彼の声10

1999年

1月26日

明るい部屋の中で風の音を聴いてみよう。
暗く垂れこめた曇り空から何が舞い下りるというのか。
雪?期待外れ。雨。
目に映る光の影。陰影を帯びた風景。
あてどないささやき。感性の衰え。短く途切れる句読点。

真夜中から鳴り響く吃音の種類を列挙してみる。
机の引き出しにはボールペンが数本。
翼の羽ばたき。何を連想するというのか。何かが動く。
心移ろう様子。言葉の迷い道でしかない。何かを擁護したいのか。

未来から遠ざかることによって過去に思いを馳せ、
過去からの逃避がいつわりの未来を引き寄せる。
では現在とは?それが問題なのか。べつに問題ではない。
いつわりの問題。問題こそがいつわり。予定調和。言い逃れの説明。

こんなことを語っている。暗い未来。それがお望みの未来。悲観論の多用。
では楽観論がお望み?安易な切り替え。
後戻りできない。先へ進むだけ。進んだ先は何?死。死ぬことだけ。

貧しい連想ゲーム。二項対立で続けようとする。

青空を見上げよう。今は夜なのに。暗い空。星も見えない。
今は部屋の中。嘘なのか。想像してみる。嘘を。
蛍光燈の明かりから青空を思い浮かべてみる。
七色の光のスペクトル。プリズムのリズム。光のリズムを聴いてみよう。
可視光だけではない。紫外線も赤外線も感じ取ろう。

単調なリズムさ。まるでワルツだ。男と女がくるくる回り続けるんだ。
回れ回れ。誰かが叫ぶだろう。うそっぱちさ!
カラクリ人形だよ。ゼンマイ仕掛けの。
ねじが切れればそこで止まる。誰かが巻かなけりゃ永遠に止まったままだ。
それも二項対立。止まっているか動いているかのどちらかしかない。
二者択一の世界。

それも嘘なのか。では第三の状態があるというのか?ある。それも嘘なのか。
嘘ではない。嘘である。これも嘘。そんなものあるわけない。

雨。時計。冷気。隙間から入りこんでくる。
夜。闇の世界。暗闇。それだけ。

光あれ。それが造物主の言葉。はじまり。世界のはじまり。
最初の言葉?君は聞いたことがあるのか?
風の音。光の声。
神話の世界。神々の声。
呪いの雄たけび。狂気の源。

ユーザーズマニュアル。それが文明の曙。
そんなものを擁護してみる。

資本主義。
快適な世界。快適な狂気。快適な精神。

ファンヒーターから吹き出す暖気。

誰かに見られている。見知らぬまなざしに恐怖する。
戦慄する。背中からの視線。そんな狂気。こんなに狂喜する。

それくらいのこと。知らない。

省略法。

批判序説の大流行。批判ではない。序説でしかない。安易だ。
では宣言なのか。批判宣言。これも批判ではない。宣言でしかない。
では批判できないのか。できる。具体的に?抽象的に。安易だ。

乏しいリアリティ。
そんなとこから出発しなければいけないのか。
なぜ?なぜなんだ。なぜモノローグなんだ。

私は愛から始める。
ジャック・デリダは愛から始めるそうだ。
私は愛ではない。ごまかしだ。
これが。説明できない。力不足だ。弱気だ。
なぜだ。それだけ。

自分のこと。

方法。戦略。戦術。方法論。孫子。兵法。
そんな連想。光景。光の景色。
光を感じる。暗闇から。洞窟の底から。地底の湖。

君はキャロル・キングの「TAPESTRY」を聴いたことがあるか。
人は誰でも饒舌になれるというのか。
そんなことはない。否定。
モノローグの世界では多用される。
「そんなことはない」が多用される。

静寂。歌声。静寂。歌声。静寂。

時にはヘルダーリンの声を聞く。
苦悩の極限。戯れ言。エムペドクレス。神々との合一。
そんな霊感のついて語れるのか。わからない。
罪なき人々の群れ。
私には不可能。不可能な夢。不可能な解決法。
そんなことばかり。
それを知りながら、なおもそれを追い求める。
ロマン主義。分裂する精神。深刻ぶるための言葉の数々。

関係ない。関係のない夢。関係のない解決法。
そんなことばかり。それが答え。意味のない答え。
意味のわからない文章。意味のない文章。
意味のない言葉の群れ。意味のない人々。
運命の翼。魂のゆくえ。
すべてが想像物。戯れ事。後退。
抽象への後退。具体性からの逃避。

そんな文章。

探究。何を?歴史の終り?安易じゃないか。
遠く離れる。君から。私から。カレンダー。どこから。
始まりの言葉を求める。始源への探究。それで?
カレンダーの始まりを想像する。それが始源。
陥没している。何が?何かが。

雰囲気だけの言葉の群れ。気晴らしの世界。
困ったときの神頼み。
ボディーブローの連続から不意にアッパーカット。
マンガの世界。
ダウンの繰り返しから不死鳥のごとくよみがえる。
起死回生の必殺パンチ。
それがマンガの世界。それで満足する人々。そういう世界。
男のロマンは単純なのか。
パンチドランカーのタツヨシ。心までパンチドランカー。
酔っ払い。砕ける。砕け散る。砕け散れ!脳みそ。
心臓の恐怖。脳みそではないそうだ。砕け散る心臓。心筋梗塞。

雄たけび。勝利の雄たけび。馬鹿げている。ヒステリー。
集団ヒステリー。創価学会。イスラム原理主義。
反発。バネ。それが集団ヒステリー。

JB!ゲロッパ、ゲロゲロ。ファンク。
ファンカデリック。ゲロッパ、ゲロゲロ。
それがファンク?
ザップ。

古い音楽。そういう定義。数学的帰結。バロック。
暗い部屋からの夜明け。
燃える朝焼け。イエス。キリストではない。
朝日のあたる部屋。朝日新聞ではない。
説教師。マージナル。マグレーヴ。ワールド。
砂漠の静寂。
ペルシアン・ブルーの絨毯に座し、
無伴奏チェロ組曲第6番ニ長調(BWV1012)のプレリュードを聴く。
演奏者はミッシャ・マイスキー。
くだらぬイメージ。しかし驚異の演奏。
ホルガー・シューカイ。
感動する。
それがくだらぬイメージ。嘘。映画。
ナルシシズム。おのれに対する?冗談じゃない。
1985年、グラモフォンの奇跡。
バッハ生誕300年。


1月20日

 いや〜、去年の暮れに低速シリアルポート(19,200bps)からお別れしようと、イーサネットカード(LANボード)とIPルータ(HUB+ルータ+高速シリアル)を買ったんですが(だからよ〜、そんなもん買う金があったらパソコン本体を買えよ、パソコン一台しかねえのにLANなんかするなよバカァ〜)、案の定Win95ではつながるのですが(詳細な解説書とWin専用ソフトが入ったフロッピー付きだからつながって当たり前ですけど)、FreeBSD(98)ではつながりません(笑)。FreeBSDのネットワーク本を2冊も買ってあれやこれやいろいろ設定を変えて試してみたんですが、どうしてもルータの先につけたモデムまで到達できません(もしかしてFreeBSDはルータの先についている高速シリアルポート(460.8Kbps)には未対応なのかなぁ?)。それで結局先週RS−232C切替器を買って、ひとまずFreeBSDはこれまで通りPC本体についてる低速シリアルポートを利用することにしました(Win95ではイーサネットと低速シリアルの両方使えるのにぃ〜)。やはり私の実力ではハッカーの域にはまだまだ程遠いですね。畜生!このままでは絶対終わらないぞ!Revengeだ!こうなったらいつかきっとDOS/V機買ってFreeBSDでクライアント‐サーバごっこしてやる!…はぁ〜そうですか〜、でも、いつのことになるのやらですね(笑)。口先ばかりでぜんぜんPC買いませんね〜。

 オオカミ少年どぇーす!!

