彼の声1

1997年

7月30日

 例えば日記をつけること、日々の些細な出来事を毎日書き留め、ある日それを読んでみる。気がつけば、そこに書き留められているのはどうでもいいような過去の残骸ばかりではないか。何のまとまりもない、ただ無内容で無方向な営み、自分は何と無駄な年月を送ってきたことか。日記に拘束された日々、自分は何をやっていたんだろう。本当に日記に書かれてあるような些細な出来事しかなかったのか。何か重大な事件を見落としていないか、何も思い出せない、日記が自分の記憶を奪い去ってしまったのか。それとも日記に書かれてあるように退屈な日常がただ過ぎ去っただけなのか。それでは自分はいったい何をやってきたんだ、退屈な日々の日常を書き留める事だけが生きがいだったのか。自分は日記に書かれてあるような何の価値もない、何処にでもいるようなありきたりな人間だったのか。ただ日記に構成されるだけの人間なのか。自分は日記によって破滅させられた無能人間だったのか。自己嫌悪の日々、それも日記に書き留めればいいだろう。


7月28日

 エヴァンゲリオン最終話。引き出される過去の記憶を「それは違う!」とわめいて拒否する。主要登場人物が順番にそれを繰り返す。「僕のことなんかどうでもいいんだ!」「いやだ!」と主人公がわめいて拒否する。それの繰り返し。それに対する慰めの言葉が周りで響く。しかし「あんたなんか嫌い!大っ嫌い!」と思い込もうとする。それに対しても慰めの言葉が周りで響く。もちろんそれも繰り返される。このアニメの心理描写とは、自己否定とそれに対する否定(慰めの言葉)、さらにその言葉(慰めの言葉)の拒否、その平行状態が永遠に続くように見せかける装置だ。そしてそれぞれの登場人物が同じ心理状態で共鳴し合い、互いを拒否し、互いを慰め合う。「自分とはなんだ!本当の自分て何なんだ!」「誰も自分のことなんてわかってくれないんだ!」と互いにわめき合う。その平行線が無限遠の点で交わるのが最終話だ。「僕は僕でいいんだ、僕はここにいていいんだ」、最後に慰めの言葉が勝つ。「おめでとう!」、確かにおめでたい、製作者は平行線がなかなか交わらずにやけになっていたのだろうか。それがこのアニメの可能性であり限界なのか。

 よくビデオゲームを批判する決まり文句に「ゲームに熱中している子供たちは現実とゲームの区別がつかなくなる」というのがあるが、なぜ現実とゲームの区別をつけなくてはいけないのだろうか。ゲームは現実とは違うとでもいうのだろうか。実際にゲームをやっているときはゲームが現実ではないのか。ゲームをやっていないときも現実だし、ゲームをやっているときも現実だ。夢を見ているときも現実だし、妄想に耽っているときも現実だ。すべてが現実の世界で起こっていることでしかなく、この世は現実しか存在しない。また、「ゲームと違って人生にはリセットボタンはない」というのもあるが、実際の人生はリセットボタンだらけだろう。例えば気分転換というやつがある。仕事に疲れたら、しばらく公園でボーとしているとか、スポーツに汗を流すとか、ビデオゲームで憂さを晴らすとか、有給休暇を取って海外旅行に出かけるとか…、これらはすべて疲れをリセットすることになるのではないか。一番簡単なリセットは寝て起きることだろう。人間は毎日睡眠というリセットボタンを押している。その他にも、入学、退学、卒業、入社、退社、転職、結婚、離婚、引越しなど、人生は数限りないリセットを経験することではないのか。人生はやり直しがきかないそうだが、ゲームだってやり直しはきかない。たとえリセットボタンを押したところで、以前にやったゲーム経験が邪魔をして、決して同じ感覚でプレイすることはできない。人生もゲームその瞬間瞬間が絶えず未知の経験になる。


7月26日

 今日の日本では、選挙結果が低投票率に終わる度によく「民主主義の危機」という紋切り型が叫ばれているが、そう叫んでいないと民主主義が崩壊してしまうような強迫観念に駆られる人間がマスコミ関係者には多いようだ。しかし民主主義自体何か普遍的なものなのだろうか。

 現代の民主主義の起源は何も古代ギリシアからきているわけではなく、16世紀から17世紀のイギリスに始まる。当時のイギリスでは貴族や諸侯の力を削ぐための国王による中央集権化が進められ、その結果貴族や諸侯に替わって裕福な一般市民が台頭してきて、今度は国王の力を制限するための様々な制度を確立していった。それが原理として輸入されてフランス革命が起こるのだが、別に革命以後のフランスが民主主義国家になったわけではない。そもそもはじめからナチスドイツやスターリニズムにつながるジャゴバン派の一党独裁の恐怖政治だ。それからナポレオンやナポレオンV世の帝政、第二次大戦後はドゴールによる独裁もある。イギリスでさえヒトラーに対抗するために、平和主義者のチェンバレンにかえて植民地主義者で独裁者のチャーチルを選んだ。アメリカなどは4年に一度の馬鹿騒ぎで大統領という名前の皇帝を選んでいるが、民主党や共和党から推薦されない限り大統領になれないという手法自体、はたして民主的といえるのかどうか。もちろんアメリカでも南北戦争時代のリンカーンや世界恐慌、第二次大戦時代のルーズベルトなど、国家的危機が訪れる度に独裁者が出現している。例えば、親父の金を使って田中角栄以上の金権腐敗選挙(シカゴのギャングまで使った)で大統領になったジョンと弟のロバートのケネディ兄弟が暗殺されていなかったら、20世紀後半のアメリカはケネディ王朝時代になっただろうともいわれている。

 このように民主主義の先進地域といわれる欧米でも、民主主義の危機どころか実際に民主主義が崩壊した歴史を持っている。それに民主主義自体、様々な国で様々な制度になっていて、決して画一的なものではない。朝鮮民主主義人民共和国という民主主義国家さえ実在している。日本でもマスコミが世論を気にしながら政治家や官僚を勝手に批判しているし、各地の住民運動や市民オンブズマンが公共事業の不正や役所の公費乱用を訴えている。やりたい奴が勝手にやるのが現代の日本の民主主義だろう。別に選挙結果が低投票率だろうが世論調査結果が政治的無関心だろうが構わない。もう既に従来の民主主義は崩壊しているのかもしれない。


7月24日

 一般的に言葉には意味が付いている。しかし言葉を意味する概念が現実に存在するとは限らない。例えば「自由」という言葉は何処までも自由ではない。無限に自由ではなく、必ず周りの状況から制限が加わる。だが、制限された「自由」は自由ではない。「自由」は実現不可能な意味を持っている。「自由」を夢想することはできるが、それは「自由」を夢想するように仕向けている状況に夢想している本人が支配されていることによる。不自由な現実が「自由」を夢想させる。自分は自由だ、と主張することはできるだろう。それも自由だと思わせる何かに拘束された結果としてそのように主張しているに過ぎない。本当の自由は存在しない。自らの不自由さを自覚することによって自由への意志を形成することしかできない。「自由」は自由を希望するために存在する理念だ。実現は不可能だが、常に自由を求め続けることはできる。もちろんそれで幸福になるとは限らない。不幸になるのも自由だし、危険を冒すのも自由だ。「自由」はそれを求め続ける人間に何ももたらさない場合もあるし、「自由」によって破滅する場合もあるだろう。現実の社会では、宗教教団や会社や学校などの組織の不自由に拘束された結果として幸福に生きて行ける場合の方が多いだろう。それでも完全な「自由」を求め続けられるだろうか。


