柄谷行人『マルクスその可能性の中心』を読む(講談社学術文庫)本文に入る前に、まず3人の言葉が引かれる。まずはマルクスで、「人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである」。果たしてマルクスが、自分が解決できる課題に立ち向かおうとしていたのか。当人はそう思って課題に立ち向かったのかもしれないが、その結果がどうなったかは、後の歴史が示すところであるが、柄谷もマルクスと同じ志を継いで、その課題に立ち向かうつもりだったのか。つづいてアンドレ・マルローで、「人間は自分の姿を、知見をふやすことによっては見出しえない。彼が自分の姿を発見するのは、彼が提起する課題においてである」。また課題が問題となってくるわけで、要するにマルクスが提起する課題において、マルクス自身の姿が見出され、またその課題を探求することによって、柄谷自身の姿を柄谷が発見しようとしているのか。そして3人目はハイデッカーで、「本質的な思想家は一つの課題しかもたない」。その一つしかない課題が『資本論』の中に示され、それについて論じられていて、それを読み、それについて論じることによって、柄谷もその一つの課題に立ち向かう。
マルクスの『資本論ー経済学批判』はすでに古典となっていて、典型的な解釈が施され、それが一般に広く流布し行き渡り、人々はそんな定まった解釈を通して読み、そこからは通説となっているマルクス主義的な結論しか導き出されず、それは紋切型として社会に定着している。それを受け入れる以上は、もはや『資本論』など改めて読む必要はなく、実際に多くのマルクス主義者が読まずに済ませている現状があるのだろうか。『資本論』を作品として読むには、そういう紋切型的な解釈を無視して読むしかない。それは「“作品”の外にどんなどんな哲学も作者の意図も前提しないで読むこと」(9ページ)であり、ラッサール宛書簡で、マルクスがスピノザについて述べているように、「彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に叙述された形式とはまったくちがっている」(10ページ)。その「本当の内的構造」こそが「可能性の中心」なのだろうか。
マルクスとその協力者のエンゲルスの関係は、イエスとパウロの関係に似ていて、キリスト教を創りだしたのがパウロだとすると、マルクス主義を形成したのはエンゲルスであり、その「意味体系」は、「キリスト教とプラトニズムという西洋思想史の系譜から生れてきたもの」(15ページ)だと柄谷は述べる。なぜマルクス主義の「意味体系」がキリスト教とプラトニズムから生まれてきたのか。それはマルクス主義の唯物論的歴史観における、社会の矛盾を止揚しながら、社会体制が資本主義から社会主義を経て共産主義体制へと至る過程の、最終的な到達点である「共産主義社会」こそが、キリスト教における、「最後の審判」の後に実現する「神の国」であり、それはまたプラトニズムでいうところの、理想の世界を表す「イデアの世界」ということか。要するに「共産主義社会」=「神の国」=「イデアの世界」となるのだろうか。そしてさらに最近の柄谷がいう「来たるべき社会〈交換様式D〉」までがそれに連なるのか。
『資本論』の序文には価値形態に関して次のように書かれている。「価値形態、その完成した姿である貨幣形態は、はなはだ無内容かつ単純である。にもかかわらず人間の頭脳は、二千年以上も前からこれを解明しようとつとめてきてはたさず、しかも他方、これよりはるかに内容ゆたかで複雑な形態の分析には、少なくともほぼ成功している。なぜだろう?」(22ページ)。柄谷はこれを次のように言い換える。「貨幣または価値に関する偏見は経済学の歴史と同じ位古い。古典経済学は「より大きな次元」ではほぼ経済的現象の解明に成功してきているが、微細な部分、すなわち価値形態論に関しては何もなしえていない」(23ページ)。この古典経済学では何もなしえていない貨幣形態の謎にマルクスは取り組み、それが「価値形態論」を成しているわけだが、柄谷によれば、「価値形態論は、一見すれば、「貨幣の必然性」を、証明しているだけのようにみえる。しかし、貨幣の自己実現というヘーゲル的展開にもかかわらず、マルクスは、貨幣の成立が商品あるいは価値形態をおおいかくすことを語っている」(24ページ)。