 話は変わって、昨日ここに帰ってくる途中、電車の中吊り広告をぼんやり見てたんですけど、週刊誌(週間ポスト、週間読売、アエラ)って相変わらず“北朝鮮脅威論”で商売しているんですね。なんだかよっぽど期待しているみたいですね、開戦の事態を。大袈裟な言葉で煽りまくりですよ(笑)。金正日同志よ!期待されてますぜ!注目の的じゃないですか!どうですか、ノドンだかテポドンだかハルマゲドンだか知らないけれど、ここらでいっちょ日本国民の期待に応えてミサイルを一二発日本の国土に打ち込んでみてはいかがでしょうか。ま、狙い目は原発あたりですか。それとも皇居かな(右翼が恐いぞ)。そして首尾よく大願成就した暁には、日本国内に広がるであろう蜂の巣を突ついたような大騒ぎを眺めながらいっしょに笑い転げましょう。きっとこの間のミサイル(ロケット)発射のときも笑い転げてたんでしょう。大丈夫です、アメリカの報復空爆なんかたいしたことないです。イラクのフセイン同志で実証済みでしょ。でもやっぱ、さすがに派手なドンパチやっちゃったあとは一応ちゃんとした謝罪しなくちゃね。それが分別をわきまえた“じぇんとるめん”のエチケットってもんさ。なんならボクちゃんが言い訳の文言を用意しておきましょうか。こんなのはどうですか、「すいましぇ〜ん、ロケット発射したんですが推進力不足で途中で落ちちゃいました〜、それでぇ〜、あの〜、お騒がせのところ大変恐縮なんですが、かなり虫のいい話で心苦しいのですが、本当に申し上げにくいことなんですが、もしよかったら、今度からは途中でおっこちないように日本の技術協力をお願いしたいんですが…」なんてね。

 でもさ〜、ちょっと変じゃないかい。北朝鮮と真に対峙しているのは韓国でしょ。そしてそれぞれのバックには中国とアメリカがついているわけだよね〜。そうだよ、建前上は今まさにこの4カ国で戦争にならないように真剣に話し合おうとしているところなのに、何でそこに横からアーパーな日本がしゃしゃり出てくるのかな〜。ただでさえ頭がパーな政治家や官僚ぞろいなんだから、あんまりアメリカの応援団みたいにして余計な口挟まないほうがいいんじゃないの。まるで日本が険悪なムードを煽って火に油を注いでいるみたいじゃないか(金正日の思うつぼ)。ちょっと身のほど知らずだよ。日本なんて単なるアメリカ軍の駐車場に過ぎないんだからさ。しかも普通の駐車場なら駐車料金を徴収するのに、逆に金払ってとめてもらって、さらにそれをありがたがっているんだからホントにおめでたいよ。そんな常識はずれの世間知らずが偉そうなこと言えないよな。まあ、よその国からは日本も韓国も北朝鮮も幼稚なガキの集まりと見られていることは確かだけどね。アメリカや中国が保護者として見張っていなけりゃ、たちまちケンカやり始めちゃうと見下されているんだよ。


1月13日

 今までタグの使い方が煩雑でいい加減だったので、HTMLファイルの中身がかなり複雑怪奇になってしまい、更新する際の煩わしさが日増しに増大してきたので、ついに先週、自己流を改めるべく参考書(『HTMLタグ辞典』アンク著、翔泳社)を買い求めて、それを参照しながら各ページを全面改訂してみました。その結果、ファイルの中身も見た目も以前よりはかなりすっきりしたのですが、反面、TABLEタグを広範囲に使ってしまったのが原因で、ブラウザの表示スピードが遅くなってしまいました。まったく、あっち立てればこっち立たずでなかなかうまくいかないものですね(笑)。

 で、今回は久しぶりにジジェクの文章を取り上げてみたいと思います。

 ようするに、二つの性の差異は、一連の象徴的対立(男性的理性対女性的感情、男性的能動性対女性的受動性、等々)から直接的に生じてくるのではない。性別は、唯一の普遍的象徴的特徴(究極的には「去勢」という特徴)を身にまとうときに必然的に生みだされる矛盾〔非一貫性〕をどう処理するか、その処理の仕方の違いから生じてくるのである。女性が感情に支配されているのに対して男性はロゴスを代表する、というのではない。男性にとって、すべての現実(リアリティ)を生み出す無矛盾的で首尾一貫した普遍的原理としてのロゴスは、神秘的で語り得ぬX(「語ってはならないものがある」)という構成的例外によって支えられている。これに対して、女性の場合は、例外は存在せず、「一切のものについて語ることができる」のだが、まさしくそれゆえに、ロゴスの宇宙は矛盾した、一貫性のない、離散的な「すべてではない」“non-all”になるのである。あるいは、象徴的な肩書きで自分を代表させることに関して、男性は自分の肩書きに無限に同一化し、そのために一切のものを危うくしてしまう(大義のために死ぬ)傾向にあるわけだが、それでもやはり、次のような神話に支えられている。それは、自分は肩書きだけではない、肩書きという「社会的仮面」を被ってはいるが、その仮面の下には「本当の自分」といったようなものが息づいている、という神話である。これとは逆に、女性の場合は、確固たる信念に基づく無条件の献身というものは存在せず、究極的には一切は仮面なのだが、まさしくそれゆえに、「仮面の背後」には何もない、ということになるのだ。愛に関しても同じことが言える。恋する男性は一切を愛のために捧げようとし、その恋人は絶対的で条件づけられない対象にまで高められるが、まさしくそれゆえに、男性は公的もしくは職業上の大義のために恋人を犠牲にすることを強いられる。一方〔恋する〕女性は、制限や留保なしに愛に溺れるので、女性のなかで、愛に浸透されていないような次元は存在しない―だが、まさしくそれゆえに、女性にとって、「愛はすべてではない」、愛は不気味で根源的な無関心に永遠に付きまとわれることになるのである。

スラヴォイ・ジジェク「四つの言説・四つの主体」より
鈴木英明 訳(『批評空間』II-20)

 どうもこれを読む限り、男女間の性的差異とは社会の制度から生じるもののようです。例えば太平洋戦争末期の特攻隊秘話などは、まさに戦争という社会制度によって男性が男としての役割を、女性が女としての役割を強制的に演じさせられた極端な例として挙げることができるでしょうね。何しろこれから大義のために死にに行くのに、無責任にも愛しの彼女と愛の契りを交わしちゃうわけで(笑)、しかし、彼の愛の犠牲となって残された彼女は、戦争未亡人として不幸な人生を送らなけりゃならない予定にはなっているわけですが、ところがどっこい、彼がすべての愛を捧げていた彼女にとっては、彼への「愛はすべてではない」わけですね。さっさと他の男性と再婚しちゃうわけです(笑)。ようするにこんなものを“戦争の悲劇”として後世に語り継ぐなんてチャンチャラおかしいということですか(ひ、ひどい結論だ…)。

 ともかく、確かに無矛盾で首尾一貫した普遍的原理を語ろうとすれば、当然語り得ぬ矛盾を隠蔽しながら語らなけりゃならないし、反対に一切を語ろうとするなら論理的一貫性を欠いた離散的なものとならざるを得ませんね。それを考慮しないでただ一方的に

男はXYである、そして、女はXXである。

という言説でXYあるいはXXに社会に流通している支配的偏見を当てはめて何かを言った気になっちゃあいけないということですかね。確か論理学などでは、対偶が真でないとその命題は偽ということになるんでしょ。その言説の対偶とは

男はXXではない、または、女はXYではない。

となりますかね。まあ遺伝学的にはそれは真であっても、染色体がXXであっても心は男であったり、逆にXYでも心は女であったりする人も実際にいるわけですから、身体的な機能や特徴は確かにはっきりしてはいますが、その身体的機能や特徴から生ずる性行為などでも男女の違いはあるんでしょうが、それを社会的な役割にまで敷衍することはできないんじゃないでしょうか。例えば先週批判した女性作家なども、「本当の自分」を探し求めているということは、主婦という、あるいは小説家という「社会的仮面」を被っている証拠ですし、それは仮面の下に本当の自分を温存しておくというきわめて男性的な思考形態だといえるでしょう。つまり、男性的性質とは職業(主婦もひとつの職業)を持つという社会制度から生ずるものなのだと思います。反対に男でもいわゆる“遊び人”なんかは極めて女性的なんじゃないでしょうか。


1月5日

 今、男社会に対して違和感があるんだそうです。それで自分探しの旅ですか。また、未来に対して漠然とした不安感を抱いているらしいです。なんだかどこかで聞いたふうな紋切型の今日的言説というやつですね。しかし、今世間から注目されている女性作家はそんなものを糧にして小説を書いているんだそうです。昨晩(1月4日)、たまたまチャンネルを合わせたNHKクローズアップ現代でやっていた女性作家4人のインタビューを見ていて、そういう、つまらない、当たり障りのない、他人事の、破綻のない受け答えを聞いていて、つくづく、アンタらの小説なんか読みたかねーよ、と思ってしまいました。

