彼の声105

2014年

11月30日「プロスポーツと選挙」

 いまひとつピンとこないのだが、結局は宣伝のようだ。自分たちのやっていることを宣伝している。それはそれでいいとしても、それ以外には何があるのか。たぶん見ているものが宣伝媒体なのだから、それだけかもしれず、別に他はなくてもかまわないのだろう。他に何を望んでいるわけではない。その辺は割り切ってやらないと、またわけのわからぬ妄想にとらわれてしまう。誰が宣伝攻勢を仕掛けたところで、世界がどうなるわけでもなく、日本がおかしくなるわけでもない。そこで他人の行為をとやかく言うのも仕方のないことだが、自分の行為ですら、やっていることの意味をつかんでいるわけでもなさそうだ。それほど不確かでとりとめのないことをやっているわけだ。誰もがそうなってしまう。それを超えて何をできるわけでもない。それが力なのか。そこに何かを動かす力があり、ある面ではそれが人を動かして、何かをやらせるわけだ。それを総体として捉えれば、国家とかに集約されるのかもしれないが、だからといって何を意味するわけでもなく、なにやら人々がうごめいている。そこに力が加わっているのだろうが、その力が何を表しているとも思えない。たぶん滑稽なことをやっているのだろう。力を行使している人たちは、他人のやっていることが滑稽だと思うようだが、自分の行為に関してはそれに気づかない。だから滑稽だと言えるのだろうか。宣伝行為は滑稽そのものだ。だからやめられないのか。その辺でおかしくなっていることは確からしいが、宣伝行為に心を奪われた人たちがおかしくなっているだけだろうか。特定の何かがそこに見出されているわけではない。どうも見ている光景が違っているようだ。他人とは見え方が違っているわけでもなく、見る方向や角度が違っているわけでもないのだが、なぜかそれを眺めていると滑稽に思えてくるらしい。まるでおかしなことをやっている人たちが増殖中のようだ。選挙だからお祭り騒ぎなのだろうか。やっている人たちがいつもの調子で同じようなことをやっているわけだから、何が変わるわけでもなく、いつもと同じような結果になるのだろう。何が変わるわけではなく、ただ時が経つばかりのようだ。

 時が経てば何かわかるのか。わかったとしてもどうなるわけでもなく、ただわかる。何かの構図があからさまに見えてくる。そこで力を行使していた人たちが、その後どうなったかが、すべて明るみになるわけでもないのだろうが、なにやら見えてくる。でも見えてきたところで、それは過去の光景だろう。過去の構図が見えてきて、それを分析し解釈しようとする。そんなことが記された文章を読んでいるわけか。独善的でお粗末なことを述べているわけではなさそうだ。選挙とは無関係の内容だ。しかし批判されていることは確かだ。それを読んで感化された多くの人たちが無駄な迂回を経験したわけか。間違った受け止め方をしてしまったのか。そうとも言えないだろう。そう読まれてしまっても仕方のないことが記されていたはずで、それを今さら批判する気にもなれないが、やはり読んで理解するのは難しい。今回の選挙でも盛んに宣伝攻勢を仕掛けて、人々を扇動しようとしている人はいくらでもいるのだろうが、でもそんな見え透いた扇動に乗ってくるのは軽薄な人たちでしかなく、しかもそんな軽薄な人たちを食いものにすることで、政治が成り立っている現状があるわけか。それはうがった見方かもしれず、その程度の認識ではつまらない。もっと何か違うことなのではないか。それらの現象を無理に解釈する必要はなく、状況の中に身を沈めて周りを眺めていれば、何か実感できるかもしれない。まだまだ状況の転換点までは達していないのではないか。人々の絶え間ない働きかけによって、ある日突然何かが変化するとも思えず、そんな物語など信じていないのだろうが、どうしてもそれとは違う道筋が見えてこないので、焦ってその手のお粗末な物語に飛びついてしまうのかもしれず、そうなってしまった時点で、すでにイデオロギーに毒されているわけで、なんとかそれは避けたいのだが、意識が物語の信者たちによる絶え間ない宣伝攻勢にさらされているようで、そんな状況下で洗脳から逃れることなど不可能なのかもしれない。それらの超合理的な不寛容に凝り固まった人たちが、右にも左にも中道にもいて、互いに互いを攻撃し合い、ちょっとでも隙を見せようものなら、そこを集中的に突いてくるわけだ。結局それはプロスポーツと同じようなもので、悪しき競争原理が招いた制度で、あらかじめ素人を排除する仕組みが出来上がっている。そうなってしまうと、すでに気晴らしの娯楽としての効用しか期待できないのではないか。そしてまだスポーツの範疇にとどまっているのなら、人々も結果を真に受けるのかもしれないが、それがプロレスのたぐいに思われてしまうと、結果など二の次となってしまい、もはや結果に至る過程を楽しむしかないだろう。アメリカの選挙なら、まだそれがプロスポーツの範囲で収まっているかもしれないが、日本の選挙はもはやプロレスで、それが北朝鮮や中国になると、単なる儀式や行事のたぐいになってしまうわけか。そんなたとえもお粗末すぎるか。やはり無理に語ろうとすると穿った見方になってしまうようだ。単なる見世物興行と思われてしまえばおしまいか。ではそれが歌舞伎的な形骸化を被っている原因はなんなのか。政治で経済を立て直せるという幻想が、もはや誰にも信用されていないということか。しかもその立て直そうとしている経済が、別に立て直す必要もないのであって、景気が良くなったり悪くなったり思われることを、政治家が何かやった結果と結びつけるのは、ちょっともう無理があるような気がするのだが、どうしてもそれを結びつけないと気が済まない人たちが、なにやら盛んにネガティヴキャンペーンとポジティヴキャンペーンを仕掛けながら、宣伝攻勢に出ているわけだ。たぶんもはや日本経済は政治家が立て直す必要などないのだろう。日本経済という概念自体が要らないのではないか。それは各国経済の集合なのではなく、ただ一つの世界経済でしかない。


11月29日「動物愛護精神」

 この世界には絶えず何かが生じていると考えたらいいのだろうか。たぶん何かが生じているのだろう。実際に生まれつつある。それに関して何か利いた風なことを語らなければならないわけか。たぶんそうだ。それについてはすでに何度も語っているのではないか。いったい何を語ってきたのだろうか。忘れてしまってもかまわないことを語ってきたわけか。たぶんそうだろう。繰り返し同じようなことを語ってもかまわないように忘れてしまう。思い出せないからその度ごとにそこへ回帰しようとするのではないか。同じ場所へと戻ってくるわけだが、以前とは時間がそれだけ進んでいるので、戻ってきたそこは同じ時空ではない。その証拠に、以前はおもしろいと思っていたことが、今回はつまらなかったりする。本当にその時おもしろいと思っていたのかどうか、それほどはっきりと覚えているわけではないが、とにかく同じような語りの内容にも、その時の状況によって流行り廃りがあるらしい。逆に以前はつまらなかったものが、今回はなぜかおもしろいと感じられることもあるのではないか。具体的にそれはなんなのだろうか。それを今から思い出そうとしても、そう都合よく思い出せるわけもないか。たぶん思い出そうとしているのではなく、また新たに語ろうとしているのではないか。とりとめもなく漠然と何かを語っているつもりになりたい。本当は何も語っていなくてもかまわないわけだ。言葉を連ねて語っているふりがしたい。そう受け取られてもかまわないようなことを語っているつもりになる。レトリカルに語ろうとするばかりで、内容が空疎であってもかまわないのだろう。わざとそうしているわけではなく、自然とそうなってしまうのではないか。記された言葉の並びが醸し出すリズムに酔っているのかもしれず、それが心地よく感じられてしまい、しばらくはそのままの状態を保っていたいわけだ。そして何かの拍子にふと気づいてみれば、内容のないことをだらだらとあてどなく書き連ねていることに気づき、別にそこで唖然とするわけでもなく、いつものことだと受け流し、何食わぬ顔でその続きをさらに延長させる。それが何を意味するのか、そんなことを考える必要も感じられず、そこに生じている新たな言葉の連なりを愛おしく感じるわけでもなく、冷めた調子で突き放して眺めてみるが、たぶん何を述べているわけでもないことに気づいたとしても、それを改めて別の何かを述べる気にもならないだろう。そんなことを語っているつもりのとき、そこに何が生じていると考えたらいいのだろうか。何を目指しているのでもなさそうだ。思考が何を捉えようとしているのでもなさそうだ。

 捉える以前に別のことを語っている。それと思考とがどう結びついているのでもない。そこに思考が生じているのでもないらしい。ではどうなっているのか。記された言葉が並んだ画面を眺めている。やはり大したことは語っていないようだ。そう思っておいたほうが無難なのだろう。本当にそう思っているかどうかは定かでない。その場の流れでそう述べてしまい、言葉を記している当人がそう思っているわけではない。そう記しながら別の何かをつかもうとしている。要するに状況を把握したいわけだ。都合のいいように把握したい。しかしそれは誰の都合なのか。文章の語り手の都合に合わせて言葉が連なっているのだろうか。その逆で、言葉の連なりの都合に合わせて、それを語る語り手が生じているのではないか。そこに架空の語り手が生じているわけか。架空ではなく現実に生じているのだろう。その場の状況に合わせて語り手が登場してしまうわけだ。人はその状況をうまく説明しようとしてしまい、説明を試みる行為が、その人の意識をその場の状況に埋没させ、その状況の虜にさせる。人はその状況の中で、それを語る語り手として生まれ変わるのだろうか。別にそれが人でなくてもかまわないのではないか。人の意識でなくてもかまわない。それはその手のヒューマニズム的な存在とは無縁の何かだろうか。なんであってもかまわず、人でも意識でもヒューマニズム的存在であってもかまわないのだろうが、他の何かであってもかまわない。他でもなんでもなくてもかまわない。そこに何も存在していなくても、勝手に記された言葉の連なりが語りだしてもかまわない。人がそれを読めば語り出すのではないか。君が今それを確かに読みつつあり、読みながら語っている誰かを意識するわけか。誰がそんなことを思っているのか。誰であってもかまわないのだろうが、要するにそうやって語りを長引かせ、それだけ言葉の連なりを延長している最中なのだ。それが具体的な社会状況とは無縁の戯れ事の範疇で行われていることかもしれず、無為で無益な延長かもしれない。あえてする必要のないことか。そんなどうでもいいような行為から逃れるためには、それを何か現実の問題とリンクする必要があるだろうか。時事問題にそれを絡めて語りたいのか。無謀な試みかもしれないが、これも現実の何かとつながっているのかもしれず、それをまだつかみきれていないだけで、そのまま語っていくうちに、ある時突然何かが明らかとなり、思考の視界が開けてきたら、思わず感動してしまうだろうか。フィクションの中でならそれもありだろうか。フィクションも現実の一部だ。そこにフィクションが語られている現実があり、フィクションについて語っている現実もありそうだが、それに無関心でいようとする意識もどこかにあるらしい。関わり合いになりたくないのだろうか。すでにそんなことを述べていること自体が、そこに生じているフィクションと深い関わりを持っている証拠となってしまいそうだ。

 フィクションの種類も様々だ。それがフィクションなのか真実なのか知らないが、真実であってもかまわないのだろうが、世の中にはそういう真実を信仰している人たちがいて、その中に、人類以外の他の哺乳類にも、人類と同じ感情があるように感じてしまう、気色悪い思考の持ち主がいるらしく、たぶんそこから動物愛護の精神が生じている場合もあるのかもしれない。確か彼らは哺乳類だけなく鳥類にも感情があるように考えている。そう考えるならその通りだ。誰もがそう思っているわけではないのだろうが、そう思っていてもかまわないわけで、勝手にそう思い、動物愛護精神から肉類を食べないようにしている人もいるらしい。しかし動物は動物を食べている。動物を食べている肉食動物には、動物愛護精神がないのだろうか。例えば狩猟採集民は普段は動物にも精神が宿っているとみなし、動物を狩って食べる時には、動物を物とみなすらしい。狩る前に神に祈りと供物を捧げ、狩って食べる動物から精神を取り除いてもらう。狩猟採集民の方が動物愛護主義者より、合理的に物事を判断しているわけか。ただ単に生きていくために必要不可欠なことをやっているだけだろう。その点で動物愛護主義者の方も、生きていくために必要不可欠なことをやっているのだろう。自分の信仰と生きていくことを両立させるために、菜食主義者になるわけだ。でも植物にもある種の感情があるらしく、植木鉢のサボテンや観葉植物に毎日話しかけたり、心地よい音楽を聴かせたりすると、なんだか植物が喜んでいるように思われてくるらしく、逆に生花などで茎を切って剣山に刺したりする光景に出くわすと、植物が痛がっているように思われ、そのうち植物の苦痛やうめき声までが聞こえてくるわけか。そうなってくると、その人はもはや心の病にかかっているとみなされてしまうだろうか。その辺は程度の差で、とりあえず菜食主義ぐらいで止めておくほうが無難なのだろう。それもその人の精神を正常に保つための都合には違いなく、人は自らの主義主張を保持するために、それと意識せずに様々な安全弁を作動させているようで、その安全弁を全部閉じてしまえば、究極の真実を知ると同時に、気が狂ってしまったりするのかもしれない。要するに人間の精神とやらは、絶対的な価値を得るわけにはいかないのだろう。その人の都合に合わせてほどほどに保っていればいいわけで、何かの極みとか究極の何かに到達する手前で思いとどまり、急いでそこから離れなければ気が狂ってしまう。もちろんそんなことを述べていること自体が嘘で、現実にそこまで達していないわけだから、そこに到達した時の心境など想像に過ぎず、実際にそこに至ってみなければ、気が狂うかどうかわからない。要するにそんなことを語っていること自体が、ひとつのフィクションに過ぎないわけだ。


11月28日「自然の楽園」

 夜通し歩き続け、やっと辿り着いたそこには何があったのだろうか。何かを退ければそれだけ別の何かに近づく。退けたと思っていた観念が後から追いかけてきて、目の前に立ちふさがっているのに気づき、もう逃げられないと観念してしまう。そんなはずがないだろう。もう体力が残っていないようだ。たぶんそれは昔の記憶だろう。なんのきっかけでそんなことを思い出してしまったのかわからない。何から逃げていたわけでもないらしい。逃げ切れたと信じていたわけでもなかった。本当に逃げきれていたなら、すでにこの世にはいないはずか。それもまたずいぶんとおかしな嘘になりそうだ。それだけではうまくいかない。他の要素が必要で、何か適当な獲物を獲りに行かなければならず、獲ってきた獲物を使って、気休めの造形を練り上げなければならない。それが勘違いの原因なのだろうか。何かを形づくろうとしているのだから、そうするしかないのではないか。たとえ勘違いだろうと、とにかく作ってみないことにはわからないだろう。そして作ったものが意にそぐわずにがっかりしてしまうわけか。期待が大きすぎたのだろう。ほどほどのところで妥協しておくことも大切だ。やれることは限られている。だがそんなことは初めからわかっていたはずだ。別に幻想を追い求めていたわけではない。そこにあるものを活用して何かを表現するしかなく、そうやって実際になんらかの達成に至ったのではないか。それが済んでしまったのだから、また新たに何かを作ろうとすればいいわけだ。実際にそれをやっている最中なのではないか。それ以外のことはやっていない。それを超えて何かをやれるはずがなく、やれる範囲内でやるしかないわけだ。要するにそれがわかりきったことであり、わかりきったことだと思えば思うほど、やはりそれを超えて何かをやろうとしてしまうわけだ。わかりきったことをやってもなんの面白みもなく、そこを外れて冒険がしたいわけだ。無謀なことをしたいのだろう。そう述べてしまうのも、見え透いた嘘だと受け取られてしまうだろうか。嘘でもかまわないのだろうが、なんとなく嘘だけでは物足りないような気がする。ではリアリティを実感したいのだろうか。でもそう述べてしまうと、それもやはり違うような気がしてしまうわけか。

 まだ歩き続けているのかもしれない。大地の上を大勢の人たちが歩き続け、地面が踏み固められて道ができる。でもそれが何のたとえとして語られようとしているのか。ただの断片が脈絡もなしに記されたところで、何かのこけ脅しとも思われず、その場で思いついた何かを、意味を伴う言葉の連なりに構成できていないだけのように感じられ、そんな疑念が心の中で膨らんで行き、つい苦し紛れに話のつじつま合わせをやりたくなってしまうわけだが、そんなに切羽詰まっているわけでもないので、焦らずそのまま放っておこう。やがて自然と思いついた何かにつながるはずだ。道を歩くことと考えることと言葉を記すこととの間に、なんらかのつながりを見いだそうとしているわけではない。道にはやがて砂利が敷かれ車道となり、交通が盛んに行われ、産業が発展していく過程で、アスファルトの舗装道路となって、歩く人は側道へと追いやられ、車にひかれた小動物の死骸も風雨にさらされ消え去り、道の周りの樹木も枝が短く刈り込まれ、電信柱が立ち並び、所々に建っている家屋にも夜の灯りがともり、灯りに誘われて虫が集まってくる。誰かがそんな成り行きを想像しているようだが、世界のすべてがそうなるわけではない。せいぜいが人が住んでいる範囲内で起こる現象だ。産業が廃れて人がいなくなれば、またもとの自然が戻ってくる。人と自然が今も世界のどこかで、互いの勢力範囲を巡ってせめぎ合っているわけか。たぶん人が意識して何を食い止めることもできないのではないか。原発事故で人が住めなくなった地域では自然が豊かになりつつあるのかもしれない。自然には意思も意識もありはしない。自然は人の利害を超えて広がろうとする。放射能で汚染された沿岸の海も、漁が出来なくなった分だけ魚が増えたのかもしれない。人がとって食えないから増えるわけだ。結局自然が人に勝利を収めたと言えるわけか。自然は何も思わないが、人がそういうふうに受け止めることはできるかもしれない。人が自然から資源を搾取して繁栄を試みた挙句に、それに失敗して自らの勢力範囲内の土地を放棄せざるを得なくなったわけか。どうとでも言えるだろう。人がどうとでも考えどうとでも認識し、どうとでも語っているわけだ。たぶんそれ以外ではなく、自然が直接人に何を語りかけているわけではない。人が現状を把握しているだけだ。そして把握した結果に基づいて現状を分析している。まだ放棄されたそれらの土地には利用価値があるだろうか。そこに廃棄物でもまとめて捨てるつもりなのか。そういう利用法が最も合理的に思われてしまう。

 放射能に守られた自然の楽園を、また人の側に取り返す算段を巡らせているのだろうか。除染して強引に人を住まわせて、少しでも味方の陣地を奪還しようとしている最中なのか。作業をやればそこに金が回り、やっている会社に利益をもたらす。それが人のやり方だ。自分たちの勢力を広げつつある最前線に金を回し、少しでもその活動領域を増やして栄えようとする。しかしそんな認識自体が人が考えていることだろう。何をどう考えてみても人自身にその原因が想定されてしまう。人の都合で考えているのだから、そうなって当然なのだろうが、では当然ではないことを考えるわけにはいかないのだろうか。考えてみたらいい。自然に都合などあるわけがなく、都合があるのは人だけで、それが人以外の誰の都合でもない。誰もそんなことは思わないだろうし、考えも及ばないことかもしれない。開発するにせよそのままにしておくにせよ、そこには人の都合が反映するしかなく、開発することで自分の利益や価値観を侵害されたと思う人たちが怒るわけだ。別に自然が怒っているわけではなく、人が他の人の都合に反したことをやっていると思われるだけだ。何をやるのも人の自業自得で、そこで自然がなんらかの作用を及ぼすとすれば、人に対して及ぼしているのではなく、人に対して自然が作用を及ぼしていると人が思うだけだ。それが勘違いのもととなっているのだろうか。人は自然に対して何を勘違いしているのか。人が栄えるのも滅ぶのも、それは人が何かやった結果であり、それ以外のなんらかの原因で栄えたり滅んだりするとしても、別にそれが人を標的としているわけではなく、たぶん何かのついでに人が栄えたり滅んだりするに過ぎないのではないか。もちろんそれも人が考えていることでしかない。どう考えてもそうなってしまうのだが、ならば考えるだけ無駄なのだろうか。無駄であってもかまわないし、有益であってもかまわないし、そのどちらであってもなくてもかまわない。とりとめのないことを考えているように思われる。なんであってもかまわないのではなく、そこになんらかのこだわりを持ち、そのこだわりを基として、価値判断して、ことの善し悪しの境界線を設ければ、そこでそのこだわりに特有のイデオロギーが生じるのかもしれないが、今はそこまでやる必要性を感じられない。


11月27日「語りの不自由」

 ともかく自由にはならない。自由を求めても取り立てて求めていなくてもそうだ。自由は自由という言葉が示す意味とは違う状態なのではないか。それは言葉では語れない状態なのかもしれず、語ろうとすると自由という言葉を使って語ろうとしてしまうのだが、語ってみるとそれは違うように思われてしまう。なんとなく齟齬感を覚える。そうではないと思いたいわけだ。言葉で語れるような自由はないということか。語ったとたん言葉に束縛され、自由ではなくなってしまう。言葉では捉えきれないのが自由だろうか。別にとらえようとは思わないが、語るということは、それを言葉で捉えようとすることなのではないか。当たらずとも遠からずな解釈なのかもしれないが、納得できないこともないのだが、なんとなく解釈すればするだけ、言葉が余計に連なるばかりのように思われて、それが解釈になっていないような気がするわけだ。たぶんそれが解釈という行為の本質なのかもしれない。ただ話の内容を膨らましているだけで、何か語ったような気になってしまう。実際にそれで何か語っていて、それで何かを解釈していることになるのなら、そう思うしかない。納得はできないが、とりあえず疑念を抱きながらも語っていくしかない。話がある一定方向にまとまらず、支離滅裂に分散したままであってもかまわないようだ。それを語るとはそういうことであり、それとは常にそれ以外の何かでしかないわけで、それを語っているつもりが、それではない別の何かを語っている場合もありうるわけで、なんだかわからないが、とにかく語っている現状があるらしい。どうやら何を解釈しているのでもないらしい。相変わらず無駄に無意味に語りすぎている。そうすることで語りを持続させている。それほど無理にやっているわけでもなく、自然とそういう成り行きになってしまうようだが、やはり自由に語るわけにはいかず、何かに語らされているわけで、自ら記した言葉の連なりが、自らの語りを制御し拘束しているのではないか。

 それ以外の何が作用しているわけでもないとは思うが、それだけでも語りの自由を奪うには十分な力があるのだろう。そういう作用が煩わしく思えてくると、それとは違う外部からの作用を導入したくなり、一時的な混乱やはぐらかしを期待して、音楽など聴いてみようと思うわけで、音楽を聴きながら言葉を記してゆけば、また違った作用がもたらされているような気になる。錯覚しているのだろうか。すべて思い違いだと思いたくなるが、何がすべてというわけでもなく、今までとは違う水準で何かを思っているように、そうやって自ら嘘をつきながら、たぶんそれがすべてではないと思いたいのだろう。聴いている音楽とは別の作用の到来を期待してしまうわけだ。それが無い物ねだりだとわかっているのに、そこからもたらされる記述の乱れを自覚してしまうわけだ。そうやって時は過ぎ行く。実際に何が起こっているわけでもなく、とめどなく鳴り響く音の渦に翻弄されることもない。しばらく考え込んでいるようだ。作用反作用のどちらも方向からも、そこから逸脱させる圧力が高まっているのだろう。意識を外れて何かが行われているのであり、誰のやっていることからも繰り出される言葉がずれて行く。個人の主義主張などにかまっていられないほどに、度重なる反転とねじ曲がりを繰り返しながら、今ある地点から遠ざかろうとする。現状に納得できないのは無論のこと、現状以外にはありえないような意識の停滞に我慢できないわけだ。そこへ滞留するのが苦痛なのだろう。決してあてもなくさまよっているわけでもなく、さまよっているように装いたいのだろうが、自然とそこに目的が生じてしまい、その目的が鬱陶しく感じられる。目的のために生きているのではないと思いたいわけだ。そこから自由への憧憬が生じていることは確かかもしれないが、それだけで済むわけではないらしい。破壊衝動を抑えきれなくなってしまうのだろうか。攻撃的な気分となり、憂さ晴らしに何かやっている気になっているようだ。実際にやっているのではないか。意識がとらわれている現象を攻撃しているわけだ。それが自らの本能に従順だと感じられるかどうかわからないところだが、ともかくそうやって何かしら自らのやるべきことを発見できたように思われ、その作業に邁進することに喜びを感じているのかもしれないが、実際にそれがどんな状況をもたらしているのだろうか。

 そこにはまだ何か制御可能な行為が残されているわけか。そう思ってそれをやっている最中なのかもしれない。制御などするつもりもないのだろう。意識して言葉など操れるはずもなく、それが本能の赴くままだとも思えない。外部からのどんな力に制御されていようと、ただ何かをやっていると思うしかない。力など幻想に過ぎないと思っているわけではないが、為政者などに大衆と呼ばれる人々を操れるほどの力があるとも思えないし、自らが何かに操られているのだとすれば、その為政者も操られているのであり、操っている当の何かは、案外自らが何かを操っている自覚など持っていないのかもしれない。ただそこで何かを操っていると表現しておくと、なんだか状況を説明できたように思われ、思われるだけに留めておけばいいのだが、そこから一歩踏み出してしまい、あたかも為政者が大衆を操って誤った方向へと導いている、というありふれた観念にとりつかれ、それを為政者に対する攻撃の言葉として利用するわけだが、そればかりとなってしまうと、今度はそういう扇動の言葉が大衆と呼ばれる人たちの心に響かなくなるわけで、果たしてそういうやり方が正しいのか間違っているのか、よくわからなくなるわけだ。もっと何か長期的な戦略を余儀なくされるというか、相手の誘いに安易に対応する気が無くなってしまう。たぶん何を挑発されているわけでもない。それを挑発と意識して挑発している人がいるとしても、たぶんその人が思っているほどの挑発にはなっていないだろう。いくら周到な計画を立てて念入りに挑発して、相手を罠にはめようとして、実際に憎っくき相手が罠にはまってざまあみろとなったところで、それですべてが思い通りに終始したと喜んだところで、たぶんその先があり、その前もあるわけだ。思い通りの結果を超えて何かが動作している。それが調子に乗りすぎたツケとして、思わぬところから致命的な一撃が加えられるにしろ、あるいは何の反撃もなく、拍子抜けの手持ち無沙汰になろうと、やはりその続きがあるのではないか。続きがなくてそこで終わってしまうこともありうるが、何も起こらないことが一番厄介な状況かもしれない。ただ時が流れ、誰かが強者どもの夢のあとでも眺めているのだろうか。かつてそこで何かが行われていたらしい。大勢の人たちがよってたかって何かやっていたようだ。そこで何を正当化するわけにもいかないだろう。


11月26日「超越者の誕生」

 すべてのことが役割分担に過ぎないのではないか。そんな視点を持ってはまずいのだろうが、どう見ても役割分担をしているだけとしか思えない。それは人々を夢の中に留まらせるための役割分担なのだろうか。しかし我々は彼らによって何を見させられているのか。というより我々こそが彼らであり、彼らも我々も一緒になって自分たちが作り上げた夢の中に留まろうとしているわけか。しかし夢とはなんなのか。それは自らが語っていることの一部始終だろうか。自らの語りを聞き、自ら記した内容を読み、そうやって自らを自己催眠にかけているのだろうか。だがそんなことを語ってみても自己催眠が解けるわけもなく、かえって事態を悪化させるだけだろうか。それはどのような事態なのか。同じ言説空間の中で、同じ言説を共有する人たちが、その言説が可能とする様々な主張を取捨選択して、それぞれの主張を担った者たちが、互いに対立しながらも連携し合い、その言説空間を支え維持継続させ、それをより強固にしようとしている。君はそんな言説空間の中で、どのような役割を担っているのか。そこから目を覚ます方法を探っているわけか。自分だけが覚めても仕方がないのではないか。そしてそんなことを思っている時点で、まだ夢の中をさまよっていることになるのではないか。これは夢ではなく、現実の世界で起こっていることだ。自己催眠などではなく、言説空間がもたらすイデオロギーの支配に屈しているのだ。しかも屈していてもかまわないのだ。現実の社会の中で生きている限りは、そうなるしかない。それを拒むことはできないはずで、好むと好まざるに関わらず、一定の役割分担を担わされている。そしてその役割分担の範囲内で何かをやらざるを得ないのであり、それを超えることはできない。超えてしまったら社会の中では生きてゆけなくなってしまう。犯罪者となるか世捨て人となるか、他にどんな超え方があるというのか。たぶん他にも超える方法があるのかもしれないが、それを積極的に推奨するわけにもいかず、それを目指して超えられるわけでもなく、安易に超えるわけにはいかないのではないか。要するに様々な紆余曲折や経緯を経た末に、気づいてみれば超えているということがあり得るのかもしれないが、それは超える者固有の超え方であり、他の誰にも当てはまらないような超越だろう。そしてそんな超越者はフィクションの中でしか生きられず、もうその時点で現実の世界の住人ではなくなっているわけだ。

 例えば精神病院に収容されている人は超越者なのかもしれない。死刑囚も超越者だ。密教の千日行を達成した者だけがそうなのではない。要するに超越者の居場所は限られていて、なるべく社会と接触しないように隔離されているわけだ。社会にとって害を及ぼす危険性があると見なされる。そのような超越者を排除することで、なんとか社会が成り立っていて、正常に動作するわけだ。そのような社会は、その中で生かされている者に、なんらかの利益をもたらしている。超越者たちが及ぼす力を封じることで、ありふれた人間がありふれた人間のように振る舞えるようになる。要するに気が狂わなくてもよくなり、復讐心から生じる際限のない殺し合いから逃れられる。ただそれは束の間の休息に過ぎず、狂わなくてもいいのに狂ってしまう人や、殺さなくてもいいのに殺してしまう人を、閉ざされた場所に隔離することで、一時的にもたらされる平和にすぎない。現実には狂ってしまう人や殺してしまう人が絶えず生み出されていて、それは社会の歪みや不具合がもたらしているのではなく、正常に動作している過程で生み出されている。誰もがありふれた人間ではいられないわけだ。気が狂ったり人を殺したりする人がある程度生じてしまうのはやむを得ないことなのかもしれない。そう思わなければやっていけないだろう。何がそれを生じさせているのでもなく、人間が社会の中で生きていると、その中のごくわずかな人たちが自然とそうなってしまうわけだ。そしてそういう人たちがそうなるたびごとに社会から取り除きながら、なんとか社会が正常に動作しているように見せかけるわけだ。しかし何がどうなっているように見せかけたいのか。歪みが不具合が生じていないように見せかけたい。その点では主張や信条が対立しあう人々の間でも、意見の一致を見せているのかもしれず、どうやって平和で暮らしやすい社会を実現するか、その方法論の違いで対立しているわけだ。それが予定調和の対立だとするなら、ではどうやったらそれを突き崩せるのだろうか。それを模索するのは社会の中で生きている人間には無理なのか。社会の中で生きている限りは、そこで生じている予定調和の対立のどちらか一方に与して、意見や信条の違う人たちと対立しながらも連携し合い、自分たちの主義主張を守るために、社会の敵となる超越者を排除しながら、議論が噛み合う土台となる共通の言説空間を支え、それを対立しあう者同士が協力しながら、維持継続していかなければならないのだろうか。たぶん君はそれとは異なる可能性を求めているのだが、果たしてそういう方向で模索することで、夢から覚める出口へと到達できるだろうか。なんだかそれは答えの出ない問いを解こうとしているみたいに思われてしまう。


11月25日「言葉の誘惑」

 やはり何を批判しているのでもなさそうだ。そのタイミングを逸して、わざと外しているように語ることしかできないようで、直接の言及を周到に回避する。その見せかけの配慮を感じながらも、あえてそれを無視するようなことを述べて、それとなく批判しているみたいだ。そんな不快な攻撃にさらされながらも、それに逆らって語ろうとはせず、時折怯んでみせたりして、それが演技としか見えないように振る舞うのだろうが、相手が怖気づけば喜ぶようでは底が浅いのかもしれず、そこで何をばかしあっているのか知らないが、ともかく周りの雑音に惑わされずに、やるべきことをやればいいだけか。もっともやるべきことが定まっていればの話だが、何も定まらない状況で何かを記さなければならないとしたら、途方にくれるしかない。それでも語り、語っているように見せかけ、語るべきことを語っているように演じているわけか。そこまで行くとわけがわからなくなる。途中で見落としていることが数知れずあるのかもしれず、行くべき場所を素通りして、道を間違え、袋小路で立ち往生しながら、その場でしばし考え込んでいるようだ。いったい何を語りすぎているのか。無駄に語りすぎている反面、肝心なことは何も語っていないのかもしれず、それが語っているように見せかけていることのすべてなのではないか。しかしそんなことは語らなくてもわかることだ。あえて指摘するには及ばない。確かにそう述べれば済んでしまうことでしかないわけだが、やはりそれを説明しようと試みているようだ。余計なことだと思いつつも、説明しなければならない。何かを説明しているようだ。それは現状では困難な試みだろうか。実際に試みたことごとくが失敗に終わりそうだ。そしてそれでかまわないと思ってしまう。失敗するのは納得づくで試みている。説明しようとしても説明になっておらず、何を説明しているのかわからないまま、必死でやっていることを説明しようとしている。しかもそれがやっていることのすべてであり、それ以外に何をやっているふうもないのだから、説明こそがやっていることであり、そのやっていることを説明しようとしているのだから、結局は無為な自己言及に陥っているわけだ。

 現実に何をどうしたらいいのか。何かをやっているはずであり、それが自己言及以外の何かだとすると、それはなんなのか。無駄で無意味なことだとは思えない何かをやっている。何かに抗っていることは確かなようだが、その抗っている対象が漠然としていて、つかみどころがない。その実体ははっきりと特定できず、世の中の隅々にまで行き渡っているようでいて、具体的にどこへ潜んでいるようにも感じられず、たぶんそれは敵とか味方とか区別できないようなものなのではないか。ものでさえないようなものであり、人々が抱く幻想そのものなのかもしれず、しかしそれを幻想と断じてしまうと、やはりそこからすり抜けてしまうようなものなのではないか。つかもうとすればこぼれ落ち、すくい取ってみれば単なる虚無でしかない。そしてそういう言い回しでは納得できないのであり、それを特定の何かと見なして攻撃したいのだが、実際に攻撃していくと、その攻撃対象が知らないうちに自らとなっているわけだ。それと気づかず自らが自らを攻撃してしまい、自滅するような成り行きとなってしまう。そうならないためには攻撃をほどほどにしながら、その対象を架空の誰かに定めるしかなく、実際に存在する事物や人物に、攻撃しやすいように見せかけるためのレッテルを貼り付け、それを攻撃する口実にするわけだが、レッテル貼りをした時点でそれはもはや現実の何かではなく、フィクションの中でうごめく事物や人物となるしかなく、そこで現実が幻影へとすりかわり、もはやありふれた誹謗中でも構わないような対象となり、罵倒したり嘲笑したりできるようになって、そうすることに良心の呵責も感じられなくなってしまう。予定調和の物語とはそうやって生まれるのであり、いくらでもそんな物語を捏造することが可能だろうが、いくら捏造しても無効となるしかなく、すでに現実から遊離してしまった批判など、いくらやっても何がどうなるわけでもないが、しかしいくらでも持続できるからいつまでたっても止むことはない。もはやそれは批判ではなく、感情的な恨みつらみであり、そんな怨嗟の声が世の中に響き渡っているに過ぎない。そして声を上げているうちは自己満足に浸ることができ、声が枯れたら宗教に救いを求めるしかないだろう。そうならないようにすることなどできないのではないか。そこでは絶えず同じような言葉が循環しているのであり、そんな言葉に人の意識がとらわれるしかなく、現状に対する不満がそんな言葉を生じさせているのだろうが、そんな言葉とは具体的にどんな言葉なのか。君はその言葉に心当たりはないのだろうか。たぶんそれは謎の言葉などではない。何かの呪文ではなく、ありふれた言葉なのだろうが、そのそこいらじゅうに漂っていて、辺り一帯の空気に充満している言葉なのだろうが、それを口にするやいなや、その言葉に魅惑されて、それ以外は何もしゃべることができなくなり、多くの人がそれと意識せずに口々に同じ言葉を発するようになってしまい、それを口にすることから生じる心地よさから逃れられなくなる。それが紋切り型の言葉なのかもしれない。


11月24日「さざ波程度の波紋」

 たぶん語る必要のないことまで語らなければ、ある程度まとまった分量の語りとはならず、内容の厚みをもたらせないのかもしれない。厚みをもたらせない人は一言人間となり、通りすがりにシニカルな一言を投げかけ、それで批判を済ませてしまうわけだが、やはりそれでは自己満足を得ることにしかならないだろうか。中途半端にくどくどと言葉をこねくり回しながら語るより、一言で済ませる方が潔いのかもしれないが、そればかりだと考える機会を失ってしまいかねない。しかし何を考えようとしているのかがわからず、無理に考える対象を探しているのかもしれず、探しても見つからないから、焦って闇雲に言葉を連ねて、それでひとまずは語っているように見せかけ、言葉を連ねながら考えようとしている。要するにその時点で自己言及の罠にはまっている。それで何を語っているとも思えないのだが、無性に語らずにはいられず、中毒症状を呈しているのかもしれないが、それも冗談のたぐいだろうか。他の何が冗談なのかわからない。しかし実際に一言で何を批判しているのだろうか。その具体的な内容を思い出せず、何か批判されていたような印象は感じるのだが、気のせいなのかもしれず、直接ではないので、何を批判されているとも思えないのだろう。批判とはその程度のことでしかないわけか。批判するにも批判できないようなことを語っているのではないか。というか無視されてもかまわないように、慎重に言葉を選んで批判しているのかもしれず、その辺に批判者の戦略が垣間見られるのかもしれない。何か語っているようでいて、その実何も語っていないようにも思われ、ただ何か批判されているような印象だけが残るというやり方だ。そういう批判を積み重ねていって、他人を不安に陥れる。しかしそれで誰が不安を覚えているのか。たぶん結果を知りたいのだろう。自分が批判した成果を知って満足したい。でもまだそんな段階には達しておらず、これから果てしなくどこかの物陰から、わけのわからぬことをつぶやき続けなければならないのではないか。どうやら今日もどこかでつぶやいている輩がいるらしく、まるでそれは呪詛の言葉のように、低く雑音のようにあたり一面に響いているわけだが、それを感じ取ってしまう者には妙に気になる一方で、気がつかない者には何も感じられないわけだ。

 背後から低く静かに忍び寄り、それと気づかれないうちに、人の心を蝕んでゆく呪いの言葉が、今も世界中に響き渡っているのだろうか。それに気づいていないのだから、今は気のせいで済ますことができるわけだ。ありもしない不安を煽るわけにもいかず、何を妄想しているわけでもなく、ただ言葉を組み合わせて偽りの呪詛を構成しているに過ぎない。それは呪詛でさえなく、そう述べて呪詛の印象を醸し出したいだけではないのか。疑念を覚えるなら、それを払拭する言説に訴えなければならず、政治的な主義主張の先鋭化や単純化を打ち破って、わけがわからない回り道的な主張を繰り出し、言い回しの複雑さを解読するのに手間取っているうちに、すべてが終わっているように見せかけなければならず、そうやって絶えず手遅れになるように、人々の行動を遅延させたいのではないか。そのための方便であり、文化芸術的なサブカルチャーとか言われる概念がになっている効果とは、そういう方面で発揮されるべきものなのではないか。たぶんそれは一種の冗談であり、嘘っぱちの主張となるわけだが、嘘っぱちは魅力的に思われ、何かそこに停滞や行き詰まりを脱する出口があるように思われ、そういうところへ寄り道するように、若者たちは絶えず誘惑されているわけで、たぶんそういう寄り道があるからこそ、決定的な破綻を免れている面もあり、そういう目くらましに加担している人々は、政治的に重宝されている現状があるわけだ。でも実際はそうではない。そうではないと思いたいだけか。語っている途中から、それに逆らう肝心な何かを隠そうとしている。何かとはなんなのか。それはサブカルチャーとは無縁な何かに違いないが、それを直接語ることはできないのだろうか。語り得ないことについて語るには、どうも力量不足を感じてしまうのであり、場違いな気がしてしまうわけだ。それはごまかしでも隠蔽でもないような、すでにそこに現れている何かであり、語ろうとしているのはそれ自身でしかないわけだが、その対象をうまく言い表せずに悩んでしまうわけだ。なぜあからさまに直接語ることができないのか。なんとか隠喩や寓意や類推を介さずに語りたいのだが、どうしてもそれらの回り道的な表現となってしまうわけで、そしてそんなふうにして回り道的に語ると、なにやら気が利いているように感じられてしまい、実際にそうなってしまうわけだ。

 たぶんわざと冗談を本気ととって、それで嘘っぽい言い回しを弄して、何か語っている現状があるのだろう。そうするしか仕方のない成り行きがある。本気な人たちが正気とは思えない。要するに馬鹿げたことをやっているわけだ。政権担当者の子供じみた態度を嘲笑していること自体が、異常事態なのだろうか。でも語りたいのはそんなことではない。本当は何が悪循環に陥っているわけでもないのに、深刻ぶって現状を憂えているわけではなく、そのなんでもない現状に首を突っ込みたくなる衝動を抑えきれずに、危機でもないのに危機感を煽る人々に違和感を覚えつつも、それが本当の危機だとは思えない意識に危機感を抱いているのか。やはりどう語ってもリアリティが感じられない。そんな現状認識が、アニメや漫画とは別次元にあることは確かなところかもしれず、それらを含む文化一般から遠くかけ離れたところに、現実の荒野が広がっているのであり、実際に抱いている空疎な現実感とは無縁の、物質的な充実が実現されている。そしてそんな物質世界の一部を構成しつつ、物質一般にまみれながら存在しているはずが、なぜかその存在が空っぽのように感じられ、何かの抜け殻状態で形骸化の極みような言葉の連なりを記し、それを読みながら考えている。何が喪失されているわけでもないのに、偽の喪失感を抱き、失われた何かを追い求めているわけでもないのに、その喪失感にこだわり、そこからもたらされる、なんだかわけのわからない架空の現状を取り戻そうとし、それが現状ではないのに、やはり架空の現状だと認識するしかなく、なぜそれが現状なのかよくわからないのに、そこに失われた何かがあると思い込み、それを失わせた敵を想定し、これも架空でしかないのに、その架空の敵に向かって宣戦布告するわけだが、要するに彼らは、その失われた何かを取り戻したいと主張しているわけだ。そしてそのありもしない現状を回復させたいのであり、何かを取り戻すために一緒に戦う仲間を募りながらも、その内部では常に仲間割れの危機に直面しながら、互いに不信感を募らせ、自分が裏切り者とみなされないために自己保身に走り、ちょっとしたさざ波程度の波紋が立つと、途端にヒステリックにわめき出す按配となっているのだろうか。どうやらまた途中から嘘をついてしまっている。本気になれないので、どうしても退屈を紛らわすための嘘が出て、話が横道に逸れていってしまうようだ。やはりそれを真正面から語るのは容易ではない。語っていくと途中からどうでもいいような感じになって、ついつい冗談を繰り出したくなる。