7月22日

 人が感情的になるのはどのようなときだろうか。例えば自分の思い通りに事が運ばずに苛立っているとき、周りの迷惑も顧みずに自分勝手な言動や行動に終始して、無意識のうちに我を忘れて感情的になっている。逆に思い通りに事が運び過ぎて喜びに有頂天になっているときも我を忘れているが、喜んでいるとき、怒っているとき、哀しんでいるとき、楽しんでいるとき、すなわち喜怒哀楽の感情に過剰に支配されているとき、我を忘れ、また周りの人間も忘れ、ただ情に流されている。そのような極端な感情が悪徳商法などに付け込まれる隙を作っているわけだが、それが過去の歴史の栄光や悲惨に感情移入されることによって、国家の愛国心や民族意識の昂揚を形成する温床になっていることも事実だ。

 では理性とはなんだろう。周りの迷惑を考えること、自分の行動や言動の結果が、その行動や言動に関係することになる人々に迷惑がかからないかどうか前もって予測してみること、それ以上に自分に関係する人々が利益を得るような行動や言動を考えること、それが理性だろうか。要するに他人を思いやる心が理性につながるのかもしれない。もちろん、理性や感情をすべて自分でコントロールできるわけではない。常に外部からの作用の結果が、ある時は自分を理性的にさせ、またある時は理性を忘れて感情的にさせる。


7月20日

 もはや20世紀もあと数年で終わろうとしているのだが、現在の世界の総人口は約60億だそうだ。19世紀末の世界の総人口が20億に満たなかったようだから、この百年で総人口は40億人も増えたことになる。

 一般的に20世紀は戦争と動乱の世紀だといわれ、この百年間で膨大な数の死者が発生している。例えば、第二次世界大戦でのソ連の戦死者が2千万人、ナチスドイツのホロコーストによるユダヤ人の死者が600万人、ベトナム戦争でのベトナム人の死者が200万人とされる。しかしロシア人もユダヤ人もベトナム人も絶滅したわけではない。今日では逆に当時より人口は増えているかもしれない。中国では1950年代の毛沢東の指導による急激な重工業化(大躍進政策)の失敗から数千万人の餓死者を出したが、その反動からその後数億人も人口増加した。

 人類は戦争によっても飢餓によっても滅びない。20世紀の現状を見るならば、人間は殺せば殺すほど、死ねば死ぬほど、逆に過剰に生まれてきたことになる。そこからヒューマニズムは出てこない。人類愛などという概念を説くことに何の意味もない。人類が滅亡しようがしまいがそれ自体はどうでもいいことだ。それは実際の名前を持った特定の他者との関係から考えない限り何も生まれてはこない。


7月18日

 過去の歴史上に存在したとされる英雄や豪傑に関する伝説、映画やテレビドラマによって現代から導き出されるその人物像、それらはすべて大衆の暇つぶしの娯楽のために用意された消費財だ。例えば現代の日本の政治家の不甲斐なさを嘆くために過去の激動期の時代の政治家を賞賛して見せる。やれ吉田茂は大物だった、西郷隆盛、勝海舟がどうしたこうしたと誇大妄想にはきりがない。中には自分は平成の坂本竜馬になると本気で思っている政治家もいるらしい。正気の沙汰でない。正気の沙汰ではないが、それが暇つぶしの娯楽の本質だ。

 現代の大衆消費社会では退屈な日常を忘れるために歴史が存在する。いや、歴史だけではない。スポーツ、旅行、遊園地、ゲームセンター、プール、読書、音楽、料理、インターネット…すべてが趣味の世界に収斂される。趣味の時間を作るために仕事をし、仕事以外は趣味の時間になる。憩いのときは娯楽の時間であり、娯楽の時間は趣味の時間だ。あとは何もない。つまり、現代の一般市民は歴史上の英雄や豪傑とは完全に別種の人間だ。英雄や豪傑になりたければ、俳優として英雄や豪傑の役を演じる以外は、プロスポーツ選手になるか、犯罪者になるか、冒険家になるか、あとは第三世界の革命戦士(日本赤軍)になるくらいなものだろう。しかしそういう人間も、マスコミによって暇つぶしの娯楽ための見世物に加工されてニュース番組に登場するだけだが。


7月16日

 時代劇の登場人物は伝記作家や歴史小説家が想像した人格を伴って現れる。作家は現代の社会情勢を過去に存在した時間と場所に投影して物語を紡ぎ出し、例えば戦国大名の領地経営が現代の会社経営や国家統治になぞられたりする。そしてそこから現代への教訓などが導き出されたりもするのだが、そうなると当然、その歴史上の登場人物は現代人に似てくるし、結果として時代劇は現代劇の変種となる。

 時代劇の特徴はその人間関係や物語の進行の単純明快さだ。そこでは君主と臣下の主従関係が描き出され、争いごとが起これば命のやり取りになる。そのような物事の単純さが煩雑な日常に追われる人々の共感を呼ぶのかもしれない(それは勝ち負けという結果を伴うスポーツについてもいえる)。もちろん現代社会では個人が属する組織内での役職によって上下関係があるが、いったん組織を出ればお互いに単なる一市民にすぎない。争いごとはたいていの場合、当事者間の調停や公式の場での裁判によって、命のやり取りになる前に妥協が成立する。

 しかし、このような現代社会における複雑な人間関係や諸制度は必ずしも現代人に歓迎されているわけではないらしい。ある種の会社経営者やヤクザ社会では、組織内での上下関係を主従関係に勝手に解釈して、それを組織全体に強制させようとする人々もいる。そのような強制の結果なのか組織内での自らの失態の責任を取って自殺する者までいる。江戸時代の武士の切腹の真似をしているのか、いささか滑稽である。自殺した第一勧銀の元頭取の頭にはちょんまげが生えていたのだろうか。はたして彼は会社にとっては忠義を尽くした臣下になるのか?


