彼の声101999年1月26日明るい部屋の中で風の音を聴いてみよう。暗く垂れこめた曇り空から何が舞い下りるというのか。 雪?期待外れ。雨。 目に映る光の影。陰影を帯びた風景。 あてどないささやき。感性の衰え。短く途切れる句読点。
真夜中から鳴り響く吃音の種類を列挙してみる。
未来から遠ざかることによって過去に思いを馳せ、
こんなことを語っている。暗い未来。それがお望みの未来。悲観論の多用。 貧しい連想ゲーム。二項対立で続けようとする。
青空を見上げよう。今は夜なのに。暗い空。星も見えない。
単調なリズムさ。まるでワルツだ。男と女がくるくる回り続けるんだ。
それも嘘なのか。では第三の状態があるというのか?ある。それも嘘なのか。
雨。時計。冷気。隙間から入りこんでくる。
光あれ。それが造物主の言葉。はじまり。世界のはじまり。
ユーザーズマニュアル。それが文明の曙。
資本主義。 ファンヒーターから吹き出す暖気。
誰かに見られている。見知らぬまなざしに恐怖する。 それくらいのこと。知らない。 省略法。
批判序説の大流行。批判ではない。序説でしかない。安易だ。
乏しいリアリティ。
私は愛から始める。 自分のこと。
方法。戦略。戦術。方法論。孫子。兵法。
君はキャロル・キングの「TAPESTRY」を聴いたことがあるか。 静寂。歌声。静寂。歌声。静寂。
時にはヘルダーリンの声を聞く。
関係ない。関係のない夢。関係のない解決法。 そんな文章。
探究。何を?歴史の終り?安易じゃないか。
雰囲気だけの言葉の群れ。気晴らしの世界。
雄たけび。勝利の雄たけび。馬鹿げている。ヒステリー。
JB!ゲロッパ、ゲロゲロ。ファンク。
古い音楽。そういう定義。数学的帰結。バロック。 1月20日いや〜、去年の暮れに低速シリアルポート(19,200bps)からお別れしようと、イーサネットカード(LANボード)とIPルータ(HUB+ルータ+高速シリアル)を買ったんですが(だからよ〜、そんなもん買う金があったらパソコン本体を買えよ、パソコン一台しかねえのにLANなんかするなよバカァ〜)、案の定Win95ではつながるのですが(詳細な解説書とWin専用ソフトが入ったフロッピー付きだからつながって当たり前ですけど)、FreeBSD(98)ではつながりません(笑)。FreeBSDのネットワーク本を2冊も買ってあれやこれやいろいろ設定を変えて試してみたんですが、どうしてもルータの先につけたモデムまで到達できません(もしかしてFreeBSDはルータの先についている高速シリアルポート(460.8Kbps)には未対応なのかなぁ?)。それで結局先週RS−232C切替器を買って、ひとまずFreeBSDはこれまで通りPC本体についてる低速シリアルポートを利用することにしました(Win95ではイーサネットと低速シリアルの両方使えるのにぃ〜)。やはり私の実力ではハッカーの域にはまだまだ程遠いですね。畜生!このままでは絶対終わらないぞ!Revengeだ!こうなったらいつかきっとDOS/V機買ってFreeBSDでクライアント‐サーバごっこしてやる!…はぁ〜そうですか〜、でも、いつのことになるのやらですね(笑)。口先ばかりでぜんぜんPC買いませんね〜。オオカミ少年どぇーす!! 話は変わって、昨日ここに帰ってくる途中、電車の中吊り広告をぼんやり見てたんですけど、週刊誌(週間ポスト、週間読売、アエラ)って相変わらず“北朝鮮脅威論”で商売しているんですね。なんだかよっぽど期待しているみたいですね、開戦の事態を。大袈裟な言葉で煽りまくりですよ(笑)。金正日同志よ!期待されてますぜ!注目の的じゃないですか!どうですか、ノドンだかテポドンだかハルマゲドンだか知らないけれど、ここらでいっちょ日本国民の期待に応えてミサイルを一二発日本の国土に打ち込んでみてはいかがでしょうか。ま、狙い目は原発あたりですか。それとも皇居かな(右翼が恐いぞ)。そして首尾よく大願成就した暁には、日本国内に広がるであろう蜂の巣を突ついたような大騒ぎを眺めながらいっしょに笑い転げましょう。きっとこの間のミサイル(ロケット)発射のときも笑い転げてたんでしょう。大丈夫です、アメリカの報復空爆なんかたいしたことないです。イラクのフセイン同志で実証済みでしょ。でもやっぱ、さすがに派手なドンパチやっちゃったあとは一応ちゃんとした謝罪しなくちゃね。それが分別をわきまえた“じぇんとるめん”のエチケットってもんさ。なんならボクちゃんが言い訳の文言を用意しておきましょうか。こんなのはどうですか、「すいましぇ〜ん、ロケット発射したんですが推進力不足で途中で落ちちゃいました〜、それでぇ〜、あの〜、お騒がせのところ大変恐縮なんですが、かなり虫のいい話で心苦しいのですが、本当に申し上げにくいことなんですが、もしよかったら、今度からは途中でおっこちないように日本の技術協力をお願いしたいんですが…」なんてね。