11月23日「悪循環の兆候」

 語れば語るほど語っている内容が空疎になる。それが語りそのものから生じている作用だろうか。語る対象が語ることで磨耗し、徐々にすり減っているのではないか。対象自体が語るに値しない対象であって、ちょっと語ればすぐに言葉が尽きてしまうような対象について語っているのかもしれず、そういうどうでもいいような薄っぺらい対象について、執拗にこだわり多言を要しておおげさに語ってしまうと、現実の対象と語っている対象との背離が著しくなってきて、もはや語っているそれはフィクションとなるしかないのだろうか。幻想を抱くとはそういうことか。なんだかこの世ではものすごいことが起こっていて、今まさに明日にでも世界が大混乱となるような緊急事態が発生している。実際にそうなってくれれば、パニック映画みたいでおもしろいのだろうが、現実に一夜明けて静かな朝を迎えているわけで、とりあえず身の回りでは何一つ変わっていないことを感じて、いささか拍子抜けでがっかりしてしまうわけだが、言葉や画像や映像を駆使していくら危機感を煽るプレゼンに精を出しても、それはその場での見世物以上の何物でもなく、それの最たるものがハリウッド映画あたりになるのかもしれないが、莫大な制作費をかけ莫大な宣伝費を投じ、世界中の見世物小屋で見せ、ビデオを売り出しレンタルショップで貸し出し、それほどまでの大掛かりな仕掛けを要して、いったい彼らはこの世界をどうしようとしているのだろうか。ただの金儲けをやっているだけなのか。たぶん映像を通して何かを訴えかけているのだろうし、全世界に向けてなんらかのメッセージを発信しているのではないか。そう思いたければそういう解釈も成り立つだろうが、それは幻想に過ぎないと思ってみてもかまわないのではないか。そのような行為が行き着くところまで行き着いてしまうと、それを製作している側も、自分たちが何をやっているのかわからなくなっているのではないか。携わっている人たちの意志や思惑を超えた何かが発動しているわけで、あたかもその何かに操られながら、人々が動いているような様相を呈してくるのだろう。

 それも一つの幻想には違いなく、そんなふうに考えてしまうこと自体が、フィクションと現実を混同している証しなのだろうが、企業や行政機構など、そういう組織が複合的に絡み合って動作しているように思われる、産業全体や国家の動向などを分析していくと、どうしてもそんな幻想やフィクションを通して考えるしかなく、そこに携わっている人々の思惑を超えて動いている何かが想定されてしまい、それを単純化して人々の利益追求の欲望の表れだとか断定してみても、だからどうしたとしか言えないのであり、ではどうすればいいのかと問うてみても、なんら有効な打開策など出てこないだろう。結局は行政の責任者とか、議会で多数を占める政党や、それを後押ししている産業界などを非難するしかないわけだ。人々はかなり昔からそういう非難を繰り返してきたし、今もそれを繰り返しているわけだ。たぶんそこで何かが食い違っていて、うまくかみ合っていないはずなのだが、認識と実態の食い違いを明らかにして、議論をかみ合わせることは未だできていないように思われる。たぶんそのような非難に屈して、行政の責任者が辞任したり、議会で多数を占める政党が選挙で議席を減らし、別の政党が多数派を構成するとしても、彼らの意志や思惑を超えて動作している力に逆らうのは容易なことでない。力に逆らうようなことをやろうとして挫折した事例など世界中で数知れずだろう。ここ数年では日本の民主党政権がそうであったし、アメリカではオバマがチェインジを掲げながらやってきたことごとくが、うまく機能せずに中途半端な妥協を強いられている。力に逆らおうとすること自体が、ある程度は有能でないとできないことなのだろうが、力に逆らおうとした有能なオバマを嘲笑し、力に従順でその意の向くままに振る舞うプーチンなどの手腕を持ち上げてみても、なんだか本末転倒に思われてしまい、中にはどう見ても無能としか映らないブッシュやレーガンを賞賛するような人たちもいるわけで、まさにそういう倒錯的な言動を繰り返す人たちこそが、人の意思や思惑を超えたフィクションの力に操られているとしか思えなくなってしまうのだが、やはり力からもたらされる利益にありつくには、たぶん力に逆らわず従順であることが、何よりの秘訣なのかもしれず、下手にこんなに批判しているのに世の中は何もわかってくれない的な、悲劇の英雄気取りにはならず、その辺は割り切って長い物には巻かれろ的に振舞っておいたほうが身のためなのだろう。そしてそのような妥協が、ますますフィクションの力を冗長させ、そのような力に支えられながら、利益を求めようとする人たちを後押ししているわけだ。やはりこの状況は何かの悪循環を示しているわけか。


11月22日「悪あがきの最中」

 批判しやすいところをつまみ食いして、それで何か批判したつもりなるのもメディア的にはかまわないのかもしれない。批判しにくく都合の悪いところは、現実に批判できないわけだから、無視するしかない。批判することで自らの立場が不利になるようなことは、批判すべきではないのだろう。たぶんそういうところを割り引いて見ないことには、他人の批判を真に受けるわけにはいかない。批判する行為を他人に見せびらかす人たちも、その辺のところを考慮に入れておかないと、思わぬところで足元をすくわれ、気づいてみれば自分が批判される立場となっていたりするわけか。しかしメディア的には批判している行為を広く一般に見せびらかすしか、その批判の有効性を得られないわけだから、それが批判の見せびらかし合いに発展してしまうのも致し方ないことだ。しかしそうなってくると、批判そのものが日常茶飯事となり、ヒステリックに何を批判しても、ああまたあの人やっているよ、ということになり、要するに批判者が狼少年化してしまうわけだが、それでもそれほどまでに批判していないと、なかなか広く一般にその訴えが届くことにはならないのだろうから、結局自らが狼少年化するリスクを引き受けながら、批判を継続するしかないのだろう。ともかく何を継続するにしても、やっていけばその手の不可能や不条理に直面してしまうわけで、それを乗り越えるわけにもいかないのだろうし、現実に乗り越えられないから、それに絶えず直面し続けるしかなく、それに直面してうんざりしながらも、やめてしまったらそれっきりとなってしまうわけだから、批判の継続が可能なうちは、それをやり続けるしかないわけだ。たぶんそれでかまわないのだろう。かまわないもなにも、実際にそうしているのだから、今さらそれの良し悪しを云々しても始まらないのかもしれず、そんなことはもうだいぶ前からわかっていることで、それを承知でそんなことをやり続けているのだから、その時点ですでにどうにも抜け出せない泥沼にはまっているのではないか。それでもやりたければどうぞご勝手に、ということでしかない。

 そんなわけで、そんなことをやり続けていると、どうしてもそれとは違うやり方がないものか、考えてしまうわけで、何やら小難しい思想関連の書物とかを読んで、そのためのヒントを探し出そうとしてしまうわけだが、たぶんそこでもその手の行き詰まりに直面している人たちに出会ってしまい、ああまたこれか、と落胆してしまい、人の語ることややっていることの限界を見せつけられて、自らの魂胆の浅はかさを痛感させられ、そういう書物を読めば読むほど、語る気をなくしてしまうわけだが、それでも語るとすれば、何か他に語れるものがないものか、やはり無駄な悪あがきのような模索を繰り返してしまう。その時点で悪循環に陥っているのだろう。逃げ道を求めているのだろうか。意識して背水の陣を敷いているわけでもないのだろうが、別にそれほど切羽詰まっているとも思えず、逃げたければいつでも逃げられるような気もするのだろうが、その一見逃げているようなとりとめのない言葉の連なりに魅了され、自然とそういう何かを模倣しているような気分となり、そのわけのわからない説明に終始している書物を、未だに読み続けいることが、なんだからおかしく、不可思議に感じられ、実際にその作者がそんな書物を著わした後、どのような新境地に至り、何かあっと驚く思想や思考を展開して見せたわけでもないのに、やはりその時点にとどまって、そんな書物を読み続けている。たぶんそこからは何も引き出せないだろうし、その著者のやり方をまねることなどできはしないが、やはりそこから離れるわけにはいかないようで、そこに何か説明できないこだわりを感じてしまうわけだ。あとはそれが批判の見せびらかし合いから逃れるための方便にならないようにするだけだろうか。たぶん逃げ口上でも方便であってもかまわないのだろうが、実践的な意味がなくなりつつあるのかもしれず、そんなことを語ったところで、それがどうしたと思われるだけだろうし、そう思われてもかまわないことを承知で、そんなことを述べ続けるしかないのではないか。語ることが何になるとも思えず、何をもたらす気配も兆候も感じられないのだから、ただ闇雲だろうと何だろうと、それを模索し続けるしかないようで、そんな語りの先に出口があるとも思えないが、ともかくもう少しそれらの書物を読んでみなければならないようだ。これからどこへ導かれていくのか知らないが、そういう成り行きの中で語っているらしい。


11月21日「不確かな業界話?」

 なんだか様々な分野で部分的な知識に基づいて偏見が拡大されているようだ。状況をそう捉えれば納得がいくだろうか。ベルギーのロクセル社あたりの全自動養鶏システムなどが、どの程度日本に浸透しているのか門外漢にはよくわからないが、たぶんそれがないと、スーパーなどで売られている安いパック入り卵などあり得ないのだろうし、一箇所で何万羽とか何十万羽とか飼育している養鶏場は、みんなその手のシステムを採用しているのだろう。要するにそれは工場であり、安いパック入り卵は工場出荷の工業製品だ。鶏肉に関しても事情は似たようなものだろう。豚肉に関しては、まだ養豚業が養鶏業ほどには寡占化が進んでいないのだが、だんだん養鶏業に近くなってきているのは明らかで、すでにスーパーなどに並んでいる安い国産豚肉は、ほとんどは工場出荷の工業製品だ。もちろん輸入豚肉は全てがそうで、日本の数分の一のコストで生産される豚肉が、世界各地の大規模養豚場で生産されている。豚一頭あたり人の10倍もの糞尿を排泄するわけだが、日本では世界各地で行われているような、その糞尿をそのまま畑などにまく行為は法律で禁止されていて、北米大陸のように養豚場の隣に何百ヘクタールもの畑があるわけではないので、それは当然のことだが、多額の費用をかけて大規模な浄化槽や糞の高温発酵装置などを農場に設置しなければならず、その分の設置コストと運用コストが半端でないので、豚肉の生産コストが海外の数倍になってしまい、価格で太刀打ちできないのは当然なのだが、それ以外に豚肉の生産に伴う様々な弊害が日本にはあって、それを考えると、それが当然のことのように、消費者に国産豚肉を食べることを推奨していいのか、疑念を覚えざるを得ない。

 養豚場の規模にもよるのだが、あえてわかりやすいように単純化すると、数千万円の費用をかけて作った浄化槽では、浄化槽の処理水を河川へ放流する排出基準をクリアできないわけで、数億円の費用をかけて作らないと、排出基準をクリアできず、しかし数億円の費用をかけて浄化槽を作れるのは、一握りの大規模業者しかおらず、ほとんどの中小業の養豚業者は、窒素濃度やリンの濃度が環境基準を超える違法な浄化処理水を、河川に流している現状がある。もちろん行政もそれを把握していて、地域の保健所や市役所などの環境課では、定期的に職員が巡回して回り、浄化処理水を抜き打ち的に採取して、検査して環境基準を超えた処理水を排出している業者を、指導しなければならないわけだが、何度か是正勧告を受けて、それでも是正できない業者は農場閉鎖され廃業に追い込まれるわけで、しかし本気でそれをやってしまうと、ほとんどの業者が廃業に追い込まれてしまうから、保健所や市町村の担当者は手心を加えないとならなくなる。具体的には業者は役所の担当者が抜き打ち検査にやってくる日を把握して、その日に合わせて浄化処理水に井戸水や農業用水などを足して稀釈し、濃度を薄めておけばいいわけで、そうやってなんとか環境基準を超えていないように装うしかないわけだ。しかし実質的に排出基準を超えているとはいえ、数千万円をかけて作った浄化槽を24時間一日中稼働させるにも、莫大な電力を消費しているわけで、それだけ生産コストに跳ね返ってくるから、電気代を節約するために夜は浄化槽を止めて、真夜中に密かに汚れた排水を河川に流している悪質な業者もいる。善良な人間でも会社の赤字がかさんで事業が行き詰ってくると、そんなことをついついやってしまい、バレて警察に逮捕され新聞沙汰になる業者も結構いるわけだ。確か出荷頭数が年間一万頭前後の中規模業者でも、夏場には豚舎を冷却する他の換気扇などもフル稼働するので、一ヶ月あたりの電気代が軽く百万円を超えてしまう。一般家庭より割安な業務契約で、一ヶ月で百万円を超える電気量なのだから、要するにそれは工場でしかないわけで、スーパーなどで安い豚肉を買って食べている人は、電力で生産された工業製品を食べていると言っても過言ではない。

 国産豚肉には安くてまずい肉と高くてうまい肉の二種類があり、大抵はコストを削減するためにエサの質を落とすと、安くてまずい肉になるわけだが、日頃から安くてまずい肉を食べている人には、その味が豚肉本来の味だと思い込まれてしまうから、世話がないわけで、例えば日頃食べている肉が豚肉特有の獣臭がすると感じられたら、肥育段階のエサに安い動物性油脂が添加されている場合が多く、動物性油脂の成分がエサに多く含まれていると、それだけ早く太るから豚の飼育期間を短くすることができる反面、動物性油脂特有の獣臭も肉につき、そういう臭いのついた肉を食べていると感じられたら、コストを削減するためにエサの質を落としていると思って貰えばいいわけだ。そういうことをやっている業者は、安くてまずい肉を大量生産して利益をあげようと思っているわけで、ひたすら養豚場の規模を拡大させ、実際に全国に何箇所も大規模な農場を持っている業者もいるわけだが、農場のオーナーの中には大きな御殿のような家に住み、高級車を乗り回していたりする場合もあるのだが、それでも生産コストを下げるのにも限界があり、海外の安い輸入肉には勝てないわけだから、行政になんとかしてもらわなければならないのであり、具体的には輸入肉にある程度の関税をかけてもらって、国家が自分たちを保護してくれることを願っている。TPP反対運動などでテレビに映っている、養豚業者の代表を気取っている人たちの中には、そういう人たちが少なからず含まれているわけで、果たしてそういう人たちが消費者の味方なのかどうか、ふとしたきっかけでツイッターなどを見る羽目になってしまって、そこで左翼の人やらエコロジストの人やらが、必死で政府批判をして、放射能汚染やら環境破壊の問題に取り組んでいるのを知り、それはそれで重要なことかもしれないが、しかしそれ以前の問題として、様々な業界や分野にはその業界や分野特有の問題があるのであり、なんというか、ナイーブな人たちの社会の変革運動にもそれ特有の限界があることを、わかってしまうというか、ではどうすればいいかなんてわからないわけだが、なんだか暗澹とした気分になってくる。


11月20日「人と思想の産廃化」

 要領がわかってきたところで、はしゃぐ気にもなれない。それがどうしたわけでもない、と言う決まり文句を思い浮かべ、平静を保とうとしているわけか。瓢箪から駒が出ているわけでもなさそうで、冗談は相変わらず冗談のままだ。信心深いふりをしているわけでもないが、神は今でも生きている。誰かがそうつぶやけば笑いながらやり過ごす。神が生きていれば人も生きているのだろうか。死んでいるのは神でも人でもあるわけだ。言葉が何の一部を構成しているわけでもなく、それが何の預言にもならないのだろうが、言葉は人から入って神へと抜け出る。語れば語るほど世間にまみれ、とても神秘的な気分ではいられない。そうなる前に別の何かに目覚めてしまい、何を見ていたのか思い出せなくなる。幻想ではなかったのだろう。現実の中で周りの状況を意識しながら振舞っているわけだ。そして結局いつものようにそれを語っている現実に気づくわけか。それは幻想とは無関係に思える何かか。意識して何を語っているとも感じられず、別にお高くとまって高尚なことを述べているわけでもないらしい。まんざら内容が皆無というわけでもない。一応はそれでも何か語っている気にはなれそうだ。わざと無内容を装い、独りよがりに拍車がかかる。いったい何を読んでいるのか。だいぶ居心地が悪そうだ。でもそれは今見ている幻想とは違う何かだ。映像はいつも途切れ途切れにしか意識されず、何を見ているのか全体として把握できない。少なくとも思い出しているのはそれではないらしい。今日も薄ら笑いを浮かべながら、誰かが窓の外を眺めている。強がっているのでもくだらぬ妄想に囚われているのでもない。そう思いたいだけだろう。本当に何もないはずだが、それを記述しようとしている。それは空気なのだろうか。無色透明で何も感じられない。記された言葉そのものに意味を感じることはできない。では何を感じているのだろうか。言葉が発するなんらかの響きだろうか。音声言語について語っているわけか。しかしその発音が果たして人の心に響いているのだろうか。人とは他人のことなのか。誰であってもかまわない。嘘であってもかまわないのか。語っているそれらの何が嘘なのだろうか。いくらキーボードを叩いてもブラインドタッチを習得できない。たぶんそれが嘘だとは思えないのだろう。しかし嘘でなければなんなのか。なんでもなければそこでおしまいだろうか。何にもなれなければならず者にもなれはしない。どうもその辺が限界を感じる原因となっているらしい。

 政治に何を期待しているわけでもないが、政治家の嘘を活用しようとは思わないのか。現実に語っていることの何が真実とも思えない。それが真実の特徴なのではないか。具体的に特定の誰が何を語っているというのか。少なくとも誰も何も語っていないわけではない。語っているがそれで何がどうなるとも思えないだけで、選挙で誰が当選したとしても、その当選した人々を活用して何ができるとも思わないだけか。別に特定の政治家を後援しているわけではないのだから、コネも義理もなく、恩着せがましく何を要求することもないし、そういう意味では何も活用できないのではないか。というか何に活用しようとも思わないのだろう。では政治家は有害な産業廃棄物と同じだろうか。選挙で当選すれば彼らは代議員となるだけで、別に神のしもべになるわけではない。そして現実には何が有害というわけでもない。それは特定の個人が有害だと思う者の妄想だろうか。人がすべて産廃状態にあるわけでもないだろうし、そういう方向で言説が行き過ぎると、結局それはいつもの冗談になるしかなく、そんなわけでまただいぶ語りが遠回りしてしまったようで、うまく言葉を制御できなくなっている。下手に操ろうとするからうまくいかなくなるのか。余分なことを考えすぎなのではないか。でも考えるとすれば余分なことだけだろう。考えること自体が余分で余計なことか。しかしいったい何を考えているのか。世間的には誰かが騒ぐだけ騒いでみたが、結局何がもたらされたようにも思われず、そういう方面でいくら騒いでも、何ももたらされないような気がしないでもない。現時点では誰かが期待する何かがもたらされる可能性は皆無のようだ。妄想でしかないとすると、それが何の可能性でもないだろうから、もとから何がどうなる可能性もなかったのだろう。何もないからこそ無限の可能性があるなんて、誰かの負け惜しみにしかならないが、他の何を信じられるとも思えないだろうから、とりあえず一点集中でそれを頑なに信じているのだろう。他がないからそんな荒唐無稽な現状から語っているわけだ。本当に何もなければは廃棄物ともならないように思われるが、何かがあるから産廃化するのであって、そこに何かを搾り取って、人を何かの搾りかすとするような過程があるのではないか。そんな特定の思い込みにとらわれるような成り行きがあり、とらわれているうちに、その成り行きから養分を吸い取られ、吸い取られるがままに状況を放置すれば、干からびてミイラのようにやせ細り、固定観念の収容所の中で廃人と化すわけか。そんな廃人が世の中にはうようよいるらしい。そしてまだまだ犠牲者の予備軍もうようよわいて出そうだ。いったん産廃化して搾りかすだけになれば、もはや他に使い道はないらしく、リサイクルも利かないのだろう。人を産廃化させる罠は社会の至る所に張り巡らされていて、メディア上は固定観念の宝庫だ。選挙で当選して代議士になるのも、廃人への一本道でしかないとしたら、果たしてそこから逸脱する機会というものが、彼らにはいつ巡ってくるのだろうか。たぶん罠と同じ数だけ出口もあるのかもしれず、人は絶えず意識にこびりついた固定観念を振り払いながら生きてゆかなければならないのだろう。無論固定観念に縛られて視野を狭く保っておいたほうが、幸せに思われるのかもしれず、実際にそうなって幸せを実感している人も大勢いるのだろうが、それでは世の中が不寛容に支配されているみたいで、閉塞感に覆われて息苦しいだけのような気がしてくる。正義を訴える人たちの了見の狭さにはうんざりさせられるが、訴えている正義もその程度のことでしかないとすれば、そんなものに関わり合いになるのはやめておいたほうがよさそうだ。


11月19日「言説環境の規則性」

 そこに言説の形成に関する規則があるのかもしれない。確かにそのような規則を伴った言説空間があるらしく、その中で誰かが規則的に同じようなことを主張しているらしいが、それが何を意図し、何を意味するのかよくわからないか。気づいているはずだ。中国経済が危ない、韓国経済が危ない、アメリカ経済が危ない、今にも崩壊寸前だ、では日本経済はどうなのか、そういうことを言う言説空間があり、そこにそういう分析や主張を売りとする評論家のたぐいがいるわけだ。しかしそもそも特定の国家の経済が崩壊したらどうなるというのだろう。例えば最近債務不履行に陥ったとされるアルゼンチンはどうなっているのか。確か数年前にはスペイン経済やギリシア経済が崩壊したはずだが、あれからどうなったというのか。今でもスペインもギリシアもあり、国家としてのスペインやギリシアがどうなったわけでもない。経済が崩壊するという危機感を煽って気を引きたいのはわかるが、その後がどうなったわけでもないとすると、ではそもそもその危機感とはなんなのか。要するにそれを崩壊寸前と見なすにしろ、すでに崩壊状態と見なすにしろ、そう述べて気を引きたい誰かがそう見なしているだけで、要するに現状は相変わらず現状のままなのだ。韓国は韓国のままだし、中国も中国のままだし、アメリカもアメリカのままなのだ。特定の誰かがその状態をどう見なそうと、そんなことはおかまいなしの現状があり、現状で起こっている以外の何が起こっているわけでもない。もはや危機感を煽るという言説空間そのものが形骸化しているのではないか。事ある度に危機感を煽っているうちに、煽りすぎて危機感という言葉がインフレ状態となり、もはや誰もその危機感を信用しなくなっている。危機感を煽るという行為自体に価値がなくなってしまったようだ。すでにこんな現状なのだから、この現状で何を煽っても、それがどうしたとなるしかなく、世の中がそんな狼少年だらけでは、何を言っても冗談としてしか受け取られなくなっているのではないか。

 たぶんそれでかまわないのだろう。例えば誰かがガンで死ねば、それが原発事故による放射能汚染と結びつけられるし、ガンに罹ることと放射能汚染や電磁波の影響について語る言説が流行ってくるわけだが、そのまま多くの人たちがガンでガンガン死に続け、人口減少に歯止めがかからなくなるくらいになれば、電力消費量も減って、原発を稼働させなくても間に合うようになるという方向では語られず、やはりそこにも言説形成に関する特定の規則が介在しているようで、その言説空間の中で作動している規則に囚われた人々は、人が死に続ければ人口が減少し、人口が減少すれば電力消費量が減り、電力消費量が減れば無駄に発電しなくても済むようになる、という方向に思考が働くことはないわけで、また政府自民党の新自由主義的な経済政策によって、貧富の格差が開き多くの若者たちが正社員にもなれず、バイトやパートタイムの低賃金労働により、貧困にあえいでいるという言説も流行っていて、働く女性の職場環境も改善されず、子供を産みづらい現状で、このままでは少子高齢化がますます進み、人口減少に歯止めがかからなくなる、となるわけで、そこでも人口減少が進めば電力消費量が減り、電力消費量が減れば無駄に原発を稼働させなくても済むようになる、という方向での思考や主張は、あらかじめ取り除かれているわけで、言説空間内でそういう方向で主張するのを禁じるようなバイアスがかかっているのかもしれない。たぶんそんな主張をすること自体が非常識の理不尽であり、言説の規則に従っている人たちにとっては、まともに取り上げる価値もないことなのだろう。彼らにはそれとは別に最も優先されるべき価値観があり、それは健康で幸せに一生を送るというごく自然に誰もが思い描く目標であり、その価値観に照らし合わせれば、放射能汚染や電磁波の影響で病気にかかったり、低周波騒音で夜も眠れぬ日々を送ったり、若者たちが正社員にもなれず、パートタイムの低賃金労働を強いられたり、女性がまともに子供も産めないような世の中になっては困るわけで、実際にそうなっているのだとすれば、そんな世の中を作り出していると思われる原因を取り除こうとしなければならないわけだ。そしてそういう人たちが主張している言説の中身も、自然とそういった価値観や規則が反映されたものとなる。

 やはりそれでかまわないのだろう。そう主張し続けている人たちの努力によって、世の中が良い方向に変わりつつあるのではないか。そうだとすればそんな結構なことはない。しかしそうでないとすれば、世の中はどのように変わりつつあるのだろうか。人々は言説空間の規則に従って物事を考え、何かを主張し行動している。その規則が人の思考や言動を拘束しているとしても、そこにどのような思惑や意図を想像してみても、そんなものはそもそもないような気がする。人は何に従っているとも思わないし、それらの言動や行動に、誰も気づかないような意図や思惑が介在しているわけでもない。ただそんな言説空間があって、そこに規則のようなものがあるらしく、その空間の中で同じような主張が規則的に繰り返され、そんな現象からわかることは、そこにはそういうことを主張するたぐいの人たちがいるらしい、ということだ。たぶん世の中が変化していく先に何が待ち構えているとしても、それは人の意図や思惑とは無関係なのではないか。というかそのような意図や思惑を無視して変化していくのではないか。要するに特定の言説の流行り廃りには関係なく、ただ変化して行くだけで、その変化にそれらの言説が対応して、流行り廃りを伴ってくるわけだ。世の中が変化すれば、言説空間を支配する規則にも変化が生じ、それに伴って言説空間も変容するだろうし、人々が規則的に繰り返す主張にも変化が生じるだろう。しかしそもそも世の中はどうやって変化するのか。結局それは気候変動や天変地異によって変わるわけか。しかし人は自分たちが世の中を変えていると信じたい。何か良かれと思うことを主張して、その主張が実現されることを願い、そのために努力して、そうやった挙句に世の中が変わったことを実感できれば、それはそれで幸せなことだろう。だから絶えず毎日のように同じような主張を飽きもせず繰り返しているのだろうが、その同じような主張が繰り返されている言説空間の中にいると、どうもそれが一種の自然環境のように思えてきて、そんな主張が繰り返されている間は、世の中は変わらないのではないかと感じられてしまうわけだ。そんなことを述べるのが間違っていて、それは逆説的な屁理屈に類する主張かもしれないのだが、湧き上がる疑念を拭い去るような反論に出くわすこともなく、とりあえずそんな感慨を抱いていてもかまわないような気がしてくるわけだ。


11月18日「制御不能なとりとめのなさ」

 潮目が変わるのを実感するのはまだ早い。ぬか喜びばかりしていては、どこかの政党と同じになってしまう。雲の切れ間から薄日が差している程度のことだ。根本的な解決などいつまでたってもあり得ないのだから、今はせいぜい威張っている連中に威張らせておけばいいだけだ。彼らを調子に乗らせておけば、もうしばらくは時間稼ぎができそうだ。攻撃相手を嘲笑する者は寿命が短い。単純なことを訴えて扇動している輩は、とりあえず化けの皮が剥がれるまで踊らせておけばいい。プロパガンダの魅力に屈しているわけだから底が浅そうだ。やがて踊り疲れてその場にしゃがみこむのではないか。それは自然な成り行きでしかなく、別に特定の誰が踊りをやめさせたわけでもない。ありふれた美談に食いついてくる人々は飽きるも早そうだ。それらは一発芸や瞬間芸のたぐいに含まれるのだろうか。美談仕立てもそれなりに技術を要するのだから、あなどってはならないのだろうが、そればかりでは嘘になる。そもそも人は物語に感動する必要があるのだろうか。必要のあるなしではなく、それほど感動したいとも思わないのではないか。たぶんそれだけでは飽きてしまうのだろう。他に何か必要だ。お涙ちょうだいだけでは恥ずかしい。少しは自分をかしこく見せたいのではないか。知性があるように装いたい。ファッションセンスがあるようにも思われたい。その辺が商売のしどころなのか。がめつく利益を追い求めるだけではどうにもならない。別に修行僧のように無欲になれとは言わないが、心にも生活にもゆとりが欲しいところだ。冗談にもほどがあるようだが、そんなことが脳裏をよぎるようになったら、人生も黄昏時にさしかかっている証拠かもしれない。そうやって言葉を慎重に選んで語っているつもりのようだが、そろそろボロが出る頃なのではないか。わざとくだらないことを述べているのが見え見えだろうか。どうやらトンネルの出口にさしかかっていることを実感してきたようだ。語っていることの何が嘘でもかまわないのだろうが、いったん出口から出てみないことには、それが出口かどうかわからないのではないか。その暗闇がトンネルの中にいることを証しているわけでもない。ただ単に盲目であり、自分が暗闇に取り囲まれていると思い込んでいるだけなのではないか。現実にはそれが何を意味するわけでもなく、どこか離れ小島に取り残されているのでもないし、誰がどこかの街中で立ちすくんでいるとも思えない。また考えごとの最中だったのだろう。とりとめのないことを考えている。

 意図しないところで意図しない結果を得たい。それが思惑にならないような現状の中で生きていたい。たぶんまた冗談のつもりでそんなことを述べている。いつものはぐらかしだろうか。それが誰の思惑とも重ならず、その場には誰もいないのに、誰かがいるように装いたいわけでもないのだろうが、なんだか意識も心も外れてしまっている。無意識のはぐらかしと空気を読んでいるつもりの意識が、心の中でせめぎ合いを演じているわけでもなく、特定の支配を受け付けない空疎な部分で、言葉の連なりが生じているみたいだ。誰が何を見ているのでもない。窓から眺める風景が語る意欲を減退させているとも思えない。戦闘的な言動になるのを抑え、内容が皮肉に傾くのも嫌い、どうも中途半端に現状を肯定したいようだ。そこに愛すべきキャラクターを捏造したいわけでもなく、脱力感を演出したいわけでもないのだろうが、ごまかしが何度も通じるような世の中とも思えず、当面は過剰な感情の装飾とは無縁でいたいわけだが、虚無的な無内容と完全に縁を切れるとも思えないし、たぶん幻想に対するそれ以上の非難は的外れなのだろう。要するに言葉を記し連ねるごとに、自然と意識が立ち直ってきているのだ。気がつけば抽象的な意味不明を用いて、語ることの正義をはぐらかし、それが理由にならないようにしているわけで、肯定的な物事の捉え方に忠実であるように、なんとかその方面へと言説を誘導しているつもりで、実際にはどうにもならない事態になっているわけで、その時点で自身の能力を超えているようだ。しかし限界を越えてなお語ろうとすれば、おのずから限界とは別の何かが見出されるらしく、その見出された何かについて語っている現状があるわけだが、たぶんそれを肯定しなければならず、そのたわいないように思えることについて語らないと、他に語ることがなくなってしまうのであり、実際に語っている内容がそうなのであり、そんなふうにして度々内容が自己言及に傾きながらも、意識はそれとは別の何かを語ろうとしてしまう。自意識が無意識に求めてしまうのはそれなのかもしれないが、ここまでは冗談の範疇だ。この先も冗談のままにとどまるのか、あるいは少しは真面目に語るのか、今さら後戻りはできないようで、このまま意味不明気味に語るしかないようで、始めから何を狙っていたわけでもないのだろう。ありふれた物言いがありふれた言説をもたらすとも限らず、ありふれたままで終わろうとしても、実際にはそうはならないのであり、技術的にはどうにもならないところで、意識が周りの環境から力を及ぼされているのだろう。言葉を制御できないとすればそう思うしかない。語るべきことが何もないと思うのなら、それでかまわないのではないか。今はそう思うしかないだろう。個人の力ではどうにもできないところで、何かが作用しているわけで、それは誰の思いとも見なされないような何かであり、それを誰かがシステムだとか制度だとか指摘してみたところで、現状が現状であることから生じる認識から離れられるわけでもなく、他にどう見なせばいいのかもわからず、ただ途方にくれるばかりのようだ。他に何を見せられているわけでもない。すでにそれについては闇雲に語りすぎているのであり、語りすぎることによってわけがわからなくなっている面もあり、一度じっくり語らずに検討し直してみる機会を得たいのだろうが、それもままならない現状がある。とりあえず現状では結論などありはせず、それがすべてでないこともわかっていて、何が求められているわけでもないのだ。誰も求めてもいない状況へと向かっているのではないか。


11月17日「相互依存的な二項対立」

 人が社会的にどのような立場を占めていようと程度の差がある。程度の差しかないのだろうか。その人と人の間に生じているどのような差異を感じているのか。特定の人物がどこで何をやっていようと、そこで何を考えていようと、そんなことはおかまいなしに、同じ動作と同じ言葉に凝り固まった人たちが、同じような場所でうごめいている。そのようにして多くの人たちが固定化すればするほど、全体として社会が安定化するのだろうか。人も物も常に動いていて、流動化していると安心できないのかもしれないが、実際はそうやって絶えず活性化しているわけで、それは人の思惑や、人が集まって組織化した総体から感じられる意志に逆らう形で、なんらかの作用を及ぼしているのかもしれないが、人はその作用の全貌を把握したがっているのだろうか。何かを探求しているということは、結局そこに何か知りたいことがあるわけだ。どこにそれがあるとも思えないのだが、偶然なのか必然なのか知らないが、とにかくそれに巡り会えるような気がしているから、絶えずそれを知る方法を模索しているのだろうし、特定の方法があるわけでもないのかもしれず、結局何を模索していることにもならないのかもしれないが、とりあえずそれを知ろうと努力していることは確からしい。すべては相対的なものやことで、何を知ろうとしても、知り得ることは人それぞれで程度の差があるわけで、その差が何をもたらすとしても、もたらされたものやことにも程度の差があるのだろうが、その相対的な差にどれほどの価値を見出せるというのか。そこに生じているわずかな差異でも見逃したら、それはどうでもいいようなこととなってしまうのか。たぶん従来通りの価値観を受け入れる羽目に陥ってしまうのだろう。たぶんそれでもかまわないのだ。自分が受け入れ可能な価値観と拒否する価値観の間に境界を設け、両者の間で二項対立を生じさせ、賛成と反対の立場を鮮明化して、そこに思想的な立場を築き、それ以降はその固定観念に従った言動や行動を繰り返す。たぶんそれぞれの価値観に従って二項対立を形成している両者の間に、決定的な差異などないのではないか。対立を装う両者ともに、他者に対する不寛容に凝り固まっているのかもしれず、世界にも社会にも彼らには受け入れがたい事物の不均衡や流動性があり、彼らは彼らで互いに二項対立を形成しながらも、両者の価値観がともに無効になる状況を恐れているのであり、そうなってしまうのを阻止するために、必死になって自らの価値観を守ろうとして、対立する相手を攻撃にしながらも、実質的には攻撃相手の存在に依存しているのであり、攻撃相手がいなくなってしまってはまずいわけだ。

 それはわかりきったことなのかもしれない。しかもそのわかりきったことをことさらに強調しても、彼らにとっては馬耳東風なのだろうし、現実に二項対立が無効にならなければ、痛くもかゆくもないわけだ。彼らが立脚している地盤そのものが失われなければならない。要するにそれが国家なわけだが、どうもそういう思考の方向性に疑念を抱いているようだ。特定の存在や概念を否定の対象とすべきではないのかもしれず、たぶんそれをやってしまうと、実際に二項対立を形成している彼らと変わらなくなってしまうのであり、そこにイデオロギーの罠が待ち構えていて、固定観念に凝り固まって、人を取り囲む制度的な背景の一部となってしまう危険性があるわけだ。実際に世界各地で制度が作動していて、至るところで賛成と反対の二項対立が生じている現状がある。もちろんそれでかまわないわけで、そうならないと政治制度そのものが成り立たなくなってしまう。絶えず人々をそこへと誘導していないと、制度が意味をなさなくなり、誰が何を主張して何をやろうとしても、その主張や行為のことごとくが無効だと思われてしまっては、何もやりようがなくなってしまうだろう。もしかしたら神はそうなることを狙っているのかもしれない。別にそれが神でなくてもかまわないわけだが、そこに周到な戦略があるわけでもなく、そうなってほしいと願うだけでそうなるわけでもないわけで、それにも関わらずそんな方向を模索しているのだとすれば、そこで何をどう考えればいいのだろうか。もはやあり得ない事態を妄想する段階でもないらしい。たぶんその方向性は無方向となり、どこへ思考を集中するわけでもなく、すべてを分散化しながら考える必要があるのかもしれず、それで何を述べていることにもならないのはいつものことで、嘘でこけおどしのごまかしと受け止められてしかるべきかもしれないが、それでも絶えず考え続けている。たぶんそれらのほとんどは冗談なのだろう。本当は何も考えていないのかもしれない。現時点では思考対象を特定できない。対象がないのに考えることはできないにもかかわらず、漠然ととりとめのないことを考えざるを得ないわけだ。特定の何かを攻撃対象としなければ批判が成り立たないのは当然だが、必ずしもそうでなくてもかまわないのではないか。批判でなくてもかまわず、それが何かの擁護でなくてもかまわない。批判と擁護の間で言説の振幅を確保する必要を感じられない。そこから逸脱する方向に可能性を模索したいのかもしれない。批判であれ擁護であれ、賛成であれ反対であれ、そういう方向へ思考の針が振れてしまうと、思考の対象となる事物を取り逃がしてしまい、言説が固定観念に囚われた宗教の教義に近づいてしまう。そこから先は念仏のように同じ主張を繰り返すだけとなって、政治的な二項対立が醸し出す風景の一部と化すのだろう。


11月16日「洗脳宣伝活動中」

 無条件に何を受け入れているわけではないらしい。何か考えがあってそうしているのだろうか。その考えが誰かを突き動かしているわけではないだろう。考えながらそこにとどまっていて、一向にそこから動こうとしない。動こうにも動けないのではないか。どこかに身体が固定されているわけか。何によって固定されているのかわからないが、固定されながらも遠ざかろうとしているようだ。一方では固定されているのに、もう一方では動いていて、固定されている側と動いている側に身体が引き裂かれようとしているとも思えないが、現実にどうなっているとも言えないのではないか。固定されながらもどこかへ向かっているわけだ。その矛盾をどう説明できるわけもなく、ただそんなふうに現状を捉えている。ありふれたことを述べているようだ。具体的に何を語ろうとしているわけではない。政治的な状況に否定的な見解を示そうとしているわけでもなく、経済的な状況に危機感を覚えているわけでもない。何かを煽る立場にはないのではないか。日本が危ないわけでも世界が未曾有の災難に巻き込まれようとしているわけでもない。ただそう思っているだけで、実際に何が差し迫っているとも思えないだけだ。ただそれに気づいていないだけかもしれない。あるいは気づいていながらしらばっくれているわけか。気づいていても語る必要のないこともあるらしい。語らない方が身のためか。でも隠し事をするほどのことでもないのかもしれず、秘密にするほどの価値などないのだろうか。本当は何もない。あえて語ることなど何もないのだ。語らなくてもそこに現実があり、その現実の中で生きていて、その現実を受け止めている。ではあきらめているのだろうか。そのふりをしているだけか。しかし何を装っているのだろう。装っている割には言葉による装飾が足りないようだ。無駄に記しているだけで、特に飾るには及ばないのだろう。それで記述が間に合ってしまうわけだ。当面はそれでかまわないような気がして、無理に具体的な問題に踏み込む必要を感じない。何かがおかしいのであり、おかしな気がするだけでかまわないわけだ。そんないい加減な物言いで、何も感じられない状況を乗り切ろうとしている。何かを感じているのに、何も感じられないと嘘をつく。

 選挙になったら自民党か共産党の候補者にでも投票すべきかもしれない。彼らの何に幻想を抱いているわけではなく、政治家はああいう人達でかまわないのではないか。それ以外はいらないだろう。今はそう述べておいたほうがいいわけか。世論調査通りの結果になってほしい。またそんな嘘をついて何を画策しているわけでもなく、何を画策しても無視される立場にあるわけで、そんな冗談しか述べられない立場なのかもしれない。実際は冗談にさえなっていないだろう。たぶん現代のヒトラーに近いのは安倍ちゃんではなく、大阪の橋下市長などのような新興勢力に属する人物だ。もちろん立場上そうなのであって、人物的に近いわけではない。その辺で右翼にも勘違いがあるようで、安倍ちゃんにヒトラーのような役回りを期待したらアテが外れるだろう。それでもなんだかわからないうちに、特定の人物が国家的な指導者の役回りを割り当てられてしまうとすれば、それが民主主義の本質なのではないか。オバマにしてもプーチンにしても、世界各国の選挙で選ばれた大統領などは、大なり小なりヒトラー的な役回りを演じさせられている。ヒトラー自身当時流行りの国家主義や民族主義や人種主義などに洗脳された無教養な人物で、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツの自虐史観に反発していたのが、ドイツ国民の思いと一致して人気を博したのだろう。その辺が安倍ちゃんと似ている部分もあるのかもしれないが、保守本流の自民党と新興勢力だったナチスとは立場も性質も違うのではないか。もちろん自民党が極右勢力に乗っ取られつつあると危機感を募らせている人たちがいることも確かかもしれないが、それならそれでかまわないわけで、かえって極右になって暴走してくれた方が、自滅や崩壊もそれだけ早いだろう。でも現実はそんな甘くないのではないか。たぶん現状に対する解決も解答もありはしない。それは解決することでも解答を求めることでもないはずだ。誰もが思い通りに行かずに困っている最中なのではないか。そもそも思い通りに行くはずがない現状があるわけで、それを承知で思い通りにいっているように装い振る舞いたいわけで、その辺でやっていることとやるべきこととやらされていることがかみ合っていないから、もちろんかみ合うはずもないのだから、結局こうなるしかないのだろう。選挙で自民党が大勝して、安倍ちゃんが引き続き総理大臣を続けても、たぶん何がどうなるわけでもなく、ただうまくいっているように装いたい人たちが、うまくいっているように見せかけようとして、メディアを利用して洗脳や宣伝活動に精を出すしかないわけだ。実際に株価は今年の最高値を更新中なのだから、表面的にはうまくいっているはずなのだろう。


11月15日「環境問題の不可能性」

 言葉を連ねて何か言い表しているように感じられ、記された文章が何かを語っているように思われる。感じられ思われ何か幻想しているのかもしれず、それが現実の行動を促す。何を語ろうとしているのだろうか。語るだけではどうすることもできず、無力感に苛まれて行動に訴える人もいるようだ。しかし仕事以外の行動は戯れ事の範疇にあり、娯楽でやっていることに延長上に過ぎず、本気には受け取られず、最優先事項はあくまでも仕事であり、生きていくために仕事をやめるわけにはいかない。そこから外れると言動にも行動にも説得力がなくなり、仕事でやっている人たちにとっては邪魔な妨害行為としか見なされない。うるさいクレーマーに対応するのを仕事としている人にとっては、どんな切実な訴えかけにも、マニュアルどおりの受け答えで済ます必要があるのだろう。それが仕事ならそうするしかない。人と人との関係ではなく、個人と組織や団体との関係なら、組織や団体の個人対応の窓口となっている担当者には、組織や団体がバックについていることからくる安心感が生まれ、仕事としての対応のノウハウも蓄積されていれば、その辺を割り切って対応できるから、ある程度経験を積んで慣れれば苦にならなくなるだろうか。たとえ相手に不誠実な対応だと思われても、対応マニュアルから逸脱しない限りは、仕事として十分な対応をしたと判断され、何の落ち度もないわけで、その限りで職を失うことはなく、なんの不都合も感じないだろう。そんな制度やシステムの前では個人は無力だろうか。制度やシステムがまだ十分に確立されておらず、対応のノウハウの蓄積も不十分な段階では、個人が組織や団体に勝利することも可能かもしれず、中には実際に勝利したと判断されるような事例もあるのかもしれないが、それも時間の問題で、対応のやり取りの経験が蓄積されていって、それに対するマニュアルが練り上げられ、担当者の研修も効果的なものになってくると、もはや生半可な個人では歯が立たなくなってくるのではないか。組織や団体を構成する官僚機構の力は、そういうところで発揮されるのだろう。実際に作用を及ぼしているそのような力の存在を無視して、いかに個人が切実で説得力のある主張をして、組織や団体に戦いを挑んでも、たぶん勝って要求が通る可能性はほとんどゼロに近いだろうか。

