格差を緩和するように見られた中流層が出現したのは、高度経済成長の一時期に限られる。

 20世紀の一時期に格差を大幅に縮小させたのは、調和のとれた民主的合理性でも経済的合理性でもなく、戦争の混沌とそれに伴う経済的、政治的ショックだった。

 所得に対する累進課税だけでは、抜け道が多く、また企業経営者の方が労働者より賃金や報酬の額に関して高い交渉力を持つから、それだけ取り分が多くなり、格差拡大の歯止めにはならない。

 資本収益率が成長率より高いのは、論理的必然ではなく歴史的事実。

 資本からの収益が資産の貯蓄を生じさせ、貯蓄が莫大な相続財産となり、相続財産が不労所得生活者層を生み、結果的に個人の能力主義を基本とする民主主義社会を蝕む。

 質の高い教育を受けて高学歴になれるのは、資産家の子息の割合が高く、それが教育の機会均等を歪めていて、能力主義自体が資産の多少からの影響を被っている。

 世界的な資本税を実現するには金融の透明性を確保しなければならない。銀行データの自動共有などによって、あらゆる市民の純資産を把握する必要がある。

 資本税の狙いは、貯蓄するばかりで、富を非効率に使っている人々に資産を売却させて税金を払わせ、そうした資産がもっとダイナミックな投資家たちの手に入るようにすることにある。

 資本税以外のやり方だと、保護主義と政府による資本統制があるが、それらは自国だけの繁栄を目的とし、グローバル経済にはマイナスの効果をもたらす。

 移民の流入は諸国家間の富の格差を縮めることはできるが、それだけでは国内で防御的なナショナリズムや民族間対立をもたらす。

 公的債務を減らすのにも累進資本税は役立つ。所得にではなく貯蓄に税を課すことで、低所得者層の抵抗を回避できる。

 緊縮財政よりはインフレへの誘導の方が、債務削減や富の再配分には有効だが、インフレは制御が難しく、いったん始まったら、インフレ・スパイラルを止めるのは困難である。

 経済の透明性と民主主義による資本主義へのコントロールが21世紀の世界的な課題である。

 資本主義の中心的な矛盾はr>gにあり、正しい解決策は資本に対する年次累進課税だ。これにより、果てしない不平等のスパイラルを避けつつ、一次蓄積の新しい機会を作る競争とインセンティブは保たれる。これを実現させるには、高度な国際協力と地域的な政治統合を必要とする。

 ピケティの主張を理解した範囲でまとめると以上のようになる。主な先進各国のデータを詳細に分析した結果だから、r>gの不等式は歴史的な事実なのではないか。それが資産を持つ者と持たぬ者の格差を生み、放っておけばますます格差が増大してしまうのも、歴史的な事実なのだろうし、民主的な政治制度のもとで格差を抑制するには、所得に対する課税とともに資産に対する課税も同時に行い、両方の課税配分を適切にすることで、資本主義市場経済をコントロールできるというわけだ。だが一方でそれを実現するには、個人や企業がどれほどの資産を持っているか正確に把握しなければ課税できず、そのためには金融の透明性を確保しなければならず、また各国の銀行データの国際的な共有とか、高度な国際協力と広範囲な政治統合が必要であり、それが今後の課題となっていて、世界各国が互いに経済競争している現状では、今のところ実現は難しいのではないか。


2月12日「語る価値とその基準」

 何かを考える上で、基準はいくらでもあり、いくらでも設けられ、だから確かな基準など何もないとも言えるのかもしれないが、それでも基準は基準として、それがないととりとめがなくなってしまうから、たとえその場の思いつきであっても、勝手に基準を設けて、語ろうとしている内容をその基準に合わせようとすることは、考えていることのとりとめのなさを、なんとかある一定の方向にまとめようとしていることの表れであり、そのある方向というのが、そこに話を限定しようとしている基準そのものとなっているわけだ。そうやっていったん話の方向性が定まると、思考もその方向へと目標を定め、たぶんそうすることによって、その方面で何かを語ろうと試みているわけだが、果たしてそれが、語っている自身にとって興味深い内容となるだろうか。それとこれとはまた違う基準と次元での話となってしまいそうだが、とりあえずそれを語ってみないことにはわからないだろう。そこで語りつつ考えていることが、そのまま語っている内容に結びつくとは限らず、自分で気づかないうちに、それとは別のことを、当初には思ってもみなかったことを語っているかもしれず、たぶん結果的には様々なことについて語っているわけだ。そしてできればそれが、自分が初めから思い描き、考えていたことだと思い込みたいのかもしれないが、それでもやはり何かについて考えている以外のことを、その思いがけない未知の何かについて語っているかもしれない。わざと矛盾したことを語っているわけではない。無意識の段階では、特定の何かについて語ることに価値を見出せないのかもしれない。だからそれと気づかずに様々なことを語ろうとして、結果的に語っていることが、とりとめのない内容となってしまうわけだ。そして結局意識はそんな結果を受け入れなければならず、その何か以外について語っているような現実の中で、それを自らが語りたくて語ろうとしていると思い込もうとするのであり、それがなんらかの価値をもとに基準が設けられ、その基準に従って語っているような気になるわけか。だが語った結果から生じる意識の中ではそうは思わないだろうし、そんなことはあり得ないだろうか。

 結果的に生じる意識の中では、話を簡単にしたいのだろう。とりあえず人が何かをやる。そしてそのやっていることが、その基準を共有している多くの人の共感を得られれば、その人のやっていることが世間的に認められるわけか。もちろんそんな基準が誰とも共有されていなければ、その人のやっていることは誰からも注目されず、共感も得られずに、その行為は多くの人にとって価値のないこととなってしまうだろう。果たしてそういう説明で納得するだろうか。もちろん君は誰を納得させようとしているのでもない。ただそう語ってみせただけで、他意は何もない。ではそれをやることによって価値を得られる基準とはなんだろうか。例えばその行為によって多額の金銭を得られたら、それは多くの人が認める行為となるだろう。だが結局それは経済的な価値でしかない。しかしそれ以外の価値があるだろうか。価値とは経済的な価値でなければ、それが利益に結びつくことはないのではないか。やっていることがそういう方向に収斂すれば、話がわかりやすくなって、誰もがそのやっていることに興味を持つだろうか。経済的な興味とは、それがより多く利益に結びつくか否かによって、その価値基準が左右されてしまいそうだ。ではそういう方向から逸脱して、多くの人たちが興味を抱くような内容にする必要があるだろうか。必要がなければそれは価値のないことではないのか。例えば価値も基準もなく、意味不明なことを延々と語ることに、人はどこまで耐えられるだろうか。そんなのは耐える必要のないことであり、価値のないことに耐える必要はなく、初めから相手にしなければいいことでしかない。それでも結果的にそんなことを語っているとすると、要するに人は誰からも相手にされないようなことを語りたいのではないか。語りたいのではなく、結果的に語っているわけだ。理屈を度外視して語るとはそういうことであり、それは無価値であり、価値がなければ語る基準など何もなく、何について語ろうとしているのでもないようなことを、語りによって示そうとしているのではないか。たぶんそんなのはいくら示そうとしても何も示せないことだろう。そこに示されているのは、実際は誰が示そうとしているのでもない言葉の連なりであり、その中で語られていることは、誰にとっても無価値でとりとめのないことであるにしても、それでも何かがそこで試されている事実に変わりはない。わざとそうしているのではなく、自然とそうなってしまうような試みとなっていて、人がただそれを語っているわけだ。語るだけではなく、写真に撮ったり、映像に撮ったり、絵に描いたりもする。またそれについて言葉を記したりしているわけだ。それ以上の何を求める必要があるだろうか。そこに誰の思惑も意図も介在していないならば、話はそこで終わりだ。たぶんそこで終わるべきなのだろうし、終わってしまってかまわないのだろう。それ以上は求める必要のないことを延々と語っているわけだ。では果たして意識はそこにとどまるべきなのだろうか。意図も思惑もないならば、そこにとどまっていてもかまわないのだろうし、とどまるべきでもないならば、他のどこへもとどまれないのではないか。そしてどこへもとどまれないまま、どこでもないどこかでさまようこともできずに、何かを語ろうとする意志は、そこで雲散霧消してしまうのだろう。では消え去るべきはそこに介在しようとする意図や思惑なのだろうか。


