彼の声101

2014年

3月31日

 大したことではない。日本も江戸時代後期には農村に生じた余剰人員を利用して、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生など北関東の絹織物業において、マニファクチャーのたぐいが起こっていたらしい。江戸幕府は西洋でいえば絶対王政のようなものだろうか。地方の封建領主も健在だったのだろうが、因縁をつけては力を削いだり改易したりしていたのだから、実質的には幕閣と呼ばれる官僚支配体制で、将軍はほとんど官僚たちが担ぐ神輿のお飾り程度のものでしかなく、直接統治したのは8代将軍徳川吉宗ぐらいだったのだろう。それが明治維新で何が変わったかといえば、薩摩や長州の下級官僚たちが軍事クーデターを起こして、神輿の上のお飾りを将軍から天皇にすげ替え、廃藩置県によって地方の封建領主をなくして、完全な直接官僚支配体制に移行したということか。それを世界史的に観れば、プロイセンを中心してドイツが国内統一され、イタリア半島が一つの国家として統一され、南北戦争を経てアメリカも国内統一され、明治維新による日本の国内統一とともにそれらが同時並行的に起こり、イギリスやフランスに次いで、世界の主要な国民国家が出そろった時期になるわけか。

 それがどうしたわけでもないが、他の西洋の国民国家からすれば、日本はそれらとは異質で、例えば哺乳類の中の有袋類のように見られていたりするのだろうか。そうするとロシアや中国は哺乳類にも入れない恐竜のようなものか。一般に有袋類は他の哺乳類との生存競争に敗れて衰退しつつあるらしいが、中には太刀打ちできる種類もあるらしく、有袋類でもオポッサムのたぐいは、生存競争に耐えながら、自然の状態で南アメリカから北アメリカにまで進出しているらしい。

 笑っている場合ではないが、人類の歴史においても生物の歴史においても、ふざけた偏見を利用してふざけたことを主張することができそうだ。それを真に受ける気にはなれないが、国民国家という官僚支配体制について、何をどう理解すればいいのだろう。その中で国民の間に一縷の望みと度重なる幻滅を与えている、議会制民主主義という制度の何が問題なのか。あって当たり前のように思われることの、どこに疑念を差し挟む余地があるわけか。国民のためという表向きの目的以外では、何が真の目的だとも思えず、ただそうなっているだけだろうか。国家の側には各種の役所や警察や軍や裁判所などの官僚機構があり、民間の側には会社や協同組合やNPOなどの官僚機構がある。多くの人たちがそれらの機構に属していて、組織の歯車として自由を奪われながらも、生き甲斐という幻想を抱きながら働いている。別にそれの何がおかしいとも思えず、それらの官僚機構の内側や外側で、何かがおかしいなどと感じること自体がおかしいわけか。

 人々は空気のような透明な何かによって制御されているのだろうか。そこに何か特定の思考があるわけでもないか。人間を機械にたとえてみても、しっくりした理解には至りそうもない。個人の意志や思考を人間一般に敷衍して、何か納得がいく見解などを導き出そうとしても、そもそも見当外れなのかもしれない。それでも考えざるを得ないか。なぜ弾き出されてしまうのだろうか。人間が個人として自立しているわけではなく、人と人とを結ぶネットワーク上の結節点に人が存在していることは自明であり、他人からの直接または間接的な助けがないと、人は生存できない。それらの人と人との相互扶助的な連携関係が、体系的かつ効率的に組織されたものが官僚機構なわけか。

 無論民間の組織を官僚機構とは呼ばないが、義務教育や高等教育を行う学校という機構の中で、能力別に選別され選りすぐられ、結果的に公的機関や民間の会社などに、本人の意志という幻想を抱かされながら、割り振られてしまうわけだから、基本的に学校という機構は、それらの組織を構成する歯車の製造工場であり、広い意味での官僚機構の下請け工場なのだろう。そして昨今にわかに問題となっているのが、工場の生産設備の老朽化で、歩留まりが悪くなっている傾向にあり、不良品であるニートやフリーターなどが多数排出され、そういう現状を考慮して、工場設備の更新時期が来ているとされ、いわゆる「教育改革」の必要性が、官僚出身や二世の政治家たちによって叫ばれているわけか。


3月30日

 今年のアカデミー賞作品賞の『それでも夜は明ける』は、黒人奴隷が延々と虐待され続ける内容で話題を呼んでいるが、ユーチューブでやっている町山智浩Xデーブ・スペクター『それでも夜は明ける』イベント(http://www.youtube.com/watch?v=xkjqIkULjV8)の中でデーブによると、この映画がアメリカの公立高校で観なければならない映画に指定されたそうだ。さしずめこれが日本なら、韓国人が制作した従軍慰安婦の映画が日本アカデミー賞を受賞して、それを文部科学省が全国の高校で観なければならない映画に指定するようなものか。あり得ないことだろう。そういう意味ではアメリカはさすがにしたたかで抜け目がなく、昨今の韓国などが騒いでいる従軍慰安婦問題が、自国の過去の奴隷問題などに波及して、蒸し返されることを恐れ、事前に予防線を張っておいた、という穿った見方もできるだろうか。やはりそういう意味では日本よりはアメリカの方が、何をやらせても一枚上手ということか。もちろんアメリカにも日本の右翼のようなメンタリティの人はいくらでもいるのだろうが。

 結局自由主義は資本主義を介して民主主義につながっているようで、自由主義と資本主義と民主主義は、今の主要な世界で三位一体を成している、とでも考えればいいのだろうか。過去の封建制のもとでは、農民は農奴として土地に縛られていて、領主が取り立てる税と耕せる土地も限られているから、養える人員にも限界があり、余った人たちは農村を追われ、奉公に出されたり、流浪の民となったり、運がよければ都市に流れ着いて、そこで職を得るしかなく、商人がそういう人たちをかき集めて、機織りなどの手工業をやらせたり、各種の職人となって親方のもとで働いたりしたのが、工場の始まりなのだろう。そういう人たちは、農奴のように土地に縛られることから解放されて自由を手にしたわけだが、土地がないから自分たちの労働力を売ることでしか生きてゆけなくなって、自由であるが自由であるだけでは糧を得られず、他の何も売り物がなければ自分を労働力として売るしかない、というジレンマを抱えながら生きてゆくことになったわけだ。それが労働者の始まりだろうか。そしてそういう労働者たちを使って富を蓄えた商工業者たちが、農奴制の封建領主たちを倒した絶対王政を、さらに市民革命によって倒して、議会制民主主義を確立して、労働者たちを過酷な環境で長時間労働させるよりも、絶え間ない技術革新によって労働時間を短縮し、福利厚生を充実させ、労働者たちにも選挙権を与えることで、資本家たちと平等の権利が与えられたような幻想を抱かせ、彼らの子供たちを教育によって、技術革新を担う質の高い技術者に育て上げることで、産業資本主義の発展に結びつけてきたわけだ。もちろん教育からは国家を担う官僚や政治家も生み出され、すべてがかみ合って国家を形成しているわけで、そういうシステムから、それらが内包する矛盾や不具合を止揚する、新たなシステムに移行させるのは容易なことではない。

 それは特定の個人の思想や思考だけで何とかなるようなことではなく、これまでに辿ってきた歴史的経緯のように、自然環境の変動や地政学的な偶然性を含んで、政治・経済的な要因が複雑に絡み合って、それに特定の個人や集団の思惑も介在し、徐々にあるいは特定の契機をきっかけにして劇的に変化したりするのだろう。ともかくそれだけでは無理であることは承知しつつも、何か主張する機会があれば、個人として何か主張したいことがあれば主張しなければならないのだろうし、せっかく主張するなら、過去に失敗した人たちのようにセコく日本の利益ばかりを主張するのではなく、世界全体にとってためになることを主張した方が、後の時代の人たちにとっても見本になるような気がするのだが、やはりセコく日本の利益ばかりを主張する人たちにとっては、そんなのは馬耳東風でしかないことも承知しておかなければならないか。


3月29日

 何もやろうとしていない。道に迷った夢を見たのはいつのことか。どこをどう辿っているのでもないが、話の中で時間が前後している。話す順序が逆のようだ。また過去の回想シーンなのだろうか。意識が思い描いているのはそこへ至る道筋で、実際に記しているのは、またしても余分な言葉の連なりのようだ。それが興味深い紆余曲折なのだろうか。過去の出来事ではないのに、それを思い出しているのだから、嘘なのだろう。何かのついでに今日はそれについて記せばいいのか。安易な選択だ。でも他に何を選べるというのか。とりあえずそこから離れようと思う。ここから離れられないのに、そこから離れることができると思っているわけだ。無理なのか。はっきりしないようだ。はっきりさせる必要もないのだろうか。ここまでは何を語っているつもりもないが、何に語らされているわけでもないらしい。話がどこへ向かっているとも思えない。トンネルの向こう側で誰かに出会ったような気がするのだが、逆光で顔がよく見えない。道を外れているわけではないらしいが、何を意識しても空振りに終わる。それでも少しずつ良くなっていくのだろう。延々と意味のないことを語っていたいわけではない。部屋の壁に絵画を飾る習慣がなく、こだわりに欠けるのかもしれず、何を眺めているわけでもないらしい。外へ出れば自然の風景を眺めて、何か思うのかもしれない。その程度でかまわないのだろうが、うまくいくはずがないと思っている。集団で徒党を組めば、単純になれるわけで、大それたことをやるのも可能になる。大勢で戦い、殺し合う光景を見せられれば、そういうものだと思うしかなく、同じことを飽きもせず延々とやっていれば、相手が根負けしてしまうのかもしれない。そこで何かをかなぐり捨てて、恥も外聞もなく、そういうことをやっていられれば、何かを成し遂げたつもりになれるのだろうか。実際にそんなことをやっていられる状況になってみなければ、何とも言えないところだ。結局何もできずに、あきらめてしまうのだろうか。そこで何をあきらめていると思えるのか。それでも期待しているのだろう。ただ漠然と何かが起こることを期待しているわけだ。

 そこには蔑みも嘲笑もない。何もやっていないのだから、まだそれはない。それが過去のいつだったか思い出せないようだ。いつの時点でおかしくなってしまったのか。気がついたらこうなっていた。どうなっていたのだろうか。うまく言えないようだが、誰と会話しているわけでもない。まっとうに語れない。未だ何ももたらされていない。人のいない方角を向いているだけで、何もないと訝しんでいる。わざとそうしているのだろう。執拗に絡まれているのかもしれない。どうしても邪魔したいのか。変なふうに理解したいわけではない。淡々とやっているに過ぎず、その過程でそんなこともあるのだろう。障害物を乗り越えられず、やむなく迂回する羽目に陥っているのだろうか。どう言い表せば納得できるわけでもなく、そんなことをやっていること自体が無駄で無意味なことなのかもしれず、気晴らしにもなっていないのだろう。何に頼っても大したことは語れない。呆気にとられるような行為でもないらしい。ただ普通に常識の範囲内で何かをやっているのだろう。何事も無難にこなしたい。でもそれが誰の願望ともならずに、どうせそこから逸脱してしまうのだろう。堪え性がないわけか。言葉を記すのが飽きてきて、作り話の中に意識が埋没してしまったようで、ちょっと横道に逸れたが、安易な逃げ道が見つからず、画面の前でフリーズしてしまったようだ。また障害物の手前で考え込んでいるのだろうか。停滞から抜け出せるとは思えない。容易に抜け出せるようでは、まだ行き詰まりの度合いが中途半端な証拠だ。もっとどうにもならない状況に至らないことには、本当の変化は期待できそうにない。その程度で解決してしまったら元の木阿弥で、またいい気になってくだらぬ思考を働かせ、独りよがりなことをやって自己満足に浸ってしまうのだろう。だから今は奈落の底にとどまっているように装いながら、落とし穴から射してくる陽の光の遥かな高みを見上げているのか。そんなはずがない。すでに語っている内容が独りよがりの極致で、わけがわからなくなっているのではないか。そうやって回避している状況とは何か。それを知り得る機会がもたらされず、たぶん何もわからないまま、意識がまたそこから離れていってしまうようだ。結局今のところは何も見出せないようで、そのままにとどまるしかないのだろう。その時点であまりわかったようなことを述べてみても、何だか軽薄なような気がして、もう少し時間が経ってから、それについてはできるだけ具体的に語らなければならないのだろう。そのときが来るまでは、抽象的かつ意味不明な物言いに終始していれば、何とかその身に降りかかってくる災禍をやり過ごすことができるだろうか。しかしそれらの何が災禍なのか。運命はもうすでに決まっているように思われる。


3月28日

 それは見過ごしてしまうようなことか。たぶん気づかない。もう忘れたことになっているようだ。無視して語らなければならない。しかしそんな精神状態で何を語ろうとしているのか。成り行きとは別のところに語るべき内容があり、自然とそこに視線が注がれてしまうらしい。政治資金の8億円がどうしたのか。誰かが誰かに献金したようだ。語りたいのはそういうことではないらしい。はしごが空中に浮いている夢を見たと嘘をつけばいいのだろうか。絵がそうなのだろう。遠近法がでたらめだ。電信柱も宙に舞い、電線が飛んでいる鳥を絡めとろうとしている。たぶんそういうことではないのだろう。何のたとえなのでもなく、ただのでたらめか。誰かの空想なのだろうか。それがとりとめのない未知の記憶となるのだろうか。まだ毒が抜けていないのだろうか。死ぬほどの苦しみではない。君がそれを求めていたのだろう。煙草の吸い殻とマッチ棒の燃え滓から絵が生まれるらしい。数十年前の絵だからそうなのだろう。たぶん理由はそうではない。辛い仕事から抜け出して空疎な気分で煙草を吸っていたのではないか。何かと何かの合間だったのだろう。そこで誰かが語るべきタイミングを逸して、会話にならない会話から遠ざかる。それでも以前に記された言葉が気になるのだろうか。十数年前に買った雑誌を読みながら、そこでタブーなき言論への挑戦が空回りしていて、天皇に関する言説が、人畜無害な紋切型以外はあらかじめ排除されていることに驚くわけもなく、極めて当然のことのように扱われる空気が、たぶんそれがこの国の病理の深さを表しているとも思えず、致命的な日本の弱点だとも思えないところに、面倒な事態になるのを避けようとする御都合主義が立ち現れていると思えるわけか。君は知っているのだろう。おそれおおくてやんごとなき人ではなく、もっと下世話で不都合な秘密が暴かれた人なら、コラムニストの守備範囲であり、いつでも言論・報道の自由を行使して攻撃可能であることを。アレルギー反応のたぐいだろうか。体の中から毒が抜けきれていないようだ。化学反応が皮膚の下で起こっているのかもしれない。それで絶えず腫れ上がっているのだろうか。時間が経てば元に戻る。そして腹が減って何か食べると、しばらくしてまたアレルギー反応が起こって、皮膚がしばらく腫れ上がり、かゆくなってしまうわけだ。かゆくて夜も眠れないか。数日前に卵を食べたのがいけなかったかもしれない。でもかゆくなったら慢性的な胃の痛みが消えてしまったらしい。何にしても痛し痒しでは埒が明かないか。実際にそうなってしまうのだから仕方がない。春は心身ともに異常を来たす季節なのかもしれない。まるでかろうじて生きている感覚か。

 そんな大げさな状況ではない。今のところはそう思っているわけか。そのうち深刻な状態になるはずか。別にそうなるのを待っているわけでもない。そんな感触を弄んでいるわけでもないのだろう。それほど心に余裕があるわけではないか。何かが限界に達しているのかもしれない。過去に通り過ぎた限界は何だったのか。思い過ごしだっただけか。限界にもいろいろあるのだろう。そしてそれが限界でなくてもかまわないわけだ。そう思わなければいいだけか。何が限界なのでもなく、ただそこで何かをやりながら暮らしているに過ぎない。そのやっている何かが肝心なのか。何をやっているとしても、それに打ち込んでいる限りはやりがいがあると思われ、それが持続するわけで、やれる限りはやっているつもりなのだろうが、やれなくなればそれが限界ということか。結局そんなことでしかなく、それをやり続けているのだから、まだ限界ではないということかもしれず、それに関してはあまり悩む必要がないのだろうか。悩みたければいくらでも悩んでみればいい。悩んでいるふりをしながら他人から同情されたい場合もあるだろう。ともかくそういうことは戯れ事の範囲内で片付けられ、さらにそのやっていることを継続しながら、身体を構成する細胞のテロメアをすり減らしてゆき、ゆっくりと生物学的な死に近づきつつあり、不意に訪れる事故死もあるのだろうが、そうなるまではとりあえず現状につきまとわれ、現状の中でもがいているわけだ。どうやら君にとっての出口は自らの死となるのだろうか。その手前までは行かないと納得しがたいか。他に何をどう判断すればいいのだろう。たぶん自らが判断を下せるレベルからほど遠い水準に自然の狡知があるのであり、個人の判断などおかまいなしに、そこで何かが決定されていて、人には覆せない宿命があるわけだ。それを担っているのがスピノザあたりが考えていた無限としての神なわけか。時空連続体の中では始まりも終わりも決定されていて、人は時間の進む方向に従って、始まりから終わりまで存在しているに過ぎず、終わりを免れることはできないらしい。無論その中には気休めの思想として輪廻があり、人は絶えず生まれ変わりながら、永遠の魂として霊的に存在していると考えてもかまわないのだろう。フォースとともにあるわけか。人の思い込みとしてはたわいない観念かもしれない。せいぜいがそんな気休めと共に生きていればいいわけか。本気でそう思っているわけでもないのだろうか。


3月27日

 具体的に何をどうすればいいのだろうか。たぶんそれが語れないのだろう。それがわからないままでもかまわないのだろうか。毒が抜けて素直な気分になれたのだろうか。映像作品が何を意味するのかわかろうとしていないようだ。観ていないのだから仕方がない。戦争は戦争であり、戦争映画は戦争ではない。戦争に関するドキュメンタリー映像ならどうなのか。それを君が観ているわけか。それを観て何か語っているのかもしれず、それに関する文章を読んでいるのかもしれない。でも別にそれが不都合な真実ではない。自分にはこれしかできないと思うことが、居直りとしか感じられないとすれば、それが天職であるわけがないか。まるで獲物の周りに群がってくる何かのように見えてしまう。たぶんそれがハイエナの群れのように見えてしまう状況もあり得るのだろうが、そこから語りだしてもかまわないのか。まだ当分はそんな幻影から逃れられないのだろう。そこで様々な思惑が錯綜しているようだ。何とかしようとすればそうなってしまうのだろう。とりあえずそれに関してはまだ何も語っていないようだ。それとは何だろう。空疎な問いにとどめておくべきことか。そうに違いない。語れないことについて語るわけにはいかないようだ。でもそこに君自身の主張がある。それを明かさなければならないのだろう。今さら主張など何もないと開き直るわけにはいかないらしいが、何も思い浮かばず、その代わりにまとまりを欠いた言葉の断片が連なり、それが何の代わりになるわけでもなく、君を途方に暮れさせるのだろう。状況を打開できずにどうすることもできず、行き詰まったままになるしかないらしい。すでに意識が語ろうとしたことから離れている。窮地に陥っているのだろうか。そんなはずがない。うまく障害物を避けたはずが、真正面からぶつかっているわけか。なぜそうなってしまうのか。そうなるより他なかったのかもしれない。動物の死骸を囮に使い、ハイエナの群れをやり過ごし、オオカミの群れの追跡も振り切り、動物園の空想を使って、ごちゃ混ぜの幻影を歪ませ、記している内容に彩りでも添えているつもりか。それが何になるわけもなく、こけおどしでは誰を戸惑わせることにもなりはしない。正気とは思えないだけか。どうやら実際には語りそこなっているようだ。それだけ空疎な気分となっているに違いない。その気分を後生大事に抱え込みながら、他に何を取り込もうとしているのでもなく、現に語りそこなっている具体的な事象について、改めて仕切り直して考えてみるつもりらしいが、当分はまとまった思考に至ることはなさそうだ。

 どうやらごまかしにも限度があり、うまく語れないままに終わってしまいそうだ。何かから逃げている幻覚を振り払うことができないらしい。正気に戻るのにもだいぶ時間がかかりそうだ。決まりきったことを考え、そこから決まりきった結論を引き出そうとしているみたいで、それで精神の正常さを確認したいのかもしれないが、多種多様な仮面を用途によって使い分けるほど熟練した演技に至ることもなく、始めから何もかもがうまくいかないことはわかりきっていて、それでも語り始めているのだから、ご苦労なことなのもわかりきっているだろうか。しかし本音とは何なのか。世界中のどこへ行っても厳然と人種・民族・性差別は存在しているようだ。それを承知の上でなおきれいごとを主張しなければならないのだろう。コメディアンが映画の中で、他人の差別意識丸出しの本音を引き出そうとして、命がけの倒錯的な演技に挑んでいる映像を眺めながら、誰かが呆気にとられているようだ。たぶんそこまでやる必要はないのに、やらなければ満足いく映像を撮れないとしても、果敢に挑んでハチャメチャな騒動を巻き起こし、現実にしてやったりなのだろうが、実際には何がどうなるわけでもなさそうだ。無理矢理引き出され白日の下に晒された各種の差別や偏見は、派手な暴露の儀式が終わってしまえば、また各人の心奥深くにしまわれ、何事もなかったかのように、進歩的かつ博愛精神の仮面をかぶった人々が街の通りを行き交い、有名大学の差別的な社交クラブ出身のエリート富裕層は、慈善事業に多額の資金を提供して、社会の底辺にうごめく差別され虐げられた人々への援助を惜しまないわけだ。たぶん反差別的なきれいごとを主張するには、常に自分たちが社会の主導権を握った上で為されなければならず、自らが属する上流階級の存在を前提として、下層階級に施しを与える立場を維持したいのかもしれない。


3月26日

 やっていることがおかしいだろうか。別に何がどうなっているわけでもない。たぶんそれがおかしいのだろう。何かがどうかしているのに、それに気づいていないわけだ。それと気づかずに何かを発見しているのかもしれない。それが意識されていないのだろうか。そのうちわかったことに気づくだろう。それを知り得る立場になれば、自ずからわかってしまうのかもしれない。実際にわかってしまったらがっかりしてしまうか。結局何でもないことがわかって落胆してしまうわけだ。何がおかしいわけでもなく、何を期待していたわけでもない。何もかもどうにもなりはしない。それでは困ってしまうだろうか。そのときになってみればわかるだろう。たぶん今はそのときでない。どの時でもなく、今以外のときではない。だからわざとがっかりしなくてもかまわないのか。それでも現状に逆らっているのだろう。君にはどうすることもできない現状に反発しているわけだ。だから八つ当たり気味に体制批判でも繰り出すのだろうか。それでは暇つぶしと変わらない。たぶんそうであってもかまわないのだろうが、具体的に何を批判したいわけでもない。いったい何を用いて言説を組み立てなければならないのか。たぶん西欧文明から生じてくる思想や思考を全面的に信頼しているわけでもないのだろうが、日本古来の伝統や慣習に興味があるわけでもない。無論それは中国やインドやユダヤやイスラム由来の何かでもないのだろう。根無し草のようなものだろうか。特定の何かに頼るのがおかしいと思われてしまうわけか。その時々で何かに依存しているのかもしれないが、本気でそれを信じているわけでもなさそうだ。世界の中で国家間の力関係がどうであろうと、現状で日本が国家として発言力を高めてほしいとは思わない。たぶんそれでかまわないのではないか。桜が咲いたなら花見でもして浮かれていればいいのかもしれない。政治のふがいなさに呆れる気も起こらないのではないか。それでも知性や理性を軽んじているわけでもないのだろう。チャレンジ精神を試したい人なら、アメリカでも目指せばいいのだろう。今の日本では右翼がいくら発破をかけても民は踊りださない。人々はメディアがひいきにしている有名人の活躍に一喜一憂しながら、ほとぼりが冷めた頃に性懲りもなく繰り出される御涙頂戴の感動話に心を奪われていればいいのかもしれない。とにかく今を精一杯生きなければならず、時が過ぎ去らないうちに、やりたいことはやっておかないと、時機を逸して後悔するだけか。しかし君は何をやればいいのだろうか。ただそんな気のないことを語り続ければいいのか。

 この世界の何がすべてなのでもない。何もなければ世界ではない。おそらく語るべきことが他にあるのだろう。たぶんそれがわからないのだ。いつものことかもしれないが、わからないままに語り、語っている間にそれがわかるかもしれないと思うが、そこから逸れていってしまい、いつの間にか語るべきことなんてどうでもよくなって、語るべきでないどうでもいいことを延々と語っている。そしてすべてが矛盾しているように思ってしまうわけか。それが語るべきことなのだろうか。この世界にはすべてがあり、決して相容れないような事象が共存しながら、互いに相争っている。過剰であったり物足りなかったりしながら、生成と消失の揺らぎの中に存在しているわけか。どう説明してみてもしっくりこないようなことだ。そんな思いを更新しながら変化させようとして、それがうまくいったりいかなかったりするわけか。思い通りにはならないようだ。たわいない出来事が意識をそこに引き止め、それについて思いを巡らそうとさせるのだが、一方で絶えずそこから逃れようとして、語りかけのままそこに置き去りにして、それとは別の時空でひっかかった新たなたわいない出来事について語ろうとしてしまうわけだ。そしてそれも語っている途中で飽きてきて、どうでもよくなってしまう。たぶんそれも語るべきことではなかったのだろう。君はそう述べて何を語り損ねているのか。不意に気づいてしまうのだ。語るべきことなんてありはしないことに気づきながら、それが語るべきことだと気づく。そしてそれが間違っていることにも気づくわけか。そうはならないだろう。そうならないようにしなければならないと思うが、それも間違った思い込みとなってしまいそうで、慌てて軌道修正を試み、事なきを得ようとするが、もうその時点で手遅れなのかもしれず、すでにだいぶ間違ったことを語ってしまったらしいことに気づき、自己嫌悪に陥るわけか。そんな話でもかまわないのか。誰を責めているわけでもなく、成り行き次第でどうにでもなることらしく、出口を塞がれているわけでもなく、逃げ道ならいくらでもありそうだ。君はそうやってその場に引き止めようとする出来事から逃げ続け、何とかそんな現実を振り切ろうとして、さらに逃げ続ける。すべては現実からの逃避であり、語っているのは逃走のための言説なのだろうか。でも逃げていく先が定かでない。あてもなく彷徨っているだけか。彷徨っているうちに、気がつけば元いた地点に戻っていたりするのだろう。そんなわけでどうも現実から逃げ切れていないようで、その辺をぐるぐる回っているだけなのかもしれない。


3月25日

 しかしなぜそんなことを覚えているのだろうか。思い出そうとしてもなかなか思い出せず、忘れてしまったことが多いのに、どうでもいいような些細なことばかりよく覚えている。思い出そうと意識しなければ思い出せるのだろうか。でもそれでは何の役にも立たない。いったい何を思い出そうとしているのか。それを思い出せるとは思えない。それはもとから覚えていないことだ。だから別に思い出せなくてもかまわないのであり、思い出したことを意識しないまま思い出しているのかもしれず、それは新たに思いついたことになるだろうか。そんなふうにして思いついたことを語るべきか。語らなくてもかまわない。語る必要さえなく、思い出す必要もなく、思いつかなくてもいいことかもしれない。そんなわけで誰かの体質が変化していることに気づく。体質というより考え方の変化なのではないか。以前より語っている内容が雑になってきたようだ。それは語らなくてもいいことなのではないか。他に何を語ろうとしていたのだろうか。意味のないことだ。そういうことにしておきたいのか。君には雑音が欠かせない。それは昔の記憶ではなく、これから記憶の中にしまい込まれるべき知識か。実質的には何の断片でもなく、ただの幻影に過ぎないのかもしれないが、夢を追い求める者たちはそれにしがみついて、現状の変革を夢想するわけか。何も変わらないわけではないが、変わるには時間がかかりそうだ。そう思われるだけで、本当は夢に操られているだけではないのか。笑劇にもなりはしない。何におびえているわけでもなく、雨の光景を思い描きながら、青天の霹靂をかわそうとしている。そう思わなければいいのだろう。単なる揺り戻しなのか。フーコーの振り子のように、徐々に回転していって、地球の自転運動を感じさせるだけかも知れないが、どこを中心として回っているとしても、回っていることとは関係なく思っているのであり、それが何を出し抜いていることにもならずに、唯我独尊の思考とも関係なく、結果的にそれらの事象とは一定の距離を保っているのだろう。平静を保つことを心がけているように見えるが、内心までは推し量るつもりはなく、ただ装っていればいいのであり、ふりをしていればそれでかまわないこととなってしまうようだ。要するにその件に関してはあまり深入りするつもりはないのだろう。火中の栗を拾ってやけどしたりしたら面倒か。そんなわけで特定の何について語っているわけではなく、何かの寓話を読んでいるつもりで、そこからくだらぬ教訓を導き出そうともせず、素通りしながら横目でちらりと眺め、事情を察したことにしたいようだ。他に何が目に映っているわけでもなさそうで、知らない間に季節は移り変わり、気がつけば春になっている。

 目を閉じて瞑想に耽っているわけでもなく、踏み出そうとした足を慌てて引っ込めようとしているわけでもない。では何をやっているかといえば、誰がそこにいるのかもわからず、誰もそこにいないことに気づいているわけでもなく、ただ考え、自らが何を考えているのかを考えているだけかもしれない。それでは埒が開かないのに、意識がそこに居座っている。それでかまわないのだろうか。たぶんそうだ。それも勘違いのたぐいだろうか。それとともに他に何が勘違いの原因となっているのか。君が思いついているのはそういうことなのではないか。何かを深く心の奥底まで探ろうとすると、底が割れていることに気づき、割れた底から漏れ出てきた感情が、心の表面にフィードバックしてきて、そこで反芻されているわけか。そんなふうにして絶えず循環しているから、いつまで経っても心の奥底で何を思っているのかわからない。本当は何とも思っていないように装いながら、表面的に取り繕って見えるような印象を受け取ることで満足しなければならないのだろう。それ以上詮索するには及ばず、さっさと疑心暗鬼の思考から離れて、それとは別のことを考えていた方が身のためか。どうせ考えているふりをしているのだろうが、涙を流しながらいくらタマネギを皮を剥き続けても、それは徒労に終わるしかなさそうに思われ、それについて無駄に言葉を弄して、それとは違う印象をつかみかけていると思うこと自体が、そもそもの勘違いなのだろうか。では何をどう思えばしっくりくるというのか。思うのではなく考えているわけか。どちらでもかまわないのだろう。相変わらず記された文章からはみ出ようとしている。それでどんな思考をもたらせるわけでもないのだろうが、何となくずれた感覚の中で考えていたいだけなのかもしれず、絶えずずれていないと、ひとたび何かが起これば、簡単に群集心理の中に取り込まれて、面倒なことになってしまいそうだ。ある特定の個人がいかに人格的に立派だったとしても、いったん集団の中に入れば、他人の攻撃的な感情が伝染して、備わっていた立派な人格などおかまいなしに、それを自分の感情だと思い込み、そんな個人の感情が集団の結束からもたらされているとしても、その結束が理性的に振る舞わなければならない義務感を放棄させるのであり、絶えず集団で同じことをやる快楽が優先され、それが自らやりたいようにやっているような幻想を生み、そんな結束に支えられながら、善悪の判断も心の痛みも素通りして、結果的に暴動や虐殺などをともないながら、集団としての目的を遂行させてしまうのだろう。


3月24日

 存在という言葉をいくら弄んでみても話にならない。なるとすればでたらめな話か。そういうのが好きなのではないか。でもからかい半分で語っていては先が見えている。まともな内容では何も語れないうちに、正気に戻ってきてしまい、疲れて眠ってしまったようだ。路上が無人の荒野であるわけがない。そこで意識が途切れている。何を思い出しているのか。立ち上がらずに横たわり、そうかと思えば長時間ソファーに座ったまま、エコノミークラス症候群の心配でもしていればいいわけか。いったい言葉を記しながら何を目指しているのか。戯れが過ぎて方向感覚を失っている。心の中では苦しみもがいているふうを装い、無方向にのびてゆく言葉の連なりを制御せず、なすがままにまかせているようで、それが枝葉に分かれて繁茂するとも思えないが、依然としてでたらめに振れた領域から意識が出て来れないみたいだ。相変わらずまともな言説に落ち着くまでは無駄に時間がかかってしまう。ありきたりになるのがそんなに嫌なのか。そうしないと意味不明だろう。いくらでたらめに惹かれても、でたらめのままでは何だかわからない。戯れ事の範疇で何か考えているだけか。固有名をもたらす歴史的な背景が、言語学的な理論に逆らいながら、人々に反復不可能な一度きりの時間経過を感じさせるのかもしれず、二度と戻ってこない過去を懐かしみ、過去とも現在とも違う未来を予感させるのだろう。人はどこまでも愚かなのか。それとも愚かでないから行き詰まり、以前と同じようなことをやっていては埒が明かないと思い至るのか。たぶん厳しい試練に直面したくない人たちは、行き詰まりの現状から目を背けて、愚かさの中に安住していたいのだろう。それでも生きてゆけると思っているのだから、生きてゆけるうちはそう思うしかなく、実際にそうやって現状と決別する決断を先延ばしにしながら、現状が未来永劫続くことを願いつつ、今にしがみつき、今とともに存在し続けるしかないわけか。果たして今の君がそんな状態なのだろうか。別に難しい判断を迫られているわけではない。何もしなければ現状から押し出されて、路頭に迷ったあげく、どこか得体の知れぬ荒野のただ中へ置き去りにされてしまうのなら、願ったり叶ったりなのかもしれないが、誰がそんな成り行きを期待しているとも思えず、たぶん今しばらくは現状のままなのであり、ひたすら目の前に立ちふさがる行き止まりの光景を見つめ続け、いくら見つめ続けても、行き止まりに穴があいて、その先に道が開けるとも思えないのだろうが、そうかといって足下の地面を掘り進み、地球の裏側まで到達したいのでもなく、適当なところでそんな見え透いた演技にも見切りをつけ、真面目腐って世間に順応しようとしても、もう遅すぎるような気もするし、何ともしがたいから、そんな現状の中にとどまっているのであり、それはどうしようもないことなのではないか。君はまだそこから逃れられないのだ。

 堂々巡りのつもりが、そこから一歩も動いていない現状に突き当たり、心の中に作り上げた迷路で右往左往しているだけか。それも空想の域を出ないことだ。ひたすら抽象的な物言いに終始しているようだが、これでも世界的な何かを反映した言説に近づきつつあるわけか。そんな大げさなことでもないだろうが、いったい何が世界的な傾向を示しているのか。何らかの兆候とか風潮とかが世界的に蔓延していたりするわけか。とりあえずゲームに未来はない。今があり続けるのだろう。ゲームでは未知の領域へ抜け出られないのか。ゲームの範疇に未知の領域はないわけか。絶えず新たにゲームを作り直していればいいのではないか。それに応じて新たなルールを付け足してゆき、ゲーム自体をどんどん進化させてゆけば、自ずから道が開けてゆくのではないだろうか。だから今あるルール内でゲームをしていては、気がつけば置いてきぼりを食っていることになるわけか。そんなわけで人は絶えず法を侵犯し続けなければならず、ルールに背いて現行の秩序を破壊しようと画策しているわけか。自らに有利になるようにルール変更を要求し続け、あわよくばそこから利益を得たい。あからさまにそうしているわけではないのだろう。表向きは法の正義に訴えかけ、法の下での平等を重んじているように見せかけ、現状で不利益を被っている人たちの味方を装い、場合によっては多くの人たちが不利益を被っているように思い込ませ、思い込んだ人たちを言葉巧みに誘導して、法を自分たちに有利なように作り替えようとするわけだ。でも果たしてそれで自分たちの有利になったり、そこから利益を得るに至るのだろうか。やってみて、それに成功すれば、その結果が何かをもたらすのかもしれないが、最終的にどうなるのかは神のみぞ知るわけでもないのだろう。例えばアドルフ・ヒトラーは何に成功し、何に失敗したのか。結果をどう解釈するかによっても違ってくるのではないか。ロシアのプーチンも暗黙のルールのたぐいを破って、クリミア半島を実質的には武力で占領して、今まさに勝負に出ている最中なのだろうし、そういうやり方がこの先何らかの結果をもたらすにしても、結果的に何に成功し何に失敗したかなんて、それをどう解釈するかによって違ってくるわけか。世界史的に観れば、絶えず文明的に遅れた周辺部から、文明の中心に向かって挑戦してくるものが現れ、その挑戦が実を結べば、今度はそこが世界的な文明の中心地となって、一定期間その地域が繁栄を謳歌することになるわけだが、今回のそれが果たしてそういう大きな歴史の流れの中での出来事なのかどうか、今のところはそんなはずもなく、単なる地域紛争のたぐいで片付けられるようなことでしかないか。


3月23日

 誰がやっても同じ結果になるわけでもないのだろうが、ただ漠然としていて、何から手をつけたらいいのかわからず、途方に暮れるような現状だろうか。いつもそうなのかもしれない。そのような組織であり団体なのだろう。形骸化していて、個人ではどうすることもできない。やるべきことがあるとか、まだそこまで至っていない。でも現状はいつもそんなものだ。誰がやってもうまくいかないときはそんなものではないのか。それはそうだが、自分たちのお気に入りだから、うまくいかなくても何とか守ろうとしているわけだ。誰がヒーローなのでもないが、気に入らない人たちに取って代わられたら嫌なのだ。そんなわけで人々は税を搾り取られながらも、否応なく働くしかない。そうすることで、そこから何かの可能性が生じてくるのだろう。そう思うしかなく、そんな現状を再確認している。そんなふうにして誰かとその取り巻きがもうしばらく生き長らえるのか。現状がどうあれ、そのつもりであることは確からしい。でも君にとってはそれが語りたいことに結びつかず、誰かの意図とは違う何かを語らされてしまう。誰かの代わりに語らされているようで、すでに何かが済んでしまった後から、理性的に振る舞うように強いられているわけだ。そんな行為が腹立たしいのだろう。でもそれで何がどうなっているのでもない。この世は相変わらずこの世のままで、この世のどこに君の生きる余地があるわけでもない。余分な存在なのだろう。その程度ではだめらしい。虚無的で空疎な魅力をまといながらも、そこに実体がある。愚かな人たちがコーラとハンバーガーとフライドポテトだけで生きている。そんな未来を空想しているらしい。日本ではご飯と納豆とみそ汁だけで大丈夫か。別にそれが恐ろしい未来とは思わないのだろう。考えていることはどこでも同じだ。虚飾に彩られた世界がある。カネと人材を浪費して精密かつ破れかぶれの映画が制作され、それを喜んで観に行く人もいて、子供騙しのボールゲームを大金で雇われた人たちが演じてみせる。それを報じることを生業とする取り巻きたちも巻き込んで、年中行事が数ヶ月に渡って行われるのだろう。そんな退屈な季節の到来を心待ちにしている人も大勢いるのだろうか。手を替え品を替え、年がら年中そうなのであり、ボールゲームにもいろいろな種類があるわけだ。

