彼の声106

2015年

1月31日「世界の地域的な不均衡」

 アメリカ軍は果たして大統領の命令で動いているのだろうか。たぶんそうだ。形式的にはそうであり、実質的にもそうだが、大統領がアメリカ軍を動かさざるを得ない状況を、国防総省と軍産複合体とCIAとがグルになって作っていると言ったら、それは穿ちすぎた見方だろうか。アメリカ軍が中東やアフリカで何かやれば、必ずそういう陰謀論的な見方や見解がまことしやかにささやかれるのだが、イスラム武装組織を影から資金援助したり、テロリストの人材育成をしたりして、彼らに騒乱を起こさせて、アメリカ軍がその鎮圧に動くように仕組み、結果的にイスラエルや湾岸の王族国家を維持継続させて、その地域でのアメリカの権益をロシアやイランから守っている、などと事情通の人たちが説くわけだ。その一方でそれらの地域を欧米流の民主的な国家にしたいと思わせるような発言をするのは、あくまで国内のリベラル派を黙らせるための方便なのだろうか。安易にダブルスタンダードという言葉を使いたくないのだが、アメリカの国益が、経済的な利益と民主的な価値観の推進のどちらに振れているのか、あるいは両方ともに実現しようとしているのか、現状ではその辺があいまいなままなのではないか。少なくとも明確な意志は感じられないように思われる。というか経済的な国益重視の国粋主義と、リベラル的な民主主義の価値観を世界に広める使命とやらが、巧みに融合しているように見せかけられているわけで、本当に両者が政治的な目標として合致するのか疑念を抱かざるを得ないのだが、何かその辺がアメリカという国家の矛盾を象徴しているような印象を受ける。もちろんそれは恣意的な印象にすぎず、実際にどうなっているかはわからないし、そこに何か良からぬ意図や思惑が介在していて、黒幕的な組織や団体があって、そこから発せられる意志通りに世界が動いているのだとすれば、その意志が何を狙っているかは、フリーメイソンやイルミナティなどの陰謀論者が語るところなのだろうが、現状ではそれらを信じるに足る根拠はないように思われ、百歩譲ってそのような団体が暗躍しているのだとしても、彼らが目指しているとされる世界征服の野望が何を意味しているのかわかりかねる。アメリカ軍の兵器が如何に強力で、装備や威力で世界各地の活動している武装勢力を圧倒していようと、依然として紛争地域では戦闘が続き、各地で爆弾テロも頻発しているし、各国の兵器産業から武器や弾薬が供給され続け、それで兵器産業を抱える国の経済が潤っているのだろうから、しかもその国が、リベラルな民主的な価値観を広める側の西側先進国の一員だとしたら、それこそ主張していることとやっていることが完全に矛盾しているわけだ。そしてたぶんそれでもかまわないわけで、その矛盾こそが、現状の世界を成立させているのだろう。矛盾していないと、国家も資本主義も成り立たないのであり、両者ともにその矛盾から利益を得ているわけだ。

 核兵器のように製造され配備されるだけでは、あまり利益にならないのかもしれず、製造され配備された兵器は、実際に使われ消費されないと儲からないのであり、供給があればそれに見合った需要が必要とされ、世界の何割かは紛争地域でないと、兵器産業もその規模を縮小しなければならず、規模が縮小すれば、それに携わる人員を削減しなければならなくなり、それに伴って多数の失業者が生じてしまうわけか。そう考えればアメリカの軍産複合体がなにやら陰謀を巡らせて、紛争地域での戦闘を維持継続させている、という見方も成り立つのかもしれず、武力紛争が実際に起こっているから、またそうなる危険性が高いから、国防予算を増やし軍備を増強すれば、兵器産業がそれだけ潤い、その分野での雇用も増え、そこで働く人々の生活も安定し向上するとなると、それは紛争地域の人々の命を消費することで、また将来そうなるかのもしれない人々を見越して、今の経済的な繁栄を確保しているわけで、そのようなやり方でアメリカやその同盟国の経済が成り立っているのなら、それは恐ろしいことかもしれない。もちろん軍需産業だけで経済が成り立っているわけでもないのだろうが、主要各国の国防予算を見ても、それは半端な額ではないのではないか。それを無理に正当化するならば、国を国として維持する上での必要経費とみなしてもかまわないのだろうか。国家経済が軍需産業頼みになるようでは、危険水域なのかもしれず、リベラルで民主的な価値観との矛盾が最大限に増幅されてしまうだろうが、そうなると破綻が間近に迫っていると言えるだろうか。それが何の破綻なのかは、そういう事態になってみなければわからないが、ともかく武器は使われることを欲しているのであり、使う機会を求めて兵器は造られ、使われ消費されればまた造られ、そのようなサイクルが循環していけば、兵器産業がそれだけ潤うわけだ。そして造り出された兵器が限度を超えて使用され、その使用に歯止めがかからなくなると、それはもう全面的な戦争状態であって、もはや後戻りは利かなくなって、戦火は軍需産業以外のあらゆる産業を食いつくし、国土を荒廃させ、兵器製造工場も破壊されて兵器さえも作れなくなれば、そこで終戦となり、富もほとんどが灰塵と化し、国家経済もリセットされて、また一から出直しとなるのだろうか。だが現状はそうではない。相対的に政治的に安定していて、安全で平和な地域や、あるいは圧倒的な武力を背景とした他から攻め込まれない地域で兵器が造られ、それらが政治的にも経済的にも不安定で、戦火の絶えない紛争地域へと送られ、そこで使用されているわけで、その生産地と消費地との埋めることのできない隔たりが、兵器産業の繁栄を支え、安全地帯で軍需以外の産業を育んでいる国家を肥え太らせ、そこでリベラルな民主主義を唱える機会を与えているわけだ。


1月30日「歴史的な現状?」

 それは今に始まったことではない。ローマ帝国に蛮族が攻め込んできて、西ローマ帝国が滅亡した状況に、今のヨーロッパの状況が重ね合わせられるとするなら、それは過去において何度も起こっていることだろうか。たまたまこの千五百年間においては、イスラム帝国やモンゴル帝国やオスマン帝国の侵攻をはねのけたことになっているが、それ以前の数千年間は様々な民族が繰り返し外部から侵攻してきて、先住民を追い出したり混じり合ったりしてきた歴史があったのかもしれず、また侵攻をはねのけたとするそれらの帝国が全盛時代においては、世界の中心はそれらの帝国側にあって、周辺地域にいる蛮族の関心はそちらにあり、ヨーロッパ自体がむしろ文明の遅れた周辺地域とみなされていたのではなかったか。それは一部のヨーロッパ人たちが、過去の輝かしい栄光の時代として取り上げる、古代ギリシアの時代でも同じであり、その頃世界の中心はエジプトやペルシアの側にあって、ギリシア人はエジプトで傭兵や土木関連の技術者や労働者として雇われ、そこで先進文明を吸収してギリシアに持ち帰って、自分たちの文明の構築に利用したわけだ。では現代において世界の中心はどこにあるのか。たぶんどこにもありはしないだろう。富の幻想の中心ならアメリカにあるかもしれないが、実際はアメリカ・EU・中国・インド・ロシア、といった世界の有力諸国が、各地で自国の主導権を確立すべく競い合っている状況だろうか。もちろん今のところはそれらの諸国が、お互いに直接戦火を交えるには至っていないのだろうが、近い将来全面戦争になる事態が訪れるのだろうか。第一次世界大戦の直前においては、誰も大規模な戦争が起こるなどと夢にも思わなかったらしく、また戦争になってからも、比較的短期間で終わるだろう、と新聞などの論調は楽観的な見通しを示していたらしい。現時点ですでに中東やアフリカなどで起こっている地域紛争が、後から思えば第三次世界大戦の始まりだった、ということになるかどうかは、今後の状況の推移次第かもしれないが、そうはならないとしたら、どんな状況を予想できるだろうか。案外この先も延々とこんな状況が続いてゆくのだろうか。何をいくら予想してみても、また今後にどんな期待を抱いてみても、現実に何かが起こってみないことには、また起こったところで、それがどうしたわけでもないのかもしれず、現状のままでもさして不都合や不合理を感じないならば、別に今後何があろうとなかろうと、大して驚かないのかもしれない。

 ヨーロッパではイスラム系移民やアフリカ系移民の増加が社会問題となっているようだが、日本においては天皇家を中心に据える身勝手な選民思想が蔓延しているようで、日本人は朝鮮半島や中国の人たちとは遺伝子レベルで異なる、とかいう科学的血統主義みたいな学説のたぐいもまことしやかに語られ、自民族という虚構を正当化する根拠となっているらしいが、そのくせ日本人独特の遺伝子的特徴の基となっている先住民の血を引くアイヌ人や沖縄の人々を差別しているのだから、ご都合主義もいいところで、約二千年ぐらい前に先住民であった縄文人と呼ばれる人たちが暮らしていた地域に、朝鮮半島や中国から海を渡って弥生人と呼ばれる人たちが侵入してきて、先住民たちを征服して混じり合って、古代の倭国と総称される文明の遅れた地域に、複数の部族国家が誕生したというごくまっとうな学説にケチをつけ、一方では先住民を征服した朝鮮半島系や中国系の人たちを、遺伝子的特徴が異なるとして排除しておいて、またもう一方では、先住民の遺伝子的特徴を色濃く残しているアイヌ人や沖縄の人たちについては、アイヌ人はもう本土人と混じり合って絶滅していて、また日本政府にたてつく反日的な沖縄土人は、朝鮮人と一緒だと支離滅裂な罵声を浴びせるわけで、論理的な思考能力が欠如しているのか、あるいはまたそれとは別の論理でそういうことを主張しているのか、いろいろ事情があるのだろうが、そういう人たちが頼みの綱としているのは、やはり日本という国家であり、国を守るという大義に殉じる覚悟ができているのかいないのかは知らないが、ともかくそれを精神的な拠り所としているのは確かかもしれず、そういう人たちが今後も増加していくのかどうかはよくわからないところだが、たぶんそこで何かが試されているのかもしれない。それはこの地域に暮らす人々が乗り越えるべき試練だろうか。このまま偏狭な民族主義・国粋主義に凝り固まるのか、あるいはそれを乗り越えて、近隣諸国や地域の人々と融和に向かい、東アジアに平和な地域や共同体のたぐいを築けるのか、あるいは東アジアだけではなく、全世界と平和友好的な関係を構築できるのか、それが今まさに試されているということだろうか。だが平和ということと、経済的な利益優先という国民国家と資本主義の至上目標とが、果たして両立し得るのか否か、経済活動も搾取する側とされる側が顕在化すると、争いの元となるだろうが、それを国家的な枠組みで囲い、イデオロギー的なまやかしで覆い隠すのにも限界があるような気がするが、いったんはネトウヨ的なお粗末さに注意を惹きつけておいて、それよりいくらかマシに見えそうな保守思想を提示して、それによって大衆の心をつかむ目的があるのかないのか、今のところは定かでない。


1月29日「現状を肯定する意志」

 どうも読み返すと納得しがたいことを語っている。言説の内容が粗雑で稚拙なレベルに留まっているから、そうなっているのだろうか。そこで何と何を混同しているのか。複数の水準で生じた出来事を、同じ言説の中で一緒くたに扱っているのではないか。しかし語り得ないことは想像で語るしかなく、その想像力が異なるレベルで生じている複数の現象を無根拠に結びつけ、あたかも原因があって結果となったように語られてしまうわけだ。だが社会の現状に沿うように説明しようとすればそうなるしかなく、結局それは現状を肯定する説明となるだけで、批判の糸口すらつかめなくなってしまう。だが現状を批判してどうするのか。それとこれとは全く別次元の問題だろうか。ではなぜ現状を肯定し正当化するような説明となってしまうのか。現状を肯定的に説明するには、矛盾する要素がありすぎるだろうか。それとも矛盾しているように語ることができるだけで、語りようによっては矛盾なく筋の通ったことも語れるわけか。要するにそれについて語っている内容と、そこで行われている内容が、必ずしも一致しているわけではないということか。そう推測すれば辻褄が合いそうだが、果たして辻褄を付ける必要性があるのだろうか。矛盾だらけで辻褄の合わないことを語っていられる状況にあるのではないか。何か特定の集団内で、その集団の意向が反映された内容ならば、たとえ話の辻褄が合わなくても、集団内では受け入れられ、それでかまわないことになってしまいそうだが、そういう集団に属していなければ、やはりなるべく辻褄の合った内容を語らなければならないのではないか。しかし無理に辻間を合わせようとしてできるものなのか。やってみなければわからないなら、実際に辻褄を合わせてみればいいわけか。では具体的に何について語ろうとしているのか。どうもそのへんから語ることの困難が生じているようだ。うまく語れなくなってしまうようで、無理に語ろうとすると粗雑でいい加減に語ってしまうらしい。果たして政府のやり方や政治家の言動や行為などを批判することに、どのような意味や意義があるのだろうか。意味や意義を見い出せなければ批判などしないほうがいいのだろうか。批判しなければ現状を肯定したことになるのだろうか。それはわからないが、どうも批判が無効となってしまうような環境の中にいるのかもしれず、批判というより非難の度合いが高いのだろうが、要するに非難せざるを得ないということは、まともな批判になっていないということかもしれない。

 この世界に卑劣な行為というものがあるだろうか。それを卑劣と感じればそう断じることができるわけだが、卑劣なテロは許さないとなると、卑劣ではないテロというものもあるのかもしれず、犯行声明を出すテロリストのスポークスマンにとっては、自分たちのやったテロ行為を正当化しなければならず、彼らにとってはテロは卑劣でもなんでもなく、それ以前の国家などによる武力攻撃こそが卑劣な行為となるのだろうか。そしてその国家などによる武力攻撃に対する報復として、テロリストによる武力攻撃が正当化される。部外者からすればどちらが何を正当化しようと、武力攻撃を肯定する必要は生じないだろうが、果たして部外者の立場でいられるかどうかは、なんとも言えないところだ。政治・経済的に紛争地域と関係のある国の国民なら、いやでも間接的に部外者ではいられなくなってしまうだろうか。たぶんそうであったとしても、テロであろうと政府による武力攻撃であろうと、それを卑劣だと感じなければ、別に卑劣なテロは許さないという紋切り型に同調することはないのではないか。人をだまして人質にとるという行為を、卑劣だと非難すればそれで済んでしまうわけだが、そういうレベルでそう断じることと、それ以前にアラブの春という民衆の革命運動があり、シリアではそれに対する弾圧が激化して、内戦に発展し、これまでに数万人の犠牲者と三百万人を超える難民を出している現状があり、それと隣国のイラク国内での宗派・民族対立を背景とした内戦も一緒になって、イランのシーア派革命や民衆革命が自国内で起こることを恐れたサウジアラビアなどが、イスラム教スンニ派の武装勢力を資金援助していたのが、その勢力が強くなって制御がきかなくなって、「イスラム国」という国家の樹立を宣言するまでなったという経緯があるわけで、その勢力がクルド人の支配地域に侵攻したり、シリアでも支配地域を広げ始めたので、それらの勢力拡大に危機感を募らせた欧米各国が、イスラム国を撃退しようとして、その支配地域に対して空爆を開始したところ、それに対抗してイスラム国内で取材していた西側ジャーナリストなどを捕らえ、見せしめに処刑し始めたわけだ。そしてついにそれの一環として、日本人も人質に取られ、身代金を要求されたりして、首相が卑劣なテロは許さないとか発言したらしいのだが、だからそれがどうしたと言えば、そういうことでしかなく、それを肯定しようが否定しようが、賞賛しようが非難しようが、何かずれているような気がしないでもなく、まだ生きているらしいその人質が、救い出すべき立派な人物であるから、みんなで日本政府やイスラム国に圧力をかけて、その人の命を助けようという呼びかけが行われ、ネットやメディアを通じて盛んにアピールが行われ、それで現実にその人が解放されたら、めでたしめでたしということになるのだろうが、そのようなことをやる意義や意味がいかなるものなのか、たぶん多くの人たちがそのような行為に賛同して、そんなことをやっている現状を肯定するだろうし、そうすべきだと思っているだろう。そしてそこであらゆる次元での行為が一緒くたになっているわけだ。要するにそれは、シリアで行われている内戦とアサド政権の圧政、イラク国内での宗派民族対立、イスラエルによるパレスチナへの弾圧、湾岸諸国での王族の支配と民主化弾圧、エジプトでの軍事政権の民主化弾圧、アメリカによる湾岸王族国家とイスラエルへの支援、日本によるイスラム国の周辺諸国への支援とイスラエルとの産業交流、イランによるイラク国内シーア派勢力やヒズボラなどの民兵組織への支援、ロシアによるシリアのアサド政権への支援、その他細かく挙げればきりがないかもしれないが、そんな状況の中で、人道主義者たちが人質となった一人の日本人を助けようとしているわけだ。それらとこれとは別次元の話かもしれないが、互いに結びついていることは確かであり、それらの現状を一概に肯定したり否定したりすること自体が、かなりのフィクションだと思われてならないのだが、たぶんどう考えてもそうはならないだろうし、それはそれこれはこれとして、平然とそれぞれの立場の人たちが、それぞれの立場に見合った主張をしてしまうわけだ。


1月28日「官僚機構の特徴」

 国家を支える官僚機構は何を目指しているのだろうか。国民や企業などを管理制御しながら、今ある体制を維持継続していくことが目的だろうか。特定の誰かの意志があって、その意志を機構全体が反映しているのではなく、たぶん人の意志とは無関係に動作しているのだろうし、それは一匹の蟻ではなく、一つの蟻の巣に含まれる集団が、全体として動いているのと同じことかもしれない。またそれは巨大企業などにも当てはまることかもしれないが、ではそれに対して個人を持ってくると、個人ですら、生物としては多細胞生物なのだから、膨大な数の細胞が連携し合い、一つの集合体として動いていて、個人の意識も、脳内細胞が神経ネットワークを構成していて、その総体から生じていることでしかなく、そう考えてしまうときりがなくなり、何を語っているのでもなくなってしまいそうだが、ともかく官僚機構には、そこに暮らす人々を管理制御する働きがあることは確かで、しかも人々は普段は機構に管理制御されているなんて意識していないのではないか。その機構の中で働いている人でさえ、自分が管理制御されているなんて思わないのかもしれず、自分の意志で働き行動していると思っているはずか。では官僚機構による人々の管理制御などまやかしだろうか。例えば法律を守っていることはそうではないのか。赤信号で止まるのはどうなのか。子供が学校に通うのはどうなのだろう。選挙で投票する人々は、投票に行くように官僚機構によって制御されているのではないか。議会が民意を反映しているように思っているのはどうだろう。民意とはなんだろう。本当にそこに自分の意向も含まれているのだろうか。制度を変えれば、逆に人々が官僚機構を管理制御できるようになるだろうか。しかし警察や軍隊は官僚機構の側にあり、いったん騒乱が起これば、それらは容赦なく人々に銃口を向けるのではないか。沖縄の辺野古沖に米軍の滑走路を作る工事にしても、反対する住民に暴力を振るっているのは、官僚機構の末端の構成員だ。果たして官僚機構が住民の要求を聞き入れるだろうか。実際は官僚機構側が住民を従わせようとしているのではないか。要するに人々は官僚機構の支配に屈しているわけで、まやかしなのは民主的な議会制度であり、選挙制度なのであり、政治制度そのものが官僚機構の支配体制を確立しているわけだ。たぶんそれは世界的にそうなのであり、民意によって選ばれたはずのアメリカの大統領であるオバマが、ペンタゴンや軍需産業からなる軍産複合体には、手も足も出ない現状があるのではないか。またイスラエルのネタニヤフのやっていることが、果たしてイスラエル国民の民意を反映しているのか。ガザ地区を空爆したり戦車で蹂躙したり、そこに住むパレスチナ人が虫けらのように殺される現状に、イスラエル国民も心痛めているとメディアを通じて報道されるのだが、実際に選挙で勝利したのは右翼で強硬派の政党であり、その象徴であるネタニヤフが首相となっているわけだ。この現実をどう捉えたらいいのだろうか。それも民意の反映なのか。

 人や物や情報などが寄り集まって機構となり、ひとたびそこに組織や団体が出来上がると、多種多様な考え方や価値観を有したバラバラな個人が、それぞれにいくら考えや思いを主張したところで、そんなものは機構の前では通用しなくなる。ではどうすればいいのだろうか。個人の側でも同じ考えや価値観を有する同志が寄り集まって、組織や団体を作って機構側に対抗しなければならないのだろうか。それの代表的なものが政党や労働組合や消費者協同組合などなのかもしれないが、それも結局は機構そのものであり、組織がそこに属する個人を支配するように作用し、そのような機構が発展するにつれて、次第に構成員の自由を奪うような制度や仕組みが、整備されていってしまうのではないか。そして組織内の異分子を排除して、外部の組織や団体や個人と敵対するようになる。やっていることはどこも同じなのであり、その最も大掛かりなものが、国家でありそれを担っている官僚機構かもしれないが、その延長上に世界政府の類いが構築されてしまうとまずいだろうか。世界が統一されて、異分子を外部に排除できなくなり、敵対する外部の機構がなくなるとどうなるだろうか。排除できなければ異分子や内部の敵を抹殺するしかなくなるだろうか。そしてひとたび世界政府による圧政が始まれば、逃げ場のなくなった人々は絶望的な状況に追い込まれてしまうか。そういう意味では、どうも今ある官僚機構の延長上で世界政府を構築すると、そこに深刻な問題が生じるかもしれない。ではそのような人の組織化や機構化に、個人が対抗するにはどうしたらいいのだろうか。個人では対抗できないのかもしれず、対抗しなくてもいいのかもしれない。支配され従順に従ってしまうと、ますます機構が強化されてしまうとしたら、やはり組織に対する無意識の無関心に頼るしか方法はなさそうに思える。それは宗教に対するの同じことで、それらを信じたり信用したりしなければ、あるいは頼ったり依存したりしなければ、次第に組織や機構は弱体化するのではないか。しかしそれでは政治的無関心と同じように、あまりにも消極的な無抵抗でしかないだろうか。反体制派が必死に反対運動しているときに、それでは体制側を利することになってしまいかねないか。たぶんその辺が説得力の欠けるところかもしれず、人々は積極的に働くような何かがほしいところかもしれないが、今のところは妙案など思い浮かぶ兆しもなく、まだ探求が足りないのかもしれない。近年の日本における選挙での投票率の低下が、何からの可能性を示しているのかもしれないが、それがただの勘違いである可能性もあり、まだ何かはっきりしたことが言える段階ではないのかもしれない。ともかく民主的な政治制度が、世界的に官僚機構の肥大化を招き、それが人間の管理制御を目的として、そのような社会の構築へと向かう傾向があり、現実に人々の自由を奪っていることは確からしいので、今ある制度や仕組みの中での改革はもう無理なのではないか。


1月27日「戦略的倒錯の果てに」

 語らなければならないことを素通りして、なぜか話の途中から語らなくてもいいことを語っているらしい。だが語ってしまった後は、何を語らなければならなかったのかわからなくなり、ただどうでもいいことを語ってしまったように感じられる。イデオロギーとは何か。そう問うことがイデオロギーからの逃げ道となるのだろうか。何か利いた風なことを語ってしまった時点で、なんらかのイデオロギーに染まっていることは確かなようだが、それを自覚できないところが、特定のイデオロギーが罠となっている所以だろうか。しかしイデオロギーとはなんなのだろうか。ネットで検索すると「社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系。歴史的・社会的立場を反映した思想・意識の体系」という意味が出てくる。たぶんそこに限界があるわけだ。何かを主張する人々はイデオロギーに縛られている。それはわかっているが、果たしてイデオロギーに縛られない主張というものがあるだろうか。あるにはあるだろうが、イデオロギーに縛られている人にとって、それは魅力のないものと映るかもしれない。人々は国家や階級や党派や性別など、特定の社会的立場に属することで、それを自らの主張の拠り所としているのではないか。自分と他人との差異と共通点を確認して、共通の価値観を共有する人たちと連携して、異なった価値観を持つ人々と対立し、場合によっては言葉や暴力を用いて攻撃するわけだ。何かを主張するとはそういうことかもしれない。それ以外にどのような主張があるのだろうか。そういう主張を否定する主張か。それは作用に対する反作用の関係で、相手を攻撃する主張があれば、それをやめようという主張が生じ、物体の運動に摩擦とか抵抗があるのと同じことだろうか。少しずれているかもしれないが、ともかく今はなるべくその類いの人たちにとっては、あまり魅力の感じられないようなことを主張しなければならないようだ。もちろんねばならないという主張を裏づけるまともな理由などなく、ただそんな気がするだけで、要するに世間に流通しているイデオロギーの類いが、お仕着せがましく感じられ、できればそこから抜け出して、物事をより自由に考えたくなるわけだ。しかしその自由に考えているつもりの思考が、現実の社会から遊離していれば、空想的でたわないない代物となりかねず、要するに魅力ないということは、取るに足らない空疎な内容となっていることでしかないのかもしれず、そうならないためには、何か人を惹きつける工夫が必要となるのだろうか。要するにイデオロギーを装い、その手のイデオロギーに囚われている人たちを、欺きだまして洗脳し、自らの術中に引き込まなければならないわけか。だが果たしてそんなことが可能だろうか。

 それを正直にわかりやすく語ってしまえば、魅力のないものとなってしまう。ではなるべく回りくどくわかりにくく、さらに面白おかしく語り、人の興味を引きつける工夫を凝らさなければならないのか。たぶんその手のものは、何十年も前に流行った、確か1980年代あたりだと思うが、コピーライターとかサブカルチャーとか、そういう類いの文化現象に関わっていた人たちが、盛んにやっていたことかもしれず、ともすれば安易で空疎な言葉遊びに堕する危険性があり、そういう一過性の流行が去れば、戯れ事として片付けられてしまうような、たわいない行為とみなされてしまうのかもしれない。ではそれを避けるにはどうしたらいいのか。戦略的倒錯とかいって言葉を弄べば弄ぶほど、それは避けられない事態となってしまうのではないか。だから化けの皮が剥がれないうちに、魅力のないことを正直にわかりやすく語る路線に切り替えなければならなくなるのだろうか。でもそれがそのままイデオロギーとなってしまうのではないか。それの何がイデオロギーと感じられるのか。各人の自由意志や自由競争を尊重した資本主義市場経済を推し進めていくと、金儲けに成功する人と失敗する人とが生まれ、成功した人が莫大な資産を蓄え、その富を自分の子や孫に受け継がせようとするので、そこに生まれながらに富裕層に属する不労所得階層が生まれ、世の中が不平等で不公平な社会となってしまうから、国家は累進課税的な資本税を設けて、富裕層に課税し、極端な階級社会になるのを防がなければならない、という今流行りの主張のどこがイデオロギーなのだろうか。そこには国家とそれを支える官僚機構を温存させる思惑が働いていて、資本に課税することで、各人や企業が所有する資産をすべて把握することが課題となり、それは官僚機構が世界中の富や資産を全てデータベース化し、人や企業を事実上管理することにつながり、管理できれば次いで制御することにつながり、そうなれば人や金や物や情報や組織の、完全な管理制御システムを構築できる可能性が生まれてきて、官僚機構による人に対する世界的な勝利が確定することになりはしないか。要するに世界規模で「1984」的な体制が出来上がるわけだ。そして全世界がソビエト連邦になる可能性も否定できないわけだが、果たしてそこに民主的な制度が入り込む余地があるだろうか。社会の不平等と不公平を是正するには、個人の自由を犠牲にしなければならないとしたら、では自由とはなんだろう、戦略的倒錯で自由を確保することが可能だろうか。


1月26日「価値と利益と思い」

 それをやることに価値があるとは思えない。それとはすべての行為だろうか。しかし価値とはなんなのか。改めて問うとわからなくなり、具体的な価値ある事物が浮かばない。値段の高価なものならいくらでもありそうだが、価値ある行為となると、物の値段とは違ってきそうだ。他の多くの人たちの利益になる行為が価値ある行為なのか。しかし利益と価値がどう結びつくのだろう。人にとってそうであるものが、人以外にとっては害をなすような行為もあるのではないか。具体的にそれはなんなのだろうか。特定の何を利する行為であったり、逆に害をなす行為であったりするものが、他の何かにとっては真逆の効果を及ぼす行為というのもあるかもしれず、価値のあるなしと利害を結びつけるのは、何か一筋縄ではいかないような、にわかには判断し難いようなものがあるのかもしれないが、やはり自分に利益をもたらす行為が価値ある行為とみなすことが、たぶん行動するときの指針となってしまうのは、避け難いことなのではないか。価値ある行為とはその程度のことでしかないが、では自分に利益をもたらす行為とはどんな行為なのか。例えば思い通りになることが自分にとっての利益となるわけか。どうやらそこにも躓きの石があるらしく、わざと自分に害を及ぼすような行為をする場合、たとえそれが思い通りになることだとしても、利益にはならないのではないか。それでも思い通りになるなら、価値ある行為だとみなせるだろうか。結局それは、価値のあるなしと利害と思い通りになるかならないかの、三つの判断の組み合わせでしかなく、その時の判断でどうとでも結びつけられるということだろうか。その行為に価値があったりなかったり、利益になったり損害を被ったり、思い通りになったりならなかったり、またはどちらであってもかまわなかったりする場合もあったり、さらに一概にはいえない時もあるのかもしれず、そこで何かをやっていることが、自分にとってどうであろうと、自分以外にとってもどうであろうと、それが自分にも他にもどのような影響を及ぼしていようと、そのやっていることに価値があるとは思えないにしても、それだけでどうこう言っても言わなくても、少なくともそんなことをやっていることに変わりはなく、そんなことをやっている現実があるということでしかないと同時に、やっていることに価値があったりなかったり、利益になったりならなかったり、思い通りになったりならなかったり、後からそういう感慨を抱いたり抱かなかったりしているわけで、それ以上の何を求めているにしても、あるいは何も求めていないにしても、ともかくそんなことをやっている現状があるらしいとしか言えないのかもしれず、それを後からどう判断しようと、その判断が今後の指針となるにしろ、それ以上その判断についていくら言葉を費やしても、たとえその判断がくつがえろうとも、やってしまったことに変わりはなく、その事実がくつがえることはなく、ただくつがえそうとすれば、言葉や映像や画像を用いて、くつがえったように見せかけることができるだけだ。

 人はメディアを用いて人を操ろうと試みる。そこになんらかの意向があり、その意向に沿った情報を提供して、その情報によって世論を操作しようと試みる。人はそうやってメディアが自分たちを支配しようとしていると思い込む。それらのどこまでが本当で、どこからが妄想なのかはわからないが、何かそこに陰謀の類が介在していると思いたい。情報を操作したい黒幕がいて、その意向がメディアの報道に反映していると思いたい。自分の思いとメディアが伝える世論の動向が著しくかけ離れていることが、人を不安にさせるのかもしれず、何か自分の抱いている価値観と、世論から想像される人々が抱いている価値観とが、全く相容れない様相を呈しているように思われ、何か世の中が恐ろしい方向へと向かっているように思われ、焦りうろたえ、このままではとんでもないことになると危機感を募らせ、なんとかしなければと思うようになり、自分の意見を広く世の中に発信して、自分と同意見の賛同者たちとともに、世の中を変えるべく活動している人もいるのではないか。そういう人はやはり、世の中の多数派が自分と同意見となってほしいのだろうか。そして少しでも自分と同意見の人を増やすべく活動しているとしたら、それではメディアを駆使して世論を操作したい黒幕や、陰謀を巡らせていると想定される権力者たちと目的は変わらないだろうか。世の中の多数派を自分の味方につければ、多くの人たちが自分と同じ価値観を共有し、そのことで自分も多くの人たちとともに利益を得て、結果として自分の思い通りになるということか。その一方で黒幕や権力者たちは、世論調査では彼らを支持している多数派をだましていて、彼らの思い通りになってしまうと、一握りの金持ち連中だけが得をし、世の中の多数派が損をして、結果的に自分にとっても多数派にとっても、不幸な状況に陥ってしまうわけか。それが誰の都合を反映した物語だとも思えないなら、他にどんな解釈を施せば説得力を得るに至るだろうか。どうも何をくつがえそうとも思わないが、世の多くの人たちと価値や利害や思いを共有したいと思う気持ちが、人の行動に結びついていることは確かなようで、それは彼らが批判する黒幕や権力者たちも、同じ思いを共有しているのかもしれず、どちらのやっていることが多数派にとって価値があることで、利益になり思い通りになることなのか、それをどう判断すればいいのか、にわかには判断しかねるが、たぶん判断してどちらの味方につこうと、それが功利主義的な試みに結びつく限りにおいて、やがて価値観の相違が生じて利害が分かれ、思い通りに行く方と行かない方との対立を生み、結果的に元の木阿弥となってしまうような気がする。


1月25日「誰も気づかない過ち」

 あえて自分に嘘をついているのか。何に興味があるわけでもなく、自らが何をやっているとも思えない。でも何かしらやっていることは確かだ。そこに実感があり、やっていることの確かな手応えがある。それでいいのだろうか。やっていることが良いか悪いか、それを判断する材料がない。良くもあり悪くもあるのではない。良くもなく悪くもないのでもなく、肝心なことは事の善し悪しではないような気がするわけだ。ではなんなのか。やっていることの説明が必要であり、それには理屈を語らなければならないのだろうが、どうやら理屈でない部分に真実があるらしい。ただそう感じている。でも真実などに興味はないのではないか。他のすべてを捨ててでもやるべきことがあるとも思えないが、他に何もなければ、そこにやらなければならないことがあるのではないか。だがそこもなければどこがあるというのだろう。実感さえも定かでなくなっているのかもしれず、何かをやっているという実感に嘘偽りが含まれていたのだろうか。嘘偽りではなく、本心からそう思っているのではないか。そうやって逡巡が始まるときりがなく、何を語りたかったのかわからなくなるが、たぶんその実感を語ろうとしていたはずで、何もない現実を深刻に受け止められない実感があるのだろう。皮肉も嫌味もいらない。嘲笑するまでもない現実だ。何かがずれているのはいつものことで、わけのわからない誇大妄想に限りはなく、自己中心的に何を考えているにしても、それで何に気づいているわけでもないということだ。それらの現象を取り巻く状況からもたらされる情報に接していると、そんな気がするだけで、実際には誰もそれに気づいてない。それとはなんだろう。中には気づかないうちにあの世に旅立ってしまった人もいるらしく、その胴体から切断された顔だけの画像を見せられても、それを実感できないようだ。すべては画像であり映像でしかないわけだ。赤い服を着させられてまだ処刑されていない方の人質が、何かメッセージを発しているらしいが、その内容に興味があるわけでもない。何か興味深いことが起こっていて、それに引き寄せられて世界各地から人が集まり、その中には運悪く命を落とす人もいるらしい。実際にそこで戦闘が行われているのだから、平和な地域にいるよりは死ぬ危険性が高いのだろう。別にハイリスク・ハイリターンというわけでもなく、そこにいることから生じる見返りなど何もありはしないのではないか。いるだけではなく、そこで何かやっているわけだろうが、そのやっていることの意味や意義が、そこにいる者たちの独りよがりでしかないとは思わないが、宗教的あるいは哲学的な思考や思想の大義に踊らされていないわけでもなさそうだ。そこに命をかけてでも人がやるべきことがあるらしい。そんな思い込みがあるわけでもないのだろうか。

 彼らは何に気づくべきなのか。別に気づくべきなのではなく、気づかなくてもかまわないのであり、気づいたところでそれは勘違いなのかもしれず、何に気づくべきかはわからないままだ。価値観など千差万別で様々であり、どんな価値観に心を奪われていようと、価値に普遍性などなく、すべては人や物や言葉などの相対的な関係から生じている。その中から生じている特定の主義主張にこだわるしかないなら、その主義主張に沿った言説が構成され、同じようなこだわりを持った人たちがそれに共感し、支持してくれるのかもしれない。それだけのことだろうか。それだけでは何か物足りないだろうか。物足りなければその主義主張を世の中に広めようとするのではないか。彼らは自分たちの勢力圏を拡大しようとしているであり、そのために周囲の国家と戦闘中なのではないか。自分たちの組織を国と名乗っている限りは、勢力拡大するには戦争が避けられないだろうか。政党なら選挙によって議会内で勢力を拡大すればいいのだろうが、選挙では不正がまかり通っている現状があるだろうし、王族や独裁者が支配する国家では議会などまともに機能し得ないだろう。それ以前に民主的な議会制度など信じていないだろうし、信じられない地域なのではないか。ならば武装闘争によって勢力を拡大するしかないだろうか。彼らは国家の存在を信じている。それが気休めなどではないと思っているはずで、建国することによって自分たちが抱く価値観が実現すると思っている。簡単に言えば彼らは国家主義者だ。イスラム系国家主義といえばしっくりくるのかもしれない。そしてあいも変わらず同じ過ちが繰り返されていると考えればいいのだろうか。実際に世界が国家で分割統治されているのだから、それが過ちだとは認識できないのではないか。要するに気づいていないわけだ。しかも気づいていなくてもかまわないのであって、国家が過ちだとは誰も思わないだろうし、世の中の大多数の人たちにとっては、それは勘違い以外の何ものでもない。だから過ちに気づくべきではないのかもしれず、そのまま戦闘を続けて、イスラエルを含む欧米諸国に勝利するまで続けるべきなのだろう。果たして彼らはこの第三次世界大戦で勝てるだろうか。味方となる国家はどこにもないのではないか。同盟国がなければ第三次世界大戦に発展させることは不可能か。わずかに西アフリカで活動する武装組織が国家を掌握すれば、同盟国となる可能性もなきにしもあらずだが、それでも多勢に無勢で、現状では勝てる見込みのない戦いを延々と続けることしかできはしないだろう。

 しかし彼らが気づくべきでないこととはなんなのだろう。それは彼ら以外にも、誰もが気づくべきでないことかもしれないが、実際に誰も気づいてない以上は、現状ではそれがなんだかわからない。武装闘争にも戦争にも頼らずに、この世界を変えることなど不可能だろうか。それを誰がどんな組織が目指しているのだろう。人と人との連携にも頼らずにそれを成し遂げることなどできはしない。だから今のところは全くの荒唐無稽でしかないわけで、イスラム系武装組織よりさらに実現する可能性がないのかもしれない。実現させようともしていないのだから、可能性以前の妄想の段階でしかない。とにかくまだ国家単位で政治家や政党や官僚組織が、何かをやっている最中なのだから、機が熟してないことは確かで、それらの試みが世界的にうまくいかなくなってからなのだろうか。そうなるまでにはまだ相当な紆余曲折があるだろうし、何十年もの時間を必要としているのかもしれない。これから紛争地域では大勢の人たちが殺され、平和な地域に暮らす人たちにも多大な犠牲が出て、人も文明も荒廃しないと、その機会は訪れないのだろうか。しかしその機会とは何をやる機会なのか。それすらもわからない段階で何を言ってみても仕方がないのではないか。だがこの世界がこの世界でなくなる予感はしているはずで、そんな予感に気づいている人は案外多いのかもしれない。だから政治的な無関心が広がっているのではないか。人々が議会や行政に期待できなくなっていることが、そんな政治的無関心と表裏一体をなしているような気がするのだが、ともかくそれに気づかない方がいいのかもしれず、特にメディアの論調にそれが反映したらまずいか。変化の芽を潰されてしまっては元も子もない、というほどのことでもなく、気にするようなことでもないのだろうし、そのせいぜいがファシズムの脅威に警鐘を鳴らしているくらいが関の山だろうが、それと気づかないうちに事態が進行していけば、いずれは気づいてしまうだろう。それは気づく時期が来れば気づくことであり、その時が来ればわかることなのかもしれず、その時が来るまではあまり時代を先取りせずに、現行の制度やシステムの不具合を指摘する程度に済ませるのが、良心的な態度と言えるのかもしれない。