 実際には個人が個人だけで何かをやっているわけではなく、個人はそれを意識するしないに関わらず、公的私的を問わず家族や企業や国家など、常になんらかの組織や団体に所属しているのであり、その多数の個人が所属している組織や団体同士が、離合集散を繰り返しながら時には連携したり、時には争っている現状があるわけで、その中で個人は、それが所属する組織や団体が操る駒の一つに過ぎない場合がほとんどだ。中にはその個人を売りにして金儲けを企む組織や団体もいて、具体的にはフェイスブックやツイッターやユーチューブなどのネット産業だが、個人を踊らせる舞台装置を用意して、そこで踊っている個人を集客力のある有名人に仕立て上げ、有名人目当てに集まってくる人たちに向かって、広告宣伝やアプリの提供などで金を稼ごうとしているわけだ。要するにそこでの売りは個人と企業がウインウインの関係というわけだが、その大もとは個人が創業した企業であり、その企業が大成功したおかげで創業者が莫大な資産を築いた一方で、当のフェイスブックやツイッターやユーチューブで踊らされている、どこかの名も知れぬような活動家たちが、企業の金儲け体質を必死になって非難しながら、自らの主張の賛同者を募っているわけだから、まあなんというか、これを個人の無駄で無効な悪あがきといってしまえば身も蓋もないわけで、たぶん誰も気づいていないところで何かが矛盾しているのであり、その矛盾に気づけないところが人の愚かさを証し立てているのだろうが、その成り行きの矛盾と人の愚かさを前提として事態が進行中なのであり、そこでは善意で正しいことを主張していると思い込んでいる個人が、企業の食いものにされ、その企業を食いものにして創業者が莫大な資産を築く、という食物連鎖が成り立っているわけか。たぶん食いものにされている個人はそんな説明では納得しないだろうし、説明が間違っていると思うはずだ。要するに説明に説得力が伴っていないわけで、説得力が伴わないような環境の中でその個人が生きているわけだ。正しいことを主張している自分が愚かだなんてこれっぽっちも思っていないだろう。そう思わせてしまう環境そのものを疑うわけにはいかないだろう。でも主張が広く世の中に受け入れられず、要求が通らない現実があるのなら、自分がそこで生息している環境そのものに、そういう性質があることを認めざるを得なくなるのではないか。しかもそれを認めたところで環境が変わるわけでもなく、その生息環境そのものがそういう主張を可能としているわけで、その環境に依存しながら主張している現実があるわけだ。


11月14日「生きる目的にとらわれる」

 これも当たり前と言えば当たり前のことなのだろうが、そこに何かありふれた物言いがあるとすれば、そういう物言いを成り立たせている環境の中で、そういう物言いがされているわけだ。フーコーの『知の考古学』を単純化すると、そんなことが述べられているわけか。単純化してはまずいのだろうが、書物を読むと語っている内容も影響されて、なんだか小難しいことを述べようとする傾向にあるようだが、どうも力量不足でそういう水準までいかないらしく、安直に語ってしまう。頭の中で情報を消化しきれていない。考えようとするから語れなくなるわけで、考える前に語ろうとすればいいわけで、語りながら考えればいいわけか。別に無理に語ろうとしなくてもいいのではないか。ただ言葉を記せばいい。言葉を記してゆけば、語りが後からついてくる。はったりだけの神秘思想にかぶれているわけでもないらしい。普通に考えてもおかしい。その普通がどのように普通なのか定かでないが、たぶん昔からそうだったのであり、最近始まったことではない。個人や集団の主義主張とは関係なく、何かをヒステリックに騒ぎ立てる風習が昔からあったわけだ。騒ぎ立てることで人々を扇動したいのであり、攻撃相手に自分たちの要求を呑ませるために騒ぎ立てている。やはり社会的にはそうしないと要求が通らないのだろうか。メディア的なやり方としては、そういう非難キャンペーンが、これまでにも事ある度に行われてきたような気がする。それが良いか悪いかではなく、実際にそういう行為が繰り返されてきた歴史があるわけだ。しかしそれの何がおかしいのか。そう問われると微妙になってくるのだが、いったい何がおかしいのだろうか。たぶんその非難キャンペーンの中身が問題で、内容が十分に説得力を伴っていれば、それが正しい行為だと受け止められ、単なる誹謗中傷のたぐいだと思われれば、間違った行為になるわけか。その辺の判断を誰がするのか、そういう行為に直面した人たちが判断するしかないのだろうが、そういう行動をただ傍観しているのは卑怯な態度だと思われてしまうのかもしれない。それに加わるか拒否するのか判断が迫られてしまうのだろう。要するに賛成か反対かの態度表明をしなければならなくなるわけだ。それが嫌なら巻き込まれないうちにさっさと退散するしかないのだろうか。

 たぶん退散できない立場に立たされている人たちもいるのだろう。後には退けないことをやっているわけで、日頃かそういう言動にまみれていると、いざそういう事態に直面すると、態度や行動を迫られてしまうわけだ。無責任な立場ではいられない。知らないうちにそんな環境が出来上がっていて、その環境の中で生きていくには、それに応じた言説を用いなければならず、その環境が課す行動に殉じなければならない。エコロジストにはエコロジーが要求する言動や行動が迫られ、右翼には右翼が要求する言動や行動が迫られる。それぞれの分野特有の主義主張はそういうところから生じてくるのではないか。そしてそれらを傍観しているだけの無責任な立場などありはせず、人はなんらかの分野に属していなければ生きてゆけず、いったんその分野に属してしまうと、その分野特有の言動や行動を迫られてしまうわけだ。たぶんそういう分野に深入りすればするほど、その分野特有の目的や価値観に心酔して、それらのために生きていくことで充実感を得るに至るのかもしれない。そういう人からすれば、あえて深入りせずに様子見程度に表面にだけ触れている人は、単なる傍観者や野次馬のたぐいであり、卑怯者と思われてしまうだろう。とても正当化できたものではなく、軽薄で無責任な態度に終始しているわけだ。しかしそれでかまわないと思われてしまうのはなぜだろう。やはりその辺が微妙なところで、そう述べてしまうのは逃げ口上でしかなく、態度をいつまでも保留することはできないのであり、そのモラトリアムがいつか期限切れとなって、ならず者ではない何者かであることを強いられてしまうのだろうか。そこをうまく回避して逃げ切れることが可能だろうか。逃げているわけでもないのだろうが、たぶん何かに至るのを回避しているのであり、至らないように心がけているのではないか。ともかく行動や言動に先鋭化という単純化を施して、攻撃対象に否定的なレッテルを貼り、攻撃対象からは否定的なレッテルを貼られ、そうやって二項対立にまで至れば、その分野内では一目置かれる存在となるのかもしれない。そして戦闘的な言動で仲間たちを煽るわけか。たぶんこれまでに繰り返され、今も繰り返されている現象とはそういうことではないか。

 要するにそれらの現象をそう語ることができるわけだ。もちろんそれをシニカルに嘲笑することもできる。そうなるのを拒否するとすれば、ではどう語ればいいのだろうか。そもそも語る必要がないのではないか。いらぬおせっかいか。そう思われても仕方がないだろうし、実際にそうなのではないか。たぶんその辺に柄谷行人あたりのカント的な妄想である、自由であれ、とかいう神の声が響き渡っているのかもしれず、人を手段としてのみならず目的として扱え、とかいう預言者的な言葉も響き渡っているのではないか。別にそこに深い意味や意義など感じ取れず、単なる表面的なとりとめのなさにとどまっているだけで、あまり深刻には考えられず、本気になれないのが偽らざる感想であり、真剣にやっている人たちには、がんばってください、と表面的に応援しているふうを装うしかないわけだ。自由であれ、とはどのような要求なのか。すでに読んだ本の内容を忘れている。それでも何か語るとすれば、やはり目的に殉じてしまうと人は風景の一部となる。そう述べるとさらに抽象的でわけのわからないごまかしに過ぎなくなるかもしれない。でもそれが風景の一部だと思われてしまうらしく、風景とは制度を伴った背景であり、そこから毎度のおなじみの言動や行動が引き出され、人々をその目的のもとに集結させ、なにやら一定の方向へと駆り立てているわけだ。それが良いか悪いかの判断とは異なる水準で絶えず振動していて、その振動からそれに関する言説が生み出され、その言説のただ中で何か考えている。しかしそういう説明では納得しがたく、説明してしまうと他人事のように思えてきて、なんだかどうでもいいようなことを語っているわけだ。少なくともそういう説明によって、説明している自らの立場を正当化することはできず、正当化してはならないのだろう。自由であれ、とはそういう正当化から自由であれということかもしれない。立場を正当化すれば、その立場に縛られ、そこで身動きが取れなくなって、その場に固定化すれば、もはやそれは風景の一部としか見えなくなってしまうのではないか。要するにある特定の分野の中に、その分野特有の主張をしている人たちがいるということだ。もちろん世間的にはそれでかまわないわけで、大いに主張し、時には対立する相手と激論を交わし、その分野特有の目的に従って情熱的に行動していればいいのであり、それこそが世間的に通用する社会人なわけで、そこから外れた人などは、無視されてしかるべきひねくれ人間なのだろうが、やはりそこに、自由であれ、という無根拠で無慈悲な声が響き渡っているわけか。どうもその辺が意味不明のままだ。


11月13日「メディアの力」

 なんだかつまらないことだ。何がつまらないことかはわからないが、とにかくつまらないことにしておこう。知ったかぶりになってはもっとつまらない。だから知らなかったことにしておきたいのか。でも何を知らなかったのかがわからない。それは明かせないようだが、何も知らなかったわけではないらしい。知識とはそういうものだろう。何が間違っているかはわかっているはずだ。そういうことにしておかないと先へ進めない。どこが間違っているかはわからないが、たぶん間違っていると思う。なんとなくそう思われてしまうらしい。それはなんとなくではあるが、間違っていることに関しては確信があるようだ。軽いノリでそう思われる。フィクションの語り手はすぐに紋切り型のレッテル貼りをする。何処かの国が土下座外交をやっているそうだ。いったい誰に向かって土下座しているのだろうか。その辺は想像にまかせるとして、何か土下座しながら懇願したのだろうか。語り手が勝手にそういうふうに受け取っているのだろう。何をもってそう受け取るかは語りの勝手だが、それはそれで興味の薄いことだ。何かを逆説的に語って見せるのは、その手の講談師的な語り手の常套手段なのだろう。それで聴衆の気を引きたいわけだ。彼の支持者は大喜びかもしれないが、そうやって自分たちの自尊心をくすぐられて、いい気になっているうちが花なのかもしれない。今にどうなるわけでもないだろうが、どうなったとしてもそれと気づかないのかもしれず、気づかないうちにどうにかなってしまうのが、そういう成り行きのありがちなパターンなのだろう。そうなったとしてもまだ虚勢を張っていられるわけだから、別に大したことではなく、大したこととも思われないのだから、実際に大したことではないのだろう。誰かがメンツを潰され赤っ恥をかくのかもしれないが、それもその手の語り手がよく使う紋切り型の表現だ。攻撃対象が何か不祥事や不手際をやらかしたとき、ざまあみろと言って嘲笑するとき、攻撃対象の仲間たちも赤っ恥をかかされたとついでにあざ笑うわけだ。そこで語り手があざ笑うのではなく、自分の味方の聴衆があざ笑うように仕向けているところが、巧妙というか講談師特有の芸なのかもしれない。そんな落語芸自体がありふれているのかもしれないが、ありふれているからわかりやすく、人気が出るのだろう。最近の例だと、朝日新聞が記事捏造の不祥事を起こしたら、ついでに朝日新聞系と目される朝日新聞を擁護する文化人や芸能人も、名指しされて嘲笑されているようだ。

 たぶんその程度で済んでしまうのが現状で、予定調和といえば予定調和なのかもしれないが、それ以上に事態が進展することがあるのだろうか。進展したら韓国や中国や北朝鮮などの、他の東アジア諸国と同じような、挙国一致型国家となるだけか。国民がそれを望むならそうなるのではないか。しかし国民とは誰のことを指すのだろう。誰のことでもなく国民と呼ばれる人々が、世論調査や選挙から生まれてくるのではないか。民意と呼ばれる国民の意思がその結果に反映するわけだ。そしてその民を誘導するのがメディアであり、そのメディアの一翼を担っているのが朝日新聞なのだから、それも予定調和なのかもしれず、大したことはないといえば大したことはなく、そういう予定調和が嫌なら、メディア全般を信用しなければいいわけで、そういう人たちが増えれば増えるほど、メディアによる世論操作の力も衰えてくるのだろうが、それらの従来のメディアに加えて、新たにネットメディアも台頭してきているわけだから、そのSNS的なネットメディアの担い手が一般市民なのか、一般市民を装った活動家や有名人が新たに世論誘導を画策しているのか、その辺のところはいろいろあるのかもしれず、一概には言えず、それらのすべてを批判できないところもあるのかもしれない。土下座外交だなんだのと煽っている経済評論家のたぐいもその中に含まれているようで、彼らが商売上の新たな予定調和を築きつつあるのだろうか。彼らにしてみれば新たな顧客層を開拓して、ビジネスの幅を広げて収益を安定化させたいのだろう。そのための宣伝をネットメディアを通してやっているわけか。まったくご苦労なことだが、人はなぜ多くの他人の共感を得ようと画策するのか。味方を増やしその結集した力を利用して何かやりたいのか。実際にやっている人たちがいるわけで、だからその手のネットメディアが繁盛しているわけだ。確かにそういう面では世の中が変わったのかもしれないが、やっていることは相変わらずのようで、人を誘惑して結集させそれを利用するという従来通りのやり方なわけで、とりたててその方法に新鮮味があるわけでもない。しかしそれ以外のやり方があるのだろうか。気づいていないがたぶんあるのだろう。別にそれを模索しているわけではないが、偶然にめぐり合ったりするのかもしれず、何か思いついたり気づいたりするのかもしれず、誰かがそれに期待しているわけか。

 期待していないと言ったら嘘になるだろうか。何かに気づいていないのだろう。気づいてしまったらヤバいのかもしれない。ともかく安易な神秘思想に染まるのもおかしいような気がする。何か驚異的な超能力がどこかに眠っていて、それに目覚めてしまうのは漫画の世界でよくあることで、現実の世界でそれはないのではないか。たぶんそのたぐいではないのだろう。従来からあるやり方も広い意味でそれに含まれているのかもしれない。そしてそういう力が作用して、あるとき気づいてみたら、パラダイム変換とか言われるような現象が起こっているのか。それをいい加減に推測しても意味のないことかもしれない。ともかくその時代の支配的な言説ややり方が、ある時期を境に急に変わってしまう現象があるようだ。その不連続な変化がいつ起こるのかはよくわからず、それを予測したり予想することはできないのだろう。それは後の時代の歴史家などが分析して明らかにすることか。でも人は意識しないがそうするものだ。そういうメディア的な手法とは別の何かをやっている現実があるようで、それをメディア関係者は気づいていないのだろうし、気づいていても無視しているのではないか。無視してもかまわないし何の影響もないと思っているのではないか。そこが付け入る隙なのだろうか。そうであったとしてもやっている方も気づいてない。それと気づかずにやっていることだから始末に負えないのだろうし、たぶんそこには力の結集とはまた別の何らかの力が働いているのかもしれない。あえて言うならそれは不連続な分散力とでも呼べばいいのか。一見非力に感じられるが、分散すればするほど結集が困難となり、それだけ権力が減じられるわけで、そこに権力が生じるようなひとまとまりの意志ではなくなるわけだ。誰がそれを狙っているわけではなく、自然とそうなってしまうなら、それはもはや神の見えざる手によってそうなるのか、あるいは自然の狡知と呼べばいいのか、どう呼んでもかまわないのだろうが、もしかしたらそれがそれと気づかずに誰もが望んでいることなのかもしれず、誰が望んでいないにもかかわらず、すべてがそのような結果に導かようとしているのかもしれない。無論現状では妄想の域を出ない話で、本当にそうなるかどうかなんてわかるわけもなく、不思議とそんな予感がするにすぎないのかもしれない。要するに何かの巡り合わせで気まぐれに生じた自意識が、それの到来を期待しているつもりなのだろう。もしかしたらそれもフィクションの一種かもしれない。


11月12日「言説空間の支配」

 日差しが雲に遮られ、雑音が周囲の雑音に溶け込み、大して気にならなくなってから、何かを考えようとしている。意識は物事や現象を感知できるが、それを言葉にするとどうしても単純になってしまう。実際に語っている以上には語れない。他に取り立てて何を語ろうとしているわけではないが、とにかくそれ以上の何かを語ろうとしているわけで、語ろうとしていつも事物や現象に跳ね返されてしまう。どう語ろうとしてもそれは無理なのではないか。いつもその辺で逡巡するしかなく、それ以上の進展などあり得ず、相変わらずそんなところで何か述べているようだ。何かの手前で考えているのだろう。ありふれた場所へと落ち込む手前で何とか歯止めをかけたいようだが、歯止めなどかかるはずもなく、またいつもと同じようなことを述べてしまうのだろう。でもそこまで行くのにもまた一苦労だ。やはりその手前でこうして無駄に言葉を連ねなければ、そこへも行き着けない。行き着く必要がなく、途中にとどまっている方が良心的に思われるかもしれない。いったいどこへ行き着こうとしているのか。行き着く先が定かでないが、なんらかの事物や現象について語っている現状に行きつきたいのではないか。だが今のところそれは虚構の現状で、現実には何について語っているのでもない現状があるらしい。

 世界各国の首脳がどこかの都市に集まって、会談すればそれがニュースとなり、その中身ではなく、会談したこと自体がなんらかの成果であったかのように語られ、それについての論考が解説の中で繰り広げられ、興味のある人にとってはそれが興味深く思われるのだろうか。実際には大して興味があるわけではなく、何かハプニングでも起こらない限りは、興味も持続しないだろう。それでも会談もしないで敵対しているよりはマシな程度のことで、儀礼的な意味合い以外のところで何がどうしたわけでもない。こんなことを述べていること自体が的外れなのだろうか。懸案がいくらでもあり、それは解決不能な懸案で、とりあえずその懸案について、首脳会談で話し合われているように装いたいのだろう。実際に話し合われたのではないか。話し合うことなら可能であり、話し合って解決するわけではないが、対話を継続させることが肝心で、決定的な対立に至るのを防ぐためには、とにかく定期的に会合を重ねる必要があるわけか。しかし何をわかりきったことを述べているのか。行き着く先とはそこであり、思考も言説もありふれた場所へと落ち込んでいる。わざとそうしているような気もするが、他のどこに行先が定められているわけでもなく、たぶん誰かと同じようなことを述べている現状に行き着いているのだろう。大して興味もないのにそんなことを述べていること自体が、それを証し立てているのかもしれないが、首脳会談という出来事については、そのようにしか語れないように、それに関する言説がそこで構成されているのであり、他に語れる可能性があらかじめ閉ざされているのではないか。しかし何がそう語らせているのだろうか。

 そこにその場の状況とリンクした言説空間があり、その空間内で語るとすればそうなってしまうのであり、そこを外れれば何も語れなくなってしまうような言説構成がそこで組まれているのかもしれず、そうとしか語れない現状があるらしい。そのような紋切り型的な言説を打ち破って語るのは容易ではないのだろう。というかできないのかもしれない。他に何をどのように語ろうとしているのか。そのような予定調和の展開にならなければ、それが事件となり、事件となれば事件に対応した言説となり、そこで驚くべき何かが起こったような言い回しとなるのだろうが、その驚くべき何かに驚くのも予定調和の展開だ。たぶんその驚くべき何かに驚かなかったり、逆に言説が誰も驚かないような出来事の中に驚くべき何かを見つけ出せば、その出来事も驚くべき事件に変貌するわけだ。結局どう述べてみても、前もって用意されている出来事や事件に対応した言説になるわけで、それ以外はあり得ないのではないか。この世界は驚きに満ちているかもしれないが、驚くべき事件に驚いている現象が、驚くべきことなのかどうか、それはよくわからないことかもしれない。真の驚きというものが語られることはなく、いったん語られればそれは驚きではなく、驚くべき事件という予定調和の範囲内に収まり、出来事が語りを介して虚構の中へと落ち込んでしまうわけだ。語りが人々から驚きを奪い、かりに驚いたとしても、許容の範囲内での驚きに減じられてしまうのだろう。それが良いことなのか悪いことなのかはわからない。ともかくそのような作用をもたらす言説空間の支配のもとに社会が成り立っていることは確かだ。


11月11日「現代の魔術と呪術」

 何でもないことを何でもないように語り、それが文章として記されていると、なんだかわかりやすい内容のように思われるだろうか。その何でもないことが具体的になんなのか、それを記さない限りは、わかるわけがなく、わかりやすくもないわけだが、たぶんわからないままだ。それがわからないから、わかる以前の意味不明な内容となる。実際に何を語っているのでもないらしく、何も語れない時点で言葉を記しているようだ。納得できないのはわかっている。納得させようという気がない。何も納得していないようだ。何を語ろうとしても痛みを伴わない。批判する気がないのだろう。その気が無くてもそのうち批判するのだろうが、今のところはその気がない。いったい何を批判する気になっているのか。やはりそれ以前に言葉が尽きているのではないか。語れば語るほどわからなくなり、たぶんわからなくなった時点でやめればよかったのだろうが、そのまま迷路に迷い込んでしまったらしい。いよいよありふれたことを語らなければならない。今までもそうだったのかもしれないが、これからもそうなのだろう。語っているうちに内容が虚構に近づいてゆく。ありもしないことを語り、的外れな批判を繰り返す。同じことの繰り返しだ。ロボットのように同じ内容を方々のコメント欄にコピー&ペーストしてゆく。自分をアピールしているのだが、何かが本末転倒なのだ。やっていることがまがい物であることに気づかない。すでに人として荒廃しているのだろう。それも戯れ事のうちだろうか。何かのゲームに参加しているつもりなのだろう。何でもないことを延々と語り、それがなんでもないことだとわからないまま、いつまでたってもその無為な水準にとどまろうとする。だがそれで何を批判しているつもりなのか。たぶん何かが崩壊しているのだろうが、その崩壊し形骸化している当のものが見えてこない。何もかもが形骸化しているのではないか。それが勘違いなのだ。形骸化していると同時に、形骸化しながらも持続している。ひたすらそんなことを述べているのだからそれは確かだ。だから飽きてきたからその辺でおしまいにしなければならないのか。そんなわけで何かが最終回を迎えたらしく、それを明らかにしないまま話が終わってしまったようだ。

 果たしてそれは何の話だったのか。別に削除する必要のないことか。秘密の何かがどこに埋もれているわけではなく、人知れず埋められているのは産業廃棄物のたぐいだ。確かに見つかればそれは不法投棄であり、警察沙汰になるのだろうから、秘密には違いないが、見つからなければいいことでしかなく、見て見ぬふりをしておけば面倒な事態にはならないだろう。人口が減っていって国内の産業も衰退してゆけば、不法投棄もそれだけ減るだろう。働き手が減れば、原発の建設もままならなくなる。既存の施設は寿命を迎えれば廃炉にしなければならない。結局は衰退こそが最善の道だ。たぶん現状はそちらの方向へと進んでいるのではないか。今が最後の悪あがきの最中なのだろうか。右翼には外国人排斥運動で頑張ってもらえれば、人口が増えることもない。そういうシナリオで事が進んでいるわけではないのだろうが、何事も思い通りにはいかないものだ。誰の思惑が反映された現状でもないらしい。様々な機関が錯綜しながら力を及ぼしあっていて、それらの総体としてなんらかの意志を読み取れるかもしれないが、それは読む者の幻想だろう。企業は利益を上げなければならないし、役所は予算を確保しなければならず、その線で動いているのではないか。人が関わっている組織や団体を維持継続するように力が働いている。国内の人口が減ればそれだけ売り上げも税収も減る可能性があり、組織も団体もそれだけ規模を縮小しなければならないのではないか。メディアがもてはやす職業以外は不快な仕事ばかりで、やりたくない仕事をやる気も起こらないだろうから、いやいややるような仕事がうまくいくはずもなく、そういう職種は衰退していくだろう。強制労働では能率や効率が上がるはずもない。それでは認識が甘いだろうか。何を批判しているわけではないから、甘くてもかまわないのではないか。幻想を抱けなくなれば誘惑することもできなくなる。夢がなくなれば目標もなくなるだろう。たぶん特定の誰かが権力を行使できなくなる。力を及ぼしているように見せかけているわけで、人々がそれを信じられなくなれば、力ではなくなる。それは呪術や魔術と同じようなものだ。

 世論調査が現代の魔術や呪術の役割を担っているのかもしれないが、別に人々がその恣意的な調査結果に一喜一憂しなければ、なんでもないことだろう。それは選挙結果にも言えることで、どのような結果がもたらされたところで、一喜一憂することもないのではないか。政権交代が起きようと革命が起きようと、それは目先の何かが変わるだけで、本質的なところでは何も変わらない。今行われている政治は国民の意向が反映されていると思えばいいことだ。もちろん誰が国民なのでもなく、誰もが国民であったりするわけで、国民という言葉が指し示す対象が、何を意味するわけでもなく、その地域に暮らす人々一般を指し示すのだろうが、その成員に特定の誰を当てはめようとしても、なんとなくしっくりこない。選挙に行っても行かなくてもどちらでもかまわず、それが政治参加を意味するのものなのかどうか、疑念を抱いているのなら、別に行かなくてもいいわけだ。どのような行為にも自明性はなく、それを信じられなくなれば、無理に信じようとしなくてもかまわない。それ自体が一つの行為なのだから、そう行動すればいい。行動しなくても行動となり、それでなんらかの意志を反映することになるだろう。人々が行動することでなんらかの意志を示し、それが結果に反映されるとしても、その結果が何を示すこととも思われない。それについて語ろうとすればまたそれとは違った意味合いを持ち、語ること自体が一つの行為であり、それも意思表示のたぐいかもしれないが、それをいちいち真に受けるわけにもいかないのであり、人々の意見や意志を結集させて何が行われるのでもなく、行われるのは世論の意向が反映した行為なのだろうし、その辺を勘違いしないようにしなければならず、自分が思っていることを政治家が実行したなんて思い違いしないほうがいい。たぶん多くの人がそう思わされてしまうのだろうが、それは神官の魔術や呪術によってそう思わされているのであり、現代においてその役割を担っているのがメディアなわけだ。ネットの普及によってその力が弱まっているとしても、ネットにはネット特有の魔術や呪術が含まれていて、それが人々の意向を操作しているように感じられてしまうのだろうが、特定の誰の意向でそうなっているわけではなく、誰が操作しているのでもなく、結果としてなんらかのバイアスがかかっているように思われてしまう。それが何の結果なのかが不明だが、それはそれで対処しようのない現象なのではないか。


11月10日「犠牲者の役回り」

 何にしろ信じることが肝心なのだろう。それでは宗教と同じだが、人は宗教的な心境にしかなれないようだ。他人がいくら正しいことを述べているように思えても、それに従うつもりになれないのは、その他人を信じられないからなのか。正しいことを述べているその内容に従うか否かには、正しいと思うか否かとはまた別の判断基準があるのかもしれない。正しい意見に従わないことが、必ずしも間違った判断とは思えないわけだ。無論それを正しいと思うだけで、思っている以外のところで、なんらそれに積極的な魅力を感じているわけではない。ただ正しいことを延々と主張しているに過ぎない。それは誰にでもできることで、誰でも同じ錯覚に陥りやすい態度だ。正しいことを述べていればいつかは他人もわかってくれると思い込む。そこに独善的な心境に陥る罠が潜んでいるわけだ。そうやって正しさの内に凝り固まってしまう人が後を絶たない。しかし正しいこととはなんなのだろう。たぶん何かを正しさの中に還元してしまっている。正しいことと間違っていることを区別して、間違っていると思われることを切り捨て、正しいことだけ自らの内に取り込み、間違った行為にとらわれている人たちを批難する。その批難している対象が広範囲に及ぶと多勢に無勢で、少数派の批難はいつまでたっても馬耳東風にしかならない。それだけのことなのか。そこに疑念が生じるわけだ。なぜ少数意見が正しく多数意見が間違っているのか。その理由にも少数派特有の正しい見解が示されてしまい、その正しい見解にも魅力が感じられないとすれば、いったい魅力とはなんだろう。それは人を間違った意見や行為に導く力か。だがその力に屈してもかまわないどころか、進んでその力を利用しなければ成功できないのなら、それは間違った意見でも行為でもなく、それの方が積極的に推奨される正しい意見であり、正しい行為なのではないか。世間一般ではそう思われていて、そうすることで世間的に成功している現状があるとすれば、やはり多数派を形成するのは、そういう間違った意見や行為を推奨する人たちだ。

 たぶんそれが何を意味するわけでもない。いつの時代でもそうだったのであり、これからもその傾向は変わらないのではないか。たぶん正しいことを主張する輩は納得できないだろう。人を魅惑し誘惑するのはいつも間違った意見であり行為だ。人は自分とは違うことをやっていたり、自分とは違う意見を言う者を攻撃したい。自分のやっていることを批判する輩には腹が立ち、自分のやっていることを認めようとしない者には怒りがこみ上げてくる。それで利益を上げ、そうすることで生計を立てていればなおさらだ。それをやめさせることは容易ではない。そうした人たちを否定し批難しているのだから、相手にされなくて当然だろう。やっていることが非合法なら、公的に告発すれば済むことかもしれないが、合法的な行為にそれをやるのはおかしい。並大抵なことではうまくいかないのはわかりきっている。個人の力でどうにかなるようなことでもないのだろう。無論言葉で批判を繰り返すだけならいくらでもできる。誹謗中傷で訴えられないように配慮しながらそれを繰り返していればいいわけだ。そういう範囲内に収まれば人畜無害だが、誰に気兼ねすることもなくいくらでもやれるのではないか。実際にそういう人たちがネット上にはいくらでもいるのだろう。正しい意見とはそういうことの繰り返しの中から生まれてくるのかもしれず、そういう正論の空回りの現実の中で、それらは徐々に色あせ魅力を減じていくのではないか。今日も明日も誰かが延々と同じような主張を繰り返しているわけだ。いつまでたってもそれがやむことはなく、こだまのように人から人へと反響して、少数の人たちの間で共感を呼び、同じ境遇の人たちはお互いを慰め合い、世の中に潜む巨悪に向かって何か物申している気になる。そして多数派による無視の風化作用にさられながら、勢いを失い飽きてくれば、その中から一人抜けまた一人抜けとなり、次第に孤立無援なさらしもの状態となり、そうなれば静かに反対運動もその幕をとじるわけか。そんな気の毒な結末とならなければいいが、そうなればなったで、またどこかで新たな抵抗運動が始まるのではないか。それをシニカルに嘲笑している人たちには、彼らの苦しみはわからない。世の中はそういう犠牲者たちの無為の犠牲の上に成り立っているのだろう。誰に頼まれたわけでもないのに、自ら進んで犠牲者の役割を引き受けているのだから、損な役回りには違いないなのだろうが、止むに止まれぬ行為であることは確からしい。


11月9日「ダメダメ攻撃」

 疑念が尽きない。でもそれは同じ疑念でしかない。いつも思うのだが何かが違っている。でもいつもそれがわからない。何が違っているのだろうか。原発はダメだが、太陽光発電も風力発電も自然を破壊するからダメで、ハイブリッド車も燃料電池もダメらしい。現代の機械文明そのものを否定するのが最近のエコロジストだ。なんでもダメなのは共産党と同じような気がするが、彼らに言わせれば共産党もダメらしい。共産党は市民運動の敵らしく、公安警察と共産党がグルになって市民運動をつぶそうとしているそうだ。エネファームやエコキュートや風力発電は低周波騒音を発生させるからダメで、ソーラーパネルは有害物質を含み、スマホと同じように人体に有害な電磁波を発生させ、蓄電池のたぐいも有害物質を含み、ハイブリッド車やソーラーパネルなどに欠かせないレアメタルの採掘現場では環境破壊と汚染が深刻だそうだ。電力は火力と水力で足りているから、現発と再生可能エネルギーはいらないそうだ。風力発電の風車が回れば鳥がぶつかって死ぬと批判している。また地球温暖化は嘘で、嘘を撒き散らす行政とメディアとエセ環境活動家を非難する。なんだか右翼も冗談のようになってきたが、こちらもこちらですごいことになっている。そういえば宇宙開発も資源と予算の浪費だからダメだとか言っている。たぶん彼らの思い通りにはいかないだろうが、しかも目下のところは彼らが否定している物事の方が、世間的には推進されている現状があるようだが、しかしこの全否定に近い傾向はなんなのか。興味深い現象ではあるが、それらは右翼と同じように大衆の不満のガス抜き程度のことなのだろうか。それとも何かこの先画期的な革命などが起こる前兆なのだろうか。

 彼らの主張などは無視されて、これから宇宙開発が本格化し、あと百年も経てば、月や火星に宇宙基地が建設され、多くの人が地球の外で暮らすようになる未来を思い描いてしまうのだが、これもメディアによる洗脳の影響でしかなく、いつまで経っても人類は地球の表面でうごめいている存在にすぎないのだろうか。たぶん人類が宇宙に乗り出すためには、今まで以上の科学技術文明の発達が欠かせないように思われ、それはまさに彼らが反対し否定する状況のさらなる進化を促し、例えば電磁波や低周波騒音を無害にするような技術や、核融合がそれにあたるかどうか知らないが、真の意味でクリーンエネルギーを生み出す技術が開発されたり、あるいは人間の生体機能が強化されて、有害な放射線や電磁波や低周波騒音などにも耐えられるようになれば、彼らの懸念も杞憂に終わるわけか。そうなるには彼らが反対したり批判したりを繰り返して、そのような声を社会や行政が無視できなくなれば、自然とそういう技術の開発が促され、次第に環境に優しい科学技術となって行くかもしれず、そのためにも彼らの存在が必要なのだろうか。言葉ではなんとも言えるのかもしれない。ともかく傍観者気どりでは無責任もいいところだ。

 といって具体的に何をやるわけでもなく、何ができるわけでもない。ただそんなことを想像してみるだけのようだ。現状の中で有害な放射線や電磁波や低周波騒音にさらされながら暮らしているわけだ。これからも生きられる限りは生き続けるだろう。すでになんらかの現象に巻き込まれているのだろうが、鈍感なのかあきらめているのか、何もやっていないようでいて、それでもそれに関して言葉を記しているわけで、これが精一杯の反応なのか、それとも最低限の対処なのかは知らない。どちらにしろ過渡的な現象の中で何かを考えていて、それがどんな行動に結びつくのかはわからない。何も行動しないでそのまま朽ち果ててゆくだけかもしれないが、それでも何かを考えているのだろう。それがなんだかわかっているつもりだが、自身のことになるとまるで他人事だ。わかっているから突き放してしまう。自身に対して共感を得られない。それがどういうことなのか。また無意味な問いの連鎖が始まってしまい、気づいた時には何を問うているのかわからなくなる。問う行為すらも真に受け取れず、疑念を抱くだけ抱いて、問い続けるだけ問い続け、結局どんな結論を得るにも至らず、何も成せずに現状が放置されてしまう。その何もかもを否定するわけにもいかず、かといって安全地帯にいるわけでもなく、毎日のように否定し続ける人たちの文章を読みながら、そんな感慨を抱き、ある程度は関心を持ちながらも、しかし一方では他人事を装うしかないらしい。それらの表面にだけ触れ、決して深入りすることはなく、いつまでも放っておかれる自らを自覚しつつ、その状況の中で何かを語ろうとする。それは戦略でも戦術でもなく、現状への対処でもないのだろう。今は何もかもを受け流している時期なのだろうか。もしかしたら死ぬまでそうかもしれず、それらの現象に関係する機会は永遠にやってこないのではないか。それでかまわないと思っているわけではないが、積極的に関わるつもりもないようだ。


11月8日「嘘の風船」

 誰かが社会から切り捨てられたようだ。もう用済みというわけか。また否定的な気分となりそうだ。世の中を否定するだけ、その否定作用の報いを受けているかもしれず、呪いの理由は尽きないようで、そこから逃げたければ、自分が呪われていると思い込んでおいたほうがよさそうだ。だがそれが自己防衛の現実逃避であることは承知しておかないと、戯れ以上の何かをもたらしてしまうかもしれない。そうなると危険な心理状態となるらしく、現にそんな兆しを感じ取る。本当にそこで不気味な気配を感じているとすれば、自らに嘘をついてそれを否定したいところだろう。少なくともまだ何も起こっていないはずだが、息切れにならないうちに、さっさとそこから遠ざかりたいのではないか。殺人現場に居合わせたわけではない。ただの空想で、そのたわいない思いつきが言葉の連なりをもたらしている。文章を飾り立てるには何が必要なのか。その気もないのにそんなことを述べてしまい、半ばあきれ気味になってそれを読み返しているようで、それが内省の罠だと承知しつつ、言及しているそれを脇に押しやるのは気が引け、もうしばらく付き合う成り行きとなってしまいそうだが、そろそろ息が続かなくなる。張り詰めた空気に耐えられなくなるほどのことでもなく、窓を開けて換気をはかるほどのことでもない。ではなんなのだろうか。言葉の連なりが醸し出す空虚な雰囲気に気後れしているわけか。でも語る目的で語るとすれば、そういうことになるのではないか。目的が自らの方へ向いているわけで、自閉の兆候を示している。内に向いているそれをどうにかして外へ向けないと、自閉的な語りに耐えられなくなって、自滅してしまうのではないか。自家撞着とはそんなことを言うのだろうか。そうなる前にそこから退散したいところだが、いつまでも逃げていてはらちがあかない。でも自分に向き合うばかりでは何ももたらされず、社会と向き合わなければ何も語れない。だがそれについて語るのが目的ではないわけだ。目的とは無関係に語るのが矛盾した目的か。そう述べてしまうとだんだん屁理屈になってきて、何かをごまかしているようで気がひけるが、とりあえずこれで少しは言葉が連なったようで、まったく書けば書くほど、冗談のような低徊趣味となりつつある。

 呪われていると思い込むのは人の勝手かもしれない。人の都合に合わせて呪いの種類も強弱も変わってくるだろうか。呪術師にそれが制御できるのか。それとも呪いの依頼者に見せるパフォーマンスの類か。護摩を焚くのは密教系の呪詛らしい。単に何かを供養しているようにも見えるが、それを見た者が呪詛と勘違いしているだけか。あからさまに木に藁人形を打ち付けるのならそれとわかるだろうが、火の前で何かを唱えているだけでは、門外漢には呪詛かどうかわからない。そしてそんな光景を想像するだけでは言葉が続かない。登場してくる人物の身の上話にたどり着く前に、話が途切れてしまいそうで、実際に途切れていきなり別の話になってしまう。空を飛んでいる夢は何を暗示しているのだろうか。山肌が大きくえぐり取られて崖を形作っている光景に出くわし、なぜかその崖の上から飛び立つ夢を見たようだが、それと呪いとどう結びつくのだろうか。テレビドラマで後醍醐天皇が足利尊氏でも呪っていた光景を思い出したのかもしれないが、それではますます話にならなくなってしまうのではないか。話を作るつもりがないわけで、その不可思議な印象だけを語りたいのかもしれない。空を一緒に飛んでいた人間が誰なのかも思い出せないが、何か親しい人と一緒に飛んでいたらしい。そんな印象を抱き夢から覚めて懐かしさを覚える。どうやら夢と呪いで話のつじつまを合わせるのは無理らしい。たぶん恨みを抱いて誰かを呪うのはよくある話だろうが、そこから呪いだけを単体で分離して、別の無関係な話に接ぎ木しても、うまくいかないのはわかりきったことで、気づかないところでそれをごまかして、両者を強引に結びつけようとしていたのかもしれず、そしてそれが失敗に終わり、かえってそこで隠蔽しようとしていた、誰かを恨んでいる事情でも明らかになるのだろうか。あるいはそんな根も葉もない嘘を今から捏造しようとしているのか。それも嘘なのだろう。誰がどんな思惑で語ろうとしているとも思えない。いくら思案してもうまく語れないようだ。なぜ魂胆を隠そうとしないのだろうか。いかにばれずに嘘をつくかが腕の見せ所なのに、手札が丸見えのままゲームを続けようとする。それではゲームにならないだろう。初めから負けるつもりでゲームに参加しているのか。そこまで気が回らず、気が回らないことに気づいていないのだとすれば、何かが心を蝕んでいて、それどころではないのかもしれず、だからそんな精神状態でゲームに参加するなど、身の程知らずもいいところなのだろう。しかしそもそもそれはいったい何のゲームなのか。単なる見せびらかしでしかないのだろうか。

 しかしそこで何を見せびらかしているのか。記された言葉の連なりが何かを語っているようだ。それに関することかどうかは知らない。それは語り得ないことではないらしく、現に誰もが気軽に語るようなことではないのか。フィクションの中では気軽に身の上話が語られ、不幸な生い立ちの身の上話などが興味を引くのだろう。そして世間の同情を集めて、それからどうしたいのか。そこから先はそういう話に興味を惹かれた者たちが語ればいい。実際はそこまでいかないうちに興味が尽きてしまう場合がほとんどだ。話にならないうちから勘違いな妄想を抱き、妄想に合わせて話を膨らませ、嘘の風船を膨らませ過ぎて途中で破裂してしまう。それがなんのたとえなのか不明かもしれない。不明のままでかまわないのかもしれない。きっとうまくいかない話のバリエーションなのだろう。そして妄想にとらわれた者は、すでに話が尽きているのになおも語ろうとするわけだ。だがその語り始めが、いつも決まって不幸な身の上話だとすると、聞いている方はまたかと思ってうんざりするのではないか。それ以外に語るネタがないのなら、要するにそれは世間一般的に言ってありふれた紋切り型で、お涙頂戴とまではいかないにしても、それほど興味を引くような話でもないだろうし、独りよがり以外の何物でもなく、放って置かれて当然の話をしているわけだ。ここに至ってだいぶ話がずれてきてしまったようだが、自業自得なのに何を呪ってみても、八つ当たりの対象などどこにもありはしないし、状況に対する不満は状況に吸収されるばかりで、それが跳ね返ってくることもなく、何をもたらすこともなく、ただそのまま放置されるわけだ。それでは気が済まないから人を直接の行動に駆り立てるのだろうが、その不満や怒りの持ってゆく先に何が待ち受けているかは、誰もが薄々勘付いていることであり、メディアがそれを恣意的に増幅して、都合のいいように歪め、自分たちの商売に活用しているわけだ。利用されている人の方でも、自分たちが話の主人公のように取り上げてもらえたら、悪い気はしないだろう。だがそれがこんな現状をもたらしているわけで、こんな現状が良いか悪いかは、それへの接し方で判断の分かれるところかもしれないが、こんな現状がいつまで続くのか、それとも現状が変わりつつあることに気づかないだけなのか、現実にこんな現状の中で暮らしているのでよくわからない。