 そこで誰が眠り続けているのでもない。居眠りの最中なのは、そんな世の中に背を向けている誰かしかいないだろう。それらの出来事の到来におびえているのかもしれない。狸寝入りなのだろうか。そうやって誰をだましているのでもない。鉄が赤く溶けている。型枠に流し込んでいるのだろうか。そんな灼熱の光景を眺めながら、聴いたこともない音楽でも夢想しているのか。奏でられる音の連なりには磁力がともなっているかもしれない。生じた磁力線に沿って電気を流すと、モーターでも回転しだすだろうか。そんな空想にはとりとめがなく、悪あがきにも進歩がなさそうだ。技のキレも感じられず、それは往年の林家三平が苦し紛れに繰り出したくだらぬだじゃれのようか。噺家なのに話になっていないだろうか。観ている人たちもそれを求めていなかったのだろう。笑えればそれでよかったのではないか。そんなあやふやな記憶をまさぐっているうちに、現実に引き戻され、話のつじつまあわせに追われているのかもしれないが、当時はちゃんとしたこともやっていたのかもしれない。とっちらかっているだけでは意味不明だ。でも語ることができる内容といえばその程度のことだろう。おそらく語れたすべては灰燼に帰す。比喩でも何でもなく、今まさに焼却炉で燃やされているわけか。フィクションの中でそんな光景に遭遇しているのだろうか。話は緩慢に引き延ばされて、もうしばらく読み進めていくと、すでに何を読んでいたのかはっきりしなくなり、それについて語ろうとする気力も失せて、別の何かを語っているのかもしれない。そこで沈黙がもたらされ、何もかもが仕切り直しとなり、気がつけば飽きもせずに以前と同じようなことが語られているようで、それらがもたらしていた高揚はなかったこととなっているわけだ。繰り返されているのはそんなことの反復でしかない。でもそれがまったく同じことだとは思えないのだろう。そこに何らかの差異が生じていて、以前とは少しでも違うことが行われているから、人々はそれについて語っていられるわけだ。差異がなければそれを忘れてしまえばいい。画像がぼやけているのは、そうしておかないと同じような過去の出来事が思い出されてしまうからか。本当は語ることなど何もありはしないはずか。でもそこでおしまいにしてはまずいようだ。だから無理に語ろうとしているわけでもない。まだそれなりに語る余地が残されていて、その狭い余地の中でぎゅうぎゅう詰めになりながらも、本質的には同じことを語っているのに、何か他との違いがあるかのように見せかけながら、ほんのわずかな言い回しの違いを大げさに強調しつつ、みんなそろって良いものは良い悪いものは悪いとカエルのように合唱を繰り返すわけか。

 そう見えないことはないかもしれない。でもそんな幻想を抱いているだけなのだろう。本当は何でもない現実があるだけのようだ。水の中で誰かが踊っている。それも幻想のたぐいだろうか。映像を眺めているのかもしれない。息が続かなくなって、水面から顔を出し、苦しそうに息継ぎしているようだが、そこで映像が途切れ、そのあとのことはわからずじまいとなる。何が終わったわけでもないらしい。それどころが常に何かが始まり続けているのだろう。中には始まるそばから終わっている現象もあるらしいが、少しは長続きするのもあるらしく、それについて語る奇特な人もいるらしい。戸惑っている暇はないのだろうか。すかさず追い討ちをかけないと、取り逃がしてしまうと思っているのだろうか。では追っ手を逃れてどこへ落ち延びることもできないのか。それがゲームでしかないとすれば、大変な世の中がやってきているわけでもなく、遊びの範疇で、気の弱い人たちが追い込まれて、自殺でもしてしまうわけか。気が狂ってそれを三島由紀夫のように見せびらかすには及ばない。そういう語り方が気に入らない人たちがのさばり続け、何を抑圧しているのか知らないが、その代わりに何を提示しているわけでもなく、ほとぼりが冷めるまで黙っていれば済んでしまうのだろう。その存在を忘れられるまでは沈黙を強いられ、あの人は今と思い出されるまでは冗談のような姿勢で待機状態か。でも誰が待っているわけではなく、死神からも見放され、幸福な毎日の中で怠惰と戯れているのかもしれず、惰眠をむさぼりながら、機会をうかがっているらしい。それは何の機会でもないだろうが、その機会が訪れているように錯覚できたらそれでかまわないのかもしれず、そう思い込んでいる限りは、世間が強いるメディアゲームをやり過ごしていることになるのかもしれない。君はその時が来たら何をやるつもりなのか。いつものようにそこで判断すればいいことでしかないか。無駄に語るには周囲への影響が大きすぎるだろうか。誰がそう思っているわけでもなく、それもフィクションの一部と見なしておきさえすれば、簡単にやり過ごすことができるだろうか。また意味不明な言葉のジャングルの中に迷い込んでしまったようだが、君はそこで何を語ろうとしていたのか。感触としては平和な日常がまだしばらく続いてゆくように思われる。塗りかけの塗り絵を仕上げようとしているのではなく、結論を導きだそうとしているのでもない。ではすべては明日へ先送りだろうか。他に何も思い浮かばないのならそういうことになりそうだ。そう述べて何を試しているとも思えない。


3月22日

 何かと何かを比較するということは、比較することによって、その対象の特徴を見極めようとしているわけか。でも比較に飽きてくると、そこからねじれた方向へと思考が逸脱していくのが常だろうか。まだ比較が終わっていないのに堪え性がない。ちゃんとしたことが述べられないようだ。そういう語りの特徴もあると捉えておけばいいのか。わざと論点を外しておちゃらけたいようだ。そういうやり方もあると納得したい。できるわけがないだろう。納得できないからそんなことを述べているのではないか。話を込み入らせて複雑怪奇を楽しんでいるつもりになる。同時にホラー映画の単純さを讃えたくはならないか。中には単純でないホラー映画もありそうだ。一筋縄ではいかないのが、その辺の込み入った事情を反映しているわけか。何の照り返しを浴びているわけではない。でも完全には否定しきれていないが、焦ることはない。言葉を記しつつも、その言葉から何か関係のない事象を無理に連想して、それと前に記された言葉をつなげようとしている。君は曲芸に凝っているつもりなのか。すべてはバリエーションと見なせばいいだけのようだ。それを真に受ける必要はなく、淡々とこなしてゆけば済んでしまうことだ。まだ黄昏れる時間帯ではない。狙っている的をわざと外して悦に入るのも、戯れ事のたぐいとして片付け、次いで箪笥の引き出しを上から順に開け、何かを探しているふうを装い、目当てのものがないことを確認して、代わりに失望感を出そうとしているわけでもないのだろうが、そこから滲みだしているのは、墨汁が半紙に滲みだしている光景を再現しているわけではなく、そんな想像から外れた何かを求めていることの表れかもしれない。戯れに何を記そうと、意味不明の範疇を超えることはない。型にはまるわけにはいかないのか。気休めの何かを求めているわけではないらしく、常にそこから逸脱していってしまう。型にはまった何が気に入らないわけでもなく、型にはまらないことによって自由を手にしたとも思わない。他があり得ないだけか。過激な表現を求めているわけもない。ただ自然とそうなってしまい、後戻りができないほど語りすぎてから、それではだめだと気づいてしまうわけか。そして呆れてしまう。やる気を削いで、語りをねじ切ろうとしているのかもしれない。そんな反作用にどこまで抗えるだろうか。やっていることの何もかもがしらけてしまう来たるべき瞬間を待ち続け、そこに突破口が開けるとでも思っているわけか。虚しい勘違いだろうか。

 抽象的な気分が言葉の連なりに表出している。君の思い通りにはならないことを知らしめているわけか。そこから読み取れるのは試行錯誤の末にとっ散らかってしまった結果か。まだ結果が出きっていないのではないか。結果がでないまま、黄昏れてしまう人たちが忘れられ、わずかに残った人たちは、必死で具体性の断片にしがみつき、何とかそれをものにしようとして、それになりに工夫を凝らしているのかもしれない。ゲームにうつつを抜かしているふりをやめるわけにはいかないようだ。選ばれずに参加することもできない人たちの分まで、ゲームからもたらされる快楽を堪能しなければならない。その身を削り、神経をすり減らしながらも、虚しい栄光を手にするまではやめられず、やめたらそこで脱落なのだから、途中でやめるわけにはいかないところだ。成り行きがそれを強いているのだから、それに逆らうわけにはいかないらしい。そんなわけで君には考えるいとまが与えられていないようで、自動的に語るにまかせて、何とか隙あらば心を蝕んでくる虚無を振り切り、今に至っているわけなのか。気晴らしでそんなことをやっているわけではないらしい。でも命がけというわけでもないのだろう。他のゲームに参加している人の中には、命がけでやっている人もいるのだろう。そこで求められているのは幻想であり幻影でしかないのかもしれないが、それがたわいないものだとは思えず、瞬時に理解できるような事象とは異なり、しばらく経ってから改めてそれについて考えてみないことには、その時何に関わっていたかなんてわかり得ないような何かにとらわれているのかもしれず、そんなことを思っている主体にはどうすることもできないような現象に巻き込まれているのだろうか。すべての現象がそんなふうに推移しているとは思えないが、そんな現象に巻き込まれながらも、自らの主体性を行為の前面に押し出したい人もいることはいて、そういう人たちが世の中を主導しているような幻想にとらわれているわけで、その幻想を共有している気でいるのが、大衆と呼ばれるその他大勢の人たちなのだろうか。それは厄介な傾向だろうか。でもそこから人心を分離するのは容易なことではなく、左翼な人たちが試みているような安易な戦略やへたな戦術は通用しない。彼らは人々の欲望に深く食い込んでいる資本主義を甘く見ているのか、あるいはもとから無理なのか、それとも長年の失敗と失念の上に安住してしまっているのか、その辺がよくわからないところなのだが、もはや社民主義的な富の公平な分配を目指した働きかけではどうしようもなくなっていることだけは確かなようで、永遠にそれは実現し得ないのだろう。それでもSF的な妄想を抱くとすれば、共産主義は人類の宇宙への進出によって実現するのかもしれない。遠い将来に月面や火星に建設される基地内では、そこで行われる目的にために必要な人間しか行かないから、その地で金銭を介した品物の売り買いは発生しないだろう。そこで人々が自給自足している限りは、共産主義的な生活となるしかない。もちろんさらに遠い未来において、宇宙が観光化されれば、宇宙基地に観光客が押し寄せ、そこに売店や飲食をともなうレストランなどができれば、宇宙も資本主義的になるだろうか。


3月21日


さまよえる湖ロプノールの跡


琵琶湖


塩田と化学肥料のプラント工場?


東京都心


ニューヨーク マンハッタン島

 グーグルアースを見ていたら、中国で何やら巨大な構造物を発見してしまった。シルクロードで有名な桜蘭遺跡でも見つけるかと思って、その付近を見ていたら、さまよえる湖ロプノールが干上がった湖底の北に、青い四角の何かがあり、拡大してみるとどうやらそれが人工の構造物らしく、だいたい湖が干上がった跡が琵琶湖と同じくらいの大きさだから、凄まじく巨大な人工物であるようで、何かあると思って「ロプノール」でグーグル検索したら、ウィキペディアの「ロプノール」の項目の中で、それは塩田と化学肥料のプラント工場ではないかと記されていた。青く見えるのは塩水が張られているみたいだ。ちなみに同じぐらいの縮尺で、構造物と東京都心とニューヨークで比較してみると、人工物は東京の山手線内より遥かに広いどころか、ニューヨークのマンハッタン島よりも広いことがわかる。さすがに中国はやることなすことが桁外れにでかい。かつて万里の長城を築いただけのことはある。

 それは逆説でも何でもないが、人は生きている限り何かしら病を患っている。完全に病気が治るのは死ぬときだ。魂が塩化ビニールでできていると、燃やすと悪臭が漂い始め、有害物質が発生しそうだが、それを宿らせた実体があるとは思えず、たぶん架空の何かを想っているのだろう。それが病気なのだろうか。本当にそう想っているのなら、心の病に違いない。でたらめにそんなことを想像しているのだろうが、なぜ魂が塩化ビニール製なのか。プラスチックの魂ではだめなのだろうか。それ以前に選ぶ対象が間違っている。物質ではなく、心がねじれているのかもしれない。そう述べて奇妙な感じを狙っているのか。いつもの意味不明だろう。苦し紛れに違いない。

 そう述べて、何かの肌触りを表しているのだろうか。さらにでたらめを進化させるつもりもなさそうだ。まともに語るのが億劫に感じられる。まともなこととは何だろう。そこに秘密があるわけではない。君が取り逃がしている現実感を、他の誰が捉えているのでもない。昨日とは打って変わって空が晴れ、まぶしすぎるほどの日差しに照らされ、めまいがしているのかもしれない。昼でも薄暗い方が快適だろうか。昨日は一日中小雨が降り続いていたはずだ。でもそれを誰が思い出したのだろうか。思い出したところで、何につながるわけでもなく、思い出しっぱなしのまま、無意味に宙づりとなるだけか。どうやら思い出したのは天候のことではないらしい。何かをつかみかけている。この世界の有り様を肯定したいのか。でも悲惨な境遇にある者はいくらでもいるだろう。恵まれた環境の中で生きているのは、ほんの一握りの人たちかもしれないが、いつの世でもそうだったはずだ。それでも人の生活環境は総体として昔よりはだいぶ改善されたはずで、それだけ余分なことを思っている人も増え、あらゆる方面で分不相応な夢を抱いている人ばかりとなっているわけか。それらの人たちに本当の現実を悟らせてはまずいのだろうか。でも夢を抱いている大多数の人たちをあきらめさせないと、人間社会は成り立たなくなる。あきらめさせるために各種の競争が仕掛けられているわけだ。社会はそんな夢をあきらめた負け犬たちの労働で成り立っているわけか。彼らは何を支えているのか。自分たちの労働で成り立っている社会を支えているわけだ。大してやりたくもない仕事をやらざるを得なくなった状況をもたらした社会を、自分たちが支えているということは、どう考えても納得がいかないか。

 納得がいかなくても、生きていくためには働かざるを得ないのだろう。自分たちを苦しめている社会を支えるために働いているはずだ。まさかそれが本当の現実なのだろうか。だからそんなことを悟ってしまってはまずいわけか。でも本当はその程度でかまわないわけだ。いくらその場の幸運が味方して、あるいは努力が実って競争を勝ち抜いたとしても、そこに待ち受けているのは自己満足という虚無感だけなのではないか。夢から覚めてしまえばそうなるしかないだろう。後は成功の快楽に溺れて自滅するだけか。身も心もボロボロになって悲惨な余生を送っている元プロ野球選手などいくらでもいそうだ。せっかく何万人に一人しか得られない栄光を手にしたのに、末路がそれでは、どう考えても納得がいかないか。結局夢をあきらめても夢が叶っても、悲惨な境遇になる時はなるのであり、ならない場合もあるわけで、どちらがどうということはないのかもしれない。

 君はそこで何を語ろうとしているのでもないらしい。記された言葉の連なりが宙を舞っているわけではなく、地に足がついていないのでもない。諸行無常の響きに酔いしれているわけでもない。何が祇園精舎の鐘の声なのか。西行が何か思ったわけか。武士だったのが23歳で出家して、諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残したそうだが、別に平家物語を語り継ぐ琵琶法師だったわけでもないのだろう。同時代の公家で歌人だった藤原定家みたいな人物よりは、小林秀雄は西行のような生涯を送った人物に惹かれるらしく、それはもっと下世話に源義経などに惹かれて小説を書いてしまう司馬遼太郎よりは、同じロマン派でもやはりひと味違う高級感が漂ってくるだろうか。


3月20日

 何の進歩もなさそうだ。進歩はないが変化があるのではないか。以前と比べれば何か違ってきている部分もあるらしい。気のせいでは済まない。気づかないうちに工夫しているわけだ。でもそれがどんな結果をもたらしているとも思えない。きっとうまくいっていないのだろう。何かが空回りしているのだろうか。きっとそうだ。何にのめり込んでいるわけでもない。空回りしたままでもかまわないのではないか。答えはもう出ているはずだ。それ以上の探求は無用か。すでに出てしまっている答えを認めがたいのではないか。そんなはずがないと思っている。もっと何か肯定的に賞賛されるような答えでなければならない。そうでないと納得しがたいということだろうか。否定されるしかないような答えが出てしまったので困惑しているわけか。なぜそうなってしまうのか。できればなかったことにしたいのではないか。まだ答えが出ていないことにして、探求を続けているように装いたい。でも限界を通り過ぎている。今まで用いてきた言葉で説明するのは無理かもしれない。新たな言葉の用法を定義し直して、それを用いて説明しなければ理解できなくなっている。そんな事態に直面しているのだろうか。でもそれはいつの話なのだろう。ドイツ観念論辺りの話か。今やそれ自体が過ぎ去っているのではないか。それらの探求が顧みられなくなっただけの話か。だからなかったことにして、それなしで済ませられる範囲内で、またそれとは違う方面で探求しているふりをすればいいだけの話だ。たぶんそれで通用してしまうのだろう。君はそれを回避しているわけだ。そういう小難しい思想にはまりたくないのだろう。だから未だに安易な経験論と合理論で済ませようとする。そこであらわになっている矛盾を放置して、説明できる範囲内だけで説明し、できないところはそのままにしてしまう。そういうやり方が限界を迎えているのだろうか。機能不全を起こしているわけか。いったい何がそうなのか。今さら何を蒸し返すつもりなのか。すでに語ってしまっていることを改めるわけにはいかない。改めるなら、それについて新たに語り始めなければならず、それができないから、中途半端に小手先の修正で済ませようとしているのであり、結局うまく説明しきれていないところを、そのままにしておくしかないわけだ。

 完璧を目指すだけの技量は持ち合わせていないらしい。たぶん語りの限界とはそういうところにあるのだろう。歴史上の人物について語る際に、カッコつけてカッコいい人物について批評してしまうのが小林秀雄であるとすると、ありふれた有名人について凡庸に小説で語ってしまうのが司馬遼太郎だろうか。要するに小林秀雄の劣化版が司馬遼太郎か。司馬遼太郎も別に有名人ばかりを扱ったわけでもなく、江戸時代にロシアまで行った高田屋嘉兵衛とか、日露戦争当時の軍人の秋山兄弟とか、それほど有名でない人物も扱っているのだが、小林秀雄のように、江戸時代の国学者本居宣長とか、鎌倉幕府三代将軍源実朝とか、フランスの詩人ランボーとか、ロシアの小説家ドストエフスキーとか、要するにインテリ文学者については誰一人として語れないわけだ。取り扱っている人物のジャンルが違うといってしまえばそれまでのことなのだが、どちらが頭が良さそうに見えるかといえば、カッコいいインテリ文学者ばかりを語る小林秀雄の方だろう。もちろん司馬遼太郎の小説の方が、小林秀雄の評論よりは桁違いに売れているのだろうが、文学や文学者については何一つ語れない司馬遼太郎が、果たして文学者といえるかどうか、その辺が微妙なところかも知れず、司馬がその方面の文学者気取りから馬鹿にされている原因だろうか。もちろん小林秀雄も別の方面の文学者気取りから馬鹿にされているのかもしれないが、小林秀雄が語る人物と司馬遼太郎が語る人物の、どちらの生き様が現代人に影響を及ぼしているのだろうか。どっちもどっちか。君はどちらの作品も直接は読んだことがない。読んだこともないのに冗談のネタに使っているだけで、大した思い入れもなく、根拠もなく表面的に馬鹿にしたいだけなのだろう。その程度のことで済んでしまうのだから、それらの作家や作家が作品の中で取り上げる人物について、深刻に受け止めるような理由がないというか、読めばそれなりに見つかるのかもしれないが、そこまでは至らずにやり過ごしているわけだ。そんなことを述べている君自身が、その程度の人物としてこの世界に存在しているわけか。でもそれがどうしたわけでもなく、そんな人間など他にいくらでもいるはずで、この世界はそういう人間たちによって満たされているのではないか。

 どうもすべてが中途半端な段階にとどまっているように思えてくるが、この感覚は何なのだろうか。その方面では何も極められないのに、極めようとする気もないに、何やらちょっと表面だけ触れて、それで済ましてしまえるわけだ。それでは何を語っていることにもならないのかもしれないが、それでかまわないような気がしてしまうのはなぜなのか。そういう方面ではすでに何かそれなりに極めた先人がいて、別にその先人に倣って極める必要性を感じられないということだろうか。わざわざ君がやらなくても他の誰かがやるから、君はただそんなことをやっている人たちを眺めていればいいだけか。そんな本気になれない感覚に心を支配され、無気力になっている。それでかまわないのだろうか。もしかして他にそういうのとは違う方面で、何かやらなければならないこととかがあるのだろうか。それがわからないままここまで中途半端に語ってきてしまったらしいが、これも冗談で述べている一環なのだろうか。たぶんそういうことについてまともに語るには力不足なのだろう。それと同時にまともに語る必然性を感じられないのかもしれず、どうせ他で誰かが同じようなことを語っているのではないかと思われ、何も君がむきになって語る必要はないのではないかと感じられてしまうのだろう。要するにその程度のことなのだ。切実なことではないらしいが、では何が切実に思われることなのかといえば、それほど切実に思われるようなことを思いつけないのかもしれず、君が語らなくてもかまわないようなどうでもいいことしか思いつかないのかもしれない。しかしなぜ君が語らなければいけないのだろうか。そんな疑念を真に受けていると、もう何も語れなくなってしまいそうだが、要するに語ることに飽きてしまったのだろうか。嘘をついているのかもしれず、そこで踏みとどまるためにわざとそんな嘘をついて、何やら君自身に奮起を促しているのかもしれないが、誰がそうしているのだろうか。どこかで落としてしまって、探すのも面倒な何かが不意に思い出されて、今さらそれにこだわれと命令しているわけか。それが天から発せられているとは思わないが、天啓のたぐいに惑わされるほど選ばれた立場にはなさそうだ。いったい何がそれらの対象を選ぶのだろうか。そして青天の霹靂のように選ばれて戸惑う人物がこの時代に降臨するような環境がどこにあるのだろうか。


3月19日

 たぶんそれは芸術ではない。今や芸術の何もかもが金と暇を持て余した一般人の趣味となった。では何なのか。高尚な何かについて考えているのでもなさそうだ。何かとは何なのか。誰かがそこで聴いているジャズか何かのことか。たぶん着実に染まりつつあるのだろう。そして気づかないうちに染まっているわけか。何かに染まっている。それだけのことだが、それが何だかわからない。そういう処理の仕方があるということだろう。辺りの風景に不安を溶かし込む。何かに気が触れておかしくなる。そういう表現はこけおどし的だろうか。前後の脈絡を無視して唐突に記されれば、ただの意味不明か。やはり芸術からはほど遠いようだ。何が芸術なのかわからず、その辺を曖昧にさせたまま、それ以上の継続は困難を極めそうだが、冗談で述べていることにすれば、一応は納得がいくだろうか。合点がいくわけでもない。それが芸術であるかないかの境界線を確定できるほどの精度はない。少なくとも冗談ではないらしい。何かを嫌悪しているのだろうか。何かとは何なのでもなく、その場にもたれかかっている自意識なのではないか。語っている気でいるのは幻想なのだろうか。意識しているのは誰の内面でもない。少しずつ何かをずらして、目くらましを狙っているのかもしれず、確かに視点がずれている。難解な雰囲気を装いながら、そんなごまかしがうまくいくとも思っていないのだろうが、言葉を記すほどにその気になっているようで、その息が詰まるような何かを心の中に捉えつつ、幾分窮屈に思われるぐらいがちょうどいいのかもしれない。語るべきことではないのだろう。詩的に語ろうとしているのでもないようだ。何かが弾ける手前で踏みとどまっている。そういうふうに記せば、何か語っているような気分になれるだろうか。他の何になりたいわけでもないのに、その場ではそのつもりなのかもしれず、語り手の不在を補うだけの中身を持ち合わせているわけでもない。普通に語ればいいのだろうか。ここでわかりきっているのはそういうことだ。Souliveを聴きながら、何の変哲もないロックでしかないのに肯定したくなる。語るべき対象をつかみかけているのに、素直に語れないのかもしれないが、今は迷っているとしても、結局は語るしかないのだろう。その語らない状態をいつまでも引き延ばしていると、いったいどうなってしまうのだろうか。語らざるを得ない状況となっても語れなくなるわけか。ではその前にどうにかしなければならないだろうか。

 お手上げというわけではない。方法はいくらでもある。その方法で正解というわけでもないだろうが、間違っていてもかまわない。語らないことに終始している。それが君の戦略なのだろうか。誰がそれを望んでいるとも思えない。何か思い出していないか。それは過去につながる何かだろうか。未来への出口ではない。だからできるだけ淡々と語らなければならない。理由がそうなのではない。これから奇妙なことが起こるわけでもないらしい。意識がどこかへ向かっているとしても、向いている方角が奇妙なのでもない。不自然な角度にねじ曲がっているということでもない。一回休みとなるのかもしれず、架空の双六の途上で、賽も振らず、考えごとの最中のようだ。立て直すための時間稼ぎが必要なのだろうか。逃れ去っているのは、誰の関心でもなく、興味深い成り行きを君が見守っているとも思えず、それは極めて当たり前の光景でしかない。時が経っている。思い出しているのは過去の出来事で、未来に起こる出来事を予感しているわけではない。これから何が起こるかは、その時になってみないとわからない。それを予言してどうするのか。的中してほしいのだろうか。何に賭けているとも思えない。のるかそるかの大博打を打っているのでもない。でも微かな期待を思い出そうとしているのかもしれない。何を探っていたのだろうか。でもそのときの気持ちに戻れるわけもなく、今は今でそれとは別の何かを思っている。それに気づくとはどういうことなのか。何が過ぎ去っているとも思わないことが肝心か。それどころか何かがひっきりなしに到来し続けている。未だ過ぎ去ってない何かと、ひっきりなしに到来し続けている何かが同じだとは思えないが、その狭間で新たに何かが生じていることは確からしく、それらの存在と作用が君を悩ませ、戸惑わせているのだろうか。そしてそこに馴染めない現実が生じているわけか。そうではないような気がするが、それを誰が信じているとも思えない。それとはそれに関する説明か。でも何が手探り状態であるわけもなく、そこからわかりやすい結論へと思考を導こうとしているのでもない。すでに語っている内容にとりとめなくなっているのかもしれず、だからひたすら何かを否定し続けているのではないか。意識と思考がかみ合っていないようだ。しかし灰とは何だろう。そこで何が燃え尽きているというのか。ただの意味不明な思いつきか。意識が奇妙な幻影にとらわれているようで、それが思考の邪魔をしているらしい。辺り一面に灰が降り注いでいて、足下にかなり積もっている。雪ではない。別に放射能を含んだ死の灰というわけでもないのだろう。これから何が起こるわけでもなく、黒い雨が降るとも思えないが、不吉な何かが誰かの記述に影響を及ぼしているらしい。渡り鳥の群れか。空一面に鳥が飛んでいる。どこへ向かって飛んでいるのだろうか。もう南極大陸ぐらいしか行き先が残されていないのだろうか。苦し紛れにどこへ逃げ込もうとしているのでもないようだ。ただ飛んでいるだけだろう。予言の書がどこに隠されているというのか。誰かがそれを読みながら、未来の光景を想像している。そういう作り話なら、それふうの雰囲気を醸し出せるだろうか。そうでなければならないとは思わないが、ちょっとぼんやりしすぎている。


3月18日

 誰かがふるいにかけられ、選別の対象から外れてしまったようだ。飽和状態なのかもしれない。昔から競争は激しく、努力が報われる人も少なそうだ。その方面で優秀な人間も掃いて捨てるほどいるのだろう。まあ他人事だ。そういうシステムは面倒くさそうだ。そこから背を向けているわけではないが、関係ないことは確からしく、そうならずに済んでしまったのなら、そういう成り行きだったということでしかない。世の中は常にそういう方向での努力を促しているのだから、そういうことをやりたい優秀な人たちは、そういう方面で努力をすればいいわけで、もとから外れている誰かは、そんなことが競われている光景をメディアを通して眺めるしかないわけだ。だから他人事なのだろうか。でもそれ以外に何があるのだろうか。その手の人たちのように選ばれて何かをやっているわけではないのだから、気楽な心境でいられるだけで、それ以外に何があるわけでもないらしい。選ばれた優秀な人たちには、それ相応の成果が求められているわけだ。その成果が世界的に権威ある何かに認められることか。面倒なシステムだが、そういう人たちの目標がそういうことなのだろうから、そういう成果を上げれば、何やら科学の進歩に貢献したことになるわけだ。場合によっては富や名声を手にできるのかもしれない。メディアの連中も色めき立って、相変わらずの調子で下世話に騒ぎ立てたのだろうが、なぜか「奇跡の音楽家」に続いてごまかしがバレてポシャってしまったようだ。まあアイドルスケーターがオリンピックでメダルも取れなかったのを、涙と感動で逸らせて無理矢理盛り上げたり、彼らのあざとい手法の限界が、まざまざと露になっている昨今なのかも知れず、そういうみんなで一緒に馬鹿騒ぎの演出が、結果がともなわずに空回りしつつある状況を見るにつけ、もしかしてそんな彼らとともに歩んできた時代が、終わろうとしているような予感も覚えるわけで、もういい加減にその手のものには飽きているのではないだろうか。それでもまだ君たちは気が済まないのか。もちろん彼らは気が済まないのだろうから、何かあればまた大げさに騒ぎ立てるしかなく、そういうことをやるのが彼らの仕事なのだから、それはそれでこれからも続いてゆくのかもしれず、どうせ今年多額の金が動いてメジャーリーグに移籍した日本人投手などが活躍すれば、待ってましたとばかりにはしゃぎだすのだろう。それは田舎者が郷土の英雄を自慢するような行為でしかないだろうが、何かおかしいとは思わないか。

 結局みんな世の中に向かって何かアピールしたいのだろう。やらなければならないことがあり、語らなければならないことがあるのだろう。何が何でもそうしなければならないのだろうか。そうすることが生き甲斐であるなら、そういう過剰な自己顕示欲が渦巻いているのが、人間社会の現状なのだろうか。そう語ること自体が自己言及パラドックスに陥っているわけか。何だかそうやって動物的な生存競争を繰り広げているわけなのだろうが、それをおかしいと感じること自体がおかしいか。おかしいと思ってしまうと、やはり自己言及パラドックスに陥るしかないわけか。何やら人として語ってはいけない領域というのがあるらしく、そういう領域内で何か語ろうとすると、自己言及パラドックスに陥ってしまい、そこから先は何も語れなくなってしまう限界というのがあるらしいが、それは勘違いか何かか。何から背を向けている証しだろうか。ちなみに自己言及パラドックスの最たる例としてあげるなら、私は嘘をついている、と述べることだろうが、それと比較して何か違っているか。世の中に向かって自らをアピールしているのがおかしい、と世の中に向かってアピールしていることになるのが、果たして自己言及パラドックスになっているのか、あるいはそれはパラドックスとしては不完全なのか、その辺をどう受け取るべきなのか。そんなことを述べていること自体が蛇足かもしれない。たぶんそれによって何か画期的な発見に至ろうとしているわけでもなさそうで、メビウスの輪の表面上をぐるぐる回っているだけかもしれず、たぶん大したことでもないのだろう。つまらないことにこだわらない方がよさそうだ。この世はくだらぬ冗談に満ちていて、いちいち気にとめていたらきりがないということか。なにかアピールしたい人はアピールしていればいいのであり、騒ぎたい人は一緒になって騒げばいいのであって、アピールすればするほど騒げば騒ぐほど、世間の話題として盛り上がるのだろう。そんなことにいちいちケチをつけるのは野暮というものだ。児童養護施設を題材としたテレビドラマなど見てもいないのに、それに言及したくなるのも、何だかそういう風潮に染まっている証拠であり、要するに愚かなのだろう。


3月17日

 この世界に中心はないようだ。偽の中心ならあるか。それは誰もが知っている。いくつもの中心があること自体、それが偽の中心であることを伺わせる。でもそのいくつもの中心のうちの一つがここにあるのだろう。誰かがフィクションの中でそんなことを言っていた。気のせいだろうか。何がそうなのか。ここにあるのは何の中心でもない。なぜすぐに否定しなければならないのか。何かの中心がここにあることは、それだけで危険な兆しか。でも偽の中心だろう。でもそれは気のせいだ。人は誰も自己中心的に考えている。見かけ上は誰もが天動説を信じている。自己というものがあること自体が、そうなのだから、自己の存在を信じていること自体、天動説の信奉者である証しだ。だからここに偽の世界の中心があるわけだ。その自己を中心として、物語が編まれ語られなければ、誰が物語を語るというのか。他人の物語を語ればいい。自分のことは棚に上げて、他人についてあれこれ語れば、自己中心的な天動説から逃れられるだろうか。でもそれが他人の物語である必要はない。物語である必要さえないのではないか。さらにそれを語る必要さえないのだろう。では他に何を語ればいいのか。誰も君が語ることを望んでいないのではないか。ではそこで何が為されることが期待されているのか。君はそれが偽りの期待であることを知っている。誰が何を期待しているのだろう。抽象的に景気でもよくなってほしいのか。何をもってそう判断するのだろうか。わけがわからないわけではなく、判断材料となる経済指標とかあるのだろう。君には関心のないことだろうか。自己中心的に自分がどうなのかが知りたいのか。今のところは何がどうなっているわけでもなく、自分に関してはお先真っ暗だろうか。自分のことはもういいのであって、それについては語りたくないとすると、他に何を語ればいいのか。結局そういうことになってしまう。自らが語る中心にならなければ何も語れないということか。そこに語る主体が形成されるわけだ。何かを語ろうとしていて、実際に語っているのだろう。何としても語らなければならず、それを語っているわけだ。そう思うなら語ればいい。さっさと語ってそれをおしまいにしなければならない。君が世界の中心に存在しているわけではない。実際は世界の片隅で生きている。ひっそりと暮らしているのかもしれず、そこに何が顕在化しているのでもない。何に関心があるのでもなく、現状を把握できないまま、そんな現状に引きずられながら、何とかその身に降りかかる災難をやり過ごして、どこかへたどり着こうとしている。ここはどこでもないどこかなのだろうか。少なくとも世界の中心ではなさそうだ。何があるわけでもない。冷めたコーヒーをすすりながら、ぼんやりしている。それでも何かが語られているのだろう。時間が止まっているわけではないらしい。

 とりとめのないことを記しているらしい。たぶんこの世界には数限りない無数の中心があり、それを中心として、その周りを何かが取り巻いているのかもしれない。心もその中心に向かって引き寄せられている。でもそれは誰の心なのか。それが君の心だとは思えない。中心には近づかない方がよさそうだ。どこかへ行こうとしていることは確かだが、行き先が何かの中心でないとすれば、何を目指してどこへ行こうとしているのか。その気もないのに何かに引き寄せられているのだろうか。でもその引き寄せられてゆく先が何かの中心ではないのか。そうだとすれば、結局引きずられている現状が、何かの中心から出ている引力によって、もたらされているのではないか。意識ではそれに逆らっているとしても、実際に引きずられているのだから、逆らいつつもその力に抗しきれていないということか。それではだめだろうか。何がだめなのか。その抽象的でわけのわからない中心から心が外れるようにしなければだめだろうか。でもそれが何に結びつくというのか。ただわけのわからない物言いが、さらにわけがわからなくなるだけかもしれない。たぶんそこで何が繰り広げられているのでもなく、苦し紛れに繰り出される知識の断片は意味不明で、炭素原子が五角形と六角形で形作る空疎な32面体の中に、ヘリウム原子が閉じこめられていたりするのだろうが、突然そんなことをひらめいたふりをしてみても、何かの中心に向かって引きずられていく成り行きから逃れることはできず、相変わらず刻一刻と何かの中心に近づきつつあるようだ。そんなふうに誰かが実感しているらしいが、それが何を意味するとも思われないのはどういうことなのか。何も語っていない。語っている気がしないだけか。たぶん何もない世界に何かが起こってほしいのだろう。その何かが起こった後でないと語れないわけか。今は何も起こっていないから何も語れず、ひたすら無駄に言葉を連ねるばかりで、そうすることによって、まだこの世界では何も起こっていないことを表現しているつもりなのだろうか。それでは語っていることにならないから、そうならないようにしなければいけないのではないか。すでに何かの中心に到達しているのかもしれない。引きずられていった先に何かの中心があり、それが世界の中心としての日本だとでも思っているわけか。まさにここは空疎の中心なのかもしれない。何もかもがでたらめに分散していて、すべてが中途半端に語られ、どんなに深刻な出来事も笑い話のたぐいにしかならない。たぶん茶化して語らなければ、気が狂ってしまうのではないか。出来事に関係する人たちが、もとから正気でないのかもしれない。でも何かが渦巻いているその中心には何があるのだろうか。何もないから茶化すかごまかすしかないのだろうか。とにかく何かがあるように見せかけなければならない。何もないから、気づかずにそこを通り過ぎてもらっては困るのだろう。例えばそんな無の中心に、天皇が存在しているように見せかけなければならない。そのために大げさな儀礼の儀式を行ったりして、中心に何か偉大な崇拝の対象があるかのごとくに振る舞うわけで、あたかもこの世界の中心がそこにあるように信じ込ませたいわけだ。そんなふうにすべては見せかけることにかかっているかのように思われ、メディアは何かがあるように見せかけようとするばかりで、人々の関心を引くために日々必死なのだろうか。それは涙ぐましい演技なのかもしれないが、そのみすぼらしい自尊心を過剰に飾り立てて、見せている当のものはいったい何なのか。例えば孤児院の子供たちの人情話で世間の同情を誘ってみても、空疎以外の何がもたらされるわけでもないらしく、その何もない偽の中心で演じられている物語が、真の経験を遠ざけるための儀式の役割を果たしているのだろうが、感性の劣化を引き起こすそれらの現象を肯定しなければならないとすれば、それについてどのような言葉の組み合わせが必要とされるのだろうか。


3月16日

 ほとぼりが冷めたらまた彼らは物語るのだろうか。いつものようにそれは愛と勇気と友情と感動の物語となるわけか。そうなるしかない。そうやって困難に打ち勝って、勝利でも手にすればいいわけか。そこに葛藤があるのかもしれず、スランプに陥り、途中で挫折しそうになると、都合良く手を差し伸べ、励ましてくれる友人や先生などが現れる。そんな物語が語られるのを望んでいるのだろうか。君がそれを期待している。そうなってほしいと思っている。君は物語がハッピーエンドに終わるのが好きだ。それと君の現状が関係ないとしても、その程度ではだめだと思っていても、そうなってほしいと思っているのだ。そんなたわいない嘘をついてでもそれに執着しているふりをしたい。それ自体が嘘なのか。無理があるのだろうか。物語れないのに物語ろうとする。語る内容がないのにそれが物語だと思い込む。それと何を混同しているのだろうか。そういうのが好きなのだから仕方がない。真に受けるやつが悪いのだろう。誰にだって弱みがあり、それを握られてしまうと、とたんに黙ってしまうわけだ。だからそういう方面で感動話を練り上げてしまうのは、狭い部屋の中で諸刃の剣を振り回すようなものか。もしそれがエクスガリバーだったらどうなっていただろうか。ライトセイバーあたりにしておけばよかったと後悔するわけか。意味不明なはぐらかしが過ぎるだけのようだ。透明の雨合羽を羽織って薄色のサングラスをかけた男ににらまれる。でもそのあとはゴールドベルク変奏曲を聴いているわけだ。その手のごまかしには限りがあり、感動とは無縁の何かをつかむには、そうした方がいいように思われるのかもしれないが、それが物語とも無縁であることが、致命的な欠陥としてあらわとなり、君を動揺させ、それとこれとは無関係であることも思い知らされ、嫌な気分がこみ上げてくる。世間では通用しない語り方なのだろう。怠惰な気分に意識が流されている。誰かが聴いているのはトニー・ウィリアムスのドラムなのだろう。それとジョン・ボーナムのドラムが共演しているわけではない。確か君はビリー・コブハムの派手なドラミングが好きだったはずだ。フュージョンよりはプログレ風の曲でやっているやつか。そういえばチャーリー・アントリーニはまだ生きているのか。比較すればビル・ブラッフォードなどはそれほど超絶テクでもないのだろうか。