「商品の奇怪さ」とは何だろうか。ただの物には人間は欲望を抱かないが、「まさにそれが商品形態をとるゆえに、ひとは欲望をもつのだ」(27ページ)。それが商品形態をとって、値札に記された金額を払えば、手に入る可能性が出でくると、人はその物である商品に欲望をかき立てられるということか。他人がほしがる物は自分もほしがり、それ以外にも欲望をかき立てられる原因があるかもしれないが、例えば性欲のたぐいも、ポルノなどの性の商品化によって、欲望をかき立てられているのだろうか。柄谷は「物から考えても、欲望から考えても、商品が商品たる所以を理解することはできない」(27ページ)、と述べる。
柄谷によれば、言語学者のソシュールの新しいところは、「言語を価値としてみようとしたことにある」(30ページ)。この前後の説明もわかりにくく、今ひとつピンとこないところなのだが、要するに語の意味や概念は先験的にあるのではなく、実際に人間たちが社会の中で、言語を使ってコミュニケーションする過程で、絶えず生み出されてくるということだろうか。それを例えば辞書や辞典のように、「語を単独で切りはなして」(30ページ)、そこに意味や概念を付け加えて定義するとなると、人間が社会の中で言語を用いて他者とコミュニケーションしながら意味や概念を生み出しつつある過程を覆い隠してしまうことになるわけか。
次に「拡大された価値形態」から「一般的価値形態」あるいは「貨幣形態」が導き出される過程を見ていくと、Z量の商品AがU量の商品BあるいはV量の商品CあるいはW量の商品DあるいはX量の商品E、以下同様に様々な量の商品と交換できると考えると、「これは相異なる商品の相対的な関係の連鎖であって、ここには中心がない」(34ページ)。確かに「相対的な関係の連鎖」なのかもしれないが、こう記してしまうと、どうしても商品Aが貨幣に思えてきてしまうのだが、マルクスはこの「中心のない関係の体系」の「欠陥」を「第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである」(35ページ)と述べて、ここから「一般的価値形態または貨幣形態、すなわち中心としての一商品の出現の不可避性を説く」(35ページ)、ということになれば、当然の成り行きだと思ってしまうのだが、柄谷は、「この叙述は、実は転倒しているというほかはない。「総体的または拡大せる価値形態」こそ、一般的価値形態または貨幣形態を非中心化したときにやっとみいだされる「中心のない関係の体系」なのだからである」(35ページ)、と述べて、この地点にとどまろうとする。
柄谷は「ある二つの異質なものが等価であるという根拠はなにか」(41ページ)、と問い、ニーチェは「負い目」という概念が「負債」に由来していることから、そこに債務と債権の関係を見出し、犯罪から生じる損害や怒りが、刑罰の苦痛によってあがなわれることも、その「損害と苦痛との等価」の起源が「債権者と債務者との間の契約関係のうちにある」(43ページ)と述べる。ニーチェが「すべての概念は、等しからざるものを等置することによって発生する」というとき、そのようにして生まれた概念こそが、経済学の概念であり、倫理学の概念ということだろうか。 柄谷は「古典経済学は、二つの異質な使用価値が等価たりうる根拠を、そこにふくまれた同質の人間的労働にもとめる。実は、これは貨幣形態を前提した発想であり、貨幣を各商品のなかに内在させることだ」(48〜49ページ)、と述べる。結局この「同質の人間的労働」という根拠から「人間の同一性」や「人間の平等」が導かれ、それが「貨幣経済の産物」だとすると、「社会主義はたとえば「人間の同一性」という思想から出発する」(48ページ)、というのは本末転倒で、「貨幣はいらないが商品はほしいという社会主義」(49ページ)は、あり得ないということか。「マルクスは「人間は等しい」という考えはアプリオリな真理なのではなく、それ自体「商品形態が労働生産物の一般的であるような社会」においてはじめて可能だというのである。つまり、同質の人間的労働なるものは、はじめからあるのではなく、貨幣経済の拡大のなかであらわれるのだ」 (49ページ)。