でもさ〜、ちょっと変じゃないかい。北朝鮮と真に対峙しているのは韓国でしょ。そしてそれぞれのバックには中国とアメリカがついているわけだよね〜。そうだよ、建前上は今まさにこの4カ国で戦争にならないように真剣に話し合おうとしているところなのに、何でそこに横からアーパーな日本がしゃしゃり出てくるのかな〜。ただでさえ頭がパーな政治家や官僚ぞろいなんだから、あんまりアメリカの応援団みたいにして余計な口挟まないほうがいいんじゃないの。まるで日本が険悪なムードを煽って火に油を注いでいるみたいじゃないか(金正日の思うつぼ)。ちょっと身のほど知らずだよ。日本なんて単なるアメリカ軍の駐車場に過ぎないんだからさ。しかも普通の駐車場なら駐車料金を徴収するのに、逆に金払ってとめてもらって、さらにそれをありがたがっているんだからホントにおめでたいよ。そんな常識はずれの世間知らずが偉そうなこと言えないよな。まあ、よその国からは日本も韓国も北朝鮮も幼稚なガキの集まりと見られていることは確かだけどね。アメリカや中国が保護者として見張っていなけりゃ、たちまちケンカやり始めちゃうと見下されているんだよ。 1月13日今までタグの使い方が煩雑でいい加減だったので、HTMLファイルの中身がかなり複雑怪奇になってしまい、更新する際の煩わしさが日増しに増大してきたので、ついに先週、自己流を改めるべく参考書(『HTMLタグ辞典』アンク著、翔泳社)を買い求めて、それを参照しながら各ページを全面改訂してみました。その結果、ファイルの中身も見た目も以前よりはかなりすっきりしたのですが、反面、TABLEタグを広範囲に使ってしまったのが原因で、ブラウザの表示スピードが遅くなってしまいました。まったく、あっち立てればこっち立たずでなかなかうまくいかないものですね(笑)。で、今回は久しぶりにジジェクの文章を取り上げてみたいと思います。 ようするに、二つの性の差異は、一連の象徴的対立(男性的理性対女性的感情、男性的能動性対女性的受動性、等々)から直接的に生じてくるのではない。性別は、唯一の普遍的象徴的特徴(究極的には「去勢」という特徴)を身にまとうときに必然的に生みだされる矛盾〔非一貫性〕をどう処理するか、その処理の仕方の違いから生じてくるのである。女性が感情に支配されているのに対して男性はロゴスを代表する、というのではない。男性にとって、すべての現実(リアリティ)を生み出す無矛盾的で首尾一貫した普遍的原理としてのロゴスは、神秘的で語り得ぬX(「語ってはならないものがある」)という構成的例外によって支えられている。これに対して、女性の場合は、例外は存在せず、「一切のものについて語ることができる」のだが、まさしくそれゆえに、ロゴスの宇宙は矛盾した、一貫性のない、離散的な「すべてではない」“non-all”になるのである。あるいは、象徴的な肩書きで自分を代表させることに関して、男性は自分の肩書きに無限に同一化し、そのために一切のものを危うくしてしまう(大義のために死ぬ)傾向にあるわけだが、それでもやはり、次のような神話に支えられている。それは、自分は肩書きだけではない、肩書きという「社会的仮面」を被ってはいるが、その仮面の下には「本当の自分」といったようなものが息づいている、という神話である。これとは逆に、女性の場合は、確固たる信念に基づく無条件の献身というものは存在せず、究極的には一切は仮面なのだが、まさしくそれゆえに、「仮面の背後」には何もない、ということになるのだ。愛に関しても同じことが言える。恋する男性は一切を愛のために捧げようとし、その恋人は絶対的で条件づけられない対象にまで高められるが、まさしくそれゆえに、男性は公的もしくは職業上の大義のために恋人を犠牲にすることを強いられる。一方〔恋する〕女性は、制限や留保なしに愛に溺れるので、女性のなかで、愛に浸透されていないような次元は存在しない―だが、まさしくそれゆえに、女性にとって、「愛はすべてではない」、愛は不気味で根源的な無関心に永遠に付きまとわれることになるのである。どうもこれを読む限り、男女間の性的差異とは社会の制度から生じるもののようです。例えば太平洋戦争末期の特攻隊秘話などは、まさに戦争という社会制度によって男性が男としての役割を、女性が女としての役割を強制的に演じさせられた極端な例として挙げることができるでしょうね。何しろこれから大義のために死にに行くのに、無責任にも愛しの彼女と愛の契りを交わしちゃうわけで(笑)、しかし、彼の愛の犠牲となって残された彼女は、戦争未亡人として不幸な人生を送らなけりゃならない予定にはなっているわけですが、ところがどっこい、彼がすべての愛を捧げていた彼女にとっては、彼への「愛はすべてではない」わけですね。さっさと他の男性と再婚しちゃうわけです(笑)。ようするにこんなものを“戦争の悲劇”として後世に語り継ぐなんてチャンチャラおかしいということですか(ひ、ひどい結論だ…)。 ともかく、確かに無矛盾で首尾一貫した普遍的原理を語ろうとすれば、当然語り得ぬ矛盾を隠蔽しながら語らなけりゃならないし、反対に一切を語ろうとするなら論理的一貫性を欠いた離散的なものとならざるを得ませんね。それを考慮しないでただ一方的に 男はXYである、そして、女はXXである。 という言説でXYあるいはXXに社会に流通している支配的偏見を当てはめて何かを言った気になっちゃあいけないということですかね。確か論理学などでは、対偶が真でないとその命題は偽ということになるんでしょ。その言説の対偶とは 男はXXではない、または、女はXYではない。