2月11日「自由な関係と支配の関係」

 売り言葉に買い言葉というわけでもないが、人と人との衝突は、すべてにおいて過剰反応なのだろうか。その最たるものが殺人となるようだ。その殺し合いが普通の状態であるのが戦争であったり、権力側が一方的に死を与える行為が死刑執行であったりするのだろう。ごくたわいない会話やじゃれあいから殴り合いや殺し合いに至るまで、人と人とは様々な水準で接し合い、接触して相手から何かを引き出そうとしているのであり、実質的な行為を引き出せなくても、反応をうかがうことで、相手の顔色という情報を引き出したりするわけだ。そして力を及ぼすターゲットとなる相手に、こちらのやらせたいことを強制できれば、それで相手を支配したことになるだろうか。そうやって力を及ぼそうとする相手とは、特定の個人であったり団体でもあったり、より大規模になれば不特定多数の大衆だとか群衆だとかになるわけだ。例えば国民が国家が定めた法律を守っている限りにおいて、国家による国民への支配が成り立っていることになるだろうか。そしてその支配状態を維持するための技術が、警察権力による法律を守らない国民への取り締まりとなるわけか。さらに法を犯した者が逮捕され起訴されて、裁判を経て懲役刑などを言い渡されて、刑務所で刑に服する事態になれば、これは完全にその者が国家の管理下におかれたことになり、国家による完全な支配状態ということになるだろうか。そこから考えると、人と人あるいは人と国家、または人と企業などの関係は、互いが互いに力を及ぼし合える状態であるなら、自由な関係にあると言えるだろうし、一方が他方の自由を奪って拘束したり束縛したりして、一方的に管理下におくような状態となれば、それは支配・被支配の関係にあると言えるだろうか。人は自由な関係と支配の関係のどちらを望むだろうか。双方が納得する関係とは、もちろんお互いに自由な立場で相手に接することができる関係であり、そのような関係を守り維持する上での、接触する相手に対する際の倫理的な配慮とは、相手を自由な立場にとどめておくように心がけ、相手にこちらからの作用を受け入れるか否かの、選択肢が与えられていることが肝心で、しかもそれは二択の強制ではなく、どちらも選ばない自由も認められなければならない。時と場合によってはそんな自由はあり得ないだろうし、殺るか殺られるかの対決となれば、もはや選択肢などなく、それがいわゆる戦争状態なのだろうが、たぶんそこに至らないようにするのが、戦略であり戦いを回避する技術となるのだろう。

 力を及ぼす上での人に対する配慮とは、出来うる限りその人の自由意志を尊重することになるわけだが、その際の人と人とが関係する上の制約があり、その制約を課す条件が、功利的な価値観となるだろうか。自分の利益となるように相手を操らなければならず、その相手を操る技術が統治という概念となりそうだ。自らを制御しつつも相手も操り、相手にそうするように仕向けることで自らに利益をもたらそうとする。人はそんなふうにして他人を活かしながら利益を得ようとするわけだ。人を活かすとは聞こえはいいが、自分の利益を確保するためにそうしているわけで、その辺が功利主義のやましいところなのかもしれない。もちろんそうすることで、活かそうとする他人も利益を得られなければその人は納得しないだろうし、ともに利益を得られて初めて、人と人との協力関係や信頼関係が構築されるわけで、その他人の協力や信頼を得るのは並大抵なことではなく、他人を納得させるだけの説明や実績が必要とされる。そしてそうなる過程で場合によっては、自分が損な役回りを引き受けなければならないだろうし、身を挺して他人を助けなければならない事態にも直面するのではないか。そんなわけで他人の協力や信頼を得るには、それなりの冒険や危険な賭けを乗り越えなければならず、それを乗り越えるための戦略や技術が必要とされているわけだ。そしてその冒険や危険な賭けを最小限に済ますやり方として、制度や法律が定められ、それらを守りながら行使する組織や団体が形成されるわけだ。要するにその組織や団体に属していれば、その制度や法律に従うことで危険から守られながら、自分も含めてその組織や団体に所属している者たちが効率的に動くことができ、そこから安全かつ安定的に利益を得られるわけで、その一方でそうすることの代償として、その組織や団体の意向に縛られ、そこから下される命令に従わなければならず、好き勝手なことができなくなり、結果的に個人の自由が制限されてしまうわけだ。そしてその組織や団体に属してない者は、そこから得られる利益を享受できず、安全かつ安定的に利益を得るには、それらの組織や団体に所属することが必須条件となる。だから功利的な価値観のもとでは、安全かつ安定してしかも効率的に利益を追求するには、他人に対する配慮や自由意志を奪う組織や団体の支配を受け入れなければならなくなり、いったんそれらの構成員となれば、組織や団体の利益が優先され、それらの意向や命令に従っているうちに、他人に対する倫理的な配慮など次第になおざりにされ、人間同士の信頼や信用の関係以前に、制度や法律が優先する関係となるわけだ。


2月10日「報道メディアと政府の関係」

 メディアは人に何を見せたがっているのだろうか。何かを知らせようとしていることは確かだ。たぶんそれは狭い範囲での出来事だろう。そこで何かが起こっていることを人々に知らせたい。スポーツや映画などの見世物興行的な娯楽産業は、それを伝えるメディアがないと成り立たない。それは政治でもそれの延長上で起こっている戦争でも、メディアによってそこで何が起こっているのかが伝わらないと、人々は困るだろうか。メディアの有る無しとか、その存在の良し悪しとかの問題ではなく、そこで何かが起こっていて、それを広く人々に伝える媒体があり、それがメディアだということだ。どうもそういうことでしかないようだ。現在においてメディアの主要な位置を占めているテレビや新聞やその傘下のネット媒体などが、政府の統制下に置かれていて、体制批判を抑圧する方向に向かっていることは、誰しも感じていることだろうか。そうだとしたところで、あるいはそうではないとしても、人々はそのメディアが見せたがっている出来事の傾向に反応して、それらの傾向が暗示しているメッセージを受け取ることで、日頃から抱いているその人固有の主義主張や思想心情が、影響を被ることに変わりはないだろう。メディアはそれを見る人々に向かって何かを伝えたいことは確かだ。そして自分たちが伝える情報を見聞することで、それを受け取る人々が、自分たちが発している暗黙のあるいは直接のメッセージに、共感したり同調してほしいと思っているはずだ、と言ったら言い過ぎかもしれないが、客観的な報道という建前とは別次元で、メディアに携わる人たちは、そういう思いで報道していることは確かだ。メディアの権力とはそういうところから生じているのだろう。もちろん政府を中心とする体制側も、それを利用しない手はないと思っているだろうし、だからこそあからさまにメディア統制に乗り出しているのかもしれず、そんな行為に乗り出しているとしたら、彼らにしてももうなりふりかまっていられない事情があるのかもしれない。メディアと政府の関係がそうした一心同体関係になってしまうと、反体制的な人々が、この先何か大変なことが起こるかもしれない、と危機感を募らすのは、ありがちな反応なのだろうが、結構灯台下暗しで、その大変なことというのが、政府によるメディア統制そのものかもしれず、危機感を募らせているその時点で、今まさに大変なことが起こっている最中で、これから先にクーデターや外国との軍事衝突や経済破綻などの決定的なことが起こったりすれば、その前触れとしての政府によるメディア統制だったことになるわけだが、現状ではまだなんとも言えない状況だろうか。