11月7日「現状の現状たる所以」

 現状に飽きてしまったのだろうか。すでに先が見えてしまったのではないか。ある程度予想がついてしまったのだろう。それでも不透明な先行きがあるのだろうが、その先行きの不透明さがもたらす偶然の巡り合わせに、大して期待する気も起こらず、思い通りにはいかないのはわかりきっているだろうし、何が引き起こされる予感もしないし、このまま高確率で何も起こらなければ、予想通りの結果となるのではないか。でも具体的に何を予想しているのだろうか。要するに沈黙してしまうということか。沈黙する以前にあきらめてしまうのではないか。何を語っているとも思えないのに、語っていく先に何が待ち受けているのかわかってしまい、そんな予想が語ることを断念させてしまう。実際にこの先に何が待ち受けているのか。だからそれは自らの沈黙だろう。語ればそれだけ語ることから放射状に延びる疑念にはぐらかされ、周囲と自らの無関心に打ちのめされ、結局安易なことを語っている現状に負けて、妥協せざるを得なくなり、何も語ることがなくなれば黙るしかないのだが、それ以前にすでに語り続けていて、語っているうちに次第に何について語っているのかわからなくなり、語る対象がなくなっていることに気づき、やはり沈黙に追い込まれてしまうのだろうが、それでも語っている現状に唖然とするわけか。そうなることを想像しながら、何を語っているのでもない現状を憂い、不安に負けて語るのを断念してしまいそうになるのだが、どのように語っても言葉が尽きて、あきらめの心境に行き着くしかないのに、それが誰の心境なのかわからないふりを装い、相変わらず語っている。そんなわけでとりとめのない虚構と戯れているようで、その見せかけの抽象さにうんざりしながらも、他に何もないので、自己言及的に語ろうとしてしまう。語りたくなければ黙っていてかまわないのだが、語ることがないのに語りたがる気分は始末におえないようだ。自らの思いや心境から絶えずはみ出ながら語ろうとしてしまうらしい。そして誰がそれを語っているのでもないわけだ。ただそこに言葉が記されていて、その言葉の連なりを読み、中には反感を覚える奇特な人もいるらしい。

 これは不都合な現実ではあり得ない。意識の中では未来は予定調和の範囲内にあるらしいが、そんな未来の到来を誰が待ち望んでいるわけでもなく、それを変更したい人たちが現状の批判を繰り返す。たとえそれがたわいない批判であっても、とりあえず批判することに意義があるのだろう。現状に対する批判がなければ何も語ったことにならないわけか。たぶんそうだ。そして何も語ったことにならないような批判を繰り返して、批判している気分を味わうわけだ。何を語ってもすべては自分に戻ってくる。しかし相変わらず何も語らずにここまで来てしまったようで、どうもうまく現状を語れない。現状について語る前に偽りの自己言及へと至り、何やら心情を吐露しているように装って、それで何か語っている気でいるらしい。だがその語っている中身が何もない。現状では批判しやすい対象がいくらでもありそうなのに、それをあからさまに批判するのは躊躇してしまう。他がやっている批判を自分もその尻馬に乗って批判するのは恥ずかしいわけか。つい先日も沖縄で、間違った漢字とカタカナやひらがなを用いて、体制側の政治家を罵倒する手書きの看板が掲げられているのを、右翼が、沖縄は教育水準が低い、と物笑いのタネにしている書き込みをネット上で見かけたのだが、実際はわざと間違った漢字を使って政治家を罵倒していることに、右翼の方が気づいておらず、「奴」という漢字を「木」と「又」で書いて、「木」が違っているから、「キチガイな奴」というほどの意味で使っているらしいことに気づいて、それを指摘する書き込みをしたら、だからどうした、程度の反応しか返ってこなかった。右翼は漢字が中国から伝来した文字で、元祖右翼の本居宣長などは、漢文などを得意になって使う輩を、「漢意」(からごころ)として批判していたことを忘れているようだ。「漢意」とは中国的なものの考え方で、中国の文化に心酔し、それに感化された思想を持つことであり、それに対する「大和心」(やまとごころ)こそは大和魂(やまとだましい)であり、中国伝来の漢字が使えることを日本の国粋主義者が自慢してどうするのか、日本人なら日本で発明されたひらがなやカタカナを使えればそれでいいではないか、という反論もありそうに思われるが、もちろんひらがなもカタカナも漢字の簡略体でしかなく、結局日本独自の文字などあるわけもなく、彼らが敵対している韓国のように、漢字を捨てて自国独自のハングル文字を使っている人たちの方が、ひらがなやカタカナの多い文章を嘲笑している日本の右翼よりは、よほど国粋主義的なような気もしてくる。もちろん文字など借り物でかまわないわけで、欧米などはフェニキア文字を簡略化したギリシア・ローマ文字を、そのまま借りて使っているわけで、その辺の浅はかな知識に居直っている人たちが気の毒に思えてくるが、その程度のことにいちいち目くじら立てていること自体が、現状の現状たる所以なのだろう。


11月6日「現実の不条理」

 何かの途中でふと意味もなく考える。しかし不合理な現実が何の出現を妨げているのか。その現実は言葉の連なり以外の何を出現させようとしているのか。改めて問い直さなくてもわかりきっている。問い続ける過程で、少なくともそれ以外はないということがわかったはずだ。他に何か思い知ったことでもあるのだろうか。不合理な現実の他には何もないということだけだ。確かに現実にはこれしかないようだが、これがなんだかわからない。これとは何か。現実を認めたくないので、わかろうとしていないのだろうが、疑念を抱く理由がない。何が違っているとも思えないのに、考えている水準がそれらとは違っているわけだ。それらとはなんだろう。これもそれらも明らかにできないのは、それについて考えていないからだ。考えて結論に至ってしまえばそれでおしまいなのか。わからなくても結論には至る。たぶんそれでかまわない。一度考えれば済むことを何度繰り返し考えてみても、何度も同じ結論に至るだけのようだ。結論に至ればそれで済んでしまう。そしていつまでも屁理屈をこねているわけにはいかなくなり、またそれとは別のことを考えなければならなくなる。そして今はその別のことを考えているわけか。納得がいかないようだが、それでも自然にあやふやで意味のないそこから抜け出して、それとは別のことを考えている。そこで立ち止まって何を考えているわけではない。言葉を記してゆくと自然にそうなってしまうだけのようだ。記された意味の定かでない言葉を絶えず削ることで、疑念が繁茂する藪からかろうじて抜け出せた。この実感は貴重だろうか。しかし何を述べているのでもない。述べているつもりの内容がなんだかわからないのは辛いことだ。それでもそこから抜け出ることを優先させているようだ。死に物狂いというわけではないが、現実を不合理だと思うのには理由がある。人が考える合理性というのが現実から背離しているからだ。世界の中では絶えず出来事が起こり、人はその出来事を合理的に説明できない。ただ偶然に起こっているとしか思えない。一見無関係に起こっているそれぞれの出来事の因果関係を、合理的に説明しようとすれば、ある程度は説明できる場合もあるのだろうが、それは出来事が起こった後から、取って付けたような説明になるしかなく、いったん起こってしまった出来事の前に戻って、それが起こるのを食い止めるわけにはいかない。説明では現実に起こるのを防げないわけで、ただ起こった後から説明しようとすることしかできない。

 しかしなぜそんな当たり前のことに疑念を抱くのか。それも疑念でしかなく、銀念を抱くことに疑念を抱いているわけで、それを繰り返せば自己言及パラドックスに至るしかないような疑念だ。考えれば考えるほどとりとめがない。かなり以前からその方面ではすべてが飽和点に達しているようで、考えるだけ無駄だろう。無駄なことしか考えられないのではないか。考える前に行動しているわけで、行動することで出来事が起こるのだろう。人は行動して事件を起こす。そして取り返しのつかない結果を招くわけか。そこに至るまでの過程があり、誰もがその途上を経験している。その境遇の中で何を考えているのだろうか。またそんな疑念を抱いて自問自答を繰り返す。想像にまかせてフィクションの中で架空の誰かを登場させ、そこで何かを考えさせているようだが、そんな回りくどいことをしないで直接意識に問えばいいのではないか。なぜそんな事態に至ってしまったのか。事態に至る理由が定かでない。ではいったいどんな事態に至っているのだろうか。それを誰の想像にまかせて説明すればいいことなのか。また回りくどく何かを説明しようとしている。その説明がいつもの堂々巡りをもたらし、体験しつつある現実が不合理に思われたり、その思いがけない成り行きが不条理に思われたりすることで、疑念を抱き焦りを覚えるわけだ。そこで何を疑い何に焦っているのか。人は執拗にそれを説明しようとして、自ら繰り出した言葉につまずき、自らの不十分な説明に絡め取られて煩悶する。いつも不満を抱き、その不満をどこへも持って行きようがなく、結局自らの意識に問い続け、その限りのない問いの中で自閉してしまう。なぜそうなってしまうのだろう。それがつまずきの原因なのだろうか。どうやらそれについて語るには、またわけのわからない回り道を経ないと語れないらしい。面倒な事態だろうか。わざとそうやって遠回りしながら、語りを遅延させ、その停滞と滞留の中で、語る対象を忘れようとしているのではないか。それは語るべきことではないのかもしれない。語りようのないことなのだろうか。あからさまに語りたくないことなのではないか。できればそれとは違うことを語りたい。自分とは直接関係のない現象について無責任におもしろおかしく語りたい。それで憂さ晴らしができる算段だ。気晴らしや憂さ晴らしなら悩むこともないだろう。そのために娯楽があるわけで、それは悩まないための現実逃避の手段なのだろうが、度が過ぎてそこにのめり込んでしまうのもよくあるパターンで、そんな別の現実に絡め取られている人も数知れずか。


11月5日「SNSがもたらした社会」

 何かを語ろうとすると雑なことしか語れないことに気づく。でも何が悪いわけでもない。考えれば考えるほど物事を単純化して考える癖がつき、二項対立的な事物の捉え方に行き着くしかない。何かに反対している人たちと賛成している人たちの間で、論争が起きているように装うしかないわけだ。だが実際には論争などなく、ただお互いに一方的に主張し合っているだけだ。その一方的な主張しっぱなしに横から何か口を挟もうものなら、途端に機嫌が悪くなって怒り出す。彼らは何を見せたがっているのか。彼らの都合を反映した正論だろうか。彼らにとってはそれが正論であり、他人に押し付けるべきイデオロギーかもしれないが、他人は他人でそんなことなど馬耳東風で、何を主張されようが知ったことではない。くだらないと思えばスルーするだけだろう。いくら熱く語り執拗に自説を訴えかけようと、それがつまらないと判断されれば放って置かれる。というか発言者がメディアに登場する有名人でなければ、いかに内容に説得力を伴っていようと、誰も気にもかけないのではないか。せいぜいがいいね!ボタンを押されてそれでおしまいだ。世の中が以前と変わってきているのは、そういう方面で変わってきているのであり、誰の都合が反映されて変わったのではなく、他人の主張に対する反応の仕方が変わったのではないか。そしてそれが何を意味するものとも思えないところが、何やら巧妙なはぐらかしを伴っているわけだが、たぶん誰の思い通りではないにしても、そういった反応から世の中の変化を実感できるわけで、実質的には何がどうなっているとも思えないのだが、主張している内容と実際にやっていることが背離しない程度には、なんとか整合性を保ちたいところだ。あまりにも大げさに勇ましく主張してしまうと、たぶん引っ込みがつかなくなってしまい、そうなると講談師的な役割分担で社会的に囲い込まれ、言葉だけの人となって、それ以外では何もできない人となってしまうわけだ。ある意味でメディアに登場する有名人のような立場になれるかもしれないが、言葉だけの人というのも虚しいのではないか。

 これらの実態は何を反映しているのか。新たにそういう分野が生じたということなのか。世の中に向かって何か主張したいという願望を満たすようなアイテムが増えたわけだ。それが実社会にどの程度反映されるかよくわからないが、メディア社会の拡張機能として、誰でもどこでも何か主張できるという分野で、フェイスブックやツイッターやユーチューブなどの商売が成功したわけで、そういうアイテムを利用して、何か主張することで自己満足に浸れる人も増えたわけだ。それだけなのだろうか。それ以上の何がもたらされているわけではない。ネット上でも特定の企業による囲い込みが起こっていて、それ以外の一般メディアの場合と同じように寡占化が進み、成功した特定の企業が主催するSNSに登録していない者は無視されるしかない。そしてその中でも特定の主張ごとにジャンル分けが進み、細分化されたジャンルごとに同じような主張を共有する者たちの間で頻繁に交流や情報交換が繰り返されている一方で、ジャンルを越えた意見の横断はほとんどなく、各ジャンルごとに村落共同体的なムラ社会が形成されている現状があるのではないか。だがそれはありふれた結果であり結論で、そこに何か見落としている現象があるだろうか。特定のジャンル内で凝り固まっているコアな人はほんの一握りで、細分化された複数のジャンルにまたがって情報を共有している人たちがほとんどかもしれない。でもそれが救いとなるだろうか。別に救いを見出したいわけではないが、そんな人たちが社会的に影響力を持っているのか、それとも内輪だけのことでしかないのか、なんとも言えないところであり、仮に社会に何らかの影響を及ぼしているのだとしても、その結果がこの現状なわけで、今のこの時代に生きている人には気づかない変化が起こっているのかもしれない。ともかく新聞や雑誌など従来からある紙媒体を読んでいる人も、テレビを見ている人もいるわけで、ネットも含めてそれら全部のメディアに接している人がほとんどだろうから、影響があろうと変化が起こっていようと、その中で暮らしている人にとっては、すべては現在進行形で起こっている現象でしかなく、それを受け止めながら生きてゆくしかないわけだ。


11月4日「キャンキャン吠える犬」

 何か主張したいことがあるのは幸いだが、了見の狭い人ほどよく吠える。ツイッターを読みながらそんなたとえを思い浮かべる。現実の世の中にも当てはまるかもしれない。独りよがりでなければいいのだが、どこかに突き当たって立ち止まり、後ろを振り向けば道がない。それはなんでもないことだ。別に道を探しているわけではなかったようだ。道はどこにもない。探しているのは架空の道で、現実の道ならどこにでもあり、人が多くいる地域ではどこへ行っても道だらけだ。架空の道とはなんだろう。思考がどこかへ至ろうとしているようだが、道の上で考えているのだろうか。それが何かのたとえで、比喩としての道かもしれない。すぐに道教を連想したようだ。宗教なのだろうか。頭の中でなんだかわからないものが絡まり合っている。ごく少数の人たちが吠えながら袋小路へと誘い込まれている。それは選民思想に結びつくパターンだろうか。でもそこで選ばれる民は、特定の民族に属しているわけではないのだろう。自らが自らを選んでいるわけで、吠えながら吠えている姿にうっとりして、優越感に浸っているのではないか。ナルシシズムにとらわれているのか。それはどうかわからないが、自分たちは何かがわかっていて、わかっていない人たちが世の中の多数派を形成している。そう思い込んでいるのではないか。そんな疑念を抱かせるのだろう。2ちゃんねるの掲示板もツイッターも似たようなものだろうか。批判する人たちはどんどんそういう場所へと囲い込まれていって、同じ境遇にある者同士が隔離された檻の中で吠えあっているのだろうか。そんなはずがないと思いたいが、自己満足に結びついていることは確かで、それ以外のどんなところに結びついているのか定かでない。

 たぶん吠えていない。何かつぶやいているように装っているのでもない。別に現状のままでかまわないような気がしてくる。どこへ引きずり出されようとしているのでもなく、選ばれて檻の中へ収監されようとしているのでもない。相変わらず道はどこにもない。それでも誰かの関心を惹こうとしているのだろうか。しかし気をひくような特定の主張があるとは思えない。上手く立ち回ることもできずに、過疎地帯で何か語っているようだ。それでも何か語っている現状がある。それだけのことだろう。それ以上の何かがあるわけではない。自虐的な倒錯にふけるほどのことでもない。何もなければ何もないでかまわないわけだ。底なしの下降へ向かっているのかもしれない。限度などありはしない。その気になればそういうことだろうか。しかしそこで深淵を覗き込んで身震いすることもない。事件や事故に遭遇するとも思えない。文明のただ中になんでもない現実があるのだろう。放射線や電磁波や低周波音を浴びていようと、汚染物質に取り囲まれていようと、いくら脅されても実感が湧いてこない。たわいない日常の中で、大して抗うこともできずに朽ち果ててしまうだけのようだ。道の上を歩いている気がしない。ソファーに身を沈めて音楽を聴いているのではないか。しばらく動作が滞っていたようだが、心配しているわけではない。これから歩き始める。時が経てばそうなるだろう。今は優先されるべき事項などない。何を取り逃がしているとしても、常にそうなのだから今さら焦ってみても無駄だ。空虚以外は何も手に入らない状況なのだから、それを受け入れるしかない。受け入れているふりをしているのではないか。どうも本気で受け入れているふうでもないらしい。本気になれないのだから何を受け入れるつもりもないのではないか。いったい誰が安倍ちゃんを批判できるというのだろう。彼にやらせておく以外の選択肢はない。

 政治的に肯定できるような人材を思い浮かべられない。吠えている人たちは内ゲバを繰り返すしかないだろうし、批判を繰り返す人たちは、そのまま批判を繰り返すだけだろう。誰もそこから抜け出せないジレンマに直面しているわけだ。それは実際に政治の現場にいる人たちもそうだ。どうにかなっているように見せかけることはできるが、いつまでも演じきれるものではない。その点オバマなどは正直だから、どうにもならない事態をそのまま見せている。基本的にはそれでかまわないだろう。無理に暴力を使ってどうにかしようとすれば、自爆テロをはじめとして、果てしない暴力の応酬に至るだけのようだ。そんな有様を無責任に眺めている立場などありはせず、誰もがそこに大なり小なり関与しているわけで、ネット上で吠えている人たちにいくら脅されても、その脅しに屈してしぶしぶ何かやるわけでもなく、そうかといってそこから目を背けて、うまいことやっているわけではなく、誰もが自然とそれなりの判断を迫られていて、その判断に従って行動するつもりなのだろうし、実際に行動しているのではないか。そう思いたいところだが、実際に人々がどう行動しているかは、なんらかの結果となって現れるはずで、その結果が吠えている人の主張を反映するものであるかどうかはわからない。たぶん違っているから吠えているのだろうが、現状の制度のもとでは限界がある。制度を変えようとしても誰の思い通りに変わるわけでもなく、やっていることのほとんどは、それが試みである限りうまくいく保証はない。しかし絶えず何かが試みられていないと世の中の変化など望めず、たとえその試みのほとんどが失敗に終わろうと、中にはわずかながらうまくいくような成り行きとなるものもあるはずで、それを目指すしかないわけだ。だからそれを目指して盛んにネット上で吠えているわけか。


11月3日「読んで理解したところで」

 たぶん認識が違っているのだろう。それを言葉にすると違ってくる。たわいなことがすべてなのだ。それを否定することはできない。それを切り捨ててしまったら、修行僧のような生活となってしまう。くだらない娯楽こそが人を楽しませ、それをおもしろおかしく感じているから、なんとか生きてゆける。それがなくなったら生活は無味乾燥になってしまう。物事を単純化して正しいことを述べようとすると、結局語ることが何も無くなってしまう。感性がついて行けなくなって、もはや黙るか同じ主張を延々と繰り返すかしかない。それでもかまわず主張し続けなければならないのだろうか。そうなってしまった人もいくらでもいるわけか。自分が反対している対象に少しでも関係する対象は、すべて否定しなければならない。たぶんたわいないとかくだらないとか思っている事象の、そうではない面を捉えきれていないのだ。それがすべてではないことを感知できない。それらのおもしろさのすべてをわかることなんて無理だが、それに惹かれている人が少なからずいるということは、やはりその人たちにとってはおもしろい対象なわけで、そういう人たちを馬鹿にしたり否定したところで、彼らからすれば冗談の通じないつまらない奴でしかない。それでかまわないわけか。そこから外れるとはそういうことなのではないか。どこかが干からびている。

 何もない乾ききった大地に興味を抱けないようだ。そこへ出かけて行けば何かしら見つかるだろう。しかしそれは観光旅行のたぐいとなってしまうのではないか。金と暇さえあれば行くことはできる。要するに冒険でも探検でもないわけだ。紛争地帯へ行って命を危険にさらす気もない。でも完全に干からびないためには移動しなければならない。それもご都合的な思い込みにすぎないのかもしれないが、絶えず移動を繰り返していれば気晴らし程度の効用はありそうだ。それをシニカルな視線で眺めているわけでもない。そこでどんな狂態が演じられる可能性に期待しているとも思えない。この世界に誰もいない場所などあり得ないか。いくらでもあるのではないか。そしてそこへ行ってみたいわけでもない。ではなんなのか。何を表現したいのか。言うべきことを言わずに済まそうとしているのではないか。何も語らないということがあり得るだろうか。沈黙を破って何かしら語っていて、その語りに応えようとしているわけだ。そして返答に窮して黙ってしまう。答えようのない問いが投げかけられているわけではないが、なんとなくつまらないことを述べてしまいそうで、嫌になってしまったのかもしれない。何かを否定しようとすると、それを押しとどめようとする意識が一方に生じて、葛藤しているのだろうか。そういう表現も思い浮かぶが、どうも本気ではないようだ。悩ましいのはそんなことではなく、目的を知り得ないことから生じるとりとめのなさだろうか。うまくいかないのは初めからわかっていたことだ。

 しかし目的とは何の目的なのだろう。目的の対象となる行為がない。行為とは言葉を記す行為ではないのか。だんだん屁理屈に近づいてきたようだが、言葉を記す目的とは記された言葉の連なりを読んでもらうことだ。簡単に述べるならそういうことだ。その線で語ればいいわけだ。語りようがないわけではないらしい。答えようのない問いもありはしない。とりたてて何が問われているわけではなく、ただ言葉を記せばいいことでしかないが、その記された言葉の連なりを読んでどう思われようと、誰の知ったことでもないのかもしれず、誰かがそれを知るだけで、知り得たことが知識として記憶に蓄積される場合もあるが、すぐに忘れられてしまう場合もありうる。何十年も前に出版された書物を読むと、改めて痛感させられるのは、それが今の世の中に何をもたらしているのでもないという厳然たる現実だろうか。そこでの言葉を記す試みはなんだったのか。それを今こうして読んでいるのだから、数十年後の現在にその書物が残っている現実があるわけだ。それだけだろうか。内容がおもしろい。そんな感想しかありはしない。別に特定の書物と格闘しているわけではなく、ただ読んでいるに過ぎず、読み終わればまたその内容を忘れてしまうのだろう。また読み返すまでは忘れている。書物に記された情報を反芻する機会もない。どんな思想を開陳したいわけでもなく、それは忘れ去られた過去の思想のたぐいでしかない。別にそれを今に活かそうとしているのではない。手にあまり誰も活かし切れずに打ち捨てられた思想かもしれず、今の時代には余計な言葉遊びでしかないのかもしれない。

 ただの難解な書物でしかないわけか。しかし今の時代に必要なものとはなんなのか。何が切実に求められているとしても、果たしてそれが必要なのだろうか。それはどうでもいいようなものなのかもしれない。あと何十年か経てばどうでもいいようなものとなりそうなものを、今の時代の人々は求めているわけか。それはあと何十年か経ってみないことにはわからない。ありふれたものならいつの時代も必要とされている。欲望の対象ならなおさらそうだ。たぶんそれ以外で必要なものなどないのかもしれない。何もないわけではないだろうが、役に立たない知識の集積物としての書物などいらないか。そういう意味では来たるべき書物などあり得ず、あるとすれば功利的なハウツー本でしかないだろうか。それ以外に何か高望みのために書物を読む必要でもあるのか。たぶんそれとは違う意味で何かを求めているはずで、役に立ったり立たなかったりするのではなく、現状では知り得ないことを、書物を通して知りたいのではないか。知的探究心を満たすために人々は書物を求めている。それでかまわないなら難解な書物ほど、逆にありがたがられたりするのではないか。容易にはとっつけないような専門用語がちりばめられた内容を、難儀しながらも読破すれば、なんらかの達成感を得られるはずで、それを繰り返せば以前より少しは賢くなったように思えるのではないか。それも浅はかな魂胆だろうか。何かの冗談には違いないが、ともかく読んでいる最中にはそれが必要かどうかなんて気にしていないのであり、どんな魂胆があるわけではなく、どんな目的のために読んでいるのでもないらしい。ただそれを読んでいる。そういうことにしておきたいのだろう。読んでいるときぐらいは邪念を振り払いたいのか。


11月2日「ごまかしが通用する範囲」

 ごまかしがどこで通用しているわけでもない。そう思い込みたいわけではなく、実際に何をごまかしているとも思えないが、たぶんどこか気づかないところでごまかしているのだろう。絶え間ない技術革新がないと利益を得られない構造となっているのは、どの産業分野でも同じことか。その技術革新の中身が目新しさを装うだけのごまかしでしかないわけでもないのだろうが、どこかで何かが行き詰っているのかもしれない。手の込んだことをやっているようだが、その機構が複雑怪奇になっているだけで、用途としては何の進歩も見られず、今までとは違う何か画期的なことができるわけでもない。人は現在も十年前も百年前も同じことをやっているだけなのだろうか。人類の文明もその進化の限界に直面しているのかもしれない。例えば映像技術の進歩によってありえない幻影を見ることはできるが、現実の世界でそのあり得ないことができるわけでもない。また国家による金融操作によって株価をいくらでも上げることができるらしいが、その株式を上場している会社の業績が上がったから株価が上がっているわけではない。そしてその株式を保有している人が上がった株を売って利益を得られるだけで、持っていない人にとっては何の利益にもならない。またその得られた利益によって資産が増えるが、増えた資産を活用してできることはといえば、これまで以上に資産を増やすことでしかない。要するに資産を増やすゲームをやっているだけで、他に何かこれまでにない画期的なことをやっているわけではない。人は仕事と娯楽以外には何もやることがなく、他に何をやったらいいかわからないまま、そのうち寿命が尽きて死んでしまうのだろう。他に何かやるべきことがあるのだろうか。それはやるべきことではなく、やる必要のないことかもしれない。やらなくてもいいことをやっている現状がある。

 あるいはできないことをやろうとしているのではないか。なんだかわからないことをやっているわけだ。目的の定かでないことをやっている。たぶん定まった結果を得られないままやっているわけだ。何かしら結果を得られる見通しがたてば、それを得るためにやっているという理由が成り立つのだが、それがない以上は、何のためにやっているわけでもなく、何を求めているのでもないことになってしまうらしい。ただ何かをやっているわけだ。何かしら結果が出ればいいのだろうが、今のところは何も出ていない。暗中模索のままなのかもしれない。どこまでも不可能な状況の中で何かをやっているつもりになりたいのか。つもりではなく実際にやっているのだろう。人は夢の中で暮らしているのではなく、現実の世界で生きている。それはわかっているつもりなのだろうが、またそれもつもりであり、本当のところはなんだかわかっていない。たぶん生きる目的を見つけたいのではないか。すでに死につつある中でも目的を求めている人もいる。安易にそう考えていいのだろうか。別に目的でなくてもかまわないのであり、確実な何かを求めたい。やれることとやれないことをはっきりさせて、現時点でやれそうなことをやろうとする。それも安易な発想の延長上にあり、とにかく何かをやっていないと不安でたまらない。そのやっていることが利益に結びつかなくても、やっている間は不安を忘れていられるわけで、その何かをやることが生きる目的となってしまうのではないか。いったんそうなってしまったら止めることはできないのであり、ただひたすら死ぬまでそれをやり続けるだけの人間となってしまい、そのやっていることの是非など問うつもりもないのだろう。そしてそんなことをやっている人たちが世の中にいくらでもいて、我先にやりたいことをやり、やっている自らを正当化し、同じような人たちと競い合いながらやっているわけだから、そんな人たちに向かって良心だの理性だの隣人愛だのを説いたところで、馬耳東風なのは当然のことだろうか。いったい誰がそんなおせっかいな役回りを担っているのか。

 誰にも自分のやっていることについて一家言があり、ごもっともな自己正当化の言説を持ち合わせていて、何よりもそれをやり続けられている状況そのものが、その人の味方となり追い風となっているわけで、そんな調子に乗っている輩を簡単にどうこうできるものではない。それが個人ならまだしも、集団となって一つの目的のために邁進するようになるとなお厄介だろうか。まさかその集団が大きくなった究極の形が国家だとでも言うわけか。そうなると個人でやっている場合とはかなり趣が異なってきて、明確に何かをやっている感じではなくなってくるのではないか。それに携わっている人それぞれで思惑が違ってくるだろうし、意見が一つの目的や方向に統合できない場合もあり、それぞれの持ち場や役割を担っている各人が、てんでばらばらに行動していたら、収拾がつかなくなってしまうだろう。そうならないために官僚機構が統率をとっているわけだが、何やらその辺に付け入る隙がありそうで、国家に対して抵抗運動をしているたちは幻想を抱いてしまうのだろうが、たぶん幻想は幻想に過ぎないだろう。問題はそこにはなく、国家とは別のところにあるのではないか。では他のどこに何があるのだろうか。それが人にわかるとは思えないか。今のところはそのようだ。


11月1日「批判する動機」

 たぶんそれは冗談ではない。単純化することでしか物事について考えられず、その結果として導き出されるのが、事ある度ごとに繰り返し主張する紋切り型の見解となる。結局そうなるしかないようだ。いつの間にか型にはまったことしか主張できなくなるのはなぜなのか。頭の中の思考回路が固まるようにできているのだろうか。いったん脳神経のネットワークが出来上がると、もうそれ以上は更新できないような仕組みとなっているのか。そうだとしてもその先を模索しなければならず、絶えず考えを改めながら前進する必要がある。しかしどこへ向かって前進しているのかわからない。それに関して類推や比喩へ逃げ込んでしまうのも気がひけるようだ。ともかくよくわからないが、前進しようとしているような気になり、そのつもりで何かを模索していると思うしかない。それがなんだかわからないが考えている。何か予言したいのだろうか。その予言が思い通りになるような内容なのか。それが架空の意識の願いか。またありもしないフィクションを想像しているようだ。実現したい何かがあるのだろうが、まだそれは無意識の領域で空想しているにすぎないことらしい。それも虚構の一部となっているのだろう。そうやって無駄に記述を長引かせようとしている。限界の手前で悪あがきの最中かもしれず、どうあがいてもそこから抜け出すには至らないのだろうが、やはりあがくことしかできないようだ。そこに記述の限界があることは確かで、それが思考の限界に連動していて、焦りを生じさせているのだろう。そうやって自らの意識に問うことをやめられず、問えば問うほどモノローグの世界に引きずりこまれてゆく。どこかで歯止めが必要だろうか。無駄な逡巡に区切りをつけないと、その先へは進めない。先があればの話だが、相変わらず頭の中で想像と空想を混同しているのかもしれない。

 記しつつある言葉の連なりを途中で断ち切り、しばらく何かを夢想していたようだが、その後どうなったかわからない。誰が何を夢想していたかも思い出せなくなり、次第にそんなことはどうでもよくなってしまう。自らにたがをはめるわけにはいかないようで、意識が自然に外れてしまうのは致し方ないことだ。いったんくだらないことだと思ってしまうと、関心が離れてしまう。魂胆がわかってしまうのだろう。それは思い込みにすぎないようだが、その思い込みが思い違いだと気づかないのだから、その時点でどうしようもなくなってしまう。戻り道が閉ざされ、前進するしかなくなり、後はひたすら離れていくだけとなる。本当にそれで前進していることになるのだろうか。どこを目指しているのでもないのに、前進も何もありはしないか。どこへ向かっているわけでもないのに、とりあえず言葉を記して、何かを語っているつもりなっているわけだから、そう思いたいだけなのだろう。ただやみくもに言葉を記しているだけでは継続は不可能か。それでは嘘をついていることになってしまうのではないか。何か目的があるのだろう。言葉を記した結果として、そこに目的が生じてしまうはずだ。結果的には何かを批判するために言葉を記しているわけだ。そういうことにしておいてほしいのではないか。そこに言葉を記す理由が付いている。それでかまわないはずだ。かまうも何もすでに批判を繰り返し、繰り返しすぎて、それがありふれた紋切り型の批判となってしまい、いささかうんざりして、批判することに飽きてしまったのではないか。なぜそうなってしまうのだろうか。批判の傾向が一方的で、その語彙も貧困で、口調が決まりきっていて、単調な印象を免れないからか。なまじそれを自覚しているものだから、それで焦って、批判する必要のないことまで批判しているのではないか。そこで何と格闘しているとも思えず、たぶん批判している対象からも相手にされていないのではないか。批判していること自体が嘲笑の対象となってしまってはおしまいか。要するに独りよがりにむやみやたらと批判を繰り返している。その時点でそれは批判するだけ無駄なのではないか。もうだいぶ前から批判が無効となっているわけだ。しかし具体的に誰が何を対象にして批判を繰り返しているのだろうか。それがわかれば苦労はしない。実際には別に何を苦労しているわけでもなく、それも誰かが語るフィクションの一部でしかないのではないか。どう語ってもフィクションとなるしかない。

 そこに確固としたものがないようだ。ものがなんだかわからないだけに、具体的には何も語りようがない。この世界で何かを真剣にやっている者がいるとすれば、そこである対象に復讐心を募らせていることが、何かを真剣にやった証拠となるのだろうか。遊び半分だったらどうでもよかったはずで、真剣にやっていたからこそ、思い通りにいかなかった腹立たしさと、敗北からもたらされた惨めな思いが混ざり合って、次第に復讐心が募ってゆき、それが過剰な批判の動機に結びついているのだろうか。また誰がそんな状況に陥っているわけでもないのだろう。あくまでもフィクションの中で想像していることであり、現実の何を対象としているわけではない。これも冗談の続きなのだろうか。実際に何を盗み見ているわけでもなく、ただどこかで批判が空回りしているのをおもしろがって見ているだけか。それも芸のうちに入るようで、その空回り具合を見せて同情を買わせようとしているのか。それは不幸を売りとする商売だろうか。まだ確実に儲かる商売としてうまくいっているわけではなさそうだ。人々が楽しむ娯楽として何が足りないのか。そこでビジネスとして金を儲けるためには何が必要なのか。そうまでして金を儲けたいわけでもないのかもしれず、金儲けの段階までいってしまうと、売っている不幸が不幸でなくなってしまい、詐欺となってしまうのではないか。だから詐欺とならないうちに批判をフェードアウトさせなければならない。もとはそんな話ではなかったはずだ。さっきまで何を語っていたのだろうか。途中で要らぬごまかしが入って論点が大きくずれてしまったらしい。確かビジネスの話ではなく、ビジネスそのものを批判していたのではなかったか。金儲けを批判していたはずだ。金儲けで成り立っている社会の中で金儲けを批判していた。それは自己矛盾でしかないが、それでも金儲けを批判しようとしているわけだから、金儲けで成り立っている社会を変革しなけばならないと思っているのだろう。そこに批判の目的があり、その方法を模索していたのではなかったか。まったくご苦労なことだが、たぶんそういう目的の設定が間違っているのかもしれない。どうすればその矛盾を解消できるだろうか。いつもそこが出発点であり、そこから前進しようとしているわけだが、相変わらずそこで立ち往生しているらしい。


10月31日「世界は右翼に支配されている?」

 論理が不完全だ。だが無矛盾になるわけがない。折衷的な見解に逃げている。そうなるしかないだろう。だがその接ぎ木的な論理が違和感をもたらす。様々な思想の組み合わせに惑わされているのではないか。今はそういうことにしておこう。それでも意識はいつも無限を追い求めているようだが、一般に求められているのは保守的な単純明快さだ。反日勢力や売国奴から祖国を守り、日本独自の伝統や文化を後世に伝える。それが日本国民に課された使命だ。いちいち反論する気も起こらないか。それ以前に利益を出さなければならない。これも単純明快なことで、労働者は会社に労働力を売り、売って得た金で家族を養い、余った金は貯金しなければならない。すべてがそんな単純明快なら何の不都合もない。建前としてそんな単純明快さを肯定しておいたほうが無難なのだろう。何も考えずに付き従っているわけでもないだろうが、メディア上で保守派の論客が威勢のいいことを主張したい気持ちはわかるのではないか。単純明快さの中で生きているつもりになりたい。そんなフィクションが世間一般にどこまで信じられているのか定かでないが、とりあえず建前としてはそういうことなのだろう。建前を前面に押し出して乗り切ろうとしているのではないか。本当に乗り切ってしまえば大したことかもしれないが、安っぽい精神論がそういつまでも続くのか疑念を抱かざるを得ない。もしかしてそれは冗談なのだろうか。冗談を真に受けて踊らされていると、梯子を外され後戻りができなくなってしまうわけか。それも物事の単純化でしかないだろう。深刻な状況だと思いたくないわけだ。世の中が冗談で成り立っているなんて思えない。しかし人々が国家と資本主義に支配されている現実が厳然とある。国家と資本主義が民族主義の冗談によって突き動かされているなんて、荒唐無稽もいいところだ。

 それも偏向した思考がもたらした物語に過ぎないのか、支配の幻想などいくらでも延長可能で、人々は性に支配され遺伝子に支配され法律に支配され官僚機構に支配され、他の何に支配されているのか。何に隷属しているとしても、単純に支配の概念を弄んでいるだけでは、何を語っていることにもならない。様々な事象に支配されているという前提を受け入れた上で、そこから何を語るのか、別に何も語らなくてもかまわないのか、その辺がよくわからないところだ。そもそもが間違っているのかもしれず、まるで見当外れなことを述べている危険性もなきにしもあらずだ。例えば国家と資本教の総本山であるアメリカでは、どんな民族主義が流行っているのか。アングロサクソン系のプロテスタンティズムと、スパニッシュ系のカトリシズムのせめぎ合いとかがあるわけか。あとはアフリカ系とかイスラム系とかユダヤ系とか、華僑系やインド系や日系やコリア系とか、様々な民族が混ざり合っているのだろうが、そこでも反米勢力や売国奴から祖国を守り、アメリカ独自の伝統や文化を後世に伝えようとする人々がいるわけか。いそうな気配がありそうだが、何よりも大統領がその先頭に立っているのかもしれない。もしかして中国でも韓国でも北朝鮮でも、国家の指導者が率先して愛国的にふるまっているのかもしれない。恐ろしいことだろうか。というか当然のことか。そんな現状から世界が右翼に支配されているなんて思うのは見当違いだろうか。まるっきり冗談というわけでもないような気がするが、たぶんそうでないと国家など維持できないのではないか。そうだとすると世のほとんどの人たちが、それが冗談だと思えるようになれば、国家転覆の機会も間近に迫っているといえるだろうか。現状では冗談の域を出ない話だ。そのきっかけさえないような気がする。何から何までががっちりとタッグを組んでいて、付け入る隙さえ見出せないような状況なのではないか。やはり真の意味で本当の破滅に至らない限りは、この世界が変わることはありえないのだろうか。


10月30日「環境問題と市民運動」

 現状をいくら批判しても現状は何も変わらない。しかし批判するしかないらしい。実際に多くの人は現状を批判しまくっているが、やはりそれでも現状は変わらない。何かが少しずつ変わってきているのだろうか。現状ではわからないのではないか。とにかく変化を確実に実感するまでは、多くの賛同者を集めながら現状を批判していくだけのようだ。実際にネットで賛同者を集めながら現状を批判し続ける人たちがいるようだ。ネット以外でも現実に活動している人たちがいるようだ。そういう批判的な方面ばかりに目を向ければそう思えてくるだけかもしれない。だがそれでもかまわないだろう。そう思い込んでいるだけでも気休め程度にはなる。リアリストは過去の確実性にすべてを依拠していて、その延長上にある未来しか思い描けない。それでもかまわないのではないか。実際にそういう未来が到来しつつある。現状を批判する人たちや現状を守ろうとする人たちがいてもかまわない。実際にそういう人たちがいて、批判したり守ろうとしたりしているわけだ。威張っている人が反日や売国奴を許さないと息巻いている。確かに反日勢力や売国奴もいるのだろう。そう呼ばれている人たちにもそれなりに主張があるらしく、たぶんどんな主張があってもかまわないだろうし、その主張が気にくわない人たちが、彼らを反日だとか売国奴呼ばわりしているのだろう。勝手にそういうレッテル貼りをして、溜飲を下げたいのだろう。しかしそれらは皆予定調和の範囲内で起こっている現象だ。どうもそれらとは無関係に考えたいらしい。それらすべての次元を超えて考えなければならない。たぶん超えようとしても超えられず、何かを主張するたびにそういう次元へ引きずり降ろされてしまうだろう。人々はそういう次元で非難合戦が繰り広げられていないと納得しないのだ。煽っているメディアも納得しない。彼らにとってはそれを超える次元などありはしない。

 それを超える高次元で何が実現されるとも思えない。思えないが想像してしまうのが人の常か。あるとすればそれは、人を超えて自然が作用して変化させる現象なのではないか。台風や地震や津波や火山噴火などの自然災害が、そのはっきりした現象だろうが、それ以外でも人知れず何かがこの世界に作用しているかもしれない。その何かを人はまだつかみきれていないのだろう。一昔前のエイズや最近のエボラ出血熱なども、思いがけない疫病の流行となった。それ以外にも何かが作用している。でもその何かに期待しているわけではない。そしてその何かによって変化が引き起こされることを恐れているのでもない。人は何に立ち向かおうとしているのだろうか。神の見えざる手によって引き起こされたマネーゲームにうつつを抜かしているだけか。それでもかまわないのだ。うまく言い表せないのだが、それは少なくとも世界同時革命を目指しているわけではないらしい。それを想像するのは人の勝手であり、それとは無関係な現象で世界が変わってしまうとしても、それは予想外の出来事でしかない。何によって変わろうとそれに順応しようとするのが人の常だ。今やっていることが無駄であるとしてもかまわない。無駄に努力するしかない。それでは努力していることにはならないとしても、何かやっているしかないのだろう。下手な結論に至ってしまうよりはマシだろう。下手な結論とは諦めることなのだろうか。あるは反日勢力とか売国奴とかと内ゲバを繰り返すことか。それはわからない。あるいは太陽光発電や風力発電が環境破壊を引き起こしていると訴えることなのか。それもわからない。現代の機械文明の延長上で何かをやれば、必ず環境破壊をもたらすと警告したところで、現状の制度では企業による利益追求型のやり方しかないのだから、それを否定しても無駄なような気もしてくる。未だに原発事故による放射能汚染を警告し続ける人たちとともに、再生可能エネルギーの不要を訴え続けることが、無駄な努力だとは思わないが、企業による利益追求型とは違うやり方の成功例がない限りは、広く一般に説得力を得られないことは確実だ。現状の制度の下でそれを成功させるのは無理なのかもしれない。

 しかし何を否定しても始まらないだろう。それらの運動も肯定しなければならない。もちろんそれとともに企業による利益追求型のやり方もだ。多大な損失を出して経営に失敗したら、責任を追及されて、企業のトップや役員はやめなければならないのだから、結局それらの人々に求められているのは利益を出すことでしかない。国内の原発が止まっている以上は、その方面の企業が再生可能エネルギー分野でも利益を出そうとするのは当然の成り行きだ。別に陰謀を巡らせているのではなく、企業としては当然の行為である利益を出そうとしているわけだ。環境破壊が社会問題としてメディアによって騒がれるようになったら、それに対応する処置も巡らされるようになるだろう。メガソーラー施設には一定面積の緑地を確保することが義務付けられれば、そうせざるを得なくなるだろうし、風力発電施設からの騒音が一定の距離内で何デシベル以下に定められれば、それに対応した風車を開発しようとするのではないか。それは自動車の排ガス規制とかと同じようなことでしかない。現状を維持しようとすれば結局そんな妥協点を模索するしかないわけで、行政にそんな規制を要求するのが、これまでのその手の市民運動だったわけだ。それと今起こっていることとはどう違うのか。人のやっていることと主張は相変わらずで代わり映えのしないことか。人の浅知恵ではその程度のことしか思いつかない。それを超える何が人にできるとも思えない。これまでにやってきたことの延長上では、そんなことしかできないだろうし、それ以外には思いつけないのではないか。それを超える次元で何かが起こるとすれば、それは偶然の巡り合わせで起こるしかないわけだ。何か思いがけないところから、今後の行く末を決める画期的な発見や発明がもたらされるかもしれないが、それを今ここで予想したり予言したりすることはできないが、例えば電気製品とは違う何か別の動力源で動く製品が開発されたりするのだろうか。