1月24日「現状が現状である理由」

 人は宗教を捨てることが可能だろうか。今信じているのとは別の宗教に改宗することは可能か。すでに一般に信じられている宗教とは別の、資本主義市場経済の中で拝金教に染まっているはずだが、誰もがそれを信じているにしても、誰もそれを宗教とは呼ばないし、それが貨幣と商品の交換を信じる宗教であり、貨幣を神と崇めていると主張しても、誰からも相手にされない。それ以外の環境を認識できないのだからそれしかなく、それが当然の環境の中で暮らしているのだから、別に改めてそれを宗教だと認識する必要がないわけだ。そのように完全に生活の一部と化している宗教を捨てることは不可能だろうか。何しろ貨幣と商品を交換しなければ生きて行けないのだから、それをやめて生きて行くすべがないとしたら、やめるわけにはいかないし、やめることは自らの死を意味するのかもしれない。周りの人間がすべてイスラム教徒だったとしたら、あるいはキリスト教徒であったりユダヤ教徒であったとしたら、その宗教を捨てる機会などあるわけがないか。そこにとどまっている限りはそうであり、何かのきっかけでそのような宗教や民族を主体とするコミュニティから離れたら、それも可能となるかもしれないが、そのような宗教的あるいは民族的絆を断ち切るのは容易ではなく、断ち切ることを正当化するのも難しい。ほとんどその必要がなく生きていけるなら、無理に絆を断ち切ることもないわけだが、逆に断ち切っても生きていけるならそうしてもかまわないだろうか。拝金教の場合はほとんど全世界を覆っていて、それなしで生きて行くことはできないが、わずかに外界から隔絶した閉鎖的な宗教的あるいは民族的なコミュニティの中でなら、物や情報の売り買いとは別の交換原理が働いているのかもしれず、そういう閉ざされた環境で拝金教とは無縁の生活を送れるとすれば、果たして人にとってはどちらがいいのだろうか。そもそもそのどちらでもない環境などあり得ないのだろうか。閉鎖的なコミュニティの中で宗教的な生活を送るか、開放的な市場経済の中で国家や企業などの各種団体と契約を結びながら拝金教徒になるか、その二者択一しかないのだろうか。それとも誰かが第三の生き方を模索していたりするのか。

 たぶん一人では何もできない。人は人と関わらなければ生きて行けない。そこで交換が行われ、その中では物や情報と貨幣の交換が、最も合理的で効率的だと思われる。ただであげたりもらったりするわけにはいかないのだろうし、人は交換に伴って必ず見返りを求めるわけで、そこに損得勘定が働き、不等価交換であってはまずいわけだ。どちらもが納得しなければ交換など成立しないだろうか。自分が損することを承知で交換することもあるだろう。交換しなければ生きて行けないなら、死ぬ気であれば話は別だが、たとえ持っている商品を安く買い叩かれようとも、交換することに同意するだろう。それが労働力商品ならなおさらで、安い仕事しか見つからなければ、たとえそれがやりたくない仕事だろうと、雇い主と雇用契約を結ばざるを得なくなり、そこから先はうんざりするような仕事生活となるわけか。やりたい仕事に巡り会えるのはほんの一握りの人たちに過ぎず、大半の人たちは妥協せざるを得ず、いつしかそれが当たり前のことだと思うようになり、自然と自分にこれでいいのだと言い聞かせるようになる頃には、すでに老人になっていて、後先短い身の上となっているわけか。そんな物語を信じられるだろうか。たぶん現状に納得できなければ、いつまでたっても違う生き方を模索しているのではないか。死ぬまでそうかもしれない。別に人の生き方など人それぞれでかまわないのであり、それに対する気休めとして、そこに暮らしている誰もが納得できるような世の中にするために、制度や仕組みやルールを設けて、それを守ることで暮らしやすい世の中になると信じたいわけで、そのために政治家や政党や官僚機構などが国家という枠組みの中で活動しているわけだが、現状では彼らが良かれと考えてやっていることに、ことごとく反発し不快感を表明する人ばかりなのかもしれず、そういう人たちの大半を無視し、妥協に応じる用意のある人々についてはある程度は配慮し、反対や非難ばかりしている人たちについては、場合によっては弾圧し排除ながら、なんとか自分たちの信じていることをやり続けているわけだ。それが実際にどんな結果をもたらしているかは、見ての通り感じている通りのことで、やはり議会や行政がやっていることは気休めに過ぎないとみなすしかないか。誰もがやりたいことができるような社会でないことは、たぶん昔からそうなのであり、今後もそれは変わらないのではないか。それを解消するために、学校教育においておかしな洗脳を施すよりは、このまま誰もが不満を抱いている世の中であるほうがいいような気がする。現状が現状であることが、現状に立ち向かう人たちを生み続けているわけで、少なくともそれらの人たちの言い分には耳を傾けなければならないだろう。


1月23日「イスラムの大義」

 現状では誰も何も信じていないわけではなく、信じているからこそ彼らなりに行動し、発言しているのかもしれないが、それが現状であり、現状の一部となって行動し発言していることに、気づいているにしても、気づいたところで現状から抜け出られるわけでもなく、現状に限界づけられ、それを超えることなどできはしない。だが一方でそれが思い込みなのも、彼ら自身が痛いほどよくわかっていることかもしれない。要するに現状を完全に把握したとは思えないわけで、全てを把握できないのに、それを超えるとか超えようとするとか、そんな試み自体が独りよがりの思い込みでしかなく、やっていることが客観性とは無縁の、恣意的で無根拠な認識に基づいた行為なのだ。それもわかっていることであり、すでに気づいていることだろうか。しかし彼らとは具体的にどんなたぐいの人たちを指すのだろうか。イスラム原理主義に染まった人たちや、イスラム国の人たちなのか。それもあるかもしれないが、彼らでなくてもかまわないのではないか。特定の集団に属する人たちを念頭において語っているわけではない。彼らは誰であってもかまわないのだ。フィクションの登場人物たちでもかまわない。誰彼ともなく彼らに含まれ、気が向いたらそこから逸脱してもかまわないわけだ。世の中に組織や団体などいくらでもり、それは中核派でも革マル派でも構わないのであり、在特会や自衛隊員でも海上保安庁の職員たちであってもかまわない。必ずしも暴力を行使できない立場の人たちであってもかまわない。行動できなければ、言動や言説を行使すればいい。それがダメなら音声や映像を用いて訴えかけてもかまわない。ともかく大勢で寄り集まって、何かしら行使することが肝心だろうか。それらを行使しないとすれば、他に何があるというのか。できるだけ何もしないようにしなければならないだろうか。でもなんのためにそうしなければならないのだろうか。ためにではなく、それ以外の何かなのか。それとは特定できない何かを求めているのでもなく、何かのために何をやろうとしているのでもないなら、ではどうすればいいのだろうか。どうもしないことが肝心だろうか。それは様子見というわけでもなく、ただわけがわからないだけか。そうでなければ結局利害関係で考えるしかないのではないか。それ以外に人と人との間の組織的な結びつきが考えられるだろうか。性的な結びつきや友情などでは強度が足りないか。人はなぜ経済的な結びつきを求めてるのだろうか。そこに無意識の生存競争があるからか。ただ利益を得て繁栄したいがためだけに、集団間であるいはその中で権力争いを繰り広げているのわけか。

 フランスでは1980年代に死刑が廃止され、ギロチンによる首を切断する処刑もなくなった。日本ではまだ絞首刑が存続していて、死刑判決を受けた者は、病死しない限りはいずれ処刑されてしまうだろう。オウム真理教の麻原彰晃氏はまだ処刑されていないはずだが、彼が率いたカルト宗教教団は、何を目指していたのだろうか。この世の楽園を実現しようとしていたわけか。それは桃源郷のたぐいが想像させる、苦しみとも憎しみとも無縁の理想郷だったのだろうか。しかし件の教団内部では階級があり、上位カーストには絶対服従の厳しい戒律に支配されていたのではなかったか。集団としてはありがちな、公平や平等とは無縁の武装組織が構成されていたはずだ。人は人を服従させて自らの思い通りに操りたい。どの組織や集団でもそんなことばかりがまかり通り、支配と被支配の関係が当たり前のように成り立っている。中東の湾岸諸国の王国でも、石油という天然資源を基盤とする王族支配を、そこから脱して民主的な価値観を確立したと信じる欧米人が、ダブルスタンダードを適用して容認しているわけで、そういう欺瞞的な態度に反発している人々が大勢いるのだろうし、しかもそれらの王族達が自国内での民主革命を恐れ、自分たちの支配を維持継続させるためのスケープゴートとして、今やイスラム国と自称するようになった武装集団に、資金援助していたわけだが、それが予想外に急成長して、勢力を拡大して手に負えなくなって、なんとしてでも押さえ込む必要に迫られているようで、たぶんそれは人の陰謀や策略を超えた自然の力が発動した結果なのかもしれず、欧米諸国や湾岸の王族達の利益に反する事態なのだろうし、その地域に暮らす一般の人々が抱く真の狙いは、王族たちの支配を終わらせ、イスラエルを消滅させることで成就するのかもしれないが、そうなっては困るから、欧米諸国はイスラム国を必死で抑え込もうとしているのだろうし、それとともにイスラエルを存続させたままの状態を、できれば平和的に維持したいわけだが、その状態はそこに暮らす一般の人たちの犠牲の上にしか、成り立たないこともわかっているのではないか。それはアメリカと同盟関係にある王族たちにもわかっていることであり、そこにジレンマがあるのかもしれないが、それらの同盟や連携が経済的な利害関係に基づいていることでしかないのは百も承知のはずで、その辺の事情を見誤ると、とんでもない勘違いを助長してしまうのではないか。はっきり言って、イスラムの大義など空疎なスローガンでしかなく、実質的な中身など無いも同然であり、とても感情移入するような代物ではあり得ない。結局誰もが崇高な建前論を掲げる一方で、目先の経済的な利害関係の中で生きていて、しかもそうなっている現状を意識することができないわけだ。集団的な意識の中では、ナイーブにイスラム教を信奉している一方で、日々やっていることはあからさまな商売であることを、やっている当人たちが認識できていないのであり、しかもそれに感情移入してしまうイスラムとは無関係の外部の人間までいて、そんな経緯が事態をより一層ややこしくしているわけだ。


1月22日「社会の仕組み」

 この世界になんらかのシステムが必要だろうか。それがあると思っているのだろう。なければ困ってしまうだろうか。そこに仕組みがあると考えなければ、物事を説明できない。説明するにはそこになんらかの仕組みがなければならない。特定の誰かや団体を利する仕組みがあると訴える人は多い。それが民を欺いていたり、不公平なことをが行われていたり、不平等な状況を生じさせていたりする原因だと主張しているわけだ。だから世の中の仕組みを変えなければならず、そのために多くの人たちがなにやら活動している。そのことに何か不都合な面でもあるのだろうか。それ自体がそうなのではなく、変えようとしている中身が問題なのであり、不埒な輩が特定の誰かや団体を利するような仕組みに変えようとしていて、それを批判したり非難する人も多い。彼らにとって不都合な仕組みは変えなければならないし、不都合な仕組みに変えようとする動きは阻止しなければならないわけだ。ところで彼らとはどのようなたぐいの人たちなのだろうか。世の中に蔓延している不正義や不公平や不平等をなくそうとしている人たちなのだろうか。たぶんそう認識しておけばそれほど間違ってはいないだろう。彼らのやっていることやその主張を信じる限りにおいて、そうみなしておいて間違いはない。その程度の認識でかまわないわけか。何か他に問題があるのだろうか。ではなぜ世の中の大多数の人たちは、彼らと一緒になって活動したり、不正を非難したりしないのだろうか。彼らを信じていないのではないか。まったく信じていないわけではないが、彼らの行為や主張や存在そのものに疑念を抱いているのではないか。彼らが世の中の少数派だとすると、大多数の人たちが彼らを信じていない可能性があり、それどころか大多数の人たちが彼らの非難の対象となっていて、彼らにしてみれば、世の中の大多数の人たちが敵であり、不正を行っていることになるのかもしれない。では現にそこにある社会の仕組みが、世の中の大多数の人たちにとって好都合な仕組みとなっているのだろうか。それとも不都合ではあるが、非難しても無駄だとあきらめているのだろうか。あるいは好都合な部分と不都合な部分とがあって、それらが複雑に絡み合いながらも結びついていて、簡単には取り除くことも修正することもできないのではないか。そのような経緯や事情が、それを批判したり改めようとする人々の、社会的な信用をおとしめるように作用していて、彼らの活動や行動を阻んでいるのではないか。それが現状の社会に対する閉塞感や不安感を醸し出しているのだろうか。そうではなく、それが社会全体に及んでいるとは思えないのではないか。まだ多くの人たちが大丈夫だと思っているわけか。

 社会の変革などには関心がないのかもしれない。現状でそれほど困っていないわけでもないのだろうが、そんな活動や主張に付き合うつもりはなく、身の回りや仕事関係のことで手一杯であり、選挙で現体制への反対票を入れる気にもなれないのだろう。わざわざそんなことをやるほどの状況でもなく、それどころか逆に野党勢力が政権を取ってしまったら、今よりもっとひどい状態になってしまうと思っているのではないか。考えられる限りのことを想像するとすれば、そんなことでしかないような気がするし、たぶんそれ以外の何か特定の勢力による謀略や陰謀が絡んでいるとしても、現時点で考慮に入れるような危機的な状況とはなっていない。この世界を誰が何かが支配しているとも思えず、誰も何も支配することができないから、絶えず事件や出来事が起こっていて、それを前もって予知することも予想することもできず、誰にとっても思いがけない事態に直面しているわけだ。世の中をうまく制御できていないのだろうし、いくら言論統制しても、自分たちの秘密を保護する法律を作ってみても、必ずしもそれがうまく機能しているわけでもないのではないか。支配するといってもその程度のことであり、少数派にとってそれとみなされる、世の中の多数を占めていると思われる人々にしても、決して一枚岩の団結を誇っているわけではなく、意外とてんでバラバラな思惑を抱いていて、多数派として一括りにするような価値観の一致などなく、むしろ特定の関心のもとに集結するような意思表示とは無縁の分散状態を示しているのかもしれない。要するにほとんどの人たちが政治的な思惑とは無縁でいられる社会があるわけだ。そう世の中を捉えて差し支えないわけではないが、そんなふうに社会の実態を把握することから何が導き出されるだろうか。改革を求める人たちは、自分たちの戦略の見直しを迫られているのかもしれない。もちろん自分たちのやっていることを、戦略に絡めて意識していないのかもしれず、体制側のやっていることを自分たちの価値観に照らし合わせて、それと著しくかけ離れているから批判し非難しているのであり、やるべきことはそれに対する抵抗以外には見当たらないのかもしれず、現実にそうやって抵抗運動が展開されているわけで、戦略的に他に何をやろうとしているのでもなく、それを延々とやり続けている現状があるわけだ。要するにそんな抵抗運動が社会の仕組みとして定着しているのであり、現状に対して不満を表明する仕組みが出来上がっていて、やり方が固定化されワンパターンとなり、それが退屈で紋切り型的な形態となっていることが、その他大勢の人たちの無関心を呼び、体制側にとって扱いやすく制御しやすい形態となっているわけだ。要するに恐るに足らないわけで、なめられているのではないか。だから新たに何かをやるにはそれらの紋切り型と決別して、新たなやり方を模索しなければならないわけか。だが今のところは変革に結びつくような効果的なやり方を誰も思いつけない現状があるらしい。


1月21日「人権の意味」

 武器も麻薬の一種には違いない。人を殺傷するための道具なのだから、そういう願望を叶えるには武器が必要なのだろう。麻薬はどんな願望を叶えてくれるのだろうか。人が人以上の何かになるために、人は麻薬を服用するのだろう。武器は道具の一種だ。動物を狩猟するための道具が、人間を狩猟するための道具になったわけか。それが人が人以上の何かになるために必要だったのだろうか。人以上の何かとはなんなのか。それは機械かもしれない。人は武器を携えて殺人機械となり、麻薬を服用して快楽機械となる。しかし機械とはなんなのか。道具が進化したものが機械だろうか。人は人の道具となり、道具となった人は機械となる。道具や機械には目的があり、機械は目的を達成するために動作する。殺人機械の目的は殺人で、快楽機械の目的は快楽だ。人は自ら進んで機械になれるだろうか。周りの状況が人を機械にさせるのではないか。機械は人に利益をもたらす。人は人を機械にして、その機械を動作させて利益を得ようとする。人が人を使うとは、人を道具として使うことになるわけか。そこに目的があるなら、人は目的のために道具を使い、機械を使い、人を使うということだ。人を人として使うことはできないのだろうか。目的のための手段とみなすなら、人は道具となる。人を使うとはそういうことではないのか。もう少し穏便な表現を使うなら、人を使うのではなく、人として扱わなければならない。人は人を手段としてのみならず、目的として扱わなければならない。それはどういう意味なのか。人を人として扱うことが目的とならなければならない。具体的には人をどう扱えばいいのだろうか。人を物として扱うことが、人の道具化あるいは機械化とするなら、他にどのような扱い方があるだろうか。人と物の関係をどう定義すればいいのか。とりあえず人が物であることを認めなければならない。自らも物でしかない。道具も機械も物だ。物として利用する限り、人も道具も機械も物だろう。何か目的があるなら、目的を達成するための手段として物を使えるわけだ。たぶん人は人を物として扱っていることに気づくべきなのだ。そして物を扱っている自身も物であることに気づくべきなのか。それは避け難いことだろうか。では人が人以上の何かとなるためには、物となることが必要なのだろうか。人以上の何かこそが物なのではないか。人は物でしかない。それは人以上でも以下でもないということか。それが嫌なら、人は人であることからも物であることからも逸脱しなければならない。ではそれ以外の何になるべきなのか。それ以外は以外でしかないだろう。人は何物にも何者にもならない。目的のためにあえてなろうとすれば、自然がそこから外れさせてくれるかもしれない。偶然の巡り合わせが、人が何者かになるのを邪魔して、ならず者でいることを許してくれるだろう。それは束の間の夢かもしれず、気のせいでしかないかもしれないが、そこに希望があるのかもしれず、目的のための機械になることに疲れた心が抱く幻想なのだろうが、そんなありえない夢の中に希望がある。それを捨て去ってはまずいのではないか。

 首を切断されて頭と胴体が別れたら、その時点で人は物となるだろうか。死者は葬儀屋と坊さんと墓石屋にとって金儲けの手段だ。人は葬儀をやる目的で死者を必要とする。そうではなく死者が葬儀を目的として死ぬのだろうか。死んで物となったら目的も何もないか。武器を使う人は死を生産するための機械となる。死に至るまでの時間が長ければ負傷者となり、病院が負傷者を必要としているはずか。医者にとっての死者は、解剖する以外に使い道のない物だろうか。ともかく死に至るまでの間は、負傷者は医者にとって金儲けの手段となる。そういう意味で武器を使用する殺人機械は、葬儀屋と医者に死者と負傷者を提供する生産者の役割があるわけだ。殺人機械は人を死者と負傷者とに選り分け、葬儀屋と医者が扱える物に加工する。しかし何も殺人機械によって加工を施されなくても、人は必ず死んだり病気になったりするのだろうから、殺人機械は余分で余計なことをやっているだけだろうか。それとも必要以上に死者や負傷者を生産して、資本主義市場経済を活性化させているわけか。武器の製造業者にとっては、ただ備えておくだけでなく、実際に使ってもらっているわけだから、殺人機械は商売を維持・継続・発展させるためには必要不可欠な存在となっているわけだ。そういう意味で世界には紛争地域が欠かせない。それは武器製造業が成り立つための世界だ。だが別にそうであるべき世界ではない。たぶんそれとは別の産業であってもかまわないのであり、必要だからあるのではなく、そのような産業があること自体が、紛争地域やそこで活動する殺人機械を必要としているのではないか。卵が先か鶏が先かの議論に正解はないだろうが、ともかくそこで大勢の人が物として死者と負傷者に加工されている実態があり、そういう状況を肯定するわけにはいかないだろう。だがではどうすべきかとなると、やはり現状では答えがない。紛争地域は何をやっても間違いとなるような環境にあるのではないか。もはやアメリカが世界の警察を気取って、軍を投入して武力で平定するような状況でもないのだろう。そう簡単にはいかないのだろうし、超大国が我が物顔で勝手なことをやれるような世界ではなくなったのかもしれない。それだけ以前よりはマシな状況となったと言えるだろうか。このまま国家の力が相対的に弱まり、資本主義市場経済も富の不均衡により限界を見せはじめ、なにやら世界的に動乱の時代へと突き進んでいけば、新たな時代へ向けて展望が開けてくるだろうか。しかしそれには今生きている世代が多大な犠牲を被るしか方法はないだろうか。たぶんこれまでの歴史的な経過を見れば、そんな可能性が高いようだが、この時代に生きている人たちは人たちで、生きているこの時代こそがすべてなのだろうから、必死になって自らのやりたいようにやろうとするだろう。その結果が現状なのだから、とりあえず現状が気に入らなければ、自らが現状を変えるように努力するしかないのかもしれず、そのために現状の中であれこれ模索しているわけだ。殺人機械となった者たちもそうやっているはずだ。たぶんそれが仕事となっている限りは、人は仕事の目的のための機械となるしかないのだろうが、自らが物となりつつも、自然とそこから逸脱する成り行きの中でもがいているような気がする。そんな物化に対する抵抗がなければ、いつまでたっても功利主義の呪縛から逃れることはできないだろう。


1月20日「権力と民主主義」

 彼らはやってはいけないことをやってしまったのだろうか。結果的にそう受け取られると、なぜかそれらの行為は自粛の対象となるらしい。そこに権力関係や力を及ぼしている関係があるらしいが、たぶんそのような過程を経ないことには、やっていいこととやってはいけないことの区別がつかないようだ。とにかくやってみないことにはそれがわからない。だがそれが真実ではない。その真実には嘘が潜んでいるのだろう。そこで何をやるにしても、誰かの許可を必要とするにしても、必ずしも思惑通りに行かないまでも、何かしら事前に目的が設定され、その目的に向かって努力しなければならないことは確からしく、それも必ずし努力が実って、何かを成し遂げるような結果に結びつくとも思えないのだが、それでも計画通りに事が運んでいると思いたいのだろうか。ある部分では極めて順調に事が運んでいるように思われる一方で、別のある部分ではまったくうまくいかずに、計画が暗礁に乗り上げている部分もあるわけか。たぶんそんなはずがないと思いながらも、半ばあきらめかけているみたいだが、すべてがうまくいくとは限らないのは、はじめからわかっていたことかもしれず、とりあえずはそれが嘘のすべてではないはずで、要するにそこでなされている主張に嘘が含まれていることを認めたくないのだろう。しかしここまで語ってきたそれらは、いったいなんのことなのか。具体的なことは何も語らなければ気持ちが楽か。気持ちの問題ではなく、手続きの問題でもなく、簡単に述べるなら、何を求めているのでもなく、何を探しているのでもない。もう探求とは無縁の領域で語っているように思われる。誰にもそれとわかるような粗雑なユーモアのたぐいなのだろうか。ちょび髭がアドルフ・ヒトラーの象徴で、チャップリンもそれを演じていたはずだが、独裁者は民主的な選挙を経て生まれることが多いらしい。特定の誰かが民の代表に選ばれ、例えば行政の長に選ばれた代表者がその気になれば、独裁的な立ち振る舞いが可能となる。それをやるかやらないかは、選ばれた者の倫理的な判断にまかされている。誰がまかせたわけでもないのだろうが、行政を担う官僚機構がそれに従うそぶりを見せれば、そんなふうに見えるのではないか。たぶん本当のところは何もわからないままだろう。あからさまにならない部分が必要で、そこから暗黙の同意を得ることで、民主的な権力があるかのように見せかけるわけだから、実質的には誰の同意を得てそんなことをやっているわけでもないが、一応は民の同意を得てそれをやっているように装うわけだ。そこに至る手続きや手順が重要で、そのような行為が粛々と行われるうちに、何やらいつの間にか、それがそこでのルールとなっていて、その恣意的に形成されたルールに則って、そういうことが現実に行われているわけだ。そのどこからともなく湧いて出た根拠の定かでないルールに従わないと、抑圧や弾圧の対象となってしまう。そういうやり方が様々な紆余曲折を経て自然に生じ、いったんそれができあがるとそれが我が物顔で幅を利かせ、倫理や良識を押しのけてまかり通ってしまう。

 それらのすべてが特定の誰かや団体の思惑通りに事が運んでいるわけではなく、用意周到な計画も行き当たりばったりのその場の思いつきも、たぶんそこで展開されている自然の成り行きの一部となっているわけで、様々な要因が千差万別的に絡み合っているのだろうが、そのような成り行きにどう対処すればいいのだろうか。対処できないことはないのだろうが、対処したところで思い通りにいくわけではないので、やれる限りの対処しかできないわけだが、言葉によるそれにしても実力行使にしても、暴力にはなすすべがない。要するに暴力には暴力で対抗するのが手っ取り早いやり方で、やり方次第ではそれが最も効果的なやり方なのだろうが、やはりそれは権力を握っている人たちにとってはそうであるが、権力の攻撃にさらされている人たちにとっては、圧倒的に不利な戦いを強いられてしまう。沖縄の辺野古沖に米軍の滑走路を作る工事に反対している人たちも、警察権力の実力行使にはなすすべがない。しかも権力側の無慈悲な実力行使を消極的に支持している人たちが大多数を占めているようで、そこに反体制派には決して容認できない民主主義の力が作用しているわけだ。民主的な手続きを経て国民に承認された政府が、そういうことをやっているのであり、要するに民主的なやり方で国民が政財官の癒着した権力側に敗北を喫している現状があるわけだ。そういう意味では国家主義も資本主義も民主主義も、すべてそれらを牛耳る権力側の手中にあり、しかもそれを意識するにしろしないにしろ、そんな自覚もなくそれを否認するにしろ、結果的には国民のほとんどが権力側の味方となって、両者は互いの利益を共有して融合しているのであり、一部の不利益には目を瞑りながら、痛めつけられている一部の住民たちを傍観しているわけだ。それがその場で生じている自然の成り行きなのだろう。そんなことはなく、利益など共有しているわけがないと思っている人が、国民の大半を占めるのかもしれないが、たぶんそれは個人の主義主張とは別の次元でそうなっているのであり、国民と呼ばれるひとかたまりの総体として、政財官を束ねる民主的な権力を形成しているわけだ。そうなっている時点で民主主義と呼ばれる価値形式が、自分には良心や倫理があると思い込んでいる個人と、ひとかたまりの総体としての国民との間に、差異や食い違いが生じているのであり、それは総論賛成各論反対という御都合主義でなく、個人レベルでは総論反対各論反対でも容認され、とにかく無名の人ならいくらでも少数派を気取っていられるのであり、無視される範囲内での反対派は許容され、有名人のちょび髭パフォーマンスに浮かれていても一向にかまわないわけだ。人々が個人的に体験している世の中とはそういうものだ。そういう意味で今ある民主主義下では、個人の主張は無視されて黙殺され、個人は絶えず世の中の多数派が醸し出す意見に同調しなければならず、たとえそれが多数派に反対する意見であっても、やはり多数派が醸し出す反対意見に同調した主張でないと無視され、その多数派が醸し出す意見や主義主張とは、各種のメディアを通じて生成される意見や主義主張なわけだ。もちろん世間的に認知されているそれらのメディアは、様々な人々の思惑や利害関係から成り立っていて、たとえそう見えるような面があるにしても、そのすべてが特定の個人や団体の意のままになっているわけでもなく、絶えず自分たちの意のままになるように権力を行使したい輩が、様々な方面から自らの力を及ぼそうとしていて、実際にそこで力を行使している人や団体の力関係の上に、成立しているように見えるわけだ。


1月19日「説明というごまかし」

 主張していることのすべては屁理屈なのではないか。だが屁理屈でない理屈を思いつかない。屁理屈でなければ理屈とはなんなのか。理屈を肯定的な意味で使えないようだ。理屈のための理屈を屁理屈と呼ぶならそうなるしかないだろうか。具体的にはそれはどんな理屈なのだろうか。済んでしまったことはすでに経験したわけだから、同じことが繰り返されることは二度とない。これでは理屈になっていないだろうか。まったく同じことが再現されるわけではないが、似たようなことは繰り返し起こる。例えば第一次世界大戦と第二次世界大戦のように。だがそれがどうしたわけでもないだろう。似たようなことが繰り返し起こることがあるだけで、それに関して何を主張するつもりもなく、別に第三次世界大戦の勃発を恐れているわけではなく、警鐘を鳴らすような意見を述べたいわけでもない。ではなんなのだろうか。何かと何かを結びつける時、そこに理屈が介在していること自体が、その結びつける行為を正当化しているのではないか。それは当たり前のことでありわかりきったことだ。そうしなければ話の筋が通らない。そんな当たり前のことになぜ疑念を抱くのか。人々が良かれと思ってやってきた行為の積み重なりが、行き詰まりの現状を招いているとしたら、それを打開するにはどうしたらいいのだろうか。そう思ってしまうことを正当化するための理屈をここで考えているわけか。それとも現状の行き詰まりに対する有効な打開策を説明するための理屈を考えているのか。どちらにしてもそれを説明しようとすると、理屈に頼るしかなく、時として強引な説明に終始してしまうと、屁理屈をこねているように思われる。別に理屈が悪いわけではなく、説明するには理屈が必要なのだ。説明しなければ理屈など必要ないが、説明しない文章などあり得ない。それが言説なのだから、理屈を放棄するわけにはいかないようだ。過去に起こった様々な出来事から、語ろうとする言説に合わせて取捨選択して、それらの出来事を結びつけつつ、そうすることの理由を説明するには理屈が必要だ。それは自らの語りを正当化するための理屈となるわけだが、それを必要としない理屈などあるわけがないだろうか。自らが語っていることを正当化できないとしたら、そうすることができない理屈を説明しなければならないのか。どうもその辺で困った事態に直面しているようだ。

 もしかしたらその理屈が、そのままフィクションを構成しているのかもしれず、複数の出来事の因果関係を説明する言説そのものが虚構なのかもしれない。だがそれを虚構とみなしてしまうと身も蓋もなく、実際にそれらの関係が証明されれば虚構ではなく真実となるわけだが、証明もそれを言葉で合理的に説明できる限りの説明であって、それを受け止める側が納得したり信じたりする限りでの真実なのだから、虚構に含まれるのではないか。そういう前提で何かを説明すると、必ずそこに言説としての虚構が語られてしまうのは、それがなければ何も説明できず、現実には様々な出来事が時間と場所を隔てて次々に起こっていることでしかないのに、それらの出来事の間に影響という力の及ぼしあいとか、直接および間接の関係や結びつきがあるかのごとく語らないと、話が真実味を帯ないし、説得力がなくなってしまうから、どうしてもそれらの出来事が関係する理屈が必要となってくるわけだ。そしてそれが虚構から分離されて真実という価値を担うには、誰もが納得できる理屈が必要とされる。こう説明してしまうと、なんだか言葉のごまかしを駆使して説明しているような感じとなり、とても誰もが納得できるような説明とはなりがたいか。すでに説明している途中から、その説明に言及してしまうのがごまかしなのだろうか。そんなふうにして説明すればするほど、説明の迷路に迷い込んで、具体的な事物の説明からどんどん遠ざかってしまう。要するに事物とそれを説明する言葉とが引き離されて、言葉の連なり単独で言説が構成されると、それはフィクションとみなされるのかもしれず、またその言説が現実に存在する事物と関わっているように感じられる内容であれば、なにやら真実を語っているように思われるのかもしれない。もちろんフィクションの中でも真実が語られている部分もあるだろうし、そのすべてが虚構というわけでもなく、虚の構造の中で真実が語られてなければ、そこに感動はないだろうし、それを求めているからこそ、人はフィクションに惹かれ興味を抱くわけだが、別に虚構が否定的なニュアンスを含むか否かは、その内容にもよるだろうし、虚構を肯定する主張などいくらでもあるし、虚構を構成することを生業としている人たちの中には、虚構こそが真実を表現する最良の手段となりうると考えている人もいるのではないか。だがそういう水準で物事を語ってはまずいのかもしれず、それが虚構であれ真実であれ、あくまでも語っている内容そのものが、いかに説得力を持つか否かが問題となっているのであり、何か語るとすればその内容について語らなければならず、その語っている構造そのものに目を向けるのは、やはり内容から目を背け逃げているのであって、ある種のごまかしとみなされても仕方がないだろうか。


1月18日「偏見と臆見の積み重なり」

 束の間の幕間劇が演じられているわけでもなく、空疎な語りに技巧を凝らすことなどできはしないが、その場の間に合わせで言葉遊びのようになってしまうらしい。もちろん中身は何もない。苦悩を伴った重苦しい雰囲気を緩和するには及ばない。ごまかしに興じているわけでもないだろうが、なぜかそこから逸脱しているようだ。人を暴力から守っているのはそれに抗う言葉ではない。それは法律のたぐいだろうか。逆に人から国家を守っているのはそうかもしれない。国家から国家を守るのは軍隊の役目か。外交努力もありそうだが、テロから国民を守るのは誰の役目なのだろうか。明らかな標的があれば話は別だが、無差別テロを防ぐのは困難だろうか。諜報機関が事前にテロ情報を察知したとしても、政治的思惑からそれをやらせてしまう場合もあり得るだろうか。テロとの戦いを宣言して、戦争の口実とするならそうするだろう。やられたらやり返せの原則は人を納得させやすいだろうか。ヘイトスピーチにはより強力なヘイトスピーチでやり返さなければならないようだ。それはテロとは無縁の戯れごとのたぐいだろうか。相手を思いやれば何もやる必要はないか。そこで人は何を気遣っているのか。ざまあみろではらちがあかないはずだ。では大人の対応とは具体的にどのような行為を伴わなければならないのか。襲撃してうざい連中を殺す必要があるわけか。冗談を述べるならそういうことになるだろう。誰を憎んでいるわけではなく、人種や民族があることを信じているわけでもない。特定の宗教が危険だとも思っていないし、それに関わりたいわけでもないらしい。テロや襲撃の口実として宗教が使えるということかもしれず、ヘイトスピーチの口実として民族が使えるとことかもしれない。人をいくら殺傷しても、そうやって何をアピールしようと、時が経てば行為自体は忘れ去られ、憎悪の感情も風化し、やがて新たな口実が利用可能となるだろう。別に今それを期待し予感しているわけではない。とりあえず何をやってもなんらかの結果が伴ってくる。仕事には種類があり、高額の金を稼ぐ仕事はそれなりに競争が激しいし、それなりのリスクも伴い、誰もがうまくいくわけでもなく、また親の遺産をやコネを利用できる人をうらやんでも、その遺産を築いた当時の人が、それなりに才覚があったから莫大な財産を築けたのだし、その遺産を代々守り継承するのも並大抵の努力ではないわけだ。その時代や時期において人々や各種勢力の間で富の争奪戦があった結果なのだろう。たぶん公平であったり平等であらねばならないのは、同時代や同時期に生存している人たちの間だけではなく、すべての時代や時期において公平であったり平等であらねばならない。そんなことが不可能であるのはわかりきっているが、そんな冗談が現代で通じるはずもないことが、人々を際限のない富の獲得に駆り立てているのだろうか。

 そんなはずはない。それを人の欲望の発露だとみなしても無益なことか。ではどう考えればいいのだろうか。やはり何も考えずに冗談とみなして笑い飛ばせば済むことだろうか。考える必要がなければ楽なことかもしれない。しかし人は必ずそれらの動作原因を探ろうとして、出来事と出来事の間の因果関係から、最善のやり方を導き出そうとするのではないか。それが最善のやり方だと思い込めば安心できるようなやり方を求めているわけだ。そして何かその道の権威を求め、誰もが認める賢人から意見をうかがい、それに従おうとしてしまうわけか。それが思考を放棄した浅はかな行為だとは思わないか。考えを巡らせれば他にやり方が思いつくのではないか。人と人との争いなら、争いに勝った者が栄えれば済むことなら、負けた者は勝った者に媚びへつらう必要があるわけか。それでは負けた者がおもしろくないから、負けた者にも救いがほしいわけか。どうにか自尊心を傷つけない方法を模索しているのだろうか。では文明の敗者のレッテルを貼られたイスラム教徒にはどんな救いが必要なのか。インドネシアではイスラム教徒が勝者だ。しかしタバコ産業に汚染されている。そして国内に蔓延している政治的な腐敗や汚職を根絶しなければならないだろうか。共産主義者のレッテルを貼って百万人も虐殺した過去もあるらしいが、それとイスラム教は関係ないだろうか。軍事政権下ではなんでもありなのではないか。人の命など吹けば飛ぶような軽さだ。軽い命の持ち主の声など黙殺されてしかるべきか。何もかもがその時期や時代の状況下で相対化されてしまうのかもしれない。権力を握ればやりたい放題だろうか。それもその場での各種勢力の間の力関係にもよるだろう。その気になれば何でもできる立場になりたいか。でもそうなったと思ったところで、何ができるわけでもないだろう。可能な範囲内で限られたことしかできはしない。その可能性を拡大すべく、各種勢力間で権力闘争が繰り返されているのではないか。力の赴くままに操られ、自然の力に屈しているだけなのに、それで何かやっている気になるしかないのは、むなしいことだろうか。闘争の渦中にいる当人たちはそうは思わないはずか。自らが生まれてこのかた、様々な影響を受けながら育ってきた、それらの思い込みと思考と価値観が入り混じった偏見に基づいて、何かをやろうとしているのだろうし、実際にやっているわけだ。それらの様が何かの冗談に思われてしまうわけか。でもそれで現実に人が生き死にして、利益を得たり損害を被っているわけだ。それをどう解釈したらいいのだろうか。たぶん冗談で済むようなことではないのだろう。やっている当人たちは至って本気だし、時と場合によっては命がけだ。中には冗談で済ませられる場合もあるだろうが、万事がすべてその範囲内で収まるわけがない。そこからはみ出るところで闘争が繰り広げられているわけだ。話し合いだけでうまくいかなければ、互いに暴力の応酬となるのだろうか。一方が合法的でもう一方が非合法の場合がほとんどか。国家や国際的に合法とされた暴力に立ち向かうには、非合法の暴力で対抗しなければならなくなるらしく、それがメディアや国家によってテロと認定された暴力行為なのだろう。だが資本主義市場経済のルールに基づいた、合法的な収奪や搾取に対抗するには、非合法の暴力だけでは心もとない。たぶんそのやり方が世界的に模索されているのであり、一部には資本の論理を維持した上で、国家の官僚機構による合法的な制御コントロールを目指す動きがあるわけだが、それがまやかしに過ぎないと思いこめるだろうか。別に政治的にはそちら方面の模索が常道なのだろうし、実際にほとんどの暴力に訴えない限りでの反体制勢力は、国家による資本のコントロールに、自分たちの価値観が生き残る望みを託しているわけだ。たぶんこれからも絶え間なくそんな試みが模索され繰り返されるのだろう。


1月17日「国家が内包する暴力装置」

 彼らは何を守ろうとしているのか。その守ろうとしている何かは、守るだけの価値があるものなのか。それに関して彼らと同じようなことを主張すれば共感を呼ぶだろうが、それはできない。なぜできないのか。彼らが守ろうとしているものとは無関係だからか。何が無関係なのだろうか。そこにはびこっている主義主張を信じられない。結局信じるに足る主義主張ではないということだ。ではどのような主義主張なら信じられるのだろうか。何を信じようとしているのでもないらしい。信じることを拒絶しているのかもしれない。信じなくてもかまわないのではないか。信じる以前に不可能なことを求めている。要求していること自体が筋違いなのだ。実質的には誰に何を要求しているのでもない。要求している対象は誰でもないし、なんでもない。そして何を要求しているのでもないわけで、では何をやっているのかといえば、何をやっているのでもないことになってしまう。すべては無為な営みで、無に帰してしまうだろう。そうなってはまずいわけだ。何でもないことになってしまう前に、どこかで歯止めをかけなければならず、何かやっていることの意味や意義を見出さなければならない。そう思うことから自我や自意識が生まれるのかもしれず、自らがやっていることの意味や意義を要求しているわけだ。要するに他人に認めてもらいたいわけだが、その他人が不特定多数の顔の定かでない他人であり、自我や自意識が介在して、どこにもいもしない他人を勝手に思い描いているだけかもしれず、結局認めるように要求している対象にめぐり合うことはなく、孤独感に苛まれながら、無益で無意味なことを延々とやっているに過ぎないのかもしれない。だからそんな身勝手な主義主張を信じることができないのだろうか。信じることができなければどうなるのだろうか。他人の共感を呼ぶようなことを主張するしかないのだろうか。多くの人が主張していることの最大公約数的なことを主張すれば、それで多くの人たちから支持を得ることができるわけか。たぶん主張が実行に移される以前は、現状に批判的な多くの人たちから支持を得ることができるかもしれない。政治的な主張とは現状に批判的な主張がそのほとんどであり、現状に批判的なことを主張する者や政党が大衆の支持を得て、選挙で勝利して政権の座に就き、いざその主張を実行に移す段になると、なかなか思い通りにはいかずに大した成果も上げられず、支持していた人々の期待も次第に失望に変わり、そこで行き詰ればまた他の誰かや政党が、メディアを通じて明らかとなるような、人々の求めていることの最大公約数的なことを主張して、それが支持されれば選挙で勝利して政権交代となるわけだ。そんなことが数年ごとに繰り返されれば、結果として民主的な政治形態が実現していることになるのだろうか。