 そういう方向で語るのには持ち合わせている知識に無理がありそうだ。強引に語っても誰の物語にもなりはしない。だから少し戻らなければならない。人を感動させようとする物語など、どこかへ吹っ飛んでしまったらしく、浅はかな欲望にとらわれるのはよくないらしい。途中のたとえが的外れだったのだろう。いったい何が諸刃の剣の比喩に適合するのか。被害が計り知れないので使い道のない核兵器などがそうか。保有している国は多いのだろう。今度大規模な戦争が勃発すれば、どこかの国が使わざるを得なくなるのだろうか。そんな核の抑止力が、各国の首脳連中にとっては足かせとなり、決定的な事態となるのを回避する方向での、慎重な対応を促しているわけか。でも武器なら実際に使いたくなるものだ。永遠に使われない兵器というのが果たして存在し得るだろうか。あるいは今後改良されて、通常兵器として使えるようなものが発明されるのか。シリアや中央アフリカ辺りの戦闘が一段落すれば、しばらく世界的に平和な時期が訪れそうに思われるが、ガザ地区などでイスラエルとの小規模な空爆とロケット弾攻撃の応酬が続くだけか。そういう面で世界的に戦争を回避するような歴史的な流れになってきているのだろうか。それとも単なる小康状態の時期であるだけで、気がつかないうちに後戻りできないほどに軍事的緊張が高まっていたりして、ある日突然世界のどこかで大規模な戦闘が開始され、君が生きているうちに第三次世界大戦とかを目の当たりにしてしまうのだろうか。でもそんな大げさな出来事を通して何かが劇的に変化するとしても、果たしてそれで良いのか悪いのか、そんな多大な犠牲をともなわないと世界は変わらないとすれば、面倒だからこのままの世界でもかまわないと思うのが普通の感覚かもしれない。何かが少しずつ変わってきて、気がつけば何となく良い方向へと変化しているらしく思われるなら、それに越したことはないのかもしれないが、今がその途上にあるのか、そんなふうに思えるとすれば、おめでたいのかもしれず、世の中に警鐘を鳴らしまくって、狼少年状態の人々から笑われてしまいそうだが、それでもかまわないのかもしれない。メディアが持ち上げていた感動話が崩れさるのを嘲笑しながら、何を皮肉るわけでもなく、そんな出来事をきっかけにして、所詮は子供騙しで大人をだます手法が廃れて、人それぞれであってもかまわないような世の中になってほしいのかもしれない。そんな他人の欲望を自分の欲望だと思い込んで、誰もが同じ欲望を追い求めて競い合わないような世の中になったら、今より少しは生きやすくなるだろうか。


3月15日

 様々な要因が様々に作用して、何か興味深い出来事が起こる。説明しようとすれば、そういうたぐいの説明になりそうだ。何を説明する気もないのに、果たしてこれでいいのかと思うが、実際にはまだ何も説明しようとしていない。そのつもりになれないのだから、それでかまわないのかもしれない。どうやらまた迷っているようだ。説明しようとすると思いとどまり、思いとどまったままでいると説明したくなる。矛盾しているのはいつものことか。言葉を弄して何か表現しようとしているのだろうが、意識が世間の話題に惑わされているようで、それを語らされてしまう成り行きに逆らっているのかもしれない。迷っているとはそういうことのようだ。どうせくだらないことなのだろう。そう思ってしまえばおしまいか。ではおしまいにならないように、何か適当に語らなければならないだろうか。世の中には様々な人がいる。様々な人がやっていることを様々に分析して、それについて考えてみる。それが架空の思考なのだろうか。本当は何も考えていないようだ。興味深い出来事など何も起こらず、何も説明しようとしていないのが現実か。君がそうなのだろうか。少なくとも他の誰かはそうでない。架空の領域では、どこかで誰かが演説している。そんな映像を見ているふりをしながら、現実には空疎な気分で言葉を記している。それに関して誰かと誰かが討論会で議論を戦わせているのかもしれないが、なぜ人は演説するのだろうか。例えばそれが選挙戦だからか。そういう話の設定なら、そこに集った聴衆以外にも、その演説内容がニュースか何かによって、不特定多数の人々に伝えられることを願って、そんなことをやっているのだろうか。でも君は演説の内容を知ろうとしない。興味がないからか。あるいは気に入らない人が演説しているからか。そのような光景にリアリティを感じられず、それが大々的にメディアに取り上げられて騒がれないと、それについて語る気にもなれないのかもしれない。誰かが大衆に騒がれないとその気にならないのか。大衆はメディア病にかかっていて、大衆自体がメディアによって作り上げられた幻影であるのだから、大衆に実体はないのだが、そんなでたらめを君は信じられるだろうか。本当は誰がそれを批判しているのでもなく、メディア上で批判的に取り上げられた人物や事象を、それを鵜呑みにした人がその気になってメディアとともに批判している気でいるだけか。そうならそうでかまわなければいいのに、気にしてしまうから、それらの話題を共有しているつもりになり、その話題を通じて不特定多数の人たちと精神的につながっている気でいるわけか。別にそれが勘違いというわけではなく、実感を伴っているわけだから、現実にその人はメディアが仕掛けた情報の罠にかかっていて、その罠の中でメディアが作り上げた幻影を見させられて、それについて思ったり考えたりしながら、その気になっているわけか。中にはそれについて語っている人もいるだろうし、その話題を共有しながら、ネット上で議論を戦わせている不特定多数の人たちもいるのだろう。そしてそれが誰の思うつぼなのかもわからないまま、興味深い出来事として、誰かによって取り上げられていて、それについて説明しようとしている奇特な人も、それらの罠にはまっている人の中にはいるらしい。そういうことだろうか。

 本気になるにはほど遠い何かを感じながら、嵐が到来する予感もなく、誰の思考があたりをぐるぐる回っている。感性の問題に還元したいのだろうか。大滝詠一が『颱風』を歌っていた。どこからパクってきたのか知らないが、それらしい雰囲気をまとい、それらしいことを歌い、それらしい演奏が取り憑いている。かなり昔の出来事だろう。ハッピーエンドの頃か。それが何かの付け足しであることを否めない。またわざとはぐらかそうとしているのか。それが助け舟だとは思えない。もたらされた情報とはそんなものだ。偶然の巡り合わせなのだろう。本気でそう思っているわけではないが、気分が乗ってこないのだろう。それでそんなことを述べている。気まぐれにそう思い、そんな思いが何をもたらすとも思えず、怠惰な気分でそこから遠ざかりながら、逃げ切れるとも思わず、立ち往生気味に言葉を記して、何とかまとわりついてくる虚無を振り切ろうとして、さかんに誰かが悪あがきを繰り返しているらしい。でも何を悪く言うつもりもないのだろう。心臓の鼓動が不規則だろうか。不整脈か何かか。ここで死んでしまったらまずいか。君は終わりを知っているはずだ。実際はすでに終わりを通り過ぎている。それが偽りの終わりだったのかどうか、これからはっきりするわけか。でもはっきりした頃には手遅れとなっていて、その結果を受け入れるしかないのだろう。でもすでにそこで何が決定されているのだろうか。そんな予定調和の成り行きは受け入れがたいか。どんな決定が下されていようと、それを無視していられるだろうか。君がそれを行うわけではない。何を受け入れようとしているのでもなく、ただそんな決定が下される光景を眺めているだけだろうか。たぶんそれはメディアを通じてもたらされる映像であり、それについて語るニュースか何かとなるのだろうが、それを信じられるのだろうか。その内容にもよるだろう。息苦しいのだろうか。そうなる予感がするだけか。そんな予感を意識の中から振り払いたいのか。現実にそこで何が起こっているわけでもない。でも何か予感がすることは確かなようで、これから起こる出来事に賭けているわけでもないのだろうが、巻き込まれるのかもしれず、それが全世界的にそうなのか、あるいは地域的に限定された何かなのか、その辺がはっきりしないが、ともかくまだしばらくは待たなければならないようで、それに向けて何か準備しておいた方がいいのかもしれず、意識してそうするのではなく、今のうちに勘を研ぎ澄ませておく必要があるのかもしれず、その時が来たら誰かの勘に頼らなければならないのだろう。それは何かの冗談なのかもしれない。今のところはそう思っておいてかまわないか。しかし君はそうやって誰からの啓示を待っているのか。それは神ではないらしい。何かの物語から触発されているのではないか。でも今その物語を探していたのではなかったか。出来事に関する記憶が前後しているようだ。語る順序が正しくない。でもそれが君の狙いなのだろう。相変わらずそれについてはまともに語りたくないようだ。何か嫌な思い出でもあるのだろうか。たぶんそう思ってもらってかまわないのだろう。これからどんな事件に巻き込まれるにしろ、その渦中で何を考えてみても、もう手遅れなのだろう。でもあらかじめ考えておくことはできず、何かが起こったあとからでしか考えられないのであり、そのときはもう手遅れなわけで、結局何も活かされずに終わってしまうようだ。それが予言の言わんとするところか。


3月14日

 マラケシュは観光都市なのだろうか。そこで何かに追われている。そんなはずがない。でも何かをやり過ごしたのもつかの間、ほっとしていたらおかしな方向へ意識がずれている。陽が射してきたようだ。敗北のイメージを抱きながらも、たぶんその経緯については語れないのだろう。事の経緯を説明する語彙が単調となり、さっきから同じことばかり述べているように感じられ、壁にぶつかってから、慌てて目の前の行き止まりを回避しようとするが、今さらどこへ逃げても行き止まりのようだ。どこへ行こうか迷っているうちに、前もって決めておいた逃走経路がわからなくなり、いつの間にか堂々巡りの悪循環に陥っている。これではだめそうだ。何かの計画が失敗に終わったわけか。現実には何の計画でもありはしない。どうせまた意識が現実の世界から外れてしまったのだろう。やりかけの作業を放り出して、漫画でも読んでいるのではないか。真面目にやっていられそうもない。人と人のつながりを断ち切って、周囲から孤立してしまうわけか。いくらあくびが出ても、それだけのことで、何がはかどるわけもなく、携わっているそれが遠のいたように思われ、君とは関係が薄れてくる。そんな言い回しでは意味不明か。それのついでに時事問題からも遠ざかりつつあるのかもしれず、何だかあてが外れてがっかりだろうか。また飽きてしまったのだろう。時が流れ過去の話題も忘れ、そのときの気分もどうでもよくなっているのではないか。理解できないことは他にもあるだろうか。我慢していては何も進まない。ただ耐えているだけでは何も変わらない。でもそんなふうに振る舞うしかないわけだ。ひたすら我慢しながら耐え続け、何を我慢しているのか、何に耐え続けているのかわからなくなるほど、そんな態度と姿勢をとり続ける。君は頑な人間だ。きっとそう思い込んでいるのだろう。誰もが世界的な文化の傾向と無関係ではいられないようだが、君はどのような風潮に染まっているのか。別にその引きこもり具合が尋常でないということもない。我慢し続けていると、そのまま精神を病み、乾涸びてミイラとなり、永遠の命と引き替えにして、無生物と成り果てるのかもしれない。そんな偽の妄想に心が動くわけもなく、さっさと取り除いて、別の何かを導入して事なきを得ようとするが、空疎な気分をごまかすわけにはいかないようだ。やっていることは大したことではない。幻影が映し出されたスクリーン上で演じられる何かと変わりない。いくらそんなものを見せつけられても心は動かず、虚しい欲望の渦巻く暗がりから抜け出して、昼の日差しを浴びながら、光合成が行われている植物の葉が複雑に折り重なっている光景でも眺めているつもりか。納得しがたい状況だろうか。誰の心境がそうさせるのか。

 いつまでもごまかしていられるはずがなく、幻想の流刑地から脱出して、現実の世界へと記された言葉の連なりとともに歩みださなければならないのか。それ自体が幻想なのかもしれないが、見出せないことはいつまでも見出せないだろうし、視界が適度に遮られたまま、網膜に焼き付けられた醜い染みを追い求めているわけではなく、たぶんそれは実体をともなった何かなのだろう。でもそれが見出し理解しなければならない事象とは思えない。それが何だかわからないのに、何がどう思えないわけでもないだろうか。それについて語れることは限られている。そう述べてごまかしているわけか。具体的な事象については何も語っていない現実に逆らいたいのだろうか。できないことについて何も述べられないわけか。それが例えば煙草の吸い殻から生じた灰であろうと、産業廃棄物の焼却灰であろうと、灰に含まれる成分は異なるかもしれないが、そこから何を連想しようと君の勝手なのだろうか。事物が燃焼して、その燃えかすについて語ることが、何を意味することになるのか、君にそれが理解できるだろうか。メディア的な出来事は、それが起こった後から必ず言葉がついてきて、それらは執拗に言葉に付きまとわれ、それについて語り尽くされようとする。彼らもなんとかしなければと思っているのだろうか。彼らなりに決着をつけたいのだろう。でも実際にやっていることはたかが知れていて、その結果として引き起こされる反応は、漫画の作者を脅迫したり、それに関係する図書館の本を破いたりの、ぬるいテロのようなものか。彼らは人々に向かって何を見せつけたかったのか。やっていることが過激にはなり得ない限界のような状況を知ってもらいたかったのか。きっと犯罪者としては力不足なのだ。全世界を敵に回すほど個人としての人間は偉大ではない。そのせいぜいが悪ふざけの延長上で、それが集団として組織化されても、アルカイダやオウム真理教のごときやり方になるしかない。そこには何としても限界があり、各人の自由を犠牲にして、組織的な拘束のもとに服従を誓わなければ、過激なことは何もできないわけで、要するに国家からの自由を獲得する目的からすれば、やり方が本末転倒なわけだ。無理なことをやるためには他のすべても無理にしないと、何もやれなくなってしまう。それではやはり自由からはほど遠い。国家が保有する警察や軍隊などの暴力装置に対抗するために、こちらも暴力に訴えてしまえば、それは国家権力を強化するための口実になるのはわかりきったことだが、本来それらに逆らうとはそういうことだろうか。たぶん人々はそういう方向へと誘導されているのだろう。現状がおもしろくないように思い込まされて、そういう現状に逆らおうとすると、そんなことしかできなくなり、そんなことをやり続けるうちに、気がつけば犯罪者となっているわけか。ある程度は嘘をついたりごまかしたりしないと、世間に認められないと思わせる何かが、世の中に渦巻いているわけか。それは昔からそうなのかもしれないが、そうやって世間的に大成功を収めた例も数知れずなのかもしれない。社会はそんな積み重ねの上に成り立っているわけだ。


3月13日

 世阿弥は流刑地の佐渡島で何をやっていたのか。夢に能面で顔を覆った誰かが現れた。それは嘘だろうが、誰かとは誰なのか。誰でもなく、何かの幻影だろう。なぜそれが観阿弥ではなく、世阿弥なのだろうか。どちらでもなさそうだ。能について詳しくもないのに、なぜ語ろうとするのかわからないが、それは能の本質から離れたイメージとしての能なのではないか。それ以前にたぶん語ろうとしても語れないのではないか。実際にそうだ。そんなことを思い、自分には関わり合いのないことのように思えてきて、そこでやめてしまう。何を語るつもりでもなかったのだろう。誰に呪われているわけでもないらしい。能と呪いは無関係か。でも幽玄の心とは何だろうか。空が暗い。雨でも降り出すのではないか。空気が湿気を含んで生暖かい。どこかのビルの屋上で風に吹かれながら街の風景を眺める。部屋の中でそんな想像をしているのだろう。君の嘘っぱちにありがとう。そんな歌を聴いているのだろうか。君の親切にありがとう。それと幽玄の心とは関係ないか。何を受け入れているわけではない。壊れたイメージがかけらとなって空から降り注ぎ、空っぽの心を満たすわけでもない。はしごを上った先に三階の屋上がある。不自然な構造だ。まだ夢の中なのだろうか。なかなか妄想と想像の迷路を抜け出られず、言葉が地表面上でうごめく人影を捉えられないようだ。その連なりに何を託しているわけではない。なぜ人は極め付きの光景を求めるのか。能を観賞しながら思い描く光景が、呪言が発せられる荒野でもないか。能にこだわる必然性がないのだろうが、まとわりついて離れないのはなぜだろう。思考の邪魔をしているのか。雨がコンクリートの壁にしみ込む。ブロック塀の色も水分を含んで濃くなる。でも繰り出される言葉には無関心だ。言葉が大地にしみ込み、土の下で眠っている死者に届く。幻想だろう。どこへ帰ってゆくわけでもないらしい。相変わらず空白に何かが記されている。それが二律背反を構成することもなく、お互いに絡み合うことはない。人は仕事から離れたいのではないか。退屈で死にそうか。人にもよるのだろうか。嘘がばれて、だまされていた人たちが怒りの声を上げているわけではない。笑い話で済ますつもりらしい。そんなことが記された文章を読みながら、何を思うわけでもなく、当事者ではないのだから、事の顛末とは関わり合えないことを実感して、別の何かに興味を抱こうとしているのか。無理にそうすることはないだろう。では他に何を想像しているのか。急かすことはない。しばらく瞑想すれば、また何か思いつくのではないか。それまでは辛抱していろというわけではないだろうが、語ろうとしなくてもいいのかもしれない。

 迷っているのだろうか。いつもそんな感じがするが、架空の誰かが迷っていることにしておきたいのだろう。自分が迷うのが面倒くさいらしい。他に誰が迷えば納得がいくのか。そういうことではないのは承知しているが、何となくその迷いをよそへ逸らしたい。できるはずのないことをやろうとしているわけか。それぞれに関係のない様々な事象が交わることなく逸れてゆき、そこに空疎な気分だけが残る。そんな光景を想像しているのかもしれない。インドの大都市に人があふれかえっているようなものか。視線が何を捉えることもなく、焦点を定められぬまま、ただ街中を彷徨い歩くばかりか。文明が栄えている証しだろうか。世界中でそうなのではないか。実際にはそこで生きている限りは、食っていかなければならず、何かしら経済活動が行われていて、それに従事している人たちが大半を占めているわけだ。金銭を介して人と人が交わり、商売や交易とともにそれらの人たちが存在しているわけだ。美学だけでは存在できない。そんな現実を直視している限り、芸術のたぐいとは無縁でいられるだろうか。能と狂言などの伝統芸能から、意識が遠ざかるばかりか。心に余裕がないと、そういうところまでいけないのだろう。経済的に豊かでないと、心に余裕も生まれず、そんなことにうつつを抜かしている場合ではないということか。人それぞれであることに変わりなく、それらの大半は趣味の範囲内でそうあるべきで、のめり込むのは仕事として従事している人々に限るべきか。それも人それぞれで受け止め方も感じ方も異なり、とっかかりのきっかけはどこにでもあると思い込んでいれば、不意にそんなことを思ってもかまわないのであり、誰の勝手でもなく、君の勝手で大して知りもしない事情について、気分次第でいい加減に語っても、その場の成り行きがそうなら、そんな気分に忠実であっただけとなりそうだ。現実の積み重なりとそれについて思考する人の思い入れとの混合物が歴史となり、それを信じられるならば、それについて語ってもかまわないのだろうし、語ろうとする各々が語れる範囲内で語っている現状があるのだろう。難しく語ろうとすれば、理解できる人の範疇も狭まり、易しくおおざっぱに語ろうとすれば、何も語っていないのと同じことか。でも何が難しく思われ、理解しがたいのだろうか。偉人伝のたぐいで語っては、語っていることにならないのか。特定の国王や皇帝や有力武将や宰相の歴史ではまずいのか。詩人や哲学者や思想家や画家や音楽家の歴史ならどうだろう。数学者や物理学者や錬金術師や夢想家などの歴史も加える必要があるだろうか。要するにそれが偉人伝としての歴史だ。他に王朝史や戦争史や経済史や宗教史や芸術史などの歴史もありそうだが、それとは別に考えるべきことがないだろうか。俄には思いつかない。確実にわかっているのは、何について考えているのでもないということか。雨に濡れる真夜中の街を誰かが歩いている。その後ろ姿を思い描き、それがどんな歴史とも無関係だと思う。人は現に生きている。それだけのことなのに、眺めている光景とも関係なく、何に思い当たるでもなく、ただ時が過ぎゆくだけのように思われ、そんな感傷に浸ろうとする意識に逆らいながら、何かとりとめのないことを考えているようだ。


3月12日

 どこかで諍いがある。絶え間なくそうなのではないか。いつでもどこでもそういうことになる。それが普通なのだから、そうなるしかないだろう。何と何が対立しているわけでもない。すべてがすべてに対立しているとしても、それが普通だと思えば済んでしまいそうだ。それらの何を批判できるとも思えず、ただ事の成り行きを眺めている。現実にはそんな立場ではない。では何を想像しているのだろう。何が何に勝っているとも思えない。誰かの押し付けがましい創意工夫に引きずられて、そうすることが当たり前のごとくに感じられてしまうのだろうか。実際は違うような気がするわけか。やっていることに綻びが見え始めているようだ。でもそれが命取りになるわけでもないのだろう。予定調和というわけではないが、多少のごまかしは大目に見てもらえるのかもしれず、不必要に波風を立てないように振る舞えば、何とか乗り切れる程度のことなのだろう。手遅れとなってからだいぶ遠くまできてしまったようだ。そんな気がしているだけか。焦ることはない。そんな段階はとっくの昔に通り過ぎ、今がどんな状況なのか、皆目見当がつかないふりをしているのかもしれないが、何が何だかわからないままとなっているわけでもないだろう。なぜか知らないが、たぶん過去に何か疲れることをやっていた記憶が残っていて、それを思い出しながら、それとは別の作り話を記そうとしているのかもしれない。でも途中で行き詰まっているのだろう。そして今さらそれをなかったことにしたいのかもしれず、嫌になってしまったようだ。うまく語れないことを語ろうとしている。話にまとまりがなくなって、収拾がつかなくなってから、いつも手遅れ気味にそんなことを思う。とっ散らかったライブ演奏を聴きながら、何か追いつめられた気分となっているようだが、ここは部屋の中だ。気にすることではない。何が一流で何が二流や三流でもないだろう。すべては取り返しのつかない状態で、その場で繰り広げられていることだ。今さらなかったことにはできないか。誰がやってもうまくいきそうにないことを、火中の栗を拾うがごとくにやらざるを得ない人たちがいるだけか。そして当然のようにうまくいかなくなって、周りから批判されている。世の中はそんなことばかりだろうか。中にはたまたまうまくいったように思われてしまうこともあるのではないか。できればそういう成り行きの中で何かをやっていたい。誰かが屋根の上を傾きながら歩いている。青空を眺めているらしい。印象をつかみ取り、何か語っているようにい装い、うまくその場を切り抜けて、適当に見切りをつけて、後は野となれ山となれ、というような無責任な気分に至りたいのかもしれず、なかなかそこまでの心境にたどり着けず、やっているのは悪あがきの域を出ないことになるしかないか。

 でもなぜ結果的に切り抜けられてしまうのか。そう思っているだけで、本当はうまくいっていないことに気づいていながら、そう思ってしまえば負けだと自らに言い聞かせながら、頑なに強がりの姿勢を取り続け、それで体面を保っているつもりなのだろう。そんなやり方ではだめか。それらの行為のすべては独りよがりなのだろうか。そう思いたいのなら、それは虚しいことか。本当は何を強いられているのでもなく、ただ勝手に生きていると思えば済むようなことでしかない。何が特別なのでもないのだろう。世界中にありふれているのが、人の生き様だ。酒と煙草に頼り過ぎれば早死にできて、程々にたしなむ程度なら、少しは長生きができるのだろう。そうでなくても、何か魅力的な事象にのめり込めば、命取りの危険が待ち受けていて、いい気になってやり過ぎると、はしごを外されて逃げ道を断たれ、裏切られた絶望感を味わう。お前の何が悪かったのか。それがお前の定めだったとあきらめなければならないのか。悔やんでも悔やみきれず、あきらめきれないから悪あがきを繰り返すのだろう。そういう話ならいくらでもありそうだ。ヒトラーに見放されて、粛正された突撃隊の幹部たちには、それ以外の道が残されていたわけではない。ヤクザでもギャングでも、ヤバいことをやっている人たちには、ハイリスクハイリターンのやり方を受け入れる以外に生きる術はないわけか。君にとってはそれに類する映画の中での話でしかないが、うまくやるにはどうすればいいのだろうか。そんなフィクションを語ればいいだけか。世界の軍需産業が生き残るには、とにかく戦争状態を継続させて、各国の軍隊や民間のテロ組織が、武器弾薬のたぐいを消費し続けるように仕向けなければならない。国家に国防予算を計上させて、それを備蓄させるだけでは、産業としては先細りとなってしまうだろうか。軍事演習による消費では持たないか。世界中で一定量の人たちが殺し合う状況の永続が、彼らにとっては望ましい状況なのかもしれない。でももしそれがなくなったらどうなるのだろうか。なくなるはずがないから、そんな可能性は考えられないか。生きていることはいつも死の危険と隣り合わせの状況を意味するわけだ。心に留め置くべきことが他にあるとも思えない。アフリカかどこかのジャングルの中で、中央アジアの荒れて乾燥した土地を背景にして、テロリストやゲリラの兵士がそんなことを思っているわけでもないだろうが、君は他に何を想像しているとも思えない。今の時点ではそうかもしれない。どうせ冗談半分に皮肉を込めて、他に何か利いた風なことをつぶやきたいのだろうが、透明の雨合羽を羽織って、こちらを見つめている人の横を通り過ぎ、横断歩道を渡って、大通りの向こう側に出てみれば、自動車の排気ガスに混じって、何かそれらしい香りが漂っていることに気づく。今部屋の中でそれが何の香りだったのか思い出そうとして、そんな嘘を思いついただけかもしれないが、何かのついでに久しぶりに『はらいそ』を聴いてしまったらしい。今のところは救いとは無縁だ。


3月11日

 別に何を批判されているわけでもない。今日は何の日でもないのだろう。人が樹木と共に生きているわけでもない。木は枯れるまで生きているのだろう。人も死ぬまで生きているのだろうか。なぜそこで終わりとなってしまうのか。今のところは意味不明だからか。記された言葉の連なりを読んでいないのかもしれない。そこから何が生まれるわけでもないらしい。生まれなければ死なないだろう。だがそういう内容ではなかったかもしれない。また思い出せなくなってしまったらしい。批判されている人たちがうらやましいか。でもそれが誰なのだろう。具体的な人名が思い浮かばないのか。戦国時代の武将なら、今の時代とは無関係だろう。その間に安土桃山時代と、江戸幕府の時代と、明治政府以後の時代と、第二次世界大戦後の時代と、現代があるからか。時代が遠すぎて話にならないか。また耳鳴りがしている。他にどんな時代を間に差し挟めばいいのだろうか。高度経済成長の時代と、オイルショック以後の時代と、経済バブルの時代と、それが弾けた以後の時代か。世界的には米ソ冷戦時代と、ソ連崩壊以後の時代とかもあるのではないか。それ以前に第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代もあるだろうし、それとは別に朝鮮半島や中国大陸では、歴代の王朝時代もありそうだ。そんな時代区分から何がいえるというのか。ただいろいろな時代があって、それが過ぎ去りながら今に至っているだけだろうか。実質的に何を語っていることにもならないか。過去は過去でいくらでも時代区分が可能で、その時代について詳しく調べれば、何かその時期の特徴を語ることができるだろう。そういうやり方ではだめか。ではいったい何について語りたかったのか。幻想を抱く行為を批判したいのか。でも誰が抱いているのだろうか。戦国時代の武将のやり方が興味深いのか。それが今の時代を生きるヒントを与えていると主張したいのか。たぶんそうなのだろう。その手の教訓話に耳を傾けて、それが何かのためになれば、有益なことなのかもしれない。そういうのが流行っていた時代もあった。確かそれはバブル全盛時代だったか。経済的に成功する秘訣を、戦国時代の武将に求めていた。それは会社の経営術や、組織内で昇進する秘訣だったかも知れない。今でもそういうことを言っている人がいるのだろうか。ちょっと前のITバブルの頃は、起業家として成功する秘訣を、やはり戦国時代の武将に求めていたのではなかったか。事業に投資する上での戦略や戦術面で、相通じるところがあるとか主張していたのかもしれない。たぶんそれを誰が真に受けていたとも思えないが、何となく過ぎ去った時代に思いを馳せ、そこから何を導き出そうとしているのでもないようだ。ただそんな時代もあったと懐かしんでいるだけか。懐かしむほどその時代に深く関わっていたわけでもないだろう。君はいつの時代でも傍観者であり続け、なるべく関わらないようにしてきたのではなかったか。

 語りたいことがあるわけではなく、その焦点が定まっているわけでもない。過去の出来事はいくらでもあるだろうが、そこからどんな教訓を得ようとしているのでもないようだ。人の意識は言語から成り立っている。言語を駆使して何かを成そうとし、成された何かが文章だとすれば、それを読んでさらに何かを成そうとしているわけだ。何も成されないうちから沈黙してしまうのは良くないか。少し考えた方がよさそうだ。さらにそこから語り始めようと思っているのだろう。悪あがきには際限がない。とりとめのないことだ。でも何が幻想に過ぎないのか。それらの事象にロマンを抱いていてはまずいのだろうか。事象とは何だろう。誰かがそこで何かやっているのだろう。心が外れているのに、気にするはずもなく、懸命に食い下がっている。振り落とされてもついていっている。幻想を抱く力は偉大か。でもまったく懲りていないわけではないのだろう。少しは失敗から教訓を得たのだろうか。今の君にその兆候は感じられず、相変わらず行き当たりばったりで、何かいい加減に言葉を記している現状がありそうだ。今がそうなのだろうか。言葉を記しているのは誰でもなく、そこに言葉によって構成された人格があるとも思えない。でもそれらのすべてが幻影として片付けられるはずもなく、現実に誰かが何か語っているはずだ。劇的な方向へと意識が傾いているとも思えない。フィクションとはなり得ない。フィクションとは戦国時代に生きていた武将の生涯か。明治維新前後に生きていた人の物語もある。旧日本軍に属していた軍人の物語もあったはずだ。そのたぐいとしては江戸時代に生きていた浪人の物語もありそうだ。剣術に優れていたりするわけか。君はそれらの何があり得ないと思っているのだろうか。それらの物語に感情移入して、架空のリアリティを抱きながら、本当の現実に心を蝕まれる現象から目を背ける行為があり得ないのか。そんな回りくどい成り行きにはなり得ないと思っているのではないか。でもそれも現実なのだから仕方がないだろう。そこで何を語っているわけでもない。うまく言い表せないようだが、架空の人物を助けようとしているのではないらしい。それらの古本がリサイクルされて、トイレットペーパーになるとも思っていないのではないか。焼却炉で燃やされて灰になればすっきりするだろうか。文庫本の黄ばんだ紙が、忘れられていた歳月の長さを感じさせるか。二度と読まれる気配もないようで、資源ゴミの回収日に見かけた光景が思い出されるだけかもしれない。もしかしたら紙の時代も流行作家の時代も、あと百年もしたら跡形もなく消え去っているのかもしれないが、そこに何が残っているかは、そのときになってみないことにはわからないか。


3月10日

 何かうっかりしていたようだ。しかし人は徐々に変わりつつある現状を実感できるのだろうか。それの何を解き明かしたいのだろう。俄には思いつかない。今までにやってきたことのすべてが灰燼に帰しているわけではないが、無駄に悩んでいるだけかもしれず、無駄に考え、無駄に語ろうとしているわけか。でも現状ではそれぐらいしかできることはない。それ以上は無理なのかもしれない。大して根拠のない現状認識としてはそうなる。どうせまた嘘をついているのだろう。でも嘘でないとしたら何なのか。他に何が語れるというのか。やはり現状では無駄で無意味なこと以外は誰も何も語れないだろうか。でも他の誰が君であるわけでもなく、君が他に何を語れるわけもなく、ただそこから意識が遠ざかっている。要するに早いもの勝ちの世の中なのか。変化にいち早く気づいて対処すれば、そこから利益がもたらされるということか。たとえ気づいても対処できなかったり、対処の仕方に無理や誤りがあればだめか。でも適切な対処というのも、結果がともなってきて初めてわかるのだろうから、ともかくやってみなければわからず、やってみて結果がともなってきたら、それで一応の成功がもたらされたことになるのだろうか。抽象的にはそうかもしれないが、具体的には何をどうしようとしているわけでもなく、あくまでも仮説以前の妄想の域も出ないような話だ。結局まだ何も始まっていない段階だ。そんな無駄なことばかり考えてはやめ、また考え、それがどこへも至らずに停滞するばかりか。君はそこで止まってしまうわけか。それでもかまわないのだろう。みんな何かを語りたいわけで、語っているうちはまだ楽な気分でいられるのだろう。現実との接点が、言葉を介して間接的に触れている状態で、それが直接触れてしまうようになったときに、何か具体的な問題が発生するのだろうか。今のところは意気地がないからそこまでいっていないわけだ。勇気がない。でも今さら蛮勇をふるって何をやろうというのだろう。やはり具体的には何もないようだ。

 大勢のたわいない人生が人の歴史に積み重なり、黄昏れた背景の中で誰かが何か思っている。何が行われているわけではなく、何ももたらされなくてもかまわないのかもしれない。報われるようなことをやって、実際に報われて、小さな成功を手に入れてしまったら、そこでおしまいとなってしまうのだろう。それ以上の何ももたらされず、あとは小さな成功の範囲内で生きていくしかないのだろう。それがその人にあてがわれた人生であり、その人の領分なのだろう。君はそうなりたいのだろうか。それも具体的にどうなりたいのでもない話でしかなく、すべては仮定の話だ。目下のところは五里霧中というわけではなく、何もかもが見え過ぎるくらいに見えていて、そんな極めて視界良好の中で、結局は何ももたらされないことが明らかとなった後から、何かのついでに語っている最中なのかもしれない。地球表面上でこれだけの数の人間が生きているのだから、現代は過去のどの時代にも増して繁栄しているわけだ。この現実を否定するわけにはいかないだろう。余分な人材が多すぎるか。君もその中の一人に過ぎないのだろうか。誰もがそうかもしれず、誰が何をやってもかまわない中で、たまたまそんなことをやっている人がいて、誰が代わりにやってもかまわないようなことをやっている。それをあたかもその人でなければならないかのように騒ぎ立てているのがマスメディアの連中であり、そんなふうにして何かその人のやっていることに、人々が幻想を抱くように仕向けているのだろう。そこで何かすごいことやっていたり、すばらしい成果が出ているように装わせ、そんなふうにして騒ぎ立てている行為を認めさせ、そこから自分たちが利益を得ていることを正当化したいわけか。そんなふうに説明しては身もふたもなく、もっと何かそこに夢があるように語らなければならない。人々が関心を抱くことに君も関心を抱かなければならないのだろう。人々がやるように君もやらなければならず、そこで語られているように君も語らなければならない。そんなふうに何かをやって、そんなふうに何かを語れば、君も人々が関心を抱くようなことを語っていることになるのではないか。

 なぜそこから外れてしまうのか。君には何が見えているのだろうか。そこで何か予言でもしたいのか。人々が関心を抱くようなことを予言できるだろうか。たぶんそこから離れていることが肝心なのだろう。離れていないと巻き込まれ、それなりに努力すれば小さな成功をあてがわれ、そこでおしまいとなってしまうのか。それでかまわないのであり、そういうやり方が正解なのだろうが、果たしてそんな正解を求めて、それを実現してしまったら、そこでおしまいとなってしまうのだろうか。そんなことはわからないし、現時点ではわかりようがない。でもそういう人はいくらでもいるのではないか。もちろん成功した人の何十倍もの数の失敗した人もいるのではないか。そういうゲームのシステムなのだから、そういうゲームに参加している人たちは、それを受け入れなければならない。でもなぜそこから遠ざかる必要があるのだろうか。たぶん自主的にそうしているわけではなく、結果的にそうなっているだけで、そういう結果をわざと放置しているのかもしれないが、たぶんそんなことはどうでもよくなっているのだろう。ただ何となくそういう状況の中で、誰かが何かを考えているのかもしれず、考える必要のないことを考えあぐねているのかもしれないが、それも一興とでもうそぶきたいわけでもなく、ただそうなっている。そうなっていると思っているだけかもしれず、実際はそうでもないのかもしれない。また油絵の具で塗られた画布の表面に描かれた人の心境を想像しているわけでもないが、たぶんそれが幻影であることは承知しているようで、関係のないことを記しながら、そこから遠ざかる術を模索しているふりの中で、何か別のことを考えているようで、語っている途中でひらめいたことを、そのままでたらめにつなげながら、他に装うべき態度を忘れている。何を考えているにしろ、必ず思いがけない現実に出くわして、そのとき何かを思い知るのだろう。うまく取り繕うつもりなのだろうか。たぶん失敗するのだろう。そのつもりで立ち回っているのかもしれない。うまくいかなくなればいいと思っている。いつもそうだ。それ以上に何をやりたいのか。できることは限られているのに、やっていることさえうまくいっているわけでもないのに、その他に何がやれるというのだろう。

 今さら他人の行為を糾弾しなければいけないのだろうか。誰かが糾弾されるような行為と向き合っている。そういうことだ。それをどうしたいわけでもない。ではそこでおしまいとなってしまうのだろうか。ゲームオーバーなのか。別にゲームに参加しているとは思わなければいいわけか。その気もないのに、それについて記そうとして、途中で思い直して、しどろもどろとなっているのかもしれないが、そんなことを気にしている暇はないようで、さっさとその件はおしまいにして、他のことに関心を向けようとしている。でも冗談で済ますわけにはいかないらしい。それを伝えて賞賛を惜しまなかった側にしてみれば面目丸つぶれなのだろう。でも裏ではいい気味だとも思っているのかもしれず、その辺は仕掛けた側にすれば痛し痒しなのだろう。そんなことでこの世は回っていて、無理を押して何かに挑戦して、跳ね返されても面目を保ったと思い込み、それで気が済んでしまうところがいい気なものだが、でもそれで自分にけじめをつけたと思っているとしたら、それは大きな勘違いなのだろうか。それに気づくまでには、あとどれほど過ちを犯さなければならないのか。もうすでに目一杯の過ちを犯しているのに、この先さらに過ちを犯せるだけの余地がどこに残されているのか。それでもまだやってみなければわからないとうそぶいている輩の気が知れないか。気が知れなくてもどうせやってしまい、やったあとから悔やんでも悔やみきれない気持ちとともに、それを何にぶつけるわけでもなく、ぶつける対象さえ不在のまま、ただ闇雲に何かを語ろうとして、うまく語れずに落ち込み、そしてそれからさらに歳月が流れ、何かを思い知った後の無為な時間をひたすら過ごし、過ごし過ぎて何を思い知ったのかも忘れてしまうほどの、時の長さを実感したいものだが、たぶん途中で寿命が尽きてしまうのだろう。どこかで老人が報われない人生のわびしさでも実感するのかもしれず、現実にもうろくしているのなら、それでもかまわないようにも思え、架空の誰かとの競い合いを幻想しているうちは、そんな心境にも至らないだろうが、とにかくまだそんな段階には達していないらしく、まだ何か成し遂げられると勘違いしているのだろうから、それがわかるまではもうしばらく過ちを積み重ねて、経験の嵩を増していく作業を続けなければならないのだろう。


3月9日

 体制に逆らっているわけではない。体制とは何か。左翼用語だろうか。空は晴れている部類に入るのだろう。認識不足のようだ。でも頭がいかれているわけではなさそうだ。気持ちをリラックスさせて考えればいいのだろうか。他人の気持ちが理解できないのだろう。理解しなくてもかまわないのか。開き直りが肝心だろう。でも想像している。感性と悟性のギャップを想像力で補おうとする。何がかまわないわけではない。かまうものかと思っているうちにどうかしてしまうわけだ。君には君の都合があるわけか。でもその都合が他者の理解を妨げているわけだろう。一応はそんなふうに語ることはできるが、そう語って誰を説得しようとしているわけでもない。しかしそれの何が図星なのか。今がそうなのか。他に何がそうなのだろうか。誰を煙に巻きたいのか。はぐらかしているようで見え透いている。言葉を記している意識の中で停滞しているものがあるのだろう。そこでへばっているらしい。日が射してきた。心を奪われているわけか。たぶん何かのエピソードがそこで演じられているのだろう。誰かが誰かを熱演しているわけか。でもそんな話の映画を見ているわけではない。話の内容を思いつけないようだ。無理に話を作らなくてもいいはずか。どこかの階段でよろめき、その拍子に何がひらめいたわけでもなく、考えていることは相変わらずの何かか。