10月29日「とりとめのない感覚」

 まだやるべきことをやっていないようだ。何をやるべきとも思っていないのだから、やっていなくても当然かもしれない。それとこれとは話が違うわけでもない。話ではなく記述が問題なのか。ただ言葉を記しているに過ぎない。そういう水準ではそうだ。たぶん記述の内容が気にくわないのだろう。だからしきりに修正を加えている。そのつもりで言葉を記しているのではないか。それらは書き直すための記述に過ぎず、ちゃんと仕上げないまま放置するための記述となっている。やはりそのどちらかとなるしかないのだが、どちらにしても気にくわない。何か内容の定まったことを記す以前の、試行錯誤の段階を記しているわけだ。そしてそのまま終わることもあるし、ちょっとだけまともな内容に至ることもある。しかし本格的に記すには至らず、いつもその手前で時間切れとなってしまう。今もそうなのではないか。記す必要のないどうでもいいことを記し、本当に記すべきことを記せない。それも根拠のない思い込みなのかもしれず、記すべきことなんて何もないのかもしれない。何も記さなくてもかまわないのに、わざとどうでもいいことを記している。なぜそうするしかないのか、理由などありはしない。ただ意味もなくひたすら言葉を記そうとしているだけのようだ。

 たぶんそういうことにしておきたいのだろう。本当は違うのかもしれず、何か切実な事情があってそうしているのかもしれないが、今のところは定かでない。何かを語ろうとしていたのかもしれない。語ることに意味があるとは思えない。そこに尊ぶべき価値などありはしない。ことさらに言葉を記す必要などない。そう思いたいのだろうが、思っていることとやっていることが一致するわけでもなく、一致させようとも思わない。たぶんフィクションの中の登場人物もそうなのだろう。誰がそれを実行に移そうとしているのか。すべての実行が爆弾テロとなるわけでもない。街宣車で押しかけて攻撃対象を口汚く罵っている人たちもいるはずだ。そうやってそこにむき出しになっているはずの社会の矛盾を強調したいわけだ。何か不満があるわけで、その不満をどこかにぶつけて憂さを晴らしたいのだろう。そのぶつけている対象が何であれ、不満のはけ口があるのは幸いだろう。フィクションの中でも不満のはけ口があるのだろうか。なぜそこにはけ口が必要なのか。はけ口のあるフィクションなどつまらないか。はけ口がなければ不満が爆発して大惨事でも招き、その大事件を語るのがフィクションの醍醐味だろう。現実の世界でもノンフィクションの中でそういう出来事について語られるのではないか。報道とかニュースの中でもアナウンサーや記者が緊迫感をみなぎらせて語るだろう。

 それにしても何かがぶれている。そのぶれを修正できずに暴走してしまうかもしれないが、実際に何が暴走しているわけでもなく、それは言葉の上での比喩である場合がほとんどだろうか。何かのアナロジーを喚起しようとしているのか。そこから何を類推して欲しいのか。冷却水が循環しなくって原子炉が暴走したのは数年前のことだ。炉心溶融が起こり、大惨事を招いたことになっていたはずだが、どうやらそれも大した事故ではなかったことになろうとしている。事故は確実に終息に向かっているはずか。少なくとも何十年か後には片がつくはずだ。そう願いたいものだが、今のところは不確かな見通しでしかない。それでもまだ何かがぶれているだろうか。何が言いたいわけではなく、ただ言葉を記している。シニカルに語りたいわけではないが、その傾向がなきにしもあらずだ。語って行けば自然とそうなってゆくのかもしれず、収束していく果てにあるものがそうだとしても、できればそれは避けなければならない。少なくとも避けようとするそぶりを示しておかなければならない。やはりそれも言葉の上で示されるべきことなのか。現実問題としてはどうなのだろう。言葉の連なりが現実をとらえているとは言い難いか。しかし何が現実なのだろうか。それも今となってはフィクションでしか語れないことか。現に何を語ろうとしているのだろう。この世に語り得ないことがあるとは思えない。現にこうして語っていることが語り得ることのすべてだ。身の程知らずにもそう思っているわけではないが、言葉を記していく方向が間違っていなければ、また語るための題材に突き当たるだろう。それもそう願っているだけで、確実な見通しがあるわけでもないらしい。

 途切れているのは出来事ではなく、語ろうとする意志かもしれない。特定の出来事について語ろうとする意欲が足りない。大したことではないと思う。記すべきことと記さなくてもいいことに区別があるわけではない。なんらかの段階の途中にいるのだろう。このままより高い段階へと達するとも思えないが、進化の概念を信じているわけではなく、それは変化のバリエーションでしかないのだろうし、進化だろうと退化だろうと高い段階だろうと低い段階だろうと、その変化の方向性にどんな価値も想定されていない。利益を上げれば評価されるような基準でやっていることでもなさそうだ。では何をどうすればいいのだろうか。ただ闇雲に言葉を記しているだけでは、どこへも行き着かないことは承知しているはずだが、行き着こうとする先が見当たらないのもいつものことで、誰のために何のために何をやっているとも思えないのは、やろうとする意欲を削ぐことになりかねないだろうか。そうならざる得ないとしたらそうなるしかない。目標がないということはとりとめのないことだ。どこへ突き抜けようともせずに、そのとりとめのなさの中にとどまり続け、ただひたすら言葉を記し続ける毎日を送っているとも思えないが、それも誰かが記しつつあるフィクションの一部だとすると、その登場人物である語り手は、そこで何を語ろうとしているのか。要するにそこが出発点であり、そこから何かを語ろうとしているわけだが、いくらそれを確認しても、何度再確認しても、そこから一歩も前進していないような気になり、すでにそこで出発し損なっているわけだ。そのまま何も語らずに済ませようとしている。

 何かよこしまなことを考えているわけではない。たぶん何もなしでは済ませられないだろう。現に何かを記しているはずだ。記された中で何かを語っている意識を想定できる。その想定される意識が何か思っているように装い、時には記そうとする意識から逸脱しているように見えなければならないかもしれないが、たぶん記述に逆らって考えなければならないのだろう。フィクションの中でそう考えているわけだ。記述内容がフィクションだとすれば、そういうことになりはしないか。そう思えないとすれば見解の相違だろうか。誰と誰の見解が相違しているとも思えないが、無駄に無意味に記そうとすれば、そのつもりもないのにそんな記述になってしまうかもしれない。それが自然の成り行きだとしたら、恐れるに足る現象だろうか。何を恐れているわけではないが、言説の破綻を恐れているとすれば、誰が恐れているのか知らないが、それはとっくに起きていることだ。うまく破綻なく語ろうとしているわけではないのだから、何を恐れているのでもないのだろうが、ただ言葉を記せなくなるのは避けなければならないことか。是が非でもそうならないようにしているとも思えない。すでに何を記しているわけでもないような状況となり、架空の誰かが空疎で無意味なことを延々と語っているのかもしれず、それを止められない状態が蔓延しているのだろうか。特に誰が止めようとしているのでもないのだろう。何をごり押ししようとも思わないので、黙ってそんな状態を放置し続けるしかないのかもしれない。


10月28日「ハウツー的な語りの循環」

 しかし何から遠ざかってしまったのか。今のところ記述はどこへもつながっていないようだ。別に何を読んでいるわけでもらしい。これらは読む必要のない文章だろう。逆説的にそうなのかもしれないが、現実にはそれがどうしたわけではない。文章は言葉の連なりであるだけで、それを眺めているだけで済んでしまうわけだ。別に読む必要はない。下手に読んで勘違いなことをコメントするわけにはいかないらしい。だからあえてそこには触れず、読んで参考になりました程度で構わないわけだ。あとはどうでもいいのかもしれない。世の中には読まずに済ませられる文章と、読んでも理解できない文章の二種類しかない。そのどちらを読んでも参考にはならない。ではどうすればいいのか。読んでみるしかないだろう。その先に何が待ち構えているかは、実際に読んでみないことにはわからない。そしてそんなことを述べているこれも、何かわけ知り顔の知ったかぶりの見解だと思えば、それで済んでしまうようなことだ。他に何があるわけでもなく、ただそれとは違う見解を示さなければならない。そう思ったところで何を示せるわけでもないが、とりあえず言葉を記してみないことには、そこで何を語っていることにもなりはしない。

 でも語りたいのは見解ではない。解釈でもなく説明でもない。では何なのか。改めて考えてみるとどんなことでもないことに気づく。そしてなんだかわからないままに言葉を記してみると、そこに定まった内容を読み取れず、ただあてもなく言葉が連なるにまかせ、どこへも行きついていないことを自覚する。誰が自覚しているのか。それは誰でもない架空の私か。それではなんだかわからないままだ。何かを語ろうとする意志を感じられない。ただ闇雲に言葉を記しているだけなのではないか。言葉を記すほど他に何も記し得ないことに気づき、語ろうとすればするほど語り得なくなる。いったい何を語ろうとしているのか。語る上で参考になる何かが欲しいのだろう。ただそれだけのために読もうとする。しかしそれで何を読んでいることになるのか。読むことで何かが見つかったのだろうか。たぶん何かが見つかったのだろう。それはこれから語っていくうちにわかることかもしれない。ならばそれがわかるには語らなければならないのか。しかしそれで何を語っているのか。言葉を記してゆけば、何を語っているのか知ることができる。そして語ってゆけば何を記しているかがわかる。そんなはずがないだろうか。ではどうすればわかるのか。その予定調和の循環から抜け出なければならない。

 それは改めて考えるまでもないことであり、ただ何かについて語ればいいわけで、その何かを定めなければならないわけだ。しかし語る対象がないと循環に陥ってしまう。そんな循環の中で考えている。そうなるしかないとすると、もう何も語らなくてもいいのだろうか。でも誰がそれを問いかけているわけでもないのだろう。架空の誰かに決まっていて、誰でもなければ名前も定まらず、そこからフィクションへと話が展開して行く気配も感じられない。ただ循環の中へ留まるしかないのだろうか。でもそれでは無内容のままだ。それでそれでかまわないと思うなら、そこで終わっているのだろうが、語り続けるにはそんな状況を変えなければならない。そう思うのもそうなるたびに繰り返しそう思うわけで、まだ循環の域を出ていない。ならば無理に変える必要がないのかもしれず、その域を出ないままでも語り続けられるのかもしれない。それでは同じことの繰り返しとなるしかないが、延々と同じことを語るのも語りの継続には違いない。しかしそんな形での継続は望んでいないのであり、もっと何か違うことについて語りたいのではないか。だがその違う何かが見つけられず、仕方なしに今語り得ることについて語ろうとしてしまい、その結果が同じことの繰り返しの循環を招いているのだろう。今のところはそれを超える術を導き出せないようだ。

 しかしそんな循環に終始する必要はない。どんな分野にもそれについて何か語りたい者がいくらでもいて、実際に語っている現状がある。数限りなくいろいろなことが様々に語られ、メディア上ではそんな語りが溢れかえっている。いくらそれを読んだところで、語られている以上のことはわからない。それに触発されて語ろうとすれば、それらの語りの中の一つとしての語りとなるしかなく、それらの語りの中で優劣がつけられていようと、それが多くの人の支持を集めている語りからそうでない語りまで、階層構造を形成していようと、その出来が良かろうが悪かろうが、わかりやすく語られていようとわかりにくく語られていようと、たぶんそれらがもたらしている以外の何がもたらされているわけでもないのだろう。ただそれらになんの幻想も抱けない。別にくだらないことばかりが語られているわけでもないのだろうが、現にそこにあるがままのことしか語られていないし、それ以外のことをそこから求めるわけにもいかないし、たぶんその限りでは妥当なことが語られているわけで、それらの何が間違っているわけではなく、語っている自身と語られている対象を正当化する限りで、正しいことが語られているわけだ。何が間違っているわけでもなく、間違っていないからこそ退屈なのかもしれないが、それらの退屈な語りを敬遠したところで、他に何があるわけでもない。これからも延々とそんなことが語られてゆくのだろうし、ハウツー的にそんな語りが語るための参考にされて、また新たな語り手によって同じように語られようとするわけだ。そんな無限循環から逃れる術はなさそうに思われる。


10月27日「ありがたく拝聴しているふり」

 まただいぶ遠くまで来てしまったらしい。思考が何かから影響を受けていたはずだが、なぜかそれを振り払ってしまった気もしてくる。何かとはなんだったのか。今では外部も内部も定かでないが、外部の思考とはなんだったのか。すっかりありふれた考えに染まっているのかもしれない。自分の内面がすべてであり、他者も隣人も眼中にない。独りよがりに考えているのかもしれず、他人のことなどかまっていられないのか。あるいは自分が他者になってしまったのだろうか。また妙にひねくれたことを語ろうとしているようだ。どのように語ってもありふれているように思われる。内容などあり得ないのだろう。語っているのは自分のことではなく、架空の誰かについてかもしれない。自分がそこにはいない。記された言葉の連なりの中に何が潜んでいるとも思えない。文章上を次から次へと意識が通り過ぎ、文章そのものをすり減らし、亡き者としようとしているのかもしれない。彼らは何を読んでいるのか。どんな思想に凝り固まっているのか。何を警戒しているのか。もうすでに特定の偏見に凝り固まっているかもしれないのに、これ以上なにに染まろうとしているのか。

 まがい物であることにいささかの躊躇もない。何にめぐりあえるわけでもなく、本物に巡り会う必然性を感じられず、たぶんまがい物に囲まれて生きて死ぬのだろう。この世は複製品で溢れかえっていて、それと共に暮らしているわけだ。すでに人も物も何かのコピーでしかないだろう。それでかまわないのだ。それ以上に求めるものなどありはしない。何も求めなくてもかまわない。何も求められないまま死んでしまう人もいる。餓死してしまうわけだ。精神の餓死というものあり得るだろうか。精神そのものが想像の産物でしかないわけだから、なくてもいくらでも代替えが利くのかもしれない。記された言葉の連なりからもそれが生じてしまう。シニカルにねじれて腐ってしまった人たちにもそれなりの精神が宿っている。分相応なことなのかもしれず、皮肉なことを語りながら逆説的な言い回しの虜となるのは、そのように振る舞える環境があるからか。舞っているのではなく、地べたに這いつくばって斜め前方を見上げ、権力者を睨みつけているつもりでいるのだろうが、その姿はいつも醜く哀れみを誘う。

 人は愚かなままではいられないようだが、賢くなろうとしても、愚かなまま賢くなるしかないのかもしれず、愚かさと賢さが同居している結果がもたらされ、愚かさを減じることにはならない。愚かなままでも生きていられ、愚かな人に見合った事物がこの世界にはある。まがい物には人を惹きつける魅力があり、本物には人を遠ざける真理が宿っている。有無を言わせぬ真実を目の前にすると、人は目を背けるしかなく、敬遠してまがい物と戯れる方を好む。しかし誰がそんなありふれた物言いに惑わされるのか。何を求めているのでもない以上は、それがまがい物だろうと本物だろうと、どちらでもかまわないのではないか。何を求めているわけでもないという嘘とともに、何かを求めているのだとしたら、その求めているものが手に入ったら、その嘘が明らかとなり、自分の意思の矛盾も明らかとなり、その場で人はどうなってしまうのか。たぶんどうにもならない。求めていたものが手に入って喜ぶだけで、嘘をついていたことなど忘れてしまうだろう。手に入るならそれがまがい物であってもかまわない。本物は手に余るし、普通の人間では手に負えない。だから妥協すべきなのか。何に妥協しているとも思えないし、それに気づいていないわけだ。

 実質的には何を手に入れようとしているのでもない。それが嘘であってもかまわないのだが、嘘をつく必要もないのではないか。求めているのは幻想でも幻影でもないらしい。息苦しくなっているのでもないらしい。それが思想だとは思えない。否定するしかないわけだ。捉えられないものは否定するしかない。手に入らないのだから仕方がない。何も無い荒地の中で安住してしまったのだろう。今さら何にこだわる必要もないわけだ。そうなってしまったらもう怖いもの知らずか。誰がそうなっているわけでもなく、またフィクションの中で語っている。しかしレトリックとは何か。それがどんなごまかしをもたらしているのか。たぶんごまかしのただ中で語るしかない。実際に語っているのは誰でもないが、そこに誰かがいるように装い、何かを語っているように見せかけるわけだ。そしてそれ以上の何かをもたらさなければならず、要するに語っているように見せかけることで、他人の気を惹きつけたいのだろう。それがフィクションの本質だろうか。そして架空の語り手は常にそこから外れることを願って止まず、できれば語らずに済ませたいわけだ。沈黙の支配に屈していたいのかもしれず、何も語らずに黙ってそこで繰り広げられる光景を眺めていたいのかもしれない。自ら手を下すことなどあり得ない。

 手を下さなくても、勝手に向こうが狂態を演じてくれるのではないか。そこで踊っているのは誰でもなく、誰かの影が踊っているように見えるだけで、犯罪者になろうとしているわけではないのだから、直接手を下す立場にはない。この世がまがい物で溢れかえっているとしても、それと戯れる必要がなければ無視してもかまわないわけだ。何を攻撃するつもりもないのに嘲笑する対象を探すこともない。映画も小説もまがい物から生まれてきたジャンルだ。今さらそれらの正当性を主張するのはおかしい。それが現代の神話だとしても、たぶんそれらと無関係に語ってもかまわないのではないか。まだすべてが汲み尽くされているわけでもないそれらのジャンルが、死滅に直面しているのを、黙って見過ごしてしまうのが、それに接する上での正しい態度かもしれない。何かの危機が叫ばれるのは毎度おなじみのことで、それを受け流しながら発展してきた何かがあるわけで、その何かについて語りたいのだろうから、語っているそれに耳を傾け、ありがたく拝聴しているふりを装えばいいのであって、真に受ける必要などなく、常にそれとは違う何かを求めていればいいのだろう。


10月26日「すべてとは何か」

 別にイカれた感性の持ち主でもないらしい。やっていることの何が矛盾しているわけでもない。行為と思考の矛盾に気づかないのだろう。では今は何を読んでいるのか。自ら記した言葉の連なりを読み、そこに新たに言葉を付け足している。否定が無効となっているようだ。その行為を肯定しなければ何も始まらないだろう。言葉を記していることを否定するわけにはいかないらしい。否定しつつ肯定しようとしているのではないか。それが矛盾だろうか。でもそんな矛盾とは関係なく、それでも静かに時が流れ、いずれどこかへ行き着いてしまう。そう願っているのかもしれないが、今のところはどこへも行き着いていない。それも勝手な思い込みだろうか。それが嘘か真かどちらでもかまわないような成り行きの中で生きているようだ。要するに何がどうなろうと、どのような成り行きになろうと、持ち前のありふれた感性を駆使して語ろうとしている。いったいそこで何を気にしているのだろうか。語るのが嫌になってきたので、わざとデタラメに語ろうとしているらしい。でもある程度語ってしまえば気が済んでしまうのだろうし、気が済んだらまた思い直して、まともに語ろうとするわけだ。それで新たに言葉を付け足しながら、記した文章に修正を加えているわけだ。そんなことの繰り返しとなるしかないようだ。それだけで終わってしまうのだろうか。何が終わるというのか。何かが終わりまた何かが始まる。それもうんざりするほど続く繰り返しの一部だろうか。何に過ぎないとしても、いつまでもそんなことに終始しているわけだ。何をやっても不発に終わっているのではないか。結果が見えているのであり、しらけているのかもしれない。そしてこれからどうなってしまうのだろう。たぶんどうにかなってしまうのではないか。少なくとも毎度お馴染みの結果を期待しているわけではない。だがやっていることが同じことの繰り返しだとすると、そうなってしまってもたいして困らないのではないか。予想通りの結末にうんざりするでもなく、かえって安心してしまうのだろう。つまらない退屈な日常の延長上に予想通りの結末が待ち受けている。それでかまわないはずだ。今となっては何を期待していたのかさえ思い出せない。それが嘘だと思うなら、何か新しい言説でも構成してみなければならない。これまでにないような語り方でも示さなければならなくなる。

 たぶん嘘なのだろう。何を語ろうとしているわけでもないに語れるわけがない。何も語れないことを認めようとしない。頑なに終わりを拒んでいるようだ。何も語れないことに気づいてしまったのだろうか。それに気づく手前で引き返してしまったのではないか。気づかないようにしているのだろう。すべてが同じことの繰り返しであることに気づきたくないのだ。しかしすべてとは何なのか。何がすべてなのだろうか。人はまだこの世のすべてを体験していないから、すべてのすべてを知り得ない。すべてを知ることを阻んでいるのは時間だ。人は限られた時間内でしか生きられないから、すべてを知ることはできない。限られた範囲内でしか活動できないから、すべてを知ることはできない。だからなんとか正気を保っていられるのだろうか。すべてを知ってしまったら、もう何もやる必要がなくなってしまうか。だからすべてを知り得ないことは幸いだろうか。それを知ろうと努力している間は暇つぶしになる。それを暇つぶしだと気づかなければなおのこと幸いか。しかしそれの何が暇つぶしなのか。暇つぶしには否定的な意味合いがあるのだろうか。暇つぶしを積極的に肯定するわけにはいかないか。やはりそこから利益を得たいのだろうか。何かをやってそこから利益を出せば、それは暇つぶしではなく仕事となるのではないか。暇つぶしと仕事とどちらが価値があるだろうか。それはその場の状況にもよるのではないか。利益を得たいなら仕事の方が価値があるだろうし、何もかもにうんざりしていれば、暇をつぶして気晴らしでもやっていた方がいいのかもしれない。だが人は状況を選べない。ただそれを体験するだけで、そう都合よく利益を得られるわけでもなく、何もやることがないのに暇つぶしを強いられることもある。現実はフィクションとは違うし、都合よくフィクションの世界を構成することもままならない。漫画では不器用な主人公の敵役として、すべてを兼ね備えた万能の天才が出現してしまうのだが、そういうありふれた二項対立を強いられてしまうのも、その手の物語の限界だろうか。そこから主人公のがんばりが始まって、敵役の天才と対立しつつも競い合い、数々の試練を乗り越えて行くうちに、いつしか友情も芽生え、周りの人たちの温かい視線に見守られながら、立派な人間へとたくましく成長していくのもよくあるパターンで、そうやって人が感動する紋切り型が形成され、それを読む者を安心させるわけだが、果たしてそれが物語のすべてなのだろうか。

 それがすべてでないとすると、他に何があるというのか。何かがあるに決まっているだろう。すべては知り得ないので、何かがあると思っておいたほうがいい。そこに知り得ないことのすべてがあるとは思えないが、人をそこに引き込む何かがあるのだろう。人はどこに引き込まれようとしているのか。現実のこの世界に引き込まれようとしていて、すでに引き込まれているのに、まだその奥底まで引き込まれようとしている。どこまで引き込まれても限りがなく、すべてを知ろうとすればきりがない。知ろうと試みても知り得ないこと必ずがある。それは何だろう。それがすべてなのではないか。そうなるとまたいつもの循環論だ。それでは何も語ったことにもならない。ではそれがここでの話の限界なのだろうか。実際には際限がないところまではいかず、そのはるか手前で引き返してしまう。そこでいくら逡巡しているとしても、それは偽りの堂々巡りなのではないか。そうならないようにするにはどうしたらいいのか。世界のもっと奥深くにまで引き込まれなければならないか。本気でそう思っているわけではない。意識が触れているのは世界の表面でしかなく、語っていることに具体性がない。ただ抽象的に深いだの何だのと語るばかりで、いくら奥深く引き込まれているように装ってみても、その対象が一向に見えてこない。言葉で説明している以外では、誰が底なし沼の中に沈み込もうとしているわけではなく、意識がそんな光景を想像するばかりで、そこで事物の具体性をまとえないまま言説が空転してしまう。とりとめのないことを語っているのだろうか。そう思い込むのが逃げ道なのかもしれないが、まだ引き返すタイミングではないのだろう。引き返そうにも言葉が足りず、もうしばらく語っていないと、言説が空疎なままとなってしまう。結局はそういうことでしかないのだろうか。そこで何をつかみかけているわけでもなく、特定の誰から攻撃を受けているわけでもない。相変わらず語り得ないことを語っているに過ぎず、語る対象が定まらないまま、何か別の対象へと逃げようとしているのではないか。それが物語なのだろうか。その中でありふれたことを語り、ありふれた範囲内で述べ、ありふれた結論へと至る。それがすべてだとは思えないが、引き込まれていく先に待ち受けているのがそれだとすると、それを避けるにはどうしたらいいのか。どうやらまたその辺で言葉が循環しているようだ。すべてを語り尽くせないのはわかりきっているが、そのはるか手前で語り終えてしまうのは、今やそれらの言説の欠陥となっているのかもしれない。


10月25日「十年一昔」

 たぶん相変わらず同じことしか述べていないだろう。未来について何が語れるわけでもなさそうだ。想像力が貧困なのだろうか。過去についてならいくらでも語れるだろうか。調べれば情報が無限にありそうだが、たぶんこれも同じことしか語れないだろう。もう言葉が尽きているのかもしれない。誰もが同じようなことを語っている現実がありそうだ。しかし新たな出来事が毎日のように起こっている。それについて自分の定まった思考に照らし合わせて語っているわけか。皮肉交じりに嘲笑しながら批判を繰り返す人たちがいるわけだ。それも同じことの繰り返しの部類に入るかもしれない。ではいったいどう語ればいいのだろう。それがだめなわけでもない。その方がおもしろいのではないか。しかし何を嘲笑したらいいのか。現状では何も馬鹿にできない。知らない間に何も無くなってしまったらしい。やはり言葉が尽きている。簡単に語り尽くしてしまったわけでもないのだろうが、狭い範囲での貧困な語彙しか持ち合わせていないようだ。それ以外には何もない。それがなくなってしまったら、もう黙るしかないわけか。しかし黙るということはどういうことなのか。言葉を記している間は黙っているはずだ。黙っていなくてもかまわないが、実際に何かしゃべっているわけではない。言葉を記そうとすれば、自然と連なってしまい。それを読めばその中で誰かが何かを語っているわけだから、黙っているわけではない。それでかまわないならそういうことになりそうだ。現実に何かを語っているらしい。たぶん自問自答のモノローグとなっているのだろうが、そこから記された文章上では黙っていないのだから、まだ言葉が尽きていないということだろうか。要するに過去でも未来でもなく、語っている現在があるということか。そう考えればそういうことになりそうだ。何か定まった思考の型にはめて語ろうとするから、自然と窮屈になり、語りの貧困化を招いてしまっていたのかもしれない。それは反省すべきことなのか。たぶんバランスの問題なのだろう。ある程度は型にはめて語らないと、何でもとりとめもなく語ってしまいかねないので、それでかまわないならいいのかもしれないが、それでは何について語っているのかわからなくなってしまうと思うなら、少しは語る方向性を定めて語ったほうがいいのだろう。

 しかし今はそんなことも言っていられなそうなので、とりとめもなく語るしかなさそうだ。現に語る対象が定まらないまま語っているらしい。自己言及の繰り返しでもかまわないのではないか。実際にそうなっているのかもしれず、他に語ることがなければそうなってしまうのだろう。他の何かについて語るには、偶然の巡り合わせによってその何かに遭遇するしかなさそうだ。その何かが興味を惹く何かだったら、それについて語る気になるのではないか。興味のない物事にしか巡り会えなければ、それについては語れないだろう。しかし何に興味を持てるのだろう。それは実際に巡り合ってみなければわからないことか。そういう水準で考えるならそういうことにしかならず、他の水準で考えてみれば、また違ったことになるだろうか。他の水準とは何か。それは今語らなければならないことを模索することになるだろうか。今何について語らなければならないのか。例えば時の政権を嘲笑することが必要か。政治に興味を持てるだろうか。誰が興味を持っているというのか。少なくともそれは君ではなさそうだ。嘲笑したところで何が変わるとも思えない。何の効果も期待できなければ嘲笑したところで無駄だ。では他にどうしたらいいのだろう。ニュースでも見て考えるべきか。それこそがお笑い種か。そこで何が起こっているわけでもなく、ただ出来事について語る言葉が連なっている。それを見る人々に、今世界で起こっている出来事に関心を持てと呼びかけている。でも世界にはニュースにならない出来事もありそうだ。というかそれがほとんどだろう。それらの出来事についても、そに関心を持った者によって語られているだろう。関心を持たれなければ語られない。語られない出来事は意識されず、それが起こったことも記憶にとどめられず、知り得ない出来事となりそうだ。知らなくてもかまわないわけでもないだろうが、知らない出来事については語れない。結局その出来事に遭遇した者が語るしかないが、興味がなければ語らないし、語るのに必要な言葉を持ち合わせていなければ語れない。語ったとしてもそれが何になるわけでもなく、その語りを聞く者がいなければ意味のないことだ。そして聞く者がいたとしても、興味を惹かなければ忘れられ、それは誰にとってもどうでもいいような出来事としか見なされない。

 実際に何か重大な出来事が起こっているのだろうか。福島の原発事故現場からの放射能流出は収まる気配がないらしく、一部のエコロジストが盛んに騒ぎ立てているようだが、一般の人々には関心が薄れているらしく、地下水から高濃度の放射性セシウムが検出されることはもはや日常茶飯事で、それが基準値の何万倍の濃度だろうと、そんなことはどうでもいいように思われてしまう。これから何十年もそんなことが続くのかもしれず、現実に重大で危機的な惨事なのだろうが、それも慣れてしまえば日常の一部でしかなくなり、放射線を浴びて癌になる人が少しは増えるとしても、大して気にもとめられないのだろう。ある出来事が世の中を変えることは確かなのだが、変わったところでそこに住んでいる人たちにとっては感じ方も千差万別で、それによって生活や生き方が劇的に変わった人がいる一方で、何も変わらない人もいて、変わったことすら意識できない人がほとんどなのかもしれず、そんな無自覚な人々にとっては、世の中の変化などどうでもいいことになってしまい、ただその変化に順応するだけのことで、変化の意義や意味など改めて考えてみるまでもないことになりそうだ。所詮は突発的な事故や事件など、世の中にその程度の効果しか及ぼさないのかもしれない。でもそれ以外にどんな効果があるというのか。例えば何か特定の発明や発見がその後の世界に重大な変化をもたらした事例はないか。それは何十年あるいは何百年後に過去を振り返ってそう思うことで、例えばコロンブスの新大陸到達なども、その当時の人々にとってはさして重大な関心事ではなかったのかもしれない。そういえば十年一昔ということわざもあるが、以前はマイクロソフトのビル・ゲイツが時代の変革者のように言われたこともあったが、今ではすっかりアップルのスティーブ・ジョブズがそのような役回りとしてもてはやされ、またフェイスブックのザッカーバーグとか言う人物も新たな変革者のように言われるが、それもあと何十年あるいは何百年か経ってみれば、そういうIT時代の立役者みたいな人物たちの評価も様変わりしているかもしれない。発明のエジソンだとか自動車のフォードだとか、そういう人たちに連なる人物なのかどうか、その時になってみないことにはなんとも言えず、案外忘れ去られていたりするかもしれない。意外とパソコンを作ったスティーブ・ウォズニアックあたりが彼らより有名になっていたりするかもしれない。福島の原発事故にしても、何十年後かには、それが時代の転換点であったかのように言われるかもしれないが、数年後の今現在生きている人たちにとっては、もはや過去の出来事として、関心を失いつつあるのようだ。


10月24日「未来の可能性」

 未来が閉じているとは思えない。過去も閉じていない。人はほんの一瞬の時間経過の中で生きている。百年前と今とでは明らかに何かが違う。過去の歴史を美化しようとすると、その変化を見落としてしまう。実際には何が行き詰っているわけでもないらしい。美化しようとする思考が行き詰っているのであり、閉じた過去を閉じた未来に当てはめようとするのが物語の限界だろうか。それは過去の焼き直しであり、思惑を外れた変化を拒否する態度だ。その態度は過去にも未来にも閉じていて、変化の可能性も発展性もない。何か固定した価値観に凝り固まっている。現実には時間の経過とともに絶えず状況が変化しているのだから、それはフィクションに違いない。過去から得た固定観念を自らの主張の拠り所とし、世の中が変わっても頑なにそれを保持しながら、現状を解釈する上での判断基準にして、あるべき姿としてそれを提示し、自らの価値観を反映させた社会を未来に実現させようとする。そうやって過去を偏見に基づいた固定観念で閉じ、未来にもそれを当てはめて閉じようとする。要するに過去にも未来にも社会を行き詰まらせてしまうわけだ。実際に行き詰まらせるのではなく、自らの思考と想像の中で行き詰まらせ、自らの意識をその固定観念の下で安住させたいのだ。世の中の多数派がそんな価値観にとらわれるなら、そんな社会が実現するだろうか。一時的にはそういう方向へと進むかもしれないが、それが永続することはない。人の思惑通りに行くような世界ではないことは、これまでの人類の歴史が物語っている。長い目で見ればそれは砂上の楼閣のようなもので、現状でもすでに国家も行政も議会も経済も、その制度の形骸化が進みつつあり、所によってはほとんどまともに機能していない部門もあるのではないか。だからこそ彼らは危機感を抱き、躍起となってそれらの保守的な価値観を社会に浸透させ、状況を立て直したいのだろう。だがそんな不安を抱いていることこそが、すでに社会の変化に影響を受けているのであり、彼らになりにそれに抗っているつもりなのだろうが、限定された固定観念では無限の世界には通用しないだろう。

 閉じた社会は開かれた世界の一部を構成するにすぎず、いくら頑なに閉じようとしても、絶えず外部からの侵入にさらされ、しかも外部と接触していないと維持できない。それ自体が空想の産物でしかないわけで、実際は閉じていないのに、閉じているように見せかけようとして、その矛盾にひたすら耐え続けなければならず、無論耐えているのは固定観念を保持しようとする意識だけで、変化し続ける状況から目を背けているにすぎない。変化し続けているのを実感しているからこそ、固定観念を社会に浸透させることで、その変化を制御して、あわよくば止めようとしているのではないか。思惑通りのいかない状況を思惑通りにいくようにしたいわけだが、そのための方策が政治と行政とメディアを利用した宣伝と利益誘導とごり押しと押し付けとなるわけか。それもこれまで通りのやり方なのだろうが、そんなことを絶えずやってきた結果が現状をもたらしているわけで、やはり現状こそが、絶えず人々がそこに何らかのやり方で関係し介入してきた結果であり、そんな現状の中で生きているわけだが、社会に生じている不具合や不合理には異議を唱えなければならないし、不快なゴリ押しや押し付けには反発するしかない。そして人々の間に格差をもたらすルールを変えて行かなければならないのだろう。だがそんなことはわかりきったことで、わかりきっているのにもかかわらず、どうすればそれを実行できるのかについては、決まり切ったやり方はなく、その場その場で新たにやり方を模索しながら、対処していくことしかできない現状なのも承知しているわけで、固定観念に縛られた思考や対処法ではうまくいかないのもわかりきっている。結局そこに従来の価値観に凝り固まっていては対処できない未来の開かれた可能性が想像されるわけだ。


10月23日「市民活動家の未来」

 また非常識な見解が示されてしまったらしい。たぶんどうでもいいような結論だ。どのように語ってもひねくれてしまうのではないか。普通に語るわけにはいかないらしく、事実をねじ曲げて語ろうとする。そんなふうに感じられてしまうのはなぜだろう。うがった見方や考え方を披露したいのか。それも結果的にそう思われてしまう。それを超える何かがあるわけではない。たぶん他には何もない。至って常識の範囲で考えているのだろう。そこで何が完成されているわけではない。何も完結していない。ただ未来の時間があり、そこに続いている現状がある。そのまま放っておけば時が経ち、自身と周囲の状況が変化する。変化を感じ取れなければ、世の中があまり変わっていないと見なしてよさそうだが、その時は自身の見方や考え方もあまり変わっていないのだろう。何もないのにそう簡単に変わるわけがない。何かがあっても変わらないのだから、かたくなにこだわりを守っているのかもしれず、ちょっとやそっとでは揺るぎようがないのだろう。それが周囲に向かって不快さを漂わせ、偏屈な性分だと思われているのではないか。しかしそれは誰のことなのか。フィクションの中の登場人物だろうか。たぶん誰でもない誰かについて想像しているのだ。誰がそこにいるわけでもなく、言説が定まった現実を捉えているのでもない。また語り手があやふやなことを述べているらしい。定まった語り手さえいないのかもしれない。語ろうとする事象から距離をとる。それを語れないのではなく、語ると事物に対するありふれた態度を表明してしまう。反対なのか賛成なのか、そんなことを語ってみたところで、態度表明以外の何を語っていることにもならない。それ以外を語りたいのに、そこにからめ取られてしまうのはなぜだろう。そんな物事の単純化に抗して語るのには、やはりそこから少し離れて考えなければならない。

 ところで何を語るつもりでいるのか。その抗っている当の事象とは何か。たぶん彼らは何かに凝り固まっている。疑心暗鬼に陥っているのではないか。しかし凝り固まらせているそれが何でもないわけがない。それとは何か。それは自然に作用を及ぼしている人間活動だ。そしてさらにその人間活動が他の人間を不快にさせている。しかもその不快さとともに利益をもたらしている。だからそれらの人間活動がやむことはない。利益が出ているのにやめるわけにはいかないのだ。利益が出ている限りは続けられるだろう。やっていることが合法的なら簡単にやめさせることはできない。結局は不快をもたらしている対象との争いに発展するわけだ。世の中で起こっているのはそんなことばかりなのだろうか。争いが熾烈さを増すと、それを不快に感じている人たちは不快さの中に閉じこもり、そこで否定的な感情で凝り固まるしかなく、解消されない不快さとともに態度を硬化させ、不快な対象に抱く憎悪とともに復讐心をたぎらせるしかない。そんな人たちの口調や語り方は頑なな否定性で貫かれていて、取りつく島もない。そうなってしまったらおしまいだろうか。不快をもたらしている対象を取り除くことが叶わないまま、その対象にひたすら罵詈雑言を吐きかけることしかできない。滅びゆく少数派の末路とは決まってそういうものだろうか。現状ではどうすることもできない。そんな終わりのない抵抗運動には悲壮感すら漂っているようだ。

 それでも人は抗い続けるのだろう。目標は無限の彼方にあり、そこにたどり着くことはできないし、あまりにも遠すぎてはっきりとは見えず、何が目標なのか定かではないのだろうが、とにかく現状に逆らわなければならない。そんな気がしてしまうらしいが、本当に信じているのだろうか。いったい何を信じているのか。目標があるとは思えないが、そこに何かがあると信じているのではないか。信じていないと心が折れ、それに対する抵抗を断念するしかない。だからひたすら信じることでいつしか活動は宗教となり、少数の賛同者とともにカルト教団のような体裁となってしまう場合もありそうだ。中にはそうなることで生き残りを図る人たちもいるのではないか。そうならないようにするためにはどうしたらいいのか。方法など思いつくわけもなく、結局は不快をもたらしている当の対象をなんとかしなければならない。一般的なやり方としては、世の中のルールや仕組みを変えるために、政治に訴えかけるのが常套手段だろうが、政治にも限界があり、そこでは多数派の利益が優先され、それが不快をもたらしている原因と結びついているとすれば、解決のための有効な手段とはならないだろう。現実には被害を訴えて司法の場で争ったり、市民運動を盛り上げて政治家の賛同を得たりしながら、そんな活動をやっている現状があるわけだが、今のところは粘り強く地道にそんなことやり続けていくぐらいしか方法はなさそうだ。


10月22日「妥協こそが成功」

 当たり前の常識を疑うのはおかしい。それを疑うことが非常識に思われるからだ。それでも疑わざるを得ないと思うのなら、疑うしかないだろう。疑うとしたら常識を疑うしかない。一見常識に思われることは疑ってみるのが筋だろう。その常識のうちに安住できないのは、常識が覆るのを期待していることの表れかもしれない。常識とはなんだろう。それに関して語る対象があるわけではない。一般的にそう思われているに過ぎない。何かありえない突拍子もないことを考えているわけでもない。それが常識であるか非常識であるかは、その対象を実際に考えてみるまではわからないことで、考える対象が定まっていない段階では何も判断しようがない。いったい何が常識だと思っているのだろう。それともただ闇雲に非常識な思考を求めているだけか。どうも考える対象へと至れないようだ。常識的なことも非常識なことも思いつけない。思いつこうしていないのかもしれない。取り立てて何か考える必要があるとも思えない。何も考えなくても済むのなら世話がないわけで、考える対象がないに疑おうとしているのは非常識だろうか。疑いそのものがそれだけで単独にあるとも思えず、何か思考の対象があって初めてそれについて疑ってみるのであり、何もないのに疑うことなどありない。いったい何を疑っているのか。その対象を思いつくまでは、疑っていることそのものを疑ってみるしかないだろうか。

 疑うつもりもないのに疑っているふりを装いたいのか。何かを疑うことに魅力を感じているのだろうか。疑う対象ではなく、疑う行為そのものに惹きつけられているのではないか。何かを疑ってみたいのかもしれない。しかし何を疑えばいいのか。にわかには何も思いつかない。さっきから疑う対象を求めている。疑っている自らを誰かが眺めている光景を思い描くが、誰かとは誰か。自らが自らを眺めているとしたら、それはそんな光景を想像しているわけだ。疑うことで問いが成り立ち、答えを求める行為が考えることだとすれば、答えの出ない思考は無意味な逡巡を繰り返すだけだろうか。常識の範囲内にとどまり、そこで安住できるものなら、人は喜んで常識を受け入れるだろう。物事を非常識な水準で考えるのは、ある種の冒険なのかもしれない。それが外部に表面化したら、場合によっては正気を疑われかねない。気が狂っていると思われるようなことを語ってしまうと、対外的な信用をなくす危険性がある。だから自らの保身のためには、あえて常識的なことしか表明しないのが、戦略的には正しい身の処し方か。常識人として振舞っている限りは、身の安全が保障されるのが世の中の常識だろうか。突飛な行動や言動に及んで、何かヤバい人間だと思われてしまってはまずいわけだ。そういうところをついて攻撃を仕掛けてくる輩もいるだろう。出る杭は打たれるわけで、擬態をまとって社会の常識的な風景の中に溶け込んでいる必要がありそうだ。しかし何のためにそうしているのか。何のためでもなく、他人からおかしな眼差しで見られないためにやっていることでしかないか。

 それでも世の常識を覆したら、青色LEDを発明した人みたいに、世間の脚光を浴びてノーベル賞でも貰えるわけか。中にはそういう人もいるのだろうが、それをあからさまに目指すのはおかしい。発明することが目的の発明家はどこか狂っている印象を受ける。エジソンは気が狂っていたのだろうか。そういう部分もなきしもあらずだったのではないか。それのカリカチュアであるマッドサイエンティストはSFの紋切り型的なキャラクターだ。アメリカあたりならいくらでもいそうだが、誰がそれを目指しているわけでもない。どこかにこもり何かこだわりを持って一途にやり続けているうちに、否応なくそうなってしまうのではないか。気がつかないうちに常識から外れてしまい、一つのことにのめり込んでしまうと、常識人でいる必然性がなくなってしまうのだろう。それも人の変貌のありふれたバリエーションの一つだろうか。常識的な範囲内で考えればそういうことになりそうだ。では非常識な水準で考えればどうなるのか。非常識に水準や基準があるわけではないが、彼らは何か無限のかなたにある得体の知れないものを探求しているのではないか。それはここにはないどこかにあり、これまでにない何かなのだろうし、人の想像を超える何かなのだろう。そんな物事をもたらしたいわけで、そのためには世間並みの常識や幸福を犠牲にして、普通の生活を放棄しなければならず、世間一般では奇人変人のたぐいだとみなされるしかない。目指している無限の価値観がそれを強いるのであり、やるからには妥協が許されなくなるのだろうが、無限を目指しているだけに、限度というものがなく、いくらやってもやり足りないのであって、どこまで探求してもどこへも至らず、その生涯を費やしてそれをやり続け、結局何も持たらせずに死んでしまう人もいるのではないか。でも大半の人たちはそうなる前に、現世での利益を求めるように妥協してしまうわけか。それがうまくいけば何らかの発明や発見によって世間の脚光を浴び、運が良ければノーベル賞でも貰えるわけか。でもそれは世間一般では妥協とは呼ばず、成功と呼ばれる肯定的な結果なのではないか。