となりますかね。まあ遺伝学的にはそれは真であっても、染色体がXXであっても心は男であったり、逆にXYでも心は女であったりする人も実際にいるわけですから、身体的な機能や特徴は確かにはっきりしてはいますが、その身体的機能や特徴から生ずる性行為などでも男女の違いはあるんでしょうが、それを社会的な役割にまで敷衍することはできないんじゃないでしょうか。例えば先週批判した女性作家なども、「本当の自分」を探し求めているということは、主婦という、あるいは小説家という「社会的仮面」を被っている証拠ですし、それは仮面の下に本当の自分を温存しておくというきわめて男性的な思考形態だといえるでしょう。つまり、男性的性質とは職業(主婦もひとつの職業)を持つという社会制度から生ずるものなのだと思います。反対に男でもいわゆる“遊び人”なんかは極めて女性的なんじゃないでしょうか。 1月5日今、男社会に対して違和感があるんだそうです。それで自分探しの旅ですか。また、未来に対して漠然とした不安感を抱いているらしいです。なんだかどこかで聞いたふうな紋切型の今日的言説というやつですね。しかし、今世間から注目されている女性作家はそんなものを糧にして小説を書いているんだそうです。昨晩(1月4日)、たまたまチャンネルを合わせたNHKクローズアップ現代でやっていた女性作家4人のインタビューを見ていて、そういう、つまらない、当たり障りのない、他人事の、破綻のない受け答えを聞いていて、つくづく、アンタらの小説なんか読みたかねーよ、と思ってしまいました。司会進行役の国谷さんも含めて、なんで彼女達はそろいもそろって“真面目な優等生”なのでしょうか。なぜ、世間に流通しているどうでもいいような今日的諸問題ってやつと真剣に向かい合い、一生懸命に格闘し、律義に答えを探し出そうとがんばっちゃうのでしょうか。なんでそんなふうにして世間の期待通りに振る舞おうとするのか。それがいまどきの流行作家の条件なのか。ようするに彼女達に欠けているのは、自分自身をも凌駕し打ち砕くような、強烈な、そして荒唐無稽な、想像を絶する誇大妄想だと思いました。もちろんそんなものは自身を不幸に導くだけですが、そのような不幸と向き合い、妄想から生じる実現不可能な要請と共存することで、初めてその人独自のユーモアが生み出されるのではないでしょうか(これが私の妄想)。番組を見た限り、彼女達にはユーモアを交えた会話がひとつもありませんでした。何事に対してもただ一様に真剣なのです。彼女達にあるのは、ただの生真面目さ、ものごとに対する真剣なまなざし、そんな類のいわゆる“お勉強的態度”です。世間に存在すると想定される“一般大衆”のみなさんは、そのような“お勉強の成果”としての小説をありがたがって読んじゃうわけですか。私はそんなもの絶対に読みたくはありませんよ。 それから昨夜は久しぶりにニュースステーションも見たんですが、なんとミスター・ビーンが司会進行役をやっていて、青木功に向かって何かわけのわからんことを口走っていましたね。何やら体がでかいことや手が大きいことなどをさかんに絶賛しているみたいで、私には彼が何を言おうとしているのかさっぱりわかりませんでした。またニュース23も30秒ほど見たんですが、パリから口の曲がった白髪の老人がろれつの回らない口調で何かうわごとのみたいなことをつぶやいているようでした。すごいですね、しばらく見ないうちに日本を代表する二大ニュースショーも、世紀末にふさわしく末期的状況になってきましたね(笑)。 話は変わって、いや〜、今回の『批評空間』II−20は読めないですね。宇野弘蔵特集で躓いて、まだ半分もいってません。特に長原豊の「<資本の論理学>の歴史記述 宇野弘蔵における論理と歴史」は私の脳みその情報処理能力を超えているようで、無理矢理読むには読みましたが、内容はほとんど理解出来ていません(笑)。そんな中でもおもしろいものがいくつかあったので一つ紹介しておきます。 題して、ドイツ人も中村正三郎状態(大爆笑!)。