 マルクスの著作がいくらこの世界に多大な影響を及ぼしているとしても、実際にはそれを否定しにかかる勢力の方が繁栄しているのではないか。彼らはそんな著作はなかったことにしたいのだろう。すでにそうなっている気でいて、未だにそれを読んで、そんな主張をしている人を、時代遅れだと嘲笑しているのではないか。現状ではそれでかまわないわけか。そうなってもらわないとマルクスも困るのではないか。すでに過去の死人だから、その亡霊が困っているわけでもないのだろうが、『資本論』やそれらの著作を読んで感化された人たちが、マルクスの思想がないがしろにされているから困っているわけか。実情からすれば、そんな贅沢な悩みで苦しんでいるわけではないのかもしれない。なぜ世界中で多くの人たちが苦しんでいるのだろう。生きるということは苦しむことだと悟ればいいわけか。人生論のたぐいで片がつく問題ではなく、世界中で貧困に苦しんでいる人たちをどうにかしたいわけか。また低賃金で労働者を搾取して、世界の富を独占している一握りの富裕層をどうにかしたいわけか。あるいは世界から戦争をなくしたいのだろうか。または人々から自由を奪っている国家や、国家を掌握している人や団体や組織をどうにかしたいのか。でもそれらはマルクスの思想だけでどうにかなる問題でもなく、実際にこれまでの経緯からしてもそうだったはずだ。

 人はいつの時代でも何かを主張し続けている。現状でもかまわないとは思わないらしい。現実に何か特定の主義主張が、この世界を覆っているわけでもないのだろうが、ただそれを漠然と資本主義と呼んでみても、何だか焦点が定まらないように思えてくる。ウクライナは肥沃な穀倉地帯で、欧米の連中がそれを目当てに、広大な土地を買い占め、安いコストで大規模に農業をやって、穀物を輸出して利益を得ようしていたのではなかったか。もう実際にそうなっているのかもしれず、日本でもウクライナ産の小麦などを商社が仕入れているのではないか。東ヨーロッパは経済的に豊かな西ヨーロッパの連中にしてみれば、まさに開拓時代のフロンティアなわけだ。確かオランダの養豚農家なども、国内では利用できる土地も限られ飽和状態だから、東ヨーロッパで広い土地を安く買って、安い賃金で現地人を雇い、低コストで大規模に事業を展開している連中もいるのだろう。要するにロシアも含めた東ヨーロッパは、西ヨーロッパ側からすれば、開拓時代のアメリカの西部と同じように、天然資源や農産物を安く供給するための地方であり、悪く言えば搾取の対象なわけだ。まあプーチンあたりにしてみれば、ふざけるな!と叫びたいところなのだろうが、果たしてロシアと中国で欧米に勝てるだろうか。かつての日本やドイツと同じような末路をたどってしまうのか。でも国土は広いし人も大勢いるだろうから、結構長期間に渡って持ちこたえてしまうのか。


3月8日

 朝になり起きてしまうのは仕方がない。時間の経過を感じているらしい。何がもたらされているわけでもない。それでも時が経っている。何に明け暮れているわけでもないのに、そういうことらしい。これからそうなるだけだろうか。静かにしている。どこへ引き戻されているわけでもない。すでにこの時点で何かに近づいているのだろう。死ではないのだろうか。君の死ではないらしい。誰も死ななければいい。そんなわけにはいかないだろうが、そう思っている。何かが生きて死ぬ成り行きから外れられるだろうか。生きなければいいわけか。生きないわけにはいかないだろう。現に生きているのではないか。そこで誰かが生きているらしい。そして言葉を記し、それを読んでいるはずか。でも時が過ぎ去り、くだらぬ努力も水の泡だ。どうやっても追いつけないのだろう。何に追いつこうとしているのかさえわからず、ただ闇雲に追いかけているようだが、やはり何を追いかけているのかわからない。どうせわからないままなのだろう。でもあきらめているわけでもないらしい。いつかわかるはずか。今日が今日であるように、明日が明日であることを理解できるだろうか。スフィンクスの謎掛けではないようだ。誰がそこへ登場したのでもなく、出現できないまま、不在の沈黙があたりを包み込み、そこには誰もいないことが明らかとなりそうだが、それに逆らう気力がまだ残っているだろうか。どう考えてもおかしいのではないか。考えてみればおかしいことが明らかとなり、考え直さざるを得なくなって、そこで行き詰まってしまうわけか。人は人によって活かされている。人以外の何によって活かされなければならないのだろうか。人を操っている主体を見出せず、人が自力で動いているようにしか見えないとすれば、そこで人間=ロボット説が破綻してしまうわけか。でも人の動力源ならいくらでもありそうだ。その場で風が吹いているのかもしれない。地面が傾斜していて、坂道を転げ落ちるように動いているわけか。その辺は何とでも言えそうだが、たぶん自然の作用が誰かを駆動させていると考えてもよさそうだ。そういうのが嘘の理解なのだろうか。何でもかまわないと思うからそうなってしまうのかもしれない。ただそこで誰かが生きている。

 でもそれで目が覚めているわけではない。奮起しているのかもしれないが、何かが通りに並んでいて、それらに奮起を促されているとしたら、それはどういうことなのだろうか。でたらめだと思いたいわけか。きっと気のせいだ。フィクションの中ででたらめな言葉の並びと戯れているのかもしれない。架空の通りに並んでいるのは言葉そのものであり、一見並木道のように感じられたものが、夢の中ではそうでなかったということか。どうもでたらめに拍車がかかっているように思われる。そこで聴いているのは"Love Song"なのかも知れない。ともかくオレンジは時計仕掛けなどではなく、時限爆弾の製造法を誰が知りたいわけでもないだろう。その時点ですでに飽きている。ドロドロした感じがおかしいのだろうか。そこに踏みとどまろうとする人々がギルドを築き、連帯してお互いに足を引っ張りあいながらも、自分たちの利益を確保しようとしているわけだ。そこで勝ち抜けた人には次のステージが待っているわけか。日本のプロ野球とアメリカの大リーグの関係だろうか。そういう構造も中にはあるのだろうが、そうではないのもあるらしい。その先がない場合が多いのかもしれない。あったとしてもたかが知れているのだろう。だからあまり幻想を抱かない方がいい。そういうドロドロを避けなければならないわけか。人によって様々だ。ドロドロが好きな人にはうってつけの環境なのかもしれない。しがみつくだけしがみついていれば、やがてご意見番の地位が手に入るかもしれない。そこで偉そうに講釈をたれて、権力者気取りになれるのだろうか。そういう人も結構いるのだろう。人はいくらでも湧いて出る。今のところはそうだ。いなければ他からつれてくればいい。ともかく何かの場に辺り一面が支配されているみたいだ。誰かがそこで何かを測り損ねているようで、そこからでたらめな勘違いが生まれ、それが邪魔をしていて、ゲームに参加できずにいるらしい。それでかまわないのだろう。何を求めているわけではない。ただの見物人なのだろうか。それらの画面を眺めているのはそうかもしれず、何の役柄を演じている気にもならず、孤独の自由を味わい、星条旗の虚構を楽しむ気にもなれない。人に役割があるとも思えないようだ。そんなふうに思っていればいいのだろう。当分は凌げそうか。

 世界の何が美しいわけではない。何と何が関係しているとも思えない。話も起承転結とは行きがたく、途中で無駄に迂回するばかりのようだが、結論を求めているわけではない。その辺に矛盾を感じてしまうのかもしれない。でも矛盾しているのは当然か。理由もわからないのに当然だと思ってしまうが、いくら思ってみても無駄だ。行ける範囲は限られていて、理解できる範囲内で理由を求めても、予定調和に陥るだけか。すでにわかっていることを確認しているに過ぎず、それで自らを納得させて、何とか人格が崩壊するのを食い止めるわけか。そうならないようにしたかったのではないか。でもそれを強いているのは何なのだろうか。何とか自らのペースに周囲を巻き込みたい人が大勢いるのかもしれない。そういう人たちがひしめきながら、何とかつかの間の調和を保っている世界なのだろうか。しかし聞く耳を持たない人々に向かって何を主張しているのだろう。無理矢理聞かせるために権力を行使したいのか。そしてうまくいかなければヒステリーを起こし、関係のない方面へ八つ当たりしたりして、ちょっと手がつけられなくなってしまうのかもしれないが、ある程度の冷却期間が必要なことは誰もが感じているところだろうか。でもそういう水準で論じてしまってはいけないのだろう。そこに具体的な事件があるわけではなく、何か作品が展示されているわけでもない。それについて語っていること自体が不毛な議論を誘発しているのだろうか。そう思うと虚しさがこみ上げてきて、そこで何もかもをやめたくなってしまうだろうか。でもそういう作り話を語っているわけでもないのだろう。そう語りながらも何かを免れているはずで、逡巡しながらも、目的なき目的地にたどり着こうとしているのではないか。水面に波紋が広がるように、記された言葉を分散させたいのだろう。意味のないことだが、意味を担えないままにしておきたいらしく、何とでも解釈可能で、解釈しなくてもかまわないようなことを述べていたいのではないか。具体的には何もない。それに気づくまでにはどれほどの試行錯誤が必要なのか。そんなふうには思わなければいいのかもしれない。ただそれだけのことだ。幻想を追いかけてみても無駄だ。すでに過去が遠すぎて、思い出すだけ無益な徒労を呼び起こす。過去の音楽が虚しくスピーカーを振動させ、何か戯れ言を訴えかけているように感じさせ、つかの間何かを抱かせるかもしれないが、それで何がどうなるわけでもない。

 何から語り始めればいいのか迷うところだが、すでにでたらめに語りすぎているような気がする。外れた感覚のまま、何から外れているのかわからないのだが、強いられた問いと、仕組まれた企図を脱臼させなければ、相手の思うつぼか。でも誰が相手でもない。そんな世界に暮らしているのだろうか。真剣に取り組むようなことではないのだろう。あきらめてしまったらおしまいかもしれないが、おしまいでもかまわないのが怖いところか。本当は何もありはしない。何を語らされているわけでもないのに、執拗にひねくれてみせたいのか。恣意的に解釈するのは勝手だが、その解釈を押し付けられる身にもなってみなければいけないか。何とか問いをねつ造したいのは山々かもしれない。でもそれにしては問いがお粗末すぎるだろうか。それでは詐欺にもペテンにもならないのではないか。そのつもりで問いをねつ造し続けているのではないか。まったく毒にも薬にもならずに、ただ誰かの暇つぶしに貢献しているだけで、それでもかまわないと思うなら、そういうことでしかないのだろうか。そういう仕事もあるようだ。それがギルドのギルドたる所以だろうか。でも本当のギルドは、社会の中でそれなりに機能していなければならないのだろう。たぶん機能しているのだろう。『スカーフェイス』がまずいのは、あまりにも物語の展開が予定調和過ぎるということか。別に派手にドンパチやって死ななくてもかまわないのではないか。場合によってはドンパチやらなくてもかまわない。それと同様に日本でヤクザが怒鳴りあう必要もないわけか。指を詰める必要さえないわけか。ではどうすればいいのだろう。途中でヤクザから足を洗って静かに暮らしていればいいのか。それでは映画にならないのではないか。果たしてそんなことができるだろうか。やらなくてもかまわない。詐欺な株屋も同様か。それを有名な俳優が熱演する必要もない。では何がどうなればいいのだろう。ヤクザにもならず、株屋にもならず、では何になればいいのだろうか。ディカプリオは考えが浅いのか。そんな映画がヒットして、カネを稼げるのなら、それでかまわないのではないか。すべては順調に推移しているらしい。でもなぜ世界中で一万人しか見ていてないゴダールの映画が残るというのか。残らずに忘れ去られるから、次の映画がヒットするのではないか。誰もが退屈に負けて最後まで見ていられない、ストローブ=ユイレの映画を小さな画面で我慢しながら見ても仕方がないだろうか。


3月7日

 日々がつまらないことはないだろう。味気ないだけか。ラーメンを食べたいわけでもないだろう。わざとそう思うこともない。思い出される光景について記すこともない。過ぎ去っているのだろうか。何がそうなっているのか。未来から遠く離れて何を思うのか。過去ではないのだろうか。間違っているわけか。さらに遠く離れてしまうのかもしれない。結局何を思い出したいのでもないらしい。どうやら二番煎じをやるにはハードルが高そうだ。度胸がないのか。器ではないのだろう。気がつけば抽象的な物言いに終始している。だからといって焦ることはない。黙っていれば決着がつきそうだ。やっていることがおかしいのだから、案外みんな気づいているのではないか。誰も本気には受け取らないのではないか。だからこんなていたらくなのだろう。くだらなく思えてしまう。まとまりを感じられない。まだ目が覚めきっていないのだろうか。音がかすれているのではないか。微かに何かが聞こえてくるのかもしれないが、そんなことはどうでもいいのだろう。そんなことを語りたいわけではない。誰かが東にある都市へ戻ってきた。風も舞い戻ってきたのだろうか。北風ではない。イーハトーブという言葉か。宮沢賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉であるらしいが、彼がカフカに興味があったわけではないのだろうが、誰が彼なのかわからない。彼が宮沢賢治であるはずがない。でも誰がそう記して何をごまかそうとしているのかもわからない。舞い戻ってきたのは北の都市かもしれない。寂れた街の寂れた酒場に誰がいるわけでもなく、きっと誰かがそこで西部劇の光景を思い出しているのだろう。東と北と西ときたら、あとは南の島へと逃避するだけか。できたらそうしたいところかもしれないが、まったく考えがまとまらず、できもしないことであれやこれやと迷っているのは、何だか情けなさを漂わせているように思えてきて、ちょっとアクロバティックに意味不明を繰り出し過ぎに感じられる。倒錯した感覚にとらわれているのかもしれない。でも誰に向かって何を言い放っているのでもなく、今のところは正気を保っているように思われる。コラの音色に惹きつけられているわけでもない。パープシコードでもないだろう。それを連想するだけだろうか。語りとは関係ないが、そう思ってしまうことは確からしい。からかい半分でそんなことを述べているだけかもしれず、本当は空っぽなのかもしれない。心と頭が何か思っているだろう。意識はどうなのだろうか。他の何かを連想させる文章を読み、でたらめの理想郷に迷い込んでいるのかもしれない。誰かが映画の中ででたらめな人間を演じ、それを賞賛する人たちがいるらしい。出来が良いとか悪いとか、話のネタに使い、そこから何かを得ているのだろう。その何かに捕らえられ、身動きが制限されているわけだ。

 新しい概念を創造しているわけではない。使い古された言い回しを再利用しているのか。ほとんどがそうなのではないか。何に追いつこうとしているわけではない。追いつけないから追いすがろうとして、無様な醜態を晒し、惨めさをかみしめているわけか。そんなドラマの光景を思い出しているのかもしれない。たぶんそこからセコい犯罪行為に及び、例えばコンビニ強盗などに失敗して警察に捕まり、裁判で有罪となり、刑務所に数年ぶち込まれる展開だろうか。そういうありふれた成り行きにならないように、何とかしなければならないのは誰なのか。誰かがそうなりそうなのか。不意に思い浮かべるのはそんなことでしかないが、つまらないことを語りすぎないようにしなければならないか。たぶんそうなる前にどうかしてしまうのだろう。何を語ろうとしているのでもないようだ。チンピラ映画のようなことにはならない。カフカならもっとどうしようもない話にするところか。ある朝目が覚めたら大きな虫になっていたりするわけか。そのまま死んで救いのない話となってしまいそうだ。まだコンビニ強盗の方が、更生する可能性があるだけ救いがあるだろうか。どちらも作り話なら、救いがあろうとなかろうと関係ないか。カフカはユダヤ系だから、虫になるということは、迫害されることを暗示しているのかもしれない。宮沢賢治ならどうだろう。国粋主義的な宗教にはまって、そのイデオローグとなる前に死んでしまったから、人畜無害な童話作家と見なされているだけか。雨にも負けずとかいう詩のたぐいが、彼にまつわる美談とともに、世の中に出回っているのかもしれない。実際には氷雨に打たれて肺炎になって死んでしまったのかもしれないが、その地方では郷土の偉人なのだろう。ロマンチックな悲劇と美談は人の心を捕らえて離さない。コンビニ強盗程度では情けないだけで、悲劇にも美談にも結びつきそうにない。話を幻想的で神秘的なオブラートで包まないと、人はだまされないのではないか。例えば寓話の世界で、異邦人のような旅人が、通りすがりの何気ない行為が犯罪と見なされ、罪を問われ、場合によっては大げさに死刑を宣告されたりすれば、心が動揺したり同情したりするのではないか。そんな不条理と思われるようなことがまかり通ったりする話にすれば、カフカ的になるのかもしれず、そんな話に惹きつけられる人なら大勢いるだろうか。でもそれをここで誰が語るわけでもないのだろう。

 その手のフィクションには関心がないだろうか。あっても語るのが面倒なだけか。その力量が不足しているのかもしれない。今ではありふれているのだろう。カフカやブランショの小説でも読めばいいだけか。だが笑っている場合ではない。その先には何が待っているのだろうか。画面の向こう側から血だらけの誰かが近づいてくる。たぶん画面に阻まれてしまうから、こちら側にいれば安全だ。ゾンビか何かだろうか。画面のこちら側にいれば、それだけで傍観者であり見物人であり野次馬のたぐいか。要するに無責任な何かを気取っていられるわけか。本当は見ているだけで何らかの責任が課せられてしまうのかもしれないが、そんなのは無視していればいいだけか。別に愛を求めているわけではないのだろう。彼は世界の中心で何を叫んだのだろうか。もとの話はもっと残酷で救われない内容だったかもしれない。少なくともその手のお涙頂戴話とは無縁だろうか。そんなわけで『世界の中心で、愛をさけぶ』ではなく、もとの『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読みたいとは思わないか。機会あったら読むとしようか。その程度でかまわないだろう。何事も本気になる気がしない。それは嘘かもしれないが、ごまかしを払拭できず、Neoの”Smile”を聴きながら、何かがおひらきになる雰囲気を味わい、どうにもならない状況を打開できない気がしてくる。いったい何が間違っているのだろうか。それとこれとは無関係だ。それがわかっていながら、どうしてもそう語らざるを得なくなってくる。たぶんその辺が何ともしがたいところなのだろう。


3月6日

 何を弄んでいるのだろうか。魂ではない。何かに弄ばれているのではないか。それは戦争の亡霊か。よくある話だ。そういうことを語る者も多い。花にもいろいろあるようだ。フラワーとブラッサムでは咲いている状態が違うらしい。深追いするようなことではないが、桜はフラワーとは関係ないようだ。桜の木の下に何かが埋まっているのは、吉野地方の言い伝えか。別に菊と桜が血に染まっているわけでもないだろう。誰が戦争と花を結びつけようとしているのか。意識がどこかへ飛ばされている。感覚の問題なのか。滅びの予兆なのか。だいぶ時が経っている。もう下界に引き戻されることもないだろう。いつ夢から覚めたのか。それを知りたいわけではない。昔を思い出しているのだろう。そこから遠ざかれない意識を呪っている。そこで何かが断片化されている。記している文と文がつながらなくなってしまう。それは個性であるわけがない。確かこんな音楽だったのではないか。聴いていたのは間違いなくこれだった。何に感動していたわけでもなく、誰かの話を聞き流していた。うわの空だったのだろう。考えごとでもしていたのだろうか。訴えかけていたのはそんな内容だったのではないか。実現性の感じられない主張だ。理想が高すぎるのか。朝日に照らされて気が変になってしまったのだろうか。言葉で言葉を飾り立てている。ただの気まぐれだろう。回りくどい語り方と言い回しに戻っているのだ。誰の哲学でもない。音楽を聴いていると自然とそうなってしまうのだろう。無意識のうちに技を繰り出している。そんな感覚なのだから、それに乗っかっていればいい。しばらくはそうしている。そのうち目が覚めそうだ。いい加減に見え透いたごまかしはやめてほしいか。その時代には何がもたらされていたのだろう。どうせ何かの哲学だと思われていたはずだ。今ではそれも忘却の彼方へと追いやられ、その代わりに何が流行っているのか皆目見当もつかず、ただ昔のやり方がまかり通っていると思うのは、勘違いなのだろうが、それをやめられないのが人のさがか。でも誰が人間だと思われているわけでもないか。でもそんなふうに語っている。それでかまわない。そう思っておいて差し支えないらしい。そんなことを語っているわけだ。自信が揺らいでいるわけではない。それをうまくやり通せばいいのだろう。誰も覚えていない。途中から物語が不在となる。物語る気がないのだろう。美的感覚ではない。崇高な何かを思い描いているのでもない。判断材料が足りないのか。抽象的な観念に逃げているのではないか。どうせこの辺が限界なのだ。冴え渡っているのはごまかしの技か。今日は馬鹿に素直な気分になれる。あり得ない心境だろうか。でも気に留めることもない。そんなやり方なのだろう。何かが頭の中で爆発しているのか。戯れ言のシステムが駆動して、暴走が止まらなくなっているのだろうか。くだらぬことを語りたいのなら、それでもかまわないはずだ。日差しがまぶしすぎるのかもしれない。そこからずれている。

 やめた方がいいのだろう。通常のやり方に戻った方が良さそうだ。何かを語りかけようとして、実際に語っている途中で思い直す。背負った重荷が重すぎるのか。流行り廃りに迷っているわけではなさそうだ。血迷うとはどんなことなのか。眠たくなってくる。リラックスしているのではないか。それは過去のやり方だろう。思い出してしまったのだろう。何の対応がまずかったのでもないようだ。別に見ていたわけではないが、『あまちゃん』というテレビドラマに登場した元アイドルの二人は、アイドルという商品としては賞味期限切れで使えなくなったから、リサイクルして「おばちゃん」という商品になったわけか。「女性」という商品ではなく、「おばちゃん」という商品に仕立て上げたところに、ドラマの脚本家としての保守的な職人芸が発揮されていたそうだ。善良な「日本人」を喜ばすにはその方が効果的だそうだ。そんな誰かと誰かの対談を読んで、何だか目が覚めてしまったようだ。誰もが心地よくなる日本的構造とは、そんなところにあるのだろうか。テレビは消耗品のショーケースなのだろう。生鮮食品が賞味期限切れになれば、調理して総菜として出せばいいということか。無論それはありふれたたとえだ。その品揃えが48種類あるのも近年の流行か。

 はっとさせるのはつかの間のことだ。皮肉を込めてわざと笑っている。まだまだ配慮が行き届いていないのだろう。それは飾りか何かだった。クリスマスの時期に玄関の扉に付けられていたものだろう。そしてすかさず場面転換のようだ。語りそこない、また音楽を聴いている。心を乱されてしばらく呆然としている。気を取り直して、何か語ろうとするが、その気にならないようだ。そんな語りでもう充分だろうか。人は誰でも黄昏れる時期と向き合わなければならない。それに逆らうのも一興なのだろうが、たぶん自分には関係のないことだと思っているうちに、後ろから死が近づいている。君はこれからどうなってしまうのか。もうそのピアニストは生きていないだろう。だいぶ前の録音か。カリスマでも何でもなく、ただ普通に特徴のない弾き方に終始していた。曲と真摯に向き合い、それを譜面通りに正確に弾いていたのだろう。それだけのことだ。曲に感動しているのか。誰がそう感じているのか。それを肯定し賞賛する。足がしびれてきたようで、しばらく休むとしよう。相変わらず昔と同じ曲を歌っているようだ。老いてなお朗々と歌い上げ、枯れた風情を受けつけない。愛着があるらしい。また死人だ。フレディ・ハバードがトランペットを吹く。なぜそれがニューヨークの夜景を背景としているのか。ジャズを馬鹿にするつもりはない。ロックを稚拙だとも思わず、他に何を語るつもりもない。ただごっちゃに次々に聴いているだけのようだ。でもジャズを気取れば、なぜフレディ・ハバードなのだろうか。その当時の都会的なセンスがそこにあるからか。間が何とも言えず、突然音色が裏返るところなどが、そう感じさせるのかもしれない。ライヴ演奏が終わったときの、拍手がまばらなのも都会的なセンスかもしれず、そこまで狙っているわけでもないのだろうが、そんなことを思ってニヤリとしてしまうのもキモいところか。どうやら完全に頭の中身が弛緩しきっている。


3月5日

 盲目なのに言葉が記せるだろうか。誰が盲目というわけでもないだろう。目はまだ見えている。ただ見えにくくなっているだけか。気休めに過ぎないが、なぜ人は人を殺すのだろう。人の存在が目障りだからか。殺す相手をわざと間違えていたりするのだろうか。フィクションの中ではそうなっている。ありふれた問いが虚構の物語の中で発せられ、誰がそれに答えようとしているわけでもない。わざわざ答える必要のないことだからか。たぶん漫画の中では人がよく死ぬのだろう。映画の中でもそうだ。現実の世界ではどうなのか。今のところは月や火星では殺人事件は起こらない。人がいなければ人を殺せないということか。面倒な話だろうか。頭がいかれているわけでもない。確かそんな話ではなかったはずだ。何かが違っているのだ。話のつじつまが合わない。地球上ではどうなのか。一千万年前は人がいなかったはずだ。では一億年前ならどうなのか。一億年後ならわからないだろう。そんなことはどうでもいいか。作り話はどうなってしまったのか。人が増えすぎたのはここ二百年あまりのことだろう。神が増えすぎた人をどうしたいのでもない。作り話の中ではそうだったはずだ。話の核心をずらして回りくどく語るにはわけがある。そう思ってもらって差し支えない。そういう話なのだから仕方がない。それでは済まないのだろうか。人が人を殺す理由を探すのが面倒なようだ。たぶん人を殺す理由などいくらでもあるのだろう。面倒くさいからそういうことで、その話は終わりにしておいた方がいいのではないか。他に何を蒸し返す必要も感じられず、他に答えるのが面倒な問いを持ち出すこともないか。人はなぜ生きるのだろうか。死んでもかまわないから生きるのだろうか。生きている惰性で生きているのではないか。人に殺されてもかまわないから生きているのかもしれない。たぶんそれはでたらめな理由であり、そんな理由を用いて、他の誰を説得できるとも思っていないから、生きているのではないか。君は気休めにそう思っているのかもしれない。それが何の気休めにもならないとしても、とりあえず他にもっともらしい理由がわかるまでは、そう思っていても差し支えないのではないか。

 しかしそれで誰を煙に巻けるというのか。たぶんいくら言葉を弄しても、殺人をかわせるわけでもない。それはフィクションの中でも同じことか。話の筋書きの中に殺人の成り行きが入っている限りはそうらしい。他人の関心を惹くには話の中で人が殺されるに限るか。そういう作り話もあるにはあるのだろうが、なくてもかまわないのではないか。話の内容にもよるのだろう。内容を変更すればいくらでも殺人は回避できそうか。嫌なら殺人のない話にすればいいだけかもしれない。それを誰が語るわけでもないのなら、話などなくてもかまわないのではないか。君がそれを語らないなら、他の誰が語るというのか。誰がそれを望んでいるわけでもない。誰も語らなければ、話などなかったことにしてもかまわないか。君はそのつもりのようだ。語ることなど何もなく、物語などどこにもありはせず、そこには誰もいない荒涼とした風景が広がる。君はそんなふうにして荒野を語り、人を寄せつけない荒野を思い描く。そんな成り行きにはならないようにしたいか。ならば登場人物が必要だ。荒野の所々に人を配し、もし人と人が出会ったら、その場で対決させなければならないか。ゲームだろうか。それが殺人ゲームなら話になりそうだが、格闘ゲームでも冒険ゲームでもかまわないのではないか。荒野を彷徨い、人に出会わなかったらどうなるのか。そのまま飢えてのたれ死にか。所持金もないし、コンビニもなければ、そうなってしまうか。荒野には銀行のATMが必要だろうか。飲み物の自動販売機も必要かもしれない。自動車を運転したいのなら、舗装道路も必要ではないか。少なくともアメリカの荒野にはハイウェイがある。でもそれがアメリカである必然性があるのだろうか。それが映画ならよくありがちな光景だが、オーストラリアならマッドマックスでも出てくるわけか。スーパーチャージャーがボンネットからはみ出したマッスルカーがほしいのか。買う金も置いておく場所もないか。狭い日本では必要がない。そういう余分な空想はこの際邪魔だろう。何を語ろうとしていたわけではなく、殺人について考えていたわけでもないらしい。そこから話を逸脱させようとしていたのかもしれないが、肝心のもとの話が定まらない。言葉を記しているうちにどうでもよくなってしまったのかもしれない。

 意味もなく人が殺される映画や漫画が必要とされているわけでもない。ただそういうのが多いだけか。嫌なら避ければいい。君はそれについて考えるのが嫌なのか。考えてみたところで何がどうなるわけでもなく、要するに特定の作品について語らない限りは、まともに語っていることにはならないのかもしれないが、やはり面倒くさいのか。それよりも気がかりなことでもあるのか。何を目指しているわけでもないのだから、それに関して気がかりがあるわけでもないらしい。他ではそうかもしれない。でもその他が語れないことなのではないか。人は刺激を求めて過激な表現に引き込まれ、その先に何が待っているわけでもないことを知る。誰が待っているわけでもなく、見せるものを見せてしまったら、さっさと店じまいして、ほとぼりが冷めたときを見計らって、また過激な何かを見せようと仕掛けてくるだけだ。儲けた金を再投資して、さらなる利潤を得ようとする。人の欲望には際限がなく、極め付きを見た後でも、さらにそれよりすごいものがあることを期待してしまう。そしてついつい二番煎じに手を出して、期待外れをつかまされても、懲りずに次を待ち続けているのだろうか。たぶんその手の期待にはきりがないのだろう。もっとすごい何かを見せてほしいのか。そればかりでは飽きてしまう。もっと何か身の丈に合った何かがないだろうか。でも限られた時間内でどうしてほしいのか。何を探しているわけでもなければ、そのままでかまわないのではないか。高望みはしないで、分をわきまえるべきか。でもわきまえたからといって、何がどうなるわけでもないだろう。そのままでは気に入らないのなら、積極的に高望みして、その高望みをへし折られ打ち砕かれても、望み続けられる限りは高望みしていればいい。夢見る人ならそうすべきか。それだけでは飽き足らないか。ではそういうありふれた成り行きを避けるには、何をどうすればいいのか。たとえそれが気に入らなくても、ひたすら分をわきまえていればいいだけか。そういうふりをしていればいい。要は演じることが肝心なのだろうか。でも演じることに救いはないのではないか。救われなければいいわけか。救われなければ、演じることをやめればいい。それでも救われなければ、救われないままでもかまわないのではないか。とりあえず映画の中では俳優が誰かを演じていて、それを見ていればいいわけだ。中には殺人鬼を演じている俳優もいるのだろう。現実の世界では君の代わりに誰かが人を殺し、映画の中では殺すふりをしている。別にそれを見て救われた気になるわけでもないだろうが、難儀なことには違いなさそうだ。


3月4日

 ユーチューブで見て知ったのだが、旧約聖書でモーゼが神から十戒を授かったシナイ山は、シナイ半島にあるシナイ山ではなく、アカバ湾を挟んだサウジアラビア側に本物のシナイ山があったようだ。なんと本物のシナイ山には聖書の記述通りに山頂に焼けこげた痕があり、山の麓には祭壇の跡があったり、近くにはモーゼが錫杖をかざしたら割れて水が湧き出てきたといわれる岩まであるようだ。しかしモーゼは実在したのだろうか。もしかしてその周辺は、紀元前の時代には有名な観光地であったりして、ユダヤ教徒の巡礼地だったかもしれない。そうだとするとキリスト教徒はシナイ半島のシナイ山に教会や修道院まで建てたりして、2千年間も勘違いに気づかずに大失敗か。今ではその地はイスラム教国のサウジアラビアの領土だから、ユダヤ教もキリスト教も、記念碑のたぐいは何も建てさせてもらえないのではないか。

 それにしても思い出せない。使命とは何か。夢の中で神から啓示でも受けたわけか。そんなわけでもないか。またふとした拍子に思い出すのではないか。精神分析の文章を読んでわけがわからなくなって、眠ってしまったところまでは覚えているらしいが、その前に考えていたことが思い出せない。アフリカの大地溝帯から人類は生まれてきた。考古学的にはそうなのではないか。それが定説なのだろう。マントルの対流運動によって、地下から熱いプルームがわき上がってきて、大地が裂けて山脈が形成され、西風に乗って運ばれてきた湿気が、山脈によって遮断され、山脈の東側が乾燥して、乾いた草原地帯が形成されなければ、その地域にいた類人猿は二足歩行しなかったし、その後の人類への進化もあり得なかったわけか。そう説明されればごもっともだと納得するしかないだろうが、とりあえずそれと現在の世界がどうつながっているとも思えず、そんな遠い過去から説明してきても、現代へはたどり着けないのではないか。しかし文明とは何か。いきなり類人猿から飛躍できないか。その間に猿人や原人や旧人の段階があったのだろう。もはやネアンデルタール人などの旧人がいなくなって久しい、氷期も終わった今から一万年ぐらい前からなら、何か文明について利いた風なことが述べられるか。たぶんその気にはならないだろう。そうなるとやはりヨーロッパの産業革命あたりから語らなければならないわけか。今のところそのつもりにもなれない。

 無理に語らなくてもかまわないのではないか。たぶんこの世界は今の有り様で充分語れるのではないか。死海の畔にあるソドムとゴモラの跡とされる場所からは、自然界では生成不可能な高純度の硫黄の塊や、大理石が溶けてできた堆積物や、炭などが見つかり、どう考えても高熱で焼けただれた痕としか考えられず、これまた旧約聖書の記述通りの事件が起こった、とどこかの学者が結論づけているみたいだが、そんなユーチューブの映像を見ながら、オカルトにはまるのも一興なのかどうか、まさかソドムとゴモラが、超古代文明の核攻撃で消滅した、インドのマハーバーラタの記述がその証拠だ、それから数千年後に、イスラエルの失われた10支族がたどり着いた日本でも、同じように広島と長崎が核攻撃で消滅した、などと思い込んでいるわけでもないのだろうが、過去の巨石文明が、何十トンもある石をどうやって隙間なく積むことができたのか、それくらいのことには興味が湧いてくるのではないか。

 人は何を信じたらいいのだろうか。何も信じなくてもかまわないのか。ただそれについて考えればいいだけか。ところで君は何について考えているのか。ただ漠然とこの世界について考えているだけか。だが今さら何を考えてみても無駄か。無駄ではないかもしれないが、うまく言い表せないことが多すぎるのかもしれず、それについて語ろうとすると、壁のような障害物に突き当たってしまい、そこから先に進めなくなって、途方に暮れてしまうらしい。そして苦し紛れに戯れ言を弄して、何とか語っているように装うのか。それが無駄に語っていることのすべてなのだろうか。


3月3日

 現実はこれだ。だが他にこの世には何があるのだろう。戯れに存在という言葉があるらしい。文章の中で存在者が存在しているそうだ。またそんな文章を読んでいるのか。ややこしい言い回しだ。そこから何を連想するのだろう。存在のついでに存在者という言葉もある。でもそれが翻訳となるだろうか。別にドイツ語を翻訳しているわけではないが、具体的に何を説明しているのか。君は存在者を知らないらしい。説明できていないのだろう。存在者の存在も知らないのだろうか。知らないのではなく、理解できないのではないか。でもそう述べると、何か哲学的な話っぽい雰囲気になるだろうか。それを狙っているわけでもないのだろうが、本気ではないのだろう。とりあえずこの世界には言葉がある。それでかまわないのではないか。そのついでに存在という言葉もあり、さらについでに存在者という言葉もあるらしい。それの何がややこしいのか。語り過ぎると、存在と存在者が堂々巡りだからか。そんなふうにして語りだしたらきりがない。わざとそうやっているのだろう。でも本当は何もわかっていないのではないか。具体的に何をわかっているというのか。首を傾げなくてもわかりそうなものか。わからなくてもかまわないが、わかるような説明ではないのかもしれない。だんだん面倒くさくなってきたので、この辺でやめておこう。たぶんわかっていないのだ。わかっていないのに語ろうとするからわからなくなる。そういうことにしておきたい。どうも付け焼きの何かを連想してしまうらしい。でも言葉は刃物ではない。包丁で野菜を切っている感覚ではなそうだ。そうやってまた外れたことを述べてごまかしているのか。ただ何かを語ればいいというものではないらしい。語っていること自体が問題であり、それが事実なのだ。そんなわかりきったことを語り、疑念を振り払いたいが、実質的に何について語っているわけではない。存在とか存在者とかいう、借り物の抽象的な観念について語ろうとして、うまくいかずに、わけがわからなくなって収拾がつかなくなり、結局は意味や理解を得られない言葉の周りを、疑念がぐるぐる回っているだけとなってしまったのか。わかっているのはそういうことなのか。そうではないような気がするが、ともかくそういう疑念を信じられないということか。存在という観念も信じられず、何の存在もあり得ないように思われ、この世界には何もないわけではないのだろうが、それを存在という言葉で表せられるとは思えず、存在とか存在者とかいう言葉を用いた思考が空を切り、空振りに終わっているようにも感じられ、そんなふうに考えるのがややこしくて面倒くさく思われるのか。たぶん何があってもかまわないし、すべてが存在していてもおかしくないし、存在者という存在が、物事をそんなふうに考えていてもいいのだろう。

 言葉が言葉を浸食しているのかもしれない。使っていくうちに摩耗してしまうのに逆らって、何かを付け加えて、新たな概念を作り出そうとしているのではないか。意味がすり減って無意味とならないうちに、何か確固とした概念を打ち立てたいのだ。だから存在者の存在が必要なのだろうか。そこに存在者が存在していることを確信したいのか。存在者があやふやな存在ではあり得ず、その実在が明白であることを確信しなければならない。何だかだんだん冗談じみてきて、でたらめなことを語っているような気がしてくるが、はみ出てしまってもかまわないのだろうか。もとから語る場などありはしない。何も存在し得ない地点から語っているのだろうか。では語っているのは戯れ言のたぐいか。そう思えばそんな気がしてくる。そんなふうに語っているうちに、だんだんしらけてくるのではないか。どうも存在とも存在者とも縁がないらしく、君はいつまで経っても虚構の不在だ。矛盾しているのではないか。またわざとそう思っているのではないか。わざとではなく、それを実感しているのかもしれないが、不在の君に何ができるのか。何もできなければ黙っているしかないらしい。言葉が実体をともなっていると幻想できるのは、たぶんその存在を信じられるか否かにかかっているのかもしれないが、もっと軽く表面的に事物をとらえられないものだろうか。言葉を用いた表現形態は何かの方便であってもかまわないのではないか。例えば日本国憲法も言語ゲームのアイテムに過ぎず、全面的にそれに頼り切るのではなく、それが規定している範囲内で行動しているように装えばいいだけなのかもしれない。一応は憲法という決まり事なのだから、違反したければしてもかまわないのであり、違反を告発されれば裁判で争うしかなく、告発されなければそのまま違反し続ければいいのではないか。人も組織も団体も、全面的に国家に依存しているのではなく、国家の決まり事など無視していたければ、やれる範囲内でそうしていればいいだけで、要するにそれは記された言葉の連なり以上のものではあり得ない。確かに紙に記された何かがそこに存在しているのだろうが、その記された内容を信じて守るか否かは、それを受け止める人次第なのだろう。しかしそういう前提で論を進めていくとどうなるのだろうか。まともではないということになるのだろうか。国家を絶対的な存在とは認識できないのか。少なくともその存在を信じてもいいのではないか。人の存在を信じ、人が集まって構成される組織や団体の存在も信じられるなら、それと同じようなたぐいの存在である国家もあってもかまわないわけか。あってもかまわないのではなく、なくてはならないものだと思っている人たちが、国家という存在があると信じているのだろう。そして国家には憲法がつきもので、国家を構成する自分たちが自主的に憲法をつくらなければならず、その憲法に自分たちの主張が盛り込まれなければならないと思っているわけか。どうもその辺が厄介なところだ。要するにこのままでは保守派や天皇主義者の主張が全面的に反映された憲法になるのかも知れず、そうなるとこの国にはいづらくなるような気がする。今さら天皇の臣民になれといわれても困ってしまうが、そうなった時点でまだ生きていたら、どこか自由な新天地を求めて旅立たなければならないのだろうか。