 政府がメディア統制するほど危機感を募らせている原因が、どこから生じているのか現状ではわかりかねるが、それが杞憂なのか、あるいは深刻な状況なのかは、この先もうしばらくしたら明らかになるのかもしれないが、本当にそれが統制と言えるのかどうかも、現時点でははっきりしないところかもしれず、政府に批判的な報道の自粛ということが、果たしてメディア統制が利いている証拠なのか、例えば治安維持法に類似した法律か何かで、政府を批判しているメディアやジャーナリストなどが直接処罰されれば、そうなった時点でメディア統制が行われているということになるのだろうか。とりあえず今はまだそうなっていないようで、そうならないようにメディアの側で気を利かせて、批判的な報道の自粛ということで妥協しているわけなのか。特にメディア本来のあり方という価値観や概念がはっきりと定まっているとは言えないので、政府の意向に従った報道をしても悪いというわけではなく、御用メディアとか翼賛報道とか批判されつつも、それでテレビ局や新聞社が潰れるどころか、ますます栄え発展しているのだとすれば、それでかまわないことになるだろうか。そこに倫理とか道徳という基準を適用すれば、経済的な利益優先とは少し違った見方や考え方ができるかもしれない。しかしたとえ低投票率であったとしても、形式的には選挙によって国民の信任を得た内閣が管理する政府を支持するのは、報道機関としては当たり前の対応であり、民主的な価値観にも適っているとも言えるが、その辺はいくらでも言いようがあり、適当に自己正当化が可能なのかもしれず、その一方で、権力を監視し、自分たちの倫理観や道徳観に照らし合わせて、例えば国家が権力を行使して少数派や弱者を弾圧するなど、国の政治体制が間違った方向へ進んでいると判断されれば、積極的に批判を展開し、人々を啓蒙し、体制側の誤ったやり方を正すのが、報道メディアの役割だと自己規定している人たちもいるわけで、本当にそれが体制に迎合的なテレビや新聞などで活躍する人々に可能なのかどうか、あるいはまっとうな職業として成り立つのか、現状では疑念を抱かざるを得ないが、ともかくそういう信念のもとに活動しているジャーナリストの類いの人たちも、少数ながらいるようで、心情的にはそちらを応援したくなってくるわけだが、それとはまた違う視点で考えなければならないことがある。もしかしたらその手のメディア関係者は、あまりにも自分たちの主義主張を人々に向かって訴えすぎていていないか。もっと人々を突き放して、一定の距離をとっておいたほうがいいのではないか。もちろんそれは体制側との関係にも言えることなのだろうが、国家などどうなってもかまわないし、国民などどうなってもかまわないぐらいの気構えで、暗黙にも直接にもメッセージなど発しないで、ただありのままの現実を見せ伝えればいいだけなのかもしれないが、そのありのままの現実をどう伝えるかで、伝える側の主義主張が反映されてしまうのは否めないにしても、出来るだけ私情は差し挟まないように伝えるのが、伝える側の倫理であり道徳なのかもしれない。


2月9日「労働をしない世界」

 人はなぜ働くのか。それは愚問だろうか。では働かない裕福な不労生活者が非難されるのはなぜなのか。人の大半が働かなくても生活できるようになれば、不労生活者も非難の対象とはならなくなるのではないか。ならばみんなムーミン谷で暮らす妖精たちのようになればいいということか。現時点でそれはあり得ないことだろう。ならばいつかそうなる可能性があるということか。現時点ではわからない。少なくとも現状での労働にとらわれた人々の暮らしが未来永劫続く保証はない。だが金銭を介した物や情報の交換が主流である限り、人は金銭を得るために働かなければならないだろうか。現状で大量の金銭を所有している人や、年金などにより定期的に一定量の金銭が供給されている人は、不労生活者として暮らしていける。たぶんそれだけの条件では、実際に苦労しながら働いている人には納得のいかないところだろう。特にやりたくもない仕事を、生活していくためにやらざるを得ない人にとっては、腹立たしいことであり、理不尽に思われるのではないか。自分がやりたくもない低賃金労働を強いられているのに、なぜ彼らは悠々自適に楽しく暮らしていられるのか、そう見えるだけで実態は違うのだろうか。そこに不平等や不公平があることは確からしいが、それぞれの人にそれぞれの事情があるわけで、そこには様々な事情が様々に入り組んでいる。結果からだけではわからず、結果だけを見れば不平等や不公平に思われることも、そこに至る過程で偶然の巡り合わせが作用していて、ある人は裕福で悠々自適の日々を送っている一方で、ある人は低賃金のつまらない労働を強いられ、日々の生活費にも事欠く毎日を送っているわけだ。そんな人にとっては先祖代々の莫大な遺産を相続するような人は、生まれながらに働かずに生涯を送れる可能性もあるわけだから、羨ましい限りかもしれないが、他人のことはともかく、政府が福祉関連の予算を削って、防衛予算を増額するなどして、低所得者や生活困窮者を見捨てるような政策をとっていることについては、特に腹がたつだろう。

 人間社会が人間の労働によって成り立っていることは確かだ。現時点で不労生活を送っている人であっても、過去の一時期においては過酷な労働を強いられていたかもしれず、一生不労生活を享受している人でも、その何世代か前の人は大変な苦労を強いられていた可能性もあり、またそういう人たちの子や孫の世代においては、没落して労働者の身分に落ちている可能性もある。そんな風にして様々な一族の栄枯盛衰が歴史の中で繰り返されてきたから、それらをトータルで見れば、富の不均衡もあらゆる世代においては、平等に分かち合われているのかもしれない。もちろん富の蓄積が労働だけから得られるわけではなく、個人や集団の戦略や戦術にもよるのだろうし、そういうマネーゲーム的な配慮も頭脳労働の類いだとすれば、広い意味での労働によって人間社会が成り立っていることになるのかもしれない。人間の活動のどこからどこまでが労働なのかについては、人によって見解の分かれるところかもしれないが、人間は自然環境から何かを作り出すか収奪して、それを糧として生きてゆくしかないのだから、その過程で生じていることが労働だと見なせばいいのだろうか。そしてその奪ったり作り出したりした物や情報を、他の人間や団体が奪ったり作り出したりした物や情報と、金銭を介して交換しながら、生きて行くのに必要な物や情報を手に入れているわけだ。自分が生きて行くのに必要な物や情報がすべてただで手に入るなら、働いて金銭を稼ぐ必要はなく、資本主義からもおさらばできるが、金銭を介した交換が世界中に広まっている現状で、どうやればそれ以外の交換を広めることができるだろうか。それとも交換しなくても生き行ける方法を発明すればいいのだろうか。例えば人の細胞内に葉緑素でも取り込んで、水と空気と光だけで生きて行けるような植物人間でも開発すればいいのだろうか。冗談はさておき、今も都市文明から離れた辺境地域では、細々とではあるが資本主義とは無縁の、狩猟採集や農業を中心とした生活が成り立っているのではないか。そこから資本主義を打倒するような生活習慣が、世界中に広まるとは思えないが、たぶん少人数なら、日本でもそういう生活を人工的に作り出すことは可能なのではないか。閉ざされた宗教教団のようにならない程度で、生活困窮者などを対象として、民間の慈善団体のようなものを作って、どこかの山村でそういうやり方を実験してみればいいのだろうか。無論そこでの狩猟採集も農業も労働には違いなく、人々が労働から解放されることはないのだが、少なくともそういう環境でなら、過剰生産・過剰消費という資本主義的な弊害はなくすことができる。


2月8日「国と行政と国民の関係」

 果たしてそこに暮らす人々にとって、国家は有用な存在なのだろうか。あるいは逆に国家がそこに暮らす人々にとって有害な存在だとすれば、その有用性と有害性をどう認識し、どう判断たらいいだろうか。結局それは大前提として、国家が国民を幸福に導くという建前を、国民と呼ばれる人々が信じるか否かにかかってくるのだろうが、よく政治家などが国民の人気取りをやる目的で、自然とそういう建前論を宣伝文句に使うわけで、果たしてそんなことを言う政治家が、国民のためになっているのか否かも含めて、どう判断すればいいのだろうか。

 本来行政がやるべきこととはなんだろうか。それは国民や企業などから税金を徴収して、それを国民のために使うということだろうか。だがその国民のために使われている金が、本当に国民のために使われているのか否かが、体制側と反体制側に身を置く人たちによっては、判断の分かれるところで、反体制的な政府を批判する人たちによれば、国民のために使われていないで、政治家や役人やそれに関係する企業の、私服を肥やすために使われているとなるわけだが、実際に贈収賄事件でも発覚すれば、そういう面もあることもわかるが、それがすべてというわけでもないのだろう。例えば規制緩和論者の主張だと、各種の規制や業界に対する監督権限の増大によって、行政が肥大化し、それの行き過ぎが監督官庁から業界への天下りを招いて、また天下り先から監督官庁への働きかけによって、その業界に有利となるような規制を生み出し、そうやって規制に守られた業界と監督官庁の癒着が慢性化して、業界の国際競争力がなくなってしまったから、今こそ規制緩和が必要だという主張につながっているのだろうが、それは一昔前の議論で、今では資本主義市場経済のグローバリゼーションに対抗するためには、ある程度は業界に対する保護が必要で、行政が有形無形の関税障壁などを設けながら業界を保護し、保護している間にその業界が国際競争力をつける手助けをしなければならない、という主張の方が優勢なのか。そういうことも、果たして国民のためになっていることなのだろうか。国民というよりは業界のためということなのだろうが、業界のためになるということは、国民のためになると解釈すればいいわけか。そこで企業のためになることと国民のためになることが、必ずしも一致していないと言えるだろうか。では企業と国民の利益が一致していないとなると、政府はそれをどう判断すればいいのだろうか。企業で働く国民の賃金を上げるように、政府が企業に働きかければいいわけか。どうもその辺から話がこんがらがってこないだろうか。そもそも国家が国民を幸福に導くという建前が、実質的には少し違うのではないか。