コンピュータ・ネットワークのパルチザン的抵抗ははは、マイクロソフトへの抵抗がナポレオン軍への抵抗運動や普仏戦争時のプロイセン住民のゲリラ闘争に例えられたり、「マイクロソフトがアメリカ軍にではなく中国の人民軍に、おのれのノウハウを提供するということが生じるかもしれない」と言ってみたり、マイクロソフト自身を「両大戦間における中国の軍閥やルネッサンス期のイタリアの傭兵隊長」にみたてたり、マイクロソフトのプログラマーを「帝国プログラマー」と呼んでみたり(スターウォーズですか(笑))、その荒唐無稽な妄想とアナロジーはとどまるところを知らずですが(笑)、Linuxがハッカー用のOSであるなんていうさりげないユーモアには感動してしまいました。そうですね、Linuxは「あらゆるハードウェア・メーカーやグラフィックカード・メーカー、ETHERNETカード・メーカーの機密やウィンドウズの機密を、エミュレートしシュミレートすることができる限り破って」きて、「それらを皆に解放」してきたと言えるのでしょうね。しかし、ここで述べられている通りに事態が進んでしまうと、半世紀前には大日本帝国がナチスドイツと心中しちゃったように、今度は近い将来、日本のパソコンメーカーはマイクロソフトと心中しちゃうんでしょうか(笑)。実際にそうなったらおもしろいですけど、どうなることやらですね。 1998年12月29日インターネットは危険だ!即刻何らかの規制が必要だ!ここ数日のNHKニュースが執拗にトップニュースとして報道していた、インターネットで毒物を購入しての複数自殺事件に絡めて隠喩として主張している政治的スローガンとは、ま、ざっとこんなところでしょうか。ただの一般人の自殺だけならNHKもこれほど執拗には繰り返し報道しないでしょう。事件に今流行のインターネットが絡んでいるから、あるいは、毒物を使用した事実に関して毒入りカレー事件との共通性があるから話題性がある、ということだけでもこんなに何日もトップ扱いで報道しないと思います。また、一昔前にアメリカで話題となった、医師が自殺用器具を発案して安楽死したい末期癌患者に死の治療を施した、という類の事件なら、これほどまでにネガティヴな取り上げ方はしていないでしょう。たぶん、命の重みとか尊厳死とかいう使い古された紋切型と戯れながら、安楽死賛成派と反対派の意見を両論併記してお茶を濁しているところでしょう。どうも私には一連の報道は、NHKによるヒステリックなインターネット攻撃と映りました。日頃から情報を独占し操作しているつもりの自分達マスコミを通さないで、一般市民同士が、直接、平然と危険な情報をやり取りして違法に毒物を売買していた事実に、国家とともに情報を管理しているつもりの自分達マスコミが無視されていたことに、ある種の恐れを抱き、結果、あのような怒りが生まれたのではないか。 インターネットが社会に広がる以前と、ある程度の範囲に広がった現在とで何が変わったかといえば、あらゆる情報がインターネットを介してこれまでよりも比較的容易に入手できるようになったことでしょう。つまり、全体的に情報が流通するために必要なハードルが下がり(多数の人間に確実に伝わるかどうかは別にしても、マスコミを介すことなく個人が手軽に情報発信できるようになった)、その結果社会に流通する情報の量は以前より多くなり、当然、中には国家やマスコミが否定したい情報も相対的にこれまでより多く含まれるようになった。しかし問題は量的なものであると同時に質的な違いだと思われます。今や特定の団体(国家やマスコミ)に管理された情報以外の情報がネット上にあふれかえっているのです。このような状態を放置したまま事態がさらに進行すれば、これまで情報を管理することで国民を支配してきた国家や情報の商品化で利益を得てきたマスコミにとって死活問題になると恐れるのも無理はないでしょう。もちろんそれによって国家やマスコミが将来絶滅するわけではないでしょうし、大多数の人にとっては、テレビ時代の新聞やラジオのようにただ単に情報の選択肢が増えただけかもしれませんが、しかしその結果として、今まで維持してきた国家やマスコミの一般市民に対する支配力は確実に低下すると思われます。と同時に、これからも事ある度ごとにインターネットに対して国家やマスコミによるネガティヴキャンペーン攻撃が加えられることでしょう。これからも冒頭に紹介した政治的スローガンが隠喩として叫ばれ続けるわけです。彼らの願いは、自分達によって管理された情報だけが流通する社会の実現です。一般的にそういうものを称してファシズムと呼ぶのではないでしょうか。