3月2日

 南極のUFO秘密基地から北上したところにある岩場にあいた無数の穴から、UFO秘密基地と同じような大きさと形状の穴を見つけた。人工物と比較すると、東京都庁の都民広場と同じくらいの広さだろうか。上空300メートル付近から見るとそんな感じだ。

 どうやら人はこの地上から消え去る運命のようだ。いつかはそうなるのだろう。でもそれが作り話でない証拠があるだろうか。それとはどんな話なのか。それも誰かが語る作り話でしかないわけか。君は語らないのだろうか。話になりそうにない。そこまで持っていけないようだ。今日も語るべきではないことを語ろうとしているのか。灰について詩人が語る。そんな文章を読んで何を感じたのだろう。人は火葬されると灰になり、灰が自ずから何を物語ることはないだろうが、灰について誰かが語ろうとするらしい。その中の一人がたまたま詩人だったわけか。愛犬家連続殺人事件の被告も裁判で何か語っていなかったか。確か灰をどこかにまいて捨てたはずだが、そこから何がわかったのだろうか。彼の周囲で30人ぐらいが行方知れずになったことか。どこまでが真実なのか確かめようとは思わない。でも何を語ろうと、それを聞かなければ何も感じないのではないか。実際はただそれについて書かれた文章を読んでいるだけのようだ。そういうことについてはあまり語りたくないのだろう。面倒なことだ。人心から遠ざかり、荒野のただ中で考えているつもりになるが、それが何を意味するわけでもなさそうだ。それふうの言葉を組み合わせて何か語っているように装いたいが、どうもそれではごまかしとなってしまうみたいだ。正面突破とは行きがたい。言葉は飾りでしかないようだ。それ以上の何を語ればいいのか。結局何も成せないまま、時が経ち、すべてをあきらめてしまうのだろうか。そういう成り行きになってしまいそうだが、それを認めたくないわけか。そういえば画家のフランシス・ベーコンの遺灰は海にまかれたのだろうか。確かそれが彼の希望だったはずだ。それの何が教訓をもたらすわけではないが、生きているうちにはなかなか変われないのだろう。死んで灰になれば、それでおしまいとなるのだろうか。生きている人からすれば、そうなってほしいのかもしれず、生きているうちは民族だの国家だのに帰属しているように思い込み、そう思い込まされて、そういう帰属意識が人々の間で軋轢を生んでいるようだ。かつてクリミア半島に住んでいたタタール人は、強制移住させられた地から大勢が戻ってきているのだろうか。今ではロシア人が多く住んでいて、しかもウクライナの領土ということで、ロシア寄りで強権政治をやっていた大統領が国を追われ、面倒な事態となっているらしい。ウクライナの民族主義者からすれば、ロシア人は野蛮なモンゴル人と混血した卑しい民族となるわけか。そうなるとまた民族浄化の悲劇が繰り返されるのか。ホロコーストの呪いは健在で、アウシュビッツで灰にされたユダヤ人の霊が、成仏できずに未だ世界中に漂っているわけか。そもそも仏教徒ではないユダヤ人が死んで仏になるわけがないか。

 知らず知らずのうちに不謹慎なことを述べてしまう。それでも世界がここにあるのだろうか。意味不明な問いか。そのついでといっては何だが、ターミネーターやエイリアンやプレデターが、人より弱い存在だったら、そんな映画があったら愉快だが、実際に異民族としての少数民族というのは、そういう存在なのではないか。ユダヤ人は違うのだろうか。オカルト情報によると、フリーメイソンやイルミナティーなどの秘密結社を隠れ蓑にして、世界各地で暗躍しながら、今や世界征服目前らしいが、たぶん誰がそれを阻止しようとしているわけでもないのだろう。どうやら安倍ちゃんとお仲間のNHK3人衆も、爬虫類人に中身が入れ替わっているとかいう噂もあるが、その人たちの最近の言動からして、やはりコモドオオトカゲのように凶暴なのだろうか。たぶんその手の生き物はエサを食うとき、生きたままかぶりついたり、ためらいが感じられないので、凶暴に見えてしまうのだろう。人でもためらいなく強引な言動に出ると、凶暴そうに見えてしまうのだろうし、ユダヤ人も長年携わってきた職業的なイメージとして、過酷な取り立ての金融業と絡めて、凶暴そうに感じられてしまうのかもしれない。温情に欠けた心の冷たい薄情な冷血漢とは、変温動物の爬虫類そのもののことか。ターミネーターやエイリアンやプレデターも、そんなイメージだろうか。やはりそういう冷血漢は通常の人より強い存在か。ユダヤ人に関しては、何かとすぐに強硬手段に訴えるイスラエルという国家のイメージが、そう感じさせるのかもしれない。


3月1日

 やっとグーグルアースで南極のUFO秘密基地を見つけることができた。どう見ても岩山に大きな穴があいているとしか見えない。そこからもう少し北上したところにある海沿いの岩山は、さらに無数の穴があいているように見えるが、そこはUFO秘密基地ではないらしい。穴の形が不揃いでいびつだから、そうは見えないのだろうか。

 何もしなければ時が経つ。何かをやっていてもそうだ。それが無駄で無意味なことだと思わない方がよさそうだ。ただそうやっている。何か語っているつもりなのだろうか。語っていないわけではないが、語っているうちに時が経ってしまったらしい。考えがまとまるまで待ってくれないようだ。しかし何を考えているのだろうか。またくだらぬ被害妄想で凝り固まっているのか。意識がそこから離れられず、思い悩むが、そんなのは嘘だろうか。嘘であってほしいのではないか。平常心でいるように取り繕いたいのだろう。嘘がバレバレだろうか。でも何が見え透いているわけでもなく、何も語れない状態が続いているわけでもない。ただそれについて語ろうとしていないだけだ。出来事から遠ざかっている。興味を持続できない。関心がないのではないか。それについて語るのは無理のようだ。見ているのはただの地形だ。地図も見ているようだ。宝のありかを示す地図ではない。秘密は何もない。記憶にない言葉を記そうとする。辞書でも見ているのか。いくら見ても何を記す気にもなれないか。君は何から逃げようとしているのか。何からでもなく、この世界からでもない。無の境地に至れるわけでもなく、至ったところで何がどうなるわけでもない。無ではないわけだ。なぜそうなのだろうか。くだらぬ問答に終始しているからか。そうやっていること自体、無の境地を裏切っている。避けられない事態だ。どうあがいても、そこに言葉が記されてしまい、君の意向は裏切られ、何かが語られてしまう。君に何の権限があるというのだろう。君に何を止めることができるというのか。理詰めというわけにはいかず、損得勘定が優先されなければいけないのだろうが、やはりそれだけでは他の人々から尊敬を得られない。理屈を曲げて何を語ろうとしているのか。どうも話が何も見えてこないようだ。要するに今さら語る必要などありはしないということか。すべては通り過ぎ、過去の時空へと退きながら、記憶の断片を辺り一面に振りまきながら、それが宝島の地図であるように見せかけ、人々の欲望を捉えてやまないのだろう。でもそこに行けば何もないことはわかりきっているのではないか。何かあるはずか。少なくともそこには現代の街並があり、生きている人たちがそこでうごめいているはずだ。死人のおもだった人たちは、墓場と人の記憶の引き出しにその存在がしまわれ、忘れられているのが大半を占めるのかもしれないが、それはそれで良いことなのだ。いちいち思い出していたらきりがない。

 君もきりのいいところで忘れてしまった方が良さそうだ。それほど面倒な事態に遭遇しているわけではない。ただそれに関する情報が錯綜しているだけで、語っている文章も内容がわかりづらく、これといって特定の対象に至れないのだろう。哲学的な言説を理解できないようだ。いくら読んでもわからないだろうか。文章としておかしいのではないか。そういうことにしておきたいが、どうせまた暇にまかせて読んでしまうのだろうし、繰り返し読んでいくうちに、時がきたら理解できるようになっているのではないか。そんな機会を想像しながら読めばいいということか。物事を趣味判断で見て、そこから美的な何かを抽出する気にはならず、そういう面倒な感覚は無視して、事の善悪を決める以前の段階にとどまりたいのだろうか。そういうのはおかしいか。何だかわからないままでもいいのでかもしれない。ただそのような現象があり、それに接しながら何か思っているのであり、良いか悪いかを決められずに、感動したいのでもなく、馬鹿にして笑い飛ばしたいのでもないらしい。要するに少なくとも不快ではないということか。判断停止状態なのか。でも打ちのめされているわけでもない。それらに関わっている人たちのすべてが愚かなのではないと思いたいが、君が何をどう思ってみても、事態がどう変わるわけでもないらしく、ただそんな成り行きが続いているわけだ。いくら利害が錯綜していても、その錯綜している何かを解きほぐそうとしてはだめなのだろうか。でも触らぬ神に祟りなしでいいのだろうか。たぶん勝手に過去の歴史をほじくり返して、自分たちの有利になるように見直そうとする行為が、さらなる混迷を招いているのだろうが、そういうのも一つの通過儀礼と捉えればいいのかもしれず、それに首を突っ込みたい人たちは、首を突っ込んだ先で侃々諤々をやっていればいい話でしかないのかもしれない。それが善意の押し売りにならないように祈るだけか。どう考えてもうまくいくとは思えないところが、ある意味で救いなのかもしれず、この際だからおせっかいで議論に加わった人たちも含めて、それらすべてが犠牲者となって、すべてが済んだらその場から一掃されて、それらの存在が本来収まるべき墓穴の中や忘却の彼方へと退いてくれれば、なおのことおめでたいことなのだろうか。すでに数十年前に一度目があったではないか。忘れてはならないのはその時の過ちあって、それを今さら蒸し返して、過ちではなかったように言いくるめるのは至難の業だ。たぶん無理だろう。


2月28日

 たぶん語ることは枝葉末節なことだ。語らなくてもかまわないのかもしれない。語りたくないのではないか。眠りたいのか。昼寝をすれば夜中に眠れなくなるだろうか。他人の不幸を喜んでいるわけではない。目が見えなくなっているのだろうか。画面が見づらくなっている。気のせいではないらしい。老眼鏡が必要だろうか。君が必要としているのは他にあるはずだ。語れなくなってきているのだろう。逃げているのではない。逃げそこなっているのかもしれない。ゴキブリホイホイの中か。床を這う蜘蛛の姿を見かけたくなった。魂などありはしないようだ。あるのは記された言葉だけか。夢を見ているのだろう。夢の中で記憶喪失になっている。心が何に満たされているわけでもなく、曇り空の下に人影を見かける。今日も仕事をしているのだろうか。亡霊が誰に取り憑いているわけでもない。たわいないことだ。久しぶりに支離滅裂が戻ってきたのだろう。でもそれを誰に語らせようというのか。もうその辺で息切れか。だれてしまったようだ。居心地が悪いのだろう。住み慣れた場所ではないのかもしれない。未曾有の出来事に直面しているわけではない。それはわかっているのに、なぜか気が進まない。気がついたのはそんな心境か。暖かくなってきたのだろう。雨が降っていたのだ。それで気が滅入ってしまったわけではない。辺りが明るくなるのつれて目もだんだん見えてきたようだ。眠れない日々から遠ざかって久しいのかもしれず、追いつめられているのに余裕がありそうだ。何だかそんな気分なのだろう。こなれてしまったのかもしれない。でもやっているのはそれだけか。考えてしまうと言葉が出てこない。いつものようにそう思う。何が変わってしまったわけでもない。負け惜しみなのでもない。くたびれてしまったのだろうか。そんな気がしないでもないが、そこから語っているわけだ。もう関わり合うこともないだろう。何を修正しているわけでもない。訂正する必要さえない。たわんでいるようだ。それは空気ではない。とりとめもなくそう思い、ひとまず一段落つけようとしている。

 きっと何かのたわみを利用しているのだ。焚き付けているのか。それを燃やしてしまいたいのかもしれない。火のイメージに何かが踊らされ、そして滅び行くのだろう。いずれそうなるはずだ。きっと正気だと思っているはずだ。何を守り通そうとしているのか。守れないものだろうか。守りきれないものなのではないか。きっと何かがおかしくなっている。錯綜しているのかもしれない。わざとそう記しているはずだ。意図的にそれをやっている。そこにどんな意図があるのだろうか。世界を混乱に陥れたいのか。それほどの力があるとは思えない。でもそうなってしまうことを予感させるわけだ。そういう行動の行き着く先を知っているのかもしれない。かつてもそうだったのか。それは虚無からの指令に基づいた行為だろうか。もう迷わない。そう思わせる兆候をつかんだらしい。歯車と歯車が合わさり、カチカチ動き始めたようだ。後は自動的に事が進み、君は黙ってそんな成り行きを眺めていればいいのだろうか。そうであるなら苦労はしない。実際はわからない。この先どうなってしまうのだろう。機械仕掛けの自動人形が動いているわけではないらしい。操作しているのは状況ではない。そのつもりで行動しているわけでもなく、行き当たりばったりを装い、その裏で計算づくの何かを遂行中なのか。妄想だろう。あり得ない気分でそんなことを思い、それを隠すつもりもなく、ただありのままに振る舞うばかりのようだ。勝てないことはわかりきっているが、世界のイスラム化でも阻止しようとしているわけか。そんな力があるわけでもない。では破滅を楽しんでいるわけか。そうなるとは思っていないのだろう。思いがけないことが起こると楽しいか。その程度のことだ。まだ果てしない時間に入っているわけではなく、有限の時にとらわれ、その中で思考を巡らし、思い通りになるとは思わず、ひたすらサイコロを振り続け、出た目に望みを託している。たぶんそれは希望ではない。動き出せばいいだけかもしれない。事が動いて、何かが弾ける。そして誰かが旅立ち、この世界を経巡るのか。でも巡礼の旅とはならず、途中で失速して、とりとめがなくなるだけか。もとからそのつもりでそれを目指し、目指しているのがとりとめのない結果なのかもしれない。

 それは詩的なパフォーマンスとはなり難い。包み隠さず語ることはない。語れないのではないか。利用できるものは他にはない。虚無なのだろうか。言葉を記しているのだろう。それを利用しているわけだ。ごまかしきれるものではない。わざとそう思っているわけだ。何かを宿していることは確実だが、その何かを利用しようとして、ご破算にしてしまうわけだ。魅力に惑わされ、そこへ引きずり込まれて、どうにかなってしまう。ありふれた成り行きなのか。滅びるときはそうなるものだ。それが詩であるわけがない。ただの文章を読んでいる。内容があり、その内容を理解している。新境地というわけでもない。いつもの成り行きの中で考え、それが言葉の連なりとなり、他の誰かを惑わせ、おかしな結果をもたらそうとするわけか。おかしいとは思っていないのに、結果がおかしな事態をもたらし、さらにどうかしてしまうわけだ。望んでいたのとは違う結果なのだろうか。神がそう思わせるのか。そう思わない方がいいだけか。どちらにしろそういう結果なのだ。弓がしなり、矢が射られ、飛んでいった先には何もない。的そのものがないらしい。やっていることが支離滅裂だったのか。それが認め難かったのだろう。本当は気づいていたとも思えない。気づいていながら、気づいていないふりをしていたわけでもない。世間知らずだったのか。冷静に振る舞っていたはずだが、その冷静さが仇となって、どこか間抜けな成り行きに誘い込まれてしまったわけか。なぜそうなってしまうのか。それは君たちが知り得ることではない。知らぬが仏なのだろうか。そうだとすると、あとは仕上がりが楽しみか。何を楽しんでいるとも思えないが、それを仕掛けた覚えはない。誰が仕掛けたわけでもない罠にはまり、そこでもがいている誰かを眺めているだけなのかもしれず、そんな誰かが愛おしいわけでもなく、ただ勝手にもがいていろと思うだけかもしれない。冷たい人は誰なのか。君ではない。君が知っているのはあらすじだけで、それも過去の物語のそれだ。未来を見通しているわけではなく、何を予言しているわけでもないのだろう。まだその段階ではない。今日を生きるだけで精一杯なのかもしれない。他人ことまで心配している場合ではないようだ。だいいち無理なのではないか。

 どうにかこうにかそう思い、何かを思い直して、眠りから覚め、夢から覚めて呼吸する。心臓が動いているらしい。興ざめの現実を体験しているわけではない。まだそこまでいっていないようだ。いくべきところではないらしい。アウシュビッツまでの道のりは遠い。誰が行こうとも思わず、かつてランズマンが行ったのだろう。まだ生きているのか。恐ろしい行為と恐ろしい映画が対話している。行為の何が間違っていたわけではなく、すべてが正しかったのだろう。そこに持てる技術のすべてがあったわけで、人はただそれを行使すればよかった。それは人の存在を消し去る行為であり、痕跡すらとどめようとしなかった。だから証言が必要なのだろうか。積み重ねられたのは人の声であり、それが映像となり、9時間30分の間、何かを物語っている。そんなはずがないだろうか。それは正しい行いだったはずだ。ただ正しすぎて、人にはそれを貫徹する力が足りなかったのかもしれない。神でなければ不可能なことをやろうとしていたのか。行為の完璧さを目指してはいけないわけだ。だからいい加減に振る舞う必要があるらしく、抜け目なく配慮された間抜けさが必要とされている。そこから遠ざかるやり方はいろいろあるみたいだが、君が試すようなことでもないらしく、誰の代わりというわけでもないのだろうが、アホな人たちがそれを目指してがんばっているのかもしれない。間抜けな人たちにはそれがお似合いか。乾いた笑いが遠ざかり、地中海も干上がって、塩の砂漠となり、吹きすさぶ風に煽られて、心がどこかへ飛ばされそうだが、踏ん張りが利かず、次第に冗談へと傾いてゆく。どうせまた語りすぎているのだろう。何を忘れているのか。ボスポラス海峡とジブラルタル海峡の間に何があるわけでもない。ただ具体的な地名が出てこないだけか。君がそれを求めているわけでもないだろう。それとは関係なく、南極大陸のすぐ北のインド洋に沈んでいる日本の3倍ほどの島に興味がありそうだが、なぜかグーグルアースを見る度に、それを見ようとしてしまう。ケルゲレン海台と呼ばれ、約2000万年前に海に沈んだらしいが、白亜紀の中期には濃い針葉樹林に覆われていた可能性があるそうだ。それがどうしたわけでもないのに、タム山塊やオントンジャワ海台とともに、そこへ惹かれてしまうのはなぜだろう。現在は海面下1kmから2kmに存在するその島に何かあるのだろうか。


2月27日

 日本精神という呼び方はおかしかった。大和魂と呼べばしっくりくるだろうか。言葉に陶酔するのは一種のごまかしかも知れない。それで大和魂を用いて何をごまかしているのか。和魂漢才だとか和魂洋才だとか、和は空っぽではなく、そこに魂があるということだ。しかし魂というのは何なのだろうか。何もないから魂という言葉を使って、そこに何かあるように見せかけているのだろうか。何もなくても魂があるわけで、その調子で語ってゆくと、どこまで述べてもきりがなさそうだが、それでもそこに言葉がある。サムライとかナデシコとかもそれと似たような言葉だろうか。日本人が世界のどこかで活躍して、それをメディアが誇らしく報じれば、そんな言葉が使われるのだろう。そういえば宇宙戦艦ヤマトは、大和魂の権化だったのかもしれない。沖田艦長だの徳川機関長だの、乗組員の名前がそうだったのだろう。地球を救うのが日本人だけというのも気が利いている。架空の話なのだからそれでもかまわないだろう。実際の話では必ずしも救わなくてもいいわけか。時と場合にもよるのではないか。そういうのがあり得ないわけか。仮定の話ではつまらない。それ以前にヤマトの話はどうでもいいか。サムライとかナデシコとかヤマトとか、カタカナ表記なのもおかしい。ニセモノ感とかキッチュな感じを醸し出すことで、そういう言葉を使う人たちの間で、何か気恥ずかしさが漂っているみたいに感じられる。本当は使いたくないが、使わないと世間が許さないような、空気みたいなものを感じているのかもしれない。そういう空気みたいなものを総称して大和魂と呼ぶのだろうか。ちょっと違うのかもしれず、見かけはもっと勇ましいものなのかもしれないが、要するに張り子の虎で、中身は何もないということか。そして近頃はそこにネトウヨとか呼ばれる差別用語も加わっているわけか。そういうカタカナ言葉を記していると、なぜか半笑いとなってしまうが、それは真面目に語るようなことではないからか。それでかまわないのだろう。本気ではないという意思表示が、カタカナ言葉の使用に至らせるのかもしれず、世の中が美談ばかりでは息が詰まるから、少しはおちゃらけたエピソードも、息抜きとして必要なのかもしれない。

 しかし何にせき立てられているわけでもないだろう。要するに使われた当初は肯定的な意味をともなって、対象を賞賛したりする言葉であったはずが、メディアを通して決まり文句的に繰り返し使われだすと、肯定的な意味はどんどん摩耗していって、終いには抜け殻のようになってしまい、そのようにして穿たれた空疎な空洞に、今度は冗談とか皮肉とかのニュアンスが半笑い気味に詰め込まれてきて、表記もいつの間にかカタカナとなり、とても真面目な表現としては使われなくなって、とどのつまりがフジヤマ・ゲイシャ・ニンジャ・ハラキリな感じとなってくるわけだ。それは愉快なことか。そういう言葉を使うこと自体が滑稽に思われてしまうのは、なぜなのか。何か普通ではない時代遅れ的な感覚があるのだろうか。そこには古き良き日本固有の文化に関係した何かを連想させるものがあり、それを今の時代にそのまま持ち込もうとすると、どうしてもうまくはまらずに、何か照れ隠しの冗談のようにして使わないと、まともには受け取られない感覚なのかもしれない。そういう言葉を担っている対象がもはや現存しておらず、フィクションの中でしか見当たらないものなのかもしれない。フジヤマ・ゲイシャ・テンプラ・スキヤキなどは現存しているが、それは日本文化を滑稽な見せ物としてデフォルメした虚構の中で、そう呼ばれるのであって、現実に存在している対象とは別物なのだろう。そういう意味ではネトウヨもカタカナをさらにひらがなに裏返したきゃりーぱみゅぱみゅも、それを意味する対象のほとんどの部分は、フィクションというか仮想空間が支えているものなのだろう。そういう虚像を増幅させて、何か表現しているつもりなのだろうが、それらが何を物語っているのか、あまり真剣に考えることではないのかもしれないが、言葉が言葉として、それ自体が幻影という役割を脱して一人歩きし始めると、何やらリアリティを失い、冗談かギャグのように思われてくるのだろうか。


2月26日

 何か吹っ切れたのか。たぶんそれは隠喩のたぐいなのだろう。ともかく誰かが『万葉集』について記していて、君がそれを読んでいる。だがそれにかこつけて語っている内容は時事問題でしかなく、しかもそれは過去の出来事だ。何かその時代に政争があったということであり、それと現代の状況を重ねあわせているわけか。君がそうしているのではなく、『万葉集』について記された文章を論じている誰かがそうしているわけだ。君には関係がないといってしまえば、それでおしまいなのだろうが、そこで話を終わらせるわけにはいかないのだろう。何か気になる箇所でもあるのか。語る上で理想の状態などないことはわかっている。やたらと感傷的になっているのは現代に通じる感性だろうか。たぶんそこに至るすべての紆余曲折を省略することなどできはしまい。君は観客にしか過ぎないのだろうか。君たちはそこで何を観賞しているのか。芸術作品か何かなのかもしれないが、それが嘘なのだろう。ではそこで眺めているのはただの景色か。観賞とは相容れないそれについて語っているつもりが、その内容にはとりとめがなく、それを読んで何を語ればいいのかわからなくなり、言葉を弄するほど、語っている対象があやふやとなってしまうようで、たぶんどうすればいいのかわからず、思い悩んでいるうちに、そこで目が覚めたわけでもないのだろう。もうだいぶ時間が経っているはずだ。とりあえずへたに語るべきではないことはわかる。無理に語ろうとすれば足下をすくわれ、自らの文章読解力のなさが露呈してしまうか。ではそれについては語らずに先を急ぐしかないか。そう思ってからもだいぶ時間が経っているようで、今はどうなってしまったのか。ただ言葉が出ないだけだろうか。だがすべてから遠ざかるわけにはいかないようで、君は置いてきぼりを食いながらも、そこから歩き出し、途方に暮れながらも前進し続けているわけか。そこで何かに取り憑かれ、亡霊となってしまったように思えてくるが、まだ何か語る気力が残っているのだろうか。そこで記している言葉の連なりが、そんな心境に至る経緯を示している。でもまだ語るには不完全な内容だ。どうせ話の途中までしか読んでいないのだろう。要するに戦争は戦争で、作戦として戦略的で戦術的なことだろうし、作家が『万葉集』について語っているのとは関係がないといってしまえば、その通りなのだろうが、そこから妙に感傷的になって、何だか命がけで語っているような雰囲気をまといながら、語ってしまうのだから、それは倒錯的な振る舞いかもしれない。でもそれで何がどうなったわけでもなく、そんなこととは関係なく、かつて日本は戦争で負けて、今に至っているだけのことでしかない。どうもそのへんの感覚が理解できないわけだ。

 違和感があるといってしまえば、そういうことでしかないのだろうが、そこに何やら日本精神という摩訶不思議な何かがあるというのか。オリンピックで6位になったスポーツ界のアイドルをネタにして、何か感動話を語りたい人たちも、それと似たような現象の虜となっているのだろうか。どうもそういう時流に流されてしまう人たちは信用できないし、軽薄で一過性の何かに目がくらんでしまう人たちなのだろうか。結果を結果として受け入れることができずに、ひたすらいいわけがましく甘ったるい感動話を繰り出して、6位になった現実を覆い隠そうとし、果ては結果などどうでもいいかのごとくに語ってしまい、何とか自分たちがひいきにしている人物を救いたいわけだ。結局それは、戦争に負けたが日本精神は不滅であり、『万葉集』は不朽の詩集である、というある種の開き直りに通じる何かを感じさせる。みっともない人たちと見なしてしまえば、それでいいことでしかないのだろうか。それは南京大虐殺はなかったとか、従軍慰安婦は当時は当たり前の習慣だったとか、東京裁判は戦勝国による不当で不公平な裁判だったとか、そういうことを主張する人たちと同じメンタリティなのかもしれず、採点基準が不公正だとか、ライバル国のメディアによる嫌がらせがあっただとか、いろいろ言いたい人もいるのだろうが、まあその程度のことであり、別にそういうことを主張するのが悪いわけではないのかもしれない。主張したからといって、何がどうなるわけでもなく、結果は結果として残り、時が経てば忘れてしまうようなことでしかなく、いつまでも気に留めるようなことでもないのだろう。でもオリンピックの度にそういう感動を言い立てる輩が大量に湧いて出るのには参ってしまったか。夏と冬で二年に一度ずつというのは、ちょっと頻繁すぎないか。それが終わってほっと一息ついていれば、パラリンピックまであるし、とりあえずテレビをなくしたのは正解だったかもしれないが、ネットのニュースでそれがあったわけだ。まあ嫌ならそれも見なければいいのだろう。


2月25日

 たぶん説明してはだめなのだろう。この世界について、あるいは人類について、社会について、そういうことを説明しようとすると、なぜかそこから自らの主張が出てきてしまう。それでかまわないのではないか。なぜそれではだめなのだろうか。それが偽りだからか。なぜ偽りなのか。自発的にそれを主張しようとしているからか。そう思い込んでいるわけだ。かまわないのではないか。それ以前に答えになっていないし、問い自体もおかしい。問う必要のないことを問い、答えになっていない答えを出そうとしている。ではやはりそれを説明しようとしてはだめなのだろうか。だめであろうとなかろうと、そういうことではなく、ただ考えすぎているだけだろうか。どうやらわざと話を別の方面へずらそうとしている。君はそんな理由の定かでないはぐらかしに興味があるわけか。本当はまともに語りたいのに、語る自信がないのではないのか。それについて語るには力不足なのか。そう思ってもらってかまわない。たぶんそういうことだ。世界の中で日本人を正当化するとなるとそうなってしまう。人種について語りたいわけではなく、国民として語りたいわけでもなく、自らが日本人という固有名に帰属したいわけでもないのだろう。だからそういう語り方となってしまうらしく、それをずらしてはぐらかし、面倒なことだと思い、できることならごまかしてしまいたいが、避けて通れないことでもないらしい。だからまともに語らずに、そのまま通り抜けようとしているのか。それでかまわないだろう。自らにそう言い聞かせている。そんなはずがないだろうか。そんなふうに語ってしまっても大丈夫なのだろうか。たぶんそうだ。社会のしがらみを振り切ることで、その社会にまとわりついている宿痾を否定的に語り、それに抗う自らを英雄化したいわけでもなく、内輪で威張ってみせ、日本人であることを誇り、そんな行為を自慢しあっている光景を眺めながら、そういう人たちを軽蔑したいわけでもなく、意識がそこから遠ざかるにまかせて、そういう束縛に満ちた善意の連帯と引き替えにして、孤独な自由を得たいのか。そんな格好の良いことではない。空元気を見せつけたいわけでもなく、淡々とやれることをやり続けているだけなのか。そうならそうで、そんな行為に救いを見出すには及ばない。救われないからこそ、報われないからこそ、そういう行為を続けられるのではないか。何を続けるにしろ、大したことではなさそうだ。別に説明を要するようなことでもなく、そうならざるを得ないからそうなってしまうのであって、そうならなければやっていられないようなことなのではないか。そういうことを誰かが語らざるを得ないということか。それが善意から出てきていることではないのだろう。では悪意からそんなことを語っているのだろうか。そういう行為に皮肉の一つも付け加えたいのか。

 人には限界がありそうだ。組織にも団体にも社会にも限界がある。でもそれは打ち破る必要のない限界なのではないか。オバマは有能な人間であり、アメリカの大統領としては、よくやっている方なのだろう。状況としては限界だらけで、やれることも限られている中でよくやっている。選挙で自分に投票してくれた社会的な弱者のためになるようなことをやっているはずだ。結果としてうまくいっているとは感じられないが、よくやっていると思われる。彼以外の誰がやってもうまくいくはずがないことを、彼はやっているのではないか。今の時代の政治家はみんなそういう立場に立たされているのではないか。いつの時代もそうだったのか。後からうまくいったような話にすることができるだけか。過去の誰彼が偉大な業績を残したとかいう物語を、その誰彼に心酔している人が書き著したり、そういう映画やテレビドラマが制作されたりしているわけか。どうせオバマも後の時代に、アメリカ初の黒人大統領として、その栄光と挫折と苦悩と葛藤の物語が、映画化されて話題となったりするのだろうか。前任者のブッシュ氏ではそうはならないのではないか。同時多発テロとかアフガン・イラク戦争とか、別の意味でお騒がせの映画にはなりそうだが、人物として英雄にはふさわしくないだろう。父親のブッシュ氏が大統領時代の湾岸戦争と合わせれば、合計で三十万人以上は死んでいるのではないか。中国側の言い分では南京大虐殺で30万人が犠牲となったそうだが、ブッシュ親子ですでにそれを上回る人を殺していたりして、日本の右翼も、そんなに死んでいないなどとセコいことは言わないで、戦争だからそれぐらい死んで当たり前だぐらいの開き直りが必要かもしれず、毛沢東などは1950年代の大躍進政策の失敗で、5000万人の餓死者を出したとかいわれているし、カンボジアのクメール・ルージュなどは自国民を300万人殺したそうだから、それから比べれば大した数字ではないか。まあ比較すること自体がおかしいのかもしれず、旧日本軍の場合だと、それに加えて731部隊の人体実験が後に控えているから、中国側としても当分は非難の材料に事欠かないか。


2月24日

 何を語っているわけでもないのに時が経つが、それに抗うことはできない。いくら苛立っても時は経つ。焦って物事を単純化して捉え、それを痛烈に批判したつもりにはなりたくないか。ではどう考えたらいいのだろうか。考える必要がないのかも知れない。しかし考えないとなると、何をどうしたらいいのか。やはり物事の単純化で凌ぐわけか。例えば「戦後教育」というマインドコントロールから抜け出せない安倍ちゃんみたいなことを主張していればいいわけか。それではだめだと思うのなら、未だに「戦後〜」という決まり文句に洗脳されている人たちが、どうすればその手の呪縛を脱して、まともな思考形態を獲得できるのか、それを考えなければならないだろうか。もう一度戦争になれば、嫌でも今の戦後から脱却できるかもしれないが、でも戦争が終われば、また別の戦後がやってくるだけかもしれず、しばらくすればまた「戦後〜」がどうしたこうしたと唱える人たちが性懲りもなく出てくるのではないか。それでは元の木阿弥だろうか。いったい「戦後〜」の何が不快なのか。彼らはそれで何を語っているつもりなのだろうか。それで何か語っているようなつもりなところが腹立たしいのか。何かを総称して「戦後〜」と呼んでいるわけなのだろう。そこに何か共通する価値観やら概念やらが定まっていて、それを今こそ打ち破って、新たな価値観やら概念やらを構築しなければならない、と思っているわけか。その旧来からある何かを打ち破って新たに何かを構築するという思考は、いわゆる革命思想からきている決まり文句だろうか。しかし打ち破るべき「戦後〜」というのが、何だか漠然としていてはっきりしない抽象的な概念だ。そしてそういうあやふやな「戦後〜」を打ち破って、新たに何を構築したいのかも、今ひとつわからないのだが、要するにその手の革命思想から借りてきた決まり文句を使って、何か利いた風なことを主張して、何かやっているふりをしているだけではないのか。その「戦後教育」から脱却するためのお題目として、「教育改革」というキャッチフレーズばかり先行しているようだが、実際に何をやっているのか。それともこれから何かやるところなのだろうか。また例によって学校行事の際に国旗を掲揚して国歌を斉唱するとかの枝葉末節なことか。それの何が改革なのかよくわからないが、それに逆らう左翼な教職員を排除すれば、それで「戦後教育」の価値観から脱却したことになるわけか。後は道徳の時間を使って、愛国心でも生徒に叩き込むわけか。でもそれなら中国・韓国・北朝鮮と同じようなことをやっているに過ぎない。自分たちが敵対している国家と同じようなことをやってどうするのだろう。やはり彼らは視野の狭い間抜けな人たちなのか。それをやれば中国や韓国みたいにオリンピックでメダルを多く取れるとでも思っているわけか。

 彼らには何が欠けているのだろうか。自分たちの心の拠り所である天皇制と、西洋由来の国家主義的な国家観が合致し得ないことに気づいていないのではないか。天皇制を強化すれば北朝鮮みたいになってしまうし、国家主義的な国家観を強化すれば韓国みたいになってしまう。どちらにしろ自分たちが軽蔑している対象に近づいてしまい、かといってそういう自分たちが抱え込んでいる矛盾を改めるわけにはいかず、結局行き着く先は中国の共産党一党独裁ならぬ、自民党の一党独裁国家なわけだ。このままでは彼らが目標とする欧米にはほど遠い国となってしまうだろう。彼らは自分たちがやろうとしている国家統制とは相容れない自由主義を認めることができないのではないか。民主主義と自由主義が相容れない矛盾した概念であることを理解できないのではないか。天皇制も国家主義も民主主義も自由主義も、それぞれに別々の方向性があり、異なったベクトルを持っていることを把握できず、ただ場当たり的に「戦後レジームからの脱却」とか叫んで、自分たちが気に入らない歴史的な成り行きを覆そうとして、また「美しい国」だとか言って政治を美学と混同し、まさに馬鹿丸出しになりつつあるのだろうか。確かに現時点で批判できるとすればそういうことなのかもしれないが、たぶんそれでかまわないのだろう。人々は実際におかしくなってみないと気づかないだろうし、おかしくなってから選挙か何かで判断すればいいことで、気づいてからではもう遅い感覚にならないと懲りないだろう。もちろんそんな批判などものともせずに、うまくいってしまう場合もあるのではないか。現時点でいくらやっていることがおかしく見えてしまうとしても、現実にウクライナやシリアのような政治的な混乱に陥っているわけでもないのだから、いくら政治家や官僚がでたらめなことをやっていようと、それでも日本という国が成り立っているとすれば、その程度のことに過ぎないのかもしれず、まだまだ経済的にも社会的にも恵まれた環境にあるのだろう。もしかしたらこれも安倍ちゃんたちが批判してやまない「戦後レジーム」のおかげなのではないか。彼らは彼ら自身が好き勝手に批判している「戦後レジーム」の申し子たちなのだろう。


2月23日

 誰が思い描いているわけでもないような未来がやってくる。そうなってほしいのだろうか。誰もそうなってほしいとは思わないような成り行きになってほしいのかもしれない。誰がそう思っているのか。聴こえているのは鳥のさえずりだけなのか。何か不満でもあるのだろうか。くだらぬ問いが繰り返し記される。窓から曇り空を見つめているのは、誰のまなざしでもない。何も見ていないということか。それでも次第に何かがわかってくるのだろう。例えばそれで知識人の愚かさがわかってくるのだろうか。あるいは専門家と呼ばれる人たちの視野の狭さがか。ついでに政治家の心の狭さもわかってしまうのだろうか。それらの出来事に対する見方や考え方によって、メディア関係者の軽薄なお騒がせ体質も明らかとなっているわけか。ちなみに彼らは何に感動しているのか。転んで尻餅をついた誰かに感動しているわけか。何でも涙が出てくるそうだ。ちょっと見所が違うのではないか。そんな疑念は無視して、誰に教えられたわけでもなく、勝手に誰かの演技を解説している。要するに特定の誰かをひいき目に見る習慣がついているわけか。彼らも彼らで何とかしたいのだろう。結果などは無視して、人々の意向に従いたいのだ。空騒ぎというやつだろうか。過ぎ去る何かを必死に映像にとどめようとしているわけだ。いつまでも持つわけがないのに、はかない夢に何かを捧げようとしている。ご苦労なことなのかもしれない。そしてこれ見よがしにあからさまことをやってしまう。そういう身もふたもない行為を肯定したいわけだ。笑ってしまうが、耳が聞こえないのに立派な曲を書き上げたり、家族思いなのに零戦で自爆攻撃したり、すべって転んですってんころりんなのによくぞ立ち直って最高の演技だったりの、その手の感動のメロドラマをみんなで盛り上げたかったのだ。たぶんみんな何かが見えていないのだ。それは周りの景色か。見えていない人たちをアホな連中と軽蔑してみても無駄なことだ。とりあえずこの世界は彼らのものだ。彼らが見えている世界は彼らのものなのだろう。でもすべてが見えているわけではない。それどころかほとんど九割九分九厘見えていないのではないか。それでかまわないのだろうか。現状ではそういうことになりそうだ。でもみんな何に影響されてそうなってしまったのか。情けない自分たちを奮い立たせるにはその手のメロドラマが是が非でも必要なのだろうか。たぶん自分たちが身も心も黄昏れてしまいつつあることを無意識のうちに自覚しているのかもしれない。どうやらこの調子では右翼がいくら発破をかけたところで戦争どころではないだろう。この調子で坂本九が歌ったすき焼きソングでもみんなで合唱していれば、日本の政治経済的な衰退を楽しんでいられるだろうか。