 要するに国民を幸福に導くためには、まずは国家が国民を、幸福になれるように、指導しなければならないということではないのか。近代的な国民国家の論理からすると、教育によって国民を質の高い労働者にし、その質の高い労働力によって産業の発展を促進させ、産業の発展によって国家が栄えるということだから、義務教育である小中学校から、国家による国民への指導が始まるわけで、国の繁栄のために働ける人材にするために、子供の頃から指導し、大人になって企業に就職すれば、その企業が属する業界を今度は監督官庁が指導し、国際競争を勝ち抜くための力をつけさせなければならないわけだから、そういう論理からすると、国や行政機構にとっての国民は、国家を栄えさせるための駒であり、道具でもあるわけで、あからさまにそう言っては反発を招くから、表向きは国民のための国家であり、国民に奉仕する行政という建前を示さなければならないのだろうが、果たして当の国民はそんな建前を信じているのだろうか。信じている人たちは、自分たちが国家の主人だと思い込んでいるのかもしれないが、中には国の意向に従うことが国民の義務だとか思っている人もいるのかもしれず、そういう愛国心の強い人たちが、国家にとってはありがたい存在で、いざとなったら国に命を捧げる覚悟ができているのかもしれないが、一方でそれに疑念を抱いている人たちが、政府を批判する側に回っていて、そういう人たちは国家を仕切る行政にとっては邪魔な存在で、ひとたび何か事件が起こったときに、その国民を幸福に導くという建前が崩れて、行政の長や体制側の政治家を通じて、国家の本音があらわになるときに、それはわかることかもしれない。最近の事件では、国民の誰かが海外の紛争地帯で、武装組織に拉致されて身代金を要求されたとき、なにやらそれらしき国家の本音と受け取れるような主張が、政治家や政府よりのメディア関係者の間から多数漏れてきたわけで、その手のメディアの論調が示すところによれば、それは本人の自己責任ということで、そうした論調が世論の大半を占めているということになっていて、国の制止を振り切って紛争地帯に出かけて行ったのだから、それは国の意向に逆らった本人の自己責任であり、人質に取られて多額の身代金を国に要求されたのだから、国にも迷惑をかけたということになるらしい。少なくともその手のメディアの世論調査では、そのような状況で行政が国民に奉仕する必要はないという意見が、大半を占めているようだ。


2月7日「ごまかしだらけの民主主義」

 簡単に答えなど見つかるわけがないが、それに関して最近は意識が固定観念の虜となっているようだ。毎日同じことを考え、同じことを語ろうとしてしまう。それではだめだと思うのはなぜだろう。たぶんそういう成り行きに意識的に逆らおうとしているのだろうが、しかしなぜこうも同じことについて語らなければならないのか。なぜ政治・経済的実践について何か語らなければならないのだろうか。地球の表面を覆っている諸国家群において、何か政治・経済的に興味深い動作や現象が見られるのか。何に気づいているわけでもなく、そこに住んでいる彼らが取り立てて目新たしい認識を共有しているとも思えないが、それでも気づいたことを指摘しなければならないだろうか。いったい何に気づいているのだろうか。別にそれを語る理由があるわけではない。それを語ることに正当性を求めるなら、だいぶ当てが外れているようだ。結局語るべきことなど何もないのではないか。ただ一群の人たちが政府の政策やその外交姿勢に反対しているわけだ。それだけなら何も目新しいことはない。それ以外には何もないのだろうか。そんな固定観念に逆らって、何かそれとは別のことを語ろうとすると、すぐに他には何もないことに気づかされ、それ以上は何も語れなくなり、そこで行き詰ってしまうわけだ。それの何が間違っているのだろうか。

 政府は国内の企業が外国との企業との競争に負けないように、盛んに経済的な振興策や優遇策を推進しようとしていて、そうした企業優先政策によって労働者が待遇や福祉がなおざりにされ、それによって不利益を被っていると思われる人たちが、政府に対する批判を繰り返しているわけで、彼らの主張を象徴する言い分によれば、このままでは上位1%の富裕層がますます豊かになる一方で、残り99%の人々が貧しくなるということなのだが、そういう言い分をどこまで真に受ければいいのか、疑念を抱かざるを得ず、その辺がどうもいまひとつ信じきれていないところだ。一方で経済的な利潤追求の原理を推進する国家が、どこまでそれに歯止めをかけられるのか、それはかなり矛盾していることで、もうそろそろその矛盾をごまかしきれなくなっているのではないか。歯止めをかけているように見せかけることはできるのだろう。だが例えば富裕層に対する税負担を重くすれば、税負担の軽い国へと富裕層が移住してしまうだろうか。また企業に対する税負担を重くすれば、同じように税負担の軽い国へと企業の拠点が移動してしまうだろうか。結局そういう方策以外にはやり方がないとすれば、世界同時に同じ税負担割合にするしかなく、そうだとするなら、世界が各国に分割されているのはいかにも不都合で、たぶん世界が一つの行政機構に統一されない限りは、そういうやり方がうまく機能することはないのだろうが、それでは国家がなぜ存在する必要があるのかという話になってしまうわけだ。国家が自国民を経済的に豊かにしようとする行為が、他の国にいる人たちを経済的に搾取することで迷惑をかけているのかもしれず、その辺も考慮に入れて考えなければならず、どうもそういうところが政府のやり方に賛成か反対かの議論の中では、なおざりにされているのではないか。そういう微妙な部分を考慮に入れないと、賛成反対の両派の言い分自体が、あまり説得力のない主張となりかねず、彼らの必死さや熱心さとは裏腹に、ますます政治的無関心が世の中に広がってしまうような気がするのだが、たぶんこんなことを述べても彼らには馬耳東風だろう。

 政府が産業振興をやって、それによって企業が栄え発展して、利潤を生み出している現状があるわけで、それらの企業で働いている個人の収入も含め、その生じた利益から税を徴収し、その税金を活用することで国家が栄える仕組みである限りにおいて、しかも諸国家間において経済競争があるわけだから、国家は金をより多く稼ぐ富裕層や企業を、優遇しないわけにはいかないのであり、そうした層に重税を課して叩くような真似はできない。そんなことをすれば国家が他国との経済競争に敗れて衰退してしまうだろう。そんなわけで政府の方針や政策に賛成する側も反対する側も、すべては御都合主義に凝り固まっていて、自分たちの損得勘定とその場の思想の流行に合わせて、総論賛成各論反対であったり、逆に総論反対各論賛成であったりするわけで、どちら側の主張にも矛盾点やそれをごまかす御都合主義が潜んでいる。だからこう述べてしまうと馬耳東風を決め込むしかないわけだが、ではどうすればいいのだろうか。ならば世界を統一して無駄な出費や経費のかかる国家間競争や戦争をなくせばいいという話になるだろうが、彼らに言わせれば、そんなことなどできっこないということになるだろう。だからこれまで通りに意図的にあるいは無意識的に、矛盾や不都合な点を無視するか触れないでおきながら、政府のやっていることに賛成する側と反対する側の二手に分かれて、侃侃諤諤の議論を果てしなくやるしかないわけで、どちらの側も攻撃材料に事欠かないから、その点を突いて一方的な批判や非難を繰り返していればいいわけで、そしてそんな予定調和のうんざりするような論争を、果てしなく繰り広げているうちに、それ以外の部外者に属する人たちから見放されて、政治的な無関心層の増大につながり、選挙での投票率の低下も甚だしくなって、双方ともに危機感を募らせているのだろう。