 司会進行役の国谷さんも含めて、なんで彼女達はそろいもそろって“真面目な優等生”なのでしょうか。なぜ、世間に流通しているどうでもいいような今日的諸問題ってやつと真剣に向かい合い、一生懸命に格闘し、律義に答えを探し出そうとがんばっちゃうのでしょうか。なんでそんなふうにして世間の期待通りに振る舞おうとするのか。それがいまどきの流行作家の条件なのか。ようするに彼女達に欠けているのは、自分自身をも凌駕し打ち砕くような、強烈な、そして荒唐無稽な、想像を絶する誇大妄想だと思いました。もちろんそんなものは自身を不幸に導くだけですが、そのような不幸と向き合い、妄想から生じる実現不可能な要請と共存することで、初めてその人独自のユーモアが生み出されるのではないでしょうか(これが私の妄想)。番組を見た限り、彼女達にはユーモアを交えた会話がひとつもありませんでした。何事に対してもただ一様に真剣なのです。彼女達にあるのは、ただの生真面目さ、ものごとに対する真剣なまなざし、そんな類のいわゆる“お勉強的態度”です。世間に存在すると想定される“一般大衆”のみなさんは、そのような“お勉強の成果”としての小説をありがたがって読んじゃうわけですか。私はそんなもの絶対に読みたくはありませんよ。

 それから昨夜は久しぶりにニュースステーションも見たんですが、なんとミスター・ビーンが司会進行役をやっていて、青木功に向かって何かわけのわからんことを口走っていましたね。何やら体がでかいことや手が大きいことなどをさかんに絶賛しているみたいで、私には彼が何を言おうとしているのかさっぱりわかりませんでした。またニュース23も30秒ほど見たんですが、パリから口の曲がった白髪の老人がろれつの回らない口調で何かうわごとのみたいなことをつぶやいているようでした。すごいですね、しばらく見ないうちに日本を代表する二大ニュースショーも、世紀末にふさわしく末期的状況になってきましたね(笑)。

 話は変わって、いや〜、今回の『批評空間』II−20は読めないですね。宇野弘蔵特集で躓いて、まだ半分もいってません。特に長原豊の「<資本の論理学>の歴史記述 宇野弘蔵における論理と歴史」は私の脳みその情報処理能力を超えているようで、無理矢理読むには読みましたが、内容はほとんど理解出来ていません(笑)。そんな中でもおもしろいものがいくつかあったので一つ紹介しておきます。

 題して、ドイツ人も中村正三郎状態(大爆笑!)。

コンピュータ・ネットワークのパルチザン的抵抗

大宮 そこで最後にお聞きしたいのは、やはり戦争あるいは闘争という主題に関わることです。例えばマイクロソフトのような企業が、いわば一種の帝国を築いており、そこでは国際法も含めた公法的秩序とは別の論理が働いている。つまりシュミット経由ホッブス的な言い方をすれば、リヴァイアサン同士が公敵として相見えるという「政治的なもの」の空間が切り開かれることがない、こういうことになります。すると、ありうべき戦争のモデルとしてはパルチザン戦ないし内戦ということになりはしないでしょうか。ただし、そうであるならば帝国プログラマーとハッカーたちとの間で起こりうる、あるいはすでに起こっている有事は、ナポレオン軍への抵抗運動に発端する枠組みの中にあるわけで、それほど新しいものではないことになりませんか。けれども、邪推かもしれませんが、あなたはこうしたパルチザン戦モデルによる抵抗を想定しているように見える。そしてこのような独占あるいは帝国を、いかにしてか相対化し、開放的なものとする希望を抱いているように見えます。あるいはさらに、支配者の刎頸を狙っていると言いますか......(笑)

キットラー 私はあなたの分析に全く同意します。コンピューターに向かい座しつつアメリカの交通システムを麻痺させてしまう、という個々の孤独なハッカーに関するペンタゴンの記述は、危機の誇張された記述であると、ないしは危機のメタファーであると私は考えます。言うなればペンタゴンは、危機がむしろ自国内にある民間企業たるソフトウェア帝国に発するのだと、敢えて明言できずにいるのです。そうする代わりにペンタゴンは、インドのハッカーだとかプログラマーだとかをでっち上げては、彼らが危機の元凶だと言いふらしているわけです。現実の危機は巨大なソフトウェア及びハードウェア帝国であり、この帝国のグローバルな経済的利害にあっては、それが今現在当然のようにアメリカ国家と結んでいる同盟関係も、いつの日かその相手を変えてしまうことも想定しうるものとなっている。規模としてはるかに大きい中国の市場が、将来マイクロソフトにとり、アメリカの国内市場より魅力的なものとなるならば、これは大いにありうることです。そうなれば、マイクロソフトがアメリカ軍にではなく中国の人民軍に、おのれのノウハウを提供するということも生じるかもしれない。こうなると本当に開戦の事態(casus belli)が訪れる。凝固・堆積した知に立脚し、私法的原則によって築かれた帝国というものは、両大戦間における中国の軍閥やルネッサンス期イタリアの傭兵隊長のように機能するのです。彼らの帝国はその権力を金銭に依存しているのだから、金銭に対するセンスが不可欠となる。権力は売買可能となり、この事が様々な危機をかたちづくりもし、しかし同時に、まさしくパルチザン戦や情報内戦の可能性を拓きもするのです。そしてこれは単なる希望だとか青臭い激情だとかからではなく、ある一定の論理的必然性から生じる可能性です。全ての考案者たるアラン・チューリングに関するイギリスで書かれた素晴らしい伝記には、彼の言った不滅の言葉が引かれています。「ある機械がコード化したものは、別の機械が解読できる」。現存するのが二つの戦線だとか一つの戦線だとかいうわけではなく、コンピューターが多くの戦線に、すなわちネットワークを介してあらゆる国々に分散しているという状況では、この知の帝国の機密事項を保護しようとするのは極めて困難なことです。言い換えるとプロテクト・モードは、マイクロソフト自身にとっての問題に他ならないということです。そしてこれは想像上可能であるばかりではなく、喜ぶべき歴史的現実なのですが、ハッカー用のオペレーション・システムは現在、気の遠くなるような経済的成功を遂げつつあるのです。一ペニヒも一円も一銭もしない、たった一個のオペレーション・システムが既に2000万人のユーザーを獲得しており、その増加率はうなぎ登りです。LINUXが日本でどのように認められいるのかは知りませんが、これはまさしくハッカーシステムでして、あらゆるハードウェア・メーカーやグラフィックカード・メーカー、ETHERNETカード・メーカーの機密やウィンドウズの機密を、エミュレートしシュミレートすることができる限り破ってしまう。そしてそれらを皆に解放するのです。これはまた、世界規模でネットワーク化された趣味的プログラマーと、とりわけ大学の共同作業によるものなのです。というのは、LINUXのオペレーション・システムとドライバにプログラムを書いたのは、大抵どこかの大学に所属する人々だからです。彼らがこのような仕方で、この喜ぶべき抵抗運動に目覚め、立ち上がらせているのです。そこで一緒にプログラムを書いている日本人もたくさんいますよ。ああ、けれどもこれでは些か穏やかすぎるコーダです。あなたはもっと厳しく質問してこられたのだし、私もカール・シュミット的なパルチザン戦の水準へとテンションを高めようと思っていたのでした。シュミットが『臣民への檄』(プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世が「王の名において」対仏ゲリラ闘争を促した1813年4月の義勇軍勅命)について書いた(『パルチザンの理論』の中の)文章を覚えているでしょう。この勅命によって、農夫が手にする干し草用の熊手や堆肥用のスコップ、女たちの料理用の杓子などが、突如フランス人に対する抵抗の武器に変わったのでした。武器と情報メディアとの区別が消滅する傾向にあり、他方この情報システムは世界的規模に拡大しているという、今日の条件下では、帝国を構築するのは困難なことです。むしろハードウェア帝国のほうがソフトウェア帝国に比べればまだしも安定しており、持続性もあるだろうと私は思います。ソフトウェア帝国はあまりにたやすく複製と解読を許してしまうからです。なぜか目下資本主義における機密事項だとされているのは、新たなファブリケーションの価格、つまりより小さなトランジスタ用の新たなウェーヴァ・アプリケーションを製造するための価格が天文学的に上昇しているということです。将来そこからコンピューターが作られるべきハードウェアの価格が、今や既に10億ドルラインを超えてしまっており、徐々に1兆ドルへと近づこうとしているのです。そしてそのプロセスの最終的な価格は、殆どゼロへと下落してゆく。そしてこのことがまさにソフトウェアというもののメタファーになっているのです。