 それでかまわないのではないか。それの何が不可能なのか。たぶん具体的には何を実現しようとしているのでもない。それでも不都合ではないが不可能なのかもしれない。例えば世界の紛争地域で行われていることはなんなのか。民主的な政治形態に至る以前に、それが破壊されている現状があり、対立しあう勢力や組織間での武力行使の応酬が泥沼化し、それを終わらせることが事実上不可能となっている。アメリカなどの大国が介入しても事態が改善する兆しはなく、かえって以前より死傷者も増え、土地や建物などの破壊や荒廃も進んでいる現状だろうか。なぜそうなってしまうのか。人々の不満を抑えきれない原因はなんなのか。政治経済的に様々な要因があるだろう。資源をはじめとする国内の富を外国に収奪され、またその収奪に協力する者たちが国内の政治経済的な実権を握り、独裁的な政権と産業の支配層となり、富の極端な不均衡を生じさせ、貧困に苦しむ人たちの間には飢餓が蔓延し、それらの人々の間で自然発生的に救世主願望が生まれ、それをイスラム教などの宗教が吸収して、国内で権力争いをしている政治的な反主流派などがそれを利用して、反乱軍として武装組織を結成し蜂起して内戦となる。そしてその政治的な大義をネットなどを通じて広く世界に発信すると、世界中の不満分子が義勇軍として馳せ参じるわけか。現実に起こっている事実とは少し違うかもしれないが、それの何が不可能なのだろうか。それでは従来からある民主的な価値観とは相容れないから不可能なのか。だが彼らが欧米的な民主国家を作ろうとしないことが、不可能とは別の可能性を示しているようには見えないだろうか。それは幻想であり誤った認識なのかもしれない。国家に可能性はない。国家は紛争の原因であり基本的に暴力装置なのだ。武器を携えた軍隊や警察によって民を威嚇しながら、強制的に税を徴収することで成り立っているのであり、それと引き換えにして民を他の暴力から守っているわけだ。なければないに越したことはないが、その国家が潜在的に内包している暴力を、どうやれば減じることができるだろうか。今のところは解決策などなく、ひとたび動乱状態に陥れば、現に紛争地域で起こっているように、その暴力装置が顕在化することとなるわけだ。


1月16日「理性と善意と良心」

 何を伝えなくても非難されることもないか。伝えたいことなど何もなければ、公正中立なメディアといえるのかもしれない。別に伝えたくもないことは、伝えなくてもかまわないのではないか。どこからか伝えるように要請がくれば、それを伝えればいいわけだ。しかし誰が要請するのだろうか。誰がではなく、どこからその要請がくるのか。誰も要請しないし、どこからもそんな要請などこないのだとすれば、ではメディアは何を伝えればいいのだろうか。たぶん何を伝えてもいいのであり、実際に伝えていること以外に、伝えなければならないことがあるとも思えない。どこかで伝えるように指令が出ているのだとすれば、それが偏向報道の要因となるのだろうか。何か都合の悪いことは黙殺する必要が生じているわけか。誰かがそれを促しているのではないか。報道各社を集めて命令していると思った方がいいわけか。沖縄で起こっていることはなるべく報道しないようにしろ、と誰かが命令しているのだとしたら愉快なことだろうか。そこで何かが踏みにじられているわけだ。だが何かとはなんなのか。米軍基地を抱える沖縄の人たちの思いが踏みにじられている。でもそれは想像される思いでしかなく、事実ではないはずか。美しい珊瑚の海が埋め立てられて、米軍の滑走路を造る工事が、住民の反対を押し切って強行されようとしている。それが事実であるらしい。その事実をどう受け止めればいいのだろうか。それでかまわないと思えば、事なかれ主義だとみなされそうだ。では屁理屈をこねて右翼のように肯定すればいいのだろうか。それでも一興だが、ここは反対を表明しておいたほうが無難なのかもしれない。実際に大部分の人たちは工事の強行に反対するのだろう。だがそれでもそれをやっている政府に対する支持率は高く、そこに不快な矛盾が生じているわけだ。そこから世論調査結果として高い内閣支持率を報道するメディアに対する不信感が募ってきて、いらぬ詮索をしなければならなくなる。御用メディアによる翼賛報道なのではないか、と誰もが思いたくなるわけだ。そうやってメディアが人々に生じている不快感や疑心暗鬼を煽るのはいいことだろうか。良いか悪いかはなんとも言えないが、とりあえずそんな状況にあることは確かだし、それが放置される現状が続く限り、この先何か愉快な事件が起こるような予感がしてくるが、気のせいだろうか。たぶんそうなってほしいわけだが、具体的に何が起こるかは、実際にそれが起こってみないとわからない。

 ありふれた認識には違いなく、それが取り立ててどうということはないだろう。本気で対米追従政策を支持している人などいくらもいないだろう。過去の話をほじくり返して、なんとか現政権とそれを翼賛する人たちの矛盾を突いたつもりになっている人も多いが、それも現政権にとって大した痛手とはならない。そんなことはどうでもいいことだとは思わない。だがそれ以上に現状がどうなっているのか、それを正確に把握することが肝心だろうか。たぶん比較する対象がずれているのではないか。彼らは何と何を比較することで現政権への有効な批判となり得ると考えているのか。別にそんなことを考えているわけではなく、ただ矛盾や不都合な事実を指摘するだけで事足りると思っているのではないか。たぶんそんなことは無視されるに決まっているのだが、いくら無視されても執拗に主張し続けるだろうし、いくら主張しても無視されるだけなのだろう。事態はいつまでたっても平行線のままか。それによって双方ともに利益を得られるのではないか。しかしそこで得られる利益とは何なのか。それはただ現状の中に存在し続けられるということでしかないのではないか。そこに予定調和があるわけか。たぶん本質はそこにはなく、別のところにあるのかもしれないが、その本質が具体的になんなのか、それを明らかにしなければならないのだろうか。日本は周辺諸国と政治経済的に結びついている。それだけのことか。そのことを理解しておけば、いらぬ詮索は無用かもしれないし、陰謀論のたぐいもそれほど気にする必要はないのではないか。経済にしても放っておけば貧富の格差が広がって階級社会になり、貧しい人たちの間で不満が高まるのかもしれないが、それは選挙でも政治でも解決不可能なことなのかもしれず、このままでは革命が起こると騒ぎ立てても、歴史的にはイギリスのピューリタン革命でも名誉革命でも、アメリカの独立革命でもフランス革命でも、国家を担う官僚機構と裕福なブルジョア市民たちの支配が強まっただけで、あるいはロシア革命においては、ブルジョア市民も取り除かれて官僚機構の完全支配となったわけで、どの革命においても、貧しい人たちにとってはあまり関係のないことだった。もちろん方法がないわけではなく、それについて有効な方法を主張することはいくらでもできるが、それが実行に移されたためしはほとんどなく、結局実行に移される過程で、関係者の様々な利害や思惑が絡み合って介在して、骨抜きにされてしまう場合がすべてなのではないか。要するに政治的な実権を握っている人たちが不利になるようなことは、社会の混乱期をの除いて何一つ実行に移されたためしはなく、人々の理性や善意や良心の発露によって、成し遂げられた事例は皆無かもしれず、逆にそれらの持ち主が弾圧され虐殺された事例は数知れずなのかもしれない。


1月15日「無支配の社会とは?」

 人は社会の中で様々な立場を占めていて、その様々な立場の間で差異があり、それぞれで異なる価値を体現しているのだろうか。それは役割分担ということになるだろうか。例えばホームレスにもホームレスなりの役割があるわけか。それは過酷で残酷な役割だろうか。落伍者の烙印を押され、そうなってはいけないという見本となっているわけか。でも好きこのんでそうなってしまったわけでもないのだろう。なってはいけないが、様々な紆余曲折と経緯からそうなってしまった人たちなのではないか。そうだとするとそれを役割とみなしてはまずいのではないか。別にホームレスを演じているわけではなく、実際にホームレスとして生きているのだから、それがどのような役割を担っているわけでもない。何を割り当てられているわけでもなく、ただそうやって生きているだけだろう。それとこれとは何が違っているのだろうか。やはりそれはそれで、これはこれなのではないか。抽象的に考えても無駄だ。でも他に何を考えているわけでもない。その状態が社会の最底辺というわけではなく、結果として考えられる社会の状態などとは無関係に、自らの社会的な役割など意識せずに生きている。たぶんなんらかの組織や団体の一員となれば、そこに役割が生じるのだろうが、それ以外では別に定まった役割など意識しなくてもかまわないのではないか。ホームレスはホームレスで勝手に生きている。ホームレスに対する慈善活動の一環として炊き出しをやっている人たちも、勝手にやっているわけだ。特に彼らの邪魔をする理由はないように思えるが、勝手にやっていることが気に入らないなら、邪魔をしたくなるのだろうか。行政としては勝手気ままな行為は許しがたいことか。行政としては担当区域内で活動している人たちを管理制御するのが役割となるわけか。ヤクザと同じようにそこに縄張り意識が芽生えているのだろうか。自分たちの縄張り内で何かをやるには許可を受けなければならず、許可を出すにはそれ相応の基準に照らし合わせて判断されなければならない。縄張り内で何かをやっている人たちを支配しようとするのが行政の特性だろうか。しかしなぜ支配しようとするのだろうか。理由は定かでない。ただそこに公的な行政があり、税金や公的な債務によって予算が組まれ、その地域とそこに暮らしている人々を統治しているわけだ。それが何を意味するのか。表向きはその行政はそこに暮らす人々のものであり、そこに暮らす人々を統治している行政を統治しているのはそこに暮らす人々であり、人々による選挙で選ばれた人物がその行政のトップについて、行政の最高責任者となっているわけだが、人々による人々に対する統治であるはずのことが、いつの間にかそれが行政による人々の支配を正当化する理由となっているわけだ。もちろんそれを支配とは言わないが、言わないだけであり、許可なく勝手なことをやればそこから排除されてしまう実態からわかることは、実質的な支配とみなすしかない事態となっているわけだ。

 人々による人々の統治を民主主義と呼ぶならば、そこに自己言及パラドックスが生じていることは疑いない。自分が自分自身を支配できるだろうか。それは何かの方便か。統治される人々と統治する人々の間に行政と呼ばれる官僚機構があり、実質的にはその官僚機構が人々を統治しているわけで、現状では官僚機構をなくすわけにはいかず、支配や統治という形態を終わらすことはできないようだ。公的には行政があり、民間では企業や各種団体があるので、人々は絶えずなんらかの統治や支配のもとで生きてゆかなければならない。そしてそこで不利益や被害を被ったら、それらの各種団体と戦わなければならないわけか。個人は日頃からそれらの統治や支配によって自由を制限されているので、対等の立場とはなり難く、それらの各種団体の方が個人よりは強い立場にあるはずで、戦っても個人では勝ち目がない。だから統治や支配を受け入れざるを得ず、受け入れた上でそれらの各種団体を自分の味方につけて、自らを他人をよりは相対的に優位な立場に保とうとするわけだ。そしてできればそれらの団体内での地位を上げて、団体の一部またはすべてを制御できるような地位につきたいわけで、団体内にいる他の個人をできるだけ多く自分の味方につけて、互いの利益を共有して派閥のたぐいを築き、団体内での権力を得たいのだろう。そこに派閥を強化するための主従関係や敵対する派閥との熾烈な抗争などが生じ、結局そこでも不快な支配や統治が行われてしまうわけだ。人と人とが協力し連携する関係は、必ずそのような権力関係を生み出してしまうのだろうか。一方でそれを不快に感じて嫌気がさして、人から遠ざかり人との関係を絶ってしまうと、孤立して利益を得られなくなり、何もかもを失ってしまえば、ついにはホームレスになるしかないだろうか。資産の貯えがなければそうなるしかない。そんなわけでホームレスは支配や統治を嫌がり、支配や統治機構に属する人間はホームレスに嫌悪感を抱く。権力闘争を放棄した人間が生きていることに我慢がならないのかもしれない。働かざる者食うべからずというわけか。しかし逆にホームレスが大量に生きられる社会は豊かな社会なのではないか。行政や各種団体の支配や統治を受け入れなくても、誰もが生きて行けるような世の中になれば、それに越したことはないだろうか。たぶんそれもある意味では矛盾しているのだろうし、仕事しなくても生きて行けるなら、人は仕事をしなくなってしまうのではないか。果たして仕事をしなくても成り立つ社会とはどんな社会なのだろうか。たぶんそれが実現してみれば、その実態がわかるのではないか。


1月14日「体制と反体制の共通点」

 別に政治が世界の動静に逆らったことをやっているわけではないらしい。世界各国で税制面での企業に対する優遇政策が高じているから、日本でもそうしたい。自国の企業が世界市場での競争に勝ち残ってほしい。また多国籍企業が活動しやすいように、雇用形態をアメリカと似たものにしたい。未だグローバリゼーションが進行中なのだろうか。それが行き詰って保護主義に転換することはないのか。政権交代したらそうなるのではないか。そしてそれもうまくいかずに行き詰まるだろうか。どうやってもうまくいくことはない。そう感じるだけで、現状でもうまくいっているのかもしれない。要するにこれ以上良くなることはないということだ。本当にそうだろうか。少なくとも当分は過去の一時期にあったような高度経済成長はあり得ないのではないか。伸び代はその時に使い果たしてしまったのだろう。放っておけばこのままの状態がいくらでも続いていくのなら、このままでもかまわないのではないか。国家に期待しないほうがよさそうだ。だが政治的には他に何があるわけでもなく、要するに政治に期待しないほうがいいということだろうか。たぶん誰が期待しているわけでもなく、大半の人たちは無関心なのかもしれない。そう認識しておいてもかまわないような現状らしい。本当はそうでもないのだろうが、それくらいにしておいたほうが無難なのかもしれず、感情的になってあまり深入りせずに、そこから生じる復讐心をスルーして、その先に言葉の連なりを延ばしていったほうがよさそうだ。官僚機構の制御によって国家は成り立っている。国家だけでなく国際連合と称する機関もそうなのではないか。その中の特定の誰が制御しているわけではなく、どのような利益団体や組織が陰謀を巡らせていようと、それらは制度であり装置として機能しているのではないか。意志を感じさせるような特有の動きや作用があろうと、そのように動作させる成り行きの中で動き、作動しているのであり、それを人の力で止めることはできないだろう。すぐにどうこうできるようなものではなく、それをめぐって複雑に絡み合った思惑や意図を解きほぐすには、たぶん自然の力に頼るしかないのかもしれない。それも思い通りに操ろうとするのではなく、思いがけない方向にしか変えられないのではないか。要するに現状で生じていると思われる不具合を材料にして、批判することはできるが、ではどうしたらいいかとなると、それを実行する手立てが与えられていないのであり、それをつかみ取ろうとすれば、それとはまったく別の何かをつかみ取っていることに気づかないばかりか、思わぬものが手に入ったのに、それを有効活用できないまま、みすみす機会を取り逃がし、何も得られないまま退散する結果となるのであり、気がつけばまた振り出しに戻っているわけだ。

 なぜそんなことの繰り返しとなってしまっているのだろうか。それは当事者たちにも対抗勢力を担っているつもりの者たちにも、また呆れて傍観しているだけの者たちにもわからないことかもしれず、わかっていることといえば、それまでの人生で培ってきたこだわりを捨てきれないことが、自身の変化を阻んでいるのであり、しかもその状態に安住することで利益がもたらされるように思われ、現実に利益がもたらされている人たちが優遇される立場にあれば、彼らが率先して自分たちの不利になるようなことをやるとは思えず、当然それとは無関係な立場の人たちは無視され、それに逆らっている人たちは邪魔な存在であり、どちらにしてもそこで行われている行為から遠ざけられ、なるべくそれらの者たちは相手にされないように処遇されるのではないか。たぶんそれは他の分野でも成り立つことであり、政治に限らずすべてがそのような成り行きになっているとすれば、結局それを批判する側も、同じように批判している者同士で、共通の利益共同体を結成して、違う意見を有する者たちを排除した上で、そのような批判が成り立つ状況をもたらしているわけだ。要するに批判される側とする側の両方にとって都合がいいのは、両者が予定調和の二項対立を構成して、両者の立場を固定化して、そうすることで双方に利益がもたらされる構造が築かれることだ。そうやっておいて、お互いにそこから外れる者たちを排除することで、恒久的に利益を確保しようとするのであり、もちろん永遠などあり得ず、やがて何かのきっかけからその二項対立も崩壊するのかもしれないが、世の中を変えるきっかけを与える要素は、少なくとも両者の中にはないことは確かかもしれず、あるとすればたぶん、その二項対立から外れる主張の中にその可能性が含まれているのであり、要するにそのような主張が現状において無視され遠ざけられているからこそ、いったん変化や変革が起こると、誰にとっても思いがけない予想外の事件となるのだろう。だから現時点で少なくとも言えることは、メディアの中で派手に体制批判を繰り広げている人たちは、すでに予定調和の二項対立の中に含まれているのであり、そこから利益を得ている以上は、少なくともそれらの人たちに現状を変革する力はないのであって、それを意識するしないにしろ、そのような二項対立の中で安住したいからこそ、そこで批判を展開しているわけで、そのような二項対立をより強固なものにすべく、逆に体制側の方もそれらの人たちをこれ見よがしに名指しして、罵倒したりするのかもしれない。要するに体制側にくみする人たちに名指されて罵倒されたりする人たちは、すでに人畜無害だとみなされているわけで、そのような反体制勢力の代表としてメディア上で持ち上げられているような人たちには、あまり過大な期待をかけないほうが良さそうだ。


1月13日「結末のない物語」

 意識が何か特定の物語に囚われているとすれば、それはどんな物語なのか。いくつもの話が脈絡なく絡み合った捉えどころのない物語なのではないか。大して興味があるとも思えず、とりたててこだわる必要もないのかもしれない。それでも囚われているのだろうか。人は想像し空想する。人でなくてもそうするかもしれない。物語る対象も人でなくてもかまわないのだろうか。人以外に物語る対象があるらしいが、別にそれを特定する必要はない。何を物語ってもかまわないだろう。何も語らなくてもかまわない。ニュースに興味がなくなり、それがニュースではないように思えてしまう。それでもたぶんニュースなのだ。世の中のことを知ろうとしているのではないか。別に大事件や大事故が起こってほしいとも思わない。起きたら驚くだろう。それが真っ当な反応だろうか。真っ当でなくてもかまわないのではないか。では何を皮肉りたいのか。ざまあみろとは思わない。何かを伝えたいのかもしれない。多くの人たちに伝えたいのだろう。デモ行進をして同じ価値観のもとに団結していることを示したい。何百万人もの人たちが一斉に街に繰り出し、行進しながら何かを叫んでいる。我々は卑劣なテロには屈しない、そんなことを叫んでいるのかもしれず、それ以外の込み入った主張はいらないのかもしれず、デモ行進には必要ないのだろう。それが正しい行いである必要があり、間違ったことを主張してはならない。民主主義は暴力を排除した上でしか成り立たない。できればそうであってほしいのではないか。本気でそう思っているわけではない。信じていないのだろう。何も達成されていないはずだ。民主的な制度など未だかつて確立されたためしがない。そう思っていればいいわけだ。思っていることと実現している制度とは性質が異なり、実現している議会が民主的に機能してほしいのだろうし、選挙で選ばれた行政のトップが民意を汲み取って欲しい。民意とはなんだろうか。それはメディアや行政の行う世論調査で明らかとなることか。たぶん選挙結果が民意を反映しているのではないか。そうであってほしいわけだが、それを信じられない人が大勢いるらしく、批判や文句が数限りなくあるようだ。公平ではなく公正でもないということだ。それを議会が是正してほしいわけだが、議会でも様々な思惑が渦巻いていて、なかなか公正で公平な制度とはなり難い。何が公正で公平であるかの定義すら定まっておらず、定まったところで多くの人を納得させるには至らないだろうし、政党の党利党略ばかりが反映した制度にうんざりするだけだろうか。それでも人々はその不完全な制度を手放したくはないはずで、できればよりまともな制度へと改善してほしいと思っているのではないか。絶え間ない見直しと改善が必要であることは、誰もが思うところのようだ。それが実行されるように働きかけるべきなのだろうし、選挙で実行を約束してくれる候補者に投票すべきなのだろう。

 しかしそれとこれとは別だろうか。それはそれであり、これはこれだ。それとは何か。そしてこれとは何か。それはいくらでもあり、これもいくらでもありそうだ。それもこれも、求めているのは制度ではないかもしれない。社会の仕組みがどうあれ、それが公平で公正な制度や仕組みである以前に、人がそのような制度や仕組みが作り出す環境に順応しているわけだ。そこで暮らしていること自体がそれを証しているのだから、意識はその制度や仕組みに囚われていて、思考は制度や仕組みからできている。すでにその中で生きていけるような人間となっているわけだ。それがたとえ路上生活者であろうとそうだ。そこに存在している人々とともに制度や仕組みが作動し、その中で人それぞれの役割分担を強いている。すでにそうなっていることを前提として、なおそこから制度や仕組みについて考察しなければいけないだろうか。そこから生じている物語に囚われているわけだが、物語の中の登場人物が、自らが属する物語について考えられるだろうか。実際に社会の中でうごめいている人たちは、そんなややこしい事態に直面しているのではないか。自らを取り巻いている状況を、客観的に認識できる立場などどこにもありはせず、それについて考えようとすれば、すぐに自己言及の壁に突き当たり、うまく説明できなくなってしまう。しかし人々はそれについての納得できる説明など求めているのだろうか。それについて考えていることは確かだが、その考えていることから、果たして納得できる説明を導き出せるだろうか。実際そこで誰が説明を試みているのか。たぶんそれは物語の作者などではなく、やはり物語の中でうごめいている登場人物たちなのだ。その物語に作者などいない。絶えず登場人物たちが自らが語られているつもりの物語を超越して、その物語自体を語ろうとしては、自己言及の罠に絡め取られて、真の物語に至る手前のフィクションを語ってしまうのではないか。そしてそんなことが延々と繰り返された挙句に、そんなフィクションに人類の歴史という題名が付けられて、人々の前に提示されているわけで、誰がそれを構築したわけでもない歴史が、さももっともらしく感じられるように、そこに群がる人々が、かわるがわるその人なりに工夫を凝らした解釈を発表してみせるのだが、そんな虚構の物語を延々と見せつけられると、やがて飽きてきて興味を失ってしまうのだが、また新たに惹きつけられてしまう人が出てくるので、そんな人たちを対象として、その物語を説明する試みが繰り返され、そんな行為の持続が、また新たな歴史となって物語の延長をもたらすのだろう。


1月12日「正攻法のやり方」

 別に世の中の実情がどうなっているとも思えないが、メディア的にはおかしな感覚に覆われているのだろうか。国家単位で何をやってもうまくいかないことは目に見えている。でも他にやりようがないから、世界中の政治家たちが最後の悪あがきの最中なのだろうか。何が最後ということもないのだろうが、とにかく悪あがきに感じられてしまうわけで、手詰まり状態にあることは確かなのかもしれず、今までにやってきたことが、何かそれなりに効果を上げたわけでもないのだろうが、政治というのは常に最後の悪あがきとしか思われないようなことの繰り返しから成り立っているのかもしれない。それに対して何か提言したい学者や評論家たちが、いかにももっともらしいことを主張して、それの実行を迫るのだが、戦争や経済的な混乱期を除いて、それがちゃんと実行された試しもうまくいった試しもないように思われる。世の中が安定していて、比較的平和な時期であれば、それでかまわないわけなのか。たぶん制度を担う官僚機構に実務をまかせておけば、政治家があえて何かやる必要がないのに、何かやっているように見せかけないと、選挙でその政治家に投票した人たちが納得しないだろうから、自分たちが行政を制御しているように演じているわけなのだろうか。別にそんなことはわかりきったことで、何か目新しいやろうとすると、あるいは既得権益を破壊しようとすると、たちまち官民挙げての抵抗に直面し、数年前の民主党政権のように、メディアと官僚とアメリカによって潰されてしまったわけだが、たぶんそんな経緯から、人々の間に無力感が蔓延し、政治に対する無関心や諦念が生まれているのだろう。それはそれでまっとうな反応だし、無理もないことかもしれない。それはそれで自然な成り行きなのだろう。それでかまわないとは思わないが、そうなって当然の結果がもたらされているのだから、多くの人たちがそんな結果を真摯に受け止めている証拠かもしれない。民主主義というお題目を信じられないなら、無理に信じる必要もないのだろう。そんなわけで政治的な無関心であったり、それを装う人たちに期待するわけにはいかないのはもちろんのことで、そういう意味では反体制を標榜する人たちは、今や貴重な存在かもしれない。また為政者に対して反感を抱き、ネット上でそれを公言している人たちにも共感したいところだ。

 ひとまずそんな姿勢でかまわないのではないか。虚無的に振る舞ったり、ひねくれ者を装っても意味があるとは思えないし、反体制的なスタンスで、政府や議会の与党や首相の強引なやり方に反発して、批判していればいいわけだ。野党勢力やそれを担っている政党や政治家を応援するのもいいだろう。ふざけた言動を駆使して揶揄や皮肉を連発して、何も単独者を気取ってそこから逸脱する必要はないらしい。ネトウヨ的な国家や民族の英雄的な自画自賛も恥ずかしいだけだし、口汚く隣国や特定の民族を罵るのも気がひけるのではないか。では個人の行動や活動の自由や、経済的な利益追求の自由も認めなければならないだろうか。自由を追求したければ追求すればいいのではないか。社会の中で生きている限りは、それほど勝手なことができるとは思えないが、自分が有利になるように、うまく事が運ぶように画策するのは、誰もがやろうとしていることではないのか。そんなことの範囲内に、政治的な目的もあるのだろうか。たぶんそれは本来の目的から逸脱しているのかもしれず、そこに個人や家族や会社や民族や国家の間で境界が引かれてはまずいのかもしれない。それらの何が目的なのでもない。たぶん自分にとって良かれと思うことは、他の誰にとっても良いことでなければならないのだろうが、どこまでが良いことなのか、その良いことが及ぶ範囲の境界を区切ってはまずいのだろう。だが他の誰にとっても良いことなどわかるわけがなく、そんなものがあるなんて信じられないのかもしれず、だから人々は安易なことをやろうとしてしまい、利己的な行為を優先してしまうわけだ。少数の人たちがネトウヨ的に暴走してしまうのも無理のないことだろうか。民族の誇りだの愛国心だのに凝り固まるのも仕方のないことか。仲間と一緒になってそれをごり押ししてしまい、他の人たちに迷惑をかけているわけだが、ある程度はそうなってしまっても、そういうことをやらせておいたほうが、体制にとってはありがたいことだろうか。良心的な人々の注意をそちらに逸らせておけば、反体制勢力の力を分散させ、まとまるのを阻止できるかもしれない。それに加えてアメリカ軍の基地や反原発闘争や貧困問題などに、いくらでも反発を招く要因を作り、それぞれに関わらせ、それらに関わっている人たちを互いに分断すればいいわけか。そんなふうにしてごく少数の活動家と一般大衆とを分離してしまえば、それぞれの活動が大して盛り上がることもなく、メディアが国民的な関心事として騒ぎ立てることもないのではないか。別にそれが体制側の狙いというわけでもないのだろうが、結果的にそうなっているとすれば、そんなことをやらせておけばいいわけで、そのまま放置すればいくらでもやってくれると思っているのではないか。そんなことが繰り返されている現状を維持継続させて行けばいいわけだ。


1月11日「未知との遭遇」

 何を語るにしても選択肢が無数にある状態が望ましい。模索しているのはそういうことだろう。人に無限の可能性があるとは思えないが、可能な限りは求めているのかもしれず、それが正しいか間違っているかの判断を下す以前に、行おうとしているのは確からしい。そこで何かを実行し行為しようとしているわけだ。そしてそれをやってしまえば、後からそれをやったことの報いを受けるわけか。やはりあるのは無限の可能ではなく、有限の行為でしかないようだ。それが及ぶ範囲も極めて限られている。抽象的なことを述べているうちは無限に思われるが、話が具体的な事物に及ぶと言葉の選択肢が限られてくる。そこで何を語ればいいわけでもなく、何も語れないわけでもないが、それについて語らなければならなくなり、それとは何かと問いたくなってくるが、それが自然と自問自答を誘発して、自己言及へと至るらしい。そこでおしまいとなってしまいそうだが、時にはそれを乗り越え、あるいは周到に回避しながら、それとは別のことを語らなければならない。ねばならないではなく、実際に語っているわけだ。富や名声とは無関係に何かが行われ、人を惑わせている。その一方で相変わらず富や名声に関係することも行われ、メディアを通じて世界中でそれらの行為が語られ、文字の連なりとして、あるいは音声や映像が付け加えられ、膨大におびただしく流通しているわけだ。どちらもありなのであり、どちらであってもかまわないのではないか。富や名声とは無関係な行為の担い手には何も救いはないし、やっていることも報われず、過ちでも犯罪行為でもなく、戯れとも思われず、日々の日常の中でこなしているわけだ。とりとめがないだろうか。たぶんそうだ。そうであらねばならないのではなく、そうであってもなくてもかまわないようなことが行われ、そこで誰が何をやっていようと、他の誰からも見向きもされないようなことをやっていてもいいのであり、無視されて当然であるようなことが行われているのではないか。しかもそれだけではない。やっていることがすべてではないわけだ。他にやってもやらなくてもいいようなことが山ほどあり、それらの数は果てしない。それらが無為の行為である限りは、それらの中から何か特定の行為を選んでやっているとしても、そこから利益を得ようなんて考えないほうがよさそうで、そのほとんどは他人の思惑とは無縁のなのであり、自然現象の一部でさえあり、誰がやろうとしてやっているような行為でもない。

 結果など気にしないほうがいいようだ。いちいち気にしていられない状況なのだろうか。こだわるような結果などもたらされないだけかもしれず、それは何の結果でもありはせず、気に入らないからといって、はじめからやり直すことなどできはしない。すでに取り返しがつかない。後戻りできずに前進するしかないわけだ。すべてがそうなってしまっているのではないか。そしてその逸脱した言葉の連なりをどう現実に結びつける気なのだろうか。気ではなくつもりなのか。現状では荒唐無稽だろうか。だがそれもいつものことでしかなく、国家主義や資本主義や民主主義を打倒するのではなく、何か他にもっと現実的なやり方がないだろうか。現状でも国家とは無関係な営みが国家を超えて世界中に広がり、金儲けや商売に反する行為も世界中に広がっているはずで、ただそれらの行為が政治経済的な言説では無視されているわけで、メディアを介して人々に伝わっているとしても、改めて問題となるようなことでもないのだろう。人々は意識せずにそれを実践している。今はそれだけでは生きて行けないだろうが、たぶん今後そんな領域が社会の中で徐々に浸透し広がっていくのかもしれず、あからさまにそれを推進するのではなく、日頃の行為の中に意識せずに忍ばせておくことが大事なのかもしれないが、何が大事だとも感じないレベルでそうしていけばいいのだろうか。しかし具体的に何をやっていることになるのか。現状では何も具体的ではない。自身が何をやっているのかもわからないままに、それをやっているとすると、それは人為的な操作や制御とは違い、人にはどうすることもできない自然な行いでしかないのではないか。でしかないのではなく、実際にそうやっているわけだ。何をやっているかは気づかずともかまわないようなことをやっている。たぶんそれに期待したり一縷の望みを託したりしても無意味なのだろうが、無意味であるからこそ、人為的な国家・資本・民主といった主義主張の罠をすり抜けることができるのであり、それらの宗教的な教義を無化する可能性もあるのかもしれない。しかしそれとはなんなのか。例えばそれはファストフードや居酒屋チェーンなどのアルバイト店員が抱いているようなことかもしれず、今のところはそれがなんだか判然としないが、そこに未来への可能性があるのではないか。その立身出世願望などとは無縁の境遇からもたらされた感覚が、従来のありふれた価値観を無化してしまうとき、それに代わる何がもたらされるわけでもない代わりに、たぶん何ももたらされないことが肝心なのかもしれず、そんな生息環境以外には何もないことが、人をそれまでには思いもしなかったような方面へと導くのだろう。要するに今のところはそれがなんだかわからなくてもかまわないわけだ。


1月10日「異議申し立ての成果」

 より現実的な変革を求めるとすると、いわゆる保守派と同じような主張となってしまう。民主主義と資本主義の維持継続を前提とした上で、何か説得力のありそうな意見を述べた方がいいのだろうか。ありがちなことを主張するならそうなるのではないか。要するにそれではつまらないから、荒唐無稽で支離滅裂なことをわざと主張してしまうのだろう。否定的に語るなら民主主義とはデモクラシーのことで、民による民の支配の形態であり、危機的な状況においてそれは、必然的に独裁に帰結する。民は直面する危機を乗り越える独裁者の出現を期待してしまうわけで、それが安易な英雄待望論としてメディア上で唱えられ、それが既存の政治家を否定する理由となるのだろうか。そんな時代も過去にあったかもしれない。いつの時代でもそうだっかもしれない。無い物ねだりの果てに、不快でお粗末な現実に行き着いて落胆するわけだ。それが現状なのだろうか。現状でもなんでもなくそう思い込んでいるだけなのであり、ただ誰もが思い通りの結果に行き着かずに焦っているのが、今誰もが直面している現状なのではないか。それでかまわないのだろう。うまくいかないのはいつものことであり、これまでもうまくいかなかったのであって、きっとこれからもそうだろうし、政治経済的な現状などこの程度でかまわないのではないか。19世紀ヨーロッパの超格差社会でも、人々は普通に生き、それなりに暮らしていたわけで、当時ヨーロッパ諸国の植民地となっていた地域でも、その状態が当然のことのように思われていたはずだ。貧しい人たちの誰もが過酷な奴隷労働に従事していたわけでもなかったし、そこに人々の日常があり、それなりの文化や文明があったのだろう。そんな時代がとうの昔に過ぎ去った現代においても、相変わらず過酷な労働を強いられている人もいるし、低賃金のつまらないパートタイム労働をこなしている人もいる。昔とは状況が様変わりしたかもしれないが、やっていることは労働と余暇の繰り返しでしかないだろうか。それらの何も生きがいにも感じていない人もいるし、もっと前向きに生きていること自体に意義を見出している人もいるのだろう。たとえ原発事故によって多くの人の健康が害されていようと、現状でも多くの人たちが日常の中で生きていて、普通に暮らしていることに変わりなく、いくら環境派が放射能被害を言い立てても、危機を煽ってみても、心の片隅では心配しつつも、表向きは平然としているわけだ。結局その程度のことでしかない。むろんそうやって現状を肯定し、それを受け入れてしまっては、何も変わらないわけで、より良い社会や暮らしを求めて、現状の政治経済の仕組みや制度に対して異議を唱えている人も多い。

 それらの仕組みや制度を変えながら、誰もが納得するより良い状態を模索するのが、政治家の務めであり、そのような政治家を支援すべきだし、人々は選挙においてそのような政治家に投票すべきなのだろうか。言うのは簡単だ。実際にどうそれを見極めればいいのだろうか。誰がまともなことを主張していて、それを実行できる力があるというのだろう。それを批判するのはたやすく、その気になったらいくらでも批判できてしまい、理想論などいくらでも述べることができる。だがそれらの何が実現可能なのだろうか。やろうとしている目標をいつまでに達成できるのか。そんなことなどわかるわけがなく、それとは別次元で、首相が年末年始の休暇に財界関係者とゴルフを楽しんでいることがニュースになったり、それを政財界の癒着として批判している人もいるが、そこに関係者たちの安定した連携があり、強固な連帯もあって、そのようなコネクションを通して、それらの人たちの了承を得ながら政策が決定され、何やらそこで政治が行われているわけで、そこから推測されるのは、人々が理想とする民主主義的な制度や仕組みと現状との間には、たぶん次元や価値観の異なる隔たりがあるということだ。政治家たちがいくらきれいごとや建前を語ろうと、実際にやっていることは、それとは別の手続きや道筋を経由して行われなければならず、結局人々はそんなことを平然と行なっている政治家の良心や善意に期待しているわけで、民主的な制度や仕組みの形骸化に気づいていながら、それらを考慮に入れずに、相変わらず実現とは無縁の建前論や理想論に期待を寄せ、それを支持するか否かの判断基準として、選挙での投票に結び付けている。たぶんそこに生じている理想と現実の背離に気づいていながら、それを放置するしかやりようがないわけで、社会の中で機能していると思われるすべての制度や仕組みは、時代の実情に合わなくなればいずれ形骸化する運命なのだろうが、それをその都度変更したり修正したりを試みているうちに、間に合わなくなってしまうことの方が多いのかもしれず、それらの政治改革も、政治家たちの良心や善意に期待するしかないのが現状だろうし、その期待がなかなか叶わないまま、虚しい落胆を生じさせているうちに、むしろそれらの形骸化につけ込んで利用しているのが、今の為政者の側であるわけで、それも多くの人たちの批判していることなのだろうが、どうもまだその批判が、批判としての成果を上げていない現状があるらしい。


1月9日「宗教の価値観」

 もしかしたら貧富の格差など極端に広がった方がいいのかもしれない。資産などいくら持っていても、貯蓄や投資以外には使い道がないだろうし、それがいくら天文学的な桁外れの額になろうと、普通の一般人にとっては縁のないものだ。他の何に使うあてもなく、利子だけでも貯まり続けるだけ貯まり続ければ、やがてそれは価値のない無用なものとなるだろう。結局資産をいくら所有していてもどうでもよくなってしまうのではないか。要するにただ貯蓄して、それを増やすためだけの資産となるわけだ。ごく少数の人や団体の資産がそうなったとしても、それ以外の一般の人たちは、相変わらず何事もなかったように暮らしているのではないか。そこで生まれて生きて死んでゆくだけかもしれず、この先いくら超格差社会になろうとどうなろうと、そこに人が存在しうごめいていることに変わりはないわけだ。ただ生きる目的が状況に合わせて変わってくるかもしれないが、今の時代に生きている人にとって、そんなことは知りようがないし、どうでもいいことだろうか。格差社会の進行に警鐘を鳴らしている人たちは、何を恐れているのか。革命が起きてはまずいわけか。社会の底辺で暮らす人たちは経済的に困窮してますます追い詰められ、絶望の中で生き、そして極貧の中でみじめに死んでゆくわけか。たぶんそれでかまわないはずがないのであり、どんな境遇にある人でも、人としての尊厳が保たれる最低限の暮らしが保証されなければならないわけだ。そのための生活保護制度というわけか。要するに金持ちがより金持ちになればなるほど、生活保護を受けざるを得ない人たちも、それだけ増加するということだろうか。この世がゼロサム社会ならそうなるのも当然の帰結か。実際に先進諸国では経済成長が鈍化しつつあるのだから、そういう傾向になるのも納得できる状況にはあるのだろう。この先画期的な技術革新を促す科学技術などが生まれなければ、文明は進歩のない長い停滞期に突入するのではないか。結局いつまでたっても車輪のないエアカーみたいな、未来の乗り物などは実現されず、宇宙旅行なども夢のまた夢で、核融合エネルギーの活用も人工では無理で、自然の太陽から得るぐらいに落ち着くのだろうか。宇宙開発などあり得ないのだろうか。まさかそういう時こそ、貯める以外に使い道のない膨大な資産が役に立ったりするわけか。超格差社会が生み出す膨大な資産を利用して、民間企業が人類の夢を実現すべく、宇宙開発に乗り出し、月や火星に人類の居住施設でも建造するのだろうか。そんな辻褄の合わない目的のために、今必死になって金持ちたちは資産を貯め込んでいるわけか。

 冗談はさておき、物や情報と貨幣が交換できることを信じるのが宗教であるとするなら、公平な選挙によって国民の主権を示せると信じることも宗教のたぐいだろうか。ではキリスト教やイスラム教などの既存の宗教と、資本主義や民主主義という今日的な宗教の違いはなんだろう。人々は貨幣を商品と交換することによって、また投票を主権者の権利の行使と信じることによって、いったい何を得ていると思い込んでいるのだろうか。それは既存の宗教において、神を信じることによって得られる何かとどう違うのか。実際に貨幣と交換して得られるのは商品そのものであり、投票によって得られるのは、政治に参加しているという思い込みであり、神を信じることによって得られるのは安心感だろうか。信じられるものが何もなければ、そこに残っているのは疎外感や不安感などの否定的な感情だけだろうか。実際に商品を所有できたと思い込むことが、貨幣の交換価値を実感させ、自らが投票した候補者が当選して、実際に議員や首長として活躍していていれば、自分も何か権力を行使したような気になり、自らが信じる宗派が興隆を極めれば、その宗派の一員となっていることを誇りに感じるだろうか。たぶんそれらはそれぞれに違う価値観を形成しているのではないか。そのすべてを宗教というカテゴリーに含めて、ひとくくりに論じることが可能だろうか。何か共通点を求めなければ、語っている内容が説得力を伴わないだろうか。簡単に言うならそれは信じるという一点だけか。人は信じることでしか成り立たない行為に依存しながら生きている。信じなければ生きて行けないのであり、他のより多くの人たちも、自分と同じように信じてもらいたいわけで、そのような状態になれば、多くの人たちと価値観を共有できたと思い込んで安心するわけだ。結局世の中は人の信用で成り立っている社会なのだろう。人は他人を信じ込ませるために必死で言葉を操り説得して、それが信じられているうちは他の人たちと連帯でき、その信用が崩れ去ると詐欺として告発されたり、大かがりになると紛争や戦争を招いてしまう。その他人の信用を利用してうまく立ち回れば、富を貯えることができ、大金持ちになれるわけで、それがある程度まで行けば自動的に利子収入を得て、どんどん資産が膨らんでいってしまうわけか。ごく一部の人たちの資産がそうなるとしても、それでも人々は必要とあらば資本主義を信じ続けるのだろうか。それともその必要が信じることを強制しているわけか。