 「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」そんなふうに実況のアナウンサーが絶叫していたのは、ナチスドイツが開催したベルリン・オリンピックでの出来事だったか。そんな日本人の思いは当時と変わらないのだろうか。日本人も人それぞれでいろいろあるのではないか。そう思いたい。でも何がそういうアホくさい人たちの出現をもたらすのだろうか。何かをことさらに誇張して報じたいメディアの魔力が、それを見ている人たちに伝染して、大げさな感動を呼び、その感動がメディアに跳ね返って、またそれをメディアが騒ぎ立てる。別に優勝したわけでもないのに騒ぎ立てるところが、昔よりさらにおかしくなっているのか。何でもかんでも騒ぎ立てないと気が済まない感情に、歯止めがかからなくなってきているのかもしれない。羞恥心が欠如しているのだろうか。みんなが心の中で、優勝できなかったけどよくやった程度に思えばいいだけのことを、それを表に出してお祭り騒ぎのように報じているところが滑稽極まりないが、そうしないとわかってくれないと思うのか。そしてこれでもかと大騒ぎして、不特定多数の人たちに感動を押し付けようとしているわけか。たぶんそういうことをやるのが自分たちの使命だとでも勘違いしているのではないか。まともな神経の持ち主なら、きっと後から虚しさがこみ上げてくるだろう。

 外ではカラスがカーカー鳴いて、何か訴えているのかもしれないが、誰に聞き届けられるようなことでもない。それでかまわないはずで、実際にそうなっている。それを実況のアナウンサーが、「外ではカラスがカーカー鳴いています!外ではカラスがカーカー鳴いています!」と絶叫しながら連呼し続けたらおかしいだろう。でもカラスにとって人間のやっていることなど、そんなふうにしか見えないとしたら、何だか愉快に思えてくるだろうか。それと何が関係あるわけでもないだろうが、やりたいことと、現実の体験している状況がかみ合っていないようで、それどころか思いっきりずれているのに、浅はかな理由をこじつけて、強引に騒ぎたい人が多すぎるような気がするのは、何となくメディアの空騒ぎと空回りを実感させる成り行きとなっているようだが、後はそれを真に受ける愚かな人ができるだけ少ないことを祈るばかりか。


2月22日

 人は狭い範囲で生きていて、狭い範囲で交友関係を築き、狭い範囲で協力しあい、狭い範囲で何かを成し遂げようとしている。そしてそれが何を意味するのかわからないみたいだ。たぶんわからないまま老いて死んでしまうのだろう。結局何も残らないわけか。それでかまわない。無駄なことをいつまでもやり続け、そうすることにこだわり続け、そしていつしか忘れてしまうわけだ。いったい今まで何をやってきたのか。たぶんそんな成り行きの中で何かをやろうとしているわけだ。実際にやっているのではないか。実際に何かやっていると思い込んでいるだけで、その思い込みを共有してくれる仲間を求めているのかもしれず、気の知れた仲間とともにそんな思い込みを共有しながら、何とか平静を保ちつつ、それを最後までやり遂げようとしているわけか。しかしそれで何をやっていることになるのか。疑念を抱いてしまってはだめなのか。たぶん信じなければならないのだろう。それをやっている事実を信じなければならない。それで救われるわけではないが、信じている間は続けられるのではないか。少なくとも続けている実感は得られるだろう。フィクションの中ではそうなのかもしれない。それを読んでいる君は信じていないのだろうか。またおかしな内容の小説を読んでいるのか。それが小説といえるだろうか。小説ですらなければ何なのか。出来損ないの物語の断片に過ぎないのか。そうであったとしてもかまわないだろう。それを打ち捨てるわけにはいかないらしい。話の主人公が何とかなると思っている限りは、それは続けられねばならない。そして続ければ続けるほど、さらに入り組んだ話となって、読んでいる誰かを戸惑わせるのだろうか。おもしろくないはずがないか。そういう思い込みが勘違いといえるだろうか。誰にいえるわけでもなく、君がいえることも何もない。呆れてものもいえないということでもないのだろうが、それも経験のたぐいではないのか。でもそれが積み重なって、何らかの思考をもたらすわけでもなく、たぶん風化するまで放っておかれるのではないか。くだらぬことは忘れ去られ、またそれが繰り返されるまでは放っておかれるのだろうか。そこから何が求まるわけでもなく、ただ経験が無駄に積み重なっただけか。年輪でも形成しているのだろうか。そういうたとえではうまくいかないだろうか。何事も経験であり、経験なくして新境地は切り開かれないか。でもそれは何の経験なのだろう。そこで何かが欠けている。具体的な話の内容だろうか。

 今のところは何がどうなっているわけでもなく、何も思い浮かんでこないようだ。話がどうしたわけでもないらしい。記述の成り行きに流されている。たぶん見失っているのだろう。己を見失っているのか。すぐそんなことを思いつくが、それは嘘か。嘘なら何とするのか。旅が果てしなく続くはずがなく、いつかは終わりがやってきて、自らの命を失い、どこか辺境の地で何かが尽きて、君は亡霊となり、空を飛び、海中を泳ぎ、陸を歩いて、ここへ帰ってきた。それも作り話の一部なのか。

 せっかちなのか。急いでどこへ戻ろうとしているのだろう。タイミングはそのままで、何かを待ち続け、不意に物陰から飛び出して、通りかかった誰かを驚かそうとしているわけか。たぶんそうではない。見せかけの何かにとらわれ、それを信じ込もうとして、自分に何かを言い聞かせているのかもしれないが、どうもうまくいっていないようで、やり直しがきかなくなるまで、それを修正し続けているのかもしれず、そんな繰り返しの中から、何か思いもしなかったような効果を引き出したいのかもしれないが、それが今のところはうまくいっていないということか。思いがけないタイミングでそんな言葉が繰り出され、戸惑う間もなくさらに何かが付け足され、意識がそこを通り過ぎてから後悔しているわけか。もうとりとめがないだろう。すでにだいぶ語ってしまったはずだ。それは計算外の出来事だろうか。もとから何を計算していたわけでもない。話がどこかへ飛んでしまったようで、途中からわけがわからなくなっているようだが、今さら引き返すわけにはいかないのか。今こそ君が語らなければいけないような気がしてくる。

 冗談だろう。冗談で済ませてしまって後悔しないか。そういう話ではない。どんどんずれていってしまうようだ。もうもとへは戻れない。もとから何を主張しているわけでもないか。だから元に戻す必要はない。それを信じていた君が馬鹿だったのだ。でも信じ込むことこそが、そこから逃れる術なのだろう。安易に離れるわけにはいかず、ひたすらそれについて言葉を連ね、語るべきなのではないか。だから今こそ語るべきなのか。何をためらっているのか。でも急に急かされても何も語りようがない。促されているのはそれではないのかもしれず、それについて語ることではなく、別の何かについて語らなければならないのではないか。たぶん意識がそこから戻ってきたとき、初めてそれを理解して、それについて語る環境が整い、そこから自然と語るべきことが導き出され、内容も湧いて出るのではないか。君はそんな思い込みの中で苦悶しているのだろうか。作り話としては意味がないか。

 たぶん何をつくっているわけでもなく、話にもなっていないのではないか。タイミングとしてはそういうことらしい。やはりどこかずれているのだろうか。たぶん何もないところからは何も生まれないということか。生まれようがないのではないか。何かを生じさせるにはそれなりの犠牲が必要だろうか。


2月21日

 やっとグーグルアースでノアの方舟の残骸らしきを見つけたが、場所はトルコ領で大アララト山と小アララト山の間にあるようだ。長さが300メートルぐらいで一応は船の形をしている。それがどうしたわけでもないのだろうが、確かに何かの跡には違いない。でも本当にあの付近まで水に浸かったとすれば、世界中が水没したことになるだろうか。それはあり得ないか。聖書に感化されたアルメニア人あたりが、何か記念の建造物でも建てた跡なのだろうか。そういえばオスマン帝国によるアルメニア人虐殺のときには、100万人規模で人が死んだらしい。民族というのは一つの場所に固まって住んでいると、何かとヤバいことが起きる原因となってしまうのだろうか。今ではアルメニア人は世界各地に散らばって暮らしているらしいが、民族国家をつくって一カ所で凝り固まっているよりも、分散して暮らしている方が自然なのではないか。固まっているとよそ者を差別してよそ者から差別される。民族国家という存在自体が戦争の原因となってきた。民族国家という概念が戦争から生まれ、発展してきたのではないか。ということは戦争がなくなれば、民族国家もなくなってしまうだろうか。右翼もそうだが、常に隣国を敵視して、勇ましいことを叫んでいないと、その存在意義が薄れてしまうのではないか。そういう意味では、右翼は隣国との緊張を高めるために存在しているわけか。そうだとすると世界中から国家がなくなってしまったら、右翼も消滅してしまうだろうか。でもどうなれば世界から国家がなくなるのか。TPPやFTAなどをてこにして、今アメリカあたりが世界征服に乗り出している最中で、あと何十年か何百年かかけて、アメリカによる世界征服が完了したら、それで世界がひとつになるわけなのか。でもそうなると世界を統一する反キリストがアメリカの大統領で、神と悪魔との一大決戦を経て、最後の審判のときがやってくるわけか。どうやら世界統一にはヨハネの黙示録が障害となっているのかも知れず、世界を統一しようとする勢力は反キリスト呼ばわりされて、それを阻もうとする勢力の口実になってしまいそうだが、でもそれで最後の審判のときがやってきて、神を信じる人たちが天国へ行けるのだからいいのではないか。でも君は信じていないから地獄行きなのではないか。何やら途中から冗談の域へ迷い込んでしまったようで、どうでもよくなってしまうが、現時点では世界統一など夢のまた夢で、まだまだ世界各国では人々が殺し合うための武器を大量生産大量購入している段階で、日本でもどうしても他の国と歩調を合わせたい人たちが、自衛隊という軍隊が戦争できるように、憲法改正できないのなら解釈を変更できないか模索中らしい。まったくいつの時代でも他国の真似ばかりの猿真似国家に暮らしている人たちには、自尊心というものがないのだろうか。でもそこがいいところなのか。とりあえず何もかも猿真似してはみるが、心底から信じてはいないようで、表面的に猿真似するだけで、心の中では、他国の人や文明を小馬鹿にしているのかもしれず、その辺をアメリカあたりからも見透かされていて、日本は信用できない国家であり、日本人は信用できない国民であると思われているのではないか。まあ国家とか国民とかいうのも、西洋由来の借り物の概念なのだから、本気で日本という国家を崇拝したり、心から日本国民になりきろうとしたりする必要もないのかもしれず、そういうのを真に受けている右翼の人たちも、一般大衆にとっては都合の良いときだけ利用する使い捨ての対象なのだろうか。

 あとグーグルアースではっきりきれいに見られる地形といえば、カナダのケベック州にあるマニクアガン・クレーターなどがあるが、二億年ぐらい前の隕石落下の跡で、落ちてきた隕石は直径5キロメールほどだそうで、川をせき止めてダム湖にしたので、地球上空から見ると目立つ地形となっている。大きさとしては阿蘇山のカルデラの2倍強といったところだろうか。岐阜県辺りでもその時の隕石衝突にともなう地層があるらしい。

 ついでに一部では結構話題となっていたかもしれないが、アフリカのカナリア諸島の北の海底に眠る古代アトランティス大陸の都市遺跡という代物も、探せば簡単に見つかるだろうか。確かグーグルによると、無人の海底測量潜水船か何かが、その辺で行ったり来たりした痕跡が、そのまま海底地図に線となって出てしまったらしいが、未だに消えずに残っているところが、何かいわくでもあるのだろうか。


2月20日

 今日もどこかで何かが大げさに語られている。どうせ君には関係のない話だろう。だから君はそれとは関係のないことをでたらめに語ろうとして、うまく行かなくなってしまったらしい。すでに何も語らないうちから限界か。でも心配するには及ばない。取り越し苦労なのだろうか。杞憂に終わってしまえばいいと思うが、やはりそこで語られるのは君とは関係のない話なのか。どこに語る場所があるわけでもなく、遠い昔にそれがあったように思われているだけで、現状では語ることなど何もなく、そんな想像を打ち消すように、そこで関係のないことが語られているのだろうか。そことはどのことなのか。語る場所などありようがなく、そこで何もかもが行き詰まり、何もない荒野が目の前に広がり、空疎な頭の中で誰かの思惑が次第に明らかとなりそうだ。君はそれに逆らって必死で何か思い出そうとしているのだろうが、相変わらずそれはとりとめのない話だ。まだ中身が何もない。また無理をして語ろうとしているのか。だがどうしてもそれについて語る必然性を感じられない。でもそれを無視してしまえばおしまいとなる。できなければそれについて語るしかない。何から遠く離れてしまったのか。何からでもなく君からでもない。遠く離れていない証拠に、まだそれについて語ろうとしているのではないか。でもだいぶ昔の話になる。興味があるのは昔話となりそうだ。そんな逡巡の中で、語ろうとしても語れないことがありそうだが、やはりそれを無視して、他の何かについて語ろうとしてしまうらしい。この世界には本当に何もないのだろうか。興味がないわけではないのだろう。どうやら何もかもが杞憂に終わるわけではなさそうで、その杞憂について語らなければならないらしい。ひたすらそんな内容のないことを記しながらも、本当にそうなってしまうような気がしてきて、だんだん心配になってきて、何か適当な話題について語りたくなる誘惑を振り払えなくなり、結局それについて語りだしてしまうのだろうか。それとは何だろうか。それがわからなければ語りたくても語りようがない。例えばそれはこの世の終わりについてだろうか。苦し紛れに思いつくのはそんなところか。グーグルアースに見とれているうちに、何か重大な事実に気づかないだろうか。音楽を聴きながらストリートビューを眺め、そこに映る光景の中から何を探しているのだろうか。いくらサンフランシスコの街並を探索しても、そこにお目当ての何があろうはずがなく、何も見つけられないまま、画面を閉じてしまう。アルメニアの山奥に列石群があり、そこに古代文字が刻まれているらしい。また性懲りもなくグーグルアースか。いくら探しても何も見つからないだろう。どうやらノアの方舟の残骸も見つかりそうもない。そんなものを探しているうちに、始めに何を探していたのかさえ忘れてしまったらしい。

 何に逆らおうとしても徒労に終わりそうだ。興味がないのだから仕方がない。また過去の記憶が遠のき、意識が現実の世界へと戻ってくる。結局何の収穫もなかったようだ。探り方が不十分だったのではないか。だが何に見とれて何を忘れたわけでもないだろう。能う限り記憶の断片をたぐり寄せて、それらをひとつひとつ詳細に吟味したはずか。そんなことができるはずもないか。Kora Jazz Trioもだいぶ聴いていなかったような気がする。そこから離れてしまったのだから仕方がない。別にここに何をもたらそうとしているわけでもなく、何を取り戻すつもりもなく、すべては過ぎ去った出来事でしかないのに、妙に懐かしいとも思わず、そのまま忘れてしまうのが惜しいとも思わないのに、なぜそれについて記そうとしているのか。まだ何かそこにあるのか。気がかりなことでもあるのだろうか。何かの岐路に立たされているのかもしれない。それについて具体的なことは何も語らずに済ませてしまうつもりだったのだろうが、どうもそうはいかないらしい。でも未だに何も語っていないのではないか。そんな成り行きに逆らっているわけか。なぜそうなってしまうのだろうか。それについて記そうとすると、そこで止まってしまい、そこから先が記せなくなり、やはり気が進まずにやめてしまうらしい。なぜか躊躇して、方向転換してしまうわけか。そして別の関係ないことを記していることに気づき、慌てて後戻りして、またここへやってくる。いくらやってきても何も記せないだろう。そこに何があるかはわかっているつもりだが、そのわかっていることについて記せない。語る気になれないのだろうか。本当は何もないのではないか。そう思えばそんな感じがしないではないが、やはり何かあるような気がするらしく、気がつけばその場に戻ってきているわけで、何を告白しようとも思っていないのに、語ろうとして語れないことを語ろうとしていることに気づく。それに気づいていながら語れない。心の病なのだろうか。そういう結論に持っていきたくないのだろうが、安易にそう決めつけて事なきを得ようとしているのかもしれず、それでは埒が明かないと思いつつも、何とかその状態から逃れようとして、さらに言葉を連ねながら、その場から遠ざかろうとしている。どうせ明かされるべき秘密など何もないのだろう。ただ単に何も語ることがないだけか。それで何かがそこにあるように見せかけようとして、うまくいっていないわけか。そうならそうで別にかまわないのではないか。たぶん本当に何もありはしないのだろう。そういうことにしておかないと示しがつかないか。それの何が手本になるわけでもないのだろうが、とにかくそんなふうに語ってしまえるのだから仕方がない。ここで逡巡がひとまわりしたわけで、ここには何もないことが明らかとなり、無駄足もいいところだったわけだ。わざわざここまで出向いてきてご苦労さんだったようだ。そんなわけで今回は何もかもが空回りしてしまったらしい。へこたれてしまったのだろうか。疲れている。


2月19日

 ちょっと粗雑なことを語り過ぎか。気まぐれな成り行きでそうなってしまい、今さら後悔しても仕方のないことかもしれず、黙っていれば通り過ぎる催し物とは関わりなく、勝手気ままに振る舞っているつもりなのかもしれないが、いくらそれとは無関係だと強がってみても、手持ち無沙汰な心の内を見透かされているような気もして、不意の出来事に虚を突かれ、慌ててわざとらしく驚いたポーズをとってはみるが、心ここに在らずな雰囲気は否めず、そんな見え透いた演技が不発に終わっていることを認めざるを得ないようで、照れ隠しと苦し紛れの空笑いの顔を思い描き、またおかしな心境に至ってしまうようだ。確か不快な催し物は今週で終わりなのではないか。でも終わったところで一安心とはならないようで、何が終わろうと、誰の知ったことでもないのはわかりきっているのであり、その形状は何かの擬態に似てなくもないが、いくらそれを指摘したところでどうなるわけでもなく、また時期がきたら延々とそれをやるのだろうし、呆れて果てて皮肉の一つも言いたくなるのだろうが、そんなことでは何も変わらない。正気の沙汰でないことを正気のつもりでやっているのだろうから、今さら何を言っても無駄なのであって、無駄を承知で語れば語るほど、まるでアリ地獄へ落ちてゆくような成り行きとなりそうで、そこから抜け出られなくなってしまうのだろうか。だからそれについては何も語りたがらないのか。そんな心境のままだいぶ時が経ってしまったように思えるが、まだ何か言いたげのように感じられ、思い切って罵詈雑言を発してみたくもなるのだろうが、未だにそれはなく、実際には何も語らず、ただ黙々とそれとは関係のないことを記そうとしているようだ。それにしてもいい加減に飽きてきたように思われる。今やそれらの出来事からは、果てしなく意識が遠ざかり、何の感慨も抱けず、もう何も思っていないような気がするのだが、いくら遠ざかっているつもりでも、それらの形状は未だ何も変わっていないようで、すでに空っぽの抜け殻となっているわけでもないのだろうし、それなりの中身をともなってそこに存在しているわけで、たぶんいくら気に入らなくても、誰にもそれらを変えられないのだろう。何を変えようとしているのでもなく、そういう出来事があって当然という意識から抜け出られないのだろうし、それをやめようとなどとは夢にも思わないのは当然で、今後何がそこから人々の関心を遠ざけるかを占う試金石となるわけでもなく、いつまでも延々と繰り返され、誰がうんざりしようと続けられ、執拗につきまとって決して離れようとしないわけか。しかし君はそんなことを延々と述べながらも、具体的にどのような出来事について述べているのかを、どうしても明かせないようで、それを誰の想像にまかせようともせずに、ひたすら自らの胸の内にしまっておく所存でもないだろうが、本当は出来事でも何でもなく、架空の出来事でさえもないような何かついて、何か利いた風なことを述べようとしているだけなのかもしれず、どうしても具体的に特定の何かについて語っている気がしないのかも知れない。要するにそれについて語るのを避けているのだろう。面倒なのか。それはうざい出来事なのだろうか。そうでもないのではないか。

 どうやら言葉をひたすら無駄に弄して、何とかそれについて語ろうとする誘惑を振り切ったようで、また何もない荒野を見渡せる場所へと至り、ほっと一息ついているところか。要するに人々には馬鹿にしたり嘲笑したりする対象としてのステレオタイプや紋切型が必要なのだろう。誰かが条件反射的に思わずそれを口にしてしまったが最後、周り中からこれまた条件反射的な非難の総攻撃を食らい、それがニュースとなってしまうわけか。ニュースネタとはそうやって日々生産され続けるものなのか。でもそれではあまりにも単純すぎないか。何かもっと気が利いた成り行きとならないものか。日中戦争のときの南京事件で、今さら南京大虐殺はなかったとか主張したい人が大勢いるらしく、今や日本国内ではそういう主張が大勢を占めつつあるような雰囲気みたいだが、そういうのがアメリカにとっては腹立たしいことなのかもしれない。とりあえず当時の軍部とそれに協力したメディアのアホさ加減は、今日メディア上で南京大虐殺は左翼メディアによるでっち上げだと騒いでいる人たちに伝染しているのだろうか。当時のメディアが日本軍の南京攻略作戦のおりに、日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競ったとされる行為を、調子に乗って以下のような内容で報道したそうだ。

《この競争の模様は、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)の浅海・光本・安田・鈴木特派員により、1937年11月30日付、12月4日付、12月6日付、12月13日付によって報道された。
その後、1938年に野田少尉は鹿児島に帰還し、「最終的に374人の敵を斬りました。」と語っていることを鹿児島新聞(3月21日)、鹿児島朝日新聞(3月22日)が報じている。野田は3月24日には神刀館で百人斬りの講演を行っている。
1939年5月19日に向井少尉は305人斬り、500人斬りを目指して奮闘中であると東京日日新聞が報じている。》(http://ja.wikipedia.org/wiki/百人斬り競争)

 いくら連戦連勝で浮き足立っているとしても、こんなことを報道してしまっては、現地で日本軍が残虐な行為をやっている事実を世界中に言いふらしているようなものだ。結局百人斬り競争をやったとされる二人は戦後戦犯として捕まり、死刑になってしまったらしく、その詳細は以下のようなことだそうだ。

《1947年の夏、ともに陸軍少佐として復員除隊していた向井敏明と野田毅はGHQにより逮捕され、警察署に拘留された後巣鴨拘置所さらに中国・南京戦犯拘留所に移送され、12月4日に東京日日新聞の報道や「南京の役 殺一〇七人」の軍刀などを基に南京軍事法廷において住民捕虜虐殺の容疑で起訴された。12月18日に最初の公判が行われ石美瑜裁判長によって「連続して捕虜及び非戦闘員を虐殺した」罪で即日死刑判決を受け、中華民国によって1948年1月28日に南京郊外(雨花台)で処刑された。》(同上)

 南京事件の実情がどうであった如何に関わらず、すでにこういう事情が明らかになっている以上は、南京大虐殺はでっち上げだ、と主張している人たちは、ナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺はなかった、と主張している人たちと同列に扱われてしまい、日本国内でいくら自分たちの勢力を広げようとしても、世界的にはネオナチの連中と同じように見られてしまうだけで、そういう活動をやればやるほど、日本の立場や印象を悪くするばかりとなってしまうのではないか。すでに取り返しのつかないことをやってしまった後から、何を反論しても、かえって状況を悪化させるばかりなのかもしれない。


2月18日

 『Samsara』という題名の映画はユーチューブには二つあったようだ。見たかったのはドキュメンタリーの方の映画か。でもそれはやはり物事の本質から外れた映像だろうか。見せているのは映像美の世界か。非日常の光景が何を物語っているのだろうか。自然現象と栄枯盛衰の文明か。言葉にすればたわいない。だから映像で見せている。死んだ世界は自然に支配され、生きている人たちは廃墟に住む。そこには人が住んでいた痕跡があり、かつてのにぎわいを思い起こさせる。ベルサイユ宮殿も人がいなければ廃墟と変わりない。天井の壁画が今にもはがれ落ちてきそうか。教会のステンドグラスの外へと彫像が振り向き、防腐処理を施された死体が安らかに眠り、砂丘を夜明けの日差しが照らし、樹木がねじれた枝を空にかざす。谷を流れる氷河の源に山の頂があり、乾いた奇岩の上を雲が流れる。浸食された洞窟を通り抜けた先に、岩と緑と流れる水の風景がつながり、白く化粧を施された人の顔が出現する。そんなアフリカの部族も観光用の天然記念物と化すのかもしれず、ようやく都市の光景に至り、街の片隅で全身入れ墨の男が赤ん坊を抱いてあやしている。そして都市の夜景を早回しで上空から映し出し、ロボットが人の表情を真似て、人がパントマイムで驚かし、後はぐるぐる群衆を早回しで映し出すだけだ。屋内スキー場やドバイの風景が人の文明を物語り、自然とは違った秩序立てられた崇高さを感じさせ、滝に吊るされた人のオブジェが添え物的に差し挟まれ、海パン男たちのポスターの横で、全身黒ずくめのアラブの女性が佇む。オペラ座の次は人が電車に乗り込む駅の風景を早回ししたり、コスプレや入れ墨のカップルの姿をスローで見せたり、黄色いユニホーム姿で工場で働く人々を早回しで見せたりする。タンカーに車を積み込む作業を早回しで見せた後に、スクラップ作業を見せ、餃子工場の作業も早回しで見せる。養鶏場からブロイラーが出荷され、処理されて肉になる過程が映し出され、牛の搾乳作業の次に、横になった親豚の乳を求めて十数頭の子豚が群がり、さらに屠畜処理される豚も映し出され、人々がパック詰めされた肉をスーパーに買いにくる。そして太りすぎた人が脂肪吸引手術されそうで、ついでに整形手術の手前で、人形の制作現場が続き、さらにビキニ姿の女性が大量に踊っている。鳥居がいくつも連なる神社へ舞子さんがお参りして、人形と舞子さんの顔を交互に映した後は、アジアのスラム街の光景となり、囚人が刑務所で集団体操だ。刑務所の人たちはスラム街の出身者が多いのだろうか。マニラの光景かもしれない。スラム街から高層アパート群へと空撮しながら進み、ゴミ捨て場で大量の人たちがゴミを漁り、どこかで天秤棒の両端につけた籠にのせて硫黄の塊でも運んでいるのだろうか。そして市場の風景だ。アフリカかもしれない。ここでもゴミ捨て場が映し出され、それは先進国から運ばれた産廃の山かもしれない。プラスチックのおもちゃかと思ったら、子供用の棺桶らしく、大人の納棺光景が映し出されて初めて気がつく。ライフル銃の製造工場の後は、それらの銃を抱かせてアフリカのゲリラを装わせ、アメリカの銃社会で銃を持った白人も映し出され、弾丸の製造工場の次には、十字架が大量に並んだ戦没者墓地を背景にして、醜く顔が変形した退役軍人を映し出し、軍事パレードと、北朝鮮か中国のマスゲームの行進の次に、中国の集団拳法体操が続き、南北朝鮮の軍事境界線と、エルサレムでパレスチナ人の侵入を阻む壁が出てくる。そして聖地エルサレムの光景だ。嘆きの壁のようだ。帽子にお下げと天狗の格好のユダヤ人が嘆いているらしい。そしてイスラム教徒による礼拝の光景が続くわけか。ピラミッドを望むカイロのアパート群の屋上には衛星パラボラアンテナが並び、メッカのカーバ神殿では人だかりで身動きが取れないほどのすし詰め状態だ。その周りをぐるぐる回っている人たちを早回しで見せているのだが、イスラム教徒から抗議が出ないだろうか。その次はバチカンだろうか。さっさと別の場所へ移動してしまったらしい。チベットのポタラ宮に戻ってくる。色砂で描いた絵を片付けて、映画も終わりが近いのか。なるほど途中でちらっと見せたが、最後に千手観音が来るのか。目を閉じればまた砂漠の光景だ。

 わかりやすい作りだろうか。自然も人間もなるべく神秘的には見せないように配慮されているのかもしれない。これがNHK辺りだと、坊さんの祈りの光景などを、もったいぶって長回しで見せたり、砂漠や廃墟に霧が立ちこめる光景に、幻想的なBGMをつけたりして、すぐに神秘的な紋切型にはまってしまうところか。あるいはスラムやゴミ捨て場の光景に、世界の南北問題や貧富の格差を訴える、利いた風なナレーションを付け加えるところか。そしてそれを見る人たちの意識に、そういう固定観念を刷り込むわけで、坊さんの祈りに荘厳で崇高な神秘を意識させ、砂漠の広大さや廃墟の風景に幻想的なロマンを抱かせ、スラムやゴミ捨て場で漁る人々に哀れみの情を催させるわけか。この世界を美しく見せようとしたり、悲惨な境遇にある人たちに同情させようとしたり、要するに大衆は考えるよりは情に染まる者だ、という紋切型を押し付けてくるわけだ。もちろん彼らはわざとそう仕掛けているわけではなく、知らず知らずのうちにそう作ってしまい、そういう世の中が醸し出す風潮に合わせてしまっているわけで、あたかもそうすることが正しいことのように思われてしまうから、そうするだけで、彼ら自身もそうした雰囲気に酔っているのかもしれない。それはまるでパブロフの条件反射のように、これこれの光景が画面に映し出されたらこう思いなさい、とあらかじめ教えられているみたいで、考えるいとまを与えない手法であることは確かで、そういうのを繰り返し見せられることで、人々の思考が紋切型に固定化され、多数派としての意見が集約しやすくなっているのか。ではこういう問いが出たらこう答えなさい、といったクイズ番組的な条件反射から逃れるにはどうしたらいいのだろうか。たぶん逃れられないのだろう。どうしたらいいのかと問われても、それに対する答えなど提示しようがなく、そのせいぜいが、わざと外れたことを口走ったりして、間違ってみせ、問いそのもののくだらなさを浮き出させるぐらいしかやりようがなく、理不尽な問いや決まりきった答えの押し付けに抗うことで、問いと答えの予定調和的なループから逸脱してみせなければならないわけか。でも果たしてそれでうまくいくのだろうか。うまくいくはずがなく、うまくいかないからこそ、その手の抵抗を試みる人々は少数派にとどまり、大部分の人たちは、決まりきった問いに決まりきった答えで応じ、その場の予定調和を崩さずに事なきを得ようとするわけか。そういうぬるま湯に浸かっているように装えば、大した困難もなく、その後の人生も切り抜けていけるだろうか。たぶんそういうぬるま湯の場が続く限りは、そしてそこに浸かっていられる限りはそうだろうが、いつまでもそういう状態が続くとは限らず、何かのきっかけで、不意にその場から放り出されてしまうと、後に待っているのは地獄の苦しみとなるわけか。当人がいくらそういう場の維持存続に貢献していると思っていても、そこから排除されてしまうときはあっけなく、適当な因縁をつけられて、用済み人間とされて、後は勝手に生きてくださいといわれてしまったら、そこから先はどうしたらいいのか。中には自殺するしかない人もいそうだが、それはそれでそういう運命だと思うしかないわけか。そういう場合も人それぞれで、勝手に生きられるはずもないが、生きたければそれでも勝手に生きようとしてみればいいわけか。何やらもう一つの『Samsara』はチベットの坊さんの話らしく、途中まで見て、これは違うと思い、見るのをやめてしまったが、その題名の意味が輪廻転生といったたぐいのようだから、そんな内容の映画なのだろうか。どんなたぐいの映画であろうと、それを見れば何かしら思ってしまうのだろうし、思ったところでどうにもならないこともあるが、思ったり考えたりしている間は、何か前向きな気持ちでいられるのかもしれず、何とかしようとしているのかもしれない。結果的には何ともならないのかもしれないが、とにかく何とかしようとしていないと、そこから先へは進めないのだろう。これはどうしようもない宿命なのか。


2月17日

 果たして人は夢から覚めた方がいいのだろうか。覚めているとしても何かが欠けていないか。夢を見ているだけでは衰弱死してしまう。仕事をして稼がないとだめか。何を恐れているのか。何もしていないのに批判してはまずいだろう。皮肉も何もあり得ない。では他に何を語ればいいのか。この世界を賞賛すべきだ。そう思うならそうすればいい。でもそれでは語っていることの意味がわからなくなる。それに関して何か物申したいから語っているのではないか。でも語るための理論があるわけでもない。語るのが面倒だから他人が記した言葉を引用したいのか。それが手っ取り早いやり方だろうか。それも面倒なことだ。それに合わせて何か語るのが面倒か。何でもかんでも面倒なら、やることがなくなってしまう。他人のやり方を受け入れられないようだ。それもすでに語っていることに違いない。他の誰かによって語られていることであり、君が語り損ねていることでもある。面倒なことは他にもありそうだ。ごまかしているのだろうか。興味がないのだろうか。なぜそう思ってしまうのか。別に自問しているわけではない。何も答えられないだろう。では自省しているのか。何も否定しようがない。何に期待しているわけでもなく、何も期待できないということか。具体的に何がどうなっているわけでもない。静かにしておいてもらいたいのだろうか。とんだ道草を食ってしまったらしい。映画『Baraka』と続編の『Samsara』がBlu-rayで出ているようだが、買ってもregion free Blue Ray DVD Playerでないと見ることができないか。今のところBlu-rayとは縁がないので、詳しいことはわからないが、昔DVDの『コヤニスカッツィ』を買って、リージョンがなんやかんやら面倒なことになった記憶がよみがえる。商用パッケージソフトのリージョンと利用する機器のリージョンが一致しないと再生できないよう制限される場合が多いそうだが、でもそれで君の機嫌が悪いわけではないだろう。まさかそれが語る糧なのか。でもそれらにはこの世界の表層が映し出されているだけではないのか。一部分でしかないだろう。そこにすべてが映像として記録されているわけではない。あるのはただの幻影に過ぎず、それらの映像がつなぎ合わさると、何やら興味深い光景に思われ、その中に引き込まれるような気分となって、そんな幻覚が暇つぶしの時に彩りを加えるわけか。たぶんそれが何を生み出すこともないだろう。今は余裕がなく、別に買わなくてもいいような気がしてくる。金を使って幻影を見る気になれないか。『Baraka』はユーチューブでやっていた。もしかしたら『Samsara』も『コヤニスカッツィ』もやっているのかもしれない。でもそれを見ながら何を考えているわけでもなく、どうやらまた道草を食ってしまうようだ。誰かがこけおどしの映像効果に見とれ、資本主義から逸脱した何かを思い描く。やはりそれはくだらない幻想だろうか。

 たぶんそれらの映像から目を背けなければならないのだろう。それらは地上から失われつつある光景なのだろうか。人に関してはそうかもしれないが、人知を超えた力が及んでいる何かなら、相変わらず地球表面にあり続けるのではないか。映像の中で雨が降っている。それを見て驚くほどのことでもないのに、恣意的な記述に気まぐれが絡まるにしても、人の経済活動によって自然が破壊されて、環境が激変している様子を見せつけられ、それに対して何の感慨も抱かない自由が保障されていることは確かなようで、映像をただ見ているだけでは何も変わらないだろうか。それらの中の誰がスラム街で育った子供たちの行く末を案じているわけでもなく、たとえぐれてチンピラとなりギャング団に加わって、殺し合いを繰り広げていようと、劣悪な環境の薄暗い工場で、低賃金の長時間労働を強いられていようと、それらの人たちは放っておかれるべきなのかもしれず、托鉢僧を避けながら街の通りを歩いてゆく群衆には関係のないことであり、それらすべては映像表現の題材となり、見せ物でしかなくなり、見ている者たちを感動させているわけか。ところで君たちはゴミ捨て場で何を漁っているのか。高速道路の高架下で野宿する人たちには、何があてがわれたらいいのだろうか。たぶん救いなど何もないだろう。やがて人間の額に666が印されたバーコード・チップが埋め込まれ、それがない者は社会から排除される未来が訪れるそうだが、果たして君はその時まで生きていられるのだろうか。人はいつまでも無駄に資源を使い、無駄に蓄財して、無駄に戦い、無駄に死に、無駄に生きる宿命なのかもしれない。無駄こそが人の人たる所以であり、たとえ効率性や合理性が重視されているとしても、そこから得られる利益は、最終的には無駄に蓄えられ無駄に使われ、ゴミに埋もれて消失する運命にあるのではないか。そして遠い未来に掘り出されて、兵馬俑坑のように展示されるわけか。ピラミッドのように吹きさらしのまま何千年もあり続ける場合もあるが、無駄を無駄と感じないことも、人として生きていく上で必要な資質かもしれず、そこに何か意味や意義を見出し、そうすることにこだわり、そのような行為を賞賛しなければならないわけか。今もひたすらそんな夢を見ている最中なのかもしれない。


2月16日

 そういえば2012年は何か破滅的な天変地異が起こる年のはずだった。でも実際にはマヤの予言も惑星二ビルの接近も不発で、何事もなく時が流れ、人々はすでに二年後の世界に暮らしているようだ。今では天変地異が起こる年も、ちゃっかり201X年と変更されている。たぶんまた何事もなく2020年まで経ってしまったら、今度は202X年と変更されるのだろう。十年ごとに地球滅亡の年が先送りにされてしまうのか。期待しているのだが、なかなかその時がやってこないようで、待ちぼうけ状態にも飽きてきた。1999年のノストラダムスの大予言から十数年の時が経ち、世界の滅亡が延々と引き延ばされた時間の中で、起こったことと言えばいろいろあるのだが、東海地震が起こると思っていたら東北地震が起こったりして、意表をつかれたのかもしれないが、幸いその地域にいなかったので、大した大事には至らず、相変わらずの世の中で暮らしているわけで、そういう方面では何の感慨も抱けない日々が続いているらしく、誰かが退屈を持て余しているようだ。何か途方もない出来事が起こってほしいか。映画の中でなら度々起こっているのかもしれないが、現実の世界ではどうなのだろう。そういえば2001年の同時多発テロの時は、世界貿易センタービルの崩れ方が不自然だったはずだ。旅客機が突っ込んでも崩れないように設計されていたのに、まるでビルの爆破解体の時のようにきれいに跡形もなく崩れ去り、おまけにちょっと離れたところに建っていた第7ビルまでも、旅客機に突っ込まれたわけでもないのに、同じように跡形もなく崩れ去り、疑惑を抱かれて検証番組まで作られたのに、やはり時が経てばそれっきりとなってしまったようで、やがてテロ組織の親玉も殺され、すでに忘却の彼方の出来事となりつつあるようだが、確かケネディ大統領暗殺事件に関する情報公開は、2039年が公開期限だそうだから、真相が明らかになるのはまだまだ先のことになるらしく、同時多発テロの真相となるともっと先のこととなってしまいそうだ。まあそれに関する政府系の資料が公開されたからといって、必ず事件の真相が明らかになるとは限らないのだろうが、それまではそれに関する謀略や陰謀情報などが、オカルト情報としてまことしやかに出回り続けるわけか。考えてみればアメリカというのはおかしな国家だ。四年に一度わけのわからぬやり方で大騒ぎしながら大統領を一年がかりで選び、その大統領が何かやっているのだろうが、それとは別に何か得体の知れない思惑によって、国家そのものが突き動かされているような印象を受ける。そんなふうに思ってしまうのも、その手の陰謀説などから影響を被っている証しだろうか。