7月14日

 物語には謎が必要かもしれない。何やらわからない部分が想像力を刺激する。そこに人は引き込まれる。自分の知らない架空の世界、架空の出来事の中に身を浸してさ迷い動く。その虚構のただなかで出会うものは何だろう。作者の心象風景なのか。作者の心の中を読者が想像したとして、それが実際の作者のものと一致するだろうか。作者がその物語によって何かを訴えているのだろうか。読者は作者とは違う風景を見ていることだってありうる。読者が想像しているものは自分自身が映し出された鏡かもしれない。だからなぜ物語からその作者を想像しなければいけないのか。物語そのものを読めばいいだけだろう。謎は物語そのものだ。物語から作者が導き出されるわけではない。物語が存在した瞬間から作者もその読者の一人に過ぎなくなる。謎は依然として謎のままであり、ただ読者の想像力を刺激し続けるだけだ。


7月12日

 何かを書かなければいけないそうだ。無理やり語りたいらしい。それにはどうするか。問題だ、問題について書き、そして語ればいいのだ。何か問題があるのか。ない、何もない。この世界には何の問題もない。何もかもがなるようになっているだけだ。それが気に入らないのか。なるようになってはまずいことでもあるのか。なるようになっているだけではだめで、なりたいようにならなければ気に入らないのか。なりたいようになるにはどうすればいいのか。ともかく自分の都合のいいように人を動かさねばならないだろう。そのためには人を魅惑しなければならない。人を魅惑するのは面倒だ、いっそ人に命令する立場になればいい。命令するには力ずくだ、暴力で支配すればいい。でも一旦暴力を使うと相手も暴力で対抗してくる。やるかやられるかの世界になる。それもいいだろう、勝手にやってくれ。後はなるようになるだろう。この世界には何の問題もない。何もかもがなるようになっているだけだ。それが気に入らないのか。


7月10日

 何か夢があるらしい。達成されるべき目的や目標を持っていないと生きてゆけないらしい。そのように仕込まれたのか、そんな自分をわかってくれと甘ったれてくる。今の自分には居場所がないと言う。隠れる場所がほしいそうだ。それが夢や目的や目標なのか、現実逃避するための手段なのか。笑わせてくれる、今ここしかないのに今ここを見ようとはしない。今ここにある現状は認めたくないらしい。そんな自分をわかってくれと甘ったれてくる。では今ここにある現状を無視して、せいぜい勝手な使命感を捏造して、夢に向かって今を犠牲にして生きてゆけばいい。がんばってくれ、明るい薔薇色の未来はもうすぐそこだ。みんなで共に希望の持てる明日を築いてゆこう。自分はひねくれ者なので協力しない。無視してくれればいい。


7月8日

 7月7日NHK「クローズアップ現代」。東京都議会議員選挙における、その状況分析をするためにアンケート調査を多用して解説の説得力を高める演出に終始するだけの番組構成、有権者の投票基準を安定と変革という抽象的な二項対立に還元して説明したつもりになっているコメンテーター、無党派層などという均質な集団を仮想して自説を強引に主張しているだけ、まるで物語の語り部でしかない。

 彼らは自分達が頻繁に行っている世論調査が選挙民の無力感を招いて、選挙という制度の形骸化を促進している事実は認めたくないらしい。だいたい結果が分かっているのにわざわざ投票所に足を運ぶだろうか。しかも、東京都議会の議員を選ぶための選挙であるはずなのに、実際に都議会で何が行われてきたのかを選挙前なのにNHKは何も報道しようとしない。報道される内容はもっぱら選挙結果が国政に影響を及ぼすという勝手な主観だけだった(もっとも実際に影響を及ぼしてしまうのは事実だが)。つまり、都議会で何が審議されようとそんなことは選挙には無関係であるらしい。

 では一体何のための選挙なのか、何を選ぶための選挙なのか、有権者は何故投票に行かなければならないのか。NHKの論理では、来年の参議院選挙の予行演習として東京都議会議員選挙があり、そのために無党派層の動向をアンケート調査で探るための選挙であるらしい。まさに、一方では低投票率による議会制度の危機を訴えながら、他方ではアンケート調査ばかりを重視して肝心の議会そのものを無視している。アンケート調査の結果を自分勝手な論理で説明して有権者をうんざりさせているのはNHK自身だ。

 そもそも根本的な間違いは、答えを最初から提示しておいて調査結果をその答えに合わせようとするやり方自体にある。選挙の争点がわかりにくいという勝手な前提を選挙前に度々ニュース等で指摘しておきながら、わざわざ低投票率の原因としてアンケート調査の結果を恣意的に解釈して後付けようとする。一体何のための報道なのか。選挙妨害なのか?


7月6日

 些細な感情の行き違い、相手を認めたくない、許せない、そこから先は情念に支配された人生が始まる。目尻の皺は深く刻まれ、卑屈な笑いが顔にへばりつき、自分に何を言っても無駄だといわんばかりにただニコニコしている。しかし、何も愉快で笑っているのではない。笑いの種類が通常とは違う。やぁ勉強していらっしゃる、おっしゃる事はごもっとも、とにこやかに社交辞令を並べ立てる一方で、目下の人間には笑い顔のまま怒り出す。怒っている時も顔は笑っているのだ。

 そんな奴でも周りの人間にとっては安心だ。少なくとも何を考えているか分からない無表情な奴よりは安心できる。一応礼儀をわきまえているし、世間の一般常識にも通じている。こいつはもう終わった奴だが適当におだててやればそこそこ使える。ロボットと同じようなものだ。調子に乗って増長してきたら些細なミスを理由にしてお払い箱にすればいい。人間なんてそんなもの、という自称「人間通」だ。


7月4日

 7月3日のNHK「クローズアップ現代」でのペルー大統領フジモリ氏へのインタビューは、日本大使公邸占拠事件についてはこれまで伝えられてきたペルー政府の公式見解以上の事は何もわからずじまいであり、フジモリ氏が番組に生出演した事実以外は何の価値もない空疎な内容であった。もちろんそのような番組だからこそ彼は出演に応じたのだろうが。

 それにしても、その政治手法が独裁的ではないのか、という質問に対して、自分は選挙で選ばれているのだから独裁者ではない、と答えていたが、何故インタビュアーはヒトラーが選挙で選ばれてから独裁者になった事実を指摘しないのか。フジモリ政権が1992年に軍部と結託してクーデターを起こして憲法を停止し、議会と裁判所を閉鎖して政府の意のままになる裁判所を新たに設置したそのやり方は、ヒトラーのナチス政権の手法とどう違うのか。つい最近も彼の強引な憲法改正に反対した最高裁判事を一方的に解任したが、三権分立もあったものじゃない、まさに独裁者だ(笑)。

 しかし、こうして人を17人殺した張本人が平然とインタビューに受け答えしている現実を、神戸の殺人事件に衝撃を受けて人の命の大切さを訴えようとしている人々はどう思っているのだろうか。要するに立場や状況によっては人を殺してもOKということか。


7月3日

 モーツァルトの音楽はメロディの美しさを追求した音楽であり、その美しい旋律をいかに効果的に響かせるかにかかっている。それは主旋律を奏でる楽器がよく響くように他の楽器が効果音として伴奏される。もちろん独奏曲ではその旋律の美しさだけが響く。ベートーベンはどうか。彼はモーツァルトの曲は弱いと言う。彼は自分の曲にはモーツァルトにはない力強さがあると思っていたらしい。それは「運命」にみられるどぎつい曲調と「合唱」にみられる劇的な構成に顕われている。彼の音楽は演劇的であり、曲全体が効果音の世界だ。そして、彼は音楽に自分の意志を反映させることができると本気で信じていたらしい。つまり彼の音楽は彼の内面を表わす効果音となり、それが彼独自の人間讃歌の物語となる。