(1998.9.15)
共同インタヴュー:フリードリヒ・キットラーに聞く
メディア・システムの起源 より
聞き手・訳 石光泰夫・大宮勘一郎

 ははは、マイクロソフトへの抵抗がナポレオン軍への抵抗運動や普仏戦争時のプロイセン住民のゲリラ闘争に例えられたり、「マイクロソフトがアメリカ軍にではなく中国の人民軍に、おのれのノウハウを提供するということが生じるかもしれない」と言ってみたり、マイクロソフト自身を「両大戦間における中国の軍閥やルネッサンス期のイタリアの傭兵隊長」にみたてたり、マイクロソフトのプログラマーを「帝国プログラマー」と呼んでみたり(スターウォーズですか(笑))、その荒唐無稽な妄想とアナロジーはとどまるところを知らずですが(笑)、Linuxがハッカー用のOSであるなんていうさりげないユーモアには感動してしまいました。そうですね、Linuxは「あらゆるハードウェア・メーカーやグラフィックカード・メーカー、ETHERNETカード・メーカーの機密やウィンドウズの機密を、エミュレートしシュミレートすることができる限り破って」きて、「それらを皆に解放」してきたと言えるのでしょうね。しかし、ここで述べられている通りに事態が進んでしまうと、半世紀前には大日本帝国がナチスドイツと心中しちゃったように、今度は近い将来、日本のパソコンメーカーはマイクロソフトと心中しちゃうんでしょうか(笑)。実際にそうなったらおもしろいですけど、どうなることやらですね。


1998年

12月29日

 インターネットは危険だ!即刻何らかの規制が必要だ!ここ数日のNHKニュースが執拗にトップニュースとして報道していた、インターネットで毒物を購入しての複数自殺事件に絡めて隠喩として主張している政治的スローガンとは、ま、ざっとこんなところでしょうか。

 ただの一般人の自殺だけならNHKもこれほど執拗には繰り返し報道しないでしょう。事件に今流行のインターネットが絡んでいるから、あるいは、毒物を使用した事実に関して毒入りカレー事件との共通性があるから話題性がある、ということだけでもこんなに何日もトップ扱いで報道しないと思います。また、一昔前にアメリカで話題となった、医師が自殺用器具を発案して安楽死したい末期癌患者に死の治療を施した、という類の事件なら、これほどまでにネガティヴな取り上げ方はしていないでしょう。たぶん、命の重みとか尊厳死とかいう使い古された紋切型と戯れながら、安楽死賛成派と反対派の意見を両論併記してお茶を濁しているところでしょう。どうも私には一連の報道は、NHKによるヒステリックなインターネット攻撃と映りました。日頃から情報を独占し操作しているつもりの自分達マスコミを通さないで、一般市民同士が、直接、平然と危険な情報をやり取りして違法に毒物を売買していた事実に、国家とともに情報を管理しているつもりの自分達マスコミが無視されていたことに、ある種の恐れを抱き、結果、あのような怒りが生まれたのではないか。

 インターネットが社会に広がる以前と、ある程度の範囲に広がった現在とで何が変わったかといえば、あらゆる情報がインターネットを介してこれまでよりも比較的容易に入手できるようになったことでしょう。つまり、全体的に情報が流通するために必要なハードルが下がり(多数の人間に確実に伝わるかどうかは別にしても、マスコミを介すことなく個人が手軽に情報発信できるようになった)、その結果社会に流通する情報の量は以前より多くなり、当然、中には国家やマスコミが否定したい情報も相対的にこれまでより多く含まれるようになった。しかし問題は量的なものであると同時に質的な違いだと思われます。今や特定の団体(国家やマスコミ)に管理された情報以外の情報がネット上にあふれかえっているのです。このような状態を放置したまま事態がさらに進行すれば、これまで情報を管理することで国民を支配してきた国家や情報の商品化で利益を得てきたマスコミにとって死活問題になると恐れるのも無理はないでしょう。もちろんそれによって国家やマスコミが将来絶滅するわけではないでしょうし、大多数の人にとっては、テレビ時代の新聞やラジオのようにただ単に情報の選択肢が増えただけかもしれませんが、しかしその結果として、今まで維持してきた国家やマスコミの一般市民に対する支配力は確実に低下すると思われます。と同時に、これからも事ある度ごとにインターネットに対して国家やマスコミによるネガティヴキャンペーン攻撃が加えられることでしょう。これからも冒頭に紹介した政治的スローガンが隠喩として叫ばれ続けるわけです。彼らの願いは、自分達によって管理された情報だけが流通する社会の実現です。一般的にそういうものを称してファシズムと呼ぶのではないでしょうか。

 うっひゃー!今回は筑紫哲也の他事争論調になってしまいました(爆笑)。


12月21日

 あ〜ん、またFreeBSDが変になっちゃった。You have mail攻撃だぁ!なんだかなあ......貴重な休日なのにFreeBSDと格闘しているうちに一日が終わってしまいます。やっぱ、マスコットがで〜もん君だもんね、悪魔のいたずらということか?も〜いやっ!でもおかげで、シリアルポートが19Kしかスピードが出ないのに、56Kに設定しても大丈夫だということがわかった。速い!Win95よりもかなり速く感じる。もしかしてISDNと張り合えるか(妄想)。....馬鹿ですね、中途半端なオタク道です。


12月21日

 唐突ですが、物書きってどのような人たちのことを指すのでしょうかね。たとえば、私のページで勝手にリンクしているShow's Hot Cornerの中村正三郎氏や「おだじまん」の小田嶋隆氏などは、まぁ正真正銘の物書きなのでしょう。それから詳しくは知りませんが、Mac WEEKのBOMBちゃんなんかも同じようなカテゴリーに属する物書きでしょうね。彼らの場合は一応商売として物書きが成り立っている人たち(プロ)といえますか。一方、「がんばれ!!ゲイツ君」の外崎さんなどは「がんばれ!!ゲイツ君」上では立派な物書きですが、今のところ自分はアマチュアだという自覚があるみたいですね。ま、今やインターネットのおかげでさまざまな人たちがさまざまなレベルで物書きをやっているわけですが、今回はそのような物書きのみなさんを喜ばせ勇気づける文章を紹介します(笑)。

 詩人も物書きであり、哲学者も物書きであり、小説家もそうで、ジャーナリストもそうである。だが物書きとは何か。それは、かれらの言うことがただ言語的に、文字のみで表現できることなので、詩人、哲学者、小説家などである。物書きでありながら、詩人でも哲学者でもジャーナリストでもなく、ただまさに物書きであろうとする者は、何も言うことがないのだろうか。一般的にはもちろん何もない。

 しかし、今や五十歳の物書きになったフランツ・ブライは、いろいろなことを言わなければならない。

 たとえば、そう、世界との関係について。哲学者は世界に彼のさまざまな論拠を導入し、詩人は彼の体験を、ジャーナリストは現実の利害関係を導入する。しかし物書きは彼の率直な意見以外に何ものもない。彼がもし自分の意見に論理的根拠を与えるなら、彼は―あるいは―ひとかどの哲学者になるであろうし、もし彼が世界によって感動させられるならば、彼は―あるいは―ひとかどの詩人になるであろう。ブライはそのいずれもしない。彼は彼の意見を述べるだけである。しかしいずれにしても、意見をもつことは、意見をもたず、その真空状態を隠すために、意見の証拠か詩心をもっているかのように振る舞うよりもいいことだ。哲学と詩作の十中八九は真空状態で生きている。物書きは率直な意見で生きている。それ故たいていの場合ひどい生活をしている。

『H・ブロッホの文学空間』 ヘルマン・ブロッホ著 入野田眞右訳 北宋社
V.作家論 物書きフランツ・ブライ―五十歳の誕生日に寄せて―より
Der Schriftsteller Franz Blei, 1921
このエッセイは、1921年4月『プラーガー プレッセ』誌上に発表された。