 本当は何に期待しているのでもないのだろう。ただ平穏無事に時が流れて、その中で陰謀説も天変地異もフィクションとして消費され、暇つぶしでそう思っていればいいだけで、それの延長上に現実世界の政治経済問題があったりして、フィクションの中で俳優が演じているようなことを、現実の世界で政治家や官僚や大会社の社長が演じてくれればいいだけなのか。そういうでたらめのような思いが、本末転倒の世界を生み出しているわけでもないだろう。たぶん幻想のたぐいなのだろうが、実際に体験しているのは見せかけの世界に違いない。そして見せかけ以外には何もなく、そこに実質がともなっているとしても、それはつまらない現実から構成された実質であり、多くの人たちが飽き飽きしている単純作業としての労働から目を背けるために、それらの現実が芝居のたぐいとして成り立っているわけだ。自意識がそんな偽りの演劇空間に投げ込まれている状況で、いったい何を望めばいいというのか。ギャグとして惑星二ビルの接近に期待してしまうわけか。そう述べて何をはぐらかそうとしているのだろう。冗談にもほどがあることはわかっていながら、マヤの予言が計算ミスで、人類滅亡の年が2012年から2015年に変更され、それがエジプト暦の研究者たちが唱える2015年世界水没説に一致していると騒ぎだし、今度は2015年の9月に期待しているわけか。それも何事もなく過ぎてしまったら、何かまた新たに世界滅亡の年を導き出さなければならなくなる。本当はいくら予言しても無駄で、とりあえずそういうのはいったん忘れないと、なかなか驚愕の天変地異は起こらないのではないか。天災は忘れた頃にやって来るという格言通りに、人々の予言や予想を裏切り、意表をついた形でしか、そういうものは到来しないのかもしれない。とりあえずその手の説を説得力がある形で主張するには、不確かな未来を予言するのではなく、過去の確実な痕跡を探し出せばいいわけで、何やらオカルト的なものではなく、その手の権威あるれっきとした大学などの学者や研究者のたぐいが、過去に起こった出来事の痕跡を探し出して大騒ぎする方が、人々も信じやすいのだろう。例えば恐竜絶滅の原因が、6500万年に今のユカタン半島付近に落ちてきた隕石であることが、まことしやかに唱えられていたのだが、近年また別の隕石落下を唱えている人もいるらしく、インドの西側の海中に世界最大級の隕石クレーターの痕跡があるそうで、それがシバ・クレーターとか言われているらしく、ユカタン半島に落ちた隕石が直径10キロだとすると、それから数十万年後にそこに落ちた隕石は直径40キロで、今まで発見された中では世界最大だそうだが、そういう説を唱える学者や研究者のたぐいと、未来に起こる天変地異を予言するオカルト関係者との間に、どのような違いがあるのだろうか。どちらも何か大げさな出来事に魅了されている人たちなのかも知れない。もちろんその手の映画を作る人たちもそういう映画を見に行く人たちもそうなのだろうが、そういう人たちはやはり現実の世界情勢に退屈しきっているのだろうか。


2月15日

 何もしないでじっとしていると、意識しなくても時が経ち、時が経つのを意識する。でもそれが何を意味するとも思えず、記すべきはそういう言葉ではないのではないか。そんな疑念を抱いているふりをして、実際はそうでないことを自覚する。ではどういう言葉を記すべきなのか。そうやって絶えず技巧を凝らして何かを表現しようとしているようだが、うまくいっているとは思えず、それがやるべきことだとも思えない。でも言葉が自然と湧いて出るとも思えない。さっきまで眠っていたらしい。何が自然の成り行きなのでもないらしく、意識がそう感じている。何を語ろうとしているわけでもない。それが自意識がによるものとも思えないが、結果的に語っているのだろう。そんなふうに語り、そんなことを記している。大した内容ではない。大衆を頭のない自動人形だと思っているわけでもない。ただそんなことが記された文章を読んだだけか。いわゆるメディア論というやつだ。ルパート・マードックみたいなのに主要メディアを支配された状況は危機的だろうか。アメリカとイギリスとオーストラリアがマードックに牛耳られていて、イタリアだとベルルスコーニなのだろうか。他はどうなのか。日本のNHKは誰に牛耳られているのだろうか。誰が牛耳っていようと、別になんとも思わない。特定の誰が陰謀を巡らしているわけでもないだろう。そういうのはみんな保守系のメディアで、三面記事的なメディアとともに世の中の安定に寄与しているわけだ。そういうメディアに登場する人たちが一貫して主張していることは、世の中は左翼系メディアの煽動によって危機的な状況となっている、ということか。日本ではそうかもしれないが、他の国ではどうなっているのだろうか。それは使い古された常套句で、今や何の効果もないということだろうか。それでもそういい続けることによって、世の中の安定に寄与していることになるのか。そうだとしても、それがどんな幻想をもたらしているのでもなさそうだ。何に酔いしれているのでもなく、そういうメディアに洗脳されて、大衆が何やら集団的な意識を形成して、世の中が変化していこうとしているのを阻んでいるとも思えない。それが洗脳だというのなら、それでもかまわないのではないか。洗脳されていた方が好都合なのではないか。何にとって好都合なのか。たぶんそれは結果からわかることで、何か今までやっていたことが災いして、とんでもない出来事が起こり、人々がそれによって窮地に陥れば、その時になって、今まで何もしてこなかったことを後悔するのではないか。そうなればまたその手のメディアが、あと出しじゃんけん的に騒ぎだすだろう。どうせまた国民すべてが総懺悔すべきだとか主張して、責任逃れのアリバイ工作に余念がないわけか。

 そんなわけで、とりあえず何を信用すべきでないかは、現時点でも明白か。でもかまわない。本当はみんなメディアなど信用していないのではないか。信用していなくても暇つぶし的に接しているわけだ。その程度のもので、要するに娯楽の対象なのだろうか。そういう認識でかまわない。いくらでもそう思っていればいいのだろう。たぶん今後そのことによって危機的状況など訪れるわけがない。それだけではないわけか。では他に何があるというのか。巨大な隕石が空から降ってきて、人類が壊滅的な痛手を被ったりするわけか。それもあるかもしれないが、そうであってもかまわないという程度のことだ。たぶんなんであってもかまわないのだ。メディアが危機感を煽らなくてもかまわない。忘れた頃に思いがけない何かが起こり、スペクタクル映画のような苦難を体験するのも結構だが、いつまで経っても何も起こらず、平和ぼけしたまま寿命が尽きて死んでしまうのも結構だ。メディアはただそうしたことを伝え、人々が興味を持つような解釈を付け加えているだけだろう。それが利いた風な意見であることはわかりきっていて、そうでなければ興味など持ちようがなく、それに加えて、何かおもしろがるような仕掛けが施されていれば、願ったり叶ったりなのではないか。要するに社会の中で生きている大衆の集団としての意識を表現しているわけだ。そういう世の中の風潮を反映しているのがメディアそのものか。ならば人々はそこから得られる情報を、自らの内に取り入れて、巧みに利用しながら、利益を取り出さなければならないわけか。例えば広島に投下された原爆による惨劇を、東北で起こった大震災と、それに連動して起こった原発事故とに重ねあわせ、現地で悲嘆に暮れ打ち拉がれている人々を勇気づけるために、聴力障害を克服した作曲家による渾身の力作を聴かせなければならない、というのも理にかなった発想だろうか。善意とはそういうところから生まれるものなのか。嘘がバレてしまったので、今となってはとんだ茶番劇となってしまったようだが、バレなければ、そういう行為はいつまでも美談として、後の世まで語り継がれていたところか。でもバレてしまったので、却って人々の印象に残り、美談とは逆の意味で、後の世まで語り継がれるような話となってしまったら、何となく愉快なことかもしれない。たぶんそれも一過性の話題に過ぎないのだろうが。


2月14日

 どうも考えようとしてしまって言葉が出てこないようだ。何を試みているわけでもない。思い出しているのは過去の話か。過ぎ去った出来事を思う。そればかりなのではないか。他は何も出てこないはずだ。確かに何らかのこだわりとともに、何かをやっている人たちがいるのだろうが、それがどうしたわけでもない、と言ってしまえば身もふたもなく、では関心があるといえば嘘なのかもしれず、それまでは無関心だったのに、いったんメディアが話題として取り上げれば、たちまちそれに食いつき、それについて何か語ろうとしてしまい、実際に語っているわけだが、果たしてそれでいいのだろうか。たぶんいいのだろう。そんなふうにして語っている事実を認めなければならない。その時点ですでにメディアの罠にはまっているということか。たぶんそうだろう。世の中には右翼から左翼まで様々なメディアがあり、人々の主義主張や好みに応じて、それらのメディアにひっかかる仕組みとなっていて、そこで取り上げられる話題に興味を持ち、それについて考えてしまい、語れる者は語ってしまうということか。面倒な世の中だろうか。そういう成り行きに逆らいたいのか。でもどうすれば逆らっていることになるのかわからない。黙っていればいいわけか。あるいは沈黙を装いながら、他の誰かに話題とは関係のないことを語らせればいいわけか。そんなことが果たして可能だろうか。現にやっているのはそういうことではないのか。そうでなければ何なのか。それとは違うと言えるだろうか。言ってみれば言えないこともないだろう。すでに言ってしまっているのではないか。誰が何を言っているのだろう。何かの映像の中で、誰かが叫んでいる。気のせいではないのか。その手の映像を探せば、そんな光景に出くわすだろうが、それが何を意味するのかわからないだろうか。何かを意味する内容の映像も探し出してくればいいだろう。何かのついでにそういう成り行きになりそうだが、今はそれに関して言葉を記している最中だろうか。簡単に語ってしまえるわけで、でたらめではないにしても、とにかく言葉を記して、そんなふうに語っているつもりになれるのだろう。でもそれでいいのだろうか。いいはずだ。語るあてなどいくらでもありそうだ。人々はメディアを利用して他の人々に何かを伝えたいのだ。不特定多数の人々に向かってそうしたいのではないか。フェイスブックなら特定の誰かに向かって何かを伝えたいのかもしれない。中にはそういうたぐいのメディアもあるが、それがどうしたわけでもなく、フェイスブックに登録している友だちも千差万別で、友だちの数が多ければ多いほど、それほど深い仲でない人たちが大半なのではないか。そうなると実質的には不特定多数と変わらなくなり、関係の薄い擬似友だちに向かって、何か適当に情報発信しているだけとならないか。そういう場合もあるだろうし、そうではない場合もある。それだけのことであり、それだけではないことでもある。要するにそこまで考えるのが面倒くさいのではないか。そしてだんだん情報発信や情報交換するのが面倒になり、そのようなメディアとは疎遠になっていくわけか。中にはそういう人もいる。それだけのことであり、それだけではないこともあるのだろうが、君は面倒くさくなっているのではないか。何か利益に結びつくようなことでないと不満なのだろうか。でもそれは君自身に生じている事情でしかなく、他の誰に何を求めているわけでもないのではないか。面倒ならそういうことになり、面倒でなければまだその先も続いてゆくはずのことであり、実際にそうしている人もいるのだろう。君はそうしていないということであり、人それぞれでそうなってしまうわけだ。それも面倒なことに変わりなく、何をやるにしても、それらの煩わしさを省くわけにはいかないのかもしれない。たぶんもっと簡単にやればいいのだろうが、単純なことには興味がないのだろうか。

 それだけではないような気がするのは毎度のことで、現状が気に入らないから、そんなことを考えているわけで、そんな現状がそれらのフィクションをもたらしているのだろうが、君の作り話にはいつもながらリアリティが感じられず、とってつけたような内容となってしまい、わざと思いとは違うことを記しているのではないか。それでもかまわないのだろう。どうやら話がまとまらないようで、そんな根拠の希薄な疑念から離れられないのもいつものことだろうか。何がどちらでもないのだろうが、無視するわけにもいかず、どちらにしろすでに賽は振られている。後はその件について語るだけ語り、記すだけ記し、止めどなく無駄に言葉を繰り出し、それを延々と続けているはずだ。その時点でもはや気晴らしの範疇を逸脱しているのかもしれず、どうしてもやめられず、そこから遠ざかれなくなっているのではないか。そんな光景を眺めながら、そのつもりもないのに、そんな成り行きに乗じて何やら励まそうとしているらしく、理由もなく生じている無意識に,そんな行為を託して責任転嫁しながら、そこに想像される無意識が、自らの意図とは関係ないようにしたいようで、そういうややこしくも回りくどい思惑が、それらの無理な言い回しを招いているのだろうが、かまわずそれを続けてしまい、取り返しがつかなくなるまで続けてしまいそうな雰囲気を感じさせ、だんだん語るのが面倒くさくなってきたようで、すでに息切れ状態かもしれない。たぶん心の中ではもう誰も叫んでいないだろう。それらの映像も見飽きてしまったのだろうか。どうということはないものでしかないか。でもなぜ人はそんなふうにして、おもしろおかしい話にしたいのか。つまらない話のままではだめか。それ以前にそれがおもしろおかしい話だとは思えないか。とにかくメディア上で話題となるためには、そうしなければならないのだろう。語る価値のない話では興味を惹かないだろうし、語る価値のある話とはおもしろおかしい話か。それだけでもないだろうが、実際には気がつかないうちに、そこから外れてしまったようで、そこで誰かが語る必要のないことまで語らされているみたいだ。もう完全にとりとめがなくなり、たとえそれが実話だろうと虚構だろうと、その場の成り行きで、そんなことはおかまいなしに語らざるを得なくなり、どこかでたがが外れてしまったみたいで、何やら正気と狂気の境目も見失い、何かがそこで暴走しているのかもしれないが、本当に歯止めが利かないのだろうか。それともそれは演技のたぐいで、わざとそうしているわけか。たぶん違うと思う。要するに虚無をごまかすには、そこで語る対象を特定できないようにしなければいけないということか。理由になっていないだろう。それでは話にならないのではないか。別にそれでかまわないのなら、何をごまかしているわけでもないらしく、話にならないようなことをあえて話す理由もなく、話に行き詰まり、言葉を続けて記せなくなり、その辺でギブアップしてしまってもいいのだろう。それでも賽がひっきりなしに振られ、肝心の話が何も出てこないのに、相変わらず語ろうとして、その構えばかりを誰彼となく見せつけようとしているみたいだが、すでに化けの皮がはがれているわけか。もう何が謎なのでもなく、謎が謎を呼ぶはずもなく、ただあからさまに空疎な言葉が意味もなく付け足されるばかりで、そこで話が途切れていることは疑いようもなく、また何を蒸し返すつもりもないようだ。延々と語るにはあまりにも内容がなさ過ぎるだろうか。でも焦ることはない。当面はやり直しはいつでも利き、また語りたいことがあれば語ればいいことで、無理に内容を追求するには及ばないようで、意識してそうすることもないのだろう。その辺が虚無に取り憑かれた者のやっている紋切型となるだろうか。とりあえずまた考えあぐねるまでは考えてみる必要がありそうだ。


2月13日

 ユーチューブでグレン・グルールドが弾くバッハのパルティータ第4番ニ長調BWV828を見たが、CDで聴いたときは、シロート考えで、うまく弾けているように録音を編集しているのではないかと疑っていたのだが、映像を見る限りそうではなかったようだ。クラシック的にはうまいのかへたなのかよくわからないのだが、たぶんへたではないのだろう。やはり驚異的なピアノ演奏なのだろうか。他のピアニストが弾くと、普通のクラシック的な演奏に聴こえるのだが、グールドが弾くとそうではないように聴こえてしまうのはなぜだろう。シロートでも違いがわかるのがすごいところなのか。気のせいというのもあり得るだろうか。

 ラウンド・ミッドナイトなら誰が弾いてもそれなりに聴けるだろうか。プロの演奏家ならそうだろう。作曲者であるセロニアス・モンクの演奏は、やはりうまいとかへたとかいうのではなく、こういうものだと感じるしかない演奏だ。演奏より曲自体の魅力の方が勝っているのかもしれない。村上春樹が小説の中でその曲を弾いてみせた登場人物に、才能が何やらかんやら利いた風なことを言わせているが、どうもそういうふうに語ってしまうこと自体にあまりリアリティを感じられず、虎の威を借る狐のごとく、音楽だとか特定のジャンルがまとっている雰囲気の威を借って語っているとしか思えない。

 善意とは何だろうか。映画『セデック・バレ』の題材となった、日本統治下の台湾で起こった先住民セデック族による抗日暴動・霧社事件では、山奥の狩猟採集民を文明化させようとしていた日本人約140人が、首を刈られて殺害されたらしい。日清戦争に勝って台湾を植民地にして、現地人を日本人として同化させようとして、実際に現地で青年海外協力隊のようなことを善意でやっていた人たちもいたのだろうが、現地の人にしてみれば、やはりそれが善意の押し売りにみたいに受け取られたのだろうか。なかなか同化政策がうまくいかないので、一族の長を日本につれて来て、いかに文明化された暮らしが良いものか体験させたらしいのだが、それが逆効果だったらしく、このままでは自分たちの一族が滅んでしまう、と危機感を募らせてしまったようで、それが些細なきっかけから爆発して、日本人は女子供も含めて皆殺しにされ、その後の日本軍の報復攻撃によって先住民のセデック族は悲惨な末路をたどったようだ。

 優位な立場にある側が善意で押し付けてくる価値観が、押し付けられる側にとっていかに腹立たしいものであるか、それまで自分たちのやってきたことが簡単に否定されてしまうのは、自尊心を傷つける屈辱以外の何ものでもないだろうか。たぶん今まで欧米の連中がやってきたことは、それを有無を言わさぬ力技で押し切ってしまうことだったわけだ。かつて日本の連中もそれを真似て、自分たちが占領した地域でやって、結局失敗してしまったわけだ。それは身の程知らずだったのだろうか。とりあえず大東亜共栄圏というきれいごとははかない夢と消えたはずだ。今アメリカが諸外国に押し付けているTPPという環太平洋共栄圏構想も、はかない夢と消えてしまうのか否か、今後の推移が興味深いか。それが実現するしないはどちらでもかまわないか。

 たぶんその手の腹立たしい善意の押し売りを受け止めなければならないのだろう。反発するよりは利用しなければならないわけか。台湾の先住民みたいに悲惨な末路を辿るわけにはいかないか。その辺が知恵の使いどころなわけか。まあ何とも言えないが、その場の状況次第ということになるだろうか。たぶんかつて零戦で自爆攻撃をさせて、人を無駄に死なせて、これでは埒が明かないと思い知った人たちが、その後何とかしようとした結果が、今日ある状況につながっているわけだ。それも真摯に受け止めるべき成り行きとなるだろうか。


2月12日

 なぜか意識が希薄になっている。たぶんそんな心境のまま語られようとしているのは、何の話でもないのだろう。物語の中で何かが終わり、何かが始まり、そして希薄な意識から離れていってしまう。相変わらず語るタイミングがずれているようだ。そして何も見出せなくなり、黙ってしまうようだ。いつの間にか黙っている。頭脳は正常に動作しているのだろうか。まだ計算が終わらない。計算の途中でふいに十年前の出来事を思い出す。本当は何も思い出せないのだろう。どうやら過去の記憶が君を苦しめているようだ。それ以外は何も思い出せないことが歯痒い。でも無理に思い出そうとしているわけでもない。二十年前のことならすぐに思い出せそうだが、大したことでもない。その年に買った雑誌を今ここで読んでいる。またいつもの気まぐれなのだろう。内容としては差別の問題がどうかしたらしい。明治維新以降にそれまであった身分制度が改まって、大日本帝国憲法も制定されて、すべての臣民が天皇の下で平等となったことから、「でもあいつはえたひにんの出だ」とかいう、逆に人々の間で差別意識が芽生え、それの延長上で部落とかアイヌとか琉球とか在日朝鮮人とかの問題が生まれたということか。それにしても今では忘れがちだが、日本は昔から多民族が共存していた地域で、古代においては縄文人と弥生人の共存があり、中世までは倭人とか渡来人とかクマソとか蝦夷とか呼ばれた人たちの共存があり、近世では琉球人と日本人とアイヌ人の共存があり、帝国主義的に植民地が拡大した1945年までの、20世紀前半においては、台湾人と朝鮮人と満州人と日本人などの共存があったとなるようで、そういうところで、例えば多民族国家の代表格であるアメリカなどと、似たような事情も発生していたわけだ。例えばアメリカでアフリカ系の人たちと先住民たちが、社会の最下層からなかなか抜け出られないのは、アングロサクソン系や他の大多数の人たちが、自らの意志で移民として新天地を目指してやって来たから、積極的にアメリカ社会に溶け込み、成功を目指して努力しようとするのに対して、アフリカ系の人たちは無理矢理奴隷としてつれてこられて強制的に働かされ、先住民の人たちは勝手にやって来た移民に土地を奪われ、歯向かって殺されたりしたので、彼らはアメリカという国家や社会の在り方を受け入れ難く、それに対する憎悪の感情が邪魔をして、なかなか社会の最底辺の境遇から抜け出られないということらしく、それは日本でも似たような経緯があり、例えば在日韓国朝鮮の人たちは、強制労働させるために無理矢理あるいはだまされて、半島からつれてこられた、という憎しみの感情があって、それに従軍慰安婦という民族の自尊心を傷つけるような問題も追い討ちをかけ、それと第二次世界大戦が終わった時に、国内を掌握した韓国の李承晩と北朝鮮の金日成の両者ともに、抗日運動の指導者であって、植民地時代に日本からの恩恵に与っていなかったので、植民地時代に日本に協力した人たちを徹底的に弾圧することによって、自分たちの政治的立場の安泰を図ったという経緯もあるようで、そんな事情から絡み合って、未だに朝鮮半島では日本に対して反感を持っている人が多いということか。というか昔から隣国同士がいがみ合うのはよくあるケースなのかもしれないが。まあどうしてもメディア上で何か相手を非難したり攻撃したりする時に、〜人とか〜民族とか〜国民とか、あるいはサヨクだとかネトウヨだとか全共闘世代だとか、十把一絡げに呼んでしまいがちだが、そこにはどうしても、その中に存在している個々人が抜け落ちているのであって、人それぞれで考え方も認識も異なるだろうことはわかっていながら、それを無視してしまうから、何か相手を特定の気に入らない集団に属している内の一人だと見なして、差別意識丸出しの言動に至ってしまうのだろう。どうしてもその手の否定的なアイデンティティーを想定してしまうと、ユダヤ陰謀論とか、嫌韓論とか、黄禍論とか、そういう偏見や妄想を利用して何か語ってしまいがちになるが、どうなのだろうか。時と場合によってはそういう語り方が有効に思われるのかもしれないが、そればかりとなると有害に感じられるだけか。たぶん人は攻撃対象の他人が、何かの価値観にとらわれていると決めつけて、その価値観とともにそういう他人を罵倒したいのかもしれない。


2月11日

 気まぐれにそんなことを思う。不意にそう思うが、それに関して何か浮世離れしたことが言えるだろうか。ありふれたことしか思いつかないのではないか。他に何を語りたいのだろうか。わざとらしくスリルとサスペンスを求めているわけではないのだろうが、それらのどこに安易な逃げ道が用意されているわけでもなく、たぶん現状に嫌気がさして、そこでは誰もがやる気をなくしているのではないか。それでもメディアを利用して勇ましいことを述べている人たちは、まだ元気なのだろうか。そうは見えない。うんざりしているようだが、本音を漏らす段階ではないらしい。でもしらけているように見える。現状の何がそんなに気に入らないのか。すべてがそうなのか。だからそこから逃げ出そうとしているのだろう。そうやって誰かが、過去に世界各地を放浪していたことは確からしいが、たぶん君はそんなことができる身分ではないのだろう。別にそうしたいわけでもない。今や地球表面のどこにいても大して変わらないか。でもそれでは気晴らしにならない。気晴らしではだめなのではないか。そうでなければ何なのか。南極にあるらしいUFOの秘密基地にでも行ってみたいか。画像を見るだけで事足りてしまいそうだ。岩山に穴があいているだけのように見える。どこかのテレビ局が実際に現地まで行って確かめてみればいいのではないか。視聴率が取れそうな気はする。取材許可が下りないのだろうか。予算的に無理か。現地で遭難してしまうだろうか。本気でそんなことを語りたいのではないようだが、散漫な気分に流されて、どんどん逸脱してしまう。他に何か興味深い幻影でも見たいのだろうか。それは大げさな映像か。別に気が狂っているのでもないらしい。でもそこで展開されているのは筋書きのあるドラマだろう。人を驚かせる筋書きに期待しているのだろうか。伝説の何かを探しているわけではないが、また画像を検索して、ノアの方舟の残骸を見る。本物かどうかはわからない。本物であろうとなかろうと、伝説の場所付近にそういう舟の残骸みたいなものが発見されたのだから、驚かなければならないだろうか。でもだいぶ以前の話だろうし、語ろうとしていたのはそんな話ではないはずだ。そういうたぐいのものには飽きているのではないか。すでに何かを成し遂げようとする気力が失せて、投げやりな気持ちにとらわれ、どうでもよくなっているはずだ。

 人が求めている幻影を追い求めるのは面倒か。でも何らかの真実が明らかになってほしいのだろう。それは人をがっかりさせるような真実だろうか。宇宙人やノアの方舟が発見されてほしいか。巨人の骨の画像は嘘だったようだ。数億年前の足跡も形が似ているだけなのだろう。映画の『プロメテウス』のような話があったとしても、では人類を作った宇宙人の起源は何なのかという疑問が残る。タマネギの皮をどんどん剥いてゆけば、最後に残るのは何なのだろうか。しばらく涙が止まらなくなるだけか。たぶん大げさな目的を想像したいのかもしれないが、何かそこに人の想像からかけ離れた何かがあることを期待してしまうのかもしれず、あっと驚くような真実が明らかにされてほしいのだろう。そういう思いがその手の映画に結実しているのだろうか。そんなわけで人々の興味の行き着く先には、人が作り出した幻影が待ち構えているわけで、巨額の予算と労力かけてそんな幻影が制作されて、それを見たさに多くの人が群がり、かけた予算と労力に見合うだけの興行収入が得られ、うまくいったことになれば、またそれを期待して続編が作られ、人々に飽きられるまで、そういう成り行きが延々と繰り返されるわけか。でもそれで真実が明らかになることはないのだろう。依然として人類の起源は謎のままだし、その謎を利用してそれらの幻影が作られているだけで、人々の興味が続く限りは、謎は謎のままであり続け、またそれを利用して同じような幻影が延々と作られるわけか。ではそれは詐欺のたぐいだろうか。実際にそれらの幻影を見て満足していれば詐欺ではないのではないか。そういう幻影のループが商売として成り立っている限りはそういうことだ。金を払って見るだけの価値があると思うだろう。別にそれの何が気に入らないわけでもなく、文句をつけたいわけでもないのだろうし、それらの幻影から真実を導き出したいわけでもないのだろうから、結局何でもないことか。ではそんな幻影をいつまでも見ていたいのだろうか。見る暇があればということか。別にそれらの何に惑わされているわけでもなく、惑わされていたいのでもないらしく、できれば幻影以外で真実を知りたいのかもしれないが、やはり幻影を見ながら真実を想像してしまうのか。もしかしたらそれらの幻影が真実の発見を阻んでいるのではないか。


2月10日

 東京都知事には舛添氏が当選したようだが、政党助成金に関する疑惑はどうなってしまうのか。そのまま主要なメディアが不問にしたまま、放置されてしまうのだろうか。あるいは軽いもので、演説会で東京五輪の特製バッジ(時価3000円相当)を配布して、同額を寄付したという公職選挙法違反(寄付の禁止)の件も、そのまま不問にしてしまうのか。バッジを配布した程度で有罪になっても、当選が無効になるわけでもないのだろうか。まさかそれで無効になったら、次点の宇都宮氏が都知事になってしまうわけか。そうなったら笑ってしまうだろうか。それにしても、選挙前からカネに関する疑惑があり、過去の女性差別発言も明らかになり、投票日前に選挙違反も指摘され、それでも当選したのだから、諸外国の人たちは、日本の有権者がどういう人たちなのか、よくわかったのではないか。といっても投票したのは東京都民だけか。そして投票率が五割を切ったのは、それだけ国家が押し付けている制度に従う人が、いかに少ないかを反映した結果だろうか。前日に降った雪が積もって、歩きにくかったのもあるだろう。というか今回の選挙そのものにあまり関心がなかったということか。結局原発事故の時に放射能汚染をヒステリックに騒ぎ立てた人たちは、あれから数年経てばこんなものだと思い知ったのではないか。このまま選挙に関心がない人が多くなればなるほど、投票に行かない人が多くなればなるほど、今ある選挙制度がどんどん形骸化してゆき、これから何か人々が思いもしなかったような事態が到来したりするのだろうか。そうなったら楽しそうだが、いったいこれから先はどうなってしまうのだろうか。何かとんでもないことが起これば、また政治に関心を持つ人が増えていって、投票率も上がったりするわけか。そうはならずに、いくらメディアが煽っても、さらに政治的無関心派が増えていって、投票率もさらに低下するようなら、投票に行かないと罰金だとかいう法律ができたりするかもしれない。そうしたら投票にいってもわざと無効票を入れるとかしたりするわけか。それも制度に対する抵抗の一形態となるだろうか。まあどうせ今回投票に行かなかった大半の人たちは、消極的に現状維持を望んでいる人たちなのかもしれず、そういう人たちに期待してしまうのは、お門違いもいいところなのだろう。

 とりあえずそんな現状を真摯に受け止める必要がありそうだが、受け止めたところで何がどうなるわけでもなさそうだ。どう受け止めようと、そんな現状が変わるわけでもなく、現状を変えてほしくないから、人々は投票に行かないわけで、たぶん現状が人々の望んだ最大公約的な世界を反映した結果なのだろう。あるいは投票に行ったところで、現状など何も変わらないと思っているのだろうか。どちらであっても、何がどうなるわけでもなく、ただこんな現状が続いていくだけだろうか。それでもかまわないのかもしれない。たぶんこのままでは人々に現状を変える力はないも同然だ。ただありのままの世界を受け入れ、そこで生き、仕事をして、生活していくだけだ。それだけで精一杯なのだろうか。人それぞれだろう。例えば資本主義的な錬金術に長けた人たちにとって、東京都知事選挙なんてどうでもいいことであり、誰が都知事になろうが知ったことではないのかもしれず、そんな結果に何かガタガタ抜かしている奴らなど間抜けであって、いちいち相手にしている暇はないのかもしれない。その一方で、人々の理性に訴えかけようとする人々は、必ず感情に訴えかける人たちに敗れ去るわけだ。そしていつまでも敗れ去ることに我慢がならない人たちは、変節して体制側に取り込まれ、今度は感情に訴えかける側に回り、性懲りもなく理性に訴えかけながら、相変わらず負け続ける人たちを罵倒しまくる。そんな現状がこういう結果を招いているのではないか。そういう成り行きは、古くはイエスや仏陀に率いられた共産主義的な教団が、彼らの死後、度重なる弾圧や受難の果てに、体制側に取り込まれて形骸化し、キリスト教や仏教として国家宗教に変質していった経過が物語っているところであり、どうもその辺に人間の集団として持ちうる社会特性が伺えるのかもしれない。そういう特性はこれらも執拗に維持され続けるのだろうか。ちなみに今の時代の日本に国家宗教として維持されているのは、やはり神道だろうか。外国から非難されようがなにされようが、そういう人たちは必ず靖国神社に参拝しようとするし、正月になれば伊勢神宮に参拝し、そして何としても天皇制を守りたいわけで、NHKの経営委員も「日本の国柄は国民が天皇のために命を捧げる国体」と主張しているらしい。まあそれも人それぞれであったらいいのだろうが、そういった世論の右傾化に乗じて、これからもそんなことを主張する輩が後を絶たなくなるのかもしれず、とりあえずこの際だから、そういう人たちに日本の命運をまかせて、行くところまで行ってほしい気もしてくるが、君はそれでもまだ無関心を装うつもりか。


2月9日

 誰かが遅れてやって来たようだ。雪が積もっている。何かをやりたい人と、実際にやっている人は、やっていることを巡って態度を異にしている。そのやっていることについてどう思っているのか。苦々しく思っているわけか。気に入らないということだろうか。ありがちな状況なのかもしれない。でも結局そのことに関しては何もしないつもりなのではないか。そうならざるを得ない。理由が不明なのはいつものことだ。またうやむやになってしまうのだろう。冷静になるだけでは不満なのだろうか。でもなぜそうなってしまうのか。それだけでは何ももたらせないだろう。でも何を思い何をやっていることにもならない。すべては他人が思っていることだ。マーラーやブラームスがボンジョビなら、ベートーヴェンはレッドツェッペリンか。クラシックとロックのたとえが重なるはずがなく、アナロジーなどおかしいか。無理を承知で比較するとすれば、例えばボンジョビとレッドツェッペリンの違いは何なのか。ボンジョビがロックらしいロックをやっているのに対して、レッドツェッペリンはロックらしくないロックをやっているということだろうか。レッドツェッペリンがやっていた頃は、まだロックがいくらでも変わる可能性があり、何をやってもよかったのだろうが、時代が進んでいくと、だんだん型にはまったことしかやれなくなり、ボンジョビがやっている頃には、可能性や選択肢の幅が狭まり、その範囲内でしかやれなくなってしまったのではないか。その範囲を超えてやってしまうと、もはやそれはロックではなくなってしまうということか。ロックの内部でも細かくジャンル分けがされてしまい、そのジャンル内でしかできなくなって、自由度がなくなったわけか。オルタナティヴやミクスチャーやパンクやハードロックやメタルやプログレシヴロックやフォークロックやファンクロックなど、それぞれがそう呼ばれているジャンル内でやっているにずぎなくなってしまったわけか。そういう意味ではベートーヴェンがやっていた頃と比べれば、マーラーやブラームスがやっていた頃は、やれる範囲も狭まってしまい、型にはまったことしかできなくなっていたのだろうか。それは程度の問題で、確かにマーラーやブラームスの交響曲に比べれば、ベートーヴェンのそれはアクが強いというか、もっと何かぶっきらぼうでぶっ飛んでいる印象がある。そしてロックの場合と同じように、ベートーヴェンの頃から時代がくだるにつれて、クラシック自体のジャンル分けも進んでいくように思われ、マーラーやブラームスなどが全盛になると、例えば彼らとヴェルディは違うことをやっていたのだろうし、またそれとワーグナーも違っていただろうし、またそれらとシェーンベルクとは明らかに違うことをやっていて、クラシック内でそれぞれが違う分野に別れて、お互いにお互いの専門分野で分業しているような状態になっていったのではないか。

 結局時代が進むにつれて、さまざまな分野がさらに細分化され、一人の人間のやれることがどんどん限られて来てしまう傾向にあるのだろうか。それだけ人も多くなって、やっていることが重なってしまうと競争も起こるし、ますます狭い範囲でみんなが同じようなことをやるようになってしまうのか。それだけ何か画期的なことをやれる可能性もだんだんなくなり、大衆のウケ狙いの凡庸な連中がのさばるようになり、個性的で実験的なことをやっている人たちは、次第にマイナーな領域へ押しやられてしまっているのだろうか。それともそんなふうに思われるのも、何か個性だとか才能だとかを尊ぶ紋切型の物語に意識を汚染されていることから、そう思われてしまうだけで、実際にはいつの時代でもそうなっていたのであり、要するにその時代の大衆ウケしていた凡庸な連中は、同じことをやる人材が次から次へとひっきりなしに出てくるので、それだけ忘れ去られるのも早く、後の時代にその人物の名前が残らないということだろうか。たぶんそれだけでもなく、後の時代に残るか残らないかなんて、そんなことを意識していたら、何もやれなくなってしまうのであり、元来人には未来を見通す能力なんて備わっていないのであって、その時代の風潮や状況に合わせて、あるいは逆らいながら、そこで懸命に生きていくしかなく、その人にとっては、後の時代に残るか残らないかなんてどうでもいいことであり、それは後の時代になってみなければわからないのだろうし、それに関してあまり利いた風なことを予言してしまうと、たちまちそれは裏切られ、その時代には思いもしなかった事態が、後の時代には起こっているのかもしれない。たぶんベートーヴェンもマーラーもブラームスも、後の時代にジャズやロックが流行るなんて思いもしなかっただろうし、後の時代にジャズやロックをやっていた者たちも、さらに後の時代にヒップホップやラップなどが流行るなんて思いもしなかっただろうし、これから先にどのような音楽が流行るかなんて、誰にもわからないことだろうか。たぶんクラシックやジャズやロックやヒップホップやラップに加えて、また新たにジャンル分けされるような音楽形態が出現するのだろう。もちろんそれら以外にも世界中でいろいろな音楽があり、カントリーやブルースやボサノバやタンゴや演歌や浪曲など、数え上げたらきりがないのだろうから、それらのジャンルを混ぜ合わせるだけでも、数限りなく新たな音楽が生まれるのだろう。


2月8日

 やはり外れていたのだろうか。気持ちが外れ、心が外れている。それはきっと気のせいだろう。気のせいだろうが、やはり外れていると思っているわけだ。その時はそんな感じがしたらしい。そして今ここにいる。この時点ではそう思うしかない。しかし何を語っているのだろうか。嘘偽りのない心境か。20世紀に突如現れた抽象的かつ奇怪な現代音楽や現代美術は、人々からそれまであった小市民的な価値観を奪い去ったはずだったが、今やそれらはなかったことになっているのだろうか。奇怪な形状のオブジェならまだ方々に展示されているし、さかんに作られているのではないか。でも聴いていて不快になったり疲れてしまう現代音楽の方は、もうほとんどメディアから伝わってこない。聴いていて心地よかったり気分が昂揚する音楽でないと、なかなか一般の人たちには受け入れられないだろう。そういう意味で『交響曲第一番“HIROSHIMA”』は交響曲らしい交響曲だ。クラシックの専門家でない一般人には、うってつけの心地よい交響曲なのではないか。たぶん人々が交響曲からイメージするのは、こういう曲なのではないか。メディアによって交響曲とはこういうものだと意識に刷り込まれているわけだが、世の中にはこうではない音楽があるのだろうか。たまたまユーチューブでやっていたが、ジョン・ケージの『4’33』などを聴いたら、なにそれ?ということになるだろう。なにしろオーケストラも指揮者も観客も、4分33秒間何もしないで黙っているだけで、4分33秒後に観客が拍手喝采して、指揮者が観客に向かってお辞儀して終わりだ。これはちょっと極端すぎるか。ではスティーブ・ライヒの『管楽器、弦楽器と鍵盤楽器のためのヴァリエーション』ならどうだろう。同じ旋律が延々と繰り返されるばかりで飽きてしまうだろうか。なるほど君が知らなかっただけで、現代音楽も結構メディアによって伝えられているわけだ。それにしてもどうも極端すぎて比較にならない音楽?ばかり選んでしまい、笑ってしまうが、一般の人たちが心地よく聴ける交響曲を選ぶとしたら、マーラーとかブラームスとかになるだろうか。そんなわけで同じ一番ということで、マーラーの『交響曲第1番ニ長調「巨人」』と、ブラームスの『ブラームスの交響曲第1番ハ短調作品68』と、三つの交響曲第一番を、一時停止させながら交互に聴いているのだが、今のところはブラームスの交響曲第一番の方が似ている雰囲気で、マーラーもだんだんそれらしい雰囲気になってきたようだ。なるほど交響曲のイメージとはこんな感じだ。このイメージはどこからくるのだろうか。

 年代的にはマーラーもブラームスも19世紀のヨーロッパで活躍していたようで、それを聴いている聴衆は、都市に住むプチブル的な中産階級ということになるだろうか。やはりその時代にそういう人たちが聴く音楽として、クラッシック音楽とはこういうものだ、というイメージが人々の意識に刷り込まれて、それが世界的に広まり、経済的に豊かになり、余暇が楽しめるようになった人たちの間で定着して、今に至っているのだろうか。お子様にピアノなどを習わせるとなると、やはりこういう音楽に触れる機会が増えるだろうか。あるいは学校の音楽の時間もそういう機会になるのだろうが、ちょっと知的な雰囲気を気取るとなると、テレビでアイドルが歌っているようなものに加えて、また酒を飲んだ勢いでカラオケで歌うような音楽に加えて、やはりクラシックなんかも少しはたしなまないと、上品な市民とはなれないか。カッコつけの若者になれば、ヒップホップやジャズやクラブ系の音楽になり、イカレ親父のたぐいなら、ハードロックやヘビメタとなるのかもしれず、その辺で趣味も千差万別となるだろうが、とりあえず聴いて心地よかったり気分が昂揚したりすれば、それでかまわないのかもしれず、趣味として恥ずかしくない範囲内で、こだわり続けられるような音楽なら、いつまでも気晴らしとして聴いていられるのかもしれない。それ以上のめり込むようなら、何となく聴いていて、本物と偽物の違いなどがわかってくるのかもしれないが、そこまでいくかいかないかなどは、大して重要なことではなく、それに接している各人のこだわりの度合いによって、それぞれに異なるのだろうし、軽く触れている程度の人なら何とも思わないようなことでも、深く探求しているつもりの人なら、まがい物と感じられる作品を拒絶して、そういうインチキを提供する人たちを非難してしまうのだろう。