 バッハの音楽はその死後、19世紀に再発見されるまで忘れ去られていた。しかしその後も古めかしい音楽と見なされ、容易には受け入れ難い音楽であったようだ。シューマンでさえ、バッハの無伴奏のヴァイオリンやチェロの作品を不完全だと思ったらしく、ピアノ伴奏をつけて演奏を試みたほどだ。彼には一つの楽器で多声楽的な効果を引き出そうとしたバッハの試みが理解できなかった。その無限の旋律を一曲の中で響かせようとする方法が真に理解され始めたのはようやく20世紀に入ってからだ。


7月2日

 自分には他人の哀しみがわからない。その心の痛みが理解できない。しかし、哀しんでいる他人に同情することはできる。同情することはできるが、その哀しみがどのような哀しみなのかはわからない。ただ、それがどのような哀しみなのか想像することはできる。その哀しみがどのようなものなのかを教えてもらえば、ある程度それを想像することはできるだろう。しかし、依然としてそれが他人の哀しみと同じかどうかはわからない。だが、何故他人の哀しみを想像しなければならないのだろうか。それは他人に同情しているからだ。では、何故他人に同情しているのか。他人が哀しんでいることが自分には哀しいからだ。他人が哀しんでいる姿を見ると心が痛むからだ。


6月30日

 命の大切さとは何だろう。神戸の小学生殺害事件の容疑者として中学生が逮捕されたことに衝撃を受けたある教育関係者が、これからは子供たちに命の大切さを教えてゆきたい、と述べている。何故命が大切なのか?一体誰の命が大切なのか?

 すべての人間の命が大切なのだろうか?例えば死刑囚の命は大切ではないようだ。殺人犯にとっては自分の命は大切かもしれないが、殺す相手の命は大切ではないらしい。どうやら世の中には大切な命と大切ではない命の二種類の命があるらしい。立場の違いや利害関係によって命の大切さは違ってくるらしい。では、命の大切さの基準とは何か?浮浪者狩りやオヤジ狩りをやっている少年達にとっては浮浪者やオヤジの命の大切度は低い。戦場での敵の兵士の命の大切度も低い。しかし命の大切度の高い人間とはどのような人間なのか?そんな基準はないとヒューマニストは言うだろう。すべての人間の命が大切なのだ、と。しかし、様々な社会的な対立から殺す人間と殺される人間が必然的に生じてしまう現実の前では、どんなに命の大切さを訴えても無駄だ。

 どうも社会には命より大切なものがあるようだ。何だろう?わからない。ただ、仮に人を殺してそれが発覚した場合、自分や家族がどのような仕打ちを受けるのかを考える冷静さを養うことは大切かもしれない。松本サリン事件では嫌疑をかけられただけでしかない河野さんに対するマスコミの取材攻撃や、心無い一般市民による不幸の手紙攻撃も記憶に新しい。今回の事件の容疑者の少年の家族は、村八分攻撃や不幸の手紙攻撃から逃れるために夜逃げ同然で引っ越さなければならないかもしれない。周辺住民にそれをやらないだけの寛容さが果たしてあるのだろうか?もちろんこんなことを子供たちに教えても殺人事件が無くなるわけではないが、命の大切さという抽象的な概念よりは少しはマシだと思うが。


6月28日

 今度の東京都議会議員選挙は来年の参議院選挙の前哨戦として注目されているそうだ。争点の見えにくい選挙で低投票率が懸念されるらしい。と、毎度おなじみのマスコミの怠慢報道である。あとは誘導尋問的な世論調査を行って、選挙予想屋をよんで各会派の獲得議席予測でもやって、選挙後にシラケ選挙だとか都民の政治離れだとか毎度おなじみの決まり文句でも口にすれば事足りるとでも思っているのだろう。自分達が数の論理で獲得議席予測をやっておきながら与党会派の多数派工作を数の論理だと批判したりする。完全に有権者をナメきったやり方だ。シラケ選挙を演出しているのはくだらない選挙報道を繰り返すマスコミ自身だ。

 選挙の争点とは何か。それは実際に議会で何が行われたかを問うことだ。それにはまず、議会に提出されたすべての議案について、それがどのような議案でどのような経緯から誰によって提出され、どのような経過で審議され、誰がどのような質問をして、それに対して議案を提出した側はどのように答えたのか、そしてそれらの議案に誰が賛成して誰が反対したのか、賛成理由や反対理由は何か、議案は可決されたのか否決されたのか、それとも審議未了で先送りになったのか廃案になったのか、これらについて詳しく報道されなければならない。それが必要最低限の報道だろう。そのような報道から議会や議員に対する評価や批判が形成され、その議会や議案に対して候補者がどう思っていて、自分が当選したらどうしたいのかが問われなければならない。意味のない選挙予想のための世論調査や政党の選挙宣伝のための討論会などに無駄な労力をつぎ込むことはやめて、以上に述べたことについて、十分な時間枠や紙面のスペースを確保して選挙前に特集を組んで詳細に報道し、例えば候補者個人にアンケート調査でもして結果を公表すべきだと思うが。

 つまり、実際は選挙の争点が見えにくいのではなく、マスコミが争点を問う報道を怠っているだけなのであって、このことが昔ながらの地縁血縁利益誘導型政治を許している。競馬予想と同じ感覚で選挙報道をやっているマスコミに候補者の紋切型選挙運動を批判する資格はない。そして以上に述べた意見が単なるきれいごととして片づけられるなら、もう政治家や官僚に倫理や良識を求めるのはやめた方がいい。


6月26日

 歴史それ自体に理念や目的はない。それらは結果から導き出される想像物にすぎない。歴史の経過はなるようになるだけであり、その過程に先験的な意味があるわけではない。世界全体が民主主義に向かっているとは限らない。しかも民主主義と自由主義と資本主義はそれぞれ別の概念である。

 香港はイギリスの植民地となった時、イギリスの利益になるようにイギリスの制度が導入され、その結果、中継貿易地として経済的に繁栄した。そして租借期限が切れたので中国に返還されることとなったが、中国もその繁栄から利益を得たいがために制度の急激な変革はしないつもりだ。つまり、香港に民主主義があるとすれば、それは物質的な豊かさに支えられた結果としてある。

 資本の蓄積のないところに民主制度は存在しない。キューバのカストロ氏が長期独裁体制を維持できるのは、アメリカの経済封鎖によって国家全体が貧しいからだ。また、貧しさや不況は民主的な選挙から独裁者を生み出す場合もある。アドルフ・ヒトラーやアルベルト・フジモリのように。独裁者は国土が貧しくなければ権力を維持できない。経済が発達してくるとその経済力を背景とした人材が多数台頭してきて、相対的に独裁者の力は低下して来る。ヒトラーのように戦争に突入して国民の関心をそらせることによってしか権力を維持できなくなる。フジモリ氏の日本大使公邸への武力突入もそれと同じ効果を期待したものだ。韓国の元大統領が犯罪者として裁かれるのは経済的に豊かになった代償としてある。