10月21日「曲解と誤解」

 それと気づかないうちに単純なことを述べてしまう。調子に乗って語るとすぐに物事の単純化に行き着いてしまうようだ。すでに語り過ぎていて、同時に語り足りないのだろう。まともに語ることができない。法をフィクションと見なしても、法に従う人が従う人を演じていて、それを演技と解釈してみたところで、それは物事の曲解と見なされてしまいそうだ。素直に考えれば、演じているのではなく、単に従っているに過ぎない。そういう方面でどんな難癖をつけても、法がフィクションであることを証明するには至りそうもない。そういう線で執拗に言葉を費やせば費やすほど、そんな解釈や証明自体ができの悪いフィクションとなってしまいそうだ。それと知らずに架空の話をしているわけだ。たぶん法はフィクションとも宗教とも無関係なのだろう。そう捉えておいたほうが話がまともそうだ。強引なこじつけと単純化は焦燥感の表れだろうか。思考の行き詰まりから苦し紛れに語っている証拠か。それでも信じているわけだ。法が人の作り事であると信じている。社会が滞りなく機能するように作られているはずだが、国家がそれを強制するにしろ、人々がそれに同意し自発的に従うにしろ、人々の行動や思考を制限するために法は作られている。良かれと思ってそう作られているのだろう。法に従っていた方が無難なのだ。実際に法に逆らうとろくなことがないはずだ。法は個人や団体の思想信条の自由は保障するが、法に逆らう自由はない。そこから法が真の自由を保障していないと主張してみたところで、それは屁理屈としか見なされない。法がなければ自由どころか何も保障されないだろう。人々は法による保障を求めているはずだ。法が保障しているのだから法に従わなければならない。そういう論理が法とその後ろ盾となっている国家の存在を認めさせる力となる。国家には軍隊や警察が備わっていて、暗黙の暴力が前提となっていて、実質的にはその暴力による脅しによって人々を法に従わせている。法に従わない者には暴力が行使されるわけだ。デモ隊が鎮圧される光景を思い浮かべてみればいい。だから人々は法に従っているふりをしなければならないわけか。なぜ実際に従わずに、そのふりをしているように見えるのか。なぜそれが演技でなければならないのか。やはりその辺がこじつけの曲解でしかないのだろうか。たぶんそう思われてもかまわないのだろう。

 人々は法に従う以前に、自らの意志を優先させているのではないか。まずは自らの意志を優先させて行為に及び、それが結果的に法に触れていることが発覚したら、謝罪に及ぶ。その責任を取って大臣が辞任したりするのもそういうことでしかないだろう。それが当人の感知の及ぶところであったかどうかは知らないが、結果的には法を遵守しているように演じていたわけで、要するにそれは演技でしかなったのだ。法を遵守しているように装うことが虚構なのか、それとも法自体が虚構なのか、容易には守れない法を守っているように見せかけることが、逆に法の虚構性を暴き立てているのではないか。それともそんな大げさなことではなく、単に守れない法があるだけか。要するに法が破られるためにあるということなのではないか。大臣が法を破ればここぞとばかりにメディアが騒ぎ立てるが、それはただの体制側に対する攻撃材料に過ぎない。自分たちが法を破れば他のメディアから攻撃され、法を破る者や団体を攻撃することで、結果的にメディアは国家権力と協力関係にあることを明かしてしまう。それも演技のたぐいだろうか。国家と持ちつ持たれつの関係を装うことで人々の信任を得たい。自分たちも国家権力の一翼を担っていて、人々の法律遵守の徹底に一役買っている。それがメディアの表向きの顔で、裏では法律違反すれすれの行為に日夜励んでいたりして、そういうことならそれも演技のたぐいとみなしておけばいいのではないか。誰もが馬鹿正直に法を守ろうとしているわけではなく、まずは自分たちの意向が優先され、法の遵守は二の次なのではないか。本音と建前の使い分けで、本音の部分が実質で、建前の部分にはフィクションが含まれる。そう解釈しておいたほうが無難だろうか。しかしそう解釈することで何を目指しているのだろうか。別に法がフィクションであってもかまわないということか。言葉で記されていることに実質が伴っているとすれば、それはその言葉の連なりに人が従っているように装われなければならず、そのためには軍隊や警察の暴力による威嚇が必要される。従わない者が身柄を拘束され、裁判にかけられ有罪となれば、それ相応の処罰を受けなければならない。メディアも法律違反者を糾弾しなければならず、なんらかの社会的な制裁を行う必要に迫られる。そうやって法が実際に機能しているように見せかけなければならないわけだ。フィクションであっては困るわけで、あくまでも現実に発動しているように装いたい。

 それが演技だとは思えないし、思われては困るわけだ。実際に法律違反を指摘され、社会的制裁を受け、処罰されてみれば、それがフィクションだなんて信じられないだろう。当人にとってはまぎれもない現実の出来事で、実質も伴っているはずだ。その被害に遭った人ならなおさらそう思うだろう。なぜそれをフィクションだと曲解したがるのだろうか。なぜ法律が宗教の教義なのか。その辺に何かごまかしが介在しているわけか。フィクションと現実の違いは何なのだろう。フィクションがフィクションのままにとどまり、それをフィクションとみなすには何が必要なのか。軍隊や警察による暴力的な威嚇がなければ、フィクションのままにとどまれるとしたら、現実とは何だろう。例えばメディアによる大々的な宣伝活動により、映画が大ヒットしたり小説がベストセラーとなれば、そこでメディアが自らの力を行使して、人々に映画を見させたり小説を読ませたりしていると解釈するなら、国家が軍隊や警察の暴力的な威嚇を使って人々を法律に従わせることと、メディアが宣伝力によって人々に映画を見させたり小説を読ませたりすることは、まったく同じことではないにしろ、何か両者の間に相通じるやり方があるように思われてしまう。もちろんそこにはその映画や小説自体に人々を惹きつける魅力があり、また法律には人々がそれを必要とする切実さがあり、だから人々は自ら進んで映画を見たり小説を読んだりするのであり、また社会を成り立たせるために自ら進んで法律に従っていると解釈したほうが、より説得力があるだろうし、その方が一般受けするのではないか。映画と小説と法律をフィクションとして同列に扱うなど荒唐無稽もいいところだ。しかしそれらはともに人為的な作られた人工物には違いない。情報が詰まった幻影であり、それを機能させるには人為的な操作が必要なのも同じだ。人々にそれを読ませたり見させたりすることで、人々の心に語りかけ、その意図する効果を発現させたいわけで、それは皆宗教の教祖のような役割を担っているのではないか。人々を操作するためにフィクションがあるのかもしれない。人の心を操ることである状況を実現させたい。それは映画が大ヒットしたり小説がベストセラーとなったり、法律が遵守されて社会や国家が成立したりすることなわけだ。それらを同列に扱うことで最後まで違和感をぬぐえないが、言わんとすることはそういうことのようだ。


10月20日「フィクションの力」

 いつもと同じ疑念を抱いている。そしてなぜか疑うだけで疲れてしまい、語るまでには至らないようだ。語ることによって新たな価値観が創造される気配など感じられない。現状ではやらなければならない大事なことなど何もないのではないか。取り立てて何を主張したいのでもないらしい。ただ疑念がある。疑念が解消されるような状況ではない。解消されないまま過ぎ去ってしまうのだろう。時が解決してくれるわけでもなく、疑念が放置されたまま、疑念を抱いている意識がすり減ってゆき、そして気がつけばどうでもよくなっている。疑いが晴れなくてもかまわないわけだ。しかし何を疑っているのか。それは語る必要のないことだろうか。具体的に何を疑っているわけでもないとしたら、その疑念は何なのだろう。何でもなければ疑念ではない。ただ漠然と疑っている。とりとめのないことかもしれない。また迷っているのだろうか。何を迷っているのだろう。何を疑い何を迷っているのか。どうもそれもまともに語れないようだ。ではそれの他にどれがまともに語れないのか。定かでないことをいくら問うてみても、はっきりしたことは何もわからない。何をごまかしているわけでもないが、ごまかさずに語ろうとすると、たぶん何も語れなくなってしまうのだろう。その辺が歯がゆいところだが、もうしばらくはこんな感じになってしまうのかもしれず、語りたいことをうまく表現できないらしい。語りたくもないのにそう思っているのかもしれない。

 そして何を思っているのでもなく、ただそう記してしまう。また長い旅の途中で道に迷っているような気がする。遥かな高みを目指しているわけでもないのだろうが、高いだの低いだの、そういう高低の水準とは違う何かにとらわれているようだ。言説的な神秘主義なのだろうか。そこに何かあるように思われてしまうのは、宝探しをしている感覚かもしれず、それを見つけ出せば何かが起こるかもしれない、という漠然とした期待にすがろうとしているのだろうか。探しても何も出てこないかもしれないという不安も一方にはあるのだが、さらにもう一方では、何を探しているのかわからないというとりとめのなさも抱いていて、実際には何も探していないのではないかという疑念さえあるだから、それ以上考えれば考えるほど、後から後からわけのわからない疑念が滲み出てくるような気がして、結局何でもないように思われ、単なる気の迷いなのかもしれない。迷っているうちに何を取り逃がしているとしても、それはそれでかまわないように思われてしまうのだが、やはり先は長いのだろうか。なんの根拠もなくただ漠然とそう思ってしまうわけで、そんな思いも裏切られて、ある日あるとき急転直下で何かが起こり、そこですべてがおしまいとなってしまえば、それもそれで受け入れるしかないのだろう。静かにその時を待っているのかもしれない。

 語るようなことではないのだろう。語れるとも思えない。語ることに価値を見出せない。ならばどうすればいいのか。思いに逆らって語るしかない。思いも何もすべては嘘なのではないか。フィクションを語ろうとしているのだろうか。今語っていることがそうなのではないか。しかしフィクションとは何なのか。やはり作り話一般がフィクションなのだろうか。頭の中で勝手に物語を作り上げようとしている。でもまた途中で放棄してしまうのだろう。飽きっぽい性格は直らず、それが嘘であってもかまわない。何を否定する気にもならず、すべてを肯定したいようだが、肯定できるものとそうでないものを選り分ける気にもならない。辿り着いているのはどうでもいい境地なのだろうか。そこに何が立ち現れているとしても、それが虚無だとしても、それを無視しながら言葉を記すことができるだろうか。現にこうして言葉を記しているのだから、すべてがどうでもいいことではないのだろう。語るべきことがあって語っているわけでもないのだろうが、語れないこともないから語っている現状がありそうだ。誰が誰の代弁者にもなり得ず、身勝手に語ることしかできないのはもちろんのこと、無理に代弁者のふりをする必要もないのだろう。装わなくてもなるときは勝手に代弁者とみなされ、何か利いた風なことを主張している誰かに出くわしてしまう。その誰かが自分である可能性も無きにしも非ずなのだ。そうならないことを祈る必要もないのだろうし、なればなったらで、面倒な諍いに巻き込まれ、くだらぬセリフを吐いて、その気になってしまうわけだ。人の役割はたわいない。はたから見ていればそう見えてしまうのだろうが、自分がその立場に立ってしまうと、そうも言っていられなくなり、その場の状況の虜となってしまうわけだ。

 それでもまだどこへたどり着いたわけでもない。フィクションについて語っているのではなく、フィクションの中で誰かが語っているのではないか。現状ではそう思われてしまう。太古の昔に描かれた洞窟壁画の延長上にフィクションがあるらしい。人が絵を簡略化して象形文字を発明して、さらに象形文字を簡略化して音声文字を発明して、文字で物語を書き記すようになり、そんな進化の過程を真に受ける気もないが、フィクションの形態も利用する用途に合わせて様々に変容してきたわけか。しかしフィクションは依然としてフィクションのままであり、どこまでもフィクションで、その外部では無効なのだが、フィクションは人の意識に働きかけ、幻想や幻影をもたらす。そんな幻想や幻影を多くの人が共有できれば、そこに宗教が生まれるのだろうか。そこで決まりごとが定められれば、その決まりが人の行動や言動を制限し、その教義に従う者と従わない者を遠別する。従わなければ牢獄へ収容されたり、財産や地位や命を奪い去られたりする場合もあり、そうしないと人間の社会や共同体を維持できないと信じられているわけだ。信じているのではないのかもしれない。従わないと不利益を被るから、信じていなくても従わざるを得ず、従わないでいるにはそれなりの覚悟がいる。従わないでいることのリスクを引き受けなければならない。しかし従っていれば必ず社会の中で生きて行ける保証などなく、従っていても破滅に追い込まれてしまう者などいくらでもいて、そこから決まりごとを破らざるを得ない立場に追い込まれてしまう場合もあり得る。それがフィクションである限りにおいて、対立する利害関係を止揚する無矛盾な決まり事など構成できないのであって、そのせいぜいが最大公約数的なものになるしかない。そしてその決まりごとを守っているつもりの多数派が、守っていないとみなされた少数派を排除したり抑圧したりすることで、なんとか社会が成り立っているわけだ。人々は社会のあらゆる段階で、それと意識せずにそれを行っている。もちろんそれがフィクションだなんて夢にも思わないだろう。疑念など抱く余地はないわけだ。でも抱く余地がなくても、決まりごとによって不条理な体験を強いられれば、疑念を抱かざるを得ないが、体験した者たちが少数派である限りは、多数派からは無視され黙殺されてしまう。


10月19日「旅と問い」

 どうもいつも同じ結論へと至ってしまう。これでは駄目だと思いつつも、語っているうちにそこへと誘い込まれてしまうのだから、これも紋切り型にはまっていることになるのだろう。ともかく現状はどのようにも解釈可能であり、いつまでもしたり顔で利いた風なことを述べていないで、もっと何か違うことを語らなければと思うが、今のところうまくいっていないようだ。たぶんいつものように行き詰っているのだろう。何も語れなくなっているのではないか。そう思うと焦ってくるだろうか。焦る以前に言葉が出てこない。何かを記そうとすれば、何も思い浮かばず、何も記さないままにしておこうとすれば、また性懲りも無く何かを語りたくなってくるが、何を語りたいのかわからず、結局何を記そうとしているのでもないらしい。

 それでも言葉を記して何かを取り繕うつもりらしいが、何かとは何なのか。よくわからないが何かには違いなく、その何かを語ろうとしているのだろう。このまま何もわからずに終わってしまうのだろうか。それで何が終わることになるのか。もうだいぶ意味のない問答に終始している。自問自答に果てはない。何がそれを強いているとも思えないが、自然とそうなっているのだとすれば、そうなる成り行きに必然性があるのかもしれず、何も語れずに焦っているから、苦し紛れの自問自答に終始しているのではないか。でも問わずにはいられない何かがこの世界にはあるのだろう。どこから返答が返ってくるわけでもなく、何の解決も解答も期待できないが、とりあえず問うことしかできないのではないか。外部に向かって問いかけている。だが外部とはこの世界の内部のことであって、実際は世界の内部から内部へ向かって問いかけているのだが、意識は意識の外部へと向かうことしかできず、やはり外部へ問いかけているのだろう。自問自答であっても、問う対象は自らの外部にあり、自らそれに答えているとしても、それは外部からもたらされる答えだろう。意識の内部が外部の一部と化していて、意識には捉えられない外部が内部にある。それを無意識と呼べば納得できるかもしれないが、無意識に実質があるとも思えず、それは外部が操っている意識の一部かもしれない。

 そんな無意識を操りながら、外部は意識に何をさせようとしているのか。確か作り話の中では誰かが旅の最中だったはずだ。それがどんな旅なのか、どこへ向かっているのか、何か目的があるのか、いつものようにその辺が定かでないようで、それを旅にたとえるなら、何かそれについて考えるヒントのようなものが導き出せるだろうか。簡単に導き出せるとは思わない。問うているのに答えを求めない。それは考えるまでもないことだ。ただ問いたいだけで、誰に問いただしているのでもなく、問うことが目的と化しているのでもない。自らが経験しつつある通常の旅ではない。それ以前に旅の経験などほとんど皆無だろう。それでもなぜか長旅のように感じられるのだが、やはりまともな旅とはいえないだろう。ほとんど旅の経験もないのにそう感じるのは、旅に関する書物でも過去に読んだことがあって、あるいは誰かが旅をしている映画でも見たことがあって、またはそんなテレビ番組だったかもしれず、その時の感覚が不意によみがえっているのではないか。要するにメディアから影響を受けているわけで、それが何を意味するとも思えない。物事を単純化してはならないようだが、思考がどのような経験に裏打ちされているとしても、その思考を経験以外のことに活用できるわけでもないらしい。

 ではそこから何を導き出そうとしているのか。言葉の連なりを導き出そうとしているのだろう。その内容を問う必要がないわけではなく、できればまともなことを語りたいのだろうが、何かを避けているようだ。世界に向かって問うている内容が、長旅の感覚と一致することはない。それが一致してはまずいのだろうか。そもそも何を問うているのか。世の中のどこへも入り込む余地がないように思われるのは旅人の感覚だろうか。社会の外部からしか内部を覗き込めないなら、それを詳しく知ることも、語ることもできないように思われる。知り得ないとともに知る必要がないとも感じられ、それでかまわないと思えるようになってしまったら、もはや問うことさえその必要がなくなってしまうかもしれず、そうなれば旅人してこの世界をさすらうことに、何の違和感も覚えないようになれるかもしれない。長旅を経験するとはそういうことではないのか。それが何を意味するとも思えないが、そんな部外者の感覚が無責任な言動をもたらすとしても、それならそれでおもしろい内容なら文句のないところか。現状ではおもしろとはいえないだろう。

 今が旅の途中だとしても、これからどこへ向かうあてもなく、取り立てて何を語ろうとしているのでもないようだ。物事を単純化して考えることならいくらでもできそうだが、そればかりでは飽きてしまう。最近はそればかりに明け暮れていたように思われ、実際に飽きてしまったらしい。無責任な外部からの視点に基づいて語られると、内部に暮らす者にとっては受け入れ難い内容となるようだ。今さらそんなことを想像してみたところで何がどうなるわけでもない。しかし外部はありえない場所だ。想像上の外部から語っているのかもしれない。しかしすべては世界の内部で起こっていることだ。その内部に人間社会があり、日々闘争に明け暮れているわけか。それが外部からの視点で語っていることであり、それを闘争と単純化してかまわないわけでもないのだろう。平和に共存している場合もあるだろうし、助け合いながら生きているかもしれない。その内部で何が行われているか、そんなことに興味がなければ外部にとどまるしかなく、それに関してうがった見方を披露するわけにもいかない。常識から外れ慣習を受け入れず、そのように振る舞うことの影響を恐れず、勝手に語ろうとしているのかもしれない。たぶんそうすることについて何が問われているのでもないのだろう。勝手にやっている限り何も問われない。批判もされないが評価もされないようなことでしかなく、無償の行為とはそういうものなのではないか。これからも旅を続けてゆくのだろう。現実の世界で誰が旅をしているわけでもないのだが、それが旅とは見なせないことも承知しているようだが、不意に旅の途中で問いかけるふりをしているのかもしれない。どこへ向かって何を問いかけているのでもない。矛盾しているがそう問うしかないらしい。


10月18日「語りの限界」

 また遠回りしているようだ。どこに行く当てもないのに何かに影響され、関係のないことをやる羽目になり、それをやりながら時間を浪費する。どうしても安易なシニカルさに惹かれてしまうようで、それでは何を語っていることにもならないような気がして、語っているうちに焦ってくるわけだが、それでもシニカルにしか語れないわけで、そんなことを繰り返していること自体が無駄な遠回りに思えてくる。そういう語りの行き着く先には何があるのだろう。皮肉なことしか語れない人は2ちゃんねる辺りで見かけるが、皮肉か罵詈雑言かどちらか一方か両方か、批判者はそれ以外に何を語れるのだろうか。そんな批判者を批判してどうするのか。批判の批判は批判を呼び、際限のない批判合戦になるしかなさそうだ。泥仕合とはそのことを言うのだろうか。それをまた批判したところで意味がない。そんな成り行きから外れるにはどうしたらいいのだろうか。言説を洗練させるやり方に傾いてしまうのかもしれない。何か利いた風なことを語っていると思わせるわけだ。そうなるとプロの評論家が出来上がるわけか。そういう人たちはメディア上にいくらでもいるのではないか。どのように語ってみても、それらのバリエーションの一つとなるしかないのだろうか。そういう方面ではすでにすべてが語り尽くされているように思われる。すべてとは何か。語るべきことのすべてがすでに語られているわけか。そんなことはないと思いたいが、では新たに何を語れるのかと問うてみると、何も思いつかない現状がある。もはや行き着くところまで行き着いてしまったようにも思われてしまうのだが、それでも語るとすればいったい何を語ればいいのだろうか。冗談でしかないだろうか。たぶん冗談に違いない。現にこうして語っているではないか。だいぶ前から空疎な語りに終始しているような気もするが、とりあえず語ってみるしかないだろう。それが冗談だとするなら、さらに冗談を語るしかない。

 そう述べてまだどこへも行き着いていないふりを装う。見え透いているのかもしれないが、嘘でもかまわないように思われる。積極的に語るべきことが見つからないなら、それを装うしかないだろう。そして後はただ体験したり見聞した出来事について語るしかない。そんなジャーナリズム的な語りしかできないのではないか。語る対象となる事物についてわかりやすく簡潔に語ればいいわけで、それを語る者のこだわりを減じて、一般的に匿名の誰かが報告する形態にすればいいわけだが、誰もがわかりやすい内容となると、逆によくわからなくなる。要するにメディア上で語られていることの真似をするしかないのだろうが、そういう模倣的な表現自体が、何らかの紋切型的な思考に汚染されているので、要するにありふれたことしか語れなくなり、特定の誰が語っているのでもなく、誰が語ってもかまわず、その時点ですでに語る必要のないことを語っているわけだ。語り方と語っている内容を分けて考えるべきなのだが、紋切型的な語り方だと、その内容までが紋切型的に感じられてしまうのはどうしてなのだろう。要するにありふれたことを語るために紋切型的な表現があるのであって、その逆はないということか。紋切型的な語り方では、ありふれたことしか語れないとすると、そうではないような出来事に遭遇して、それについて語ろうとすると、どうしてもわかりにくくなり、その事物に接した者に特有の個性的な語り方になるしかないということだろうか。ありふれた事物や現象については、それに対応する語り方が前もって用意されていて、それについて語るには、用意されている定型の語り方に則って語れば済むようになっていて、要するにそれはテレビのニュースでアナウンサーが、初雪が降ったり桜が開花したりしたときに語る決まりきった語り方のようなものだ。そういう語り方に日頃から馴れ親しんでいると、思いがけない突発的で想像を絶するような事態に遭遇した時には、言葉を失って何とも形容も表現もできずに、ただ黙るしかないのではないか。それについてどう語ったらいいのかわからなくなる。それでもそれについて語ろうとすれば、自ら保持しているつもりの言語表現を超えて、語りようのないことについて語らなければならない。

 果たして普通に生きていてそんな事物に遭遇することがあるのだろうか。数年前に起こった巨大地震と津波と原発事故に遭遇した人たちは、たぶんそれが起こるまでは普通に生きていたはずだ。ではそこで彼らは何を語っていたのだろうか。何か語っていたのかもしれないが、今となってはもうほとんど思い出せない。何かうろたえた調子で、メディア上で醜態をさらしていた人も大勢いたはずだが、そんな現象もすっかり洗い流されてしまった感があり、今ではすっかりそれ以前の紋切型的な言語表現で、世の中は覆い尽くされてしまっているのではないか。できればそんな出来事などなかったかのように振る舞いたい人たちが、ここぞとばかりに出しゃばってきて、メディア上で幅を利かせている。何としても原発を再稼働させたい人たちなどはその代表格だろう。彼らは国家の経済的な利益こそがすべてであるように語りたがる。彼らにとってはそれがすべてなのだ。それを皮肉る気にも非難する気にもなれない。しかしそれ以外に何があるというのだろう。それについて語ろうとすればそうなるしかないのではないか。国家や経済について肯定的に語ろうとすれば、それに対応する紋切型が用意されていて、それに則って語るしかなく、それに反発する人々に対しては、左翼だ何だと紋切型の罵声を浴びせるしかなく、反発する人々の方でも、右翼だ何だと紋切型の罵声を浴びせ返すしかなく、結局は口汚い皮肉混じりの罵りあいの嘲りあいの泥仕合に行き着くしかない。たぶんそれでかまわないのだろう。そういう方面ではそんな言動しか用意されていないはずで、対立しあう人々にはただそこに用意された紋切型を口走ることしかできない。無意識のうちにこれまで繰り返されてきた右翼と左翼の対立の枠内に収まろうとして、双方が前もって申し合わせていたわけでもないのに、自分たちの言動がその枠内に収まっていることを確認して安心を得たいわけだ。要するに彼らはこれから想像を絶するような思いがけない事態になるのを恐れている。そういう事態に遭遇してしまうともうお手上げで、言葉を失って黙るしかなくなってしまうから、何としてもそれは避けなければならない。だから偽りの二項対立にしがみつこうとするのであり、紋切型の言説内で安住していたいわけだ。

 しかし他にやりようがあるのだろうか。やりようがないからそうなっているのは確かかもしれない。ではこれから彼らの想像を絶する事態が起こらない限りは、現状がいつまでも維持されてゆくのだろうか。誰もがそんな閉塞状況に退屈しきっているわけでもないのだろうが、世界中にそんな想像を絶する出来事を無理矢理起こそうとしている人たちも大勢いるのではないか。十数年前の911の同時多発テロもそれのたぐいかもしれないが、それから世界がどうなったかは、多くの人たちが経験した通りのことでしかなく、また数年前の巨大地震と原発事故によっても、ご覧の通りの世の中になっただけだ。たぶん紋切型の力はそれだけ強力で偉大なのだろう。危機が起こる度に多くの人々が紋切型の前に結集して、これまで通りの慣習に基づいた社会を維持しようと努力してしまうわけだ。世の中を変化させるのは容易ではなく、今まで通りの価値観にしがみつく人たちは、何よりも変化を恐れている。変化する兆しはいくらでもあったのかもしれないが、その予兆が現われる度に、それとは反対の行動を誘発し、何とかそれをつぶそうと躍起となり、実際にそれを握りつぶすことに情熱を傾ける。それもある意味で抵抗運動のたぐいなのかもしれず、彼らは彼らで何か得体の知れないものに抗っているつもりなのではないか。もしかしたらそんな彼らの抵抗を打ち砕くことによってしか世の中は変わらないのかもしれない。でもどうやったら打ち砕けるのか。冗談など通じないことは明らかだ。結局は彼らの頑強な抵抗こそが、世の中を変えると思っておけばよさそうだ。そんな彼らに対して、あからさまに反発してはまずいのであり、反発する側は彼らがしがみつく二項対立の罠を逃れなければならない。挑発に乗ったつもりでも、彼らのように頑強に抵抗してはならない。要するに負ければいいわけだ。そして負ける必要さえないのかもしれず、もちろん勝つ必要などさらさらない。やはりそれに関してうまく語れないのだが、その辺に語ることの限界があるのかもしれず、たぶんこのように語ると誤解を招いてしまうだろう。対立するでも反発するでもなく、勝つでも負けるでもなく、何だかよくわからない行動や言動を心がけなければならない。彼らにしてみれば何だかよくわからない輩が多数出現すれば不気味だろうし、そんな言動や行動を心がけている自身が、自身の行動や言動の理由や目的を知り得ないことも肝心で、自分でも自分が理解できないようなことをやる必要がある。その必要もなくやることが必要なのだから、その時点で矛盾しているのだが、その原因を問うてはならない。問えないことを問うても無駄だからだが、その一方で無駄で無意味なことをやるのもいいだろう。それが人畜無害ならなおさらいいかもしれない。だから要するにそれは冗談なのではないか。でもそれが冗談だと悟らせないようにしなければならず、何だかわからない状態にとどまるべきなのだろう。


10月17日「右翼と左翼の形骸化」

 想像と空想の違いは何だろう。そこで何を採掘しているわけでもないが、すでに何かが枯渇している。その場所は資源が掘り尽くされて廃坑となってしまったのか。それとも探せばまだいくらでも埋蔵されているのだろうか。資源とは何か。それは無尽蔵にあるものなのか。たぶん可能性はそこにはない。それがどのような資源だろうと、何が無尽蔵にあるとしても、それらをすべて利用する手だてはなく、ほんの一部を取り出せるだけではないのか。いったい何と何を混同しているのだろう。それはわかりきったことだ。何もないわけではないが、手の届かないところに空想があり、ありもしない何かがあると思い込める。それに見とれているつもりになり、見れば見るほどほしくなるが、所有することはできない。それは何なのか。そこで何を想像しているのか。空想との違いを説明しているつもりで、実際は両者を混同しているようだ。両者の統合を目指さねばならないのか。実際に空想は想像に含まれる。あり得ない物事を思い描くのが空想なのだろうが、それを想像することもできるのだから、想像でもかまわないわけで、あり得ない何かを空想している自分の姿を想像してみる。いくら言葉を込み入らせても、何を語っていることにもならないが、具体的な事物について語ろうとすれば、空想はあり得ないだろうか。そこから何を空想しているのか。あり得ない出来事を空想している。それは過ぎ去った未来の光景だ。未だ到来しない未来がすでに過ぎ去っている。未来の世界を想い描くことが、古いSF小説や映画などにつきまとう過去の因習だろうか。SFだけでなく、過去には未来の廃墟が埋もれているのではないか。あり得るべき未来は過去からやってくる。過去から未来を夢想して、それを言説に定着させ、それについて語っている誰かが過去の亡霊となり、現代によみがえる。

 想像力の枯渇というのもあり得るかもしれない。それに代わる何かにとらわれているのだ。国家の歴史なんてどこも褒められたものではない。イギリスなんて中国にアヘンを売ってぼろ儲けしていたのだろう。それに中国が反発したら逆に因縁を付けて戦争して、香港を奪ったわけだ。今でもアヘンのもととなる芥子がアフガニスタンで栽培され、それがタリバンの資金源になっているとしても、かつてのイギリスがやっていたことを思えば、ものの数ではないわけだ。他国を侵略して領土を広げ、そこに住んでいる人々を支配してきたのが国家の歴史なのだから、イスラム国がやっていることもそれに倣っているわけだ。今のトレンドが領土ではなく経済的に支配することだとすれば、直接領土を広げようと目論むイスラム国のやっていることは、時代錯誤かもしれないが、本質的なところでは、国家とはあんなものだと見なしておいた方がいいのではないか。それを思えば、日本のかつての帝国主義戦争を美化しようとしている人たちも、何だか自分で自分の首を絞めているように見えてしまい、気の毒に思えてくるわけだが、結局自ら進んで国家の食い物になっているわけで、その見返りは単なる過去の因習にとらわれた犠牲者となるだけだろう。靖国神社に祀られている英霊たちと大して変わりがない。右翼のブームが去れば誰も助けてはくれない。そのときになって安倍ちゃんと心中するのは、結構間抜けな感じがしないでもないが、マジでその気になっている人たちも案外少数派なのではないか。しかし彼らが攻撃対象としている左翼がどこにいるのだろうか。共産党は左翼なのか。日本の共産党は左翼の部類に入るかもしれないが、中国の共産党や北朝鮮の労働党は明らかに右翼だ。アメリカの民主党は左翼なのだろうか。でも日本の共産党とアメリカの民主党を同じ左翼というカテゴリーに入れるのは、ほとんど荒唐無稽で無意味なことではないか。カテゴリーとして成り立たないような気がする。そんなわけでもはや右翼と左翼の対立軸自体が空想の部類に入るようなことだ。そんな形骸化したカテゴリーを後生大事に保持しているのは、今どき産經新聞ぐらいなものだろう。

 それにしてもこの百年ぐらいの間に、世界の人口が急激に増加したのは、資本主義・市場経済の世界的な進展のおかげだろう。それがいくら飢餓や貧困や貧富の格差をもたらしたとしても、実際にそれ以前と比べて数十倍の人たちが地球上で生きていられるわけで、その効果を認めないわけにはいかないのではないか。そして過去二百年間の間に起こった西洋諸国による世界征服と二度の世界大戦が、その後の人口爆発のきっかけとなり、欧米由来の民主国家と資本主義・市場経済の発展が、人類のかつてない未曾有の繁栄をもたらしたと考えてかまわないのではないか。そんな前提を受け入れた上で今後をどう考えるかだが、今のままの現状でかまわないのだろうか。いつまで現状が維持されるとも思えないが、今後の見通しが不透明なのはわかりきったことで、かといって今さら世界経済の崩壊だとか、第三次世界大戦の勃発だとかを予想するのも、狼少年的な紋切型に過ぎないし、これといって何か予想する気にもなれず、積極的には語りづらい。語り得る立場にもないのではないか。予想したところで何がどうなるわけでもない。考えることと予想することは違うらしい。では何を想像しているのだろうか。世界の未来の姿を思い描いたところで、思い描いている当人がそこにいるわけではなく、その死後に実現される世界でしかないわけだ。生きている間は今のままの現状が続いていくような気がするのだが、それでも何か良くなる兆しを感じたいのだろうか。いったい何を期待し何を希望しているのか。今のところは脱国家社会や世界統一の実現など空想の域を出ないことだ。いつまで経っても実現できないことかもしれない。それでもなぜかそれの実現を考えてしまうのは、現状の世界的な行き詰まりがそう考えさせてしまうからなのか。具体的に何が行き詰まっているのか。国民から税を徴収して運営する国家と、その国家が依存せざるを得ない世界経済が行き詰まりを見せているのだろうか。資本主義・市場経済がもたらし必要としている利益が、どこから出ているのかがよくわからない。果たしてそれが実質を伴っているのか、あるいは幻想に過ぎないのか、その辺がわかりづらいところだ。ただ単に国家が保証している市場のルールからもたらされるものでしかないのか。要するにサッカーの試合でボールがゴールネット揺らせば、あるいは野球の試合で塁を一回りしてホームベースを踏めば、そこで得点が加算される決まりと同じようなことでしかなく、安く買って高く売れば、その差額が利益として認められているだけでしかないとすれば、そのゲームとルールを人々が共有している限りで、国家も資本主義もゲームに依存しながら成り立っているわけだ。そんな現状をどう捉えたらいいのか。


10月16日「賛同者の必要性」

 世界には同じような人種がいくらでもいる。日本と韓国と中国のネトウヨたちが対外的に敵対しているように、彼らの仮想敵たちもそれぞれの国内で敵対しているようだ。敵を想定できなければ求心力を失い、自分たちの団結を維持できなくなってしまう。敵を特定してその敵を糾弾している限りは、何か主張しているような気になれる。自分たちと敵との差異を際立たせ、自分たちの正当性を強調しなければならないわけだ。そうやって賛同者を募り、自分たちの勢力を拡大させようとしているわけで、やっていることはどこも同じだが、彼らは何に媚びているのか。まるで鏡を覗き込むように自分たちに媚びているとともに、潜在的な賛同者たちにも媚びている。できれば自分たちの仲間に加わってほしい。だから自分たちの存在をアピールし続ける必要があり、そのためにも常に敵と勇敢に戦っている姿を見せなければならない。彼らはどこで何を見せているのだろうか。たぶんどこかで何かをやっているのだろう。興味がないわけではないが、別にそれについて語るほどのことでもないらしい。何となく新鮮味を感じられない。離合集散が繰り返されるだけなのかもしれず、彼らなりにそれを楽しんでいるのだろう。何やらそこにカルト教団があり、放っておけば危険だから、まだ勢力が拡大していない今のうちに叩いておかなければならす、警鐘を鳴らして彼らへの攻撃を呼びかけていたりするわけか。そんな成り行きが今も昔も世界のあちらこちらで繰り広げられているのだろうか。それともすべてはフィクションでしかないのか。作り話を語っているのか。どちらであってもかまわない。現実だろうと虚構だろうと関係のないことだ。それ以前に語る必要のないことではないのか。大して気にもとめないようなことを無駄に語っているわけで、楽しめない話かもしれない。

 結局何か別のことに気を取られ、語ることがおろそかになっている。語る必要もないのに語る状況に追い込まれ、語り得ないことを語ろうとし、語ることに挫折している。語り得ないことは語れない。だが語れることはくだらない。ネトウヨだの在特会だのを批判する気にはなれないが、語るとなるとそんなことを語っていた方が無難だ。しかし語り得ないこととは何なのか。それがわからないから思い悩むわけか。それでは冗談にもなりはしない。すでに語る必要がないことがわかってしまっていて、それでも語ろうとするからそこに無理が生じ、何も語ることがないのに語ろうとするから、結果として自己矛盾に陥っているのではないか。語る目的がない。何か作り話をおもしろおかしく語ろうとしているのでもないらしい。しかし語りを試さなければならない。その理由がわからないが、やはりそれは自己主張のたぐいなのだろうか。だが取り立てて何を主張しているとも思えない。語ることが何もないと主張しているわけか。それが主張として成り立つとも思えない。では他に何を主張できるのか。別にカルト教団の教祖になろうとしているわけではないから、何も主張しなくてもかまわないのではないか。人を集めるために特定の何かと敵対関係を装うわけでもない。そんなふうに述べてしまうこと自体がまやかしなのか。世間に注目されるようなことを語る必要があるのだろうか。でもそれが何だかわからない。ネトウヨだの在特会だのが社会問題としてメディアで取り上げられているから、それをネタとして語って、世間の注目を浴びたい人はいくらでもいるのではないか。結局何かを語るということは、そういうことでしかないわけか。それだけではくだらないと思うなら、他に何を語ればいいのだろうか。

 語ることなど何もありはしないが、それでも語るとなると、そこで誰が何を語ることになるのだろうか。これから語ってみれば何かがわかる。何もわからなくても語っていることになりそうだ。すでに語っているのではないか。それはわかりきっていることだ。出来事について語りたいのだろう。事件についても語りたい。戦争が起これば戦争について語り、世界経済が行き詰まればその理由や原因を説明したい。ジャーナリズムとはそういうものだろう。そこから外れたら何も語れなくなってしまうだろう。たぶん小説の中でも映画の中でも、そこで何かが起こっていて、批評家がそれについて語っているはずだ。それが興味深い現象だから語る。興味を持てない現象について語る必要はない。語るのが仕事ならそれについても語らなければならないだろうか。つまらなそうに語るわけか。仕事ならおもしろおかしく語って、他人の興味を惹きつけなければならない。芸を究めるとはそういうことか。芸術とはそういうものかもしれない。他人の興味を惹きつけなければ芸術とはいえない。もちろんそれは結果論ではあるが、興味を惹かないものは芸術でもジャーナリズムでもない。ただの語りにもなり得ない。つまらないことを一方的に語ってもかまわないが、それはネット上だから許される行為だろうか。個人で日記を付けるようなことか。しかし何が他人の興味を惹くのだろうか。それはやってみないことにはわからないだろうし、ただ語ってみた結果から判断するしかない。そのためには仲間をふやさなければならず、ネトウヨや在特会のように、世間に自分たちの主張をアピールして、賛同者を募るしかないわけか。もちろんそれはユーチューバーやブロガーなどにも言えることかもしれず、2ちゃんねるやフェイスブックやツイッターなどで賛同者をふやそうとしているわけだ。いったいそれらの現象は何なのか。なぜ多くの人たちがそういった現象に引き込まれてしまうのか。

 やっていて楽しいからだろうか。それ以外に何があるか。何かがあるからやっているのだろう。少なくともそこに何かがあると思っている。何もないと知ったらがっかりしてしまう。たぶん何もないわけではないのだろう。そこから外れるわけにはいかないだろうか。興味がなくなれば自然と外れてしまうのではないか。熱狂がもたらされたら、後は冷めるだけかもしれず、それを廃れさせるためには、一時的な盛り上がりを煽る必要があるのではないか。誰が煽っているのか。それをネタに語る人たちが煽っているわけか。では誰がそれを廃れさせようとしているのか。誰もそんな気などなく、盛り上げようとして煽っているわけだ。そして一時的なブームが去ると廃れるものは廃れ、残るものは残るのかもしれない。興味のない者にとっては、どちらでもかまわないのかもしれず、流行らなくても廃れなくてもかまわないわけだ。ただそこから外れている。語ることに興味を失いかけているのかもしれない。語ることの限界に突き当たっているのだろうか。世の中の現象に興味を抱けなくなってしまったのか。それについて語る気力が失せてしまったのかもしれない。魅力を感じられず、苦痛を感じているわけか。そして嘘をついている。それが精神的に重荷となっている。そういう話なら納得がいくだろうか。何を語っても嘘になってしまいそうだ。作り話にはどうしても限界がありそうで、それを真実に近づけることができない。別に近づける必要はないのだろう。作り話のままでもかまわず、その内容に真実味を帯びさせる必要はない。何が内容でもないのかもしれず、無内容でも語る目的が不在でもかまわないのだろう。ただ執拗に語っている現状がある。語る魅力とは何だろう。賛同者を得られることが魅力なのか。語る対象に魅力を感じるから語るのではないか。ならば魅力を感じられない対象を語るわけにはいかない。もしかしたら魅力を感じられない対象を批判するために語っているのではないか。ではそんな批判を目的とした語りに魅力を感じられるだろうか。それは語り方次第で魅力を感じてしまうわけか。その辺から欺瞞や偽善が生じる余地が生じてしまうのかもしれず、例えばネトウヨや在特会が独善的な思考に凝り固まっていて、差別や偏見を助長しているから、それを批判することに意義があるように思われてしまう。それでもかまわないのだろうが、たぶんそれ以外にも語る理由を見つける必要がありそうだ。そういう思考の持ち主や団体が世界中にいることを、具体的な例を挙げて説明する必要があるだろうか。そういうことをやっている人たちもいるのではないか。しかしそれ以外に何を語ればいいのか。どうも積極的には何も語れない状況の中で語ろうとしてしまうようだ。


10月15日「宗教批判と不条理」

 それは今に始まったことではない。取り立てて何が始まったわけでもないのに、人が結構死んでいる。エボラ出血熱もじわじわと感染中だろうか。これが終わりの始まりになろうとは誰も思わない。実際にも終らないわけか。いったい何が終ってほしいと願っているのだろうか。願っていることは人それぞれだろうが、密かに人類がこの世界から消えてほしいと願っているのか。誰がそう願っているのか。映画の中の登場人物だろうか。君ではないらしい。誰がそこにいるわけでもない。地上から誰もいなくなれば、誰がそこにいるわけでもないことになるが、あいにくエボラ出血熱は致死率が高いだけで、感染してもすべての人が死ぬわけではない。ただ死ぬ人が多いだけだ。かつてのペストでもそうだったのだろう。とりあえず生き残る人がいる限りは、地上から人類が消えることはなさそうだ。君はどちらなのか。それは感染してみないことにはわからない。感染を防ぐ手だてはあるのだろうか。危険な地域には行かないことぐらいか。人助けという使命感にかられて行ってしまう人も中にはいる。人助けを仕事としている人は嫌でも行く。そういう宿命の下に生きている人もいるようだ。自分は関係ないと高をくくっている人もいるだろうし、実際に無関係な人も大勢いる。いつまでも無関係のままでいられるだろうか。そう願っている人もいるだろう。その手の映画のように世界中に感染が広がり、ほとんどの人が死んでしまう未来を想像したりもするのだが、たぶん何を期待しているのでもない。確かヨハネの黙示録に出てくる四騎士の一人が、世界に疫病を蔓延させる役割を担っていた。それは第四の青白い馬に乗った騎士だったか。ということはすでに一から三までの封印が解かれ、今第四の封印が解かれようとしているわけだ。確か第三の黒い馬に乗った騎士は資本主義で世界に飢饉と貧困をもたらし、第二の赤い馬に乗った騎士が国家で世界に戦争をもたらし、第一の白い馬に乗った騎士が反キリストで世界に支配をもたらすらしく、そこに何が反映されているとしても、いずれの危難も今に始まったことではない。