 物書きのみなさん!率直な意見で生きてますかぁ?それ故ひどい生活しちゃってますかぁ(爆笑)?もしかして、安定した生活を得るために安易な理論武装をして、調子に乗って専門家気取りなんかになっていませんか?よもやテレビタレントなんかを目指しているんじゃないでしょうね(笑)。

 ブロッホなどは「率直な意見」が災いして、ナチスドイツのオーストリア併合時に逮捕されて、一旦は刑務所で死を覚悟したそうですが(彼はユダヤ人)、その死を覚悟した瞬間から、牢獄で後の彼の代表作となる長編小説『ウェルギリウスの死』を書き始めたのだそうです。「ウェルギリウスの死が、私自身の死のイマージュとなった」そうですが、その瞬間、運命の女神が彼に微笑みかけたのか、なんとその小説を書き終えるまで彼は生き長らえてしまうわけです。ジェームズ・ジョイスやトーマス・マンなどの助力もあって三週間で釈放され、アメリカに亡命して、そこで大作を書き終えた後、数年で彼は亡くなっています。なんだか劇的な生涯ですね。激動の時代がそういう数奇な運命を生じさせたのでしょうか。四十歳で経営していた紡績工場を突然売却して処女作『夢遊の人々』で衝撃的なデビューを果たしたそうですが、なんだかどこかのテレビ番組の伝記モノで取り上げられそうな人生ですよ(笑)。

 しかし今や率直な意見なんかいくら述べても何も起らない時代になりました。いのちがけでなくとも、いくらでも率直な意見を述べることができます。それだけ「率直な意見」そのものが危険でなくなってきたのでしょうし、大した影響力も持たなくなったといえるでしょう。それは別に一般市民の意見だけがそうなのではありません。有名人や政治家の意見だってなおのこと社会に対する影響力はありません。皆が同じことしか言えなくなった面もあるでしょうが、もはや人の意見一言で社会が激変するというような幻想が消滅しつつあるのかも知れませんね。言霊そのものの力が低下してきているのでしょう。

 まあでも、政府首脳のみなさんは、率直な意見を述べる以前の問題として、もうちょっと思慮に富んだ発言をして欲しいものですね(笑)。ちゃんと状況判断をした上で筋の通ったことを言ってもらわないと困りますよ。米英のイラク空爆に対して、いくらアメリカの番犬を自認していようと、何も条件反射みたいに速攻で支持を表明することないでしょう(笑)。一応政治家も人間のはしくれなんだから、ちゃんと大脳を経由してからものを言いましょうね。ついこの間までは「国連中心主義」なんていう高尚な理念を振りかざしていたのに、国連安保理の合意を経ない米英の行動をなんで支持しているの?アメリカのやることなら何でも賛成なのかい。なんだかご都合主義で「国連中心主義」を掲げていたのがばればれじゃないですか(笑)。こんなことじゃ国際的信用がますますなくなりますよ。小沢君!国連軍に自衛隊を送りたいんだろ?遺憾の意ぐらい言ってみたらどうだい。国連をないがしろにするような行為は許さないだとかさぁ。それともガツンと言えるのは国内だけかぁ?情けねえな。


12月17日

 やっと夜中に戻って来ることができました。しかし東京は暑いですね、正確には電車の中がですけど。夜の十時にもかかわらず小田急線は満員電車なんですよね。ダウンジャケットを脱ぐタイミングを逸して汗だくになってしまいました。でも周りの人は平然とコートにマフラー巻いています(笑)。不思議な感覚だ。

 今回は、先週久しぶりにトッド・ラングレン(Todd Rundgren)の『ア・カペラ』(A Cappella)を聴いていたら、その中に『噂の真相』の投稿欄「読者の場」で活躍している勇ましい方々が喜びそうな歌詞があるのを思い出しましたので、それをまず紹介します(笑)。

JOHNEE JINGO

He was just fifteen, he was a new trainee
He lied about it for the opportunity
To defend the border his life was sworn
Though not a generation was native born

Johnee Jingo
Johnee Jingo

He had lost the battle but won the war
When the generals said he couldn't fight no more
He was proud and bitter at what he'd done
So he passed it off to his favorite son

Johnee Jingo
Johnee Jingo
Jingo don't you fight for me
Jingo don't you speak for me

To the man who owns the land
We're all the same
But when his grip begins to slip
Then he'll be calling out your name
Johnee Jingo

And the throne, the pulpit, and the politician
Create a thirst for power in the common man
It's a taste for blood passed off as bravery
Or just patriotism hiding bigotry

Song by Todd Rundgren

ジョニー・ジンゴ

まだ15歳で、新兵となった
年をいつわり志願したんだ
住む人もいない国境を
命をかけて守りたいと

愛国者ジョニー
愛国者ジョニー

戦闘には負けたが、戦争には勝った
もう戦えるからだではないと言われ
これまでの人生を誇りに思い
もう戦えないことを、寂しく思う
こうして、お気に入りの息子に
自分の後を継がせるのだ

愛国者ジョニー
愛国者ジョニー
もう戦いはたくさんだ
手柄話はたくさんだよ

国を治める者にとって
国民はだれも同じ
思いどおりいかなくなると
国民を駆り集めるのだ
愛国者ジョニー

王様、僧侶、政治家が集まり
ふつうの人々に権力欲を植えつける
勇気の名を借りた、血への渇きか
狭い心をいつわる愛国心か

訳:渡辺 淳

 小林よしのりにも聴かせてやりたい、ってか(爆笑!)。

 そうねえ、実際に小林よしのりの『戦争論』を読んで“愛国者ジョニー”になっちゃう馬鹿な若者がいたらおもしろいですけどねえ。それでその気になって自衛隊に入隊して、よせばいいのにPKO部隊に志願して、挙げ句の果てにゴラン高原あたりで誤って地雷踏んじゃって、とどのつまりは片手片足のオリンピック聖火ランナーになる、ついでにパラリンピックにも出場して金メダルを獲得しちゃう、よしりんありがとう!あなたのおかげで世間が羨む立派なヒーローになれました、なんていうオチがつきますかね(笑)。ちょっとむごい話かな?

 まあ勇ましいこと言ってカリスマ的存在になっても、ついてくるのが馬鹿ばかりじゃあねえ、ちょっとカッコ悪いよね(笑)。ま、こういう存在を「俗物」っていうのでしょうかね。ちょっとニュアンスが違うかな?

 ヘルマン・ブロッホは俗物についてこんなことを述べています。

 リアリズムの思想に特有なのは、それが、カントの哲学的精神とは反対に、現象や概念をカバーできると思い違いしていることである。リアリズムとは、保存する精神的傾向のことである。リアリズムは、本質において、各世代の記憶を意味し、人種の存在と維持をめぐる戦いの能力の記憶を意味し、そしてこれでもってリアリズムは、現存するすべてのもの、つまり個々人や民族の同情、人種的憎悪、さまざまな本能をつくり出し、社会の流儀や生活、制度や階層をつくり出した。リアリズムにとって社会は、戦争や技術の進歩、あらゆる人間的、外的事象と同様に、等しく必要なものであり、等しく重要なものである。リアリズムは、固定観念の自動販売機であり、純粋に機械的法則に従って動くのである。これらの法則にもリアリズムの必要性がある。これらの法則の重要性と信頼性の度合いをカントは十分に伝えていた。

 社会は、リアリズムの世界像のただの一部であり、社会を真剣に現実的に受けとめるようにとの社会の要求もリアリズムの世界像の一部であるに過ぎない。社会は、戦争や民族、そして多くの非俗なものと同じ価値をもつ。ダラゴーの指摘する俗物の特性は、印象と概念が同一視されているところにはどこにも見出されるであろう。この一致は、思考のなかに明らかに視野を狭めるタガをはめ込む原因なのである。―≪宗教ではそれはドグマ化する要素、つまり教会であり、芸術では世俗化する要素、つまり新聞であり、人生では合理化する要素、つまり社会である。≫いろいろな概念が安定化され、硬直化される。そして俗物も≪その存在を安定させようと望む。≫俗物のいろいろな特性は、リアリズムのいたるところに付着している。そして俗物の範囲を狭くしてきたのは、しばしばほかならぬ「俗物」という罵りの言葉なのだ。