 資本主義と自由主義と民主主義はそれぞれ違った方向性を持ち、それぞれが単独で存在することは出来ず、三者が相互に干渉しあった結果としてその地域が繁栄しているようにみえるだけだ。そのどれか一つが制限されればたちまちその地域の繁栄は崩壊するだろう。


6月24日

 バッハの厖大な作品群、当時のヨーロッパ各地から収集した様々な音楽形式をその性質によって種類別に分類して一つの組曲の中に効果的に組み入れること、あたかも無限の音、無限の旋律を有限の一曲の中に多声楽的に響かせるような方法、これらは彼の先人や同時代の音楽家から学び、研究し、そして彼独自の音楽理論にまで高めた技術の結晶である。

 バッハは情念の人ではない。したがって彼にメロドラマは存在しない。モーツァルトのようにサリエリとの確執を題材として映画化されて夭折の天才神話に解消されたりしないし、ベートーベンのように聴覚がしだいに失われる病魔との戦いに打ち勝って交響曲第九番を作曲したという、愛と感動の苦難克服物語とも無縁である。彼は彼の音楽について語られるだけである。

 その厖大な楽曲群は彼個人や彼の人生とは無関係に鳴り響く。もはやバッハの音楽はバッハ自身を必要としない。今度は演奏者の技術力が試される番だ。未熟な技術ではうまく響かないのは当然だが、一流の演奏家でもかみ合わない場合がある。バッハの音楽は演奏者の技術を選ぶ。演奏者独自の奏法とうまくかみ合えば、バッハが存命していた時代よりさらに美しく鳴り響く場合もあるだろう。グレン・グールドのように。バッハの音楽は芸術がひとつの技術であることを思い起こさせる。


6月22日

 何か幻想はないだろうか、現実から逃避したい。超能力というやつではどうか、魔法でもいい。この世を変える偉大な力が世界のどこかに眠っているらしい。そうだ、それを探しに出かけよう。宝探しの大冒険だ!これがファンタジーなのか。そんな映画やアニメやビデオゲームでは飽き足らない。ではどうするか。あなたは誰?どこからかそんな囁きが聞こえてくる。自分とは何か、自分は一体何者なのか。そうだ、本当の自分を探しに出かけよう。自分探しの大冒険だ!何が大冒険なのか、これがファンタジーなのか。暇つぶしの娯楽でしかない。しかし暇つぶしの娯楽以外に何があるというのか。真剣さや真面目さが求められているのか。本気なのか、演技ではないのか、本気で演技をしているということか。いや、ゲーム感覚で演技で本気を装っているのだろう。くだらない、しかしくだらないこと以外は存在しない。くだらないことを積極的に過剰に肯定してみよう。これがすばらしいことだ(嘘だ!)。


6月20日

 伝説によれば、古代ヘブライの民は、エジプトでの迫害を逃れてシナイ半島の砂漠を数十年間さ迷い歩いた挙げ句、カナン地方に侵入して先住民を追い出してその地に王国を建国したらしい。今、そのヘブライ人の子孫だと勝手に思い込んでいる集団がパレスチナの地に、先住民のイスラム教徒を追い出して、イスラエルという国家を建国している。彼らは、その地は昔からの自分達の土地だと主張しているが、伝説においても現代においても、他人の土地に勝手に入り込んで住民を追い出して自分のものにしてしまう行為にいかなる正当性もない。しかしたちの悪い彼らは、勝手にその正当性を自分達の宗教に求めている。この土地は自分達が神から譲り受けた土地だ、というわけだ。まさに独善的で悪質なやり方であり、普通の法治国家では通用しない論理である。

 しかし、国際世論を支配している欧米人には彼ら(ユダヤ人)に対する負い目があり、彼らもそれに付け込んでイスラエルという不当な国家を存続させている。その負い目とは、ナチス・ドイツに代表されるヨーロッパでのユダヤ人に対する弾圧の歴史である。例えば、中世のスペインではペストが流行した時、ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだというデマによって彼らを徹底的に虐殺した。まるで関東大震災の時の朝鮮人のように。その他有名なところでは帝政ロシアから旧ソ連における弾圧、ナチス・ドイツによるホロコーストのように、ヨーロッパでは何か起ればユダヤ人をスケープゴートにして弾圧してきた。つまり、ユダヤ陰謀説がヨーロッパのキリスト教社会を陰から支えていたことになる。そしてついに、そのような苦難の歴史とアメリカでの経済的な成功がユダヤ民族国家の建設という悲願を実現させてしまった。

 だが、その民族国家建設の悲願は、彼らを殺戮したナチス・ドイツのアーリア民族国家建設の思想と同質である。その選民思想も同じだし、ナチス・ドイツがその民族を正当化する伝説を古代ギリシアに求めたのと同じように、イスラエルはそれを古代ヘブライ王国に求めている。そしてナチス・ドイツがかつてユダヤ人を弾圧したように、現在イスラエルはパレスチナ人を弾圧している。つまり、イスラエルのユダヤ人は単にヨーロッパの民族国家主義にかぶれているに過ぎないのであり、ユダヤ教自体はそれを正当化する口実でしかない。現代のパレスチナ問題をユダヤ教とイスラム教の宗教対立の次元で考えるのは誤りであり、イスラエルとパレスチナの双方の中立的な立場をとることは間違っている。イスラエルのやっていることは明らかな不当行為だ。


6月18日

 例えば、農水省や建設省の官僚が役人時代のコネを利用して建設会社に天下るのと、テレビ局のアナウンサーが局アナ時代のコネを利用して芸能プロダクションに入ってニュースキャスターや芸能タレントになること、また、雑誌編集者や新聞記者が出版社や新聞社のコネを利用して作家や評論家になること、これらは一体どう違うのだろうか。役所と建設会社、テレビ局と芸能プロダクション、出版社や新聞社と作家や評論家、これらはお互いにある種のギルドを形成して、その共同体の内部で人や物や金や情報を動かして利益を独占している。

 そのようなギルドの甘い汁を吸っている人間がテレビや新聞や雑誌で官僚の天下りを批判しても、それが単なるポーズにしかすぎないと思われても仕方ないだろう。例えば天下りの元官僚から、おまえらだって同じ事をやっているじゃないか!と切り返されたらどう返答するつもりなのか?役所は国民からの税金で運営されている公的機関だからだめで、自分達は私的な企業だから許されるとでも答えるのか?ならば、そういう甘い汁を吸っている連中が最終的に国会議員になっている現実に対してはどう反論するのか?それは選挙で選んだ国民の責任か?それにしても、元官僚、元タレント、元新聞記者などの国会議員ばかりなような気がするが。