1月8日「宗教と経済」

 この世界の片隅で何かが渦巻いている。誰かが陰謀を巡らせているのだろうか。そうであってほしいのではないか。実際は違うとでもいうのだろうか。曲がりなりにも人間が人間社会を操作しているように見せかけたい。それが自然の作用であってはならないのだろうか。偶然の巡り合わせということでは納得がいかないか。どこかに黒幕と呼ばれる人物が闇の組織でも率いていて、影から世界情勢に影響を及ぼしている。そんな筋書きで事態の推移があるとすれば、何がどうなっているわけでもなく、恣意的なフィクションを思い描いていることになってしまうわけか。そこにも誰かの都合が反映しているのではないだろうか。それは物語を空想している誰かの都合となりそうだ。だが人の都合をそう簡単に聞き入れてくれるような世界ではない。絶え間ない働きかけが必要だろうか。人に対しても自然に対しても、なんらかの働きかけが欠かせないようだ。そうしないと願いを聞き入れてもらえないのだろう。彼らには願いがあり、思惑通りに事が運んでほしいのだろう。しかし思惑通りとはどういうことだろうか。人それぞれで違うことはわかるが、それぞれに思惑があり、それらの思惑が交錯し混じり合い、化学反応のような事態を引き起こし、それで誰の思惑とも微妙にずれた事態にでもなったらおもしろいか。それも人それぞれで受け止め方も異なるのではないか。具体的に何を述べているのでもない。何も述べられないから、そんなあやふやな言い回しとなってしまうのだろう。まだ誰が何を言っているのでもない段階らしく、辺り一帯は沈黙が支配しているようにも思われ、そこに人影は確認できないようだ。そして相変わらず虚構の語り手が語りすぎている。何も語っていないのに時間が経過し、言葉が無駄に連なっているようだ。それらの陰謀とは無縁でありたいのか。内省する自意識が何を求めているはずもない。内省自体が無効なのではないか。そんな行為にはおかまいなく外部からの執拗な働きかけがあり、それに屈してしまえば楽になるだろうが、それでは思惑通りとはならないわけだ。だから必死に抵抗を試み、自然が及ぼす絶え間ない同化作用に逆らい続けているらしい。それらの作用は有無を言わせず同意を強いるような働きがあり、たぶん不快感を生じさせているのだろうが、たぶん不快に感じないような作用はなく、根負けして逆らうのをあきらめたら、変化を受け入れたことになるような作用なのだ。

 まずはユダヤ教が人々に変化を強要し、次いでキリスト教がその後に続き、さらにイスラム教が後に続いた。異民族を改宗させ、共通の価値観の下に共通の文化を築き上げるように促してきた。そしてそれらの宗教が同じ地域に混在するとどうなるだろうか。宗教の違いを対立や紛争のいいわけにできなくなるということか。煽っている人たちはテロの標的になり、暴力による解決に導かれて破滅が予感され、その誘惑に屈した人たちがメディア上で踊りだす。意見の異なる人たちを攻撃しなければならない。それが国家であれ資本主義であれ、攻撃目標はいくらでもありそうだ。自分たちが虐げられていると感じたら、それを行動に結びつけなければならない。だが同じ宗教や宗派でも、貧しい移民は攻撃対象となり、アラブの王族は高級ブランド商品を大量に買ってくれるお客様だ。結局は功利的な利害関係で、利益をもたらす金持ちの人々には媚びへつらい、安い賃金で働く競争相手は排除しなければならない。世の中はカネがモノを言うと単純化してはならないのかもしれないが、人々が経済的な利害関係を自らの行動や言動の指針としていることは確からしい。意識するしないに関わらず、害になると思われる人々には不快な感情を抱くのだろうし、たとえ利益をもたらす人々であっても、自分達よりは格上に感じられるとあまり好意は抱かないはずで、それが自分たちと価値観を共有しない人々ならば、なおさらそう思われるのではないか。他人に媚びへつらってはならないだろうし、どのような境遇にある人々でも、対等に接するべきなのだろうが、そこに経済的な利害関係が生じると、そうも言っていられなくなり、なんとか自らに利益をもたらそうとして、接する人によって格差を設けようとしてしまうのだろうか。人と人との間になんらかの関係が生じると、赤の他人ではいられなくなってしまい、ついつい感情的な行動や言動を誘発して、気まずい雰囲気となってしまうのかもしれない。そしてその程度なら大したことはないのだろうが、それがメディアを介した間接的な関係となると、容赦なく攻撃してもなんとも思わなくなってしまうのであり、そんな配慮の欠けた無感覚が高じると、テロの攻撃目標となってしまうのだろうか。とりあえず痛みを直接感じられないのが、メディアの利点でもあり欠点でもあるのだろう。


1月7日「結果から生じる勘違い」

 今やるべきこととはなんなのか。それは功利とは無縁の何かを導きだすこと、あるいは幸福とは無関係の何かを目指すこと。かろうじて冗談の領域に踏み込まないで語るとすれば、今のところはそんなふうに語るしかないだろうか。そう語れば、少なくとも冗談にならないような何かを探求していることになり、そう語ることによって、なんだかわからないそれを明らかにしようとしているのかもしれないが、結局それは、とりたてて導き出そうとしなくても、意識して目指さなくてもいいような何かなのではないか。そんなことをしなくても、すでにここにあるはずの何かなのかもしれない。そしてそれがあることに気づかなくてもよく、別になくてもかまわないのかもしれない。だがそれではなんでもないことになってしまう。何かでさえないのかもしれないなら、ではそれはいったいなんなのだろうか。功利でも幸福でもなく、何かでさえない何かとはなんなのか。わかるわけがないだろう。ただそう述べることによって、功利や幸福を否定したいだけなのではないか。だが否定しつつもそれに引き寄せられてしまうのはなぜだろう。たぶんそれらを求めることが、社会の中で生きていくことの必須条件なのだろう。そこに暮らしているすべての人がそれらを目指すことによって、人間社会は成り立っているではないか。それらは人の心に芽生えた共通の価値なのかもしれない。至上の価値というわけではないだろうが、とにかくそれを獲得した気になると、心が満たされた気になるわけだ。その大部分は気持ちの問題であって、具体的に何を得ればそうなるかは、それぞれの人がいる場所や時期から生じる目標によって異なるわけだ。それは私的あったり社会的あったりする何かなのかもしれないが、とりあえず人々はそれを得て、自らが公的にも私的にもうまくいっているように見せかけたいわけだ。そしてその中には世間一般に通じる虚栄心の類も含まれていて、それが他人に見せびらかしたい部分でもあるのだろうし、要するに具体的には社会的にそれなりの地位や名誉を手に入れ、どこに出しても恥ずかしくないような家族に囲まれて、幸せに暮らしているように見られたいのではないか。また人がうらやむような人となりと、個人的にも社会的にも健全な人間関係を築き、立派な職業を持ち、その地域の名士になれれば、他に言うことがないだろうか。しかしそうなるとさらに欲が出てきて、地域の名士では飽き足らず、その国を代表するような著名人になりたくなってくるのではないか。政財界に幅広い人脈を築き上げ、それを足がかりとして、次第に地方から国の中枢部へと勢力を広げてゆくわけか。しかしそこまで行くと話が冗談でしかなくなるだろう。

 そんなふうに語るすべては、フィクションでしかないだろうが、どこかで話がずれていることは否めない。ただ冗談で暴走しているだけか。やるべきことはそんなふうに語ることではないのだろう。目指さなくても導きだなくてもいい何かがここにあり、それを享受しながら語りつつあるらしい。たぶんそれは空疎や空虚ではない。それ以外なら語れるそれが何かなのだ。それでは答えになっていないだろうが、ともかくそう語るしかないような何かを語ろうとしているわけで、語ろうとして語り得ないから、そこから逸脱して、それとは別の何かについて語ってしまう。そしてその別の何かが冗談と結びついて、記しつつある言葉の連なりをその先へと延長させるわけだ。それがこの場での語りを構成し、それらを含んだ文章がここに示されている。そしてそれらの文章の中で語られている内容を否定するわけにもいかない。たとえそれらを小馬鹿にした語りに終始しても、そこで語られる人間社会の有り様を認めざるを得ないのであり、誰もが大なり小なりそのような誘惑に駆られながら暮らしているわけで、そんなくだらない誘惑があるからこそ、それに逆らいたくなってくるのだろうし、特に逆らわなくても、実際に虚栄心をもたらすそれらは、一握りの人たちしか享受できない立場や地位なのだから、その他大勢に甘んじている人たちにとっては、あこがれたりうらやましく思う一方で、嫉妬や憎悪の対象でもあり、隙あらば足を引っ張りたいし、落ち目になったらざまあみろと嘲笑したいわけで、そんなありがちな反応も含めて社会が成り立っているわけだ。そしてそんな虚栄心に魅入られ、それを目指したり、目指して手に入れたり、あるいは手に入れられずに挫折したり、目指す立場にもなれずに、物欲しげに眺めているだけの人たちが、それらすべての人たちが、まがい物の烙印を押されてしまう人たちなのかもしれない。そこに根本的な勘違いが生じているのかもしれず、それらはすべて何か行為をした結果でしかなく、意識して目指すようなものではないのだろう。何かをやっていれば、そのやっている何かからその行為特有の成り行きが生じ、その成り行きに身をまかせてやり続けていくと、やがて何かしら結果のようなものを受けれざるを得なくなり、その結果が社会的な立場や地位であったりするわけだ。たぶんそれは初めから目指されていたものではなく、何かをやっているうちにそうなってしまった結果でしかなく、他の人が同じようにしたからといって、そうなるわけでもない結果なのだ。


1月6日「格差社会の原理」

 企業はその規模が巨大になればなるほど、その経営者や役員の取り分が多くなる。資本主義市場経済の中で企業同士がシェアの奪い合いをすれば、より多くのシェアを奪って競争に勝ち残った企業は、売り上げを伸ばして巨大化し、競争に負けた企業を吸収合併して、さらにその規模が雪だるま式に大きくなる。そこで行われているのはそういうことでしかない。巨大化した上に業績も伸ばせば、その分経営者や役員などの管理職の取り分を多くしても、誰も文句を言えないだろうし、企業の株価も上昇してその資産価値も増え、その企業に投資している人や団体も利益も大きくなる。戦争のない比較的平和な地域が拡大して、その期間も長くなり、そこで資本主義市場経済が発達し続け、あらゆる業種でシェア争いに勝ち残った巨大企業による寡占化が進めば、今日あるような格差社会になるわけだ。資本主義市場経済を肯定する限りは、程度の差こそあれ、そのような成り行きになるのは必然かもしれず、国家や官僚機構も、そこに暮らす人々や団体から税を徴収して糧を得ている限りは、それを維持継続させていかなければ成り立たない。そのような仕組みを維持した上で、なお貧富の格差を解消しようとする試みには、ある種の欺瞞が伴う。少なくとも完全な平等などあり得ず、ある程度は貧富の格差を容認するしかなく、そうしなければそこで競争など起こらないだろうし、努力した者がより豊かにならなければ、誰も何もやろうとしないだろう。そこに勤勉という価値観がある限りは、あるいは人類の進歩と調和という矛盾したテーマを追い続ける限りは、人々は互いに競い合って、結果的に調和とは無縁の富の不均衡を作り出して、他人より勝っていると感じたいのであって、そこに生じている他人との格差に応じて満足感を得るわけだ。果たして資本主義市場経済を肯定しつつ、そのような功利的な満足感の追求を否定することができるだろうか。要するに絶え間ない競い合いや戦いが続いている現状を肯定したいのだろう。そしてそこで生じている調和とは、敵と味方の二項対立という予定調和だ。その一方で人々はそこで争いのない恒久平和を夢想しているのだが、それは競い合いや戦いによって、それを阻もうと企む敵を打ち倒した上で、その恒久平和の状態へと至りたいわけだ。それの何が矛盾しているのだろうか。たぶん敵と戦っているつもりの当事者たちには、何の矛盾も感じられないはずだ。

 人々もその目的に沿って結成された企業や官僚機構や各種団体も、自分達が永遠に勝ち続ける状況を構築したい。建前上ではウィン・ウィンの関係などともっともらしい主張もあるにはあるが、そこには敗者の存在が欠かせないのであり、誰かが負けなければ勝ちはあり得ず、負けた者を無視することでウィン・ウィンの関係が成り立ち、それを達成して維持し続けることが、彼らにとっての恒久平和なわけで、いくら小難しい屁理屈を弄しても、それはごまかしようのないことであり、それを維持し続けるには、あからさまな勝ちを絶えず隠蔽し続けなければならず、敗者が負けている事実に気づかないようにしたいわけで、そのための戦略を模索しながら実施しているのであり、様々な戦術をあれこれ試しているわけだ。民主主義という建前を維持するために存在する選挙や議会制度なども、そのひとつであると考えれば納得がいくだろうか。選挙をやって代議員や行政の長などを選び、民意を反映して選ばれた市民の代表者たちが、国や市町村などの法律や条例や仕組みや制度を作り、そこで彼らが行政を担う官僚機構を制御しているように見せかける。具体的には富裕層により多く課税することで貧富の格差を是正し、貧しい人たちに福祉を提供することで、貧困から生じる各種の苦しみや痛みを和らげようとし、また子供達には質の高い教育を受ける機会を提供し、そこで大人になってから社会人として、また職業人として生きて行けるように、知識や技術や心構えを教え訓練する。また質の高い医療を提供することで、そこで暮らす人々が健康に生活し働けるように、また丈夫な子供を生み育てられるように、長生きして人生を楽しめるようにする。またさらに軍隊が外国からの軍事的な侵攻を防ぎ、国家の対外的な安全を確保し、必要とあらば大規模な自然災害において被災者を救助し、また警察機構が犯罪から国民を守り、法を侵犯した犯罪者を摘発して国内を治安を維持し、さらに司法を担う裁判所がその犯罪を裁き、法を犯した者や団体を処罰し、損害賠償請求にも対応する。そうやって彼らは今ある現状を維持しながら継続させ、できればその恒久平和という勝利をより強化し充実させようとする。たぶん世界中の公的機関で行われていることの多くは、そのような行為に行き着くのではないか。果たしてそれに抗う人々は、それに代わる新たなやり方を提示し実行し実現できるだろうか。


1月5日「現状での暫定的な提言」

 それは当たり前のことだろうが、政治や経済に関する言説の流行は、その時代や時期の状況を反映しているようだ。欧米や日本などの先進各国が、長らく経済の低成長期を過ごしている現在、その現状にマッチした言説が求められているとすれば、その低成長期特有の現象である、経済的な貧富の格差に関する言説となるのだろうか。そこに話題性があり、そうなる理由やそうなった原因を人々は知りたいわけだ。しかし経済の高度成長期と低成長期を比較する理由や必然性がどこにあるのだろうか。しかも国ごとに比較して、その傾向や特徴の共通点を指摘しようとする。そうしないと言説として成り立たないからだろうし、場合によってはそれを書物を著わすほどの分量にしなければならない。そういう目的があれば当然そうなるだろう。経済の高度成長期に人々は富を蓄え、その蓄えた富が、その後に起こる低成長期には資産として物を言うわけか。なんだかアリとキリギリスのイソップ童話みたいな話となってしまいそうだが、低成長期に資産のない者には富を蓄えることは難しそうだ。そこで世界各国が資産への課税を強化して、貧富の格差を是正する必要が出てくるわけか。どうもそう述べてしまうと、これまでのやり方の延長上での、ありふれた政治経済的な結論となってしまいそうだ。確かにそれがわかりやすくて現実的な提言となるのだろうが、なんとも凡庸な提言となってしまい、拍子抜けの感を否めないが、その種の凡庸さが、広く世間一般では至極まっとうな主張として受け入れやすいのだろう。要するに高度経済成長期には所得への課税を強化し、低成長期には資産への課税を強化して、できるだけ貧富の格差を是正する方向で、国家を管理する行政がバランスを取らなければならない。もちろんそんな提言や主張が実効性を伴っているかどうかは疑わしく、資産を持たない者たちの不満を鎮めるための方便と受け取られるだけかもしれず、官僚機構が国家を統治する上で、必要不可欠なガス抜き効果を担う言説として、何か現状の体制でも、うまくいくやり方があるかのごとき見せるための、プレゼンのたぐいなのかもしれない。要するに現状にマッチした言説とは、現状の一部として存在しているのであり、現状こそがそのような言説を必要としていて、別にそれが現状を変えるために提示された言説とは限らないどころか、現状を維持継続させるにはそのような言説が必要不可欠なのだ。

 だがそれに関してあまりうがった見方や見解を示して、皮肉るばかりではらちがあかないことは確かだ。では現状を変えるにはどうしたらいいだろうか。現状を分析してその答えが出て、それを書物という形で発表して、それが広く世間一般に受け入れられ、それを読んだ為政者たちが共感を示し、その書物の中で述べられている提言を実行しようとしたら、果たしてどうなるだろうか。果たしてそういう成り行きになるだろうか。実際にそうなったらおもしろいのではないか。ともかくそういう書物が世の中で話題となっていて、今後それに共感を示す政治家も少なからず出てくるだろうから、何かそれ類する政治的な動きも出てくるのではないか。確か今までにもその手の書物の流行現象があったようにも思われ、何やら著者の有名な経済学者の提言を真に受けて、それに影響されたような主張をしていた政治家も結構いたはずだ。だからたぶんそれらと同じ轍を踏むような現象が今後も繰り返されるのではないか。それの大がかりな現象が、ここ百年の間ではマルクスの影響を受けた共産主義革命や、それへの対抗としてのファシズムの台頭やケインズの影響を受けたニューディール政策だったわけだが、それらの現象が一通り収束した今現在、また新たに世界的な現象が起こる可能性があるだろうか。今後また何かが起こるとすれば、今流行りの書物からそれが予想できるのかもしれない。たぶん破滅的な状況に至る前に起こるとすれば、大した現象にはならないだろうし、取り返しのつかないような破滅的な状況になってから起こるとすれば、やはりそれは全世界を震撼させるような大掛かりな現象となるだろう。そこですべてがリセットされて、世界的にまた一から出直しとなるのかもしれないが、どちらになるにしても、現状の中で生きている者には、あまり関係のないことかもしれず、生きながらえて今後その現象に関係して、たとえそれを実行する側になるにしても、それはそれらの現象の一部となることであり、誰がそんな試みの中で生きていようと、それらの当事者たちには、自らがやりつつある行為の結果など知り得ないのではないか。それによって人々の暮らしがどう変わろうと、そこにはそんな暮らしがある。今の体制や制度を維持継続させることに、何か合理的かつ肯定的な根拠や意義があるのかもしれないが、あるとしてもそれらに従う義理などないようにも思われ、勝手に生き勝手に死んでいくつもりである方が気楽だ。


1月4日「呆れと飽きが来るとき」

 忘れていたそれは、具体的な出来事だったわけではなく、何かの印象や雰囲気だったのではないか。記憶にはそれ特有の香りが伴っていて、具体的な出来事を欠いた印象として保存されていて、あるとき不意に意識によみがえり、理由も必然性もなく己れを当惑させるのかもしれない。だがそれを表現するには言葉の組み合わせが雑すぎるだろうか。上手く表現できていないのだろう。そこで何を語っているのか。過去について語りたいのではなく、来たるべき出来事を予言したいわけでもなく、記憶にとどめられた印象や雰囲気を説明したいのでもない。ではなんなのか。意識の中で揺れ動いている何かを言葉で捉えたいのだろうか。しかし何かとは何か。よくわからないが、捉えきれずにすり抜けてしまう何かには違いない。だからそれを知りたいわけだ。知って理解したいのではないか。そして何処かへ向かいたい。誰も知らない未踏の地点まで進みたいのか。でもそれは比喩でしかなく、実際には言葉を記している地点に留まり続け、そこから一歩も踏み出していないのではないか。できないことをやろうとしていて、しかも自らが何をやろうとしているのかさえわからず、ただ困惑し続けている。そしてどうせそれも嘘の一部で、すでにそれと気づかないまま、フィクションを語り始めているわけで、それもうまく表現できないまま、最初に語り得なかった記憶から遠ざかってしまい、話の意味を担えない方向へとずれてしまっている。でもそこで意味などないと開き直るわけにはいかず、やはり文章なのだから、そこから何かしら意味が導かれなければならないのかもしれない。それは善意や良心から出てきた、言葉を記す上で生じる責任なのだろうか。それとも話に説得力をまとわせて、読む者を魅了するには、そこに共感できるような意味や見解がなければならないのか。だがそれはまやかしだろうか。まやかしに過ぎないとしても、フィクションにはそのまやかしが必要不可欠か。そしてそれの何がまやかしなのでもなく、そのまやかしこそが真実そのものなのではないか。またそうやって逆説的な表現を使って、真意をごまかしているようだが、未だに自らの真意がなんだかわからないまま、むやみやたらと言葉を記し、その記述された文章の中で何かを語っているつもりとなるが、それは不用意な語り以外の何ものでもない。

 そして未だにその中身が定まらない。たぶん想像力が足りないのだろう。なんの脈絡もなく不用意にそう述べて、安易な出口を模索してしまうが、それ以前に語る必然性をもたらせないのだから、何をどう述べてみても嘘になってしまうのかもしれない。そしてそれが嘘でもかまわないところがとりとめがなく、たぶんそこには漠然となんでもありの時空が広がっているように思われ、そうなると逆に話のつかみどころがなく、それ以降は何を述べたらいいのかわからなくなってしまうわけだ。何か特定の事象に意識が束縛されていないと、何も語れなくなってしまうもよくあることで、実際にそれについて語ればいいそれがないわけだ。何についても語っていいから、何も語れなくなる。そこに何か禁止事項がないと、それを巡って言葉が寄り集まってこないようだ。それがなんだかわからないのだから、それは仕方のないことなのではないか。それとはなんだろう。改めて問うまでもなく、そのなんだかわからないそれについて語っているつもりが、実質的にはそれ以外の何かについて語っているようにも思われ、それと同時に何も語っていないようにも思われてしまうのであり、相変わらず空疎な話に終始しているわけだ。なぜそれが続いてしまうのだろうか。わざとそうしているのかもしれず、それを超える内容を求めていないのかもしれない。ではもうあきらめてしまったのだろうか。何をあきらめてしまったわけでもなく、目指すべき何かを見つけ出せないまま、ここまで来てしまったのかもしれず、どこまで来てしまったわけでもないのに、ここがどこなのかわからないまま、ここまで来てしまったと実感するしかないような心境に陥っているのかもしれないが、それも虚構であり、本当は実感も心境もありはせず、ただそんな言葉をいい加減に記しているに過ぎず、それでもやはりここには何もない現実があるわけだ。そして記された言葉の連なりによって、何もないという現状が装われ、さっきからひたすらつまらない話が続いてしまっているのかもしれないが、現状ではそれでかまわないわけで、そしてそれは誰にとってかまわないわけでもなく、その結果として話に内容が伴わなければ、つまらなくなるのは当然のことだ。実感とはそういうことだろうか。それでも空疎な内容であっても最低限の技巧を凝らして、それらの文章を構成しようとするわけだが、それでいいとは思わないが、そうせざるを得ない状況らしく、さらに独りよがりにそれらの試みを拡大して、何やら無方向な記述の広がりを表現しようとする。忘れていたのはこういうことだったのか。なんとなくそこに世間的な話題を挟む余地とタイミングを見失いつつあるようだ。なぜそこから離れて語ろうとするのか。しかも語っている内容が空疎だ。やはり世間的な話題に飽きてしまったのだろうか。


1月3日「フィクションへと誘われる意識」

 過去は振り返らずに忘れてしまう性分なのか。意識してそうしているわけでもないだろう。ただ思い出せない。思い出す必要がないわけではなく、必要に応じて思い出せればいいのかもしれないが、どうも行き当たりばったりで、不意に都合の悪いことが思い出され、不快に感じられて、しばらくの間不機嫌になったりするのかもしれず、逆にくだらなくも愉快な思い出が脳裏を掠めれば、至福のひと時でも過ごせるのだろうか。過ぎ去ってしまえばどうでもいいことだ。そう思ってしまえばその通りだろう。今はどうなのか。何か愉快な気分となっているのだろうか。そう語ればもうすでに作り話の虚構の領域へと一歩踏み出している。それは違うのではないか。何が違うのだろうか。思い出の話をしたいわけではなく、かといって他の何を語りたいのでもない。我田引水も何もありはせず、ただの偶然の巡り合わせに過ぎないといえばその通りかもしれない。そこに恣意的な価値観を見出せず、何に直面しているとしても、そんな現実を拒否できないのだろうか。それは今ここにある現実かもしれない。だがそれはただの現実で、どう評価されるような現実でもない。なんでもなければ否定してもかまわないわけだ。こだわらなければなんでもない。こだわる必要がないのなら、別に否定しなくてもかまわない。肯定も否定もせず、ただ受け止めるしかない現実の中で、現状について考えている。現実であり現状であるこの状況であるらしいが、空想の産物でもないだろうし、想像以上の何があるわけでもなく、現実を超える何を想定しているわけでもない。何と何を結びつけ、そこからどれほどもっともらしい言説を引き出せるのか。切実にそう思っているわけでもないのだろうが、本気でそうしたいと欲しなければ、何も導き出せないだろうか。

 何が本気なのかもわからない。常軌を逸して何を願うわけにもいかないだろうし、欲しいものを得るための画策などもなく、どんな策略を巡らしているわけでもない。不都合なことには答えられず、無視される傾向にあり、メディア的にもそんな状況の中で、万人に許容可能なきれいごとが唱えられ、それが守られている限りにおいて、人畜無害な抵抗だけが制度的に許されているわけだ。本当のことを語るわけにはいかないらしく、それが現状では不可能なのであり、事実をそのまま伝えることは禁じられているのだろう。しかしその伝えることが禁じられた事実とはなんなのか。それが分かれば苦労はしないが、知り得ないことを伝えられるわけもなく、事実を事実と感知できないのだから、それでも語ろうとすればフィクションとなるしかないだろう。ではメディア上で語られているのはすべて虚構なのだろうか。そのすべてもすべてではなく、虚構のすべてが語られているわけではなく、それが事実とは無関係というわけでもなく、ただそんなふうに語っていること自体がフィクションなのかもしれず、それをフィクションと見なせば、すべてがフィクションとみなしてもかまわないだけかもしれない。フィクションであると同時にすべてが現実なのであり、現実であることが事実なのだろうし、その事実を感知できないとしても、現実の中でそれを考えていること自体は事実なのだろう。誰もがそれを考えている。いったいこの世界はどうなっているのか、なぜこの世界から抜け出ることができないのか、虚構の中で暮らすとはどういうことなのか、そんなことを誰が考えているわけでもないだろうが、ただ漠然を疑念を抱いていて、疑念を抱いていることすら意識できないのかもしれない。考えているのではなく感じている。この世界の何かがおかしいわけで、何かが足りないのだが、それがすべてではないから、その足りない何かが一つの何かとも限らず、複数の何かでもなく、何かでなくてもかまわないのであり、それがすべてでなくてもかまわないわけだ。そしてそう述べていること自体が、何について語っているとも思えないとしても、そこにすべてがあり、そのすべての中の一部分について語っているかもしれず、別にそれほど広範囲に語る対象が広がっているとも思えないのだろう。

 試しにそう語っているに過ぎないのかもしれず、当然その中にはデタラメに語っている部分も含まれ、それがフィクションの一部を構成し、わざとこんがらかったふうを見せているのかもしれないが、見せられても読み得ない部分もあるのだろうし、読まずに済ますこともできるわけだ。現実に何も読んでいないようだ。記されたそれらを読まずに語ろうとする。せわしなく語ることばかり考え、語りながらも語っているそれを読もうとするが、理解できないままに読んでしまうから、尚のことを読んでいるその内容が空疎に感じられ、次第に興味を失いつつも、さらに読もうとするわけで、それを記した者とは異なる価値観や感覚を生じさせながら、それらの記述に接しているわけで、結果的にテクストを書いた者とそれを読む者との間で、意見や価値の一致を見出すことはないのかもしれない。それぞれが異なる思惑や意図を持ち合わせながら、同じ言葉の連なりを読んでいるのかもしれず、しかもその文章を無視している場合もあり得るのではないか。自らの文脈にこだわり、それを自ら固有の文脈だと思い込み、それがこの世界が醸し出す虚構に幻惑されていることを考慮せず、要するに事実に基づいて思考を働かせていると思っているわけだ。たぶんそれがまごうことなき事実なのだから、それでかまわないわけだ。そこに誰かによって記された文章があり、その中に誰かによって構成された言説があり、その言説を読むことによって理解し得ると思う。実際に理解しているわけだ。そんな理解でかまわないのだろうか。かまわないと思うなら、そういう理解の範囲内に止まっていればいいのであり、実際にそういう理解に基づいて語っている最中なのだろう。だがそれで何を理解しているとも思えず、何について語っているとも思えない。要するに何も語らずに言葉を記しているわけで、そこには言葉以外には何もありはしないのかもしれず、ただ記された言葉について語っていて、言説が説明している内容など無視しながら語っているのかもしれない。それが無内容であるかのように語っているわけだ。要するに倒錯なのだろうか。そこに示されているつもりも内容も、その内容を読んで理解したつもりになることにも、それら両方に虚構が組み込まれているのはもちろんのこと、その虚構こそが示されている内容であり、読んで理解すべきすべてなのかもしれず、テクストを記した者の意図や思惑であり、読む者が想像すべき思考や思想なのかもしれない。そういう成り行きになった時点で、読者は事実や現実ではなく、記述者が言説として構成して見せたフィクションに感動しているわけだ。そして読者が求めているものもそんなフィクションなのだろう。人々は言葉の連なりや映像によって定着された、この世界から抽出された虚構を求め、それを読んだり見たり聞いたりすることで感動する。


1月2日「自らと自意識の虚構性」

 なかなか言葉が出なくて焦っているようだが、急いで先回りするわけにはいかないようだ。途中でうろうろしながら、無駄に時間を浪費している。たぶんそんなことをやっているうちに、何を語ろうとしていたのか忘れてしまうのだろう。忘れる以前に何も語ることがなくて焦っていたのではなかったか。結局まとまったことは何も語れずに無為な時間を過ごしているようだ。後から改めて考えてみれば、別に先回りしようとしていたのではなかったらしいことがわかる。うまく語れない日もあるだろうし、目的もないのに焦って先回りする必要もなく、実際に何のために先回りしようとしているわけでもないのだから、少しそこに腰を落ち着けて、そこでそれなりに考えを巡らせてみたほうがいいみたいだ。言葉を記すことは試行錯誤の繰り返しでしかないのだから、結果としてうまくいかなくてもかまわない。何かが記述の邪魔をしているわけで、その障害物を取り除かない限りは、何も語れないのかもしれないが、そこに障害物があると語るのも、比喩でしかないのだろうし、語ることが何もないから語れないのだとすれば、それは障害物でもなんでもなく、ただの空虚で無内容なのではないか。要するに比喩的な表現では、何もないことが記述を妨げる障害となっているのであり、何かあるかもしれないのに、その何かが見つけ出せないとこともその原因や理由として、持ち出すことができるのかもしれないが、それが結果としてそこには何もないと語ることを許しているのであり、何を語るでもないのにそうやって、何もないと語りながらも、語りを継続させることができるのであり、それを読む者の存在など考慮しなければ、そのまま何もない空疎な語りを延々と続けられる可能性もあるのかもしれないが、たぶん途中で良心の呵責と自責の念にとらわれ、これではダメだと思ってしまうのだろうし、もっと何か中身のあることを語らなければ、と決意を新たにして語ろうとするわけだ。それが無為で無駄な試みだとは思わないが、なぜかそこで嘘をついているように思われ、やはりここは正直に、何もない現状を何もないように語った方がいいのではないかとも思われ、何もない現状のままに、つまらないことを延々と語ってみようとしてしまう。たぶんそれでかまわないのだろう。そんなふうにして自らに正直であることに、誇りを持ちたいわけでもなく、たぶんその自らが自らであるような現状こそが、虚構なのかもしれず、本当はそこに自らと名乗る自意識さえ見当たらないのかもしれず、どうしても何もないことを表現できないことから生じる苦渋の選択として、そこに自意識を伴った自らを捏造せずにはいられないのかもしれない。

 しかしそれで何を述べていることになるのか。改めて問うまでもなく、何も述べていないように述べているのであり、それが自己言及パラドックスとなって自らに食い込み、その内面を蝕んでいるのだろうが、それも比喩的なかつ虚構の言語表現だろうし、実際にはなんでもなく、何かを語ろうとするたびに、苦し紛れにそのような表現を記して語ろうとしてしまうのであり、そういう意味で記述や語りはフィクションと深く結びついていて、事実をありのままに語っているつもりが、語り手や記述者の無意識の操作が必ず生じてしまうのであり、そこには意図的でないにしろ、誇張や歪曲が入らざるを得ない。そしてそれらを含んだ表現形態が言葉の連なりとして示されているわけで、それを利用したメディア以外はあり得ない以上は、そこに含まれている虚構をそのまま受け止める必要があり、表現が虚構を含んでいることを自覚した上で、それに接することしかできはしないわけだ。だからどうしたわけでもなく、それをそのまま真に受けて、それについて大真面目に語ってもかまわないのであり、現実にそうしたことが行われ、それが虚構であろうと現実に基づいた表現であろうと、同等に扱われているのであり、それら全てを含んでいるのがメディア表現なのだろう。それらの表現についてどう思い、どう考えればいいのだろうか。そんな問いではまるで漠然としていてとりとめがない。問うこと自体にはなんの意味も意図もないのではないか。何もないので苦し紛れに問うているだけだろうか。それがそこでの自意識の意図となり、何やらそれを語っていると思われ、それについて言葉を記しているわけだが、どうもそのこと自体が釈然としないようで、何も語らず何も記さないわけにはいない成り行きに、自意識が逆らいながらもそれを止められず、成り行き的には渋々語っているわけで、そこに意識的な抵抗があり、それが記述や語りの障害物とみなされるわけだが、それを障害物とみなすこと自体が虚構的な表現であり、何かそうみなすことにも抵抗があり、矛盾を感じてしまうわけで、それの何が矛盾なのかもうまく表現できないわけだが、なぜかそこに恣意的かつ無意識的な思考と記述の錯綜が横たわっているようで、それらをどうやってわかりやすい言語表現にまとめたらいいのか、納得できる回答を導き出せず、未だに暗中模索の試行錯誤ばかりが繰り返されているようで、なにやら何もかもが道半ばで困っているらしい。しかしそれでもそれをやり続けなければならず、そんな成り行きの中で語り、言葉を記している現状があるらしい。


1月1日「信じることの難しさ」

 やっていることが破綻していると思われる時、なおもそれをやっているふりを装うのは、気が退けるだろうか。少なくとも時間の経過が感じられるのだから、それだけ時が経っているわけで、未来に向けて着実に進み続けているのではないか。時間だけは進んでいる。ではそれ以外はどうなのだろうか。破綻をきたしているのはなんなのか。それはものでもことでもなく、ただの印象であり気分的にそう思われるだけか。それでかまわないだろう。あやふやで取り止めがなく、どこへと向かっているのか皆目見当がつかず、同じ場所で停滞しているようにも感じられるのだが、時間だけは着実に進んでいるようだ。未来がないわけではないらしい。確実にあるわけではないが、まったくないわけでもない。時間が進んで行けば、何かしらぶち当たるものやことがあるのだろう。何かに巻き込まれたりするのだろうか。それは事件なの出来事なのか、はたまた現象なのかわからないが、とりあえず今も何かに巻き込まれているのだろうし、その渦中で何かしら考え、何かしら対処しているわけだ。生きている間はそうなってしまう。死後の世界など信じようと信じまいと、生きている間は何かしらやらなければならず、やっているつもりで生きているわけだ。周囲の雑音に惑わされながらも、何かをやり遂げようとして、途中でわけがわからなくなりながらも、とにかくそれをやり遂げようとしている。そこになんらかの行為の継続があるのだろうし、あるように見せかけたいのかもしれず、そのつもりで何かをやっているわけだ。そのやっている何かがこれであり、こうしてこれを続けているのではないか。だがどうもその辺から信じられなくなってくる。これとはなんなのか。これがこれである必要があるのか。そんなことなどわかるわけがなく、これがなんであってもかまわず、これでなくてもかまわないのではないか。要するにこれは蛇足なのだ。何かの付け足しであり、用をなさない何かでしかなく、無駄で無効な何かなのだろう。そしてそうやって一通り卑下したり否定したりした後から、これが始まるわけだ。しかしこれとはなんなのだろうか。これ以上は愚問を繰り返すわけには行かなそうで、さっさと本題に入らないと、いつまでたっても空疎な内容に終始してしまいそうだ。だが果たしてそこに本題が含まれているのだろうか。

 たぶん誰もがメディアが伝える世界情勢から影響を受けながら、世界に対してなんらかの認識を抱いている。その認識は出来事や現象の結果からだけではなく、見聞したり体験したりできないことを、想像や類推によって補完することによっても、構成されているわけで、その人が占める社会的な立場や地位によっても、あるいは情報として受け取る量や質やメディアの違いによっても、異なる認識が導き出されてしまうのだろう。だから人によってそれぞれ違う世界観がありそうで、その認識の違いから話がかみ合わない場合もあり、そこからいらぬ誤解や勘違いが生じることもあるだろう。たぶんそこに人と人とがコミュニケーションを取る際の摩擦が生じているのだ。そしてその摩擦を利用して、他人をやり込めようと画策している人たちもいるらしく、他人の主張をわざと曲解して、時に強引に捻じ曲げて、自らのテリトリーに持ち込み、そこで自説の正しさを強調しながら、他人の主張を誤ったものとして糾弾するわけだ。互いにそれを狙うと議論は平行線に終始するわけだが、まあ無理に対立するような関係でもないし、軽い気持ちで他人に調子を合わせようとしたら最後、そこに生じた隙を突いて、ここぞとばかりに攻撃を仕掛けてくる輩がいるみたいで、おちおち善人づらもしていられないわけで、相手の顔や表情が見えないネット上では、注意してかからなければならない。世知辛い世の中といってしまえばそれまでだが、それが見え見えだと察知したら、とっさの判断で意表をつくしかなく、思いがけない方向から先手必勝を攻撃を食らわし、あとはヒット・アンド・アウェイで適当にあしらうだけだ。もちろん相手もそれを仕掛けてきているのだから、別にそれが成功しても失敗してもどちらでもかまわないのだが、際限のない問答の繰り返しに持ち込んで、論争相手が疲弊するのを楽しむような、悪意に満ち満ちた人たちをのさばらせるわけにもいかないので、結局こちらも始めから強い態度で非寛容を貫き通して、不快な議論の平行線に至らないうちに、始末をつけようとしてしまいがちになるが、それがどこまで通用するとも限らないので、できればそれとは別の切り口や引き出しも用意しておいて、相手の不意をついてそれを繰り出したりして、なるべく万全を期したいところだが、能力にも限界があるし、持ち合わせも大して豊富でもないので、とりあえず自らの主張を正当化せざるを得ないような、窮屈な姿勢はやめることにしているので、行き当たりばったりで強引で理不尽な言動を繰り出し、時にはめちゃくちゃなことを述べて、相手を呆れさせるように心がけているつもりだが、それも倒錯的で皮相な振る舞いでしかなく、物事の本質からかけ離れているようにも思えるのだが、その一方で、どうもコミュニケーションによる合意など信じていないのであり、合意とは否定的な妥協以外にあり得ないような気もしていて、そこで逆に他人を信用することの難しさを痛感させられるわけだ。