 それ故、ダラゴーの批判基準に基づいて、俗物と創造的人間を分けることはできないと思う。ただし、創造的な人間が常にカントの観念論者である場合は別だが、しかしこの場合、もうひとつの対象、つまり俗物は挙げられえないからである。そこでまず俗物のグループを現実に限定する試みをしてみると、俗物とは純然たる慣習のリアリストであると仮定されうる。俗物とはもはや幾世代もの追想に過ぎない(そして事実俗物は驚くほど成長したのである)。俗物にとって現象と概念が一致するだけではない。外部からする印象として俗物にはさらに第三の同一性、つまり言葉が仲間として加わる。俗物には、現象−概念−言葉の一致が生まれる。俗物の思考は、このような構成単位の手荒らな、音を立てる噛み合いなのである。ひとつの深い例を挙げれば、カール・クラウスの「ハラキリ、クーリーの対話」がそうである。

 俗物にとって言葉と概念は一致する。彼は両者を真に受ける。それ故俗物はいつも信心に凝り固まっている。もし彼が啓蒙されていれば(彼はよろこんで啓蒙される)、概念は言葉になり、確信を持った合理主義者、無神論者、自由思想家が生まれる。―啓蒙されていないと、言葉が概念になり、そしてその結果は祈祷狂信者、言葉狂信者となる。両方の形の結合は、モダニズムを見出そうとするプロテスタンティズムにおいて行なわれる。―自由思想家であれ、坊主であれ、一元論者であれ、二元論者であれ(いずれもリアリストだが)、彼はいつも字句にこだわるものである(これが彼の知性のただひとつの能力なのだ)ことが示される。そして頻繁に現われ、とりわけブルジョワ的に現われて俗物と名付けられなければならないであろう。彼が芸術的職業に入るなら、現象−言葉の一致の結果は、独創性からマニエリスムなどへの変化となる。

『H・ブロッホの文学空間』 ヘルマン・ブロッホ著 入野田眞右訳 北宋社
V.作家論 芸術の俗物性、リアリズム、理想主義―トーマス・マンについて より
この論文は、1913年2月雑誌『ブレンナー』に発表された。

 なんだかカントの哲学を引き合いに出しているところがまるで柄谷行人みたいですけど(笑)、ここでおもしろいのは、俗物はいつも字句にこだわる、という見解でしょう。そういえば、本多勝一はかつてアメリカ合国ではなくアメリカ合国なんだと盛んに主張してましたね。これこそ概念と言葉の一致でしょう(笑)。はたして本多は啓蒙された俗物とされていない俗物のどちらなんでしょうか。それからそうそう、世の中には外国語の発音とカタカナの綴り方の一致を求める人もいるよね。ハロウィンじゃなくてハロウィーンだとか(爆笑)、ウォーターじゃなくてワタのほうがより本来の発音に近いそうで。人名で言うと、ルーズベルトはローズベルトになってリンカーンはリンカンになるそうですね。自分もかつて本多勝一の影響で、レニー・クラビッツをレニー・クラヴィッツと書くのはまだまだ不徹底で、レニー・クラヰ゛ッツと書くのが正しいと思ってました(爆)。あ〜、眠たくて変な方向へ脱線しちゃいましたね〜。


12月9日

 はっはっはっ!FreeBSD版のNetscape Communicator4.5をまともにインストールするのに1ヵ月もかかってしまいました(なんだかな〜)。一週間に一度この場所へ帰ってくる度に“FreeBSDインストール・アドベンチャー・ゲーム”に突入していました(笑)。そうなんです、ネットスケープ社のここにはないんですが、ftp://ftp.netscape.com上を探したらちゃんとFreeBSD版のversion4.5はあったんです。以前、ねーじゃんかよ、と文句を垂れてしまって申し訳ありませんでした(誰に謝っているんだ?)。どうやら、サポートはしないけど一応FreeBSD版も作ったよ、てな具合みたいですね。しかし最初ftpで2時間弱もかかってやっとファイルをgetしたのに、tarで展開してからns-installが実行できなかったときは疲れがどっと出ました(なんで?)。途方に暮れましたよ、しばらく焦点の定まらない眼差しで窓の外をボーと見ていたようです(おいおい、話を作ってないかぁ?)。それから一週間たって気を取り直して、READMEに従ってgzipコマンドで各ファイルを手動で復元していったんですが、どうも一応起動はするんですがエラーメッセージが出まくり状態なんですよね。何か、ディレクトリがない、みたいなメッセージらしいんですが、英語アレルギーの私の脳みそが拒絶反応を起こしているらしく、まるでやる気が起きなくて次の週はFreeBSDを起動すらしませんでした。

 そして今日(この時点では12月8日)、FreeBSDの公式ページの中のftp://ftp.freebsd.org上でうろうろしてたら、FreeBSD3.0リリースの中のパッケージの中にja-netscape-fonts-1.0.tgzを見つけ、おおっ!これはもしや日本語化キットでは!?と勝手な期待で胸ときめいて(英語バージョン(一般には今のところこれしかないようだ)だとブラウザの中のボタン上の日本語が文字化けしちゃう)、さらにその下にja-netscape-navigator-4.07.tgzを発見するに至り、やったぁ!ここはひとつこの二つパッケージをとりあえずgetしておいて、そして、この際だから4.5はあきらめてCommunicatorもファイルのサイズが大きいからやめてNavigator4.07をgetしよう、と成り行きまかせに方向転換することで俄然やる気が出てきちゃいました。そしてCommunicator4.5はgetしたソースファイルだけ残してあとは全部削除しておいて、ここで、自分のFreeBSDとはバージョンが違うけど、ま、大丈夫でしょう、と勝手に決めつけて、3.0リリースのports.tar.gzをgetして、自分の古い2.2.2リリースのportsをディレクトリごと削除して空いた場所に3.0リリースのportsを展開しました(こんなやりかたでいいのかぁ(笑)?)。そしてネットにつないだまま、portsの中にソースファイルを格納するディレクトリdistfilesを作ってから、すでにportsの中に存在するディレクトリnetscape4-navigator上でmakeすれば、ほぉ〜ら、勝手にftpでNavigator4.07を探し出してgetしてくれたぜ(以前のportsだとnetscape4のディレクトリしかない(CommunicatorとNavigatorで分かれていない、しかもバージョンが古い)からCommunicator4.04ベータを取ってこようとしてしまう)、1時間以上もかけて(笑)。やったあ、さっそくmake installだぁ〜!インストール完了!

 この時点ですでに有頂天になっていて、先に取ってあった日本語化キットらしき二つのパッケージもインストしたところ、何やらエラーが出たような気もしましたが、無視してさっそくNavigator4.07を起動しようとしてはたと気づきました、どこのディレクトリにインストされたのかわからない〜(笑)。以前の4.05と同じ場所にはない!冷や汗かきながら探し回ってやっと見つけてX11R6/bin内にリンクを作って、さあ今度こそ起動だぁ!起動したぁ!おおっ!ウインドウの題名がNetscape:Version4.07[ja]になってるぅ!日本語Navigatorだぁ!と喜んだも束の間、なんか変だぞ、やけにすっきりしてないかぁ?そういえば操作する項目やボタンに日本語が見当たらない、それどころじゃない、英語もほとんど見当たらない!のっぺらぼうだ〜ぁあぁあぁあぁ(爆笑)。これじゃ使い物にならないじゃんかよ〜!またもや頭の中は真っ白、放心状態になりました(嘘)。

 こうなったら意地でもまともな奴をインストしてやるぜ!とむきになって、削除せずにとってあったCommunicator4.5のソースファイルをports内のdistfiles上にコピーして今度はnetscape45-communicator上でmake installだぁ(やけくそ)!うぅ、インスト完了!今度はちゃんとインストされてあるディレクトリを確認して、よし起動だぁ!あれ?また4.07が起動しちゃった!?なんで?どうしてなの?しばし考える.....(10分経過)。あっ!configファイルのnetscapeが4.07のままじゃねーかよっ!なにやってんだ〜、どうすりゃいいんだ.....(30分経過)。ま、ここはひとつviでファイルを編集ですか〜ぁ(muleをまともに使ったことがない私)、疲れるなあ〜おい。とりあえず4.07の設定を参考にしながら何度も間違えながらもファイルを編集して、エラーメッセージが出る度に胃が痛くなりながらも、やっとのことでエラーなしでなんとかCommunicator4.5の起動にこぎつけました。なんだかな〜、ブラウザひとつインストするのにもこの騒ぎだもんな〜。何なんですかね〜。やはり馬鹿ですか〜。単なる電話代と電気代の浪費かな。こんなしょーもないことで貴重な時間をつぶして、これが一体何のたしになるのだ、この経験が将来何かの役に立つとでもいうのか?なんだかいつも自分は物凄い遠回りしている感じがします(笑)。こうやって遠回りしているうちに年老いていって、そのうちいつか回り道の途中で死んじゃうような気がします(爆笑)。