6月17日

 もう21世紀が間近に迫っているというのに、いまだに国家に対する忠誠心やら愛国心やらを国民に対して説いてまわるような輩がいるらしい。例えば、国旗に対する敬礼や国歌を斉唱することは、仏像を拝むことや経を唱えることと同じように宗教上の形式的な儀礼でしかない。つまり、形の上では国家は一つの宗教であり、儀式として国旗や天皇に対する偶像崇拝が行われているに過ぎない。まさかそれに神秘的な力が宿っていると本気で信じている人間が今の時代に存在するだろうか。愛国心と偶像崇拝はどう違うのか。結局、国を愛するということは、国家という抽象的な偶像を崇拝することにしかならない。それが民族となっても同じ事だと思う。

 国家と国民の実際の関係は金銭を介した契約関係である。国民は国家に対して税金を払い、国家はその税金によって国民に行政上のサービスを行う、きわめてシンプルな契約関係である。そこに愛国心などという神秘主義が入り込む余地はない。そのようなまやかしを唱えているのは行政サービスを怠っている官僚や政治家やその取巻きだけだろう。まさに国民の目を欺くごまかしである。道徳教育がどうのこうの言っている奴らがヤバそうだ。


6月15日

 何も主張する気はない、という嘘を思わず主張して、その虚構の内にとどまり続けるのだが、そのようにしか語りえない状況に苛立ちつつ、そこから何ら明確な結果を導き出せないことを予想し、虚構から脱する素振りも見せずに作為の継続を画策し続けている。それと同時にその予定調和の打開を目指しているようにも演じ、より一層、自らが捏造した予定調和の中にとどまり続け、その中でしか語りえないような虚構を捏造し続けるだろう。しかしその継続に何ら計画性があるわけではなく、その先に何かがあると同時に何もないような暗闇の中で何やら行っているらしく、その行為から何かが導き出されるわけでもなく、ただそのように行為しているだけでしかなく、それの進展の感触だけを得たいがために見せかけだけの反復と循環の中に予定調和を保持し続けるだろう。

 それを語りながら語っている対象から一定の距離を保ち続け、その対象物を意図的に特定できないように語り、虚構を虚構たらしめる均衡状態を維持し続け、それに任意の名称を設定することを避け続ける。そして、その虚構の言説に潜む差異の曖昧さを解明せずに、決して不可能ではない規則の導入を遅らせることによって物語の引き延ばしを図り、そこに何もないかのように装うことで逆に何かを語っているかのごとく映るのを期待し、論理の曖昧さを逆説的に語っているかのように見せかけ、ただひたすら語りを引き伸ばして遅延させてゆく。しかしそのように行為する必然性や理由は何もなく、そのように行為することによって虚構を成り立たせているだけであり、虚構に対して現実が存在するのではなく、虚構について語っているという現実が存在する。つまり、何も主張する気はない、という虚構を語っている現実が存在しているらしく、これこそ虚構以外の何ものでもない。


6月13日

 死を支配しようとする試み、死を制御しようとする欲望、自殺は、あたかもそれを実現させるような幻想をもたらす。生には限界がある。二百歳まで生きた人間は今のところ確認されていない。では、死ぬことに可能性を見出せないだろうか。自らの自由意志による死、それが可能だと信じ込むこと、そして実際に試してみる。自ら設定した死の物語の主人公を自らが演じて倒錯に耽る。そう、死によって生きようとする試みだ。

 三島由紀夫はある程度それに成功したといえる。彼の割腹自殺は世間に強烈なインパクトを与え、仮に彼が老人まで生きた場合より、はるかにその名前は人々の記憶に残っていることだろう。彼の右翼思想に対する追従者や崇拝者も少なからず存在するだろうし、太宰治と同じように彼の小説も、ある種の文学少年少女にはファッションとなりうるかもしれない。彼は自らの死によって、その思想と文学を永遠に輝かせることに成功したのだ。もちろんそれは、そう思い込んでいる人間が存在している限りの間だけだが。

 いじめによる自殺もそれと類似する部分がある。確かにそれは三島の場合とは違って積極的に死のうとするのではなく、死に追いやられた感がある。しかし、自らが被っている不当な弾圧を自死によってまわりの人々に分からせたい、その不当性を訴えたい、いじめによって死んでいるも同然の自分を自殺によって生き返らせたい、つまり、死によって生きようとする試みである点は同様である。だが、それに対する同情は時が経てば忘れ去られ、その試みは新たな自殺者によって引き継がれる。自殺者は死ぬ瞬間にだけ生きている。


6月11日

 沈黙は自らに語りかけ、意味を捏造してそれを蓄積させる時間であり、語りへの準備期間である。それは何か奥深い思索に耽っているような自己満足を生じさせ、その深みの奥底にある一点に向かって自らの思考の視野を狭めていることを忘れさせる。一点に視野を集中させればそこには当然のごとく統一感が生じ、その中心点を真理として他のすべてを説明できる無矛盾な思想を構築でき、実際には視野を狭めて矛盾を見ないようにしているに過ぎないのに、その一点から何か視界が開けたような錯覚に陥り、見えるものすべてが自分に都合よく見えて何もかもが分かったような気分になる。しかし、自らに語りかける限りそのような思想の構築は不可避であり、そこから語り始めることしか出来ない。

 ではそのような思想の構築を避けるにはどうすればいいのか?避ける方法はない。それは他者からの思いもよらぬ衝撃によって打ち砕かれるだけであり、決して自らの思い通りにはならない精神的な苦痛を伴う変化を受け入れるしかない。しかし、そのような変化を嫌って心を閉ざして他者を受け入れようとせず、他者に対して自分勝手な意味を強引に設定し、それを必死になって信じ込もうとして、他者からのどのような作用も自分に都合よく解釈して分かったつもりで安心することも出来る。だが、そのような意味の捏造をしていないといえる保証はどこにもない。それは決して解消することのない無根拠な不安であり、それに耐え続けていくしかない。


6月8日

 神戸の小学生殺害事件は史上まれに見る凶悪な犯罪だそうだ。確かオウムの時もそうだったような気がする。宮崎勤氏が被告の連続幼女殺害事件の時もそうだったと思う。シロート探偵を気取った野次馬達(マスコミ関係者)の大騒ぎに犯人もさぞや喜んでいることだろう。

 しかし、たかが世間が注目するメロドラマの主人公になるだけのことに、なぜあれほどまでのリスクと労力を費やさなければならないのだろうか。犯行声明文によると何やら世間に恨みがあるらしく、それにたいして復讐しているそうだが、暇つぶしに殺人ゲームを楽しんでいるとうそぶく余裕があるらしいが、罠にはまっているのは犯人自身であることは明白である。どんな過去があったか知らないが、自分の過去から勝手な意味を引き出して、今や彼は、トリックスターとして日本という共同体のスケープゴートに祭り上げられた。あとは麻原氏や宮崎氏と同じように大衆社会の慰み者として消費されるだけだ。それでも自分が大衆に、一時のスリルとサスペンスの娯楽を提供できて本望だとでもうそぶくのだろうか。