 冗談にならない程度に語る必要がありそうだ。しかし真面目に語るわけにもいかない。これから何を語ろうとしているわけでもなく、すでに語ってしまったようだ。だから今さら語ることなど何もない。だが語ることなど何もないと語る一方で、どうせまた思いがけないところから語り出す。君が語るのではなく、他の誰が語るのでもないが、やはり誰かが不意に語り出すわけだ。君にとってはあてが外れている。君が語ろうとしていたことが邪魔され、その気をはぐらかされて途方に暮れる。沈黙を強いられ不快になる。また空疎な何かをかみしめなければならないのだろうか。そこへ言葉を集中させられず、散り散りに分散してしまう。まとまりを欠いた空虚な内容を作り出し、そんな現実逃避的な芸風がまともに語る上での妨げとなっているようだ。そして気がつけば余分で無意味な言葉の連なりを記している。それに対して何を批判しても余計なお世話だろうか。語りつつある意識に記しつつある文章が埋没してしまっては、その内容が空疎になるしかない。不必要で要らないことが延々と記されてしまう。結局はヨハネの黙示録も状況をおもしろおかしく語っているわけだ。聖書を編纂した者たちが大真面目であったとしても、それを読む者がふざけていれば、ふざけたように読めてしまう。わざとその内容を曲解しておもしろがる。旧約聖書の方は神の人間に対する不条理な要求に満ちているようだが、その要求が不条理ゆえに、やはり解釈者をおもしろがらせていて、どうもユダヤ=キリスト教の聖書は、宗教から逸脱する行為を人に促しているようだ。宗教の聖典がその宗教から離反するようにそそのかす。それが反キリストの誘惑なのか。宗教が宗教として機能してしまうこと自体が批判されなければならないわけだ。歴史上でも絶えず宗教はその身内から批判され、人間は宗教から抜け出なければならないと説かれ、その誘惑に逆らいながら、宗教なき社会へと至ることが人類の課題なのかもしれない。しかし誰が実際にそんなことを説いているのか。スピノザやカントがそんなことを説いているわけか。彼らが著した書物を読めば納得できるだろうか。たぶん読まないだろうし、読んでも理解できないかもしれない。

 物事の合理性を突き詰めると不合理な状況が出現し、理性的であろうとすれば感情的な行為を強いられる。合理的に物事を進めようとすると必ず手痛いしっぺ返しを食らい、人の善意はその都度踏みにじられ、不快な境遇に陥ってしまうわけだが、それでも人は理性的であろうとして、善行を心がける。そして自然はそこにつけ込んで嫌がらせのような作用を及ぼす。人をそこから逸らせようとしているわけだ。それが人に課された試練なのか。実際には何がそうさせているのではなく、被害妄想気味にそんなふうに思われてしまう。独りよがりにそう思い込んでいる場合が大半だろうか。何かをやるにはそういった疑心暗鬼にとらわれたままやらざるを得ず、それがどのような結果を招くとしても、そんな過程を通りながらやるしかない。先行き不透明なのは当たり前のことであり、やればうまくいくとあらかじめわかってやれるようなことなどありはしない。別にうまくいかなくてもかまわないのではないか。うまくいくように創意工夫をこらすにしても、どうもその途中で情熱が冷めてしまうようで、何事も中途半端なまま放棄してしまう傾向にあるようだ。そんなわけでやっていることは常にそこから逸脱の危機に直面している。実際にそこから外れて遠ざかることばかり思い浮かべ、現にやめてしたことは数知れない。それが嘘なのか真なのか俄には断じがたいようだが、それでもこだわっていることがあるのだろうか。たぶんこだわっているのだろう。そこからいかにして外れるか、その外れ方にこだわっているのではないか。笑いの手前で外れ、結果がナンセンスになる一歩手前の意味不明を愛でている。要するに空疎で空虚な何かを求めているのだろう。何もない場所で考えていたいようだが、その何もない場所があり得ない場所であり、誰もが不在となるしかない場所で不可能なことを考えたいわけか。それはナルシシズムのたぐいだろうか。単なる無い物ねだりに過ぎない。そして噓も方便にもならない愚かな考えだ。だからそういう思考に至るのを嫌って、そこから外れたいと願っているのではないか。そしてそれだけではだめだとも思っている。シニカルに逃げ込むわけにはいかないらしい。それもどうせ無い物ねだりになるしかないのだろうが、何かを信じようとするとともに信じられないようなアンビバレントな感情を保持してゆくしかなさそうだ。


10月14日「意識と思考の特性」

 やはり勘違いしていたようだ。そこには何もなかったのだろう。どうあがいてみてもやっていることは冗談にしかならない。散々な目に遭ったわけでもないが、そのあげくにそれを理解してしまうのだから、失ったものは大きいのだろうか。何を理解したのか。そこには何もないということの他には何もないということか。そことはどこなのか。どこでもない場所がそこなのだろうか。馬鹿げた妄想を抱いていたのではないか。いくらやってもどこへも至らず、どこかへ至る前にやめてしまう。いくらもやっていなかったわけだ。何をやろうとしていたわけでもない。本当は何もやっていなかったのではないか。事の真相を知り得る状況にないということだ。それでもくだらぬ攻撃が有効に働いて、何かしら結果のようなものがもたらされたのではないか。ものとは何だろう。それは状況でしかない。現状がそう思わせる。現状とはどのような状況なのだろう。何もない状況が現状なのだろう。何もない中で唯一あるのは疑心暗鬼に陥った自意識だけか。そういう話もどこかにあったのではないか。何とかそれで平静を保っていたはずだが、疑念を取り去ってしまうと本当に空疎な無内容となってしまい、虚無そのものに近づいてしまう。だからかろうじてそこで踏みとどまっていられるのは、疑念を抱いているからなのだろう。現状を疑い、何もない中でもまだ何らかの可能性が残っていると思う。今があるのはその可能性を信じているからだ。それ以外の可能性などない。ただ今があるだけで、それで何とか生きているわけだ。今もなくなってしまったら、もはやそこに自意識が生じる余地もなくなってしまい、意識のない虚無だけが残るのだろう。そうなればすべてが終わりとなり、何かがそこで完成してしまうのではないか。

 語っているのは自意識ではない。語らされているのは語りから生じた意識で、その意識が記された文章から生じている。誰がそれを所有しているのでもなく、記された文章上に生じているのだろう。でもそれが何を意味するわけでもない。ただそれが意識だと感じられるだけで、文章を読めばそこに意識があるように思われ、誰かが語っているように感じられる。それ以外の何があるわけでもなく、読んでいる意識がそれを感じているのだろう。語る意識も読む意識も文章から生じているわけだ。それ以外の何が生じているわけでもないし、ただそこに記された文章があるだけで、それを超える何があるわけでもない。そんなことはわかりきったことではないのか。わかりきっているからこそ、それ以外の幻想を求めてしまう。それだけでは物足りないわけだ。読んでいる意識は文章の作者について考える。そして作者の考えを思い浮かべ、その思想にまで及び、作者が生きていた時代を考察し、作者が体験し影響を受けた現象や出来事にまで思いを馳せる。そしてそれについて語ろうとし、いつの間にか歴史を語っているわけだが、歴史を語ればそこで何かが完成するわけか。何かとは何だろう。それは物語ではないか。ある人物の物語が出来上がり、その人物を取り巻く人間関係や時代背景が描き出され、ある人物が生きていた時代の物語が歴史として完成するわけだ。それは興味深いことだろうか。あるいは大して興味のないありふれた物語なのだろうか。どちらにもなり得るし、どちらであってもかまわないのだろう。それ以上詮索したければ、誰か特定の歴史上の人物について語ればいいし、それについて語っている文章を読めばいい。そう語ることが逃げだとしても、文章を読めばそれを感じることができるだろう。それとは何か。それは記された文章から遠ざかる意識かもしれない。

 しかしそれで何を考えていることになるのか。何かが徒労に終わっているような気がする。記された文章を読むだけで済ませた方がよさそうだ。それについて語ろうとするから歴史的な迂回が始まってしまうのではないか。文章を記した作者への考察はどこへもたどり着けない回り道であり、ありふれた物語への回帰となってしまうかもしれない。でもそれで何かを語っていることになるとすれば、それをやらない手はないだろう。それについて語りたいのだから歴史について語らざるを得ない。そんな境地に至れば歴史家を志すしかないだろう。しかしそれは過去の出来事について語ることであり、出来事を分析しその背景を考察することであり、そこから何やら理論めいた言説を導き出すことでもあり、その理論を歴史に当てはめて決定論的な因果関係を求め、それをさらに現在の状況や未来へも適用し、予言や予想のようなあやふやな領域にまで言及し、結局それは自らの願望や希望を語ってしまうことでもある。そこまで至ればしめたものだろうか。後はそれがいかに説得力を持つかが事の成否を担っていて、事の成否とはそれを他人が読んで興味を抱いたり、納得するか否かとなるわけか。それが虚しい試みであり徒労とは思えないのなら、それをやるしかないわけか。だがそういう方向性に行き詰まりを感じてしまうのはなぜだろう。過去の繰り返しが未来に当てはまるわけではなく、いつまでも同じことが循環するわけもなく、すべては偶然の巡り合わせの積み重なりなのではないか。現在から過去を見れば、そこに一定の法則めいた因果関係を見出すに至るだろうが、それをそのまま未来に当てはめるわけにもいかないのはわかりきったことだ。しかしどうしても過去の出来事の再来を未来に予感させ、実際にそんな予言や予測をしてしまう。なぜかそうなりがちなのは、意識とその経験がもたらす思考の特性だろうか。

 過去へ向かう意識と未来へ向かう意識が違うのではないか。意識は過去から現在を経て未来へと向かう連続性を信じている。これから起こることを知り得る手がかりは過去にしかない。だから過去の出来事を調べ分析し、そこから未来を予測するしかないわけだ。その時点で予測が外れる可能性がはらまれている。だから予測があてにならないというのではなく、たぶん未来を予測することで安心したいのだろう。そこに予測する者の願望や希望が含まれているのは、それが叶えられることを期待して安心したいのだ。夢も希望も抱けなければ絶望するしかなく、人は絶望の中で生きてゆくのは不安であり、それにひたすら耐え忍ぶのは不快だ。そこに気休めや慰めがあるとしても、やはり夢や希望を抱いて生きてゆかなければ、気が滅入って鬱状態となってしまうだろう。しかしその効用をことさら顕揚するわけにもいかないだろうし、安らぎばかり求めても虚しいだけで、ある程度は不安や不快に直面していないと、現状に抗う気力が失せ、堕落して個人の幸せばかりを求めて、それ以外のことには興味がなくなってしまうのではないか。とりあえず過去が同じようには繰り返されないにしても、過去の過ちを繰り返さないためにも過去から学ばなければならず、それが気休めや気晴らしにしかならないにしても、どういうわけか人は過去から学ぼうとしているわけで、それに関する書物を読んで、忘れていた過去の記憶をよみがえらせ、反芻しているような気でいるのだろうか。それにしては反芻がまだ足りないような気もするが、これから嫌でも破局的な事態に遭遇して、過去の出来事との比較が取りざたされ、過去を忘れるなとか言う教訓が叫ばれたりするかもしれないが、そうなってからではもう遅いだろうか。でも手遅れにならないと話がおもしろくならないのは、映画や漫画や小説だけの話ではなく、現実に誰もが体験するところなのではないか。結局は破滅が決定的になってから慌てふためくわけで、それまでに気づかなかったり、気づいていたとしても、そういう成り行きを押しとどめられなかったのだから、そうなった時点でゲームオーバーで、その気になれれば、またそこから新たなゲームを始めるわけだ。


10月13日「精神世界と物質世界」

 世界の内部には何もなく、外部にすべてがある。外部こそが世界だからだ。それはおかしな認識だろうか。内部が精神世界で外部が物質世界だとすれば、精神世界は想像の世界であり、物質世界は現実の世界だ。しかし物質世界は真空で満たされており、真空は何もない空虚だ。世界から物質を取り去ると真空になる。それが何を意味するだろうか。この世界には物質がある。そう考えれば納得がいくだろうか。しかし存在とは何だろう。存在という言葉を使うととたんにすべてが曖昧となる。人の心の中には精神世界が存在する。それが存在といえるのか。心が存在したり精神世界が存在したりすると、存在が想像の産物となってしまい、現実の世界に物質が存在しているのとは違った存在となりはしないか。その存在の曖昧さが誤解を生んでしまうのだろうか。何を誤解しているわけでもない。存在も言葉でしかなく、物質として実在しているわけではない。しかし物質とは何なのか。現実の世界は物質で構成されていて、精神世界はイメージで構成されている。それが人が捉えた世界であるわけだ。そこから何がわかるのか。精神が物質を感知している。物質から成り立つ世界を認識している。何とでも言えるだろう。それで納得することができるかも知れない。納得しなくてもかまわないわけだ。精神と物質の二元論では単純すぎるだろうか。精神は脳を構成する物質から生じている。精神世界も物質世界の一部だ。しかしそれで何を語っていることになるのか。外部の世界が精神の内部へと投射されるが、それを言葉で構成して理解したつもりになる。それでおしまいだろうか。世界の理解とはそういうことか。では世界を理解してどうするのか。そこから先が思いつけない。

 改まって何を考えているのでもなく、何かの気まぐれでそんなことふと思い、それ以上の何かを模索しようとするが、何も思いつかない。世界について何も思いつかなければ、社会について何か思いつくのではないか。多数の人がうごめいている社会がそこにある。そこで何かやっているわけだ。やっているのはゲームだろうか。仕事と娯楽なのではないか。生産活動と交換活動だ。植物を栽培して動物を飼育し、食物を得ている。漁業や狩猟というのもある。資源を掘り出して加工し、工業製品を得ている。それらを販売して利益を得ている。たぶんその利益というのが、物質世界と精神世界をつなぐ何かなのだろうが、人にはわかりづらい何かなのだ。商品と貨幣を交換し、交換した貨幣と商品を交換し、もちろんFXなどのように商品=貨幣である場合も、商品が物質でなく情報である場合も、商品が人的な労働力である場合もあるのだが、より安く商品を買いより高く商品を売り、そんな交換を繰り返してゆくと利益が蓄積される。そしてより多くの利益を蓄積した人が、社会で好き勝手なことができる。もちろん実際に好き勝手にやっているわけではなく、そう思い込める限りにおいて、そんなことをやっている気でいるだけなのだが、たぶん物事を単純化すれば、それが社会のルールなのだろう。それは何を意味するのか。それが歴史上最も公平で合理的なルールだと思われているわけか。現状を正当化すればそうなり、そんなルールに基づいた社会が成り立っていて、それを原動力として世の中が回っている。少なくとも世の大半の人たちは精神世界の中でそう感じ、そんな精神に操られながら、その外部にある物質世界に影響を及ぼしている。たぶんその結果がこんな現状をもたらしているわけだ。

 現状を肯定でき正当化できるならそれでもかまわない。現状から利益を得ている限りはそうせざるを得ない。それを批判するのは自由だが、現状の中で生きている人たちが、現状を変えるとなると、そう簡単に事が運ぶとは思えない。現状を変えてしまえばそこから利益を得られなくなるかもしれず、そうなると困った事態になる。場合によっては生きてゆけないかもしれない。しかしどう変えようとして、どう変わるというのか。そもそも人が変えようとして変えることができるのだろうか。その辺で変えるための方法や理論を模索している人が少なからずいるのだろうが、どうも今のところはよくわからない。それらに説得力があるかどうかもはっきりしない。実際に変わってみないことには何もわからないのかもしれず、今まさに現状を批判している人たちと、現状に居座ろうとしている人たちの間で、各分野や各方面にわたってせめぎ合いの闘争が行われていて、それを意識するにしろ意識しないにしろ、世の大半を人たちを巻き込んでそれが行われている最中なのかもしれない。メディア上でそれが顕在化しているのは、中東のイスラム国や香港の民主化要求運動などだろうが、それらの運動や活動が現状の変革に直接つながるとも思えず、やっている人たちもはっきりと意識しているわけではないのではないか。ただ現状に対して闇雲に抵抗しているだけかもしれないし、今後の情勢次第では、そうすることが現状のさらなる強化につながってしまうかもしれない。ただそういう人たちはそうせざるを得ない状況に追い込まれていて、それも現状がもたらして結果であることは確かだ。彼らがどうあがいてもうまくいかないのかもしれないが、そんな行為が今後も世界各地で繰り返されたあげくに、何か決定的な転換の時が不意に到来したりするのだろうか。そのためには今後も現状で不利益を被っている人たちによる闇雲な抵抗運動の継続が欠かせないのだろうか。そうであるなら何ともやりきれない話であり、要するにそういう人たちの犠牲の上にしか変化の時は訪れないということか。


10月12日「社会批判と体制批判」

 やはりそれについて語るのは不可能なようだ。それが何だかわからない。そんな結論に至るには無理がある。思考が現実から逃れ去り、想像の中で都合の良いことばかり考えてしまう。意識が現実を捉えられない。記述内容が現実を反映しているとは思えず、何か架空の物語について語っているように感じられ、空疎な無駄話の域を出ていないようだ。そう述べている対象は何なのか。批判の対象を特定できないのはどういうことなのか。批判ではないのではないか。現実を楽しめないようだ。楽しむような現実だろうか。楽しむのもおかしい。果たしてその現実が何を意味しているのか。楽しむ必要が感じられず、楽しまなくてもかまわないような気がするが、またそんな意味のない疑念を抱いているふりを装うが、文章上のことでしかなく、そんな疑念自体にあまり興味がないのかも知れない。興味がないのは自意識だろうか。冗談にも程があるということだ。冗談以外には何もないのかもしれない。ふざけたことをやればそれ特有の報いを受ける。それでかまわないのではないか。世の中は無理なことで成り立っている。原発を稼働させれば放射性廃棄物が出るし、ソーラーパネルや風力発電の風車も壊れたり寿命がくれば産廃となるらしい。シェールガスやシェールオイルは土壌汚染を引き起こすし、石炭火力発電は大気汚染物質が発生する。水力発電でダムを造れば河川や流域地域に障害が出る。すでに電気なしでは生活できないのだから、いったんやり始めたことは後戻りが利かず、結局は自業自得で自分で自分を首を絞めながら前進するしかない。それが文明の宿命なのではないか。

 すべてを利益優先で事を進めれば、必ず立ち行かない部分や部門が出てくる。誰かが損害を被らなければならず、世界の紛争地域などその典型だろう。地域格差が生じ貧富の格差も生じる。犠牲になっている地域もあれば、犠牲になっている人々も少なからずいるわけだ。ではどうすればいいのか。今のところそれらのすべてに有効な答えなどない。それを批判する者たちはいくらでも批判できるし、それを封じ込める対策もそれぞれにあるにはあるのではないか。そんなことのせめぎ合いの上に世の中が成り立っていることは確かだが、それから目を背けることも背を向けることもいくらでもでき、うまく立ち回って利益を得て、裕福な暮らしを満喫している人たちもいるわけだ。たぶんその辺から語れることの限界が見えてくるのではないか。そんなことをいくら語っても無駄に思えてくる。それは芸術の問題でも批評の問題でも文学の問題でもない。それらとは無関係に語っているわけで、社会問題を告発するジャーナリズムのたぐいとなる。すでに芸術も批評も文学も終っているのだろう。では社会問題以外に語ることがないのだろうか。娯楽の宣伝ならできそうだが、宣伝するほど娯楽を享受しているわけでもなく、そこから恩恵を受けているとも思えない。それらを語ることに何の義理にもないとすれば、結局社会批判や体制批判などを繰り返すしかなくなるわけだ。だがすでに嫌というほど繰り返しているのではないか。いったんやり始めたらきりがなく、これからも延々とそれを繰り返してゆくしかないようだ。やるだけ無駄なのか。あるいは無駄を承知でやるしかないのか。やる人は延々とやるのだろうし、中にはあきらめて黙ってしまう人もいるのだろう。要するにどちらでもかまわないわけだ。

 直接の利害関係を伴わないのだからどちらでもかまわない。とりあえず語りたければ気が済むまで語ればいいだけで、語っている自らの正当性などありはしない。何かの被害者であり加害者でもあり、そのどちらでもない場合もありそうだ。それらとは無関係に廃棄物のような文章がネット上にたまり続ける。読み捨てられ読まれぬまま打ち捨てられ、どうでもいいようなことが延々と語られ、それをどうでもいいと思う必要もなく、そんな言葉と文章の洪水に溺れることさえなく、どんどん語られるそばから廃棄されてしまうのだろう。語る必要さえなく、ただ語っているわけで、いくらでも文章が記され、いくら記しても誰にとがめられるわけでもない。語ることなど無尽蔵にあるのではないか。そこに何か特定のジャンルがあるわけではなく、そもそもジャンル分けそのものが無効で、何に対してもいくらでも語れるのであって、それらの優劣を評価することなどできはしないし、有効でも無効でも、語る優先順位があるわけでもない。評価そのものが成り立たないようなところで何かを語っているわけだ。だから語ることに何の価値があるわけでもない。そういう水準でそうであるしかなく、他のどんな水準で語れるわけでもない。たぶんこの状況があるべき姿であり理想の状態なのではないか。何の利益にも結びつかない語りがネット上にあふれかえっているわけで、それ自体は評価もされず価値もないし、世間の注目を集めることもない。そんな状況が他の分野にも波及してゆけばいいのではないか。たぶん特定の誰かが何か語り、それをメディアが取り上げて拡大解釈するような時代が終わりつつあるのだろう。それに代わってもはや誰が何を語っても無効な時代が到来しつつあるのではないか。

 たぶんそれも微妙に思い違いなのかもしれない。そのように語ればそんなふうにも思われるし、実際にそんな感じもしてくるが、それはだいぶ以前からそうだったのであり、別に最近になって明らかになったことでもないのかもしれない。すでにジャーナリズムが幅を利かせるようになった時点でそうなっていたのかもしれず、新聞とラジオの時代からそうだったのではないか。特定の誰かが語った内容が世間の注目を集めるとしても、それは誰もがそう思っているから共感を得られるわけで、そこから外れたことを語れば世間からもメディアからも無視されるのは、今も昔も変わらないのではないか。今の時代に特徴的なことは、何をどう語っても世間やメディアから幅広く共感を得られないという現象なのではないか。要するに特定の利害に結びつくようなことしか語れないということであり、共通の利益を代弁するような言説が不可能となってきたのではないか。何をやってもそこから利益を得られる者がいれば、その反対に損害を被る者もいて、すべての人たちが得するような行為などあり得ないわけだ。たぶんそれも昔からそうだったのであり、昔はまだマスコミの力が強大だったので、すべての人たちが得するような幻想を維持できたのだが、資本主義・市場経済が世界を覆うにつれて、そんな幻想は崩れ去ってしまい、誰かが得すれば他の誰かが損するという当たり前の事実が、人々の共通の了解事項として広く世間に行き渡ってしまい、そんな認識を覆すような発見も発明も今のところはなく、もはや誰が何を語っても幻想をもたらせない状況となっているのかもしれず、特定の利害を共有する人々には得になることであっても、その他の人々には損になるようなことが、世の中にまかり通っていることを、誰もが知りうるような時代となってしまったわけだ。


10月11日「幻想や幻影を超える何か」

 たまに冗談のようなことを思いつくが、今回は本当にそうだったらしい。何をやっているのでもない。ただの戯れ事か。深夜に思いついたことは、翌朝に目ざめれば馬鹿らしく思えてくる。でもそれを今後もやり続けるつもりのようだ。まったく正気の沙汰でない。しかし狂気の沙汰でもない。ただの戯れ事に違いない。戯れ事の中に発見があり、それがくだらぬ発見だとしても、小さなきっかけなのだろう。そのきっかけから妄想が拡大してゆき、何やらおかしな固定観念を抱くに至るのだろうか。しかし何を拡大させようとしているのか。やはり人畜無題な幻想を振りまきたいのか。やるならやってみればいい。大した影響力もないだろうから、大して流行らないだろう。それでも冗談を語るのは愉快だろうか。何が冗談でもなく、ただの画像でしかない。それを見せて何を愉快に思わせたいのでもなく、どう受け取られてもかまわないような効果をもたらしたいのだろう。そして必ずしもそれに成功していなくてもかまわないわけだ。失敗を積み重ねながらどこかへたどり着きたいのかもしれない。結果を求めているのだろうか。それがどんな結果であってもかまわないような結果を求めている。それが嘘でもあってもかまわない。虚言を弄して思いもよらぬ効果を期待する。その時点ですでに頭がいかれているだろうか。それ以前に冗談なのだから、たぶんそれ以前のたわいない水準にとどまるのだろう。だから戯れ事のたぐいだと高をくくっていられるわけだ。どうせ何も起こらない。何を期待しているわけではない。そう述べて前言を撤回しているわけか。しかし前言とは何か。それ以前に何か語っていたのだろうか。

 不意に音量が大きくなる。手動で操作しているのではないか。何かを操りながら目的を遂行しているわけか。そうなればしめたものだが、虚無の狙いが今ひとつわからない。曇り空の下で雑草の茂った空き地に佇んでいるのは誰でもない。それも画像だろう。誰かがそこいるのはわかっているが、それが誰とも関係のない誰かであることもわかっているはずだ。何ももたらされていないわけだ。依然として何がどうなっているわけでもなく、ただ時が過ぎゆく空間に人がうごめいている。狙いなどはじめからなかったのではないか。狙いがあるように装っていただけで、どうなることを期待していたわけでもない。ではそれは暇つぶしのたぐいか。失われた時間は戻ってこない。どんなにあがいてみせても、やがてすべてが終息してゆく。我先に終わりを宣言する競争に巻き込まれようと、その時点ですでに終っているのだから、それも悪あがきのたぐいでしかない。何が終っているわけでもなく、すべてが終っていて、すべてとは何かと言えば、その時点でのすべてであり、たわいない戯れ事のすべてがその時間帯に満ちている。時が経てば忘れてしまうようなすべてがそこにあり、それがある出来事をもたらしていて、それが幻想を解き明かしてくれる助けとなるのかもしれないが、今のところはまだ始めたばかりで、効果が出るまでにはまだだいぶ時間を要するのだろう。目に見える変化を感じ取れればしめたものかもしれないが、それが今まで抱いていた幻想を打ち砕くようなものだろうか。それでも事の真相を見極めたいのならやるべきではないか。たとえたわいない戯れ事だろうと、やってみるだけの価値がありそうだ。やっているうちに何か思いがけない真実が明らかとなったらしめたものだ。

 たぶんそれが幻想なのではないか。文章と文章の間に異物を混入させて、何か企んでいるように見せかけ、くだらぬことをやっている輩の動揺を誘う。それが何でもないことであればあるほど、どうということもないのだろうが、それらがもたらす意味不明にどれほど耐えようとも、何ももたらされないだろう。それが結果なのかもしれない。その何でもない結果を真摯に受け止めなければならない。そうしなければ何も起こらないのだとしたら、それは避けては通れぬ事態なのではないか。わざとその事態をもたらし、それが観測気球となり、その反応を分析しているつもりで、くだらぬ妄想を膨らませてしまうとすればそれまでのことだ。何かを知るためにはリスクを冒さなければならず、今はリスクなど大した傷にも至らないはずだ。これも自ら仕掛けた罠のたぐいだと思っておけばいい。罠が意味不明であればあるほど、却って愉快な気分となり、シニカルな笑いを誘い込むかもしれない。それを期待しているわけではないが、やってみなければ結果が出ない。たとえ期待外れに終っても後悔する気にはなれないだろう。それでかまわないはずだ。失うものはくだらぬ幻想以外にはあり得ず、それは幻想が幻想のままはびこっているよりは、いくらかマシな事態なのではないか。さっさと幻想の芽を摘んですっきりしておきたい。その一方で思いがけないことが起こるのも期待したいところだが、贅沢を言っている場合でもないだろう。実際に何も言わずに言葉を記し、記された文章は無内容を装い、それが疑似餌の役割でも担うのかもしれないが、何もひっかかってこないことを期待している。本当に幻想の終わりを宣言する事態になるかどうかは、まだ時期尚早で、これからだんだん疑似餌をふやしていって、様子見の段階なのだろう。

 すべては冗談だと思っておいてかまわないことだ。たぶん誰が生き残るわけでもないだろう。人には寿命があるから誰も生き残れない。人は死んで幻影を残す。たとえそれが資産という幻影であっても、その所有者がそれを実際に手にしているわけではなく、法律上の所有者と認められているだけで、その法律が機能していると信じている限りにおいて、資産を所有していると幻想することができる。それ以上でも以下でもなく、それを超えて所有していると思い込めるなら、やはりそれは幻影でしかない。要するに人が所有することを目的としたゲームをやっているわけだ。この世界に存在していると思い込んでいる物事を所有したい。それもできるだけ多く所有したい。自分のものにしたいのだ。富や名声などが自分のものであることを確認したくて、それとなく周りの人たちに同意を求めている。できれば公的な機関のたぐいがそれを認定してほしい。民間の団体でも権威があればそれでもかまわず、ノーベル賞を筆頭とする各種の賞を求めている人たちもいる。何か自分が他人より優れていることの証しがほしいわけだ。程度の差はピンからキリまであるだろうが、何かしら競い合うものやことがなければ、我慢がならないわけで、そうでないと何もやる気が起こらないだろう。それが人の社会的な特性なのだろうが、社会構造が示している人の特性でもある。その地位や名誉や財産など、社会的に価値を認められている所有物が多ければ多いほど、社会の中で上流階層に位置でき、何も持たない者たちは社会の底辺でうごめくしかない。それが幻想であるか実質を伴っているかは、それを信じられるかどうかにかかっているのだろうが、現実にそんな社会が成り立っているのだから、それを社会に属する大半の人たちが信じているわけだ。実際にそこから利益を得ているのだから、信じないはずがなく、信じていることさえ気づかず、それが自明の前提となっているわけだ。人がそれ以上を求めていることなんて信じられないだろう。これも信じていることに気づくはずもないことだが、たぶん人はそれを遥かに超える何かを求めている。これとは何か。


10月10日「幻想の感染」

 さっきから記述が止まっている。誰かがその時の心境を語ろうとするが、語れるはずがない。語る機会が巡ってくるとそこで止まってしまう。何も語れないことに気づいてしまうわけだ。それに関して言葉を記そうとするが、たいていは何も思いつかず、いつも行き止まりの前で考えあぐねている。書く動機が必要なのかもしれない。それがなければ何も書かなくてもかまわないのか。しかし今もこうして語っている。そこに言葉が記されれば語っていることになるらしく、それは誰かが何かを書いていることの証しだ。またずいぶんと低い位置から言葉が連なっている。語り得ないことを語ろうとするのが間違っている。その時点で書く動機などありはしない。それでも気のせいか以前とは違う風景が見えているようだ。見る位置が違えば見えている風景も変わるのではないか。視点の変化だろうか。わざとそうしているのではないか。苦し紛れの窮余の策か。やはり書く必要がないのに書こうとしている。それが間違いなのだろうか。単に書くことがないのではないか。言葉を記すことは書くことと違うのだろうか。微妙に違っているのかもしれない。正確には書いているのではなく、キーボードを叩いて文字を打ち込んでいるのだろう。筆記用具で書いているのではない。要するに言葉を記しているわけだ。その辺の違いは考慮に入れなくてもかまわないのではないか。文章上で誰かが語っていることにすればいい。そのつもりで言葉を記しているのだろうが、いつもの逡巡になっているようだ。

 流行っているのは感染症のたぐいなのだろうか。ネトウヨとかヘイトスピーチとか巷の話題に事欠かない。エボラ出血熱とかデング熱とか、本物の感染症の方が深刻なのではないか。幻想の感染もウィルス感染も厄介な問題か。たぶん今も誰かが何かに感染している。感染という言葉を比喩として使えば何でも語れるだろう。世界は資本主義・市場経済に感染していて、国家は民主主義に感染している。今さら憲法について語る人たちもいる。また日本語や日本文化を守ろうとする人もいるらしい。抽象的な概念や観念に感染しているようだ。切実にそれを求める気持ちがわからない。多くの人たちがそれらに感染することを求めているわけで、その感染源がその手の学者もどきが表す著書となるのだろうか。その著書が売れていれば感染が拡大しているわけだ。アマゾンのブックレビューで好意的なことを書き込んでいる人はすでに感染しているわけか。感染とは何だろう。改めて考えるまでもないことだ。感染源を隔離するわけにもいかないだろう。個人の主張に何の強制力もありはしない。誰が何を主張してもかまわないわけで、言葉巧みに語りかければ、ナイーブな人たちがすぐになびいてくるはずだ。それがその人のメディア戦略なのではないか。合法的な商売であるのだから、文句を言われる筋合いはない。リベラルかつ保守的な層を取り込むために、多数派に訴えかける戦略なのだ。そのためには憲法を擁護するとともに、日本語や日本文化を守ろうとする姿勢が欠かせない。

 何が違っているわけでもない。何かに感染していないと生きてゆけない。軽度に感染していれば免疫力もつくだろう。重度の感染なら死に至るのか。三島由紀夫のように割腹自殺すればそれが証明されるわけか。死に至る病とは何だろう。それも比喩のたぐいだろうか。それで何を述べていることにもならないが、何か述べているように装うことはできる。それが比喩的な表現を多用する言説の効用なのだろう。強迫観念に取り憑かれているわけではない。死の欲動とも無縁でいたい。常に軽度の感染を装い、何か述べていることに安堵しながらも、実際は何も述べていないような気がしてくるが、現実には何が問題となっているのか。訳知り顔を装っているわけでもなく、絶えず疑念に包まれながら、その対象を批判しているわけでもない。疑念を向ける対象そのものが、疑念を抱かせる原因となっているのでもないらしい。では疑いはどこから生じているのか。疑いつつあるような人の存在そのものだろうか。抽象的な言い回しに惑わされているようだ。わざとそう述べて意識を煙に巻く算段なのか。その辺に素直に語れない何かが浮き出てくる。何かとは何なのか。疑う心そのものだろうか。疑心暗鬼に陥っているのではないか。そんな言語表現を導き出すのも狙いのうちなのだろう。それがそこまでの思考作用を物語っている。だからわざと疑念を抱かせようとしているわけか。まさにそれは疑念のための疑念であり、リアリティを伴わない抽象的な思索の結果だろうか。でもそうなると戯れ言に過ぎなくなってしまうのではないか。実質的に何を苦悩しているわけでもなく、ただの言葉遊びに堕している。

 この世界は人に何を要求しているのでもない。抽象的な観念をとらわれ、幻想に感染している者たちの目を覚まさせようとしているのでもない。そこに至る途中で何かを見落としている。あるがままの現実がそこにある。それをデフォルメして拡大解釈すれば、何やら何の変哲もない現実にも魅力が出てくるわけだ。それに魅了される人たちは、あるがままの現実を受け入れられない。世の中を変えようと息巻いている人たちもそうだ。しかしあるがままの現実をあるがままに受け入れることができるのだろうか。それができないから活動しているのではないか。そして何か主張している。不快な主張もあればたわいない主張もあり、納得させられる主張もあるのではないか。彼らの主張に疑念を抱いているわけだ。そしてその疑念にも疑念を抱かざるを得ない。果たして疑念を抱く必要があるのだろうか。疑念を抱かなければそれについて言葉を記す必要がない。何も語る必要もなくなってしまい、沈黙するしかない。たぶん無理に疑念を抱いているのではなく、それは自然にそう感じてしまうのではないか。日本語や日本文化の自明性、あるいは国家や憲法の自律性、そんなものに寄りかかりながら何か述べていること自体が、何となくごまかしに思えてくる。それらは人の信仰以外に何の支えもない概念だ。しかしそれ以外に何があるのだろうか。何か他に自明で自律的な概念というものがあるだろうか。どうも語り方そのものに問題があるような気がする。ネトウヨだとかヘイトスピーチだとか、物事の単純化のごり押し的な主張に惑わされ、考える手間をかけないやり方に安住する傾向があるようだ。それで済むなら世話はないわけで、済まないから今の閉塞的な状況になっていることなど、百も承知あるはずなのに、やはりそこから目を背け、単純な思考に感染して、幻想を共有したいのだろうが、結局それは宗教でしかない。しかしそれ以外にどんな現実逃避が可能なのか。


10月9日「脱国家社会」

 何を罵倒することもない。現状で独善的にはなり得ない。なる必要がないのではないか。煮え切らない態度で中途半端に語るしかない。それはありふれた普通の態度だろうか。罵倒する人たちに罵倒し返す気にはなれず、ただの見物人を装う。しかし他に誰が見物しているのか。もしかしたら誰も実質的には罵倒していないのかもしれず、罵倒する対象が失われてしまったのかもしれない。個人で特定の個人や団体を罵倒したいなら、それなりの準備が必要か。できればみんな集団で行動したいようだが、誰がそのみんなに含まれるのか。集団に属さない個人が他の誰かを罵倒するには勇気がいるだろう。要するに集団の力を借りて、集団に守られながら罵倒するわけだ。罵倒する連中は自らが属する集団の中にいなければ何もできない。そうでなければ匿名の力を借りてネット上で罵倒するしかない。罵倒とは言葉の暴力であり、暴力を振るうにはそれなりリスクを伴うから、罵倒する相手からの反撃を想定して、それなりの備えが必要なのだろう。集団に属していればその集団が守ってくれる。また匿名なら反撃をかわせる。罵倒する自分を支持してくれる人を想定できれば罵倒しやすいか。結局は損得勘定を考慮しているわけだ。多数派を装って少数派を罵倒するのが無難なところだ。何か特定の集団を罵倒しているように見せかけている。罵倒を演じている姿をメディア向けにアピールするわけだ。そしてメディアを通して賛同者を募りたい。それが真の狙いだろうか。みんなで同じ主張を唱えればその主張が通ると思い込む。願いが叶うと信じている。それが民主主義の幻想だろうか。幻想ではなく実態だと思わなければ、国家そのものの存在を信じられなくなるのではないか。国家は多数派の支持によって成り立っているはずだ。それが民主主義の大原則なのではないか。多数派による支配がデモクラシーの意味なのだろう。それに抗う人たちは支配からの解放を願っている。要するに民主主義国家からの解放を求めているわけで、人があらゆる支配や強制を伴う国家形態から解き放たれる未来を夢想する。

 しかし夢想するだけでは何も実現しない。では集団を組織して脱国家社会を実現するために活動しなければならないわけか。集団を組織しようとする時点で、それは暗黙のうちに国家を目指してしまうのではないか。そこに二律背反があるのだろうか。運動として力を持つには多くの人々の賛同が必要だが、一方で同じ主義主張に賛同する多数派の支配が国家を形成する。では脱国家社会の実現は不可能か。徒党を組むことのメリットがなくなれば、集団の中にいる必要がなくなれば、個人で何でもできるようになれば、そんなことが可能となれば、国家の存在意義もなくなってしまうのだろうが、どうなればそんなことが可能となるのだろうか。そんな状況の到来など俄には思い描けない。他人の力を借りて、それを利用しなければ何もできない現状からは、想像すらできない状況だ。結局は妥協して、他人を利用し他人からも利用され、ギブアンドテイクの助け合い精神を育むしかなく、そうなるとお互いの利己心を抑制して、人々の善意の連帯を標榜する愛の国を作ろうとかいう話になってしまうのではないか。国家による人々への支配やしめつけが厳しくなると、あるいは資本主義・市場経済の蔓延で、人々の間で利己心が増大して弱肉強食の格差社会が顕在化してくると、それに対する反作用で、そういう「愛の国」の実現を夢想する輩が出てくるわけか。やはり夢想するだけでは何も実現しないのだろうが、それとは違う出口がないものか。

 このまま株や債券などの電子商取引量が急激に膨張していって、また農林漁業や工業などのものづくり的な現物の生産とその売り買いよりも、サービス産業ばかりが飛躍的に増大していって、その先にあっと驚く未来が待ち受けていたらおもしろそうなのだが、食料品や衣料品などがほとんどただ同然になったりして、あるいは無料支給となって、まとまったカネを得るには株や債券やFXなどに投資するしかなく、農林漁業や工業は大規模集約化が進み、事務的な仕事も電子化が進み、ほとんど人手を必要としなくなり、余った人たちはコンビニやファストフード店や居酒屋やスーパーでバイトしたり、清掃員や土木作業員をやったりして、小銭を稼ぐぐらいしか仕事がなくなったら、何だか想像を絶する世の中となりそうだ。だがそれと脱国家社会の実現とどう結びつくのか。世の中の大半の人たちが小銭を稼ぐだけで生きゆけたら、労働することに価値がなくなり、そこから国家が税金を徴収するわけにもいかなくなり、税収がなくなれば国家も自然消滅するか、あるいは何か別の統治機構に変貌していってしまうのではないか。果たしてそんな想像を絶する事態が到来するだろうか。


10月8日「いいね!とフォロワー」

 また迷っているのだろうか。おそらく気のせいでは済まないだろう。理由の定かでない疑念を抱きながらも、適当に言葉を並べてごまかそうと試み、言葉に詰まってごまかしきれなくなれば、そこから先は支離滅裂な言動でごまかすのだろうか。何がそうさせるとも思えないが、自然とネガティヴなことを述べてしまうらしい。今の心境に影響されているのだろうか。視界が開けてこないとポジティヴにはなれないのかもしれない。暗中模索も結構だが、いつまで経ってもそればかりだと気が滅入ってしまう。それもある限界を超えると何とも思わなくなるのだろうか。だが限界がどこにあるというのか。暗中模索に限りはない。どこまでも続くのかもしれない。ネガティヴ思考だろうとポジティヴ思考だろうと関係なく、いくら考えてもわからないことがあるのかもしれず、それでも考えようとすれば暗中模索になるしかなさそうだ。どうあがいてもそこから抜け出すことはできない。継続が難しくなり、あきらめてしまいそうになるが、そうならないうちに不可能な成り行きをうまくかわして、また新たな継続の可能性を探らなければならない。それがその手の思考の欠点であり利点でもある。そういう方向へ行くしかないし、行けば行ったらで人々に安心されるだけだ。でも人々という言葉が何を指すのかはっきりせず、特定の何も指し示さない言葉なのかもしれず、そういう用い方をしても、何を述べていることにもならないのだろう。

 報いとは何か。例えば「いいね!」がそうなのか。そこで何が抜け殻となってしまったのか。誰かの誠実さや気分だろうか。その後から何がもたらされているわけでもなく、行き詰まって当然の結果を招いているようだ。君はこの世界の何を見ているのだろうか。たぶん何を眺めていようと、全体的な視点は鳥瞰図的な思考を形成し、たぶんそれが何を意味するわけでもない。人類の歴史が明らかとなるだけだ。それで人間に対する理解が深まり、深まったように思われ、人類や人間という抽象的な概念の意味が示され、示されたように思われ、安心してしまうわけだ。そこに構造がある。それは歴史の構造でも世界の構造でもあり、思想の構造でもあり、思考の構造でもある。まるで構造だらけだ。その種の構造はいくらでも呈示可能だが、肝心の中身がない。おおざっぱなことしか述べられなくなる。だが別に中身があっても同じことかもしれず、中身があろうとなかろうと、構造の呈示は止まらない。構造以外の何が明らかともならず、たとえそこから希望的観測が導かれようと、それが実現することはない。構造は容赦なくそれを呈示する者の思考を空洞化し、その者のすべてを形骸化してしまう。それで何かを語っているような気にさせるわけで、それに接する者たちを安心させる。構造を理解してしまうわけだ。もちろん構造を呈示するだけで満足するわけではなく、そこから構造が刷新される可能性を探ろうとするわけで、何をどうすればいいのかが今後の検討課題となり、そこから討論でも行われ、何やら行動原理のようなものが導き出されるのだろう。