うっひゃー!今回は筑紫哲也の他事争論調になってしまいました(爆笑)。 12月21日あ〜ん、またFreeBSDが変になっちゃった。You have mail攻撃だぁ!なんだかなあ......貴重な休日なのにFreeBSDと格闘しているうちに一日が終わってしまいます。やっぱ、マスコットがで〜もん君だもんね、悪魔のいたずらということか?も〜いやっ!でもおかげで、シリアルポートが19Kしかスピードが出ないのに、56Kに設定しても大丈夫だということがわかった。速い!Win95よりもかなり速く感じる。もしかしてISDNと張り合えるか(妄想)。....馬鹿ですね、中途半端なオタク道です。12月21日唐突ですが、物書きってどのような人たちのことを指すのでしょうかね。たとえば、私のページで勝手にリンクしているShow's Hot Cornerの中村正三郎氏や「おだじまん」の小田嶋隆氏などは、まぁ正真正銘の物書きなのでしょう。それから詳しくは知りませんが、Mac WEEKのBOMBちゃんなんかも同じようなカテゴリーに属する物書きでしょうね。彼らの場合は一応商売として物書きが成り立っている人たち(プロ)といえますか。一方、「がんばれ!!ゲイツ君」の外崎さんなどは「がんばれ!!ゲイツ君」上では立派な物書きですが、今のところ自分はアマチュアだという自覚があるみたいですね。ま、今やインターネットのおかげでさまざまな人たちがさまざまなレベルで物書きをやっているわけですが、今回はそのような物書きのみなさんを喜ばせ勇気づける文章を紹介します(笑)。
詩人も物書きであり、哲学者も物書きであり、小説家もそうで、ジャーナリストもそうである。だが物書きとは何か。それは、かれらの言うことがただ言語的に、文字のみで表現できることなので、詩人、哲学者、小説家などである。物書きでありながら、詩人でも哲学者でもジャーナリストでもなく、ただまさに物書きであろうとする者は、何も言うことがないのだろうか。一般的にはもちろん何もない。物書きのみなさん!率直な意見で生きてますかぁ?それ故ひどい生活しちゃってますかぁ(爆笑)?もしかして、安定した生活を得るために安易な理論武装をして、調子に乗って専門家気取りなんかになっていませんか?よもやテレビタレントなんかを目指しているんじゃないでしょうね(笑)。 ブロッホなどは「率直な意見」が災いして、ナチスドイツのオーストリア併合時に逮捕されて、一旦は刑務所で死を覚悟したそうですが(彼はユダヤ人)、その死を覚悟した瞬間から、牢獄で後の彼の代表作となる長編小説『ウェルギリウスの死』を書き始めたのだそうです。「ウェルギリウスの死が、私自身の死のイマージュとなった」そうですが、その瞬間、運命の女神が彼に微笑みかけたのか、なんとその小説を書き終えるまで彼は生き長らえてしまうわけです。ジェームズ・ジョイスやトーマス・マンなどの助力もあって三週間で釈放され、アメリカに亡命して、そこで大作を書き終えた後、数年で彼は亡くなっています。なんだか劇的な生涯ですね。激動の時代がそういう数奇な運命を生じさせたのでしょうか。四十歳で経営していた紡績工場を突然売却して処女作『夢遊の人々』で衝撃的なデビューを果たしたそうですが、なんだかどこかのテレビ番組の伝記モノで取り上げられそうな人生ですよ(笑)。 しかし今や率直な意見なんかいくら述べても何も起らない時代になりました。いのちがけでなくとも、いくらでも率直な意見を述べることができます。それだけ「率直な意見」そのものが危険でなくなってきたのでしょうし、大した影響力も持たなくなったといえるでしょう。それは別に一般市民の意見だけがそうなのではありません。有名人や政治家の意見だってなおのこと社会に対する影響力はありません。皆が同じことしか言えなくなった面もあるでしょうが、もはや人の意見一言で社会が激変するというような幻想が消滅しつつあるのかも知れませんね。言霊そのものの力が低下してきているのでしょう。
まあでも、政府首脳のみなさんは、率直な意見を述べる以前の問題として、もうちょっと思慮に富んだ発言をして欲しいものですね(笑)。ちゃんと状況判断をした上で筋の通ったことを言ってもらわないと困りますよ。米英のイラク空爆に対して、いくらアメリカの番犬を自認していようと、何も条件反射みたいに速攻で支持を表明することないでしょう(笑)。一応政治家も人間のはしくれなんだから、ちゃんと大脳を経由してからものを言いましょうね。ついこの間までは「国連中心主義」なんていう高尚な理念を振りかざしていたのに、国連安保理の合意を経ない米英の行動をなんで支持しているの?アメリカのやることなら何でも賛成なのかい。なんだかご都合主義で「国連中心主義」を掲げていたのがばればれじゃないですか(笑)。こんなことじゃ国際的信用がますますなくなりますよ。小沢君!国連軍に自衛隊を送りたいんだろ?遺憾の意ぐらい言ってみたらどうだい。国連をないがしろにするような行為は許さないだとかさぁ。それともガツンと言えるのは国内だけかぁ?情けねえな。 12月17日やっと夜中に戻って来ることができました。しかし東京は暑いですね、正確には電車の中がですけど。夜の十時にもかかわらず小田急線は満員電車なんですよね。ダウンジャケットを脱ぐタイミングを逸して汗だくになってしまいました。でも周りの人は平然とコートにマフラー巻いています(笑)。不思議な感覚だ。今回は、先週久しぶりにトッド・ラングレン(Todd Rundgren)の『ア・カペラ』(A Cappella)を聴いていたら、その中に『噂の真相』の投稿欄「読者の場」で活躍している勇ましい方々が喜びそうな歌詞があるのを思い出しましたので、それをまず紹介します(笑)。 |