2月6日「わからないこと」

 誰かを攻撃したければ、その誰かに向かってたぶんこう言うだろう。君は何もわかっていない。具体的に何がわかっていないかまでにはあえて言及しないが、そうやってわけ知り顔で非難するのが、安っぽいフィクションでの脇役のありふれたセリフだろうか。そしてわかっていないのはお前の方だと言い返されたら、俺も何もわかっていないと返すしかないだろうか。たぶん本心からそう思っているわけではないだろうが、ちゃんと言い返すのが面倒くさければ、それでかまわないのではないか。では本当にそう思っているなら、今こそ自身が何もわかっていないことを自覚すべきなのだろうか。すでにその自覚があるのではないか。そしてそれと同時に、中にはわかっていると思うこともあり、そのわかっているつもりのように振舞っていることが、相手からすれば腹が立つことなのだろう。具体的に何がわかっていないかではなく、わかっているように装うのが非難の対象となるなら、それはわかるわからないは問題ではなく、要するに他人の知ったかぶりが鼻につくということか。そしてそれがその通りだと思うなら、むきになって反論など繰り出すのは野暮で、相手にはその通りだと思わせておけばいいのではないか。実際にその通りなのかもしれないが、肝心のわかっているか否かについては、どちらでもかまわないような態度でいるしかないようだ。何がわからないのかわからないならそうなるしかない。それがわかるまでは、むやみに返答できないし、言い争いの次元で下手に問答を重ねてしまうと、たちまち思いがけないところから足を引っ張られて、その程度のことに延々とわずらわされて、うんざりしてしまうのではないか。結局何も出てきそうもないところから何かを引き出そうとして、要らぬ苦労を強いられる。だが本当にそこには何もないのだろうか。まだわざと何かを間違えているのだろうか。それともわざとではなく、本当に自分が何かを間違えていることに気づいていないのだろうか。たぶん現状では間違えているか否かも、その区別をつけようがないところで語っているような気がする。何が正しくて何が間違っているかの境界がないのかもしれず、それについて何をどう語ってみても間違っているように感じられ、語っているうちにも自らの語りを信じられなくなり、正しいと思われるようなことを、まだ語る状況になっていない段階なのかもしれず、結局何もわかっていないことについては無知でいるしかないようだ。わかりようのないことには返答できないし、無理に返答するだけの知識など持ち合わせていないらしい。だから何もわかっていないと言われれば、相変わらずその通りだとしか返答できそうもない。具体的に何がわかっていないかについて指摘されても、その返答が変わるとも思えないが、たぶん相手に指摘する気などないことはわかっているので、そのままわからずじまいとなってしまうのではないか。今のところはそれでかまわないのなら、将来においてもそのままとなってしまう可能性もあり、そのわかっていないと思われることについては、永遠に関わり合いのないことになってしまうのだろう。そしてそれ以上は何を詮索することもできず、わかる手がかりもきっかけも持ち合わせていないようだ。

 できることなら屁理屈のこね合いにならないようにしたいが、それ以前に何かを討論したりする場面にはならないのではないか。ではただ一方的に主張を述べるにとどまってしまうのだろうか。語るとはそういうことではないのか。でも語ろうとして語っているのではなく、語りたくないのにわけのわからぬことを語らされてしまっている現状がありそうだ。そして何を批判したいのでもないのに、語ればその内容は何かへの批判となってしまいそうだ。そんなはずがないのに実際にそんなことを述べているのだから、それは述べたいこととは無関係なのだろうか。そしてそれの何が気に入らないのでもない。語るだけ無駄なことを語っているように思われ、しかもその空疎から抜け出せない。何ももたらせないのかもしない。そうしているうちにも次第に語る範囲が狭められ、気がつけばそれについてばかり語っている現状があり、要するにネタ切れになってしまっているのではないか。なぜそんなことにこだわってしまうのだろうか。政治的な現象に心奪われ、ネットの政府批判の言説ばかりに接しているうちに、それに対して紋切り型的な表現でしか対応できなくなってしまっているのだろうか。また一方では資本主義の限界ばかりを批判の標的にしているわけで、結局国家と資本主義のことしか語れなくなっていて、しかもそれを乗り越える方策を思いつかず、現状ではそれらについての思考の限界しか提示できずにいるのではないか。それについて安易なことは述べられないと思うことが、かえって同じようなことしか述べられない惨状をまねいているのかもしれないが、やはりそれでかまわないのだろうか。開き直るわけにはいかないが、そちらの方面での試行錯誤を今後とも重ねて行くしかないようだ。なぜか近頃は世界的に保守勢力による軍事や産業界と結びついたゴリ押し的なやり方ばかりが目立っているせいか、自由主義の評判が悪い。いったいそれらの軍産官複合体的な何が自由主義なのか。それは完全に旧ソビエト的な全体主義なのではないか。ソ連が崩壊して二十数年経つが、今やアメリカや中国やロシアなどの国家の中枢を牛耳っているのは、かつてソ連という国家を管理運営していた軍産官複合体的な官僚機構と酷似していないか。たぶんそれは言い過ぎで、中国やロシアはさておき、アメリカやEUや日本を中心とした西側先進諸国では、曲がりなりにも議会制民主主義が機能しているはずなのだが、今や日本ではその議会やその議員を選ぶ選挙に、疑いの眼差しが向けられている。民主的な選挙を経て選ばれた議員で構成されている議会が、またその議会の多数派によって構成されている内閣が、本当に民意を反映しているかについて、多くの人たちが疑念を抱いているわけだ。なぜそうなってしまったのだろうか。制度に問題があるとすれば、それをどうやれば改善できるだろうか。どのような制度に変革すればいいのか。あるいは国民の側に問題があるとすれば、国民の意識をどうやれば変えられるのか。どのような意識に変革すればいいのか。さらにそういうことではないとすれば、現状の何がおかしいのだろうか。もしかしたらおかしいところは何もなく、この現状は歴史的な成り行きとしては、当然の帰結としてもたらされた現状なのではないか。それらの点について、どう考えればいいのかわからないのが現時点の認識だろうか。


2月5日「人に対する評価基準の流動性」

 人の動作不良には誤作動も含まれるようだ。わざとそんな否定的な動作を肯定して、それでうまくごまかしたつもりになっていたのかもしれないが、実際には何をごまかせたわけでもなかったらしく、かえってそれらの否定的な動作の否定性が、それらの言説の中で鮮明に浮かび上がってきた感じがしないでもない。仕事で人が頻繁に動作不良を起こしたり誤作動したりするのは、その仕事とその人との相性が悪いことの証しだろうか。その仕事を彼にまかせている側からすれば非常に困るわけだ。仕事の種類や重要度にもよるのだろうが、そんな人間は遠からず解雇されてしまうだろう。仕事には目的があり、目的を遂げるために人は仕事をしている。人が目的に縛られているのは当然のことだ。そしてその目的の中身が重要で、そこにやりたいことがあるわけだ。人はやりたいことをやるために生きている。そういう目的だけがすべての人間には、果たして動作不良や誤作動を起こす機会があるのだろうか。目的を見失った時がそうなのか。そこで目的がすべてではないと思い知るわけか。そうやって挫折を味わうわけか。そんな人間がどこにいるのだろうか。フィクションの中には確実にいそうだ。現実の世界ではどうだろう。その目的であったりやりたいことであったりするものは、どのような経緯から人の意識の中に浮かび上がってくるのか。なぜそれをやりたいと思わせるのだろうか。単なる気まぐれからいい加減にそのやりたいことを決定してしまうわけか。そうではなく、そこに切実に望まれる理由があるはずだ。願いを叶えたいのであって、その願いがやりたいことをやろうとすることであったりするわけか。ではそのやりたいことはどうやってやりたいこととなるのか。それでは循環論となってしまうだろう。またわざと言葉を循環させている。誰かが切実に何かを願っている状況は、果たして肯定される状況なのだろうか。思いが強いということは、それだけ困難に直面しているということだろうか。人をそのような目的に向かわせる動機がある。それは現状に満足していないからかなのかもしれない。なぜそう思われてしまうのだろうか。渇きがあり何かに飢えている。満たされていないから思いを遂げることを切実に願うのだろう。物語の中ではそこに不幸な生い立ちがあり、疎外感があり、周囲に自らの存在を認めてくれない無理解があるわけだ。そしてそこから富や栄光を求めて闘争が開始され、サクセスストーリーが語られ、そこで直面する障害としての挫折や虚無感を乗り越えた果てに、愛をつかんだりつかめなかったりすれば、人はそんな物語に感動するわけか。できればそれが絵空事の幻想ではなく、実感を伴った現実として体験したいわけだ。そこに目的があり仕事がありうる。そう思いたい人は人知れずそこで成功する野望を抱いていたりするわけか。ではそこで動作不良や誤作動がどうして生じてしまうのだろうか。たぶん生じなければ物語となってしまい、生じたら現実に引き戻されるのではないか。思うように行かないだけではなく、思いがけないことが起こり、目的を見失い仕事を辞め、気まぐれに放浪でもしてみようとするかもしれないが、そこにとどまって朽ち果てるがままとなってしまうかもしれない。