2014年

12月31日「荒廃に加担する人々」

 何をあきらめることもできるし、一方で何をあきらめているわけでもない。法もルールも、そこから逸脱した者に社会的な制裁を加えようとする者たちが利用する分には、邪悪な力を発揮するのだろうし、理不尽な行為に逆らう者を弾圧する手段に使えるわけだ。法律に抵触しなければ、たとえそれが理不尽に感じられる行為だろうと、文句を言われる筋合いがないとなれば、その理不尽に感じられる行為を禁じるような法改正が行われるべきなのだろうが、そんな機運が生じるに至るには、理不尽な行為によって不利益を被る犠牲者たちの抵抗が不可欠なのかもしれず、多くの犠牲者を出しながら、それが取り返しのつかぬ社会問題となった末に、ようやく行政が重い腰を上げて、言い訳程度の軽い法改正に踏み切る場合がほとんどだとしたら、そのような仕組み自体が、理不尽な行為に抗う人たちを、助けたり守ったりするようにはできていないということだ。逆にそのような行為には目を瞑り、多少の行き過ぎは大目に見て、とにかくその地域の雇用を確保して利益を継続的に出し、そのような地域経済に貢献する企業を優遇する方向へと、行政が動くことはよくあるパターンだろうし、結局そうやって産業振興の功利主義が優先されるとすれば、それによって生じる環境破壊に、ごく一部の人たちが反対の声を上げたところで、地域ぐるみでその声は封殺され、逆に声を上げた人たちを弾圧する結果を招いてしまうのかもしれない。法はそれを破る者を罰するためにあり、権力に逆らえば法から逸脱するようにできていて、逸脱した者を見せしめに罰することで、社会の秩序が権力の支配のもとに保たれるようになっているわけだが、ともかく法を破る者がいなければ、法のもとに暮らす人々は、法の存在を意識できないのであり、破る者を罰することで法の存在意義が強調されるのだから、破る者の存在を前提とした法があるわけで、世の中には法を守る者と破る者の両方が存在する。そしていつ自らが法を破る側になるとも限らないわけで、直接の利害関係になければ、何も行政や司法と一緒になって、法律を破った嫌疑をかけられた者を弾圧する必然性などありはせず、攻撃したり差別したりするいわれもないわけだ。行政や司法や立法を担っている権力者たちが法を破っている場合ならば、法を強要している側がその法を破るわけだから、それこそ非難の対象となり、そのよう行為は徹底的に糾弾されるべきだろうが、例えば近所に産廃を積まれて騒いでいる人を、なぜ産廃を積んだ業者の味方づらをして攻撃する必然性があるのか。別に騒ぎすぎて目障りだから訴えられて有罪となったとしても、赤の他人がその人を非難したり、犯罪者扱いしたりするのはおかしいだろう。嬉々としてそんなことをやってしまう人たちが、世の中を荒廃させていることは確実なのだろうが、たぶんそんな人たちを法的に罰することはできないだろうし、そんな状況に絶望して頑なな原理主義者になってしまう人が出てくるのも、無理もないことかもしれない。

 ではどうすればいいのか。身軽な立場で自由に行動できる人は、理不尽な行為に抗う人たちをできる範囲内で支援するしかないだろうし、それが高じて頑なな原理主義者になったところで、まあ仕方のないことなのではないか。たとえ彼らが攻撃的かつ独善的な言動で企業や行政を糾弾していようと、それを不快に感じても非難すべきことではないのかもしれず、それはそれとして、そのような成り行きを招いている現状があるのだから、肯定も否定もせずに受け止めておけばいいのではないか。そして例えば選挙で投票に行かない人たちを、そういう人たちと一緒になって批判する気にもなれない人たちがいるとしても、それもそれでかまわないことかもしれない。現実に様々な立場の人たちが、様々な立場を維持しながら生きていけているわけだから、そのような状況を否定的にとらえる必要はないわけだ。このままでは社会が荒廃して、国家が破滅すると本気で思っている人たちがいるのかもしれないが、現実にそうなったとしても、なおそのような状況下で平気で暮らしている人たちが大勢いるのではないか。現実に無政府状態のソマリアでもそこで多くの人たちが暮らしているわけだ。そこに行政を統括する政府や官僚機構があろうとなかろうと、理不尽な行為がまかり通っていようといまいと、人は人を求めていて、何かをやる対象としての人を必要としているわけだ。だからそこに社会があり、そこに人々が暮らしているのだろう。そこで何かを生産して、生産した物や情報を交換し合いながら生きているわけだ。理不尽な行為や不快な行為に抗ってもかまわないし、無視されたり黙殺されたら騒ぎ立ててもかまわないわけで、騒ぎ立てる勇気や根性がなければ、黙って権力の圧政や地域的なムラ社会の中で耐え忍んでいてもかまわない。要はやれる範囲内で何かやるしかなく、そのやっている行為が気に入らない人もいれば、中には同調したり同情したりして、そのような行為を支援する人もいるわけで、そのような状況の中で、自分の価値観に照らし合わせて、そのような行為を肯定したり否定したりすればいいのではないか。無論そんな傍観者的な立場でいられないから、人はそれらの成り行きや現象に巻き込まれていってしまうわけだが、巻き込まれたとしても、その中でもできる範囲内で何かしらやるしかないだろう。ともかく出口などありはしないのであり、その中で右往左往して思い悩んだり絶望したりしながらも、うごめいていることしかできはしないだろう。


12月30日「理想と現実の背離」

 しかし何が問われているのだろうか。何も問われていないのかもしれず、問う側が勝手に見当違いなことを問いかけているのかもしれない。政治はどうあるべきか、経済はどうあるべきか、民主主義はどうあるべきか、などとそこに何か理想とする価値観のようなものを設けたいのかもしれないが、現状を憂う人たちによって発せられる問いかけは決まって良識ある少数派から発せられる。本来ならどうあるべきなのか、その本来の姿が定まっていないのはわかりきったことで、たぶんそれは来たるべき社会や世界において実現されるべきものなのかもしれず、未だ実現されてない架空の有り様なのだろう。そして良識ある人たちがそれを求め、理想的な社会や世界の有り様を実現させたいのだろうが、少なくともそれは現状からはかけ離れた有り様なのではないか。たぶんそれをナイーブな人が具体的に示すと、空想社会主義とか揶揄される代物になるのかもしれず、保守派から小馬鹿にされるわけだが、そんなことがどこで問われているのでもなく、ただ漠然と各人が思い描いていることでしかないのだろうが、そんな些細でとりとめのない願望が、人々の無意識に影響を及ぼし、現実の政治や経済を転換させるような力となる日が、いつかやってきたりするのだろうか。それもとりとめのない願望の一部となっていることは確かだろう。それがはっきりしないしないまま、一方では現状の政治経済ではダメだと思っているのだろうし、それらのどこがダメなのか多くの人たちが指摘し批判しているわけで、そのダメなところを改善していけば、漠然と思い描いている理想状態に近づいていくと思うのだろう。そしてそれは現実の為政者や官僚たちが行っていることとは無関係なのかもしれず、彼らの実務や法整備などの仕事の中では意識されず、その功利的な価値観に基づいた言動や行動からは、無視されるに等しいことでしかないのに、潜在的には彼らがやろうとしている功利主義の徹底を阻むような力を働かせているのかもしれない。そんな作用が時として彼らを苛立たせ、社会的な弱者を痛めつけるような行為や発言を誘発するのだろうか。彼らにしてみれば無駄で無意味でしかないようなことに、多くの人たちが気を取られていて、国力や国家経済の持続的な発展を妨害していると映るのかもしれないが、なぜそれらは互いに対立する概念となっているのだろうか。ただの理想と現実の背離でしかないわけか。

 そのなんだかはっきりせず、漠然と思い描かれているだけの理想が、実現することはあり得ないのかもしれないが、たぶんそのあり得ないことが大事なのかもしれず、行き過ぎた功利主義を実践するに際しての障害となり、世の中の多数派を苛立たせ、理想主義者を嘲笑しながら攻撃する理由となり、現実の社会で、あるいはネット上で口汚い罵りの言葉が行き交い、なにやらそこに深刻な対立があるように装われているわけか。それを真に受けてどちらか一方の陣営に加担し、その対立を増幅させるような役回りを担うことにも魅力があるようで、多くの人たちが抗議活動やそれに対するカウンター運動に気を取られ、それに関するもっともらしい発言や言説を誘発する糧となっていて、いわゆるそれらが社会現象として人々を魅了しているのかもしれないが、そんな素人参加の劇場的な見世物興行とは別に、日々の生活の糧を得るための職場があり、暇人や学生を除くほとんどの人たちがそこで働いているわけで、そこでの現実も、彼らが思い描く理想状態からはかけ離れた状況があり、職場では民主主義も平等もなく、会社などの組織形態となると上司の命令に従わなければならず、物や情報の売り買いの現場では、売り手と買い手の立場の違いから、倫理や良識を無視しただまし合いを強いられたりして、日頃思い描いている理想的な価値観など通用しないことを、自らの手を汚すことによって思い知らされ、市民活動によって装われた理性や良心の劇場が、まったくの虚構にすぎないことをそこで実感しているはずなのだが、なぜかそれとこれとが意識の中で結びつかず、メディアを通した政治的な立場と、職場での実践の隔たりを感知できなくなっているのかもしれない。職業的な現実からは功利主義的な行動や言動しか出てこないのであり、それを改めようとしない限り、政治や経済の理想状態を目指す試みも空想的なものとならざるを得ないのかもしれないが、そこに経済的な利害が関係してくると、ご都合主義的な理想と現実の使い分けを放棄しなければならなくなり、理想主義者はそれを自覚した上で、なお現実を理想に結びつけて実践しなければならなくなりそうだ。


12月29日「永遠の記述」

 今回はよくわからないままに終わってしまいそうだ。そこに記された空疎な言葉の連なりが、気の迷いを表現しているのかもしれず、その迷いがそのまま記述の行き詰まりを表していて、結果的になんだかわからないことを述べてしまっているようだ。言葉を記すことがすべてではない。もちろん行動こそがすべてでもなく、記述こそが行動を伴った活動の部分的な要素なのだろう。しかしなんのために記述しているのか。ただ記述しているだけでは納得がいかないだろうか。記述する理由を求めているのか。理由だけでは記述を説明できない。他にも何かありそうで、言葉を記すことによって、それに行き当たろうとしているのだろうか。でも具体的に何を探しているとも思えず、そこで飽きもせずひたすら言葉を記しているだけで、それ自体がどうしたわけでもなく、その内容が問題となっていて、そしていつもそこで行き詰ってしまう。内容に行き当たろうとして行き詰まる。要するに行き詰ることが言葉を記す目的となってしまい、その行き詰まりを回避させようとして、さらに言葉を記してしまい、そうやって記述を長引かせようとしていることが、そこでの目的となってしまうわけか。要するにそれでは何も見出せないわけだ。そこには記された言葉の連なり以外には何もなさそうに思われ、他には何も見出せないのでがっかりして、その落胆によって記された文章の内容を読み取る努力も放棄してしまい、結局どうでもよくなってきて、それについて探求する気力も失せて、記述そのものから興味が薄れ、意識が遠ざかってしまうのだろうか。理由も目的もなく言葉を記そうとすれば、行き詰って当然なのではないか。実際に何を語っているとも思えないのだから、それも致し方のないことだろうか。その辺がよくわからないのだが、そんなふうに語っている時点で、すでに内容については語らずに済ませようとしているらしく、そんな成り行き特有のはぐらかしに遭遇している。求めているのは内容ではなく、言葉を記す行為の継続だろうか。それがその場の成り行きなのだろうか。だがそこでやめてしまってはまずいのだろう。続けることで何かが導き出され、記述の継続によって言葉の連なりが生み出され、それが文章なのだろうが、そこから容易に結論を導き出せるとも思えない。結論など求めているとも思えないのに、そんな意図や思惑を無視して結論が導き出されてしまうとすれば、そこでどのような力が作用してそうなってしまうのか。それは恣意的な言葉の操作だろうか。何をやっているわけではなく、何をやろうとしているわけでもないのに、言葉を適当に記して行けば、遠からずなんらかの結論が導き出されるとしたら、もう余計なことは何も考えずに、そんな成り行きに従っていればいいのだろうか。しかしそれをどこまで貫き通せるというのか。そんなやり方で通用するとは思えないが、どこで何を通用させようとしているのでもないのだから、それでかまわないのか。今のところは何を説明しようとしているのでもないように思われ、結果的に何か語っているのだろうが、それがその場の結論ではないのだろう。

 そんなことをいくら記してみたところで無駄か。だから今のところは無為な記述に終始しているわけだ。そこに幻想を抱けなくなってきているのではないか。もとから幻想など抱くつもりもないのに、言葉を記して行くと自然に幻想が生まれ、何か記述によって世の中が変わるかのように思われ、そんな錯覚に後押しされて記述がさらにその先へと延長され、何かを語っているような気になるのだろうが、どうもその語っている気でいる何かが、空疎で無為な何かであり、あとからそれを読み返してみると、なんだかどうでもいいようなことのように思われてくる。たぶん地表面上でうごめいている人々が、何かをもたらしていることは確かかもしれないが、その動いめいている人々の中のひとりが、どこかで言葉を記している当人であるわけで、その記述が他の人々になんらかの影響を及ぼすとしても、そんな地表面上でどうたらこうたらいう水準ではなく、ごく限られた狭い範囲内でのわずかな変化しかもたらさないのだろう。要するにそう述べて、狭い範囲内でのごくわずかな変化から逃げているわけだが、逃げる必要も必然もなく、ごくわずかでも何かを変えようとしなければ、何も変わらないこともわかりきったことなのだが、変えようとしても思い通りには変わらない一方で、たぶん変えようとする試みとは別の作用によって、世の中が変わってしまうのであり、その人の力を超えたなんらかの作用に感動するしかないのかもしれない。そしてそのなんらかの作用がよくわからないのであり、そのわからない作用を知ろうとして、何やら言葉を記しているようで、言葉を記すこととその作用を知ろうとすることが、無関係かもしれないことに気づいていないわけではないが、何かを知ろうとする行為には、なぜかそれについて語ろうとする行為が結びついてしまうのであり、それが記述の探求となってしまうわけだが、そもそもおかしいのは、その記述という行為が知ろうとする目的から外れさせ、それとは別の何かを導き出してしまうのであり、それが記された文章そのものなのであり、記述は文章を生じさせるだけで、必ずしもその文章の内容が、何かを知ろうとする目的に合致しているわけではないということだ。知ろうとしている何かとはなんなのか。そんな問いかけばかりが記され、決してその答えが示されることはなく、いつまでたっても問うばかりの文章が続き、その最後に至ってなお問い続けているわけで、それが文章の終わりだとしても、問いの終わりとなることはなく、答えが示されることもないまま、放っておけばさらなる記述の継続を予感させ、たとえ記述する者の寿命が尽きようと、別の者がその意志と記述を受け継ぎ、またそれを果てしなく継続させようとしているのではないか。今まさにそんな試みの真っ最中なのだろうか。


12月28日「徒労の果てに」

 ネット上ではすでに荒廃した精神世界が広がっている。そういう部分だけ見れば、そう思っても差し支えないようだが、現実の世界でも地域によっては昔からそうなっているはずだ。でもそれはメディアから得られた情報で、実際にそれを体験してそう思っているかどうかは、人それぞれで程度の差や感じ方が異なるだろう。要するにネット上では一箇所にそれが凝縮されやすいのではないか。またそういう部分が好みのユーザーもたくさんいるはずか。でもそればかりを求めてしまうと、現実から思考が遊離してしまうだろうか。一時的な遊離なら気晴らしになり、またそれを提供している人たちにとっては、それが仕事であり現実そものものなのではないか。ユーザーが中毒になるように仕向けていて、そうすることによって利益を得ているはずだ。ではそれでかまわないのだろうか。それも人によって異なるだろう。それが嫌ならそういうところへはアクセスしなければいい。建前としてはそうであり、どうもその辺で物事を抽象的に考え過ぎているのだろうか。好き嫌いの水準でならそれでもかまわないのだろう。興味があればそれが持続するだろうし、なければそれでおしまいだ。ネットビジネスも中毒患者が大量に発生するようでないと、そこからまとまった利益を得られないのだろうし、そこに悲惨な現実があり、荒廃した精神世界が広がっているのだろう。気休めの娯楽がそれにのめり込んだ人たちを狂わし、それにまつわる悲劇や喜劇を生み出しているわけか。要するに何事も侮ってはならないということだろうか。侮るも何もすでにそれに周りを取り囲まれており、嫌でもそんな事態を見せつけられて、別に尻込みするほど驚いているわけでもないが、それと意識できない悲惨な現実の中で、もがき苦しんでいるように見えるのに、それにも気づかない人たちを、助けるわけにもいかない状況に直面し、ただの傍観者を装うしかない立場に立たされ、嫌な気分を味わっているのかもしれない。そのまま放置しておいてかまわないのだろうか。それ以外のどんな状況を選ぶこともできはしないだろう。結局は眺めるだけ眺めたら、ほどほどのところで退散するしかなく、それらの状況に深入りするのをためらい、足首まで浸る程度のところから見守るしかないようだ。それが底なし沼なのか浅瀬だけなのかはわからないが、それを確かめようとするのはやめたほうがよく、浅瀬で思いとどまることが、目下のところは最善の選択なのかもしれない。要するにたわいない戯れ事程度のことなのだ。そこから一歩先に踏み出さなければ、いつまでもそういう段階に留まっていられるわけか。後はその場での偶然の巡り合わせでしかないだろう。

 具体的には何がどうなることで、そんな現状へと意識が導かれてしまうのだろうか。無い物ねだりばかりしている人たちが何を要求しても、こうはならないのではないか。常にそこにあるものを求め、それを過剰に求めるから中毒になり、その過剰な欲求が、それまでにはなかったような状況へと現実を変貌させる。しかしそうなったとしても、そんな現状の何がおかしいのだろうか。たぶん何もおかしくはなく、極めて当たり前の事態の推移があり、それが気に入らない人たちがあれこれ批判を繰り返しているようだが、それらの批判で何が変わるとも思えず、実際に何も変わっていないように思えるわけか。ではまたそれでかまわないと思ってしまうのか。たぶんそれが変わらぬ結論なのかもしれない。結論は変わらないが状況は絶えず変わり続ける。相変わらずそんなふうにして無駄で無意味なことを述べながらも、意識はそんな状況に逆らい、絶えずそこから逸脱しようとしているのだろうが、現実にはうまくいかないようで、わざとらしく不機嫌を装いながらもそこに留まり続け、戯れ事のきっかけを求め、その辺で適当な言葉の連なりを物色しているのかもしれない。しかしいくらうまくいかないと感じているにしても、どうなればうまくいったことになるのだろうか。それがわからないのにうまくいかないというのもおかしいか。ただなんとなくそう思うだけで、悲観しながらぼやきつつも、現実の悲惨をかみしめるつもりもなく、そこからの遁走を夢見て、なんとか現状にしがみついているわけか。強がりややせ我慢ではどうにもならないような現実がある。しかもそんな現実でかまわないわけで、その中で試行錯誤を強いられ、実際にそのただ中で生きている。やはり他人の不幸を自分の糧とするしかないのだろうか。そんなやり方に巻き込まれているわけではないと思いたいが、それ以外の何を見出すこともできず、何も肯定する気にもなれないだろうか。それでは嘘となってしまうのではないか。そこに理想状態などありはせず、それが目標となっているわけでもなく、達成不可能な目標であることすら忘れられていて、不満のはけ口にも困る状況の中で、ただ漠然と自らの幸福を求める人たちが、何かの食い物となっているのかもしれないのだが、その何かが何かでしかなく、ある時はその何かに、怒りの対象として特定の政治家などが設定されるのかもしれず、それに向かってみんなそろって罵声を浴びせ、日頃の鬱憤を晴らしているわけで、それだけでは腹の虫の収まりがつかない人たちは、その政治家を陰で操っている黒幕の存在まで設定して、そんな物語的な構図から、全世界を巻き込んだ陰謀論までが導き出され、何やら話しがだんだん大げさになってきて、俄然妄想的な魅力を帯び、愉快な気分も伴ってくるのだろうが、それらのどこまでが現実でどこからが虚構なのか、そんな境界を設けるのは野暮な行為で、話をつまらなくするだけだから、やはりそこからわけのわからない誇大妄想へと暴走したくなるわけで、やはりそうなってしまうと現実の世界から遊離して、気休めの娯楽でしかなくなって、そういう無為な妄想を抱くことが馬鹿げたことのように思われてしまい、その辺で話をおしまいにしたくなる。


12月27日「制度の常識と非常識」

 何かが剥離したり遊離したりしていると考えていいのだろうか。どこから離れてしまったのだろうか。何と何が離れたらそういう心境に達するのか。なんだか抽象的で何を述べようとしているのかわからないが、何かと何かがそうなっているように思われる。理想的な状況を想定して、必ずしもそれに近づくように、誰もが努力しているわけではないということだ。そこに制度があり、その制度に順応しようとしている。そして自分たちがうまく順応できる制度を作ろうとしている。そんな制度を作ることが彼らの目標らしい。彼らとは政治家たちのことだろうか。そしてそれらの政治家たちを応援している人や団体のことか。本当はそれが誰であってもかまわないのではないか。なぜそう思うのか。それが誰であろうと、そこに他と区別され優遇されるような利益がもたらされてはまずいのではないか。建前としてはそこに暮らすすべての人たちにとって利益となるような制度が求められているわけだが、それは特定の支持者や団体に対して利益誘導するようなことであってはならないのだろう。もちろんそんなことなどわかりきった上で、やはり自分たちが支持してくれる人や団体に有利となるような制度を作りたいわけで、それが結果的にそこに暮らすすべての人たちの利益となると思っていればいいわけで、要するに本音と建前が一致していればいいわけだ。それはまやかしでありごまかしでしかないだろうか。そういう人たちにとっては、それ以外の選択肢などないし、それ以外にはやりようがないのではないか。何も好きこのんで自分たちにとって不利益とみなされることなどやれはしないし、やろうとすれば支持者や支援団体から反対され、やったら支持や支援を失ってしまうだろう。だからやりたくもないことはできないのであり、やりたいことこそが自分たちの支持者や支援団体のやりたいことでもあって、実際に政治家や政党がやろうとしていることなのだろう。そしてそのやろうとしていることに多くの人たちや団体が反対しているわけか。そこに対立や抗争があるわけだが、そういう水準で何をどう述べてみても無意味で、そのやっていることの中身を吟味し批判しなければならないわけだが、果たしてそれができるだろうか。やらずに済ます方法があるわけでもない。要するにそれを無視して話を進めたいわけだ。なぜそうしようとしているのか。それが何かの冗談だと思われるからか。そんなはずがなく、現に今まさに進行中の問題だろう。そんな成り行きの中で何か考えているはずだが、どうも言葉を記して行くとそこから外れて、意味のない無為なことを語ろうとしてしまうらしい。

 争点のない政策などあり得ないのであり、何かをやろうとすれば必ず賛成意見と反対意見が出てきて、議会で賛成派と反対派に分かれて議論が重ねられ、出来るだけ多数意見が反映されるような制度にするために、修正できるところは修正し、その終いに多数決を取って、その多数意見を反映した法律やら決まりごとが実施に移されるわけだが、それの何が問題なのか。それ自体は何も問題ではないが、その法律やら決まりごとの内容が問題なのだろうか。その内容を巡って論議が重ねられているのに、反対派は論議が不十分だと主張し、採決すれば強行採決だと反発し、実際にそうであるとしても、そんな結果になってしまうこと自体が慢性的に常態化しているわけで、たぶん今後とも改善の見込みなどありはしないだろう。そんな状況のいったい何が問題なのか。同じ制度のもとで戦略や戦術が日々更新され、新たな手法が試されているのだから、議会の機能停止状態をメディアを通じて見せつけることで、そういう戦略にもなんらかの有効性があることが確かめられているのではないか。制度はそんなやり方で形骸化できるのであり、それは結局人々が日頃から小馬鹿にしている理性とか良識の問題なのであり、それがなければ功利的にやりたい放題なんでもありとなってしまい、その何でもありの状況が現状なのだろうし、その議会の形骸化やら機能停止状態を放置し続けても、別に不快感以外は何も感じないのなら、馬鹿の一つ覚えみたいに、与党も強引だが野党もだらしない、といったたぐいの紋切り型で済んでしまうだけで、現状がそのまま維持継続され、ますます形骸化が促進されるだけだろうが、そうなったとしてもそれでかまわないのだ。それが無効であるのに、それでも民主主義の幻想にすがりついている人たちは、ただのバカであり、そのバカがいくら紋切り型の批判をして、嫌気がさして選挙の投票率が低下したところで、やはりそれでもかまわないのだ。それに対する有効な打開策などありはせず、その状態はそのまま放置されておいたほうがいいのだろうし、実際にそうなっているのではないか。最近では唯一の例外が、民主党が政権を取ったときかもしれないが、また人々が幻想から覚めて、投票行動に訴える機会がやってくるのだろうか。でもその手の人たちが推奨している2大政党による定期的な政権交代とやらも、後から付け加わった恣意的で御都合主義的な結果論の肯定でしかなく、別にそうでなければならないという根拠など希薄だ。だからそれを否定しても仕方のないことなのだが、とりあえず根本的には、今のままでもそれが変わっても、どちらでもかまわないのだろう。要するに仮に目指すべき理想状態があるとしても、それが実現してもしなくてもどちらでもかまわないわけだ。そしてそこに利害関係を見出せないならば、別に模範解答的なことを主張して、誰に媚びる必要もないということか。


12月26日「社会の現状と今後」

 何を念頭に話しているわけでもなさそうで、漠然としていて対象を絞り込むわけにもいかないらしい。そのうち何か思いつくはずだ。また何かが後回しになって、記述だけが先走ってしまう。考えている余裕がないのだろうか。たぶんくだらぬ気分で無為な何かを表現しようとしているのだ。すべての意識はあらゆる時空へと分散し拡散している。何がそれを促しているのだろうか。疑念を抱いているわけではなく、信じているのではないか。何も信じようとはしない意識が、世界の中に何を見出そうとしているのでもないことが、誰によって信じられようと、絶えず塵や芥とともに何かが拡散し続け、やがてその何かに人の意識が満たされて、現実の世界から遊離する前に、たぶん夢から覚めて社会のただ中へと引き戻されてしまうだろう。ネット上で高邁な理念をいくら説いて回っても、それを打ち砕いてしまうくだらなさに世界が覆われていることを、意識せずにはいられないのであって、日常の中で自らがやっていることが、その高邁な理念とは不釣り合いなほどにみすぼらしく思えてきてしまうのであり、その思っていることとやっていることの不均衡が、意識の中で消化不良を起こしているわけでもないのだろうが、実際に体験している世の中への揺り戻しが、理想主義的なヒューマニズムを嘲笑したり小馬鹿にする、露悪的な表現や偏狭なナショナリズムを招いているのかもしれず、そしてそのどちらにも振れないような、虚無的で無意味な何かを求める心境というのもあるらしく、たぶんその人次第でどうにでもなるのだろうが、くだらぬ水準で安定しようとする浅はかな人が多すぎるのかもしれず、そういう人たちは、わかりやすいイデオロギーや主義主張で意識を染め上げられると、すぐに二項対立の一方側に行き着いて、そこで対立する陣営への非難や批判を繰り返すようになる。要するに彼らは安易でナイーブなのであり、それ以外を知らず、そこで行き止まりなのだろうが、たぶんそれも社会の保守的な傾向を反映しているのかもしれない。それで間に合ってしまうのであり、別にそれ以上を必要しないわけで、それ以前に日々の生活があり、その延長上で何に惹かれるとしても、ほどほどのところで間に合ってしまう。そういう人たちにとっては、それらの互いに互いを否定し合う二項対立的な罵声の浴びせ合いとは裏腹に、大して深刻な状況には直面していないのだろうし、中には精神的にも生活的にも追い詰められている人もいるのだろうが、そういう人たちにとってはもはや主義主張の問題ではなく、死に物狂いでなんとかしなければならないわけで、そうしなければ本当に死んでしまうわけで、死ねばそこで終わりとなり、主義主張以前に思考や思想が片付いてしまうわけだ。浅はかな主義主張にとどまるにしても、実際におかしくなって死んでしまうにしろ、どちらにしても出口などなく、何がどうなるわけでもないだろう。

 安易な救いや逃げ道はない。過去の歴史的な経緯もそうであったし、救いや逃げ道のない状況が延々と続いているのではないか。そして現状を覆っている偽りの二項対立こそが救いや逃げ道であり、そんなくだらぬ思考の水準にとどまることで、救いや逃げ道のなさを意識せずにいたいのだ。例えばもはや取り返しのつかない過去の歴史にこだわる人たちなどはその典型で、もう何もかもが済んでしまった過去のある時点に戻って、そこでの歴史的な解釈をなんとか恣意的に変更して、その変更を正当化することで、現在の不具合が解消されるかのごとき幻想に、わざと心を支配させ、それでなんとか正気を保っているわけだが、結局それは現在のどうしようもなさからの逃避であり、そんなことをやっている時点で、すでに無効で無意味な人となっているわけだ。そんなたわいない戯れ事でしかない行為に、生涯のすべてをかけているわけでもないのだろうが、仕事の合間の片手間程度のことならそれで間に合ってしまうのであり、ネット上でそんな主張を繰り返すことで日頃の鬱憤や溜飲を下げているのだろう。そしてそんなどうでもいいような主張に絡んで、何かひねくれたからかいの言葉や、理性的で真っ当な意見を述べようとすれば、途端に些細な言葉の行き違いからキレて、罵声の応酬となってしまうわけで、たぶんそれも戯れ事の範疇での片手間程度の娯楽なのだろうが、それで済んでしまうところが現状の救いのなさであり、もはや逃げ道などどこにもない状況を象徴しているのかもしれず、たぶんそんな状況がまだまだこの先も続いていきそうな気配ではあるわけだが、果たして今後何か状況に進展があるとしたら、どのような成り行きになるのだろうか。やはりそれは虚無的で無意味な感性が人々の心を覆い、世の中も人と人の絆など切れるにまかせ、お互いに無関心になって、薄められた友情や愛情の範囲内で、人と人とが事務的に関わり合い、経済的な利害関係の中で効率的なネットワークが築かれ、その中で利害を共有する人たちが連携し合い、対立や競合関係にある人たちと争ったりするだけか。たぶんそれでかまわないだろう。それ以外にどんな可能性があるというのか。家族関係と仕事関係と趣味や娯楽の関係だけが人間関係のすべてだろうか。そういう関係の中に人々が押し込まれているのが現状だろうか。


12月25日「正しい主張の盲点」

 やっていることに疑念を抱くだけの理由があるとは思えないが、理由を説明しようとすればそれなりの分量を必要とするのではないか。そこに言葉が並んでいて、それを始めから終わりまで順を追って読んでいる。要するに人の行動や行為には理由が求められ、それを言葉で説明しなければならない。公的な制度なのだからそうしないと納得しないのだろう。他人の理解や納得を勝ち取るために、ひたすら説明しているわけだ。それが文章となり書物を構成しているわけか。面倒な制度だろうか。そうすることで何がもたらされるのか。うまくいけば他人の理解や納得が得られるわけだ。だがそれでどうなるというのか。それがなんらかの実践に結びつかなければ、その言葉による説明は無駄となってしまうだろうか。そうではなくその言葉が記された書物なりなんなりが、広く世の中に行き渡って、多くの人に読まれたら言葉を記した甲斐があり、目的が達成されたことになるのではないか。それ以外にどんな作用がもたらされればいいのか。書物によって世の中が変わることがあるだろうか。そうではなく結果的に世の中が変わったと思われたとき、その原因を探ろうとすれば、その要因の中の一つとして、なんらかの書物が挙げられたりするのではないか。結果から原因を推察するのは虚しい行為だろうか。でもそうしなければ多くの人が納得する結論など得られないのではないか。そうだとすればそんな結論こそが虚構かもしれないのだが、人々がその虚構を求めているのだとすれば、それらの書物が果たす役割とは、人々に向かって理解や納得をもたらす虚構を提示することになるのだろうか。要するに人々の要求に応じて、人々を騙すのことが書物や言説の役割となるわけか。それは言葉を記す者にとっては納得しがたい結論か。何もだまそうとして言葉を記しているのではなく、場合によってはこの世界の真実を伝えようとして、言葉を記し書物にまとめようとしているのに、それが結果的にそれを読む者たちをだましているとすれば、なぜそんな正反対の結果をもたらす逆説的な現象が起こるのだろうか。ただそれを言葉で記すと虚構となるだけでしかないわけか。それだけでは納得しがたいだろう。ではそれをどう説明すればいいのだろうか。容易には説明し得ないところに言説の不自由があるわけか。そういう逃げ方でも納得しがたいのだろうが、結果的に虚構となっても、とにかくそれを説明するしかないわけで、それと気づかずに読む者に嘘をついているとしても、その嘘を本当らしく見せかけるために言葉を弄し、読んで納得させ、理解を得られるように語らなければならないわけだ。

 しかしそこで具体的にどんな嘘をついているのか。何か特定の思考や傾向に凝り固まって、正しいことを主張することが嘘なのか。しかし人々はそうした原理主義の嘘を見破れるだろうか。要するにそれだけではないわけだ。正しい主張ばかりではないということだ。しかもそれは主張でさえなく、何も主張していないつもりでも、何かしら述べることで、他人には何か主張しているように感じられてしまう。世の中の誰もが正しい主張ばかりしているわけではなく、わざとふざけて間違ったことを口走ってみたり、冗談やギャグでごまかしたりしているわけで、事実をそのまま伝えようとしていないばかりか、それを伝えることで事実が事実でなくなってしまう場合もありうるかもしれない。あるいは現時点での事実が、未来のある時点では別の事実と入れ替わってしまう場合もある。だから鬼の首を取ったかのように、統計的なデータや計測結果を示して、それに基づいた主張をしても、未来においてはそれと違ったデータや計測結果が出るかもしれず、将来そんな結果が出た時点では、それは過去の結果に基づいた誤った主張であり、それがその時点での事実であったとしても、別の時点での最新の事実に基づいた別の主張の方が、より現実に適合した主張となるかもしれない。しかもそれも推測の域を出ないことであり、現時点での事実ではない。ならば少なくとも現時点では、現状で可能な限り入手できる統計的なデータや計測結果に基づいた主張をするのが、より適切な判断だろうか。そう判断するならそうすればよく、そうすることに疑念を抱いているのなら、また違った方面からそれとは別の主張すればいいわけで、それらのどの主張に納得するか否かは、それを受け止めた人の判断にまかされている。原理主義者はそれが他人の判断にまかされていることを理解できずに、自分たちがより合理的な判断ができると信じ込んでいて、その合理的な判断を何とかして他人に押し付けたいわけだ。自分たちと同じ判断を他人もするように強要しようとして、盛んに活動するわけだが、その時として強引とも感じられる押し付けがましさが、他の多くの人たちに敬遠され、結果的には少数精鋭と思い込まれる狂信的なカルト集団となりやすいわけだが、そこで何が勘違いのもととなっているかは、わかりきったことであり、現状を認識することと、それに基づいて言葉で構成される思考や主張との間に、拭い去ることのできないズレや隔たりがあることを感知できないわけで、言葉で主張したり語りかけたりすることの中に、恣意的な誇張や歪曲が含まれていることに気づかないのはもちろんのこと、プロパガンダ的な論理の単純化によって、曖昧で不確かな部分が削ぎ落とされることで、それらが正しい主張となっていることにも無自覚なのだ。


12月24日「現状分析の虚構部分」

 そこで何を見つけたわけでもなさそうだ。そことはどこでもなく、言葉が適当に連なっている平面上でしかない。それがどこであるわけでもなく、言葉が記されようとしているここでもない。実際には何も見つけていないのにそれはないだろう。たぶん嘘かもしれず、現状では何も切実な問題とはなり得ない。ならば政治的には解決済みだろうか。それとこれとは無関係だろうが、政治が何を解決したというのか。政治が市場経済を制御していることになるわけか。それについて思い当たる節がないとしても、様々な思惑が政治力を用いて、そこに何らかの解決をもたらしたことになっているわけで、その解決の先に今があると思われる。現実に誰がそう思っているわけでもないが、そういうふうに物事を理解しておくと、何かと都合がいいのかもしれない。現実には誰もがはっきりそれとわかる解決などありはしない。ならばどんな解決があるのかといえば、中途半端な妥協しかないだろう。それに関して何か過去の経緯でも思い出したのだろうか。過去の経緯などいくらでもあるかもしれない。それが歴史となって、何やらもっともらしい説明に役立っているわけだが、説明に役立つとしても、説明以外にはなんの役にも立たないのが、歴史から導き出される教訓のたぐいだろうか。ただ説明に過去の歴史を利用しているわけだ。しかしいったい誰がそれを思い出しているのか。誰が過去の何を思い出していようと、それと今起こっていることが関係しているとも思えない。話に説得力を持たせようとして、過去の経緯を持ち出すのはよくあるパターンかもしれないが、過去と現在との差異が不明確で、その辺から妙に論点がずれている。苦し紛れに持ち出す陰謀など、現実にはありはしないのではないか。あるとしても今起こっている現象とは関係ない。要するに理由を説明するための物語が欲しいわけだ。そこで誰かが何かをやっていると思いたい。何か黒幕がいて、状況を制御していると思い込みたいのだ。そしてそれに操られて政治を執り行っている人々がいるわけか。それが現状認識のズレや的外れを生じさせているのだろうか。実際に誰が何をやっているとしても、それが現実の世界にどのような影響を及ぼしているとしても、そんなのは無視してもかまわないようなことではないのか。人の行為や行動などたかがしれていて、その状況に誰の思惑が介在しているとしても、思惑だけで動いてゆくような成り行きではない。ではなんなのだろうか。特定の誰が動かしているのでもないとすれば、何によってこれらの状況は動いているのか。そんな認識こそが勘違いもいいところで、屁理屈をこねまわしている割には何を説明しているのでもないし、なんでもないわけがないか。それについてわざと間違った見解を示したいのではないか。どうにかなるようなことではないとあきらめたいのか。すでにどうにかなっているのかもしれず、そんな嘘をついてもなんの気休めももたらせないことも承知しているはずだが、気休めでない分、ただのごまかしであり、ごまかしと思えば納得がいくのではないか。しかし本当に何をごまかしているのだろうか。日本から何かが始まって、それが世界に広がっていると考えれば、しかもそれがなんでもないようなことだと見なせば、それはおのずからわかってくることかもしれない。別に大げさなことではないが、とりあえず国家の範疇から逸脱した何かが起こりつつある。世界の制度や仕組みが都合の良い方向へと瓦解しつつあり、それは誰にとっても都合が良いことなのではないか。国家にとっては好都合ではなく、そこに暮らしている人々にとっても、不安をかき立てられる現象かもしれず、何やら大きな時代のうねりのようなものを実感しているのかもしれないが、たぶんそれでかまわないのだ。もうすでに元の木阿弥にはならない段階まで来ていて、現実にそれと意識されずに、人々の意識が変わりつつあるのではないか。明らかに以前とは異なると思われ、積極的に状況を受け入れるようなことにはならないだろうが、たぶん意識ではそれに抗いながらも、消極的にいやいや現状に順応しつつあるのかもしれない。

 それに対して良識ある多くの人々が危機感を抱いているわけだが、ここはデタラメに物事を捉えていた方が無難かもしれない。そしてそれが愉快に思えてくるのはなぜだろう。現状がデタラメ過ぎるからだろうか。意識が捉えているそれはわかりやすいデタラメだ。何も終わっていないのに終わりに向かって成り行きが加速しているようにも思え、それが人々が恐れているような戦争と呼ばれる概念に結びつくとしても、結びついた結果として生じた出来事が、どんな深刻な状況とも無縁な取るに足らない出来事となり、それまでの心配が取り越し苦労のたぐいに終わってしまったら、なんだか気が抜けてしまうだろうか。でもそれを今から予想したり、これ見よがしに予言したりしても、ただ無視されるだけなのではないか。だからといって、言葉を記している限りは、何かしら予想も予言もしないわけにもいかないのだろうが、たぶんそれを超える状況に至るのを期待しているわけだ。ではそれは具体的にどんな状況なのだろうか。問題など何も解決されないまま、既存の制度やシステムが次第に瓦解して行き、ルールや取り決めも適当に変更され無視され、場合によってはやりたい放題なやり方がまかり通り、世界中がどうにもこうにも収拾がつかなくなってくるということか。それが現状なのだろう。ではいったいこの先何がどうなるというのか。たぶんそれでも相変わらず何がどうなっているわけでもなく、平然とこの世界は存在し続け、人々が思い描くすべてはフィクションでしかないということになる。たとえそうなったとしても誰も何が虚構とも思えないだろう。その辺で認識と実情との間で、修復し難いギャップがあるのかもしれない。ともかく世の中でデタラメが加速する方向で何かが起こり続けているわけだ。そしてその何かがすべてであり、同時に思っていることのすべてが虚構でもあるのだろう。では見当違いがここに極まっているのだろうか。そうとも言えるのであり、そんな認識自体には何の根拠もなく、ただの勘違いでしかないのかもしれないが、そうやってわけのわからぬ妄想を抱いている現状が、人によっては愉快でたまらないわけだ。そしてそれも嘘の一部として現状を語る言説に組み込まれ、それらのデタラメの構成要素となっているのだろうが、それが何を意味するわけではないのはもちろんのこと、それによって特定の何を批判しているのでもないことは言うまでもない。ではなんなのだろうか。その辺がよくわからないのだが、とりあえず気まぐれにそんなことを述べてみたまでのことで、他に他意はなさそうに思え、次第にそんなふうに語ること自体が、意味不明で人畜無害なパフォーマンスのたぐいとなってしまっているのだろう。これではダメだろうか。ダメだが現状ではこんなふうにしか語りようがない。