JOHNEE JINGO
He was just fifteen, he was a new trainee
Johnee Jingo
He had lost the battle but won the war
Johnee Jingo
To the man who owns the land
And the throne, the pulpit, and the politician Song by Todd Rundgren
| ジョニー・ジンゴ
まだ15歳で、新兵となった
愛国者ジョニー
戦闘には負けたが、戦争には勝った
愛国者ジョニー
国を治める者にとって
王様、僧侶、政治家が集まり 訳:渡辺 淳 |
小林よしのりにも聴かせてやりたい、ってか(爆笑!)。 そうねえ、実際に小林よしのりの『戦争論』を読んで“愛国者ジョニー”になっちゃう馬鹿な若者がいたらおもしろいですけどねえ。それでその気になって自衛隊に入隊して、よせばいいのにPKO部隊に志願して、挙げ句の果てにゴラン高原あたりで誤って地雷踏んじゃって、とどのつまりは片手片足のオリンピック聖火ランナーになる、ついでにパラリンピックにも出場して金メダルを獲得しちゃう、よしりんありがとう!あなたのおかげで世間が羨む立派なヒーローになれました、なんていうオチがつきますかね(笑)。ちょっとむごい話かな? まあ勇ましいこと言ってカリスマ的存在になっても、ついてくるのが馬鹿ばかりじゃあねえ、ちょっとカッコ悪いよね(笑)。ま、こういう存在を「俗物」っていうのでしょうかね。ちょっとニュアンスが違うかな? ヘルマン・ブロッホは俗物についてこんなことを述べています。
リアリズムの思想に特有なのは、それが、カントの哲学的精神とは反対に、現象や概念をカバーできると思い違いしていることである。リアリズムとは、保存する精神的傾向のことである。リアリズムは、本質において、各世代の記憶を意味し、人種の存在と維持をめぐる戦いの能力の記憶を意味し、そしてこれでもってリアリズムは、現存するすべてのもの、つまり個々人や民族の同情、人種的憎悪、さまざまな本能をつくり出し、社会の流儀や生活、制度や階層をつくり出した。リアリズムにとって社会は、戦争や技術の進歩、あらゆる人間的、外的事象と同様に、等しく必要なものであり、等しく重要なものである。リアリズムは、固定観念の自動販売機であり、純粋に機械的法則に従って動くのである。これらの法則にもリアリズムの必要性がある。これらの法則の重要性と信頼性の度合いをカントは十分に伝えていた。なんだかカントの哲学を引き合いに出しているところがまるで柄谷行人みたいですけど(笑)、ここでおもしろいのは、俗物はいつも字句にこだわる、という見解でしょう。そういえば、本多勝一はかつてアメリカ合衆国ではなくアメリカ合州国なんだと盛んに主張してましたね。これこそ概念と言葉の一致でしょう(笑)。はたして本多は啓蒙された俗物とされていない俗物のどちらなんでしょうか。それからそうそう、世の中には外国語の発音とカタカナの綴り方の一致を求める人もいるよね。ハロウィンじゃなくてハロウィーンだとか(爆笑)、ウォーターじゃなくてワタのほうがより本来の発音に近いそうで。人名で言うと、ルーズベルトはローズベルトになってリンカーンはリンカンになるそうですね。自分もかつて本多勝一の影響で、レニー・クラビッツをレニー・クラヴィッツと書くのはまだまだ不徹底で、レニー・クラヰ゛ッツと書くのが正しいと思ってました(爆)。あ〜、眠たくて変な方向へ脱線しちゃいましたね〜。 12月9日はっはっはっ!FreeBSD版のNetscape Communicator4.5をまともにインストールするのに1ヵ月もかかってしまいました(なんだかな〜)。一週間に一度この場所へ帰ってくる度に“FreeBSDインストール・アドベンチャー・ゲーム”に突入していました(笑)。そうなんです、ネットスケープ社のここにはないんですが、ftp://ftp.netscape.com上を探したらちゃんとFreeBSD版のversion4.5はあったんです。以前、ねーじゃんかよ、と文句を垂れてしまって申し訳ありませんでした(誰に謝っているんだ?)。どうやら、サポートはしないけど一応FreeBSD版も作ったよ、てな具合みたいですね。しかし最初ftpで2時間弱もかかってやっとファイルをgetしたのに、tarで展開してからns-installが実行できなかったときは疲れがどっと出ました(なんで?)。途方に暮れましたよ、しばらく焦点の定まらない眼差しで窓の外をボーと見ていたようです(おいおい、話を作ってないかぁ?)。それから一週間たって気を取り直して、READMEに従ってgzipコマンドで各ファイルを手動で復元していったんですが、どうも一応起動はするんですがエラーメッセージが出まくり状態なんですよね。