6月7日

 アメリカの南北戦争では、フルタイム奴隷制とパートタイム奴隷制とではどちらが経済効率のいい制度なのかにひとつの結論が出た。結果はパートタイム奴隷制(北部)の勝利に終わった。フルタイム奴隷制では、ゆりかごから墓場まで主人は奴隷の面倒を見なければならない。パートタイム奴隷制のように使い物にならなくなった奴隷に手切れ金(退職金)を渡してやめてもらうわけにはいかないし、いらなくなったからといっていちいち殺していれば、他の奴隷が死の恐怖から主人のもとを逃げ出してしまうだろう。それに人一人を殺すだけでも多大な労力が要るだろうし、決して効率がいいとはいえない。ともかくアメリカでは、19世紀後半に形の上ではフルタイム奴隷制からパートタイム奴隷制に移行した。

 しかし世界各地では、20世紀に入ってからもフルタイム奴隷制への試みがいくつか為されている。その代表的な例がナチス・ドイツと旧ソ連における実験だが、両者とも一定期間成功したと思われたが、最終的には経済効率の悪さが露呈して破綻した。ナチス・ドイツの場合、国民総動員体制で戦争を遂行させて国内の労働人口を減少させているにもかかわらず、その上にユダヤ人狩りを実行して彼らを強制収容所で管理するという二重の非効率で自滅した。旧ソ連の場合は、国民すべてを昼夜監視し管理しようとする官僚機構の肥大化が経済効率の悪さを招いたのは言うまでもない。たった一人の人間を裁判で無実の罪をかぶせてシベリア送りにするのにもそれなりの労力が要る。やる気のない囚人達を浪費させただけのシベリア鉄道建設が効率的だったとはとても思えない。結局、実験はフルタイム奴隷制の非効率を証明しただけに終わった。

 では、現代の日本ではどうだろうか?一応表向きはパートタイム奴隷制だと思われているが、社会には官僚共産主義と会社共産主義が蔓延していないか?なぜ過労死や自殺者が存在するのだろうか?彼らは談合共産主義の犠牲者なのか?民主主義国家の民主主義とは国民を管理する方向にしか働かないような気がする。その行き着く先がフルタイム奴隷制だ。


6月5日

 語ることは、その語りを受け取る側に何らかの意味を発生させるかもしれない。では、語ること自体に意味を設定させるには、語ることについて語ればいいのだろうか?しかしそれでも、それを受け取る側それぞれに別の意味を発生させるかもしれない。意味は一義的には決まらない。それが可能と思われるのは、その語りが同質の人間の間で流通していると錯覚することであり、それはモノローグの世界を形成する。

 宗教はその信者に同一の意味を強制する。その結果、信者は教祖にとって同質の人間になる。信者も自分達の同質性から心の癒しを得る。しかしそのような幻想が躓きの原因となる。教団内で通用する意味が外の世界では通用しないことに気付かなくなる。

 だがそれは宗教に限ったことではない。人はいたるところで自分勝手な意味を捏造し、それにしがみついて過ちを犯してしまうのだろう。自ら思考する限り、モノローグの世界を免れないようだ。絶えず過ちを犯しながら生きていくしかない。


6月3日

 取りたてて主張することは何もないが、沈黙に逆らいながら何かを語ってしまっているようだ。この語りには積極的な意味はないし、語ることの必然性をでっち上げようとも思わない。無論、語ることに正当な理由はない。語らされてしまっていることに快楽を見出し、無自覚に語りを垂れ流しているだけかもしれない。何やら語っているという空虚な現実に直面しているだけだ。しかも、今、無理やり語っている。むなしいことだ。

 この退屈な語りの後に続くのも退屈な語りである。まさにうんざりするような反復と循環の運動を体験することになるだろう。それに何らかの幻想や肯定的な価値を見出すことはないし、その運動から来る疲労と消耗に耐え続けているだけでしかないだろう。しかし、そこから先も不可避的に語り始めてしまう。それが堂々巡りの循環運動であることは百も承知であるにもかかわらず、そのような状況から語り始めてしまう。語ることに何か意味があるのではなく、語りそのものから意味という錯覚を捏造しようとする。


5月30日

 人はニュースを見たり新聞を読んだりしてこの社会で起っている出来事を知る。そこではマスコミが「今この社会が抱えている問題」というやつを勝手に啓蒙しはじめる場合がある。たぶん、マスコミが押し付けて来る、その勝手な問題提起を真に受ける人々が多く存在すればするほど、その地域の社会が安定している証拠なのかもしれない。

 ある一つの問題をみんなで共有し、その解決方法をみんなで考える。例えば凶悪事件が起ればそれを許せないとみんなが思い、それが現代社会が抱える病理現象だと設定され、その病を克服して健全な社会を築いていこうというスローガンが掲げられ、その達成に向かってみんなで努力していこうと訴える。しかし何をどう努力しろというのか?ニュースキャスターやコメンテーターの言うことをきけ、ということなのか?だいたい「健全な社会」とはどのような社会のことなのか?

 犯罪のない社会などありえない。その社会に規範やら法律が存在すれば、それを犯そうとする誘惑に駆られるのは当然だ。その誘惑に負けた者達をみんなでよってたかって血祭りにあげるような社会の方が恐ろしい。死刑という制度がまさにその典型だろう。


5月25日

 長崎県の諫早湾の干拓によって漁場が無くなり、見返りに保証金がもらえる地元住民にとっては、今回のマスコミの大騒ぎには怒り爆発だろう。地元の政治家や役人からの様々な根回しや懐柔工作によって干拓に同意させられ、湾が締め切られるその時になってから、そのやり方がギロチンだなんだのと騒ぎ立てられ、自分達が金と引き換えにそこで生息している小動物達を見殺しにしているかのように報道されてしまう。まるで悪者扱いだ。しかもそれに便乗して国民の人気取りのために民主党の鳩山や菅がしゃしゃり出てきた。くだらない茶番劇だ。

 もう後戻りが出来ない段階になるまで知らん振りをしておいて、矛盾や問題が吹き出しそうになるとアリバイ工作のように良識派を気取って批判する側にまわる。そして騒ぎが一段落つけばまた何事もなかったかのように体制側に擦り寄るやり方だ。もちろん大多数の国民にとってそれはあくまでも他人事である。おそらく次の選挙でも今の体制が維持されるだろう。まさに茶番劇である。


5月23日

 今、世界が金正日氏に期待している。何かやってくれるんじゃないかと興味津々で彼を見守っている。イラクのフセイン氏の再来を期待する向きもあるが、キューバのカストロ氏やリビアのカダフィ氏のような分別のある人間ではないことは誰もが知っている。彼の外見・容貌から、彼がパーだと誰もが確信している。朝鮮半島では今、豊かな南には金権腐敗政治が横行し、貧しい北には全体主義社会に飢餓が蔓延している。まさに何かをやる時が到来しているのだ。戦争というくだらない歴史物語の再現をやって欲しいのか?しかし、世界の期待を一身に背負っているのがあんなパープー野郎だというところが笑える。ギャグである。