2月7日

 別に思い違いをしていたわけではなく、それらの有様はそのような現実を告げている。誰がそれに立ち向かっているというのか。向かっていくその先に、困難が待ち構えているとでもいうのか。今の有様がすでに困難に直面していることを物語っているのか。どちらでもかまわないだろう。どちらでなくてもかまわない。いったいどちらなのだろう。両方だろうか。でも別に八方ふさがりというわけでもなさそうだ。それは何かの物語なのか。たぶんそうだ。そうでなければ何も残らないだろう。そこに何かの痕跡が残っているから、人はそれを利用しながら物語る。痕跡とは過去の記憶だろうか。残骸に他ならない場合もありそうだ。広島の原爆ドームなどがそれだろうか。丹下健三が設計した記念施設も有名だ。でもそれは残骸ではないのではないか。その方面では評価が高いらしい。記憶とは何だろう。改めて問い直す必要もない何かか。右翼にしてみれば過ちでも何でもないということなのだろうが、彼らはそこで何をやっているのか。コップの中の嵐という表現が適切なのかどうか知らないが、仲間内でもめ事があったとしても、それは些細な行き違いで、見解の違いがそのまま放置されても、何の問題もなさそうに思われ、結果として世界に向けて何を発信しているのでもなく、この世界が何なのかさえ理解できないのだから、それは仕方のないことなのではないか。だいいちそれは、世界の一部でしかない者に、理解できるようなことなのか。君は何を理解しようとしているのか。君が君自身を理解しようとして、それらの過去を見つめながら、物語っているのだろうか。でも物語っているのは君ではないはずだ。原爆ドームがそれを見る人に何か物語っているわけなのか。記念施設や慰霊碑も物語っているはずか。それを知りたければ実際に現地を訪れて、それら光景の中に身を置いてみればいい。そうすれば何か感じることもあるのではないか。何も感じないとしてもかまわない。それが体験として心の中に堆積して、将来そのとき見た光景を思い出す機会も巡ってくるだろう。それは長崎にしても沖縄にしても、同じような体験でしかないのだろうか。それは三カ所を訪れてみればわかることか。わからなくてもかまわないのではないか。何を心に誓う必要もないのかもしれず、それらの記念施設が投げかけ、自らに向かって押し寄せる何かに抗わなければならず、それを安易に受け入れてはならないのかもしれない。

 遠い戦争の記憶は君の内にはなく、映像や画像や文章として、また記念施設や廃墟として、君の外部にあるらしい。たぶんそれらは人ではなく、それが行われた場所に結びついているのだろう。そしてそこで生活している人も、場所に結びついているわけだ。人はその場から離れることができ、離れてしまってもかまわないわけだ。離れる理由などいくらでもありそうで、理由など何もなくてもかまわず、離れたければさっさと離れてしまえばいいのかもしれない。離れなくてもかまわないわけだ。居心地が良ければいくらでもとどまっていればいい。その場所をいつまでも占有し続け、そのうちその場所にとどまる者たちの間で固い絆が生まれ、その地域の歴史だの伝統だの文化だのが、その場所にとどまり続ける者たちの子孫によって育まれ、後の世代に受け継がれ、それを守ることがその場にとどまる理由となるだろう。それはそこにいる集団のエゴそのものであり、それがそこに暮らす者たちのアイデンティティーを形成しているわけだが、そういった民族の中で生き、同じ民族内で価値観を共有し、他の民族と争うときの団結力ともなる、それらの民族的自己同一性が、一方ではより大きな何かを形成する上での、障害となっていることは、わかりきっているのだろうが、そのより大きな何かとは何だろうか。他者との交流や相互理解といったたぐいの概念か。どうもそれだけではないような気がするのだが、例えば世界平和という同じ目的のために、世界市民として全人類が一致団結しなければならない、ということでもないような気がするわけで、要するに現状からは、人類の共通の目的というのが、あり得ないように思われてくるのであり、目的がなくても一致団結しなくてもかまわないのではないか。そして目的がなくても、別に争う必要もないのではないか。何か崇高な理念など必要なく、目的や理由があるからそうするのではなく、そのために戦う必要もなく、ただ単に戦わなければいいだけなのではないか。たぶんそれでは納得できないことはわかりきっているかもしれないが、納得する必要もなく、無理して戦う必要のない世界になればいいわけだが、やはり人はそうなるにはどうすればいいか考えてしまい、納得できる理由やわけを探し求めてしまうのだろう。人が人であるためにはそこにこだわらなければならず、例えば無為自然を説いた老子が、なぜそう説いたのか、そのわけを知ろうとしてしまうわけだ。老子にしてみれば、そのわけを知ろうとする行為自体が、無為自然に逆らった行為であり、何もせずあるがままにまかせることができない証しとなってしまう。


2月6日

 サングラスをしていたから目が見えないのかと思ったら、耳が聞こえないのだそうだ。アマゾンを見ると、『交響曲第1番 HIROSHIMA』の推薦文みたいなのには、著名な作家の人の文章もある。

ヒロシマは、過去の歴史ではない。
二度と過ちをくり返さないと誓った私たちは、
いま現在、ふたたびの悲劇をくり返している。
佐村河内守さんの交響曲第一番《HIROSHIMA》は、
戦後の最高の鎮魂曲であり、
未来への予感をはらんだ交響曲である。
これは日本の音楽界が世界に発信する魂の交響曲なのだ。
--五木寛之(作家)

 誰の作曲であれ、当人が聴いてそう思ったのだから、こういう推薦文みたいなのは簡単に書けるということだろうか。でも後から別人の作曲だと明かされてしまっては、「戦後の最高の鎮魂曲」と絶賛してしまった手前、さすがにばつが悪そうだ。でもこの「戦後の最高の〜」という表現が、こういう人たちの決まり文句のように思われ、何となくユーモラスな雰囲気を感じさせる。

 それにしてもベートーヴェンの耳が完全に聞こえなくなったのが40歳の頃だとすると、年代的には少なくとも交響曲第6番までは、何とか耳が聞こえる状態で完成させていたわけで、1番から6番まで書いた経験の蓄積とノウハウで、残りの7番から9番まで書けたとなるのかもしれないが、さすがに耳が聞こえない状態で第1番から書くとなると、ベートーヴェンでも無理だろうか。

 ところで五木寛之の文章を読むと、どうしても蓮實重彦の『物語批判序説』に出てくる、サルトルの『大戦の終末』とヴァレリーの『精神の危機』を思い出してしまう。やはりこれも『紋切型辞典』の項目として、新たに付け加えるには申し分のない出来だろうか。

 その中で蓮實重彦はロラン・バルトの『作者の死』という文章から次の文章を引用している。

「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。ブヴァールとペキュシェ、この永遠の写字生たちは崇高であると同時に喜劇的で、その深遠な滑稽さはまさしくエクリチュールの真実を示しているが、この二人に似て作家は、常に先行するとはいえ決して起源とはならない、ある〔記入の〕動作を模倣することしかできない。彼の唯一の権限は、いくつかのエクリチュールを混ぜあわせ、互いに対立させ、決してその一つだけに頼らないようにすることである。仮に自己を表現しようとしても、彼は少なくとも、次のことを思い知らずにはいないだろう。すなわち、彼が《翻訳する》つもりでいる内面的な《もの》とは、それ自体完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないということ。」(『物語批判序説』262ページ)

 これに沿って五木寛之の文章が、いかに『紋切型辞典』の項目としてふさわしいかを説明すると、まずは「〜は、過去の歴史ではない」で、この〜には過去の大惨事や戦争などの不幸な出来事をいくらでも代入可能で、またそういう出来事が起こった後には必ず、「二度と過ちをくり返さないと誓った私たちは」となり、そしてにもかかわらず、またその手の不幸な出来事が起こると、「ふたたびの悲劇をくり返している」、とその手の文化人や著名人が非難しながら、世間に訴えかけるわけで、まさにこの手の世の中に警鐘を鳴らすたぐいの文章は、「無数にある文化の中心からやって来た引用の織物」で構成されているわけだ。そして「彼の唯一の権限は、いくつかのエクリチュールを混ぜあわせ、互いに対立させ、決してその一つだけに頼らないようにすることである」わけで、その警鐘を鳴らす文章に「混ぜあわせ、互いに対立させ、決してその一つだけに頼らないようにする」ために必要な文句として、次に続くのが「戦後の最高の〜であり」、「未来への予感をはらんだ〜である」、「これは日本の〜が世界に発信する魂の〜なのだ」、という〜に何か画期的な業績や発明などを代入して、美辞麗句を構成すれば、人々を鼓舞し勇気づける文章がいっちょあがりとなるわけだ。まさにこの結果は「崇高であると同時に喜劇的で、その深遠な滑稽さはまさしくエクリチュールの真実を示している」といえるのだろうか。要するに作家は〜に適当な語句を代入するだけの、「〔記入の〕動作を模倣することしかできない」わけだ。『物語批判序説』を読むと、サルトルの『大戦の終末』とヴァレリーの『精神の危機』も、ここまであからさまではないとしても、似たような状況に陥っているようだが、実際に曲を書いた人では、発表の機会もなく、CDも出せなかったのかもしれず、何か耳が聞こえない現代のベートーヴェンが被爆地ヒロシマを題材にして交響曲を書いた、とかいうたぐいの紋切型的な宣伝文句がないと、人々は感動しないし、CDも出せないし、出しても売れないし、著名人も絶賛したり推奨したりもしないということか。


2月5日

 別に気が変わったわけではないらしい。すべてが相対化されている。人も物も、絶対的な価値を担えないのはわかりきったことだが、神でさえも、その宗教から離れると相対化され、宗教内では唯一神であるにしても、その唯一神を崇め奉る宗教が複数あるのだから、その外部では絶対的な存在とはなり難い。だが何にしても頂点を目指す衝動だけは抑え難いようで、どのような分野においても、ナンバーワンを目指して競争が繰り広げられている。そんな話が戯れ言となるのだろうか。実質的には何の話でもありはせず、そこで何かを無にしているように思われ、無理に語るのを避けながら、記された言葉を削除して、新たに言葉以外の何かを付け加え、それが記号なのかコードなのか知らないが、象形文字のごとくに意味を担い、文章とは無縁の架空の表現形態へと移行するわけでもないだろうが、とにかくつまらないところで道草を食っている。この外れ方は何なのか。意図がわからず困惑しているようだが、たぶん何を語っているのでもないのだろう。古いドアノブのメッキに人が映り、晴れた青い空を連想させ、外からこちらを見つめられているような気にさせるが、それが何を意味しているわけでもないのだろう。わけなど何もない。付け入る隙などどこにもありはしない。ただいつもの笑顔が描かれているだけで、この世界に何が捧げられているのでもないらしい。世界の中心がどこにあるというのか。山の中だろうと、都会の中だろうと、そこに猫が生きていて、無表情を装いながら、猫と誰かが暮らしている。そこで歌われているのは誰の子守唄でもなく、美しい心が弾けて、何かのついでにギターを弾いているわけでもなく、奇怪な表情と受け取られようと、そのままかまわずバスに乗り込んで、誰かがどこかへ向かっている。わざわざ街に出て、仲間とはぐれようとしているのだろうか。街頭に佇み、誰と会って握手できるわけでもなく、孤独に苛まれているわけでもなく、物乞いをするほど落ちぶれているわけでもなく、たぶんそこで誰かを待っているのだろう。ソファーで横になり、つぎはぎだらけのジーンズの画像を眺め、ポジとネガを入れ替え、昔の写真をどうするわけでもなく、鎧兜で戦うには重そうで、面倒くさくなって、中世の物語の中で、伝説の魔法使いを召喚したがっている君を身代わりにして、後はまかせてゲームをやめ、今は現実の世界でくつろいでいるのだろうか。タイムマシンで過去へさかのぼったわけでもないのだろう。思い描いているのはおとぎ話の世界かもしれない。

 徐々に昔の感覚がよみがえってきているのではないか。気のせいだと思いたい。道端に倒れているのは誰だろう。ここはインドの街中か。地下鉄の階段を駆け下りるのは危険か。途中で足がもつれて転び、大けがでもしてしまったらまずいことになる。打ち所が悪ければ死んでしまいそうだ。公園のベンチで落ち着いた方がいい。しばらくそうしていれば、錯乱状態から解放されるだろう。日が照ってきて、だんだん暖かくなるはずだ。寒い季節なのだろうか。当たり前のことを思わないでほしいか。そこで何かがつきかけている。ポリ容器の目盛りはまだ中身があることを告げているようだが、それを飲めばどうなってしまうのか。何か哲学的な幻想を抱いているのではないのだろうが、現実の世界ではまだ余裕がありそうだ。でも見つめている先に何があるわけでもなく、ことさら目を背けるような現実に直面しているわけでもない。陰惨な出来事ではないらしいが、どうしても自らの主張をこの世界に及ぼしたいのだろう。頭を抱えているわけはそこにあるわけか。うまくいっていないのだろうか。真っ赤なジャケットの裏地が真っ黄色になっているのは、趣味が悪すぎだろうか。テロリストの資金源がどこにあろうと、そこで追い立てられているのは、無関係な貧乏人がほとんどだ。ベッドの上であぐらをかいて腕組みをしながら、何を考え込んでいようと、君とは無関係なことであり、たぶん語っているのは中身のない話となり、言葉を記している誰かを困惑させるばかりで、それ以上に何をどうしようというのでもない。車体が黄色く塗られたホットドッグの屋台で紙コップ入りのコーヒーを買い、いったいどこをほっつき歩いているのか定かでないようで、夢遊病者というわけでもないのだろうが、夢の扉が閉ざされないように、何とかそこで踏みとどまるべきなのかどうか、誰に伺いを立てているのかもよくわからず、それが神でないことは明らかかもしれないが、とにかくしばらく瞑想に耽っているのだろうか。それでも心が落ち着くことはないだろう。どうやら切り返しが甘かったようだ。ロックバンドのヴォーカルがうまいとかへたとか、それだけで感動するわけでもないのだろうが、曲も曲で、それが名曲であろうとなかろうと、それなりにセンスが感じられれば、演奏がアマチュアレベルでも聴いていられるのだろうし、1960年代のローリングストーンズなんて、そんな感じだったような気がするのだが、それがいつの間にか伝説と化して、巨大な幻想をともないながら、転がる石が雪だるま式に大きくなって、次第に収拾がつかなくなって、途中で死人が出たりしながら、メンバーが老人になっても、今なおライヴをやっているらしい。そしてどうやらそういうのとは無関係に、ロック漫画というジャンルもあるらしく、そこで描かれる漫画的なロックと実際のロックとの隔たりが、何やらおかしな勘違いを生じさせているのだろうか。漫画的な形式とロックの形式との不整合が醸し出す、まがい物とまがい物が掛け合わされて、さらなるまがい物感が増幅される悪循環に陥っているということだろうか。でもそれで特定の何を語っているわけでもないのだろう。伝説のギタリストの中の一人で、ジェフ・ベックという人がいたが、それとこれとは無関係か。


2月4日

 民主主義は偽善がないと成り立たない制度だろうか。対外的な日本や日本人のイメージを良くしたいのなら、今度の東京都知事選は、舛添氏よりも細川氏が当選した方がマシだろう。ただ細川氏が当選した場合、自民党や主要メディアによる攻撃によって、都政の運営が滞ってしまうかも知れない。そんなわけで細川氏が都知事になったとしても、何もやらせてもらえないか、過去の疑惑を蒸し返されて、早期退陣に追い込まれてしまうとしても、民主主義というきれいごとを機能させるためには、やはり細川氏が当選した方がマシなのではないか。でも君としては舛添氏が当選して、自民党や安倍ちゃんが大喜びしてしまう光景を、ニヤニヤしながら眺めていたいのかもしれない。対外的にも、やっぱり日本や日本人ってこういうものなのだろう、と欧米の連中などは内心蔑んで見下していたいのではないか。自民党や安倍ちゃんなどは、舛添氏が都知事になれば、カネにまつわる疑惑を持ち出して、てめえ俺たちのいうことを聞かないと、猪瀬みたいに検察動かしてぶっつぶしてやるからな!と脅しをかけておけば、どうせへこへこ頭を下げてくるような奴だと思っているだろうから、彼らにとって舛添氏は便利で都合のいい人物には違いない。果たして福島の原発事故で懲りているのかいないのか、のど元過ぎれば熱さを忘れるなのか、原発の是非だけが選挙の争点ではないということなのか、自民党や安倍ちゃんのやり方でOKなのかどうか、まあなんともいえないところだが、少なくとも静かに余生を送っていられた隠居老人の2人組にしてみれば、現状に我慢がならなかったことだけは確かであり、たとえこれで自分たちの寿命を数年縮めることになるとしても、黙っていられずに、立ち上がって体制に反旗を翻してしまったわけだから、果たして彼らの行為は狂気の沙汰なのか、正気だからこそそうせざるを得なかったのか、その辺は都民の判断が分かれるところだろうか。結果がどうなるにしても、世の中の流れは人々の期待や願いとは違う方向へ流れているような気もする。

 オバマなどは、アメリカの利益を優先させる範囲内で、演説ではできるだけきれいごとを唱え、実際の交渉となると、ゴリゴリの現実主義を貫こうとしている印象があり、政治家のあり方としては、そうならざるを得ないのだろうし、それ以上を求めるのも酷なような気がするのだが、日本の政治家の現状はどうなのか。総じて演説で唱えるきれいごとにはうわべだけで説得力がなく、本音とか下心とかが丸見えで、実際の交渉となると、はなから交渉相手と見なされていないような印象があり、アメリカからは、お前らは俺たちのいうことを聞いていればいいんだよ、と見下されているみたいで、中国や韓国からは文句や苦情ばかりを一方的にまくしたてられ、ロシアからは、いつまでも北方領土ばかりにこわだりやがって、と不快感をあらわにされて、とても対等の交渉とはなり難く、結局カネ目当てのアジアやアフリカ諸国と友好関係を結んでいるだけにとどまるしかないか。それくらいでかまわないのかもしれない。世界のリーダーとかアジアのリーダーとか、そういうかっこいい立場を担うほどの国でも国民でもなく、気楽な立場で適当に立ち回っていれば、それでかまわないような状況を維持していればいいような気がするのだが、どうしても背伸びがしたいらしく、アメリカに頭を押さえ込まれていることで生じる、鬱屈した劣等感と、心底から信用されていないのではないか、という猜疑心とが相まって、何だか根性がねじ曲がっているような感じに見えてしまうのだが、それを象徴する現象が、アメリカにNO!と言えない右翼の存在なわけだ。それでも近頃は靖国神社やイルカ漁の問題で、NO!と言い始めているので、だんだん風向きが変わってきた印象があり、最終的には日米同盟の破棄を訴えるようになれば、右翼もついに本物の右翼になってきたと実感させられるのかもしれないが、どうもそこまでは行かないようで、アメリカが民主党政権から共和党政権に移行すれば、靖国神社への参拝やイルカ漁やクジラ漁も黙認してくれるのではないか、という淡い期待感も滲ませているみたいで、今のところはまだ似非右翼の段階にとどまっている感じがしないでもなく、やはりそれはすべてが中途半端なこの国の現状を象徴している現象なのではないか。


2月3日

 そんなことを述べて何を否定しているのだろうか。別に語れないことを語ろうとしているのでもない。語れることは語れるが、それがどうでもいいことなのか。いつものことだろう。君が知っているのは知り得ないことであり、誰も知らないようなことを語ろうとして、それを本当に語ってしまい、引っ込みがつかなくなっているのだろうか。そんなはずがない。ただの戯れ言だ。それを語っているわけだ。実質的には何も語っていないのではないか。ではそれらの動作はただの演技なのだろうか。そこで何を演じているのだろうか。終わりの瞬間か。何が終わるのでもなく、何が語られているのでもない。まだそこまでたどり着いていないらしい。演技も嘘だ。演じられた動作を説明できない。考えていてはだめなのだろうか。思い出そうとしている。それは劇的な話ではないようだ。何ものにもとらわれないただの話だ。話でさえないのかもしれない。では何を思い出そうとしているのだろうか。力が抜けてしまったらしい。昨日もそんな一日だった。語れそうで何も語れなくなり、眠ってしまう。この状態は何なのか。どんな結果が待ち受けているわけでもなく、人はみんな眠っている。目覚めている必要はないらしい。また夢の中で誰かが戦闘中のようだ。それはどういうことなのか。いったい現実の世界では何が起こっているのだろうか。恐ろしい事実を伝えようとしないのは誰なのだろうか。何が恐ろしいわけでもなく、何もかもが茶番劇だというのだろうか。知ったことではないのかもしれない。胡散臭い人物は政治家になりたいらしい。そして何かを実現したい人たちが集まり、理想に燃えて楽しいパーティーの幕開けとなり、それの代表格がオバマなのか。中には有能な人材もいるわけか。でもやっていることはたかが知れている。しかしたかが知れていることさえ、実際にやってみればうまくいかないわけだ。大阪都構想もそれのたぐいだろうか。彼らは何を人々に見せているわけではなく、ただ夢をばらまき、バラ色の未来を語ってみせるのかも知れないが、それを信じる人は今のところあまりいないらしい。何も見せられないのに、何を語っているのだろうか。それは現実の荒廃した光景でもないようだ。

 住む家がない人などいくらでもいるかもしれない。家族がいない人もいくらでもいそうだが、住む家があって家族がいて安定した収入があって、それが地獄だと思う人もいくらでもいるだろう。悩んでいること自体が、すでに贅沢な悩みとなってしまうわけか。自由を求めるのが贅沢な悩みなのかもしれない。人は不自由な環境で我慢を強いられている。いったいそれが何に結びつくというのか。我慢し続ければ忍耐強くなり、辛抱耐強く努力していれば、やがて我慢し続ける状況から解放されて、暇な日々を享受できる時期まで生き延びられるか。だが暇があっても何ができるわけでもなく、暇がなければ忙しいだけで、結局何もできず、無為に時間を過ごしてしまったことを後悔する羽目となる。それがバラ色の未来ではなかったことを思い知らされ、夢に裏切られたような気になるのだろうか。要するに神への信仰が足りなかったのだろう。そんなわけで老人には宗教が必要だろうか。何かにすがっていないとやりきれない気持ちとなり、心の支えとしての神への信仰が、正気を保ち続けるには欠かせない。でもそれでは進んで不自由を受け入れることになってしまうのではないか。では神を信仰したくないのなら、自らの内に潜む狂気を受け入れなければならないだろうか。もしかしたらその狂気こそが自由の源泉なのではないか。そんなはずがない。自由は自由であり狂気は狂気だ。狂気も自由も手に入れたい人もいるのではないか。例えば刑務所の受刑者たちがそう思っていたりするわけか。たぶん自由も狂気も神への信仰も、それらすべてを手に入れ、自らが救世主となって、この世に降臨したいのではないか。それこそが怪しげな新興宗教の教祖様の願いであり、夢なのかもしれないが、果たしてそんな願いを神が聞き入れてくれるだろうか。映画の中で誰かがそんな役を演じているわけか。そんな映画を誰が見に行くのか。実際にはどうなのだろうか。別にそれに類することでもないのだろうが、例えば信仰集団「イエスの方舟」の主宰者だった千石イエスは、何をやっていたのか。かつてそんな事件もあったらしい。ウィキペディアによると、「この事件でのサンデー毎日編集部スタッフの行為は犯人隠避とされたが、そのなかには後のジャーナリストである鳥越俊太郎がいた」そうだ。興味があれば誰か彼に事件の顛末を聞いてみればいい。

 どうやら思い出すのはたわいないことでしかないらしい。何を欲しているわけでもなく、不意にくだらぬ空想がよぎって、そこから作り話でも始まるのか。でもすでに出尽くしてしまっていて、何も出てこないような気がするが、出尽くしているのは他にもあるのだろうか。でも何もかもが外れてしまったわけではなく、心はまだここにあり、言葉も記されているはずだ。虚しい努力も執拗に続けられ、彼らの哀しい願いもやがて叶うだろう。彼らは日本という国を守りたいのだろう。靖国神社に祀られている英霊たちも、死してなおこの国を守っているはずだ。みんなで守ればいいだろう。右翼も左翼も互いに互いを亡国の徒だと罵り合い、いがみ合いながらもこの国を守ればいい。守っていればいつか必ずいいことがあるはずだ。守ろうとすればするほど、この国の価値はうなぎのぼりに上がっていくだろうか。守りすぎて国防費が嵩んでしまうと、繁栄の足かせになるか。ところで今日の株価はどうなのか。株価が上がれば国の価値も上がるだろうか。さあどうなのだろうか。物価が上がればどうなるのか。人々の生活が苦しくなるわけか。苦しくなるのは貧乏人だけか。金持ちなら、いざとなればシンガポールにでも移住すればいいわけか。カネさえ持っていれば、その手の国ならいくらでも受け入れ可能で、貧乏人は世界中どこへ行っても移住お断りか。でも貧乏人こそが出て行きたいのだろう。貧乏でも食っていける国を探しているはずだ。この世界はカネに支配されているのだろうか。それは安易な早合点だろうか。人々は嫌な仕事でも率先してやり、労働によって国を富ませなければならない。それも安易な発想か。労働がカネに結びつかなければ、国を富ませることにはならないか。とりあえず労働するのもカネを儲けるのも面倒くさいか。何よりも引きこもり人間には、何をするのも億劫に感じられ、何事も無気力無感動で遠ざけられ、それによってかろうじて生きている感触を得て、その存在を何とか保っているわけか。そうならないようにしなければならないか。でもなってしまったらもうおしまいか。もしかしたらそこから新しい道が開けたりするわけか。そういう幻想に浸りたいのだろうか。たぶん適当に何かをごまかそうとしているのだろう。今もそんなふうに語っているのだから、そうに違いない。


2月2日

 それらの話には欠けている部分があるのだろうか。君はそれを知らない。知り得ない立場にあるのかもしれず、それに対して面と向かって反論できないらしい。無理に語る必要はないだろう。語れないのだから仕方がないのではないか。過去は過ぎ去り未来は未だ到来せず、それは絶えず空想するばかりの時空となりそうだ。君はどこへ向かっているのだろう。誰も知らない世界は未来にあり、誰もそこへは到達できず、ただ空想するばかりか。そうやって誰もが同じことを繰り返しているのだろうか。それは遊戯に決まっている。そして正しい思考というのもあるらしい。正しい認識というものもあるのだろうか。では何が正しい遊戯なのか。本当は何も問われていないのに、わざとそう問いかけ、誰かを惑わそうとしているのか。探求すべきことではない。でたらめなのだろうか。きっとそうだ。そこから出られないわけだ。何もできないことはわかっている。だからそれに関して言及できないのだろう。無理してする必要がないからだ。自ら墓穴を掘るわけにはいかないのか。過去は何かを教えてくれる。過ぎ去った何かを知らせてくれる。物事の合理性を追求したいのか。現実にはそうなっていないのではないか。だから困っているわけだろう。何もできないから困っているわけだ。自然と過去を見つめていて、意識が未来へ向かっていないようだ。思い出が何をもたらすというのか。何ももたらさないから空疎な気分となれる。知識は過去からの贈り物だ。意識を過去につなぎ止めるために知識があり、知識は意識を魅惑する。現実には何ももたらしていないのかもしれない。知識は幻影だ。実際は何も知ってはいないのだ。だから未来のことなど何もわからない。ただ予想したり予言したりするだけで、確実なことは何もわからず、予想や予言が当たれば、そこで初めて現実を知ったような気になれる。だから幻影なのだろうか。

 君は何かに打ち当たっている。行く手を阻まれているのか。だがどこへ行こうとしているのでもない。では何を知っているというのだろう。行き当たりばったりのように思える。現実は動かしようがない。それでも動いてしまうときもあるが、たぶん君の力では動かしようがないのだろう。君が期待しているのは、その現実ではない。どの現実でもなく、現実ではないのかもしれない。幻想を抱いていることは確かだ。少なくとも今は抱いている。それでかまわないのだろう。そこに真実があり、それを覆すわけにはいかないらしい。それは否定しようがない事実だ。この世界には成り行きがある。そうなってしまうわけだ。わけもなくそうなってしまい、そうなってしまうわけを、なってしまった後からねつ造しなければならなくなり、そのねつ造したわけによって、人々を納得させなければならず、ねつ造した自らも納得しなければならない。そこに思考の介在する余地があり、工夫を凝らして、誰もが納得するようなわけをねつ造しなければならない。それであらかた説明がつくだろうか。この世界を説明するわけか。あり得ないことだろうか。やろうとしていないのではないか。それに関して正しい認識というものがないのではないか。ものとは何か。それが正しい認識だとは思えないだけか。ごまかしに決まっている。君は逃げているのか。真正面から見据えることができない。何かが絶えず起こっていて、それが君に影響を与えているのではないか。それを君は知っているようだが、その作用の原因を知りたいのではなく、知りたくもない原因をねつ造しようとしているのでもない。知り得ない何から力を及ぼされながら、君は何かを思い、考えているようにも感じられ、見えない何かに向かい合っているのだろうか。そこから逸脱するわけにはいかないのか。意識は離れているのに、身体がついていけないということか。ではそこで心身の分裂が起こっているわけか。そんなふうに考えればおもしろいだろうか。

 ものに心を支配されている。でも心は幻影だ。あるのは身体だけだろうか。では身体で何を考えているのか。芸術とは何か。冗談でそんなことを考えているのか。そこには何もありはしない。絶えず何かが作られていて、それについて言葉を弄して語っているわけか。単純な成り行きだ。あえて異議を差し挟む余地もありはしない。たぶんそう述べて何かを裏切っているのだろう。馬鹿げた考えに凝り固まっていてもかまわない。その辺が思案のしどころかもしれないが、何も考えていなくてもかまわない。結果に一喜一憂するつもりもなく、ただ漠然とこの世界について考える。とにかくまただいぶ迷路が広がってしまったようだ。余計なことだとは思うが、迷路の中の住民に向かって声をかけた方がいいのだろう。そこが安住の地だとは思うな、ということを悟らせるつもりなのでもないのだろうが、何やらそこでスフィンクスが謎掛けでもやっているのだろうか。旧世代の人たちは物神に取り憑かれ、大地を耕し、そこから恵みを受けているのかもしれないが、君は言葉の影に取り憑かれているみたいだ。でも君は誰でもない君だろう。それは知識には依存しない意識からの贈り物だろうか。物ではなく言葉なのではないか。実体は何もない。空洞で鳴り響いている誰かの声でもないらしい。物音でもない。記された文字に宿る精霊か何かか。どうやら冗談がきついようだ。何もわかりはしないが、気楽に構えて言葉を記したらいい。別にそこから飛翔したいのでもなく、動機が見当たらない。動かないのだから、それでかまわないのか。意識は言葉で記された内容には頼らない。さらに語りたいのだろう。あてもなく彷徨いたいわけでもない。人の心は動かない。それが幻影だからか。でも人の身体が動くのではないか。動いてどこへ向かっているのか。未知の領域へと向かいたいわけか。でもそれを理解したいのではないらしい。誰が向かわずとも、君がそこから手招きしているわけでもなく、神をねつ造して、約束の地へと導かれたいのでもないのだろう。それでは神話となってしまうか。

 まだ具体性がないらしい。計画もない。でもとりあえずどこからともなく飛んできた火の粉は避けたのではないか。避けられたと思っているだけで、実際はどうだかわからない。背中から煙が上がっていたりするわけか。逃げ足の速さが天下一品というわけでもない。考えているのはそれだけか。満たされているとは思えない。知識とは何だろう。なぜそれをひけらかすのが軽薄に思われてしまうのか。時と場合にもよるのだろう。必要も感じられないのにひけらかすから、何かずれているように思われ、必要に応じて必要な分だけ明かされればいいだけで、それ以外は胸の奥にしまっておけばいいわけか。でも自己顕示欲の強い人はそうはいかないようで、強引に知識をひけらかすきっかけを作っては、相手の興味とは関係なく、必要以上にそれについて語ろうとするわけだ。自らが知っていることを誇示したいわけか。でも知っていることには、それを知る経緯に至った経験をともなわなければ、浅はかなものとならざるを得ない。語る上で肝心なのはその経験だろうか。経験に裏打ちされた知識でないと、いくらその知識を語っても、リアリティを得られないのはもちろんのこと、勉強した証しとして得られた知識など、頭でっかちなだけで、何よりも身体をともなっていないわけだ。身体をともなわない知識が何の役に立つのだろうか。だが勉強も経験のたぐいではないのか。そこにどんな違いがあるのだろうか。勉強は特定の目的に向かって行われるものであり、目的以外は配慮されず、たとえ身についたと思っても、その知識は目的を達成することだけにしか通用せず、他では通用しないかも知れない。そういう知識には広がりがなく、例えばそれは試験に合格するためだけの知識であったりして、他へは融通の利かないものになりがちだ。そういうのに馴れてしまうと、あるいはそうやって試験に合格して、成功体験を味わってしまうと、そういうやり方しかできなくなり、何か目的を見つけては、そのターゲットに向けて猛勉強して、ただ直線的に知識を得ようとするばかりで、得られた知識間の連携がとれず、系統樹的な思考形態にはなるが、網目状の知識のネットワークを築くには至らない。


2月1日

 何やら村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』はすごいことになっている。要するに村上春樹が村上春樹中毒に陥っていて、ノーベル文学賞候補にその名があげられるほどの大御所になってしまうと、それを諫言する編集者が不在だということか。そして小説に出てくるすべての登場人物と語り手までが、会話や語りにおいて訳知り顔的で、これ見よがしに浅はかな知識をひけらかしまくってしまい、そのことごとくがスベッているように感じられ、これはまさに有吉弘行の言うところの、おしゃべりクソ野郎とクソスベリ芸人の物語だ。見てはいないが、もしかして松本人志の『R100』もこれと同じ状態なのだろうか。それとも村上春樹はわざとそうやっていて、今や日本人のすべてがそういう状態になっているということを主張したかったのか。そういう意味では衝撃的な小説だ。

 主人公の多崎つくるが色彩を持たないのは、高校時代の仲良しグループの4人の仲間が、すべて『黒子のバスケ』の「キセキの世代」風に名前に色が含まれていて、そいつらから絶交された後に大学時代にお友達になった灰田くんも、灰田くんのお父さんの昔話に出てくる緑川さんも、同じく名前に色が含まれているのに対して、つくるくんには色がついていなくてさびしいなあ、高校時代は学業もぱっとしないし、性格もおとなしいし、これといって特徴がないんだよなあ、みんながうらやましいなあ、ボクもみんなみたいに色彩を帯びた人になりたいなあ、と思っているんだが、でも名前に色のついた人たちは、みんな思いっきりおしゃべりクソ野郎でクソスベリ芸人ではないか。つくるくんもお助けおねーさんの沙羅ちゃんも、似たような感じといえばそうなりがちだが、普段は無口な会社の部下の坂本くんまでが、いきなり「若輩の身で差し出がましいようですが、少し口をはさませていただいでいいでしょうか?」と断ってから、知ったかぶりの知識ひけらかし競争に割って入ってくるのには、読んでいて思わず笑ってしまった。まあ多崎つくるの「タザキ」の「キ」は黄色の黄だし、木元沙羅の「キモト」の「キ」も黄色の黄と考えれば、どちらも最初からちょっとだけ色彩を帯びていたのかもしれない。

 物語の中で最大の知ったかぶりの知識ひけらかし野郎を演じている灰田くんは、その知識のひけらかしすぎ具合があまりにもうざすぎるらしく、どうやら作者の村上春樹から直々に天誅を加えられたようで、つくるくんが高校時代の仲良しグループ内の女の子二人を、おかずにしながら夢精しかけた時に、灰田くんが割って入ってきてつくるくんの勃起したちんぽをくわえこみ、灰田くんの口の中につくるくんが射精してしまう、という嫌な役回りをあてがわれてしまう。お前えらそーにしゃべり過ぎだよ!ちんぽでもくわえて黙っていろっ!ということか。そして実際それからしばらくして灰田くんは行方知れずになってしまうわけだが、語り手も語り手で、村上本人の下品でグロい性格を反映した箇所もなくはない。「シロは普段は無口だが、生き物が好きで、犬や猫の話となると顔つきががらりと変わり、夢中になって話し込んだ。獣医になるのが夢だと本人は言ったが、彼女が鋭いメスを手にラブラドルの腹を切り裂いたり、馬の肛門に手を突っ込んだりしている情景が、つくるにはどうしても想像できなかった。」ここで「どうしても想像できなかった」情景を想像しているのは誰なのか。語り手なのだろうか。それともどうしても想像できなかった情景をつくるくんが想像しているわけか。あるいはそれを読みつつある読者なのか。村上春樹は彼の本を読んでいるプチブルジョア的な小市民の読者に、ちんぽをくわえた灰田くんの口の中に精液が溢れ出す光景や、清楚な美人のシロちゃんが「ラブラドルの腹を切り裂いたり、馬の肛門に手を突っ込んだりしている情景」を想像させて喜んでいるわけか。

 村上春樹はその手のプチブルジョア的な小市民を嫌悪しているのだろうか。こんな箇所もある。「レクサスの受付にいたのと同じ、名古屋でしばしば見かけるタイプの女性だ。整った顔立ちで身だしなみがいい。好感も持てる。髪はいつもきれいにカールしている。彼女たちは何かと金のかかる私立女子大学で仏文学を専攻し、卒業すると地元の会社に就職し、レセプションか秘書の仕事をする。そこに数年勤め、年に一度女友だちとパリに旅行し買い物をする。やがて前途有望な男性社員を見つけ、あるいは見合いをして結婚し、めでたく退社する。その後は子供を有名私立学校に入学させることに専念する。」とお得意の浅はかな知識のひけらかしつつ、皮肉っているつもりなのだろうか。そういえば物語の中で、唯一ほとんどおしゃべりクソ野郎役を演じなかった清楚な美人のシロちゃんは、強姦され妊娠して流産して、大好きなピアノ演奏にも、その才能の限界を感じさせられ、美人でなくなり、そんなふうにしてどんどん不幸になっていき、しまいには殺されてしまう。うんちくのひとつもしゃべれねーやつは死んでしまえ!ということなのか。その殺人事件も未解決のまま放置され、そのままその存在自体もフェードアウトしてしまうわけだ。

 その彼女がかつてピアノで弾いていたのが、リストの『巡礼の年』という曲なのだが、それに関して三流音楽評論家の解説みたいなのが物語の随所にちりばめられて、その手の浅はかな知識を真に受けてしまう人用の箇所なのだろうが、緑川さんが田舎の中学校の音楽室で弾いてみせた『ラウンド・ミッドナイト』の箇所もそうなのだが、かつての仲間の居場所に巡礼していき、そこでうんちく話をして和解し、東京近辺では夜に徘徊して、おしゃれなバーやレストランで飲んだり食ったりしながら、アーバンな気分を味わいつつ、沙羅ちゃんと謎解き探偵もどきの会話を楽しみ、何やらそういう雰囲気に浸かるような話にはなっているわけだが、やはり印象としては薄っぺらい話だろうか。これで村上春樹がノーベル文学賞を取ったらすごいか。