12月23日「産業技術の流行り廃り」

 未来を占う必要などないのではないか。でも占いたいのだろう。占ってみせて、他人の興味を引き込みたい。魂胆が見え透いているだろうか。詳細に調べ上げた過去のデータをもとに未来を占えば、それなりに説得力があって興味深い話になるのではないか。別にそんなやり方の何が間違っているわけでもない。それが常套手段か。何を批判するつもりもないが、なんだか退屈な話だ。でもそれ以外にどうやればいいのだろうか。未来を占うつもりがないなら、そこで占いの話は終わりかもしれない。ただ過去を語れば十分なのではないか。無理に占わなくてもいいわけだが、それだけでは物足りないのだろうか。ならばどうすればいいのか。占いではないが、未来の話なら天気予報程度で十分だろうか。それでも未来に興味があることは確かで、これから自分や世界がどうなるか知りたがっているはずだ。しかしそこから先が過去の話の続きとなってしまうと、その過去と未来の連続性をどう解釈すればいいのだろうか。たぶん過去を未来へとつなげようとしているのではないか。そこに話の連続性を構築して安心したいのか。そういう心理的な面以外で、何か肯定できる材料を見出せないだろうか。話の中で過去と未来をつなげることで、何か不都合なことでもあるのだろうか。その方が話としては自然な成り行きに思われるし、別にどこが間違っているとも思えない。ならばそれでかまわないのではないか。何も無理にひねくれてみても、それこそ荒唐無稽な話になってしまいかねず、フィクションを語るにしろ、できるだけ自然な成り行きにした方が、他人の興味を引くのではないか。どうもそれ以上に何をどうしたいわけでもないらしい。何が足らないとも思えず、たぶんそれでかまわないのだろう。

 しかしそこからどう語ればいいのだろうか。未来について語ればいい。過去について語ってもかまわないのだ。何をどう語っても、結局はそうなってしまうのではないか。不快だがそうするしかないのではないのか。他に語ることなんて何もないのだろうか。たぶんあるにはあるが、それは語る必要のないことなのではないか。語る必要があるのは過去についてと未来についてだけなのだろう。人類はどこから来てどこへ向かっているのか。そんな語りでかまわないはずだが、それでは退屈で不快であるだけではなく、それ以外を考慮に入れる余地がない。しかしそれ以外とはなんなのか。どこにそれ以外があるのだろうか。人はどこから来たのでもなく、どこへ向かっているのでもない。そういう話なら納得できるだろうか。ともかく原理主義に陥らないようにしなければならない。環境原理主義やらイスラム原理主義やら、世には様々な原理主義がはびこっている。理想の環境を求めて、現状の不快さを不快な言動と行動で改めようとする人たちが、過去の理想郷を未来に再現しようとしているわけだ。それが安易な妄想に基づいていることは明らかだが、過去と未来の連続性を前提とする物語を信じているのだから、その延長上で思考する限りは、そうなるよりほかはあり得ないのではないか。だが現状の不具合を消去法で消すことで、実際には原発をはじめとしてなかなか消すことができないから不快感を抱いているわけだが、果たしてそういうやり方で理想とする社会が実現できるだろうか。別に理想状態を実現させなくてもかまわないのではないか。では未来に向けて何を実現させようとすればいいのだろうか。それは語り得ないことかもしれない。現状ではそこに事物の維持や継続があり、それを守る制度や仕組みがあり、それを維持し継続させている権力に対して異議を唱えているわけだが、いくらそれをやめろと訴えてみても、たぶん消去法では魅力がないのだろう。そこに新たな試みが加わらない限りは、現状の変更はありえず、それが生まれる可能性や萌芽までも、無駄とみなして切り捨てようとしているところに、原理主義の原理主義たる所以があるわけだが、そのような清貧の思想が今後各方面へと広まって、多数派を構成する可能性がどれほどあるのだろうか。

 たぶん文明の過剰な無駄を改めようとしても、文明自体がその過剰な無駄を生み出すことで成り立っているのだから、それを否定することは文明自体を否定することにしかならず、その理想とする社会は、人里離れた山奥で自給自足の共同体を作ることでしか実現しないだろうか。そこまで極端なことは考えていないのだろうが、文明に対するアンチテーゼの一つとして、そのような原理主義思想も存在しているのかもしれない。そこまでいかなくとも有用なものだけ取捨選択すれば、十分文明的な生活を確保できるのであり、それが過剰で無駄で有害なものをなくそうとする行為を正当化する根拠となっているわけだが、何が有用かを巡って認識の違いがあり、彼らにしてみれば、原発は発電コストが見かけより高く、実際に大事故に至り、取り返しのつかない多大な損害を出しているのに、それでも推進しようとしていることに憤りを感じているわけだ。そしてそれだけならまだしも、さらに加えて太陽光とか風力とか、コストが高くで供給の不安定なクズ電力まで推進しようとしているわけだから、また最近は水素燃料で動く自動車まで多額の補助金をかけて推進しようとしていて、行政やそれに追従する人々のやっていることが、狂気の沙汰に思えてならないのだろう。だがその狂気の沙汰が文明の本質なのではないか。例えば数千年前の巨石文明とかも、なぜ容易には人力で動かせない何十トンもある巨石を積み上げて、記念碑的な構築物を建てたのか、今となってはその理由など理解し難く、宇宙人が作ったとか妄想を膨らませる分には楽しいかもしれないが、当時の人たちにとっては何かしらもっともらしい理由があったのだろうし、それと現代文明が同じとは思えないだろうが、そこに魅力を感じ、現実に利益の源泉を見出そうとしているのだろうから、これからも人々はそんなことを試みるのではないか。もちろんその中には廃れるものも生き残って主流をなすものもあるのだろう。たぶん多くの人たちの反対を押し切って、社会に定着してしまう産業技術もあるのかもしれない。


12月22日「何か語っている最中」

 何かに寄りかかって考えているようだが、何に寄りかかっているのか。漫画か何かか。あるいは思想書のたぐいだろうか。また馬鹿げた視線をどこかに投げかけ、荒唐無稽な妄想を操ろうとしているわけか。何を探っているわけでもないらしい。自然と何も信じられなくなり、根拠の希薄な自信も揺らぎっぱなしだ。それが何を意味するわけでもなく、ただ無駄に言葉を記しているだけかもしれない。くだらぬ内容になってしまいそうだ。そんなことは織り込み済みなのだろうか。そうなるのを承知で言葉を記しているのではないか。たぶんこれまではそうだったはずだ。何を記すとしても大した内容とはならず、その内容は支離滅裂に分散するしかない。それらの何も相対化できないのだが、そのような記述自体が相対化されるしかなく、指標や基準があるわけではないので、何を記し何を語るかわからないまま、ひたすらそんな行為を続けるしかないわけだ。結局何がどうなっているわけでもないのもいつもの通りだ。このままで何もどうにもならないこともわかっているようだ。ではどうすればいいのかもわからない。このまま無為に時を過ごすだけだろう。それでかまわないのではないか。それもわかりきったことだろうか。わかりきっていながらそのまま状況から抜け出ようとしない。怠惰のなすがままか。だからそれでかまわないと思いながらも、不安な気持ちを振り払うことができない。輝いていた時代などなく、灰色の雲が垂れ下がった空の下で考えてきたはずだが、すでに何を考えていたかも思い出せない。かすかに思い出される記憶の断片をつなぎ合わせる気にもならず、意識としてまとまらないそれらを漂わせ、それらしい雰囲気の中で暮らしているらしいが、それが何を意味するわけでもないのはもちろんのこと、それ以上の詮索も無用なのだろう。気分の高揚などたかがしれていて、ただそこにある空疎を何で埋め合わせることもできないだろう。そうやって何もない日々をやり過ごしているわけだ。そう記すことで少しは正直な心持ちになれるとも思えないが、それほどごまかす必要がなく、何をごまかそうとしているのでもないのだろう。たぶん今語れるのはそこまでだ。それ以上語ろうとすれば、そこから先は虚構の世界での話となるしかなさそうに思われる。

 情勢などそう簡単に変わるものではない。そう思いたいだけかもしれないが、何を期待しているのか。様々な水準で期待していることも異なってくる。期待しているのではなく、世の中を理解しようとしているのではないか。わからないままにしておくのがしゃくなのか。しかしわかるのはいつも部分的なことでしかなく、すべてを知り得ないのはもちろんのこと、知り得たつもりでいることしかできない場合がほとんどかもしれない。しかしそんな無知の知を誇るわけにはいかず、絶えず知ろうと試みるわけだ。幻想を抱くわけにはいかないが、知ろうとしなければ独りよがりな思い込みばかりとなってしまい、要するにそんなことしか述べられず、それで何を知ったわけでもないことに気付かなくなり、その程度の認識で凝り固まってしまうわけだが、それ以上の認識を得たいがために何をやっているのだろうか。書物を読んで何を知ろうとしているのか。ただ読んでいるだけのように思われる。理解することなど何もないとたかをくくり、知ろうとしている何かを取り逃がしている。何かとはなんだろう。それを書物の中から見いだそうとしているのだろうか。ただの言葉の連なりを読むだけで、それがわかるはずがないか。わからなくてもわかったような気になれば、それで満足すべきなのだろうか。結局違う水準の理解を同じ水準で結びつけ、何か理解した気になるのがオチだろうか。言葉で示されていることと実際の現象や出来事は違う。それはわかっているのだろうが、語るとなると同列に扱ってしまい、そんな混同から新たな認識に至ろうとして、そこに何らかの理解が生じてしまうのではないか。しかもわかっているのはそんなことではなく、語っていることの一部でしかないわけだ。それらの全てを把握することなど不可能か。把握できるような現象でも出来事でもない。そこで起こっている具体的な何かについて語ろうとすれば、把握できないまま手探り状態で語らなければならず、詳細に調べ上げた資料やデータに基づいて語っているらしい言説についても、それらの資料やデータから逸脱する部分についてはうまく説明できないわけで、もっともらしく語っていることが、逆にあやふやなはっきりしない印象を免れないようで、そこで資料やデータの限界内で語ることの難しさが露呈してしまっているようだ。

 別にそれでもかまわないのだろうが、語っていることが現実にどのような影響を及ぼしているとしても、語っていることの意図や思惑から外れたところで、なんらかの作用を及ぼしている場合もあるのであり、なんにしろ語っていること自体にケチをつけるのも的外れのように思われ、とりあえずそこに言葉が記され文章が構成されているとすれば、それを読んで判断するしかなく、時と場合によっては判断するつもりもないのかもしれず、ただ読んでそう思うだけのようだ。どう思うかは読んでみなければわからないが、そこになんらかの情勢や傾向が読み取れることは確かなようだし、それについて何かしら語ることはできるのだろうが、語っている内容が現状を肯定すること以外ではないとすれば、それでは現状を維持し強化することにしかならないような気もするが、それも現状の範囲内でそうなっているに過ぎず、たぶん実際にはそれを超えてなんらかの作用を及ぼしているのであり、それについて語ること自体が新たな現象であり、語ってみせただけでも大したことなのだろうし、画期的なことだと思われるとすれば、何かしらこれまでにはないことが語られているのであり、そうは思われないとすれば、読む方がそれに気づいていないのかもしれない。気づかなくても済んでしまうこともありそうだが、とりあえず読めば何かしら気づくだろうし、これからその気づいたことについて語るつもりらしく、もうしばらくその書物を読んでみるのだろう。読みながら語り、語りながら読み、それらの無為な試みが継続されるらしい。たぶん今のところはそれ以上を求められず、その先の展望は開けないようで、そんなふうにして言葉を記しながら、何か偶然の巡り合わせような事態に期待しているのかもしれないが、その方面で積極的に動いているわけでもないようで、そうすることで何ももたらされなくてもかまわないと思っている。怠惰と惰性の中にそれらの試みが埋もれ、やがて顧みられなくなる時がくるだろう。その時が自然消滅する時なのかもしれないが、何が消滅しようと、そこには消えない痕跡のようなものが残され、それ以降はそれについて考えてゆかなければならないのだろうか。とりあえずそんな事態になったら考えてみることにしよう。少なくとも今はその時ではなく、言葉を記しながら何か語っている最中なのだろう。


12月21日「機が熟す可能性」

 戯れ事が不発に終わり、どこかで誰かが新たな戯れ事を探し回る。あてずっぽうに何か述べているようだが、事物の本質にはかすりもしないようだ。今さらせこく立ち回るわけにもいかないらしく、夜郎自大な大言壮語でまくし立て、めちゃくちゃに語っているようにも思われる。論理などありはしない。ない方が意味不明で愉快だ。愉快で爽快感がもたらされている。時にはそんなことを語らなければならないのか。要はタイミングなのだろうか。どのような巡り合わせを感じ取り、そのタイミングを突いて語っているわけでもないのだろうが、なんとなく時宜にかなっていると思われる。誰の思惑を理解しているのでもないが、誰の思惑をも無視できるような環境ではないのだろう。とりあえずそれが運命なのだろうか。運命というかそういう仕様でありシステムなのだ。互いにふざけた妄想をぶつけ合うのが仮想空間の醍醐味か。でもそんな行為は無駄で無意味だ。何が活気づくわけもないのだろう。

 また迷っているのだろうか。たぶんそうだ。しかし語るとなると簡単なことではない。一方に語らせまいとする思惑があるようだ。では何を語ってはならないのか。そこに共有されている言説空間からはみ出てはならないらしい。その自明性を前提として語らなければならず、話を進めなければならないわけだ。議論の枠組みを守りながら語れば、誰もが理解可能で、それに対して賛成か反対か判断できる。そんな枠組みから外れたことを述べると、無視されるか反発を招くかどちらかとなるわけか。そんなことでしかないのだろうか。たぶんそれを振り切って語らなければならないのだろう。どうやれば振り切れるかわからないが、ともかく言説空間から逸脱してみないことには、まともな内容にはなり難いが、今のところはそれがうまくいっていない。選挙とか議会とか政党とか、そういう言葉を持ち出すと、何か決まり切った範囲内の言説となってしまう。そこから民主主義がどうたらこうたら語ったところで、なんだか的外れな内容となってしまうわけだ。相変わらずうまく言い表せないのだが、それとは違うところで語らなければだめだと感じてしまい、無理して支離滅裂なことを語ろうとして、そのほとんどが失敗に終わっている。

 しかしたとえ失敗に終わろうとも、続けなければ意味がない。絶えず挑戦しないと、結局は紋切り型的な言説に押し切られ、それと気づかずに他人と同じようなことを主張しているのだろう。それでかまわないのなら、それも一興なのかもしれないが、なんとなく他人と同じでは居心地が悪く感じられ、しかもそれが不快な現状を招いていると思うと、やはりそこからはみ出たことを語ろうとしてしまうわけで、現状では語ろうとしては失敗を重ねているわけだが、失敗しているように感じながらも、やはりその試みの方向性を捨てられずにいるらしく、なんとかしてありふれた言説から逸脱しようとする。それが悪い癖であり悪あがきなのかもしれないが、頭の中で何か警報が鳴っているような気になるらしい。それほど危機に直面しているとも思えないのだが、ちゃんとしろと叱咤されているわけだ。逆らうべき対象があり、それが紋切り型的な言説でなければならない理由はないのだが、逆らってばかりではだめで、それを利用して何かを述べなければならず、それが今のところはうまくいっていないわけだ。なんとかしてそれも含んだ言説を構成したいのだが、目下のところは逆らうことばかりが先走っているようだ。

 果たしてそれでうまくいっているのだろうか。うまくいっていないから行き詰っているわけか。やはり時間をかけて論理的な文章を構成しなければならないのだろう。それはわかっているが、時間配分が問題なのか。それ以前にその気になっていないわけだ。いい加減にふざけることで間に合ってしまう。ちゃんとしたことを述べようとするきっかけが必要なのか。ならばそのきっかけを探しているわけか。さあどうなのか。きっかけにめぐり合わずに、ふざけるだけで気が済んでしまうのだろうか。今のところはなんとも言えないが、すべてが終わってみればわかることだ。終わるとは意識がこの世から消えてしまうことか。たぶんそれでは終わらず、他の誰かにそれらの試みが引き継がれるのかもしれない。果たしてそれらの悪ふざけがまともな言説へと発展することがあるのだろうか。それが終わり得ないとすれば、まだしばらくは悪ふざけで我慢しなければならないだろうか。機が熟すまで待っていたら、本当に終わってしまうかもしれない。


12月20日「不可解な心境」

 20世紀後半に登場した一群の思想家たちは、今や過去の亡霊扱いだろうか。彼らは何に逆らっていたのか。歴史を連続的に捉えるなら話が単純になりそうだが、それを拒否して難しいことを述べていた人たちが、すでに忘れ去られてしまったのだろうか。平板なことが語られ、それが受け入れられ、従来通りの伝統的な解釈を施され、何事もなかったかのように事態は推移する。それでおしまいだろうか。得られた膨大なデータを詳細に検討し、うまく説明できればそうなるだろう。誰もが受けれ可能な言説になりそうだ。それはこれからその書物を読んでいけばわかるだろう。

 何が変わってしまったわけでもなく、そのような解釈は連綿と続けられているのであり、世の中を理解する上で欠かせない試みなのだろう。そんなわかりやすい言説を受け入れ、そこで語られている主張に同意し、それから何をどうしたらいいのだろうか。世の中の情勢がわかればそれでいいのではないか。それでは人畜無害か。別に人畜無害でもかまわないだろう。説明がわかりやすければそれでかまわない。書物にそれ以上の何を求めるのか。ただそこに言葉が連なっていて、それを読めばいいだけで、それ以上の何を期待しても、それは読む者が抱く勝手な幻想だろう。別にどんな幻想を抱いてもかまわないのだろうが、たぶん何が解決するわけでもなく、問題の解決を目指しているわけではないのだろう。ただそこで誰かが語っている。

 それを受け入れ、読んで抱く幻想もその程度で済ませ、そのまま打ち捨てられてしまうのか。そこで提示されている思考と思想が形骸化しているのだろうか。それを何に役立てようとしているわけでもなさそうだ。ただ読んでみたいだけかもしれず、読んでからそれとは違う思考を打ち立てようとしているのか。なんだか大それたことを考えているのかもしれないが、うまくいくとは思っていない。とりあえず読んでみないことにはなんとも言えないだろう。まだ読むぐらいの時間は残されているはずだ。自らの思想を確立したいのではなさそうに思われるが、やはりそういう方面への興味があるらしい。なんらかの決着を付ける時期に差し掛かっているのだろうか。それと意識せずに、自然とそうなればいいのではないか。方々へ分散しているのではなく、一つにまとまった言説を得たいのだろうか。それを得るだけの余地がどこに残されているのか。

 文章の構成力を必要としているのだろうか。ありえないことではないと思いたいが、今のところは何も得られていないのではないか。とりとめのない現状に戸惑うばかりのようだ。何が求められているわけでもなく、ひたすら言葉を記そうとしているようで、それがある傾向にまとまることはなく、辺り一面に散らばっていて、互いに結びつくことがない。それは思考でも思想でもなく、なんでもないのに何かの断片であり、その断片を寄り集めても、何が完成することもなさそうだ。パズルではないのだろう。それでも何かの断片だとしたら、それはなんなのか。現状ではわかるはずもなく、それらを呆然と眺めているだけのようだ。何も見出せはしないだろう。しかしそれで終わってしまうのはしゃくなのではないか。ではどうしたらいいのだろうか。

 まとまった内容を得られないことは確かだ。どう考えてもすべてが散らばってしまい、その散らばり具合を説明し得ないみたいだ。それはなぜだろう。理由が見当たらず、ただ散らばって一定の思考にまとまるのを拒んでいるわけか。しかし思考とはなんだろう。それがなんらかの価値観に基づいているのだろうか。その思考によって何をどうしたいわけでもないのが、思考としてまとめる上での致命的な欠陥となっているのだろうか。それ以前に思考ではないのではないか。なんでもありはせず、ただ言葉の連なりが分散的に多数あるだけではないのか。そしてそれがどうしたわけでもない。ではそれらが一定の思考や思想に発展するのは不可能なのだろうか。まだその段階ではないということか。その段階に達することなどあり得ないのではないか。どこにも至らずに絶えず分散し続け、時が来たらそれが中断されるだけなのかもしれず、その時が来るまで言葉を記し続ける宿命に囚われているわけか。それではそれらは無為で無駄な試みだろうか。とりあえずやっているわけだから、やり続けたければやり続けていれば構わないわけだ。

 たとえ平板でありふれた思考を有した書物だろうと、とりあえず読んでみれば何かしら発見があるかもしれず、数ページ読んだだけで結論を下すのは思い上がりもいいところだ。本文だけでも六百ページもあり、註を加えれば七百ページを超える書物だ。題名が『21世紀の資本』というからには、何かしら新しいことが述べられているに違いなく、実際に各方面で話題を呼び、ベストセラーとなっているわけだから、それなりの内容となっているのだろう。読んでもなんの解決にも至らないとは予想がついてしまうが、とにかく時間がまだあるのだから読んでみる必要がありそうだ。その後で何かしら思いつくことがあれば、それについて言葉を連ねてみればいい。読めば案外思わぬところから驚きがもたらされるかもしれず、そのきっかけでもつかめればしめたものだ。期待薄かもしれないが、それよりも自らが記している言葉の分散状態をなんとかしなければならない。他人の言説などどうでもいいのかもしれないが、そのどうでもよさの中にとどまってしまえばいいのだろうか。それがどういうことなのか捉えきれないが、なんとなくこのままではどうでもいい水準で言葉を記すしかなさそうだ。それでは困った事態なのではないか。何が困っているとも思えないのだが、とりあえず何をどうしたらいいのかわからないまま、言葉を記している現状がある。


12月19日「間違った行為の効用」

 理論でもなんでもない。まやかしでさえないようだ。しかしまやかしであることはそれについて述べる理由になりそうだ。まやかしであることを告発しなければならない。技術的なことなのだろうか。それ以前にまやかしでさえないならなんなのか。まやかしにならないようなことを語らなければならない。でもそこに真実や真理があるとは思えない。また何かを捻じ曲げているのか。そのことで人が迷惑を被っているらしい。そんな風に語ればいいのだろうか。素直にその場の成り行きに従えばいい。そうすれば何か適当に語ることができるだろう。だがその語ることができる何かはいつまでたっても何かでしかなく、それはいつまでたっても何かの水準にとどまるだろう。自分にとってはそれほど関心を持てないようなことか。正しいことを語ってはいけないようだ。だが何が正しいのかもわからないのに、ただそんな気がするだけではわけがわからない。わからなくてもかまわず、ただ正しいをことを語らないようにすればいいのだろうか。なぜそれが正しいことだと思われてしまうのか。それは語っている内容が不快だからか。不快なことを語る人々は、正しいことを語っているように思われる。それでかまわないのだろうか。実質的にはどうでもいいようなことを語っているのではないか。正しいことがはっきりしているのだから、あえてそれを蒸し返すには及ばず、正しいことはそのまま放置しておいて、それに対しては当たり障りのないことを語るように心がけてしまう。ともかくそうすれば、不快な人々はますます調子に乗って、正しい主張を武器に他人を攻撃しまくるわけで、そういう攻撃をやらせておけばいいわけだ。それが攻撃なのかどうかよくわからないのだが、それでかまわないのだろう。たぶん攻撃ではなく批判なのではないか。そういうことなら、それを批判とみなしてもかまわないわけだ。

 その批判は甘んじて受けておいたほうがいい。ただでさえ間違ったことを述べているのだから、他人の批判に反論する必要はないだろう。たとえその批判や攻撃が不快に思われようと、耐えればいいわけだ。こらえれば済むならそれに越したことはない。実際に反論せずに、その代わりにはぐらかそうしているのではないか。もっともはぐらかそうとしてはぐらかしきれず、そんな経緯の反省もあって、最近はそれもやめるように心がけているみたいだ。あえて手出しは無用だろう。人は高望みがしたいわけで、高望みした挙句に無駄なことに労力を注ぐわけだ。正しいことを主張したい人たちは、その無駄な労力や無駄遣いに我慢がならないのだろう。そしてその無駄を楽しむ人たちを攻撃して、溜飲を下げるのではないか。なんとかその無駄な試みを嘲笑したいわけだ。そんな他人の無理解を受け止めながらも、やはり無駄を楽しまないと気が済まないとしたら、今後もその無駄な試みを続けた方がいいのではないか。結果的に何の役に立たなくてもかまわないのであり、ただそういうことをやっていること自体が、その人にとっては大切なのだろう。それをやっている過程で何に気づかなくても、あるいは何か新しい発見に巡り合っても、どちらであってもかまわない。それが目的や目標でなくてもかまわないわけだ。正しいことは過去の経験や蓄積から導き出されることでしかなく、未来においても正しいかどうかなんてなんの保証もないのであり、そういう正しさに囚われている人は、つまらないことにこだわっているとしか思えない。そんな人たちに何を言っても無駄だろう。心にも資金にも余裕のある人たちは、絶えず新しいことに興味を抱き、試してみようとするのではないか。そういう好奇心旺盛な人たちに、これまでの経験から培われた正しい行為を強要するわけにはいかないのではないか。たとえ間違った結果に至ってもかまわないだけの余裕を持ち合わせた人々には、未来への時空が開かれている。

 得意になって正しいことを語りたがる人たちに未来はない。あるのは過去から地続きの今しかないわけで、その今にすがってしきりに正しいことを主張するわけだ。そして間違ったことを語る不埒な輩を攻撃する。そしてそんな攻撃に反論を試みるのは野暮というものだ。とりあえず言っていることが正しいのだから、正しいことを言わせておけばいいわけで、不快だからといって反論しては返り討ちにあうだけか。その辺はなんとも言えないが、ともかく言っている内容が正しいのだから、それを屁理屈をこねながらどう言いくるめようとしても無駄なのではないか。そしてなるべくなら無駄で無意味なことは、それとは別の方面で使ったほうがよく、なんとなく否定ではなく肯定的な方面で活用したくなる。ならば何を肯定すべきなのか。無駄で無意味なことをやる人たちは、例えば自らが犠牲者であることを自覚すべきだろうか。別に犠牲者であろうとなかろうと、自らがやっていることが倒錯であろうとなかろうと、やる必然性を求めるわけにはいかないようだ。ただ何気なくやっているわけで、その何気ない行為が、のちに実を結ぼうと無為に終わろうと、たとえそれが趣味だろうと仕事だろうと、やるだけの魅力を感じているはずで、それに惹かれ導かれながらやっていることは確からしく、その行為に合理的あるいは論理的な理由づけなど必要とされていないわけで、結果からそんな理由がつけ加わろうとも、あえてそれを信じる必要はないのではないか。やっていること自体がそれを信じている証しであり、それほど信じていなくても、絶えず疑いながらやっている場合もあるだろうが、そのあやふやさが確信に変わる時が来るとすれば、やはりそれこそが結果なのであり、とりあえずそうなったらなったで、そんな結果も受け止めなければならなくなるかもしれないが、とにかく今何かやっている現状があるわけだ。それ以上でも以下でもなく、今何かをやっている。そしてそのやっていることが未来へとつながるかもしれない。それにすべてをかけていようといまいと、そのやっている行為を肯定するしかなさそうだ。そんな行為がいくら他人から嘲笑されても、別にそれほど痛くもかゆくもないのではないか。


12月18日「状況判断の甘さ」

 そこで何も選ぶ気がない時はどうすればいいのか。消極的な選択ではなく、積極的な無選択なんてことがあり得るだろうか。言葉の上でのことでしかない。実際には何か適当に選んでいるのではないか。それが生きていることの証しとなりそうだが、その選んでいる何かを言葉で示せるだろうか。示してどうするのか。それは何かの状況だろうか。現状がそうなのではないか。たぶん何を表現できるわけでもない。何かしら表現しているのだろうが、それをすべて知り得るわけではない。知ったところでどうするのか。思考する対象の範囲が気づかぬうちに狭まっていたようだ。そしてさらに狭まって、何か目的を見出せるようになるのだろうか。何が定まっているとも思えず、今のところは何かを目指すべき理由を知り得ない。何かとはなんなのか。出てくるのはそんな疑念ばかりのようだ。まだ何も選んでいない。それだけのことなのではないか。ならば行き詰まるのも無理はない。そこで何かを選ばなければ、その先へ進めないのだろう。確実にはっきりした対象を選んで、それについて語らなければならず、うやむやに済ませられるようなことではないらしい。そうしないとどうなるのだろうか。どうにもならずにそのまま行き詰ってしまうのか。きっとそうに違いないが、やはり現状では無選択だ。選ぶべき対象に遭遇できずにいる。

 語ることなど何もなく、途方に暮れている精神状態なのかもしれず、たぶんとりとめのない気分で何か考えているふりをしているだけかもしれず、世の中の流れに逆らうのは容易でない。それとこれとは関係ないだろうか。何を批判しても無駄に思われ、少数派は次第に追い詰められ、出口の見当たらない閉塞感に苛まれる。虚無的な気分が心を蝕み、さらに憂鬱感が増してくるかもしれないが、何が鬱積しているとしても、大したことではないはずだ。元からそこには何の可能性もないのだ。何が成し遂げられるわけではなく、実現不可能なことを承知でそれを主張していたはずだ。それとはなんだろう。民主主義という価値観を誰もが尊重することか。人によってその価値観の中身も重要度も思い入れも違うようだ。ないがしろにされもかまわないとは思わないだろうが、それは言葉の範疇でのことで、実質的な面では大して重要とは思われていないらしい。切実に求められているわけはなさそうだ。たぶんそれが徹底的にないがしろにされたときにでも、幻想として思い浮かべられる観念でしかないのだろう。そこにどんな価値観が意識されているわけではない。少なくともそんな風に語ることができる程度で済ませておくべきなのだろう。現状では他に何が求められているわけでもないようだ。それ以上に語れば嘘になってしまう。そして誰もその嘘や方便としての民主主義で間に合わせようとしているわけだ。本当に間に合うとも思っていないのだろうが、その間に合わせる対象が不明確で、とてもそれが国家とか議会とは思えないのだろう。

 それに関して思いつく概念や観念が、現実の制度と一致したり交わる部分があるすれば、そこから何が裏切られたと捉えればいいのか。たぶん何も裏切られてはおらず、見たまま体験したままの現実があるだけで、何もおかしいところなどありはしない。良識や理性にこだわらなければ、そんなことも可能なのではないか。何が可能かといえば、要するにそれが力の行使なのだろう。権力と呼ばれる力を行使して、思い通りの結果に導くやり方に固執するなら、そうするしかなく、そうする道しか残されておらず、それをあきらめれば負けるしかないのだろう。負けたくなければ力を行使するしかない。逆にそういうやり方を行使してもらわないと、本当のところはわからないのであり、今回のそれがいくら茶番劇だと思われようと、それが可能なのだから、とりあえずそういうことをやってもらって、今後の動静を伺うしかない。何か変わったことがあったのだろうか。方針を転換するようなことはならなかったのではないか。だからまだ可能性があるのだろうし、人々が思い描いている民主主義という観念や概念を転換させなければならない。そのためにはこういうことが繰り返され、今までの民主主義が形骸化されなければ、なかなか改まることはない。要するにそういう思い込みこそが転換のための弊害となっているわけだ。それがなんであれ、実現しなければなんでもないのであり、いつまでたっても実現しない価値観を後生大事に抱え込んでいても、それは無意味で無駄なことでしかない。たぶんそれを捨て去るには良い機会なのだろう。今がその転換点に立っているのだろうか。それは後になってみなければわからないことだが、なんとなくそんな気がしていることは確かなようだ。

 要は制度や仕組みではなく、実践なのだろう。制度や仕組みがなければ実践できないというのなら、そのような制度や仕組みに依存した実践しか可能ではない。歴史的にはそのような制度を打ち破る試みこそが、実戦の本質であり、絶えず既存の制度や仕組みに逆らうことで、世の中の転換を目指してきたのであり、意識して目指さなくても自然とそうなってきたはずだ。それを意識して目指さなくなっているから、閉塞感を抱かざるを得ないわけだ。現状を変革させようとすれば、それは悪い方向にも良い方向にも変わる契機に到るのであり、それを推し進めようとしている勢力がその気になっているのだから、それをやるしか道はないわけだ。やるならそれをやってみればいいのであり、やってみておかしな具合になるなら、それを受け入れるにしろ拒否するにしろ、さらにそのような結果に抵抗するしかないだろう。たぶん無関心を装う人たちが何をもたらしているのでもなく、変革をもたらそうとしているそれを、かわそうとしているだけなのかもしれず、なんとなく嫌悪感を抱きながらも、現実にそうなってしまってから、それに文句をつけることしかできないのかもしれないが、たぶんその程度でかまわないのであり、強引な変革を遂行しようとしている勢力がやろうとしていることとは、結局その程度のことなのかもしれず、それに対して何も大げさな危惧の念を抱く必要はなく、それによってたとえ深刻な事態に陥ろうとも、それはすでに避けられない破滅となっているのではないか。そこにはそれらの者たちの思惑を超えた事態が発生しているはずで、それを誰が招いたわけでもなく、その責任を特定の誰かが問われるとしても、その誰かにはどうすることもできない事態となるのだろう。何かをやれば常にそれを超える事態がもたらされるわけで、それは避けられない事態となるだろう。


12月17日「特定の言語表現の流行」

 気のせいかもしれないが、無駄なことをやっているのだろうか。たぶんそうで、やっていることのすべてが悪あがきなのかもしれないが、まだやる時間があるようだ。悪あがきしかできない時間なのかもしれないが、時間がある限りは悪あがきをやらなければならないようだ。それが悪あがきでないことを示したいのだろうか。やるだけ無駄だ。でもそれが結論ではない。すべては結果でもなく、今がその結果で、絶えず結果を意識している。しかしそれはなんの結果でもなく、実質的には何ももたらされていない結果だ。それが結果だと言えるだろうか。何かをやった結果がそれなのではないか。そしてそれでかまわないと思っている。そんなやり方では何ももたらし得ないことを承知で、なおもそれをやっている現状がある。相変わらず自らを取り巻く世界を理解できず、ただ言葉を記して、その無理解に抵抗している。思いついたのはそこまでで、さらに続けて言葉を記すとごまかしになってしまいそうだ。また本を読むべきなのだろうか。言葉を記そうとして本を読むのは、動機が不純だろうか。言葉を記すには情報が必要か。メディアから受け取った情報が記述の内容になるのだろうか。権力に媚びるメディアを否定しながら、そこから記述するための情報を得る。それではメディア依存から抜け切れていない。しかしメディアにも良し悪しがあり、反権力的なメディアを支持しているのではないか。それが幻想だと思っているのだろうか。人は何かしらのメディアに依存していて、そこから情報を得ているはずだ。メディアから情報を得るのが無駄なことなのだろうか。でも情報を得るにはそれ以外はあり得ないのではないか。自分で直接見聞できる範囲は限られている。しかしメディアから情報を得て、その情報を基にして思考を働かせている限りは、メディア特有の観念に思考を染められ、自分では一歩も動かずに、ネットからだけ情報を得ているようでは、ただの依存症でしかない。しかし自分の足で情報を集めるのが仕事でも商売でもないなら、それもただの自己満足に過ぎないのではないか。結局は得た情報の受け売り的なことを主張するしかないわけか。しかもそれに気づいていないところが救い難いか。しかしそれに気づいているとしても、自戒の念ばかりでは何を述べていることもなりはしない。そこから具体的に何を主張したいのだろうか。はっきりした主張をつかみきれていないようだ。何を主張しようとしているのかを知りたいわけか。しかしそれは誰の主張なのだろうか。何か特定の人物やメディアがそれを主張しているわけか。主張しているとして、それについて自身はどう考えているのか。どうもその辺がよくわからない。

 勘違いしているのではないか。メディアは空気のようなものだろうか。呼吸するように情報が自然に入ってくる。ただそれに接していればよく、それを自然に受け止めればいい。当たり前のように感じていればそれでかまわない。それについてどう思うこともなく、気の赴くままに受け入れ、入ってくる情報を自然に消化すればいいわけか。そんなことができるだろうか。できるできないの判断も要らず、気に入らない報道の仕方に反発したり、権力を批判する姿勢に同調したりするだけか。でも本当にそのつもりでやっていることなのか。そのつもりもないのに、自然とそんな気になっているとすれば、それはメディアに洗脳されている証拠だろうか。たぶんその洗脳という表現自体が、もはや使い古された常套句で、何かといえばすぐに洗脳だなんだのと、批判の対象を攻撃するときに使うわけで、たぶんそんな言葉を使っていること自体が、すでに意識をメディアにコントロールされている証拠となっているわけか。では何をどんな表現すれば納得できるだろうか。絶えず言葉の使い方に気を使い、使い古された常套句からはなるべく遠ざからなければならないか。それでメディアからの悪影響を振り払うことが可能だろうか。その自覚がないと、たちまち紋切り型的な二項対立に陥って、一方の側から他方の側へ、常套句的な表現で批判を浴びせている多くの人たちと同じように、フィクションの役割分担を受け入れていることに無自覚でいる自らの心地よさから、抜け出られなくなってしまうわけか。しかしそう述べてそれらの人を批判しても無駄なのではないか。そんなことを述べていること自体が無駄で無意味なことか。ではメディアからの影響に自覚的であることに、どんな効用があるのだろうか。たぶんある一定の言説の流行から、そのような言説が使われる場面に多く出くわすほど、そこにどんな力が働いているのかを知ることができるだろうか。しかし実際にどんな力が働いているのだろうか。例えばそこでどんな言語表現が多く使われているのか。攻撃対象を攻撃するときは短い決めつけの文句が多い。それに対してレッテルを貼るという表現が多用される。その相手を否定する短い決めつけの言葉が、同じ言葉を大勢で使うことで、仲間内の団結を強化するには効果的に働くのだろうが、それが外部の者に独善的な印象を与え、またそのような言葉を共通して使う集団に対して、格好のレッテル貼りの機会を与え、そのような集団に対する通称として、ネトウヨとかいう嘲りの言葉が用意されているわけだが、それも短縮された略称で、彼らに対する否定や攻撃の言葉となるわけだ。そのような言葉を使わせる力の源泉はどこから湧いてくるのか。どこからともなく湧いてくるのであり、別にそこに原因や理由を求める必要はないのだろうか。共通の短い言葉を使うことで、安易に仲間内で団結したい気持ちにさせる力の場がそこにあるだけのことか。しかしそんな説明では何を述べていることにもならないだろう。