 唐突に関係ない話ですが、ウインドウマネージャのfvwm95のFvwm Pagerって作業領域が24区画もあるんですが、ようするにデスクトップが24面あるみたいなんですが、これって一体何に使うのか疑問を感じました。世の中にはこれほど多くのデスクトップをいっぺんに使う仕事というものが存在するんですかね。

 来週はたぶん更新するにしても1日おくれになるでしょう。どうなることやら。


12月2日

 以前この場で二度ほど偉そうに本多勝一を批判してしまいましたが(1998年8月19日と9月16日の回(彼の声8))、ふりかえってみて、どうも中途半端で不徹底な軟弱者の私自身が、徹底した実証主義者と思われる本多勝一を、あのようにいい加減に批判しては倫理的にマズイような気がしてきたので、今回は私ではなく(私では役不足か?)、ブロッホによるルポルタージュ徹底批判を紹介します。

 どの価値体系も、すでに述べたように、悪を嫌忌しながら発展している、いわば、絶えざる浄化過程にあるわけです。その通りだとすると、長編小説の世界像には、キッチュとは正反対のものを望む傾向がなければなりません。その傾向は確かにあります。文学を、「美しい」ロマン的な欲求充足の領域から、赤裸々な純然たる、科学的なとも言いたいほどの事実集録へと引き戻そうと試みているのは、単に倫理的文学の傾向ばかりではありません。このことはルポルタージュもまた意図していることです。同じことが絵画ですでに経験されているのは記憶に新しいことです。それは、戸外派や印象派の人たちがドラクロアのロマン主義を光学という科学的手段によって克服したと信じたあの頃のことです。文学の自然主義もまたこの頃に起っています。ルポルタージュの肥大した自然主義は単にこのような発展の論理的な帰結として生じたにすぎないように思われます。というのも、ルポルタージュの芸術的意図とは次のようなものだからです。粉飾なく現実を把握しなければならない、寓話的文学のロマン的な改作とは決定的に絶縁しなければならない、科学におけると同様、対象を最大限捉えるわけだが、その際主観によって惹き起こされる狂いの根源をすべて断ち切らねばならない、個々の科学者は研究のなかで姿を消し、顕微鏡の前に誰が坐っていようとそれはまったくどうでもよいことだが、それとまったく同じように作家は取り除かれなければならない、つまりその対象そのもの、リアルな事実そのものが語るべきであって、さもなければまったく無価値である、というものです。

 そうだとするなら、文学がなぜまだ必要なのであろうか、それが理想だとするなら、科学の世界像と文学のそれとは一致するのではないだろうか、という疑問が起って来ます。長編小説は確かに歴史小説として絶えず歴史記述とある種の関係がありました。一方ルポルタージュは同時代の歴史を蒸留し、いわば科学へふたたび還元しています。およそジャーナリスティックな科学というものがあるとしますと、それはルポルタージュ的傾向のプラトン的イデーということになりましょう ― もっともルポルタージュという言葉そのものでさえジャーナリズムから出た言葉ですが。しかも、同時代の小説を歴史小説にしてしまおうとする努力がなかったわけではありませんでした。なまの記録の豊富な使用、多様な日常の出来事を結び合わせ、新聞のメモの貼り合わせなど ― この技法の典型的な例としては、典型的なルポルタージュではありませんが、ローベルト・ノイマン(1897−1975、オーストリアの小説家、『権力』など)の小説があります ― は、対象そのものに語らせ、対象を歴史的なものするのに当然役立っているはずだからです。伝記に対する今日の嗜好もこのような傾向の一つであることはほとんど述べるまでもないでしょう。

 絵画史のなかにもこれと類似したものを見出すことができます。新未来派の絵を構成しているなまの素材を想い出してみますと、それは本物のマッチ箱と本物の製図用のピンでした。こう申し上げても、未来派を批判するつもりでも、ルポルタージュを批判するつもりでもありません。と申しますのは芸術家はマッチ箱からでも芸術作品を創造できるからです。ただ、対象をそれがもともとあったところから、芸術作品の場へとじかに移すことができるのかどうか、といった技法上の問題については、これ以上時間を費やそうとは思いません、がしかし一つだけ述べておきたいと思います。それは、科学でさえ現象を、例えば物理的現象を完全な形で再現することは不可能ですし、きわめて複雑な転換手段を利用し、例えば数学の公式への置換をとりわけ利用しているということです。しかもある絵のなかのマッチ箱が本来のものとはまったく別の機能価値をもつということは、考えられます。ここに技法上の問題を超えた問題、つまり選択の問題が現われてきます。どのようなマッチ箱がその絵の構成に用いられているのか、どのような記録がルポルタージュの芸術手段として用いられているのか、そもそもルポルタージュの素材となっているものは何か、といった問題です。

 そうすると、実際当惑するような事実に突き当たることになります。それはつまり、文学や文学史のどこを探しても ― おそらくワルター・スコット(1771−1832、スコットランドの作家、歴史に依拠した歴史小説家)の時代以来 ― ほとんどルポルタージュほどロマン的なものは見当たらないという事実です。異常なことがルポルタージュでは普通の出来事になっています。確かに人生ではどんな平凡なことも異常には違いありません。ハインリッヒ・ハウザー(1901−55、ルポルタージュ作家)という一流の作家が、最後の帆船について驚くべきルポルタージュを書いていますが、そのなかの船上のつつましい生活の部分はさすがに微細なところにも宇宙が閃いています。逆説的に聞こえるかもしれませんが、このことは不思議なことではありません。作家を排除することは、ある作家の場合だけ可能なことなのであって、ハウザーなる作家にはまだ許されていることも、他の大半の作家ではもはや機能しないことが多いのです。しかも疑いもなくこのハウザーの作品にさえその描いた世界を英雄視しようとする傾向が見受けられ、さらに人物の選択が行なわれていて、男性的なものの理想、つまり気高く感傷に溺れず、時として奔放な性生活を送り、厳しいが信頼のおけるというあの理想、ヨハネス・ウィルヘルム・イエルセン(1837−1911、写実主義の歴史小説家)が数年前その名付親となったあの理想とことごとく一致するようなタイプが集められいるのです。これ以外のいろいろなルポルタージュを見ても、ごく大ざっぱに言って、どこでも同じようなものが見出されるのです。つまり、ルポルタージュの世界は、低劣な読み物でよく見かける無敵の勝利とやらで満ち満ちた騒々しい、英雄の世界であり、ある時は喧騒の大都市の街路で、ある時は大草原で、またある時は証券取引所で活躍するギャング団や海賊の世界であって、技術的なアメリカとか、超技術的なロシアとか、国々がまるごと英雄的なもの祭り上げられたりしています。要するにここには選択の原則が働いているのですが、客観性が熱望されているにもかかわらず、名状しがたい虚偽の印が含まれているのです。この危険からルポルタージュが実際に逃れ出る唯一の方法はおそらく、伝記的なものや現実のセンセーショナルな事件へと完全に向かってしまうことなのでしょう。つまり、一回限りの異常な人間生活や一回限りの大事件を描写の中心にもってくると、作者は事実選択から生じるさまざまな困難をほとんど避けることができますし、事実は事実そのものの法則に従って与えられた中心の周りに並びますので、虚偽や低俗化といった脅威的な危険がほぼ取り除かれることになるからです。