 何をやろうとしてもとりとめがなく、うまくいく以前に精神の崩壊現象から抜け出られなくなって、身も心も壊れたまま、そこで死んでしまうかもしれず、実際に死んでしまったら、そこでおしまいとなってしまうのだろうか。できれば死に至る前に、廃人の段階程度にとどまりたいところかもしれないが、動作不良や誤作動を改善しない限りは、生きていくのに支障をきたしてしまうのだろうか。それがどこから生じているのか、原因を突き止めないことには改善など望むべくもなく、たぶん原因がわからないまま、あるいはわかっていても改める気が起こらないまま、というか自らの力ではどうにもならない困難に直面しているのではないか。人は自らの壊れた箇所を自ら修復できないのかもしれない。自己治癒能力にも限界があり、それを超えた故障には対応できないのだろう。そうなると他人の助けを必要としているわけだが、他人にも助けられない場合があり、助けられない原因がその人にあるのか、周りの状況にあるのか、あるいはその両方が彼を助けられない状況に追い込んでいるのか、人にはいくらでもそんな事態に陥る危険性があるだろう。そしてそれがその人の自己責任だとして放っておかれるのは、傍観者的な視点からすればこんなに楽なことはない。助けなくてもいいわけだから、結果的に死ねば、気の毒に思う程度で済ませられるだろうか。たぶんそこから先があり、自分がそのような状況に追い込まれたときに、それも自己責任で招いた結果だとして自らを納得させることができるか否か、今ここで想像してみるわけにはいかず、やはり思いがけずそんな事態に直面したときに、その場で考えるしかないのではないか。だから今がどうだというわけではなく、今後もどうだというわけでもなく、そんな現実があり、その中で生きている現状があり、何をやってもうまくいかなくても、何もやる気がしなくても、廃人であろうと常識人であろうと、その人が自らの領分をわきまえ、真面目かつひたむきに仕事に取り組み、人として社会的・世間的に正常に動作しているように見えようと、それらの人々の差異に言及して、人としての価値に格差をつけたり優劣をつけてみても、否定したり肯定してみても、直接の利害が及ばない限りは何がどうしたわけでもないのだろうが、やはり直接の利害関係にあろうとなかろうと、その場その時で否定したり肯定したりするだけで、そう評価されたり判断されたりした人でも、生きている限りはその先があるわけだ。その先に変化したりそのままであったりする可能性がある。その先の可能性がある限りは、その人の評価を固定するわけにはいかず、その人が死んだ後でも、世の中の状況によっては、その人の評価が変わってきたりするので、絶えず保留する部分を残しておかないといけないのではないか。もちろん人に対する評価などに、ことさらにこだわらなくてもかまわないのであって、その場その時で共感できる部分は肯定しておけばよく、共感し難い部分については、暫定的に否定しておけばいいのかもしれない。そしてそんな批評家気取りになるほど、世の中の物事や人物に精通している自信がなければ、そんなことは無視しておいてもかまわない。


2月4日「自然現象と人間活動」

 現象とはなんだろう。語ろうとするその現象を特定できなければ、そんな問い自体がまやかしになってしまうだろうか。思いつく限りでの様々な現象をここに列挙しようとしているわけではないが、確かに世界には千差万別で色々な現象が起こっていて、それらが複雑に絡まり合って、この世界そのものを形作りながら動かしている。中にはそれらの現象を分析してなんらかの言説で表現しようとする人々もいるのだろう。そんな人間活動も現象と見なせば、それについても語ることができるのだろうか。その語り自体が現象についての現象であり、とりとめがないように思われるが、何も現象とみなさなくても、人間活動そのものについて語ればいいのではないか。それと何を比べようとしているのか。何と何を比較しようとしても、それとこれとは性質の異なる現象になるだろうか。それが自然現象でこれが人間活動と見なせば、それで済んでしまうことでしかなく、それとこれとを区別して語れば、何やら人間活動特有の特性のようなものを導き出せるだろうか。導き出したとして、それがなんだというのか。経済的な次元で考えれば、人間活動によって利益がもたらされ、利益がもたらされるから、それに伴って生じる人間活動が活発化するわけか。そしてその活発化した人間活動が、自然破壊をもたらして環境を激変させ、そのような現象を分析している人々の中には、人間活動による自然破壊が、結果的に人類の破滅をもたらすと警鐘を鳴らしている人も少なからずいる。そんな現象をどう解釈したらいいのか。そんな警鐘を真摯に受け取り、これからは自然環境と調和した経済活動を推進しようとすればいいのだろうか。しかしそれに呼応して開発され推進されている風力や太陽光などの再生可能エネルギーも、結果的に環境破壊を招くまやかしだと主張する人たちもいて、自然環境と調和した経済活動というのが、具体的にどんな活動を指すのかについては、警鐘を鳴らす人々の間でも意見が分かれていて、こうすればいいと一概には言えないところのようで、現状ではよくわからないのかもしれない。もちろん人間活動は経済的な利益追求活動だけではなく、見返りを期待しない贈与とかボランティア的な助け合いとか、実質的な利益など何ももたらされないことを承知の上でやっていることもたくさんあるはずだ。そして実質的な利益とみなされるものも、ただの金銭的な利益に他ならず、所有している金銭の多い少ないで、価値の有る無しが決まるとすれば、利益と呼ばれる概念とか価値とかは、数字で表される額に連動しているものでしかなく、物や情報と貨幣を交換する上でのルール上でしか成り立たないものだ。その相互合意に基づいたルールなど無視すれば、たちまちそのような価値自体がまやかしでしかなくなってしまうだろうか。そして人間が構築している文明とか文化とか言われるものの本質は、そんなまやかしの上に成り立っているわけで、それがまやかしでもインチキでもないとみなすことによって、初めて人は現在行われているような経済活動に参加できるのだが、そもそもそれらの活動は具体的に何を表しているのだろうか。

 そこに相互合意のルールが働いていると信じることによって、人はそれらの活動にその身を投じることができる。実質的には所有していると信じられている金銭の額が、相対的に多ければ多いほど、それを物や情報と交換する上で有利に働くようなルールなのだが、その交換が売る側と買う側の双方が合意の上でなされることが、なにやら平等性や公平性を連想させ、それが広く人々の間で信じられている幻想なのかもしれず、それが強みとなってそのような経済活動が世界的に広まり、そのルールが人々の活動を制限し、行動や言動を限界づけているわけで、経済的な利益に結びつくことならとりあえず肯定され、ある程度は強引なやり方を伴うとしても、結果的に広く人々の利益となるなら許されてしまう場合もあるわけだ。世界的にそんな経済論理に縛られながら物事が進められようとしているわけで、その一方で純粋に倫理的あるいは道徳的な価値観に基づいた行為が、経済的な価値観に負けるか、あるいは経済的な価値観に基づいて、倫理も道徳も歪められねじ曲げられて、経済的な倫理観や道徳観として再構成され、それに従うことが価値のある行為であるかのように信じられ、実際にそういう行為が期待されている現状があるわけだ。要するにそこで産出される経済的な富を、そこで暮らす各人に公平に再分配することが、国家の使命であるかのように語られている。そしてそこでの公平とは、富をどのように分配すれば公平となるのかを巡って、それを推進しようとする人たちの間でも、意見の分かれるところなのだろうが、日本でもまた政権交代などがあれば、そこで公平な富の再分配を巡って、侃々諤々の議論がなされるのかもしれないが、結局そんな議論をよそに、相変わらず国家やそれを支える官僚機構は温存され、官僚機構は着々と人々を管理制御するためのシステムを構築してゆき、人知れずそれを円滑に動作させるための法整備も進んで行くのかもしれず、その結果国家が蟻の巣のようになり、人々が蟻のように働く仕組みが出来上がってしまったら、それは国家の人に対する勝利と言えるだろうか。国も人の集合体なのだから、そこで何が勝利したわけでもなく、それも可能な社会変革のバリエーションの一つかも知れず、国家が蟻の巣のように効率的に動作するとしても、そこに暮らす蟻人間たちは案外なんとも思わないのかもしれず、だからどうしたわけでもないのだろう。現状でも人間は動作不良の危険性の高いロボットでしかないのかもしれない。もちろん人間が蟻でもロボットでもないのは、動作不良が頻繁に起こるからであり、その偶然の巡り合わせや成り行きに左右される動作不良こそが、人の人たる所以であり、それが人間の本質を表す特性なのだろう。そこに逆説的な未来への可能性があるのだろうか。そしてそれが人間を支配する自然現象によって引き起こされているわけか。