 思えばMRTAのセルパ氏もすっかり悲劇の革命戦士に祭り上げられてしまったようだ。フジモリ氏が失脚した後が楽しみである。オウムの麻原氏は裁判所でひたすらわけのわからんことをわめいているようだが、やはり死なないと英雄にはなれない。死刑になれば百年後に「麻原神社」が創建されるかもしれない。残された人生はせいぜい自分の神格化に励んでほしいものだ。


5月19日

 スポーツ競技には結果が伴う。勝ったり負けたりして、それに応じて順位がついたりする。プロの場合、結果から報酬が生じ、もらえる金も違ってくる。金をもらって玉ころあそびなんかをしているのだ。しかもそれに全知全霊を傾けなければならない。競争の連続だ。恐ろしい。しかしやめられない。もう後戻りは出来ない。自分の知力・体力・精神力の複合体(技術)が、運まかせで金と名誉と栄光の獲得に費やされる。やはり恐ろしいことだ。

 見ている方は、その玉ころあそびの結果に一喜一憂し、日ごろの憂さ晴らしを楽しむ。ひまつぶしだ。中にはそれを愛していると呟く奇特な奴もいる。それ以上の何があるというのか?何かを見落としていないか?いや、それだけだ、あとは何もない。自分は奇特な人間かもしれない。


5月15日

 他国の領土に軍隊を駐留させていなければその地域の平和が保てないのなら、そんな平和などいらない、まやかしである。

 米軍が沖縄から撤退すれば、再び朝鮮動乱が起ったり、中国が台湾を侵略する、というのならそれも構わない。沖縄県民にとっては他人事である。それで困るのなら沖縄から韓国や台湾に基地を移転させればよろしい。アメリカの軍事戦略はアメリカの勝手であり、それにたいして沖縄県民は勝手に異議を唱えればいい。アメリカの番犬みたいに沖縄県民を非難するのは奴隷根性に支配された人間だけだ。


5月12日

 官僚と土建業者の利益のために干潟を干拓したりダムを造ったりして自然環境が破壊されているが、他人事である。他人事でしかない。

 ニュースキャスターにとっては重大な問題だろう。国民の「血税」がほんの一握りの連中の利益のために浪費されているのだ。「このままでは日本が危ない!」とニュース番組で訴えている。「そう、他人事ではない、これは国民全体の問題である」と、しかし、他人事である。

 では、エコロジストのように「地球が危ない!このままでは人類が滅亡する!」と訴えればいいのか?それでも他人事である。すべて他人事である。日本が滅んでも人類が滅んでも地球が滅んでも、やはり他人事である。もちろん自分が死んでも他人事なのだろう。

 それでは自分の問題とは何か?それはない、すべては他人事だ。


5月7日

 アメリカのマスコミはタイガー・ウッズの存在を誤解している。もちろんそれに影響を受けた日本のマスコミも誤解している。もしかしたらアメリカ全体が彼の存在を誤解しているのかもしれない。それどころかウッズ自身が自分の存在を誤解しているようだ。

 彼は決してマイノリティの代表ではない。麻薬の売人がうろつき、ギャング団が血みどろの抗争を繰り広げているゲットーに育ったわけではない。犯罪歴もないし、少年院に収監されていたわけでもない。彼はマイク・タイソンとは明らかに違う種類の人間だ。もちろん先住民の居留地に生まれたわけでもない。彼は比較的裕福な中産階級出身で、生まれたときからごく一般的なメジャーなアメリカ人なのである。

 彼がアフリカ系やアジア系の血を引いているというだけの理由で、マイノリティの代表であるかのように報道するのは大きな誤りであり、それこそ人種差別だ。アメリカはいまだに公民権運動のあやまちから学んでいない。タイガー・ウッズを黒人のスーパースター神話に押し込めて、メロドラマの主人公に仕立て上げるようなやり口は哀しすぎる。彼はジャッキー・ロビンソンの後継者などではないし、それを政治的に利用しようとするクリントンは単なるブタ野郎だ。

 くだらない政治的付加価値なんか無視して、彼の常識はずれのスーパーゴルフを見て楽しめばいい。あのゴルフを生み出したのはタイガー・ウッズ自身ではない。ゴルフというスポーツがタイガー・ウッズを創り上げたのだ。


5月5日

 しかし、いったい何を語らなければならないというのか?自分の語りなど誰も要求していないのに、沈黙が何かについて語ることを強要しているらしい。ではその何かとはなんだろう。まるでわからない。つまり、まるでわからない、ということを語ればいいのか?

 こうして今、何かを語っているらしいが、その語りは見ての通り、ただ不毛な語りである。これがいったい何なのか?まるでわからない。つまりこれは、まるでわからない、ということなのか?まるでわからない、ということがわかったのだろうか?まるでわからない。

 何かを語りたいが、何もわからない。では、何かがわかれば語ることが出来るというのか?それはわからない。その時が来るのだろうか?それもわからない。こうして語り続けるのは、ただ不毛なだけのようだ。


4月29日

 あの、ブラウン管の向こう側で日々繰り広げられる世間話や井戸端会議、それをやっている、タレント、ニュースキャスター、コメンテーター、芸能人、評論家、文化人、学者、作家、ああいう連中って一体なんだろうか?

 ドキュメンタリー、ニュース、スポーツ中継、何を見るにもあいつらの勝手なおしゃべりに付き合わされることになる。あいつらが主役なのか?あいつらのしゃべりってそんなにおもしろいか?あいつらが手取り足取りうだうだと説明してあげないと何も分からないほど視聴者は馬鹿なのか?


4月23日

 どうやら今回のペルー日本大使公邸占拠事件は、青木大使の記者会見によって、人質達の忍耐と辛抱と団結と英雄的行為という美談によって語られることになりそうだ。はたしてそれでいいのだろうか?公邸に立てこもっていたゲリラ達は、突入した特殊部隊との銃撃戦によって全員が殺されたようだが。

 人質となっていたのは権力者側の特権階級のペルー人とボリビア大使、それにペルー政府と癒着している日本企業関係者と大使館職員である。一般のペルー市民が彼らにどれほど同情していたというのか?軍事政権のフジモリ体制によって、略式裁判で刑務所に送られた人達は、このまま悲惨な環境で野垂れ死になのだろうか?

 今回の事件で明らかになったことは、ペルーが危険な軍国主義国家だということだ。このような国家はミャンマー、インドネシアをはじめ世界各地に存在する。日本政府はそういう国家に経済援助し、日本企業はそういう国家の権力者達に取り入って商売しているのだから、これからもテロの標的にされる危険性は十分あるだろう。

 どうも今回の事件の影響で「犯罪者に人権はない!!」などとわめきたてる人々が威張り散らす世の中になるのかもしれない。唯一の救いは国際赤十字と教会関係者、それに個人的にボランティアで調停に参加したカナダ大使の人道主義精神ということか?しかしこれもひとつの美談でしかない。