何か、ディレクトリがない、みたいなメッセージらしいんですが、英語アレルギーの私の脳みそが拒絶反応を起こしているらしく、まるでやる気が起きなくて次の週はFreeBSDを起動すらしませんでした。そして今日(この時点では12月8日)、FreeBSDの公式ページの中のftp://ftp.freebsd.org上でうろうろしてたら、FreeBSD3.0リリースの中のパッケージの中にja-netscape-fonts-1.0.tgzを見つけ、おおっ!これはもしや日本語化キットでは!?と勝手な期待で胸ときめいて(英語バージョン(一般には今のところこれしかないようだ)だとブラウザの中のボタン上の日本語が文字化けしちゃう)、さらにその下にja-netscape-navigator-4.07.tgzを発見するに至り、やったぁ!ここはひとつこの二つパッケージをとりあえずgetしておいて、そして、この際だから4.5はあきらめてCommunicatorもファイルのサイズが大きいからやめてNavigator4.07をgetしよう、と成り行きまかせに方向転換することで俄然やる気が出てきちゃいました。そしてCommunicator4.5はgetしたソースファイルだけ残してあとは全部削除しておいて、ここで、自分のFreeBSDとはバージョンが違うけど、ま、大丈夫でしょう、と勝手に決めつけて、3.0リリースのports.tar.gzをgetして、自分の古い2.2.2リリースのportsをディレクトリごと削除して空いた場所に3.0リリースのportsを展開しました(こんなやりかたでいいのかぁ(笑)?)。そしてネットにつないだまま、portsの中にソースファイルを格納するディレクトリdistfilesを作ってから、すでにportsの中に存在するディレクトリnetscape4-navigator上でmakeすれば、ほぉ〜ら、勝手にftpでNavigator4.07を探し出してgetしてくれたぜ(以前のportsだとnetscape4のディレクトリしかない(CommunicatorとNavigatorで分かれていない、しかもバージョンが古い)からCommunicator4.04ベータを取ってこようとしてしまう)、1時間以上もかけて(笑)。やったあ、さっそくmake installだぁ〜!インストール完了! この時点ですでに有頂天になっていて、先に取ってあった日本語化キットらしき二つのパッケージもインストしたところ、何やらエラーが出たような気もしましたが、無視してさっそくNavigator4.07を起動しようとしてはたと気づきました、どこのディレクトリにインストされたのかわからない〜(笑)。以前の4.05と同じ場所にはない!冷や汗かきながら探し回ってやっと見つけてX11R6/bin内にリンクを作って、さあ今度こそ起動だぁ!起動したぁ!おおっ!ウインドウの題名がNetscape:Version4.07[ja]になってるぅ!日本語Navigatorだぁ!と喜んだも束の間、なんか変だぞ、やけにすっきりしてないかぁ?そういえば操作する項目やボタンに日本語が見当たらない、それどころじゃない、英語もほとんど見当たらない!のっぺらぼうだ〜ぁあぁあぁあぁ(爆笑)。これじゃ使い物にならないじゃんかよ〜!またもや頭の中は真っ白、放心状態になりました(嘘)。 こうなったら意地でもまともな奴をインストしてやるぜ!とむきになって、削除せずにとってあったCommunicator4.5のソースファイルをports内のdistfiles上にコピーして今度はnetscape45-communicator上でmake installだぁ(やけくそ)!うぅ、インスト完了!今度はちゃんとインストされてあるディレクトリを確認して、よし起動だぁ!あれ?また4.07が起動しちゃった!?なんで?どうしてなの?しばし考える.....(10分経過)。あっ!configファイルのnetscapeが4.07のままじゃねーかよっ!なにやってんだ〜、どうすりゃいいんだ.....(30分経過)。ま、ここはひとつviでファイルを編集ですか〜ぁ(muleをまともに使ったことがない私)、疲れるなあ〜おい。とりあえず4.07の設定を参考にしながら何度も間違えながらもファイルを編集して、エラーメッセージが出る度に胃が痛くなりながらも、やっとのことでエラーなしでなんとかCommunicator4.5の起動にこぎつけました。なんだかな〜、ブラウザひとつインストするのにもこの騒ぎだもんな〜。何なんですかね〜。やはり馬鹿ですか〜。単なる電話代と電気代の浪費かな。こんなしょーもないことで貴重な時間をつぶして、これが一体何のたしになるのだ、この経験が将来何かの役に立つとでもいうのか?なんだかいつも自分は物凄い遠回りしている感じがします(笑)。こうやって遠回りしているうちに年老いていって、そのうちいつか回り道の途中で死んじゃうような気がします(爆笑)。 唐突に関係ない話ですが、ウインドウマネージャのfvwm95のFvwm Pagerって作業領域が24区画もあるんですが、ようするにデスクトップが24面あるみたいなんですが、これって一体何に使うのか疑問を感じました。世の中にはこれほど多くのデスクトップをいっぺんに使う仕事というものが存在するんですかね。