2月3日「集団行動と単独行動」

 たぶんお互いの共通の利益のために徒党を組むのは、そうするのが当たり前のわかりきった行為なのだろうが、その一方で徒党を組むのを嫌い、一匹狼で単独行動を好むのもよくある行動パターンなのだろう。その集団で徒党を組んだり一匹狼で単独で行動したり、そのこと自体がどうだというのではなく、何を意味するわけでもない。誰もがバラバラに行動して好き勝手なことをやっていれば、何も生まれないかもしれないし、人と人とが連携して共同作業をやる中から、文明とか文化とかいう概念や価値観が生まれてきたわけだ。単独行動を好む人たちも、そのような文明や文化からの恩恵を受けながら行動しているわけで、集団での共同作業がなければ、社会も文化的な生活も成り立たず、その中で他人を利用して利益を得なければ生きては行けず、それをやった上で他人をどう扱うかが問われているのではないか。他人から利益を奪われて、あるいは奪われていると感じて、そのことに腹を立てたり、利益を奪っていると思われる人たちや集団に、攻撃を加える必要があるだろうか。我々はユダヤ金融資本から利益を奪われている、ということをナチスは訴えていたはずだ。それの劣化版だと、我々は反日朝鮮人たちから利益を奪われている、となるわけだが、その一方でまともで良心的だと思われる人々も、我々は一握りの富裕層から利益を奪われている、という今日的な主張に心酔していて、実際に経済統計的にそれを裏付けるデータも確認されている、ということになるわけだが、それらの主張のどれとどれの間に境界線を引いて、一方に主張は否定し、もう一方の主張は肯定しなければならない理由があるだろうか。直接の暴力や差別的な言動を駆使して攻撃してはならないということであり、民主的な方法で、利益が公平に分配される仕組みを作らなければならないということだろうか。穏便で無難な言い方をするならそういうことになりそうだ。だが実際に民主的な方法でそれを実践するとなると、そのような方法を担う制度自体が、利益を得ている側が有利になるような制度になっているとすれば、たぶんうまくいかないだろう。ではどうすればいいのだろうか。まだ状況がどうすればいいかと問う段階にまで達していないのではないか。そしてそれ以前の段階において、人が制度や仕組みに依存しなければ何もできないようでは、それだけ人の行動の可能性が汲み尽くされていないということになるのではないか。人は人が集団で作り上げた制度や仕組みに逆らってでも、何かをやらなければならない衝動に絶えず駆られている。人は時として集団に逆らわなければならないのであり、集団からもたらされる利益などを無視して行動しなければならない。たぶんそれは単独で行動する一匹狼が陥りがちな衝動なのだろうが、そこに何か世の中の制度や仕組みとは異なる可能性があるだろうか。

 それは可能性ではなく、実際に日々の行動に結びつき、善悪の判断から外れて試されていることではないか。社会の制度や仕組みの存在を前提としながらも、その制度や仕組みを変えるには、そこに暮らし生きている人々による、制度や仕組みに逆らい、それを無視するような日々の行動や実践が必要不可欠なのかもしれず、例えば国政選挙があり、投票率が下がると組織票を持っている政党や候補者に有利に働くと言われても、あえて投票に行かない人たちの行為も、そのような制度や仕組みに逆らっていることの表れかもしれず、それが結果的に体制側を利することになろうとも、たぶんそれによって体制側が得られる短期的かつ一時的な利益とは異なる部分で、なんだかわからない未知の可能性を予感させるわけだ。しかもそれがほとんど勘違いだとしても、制度の形骸化を招いているのは、常にそれを利用して利益を得ている側にあるのであり、そのような行為があからさまだからこそ、利益から除外されている大多数の部外者たちの無関心を誘い、さらにその無関心までも利用して利益を独占しようとしているのだから、なおさらしらけた気分を蔓延させているのであり、そのような利益に与る集団に属する人たちの信用は、ますます低下するだろう。その時点ですでに状況は負のスパイラルに入っているのであり、それを利権構造をそのままにして、状況を好転させることなど不可能なのではないか。そして同時にそこにつけ入る隙が生じているのだろうか。たとえそこに隙が生じているとしても、不意打ちを伴わなければ大した効果はあげられず、たぶん権力に逆らう人たちは、その不意打の機会を虎視眈々と狙っているのだろう。それがテロとなるか、あるいはまだ誰も気づいていない未知の何かとなるかは、それが実際に起きてみないことにはわからないのだろうが、過去の歴史からわかることは、権力側からのアクションとしては、226事件などの軍事的クーデターが起こる場合があるわけだが、日本ではもはやそういう事件が起こる可能性がないほど、社会が成熟しているのだろうか。それは社会の成熟度とは違う要因が関係しているのかもしれないが、ともかく主要先進国で軍事クーデターが起こる確率は低そうだ。そして反権力的なアクションが起こる場合、単独でバラバラな無数の行為が一つに集中せず、分散したまま無力な形態を取るとすると、まさにそれは権力を生じない行為であり、権力側からすれば安心して無視してもかまわないような行為となるだろうし、実際に現状ではそうなっているのかもしれず、テレビや新聞などの主要メディアを抑えておけば、なんとかなるような安心感が生じているところが、たぶん狙い目なのであって、実質的に何を狙っているわけでもないのだろうが、ネットにはびこるネトウヨの皆さんも、同時に何か狙っているわけだろうが、彼らの狙っているのは、従来通りの権力志向なのがバレバレで、大したことはないのだろう。要するに肝心なのは、そこで人と人が関わり合い連携し合うにしろ、それが権力の生じない無方向への力の分散となることなのではないか。そんなことはあり得ず、そこに人が大勢集まって、同じ目的のために団結すれば、そこに権力が生じるというのが、従来からある権力論なのだろうが、たぶんネット上で何かやっている分散志向の人たちは、それと意識せず、そういう権力論に逆らうように動作しているのかもしれない。それはまた従来の集団行動と単独行動からも逸脱する動きなのではないか。


2月2日「社会のギルド化」

 何か出来事が起こればそれに対して反応したいわけだが、反応してそれに対してなんらかの表明や主張をして、それで何かやったことになるのだろうか。たぶんそれ以上を望む必要はないのかもしれず、実際それ以上がどんなことなのかなんて想像できない。無駄なことをやっているわけではないと思いたいが、そこで何か語っているわけだ。その語っていることをどうこう考えてみても仕方のないことだろうか。考えたところで語れるわけがない。それでも語ろうとしているわけだ。何かを語ろうとして、それについて考えようとして、何も考えられないことに気づく。その際個人の政治的立場など何を意味するわけでもない状況なのだろう。無名の個人ならネット上で政府のやり方を批判したり、街頭でビラ配りでもして、いくらでも反体制的な立場を取ることができる。だがそれ以上はない。たぶんそれでかまわないのだ。何もジャーナリストとか活動家とかになろうとしなくても、その程度で済ませられる時代なのだ。実際に政治家は世襲制と官僚上がりで占められ、完全に制度が運用面でそれらの人たちの有利になるように、恣意的な仕組みが出来上がっている。無名の一般人が政治家になれるわけではなく、政治家を排出しているなんらかの組織や団体に入って、そこで研鑽を積み、その人が政治家になれば組織や団体にとって有益であるとして、認められた上でないと、おそらく選挙で勝てる見込みのある候補者として、立候補すらできないのかもしれず、政治家を目指す無名の一般市民がいきなり選挙に立候補して、街頭演説や政見放送などで、その主張が多くの他の市民の賛同や支持を得て、そして当選して議員になるというのは、要するにほとんどあり得ない虚構の物語でしかないのだろう。そんな建前として提示されている制度と、それが実際に運用されている実情ととでは、現実と虚構ほどの大きな隔たりがあり、制度が理想とされる建前通りに運用されるのを、その制度を我田引水的に運用して、利益を得ようとする人々や組織や団体などが、自分たちの都合のいいようにねじ曲げて、ギルドを形成して部外者の参入を阻んでいるのであり、そうなってしまった過程がそのまま政治の歴史でもあるわけだ。そしてそれは政治に限らず、社会のあらゆる分野で行われていることで、何かそれを利用して利益を得られる制度や仕組みが生じれば、たちまちその周りにギルド的な組織や団体が形成され、ギルド内で利益を独占しようとして、ギルドに入らない者は排除され利益を得られないように、制度自体が改変されてしまうわけだ。だから結局部外者は、外でいくらでも理想論を主張することはできるが、それが世の中の制度や仕組みを変える原動力とはならず、ただ負け犬の遠吠えのように、それらの声は虚しくネット上や街頭などで響くばかりなのではないか。