12月16日「今後において必要不可欠なこと」

 ありふれたことを語るわけにはいかないだろうか。実際に語ってみればそういうことになりそうだ。ありふれたことしか語れないのはいつもの通りだ。しかしありふれたことがおかしいわけで、そこから疑念が生じている。何かしら主張している人たちは、結局何であれ自らの都合のいいように解釈して、そこから主張を形成しているわけで、都合の悪いところは意図的に主張から排除している。そしてその主張を批判する人たちは、その都合の悪いところを突いて批判するわけだが、批判された側は、一向に主張を改めないどころか、さらに支援者を味方につけて、数に物を言わせて主張を通そうとする。結局はそんなことの繰り返しなのだろうか。そこから何を主張したらいいのか。あくまでも理性的に対応するしかないわけか。実際に対応しているそれが理性的であるか否かも、自分の都合のいいように解釈するしかないのではないか。それらのどこに自分の都合が反映しているのだろうか。解釈も主張もそのすべてにわたってそうなのか。そうかもしれず、それを自ら受け入れなければならないのかもしれない。その上でどう判断したらいいのか。どう判断するにしても、すでに自らの都合のいいように語っているのかもしれず、都合の悪いことは語らずにいるのだろう。こればかりはどうすることもできないはずだ。しかしできるだけ独善的な主張はしないようにしたいのであり、独善的な思考に陥らないように心がけているはずで、たぶんその心がけも自らの都合でそう思っているわけだが、意識してそう思うにしても、無意識の都合まで制限するのは無理で、どうしても恣意的な解釈から、ご都合主義的な主張に陥らざるを得ないのかもしれず、その辺はある程度割り切らなければ、何も主張できなくなってしまうだろう。無論何も主張しないように心がけているわけでもないのだから、何かを語ればその中になんらかの主張が含まれていて、何を心がけようと意識しなくても、自然と何かを主張していることになってしまうので、その場の成り行きに合わせて何か適当なことを語り、それがなんらかの主張を含んでいるとしても、別にそれを後から否定してみても、もうすでに主張してしまったことになるのだから、どうすることもできはしない。とりあえずそうした主張は置き去りにしながら、絶えず自らの主張を改めるように努力することが肝心で、洗練したり研ぎ澄ましたりすることが可能なら、そういう方向へ改めなければならないのかもしれないが、別にそうならなくてもかまわないのであり、ただ横断しながら位置や場所や時間的な差異から、何かを抽出できればそれに越したことはないのではないか。できればそうしたいだけなのかもしれない。できなければそのままでもかまわず、以前と同じようなことを飽きもせず語り主張していれば、それで済んでしまうだろう。

 ともかくそこにどんな他者を想定してみても、実際に様々な批判を受けようと、その場その時に考えや主張を改めながら、語っていくしかない。語れなければ黙るしかないし、黙ってしまえば済むならそうするしかない。しかし具体的に何を主張しているのか。何をどうすればいいと主張しているのか。どうもその辺でよくわからなくなってしまうのであり、うまく主張できないようで、状況をどう解釈すればいいのかわからなくなってしまう。例えば選挙で投票率が低いことが問題となっているなら、ならば投票をやめてくじ引きにすればいいと主張することはできるが、そんなことは実現するわけがないだろうし、結局現行の制度を維持しながらどうすればいいか、そういう拘束の中で何か気の利いたアイデアを主張しなければならなくなり、その時点ですでにそのような制度の支配下で、不自由なことを語らなければならなくなるわけで、民主主義のありがたみがどうたらこうたらとか、それを人々にいかに訴えかけるか、というような主張となってしまいがちになる。また太陽光や風力などの再生可能エネルギーは、天候や季節によって発電量にムラがあり、それを補完するのに原子力が必要となり、さらにソーラーパネルには有害物質が含まれ、人体に有害な電磁波も発生し、寿命が短く設置コストを回収できず、風力発電は低周波音を発生し、風車に鳥が当たって死亡する例が多く、両者ともに自然破壊の元凶で、再エネと原発はともに反対しなければならないそうで、そういう主張を盛んに行なっている人たちがいるわけだが、たぶんそういう正しいことはいくらでも主張できるのだ。そしてその一方でソーラーパネルや風車を製造している企業や開発している研究所は、そういう批判を織り込みながら、それを克服するための技術開発を行っているわけで、それらの産業を推進していく上で、そうした批判を利用しようとしている。結局選挙の投票率が低いことを利用して、組織票によって体制を維持しようとする勢力があるのと同じように、再生可能エネルギーに対する批判を利用することで、その批判を克服した新技術を開発することで、自分たちの優位を確立したい勢力もあり、正しいことを主張し続けることは、逆にそれを利用して利益を得ようとする勢力を生み出してしまうことにつながり、何を主張するにも、ただ相も変わらぬことをいつまでも同じように主張するわけにもいかないことは確かで、その場の状況に応じた絶え間ない戦略や戦術の見直しや修正や更新が必要不可欠だろう。


12月15日「娯楽としての選挙」

 理由は特にないが、とりあえず選挙に行かなかった人たちが、一番正しい判断をしたのだろう。その正しい判断に腹を立てている人たちが大勢いることは確かだが、政治家や政党の力でどうなる現象でもなさそうだ。それはそれで肯定すべきことなのではないか。実質的には肯定でも否定でもどちらでもかまわないのであり、そんなに大した行為でもなく、少なくとも賞賛されるべき行為ではないのだろうが、別に面倒くさいから行かなかったというのもあり得るし、選挙とかに無関心であることが、とりたてて道義的にどうこう言うべきことでもないのかもしれない。意識して制度に逆らっているとも思われず、たぶん意識しないことが肝心なのであり、なんとなく政治経済的な情勢に対して嫌悪感を抱いているのかもしれない。積極的に関わるべきこととは思われないのだろうか。その辺は人それぞれかもしれないが、ひとりひとりの心の中まで覗き込むことはできない。要するに選挙に投票に行かなかった人たちの意識ではなく、投票に行かないという行為自体が、なんらかの兆候を示しているのであり、それがある種の現象となっていることは確かだ。それに対する反応としては、民主主義の劣化や形骸化をあげるのが、ありがちな意見かもしれないが、その通りではあるにしても、その一方で、ほとんどの主要メディアをあげて大騒ぎしているのに、それに一向に乗ってこないところが、なんだか愉快な印象を与えているようにも思われ、どうせそれに関してメディアが用意した識者がもっともらしい意見を述べるのだろうが、その意見になんらかの説得力が伴うにしても、愉快な印象が損なわれることもないのではないか。それに関する多くの発言者が事の深刻さを強調したいのかもしれないが、強調すればするほど、それとは正反対の力が働き、どっちらけな結果を招いてしまうような気がしてならないのは、なんとなくこの先の成り行きを想像させる。やはり到来するそれは悲劇ではなく笑劇のたぐいなのだろう。それと意識されずに進行している冗談やギャグのような成り行きによって、世の中が薄く包まれて覆われ、それは危機感を抱いて騒ぎ立てている人たちをその場に置いてきぼりにしながら、静かに辺り一面に漂っている空気のようなものなのではないか。そしてその空気が人々の思いとは無関係に機能し、人に無関心という効果を及ぼしているのかもしれず、その効果に助けられて政治体制が消極的に維持されているわけだが、たぶん今はその体制の消極的な維持継続に、多くの人が一縷の望みを託しているようにも思われ、やはりそれは最後の悪あがきとみなされるようなことかもしれないが、その最後というのが何の最後なのかもわからず、最後ではないような気もしてしまうから、なんだかそんな現状認識が意味不明に感じられてしまうわけだ。

 要するに本当のところはよくわからないということだろうが、そこで生じている冗談とかギャグとかは、具体的にどんな内容を伴っているのだろうか。何が冗談で何がギャグとみなされるのか。このままでは戦争になるとか、経済が破綻するとかいうおどし文句がそうなのだろうか。それだけでは冗談もギャグも薄いか。では在特会とかいう演劇集団の街頭パフォーマンスが、世間の物笑いの種になっているのか。ここでも物笑いなどではなく、事を深刻に受け止める風潮があり、そういう受け止め方自体が冗談であり、ギャグのように感じられてしまうのだろうか。それもちょっとずれているように思われる。様々に入り組んだ社会の中で生じている利害関係から、様々な主義主張が生まれているとしても、それらの主義主張が賛成反対の二項対立として噛み合うことはなく、絶えずズレや齟齬が生じていて、そのずれた隙間から絶え間なく、それらを小馬鹿にする冗談やギャグのたぐいが繰り出されているのかもしれないが、それらにいちいち肯定的あるいは否定的な意味や意義を見出す必要性など感じられず、それらが社会にどのような効果や影響を及ぼしているとしても、それもとりたてて気にするようなことでもなく、それらのほとんどは戯れや倒錯に基づいていて、ゲーム感覚で行われている娯楽のたぐいとみなしておけば済んでしまうのであり、その中には選挙も他の娯楽と同等の価値基準で含まれていて、他の娯楽と同じように、関心がなければ関わらなくてもいいことでしかなく、別に投票を強制されていないのだから、行かないと罰せられるわけでもなく、嫌なら行かなければいいわけで、たぶん娯楽としての選挙ならそれでかまわないのだろう。そして現状では娯楽以外での選挙などあり得ない。それが世の中の退廃を象徴しているとしたら、娯楽こそが退廃をもたらしているのであり、文明の繁栄が必然的に退廃を招いているわけで、それは避けられない成り行きなのではないか。そこではゲームと現実が混同され、選挙ゲームを楽しむ人たちと、それに無関心な人たちがいるわけで、無関心な人たちも他のゲームには関心があるのかもしれず、世の中に流通している様々なゲームや娯楽の間で、人それぞれで趣味や嗜好がバラけていて、すべての人が関心を持つようなゲームなど今のところありはしないわけだ。それらの人々には何が欠けているのだろうか。事態に対処する術がないわけか。無関心であることも一つの術には違いなく、無関心であってもかまわないと思うことが、今後どんな結果をもたらすにしても、その結果も大したことはないとタカをくくっていられるような状況なのではないか。もしかしたら本当にそうなのかもしれず、それは選挙結果を深刻に受け止めている人たちにとっては、絶望的な状況であるかもしれないが、そのまったくかみ合うことのない齟齬感こそが、状況自体が冗談そのものであり、そこから繰り出されるすべての言葉が、ギャグにしかならないことの証しなのかもしれない。これでは選挙前に亡くなった俳優の想いも浮かばれそうにないか。


12月14日「抱くのが当然の野望」

 おかしいと思っているのは、おかしいと思っている対象の人たちも、同じようにそう思っているのだろうか。聞く耳を持たない人たちは、自分たちの攻撃対象の人たちも、聞く耳を持っていないと思っているのかもしれない。しかし聞く耳を持っているとはどういうことなのか。もしかしたら誰もが自分は聞く耳を持っていると思っていたりするわけか。そうだとしたらおかしな状況だろうか。誰もが独りよがりでいられる社会とはどんな社会なのか。まさか現状がそうなのか。集団で徒党を組んでいる人たちは、自分が所属する組織内では、少なくとも自分の意見を聞いてくれる人がいると思っているのではないか。また攻撃対象の人たちには、自らが聞く耳を持っていないこと自覚しているのかもしれない。敵を許し隣人を愛することは難しいようだ。その逆に敵を憎み隣人には無関心でいることは容易だろうか。どちらであってもかまわないのではないか。たぶんそんなことなどおかまいなしに、関係しようとしまいと、人は社会の中でうごめいている。人と人を敵と味方に分ける境界があろうとなかろうと、人と人は関わり合ったり合わなかったりする。それだけで何を意味するとも思えないが、時と場合によっては何か意味を持つこともあるのだろう。何かの巡り合わせで、思い通りに事が運んでいるような気になり、利益を得られたり、自己満足に浸ることができたりするわけか。たまにはそうなったりするのではないか。その逆で何をやってもうまくいかなかったりする場合もあるのだろうが、それがどうしたわけでもないらしい。そこにやっていいこととやってはいけないことの基準を設けても仕方がないのかもしれず、意識したりしなかったりで、その場その場で判断しているのだろうが、やっていいことばかりをやるわけにもいかなくなるのであり、やってはいけないことをやらざるを得ない成り行きに、巻き込まれてしまう場合もありそうだ。その成り行きを無視して、やってはいけない行為をやった人たちを非難してもかまわないのだろうが、非難された側は、成り行きでそうなってしまったのだから、それを後から非難されてもどうしようもないように思われ、何をいいわけしても聞き入れてもらえなかったりして、なんだか嫌になってしまうのではないか。それはそれで仕方のないことなのだろうが、その非難を甘んじて受け入れても受け入れなくても、どちらも場合であっても、それぞれに面倒な事後処理が待ち受けているのだろう。

 だがそんなことを語ってみても、何がどうなるわけでもなく、人はそんなことを繰り返しながら生きて死んでゆくのだろう。そんなことにいちいちこだわったりこだわらなかったりするわけだ。そんな成り行きを語ってみたところで、その語りの内容に共感したりしなかったりするだけで、そこで語られる成り行きやその中でやった行為が、変容するわけもなく、ただそれについておもしろおかしく脚色してみたり、悲劇仕立てで他人の同情を誘ってみせたりして、語る行為自体が取り返しのつかぬ勘違いをもたらしたりするのかもしれないが、それもやっていい行為とかやってはいけない行為のどちらかに入る場合もあるのだろうし、語ってみなければなんともいえないが、語ってしまったら取り返しがつかなくなってしまうのだろうか。どうなってもかまわないのならば、とりあえず語ってみるしかないのだろう。しかしそこで実際に何を語るつもりなのか。少なくともそれはすでに語りつつあるそれではないはずか。それとはなんだろう。人は誰でもそこで何かに直面している。そしてその直面している何かに誘われ囚われこだわり、分節され制限を受け、それによって性格付けされ特徴付けられ分類されている。簡単にいってしまえばそんなところだろうが、当人は必ずしもそういう成り行きに巻き込まれていることに納得していないのだろう。場合によってはそのことで攻撃対象から蔑まれ、不快なレッテルを貼られ、事ある度ごとに嘲笑されていたりするわけだ。そしてそれがかえって仲間同士の結束を生み、互いに励まし合い連携し合い、集団の力で不合理な行為をやり遂げようとしたりする。そんな人たちが社会の中で一定の勢力を誇るようになると厄介だろうか。実際になんらかの宗教教団や思想集団がいろいろ存在しているわけか。そしてその中には資本の蓄積と増殖を目的とする私企業のたぐいも多数いるわけで、その合法的な利益追求活動が、目下のところ最も広範囲に集団的な力を及ぼしていて、その勢力の拡大とともに世界の至る所で様々な問題を引き起こしているわけか。もちろんその活動を助けて支え、そこから各種の税を得ることで成り立っている国家が擁する官僚集団も存在しているわけで、それらの集団の間で様々に入り組んだ関係を構築して、それに伴って互いに力を及ぼし合い、その権力と呼ばれる力の関係の中に人々を絡め取って自由を奪い、規律によって管理しながら拘束しているわけだが、やはりそんな現状もどうしたわけでもなく、そんな状況の中で生きている人々は、それが当たり前のように感じているわけで、それらの何がおかしいとも思わないのではないか。結局何がどうなっているわけでもないのだろうが、これから現状がどう変わろうと、誰かの思い通りの成り行きになるとしても、そう思わせているのはそんな現状でしかないわけだ。その身勝手なこだわりも、意識が現状に絡め取られていることから生じているのだろう。


12月13日「中立公正な立場とは?」

 きっかけとは何か。何がきっかけであっても良く、きっかけなど何もなくてもかまわないのだろう。何かきっかけがあったとして、そのきっかけから何がどう変わろうと、ただそれ以前とは変わった状況の中で生きて行くだけだ。実際に生きているわけだ。戦争になるだのならないだのとおかしな物語が流行っている。それも選挙が終わって結果が明らかになれば沈静化するのだろうか。どうも疑念が晴れることはないようで、誰も疑問に答えくれないらしい。偽りの二項対立もまだ当分は続きそうな気配だ。それらのごまかしやはぐらかしもまだまだ続いてゆくのだろう。たぶんどの勢力とどの勢力が対立しているのでもなく、そんな勢力などありはしないのであり、要するにメディア上で偽りの対立が演じられているわけだ。それでも格好の攻撃対象が現にいるわけだからいいのだろう。対象が存在する限りは、その対象をめぐって擁護するか非難するかの二項対立が成り立つのだから、それはそれでありがたいことだろう。そのありがたみをかみしめながら、今日も明日も対立する両陣営で非難合戦を繰り広げられる。そんな同じ言説空間の中で成り立つ、二つの主張のどちらかを選ぶことで可能な二項対立を超えて、何を語ることができるだろうか。超えて語ることは無理で、二項対立を回避しながら語ることなら可能か。無理に言説を回避させる必要すらないのではないか。そもそも二項対立とは具体的になんなのだろうか。それもあいまいではっきりしないことかもしれず、突き詰めて考えて行くと消えてしまうような対立なのではないか。そこでなんらかの主張を形成している言説がお粗末で、穴だらけの非合理的な中身だからこそ、その欠陥を利用して対立が形成されているのであって、しかもその欠陥を正してしまうと対立できないから、それと気づかずに対立する双方が示し合わせて、わざと見て見ぬ振りをしながら欠陥を放置することで、互いの立場を維持しているわけだ。そんなくだらない対立をまともに受け取る必要があるのだろうか。実際にそうやって偽りの対立を演じているのだから、そんな現状から物事を考えなければならないだろうか。別にそれでかまわない。対立とは本来そういうものなのではないか。同じ言説を共有しなければ対立などありはせず、ただ議論がかみ合わず、すれ違うばかりなのではないか。その対立を成り立たせる言説自体がおかしいと考えてしまうと、もうその先には何もなく、ただわけのわからぬことを述べているだけの、無視する以外はあり得ないようなことを述べているだけとなってしまうようだ。実際にそれらの二項対立を共有していないのだから、その外で何を主張しようと馬耳東風なのだろう。そんな現実に直面しているわけだ。

 やはりプレゼンの宣伝合戦でしかないのだろうか。しかしそれ以外にどんな対立が成り立つというのか。要するに人々に許容可能な物語を提示して、その物語への賛同を募ること以外には、何もなされていないわけだ。実際に物語の筋書きに沿った形で政策が立案され、選挙後にもそれが実行に移される手はずなのではないか。そうやって主張に賛同する人々の夢が実現するわけだ。彼らが本当にそんな夢を抱いているかどうかはよくわからないところだが、とりあえずそれが肯定されるにしろ否定されるにしろ、そんなふうにして世の中が動いてゆくのだろう。その動いていく先に待ち受けているのが、戦争だなんだのと危惧している人たちがいるわけだが、たとえそうなったところで、人が死んで巻き込まれた地域が荒廃するまでだ。それは今までにも果てしなく繰り返されてきたことであり、今現在も世界各地の紛争地域ではそうなっている。実際にそうなればなったで、またそれが世論に反映して、なんらかの動きとなって表面化するのではないか。その時々であまり短絡的に為政者を非難してみても、うまくいかないだろうし、うまくいかなくてもかまわないのだろうが、国内外の政治経済の動向に人々がなんらかのアクションを起こすとすれば、その機会の一つが選挙なのだろうから、あまり深刻に考えずに、気楽に賛成だの反対だのの意思表示をすればいいのではないか。はっきり言ってどんな政党が与党になろうと野党になろうと、政権を担当しようと、それ自体は大したことではないのではないか。世界の中で見ると、無政府状態といわれるソマリアと独裁状態の北朝鮮との間に、何か決定的な違いがあるとは思えないし、この先日本の政治経済情勢がどうなろうと、ソマリアと北朝鮮の間に収まるだろうし、その外に外れていくことはないような気がするし、それらの両国から比べれば、まだだいぶマシなレベルで状況が推移しているのだろうから、この先どうなろうとどうということはないのではないか。何を悲観してみても、悲観論は最悪の状態よりはマシだと思うための方便だろうから、あまりあてにならないし、株価や為替相場の変動に一喜一憂するほど、直接それらの取引に関わっているわけでもないし、その手のメディア上では誰もが関心を抱くように意識を誘導しようとしているのだろうが、金を払ってまでそれらの記事を見たり読んだりする気にはならないし、たぶん誰もが政治経済に無関心であってもかまわないのだろう。選挙でも扇動者の威しやすかしに動じないなら、別に自分の判断で投票に行っても行かなくてもいいのであって、どちらでもかまわないわけで、せっかくの機会だからもったいないと思えば、行って適当な候補者や政党に投票してみればいいのではないか。誰がどこに投票しようと、建前上は一人一票でしかなく、誰がどんな思惑で集計結果を不正に操作していようとも、それはそれでかまわないのではないか。やれる立場の者や団体が組織的にやろうと思えばできないことではないとすれば、選挙もその程度のことでしかないわけだ。公平や中立がまやかしでしかないとするなら、それでもいいのかもしれない。だんだん人々の信頼を得られるような制度に改善して行けばいいのではないか。


12月12日「『凡庸な芸術家の肖像』現象」

 果たしてこれが何を意味するのか。意味するとしても、その意味をどう受け止めたらいいのだろうか。結局は批判する側とされる側が同じ穴の狢であることがわかってしまう。それを短絡的に利益の奪い合いとみなすのおかしい。奪い合っているのではなく、片方が一方的に収奪されているわけでもなく、別にそれほどには利益を求めていないのではないか。要するに金を儲けるのは難しいし、無理に儲けようとしなくてもかまわないわけだ。それ以前に働くのが面倒くさい。選挙できれいごとを主張している立候補者たちには興味がないわけで、ただうっとうしく思われるだけなのかもしれない。そういう水準から何を考えても前向きな結論を得るには至らない。もしかしたら世の中がもっと荒廃してほしいのかもしれず、ならず者たちが集うスラム街みたいなギャング映画的な雰囲気に憧れているのかもしれない。でもそれならそんなフィクションを見たり読んだりすればいいわけだ。虚構と現実を混同する気にはなれないか。もしフィクションが現実になったとしても、ほとんどの人たちはフィクションの主人公にはなれず、ただの通行人でしかないだろう。今でさえそうなのではないか。現実の世界で誰もがあくせく働いているわけだ。働かずに余裕しゃくしゃくな人も中にいるのだろうが、それがどうしたわけでもなく、普通よりは楽しみが多いように思われるだけだ。しかも普通の状態というのがよくわからず、ただ世の中の平均というのがどの程度なのか、はっきりしたことはわからないわけだ。収入とか余暇の時間とか住んでいる地域とか居住空間の広さとか、そんなどうでもいいような基準をあげていけばきりがない。何を基準としてあげようが、絶対的な基準や尺度などなく、そんなもので測れるようなことやものではないのではないか。何が目標なのでもなく、どこに目的があるわけでもない。ただこの世界には大勢の人たちが生きている。そしてそれがどうしたわけでもなく、そんな現状があるだけだ。その中で何が問題となっているのか。いくらけしかけても誰も踊りはしない。踊る必要を感じないわけだ。いったい何のために踊るのか。踊るとはどういうことなのだろう。誰かの言動に踊らされるのは、暇人のたぐいだろうか。いつの時代でも生活に困窮した人々は少数派に属するのか。彼らが何を懇願しようと、困窮していない多数派にとっては、目障りでうっとうしいだけだろうか。奇特な誰かが、あるいはそれに類する団体が手を差し伸べるのだろう。たぶんそれが国家である必要はないわけだ。

 現状を肯定しようと否定しようと、現状は現状でしかない。現状を前向きに捉えれば、別にこの現状を肯定してもかまわないようだ。現状で儲かっている人たちに嫉妬心を抱くなら、何か彼らの邪魔をしようと画策したくなるのか。そういうわけでもなく、自分も現状の尻馬に乗っかって儲けようと画策するのかもしれない。たぶん現状で問題となっているのはそういうことではない。現状での不具合をどうにかしたいわけだろう。そのやり方をめぐって争っている人たちもいるわけだ。争っているつもりの人たちが少なくともいて、選挙で何か主張しているわけだが、彼らがどんな勢力を代表しているわけでもなく、特定の誰の代弁者であるわけでもなく、ただ議会で代弁者となるために立候補している。そしてその代弁者となる予定の人たちに、投票を呼びかけているわけだ。それについてマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』のように、何か利いた風なことを語ってみせる必要があるのだろうか。必要があるとしてもできないのではないか。百数十年前のフランスと今の日本とでは状況がだいぶ違うか。でも蓮實重彦が『凡庸な芸術家の肖像』で語ってみせたマクシム・デュ・カンのような人物が、今の日本にもいくらでもいることは確かなのではないか。百田尚樹とか内田樹とか、右翼左翼の両陣営でおびただしい数の人たちが、様々なメディアを通じてマクシム・デュ・カン的に活躍しているわけだ。そのことについてどう考えればいいのだろうか。どう考えようと大したことではなく、ただ社会の構造がそうなっているだけで、そのような構造の中で、同じような小市民たちが同じようにうごめいているに過ぎないのだろうか。でもその同じようなとは何と同じようなのだろうか。まさか百数十年前のフランスと同じようだとは言えないのではないか。そんなことを言ったところで何がどうなるわけでもない。ともかく誰が無茶で強引な政治をやろうとしても、実際にそれを行ってみても、それで何かがどうにかなってみたところで、だからどうしたとしか言えないような気がして、どうもその辺がうまく言い表せないのだが、左右の両陣営で偽りの対立を演じている人たちが、どれほど自らの役割に忠実であったとしても、やはりどうにもならないような現状があるのではないか。それを象徴しているのが、はからずもというか、考えようによっては意外でもなんでもないのだろうが、要するに福島の原発事故現場の現状が、今の日本の国家的な現状を象徴してしまっているわけだ。それはただ漠然ととりとめがないだけかもしれないし、時が経ってうやむやになるのを待つだけなのかもしれない。


12月11日「利益の再分配」

 今のところは狙いも目標も見出せない。どこに至ろうともせず、手がかりをつかめないまま考えている。相変わらずそんな状態だ。いったいいつになったらわかるのか。そもそも何をわかろうとしているのか。奇蹟が起ころうとしているわけではない。記しているのは言葉だ。言葉を記すことで何を変えようとしているのか。ただ何も変わらない現状があるとも思えない。それ以前に記された言葉の連なりが変化している。ある時期から内容がおかしくなっているのかもしれない。記している当人はそれに気づいていないわけだ。例えば株価や金利や為替が上がったり下がったりしていることから、何を把握しようとしているのか。資源や穀物の価格も上がったり下がっている。でもそれが世界情勢のすべてというわけでもないだろう。各種の武装勢力の動向や、国家間の同盟や対立を招いている問題もあるだろう。それらを総合的に勘案してどんな認識をもたらそうとしているのか。そのつもりもないのにそんなことを述べてみるが、それがなんの試みでもないことがわかってしまう。そこから抽出できる事項があるとしても、それらの何と何が関係して、どこにどんな影響を及ぼしていると述べてみたところで、それで何を述べていることになるのか。少なくとも何かを述べていることになりそうだが、その手の論述にはあまり興味を持てない。だがなぜかこれから興味を持てないことを述べようとしているらしい。途中でそこから外れるためにはそんな前置きが必要なのか。たぶんそうだ。そしてそれらの何が世界経済の破綻要因になるとも思えず、各種の相場の急激な価格変動や突発的に起こる地域紛争が、一時的なショックを与えこそすれ、間もなくそれらは織り込み済みの事項となり、徐々にいつもと変わらぬ状態へと収まってしまう。そんなことの繰り返しから市場そのものが鍛え上げられ、少々の変動ならすぐに吸収できる柔軟性を獲得し、それに伴って各種の信用が強化され、保険等により二重三重の安全装置が設けられ、大規模な恐慌など回避できるようになったのではないか。それだけ経験が積み重ねられ、信頼性が増しているわけだから、ちょっとやそっとの攻撃ではビクともしないわけだ。ではその方面では何がどうなることもあり得ないのだろうか。もはや世界経済が破綻することなどあり得ないのか。ありえないと思っていればいいのではないか。誰もがそう思うことが肝心だ。もちろん狼少年的に、遠からぬ破滅を予言する評論家のたぐいがいてもかまわない。そんな警鐘を鳴らす役割を担う者たちも含めて、それらが総体として動作して行けばいいわけだ。そんな装置が世界経済なのだろうか。それを装置とみなすならそういうことだろう。

 別に誰がどんな組織が、それに風穴を開けたり、ぶっ壊そうとしているのでもないわけだ。ただそれでも、数年前のアラブの春といわれた革命の担い手だった学生運動が、今や台湾や香港や日本の反体制運動にまで伝わってきたらしい。若者たちが世界経済からもたらされた弊害に抗議の声を上げている。メキシコでも多くの学生が警察に殺害されて社会問題化しているようだ。アメリカでも無抵抗の黒人の若者が警官に殺されたのをきっかけとして、抗議デモが全米各地に及んでいるようだ。それらすべてが、世界経済が全世界を覆い尽くしたことからくる反動だとは思えないだろうが、資本主義的な利益追求と、そうした現象を利用することで成り立っている国家機構に対して、反発が強まっていることは確かだろう。資本主義に依存しながらも、国家機構を維持しようとすれば、どうしても貧富の格差が生じて、民衆の間に不満が高まることはわかっているのだろうが、現状を維持したままで、不満だけを取り除くことなどできるわけもなく、どうしても国家機構を維持したい人たちは、民衆や企業などから強制的に徴収している税の再分配で、なんとか国家と資本主義の両立が可能であるかのように幻想するわけだが、果たしてそれでうまくいくかどうかは、じっさいにそれをやってみなければわからないだろう。社会民主主義勢力が政権を担っている国家では、それに類することをやっているのかもしれないが、すべての国が実行しているわけでもない現段階では、その成否を判断することはできないだろうし、仮に一部でうまくいっている国があるとしても、それはよその国から交易や金融などを通じて搾取することで、うまくいっている可能性もあり、現時点ではなんとも言えない。普通に考えれば、民間企業などの経済活動とは別に、軍隊や警察などの各種の官僚機構を維持している分だけ、それだけ余分に経費がかかっているわけだから、構造的に赤字となるのは確実なのかもしれず、利益の再配分という社民的な政策は、一種のまやかしに思われてならないのだが、では他に何があるかといえば、新自由主義的な国家間の関税などを撤廃した自由貿易体制をやるしかなく、これはまやかしがない分、資本主義という現象や国家というシステムの存在そのものの矛盾が、よりはっきりしてくるのではないか。そうなれば資本主義も国家も現状ではダメだということがわかり、他のやり方を模索する機運が高まるような気がするのだが、どうも今の段階としては、まだ多くの人々がまやかしの方に期待しているらしく、社会民主主義的な利益の再配分に活路を見出そうとしているようだ。多くの人たちがそれを望むなら、遠からず選挙結果などに結びついて、それをやる機会が巡ってくるのかもしれず、とりあえず実際にやってみれば、それでうまくいくかどうかがわかるのではないか。


12月10日「最終的なけじめと決着」

 強がりでもやせ我慢でもなく、今のままでもどうということはないようだ。では現状で生じているこれらの諍いはなんなのだろうか。ただの小波乱にすぎず、裏切られたと感じる人たちが、為政者たちに抱く不快さが増してゆくだけだろうか。だがそれらの不快な感情から何がもたらされるのか。そこから何かが離れていくのだろう。そしてたぶんそうなっても大丈夫なのであり、何が大丈夫なのかは、人それぞれの立場に応じて、その感じ方に強弱がありそうだが、要するにすべてにおいてどうということはないわけだ。確かに精神的に痛手を被る人も多いはずだ。しかしそれでかまわないわけだ。無茶で強引なことをやっていると思われれば、国家体制が人心を失い、国家を後ろ盾とする制度が社会から浮き上がり、世の中が荒廃していくような気がするが、かえってそのような事態になった方がいいのかもしれない。現状では誰もが国家に期待しなくなることが望ましく、その分民間で知恵を出し合って、なんとかするような機運が生まれなければならない。しかしそれでかまわないのか。きれいごとを言うならそうなるだろうが、それでも何かが違っているような気がする。このままではそれらのやり方から恩恵を受ける人々と、恩恵に与れない人々との間で格差が広がり、社会の中でうごめいている様々な勢力間で、利害の対立が激化し、暴力的な衝突が続発するようになるのではないか。だが実際にはそうなるわけでもなさそうだ。ではどうなるのか。体制のあらゆる箇所できしみが生じ、国として一体性が保てなくなり、社会のあらゆる層で衰退が始まるのだろうか。それも違うと思われる。何をどう予想してみても、理由がわからないが、そんな予想は遠からずくつがえされるような予感がしてくる。予想したり予測すること自体がおかしいのではないか。国家や社会について語ろうとすれば、すぐに今後どうなるかを考えてしまう成り行きになってしまい、そのような思考の方向性自体が、国家や社会について考える、という行為からもたらされているわけで、それが嫌で、今度はそういう成り行きに逆らって何か考えようとすると、たちまち何も語れなくなってしまい、そういう方向での思考の限界を感じてしまうわけだ。国家や社会という言葉の抽象性に思考が惑わされているような気がしてならない。そもそも国家とか社会とかいう概念が、それらを何かひとまとまりのものと考えると、途端にリアリティを失い、なんだか的外れなことを語っているような気になるわけだ。

 しかしシステムとして厳然とある政府をはじめとする国家機構を、なぜ無視して考えようとしているのか。その辺の理由も定かでないが、ただの空想の域を出ない実現不可能な何かを妄想しているだけか。そうかもしれないし、実際にありえない世界像を思い描いているのであり、例えば憲法を改正して、天皇制から共和制へと国家体制を移行させるとか、世界を統一して国家を世界から一掃するとか、他の誰の賛同も得られないことを主張し、実際選挙などではそんなできもしないことを主張する候補者など見当たらず、自分の主張していることに賛同する候補者がいないのだから、また自分が自ら立候補する気もないのだから、投票などに行く必然性もないわけだが、それでも選挙に行って、支持しているわけでもない候補者や政党に投票してしまうのだとすれば、何かそういう世の中の成り行きに逆らえない精神的な弱さが、自らの内にあるのだろうか。たぶんそれでもかまわないわけだ。自分が自分の主義主張に逆らって、どう行動しようと、その行動のみで自分が変わるわけでもない。しかもその変えようとする方向が、多くの人々が考えている方向と、自分の考えている方向ではまったく一致していないのだから、完全に世の中の主要な思潮から外れているわけだ。この状態をどう解釈すればいいのだろうか。解釈する必要もないことか。たぶんそんなことを主張せざるを得ない何かにとらわれているのだろう。そこに世間的な関心事から外れてはいるが、外れているだけに、よりいっそう本質的な何かが見出されているのかもしれない。しかしその本質的な何かとはなんなのか。どうもそれをうまく表現できないようだ。要するに表現しようとすると、本質的ではなくなってしまうような何かなのか。ともかく今のところは選挙で誰にどの政党に投票してもかまわないのだろうし、これまでもこれからもそうでしかないのかもしれず、選挙結果によって何がどう変わろうとも、そんなことに左右されないようにしなければならず、日本と呼ばれる地域内に住む人たちも、そうであってほしいと思うし、たぶんそうなるだろう。体制を掌握しているつもりの政治家や官僚たちが、どのように政治経済を操作しようとしても、一国内ではどうにもならない域があるのであり、数十年前のファシズムの時代でさえ、最終的には破綻してしまったわけで、無茶で強引な手法では必ず失敗してしまうだろう。やればやるほど泥沼にはまるのは目に見えている。ともかく今まさに強引な勝負に出ているのだから、せいぜいがんばってもらうしかなく、できれば途中で放棄しないで、最終的な決着がついて、それに対するけじめをつけるまではいってほしいと思う。


12月9日「遊戯とみなされる行為」

 ゲームであることは確からしいが、ゲームに陥らないようなやり方があるわけでもなく、やはり何かをやるとなるとゲームになるしかない。ゲーム感覚で何かが行われ、地域情勢によってはそれが殺し合いに発展している。特定の主義主張のもとに人が集まり、なにやら村や町を支配下に置きながら自分たちの勢力を拡大中のようだ。中東や西アフリカのイスラム武装組織はそんなことをやっている。日本では右翼がデモ活動を繰り返しているようだが、その攻撃目標が朝鮮半島系の人々らしい。自分たちの思想に照らし合わせて、攻撃しやすい人々を攻撃しているのだろう。そして政治的な攻撃目標も、わざと在日だなんだのとレッテルを貼って攻撃するわけだが、否定の基準が半島系であるかないか、というその人の主義主張を度外視した基準なのだから、それが何を意味するとも思えず、ある面ではイスラム武装組織よりおかしいわけで、普通に考えればやっていることに説得力がないわけだが、それがパチンコ利権だの産廃利権だの、特定の産業でそういう人たちが多いという偏見と結びついて、そのような産業を通して国民の利益が奪われているという理屈で、そこを突いて攻撃してくるわけで、そういう方面ではある一定の支持を得ているわけだ。そしてそうした一定の支持を背景として、賛同者を集めてヘイトスピーチやデモ行進が成り立っているのだろうが、パチンコ産業でも産廃業でも、長年培って産業として成長してきたわけで、それを今日や明日にデモやヘイトスピーチをやって、何が変わるわけでもないだろうし、要するにそれらは皮相なプレゼンのたぐいでしかなく、自分たちの支持を集めるための宣伝活動なわけだ。それでも実際に武力を用いて敵を殺しながら勢力を広げつつあるイスラム武装組織よりはマシなのだろうか。マシというか、今のところはそれほど死傷者のたぐいが出ていないのだから、ある水準では節度が保たれているといったところか。

 しかしそれもゲームには違いない。死亡遊戯とかいうのも遊戯だからゲームなのだろうが、では遊戯ではない行為とはなんなのか。物は言いようで、いくら言葉で表現してみても、なんだか真剣味がないような気がして、実感が湧いてこない。それが自らの仕事と関係していて、それが失われてしまうと死活問題となるようなことなら、俄然リアリティが生じてくるわけか。しかしそういう分野は人によって違うだろうし、人それぞれでごく限られた分野となってしまうのではないか。要するに多くの人たちと話題を共有できなくなってしまうということか。だからといって最大公約数的なことばかりだと、関心もそれだけ分散してしまい、場合によってはどうでもいいようなこととなってしまう。政治的な関心とはその程度のことだろうか。政治家が強引な手法で事を進めようとすれば、すぐに一部の人たちが戦争への道だと非難してしまうのだが、実感を伴わないのはもちろんのこと、それを共産党的に言いすぎてしまうと、だからどうしたと反発されてしまって、その辺で戦略的に誤っているような気がしてくる。ではどうすればいいかというと、にわかには有効な戦略など見つかるはずもないのだが、少なくともそれでいいはずがないことは確かだろう。

 たぶん戦略うんぬんではなく、現状の中で動作していることなのではないか。それを客観的に見ることなどできず、それそのものを語ることもできない。その中でどう行動して、それをどう表現するかだ。そしてそれを批判するなら批判すればいいし、そんな批判にうんざりするなら、やめればいいことでしかない。政治家の手法にも限界があるし、いくら無茶なことをやっても、対外的な関係もあることだし、無制限に無茶をやれるわけでもない。バカなことばかりやっていると、外国の政治家たちから相手にされなくなる。もちろんそれらの外国の政治家たちも、相対的にあまり無茶なことはできない立場にあり、強引な手法で国内を掌握しているつもりの、ロシアのプーチンでさえ、今のところは政治的に対立している隣国のウクライナと全面戦争をやる気はないみたいだ。日本国内の政治に反発している人たちは、なぜ多くの人々が選挙で与党に投票して、現状維持を図ろうとするのか、理解に苦しんでいるようだ。選挙の集計で不正が行われていたり、そうでないとすれば、与党に投票する人たちが単にバカなのではないか、とみなしたりするわけだが、どう思って見ても現実は現実だ。そこでどのようなことが行われていようと、そういう結果がもたらされることは確かなようだ。そしてそういう結果の後には遠からずさらなる結果が出るはずで、その時になって初めて気づいてしまうようなこともあるだろう。その時がいつやってくるかは今のところはっきりしていないが、結果が出るのはそう遠くない時期なのではないか。その時になれば、今の政治を批判している人たちは、そら見たことか、と自分たちの批判の正しさをかみしめることになるのだろうか。そうなるかどうかはまだわからない。今後どうなるにしても、破滅的な状況にならない限りは、人は自らの愚かさを認めようとしないだろう。手遅れにならない限りは自らの愚劣さを改めようとせず、実際に痛い目にあって初めて過ちに気づくわけだ。要するに選挙の結果が現状に批判的な人々のさらなる反発を招くとしたら、それはまだ本当の破滅に至っていないということだろう。まだ現状では余裕があり、ゲームに興じている段階なのだ。


12月8日「利益追求のキモ」

 語る対象が見る対象と一致していると思うことが違うのか。なぜそこにズレがあるのだろうか。未だによくわからないが、ともかく何かが違っているらしい。その延長で考えると、聞く対象も語る対象と一致していないのではないか。そこに錯覚がありそうだ。それでも対象を見ているし、聞いているわけで、見たり聞いたりしている対象について語ろうとしてしまうわけだ。それが偽らざる認識だろう。それについて厳密に語れないし、語っているわけでもないのに、言葉を記している現状がある。理解できていないわけだ。理解しないまま語り、言葉を連ねているわけだ。それらを厳密に区別することができず、何もかも一緒くたにしている。どうもそれでかまわないような気がしていて、うまく説明できなままでもいいのではないかと思ってしまう。たぶんまた何かの機会にそんな疑念を蒸し返して、それについて考えようとするのだろうが、その思考がやろうとする探求がどこへ行き着くとも思えない。やるだけ徒労なのかもしれない。そうすることの何が間違っているのだろうか。そういう方面での思考のすべてが間違っているのか。そうではない。そもそも正しく思考しようとしているのではない。間違いの反対が正しいとも思えない。ではなんなのか。なんでもないはずがないが、やはり考えてしまうようだ。