柄谷は「価値形態論こそ。「資本」の秘密を明かすのであり、「労働時間」の仮説をとることなく、資本の根拠を明らかにしうるのである」(51ページ)、と説くが、ここで「労働時間」説といのは、イギリスの産業革命が実現した、「労働の個人的差異、質的差異を解消する機械的生産」(51ページ)が可能とする、商品の価値を、それを生産する「労働時間」として量的につかむ試みのようで、アダム・スミスが唱えたらしい。しかしそれが機械的生産以外の生産物にも適用されてしまうのはなぜか、柄谷は「そうした等置を可能にする貨幣形態の起源を問わねばならない」(51ページ)。
「同じ商品が一地域で安く、他の地域で高いのは、それぞれの地域において、他の商品との関係がちがうということ以外ではない。この関係が貨幣形態によって消去されると、まるでその商品に単独に内在的価値が存在するかのようにみえる」(55〜56ページ)。単純な例を挙げれば、商品をその地域まで持ってくる輸送コストによって価格に違いが出るだろうし、その地域の特産品なら、輸送コストがかからないから、他地域より安くなるだろう。またその地域での政治経済情勢や商品の需要の有る無しでも価格が変わってくるだろう。そのように商品を取り巻く外的な環境によって価格の変動が起こるわけで、貨幣の量で表示される金額と、その商品の内在的な価値は無関係だ。例えば空気は商品ではなくただだが、それがなければ人間は生きてゆけないので、空気に内在的な価値を想定すれば、他のどの商品と比べても高いかもしれない。
産業資本は「労働力という“商品”を購入しそれが実際に生産した商品を売るという過程にある差額(剰余価値)に依存するのだ(62ページ)。商人資本が安く商品を買って、高く商品を売って利潤を得るように、産業資本は労働者から安く「労働力商品」を買い、その労働力を用いて生産した商品を高く売って、そこから利潤を得るわけで、安く買って高く売るという構造は、商人資本にしても産業資本にしても変わるところがない。しかも「交換(売買)は、つねに両者の同意の上に成り立っている。意識的には等価物の交換でないかぎり、交換(売買)は成立しないであろう。だから、交換は、交換者には等価交換とみえなくてはならない」(62ページ)。結局交換(売買)に関係する人間は、交換そのものよってしか明らかにならない商品の内在的な価値を、交換時に同じ価値をもつと想定して交換するのであり、それが結果的に不等価交換に感じられようと、それは交換した後から感じられることなのだから、要するに後の祭りなわけだ。 マルクスは次のようにいう。「相異なる共同体はその自然環境のなかで、相異なる生産手段や生活手段をみいだす。だから、彼らの生産様式、生活様式および生産物は異なっている。異なる共同体が接触するとき、生産物の相互的交換をひきおこし、彼らの生産物をしだいに商品に転化していくのは、この自然発生的に発展した差異なのである」(64ページ)。つまり各共同体ごとにある別々のシステムの間で商人資本は取引をして、そこから利潤を得るわけで、「あるシステムにおける一商品の価値は、そのシステムのなかの他の商品との価値関係としてあるわけだが、貨幣によって表現されるとそれは量的に価格としてあらわれる。商人資本家はその価格で商品を買い、それをべつのシステムにもっていく。そこでは、その同じ商品はべつの価値関係におかれているために、それは前よりも高い価格としてあらわれる」(66ページ)。高い価格で売れたらの話だが、商人がある共同体の中で商品を買うときと、それを別の共同体にもっていって売るときの、それぞれのシステムの中での売買は、それぞれに等価交換であるにもかかわらず、そこから剰余価値が生まれるわけだ。 