 そのような人間の集団的な営みは、良心的な価値観に基づいて作り出された社会の制度や仕組みを、ことごとく形骸化させてしまう作用があり、効率的に功利を得ようとする行為が、必然的に部外者を排除した上で、特定の集団や階層による富や名誉や権力の独占という結果を招く。これまでの人類の文明史において、もしかしたらそれ以外の作用はあり得なかったし、今後もあり得ないのではないか。そしてそのような作用に対抗して、人々ができることはといえば、もはや形骸化してしまったそれらの制度や仕組みを、元の理想状態に戻すことではなく、実際にやろうとすればギルドに阻まれてしまうから、戻すことなどできないのであり、できるとすればそこにまた新たにそのような作用に逆らうような改変を、上乗せすることしかできないのであり、しかもそれをすぐにはバレないように提示しなければならず、一見功利的に感じられるが、それと気づかれないうちに、それらの利権ギルドを解体するように作用する仕組みを考え出さなければならない。もちろんそれは人が直接意識できるような、はっきりした制度や仕組みでない方がいいのかもしれず、ともかくうまく表現できないような作用を社会に及ぼす必要がある。論理的に単純化されてしまってはバレバレになってしまうのであり、また小難しくて相手にされないようなら、人畜無害でしかないのだろうが、魅力的でしかもなんだかわからないような、底知れない何かが必要なのではないか。もちろんそれが神秘思想の類いとなってしまうと、オウム真理教のような宗教教団にしかならないわけで、日本で国政選挙の投票率が著しく下がってきたり、アメリカで大麻が合法化されたり、その二つの出来事は一見なんの関係もないことでしかなく、現実に無関係な二つの出来事でしかないわけだが、例えば古代ギリシア・ローマの繁栄の後、ヨーロッパが約千年もの長きにわたり、中世と呼ばれる周辺地域から文化的に遅れた暗黒時代を経て、ルネサンスと呼ばれる文明開花の時期に至ったことなども、単なる偶然の巡り合わせと判断しても、それほど間違ってはいないだろう。わけのわからないことを述べているのを承知で、こんなことを語っているわけだが、一方で教条主義的に理想論ばかり主張しても無駄であることも事実なのではないか。またその逆の戦略的倒錯などいうのも、それが見え見えとなってしまえばただの愚かな行為に堕するだけだ。ともかく今の段階で最低限のレベルで言えることは、ではどうすればいいのかという問いに、はっきりした答えなどありはしないということだ。その上で無矛盾的な論理の単純化には逆らわなければならず、信用に足る答えがない以上は、とりあえず政治的な妥協以外の建設的な提言に内包する、矛盾や実現不可能性は意識しておかなければならないだろうし、それは指摘しておくべきだと思う。


2月1日「殺す人と殺される人とそれを見ている人」

 人が人に殺され、また人が人を殺す。人には人を殺す理由があるらしい。殺さなくてもいずれは死ぬのに、殺しておかなければならない理由があるのかもしれない。また理由がなくても殺される人もいる。何かのはずみで人は殺されるし、大した理由もなく殺される人も大勢いるのかもしれない。ともかく人は殺され、殺された人の家族や友人や職場の同僚などが悲しむこともある。あるいは憎まれ妬まれている人が殺されて、内心ほくそ笑んでいる人もしている人もいるかもしれない。人には人を殺すという動作も選択肢の一つとして残されているようだ。そこに人と人との関係や、人と組織や団体との関係が介在している。中には人殺しがビジネスとして機能する場合もありそうだ。フィクションでは安易に殺しを助長する話の展開の中で、殺し屋の設定が重宝されることもあるだろう。ヤクザやギャング同士の抗争話にはそんな殺し屋が頻出するだろうか。警察や軍隊の話にはスナイパーと呼ばれる専門の狙撃手も登場する。人の命が奪われることは、劇的な話の展開の中で、人を驚かせ恐怖させる効果があるようだ。必ずしもそれを求めてフィクションを漁っているわけでもないだろうが、ホラーと呼ばれるジャンルの中では、大量に人が殺される話が多いのではないか。だから人が殺されること自体に関しては、別に珍しいことではない。では何が珍しいことなのか。それは殺される経緯や殺され方や殺されたときの状況にもよるのではないか。要するに殺されるまでの演出と、殺された後の反応や反響が、何か人に訴えかけるものがあるのかもしれず、殺された者が場合によっては英雄に祭り上げられたり、逆に無駄死にに終わったりするわけか。それとも人の死に感動は無用だろうか。勝手に感動したい人は感動していればいいのだろうが、ざまあみろと罵声を浴びせるのも、なんだかそうすること自体がはばかれるような、あまり罵声を浴びせている人と一緒の気持ちになる気にはなれず、まあこんなもんだと無感動を装うのが無難なところかもしれない。人の死に関して何か特別な思いを抱くような状況下で生きているわけでもないようで、誰もそういうわけではなく、実際に多くの人たちが悲しんでいるのだろう。そしてそのような状況を招いた人や組織に対して怒りの声をあげているわけか。特に目新しい状況ではない。殺される状況に追い込まれる人は、紛争地域ではいくらでもいるだろう。どういう形にしろ、命のやりとりが行われる紛争に参加したのだから、死ぬ覚悟はできていたのだろうし、危険を知りながらそこへ行ったのだから、運と巡り合わせが悪かったら、当然殺される側になることはわかっているはずだ。それでもそこへ行って何かをやりたかったのだろうから、直接の利害関係にない者たちが殺された人間を非難してみても仕方のないことだ。やっていいことがあるとすれば、それを英雄的な行為の末の死だと讃えることだけだろうか。

 批難したり賞賛を送ったところで、死者が生き返るわけでもないので、どちらにしても事後処理的なことでしかないのだろう。残された人を納得させるには死者を弔う儀式が必要だ。そして死に至った経緯を分析して、今後に役立てるための教訓を導き出したいのだろうか。それはありふれた動作かもしれず、人や組織はそうやって、人を納得させるための芝居を打つだろう。別に人が殺される状況は千差万別で、その場その時で違ってくるから、それぞれのケースにおいて導き出された教訓が、必ずしも新たな死の危険に際して役立つとは限らない。だが事の成り行きを分析してそこから教訓を導き出す作業を行うのが、そういう方面を生業としている人や組織にとっては、それが仕事となっているわけだから、それをやり分析結果や考察を発表する機会を得て、プレゼンしたがるわけで、そこでいかに自らの顧客や公衆を納得させるかが、それらの仕事の成否を決める要因となるのだろう。しかしなぜ人はそれについて語りたがり、自らの言説や説明が他人の納得や同意を得ることに固執するのだろうか。それはそれらの言説や説明自体が担っている特性であり、その者が言説を用いて説明する立場にいるからか。たぶんそのことに疑問を挟む余地はないし、社会がそのような類いの人たちを必要としているのであり、そのような言説空間が成り立つことが、社会を社会として存在させているわけだ。人は人が関係して起こった事柄について、あれこれ意見を述べ合い、自分が意見を述べる権利を行使できる立場にあり、そのような立場を有することで社会の中で一定の地位にあることを確認して安心するわけだ。そのためには社会の中でなんらかの出来事が起こった時、それについて意見を求められる立場を死守しなければならず、それにはしかるべき組織と協力関係にあるか、またはその組織の構成員である必要があるわけで、その組織がマスコミュケーションを担う言論機関であるわけだ。そしてそれと関係するかその一員になるには、その機関に公的な発言力があればあるほど、国家権力と折り合いをつける必要に迫られるから、体制側が許容する範囲内での節度が要求され、要するに体制に気に入られなければ、その立場になることも立場を維持することもままならず、その意向次第では地位を追われることもありうるわけで、国家権力がどの程度反体制的な批判を許容するかで、その国内での報道の自由度が決まってくるのではないか。いくら批判や非難がなされても、その国家の政治体制が揺るがないと判断されれば、報道や批判の自由度がそれだけ高くなるし、あまり過度な批判や批難が好まれなければ、言論機関に対する権力側からの締め付けもそれだけ厳しくなるのではないか。たとえ言論や報道の自由が憲法で保証されていようと、その運用は政治体制を担う政治家や政党や官僚機構のさじ加減でしかない。