 正しいことをやろうとしているのではなく、何が正しいか間違っているか判断する以前に、効果的にやろうとする。できればそうすることで利益を得たいわけだ。何をやるにも、最終的には利益が出る状態に持って行きたいのだろう。そんな結果に至りたい。そしてそのような行為を批判する者たちがもう一方の側にいて、たぶんそれを批判する者たちが、自分たちのやっている行為の正しさを主張するわけだ。そこに批判する対象と、その対象がやろうとしていることの間に、食い違いが生じているわけだが、批判する者たちは、相変わらずそれが間違っているとしか主張できないでいる。果たして批判する者たちが見ている対象とはなんだろう。たぶん間違ったことをやっていると思われる政治家であり、その政治家が属している政党であり、その政治家や政党を支持している人々や団体であり、そんな人々や団体が、政治家の行為から利益を得ようとしているのだろうが、それらを批判する者たちは何について語っているのだろうか。それらの対象が実際にやってきたことについて語り、それらの行為を間違っているとして批判するわけだ。しかし彼らはそこで何を見たり聞いたり読んだりしているのだろうか。それらのほとんどはメディアからもたらされる情報だ。それを批判の判断基準にして、それが良いだの悪いだの許せないだのと言っている。そしてそのような成り行きや現象の何がおかしいとも思わず、誰もがそうすることがごく自然の行為だと感じているわけで、情報をもたらしてくれるそれらのメディアに、当たり前のように接し続けているわけだ。そんなことに疑念を抱く方がおかしいのか。そこに人の認識の限界を見出そうとしても、それがどうしたということになってしまうだろう。だがたぶんそれがどうしたということに、疑念を抱かざるを得ないわけだ。そこしか思考の目標はないのではないか。

 たぶんそれは目標であって目標でないのだろう。人を誘惑してたぶらかすための罠だ。対立と闘争から関心を逸らすためにそんな罠が張り巡らされている。そんなありもしない妄想に取り憑かれるわけにはいかないだろうか。どちらであってもかまわない。罠であっても目標であってもかまわないのかもしれない。どちらにしてもその先には避けては通れない試練が待ち受けているわけだ。そんなはずもないだろうか。偽りの目標と罠に惑わされているわけにはいかない、と思えば済んでしまうことでしかなく、大して深刻には受け止められない程度のことか。ではそこからうまく迂回して、別の道に出る必要があるのだろうか。しかし別の道とはなんなのか。そこにも疑念が生じる余地があるわけか。冗談や皮肉に逃げるわけにはいかないようだが、そこで行き詰ってしまうらしい。

 とりあえず事の善し悪しの判断基準を提供してくれるメディアにも、良し悪しがあって、批判の対象を擁護するメディは悪いメディアで、それを一緒になって批判してくれるメディアは良いメディアだ。たぶんそこに形成されている二項対立を傍観する立場や視点などあり得ず、どちらかに属して一方を批判しなければならないのだろうが、どうもそういうところにも疑念を感じてしまうのであり、どちらにも魅力を感じられないから、それとは別の道ややり方を模索しようとしてしまうのだろう。たぶん利益を得ようとする主体は、どこからでも利益を得ようとしているのだろうし、それを批判したい人たちは、自らの価値観や倫理基準に照らし合わせて、事の善し悪しを判断しながら批判するのだろうが、たぶんその批判はすでに批判が発せられる時点で、批判される行為に間に合っていないのであり、いつも遅れているわけだ。要するに手遅れになってから批判せざるを得ず、批判が有効に機能することはあり得ない。批判の対象だと思っているそれは、過去の現象に関する情報でしかなく、その情報を見たり聞いたり読んだりしている時点で、その対象はもはや別の何かに変貌を遂げているのかもしれず、そうやって絶えず先回りしながら先手必勝で攻撃を仕掛け、遅れて到着する批判者をあざ笑っているのかもしれない。その時間差こそが利益追求のキモであり、時間的あるいは空間的さらに時空的に差異を作り出し、それぞれの場所で相手を出し抜きながら利益を得ようとするわけだ。果たして常に置いてきぼりを食い、その時々で対応が後手に回るしかない、その挙句に負け犬の遠吠えのように批判を繰り返す人たちに勝ち目があるだろうか。たぶん彼らも密かに先手を打つ機会を探っているのではないか。そう信じたいが、それは自らも模索すべきことなのかもしれない。


12月7日「老人世代の戦争への危機感」

 同じようなことしか言えないようだが、これから何が起こるとしても大したことはなく、多くの人にとっては冗談の範囲内なのかもしれない。たぶんそこで何かが失敗しているのだろう。失敗を成功と言いくるめるのもいつものやり方なのだろうが、それでも失敗は失敗であって、成功は成功でしかなく、失敗と成功は同じ結果ではない。結果に対する認識と評価が人それぞれで違っているのかもしれない。その結果がやがてまた示されるわけだ。いつまでたってもそんなことの繰り返しとなるのだろう。結果は一つの通過点でしかない。そこで終わらなければそうだ。終われないのだろうか。終わってしまう人もいるのではないか。もうすでに結果が出る前に死んでしまった人もいる。何やら往年の俳優がメッセージを残して死んだらしい。それに呼応してまだ生きている同年代の俳優もメッセージを発して話題となったようだ。冗談でしかないかもしれないのに、その方面では危機感が蔓延しているのだろうか。それはどのような危機感なのだろうか。彼らは一様に戦争への危険性を口にしている。このままいけば戦争になるかもしれない。右翼勢力による強烈な罵声を耳にすると、なにやら天皇制ファシズムの時代を思い起こさせるのかもしれない。あの頃と世の中の雰囲気が変わらない。でもそれは今までも潜在的には社会に薄くかすかに漂っていたはずで、その濃度が最近になって急に濃くなってきたから、危機感を募らせる原因となっているのかもしれない。実際にファシズム的な雰囲気の濃度が濃くなってきているのだろうか。そう感じるのも無理はないかもしれないが、昔よりは戦争へと踏み出す際にまたがなければならない敷居はだいぶ高くなり、地域的には全面戦争の選択肢はありえないような状況となっているのではないか。昔に比べれば歯止めがだいぶあるように思われ、武力で奪える可能性のある土地も限られている。日本の周辺では、そのせいぜいが領土紛争になっている無人島ぐらいなものか。もしかしたら老人たちは、昔の記憶からもたらされる虚構の影におびえているのかもしれない。それを現状に投影しているのだろうか。それは虚構ではなく、実際の体験に基づいた記憶であることは確かだが、遠い日の思い出であることも確かで、恣意的に脚色されており、昔と今とでは何かが確実に違っているはずだ。在特会などが発するヘイトスピーチの中身にしても、左翼勢力による抗議デモで発せられる内容にしても、なんだか日常のけだるい倦怠感から遊離してしまっているように思われ、リアリティが感じられず、それによって何かが変わるような予感が湧いてこない。なんの兆しも感じられないわけだ。今のままでもいいのではないかと思ってしまうのであり、戦争とかいう激しい行為ではなく、フェードアウトとかいう表現の方がぴったりくるような雰囲気なのだ。音声のヴォリュームが徐々にしぼられ、ついには無音になってしまう成り行きに似ているように思われる。活気とか覇気とかいうのが感じられないわけで、ごく一部の人たちが空元気で強がって見せているだけではないのか。

 それだけ社会全体が衰退傾向にあるのかもしれず、力が弱まっているのだろうか。しかし力とはなんだろう。人と人が関わり合って、闘争状態へと至るためのエネルギーが不足しているわけか。そもそも何を対立させる必要があるのか。意見ややり方を対立させないと、そこから力が生じてこないだろうか。無理に対立しようとすればヘイトスピーチみたいになってしまうのか。確かにヘイトスピーチにはかなりの無理がありそうで、そのほとんどはギャグでしかないのではないか。まともに受け取るような内容ではない。気が狂った人たちが集団で騒いでいるだけのように感じられ、その総体がが何かのパロディになってしまっているように感じられ、やっている当人たちは真剣にやっているのだろうが、そこで見ている人とやっている人が抱く意識のギャップを、意識できない人が多すぎるのだろうか。それに対して深刻そうに語る言説に接するたびにそう思う。そしてそのことの延長上なのかもしれないが、今度は北海道の方面で、アイヌ民族がいるかいないかの論争を真面目に繰り広げている人たちもいるようで、そんなことを今さら蒸し返す必然性があるのか、蒸し返したところで何になるのか、そのことの意義も意味も定かでないような気がするのだが、それも人々の意識の衰退を象徴していることの表れだろうか。そんなふうにして今何かしら騒ぎ立てている人たちが、衰退を食い止めようして、無駄な悪あがきをしているだけのように感じられてしまうのだから、やはり社会の衰退は現実に起こっていることかもしれない。もはや戦争する以前に終わっているのではないか。何が終わっているのかといえば、日本という国家が終わっているのだろう。しかも終わっているからといって、別にそれが悲しむべきことなどではなく、愉快で楽しい状況となっているのではないか。まるで冗談のような世の中に思えるのだから、少なくとも実感としては悲劇的な状況ではない。実際に総理大臣をはじめとする政治家たちも、わけのわからない選挙をやって悪ふざけの最中だ。在特会の幹部らしい小太りの右翼活動家が、野党幹部の選挙演説の最中に韓国の国旗を振りながら乱入すること自体、たぶん自分が冗談やギャグのつもりで意味不明なことをやっていることに気づいていないのであり、そんな行為自体が一昔前のアングラ演劇のパロディになっているわけで、選挙で白紙投票を呼びかける団体もいるようで、主要メディアもやけくそ気味に与党の圧勝を予測しているし、当分は事態の収拾がつくことはなさそうだ。これをどう受け止めたらいいのだろうか。幕末にええじゃないかと掛け合いながら踊っていた群衆現象の再来だろうか。


12月6日「つぶやきが狂気に陥る時」

 ニュースを見れば世界のどこでも民衆が立ちがり、抗議の声を上げているようだ。よくある現象なのだろうか。ネットを通じてさらに拡散しているのだろうか。見えている世界がそこだけで、限定された範囲内なのかもしれないが、そこで多くの人たちが何かを訴えている。恣意的にニュースを選択しているのかもしれない。そこに何かがあるとすれば、可視的な環境の中で情報が意識に捉えられているわけだ。幻影ではなさそうだ。現実に起こっていることなのだろう。そこで何かが起こっていることは確かだ。それを見ながら、言葉を読みながら、誰かが何か考えているようだ。それは誰かでしかなく、誰であってもかまわないような誰かがそこで考えている。特定の誰かではなく、誰の記憶の片隅にも残らない誰かが存在しているわけだ。そこでうごめいている人たちが、名も知れぬようなただの群衆の一部を構成しているに過ぎないとしても、そのメッセージが気が利いたしゃれた言い回しなどとは無縁だとしても、何かを訴えていることは確かだ。それが何かを意味しているわけだ。知識人などの出る幕はなさそうだ。そこで何を正当化できるわけもない。ただの群衆の中の一人として、権力を振るう対象に抗議の声を上げている。そうなってしまったら、もはや状況としては末期的な様相を示しているのだろうか。やはりそれでかまわないと思うしかないのかもしれない。かまうもかまわないも、現実にそうなっているのだから、そうなるよりほかはなかったのだろう。結果から考えればいつもそうなる。そうなるよりほかはなかったと考えてしまい、別の可能性を考慮に入れない。しかし現状にあらがっている人たちにとっては、その別の可能性が実現してほしかったわけだ。だからやむにやまれず抗議の声を上げている。現状の不快な環境に耐えられないわけだ。これ以上は悪化してほしくないから、抵抗運動に立ち上がっている。そんな状況なのだから、何かが変わりつつあることだけは確からしい。彼らにとっては変わってほしくない方向に変わりつつあるのだろう。それを黙って見過ごすことができないわけだ。見過ごそうとしているのは、利害関係を認識できない傍観者だけか。わざと認識できないふりをしながら、そのまま状況が進行することを期待しているのではないか。抗議する気力が失せるほどにそれらの人々が打ちのめされてほしいのかもしれない。そして自らもそれらの人々もろとも滅び去る運命を自覚しているのだろう。自らに嘘をついているわけだ。自らに自らを折りたたむとはそういうことだろうか。歴史の進行状況がいよいよ晩期に差し掛かると、そういう人たちが出てくるらしい。

 だがまだ結論は出ていないはずだ。夢を見ているのでも幻想を抱いているのでもない。サッカーの試合に熱狂している人たちもいる。気休めのゲームに熱中している人もいる。小難しい書物を読んで世の中を理解した気でいる人もいる。それらの人たちにどんな可能性があるというのか。今はないが将来が期待できるのか。将来がどうなろうと、今をどうにかしなければならないのであり、とにかく今が危険ゾーンに入っているわけか。急激な為替変動により、経営体力のない中小企業がふるいにかけられ、次々に倒産し、特定の大企業だけが生き残り、多くの人々が低賃金のパートタイム労働を強いられる時代になろうとしているわけか。それがありふれた認識なのだろう。誰がそうなってほしいと思っているのだろうか。否定的な受け止められ方をしているのだから、誰もそうなってほしくないと思っているのだろうが、なってほしくない状況になろうとしているのだとしたら、それを食い止めるにはどうしたらいいのだろう。だから多くの人たちが、そのような成り行きに手を貸していると思われる為政者たちに、抗議の声を上げているわけだ。そこまでは筋書き通りなのだろう。誰の筋書きだとも思えないが、そんな架空の筋書き通りに事態が進行中だとすれば、愉快なことだと思われ、なんとなくそれをさらに促進させたくなってしまい、微力ながら手を貸そうとしている人もいるらしい。たとえそれがフィクションであってもかまわない。いっときの気休め程度の娯楽なのかもしれない。茶化してみたり嘲笑してみたり、何を皮肉るつもりもなく、ひたすら真剣な眼差しで視線を送り続け、それらの抗議運動を後押ししている気でいたいわけだ。まだ時期が早いことは重々承知しているようだが、それも最終的な仕上げには欠かせない過程であり、手順通りの操作を継続中なのかもしれない。別によからぬ陰謀を巡らせているわけではなく、陰謀論者を喜ばせるような結果などもたらせないのかもしれないが、なんとなく上手く立ち振る舞っているように思い込み、つかの間の気休めを実感しているようだ。そんな群衆に埋もれた意識を取り出すことなどできはしないのだろう。目立つ目的でそうやっているわけではない。偽りの高揚感に包まれているわけでもない。醒めきっていると言ったら嘘になるだろうか。時々誰かがつぶやいているようだが、それが何を意味するわけでもなく、どこで注目されているわけでもない。そんな感覚に浸っているわけだ。それは麻薬と同じような効果をもたらしているのかもしれず、深刻な事態に憂慮を促しているように見えて、実質的にはそれを利用しながら、それとは別の方面に目を向けさせようとしているわけだ。それらのすべては自己言及の罠なのだろうか。危機的思われる状況の中で、絶えず自分自身につぶやき、自分に向かって何か言い聞かせている。これはまぎれもない現実だが、果たしてお前は現実に現実を語っているのか。その語っている内容といえば、これは現実ではないと語っているのではないか。そう思い込んでしまったところで、すでにヤバい精神状態に陥っているわけか。冗談を飛ばしながら自虐的な皮肉をつぶやいているうちが、まだ正気を保っている範囲内なのではないか。


12月5日「人類の未来」

 どうも取り立てて何が問題となっているわけでもなさそうだ。別に貧困が蔓延していてもかまわないわけだ。一握りの人たちが裕福な暮らしをしていても、どうということはないだろう。どうもそういう問題ではないらしい。たとえ右翼と左翼が共倒れになっても、その後に何が残るわけでもない。残るのは雑草がまばらに生えた空き地だろうか。そうではなく、語っている内容の選択肢が変わっただけのようだ。そこに用意されている選択可能な言説の種類に、なんらかの変更が加わったのだろう。そこで人が死ぬこと自体にも、それほどの深刻さは感じられない。実際には病気で死ぬ人が大半のようだ。紛争地域では殺されて死ぬ人も多そうだが、人が死ぬことは日常茶飯事なのだろう。葬儀屋が商売として成り立つほどには死ぬわけだ。ただそういう視点で何を語ろうというわけでもない。語りから深刻さが抜け落ちている。何も伝わってこないようだ。ただのお遊びなのだろうか。別に選挙がそうだと言っているわけではない。真剣に取り組んでいる人たちがいるわけだ。そこに何か主張がある。そしてそれを主張している主体がいて、主体性のある人間がいるらしい。自ら主体的に行動しているつもりでいるわけだが、それをシニカルに嘲笑するわけにもいかないだろう。誰もが目立ちたいわけで、我こそはと名乗りを上げたい。ようするに自分を主張したいわけだ。しかしそこからどうなってしまうのか。方向性が定まらなくなって、何を主張しても人々の反応がない。誰もが脳死状態となり、そこから先で夢の世界が始まるのだろうか。誰が苦しむわけでもなさそうだ。すべてはゲームだ。ゲームの中でリアリティを感じている。人と実際に出会い、そこで語らうこともゲームの一部となってしまう。彼らが体験する現実とはそういうことだろうか。実際にはそこで何が行われているのだろうか。たぶん孤独の中に引きこもっていることもゲームなのだろう。それはゲームとは言えないゲームで、ゲームでないのにゲームとみなしたところで、何がどうなるわけでもないのだが、少なくともそれをゲームとみなすことで、事態の深刻さがわずかながら軽減されるのではないか。そのわずかな差異を求めて、人はゲームにのめり込み、我を忘れてゲームと一体化する。誰かがそこで何かに興じているわけだ。そして君はその何かに興味があるらしく、盛んにそこで行われている光景を覗き込んでいる。何かおもしろそうな成り行きになってきたのだろうか。その視線に反応する人などいないのだから、君自身が誰かの亡霊に過ぎないのかもしれない。そしてその誰かはもうこの世にはいない。とうの昔に死んでいて、また明日になれば生まれてくるかもしれない。どちらであっても何の深刻さも伴わない。

 たとえ原発が再稼動しても、消費税率が上がっても、社会がそれほど深刻な状況に直面するとは思えないが、たぶんそれに対応してなんらかの行動が起こり、人々を悩ませるのだろう。無論悩む人は少数派に属する。できれば両方ともなしで済ませたいのだろうが、そうもいかないらしい。そうもいかないと思っている人も大勢いるのだろう。世の中にそういう思想が蔓延しているのだろうか。思想というより、本当に必要だと思っているわけだ。実際に原発が再稼動して何事も起こらなければ、そのままそれが当然のこととなってしまうのだろうし、消費税率が上がって何年も経てば、それもそれが普通の状態となってしまうのだろう。そこまで事態が進展したらそういうことになりそうだ。それが良いとか悪いとかではなく、そういう成り行きになる可能性が高いと思われる。無論途中で大地震とか大規模な火山噴火とか起これば、破滅的な状況となるだろうし、それ以外でも原発が事故る可能性もなきにしもあらずで、消費税率に関しても、引き上げ予定時期になるまでにおかしな経済状態となれば、うやむやになってしまうのかもしれない。原発に関しては天然ウランがあと92年は採掘できると予測されているようだが、資源がなくなれば終わるのだろうか。そうなってほしいが、石油や天然ガスが、あと数十年で資源が枯渇すると言われながらも、なかなか枯渇しないようで、どうも地球の深層域から絶え間なく湧き上がってきているという説もあるし、その辺がどうも不確定性要因で、なんとも言えないところだ。ウランは比較的重い物質だろうから、このまま採掘していけばやがて尽きるだろうし、途中から採算が合わなくなれば原発も廃れていくとは思われるが、廃れたら後には膨大な放射性廃棄物が残り、それを今度は地中深くに埋め戻すのに莫大な費用がかかり、結局高いコストと代償が払われることになりそうだ。もしかしたらたぶんそれもそれで、埋め戻す作業が一つの産業となり、それを当て込んだ商売が成り立ったりするのかもしれず、資本主義というのはどこからでも利益を得ようとするから、人や人が作り上げた組織が何か行為すれば、物や人材や資本が動き、その行為に伴って何かしら利益が発生し、その利益目当てでその行為が盛んになり、そこにカネが回ってくる仕組みだから、これからも人類はそんなことをやりながら地上で栄え続けるのか、それとも繁栄の余力をかって宇宙にまで進出していくのか、あるいは途中で滅亡してしまい、人類のいなくなった地球上に平和が訪れるのか、現時点ではなんとも言えないところかもしれない。


12月4日「公正中立な報道」

 たとえ批判している対象を利することになってもかまわない。損得勘定は無視されなければならないはずだ。体制に迎合して調子に乗っている輩は、そのまま調子に乗らせておいたほうがいい。もう後戻りできなくなっているのではないか。それは正しい方向でも間違った方向でもない。どちらでもありどちらでもないのだ。誰かがそれを判断するのだろうが、別にその判断が正しいとも間違っているとも、どちらであってもかまわないし、どちらでなくてもかまわない。人々は常にそれ以上を求めているし、成り行きはいつもそれ以下のところで推移しているかもしれない。それも取りようによってはどちらにも取れるし、どちらであってもかまわないのだろう。結果を恐れて深刻ぶる必要はない。為政者がいくら世論を操作しようとしても、変わるのは印象程度のことで、人々は逆に何も変わらないことを恐れているのかもしれない。いくら無理して何を変えようとしても、時代の流れを食い止めることはできないのかもしれず、そのまま押し流される過程でもがいているだけなのかもしれない。自分がやっていることだけで手一杯で、とても他人のやっていることまで気が回らないのだろう。そんなことの範囲内で状況が推移していて、そんな成り行きの中で人は何かをやっているわけだ。それを超えて何かが動作し、社会全体に悪影響を及ぼしているとしても、個人がそれに逆らうことなどできはしない。たぶんその気づき得ない何かに操られているとしても、気づかないのだからどうすることもできず、そのままそんなことなど考慮せずに行動するだけで、その行動によって何がもたらされようと、もたらされたそれについてどうこう思うしかないわけだ。これからもたらされるどんな結果についても、それをああだこうだと評するわけで、自分たちの行動や言動が招いた結果なのだろうし、その結果がいかに気に入らないものであろうと、自業自得とみなされてしかるべき結果なのだろう。そしてそれでもかまわない状況なのだ。何がどうなろうと誰の知ったことでもないし、誰が責任を取らされるわけでもなく、特定の人物や主体の思惑などとは無関係に物事が動いて行き、どこに収まるでもなく、様々な現象が複雑に絡み合いながらも状況は不均衡に変動し続ける。そしていくらこんなふうに状況を説明してみても、何がどうなるとも思えず、具体的に何をどう説明していることにもなりはしないわけだ。

 特定の言説を用いて社会に力を及ぼそうとしている人たちが多すぎるのだろうか。そんな人たちが多ければ多いほど無駄な悪あがきと受け取られ、結果を肯定する人たちから嘲笑されてしまうのかもしれないが、たぶんそれでもかまわないのだ。物笑いのタネにされてしまう犠牲者が必要とされているわけだ。迎合して調子に乗っている人たちをいつまでものさばらせておくだけでも、それがさらし者になっているような効果を発揮するのだろうし、メディアはそういう人たちをいつまでも取り上げ続ければいいのかもしれない。もう飽きたと思わせるほどにならなければ、それがメディアの力だとは気づかないのだろうから、いやと言うほど特定の人たちをさらし者にしておいたらいい。たとえそんな成り行きになったとしても、それが特定の意図や思惑とは無関係になってしまうわけで、さらし者になっている人たちがどういう経緯でそうなっているのか、とりたてて知る必要さえなく、そこにどんな理由があろうとなかろうと、とりあえず指名手配犯ではないのだから、さらされていることに肯定的な価値を見出したらいいわけで、そこになんらかの役割があると思い込んでおいてもかまわないのだろう。いずれ誰かがその役割の意味を説明してくれるのではないか。もちろんその説明に説得力があるかないかは関係ないのであり、何か説明があればそれで十分で、たとえそれがとってつけたような説明であろうと、一応の体裁を取り繕えるのだろうし、さらし者になっている人たちも贅沢は言っていられないのであり、その程度で満足すべきなのだろう。要するにそれでも彼らを支持している人たちがいて、懸命に必死に盛り立てているのだから、支持している人たちにとっては、そうすることが自らの立場の正当化につながっているのではないか。そう思い込むしかなく、メディアはいつなんどきでも自らの立場の正当化を必要としている。それに携わる人たちは公正中立な報道を心がけているのだろう。特定の誰をどの政党を支持しなくてもかまわないわけだ。法律的にはそれでかまわないのだろう。どこから圧力がかかっていようが、どのような善意をはねのけていようと、とりあえず何かを伝えていればいいのではないか。それがどのようなバイアスがかかった内容であろうと、沈黙するわけにはいかないわけだ。起こっている出来事について語り、場合によってはなんらかの判断基準に基づいて評価すればいい。批判的なコメントを発してもかまわないし、時の政権を翼賛する発言を取り上げてもかまわない。それをどう判断するかは受け取る側の自由に委ねられていて、そこに自由があるかどうかなど知ったことではなく、ともかく決められた時間内や紙面のスペースに情報を流し込めばいいのだろう。人々がそれらの情報に惑わされているのなら、それは人々の自己責任でそうなっているに過ぎない。それらの言説が人々の行動を制御するとしたら、そこに言葉の力が発生しているといえるのだろうか。やはりそれは人を操る呪術と見なせばいいのだろうか。たぶん言葉だけでそうなるわけではなく、それは人々の行動と結びついているのではないか。選挙で時の政権の政策が信任を得るとすれば、それはそこに暮らしている人たちがそれほど生活に困っていないということなのではないか。それらの政策が自分たちの生活に悪影響が及ぼしていないと感じるなら、それほどそれらの政策に反対しようとは思わないだろうし、多くの人たちがそのままでもかまわないと思うのではないか。そうなれば選挙結果もそれに連動した結果となり、反対派を意気消沈させてしまうわけだが、果たしてその程度の認識でかまわないのだろうか。たぶんその程度の認識にとどめておくのが無難なところであり、他にあまりうがった見方をする必要は感じられない。要するにそのような政治制度とは違った水準で何かをやりたいわけだ。それを模索している段階なのではないか。


12月3日「オタクであることの是非」

 何かと何かが結びつき、それが現象となり、社会に何らかの影響を及ぼす。でもそれは実質的にはなんでもないことだ。誰もそのことに気づかない。気づかないうちに周りを取り囲まれ、気付いた時にはもう遅い。手遅れになっても気づかない人もいる。癌にかかっていたりするわけか。しかしそうだとしても、周りを取り囲んでいるそれらはなんなのか。それは気づかない状況そのものだろうか。いったい何に気づいていないのか。だから癌にかかっていることに気づかない。たぶんそうではない。それは見えているものと、説明している言説なのだろうか。しかしそこで何を説明しているのか。果たして見えているものについて説明しているのだろうか。意識はそのつもりなのかもしれない。様々なことが言われていることは確かだが、何に関して言われているのか、たぶんそれは特定の何かに関してではない。中には特定の人物について否定的に語っている場合もあるのだろうが、でもそれが本当にその人物に当てはまる評価なのか、疑わしいものも多数ある。そこに攻撃対象として一人の人物がいるのかもしれないが、その人物が象徴的な役割を担っていて、ある思想全般を非難する上で欠かせない存在となっているわけだ。人々の生活をおびやかす存在となっているらしい。言論を封じ自由を奪い富を減じるわけか。もうありとあらゆる否定性を帯びているのだろう。攻撃する側の認識としてはそういうことなのだが、しかしそうなってしまうと、何かがずれてくる。もともと大して期待していなかったし、うまくいくとも思っていなかったはずで、それが目に見えるなんらかの成果を出したので、調子に乗って強引なことをやってしまい、世の中から少なからぬ反発を食らってしまったわけだ。しかもその強引な手法を支持している人や組織も未だに少なからずいるので、なおのこと不快さを醸し出している。もっと上手く立ち回っていたら、これほどの反発は招かなかっただろうし、それができたのにやろうとしなかったことが、現状の否定的な空気を招いているのだろうが、今さら後悔するわけにもいかないだろうし、このままのやり方で突っ走るしかないのだろう。突っ走れるかどうかは、これから行われることの結果いかんにかかっているわけだが、どのような結果が出ようと、さらにその先に何かが待ち構えているだろう。

 それ以上に何かおかしなところはないだろうか。何かが違っているのはいつものことだが、今回は何が違っているのか。強引な手法で恣意的に操作したことで、かえって自然な成り行きになってきたのではないか。さまざまな矛盾が浮き出てきて、やっていることの無理が白日のもとに曝け出されてきたわけか。そしてもう人々はまやかしの夢などに浸っていられなくなってきたのだろうか。まだ浸っていたい人たちは、なんとか現状を改めなければならないと思っているのだろう。それはまやかしなどではなく、形式的に権力を握っている政治家や、それに追従するメディア関係者が語る夢こそがまやかしなのだ。そして夢はそれらのとりとめのない現状からもたらされ、そこから生じる欲望の力で人々を魅了しようとする。たぶんそれらの何がまやかしであろうと、もとから夢そのものがまやかしなのであり、まやかしであるからこそ魅力があるわけだ。それこそがフィクションの力なのだろうか。そのまやかしがどの程度人々を魅了しているのかわからないが、たぶん人々は経済的に豊かになりたいはずだ。ただ漠然とそう思っているのかもしれず、そこにつけ込んで様々な夢が意識に差し挟まれ、その夢で魅了しようとするわけで、それを求めている人が大勢いるとしても、果たしてそれらの人々はこの先どうなってしまうのだろうか。今はどうにもならなくても、いつかはどうにかなるのかもしれない。すでに頭がどうにかなっている人たちもいそうだ。実際に彼らは何がどうなるわけでもないようなことをひたすら語っている。無論そこに特定の思惑などないのであり、方向など何も定まっていないのに、ただ漠然とやりたいことをやろうとし、実際にやっていると思い込んでいるわけだ。視野が狭いといってしまえばそれまでだが、視野が広がれば逆に何をやろうと無駄なことがわかってしまい、何もやる気がしなくなってしまうのではないか。だからできるだけ視野を狭めて、まだ何かやれるように思い込み、やりたいことをやっているつもりになれるように、自らの意志を自らのこだわりに縛りつけ、そのこだわりをまっとうできる範囲内で何かをやろうとするわけだ。それがオタク的な思考の特徴であり、限界でもあるわけだが、別にそのような思考の是非を論じようとは思わない。現実にやっていることがあり、やっていることを実感しているわけだから、今後もそれをやるしかないわけだ。そして全てを見通せるような視点などありえず、そこで何を見ているとしても、それが何かの一部分にすぎず、見える範囲はいつも相対的であり、他人より広い視野を持っているとしても、それも比較の範囲でそうであるだけで、見えていない範囲が必ずあり、必ずそこから攻撃が仕掛けられるわけだ。そして思いもよらぬ事態になってから慌てふためき、すでに手遅れであることに気づかぬまま、必死で事態に対処しているようだが、果たしてそんな対応でなんとかなるのだろうか。疑念を抱きながらもやり続けるしかないようで、実際にやり続けている現状があるらしい。


12月2日「砂上の楼閣」

 わざと話を行き詰まらせているわけではない。なんとか説明しようとしているわけだ。借金まみれの国家財政を健全化させるためには増税しなければならず、増税すれば景気が悪くなり、税収が減るから国家財政の健全化が遠のく。普通に説明すれば簡単なことだが、その説明ではダメなわけだ。具体的には何をどうすればいいのだろうか。どうすることもできないから行き詰っているわけだ。どだい無理なことをやっているわけだが、その無理を無理と言ってしまったらおしまいだ。無理でないように見せかけなければならず、そのための説明に四苦八苦しているわけだ。しかもそんな説明に終始している側を批判する側も、無理でないように見せかけたいのであり、自分たちのやり方なら無理でないと主張するわけだが、たぶんやってみればそれが無理であることが明らかになるのだろうが、なかなかやる機会が巡ってこないようで、巡ってこないからこそ、いつまでたってもそんな主張を繰り返していられるわけだ。政権交代でもなんでもさせて、さっさとやる機会を与えてやらないと、彼らにはわからないわけだが、別にわからないままでもかまわないわけだ。ひたすら無理が無理でないと主張させておけばよく、そのまま延々と無理を押し通せば、そのうちなんとかなるだろう。もちろん悪い方向でなんとかなるわけで、いったんすべてがリセットしてしまうまでそれを続けられるかどうか、その辺はこれからの成り行き次第なのだろう。しかしリセットすることなどあり得るのだろうか。リセットとは具体的にどうなることなのか。戦争でもやってすべてが灰燼に帰せば、それがリセットとなるのかもしれないが、どうも今回の場合はそうはならないような気がして、もっと何か別の事態になるのではないか。今のところはそれがなんだかはっきりとはわからないが、悲劇ではなく喜劇的な結果というか、結果にも至らないような、中途半端でわけがわからないような事態になるような予感がしている。もちろんどこの誰が予感しているわけでもなく、作り話に過ぎないが、それでは多くの人が納得できないようで、どうしても戦争とか悲劇的な結末になると主張したいようで、このままでは危ない的な悲観論ばかりが幅を利かせ、そうやって脅したり煽ったりする人が後を絶たない。死ぬ間際の老人が自らの遺言として、そういうことを言っているようだ。

 現状がみっともない事態であることは誰もが承知しているようだが、やはりそれを改めるわけにはいかないと思っている人も大勢いるようで、そういう人たちはこれまで通りのやり方に固執するしかなく、それが選挙結果に反映するのかもしれない。そうなったとしても何がどうなるわけでもなく、うまくいかないものはうまくいくはずがないとは思うが、一息はつけるのだろうか。結果がどうなるにしろ無理な現状は変わらないわけだから、いつまでどこまで説明でごまかせるのか見ものだ。いよいよごまかしきれなくなれば投げ出してしまうのかもしれないが、そこに至るまでが曲芸もどきの政治経済的な手法の連続となるのだろうか。まだ投票も行われていない今の段階でそれを想像しても意味のないことだろう。そんなことより本当にうまくいく方法がないのだろうか。うまくいかなくてもかまわないのではないか。うまくいった状態というのが想像できない。今のままでも大して困っていないのかもしれない。大して困っていない人たちが、実際に困っている人たちの代弁者気取りで、政府のやり方を批判しているのは、いつの時代でも変わらない光景となるわけか。その時点ですでに代弁者となれる身分の人と、何を批判しても無視される人々との間で、格差が生じているわけか。代弁者が職業化しているわけだから、その辺は致し方のないことで、その代弁者の最たる職業である代議士をこれから選ぶわけだから、今の政治社会制度とはそういうものだと認識するしかないわけだ。議会にはいつの間にか政党と呼ばれるギャング団がはびこり、様々な主張を単純化して統合し、諸個人の意見を抑圧し封殺している。しかもそれでかまわないわけで、それが当然のこととされているのだから、それを前提として政治が行われ、状況が制御されているように見えるわけだ。後から後からおかしな仕組みがつけ加えられて、複雑怪奇な紆余曲折を発生させ、いったんつけ加えられた仕組みが様々な弊害をもたらしているとしても、それを取り除くことは困難を極め、取り除けないうちにも、さらにそこへ新たな手法を用いて新規参入しようとする人たちが現れ、ますます混乱に拍車がかかり、わけのわからない制度や機構がうず高く積み重なってゆき、それらの重みに耐えきれなくなってところで、根元からポッキリと折れて、その全体が崩壊し、やっとすべてがリセットすることになるのだろう。人間が作り出す構築物とはそんなものでしかなく、その砂上の楼閣のようなものがいったん出来上がってしまえば、あとはできるだけそれを長持ちさせるように働きかけることしか、やるべきことは残されていないのかもしれない。だがそうかといって何をあきらめているわけでもない。それとはまったく違う何かをもたらしたいわけだ。そんなありえない何かを空想しておもしろがりたいのだろう。状況を固定化させる構築物とは違う何かの実現を目指しているようだ。


12月1日「何かと何か」

 とりとめのないことを語りだすと、本当にとりとめがなくなってしまう。この世の中では何と何が無関係なのか。何が無関係なのだとしても、すべてが関係していることなど確かめようがない。それが言葉と事物の関係なのかもしれないが、互いに無関係な何かと何かが結びつき、社会に新たな作用を及ぼそうとしているようだ。そう説明すれば納得するだろうか。今から誰かがそれを説明したいのだろうか。それとはなんだろう。それらとは言葉と事物の関係かもしれないが、それらではなくそれとは何か。それとはそれら以外の何かか。それとそれらのどちらもはっきりとは特定できないらしく、無謀な問いかけをして行き詰まり、うまく説明できないまま、話をはぐらかそうとしているようだ。いったんこだわっていることから離れないと、まともに語れそうもない。記された言葉が語ろうとする事物を押しのけ、こんがらがりながら意識の中に居座り続けている。さっきからそれについて語っている気でいるらしいが、ぎこちなく言葉と言葉をつなげて語りながらも、何か肝心なところで嘘をついているように思われてくる。そのとき不意に記述を妨げる何かが頭の中に到来しているわけではなく、さっきまでは確かにそれを語っていたように思われるのに、妙にずれているような気もして、うまく言葉を操れずに、対象を取り逃がしているような気がして、うまく表現できていないようにも思われ、焦りを感じているようだ。とりたてて何がどうしたわけでもなく、別に身の回りの空気が記述の邪魔をしているわけではない。記述を妨げているのは、語ろうとしている事物そのものなのではないか。言葉では捉えきれない何かついて語ろうとしている。そこで行き詰ってしまうのは致し方ないことか。だがそれで納得できるだろうか。自分では解き明かし得ない事物と言葉の関係を、書物に求めてみても、それは虫のいい話だろうか。自分でなんとかしたいのではなかったか。自らの手でそれを解決してみたいと思うのは、思い上がりでしかないだろうか。すでに手に余っているのかもしれず、うまく説明できずに四苦八苦しているみたいだ。それでも物事を単純化して語るわけにはいかない。そうしなくても語っていくうちに自然と単純化してしまうのであり、それは避けようとしても避けられない事態なのではないか。たぶんそれを無理に語ろうとしているわけだ。語り得ないそれについて語ろうとしている。

 人が関わることで生じているわけなのだろうが、社会の中になんらかの装置が形成され、それを人が説明し正当化する言説と結びつくことで、社会に力を及ぼそうとしているわけだ。その事物は具体的にはなんなのだろうか。拡声器のようなものなのか。拡声器だけでは何の力もなさそうだ。その拡声器を通して何かを訴え、その訴えに耳を傾ける人たちを、思惑通りの行動に駆り立てさせなければならない。結局その拡声器は他人を誘惑するための道具なわけか。どうもそういう説明では納得できない。説明する過程で何かを見落としているような気がする。それは拡声器でさえないのかもしれない。別に人の声を増幅しているわけではなく、その声にまとわりついているイデオロギーを増幅しているのではないか。いや増幅しているのではなく、制限しているのかもしれない。都合の悪い事実を覆い隠し、主張に沿うデータだけをより集め、それを言葉で縫い合わせながら束ね、心地よいプレゼンに仕立て上げて提示する。その自尊心をくすぐるメッセージが群衆を一方向に結集させ、不快な行為や行動に駆り立てているのだろうか。なぜそれが不快に思われてしまうのだろう。その行為や行動に切実さが伺われず、遊び半分で攻撃の対象をいたぶっているように思われる。それはいじめと同じようなものか。行為や行動に駆り立てている力の源が邪悪なのか。邪悪だとは思われず、むしろ正義だと思われているのではないか。正義を振りかざした時点で戦争状態とみなしてもかまわないのだろうか。いったいそこで何と何が戦っているのか。それが無関係な何かと何かであり、それまでは互いに交わる必然性のなかった何かと何かなのではないか。ではその何かと何かとは具体的にはなんなのか。ここで対象を特定できずに行き詰ってしまうらしい。たぶんそれはヘイトスピーチとデモ行進ではないだろうし、日銀の金融緩和と株価操作でもないだろうし、アベノミクスと財務省の対立でもなさそうだ。群衆を誘惑する言説は常に無関係な何かと何かを結びつけて語る傾向がある。例えば財務省を悪者に仕立て上げて時の政権を救おうとするのは、詭弁もいいところかもしれないが、これが数年前なら、財務省に逆らえずに増税を決定した時の政権を、嘲笑しながら非難していたはずだ。要するに自分たちの都合に合わせてなんでもありなのであり、そういう人たちの主張が堂々とまかり通っている現状なのだろう。でもそれが無関係な何かと何かではなく、財務省と時の政権が無関係であるはずがない。どうもそれをうまく語ることができずに焦っているようだ。いったい何と何を結びつけて語れば説得力が出るのだろうか。