 しかしルポルタージュにはもう一つ別な要素があります。ルポルタージュは驚くべきことに、その性格からすればまったく相反するはずのキッチュの領域へ帰っていくのですが、このことを明らかにし説明するのに適当な要素がルポルタージュにはあるのです。もう一度クルツ・マーラーの小説の舞台を思い出してみることにしましょう。ここでは徹頭徹尾現実の事件が起っていて、遠くからきくと人間の音声を思わせる言葉が使用されています。ですがその全体はポルノグラフィー的なキッチュと瓜二つの構成なのです。と申しますのは、キッチュでも登場するものたちは人間の属性、もっと厳密にいえば人間の器官を備えているからです。そしてこれらの器官は個々には実際、徹頭徹尾事実に即して使用されていますが、しかしその全体像を三次元の空間に移してしまうと、浮かび上がってくるのは、精神病院の像なのです。何がここで行われているのでしょうか。クルツ・マーラー夫人、あるいはポルノグラフィーが事実選択の難しさに苦しんでいるとは言えません。その反対に、俗悪文学ほど事実選択が明白で、本能的な確かさ ― こう言い切ってもよいと思いますが ― をもっているのです。それは、それらの事実が受け売りで導入されていて、一種の予備選択が行なわれているからです。けれども、これらの事実をまとめ、組み合わせて、ついには精神錯乱の像を作り上げていくそのプリミティヴな苦行は奇妙というほかありません。そしてこの点にルポルタージュとの一致を確認することができますし、この一致の最初の現われはおそらくロマン的なものに対する共通の偏愛でしょう。もしルポルタージュが実際に徹底しているなら、ルポルタージュもまた同じように精神錯乱に終わらざるをえないだろうからです。つまり、ルポルタージュが実際に、世界を、全世界をあるがままに、それゆえ選択することなく捉えるという課題を果たすならば、ルポルタージュは世界そのものと同様に無限にならざるをえないだけではなく、世界を映し出している新聞の有害な無限性と同じぐらい無限にならざるをえないでしょうし、事実に事実を永遠に繰り返し並べなければならないだけでなく、ルポルタージュは個々の事実の間にどんな結びつきも見出すことはできないでしょう。途方もなく事実に憑かれて、出来事を取り上げて記憶するのですが、しかし決してそれらを結びつけることのできない一種の精神病患者がいます。 ― これと似ているのは、大半の新聞の購読者の頭脳、あるいはまた流行案内書を集めて家に持ち帰る世界旅行のアメリカ人でしょうが、もしルポルタージュが徹底したものであるなら、それは結局同じようなものにならざるをえないでしょう。事実選択が恣意的にそして絶望的に行なわれれば、それだけいっそう、このような馬鹿げたことはひどいものとなることでしょう。

 ところで、「世界はまったく錯乱した光景を呈している、したがってルポルタージュは真理への道を一直線に歩んでいることになる」と言う人がいるかもしれません。このことはもちろん、言葉の遊びに過ぎないのです。錯乱した状況を模写するからと言って、模写すること自体が錯乱していいわけではありませんし、その模写は正確か間違っているかのいずれかなのです。だが、模写する方法が錯乱しているということはありうるのです。そのことが馬鹿げた結果を生み出しているのです。この表現の錯乱こそ問題となるのであって、世界の錯乱とはまったく別な問題なのです。ではこの表現の上で何が起っているのでしょうか。

 すでに指摘したように、キッチュのドグマ的な武器庫はステロ版です。ステロ版とは一般にすでに使い古した常套句のことを言うのですが、これにきまりきった意味や観念、評価がつけ加わればそれだけ陳腐なものになります。キッチュの作品のなかでは別れ行く人については好んで次のような表現が使われます。「そして人馬もろとも地平線の彼方に消え失せた。」もちろんルポルタージュの場合はこれほど酷いものはないでしょうが、しかしルポルタージュもまた、言葉が永遠に変化し易く、しかも永遠に変化している精神の表現であると考えることができずに、言語的なものを独断(ドグマ)的に受け入れざるをえないのです。と申しますのは、ルポルタージュは事物そのものに語らせ、事物に聞き耳を立て、作者を沈黙させようとするからです。これは言語的なものの独断論ではないでしょうか。もちろん広義の意味での言語的なもののことですが。つまりルポルタージュは、特定の語彙 ― これを「現実語彙」と呼んでもいいでしょう ― と結びついている、すなわち、一定の状況に対しては一定の普遍妥当な表現を用いる現実語彙と結びついているということです。例えば「一人の男が通りを歩いている」と言うと、これは、この種の一般に分かり易い現実語彙の一つですが、このような固定した現実語彙は、言語慣習そのものがこれらの語彙を変えない限り、世界をあるがままに描き報告する際は必ず用いなければならないものです。しかし、現実語彙を使用したからといって、それが世界をあるがままに描いているという保証には決してなりません。 ― クルツ・マーラー夫人の意見はその反対でしょうけれども ― 。狂人でも正確な語彙を使うことができるからです。要するに問題なのはシンタクスであって、文の組み合わせ、言語上の論理 ― このなかで語彙が使用されるのですから ― が問題なのです。

 換言しますと、もっとも極端に徹底したルポルタージュは現実と現実語彙の姿を借りた独断論が現われてくるのです。それは肥大した自然主義の独断論であり、つまりは一種の写真家の自然主義、もっと正しく言えば写真のモンタージュになってしまうのです。写真の一コマも現実語彙には違いないからです。だが、何が自然主義なのでしょうか。彩色された絵ハガキとヴァン・ゴッホの絵のいずれが自然主義なのでしょうか。「観る」という行為は疑いもなくそれ自体世界の一部を構成しているのであって、この行為を世界から取り除くことは許されることでしょうか。現実のあるがままの世界のなかには、幻想的なものも、いやそれどころか、主観によって捉えられる妖怪のごときもの含まれているのではないでしょうか。絵ハガキに描かれたあの黄金色の穀物の束は、その土地の詩人たちが詠った通りの色彩で描かれているのですが、それとまったく同じように、ゴッホの妖怪じみた曲線が田畑で見られることを誰も否定することはできないでしょう。ガングホーファー(1855−1920、小説家、『聖なる光』など)よりもカフカが正当な位置を占めることのできる広義の自然主義は疑いもなく存在しているのです。この広義の自然主義こそは、さらに深い意味で、あるがままに世界を表現しているので、これはルポルタージュによっては決して表現されえないものです。ルポルタージュは、硬直したドグマ的な現実語彙から抜け出せないからであり、夢のごとく高揚したあの現実へ、すなわち、もはや現実語彙に基づかず、現実語彙を組み立てるその論理、シンタクス、構成様式に基づいている現実へ進むことができないからです。

『H・ブロッホの文学空間』 ヘルマン・ブロッホ著 入野田眞右訳 北宋社
I.文学とキッチュ 長編小説の世界像(講演)より
Das Weltbild des Romans, 1933

 たとえば、沢木耕太郎のノンフィクションや司馬遼太郎の『街道をゆく』などのルポルタージュについては、「つまり、ルポルタージュの世界は、低劣な読み物でよく見かける無敵の勝利とやらで満ち満ちた騒々しい、英雄の世界であり、ある時は喧騒の大都市の街路で、ある時は大草原で、またある時は証券取引所で活躍するギャング団や海賊の世界であって、技術的なアメリカとか、超技術的なロシアとか、国々がまるごと英雄的なものに祭り上げられたりしています。要するにここには選択の原則が働いているのですが、客観性が熱望されているにもかかわらず、名状しがたい虚偽の印が含まれているのです。」の部分で述べられているものとそう変わらないレベルでしょう。また、しばらく前に話題となった村上春樹の地下鉄サリン事件の被害者を題材としたインタビュー本については、「この危険からルポルタージュが実際に逃れ出る唯一の方法はおそらく、伝記的なものや現実のセンセーショナルな事件へと完全に向かってしまうことなのでしょう。つまり、一回限りの異常な人間生活や一回限りの大事件を描写の中心にもってくると、作者は事実選択から生じるさまざまな困難をほとんど避けることができますし、事実は事実そのものの法則に従って与えられた中心の周りに並びますので、虚偽や低俗化といった脅威的な危険がほぼ取り除かれることになるからです。」の実践と見なしておけば事足りるでしょう。

 それでは、本多勝一の場合はどうなのか。「もっとも極端に徹底したルポルタージュには現実と現実語彙の姿を借りた独断論が現われてくるのです。それは肥大した自然主義の独断論であり、つまりは一種の写真家の自然主義、もっと正しく言えば写真のモンタージュになってしまうのです。」ということなのか。それとも全盛時の本多のルポルタージュは、このようなブロッホの批判をクリアするぐらいのハイ・レベルだったのだろうか。私に言えることは、少なくとも本多の著作にはある政治的な意図があったというところでしょうか。それはこれまで無視されてきた虐殺された側や先住民・少数民族の権利を声高に訴えることだったように思われます。つまり、全盛時の本多のルポルタージュとは、ブロッホのいうような文学の問題ではなく、それはそれでひとつの政治活動だったんじゃないですかね。しかし政治と文学を分けて考えるのはちょっと無理があるかな?