 たぶんそれで何かがわかるはずだ。世界に構造を当てはめて理解しようとする。そして構造の刷新の可能性を探り、そこから今後の世界の成り行きを予測し、変革の可能性を導き出そうとする。果たしてその変革は必要不可欠で避けがたいことなのか。具体的な兆候がなければ、そこから先の予言や予測は抽象的とならざるを得ず、どこまで時代が進んでも、予言通りに予測通りになる保証はないだろうが、とにかく予言し予測して、それで何かを述べているように装わなければ、言説として成り立たないのではないか。人々を安心させるにはそういう言説が必要なのであり、そんなことを語りたい輩も知りたい輩も、掃いて捨てるほどいるはずだ。それを拒否する理由がどこにあるか。どこにもないとすれば、彼らは人々の求めに応じて予言し予測しているのだから、ありがたがらなければ嘘になる。しかし誰がそれを求めているのか。特定の誰が求めているわけではない。そういう空気が社会に蔓延していて、別にそれが偽予言者であってもかまわないのであり、その手の予言者の真偽などどうでもいいのであって、とにかく予言し予測してくれる言説が求められているのだろう。それが人々を利する予言や予測ならなおさら歓迎されるが、破滅や破綻をもたらす内容であってもかまわない。不条理な結末はその手の物語にはつきものだ。思いがけぬ結末に驚きたいのであり、それがその手の娯楽の醍醐味でもある。予言や予測が娯楽となる必要も必然性もあるだろうし、その手の情報に飢えているのだろう。早く結末を知って安心したいわけだ。それが偽りであってもかまわず、結果的にあてが外れてもなおさらかまわない。予言も予測も外れて困ったふりでもしてみたい。

 具体的には何がどうなっているのだろうか。皮肉な結果が歓迎され、そら見たことかと批判したい。それ以上に良くも悪くも思いがけない事態に直面してみたい。誰かが語る世界の構造など吹き飛ばしてしまうような出来事が起こってほしい。もはや皮肉など通用しない状況となって、誰もが慌てふためくような事態が到来してほしいか。たぶんそうはならないだろう。シニカルに語れる範囲内ですべては推移するのではないか。そうでないと本当に困ってしまうか。だから本当に困った事態になってほしいのだろう。だがいくらそれを望んでも他力本願は虚しいだけだ。結局自分で状況を見極めなければならず、それには世界の構造を探り、理解を深めなければならない。そしてそこから今後の展開を予測するわけか。でもそれでは構造分析家や情勢分析家と同じではないか。要するに自らが自らのシニカルさを体現しなければならないわけだ。そうやって利いた風な意見を表明し、人々の同意や共感を得たい。そしていいね!と思われたり、フォロワーをふやしたりして、その手の流行にまみれたい。しかし結局人々とは何なのだろうか。その言葉の対象が何を意味するのか。誰もそんなことなど知り得ないのではないか。感知できないのかもしれず、それが幻影でも幻想の産物でもないとすれば、誰かの意識や嗜好が反映した象徴のようなものなのか。意識と嗜好を同格で並べたらまずいだろうか。結局利益追求の企業論理を嫌うエコロジストたちが、当のフェイスブックやツイッターなどの企業が作り出した「いいね!」や「フォロワー」などの象徴的な価値観に踊らされているということだろうか。それではまさに企業の思うつぼで、手のひらの上で踊らされているとはこういうことだが、それでもそれを利用しない手はないということだろうか。確か数年前のエジプトではその手のSNSを利用して「アラブの春」が演出されたわけで、それが失敗に終り、その過程で多数の死傷者も出たのだから、やはりそういうのを真に受けて、本気で踊り出したらヤバいということだろうか。今それに類することをやっていそうな香港の民主活動家の連中もヤバそうだ。


10月7日「誰でもかまわない」

 先回りしてみても何も出てこない。何をつかんでいるのでもないらしく、秘密も謎もない。だからといってヒステリックに騒ぎ立てて、誰かの関心を惹こうとしているわけでもない。ありのままの現状と戯れているつもりが、いつの間にか取り込まれ、誰かの手のひらの上で踊らされているわけか。話の筋が見当たらない。穿った見方や見解を披露しても、話に説得力が宿るわけもなく、その支離滅裂な内容に驚かされることもない。それらは驚異的な空疎に満たされているのだろうか。何が驚異的というわけでもなく、単なるこけおどし的な表現に過ぎない。意識の中で時間が止まっている。過去のある時点から一歩も前に進んでいない。興味を失う前に時を前進させて、できるだけ現在に近づけなければならないと思うが、身についたこだわりを捨てられない。だからいつも過去の時点に戻って、そこに記されている文字の並びに感動し、その場にとどまりながら、ひたすらそれを読もうとしてしまう。悪しき呪術に取り憑かれているのだろうか。そこから何を抽出しようとしているのか。何を導き出そうとしても、やはりそれはありふれた内容となるだろう。

 例えば世の中には誰でもかまわない人間がいくらでもいて、代わりの人材などいくらでもいて、その人が特定の人物であることに何の必然性もなく、独自の固有名を持っているとしても、それがどのような特性を有していることにもなりはしない。人それぞれに固有名を名付けられていることが、その人がその人であることの証しと思われるが、それは誰でもそうであり、そのこと自体には何の意味もない。誰が誰であってもかまわないわけで、その人が社会の中で特定の役割を担っているとすれば、その役割が課している動作を全うしている限りで、その場にとどまっていられるであり、何かの具合で動作できなくなれば、その場から追い立てられ、すぐさま代わりの人材が補充されて、今度は別人がその動作を担うまでのことだ。そこには何の秘密も謎もない。誰が誰であってもかまわないのは、人をそのような立場に立たせている社会的な状況があり、その人自身の真の特性を拒絶するルールが社会に蔓延しているからではない。真の特性などあり得ないから、とりあえずの役割分担が成立しているのではないか。

 誰かが誰かである必然性を社会が求めているわけだ。実際に定められた手順に従って、その人の社会的な立場や役割を決める仕組みがあり、そうしたルールが有効に機能している限り、誰が誰であってもかまわないわけではない。例えば試合によって勝者が決められ、選挙によって議員が決められ、試験によって合格者が決まる。また契約や約定に基づいて役割分担が定められ、私的な相談によって合意することもある。あるいはくじ引きや抽選によっても定まるだろう。中には脅しや強要が行われることもあるが、それが何にしろ、そうやって何とかその人がその人であることが決まらないと、社会全体が成り立たず、世の中が回っていかないわけだ。

 社会に取り込まれないために、そのような役割分担を拒否する人もいるかもしれないが、特定の立場や地位になろうとしてはいけないわけではない。やはりそういう人もいくらでもいるのであって、積極的に立場や地位を得るために動いている人もいるわけだ。また自分の都合に合わせて新たな立場や地位を創出したい人もいる。社会を都合のいいように変革して、自分が優位になるようにしたいのであり、相対的な対人関係の中で、うまく立ち回りたいわけだ。そんな人間もいくらでもいるだろう。結局誰でもかまわないような人間が、自分だけが特別な人間になろうと画策しているわけで、特別になれなくても相対的には有利な立場に立ちたいのだ。そしてそういう人たち同士での競い合いがあり、社会が自分を中心にして回っているようにしたいのであり、自分を中心に回っているように思い込みたいわけだが、そう思い込みたい人も、実際にそう思っている人もいくらでもいるのだろう。

 そういう水準で考えている限りはそうだ。だが他の水準で考えられるだろうか。なぜか人は特定の主義主張を抱いていて、それに頼って自らの思想を練り上げようとする。そこに何か思い違いが潜んでいるのではないか。たぶんその主義主張を社会に役立てたいとも思っていて、何かより良い社会にするための思想を広めたいのだろうが、なぜそう思ってしまうのだろうか。現実に不合理や不具合が社会に蔓延しているからか。しかしそれらがもたらされている原因は何か。世の中には誰でもかまわない人間がいくらでもいて、その誰でもかまわない人間に自分も含まれていることが、我慢がならないわけで、その誰でもかまわない現状に耐えられず、その漠然としたとりとめのなさから逃れるために、自分独自の主義主張を抱きたいわけで、それを社会に及ぼすことで、この誰でもかまわない状況を変革したいのではないか。だがそれもありふれた考えであり、誰もがそう思っているとしたら、社会の変革どころではなく、そこに主義主張の競い合いが生じているだけで、それもただの現状維持に貢献していることにならないか。やはり行き詰まりの状況から出口を見つけようとする行為自体が、行き詰まりの状況を反映する行為となるしかない。要するにトートロジーとなっているわけだ。


10月6日「子供だましの感情論」

 そこから遠ざかるだけ遠ざかると、その近くにいるような感覚にとらわれ、逆に近づけば近づくほど、そこに何もないことがあらわとなる。何に近づいていたわけでもなかったのだ。人の思うようにはならない世界が広がっていて、過去の事例は理解の助けにはならない。もはやヒトラーもスターリンもいられない世界に暮らしている。現状では何の再来もあり得ない。人はそれを何かの再来と呼ぶかもしれないが、実際は以前の出現とはレベルの違う出現になる。どのように違うかはその時になってみないとわからないだろうが、昔と今で環境が違っている分だけ違っているのではないか。でも何の出現を期待しているわけでもない。現実には何が出現する余地もないのかもしれない。過去のどんな人材も出現する余地がないほど,現状では何かが違っている。過去の繰り返しではない。同じことの繰り返しであるはずがない。すでに未知の領域に足を踏み入れている。現状がどうなっているにしろ、そう思い込める余地があるとすれば、それがどんな思い込みであるにしろ、考える上では好都合なのではないか。眼前に新たな思考の領域が広がっているのなら、袋小路の行き詰まりを脱し得た証拠となるだろう。実際にそんな証拠があればの話だが、そこから何を考えられるのか。何も考えられなければ気のせいか。過去に生きていた人々には未来への夢や希望があり、今ではある程度それが叶えられた世界になっているはずだが、今を生きる人たちは何を夢見ているのか。いろいろな夢を見ているのだろう。それは今のところの逃げ口上で、実際には何も思いついていないわけだ。やはりその近くに行ってみると、そこには何もない。ここは袋小路でも迷路でもなく、ただの空っぽな時間も空間もない場所なのではないか。ここから抜け出ようとすることすらできない。抜け出られないのではなく、ここにはこの世界しかなく、外部がない。要するに抜け出した先にもこの世界がある。すべてが地続きであり、地の果てに海が広がっていて、その海を渡った先にはまた大地が広がっている。それでも何が繰り返されているのでもないのか。移動すればそれだけ時が経ち、以前の時空とは別の場所へと移動している。移動しなくても時が経つだけ違う場所となり、以前とは違う状況の中で暮らしている。空っぽだと思っていると、その思いは裏切られ、時間と空間が意識をどこか得体の知れない領域へと移動させてしまう。

 ならば結局はすべてが子供騙しなのだろうか。何がそうだともいえない。現状が気に入らなければ、子供騙しでは満足できなくなり、何が子供騙しなのかを探ろうとして、袋小路や迷路に迷い込んだと思い、そこから抜け出るための出口を探そうとするわけだ。そして探っているうちに、何を探ろうとしているのでもないことに気づき、探っている状態を続けようとし、現状に対する問いかけを繰り返し、それを同じことの繰り返しだと思うようになる。何を問いかけても返答がないことに業を煮やし、安易な答えにすがろうとするが、それが子供騙しの感情論であることに気づいてしまうと、何に対して何を問いかけているのかもわからなくなる。でも何が子供騙しの感情論なのか。この世界には政治家にはどうすることもできない問題がある。それの解決を政治家に求めるのは酷だが、メディアの論調は政治家に解決を求め、解決できないと政治家を非難するわけだ。それが子供騙しの無い物ねだりの始まりなのだが、誰がやってもうまくいかなくなり、メディアの要請に政治が応えられない状態が常態化すると、まるで今までとは別の誰か有能な人物が出現すると、うまくいくような幻想が唱えられ、メディアがそんな幻想を吹聴して回るようになり、それが時として政権交代などに結びつくわけだが、いくら吹聴してもうまくいかないものだから、だんだん無い物ねだりも行き詰まってくる。そして行き着く先は御用ジャーナリズムの蔓延で、妥協して自分たちの擁護する保守派の政治家や政党が、うまくやっているように見せかけるようになるわけだ。そしていつの間にかそんな欺瞞も欺瞞だとは感じなくなり、政治とメディアが一蓮托生の一心同体状態となって、民を欺いているような状況となってくるわけだが、欺かれている民の方でも、後には退けなくなってくるのであり、欺かれていると指摘されること自体に腹が立ち、体制に批判的な左翼に馬鹿にされているような気持ちになって、反発の度合いを深め、ますますその手の政治やメディアが振りまく幻想に依存するようになる。しかしそれもいくらそうなっても問題の解決には至らない。もはやファシズムの再来などあり得ず、過去の亡霊の出る幕はない。そこへ近づけば近づくほど、空疎な何もない現実があらわとなり、時間的にも過去からだいぶ遠ざかっていることに気づかされる。いくら過去の伝統にすがりついても、過去がそのまま再現されることはなく、ただそれは形骸化した過去であり、過去の抜け殻が郷愁を招き寄せているだけだ。


10月5日「世界が求めていること」

 何度やっても同じことの繰り返しだ。しかしそれだけ時間が経過している。繰り返している分だけ時間が前に進んでいるわけだ。だが何を繰り返しているのか。それが定かでない。現象を捉えられず、言葉が空回りしている。それでも世界に見捨てられたわけではなく、それについて考える余地が残されている。だが依然としてそれが定かでなく、考えようとしているそれが明らかにならない。それとは何だろう。逃げ道も出口もない。それを探しているわけでもなく、それが奇怪な現象であるわけでもない。それを考えている。それとは何か。この世界のことだろうか。すでに見捨てられた現象ではないのか。雨は自然現象だ。雨が降っている。嵐に巻き込まれている地域もある。ところで見捨てられた現象とは何だろう。それは人が作用して起こる現象だろうか。そこに特定の意図や思惑が介在していると思われる。悪あがきのたぐいだろうか。政治的な悪あがきとなるのだろうか。何を予想しているわけではない。苦し紛れに繰り出される冗談のたぐいでもないらしい。ただ同じことが繰り返され、同じ結果を生む。何かのご託宣がくだったわけではなく、御託を並べているのは新聞の社説のたぐいだろうか。それをどこから読んでいるのか。神仏のお告げがどこに反映されているのか。文章を読んでいるわけではない。記された言葉の連なりに誰かの意志が宿る。それが逸脱の形式と見えるわけか。それ以前にでたらめだ。まだ神仏の影響下にあるようだが、詔とは何だろう。勝てば官軍負ければ賊軍になるわけか。そういう方面で争う必要があるとは思えない。いったい誰と誰が争っているのか。誰にしても牽引力が足りない。でも牽引しているコンテナの中身が産廃でしかないとすると、捨て場所にも困るだろう。捨て場に困って不法投棄となるのだろうか。ゴミがどこまでもゴミで、再利用するにはハードルが高すぎる。どう処理しても採算が取れないのだろう。それが放射性廃棄物なら、正規のルート以外には持って行き場がない。何について述べていようと、手間がかかればかかるほど、それだけ取り返しがつかなくなるわけだ。あとから下手にいじると修復不能となってしまうのかもしれない。

 すでに心が揺れ動いているようで、言葉の分散を放置すべきかどうか迷っているようだが、崩壊する手前で踏みとどまろうとしても、すでに手遅れなのではないか。事態の変化を感じ取れず、投げやりになっているのかもしれないが、それはそのまま放置しておいた方がよさそうだ。とにかく修復不可能になるほど突き詰めておかないと、リセットするにしてもあきらめがつかないだろう。その手前で踏みとどまれないのだから、行くところまで行ってしまわないと、あとから悔やんでも悔やみきれなくなってしまう。何度やっても同じことの繰り返しなら、そのまま同じことを何度でも繰り返すしかない。呆れるほど試してみなければ、何も身につかないのではないか。しかし意識して何を身につけようとしているのでもない。そして何を試しているとも思えない。ではいったい何を繰り返しているのか。それは言わずもがなのことだろうか。ことではなくものではないのか。時間が足りないのではないか。余っている時間を有効活用できないらしい。有効活用できないのはことでもものでもなく、機会なのではないか。そしてきっかけをつかめないまま、無駄に言葉を連ね、意味のない記述に終始する。そこに目的を見出せず、遠回りの途中でさらなる迂回を強いられる。そう思えば納得がいくだろうか。それとも冗談のたぐいだろうか。しかし野望とは何なのか。たぶん野望ではなく、何を切望しているのでもない。世界平和を切望しているわけではない。何の行く末を案じているのでもなく、誰の行く末があるとも思えない。すでに終っているのではないか。何かが終わり何かが始まっている。あてが外れているのはお互い様だ。何かの始まりに乗り遅れ、時代から取り残されてしまっているのではないか。でもそこで何が進展しているわけでもないのだろう。その進行状況を把握できず、やはり気づいた時には手遅れになってしまい、毎度おなじみの後悔先に立たずなわけだ。そんな出遅れ感を否めず、またもや何かを逃してしまったらしい。それでもかまわないわけか。状況的にはそういうわけだ。

 その場の気まぐれに振り回され、そんな現状を正当化する根拠も乏しく、至る所で破れかぶれなやり方がまかり通り、それに応じて人々が離合集散を繰り返しているわけだが、きっとそれでもかまわないのだろう。どうせ後悔するのなら、思いっきり身勝手に振る舞うしかないのではないか。実際にそうしている人が多いようにも見受けられる。でもその多くはフィクションの中で架空の登場人物が演じていることだろう。現実には何がどうなっているわけでもなく、何をどうしようとしているのでもなく、そこから利益を得たいのだろうが、思うようにはいかないらしい。作用があれば必ず反作用があり、力が相殺されて大した効果は及ぼせない。その結果として好き勝手に振る舞う機会も逃して、束縛を強いられ、不平不満に引きずられて悪循環に陥り、物事に対する誠実な取り組みを放棄してしまう。現状をいい加減に語ってしまうわけだ。それがよくあるパターンと言えばそれまでなのだが、いくらそんなことを繰り返しても、得られるものは何もなく、やはりそれは言説の空回りなのではないか。あきらめさせるために、記述がそれを目指しているのだろうか。それともそれが世界そのものに跳ね返されていることの表れなのか。そうだとしてもそれを続けざるを得ない状況に追い込まれ、出口のない彷徨を繰り返すばかりで、ひたすら消耗してしまう。しかし何を消耗しているのか。その消耗が老化を招いているとすれば、それは誰にでも当てはまるありふれた消耗に違いないが、それ以外に何があるのだろうか。何もなければ消耗とは言えないだろう。世界はそれ以上の何かを課している。ただ物語るだけではだめで、プラスアルファを求めているとしたら、それは何なのか。それは人為的な変化だろうか。人の活動によって世界が変わることが求められているのだとすると、もう十分それが果たされているような気がするのだが、それは悪い方向への変化ではなく、良い方向への変化だと言えるだろうか。あるいは良いも悪いもなく、ただの変化でかまわないのか。ただ何が変化しているのだろうか。国家と資本の飽くなき利益の追求が招いている変化とは違う何かが変化しているわけか。何かとは何だろう。それはいくら問うてもわからないことかもしれない。そこまでは人知が及ばないのだろう。少なくとも今のところはそのようだ。だが知ろうとしなければ知り得ないことであり、これからもそれを知ろうとする努力が求められているのかもしれない。それは誰が求めているのではなく、この世界が人に求めていることではないか。


10月4日「登山の魅力と火山噴火」

 また性懲りもなくフィクションという言葉で事実をごまかしている。詐欺だろうか。では現実を語らなければならないのだろうか。現実とは何か。現実がフィクションであるわけがない。でもそう述べると何かしら効果があるということだ。現実こそがフィクションだと述べて、その後に効果的な断言が続けば、何か言っているような気がするわけだ。それがこけおどしだとしても、その場を切り抜けられる。だが切り抜けた先に躓きの石が転がっていて、それを踏んでよろめいて、よろめいた拍子に何かを思い出す。そこで失われた時でもよみがえってくるわけか。漫画にしかならないだろう。ことさらに失われた時など求めるはずがない。誰かのささやきが聞こえてこようと、それを聴き逃すまいとして聞き耳を立てていようと、時が経てば忘れてしまうのだし、そこまで出向いて無駄骨を折るより、部屋の中で音楽でも聴いていた方が無難だ。深追いはしない方がいい。劇的な展開を期待しても、劇ではないのだから、それに類する期待はこれから体験する空疎な現実にはねのけられ、何でもないような日々が続き、退屈で死にそうになるだけだ。実際にそうなっている。それでもあきらめきれないのなら、そこから移動するまでだが、移動した先に何を期待しているわけでもなく、紛らわすばかりの思いを再確認して、どこにも移動できない現実に逆らうでもなく、黙って状況の推移を見守るしかないらしい。そう思っている間にすでに空想の領域で言葉を記している。あやふやなことを思い、そのあやふやさに守られながらも、それを糧としてでたらめに語り、その場を切り抜けられないことを悟り、思いがけない出来事に遭遇することは無理だとしても、何かに直面しているという思い込みが、それの代替となるわけでもないのに、心が折れない限りにおいて、抜け出せない迷路の中で耐え忍び、ただ彷徨い歩くことから得られる経験だけで、何かを語ろうとしているのだから、それがもたらされている退屈の原因だとしても、今さら改められるわけでもなく、このままそれを続け、それが破綻する時を待ち続けるしかないようだ。まったく悠長な構えであり、気が遠くなるような時を経て、どこかへたどり着くとも思えず、ただ過剰に言葉を並べて、どこへ逸脱するのでもない堂々巡りの果てに、内部空間がさらに陥没してしまうような閉塞感を覚え、底なしの沼の底から、どこか得体の知れぬ地帯へと抜け出る道を探しているようで、そんなどうにも感覚を想像しながら、何かに束縛されているような感覚が、心を追いつめ駆り立てているのだろうか。それが虚無からもたらされた幻影なのか、それとも現実にその身を覆っている閉塞感がそう思わせるのか、どちらでもあるようで、どちらでもないようで、たぶんどちらであってもなくてもかまわないのだろう。

 他と比べるような感覚ではない。そこに限界があるようだが、限界を打ち破るとかいう展開にはならず、それを見つめるだけで、見つめ続ければ穴があくわけでもないし、何がもたらされることもないだろうが、言葉の連なりを読み続けることしかできず、その状態をどう解釈したいわけでもなさそうだ。結局くだらぬことがまかり通るばかりのようで、フィクションの中で不幸な生い立ちを自慢されても、それは作り話の範疇であり限りでの不幸な生い立ちであり、いくらそれを見せつけられても、別に同情する気にはなれず、かえって不幸でない地味で普通な生い立ちの方がリアリティを感じるわけで、現実の世界においても、不幸で悲惨な境遇にある者たちは、たぶんそれ自体が希有で特権的な経験となっているのだろうし、良心を装うメディアの注目を集めているのだろう。だがそれとは対照的な地味で普通の生活を送る者たちには、それ特有の虚無感と諦念を持ち合わせていて、犯罪と関わり合うこともなく、平凡に生きて死ぬ運命を受け入れながら、何でもない日々の生活に明け暮れ、ひたすらなんでもなく、決して重荷になり得ない空疎を背負い込み、その空疎ゆえに実感を伴わず、感動すらできないので、その代替とはなり得ぬ安い娯楽で我慢しながら、どうにかこうにかそれとは意識できない虚無感をごまかすしかなく、それが求めていた平和だとも知り得ぬまま、そこからもたらされる淡い不満と薄い幸福を受け取るしかない。それ以外を求めるのは贅沢で、不満が誘う無い物ねだりも、本気で求めているわけではなく、求められないことを承知で求めているだけで、求めている素振りを見せるばかりで、実際には何も求めていない。ただ何かを求めていると思い込んでいるわけで、ここではないどこかへ行ってみたいが、それがどこなのかわからず、たぶんその時々で行きたい場所を特定できるのだろうが、そこで行ってみたところで、それは行楽地でしかなく、例えば今回のように観光で山に登り、運悪く噴火に遭って数十人が死んだとしても、果たして彼の地が彼らの真の目的地だったのかどうかは、たぶんはっきりしないのではないか。どこで行く当てもないのに、なぜかたまたま山に惹かれ、そこに登ってみたら、活火山の現実の直面してしまったわけで、それはフィクションの中で不幸な生い立ちを自慢する架空の人物とは別次元の、著しく希有で特権的な体験となってしまったのであり、メディアを通じて人々に偶然の巡り合わせがもたらす自然の破壊作用をまざまざと見せつけ、自然現象と人間の行動の不条理な関係性を浮かび上がらせたわけだ。


10月3日「惰眠を貪る」

 またとりとめのない問いが先行しているようだ。それをやめるか否かについては、俄には判断できないし、やめる気になる時を想像できない。すでに生きていることに飽き飽きしていて、暇を持て余し、隠棲しているわけでもないが、しかし活動家とはどんな種類の人間なのか。彼らは社会問題に取り組んでいるはずだ。批判しているだけなら取り立てて行動に訴えているとも言えない。それでも何かと戦っているつもりなのだろうか。誰に何をとやかく言われる筋合いもない。でも戦っている何かとは何だろう。いつでも人は未来を切り開こうとしている。それは人の状態にもよるのではないか。死んでいる人はもう未来を切り開けないし、これから生まれてくる未来の人はまだ切り開けない。死人の作品に出会うことで、未来の可能性を実感できるとも思えない。少なくとも状況を前向きに考える習慣がほしいところか。まだそこから遠ざかるわけにはいかないようだ。まだやるべきことが残っている。そう思い込めるだけでもまだ救いがあるのか。でもそれは希望的観測などではない。今が最悪の事態なのでもないが、努力が何に跳ね返されているとしても、やはりそれを続けなければならない。そこに未来へとつなげたい何かがあるわけではなく、それが希望であるはずもない。話がてんでバラバラなたわいないエピソードの羅列と化しているだけのようだ。そう読めるなら仕方がないが、それらが一つにまとまる機会は永遠にこないだろう。たぶんまた暗中模索の日々の果てに何も得られなくなる。どうやら今後もそんなことの繰り返しのようだ。安易に話をまとめてもくだらなくなるだけで、何を語っていることにもなりはしない。その内容のほとんどは塵や芥のたぐいでしかないとしても、その中から何かまとまった思想めいたものを得たい。だがそれは求めて得られるようなものではないのかもしれず、幻想のたぐいなのではないか。そう簡単に自らの立場を正当化できる思想などには巡り会えない。それが思想でも哲学でもなくてもかまわないのだが、ただ漠然としたとりとめのない状況の中から、考える手がかりを得たいのかもしれない。だが仮にそれを得たところで、もしかしたらそれは考える必要のないことかも知れない。いったいそこで何を考えたいのだろうか。いつものようにそれがわかれば苦労はしない。

 行動も思考も単純化したところで、それだけ浅はかな人間になるだけだ。フィクションの登場人物がいくら陰謀を巡らせようと、いくらでも陰謀説の虜となっていようと、それだけではこの世界を把握することはできない。その手の黒幕的な人物が把握しているのは、フィクションの世界内のことに過ぎず、それを現実の世界に当てはめるわけにはいかないようだ。だがすべてがそれだけではないとしても、他の方法ですべてを把握することなどできはしない。そしてそれについていくら考えを巡らしても、常に何かを取り逃がしている。しかしそれとは何だろう。それが世界である必然性はない。たぶんそれを探っているとしてもこの世界そのものではなく、それは人為的なハリボテと書き割りの世界なのだ。それが考える対象ではないのに考えようとしているわけだ。それでも架空の君はそこで何を把握しようとしているのか。いつもそこで立ち止まり、何か考え込んでいるような素振りを見せ、現状では何を考えているとも思えないのに、考えているつもりになっているのだろうか。たとえば人のたわいない生と死について考えている。それが嘘だと思うなら、他の誰かが別のことを考えればいい。戯れではないだろう。戯れだと思わなければいいわけだ。そして誰かの声が空洞内に響き渡り、夢の終わりを宣言する。惰眠から目ざめたのだろうか。惰眠をむさぼっていたわけではなく、さっきまでは言葉を記していたはずだ。どこで立ち止まっていたわけはない。立ち止まっていたのではなく、記すべき言葉が思いつかなかったのではないか。たぶんそれ以上に思考が停滞しているようだ。何も考えられなくなっていて、考えようとすればするほど、何も考えられなくなり、それと比例して無駄に言葉が連なってくる。革命思想にかぶれているわけではない。すぐに終る話がいつまでも長引き、そのいつまで経っても終らない話の中で、登場人物たちが疲弊し、惰眠をむさぼり、怠惰な会話に明け暮れ、起こらない事件に思いを巡らし、会話の中でその到来を予言しあうが、まだその時はやってこないようだ。そこに至るまでの時間が限りなく引き延ばされ、何も起こらない状況の中で退屈を持て余し、それでも途中で力尽きないように、余力を残して力を温存している気配も感じられ、どうやらさらにその先でも同じような話が繰り返されてしまうようだ。もはやそれは我慢競べの様相を呈している。

 要するに話が架空になると、それだけ筋の展開の幅も広がってくるように思われるのだが、それでは詐欺のような気がして、良心の呵責でも覚えるのか。しかし現実には何がどうなっているのだろうか。たぶんどうしようもないとりとめのなさを実感させるこの世界があり、現実のこの世界からフィクションが生じていて、生じたフィクションからは別の現実がもたらされ、現実がフィクションによって変容してしまうとすれば、フィクションにもある種のリアリティがあるのだろうが、一方で思い込みの世界があり、それが人間の認識からもたらされた世界だとすれば、その世界とフィクションがもたらした現実がどう重なるのだろうか。思い込みの世界からフィクションがもたらされ、その世界の中ですべてを知っている黒幕的な人物が、自らが率いる組織を操りながら暗躍していて、その組織や黒幕的な人物に立ち向かう者たちを陰謀説の虜にし、その世界征服的な陰謀を打ち砕くために、正義のヒーローが活躍してしまう。あわよくばそんな単純明快なストーリーになればしめたものかもしれないが、現状にはそうはいかないらしい。そうした特定のヒーローや黒幕的な個人崇拝を超えた認識が世界に広がっていて、それだけ多種多様な人材や組織が絡み合う複合的な構造があらわとなっているのであり、それを善と悪の二項対立の構図に当てはめてしまうと、とたんにリアリティを失い、それこそ陰謀論の域を出ない話となってしまう。この世に批判する対象などどこにも見当たらないのに、それでもなお批判しなければならないとしたら、何かが一方的に悪で、それと対立する別の何かが一方的に善であることなどあり得ないはずで、その辺のところも詳細に語らないと、結局批判がその手の独善主義に陥り、まるで共産党のような主張となってしまう。無論共産党は国家と対立しているように見える限りで、その主張は功利的とは思われないので、非難の対象となるわけだが、その逆の右翼的なプロパガンダとなると、国家のためという大義名分が成り立ち、そこに功利的な要素が含まれているように感じられるから、現状では非難するより擁護する人たちの方が多いみたいだ。もちろん中国などの共産党が政権を取っているところだと、共産党の主張に、国家のためという大義名分が成り立ち、それは日本の右翼的なプロパガンダと重なる部分が出てきて、そこに功利的な要素が含まれているように感じられるわけだ。


10月2日「パルチザンとアルチザン」

 それは疑念というほどのことでもない。しかし書かれた文字列から何がわかるのか。読めばわかるということでもないらしい。読んでも理解できない文章などいくらでもありそうで、文章読解力もなかなか上達しない。記されたすべての言葉が分散した文章などあり得るだろうか。ねじれた位置に言葉が連なり、話が噛み合わず、意志も意識もバラバラに生成し、意味のまとまりを担えない。そんな読めない文章を読んで何を考えているのか。昔は読んだつもりになっていたようだが、今回は読めない。たぶん読めないことがわかっただけでも、昔よりは文章読解力がついたということなのか。たぶん目的がなくなってしまったのではないか。必ずしも読んで理解しなくてもかまわないようだ。理解可能な範囲内で理解すればよく、理解できない文章を無理に理解しようとする必要はないらしい。ただ文字が並んでいるのを読める範囲内で読めばいいのだろう。読めたところですぐに忘れてしまい、また読んでもまた忘れてしまう。その内容が記憶に残らなければ、その文章から影響を受けていないことになるのだろうか。無意識のうちではどうかわからない。意識に残らなくても無意識に痕跡を残しているかもしれない。まさかそれらの文章はもう用済みということでもないか。甘く見ないでもうしばらく読んでみた方がよさそうだ。それ以外の何が書かれているわけでもなく、固有名を持った特定の人物が、過去の一時期にそれを書いていたことは確かで、その人物が伝えようとしていたこととは別に、読む者がそこから何かを読み取るとすれば、それは読む者の読み方に関係した何かなのかもしれない。読む者の思考や思想が、読んでいるテクストに反映してしまうことがあり得るかもしれない。

 興味を抱けない内容だろうか。読めないことに興味があるらしい。当時は革命に挫折した者たちの代用物が文学だったのだろうか。でもそれは穿った見方で、文学を貶める解釈だろうか。しかし革命と文学がどう結びつくのだろうか。なぜ文学者は革命を目指すのか。単にパルチザン伝説に踊らされているだけか。今も昔もそうなのだろうか。文学に限らず芸術一般にそんな傾向があるのではないか。そして革命そのものが挫折するしかない概念なのではないか。実際に虐げられ苦しんでいる者たちが革命を目指すわけではなく、学生上がりの活動家がその中心となるわけで、その時点で浮世離れしている。そういうプチブル的な暇人でないと革命運動などやっていられない。暇人がパルチザンで趣味人がアルチザンか。どちらも本来の意味では使われず、ロマンティックな幻想を抱かせる。そしてそんなありふれた偏見を抱いてしまうのは、メディアによる反革命的な洗脳の影響かもしれない。そんな洗脳があったらの話だが、革命的な観念が廃れた現代では、もはやそれを革命と言ってしまってはまずいのであり、革命だとは気づかれないやり方が求められているのではないか。そんなやり方があればすでに他で試されているだろうか。ともかく昔ながらの大衆動員的なやり方はもう通用しないことは確かだ。もっとも実際の歴史上で起こった様々な革命は、それぞれが異なる時代背景の中で異なるやり方で行われたのだろうし、この先革命が起こるにしても、過去に起こったそれらとは異なるやり方になるのではないか。

 そういう世間一般で言われている革命を目指す抵抗運動とは違うが、たぶん現代の風潮の中で自然発生的に起きていることは、それらすべてから外れているのではないか。やることなすこと外れていて、その逆らい方が無意味で無効なのかもしれない。それが小市民的な抵抗の形態となっているのだろう。何がそれを招いているとも思えないが、少なくとも作為的ではないようで、特定の誰の仕掛けでもなく、ただ現状の不快さを文章表現や映像表現として発信しているわけだ。新聞や雑誌や放送メディア以外でそうしている。たぶんそれを政治的な行動に結びつけなくてもかまわないのであり、抵抗表現として幅広く世界に散らばっていればいいことでしかない。政治経済全般が信仰上の幻想に基づいているのだとすれば、それらを形骸化させる一番の方法は、人々がそれらがもたらす利益に無関心になることであり、意図的に無関心を装うわけではなく、そう仕向けなくても自然と無関心になってしまうとすれば、それは方法でも何でもなく、ただそれらを成り立たせている功利的な関心を抱けなくなってしまったのであり、その時点で人々をそこにおびき寄せる芳香が尽きたことになるだろうか。世の中の制度や仕組みがこれ以上良くなることはなく、商品の技術革新も飽和点に達し、流行のモードが変わるだけで、中古と新製品の性能に大差がなくなれば、その先は限られた需要を巡るシェアの奪い合いのゼロサムゲームになるだけだ。そして次第に利益が出なくなり、何もかもが自転車操業状態になって、経済活動による貯蓄が生じなくなることなんてあり得るだろうか。そうなるとどうなってしまうのか。例えば会社の社長と末端の従業員との間で賃金格差がなくなった時点で、真の自由で平等な社会が実現するわけか。そうなるとそういう方面で競争することに何のメリットもなくなってしまうだろう。まあそれは現時点では冗談のような夢想に違いない。そうならなくてもかまわないし、どうでもいいことかもしれない。要するにそれが革命である必要はないわけだ。


10月1日「肯定的な嘘」

 とにかく何事も否定的に考えてはいけない。何もかもすべてを肯定するわけにはいかないのかもしれないが、できるだけ肯定しなければならない。それが物事を考える上での大前提だろうか。なぜそれを否定してはいけないのか。現にそうなっている状況をいくら否定的に論じても、ありのままの現実は揺るがない。現状にいくら不具合や不条理が潜んでいるとしても、それを改められない社会の構造があり、その構造の中で生きているのだから、しかもそれに魅了されているとすれば、それ以上の魅力を備えた何かに惹きつけられない限りは、そこから抜け出すことは不可能なのかもしれない。それを批判する人たちは、物事を単純化しすぎているのではないか。自由と民主主義に育まれた国家にも資本主義にも、それなりの利点があり、それを利用することで楽しい思いをしている人たちが、世界には大勢いるはずだ。おかげで世界中が繁栄し、ありとあらゆる地域で物質的に豊かになり、世の中には魅力ある商品があふれかえるようになった。物質的に豊かになれば、心も豊かになり、今世界は博愛精神に満ちている。これは皮肉でも何でもない。この調子で人々が愛に満ちあふれた生活を送り、世の中が豊かになれば、やがて戦争もなくなり、誰も犯罪を犯す気も起こらなくなるだろう。そんなふうにして世の中は徐々に良くなっているのではないか。何もかもが良い方向に進んでいて、このままゆけば、いつかは世界で暮らすすべての人たちが幸せになれるはずだ。人々は現世で幸福をつかむために生まれてきた。誰もがそうであり、一人として不幸な境遇にあってはならず、みんなで助け合いながら、幸福を目指して日々たゆまぬ努力を惜しまず、暮らしてゆこうではないか。何かの冗談かもしれないが、こういうたぐいの肯定の仕方でかまわないのだろうか。かまうも何も、世界を肯定的な側面から語ればこうなるのではないか。

 確かに現状の半分だけ語るとそうなるのかもしれないが、何か心から外れた内容になっていないか。そう語りながらも、他の誰を助けたいわけでもなく、語るだけは心にもないことを語れるのであり、たぶんそれを否定して、現状に対して非難の声を上げたいのでもないのだろう。ただそれはそれでこれはこれだ。事物と言葉が隔たっていて、その距離感が平気で嘘をつかせる。そんな実感の何が嘘なのでもないのだろうが、たとえフィクションの中で幻想を語っているとしても、ある程度は真実を含んだ言説をもたらしたい。この世界の中で生きていて、何かの到来を待ち望み、ひたすらそれを願い続けているとしたら、それが何だかわからない限りは、たぶんそれと意識せずに、無意識の中で本心から外れたことを願っているのだろう。神はそれを知っている。そしてそれが神の願いからはかけ離れていることも知っている。神が架空の存在ではなく、世界自身だとしたら、世界に人格はなく、世界が何を知っているわけではないから、それは嘘になるだろうか。嘘であろうとなかろうと、他の誰がそんなことを述べているわけでもなく、誰かの意識の中では、述べていることが矛盾を含み、それを自覚しながらも、都合が悪くなると神が登場して、何か啓示のような言葉を受け取ったと思い込み、そうやってわざと自らの真意をはぐらかす。この世は争いに満ちているが、別に戦争がすべてを台無しにしているわけではない。破滅的な戦争が行われ、取り返しのつかない事態になったとしても、人は希望を捨てず、うまく切り抜けようとし、実際に切り抜けてしまうのだろう。この世界は博愛精神に満ちている。そう信じる人たちがいる限りはそれがすべてに打ち勝ってしまうのだろう。憎悪や嫉妬だけではなく、損得勘定がなければ戦争には至らない。そして人はいつでもそれ以上を望んでいる。もっと人が死ねばいいのにと思っているわけではないが、人がどれほど死んでも、この世界はこの世界のままだ。すべてが変化し続けているのだろう。世界は今以上の状態へと変化しつつあり、その中には人の変化も含まれている。それが人にとって救いとなるわけではないが、黙ってそれを傍観しているばかりではなさそうだ。

 人は新たな精神状態へと移行しなければならない。それが実現不可能な目標だろうと、それに向かって努力し続けるのではないか。それは今生きている人とは無関係な努力になるだろう。後の世代に何かが託されている。たぶんそれは今生きている人たちの知恵ではどうにもならないことなのだ。何かの崩壊前夜に何を語ろうと、いったんそれが崩壊してしまえば、そこで評価や価値観がリセットされてしまうのであり、今まで語ってきたことはリアリティを失い、何でもなかったことになる。しかし現状では何が崩壊する前夜なのか。実際に崩壊してみなければわからないのではないか。少なくとも予兆は何も感じない。無理なことのごり押しが現状を招いているとしても、いつまでもごり押しを継続できるとも限らず、いつかは破綻すると思われるが、それがいつ破綻するのかは誰にも予測不可能だろうか。しかし何がごり押しなのだろうか。人がやっていることのすべてがそうだとも思わないが、それを断念してしまうと何もできなくなってしまうだろう。誰かが他人のやり方に反発を覚えるなら、そのやり方がごり押しだからか。周りの人間を巻き込みながら強引に事を進めなければ、何もできないような世の中になっているのではないか。自らの存在をアピールして、自らのやり方に賛同を募って、協力する人たちには見返りをちらつかせながら、そんなふうに事を進めることがごり押しなのだろうか。ごり押しだろうと何と思われようと、相手から協力の同意を取り付けたらこっちのものか。引きずり込まれて損害を被ったらたまったものではないだろうが、たぶんそれが詐欺となるか否かは、結果次第なのであり、成功して利益がもたらされたら、詐欺も詐欺でなくなり、詐欺でなくても失敗して損害を被れば、罵られ賠償を迫られたりするわけか。そしてそれをゲームだと思えば良心の呵責も感じない。いくら誠実に対応しても、損害が出れば何の賞賛も得られず、いくら不誠実な対応に終始していようと、利益さえ出れば結果オーライなのだから、それとこれとは別次元の問題となる。現状が改まらない原因はそこにあり、そんな損得勘定が人の心を荒廃させているわけだが、損得勘定をもたらす社会のシステムが崩壊前夜だとすると、実際に崩壊した後にはどんなことが起こり得るだろうか。

 信用の崩壊をもたらすような事件が果たして起きるだろうか。それは短期的な事件ではなく、長期的な現象となる。リセットすることのできない衰微的な退潮傾向だ。不条理や不具合を対症療法的に対処している限りは、顕在化することはないが、はっきりさせないことが逆にあだとなり、手詰まり感を引き起こし、他にやりようがないから現状維持に終始するしかなく、後は世紀の大発見や大発明でもない限り、このまま文明が終息に向かうのを黙って眺めるしかないのではないか。不連続的な契機がなければ、詐欺師や山師たちも動きようがなく、様々な分野の業種で垂直統合が起こるだけで、混沌から結晶化へ一方向にしか事態が進まないなら、すべてが結晶化すればそこで時間が止まり、その先には何もなく、何の変化も生じない。それをリセットして、再び混沌状態へと引き戻すような力が、世界のどこから生まれてくるのだろうか。たぶん混沌状態とはならず、結晶化するだけだろう。そこで過渡現象が終わりを告げて、定常状態へと移行し、これまでのやり方が通用しなくなる。人々はこれまでとは次元の違う場所で何かをやらざるを得なくなり、歴史の堆積層がもう一段上へ積み重なるわけだ。それが何を意味するかはまだわからない。新しい時代の幕開けには新しい時代にふさわしい人たちが登場するのではないか。旧世代に属する人々は徐々にこの世から消えてゆき、やがて忘れられてしまうだろう。