「商品経済の発展は、これまで地域的に隔離されていた価値体系の差異を解消させ、いっそう大がかりに世界中の生産を“社会的”に結びつける。むろんこの結果として、それまで隔離されているかぎりそれなりに自足していた地域は、もはや世界市場との関係のなかでしかやっていけなくなり、急速に貧困化し、階級化する。そして、生産はますます商品生産に転化し、それによってさらに商品経済のなかにまきこまれて行く。だが、このことは、差異の解消そのものから剰余価値を得る商人資本によって推進されるのである」(67ページ)。
なぜ地域間格差が解消されると、その地域は「急速に貧困化し、階級化」するのか。結局地域ごとに生産されいていた生産物のうちで、同じ用途に使う商品の間で価格競争が起こり、より安い商品が売れ、高い商品は売れなくなり、より安く効率的に商品を生産するために、生産の大規模化と集約化が起こり、その大規模な工場なり農場なりの経営者、あるいはそこからもたらされる商品を大量に売りさばく商人、及びそれらに多額の資金を提供する銀行家などが、多額の利益を得て、そのような一握りの富豪たちが、社会の上流階級を形成するが、末端の使用人や工場の従業員や、大地主に土地を奪われた小農民などは、下層階級として搾取され貧困にあえぐことになる。
「ここに、マルクスが価値形態論から説きおこさねばならなかった理由がある。なぜなら、神秘性の根源は、商品の価値が関係の体系においてあるにもかかわらず、単独で切りはなされたものとして存在すると考えられるところにあるからだ」(72ページ)。労働力商品であろうと、他の商品であろうと、商品であることに変わりはなく、ただ売買の対象となるだけである。「第一に、商品の所有者は、その所有物を交換以外に他人に譲渡することはない」(73ページ)。そして「第二に、商品はその所有者自身にとって不必要であり、それを譲渡するほかに、彼は自分の欲するものを取得できない」(73〜74ページ)。労働力商品の所有者も、それを売って貨幣を得て、その貨幣で欲する商品を買う。「プロレタリアートは何ものももたない人間ではなく、一種の商品所有者としてあらわれたのである。資本制社会は、商品経済が労働力という商品をそのなかに包摂したときはじめて成立する」(74ページ)。 産業資本が得る剰余価値は「資本家が労働力を買い、その生産物を売る場合の差額であるほかない」(75ページ)。商人資本のように場所的に離れた異なる二つのシステムの間で得るわけではなく、共時的な同一のシステム内での等価交換であるかぎり、剰余価値は得られない。それについて柄谷は次のように述べる。
「労働の生産性の上昇は、分業や協業の強化によろうと、機械の改良によろうと、労働力の価値を潜在的にさげる。これはつぎのようにいいかえてもよい。資本家は、すでにより安くつくられているにもかかわらず、生産物を既存の価値体系のなかにおくりこむ。つまり、潜在的には労働力の価値も、生産物の価値も相対的に下げられているのだが、このことはただちには顕在化しないのである。だから、現存する体系とポテンシャルな体系が、ここに存在する。したがって、われわれは産業資本もまた、二つの相違なるシステムの中間から剰余価値を得ることを見出すのである。
産業資本は従来より効率的なシステムをつくり出して、その従来のシステムとの差額が剰余価値となるわけで、「この差額はまもなく解消され、新たな水準による価値体系が形成される。だから、資本はその差額を不断に作り出さなければならない」(79ページ)。これが絶え間ない技術革新をもたらすわけで、「資本は世界を文明化するためにではなく、自らを存続するために技術革新を運命づけられているのである。ほとんど無益と思われるような技術の革新も、資本が存続するためにこそ不可欠なのである。それは人間の“自然な”必要からではなく、「価値」による転倒から生じる」(79ページ)。
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