来週はたぶん更新するにしても1日おくれになるでしょう。どうなることやら。 12月2日以前この場で二度ほど偉そうに本多勝一を批判してしまいましたが(1998年8月19日と9月16日の回(彼の声8))、ふりかえってみて、どうも中途半端で不徹底な軟弱者の私自身が、徹底した実証主義者と思われる本多勝一を、あのようにいい加減に批判しては倫理的にマズイような気がしてきたので、今回は私ではなく(私では役不足か?)、ブロッホによるルポルタージュ徹底批判を紹介します。
どの価値体系も、すでに述べたように、悪を嫌忌しながら発展している、いわば、絶えざる浄化過程にあるわけです。その通りだとすると、長編小説の世界像には、キッチュとは正反対のものを望む傾向がなければなりません。その傾向は確かにあります。文学を、「美しい」ロマン的な欲求充足の領域から、赤裸々な純然たる、科学的なとも言いたいほどの事実集録へと引き戻そうと試みているのは、単に倫理的文学の傾向ばかりではありません。このことはルポルタージュもまた意図していることです。同じことが絵画ですでに経験されているのは記憶に新しいことです。それは、戸外派や印象派の人たちがドラクロアのロマン主義を光学という科学的手段によって克服したと信じたあの頃のことです。文学の自然主義もまたこの頃に起っています。ルポルタージュの肥大した自然主義は単にこのような発展の論理的な帰結として生じたにすぎないように思われます。というのも、ルポルタージュの芸術的意図とは次のようなものだからです。粉飾なく現実を把握しなければならない、寓話的文学のロマン的な改作とは決定的に絶縁しなければならない、科学におけると同様、対象を最大限捉えるわけだが、その際主観によって惹き起こされる狂いの根源をすべて断ち切らねばならない、個々の科学者は研究のなかで姿を消し、顕微鏡の前に誰が坐っていようとそれはまったくどうでもよいことだが、それとまったく同じように作家は取り除かれなければならない、つまりその対象そのもの、リアルな事実そのものが語るべきであって、さもなければまったく無価値である、というものです。たとえば、沢木耕太郎のノンフィクションや司馬遼太郎の『街道をゆく』などのルポルタージュについては、「つまり、ルポルタージュの世界は、低劣な読み物でよく見かける無敵の勝利とやらで満ち満ちた騒々しい、英雄の世界であり、ある時は喧騒の大都市の街路で、ある時は大草原で、またある時は証券取引所で活躍するギャング団や海賊の世界であって、技術的なアメリカとか、超技術的なロシアとか、国々がまるごと英雄的なものに祭り上げられたりしています。要するにここには選択の原則が働いているのですが、客観性が熱望されているにもかかわらず、名状しがたい虚偽の印が含まれているのです。」の部分で述べられているものとそう変わらないレベルでしょう。また、しばらく前に話題となった村上春樹の地下鉄サリン事件の被害者を題材としたインタビュー本については、「この危険からルポルタージュが実際に逃れ出る唯一の方法はおそらく、伝記的なものや現実のセンセーショナルな事件へと完全に向かってしまうことなのでしょう。つまり、一回限りの異常な人間生活や一回限りの大事件を描写の中心にもってくると、作者は事実選択から生じるさまざまな困難をほとんど避けることができますし、事実は事実そのものの法則に従って与えられた中心の周りに並びますので、虚偽や低俗化といった脅威的な危険がほぼ取り除かれることになるからです。」の実践と見なしておけば事足りるでしょう。
それでは、本多勝一の場合はどうなのか。「もっとも極端に徹底したルポルタージュには現実と現実語彙の姿を借りた独断論が現われてくるのです。それは肥大した自然主義の独断論であり、つまりは一種の写真家の自然主義、もっと正しく言えば写真のモンタージュになってしまうのです。」ということなのか。それとも全盛時の本多のルポルタージュは、このようなブロッホの批判をクリアするぐらいのハイ・レベルだったのだろうか。私に言えることは、少なくとも本多の著作にはある政治的な意図があったというところでしょうか。それはこれまで無視されてきた虐殺された側や先住民・少数民族の権利を声高に訴えることだったように思われます。つまり、全盛時の本多のルポルタージュとは、ブロッホのいうような文学の問題ではなく、それはそれでひとつの政治活動だったんじゃないですかね。しかし政治と文学を分けて考えるのはちょっと無理があるかな? |